琥珀の技 三船十段物語
〈底 本〉文春文庫 平成二年一月十日刊
(C) Kyouzou Miyoshi 2000
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目  次
不敗の十段
久慈の腕白
喧 嘩 柔 道
他 流 試 合
講 道 館
技 倆 抜 群
訃  報
日本一の声価
負 け じ 魂
空 気 投 げ
エピソード
琥 珀 の 技
山下泰裕選手と……
あ と が き
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|琥珀《こはく》の|技《わざ》 三船十段物語

1 不敗の十段
昭和四十年一月二十四日、わたしは分校中学年の午後の授業を終えて職員室にもどった。|踵《きびす》を接するようにして高学年担任の紺野も職員室に入った。岩手県|胆沢《いさわ》郡衣川小学校大森分校は、もともとは教師二人きりの学校で、わたしと妻の京子だけが、常直といわれる泊まりこみのかたちで勤務していたのだが、その年は一年生が九人と、三複式の学校にしては異例なほどに児童数が多かったので、特別に教師が一人増員され、若い助教諭の紺野が派遣されていたのである。紺野は学校から五百メートルほど離れた|庄屋《しようや》の菅原という家に下宿していた。
二人が職員室に入ると、それまで事務をとっていた低学年担任の京子が、
「三船十段、いけないんじゃないかしら」
とわたしたちを待ちかねていたように言った。
「重態の記事が新聞にのっているの」
「どれ」
わたしはストーブのまわりにめぐらした鉄製の台の上から新聞をとりあげ、目を走らせた。背後からは背の高い紺野がのぞきこんでいる。山の分校には、新聞は午後に郵便配達夫が持って来るのである。見出しには、
三船十段病む/念頭を離れぬ柔道/“寒げいこよりつらい入院”
とあった。記事はつぎのとおりである。
柔道の三船久蔵十段が重い病気とたたかっている。昨年十二月初めから、咽喉腫瘍(いんこうしゆよう)で東京・お茶の水の日大付属病院に入院中だが、最近、肺炎を併発した。
八十二歳とはいえ、強気な十段である。付添いの夫人に「まだまだ死なないよ。おまえもがんばれ」と、はげましているそうだ。
三船さんは、さる二十年五月、講道館で四人目の十段になった。いま、十段は三船さんだけ。講道館では今後、九段を最高にする、と内規をあらためたので、三船さんは最後の十段である。
だが、段位は他人がつけるもの、実力は自分がつけるもの、というのが三船さんの信念だ。「ワシは実力十段だ」とよくいう。オリンピックで、ヘーシンク選手に日本柔道が完敗したとき「三船十段がヘーシンクとやれば……」と思った、若き日の十段の強さを知る柔道ファンは少なくなかった。十段の強さはそれほどに伝説化しつつあるともいえる。
……中略……勝負が好きである。直弟子の話によると、二千回は試合している、という。そして、十段は「試合で投げられたこと、負けたことは一度もない」といっている。神永昭夫五段は「私たちには神さまみたいな人です。夢みたいにデッカイ理論をおっしゃるので、凡人にはついていけないくらいです。ところが、よく考えるとそれが実に科学的、合理的な考えに立っている」という。
……中略……健康そのものの十段は、これまで病院とはおよそ縁がなかった。いま病床で、「入院は寒げいこよりもつらい」と、十段としては、まったく珍しく“グチ”をこぼしている。だが十段が、病床でもらす言葉は、ほとんど柔道に関することばかりという。気分のいいときには「|精進《しようじん》」「無」といった好きな言葉をメモしたりしている。
重病でも、けいこは欠かせない、との思いが頭を去らないらしい。うつつな意識で柔道着にそでを通すような仕ぐさをしているそうだ。(「朝日新聞」・昭和四〇年一月二四日)
三船十段重態の記事は前にも出ていたのかも知れないが、わたしは妻と共に二日前に長旅から帰ったばかりであった。九州の福岡でひらかれた日教組教研全国集会の|僻地《へきち》教育分科会に出席してきたのである。
「あぶないんだな。だからこういう記事になっている」
ところどころを書き直したら、そのまま死亡記事となってしまいそうな内容である。
三船十段は岩手県|久慈《くじ》市の出身であった。妻も周辺部ながら、三船十段と同じ久慈市の出身である。
「回復はごむりかしら」
妻はいかにも心細そうである。
「ううん、ちょっとね」
わたしではなくて、若い紺野の方がこたえた。職員室のまん前に丘がそそりたっている。そこに雪が降りつのっていた。
三船十段の姿を見たのは、数年前、彼の郷里での柔道大会においてであった。当時わたしは久慈の近くの種市町|宿戸《しゆくのへ》小学校というところにつとめており、秋の日曜日に開かれたその大会を見物に行った。参加チームはそう多くはなかったが、三船十段杯争奪北東奥羽地区柔道大会と銘うたれ、岩手県チームのほかに、青森県からも|八戸《はちのへ》、三沢の両チームが出場していて、けっこう見ごたえのある大会であった。わたしの郷里である岩手県南部からは水沢チームが参加し、その中には末弟の久吾も選手として加えられていた。
前年に落成した三船記念館は、大会をひらくには手ぜまなので、久慈小学校の講堂が会場にあてられた。三船十段はしばらく|来賓席《らいひんせき》で観戦していたが、団体の準決勝から審判に立った。七十六歳である。小柄ではあったが|眉《まゆ》が太く、眼光|炯々《けいけい》として威厳があった。背筋を伸ばして選手を合わせる身のこなしには若ささえ感じられる。
準決勝の一方の試合は地元久慈チームと久吾のいる水沢チームであった。久吾は中堅である。相手の中堅は細川という長身の選手であった。|噂《うわさ》では大将よりも強いといわれている。地元だから観衆のほとんどは久慈チームに声援していたが、わたしは久吾に勝たせたかった。順番がきて出て行くとき、
「寝技に気をつけろ」
と注意した。わたしは柔道はやらないが、スポーツの観戦は好きであった。久慈、八戸と、海辺の選手たちが寝技が得意であることは知っている。
三船十段の合図で久吾と細川は組み合った。久吾は初段で身長一六五センチ、細川は二段で一八〇センチ、どうも勝味はなさそうに思われる。しかし久吾のいいとこは|臆病《おくびよう》に腰を引いていないことであった。投げられるのがこわさに、自護体というよりは|屁《へ》っぴり腰で逃げ一方の選手がいるものである。久吾は細川のふところに顔をうずめるようにしながら、それでもいさぎよく腰はしゃんと伸ばし、しきりに踏みこんでは得意の跳ね腰をかけた。細川はそのたびに腰をそらせたり、跳んだりして防いでいる。
しばらく試合場をまわっていた二人は、やがてもつれて倒れた。
――寝技にひきこまれる――
心配したとおりの展開であった。久吾は逃れようとするが、細川は放さない。たちまち上にのしかかって|絞《し》めの態勢に入った。場外は近い。
「逃げろ、あと一尺で場外だ」
わたしはこらえ切れずに叫んだ。まわりの者たちは、地元教師のくせに遠来の水沢チームを声援するわたしに眉をひそめていたが、頓着してはいられなかった。
「よし、その調子だ。あと一息」
久吾が丸くなって体をよじり、細川の絞めがはずれた。しかし馬乗りになり、こんどは上四方固めの|恰好《かつこう》になる。もみ合っているうちにふたたび絞めが決まりそうになり、わたしは気が気ではなかった。久慈側には、
「押さえこみ」
と叫んで審判を挑発する者がある。しかし三船十段はだまって鋭い眼で二人を注視していた。
時間切れの鐘が鳴った。とうとう久吾は立てずじまいであった。負けた、と思った。おそらく誰の目から見ても久吾の劣勢は明らかだ。しかし三船十段は、向かいあった二人が服装をととのえ終わると、
「引き分け」
と宣した。観衆が不満のどよめきをあげた。水沢チームの監督で、高校時代から久吾の柔道を指導してきた菊池一也という菓子舗の主人は、帰って来る久吾を|鷹揚《おうよう》に拍手で迎え入れながら、
「さすが三船先生です」
とわたしに言った。
「相手は久吾君の跳ね腰で、何度も浮いていあんした。そこを見逃しませんでしたな」
なるほど専門家の目は違うものだとわたしは感心した。
その試合は水沢チームが勝ち、決勝では相対した八戸チームの|執拗《しつよう》な寝技に抗しかねて水沢が敗れた。しかし、わたしは、|炯眼《けいがん》によって久吾を負けとしなかった三船十段に、信頼と親愛を感じ始めていた。
試合が終わると、会場を校庭にうつして十段の模範演技が行われた。洋服を柔道着に着がえた十段は、さらに小柄で軽量に見えた。身長は一五九センチだという。ならば五尺二寸五分たらずである。これで日本一の柔道家になれたのかと、信じられない気がした。
三船十段は弟子らしい柔道家と向かい合うと、両手を横にあげた。そして、たがいに前に進み始めた。しずしずと、荘重な歩きかたである。そして、すれ違ったかと思われるころ、弟子の方がふいに倒れて受け身をとった。三船十段が何も技を仕かけたわけではない。
二人は何度かこれをくりかえした。|絢爛《けんらん》たる技を期待していたわたしはいたく失望した。どうも枯淡に過ぎる。
解説者はこれを|五《いつつ》の型と説明した。講道館の創始者である嘉納治五郎が編み出したものだという。受けは久保正太郎三段で、三船記念館の初代指導主任である。国学院大学を卒業したばかりの、十段の|愛《まな》弟子ということであった。
五の型を見ているうちに、わたしはあることに気づいた。三船十段の体型に見覚えがある。それはごく身近かな人間のものであった。小柄には違いない。しかし日本人的な胴長短足とはまったく違う。ちょっと猫背で腰高なのだ。横にひろげた腕も身長のわりに長く見える。つまり|四肢《しし》の長い西洋人の体型である。
身近かなはずであった。妻の弟の茂の体つきそっくりなのだ。東京の国学院大学三年生だから、久保三段の後輩にあたる。彼もスポーツマンである。足が速い。やはり小柄だが、|細足《こまあし》でなく、大きなストライドで走る。負けず嫌いで力も強く、腕|相撲《ずもう》をすると一丁半でもわたしは負ける。一丁半というのは、強い方が相手の手首をにぎるやりかたである。支点からの長さと角度の関係で大きなハンディキャップとなるのだ。
茂は久慈高校時代はバレーボールの選手となり、県大会に出場したりしていたが、大学に入ってからは小説や詩を書いているようすである。
華麗さの全くない五の型には拍子抜けしたが、三船十段の体型が妻の弟そっくりであるのを発見したことで、わたしは十段への親近感をさらに強めた。
水沢チームは、予算のつごうで宿泊ができず、十段の模範演技をみなまで見ずに早い汽車で帰らなければならなかった。それでも北東奥羽レベルの大会で、水沢が準優勝をしたのははじめてのことなそうで、菊池監督はじめ選手一同は意気があがっていた。一行を久慈駅まで送り、わたしは三船十段を小説にすることを考えていた。ちょうどその年、それまでどこへ応募しても入選することのなかったわたしは、地元の新開社の発行する「北の文学」という公募文芸詩に作品がとりあげられ、いっぱし地方作家となった気持でいたのだった。
「それで……」
若い助教諭の紺野は、目の前でみるみる雪の肌を厚くして行く丘を見ながらきいた。
「先生は三船十段の小説を書いたんですか」
「ああ、未完だけれどもね。調べてみると、けっこう敵もある」
「それは日本一ですから。反感を抱く人だっているでしょう」
「負けず嫌いでね。大宅壮一との対談など、はじめはまあまあだったが、おしまいは|喧嘩《けんか》わかれみたいになっている」
「その資料ありますか」
「中へ入りましょう」
わたしは紺野をうながして隣の宿直室へ入った。七畳半という妙な間取りの部屋が二つあって、そこがわたしたち夫婦の住居となっている。妻の京子も宿直室にうつったが、ふとかげりのある顔になっていた。
わたしは押入れから資料|綴《つづ》りを取り出し、|炬燵《こたつ》で紺野の前にひろげて見せた。大宅壮一との対談は昭和二十八年七月十七日の「産業経済新聞」夕刊である。
「へえ、ふとっていたんですね」
紺野は写真を見ておどろいた。|開襟《かいきん》シャツを着、両手をひろげて笑みをうかべながら話している三船十段の写真は、たしかに|小肥《こぶと》りとさえ見えた。
「若かったんだね」
昭和二十八年なら、三船十段七十歳である。対談シリーズのタイトルは「失礼御免」というのであった。
私(註・大宅壮一) それじゃ、将来柔道がオリンピック種目に加えられて、外国人を相手にしても大丈夫なわけですね。
三船 五年や十年で日本人に追いつけるものでありません。といって馬鹿にはなりませんが。
私 失礼ですがあなたはその年でまだ相当やるんですか。
これをきいたとたんに彼は、怖ろしい形相になり、私を睨みつけるようにしていった。
三船 私のところへくるなら一度講道館へ足を運んでからにして下さい。過去の自慢をするのは、現実の悲哀を物語るにすぎないのです。
それから彼は、目下執筆中の「術と道」と題する大著述についてエンエンと語りだした。口の方のワザも確かに十段の腕前はあると感心して、早々に退散した。帰る途すがら、講談に出てくる柳生但馬守なども、こういう人物ではなかったかと思った。
この文章の見出しが、
口も十段、早々に退散/柳生但馬守もこんな人か
である。
「大宅さんもずいぶん気分をこわしたんですね」
「一方、三船さんも、まだやれるのか、という調子できかれて腹がたったのでしょう。何しろ、一生不敗だったとか、ほとんど負けたことがないとか、一回しか負けなかったとか言っている人だから」
「どれがほんとうなんですか」
「試合とは限らないが、当然、何度も負けている。第一、柔道で投げられずに強くなるということがありますか」
「先生の小説を見せてください」
「不出来だが……」
わたしは資料と一緒にしまいこんでいた古い小説を炬燵台の上にのせた。妻がもう一度表情を微妙にかげらせて二人にお茶をいれた。実はこの小説を書きだして間もなく、弟の茂が自殺さわぎをおこしたのであった。
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2 久慈の腕白
三船久蔵は明治十六年(一八八三)旧一月七日(新暦二月十五日)、七草がゆの朝に生まれた。米問屋をしていた父久之丞は五十一歳、母アサは四十二歳である。七人きょうだいの末っ子であった。アサは子を産みなれていてさほどの陣痛もなく、|枕元《まくらもと》においたおまるに用をたしているときに生み落としてしまった。大さわぎとなった。もちろん湯は沸いてない。しかしいつまでも汚物の中に|浸《つ》けて置くわけにもゆかず、厳寒の中、つるべの水を汲んで|産湯《うぶゆ》にした。体重六百|匁《もんめ》(二・二五キロ)の小さな赤ん坊である。それが乱暴な扱われかたをしたものだから、首尾よく命がもつかどうか、みなあやぶんだ。その上、アサは高齢出産のためか乳が出ず、もらい乳である。しかしなんとか生きのびたので、陽気もよくなった新暦四月二十一日、晴れて久慈の役場に出生届を出した。久蔵の年齢はこの戸籍に従って数えられている。
父親の久之丞は小柄であったが腕力が強く、子ども二、三人なら指で軽々持ち上げられるほどである。この久之丞が孫のような末っ子の久蔵をたいへんかわいがった。何しろ長男の平吉が文久三年(一八六三)生まれで、すでに二十歳である。久蔵は久之丞にとって眼に入れても痛くないほどかわいい、孫のような三男坊であった。
久之丞のいとなむ米問屋は、久慈町に一軒だけであった。従って暮し向きは裕福な方である。その中で久蔵は久之丞、アサ、二人の兄、四人の姉にいつくしまれてすくすくと育った。
