チェ・ゲバラ伝
〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年十二月二十五日刊
(C) Tooru Miyoshi 2001
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目 次
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チェ・ゲバラ伝
人が革命家になるのは決して容易ではないが、必ずしも不可能ではない。しかし、革命家であり続けることは、歴史の上に革命家として現われながらも暴君として消えた多くの例に徴するまでもなく、きわめて困難なことであり、さらにいえば革命家として純粋に死ぬことはよりいっそう困難なことである。エルネスト・チェ・ゲバラの生涯は、このもっとも困難な主題に挑み、退くことをしらなかった稀有の例であった。革命家には勝利か死かしかないというおのれの、あえていうならばロマンティックな信条の命ずるままに自分の行動を律して生涯を終えた。革命にもしロマンティシズムがあるならば、「チェ」は文字通りその体現者だったのである。
かれが南米ボリビアのジャングルの中で壮烈な死をとげてから、すでに多くの日々がわれわれの上を通り過ぎた。かれの第二の故郷といってもよいキューバにおいてさえも、街のいたるところに写真や肖像が掲げられているとはいえ、それはかなり色褪せてみえる。そして、人びとが「チェ」について語るときも、その口調や表情にはかつてのドラマチックな昂ぶりはうしなわれ、ごく親しかった一部のものを除いては、もはや歴史上の人物を語るときの淡々たるそれなのだ。また、かれのゲリラ戦争日記が公刊されたさいに起こったジャーナリズムの熱狂の波は、わが国にも及んだものであったが、いまではすべてが日常的な静けさをとり戻している。それでいいのである。チェのような人物にとっては、あのようなブーム、あのような騒々しさ、あのような浮薄は、むしろかれの欲せざるものであったろう。かれが求めたものは、ひたすら行動であり、名誉も権力も眼中になかった。安逸や地位や金銭などはもちろんのこと、死の危険さえもかれは軽蔑した。
たしかに、革命家が死を怖れていては何もなしえないことは事実である。人類の歴史がもった多くの革命家たちは、みな、死の危険をもいとわなかった点では、かれに劣らないだろう。しかしまた同時に、歴史は、革命がいったんひとつの国家、ひとつの民族の中で達成されるやいなや、革命家であったものがいつしか権力の中枢にある政治家として変身し、戦いの場から遠ざかるか、もしくは同志の血であがなった体制を守ることのみに汲々としたことを教えている。それどころか、かれらの中には、かつての同志といえども、自己の権力を守るために容赦なく粛清したものも少くない。あるいは、ほかの国や民族が助けを求めているからといって、自分を投げ出すことはしない。武器や弾薬や兵士を送るにすぎない。といって、それを非難することは誰にもできまい。なぜなら、革命につきものの反革命を抑えるという常識的かつ当然の理由が用意されている。なにも新しい危険に身をさらす必要はない。革命に到達するまで生き残り得たことだけでも幸運なのであり、そして幸運とは何度も訪れることを期待できぬものである。
このような原則に、チェは挑戦した。それはフィデル・カストロの言葉を借りれば“意志の力、英雄的な精神、そして人間の偉大さが何をなしうるかの崇高な|証《あかし》”であるようにわたしには思われる。そして、以下の文章はそれがわたしの独り合点ではないことをひとりでも多くの人に理解してほしいために「チェ」への連帯をこめて綴ったものである。
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現在六十二万人の人口をもつ、アルゼンチン第二の都市ロサリオは、ラ・プラタ川にそって、首都のブエノスアイレスから約三百二十キロの上流に位置している。サンタフェ州の首都でもあるこの都市は、港、鉄道、工場その他の重要施設を有し、商工業の中心地をなしている。一九二八年は、世界史的にみて、かなりいろいろな出来事のあった年で、東洋では済南事件(日本の山東出兵)、張作霖の爆死事件などがあり、ヨーロッパでは、ムッソリーニのひきいるファッシスト党が伸張しつつあった。エルネスト・チェ・ゲバラがロサリオ市に生まれたのは(六月十四日)そんな時代で、かれは予定日よりも一カ月はやい早産児であった。
父エルネスト・ゲバラ=リンチは、アイルランド系の建築技師、母セリア・デ・ラ・セルナはスペイン系であった。父エルネストの祖父は、ファン・アントニオ・ゲバラといい、一八三五年から十七年間にわたってアルゼンチンを支配した独裁者ホアン・マヌエル・ロサスと戦った人物だった。このロサスは、ラテン・アメリカ史上においてもっとも血なまぐさい恐怖政治を行なった人物として知られている。
ファン・アントニオ・ゲバラは、ロサスに追われてカリフォルニアへ逃れたが、当時のカリフォルニアはゴールドラッシュのさなかにあった。独身だったアントニオは、ここでメキシコ生まれのカストロという美女に出逢う。カストロという名前はラテン・アメリカには多い名前で、むろんフィデル・カストロの家系とはなんの関係もない。
やがて、かれらの間には息子が生まれ、息子はエリザベス・ヴィクトリアという女性と結婚し、父の故郷であるアルゼンチンへ還る。そこで生まれたのが、チェの父エルネスト(一九〇〇年二月十一日)で、後年は別居するにいたったが、セルナとの間には五人の子供をもうけ、チェはその第一子であった。
ゲバラ夫妻は、かれが生まれるまではアルゼンチンの北東部に位置しているミシオネスに住み、マテ茶の生産に従事していた。ミシオネスは全域が亜熱帯植物におおわれ、パラグアイ、ブラジル両国の間に突き出たような台地である。マテ茶が重要生産物で、国内の九九パーセントを産出している。かれらはこのミシオネスから、仕事と出産とをかねて、気候の温和なロサリオに移ってきた。出産がすむと、夫妻は再びミシオネスへ戻ったが、かれらの長男エルネストは早産のせいか、きわめて病弱であった。結局、一年半ののちに、父ゲバラは妻と相談した末、子供の健康のために、マテ茶園を処分して、ブエノスアイレスに転居した。
というのは、二歳になったエルネストが、|喘息《ぜんそく》の最初の発作におそわれたからである。父ゲバラは、息子を抱きかかえて、ベッドに腰かけたまま仮眠するという毎夜を過さねばならなかった。
「幼い兄はそうされると安らかに眠った」
と、弟ロベルトは証言している。
にもかかわらず幼児の健康はしだいに悪化した。医師は難しい症例だと診断し、ブエノスアイレスの空気は、この子によくない、転地すべきだ、とすすめた。
セルナ夫人は、そのころ、第二子である長女セリア、第三子である次男ロベルトを生んでいた。
病弱の子供に適した空気を選ぶか、首都における順調な生活を選ぶかの選択に、夫妻は迫られた。これは頭を悩まさざるを得ない問題であった。ブエノスアイレスを離れてしまうと、収入の途が絶えるのである。はじめたての事業は順調であるとはいっても、事業地をはなれて、のんきにふところ手をして生活できるほどに安定してはいなかった。
父親は、長男の健康を選ぶ決心をし、母親ももちろん同意した。むしろ彼女の方が積極的でさえあった。セルナは、万一のときは、親から譲られた農園を売ればいいとおもっていた。
造船業における持ち分を共同経営者に売り渡し、ゲバラ家はコルドバに移った。
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コルドバ山脈のふもとにあるこの都市は、今日では人口六十万の、アルゼンチン第三の都会である。なにしろ古い歴史をもった町なのだ。ここの大学は、一六一三年に創立されたくらいである。
ゲバラ家は、郊外の健康的なアルタ・グラシアの丘の上に居を構えた。アルタ・グラシアは二つの地区に分かれていた。俗にいう山の手と下町である。
住宅地区の山の手には、英国の鉄道会社の社員用住宅が|のき《ヽヽ》を連ねていた。当時イギリス資本は、アルゼンチン国内に敷かれていた四万八千キロの鉄道の三分の二を所有していたのである。
一家は、この住宅群の中の「ビラ・ニディア」と呼ばれた家を買った。
そのころのゲバラ家は、夫婦、三人の子供のほかに、祖母のエリザベスとセルナの妹のビートリスを加えて七人だった。そして、すぐに次女のアンナ=マリアが生まれ、八人となった。
事業を手放してしまった父ゲバラには、することがなかった。かれは一日の大半を子供と過した。
夏になると、父親は小エルネストをプールへ連れて行った。少なくとも三時間はプールの中で過した。それは幼児の胸の筋肉をリラックスし、同時に呼吸も楽にするからだった。
ゲバラ夫人は、長男が八歳になる前、教育省から一通の手紙を受けとった。それには、「エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ君(七歳)はどの小学校にも登録されていないことについて、あなたのご注意を喚起します」と書かれてあった。
じっさい、その通りであったのだ。喘息のために、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ、つまり幼いチェは、小学校の先生からではなく、母親から、ABCを習った。
ゲバラ夫人は、教育省が子供の教育に関心をもってくれたことに満足している旨の返事を書き、息子を、アルタ・グラシアのサン・マルティン校に登録した。
のちに通学校は、マヌエル・ベルグラーノ校に変ったものの、小学校の時代を通じて、夫人の回想によれば、
とある。
一九三〇年代の後半になると、アルゼンチンには、スペインからの移住者がにわかにふえはじめた。スペインでは、やがて市民戦争へと発展して行く対立がようやく深刻化し、南米での|安穏《あんのん》な暮しを求めるものが多くなっていた。もちろん、富裕なものばかりではなく、むしろそうでないものの方が多かった。
同じ階層のもの同士でしか交際しない、という古めかしい習慣は、今日でもなおアルゼンチンに残っているが、当時はもっと濃厚だった。ゲバラ家は、どちらかといえば、名門の部類に属した。
かれらと同じ階層の家族は閉鎖的だったが、ゲバラ家は開放的だった。いろいろな家の子が出入りした。
父親は子供たちにしばしばいいきかせた。
「友だちの両親が何をしていようと、そんなことを問題にしてはいけないよ。肉屋さんだろうとパン屋さんだろうと、金持だろうと貧乏人だろうと、みんな、わが家では大歓迎だ」
「ゲバラ氏は妻のセルナの所有であるマテ茶農園を管理していた。農場はまったく値打ちのあるものだった。正確な規模は覚えていないが大きなもので、じっさいにはラティフンディオ(大荘園)だった。一九四七年にそれが売られたとき、かれらは大変な損をしたわけだ。両親とも有産階級の出だった」
「そのくせ、かれらは左翼的なリベラルであり、おおっぴらにスペイン共和派に同情していた」
アルタ・グラシアの空気が、子供の健康にとってプラスになったことは疑いなかった。喘息の発作のないときのかれは、かなりの腕白小僧であり、一群の仲間といっしょに、パチンコをもっては、通りをねり歩いた。
十一歳のときのことだが、全州的な規模で鉄道争議が起こったことがある。労働者たちはストライキに突入し、イギリスの会社は、スト破りを大量に連れてきた。こういう会社のやり方が市民たちの間に反撥を起こさせたのは当然であるとしても、正面きってそれを攻撃するものはいなかった。かれらはナショナリスティックである反面、実利的でもあったのである。
その話を聞いたかれは、仲間の腕白どもを集めて、パチンコ隊を組織した。そしてある夜、町じゅうの街灯にパチンコの一斉射撃を加え、会社がわのスト破りに、子供らしい、そして後年のチェをほうふつとさせる行動的なやり方で抗議した。こうしたことは、共和派に同情的な両親の影響もあったかもしれない。革命家チェ・ゲバラの生成やその心情に強い影響を及ぼしたのは、父親よりも、むしろ母親であったろう。
子供たちもそれを認めている。しっかりした、気性の|勁《つよ》い女性であったことは確かであり、チェの三歳年下の弟ロベルト――現在ブエノスアイレスで弁護士をしている。チェが死んだときにアルゼンチンからボリビアヘ駈けつけ、遺体を確認しようとしたが、ボリビア国軍によって拒否された。しかし、政治的思想的な立場は兄とは違い、中道派に属している――は、いう。
「わたしたちは、ふつう一般の中流家庭の教育様式をうけていた。とくに母親の主張によれば、価値ある人間はみな勉強しなければならぬ、ということだった。そして父親は、子供たちがみな勉強することに全面的に賛成であった。勉強ということについていえば、ゲバラ家においては、大学を卒業することが子供たちの義務であった。三男のファン・マルティンを除いて、あとの四人は男も女もすべて大学を出たが、これは母親の主張によるところが多い。わたしの母親は、どの母親でもするように、一生懸命やってくれたけれども、たしかに彼女はなにか特別だった、とおもっている。どう特別だったかについては、話したくない」
この、|なにか特別だった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という表現は、かなりデリケートな響きをおびており、必ずしも母親に対する賛美とはいえない。
しかし、母親セルナが、チェにもっとも強い影響をあたえた女性ふたりのうちのひとりであることは確かである。革命家として完成してからも、彼女はチェにたえず励ましと助言をあたえ、チェもまたそれを求めた。とはいえ、幼少のころのかれは、どちらかといえば、父親ッ子だった。
ブドウの収穫期に、アルバイトをするように勧めたのも父親である。かれはそれでいくばくかの小遣をかせぎ、同時に農民にまじって労働することによって、アルゼンチンではほとんど人間扱いにされぬ農民の生活の貧しさを知った。
いずれにしても、この両親はわが子の教育に対して献身的であり、たとえば子供の前で口論することは絶対にしなかったし、富とか地位とかを賛美するような言葉を決して口に出さないように互いに約束していた。両家系ともアルゼンチンでは名門であったが、名門意識というものを子供に持たせないようにつとめた。
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一つの実例をあげれば、同じころのある日、チェは遊び仲間の誕生パーティに招待された。場所は、町一番のホテルであるシエラ・ホテルだった。むろんそのようなことのできるのは、上流の富裕な家の子弟に限られており、ゲバラ家はその階層に属していた。
チェが出席すると、たちまち騒ぎが起こった。着飾った少女のひとりが、大きな声で、靴みがきなんかをどうして入れたの! といったからだ。それは、チェの服装に対するあてこすりだった。じっさい、チェは、なりふりかまわぬといった外見だった。服装に対する無頓着さは、かれの生涯を通じての特質のひとつであるが、このころからすでにそれが発揮されていた。
女の子はともかくとして、男の子たちもこれに同調して侮蔑するに至って、チェは爆発した。ラテン・アメリカ人の、とくにアルゼンチン人の誇りの高さは格別である。チェは独りでかれらに立ち|対《むか》い、そして父親は呼ばれてくると、この愚かな富めるものたちに抗議し、抑えようとするホテルの従業員たちにステッキをふるったために、息子ともども放り出されてしまった。
チェに限らず、ゲバラ家の子供たちは、遊びごとでもスポーツでも、そのほかすべてについて、向うみずな面をもっていた。
ロベルトなども、三階の窓から隣家の庭にとび下りてみせ、遊び仲間があとに続かないのをみて、からかいの言莱を浴びせた。
すぐ下の妹のセリアも、チェと張り合う仲間だった。かれらは互いに兄妹として愛しあっているくせに、つねに口喧嘩をし、ライバル意識をもって張りあった。
チェは、仲間の少年の親たちからは、腕白共のリーダーとみなされていたが、その評判を決定的なものにしたのは、つぎのような事件だった。
小学校の教師の中に、生徒たちをスパンキングする習慣の人がいた。スパンキングというのは、幼児の尻を叩いて罰を加えることである。この教師は、なにかといえば生徒たちにスパンキングを加え、すでに幼児ではないことを誇りにしている子供たちを憤慨させていた。ある日、チェがこの教師のスパンキングの対象になった。しかし、かれはその機会を待っていたのだった。かれはズボンの中にレンガの破片をしのばせていた。教師の手はレンガにぶつかり、それがもとで、一騒動もち上がった。
手に負えない腕白小僧であることとは別な一面もチェはもっていた。かれの両親が用事があって、ブエノスアイレスに行かねばならぬときだった。両親は、親しくしているアギラール夫人に、子供たち――そのころは末弟は生まれていず、四人だった――の世話をしてくれるように頼み、そして、アギラール家は、スペインからの移住者で家も狭かったので、夫人は彼女の四人の子供を伴い、その期間だけ移り住むことになった。
両家あわせて八人の子供の面倒をみるアギラール夫人の負担は、想像するだけでも大変なものがあったろうと思われるが、もっともてこずらせるだろうと夫人を覚悟させていた腕白のチェに助けられ、夫人は無事にやりとげた。チェの腕白ぶりを知っている子供たちは、それをふしぎがった。すると、チェは自分の態度について説明した。
「ぼくは反抗的であろうとしているわけじゃない。ぼくらといっしょにいて、何をしたらいいのかわからないで困っているあのレディを助けようとしたまでさ」
子供たちの多くがそうであるように、チェも動物好きだった。とくに犬が好きだった。
家で飼っていた犬が死んだとき、チェは大声をあげて泣き、子供たちを集めて葬式を行なった。手製の小さな棺桶に犬の死体を入れ、それをかついだ子供たちの葬列は町の中をすすり泣きながら進み、弔辞が読まれたのち、棺桶は地中にうめられた。
のちにキューバにおいても、チェは同じく犬好きのカストロと、めったにないことではあるが、暇なときに、何時間も犬の話に熱中して、官房長官のセリア・サンチェスをあきれさせた。しかし、同じに犬好きといっても、そこには両者の性格の違いがおのずとあらわれている。カストロの犬好きは、オーソドックスなもので、血統の正しい犬を集めている。これに対してチェは名犬より雑犬しか飼わなかった。ムラヤという名前の茶色の雑種を飼い、車にのせたり、犬を相手に話しこんだりした。のちにチェの出国後、ムラヤはカストロの犬舎にひきとられた。
一九四一年夏、チェがハイスクールに通学する年齢になると、ゲバラ家は、アルタ・グラシアのビラ・ニディアを出て、コルドバ市内に移った。アルタ・グラシア地区には高校がなかったのだ。
ゲバラ家には、一九三〇年製のクライスラーがあったが、それは、自動車というよりもかつては自動車でもあったモノと呼んだ方がいいようなひどいポンコツだった。シートは前部にだけあり、後部シートはすっかりなくなっていた。このポンコツがいつエンストするかわからぬように、チェの喘息もまたいつ発作を起こすかわからなかった。だからゲバラ夫妻は、愛児を通学させるために、住みなれたビラ・ニディアを去ることにしたのである。
学期がはじまる前の夏休み、チェは、両親のところへ行って、こうきり出した。
「ぼくはいろいろなことをこの眼で見てきたいのです。独りで国内を旅行してきたいと思うのですが、どうでしょうか。学校の始まる前には必ず帰ってきますから」
このとき、チェは十三歳になったばかりであった。申し出をうけたゲバラ夫妻が仰天したことは想像に難くはない。しかし、かれらは世間なみの親ではなかった。息子が独りで事物を探求することは、かれの人生にとって必ず何かあたえるものがあるだろうと考えて、これを許した。
チェは自転車に小さなモーターを取付け、古ぼけた皮のウインドブレーカーをひっかけ、ナップザックの中にマテ茶と湯わかしを放りこみ、七十五ペソ――当時は約十五ペソ対一米ドルくらいだった――をポケットに入れた。チェの最初の放浪の旅は、こうしてはじまった。
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人口は日本の約三分の一でありながら、面積はほぼ八倍もあるアルゼンチンは、わが国ではタンゴの国というふうにしか理解されていない。地球における位置関係はちょうど反対がわにあたり、日本からは距離的にもっとも遠い国である。在留日本人も、ブラジルと比べればはるかに少なく、現在約二万人程度しかいない。ほぼ完全な白人国家であり、ヨーロッパとくにスペイン、イタリアからの移民の子孫が多い。
アルゼンチン共和国が発足したのは、ホアン・マヌエル・ロサスが失脚したあとの十九世紀半ばで、この国の政治経済を握っていたのは、ひとにぎりの地主階級だった。
一九一六年には、はじめて普通選挙が行なわれ、インディオの血をひくといわれるイポリト・イリゴエンが大統領に選ばれた。しかし、この平民出身者による政権は長くは続かなかった。イリゴエンの取巻きたちがまず権力に酔って腐敗し、大統領に会見するあっせん料として多額のペソを要求するありさまだった。
一九三〇年には、地主と地主によって支持される軍部がクーデターを起こし、イリゴエンは失脚した。
もっとも、イリゴエンの時代にあっても、アルゼンチンの社会そのものは、いかなる変革もなかった。大地主たちは、数世代にわたる結婚と利益の結びつきでこの国を事実上支配していた。地主たちは移民を――移民は一八八〇年からはじまり、一九三〇年までの五十年間に、推定三百万人が土着した。一八七〇年の総人口が百八十万人だったから、その比率の大きさが知れる――小作人とし、自家用の駅、病院をもち、警察、金融を自由に動かした。
要するにエスタンシエロと呼ばれる地主は封建社会における王侯と同じであり、そのころのアルゼンチンは、地主とそれを取り巻く、フランス語の|喋《しやべ》れる有産階級と、母国語のスペイン語しか喋れない無産階級のふたつで社会が構成されていた。そして、これは一九四三年の、よかれ悪しかれあの有名なホアン・ペロンの登場まで続くのである。
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十三歳のチェは、ツクマンを中心に、北部一帯を放浪した。ツクマンは先住民族であるインカの言葉で「これより先はなし」の意味である。つまり、この地方一帯はインカ帝国の南限であり、帝国を征服したスペイン人たちがボリビア、チリをへて最初に入ってきたところでもあった。したがって、住民にもインディオと白人の混血が比較的多かった。
チェの旅は九月まで続いた。希望どおりにかれは多くの事物に接することができた。抽象的な用語をもってすれば、ラテン・アメリカ大陸の矛盾、インディオや下層農民、労働者の貧しさといったものであるが、十三歳の少年がどこまで理解しえたかははっきりしない。最大の収穫は旅行というよりも放浪に、自信をつけたことであった。たいていは樹の下で眠り、食事は農園で刈り入れの手伝いをして得た。ときには喘息の発作が襲い、そのときは食事をとらずに(働けないから)休息して、働けるようになるのを待った。
秋になると、チェはコルドバに戻り、デアン・フネス校に通った。これは公立で、無宗派だった。
保守的なアルゼンチンでは、無宗派である市民はきわめて数少なかった。教会は建国以前から政治ボスや軍部と結びつき、とくにローマン・カトリックは国家によって支持され、共和国大統領及び副大統領はローマン・カトリック教徒でなければならぬことが憲法の条文に明記されていた。
父ゲバラは、生まれたときに洗礼をうけていた。かれは息子に形式的に洗礼をうけさせてはいたものの、熱烈な信者とはいえなかった。洗礼は伝統的な慣習に従ったまでのことだった。
キリストはたしかに偉大な人物だったが、教会はその教義を荒廃させた、あれはユダヤ人によって投資され、イタリア人によって経営されている大きな企業だ、というのが父ゲバラの考え方だった。とはいえ、息子に洗礼をうけさせた点からして、父ゲバラの方には|僅《わず》かながらも宗教心があったようである。これに対して、母親のセルナは、完全な反宗教家であり、チェはこの点でも母親から大きな影響をうけていた。チェの仲間の子供たちはそれぞれ日曜日の朝には母に連れられて教会へ行ったが、そこでゲバラ家のものを見かけたものはひとりもいなかった。
父ゲバラは約三千冊の蔵書を有していたが、その大半は社会学、哲学、数学、工学のもので、カトリックと軍事に関する本は一冊もなかった。カトリックの強いアルゼンチンではその存在が珍しいとしかいいようのない、異端の一家といってもよかった。なお母セルナがとくに反宗教的な色彩の女性であったことについて、彼女が幼少時代にカトリックの修道尼によって運営されている極端に厳格な学校に、両親によって通わされたその反動だとする見解をとる人――リカルド・ロホもいる。
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多くの少年がそうであるように、かれもまたハイスクールに入学したころから、かなりの読書家になっていた。それ以前は、ジュール・ベルヌとかアレキサンドル・デュマとかがかれの愛読書であったが、しだいに学術的な著述により多くの時間をさくようになった。
十四か十五のころは、すでにフロイトを読み、アギラールの父親――この人は医師だった――をびっくりさせたりしている。
そのころ、かれはフランスの詩を読むことに丸一日を費やしたりしたが、フランス語は学校で習ったものではなく、母セルナから教わったものだった。学校で教えた外国語は英語で、この方の成績はあまりよくなかった。フランス語の方は、自由に読み書きができる程度の力を身につけたのに比べ、英語は、かれ自身、革命後のテレビ放送で、「諸君もご承知のように、ぼくの英語はひどいものだ」と語っている。しかし、じっさいには、かなり上手だったようで、工業省でかれの下にあって働いていた人のなかには、英語もできた、と証言するものもいる。
フランスの文学者の作品の中では、かれはボードレールをよく読んだが、あらゆる文学者のなかで、かれがもっとも愛着を抱いたのはチリ生れの
詩人パブロ・ネルー|ダ《〈*四〉》と、そのスペイン戦争をテーマにした詩であった。
ついでながら、スペイン戦争が、ラテン・アメリカ全土にあたえた影響は、その前後の二度の大戦よりもはるかに深くかつ強かった。スペイン統治が長かっただけに、文化的な結びつきからしても、遠い国の出来事ではなかった。逃れてきた亡命者の口から語られる事実が人びとを思想的に揺り動かしたし、多くの文学作品をも生んだ。ネルーダの詩に対する愛着はチェの一生を通じて変らないのだが、それは右のことと決して無関係ではないだろう。
かれがすぐれた文章家になり得たのも、その天賦の才能もさることながら、この時代の読書が大いにモノをいったことは疑いない。
また、かれ自身の作詩については、後章で紹介するが、一九五六年、メキシコでキューバ人たちに仲間入りし、遠征の出発前につくられた四行詩「フィデルへ贈る歌」が遺されている。
さらには、ボリビアのジャングル内でも作詩することをやめないでいるが、ここで披露しておきたいのは、メキシコの愛国詩人レオン・フェリーペあてに送ったつぎのような手紙である。
――先生
もう数年たちますが、革命が権力を掌中にしたとき、新刊のご本を先生から頂きました。
礼状を差しあげませんでしたが、いつもそのことがとても気にかかっていました。わたしの枕もとにある二、三冊の本のひとつが、“雄鹿”であることを知られたら、先生はたぶん興がられるでしょう。(中略)
先日わたしにとって意義深い式典に出席しました。会場は熱心な労働者でいっぱいで、あたりには新しい人間の風土がかもし出されていました。わたしの内がわに秘めていた挫折した詩人の一|滴《しずく》がしたたって、遠くからご異論があるかもしれませんが、あなたの詩を引用させていただきました。
右の手紙は一九六四年八月二十一日付のものであるが、かれは自分を挫折した詩人としてとらえているのである。詩がいかに心を惹きつけていたかは明らかであろう。
このほか、かれは、ゲーテ、セルバンテスなどの古典もよく読んでおり、革命戦争のさなか、シエラ・マエストラの密林中の夜営地でゲーテを読みふけっている写真もある。
一方、かれは自己の肉体を鍛えることも決して忘れなかった。父親から教えられたサッカーやラグビーは、喘息もちでありながらやめようとはしなかった。ロベルトやほかの仲間といっしょに熱中した。たまたま発作の前ぶれがくると、フィールドをぬけ出して吸入器のもとにかけつけ、発作が鎮静すると再び戻ってスポーツを続けて、仲間たちをあきれさせた。
「エル・チャンチョ」というニックネームを仲間たちからつけられたのも、このハイスクール期であった。エル・チャンチョ(El chancho)は小豚の意味で、その由来はかれがつねになりふり構わず、かつて靴みがきと少女からあなどられたときのように、ボロ服をきているせいだった。
かれがエル・チャンチョであろうとなかろうと、それは大して重要なことではなかった。ハイスクール時代を通じて、かれの人生にもっとも大きな影響を及ぼした出来事は、ゲバラ家の家計がしだいに|逼迫《ひつぱく》しはじめたことと、ひとりの
友人アルベルト・グラナド|ス《〈*五〉》を得たことであった。
チェはこの友人に会ったことによって、十年ののちにラテン・アメリカの現実というものに目覚め、ついに医師からゲリラ戦士、ゲリラ戦士から革命家へとみずからを昇華させて行ったのである。
チェのハイスクール時代は、一九四一年四月から四七年の三月までであった。当時のアルゼンチンのハイスクールは、五年制と六年制とがあったが、チェは六年制の高校生活を送った。持病の喘息はいぜんとしてかれを悩まし続けたが、そのことを除けば、ふつうの高校生活だったといっていい。多くの読書の時間をもったこと、旅行好きであったこと、ラグビーの名選手として鳴らしたこと、青春期にさしかかった若ものらしく初恋をしたことなどは、誰もが体験することであるだろう。
後年、かれがボリビアで壮烈な死をとげてから、友人だった人びとがさまざまな想い出を語っている。たとえば、スペイン戦争の亡命者の息子であった
フェルナンド・バレ|ル《〈*六〉》はこんなことをいっている。
――かれとはじめて出会ったときのことや、そのころのことについては、わたしは憶い出せない。かれとじかに接触した出来事よりも、かれがどんなことをいったか、あるいは、なぜかれはあんなにも目立っていたのかという印象をもっていたことを、むしろよく憶えているのだ。わたしたちは、きわめて対照的だったし、わたしはそれを悲しく思っていた。エルネストの決断力、大胆さ、自信、そしてかれの性格の中でもっとも|際立《きわだ》っているあの情熱的な行動力に対して、わたしは|羨《うらやま》しくてならなかった。そのことはわたしばかりではなく、アギラール家の人たちも認めずにはいられまい。つまり、すばらしい行動力、危険に直面したときの完璧な勇敢さ――危険を感じたとしても、決しておもてにあらわさなかったが――かれの自信、そして独自なものの考え方といったものが、かれにあっては、
もっとも際立ってい|た《〈*七〉》。
そして、バレルはチェを、転がる石のようなもので、いつだってじっとしていなかったし、一つところにとどまっていることは、めったになかった、とも語っている。かれがチェとひんぱんに往き来したのは、一九四〇年から四三年にかけてのことだというが、年齢的にはチェの十二歳から十五歳にかけてのことになる。この年ごろの少年に、その萌芽はあったとしても、あまりにも完全な革命家としての像を描くことはできまい。
それどころか、当時のかれは友人の間では冒険好きの個人主義者というふうに見られていたふしがある。一九六〇年、バレルはアルゼンチンを出てハンガリーにいるのだが、使節団長としてハンガリーを訪れたチェは、新聞記者から幼少時代の友人だったバレルがいると聞いて、食事カードに走り書きのメモを残す。
――親愛なフェルナンド
きみには、ぼくがぼくだということについて確信をもてないでしょうが、それ(エルネスト・チェ・ゲバラ)はぼくだったといまではわかっていると思う。しかし、それは事実とは違っている。なぜなら、多くの水が橋の下を流れ、きみがかつて知っていた喘息もちの個人主義者についていえば、面影をとどめているのは、喘息だけだからだ。ぼくはきみが結婚したと聞いている。ぼくもそうだ。子供はふたりいる。だが、ぼくはいまだに冒険家ではあるけれど、いまのぼくの冒険は正義を追い求めることだけだ。きみの家族に、過去の時代の生き残りの名前で挨拶を、チェからは友愛の抱擁を。チェはぼくの
新しい名前になってい|る《〈*八〉》。
この文章で明らかなように、そのころのチェには革命家の面はまだ生じていなかったのである。チェの壮烈な死ののちには、多くの人びとがかれについて語り、ともすれば賛美的な修辞をつらねて、かれを生まれながらの革命家にしているが、それは誤りであろう。
チェ自身は、多くの文章をのちにつづったが、革命戦争の想い出のほかは、自伝的なものはまったく書き残していないし、人にもほとんど語っていない。たとえば、毛沢東はエドガー・スノウにかなりくわしく自分について語っているが、チェはそういうことはしなかった。革命後カストロと並んでラテン・アメリカの英雄になってから、多くの人がかれのことを知りたがり、かれに問い、そして書きはしたが、チェ自身はじつは何も語ってはいなかった。自己宣伝めいたものをきらったし、そんな|面映《おもはゆ》いことはできない性格だったが、その一方ではかれ自身がげんみつな自己分析を行なっていたことは、バレルあての走り書きによってもうかがわれるのである。
また、ひとつだけ、恋の想い出についてバレルにもらしている。
相手はいとこのネグリタであった。スペイン戦争にも参加したことのある詩人の娘で、しとやかで知的で明るい娘さんだったらしく、同じく彼女に恋したバレルは、チェのことは知らずに恋文を送ったりした。
のちにキューバでバレルに再会したとき、チェはバレルにあのころは自分もネグリタには夢中だったのだ、と語っている。
さてアルベルト・グラナドスとの放浪の旅は、かれの人生のなかでも、重要な出来事のひとつになるが、それを記述する前に、アルゼンチンの政治経済について触れねばならない。というのは、それを語ることによって、ゲバラ家の家計がなぜ逼迫したかもまた明らかになるからだ。
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一九四一年、チェがハイスクールに入った年、太平洋戦争が勃発した。アルゼンチンは最終的には参戦したものの、それはあくまでも形式的なものであった。第一次大戦で日本がそうであったように、実際的な戦闘については完全に局外であり、それどころか、ヨーロッパの食料をほとんどまかなうことによって、いわば戦争成金になった。農業国であったことが幸いした。
この農業国であったことについて、もっとも大きな役割を果たしたのは、イギリスであり、アルゼンチンの経済は、事実上イギリスの手に握られていた。アルゼンチン最大の輸出品である牛肉は、冷凍船の運航を一手に握っているイギリスが扱い、イギリスもまた巨額の投資をした。(一九一三年の統計ではイギリスの投下資本は三億一千九百六十万ポンドで、同期のインドとセイロンへの投下資本三億七千万ポンドにほぼ匹敵している――P・ショーニュ『ラテン・アメリカ史』)
一九二〇年代には、イギリス人専用の乗馬クラブ――乗馬クラブは富の象徴である――ができたし、鉄道二万六千八百マイルのうちニ万マイルがイギリスのものだった。アルゼンチンは“大英帝国六番目の自治領”などという、ありがたくない名前で呼ばれていた。
大戦のため、アルゼンチンは豊富な外貨を獲得したが、奇妙なことに日用品は不足がちであった。イギリスの支配による結果、工業の発展がまったく遅れていたからである。
必然的に、工業化の機運が国内にかもしだされた。それをいちはやく見抜いて、経済の体質の改造をはかったのが、一九四六年六月に大統領となったホアン・ドミンゴ・ペロンである。
ペロンは一八九五年、サルジニア系移民の子として、ブエノスアイレスの近郊に生まれた。陸軍士官学校を卒業後、イタリアの駐在武官となり、同地でムッソリーニの理論と行動を|眼《ま》のあたりに見た。かれは帰国後も陸士の教官をしたりしながら、ムッソリーニ的ナショナリズムの研究を怠らなかった。イギリス資本から独立することは、ペロンばかりでなく、アルゼンチン軍部内の高級将校たちの念願でもあった。
一九四三年六月、ペロンとかれらの仲間たちはクーデターを起こして、政権を握った。いろいろな曲折があったのち、最終的にペロンは労働大臣となり、労働組合を組織し、賃金を引き上げ、社会保障制度を創設した。それまで、アルゼンチンの労働者は、文字どおりの下層階級だった。靴をはけるものはめったにいなかった。
当然のことながら、ペロンの人気は高まった。そしてかれの人気は、仲間たちから警戒され、一九四五年十月には不意に解任されてラ・プラタの島にある牢獄に監禁された。労働者たちは、“救世主”ペロンの解放に立ち上がり、釈放要求のデモが連日のようにブエノスアイレス市内でくりかえされた。
このデモで群衆をアジったのは、若い金髪の美人エビタ(エバ)・ドアルテつまりエバ・ペロンであった。
エバは一九一九年四月ブエノスアイレスの郊外で生まれた。のちにペロンと結びついてから市民登録をしたさいは、三年もサバをよんで一九二二年生まれとしている。少女時代に父親を失い、それからは非常な苦労をしたが、それは彼女の内がわにラディカルな思想をも育くんだ。美人で聡明なエバは、一九四四年のころはラジオ・タレントになっていた。その年の一月二十二日、エバは仲間たちと共に街頭に出て、一週間前に起きたサンファン地震の犠牲者のために、募金集会を開いた。その集会に労働大臣だったペロンが大統領といっしょに出席し、そこでふたりは運命的な出会いをしたのである。ペロンは一九三八年に最初の妻アウレリア・チソンをなくして男やもめだった。
ペロンは、エバが自分にとって必要な女であることを感じた。これは、ジョン・ガンサーの紹介している話だが、まわりの目がうるさいため、ふたりは救急車の中で寝そべって逢いびきした、という。
エバは群衆を煽動し、ついにはペロンを釈放させた。そして一九四六年二月、対立候補で現職でもあったエデル・ミロ・ファレルを破って、大統領に当選した。ペロン時代の始まりである。
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ペロンは自分の権力を支えているものは、労働階級であることを認めていた。ペロンはかれのための労働組合組織をつくり、大規模な工業化計画、社会改革にのり出した。労働者には週四十八時間制と年間十三カ月分の給与をあたえ、婦人参政権をあたえ、イギリスの鉄道資本やアメリカによって営まれていた電話事業を買収した。それらの資金は、すべて大戦によって獲得した外貨が充当された。
この急激な改革の犠牲になったのは、それまでアルゼンチンを支えていた農業だった。戦火のおさまったヨーロッパ農業の回復も手伝って、農産物の価格は下落しつづけ、さらには、労働力の工業への移動によって、農業は致命的な打撃をうけた。一九四一年には、八百十五万トンだった小麦の生産量は減少の一途をたどり、十年後には二百三十万トンとなってしまっている。
この経済的な農業へのシワ寄せの波が、農園主として収入を得ていたゲバラ家をも襲ってきた。農園は母セルナのものであったが、一九四七年にはついに手ばなさざるをえなくなり、それはちょうどチェがブエノスアイレス大学医学部に進んだ時期と重なったが、ゲバラ夫妻はこの経済的なことも原因して、別居するにいたった。
チェは高校時代はエンジニアになるものとクラスメイトからは考えられていた。父ゲバラもまたそれを望んでいたが、かれが選んだのは医学部コースだった。その理由についてかれ自身は何も語っていないが、かれ自身の持病である喘息と、祖母がガンで死んだことなどが影響をあたえたものと思われる。
両親のいずれを選ぶかを迫られたとき、チェは|躊躇《ちゆうちよ》なく、母と暮すことを選んだ。セリア・デ・ラ・セルナは、ペロンの社会改革が人気とりのみせかけのものにすぎず、じつは自分の権力を守ろうとするムッソリーニ的ナショナリズムであることを見抜いていた。思想的に彼女は社会主義を信じており、のちにチェあての手紙の中で、自分のことを、全世界が社会主義になるのを期待しているひとりの老女、というふうに表現している。
家計が苦しくとも、セルナは自分の子供たちは大学を卒業しなければならぬという教育方針を決して変えようとしなかった。チェもむろんそれを望んだ。かれはアルバイトとして市役所に一日六時間も勤めながら、学業を続けた。その六時間も、かれはほかのアルゼンチン人のようにまんぜんと職場に出ているわけではなかった。
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なにもアルゼンチンに限ったことではないのだが、ラテン・アメリカ全土に共通する人種的特質に、時間に対する観念のなさがあげられよう。時間の約束というものは、ほとんど守られることがない。
中南米旅行でのひとつの体験談を披露しておきたい。それはメキシコ空港での出来事だ。朝十時ごろ、わたしは八時半に受付が開始されるはずのハバナ行きの搭乗チェックを待っていらいらしていた。そのとき、隣りのアカプルコ行きのデスクに、数人の男女がやってきた。かれらは、係員に搭乗券を出したが、係員から、この|午前八時《ヽヽヽヽ》発の飛行機は九時に出ました、と聞かされ、飛行機がわずか一時間の遅れで出発したことに憤慨していた。
革命後のキューバにおいてさえも、この気質はさして改善されていない。とくに官僚機構の中には、|呆《あき》れるほど根強く残っている。キューバ外務省はわたしに取材用のプレスカードの発行を約束し、写真とサインのある申請書の提出を求めた。もちろんそのとおりにした。しかし、カードは何度問いあわせても、どのように処理されたのか、さっぱり要領を得なかった。また、取材したい人物や場所についての希望も求められ、文書にして提出したものの、目下交渉中とのみでついに何ひとつとして実現されたものはなかった。時間の奴隷になっているような日本人からみれば、むしろ羨ましいような悠長さといってよかった。
すべては長い歴史と習慣の産物である。アルゼンチンの役所は、午前九時から正午まで、それから午後三時までのシェスタ・タイム、午後三時から六時までの勤務になっている。チェのアルバイト時代も同じであったが、時間どおりに出勤してくるものは、きわめて少なかった。しかし、チェは時間どおりに出勤していた。かれはそのころ自分用に自分で哲学語辞典をつくっていた。かれはそれを事務所で同僚が出てくるまでの間を利用して行なっていた。
そんなある日、上司が事務室にきてみると、働いているものは、ひとりもいなかった。机に対して執務していたのは、アルバイトのチェだけだった。
上司はチェのまじめな仕事ぶりを大いに賞讃した。そしてかれを昇給させたが、じっさい、チェがやっていた仕事は事務所のためのものではなく、かれの哲学語辞典のための仕事だったのだが……。
アルバイトを続けながら、少しでも金銭的に余裕が生ずると、チェは国内を旅行してまわったが、その足跡が初めてアルゼンチン国外に印されたのはグラナドスとの、旅行というよりも放浪というにふさわしいそれであった。
アルベルト・グラナドスはチェよりも六歳年長でコルドバの南にあるエルナンドに生まれた。三人兄弟の長男で、その弟のトーマスがチェと同年であった。だから、チェがグラナドスを知ったのは、ハイスクール一年のとき、一九四一年である。グラナドスはすでにコルドバ大学医学部の学生だったが、かれは、大学構内での悪習に反対して、ストライキに加わり、そのためにコルドバ中央警察署に逮捕された。じっさいには、逮捕というよりも、誘拐といった方がよかった。
警察は、大学生たちを裁判にもかけず、食物もあたえようとしなかった。逮捕されたものの家族は、そのために差入れに毎日かよわねばならなかった。グラナドス家の場合、それはトーマスの役目だった。そしてトーマスはクラスメイトのチェをいつも伴った。
――トーマスとエルネストと話しあっているさい、わたし(グラナドス)は、われわれのあとに続く学生たちが、われわれが誘拐同然に裁判もなくつかまっていることを大衆に知らせるために、街頭行動に出るべきだ、と説ききかせた。
わたしは若き日のエルネスト・ゲバラの返事に驚かされた。かれはこういったのだ。「アルベルト、何もすることはないよ。警察のやつらが警棒であんたのあとを追いまわしたように、街に出たってそうなるだけじゃないのか。何もすることはない……ぼくは、拳銃をくれさえすれば、
出て行くつもり|だ《〈*九〉》」
街頭でデモをしたところで、何の役にも立たない。そんな生ぬるい方法よりも、武器をくれ、といったのが、わずか十三歳の少年だったことに、グラナドスは仰天したというのである。おそらく、かれはこれをチェがのちに確立した武装闘争理論の萌芽として語っているのだ。
チェの多くの文章の中で、その代表的なものは、『革命戦争の道程』と『ゲリラ戦争』となるだろう。それらの著述の中でくりかえし強調した考え、さらには、みずからをキューバからボリビアへと導いた信念は、ラテン・アメリカを帝国主義の鎖から解き放つには武装闘争をもってするしかない、というものだった。グラナドスの回想の底には、これが横たわっていたであろう。チェをいかにもチェらしく人びとに印象づけるために。
たしかに、ラテン・アメリカを帝国主義の鎖から解放するためには、武装闘争によるしかないであろう。日本にあっては、いや日本のみならずヨーロッパにあっても、書物の活字や映画のフィルムや、そんなものでは決して理解することのできぬ重い現実が、ラテン・アメリカ全土に根を下ろしているのである。その地を踏んだものには、ゆるがし得ない実感として、それを素直に受け入れることが可能なのだ。
武器をもって起ち上がることは、銃の引き金をひくことは、法律に反し、人を傷つけることになる。したがって武装闘争は悪である、という現実にわたしたち日本人は住んでいる。いまの日本では、武装闘争理論をうけ入れる余地はない。というよりも、この激しい手段によらずとも、人間が抹殺されることはないし、条件がととのえば他の非武装闘争手段によって、変革を企てることもできる。
だが、革命前のキューバがそうであったろうか。カストロやかれらの仲間たちは、武器によらずして、バチスタの悪政から人びとを解放することは可能だったろうか。
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たとえば、ボリビアの大統領官邸は、ラパス市のムリリョ広場にあり、中央には、官邸に面して元大統領ムリリョの像が建っているが、この像と官邸との中間に、一本の街灯がある。それは首吊りの街灯と呼ばれている。名前の由来は、生活苦に|喘《あえ》ぐ人がそこで|縊死《いし》したためではない。吊られたのは、ビイヤロエルという大統領なのだ。それも、古い話ではなく、一九四六年のクーデターのときのことだった。市民たちはそれを異邦人のわたしに語り、語ったことになんの|てらい《ヽヽヽ》も感じていない様子だった。ボリビアの国民にとって、それはさして異様な事件というに値しないらしかった。もう何十年もの間、大統領はそれと似た形で代ってきていた。
近年における唯一の例外は、一九六九年四月のシーレス大統領の就任だ。それまで大統領だったレネ・バリエントスは、ヘリコプターで地方を巡察中に、回転ローターが電線にふれて墜死した。かれはクーデターによらないで、大統領であることをやめた唯一の人物といってもよかった。
副大統領だったルイス・アルドルフォ・シーレスがただちに憲法の条文にしたがって、大統領になった。かれもまたクーデターによらないで大統領になれた唯一の人物であり、国内の新聞各紙は、憲法が条文どおりに守られたことを、こぞって祝福した。いいかえれば、誰もが、憲法が守られるなどとは思っていなかったのである。
バリエントスの死が伝えられたとき、人びとが次の大統領として頭に想いうかべた人物は、陸軍のナンバーワンであるアルフレッド・オバンド将軍だった。バリエントス政権を支えていたのがオバンド将軍であることは、ひろく知られていた。しかし、オバンド将軍はそのときはシーレスの昇格を認めた。かれは、夫人の手術に立ち会うために、ニューヨークに行っていたのだった。われも人も許したこの次期大統領“候補”が、急を聞いて帰国したとき、すでに憲法は守られたあとだった。そのため、かれは、シーレスをクーデターで追い払うのに、五カ月を待たねばならなかった。日本でも、警官は警棒をもって学生たちを追いまわす。だが、かれらが裁判にもかけられず、食事もあたえられぬということは決してない条件の中に住んでいる以上、武装闘争が必要だという考え方は、容易に理解されないだろう。
拳銃をくれれば出て行くといった十三歳の少年の言葉の底には、右のようなラテン・アメリカの現実がある。チェが革命の神童だったわけではない、とわたしはおもう。成人したときにいかにすぐれた革命家になったとしても、十三歳のときからすぐれて革命家的であったわけではないだろう。しかし、十三歳の少年なりに、チェが自分たちを取り巻く現実というものを、はやくも理解していたことは疑いない。
チェとグラナドスはこうして互いに相手を知った。年齢が開いていたので、はじめは友だちというよりも兄弟のような感じであった。グラナドスは、一九四五年に薬学科の学業を終えたが、再入学してさらに三年の生化学の授業をうけ一九四八年に卒業した。
この間、チェの環境はかなりの変化をとげている。まず一九四四年の十二月に、一家がコルドバからブエノスアイレスに転居し、父ゲバラが建築業をはじめたこと、そして一九四七年には前記のように両親が別れてしまったことである。チェは、ブエノスアイレスに転居してからも、機会をみつけては国内旅行を続け、そのおりにはコルドバに立ち寄って、旧友たちと再会していた。グラナドスは、大学を出ると、コルドバから百八十キロはなれたハンセン病病院に勤めていたが、チェは何度もそこを訪れた。グラナドス自身も旅行好きだった。げんみつにいうならば、かれは年少のこの友人の感化によって、そうなったといってよかった。かれは弟のトーマスも連れ、チェと三人でしばしば無銭旅行をこころみた。たいていは、二本の足を使うか、せいぜい自転車を利用するかの旅だった。
旅行の時期は主として十二月の試験が終り、つぎの三月の学年末試験までの間であった。暦の上では冬であるが、南半球にあるアルゼンチンでは夏であり、野宿をするのに適したシーズンだったからである。|焚火《たきび》を囲んで、かれらはあらゆる話題を語りあったが、きまって語られるのは、かれらがその眼で見ているラテン・アメリカの現実と、つぎの旅行の計画だった。チェも年長の友人も、アルゼンチン国外を見てまわりたいという欲望に強く支配されはじめていた。
一九五一年の九月、チェは週末の休暇を利用して、グラナドスのもとにあらわれた。
「見てくれ」
とグラナドスは、一台のオートバイをゆびさしていった。グラナドスは中古の品を安く手に入れたのだ。
「これなら国境を越えられるぞ」
チェとグラナドスとは、その前からチリとの間にそびえている大アンデスをぬけるにはどうすればよいかについて、頭を悩まし続けていた。
アルゼンチンのメンドーサからチリのサンチャゴまで、直線距離にすればわずか二百キロしかなかったが、その間には、アンデスの主峰アコンカグアが|聳《そび》えていた。南北六千キロに及ぶ世界最長のアンデス山脈のほぼ中央に位置しているこの山は、おそらく、ヒマラヤ山系のそれを除いて世界の最高峰である。標高は六九六〇メートル(チリがわの測量)とも、七〇二一メートル(アルゼンチン陸軍の測量)ともいわれている。
メンドーサとサンチャゴの間には、むろん国際鉄道が走っている。しかし、かれらにとってはそんなものはなきにひとしかった。鉄道にのるのでは、踏破することにならなかった。鉄路の上を行くのでは、人びとの生活を知ることはできないのである。
一九五一年も終ろうとする十二月二十九日に、チェとグラナドスは、それから一年近くも続く放浪の旅に出発した。
中古のオートバイは、はじめは快調にメンドーサからサンチャゴへの山路をふたりをのせて進んだ。うしろの荷台にのったほうは、運転するほうの腰につかまり、ツプンガト川に沿って、ブエンテデルインカの展望地へと進んで行った。北にはアコンカグアが両がわに副峰をしたがえて聳え、南にはツプンガトの氷河が展開した。
国境のコンブレ峠(標高四三五一メートル)までは、オートバイはなんとか保った。しかし、サンチャゴに着く前、オートバイはついに故障した。そこまで保った方がむしろ奇蹟的でさえあったろう。ふたりはオートバイをすて、徒歩で旅を続けることにした。もしかすると、そのほうが、かれらの旅にはふさわしいのかもしれなかった。
――この事故はわたしたちに、人びとを知る機会をあたえてくれた。わたしたちは、いろいろなつまらぬ仕事をしなければならなかった。旅を続けるのに必要な金をうるために、だ。トラックの運転手、ポーター、水夫、警官、医者、皿洗いなどをやった。わたしたちは、ジャガイモの皮むきや、ありとあらゆる雑用をするような警官だったりしたこともあるが、わたしたちのうちのひとりはすでに大学を卒業していたし、他のひとりは、ほとんど卒業しかかっている医師だったから、
なんとか旅を続けることができ|た《〈*一〇〉》。
とグラナドスは楽天的な調子で回顧している。ふたりの最初の目標は、太平洋上にうかぶイースター島のハンセン病療養所であった。これは主としてグラナドスの希望によったものだった。かれは、サンチャゴからさらに南下して、港町テムコまで行ったが、そこでイースター島行きの船便がなくなっていることを聞かされた。
ふたりは徒歩とヒッチハイクで北上した。そして北部のチュキカマタ銅山に達した。アルゼンチンとの国境にまたがるオヤギュエ峰(標高五八七〇メートル)の西にあるチュキカマタは、そこ自体すでに三千メートルの高地にあり、二十世紀に入ってから、アメリカ合衆国資本の会社によって、開発が進められていた。主として露天掘りの採掘で、アメリカのユタ州にあるビンガムにつぐ世界第二の産出量を有していた。
一文なしになっていたふたりは、アメリカ資本のブラーデン会社の門衛としてやとわれた。一九五二年のはじめのころ、会社から支給された軍靴をはいたまま、監視所の中で居眠りを続けた男が、のちに同じく軍靴をはいてラテン・アメリカ全土を震撼させる男になろうとは誰ひとりとして夢想もしないことであった。
こうして門衛の仕事でいくばくかの金をえたふたりは、さらに北上してペルーに入った。
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ペルーの歴史は、ある意味では、ラテン・アメリカの歴史そのものであった。一五三二年、フランシスコ・ピサロにひきいられたスペイン人の侵入者は、わずか二百人足らずであったが、善良なインカたちはピサロの|奸計《かんけい》に他愛もなくひっかかって、その国家を喪ってしまった。
皇帝アタワルパは処刑され、ピサロによって即位させられたカイライ皇帝マンコ・インカも、二年後には反旗をひるがえしてマチュピチュに立てこもる。マチュピチュとは、インカの言葉で「古い峰」という意味だ。クスコの北方百三十キロのところにある。一九一一年、アメリカの青年ハイラム・ビンガムによって発見されるまで、誰にも知られることのなかった遺跡であった。マンコの反旗の下に|馳《は》せ参じたインカの数は十八万人に達した。だが、火器を持ったスペイン人たちの前に、かれらの抵抗は潰された。
考古学というよりも歴史に興味をもっていたチェは、クスコにたどりつくと、インカ美術専門の図書館に毎日のように通った。そこは安くて暖かであった。貧乏なチェとグラナドスとにとっては、最適の安息所でもあった。
白人社会のアルゼンチンとは違い、ペルーは三種の住民から成り立っている。スペインを中心としたヨーロッパ系白人、先住民族インカの子孫たち、そして、この両者の混血である。白人は約一三パーセント、土着人は約五〇パーセント、残りが混血だった。当時の人口は、推定約八百万人であった。(一九六一年の国勢調査では、一千一万六千三百二十二人)
支配者はいうまでもなく白人だった。
インカの子孫たちは、白人からは何もあたえられていなかった。あたえられた唯一のものは、教会であった。これはボリビアなどでも事情は同じだが、インディオの宗教は、キリスト教になっている。しかし、かれらはインカ独特の宗教儀式も残している。とはいうものの、宗教は飢えを救わない。かれらは、トウモロコシかジャガイモを摂るだけで、空腹はコカの葉によってまぎらわせていた。コカインの原料であるコカの葉は、それを噛んでいるか、|煎《せん》じて飲んでいれば、夢幻の境に遊べるのだ。
★
チェとグラナドスは、なん度となく、クスコからマチュピチュの遺跡を訪れた。進むにつれて道は嶮しく、谷は深くなる。そしてこつぜんと山の急斜面につみ重ねたような巨大な遺跡が姿をあらわす。
その日、グラナドスは「犠牲の台」と呼ばれる廃墟の中に残っている祭壇によりかかり、おりから見物にきていたアルゼンチンの青年や他の国の見物人と会話をかわしていた。チェはそのかたわらで、旅行中はたえず身につけている全財産の一つ、湯わかしで熱いのみものをつくっていた。
グラナドスたちは、アンデス山中の鉱山の労働者を組織しなければいけないとか、文明の恩典というものにまったく浴していない住民たちのために、革命を起こして新しい政府をつくらねばならない、といったことを話題にしていた。黙って聞いていたチェが、とつぜん笑い出した。
「エルネスト、なにがおかしい?」
聞かれたチェはいった。
「一発も撃たずに革命をする気かね? きみらは頭がおかしいんじゃないのか!」
グラナドスは、はっとした。十年以上も前に、はじめてこの年少の友人に会ったときのことを想い出したのである。
クスコの滞在をきりあげたチェたちは、知り合いになった医者の助力をうけ、ボートの旅を続けることになった。クスコ一帯の山岳は、反対がわの大西洋に注ぐアマゾンの源流になっている。源流の一つ、ウカヤリ川の小さな港ブヤルバから、かれらは下りはじめた。
ウカヤリ川は途中マラニヨン川と合流し、さらに下流でナポリ川と出会って大アマゾンとなるが、その少し手前のイキトスの町で、ふたりは数日間、滞在しなければならなくなった。なぜなら、そこで、チェが激しい喘息の発作を起こしたからである。
原因はハッキリしていた。食べものを買う金がないために、川からとって食べた魚が原因でアレルギー症状を起こしたわけである。チェは病院にかつぎこまれた。
かれらの当面の目的地は、ボートを都合してくれた医者の紹介してくれたサン・パブロのハンセン病療養所だった。医師と医師のタマゴであるふたりの青年は、共に、この人類の|業病《ごうびよう》に関心を抱いていた。かれらは、辺境にあって医師のあまりにも足りないハンセン病病院で、しばらく働くつもりだった。目的地を前にして、チェは寝こんでしまった。病院に支払う金などはなかった。数日して、いくらか快方へ向かうと、かれらはボートをカタに置いて、サン・パブロ病院へ歩いて出発した。
病院はかれらを喜んで迎えた。アマゾンの奥地まで無料奉仕にきたふたりの医師と医学生に、むしろ驚いたようである。
ふたりは医局で働き、その間に、患者たちとバスケットボールをしたり、ピクニックをしたり、インディオをたずねたり、ジャングルのサル狩りに加わったりした。
しかし、そんなことがこの人類の業病の真の治療にならぬことは、よくわかっていることだった。バスケットもピクニックもサル狩りも、患者たちの真の問題から眼をそらさせるだけの効果しかないのだ。
ふたりが出発することを聞くと、患者たちは名残りを惜しんだ。かれらはイカダを組み立ててくれ、それに「マンボ・タンゴ」号という名前をつけた。そのころマンボは全世界をふうびしており、タンゴは、いうまでもなく、ふたりの母国アルゼンチンの曲であった。イカダは畳六枚分ほどもあり、二本のカイと、雨露をしのぐ草ぶきの“船室”をもっていた。
「マンボ・タンゴ」とはいい名だった。そして、チェにとっては、皮肉な名前でもあった。
どういうわけか、チェには、音楽的な感覚というものがまったく欠如していた。いわゆる音痴だったらしいのである。ラテン・アメリカの青年ならば、たいていはひけるギターもかれはひけなかった。
チェにあっての唯一の音楽的な財産は、タンゴを踊れることだった。かれは、アルゼンチン国歌さえも調子はずれにしかうたえなかったのだが、このタンゴを覚えたのは、ナショナリストのペロンが、すべてのナイトクラブやダンスホールは、その演奏曲目のうち、少なくとも半分はアルゼンチン・タンゴでなければならぬ、というおよそバカげた布告を発したために、仲間といっしょに遊びに行ったさいタンゴを知らねば、どうにも時間を過せなかったからだ。そのタンゴを覚えるのさえ、チェにはひと苦労だった。
そうして覚えたタンゴのステップだったが、かれ自身は、人から、この曲がタンゴだと教えられなければ、踊ることはできなかった。あるとき楽団が、そのころ人気を集めていたデリカードを演奏しはじめると、チェは何をカン違いしたか、これをタンゴだと思い、得意になって踊りはじめたという。そんなわけで、かれは、音楽については、終生、特定の曲をほめるということはなかった。
★
ふたりは、患者たちに見送られてサン・パブロを出発し、コロンビア領に属するレティシアに向かった。イカダで大アマゾンを下るなどというのは無謀のようであるが、上流のそのへんでは、さほど困難なことではなかった。十二、三歳の子供でも、地もとの人たちなら、あやつることができた。
当時の日記に、グラナドスは、こう書いている。
――昨夜の患者たちの様子は、わたしたちをこの上なく感動させた。それはこんなふうなことだった。午後の七時ごろ、かれらは橋のところまでわたしたちをたずねてくれた。激しい雨にもかかわらず、患者たちはイカダに集まってきた。男、女、子供たちだった。わたしたちが着いたとき、かれらは歓声をあげ、そしてすぐにうたいはじめた。ほとんど大部分の人がそこに集まってきていた。患者のバンドもむろんきていて、そのサキソホンのリードで、音楽の会話がはこばれたのである。
それから、挨拶ということになった。はじめに三人の患者が|喋《しやべ》った。簡単ではあったが、わたしたちの前途を祝福する感情にあふれていた。三人目の挨拶が終ると、わたしたちの番だった。わたしは感動のあまり上手に喋れなかった。それからまた歌になった。最後にはほかの患者たちもつぎつぎに語り、まったく楽しかった。
拍手が終り、別れの歌がうたわれると、イカダはゆっくりと静かに動きはじめた。この儀式が最高潮に達したのは、イカダが霧雨のなかを遠ざかって行く場面だった。その間、かれらのコーラスはわたしたちの耳にとどいていた。まるで夢のようだった。あのとき、わたしたちを結びつけていた兄弟のような感情で、すべてがいろどられていたのだ。
これは一九五二年六月二十一日のことだった。
ふたりは、イカダをなんとかあやつりながら、レティシアに到着した。そこで、かれらは数日間滞在したが、このときは、医師ではなく、アルゼンチンのサッカーのプレーヤーだと称した。じっさい、チェはラグビーもサッカーもじゅうぶんに心得ていたから、サッカーのコーチになるくらいは、さして難しいことではなかった。
運よく、チェが即席コーチになったチームが、おりから行なわれた試合に快勝した。チームメイトは、チェとグラナドスがコロンビアの首都ボゴタを目ざしていると聞くと、|醵金《きよきん》して、その旅費を調達してくれた。
★
ラウレアノ・ゴメスが当時のボゴタの独裁者だった。外国人という外国人は、監視の対象とされていた。ふたりは、到着すると間もなく、危険人物とみなされて、逮捕されてしまった。かれらの着ている服があまりにもひどかったせいもあった。つかまえた警官に対して、ふたりは、激しい非難の言葉を浴びせた。大胆さを示そうという気持も働いていたかもしれなかったが、結果的には、かれらは非常に幸運だったのである。というのは、ふたりを捕えたこの男は、のちに知り合いになった学生から教えられたことだったが、幾人もの市民を殺している札つきの危険な警官だった。
学生は、チェたちに、早くこの国を去った方がいい、と忠告した。そして、数ドルの金を貸してくれた。ふたりはその忠告をきいて、ベネズエラとの国境にあるククタに出発した。
ククタと、ベネズエラの町サン・クリストバルの間に流れる川にかかった「国際橋」を、ふたりが渡ったのは、七月十四日だった。
ベネズエラにおける第一の目的は、首都のカラカスだった。そこには、グラナドスが、かつて勤めたことのあるハンセン病病院時代の友人の医師がいて、やはりハンセン病病院での仕事を提供してくれる予定になっていた。
そのころ、ゲバラ家の家族の親しい人で、競走馬の輸送機を所有している人がいた。その輸送機は、ブエノスアイレス――カラカス――マイアミ――マラカイボ――ブエノスアイレスと巡航していた。つまり、アルゼンチンの馬をマイアミで売り、そこでアメリカの馬を買って、マラカイボで売るという商売をしていた。カラカスの市内で、チェはこの人に偶然に出会った。人生にはいろいろな偶然がはたらくが、このときもそうであった。
グラナドスは、チェにいった。
「きみは母上と大学を必ず卒業するという約束をしていたはずだね。アルゼンチンを出てから、もう七カ月になる。そろそろ帰って、約束を果たすためにも、すっかり遅れている勉強にとりかかった方がいいよ」
「学校の方は大丈夫だ」
とチェはまったく楽天的な口調で答えた。
かれは学校の試験については自信をもっていた。このときに限らず、年末の休暇になると、かれは必ず旅に出た。仲間の学生たちは居残って三月の学年末の試験に備えて勉強した。かれらは、そんなのんきに旅行などして落第するんじゃないか、と忠告したが、チェは、こんどはどこどこ方面のコースを踏破してくる、そして学科のコースの方もパスしてみせるさ、と答え、試験はその言葉どおりに、しかもたいていは首席でパスしてきていた。
そういう実績があるにしても、グラナドスは、心配せざるをえなかった。卒業は、順調に行けば、半年後の翌年三月のはずである。これまでの短い旅行とは違って、七カ月もの大きな空白があるのだ。この短い間に、十二、三課目の単位をとるだけの勉強ができるものか。するとチェはいった。
「おふくろとの約束はちゃんと守るさ。しかし、その前に、もう少し、足をのばしておきたいところがある」
どこだ、とグラナドスが問うと、チェは、マイアミだと答え、相手を驚かせた。グラナドスはとめたが、チェは、どうせ飛行機を利用させてもらうのだからといい、翌年の再会を約して――この再会の約束が守られたのは、八年後になったが――カラカスを去った。そして、マイアミで、かれは生涯の敵となったアメリカ資本主義の繁栄ぶりに、眼のあたりに接するのである。
一九五二年の夏、すでに二十四歳になっていたアルゼンチンの医学生チェが、アメリカ合衆国内でもゆび折りのリゾート都市マイアミでなにを見、なにを聞いたか、じつのところ、はっきりしない。|紺碧《こんぺき》の海や白い砂浜、居並ぶ壮麗なホテルやおびただしい数の車、そして人びと。マイアミがアメリカの消費生活を代表する華やかさの象徴であり、それが、グラナドスとの放浪の旅の間に見聞してきたラテン・アメリカ諸国の貧しさを、かれに|否応《いやおう》なしに想い知らせたであろうといった程度には想像がつくのだが、かれ自身はアメリカの第一印象について書き残していないのだ。
ただひとつだけ、そこで体験したことを、のちにグラナドスに話している。
かれはマイアミに約一カ月とどまっていた間、毎日のように図書館に通った。もちろんホテルに泊まる金などはなかった。例によって、野宿に近い生活を送った。食事は、はじめは、一日にミルクコーヒー一杯で我慢していたが、すぐに、あるカフェテリアの主人がかれの気性に好意をもち、その主人が食べものをくれるようになった。
かれが文無し旅行を長期間にわたって続けることができたのも、この誰をも|惹《ひ》きつけてしまう人間的な魅力――それは敵味方をとわず誰しも認めている――にあったといってもいいであろう。しかし、このときの文無し滞在は、別の原因のために長くは続かなかった。ある日の昼ごろ、店に入ってきたプエルトリコ人がトルーマン大統領の悪口をいいはじめた。そのプエルトリコ人は、かねてからFBIのエイジェントに監視されていた。そして、チェはこの男と会話をかわしたために、FBIのマークするところとなり、マイアミを立ち去らねばならなくなったのである。
九月の新学期がはじまる前、チェは競走馬といっしょにようやくブエノスアイレスに戻った。前年の暮にアルゼンチンを出発してから八カ月たっていた。最後にグラナドスと別れているが、チェの足跡は南緯四十度から北緯二十度を超えるまでに及び、全行程はほぼ二万キロに達した。
この長くつらい旅行にかれをかりたてたものは何であったろうか。かれは旅が好きだから旅に出たにすぎないのだろうか。生まれつきの放浪癖がそうさせたにすぎないのだろうか。あるいは、すでに革命家としてのはっきりとした志向があり、そのための準備であったのだろうか。
現実に対するあくことなき探究心と持って生まれたロマンティックな冒険心が、かれを未知の世界へかりたてたのだ、とわたしはおもう。
チェは自分が冒険家であることを認めていた。ただ、かれは、ふつうの冒険家ではなかった。かれ自身が、のちにキューバを去るにさいして両親あてに送った手紙の言葉を借りれば、「自分の信念を証明するために生命の危険をもかける」種類の冒険家だった。それはいわば男の|志《こころざし》というものであり、かれの三十九年の生涯は、この志に|殉《じゆん》ずることで終始一貫していた。
いずれにせよ、この大旅行を通じてふれたラテン・アメリカ諸国の現実、つまり民衆をとらえている飢え、貧困、病気、あるいは外国資本の支配ぶり、腐敗した為政者、そういった諸悪に接した体験が、医学生エルネスト・ゲバラ=リンチ・デ・ラ・セルナを、革命家チェ・ゲバラに昇華させた胎盤になったであろうことは疑う余地はない。
一九六〇年、キューバ革命後に、かれは公衆衛生省で「医師の任務」と題する演説を行なった。
その中でかれはこう回顧している。
――何年か前にわたしの経歴が医師としてはじまったことを大部分の人は知っている。そして、わたしが医師として出発し、さらに医学を勉強しはじめたとき、いま革命家として持っている内容の大半は、わたしの思想の倉には欠けていた。誰もがそうであるように、わたしも成功を願っていた。有名な医学研究者になることを夢みていた。人類の助けになる何かを発見することを夢想していたのである。しかし、そのころ獲得しようとしたのは、個人的な成功だった。わたしは、われわれすべてのものと同じく、幼稚な考えにとりつかれていたのだった。
卒業後、特別な事情と、さらにはおそらくわたしの性格もあって、わたしはアメリカ(筆者註・この場合は南北アメリカを指す)を旅行しはじめ、アメリカ全土を知った。(中略)そして有名な研究者になったり医学に重要な貢献をしたりすることと同じくらいに大事な何かがあることを悟りはじめた。それは(貧困、飢え、病気にしいたげられている)これらの人びとを救うことであった。
右の言葉で明らかなように、医学部へ入ったときのかれは、医師として立つつもりだったわけである。グラナドスとチェとが旅行したさい、チリの日刊紙「アウストラル」が一九五二年二月十九日付の新聞で、ハンセン病を専門に勉強しているふたりのアルゼンチンの科学者が当地を通過し、ハンセン病病院のあるイースター島へ行く予定だとかれらを紹介しているが、それをもってしても、当初の志がどこにあったかは推測がつく。
さて故郷へ帰りついたチェを待っていたものは、ペロン政府の徴兵検査だった。しかし、かれは、軍務に適せず、という宣告をうけ、卒業のさいに再呼出しがあるかもしれない、といわれた。この宣告は、喘息の持病のためと思われるが、後年のゲリラ戦士ぶりを考えるとき、皮肉なおかしみを感じさせずにはいられない。
旅行での収穫のひとつには、個人的なものであるが、日記をつける習慣が定まったことだった。友人のアギラールは、この旅行のあとでコルドバを訪れたチェと再会しているが、そのとき、旅の間につけられた日記をみせてもらっている。
それはマチュピチュに関する一節で、インカの廃墟の上に建てられた教会に、インカ文明に及ぼされたスペイン帝国の植民地支配の強さをみたもので、絵入りであった。この図入り乃至は絵入りはかれの日記の特色の一つで、医師のカルテ記入法が影響をあたえているようだ。主著『ゲリラ戦争』も絵入りである。
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ところで、当面の目標は、母親やグラナドスとかわした約束、つまり大学卒業を果たすことであった。必修単位が十二課目も残っていたが、チェはそれを全てパスした。なにか独特の勉強法を身につけていたらしい。かくてかれは医学博士(M・D)となった。論文はアレルギーに関するものだった。
アルゼンチンにおいて、このM・Dの肩書は、上流階級への鑑札にひとしかった。ゲバラ家の家柄からしても、かれは容易にその一員に加われたであろう。もちろん、チェのがわにそんな意思はなかった。患者が千客万来する金持のお医者さんのイメージは、チェにおよそふさわしくない。
では、チェは医師としてすぐれていなかったのだろうか。キューバの北ベトナム協会会長であるメルバ・エルナンデス女史は、医師チェ・ゲバラにメキシコで初めて会ったときの様子をわたしにこう語った。
「わたしが初めて出会ったのは一九五五年十月のことで、かれは、メキシコの公立心臓病院で医学上の調査や
研究をしてい|た《〈*一一〉》。当時、メキシコではエンリケ・カブレラという人が心臓病の権威だった。わたしの身内に心臓病患者がおり、そのことを相談するために診断書をもって国立病院のカブレラ博士の意見を聞こうとしていた。キューバを出てメキシコへ行く口実も、じつはこの診断を名目にしていた。ところで、そのとき出会ったのがチェだった。かれはキューバでの診断書を見るなりこの症状は非常に重い。おそらく二年とは保つまいといった。その後、カブレラ博士に会ったとき、博士はチェとまったく同じことをいった。それで、医師ゲバラにわたしは尊敬の念をもった。
しかし、そのころの同志の間では、医師としてのチェは話題にのぼらなかった。わたしたちが、医師としてのチェに深い感銘をうけたのは、診断書の件もさることながら、つぎのことがあってからだ。
夫のモンタネ(現・逓信相)が病気になり、チフスの疑いをもたれたことがあるが、そのときチェが診察し、チフスではないと断定し、みずから治療にあたり、おかげでモンタネはすぐに回復した。このように、チェは医師として非常に鋭い感覚と的確な診断を下した。その後も数回にわたって同様のことがあった。かれは医師としてきわめてすぐれていることに、わたしたちは深く印象づけられたのである」
開業医になれば評判のよいお医者さんになるであろうような道は、チェの性格からしても、とるべき道ではなかった。登山家が山に惹かれ、山の中にかれの人生を見出すように、大学を卒業したチェは、再び旅の中にかれの人生を見出そうとしていた。
といって、チェは医師ないし医学者であることまでも放棄しようとしたわけではなかった。前述の回顧で明らかなように、かつグラナドスの影響もあって、ハンセン病患者のために研究する決意はいぜんとしてもっていた。
大学を卒業して、四カ月後の七月、チェは、一年前にグラナドスとかわした約束を果たすため、つまりカラカスのカボ・ブランコ・ハンセン病病院でいっしょに働くために、ブエノスアイレスを出発することを決心した。もうひとつの理由は、アルゼンチンにとどまる限り、ペロン政府に軍医として徴用される可能性が高かったからだった。ペロンは社会改良政策によって国民の人気を得て登場したものの、そのころには、それまでのラテン・アメリカのすべての革命家がそうであったように、強圧的な独裁体制を固めつつあった。数百人の反ペロン派が刑務所に送られ、拷問されていた。一九五一年、ペロンは大統領に再選されたが、翌年エバがガンのために三十三歳の若さで死んだころから、その独裁者的な性格をいっそう顕著なものとしていた。セルナ夫人はペロンの反動性をはやくから見ぬき、チェもその影響をうけていたので、軍医に徴用される前に脱出することを決意したのである。その前夜、ささやかな送別のパーティが開かれた。それから、かれは友だちのアギラールといっしょに、市内の目抜き通りであるサンタフェ・アベニューを散歩した。三千番地の中ほどから、一番地、つまりサン・マルティン広場までの三十ブロックを、ふたりは、あらゆることを話題にしながら歩いた。
翌日、かれはブエノスアイレス駅を列車で出発した。そのときかれ自身は、これが終ることのない旅への第一歩となるだろうとは、夢にも考えていなかった。かれは、アルゼンチンでも屈指の財産家の女子相続人フルレイラ嬢と恋愛しており、結婚の約束もかわしていた。名門同士の交際は友人たちからも祝福され羨ましがられていた。かれらは、時期をみてチェが帰国し、そのまま上流階級の一員として定着するものと考えていた。それだけに、その後のチェの足跡はかれらにとって不可思議であったらしい。あんなによい“未来”をなぜ棄ててしまったか、というわけである。しかし、チェも彼女のことを忘れてしまったわけではなく、最初の妻となったイルダ・ガデアに彼女のことを何度も語っている。だが、チェのように生きた男にとっては、祝福された未来も財産も名医の評判も、哀惜に値するものとはなりえなかったのである。故国アルゼンチンに帰るのは、十年後、ただの四時間あるだけとなるのだ。