久慈は|空《から》っ|風《かぜ》で有名なところである。西の北上高地から冷たい風が吹きおろして来る。その風にあおられ、藩政時代から何度大火に見舞われたか知れない。そのたびに住民たちは家を建て直し、街をつくり直して来た。住民の気性は開発的で忍耐づよい。
久之丞はその上明朗|闊達《かつたつ》であった。久蔵のところに遊びに来る子どもたちの相手になり、よく遊んでやっていた。海にも頻繁に連れて行った。久慈の海は|磯浜《いそはま》が多い。岩にしぶく波を見ながら、
「お前たちァ、金をもうけろ」
と教えた。
「金をもうけれねえ人間は一人前ではねえ」
米商人らしい教えと言ってよかった。
波のおだやかな内海ではみずからも素っぱだかになって泳ぎまわった。深くもぐりこんでウニやアワビもとって来る。
「お|父様《どつちやま》、おらもとる|方法《よう》を教えろ」
と子どもたちがせがむと、
「よしよし、教えるせえで、こっち|来《こ》う」
と招き寄せる。子どもたちが近くへ寄り、立ち泳ぎで見ていると、
「いいか、離れねえで、よく|覗《まが》ってみるんだぞ。ここでぽんととびあがってな……」
体を浮かせ、鼻をおさえて頭からもぐりこむ。体が逆転し、|尻《しり》がぴょこんと浮かび出る。子どもたちが一斉にその褐色の尻をのぞきこむと、はげしい音響がとどろき、噴水がとび散るのだ。
「わあ、お|父様《どつちやま》」
と子どもたちは閉口して逃げまわる。久之丞にはそのような茶目っ気もあった。
久蔵は久慈の小学校にあがるとたちまち首席になった。とびぬけて成績がいい。
「おらに似て久蔵はかしこいのせ」
と久之丞は満悦である。もっとも兄姉もみな成績がよく、長兄の平吉は税務署員、次兄の平作は教員になっていた。
小学校三年生のころに、久之丞は久蔵に将棋を教えた。のみこみのよい久蔵はたちまち父親に追いつくほどに腕をあげた。何しろ久之丞は、
「人におめおめ負けるものではねえ。どんなことをしてでもいい、勝つようにしろ」
と口ぐせに言っている。そうでなくとも甘やかされて育った末っ子の久蔵は負けん気が強かった。負かされるたびに|口惜《くや》し涙を流し、「もう一番」「もう一番」と勝負をいどむ。
|技倆《ぎりよう》が伯仲となってから、久之丞は妙なことをするようになった。戦いの最中に、
「久蔵、お前小便が出ったくねえか」
ときくのである。
「出ってえ」
「ならば行って|来《こ》う」
それで久蔵は|厠《かわや》へ行って来る。またあるときは、
「お菓子食いたくねえか」
と持ちかける。
「食いてえ」
「だったら行って持って|来《こ》う」
しかし久蔵は、父親が自分のいない間に大事な駒を動かしてしまっているのに、ほどなく気がついた。旗色が悪いときに限って、
「小便が出ったくねえか」
「お菓子食いたくねえか」
と言うのである。それで、
「お|父《ど》っちゃ、この駒動かしたべえ」
ともとへもどすと久之丞は血相を変える。
「|何《な》しておらがそったなずるいことをするって。この駒はもともとここにあったのだべえ」
駒音高く自分に有利なとこへ待って行く。いくら抗議しても聞き入れるものではない。やがて久蔵は相手がそうならこっちもそうするまでだと、
「お|父《ど》っちゃ、煙草|喫《す》いたくねえか」
などと座を立たせる算段をするようになった。
もっとも久之丞にしてもそんな手にやすやす乗りはしない。すると久蔵は、
「お客さんでねえか」
とか、
「店で音がしたぞ。きっとありゃ泥棒だ」
などと真顔で言う。泥棒に入られてはたまらないから、久之丞も思わず腰をあげると、久蔵はすばやく駒を動かして何食わぬ顔で待っている。
久之丞は神や仏に手を合わせぬ日がないほど信心深い男であったが、久蔵との接しかたがこういうふうであったから、久蔵はたちまち天衣無縫の腕白者となっていった。仲間五、六人を従えて方々喧嘩をしてまわる、りんごを盗む、猫を殺す。わるさが見つかって追われると|韋駄天《いだてん》となった。何しろ小柄なのに脚が長い。|大股《おおまた》で走ってたちまち追手を引き離した。
久蔵は犬が好きで、描を毛嫌いした。それでつねづね学校の小使いの飼っている猫のクロには目をつけていた。この小使いが意地悪で、腕白者の久蔵をいつも目の|敵《かたき》にしている。
ある日の放課後、小使いが不在となった。久蔵は仲間たちと語らい、小使い室の猫をとらえると裏山へ持って行って殺した。そこまではいつものわるさである。しかしこんどの場合は念が入っていた。猫をばらして肉にすると、いつもやりなれている野外炊事の要領で焼いた。猫であることをカムフラージュするために牛のあぶらをしみこませた。猫の焼肉である。それを皿に盛って、夕刻、小使い室に持って行った。用事から帰って来た小使いは、自分の黒描がいなくなったことに気がつかない。久蔵は、
「牛をもらったから焼いて持って来た」
とさし出した。小使いは|胡散《うさん》くさそうに、
「ほんとうに牛か」
ときいた。
「ほんとうに牛だ。炭屋のお|父《ど》っちゃからもらった」
「だったらごちそうになるべえか」
小使いは肉をつまみ、口に入れた。
「なあ、うまかべえ」
「うん、うまい。これはうまい」
小使いはつぎつぎに肉をほおばった。食べ終わったとこで久蔵は言った。
「その牛は、殺されるとき、ニャーオとないたぞ」
「何」
小使いが色をなした。
「この|碌《ろく》でなし餓鬼」
小使いは|忿怒《ふんぬ》の|形相《ぎようそう》になって久蔵になぐりかかうとしたが、たちまちのどもとをおさえてかがみこんだ。そしてげえげえ吐いた。吐きながら、
「クロだったのか、おめえ。何て|哀《もぞ》いことをした」
と泣いた。と見る間に出刃包丁をふりあげて向かって来た。おどろいて久蔵は裏山へとんだ。
父親の久之丞ももて余すようになったが、いくら|叱《しか》っても久蔵の腕白は直るものではない。もともと久之丞がそのように野放図な子に育てたのである。久蔵がやさしくなるのは自分の家の飼犬に接するときだけであった。その犬にしても、何匹もつないで|橇《そり》を引かせ、犬橇にして町中をねり歩く。犬橇に|倦《あ》きるとこんどは近所の馬車屋の|馬橇《ばそり》を持ち出して近くの山へ出かけ、それで橇乗りをした。馬橇は重くて子どもが遊ぶには危険この上ない乗り物だが、久蔵は自分が一番先頭に乗り、長い脚で|舵《かじ》をとった。こわいもの知らずである。しかしこの馬橇だけは一度でやめてしまった。坂をくだり始めたばかりのときはよかったが、しだいにスピードを増すと舵をとることもブレーキをかけることもできない。そのまま|驀進《ばくしん》して曲がり角のとこで|山裾《やますそ》にぶつかり、久蔵は仲間ともども空中高く放り出されて雪に埋まった。怪我をする者が出なかったのがふしぎなくらいである。
いたずらをしないときは、|駈《か》けっこや相撲に興じていた。相撲も小さいときから久之丞に教わっていたから技を知っている。加えて力が抜群に強かった。久蔵の家の|菩提寺《ぼだいじ》は町の北西にある長福寺であるが、そこの境内に力石と呼ばれる石がある。力士でさえ持ち上げられないような大きな石だが、久蔵はこれを級友の前で差し上げたという話が今に残っているほどである。当然、小学校で久蔵にかなう者はいない。久蔵の負けん気と慢心は強まるばかりである。
小学校高等科に進んだ秋、久蔵は大がかりないたずらを思いついた。当時、久慈町の西方、|大川目《おおかわめ》村から|小久慈《こくじ》村にかけての山から、クンノコという|飴色《あめいろ》の鉱物が掘り出されていた。それは大昔の|松脂《まつやに》が固まってできたものと言われ、もとは住民が勝手に掘っては、それを燃して|蚊《か》いぶしに使ったものである。
それが久蔵が小学生になったころからは、大川目村の物持ちの田中という旧家が事業として掘り出すことになり、一般の者が勝手に掘って使うことができなくなった。田中は|大尽《だいじん》であるため、大田中と呼ばれていたが、さすが大田中らしく、外国人まで呼び寄せて採掘についての指導を受けたりしていた。
住民としては甚だ不満なことである。山菜やきのこのように、自由に山に出入りして採っていたクンノコが採れなくなった。地主は大田中には違いないが、そこに生えるものや埋まっているものは、見つけた者にこそ所有権があるはずである。
「大田中はきたねえ」
と非難する大人がでてきた。
「早く大田中が失敗して、クンノコ会社なんぞつぶれればいい」
と、|不遜《ふそん》なねがいを持つ者もあった。
もっともクンノコは大田中の山にだけあるものではなかった。久慈地区は赤松の多い地域だから、周辺の山のそちこちからクンノコは産出される。しかしそれはごく少なくて、開墾などの折に偶然見つかるという程度のものであり、どこの家にも、子どもの手のひらぐらいのものが置いてあって、夏場に蚊いぶしに使っているとはいうものの、それは昔、大田中の山から掘って来て、保存しておいたものが大部分である。大人の不満はいつの間にか子どもにも伝わって行った。
久蔵は、このクンノコを掘ることにした。ある日曜日、いつもの仲間をさそい、きのこ採りの仕度で大川目村まで歩いた。背負った|籠《かご》の中には、先がくぎ抜きになっている|金槌《かなづち》やろうそく、マッチなどが入れてある。道々、久蔵は、
「採るとなったら、いっぱい採るべえ」
と言った。
「この籠にいっぱい採って、売ったらもうかる」
仲間たちも同調した。
クンノコの山はすぐにわかった。山裾に小屋が建てられ、その入口に、「南部琥珀採掘事務所」という看板がさげられている。クンノコをコハクともいうらしいことは久蔵も聞き知っており、琥珀がその文字であることは見当がついた。
事務所には|錠《じよう》がおろされており、誰もいなかった。事務所からすぐの小山のふもとには|櫓《やぐら》のようなものが組まれて横穴が掘られている。入口には「立入禁止」の立札があった。
「だいじょうぶだべえな」
仲間の一人が心細げに言ったが、
「だいじょうぶせ。漁師や百姓と違って、会社っつうのは、日曜日は稼がねえもんだ」
と久蔵は頓着しなかった。
先に立ってずんずん歩いて行くと、横穴はたちまち暗くなった。久蔵はマッチをすり、ろうそくに火をともした。
「こりゃ、見ろ」
と久蔵は岩の壁面を照らした。
「こう、横に|縞《しま》になっているのがわかるべえ。これが地層っつうのだ」
「ほんとうだ、地層だ」
そのことばは学校でならっていた。
「この地層にクンノコはあるのだ。ぼこぼこと穴があいているべえ」
「うん。こいつはクンノコを掘ったあとだ」
「だから、この地層だけ見て行けばいい。そうだ、この地層はケツガン層とか何とか言ったっけえ」
「だったら土の|尻《けつ》だべえ」
他愛のないことを言いながら、久蔵たちは手に手にろうそくをかかげて奥へ進んだ。
「ある。見つけたぞ」
最初に見つけたのが久蔵であった。|頁岩《けつがん》層の中央部のところに、こぶのようなものが突き出ている。それを金槌でこじり落とすと、大人のこぶし大の飴色のクンノコだった。
「こいつは大きい」
「それに、重くて堅いな」
仲間たちはかわるがわる持って見た。
「わかった」
と久蔵は大きな獲物を見ながら目を光らせた。
「奥の方にあるのは堅くて重いから、外国人も買いに来る。しかし、この辺の人たちが拾うのは、空気にさらされた軽くて柔らかいものだから、蚊いぶしにしかならねえのだ」
「そうだ、そうだ」
「久蔵はやっぱり頭がいい」
仲間たちは持ち上げたが、この頭のいい久蔵も、腕白がたたり、小学校中学年のころからは通信簿の点がめっきり悪くなっている。それでも優等賞のごほうびのほしい久蔵は、三つ違いのイシという姉の通信簿を見せて久之丞をごまかし、ごほうびをせしめたことが何度かあった。もっともそのイシももう高等科を卒業している。
奥の方に行けば行くほどいいクンノコがあるとわかった久蔵たちは、|鵜《う》の|目《め》|鷹《たか》の|目《め》で壁面をさがした。久蔵の見つけたものはクンノコとしては特大だったようで、そのあと見つかるのはよくて南京豆大、大部分は大豆か小豆粒のように小さかった。しかし丹念に丹念に採取を続けた。久蔵の考えとしては、この横穴はクンノコをすでに掘ったあとであり、穴の行き止まりに|辿《たど》りつけば、そこにはクンノコの露鉱が宮殿のように輝いているはずであった。
しだいに体が冷えてきた。見つかるクンノコも数を増している。そろそろ行き止まりも近い。一足とびにそこまで行きたい誘惑をこらえながら金槌をふるっていると、耳元で、
「どろぼう」
とどなられた。腰がぬけるほどおどろいたが、反射的に久蔵は入口に向かって駈け出した。仲間たちも続いた。夢中で駈けた。
「どこの|童《わらし》ぁ|達《どう》だ、この畜生」
後ろで叫んでいるのはどうやら年のいった大人である。県会議員もつとめたことのあるという大田中の当主かも知れなかった。しかし坑道の低いのが幸いした。小柄な久蔵たちは思うさま駈けぬけられるが、大人はかがみこんででなければ通れない。
首尾よく穴から出てこんどは一目散に久慈の町なかを目ざした。途中でふりかえると追いかけて来る気配はない。安心して獲物を見せあいながら町まで帰った。
ところが町の中心部のあたりまで来たとき、仲間の一人が奇妙な悲鳴をあげた。
「な、何をする。苦しい」
見ると屈強な若者に抱きあげられ、首を絞められている。どうやら大田中は会社の若者を呼んで久蔵たちを|尾《つ》けさせたものらしい。
「そいつは大将でねえ、おれだ」
久蔵は若者の向こう|脛《ずね》を|蹴《け》って逃げた。
「|痛《いて》え、この餓鬼」
若者は仲間を放して久蔵を追った。逃げるのだったら慣れている。まっすぐに逃げるふりをして銀行の角を左にまがった。たたらを踏み、若者は体勢をたて直して追う。追いながら、
「おさえて|呉《け》ろ、その|童《わらし》ぁ泥棒だ」
と叫ぶ。町の人たちにとっては見慣れた風景であった。
「くされ三船の|叔父《おんじ》が」
と眉をひそめる者もあれば、
「また、運動会か」
と苦笑する者もある。|叔父《おんじ》というのは久慈地方でいう二、三男のことで、長男は|兄様《えなさま》である。
「その碌でなしをおさえて|呉《け》ろ」
若者は叫びながら追い続けた。久蔵は中の橋にさしかかった。久慈町の中央を久慈川が流れている。上流は久慈渓流という|断崖《だんがい》のそそり立つ景勝になっている。町なかには上の橋、中の橋、下の橋と三つの橋がかかっていた。その中の橋を一散に駈けた。
「そいつをおさえて|呉《け》ろ」
後ろでは若者が変わらず叫んでいる。すると前方で、
「おう、久蔵だな」
とこたえる者があった。見ると学校の小使いである。進退きわまった。後ろからは大田中の差し向けた若者が血相変えて追って来る。前からはうらみに燃える小使いである。
「ほうりゃ、久蔵、どこ逃げる」
小使いは気味のわるい笑顔になって近づいて来た。もはや袋のねずみである。
「この畜生」
追いついた若者がつかみかかったとたん、久蔵は背負っていた籠を若者に投げつけ、自分は|欄干《らんかん》にとびあがった。
「あぶねえ、久蔵」
小使いがびっくりして抱きとる間もなく、久蔵は川面を目ざしてとんだ。つかまっていたぶられるより、とびおりて怪我をした方がましだと判断したのだ。
若者や小使いはじめ、多くの顔が中の橋の欄干からのぞいた。波しぶきをあげた久蔵はそのまま川中に没してしばらく姿を見せなかった。
二、三十メートル、自分でも泳いだのか流されたのかわからない。浅瀬に行きつき、重い着物を引きずるようにして久蔵は立ちあがった。
「生きている、あの餓鬼ァ」
と|溜息《ためいき》まじりに言った者がある。橋を見上げ、久蔵は叫んだ。
「つかまえてえか。おらをつかまえたかったら、|奴達《うなあどう》もそこからとびおりて|来《こ》う」
|濡《ぬ》れた|袂《たもと》には、最初に見つけた特大のクンノコだけはしっかりと入っていた。
「おもしろいですね」
と紺野はお世辞をいったが、活劇的な筋だてに自信がなく、わたしは本気にできなかった。
「しかし、もし先生がこういう子どもを受け持ったら、ただでは置かないでしょう」
「そうだね」
その年出席した全国教研で、わたしは僻地教育で目ざす人間像を、
「政策的、経済的差別を克服し、ゆたかで明るい郷土をつくりあげるたくましい人間」
と設定して発表していた。ちょっといかめしいがわたしとしては本気である。子どもたちも集団教育の中で日に日に成長していた。みなねばりづよく|純朴《じゆんぼく》で働き者である。わたしは短気で生徒をなぐることもある教師であったが、大森分校に赴任してからは生徒をなぐったことは一度もなかった。しかし、久蔵のような子がいたら、それこそただでは置かなかったであろう。
「でも、おかしいですね」
紺野は首をひねった。
「腕白でぬすみをやったり、飼猫を殺したりするような子どもが柔道日本一になるわけでしょう。結果だけを考えれば、かえって腕白に育てた方がいいということになる」
「石川木も腕白で、こっちはむしろ甘ったれだった。夜中に母親を起こしてまんじゅうをこしらえさせたりしたそうだ。それが日本一の代用教員を目ざし、ついには天下の詩人となった。これも結果だけを考えたら、甘ったれを育てた方がいいということになる。しかし教育はやはり社会に対する適応を考えるからね。学級集団を破壊するような分子は許しておけない。だからわたしたちは学級集団づくりをすすめながら、社会に容認される行動と反社会的行動とのちがいをわからせ、その中で個性も育てて行こうとする」
「そうですね」
|相槌《あいづち》をうちはしたが、しかし紺野は納得した表情ではない。
「そして、実は三船十段とか石川木とか、何かで日本一になるような人間というのは、根本のところで他からの影響、つまり教育を拒絶するようなはげしい狂気のようなものを持っているのではないかと思う……」
言いながら、わたしは別のことを考え始めていた。義弟の茂のことである。彼は三船十段が久慈の柔道大会に出席した一か月ほど後に、試験休みとかで東京から久慈へ帰って来たが、ある日ふっと家を出て自殺したのであった。
自殺の原因は恋愛か進路への不安かはっきりしないでしまったが、茂の神経はひどく繊細にすぎた。体つきは似ているが、三船十段とは大違いである。
三船十段の小説は、できれば地元紙の懸賞連載小説に応募しようと思っていた。わたしの生硬な教育論を聞いていた紺野は、先が気になるらしく、やがて原稿に目を落として続きを読み始めた。
「酒にするか」
とわたしは妻に言った。そろそろ外は暗くなり始めている。紺野の帰りをひきとめ、晩酌を共にすることはよくあった。うなずいて妻は立ち上がった。沈んだ表情なのは、やはり弟のことを思い出しているのである。わたしも紺野の読んだあとの原稿に目を走らせた。
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3 喧 嘩 柔 道
馬の鈴が鳴る。久蔵は体じゅうがこわばっていた。馬の背の片側にさげられた籠に入ってうずくまっている。もう一方の側の籠には衣類や書物が入れられていた。馬にまたがっているのは鼻の下にひげをたくわえた、いかめしい顔の次兄の平作である。この恰好で二日間揺られている。倦きあきしていた。しかし、このたびの旅行は久蔵の希望から出ている。
――中学に入りたい――
そう思ったのは、この夏、小学校時代の友人の中野清隆の|凜々《りり》しい制服姿を見たからであった。中野は尋常小学校六年から|親戚《しんせき》をたよって函館中学に進んでいた。すでに四年生になっている。白い|覆《おお》いのついた学帽をかぶり、霜降りの服を着た中野は実に|颯爽《さつそう》として見えた。
――小学校も低学年のころは、おれだってあいつよりは成績がよかった――
と思った。父の久之丞に申し出ると、存外簡単に許してくれた。
「遅い牛も速い馬も、いつかは同じところへ行きつく」
久之丞にしても三男坊の久蔵はいずれ進学させるつもりであった。頭も悪くないし、できれば医者にでもしたいと思っている。しかし乱暴がおさまらなければ中学に入れても首尾よく卒業できるかどうか心もとない。それでようすを見ていたというところがある。高等小学校卒業後、郡役所の給仕をさせたが、何度も郡長にさからい、わずか十五日でやめてしまった。このようなことではいったい将来どうなることかと案じていた矢先であったから、久蔵の進学希望は、動機はどうあれ、久之丞にとっては|嬉《うれ》しいことだったのである。
久慈に中学はない。岩手県では県都に盛岡中学があるだけであった。しかし南端の町の一関町に、翌年、中学が誕生することになっていた。その一関町には二十ちがいの長男の平吉が税務署の課長としてつとめていた。その世話になりながら翌年の開校を待つ。ことし、教成館という予備校に入っていれば、来年、二年生が受けられるという便法もあったので、そうすることに決めたのだった。
――南の町へ行って、中学生になる――
久蔵は晴れがましい気がした。岩手は、北部よりも北上川下流の南部の方がひらけていると思われている。その県南部で新しい生活が始まる。旅程の退屈さと馬の籠の窮屈さぐらいはがまんしなければならなかった。
残暑の九月である。しかし行程はずっと山道であった。前夜は|軽米《かるまい》という村にとついだ姉のところに泊まっている。青々とした高原の雑木林の中に、|白樺《しらかば》が|冴《さ》えた木肌を見せていた。目的地は福岡という町である。東北本線の北福岡駅がある。そこから汽車に乗れば、五時間ほどで一関だ。
町に近づいてから、平作は、
「久蔵」
と呼びかけた。
「一関行ったら、はァ喧嘩はするな」
「うん……」
とはこたえたが、それは自信がない。平作は久蔵とは十五歳ちがう。すでに小学校の校長である。だから久蔵の素行はことさら気になる。
「中学は知識を身につけ、徳をみがくところだ。今までのような腕白では通らないぞ」
「はい」
「親父も年だ。はァ、これ以上気をもませてはならねえ」
「わかっておりあんす」
小学校に入ってからは、父親からかわいがられもしたが|折檻《せつかん》もよく受けた。しかしふっと久之丞の弱気を|垣間《かいま》見たのは、クンノコ泥棒をしたときである。久之丞は、
「人様のものに手を出すということがあるか」
と言ってしばし絶句したのであった。ふだんであれば、ただひたすらに|打擲《ちようちやく》される。しかしこのとき、久之丞は叱りながら涙を流した。
叱られている間に、久蔵は南部琥珀の会社が倒産しそうになっていることを聞かされた。事務所や坑道に|人気《ひとけ》がなかったのは、日曜だからではない。経営が困難で閉鎖直前となっていたからであった。あのとき大田中の|旦那《だんな》は、坑道の奥で資産をかたむけてしまったことをひとりなげいていたのだ。そこへ泥棒が現われた。
「商売物をぬすまれたら、商人は何と思う」
しばし涙をこらえたのちに久之丞はいい、久蔵をなぐった。なぐられながら、いつもの父親ではないと久蔵は思っていた。それほど大田中にとってクンノコは大事なのかと|怪訝《けげん》な気もした。兄平作からみれば、久之丞が泣いたのは年のせいである。あれは二年前のできごとだが、今は六十五歳だ。
「りっぱな人になれ」
「はい」
「医者はどうだ」
「なってもいい」
「いいか、中学は知識を身につけ、徳をみがくところだぞ」
平作はくりかえした。
「|長兄《えな》にもあまり迷惑をかけるな。それから一関は医者や学者の多く出るところだ。医者では|建部清庵《たてべせいあん》、学者では大槻|玄沢《げんたく》や大槻文彦(「|言海《ことばのうみ》」編者)が有名だ。久慈にいたときみたいに、遊んでばかりいたんではみんなにばかにされるぞ」
「おら、中学を出るまで家には帰らねえ」
兄の話を聞いているうちに、久蔵は|昂揚《こうよう》した気分になった。
「一関の中学も、優等になって卒業するすけ」
「よし、いい覚悟だ」
威厳に満ちた平作は、このときはじめて笑顔を見せた。
会話の間も、馬の足取りに合わせて鈴は鳴った。|狼《おおかみ》よけの鈴である。明治三十年、岩手にはすでに狼は見られなくなっていたが、鈴は|熊《くま》よけにも効果があった。
平作から喧嘩をするなと言われたのに、久蔵は教成館に入学早々に大立ちまわりをやってしまった。下校間際に校門のところで、
「|在郷太郎《ざいごうたろう》(田舎者)」
とののしられたのだ。
翌年の開校を目ざし、中学二年になるために予備校教成館に入学している者は、県下各地から集まってはいたが、やはり圧倒的に県南部出身者、わけて一関生まれが多かった。そして、その者たちは、久蔵とはずいぶんちがった方言を用いた。一関はむかし伊達藩に属していたから仙台弁に近く、久慈は八戸南部藩であったから盛岡弁に近い。ことばだけで久蔵は他国者と知れた。
在郷太郎とあざけられてだまっている久蔵ではない。
「|奴達《うなあどう》は、在郷太郎でねえな」
と言い返した。一関だって久慈に毛が生えたていどの小さな町にすぎない。
「何この、やるっつうのか、この在郷太郎」
「おお、やるべえよ、何ぼうでも」
言うより早くこぶしがとんでいる。一人はふいをうたれてよろけた。仲間たちが色めきたった。
「生意気な野郎だな、こいつ」
みな腕まくりをした。|白絣《しろがすり》の着物に黒の|袴《はかま》をつけている。久蔵は紺絣に黒の袴であった。
「束になってかかって|来《こ》う」
久蔵は見得を切った。
「やれ、やれ」
十人ほどの生徒が気勢をあげた。久蔵も久しぶりに血がさわいだ。息をつめると「そうりゃ」とおそいかかった。手当たりしだいに殴りつける。一関の悪童たちは機先を制され、浮足だった。そこを俊敏にとびまわってこぶしをふるう。小さいころから喧嘩は真剣勝負と思っていた。鼻血を出させても、腕一本ぐらいへし折ってもいいと思う。どんなことがあっても負けたくない。大人から追いかけられてつかまりそうになれば、足もとにばったりころんでやりすごし、逆方向に逃げる。進退きわまれば橋からだってとびおりる。
そういう|気魄《きはく》の久蔵に対し、悪童たちは勢をたのんでいた。その上、田舎者をいたぶってやれという軽い気持に発していた。一対十の数は問題にはならない。片端から鼻柱をなぐられたり、眼をつかれたり、急所を蹴られたりして泣き声をあげた。
一番先にからんで来た背の大きい少年とは組打ちになった。相撲だってお手のものであった。加えて、おれはお前たちより年をくっているのだ、という気持がある。ちょっともみ合うと深く腰を入れて投げとばした。悲鳴をあげて仰向けになった少年の上に馬乗りになり、久蔵はいくつもげんこつを見舞った。相手は鼻や口から血を流し、それでも下で手足をばたばたさせて抵抗している。久蔵はさらに狂暴になった。もはや仲間たちはかかって来ない。
「タィシェ!」
唇から気合が|洩《も》れ、久蔵は袂から取り出したもので相手の額をうった。たちまち顔面が血で濡れる。
「もう一発か」
久蔵は腕をふりあげた。にぎられているのは久之丞から涙ながらに叱られても隠しとおしたクンノコである。
「まいった」
相手は泣き出した。目はすでに恐怖でうつろである。
「殺さねえで|呉《け》ろ」
力を抜いて久蔵が立ち上がる前に、
「それぐらいにしなさい」
と声があった。久蔵に入学を許した教成館の館長である。|七宮孚盛《しちのみやさねもり》といった。一関尋常高等小学校の校長で教成館は兼務である。
「喧嘩に得物を持つのは物騒だ」
館長は久蔵から血のついたクンノコを取りあげた。
「………」
久蔵はかしこまったが、自分が叱られるいわれはないと思っていた。悪いのはこちらをばかにした悪童共である。
「これはわしがあずかっておきます」
返せ、と叫びかかったが声が出ない。長いひげをたくわえた七宮館長には、どこやら重々しい威厳があった。
県南がひらけていると言っても、住んでいる人間は県北と大差ないことがわかった。県北からひとりでやって来た久蔵を目のかたきにするなど、むしろ一関の人間の方が卑小な感じがする。久慈の人間は、海辺に住んでいるせいか、さわやかで大らかであった。
小柄なのに、久蔵は、まわりの者たちを、いつでもかかって来いという、鋭い眼で|睥睨《へいげい》して暮した。かかって来る者はない。何しろはじめに一番強い人間が悲鳴をあげるまでやられている。
年が明け、明治三十一年となった。ところが兄平吉は、とつぜん、仙台税務署に転勤を命じられたのである。
「お前は一関に残れ」
と平吉は久蔵に言った。
「仕送りはしてやるから」
「いやだ」
と久蔵はべそをかいた。喧嘩は誰とやっても負けない。しかし異郷にひとり残されるのはいかにも心細かった。その辺はやはり末っ子である。
「おら、|兄《あん》ちゃついて行く」
「わらしみたいなことを|喋《さべ》るんじゃねえ。お前だって、ハァ十六だ。女だったら、もう嫁ごになっている」
実際、高等科を出るとすぐ結婚した同級の女たちが何人もいた。
「それになあ久蔵。お前みてえなきかん坊にも、友達ができたっつうでねえか、それと別れて仙台行って、また喧嘩して、あらためて友達をつくるとなると、手間ァかかるぞ」
「友達なんぞいらねえ。喧嘩はもうしねえ」
「あてになるか。それよりもっと大事なのは、お前は教成館に入っているから、この春は二年生になれるということだ。仙台行くとなればあらためて一年生だ。何年遅れることになるって」
それは言われなくともわかっていた。函館中学に行っているもと同級の中野は今四年生だから四月には五年生になる。久蔵が新設の一関中学(正しくは一関尋常中学校)に入れば二年生で三年おくれ、仙台で新規まきなおしとなれば一年生で無慮四年のおくれとなる。
「なあ、一関残れ。一関中学だったら編入試験は大丈夫だって、先生方も言っている。仙台だったらお前、落ちるかも知れねえぞ」
「落ちねえ」
と久蔵は目をむいた。
「|兄《あん》ちゃ、落ちるか落ちねえか、一つ受けてみるか」
平吉の説得は逆効果だった。
「それにな、|兄《あん》ちゃ。お|父《ど》っちゃは、遅い牛乗るも速い馬 乗るも、行く先は同じだと言っておらを一関よこしたのだぞ」
「それはまあ、長い目で見ればそうだ」
「三年や四年ぐれえ遅れたって何でもねえ。第一、学校だけ先に出ても、偉くならなかったらどうだ。あとから出ても出世する方が偉いやつだべえ」
「お前、仙台行けば偉くなるか」
「なるさ、そりゃあ、|兄《あん》ちゃ」
久蔵は肩をいからした。
「お|父《ど》っちゃの望みどおり、医者になる勉強もするか」
「する」
即座にこたえたが、平吉にはそれは意地を張っているだけで、ほんとうの覚悟でないことがわかる。しかし、
「医者の勉強にうちこむのなら話は別だ」
と折れた。
久蔵の利発さは平吉も認めている。それはみがけばみがくほど光りを増すに違いない。しかし努力のしかたがもう一歩なのだ。だから医者になれるかなれないか、その辺のところは兄もあやぶんでいる。平吉も、希望としては医者になってもらいたいのだ。何しろ久蔵は三男である。平吉自身は、久之丞が老いたならば久慈にもどって米問屋をつぐつもりであるが、久蔵は家を出なければならない。
「遊びや喧嘩のための中学ではない」
思いをこめて平吉はさとした。
「いいか、ひとりだちするための中学だぞ。本気で勉強するつもりなら連れて行くべえ」
「ありがとう、|兄《あん》ちゃ。誰にも負けないくらいがんばるすけ。飯炊きも洗濯も掃除もおらがやるすけ」
三月、久蔵は兄の転任に同行した。
このことが久蔵の生涯を決定づけることになった。仙台は宮城県の県庁所在地であるだけではなく、東北の都として東京と直結していたからである。