列車は二等の各駅停車で、ボリビアの首都ラパス行きである。そこまでは約三千キロ。そして、ラパス行きを選んだのは、ボリビアがまだ行ったことのない国であったからだった。さして寄り道になるわけでもないし、かれの性格からしても、それはとるべき当然のコースだった。そして、もうひとつの理由は、おそらく、当時のボリビアがグアテマラと並んで、ラテン・アメリカではきわめて珍しい社会主義政権の下にあったからだと思われる。
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南米大陸のほぼ中央に位するボリビアは、面積はわが国の約三倍あり、そして人口はわずかに三百五十万人である。一八二五年にラテン・アメリカをスペインから独立させたシモン・ボリーバルの名にちなんで、その国名がつけられた。初代大統領はスクレ将軍で、現在でも法律上の首都はスクレ市にあるが、大統領官邸、各省はすべてラパスに集中し、そこが事実上の首都になっている。
チェの最期の地となったボリビアについては、かれの死にふれる章でくわしく書くつもりでいるが、かれが初めてその足跡を印したころの同地は、ビクトル・パス・エステンソロ大統領の統治下にあった。エステンソロはマルクス経済学を専攻したラパス大学の教授で、一九五二年四月九日の革命にさいし、労組出身のレネ・バリエントスと協力して政権を握った。
ボリビアの主産物は、錫、銅、銀などの鉱業資源で、当時その大部分はアメリカ資本の支配下にあった。また国民の多くを占めるインディオ系は、大半が字も読めず、かつ大農園にしばりつけられた農奴生活をしいられていた。
エステンソロは、メキシコ革命に似かよった農地改革を断行し、外国資本の鉱山を国有化した。エステンソロは、究極においては、ラテン・アメリカ的な腐敗に身を任せてしまうのだが、そのころは、MNR(民族革命運動)の指導者として、よそめには輝ける星にみえたのである。
チェは、大統領官邸に近いヤナコーチャ街の下宿に旅装をといた。一部屋をひとりで独占するだけの経済的なゆとりはなく、カリカ・フェレールというアルゼンチンの大学生と共同で部屋を借り、エステンソロ革命の実態をその目でたしかめるために、毎日のように市内を歩きまわった。
ラパスの市街は、高度三千八百メートルの高地にあり、周囲を不毛の山肌に囲まれている。貧しいインディオたちはその山肌に泥土をねりかためた小屋をつくり、同じような色の皮膚をもっている。それは長い年月の間コカの葉を|煎《せん》じて飲んできたためだった。コカはいうまでもなく、コカインの原料である。十六世紀にこの地を征服したスペインの侵略者たちは、このコカの葉をインディオにあたえて、銀山や銅山の労働にかりたてた。コカの葉を煎じて飲めば、飢えも疲れも忘れ、夢幻の境にさ迷うことが可能なのであった。
インディオの女たちは、いずれも髪を三つ編みにし、背中まで垂らしている。そして例外なく、山高帽によく似た帽子をかむり、重い荷物を背負って何キロも歩き、ブエノスアイレス街の通りに貧弱な商品を並べている。空気のうすい高地での生活は、馴れない旅人にとってはかなり苦痛であるが、インディオたちは平気である。
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じっさい、ラパスを訪れるものは、たいてい軽い高山病にかかる。わたし自身も、到着した日の夜は、ゆっくり歩くのがやっとというありさまだった。正直にいって、わたしには人間の住むところではないように感じられた。現在の人口は五十万人を数えるが、人はなぜこのような住みにくい地に住むのかと、しばしば心の中で問いを発せずにはいられなかった。夜中かならず何度か目が|醒《さ》める。空気の薄いせいである。そのたびに窓をあけ、金魚のように口をパクパクと動かして、胸いっぱいに空気を吸いこむ。むろん走ることなどは不可能であった。
余談になるが、ボリビアは周辺の国々と幾度か|干戈《かんか》をまじえている。そのたびに負けて、領土も独立当時の三分の一に減り、海岸線をも失ってしまい、それがボリビアという国家の性格や運命に大きな影響をあたえているのだが、それらの戦争を通じて共通していることは、平地での戦いには必ず敗れ、そして外国軍が山地へ攻め上げてくると、必ず勝つということだった。高地族であるボリビア人には、平地の濃密な空気は、血液中の赤血球を多くするために、からだの調子をかえって崩すわけである。そして、平地族の外国軍隊は、戦場が高地に移ると、行動が思うに任せず、元気をとり戻したボリビア軍に負けるのだ。ボリビアでは、いまでも年に一回、海に行こうという祭日が設けられているが、これは海岸線の領土を失ったことへの痛恨がこめられている。
喘息もちであるにもかかわらず、若いチェの肉体は、この高地にも順応した。かれは、街角に無気力に居坐っているインディオや、革命後といえどもあいかわらす氾濫している外国製品を眺め、このMNR革命の前途に暗い予感を抱いた。
そのころ、ラパスに、イサイアス・ノウゲスというアルゼンチン人が居住していた。ノウゲスは農場主でかつ反ペロンであり、ボリビアに亡命していた。亡命といっても、もともとが富裕階級の人間であり、ラパスきっての高級住宅地であるカルコータ街に居をかまえていた。ノウゲスの家は、ボリビア在留のアルゼンチン人たちのサロンのようになっていた。主人はその資力で同胞に食事や酒を供していた。チェがこのノウゲスの家にどうして出入りするようになったかは不明確なのだが、ある日かれはここでリカルド・ロホに紹介された。ロホはその時点では、反ペロン党である急進公民連合に属する弁護士で、アルゼンチン駐在のグアテマラ大使イスマイル・ゴンザレスの助力により国外へ亡命した。最終的な目的地はグアテマラだったが、このときはチリを経てボリビアにきていた。
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ロホは、チェの亡きあと、『わが友チェ』という本を発表している。これは日本訳も出ており、「十四年間にわたるチェとの友だちづき合いの結果である経験談」をまとめたものだ。ゲバラの外伝としてそれなりの資料をふくんでい、とくにボリビアからグアテマラに至る間の経過に関しては、ほぼ行を共にしていただけに、他書の追随を許さない。ただ、この書はチェの肉親には不評で、実弟のロベルト・ゲバラは、
「わたしの意見としては、ロホ氏はあのような本を出版すべきではなかった。いろいろな本がいままでにも書かれてきたが、その中でもっとも商業的な本といえば、リカルド・ロホ氏の本であるとおもう。友を語る、ということは、いつでも商業的というわけではないにしても、かれの場合はそうだった。つまり(チェを語ることで)できるだけ多くの利益を得ることが、かれの目的だった。ロホのいう多くの部分はウソである。わたしの立場からいえば、ロホ氏に対しては全面的に反対である」
とわたしに語っていた。
ロホの著書に対する評価はさておき、その中で、かれはチェとの出会いをこう書いている。
――かれに初めて会ったとき、ゲバラは、なんら特別な印象をわたしにあたえなかった。少ししか喋らず、ほかのものたちの会話に耳を傾けることを好んでいた。そしてとつぜんおだやかな微笑をうかべ、話し相手に対して、呆然とさせるような警句を浴びせた。知り合ったその夜、わたしたちはラパスまで歩いて戻り、友だちになった。もっともその当時じっさいにわたしたちの共通していた条件といえば、若い大学生で金がなかったことだ。わたしは考古学に興味はなかったし、かれは政治に対してそうだった。つまり、当時のわたしにとって、そしてやがてはかれにとっても
重要になる意味においてだ|が《〈*一二〉》。
ロホの回想はなおも続くが、右の文章の中で、あきらかに錯覚と思われるのは、おたがいに若い大学生というところであろう。ロホはすでに二十九歳の弁護士だったし、チェも卒業していた。また、注釈つきであるとしても、チェが政治にはほとんど無関心だったとしているのは|解《げ》せないところである。チェの描写についても、なにかしら|曖昧《あいまい》であるが、別のところで、ロホはこう語っている。
「ある日、わたしは、ラパスに住む富裕なアルゼンチン人の家の、カクテル・パーティに招待された。わたしは、とっておきの清潔なシャツを着用して、そこへ行った。そしてわたしは、背の低い、約五フィート六インチほどの血色の悪い青年を見て|肝《きも》をつぶした。その青年は隅にいて、汚れた茶色のジャケット、しわくちゃのシャツを着ていた。靴には穴があいていて、それがかつては皮革であったという形跡のないようなしろものだったのだ。わたしは、この若いヒゲの薄い青年に紹介された。わたしは際立った第一印象をうけたことを覚えている。それは、かれの情熱的な茶褐色の眼の強い輝きのためだ。
これがチェ・ゲバラだった。かれは|喋《しやべ》るにつれて手を波立たせるように動かし、あごをつき出すようにした。そして、その骨ばった手で長い髪の毛をうしろへかきあげる癖をもっていた。……わたしに語ったところによれば、かれは医師で、ベネズエラのハンセン病療養所へ働きに行く途中だということだった。かれは政治に関して、ほとんど知識も興味もなかったが、ラテン・アメリカ全土にみられる不正については、多くの言葉をつらね、これについて耳を傾けるものとは誰とでも
熱心に議論し|た《〈*一三〉》」
一読して明らかなように、この方がチェの風貌についてはるかにいきいきとした描写をしている。
またロホはチェが政治にはほとんど関心をもっていなかったとしているが、これは信じ難い話である。ロホ自身の書いた前記の本を読めばわかるように、チェは、ボリビアの社会主義政権の幹部たちが、民族革命運動の将来について何を考えているのか、それを確かめるために、農務大臣ヌフロ・チャーベスに会見を申しこみ、会うことはできたものの、まったく冷淡にあしらわれたエピソードをつづっている。
政治に無関心な人間が、わざわざ大臣に会見を求め、その政治のやり方について批判するはずはないだろう。かれは、あきらかに、ボリビアの原住民つまりインディオたちの悲惨さ、その悲惨をもたらす政治というものについて深い関心を抱いていたのだ。
じじつは、政治についての関心ではなくて|野心《ヽヽ》の有無というべきだろう。チェには政治的野心はなかったが、ロホは、のちに友人のフロンディシがアルゼンチンの大統領になると、西ドイツ大使館の参事官に職を求めた。そしてフロンディシが追放された現在は、再び国外に亡命を余儀なくされている。ロベルト・ゲバラがロホに対して批判的であるのも、おそらくはこの点を見ぬいているからにちがいない。ついでに書けば、ロホはチェを音楽狂として書いている点も間違っていることは、少年時代からの友人であるグラナドスなどの話と合致しないことで明白である。
しかしこのリカルド・ロホが、チェをキューバ革命へと導くスタートラインに、かれを押しやる役目を果たしたことは確かであった。
ロホの最終の目的地はグアテマラであり、チェのそれは、グラナドスのいるベネズエラであった。ボリビアは、この段階では、寄港地のようなものにすぎなかった。ふたりは、カリカ・フェレールを加え、ペルーへ向けてラパスをトラック便で出発した。かれらはチチカカ湖沿いに国境をぬけ、フリアカからクスコに達した。クスコは、チェにとって|曾遊《そうゆう》の地といってもよかった。考古学に関心のないロホは、ここでチェと別れ、グアテマラへの亡命という目的を達するために、リマに向った。
こうしていったんは別れたふたりは、ペルーとエクアドルとの国境に近い町ツンベスで偶然に再会した。
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一九五三年九月二十六日、カリカをふくめた三人は、エクアドルに入国し、グアヤス川の河口にあって周辺最大の都会であるグアヤキルに達した。
グアヤキルは人口六十万人の港町だ。国名の示すとおり赤道(Equator)直下にあるエクアドルは、南米第一のバナナ輸出国とされている。そして、バナナ、コーヒー、ココアなどを運ぶアメリカ資本のユナイテッド・フルーツ会社の持船が波止場の大半を占領していた。
グアヤキルから、友人グラナドスの待っているカラカスに行くためには、首都のキートを経由して、コロンビアに入国し、さらに西北へ進まねばならない。そして、ボゴタまで行けば、残りの行程は、かつてグラナドスとたどった道であった。
チェは、この時点では、まだカラカスを目指していたが、財布の中は一文無しになっていた。この経済状態については、ロホや新しくかれらに加わったグアテマラ行きの仲間たちも同じだった。
ロホは、グアヤキルで弁護士を開業している社会主義者あての紹介状をもっていた。紹介したのはチリ人で、急進的な思想のために母国を追われており、似たような境遇に同情したわけである。その名前はサルバドール・アジェンデ。のちにかれがチリで南米最初の社会主義者の大統領になった(一九七〇年)ことはよく知られているが、ロホとチェはそれを頼って行くと、相手は、パナマ行き汽船の無料切符を手に入れてくれた。その汽船は、皮肉なことに、ユナイテッド・フルーツ会社のものだった。ロホは、この切符をチェに見せながら、自分といっしょにグアテマラに行かないか、とすすめた。
グラナドスとの約束にこだわるチェに、ロホはいった。
「どうしてきみはベネズエラへ行きたがるんだね? あそこはドルかせぎ以外に能のない国だ。ぼくといっしょにグアテマラに行こう。そこでは、本当の社会革命が起こりつつあるんだ」
この誘いの言葉は、チェの気持を大いに揺るがした。なぜなら、グアテマラは、ボリビアに先立って一九五〇年に社会主義的政権が誕生していたからである。
現在のグアテマラのゲリラは、西独大使の誘拐や暗殺で日本にも知られているが、その掲げている旗印は反米である。それは、グアテマラに赴いたチェがみずから渦中に身を投じた社会主義政権対CIAの|傭兵《ようへい》との戦い、それに統く社会主義政権の敗北と決して無関係ではないであろう。
グアテマラは、わが国の三分の一もない小さな国である。人口もわずか四百万人弱。そのうちの半分以上は、標高千メートル以上の高地に住んでいる。小さな国でありながら、その国土は、三つの区域に気候的に分けられる。乾燥した太平洋岸低地、温暖な中央高原、カリブ海がわ(といっても海に面しているのはごく一部であるが)の熱帯樹林。
住みやすいのは、中部の高原地方であり、メキシコに接した北部の森林地区には、こんにちでは住民はほとんどいない。人口密度は一平方キロあたり〇・五人というありさまである。狭い国土であるにもかかわらず、その三分の一に近い北部森林地区は、このように人間の居住に不適当な環境なのだ。
グアテマラという国家の不思議さは、この人間の住みがたい地区に、かつて偉大な文明をもったことである。もっとも今日では、もはやその偉大さが失われているが……。三世紀から九世紀にかけて、同地には古代マヤ文化が花を咲かせていた。マヤ族は多くの都市国家を、その密林のなかにうちたてていた。かれらは、すばらしく発達した数学や天文学をもってい、現在のコンピュータが採用している二進法で思考し、数学的にゼロを発見し、ピラミッドを築いた。
ラテン・アメリカにはおきまりの歴史、つまりスペイン人が侵入してき、植民地化し、やがては本国から独立し、さらにその内部では血の抗争がくりかえされ、暴力によるクーデターの連続という歴史が、グアテマラにもくりひろげられた。一八二一年の独立宣言以来、一九四四年の軍と知識人によるクーデターまで、合憲的に成立した政府は、わずか二回しかなかった。
ハコボ・アルベンス・グスマンにひきいられるグアテマラ革命党(PRG)が合法的な投票の下で政権をとったのは一九五〇年であった。アルベンスがまず目指したのは、農地改革である。一九五二年六月、アルべンスは農地改革法に署名した。それまで、グアテマラの農地の七〇パーセントは、五十家族と一会社、つまりユナイテッド・フルーツによって所有されていた。
アルベンスが企てたのは、このような土地の少数独占を打ちこわし、農民に土地をあたえることだった。かれはまず、政府所有の七十万エーカーの土地を農民に解放した。それだけでは足りなかった。大土地所有者から、その休閑地の五十万エーカーを買い上げることにした。
グアテマラにおけるこの土地改革は、ラテン・アメリカの歴史を通じて、もっとも革命的な出来事だった。アルベンスの採った道は、政治的な主義の如何にかかわらず、きわめて反米的なものとならざるをえなかった。なぜなら、この五十万エーカーの土地のうち、二十三万エーカーはユナイテッド・フルーツ会社のものだったからである。
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チェがグアテマラに入国するのは、一九五三年十二月であるが、歴史を先に進ませれば、一九五四年三月には、カラカスで開かれた米州会議は、グアテマラ政府の反対を押しきって、反共宣言を採択する。そのとき、アメリカ合衆国のある外交官は、公然と、たとえ|他国《ヽヽ》による実力行使であろうとも、それが共産主義の抑圧のためならば、内政干渉にはならない、と放言した。
この露骨な言葉が、どこの国に対して向けられたものかは、あまりにも明白だった。ユナイテッド・フルーツ会社の大株主は、時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスであり、CIAの長官は、その弟のアレン・ダレスだった。ユナイテッド・フルーツは、土地と鉄道をもち、グアテマラだけではなく、中米の産業経済を支配する巨人だった。この巨人に対して戦いを挑んだものは、中南米のいかなる国にもいなかった。アルベンスは、その最初の挑戦者であり、立ち上がりざまにかれは、そのしたたかな一撃を巨人のボディに加えたわけだった。
そんなわけで、巨人がいかなる反撃をみせるかが、一九五三年当時のラテン・アメリカ最大の話題だった。
チェは、じゅうぶんにその情勢をわきまえていた。それだからこそ、かれは、ロホの言葉に動かされたわけである。
「よし、グアテマラに行ってみよう」
とかれはいった。
チェはすぐにグラナドスあてに手紙を書いた。文面は、「親愛なる友よ、ぼくはグアテマラに行く。あとでまた手紙を書く」という簡単なものだった。
こうしてエクアドルからかれらを出発させたのは、ロホの友人が手に入れてくれたユナイテッド・フルーツの無料乗船券であり、このアメリカ資本主義の象徴が、チェをラテン・アメリカの嵐のなかへ連れて行ったことは、歴史のいたずらというものであるだろう。
切符はパナマ行きだった。ただし、一度には乗れず、まずロホが出発し、ついでつぎの便でチェが出発することになった。ふたりはパナマで再会することを約束し、ロホは十月九日にグアヤキル港を一足先に出た。
そこから先は、ロホの話と、チェの最初の妻であるイルダ・ガデアの話とでは、喰違いがみられる。
★
まず、ガデアの説明――
「チェの話では、エクアドルにいるとき、かれはホルヘ・イカサと友だちになったそうです。イカサは、チェに自分の書いた本を見せました。それはエクアドル・インディオの生活を扱ったものです。その後かれはパナマに行き、そこで経済的な困難に陥りました。かれは出発するための切符を買えなかったし、書物の一部を売り、残りを保証のために置いて行かなければなりませんでした。
かれはいくつかの文章を書きました。そのなかには、前に訪れたことのあるマチュピチュに関するものも含まれていました。ペルーのインカの遺跡に関するこの文章は、パナマの雑誌に発表されました。
チェの目的は、ラテン・アメリカ全土を旅することでした。チェがボリビアでリカルド・ロホに出会ったとき、かれはベネズエラに八百ペソの契約仕事(ハンセン病病院での医師としての職)をもっていました。リカルドは、かれ自身のちにグアテマラから追われるようになるのですが、チェに、グアテマラでの革命について語りました。チェは熱心にその話に耳を傾け、ついには、はじめの計画を変えたのです。
ロホや他の医師たちと共に、チェはグアテマラへの旅をしました。最初の志望はジャングルの医師になることでした。かれがそれを申請すると、チェの持っているM・Dを有効なものとするためには、グアテマラ国内で一年間の実習が必要だといわれました。チェは時間を無駄にしたくなかったのです。そこで、かれは
キューバ人たちと知り合いになりました…|…《〈*一四〉》」
ロホの語るところは、ガデアとは違っている。かれはまずパナマでチェを待ったが、チェは三週間たっても現われなかった。かれは待ちきれずに、グアテマラヘ向って出発して行った。
十一月中旬、ロホはグアテマラ市に着いた。そこでかれは、ふたりのアルゼンチン人が車でラテン・アメリカを走破しようとしているのを知った。このふたりは兄弟で、兄をワルテル・ベベラギ・アリエンデ、弟をドミンゴといった。兄弟は46年型のフォードにのって南の方へ旅をしようとしていた。
ロホは、チェがまだパナマにいるにちがいない、とおもっていた。パナマ官憲となにかトラブルを起こして、身動きできないでいるのだろう、とおもったわけである。
かれは、兄弟に頼んで、フォードにのせてもらった。フォードは、エル・サルバドルを横断し、ホンジュラスに入り、ニカラグアに至った。ニカラグアに入ったのは、一九五三年十二月十八日だったという。
リーバスという小さな村に達したとき、激しい雨が襲ってきた。視界はほとんどゼロになり、村人たちは、旅行の中止を説いた。
三人は、それでも、コスタリカの入口であるピコドラ・ブランカへ向けて車を出した。
★
車は泥沼のような道をゆっくり進んだが、とつぜんふたりの男がその視界に入ってきた。道の状況を質問しようとして、ロホたちは車をとめた。ロホと同行していたワルテルは、回想する。
――そのひとりがチェだった。連れはラ・プラタからきたエデュアルド・グラシアという学生だった。
かれらはパナマからずっと歩いてきたのだった。チェは、わたしに強い印象をあたえた。かれは静かな男だったけれども、その存在をはっきりと感じさせるのだ。かれは美しい顔をもっていた。そして、中央アメリカで眼のあたりに見てきた貧困について心を動かされていた。かれ自身も貧しかったが、その内なる思想への献身と闘志にあふれているようにみえた。全世界の不正に対して責任を感じている様子だった。
わたしは、かれに同情して、衣類のいくつかを寄付した。かれは、ほとんど何も持っていなかったのである。背負っている衣類は、まさにボロ切れそのものであったのだ。
わたしたちは、チェたちをマナグアまで車にのせて連れて行った。二日間の旅であったが、その間にチェはしばしば喘息に襲われた。マナグアで、ロホとわたしは、車を売るために留まることになった。その間に、チェとドミンゴとグラシアは、
徒歩でグアテマラへ向っ|た《〈*一五〉》。
チェは、一九五三年のクリスマス・イブにグアテマラ市に入った。
グアテマラ国内は、緊張の極にのぼりつめようとしていた。アルベンス大統領は、グアテマラの隣国において、「北の某政府」の指導の下に、グアテマラに対する武力侵攻が公然と準備されている、と言明していた。
北の某政府――この言葉がアメリカ合衆国を指していることはいうまでもなかった。それは、当時のグアテマラに限ったことではなく、いまでも中南米では、アメリカ合衆国の名前を公然と口にできないときは、北の国とか北方の巨人とかいうのである。
北方の巨人は、たしかに、この時期にあっては、ひそかに|牙《きば》をとぎつつあったのだ。そしてチェは、この北方の巨人とグアテマラにおいて、最初の戦いをまじえるのであるが、その間、というよりも、かれがラパスにいたころ、カリブ海の島キューバでは、ラテン・アメリカの歴史をかえる事件が起こっていた。
男はひとりの女に出会うことによって、その生涯を大きく変えられてしまうものらしい。人はそれを、運命的な出会い、と呼ぶのだ。チェにとって、この言葉に値する女は、イルダ・ガデアであり、その場所がグアテマラであった。かれらはメキシコで結婚し、やがては別れ、チェはキューバにおいて、二度目の結婚をするようになるのだが、二度目の妻アレイダ・マルチは、イルダほどには、チェの生涯に大きな影響を及ぼすことはなかった。チェとイルダとの結婚生活はたとえ短い期間であったにせよ、彼女こそは、チェの運命を変えた女だった。
イルダはペルー人で、ペルー大学の経済学部に学んだ。学生時代から、アメリカ人民革命運動の機関誌に論文を書き、社会主義運動に身を投じた。そのため、ペルーを追われ、グアテマラに亡命してきていた。一九五四年当時のグアテマラは、メキシコと並んで、彼女やリカルド・ロホのような亡命者にとっては、ラテン・アメリカにおいてわずかに残された安住の地だったわけである。
チェをイルダに紹介したのは、ホアン・アンヘル・ヌーニェス・アギラールという人物だった。この男は、ホンジュラス国籍の経済学者で、アルゼンチンの女性と結婚していた。ひところは、ブエノスアイレスでアルゼンチン陸軍の学校に勤めたことがあり、そのころ、ペロンとは友だちだった。
この一事をもってしてもわかるのだが、ラテン・アメリカは、大小さまざまな国家に分かれているとはいえ、人びとの間には、国境とか国籍とかの意識は、ほとんど見られない。ブラジルを除いて、|喋《しやべ》る言葉はスペイン語であり、共通の生活感情をもっているのだ。
ヌーニェス・アギラールは、グアテマラの元大統領だったホアン・ホセ・アバレーロとも友人で、このアバレーロ元大統領をロホが知っていた。つまり、友人から友人へという形でチェはヌーニェス・アギラールの家をたずねるうちに、イルダに出会ったのだ。それは、まさしく「出会い」といってよかった。イルダは回想する。
――もしかれがロホという人物に会わなかったならば、おそらくグアテマラには行かなかったでしょう。そしてもしわたしという女にめぐり会わなかったならば、メキシコにも行かなかったでしょうし、したがってフィデル・カストロとともにキューバに行くようなことにはならなかったでしょう。でも、これがあの人の運命だったのです。わたしたちの結婚がかれの生活を、さらにまたかれの最終の目的をも決定したのだという点からすれば、わたしにはそれが誇りでもありますし、また同時にそれは驚きでもあり、かつ苦しみでもあるのです。
妻としてのわたしは、かれが自分の胸に描いていたことを明確に把握させるために貢献したと信じています。かれがわたしと知り合ったとき、かれにとって革命は抽象的、理論的なものでしたが、わたしにとって革命とはつねに、わたしの抗議の生活の目的でした。実現しなければならぬ現実的、
具体的な目的なので|す《〈*一六〉》。
右のような言葉でもわかるように、イルダは、男まさりの革命の女であった。そして、知り合ったチェに、当時もっとも彼女自身が関心を寄せていたキューバについて熱っぽく語り、亡命キューバ人たちをかれに紹介した。
★
グアテマラに入国したチェは、はじめジャングルの医師になるつもりでいたのだが、医師の資格問題でこじれたことと、もうひとつの事情で、この最初の目的を|諦《あきら》めねばならなかった。
その事情とは、グアテマラ政府がチェに対して、ジャングルの医師になること、つまり政府の職員になりたければ、グアテマラ革命党に入党することを要求したことである。
チェはそれを拒絶した。政府がわは、形式だけでもいいのだといったが、チェは承知しなかった。
グアテマラ革命党の綱領の是非をかれは問題にしているのではなかった。党が目指しているものと、チェの目指しているものとが|甚《はなはだ》しく相違しているわけでもなかった。収奪されているラテン・アメリカの民衆を解放したいという目標については、むしろ一致していた。チェ自身、グアテマラ革命党の指導者であり、かつまた北方の巨人たるアメリカ合衆国に戦いを挑んだハコボ・アルベンスに尊敬の念を抱いていたのだ。
だが、職を得るために、便宜的あるいは形式的に入党することは、チェのもって生まれた気質からして、とうてい認められないことだった。なにか事をなすにあたっては、他人の押しつけによらずあくまでも自分自身の意思によって行なわるべきだというのが、終始一貫してかれの生涯を支配している主題であった。
チェがカストロとキューバに侵攻し、シエラ・マエストラでゲリラ戦を展開しているとき、アルゼンチンの新聞記者リカルド・マセッティにインタビューされたが、そのさい、かれは、
――シエラ・マエストラの山中にやってきたアメリカの新聞記者で、グアテマラ革命におけるわたしの役目は何であったか、とこれまで質問しなかったものは、ひとりもいなかった。つまり、わたしがあの国の党活動に参加したことはいうまでもない、と思ってのことである。そう考える唯一の理由は、わたしが過去においても現在においても、アルベンス政府の熱烈な讃美者であるためなのだ。
違うのだ。わたしは、あの政府で地位を占めたことは決してなかった。
しかし、北アメリカの侵入が起こったとき、ユナイテッド・フルーツの傭兵たちに立ち向かわせるべく、わたしのような若もののグループを組織しようと企てたことは事実である。グアテマラでは、戦うことが必要だった。そして、ほとんどの人は戦おうとしなかった。抵抗することが必要だったが、
誰もそれをしようとはしなかっ|た《〈*一七〉》。
と語っている。
右の逸話はいかにもチェらしいが、同時にそれはグアテマラ革命党の体質が、このときはやくも形式主義に|陥《おちい》っていたことを示すものであろう。内容よりも形式を重んずるようになっては、革命はもはや革命たりえないのだ。
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こうして職を得ることを断念したチェは、ひとまずグアテマラ市の三番街にある安下宿に居を定めた。ノミがうようよしているこの安下宿は、一日五十セント。チェは、例によって百科事典のセールスマンや行商人などをやりながら、なんとか食費をひねり出した。
貧乏という敵には馴れっこになっているチェにとって、いつまでも馴れることのできない敵は、喘息のたえまない攻撃だった。
そのころ、喘息には新鮮な果実を多量に|摂《と》ることが有効であるとされていた。とくにリンゴ、ブドウ、ナシといったものがよいとされていたが、かれの財政状態からしても、入手することは不可能だった。
だが、チェが病気がちだったという証言はきわめて少ない。グアテマラ時代のかれは、ジャングルの医師にもなれず、喘息になやまされていたことも疑いないが、イルダとの出会いによって、思想の倉の内容をしだいに深めていったこともまた確かなことであった。そして、イルダを通じて、亡命キューバ人たちを知ったことが、チェをキューバへと導いて行くのである。
そのころキューバ人亡命者のひとりだったダリオ・ロペスは語る。
――わたしがグアテマラで初めてチェに会ったとき、チェは底のぬけた靴をはいていた。そして、かれのシャツ――それはいつも同じものを身につけていたように見えた――は、ズボンから半分ほどはみ出していた。かれは勤めている病院からの帰り道であった。ニコ・ロペスがかれをゆび指していった。「みろよ、あれがアルゼンチン人のチェだ」
そのころのチェは、きわめて苦しい時期を送りつつあったのだ。かれは、着たきり雀で、仲間の顔をみれば、よくこういったものだ。「きみは、ぼくが借りられるズボンかシャツを持っていないかね?」(たいていのズボンはかれにはダブダブだったけれど、チェはなんとか着こなしていたものだった)
このような外形的なことは、チェにとって、およそとるに足らぬ問題だった。メキシコ時代を通じて、かれは一着の茶色の服を着用した。もちろん、ほかの衣類をもつことはもっていたが、ちゃんとしたものはそれ一着だけだった。服をまったく着古してから、
ようやく同じ色のものを買ったことがあっ|た《〈*一九〉》。
服装に対する無頓着さは、少年時代からのものであり、かれは死ぬまで美服をまとうことはなかったが、この時代がもっともひどかったようである。ロペスばかりでなく、多くの人がそれを語っているが、右の話の中でおそらくロペスの記憶違いと思われるのは、勤めていた病院の帰りというくだりだろう。グアテマラでかれが病院に勤めたことは一度もない。これは喘息で病院へ行った帰りの間違いとみてよい。
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さて、チェがロペスらの亡命キューバ人に会った地は、じつのところ、グアテマラが最初ではなかった。
ホアン・ボッシュ――一九六三年にドミニカ共和国の大統領となった人物だが、間もなくクーデターで国外へ追われた――が、このころコスタリカの首都サン・ホセに滞在中だったが、そこでかれは、パナマからグアテマラへ向かいつつあったチェに会ったことがあり、その間の事情をのちに、新聞記者たちに喋っている。
それによると、グアテマラ以前にサン・ホセにおいて、亡命キューバ人グループ、つまりカストロに率いられてモンカダ兵営の襲撃に参加し、逮捕の手をのがれてコスタリカにきていたキューバ人たちに会っている、という。
歴史の奇妙ないたずらとでもいうべきか、サン・ホセには、ボッシュのほかに、ベネズエラ人のロムロ・ベタンクールもいた。そしてチェをまじえてかれらは町のカフェでいっしょに食事をしたり、コーヒーをのんだりした。ベタンクールはこれから四年後に、ベネズエラの大統領になるのだが、チェはベタンクールとはそりが合わず、ボッシュとよく話し合っていた。
ボッシュは読書家であり、かつまた自分でも小説を書いていた。ドミニカの独裁者トルヒーヨ将軍に反対したために祖国を追われていたかれは、政治的には失意のさなかにあったのだが、文筆活動にはかえって拍車がかかっていた時期だった。
前にふれたことがあるように、チェもまた天性の文章家であった。このふたりの話がよくあったというのも、当然といってもいいのである。
一方のベタンクールが、なぜチェとそりが合わなかったのだろうか。趣味が一致しなかったからであろうか。
ベタンクールは、このときよりほぼ九年前に、一度ベネズエラの臨時大統領に就任していたことがある。そのとき米国資本の油田を接収するという思いきった仕事をしているのだ。ベネズエラを追われたのも、CIAの策謀によるものだった。マルキシズムについての理解もあり、本来ならば、ボッシュよりもチェと親しくなれるはずの人物だった。
にもかかわらず、そうならなかったのは、趣味の違いでも教養の差でもなかった。
チェは、ベタンクールの中に、うさん臭いものが内在しているのを、本能的に感じとったにちがいなかった。放浪の旅の間に、かれは本物と偽物とを識別する能力を身につけていた。ベタンクールがいかにラテン・アメリカ革命について熱っぽく喋ったとしても、それが|まやかし《ヽヽヽヽ》であることを、かれは看破していた。
そして歴史がチェの正しさを証明した。ベタンクールはやがて米国と手を握り、それをバックに大統領となるのである。
グアテマラを目指していたチェは、サン・ホセには僅かな期間しか滞在しなかったが、それはちょうど亡命キューバ人たちがその地に流れてきた時期と重なっていた。キューバ人たちは、いずれも一九五三年七月二十六日のモンカダ兵営襲撃に加わるか、なんらかの形でそれに関係したものたちだった。
キューバを人類の歴史に登場させたコロンブスは、一四九二年十月二十八日、長い航海の果てにサンサルバドル島についでこの緑の島を発見したとき、「人間の見たもっとも美しい土地」と呼んだが、キューバはまさしくこの言葉に値する島であった。チェが米国においてはじめてその土を踏んだフロリダから、わずか百六十キロ南に位置しているキューバは、面積約十一万五千平方キロ、日本の本州の半分くらいである。名産の葉巻の形に似た細長い島で、その四分の三は平野といってよく、東部に二千メートル級のシエラ・マエストラ(シエラは山脈の意)があるくらいのものである。今日われわれが|喫《す》っているタバコは、もともとキューバの先住民族であるシボネー族が習慣としていたもので、コロンブスがそれをスペインに持ちかえり、たちまちのうちに全世界にひろがったのだ。
コロンブス以後スペインの植民地だったキューバが、曲りなりにも独立を獲得したのは、一八九八年だった。それ以前にも反乱は何度となく繰り返されたのだが、そのたびにスペイン本国は兵士と多量の弾丸を注ぎこんで、この豊かな植民地を手からはなそうとしなかった。
砂糖、タバコといった産物のほかにも、豊富なニッケル鉱、マンガン鉱の鉱床をもっているのである。
不完全であるにしても独立が達成されたのは、アメリカ合衆国が独立戦争に介入したからであった。ハバナ港に停泊していた米船メイン号がスペインの手で爆破されたことをきっかけに、アメリカは参戦し、四カ月でスペインは敗北した。その結果、アメリカは、プエルトリコ、グアム島、フィリッピンを手に入れた。そしてまたキューバに対する大きな発言力をも握り、プラット修正として知られる一連の条約をキューバに押しつけ、いまなおキューバに存在しているグアンタナモの海軍基地を租借した。
キューバの不幸は、このアメリカの巨大な重圧ばかりではなかった。この国は、何人もの腐敗した大統領をもったが、とりわけ、一九五三年当時の大統領だったフルヘンシオ・バチスタは、かれが倒したマチャド将軍と共に、キューバ史上最悪の大統領だった。
★
キューバがスペインの支配から独立した年に生まれたバチスタは、はじめは軍曹にすぎなかった。かれは一九三三年のマチャドの失脚に乗じて、下士官仲間を集めて権力の奪取に成功し、自分で自分を陸軍大佐兼キューバ軍司令官に任命し、一九四〇年には大統領に就任した。このときまで、キューバでは、共産党は非合法だったが、バチスタはこれを合法化し、その支持によって当選したのである。しかし、つぎの一九四四年の選挙では、バチスタは敗北した。
一九五二年三月の選挙には、三人の候補者が出馬した。オルトドクス党のロベルト・アグラモンテ、真正党のカルロス・エビア、そして軍を背景としたバチスタである。
選挙の結果を待たずに、バチスタは、ハバナから数キロのところにあるコロンビア要塞の軍隊を動員した。クーデターはわずか半日で成功し、バチスタは前大統領カルロス・プリオ・ソカラスを追い払ってキューバ共和国の独裁者となった。
それから数週間後、ハバナの最高裁におそろしく背の高い青年が現われて、バチスタに対する告発状を提出した。
青年の名は、フィデル・カストロ・ルス。二年前にハバナ大学を卒業し、弁護士であったかれは、まず法に基づいて行動を起こしたわけである。かれは一九二六年八月十三日、オリエンテ州のサンチャゴ・デ・クーバの近くにある農園主の子供として生まれた。父親はスペインからの移民で、砂糖と木材で成功した。七人の子供の四番目であった。
カストロは、大学生時代から学生運動のリーダーとしてひろく知られた存在だった。二十二歳のとき、学友のミルタ・ディアス・バラルトと結婚し、長男をもうけたが、ミルタは、カストロがモンカダ事件ののちに刑務所に送られると、離婚手続をとり、息子を連れ去った。そのときカストロは友人のひとりに、「未知の、恐ろしい、新しい苦痛」を体験した、と語っているが、以後、かれは結婚していない。ミルタをそれほど愛していたのかどうかは誰にもわからないが、たぶんそうだろう、とキューバの人びとは信じている。
カストロは、大学二年生のとき、ドミニカの独裁者モリナ・トルヒーヨを打倒する遠征隊に加わった。しかし、このときは、キューバ海軍がこの船を途中でさえぎり、カストロは逮捕を免れるためにフカのうようよしている海へ飛びこんだ。海岸までは五キロあったが、とうとう泳ぎきったという。人なみはずれた巨躯と行動力と精神力をもった男で、警察はつねづねかれを尾行し、暗殺しようとしていた。それに対抗してカストロ自身もたえずピストルを持っていた。射撃の腕は抜群だった。
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四年生のときに、カストロは大学学生連盟の代表として、コロンビアで開かれた全米大会に出席した。かれが到着するとすぐに、民族主義運動のリーダーだったホルヘ・ガイタンが暗殺されるという事件が起こった。コロンビアの民衆は激昂し、街頭デモをくりひろげた。警官隊はむろんこれを弾圧するために発砲する。ラテン・アメリカにあっては、弾圧とは、放水で制圧したり、棍棒でなぐることではなく、弾丸を撃ちこむことであった。
カストロは民衆がわに加わった。権力に対する武器による最初の反抗だった。だが、ピストル対ライフルや装甲車では、はじめから勝負にならなかった。多くの民衆が死に、カストロたちは追い散らされた。
大学を卒業すると、かれはハバナ市内に弁護士事務所を開いた。依頼人はたいてい貧乏で、支配階級の不正に痛めつけられるものばかりだった。じじつ、支配階級の不正は目にあまるものがあった。国有地をタダ同然の値段で払い下げたり、公共事業費をピンハネ――驚くなかれ、時には七〇パーセントも――したり、九歳になる農民の少女を暴行した上院議員が、六年の刑をうけながら刑期を免除されたり……といったことが公然と行なわれていた。
カストロは、それらの事実をつかむたびに、弁舌による攻撃を加えた。かれは天性の雄弁家であるが、弁舌による攻撃では、腐敗した政権はビクともしなかった。カストロにもそれはわかっていた。ただかれは、権力階級の違法性を、まずもって明らかにする手続を踏まなければならぬ、と信じていたし、そんなところにかれのストイックな性格があらわれているのである。
現在のハバナは、アメリカの経済封鎖のために、街自体はひどくさびれた印象をあたえられる。日本のある外交官は、わたしに「生けるゴーストタウンだ」と語っていたが、それは過剰な形容であるにせよ、建物のペンキは|剥落《はくらく》し、車はすべて老朽化し、ホテルの設備なども充分ではない。居室のソファの布カバーは破れ、俗にいうアンコは剥き出しになっている。革命前の華やかであったハバナを知るものは、荒涼たる感じをうけずにはいられないだろう。
それに比べ、革命前のハバナは、たしかに歓楽の都というにふさわしかった。ヒルトンをはじめとする高級ホテルが軒をつらね、ナイトクラブは着飾った観光客にあふれ、カジノでは何百万ドルという金が無造作に|賭《か》けられた。ハバナはまさしく夢の都であり、手に入らぬものはなにひとつとしてなかった。
しかし、確かなことは、その豊かさを手にすることのできるものは、ドルを持った観光客か、土地を所有する上流階級か、政府につながる人間かに限られていることであった。
――失業している六十万人のキューバ人、かれらは暮しのかてを求めて国外へ移住することもなく日々のパンを正直にかせぎたいと願っている。
みすぼらしい小屋に住んでいる五十万人の農業労働者、かれらは一年のうち四カ月間だけはたらき、残りをその子供たちといっしょに貧苦に耐えながら飢えて過し、耕すべき一インチの土地も持たない。その存在には石でできた心の持主でない限り心を動かされる。
四十万の工場労働者と沖仲仕たちは、退職金を横領され、年金はとりあげられ、住んでいる家は荒廃し、給料はボスの手から金貸しへ手渡され、かれらの未来は賃下げと解雇であり、その一生は果てしない労働であり、唯一の安息は墓場にしかない。
十万人の貧農はかれらのものではない土地ではたらきながら生きそして死ぬ。モーゼが約束の地を見たように悲しみをこめてかれらは土地を見つめ、それを手に入れることなく死んで行くのである。かれらは封建時代の農奴のように、一筆の土地を利用するために収穫の一部を納めなければならない。土地を愛することも、良くすることも、美しくすることも、あるいはレモンやオレンジの樹を植えることもできない。なぜなら、いつ警官が地主の手先と共に現われて自分たちを追い払うかわからないからである。
三万人の教師や教授たち、かれらは献身的であり、つぎの世代のよりよい運命のために必要であるのに、ひどい扱いと給与をうけるだけである。
二万人の小さな商売人たち、かれらは重い借金にうちひしがれ、恐慌で没落させられ、収奪と汚職役人の疫病にうんざりさせられている。
一万人の若い専門家たち、医師、技師、法律家、獣医、教育者、歯科医、薬剤師、新聞記者、画家、彫刻家といった人びと、かれらは単位をとって学校を出て、希望にみちあふれて働きたがっているが、すべてのドアは閉ざされ、叫んでも哀願しても聞くものはいないという惨めな行きどまりにいるおのれを見出すのみなのである。
――キューバにおける小農の八五パーセントは、小作料を払い、耕作している土地から追われる絶え間のない脅威の下で生活している。もっともよく耕された土地の半分以上が外国人の所有である。もっとも大きな州のオリエンテでは、
ユナイテッド・フルーツ会社とウエスト・インディアン会|社《〈*二〇〉》の土地が北海岸から南海岸までつらなっている。二十万人の貧農たちは、かれらの飢えた子供たちに食べるものをあたえるために耕作する、たった一メートルの土地さえもないが、
ほぼ三十万カバレリ|ア《〈*二一〉》の耕作地が有力者の手に握られて、耕されぬまま放置されている。
――一部の食料、木材、繊維工業を別とすれば、キューバは原料の生産国にとどまっている。砂糖を輸出してキャンデーを輸入し、皮革を輸出して靴を輸入し、鉄を輸出して鋤を輸入している。すべてのものが一致する意見は、鉄鋼、製紙、化学工業を必要としていること、家畜と穀物、食品工業の技術や加工を改良して、チーズ、コンデンスミルク、酒、食用油などのヨーロッパ人や罐詰工業のアメリカ人たちとの恐ろしい競り合いに対抗すべきこと、商船を必要としていること、観光が大きな収入源となることなどである。しかし、資本家たちが主張しているのは、
労働者どもはクローディア|ス《〈*二二〉》の|軛《くびき》につながれ、国家は手をこまねいて工業化は二月の三十日まで待てばよいという未来永劫実現しない話なのだ。
同じように深刻で、もしくはもっと悪いのは住宅問題である。キューバは二十万の小屋とあばらやがある。四十万世帯が地方と都市を通じて最低の衛生施設さえもないバラックやアパートに詰めこまれて暮している。二百二十万人の都市住民は家賃を払い、収入の五分の一から三分の一を吸いとられている。二百八十万人の農村および郊外住民は電気施設に欠けている。もし国が家賃の引下げを提案すると、地主は住宅建築を中絶するといっておどかし、国が口出ししないと建築は続行されて地主はぼれるだけ家賃をぼるのだ。さらにはまた、かれらはほかのものが風雨にさらされて生活しなければならなくたって、一個のレンガも積もうとはしないだろう。公益事業もおっつかっつである。利益がある限りは電線を敷くが、そうでなければ、人びとが暗がりの中で生涯をすごさなければならないとしても、いっこうに構わない。国家は徒手傍観し、国民は家も電気もないのである。
教育制度も他の国情とまったく同じである。|貧農《グアヒロ》が土地を持たないところに、農業学校が|要《い》るものだろうか。工業のないところで技術工業学校が要るものだろうか。あらゆることが同じバカげた理屈に陥るのだ。これもなければあれもないのである。ヨーロッパのどんな小国でも、二百をこえる技術、工芸学校がある。キューバでは、たったの六校である。そして生徒はその技能を活かすところなしに卒業する。農村の小さな学校には学齢期の子供――裸足で半裸で栄養不良だ――の半分しか出席しない。さらに教師は給料をさいて必要な教材を買わねばならない。こんなやり方が国家を偉大なものにするのだろうか。
死のみが人をこんな貧苦から解放できるのだ。しかも、これ――|早死《はやじに》――については国家が大いに手をかしている。農村の子供の九〇パーセントは地面から裸足を通じて入ってくる寄生虫に冒されている。社交界はひとりの子供の誘拐や殺人を耳にすると同情するくせに、年々数千の子供たちが施設の不足から苦しみ悶えながら死んで行く大量殺人には、犯罪的に無関心である。子供たちの無邪気な眼――すでに死の翳りがさしている――は、人間の利己主義に対して赦しをこい、神に憤りを抑えてくださいと願うかのごとくに、無限のかなたを見つめている。一家の主人が一年に四カ月しかはたらけない場合に、どうして子供に衣類や薬品を買ってやれるだろうか。子供たちは|佝僂《くる》病をもったまま育ち、三十までには健康な歯は一本もなくなる。かれらは一千万回も演説を聞き、そして貧苦や欺瞞のうちに結局は死ぬであろう。公立病院はいつもいっぱいで、一握りの有力な政治家に紹介された患者しか受付けないし、政治家は代償に不幸な人やその家族の投票を要求する。それ故に、キューバは永久に同じ状態が続くか、
あるいはもっと悪くなるばかりだろ|う《〈*二三〉》。
これがキューバの偽りのない|貌《すがた》だったのである。大統領バチスタは、したい放題のことをしていた。ただひとつ、北方の巨人に対する態度を除いては、であるが。
アメリカ政府は完全にバチスタを支持していた。たとえば、キューバ政府が大統領の命令によって電信電話料を値上げすると、合衆国キューバ駐在大使は、バチスタに純金製の電話器を贈った。なぜならキューバ電信公社の資本のうち九〇パーセントがアメリカのものだったから、値上げ分の利益はそっくりアメリカをうるおすことになるからである。
バチスタを支えるもうひとつの柱は、配下の強力な秘密警察だった。なかでも悪名高いのはエステバン・ベンツーラという署長で、皮肉なことにベンツーラ(スペイン語で幸運という意味)は、人びとに不幸を撒きちらした。地下牢は反バチスタの政治犯、ないしは大統領の悪口をちょっと口にしただけの、政治犯ともいえない市民でつねに満員だった。ベンツーラは、アイヒマンそこのけの悪趣味な男で、自分で行なう拷問を映画に撮影し、それを囚人に見せては喜んでいた。あまりにも逮捕しすぎて地下牢がその収容能力を超えると、囚人のあるものは両手を縛られたまま海に投げ棄てられた。
信じ難いことがつぎつぎに起こっていたが、それを伝える新聞はなかった。そのころ、世界じゅうの新聞がもっとも熱心に報道したのは、ようやく停戦した朝鮮戦争であり、さらには、マーガレット王女とタウンゼント大佐のラブ・ロマンスであった。そして、キューバの新聞においてもそれは例外ではなかったのである。
青年弁護士フィデル・カストロにとって、いまやバチスタに対して武器を持って立ち上がることは義務であり、同時にまた権利でさえもあった。バチスタによって踏みにじられている一九四〇年憲法の第四十条には、暴政に対する反乱の権利が保証されていたからである。
さらにキューバ憲法裁判所の下した奇妙で滑稽きわまる判決が、カストロの決起を正当なものとした。裁判所は、前にかれが告発した大統領の違憲行為に対して、バチスタは革命という手段によって大統領になったのであるから、そもそもが憲法に違反した大統領とみなすことはできないという論理で答えていたのである。
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一年の準備ののち、カストロを盟主とする百五十人の若ものが、かれの故郷であるオリエンテ州サンチャゴの郊外にあるモンカダ兵営を襲撃した。一九五三年七月二十六日のことである。
モンカダ兵営には、千人の陸軍部隊が駐屯していた。この攻撃は、キューバ史の上ばかりではなく、ラテン・アメリカ史の上でもふたつの重要な意味をもっていた。ひとつは、いうまでもなく、現在のキューバ革命がこの日から始まったことであり、他のひとつは、革命を企てるものが陸軍を攻撃したという意味においてであった。ラテン・アメリカにおいては、革命は少しも珍しくはなかった。革命の歴史のない国は一国もない。すべての革命に共通するのは、軍に対する攻撃はまず行なわれることはなく、政府に対して鉾先が向けられることだった。ないしは、軍を味方につけてのち、革命は初めて成功するのである。軍を敵にまわす革命を考える革命家はひとりもいなかった。
軍の目的は、外敵に対して国家を防衛することにあるが、ラテン・アメリカにあっては、それはナンセンスに近い。今日、ラテン・アメリカの諸国が、外敵に侵略される危険があると考えるものは、ひとりもいないだろう。それは一九五三年の時点でも、同じことであった。軍は、国家を守るために機能するものではなく、圧制者を国民から守るために存在していた。
カストロは、同志を二手に分けた。主力は百二十人のモンカダ攻撃班で、残りは、モンカダから百キロはなれたバヤモ分哨に向けられた。
モンカダは、ハバナから九百キロ東方に位置している。ハバナから増援部隊がくるとしても、丸一日はかかるだろう。また、攻撃が失敗したとしても、近くにあるシエラ・マエストラに逃げこめば、ゲリラ戦を展開できる。そういう計算のもとで、カストロはモンカダ兵営を攻撃目標に選んだ。
七月二十六日という日が選ばれたのは、この日が、サンチャゴ名物のカーニバルの|中日《なかび》にあたるからだった。二十五日から三日間、サンチャゴ市は年に一度のお祭りで大いに賑わい、それを見物する多くの観光客が訪れてくる。カストロの同志の大半は、ハバナ地区に居住している学生や労働者だった。百五十人もの人間を移動させるのに、カーニバルは絶好のかくれ|蓑《みの》となる。
女性ふたりをまじえた同志は、七月二十五日の夜、拠点にした郊外のシボネーの農家に集まった。
女性のうちのひとりは、カストロの無二の親友であるアベル・サンタマリアの妹アイデ。他はメルバ・エルナンデスである。
百着の軍服と人数分の武器が用意されていた。これに要した資金は、一万八千ペソ(一ペソは一米ドルと同価)で、カストロたちがアルバイトをして|貯《た》めたものである。
結果をいえば、この襲撃は失敗に終った。ついでながら、陸軍は将校三、兵十六の戦死を出したが、これはキューバ陸軍が一九二〇年に創設されてからはじめて出した戦死者だった。
反乱軍のうちのあるものは、その場で戦死したが、カストロ兄弟をはじめ大半は逃れた。しかし、バチスタの追及は烈しい血の匂いを漂わせてかれらに迫った。捕えられたアベル・サンタマリアら十九人は、ふたりの女性を除いて全員がその場で虐殺され、また反乱軍を少しでも助けたものは、男女老人子供の区別なく、弾丸の餌食になり、六年後にキューバが解放されるまで、その犠牲者の数は二万人を超えた。
見るに見かねた大主教ペレス・セランテスが仲に入った。大主教はサンチャゴ軍司令官との間に、降伏すれば血の虐殺はやめるし、正式裁判にかけるという約束をとりつけた。
だが、その約束が実行されるとは、誰もが信じなかったし、事実においても、兵士たちは、カストロを見つけしだい射殺せよ、と命令されていた。
八月一日の朝、モンカダ兵営のパトロール隊長サリア中尉は十七名の兵隊を連れて反乱軍の捜索に出かけた。サリアは黒人で、そのとき五十三歳になっていた。皮膚の色のために、その年になっても、ようやく中尉でしかなかったが、それでも黒人としては出世した部類であった。
かれはソテロという農場の近くでトラックを下り、一時間ほど山道を歩いて、とある小高い丘に達した。
双眼鏡であたり一帯を眺めると、三キロほど離れた山の中腹に、小さな山小屋のあるのが見えた。
サリア中尉は部下に命じて山小屋を包囲させ、数名の部下といっしょに、内部に押し入った。
内部では、カストロと二名の同志が疲れはてて眠っていた。兵隊たちはいきなり発射しようとしたが、サリアはそれをさえぎった。
かれは三人の男の名前を|訊《き》いた。ふたりは正直に名乗り、カストロはラファエル・ゴンザレスと称した。
以下に何が起こったかについて、キューバにあっては、すでに奇跡の伝説が生まれている。サリア中尉は、なおも射殺しようとした部下に対し、「人は殺せても思想は殺せない」といったとも、あるいはゴンザレスと称したカストロに「本当の名前を決していってはいけない」と忠告したともいわれている。むろん、これは虚構の伝説ではなくて事実なのであるが、人びとがそれを話すときの眼の輝きは、さながら民族の誇る叙事詩をうたうときのような感激を想わせるのである。
ともあれ黒人サリアが、キューバ革命史に登場するのは、唯の一回、このときだけである。しかし、天が、といって悪ければ歴史が、チェ・ゲバラをキューバ革命のためにこの世に送ったように、サリアはカストロを生かしておくためにこの場に送られた人物の役目を果たした。
カストロら百二十二人の反乱者が裁判にかけられたのは、九月二十一日だった。バチスタは、なんとかしてカストロをひそかに殺してしまいたかったのだが、カストロの存命がキューバじゅうに知れわたってしまったために、そうもできなかったのである。
裁判は、はじめ公開で、途中から非公開になった。十月十六日、カストロは、自分自身の弁護人として法廷に立った。約五時間、かれは熱弁をふるった。それは文字通りの熱弁であった。獄中にあって、いかなる本も読むことを許されなかったにもかかわらず、かれは古今東西の文献、キューバの統計を引用した。その博識ぶりは、驚嘆の一語につきるものであり、その弁舌の力強さは、二十七歳の青年のものとは信じられぬくらいだった。
かれは、バチスタの悪を告発し、キューバの解放を訴え、最後にこういった。
「わたしを断罪せよ。それは問題ではない、歴史はわたしに無罪を宣告するだろう!」
カストロは禁固十五年の刑をうけ、ピノス島の牢獄に送られた。弟のラウルは十三年の刑であった。
モンカダ襲撃とは別に、バヤモ兵営に対する攻撃も行なわれた。指揮官はニコ・ロペスで総勢二十七人だった。むろん、この攻撃も失敗し、ロペスたちは、グアテマラ大使館に亡命した。かれらは最終的には亡命を認められて、そしてグアテマラにきて、イルダを通じてチェと会うようになったのである。
その当時のことを、グアテマラにいたマリオ・ダルマウは回想する。
――アルゼンチンの友人に伴われて、チェはある日、われわれの下宿に姿を現わした。追放中のすべての外国人は、われわれキューバ人に連絡をとりたがっているようにみえたものだし、チェもそんなわけで会ったのである。その後しばらくして、同志のベガが病気になったとき、われわれは|途方《とほう》にくれた。というのも、知人も金もなかったからだ。
一方、アルベンス大統領の挑戦、つまりグアテマラ内の米国資本が接収されるという思いもかけぬ一撃をうけた北方の巨人アメリカは、じゅうぶんに反撃の準備をととのえてリングに登ってきた。巨人の代表は、国務長官ジョン・フォスター・ダレス。
ダレスは一九五四年三月二十八日ベネズエラの首都カラカスで開かれた米州会議に「国際共産主義活動防止決議案」を提出した。南北アメリカはいかなる国においても、ひとつの国で共産主義政府が成立すれば、それは米州全体の主権と独立を|脅《おびや》かすものとなる、だから適当な対抗措置をとるべきだ、というのだ。
名指しはしていないが、これはアルベンスに対する果し状にひとしかった。ついでにいえば、ダレスは、アルベンスに土地を接収されたユナイテッド・フルーツ会社の大株主であり、顧問でもあった。
ダレスの弟であり、CIAの長官だったアレン・ダレスは、アメリカの駐グアテマラ大使ジョン・ピューリフォリと連絡をとり、カルロス・カスティーリョ・アルマスという陸軍大佐に白羽の矢を立てた。アルマスは、反革命派で、隣国のホンジュラスに亡命していた。
アルマスは、CIAから資金をたっぷりもらい、グアテマラに攻めこむ人間を集めはじめた。
集まったのは、全部で六百人だった。アルマスは国境付近に放送局を設け、グアテマラを国際共産主義の魔手から解放する、と叫び続けた。
六月に入ると、どこからともなく飛行機が飛んできて、グアテマラ国内のいたるところにビラを|撒《ま》きはじめた。そして、アルベンスの方には、空軍というものがなく、この公然たる領空侵犯に対して、なにひとつとして対抗できなかった。
間もなく空襲がはじまった。と同時に、アルマスは、六百人の傭兵に対し、国境を越えて進撃せよ、と命令した。
チェは、かれ自身が回想しているように、グアテマラの青年たちに、銃をとって戦うように説得した。そして、自分自身も、最前線に送ってほしい、とグアテマラ政府に頼みこんだ。
グアテマラ政府は、つまり革命党の幹部たちは、きわめてのんきに構えていた。なるほど侵入軍はCIAによって支援されているかもしれない。だが、その人数はたったの六百人ではないか。
これに対して、政府軍は七千人である。六百人対七千人で、どうして負けることがあろう。勝敗はおのずと明らかではないのか。
じじつ、最初の戦闘では、侵入軍は敗北した。グアテマラ正規軍の兵士たちは、自分たちに対する攻撃には、激しく抵抗した。抵抗しなければ殺されるからである。
アルマスは戦法を変えた。われわれの敵はグアテマラ軍ではなく、アルベンスやその一派である、と放送した。
アルベンス治下のグアテマラにおいては、政府(党)は政府、軍は軍であった。両者の間には、なんら有機的なつながりはなかった。アルベンスは、労組や、土地を分配してもらった農民からは支持されてはいたが、それは軍隊から支持されることを意味しなかった。
チェはこの事態を見てとると、市民たちに武器をとらねば駄目だ、と説いてまわった。少年の日々から眼のあたりに見てきたラテン・アメリカの現実に対する苦い想いが、かれの内部に|甦《よみがえ》ってきた。一発も撃たずに革命ができると信じているのか、と友人たちをたしなめた話がここでも想い出される。チェにとって、革命は童話でもおとぎ|咄《ばなし》でもなかった。それはまさしく勝利か死かの戦いであったのだ。
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チェが現実をありのままに理解していたように、北方の巨人もまた弾丸こそが唯一の武器であることを承知していた。アルベンスは弾丸によらずに政権を獲得し、ユナイテッド・フルーツの土地を接収したが、CIAはそれを取り戻すには、武器しかないことを心得ていたわけである。
アルマスは、軍隊との衝突をさけながらグアテマラ市を目指して進撃し、武器を持たぬ市民に機上から銃爆撃を加えた。侵入は六月十八日にはじまり、一週間でカタがついた。アルベンスはメキシコ大使館に亡命し、アルマスが大統領になった。
アルマスは約束どおり、ユナイテッド・フルーツ会社に土地をかえし、おわびの印として新しい利権もあたえた。
ユナイテッド・フルーツは、一八九九年に発足し、中米五カ国やキューバ、ジャマイカ、南米コロンビアを足場にしたバナナ帝国である。中米全体のバナナ総生産高の五割は同社の農園から出荷されているし、したがって価格決定には独占的な力をもっている。六十万エーカーの耕地、のべ三千キロの鉄道、数えきれぬ頭数の家畜、電信電話、さらに数十隻の輸送船を所有し、その背後には、北方の巨人の国務長官がひかえていた。わずか七千人の軍隊、飛行機も戦車も持たぬ軍隊では、はじめから敵し得ぬことは誰の目にも明らかなことだったかもしれない。
アルマスは、ユナイテッド・フルーツや国内の大農園主たちと結びつき、大統領の地位、つまりはそれなりの利権を得た。といっても、それから三年ののち、かれは右翼の暗殺によって死ぬのであるが。
それはそれとして、アルマスは血の粛清をはじめた。チェは外国人であったが、武器をとれと人びとに説いた事実から、アカ狩りの目標になった。処刑される予定の者のリストに、エルネスト・ゲバラの名前が入っていたのである。
アルゼンチン大使館は、チェに対して、大使館に避難するようにすすめた。
ゲバラ家の一門には、アルゼンチン海軍の将官や外交官がいたが、おそらく、チェの父親が、この放浪の息子を|気遣《きづか》って、手を回していたものと思われる。大使は、いやがるチェに、無駄死にをしたって誰も喜ばない、と叱り、かれをベガやマリオ・ダルマウやほかの仲間といっしょに保護した。そこでチェは、「わたしはハコボ・アルベンス政権の崩壊を見た」という文章を書き、アルゼンチンの雑誌に送った。それを読んだマリオは、
「わたしはかれのジャーナリスティックな文体に感心した。この論文は、グアテマラにおける帝国主義の実体や、それに対するラテン・アメリカ人の闘争に加わりたいというチェの望みを、
真に誇示するものだっ|た《〈*二六〉》」
といっている。
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アルゼンチン大使館内では、チェは、共産主義グループの分類リストに入れられた。グアテマラ革命党への入党勧告を退けたかれが、このリストに入れられたのも皮肉といえばいえよう。また、かれは、生命の危険さえも冒して守ろうとしたアルベンスには会ったこともなかった。かれがアルベンスに会うのは、キューバ革命が成就したのちの一九五九年なのである。
恋びとのイルダ・ガデアは、このころ、党員であったが、チェは、諸種の資料から判断して、イルダほどには共産主義理論を身につけていなかったし、むろん、党にも入っていなかった。チェの行動の基準は、収奪されている民衆を収奪者から守ることであった。硬直したマルクス・レーニン主義的な思想とは、違ったものであった。
この点について、ニューヨーク・タイムズの記者ハーバート・マシューズはこういっている。
――チェ・ゲバラは、グアテマラにおいて共産主義者ではなかった。のちにアルベンス体制の崩壊後のがれたメキシコにおいてさえもそうだった。じじつ、カストロに率いられたキューバの全首脳部がマルクス=レーニン主義へ移行するまで、かれはいかなる共産党にも加入したことはなかった。アメリカのCIAは、チェの共産主義の証拠を見つけようとして、いうまでもなく、最善をつくした。そして、あの恨みかさなる一九五九年と六〇年にそれは熱心に活字化された。しかし、そんな
証拠はまったく発見されなかっ|た《〈*二七〉》。
その傾向はいまでも消えていないが、敵対するものはすべて“アカ”だとする発想は、一九五〇年代において、もっとも濃厚であったことは、マッカーシー旋風を例にひくまでもなく、是認されるだろう。だから、CIAがアルマスに手をかしてアルベンス政権を倒したのも、アルベンスが社会主義者だったからではなく、ユナイテッド・フルーツなどの土地を没収したからだ、といってもいいすぎではない。かりにアルベンスが土地の国有化政策を強力に推し進めなければ、CIAはこれほど露骨な干渉はしなかっただろう。
|忌憚《きたん》なくいえば、当時の、そして現在でも同じようなものであるが、ラテン・アメリカにおける共産主義および主義者は、教条主義に陥っていた。それは、ボリビアでチェがゲリラ戦を展開したときのボリビア共産党や書記長マリオ・モンヘの態度をみれば明白に裏付けられる。
ラテン・アメリカの共産党の幹部のなかには、収奪されている民衆のために戦っているものは、むしろ少なく、権力が欲しいために共産主義者になっている人間の方が多いかもしれない。いいかえれば、時の権力者と対立しているために生命の危険を感じ、そして保身のために組織で守ってくれる共産党に投じているにすぎず、本質的には権力が欲しいだけのものが少なくないのだ。
グアテマラからメキシコ時代を通じて、チェが共産主義の
文献をかなり読んでいたこ|と《〈*二八〉》は確かであるとしても、事実においてこの時代のチェを、共産主義者ときめつけることは、あまりにも通りいっぺんにすぎるだろう。チェが自分の内がわに育てた思想については、のちにくわしく触れるが、かれがコミュニストであったとしても、いかなる型のコミュニストとも違ったコミュニストであったことだけは、ここで明記しておきたい。
さて、アルゼンチン大使館は、アルマスに了解をとりつけて、チェたちを国外へ出すことになった。
ブエノスアイレスから、そのための飛行機が到着し、母親から衣類や金が届けられた。これに先立って、イルダはグアテマラ当局に逮捕されていた。彼女は獄中でハンストを行ない、釈放させることに成功し、メキシコへ亡命することを許された。ラテン・アメリカでは女性はきわめて大事にされるが、彼女はそれを最大限に利用した。
もっとも、アルマスの方でも、外国人政治犯に対しては、チャッカリした|罠《わな》を用意していた。メキシコとグアテマラとの国境を流れるサチアテ川に部下を配置し、小さな牢獄も置いた。その連中はいわばギャングのようなもので、政治犯から金をとっては、川を渡らせていた。
チェは、故国アルゼンチンヘの道を選ばずに、イルダのあとを追ってメキシコヘ行くことを決心した。
かれはメキシコ領事館に査証を申請し、二日後にそれが交付されると、汽車で出発した。その列車の中で、チェは、エル・パトホと呼ばれる小男と知り合いになった。パトホとは、チビの意味で、本名はフリオ・ロベルト・カセレスという。のちにパトホは、グアテマラの民族解放運動に加わり、死ぬ。
こうして一九五四年の夏、チェはついにメキシコ市に到着した。かれはエル・パトホといっしょにナポリ街四十番地のアパートに小さな部屋を借り、街頭写真屋となって街を流して歩き、恋びとイルダと共に暮しはじめた。
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一九五〇年代のメキシコは、政治的な亡命者の天国といわれていた。メキシコという国家自体がロシア革命に先立つこと七年前の一九一〇年に社会革命をなしとげた歴史を有していたし、一九三六年にスペイン戦争が起こったさいは、人民戦線を支持し、ファッシズムに反対していた。フランコ派の勝利以後は、多くの亡命者を受け入れていたのである。チェがグアテマラ人のエル・パトホとたどり着いたころの大統領はルイス・コルティネス。ラテン・アメリカでは、もっとも民族主義的な雰囲気の濃い国だった。
エル・パトホとの共同生活について、パトホがのちにグアテマラでの解放闘争で死んだとき、チェは当時の想い出を哀惜にみちた文章でつぎのように|綴《つづ》っている。
――わたしたちが初めて出会ったのは、アルベンスの崩壊した二カ月後、グアテマラから退散する汽車の中でだった。エル・パトホはわたしよりも数歳年下だったが、わたしたちはすぐに友情の|絆《きずな》で結ばれた。
エル・パトホは一文なしだった。わたしはわずかばかりのペソを持っていた。わたしはカメラを買い、いっしょに
“非合法な仕|事《〈*二九〉》”をはじめた。その仕事というのは、市内の公園で、人びとの写真をとることだった。わたしたちには、メキシコ人のパートナーがいて、かれは小さな暗室をもっていた。そこでフィルムの現像をしたのだ。撮影したできの悪い写真を届けるために、わたしたちは、市内を|隅《すみ》から隅まで歩き、そのためにメキシコ市をくまなく知るようになった。
わたしたちは、あらゆる種類のお客と戦わねばならなかった。その戦いとは、つまり、写真にうつっている坊やがどんなに可愛いか、そのような素晴らしいものがたったの一ペソで手に入るのだということを、お客に納得させるための戦いのことだ。こんなようなことで、わたしたちは何カ月かを食いつないだ。
このエル・パトホは、カストロがメキシコでキューバ遠征軍を組織したとき、いっしょに加わりたいと申し出るが、カストロは外国人を連れて行くことは望まない、といってことわった。
やがてキューバ革命が成立すると、パトホは身のまわりの品を売り払ってハバナに現われる。そして、キューバの政府機関の一つであるINRAで働くが、チェの言葉を借りれば、「パトホは必ずしもその仕事に|就《つ》いていて幸福ではなかった。かれはなにか違ったものを求めていた。かれは自分の国の解放を求めていたのだ。革命がかれを深く変えてしまったのである。あたかも、わたしたちの|全《すべ》てにとってそうであったように」
かくてパトホはキューバを去ってグアテマラに帰るわけだが、キューバ滞在中は、チェと同じ家で暮した。メキシコでの友情が、決して通りいっぺんのものではなかったことが、これでも理解できるのである。チェは、軍事的な訓練をうけたことのないパトホに、自分のゲリラ戦争の体験から割り出した忠告をあたえるが、その死を聞いてこう書く。
――革命というこの困難な仕事にあって、死はしばしば起こりうる出来事である。しかし、友人の死、苦難の時を共にし、よき時代のくる夢を|頒《わか》ちあった友人の死は、その報を聞くものにとっては、つねに苦痛であり、そしてかれは
偉大な友であったの|だ《〈*三〇〉》。
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時代遅れのボロカメラを使って街頭写真屋をしていたころのチェに、ひとつのエピソードが残っている。自分でも書いているように、わずか一ペソ(邦貨で約三十円)の写真代を払わせるために、かれは公園に集まってくる旅行者や子供連れの観光客をなんとかお客にしようとして勧誘するのだったが、あるとき、アメリカ人の旅行者がチェに、うるさい、あっちへ行け、とどなった。するとチェは、その男に向き直って、あんたはいまは笑っていられるが、ぼくらの時代がすぐにくるさ、
とやりかえしたとい|う《〈*三一〉》。
このようにどん底時代にあっても、チェは将来について、断固とした確信をもっていた。だが、メキシコの現実は、希望や夢とにかかわりなく、きびしいものだった。お世辞を使うことのできないチェに、街頭写真屋の仕事は不適でさえあったろう。
故国アルゼンチンへ連絡すれば、家族から金を送ってもらえたろうし、帰国することも自由だったが、チェは、いったん踏み出した道を決して引き返そうとはしなかった。ブエノスアイレスでの評判のいい医者であるよりも、革命家への苦難の道を選び、あるいは、アルゼンチンでもゆび折りの財産相続人である美しい婚約者よりも、思想を共にしうるイルダ・ガデアとの生活を選んだ。かれは、物質的な安逸さというものを、その生涯を通じて徹底的に軽蔑していた。
それは、言うは|易《やす》く、実行の困難なことである。ことに、ラテン・アメリカにあってはそうなのだ。かれらはわたしたち日本人に比べて、もともと|愉《たの》しむことを知る人種なのだ。たとえば、ボロは着てても心は錦、などという言葉は、かれらには、決して理解されることはないであろう。錦をまとえるようになるのが理想であり、かりに錦をまとえるにもかかわらずボロを着るとすれば、それは常軌を逸したバカげた行為なのである。かれらは、日本人のようにメンタルなものを評価することのない、きわめて現世的な気質をもっているのだ、といっても、当節の日本人も、現世的な欲望に対してさほど淡泊ではなくなりつつあるようだが。
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チェはその点で、ラテン・アメリカ人には珍しい型の男だった。キューバの工業相時代に秘書だったメルセデス・エンリケ・ロカ女史は、かれのそういう面をしのびながらこう語る。
「チェは非常に質素な人で、自分の事務所にも決して華美なものは使いませんでした。すべて質素なことが好きで、またよく働きました。
仕事の関係上、毎晩一時とか二時とか、ときには三時、四時になるときもあるけれど、朝の出勤時間はきちんと守っていました。八時にはきちんと出ていて、それに遅れたことは一度もありませんでした。外国人の訪問客も多かったけれど、外務省かまたはICAP(国営旅行社)を通じてくれば、全部うけつけていました。しかし、そのために自分の仕事の時間を犠牲にすることはしませんでした。自分も仕事をよくしたが、部下にも強要しました。またかれは非常に倹約家で、事務所でも、いろいろなものが無駄に使われないように気をつけていました。
かれが好きだったのは、マテ茶とタバコです。事務所にコーヒーを|淹《い》れる装置があってお客さんにはよく出していましたが、自分はマテ茶ばかり飲んでいました。タバコとマテ茶をかれから除くことはできませんでした」
やはりチェの下で弘報局にいたゴンサロ・アルブエルネ氏は語る。
「かれが工業相をしているころ、いろいろな国の使節がきて、プレゼントを持参したが、チェはみんなに頒けていた。わたしもチェから貰ったことがある。注目すべきことは、かれは自分の家には絶対に持って帰らなかったことだ。自分にも子供がいるにもかかわらず子供に対するおみやげさえも、みんな部下に頒ちあたえていた。
かれはじつに勤勉で、毎晩三時ごろまで、たいてい事務所で働いていた。幾晩も幾晩もチェの部屋の灯が消えなかったものだ。
かれは食べものについては、じつに質素だった。美食家ではなかった。パンをよくたべるが、副食については何もいわなかった。配給ものだけで満足していた。
このようなことは、キューバでは誰もが知っていることだ。たとえいまのキューバ革命に反対する反革命分子でさえも、チェが革命に本当に献身的だった事実を否認することはできないでしょう。かれは、革命をやりとげるにさいして、困苦している人びとと同じ状況に身を置いて働いたのです」
右の証言をした人たちは、チェの身近にあって働いた人たちだった。死んだかれに対する、あるいはキューバ革命の英雄に対するお世辞という見方もなくはないであろう。しかし、わたしにこの話を語っているときのかれらの眼には、チェに対する思慕の情がにじみ出ていた。決して、あたりさわりのないことを口に出しておこうという態度ではなかった。チェがいかに自己の欲望を殺すタイプの人間であったかを、わたしに理解させようとしていた。
そうでなければ、のちにキューバ工業相の地位を|敝履《へいり》のごとくすてて、困難なゲリラ戦士の隊列に戻るような道は、選べなかったであろう。これがかれの、すぐれた性格であり、エルネスト・チェ・ゲバラをラテン・アメリカの他の革命家と根本的に分つ特異さなのである。
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さて、エル・パトホとの共同生活を続けてゆくうちに、一九五四年は暮れ、チェはメキシコ市ナポリ街の小さなアパートで新しい年を迎えた。
この一九五五年という年は、チェ個人の歴史において、その方向を決定づけたきわめて重要な年となった。
エル・パトホはかつてメキシコ大学に留学した経歴をもっているだけに、メキシコ人にも友人が多く、その友人たちを通じて、メキシコ市内にたむろしている亡命者たちの集まるところも知っていた。そして街頭写真屋としてはいっこうに成功しないチェは、その仕事をパトホと仲間のメキシコ人に任せ、図書販売のセールスマンになった。イルダとは、五月に正式に結婚した。