いつ敵があらわれ、自分を襲わないでもない、という気がいつもしていた。幼時から喧嘩に明け暮れていたせいもある。襲われてもしようのないわるさを絶えずやっていた。一関の教成館時代は、面と向かってかかって来る者はいなくなっていたが、|物蔭《ものかげ》や暗がりから石を投げつけられることがあった。そう簡単に当たりはしないが、|闇討《やみう》ちには腹がたつ。もちろん、そのようなことをする連中は、久蔵がいかに俊敏であろうとも、追いかける以前にすでに姿を消している。ひどいときは兄平吉の下宿に石が投げこまれた。
一寸一刻も油断がならなかった。それが目にあらわれる。大きな鋭い目であった。それに警戒心が加わる。闘争心はもともとはげしかった。久蔵の目は、警戒心と闘争心とできびしくなる一方である。
久蔵は五人に一人の難関を突破して仙台の中学校に入学したが、そこは本校と分校とにわかれており、のちに本校は一中、分校は二中となった。久蔵は分校にふり向けられたから二中生である。
約束どおり、久蔵は兄が女中をやとおうとするのをことわり、炊事、洗濯、掃除、すべてを引き受けた。夜はおそくなってから勉強をする。平吉から見ると信じられないような|変貌《へんぼう》である。
しかし久蔵とすれば特に変わったわけではない。約束を破れば、一関かあるいは久慈に帰されるかも知れないという気持がある。やはり二十ちがいの兄はこわかった。だから言明したことを実行しているだけのことである。
学校に出ると闘争心がうずく。孤立感もある。ほとんどの生徒が仙台弁で久蔵一人が久慈弁なのだ。仙台弁は一関弁をさらにしつこくした感じの|訛《なま》りがある。聞きづらい。しかし仙台の人間にとっては久慈弁の方が聞きづらいに違いないのだ。一関でそうだったように、仙台の者たちも自分を田舎者と心の底ではあなどっているに違いない。さて、いつあからさまな|悪罵《あくば》が来るか、不意討ちの攻撃が来るか。
学校で、久蔵はますます目つきを悪くした。家ではおさんどんをやっている|鬱屈《うつくつ》もある。一関のときよりは|陰《いん》にこもった顔になった。
たしかに周囲の者たちは久蔵を胡散くさげに見た。しかしいたぶろうとはしない。むしろ気味がわるいと思っているようすがある。何しろ久蔵は喧嘩のことばかり考えている。体内から|兇暴《きようぼう》なものを発散させている。
仙台二中の者たちが、一関教成館の者たちよりも利口だったのかも知れない。いや、都会性というものか。一目で田舎者と知れる危険な目つきの久蔵に対しては、さわらぬ神にたたりなしで通した。
かくて一年間、久蔵は学校でも家に帰ってからも暴力|沙汰《ざた》はおこさなかった。しかしまったくおだやかに過ごしたというのではなかった。兄に対しては秘密で、子分を二人つくっている。
一人は佐沼という町から来ている村田明であった。クラス一背が小さく、|縦縞《たてじま》の着物を着ていつもおどおどしている。|瞼《まぶた》が少したれさがり気味で、これでよく二中に入れたものだと思うほど愚鈍な惑じがした。もう一人は一関に近い若柳という町から来た古崎隆吾で、大柄でふとってはいたが見るからに気が弱そうであった。
しかし、家に帰ったときだけは子分を持ったふうは毛程も見せない。ひたすらおさんどんに徹し、勤勉な中学生をよそおう。
久蔵は存外親の望むとおり、医者にもなれるかも知れないと兄の平吉が思いはじめたころ、またぞろ転任の辞令であった。福島県の税務署長ということである。栄転ではあるが平吉は考えこんだ。
――そう転任、転任と追いまくられて上司の言いなりになるのはもうごめんだ――
特にこのたびは仙台税務署一年だけの勤務である。去年はこの転任のために弟の久蔵がみすみす一年の損を覚悟で仙台二中を受験し直した。
――どうせのちのちは久慈の米屋になる身だ――
栄転の辞令を返上し、平吉は福島とは逆方向の岩手に新しい職を求めた。一関から東にちょっと入った町の醸造屋である。
久蔵は、こんどは兄のあとを追わなかった。宿を引き払い、私立中学の校長をしている大松沢という学者の私塾に移り住むことになった。兄と別れるのは心細かったが、いざ別れてみると奇妙な解放感がある。おさんどん役がなくなった。炊事洗濯など、兄の世話を焼く必要のない塾の生活はたいへんにのんびりしている。
久蔵はたちまち羽根をのばし始めた。
――勉強だってそうかしこまってやることはないせ――
放課後、町をうろつくようになった。一年生のときは全くできなかったことである。
青葉城の城跡の桜がほころびるころ、仲間の村田が第二高等学校に行ってみないか、とさそった。二高は仙台の市街の北の方にある。
「二高では柔道がさかんで、行くとその|稽古《けいこ》が見られるそうだ」
「よし、行くべえ」
一年生のころは、久蔵も級友がたまに二高の柔道をのぞきに行っていることを知り、機会があったなら行ってみたいと思っていたのである。
二中から二高まで、道のりは二、三キロであった。道すがら、話には聞いているが柔道家とはどのように強いものであろうと想像した。自分など、さわったらたちまちとばされてしまうほどであろうか。小男が大の男を手玉にとるとも言われる。
二高の道場では、すでに一中生、二中生をはじめ、一般の者たちも格子に首を突っこむようにして見物していた。久蔵も伸び上がって中を見た。柔道着をつけ、乱舞している若者たちの群像が目に入った。白い|刺子《さしこ》の|袖《そで》の短い柔道着である。下には|膝下《ひざした》二十センチほどの|短袴《たんこ》をはいていた。
「とおうっ」
「でえっしょ」
「おりゃあ」
かみつくような掛け声が道場内に満ちている。そのたびに二高生たちは宙にとんだり、畳に腹ばったりした。
「こいつはおもしれえ」
久蔵は格子にしがみつき、大きい目を輝かせて見入った。久蔵の喧嘩など物の数ではない。大きい者、小さい者が入り乱れ、汗の玉を飛ばしながら組み合っている。その数十組は瞬時もとどまることを知らない。僚友の足元で寝技に入り、組んづほぐれつ|揉《も》み合っている者もある。久蔵は血がさわいだ。自分も中に駈けこんで思うさま戦ってみたい。まさに闘志の乱舞だ。
長い取っ組み合いの稽古が終わると、師範と見える中年の男性が説明を始め、技の指導にうつった。特に強そうな生徒を呼び、実際に投げて見せる。生徒は師範の腰の上で回転させられると小気味よい音をたてて足元に落ちた。師範は生徒たちを見渡して言う。
「いいか。これが腰車だ。相手の体を自分の|右脇《みぎわき》に強く引きこむのが要点だ」
久蔵も思わずうなずきながら聞き入っている。
――そうか。腰車という投げ方があるんだな。|体《たい》を落としながら相手の前にかがみこむ――
今までの喧嘩は|遮二無二《しやにむに》つっかかっただけである。|膂力《りよりよく》はあった。手脚も長い。相撲の技も少しは覚えていた。それで負けたことはなかった。しかし、もし柔道を知っている人間と当たっていたらどうなったか。久蔵は身ぶるいを覚えた。
生徒たちは腰車の練習に入った。それぞれの相手と組み、|後襟《うしろえり》をとって腰をひねる。師範がやったように、きれいに投げとばす者もあれば、充分に技がきかずにもつれながら二人とも倒れたりする組もあった。
「おもしれえな」
久蔵は何度も言ってはそばの村田と古崎を見、相槌を求めた。
「これからは相撲ではねえ、柔道をやることにするべえ」
「うん、そうするべえ」
二人とも久蔵の執心にひきこまれるようにこたえた。
最初の日は腰車と|巴投《ともえな》げを覚えた。帰り道、草原でやってみるとけっこう技はかかる。動作がのろいと思っていた古崎でさえ、久蔵を投げることができた。一五〇センチそこそこの村田が一七〇センチの古崎を腰の上で一回転させることもできる。
二日目からはもう学校の授業の終わるのが待ち遠しい。放課となるや否や学校を出て二高まで走り通した。二日目に覚えたのは背負い投げと一本背負いである。その翌日は|体落《たいお》とし。これらの技も、草原で実際にやってみると通用した。
「おら、柔道着を買う」
東一番丁の店に並べているのを見たことがある。洋服と縞の着物との取っ組み合いは、よし技が決まりはしてもいちじるしく不便であった。すでに何か所もすりきれたり、草の汁がにじんだりしている。
柔道着をつけるとたいへん身軽になり、技の切れもよくなるのがわかった。こうなると昼休み時間もじっとしておれない。久蔵と共に柔道着を買った村田、古崎を伴い、講堂の板の間でやる。受け身は見よう見まねで練習しているとはいえ、それは本格的ではないから講堂で投げられるとこたえる。しかし三人とももはや柔道熱にうかされていた。自分は今柔道着をつけ、柔道をやっているのだという意識だけで興奮している。
講堂での柔道の稽古にはたちまち見物人が集まった。二高の道場見物に通っている者は自分も柔道着を|揃《そろ》えて加わった。中学生の柔道熱は高まる一方である。しかし二中に柔道部はなかった。それを創設し、校長に頼みこんで柔道場をつくってもらった。剣道部はすでに創設されており、もちろん道場もある。校長にしても、大学や専門学校にひろまっている柔道熱を無視できないと思っていたのであろう。二高の柔道は、東京の一高と頻繁に対抗試合をやって対等の成績をあげていた。
新しくつくってもらった道場は、生徒控室に畳を敷いただけのせまい粗末なものである。しかしこんどは思うさまいきおいをつけて受け身を練習することもできたし、組み合って加減せずに相手を投げることもできた。
最初の柔道部員は二十人ほどである。中心は久蔵と村田、古崎であった。二高で見たことをそのまま教える。あとで、二高の師範が千葉という四段であるのがわかった。久蔵は千葉四段のような技の説明役となる。しかし乱取りとなると、久蔵の技は一変した。理屈どおりに行かないと無理矢理ねじ伏せようとする。相手が投げに来ると、腰にしがみついたり、足を取ったりした。意地でもただではころばない。相手が気をのまれて態勢をもどすとすかさず踏みこんで突きころばす。柔よく剛を制する技でも何でもなかった。喧嘩柔道、負けず嫌いの柔道である。相手はおそれをなし、ついには久蔵から思うままに動かされることになる。
柔道部ができてからは、許されて二高の道場内部に入って見学するようになった。ここではたしかに崩し方も投げ方も受け方も入念に観察する。ときには手をとって教えてももらう。そして二中に帰ってからの練習もていねいにやる。しかし乱取りになったとたん、久蔵の技は力に変わるのである。果たし合いである。気魄がすさまじい。組んでいる者は不安におそわれる。実際はずみで一本を取ろうものなら、その倍も三倍もの衝撃を与える権幕で向かって来た。そして、相手が思わず涙を流すほどしたたかに投げつけたり、固めたり、絞めたりする。
けっきょく、二中で一番強いのは、柔道部の創設者であり、師範である三船久蔵であった。仙台の中学に入ったことが運命的であったというのはこのことで、もし一関に残っていれば、そこには高等学校も専門学校もなかったから、こういうことにはなりようがなかったのである。
分校の宿直室は急速に冷えが増していた。妻が廊下をへだてた炊事場で用意した料理を、炬燵台の上に並べた。水仕事をした手が赤く染まっている。妻はもう一度炊事場にもどると|燗《かん》をした銚子を持って来た。
「紺野先生、どうぞ」
紺野は恐縮して|盃《さかずき》をさし出して受けたが、すぐ原稿に目をもどした。
紺野は県南部の北上市にある黒沢尻工業高校の出身である。高校を出てから福島県の炭鉱に二年つとめたが、教師をしている叔父のすすめで転職したのであった。妻の弟の茂のことはまったく知らない。彼は純粋に柔道家三船久蔵の生いたちに興味を持って読みすすめているのであった。
わたしは酒を口に含んだ。思えば茂とゆっくり酒を酌みかわすということはなかった。彼が大学に入った年、わたしも大学の通信教育を受け始めて、夏のスクーリングの際に行われる入学試験を受けに東京へ行った。そのとき一週間ほど世田谷の代田にある彼の大学の寮に泊めてもらい、彼に東京を案内してもらったのであった。東京生活わずかに四か月の茂は、田舎者のわたしに不安を与えまいと、ずいぶん気を使ってきまじめに世話をしてくれたものである。しかし、互いに酒は飲まなかった。それから二年たち、ふいの自殺である。急激な|破綻《はたん》といってよかった。
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4 他 流 試 合
天性もあったし執念も強かった。二高での技の研究は最も熱心であったから、三船師範と一般生徒の差はひらく一方である。久蔵は、やがて自分は思いどおりに行動していれば、どのような場合でもおのずから道がひらけると思うようになった。仲間たちが相談して何かを企てようとしても、自分にその気がなければ加わらない。ある教師排撃のストライキ問題が持ち上がったときも、
「安月給取りをいじめるな」
と反対した。次兄が小学校長である。先生にたてついていいのか、という気持もあった。ところがこれが多くの生徒の反感を買った。そして四年の秋の一中運動会を迎えるに至って危険な事態に進展して行ったのである。
もともと同一校であった一中と二中とは、さまざまな機会をとらえて交流がなされていたが、運動会では互いに相手校の生徒委員席を設けるのが慣習になっていた。
久蔵は四年生の委員として沼田という柔道仲間と共に一中の運動会に出かけ、委員席にすわって競技を見物した。委員席には茶菓も出る。久蔵と沼田はそれをごちそうになった。他の委員たちはなかなか現われない。そのうち見物人たちが空いている席に一人、二人とすわり出した。一中側の委員はそれを制止するでもない。やがて続々とふえて来た見物人は二中委員席をすっかり埋めてしまった。久蔵も沼田もいささか居心地が悪いけれども、運動会たけなわとなっても現われない二中側委員もよくない。
昼すぎになって出て来た二中委員たちは、自分たちの席がないのに腹をたてた。
「委員席を設けていないとはどういうことだ。二中に対して遺恨があるというのならこちらにだって考えがある」
委員は運動会場をまわり歩いて二中の生徒を三十人ばかり集めた。そして、
「他校生レースに全員が出ろ」
と指示した。他校生レースは、二中から七、八人が出て疾走し、一中の運動会に花を添えるものである。それに三十人ぐらい固まって出てのろのろ走り、一中を|愚弄《ぐろう》しろというのだ。
久蔵はばかな意地を張るのはみっともないと思った。何よりも、自分と沼田とは委員としての接待を充分に受けている。みんなといっしょに一中の運動会を妨害するいわれはなかった。
興奮している委員たちを、群衆の中でとりなすことは不可能であった。久蔵はさりげなく沼田と共に全力疾走することを申し合わせた。
他校生レースの順番になった。学生服や縞の着物の二中生たちがぞろぞろとスタート地点に集結すると、観衆は異常を感じてざわめいた。しかし出発係は、とにもかくにもスタートの号砲を鳴らした。二中生の一団はゆっくりゆっくり動き出す。たがいに私語をかわすなどして、レースをする気が全くないことはたちまち観衆に知れた。
――二中が一中を挑発しようとしている――
見物客はいろめきたった。しかしつぎの瞬間、弾丸のように群れの中からとび出したものがいた。久蔵と沼田である。二人は愚直な集団を引き離し、トラックを軽快に走った。つられてあとを追った者が数名ある。見物人は|安堵《あんど》した。先頭の二人が、二中生たちのおろかなたくらみから離反し、レースを成立させようとしているのは明らかであった。
「それ、がんばれ、小さいの二人」