図書のセールスマンの利点は、本を読めることであった。かれは、スペイン戦争関係の本や文学書、マルキシズム関係の本をつぎつぎに読み、イルダの言葉にしたがえば、自分の胸に描いていたことをしだいに明確にしていったのである。グアテマラでイルダに出会ったころのチェは、ジャングルの中で革命的な医師になろうとしていたのだが、それはアルベンスの崩壊とともに挫折した。しかしチェは、この挫折から「人が革命的な医師であるためには、もしくは最終的に革命家であるためには、まずはじめに革命が存在しなければならぬ――という基本的なことを、
そのときわたしは悟ったの|だ《〈*三二〉》」という、かれの方向を決定づける教訓を学んでいた。
革命が存在しなければならぬ、といっても、革命は革命の方からひとりでに歩み寄ってくるものではなかった。革命を存在させるためには、革命を企て、それをなしとげなければならなかった。|拱手《きようしゆ》傍観しているところに革命はあり得なかった。
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ラテン・アメリカ十数カ国をざっと見渡してみて、どれをとっても、革命を必要としそうな国ばかりだった。程度の差こそあれ、それは一括して低開発地帯と呼ばれるにふさわしかった。ひとにぎりの地主が農地の大半を支配し、農民はほそぼそと暮していた。政府の高官、軍部の実力者、資本家、大地主たちの生活は|豪奢《ごうしや》をきわめているが、中間的な階層というものはほとんど存在しないのが、各国に共通する事情だった。小規模であるにしろ、革命の|狼火《のろし》は、いたるところで上がっていた。
とりわけ、チェにとって身近に存在した狼火は、キューバのそれであった。グアテマラ時代に知り合っていたキューバ人亡命者たちの何人かは、チェと前後してやはりメキシコに逃れてきていた。そしてキューバ人たちは、メキシコで一つの目標を|樹《た》てていた。
これらのキューバ人の中に、ニコ・ロペスという男がいた。
ニコ・ロペスは、フィデル・カストロが二年前にやってのけたモンカダ兵営襲撃のさい、別働隊としてバヤモ分哨を攻撃した隊員二十七人の指揮官である。そして攻撃の失敗後はグアテマラに亡命し、チェと知り合いになっていた。ニコとチェは、メキシコ市で再会した。キューバ人たちは、インペリアルという、名前だけは豪華な安下宿にまとまって暮していた。かれらの目的は、フィデル・カストロを盟主として、キューバの暴君フルヘンシオ・バチスタを打倒することであった。
当のカストロは、弟のラウルとともに、まだピノス島の政治犯監獄にあった。カストロは懲役十五年、ラウルは十三年の刑を宣告されていた。
カストロは、まさに疲れを知らぬ男だった。かれは牢獄にあっても、囚人たちを集めてみずからが教師になり、歴史や時事問題に関して講義した。この「学校」に、かれは、モンカダで死んだ同志の名をとり、アベル・サンタマリア・アカデミーと命名した。ときには講義の内容がラディカルにすぎて、カストロは仲間からひきはなされ、独房に投げこまれた。
バチスタの方は、この状態にかなり満足していた。キューバ国内でかれに反抗するものは、もはやひとりもいなかった。カストロ兄弟を、この地上から肉体的に|抹殺《まつさつ》してしまうことには失敗したが、監獄内でいかに|吠《ほ》えようとも、それが外部にもれることはなかった。
メキシコなどに逃れている亡命者たちがいかなる計画を企てようとも、空軍も大砲も備えている二万の正規軍に守られていれば、まったく安心だった。
バチスタは、それまで行なっていた言論統制を一部だけゆるめた。モンカダ兵営の襲撃については、ほとんど報道されたことがなかったが、キューバの新聞や雑誌は、遅ればせながらこのニュースを伝えることができるようになった。
といっても、それはあくまでもバチスタ体制に有利な面に限られ、バチスタの軍隊が行なった市民に対する拷問や虐殺については、一行も報道されなかった。キューバの新聞の経営者たちは、毎月、大統領官邸から金入りの封筒を受けとっていた。
一九五五年二月、バチスタは再び大統領に選ばれた。これは国民の投票によるものではあったが、集計してみると、投票総数よりもバチスタの名前を書いた票数の方が多かった。つまり各県の選挙管理者が、バチスタのために水増しの報告をしていたわけである。
バチスタの大統領再任を祝して、政治犯の特赦を認める法案が議会で可決された。五月十三日のことであった。
バチスタは、あまり乗り気ではなかった。だが、かれは自分の体制に確信をもっていたし、このさい人気とりのためには、その程度のことは認めてもさしつかえない、と考えてこの法案にサインした。
それは、結果的にはみずからの墓穴を掘るにひとしい行為になるのだが、バチスタばかりではなく、そんなことを予測したものはひとりもいなかった。客観的にみても、この時点においてバチスタ体制が|揺《ゆら》ぐような材料はなにひとつとしてなかったのである。
五月十五日、フィデル・カストロ、弟ラウル、その他の同志たちは、ピノス島の牢獄から釈放された。
このときの様子がニュース映画として残っているが、それを見ると、釈放者を迎える人の数はかなりのものである。カストロは、牢獄の門を出ると、大きく手を振り、出迎えた人を抱擁している。現在ではかれとは切り離せない例の|顎《あご》ヒゲも、その当時はもちろん生やしていない。だが、迎えたもののなかには、カストロの妻ミルタや息子のフィデリトの姿はなかった。
肉親では、妹のリディアの姿があるだけだった。当時のキューバにあって、バチスタ体制に反抗して革命を企てるということが、肉親からさえも、どのような眼で見られたかを、それは物語っている。
翌日、カストロたちは、ハバナ市へ向けて出発した。カストロは、そしてその仲間は、バチスタに対する戦いを止めるつもりはなかった。正確には、自由を求める戦い、というべきだろう。かれらは、それを全キューバ的なものとするために「運動」として盛り立てねばならなかった。この運動をどう命名するかの議論が、ハバナへ向かう船上ではじまった。案は二つあった。「モンカダ運動」とするか「七月二十六日運動」とするかであった。カストロは、最終的には武装闘争しか自由を獲得する道はないことを悟っていたが、いたずらに内戦を求めているわけではないことを人びとに感得してもらうために、血の記憶と結びつく「モンカダ」よりも「七月二十六日」の方が好ましいという考え方だった。このネイミングにかれの政治感覚の卓抜さがうかがわれるが、最後は票決となり、「七月二十六日運動」が選ばれた。
かれらがハバナに到着すると、ラジオ局や新聞社は、カストロを追いまわした。カストロとしても、自分の主張をキューバ国民に理解してもらうためには、これは絶好の機会であった。
ところが、どういうわけか、カストロの声も談話も報道されなかった。通信大臣のラモン・バスコンセロスがバチスタの命令をうけて、報道機関に手を回したのである。
カストロにとっても、釈放されたからといって、安心するわけにはいかなかった。それどころか、キューバに留まっている限りは、生命の危険をたえず感じなければならなかった。暗殺の銃弾がいつ飛んでくるかわからない上に、反バチスタの運動を具体的に進めることも不可能だった。
カストロは、亡命が最良の道であることを悟った。むろん、目的のある亡命である。メキシコには、ニコ・ロペスらモンカダ襲撃の同志がいるのだ。かれらと再び合流し、さらには新しい同志をつのって、キューバを解放すること、これがカストロの最終的な目的だった。
★
じっさい、かれの祖国キューバは、あらゆる面で改革を必要としていた。
一九五三年の国勢調査によれば、人口の五七パーセントが都市に住んでいたが、屋内に便所をもっているものは、その四〇パーセント、水道のあるものは五〇パーセントにすぎなかった。
地方にいたっては、お話にならない状態だった。七五パーセントは、帝王|椰子《やし》でつくったボイオ(木小屋)に住み、あとはそれさえもない砂糖労働者だった。
病気と栄養失調は、グアヒロと呼ばれる貧農にあっては、あたりまえのことだった。家畜が病気にかかれば、農園主は注射をしたが、農民は病気になっても、注射をうけられなかった。
農民の家庭で、タマゴを食べられるものは二パーセント、パンを食べられるものは三パーセントだった。
教育もまたひどいものだった。都市では三〇パーセント、地方では六〇パーセントの児童が未就学だった。就学した児童でさえも、小学校六年の課程を最後まで終えるものは、七割にみたぬありさまだった。
外国資本、とりわけ合衆国資本の支配もまた徹底的だった。一九五三年度の合衆国商務省の報告によれば、電気工業の九割、鉄道の五割、粗糖工業の四割が米国資本の支配下にあり、アメリカ銀行のキューバ支店は、全銀行預金の四分の一の比率を占めていた。もとキューバ駐在のアメリカ大使アール・E・T・スミスは、アメリカ大使はキューバにおける第二の要人だったし、ときには大統領よりも重要でさえあった、と革命後の一九六〇年に、上院で証言したほどだった。
★
亡命し、陣容をたてなおすことを決意したカストロは、まず弟のラウルをメキシコへ送った。
ラウルは五月下旬にメキシコに到着し、ニコ・ロペスらと再会した。
兄フィデルより六歳年下のラウルは、当時二十三歳だった。大男の兄に比べると、かれは小男だった。身長は百七十センチ足らず、見かけは女性のように優しかった。
ロペスはラウルに、
「アルゼンチンのチェを紹介しよう」
といった。
「チェ」とは何者か、と問いかえすラウルに、ロペスは、本名はエルネスト・ゲバラという医師だ、と説明した。
「チェ」の由来について、一般に信じられているのは、かれがメキシコ時代、キューバ人たちを呼びかけるのに、この言葉を使ったからだとされている。
「チェ」che は、イタリア語からきたアルゼンチン独特の方言で、くだけた会話のさい「ねえ、きみ」といったふうな意味で使われる。キューバ人たちは、かれがしばしば「チェ」を連発するので、ついには「チェ」をかれのニックネームとし、最後にはかれ自身が、それを自分の名前の中に入れた――というのである。しかし、
「かれはチェ・ゲバラといわれながらも、自分では人に呼びかけるときは、チェとは絶対にいわなかった。スペイン語の alla をアルゼンチンではアジャと濁って発音するが、チェは、正確なスペイン語でアリャと発音した。アルゼンチンなまりではなく、つねに正しいスペイン語で話していた」(ゴンサロ・アルブエルネ氏の証言)
ラウルは、グアテマラ時代からこのアルゼンチン人をよく知っているロペスの話を聞いて、そのアルゼンチンの医師に興味をもった。じじつ、チェはそのころ、本のセールスマンをやめて、メキシコ市の公立心臓病院のアレルギー病棟に助手として働いていた。これは食事つきの勤務だった。
★
チェの病院勤務は、翌年、遠征軍がメキシコからキューバへ向かう前に終っているが、この時代の医師としてのかれについて、その性格を示すエピソードがある。
チェは最初の妻イルダ・ガデアとの間に、一九五六年二月十五日長女イルディタをもうけるが、そのため、アパートの家賃を値あげされてしまった。
チェは経費のかさむ分をなんとかして|捻出《ねんしゆつ》しなければならなかった。そのため、つてを求めて個人的な診療をすることにした。つまり、アルバイトであり、医学界ではどこでも行なわれていることだった。
このアルバイトは月に二十ドルになる予定だった。そのころのチェにとって、二十ドルは大金だった。
かれが最初のアルバイトに行ったのは、日ざしの美しい午後だった。途中まで、キューバ人の同志であるモンタネ(現・逓信相)と妻のメルバとがいっしょだった。
三人が、市のほぼ中央にある、ラテン・アメリカをスペインから解放した英雄シモン・ボリーバルの銅像の前にきたとき、チェは不意に足をとめた。
なにごとかとメルバが見ると、チェの顔は内心の苦悩のために|歪《ゆが》んでいた。どうかしたのか、とメルバが|訊《き》くと、
「医師は白い上衣を着て白い靴をはいて、病人から金をしぼりとっている。だが、そういうことをすべきではないんだ。ぼくは、いくら家庭的な事情で金がほしいからといって、この日ごろの持論を破るわけにはいかない。こんなアルバイトはよすよ」
とチェはきっぱりいった。そして、メルバは、このときのチェの表情と美しい午後の日ざしと、着ていたボロボロの上衣をよく憶えている、と感動的な口調でわたしに一部始終を語った。
こういうチェに、キューバ人たちが|惹《ひ》かれないはずはなかった。ラウルはすぐさまチェと|肝胆《かんたん》相照らす仲になり、七月にハバナからやってきたフィデルにチェを紹介するのである。フィデルは七月七日に、数人の同志と共にハバナを出発しているが、そのときかれは有力週刊誌「ボヘミア」に手紙を送り、
「われわれは還るだろう。そのときは、わが国民に圧制や飢えなしに生活できる自由と権利をもたらすことができるだろう」
と宣言していた。
チェとカストロとが初めて会ったのは、メキシコ市アンパラン街四十九番地にあるマリア・アントニアの家でだった。マリアはメキシコ人と結婚したキューバ女性で、カストロらの運動に理解をもち、食事にも|事《こと》欠いているキューバ人亡命者たちを援助していた。その家はキューバ人たちの革命サロンのようになっていたわけである。
このとき、チェは二十七歳になって間もなくであり、カストロはあとわずかで二十九歳になろうとしていた。
奇妙なことに、ふたりの出会いがいつであったか、正確な日時は記録に残っていない。カストロは、チェが死んだときの|追悼《ついとう》演説(一九六七年十月十八日、ハバナ革命広場にて)の中で、
――わたしが初めてチェに会ったのは、一九五五年七月か八月のある日だった。そして一夜のうちに、かれがその著作のなかで回想しているように、かれは、未来のグランマ号の遠征隊の一員になった。といっても、そのとき遠征隊は船も武器も軍隊も持っていなかったのであるが。そういうわけで、チェはラウルといっしょに、グランマ号乗員リストの最初のふたりのうちのひとりになったのだ。
と語っている。
一方のチェの方も、盟友カストロとの出会いがいつであったかは、その著作のどこにも書き記していない。
重要なことは、出会った日時ではなく、ふたりの青年の出会いそのものであるだろう。生まれた国も育った環境も異なる、共通していることといえば、共に祖国を出て異郷にある亡命者というだけのことしかないふたりの青年の出会いが、キューバという国家の歴史を変えたということが重要なのであった。歴史を語るにあたっては、「もしも」という仮定はさして意味をもたないが、このふたりの青年のうちのどちらかの軌道がなにかのきっかけで別の方向に向いていたとしたら、結果からみてキューバの歴史もいまとは違ったものになっていたかもしれない。そういう意味で、ふたりの出会いは、まさしく運命そのものであった。
カストロはなおも語る。
――チェのような男はこうるさい議論を要求しなかった。かれにとっては、グアテマラと同じような状況に対して武器を手に戦うことを決意した男たちがいるのだとわかれば、それで満足であった。これらの男たちが純粋に革命的な愛国的な理想によって動かされているとわかればことたりた。それでじゅうぶんだったのである。
★
カストロがその演説の中でふれているチェの著作というのは、『革命戦争の道程』である。(筆者註・ただしこの本のスペイン語版は、いきなり上陸の場面からはじまっているが、別の機会にかれが執筆した「革命の開始」という独立した文章と一対をなして、両者を合わしてはじめて完全なものになる。以下の引用は、その「革命の開始」よりなされる)
――わたしは、メキシコでのある寒い夜にかれ(カストロ)と出会った。そして、わたしたちの最初の議論が国際政治に関するものだったことを憶えている。その夜の数時間後、明け方だが、わたしは未来の遠征隊の一員になっていた。しかし、わたしは、メキシコでキューバの現首相と、いかにして、また何故出会ったかを明らかにしようとおもう。(中略)
わたしは、悲しみにみちた地(筆者註・グアテマラのこと)の未来を再建する方法を望み求めながら、敗れ、同じ苦痛で結ばれ、その地を去ったのだ。そしてフィデルは、その大事業のために中立地帯を求めてメキシコへやってきた。(中略)
フィデル・カストロは、ごく少数の同志に助けられて、キューバ遠征軍の組織づくりにすべての能力と情熱を集中していた。時間がなかったので、同志全員が戦術の授業をうけることはほとんどできなかった。残りのものは、アルベルト・バヨ将軍から大いに学ぶことができた。最初の何回かの授業をうけてみて、わたしは、勝利の可能性についてかなりの確信を得たが、反乱軍司令官(筆者註・カストロのこと)と結びついたときにはまったく懐疑的だった。わたしは、冒険に対するロマンティックな共感と、かくも純粋な理想のためならば外国の海浜で死と遭遇しようとも惜しくはないという思想のきずなによって、堅く結ばれたのである。
右のように、チェの回想は、つねにそうであるが、きわめて率直である。
カストロの遠征計画は、たしかに夢みたいなものだった。どれほどの人間と武器とを集めたとしても、二万人のバチスタ軍に勝つ見込みはありそうになかった。
回想録でも明らかなように、チェ自身、カストロから計画を聞いたときは勝てるなどとは思わなかった。どう考えても誰がみても、無謀な計画でしかなかった。まして、チェはキューバ人ではなかった。カストロの企てに参加しなければならぬ理由はまったくないのだ。
冒険に対するロマンティックな共感、というかれの言葉を、そのまま額面どおりにうけとるべきだろう。サルトルはキューバを訪れたのちのルポルタージュ「砂糖の上を吹く風」の中で、チェのもっているロマンティシズムに感動したと書いているが、チェの生涯を考えてみるとき、誰もがサルトルと同じ想いにひたされるにちがいない。
むろん、チェの行動は、冒険心から発したものが全てではなかった。ひとつには、ラテン・アメリカ全土を支配している専制主義に対する敵意がチェを行動へと駆り立て、さらには、フィデル・カストロの掲げる理想の旗への共感がそうさせたのだ、とみるべきであろう。そしてチェとカストロとは、この夜を境に、熱い連帯の絆によって、死がふたりを頒つまで結ばれ続けたのである。
★
さて、当初の遠征計画は、一九五六年三月を目標としていた。
必要とする資金を集めるために、カストロは、一九五五年十月にメキシコを出て、マイアミ、フィラデルフィア、ニューヨークなどを回り、メキシコで衣類を質屋に入れて作った金でようやく印刷した「七月二十六日運動」宣言を配ったり演説したりして、キューバ系市民などから約八千ドルの寄付を求めた。
その間、チェやキューバ人たちは、アルベルト・バヨ将軍から、ゲリラ戦の訓練をうけた。
バヨは、キューバのカマグェイに生まれた人物で、スペイン士官学校を卒業し、モロッコで十年以上も戦闘の経験をもっていた。そのときの上官がフランコ将軍だったが、スペイン戦争のときは、共和派として参加し、敗れるとメキシコに亡命した。そのころ、すでに六十をこす老人であったが、ゲリラ戦についてはじゅうぶんな知識を有していた。ゲリラ戦の教官としては、
第一級の人物でもあっ|た《〈*三三〉》。
バヨは、カストロの理想に共感し、キューバ人たちの訓練をひきうけた。むろん、その中には、チェも入っていた。
訓練の場所は、メキシコ市からかなりはなれたサンタ・ロサという農場だった。近くにはジャングルや山があり、ゲリラ戦の訓練にも最適の条件を備えた場所だった。
バヨは、銃器の構造やその扱い方から、つまり第一歩から教えた。そのほか、行軍、渡河訓練、山登り、機動演習、露営などから、手榴弾、地雷の作り方にいたるまで、バヨは持てる知識の全てをかれらに授けた。
チェをふくめて、訓練をうけるもののなかには、実弾をうつのが初めてというものも決して少なくはなかったし、また集まっているキューバ人の全てが、一致した思想をもっているわけでもなかった。黒人もいれば白人もいたし、貧農の出身者もいれば、学生だったものもいた。
ある夜、仲間たちと、遠征について話しあっているとき、チェは、ひとつの提案を行なった。
「われわれは、キューバの国民に、革命の目的とするものやその計画を説明すべきではないかね」
かれは、革命は行動であると同時に、その目指すビジョンを明らかにすることだ、と考えていた。
すると、モンカダ以来のメンバーである男がやりかえした。
「話は簡単だよ。おれたちはクーデターをやればいいんだ。それだけだ」
チェは問いかえした。
「クーデターを起こすだけでいいだって? それは間違いだ」
「間違いなものか。バチスタはクーデターをやってのけて、一日で権力を握ったじゃないか。あの男から権力を奪うためには、別のクーデターを起こすことだ。そのために、バチスタは北アメリカに百の譲歩をしたが、おれたちは百一の譲歩をしてもいいから、権力を握ることさ」
これを耳にしたチェは、強い口調で、
「もっとも大切なことは、権力を握るそのことではなく、握ったならば、何をしようとするかを明らかにしておくことだ」
とくりかえしいった。
キューバ人のなかには、キューバの解放が目的ではなく、バチスタを倒して、代りにその権力や利権を手にしたいと考えるものもいたわけだった。そしてこの種の偽革命家は、ラテン・アメリカでは珍しくなかった。
そうしたものは、バヨのあたえる激しい訓練に耐えられなかった。|諦《あきら》めて落伍するものは、まだしもいい方であった。仲間を裏切り、苦心して集めた武器や通信機をひそかに売り、その金をもって消えてしまうものも現われた。
★
三月を目標としていた当初の計画は、しだいに遅れはじめた。
裏切者や資金難のせいばかりではなかった。
バチスタは、カストロの遠征準備が進んでいるという報告をうけると、はやいうちに芽をつんでおかなければ、と考えた。
かれはメキシコ警察に金をつかませ、カストロ一味を捕えるようにと依頼した。
メキシコ警察の方でも、キューバ人たちに対して監視の目をゆるめていなかった。かれらは、ある日チェの車を交通違反を理由に検問し、積まれていた武器を押収し、全員を武器の不法所持で逮捕した。
チェは、そういう事態の起こることをあらかじめ予期していて、カストロに日ごろからこういっていた。
「ぼくは外国人だし、メキシコへは密入国だ。つまり重荷を背負いこんでいるようなものだ。ぼくのために、革命が遅れるようなことがあっては困るよ。場合によっては、ぼくを置き去りにしてもいい。状況はよくわかっているし、どこに送られようと、指令された場所で戦いに加わるように努力する。ただひとつだけ頼みたい。それは隣りの国だってかまわないのだが、アルゼンチンだけは困る」
すると、カストロはこう答えた。
「ぼくは決してきみを見棄てはしない」
遠征軍に加わりたいと望んだ外国人は、チェのほかにも、エル・パトホのような男もいたのであるが、カストロが同志に加えたのは、チェひとりであった。ふたりの連帯がいかに深いものであったかは、これによっても知れるのである。
じじつ、カストロはチェを見棄てはしなかった。
警察にとらえられたチェに対して、アルベンス政権の閣僚だった、グアテマラ人弁護士パイスが、アルゼンチン市民権をもっていることを理由に、チェの釈放を運動しようとしたが、チェのほうでこれをことわった。かれはキューバ人の同志と最後までいっしょに行動するといいはった。
やがて、密入国であることがばれ、他のキューバ人は釈放されたのに、チェの拘留だけはひきのばされた。おそらく部屋の中から発見された共産主義の文献のせいだったと思われる。
カストロは、チェとの約束を守った。かれはチェの釈放のために、あらゆる努力を惜しまなかった。つまり、たっぷりと金と時間を費やしたのである。チェは結局、五十七日間もメキシコの留置場で暮した末、ようやく釈放された。
★
さまざまな障害があったものの、キューバ人たちは、バヨ将軍の努力もあって、ゲリラ戦士としての基本を身につけるまでに成長した。
重い荷を背負って、休みなしで十五時間も行軍できるようになり、射撃の技術もしだいに上達していった。
チェは、その激しい訓練の合い間に、しばしば喘息の発作に見舞われた。幼時からの病気はいぜんとしてかれを悩ましていた。
意志の力で、チェはその発作に耐えた。他人には悟られないように、あらゆる努力を払った。
一年以上にわたるバヨ将軍の訓練が終りに近づいたころ、チェの射撃術は、仲間でもゆび折りのものになっていた。
「あるとき、わたしはゲリラの訓練を見学に行ったことがあります。そのとき、わたしはチェについて深い感銘をうけました。かれの態度が、きわめて|真摯《しんし》で、厳正な規律を保っていたからです。射撃がもっとも上手なのはフィデルでしたが、チェは二番目でした」(メルバ女史)
バヨ将軍も、メルバと同じように考えていた。かれは、ゲリラ戦の訓練の全課程が終了したさい、
「最優等の卒業生は、チェ・ゲバラだ」
といった。
この間、カストロは超人的な働きをしていた。
かれは遠征資金を集め、米国で上陸用舟艇を買い入れようとした。だが、それは高くて手が出なかった。
カストロは遠征隊員の選抜をはじめた。自分を|省《はぶ》くと、その冒頭に、弟のラウルとチェとの名前を記入した。
つぎつぎに選ばれた人数の総計は、隊長のカストロをふくめて八十三人であった。ヨットの定員の十倍である。積むのは、人間ばかりではなかった。武器、弾薬、食料、通信機。
こんなことで、グランマ号は動くのであろうか。
動かさねばならなかった。
メキシコ警察はいぜんとしてかれらをマークしていたし、チェたちも、自由に街に出ることができなかった。必要があって出るさいも、公衆の集まるところは、できるだけ避けていた。そのような生活は、一九五六年の晩秋にはもはや限度に達していた。
カストロは、遠征の具体的なスケジュールを検討した。
十一月三十日に、キューバにいる地下運動員のフランク・パイスが、サンチャゴ・デ・クーバで|蜂起《ほうき》することになっていた。遠征軍もそれに合わせて上陸しなければならなかった。
カストロは、メキシコのトゥスパン港につないであるグランマ号の錨をあげる日を、十一月二十五日と決定した。
順調に行けば、三十日の早朝には、キューバのオリエンテ州ニケロ市の近くの海岸に上陸できるだろう。
準備は熱狂的に進められ、武器弾薬がグランマ号に積まれた。武器のなかには、二門の対戦車砲まであったが、奇妙なことに、その弾丸はほとんど用意されていなかった。弾丸は、バチスタの軍隊から奪うことになっているのだった。
八十三人の遠征隊員は、いくつかのグループに分かれて、十一月二十一日から二十二日にかけ、メキシコ湾のベラクルスとタンピーコの間にあるトゥスパンに向け、トラックなどに乗って出発していった。
チェは、ナポリ街四十番地にある下宿で、イルダと最後の夜を過した。長女のイルディタは、まだ一歳にもなっていなかった。
生きて再会できるかどうかのわからない出発だった。
イルダとの結婚生活は、一年半にしかなっていなかった。が、イルダは革命の女であった。彼女の夫にとってなによりも必要なのは、安息のできる家庭ではなく、革命のための戦いであることを理解していた。
一九六四年十二月ニューヨークで開かれた第十九回国連総会に、キューバ代表として出席したチェは、米国代表のスティブンソンと討論したさい、つぎのようにいっている。スティブンソンが、チェの革命家としての長い経歴がキューバにおいて頂点に達した、と皮肉まじりにいったのに対して、チェは、
「米国の政府機関、通信社、|諜報《ちようほう》組織の解釈ではそうなるのかもしれないが、それは間違いだ。革命家としてのわたしの経歴は短いもので、事実において、それはグランマ号と共にはじまり、現在に至っているのだ」
と応酬した。
じっさい、この言葉のとおりであった。グランマ号に乗込むまでのチェは、帝国主義に反対して戦う革命家であるよりも、カストロの理想に共鳴した青年であるにすぎなかった。乗組み予定の八十三人の遠征隊員のうち、八十二人まではキューバ人であり、その生まれた土地へ還るわけだったが、チェはキューバを見たこともなかった。文字どおりの異国であった。
結果的にはかれを革命家への道に導いたグランマ号は、全長十八メートルの船体をトゥスパンの河口近くに浮かべていた。
遠征隊員はばらばらに集まってきた。出港予定は一九五六年十一月二十五日午前二時だったが、最後に到着した組は、そのわずか三時間前だった。
隊員のほかにも、その家族が見送りにきていた。そのなかの一人で、夫のモンタネ(現・逓信相)を見送りにきたメルバ夫人は、十年前の一夜を想い出すようにして、筆者に低い声で当時の状況をこう語る。
「わたしはあの遠征に加わろうとして準備していました。でも、ヨットはわたしをのせるべき条件を備えていませんでした。(筆者註・女性は遠征隊から除外された)で、わたしは遠征隊の船出を見送ったのです。
そのときの情景はひじょうに感動的なものでした。天候も悪かったし、しかもフィデルは病気でした。低気圧の襲来で、北風がたいへん強く、付近の港はすべて出港禁止になっていました。そういう悪条件の下でしたが、隊員たちはみな規律正しく行動しました。フィデルはからだの調子が悪いのを耐えて、乗込みの指揮をとっていました。隊員たちはみな前途を楽観し、意気|軒昂《けんこう》としていました」
北風が強く吹く日のメキシコ湾は、小さな船にとって、飢えた狼のように扱いにくいものだった。水夫たちは尻込みした。しかし、カストロは出発をのばそうとはしなかった。延期できない事情もかかえていた。
★
十日ほど前、かれは故国キューバへ侵攻するという声明を発表していた。ゲリラ戦の教官バヨ将軍は、こちらの計画を敵に知らせるバカがあるか、とあきれてたしなめたが、カストロは、軍事的にはマイナスであっても、こんどの場合は例外である、キューバの全国民に、わたしたちの運動に信頼を持ってほしいために、無茶を承知であえてそうするのだ、と返答していたのである。
それは理想主義者であるカストロ流のやり方だった。バヨはそれ以上はなにもいわなかった。理想のために死ぬのをいとわぬ男には分別めいた忠告は、かえってそらぞらしくなるからだった。
火のようなカストロの熱情は、隊員のすべての胸につたわっていた。むろんチェもその例外ではなかった。そしてチェは、天性の文章家らしく、それを四行詩にのこした。その最初の一節はこうである。
さあ行こう
|黎明《れいめい》の燃えるような予言者よ
音もなくひそかな道をぬけ
きみがかくも愛する緑の|島《カイマン》の解放へ
★
カイマンはアメリカワニのことだ。キューバの形がなんとなく似かよっている。
生まれつき勝気なキューバ人らしく、隊員たちはメルバのいうように楽観していたが、事態は必ずしもそうではなかった。どたん場になって、モンカダ以来の中心人物のひとりだったペドロ・ミレトがメキシコ官憲に逮捕される事件が起こり、隊員は八十二人となった。
いまや一刻の|猶予《ゆうよ》もならなかった。カストロは、デッキに立ち、
「一九五六年、われわれは自由をかちとるか、さもなくば殉教者となるだろう」
と、いまではキューバ国民の誰もが知っている有名な言葉を力強くいった。
時間は午前二時を少し過ぎていた。八人乗りのグランマ号はすべての灯を消し、八十二人の遠征隊員をのせて静かに出発した。
河口までは波静かであったが、沖へ出て灯をともしたころ、メキシコ湾の波はグランマ号をもてあそびはじめた。隊員たちは、国歌や「七月二十六日運動」の歌をいっせいにうたい出したが、それも長くは続かなかった。水夫たちと数人を除いて、大半の隊員が船酔いに苦しみ、顔を|歪《ゆが》めては胃をおさえ、ひどいものは吐きながら、軍医であるチェに、船酔いどめの薬を求めた。チェは狂ったように薬箱の中をひっかきまわした。だが、見つからなかった。積んだつもりだったのが、積み忘れていたのである。その上、他人を|診《み》るはずのかれ自身、|喘息《ぜんそく》で半病人になってしまった。あまりの忙しさに喘息の薬も積み忘れていたのだった。
長い夜があけてみると、グランマ号の船内には水がふえていた。定員の十倍も乗せたため船足は重く、船体も傾きはじめている。
排水ポンプは故障していた。荷を軽くするために、荷物の一部がすてられた。船酔いに苦しんでいるいないを問わず、隊員たちはバケツその他の容器を使って、水をかき出した。全員が疲労と飢えと船酔いに苦しみ、げっそり|痩《や》せた。まさに|惨澹《さんたん》たる|門出《かどで》だったが、隊員たちは、グランマ号の船首は間違いなくキューバに向っているという船員の言葉に、元気づけられた。
予定の航路は、キューバの南にあるジャマイカに沿って大きく|迂回《うかい》し、オリエンテ州ニケロの付近の海岸をめざすはずだった。十一月三十日には、ニケロの東方にあるサンチャゴ・デ・クーバで、同志のフランク・パイスが、遠征隊の上陸に|相呼応《あいこおう》して、武装反乱を起こすことになっていたからだ。この双方を成功させるためには、計画どおりに進展しなければならなかった。また、ニケロの上陸予定地点には、クレセンシオ・ペレスという農民ゲリラが、百人の仲間を連れて、カストロたちと合流することになっていた。ペレスは、カストロをリーダーとする「七月二十六日運動」とは、思想的に一致しているわけではなかったが、バチスタの暴政には反対していた。ペレスは、バチスタの秘密警察に逮捕されたとき、拷問をうけて下腹部をえぐりとられ男性の機能を破壊されていた。それは革命前の秘密警察が、もっとも多く用いた拷問法であった。
★
カストロの考えた作戦計画は、この二方面作戦をまず成功させ、上陸軍は、ニケロの東北にあるマンサニーヨの兵営を攻撃し、そこで新しい武器や弾薬を奪うつもりであった。メキシコで調達した武器弾薬は、その戦闘でほぼ使いつくされるであろう。
冷静に考えれば、これはきわめて頼りない計画だった。もしマンサニーヨ兵営の攻撃で予定どおりに敵の武器や弾薬を奪えなかったら、いったいどういうことになるのか。戦術の専門家の目からみれば、いや、専門家ではない筆者の目からみても、無謀としかいいようのない計画である。さらには、彼我の軍事力の開きを考えれば、百に一つの成功率さえも望めないだろう。かりに、百に一つの望みがあるとしても、そのためには、十一月三十日に上陸できることが、その成功の大前提だった。
グランマ号は当然のことながら予定の三十日がきても、キューバの島影を見ることさえできず、海上をうろついていた。
カストロは受信機にかじりついていた。
パイスは、かねての打合せどおりに、反乱を起こしていた。受信機は、サンチャゴ・デ・クーバで小規模な反乱があり、数時間で鎮圧されたことを伝えていた。
「飛行機があったらなァ」
とカストロは歯ぎしりしていった。
それは愚痴というにも値しなかった。飛行機はおろか、パイスに上陸の遅延を報せる発信機さえ、かれらは用意することができなかったのである。
予定が狂った以上、引き返して再起をはかるというのがふつうの発想だが、カストロには、そんな考えはうかばなかった。革命は勝利か死かの戦いであった。グランマ号は船出したからには、キューバに到着しなければならなかった。
十二月一日の夕刻になって、カストロは、隊員のひとりローケを呼んだ。ローケは隊員の中では、珍しい海軍の出身だった。ローケの話では、ニケロの近くのクルス岬の灯台さえ発見できれば、なんとかなるはずだった。予定が大幅に遅れているにしても、ペレスに合流するためには、ニケロへの上陸は是非とも必要なのだ。
ローケは、カストロの命令をうけて、マストによじのぼった。なんとかして、クルス岬灯台の光を発見したかった。
その夜、正確には二日の午前二時ごろ、横波をまともにうけてグランマ号が大きく傾いた瞬間、大きな叫び声が暗闇をつらぬいた。ついで、海に何かが落ちる音が聞こえた。カストロは反射的にマストを見た。ローケの姿がなかった。
「エンジンをとめろ!」
カストロはどなった。
「ローケが海に落ちた。かれを助けなければならない」
とカストロは声を限りに叫んだ。
あたりは真暗だった。ローケを捜すことはほとんど不可能のように、誰にも感じられたが、カストロは、
「捜すんだ。どうしても捜すんだ」
と叫び続けた。
ローケが貴重な海軍経験者だから、カストロは捜そうとしているのではなかった。革命戦争で死ぬのならばいい。が、ここで死んでは犬死になるという想いが、カストロをかり立てていた。それは、メキシコ警察につかまっていたチェを、時間と金とを費やして救い出した友情と通ずるものであった。フィデル・カストロという人物は、そういう男であり、それがかれを指導者たらしめていた。
★
時間はどんどん過ぎ去った。もはや絶望と思われたころ、
「ここだ……ここだ……」
というローケの弱々しい声が聞こえてきた。すでに、空は白みかけていた。
驚いたことに、北方にキューバの島影が見えていた。幸運にも、グランマ号が、ニケロ近くのコロラダス湾にたどりついていたのであった。
同時に沿岸警備隊のパトロールボートが、グランマ号を発見してしまった。ボートが陸軍に報告することはいうまでもないだろう。カストロは大急ぎで上陸するように命じた。隊員たちは、必要最小限の武器、医薬品の箱を、胸まで水につかりながら数時間かかって運んだ。隊員たちは、ようやく祖国キューバの土を踏んだ。あるものは大地に接吻し、あるものは疲労のあまり砂浜に倒れた。しかし、あえていうならば、そのときキューバの土が異国の土であり、空が異国の空であるのは、ひとりチェのみだったのであるが、何はともあれ、八十二人全員が無事であった。
そのとき、上空に飛行機が出現した。
前方にマングローブの樹で|覆《おお》われた|沼沢《しようたく》地帯があった。そこへ逃げこめば、空からの攻撃をともかくも避けられそうだった。
上陸軍は沼沢地帯に逃げこんだ。飛行機からの攻撃はそのおかげで免れることはできたが、数時間かかってようやく沼地を脱出したとき、八人の隊員が行方不明になっていた。カストロは近くの山に野営することにきめ、同時に|斥候兵《せつこうへい》を出して、八人の行方を捜索させた。食料も水も極度に欠乏していた。あるものは、生きようとする本能だった。さらにいえば、かれらの大半はすっかり元気を|喪《な》くしていたが、カストロだけは違っていた。革命への情熱がかれの内がわにはたぎり立っていた。
とかれはきっぱりといった。客観的条件は別として、かれの言葉は自信にみちていた。
それから三日間、かれらはシエラ・マエストラの主峰トルキノ山頂を目ざして進んだ。途中に炭焼小屋があり、わずかな食料と水があった。カストロは代金を置き、それを隊員に分配した。このような、何か品物を得るさいは必ず代金を支払うやり方は、それ以後も厳重に守られた。バチスタの軍隊は、農民たちからじつに多くの物資を徴発したが、いまだかつて代りに金を払ったことはなかった。バチスタ軍が払うものといえば、不平をいうものに対する弾丸と|鞭《むち》だけだった。農民たちは、カストロ軍が金を必ず支払うことにまず仰天した。そのような軍隊に決して会ったことがなかったからだ。当然のことながら、かれらの反乱軍に対する目が違ってきた。信頼を深めたのである。カストロの奇蹟的な成功の、それはひとつの背景でもあった。
カストロは、このときはかれらの姿を見て逃げた炭焼小屋の人夫のあとを追うように、隊員のひとりに命じた。隊員は人夫に追いつくことはできなかったが、行方不明になった八人を偶然に発見して戻ってきた。
十二月五日までの三日間、かれらは、昼間は樹林や砂糖キビ畑にかくれ、夜だけ行軍した。
しかし、そうした苦心は結果的には少しも役に立たなかった。飢えた隊員たちが砂糖キビをかみ、そのかすを通ったあとに吐き散らしたからである。これでは、まるで見つけて下さいといわんばかりだった。のちには、すぐれたゲリラ戦士になるかれらも、この初期のころは、訓練の不十分な新兵とさして変りがなかった。バヨ将軍から教えられた心得も忘れていた。あるいは、それほどまでに飢え、疲れ切っていた、ともいえるだろう。
こんなわけで、バチスタ軍は、反乱軍の足跡を容易にとらえることができた。その上反乱軍にとって不運だったことは、途中で見つけた農民の案内人が、バチスタ軍への通報者だったことである。案内人は、わずかな金のために反乱軍を裏切っていたのだが、カストロはそのことに少しも気づかなかった。
キューバ革命史上最悪の時が刻々と迫ってきていた。カストロは、そしてチェもまたそんなこととは知らずに、十二月五日の昼ごろアレグリア・デ・ピオと呼ばれる地点の灌木林の中で、同志とともに休息をとっていた。
もっとも、チェは軍医としての職務上、のんびりと休むわけにはいかなかった。ウンベルト・ラモッテという隊員が、負傷した足の治療をうけに、チェのところにやってきた。ラモッテは、足に薬をつけてもらうと、ぬいだ靴を手にぶら下げ、自分の持場の方へ戻って行った。
チェは、その後姿を見ながら、それはかれがラモッテを見た最後となったが、メキシコ以来親しくしているモンタネと、灌木に背をもたせかけ、わずかな配給食(軍用ビスケット二枚、ソーセージ半分)を食べあっていた。
とその時、遠くで一発の銃声が鳴った。チェは耳をすました。
つぎの瞬間、すでに反乱軍を包囲し終っていたバチスタ軍が一斉射撃を浴びせた。最初の銃声は、その合図だったのだ。
不意打ちをくらった反乱軍はそれぞれの位置で応戦しはじめたものの、不利であることは|否《いな》めなかった。
チェについていえば、かれの持っていた小銃は、隊員の中でも、どちらかといえば性能の悪いものであった。それは、かれが“軍医”であったからだし、またチェ自身、上陸するまで激しい船酔いと喘息に苦しみ、優秀な武器を持っていて失うようなことになっては、反乱軍全体のためによくないと感じたため、みずから進んで性能の良い銃を他の同志にあたえてくれと申し出たからだった。ゲリラ戦士にとって、身を守るために何よりも必要なのは、すぐれた性能の武器であり、チェもそれをよくわきまえていた。だが、かれは、自分個人の利益というものをつねに無視する男であった。
革命後の話になるが、かれの家族があるとき、買いものに行きたいので、チェの乗用車を使おうとしたことがある。そのとき、チェは激しく叱った。買いものは私用であり、そのためにキューバのものである車やガソリンを使うとは何事か、というのである。公私の混同が日常化している国家での話は別としても、人によっては、息がつまるような堅苦しい男だとおもうかもしれないが、そしてまた、他の革命国家においてもこのようなお堅い話はないのかもしれないが、革命に対する献身という点で、チェはまさに徹底していたし、それが初めからのものであることは、右のエピソードからも得心できるのである。
★
一方、カストロは隊員たちを隣りの砂糖キビ畑の方へ退避させようとしたが、激しい銃火がそれを許さなかった。
チェの横にいた隊員のひとりが、持っていた弾薬箱を放り出して行こうとした。重い弾薬を持っていては、行動が不自由になるからだ。チェはそれを注意した。隊員は「こんなもの、かまっちゃいられない」といいたげにチェを見かえして、とび出して行った。
チェの前に、弾薬のいっぱいつまった箱と医薬品のつまった箱とがあった。この二つの箱を同時に持ち運ぶことは、かりに敵の弾丸が飛んでこないとしても不可能だった。それほどに重いものだった。
状況がチェに問いかけているのであった。軍医としての任務を果たすべきか、それとも兵士としての任務を果たすべきか、と。
チェは弾薬箱をとりあげ、それまで軍医として持ち運んでいた医薬品箱をその場に棄てた。そして軍医としてではなく兵士としての第一歩を踏み出し、砂糖キビ畑へ向った。
近くをアルベントーサという隊員が進んでいた。ふたりに向けて、バチスタ軍の斉射が加えられた。チェは数年後、このときのことを想い出してこう書く。
――わたしは胸に鋭い一撃を感じ、首に傷を負った。自分で、死んだ、とたしかにおもったのだ。アルベントーサは口から血を流し、かつ四五ミリ銃弾によってうがたれた深い傷口からおびただしく血を|溢《あふ》れさせながら叫んだ。「やつらにやられた!」そして、あたりかまわず闇雲に撃ちはじめた。地面に腹ばいになって、わたしはファウスティーノに向かい「酷い目にあわされた」といった。――じっさいは、はるかに激しい言葉を使ったのだが――ファウスティーノは射撃を続けながらわたしを見て、大したことはないさ、といった。しかし、かれの目の色でわたしがとても助かりそうにないと考えていることが読みとれた。
地面に転がったまま、わたしは樹木に向って一発撃った。負傷したあの男(筆者註・アルベントーサのこと)と同じ衝動にわたしはかられたのだ。すぐそのあとで、わたしは死に面しての最上の在り方を考えはじめた。
このとき、チェの頭にうかんだのは、ジャック・ロンドンの小説であった。アラスカの雪原地帯で凍死せんとしている主人公は、樹の幹に背をもたせ、|従容《しようよう》として死を迎える。チェはそれを想い出した。そのことだけが、奇妙にくっきりと心にうかんだ。
誰かが、ひざまずいて叫んだ。
「おれたちの負けだ。もう降伏した方がいい」
それを追いかけるように、別の声が放たれた。
「何をいうか! ここには降伏するものなんかいない!」
それはカミーロ・シエンフエゴスの|叱咤《しつた》であった。
カミーロはチェと並び称されるキューバ革命の英雄である。洋服屋や学校の教師だったこともあるこの天性のゲリラ戦士の肖像は、チェのそれとともにいまでも、キューバ国内にいたるところに掲げられているが、かれは革命後の一九五九年十月二十八日に、飛行機事故で行方不明になった。チェの代表作の一つである『ゲリラ戦争』はカミーロに捧げられた。その献辞の中で、チェはかれを「革命が生んだ最高のゲリラ指導者、完全な革命家、真実の友」と呼んでいる。そして、カミーロこそはダントンが革命運動についていった「大胆、大胆、そしてもっと大胆」という言葉を実践した人物だったとたたえている。
カミーロの励ましは、人びとによく聞こえはしたが、それで状況が好転するというわけのものではなかった。
ポンセという隊員が|喘《あえ》ぎあえぎ近寄ってきて、チェに胸にうけた傷をみせ、
「負傷しちまった」
といって、手当を求めた。
「おれもだ」
とチェは答えた。手当してやりたくとも、身動きできなかった。ポンセの方がまだ軽傷だった。ポンセは、負傷していない隊員たちといっしょに砂糖キビ畑の方へ移動し、チェは独りとり残されて、死を待っていた。
ファン・アルメイ|ダ《〈*三六〉》が近寄ってきて、しっかりしなければ駄目じゃないか、と励ます、というよりも叱りつけるようにいった。チェは苦痛にうちのめされながらも、砂糖キビ畑の中へ|這《は》いずって行った。
★
爆音をひびかせて、飛行機が飛来した。低空まで舞い下り、機銃掃射を加えた。そのたびに叫び声が起こり、隊員たちが死んでいった。
反乱軍は、散り散りになってしまった。
カストロは、ファウスティーノとウニベルソ・サンチェスのふたりといっしょに、三人でシエラ・マエストラに向った。標高二千メートルのトルキノ山頂が、こんな場合の落ち合いの地点だった。
弟のラウル・カストロは、三人の同志といっしょにやはりトルキノを目ざした。
兄弟のこのグループは、隣り合った丘で互いに、相手がバチスタ軍だろうと思いこんだりして過したが、二週間後に、農民の援助で連絡がつき、再会する。そして、武装農民のボスであるクレセンシオ・ペレスとも連絡がとれ、いっしょにトルキノ山頂へ進んだ。
別の何人かのグループは、方向を誤って海岸へ出た。そして、バチスタ軍に見つかると降伏したが、バチスタ軍は、|有無《うむ》をいわさずに銃殺してしまった。
戦死したものも多い。チェをカストロに結びつけたニコ・ロペスもそのひとりだった。ニコは貧農の生まれであったが、はやくから革命家としての意識をもち、カストロとはモンカダ襲撃以来の古い同志だった。
「ニコはろくろく教育もうけていなかったはずですが、自分の強い意志の力で独学したのです。そのために目を悪くして眼鏡をかけていました。かれは指導者としての立派な素質を持っていましたのに……」
メルバ女史は語っているが、彼女の夫のモンタネは、このときの戦闘で捕えられ、幸運にもピノス島の牢獄に投げこまれ、拷問されただけですんだ。そして、この幸運に恵まれたものは十名にすぎなかった。
★
チェは、アルメイダといっしょにトルキノ山頂を目ざした。ほかに、ラミロ・バルデス、チャオ、ベニテスの三人がいて、全部で五人のグループになっていた。バルデスは、ニコの同志で、これもモンカダの生き残りであった。またチャオはスペイン戦争にも参加したこともあるベテランだった。かれは、樹林の中を強行してトルキノ山頂へ向かおうとする一行に、そんなことをすれば、必ず敵の伏兵にやられる、と警告し、夜まで待機するように提案した。
チェの負傷は、痛みは激しかったが、運よく致命傷ではなかった。命からがら洞穴の中に逃げこみ、そこで夜をあかしたころには、出血も止まっていた。
日中は、散発的な銃声が鳴り続けた。バチスタ軍の敗残兵狩りが続いているのだ。
ようやく二日目の夜が訪れ、五人は出発した。シエラ・マエストラは、東の方角に位置しているはずだったが、磁石を持っているものはいなかった。
「北極星を見つければいい」
とチェはいった。
そして、かれらは夜空を観察して、東の方角を案じた。かれらは、星を頼りに移動し、ともかくもシエラ・マエストラに到達できるのだが、数カ月たって、そのとき北極星だと信じた星がじつはそうではなかったことがわかり、チェを|唖然《あぜん》とさせている。
幸運がチェたちを導いたにすぎなかったのであるが、右のような数々のエピソードを想うとき、わたしはそこに天の意思といったふうなものを感ぜずにはいられない。八十二人のうち、大半は戦死するか捕虜になるかしたのだ。生と死は紙|一重《ひとえ》だった。生き残れたものは、わずかであった。しかし、カストロ兄弟をはじめとして、キューバに必要なひとにぎりの人間がすべてその中にふくまれていた。生きていれば、革命に役立ったであろうニコ・ロペスのような男を失いはしたものの、中心であるカストロ兄弟やチェ、カミーロといった男たちを、天は殺さなかったのである。
チェたちの一団五人は、洞穴を出てから二日間かかって、海岸近くの断崖に達した。
無数のカニが岸にへばりついていた。五人は手あたりしだいにカニをつかまえ、生のまま口の中へ放りこんだ。
やがて、耐えがたいのどの渇きがかれらを襲ってきた。
岩のくぼみに雨水の残りがたまっていた。付近一帯の岩は犬の歯のように|尖《とが》っていて、ストローでもなければ、水をのむことは不可能だった。むろん、ストローなどはなかった。水を目の前にして水をのめないという地獄の苦しみを、五人の疲れと飢えと渇きに悩まされた男たちは味わった。
チェは、自分のポケットの中の、喘息治療用の吸入器にチューブがついていることを想い出した。それを取り出して使ってみると、ひとりあたり僅かではあるが、水をとることができた。
海で水浴びをしたおかげで、かれらはいくぶんか生気をとり戻し、チェは、海水で傷口を洗った。夜に入るのを待って、一行は再び行進をはじめた。先頭に立ったのは、アルメイダだった。
行手の海岸に、小さな漁師小屋があった。小屋といっても、屋根だけのものである。そして、三つの黒い影がその下に横たわっているのが見えた。チェとアルメイダは、バチスタ軍の斥候にちがいないと思った。だが、こちらは五人だし、敵は眠っている。
アルメイダとチェは、銃を構えて接近し、敵にとびかかろうとした。
敵、とおもったのは間違いであった。三人の男は、カミーロ・シエンフエゴスとふたりの仲間、ゴンザレス、ウルタドだった。
カミーロは、チェたちが飢えているのを知ると、砂糖キビ畑に逃げこんださいにぬかりなく刈っておいた砂糖キビを差し出した。
カミーロたちにとっても、それは大事な残り少ない食料であったのだが、かれもまた、そういう点ではチェに劣らず、献身的な性格の持主だった。
★
ここで説明しなければならないのだが、カミーロは、チェやアルメイダとは、この時期においてさほど親しくなかったということである。というのは、かれは、グランマ号の出発前に紹介なしにカストロのもとへやってきて、参加させてくれるように頼んだのだ。バヨからゲリラの訓練もうけていなかったし、メキシコ出発後も八十二人の隊員のなかには、かれに疑いの目を向けるものすらいた。
チェとカミーロとの友情は、この砂糖キビの断片によってはじまった。
――追憶とは、過ぎ去ったものや死んだものを|甦《よみがえ》らせる方法である。カミーロを想い出すことは、過ぎ去りあるいは死んだものを想い出すことであり、そしてカミーロはいまもキューバ革命の|証《あかし》であり、そのすぐれた特質によって不滅の存在なのだ。(中略)あのアレグリア・デ・ピオの最初の災難のときから、わたしたちはいつもいっしょであった。カミーロが武器を手に喜びも勝利も共にした同志だったという理由ばかりではなく、かれは真の兄弟だったといってもよいのだ。(中略)
そのとき、八人が生き残っていた。カミーロは腹をすかし、食べたがっていた。何であれ何処であれ、かれは食べたがっていた。これが重大な意見の不一致をもたらした。というのは、かれはいつだって食べものを求めて、|小屋《ボイオ》に接近したがったからである。この“食いしんぼう”たちの意見に従ったために、われわれは二度ばかり、何ダースもの同志を殺した敵の手に危うく落ちるところだった。
九日目に、“食いしんぼう”が勝った。われわれは、とあるボイオに近づき、食べた、そして全員が病気になった。この重症者のなかに、カミーロが入っていたのはあたりまえかもしれなかった。飢えたライオンさながらに、かれは小ヤギ一頭を丸のみしたからだった。
あの期間を通じて、わたしは兵士というよりも医者だった。わたしはカミーロに病人食をあたえ、ボイオに留まって看護をうけるように命じた。こうして事態が解決してから、わたしたちは再びいっしょになり、そしてまた日が週になり月になり、
多くの同志が殺され|た《〈*三七〉》……。
★
カミーロは、食いしんぼうのあまりに、敵のいるボイオに接近したりするヘマをやらかしたが、といって、チェがひとつも失敗しないというわけではなかった。かれもまた大きなミスをやらかした。
カミーロばかりではなく、全員が下痢するほど食物を提供してくれたボイオの主である農民は、反乱軍に対して同情的だったが、この農民は、
「フィデルは生きているという|噂《うわさ》だ。クレセンシオ・ペレスといっしょにいるらしい」
といい、そこへ案内してあげよう、ともいった。チェたちは大いに喜んだが、農民は代償を要求した。武器を残して行ってくれ、というのである。
農民が武器をほしがるのは、それなりの理由があった。かれらが残虐な軍隊から身を守るためには、銃と弾丸がいるのだ。アルメイダとチェは相談し、ピストル二挺を残して八挺の小銃と弾薬をこの農民に渡した。
その農民の紹介で、かれらはその地方のことならなんでも知っている貧農に会い、別の安全なところへ案内された。貧農はのちに革命に加わり、オリエンテ州軍司令官になった。ギレルモ・ガルシアという。
ガルシアの助力で、つぎつぎに同情的な農民に導かれ、チェたちはシエラ・マエストラに達した。
そこには、グランマ号の数少ない生き残りが集まっていた。
フィデル・カストロのグループの三人。ラウル・カストロのグループの四人である。それに、チェやアルメイダやカミーロらが加わった。ただ、チェのグループは八人から七人に減っていた。ウルタドが、重症の下痢で動けず、落伍していた。
八十二人は十数人になっていた。全員が再会を喜びあったものの、状態そのものは、まったく惨めであった。
とくに、チェのグループはひどかった。下痢もさることながら、武器としては二挺のピストルしか残していないのだ。
カストロは激怒した。
「きみたちはひどい過ちを犯した。こんな状況の下で武器を手放すことがどういうことか知っているのか。この過ちの値段は、きみたちの生命と同じだよ。敵とバッタリ出会ったとき、生き残れるたったひとつの希望は、きみたちの武器なんだ。それを手放すなんて、犯罪だし、愚かを通りこしている!」
と、カストロはどやしつけた。
チェたちは一言もなかった。まさに、カストロのいうとおりなのだ。
★
カストロは、たしかに天性の革命家であった。かれは、確信にあふれた口調で、生き残った他のものにいった。
「これで、バチスタの命数はつきたようなものだぞ。おれたちはきっと勝つ」
聞いていたものは、チェをふくめて、昂然たる面もちのカストロを見つめた。キューバ人がいかに楽天的であってもこの言葉をうけ入れることはできなかった。|空《から》元気もいいところだ、と誰もが感じたし、なかにはカストロは気が狂ってしまったんだ、とおもったものまでいた。
そうおもうものがいたとしても、無理はないのかもしれなかった。カストロは、高度計をとり出して測量し、キューバの地図にのっている標高が、五十メートルも間違っている、などといったりしたのだ。
カストロは、生き残った仲間に、確信をこめて勝利を宣言するという狂気ぶりをみせたが、それは決してハッタリをろうしたわけではなかった。事実、かれはそう信じていたのだ。思うに、常人には理解を超えるこの狂気こそが、キューバ革命のあの|稀《まれ》な成功を導いたのであり、革命とはそういうものなのであろう。
チェ自身は、二十人足らずの同志を前にしてのこのカストロの言葉に、やはり驚いたひとりだった。
かれはそれをキューバを去るときにあたって、カストロに送った別れの手紙の中でも、「ぼくになんらかの誤りがあったとするなら、それは、シエラ・マエストラの初期のころ、きみにじゅうぶんな信頼を置かなかったことと、指導者ならびに革命家としてのきみの素質を、さほど早く理解しなかったことだ」と率直に書いているが、これにはカストロのあまりな楽天主義に対する驚きと失望もふくまれていたであろう。
バチスタの命数はつきたようなものだ、といかにカストロがいったとしても、客観的な情勢としてはそれが強がりに聞こえるのは当然だった。かれらの数とバチスタ軍の数とは、一対千なのである。その上、相手には戦車も飛行機もある。
しかし、カストロは、将来に対する正確な見通しを持っているという点において、すぐれて革命的であり、かつまた革命家そのものだった。
かれは、シエラ・マエストラ地区には、五万人の農民がおり、かれらはバチスタ軍に対して一様に恨みを抱いていることを知っていた。農民ゲリラのボスであるクレセンシオ・ペレスが自分たちに味方しているだけでも、希望をもってよいのだ。
じじつクレセンシオは、コルトを腰につけ、カストロの前に現われ、部下を供出しようと申し出た。カストロは、とりあえず武器のある十五人だけを受け入れた。これだけで、ゲリラの数はほぼ倍になった。
シエラの地形もまた、ゲリラに有利であることをカストロは見ぬいていた。バチスタには二万人の軍隊がいるかもしれないが、二万人が一時に攻撃してくるわけのものではないだろう。それは不可能なことだ。
こうして一九五六年はくれた。カストロを除く大半のものには、すべてが絶望的に思われたが、年があけた一月中旬、ゲリラは不敗であるという歴史と神話の最初の一ページが書き出される戦闘が起こった。
チェの『ゲリラ戦争』は、革命戦争が終ったのちの一九五九年に書かれ、公刊されたのは、翌六〇年の四月だった。原稿を書いているときのかれは、完成のあかつきは、戦友のカミーロに読んでもらい、手直しを頼むつもりだった。しかし、カミーロは原稿の完成を待たずに飛行機事故で死んだ。
この書物は、二年間にわたる革命戦争の体験を通じて、ゲリラ戦争の本質や原則をくわしく説いたものである。チェはその初めの部分で、
「ゲリラ戦争は、解放を目指す民衆の闘争の基盤である」
と書いている。
ゲリラ guerrilla という言葉は、もともとがスペイン語である。歴史をたどれば、一八○八年五月、ナポレオンがスペインに軍を進め、フェルナンド七世を幽閉して新憲法を押しつけようとしたとき、スペイン国民は、各地に反乱軍を組織してフランス軍に抵抗した。この正規軍に対する不正規軍の小戦闘をゲリラと呼んだのだ。
日中戦争における便衣隊、対独戦におけるフランスのレジスタンス運動、チトーの名を高からしめたパルチザン活動など、すべてゲリラ戦の|範疇《はんちゆう》に入る。
ところで、チェは革命戦争の体験を通して得た教訓として三つを挙げているが、その第一は、「ゲリラは正規軍に対して勝つことができる」ということである。しかし、一九五七年一月、シエラ・マエストラ山中にわずかに十数人が生き残ったときは、右の言葉にふさわしい状況ではなかった。
使いものになる兵器は、望遠照準つき小銃九、半自動式小銃五、小銃四、軽機二、ピストル二、口径一六カービン銃一の計二十三挺、ほかに少々の手榴弾であった。人数の方は、農民ゲリラのボスであるクレセンシオ・ペレスの配下が加わったのでふえたものの、その中には、生まれてから一度も射撃をしたことのないものまで混っている始末だった。
だが、カストロは意気軒昂としていた。未経験の隊員に射撃訓練をほどこしながら、山中を移動し、一月十五日にはシエラ・マエストラを流れてカリブ海に注いでいるラ・プラタ川の河口にある小さな兵営を攻撃するために、ひそかに接近した。
十六日の日没まで反乱軍は、この兵営の監視を続けた。そのときこの地方一帯の大地主であるラパチ家の差配のひとり、チチョ・オソリオが通りかかった。チチョは農民を|虐《いじ》めることで有名な悪差配だった。この日も、チチョにいわせれば、生意気な百姓をぶんなぐってきたところだった。じっさい、そのころのキューバの農民は、人間扱いをされていなかった。少しでも反抗すれば、チチョのような差配や兵士に|鞭《むち》で叩かれた。家畜が病気にかかれば獣医に|診《み》てもらえたが、農民は診てもらえなかった。そんな金もなかったのである。
チチョは酒に酔っていた。斥候のウニベルソ・サンチェスが政府軍の警備隊員のふりをして道路に出、チチョをとめた。チチョはこれにだまされて「|蚊《か》」という合い言葉で答えた。カストロたちは労せずして、それを知った。
カストロは陸軍大佐に化けた。上陸後一カ月たっていたので、反乱軍は申し合わせたように|顎《あご》ひげをのばしていた。
カストロひげによって代表されるこのひげ面は、のちにはキューバ革命軍の象徴ともなったが、かれがそれをのばした理由は二通りである。
一つは、ひげをのばしていることによって山中の|虻《あぶ》や蚊を防げるからだった。なかでも、マカグエラという虻にさされると、かぶれて炎症を起こすのであった。不精でのばしたのではなく、じっさいにジャングルの生活では必要だったのだ。
ついでにいえば、似たような目的のためにタバコも使われた。チェは、学生時代から喫煙の習慣をもっていなかった。それどころか医学的見地から、タバコは害があるとみなしていた。メキシコでキューバ人たちと交わるようになったころ、チェはかれらに「その悪い習慣をやめたまえ」と真剣に忠告した。これに対するキューバ人の答えは「きみこそ、なぜあんな苦いマテ茶ばかりのむんだね」と決まっていた。マテ茶はアルゼンチンの特産でかれの大好物だったのだ。(ただし、キューバ人のいうほどに苦くはない。日本の緑茶の方がはるかに苦い)このタバコ嫌いのチェも、虻や蚊を撃退するために、シエラ・マエストラ時代についにタバコ党になった。かれがその生涯において変節したものがあるとするなら、それはこの喫煙の習慣だけだった。
★
ひげの第二の効用は、反乱軍と政府軍とを識別する目印になることだった。
政府軍は、農民を殺すさいに反乱軍兵士のふりをしたが、農民の方からすれば、ひげの有無によって、それを見分けることができたのである。
さらにいえば、ひげが革命のシンボルになるにつれて、革命に参加しなかったものまでひげを貯え、いかにも革命戦争で手柄を立てたかのように|吹聴《ふいちよう》するものもでてきた。しかし、亜熱帯下のキューバでは、とくに都会では、ひげを生やしていては暑くてたまらない。いまでは大半の人が剃ってしまっている。チェやカストロが剃らなかったのは、革命戦争の苦しさを忘れまいとする心がけだったのである。
さて、チチョに出会ったとき、カストロは相手がひげについて疑いをもったらしいと判断し、これはジャングルに入るのを覚悟して生やしているのだ、と説明した。
チチョは納得し、カストロに、兵営まで案内しようと申し出た。カストロは、ちょっといたずら気を起こした。
「こんどの一件で、陸軍はまったくぶざまじゃないか。反乱軍をいまもって全滅できずにいるのは、どういうわけか」
と怒ってみせた。
チチョは同感の意を表した。
「まったくですよ。兵営にいる連中は、きまりきった巡回のほかは、めしを食うだけで何もしないんですから」
「それじゃ、もしフィデル・カストロをつかまえたらどうしたらいいかね?」
「そうですね。クレセンシオと同じように、やつの|あれ《ヽヽ》を切ってしまうべきでしょうね」
チチョはジェスチャーまじりに答えた。
それからかれは、カストロたちのはいているメキシコ製の靴に眼をとめ、このあたりで殺した反乱軍もそんなような靴をはいていた、といった。それはみずからの死刑執行書にサインしたにひとしかった。カストロはかれを監禁したのち、兵営をじゅうぶんに偵察してから、反乱軍を三手に分けた。カミーロらの右翼、カストロの中央主力、ラウルらの左翼。そしてチェは主力に属していた。
時間は十七日午前二時四十分だった。月が中天に|皎々《こうこう》と輝いていた。カストロは四十メートルまで接近し、機関銃を二度ほど撃ったのち、降伏を勧めた。かれは自分が指揮している限り、革命戦争の全期間を通じて、第一弾を自分の手で発射するというやり方を守った。勧告の効果はなかった。守備兵たちは予想を上回る戦意をみせてはげしく抵抗した。降伏勧告の声がとぶたびに、銃撃で応答した。
手榴弾を投げろ、という命令がカストロから出た。まず、ルイス・クレスポという勇敢な男が前進して投げた。手榴弾はブラジル製の旧式のものだった。ストンと敵陣に落ちたが、いっこうに爆発しなかった。続いてチェが前進し、狙い定めて投げたものの、これも不発だった。ラウルの投げたものも、やはり役に立たなかった。
残された道は、肉薄攻撃しかなかった。まずサンチェスがこころみ、つぎにカミーロがこころみたが、すべて失敗に終った。最後にルイスとチェが近づき、一軒の小屋に火を放った。小屋はまたたくまに燃え上った。攻撃は成功したかにみえたが、よくよく見ると、それは兵営ではなくて、ココアの実をしまう小屋にすぎなかった。最初の戦闘で、かれらもやはりあわてていた。だが、それでも兵営にこもっている兵隊たちをひるませるだけの心理的な効果はあった。かれらはつぎつぎに逃亡しはじめた。反乱軍はすかさず攻撃を加えた。弾丸は容赦なく命中した。チェが書いているように「戦争はつねに一方が他方を全滅させようとする闘争」だった。
一番乗りはカミーロだった。残っていた兵隊は降伏した。反乱軍はすぐに戦果を調べてみた。
なによりもまず初めに確認したのは、味方の損害と捕獲した武器だった。損害はゼロだった。武器の方は携帯機関銃一、スプリングフィールド銃八、弾薬千発だった。攻撃で使った弾丸は約五百発。差し引き五百発を得たことになった。チェはその著作の中でもこの原則を強調している。
――重要な問題は弾薬についてである。これはほとんどつねに敵から補給するようになる。それ故、消費した弾薬を完全に補充できる場所に対して攻撃を加えることが必要なのだ。ただし秘密の場所に大量に貯えてあるなら別である。いいかえれば、一団の敵を全滅させる攻撃であっても、弾薬を補充する可能性がない限り、弾を撃ちつくすような危険を冒してまで仕掛けるべきではないということである。(『ゲリラ戦争』一章の五)
その点では、この戦闘は完全に及第であった。政府軍は七名の死傷者と五名の捕虜を出し、弾薬までたっぷりと提供してしまったのだ。
戦闘は終ったが、チェの仕事はまだ残っていた。軍医として、相手の負傷兵に対して手当を加えねばならなかった。これが反乱軍と政府軍との重要な相違であった。政府軍は反乱軍兵士が負傷して動けずに横たわっていると、たいていその場で射殺した。カストロの理想主義はここでも発揮され、チェが味方のために予備の医薬品を残しておかねばならない、と主張しても、つねに政府軍の負傷兵に対しても薬をあたえるように命令した。
この最初の戦闘の成功は、あきらかに幸運に恵まれての勝利であったが、この一貫した理想主義的なやり方が、結局はゲリラ戦の最終的な勝利に結びついたともいえるのである。
こうした事後処理がすべて終ったのは、午前四時半であった。カストロは、すぐに出発命令を下し、全員がシエラ・マエストラの険阻な地帯へ向けて退避した。
チェは、この戦法を「ヒット・エンド・ラン」と名づけた。
――あるものはこれを軽蔑的にいうが、これは正確である。撃っては逃げ、機会を待ち、待ち伏せ、再び撃っては逃げをくりかえし、敵に休息をあたえないことだ。これがすべてであり、それは正面からの会戦をさける消極的なやり方、逃げの姿勢に見えるかもしれない。しかし、これがゲリラ戦争の一般的戦略についての結論であり、勝利をおさめ、敵を撃滅することが最終目的である点においては、ゲリラ戦争もどの戦争も同じなのだ。(同・一章の一)
戦争はそれが戦争である限り、人間にさまざまな形の死をもたらす。それは、ゲリラ戦争にあっても例外ではなかった。
一月二十二日に起こった二番目の戦闘で、カストロの弾丸に当たった政府軍の兵士は、「ああ、母さん」と叫んで倒れた。
バチスタ軍に一万ドルで買収された道案内人の密告で、反乱軍もまた損害を出した。それは四十五歳になる農民出身の兵士で、かれはチェに頼んで字を教えてもらっていた。そしてかれがAとO、EとIをようやく区別するところまで進んだとき、政府軍の待ち伏せにあって戦死した。
密告者の命も長くは続かなかった。かれの動かぬ証拠を押えられたのち、すべてを告白してからいった。
「自分の罪が死に値することは知っている。殺してくれ」
この男の密告で字を学んでいた兵士だけではなく、隊員の家族までが政府軍に殺されていた。反乱軍そのものも何度か待ち伏せにあって殺されそうになっていた。
カストロたちは、何かいい残すことはないか、と訊いた。密告者はうなずき、
「革命、つまりは、きみたちがどうかおれの子供の面倒をみてくれ」
と答えた。
そのとき激しい雷雨が襲ってきた。稲妻が鋭く夜空を引き裂いた瞬間、銃声が鳴って、かれの生命は絶えた。
カストロたちは、かれの死体をその場に埋めた。十字架を立てようというものがいたが、チェは異議をとなえた。それはゲリラ隊の痕跡をのこすことになるからだった。代りに、側の木の幹に十字架が刻まれた。そして、ゲーラという名のこの男の子供は、約束どおり革命後は別の名をあたえられて育てられた。
★
生もまた死と紙一重であった。チェは政府軍の兵士から分捕った鉄帽を頭にのせて行進したことがある。そのとき、ジャングルの中にいた前衛隊がこれを望見した。距離がはなれていたので、前衛隊のものには、それが同志であると見分けられなかった。
前衛隊員はカミーロにひきいられていたのだが、かれらは銃の手入れの最中だった。分解して掃除中だった。
すぐさま発射できる状態にあった銃は、カミーロのそれ一挺であった。カミーロは銃を構え、引き金をひいた。
どういうわけか、名手カミーロの第一弾は的をはずれた。カミーロは続けて第二弾を撃とうとしたが、そのとき銃は故障してしまい、第二弾は発射されなかった。おかげで、チェは命拾いをしたのである。
持病の喘息もまたチェにとっては、厄介な敵だった。
二月の末に、退路を断とうとする政府軍の動きに先んじて、反乱軍は移動したが、健康な隊員にとっては何でもない山道も、チェには越すことが困難だった。喘息の発作が起こったのだ。
それを助けてくれたのは、クレスポであった。クレスポは、
「アルゼンチン野郎め! あんたは歩けるさ。歩かないなら、おれの銃の台尻でひっぱたくぜ」
といいつつも、チェとその荷物を背負い、滝のような雨にうたれながら運んだ。それにも限界がきたとき、自分が足手まといになるのを感じたチェは、みずから残ることを申し出た。
反乱軍に同情的な農民が、サンチャゴ・デ・クーバで新しい参加者を組織中のフランク・パイスから派遣された連絡員と会うために、町まで行ってくれることになった。カストロは、ついでに薬を買ってくるように頼み、護身用のピストルとひとりの兵士をチェに付添わせて、前進して行った。この付添いの兵士というのは、銃声を聞くたびに|身慄《みぶる》いする新兵だった。この新兵はのちに少女を暴行した罪で銃殺されてしまう。かれらも最初のうちは玉石|混淆《こんこう》だった。
幸い、連絡役の農民はアドレナリンを手に入れてくれた。しかし、チェの病状はさして良くならず、健康な兵士なら一日で行けるところを十日かかって進んだ。木から木へ、銃を杖にしてやっと歩くというありさまだった。
★
喘息は別な試練をもあたえた。
ゲリラの生活において、ハンモックは欠かすことのできない品だった。地面に寝たのでは虫に襲われるし、健康にもよくなかった。隊員たちは、南京袋を改造して手製のハンモックを作ったが、チェは、南京袋の|けば《ヽヽ》が喘息の発作の|因《もと》になるために、ハンモックを持たなかった。いつも地面の上に寝た。
都市に反乱軍の支援組織ができ、そこから新しい木綿のハンモックが届いたとき、チェはそれを手に入れる権利がなかった。というのは、手製のハンモックを作ったものだけがまず新しいハンモックと交換できる規則だったからだ。
チェを救ったのはカストロだった。カストロは規則を曲げて、チェに新しいハンモックをあたえた。
他のものがこの特例措置に対して異議をとなえたかどうかは、筆者にはわからない。ただはっきりしているのは、このころすでにチェの勇敢さと献身ぶりとはひろく認められていたことである。
カストロはチェの追悼演説でこういっている。
――あの時代、かれは卓越した戦士であったばかりではなく、すぐれた軍医でもあり、負傷した同志のみならず敵の負傷兵を看護したのだ。武器を捕獲したのち、その陣地(筆者註・後述するウベロの戦闘のことと思われる)を放棄して、敵兵の追撃をうけながら長い行進をしなければならなくなったさい、そして誰かが傷ついた同志のために残らねばならなかったとき、チェはかれらと共に残ったのだ。他の少数の兵士に助けられ、チェは負傷兵たちの面倒をみて、その命を救ったのちに原隊に復帰した。あのときから、かれは、困難な任務が宙にういているさい、命令を待たずに買って出るというタイプの、有能かつ勇敢な指揮官として際立ったのである。
これがかれの基本的な性格のひとつであった。もっとも危険な任務に対して、喜んで即座に志願するのである。当然のことながら、これは敬愛の念をおこさせた。それはわれわれと共に戦っていた同志に対するなみの敬愛を倍も上回るものといえた。かれはこの国に生まれたのではなかったのだ。かれは深遠な思想の人であり、大陸の他の場所での闘争にも夢をかきたてられる人であり、さらには、あまりにも愛他的であり、あまりにも無私であり、つねに至難のことをやりとげるために喜んで命をかける人であった。
★
|大雑把《おおざつぱ》ないい方になるかもしれないが、ラテン・アメリカ民族の気質は、自己中心主義である。わたしは五カ国をまわったにすぎないが、そのように感じられてならなかった。人間は誰しも自分が可愛いのはあたりまえだが、かれらはその点では明快にわりきっている。自分の利益につながらないことには、進んで手を出そうとはしない。それは、キューバにあっても、一部の指導者を除いて例外ではない。それだけに、チェのような献身的で無私の性格は、ラテン・アメリカの風土の中では際立つのである。
このような性格を培ったものは何か。わたしはたえず考えながら旅し、人にもたずねてみたのだが、満足な答えを得ることはできなかった。チェといっしょに両親に育てられた次弟のロベルトに会っても、かれからはそのような感じをうけなかった。むしろチェとは違う、通常のラテン・アメリカ的な気質の持主のように思われた。人の話を聞く限り、五人兄弟(男三女二)のうち、そのような性格はチェひとりらしいのである。本書のはじめの部分に紹介したように、ゲバラ家では、セルナ夫人の方針で、子供たちは男女を問わず、大学を出ることが子供としての義務のようになっていた。チェが大学生時代にグラナドスとの放浪を打ち切ってアルゼンチンに戻り、大学を終えたのも、この母親との約束を果たすためだったが、こうした律義さは、末弟のファン=マルティンにはない。ロベルトの話では、ファン=マルティンはトラックの運転手をしているという。その日の暮しが立てば面倒くさいことはご免だ、というのはラテン・アメリカ的な人生観のひとつで、ファン=マルティンはそのタイプとみていいだろう。それを想えば、チェのような性格は、持って生まれたもの、としか考えようがないのであり、ラテン・アメリカにあっては、例外に属するといってもいいのである。
これはわたしの独り合点ではなく、そのことを誰よりも強く感じとっていたカストロは、チェについてふれるたびにかれの献身的な性格を強調している。いまでは国際的な規模になっている砂糖キビ刈りの労働奉仕も、もともとはチェのはじめたものだった。
一方、バチスタ政府の方は、上陸した反乱軍を全滅させた、と宣伝していた。じじつ、全滅に近い状態だったことは、すでに述べたとおりなのだが、バチスタの統制下にあるハバナ放送がことさらに強調したのは、カストロの死であった。
フィデル・カストロ・ルスの名は、そのころ、心ある国民にとっては、希望の星のようなものであった。民衆の大半は、バチスタの暴政に対して起ち上がったカストロに拍手を送っていた。
誰しも心の中では、バチスタのあくどさに対して怒りの炎を燃やしていた。バチスタにつながって利益をうけているものは別であるが、それはごく少数の特権階級に限られていた。多くの人は、バチスタやその手下の秘密警察を憎んでいた。
生活も苦しくなっていたが、当のバチスタの私腹は太るばかりだった。かれが一九五二年にクーデターによって権力をにぎったときは四億一千万ドルもあった国庫準備金は、このころには、いつの間にか一億二千万ドルに減ってしまっていた。その大半が、バチスタ個人のふところに入ってしまったのである。