と声援した。沼田も久蔵と同じく小柄であった。久蔵は沼田を二、三メートル引き離してゴールインした。沼田のあとからも、ぽつりぽつりとゴールインする者があった。そして決勝係は観衆の非難の視線の中でのろのろしている二十数人を無視して持場を離れてしまった。久蔵と沼田が本部席で賞品を受けとっているとき、二中生たちの群れは、しまらない首尾のままこそこそと観衆の中にまぎれこんでいた。
恥をかいた二中生たちは、学校に帰るとこの|憤懣《ふんまん》をぶちまけた。
「三船と沼田が申し合わせを裏切った」
「群衆の前で、二中の名誉を傷つけた」
「三船が首謀だ」
もともとは同じ学校とはいえ、別れてしまえばそれなりの対抗意識もある。実際の事情に対する関心よりも、仲間を裏切って敵方についた久蔵への反感が先行した。
「三船を断罪せよ」
「ふだんからあいつは勝手なふるまいが多い」
「|天誅《てんちゆう》をくだせ」
不穏な空気が校内に満ちた。
周囲の反感は喧嘩っぱやい久蔵にはありありと感じられる。危険である。しかし逃げたくはなかった。断罪をおそれて学校を休むなど、自尊心が許さない。
ひそかに短刀を用意した。襲われたならば投げられるだけは投げる。しかし久蔵とて百人力ではない。仲間の村田、沼田、古崎もこのごろは久蔵を敬遠気味である。巻き添えを恐れている。孤立無援。ならば抵抗するだけしてあとは刃物をふるうまでである。
油断をおこたらない。いつやにわに襲いかかって来るか。中学生のひとりひとりをにらみつけながら校内を歩く。背後にも注意が絶やせなかった。柔道場でも、ことさら強さをきわだたせる必要がある。練習に殺気がみなぎった。護身のための柔道である。あるいは相手必殺のための柔道。
久蔵が兇器をふとこにしのばせているらしいという情報はたちまちにして校内にひろまった。それを裏書きするように久蔵は青ざめ、目を険悪にいからしている。いつでも刃物をふりかざし、飛鳥の如くに仲間たちを|殺戮《さつりく》してまわりそうな殺気を感じさせた。
やがて二中の者たちは久蔵の制裁をあきらめた。血気さかんな若者とはいえ、分別もある。
|剣呑《けんのん》な空気のおさまった十月の末、村田、古崎の配下は久蔵のもとにもどった。沼田も久蔵につき従うようになっていた。柔道の稽古の帰りなど、久蔵は語った。
「けっきょくおらは勝ったのせ。奴等は勢をたのめばおらを袋だたきにも闇討ちにも|簀巻《すま》きにもできた。しかしやらなかった。やらないのはおらが恐しいからせ。だからおらが勝った」
配下たちはうなずいたが、そのような勝ち方は正当ではないという気持があった。勝つためには手段をえらばぬ、いや、負けないためにはどのように危険なことでもやりおおせる、その狂気に対して穏健な常識がたじろいだだけのことではないか。そのような配下たちの気持を察したように久蔵は押して言った。
「おらが負けるか。どんなことをしてでも勝つのせ。真剣勝負となれば、二高の|入来《いりき》二段にだって負けねえ」
この会話は何度も何度もくりかえされた。そのことで、村田たちは、久蔵がいかに恐怖の日々を過ごしたかをかえって思い知らされた。
二高の入来重彦二段というのは東京出身の生徒である。一高とならび、強いことで知られた二高にも、当時二段はこの入来以外におらず、初段が五名ほどいるだけであった。二中に有段者はいない。久蔵も段位はとっていないから一級格であるが、他の一級の者たちがまったく歯が立たないので特級扱いであった。だから自分では初段、二段にも勝つと思っている。
久蔵が五年生になったころ、仙台二中の柔道熱は頂点に達して、生徒のほとんど半数が柔道部員となるほどであった。久蔵は師匠格にあたる二高との練習試合を企画した。中学校同士の対抗試合は行われていなかった。もしやったとしても、一中も私立の東北中学も相手にならないのは目に見えていた。東北中学などは、中学生の久蔵を師範にたのんでいるほどである。
二高と試合をする場合、点取りでは有段者を五人もかかえている年長者たちに勝つはずがなかった。勝つとすれば、勝ち抜き戦で久蔵が相手をすべてなぎ倒すしかない。試合は久蔵の提案で「抜き」と呼ばれる勝ち抜き戦で行った。双方の選手は十五名である。
二中のせまい柔道場は見学の生徒たちですし詰めとなった。その中で試合は進行して行った。二中の生徒も善戦はするが何しろ年が違う。きたえた時間にも差があった。たまに勝つことはあるが、二高の選手は一人で二人も三人も抜いて来る。たちまち相手四名で二中は副将の佐藤一級まで敗れてしまった。
最後の大将が久蔵である。二高生であろうが一級クラスなら問題にしない。年にしても久蔵の方が上である。獲物におそいかかる鷹のようにつぎつぎに相手を料理して行った。腰車、払い腰、背負い投げ、巴投げ、内股、大外刈、|袈裟固《けさがた》め、裸絞め……。久蔵の技は実に多彩であった。これは|敏捷《びんしよう》なのに加えて、敵の虚をすかさずつこうという久蔵の戦法の故であった。得意技を限定せず、いくつもの技を得意としていれば、いくつもの虚に乗じることができるというのが久蔵の考えかたである。
九人、十人、さすがに久蔵の|精悍《せいかん》な顔も汗に濡れている。しかし気力にもスタミナにも自信があった。久蔵は体を強くするため、マムシを見つけるととらえ、肝をのむのが習慣になっている。はじめてそれを見た村田や古崎は仰天したが、久蔵がマムシをとらえるといち早く皮をはぎ、ぴくぴく動いている心臓や肝をのむのを見なれてからは、そうすれば柔道が強くなると思うのか、まねるようになったものである。
有段者となるとさすがに手ごたえがあった。しかし相手の見せる一瞬の|隙《すき》につけ入り、鋼鉄のような脚が踏みこみ、ばねのような腰がひねられる。釣込腰、浮腰、足払い。ついに久蔵は相手方の初段をも全員投げとばし、最後の大将などは絞めおとしてしまった。入来は二段の故にこの練習試合には出場していない。見学の生徒たちは熱狂して久蔵の偉業をたたえた。二高生相手に十二人抜きとは、まさに超人と言っていい。ときに独善的であり、ときに尊大である久蔵は、柔道となるとまぎれもない英雄であった。
二中生の歓呼の中で、久蔵は新しい二高の柔道の師範から呼び寄せられた。久蔵が二年生のとき、師範は千葉という人であったが、その後塩谷に代わり、さらに大和田となっている。大和田は言った。
「あんた、柔道家になりなさい。すごい素質だ」
「はい」
久蔵は晴れがましかった。東北中学や農学校から指導を頼まれるようになってから、月々三円ずつ謝礼をもらっている。久蔵は一中の運動会事件のあったころに大松沢私塾を出て素人下宿にうつっていたが、その下宿代が四円五十銭、二中の月謝が一円五十銭である。二校分の謝礼でそれは間に合うから、家からの送金七円はまるまる小遣いや参考書代となった。
味をしめた。柔道教師はいいものだ、と思うようになっていた。しかし、柔道家をすすめられたのははじめてである。
「おらになれあんすか」
胸をはずませながらきいた。
「なれる。体もいいし、何よりも気魄がいい。これから卒業まではわたしが稽古をつけてあげよう」
「お願いしあんす」
二高の見学稽古はいつしかやめていた。しかし大和田師範からさそわれ、久蔵は週に一、二度はまたぞろ二高に赴くことになった。そう長い期間ではなかったが、これが久蔵の柔道の師についた最初である。このあと久蔵はさらに腕をあげ、卒業まぎわの校内柔道大会では、招待選手の入来二段と引き分けるほどになっていた。
柔道で自信を身につけた久蔵は、学業でも屈辱的な成績はとりたくなかった。講義を受けるときは、目をつむって精神を集中させ、大事なこととそうでないことを聞き分ける、という方法をとった。居眠りをしているかと疑われることもあったが、これが久蔵流の学習法である。成績はいつも上位を保つことができた。
明治三十六年三月、二中を卒業して帰郷しようとした久蔵は、二高の大和田師範から盛岡に立ち寄ることをすすめられた。
「盛岡には奥田松五郎という柔術の名人が道場を開いている。そこで腕だめしをして行ったらどうか」
「盛岡にも柔術家がいるのですか」
久蔵はおどろいた。
「武術の得意な人はどの藩にもいる。何でも奥田さんは、維新のころには新選組の隊士だったそうだ」
「新選組――」
久蔵は目をむいた。久蔵が生まれる何年も前に武士として幕末に活躍した人が盛岡にいるという。その人と立ち合って腕だめしをしろという。胸がおどった。
「三船君も知っているとおり、明治十五年に講道館が開かれて以来、柔術は講道館柔道に圧倒されてしまった。しかし地方にはまだまだ強い柔術家がいる。三船君の柔道は講道館の流れをくんではいるが、他流の柔術も知っていた方がいい」
「わかりました」
三月の末、久蔵は五年間住んだ仙台をあとにした。次兄平作に送られるときに約束したとおり、郷里には一度も帰っていない。三年生のとき、むしょうに母に会いたくなって、久慈の北隣の夏井村まで行ったことはあるが、けっきょくは家には行かず、山から久慈の町並を眺めただけでもどった。
まさしく五年ぶりの帰郷、一関での生活を入れると五年半ぶりの帰郷である。しかし錦をかざるのではない。卒業証書だけは手にしたが、上級学校は受験していないし、将来の希望は家人の反対するにちがいない柔道家である。
汽車に乗り、車窓の景色を眺めている間に不安がつのった。父も兄も、おそらく母にしても嫁に行った姉たちにしても、自分の柔道家希望は認めないであろう。喧嘩好きの久蔵が喧嘩で人生をおくろうとするというていどにしか柔道を認識していないにちがいないのだ。
夕刻、盛岡駅におりたときは、奥田という柔術家に負けたならば柔道家をあきらめようか、と少々弱気になっていた。新選組隊士ときいたときにはおどろいたが、ならば年も相当行っているはずである。そういう柔術家に、二十歳の血気の自分が負けるとすれば、二中の者たちがひとしく認め、大和田師範も買ってくれている自分の才能などというものもあやしいものだ。
駅で道順を教わり、歩いて奥田道場まで行った。大和田師範からの紹介状を差し出すと、奥田松五郎はこころよく立ち合いを承知してくれた。門弟はほとんど帰っており、住みこみの書生が二、三人いるだけであった。
薄暗い道場で二人は相対した。奥田松五郎は紺色の刺子に黒の袴をつけている。久蔵は長袖下袴の柔道着であった。背恰好は似ているが、奥田の方ががっちりした|体躯《たいく》である。久蔵は誰とでもするように、きわめて自然に相手の左襟をとろうとした。とたん、
「きえ――っ」
というするどい声が奥田から発せられ、久蔵はみぞおちのあたりに強い衝撃をうけて息がつまった。
――当て身でくるのか――
|呆然《ぼうぜん》としていると奥田は久蔵の前に身を沈め、一瞬のうちにかつぎあげて畳に放り捨てた。不覚である。当て身の一撃で度を失ってしまった。
立ち上がうとするところを奥田はこんどは押しつぶした。すでに一本とられたではないか。立ち上がってもう一度組み直そうとしたのである。しかし奥田は容赦をしない。久蔵がもがいて起き直ろうとすると胸に膝が押し当てられた。ものすごい圧迫感で身動きができない。講道館流にはない技であった。何とかして膝をどかそうと相手の|腿《もも》に手をかけるが微動だにしない。奥田はやがてかがみこむと|肘《ひじ》ではげしく久蔵の|眉間《みけん》を突いた。目の前を|閃光《せんこう》が走り、久蔵は気が遠くなりそうであった。このまま胸を押しつけられていたら落ちる、と観念しかけたとき、やっと力はゆるめられた。
立ち上がって二度目の立ち合いのとき、久蔵は前もって後方にとんだ。またぞろ当て身をくらわされたのではたまらない。しかし奥田はかまわずずんずん進み寄って来る。ならばと久蔵もみぞおちをねらって当て身をくり出した。奥田はそれをよけたとも見えなかったが久蔵のこぶしは空を切った。そして久蔵は目の前に突き出されて来る巨大な五本の指を見たのである。思わず目をつむったときに額がはげしく突かれた。さきほど肘で突かれたばかりの場所である。
――目を突かれるとこだった――
おそろしい思いになったときに襟をつかまれ、はねあげられた。こんどは腰車かと夢中で体をひねり、うつ伏せに落ちた。もう意地でも一本はとらせぬ。しかしじき襟首をとって裏返され、膝頭がのしかかって来る。よけようとしたが膝頭はこんどははっきりとみぞおちをねらっていた。そこは最初に当て身を受けている。苦痛のあまり悲鳴をあげそうになった。顔をゆがめた久蔵の眉間に、もう一度はげしい肘突きがふりおろされた。
――死んだ――
と思った。戦場の組み打ちならばすでに|肋骨《ろつこつ》か頭の骨をへし折られて死んでいる。完全な負けである。みじめな思いで涙が出そうになったとき、奥田は立ち上がって、
「最後の一本」
と言った。情ない|奴《やつ》め、まだまだ終わってはいないぞと|叱責《しつせき》するような声であった。ふらつきながら立ち上がり、久蔵はもう一度後方にとんで構えた。
――こうなればこっちだって喧嘩だ、喧嘩なら負けねえ――
久蔵は殺気だった。柔術というものの技を教わるつもりであった。しかし奥田ははじめからこちらを痛めつけにやって来ている。ならばこちらも反則など気にせず、果たし合いのつもりでやるまでだ。
「タィシェ」
当て身と見せ、久蔵は奥田の|股間《こかん》をねらって蹴りあげた。「タィシェ」は真剣になったときに思わず久蔵の発する気合である。足は奥田の袴にさわったが急所を蹴りつぶすまでには至らなかった。続いて頭、胸、股間と、当て身と蹴りを続けざまに繰り出した。さすがに奥田も後退する。奥田が久蔵の気魄を持て余し始めているのがわかった。
――はじめからこのように遮二無二このおやじをたたきのめすつもりでやればよかったのだ――
小柄なのに久蔵の四肢は長い。そしてこれは蹴り合い突き合いには有利な体型と言ってよかった。それにひきかえ、ずんぐりむっくりの奥田の手足は亀のように短いのだ。
――当て身か蹴りを一発入れる。そしたら釣込足なり背負い投げなりで投げとばす。止めは肘突き――
奥田の手の内はわかった。三段構えの戦法というやつだ。それでお返しをしよう。
後退をするだけの奥田を追い、
「タィシェ」
こんどこそ必殺のつもりで足をはねあげると、奥田の姿がふいに消えた。とたん、急所がずんと突きあげられ、はらわたの奥までねじり上げられるような名状しがたい苦しさに思わずうめいた。奥田は猪突する久蔵の虚をうかがっており、ひときわ高い蹴りが来たときに|咄嗟《とつさ》に身を沈めて久蔵の秘部をこぶしで突き上げたのだ。
久蔵は身をよじりながら奥田におおいかぶさった。それを待ち受けるように両肩をつかんで膝がみぞおちに来る。と思う間にはねあげられた。巴投げである。久蔵は高く遠く飛び、畳に腹ばいに落ちた。急所の激痛は続いたままである。身をよじって背をつかないのが精一杯であった。奥田は飛鳥のように腹ばいの久蔵におそいかかる。久蔵は体を丸くしてちぢこまった。こうなると久蔵の方が亀である。
奥田は久蔵を裏返しにかかった。このような寝技だったら慣れている。機を見て相手の足か襟首をとり、逆に自分が上になればいいのだ。しかし股間がまいっている。力が入らない。防戦一方である。顔が畳に押しつけられ、冷たい触覚の中で|藺草《いぐさ》と汗の入りまじったにおいがする。
こらえ切れずに裏返された。つぎは膝頭の襲撃である。反転しようとしながら相手の胸や腹をついた。さわりはするが手ごたえがない。おそらく駄々っ子が寝ころがり、手足をばたばたさせているように見えるだう。やがて膝頭のおさえがきき、久蔵は身動きができなくなった。奥田が肘を構える。こんどこそ奥田は自分を落とす気だろうと久蔵は思った。とたんに指を突き上げていた。目をねらったのだがそれは|人中《じんちゆう》(鼻の下)に当った。
「うむ」
奥田は小さな声をあげたが、それは何がしかの衝撃を感じたからに違いない。久蔵にしても指先にわずかながら手ごたえを感じていた。