汚職や贈賄も日常茶飯事と化していた。
しかし、人びとは、バチスタを憎んではいても、みずから銃をもって起ち上がる勇気はもっていなかった。秘密警察の|拷問《ごうもん》がこわかったということもある。政党もだらしなかった。キューバの前衛的な政党といえば、人民社会党だった。名前は人民社会党だが、実質的には共産主義を綱領にした党だった。その人民社会党でさえ、カストロの武装闘争に反対していた。
★
わずかに、急進的な学生だけが反抗の|狼火《のろし》を拳げた。
一九五七年三月十三日、ホセ・アントニオ・チェバリアに率いられた三十人の大学生は、大統領官邸と放送局を襲った。
午後三時半、バチスタが大統領執務室にいることを確かめてから、学生たちはトラックをふくめた三台の車に分乗した。
官邸の前で故障したようにみせかけ、それから学生たちは乱入した。執務室は二階にあった。学生たちは、警備兵の乱撃をかいくぐってその大半を失いながらも、何人かが二階に達した。バチスタはいなかった。襲撃を知ると、かれは三階の秘密の小部屋に隠れたのである。
学生たちは大半(二十五人)が射殺された。そればかりではなく、関係があるとみられたものは、路上であると自宅であるとを問わず、銃弾をぶちこまれた。ハバナ大学横の通りには、いまでも、その追悼碑が残っている。虐殺の対象になったものの数は五十人をこえた。
生き残ったファウレ・チヨモンをリーダーとする十七人がマイアミに亡命し、そこから武器を積んだヨットにのってキューバに上陸した。つまり、カストロと同じ方法をとったわけで、かれらは、一九五八年の暮には、チェと会合し、協力するようになるまで、独自のゲリラ戦をエスカンブライ山中で展開した。だが、一九五七年の初めのころには、フィデル・カストロは一般には上陸作戦に失敗して殺されたもの、と信じられていた。
カストロは報道の重要性を認識していた。かれの演説のすぐれていることは、敵味方を問わず認められている。かれが報道を重視するのは、その自分の気質によるところがあるかもしれないが、この時期、かれは、キューバ国民に反乱軍が健在であることを、なんとか|報《しら》せようと考えた。
カストロは、グランマ号以来の同志であるファウスティーノ・ペレスをハバナにひそかに送りこみ、「七月二十六日運動」の支援組織と連絡させた。
支援組織のリーダーは、モンカダ以来の同志であるフランク・パイス。そして、パイスの手足になって働いているのは、三人の女性だった。それは、
である。いずれも素封家や名士の娘だった。
★
カストロは支援組織との連絡と同時に、もう一つの任務をペレスにあたえていた。信用できる外国のジャーナリストを連れて山中に戻ってこいという指令だった。
同志のひとりがニューヨーク・タイムズのハバナ通信員ハビイ・ハート・フィリップ夫人を知っていた。ちょうどそのとき、有名なハーバート・マシューズが休暇で夫人といっしょにハバナへ遊びにきていた。マシューズはカストロが生存しているとペレスから聞かされて、カメラをたずさえて、シエラ・マエストラにきた。
カストロは、グランマ号で上陸したさいの戦闘で死んだものと一般には思われていた。バチスタ政府はそう発表していたし、一般の人にはそれを否定する根拠は何も持ち得なかったからである。マシューズがこの話にとびついたのも、カストロ生存が事実であるならば、ビッグ・ニュースになるからだった。マシューズは、支援組織のものに守られて、シエラ・マエストラに潜入した。夜通し歩いた末にゲリラのキャンプに着き、午前中の大半を費やして、かれはカストロと語りあった。
会見記事がつぎの日曜日のニューヨーク・タイムズを飾ったとき、それはキューバのみならず南北アメリカに大きなセンセイションをまき起こした。バチスタ政府は、タイムズの記事は、空想小説のようなものだ、と否定にこれつとめたが、照準鏡つきライフルを構えたカストロの写真が何よりも雄弁に真実を物語っていた。それは、カストロ死亡説を流していた政府にとっては打撃であり、カストロをひそかに応援していた人びとにとっては、大きな励ましであった。バチスタは、のちに亡命してから、マシューズの記事がカストロにとって、偉大な価値があったことを認めている。
チェは、二月十七日に行なわれたカストロとマシューズとの会見には立ち合わなかった。かれはカストロほどには、ジャーナリズム上の効果を評価していなかった。
明言をさけてはいるが、チェはむしろ批判的だったようである。生きていると宣伝しなくとも、戦っていれば自然とわかるだろう。そんなひまがあれば、将来の計画を考えるかさもなくば銃の手入れでもした方がいい、と内心では考えていたらしい。
カストロとは、連帯の|絆《きずな》によって結ばれた仲であるが、いろいろな面で両者はかなり違っていた。カストロは二メートル近い巨漢であるが、チェは一メートル七十センチだった。カストロは雄弁家であるが、文章はさほど上手ではなく、チェは反対に、文章家ではあるが弁舌の方はカストロにはるかに及ばなかった。カストロはラッパ型であり、チェは不言実行型だった。激情的なカストロとは対照的に、チェは冷静で、うちに熱情を秘めた男だった。そしてカストロは革命のリアリストであり、チェは革命のロマンチストであった。
余談になるが、カストロは、あるときラウルの書いた文書がバチスタ軍に拾われ、その内容が共産主義的だと放送された、と知って激怒した。カストロは、ラウルを撃ち殺す、とわめいた。本当にそのつもりらしく、ピストルを腰にして、ラウルが弟であってもかまわない、おれは撃つ、と叫び続けた。
右のエピソードは、そのころ反乱軍と起居を共にしていた
パリ・マッチ特派員のエンリケ・メネセスが紹|介《〈*四二〉》しているが、メネセスによると、カストロは、自分はソビエト帝国主義をヤンキー帝国主義と同じように憎んでいる、ひとつの独裁制と戦ってもうひとつの独裁の手に落ちるために命をかけているわけではない、といったという。カストロが初めからの共産主義者でなかったことは、これでわかるのである。むしろ、共産党には、少なくとも当時のキューバ共産党(人民社会党)には軽蔑の念をもっていた。チェもその点では同じで、のちに人民社会党の幹部たちと会談したさい、
「あなたたちは、牢獄の中でひそかに殺されてしまう幹部を養成することはできるかもしれないが、雨あられと飛んでくる敵弾の中へ突撃する戦士をつくることはできない」
といって、その有言不実行ぶりを批判している。
★
さて、両者が対照的であったことはすでに述べたとおりだが、マシューズの会見に関しては、カストロの見込みは適中した。かれの生存や反乱軍の動静を知った人びとは希望をとり戻し、このため、のちの支援組織がどれほど楽になったか測り知れないのである。カストロはまさに天性の政治家であった。
カストロは四月にも、テレビのカメラマンと記者を呼んだ。このときもセリア・サンチェスとアイデ・サンタマリアが工作を担当した。チェはこんどは会見に応じ、それ以後は都合のつく限りはインタビューに応ずるようになったが、決して積極的ではなかった。
ちょうどこの時期であるが、カストロの噂を耳にして、ふたりのアメリカ青年が反乱軍に加わっていた。実戦の役には少しも立っていなかったが、カストロは、青年たちを記者といっしょに送り還した。ふたりは、その体験をノースアメリカン・プレスに売りこみ、その記事もテレビ放送と共に、反乱軍のために大きなPR効果を発揮した。
★
今日でも、ゲリラがジャーナリストを大事にするようになっているのは、このマシューズの先例に負う面が多いかもしれない。だが、チェは最後まで積極的ではなかった。だから、のちにボリビア・ゲリラ戦を展開したさいは、かれは自分のやり方に従って、よせつけなかった。
宣伝の効果は認めても、同時にマイナスもあるのだ。それはジャーナリストに化けてスパイがもぐりこんでくることである。現にシエラ・マエストラにも、アメリカのFBIがハンガリー出身の記者に化けて山中に入ってきた。FBIはフランス語なら|喋《しやべ》れる、といった。チェは隊内でフランス語を喋れる唯一の隊員だったために、その世話役を引き受けさせられた。チェは律義に世話をやいたが、あとでFBIのエージェントであることを見抜けなかったことを正直に告白している。
反乱軍が政府軍に大きな打撃をあたえ、タカをくくっていたバチスタを|狼狽《ろうばい》させたのは、五月二十八日のウベロの戦闘である。ウベロはシエラ・マエストラの山麓にあって海に面し、そこには五十余名の駐屯部隊がいた。
反乱軍には、それまでに支援組織からの武器や人員が到着し、人員は約八十名に達していた。
戦闘の前に、カストロとチェの間で論争があった。ウベロ地区は製材用の自動車道がひらけ、政府軍のトラックがわがもの顔に往来していた。チェはこのトラックを捕えることが先決だと主張したが、カストロは反対した。カストロの論拠は、トラックを抑えたところで、敵はさして|痛痒《つうよう》を感じない。交通事故で何人かが死んだといいのがれをするだろう。それよりも、反乱軍がシエラ・マエストラに現に存在していて、政府軍に打撃をあたえている、とキューバ国民に認識させる方が大事だ、というのだった。
チェは納得できなかったが、司令官の命令には従った。そして、のちにカストロの方が正しかった、と回想している。
カストロは兵を三隊に分け、かれ自身は、兵舎を見下ろす丘の上に陣取った。ラウルとアルメイダ指揮の分隊が正面から、ホルヘ・ソトウスとギレルモ・ガルシアの分隊が右翼、カミーロらが左翼。そしてチェは、本隊の左わきに遊撃として待機した。いや、本来はそういう布陣になるはずであったが、必ずしもそうは進まず、アルメイダは左にかたよりすぎて、チェの右がわに位置すべきなのが、左へ出てしまうありさまであった。
陣形を立てなおす余裕はなかった。夜は明けてきた。カストロが正面から第一弾を発射した。
チェは、自分の待機位置が、敵陣から遠すぎるのが不満だった。かれは小さな丘を走り下りて、敵の前衛から五十メートルのところまで接近した。ふたりの兵隊がそこから逃げ出した。チェは狙い撃ちしたが、当らなかった。かえって反撃の集中砲火を浴びるだけで、同志のひとりは、頭に傷をうけて倒れた。
陣地を守る勢力が五十余人で、攻撃がわが八十人であれば、戦闘の常識として、守るがわがはるかに有利である。まして、守備隊には機関銃があるのだ。右翼からの攻撃隊は、ソトウスみずから先頭に立って肉薄攻撃を加えたが、ソトウスは海に追い落され、またたくうちに数人の死傷者を出した。
アルメイダは、正面から突進した。反乱軍はつぎつぎに倒れた。アルメイダ自身も左肩と足に負傷した。
しかし、この決死攻撃が突破口を開いた。ラウルは兵営にとびこみ、続いて、ガルシアも突入した。
それが勝敗のヤマであった。なおも抵抗するものがいて、そのために反乱軍は死者をふやしはしたが、結局、二時間四十五分後に、残りの敵兵は降伏した。
この戦闘は、革命戦争の前半を通じて、最大の戦闘であった。
反乱軍は、グランマ号以来の隊員であるフリト・ディアスら六名が戦死、ファン・アルメイダら十五名が負傷した。政府軍は十四名が戦死、十九名が負傷した。反乱軍としては、全隊員のうちその四分の一の戦力を失ったわけである。反乱軍の犠牲も大きかったが、攻撃の効果も大きかった。これ以後、政府軍はこの方面にとどまることに危険を感じ、撤退したからである。それはまた、チェたちがゲリラとして成熟したことを意味するものであった。
★
捕虜の中に、年配の医師がいた。両軍あわせてかなりの数の負傷者が出ており、チェひとりの手には負えそうになかったし、また手当以外の仕事がチェには待っていた。捕虜の医者に負傷者をまかせようとして、チェがそれをいうと、相手は、チェに医師の経験年数をたずねた。チェはいった。
「学校を出てから数年になりますよ」
「それじゃ、お若いの、ここはあんたに任せよう。わたしは免許をとったばかりでね、経験もほとんどないんだから」
チェは、のちにこのことを想い出してこう書く。
――そのとき、わたしは再びライフルを医師の手術衣にかえねばならなかった。それは、正確には、手を洗うことにしかすぎなかったが。
――医師にもどったときは、多少の感慨があった。最初の患者は同志シロレスであった。一発の弾がかれの右腕を裂いて肺に入ったのち、脊柱内にとどまり、両足を麻痺させていることは明白だった。
もうひとりの同志レアルも重傷だった。このような状況の下では、ゲリラのとるべき道はひとつしかなかった。ふたりを敵の医師の手にゆだね、ゲリラは全体の安全のために、ウベロを撤退することである。
チェは、シロレスにその決定を伝えた。
シロレスは寂しげな微笑をうかべて、この決定を聞いた。チェは、シロレスの額に別れの接吻をしたい衝動にかられた。シロレスの生命があと数時間しかもたないことは、かれにはわかっていた。
シロレスも、自分の生命がのこり僅かであることを察知していた。
「きみらといっしょにいるところで、おれは死にたいが……」
とシロレスはいった。
チェは胸のつぶれるような想いを味わった。革命戦争のきびしさが、このときほどかれの胸に迫ったことはなかった。
だが、この辛いことをあえてしなければならないのが革命であった。チェは、奪ったトラックに分捕品を積み、しんがり部隊として出発した。シロレスは、サンチャゴに運ばれる前に死に、レアルは生き残ってピノス島の監獄に投げこまれた。
アルメイダ以下の負傷者を看護しながら、チェの隊はカストロのあとを追った。山にさしかかると、もはやトラックは使えない。チェたちは、負傷者を肩にかつぎ、武器をもって進んだ。三時問かかって、やっと一キロしか進めなかった。かれ自身も喘息が悪化し、鎮静剤がないために、半病人であった。部隊は、負傷兵五、つきそい五、新兵や土地の者が十五、チェを入れて二十六名だった。この新兵は、減ったりふえたりした。減るのは、ゲリラの生活に耐えかねての脱走であり、ふえるのは、噂を聞きつけての参加者だった。
そのような形で、隊員を入れるのは、ゲリラの原則に反していたが、負傷兵を運ぶために、やむをえず入隊を認めた。もっとも、かれらは例外を除いて、どんどん消えて行った。
結局、カストロの本隊に連絡できたのは、六月の半ばをこえてからだった。この期間がチェにとって、もっとも辛い期間だった。
★
七月に入ると、ハバナからふたりの男がカストロに会いにきた。ラウル・チバスとフェリペ・パソスである。チバスは、カストロがかつて属していたオルトドクソ党の党首だったエドアルド・チバスの弟だった。兄のチバスは、カルロス・プリオの悪政に抗議して、放送中にピストル自殺した人物だったが、弟の方は、兄の名声を利用しようとする野心家だった。またパソスは、かつて国立銀行の総裁だったが、その地位にもかかわらず、公金を横領せずに辞職したことで評判がよかった。
カストロは、かれらふたりと会談し、「シエラ宣言」を七月十二日に発した。
宣言は、すべての市民組織、すべての革命勢力を統合する一大革命市民組織を結成する必要を強調した。そして、年末までに自由選挙の実施、政治犯の釈放、言論の自由、農業改革、臨時政府の主宰者の指名をうたっていた。最後の項目は、パソスの要求に妥協して入れたもので、パソスは自分が臨時大統領になることを狙っていた。
チェに比べて、カストロはきわめて現実的な一面も、その理想主義の面と共に有していた。チェはパソスらをまったく軽蔑していた。究極においては武装闘争以外にキューバを解放する道はないのであるが、カストロは、バチスタに打撃をあたえることをまず第一に狙っていた。|広汎《こうはん》な政治勢力の結集が、ある程度の効果があるだろうと考えたわけである。このあたりにも、両者の違いがあらわれていた。
この宣言のあとで、カストロは、反乱軍を再編成した。
カストロは、約二百名に近い数になった同志を二隊にわけ、その新しい部隊七十五人の隊長にチェを任命した。
任命の仕方はいっぷう変っていた。
まず、第一の部隊のものが、カストロを筆頭に氏名官職を書いた。
ついで第二隊長。
チェはそのときまで大尉だったが、カストロは、大尉と書こうとしたチェに、
「少佐と書けよ」
といった。
|少佐《コマンダンテ》は、反乱軍の最高位だった(現在でもカストロは少佐である)。こうして、チェは第二部隊の指揮官になった。ただし、対外的には、第四部隊とされた。第二、第三もあるぞというようにみせかけるために、そうしたものである。のちには、ラウル・カストロが第二部隊の、アルメイダが第三部隊の指揮官になるが、このときは、中身はなかった。
こうしてアルゼンチン人であるチェが、他のキューバ人をさしおいて、反乱軍のナンバー2になった。ゲリラ戦士として、また指揮官としてのかれのすぐれた特質を示すものであろう。
このとき、十五歳の少年が伝令としてチェの下で働くようになった。名前はエリセオ・レイエス・ロドリゲス。革命後は大尉になり、キューバ共産党中央委員にまでなるが、チェがボリビアを新しい戦場として選んでキューバを去ったとき、行を共にしてボリビアで死ぬ。
グランマ号生き残りの十数人を主力とする反乱軍対二万人の政府軍の戦闘は、一九五六年十二月にはじまって二年一カ月間続き、最終的には反乱軍の全面的な勝利に終るが、驚くべきことに、この最後の段階においてさえも、反乱軍兵士の総数はようやく千人を越える程度だった。むろん、この千人の背後には、都市の支援組織やバチスタ政府の暴政を憎むキューバ国民の支持があり、それが反乱軍の勝利を導いたといえなくもないが、しかしキューバ革命がラテン・アメリカ史の、“奇跡”と称されるのも、あらゆる戦闘の常識を破ったこの軍事力の差にあることは、何人といえども否定できないであろう。
さらにいえば、キューバ革命はフィデル・カストロという人物をぬきにしては決して|成就《じようじゆ》しなかった。と同時にまた、革命戦争の成功は、ふたりのゲリラ戦の天才、つまりカミーロとチェをぬきにして考えることも不可能だと思われる。少なくとも、このふたりが参加していなければ、戦争の期間はもっと長びいたにちがいない。
チェについていえば、かれの名は、第四部隊と呼ばれる別働隊の指揮官になったころから、政府軍の間にも知られはじめた。
それを物語るひとつのエピソードが残されている。第四部隊が生まれて二カ月たった一九五七年九月なかばに、チェたちは、ピノ・デル・アグアという山村で政府軍のトラック部隊を待ち伏せていた。そこは、シエラ・マエストラのほぼ中央にある製材所を中心とする村落で、政府軍の補給の拠点になっていた。
政府軍は五台のトラックに一個中隊を分乗させて進んできた。戦闘がはじまると、バチスタ軍は勇敢に抵抗した。チェの部隊にも死傷が出た。
結局、二台のトラックは逃げ、三台のトラックが遺棄された。先頭のトラックのまわりには、二名の戦死者とひとりの重傷者が残されていた。
この重傷の政府軍兵士は、傷の痛みに耐えながらもなおかつ反乱軍に向けて銃をとろうとしていた。政府軍の兵士といっても、その出身は反乱軍の大半と同じく農民であり、反乱軍つまりかれらにとっての敵に対する戦意は、反乱軍のがわがそうであるように、このころは愚直なまでに|旺盛《おうせい》であった。革命、というよりも、すべての戦争という戦争にとっては避けがたいことなのであろうが、戦いの中で死ぬものは、こういう男たちであった。
敏速に行動すれば、政府軍兵士から銃をとりあげて、これを捕虜とすることもできる状況であった。だが、チェの部下のひとりが、そうはせずにこの勇敢な負傷兵を射殺した。
この隊員は、家族の大半をバチスタ軍のために、かれが反乱軍の一員だという理由で殺されていた。いわば|仇討《あだう》ちのような気持であったのだろう。そういう事情はあるにせよ、かれの行為は、反乱軍の兵士にふさわしくない野蛮なものだ、というのがチェの考えであった。チェは、この隊員をはげしく叱りつけた。
チェたちの眼には見えなかったが、政府軍のもうひとりの負傷兵がトラックの台の上に横たわっていた。この兵士は、チェに対して謝罪するその隊員の言葉を耳にすると、降伏する気持がかたまった。かれは大きな声で、
「殺さないでくれ」
と叫び、自分の存在を示した。
政府軍は、|容赦《ようしや》なく反乱軍を殺していた。そういうかれらの常識からすれば、いま眼のあたりに見た出来事は、およそ信じがたいものであったのだろう。
反乱軍が、かれをとり囲むと、負傷兵は、
「チェが捕虜を殺してはいけない、といったぞ。チェがいったぞ!」
と絶叫し続けた。
政府軍の兵士にも、その地区の指揮官がチェ・ゲバラであることが、この時期にはすでに知れていたわけである。
この軍紀の厳正さが反乱軍の主要な性格のひとつでもあった。軍紀に背いたものは、重ければ銃殺。ほかにも「投獄」「食事差止め」などの刑があった。ゲリラ生活にとって「投獄」は、ほとんど意味をもち得なかったが、「食事差止め」はかなりこたえた。
これを所管するのは、「軍紀委員会」であった。しかし、反乱軍の軍紀がすべてにおいて、理想どおりに運営されていたわけではない。
アグアで戦闘の数日後、反乱軍にとって不幸な事故が起こった。ラロ・サルディニャスという大尉が、部下のひとりの不服従を叱るために、ピストルをその頭に向けて撃つ真似をした。いや、したつもりだったのが、ゆびが動いて、部下は即死した。
当然、これは軍紀委員会の手がけるべき問題だった。チェはとりあえずラロを拘束し、この過失の度合いについて調べた。
計画的な殺人だと主張するものと、過失だと弁護する隊員とに分かれた。ラロは優秀な古参隊員であり、チェはなんとかしてかれを助けたかった。それに対して、ラロの処罰、つまり死刑を要求するものは、新参の隊員に多かった。革命に対する理想とは別に、ベテランと新兵との間に感情的な対立があったとみるべきだろう。
議論がふっとうしているとき、報告を聞いたカストロがやってきた。かれは、
「こういう重大な決定は、軍紀委員だけでなく、全隊員の意見を求めるべきだ」
といった。カストロは、個人的には、処刑に反対だった。
チェは、ラロの弁護人の役をかってでた。
ラロはたしかに不注意だった。しかし、同志の死をもたらしたものは、われわれが緊迫した戦闘状態にあるためであり、それはつまり、独裁者バチスタがキューバを不幸に陥れているからである。もし罪を負うものがあるとすれば、バチスタこそがその対象ではないか、とチェは主張した。
この説得が力をもち得なかったことはいうまでもなかった。大勢はラロの処刑に傾きかけた。古参の隊員よりも、新参の隊員の方が多い以上、それはあたりまえでもあった。
このとき立ち上がったのが、カストロであった。カストロの天性の弁舌がこのときほど見事に発揮されたことはなかった。かれは一時間以上にわたって|喋《しやべ》り続け、ラロに有利な証拠を並べ立てた。とはいうものの、処刑論者の全員を納得させることは、やはり不可能だった。
最後は投票に任された。処刑か降等か、のいずれかに全員が投票するのである。そしてわずか六票の差で、ラロはからくも処刑を免れた。
事件はこれでおさまったわけではなかった。投票に敗れたものたちのうち何人かがチェとカストロのやり方に不満をもち、ゲリラからの脱退を申し入れてきた。そのなかには、軍紀委員会の委員長ロペス中尉もふくまれていた。脱退は認められ、何人かが去って行った。そのうちのあるものは、のちのヒロン湾のCIA侵攻に参加して死んだり、捕虜になったりした。こうしたエピソードは、ラテン・アメリカ人の気質の烈しさを示すとともに、キューバ革命が通らねばならなかった革命の苦しみを物語るものでもあろう。
★
右のような試練を経ながら、チェの第四部隊は、オンブリト渓谷を根拠地にして、しだいに勢力を拡大しはじめた。
一九五七年十一月には、機関紙「自由キューバ」が発行され、第一号の論説は「|狙撃兵《そげきへい》」のペンネームで、チェが執筆した。部数は約七百部だった。
第四部隊は、このほかにも武器の補給修理や、タバコ、軍服の製造も行なった。チェが発明した武器としては、M26通称モロトフ・カクテルが有名である。材料はガソリンの|壜《びん》と16ミリ小銃の筒だった。つまり、火焔びんであり、五八年二月のアグアの戦闘(二度目の)で大きな効果を発揮した。実際の偉力のほどはともかく、その|凄《すさま》じい音で政府軍を|狼狽《ろうばい》させたのだ。そのほか、地雷なども製造した。
もっとも重要な貢献は、ラジオ放送の開始だった。最初の電波は、一九五八年二月二十日に発信され、このときの聴取者は、放送局員以外はわずかふたりだった。ひとりは、「ラジオ・レベルデ」の“開局式”に招かれたカストロ。もうひとりは局の前の岡に住んでいた農民だった。
だからといって、第四部隊が反乱軍全体の後方支援部隊というわけではなかった。人数からいっても、そのような余裕のあるはずもなかった。それらは、すべて戦闘の合い間に進められたことなのだ。
ゲリラ戦を開始してほぼ一年後の十二月八日、第四部隊は、シエラ・マエストラの|稜線《りようせん》につき出したような小山コンラドで、政府軍を待ち伏せした。
作戦は単純明快なものであった。
――隊員や予備兵力が不十分で敵が強力であるさい、ゲリラはつねに前衛隊の破壊を|狙《ねら》うべきである。方法は単純である。一定の連絡行動が必要なだけだ。前衛が選ばれた地点――できる限り険しい――に姿をあらわした瞬間、死の砲火を浴びせるのだ。ただし手頃な数の兵士を通過させたのちである。そして、小グループで残余の敵を|釘《くぎ》付けにしている間に、武器、弾薬、補給品をかき集めてしまうのだ。(『ゲリラ戦争』二章の四)
コンラドでの戦闘は、この教程にぴったりの状況の下で行なわれた。地形もうってつけだった。
敵の前衛に一斉射撃を加える隊員の指揮をとるのは、降等されたラロに代って、カストロから派遺されたカミーロだった。カミーロは携帯機関銃をかまえて、樹林の一角に身をひそめ、チェはそこから二十メートル離れた地点で、カミーロを掩護すべく、木の幹のうしろに位置していた。
攻撃の|火蓋《ひぶた》を切るのは、カミーロの役目だった。かれが、もっともふさわしいと判断した瞬間に、最初の一撃を加えることになっていた。カミーロは、そのような攻撃の天機をつかむ点にかけては、天才的な判断力の持主であった。反乱軍がそれまでのゲリラ戦の大半に勝利をおさめることができたのも、このかれの判断力に負うところが大きかったのである。
チェは息を殺して、敵兵の現われるのを待っていた。
とつぜん、一発の銃声が鳴りひびいた。それは、明らかにカミーロのもっている携帯機関銃の発射音ではなかった。何が起こったのかを考えるゆとりはなかった。続けざまに、激しい銃声が起こった。戦闘のあとの調べでわかったことだが、隊員のひとりが緊張の重圧に耐えかねて、まだ敵の姿がよく見えぬうちに、引金をひいてしまったのだ。政府軍はこのためにゲリラの待ち状せを知った。|臼砲《きゆうほう》とバズーカ砲をもっている政府軍は、火力を総動員して、反乱軍に猛射を加えた。
――不意にわたしは不快な衝撃をおぼえた。火傷に似た、あるいは鈍い痛みといってもよかった。まさにそのときわたしは左足を撃たれたのだった。左足が木の幹に|遮蔽《しやへい》されていなかったのだ。わたしはすぐさまライフルの引金をひいた。――わたしの銃は性能をよくするために、望遠照準器を付けていた――撃たれた瞬間に、わたしは、数人の敵兵が木の枝をかきわけ、騒々しい音を立てながらわたしめがけてすばやく突進してくるのを認めた。ライフルは発射したばかりで、もう役には立たなかった。ピストルは地面に伏せたさいに落していた。ちょうどわたしのからだの下になってしまったのである。しかし、わたしはからだを起こせなかった。敵の銃火にじかに身をさらすことになるからだった。自暴自棄的なすばやさで、わたしはからだを回転させ、ようやくピストルを手にすることに成功した。
これがチェの二度目の負傷の回顧である。未熟な隊員のミスで、危く命を落すところだったのだ。
しかし、この戦闘が、シエラ・マエストラ地区において政府軍のもっとも深く侵攻してきた戦いだった。第四部隊のパン製造工場は焼きはらわれてしまった。
チェの左足に入った弾は、のちに公衆衛生相になったマチャディトがカミソリを使ってとり出した。出てきたのは、カービンM1小銃の弾だった。
戦局が岐路に立ったのは、一九五八年二月である。このときまでに反乱軍は、当初の十七人に比べれば、はるかに強大になっていたとはいえ、まだまだその実力のほどはタカの知れたものだった。戦闘は限りなく行なわれていたが、多くの場合、それは待ち伏せであり、強固な防禦力をもった陣地への攻撃は、意識的に回避されていた。かりに攻撃をしかけても、政府軍の反撃をくわないうちに、急いで退却していた。いいかえれば、ヒット・エンド・ラン戦法をとっていたわけである。
しかし、それにも限界があった。政府軍はマエストラの中心にあるアグアに二百五十人の守備隊を増強した。このアグア|堡塁《ほうるい》のある限り、反乱軍の行動はいちじるしく制限をうけざるを得なかった。カストロは、この堡塁の奪取に全力を傾注することにした。
アグアでの二度目の戦闘は、二月十八日に行なわれた。このとき、カストロのもとにパリ・マッチ誌の特派員エンリケ・メネセスが従軍しており、はじめて有名なチェ・ゲバラに会ったときの印象をつぎのように書いている。
――アルゼンチン人のゲバラは非常に粘液質の人物で、喘息をおさえるために時々吸入器で呼吸していた。ゲバラには心から献身している数人の部下がついていた。彼らと話し合ってはっきりしたのは、この連中がカストロよりもゲバラを革命にとって重要だと考えていたことである。(中略)
もしフィデル・カストロが夢をみることができるとしたら、チェ・ゲバラはそれらの夢を、少なくともそのいくつかを現実のものに変えることのできる男だというのが、その当時の私の感じであった。
このアルゼンチン人の医師がメキシコで七月二十六日運動の反乱軍に加わってから私が彼と会う時まで、フィデルとゲバラの間には、つまり理念を持つものとそれを実行に移すことのできるものとの間には、有利なバランスがあった。シエラ・マエストラの反乱軍兵士のなかにはいつでも、フィデル・カストロよりもこのアルゼンチン人の方に忠誠と|崇敬《すうけい》の
念を抱くものがいたの|だ《〈*四三〉》。
メネセスは前年の十二月に、ビルマ・エスピンの助力でシエラに潜りこむことに成功したのである。
アグア堡塁への攻撃は大成功をおさめた。守備隊は多数の武器弾薬と二十五の死体を遺して堡塁を放棄してしまった。そして、その副次的効果として、政府軍増援部隊が反乱軍の待ち伏せに遭い、五十人以上の死者を出す損害を蒙った。モロトフ・カクテルで三台の装甲車も破壊され、およそ百挺の自動小銃も捕獲された。しかし、反乱軍にも損害があり、カミーロは重傷を負ったが、これを機会に政府軍はこの地区から全面的に撤退し、オリエンテ州の大半が反乱軍の勢力範囲となったことが、何にもまして最大のポイントだった。
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都市における反乱軍の別働隊もまたこの時期に、人目を驚かすことをやってのけた。メキシコから上陸して生き残ったメンバーの一員で、カストロから都市工作を担当させられていたファウスティーノ・ペレスは、二月下旬、バチスタ大統領が人気とりのために後援した、キューバ・グランプリ自動車レースの出場選手のひとりファン・マニュエル・ファンヒオを|誘拐《ゆうかい》した。ファンヒオはアルゼンチン出身の、当時世界チャンピオンだった人気レーサーだった。
かれは、ハバナきっての豪華ホテル、リンカーンにとまっていたが、ペレスの指揮する三人の七月二十六日運動のメンバーがホテルの部屋からピストルをつきつけて連行した。そのため、レースは、目玉商品ともいうべきファンヒオぬきで行なわれなければならなかった。そしてレースの翌日、かれはアルゼンチン大使館のそばで、ペレスの謝罪の手紙つきで釈放された。バチスタの面目は、これによって丸つぶれとなった。レースの取材にきていた各国の新聞記者は、この事件を大きく報道した。キューバの人々は、いまや反乱軍の実力が、バチスタの偽りの発表よりもはるかに上回っていることを、この事件によって知らされた。
じじつ、反乱軍の兵力はますます増強された。カストロは、三月に入ると、ラウルを指揮官に第二東部戦線をつくり、さらにファン・アルメイダにも別働隊を組織させた。チェの第四部隊は、このとき、本当に|第四《ヽヽ》になったわけである。しかし、チェのときがそうであったように、ラウル隊は第六部隊、アルメイダ隊は第八部隊とされた。
勢いに乗じたカストロは四月上旬を目標にキューバ全土の革命ゼネストを宣言した。このゼネストは、反乱軍とは別組織の国民代表団によって指揮されることになった。いいかえれば、反乱軍の優勢なのを見て、他の反バチスタ派のものまでが、バスに乗り遅れるな、とばかりに動きはじめたわけである。
この時期、キューバ国内における反バチスタ派は数多くあった。最大のものは、いうまでもなくカストロの反乱軍であるが、ほかにも「革命幹部団」「人民社会党(共産党)」「真正党」などがあった。革命幹部団は、学生を中心としたグループで、前年の三月十三日に、バチスタを襲撃している。大半が殺されたが、生き残った十七人(女性一人をふくむ)がファウレ・チヨモンをリーダーとして、五八年二月一日に亡命先のマイアミからヨットにのってエスカンブライに上陸し、武装闘争を開始した。
人民社会党は一九四四年に結成されたが、母体は一九二五年に生まれたキューバ共産党だった。同党はすぐに非合法化されたが、一九三八年に合法化され、政権を狙っていたバチスタと一時的に手を握った。そのころはバチスタ自身がまだ“進歩的”であったにしろ、奇妙な感じがしないでもない。そして革命戦争のころには、一部党員がエスカンブライ山脈中でゲリラ活動をくりひろげていたが、組織の大半はハバナに在り、ゼネストの主導権を握ろうとしていた。
もうひとつの政党である真正党はプリオ・ソカラス元大統領にひきいられた一派であった。ソカラスは一九五二年にバチスタのクーデターで大統領の地位を追われた人物である。党の基盤は、中小企業主や中産階級だった。
余談になるが、J・F・ケネディの特別補佐官だったシュレジンガーはその回顧録の中で、事務所にたずねてきたソカラスが、キューバ人たちは自分のことをひどい大統領だったといっているが、それでも歴代のキューバ大統領の中では最良だったのだ、と語った話を紹介している。ある種の影響力があったことは確かで、真正党員のグループも五月に北岸に上陸したが、大半が虐殺された。ソカラスは指導者ではあったが、カストロと違ってみずからは決して銃をとらぬタイプの指導者だった。
国民代表団はこういう組織を土台にして、カストロに連絡をとり、その同意の下に四月九日にゼネストを指令した。この日、カストロは、負傷の治ったカミーロに命じて、オリエンテ平原で示威戦闘を行なわせたが、そういう苦心もすべて徒労に終った。なぜならゼネストそのものが失敗に終ったからである。
失敗の原因は、人民社会党の妨害にあった。反バチスタ各派がそれぞれの思惑で動いたわけである。結果として残ったのは、ゼネストの失敗と、警察の弾圧による百四十人の死体であった。
★
このゼネストの失敗は、バチスタに希望をあたえた。かれは十四大隊一万人の政府軍をシエラ・マエストラに集中し、大規模な攻撃を加えた。迎撃する反乱軍は、総数約二百人だった。
五月二十八日、政府軍は山脈の|麓《ふもと》にある反乱軍の拠点ラス・メルセデスを占領した。反乱軍にとっては、上陸いらい最大のピンチだった。さらに六月二十五日には、カストロの司令部から歩いて四時間のラス・ベガスが政府軍の手に落ち、同月二十八日には、反乱軍は、その両翼の幅が歩いても二時間程度という小地域に押しこめられた。
翌二十九日、カストロの本隊は、サント・ドミンゴ河で六百人の政府軍と遭遇した。革命戦争を通じて、もっとも烈しい戦闘がくりひろげられ、政府軍は五十人の死者と、三十人の捕虜、そして六万発の弾薬を残して敗退した。なんといっても、旺盛な戦意と地形に通じていることが決め手になった。
これが戦局の転機であった。七月十日には二百五十人の政府軍が捕虜となり、七月二十九日には、チェとカミーロの指揮する第四部隊は百人を捕虜にしてラス・ベガスを奪回した。そして、八月七日には、ラス・メルセデスを再占領し、シエラから政府軍を完全に追い払った。
カストロは、いまや山岳農村ゲリラ戦争の時期はすぎ、平原における決戦が近づきつつあると判断した。隊員は大幅にふえていた。
キューバの地形は東西に細長い。首都のハバナは西部にあり、シエラ・マエストラは東部のオリエンテ州にあった。オリエンテ州の山岳地区はすでに解放されていたが、西に向ってカマグエイ、ラス・ビリアス、マタンサスの諸州があり、その先にハバナがあった。ハバナまでの道はまだまだ長い。
八月二十九日、カストロは、チェとカミーロを呼んだ。カストロのゆびは、キューバの中央部をさしていた。ラス・ビリアスの中心都市サンタクララが目標だった。ここを手中にすれば、キューバ全島をまっぷたつにすることができる。
「つぎはここだ」
とカストロはいった。いったん言葉を口から出すと、かれの場合は噴水のように言葉がふき出してくるのだった。
チェはちらっと微笑したきりだった。そして、カストロのくり出す言葉を聞いた。カストロは、反乱軍を再編成し、チェを第八軍の、カミーロを少佐に任命して第二軍の指揮官とした。そして、第八軍を、モンカダ以来の同志でマル・ベルデの戦闘で戦死したシロ・レドンドの名をとり、「シロ・レドンド部隊」と命名し、第二軍に対しては「アントニオ・マセオ部隊」と名づけた。マセオは十九世紀後半のキューバ独立戦争で戦死した英雄的な黒人革命家である。
また、それ以前のラウルの第二戦線にも、「フランク・パイス戦線」の別称があたえられている。いまでも人びとから“忘れ得ぬ”パイスと呼ばれているかれは、はじめからの同志で都市運動のリーダーであり、一九五七年七月三十日にバチスタ軍の手で暗殺された。パイスに対しては、カストロは“大佐”を追贈している。反乱軍の最高位が少佐であるから、これをもってしても、パイスに対する哀惜ぶりがわかるが、このような部隊名のつけ方ひとつをとっても、カストロの政治家としての資質がうかがえる。
チェとカミーロは、八月三十一日に出発した。両部隊ともで、兵力は九十人にすぎなかった。カミーロは北を、チェは南を進んだ。カマグエイには、一万人の政府軍が配置されていた。
九月中を通じて、カミーロ隊がまともな食事をとれたのはわずか十一回にすぎなかった。雑草などまで食べながら、カマグエイをぬけてラス・ビリアス州へ進出した。
チェの第八軍が経験した困難も、カミーロのそれと似たりよったりだった。はじめはトラックがあったのだが、九月一日にキューバ全島を襲った猛烈なハリケーンのために、道路は寸断され、馬か徒歩に頼らねばならなくなった。馬もじゅうぶんな数があればよかったが、数は極端に不足し、弾薬や武器を背負わせすぎたために、乗りつぶしてしまうのだった。食料も不足していた。水びたしの道を行進しているうちに、靴もこわれた。多くの隊員は南カマグエイの沼地を素足で歩かねばならなかった。
出発して一週間たったころには、隊員の士気は急速に低下した。そのうえ九月九日には、先発隊が政府軍の伏兵に襲われて、二名が戦死した。B26、C47などによる空襲もたえず行なわれた。これによる隊員の死傷もあった。さらにはまた、マサモラという水虫病の一種も隊員たちを冒し、一歩あるくごとに耐えがたい痛みをもたらした。
反乱軍のすべてが筋金入りのゲリラ戦士というわけではなかった。この間に、チェがカストロにあてた何通かの戦況報告の文面は概して沈痛な調子を帯びているし、一時に七人の脱走者を出したこともあったのだ。キューバ革命を書いた本のなかには、このくだりを、全隊員がまるで超人的な勇気を示して困難に耐えぬいたように|綴《つづ》っているものもあるが、それは|贔屓《ひいき》の引き倒しというものである。じっさいは、衰えた士気をふるい立たせるために、チェをはじめとする歴戦の幹部たちは、|罵倒《ばとう》してみたり慰めたりおどしたりして、隊員たちを前進させていったのだ。
★
食うや食わずでラス・ビリアスの山岳地帯にようやく到達したのは、十月のなかばだった。全体としてはかなり無理な前進だったが、それには理由があった。十一月三日に予定されていた大統領選挙を事実上|麻痺《まひ》させるためだった。
ラス・ビリアスの山岳地帯、つまりエスカンブライ山脈に入った反乱軍はようやく生気をとり戻した。中央部にあったミランダ兵営を奪ったのを手はじめに活発な戦闘を行ない、さらには中央国道を完全に封鎖した。北方のカミーロの部隊との協力で、キューバは完全に分断されたのである。
つぎの攻撃目標は、州都で人口十五万人のサンタクララであった。革命戦争がいまや最終的な段階を迎えつつあることは、誰の目にも明らかだった。
政府軍はこの町を要塞化しようとした。市街を一望の下に見渡せるカピーロの丘に、セメントで固めた堡塁をつくり、動く要塞つまり装甲列車十六両を配置した。兵力は総計二千人。市内のホテル、教会、学校にも戦車や重火器が備えつけられた。
これに対する反乱軍の兵力はわずか三百人だった。出発するときのほぼ三倍にふえているものの、大半は反乱軍の形勢有利とみて途中から参加した農民兵だった。
十二月二十九日午前五時。第八軍は攻撃を開始するのだが、これに先立って二十一日、サンタクララ近郊のカバイグアン攻略で、チェは左腕に傷を負った。屋根伝いに敵の|哨所《しようしよ》に接近して|塀《へい》をとんだとき、転落して骨折したのである。
第八軍は市民の通報で、政府軍の装甲列車が四百人の兵員と弾薬を積んで、ハバナから到着することを前もって知っていた。反乱軍の工兵隊がレールに|罠《わな》をしかけ、列車を脱線させた。そしてモロトフ・カクテルを撃ち込み、決死隊が突撃した。戦闘は正午に終った。政府軍は多量の武器と共に降伏した。
勝敗を決定づけたのは、根本的には士気の差であった。政府軍兵士の大半は、逃げる時の用意に軍服の下に平服を着ていた。しかし、局部的な戦闘はなおも統いた。このころになると、反乱軍だけではなく、市民も政府軍に攻撃を加えた。市街は火と煙に包まれ、死臭と硝煙の臭いが全市を|覆《おお》った。
四日目の一九五九年一月一日、政府軍はなおもビダール兵営にこもって抵抗していた。しかしその日の午前二時十分、フルヘンシオ・バチスタは、家族や数人の部下を連れて、大統領特別機のDC4でハバナを飛び立ち、ドミニカ共和国へ向けて逃亡した。同行した婦人たちのなかには、ネグリジェの上にコートをまとっただけのものもいるありさまだった。
その時間、ハバナはいつものように目覚めていた。ハバナをカリブ海最大の歓楽都市たらしめていた数カ所の|賭博場《とばくじよう》では、外国の観光客が金を|賭《か》け、かれら相手の娼婦たちはしなをつくり、ハバナ名物の乞食たちは五セント貨をせびるために手を出していた。長い間キューバに君臨してきた“軍曹”バチスタが逃亡したことを、市民の誰もがまだ知らなかった。
チェとカミーロのハバナ入りは一月二日だった。チェは、一七七四年に築かれたカバーニア要塞に入り、カミーロはコルンビア兵営に入った。そして、反乱軍総司令官カストロはここにキューバ人民軍総司令官となり、チェをカバーニア要塞司令官に任命した。
カミーロと共に、チェ・ゲバラの名前は、キューバ人たちにはすでになじみ深いものになっていた。ラテン・アメリカ全土の新聞やラジオは、この奇跡の革命の立役者のひとりチェ・ゲバラをこぞってとりあげたがり、記者会見の申込みが殺到した。はじめは断っていたかれも、ついに拒みきれず、六日になって、カバーニアの兵営で会見に応じた。記者たちは革命の英雄から、英雄らしい言葉を聞きたがったが、かれは言葉少なに、
「わたしの指揮下にあった勇敢な人たちや理想に殉じた人たち、疑う余地もなくこのすぐれた人びとの協力なしには、勝利はなかったろう」
というだけであった。
一月八日、カストロは分捕った戦車にのってハバナに入った。市民たちの熱狂はいうまでもなかった。
それはバチスタに虐げられたかれらが長い間待っていた瞬間であった。フィデル! フィデルの歓呼があくことなく繰りかえされた。
革命の成就を待っていたのは、キューバの民衆ばかりではなかった。アルゼンチンにもいた。
一月九日、エルネスト・ゲバラとセリア・デ・ラ・セルナは、ハバナ空港に下り立った。
母親は“強情な放蕩息子”を抱きしめると、とぎれとぎれに、
「六年たっている、最後にわたしたちが会ったときから……駅で見送ったあの日から……ブエノスアイレスの、そこからベネズエラへ向けてハンセン病病院の医者として働くために出発して行ったあの日から……」
と呟いた。
★
この時期、チェに会見した多くの人のなかに、サルバドール・アジェンデがいる。アジェンデはベネズエラにいたのだが、キューバ革命成るのニュースを知って、すぐさま見に行こうと思い立ち、一月二十日にハバナに着いた。ハバナはごったがえしていた。アジェンデは自分の目を疑いたくなるような光景を見た。市内でパレードがあり、その先頭に立っているのは、マイアミの警官だった。
失望したアジェンデがハバナを去ろうとしたとき、キューバの古い共産党員であるカルロス・ラファエル・ロドリゲスに出会った。ロドリゲスは革命の指導者に会ってみるようにすすめ、そのあっせんで、翌日にチェとの会談が実現した。
カバーニア要塞の一室で、チェは折畳み式ベッドに横になっていた。ちょうど喘息の発作に襲われたのだ。チェはアジェンデを知っていた。一九五二年にグラナドスといっしょにチリを通過したさい、たまたま大統領選挙が行われてい、立候補した“赤いアジェンデ”の演説を聞いたことがあったのである。チェはその想い出をもち出し、例によってきわめて率直に、二回聞いたうち、一回はよかったが、あとの一回は悪かった、といった。
★
一月二十七日の夜、キューバ人なら誰もが敬愛する
ホセ・マルテ|ィ《〈*四四〉》の記念前夜祭に出席したチェは、そこで「反乱軍の社会的任務」と題して演説した。
このなかで、チェはメキシコから参加した革命戦争の想い出を語りながら、キューバの農民をしばりつけている大土地所有制度が改革されるだろう、と示唆しているのだが、それよりも注目すべきことは、キューバの工業化をこの時点で提唱していることである。
かれは、工業化には原料と電力の確保が必要であり、そのためには、原料を一手に握っている外国資本の追放や、電力会社の国有化が必要だと主張しているのだ。そして、最後にはゲリラは農村を基盤にして戦う限り、訓練された正規軍を破ることができる、とも強調した。むろん、これは革命戦争の体験にもとづく発言だったが、これがゲリラ戦についての死ぬまで変ることのないチェの信念でもあった。
工業化計画についての考えにしても、それはチェが戦争の間でも、勉強を怠らなかったことを物語っている。
じじつ、かれは非常な読書家であり続けた。シエラ・マエストラでも、ゲーテを読み、セルバンテスを読み、さらにはマルクス、レーニンの著作に眼を通していた。戦争以外には何もできない男ではないことを、それは物語っている。かれは医師からゲリラ戦士になり、ゲリラ戦士から革命家へと昇華して行ったが、いついかなる時でも、読書だけは怠らなかった。日記をつけることと本を読むこととは、かれの終生一貫した習慣であった。
★
二月九日、閣僚会議は、チェに対して「生まれながらのキューバ市民」と同等の権利をあたえることを決定した。アルゼンチン生まれの医師はここで正式にキューバ市民になったことになる。だが、チェにとっては、そのような形式的な問題は、どうでもよいことであった。キューバ国籍をもたぬものが、人民軍の司令官の職務をつとめるのでは、法律的に支障があるから、そうしたまでのことであろう。
もちろん、かれはキューバ国民と法律的に同化したことを喜んで受け入れはしたが、といって、それは死ぬまでキューバにとどまることを決心したこととは別であった。
アルマンド・ヒメネスというブラジルの新聞記者がいるが、一月十九日にハバナを訪れたかれは、滞在中にカバーニア要塞へ行き、チェにインタビューしている。
そのさい、ヒメネスはこう質問した。
「キューバでの仕事を終えたら、こんどはどこへ行きますか」
これに対するチェの答えは、
「まだわからない。おそらくニカラグアかドミニカ共和国、またはパラグアイへ。もしあなた方がブラジルでわたしを必要とするなら
お招き下さ|い《〈*四五〉》」
というものだった。
ヒメネスは、会見の日時を記してはいないが、この問答が架空のものだったとは思われない。字句に多少の違いはあったとしても、チェはこのようなことをいったのであろう。これより六年ののち、キューバ革命がもはや揺るぎのないものとなったとき、「別れの手紙」を残して去って行ったチェの心を、右のヒメネスに対する答えのなかから汲みとることができるのである。
と同時に、その後の経過をみても、チェをいぜんとしてアルゼンチン人として見る眼が、キューバ人の中にもかなりの間残っていたことは、否定できないようである。
チェは半年後の六月十二日、アジア、アフリカ、ユーゴの諸国へ向けて、カストロ首相――首相には二月に就任した――の特使として出発するが、カストロがチェを特使としたについても、やはりこのキューバ人の眼を考慮したのではないか、と思われる。というのは、この六月は、キューバの政局が五月十七日に発布された農業改革のために、揺れ動いている時期だったからである。
農業改革法は、個人法人を問わず、九百九十五エーカー(約四平方キロメートル)以上の土地所有を禁じた。国家が必要と認めた場合だけ、例外として三千三百十六エーカー(約十三・三平方キロメートル)までを認めた。それ以上の土地を所有しているものに対しては、国家が土地を収用し、所有者がそれまで納めていた税額をもとに査定した補償を行なうことになった。
この法律による最大の犠牲者は、アメリカ資本の砂糖会社と大農場主だった。バチスタ時代のかれらは、バチスタに対して|賄賂《わいろ》を贈り、極端に税金を安くしてもらっていたからである。かれらはそれを逆手にとられたのだ。
農村出身のカストロは、革命戦争中の公約を忘れてはいなかった。革命が成功したのも農民たちの支持があったればこそである。土地をもたぬ農民に土地をあたえるためには、このような手段以外には、とる道はなかったともいえるのだが、この措置に対して最初に反撃を加えたのは、アメリカ合衆国政府だった。国内の地主たちもこれに同調した。
カストロは共産主義者に踊らされているという非難がかれらの口から放たれた。
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チェがカストロの命令でキューバを出発したのは、こんな時期だった。かれはその十日前にアレイダ・マルチと再婚したばかりだった。
アレイダは、キューバ第一の美人といわれていた。彼女はサンタクララの名家の娘で、チェの部隊がラス・ビリアスに進んだとき、はやくから七月二十六日運動の市民組織に加わっていたアレイダは、武器をもって反乱軍に参加した。はじめは看護婦としてはたらいた。そののち、司令部付きの秘書となり、チェの下で仕事をした。
チェは、メキシコにイルダと長女のイルディタを残してきていた。別れてから二年たっていた。
ラテン・アメリカ人の愛情問題に対する考え方は、日本人のもっている尺度では測り切れないものがあるが、チェとイルダの離婚にあたって、もっともはっきりした態度をとったのは、当のイルダだった。彼女は、革命が成就したのち、イルディタを連れてハバナヘやってきたが、事情を知ったとき、あっさりと離婚を承諾した。男がほかの女に心を移したとき、女にとってできることは男と別れることだけだ、といったという。イルダは、その後はキューバに帰化し、ハバナにイルディタといっしょに住んだ。彼女自身がチェの死後語っているように、チェの妻であり、かれをメキシコへと導いたことによって革命家たらしめたことが女としての誇りであるにしても、その破局は悲しみでもあったろう。
余談ながら彼女は、世界原水禁大会のキューバ代表として日本へきたこともあり、その後キューバ人の画家ミゲル・ニンと一九六九年八月に再婚した。
離婚はしても、チェは、アレイダとの間に生まれた四人の子をふくめて、イルディタをもっとも可愛がったようである。キューバを去ってからも、イルディタの誕生日には、愛情のこもった手紙(後出)を送っている。いまイルディタは、祖母つまりイルダの母といっしょにハバナにいる。顔立ちはチェに生きうつしである。
同家で家政婦として働いたことのあるルートリーシェ夫人は、わたしにこう語った。
「六四年の夏だったが、イルディタが|猩紅熱《しようこうねつ》にかかったとき、チェは見舞いにやってきました。忙しい人なので長くはいませんでしたが、べッドで寝ているイルディタをすごく|愛撫《あいぶ》して帰って行きました。ほかのときでも、何回も電話はかけてきたし、ときどき車で迎えにきてはどこかに連れて行っていました。アレイダさんの子供が遊びにくることもありましたし、イルディタがあちらに行くことも少なくありませんでした。いまでもそうだと思います。またチェとイルダさんとが会って話をしたのをみたのは、この見舞いのときだけです」
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さて、チェは新婚の妻を残して日本をふくむ各国歴訪の旅に出たわけだが、この時期のチェは、すでに各国外交団からはコミュニストと目されていた。ハバナ発の日本大使の藤山外相(当時)あての公電は、ゲバラについて「極左的色彩を有する革命家(本人は否定している)であるが、首相の信頼は厚い」と注釈を加えている。これによっても、外交団の“眼”が推察できよう。
当のカストロは、このころはまだ、キューバ革命を社会主義革命とは規定していなかった。それどころか、そう見るものに対しては強い|反駁《はんばく》を加えていた。
内政干渉に近いアメリカ合衆国の抗議に対して大いに怒っていたものの、カストロ自身は、アメリカと対決する|肚《はら》はまだ固まっていなかった。アメリカはなんといっても、砂糖の最大の買付け国であり、敵とするにはあまりにも強大であった。かれが共産主義者に踊らされているという非難はピントはずれの不当なものであるにしても、そのような印象を薄めるためのなんらかの措置をとった方がよいと判断していた。バチスタが、チェに対して|貼《は》った「国際共産主義の手先」というレッテルを、そのまま信じこんだキューバ人もいたことはいたのである。チェをこの難しい時期に外国へ出しておくのも、それなりの利点はあると考えたにちがいなかった。カストロがこのときに真の共産主義者になっていたのならば、片腕のチェを三カ月間も手もとからはなすようなことは決してしなかったはずである。
また、レボルシオン紙は、反共的なニュースをのせているし、これに対して共産党はデモをしかけたりしていた。
チェは、カストロのこういう苦しい立場を理解していた。かれにとって重要なのは、個人の私生活ではなく、キューバ革命の完成であった。一言も不平がましいことをいわずに親善使節団の団長を引きうけ、カストロに見送られてハバナを出発した。ちなみに、かれの九月八日の帰国は、大々的に報道されるが、筆者が調べた限りでは、この出発のニュースは、キューバ国内のどの新聞にも一行も出ていない。いかにひっそりした出発だったかが、これによってもうかがわれる。
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チェを団長とする親善使節団は、六名からなっていた。副団長だったオマル・フェルナンデス大尉は、ハバナ大学に在学中、反乱軍に身を投じた人物で、カストロの信任もあつく、またのちにチェの下で工業省次官となった。一行の訪問した国は、アラブ連合、セイロン、インド、ビルマ、日本、インドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴ、ガーナ、モロッコであった。
カストロは、革命達成後に「真実報道作戦」なるキャンペーンを展開した。ハーバート・マシューズは、かれの三十数年に及ぶ記者生活のなかで、キューバ革命ほど誤解と偏見にみちた記事の書かれたニュースはなかったと回顧しているが、「真実報道作戦」は、カストロが考え出した誤解をとくための一手段であった。カストロは諸外国から多くの記者を招待して、キューバ革命の実相について何も隠さずに見てもらおうとした。たとえば、バチスタ時代に恐怖政治の一役を買った秘密警察のメンバーだったものに対する裁判が、革命後にひらかれたが、それもすべて公開された。しかし、革命の実相は、カストロの望んだように、必ずしも正しくは伝えられなかった。マシューズ記者の詠嘆こそが、カストロにとっては、もっとも理解のある言葉だったといえるかもしれない。
使節団の派遣は、受身の「真実報道作戦」よりも、積極的な|狙《ねら》いをもった、一種のキャンペーンであった。と同時に、使節団は親善友好の促進だけではなく、貿易上の商談などもその使命に加えられていた。つまり、経済使節の意味もこめられていたのである。
キューバの主たる輸出品は砂糖である。砂糖を売って得たドルによって、キューバはエ業製品や消費材を買っていた。砂糖の大口買付け国は、アメリカ合衆国であった。そのアメリカとの関係が、土地の収用を決めた農業改革法によって悪化しつつある以上、カストロとしても、アメリカ以外の国との貿易に積極的な姿勢をとらざるを得ないわけである。
訪問国の中に、日本を入れたのは、日本がキューバ砂糖の大量買付け国であり、したがってこの砂糖貿易を増加させようとする狙いがあったことはいうまでもないが、そのほかに、カストロ自身が日本を好いていたことも理由のひとつであった。首相に就任後、最初に接見した外国大使は日本大使であった。
使節団が出発する三カ月前の一九五九年三月に、見本市船「あとらす丸」がハバナに入港したさい、カストロは、経済関係の閣僚を連れて、|逸《いち》早く見にきている。(三月十九日)そして、神田襄太郎大使のすすめる|すし《ヽヽ》や|さしみ《ヽヽヽ》を船内サロンで大いに食べた。忙しくて朝からなにも食べていない、これは非常においしい、といってつぎつぎにつまんだ。このときはウルチア大統領もいっしょだったが、大統領の方は儀礼的に一つだけ食べて、あとは敬遠した。
カストロは大使らの質問に答えて、革命戦争中の苦労話もした。もっとも苦労したのは飲料水の確保で、最終段階を除いて、反乱軍の数が二百人を超えなかったのは、ひとつには飲料水の不足のせいで、それ以上は山中に入れることができなかった、といった話もした。
さらにカストロは「あとらす丸」の設備のよさに賛辞を呈し、キューバはいま外国船をチャーターしているが、この代金がきわめて高い、将来はキューバ自身の商船隊をつくりたいが、そのときは|全部《ヽヽ》日本に注文するつもりだ、ともいった。また繊維工場も建設したいが、それも日本に任せるともいった。
日本がわは、この話を文字どおり|外交的《ヽヽヽ》なものとしてうけとった。財政的な裏付けのない話を真剣になって聞いても意味がない、という考え方であった。しかし、カストロの方がかなり本気だったことは、その後パーティがひらかれたさい、神田大使はとくに呼ばれ、商船の件は本国へ照会してくれたか、と督促をうけたことによってもわかるのである。
余談になるが、現在でも、キューバは日本から農、工業の機械その他を買いたがっているが、日本はアメリカに義理立てして、キューバの欲しているものはほとんど何も売っていない。イギリスもフランスもカナダもどしどし売っているのに、日本は冷淡そのものである。にもかかわらず、カストロ自身は依然として日本が好きで、東京オリンピックのときは、来日しようとして、果たさなかった。
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さて、チェらは、まずマドリッドへ出てからカイロへ向った。カイロでは、ナセル大統領が歓迎し、滞在中の費用の一切を負担した。民族主義者であるナセルは、キューバ革命に大いに理解を示した。
使節団の団員にアルグディンという若い少尉がいた。小柄でやさしい顔立ちのために、一見女性のような感じをあたえた。カイロ空港では、アラブがわの儀典係が、かれをチェの妻と間違えて花束を贈ったりし、チェがその話をパーティの席で披露すると、ナセルは腹をかかえて笑いこけた。
アラブ連合での滞在は十八日間に及び、訪問国のなかでは、もっとも長い期間だった。しかし、貿易の成果については、さしてみるべきものはなかった。砂糖の商談はなく、キューバが野菜類を買付ける話の方がまとまった。
飛行機の中継の具合で、ローマの滞在は十四時間にすぎなかったが、その間を利用して、一行はキューバ大使館員に案内されて、駈け足で見物した。チェは、バチカンのサン・ペドロ寺院内にあるミケランジェロの作品を見たくて、寺院へ行った。すると、大使館員が、
「コミュニストがどうしてサン・ペドロ寺院に入って見られるだろう」
といった。チェはそくざに、
「たとえサン・ペドロ寺院に入ったとしても、キリストは、わたしの心のなかから共産主義をとりあげることはできないさ」
と答えた。
この大使館員が、チェの思想についてどれほど知っていたかは不明である。同行したフェルナンデス大尉は、おそらく知らなかったのではないか、と推測しているが、そのころのキューバの海外勤務者は、大、公使を除いて、バチスタ時代の人員をそのまま配置していた。内政に手いっぱいで、そこまでは手がまわらなかったからであり、使節団の派遣が必要だった背景にもなっていた。そして、チェ自身は、自分の思想を少しも隠そうとはしなかったし、隠す理由もなかった。ただ、おのれの思想とは別にカストロの指示に対しては忠実であった。たとえば、かれ自身は中国に深い関心を寄せていたが、団員のひとりが、極東まできたついでに中国へ寄ってみないかと提案しても、これを拒否した。カストロが中国へは寄るな、と前もって指示していたからだった。ついでにいえば、使節団はその行動について大幅な権限と自由をあたえられていた。日本に関していえば、岸首相(当時)あてのカストロ首相の親書は持っていなかったが、東京に着いて必要とあれば、その場で書くことを許されていた。
セイロンを経てインドを訪問したチェは、ネルーと会談した。その内容はわかっていない。経済交流の話もなかった点から判断して、おそらく文字どおりの親善友好に終ったものと思われる。
このカルカッタにおいて、チェは日本大使館と接触した。七月十一日付けのカルカッタの日本大使館から藤山外相にあてた公電によれば、ゲバラ特使は日本にカストロ首相からの挨拶を送り、日本との新しい関係を樹立したい、東京においては、首相、通産相、外相と会談したい旨を申入れてきたとある。また、前述の、首相あての親書の作成なども、外交常識を破って日本がわにこのときうちあけている。日本がわはびっくりしたろうが、こういう率直さはチェならではのものであり、同時にそれは形式主義に対するかれの|揶揄《やゆ》ともいえるのである。
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日本に着いたのは、七月十五日であるが、途中のビルマで、アメリカが使節団に接触をはかった。アメリカはすでにチェが何者であるかを知っており、情報部員がぴったりと一行をマークしていた。
ホテルにチェをたずねてきたのは、アメリカ大使だった。かれはチェに、キューバは革命後どうなっているか、と雑談的に訊いた。そのような質問がなされるだろうことを、チェは予期していたかのように、
「アメリカ国務省のメンバーであるあなたは、わたし以上にキューバのことをよく知っているはずです。そんなことを質問するまでもない、とおもいますが」
とそくざにきりかえした。
アメリカ大使が言葉につまり、顔をまっかに染めるのを、フェルナンデスたちは見た。外交使節としては、型破りの応答だった。チェにとって、外交的な儀礼は、当面する相手ないしは問題によりけりだった。アメリカは革命キューバに対して、そしてまたその指導者であるカストロに対して、このころから警戒心を抱きはじめていた。カリブ海は、アメリカの裏庭であった。少なくとも、アメリカ自身はそうみなしており、カリブ海諸国の中で、アメリカ資本と国務省に反旗をひるがえすものはかつてなかった。
だが、カストロは、アメリカのいうなりにはならなかった。この年の四月に、かれはアメリカを訪問して、各地でとくに学生の熱狂的な歓迎をうけ、ニューヨークのセントラル・パークでの演説会には二万人も集まったが、国交そのものは、冷却の一途をたどりつつあった。国籍不明の飛行機がいずこからともなく飛来しては、砂糖キビ畑に爆弾を投じたりした。革命政権の動揺を狙い、策動する勢力が存在していたことは明白だった。そして、じじつにおいても、革命政権はその路線の方向を決定しなければならぬ時期にさしかかっていた。それだけに、アメリカは、カストロの片腕と目されるチェの動向に、深い注意を払っていたのである。もっとも、ビルマ駐在大使の右のような探りの入れ方は、たぶんかれ個人の功名心にかられての行動であったろう。
七月十五日午後九時十五分、チェら使節団はアルソガライ駐日キューバ大使や外務省係官に迎えられて、羽田空港に下り立った。オリーブグリーンの戦闘服に少佐の星章のついたベレー帽といういでたちであった。
羽田についたかれらは、麻布のプリンスホテルに入り、日本での最初の夜を迎えた。麻布プリンスが選ばれたのは、アルソガライ大使が|赴任《ふにん》当初、しばらく居住していたことがあり、同ホテルを好んでいた、ということのほかに、料金が帝国ホテルなどに比べ、割安だったせいもあるらしい。
後述するように、チェは、この種の金銭的な支払いについても、たえず、|乏《とぼ》しいキューバの外貨に神経をくばっていた。無駄な金は、一円でも使おうとしなかった。
翌十六日。この日から、いよいよ本格的な日程に入った。
午前十時、チェはア大使や職員と共に、都庁に東知事を表敬訪問した。表敬訪問であるから、あくまでも儀礼的なもので、とくに深い意味をもった会見ではなかった。都庁には、この会見――十五分間だった――の様子を撮った写真が何枚か残されているが、それを見ると、チェは愛想よく微笑している。そして、かれは、東知事から『都の鍵』を受けとった。番号は二三六。
当の東知事は、しかしながら、チェと何を語ったかについてほとんど記憶がない。そういわれてみれば、なにか戦闘服姿の訪客を迎えたことは憶えているが、あれがチェ・ゲバラだったのか! という程度だそうである。日本でもっとも訪客の多い都知事としては、無理からぬことだろう。
さらに、この日は記者会見も行なわれた。
この会見について、日本の新聞の大半は一行も報じていない。チェの記者会見は、この日と、離日の二十七日の二回だけだが、どういうわけか、サンケイ紙の大阪版にだけは、第一回目のそれがかなりくわしく|載《の》っている。
この新聞記事によると、チェの談話として、
「日本にきたのは通商条約を結ぶための下調べもあるが、主要産物である砂糖、コーヒー、タバコ原料、各種鉱石、クツを輸出し、日本からは雑貨そのほか重、軽工業品の輸入をいますぐにもはかりたい。日本と通商条約が結ばれた場合、繊維品を除く全品目について最恵国待遇を与えることになろう。日本からの繊維品輸入は日本政府が砂糖に対する不当な関税を引下げれば考慮する。キューバ開発のためには外国からの借款も必要で、日本政府の協力が得られれば、工場などの施設も考える。また両国の合弁会社設立も歓迎する。キューバにはなお十万人の失業者がおり、当分日本からの移民は考えられないが、教育関係者の滞在や視察団の受入れ、キューバ国内旅行などの面であらゆる便宜をはかっている」
と会見内容が報道されている。
もっとも、ジャパン・タイムスはさすがに外国人ニュースに|強く《ヽヽ》、十六日付に、来日をちゃんと報じているのをはじめ、前後二回にわたり、AP特約記事であるが、それぞれ約九十行を費やして報じている。
十七日、チェは、正午ごろ外務省に藤山愛一郎外相を訪問した。ついでにいうと、当時の岸首相はヨーロッパを旅行中で、ゲバラが事前に申入れていた首相との会見は、ついに果たせなかった。
藤山外相もまたゲバラについては、何も記憶していないというが、その後に行なわれた牛場経済局長(当時)との一時間にわたる会見については、日本がわに記録が残っている。この会見には、ゲバラのほかに大使とラミレス書記官も同席した。
主たる議題は、関税の差別撤廃である。
牛場 関税の差別とくに繊維品のそれを撤廃してもらいたい。日本対キューバ貿易は、日本の大幅入超になっている。
チェ 革命前においては、唯一の国内工業の保護のために仕方がなかった。日本品が入ってくれば、ひとたまりもなかったというのが実情である。しかし、キューバは関税法を改正し、対日差別を撤廃するようになるだろう。ただ国内産業の保護のために、必要最小限の輸入制限措置はとるが……。
牛場 撤廃の時期はいつか。
チェ 閣議で検討している。キューバはいま立憲政治が停止されているという状態なのです。時期は閣議で決定しだい……おそらく三カ月くらい先だろう。
ア大使 片貿易の問題についてだが、キューバ産品を買ってくれる相手からだけ輸入するようになる。日本からは、発電設備、船舶その他重工業品を予定している。しかし、砂糖を余計に買ってほしい。
牛場 砂糖は通商協定で討議しよう。
チェ キューバはいつでも通商協定締結のために、交渉開始の用意がある。
牛場 日本がわも対日差別撤廃を交渉のベースとしたい。もし在日中に意見交換をしたいなら、それに応じてもよい。
チェ お願いする。
日本がわとの交渉は、二十一日にも再び行なわれた。この日は午後三時から外務省接見室を使い、須磨未千秋経済局米州課長(当時)が日本がわを代表し、ほかに大蔵、農林、通産各省からも担当者が同席した。
ゲバラ来日の目的は、決して一つの単純なものではないが、この席上におけるかれの次のような発言や、翌日の池田勇人通産相(当時)との会見をみれば、なんといっても砂糖の売込みがひとつの大きな目的であったことは間違いない。外国が砂糖をどのくらい買ってくれるかに、キューバの死活がかかっているからだ。
カストロは必ずしも望んではいなかったが、キューバはすでにアメリカと対決する方向へ足を踏み出そうとしている。それは、須磨課長らとの会見席上におけるかれの次のような言葉からもうかがえる。
――キューバの経済はモノカルチュアで、砂糖がその主体である。アメリカはその砂糖を毎年大量に買ってくれていたが、いまキューバは砂糖の対米輸出のクォータ(割当て)削減の危機に見舞われている。繊維品の対米輸入は、キューバ砂糖の対米輸出と密接な関係にある。キューバのリーガルな繊維品の輸入額は四千五百万ドルで、このうちアメリカからは三千八百万ドル。そのなかには、
日本品の再輸出もふくまれてい|る《〈*四七〉》。このほか、イリーガルな輸入もあって繊維品の輸入事情は複雑である。キューバ政府は繊維品の輸入を抑えて行く方針だが、日本からキューバの砂糖の買付けをふやしてくれれば、機械その他の繊維品以外の日本商品の買付けを、バーターその他合意される方法によって増加する用意がある。
――世界的に、砂糖の生産増大で、キューバも手持ち量がふえ、価格の下落で六千万ドルの損をした。キューバ砂糖の三大輸入国は、アメリカ、日本、アラブ連合である。しかし、アメリカとは農地改革問題で対立した。そのため、一連の脅威をうけている。キューバとしては砂糖の輸出がうまくできなければ、共産圏諸国と双務協定を結び、また産業開発のために、これらの国と提携する必要に迫られるかもしれない。すでに共産圏諸国からは、砂糖と資本財のバーター取引や将来のキューバ工業製品を引取るという申出がある。
――日本は、キューバ糖の買付けは保証しないキューバの対日買付け増加を要求するキューバの対日差別待遇の撤廃のみをいうが、これでは一方的にすぎる。コーヒー、ココア、タバコその他鉱産物などキューバからの輸入品の増大を考えてもらいたい。また、キューバ糖の年間買付け量を知らせてほしい。それを本国政府へのみやげにしたいのだ。
――
日本がいまいうようなことで|は《〈*四八〉》、キューバとしては得るところは何もない。日本がキューバ糖の数量的なクォータを決めてくれればキューバは、繊維品を除く日本の工業製品を喜んで買う。現に百万ドルのトラクターの商談が進行中である。
以上のように、チェの発言は、きわめて率直なものであった。アメリカとの関係が冷えはじめて、経済的なピンチに見舞われる可能性を少しも隠していない。外交交渉というものは、自国に不利な材料を隠すのが常識であるが、チェはあえて、通常の外交官の常識を破っているのだ。
もうひとつの注目すべきことは、この段階で、かれが共産圏への接近をほのめかしていることである。
アメリカは、キューバの砂糖経営を独占している自国資本に不利な農業改革の実施について、六月十一日に抗議した。キューバがそれを拒否すると、翌年度からの砂糖買付けを停止したが、このときはまだそれほど両国の関係は悪化していなかった。いずれにしても、砂糖で攻めればカストロもネをあげて、アメリカのいうことを|諾《き》くだろうとみていたわけである。
だが、現実の事態はアメリカの|思惑《おもわく》とは逆に進行した。チェが離日後の八月十一日に、ソ連はキューバ糖十七万トンの買付けを発表して、世界中をあッといわせた。ソ連は|甜菜糖《てんさいとう》の大量生産国であり、他国へ輸出しているくらいなのだ。自国に余っているものをキューバから買うはずはない、とアメリカはじめ各国が予想していた。それを考えると、チェのこの発言は、キューバの対ソ接近を|公《おおやけ》の席上で語った最初のものといえるだろう。
このある意味では歴史的な発言も、当時は一行も報道されずに終った。
この日、チェは、農林省をも訪問している。時間は不明だが、おそらく外務省との交渉前だったと思われる。
当時の農相は福田赳夫である。ここでチェは、日本で戦後に実施された農業改革について大きな関心を示し、自国における農地改革の参考にしたいから、この問題につき資料を提供してもらいたい、と申入れ、さらに、日本から米作の専門家または技術者をうけ入れたいが、その可能性はあるか、と質問した。
日本がわは、研究してみよう、と答えたのち、後日にこの申入れを了承して、農業技研の長重九農学博士を団長とする四名の技術団を送った。長博士らはこの年の十一月十八日にハバナに到着し、翌年十一月まで滞在して米作指導を行なった。
翌二十二日。チェは池田勇人通産相と会談した。場所は帝国ホテルで時間は正午からである。この会見には、通商局次長瓜生復男が同席し、通訳は外務省谷新太郎事務官があたった。
会談は、はじめほかの場所が予定されていたものを、日本がわの都合で急に変更したものらしく、また、時間がないからという理由で、池田の態度はきわめてそっけない。以下は、その全応答である。
池田 場所を変更してすみませんでした。
チェ 何時に行かれますか。
池田 もう十五分くらいで。
チェ 時間が少なくて残念ですね。砂糖の問題で、大いにご相談しようと思っておりましたのに。
池田 われわれも繊維のことについて、大いに話をしたいのですが。
チェ キューバは、いま工業化の問題で二百万ドルの投資の用意があり、そのうちの大部分の機械に対し、日本から受け入れることになっているのだが。
池田 その機械はどんな種類の機械ですか。
チェ 全般的な機械で、工業的なものです。とくに繊維機械に興味がある。
池田 それは非常にいい話ですね。繊維機械は他国に劣らないから。
ラミレス書記官 二百万ドルではなくて、機械の計画は二億ドルです。
池田 そのほかね、通商協定に関し、差別的関税の撤廃について相談したい。
チェ 日本から機械を買う用意があるが、キューバの重要商品である砂糖の買入れはどのくらいあるか。
池田 日本の対キューバ貿易は、輸入と輸出の比率が10対1である。どのくらい日本品を買ってくれるか。問題は砂糖よりも、日本品の買付けだ。
チェ キューバより買う砂糖の量の決定がない限り、それは当方も無理である。
ア大使 きのうの予備会談(註・須磨課長とのもの)で、大臣に決定してもらわねばというご意見でしたが……。
ラミレス いっしょに売買の点で決定されるようならいいが、一方的では困るのです。
池田 ところがね、きみ。日本のものも買ってくれればね。
ラミレス それはキューバのほかの国もあるでしょう。
池田 10対1という国はないでしょう。豪州は協定して以来、どんどん伸びている。要するに、通商協定で、その基本的問題(の討議)を希望する。
池田の、われわれ日本人にもなじみ深い例のブッキラボウな言葉のためか、ここで、会話はいったん跡切れ、再び池田が口をきる。
池田 日本にはいつまでですか。
チェ 二十七日までです。
池田 要するに(貿易が)バランスされるようにね。
チェ 大臣としてバランスになるようなうまい方法があったら、いってもらいたい。
池田 35条(ガット)撤廃とね、豪州のようなふうにいってね……まァ……一方的にアンバランスにするようでは、どだい無理ではないか。
チェ いまは機械のことにするが、これは全部現金でなくても、バーターである程度の用意があるので、できる限り早く通商協定を……。
池田 豪州は1対3であるが、そのうちに1対2になるだろう。その中で砂糖をどれくらい買うかを、考えることができるのではないか。(このあたり記録が悪く意味不明)
チェ 要するに、毎年、アンバランスは改善するが、それが駄目ならヨーロッパにそれよりよい条件の国があるので、そっちにする。
池田 通商協定は、まずアンバランスを改善するにあるね。通商協定で砂糖の問題を考えよう。
チェ それでよろしい。
池田 そのうち、通産、外務、大蔵でその話に入ろう。きょうはこれくらいで。
チェ きのうの外務省での会議では、きょうのような合意にならなかった。四問ばかり提案されたが……。
池田 あくまで協定では、バランスするように行くべきである。
チェ 日本の使節をハバナヘ派遣されたら?