しかしそれはもちろん決定打ではない。奥田はこんどは久蔵の危険な右腕をもう一方の膝と左手とで|扼《やく》し、おもむろに右肘を振りあげると、|鉄槌《てつつい》のようにはげしくうちおろした。激痛のあと、久蔵はわずかの時間をこころよい陶酔の感覚の中ですごした。
奥田が活法をほどこす前に自力で起きあがったのがせめてもの自尊心である。久蔵は奥田の前に深々と頭をさげ、
「ありがとうござんした」
と言った。まいったとは言いたくない。しかし完膚なきまでの敗北であることは骨身にしみてわかっていた。
――これで柔道はあきらめる――
どうやら自分は今まで天狗になりすぎていたようである。おそらく、久蔵ていどの力の者は全国にうようよおり、奥田のように図抜けて強い柔術家も星の如くであろう。
潮垂れた表情の久蔵の肩を、奥田が見違えるような温顔になってたたいた。
「強いね、三船君」
「は?」
と久蔵は怪訝な思いになった。今、つくづく自分は弱いと思ったばかりである。
「それに君はとてもいい体をしている。身のこなしもいい」
「それでも……」
と頭をかいた。奥田にはまったく通用しなかったのだ。
「柔術が好きだろう」
「はい、それはもう飯よりもすきであんす」
「柔術家になりたまえ」
「は?」
ともう一度久蔵はいぶかしんだ。負けたから柔道家希望をあきらめようかと考え始めたところだ。
「君は強い。おそらくここの書生の連中だったら手もなく君にひねられただろう。それに君にはもう一つ見どころがある」
「何であんすか」
「同じ手を食わぬ。一回投げられるたびに工夫して強くなっている。それは勘もいいし意地もあるということだ。それに柔術が飯より好きだというのが何よりの強味だよ。柔術家になりたまえ」
「はい、ありがとうござんす」
よろこびが湯のように胸内に噴きあがって来た。
「講道館に入るのがいい。君は筋のいい講道館流だ」
「はい、おら、講道館に入りあんす」
兄が反対しても、久之丞からなぐられても、と思った。
「君は沖田君に似ている」
「は?」
「沖田総司よ。柔術はわしの方が上だったが剣は奴の方が強かった」
「先生は剣もおやりになりあんすか」
「剣ができなかったら人が殺せないだろう」
久蔵はのまれる思いだった。沖田総司のみならず、目の前の奥田にしても何人人を殺しているかわからないのだ。だからこそのきびしい手合わせでもあったのだろう。
奥田は二高の入来二段のような江戸弁である。歯切れのよい流麗なことばが、底知れぬ強さと結びつき、さらに久蔵を|畏怖《いふ》させた。
「沖田君は病気で若くして死んだ。しかし君の技の切れ味とか気魄は彼そっくりだよ」
「光栄です。ありがとうござんす」
「期待しているよ」
「一生懸命やります」
久蔵は目を輝かせた。何人も人を殺した新選組の隊士から認められたのだと思った。
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5 講 道 館
講道館は東京・小石川の下富坂にあった。飯田町の旭館に宿を決めた久蔵は、途中、巡査や通行人に道を|訊《き》き訊き、小路の角にある講道館にたどりついた。胸のあたりを汗が流れている。|蝉《せみ》の声がかしましかった。久慈を出るときも暑かったが、向こうはすっきりした浜風が吹いている。それにくらべたら東京の暑さはまさに炎暑であった。
明治三十六年七月である。侍屋敷のような門構えの講道館には、間口の広い玄関が直角に隣り合わせて二つあった。一方からははげしい掛声や入り乱れる足音が聞こえる。暑中稽古の最中なのであろう。久蔵は静かな方の正面玄関に立って案内を|乞《こ》うた。いかつい体の若者が出て来て|蟹《かに》のように|這《は》いつくばった。
「岩手県から入門したくて出て来あんした。お願いします」
久蔵は固くにぎりしめていた紹介状を差し出した。二高の大和田師範にたのんだのだが、前の師範の塩谷の方が講道館の通りがよいというので紹介状は塩谷師範が書いてくれた。
玄関番の若者は紹介状を受けとると一旦中へ引っこんだ。そしてしばらくしてまた現われると、
「審査室へどうぞ」
とうながした。久蔵は固くなって講道館玄関の光沢のある床を踏んだ。廊下を玄関番に従ってついて行くと、何度か角を曲がって審査室である。そこはせまくて薄暗かった。玄関番が端の方に久蔵をすわらせ、
「すぐに館長が見えます」
と言った。
「はい」
久蔵はかしこまった。講道館柔道の創始者の嘉納治五郎がじきじき会ってくれるというのだから、身のふるえる思いであった。
やがて複数の足音が聞こえ、威厳に満ちた数人が入室して来た。久蔵は平伏し、固くなった。
「よろしい、頭をあげなさい」
言われて身をおこすと、中央に目の細い、ひげの老人がいる。音に聞こえた嘉納館長にちがいなかった。両脇には西洋人かと思われるほど髪をきれいになでつけ、これも鼻下にひげをたくわえた|細面《ほそおもて》の男と、いがぐり頭にひげの先をはねあげた屈強な男がひかえ、そのほかにも何人かがいならんでいる。
「岩手県から来た三船久蔵と申しあんす。よろしくお願いします」
嘉納館長を見つめて言い、もう一度頭をさげた。
「たいそう強いそうだな」
嘉納館長はおだやかな声で言った。柔道家というよりは学者風である。
「少々では負けあんせん」
売りこむ必要があると思っていた。
「体は」
「五尺二寸五分(一五九センチ)、十三貫(四九キロ)です」
「柔道家希望なそうだが、家人はどうか。希望を許してくれたか」
「はい、大喜びで、早く出世するよう、はげましてくれあんした」
|大嘘《おおうそ》である。久之丞は激怒して勘当するとまで言った。校長をしている次兄の平作がとりなしてくれたがきかない。けっきょく話し合いがつかずに上京が遅れたのだ。こんど東京に出て来たのは、早稲田大学の予科に入るのが条件である。久之丞は、まだ久蔵を医者にする夢を捨ててはいなかった。
「負けたことはないのか」
いがぐり頭の男がきいた。
「ありあんせん。引き分けは一回あります」
「それは試合での話だな」
「はい。しかし稽古でもそう投げられたことはありあんせん」
すると髪をなでつけた細面の男が言った。
「投げられないで強くなれますか」
「なりました。おら、|何《な》してだかはじめっから強ござんした」
「手ひどい目にあったことはないのですね」
「はい……」
とこたえてから、
「一度だけありあんした」
と言い直した。
「誰とやったときですか」
「盛岡の奥田っつう新選組です」
「ほう、奥田流投げの型の……」
と嘉納館長は覚えていた。
「あの人と立ち合ってひどい目にあわないくらいなら、もう講道館に入らなくともよいくらいだ」
「そんなに強いすか。でも、おら当て身をくわなければ負けなござんした」
「うむ、これは気も強い」
同席した者たちが笑いを|洩《も》らした。このとき入門審査に立ち合ったのは六段の横山作次郎、五段で幹事の富田常次郎などである。
それからいくつかの質問があり、入門は許された。髪をきれいになでつけた富田常次郎が、入門願と誓文の書式を示し、これに署名させた。誓文はつぎのようなものである。
第一条 此度御門ニ入リ柔道ノ御教授相願候上ハ猥ニ修行中止仕間敷候事
第二条 御道場ノ面目ヲ汚シ候様ノ事一切仕間敷候事
第三条 御許可ナクシテ秘事ヲ他言シ或ハ他見為仕間敷候事
第四条 御許可ナク柔道ノ教授仕間敷候事
第五条 修行中ハ諸規則堅ク相守可申ハ勿論御免許後ト雖モ教導ニ従事仕候時ハ必ズ御成規ニ相背キ申間敷候事
この五か条が巻頭にかかげられた誓文帳に、入門者の名前が連署されている。久蔵が筆をとると、直前の入門者は平民中田総平とあった。久蔵は印鑑を持参しなかったため、入門願にも誓文帳にも血判を|捺《お》した。
「|山嵐《やまあらし》のように強くなるかな」
指を切った久蔵を見ていがぐり頭の横山作次郎が言った。富田常次郎が、
「かの西郷四郎も血判でしたね」
とうなずいた。山嵐の西郷四郎の名は久蔵もきいている。その西郷四郎も血判とは心強かった。署名者の大半は印鑑による|捺印《なついん》で、血判は数えるほどしかなかったのだ。
玄関番の少年に道場へ案内された。富田常次郎がつきそった。道場につくと、
「柔道着は持っているね。稽古をしなさい」
と富田は言った。百七畳である。そこで五十組近い者たちが乱取りをしていた。ひどく背の高い者が目立つ。体つきのがっしりした者も多かった。
更衣室で着がえた。玄関番の少年もいっしょだった。
「片山昌一です」
と少年は名乗った。この片山と稽古をさせられるらしい。帯は白かった。背は久蔵より高いが、白帯なら負けることはないと思った。
ふたたび道場にもどり、組み合った。感触で強い、と感じた。二高の入来二段と同じぐらいにずっしりと重い。やはり講道館は実力が違うと思いながら、これは実技の入門試験のようなものだから負けるわけには行かないと気を引きしめた。
片山はしばし|擦《す》り足で久蔵を押したり引いたりしていたが、やがて足早に踏みこんで強引な大外刈に来た。久蔵は軽くとんでよけ、そのまままわりこんで釣込腰をかける。片山は|強靭《きようじん》に腰を引いてそれをこらえた。腰の強さは鋼鉄のようである。きたえ方が違うのだ。
片山はもう一度踏みこんで大外刈をかけて来る。これも足をはずしてよけたがさきほどよりはよろけた。
――また来る――
と思った。とたんに片山は踏みこんで来た。反射的に体をひねりざま足で払うと片山はもんどりうって横転した。出足払いである。二中時代、久蔵の足技はよくきいた。足が長くてこれもはがねのように固い。
片山は、まいった、というように口元をほころばし、ゆっくり立ち上がった。そこへとびこんで右足のかかとを前に刈った。片山は仰向けに大仰に倒れた。頭も打ったようである。奇襲の小内刈であった。
「みごとだ」
富田常次郎が微笑してつぶやいた。しかし片山は顔を紅潮させて久蔵をにらんだ。|卑怯《ひきよう》ではないか、とその目は言っている。卑怯なものか。敵に乗じる隙を与える方が悪い。
怒った片山は右手で|奥襟《おくえり》を取り、左手で袖を持つと力まかせに押して来た。しりぞきながら久蔵はまわった。片山は力で威圧しようとしている。奥襟をとられた敵の右腕がじゃまであった。首をすくめてそれを抜こうとすると片山は抜かせながら久蔵の右腕をかかえこんで来る。変形であってもあくまで大外刈に来ようというのである。
久蔵はかがみこんだ。今までは足をはずして逃げたがこんどはそうしなかった。片山が足をかけて来たときに、それを膝裏に受けとめて腰をずんと伸ばした。相互に足をかけ合ったまま直立した形になった。しかし襟をつかんだ片山の右腕は首を抜かれて片襟になっている。久蔵は右自然体のかたちであった。
直立したまま、一瞬、力くらべとなった。しかしつぎの瞬間、久蔵の体の方がぐんと低く前かがみになり、片山はこらえ切れずに両足を宙に浮かせると肩から落ちた。
連続三本である。富田常次郎は見届けたというように何度もうなずき、
「まさしく西郷四郎の再来かも知れぬ」
と久蔵を賞揚した。
「なかなかすばしこい。勝負意地もいい」
「ありがとうござんす」
久蔵は実力審査にも合格したのだと晴れがましかった。
「あとは前田君に見てもらいたまえ」
富田はそばでようすを見ていた肩の盛りあがった巨漢を指さした。
「彼も東北出身の強豪だ」
久蔵は前田とその稽古相手らしい、これも巨漢の|赧《あか》ら顔の青年に会釈をした。
「しかし三船君」
「はい」
「|ござんす《ヽヽヽヽ》はおかしいぞ。|仁侠《にんきよう》ことばのようだ」「でも久慈ではていねいなことばになっておりあんす」
「それにしてもおかしいよ」
富田は笑いながら片山をともなって道場から去った。それを見送っている久蔵に、前田と呼ばれた強そうな男は、
「ことばなんじょ、気にするな」
と東北弁で言った。
「ま、標準語が|喋《さべ》れるに越したことはねえが。しかす、おれたちのはどうせ|五目弁《ごもくべん》(まぜこぜことば)にしかならねえ」
前田は名を光世といい、青森県弘前生まれの三段であった。
久蔵はそれから前田の相手の津島壮吉と稽古をした。これははじめから荒っぽい力の柔道であった。右に左に久蔵は振りまわされたが技を避けるのに苦はなかった。機を見てこちらが仕掛けて行くとみごとに決まる。津島相手にも出足払い、巴投げ、跳ね腰と三本をとった。
しかし前田には全く通用しなかった。三段となれば神様のようなものだと舌を巻いた。
「投げられずに強くなるかね」
と審査室で言われたことばを何度も思い出しながら、久蔵は高く宙にとばされては、したたかに背を畳にうちつけた。しかし技が洗練されているというのであろうか、投げられても全く痛くない。無理も感じられない。はっと思ったときは軽々ととばされている。
――上には上がある――
実感であった。当て身や肘突きなしならば、前田はまちがいなく奥田よりも上であろう。
しぼるような汗を流したあと、久蔵は前田と帰りを共にした。そして一番気になることを質問した。
「前田さん、今一番講道館で強い人は誰ですか」
「それはお前、横山さんよ」
久蔵を審査した一人の、いがぐり頭のいかつい体つきをした男である。
「今、講道館では六段はあの横山さんと山下さんと二人しかいねえ」
「そうですか」
「山下六段はアメリカに行っている。だから今講道館で一番強いのは横山さんだ」
「何が得意ですか」
「何でもこなすが、左右の払い腰」
「はあ」
「十三歳のときには、家に入って来た盗っ人を一刀のもとに|斬《き》り捨てたそうだ」
「人を殺しあんしたすか」
久蔵も腕白ではあったが殺人まではやっていない。講道館にはすごい人がいるものだと思った。
「講道館柔道が柔術を制圧したのは、今から二十年近く前のことだが、特に目立つ働きをしたのが西郷四郎さんと横山作次郎さんだ」
西郷四郎は明治十九年の警視庁武道大会で戸塚揚心流の|好地《うけち》円太郎とたたかい、みごと山嵐に|屠《ほふ》ったし、横山作次郎は良移心当流の中村半助と相対し優勢な勝負をした。同流の|業師《わざし》照島太郎とたたかったのは講道館の|宗像《むなかた》逸郎であり、このほか富田常次郎、山下|義韶《よしあき》、岩崎法賢らも出て柔術家たちを圧倒している。
横山作次郎と中村半助との試合がことに語り草になっているのは、中村が警視庁武術世話係(師範)の中でもずば抜けた怪力の実力者だったからである。筑後の生まれで三十三歳、身長が五尺七寸五分(一七四センチ)で体重が二十四貫三百(九一キロ)、優に三人力はあるといわれた。これに対して横山は五尺五寸八分(一六九センチ)二十貫(七五キロ)、東京・練馬の農家の生まれで当時は二十六歳である。横山はこの試合、「天狗投げ」と呼ばれる豪放な技で何度も中村をよろめかせ、観衆の目をみはらせた。
「前田さんは横山先生に稽古をつけてもらいあんしたか」
「二、三本な。さわったとたんにはじきとばされたよ。しかし今はあまり立ち合われない」
三十九歳だという。
「横山先生が講道館一なら、今は講道館流柔道にかなう流派はないから、日本一ということであんすね」
「まあ、そうだ」
「だったら、おら、横山先生の弟子になりあんす」
「講道館に入門したべえ。そしたら、嘉納先生の弟子にも横山先生の弟子にもなったと同じだ」
「内弟子になりあんす」
「それは取っておられない。ことわられるだろう」
「でも、おらも日本一になりあんす。そのためには日本一の人と少しは暮してみたござんす」
と言ってから、
「暮してみようと思いまし」
と言い直した。この辺から久蔵もいわゆる五目弁となる。
何日かして前田三段に対して言明したとおり、久蔵は何度もことわられたのに強引にたのみこみ、ついに横山の家に泊まりこんだ。毎晩、際限のない酒につき合わされるのに|辟易《へきえき》して三晩でとび出したが、日本一の柔道家の風貌には親しく接してこれでわかったと思った。
――この先生は年のせいか酒のせいか、すでに峠を越えている――
しかし、このことで横山から以後身内のごとく扱われるようになったのは、久蔵にとって幸運であった。
分校の村は、冬は夜の八時ごろになると寝静まる。前年の東京オリンピックの年に、テレビはこの山深い学区の各家庭にも備えつけられたが、早寝の習慣のついている年寄りたちは、一緒に寝る孫ともども、早々に床についてしまうのである。
|静謐《せいひつ》が宿直室を押しつつんでいる。外は雪が降りこめているから静けさはことさらであった。わたしの原稿を読んでいた紺野が宿直室の時計に目をやった。
「まだ早いよ」
引きとめるつもりでわたしが言うと、
「宿に電話しましょう」
と妻が立ち上がった。
「済みません」
紺野は盃に残っていた酒を口に入れ、また原稿に目を落とした。妻のつくった手料理にはほとんど|箸《はし》をつけていない。
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6 技 倆 抜 群
前田光世三段は、講道館で一番強いのは横山六段だと言ったが、それは指南役に敬意を表したからだということがすぐわかった。一番強いのは前田光世本人であり、同様に強いのが|轟《とどろき》総太、内田作蔵、佐竹信四郎の各三段である。高段者は富田常次郎五段、照島とたたかった宗像逸郎五段、それに大島英介五段などであったが、みなあまり|稽古《けいこ》はせず、講道館の幹部として運営面で働いているのであった。
この時期、講道館柔道は基礎固めの時代を過ぎて発展期にさしかかっていた。講道館への直接の入門者は一万名を越え、全国の間接的な門人は数十万といわれた。明治二十年代からは海外発展もめざましい。そういう中で久蔵は日本一を目ざしていた。前田先輩にも、いつまでも負けていたくはなかった。年中無休の稽古の誓いをたてた。好きなことだから苦痛はなかった。
入門は七月末のことであったが間もなく早稲田大学の予科を受験して合格し、九月からは通学するようになった。文武両道である。前田三段も早稲田の大学生であった。できれば武だけに生きたいが、そうすれば郷里の久之丞が激怒し、送金を絶たれる。
講道館で、久蔵は幼年組の甲組(一級)にランクされた。同じクラスには玄関番をしていた片山昌一がいたが、幼年組の華とうたわれているのは緒方良作という男であった。背は片山昌一と同じくらいである。しかしたいへんに|敏捷《びんしよう》で、よく反動をつけては道場の羽目板をかけのぼって名札をはずしたりしていた。
手近かな目標はこの緒方良作である。同じクラスだからいつでも手合わせができる。ほどなく久蔵は緒方にはどのようなことがあっても一本もとらせないまでに上達した。初段にも勝つ自信ができた。もともと仙台では初段を相手にしない特級だったのである。しかし昇段の機会はなかなかおとずれない。
年が明けて明治三十七年二月、日本とロシヤが開戦し、三月二十七日に四段広瀬武夫が旅順港|閉塞《へいそく》作戦に出撃して戦死した。部下の生死を気づかいながら艦と運命を共にしたその壮烈な最期は、新聞紙上で何日にもわたってくわしく報じられた。
この広瀬武夫に四月八日、特に二段とびこえて六段がおくられた。海軍でも功をねぎらって中佐に栄進させている。
久蔵は興奮した。
――おらも早く段をとりたい――
久蔵も広瀬武夫が初段となった二十一歳になっている。
しかしなかなか入段させてもらえなかった。それは片山も緒方も同じである。二人とも優に二段の実力があるといわれている。しかし初段の壁は厚いのだ。誓文にあるとおり、「猥二修行ヲ中止」しないかどうか、じっくり見定めようというのかも知れない。実際、有段者とそれ以外の者との間には、相撲における関取と|取的《とりてき》ほどの懸隔があった。
久蔵がやっと初段になったのは入門して一年三か月、明治三十七年の秋季紅白試合が終わったあとの十月二十三日であった。これでもスピード出世といわれたが、日本一を目ざす久蔵としては遅すぎると思っていた。満で二十一歳六か月である。このときの紅白試合では無段者の大将として出場し、敵の無段の副将、大将を破り、さらに初段を四人抜いて、半田という初段に負けている。背負い投げに来たところを後ろから絞めたら引っくりかえって背中をつかされたのだ。
初段になって間もなく、講道館の実力者の佐竹信四郎三段が学習院の柔道大会に出かけ、初段の五人|掛《がけ》をおこなった。久蔵はその二番手に配された。審判は横山作次郎である。
三段クラスはまさに講道館一の|猛者《もさ》といってよかったが、久蔵は講道館生活に慣れるに従い、さほどこわくないと思うようになっていた。何しろ稽古量には自信がある。東京に来てからも、マムシはできるだけ求めて精力剤に用いていた。
佐竹は学習院生徒の初段を軽く切ってとった。つぎは久蔵である。佐竹三段は|鷹揚《おうよう》に久蔵の|襟《えり》をとりに来た。しかし久蔵はすばやくとびこむと瞬時に|巴投《ともえな》げを放った。あわてた佐竹は久蔵の頭上近くにたおれたが、かろうじて背をつくことはまぬがれた。すかさずおおいかぶさると首の下に腕をこじ入れ、|袖《そで》を強く引いて|袈裟固《けさがた》めである。横山が、
「おさえこみ」
と声をかけた。佐竹はそのまま久蔵におさえられて動けない。佐竹の五人掛は不首尾に終わった。
力が身内にみなぎっている。久蔵に続き、片山、緒方も入段して活躍していた。しかし彼等が実力二段なら、こちらはもはや三段と言ってもよかった。負ける気がしない。
明けて三十八年の二月はじめの|月次《つきなみ》試合で、好調の久蔵は|朋輩《ほうばい》の片山、緒方ら、初段陣からつぎつぎに二本ずつを取り、久蔵と共に将来の大物と目されていた出口という初段をも跳ね腰の返し技とこちらのかけた跳ね腰でくだしてつごう七人を抜いた。二本ずつの勝負だから十四本、実質は十四人抜きをしたことになる。八人目が飯盛初段であった。この飯盛をも足払い、釣込腰と攻めたてたが、一本決まったと思っても宣告がない。ふしぎに思って審判の嘉納館長を見やると、横山指南役と大島英介幹事を呼び寄せて何やら協議をしていた。
「何だ、審判がいない」
二人は立ち合いをやめた。そこへ嘉納館長は寄って来て、
「それまで」
と中止を命じた。
紅白試合で相手を多く勝ち抜くと、成績抜群ということで昇段を許される。それで「抜群」は柔道家たちのあこがれるひびきのこころよい講道館用語になっている。しかし月次試合でそういうことはなかった。ところがこのときは久蔵の技の抜群の|冴《さ》えと抜群の強さによって、特別の昇段が許されたのである。試合中の協議はそのための相談であった。
学校の勉強には身が入らない。それで前年の九月、慶応義塾大学の理財科に転じていた。何とか卒業だけはして実業家コースを歩むというのなら、家人も許してくれるだろうと計算したのだ。
入段四か月足らずで二段に昇段したことは久蔵を有頂天にさせた。実力日本一はもはや|目睫《もくしよう》である。もちん広い東京に数多くの猛者がいることはよくよくわかっている。久蔵が一年いただけで去った早稲田大学には手島という無類に強い学生が在学している。一高には新井源水という久蔵と手合わせをして引き分けた男もいた。実力日本一が間近かといっても、そのようなレベルにあるのは久蔵だけではないのだ。片山昌一、緒方良作、みんな油断のならぬライヴァルである。ちょっとでも気を抜けば、たちまち羽目板にうちつけられ、絞め落とされてしまう。稽古をなまけたら、たちどころに踏み台にされるのは目に見えていた。
皮膚をきたえるために乾いた布で全身をごしごしこする。下宿の柱や松に帯を巻きつけ、打ちこみをする。鉄亜鈴で腕力を強くする鍛錬もした。講道館では人の倍、三倍と稽古にうちこみ、絶えず技の体得を考えていた。
――得意技は持たない。すべての技をこなす――
これが軽量|小躯《しようく》の久蔵が実力日本一になるための条件である。すべての技というのは嘉納館長が横山作次郎、山下義韶、永岡秀一各指南役と明治二十八年に制定した五教の技や固めの形をさしている。
五教の技とはつぎのようなものであった。
第一教 出足払、|膝車《ひざぐるま》、|支釣込足《ささえつりこみあし》、浮腰、大外刈、大腰、大内刈、背負投
第二教 小外刈、小内刈、腰車、釣込腰、逆足払、体落、払腰、|内股《うちまた》
第三教 小外掛、横落、足車、跳腰、|払釣込足《はらいつりこみあし》、巴投、肩車
第四教 ……
固めの形は、袈裟固め、上四方固め、横四方固めなどのおさえこみ技(体固め)に、裸絞め、逆襟絞め、片十字絞めなどの絞め技(首固め)、それから|腕緘《うでからみ》などの関節技(腕固め)である。
これらをすべて体得し、そのおのおのの技に適合する虚をついて相手をたおす。さらに崩して技をかければそのチャンスは倍加する。柔道は柔よく剛を制する原理の応用であり、小を|以《もつ》て大を|屠《ほふ》る技術である。久蔵にこそふさわしい道であった。
軍神広瀬武夫は、戦前、ロシヤにおいて雲つくような大男を投げとばしたという。
「日本人は、衆をたのんでこそ力を出すが、個人は|小柄《こがら》で非力で話にならない」
と、ロシヤの海軍将絞にあざけられたのがきっかけである。広瀬はそのときすでに四段であった。
「小さければほんとうに弱いかどうか、ためしてみようではないか。ロシヤで一番強いと言われる連中を二、三人連れて来ないか」
と言い返した。|小面《こづら》にくいと思ったのであろう、ロシヤ将校は部下の中でも屈強な者たち三人を選び、海軍省の広場で対決させることにした。
試合は一人ずつを抜いて行く三人掛ではなくて、はじめから一対三の対決であった。広瀬の申し出によるものである。
逆にあなどられたと知って大男たちは激怒した。一人が丸太のような腕でつかみかかると、広瀬はとびこみざま手練の払い腰を放った。受け身を知らないロシヤ兵は大きくとんで石畳の上に肩から落ち、鼻血を吹き出させた。二番手は釣込足で横転し、これも横面をはげしく地面にうちつけて悲鳴をあげた。最後は肩車である。よほど腕に差がなければかかる技ではないが、一対一の勝負となっているから充分に間合いをとり、|完璧《かんぺき》な形で念入りに投げた。これは一発で|悶絶《もんぜつ》してしまったという。
広瀬はこれで日本人の名をあげ、のちにはロシヤの皇帝に|乞《こ》われてその面前でロシヤの大兵数人を投げて見せた。どんなに得意なことであったろう――と久蔵は思う。しかし柔道について全く無知な相手となら、四段ならずとも一級でもそのていどのことはできる。久蔵は一挙十人相手だって片っぱしから投げとばすことは不可能ではないと思っていた。
柔道がロシヤ、ヨーロッパ、オーストラリヤ、アメリカなどでおどろきを以て迎えられ、その習得を望む者がふえて、講道館から多くの指導者が派遣されているのも、小がよく大を倒す秘術であるが故である。
しかし、久蔵は考える。
――自分と同じ|技倆《ぎりよう》の者が、自分よりも体格がよかったらどうなるか――
講道館で相手になる者は、受け身も技も知らない、柔道について無知な外人ではないのである。そういう連中を久蔵が倒せるのは、負けず嫌いのはげしい気性と技の切れのせいである。しかしその相手が|研鑽《けんさん》を重ねて久蔵と同じ技倆を持つに至ったならば、軽量の久蔵はたちまちにしてとばされるであう。
技すべてを習得する。柔よく剛を制し、小を以て大を屠る柔道の奥義をきわめて日本一の実力者となる。とても学校の勉強などしてはいられなかった。
明治三十八年五月二十七日から二十八日にかけ、日本海軍は日本海にロシヤ・バルチック艦隊を破った。バルチック艦隊の撃沈された艦艇十九隻、捕えられた艦艇五隻に対し、日本側は水雷艇三隻が沈没しただけという大勝である。
この戦勝の報に沸き立っている六月のはじめ、暗くなって講道館から下宿の旭館に帰って来ると、久蔵の部屋に大柄な男がうずくまっていた。同郷の野里栄七郎である。猫殺しやりんご泥棒、クンノコ掘りなどをやったときの配下であった。
「いやいや、栄七郎、何しに来たじょう」
五目弁を使うようになっていた久蔵は、久しぶり、生っ粋の久慈弁できいた。
「やあ久蔵さん、待ってだじゃあ」
栄七郎はほっとした顔で久蔵を仰ぎ見た。
「もし今夜このまま帰って来なかったら、どうにすんべえと思ってた」
「自分の宿帰って来ねえっつうことあ、なかべえ」
久蔵は栄七郎と向かい合ってあぐらをかき、そばに柔道着を置いた。栄七郎は無精ひげをのばし、髪もいつ|櫛《くし》を入れたとも見えぬ|蓬髪《ほうはつ》であった。もう夏だというのに着ているものはよごれの光って見える|横縞《よこじま》の|袷《あわせ》である。畳に投げ出した足には|垢《あか》がなすりついていた。
「まず、会うによくて、よかった、よかった」
栄七郎は喜色を浮かべた。こんどは黄色に染まった歯がのぞいた。
「何しに来た。東京で仕事をするのか」
「いやいや、久蔵さんのように柔道をやるべえってな」
「柔道」
「ああ、久慈にいても、何もおもしれえことはねえ」
「それで、親たちあ、だまって出してよこしたのか」
「三船の久蔵さんを頼るのだったらよかべえ、よろしく頼むって言ってだっけえ」
栄七郎は久慈の町はずれの、まずしい農家の生まれであった。久蔵よりは二つ下である。体がばかでかくて力もあり、久蔵の配下の中では最も|相撲《すもう》が強かった。
「久蔵さん。おらも柔道家にして|呉《け》ろ」
「して|呉《け》ろっても……」
講道館の入門者としてはまだまだ|駈《か》け出しであった。人を世話するなど、とてもできる身分ではない。
「紹介状ももらって来たわけではなかべえ」
「紹介状って何だ」
栄七郎は間の抜けた顔できき返した。
「つまり、この男を講道館に入れてくださいという、講道館とつながりのある人の手紙だ」
「そんなものはねえ。久蔵さんが書いて|呉《け》たらよかべえ」
「おらが書けるか」
全く久蔵を頼りきっているのである。念のためにきくと、金もほとんど持っていなかった。久慈では百姓仕事の一方、炭屋の手伝いとか運送屋の仕事をやり、ときには久蔵のうちの米運びなども手伝ったという。ということは、定職につけずにぶらぶらしていたのだ。そのうちに講道館に入ったという久蔵を頼ろうと思い立ったのであろう。
「おら、たしかに柔道をやるために講道館に入ったが、大学の予科にも入っているのだぞ。つまり、柔道と勉強の両方をやっているのだ。講道館では、五段や六段の偉い人をのぞいて、みな柔道のほかに勉強か、仕事かをやっている。柔道だけっつうことはねえもんだ。何でお前が何もしねえで柔道をやって食えるって」
|嘘《うそ》もまじえて言い含めた。
「なあに、久蔵さんが食わせてくれたらよかべえ」
栄七郎は|歯牙《しが》にもかけない。
「だって、三船の|叔父様《おんちやま》だものォ。金も|沢山《ずつぱり》送ってもらってるじょう」
「沢山ではねぇ」
久蔵は苦い顔をした。送金を受けるたびに気が|咎《とが》めている。それは生活費というよりは学資として次兄の平作と久之丞とが送ってくれているのであった。しかし久蔵は柔道で忙しくて勉強どころではないから、学問のためにはほとんど使っていないことになる。
「なあ、久蔵さん。おらとこをお前みてえに、講道館入れて|呉《け》ろ」
「………」
「町の人たちァ|喋《さべ》っているっけえ。三船では久蔵さんを医者にするっていうども、|蔭《かげ》では柔道家にしてもうける気だって。東京に来た人は、久蔵さんが学校行かねえで柔道場ばかり行ってるのを見たんだじょう。三船がそれでもだまって金を送っているのは、久蔵さんを柔道家にする気だからだべえって。なあ、久蔵さん。柔道家ってもうかるものなんだべえ」
「何でもうかるって」