池田 それは下話ができてからだ。はじめはできないかもしれないが、ゆくゆくはバランスということで。あくまで、通商協定はバランスという考え方で行ないましょう。時間がもうないので、これで。
池田はこれだけいって、さっさと席を立って消えた。会談時間は、はじめに池田の方から指定したとおり十五分であった。
両者の対話を読みかえしてみて、なによりも強く感じられるのは池田のエコノミック・アニマルぶりである。通商協定を結びたいなら、まず日本の繊維製品をうんと買え、というだけだ。同じころフランスを訪問した岸首相について、フランスのドゴール大統領が、日本のセールスマンと評したことが想い起こされる。さらにいえば、池田に限らず日本がわの態度の底に一貫して流れているのは、使節団に対する冷淡さである。十五分という会見時間の限定が、おざなりに会ってやるといわんばかりの底意の証拠であろう。他の国の、ナセル、ネルー、スカルノ、チトーといった指導者たちの態度と比べてみても、チェに対する認識不足がはっきりとうかがわれる。
しかし、歴史は厳正な審判者である。いまかれらは共に鬼籍にあるが、その世界史における評価には、はるかなへだたりが生じてしまった。
ともあれ、この時期のチェとしては、キューバの経済的な基盤を強固にするためにも、砂糖買付けの確約を望んでいた。かれは、ねばり強く、離日当日になっても牛場局長に会見を求め、後述のように、場合によっては円払いでもよいとする重要提案を行なっている。なお、この会談によって、初めて日本の各新聞がそろってキューバ使節団をとりあげて活字にした。
こうした一連の日本政府要人との会談に先立って、チェは、アメリカのマッカーサー駐日大使とも顔をあわせた。それは七月十七日のことで、キューバ大使館で開かれたガーデン・パーティの席上だった。パーティは、アルソガライ大使主催で、招待されたのは、南北アメリカ大陸諸国の大、公使たちだった。
マッカーサーはいった。
「革命がすんでまだいくらも日がたっていないのに、あなた方がこのように外国に使節団を送れるなんて、じつに素晴らしいことだが、自分たちには不思議に思える」
チェはぬかりなく答えた。
「革命はたしかに成功した。こうして革命後早々に使節団が外国に出られるのも、国民がわれわれを全面的に信頼してくれるからである」
ふたりは終始にこやかに会話をかわした。だが、その微笑が文字通り外交的なものであったことは、いうまでもないだろう。
チェは、最初の放浪からメキシコにたどりつくまでの体験で、アメリカ人を、少なくともアメリカ国務省やその背後にひかえているアメリカ資本をまったく信用していなかった。グアテマラ以後のかれは、それらに対する戦いに終始したといってもよい。完全かつ徹底的にかれはアメリカ嫌いであった。
日本においても、それを裏付ける話がある。
使節団一行がとまったホテ|ル《〈*四九〉》に、スペイン語を話せるアメリカ人がふたり泊っていた。このアメリカ人がどういう男たちであったかは不明であるが、日本に何度もきたことがあるらしく、食堂などで顔を合わせると、日本の事情について、しきりと講釈した。
アメリカ人たちは、ゲイシャ・ガールについて、とりわけ熱心に語った。かれらはゲイシャ・ガールとの交渉を体験してきており、彼女たちは金さえ払えば誰とでもねるというようなことを説明した。このアメリカ人の説明では、芸者は売春婦としか思われないであろう。チェやフェルナンデスもまたそのように解釈した。
やがて東京での日程を終えて西下したチェは、他の団員と共に、大阪で関西財界の接待をうけた。場所は北の新地にある料亭だった。そこでチェは、芸者を見た。彼女たちは、ヒゲづらのキューバ人たちに踊りをみせた。それはアメリカ人の語ったゲイシャとはまったく異なる印象をチェにあたえた。フェルナンデス大尉は、あとにも先にもないそのときの体験をこう回想する。
「自分たちが見たゲイシャは、非常にモラルがあり、かつ格式があるように見えた。アメリカ人がいったこととは、まったく別な感じをうけた。チェも同じ想いをもったとみえ、そのあとでわたしにこういった。『見たかね。アメリカ人たちがいった説明とわれわれが見たのとは、ぜんぜん違うじゃないか』じじつ、そのとおりだった。パレ・ナシオナールで見るような踊りだったし、非常に美しかった。ただ長い時間タタミに坐らされたことだけは、とてもつらかった……」
もしかすると、シエラでの生活よりもきつかったかもしれない、と大尉はユーモアをまじえてわたしに語ってくれた。
日本の酒を飲んだのも、このときが最初で最後であった。チェが酒好きだったように書いた本(ロホの『わが友チェ』)もあるが、かれをよく知る人びとは一致してそれを否定している。官房長官のセリア・サンチェスは、
「なにかの|会《パーテイ》のときにブドウ酒をのむこともあったが、いつも水で割っていた」
といっている。
語呂合わせめくが、ゲイシャ・ガールとくれば、その対になるものは、フジヤマである。この西下の途次、チェは富士山に登った。五合目まで車で行き、頂上をめざしたが、九合目のへんで中止して下山した。汽車の時間に間に合わなくなるからだった。
買いものもした。銀座を見物して歩いたさい、妻のアレイダのために、洋服地を買い求めた。ほかに、タバコ好きになっていたかれは、パイプを買った。フェルナンデスは、子供(男)のために、日本のキモノ(ユカタらしい)を買った。戦闘服にヒゲ面のチェたちを、通行人たちがものめずらしげに列をなして見た。
滞日中の日程は、右のような観光的なものばかりではなかった。というよりも、観光旅行的な面は、ほとんどなかった、という方が正しいだろう。使節団は精力的に各地の工場を見て回った。カルカッタで日本がわに手渡した文書の中でも、
「昼夜兼行の時間割でもかまわない。できるだけの国内旅行をしたい。同時に輸出入品の総計がほしい。視察したいところは、軽兵器工場、小型飛行機工場、漁船工場、製鉄、ガラス、化学肥料、工学機械、住宅建設工業などである」と申入れていた。
★
この期間中、キューバ本国では、政治的な大事件がもち上がっていた。
農業改革によって大土地所有が禁じられて以来、バチスタよりもカストロを支持していた上流および中産階級は、カストロ政権に|危惧《きぐ》の念を抱きはじめていた。かれら自身の経済的基盤が脅かされたからである。かれらにとって、カストロのやり方は、あまりにも急進的でありすぎた。ある意味では当然のことながら、カストロに対する風あたりは強くなり、反革命の機運が芽生えはじめてきた。
かれらは、同じ階級の出身である大統領マヌエル・ウルチア博士を通じて、カストロ排斥を開始した。ウルチア博士は、以前オリエンテ州の判事だったが、一九五五年反バチスタ派の処刑に反対したために、アメリカに亡命せざるを得なかった。弁護士出身のカストロは、この良心的な判事を尊敬し、反乱軍がほぼ勝利を確実なものとしたころ、シエラ・マエストラから、革命キューバの新しい大統領に推薦していた。ウルチアは一九五九年一月五日にハバナ入りし、大統領になった。
そのウルチアがいまカストロの対立者となっていた。革命政権が成立してから迎えた最大のピンチといってもよかった。
カストロは、もはや道を引き返すことができないことを|識《し》っていた。農民の期待を裏切ることはできなかった。シエラ・マエストラでかれが二年間の革命戦争を遂行し、ついに勝利を手にすることができたのは、農民たちの支援があったからである。それがキューバ革命の核であり、この点で、ソ連とは本質的に違う革命であった。この認識は、モンカダ襲撃にはじまる「七月二十六日運動」のメンバーすべてに共通して行きわたっていた。キューバ革命が共産主義理論による革命である、と考えているものはこの時期ひとりもいなかった。
チェ自身も、「キューバ革命のイデオロギー研究のノート」と題する文章(一九六〇年十月八日号雑誌ベルデ・オリーボ)の中で、かれらの戦いが農民や農村を基盤にしたものであり、農業改革が新しいキューバを建設するための土台であったことを強調している。この文章は、さほど長いものではないが、なかなか|含蓄《がんちく》にとんだもので、マルクスのボリーバルに対する考え方の誤りを指摘したり、さらにマルクスやエンゲルスが行なったメキシコ人に対する分析に異をとなえている。これによってもかれがとおりいっぺんの公式的なマルキストではなかったことが知れるのだ。
カストロは、農民が何を欲しているかを熟知していた。かれはここでウルチアと妥協すれば、二年間の苦しかった戦いがその意味を失ってしまうことを心得ていた。同志のなかにも、穏健策を求める声のあることもわきまえていた。しかし、かれは断乎とした手段をとることを決意した。といって、兵力を用いてウルチアを逮捕したり監禁したりすることは考えられなかった。それでは、かれが打倒したバチスタと同じになってしまう。そんなことをすれば、キューバ革命はやはり意味を失ってしまう。カストロは首相であり、ウルチアは大統領である。首相が大統領を解任することはできないのだ。
七月十八日、カストロは首相の職を辞任した。
ニュースはそくざに世界じゅうに伝わった。
東京のホテルで、キューバ使節団の一行は、このニュースを伝えるジャパン・タイムスを読んだ。朝食のときだった。かれらがキューバを出発してから一カ月以上たっていた。チェは、農業改革に対する反対がかなり執拗なものであるとはわかっていたものの、事態がそこまで深刻化しているとは予期していなかった。新聞を読んで文字どおり仰天した。
かれは食堂をとび出すと、フェルナンデスといっしょに部屋に戻り、まず大使館へ電話をかけた。
アルソガライ大使のところには、本国からくわしい連絡は入ってきていなかった。カストロ首相が辞任したという電報がきたきりで、新聞のニュース以上の内容はなかった。
チェは団員たちを集めていった。
「フィデルが辞職した。われわれはすぐにキューバへ帰ろう。みんな、荷物をまとめて支度をしてくれ」
出国の手続や飛行機の手配などをアルソガライにまかせて、チェは、ハバナへ国際電話をかけた。かれはフェルナンデスにいった。
「いったい、どうなることか。そんなことがあろうはずはないが……わけがわからない」
想いはフェルナンデスも同じであった。かれらは、ひたすら、電話がハバナにつながるのを待った。
チェがかけた相手は、ラウル・カストロとセリア・サンチェスであった。三時間後に、交換手はラウルが出たことを告げた。
約十五分間、ふたりは話しあった。結論的に、ラウルは、たしかにフィデルは辞任したが、きみはそのまま旅行を続けろ、なにも問題はない、といった。
ラウルの勧告には、それなりの根拠はあった。カストロの辞任がどのような効果を及ぼすかを、心得ていた。じじつ、それは、カストロが選んだ最良の策であった。キューバ国民は、一九五三年七月二十六日のあの輝かしい日から今日まで、フィデル・カストロ・ルスがキューバのためにいかに献身したかを知っていた。キューバ国民の大多数は、かれらにとって必要なのは、フロリダ半島からバチスタの悪政を非難していた人物ではなくて、銃をとって倒した男であることを認めていた。数十万人の群衆が革命広場に集まり、ウルチアの辞職とカストロの復帰を求めた。「アバホ・ウルチア!」(くたばれ! ウルチア)の声は、大統領官邸の窓ガラスを通して、ウルチアの耳にとどいた。
国内、とりわけハバナ市内の混乱は頂点に達した。通りという通りには群衆があふれた。かれらは手に手にプラカードを持っており、それには「フィデルよ、われわれを見棄てるな」とか「ウルチア、出て行け」とか書かれていた。
ウルチアは孤立した。かれは、自分が大統領を辞任するしか国内の混乱を救う道がないこと、同時にまた選択の余地はなく、それしか手段のあたえられていないことを自覚した。カストロの辞任も、それを狙ったことは明らかだった。かれは、その点で、|慥《たし》かに政治家であり、政治には、ときとしてそのような術策も必要であることを知っていた。
この日のハバナ市民のデモが、自発的なものかあるいはカストロ派による動員かは、微妙なところである。カストロを擁護するものは前者をとり、かれを非難するものは後者の見解をとる。しかし、問題の本質は、キューバ革命を前進させるか後退させるか、であったろう。カストロは、一歩の後退が百歩の後退に、やがては敗北につながることを知っていた。ある意味で、かれは危険な賭けに出たともいえるのである。ウルチアがかりに強引に居坐りを続ければ、事態は収拾のつかぬことになったろう。最終的には、武力が登場するようになったかもしれないのである。もしそうなれば、キューバ革命は、他のラテン・アメリカ諸国にひんぴんとして起こっているクーデター方式の革命と、大差のないものになってしまう。
ウルチアは、その夜革命政府に辞表を送った。かれについては、今日でも、革命に対する裏切りものというレッテルがはられているが、それは酷である。ウルチアはオールド・リベラリストではあっても、やはり誠実で良心的な人物だったと思われる。かれは、辞任によってキューバ革命を救ったのだから。
革命は薬である、にがい薬である。だが、ときとしてそれは、よりにがい悪に対する唯一の薬である、というカストロの言葉は、翌年のメーデーの演説において吐かれたものだが、そのときカストロの胸中には、十カ月前のこの出来事が去来していたのではないだろうか。
こうして、革命政府は、ウルチアの代りに、現大統領ドルチコスを選び、ドルチコスは再びカストロを首相に選んだ。ウルチアは、間もなくキューバを去った。
★
チェは、ラウルやセリアと連絡を保ちながら、日本国内の旅行を続けた。
まず、最初はトヨタ自工の見学である。
二十三日午前九時。チェは愛知県のトヨタ本社工場に到着した。このころのトヨタは、現在と違って本社工場は、出はじめのトヨエースなど小型トラックが主体になっていた。ゲバラ一行も、乗用車よりもトラックやジープに興味をもったようである。
まず、三十分間、応接室で説明をうけたのち、九時三十分から一時間にわたって工場を見学し、そのあと、茶菓をとりながら、質疑応答をした。それがどんな内容であったかについては、案内したK・S氏も記憶していない。なお同氏は、真珠湾を攻撃した戦歴の持主であるが、もしもチェがそれを知っていたならば、あるいはもっと話がはずんだかもしれない。
トヨタをあとにしたチェは、この日の午後、新三菱重工の飛行機製作関係を視察したのち、午後七時二十五分発の急行「西海」にのり、十時二十七分大阪着で、その夜はグランドホテルに泊まった。
翌二十四日の行動は次のとおりである。
午前八時、グランドホテル発、久保田鉄工堺工場を訪問見学。ここでは、農業機械に非常な興味を示した。
この一九五九年は、キューバでは「解放の年」と名づけられているが、翌一九六〇年は「農業の年」である。それを考えれば、チェが興味を示したのは当然であろう。
久保田側では、チェたちを「農業使節団」ということで、受け入れた。
当時、案内したM・S氏は語る。
「ふれこみは、農業使節団ということで、外務省からの申入れで受け入れたものだ。どちらかというと、|傲然《ごうぜん》たる態度のように見えた。わたしは前にアルゼンチンにいたことがあったので、多少とも喋ることができるし、親しみをますつもりでいってみたが、まるで聞き流すような態度だった。お高くとまっているという印象が残る。同行していた大使は、如才のない人のようだったが。ほかの軍服の連中も無口で、話した記憶はない。ただ、八月ごろだったか、タイムかニューズウィーク誌かで、そのときの男がユーゴのチトー大統領と握手している写真や記事を見て、はじめてゲバラのことを知って驚いたものである。かれの|昂然《こうぜん》たる態度も、うなずけるとそのとき思った」
この印象は、他の人たちが受けたものとかなり違うようである。たとえば、前述の須磨氏は、「伝え聞いていたゲリラの戦士という感じはなくて、一言でいえば、色白のもの静かな男という印象だった。陽気なタイプの多いラテン・アメリカの人にしては、珍しいという感じをうけたものである」
あるいは、日本キューバ協会理事長|居作《いづくり》精太郎氏は、
「わたしが会ったのは、二十一日夜に三井クラブで開かれたパーティのときだったと思うが、戦場の匂いが残っているような感じだった。しかし、話し方その他はきわめて静かで落ち着いていた。そのとき、ゲバラと並んで撮った写真があるが、それは、やァやァという感じではなく、アルソガライ大使がゲバラをひっぱってきて、わたしと腕を組ませたものだ。ただ、忘れられないのは、かれの眼である。じつに澄んだ瞳で、ああ、死線をこえた人間の眼だな、とそのとき思ったことをいまでも憶えている。また、かれは約束をきちょうめんに守る男で、わたしがカストロについての日本の新聞雑誌の切りぬきを托し、カストロに渡してくれと頼んだ。ラテン・アメリカ人とのこの種の約束はアテにならぬものだが、のちにカストロの秘書から礼状がきた。ちゃんと渡してくれたのだとおもって感心した」
共同通信のA・H氏は、
「わたしは離日前の記者会見で、場所はどこかのホテルだった。通訳なしで、英語で喋った。かれは、砂糖を日本にもっと買ってほしいと思い、業界とも積極的に折衝した、と語っていた。着ているものは軍服だが、ズボンの折目もきちんとしており、新しい品物のように見えた。顔は色白で、ヒゲはいま写真で見るとおり。同席の人物が紹介している間、にこにこしていたが、かれ自身はあまり喋らなかった。無口な男だった。ただ、茶色の黒がかかった柔和な眼の輝きが印象的だった。その会見には、サンドウィッチや飲みものが出たが、かれはそれをみずから記者団にすすめた。ゆっくりしていってくれ、ともいったと思うが、日本人記者たちはすぐに帰りはじめた。わたしは帰りぎわに、英語で二言三言話したのち握手をして別れた。そのとき、かれの手が、ひどく柔らかであったことを記憶している」
こんなふうに、チェは、かれに接した人びとにさまざまな印象をあたえているが、共通しているのは、眼がとても澄んでいたこと、そして多弁型のラテン・アメリカ系の人のなかにあって、例外的に口数の少ない男だったということである。
さて、久保田鉄工のあと、使節団は丸紅飯田、鐘紡と訪問したのち、午後四時にいったんホテルに戻った。そして、同日午後六時、コクサイ・ホテルで開かれた大阪商工会議所主催の「キューバ|通商《ヽヽ》使節団」歓迎パーティに出席した。
このパーティの会費は一人二千五百円。当時としてはかなりの豪華版である。主な出席者は、会頭杉道助、外務省大阪連絡事務所大使吉田賢吉、大和銀行頭取寺尾威夫、日綿実業社長岡島美行の各氏で、このほか、安宅産業、伊藤忠、伊藤万、兼松、久保田鉄工、住友商事、住友銀行、東洋棉花、日商、丸紅飯田、松下電器貿易、三井物産、三菱商事などから、重役、部課長クラスが出た。通商使節団ということで、商売になると思ったのであろう。
じじつ、チェは訪日によって理解した日本の工業力への称讃を、キューバに帰ってからもカストロ首相に語り、とくに工業相になってからは日本との取引を計画したのであるが、日本の業者の方で、アメリカに気兼ねして、ほとんど品物を売っていない。現在では、かつてキューバと取引したことがあるのを隠そうとする会社もあるくらいで、ここでも歳月の流れを感じさせられる。
翌二十五日。一行は川崎ドックを見学したのち神戸のオリエンタル・ホテルで繊維業者と懇談、そのあと帰京するはずだったが、突如としてここで予定を変更して、広島へ飛んだ。
同行したのは、アルソガライ大使とフェルナンデス大尉だった。三人は午後一時に岩国空港に着陸した。
来日当初、ゲバラの視察日程には、広島は入っていなかった。
そして、外務省の|依嘱《いしよく》で関西旅行を世話した三菱の日程表は前述のように、神戸の視察となっていた。
一行が、大阪から広島は飛行機で一足だと聞いたのは前の日の二十四日らしく、他の日程をすべて犠牲にしても、原爆慰霊碑に献花したいといいだした。そのため、外務省の大阪事務所は、広島県庁あてに電話で連絡した。そのとき連絡をうけた県総務課の記録によれば、一行は三名、土曜日午後なので官庁訪問は遠慮する、また原爆慰霊碑に捧げる花束を用意されたい、費用はキューバ負担、となっている。
午後一時、チェたちをのせた全日空機は岩国空港に到着した。
県では、外事関係担当の見口健蔵氏が車を用意して迎えに出た。戦闘服姿を予想していなかったので、見口氏は驚いたそうである。
チェは飛行機のタラップを下りてくるなり、すぐに両がわに並んでいたアメリカ空軍機をじっと見つめた。
それから三人は車にのった。よく晴れた暑い日で、三人の外人は、ひどく汗臭かったという。
車は広島へ向ったが、途中、宮島口で見口氏は車をとめ、日本有数の名勝を紹介した。チェは渡船の竜宮丸の桟橋のところで写真におさまった。そのとき、和服の娘さんが通りかかった。それを見たチェは、日本にきてからキモノをあまり見かけないので珍しい、といったそうである。
見口氏の方は、二時に、花屋が新広島ホテルのフロントに花束を持ってくることになっているので、時間に遅れはしないか、とむしろその方が気になっていらいらした。
それにしても、チェがキモノ姿の娘さんを珍しがったのが、来日十日目であることは、どういうわけだろう。文字通り昼夜兼行で工場視察などに歩き回っていたので、このときになって初めて、ゆっくりと風景や人を見るゆとりができたのだろうか。
チェは二時すぎに、新広島ホテルに到着した。このホテルは、慰霊碑から僅かの距離である。チェはそこで花束(千五百円だった)を受けとり、慰霊碑にささげ死者の霊をとむらった。
それから、一行は資料館に入った。約一時間かかったというから、長い方である。(同館での平均の見学時間は三、四十分)
チェは、館内のさまざまな原爆による被害の陳列品を見るうちに、見口氏に英語でいった。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
それまで、見口氏はもっぱら大使と話すだけで、チェやフェルナンデスとは、ほとんど口をきいていなかった。それまで無口だったチェがこのとき不意に語りかけ、原爆の惨禍の|凄《すさま》じさに同情と怒りをみせたのである。見口氏はいう。
「眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています。のちに新聞でかれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い、その後カストロと別れてボリビアで死んだと聞いたときも、なるほどと思ったことがあります。わたしの気持としては、ゆっくり話せば、たとえば短歌などを話題にして話せる男ではないか、といったふうな感じでした」
このあとは原爆病院を訪れたのち、新広島ホテルに泊まった。日帰りを予定していたが、帰りの飛行機が満席だったためらしい。
翌朝、見口氏は十時広島駅発の列車にのせるために、それに間に合うように迎えにきた。そのとき、三人が階段からぞろぞろ下りてきて、ホテルの会計をすますのを見ていた。
そのうち、チェが勘定書を見て、明細書をゆびさし、強い口調でフロント係に抗議しはじめた。それは前日、見口氏が一行のために大阪の外務省連絡事務所にかけた連絡電話代だった。それがキューバがわの勘定に加わっていたわけである。チェは、そうとは知らずに、こんな電話はかけた覚えがないといって、フロントに抗議したのだ。
この電話代をめぐって、チェと大使とはスペイン語でやりあった。大使の方は、それくらいはいいではないかとなだめ、チェの方は、いかに少額でも承服できないと応酬していたが、結局は電話代を支払って出発した。
この日、キューバでは、ウルチア大統領と対立して辞意を表明していたカストロが、再び首相に復帰した。チェら使節団一行は、大阪から空路東京へ帰り、麻布プリンスホテルでの「七月二十六日運動」記念パーティに出席した。
パーティには東知事も出ているが、出席者の一人に、梶山亥之助氏がいる。氏は一九五七年一月から一九五八年十二月二十日まで、バチスタ時代にハバナにいた。そのはじめのころ、氏の下宿に、モイセス・シルバ・コルテスという青年がいた。この人物は、数カ月後にシエラ・マエストラ山中のカストロ革命軍に身を投じた。そのため、氏も疑われて憲兵隊の家宅捜索をうけ、関係はなかったが危ないというので、革命成立前に一時帰国していた。
このコルテス青年が、革命成立後は空軍司令官になっていた。そして、コルテスの推薦で、梶山氏は七月九日付で、キューバの農業改良局の水産顧問に就任していた。
梶山氏は、こののち九月になってから、キューバに渡った。そのとき、氏はカストロ首相から、いろいろ話を聞きたいから中央銀行にきてくれ、といわれ、そこへ行ってみると、チェをはじめ革命政権の中心人物たちが何人か|揃《そろ》っていた。
チェは日本から帰った直後らしく、カストロを待っている間に、銀行の係員を呼び、持って行ったトラベラース・チェックが余ったから、といって、一枚ずつサインしては返却していた。中南米人相手に長い経験をもっている氏の目には、それが奇蹟のように見えた。余ったからといって返却するような人間には、かつてお目にかかったことがなかったからである。
梶山氏は、もうひとつ、興味ある証言をする。そのとき、遅れてきたカストロが、スパゲッティを食べながら、
「チェ、あっちの方はどうだった?」
と|訊《き》くと、チェは、例によってもの静かな口調で、
「ユーゴの体制がいいと思うな」
と答えたそうである。
★
二十七日は、日本における最後の日である。この日、ゲバラは五時に外務省を訪問し、最後の交渉をした。
チェ 本日は忙しいところを、時間をさいていただいてありがとう。ところで、フィリピンは日本にクォータ以上10パーセントも余計に、つまり四千五百トンも余分に砂糖を売っていると聞いたので、それについて抗議する。
牛場 そういう事実はない。
チェ 提案があったと聞いている。
牛場 提案はないし、あっても受ける用意はない。
チェ 日本は百万トンの砂糖の買付け量のうち、なお二十万トンを残している。もし三十万トン買付けの約束をしてくれるならば、うち十五万トン分の代金を円貨で受取る用意がある。
牛場 それはキューバ政府の提案か。
チェ そのとおり。
牛場 これは大事な問題なので、いますぐには回答できない。
チェ すぐに返事のできない事情はよくわかるので、検討してもらいたい。もし決定したら、キューバ砂糖決定委員会に連絡してほしい。これは国家機関で、政府代表、資本家代表、労働者代表が参加しており、会長は経済相であるが、一行中のメネンデスが事務局長をしている。
牛場 いつご出発か。
チェ 夜十一時十五分にインドネシアへ向かう。まだ八カ国訪問を残している。来日以来の日本政府のご配慮に感謝します。われわれの日程は多忙をきわめたが、通商協定についての意見交換により、大きな成果の生まれることを期待している。
牛場 同感である。次回にはゆっくり日本にこられることを希望する。
こうしてチェはその夜日本を去った。それにしても、この会談における円払いの発言は、チェの革命政府内での地位を暗示しているという点で重要である。これほどの重大事を、かれはカストロと相談することなく、自分の一存で提案したと思われるからだ。居作精太郎氏の話によれば、チェは銀行筋を訪れ、その具体案を研究して帰ったそうである。
日本を出発した使節団はインドネシアへとび、スカルノ大統領、スバンドリオ外相らと会談、さらにユーゴではチトー大統領と会談した。
一行のキューバへの帰着は、九月八日であった。出発のときは一行も新聞にのらなかった使節団の動きは、ネルー首相との会談からニュース面に登場した。ちょうど、インドからホセ・バルドという新聞記者が同行するようになったせいもある。バルドは野心家で、カストロに頼みこんで、その役を買って出た。かれの狙いは、訪問するどこかの国の大使になることであった。カストロの次に自分が偉いと思っていた男だというのが、フェルナンデスの批評である。
余談になるが、キューバ革命のもつ奇妙さは、この種のタイプの人物がしばしば登場するところにある。同じことは、駐日大使館のラミレス書記官についてもいえる。かれの妻は日本人で、ラミレス自身も日本語をよく話した。チェが日本がわと会見したさいは、ほとんど顔を出した人物である。
キューバの駐日大使は、アルソガライの前に、ホセ・ガルシア・モンテスというきっすいの外交官がつとめていた。かれは一九五四年に領事として来日し、すぐに代理公使、公使、大使と昇格し、一九五八年秋に一時帰国した。ときあたかもバチスタ政権崩壊の前であり、バチスタ派だったかれは、革命後はグアテマラに亡命した。弁護士出身のアルソガライが革命政府によって大使に任命されたのは、一九五九年二月であるが、その前に、キューバ大使館にひとりの青年が現われ、
「自分はカストロの友人で、かねてから命令をうけて日本に潜伏していた。きょうから大使館を自分の権限の下に置く」
と宣言して、そのまま居坐った。留守をあずかっていた館員たちは、半信半疑ながら、ラミレスがしばしばハバナへ電話をかけ、カストロと|話しているらしい《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ので、それを受け容れたという。
このエピソードは、本国での混乱が在外公館にも反映していることを伝えている。チェの第一回の海外旅行は、こういう情勢と状況の中で続けられたわけであるが、かれが各国の著名な指導者とつぎつぎに会談するにつれて、新聞もしだいに大きく報道しはじめた。当時の日本は、岸首相が外遊中だったことも多少は左右しているかもしれないが、キューバがわの熱意に比して、きわめて冷淡であった。しかし、チェの方は日本での旅行で、多くのものを学んでいた。フェルナンデスはいう。
「チェは日本に行く前、日本人の精神力というか、日本の心を高く評価していた。日本人がきわめて勤勉だということも理解しており、日本を訪問国に選んだ動機のひとつにもなっていた。その面について、じっさいに日本へ行き、大阪で工場見学をしたり、東京でソニーの工場を見たりして、その考えが間違っていなかったということを認識した。
日本にいたとき、大きなデモも見たが、(筆者註・原水爆禁止アピールのそれらしい)それにも感銘していた。また、工業が多言を要さずに素晴らしかったことにも、強い印象をうけた。
日本の若い世代が非常に進歩的だという感じもうけた。日本の前のインドに行ったときは、国自体がなにかダランとしてゆるんでいるように見えた。少しも働こうとしていなかった。日本では、すべての人が、働く意欲にみちているとおもった。
われわれは、あたたかい歓迎をうけた。おしぼりのサービスには、みんなが喜んだ。ただ残念なのは、希望した見学が必ずしもかなえられなかったことだった。チェは兵器工場を見学することをのぞんでいたが、日本がわは
最後まで案内してくれなかっ|た《〈*五〇〉》。到着したはじめの日から、ヒロシマヘ行きたいといったのだが、なかなか実現させてくれなかった。なにか、われわれが広島へ行くのをいやがっているような印象をうけた。結局、案内してくれそうもなかったので、自分たちで
夜行列車の切符を買って行っ|た《〈*五一〉》」
★
使節団は、九月八日午前七時四十八分にハバナに帰着した。飛行場にはラウル・カストロと妻のアレイダ、さらにチェの旅行中にアルゼンチンからこんどは独りでやってきた母のセルナとが迎えた。
チェは、そのあとで各国の事情をカストロに報告したのち、テレビによる報告会に出た。その席に招かれた外交官は、日本大使だけであった。そのとき、日本の神田大使、片岡孝三郎参事官(当時)も招かれた。片岡氏は語る。
「ゲバラの報告会はテレビのスタジオで開かれたが、これはそのときに限ったことではなく、何かあるときは、キューバの指導者たちはその方法をとった。
ゲバラが、この報告会で、『第二次大戦のときは、自分はまだハイスクールの学生だったが、日本の帝国主義的侵略には憤慨していたものだった。それで原爆によって日本が降伏したと聞いたときは、|快哉《かいさい》を叫んだものであった……』といったとき、司会者が『日本の大使が会場にきている』といって視聴者に紹介した。
ゲバラは、このときまで神田大使が出席していたことを知らなかったらしく、ここで語をついで、『……快哉を叫んだものであったが、しかし』と続けた。つまり、『しかしこんどヒロシマを訪れてみて、戦争というものの悪、原爆の残虐さをつくづくと痛感し、これを使用したアメリカに憎しみを感じた』とつけ加え、日本の工業力などに称讃の言葉を送った。この、つなぎの|鮮《あざや》かさに、頭のいい男だなと感じたのをよく覚えている」
ここで、チェの日本訪問がどのような成果をあげたかについてふれておきたい。まず池田、牛場らとの会談で話に出た通商協定が、このときの話合いが|基《もと》で、翌年に成立した。これは現在も有効で、日本――キューバの貿易はこの協定によっている。しかし、当時の日本人は、チェが何ものであるかを知らず、ほとんど無関心であった。一行を世話した人の証言によれば、終始かれをフォローしていたのは、アメリカの情報関係だったという。
チェの日本訪問が、かれ自身にいかなる内面的影響を及ぼしたかは、今後の研究課題だろう。しかし、かれのその後の文章や演説中に、しばしば日本の工業力をほめる言葉が見られる。そして、かれがボリビアに新しい戦場を求めて潜入してから送った「世界の人民にあてたメッセージ」中でも、広島、長崎の原爆にふれている。それをみると、日本でうけた最大の|感銘《かんめい》は、どうやら広島にあったらしいのである。
また、かれは「原爆から立ち直った日本」というレポートをカストロに提出しているが、それは『キューバ革命の中のチェ』という特別な書物に収録されている。この本は、チェがキューバを去ったのちに、かれをよく知る人びとが編纂したもので全七巻、それぞれ一部しかつくられなかった。カストロ兄弟、セリア・サンチェス、ファン・アルメイダや前記フェルナンデスら七人が分担して一部ずつ所有している。チェとの連帯の絆を確認するために作られたような特殊な本であり、公開されていない。
チェは、新設の工業部の部長に任命され、さらに十一月二十六日には、フェリペ・パソスに代って、国立銀行総裁に就任した。
この間に、正確には十月二十八日、カミーロ・シエンフエゴスが死んだ。カミーロは飛行機でカマグエイからハバナへ向かう途中、行方不明になった。
カミーロの死については、今日でもさまざまに|噂《うわさ》されている。そのもっとも極端なものは、
ラウルが殺したのだという|説《〈*五三〉》である。そのような説が起こった背景には、カストロの同志だったウベル・マトス少佐の辞任と逮捕がからんでいる。マトスはカストロの急進政策を批判し、結局政府転覆を企てたという罪で二十年の刑を言い渡される。
カミーロはマトスの友人だった。そのために、カミーロの死にも粛清説がとんだのだろうが、それは揺れ動く革命政権の不安定さを物語っているともいえた。ある意味で、それは無理からぬことでもあった。カストロをはじめ、革命家たちは、ゲリラ戦争については熟達していても、行政についてはズブのしろうとばかりであった。カストロは三十三歳、チェは三十一歳であった。政府の幹部、たとえばある省の次官になったもののなかには十九歳という若ものもいた。かれらにどれほどの行政能力があるのか、誰もわからなかった。
バチスタ時代の役人の行政力に頼ることもできなかった。利用したくとも、かれらの大半は亡命してしまっていた。
チェをふくめて、革命政府の指導者たちは行政のイロハから勉強しなければならなかった。チェの勉強ぶりは、とりわけ徹底していた。かれは、朝八時に出勤し、銀行総裁としての仕事が終ると、財政経済の専門家を招いて講義をうけ、その合い間には、本をむさぼるように読んだ。たいていは午前二時あるいは三時ごろまで、かれの部屋の灯がともっていた。喘息は依然として、かれを苦しめていた。コーチゾンをたえず服用していたために、このころのかれは肥っているように見えたが、実際はむくんでいたのであった。
「チェは吸入器をしじゅう使っていた。発作が起きると、目の下に|くま《ヽヽ》ができて、|脂汗《あぶらあせ》を流してとても苦しそうだった。たいていは、人の目をさけて吸入していた。
かれはいつも本を二、三冊、自動車の中に置いていた。暇さえあれば読んでいた。工業と経済に関するもので、非常に勉強していた。また、かれは、自分自身がなにか書くときに、正しく書くことを心がけていた。その点ではアレルギー的ですらあった。かれの部屋に大きな黒板があったが、誰かがそこに間違ったことを書いたりすると、必ず直した。たとえば、レーニンとかフィデルがいった言葉が書かれてあり、それが間違っていると、レーニンは、こんなふうには書かなかった。どの本のどのページをみてみろ、といった。あとで調べてみると、いつもチェがいったとおりだった。チェは本を読む速度も速かった。同時にその中から問題を把握し消化するのも、速かった。
いまでも忘れられないのは、チェがはじめて飛行機を操縦したときのことだ。人びとはかれが操縦できるなどとは思ってもいなかった。かれが操縦席に入っても、まさか飛ぶとは考えなかった。そしたら飛行機――セスナだったが――が飛び上がってしまった。みんな、どうなることかと|蒼《あお》くなったが、ともかく下りてきた。かれは、人には茶目気たっぷりに、なにも知らなかったけれど、いじっているうちに飛び上がってしまい、どうにか下りることができたなんていっていたが、チェはなにをするにも用意周到な人だったから、そうは思えない。ひそかにどこかで習っていたのだ。
かれは日一日と新しい面を自分たちに見せていた。毎日が新しい面だから、わたしにとっては|全《すべ》てが感銘ふかい。シエラの苦闘の時代から最後まで、かれはつねにファイティング・スピリットを維持していた。この点でわたしはもっともふかい感銘をあたえられている」(ゴンサロ・アルブエルネ氏)
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国立銀行は、バチスタ時代に陸軍省用として建設されたものであった。かれの事務所はいくつかの続き部屋からなっていた。余分な家具や装飾めかしたものは、一切なかった。家具のかわりにいるのは、ヒゲを生やして戦闘服を着こみ、ライフルを持った兵士たちだった。チェ自身も、戦闘服を、下着のシャツなしに、じかに身につけて、腰には拳銃をつけていた。ときどき、ボタンをはずしては、胸をぬれたタオルで湿布した。ライフルや拳銃は、反革命派のテロに対処するためのものだった。
銀行総裁としてのチェの仕事のひとつに、新しい銀行券の発行があった。かれは、それまでの図柄を一変させた。キューバの愛国者だったアントニオ・マセオやマキシモ・ゴメスを肖像として採用した。裏面には、ジャングルの中を前進する兵士の列や例のヒゲを生やした男(カストロとは似ていない)の演説を聞く数十万の群衆といった図を配した。かれは、さらに、この紙幣に総裁とした署名した。右上がりの独特の字体で Che とだけサインした。
それは、金銭に対する神聖視への挑戦でもあった。金さえあれば何でも、ときには人間の良心さえも買えるという観念を抱いている人びと――そしてそういう観念がバチスタ時代には唯一の支配的なものだったのだが――を仰天させた。紙幣は、たんに物質の交換を補助するための手段にしかすぎないことを、かれは無造作きわまるサインによって証明してみせた。
また、チェはキューバの手持ちの外貨を調べさせた。一九五四年には四億ドルもあった外貨は四千八百万ドルに減少していた。そのなかのある部分は、金の形でアメリカのフォート・ノックスに保管されていた。チェはそれを知ると、ただちに全部を引揚げるように手配した。のちにキューバは国交断絶にともなって米系資産のすべてを没収し、アメリカもまた同じような対抗措置に出るのだが、この勝負はいうまでもなくチェの勝ちであった。
現実に、キューバとアメリカとの関係は、日をおって悪化しつつあった。しかし、北方の巨人は、まだタカをくくっている部分があった。なぜなら、アメリカはキューバ砂糖の最大買付け国であり、ということは、キューバ経済を握っているにひとしかったからだ。キューバの砂糖生産量は、五百五十万トンから六百万トンであった。その大半が輸出されていた。このうちアメリカの買付けは、
一九五七年 二百八十八万トン
一九五八年 三百十九万トン
一九五九年 二百九十万トン
であった。
しかもアメリカは、協定により国際市場価格よりも、一ポンド(四百五十四グラム)当り、平均して一、二セント高く買っていた。もっとも、その代償として、アメリカの繊維製品は特恵関税をうけ、砂糖に見合う分以上の割り戻しを実質的にはうけていた。
そういう経済的な武器を背景に、アメリカはキューバと農地問題を中心として交渉しようとした。キューバがわは、これに対して、会談中に砂糖買付けを切り下げないという条件で、会議のテーブルに出てほしい、と要求した。むろん、アメリカはこれを拒否した。以上は、一九六〇年の三月初めのことであるが、それ以前の二月四日に、ソ連の“商人”ミコヤン副首相がキューバを訪問し、向う五年間に毎年百万トンの砂糖を買付けることを約束していた。(このうちドル建ては二〇パーセント、残りはバーター)
結局、アメリカは、一九六〇年には買付けを七十万トン削減し、翌年からは一切を停止してキューバ経済を苦境に追いこむのであるが、チェが財政経済の総元締として身を粉にして働いたのは、この苦難の時期であった。かれは一九六一年二月、機構改革で新たにつくられた工業省の責任者の地位につくまで国立銀行総裁をつとめ、その間、一九六〇年十月から十二月まで、キューバ経済使節団長として、ソ連、チェコスロバキア、中国、北朝鮮などの社会主義諸国を歴訪した。
その後もかれは、しばしばキューバの代表として多くの国際会議に出ているが、実際問題として、カストロに代ってあらゆる問題について発言し交渉しうる能力のある人物は、勉強家で柔軟な頭をもったチェしかいなかったともいえるのである。カストロがキューバの心臓ならば、チェはその頭脳であるといわれたのも、このころであった。
日を重ね、月を経るに従って、革命キューバとアメリカ合衆国との関係は、険悪化の一途をたどった。それは、弾みのついた石塊が坂道を転がり落ちるようなものであったが、それを救うものがあるとすれば、アイゼンハワーに代る希望の星ジョン・F・ケネディであった。一九六〇年秋の大統領選挙で、ケネディはニクソンを破って、第三十五代のアメリカ合衆国大統領に選ばれていた。
若い大統領がじっさいにホワイトハウスに入れば、という期待は、キューバ人たちの間にも生まれていた。
しかし、現実政治の歯車は、人間の希望とは無関係な力によって動くものである。ケネディ個人は、キューバ関係の改善に必ずしも不熱心ではなかったが、合衆国政府としての歯車は、前政権の敷いた軌道に沿って、ある期間は動かざるを得ないのである。さらにいえば、ケネディのブレーンたちのなかに、キューバ革命に好意や、好意とまではいかなくとも理解をもつものは少なかった。かれらはニュー・フロンティア・スピリットに燃え立ってはいたものの、ラテン・アメリカに対する感情や評価の点では、歴代政府の高官と大差はなかった。アメリカの意思に反抗するものは、かりにそれが正当の理由を秘めていようとも、アメリカの敵であった。
主として外交問題の特別補佐官であったA・M・シュレジンガーでさえも、その例外ではなかったことが、その回顧録『一千日』(邦訳『ケネディ』中屋健一訳)からもうかがえる。かれの分析によれば、革命前のキューバはそれほど絶望的な状態ではなく、人口ひとりあたりの収入では、ラテン・アメリカ諸国の中で第四位、工業生産で五位、自動車とラジオの普及率では第一位だったというのである。「キューバが深刻な経済問題をかかえ、アメリカに比べて生活水準が低かったとしても、ハイチやボリビアと比べれば、ずっと裕福であった。革命のかげにある直接の動機は、経済と同様政治にもあり、革命の指導者たちも、農民や労働者ではなく中産階級の人たちであった」と書いている。
さすがに露骨に書いていないが、この文章を読むと、アメリカよりも貧乏かもしれないが、ボリビアやハイチよりも楽に暮せるのだから、何も不服をいうことはないじゃないか、といいたげであり、まるで主人が従僕の不満を、いわれのないものとして怒っているような口調でさえある。
革命の指導者たちについての分析も、それが誤っていることは明白と思われるが、シュレジンガーのこの偏見は、そのままアメリカ政府の偏見でもあった。アメリカは、カストロが行なった大土地所有制度の禁止――それはアメリカ資本の大損害になった――を共産化とみなし、それは、シュレジンガーの言葉を借りれば、「革命の堕落」というのであった。
一九六〇年十一月十七日、すでに大統領当選者となっていたケネディは、CIA長官のアレン・ダレスから、反カストロのキューバ人亡命者たちがCIAの指導のもとに、グアテマラ国内で軍事訓練をうけている旨の報告をうけた。この計画はすでに六カ月前から着手され、ゲリラの基本的な訓練はすでに終了し、上陸作戦の演習段階に進んでいた。
ケネディは、ダレスから話を聞き終ると、その計画はそのまま進めたまえ、といった。このケネディの言葉について、シュレジンガーは、計画は計画としてそっとしておき、じっさいに大統領の椅子に坐ってから、もう一度検討するつもりだったのだ、と説明しているが、ダレスは、確定せる未来の大統領の事実上の承認とうけとった。そして、うけとったとしても、この場合はダレスを責めることはできないだろう。CIAは以前にもまして、キューバ侵攻計画を強力に推し進めて行った。
年があけてケネディが大統領に就任してから、CIAと統合参謀本部は会合を重ね、侵攻の具体的な計画をねりはじめた。そして、三月下旬にはそれはすっかり固まった。
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CIAの計画は、きわめて楽観的なものだった。カストロの共産主義体制は、キューバ国民のすべてからきらわれており、義勇軍が上陸すれば、約二万人の反カストロ派が内部から武器をもって決起するだろう、というのである。むろん、アメリカ軍が公然と作戦に加わるのはまずいが、ちょっと力を貸してやればカストロ政権をひっくりかえすことは可能だという説明だった。
もっとも、当のダレスは、こう弁解している。
「私は、一九六一年のキューバ作戦の詳細について論評したこともなく、またここで論評するつもりはないが、以前、この問題について公に述べたことを再び繰り返したい。すなわち、上陸によってキューバの武装されていない民衆の自発的反乱が誘発されるというような評価を私は
見たことがないということであ|る《〈*五四〉》」
つまり、ダレスは、そんな甘い判断をもってはいなかった、といっているわけだが、ケネディ側近の証言は、これを否定している。
「ケネディが後日私に語ったところによると、アレン・ダレスは大統領に、“私はいまのようにアイクの机のそばに立って『グアテマラ作戦は、絶対に成功します』と申しあげたのですが、大統領閣下、こんどの計画はあのときよりもっと成功の見込みがあります”と
言上したそう|だ《〈*五五〉》」
ダレスのいう「グアテマラ作戦」とは、チェが目撃したアルベンス政権の崩壊である。チェをメキシコへ追いやり、ついにはキューバへと導いた直接のきっかけこそは、このCIAによるグアテマラ侵攻だったが、七年を経たのち、チェはキューバ革命軍の最高首脳のひとりとして、CIAの侵攻に立ち向かうときを迎えた。
チェ自身は、ケネディに対して、はじめから希望をもっていなかった。側近だったシュレジンガーの弁護はどうあれ、ケネディ自身は、選挙戦の最中に、アイゼンハワー政府のとったキューバの海上封鎖は遅すぎたし、アメリカは民主的な亡命反カストロ派とキューバ国内の反カストロ・ゲリラを支持すべきだ、と言明していたのである。
チェは、ケネディが必ずキューバ侵攻計画にサインするだろうと考えていた。じっさいキューバ国内での反革命的事件は、一年前つまり一九六〇年三月四日に起こった「ラ・クーブル号爆発」以後、一段と激しさを加えていた。ラ・クーブル号はフランス籍の貨物船で、キューバがべルギーから買入れた軍需物資を満載して、ハバナに入港していた。それが大爆発を起こし、七十五人の死者と三百人以上の
負傷者を出し|た《〈*五六〉》。
★
国籍不明の飛行機はしばしば飛来して、爆弾を落していたし、テロもやまなかった。チェが国立銀行総裁から、新設の工業省の大臣に就任した二月二十四日に、かれの家に向って銃撃が加えられたこともあった。エスカンブライ山脈には、約二百人の反カストロ派が立てこもっていた。この時期(三月)に、ハバナに滞在していたチェの友人リカルド・ロホは、アルゼンチンへ帰るかれを空港まで送ってきたチェが、
「かれらは必ずくるだろう。しかし、たっぷりともてなしてやる。お祭りが始まろうというときに、きみが行ってしまうなんて、残念だね」
といったことを回想している。
チェは「フィエスタ」(お祭り)という言葉を使ったが、用いられる火薬は花火のそれではなく、爆弾と銃弾とダイナマイトになりそうであった。
CIAの予定した上陸地点は、カリブ海に面したキューバ南岸のコチノス湾(アメリカがわはピッグス湾という)奥深くにあるプラヤ・ヒロンであった。
決定を前にした四月四日、ケネディは国務省内の一室で関係者を集めて会議を開いた。かねてから、この計画に反対する覚書をケネディに送っていた上院外交委員長フルブライトも、とくに求められて同席していた。
フルブライトは、CIAがわの「成功は間違いなし」という説明を聞いても、反対の態度を変えなかった。かれは、このようなことをすれば、アメリカ合衆国の世界に対する道徳的な立場はなくなるし、こんご共産主義者による条約違反に対しても抗議することもできなくなってしまうと、条理をつくして説いた。
しかし、若い大統領は、このアメリカの良心の声に耳を|藉《か》そうとしなかった。
四月十日、CIA職員に率いられた亡命キューバ人たちは、グアテマラからニカラグアに移動した。人数は約千五百人。かれらは、七隻の艦艇――もちろんCIA所有の――に分乗し、十四日の午後、カストロのヒゲをおみやげに持ってきてくれ、というニカラグア大統領の声に送られて出発した。
十五日の早朝、八機のB26爆撃機がニカラグアを飛び立って、キューバに向った。B26は、三カ所のキューバ飛行場を爆撃した。アメリカ空軍はご丁寧にもU2を飛ばして、その戦果を確認した。
同じ日に開かれた国連の緊急会議で、アメリカは、キューバ侵攻はアメリカの手によってなされたものではない、と口をぬぐって声明したが、その日のうちに、味方であるはずのアメリカの新聞からその嘘をさんざんに叩かれた。
四月十七日未明、第五艦隊の空母エセックス号に支援された侵攻軍は、上陸を開始し、B26による第二回の空爆が行なわれた。
この間キューバがわは、ぼんやりと指をくわえて待っていたわけではなかった。十五日の爆撃のあと、カストロはラジオを通じて、キューバ国民に祖国の危機をうったえた。そのとき、かれは日本の真珠湾攻撃を引用してこう叫ぶ。
「一九四一年十二月七日(筆者註・時差の関係で八日ではなくて七日になる)未明、日本の飛行機と艦船はパール・ハーバーを奇襲攻撃した。この卑劣な攻撃が世界に呼びおこした憤激は誰も記憶している……私は日本との比較をしようとは思わない。(中略)パール・ハーバー奇襲が犯罪、そして卑劣な裏切りとみなされた以上、キューバ人民は現在のこの犯罪を千倍もいとわしいものときめつけることができる。しかし日本人はかれらの行為の責任と歴史的帰結とを引き受けた。それに反しあのペンタゴンのお歴々は、攻撃の準備をし、飛行機と爆弾を提供し、傭兵を雇っておきながら、かれらの責任を
引き受けようとしないの|だ《〈*五七〉》……」
ルーズベルトの「パール・ハーバーを忘れるな!」という言葉のもたらした効力と同じものが、ここでも働いた。二十年前とは反対に、アメリカが手痛い|復讐《ふくしゆう》を蒙ることになったのは、歴史の皮肉とでもいうのだろうか。
革命後、キューバは正規軍をもたずに、民兵組織によっていたが、結果的にはそれが幸いした。老人から子供までが銃をとり、侵攻軍を迎え撃った。
幸運だったこともある。B26の最初の空爆のさい、四機のT33ジェット練習戦闘機が、地上での破壊をまぬかれていた。CIAは合計二十四機のB26を用意していたが、第二波第三波の攻撃に際しては、このT33が威力を発揮した。合計十二機のB26が撃墜されたのである。
もうひとつの大きな幸運は、CIA自体がおかしたミスであった。
CIAは、T33の出撃を知ると、ケネディにエセックス号の援助を要求した。もちろんエセックス号の艦載機が出撃すれば、T33はひとたまりもないだろう。しかし、それは米国の公然たる尻押しになる。というよりも、亡命キューバ人による“祖国解放”ではなくて、アメリカによる攻撃になる。
ケネディは迷った末に、つぎのような案を出した。
B26の攻撃が行なわれるさい、標識を消した戦闘機による掩護をつけ、これをT33とB26の間に割りこませる。そして、それがT33から発砲されたならば、反撃してもよい。
ケネディは、公然たる尻押しはあくまでも避けようとしていた。CIAは、大いに歯がゆがったが、さすがにケネディは許さなかった。T33の撃滅だけで満足するように指示した。このプランは、戦術的にみた場合、そう悪いものではなかった。T33がいなくなれば、侵攻軍は楽になるだろう。
千五百人の侵攻軍は、海岸線の戦闘で苦戦していた。シャーマン戦車を先頭に立てて、亡命キューバ人たちは、降伏しろとどなりながら攻め入ったが、キューバ民兵の|凄《すさま》じい反撃にあって、三カ所の橋頭堡に釘付けになっていた。だが、B26の爆撃が自由に行なえるようになれば、その苦戦から脱け出せるはずである。
B26は出撃した。しかし、上空に待っているはずの支援戦闘機はいなかった。たちまちT33の餌食になった。
エセックスの戦闘機が到着したのは、その一時間後であった。
原因は、時差であった。CIAは攻撃時間をニカラグアの現地時間でB26に伝え、海軍はそれをワシントン時間で伝えた。この両地の時差がまさに一時間だったのである。
T33が四機だけ残っていた一件はともかくとして、この時差の食違いのことを考えるとき、歴史の流れに、人間の意思以外の力が作用する、とわたしは思わずにはいられない。T33がエセックス号の戦闘機によって撃墜されてしまったと仮定すれば、プラヤ・ヒロンでの戦闘はどちらが勝ったか、にわかに速断しがたいのである。もちろん、千五百人の侵攻軍は、グランマ号の八十二人とは、その精神の質において比較にならない。反革命軍が簡単に勝利を握ることはできなかったとしても、わずか七十二時間で、大半が掃討されるか捕虜になったという事態は起こらなかっただろう。
★
戦闘が終ったあとのチェについてアニア・フランコはつぎのようなエピソードを伝えている。
捕虜になった亡命キューバ人のなかに黒人を見出して、チェはびっくりして問うのだ。
「きみは、そこで何をしているんだね? 民主主義を再建しにきたのか」
沈黙する黒人にかれは説く。革命前のきみは、いっしょに攻めこんできた連中のなかにまじっている良家の子弟が泳いでいた専用プールで、泳ぐことを許されていたのか。きみが攻めこんできたいまのキューバには、人種差別はまったくないし、金持ち専用のプールもないが、きみは、キューバにきて、そんなものを復活したかったのか。革命前のやつらは、黒人はプールの水を汚す、といって絶対に入れなかったが、こんどはプラヤ・ヒロンの水が汚れるとはいわなかったのか。
チェの言葉は痛烈をきわめるが、かれの心境としては、CIAに金でやとわれたこの無知な黒人を前にして、痛烈にならざるを得なかったであろう。
その一方で、かれは明るさを失ってはいなかった。チェは、捕虜たちがサンドウィッチやオレンジを食べているのを見ると、食べられるかね? と|訊《き》く。そのとき、チェたちは何時間も何も食べていなかった。で、かれは、ぼくらの方が捕虜よりも虐待されているらしい、とジョークをとばす。居合わせたものみんなが笑い出し、捕虜までも笑い出すのだ。
しかし、チェは決して警戒をゆるめはしなかった。かれは、アメリカが直接介入するに違いないと考えていた。そして、フランコに、その地点はどこかと訊かれると、それがわかっていれば、ぼくはそこへ行って連中の来るのを待つさ、と笑いながら答えるのだ。
当のケネディのもとへは、国じゅうから非難の声が挙がっていた。この非難のなかには、ケネディのやり方の生ぬるさに対する右翼からのものもあったが、全体としては、ニュー・フロンティアの旗手に対する幻滅で占められていた。ハーバード大学をはじめとする十数校で、抗議集会がひらかれ、四月二十一日ニューヨークで行なわれた抗議集会には、三千人の学生や市民が集まった。ノーマン・メイラーは文学仲間といっしょにデモを計画し、ライト・ミルズは、
「祖国のために絶望的な|羞《はずか》しさを感ずる。もし自分のからだが行けるものなら、フィデル・カストロのがわに立って戦うのに」
といった。
リチャード・ニクソンは、ケネディに意見をとわれて、適当な合法的口実をみつけて介入すべきだ、と、進言したが、ケネディ自身はいまや自分の犯した過ちを認める心境になっていた。かれは、歴史の被告席に立つことを決意して、こういった。
「勝利には百人もの父親が名乗り出るが、敗北はつねに孤児である。わたしは政府の責任をとるべき地位にあり、それですべては明白である」
ヘビイ級のチャンピオンが、繰り出したパンチをかわされ、逆にフライ級ボクサーのカウンターによって鼻血を出したようなものだった。第一ラウンドは、誰がみてもフライ級のポイントであった。
ケネディは、武力以外の手段によって、事態を解決しようとした。そうしなければ、キューバ革命の波は、ラテン・アメリカの他の諸国の岸を洗いはじめてしまうだろう。ラテン・アメリカは第三世界と呼ばれていたが、それは、第一のヨーロッパや第二の北米に比べて、著しく後進的であり、未開発であることをも意味していた。ケネディは就任時から進めていた「進歩のための同盟」を利用することにした。このプランは向う十年間に二百億ドルをアメリカがラテン・アメリカ諸国に供与して、先進諸国なみにしようというのである。
その第一回の理事会が、ウルグアイのプンタ・デル・エステで開かれたのは、一九六一年八月であった。チェは、キューバの首席代表として、この会議に出席した。
この「同盟」プランは、じっさいはキューバをラテン・アメリカのみなし児にしようとする意図が隠されていた。なぜなら、キューバだけが同盟の供与の対象外に置かれていたからである。アメリカという金持ちおじさんは、貧しい隣人たちに景気よくお菓子をバラまくが、駄々ッ子のカストロ坊やだけは、それをもらえないという仕組みだった。議案の第五項には、はっきりと、名指しでキューバに対する非難がこう書かれていた。
――われわれの文化の本質的な価値を、たゆまずにそしてまた妥協することなく守るために、民主主義的な報道媒体についての義務をはたすことが遅滞していれば、それは民主的な社会にとって、とりかえしのつかぬ損害であるだろう、そして現在享受している自由を失うというさし迫った危機に、これらの媒体をおくことになるだろう、キューバにおいて起こっているがごとくに。そこでは、いま新聞、ラジオ、テレビ、映画が政府の絶対的な支配の下に置かれているのである。
議案そのものが、討論されるためのものではなく、キューバを|弾劾《だんがい》するためのものであった。
露骨ないやがらせが行なわれるだろうことは、前もって予測されていた。それは、この種の公的な形だけではなく、即物的な手段によってもプラヤ・ヒロン以後にくりかえされていた。
たとえば、飛行機の乗取りがその一例であった。このころ、ハバナ発の飛行機(キューバ所有の)がつぎつぎに乗取られて、マイアミに強制着陸させられていた。そして、飛行機そのものは、キューバに返されなかった。キューバに資産を国有化されたものが、その債権の代償として飛行機を差し押えるというやり方だった。キューバ政府は、国有化にさいして、年賦で支払うことを約束し、現にそれはいまでも守られているが、価格は、所有者が支払っていた税金を基準にしたためきわめて安かった。大ていの所有者が革命前は、税務署員に|賄賂《わいろ》を贈って、安くしていたためである。
現在では、乗取りは、もっぱらキューバヘの着陸という形で行なわれているが、はじめは、逆だったわけである。(蛇足だろうが、キューバはこれらの飛行機をすべて返還している)
乗取りはまだしも、もっと陰険な策略も仕組まれていた。反カストロ派のスパイが、この年の七月にキューバの東部にあるグアンタナモ基地――一九〇二年アメリカはキューバのスペインからの独立を支援したことにより、年二千ドルでグアンタナモ湾一帯を租借し、ここに海軍基地を設けた。いまでもグアンタナモには、米軍が駐留し、キューバに|匕首《あいくち》をつきつけたかっこうになっている――に故意に砲撃を加えることになっていた。むろん、それはアメリカに実力行使の機会をあたえるための策略であったが、キューバ諜報機関が事前につきとめて一味を検挙したので、事なきをえていた。
いずれにせよ、“共産化した”キューバは標的にされることになっていた。そして、あえてその場に立とうとするキューバ代表つまりチェがどのように振舞うか、ラテン・アメリカじゅうの注目の的になっていた。
チェは、このころ喘息が悪化し、しばしば発作を起こしていた。薬でかろうじて抑えている状態だった。かれは、アルゼンチン代表団の一員としてきていたリカルド・ロホに、「この前中国を訪問して毛沢東と会談しているときにも、発作が起こってね、ぶっ倒れてしまったことがある。これには毛主席もびっくりしてね、中国伝来の|鍼《はり》療法を勧めてくれたが、効果はなかったよ」
といって、苦痛に顔をゆがませ、それでも演壇に立つときは、その恐るべき克己心でにこやかな笑みをたたえてみせた。
★
チェの演説は、全体としては、ひかえめな調子で貫かれているが、「同盟」プランの非現実性については容赦なく攻撃した。十年間で二百億ドルというが、それについてアメリカ合衆国はなんら義務づけられていず、また初年度の十億ドルにしても、議会は五億ドルしか認めていないことを指摘した。
アメリカ代表の財務長官ダグラス・ディロンは、終始にがい顔をしていた。チェは、ディロンという固有名詞を使わずに、「さる国のさる代表」などといういい方をした。プラヤ・ヒロンで多くの同志を失ったキューバとしては、そのような皮肉をいうのも無理のないことだったろう。しかし、キューバとしては、他のラテン・アメリカ諸国とは共存して行きたい希望をもっているのだった。かれはいった。
「われわれは、借款の配分で疎外されることには反対しない。しかし、われわれがその一員であるわがラテン・アメリカ諸国民の文化的精神的な生活に加わることで疎外されるのには反対する」
それからチェは、熱っぽい口調でプラヤ・ヒロン事件にふれていった。
「われわれは侵攻を知ると、革命家としての最後の運命に当面すべく集まった。もし合衆国がキューバへ侵入してくるならば、おびただしい血が流れ、最後にはわれわれは敗れ、人びとがその住みなれた土地から追い出されることを知っていた。
そのとき、あるものが提案した。フィデル・カストロはひとまず山中の陣地に退き、われわれのひとりがハバナの防衛にあたったらどうか、と。われわれの首相はかれ自身を高貴なものとする言葉で――かれのあらゆる行動がそうであるように――そのとき答えた。もし合衆国がキューバに侵攻し、ハバナが戦場となるならば、幾百千の男女子どもがヤンキーの武器の下に死ぬだろう。そのさい革命の中にある国民の指導者が、山中に隠れるなんて決して求められるべきではない。かれの場所は、かれの愛した人びとの倒れた場所であり、かれらと共にあるその場所こそが、歴史の使命を果たす場所である、と」
この演説は、感動を呼び起こした。ある決議案は、キューバをはじめから疎外することを条件にしていたが、十一対九でそれは修正された。
ラテン・アメリカ民族の独特な連帯感情については前にもふれたことがあるが、ここでもそれは例外ではなかった。シュレジンガーもそのことは認めて、前記の本の中で、
「チェ・ゲバラもまたそこに居て、競い合っている革命のためによどみなく論じていた。実際のところ、そこに居たラテン・アメリカの代表たちは、キューバを同盟に入れることを希望していた。しかし会議の議長であったペルーのペドロ・ベルトランに率いられた他の代表たちは、アメリカ大陸国民の宣言をもってキューバに対抗した」(中屋訳)
と書いている。
だが、回想録というものは、つねに正確に事実どおりとは限らぬものらしい。シュレジンガーは、
「ゲバラはラテン・アメリカ代表たちに向って、彼らはこのような巨額な援助が米国から突然申し出られたことに対して、カストロに感謝しなければならない、と述べた」
と記しているが、チェの演説全文のどこにも、そのような言葉はない。ないしは、同じような意味をもった字句さえない。
★
さて、公式的な会議は別として、キューバとアメリカとが接触をもつかどうかが、各国の関心を集めていた。ある日UPI通信が、チェとケネディのブレーンのひとりであるリチャード・グッドウィンとが会談した、と報じて、大きな波紋をまき起こした。あのアメリカ嫌いのチェが! というわけである。
チェはたしかにグッドウィンと会った。仲をとりもったのはブラジルであった。ふたりは、個別にブラジルの実業家シルバの家に招待され、その席で紹介されるという脚本である。
むろん、ふたりとも「個人」として会ったのだ。チェの英語は怪しげなものであり、グッドウィンはまったくスペイン語ができなかった。
結局、シルバが通訳した。グッドウィンは、
「わたしは合衆国を代表する権限はもっていないが、政府にあなたの国の見解を伝えることはできる」
といった。
チェもまた一個人の資格で話したが、内容的には、五カ月前にアルゼンチンの新聞紙上で明らかにしたものと大差なかった。(年譜参照)
「キューバは話合いに応ずる用意はある。だが、それはあくまでも対等のものでなければならない。もちろん、紛争を好んでいるわけではない。しかし、侵略があれば徹底的に戦うだろうし、戦えるだろう。キューバはラテン・アメリカの一員であることを望んでいるが、同時にそれは全世界のどこの国とも友好関係を結べる権利にもつながっている」
とかれはいった。
個人的な感情は別として、こういうときのチェは、申し分のない外交官であった。
会談はそれだけのものであったが、これがカストロの承諾なしに行なわれたものとは考えられない。それを想えば、この時期においては、カストロはまだケネディに|一縷《いちる》の望みをつないでいたことがわかるのである。当のチェはそんな望みはまったく持っていなかった。かれは、アメリカとは和解できないことを知っていた。妥協できるものならばしてもいいと考えるカストロの現実的な姿勢とは、その性格においても違っていた。かれは、敵に対しては、決して妥協しなかった。そして、この純粋で一本気なところがチェの主要な性格のひとつであり、やがては、かれを異国の空の下での死へと導くのである。
会議は八月十七日に終った。かれはこの日「進歩のための同盟」のまやかしについて演説し、その翌日、モンテビデオ大学で開かれた反帝国主義デーの集会に出席した。ウルグアイの政府は保守的だったが、学生は急進的であり、アメリカの音頭とりによる会議に対抗するために、集会を開いたのである。そして、この集会には、各国の反帝組織の代表者も招かれた。
チェはそこで、サルバドール・アジェンデに再会した。集会が終って、いっしょに会場を出ようとするアジェンデの誘いを、チェはことわった。
「サルバドール、別べつに出た方がいい。一発の弾丸でふたりがやられることはないからね」
アジェンデは笑ったが、しかし、笑い事ではなかったのだ。テロリストが待ちうけており、その弾丸で集会に出た大学教授のひとりが殺され、流れ弾で数人の群衆が死んだ。
その日の夕刻、チェはアジェンデをホテルに招いて、いっしょに食事をとった。そのとき、チェはキューバ出発の前に手紙を出してブエノスアイレスから呼んでおいた母親のセルナ夫人をアジェンデに紹介した。その席上で、チェはアジェンデにひとつの秘密をうちあけた。それはアルゼンチンとブラジルの大統領がかれを招待している、という、新聞記者が聞けばとびつくようなニュースだった。
八月十九日、チェはアルゼンチン大統領アルトゥーロ・フロンディシさしまわしの小型機にのって、ブンタ・デル・エステを飛び立った。
一九五三年の夏に、放浪の旅に出てから、丸八年の歳月がたっていた。ペロン政府の軍医徴用をきらい、ジャングルの医師になるつもりであった医者の卵は、ラテン・アメリカでは誰知らぬもののない革命家として、例によって少佐のバッジのついたベレーにグリーンの戦闘服、そして肩に|外套《がいとう》をひっかけ半長靴といういでたちで、ドン・トルクワート飛行場に下り立った。
迎えに出た親衛隊の士官は、大統領の招客がチェ・ゲバラであると知って、仰天した。というのは、この会談には、当然のことながら国内の右派の反対が予測されるために、極秘とされていたからだった。しかし、チェは呆然として握手を忘れている相手に手をさしのべ、
「ゲバラ少佐です」
といった。
フロンディシは、ブエノスアイレス市外の別荘でチェを待っていた。そして、約一時間二十分にわたって、いろいろな問題について話し合った。
公式には否定されているが、フロンディシはアメリカの了解を得ていた。そしてアメリカに代って、キューバの|肚《はら》を探ろうとしていた。かれは、キューバがアメリカ大陸以外の国家と軍事条約を結ぶつもりがあるのかどうか、と訊いた。具体的には、ワルシャワ条約機構への加入である。もし、そのようなことがあれば、キューバとアメリカとは永久に和解できなくなるだろう、ともいった。
チェは、そのような意思があるともないとも答えなかった。ただ、キューバの方から求めてはいない、といった。解釈によってはソ連の方から手をさしのべてきた場合は、話は別である、という意味にとれる返事だった。
フロンディシは、さらに、米国流の両院議会と選挙制度、政党政治を行なうつもりはないのか、と質問した。つまり、これが和解のための条件であった。
「そのような方向へ進もうという試みはありません」
とチェはきっぱりといいきった。
それは、最後通牒に似かよっていた。キューバ革命が社会主義化の道から決してひきかえしはしないという宣言にひとしかった。
会談を終えると、チェは大統領の一家と昼食を共にとった。メニュはビフテキ。そしてこれが故国での最後の食事となった。
そのあと、かれはブエノスアイレスへ行って、少年時代のかれを可愛がってくれた病気の叔母ビートリスを見舞い、飛行場に戻った。わずか四時間の滞在であった。
かれには故郷に対するノスタルジアがなかっただろうか。
チェはコスモポリタンとしての生涯を送ったが、そのような感情はやはり持っていたと思われる。というのは、かなりさかのぼった話になるが、グランマ号の上陸のさい、かれが中学生のころに発行されたアルゼンチンの市民証をいまだに持っていたのである。それは厚いボール紙でできたもので、シャツに入れてあった。一発の弾丸がその市民証にあたった。そのために、弾丸は勢いをそがれ、致命傷にならずにすんだという話を、友人のロホが紹介している。
★
さて、ブエノスアイレスからウルグアイに戻ったチェは、その翌日、リオへ飛んだ。ブラジル大統領ハニオ・クアドロスは、チェに対して南十字星勲章を贈った。挨拶に立ったチェは、この栄誉は自分個人に対するものではなく、キューバ革命およびその人民に対してあたえられたものと考える、といった。このときに限らず、外国を訪れるとしばしば勲章や名誉章をうけたが、チェの挨拶はいつもきまって、このときのものと同じだった。かれは生涯を通じて個人的な栄誉を拒みとおした。
リオでもサンパウロでも、群衆はチェの肖像を掲げてかれを歓迎したが、ブラジルの保守層やその背後にいるアメリカにとっては、これは苦々しい出来事だった。かれらは、この年の一月に大統領になったばかりのクアドロスに猛烈な圧力をかけた。ありていにいえば、辞任しなければ、生命は保証しないと脅迫し、ためにクアドロスは任期の大半を残して辞職した。
キューバとアメリカとの険悪な関係が頂点に達したのは、いうまでもなく、一九六二年十月のいわゆる「キューバ危機」である。ところが、この事件の主役はキューバではなかった。ケネディとフルシチョフであった。カストロもチェも、両大国の実力者がやりあうのを、ゆびをくわえて見ているほかはなかったのである。
こうして、心ならずも観客席に在ることを強いられながら、もし対立が噴火すれば、まっさきに犠牲になるのはキューバであった。国際政治における大国のエゴイズムと小国の悲哀の、悲しくも見事な実例であった。
この間のアメリカがわの意思や動きについては、今日では各種の書物によって、すでに明らかにされている。もしフルシチョフが後退しなければ、ケネディは実力行使をするつもりでいたのだ。そうなればどうなったであろう。
全面的な第三次大戦になったかどうかは別として、少なくともミサイルが飛びかい、キューバは踏み|潰《つぶ》されたであろう。
結果として、ケネディが勝った。かれはプラヤ・ヒロンでの失点を|挽回《ばんかい》し、フルシチョフは男を下げた。このフルシチョフの転身ぶりは、カストロにとってもチェにとっても、心外そのもの、いやそれ以上のものであったろう。かれらは、アメリカの侵入に備えて、最後の一兵まで戦う悲壮な覚悟でいたのだ。
この時期のチェたちの決意を物語っているのは、つぎの手紙である。これは北京にいる中国研究家のアンナ・ルイス・ストロング女史にあてたもので、日付は十一月九日となっている。チェの手紙としてはかなり長文に属する方で、前半で彼女をキューバに招待する用件について書いたのち、こうのべている。
――キューバは戦闘準備体制下にあります。国民は侵略に備えています。誰ひとりとして譲歩することを考えておりません。すべてのものがその義務を果たそうとしています。もしわれわれが全滅することがあるとしても――それはわれわれの生命を高価に売りつけたあとに限られます――あなたはこの島のいたるところで、テルモピレーのそれのような言葉をお読みになるでしょう。
いずれにせよ、われわれは最後の身ぶりを試演しているわけではないのです。生きることを望んでいますし、それを守りぬくでしょう。
祖国か死か。われわれは勝つ。
右の文章にあるテルモピレーというのは、アテネの北西方に位置している古戦場で、紀元前四百八十年、侵入してくるペルシア軍と最後の一兵まで戦ったのち、ついにスパルタ軍が全滅した場所のことである。それをギリシャの詩人シモニデスが「行け、旅人よ、われらは祖国の命に服して、ここに眠ると伝えよ」という短詩にうたった。つまりキューバは最後の一兵まで戦うだろうという断乎たる意志をかれは明らかにしているのである。
動員令が下され、カストロはチェを西部軍司令官に、ラウルを東部軍司令官に任命した。チェは工業省九階の事務室から姿を消し、その任務に就いた。
危機が回避され動員令が解除されたとき、工業省の人びとは、チェが頬に負傷しているのを見た。
「弾丸が暴発して、頬から入って奥歯を吹きとばした傷だった。かなり大きな傷だった。しかし、かれは入院もしなかった。執務しながら医者にきてもらい、治療をうけていた。われわれは、みんな心配したが、結局かれは入院もせずにそういう形で治してしまった」(ゴンサロ・アルブエルネ氏)
「あのときは、工業省の屋上にも機関砲が据えつけられていましたし、一度、敵機を撃ったこともあります。そのとき私たちはすぐに床に伏せました。でも、そのときはチェは大臣室にはいませんでした。西部軍司令官になると同時に、さっといなくなったのです。幾日くらい姿を消していたか、半月だったか一カ月だったか、いまではよく覚えていませんが、帰ってきたときは、頬に|絆創膏《ばんそうこう》をはっていました。ほんの擦過傷だというようなことをいっていました」(当時の秘書、メルセデス・E・ロカ夫人)
じっさい、チェは多忙をきわめていた。入院しているひまなどなかった。建設途上のキューバは、対外問題もさることながら、国内的にも多くの難問をかかえていた。アメリカの海上封鎖や圧力で、キューバは石油その他の原料物資や基幹産業製品の大部分に不足をきたしはじめていた。キューバは、チェを団長として、一九六二年八月に、ソ連に経済使節団を送り、協定を結んでいたが、ソ連はあまりにも遠く、かつ必ずしもキューバの希望するものは得られなかった。
――われわれは、工場、農業、輸送を自分のものとしなければならなかった。それも借款なしで、農業用殺虫剤なしで、主要原料なしで、予備部品なしで、技術者なしで、組織なしで。
この期間を通じて無法者が合衆国に支援されて国内で活動し、破壊や侵略行為を犯した。たえず侵略の脅威にさらされていたので、年に二、三度は、キューバ国民を動員せざるを得ず、そのために国家を麻痺状態にしたのである。
にもかかわらず、われわれは誤りを|匡《ただ》すことによって、革命を推進したのである。誤りはさまざまなタイプのものがあるが、基本的には計画化の分野であった。われわれは、調和不能のふたつの矛盾したことを行なった。一方で、兄弟国から助けにきてくれた専門家の計画化の技術を、過度に忠実にうつしとった。そして他の一方では、分析に時間をかけずに、とくに政治の一部門では即決主義をとり続けた。それは政治にあっては毎日必要ではあったのだが。
★
工業化については、じつに多くの目標が立てられ、そしてその大半が、チェ自身がいうような原因で計画倒れになったのだ。学校の建設とか道路とか労働者センターとか、予定どおりに進んだものはあったにしても、工業化の遅れは、キューバの本当の意味での独立を、同時に遅らせることにほかならなかった。いいかえれば、チェは、キューバがいかに砂糖を生産し、それを外国が買ってくれたとしても、農業国であり続ける限り、国家としての発展はあり得ないと考えていた。客観的にみて、これ以上に正しい考え方はなかった。キューバに限らずに、ラテン・アメリカ全体が後進的であるのは、そしてまたアフリカ、日本や中国を除くアジアが後進性からいつまでも脱却できないのも、そのためであろう。
工業相として、かれはこの職務に献身した。文字どおり寝食を忘れての献身であった。
「その当時、誰も工業なんていうことを知らなかった。チェ目身もあまりよく知らなかったようだが、かれは猛烈に勉強し、何にまず着手すべきかを調べた。
ニッケル鉱山の開発や石油の採掘や全鉱業製品についての綿密な調査もかれが手がけた。砂糖キビの自動刈取機や積込機を研究したりして、かれの設計に基づいて作らせたこともある。のちにソ連から輸入されたさい、性能を比べてみたら大差はなかった。まるで百科事典みたいな人物だった。
工業化計画についていえば、最初の二、三年はひじょうに苦しかった。というのは、当事者がまるで無経験だったからである。下部で立てた実行計画そのものが|杜撰《ずさん》だった。
たとえばの話であるが、清涼飲料の国産化を手がけた。しかし、でき上がった製品は、コーラどころか、薬局で売っているセキどめのシロップよりも味の悪い、とても飲めたものではなかった。これにはチェも参ったようだったが、かれは努力しないものに対してはつねにきびしかった。ときとしては、二十くらい悪い言葉を投げつけたが、かれが怒るときは、必ず理由があった。理由もなしにチェが怒ったり人を叱ったりしたのを、わたしは次官として働いていた間に、一度だって見たことはない」(オマル・フェルナンデス氏)
チェの献身ぶりは、誰がみても、絶対的な完全さをもっていた。だが、すべてのキューバ人がチェのようではなかった。チェの真似をすることは、誰にもできなかったのだ。
かれはすべてにおいて、独特であった。そして、純粋に革命的であり、かつ|稀有《けう》の革命家であった。かれが一九六五年になると、キューバを去って新しい戦場に向かう道を選ばざるを得なくなったのも、ある意味ではそのためだったともいえるのである。
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一九六五年三月下旬のある夜、チェは工業省の九階にある自分の部屋で机に|対《むか》って、手紙をかきはじめた。いつものように、省内の大部分の部屋の灯は消えていた。喘息もちでありながら、疲れを知らぬかのように働き続けてきたこの革命家の部屋で、ペンを走らせる音だけがあたりの静寂をかきみだした。
独特の小さめの字で、チェは書いた。
ハバナ、農業の年
フィデル
いまこの瞬間に、ぼくは多くのことを思い出している。マリア・アントニアの家で初めてきみに逢ったときのこと、ぼくに一緒にこないかと誘ってくれたときのこと、そして準備をすすめているときのあの緊張の全てを。
ある日、死んだ場合には、誰に報せたらよいか、と訊かれたことがあった。そして、そういう現実の可能性に、ぼくらはみな|衝《う》ちのめされてしまった。その後ぼくらは、それがあり得たことで、革命においては――それが真の革命であれば――人は勝利を得るか死ぬかだということを学んだのだ。多くの同志が勝利にいたる道程で倒れてしまった。
今日ではあらゆることがさほど劇的には感じられないが、それはぼくらが成熟したからで、現実は繰りかえされているのだ。ぼくはキューバ革命において、その地でぼくに課せられた義務の一部を果たしたとおもう。で、きみに、同志に、そしてきみの、いまはぼくのものでもある国民に、別れを告げる。
党指導部における地位、大臣の地位、少佐の位階、キューバの市民権を、ぼくは公式に放棄する。法的にぼくをキューバに結びつけるものは、もう何もない。といっても、辞令を出せばできるようには、あっさりと断ち切ることのできぬ種類の|絆《きずな》は残るが。
過去をかえりみると、革命の勝利を不動のものとするために、ぼくは誠実かつ献身的にこれまで働いてきたと信じている。ぼくになんらかの誤りがあったとするなら、それは、シエラ・マエストラの初期のころ、きみにじゅうぶんな信頼を置かなかったことと、指導者ならびに革命家としてのきみの資質をさほど早く理解しなかったことだ。ぼくは素晴らしい日々を生きてきた。そしてカリブの危機の輝かしくも苦しい日々に、きみのかたわらにあって、わが国の国民であることを誇らしく感じたものだ。
あのころのきみよりも|偉《すぐ》れた政治家なんていないだろう。そしてまた、ぼくはきみに躊躇なく従い、きみの考え方を身につけ、ぼくらが置かれていた危険や原則を理解し評価したことを誇りにしている。
いま世界のほかの国が、ぼくのささやかな力添えを望んでいる。きみはキューバの責任者だからできないが、ぼくにはそれができる。別れの時がきてしまったのだ。
喜びと悲しみのいりまじった気持で、こんなことをするのだ、と察してほしい。ぼくはこの地に、建設者としての希望のもっとも純粋なもの、そしてぼくがもっとも愛している人びとを残して行く……またぼくを息子のように受けいれた国民からも去って行く、それはぼくをとても悲しい気持にするのだが。ぼくは、新しい戦場に、きみが教えてくれた信念、わが国民の革命精神、もっとも神聖な義務を遂行するという気持をたずさえて行こう、帝国主義のあるところならどこでも戦うために、だ。それがぼくを慰め、深い心の傷を癒やしてくれる。
繰りかえすが、これまで模範であったことから生ずる責任を除いて、キューバにおける一切の責任から解放されたことをいいたい。もし異国の空の下で最期の時を迎えるようなことがあれば、ぼくの最後の想いは、この国の人びとに、とくにきみに馳せるだろう。きみのあたえてくれた教えやお手本に感謝したい。そしてぼくの行動の最後まで、それに忠実であるように努力するつもりだ。ぼくは、わが革命の外交政策にいつだって自分を同化してきたし、これからもそうであり続けるだろう。どこにいようとも、ぼくはキューバの革命家たる責任を自覚するだろう。そのように行動するだろう。ぼくは妻子には何も残さなかった。それを後悔するどころか、むしろ満足している。国家がかれらの必要とするものや教育をあたえてくれるだろうから、ぼくがかれらのために求めるものは何もない。
きみやわが国民にいいたいことは尽きないのだが、その必要はないようだ。言葉はぼくのいわんとすることを表現できないし、これ以上は紙をよごすに値しない。
永遠の勝利まで。祖国か死か。
ありったけの革命的情熱をこめてきみを抱擁する。
書き終ると、かれは小さく「チェ」とサインした。キューバを去って新しい戦場に向かうことが、キューバ革命のために最善の道であることを、チェは信じて疑わなかった。
かれがいなくなれば、無責任な臆測が流れることは容易に予測できることだった。現にキューバ使節団長としての最後の長い旅行から帰ってのち、かれの姿が公の席上に現われないことで――それはたった半月にしかすぎないのだが――すでにいろいろな噂、それも無責任きわまるものが流れ出しているのだ。この手紙を渡しておけば、フィデル・カストロは、もっともふさわしい時機に発表してくれるだろう。
しかしながら、チェがこのような決意をもつにいたるまで、多くの曲折があったことは
否定できぬことである。
一九六四年三月、かれは、ジュネーブで開かれた第一回国連貿易開発会議にキューバ代表団長として出席し、十一月には、三度目の訪ソをした。
それからのかれの行動は、敵味方を問わずキューバに関心を抱いているもののひそかな注視をあつめていた。そのあとかれはニューヨークへ飛び、第十九回国連総会に出席して、キューバ代表団の首席代表として二回にわたり演壇に立った。
これは、世界じゅうの代表の前で語った最初で最後の演説であった。議場に出る他の代表たちは、すべて背広にネクタイだが、チェだけは、例によってオリーブ色の戦闘服に同色のジャンパーという服装で、いつも葉巻をはなさなかった。
この総会で扱われる最大の問題は、平和共存の問題であった。長い間対立を続けていたアメリカとソ連の間には、雪どけの気配が日ましに濃くなりつつあった時期である。
総会議場の演壇に立ったチェは、平和共存が大国の間だけの専有になりかかっている現状を鋭く指摘した。言葉にこそはっきりと名指しはしなかったが、アメリカとソ連の間だけに平和な関係が保たれても大国と小国、小国と小国との間が火をふいているのでは、平和共存のお題目は意味がないといったのである。ベトナム、ラオス、キプロス、コンゴでは血が流れ続けていた。大国がいかに小国の自立の権利を踏みにじっているかについて、かれは世界の世論の喚起を求めた。
パワーズ飛行士操縦のU2が撃墜されたのち、アメリカはソ連上空への侵犯はやめていたが、キューバ上空二万メートルをU2は毎日とんでいた。この明らかな領空侵犯に対して、キューバはそれを撃ち|墜《おと》すべきミサイルを持っていなかった。チェの言葉によれば、この一年間における、アメリカのその種の挑発行為は、小さなものをふくめれば、千三百二十三件にのぼっているのであった。
アメリカもソ連も、平和共存に賛意を表明していた。だが、平和共存は大国のためだけのものであり、小国はその楽園からのけものにされている現実を、チェは歯に|衣《きぬ》きせずになじった。この演説は、終始かれ独特の静かな口調によって貫かれていたが、注意深いものならば、その底に流れている一種の苦渋を感じとることができたはずである。そして、さらに注意深いものならば、わずか二カ月後のアルジェでの演説に注目したであろう。
――ある国が解放されると、われわれは、それは帝国主義体制の敗北だというが、しかし、帝国主義体制からの真の解放ないし打破は、たんに独立を宣言したり、あるいは革命において武器で勝利を得たりだけで達成されるものではないことを、われわれは確認しなければならない。独立は、一国民に対する帝国主義的な経済支配が絶たれたときに、達成されるのだ。(中略)
後進諸国がはかりしれない汗と苦しみを費やした原材料を国際市場価格で売り、そして今日のオートメ化した大工場で生産される機械を買うことに、“互恵”という言葉をどうして適用することができるだろうか。
★
いったい
誰に対して、チェはいっているのだろうか。はかりしれない汗と苦しみを費やしている後進国とはどこの国のことか、オートメ化した大工場をもつ国というのはどこのことだろうか。“互恵”の名目の下に、帝国主義的な収奪をするかもしれない社会主義的国家とはどの国を指しているのか。
この言葉と、国連総会におけるつぎの言葉とは、まったく無関係のようだが、はたしてそうだろうか。
――誰も知っているように、「カリブ危機」と呼ばれる恐るべき動乱のあとで、合衆国はソ連にある約束をとりつけた結果、ある種の兵器が撤去されることになった。それはあの国の絶えざる侵略――たとえばプラヤ・ヒロンへの傭兵の攻撃やわが国に対する侵攻の脅威のことだ――が、正当防衛行為としてやむなくキューバ内に据えつけさせたものだったのである。
国連での演説が、大国のご都合主義的な平和共存のもつ仮面性をあばいたものであることは、一読して明らかである。そして、その大国のなかには、ソ連がふくまれていることはいうまでもないだろう。もちろん、チェは表立っては、友邦ソ連を非難することはしない。それどころか、演説の結びに第二ハバナ宣言を紹介し、
この全アメリカ大陸の新しい意思は、侵入者の武装した手をつかみ食いとめるために戦う人びとの決意の、議論の余地のない表現として、わが大衆によって日々連呼される叫びとなって示されている。それは世界各国民、とくにソ連を先頭とする社会主義陣営の理解と支持をうけている叫びである。その叫びが「祖国か死か」なのだ。
と、ソ連の顔を立てている。
ほかのところでも、かれは、社会主義陣営のキューバに対する協力をくりかえし感謝している。だが、大国のご都合主義の犠牲になっている悲しみを隠すこともしない。
革命前のキューバは、砂糖の産出国であること以外に国家としての存立はなかった。砂糖を売った金で、衣料品や石油や自動車を買っていた。それ故に、最大の顧客であるアメリカに従属させられたわけである。この苦い経験を想えば、チェがいうように、真の独立は経済的な独立を伴うものでなければならなかった。チェにしても、砂糖を中心とする農業が、当分の間は、キューバの基盤であることを認識はしていた。が、工業は未来そのものであり、工業の発展しない前衛国家はあり得ないという考え方であった。キューバ革命の真の勝利はそこにかかっているといってもよかった。である以上、必要なのは工業化であり、工業部門の最高責任者として献身的に働いたのもそのためだった。
結論からいえば、キューバの工業化は、はかばかしくは進まなかった。新しい発電設備をととのえ、織物工場、化学工場を建設し、新しい鉱物資源の探査など、目ざましい成果をあげた面もあったが、肝心の技術労働者が不足していたし、さらには建設された工場はときとして技術的効率が不十分であったり、必要な原料がなかったりというチグハグな失敗も犯した。その上、悪いことに、一九六三年は、まれにみる大きなハリケーンのために、砂糖の収穫が激減した。史上最低の三百八十万トンという収穫しかあげられなかったのである。このため砂糖の国際価格は前年の三倍になり、キューバは外貨をかせぐチャンスをのがした。
工業化のために人手をさきすぎ、また砂糖の耕作面積を前年よりも二割もへらし、農業部門で労働力不足をきたしたことも原因のひとつだった。チェはみずからいい出して、政府職員の労働奉仕を行なった。
「砂糖キビ刈りの労働奉仕は、日曜日ごとに必ず行なっていました。九階建ての工業省には、各階にひとりずつ責任者がいるのですが、チェは九階の責任者でした。出発はいつも午前五時ごろです。次官とかその下の部長クラスの人が自動車で行くのに、チェはいつもみんなといっしょにトラックに乗って行きました。喘息が起こったときだけ、自動車を利用したけれど、それでも奉仕をやめようとはしませんでした。一般市民もそれを知っていて、道ばたに出て待っていて、チェ! チェ! と呼んでいました。
休んでいたりするものがあると、『どうしたんだ? 怠けていてはダメじゃないか』とたしなめていました。九階は、ほかの階よりも人数が少なかったのですが、負けてはいけないとみんなを励まして、仕事をさせるようにしていました。だから、みんな一所懸命になって仕事をしなければならなかった。チェ自身は、奥さんや子供さんまで労働奉仕にかり出していました」(メルセデス・E・ロカ女史)
このような努力にもかかわらず、工業化への道は険しかった。
★
一九六三年というだけで、くわしい月日は不明だが、ヒバラに有刺鉄線の工場が日本のある工場の協力で作られたさい、その技術者たちはキューバ在住四十年という内藤五郎氏に案内されて、工業省にチェをたずねた。おみやげとして贈られた卓上型の電子ライターを手にとって、チェはしげしげと眺め、
「キューバの工業が発達して、こういう製品が贈りものにできるような時代がくることを自分は望んでいるのだが、現在のところ、残念ながら、われわれには、工業品を贈りものにすることができないのです。せめてこれを代りに……」
といって、百本入りの葉巻を贈った。
この話を内藤氏から聞いたとき、わたしは、工業化が予期したとおりに進まない現実に苦悩していたチェの姿を眼前にみる想いがしたものである。じっさい、チェは苦闘を続けたのだ。すでに紹介したように、夜も眠らずに献身的に働いた。だが、すべてのキューバ人がチェのようではなかった。
とチェはいい、そしてかれはこのとおりの男であった。
かれは金銭や物質的な報奨をまるで受けつけなかったが、チェの金銭に対する淡泊さというよりも蔑視はつぎのような手紙からもうかがわれるだろう。国立出版社の責任者アイデ・サンタマリアにあてた一九六四年七月十二日付のものである。
――親愛なるアイデ
あなた方の裁量で例の金を渡すという作家同盟からの通知を受けとりました。愚かにも、かれらが大変な赤字を抱えているという事の起こりの論議に入らない、妥協策のようです。
唯一の重要なことは、本からは一センターボも受けとれないことです。戦争の諸様相について語る以上のことはなにもしていない本なのです。お金はあなたの方で自由に使って下さい。
前年に刊行された『革命戦争の道程』の印税受取りを拒否しているわけである。だが、人びとは必ずしもそうではなかった。例のラテン・アメリカ気質が、いぜんとしてキューバ国民の間に根を下ろしているのだった。
ラテン・アメリカ気質の何たるかを説明するのはきわめて難しいが、それを承知でいえば、誇りと貪欲、そして時間に対する感覚の欠如がその一つにあげられるだろう。かの地においては、何かが予定どおりに運ばれることは奇蹟といってよく、ほとんどあり得ないのだ。メキシコでボリビアでペルーでアルゼンチンで、わたしは旅行中にさんざん体験してきた。
キューバにおいても、それは例外ではなかった。出国査証のサインを得るのに、わたしは一週間待ち、挙句の果ては日曜日に担当官の自宅を探しあてた上で、手にペンを握らせるようにして、ようやく獲得したありさまだった。
砂糖キビ刈りにしてもそうである。昔から従事していたベテラン農夫は、一日八時間の労働で千二百アローバ(一アローバは十一キロ強)を刈る。首相のフィデル・カストロは八百アローバを刈る。が、一般の労働奉仕隊員は二百かせいぜい二百五十アローバである。といって、かれらが労働嫌いというのではない。ひとつのことをやりとげるのに、ひどく時間がかかるのだ。
たしかに、革命後のキューバは、すべての面で改善された。義務教育は無料で識字率は百パーセントになったし、飢死するものは根絶された。二度にわたる危機をのりこえて革命はたえず前進し続けてきたが、当然のことながらすべてが順調というわけではなかった。とくに、人間の意識という点では、右のようにむかしながらの気質が各層に残っていた。精神的刺戟よりも物質的な刺戟に心を動かされた。いわば、花よりダンゴである。チェも、ダンゴの有効性を否定はしなかった。キューバ革命は、理論が先んじた革命ではなかったし、バチスタの搾取や暴虐に対する反動として起こったものなのだ。それはいいかえれば、物質的なものを充足させたい欲求でもあったのである。だが、革命は万能の薬ではない。かれらの欲求をすべて充たしてやることはできない。それどころか、現実としては、その半分もかなえてやれない。
――困難な日々は、はるかかなたに過ぎ去ってはいない。経済面でも過ぎ去っていないし、それにもまして、外国の侵略の脅威の面でも過ぎ去っていない。本当に、いまは困難な日々なのである。が、いまこそ生きるに値いするのだが。
チェのような献身ぶりは、誰にも真似のできることではなかった。もしも人びとがチェのもっていたような革命に対する情熱やかれが自分に課した責任感のせめて半分でも持っていたならば、キューバ革命の前進は、おそらく眼をみはるものがあったにちがいない。
★
右のような原因のほかに、もうひとつブレーキの役をはたしたものがある。ソ連のキューバに対する態度がそれである。
ソ連はアメリカに代って、キューバ糖の大量買付け国となった。革命前の一九五八年においては、キューバの輸出入の七割はアメリカが独占していたが、六七年にはその六割がソ連によって占められている。また、六二年以降六五年までにキューバは年平均二億五千万ペソの貿易赤字を出しているが、それはソ連から国際価格で輸入する石油の代金に相当する額である。ということは、ソ連は、国際石油カルテルの巨大な利益率をそのままキューバに対して適用しているということなのだ。たしかにソ連はキューバが必要とする物資を売り、巨額の借款まであたえた。その限りにおいて、ソ連はキューバを救った。だが、ソ連は万能の救世主ではなかった。ソ連は、東ヨーロッパの衛星諸国に対してとっている方針と同じものを、キューバにもあてはめようとした。
具体的にいえば、ブルガリアは農業国でありチェコは工業国であるが、それはブルガリアが共産圏内における一大分業システムのなかで、農業部門の役割をうけもち、チェコが工業部門のそれをうけもっていることにほかならない。ブルガリアが工業国家になることを、ソ連は決して賛成しないであろう。
キューバのそしてチェの熱望にもかかわらず、工業化に関する限り、ソ連は冷ややかであった。売ってくれる工業用資材には、スクラップ寸前の中古品がまじっていることもあった。社会主義的な連帯というものがそのようなものであるならば、それはまさに帝国主義的収奪の共犯者という言葉が現実的な意味をもってくるのであった。
チェにとっての社会主義とは、かれの言葉をそのまま使えば、「人間による人間の収奪の根絶」であった。アメリカに代る新しい主人ができるようならば、シエラ・マエストラいらいの多くの同志の血は、なんのために流されたのか、まるで無意味になってくる。
そういう事態になる恐れがないわけではなかった。キューバを除くラテン・アメリカ諸国、とくにパナマとかベネズエラとかいった国の経済を支配しているのがアメリカ合衆国であるのと同じ程度に、東ヨーロッパ諸国を支配しているのはソ連であり、キューバもまたそのように扱われそうになっているのだった。
アルジェでの演説は、それに対する批判であり警告でもあった。何にもまして率直さを好むチェは、社会主義陣営の指導者が肚の中では考えていても、口に出すのをはばかっていたことをズバリといってのけたのである。
チェの言葉はすべて真実にみちていたが、真実はときとして鋭く突き刺さるものである。ソ連がチェの批判に対して不快な感情を抱いたのも、自然な成行であったし、チェに対する冷淡さはいまでも消えていない。余談になるが、一九六九年九月にわたしがモスクワを訪れたさい、かの地を三度も訪れているチェの足跡をたどろうと試みたが、ついに一片の協力をも得ることができなかった。チェの著作は、かれが敵としたアメリカでさえも大半が翻訳され紹介されているにかかわらず、友邦であるはずのソ連においては、アメリカよりも紹介され方が少ないのである。
国連総会に出たあと、チェは、カナダをへてアフリカへ赴いた。アルジェリア、マリ、コンゴ、ギニア、ガーナ、ダホメ。そして再びアルジェリアに戻り、さらにタンザニアからアラブ連合を訪問し、一九六五年の三月十五日にいたって、ようやくハバナに帰着した。四カ月以上に及んだ大旅行であった。
空港にはカストロ首相が出迎えた。
カストロは偉大な現実主義者であった。キューバ革命の最高責任者として、かれはチェのように率直に振舞うわけにはいかなかった。ソ連の援助が打ち切られれば、キューバ革命がどれほどの困難をかかえこむか、かれはそれを計算しなければならなかった。
チェの、理想のために誰とでも戦うし、不正に対する批判を腹蔵しておく必要はないという考え方は、もとより盟友カストロにはよくわかっていた。ふたりの間に、徹底的な意見の交換があったことは、想像にかたくない。カストロはおそらくチェをなだめたであろう。だが、チェのような男にとって、自分を偽って生きることは不可能だった。自分の信念に忠実に生きる生き方しか、かれにはできなかった。
バチスタの圧制から解放されたキューバ革命の基礎は多くの問題をかかえているにしてもほぼ固まっている。その点については、じゅうぶんに役割を果たしたのだ。しかし、かつてのキューバのように、圧制や不正に苦しんでいる国民がいる。それは、自分の存在がキューバの立場を苦しくすること以上に、かれの心を惹きつける。となれば、かれに残された道は、キューバを去って、新しい戦場に向かうことしかなかった。
この場合、革命の指導者ならば、自分を屈してもキューバに居残って、カストロに協力すべきだという批判も成り立つかもしれないし、さらには現実問題として、カストロに従ってさえいれば、チェはキューバのナンバー2でいられるのだ。かれはいわば革命の元勲であり、元勲として生涯を終えることもできたであろう。困苦にみちた流浪の生活にあえて身を投ずることもないであろう。だが、かれはあえて困難な道を選んだのである。
歴史は多くの革命家をもったが、いったん権力を手にした革命家がみずからその地位を放棄して、困苦にみちた新たな戦列に加わったという例はかつてない。
チェがそれをなした史上最初の革命家であった。もしかすると、ドン・キホーテになりかねないその生き方がこの|稀有《けう》の革命家に天があたえた道なのかもしれなかった。
もとより、チェ自身にもそれはよくわかっていることであった。かれは、カストロあての手紙を書きあげると、両親あてにも手紙を遺した。
――もう一度わたしは足の下にロシナンテの肋骨を感じています。盾をたずさえて、再びわたしは旅をはじめるのです。
十年ほど前、わたしはもうひとつの別れの手紙を書きました。想い出すけれど、わたしは自分が立派な兵士でもよい医師でもないことを残念がっていました。いまはよい医師になろうとは決して考えていませんが、兵士としては悪い方ではありません。
わたしがより自覚的な人間になったことを除けば、本質的に変ったことは何もありません。わたしのマルキシズムは深まり、純粋になりました。わたしは、自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だと信じていますし、この確信に従って行動するのです。
多くの人は、わたしのことを冒険家というでしょう。わたしはそうなのです。しかし、違った種類の――自分の信念を証明するために命をも賭ける人間なのです。もしかすると、これが最後になるかもしれません。自分で望んでいるわけではないが、論理的にはそうなる可能性があります。もしそうなら、あなた方に最後の抱擁をおくります。
わたしは、あなた方を心から愛していました。ただ、その愛情をどうして表現したらよいのかを知らなかっただけです。わたしは自分の行動に極端な厳格さをもっているので、理解してもらえなかったことがあったと思います。わたしを理解していただくのは容易ではないのですが、いまは、わたしを信じてほしいのです。
芸術家のような喜びをもって完成を目指してきたわたしの意志が、なまってしまった脚と疲れた肺を支えてくれるでしょう。わたしはそれをやるつもりです。
この二十世紀の小さな|外人部隊長《コンドテイエリ》をときどき想い出してください。セリア、ロベルト、ファン=マルティン、ポトティン、ベアトリス、そして皆さんにキスを送ります。
そしてあなた方には、おふたりの強情な放蕩息子から大きな抱擁を送ります。
[#地付き]エルネスト
なんという手紙であろう! 革命家チェ・ゲバラとしてではなく、エルネストとして書いたこの手紙には、恐ろしいまでの正確な予見がうかがえる。ロシナンテは、いうまでもなく、ドン・キホーテの愛馬の名前なのだ。そして、かれの文章が美しければ美しいほど、キューバを去って行くチェの悲劇的な像がうき上がってくる。
さらにかれは、少年時代からの友人でいっしょに南米大陸を踏破し、そのころはキューバにきていたアルベルト・グラナドスにも書く。もっとも、これは手紙ではない。自著の『ゲリラ戦争』のとびらに書き遺したのだ。
――想い出として何をあげたらいいか、ぼくにはわからない。そこで経済学と砂糖キビを勉強する義務を贈りたい。ぼくの住いは再び二本の足で放浪することになった。ぼくの夢に国境はない。少なくとも弾丸がモノをいうまでは……
硝煙の匂いが消えたら、ぼくはきみを待つことにしよう。定住したジプシーであるきみをね。きみたちすべてを抱擁する。
(トーマスによろしく)
[#地付き]チェ
こうして、親しい人びとに手紙を書くと共に、チェは部下として苦楽を共にしてきた工業省の全員を、省内講堂に集めた。
「わたしがかれに最後に会ったのは、その講演のときだった。かれはみんなを集めて、旅行について話した。それとなく、みんなに別れをいうつもりだったらしい。
話の内容は、そのときは重要なものには思われなかった。各地における革命機運について話をした。各国では革命機運が昂まっているから、必ず成功するだろうという確信をもっていて、それについて語っていた。とくにラテン・アメリカ諸国における問題について語ったと記憶している」(ゴンサロ・アルブエルネ氏)
「チェが話をしたのは、帰国してからすぐでもなかったし、また、それほど時間がたってからでもありませんでした。一カ月以内というところでしょう。
チェが姿を見せなくなったことで、町にはいろいろな噂が流れました。省内でもいろいろいいました。
チェがシエラで革命戦争をしていたころ、ペルナギという名前の老人がいました。しかし、からだは丈夫でコックでした。文字の読めないいなかの人でしたが、チェをまるで自分の息子のように心配していました。チェがよく食事をとるようにとか、病気などのときには、寝食を忘れて看病していました。薬草をのめば喘息がなおるとかいって、しじゅう持ってきてはのませようとしていました。
チェは、そういうものをのみはしなかったのですけれど、喜んだふりをして受けとっていました。老人だし、させるような仕事はなかったのですが、給料をもらえるようにとりはからってあげていました。
ペルナギ老人は、チェがいなくなると、本当に神経に異常をきたしたかのようになりました。非常に愛情をもっていたからです。そして、セリア・サンチェスのところに押しかけて行っては、工業省の人の悪口をいったり、ついには革命の悪口までいったりするようになりました。
ペルナギは山男で、鉱山を探すとかいって、よく山にこもっていました。ときどき、鉱石標本をもってきたりするのです。そして金鉱を掘りあてたとかいって、チェに見せていました。それはいつも銅でしたけれど……。ほかに知っている人がいなくなったせいもあって、わたしをたずねてきては、子供みたいに泣いていました」(メルセデス・E・ロカ女史)
チェはどうしたのだ、という人びとの噂話の声は、日ましにひろがった。政府からは何の説明もなかった。
四月二十日、砂糖キビ刈りの労働奉仕に出たカストロは、記者たちの質問に答えてこういった。「ゲバラ少佐についていえる唯一のことは、どんなときでもどこにいようとも、かれが革命にきわめて有用な存在だということだ。かれは多面性をもった男だし、理解力もある。もっとも完全な指導者のひとりだろう」
さらにこののち、カストロはアメリカ人のカメラマン、リー・ロックウッドの質問に答えてこういっている。
「きみも知っているように、チェについて、さまざまな噂や臆測が流れている。それについて、わたしは公式に喋った。あるときがくれば、かれがいかなることに関係しているのかを国民に報せるだろう。じっさい、ちゃんとした理由があって、噂を無視してきている。いまは、その質問に答える適当な時ではないのだ。さもなければ、ほかの質問には全部答えたように、喜んで話すさ。しかし、いまは、その疑問には返事できない。いまわたしがきみにいえることは、友情や兄弟のような関係や、かれとわたしとの間に存在してきた連帯について、まったく問題はないということだ。それは無条件に断言できる」
そしてカストロは、なおも執拗に質問する相手に対して、しめくくるようにいう。
カストロによって粛清されたのだという見方をとるものもいた。国外とくにアメリカ合衆国ではこの意見がかなり根強くひろまり、無責任な通信社の電報が拍車をかけた。
それは、このふたりの男の連帯を理解しないか過小評価していたものの偏見だった。ふたりが生涯を誓った盟友であり、その絆の堅さは、たとえある問題について意見が分かれたとしても、決して憎しみをもちあうようにはならないことを知らないのであった。
チェがなぜキューバを去ったか。その当時もそしていまもなお、いろいろな説が立てられている。工業相として失敗したからだとか、カストロと不和になったためだとか、あるいはチェが中国派であったために、中国とソ連との対立の煽りをくらって去らざるを得なかったとか……。ことにこの中国派だったからという見方は、かれが中国大使館のレセプションにわりあい多く出席していたことから生まれたものでそれを信じているものも少なくない。
それらの全ては間違っている。理由は、はっきりしているのだ。チェの「別れの手紙」にすべてがいいつくされている。かれは自分の心を偽って文章を書く人間ではなかった。カストロあての手紙と、両親あての、そして愛児たちにあてた手紙を読みかえしてみればよい。これほどに無垢な、読むものの心を惹きつける手紙があるだろうか。そしてまた、かれは口先だけのロマンチストではなかった。フィデル・カストロとメキシコで連帯したときの、理想のためならば異国の空の下で死んでも悔いはないという、あのロマンティシズムこそが、この革命家の生涯を貫いた主題であり、かれはただそれに従って行動したまでなのである。その意味では、ペルナギ老人もチェの心をつかんでいたとはいえないし、また結果としてチェの出発がソ連に対するカストロの立場を救ったとしても、それがかれの出発の目的では決してなかったろう。
さらにはつぎに紹介する演説でもかれの意のあるところが示されている。これは国連総会でニカラグアの代表が行なった攻撃演説――チェの演説にアルゼンチンなまり、ソ連なまりがあるというもので、かれがキューバの代表だろうかという悪意をこめたものだが――に対して、チェはこういっているのだ。
――わたしはアルゼンチンに生まれた。それは誰にとっても秘密ではない。わたしはキューバ人であるが、アルゼンチン人でもある。わたしがラテン・アメリカの、どこか一国でも大多数でもいいが、熱烈な愛国者だと自分を感じているとしても、ラテン・アメリカの代表諸君は立腹されまい。必要な時が至れば、ラテン・アメリカ諸国のいずれの国でもその解放のために、喜んでわたしの命を投げ出すだろう、何ぴとにも頼まず、何をも求めず、何ぴとをも利用せずに、だ。そのような力強い心構えは、総会の臨時代表をつとめているわたし独りのものではない。キューバの全人民はそのような心構えでいるのである。
総会におけるこの演説は、そのときは反帝国主義闘争の抽象的な決意のあらわれとしてうけとられたのだが、そうではなかったのである。かれは実行するつもりのないことは、決して口にしない男であった。ニカラグア代表への反駁に機会をかりて、かれはおのれの将来の行動を世界じゅうの代表の前でさりげなく語っていた。それを多くの人が見のがしてしまっていたのである。
半年後の十月三日、キューバ社会主義革命統一党はキューバ共産党と改称した。カストロは、演壇に立ち、つぎつぎに中央委員を指名していったが、そのとき、この席上に当然いなければならぬ同志がひとりいる、それはチェだ、といった。会場から起こった拍手が静まるのを待ち、カストロはポケットから一通の手紙をとり出して読みあげた。
カストロの|嗄《しやが》れぎみの(それはかれの地声だが)声がチェの手紙を読みあげる間、人びとの視線は、壇上の列の中にあるアレイダ・マルチに注がれた。
国家が面倒をみてくれるとはいえ、チェは家族のことを考えなかったのだろうか。むろん、チェはかれなりに妻子を気遣っていた。アレイダとの間には、四人の子供が生まれていた。先妻イルダ・ガデアとの間にできたイルディタを加えれば、二男三女の子持ちであった。
父親として、チェはかれらにも手紙を遺している。
――愛するイルディタ、アレディタ、カミーロ、セリア、エルネスト
おまえたちがいつかこの手紙を読むときには、わたしはおまえたちのそばにはいないでしょう。
わたしについて、ほとんど覚えていないだろうし、幼いものたちは何も想い出さないでしょう。
おまえたちの父は、自分が信じたように行動した人間だったし、また、自分の信念に忠実だったとおもいます。
立派な革命家に成長しなさい。自然を支配できる技術を身につけるように、うんと勉強しなさい。革命は大切なもので、ひとりひとりがはなればなれでは何も値打ちがないことを覚えておきなさい。
世界のどこかでなにか不正が犯されたならば、いつでも強く感ずるようになりなさい。それが革命家の最上の特質なのです。
子供たちよ、いつまでも。いつか会いましょうね。大きなキスと抱擁をおくります。
[#地付き]パパ
★
チェが妻のアレイダに何を遺したかは不明である。わたしは彼女に会いたいと望んだが、会えなかった。ようやく電話で、チェについていまは何も語れない、語る気持になれない、察してほしい、とだけ彼女はいった。
アレイダの気持はチェにもわかっていただろうが、家族の絆よりも強くかれを支配したのは、革命家としての信条であった。世界のどこかで犯されている不正を黙って見のがすことは、子供たちにあたえた|訓《おし》えにみずから背くことでもある。
チェがまず選んだ新しい戦場は、アフリカのコンゴであった。
コンゴについての関心は、以前からかれの演説の中でもはっきりと示されている。
――アフリカでは何が起こっているか? アフリカ、そこではほぼ二年前、コンゴの(ルムンバ)首相が暗殺され、牛馬のように切りきざまれた。北アメリカの独占が根をおろしはじめ、コンゴを手に入れるための戦いが開始された。なぜか? なぜなら、銅があり、放射能鉱石があり、コンゴはきわめて戦略的な資源を有しているからである。そのために、かれらは、権利を正直に信じて、権利は力によって保証されることを知らなかったあの国民の指導者を殺し、それ故にかれは
国民の殉教者となったの|だ《〈*六四〉》。
――わたしはコンゴのいたましい事件について言及したい。それは現代の世界史において例のないもので、絶対に罰せられもせず、この上ない厚顔さで国民の権利を愚弄することがいかにしてできるものかを示している。(中略)だが、略奪の哲学は終るどころか、前よりもいっそう強くなっており、そのため、今日、ルムンバを殺害するのに国連の名を利用した連中が、白人種の防衛の名の下に、数千のコンゴ人たちを殺しつつあるのだ。
パトリス・ルムンバが国連にたくした希望がいかにして裏切られたかを、人は忘れることができるだろうか? 国連軍によるあの国への駐留に続いて起こったからくりや策略、そのうしろだてで罰せられることなく行なわれたこの偉大なアフリカの愛国者の暗殺をどうして忘れることができようか?
コンゴにおいて国連の権威を侮辱し、真に愛国的な理由からではなく、むしろ帝国主義者間の抗争を利用した男、ベルギーの支持でカタンガの分離を主導したのがモイズ・チョンベだったことを、われわれは忘れられようか?
さらにまた、国連の全活動の終りに、カタンガから追放されたチョンベがコンゴの首長としてまた主人として帰還したことを、いかにして正当化したり説明したりできるだろうか? 帝国主義者どもが国連機構に演ずるよう強制した卑劣な役割を
誰が否定できるだろう|か《〈*六五〉》?
チェの演説がすべてをいいつくしているが、かれは一九六一年に暗殺されたルムンバやコンゴの運命に、なみなみならぬ同情をもっていた。かれは、なみいる諸国の代表たちの前で、世界の全自由人はコンゴの犯罪の仇を討つよう用意しなければならない、と宣言しているのである。
コンゴでは虐殺された民族主義者ルムンバの|衣鉢《いはつ》をつぐガストン・スミアロが、西欧資本に支援されたチョンベ政府の傭兵と戦っていた。ほかの植民地でも民族解放闘争の火がふいていた。となれば、チェがコンゴを新しい戦場として選んだのも当然といってよかった。
コンゴからキューバに留学にきている黒人青年ルトリーシェはいう。
「六五年の十二月二十五日に、わたしはタンザニアでチェに会った。しかし、そのときはチェだとは思わなかった。ヒゲもきれいに剃っていたし、頭もつるつるにしていた。
かれは、そのとき、わたしたちの民族主義革命運動の仲間のところへ、キューバ大使館の人といっしょにきた。タンザニアのキューバ大使館の骨折りで、留学の話がすすんでいた。はじめは千人もよこしてくれるという話だったが、むろんこれは無理で、きたのは十二人だった。
かれはキューバ革命のときの写真をもっていた。カミーロとチェが映っていた。誰かがカミーロのことを訊いたら、仲のいい友だちだったが、死んでしまった、と答え、自動車で立ち去った。名前は最後までいわなかったし、かれだとわかったのも、ハバナにきてからです」
チェがキューバをじっさいに去ったのは、一九六五年八月であった。かれは、髪の毛を染め、前の方を|禿頭《とくとう》にし、眼鏡をかけた。(かれは、軽度ではあったが、近眼だった。本を読んだり文章を書くときは眼鏡をかけたが、ふだんは、はずしていた)こうした細工はすべて、キューバの諜報機関の手になるものだった。チェは、完全に変装した上で、カストロに会いに行った。カストロは、自分の前に現われた初対面の男がチェであると知ると、長身を折るようにして笑いころげた。
キューバからの出国を決意してからチェは行動を共にする同志たちと、東部のジャングルで、あらためてゲリラ戦の訓練をうけなおした。
五月十九日、アルゼンチンにいる母親のセリア・デ・ラ・セルナがガンで死去した。彼女が危篤に陥ったときから、チェの兄弟や友人は、ハバナへ電話をかけたり電報をうったりして、チェになんとか連絡しようとこころみた。この世界が社会主義になるのを待ち望んでいた婦人がいなければ、疑いもなく革命家チェ・ゲバラは存在しなかったであろう。彼女こそが、チェにもっとも深い影響をあたえた女性だった。
チェは、愛する母親の危篤を告げる肉親や友人たちの連絡に答えなかった。ロホの書いたものによれば、電話に出たアレイダは、キューバにいることは確かだが、ハバナにはいないのです、と困惑しきっていたという。
このため、ひとつの臆測が生まれた。チェはカストロによってとじこめられているのではないか、という臆測である。が、じじつはそうではなかった。ジャングルの中で、かれは、なまった肉体を鍛えなおしているところだったのだ。すべてを投げうって訓練にうちこんでいる他の同志を見ては、自分ひとりが一時的にせよ脱け出すことはできなかった。革命家としての信念が、それを許しもしなかった。想えば、高い代償であるが、人間による人間の収奪を根絶したいと願う純粋な熱情のみが、それを可能にするのだ。
しかし、コンゴでの情勢は、チェの期待したようには展開しなかった。年があけた一九六六年二月十五日、かれは長女イルディタの誕生日にあたって、心のこもった長い手紙を書いた。メキシコで生まれたイルディタは、ちょうど十歳になっていた。
――愛するイルディタ
いまおまえに手紙を書いているのですが、届くのはずいぶんあとになるでしょう。でも、おまえのことをよく覚えているとわかってほしいのです。そして、おまえが誕生日をとても楽しく過しているものと思います。おまえはもうおとなに近いから子どもにするように、ばかげたことや嘘を書くわけにはいきません。
わたしが遠くにきているし、この先も長い間おまえから離れて、わたしたちの敵と戦うために全力をつくさなければいけないことは、おまえにもわかるはずです。大したことではないにしても、あるものがしなければならないのです。で、わたしがおまえを誇りにしているように、おまえのお父さんを誇りにしていいのです。
戦いの日は長く続くでしょうし、一人前の女性になったときはおまえも戦いに加わらなくてはいけないことを覚えておいておくれ。それまでは、大いに革命的であるために準備をととのえること、おまえの年ごろではできるだけ勉強し、いつでも正しいことに賛成することです。それからママのいいつけを守りなさい、そのときまでは、何でも過信してはいけません。いまに、そうだということがわかります。
学校でも最優秀であるように戦うべきなのです。あらゆる意味で優秀であるということでわたしが何をいわんとしているか、わかるでしょうね、勉強と革命的な態度、つまり、よい行為、自律、革命に対する愛、同志愛、などのことです。わたしは、おまえの年ごろにはそうではなかった。でも、それは人間が互いに敵である、違った社会にいたからです。いまは、おまえは別の時代に生きる特権をあたえられているのだから、それにふさわしくあるべきです。
忘れずに、家に寄って、ほかの子供たちの面倒を見たり、勉強や行儀を教えたりしてあげなさい。とくにアレディタはね、お姉さんらしく、心配してあげなさい。
では、もう一度くりかえすが、誕生日を楽しく過しなさい。ママとヒナに抱擁してあげてね。この先とても長い間会えない分だけ、大きな抱擁をおまえに送ります。
[#地付き]パパ
この筆調から判断する限り、チェはまだまだアフリカで戦うつもりだったようである。ところが、現実には、チェやその仲間たちは遅くとも四月にはキューバに戻ったものと思われる。何がかれらをつまずかせたか、それを説明するものはなにもない。中ソの対立が激化し、そのため、中国派とみられたスミアロに協力しないようにソ連がカストロに勧告したとか、死者の胸を切り裂いて食べてしまうアフリカの蛮習にチェが耐えられなかったとか、種々の説が樹てられている。
確かなことは、何ひとつとしてわかっていない以上、無責任な推測はさけるべきであろう。
★
アフリカでの経験がチェにひとつの教訓をもたらした。ゲリラ戦を主体とする解放闘争は、風俗習慣言語の異なる地域では、いかに熱烈な意欲をもっていようとも、成功する可能性がきわめて低いという、動かしがたい事実である。
となれば、チェにもっとも適したところはラテン・アメリカ内の国であった。どの国でもスペイン語が通じるし、風裕習慣も同じである。アメリカ資本の巨大な圧力の下にある点では、どの国をとっても大して開きがあるわけではないが、そうなると、残る問題は革命への条件がどれだけととのっているか、にかかってくる。いいかえれば、下地があるか否かである。
ふたつの候補地が考えられた。グアテマラとボリビアである。両国とも、チェはかつて訪れていたし、共に一度は社会主義政権の誕生をみている。それがアメリカの圧力や工作によってくつがえったのも同じである。選ぶとすれば、この二国のうちのどちらかであった。
別な条件も、この選択に作用した。それは選ばれるがわではなく、選択するがわにあった。十年前にカストロの遠征軍に参加したときとは、チェの方の条件が違っていた。かれはいまやラテン・アメリカでは誰ひとりとして知らぬもののない革命家となっていた。医師志願の青年が理想に共鳴して銃をとるのとはわけが違っていた。たとえチェが一兵士であることを望んだとしても、ゲリラ戦士としての素質において実力において実績において、その国の人間をさしおいてチェが総指揮官にならざるをえないだろう。
グアテマラには、セザール・モンテスという名高いゲリラ戦士がいた。三十にみたぬ若さであったが、すでに数年間も執拗なゲリラ戦をくりひろげて、政府軍を悩ましていた。その首には、莫大な懸賞金までかかっている男であった。
あるとき、ひとりの新聞記者がゲリラの哨戒網にひっかかった。モンテスにインタビューしたいというのである。ゲリラたちは、厳重な身体検査をほどこした。むろんピストルや刃物の類は身につけていなかった。安心してかれらはモンテスのもとに案内した。
モンテスは、黙ってこの新聞記者を上から下まで見つめた。つぎの瞬間、かれはいきなり腰のピストルをぬくと、新聞記者を射殺した。部下のひとりが、無用な殺人をしないというゲリラの原則に反するこの発砲を非難した。するとモンテスは、死者のそばに歩みより、ズボンのベルトをぬきとった。部下たちがその裏を見ると、ベルトには鋼鉄線が何本も裏打ちされていた。使い方に熟達すれば、人の命を奪う武器となるだろう。
モンテスはこのようにゲリラ戦士の素質に恵まれていた。同時に、若さも手伝って、自信過剰ぎみな一面もあった。一隻の船に、ふたりの船頭になる危険もある。
さらには、ゲリラ戦を開始した場合のバランスシートも考慮しなければならなかった。グアテマラに比べ、ボリビアは地下資源に恵まれていた。錫の埋蔵量では世界でも、屈指の国だった。そのために、鉱山労働者も多く、かつてパス・エステンソロが社会主義政権を一時的にせよ樹立できたのも、かれらの支援があったからであり、いまかれらはエステンソロを倒した軍事政権レネ・バリエントス・オルトーニョ大統領によって、血の復讐をうけていた。もし強力なゲリラ部隊が出現すれば、かれらは銃をとって立ち上がるのではないか。
★
チェの計画を知ると、シエラ以来生死を共にしてきたキューバ人が、生命の危険のないキューバでの生活を投げうって参加を申し出てきた。
ファン・ビタリオ・アクーニヤ・ヌーニェスは、革命軍少佐で共産党中央委員。アルベルト・フェルナンデス・モンテス・デ・オカは、同じく少佐で中央委員として鉱工業省次官。リカルド・グスタボ・マチン・オルド・デ・ベチュは、少佐で工業省次官。イエスス・スアレス・ガヨールは、大尉で砂糖産業省次官。アントニオ・サンチェス・ディアスは少佐で中央委員。エリセオ・レイエス・ロドリゲスは大尉で中央委員。チェをふくめた十八人全員が中尉以上の位階をもった歴戦のゲリラ戦士だった。
中央委員や次官としての生活や家族をすてても、かれらはその可能性はじゅうぶんにある死を怖れずに、チェと共にゲリラ戦士の隊列に加わることを望んだのだ。キューバ革命はそういう男たちを生んでいたのであった。
先発隊が出発したのは、七月初旬である。まずひとり、ついでふたりの隊員がハバナからプラハ行きの飛行機にのり、プラハからフランクフルト、チューリッヒ、ダカール、リオを経てサンパウロに到着。七月二十五日に、ボリビア東南部の都会サンタクルスに入国した。
もちろん、それ以前にボリビアの地下運動家たちとの間には、じゅうぶんな連絡がなされていた。サンタクルス空港には、ボリビア人同志が迎えに出ているのである。
この通称ポンボ日記はボリビア陸軍に押収されたもので、まだ欧米にも紹介されていない。
ポンボことタマーヨ大尉の日記は、一九六六年七月十四日にはじまり、一九六七年五月二十九日に終っている。しかし、それはかれが死んだことを意味してはいない。ポンボはチェが戦死したのちチリを経て、一九六八年三月六日、ふたりの仲間とハバナに生還した。カストロが、のちに入手したチェの日記を、偽造されたものではなく、本ものであると確認したのは、妻のアレイダの証言や筆跡鑑定によっているが、そのほかにも、このポンボ日記との一致が、認定の有力な一因となっていることも確かであろう。
ボリビアにおけるチェの行動の一部始終は、かれの日記にその全容がつくされており、それ以上につけ加えることは、ほとんどないといってもいいのであるが、ポンボ日記は、チェの日記以前の状況を克明に記録してい、その意味できわめて重要である。以下、必要に応じて採録する。
ポンボの日記は、まずチェコのプラハを出発するところからはじまる。当時、ハバナに乗入れしている航空路線は、メキシコ、マドリッド、プラハからの三線で、このうちメキシコのそれは、出入国のチェックが厳重をきわめている。すべて写真を撮られ、旅券番号を控えられる。その点でチェコは社会主義陣営であり、そのようなチェックは行なわれていない。したがって、ボリビアへ向ったキューバ人は、チェをふくめて、すべてポンボと同じ道程を経たものと考えられる。
ポンボには連れがあった。通称トゥマニ、あるいはトゥマと呼ばれるカルロス・クェリョ・クェリョである。そして、ふたりの到着を迎えたボリビア人同志のほかに、かれら以前にすでに入国していた
通称ムビ|リ《〈*六八〉》ことリカルド・アスプルもいた。(日記のカッコ内は筆者の註)
――サンタクルスに着いて、われわれを待っていた同志ムビリの見なれた顔を見たときは、嬉しかった。ボリビア人の同志たちは、われわれの入国手続その他を手伝ってくれる。わたしはムビリと話し合った。かれに必要なすべての書類を渡し、かれの理解を助けるために、ラモン(チェのこと)がわれわれに語ったこと――ターニアに関すること、作戦地帯になる予定地区の北方に、
エミリアー|ノ《〈*六九〉》の連中の手で農場を入手する必要性、ラモンが島(キューバのこと)へ旅すること、たぶんそこにしばらく滞在すること――を口頭でかれは説明した。
かれはそれまで農場について特別な説明をあたえられていなかったので、その家の位置はどこにするかについて反問したが、これにはすっかり驚かされた。(以下略)(7月25日)
★
この農場というのは、ゲリラ隊が根拠にするためのものであった。ポンボにしてみれば、トゥマニがすでに指示をうけているものと信じていただけに、その連絡不十分ぶりに驚かざるをえなかったわけである。また、エミリアーノことチノは本名ファン・カルロス・チャン。チェと共に戦死した男である。だが、チノの目的は、必ずしもボリビアでゲリラ闘争をくりひろげることではなかった。かれは学生出身の革命家で、一九六四年にペルーの民族解放軍を組織した。本来の目的はチェと呼応してペルーのアキクチョにゲリラ戦線をひらくはずだった。かれはいったんボリビアからキューバへ行き、再びボリビアに戻ったところで、対ボリビア軍の戦闘が本格化した。そのため、ペルーに戻れず、最後までチェと行動を共にしたのである。
――エル・チノとわれわれの連絡係をつとめるペルー人同志のサンチェスに、最初にボリビアに、ついでペルーに戦いを開始するというわが政府の決定を通報した。目下のところ、ボリビアの方が条件に恵まれているという事実を説明した。その説明をするにあたって、武装闘争にとって破滅を意味するかもしれない事態が、かれの国に起こっていること――デ・ラ・プエンテの死、カリストの投獄、ロバトンの行方不明――からはじめた。かれは事態を完全に理解した。われわれは、かれに引きつづき協力するように、また訓練するために、かれの要員をここに送ってきて、かれらをボリビア人と共にどれかの作戦に参加せしめて、のちにキューバ人の同志たちといっしょにペルーにおいてゲリラの核を構成するようにと要請した。(7月29日)
これでわかることは、ペルー人の参加は、のちのペルーでのゲリラ戦の訓練のためだったことであり、そしてまた、チェはボリビアにおいてボリビア人ゲリラがじゅうぶんな根拠を確立したのちは、再びロシナンテの|鞍《くら》にまたがってペルーに向かう気持もあったことである。この生き方こそがチェならではのものであり、その三十九年の生涯を通じて、かれは革命の元勲であることを望んだことは一度もなかった。抑圧された民衆のあるところならばどこにおいても、武器をとる覚悟であった。ボリビアでなくても、ペルーでもグアテマラでもよかったのであり、ボリビアが選ばれたのは、ゲリラにとって条件に恵まれているからだった。
それはまた、この国の民衆がいかに抑圧されていたかということも意味するだろう。面積は百九万九千平方キロで日本の約三倍。だが、人口は三百四十六万人(一九六〇年推計)にすぎない。その七〇パーセントがインディオで、白人は五パーセント。六七パーセントは文字が読めず、国民所得は年平均五万円足らずというありさまだった。
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じじつ、インディオの貧しさは言語に絶している。かれらは円貨にして一日三十円もあれば、なんとか食っていけるし、食えないものは飢えをコカの葉――コカインの原料で、ボリビアの特産品だ――をかむことによってまぎらわす。首都のラパス――法律上は南部のスクレ市だが、機能的にはラパスが首都である――は、標高三千八百メートルの高地にあり、飛行場から街へ行く途中、山腹に沿って無数のインディオの家があるが、いずれも土をねりかためただけの家である。もちろん電灯などはない。最近になって、日本の商社がトタンを輸入したため、屋根をトタンにするのが流行したが、トタンが買えるのも一部である。かれらは、野菜を街頭で売り、その金で食料を買うが、奇妙なことに、かれらがもっとも大事にする財産は、帽子である。雨でも降れば、商品をそっちのけにして、帽子がまず濡れないようにする。公用語であるスペイン語を話せる国民は、人口の四割にすぎない。
革命、というよりもクーデターは、この国にあっては、日常茶飯事であった。一八二五年八月に、ラテン・アメリカをスペインの鎖から解放したシモン・ボリーバルによってこの国は独立国となった。国名はこのボリーバルの名に|因《ちな》んでかれの部下だった初代大統領スクレが命名したが、クーデターの数は百六十回をこえ、憲法は十一回も変った。就任した大統領七十人のうち、任期を|全《まつと》うしたものは、数えるほどしかいない。死刑、暗殺、自殺という最期をとげた大統領の数の方が多い。しかしながら、国土は決して貧しくない。鉱産物に恵まれて錫は世界三位であり、東部のサンタクルス州一帯には無限の|沃土《よくど》がひろがっている。
にもかかわらず、食料は輸入に頼っているし、それも本来は自給可能な品なのだ。一言でいえば、政治の腐敗が、この国を“黄金の椅子に坐った乞食”にしていた。チェが戦いをはじめたころの大統領はレネ・バリエントスだったが、かれは副大統領時代に、国費で輸入したトラクターをそっくりそのままブラジルにある自分の農場にまわしてしまったという逸話の持主だった。
|賄賂《わいろ》は公然たるものであり、賄賂をとらぬ官吏はなかった。余談になるが、最高軍事裁判所長官で空軍少将の位階をもつアレハンドロ・吉田という日系二世の軍人がいる。この人は、バリエントスと陸士の同期で、日系としては、ラテン・アメリカで最初に将官になった人だが、この人はあまり評判がよろしくない。というのは、かれが絶対に賄賂を|うけとらない《ヽヽヽヽヽヽ》からなのだ。わたしはかれに会ったとき、町のその噂を伝えると、アレハンドロ・吉田少将は、否定も肯定もせず、
「わたしは父親――静岡出身で吉田よしのりといったという――から、正直であれ、と教えられた。それを守っているだけです」
と|憮然《ぶぜん》たる表情でいったものである。
ともあれ、ボリビアはチェによって選ばれた国であり、理論的にはそれにふさわしい条件を備えていた。
だが、理論と現実とは一致しないという、ごくありふれた教訓を、キューバ人たちはボリビアにおいて学ばねばならなかった。まず、協力を誓ったはずのボリビア共産党が、先発隊であるポンボたちと、はやくも意見の相違をきたして協力を渋りはじめるのである。
ボリビア共産党を代表してポンボらに接触したのは、第一書記のマリオ・モンヘであった。かれは、この年の十二月三十一日にチェと会談し、翌日にはチェと|袂《たもと》を分つが、その前兆は、ポンボの日記からもうかがえる。モンヘは、はじめ二十人の同志を参加させるといっておきながら、すぐに裏切るのだ。
――夜、われわれはエスタニスラオ(モンヘ)を自宅に訪問した。ムビリは、そこで、約束してくれた二十人に加えて、さらに何人かが必要だということを明らかにした。かれ(モンヘ)はいった。二十人だって?
かれは、自分はそんな約束をしたとは記憶にない、といった。さらに、情報とスパイ対抗組織を任せて、最後の手段としてそれを使うために充当できる人物がいない、という。(中略)いままで、ほんの少ししか前進できなかったことから考えて、誰でも、何かあるのだと、具体的にいえば武装闘争に加わる決意があるか否かについて、まったく不確かであることを感ずるだろう。じっさい、この問題は死んだも同然だ。われわれは、本件について熱意が足りないという問題に直面している。現実にムビリは、絶えず行動を起こすように、この人たちをあおり続けていなければならない。かれらは大変に無気力だ。すべての組織づくりをするのはわれわれだけで、かれらは協力してくれないのだ。(8月8日)
――
マニラ(ハバナのこと)からパチ|ョ《〈*七〇〉》がモンゴ(チェのこと)の指令表をもって20日にこちらへ向けて出発したことを報せてきた。かれは24日ごろ到着するだろう。不幸なことに、期待に反して、かれらは前線と連絡するものを送ってくれるとはいっていない。ピゴテス(ボリビア人)が視察してきた農場のデータをもって到着し、われわれの目的にもっともふさわしい農場を指摘した。モンゴがおそらくパチョとくるので、カンバ(ボリビア人)とトゥマニを、最適の農場へ買いにやらせることにした。(8月12日)
――ムビリがエスタニスラオと会合し、現実の重要問題について話しあった。エスタニスラオは四人組にこの反乱に加わらないようにといい、かれらを辞めさせると脅迫した。そこでわれわれは、そんなことはわかっていたが、もしかれがマニラで約束し、ほんの数日前にもここで約束したことを実行しないつもりであれば、われわれはマニラにその事実を報告せざるを得ない、と告げた。かれは、自分は約束を守る男だ、しかし部下たちと新たに話しあわなければならぬことも理解してくれ、その結果がどうなるかは、われわれが山に入る準備をととのえる前に知らせるようにする、なぜならかれがわれわれにあてがった男たちの大半はこの仕事のために任命されたことを知らないためだ、と反論した。(8月19日)
――われわれは、事の中心からはずされたと考えて怒っている同志サンチェスと議論した。われわれは、その考えとは反対に、かれも広く使いたいし、第一かれを遠ざける理由はなにもない、と釈明した。(8月21日)
――市の郊外で、ムビリのピストルを試射した。ゲバラ(ボリビア人のモイセス)を利用することが許されるとしたらどうするかについても話しあった。作戦地域や集合地域に予定された地帯に関するゲバラの知識を信用しない方がいい、などとサンチェスは示唆した。多少は金がかかっても、ゲバラの組織をじっさいにテストすることが最上策だ、ともいった。つまり、この目的のために、反乱に使えるかれの手兵をコチャバンバに集めるよう要求し、そのために十五日間の余裕をあたえ、旅費や家を借りるのにいくらかかるか質問してみる――などがかれの意見だ。この方法で、かれが本当に手兵を握っているかどうか、われわれは確かめることができるだろう。それに先立って、かれの情報のうちの何項かに説明を求め、かれがどのようにしてこれ(反乱)を発展させようとしているのか、またその真の目的は何かについて、さらにはっきりさせよう。(8月23日)
――きょう、ついに二カ月以上も探し求めていた家を手に入れた。われわれの成功を信じていないので山に入りたくないという同志(名前の記入なし)は、戦闘を起こすにはこの国の諸条件が熟していないと考えている。(中略)この同志はマリオと話し合って、町に残って工作すべきだというのが、われわれの意見である。なぜなら、山に入れば他のものとトラブルを起こす怖れがあり、そうなるとドラスティックな解決――銃殺――をとることをしいられるかもしれず、それは戦いのよい門出とはならないだろうからである。(8月24日)
――パチョ(九月三日に到着したキューバ人同志)と映画を見に見く。いろいろなことについて話し合った。かれは新しい諸計画に対するムビリの態度――敵意を抱いている――を知っている。わたしは、それは基本的には、ゲバラに注意を向けるという決定をかれが知って、不快に思っているからだ、と説明する。(以下略)
――サンチェスとムビリを加えて、われわれにとって新しいノルマをもたらした新状況と問題を解決する最上策について分析にとりかかった。ゲバラといっしょに組織することを決定し、そしてまた少なくとも一時的に事実上党とわれわれの関係を断つよう命令されたいま、もっとも難しい問題は党との関係である。もうひとつの問題は、サンタクルスの近くに買いとり、いまや空屋にすることを余儀なくされた農場である。
放棄して注意を惹くことのないよう、誰か人をやって管理させることに一致した。至急ベニ地方へ出かけて、最小限の必要をみたす土地を買うことも問題のひとつである。われわれは、エスタニスラオと訣別する問題につき、マニラの意見を多少は知りたかった。あるいは、少なくとも、持っているだけの人数で前進することを認めてほしいとおもった。事態を現状の水準に保つためには、ラモンとパイレがエスタニスラオと合流することが必要である。農場を購入し、そこに行ってサンタクルスにある品(武器、弾薬)を移動させよう。(九月で日付なし)
――モンゴの旅行についての最上の方法やマニラへ帰る日時について、パチョとわれわれは討論し続けた。さらに新しい指令であらたに生じた問題の最上の解決策についても。(9月8日)
こうしてポンボたちは、懸命の努力を続けた。気のりうすのモンヘの代りに、行動的なモイセス・ゲバラと連絡をとろうとしたわけである。モンヘはいぜんとして口先だけは達者で、ラテン・アメリカ的共産主義の欠陥をあらわにするばかりだったが、ようやく十人の部下を提供することになった。
★
ほぼ同じころ、フランス人レジス・ドブレが入国してきた。かれの目的は、九月三日の日記によれば、「選ばれた地域の政治的地勢を研究し、ゲバラ(モイセス)とその報告を検討すること」となっている。
九月十日、ポンボは、ハバナにいるチェあてに長文の報告を書いた。全文を紹介する余裕はないが、なかでも重要なのは、戦闘候補地の選定についての部分である。候補地は、はじめ三カ所あった。ベニ州のカラナビとユンガス、そしてサンタクルス州中央部である。ポンボは、サンタクルスがよいとおもうと記した。理由は、暑い地方であること、他の二地方と同じく住民の少ないこと、洞穴が多いこと、石油と家畜があるので経済的にも重要であり、チリへ通ずる油送管が通っていて、国内のみならず国際的にも経済上の打撃を与えることができることなどであった。
もうひとつ、この報告のなかで注意を|惹《ひ》くのは、唯一の日系ゲリラ隊員フレディ・マイムラがはやくも登場していることである。
マイムラは舞村か米村か不明であるが、かれは一九三九年十月十八日、ボリビアのベニ州トリニダド市で生まれた。父親は帰化した日本人でアントニオと称し、洋服生地店を経営した。妻ローサとの間に生まれた次男である。父親は、一九三〇年ごろ農業移民としてペルーに入国し、のちにボリビアへ移った。一九五九年七月に死去したが、未亡人の話では東京に弟妹がいるという。フレディは、一九六二年、外科医を志望してハバナ大学の医学部に留学した。二年間の教養課程を一年で終了したというから、かなりの秀才だったと思われる。その後、チェコとソ連に留学し、ハバナに戻ったときは入党していた。ポンボは、ボリビア人同志からフレディの存在を知り、フレディもまたゲリラに参加したい希望を抱いているのを知って、はやく帰国させてほしい旨をチェあての報告書につけ加えている。しかし、じっさいにキャンプに到着するのはずっと後のことで、チェの日記では十一月二十七日の項に登場する。ココ・ペレド(ボリビア人ゲリラ)やキューバ人のホアキン(本名フアン・ビタリオ・アクーニヤ・ヌーニェス、キューバ共産党中央委員、少佐)らといっしょにゲリラのキャンプにラパスから到着したと書かれている。ボリビア人の医学生で、エルネストの名前で出ている。
翌十一日、ポンボは、最初のキャンプにするつもりのニャンカウアスの農場についてくわしい報告を作成した。チェの日記には、この農場についてほとんど記載されていないから、ポンボの日記によってしか、その様子を知りえない。
――農場はサンタクルス州の南西地方に位置し、植物の豊富な山岳であるが、全般に水の少ない地域にある。ただし農場自体は水が豊富である。ニャンカウアスは、東はピリレンダス、西はインカウアシの山々の間にある渓谷で、その山岳のもっとも高い頂上は、東と西の境界をなしている。これらの高地は南に続き、アルゼンチンのタルサにまで至っている。農場は、北はそれをわれわれに売った男レンベルト・ビーリャのもので、人が住んでいないイリビティ農場に接して終っている。ビーリャは、ラグニージャの近くの、ニャンカウアスから約二十キロはなれたテラサスという農場に住んでいる。南は養豚をしているシロ・アルガラニャスの農場に接している。(中略)
農場から約三キロ足らずの道路ぞいに、アルガラニャスの家がある。この男は、われわれの仕事における唯一の危険である。かれはパス・エステンソロ時代にカミリの村長であった。われわれが農場を手に入れてから、かれが、われわれは農場が寂しいところにあるのを利用してコカインの密造工場を作るのだ、と噂していることを知った。(中略)
問題は隊員の移動にある。アルガラニャスをあざむかなければならないからだ。サンタクルスからの旅は、乾季にすなわち春に十二時間を要する。もし出水があれば通行不能になり、旅の遅れは二、三日になるだろう。農場は千二百二十七ヘクタールあり、かなりの量の木を持っている。これをもとに、仕事をカモフラージュする計画は、豚を飼うことと製材所を建てることだ。ひとつの重要な点は、北の方へは樹の多い山岳地帯を通り、バリエ・グランデに行けることだ。そこから先へは、森はそれほど深くない。南へは似たような土地を通って、アルゼンチンへ行くことができる。
これに対する返事がきたのは、十月四日だった。発信者はラモン。つまりチェである。この日は、ムビリが連絡のために、ボリビアを出発する前日でもあった。
チェは、十月十日以後の行動をポンボに指示したのち、農場が適当であることを認め、できればもうひとつ入手するように命じた。暗号によるこの返信はかなり長いが、その末尾には「諸君に抱擁をおくる、ラモン」と書かれてあった。
ポンボの日記はなおも続く。
――モンゴから、ムビリが帰路についたことを知らせる通信うけとる。(10月12日)
――リカルド(ムビリの本名)が到着し、かれが抱いている計画とモンゴからの質問を私に話す。
かれが旅行するにたる理由がない、とわたしにいう。つまり、モンゴは、かれが土曜日にラパスへ行くと考えているので、リカルドの旅は時間の損失であり、犯した一連の誤りのなかでもっとも大きなものは、かれを派遣することであり、何の役にも立たない、といったというのだ。これはリカルドを深く傷つけた。というのは、かれが行くのはボリビアのためではなくて、モンゴに対する個人的な忠誠心によるものだったからである。
かれはターニアのことについても、わたしに話した。つまり、彼女は、かれが安全のための規律を破り、また彼女に対して大胆にふるまったといって非難した。モンゴは、通信で指定した場所でレナンと落ち合うために、この土曜日の二十二日に、こちらへ向けて出発する予定。その後(レナンは)モンゴを拾いあげるために、武器六個をもってバスでサンタクルスにトゥマニを連れて行かねばならない。それから農場へ行き、ラパスに帰るだろう。他の男たちとわたしは農場へ行く。(10月21日)
謎の女性といわれるターニアがここで初めて登場してくる。彼女については、それが女であるということだけの理由でいろいろな臆測が流布されたが、それについてはのちにふれるとして、非合法に潜入している先発隊員たちの間で、ボリビア共産党の非協力や準備のための緊張などで、些細なことが原因の摩擦が生ずるのは、やはりさけがたいことでもあったのだ。
――われわれは
ファクン|ド《〈*七一〉》と話し合った。かれの話では、エスタニスラオは、武装闘争の問題に関する中央委員会の決定について討議するためマニラへ旅行するとかれにいったそうだ。いかなる同時蜂起の場合にも指揮者となれるように仲間をマニラに送って、軍事訓練をうけさせたいと希望しているわけである。そしてまた、われわれは内政問題に干渉したから南へ行くべきだ、ともいった由。同じく、もしムビリがエスタニスラオと討議したいことが何かあるなら、そのための会合を準備するからともいった。ムビリは、前の指示に従って、マニラの指令が近ぢかココを通じて送られてくるからには、新しく討議することは何もない、といった。しかし、その一方では、事態が前に検討したものと違っているのをココを通じて知った旨(エスタニスラオに)いいたがっていた。(10月22日)
ポンボの日記やその後のじっさいの行動をみてわかることは、ボリビア共産党とくにそのリーダーであるモンヘがいかに教条主義者だったかということである。というよりも、かれには、帝国主義に対して戦う気概などは初めからなかった、といってもいいだろう。
ボリビアで武装闘争を開始するにあたって、チェあるいはキューバが、国内事情のわからない初期の段階において、共産党の協力を期待していたであろうことは、当然考えられる。そのために、資金その他で援助をあたえる約束をしたであろうことも想像はつく。むろんそうした援助は、モンヘの方でも約束を実行することを条件にしたものだったろうが、モンヘは、自分の不実行は棚にあげて、キューバがわの約束履行だけを要求するのだ。
ポンボとムビリは、二十四日にモンヘと会合した。モンヘは例によって、ムシのいい注文ばかり出し、さらには、ここで起きているいろいろなトラブルはムビリの責任だ、とまでいった。ムビリは、同席していたポンボが手ぬるい態度だったといってのちに抗議したほど、モンヘのいうに任せていた。だが、ムビリは、ボリビア国内すべての地下組織と接触をはかるつもりのチェの立場を考慮に入れて、じっと耐えたのである。それに、ムビリたちは、モンヘに戦術プランをかなりくわしく話してしまうという誤りを犯していた。この段階では、まだモンヘを怒らせるわけにはいかない事情もあったのである。
モンヘは図にのって、党員の給料支払いのために、手持ち資金に余裕がないから、二千ドル貸してくれ、といった。ムビリは、自分は多くの同志に責任があるから、いま文無しになるわけにはいかない、といって拒絶した。
するとこんどは、近くブルガリアで開かれる各国共産党大会に出席する旅費をカンパしてくれ、とモンヘはいい出した。ムビリは、それもことわった。その手にはのらない、とはっきりいいきった。だが、モンヘはいやらしいくらいに屈しない。協力させる部下の名前をちらつかせたのち、ムビリがハバナへ行ったさいに持ちかえってきた四万五千ドルのことについて、あれこれいいはじめた。そのうちの二万ドルは、ゲリラといっしょに戦う民族解放軍の家族を飢えさせるわけにはいかない――一家の働き手をとられるわけだから――として、用意されたものだった。モンヘは、それをすでに聞き知っていて、ブツブツ文句をつけたのだ。
ムビリは根負けして、一千ドルを渡すことに同意した。ポンボは、このようないきさつを詳しく日記に書いたのち、
――われわれの犯したもっとも大きな失敗は、かれ(モンヘ)を信用したことと、ほとんどすべての事について、かれに教えたことであった。(10月24日)
と反省している。
モンヘは、主導権を奪われるのではないかと怖れて、やっきになっていた。都市工作を担当するボリビア人にロドルフォ・サルダニアという男がいたが、ポンボはこの男に、もしそう望むならば、ハバナヘ行けるようにすると約束していた。ポンボが、その話をどうするつもりか、と訊いたときも、ロドルフォは、
――自分のことをわれわれ(ポンボたち)の傭い兵だといって(モンヘが)非難しているので、その非難を正当づける口実をあたえたくない、と答えた。(10月27日)
というありさまであった。
★
こういう情勢のさなかで、チェがボリビアに入国したのは、十一月四日であった。かれは、ハバナからプラハ、フランクフルト、パリを経てリオへ渡り、サンパウロから、ウルグアイ人実業家ラモン・ベニテス・フェルナンデスの旅券でラパスに入国した。もちろんコンゴのときのように変装しており、前額部を剃りあげて|禿頭《とくとう》にし、髪も灰色に染めた。途中、フランクフルトで人工皮表紙の日記帳を買っているが、十一月七日以降のかれの日記は、この九・九マルクで買った日記帳に書かれたのである。
――ムビリがわれわれに、モンゴ(チェのこと)が到着したことを告げると共に、そのことをかれが|喋《しやべ》ったと、われわれにいわないように頼んだ。理由は、モンゴがわれわれがそれを知ることをいやがる、とレナンがいうからである。これは、われわれを驚かせた。なぜなら、モンゴがわれわれを信用しないとは、考えられないからだ。これが心配で、われわれは眠れない。トゥマニもだ。
ムビリが午前二時ごろ着く。そしてレナンが誤解したのだという。というのは、モンゴがかれに頼んだのは、われわれが皆いっしょにモンゴを見送りに行かないようにということだ。かれは日暮れには出発する用意ができており、ピゴテスの免許をもっているので、自分で運転するという。わたしは別のジープに乗ってかれについて行こう。(11月4日)
――われわれは午前九時半にコチャバンバに着いた。われわれは検問所で…… 別の車が午前八時に通過したことを知った。われわれは旅を続けて、午後九時ごろサンタクルス街道の十字路に達し、そこでカミリ街を通って小さなわき道に入り、午前四時ごろリオ・グランデの岸に着いた。まだどこで舟で川を渡れるのか、われわれにはわからない。(11月6日)
――午前六時、渡河点を見つけてわれわれを待っていた別のジープと合流する。別べつに河を渡り、それから夜営する場所を捜すことにわれわれは合意する。
農場へ通ずる道の入口を捜しあててから、われわれはモンゴの位置から遠くはなれて車をとめた。食事をしている間にピゴテスに紹介して、ボリビアが大陸でのゲリラ戦に最上の条件を備えている国なので、ボリビアで戦うためにきたというかれの決心を|報《しら》せる。かれは、この計画では早急な勝利の可能性は遠のき、かれの滞在も長くなることを了解する。しかし、われわれはラテン・アメリカ全土とはいわないまでも、少なくとも海岸のある国に革命をもたないで、ボリビアだけに革命を夢みるような贅沢は許されないのだ、もし海岸国に革命がなければ、この革命はつぶされるだろうということを理解する。
かれは、ここに残るためにきたのであり、ここを去るときの唯一の姿は、死者となってか、または国境へ向って道を撃ちひらくことだ、といった。私はかれが革命にとって大きな助けになると考えるのでマリオに話したいとおもう。かれはふたつの要求を出した。すなわち、一、モンゴが人びとを指揮してかれを援助すること、二、党にはかれがここにいることを話さないこと、そのわけは、これが戦闘員にとって何を意味しうるかそれをよく知っているからである。(11月7日)
チェの日記は、この日からはじまる。おそらく偶然だが、この十一月七日は、ソビエト革命四十九周年の日であった。チェは、静かに、なんの|昂《たか》ぶりもみせずにこう書く。
――きょう、新たな宿営を開始する。夜になって、農場に着く。旅はうまく運んだ。たくみに変装し、コチャバンバを通って潜入したのち、パチュンゴと私は連絡をとりながら二台のジープで丸二日間の旅をした。
農場の近くで車をとめ、一台だけで近づいて行った。われわれがコカイン密造をしているといいふらしている近くの地主の疑惑をかきたてないためだった。おかしなことに、変人のトゥマニは、グループの化学者とされている。農場へは二度目の旅でありながら、私の素性を知ったばかりのピゴテスは、断崖から危うく墜ちそうになり、ジープを崖ふちにひっかけてしまった。党の三人の工作員の待っている農場まで、こうしてわれわれは二十キロも歩くことになり、真夜中になってたどり着いた。ピゴテスは、党がどうであろうとも、われわれに喜んで協力するといったが、モンヘには忠実で、尊敬かつ慕っているように思われる。かれによれば、ロドルフォも同じ気持であり、ココについても似たようなものであるが、党が戦う決意をするよう説得しなければいけないとのこと。私は、いまブルガリアに旅行中で私たちを助けるはずのモンヘが帰るまでは、党には知らせないこと、そしてわれわれを援助するように頼み、かれはどちらも承諾した。
★
チェの日記は、盟友カストロがその「必要な序文」のなかでふれているように、きわめて丹念なものであった。かれは、余分な感情をまじえて書くことはしなかった。記載するに足ると思ったことだけを、抑えた筆致で書いている。ポンボたちが入手した農場について、チェは、ほぼ満足した。そして残余の隊員たちが到着するまで、付近の地勢や状況の調査で毎日を過した。
根拠地にしたところは、一面の樹林地帯であったが、それは人間の生存に決して快適なところではなかった。むしろ不適な条件の方が多かったといっていいだろう。ブヨ、ダニ、蚊などがきわめて多いのである。
蚊といっても、日本内地に|棲息《せいそく》しているようなものとは、根本的に違っていた。わたしは、近くを歩いてみたとき、マリギと呼ばれる蚊に刺された。はじめは、チクリと感じただけであったが、しばらくたってから、それが生やさしいものではないことに気がついた。かゆみは猛烈で、やがて小さな穴があき、その痕は、二カ月以上ものこった。
サンタクルス州には日本から――沖縄の人が多いが――二千五百人の開拓民が入植している。そこで聞いた話だが、人びとはダニや蚊をさけるために、ハンモックを吊り、|蚊帳《かや》をはって眠る。そのさい、ハンモックには必ず毛布を二枚敷かねばならない。なぜなら、一枚では毛布ごしにマリギが眠っている人のからだを刺してしまう、というのであった。
この猛烈な蚊には、歴戦のチェも参ったようで、その日記にも、
――からだに喰いこんだダニ六匹を退治した。(11月9日)
――蚊とダニが刺したところにぽつぽつと穴があいて、不快に痛みはじめた。(11月18日)
と書いている。
★
チェたちは、十一カ月間をこうした樹林――ジャングルというべきだろうか――地区で過したが、戦闘での困難よりも、こうした日常生活の方が、隊員たちを苦しめたようである。また、食料が不足がちで、そのために野生の動物をとらえては食べていたが、動物の寄生虫が隊員たちの胃腸を大いに衰弱させた。
生存に不可欠の水もまた、サンタクルスでは質が悪かった。川はどれも黄褐色に濁ったままであった。サンタクルスの水道といえども、外国人であるわたしはもとより、住民でさえも決してなま水は口にしなかった。飲めばひどいことになるのである。
コンゴでの戦闘を経験しているとはいっても、キューバでの革命戦争が終ってから、ほぼ八年の年月が流れていた。みずから選んだ道であり、かつじゅうぶんに覚悟していたとはいえ、ゲリラの生活は、四十歳近くになっていたチェの肉体にとって、やはり辛くきびしいものであったろう。
チェは、宿営をはじめてからすぐにゲリラ戦争を開始するつもりはなかった。なんといっても、ボリビア人たちはゲリラ生活や戦闘に不馴れであった。まずかれらを訓練したのちに、戦いを開始する予定であった。
これに対して、ポンボなどは非常に張り切り、ボリビア軍の哨所を襲撃して、われわれの力を試してみたらどうか、などともちかけている。チェは、
「事をはじめるのに、負け戦になるかもしれないような危険をおかすことはできない。かりに実行するとしても小さな目標でなければ駄目だが、ボリビアの同志たちに自信をあたえる機会をつくる必要はある」
とたしなめた。
現実に隊員の数も少なかった。この段階では、たったの六名なのである。
――九時ごろラパスから最初のジープが到着。ココといっしょにホアキン、ウルバノとここに居残るボリビア人、医学生のエルネストだ。ココはひきかえして、ブラウリオ、ミゲル、もうひとりのボリビア人で、やはり居残るインティといっしょにリカルドも連れてきた。かくて蜂起隊員は十二名となり、それに農場主の役目をするホルヘがいる。ココとロドルフォは連絡係の担当。リカルドが厄介なニュースをもってきた。エル・チノがボリビアにいて、仲間の二十人を送りたがっており、かつわたしに会いたいというのだ。好ましからぬことになってきた。というのは、エスタニスラオと話し合う前に、この闘争を国際化するからだ。かれ(チノ)をサンタクルスに行かせ、ココがそこでかれを拾いあげて戻ってくることで意見が一致した。ココは夜明けにリカルドと出かけた。リカルドは別のジープにのって、ひき続きラパスへ向かう。ココはホルヘの消息をさぐるためレンベルトの家に寄る予定だ。インティとはじめて話をかわす。エスタニスラオは決起しないだろう、それどころか関係を絶つ決心をしているようだ、というのがかれの意見だった。(11月27日・チェの日記)
同じ日の日記であるが、チェの方はポンボと違って、乾杯などしている暇のなかったことがうかがわれる。
ホアキンはチェが副指揮官に予定していた人物であり、ココの兄のインティは、ボリビア人ゲリラの中核になる人物だった。隊はかなり増強されたわけで、チェも月間分析の中で、おおむね順調としている。
問題はチノであったが、かれは十二月二日にココといっしょに宿営地へやってきた。ペルーのゲリラは、前年、指導者の大半が殺されたり逮捕されたりしていた。チノはなんとかそれを再建しようとしてキューバがわの助けを求めていた。ふたりは終日しゃべりあった末、チノがキューバへ赴いてじかに情勢の説明をすることになった。
その一方で、チェは隊員たちの気持をひきしめる試みも怠らなかった。
――異常なし。日曜日で全員休息している。わたしは、近く到着するはずのボリビア人と戦争に対処するわれわれの態度について雑談をした。(12月4日)
とチェの日記にあるが、この雑談の内容はポンボによれば、
――われわれはラモンと会合をひらく。そのなかで、かれは規律に関して講話を行ない、われわれはゲリラ戦争の経験があるのだからボリビア人たちの模範にならなければいけない、という。その後、総括してこういった。「同志のうちのあるものは武器の取扱い課程を修得しているから、わが隊の大半の、もっぱら政治活動にたずさわって武器については棚上げしていたものより、よく準備ができている。
われわれは、試練をへた兵士であるという特典に恵まれている。砲煙弾雨の感覚をもっているし、(判読不明)よりも厳しいゲリラの生活のあらゆる試練をへたし、それをのり超えてきている。われわれは勝利に輝く革命の作者である。それ故、われわれの道義的な義務は非常に大きいのだ。はかり知れぬほどの犠性的精神にあふれた、真の共産主義者でありたいからである。
保安手段がすべてじゅうぶんではない。米州で掃討されたゲリラの実例を知っている。われわれもたとえば脱臼程度の軽い打撃をうけたこともある。エスピノサのアルヘリア・デル・ビント・アルトのときがそうだ。そのときは経験がなかった。もっとも基本的な知識に欠けていた。しかし、それにもかかわらず、われわれは奇襲から生きのびた。フィデルの気魄、仲間を組織するその能力が失敗からわれわれを救ったのだ。ペルーやアルゼンチンにおける同志の持ち得なかった幸運である」(以下略)(12月4日)
となっている。
このエスピノサの奇襲というのは、キューバでの革命戦争のごく初期(一九五七年二月九日)に起こったものでこのときは、バチスタ軍のスパイがまぎれこんでいた。その通報によって政府軍が不意打ちを加え、革命軍にも一名の戦死者が出た。他の隊員たちはからくも脱出したが、チェも、食料や本や医薬品の袋をその場に放棄し、ほとんど身ひとつで脱出したありさまだった。
さて、チノがキューバへ向けて出発したのは十一日であった。かれは用がすみしだい戻ることを約束し、そのとおりに実行した。
その翌日、
チェは全隊員を集め、戦争の現実をありのままに語ってから、各自の分担を任命した。
副指揮官 ホアキン
同 インティ
庶 務 ポンボ
財 務 インティ(兼任)
これで一応の組織はできたわけである。あとは、ブルガリアから帰ってくるモンヘの出方を待つだけであった。
そのモンヘは二十五日に到着した。
――われわれが二十五日から待ち望んでいたマリオがムビリを連れて到着する。ターニアとサンチェス、それにわれわれに加わるふたりのボリビア人、ペドロとワルターがいっしょだった。われわれはキューバ革命を祝うために
新年を待ち望|む《〈*七九〉》。キューバ革命は、帝国主義者の搾取から祖国を解放せんとして米州で戦うもの、たとえばわれわれのようなもの|全《すべ》ての輝ける道標である。
マリオが、われわれは大きな仕事にとりかかったのであり、アメリカ(筆者註・この場合は 南北アメリカを指す)の国民すべてがこの任務に信を置いている、と語る。戦闘に参加するとのかれの決意を披露する。かれの宣言は、われわれを面喰わせた。というのは、かれとラモンが、誰が戦いを指揮するかで合意できるはずがないことを、すでに知っていたからである。かれは、政治問題や軍事問題でラモンの指揮に入ることは、個人としてはそれを誇りに感ずるとしても、党書記としてはできないという立場をとっている。(12月31日)
★
マリオ・モンヘは、権力主義者の本質をさらけ出した。かれには、ボリビアの民衆を救うという意思は、はじめから欠けていた。バリエントス政権を倒して、自分がボリビアの支配者になることが、最終の目標であった。その本質においてラテン・アメリカの多くの右翼的軍事革命家と変りなかった。かれは、ゲリラの中のボリビア人たちを説得して、自分がわにつけさせようとしたが、これは失敗した。そして、ゲリラを自分の野心のために利用できないと悟ると、早々に宿営地を立ち去って行った。
その代りに、行動派のモイセス・ゲバラが、一月二十六日に戦列に加わった。その間、ゲリラ隊員たちは補給や訓練に専念した。
ついでながら、ゲバラ日記の邦訳書は、数種類が刊行されているが、初期に訳されたものは非良心的な悪訳である。いちおうの水準にあるものを巻末の参考文献中に掲げておいたが、それでもこの前後にしきりに出てくる「ゴンドラ」について、大部分はひどい思い違いをしている。
ゴンドラは、ボリビアでは乗合バスのことを俗称してこういうのだが、そのため、バスにのって出かけた、などと訳している。すぐにわかることだが、密林地帯の中をバスが通っているはずがない。そんな、ひらけたところではないのだ。ゴンドラというのは、この場合は、輸送活動のことである。
――ゴンドラ(トゥマニがそう命名した)の日。つまりわれわれは、補給物資や装備を輸送する活動をそう呼んでいる(1月16日)
とポンボは書いている。
二月一日、ゲリラたちは行動を開始した。農場を出発して、ニャンカウアスの前線キャンプに向った。だが、行軍は困難をきわめた。増水した川で水死するものもいたし、病気になるものもいた。食料の不足が士気にも影響してきた。チェの日記は二月二十八日に、隊員たちにシエラ・マエストラでの体験を話した、と簡単に記しているが、ポンボはそれの布石となる二日前のチェの言動を|詳《くわ》しく書いている。
――ラモン、パチョ、マルコスが会合する。手助けにきたマニラのものは、一握りの優しい人間にすぎないことを皆がみてとれるように、同志全員に総会を開く旨が知らされる。
「各人は」とラモンが話しはじめる。「この会合の目的は何かを知っている。しかし、われわれにとってはすでに試験ずみの同志が
最初に問題を|起《〈*八〇〉》こしたのをみることは、大きな驚きであった。われわれは、ボリビア人の同志がゲリラ生活の変化に馴れるよう訓練している途中である。われわれの考えによれば、これは戦闘のもっとも困難な一面である。われわれは、かれらが飢えや渇きや絶え間のない行進、茂みの中の孤独などに馴れてほしいと願っている。そして、困難に出遭っているのはボリビア人ではなく、何度もそうした状況に遭遇してベテランとされているはずの同志たちであるということを発見したのだ。しかし、これは、われわれの将来にとって、ひとつの教訓となる。主義のために、一度は完全であった人間が、オフィスの生活に順応して命令することに馴れ、オフィスではすでに問題がなく、かれらのもとへ届くものはすべて完全に解決ずみであることに馴れて、官僚主義者になってしまったのだ。
★
こんなことも重なって行進は遅れ、キャンプへの到着はかなり遅れた。その上、三月に入って間もなくの十一日に、モイセス・ゲバラ隊のボリビア人ふたりが脱走した。かれらは十四日に政府軍につかまり、ゲリラについてペラペラ喋った。DIC(犯罪捜査局)に対して、そのうちのひとりは、ゲリラを密告して報奨にありつこうと考えて、情報集めのためにゲリラに入ったのだ、とも供述している。罪をのがれようとしてそういったのかもしれないが、結果としてはこれは重大であった。かれらはゲリラの指揮をとっている人物が誰であるかを明らかにしたからである。
十七日には、さらにボリビア人チョケチョケが脱走し、政府軍の案内人にまでなった。
それ以前にも、政府軍はゲリラらしいものを見たという密告をうけていたが、タカをくくっていた。そして、三人の脱落ゲリラによって、チェがいることを知ると、仰天したのである。
政府軍は飛行機をとばして、偵察を開始した。チェは、十九日にこの飛行機を見た、よくない前兆だ、と書いている。
翌二十日、チェの一隊はようやくキャンプに到着した。そこには、ハバナからきたフランス人ドブレ、チノ、ドイツ系の女性ターニアらが待っていた。
ターニアは、都市工作班との連絡係であるが、ある意味で彼女は謎の女である。本名はタマラ・ブンケ、一九三七年十一月にアルゼンチンで生まれたが、両親とも東ドイツの移民であった。東独、キューバで大学教育をうけ、このころは、ボリビアで情報蒐集にあたっていた。しかし、カミリにのりすてたジープの中に秘密文書を忘れ、そのために、都市工作班は打撃をうけた。そんなことから、アメリカの通信社は、ソ連スパイ説やチェの愛人だったなどと報道している。
もちろん、これは正しくない。彼女は忠実な隊員だったのである。
一九六四年三月のある日、彼女は工業省のチェの部屋に呼ばれ、ボリビアにおける情報工作の秘密任務につくように、と命ぜられた。ターニアはいったんヨーロッパに行き、ドイツ系のアルゼンチン市民で民俗学の研究をしている女性に化けて、十一月にボリビアへ入国した。
ターニアはドイツ語を教えるかたわら、政府の役人にくいこみ、スパイとしての優秀な能力を発揮した。キューバ人たちの潜入に必要な証明書を手に入れたり、情報を集めたりしたのである。
ただ、ここで問題になるのは、彼女がチェから指令をうけた時期だ。これは一九六四年にチェがはやくもボリビアを新しい戦場に選んでいたことを示すものであろうか。おそらくそうではない、と思われる。この時期にチェがキューバを去ることを決意していたという証拠はまったくないし、その後コンゴへ行ったチェの行動に照らしてみても、ターニアはキューバが各国に送りこんだ情報員のひとりだった、とみるのが正しいようである。
ドブレは、一九四〇年パリに生まれ、父は有名な弁護士、母は対独レジスタンス運動でも活躍し、パリ市会副議長の要職にあった。高等師範学校に一番で合格した秀才で、六一年にキューバを訪問したことがきっかけになって、革命理論家となった。その著『革命の中の革命』はひろく知られている。
かれは、理論の実践を望んでゲリラに参加しようとしたが、チェはそれをことわり、フランスで支援団体をつくってくれる方がありがたい、といった。カストロは、ドブレをかなり高く買っているが、チェの方はそれほどでもなかった。ドブレのような文化人には、ゲリラ戦士のきびしい生活は耐えられないだろうと考えた。足手まといになるだけだ、とみなしたわけである。結局かれはキャンプを出るが、政府軍につかまり、三十年の刑をうけた。その後ドゴールなどの要請もあって、一九七〇年十二月二十三日に釈放されている。
もうひとりのチノは、前述のようにペルーで開始するゲリラの打ちあわせにきた。チェは、チノの出した六カ月以内に蜂起するという案を了承し、月五千ドルの支援も認めた。
★
このころから、政府軍の圧力は強化した。チェたちは三月二十二日にいったんキャンプを撤退したが、前衛隊長のマルコスがヘマをやらかし、隊内の士気が低下した。
チェが心の中で考えていた時期よりも早くに政府軍との対決が迫ってきた。かれは、部下たちを配置して、政府軍を待ち伏せた。
三月二十三日午前八時。ゲリラ対政府軍の戦闘はついに幕を切った。戦闘は、ゲリラがわの圧倒的な勝利に終った。政府軍は死者七、捕虜十四、モーゼル銃十六挺、迫撃砲三、砲弾六十四、バズーカ砲二、モーゼル銃弾二千発、三十三ミリ機関銃一という損害を出した。と同時に、このときから、ゲリラはボリビア人民解放軍と名乗ることになった。かれらにとっては、第二段階の試練がはじまった、ともいえるであろう。
政府軍は、ゲリラの意外な強さに驚き、アメリカの軍事顧問団に救いを求めた。チェの存在が確認されると、CIAがすぐにのり出してきた。そして、政府軍二個師団を動員させると共に、千八百人のレインジャー部隊をパナマに移送して、かれらに本格的な対ゲリラ戦訓練をほどこしはじめた。
四月十六日、ハバナで開かれた中南米人民連帯機構の総会で、名誉議長に選ばれたチェは、ひとつのメッセージを送った。
「二つ、三つ、さらに多くのベトナムを作れ。これが合言葉だ」というタイトルの文章は、チェの最後の、まとまった文章であり、かれの思想があますところなく|吐露《とろ》されているが、なかでも、つぎの部分は注目に値するだろう。
――現在、ベトナムの人びとに対しての、世界の全進歩勢力の連帯は、ローマの闘技場の剣闘士を身分の卑しい平民どもがおだてているのにも似た、苦いアイロニーである。それは、侵略の犠牲者に勝利を望むという問題ではなくて、その運命を|頒《わ》けあうということなのだ。死か勝利を共にしなければならない。ベトナム人の孤独な立場を分析するとき、われわれは、人類のこの不合理な時代に苦悩をおぼえる。
アメリカの帝国主義は侵略の罪を犯している。そのあまたの犯罪は広く世界を|覆《おお》っているのだ。諸君! われわれはすべてを知っている。しかし、この罪は、決断の時がきたのに、ベトナムを社会主義者たちの不可侵の部分とすることを|躊躇《ちゆうちよ》するものにもあてはまる。もちろん、世界戦争の危険はあるにしても、帝国主義者どもにも決定を強いるのだ。そして、この罪は、社会主義陣営を代表する二大強国の間に、しばらく前からはじめられた悪罵とだましあいの戦いを支持するものにもあてはまる。
★
ソ連と中国の対立は、チェにしてみればはがゆくてたまらぬことであったろう。かれらが論争している間に、ベトナムでは多くの人が傷つき死んでいっているのだ。チェにとっては、なすべきことは、まず帝国主義に対して銃をとり戦いを挑むことであった。勝利か死かとはそのことであった。
ボリビアでの戦闘もその例にもれなかった。ひとりふたり、と隊員たちに損害が出はじめた。
シエラ・マエストラ以来の同志だった、ロランドが戦死したのは、四月二十五日だった。
さらに、悪い事態は、十人を率いるホアキン隊と四月十七日に離ればなれになってしまったことであった。ホアキン隊とは、それ以後、互いになんとかして連絡しようとしたのだが、八月三十一日に、ターニアのいるホアキン隊がリオ・グランデの川岸で待ち伏せにあって全滅するまで、ついに連絡がつかなかった。
ゲリラ戦争は、ゲリラ同士の連絡行動が成果を倍増する。それがバラバラであっては、大きなマイナスである。
六月二日にマルコス、続いて二十六日には、トゥマニが戦死し、ポンボも重傷を負った。チェは、この月の月間分析のなかで、敵は気づいていないだろうが、重なる人員の損傷は重大な打撃だ、と書いている。
その反面、ゲリラ強しの噂は、ボリビア全土に拡がりつつあった。それを決定的にしたのは、七月六日のスマイパタの占領だった。
この日のことは、チェもくわしく書いているが、わたしは、現地で何人かの目撃者と会うことができた。歯医者のキロガはこういう。
「わたしが出会ったのは、友人と共に町から八キロはなれたガルフ石油のキャンプまで行った帰りだった。キオスコという小店でコーヒーをのんでいた。わたしたちは四人で、そのうちのひとりはDICの人間だった。
うしろから『静かに』といわれて振り向いて見るとチノが立っていた。かれはわたしたちを壁に対して立たせ、ポケットを調べた。そして何も武器がないとわかると、タバコをくれたりしたのち、仲間にならないか、といった。わたしは、自分たちは自分たちで働いて国をつくると答えた。チノは、職業は何かといった。歯医者だというと、かれは、歯医者はこっちにもひとりいるからな、といって笑った。あとでチェの日記を読んで、それがチェのことだとわかった。それからかれらは出発して行った。十分間くらいのものだったとおもう」
これが日記にあるバレルモ峠の小さな店である。そこからチェたちはトラックをとめてスマイパタに向った。スマイパタは人口約三千。サンタクルス―コチャバンバ街道上の田舎町である。ホテル・ツーリスタの主人エドワルド・タピア・テランは、かなり年月のたったその事件を、いまでもきのうのことのように興奮して、身ぶり手ぶりで語る。
「夜の十二時ごろだった。バスで五人、トラックで三人やってきた。チェ・ゲバラだけは身なりもわりあいにきちんとしていた。入ってくると、フリオと声を出して部下を呼び、すぐに電話線を切らした。それから、クスリ屋のありかを聞いてから、わたしにも薬品がなにかあるか、とたずねた。アスピリンと胃腸薬があるというと、定額以上の金を払って行った。それから引きあげる前に、兵隊と中尉を連行してきて車にのせた。兵隊たちは三時間後に靴なしで戻ってきた。小学校の方では、抵抗した兵隊がひとり殺された」
当の薬局店主エフトル・イントリア・タピアはいう。
「十二時三十分ごろだった。ドアを叩くものがいるので、起きて行き、あけた。このドアは上下別々にあくので、まず上の方をあけると、ぱっと隠れたものがいた。同時にまた髪を肩までたらしたゲリラがいた。あとでわかったが、チノだった。
あけろとかれは命じたが、わたしは締めようとした。するとかれは金は払うといった。もうひとりのゲリラが姿をみせて入ってきた。チノは、兵隊はどれくらいいるか、と質問した。わたしは、沢山いると答えた。他のゲリラは薬棚を調べ、外のトラックにいるものに、『もっと金をもってきてくれ』といった。それがチェかどうかは知らない。それから雑貨もあるなどといいながら、靴、果物の罐詰、薬品をかきあつめ、計算してくれ、といった。本当は二千八百ペソくらいだったが、|怖《こわ》いので間違えてしまい、千七百ペソだというと、そのとおり支払ってくれた。ビニールの袋から札を出して払った。そのとき、外で捕虜にしていた兵隊に、『おれたちが略奪しているのではないことは、これでわかったろう』といっていた。
かれらは、弾帯を肩から十字にかけ、腰にもピストルをさげていた。わたしの印象では言葉遣いも立派で、教養のある男たちであった。最後には『夜中にいろいろありがとうございました』とていねいにいって立ち去って行った。この間、十五分くらいのものだったとおもう」
しかし、補給作戦欲としては、チェ自身はあまり成功ではなかった、と書いてある。かれ自身が欲していた|喘息《ぜんそく》用の薬はなかったのである。そして、このころから、三十九歳の誕生日をすぎたチェは、再び喘息に苦しめられるようになっていた。
人は生き、そして死ぬ。
わがチェ・ゲバラもその例外ではあり得ず、わたしはかれの死について、いよいよ筆をはこばなければならない。思うに、人間は現象としての死に打ち|克《か》つことはできないにしても、いかにして死ぬかによって、死を超越することはできよう。それはまた、死に至るまでいかにして生きたかの問題につながることでもあり、チェの生と死とは、それに対するひとつの見事な答えであった。
ボリビア南東部のジャングルのさなかで、三十九回目の誕生日を迎えたとき、日記の末尾にこう書いている。
――わたしは三十九歳になった。ゲリラ戦士としての自分の将来について考えねばならぬ年齢に、|容赦《ようしや》なく近づいている。いまのところ“文句なし”である。(6月14日)
チェはこの言葉 entero をなぜか、
カッコでくくってい|る《〈*八二〉》。対政府軍との本格的な戦闘を開始して以来三カ月間、たしかにチェはかすり傷ひとつ負わなかった。その意味では entero には違いなかった。だが、それはあくまで喘息という持病のカッコつきだった。こう書いた十日後の二十三日には、それがかれを脅かしはじめ、そして薬の貯えもなくなっていた。夜もろくろく眠れないという状態が、何日か続いた。あたり前の話だが、といって、政府軍が戦闘を待ってくれるわけではなかった。
六月二十六日は、チェの率いる解放軍にとっては暗い日であった。待ち伏せの任務についている隊員を交替させようとしたとき、銃声がひびいた。チェは病んでいるからだに|鞭《むち》うって馬にのり、その場にかけつけてみた。もの音ひとつしない静けさのなかで、四人の政府軍兵士の死体が川原に転がっており、太陽が容赦なく照りつけていた。見ると、死体のそばには銃が投げ出されている。ゲリラは、武器を敵から補充するのが原則である。都市工作班がつぶされて補給を断たれているチェたちにとっては、陽光の下に黒びかりしている新品の銃は、のどから手が出るほどに欲しいものであった。しかし、これは|罠《わな》かもしれない。チェは暗くなるのを待って、奪いに行くことにした。日が暮れ、行動を起こそうとしたときに、左がわの樹林で枝の折れる音がした。チェはふたりの隊員を偵察に出し、確認しないうちは発砲するな、と命じた。ふたりが樹林のなかに分け入ると同時に、激しい銃声が両がわからとどろいた。チェは、退却の命令を下した。このような不利な状況の下では、勝ち目はなかったからである。
★
戦闘の諸様相において、退却がもっとも難事であることは、大軍同士の会戦であろうとゲリラ戦であろうと変りはない。チェたちの退却も敏速さを欠き、苦戦に陥った。ようやく囲みを脱したものの、その間に、ポンボが足に負傷し、トゥマニが腹部に重傷を負った。チェはありあわせの道具を使って、応急手術をほどこしたが、トゥマニは肝臓を撃ち抜かれており、ついに息をひきとった。
その前、倒れたときにトゥマニは、おれの時計をチェに渡してくれ、と同志にいったが、看護にまぎれてトゥマニのいうことをきくものはいなかった。すると、かれは自分の腕時計をはずして、アウトゥロというキューバ人に渡した。トゥマニのこの行為は、ひとつの意味をもっていた。チェは、それまで、戦死した同志の腕時計をその家族に必ず渡していた。数年間チェの忠実な部下であったトゥマニは、それを知っており、自分の腕時計もまたそのように扱われることを望んだのである。あとで、アウトゥロからその話を聞いたチェは、この戦いが終りを告げるまで持ち続けることを、死んだ同志のために誓ったが、それは果たされることなくおわった。チェも戦死し、アウトゥロもまた戦死した。ゲリラであることは、それが真のゲリラであればあるほど、きびしく険しいのであった。
スマイパタの一時的な占領(七月六日)も、目的は医薬品や物資の補給にあったのだが、薬に関する限りは、失敗だった。チェの喘息は悪化し、ついには目薬用のアドレナリンまで使わざるを得なくなった。それでも、かれらは前進をやめなかった。チェは歩きながらも注射をうったりした。
これに対して、政府軍の方はにわかに活気をおびはじめた。トゥマニが戦死した戦闘はかれらが新しい戦法を会得したことを物語っていた。アメリカの軍事顧問団の援助によって、パナマで対ゲリラ戦の訓練をうけたレインジャー部隊千八百名が、新たな敵としてこのとき戦線に投入されてきたのである。それまで、政府軍は戦死者を出せば退却するばかりであった。戦死者を|囮《おとり》にして、反撃を加えてくることなどは、かつてなかったのである。
レインジャー部隊は、ニャンカウアスの北東のサンタクルスと南東のカミリに、それぞれ師団司令部を置いた。将校を除いて、すべてインディオ系のアイマラ族、ケチュア族で構成された。
わたしは、ボリビアでの取材のある日、サンタクルスの司令部をたずねた。隊員たちはすべて二十歳前後の屈強な青年である。迷彩をほどこした戦闘服のかれらは、ラパスやサンタクルスの街でみた同じインディオとは、とても同一種族とは思えなかった。道ばたに坐りこんでいる物売りや、ホテルのボーイなどをしているインディオは、無気力そのものであった。眼はうつろで、動作もにぶかった。が、レインジャー部隊のかれらは、一口でいえば、|獰猛《どうもう》そのものであった。すべての動作がキビキビしていた。わたしの訪問を伝えるために営門から本部まで行くのにも、全速で走った。門衛は、わたしに向けている銃口を、班長から命令されるまで、決してはずそうとはしなかった。かれらはすべて貧農の出身てある。かれらにとって、戦うことは、生きることよりも、はるかに楽なのであろう。
★
この二手に分かれたレインジャー部隊は、南北からチェたちを|挟撃《きようげき》する戦法をとった。当時カミリの第四軍団司令官だったルイス・レケ・テラン将軍はいう。
「わたしの任務は、ニャンカウアス地区のゲリラの掃討だった。われわれはこれをシンティア作戦と名付けた。シンティアというのは、わたしの娘の名前である。
戦闘の初期のころは、われわれは苦戦したが、それは相手がゲリラだとは思わずに、密輸業者がいるという地方民の報告を真にうけていたから失敗したわけである。しかし、六七年六月ごろからは、装備も完備したものにして、本格的な掃討戦に入った。かつては日本軍もフィリッピンなどのジャングル地帯でゲリラの掃討に苦労したようだが、われわれも同じように苦労した。
われわれのやり方は、小さなグループをいくつかつくり、下士官を隊長にして、ゲリラの足跡を丹念に追う、と同時に、別のグループをゲリラの進行方向に|迂回《うかい》させて、正面で待ち伏せるというものだ。
われわれは、ゲリラをチェ・ゲバラの率いる主力と
アレハンドロの支|隊《〈*八三〉》とに分割してしまった。チェ・ゲバラの部隊は、リオ・グランデの対岸に行ってしまったが、アレハンドロ隊は、南部に残り、これがわれわれの守備範囲に入っていた。われわれは、かれをリオ・グランデの川岸へ追いつめた。
かれらが川岸に到着したとき、そこには誰もいなかった。これがわれわれの作戦で、わが軍をわざと退かせておいたわけである。かれらは渡河しようとした。しかし、対岸にはすでに連絡をうけて友軍が配置されており、待ち伏せ攻撃を加え、かれらを|殲滅《せんめつ》した。たったひとりだけ、
背の高い黒人|兵《〈*八四〉》がこちらの岸に戻り、本隊に連絡をとろうとしたようだったが、わが軍に発見されて銃殺された。ほかにゲリラの隊員のなかでは、カスティーヨというボリビア人が捕虜になり、いま刑務所に入っている。
こうして作戦は終り、その後に残された自分たちの任務は、ゲリラが|蠢動《しゆんどう》したために住民たちの間に残された影響をとり除くこととセンテノ・アナヤ将軍の第八軍団に協力して、チェ・ゲバラの本隊がこちらがわに逃げられないように守備を固めることであった。
チェ・ゲバラは、結局、第八軍団によって|斃《たお》された。それは第八軍団の功績である。(チェの死体を見たか、チェに間違いないかというわたしの質問に対し)わたしは南にいたのでかれの死体は見ていないが、それは絶対に間違いない。
アレハンドロ隊には、ターニアというアルゼンチン人の女性ゲリラがいたが、彼女は渡河戦闘の最初の段階で死んだ。
ゲリラの討伐には非常に金がかかったが、それがどれくらいの額かは、いまはいえない。ただ、第四軍団に関していえば、アメリカの援助はぜんぜんなかった。
レインジャー部隊は、ゲリラの討伐には大いに活躍した。はじめはパナマで訓練をうけたが、いまでは全部国内で行なわれている。わたしは、その後第四軍団司令官から士官学校長に任命されたが、そこでも新しい戦術教育をほどこした。たとえば、戦闘中は炊飯の食事をとるようなことはしない。煙が出れば敵にわかる。そこで、ビタミン剤その他いろいろ必要なものの入った特別の携帯口糧を持ち一週間でも十日でも、その口糧と水さえあればすむというふうにして特別訓練をしている。わたしたちは、将来に起こるかもしれないゲリラに対して、じゅうぶんな備えをしている。万一ボリビアで再び起こったとしても、成功することは難しいとおもう」
ホアキン支隊の全滅は八月三十一日であるが、本隊の状況もそれ以前から悪化しつつあった。ひところは五十人に近かった隊員も、七月末には、二十二人に減ってしまっていた。そのうちチェをふくめて三人が負傷や病気で、戦力が低下しているありさまだった。七月だけでいえば、三回の戦闘で、政府軍に七名の戦死、十名の負傷という損害をあたえはしたものの、チェの方も二名を失い、一名が負傷した。そして、農民たちはいぜんとして、ゲリラに参加しようとしなかった。
八月二日には、喘息用の最後の注射もうってしまった。昼も夜も|辛《つら》く、ノボカインの静脈注射をこころみたが、これも効果はなかった。チェに残っているのは、不屈の気力だけであった。が、かれも人間であり、人間であるが故に、おのれを制しきれない瞬間を持たねばならなかった。それは八月八日のことだが、荷物を背負わせている小馬が進もうとしないのに腹を立てたチェは、かっとなって、小馬の首を激しく鞭打ち、かなりの傷を負わせてしまった。
馬も人と同じく疲れきっているのだ。それを鞭打ったところで何の役に立とう。その夜、チェは同志を集めていった。
「いまのわたしは、人間の形をしているにすぎない。小馬の一件は、自制心の欠如を示す例だ。やがては軽減するだろうが、こういう状態はみんなにものしかかっているにちがいない。耐えられないと感ずるものは、そういうべきだ。いまや大いなる決意をすべきときである。この種の闘争は、ぼくらを最高の革命家たらしめる機会をあたえてくれるのみならず、人間としても進歩させてくれるのだ。そのどちらも達せそうにないものは、そういって戦場を去るべきだ」
チェのきびしい自己批判の言葉は、隊員たちに受け容れられ、かれらの心を動かした。キューバ人は全員、そして何人かのボリビア人たちも最後まで戦い続けると口ぐちにいったが、同時に隊員たちの間に論争をまき起こした。誰も彼も疲れていた。論争はすぐに次元の低いものになった。馬に、|薪《たきぎ》を運ばせるかわりに私物を運ばせたのはけしからんといったような下らないことで、興奮したかれらはどなりあい、チェにたしなめられる始末だった。
★
ホアキンの隊が全滅したのは、このような時期においてであった。
ホアキン隊は総計十一名、生き残って捕虜となったカスティーヨを除いて全員が戦死した。その中に、日系のフレディ・マイムラがふくまれていた。ボリビアの新聞「ロス・ティエンポス」によると、フレディは生きて捕えられたが、革命ゲリラ万歳! と叫んで反抗したため、射殺されたという。キューバ政府はのちに母親ローサを招待し、ハバナに、フレディ・マイムラ小学校をつくることによって、かれの死にむくいた。また、ロサリオ・イサベルによって
「エルネスト・フレディ・マイムラに捧げる歌」が作詩され|た《〈*八五〉》。フレディがゲリラに参加を認められたのは、ボリビア出身であることのほかに、おそらくは医師だったからであろう。指揮官のチェをふくめて、ボリビアで戦った隊員の中には、医師の資格をもつものがわりあいに多かった。医師のような特殊技術者はそう簡単には補充できないので、選抜のさいにその点が考慮されたものであろう。ボリビア人のフリオや前記レケ・テラン将軍の話に出てくるペルー人ネグロ、チェの日記ではモロ、ムガンバ、エル・メディコなどの名で出るキューバ人は、ハバナの病院の外科部長だった。
チェは九月二日のボイス・オブ・アメリカによってはじめてホアキンの死を知った。しかし、はじめのうち、チェはこのニュースを信じなかった。ボリビアの国内放送が何も告げなかったからである。その上、放送自体にも矛盾があった。三十一日にホアキンら十人を全滅させたといいながら、二日後に新しい戦闘で政府軍兵士が戦死したとも放送した。チェが信じたのは、ペルー人の医者ネグロが殺されたのち、カミリに運ばれたという九月四日の国内放送だけだった。
七日になると、同じ放送がターニアの死を伝えた。チェはこれにも半信半疑だったが、大統領バリエントスが彼女をキリスト教によって埋葬し、その式にも参列したこと、さらに二十二日には、オバンド陸軍総司令官と共に記者会見し、押収した文書をもとにくわしい説明を行なったことを聞くと、さすがに信じないわけにはいかなかった。謀略放送にしては手がこみすぎていたし、政府軍兵士の動きがにわかに活発になってきたからである。それは、いままで二方面に分けられていた圧力が、一本になったことにも通じていた。
★
チェたちは、その圧力をさけるために、しだいに高地の方へ移動して行った。八月ごろは、標高六、七百メートルの地区で戦っていたのが、九月半ばを過ぎると、千メートルをこえる地区から、ついには二千二百八十メートルのピカチョ部落へ移った。その付近一帯は、三つの県(チュキサカ、コチャバンバ、ボトシ)が接するところで、多人数の政府軍はそう簡単には追いかけられないのである。
九月二十六日、チェたち二十二人は、ピカチョからイゲラ村に到着した。村には、女が残っているだけで、男はすべて姿を消していた。調べてみると、北方三十キロのところにあるバリエ・グランデの助役から村長にあてた通達が発見された。ゲリラについてのどんな情報でも、費用はもつから連絡せよ、というのである。村長はむろん姿を見せず、村長夫人は、隣のハグエイの町でお祭りがあるのでみんな出かけており、連絡したものはいない、とぬけぬけと嘘をついた。
こうした兆候は、決して好ましいものではなかった。ゲリラの噂があたり一帯にひろまっていることは確実だった。もともとイゲラのような初めての村落を通過すること自体が危険なことであったが、チェがあえてその道を選んだのは、同志のひとりエル・メディコが衰弱しきっていたからだった。この病人のために、ラバが一頭いた。ラバの歩みはのろく、歩ける道もおのずと制限されてくる。大局的見地からいえば、メディコを見殺しにすれば他の全員は安全地帯へ退避できるわけだったが、そのような発想は、チェのなかには存在しないものであった。と共にまた、危険に対する限りない蔑視というかれの持って生まれた気質が、逃れ難い運命の待ち伏せにかれを導いたのでもあった。
午後一時、チェはまず前衛隊に出発を命じた。目標はハグエイ。そこで、病人の手当の方法を考えたのち、それまでの道をそれて安全な地区へ移るつもりだった。前衛隊をハグエイに送り出したその三十分後、高台の方から銃声が聞こえ、前衛隊が待ち伏せ攻撃にひっかかったことを示した。チェは前衛隊の退いてくるのを待って、リオ・グランデヘ通ずる道を退路にきめた。間もなく、負傷したキューバ人隊員ベニーニョが姿をみせ、続いてボリビア人隊員ふたりも戻ってきた。ひとりは足に重傷を負っていた。損害はそれだけではなかった。キューバ人ミゲル、ボリビア人ココ・ペレド、フリオの合計三人が戦死していた。脱走した隊員もふたりいた。いずれもボリビア人で、かれらは政府軍に投降し、ゲリラの栄光とひきかえに、生きながらえることに成功した。
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この日の戦闘で三人の隊員、とくにココを失ったことは、チェにとって打撃だった。ココは兄のインティと共に、最初から参加したすぐれた戦士であり、はじめにニャンカウアスの農場を手に入れたさいも、ココが奔走した。チェは、この兄弟が、将来はボリビア民族解放軍の中核になるだろうと予見していた。インティの政治家的素質、ココの戦士としての勇敢さの中に、カストロ兄弟との類似を認めたのかもしれない。
残ったものはチェをふくめて十七名であった。かれらは真夜中から四時間だけ眠ったのち撤退を開始したが、日がのぼると、もはや動くことは不可能だった。あたりの丘はレインジャー部隊の兵士や軍用犬で満たされていた。かれらが身を潜めているところは、リオ・グランデから二キロほどの谷間のひとつだった。政府軍兵士が何度かまわりをうろついた。上から攻撃されればひとたまりもない場所だけに、これが最期かという想いが何度かチェの頭を横切ったが、どうにか発見を免れることができた。
チェ自身、その日記の月間分析の中で書いているように、もっとも重要なことは、一刻も早くこの峡谷地帯から脱出し、ゲリラ戦にもっと都合のよい地区を捜すことであった。が、あたり一帯の樹林は枝と枝がからみあい、幹はすべて乾ききった針のようなトゲでおおわれ、細い山道か川床を通るのでなければ、移動できないのである。そして、こうした通路には、政府軍がきびしく警戒を固めてい、ひとりにぎりの革命家たちは、いまや完全に包囲されていた。
十月七日の昼すぎ、ひとりの老農婦が|山羊《やぎ》を追って、宿営している峡谷に入りこんできた。隊員に連れてこられた彼女は、チェの質問に答えて、その地点がイゲラ村からもハグエイからも約五・五キロのところにあるといった。しかし、彼女は政府軍の動きについては、何も|喋《しやべ》ろうとしなかった。かたく口止めされていることは明らかだった。インティらが彼女を家まで送り届けると、そこには病気の娘と、栄養不良でこびとのような娘がいた。インティは五十ペソをあたえ、自分たちについては、誰にも喋らないようにと頼んだ。彼女は承諾して金をうけとった。だが、この老農婦が約束を守ってくれるだろうとは、チェもほかの隊員たちも考えはしなかった。
夕刻、十七名は欠けて行く月の光を浴びて宿営地を出発した。行進は苦しく、その上、チノは夜行軍が不得手で他よりも遅れがちになった。行程は少しもはかどらず、午前二時には前進をやめて夜営することにした。それまでは、行軍のさいは足跡を消すようにつとめてきたのだが、この状況では、それも不可能だった。チェは、それをいつものように日記に書きとめ、最後の行に、
h=2,000m(標高二千メートル)
と書いた。ボリビアで新しい宿営を開始して以来、ちょうど十一カ月たっていた。
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レインジャー大隊のミゲール・アヨロア少佐は、十月八日の朝、ユーロ渓谷のひとつの丘を偵察した隊員が、ひとりの農婦から下流の方で人の声を聞いたという聞き込みを持って帰ってくると、プラード大尉を指揮官に二個分隊を送った。そのへんには、政府軍はいないはずだった。
プラード隊は、イゲラの方から小さな川をさかのぼって行った。一時ごろ、前衛の機関銃がいきなり発射された。プラードは、そのあとで、他の兵器が応戦する音を耳にした。
付近は、岩や絶壁が多く、不規則な地形だった。チェたちは、分散して夜になるのを待っていたのだが、そこを襲われたわけである。チェのそばには、病人のメディコと負傷しているベニーニョがいた。キューバ人で本名はダニエル・ラミレス。マタンサスの砂糖キビ収穫所長をしていた中尉である。チェはこのふたりをまず退避させたのち、M2ライフルをかかえて、レインジャー部隊と交戦している隊員たちのもとに戻った。数百メートル離れたところでは、インティら数名が応戦していた。地形の上からいえば、インティらの地点の方が峡谷の出口に近く、脱出には有利だった。だが、チェのような男にとっては、そのような状況下で|採《と》るべき態度はきまっていた。危険は眼中になかった。思想と行動を一致させる生き方でしか生きることのできなかったチェは、いつもそうであったように、このときもおのれの信条に忠実に行動し、危険な方を選んだ。
かつて、かれはこう書いている。
――もしぼくらが世界地図の上の小さな一点で、ぼくらの義務を果たし、捧げうるものはどんな小さなものでも、命さえも、この戦いにゆだねるならば、そしてまたいつの日か、すでにぼくらのものであり、ぼくらの血に染った土地で最後の息をひきとろうとも、このことだけは知らしめたい。ぼくらは活動範囲をじゅうぶんにわきまえており、プロレタリアート大集団の一分子であると自覚しているばかりではなく、キューバ革命から学んだことを、ぼくらが誇りにしていること、を。そして、その最高指導者から、世界のこの一局部においても、大いなる教訓「人類の運命が|賭《か》けられているとき、一個人や一国家の危険とか犠牲とかが何だというのだろう」という教訓が、身をもって示されていること、を。
ぼくらのすべての行動は、帝国主義に対する戦いの|雄叫《おたけ》びであり、人類の敵・北アメリカに対する戦いの歌なのだ。どこで死がぼくらを襲おうとも、ぼくらのあげる|鬨《とき》の声が誰かの耳にとどき、誰かの手がぼくらの武器をとるために差し出され、そして、誰かが進み出て機関銃の断続的な響きとあらたに起こる鬨の声との相和した葬送歌を声高らかにうたってくれるならば、死はむしろ歓迎されてよいのである。
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六カ月前に書いた、この文章(三大陸連帯機構あてのメッセージの末尾の一節)こそは、チェの心であり、自分を律している生き方でもあった。かれはライフルをとり、約五十メートル前方の政府軍に反撃した。ゲリラ戦争の原則からいえば、戦いは短時間に終らせなければならなかった。チェのいう、ヒット・エンド・ランである。が、このときの状況はそれを困難にしていた。プラード大尉は上部の丘にも兵を配置していた。
ついに、機関銃の一連射がチェの足を傷つけた。倒れたまま、チェはなおも応射した。こんどは一弾がM2ライフルの弾倉に命中した。チェはピストルをぬいた。それもすべて撃ちつくし、もはや戦うべき武器はなにもなかった。近くにいたボリビア人のウイリがチェを助けて引きあげようと近寄ってきた。ウイリは不用意にもチェを肩にかつごうとした。それはレインジャー部隊にとっては、格好の標的であった。激しい銃声と共に、チェのベレー帽が宙に浮かんだ。ウイリはチェを地面におろしてライフルを構えたが、容赦ない一連射がウイリを見舞った。戦闘はなおも続き、日が落ちるころ、ようやく銃声はやんだ。
とらわれたチェは毛布にくるまれて、イゲラ村まで運ばれ、小学校の教室に投げこまれた。足からは血が流れ続け、アキレラという少尉がチェにいわれたとおりに応急手当をした。だが、チェは、異国の空の下で最期の時が刻々と迫りつつあるのを自覚していた。ボリビアには、死刑はない。どんな重い罪でも三十年の刑であるが、政府軍がかれを法廷に出すような公正な策は決してとらないだろうことを|識《し》っていた。かれは、一晩中、入れかわり立ちかわり入ってきて、なんとか情報を引き出そうとする将校たちやCIAのゴンザレスと名乗る男と、口をきくことを拒否した。なかでもかれを山賊呼ばわりしたアンドレス・セルニチ大佐には平手打ちを喰わせた。死を怖れぬ以上、かれには怖れるものは何もなかった。
★
九日の昼ごろ、ラパスからの命令をうけたセルニチ大佐は、下士官のマリオ・テランに携帯機関銃を渡した。インディオのテランは振舞い酒に酔っていた。かれは、まずウイリを殺し、やはり捕えられたチノを殺した。それからチェのいる教室に入ってきた。
チェは、この殺人者をじっと見つめた。長いゲリラ生活で、頬はこけ、頭髪は肩まで垂れるほどにのびていたが、その長いまつ毛の下の眼は、いつもと変りなく澄みきった光をたたえていた。そして、テランがなぜかためらうのをみて、落ち着いた声でいった。
「撃て! びくびくするな!」
テランは尻込みした。セルニチは|叱咤《しつた》し、テランはついに引金をひいた。テランが狙ったのは腰から下であった。かれは上半身を撃つなと命令されていた。
このため、チェは、なおも断末魔の苦しみを味わわねばならなかった。そして、それはやはり酒に酔ったペレスという軍曹によって、首と心臓をピストルで撃たれるまで続いた。
不屈の戦士、ゲリラ戦の詩人、死を怖れぬ勇者、放浪の冒険家、そして何にもまして、もっとも純粋な革命家であり続けたエルネスト・チェ・ゲバラはこうして|斃《たお》れた。
ここまで、わたしはチェの生と死を語ってきた。わたしはなぜチェの生涯を追ってきたのであろう。革命の思想を人びとにわかってもらいたいからなのか。銃をとる代りにペンで帝国主義に攻撃を加えるためなのか。選挙のたびに美言をつらねても、いっこうに実行しようとしない日本の保守政治家、革命を論じながら革命を実行しようとしない革命家たち、これら言行不一致の連中を皮肉りたいためか。
ジョン・ガンサーが指摘しているように、ラテン・アメリカは収奪されている大陸である。そしてなおもいうならば、ラテン・アメリカの民衆は収奪されている民衆である。かれらは、たしかに帝国主義と貧乏との鎖につながれている。それを解放するには、チェの指摘したように、武装闘争しかないだろう。しかし、チェのこのような考えを紹介するのに、わたしがその役を買って出ることもない。かれの思想はその著作に盛りこまれているし、なによりも、かれのような人間にあっては、行動そのものが思想であった。われわれ人類は多くの革命家をもったが、かれを除くすべての革命家は、いったん革命が成就すると、二度と兵士になって銃をとることはしなかった。むしろ、その多くは自己の権力を守るために|汲 々《きゆうきゆう》とした。独りチェのみが、すべてを投げうって、一介の兵士に戻り、新たな戦いに身を投じた。この|稀有《けう》の生き方をみるだけで、多くの言葉は不要であるだろう。そうなのだ。この生き方の純粋さに、革命のロマンティシズムに心をうたれ、ささやかであろうとも、連帯をもちたいと感じたのである。
むろん革命家のたたかう戦いは、ロマンティックな冒険ではない。きびしい試練であり、ときには血の匂いをもつ。
ひとつの例をあげよう。チェの日記にも出てくる(九月の項)が、オノラト・ロハスという農民がいる。かれは政府軍のために密偵となり、チェに接近しては、その情報を売りこんでいた。その代償に、チェが戦死したあとで、サンタクルス市の郊外に大きな農園をもらった。貧農だったロハスにとっては、生涯の夢が実現したわけである。
一九六九年七月十四日の夜、ロハスは子供を抱いて眠っていた。妻は出産のために入院していた。安産ならば五人目の子供となるはずだった。
夜中にもの音がして眼をさますと、ロハスの枕もとに四人の男が立っていた。声をあげようとする間もなく、ロハスは銃弾を撃ちこまれた。
犯人はインティ・ペレドとその同志であった。インティは、イゲラ村での敗北のあと身をかくしていた。補足すれば、十七名の隊員のうち、生存したキューバ人は、チェが退避させた、ベニーニョ、ポンボ、ウルバノの三人で、かれらはレインジャー部隊に追跡されながらも約千四百キロを踏破し、翌年二月十七日についに国境を越えてチリ領に入り、イキケ市当局に出頭した。チリは一九六四年以来キューバと断交していた。国内の世論はふっとうした。右派はボリビアに送り戻せといい、左派は政治亡命者の保護に関する条項を適用せよと主張した。左派の先頭に立ったのは、上院議長の職にあったアジェンデだった。かれは、すぐさまイキケへ行き、三人に会い、その保護のために精力的にうごいた。三人はサンチャゴへ連行され、さらにイースター島に移されたのち、追放の形式でタヒチからヨーロッパを経てキューバに帰った。また、メディコはチェの死の五日後の十四日に戦死した。
インティは生き残っていた。かれは民族解放軍を再建することを誓い、翌年七月に「ボリビアのゲリラは死なず、それはいま始まった」という声明文をラパスの各新聞社に送りつけた。
ロハスに対するこの行為は、解放闘争とは直接の関係はない。五人の子供をかかえた未亡人は、訪れたわたしに、
「子供は無事でした。でも、くわしいことは入院していたのでわからない。知りたければサンタクルスの軍司令部に行って下さい」
というきりであった。
庭先には鶏がエサをつつきまわっていた。あたりの牧歌的な光景とは裏腹の血|腥《なまぐさ》い想い出に、彼女はうちひしがれているようにみえた。インティの行為の是非は明らかである。ここでそれをいっても意味はないが、インティにしてみれば、予想される密告者への脅しが必要だとおもったのであろう。
にもかかわらず、インティは密告を防ぐことはできなかった。二カ月後の九月、ラパスに潜伏していたかれと三人の同志は、政府軍の急襲をうけ、手榴弾とライフルで応戦したが、全身を|蜂《はち》の巣のように穴だらけにされて死んだのである。
★
このラテン・アメリカのきびしい現実を前にして、わたしはつぎのエピソードを頭にうかべずにはいられない。
あるラテン・アメリカの知識人が、ある日チェにたずねた。
「わたしの国の革命のために、どうしたら貢献できるでしょうか」
チェは問いかえした。
「失礼ですが、あなたはどんなお仕事をなさっていますか」
「わたしは著述家です」
「ああ! わたしは医者でした」
とだけ、チェはいった。
行動することによって思想をのべるというかれの生き方は、この話からもうかがえるが、行動だけの|猪 武者《いのししむしや》ではなくてすぐれた文章家でもあったことは、カストロの言葉をまつまでもなく、確かなことである。キューバの詩人フェルナンド・レタマル氏は、その体験をこう語る。
「わたしは一九六〇年にチェが外国へ行ったとき、帰りの飛行機でいっしょになった。そのとき、かれはわたしの読んでいたパブロ・ネルーダの詩集をみて、あとで見せてくれ、といった。ネルーダはかれの好きな詩人のひとりだったわけです。そのあとで、キューバ作家同盟がチェにも入ってくれと申し入れたことがある。みんなチェの文章に感心していたからだ。もっとも、チェには、わたしはみなさんの仲間になれるような文章家じゃない、とことわられてしまったが……」
といって、チェは革命にこりかたまった人間ではなかった。人なみな道楽も持っていたのである。
チェスとゴルフである。
チェスはかなりの腕前だった。工業省の同好者を集めてチェス・クラブをつくり、リーグ戦を行なった。その成績表はかれの部屋にあり、チェはいつも上位をしめていた。ある日、専門家――日本のような棋士はいないが、指導の先生ということであろう――と対局したチェは、たくみに指して勝利を得た。そのときは大いに喜び、部下のアルブエルネ氏などにも、のちのちまでそのことを子供のように自慢した。
ゴルフは、アルゼンチンの医学生時代に覚えたものであった。名門のゲバラ家の長男としては、あたりまえの趣味だったわけである。このゴルフでは、カストロと回った記録が残っている。じつをいうと、その記録カードのうつった写真を掲載している雑誌をハバナから日本に送ったのだが、|ラテン《ヽヽヽ》・|アメリカ的に《ヽヽヽヽヽヽ》とうとうわたしの手もとに到着しなかった。したがってうろ覚えの記憶になるが、78だったようにおもう。これが正しければ、シングル・プレイヤーということになり、相当の腕前である。
それだけに、ラテン・アメリカの人びとにとっては、チェのような家系の、いわばエリートが革命家として生きそして死んだことが、不可解でならないようであった。現世の楽しみを本能的に求めるかれらには、チェの生き方は、理解の外にあるらしく、それをいう人は少なくなかった。しかしながら、このなみはずれた生き方こそが、チェの魅力であり、ラテン・アメリカに限らず全世界の若ものたちの間での熱狂の原泉にもなったのだ。かれはボリビアのジャングルの中で銃弾に斃れたが、同時にまた不滅の生をかち得た、といってもいいであろう。
★
残された紙数で、その後のボリビアについてふれておきたい。バリエントス大統領は、一九六九年四月にヘリコプターの事故で死んだ。かれはインディオの血をひいており、その言葉であるケチュア語を自由に喋れた。農民たちがチェに味方しようとしなかったのは、バリエントスがかれらの間で偶像となっていたためだという説をなす人もある。
昇格した副大統領シーレスを打倒したオバンド政権も、一年で倒れた。ガルフ石油の国有化政策などを実行したのが、アメリカの気に入らなかったようである。チェを斃したのが、事実上はCIAであったことでも明らかなように、ボリビアはアメリカの強い影響下に置かれている。チェの日記をカストロにひそかに送ったのは、内務大臣だったアントニオ・アルゲダスだが、かれがそのようなことをあえてしたのは、CIAに対する反抗のためだった。
日記の原本は、オバンドの手もとに渡されたが、もちろん、CIAはその前にコピイをとっていた。チェの日記が国際的に反響を起こすであろうことは誰の目にもはっきりしていたし、CIAはそれを利用して、手を加えた偽造日記を流そうとしたふしもある。チェの死後、一アメリカ人記者の書いた文章は、それをもとにしたものらしく、キューバ版には見られない部分がある。それもチェの像を|歪《ゆが》めるもので、チェはひどく弱気で未練がましい男になっており、しかも最後には、遺言として、アレイダ・マルチに再婚するように伝えてくれといったとか、ターニアはチェの愛人だったが、じつはソ連のKGBのスパイだったとか書いている。茶番劇というしかないが、皮肉なことに、CIAのボリビア駐在員がアルゲダスをおどかしたために、日記はカストロの手に渡った。
アルゲダスの告白によれば、コピイは百部あり、要人たちはみなもらっていた。ある日、かれはCIAの駐在員から呼びつけられたので、内相である自分がどうして行かなければならないのか、用があるなら、そっちからこい、とやりかえした。すると先方から、誕生日のお祝いだといって、ピストルとチェやカストロ兄弟の写真の入った箱を持ってきた。
この事件の少し前、アルゲダスはボリビア鉱山資本とアメリカ資本との間に起きた係争事件で、アメリカがわに有利な判決をしろという要求を蹴っていたし、さらに学生時代に共産党のシンパだった過去を握られたので、ついに決意したというのである。
日記の発表後アルゲダスはチリに亡命した。そしてオバンドが生命を保証すると約束したので、一カ月後にはラパスに戻ったが、二度にわたって暗殺されそうになった。はじめは爆弾を投げこまれ、二度目は狙撃されて左手を負傷したのである。結局、かれはメキシコ大使館に亡命した。以上はチェの日記がカストロの手に入った裏話として興味深い。
★
カストロは、とつぜん送られてきたこのコピイに大いにとまどったが、革命はそれが真の革命であればどこかに必ず協力者はいるものだ、と考え、アレイダ・マルチの協力で読みこなし、一九六八年七月に序文をつけて発表した。その中で、かれはこう書いている。
――ラテン・アメリカの人口を構成するほぼ三億の人間、その大多数は絶望的に貧しく、そして二十五年以内に六億人となるだろうし、かれらは物質的な生活や文化や文明に権利をもつのである。が、かれらに対して、真の希望をあたえるような正しい答え、あるいは必然的な行動をなしたものは、(チェのほかに)誰ひとりとしていないのである。なすべきもっとも誠実なことは、チェの意志や勇敢にも思想を守るためにかれのかたわらに倒れた戦士たちの前に、黙祷をささげることであろう。なぜなら、大陸を救うという高貴な理想に導かれたひとにぎりの人びとが行なったこの行為は、意志の力、英雄的な精神、そして人間の偉大さが何をなしうるかの|崇高《すうこう》な|証《あかし》として、永遠に残るだろうからである。
盟友カストロのこの言葉ほど、チェが生涯かかってなしとげてきたことについて正しく理解しているものはないだろう。チェの最後の想いは、やはりカストロに|馳《は》せたであろうことを、わたしは信じて疑わないのである。
[#地付き]〈了〉
(一) それは今日ではゲバラ家と無関係になっているが、アルゼンチンの造船量の一位を占めている。
(三) ホセは、共和派のスペイン人であるゴンザレスの子で、一九三七年に亡命してきた。
(四) ラテン・アメリカの代表的な詩人。(一九〇四〜)一九三四年外交官としてマドリッドに駐在していたが、スペイン戦争をきっかけにして政治的な事象に対して関心をもつようになり、市民戦争を題材に反ファッシストの詩をつくった。その後、本国でも投獄されるなどしたが、一九四四年には共産党に入党。代表作は「大いなる歌」「心の中のスペイン」など。
(五) グラナドスは一九二二年コルドバに生まれ、薬剤学、生化学を専攻した科学者。弟のトーマスがチェと高校時代のクラスメイトであったことから交際が生まれ、生涯の友人になり、現在はキューバで働いている。
(六) スペイン戦争で人民戦線がわに立った人の子供で、父親の戦死後一九三九年九月にアルゼンチンに亡命してきた。その後共産主義者として逮捕され、ハンガリーに亡命、のちにチェが東欧諸国を歴訪したさいに連絡がとれ、チェのすすめでキューバで働くことになって移住した。
(一一)チェはこのときはすでにカストロの同志になってい、キューバ遠征軍に参加する盟約をかわしていた。メルバは、夫のヘスス・モンタネと共に一九五三年にカストロがモンカダ兵営を攻撃したときからの同志で、攻撃の失敗後はふたりとも政府軍に捕えられ、カストロらといっしょに裁判にかけられた。
(一三)ジョン・ジェラシ編のゲバラ著作集の序文より孫引き。
(一六)イタリー「エウロペーロ」誌・「潮」一九六八年八月号、清水三郎治訳。
(二一)カバレリアは土地面積の単位。スペインでは一カバレリア三千八百六十三アールだが、キューバでは千三百四十三アールで使われている。
(二二)古代ローマの皇帝。圧制者として知られている。
(二三)カストロが捕えられたのち、法廷で陳述した弁論「歴史は私に無罪を宣告するだろう」から引用。
(二四)筑摩版「世界ノンフィクション全集23」・カストロのモンカダ襲撃。
(二八)グランマ紙(同)にマリオ・ダルマウの証言としてグアテマラにいたころの「チェはすでにマルクスやレーニンの著作を読んでいた。かれはマルクスやレーニンの完全な蔵書を持っていた」とあるし、またダリオ・ロペスの証言としてメキシコで「エル・チャンチョ(小豚の意味でチェの初期の仇名)が留置されたとき、マルキストの図書が部屋の中で発見された」とある。メキシコ時代のチェは、本のセールスマンをしていたから、ダリオ・ロペスの証言は額面どおりに受けとれるが、前者のそれについては、当時のチェの財政状態から考えて、完全な蔵書を持っていたとは、にわかに信じがたい。
(二九)非合法というのは、メキシコでは、許可なしに外国人が働くことが許されないからである。
(三〇)「エル・パトホ」と題する本文は、はじめ雑誌に発表され、英、和訳書では「革命戦争の道程」におさめられているが、キューバ版の著作集では、独立して収録されている。
(三二)医師の任務についての演説、一九六〇年八月十九日。
(三三)バヨは一八九二年生まれ、キューバ革命後はキューバに迎えられて革命軍少佐の位を授けられ、一九六七年八月に死去。その著作「ゲリラ戦教程」は、チェの「ゲリラ戦争」とならんで、ゲリラ戦のテクニックを説いた古典となっている。
(三四)グランマ号の購入資金をふくめて遠征に要した費用は四万ないし五万ドルで、カストロはこれを前大統領プリオ・ソカラスから受けとったとマシューズは書いている。ソカラスはバチスタによって大統領を追われた人物。
(三五)カストロは自分たちを「反乱軍」と呼んでいた。革命軍という言葉は初めは使わなかった。
(三六)モンカダ以来のカストロの同志で、現在キューバ内務相。
(三七)「カミーロについて」グランマ紙一九六四年一月。
(三八)キューバ革命に関して書かれた書物の大半は、このときの生き残りを十二人としている。たとえば、ヒューバーマンとスウィージー共著の「キューバ」やエンリケ・メネセスの「フィデル・カストロ」がそうである。それによると、カストロ兄弟のほか、チェ・ゲバラ、カミーロ・シエンフエゴス、カリスト・ガルシア、ファウスティーノ・ペレス、カリスト・モラレス、ウニベルソ・サンチェス、エフィヘニオ・アルメヘイラス、シロ・レドンド、ファン・アルメイダ、レネ・ロドリゲスの十二人となる。しかし事実は十二人ではなかった。チェの著作には十七人と書いたものもあるし、たんに十数人と書いたものもある。また、かれの「革命戦争の道程」を詳細に検討してみると、フィデルのグループ三人、ラウルのグループ四人のほかに、病気になったウルタドを除いてチェのグループ七人が加わり、さらにのちに、スペイン系のモランという男、ルイス・クレスポ、フリト・ディアス、ベルムデスとか、ほかに名前の想い出せない男が加わったとわかる。メネセスもヒューバーマンも、十二人と一致して断定しているのだが、なぜそうなったかは、わたしには理解できない。考えられるのは、いくばくもなく、モランをはじめ、脱走したり行方不明になったりしたものが出ており、その連中を除外したのかもしれない。裏切りものは、光栄ある十二人には入れない、ということだろうか。だが、そうだとしても、チェといっしょだったラミロ・バルデスを除外する理由がない。わたし自身は、チェの著作を調べてみて脱落したものを除けば、十七人が正しいと考えている。
(三九)サンチャゴ出身、バカルディ会社重役の娘で、フランク・パイスを通じて運動に加わった。現ラウル・カストロ夫人。
(四〇)現在国立出版社カサ・デラス・アメリカスの社長。
(四一)マンサニーヨ出身の医師の娘、現在官房長官。
(四四)一八五三年一月二十八日生まれ。新聞記者として独立運動を行ない、一八九二年に革命党を結成したが、一八九五年五月、スペイン軍と交戦中に戦死。キューバの父といわれている。
(四七)当時のアメリカは、日本から買ったシャツなどをそのままキューバへ売りつけていた。
(四八)日本がわはこの会談で、砂糖買付け量の約束をしないで、ガット三十五条の撤廃、片貿易是正、最恵国待遇、日本製品の買付け増加をもっぱら要求した。
(四九)当時のアルソガライ大使夫人やフェルナンデス大尉は、フジ・ホテルだったと証言しているが、日本がわの資料では、麻布プリンスである。
(五〇)豊和のライフル製造工場の見学を希望し、場合によっては買付けるつもりだった。
(五一)この点は、見口氏の記憶と一致しない。この点について、フェルナンデス大尉はつぎのようにいう。
「わたしたちは、日本に着いた日のはじめから、広島へ行きたいと儀典課に申し入れた。しかし、日本がわがいやがっているような印象をうけたので、三人で夜行の切符を買ってこっそり行った。広島へ着いたのは、夜の明けるころで、これははっきり覚えている。飛行機では絶対にない。駅からタクシーでホテルヘ行った。そこで部屋をとり、顔を洗ったりしたけれど、泊まりはしなかった。また、原爆資料館のほかに、銀行の前に原爆で死んだ人影の残っているところも見た。帰りは、やはり汽車で大阪まで行き、そこからほかの連中といっしょに東京へ戻った」
なお、新広島ホテルの記録を調べてみると、二十四日夜(といっても、日時では二十五日の午前の早いころ)から二十五日夕刻まで滞在。三七三号室のツインの部屋で、料金は三千円となっている。また、中国新聞(昭和三四・七・二六)によれば、使節団の訪広を報じたのち、
「これは八月六日を前に広島の原爆慰霊碑にぜひ花束をささげたいというのが目的で、慰霊碑に参拝したあと県庁を訪れ、大原知事と懇談した。大使は“キューバの国民も平和な生活を望んでおり、碑文はまったく同感だ。キューバはいま小型造船所の建設に大わらわで造船はじめ農林漁業などの技術者を求めている”と語り、広島市内を見物して、午後上り特急かもめで帰京した」とある。
これをもってすれば、フェルナンデス大尉の方が正しいと思われるが、日本がわの広島県庁の記録や見口氏の証言を否定する根拠もないので、本文中は日本がわの資料によった。
(五二)農業改革機構(Instituto Nacional Reforma Agraria)。この年の三月に農地改革を目的に発足した。
(五三)フランス人記者イーブ・ギルベールがその典型で、反カストロ派は例外なくこの説を支持している。カミーロの副官だったナランホという少佐の数日前の事故死まで、これに結びつけられている。
(五六)この日は、いまでも国民服喪の日となっており、現場には慰霊碑が建てられている。
(五七)「キューバの祭」アニア・フランコ、大久保和郎訳。
(五九)一九六五年二月二十五日、アジア・アフリカ人民連帯機構での演説。
(六〇)「キューバにおける人間と社会主義」ウルグアイの週刊誌「マルチャ」の編集者カルロス・キハーノにあてた論文で、最後の旅行中に執筆された。
(六一)一九六四年八月十五日、自発労働をしたものに対する証書授与式での演説。
(六二)「カストロのキューバ、キューバのフィデル」
(六三)「キューバ革命の拳の中で」ホセ・イグレアシス。
(六四)「労働の先頭に立つ新しい態度」についての演説。
(六六)この点についてマシューズは、「カストロ」の中の「外の世界」の章で、カルロス・ラファエル・ロドリゲス(一九四〇年代からの党員で、第一次バチスタ政府の国務相をつとめたことがあり、キューバ共産党中央委員)の話として、すでに一九六四年秋に、チェとカストロとふたりの間で、ボリビア行きの話が検討されたとしている。
(六七)チェのボリビア日記ではポンボあるいはタマーヨとして出てくる。
(六八)あるいはタコ、リカルド、パピ、チンチョなどの名で呼ばれたキューバ軍将校である。
(六九)中国系ペルー人で、チェの日記ではチノあるいはエル・チノ。
(七〇)パチュンゴ、パンチョなどの名前でも登場する。本名アルベルト・フェルナンデス・モンテス・デ・オカ。工業省次官、キューバ共産党中央委員、革命軍少佐。のちにゲバラとともに戦死した。
(七一)本名ルイス・ティエリア・ムリリョで、ボリビア共産党中央委員。
(七二)本名レオナルド・タマーヨ・ヌーニェスで革命軍大尉。チェがブンタデルエステ会議に出席したとき、キューバ代表団の書記をつとめた。ポンボは兄弟だと書いている。
(七三)本名イスラエル・レイエス・サヤスで革命軍中尉。
(七五)本名エリセオ・レイエス・ロドリゲスでキューバ共産党中央委員、革命軍大尉。
(七六)本名リカルド・グスタボ・マチン・オルド・デ・ベチュ、工業省次官、革命軍少佐。
(七七)ボリビア人ゲリラ、本名フリオ・ルイス・メンデス。チェが戦死したあとも戦って一九六七年十一月十四日戦死。
(七八)モロゴロ、ムガンバなどの名前でもチェの日記に出てくる。ハバナのカリスト・ガルシア病院外科部長、革命軍軍医中尉。
(八〇)二十五日にパチョとマルコスが喧嘩して山刀をふるった事件を指す。
(八一)本名アントニオ・サンチェス・ディアス。工業省鉱山局長、キューバ共産党中央委員、革命軍少佐。
(八二)entero は、直訳的には「全くの」「完全な」「無疵の」といった形容詞。
(八三)しかし、じっさいの指揮官がホアキンであったことは、チェの日記で明白である。
(八四)チェの日記には「メディコ・ネグロ」「ネグロ」で出てくる。本名レスティトウト・ホセ・カブレラというペルー人医師。
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一九二八年
6・14 アルゼンチンのロサリオ市で出生。父エルネスト・ゲバラ=リンチ、母セリア・デ・ラ・セルナ。
一九三〇年
一家がブエノスアイレスに転居、最初の喘息の発作に襲われる。
一九三二年〜
長男エルネストの健康のために、一家はコルドバ州アルタ・グラシアに転居。喘息の発作は軽減したものの、小学校には就学できず、セルナ夫人がABCを教えた。満足に通学できたのは、二年と三年のみ。五年、六年のときはまばらにしか出席できなかった。(はじめサン・マルティン校、のちにマヌエル・ベルグラーノ校)
一九四一年
コルドバ市に転居、デアン・フネス中学に入学。(4月)同級生トーマス・グラナドスの兄アルベルトを知る。
7月 休暇を利用して最初の放浪の旅に出る。農場で働いたり野宿したりして費用をまかない、北部地方を約一カ月間も旅行する。また、ラグビーなどのスポーツでからだをきたえる。
一九四五年
秋期試験終了後の十二月、自転車でサンタフェ、北コルドバ、メンドーサなどを旅行。
一九四七年
ブエノスアイレス大学医学部に入学。(4月)この年、両親が別居。セルナ夫人のもとにとどまる。
一九五一年
12・29 グラナドスと共にオートバイで国外旅行に出発。
一九五二年
1月 アンデス山脈をこえチリに入る。途中でオートバイが故障して、以後は徒歩のヒッチハイクとなる。
2・19 日刊紙「アウストラル」にハンセン病を研究しているアルゼンチンの医学者きたるとして紹介される。ふたりはイースター島のハンセン病病院を訪問する予定だったが、船便がないために予定を変更して北上。荷物人足、水夫、皿洗い、ときには医師にもなって旅費をかせぐ。
ペルーに入り、クスコに滞在。マチュピチュ遺跡をたずねたのちイキトスに到着。喘息の激しい発作に襲われて入院。退院後、サン・パブロのハンセン病療養所で働く。
6・21 患者の好意による筏マンボ・タンゴ号でアマゾン河を下り、レティシア(コロンビア)へ向う。そこでフットボール・チームの臨時コーチになり、チームが優勝したために、ボゴタまでの飛行賃のカンパをうける。
7・14 ククタからベネズエラのサン・クリストバルに入る。
カラカスでグラナドスと別れ、競走馬の輸送機でアメリカ合衆国のマイアミに入る。約一カ月滞在ののち、同じような手段でブエノスアイレスに帰る。
一九五三年
ブエノスアイレス大学を卒業。(3月)博士号をうける。
7月 ペロン政権の軍医に徴用されることをきらい、グラナドスの働いている病院を目指して旅に出る。汽車でボリビアのラパスに入り、市内に下宿。反ペロン派の弁護士リカルド・ロホと知り合う。
7・26 カストロ同志と共にモンカダ兵営を攻撃、キューバ革命への第一歩を踏み出す。
9・11 トラックでペルーに入る。ロホともうひとりのアルゼンチン人カリカ・フェレールも同行。クスコでロホらと別れ、エクアドルとの国境に近い町ツンベスで再会。いったんリマに行ったのちバスでエクアドルに出発。
9・26 エクアドルに入国。
グアヤキルに滞在中、ロホに社会主義政権下のグアテマラに行くようにすすめられる。
10月 ユナイテッド・フルーツの貨物船でパナマに向け出発。
12月 コスタリカを経てグアテマラに入国。
ジャングル内のハンセン病療養所で働きたい旨を政府に申入れるが、グアテマラ革命党に入党しなければ採用しないといわれてこれを拒否する。
友人の紹介でペルー人亡命者イルダ・ガデア、さらにイルダの紹介でキューバ人亡命者で「七月二十六日運動」のメンバー、ニコ・ロペス、マリオ・ダルマウ、ダリオ・ロペスらと知り合う。
一九五四年
6・18 CIAの傭兵アルマス大佐指揮の反政府軍が侵攻を開始。市民たちに武装闘争を説いたためにCIAに狙われ、アルゼンチン大使館に保護される。時事論説「わたしはハコボ・アルベンス政権の崩壊を見た」を執筆。
9月 一足先に出国したイルダ・ガデアを迫ってメキシコへ向かう。途中エル・パトホと知り合い、メキシコ市で観光客相手に街頭写真屋を開業。
ニコ・ロペスら亡命キューバ人と再会。ますます親交を深める。
一九五五年
5月 イルダと結婚。街頭写真屋、本のセールスマンをやめ、メキシコ市立病院に医師として就職。
5・15 カストロ、ピノス島監獄から釈放さる。
7月(あるいは8月) ニコ・ロペスを通じてラウル・カストロ、ラウルを通じてフィデル・カストロと出逢い、夜のあけるまで語り合ったのち、キューバ遠征軍に参加することを決意する。
翌年三月を目標に、アルベルト・バヨからゲリラ戦の訓練をうける。
一九五六年
2・15 長女イルディタ誕生。
6・25 メキシコの官憲に他の同志と共に逮捕され、AP通信でキューバ遠征軍の一員にアルゼンチンのチェ・ゲバラがいる旨を報道される。五十余日間留置されたのち、フィデル・カストロの努力でようやく釈放される。
11・25 フィデル・カストロを司令官とする反乱軍八十二名は八人乗りヨット「グランマ号」に乗船し、メキシコのトゥスパンからキューバへ向けて出発。チェの資格は軍医。
12・2 オリエンテ州ベリクに上陸。
12・5 アレグリア・デ・ピオの砂糖キビ畑で休息中をバチスタ政府軍に急襲され、首に銃傷を負う。またニコ・ロペスら多くの同志が戦死。ファン・アルメイダに助けられつつ、シエラ・マエストラの最高峰トルキノ山頂を目指し、途中、カミーロ・シエンフエゴスらと合流。
12・20 フィデル・カストロ本隊と合流。上陸した反乱軍の生存者は十七名。
一九五七年
1・17 ラ・プラタ兵営を襲撃。ゲリラ戦争の第一弾がフィデル・カストロによって放たれた。
2・17 ニューヨーク・タイムズのハーバート・マシューズ記者がシエラ・マエストラへ潜入し、カストロと会見。カストロらの生存のニュースが同二十四日の紙面を飾る。
3月 都市工作班のフランク・パイスが送った新入隊員が加わる。
5・28 ウベロ兵営を攻撃。最初の重要な勝利。
7月 第二部隊(名称は第四部隊)が編成され司令官に任命される。少佐となる。第二部隊の前衛はカミーロ。
8・30 エル・オンブリト谷で政府軍を待ち伏せ攻撃。
9・17 ピノ・デル・アグアで戦闘、シエラ・マエストラに解放区を確立。
11月 機関紙「自由キューバ」を発刊。「狙撃兵」の筆名で執筆。
12・8 コンラドの戦闘で二度目の負傷。
一九五八年
2・18 ピノ・デル・アグアで第二次の戦闘。カミーロ負傷。
2・20 ラジオ・レベルデを開局。
4・9 キューバ全土にゼネスト。しかし共産党の妨害により失敗。
5・25 政府軍大規模な反撃を開始。
約二カ月にわたる戦闘で、政府軍は一千名以上を失い、七月末にはシエラ・マエストラから撤退。
8・31 再編成された第八部隊司令官としてラス・ビリアス州へ向って進撃を開始。十月中旬、エスカンブライ山中に到着。ファウレ・チヨモンら学生革命幹部団のゲリラ隊と協力を約束。
11・3 カストロ司令官、土地改革宣言を公表。大土地所有制度の廃止をキューバ農民に公約。
12・16 第八軍、フオメント町の政府軍兵営を攻撃。四日間にわたる激戦ののち、同地区一帯を制圧。政府軍百三十人余を捕虜とする。
12・21 カバイグアン市攻撃。二日間にわたる戦闘で、政府軍退却。この戦闘で、左腕を骨折し、以後腕をつったまま指揮かつ戦う。
12・29 州都サンタクララ市に対する総攻撃を開始。戦車、装甲車を備えた政府軍三千名に対し反乱軍三百名は白兵攻撃を加え、三昼夜にわたる激戦ののちついに完全占領。
一九五九年
1・1 バチスタ大統領ハバナから国外逃亡。
1・2 第八軍ハバナ入城。
1・4 カバーニア要塞に入る。
1・9 エルネスト・ゲバラとセリア・デ・ラ・セルナ夫妻、ハバナ空港に到着。
1・13 カバーニア要塞内で革命軍兵士のために文化アカデミーを開設。
1・14 国立医科大学に招待され、到着以来キューバの同僚の皆さんを訪問したかった、と挨拶。「キューバ名誉医師」を宣言される。
2・4 反乱軍兵士は優れた人間であるように努力しなければならないと部下に訓える。
2・9 閣僚会議は、キューバに対する貢献を認めて、チェを生まれながらのキューバ市民とする旨を宣言。
2・11 ラジオの「経済解説」番組に出席し、キューバの土地はこれまで勝手気ままに分配されてきた、たとえ大資本が反対しても、国民の財産をとり戻さなければならない、という意見を語る。
2・19 「ゲリラとは何か」をレボルシオン紙に発表。
3・10 レボルシオン主筆カルロス・フランキあてに手紙を送り、バチスタ派の高級住宅に住んでいるという中傷記事に対し抗議し、病気治療のため、財産保管省がその家に住むことを指定した事情を明らかにし、回復後は出ることも公約した。
3・20 カバーニア要塞司令官の資格で、反乱軍司令官会議に出席。
3・22 革命政府の政策を批准する国会前の大集会に参加。
4・9 タバコ耕作者会議に出席。
4・28 「テレビ世界問答」番組に出て、キューバが全世界の国々と外交関係を結ぶのに賛成する旨を表明。
5・1 メーデー集会で、「われわれの前には山のような仕事と危機とがひかえているが、未来に対する大いなる信念のために、危機を自覚しなければならないのだ」と強調。
6・3 アレイダ・マルチと結婚。式には、友人を代表してラウル・カストロ、カミーロ・シエンフエゴスが出席した。
6・12 アジア、アフリカ諸国への親善使節団長として随員五名と共に出発。
6・16 ナセル大統領に迎えられて、カイロ到着。
7・1 インドを訪問、ネール首相に迎えられる。
7・2 ガンジーの墓に詣でる。
7・15 東京に到着。
7・16 東京都に東知事を表敬訪問、都の鍵二三六号をうける。
7・17 外務省で貿易交渉。
7・22 池田通産相と会談。
7・25 広島を訪れ、原爆慰霊碑に花束を捧げる。
7・26 東京に帰着。
7・27 羽田発。
この間、キューバ本国では、カストロ首相の辞任、ウルチア大統領の辞任、ドルチコス大統領就任、カストロ再任の政変があった。
7・30 ジャカルタ到着。
8・13 ベルグラードに到着。
8・19 リエカ市を訪問。
8・22 パキスタンに到着、アユブ・カーン大統領に迎えられる。
9・8 ハバナに帰着。
9・15 「経済解説」番組のインタビューで、任務を果たし終えた旅行の印象を語る。
9・18 ハバナを訪れた外国人学生らと会見。
10・8 カストロの招集したINRAの会議に出席。工業部長に就任。
11・26 国立銀行総裁に就任。
12・11 日本の経済使節団を迎え、貿易交渉に入る。
12・31 ラスビリアス中央大学教育学部から名誉博士号をうける。
一九六〇年
1・10 国立医科大学の新委員会に出席して「国立銀行総裁としてお報せしておきたい。わたしがこの先、実際問題として医師の仲間から脱け出す罪を犯すときがたとえあるとしても、(医師の)聖職は永遠のものであるし、それは多くの年月を費やすに値した。わたしは社会の戦いに加わってきたが、その戦いを通じて、国民の苦しみと結びついている医師階級と絆を持ってきたのである」と演説。
1・28 ホセ・マルティ記念日集会でマルティについて演説。
2・5 ソ連ミコヤン特使歓迎会に出席。
テレビ番組「新聞報道の時間」に出て、国家経済と革命政府の工業化計画について語る。
2・13 キューバ=ソ連の経済五カ年協定の交渉委員会に参画する。
3・2 ハバナ大学カデナス広場で学生たちに「われわれの歴史経済の発展と大学の任務」について語り、「わたしは革命大学の財政科一年のたんなる学生にすきない」と演説する。
3・9 アラブ連合親善使節団を迎え、副外交団長として司会。
3・20 ラジオの「人民大学」で、政治の主権と経済の独立について炉辺談話的に話す。
4・8 「ゲリラ戦争」を出版。
5・2 チェコ経済使節団を出迎える。
5・16 「アーネスト・ヘミングウェイ」魚釣り競技会に母セルナ夫人を伴って参加。
6・10 キューバ=チェコ協定の調印式にカストロ首相と共に出席。
6・18 テレビ番組「キューバは前進する」に出席し「工業化に直面する労働階級の地位と役割」について語る。
7・1 経済と技術をテーマとした一連の講演を終了。
7・16 中国通商使節団を出迎える。
7・28 ラテン・アメリカ青年集会で演説。
8・18 ボクシング競技会を観戦。
8・20 公衆衛生省の研修開初式で「医師の任務」について演説。
8・29 シエラ・マエストラのラス・メルセデスで、シロ・レドンド二周年記念日に演説。
9・2 第一ハバナ宣言の承認に参加。
9・15 キューバ=ハンガリー協定調印に出席。
10・3 中華人民共和国のレセプションに出席。
10・8 キューバ=ブルガリア通商協定に調印。
10・15 ギニアのトウレ大統領を迎える。
10・22 経済使節団長として社会主義諸国歴訪の旅に出発。
10・24 プラハに到着、「キューバの成功は他の国民が同じような改善をなすための始まりである」と声明。
10・27 プラハのテレビ・インタビューに応ずる。
10・31 ソ連の経済商業部門の幹部と懇談を開始。
11・1 ノボトニ大統領からレオン・ブランコ勲章を授与される。
11・3 強化コンクリート製造工場を訪問。
11・4 デイリー・ワーカー紙の特派員と会見し、グアンタナモの米軍基地はキューバに対する挑発である、と断定。
11・7 赤の広場におけるソ連革命四十三周年式典に出席し、大歓声で迎えられる。
11・8 クレムリンのレセプションに出席。モスクワ市内を徒歩で見てまわる。
11・11 ミコヤン副首相と会談、旧交をあたためる。
11・15 ファウレ・チヨモン、モスクワ駐在キューバ大使主催のレセプションでフルシチョフ首相と会合。
11・17 モスクワを出発し中国へ向かう。
11・18 北京で大群集に歓迎される。
11・22 中国=アメリカ(合衆国ではなく南北アメリカ大陸の意)友好協会の歓迎パーティに出席。嵐のような拍手で迎えられる。
11・23 北京で演説。
11・26 空路天津へ向かう。
11・28 上海で一万人の群衆に迎えられる。
12・1 中国との経済協力協定に署名。
12・2 朝鮮民主主義人民共和国へ向けて出発、平壌で数千の群衆の歓呼のうちに迎えられる。
12・3 金日成首相と会談。
12・6 北朝鮮との通商文化協定に署名。
12・9 ソ連との経済交渉を続行するためモスクワを再訪。
12・13 ベルリンへ向けて出発、貿易大臣と懇談。
12・20 アメリカ合衆国が一九六一年度の砂糖買付け廃止を脅迫手段として使う場合、ソ連は二百七十万トンを肩代りする旨の協定に合意して調印。
12・23 キューバに帰国。
12・25 一万キロに及ぶ石油探査をすること、東ドイツが一千万ドルの借款を供与すること、北朝鮮、北べトナムに砂糖を売却することなどを発表。
一九六一年
1・7 ラジオ、テレビを通じて帰朝報告を行ない、キューバ革命はアメリカ大陸における多くの矛盾を解消するのに役立っている。各国政府はやがてキューバの友か敵かを明らかにするたろう、と語る。
1・16 割当て地区における労働奉仕に参加。
1・21 ニカロ工場に出張し、三千人の労働者を前に「労働と献身のみが生産を達成させる」と講演。
1・23 カバーニア州ピナル・デル・リオにて、民兵や労働者が拠出した十五万八千四百五十二ペソの現金を受領する。
2・12 技術家全国大会で挨拶。
2・22 国民生産の発展に関係のある各種工業を視察。
2・24 工業省が新設され、大臣に就任。
2・27 工業相として最初の演説。「キューバ革命は工業化を推進する段階に完全に到達した」と語る。労働志願部隊を提唱して、工業省に創設する。
このころ、多忙をきわめるなかにあって「革命の罪業」「キューバ、反帝闘争の歴史的例外か前衛か」「低開発とは」などの諸論文を精力的に執筆。
3・15 ハバナのホテル・リブレで開かれた中国代表団レセプションに出席。
3・18 ブエノスアイレスの日刊紙「ノチシアス・グラフィカス」がチェを招待したことに対する返信を掲載した。この招待は、キューバとアメリカの関係を改善する唯一の方法として首都における円卓会議を提唱したものである。返信は「もしアメリカ合衆国がキューバとの対話を望むならば、わが政府はいかなる時でもてきぱきと対処するだろう。ただし、それはあらかじめ条件の付されていない、あくまでも対等かつ平等のものでなければならない。またそのような対話の依頼にふさわしいのはわたしではなくて、わが政府のために適切で名の知られた人物である」というものだった。
4・8 工業省会議室に各部門の責任者たちを集め、経済封鎖に備えて、予備品の供給の問題を根本的に検討する。
4・15 プラヤ・ヒロン湾にCIAの傭兵軍侵攻。司令官として指揮をとる。
5・3 人民大学で「キューバの工業化」について講演。
5・9 北ベトナム代表団の歓送会に出席。キューバのニッケル鉱山開発についてソ連代表と会談。
5・12 ユーゴの通商代表団歓迎夕食会に出席。
5・17 中国友好使節団のレセプションに出席。
5・29 ラウル・カストロ少佐とモア湾を視察。オリエンテ大学を訪問。
6・2 ソ連との経済協定に署名。
6・10 チェコスロバキア展示会の開会式に列席。
6・23 百名の優秀労働者に対する報奨を工業省で行なう。
6・24 キューバ労連で、工業省の工場職員の研修会で講演。
7・18 カマフアニのタバコ国営工場を訪問。
7・24 宇宙飛行士ガガーリンを迎える。
8・3 米州機構経済社会理事会にキューバ代表団長として、ウルグアイへ向けて出発。
8・5 モンテビデオ到着。
8・8 プンタ・デル・エステでブラジルの農相と会談。
8・9 本会議で演説。
8・17 会議の最終日にあたり、米国の「進歩のための同盟」の危険性について警告。
8・19 フロンディシ大統領の招きで、故国アルゼンチンに八年ぶりに帰るが、首都にわずか四時間の滞在でウルグアイに戻る。
8・20 ブラジルのクアアドロス大統領の招きでリオ・デ・ジャネイロを訪問。南十字星勲章を贈られる。
9・24 大ハバナ生産者大会で演説。
10・1 中国大使主催の国慶節レセプションに出席。
10・7 工業省内で行なっていた一連の経済に関する講義を終える。
10・21 一九六二年度の経済計画会議を開く。
10・26 右計画について講演。
10・30 ピナル・デル・リオ州のパトリス・ルムンバ工場の落成式に出席。
11・2 ドイツ民主共和国の工業展示会を訪問。
11・22 中国技術使節団五十人と会合。
12・16 サンフリアンの軍基地に「文盲解放地区」の赤白旗をかかげる。
12・19 ソ連の婦人代表団を迎える。
一九六二年
1・4 アルベルト・クンス工場の落成式に出る。
1・11 キューバを訪れたイギリス使節団の昼食会に出席。
1・12 中国大使のレセプションに出席。
1・27 砂糖生産の特別計画についてテレビを通じて演説。
3・8 ORI(革命統一組織)の全国指導部の任務を負う。
3・13 食糧配給制度を実施。
4・13 砂糖生産者大会で演説。
4・15 キューバ労連大会で講演。
4・18 ソ連の経済使節団を迎える。
4・25 中国へ送るキューバ代表団の歓送会に出席。
4・28 中国大使のレセプションに出席。
5・11 ハバナ大学で「技術学生の役割と国の工業発展」について話す。
5・25 アルゼンチン=キューバ友好協会主催のアルゼンチン独立記念日の式典に招かれてつぎのように語った。「われわれは世界の人がそれぞれに戦っている軍隊の一部だと考えている。そして、他の五月二十五日(筆者註・独立の意味)を祝うために、みんなで準備しようではないか。豊かな土地(キューバ)だけではなく、それぞれの土地で、そして新しい象徴、勝利の、社会主義建設の、未来の象徴の下で」
5・26 キューバにきた中国公衆衛生相のために大使館で開かれたレセプションに出席。
5・29 カストロ首相と電気企業会館でひらかれた従業員の総会に出席。
6・8 優秀生産技術者百二十七名に賞を授与し、「革命を守りぬかなければならない。これまでやってきたことや帝国主義に対して戦う国民の詩的な勇気のためばかりではなく、それにかかわるわれわれの胃袋や皮膚のためにも、だ」と語る。
6・10 ポーランドの官房長官を空港に出迎える。
6・27 工業省のホールで五月の優秀労働者を表彰し、「労働の先頭に立つ諸君のあり方は社会主義の基盤である」と語る。
7・3 レボルシオン紙に、のちに「革命戦争の道程」として一冊にまとめられる回想録の連載がはじまる。第一日「アレグリア・デ・ピオの戦い」
7・4 「ラ・プラタの戦闘」の
7・5 「ラ・プラタの戦闘」の
7・6 「地獄川の戦い」
7・7 「空襲」
7・9 「エスピノサ高地の不意打ち」
7・10 「社会主義キューバ」誌に「将来における革命の工業的な諸事業」を発表。
7・11 回想録の続き「苦難の日々」をレボルシオン紙に。
7・13 「援軍」
7・20 カストロ首相、ヌーニェス・ヒメネスとゴルフ。
8・6 船で到着したソ連技術者団体を迎える。
8・21 ハバナ市のアメリカ劇場で開かれたキューバ労連の集会に出席。
8・27 キューバ経済使節団長としてモスクワへ出発。時差の関係で同日到着。
8・31 ヤルタでフルシチョフ首相に迎えられて会談。
9・3 共同コミュニケを発表。
9・28 CDR(革命防衛委員会)二周年記念式典に参加。
10・2 中華人民共和国成立十三周年記念パーティに出席。
10・13 ラテン・アメリカ大学バスケット競技会に出席。
10〜11月 カリブ海危機の間を通じてピナル・デル・リオ方面の革命軍司令官の任務をはたす。
12・1 「グランマ号上陸」をレボルシオン紙グラビア版に発表。七月に発表した回想録の補遺をなすものである。
12・6 デイリー・ワーカー紙の記者のインタビューに応じ「キューバに対するヤンキーの侵略の脅威は、いつだって存在している。侵略者に対しては、決死の戦いあるのみ」と語る。
12・7 アントニオ・マセオについて語る。
12・15 優秀労働者学校の講習終了式で、「労働と勉強とは結びついたものでなければならない」と語る。また、工業省で優秀労働者を表彰。
12・20 ハバナのチャップリン劇場で開かれた砂糖生産者大会の閉会式で、砂糖収穫のための戦いを呼びかける。
12・29 レボルシオン紙の主筆カルロス・フランキあての書簡を公開する。これは同月二十四日付のグラビア版にのった写真や記事の誤りを指摘したもので、「歴史的真実は尊重されなければならない、とおもう。気ままに創作することは、どんなものでもよい結果を生まない」と抗議した。
一九六三年
1月 母親セルナ夫人がキューバに来訪。
1・17 セルナ夫人と共にグアンタナモのやすり工場へ。
1・21 モアとニカロの工場を視察。
1・28 ハバナのホテル・リブレで開かれた一九六二年度優秀生産技術者の表彰式で演説。
2・2 工業省講堂で優秀技術者を表彰。「われわれの仕事にはふたつの顔がある。ひとつは純粋に英雄的なそれと、日々の労働の中にある犠牲的なそれとである」と語る。
2・11 シロ・レドンド・センターで砂糖キビ開墾者のために開かれた集会で、青少年の技術教育の必要性をくりかえし強調する。
この月の四日から、カマグエイにあるシロ・レドンド・センターの砂糖キビ地帯で、新しく開発された自動キビ刈り機を操作して労働する。性能を個人的に調査するために、一日に連続十二時間も働いた。その期間で八万一千九百アローバの成績。これは熟練農夫の約十倍に相当する。
2・25 ポーランドで造船された「カミーロ・シエンフエゴス」号の引渡式がハバナ港で行なわれ、カミーロの両親と共に参列。
3・25 アグリアナボ繊維工場の集会で演説。
4・2 バラコアの新式ココア処理工場の開業式に出席。ラウル・カストロ、カリスト・ガルシアも列席。
4・10 ニケロのニッケル統合公社の特別管理会議に出席。
5・5 メーデーに招待された外国人代表二百人と工業省講堂で会見。招待者の質問に答えた。
5・9 チェコ解放十八周年式典に出席。
5・19 ブラジルのフットボールのチーム「マドゥレイラ」の試合を観戦。
7・1 アルジェリア独立一周年記念式典にキューバ政府代表として参列するために出発。
7・2 プラハに到着、シロキ首相と会談。
7・3 ルジニエ空港からパリ経由でアルジェリアに向けて出発。
7・8 アルジェリア大統領と会談。
7・9 カビリア地方を視察。
7・10 オラン、コンスタンチノなどの視察を続ける。
7・16 アルジェで開かれた計画化セミナーでキューバの経験を講演する。
7・23 アルジェリア革命が当面している勝利と障害は、キューバ革命のそれと同じである旨を記者会見で表明。
8・1 モンカダ兵営襲撃十周年記念式に参加した中国代表のレセプションに出席。
訪問中のアメリカ合衆国の学生五十八名と会見し、武装闘争の方式の質問に答えて、「解放戦争は全体の自覚の触媒を形造るのだ。いかなる国においても、後進的な階級があるが、それは収奪された大衆であり、工業労働者ではない。農業労働者であり、貧農であり、ラテン・アメリカにおける田畑の奴隷である。それこそが革命の大きな酵素である」と語る。
8・17 ラス・ビリアス地区の諸工場を視察。
8・19 四日間にわたった同地区での自発的労働奉仕を終える。
8・25 ウルグアイ独立百三十八周年記念レセプションに出席。
同日、輸出用タバコ工場で自発的労働奉仕を開始し、二千五百箱を包装。「社会的な自覚が労働奉仕では重要なのだ」と話す。
9・2 びん詰工場で自発的労働。
9・3 北ベトナム解放十八周年記念レセプションに出席。
9・9 オスワルド・サンチェス部隊の労働奉仕に参加。
9・29 国際建築家集会に出席して講演。
10・1 中国成立十四周年レセプションに出席。
10・8 カマグエイに到着し、台風フローラによる被害を調査する。この台風はキューバ史上最大のものだったといわれている。
10・10 調査を続行。
11・8 アルジェリア独立戦争記念前夜祭に出席。
11・24 電力資源討論集会に出席し、「われわれは国の電化という大きな仕事をかかえている……」と指摘する。
12・17 技術労働者三百九十八名の講習会の終了に際して講演。
12・20 南ベトナム人民との連帯週間の集会で、「戦いの終りが帝国主義の終りになるだろう」と演説。
12・26 テレビを通じて、国民に労働ノルマと給与について説明する。
一九六四年
1・2 革命の勝利五周年を祝う、革命広場での大集会に出席。
1・4 ソ連代表とマリエル電力所を視察。
1・6 中国大使を見送る。
1・8 五周年に招待された南ベトナム民族解放戦線の催した夕食会に出席。
1・13 二百四十時間の超過労働をした工業省職員に対する表彰式で演説。
1・16 ソ連との技術援助協定に調印。
2・21 アウグスト・セサール・サンディノ農園をドルチコス大統領と共に訪れる。
2・24 マリエルのオルランド・ノダルセ・センターで砂糖キビ刈り労働。
2・26 テレビを通じて「われわれはたえず研究しなければならない。技術の革命を進めて行かなければならない」と強調する。
3・16 前年度の優秀労働者に対する表彰式で演説。
3・18 二十三日から開かれる国連の貿易開発会議にキューバ代表団長としてジュネーブへ向けて出発。
3・20 ジュネーブ着。
3・26 総会で演説。
4・1 各国の新聞記者八十人と会見。
4・3 ジュネーブ会議での演説がキューバで放送される。
4・4 ジュネーブにおいて、後進諸国は印象を改めさせるために、新聞人集会を行なうべきだ、と指摘する。
4・13 ジュネーブを出発。
4・15 ベンベラ大統領の招きに応じてアルジェに到着。
4・18 ハバナに帰着。
5・9 工業省の革命青年セミナーの閉会式で講演。
6・27 工業省の砂糖キビ刈り優秀成績者を集めて感謝集会。
7・13 ベトナムの英雄的戦士ディン・ヌーを迎える。
7・24 サンタクララにおける工業省の家庭用品工場開所式で演説。
8・10 サンタマリア野球場でカストロ首相らと野球。
8・12 メキシコの新聞記者団と会見。アルジェリア代表団を出迎える。中国との経済協力協定に調印。
8・17 カストロ首相らと野球大会。
9・22 サン・ホセにおける労働奉仕行事に参加。
10・3 ギニア代理公使主催の独立記念式典のレセプションに参加。
10・23 ニコ・ロペス製糖工場における民兵の寄付集会に出席。
10・28 カミーロ・シエンフエゴスの追悼集会でその想い出を語る。
11・4 革命四十七周年式典にキューバ代表としてモスクワヘ向けて出発。
11・5 モスクワ到着。
11・19 帰国の途につく。
12・1 十一月三十日のサンチャゴ・デ・クーバの蜂起記念式で講演。
12・9 国連総会にキューバ首席代表として出席するためニューヨークへ向けて出発。
12・10 ケネディ空港に到着。
12・11 国連総会で演説。
12・14 ソ連のグロムイコ外相と会談。
12・17 ニューヨークからアルジェリアへ出発。
12・18 アルジェ空港に到着。
12・22 アルジェリア戦争で孤児となったものを収容した孤児院を訪問。
12・23 アルジェで演説。
12・26 アルジェリアからマリへ出発。
12・28 モディド・ケイタ大統領と会談。
一九六五年
1・2 マリを出発してコンゴ(ブラザビル)へ向かう。マリでの記者会見では「アメリカ合衆国の干渉に対する革命の戦いは、西半球の大陸の多くの人をとらえるだろう」と語る。
1・5 デバト大統領と会談。
1・8 ギニアの首都コナクリ着。
1・16 ガーナに到着。
1・18 エンクルマ大統領と会談。反帝反植民地闘争について合意に達し「反帝闘争のためにアフリカ、ラテン・アメリカ、アジアの社会主義国家は団結しなければならない」と表明する。
1・22 エンクルマ・イデオロギー研究所で講演。ダホメの首都ポルト・ノボへ向けて出発。
1・25 アクラ経由でアルジェに到着。
1・28 「国連を救うためには新しい手段が必要である。国連を救わねばならない。しかし、世界の人民の大多数の利益に奉仕するという新しい規準の下で救わるべきである」とアルジェにおいて語る。
2・19 タンザニアからフランスを経由して、カイロに到着。
2・25 アルジェで開かれた第二回アジア・アフリカセミナーで演説。
3・3 カイロに再び戻る。
3・12 オスマニ・シエンフエゴス大尉(カミーロの兄弟)と共に帰国の途に着く。
3・15 ハバナ着。
4・20 カストロ首相、カマグエイの砂糖キビ畑で外国人記者団の質問に答えて、一カ月以上も公式の席に姿をみせないチェ・ゲバラ少佐について語る。「ゲバラ少佐について今いえる唯一のことは、どこにいようとも、革命にとって有用な人物だということだ。かれとわたしとの関係はこの上なくうまくいっている。われわれが知りあった時代と同じように、だ。多面性をもった人物。深い理解力の持主。完全な指導者のひとりだ」
5月 母親セルナ夫人がガンのためにブエノスアイレスで死去。
10・3 キューバ共産党発足にさいし、カストロ首相によって、四月一日付の「別れの手紙」が読みあげられる。
一九六六年
2月 コンゴでの義勇軍のキャンプからイルディタあてに手紙を書く。
4月ごろハバナに帰る。
11・4 プラハを経て、ブラジルからボリビアに入国。
11・7 ニャンカウアスの宿営地に到着し日記を書きはじめる。
12・31 ボリビア共産党第一書記マリオ・モンヘと会談。
一九六七年
1・1 モンヘとの会談決裂。
2・1 前線キャンプへ向けて移動を開始する。
3・20 ターニア、ドブレらキャンプで合流。
3・23 政府軍との最初の戦闘で勝利をおさめる。
4・10 二度目の交戦。
4・19 ドブレを送る。
4・20 ドブレ、政府軍につかまる。
4・25 遭遇戦。
5・8 政府軍と交戦。
6・26 政府軍の待ち伏せ攻撃にあう。
7・6 スマイパタ町を占領。
7・27 政府軍と交戦。
7・30 政府軍と遭遇戦。
8・31 ホアキンの別働隊全滅。
9・3 交戦。
9・26 政府軍の待ち伏せ攻撃をうけ、ココ・ペレドを失う。
10・8 イゲラ村で政府軍と交戦。重傷を負ってとらえられる。
10・9 戦死。
10・15 カストロ首相、戦死を確認。
一九六八年
7・2 カストロ首相の序文を付してボリビア日記がキューバ国立出版社から発行される。
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CHE, UNA VIDA Y UN EJEMPLO Jes Soto Acosta, Instituto del Liblo, La Havana, 1968.
CHE Instituto del Liblo, La Havana, 1969.
ERNESTO CHE GUEVARA OBRAS 1957-1967 Casa de las Americas, Cuba, 1970.
チェ自身の文章や演説はすべて右の三冊に収められている。日本でも以下のようにその大半が翻訳出版されており参照した。
「革命の回想」真木嘉徳訳、筑摩書房、67
「革命戦争の旅」神代修訳、青木書店、67
「ゲリラ戦争」五十間忠行訳、三一書房、67
「国境を超える革命」世界革命運動情報部訳、レボルト社、68
「ゲバラ日記」真木嘉徳訳、三一書房、68
「ゲバラ日記」仲晃・丹羽光男訳、みすず書房、68
「ゲバラの日記」栗原人雄・中川文雄訳、太平出版社、68
「ゲバラ日記」高橋正訳、角川文庫、69
「ゲバラ選集1〜4」選集刊行会訳、青木書店、68〜69
英訳本
CHE GUEVARA SPEAKS edited by George Lavan, Merit Publishers, 1967.
REMINISCENCES OF THE CUBAN REVOLUTIONARY WAR translated by Victoria Ortiz, Penguin Books, 1969.
VENCEREMOS! edited by John Gerassi, Panther edition, 1969.
THE DIARY OF CHE GUEVARA edited by Robert Scheer, Bantam, 1969.
MI AMIGO EL CHE Ricardo Rojo, Editorial Jorge Alvarez, Buenos Aires, 1968.
FIDEL CASTRO Instituto del Liblo, La Havana, 1968.
HISTORY OF AN AGGRESSION by Ediciones VENCEREMOS Havana, 1964. (English Edition)
CASTRO'S CUBA, CUBA'S FIDEL by Lee Lockwood, Macmillan, N. Y. 1967.
IN THE FIST OF THE REVOLUTION by Jose Yglesias, Penguin Books, 1970.
CASTRO Herbert L. Matthews, Pelican Books, 1971.
POLITICAL LEADERS OF LATIN AMERICA Richard Bourne, Pelican Books, 1970.
「中南米」山本進、岩波書店、60
「キューバ革命を見た」浅岡光正、河出書房新社、61
「キューバの声」ライト・ミルズ、鶴見俊輔訳、みすず書房、61
「キューバ革命への道」アルマンド・ヒメネス、逢坂八郎訳、三一書房、61
「火薬庫キューバ」イーブ・ギルベール、井上勇訳、時事通信社
「キューバ」L・ヒューバーマン、P・M・スウィージー、池上幹徳訳、岩波書店(補遺版も含む)、60
「キューバの祭り」アニア・フランコ、大久保和郎訳、筑摩書房、63
「キューバ現代史」ブラス・ロカ、西田勝・伊藤成彦訳、三一書房、63
「カストロの入城」マリ・エレーヌ・カミュ、真木嘉徳訳、徳間書店、65
「キューバ革命」アドルフォ・ヒーリー、富岡倍雄訳、みすず書房、66
「カストロのモンカダ襲撃」ロベール・メルル、真木嘉徳訳、現代世界ノンフィクション全集23、筑摩書房、67
「キューバ」ロバート・シーア、モーリス・ツァイトリン、真木嘉徳訳、現代評論社、68
「わが友ゲバラ」リカルド・ローホ、伊東守男訳、早川書房、68
「ゲバラの魂」ゲバラ、カストロ、ドブレ、ゴット、ボスケ、メルル他、諏訪優編、天声出版、68
「ゲバラ・革命と死」横堀洋一編、講談社、68
「ゲバラを追って」ジャン・ラルテギー、岩瀬孝・根本長兵衛訳、冬樹社、68
「炎の女性たち」山本満喜子、読売新聞社、69
「回想のゲバラ」大林文彦編訳、太平出版社、69
「フィデル・カストロ」エンリケ・メネセス、福島正光訳、角川書店、69
「キューバの社会主義」上・下、L・ヒューバーマン、P・M・スウィージー、柴田徳衛訳、岩波書店、69
「CIA」フレッド・クック、山口房雄訳、みすず書房、61
「スパイ帝国」A・タリー、大前正臣訳、弘文堂、63
「見えない政府」D・ワイズ、T・ロス、田村浩訳、弘文堂、64
「諜報の技術」アレン・ダレス、鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会、65
「ケネディの道」シオドア・C・ソレンセン、大前正臣訳、弘文堂、66
「ケネディ」アーサー・M・シュレジンガー、中屋健一訳、河出書房、66
「革命の中の革命」レジス・ドブレ、谷口侑訳、晶文社、67
「ケネディ外交」ロジャー・ヒルズマン、浅野輔訳、サイマル出版会、68
「世界を震撼させた十三日間」ロバート・ケネディ、毎日新聞外信部訳、毎日新聞社、68
「革命と裁判」レジス・ドブレ、谷口侑訳、晶文社、69
「ハバナの審問」H・M・エンツェンスベルガー、野村修訳、晶文社、71
「銃なき革命チリの道」レジス・ドブレ、代久二訳、風媒社、73
「ラテン・アメリカ史」ピエール・ショーニュ、大島正訳、白水社、55
「世界の裏街道を行く」大宅壮一、文藝春秋新社、56
「ラテン・アメリカ史」中屋健一、中央公論社、64
「南アメリカ」NHK取材班、日本放送出版協会、64
「キューバ紀行」堀田善衛、岩波書店、66
「アンデス諸国の経済発展」大原義範編、アジア経済研究所、65
「ラテン・アメリカの統計」北川豊編、アジア経済研究所、65
「秘境アンデスの四季」菅泰子、潮文社、66
「メキシコ革命」増田義郎、中央公論社、68
「ラテン・アメリカ」高野悠、日本放送出版協会、68
「ゲリラ戦士の日記」桑原克規訳、晶文社、69
「武装ゲリラ」マリオ・メネンデス・ロドリゲス、片桐康平・栗原人雄訳、三一書房、69
「都市ゲリラ教程」カルロス・マリゲーラ、日本キューバ文化交流研究所編訳、三一書房、70
THE POSITION OF CUBAN SUGAR IN THE UNITED STATES Republic of Cuba, Ministry of Foreign Affairs, La Havana, 1960.
DESARROLLO DEL COMERCIO EXLERIOR EN CUBA Republica de Cuba, Ministerio de Relaciones Exteriores Direccion, de Informacion, La Havana, 1963.
REVOLUCION(新聞), Havana, 1959, 6〜
JAPAN TIMES Tokyo, July, 1959.
GRAMMA WEEKLY REVIEW Havana, Oct. 17, 24, 1967.
PRECENCIA(新聞), Bolivia
BOHEMIA(雑誌), Cuba
JUVENTUD REBELDE(雑誌), Octubre 16, 1967, Cuba
「特集キューバ」・「太陽」一九六五年二月号
「チェ・ゲバラの死」M・ボスケ、谷口侑訳、「世界」一九六八年一月号
「わが友に告ぐ」R・ドブレ、谷口侑訳、同
「ゲバラの死とCIA」R・ゴット、真木嘉徳訳、「展望」一九六八年二月号
「革命児ゲバラの二人妻」フランコ・ピエリーノ、清水三郎治訳、「潮」一九六八年九月号
「ゲリラ戦教程」アルベルト・バヨ、「世界革命運動情報16」一九六九年二月
「ゲバラと共に散った日系人」・「サンデー毎日」一九六九年二月二日号
「ゲバラ日記の分析――米州機構の報告書」一九六九年九月、ラテン・アメリカ協会訳、発行
「キューバ=一つの経済発展」・「エコノミスト」一九七一年七月六日、一三日、二〇日号
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[#地付き]三 好 徹
チェ・ゲバラが異国の空の下で最期の時を迎えてから四年たつが、「チェ」の存在はその肉体の消滅を超えている。しかし、かれの統一的な伝記はキューバにおいてさえも書かれていない。おもはゆい気持を抑えていえば、文藝春秋誌昭和四十五年五月号から十三回にわたって連載した「わがゲバラ伝」が、不十分ながら世界で最初のものであろうと信じている。本書は連載中に気づかなかったミスを正し、さらにその後入手した資料によって約百枚補筆した。本文中引用のチェをはじめとする文章は、とくにことわりのない限り筆者訳である。執筆にあたり、資料その他について実弟ロベルト・ゲバラ氏およびキューバ政府官房長官セリア・サンチェス女史ら、取材について日本キューバ文化交流研究所長山本満喜子女史、写真についてグランマ紙、談話提供について文中引用の各氏から協力を得た。さらに文藝春秋編集部の全面的な援助がなければ、本書は成らなかったであろう。またペルー、ボリビア、アルゼンチン、メキシコ、キューバ各国の取材旅行にさいしてじつに多くの方に便宜をはかっていただいた。以上、記して謝意に代えたい。
一九七一年九月
[#改ページ]
[#地付き]三 好 徹
チェ・ゲバラの伝記は、死後七年たつというのに、キューバ本国においても、いまだに公刊されていない。資料蒐集中とかで、筆者のところへも写真その他の協力を求めてきたことがあったが、完成したとは聞いていない。本書の原版の刊行後、一九七二年にモスクワの「若き親衛隊」出版社から「非凡なる人間の生涯」シリーズの一巻として「エルネスト・チェ・ゲバラ」(I・ラヴレッキイ著)が刊行されている。いわゆる青少年むけの図書で、内容は少年時代からその死までをたどったものである。したがって、本書とラヴレッキイの本とが目下のところ、チェの足跡を伝える作品ということになる。
本文中にもふれたように、チェはひじょうな文章家であったが、チェ自身は何よりもまず実行を重んじた。その意味でチェの足跡をたどることがその思想を正しく理解する道に通じているといってよい。
じっさい、チェの思想と生き方とが、世界の人びとに|巨《おお》きな影響をあたえたことは疑いない。筆者は、一九七四年にパレスチナを訪れたが、その地においても、情熱をこめてチェの生涯を語る青年たちに出会った。また、誘拐された新聞王ハーストの女相続人パトリシアがタニアを名乗ってゲリラに変身した事件にも、その影響を認めることができる。しかし、ゲリラという言葉は、日本においては、とかく誤解を招きやすい。真のゲリラとは何かを理解するためにも、チェの生涯を正しくたどる必要があるだろう。本書がその一助になりうるなら、筆者の喜びは至上である。
なお、原版を出版したのちに入手しえた資料によって、本書では可能なかぎり補筆することを心がけたが、登場人物のその後の運命の変転については、あえて筆を加えなかった。
一九七四年七月
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単行本
昭和四十六年十月十日 文藝春秋刊
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文春ウェブ文庫版
チェ・ゲバラ伝
二〇〇一年二月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 三好 徹
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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