久蔵はますます苦い顔になった。
「ところで栄七郎、お前、まだ飯を食っていなかべえ。そこらへ食いに行くか」
「ああ、よかった。おら、このまま食わせられないとこだかと、はらはらしていた」
栄七郎は勇みたって立ち上がった。
近所に牛飯屋がある。久蔵はそこに栄七郎をともなった。店に入るなり、栄七郎は、
「ああ、いい|香《かま》りがする。久蔵さん、|沢山《ずつぱり》食ってよかべえ」
と言った。久蔵は気恥ずかしくて伏目がちになった。すると、
「よう、久蔵さん」
と声をかける者がある。
見ると座敷の隅に杉村陽太郎がいた。柔道仲間で三段、東京帝国大学の学生である。岩手の盛岡中学出身だから、久蔵とは同郷であった。
「やあ、杉村さん」
と久蔵は手をあげた。杉村はすぐに立ち上がって来た。六尺近い巨漢である。栄七郎は目をむいてこの大男を見た。
「久慈のお友だちすか」
杉村はもう見抜いていた。
「ああ」
苦笑してこたえると、
「ごくろうさんだなす」
と杉村は出て行った。杉村も、同郷の人間からまとわりつかれて苦労したことがあるのだろうか。
栄七郎は頭をふりたてて牛飯を食べ、たて続けに三杯もおかわりをした。|文《もん》なしの栄七郎にころがりこまれたら、このあと、生活はどうなるかとげんなりしている。
腹がくちくなると、栄七郎は、
「さっきの男、強いのか」
ときいた。
「強いの強くないの。おら最近試合で負けたばかりだ」
「へえ、久蔵さんも負けることがあるのか」
「いや、ほんとうは負けたのではねえ。しかし、審判が負けたっつうのだ」
「審判があいつ|助《す》けたのか」
「うん、……まあ、そうだ」
久蔵は|仏頂面《ぶつちようづら》であいまいにこたえた。
その試合というのは春の紅白試合である。初段から四か月足らずで二段となって間もなくのことであった。
久蔵は白軍の五将であった。杉村は紅軍の大将である。この紅白試合、はじめは紅軍の|歩《ぶ》がよくて、久蔵が対戦したのは八将の新井源水であった。久蔵のライヴァルの一人で、二段の一高生である。以前、月次試合でどうしても投げることができず、引き分けたことがある。
久蔵には、以前負けた者や倒せなかった者は、つぎには必ず屠りさるという意地があった。そいつを倒さなければ日本一になれない。負けたまま、あるいは引き分けのまま、三船久蔵は|御《ぎよ》しやすい|奴《やつ》だと相手に思いこまれるのは我慢のならないことである。
新井源水は跳ね腰の得意な攻撃型の選手であった。その闘志は久蔵を上まわるかと思われるほどである。しかし策は練っていた。いきなり跳ね腰に来ようとするのを待ち構えていて足を刈った。新井は思わず腰を落とし、久蔵はそこをすかさず袈裟固めにおさえこんだ。ねらいすました久蔵得意の奇襲といっていい。
七将は腰車で横転させた。六将は出足払い、五将は送り襟絞め、四将は背負い、三将は巴投げと、久蔵はつぎつぎに華麗な技で相手をなぎ倒した。相手の動きが前もってたなごころをさすが如くにわかる。自分でもふしぎなくらいである。好調とはこのような状態をいうのであろう。
副将は福永という杉村と同じ東京帝大の学生であった。二段では講道館一と定評がある。これを倒せば、こんどは久蔵が二段の中で講道館一となる。福永もまた新井同様、跳ね腰が得意である。しかし左利きだから技は左からかかって来る。
久蔵は右利きだが、左自然体に組むことも|間々《まま》あった。左に組んだ方が有利な場合は左に組む。右に限定するのは技を窮屈なものにしてしまうと考えていた。
この福永とは、杉村陽太郎同様、しょっちゅう講道館で稽古している。その場合は利き手争いから始まるのが常であった。稽古の場合、右に組み止めると久蔵が投げ勝ち、左となると福永の左跳ね腰が威力を発揮する。これは当然のことで、久蔵が六人を抜き、七人目の福永と対したときも、誰もが左右の利き手あらそいを予想した。
ところが久蔵はふわりと福永の左を受け入れたのである。得たりや応と福永は踏みこんで来た。とたん、久蔵の長い脚が|一閃《いつせん》し、
「タィシェ」
という気合いがほとばしった。出足払いである。福永は足技でこれほどにも体がとぶかと思われるほど痛烈に宙に舞い、はげしく畳に落ちた。二段一の剛の者も、久蔵の誘いに乗って奇襲に敗れたのである。
七人を抜いた。もはや抜群といってよかった。月次試合で特例の昇段をしているから、このたび成績抜群であっても昇段ということはないであろう。しかしこんどの紅白は二段が相手である。初段相手の成績抜群とは質が違う。
――大将の杉村さんにだって負けない――
心底そう思った。二段の強豪を七人破った自分は三段の実力が優にある。
杉村陽太郎は五尺九寸(一七九センチ)二十五貫(九四キロ)の|巨躯《きよく》であった。対する久蔵は五尺二寸五分(一五九センチ)十四貫(五二・五キロ)、まさしく大人と子どもと言っていい。
組み合ったとたんの小外刈は杉村には通用しなかった。跳ね腰、支え釣込足、|体落《たいおと》しと矢継ばやに掛ける技も、わずかに敵の体を浮かすだけである。逆に杉村の放つ浮腰、大腰の大技は久蔵を|翻弄《ほんろう》するごとくに舞いあげた。久蔵は懸命に腰に抱きついたり、とんで相手の腰からのがれたり、技が決まりそうなときは辛うじて|腹這《はらば》いにおちて一本をまぬがれた。
杉村の浮腰が来た。こんどこそ止めを刺そうという|気魄《きはく》がありありであった。しかしこのとき、久蔵には杉村の動きがひどくゆっくりと見えた。それで間合いをはずし、腰をずらして背後にまわると腕を首にからめた。杉村は浮腰の動作を続ける。腰をはね上げたとき、久蔵は杉村の背に乗り、猿のように杉村の首にしがみついていた。
棒立ちになったまま、杉村は少しうめいた。絞めが入っている。久蔵はさらに力まかせに絞めあげた。杉村の顔がみるみる赤黒くなった。このとき久蔵の頭には、
――立たせたままで落とす――
という考えと、
――死んでも投げとばされない――
という考えとがあった。
立ったまま悶絶したのではたまらない。杉村はまとわりついた久蔵の背骨をへし折る勢いで仰向けざまに倒れた。しかし猫背になった久蔵の背中はさほど音をたてなかった。久蔵は倒れたまま絞めを続けた。そのとき嘉納治五郎の、「それまで」の宣告があった。
「一本、杉村の勝ち」
意外であった。久蔵は、攻めているのは自分だと思っている。まちがいなく杉村は苦しまぎれに倒れた。落ちるのも時間の問題だったのである。
「背中がついたからな」
不満そうな久蔵の顔を見て、同じ白軍の入来重彦三段が言った。仙台二中時代の久蔵の師匠格である。今は二高を出て、杉村と同じく東京帝国大学の学生となっていた。副将である。ちなみに白軍の大将は早稲田大学を出た佐竹信四郎四段であった。
――絞めながら背中がついた――
それによる負けは初段になるときに半田初段からも喫している。しかしあのときも敗れたという気持はなかった。肩に乗せられながらも、攻めているのはこちらだという意識がある。おとなから追われ、どなられても、逃げおおせればこちらの勝ち、という悪童時代からの発想である。ただぶざまに投げられはしない。首にしがみつかれ、遠慮したりひるんだりして投げかねるのは、けっきょく相手が弱いということだ。投げるなら投げるがいい、こちらは投げられながらお前の首をへし折ってやる。そういう気魄で絞めるのだから、どうしても負けたとは思えないのだった。実際、後年にはこういう形で倒れた場合は、絞めている側の勝ちと審判規定に明記されるようになった。
「それはやっぱり久蔵さんの勝ちだ」
試合のようすをきいた栄七郎は、牛飯のあとの茶をすすりながら久蔵を持ち上げた。
「なあ、久蔵さん。おらも久蔵さんのように強くなるように柔道を教えて|呉《け》ろ」
しかしこのとき久蔵は、精神修養ということばを思い出していた。
嘉納治五郎は、明治十五年六月、東京・|下谷《したや》北稲荷町の永昌寺で、書生の山田(のちの富田)常次郎一人を相手に講道館柔道を始めた。それまで柔術と呼ばれていたものを柔道とあらためたのは、「術は付随したものであり、かつ道に入る手段であるということを明らかにするため」(「嘉納治五郎著作集」)である。
嘉納はさらに、
柔道は活社会の活道である。人の心身に偉大なる活力を与え邁進奮闘の元気となって立身立功の基礎をなすものである。今これを最も簡単につづめて言えば、
(1)体育の方法としての効果
(2)防衛制御の術としての効果
(3)精神修養としての効果
の三方面に分かつことができる。(同前)
と言っている。精神修養としての効果をも重視しているのだ。そして、柔道修行の究極の目的は「己を完成し世を補益する」ことであった。
折にふれて聞くこのような嘉納治五郎の考えはいかにも学者風で、若い久蔵を|芯《しん》から納得させていたわけではない。理屈はどうあってもこちらは強くなりたいし人に負けたくなかった。もともと柔道は格闘技であり、防衛制御の術であると共に攻撃打倒の術であったのだ。強くならなければ話にならない。実際、勝負に対して|恬淡《てんたん》なものは、こうして見ていると、いかに素質がすぐれていようとも|覇者《はしや》とはなれないようである。
精神修養は二の次と考えていた。
しかし田舎風丸出しの栄七郎と同居をしてみると、その野蛮さ、教養のなさには|辟易《へきえき》するばかりである。久蔵にしても決して上品とはいえなかったが、考えてみれば中学、早稲田、慶応と学校生活を続けて来ているし、講道館はまさに修行の道場であった。久蔵がいかに修養には上の空であっても、講道館の行事、しきたり、稽古には、その精神が宿っている。栄七郎は昔の久蔵そっくりであるはずであったが、今となってみればうっとうしくて仕方がない。
「柔道は修行だぞ」
と何度も念を押した。
「こうなったらおらが嘉納先生におねがいして入門させていただくが、変なことをしたら破門だ。そのときは力になってはやらない」
「大丈夫だ。入るさえ入れば」
それで野里栄七郎も講道館に入った。
栄七郎に居候をされ、彼の勝手さに内心|呆《あき》れたりはしたものの、考えてみると、自分も親に対し、これ以上の勝手はないほどに裏切りを続けている。精神修養も柔道のうちならば、親兄弟をあざむき続けている自分も|偏頗《へんぱ》な柔道家ということになるのだった。
父に手紙を書いた。医者にはとてもなれないこと、実業家になることもむずかしいこと、何よりも勉強する気になれないことを、何とか正当化して書こうと苦心した。それを読んだ父親からは激怒の手紙と共に勘当の宣告が来た。
東京は戦勝気分で沸いていた。日本海海戦の直後にははでやかに|提灯《ちようちん》 |行列《ぎようれつ》が行われたし、戦勝記念の「ほまれ」という煙草も売り出されてもてはやされていた。山手線複線化の工事もすすみ、秋口には渋谷新宿間が開通するとのことである。
しかし久蔵はぬきさしならぬ立場に追いこまれてしまった。もはや久慈の米問屋、三船の三男坊ではない。勘当となれば|天涯《てんがい》孤独、身よりも金づるもない浮浪人同然である。
一方栄七郎は講道館に入門できて大満悦であった。身長は五尺九寸、久蔵を紅白試合で破った杉村陽太郎三段なみの体格である。加えてばか力があった。柔道は小よく大を制する技であるが、初段の小の者たちは、この講道館一級の格付けをされた栄七郎によってひねりつぶされるように畳に這わされた。
久蔵が稽古をつけてやっても筋がいい。これでは技を身につけ、精神修養も心がければ、地方の柔道教師も夢ではなかった。
ところが栄七郎は生活の心配をする気が全くない。久蔵への送金が途絶えてもいっこうに働く気がなくて、無一文の久蔵のところに居候し、ひたすら柔道にはげんでいた。だから腕だけはあがる一方である。久蔵は一年ちょっとで初段になったが、栄七郎もそれぐらいでなれるかも知れなかった。
八月のはじめ、久之丞から旭館あてに手紙がとどき、さすがに旭館でも二人の文無しにただ食いをさせるのをやめた。久之丞の手紙は、「息子は出世払いのつもりで世話になっているのであろうから、親父のわたしが下宿代を払うつもりはない」というものであった。
宿の食事は一人分だけになった。仕方なしに栄七郎と分けて食べた。足りるわけがない。何日もひもじい思いをしながら講道館に通った。しかし、一人分の食事にしろ、下宿代は払えるあてがない。寝具や目ぼしい家財道具はほとんど売り払ってしまった。
栄七郎に頼られたときはいい加減な奴に見こまれて困ったと思ったものであったが、こんどは自分が背に腹が代えられなくなっている。早稲田の予科時代の友人で現在も親しくしている平田隆三郎に頼ることにした。平田は同情し、自分も下宿を引き払って新しく駿河台の甲賀町に一軒家を借り、共同生活をすることになった。栄七郎もそれについて行ったが、二、三日で気がさしたか、ふらりと姿を消してしまった。何しろ夜具がない。夜は新聞紙を敷いてその上に横になるだけであった。飢えは一個六銭のパンと塩、それに水だけでしのいだ。
平田と智恵をしぼり、新聞を出すことにした。広告だけの新聞である。平田は文才がある上に金づるもあって、その新聞を発行するための資金ぐりをして来た。そして「懸賞新報」と名づけたこの新聞は成功するのである。商人の息子として育った久蔵は、いざとなれば金もうけの才能も蓄財の素質もあるのだった。二人きりの会社だから、二人とも営業、執筆、編集とすべてを手がける。久蔵の文章も捨てたものではなかった。
新聞の発行のため、八方とびまわりながらも、久蔵は稽古を欠かさなかった。柔道がこの上なく好きである。すべての生活は柔道のためであった。
――柔道ひとすじ――
勘当されたことでその路線は決定された。仕送りを受けずに自力でその道を歩んで行く。苦しいけれども希望があった。
講道館で、身を持ちくずした故にあたら才能を開花させることなく終わった人間や、生活苦の故に修行の|頓挫《とんざ》した者の話は、枚挙にいとまがなかった。山嵐の西郷四郎でさえ、嘉納館長渡欧中の規律|弛緩《しかん》の責任を問われ、|放逐《ほうちく》されたという。久蔵にしても勝手|気儘《きまま》、負けず嫌いのはげしい気性であることは自覚しているが、放縦の果ての|落伍《らくご》はもちろん、生活苦の故の脱落もしたくはなかった。
「懸賞新報」は、紙面全部を読まなければ解けないような問題を読者に対して出すという趣向のものであったが、これがあたり、一部十五銭でよく売れた。その上、白木屋、三越、大丸、松屋、松坂屋などで出してくれる広告料が大きい。日本橋大伝馬町に月八十円で店舗も借りた。調子づいて「はやり髪」という、化粧品関係の雑誌を出し、それでももうけをうみ出した。後年、久蔵は長兄平吉と共に、池袋の菓子工場を買収し、その経営にもたずさわるが、久之丞ゆずりの商才、蓄財の才はたしかになみなみでないものがあったのである。
新聞雑誌発行人として柔道もやる。いや、柔道をきわめる修行のために新聞雑誌を発行しているのであった。
講道館の稽古にも顔を出さず、まったく消息を絶っていた栄七郎の顔を見たのは、別れて三か月目、東京にも木枯しが吹くようになった十一月中ごろである。場所は警察の留置場であった。
久蔵を認めると、鉄格子の中の栄七郎はわあわあ声をあげて泣いた。
「やくざの手先だということがはっきりしているのに、講道館の者だといってきかないのだ」
案内の巡査は言った。聞くと栄七郎は、やくざに頼まれ、神保町の質屋に金を取りに行ったのだという。ところが質屋には、やくざに金を渡すいわれがなかった。やくざとしても、ちょっとしたおどかしかいやがらせのつもりだったらしい。知らせを受けた警察では、巡査を数名張りこませた。そこへ栄七郎が現われたというわけである。
店先で仁王立ちとなった栄七郎は、番頭に、
「金を出せ」
とせまった。とたんに巡査がとびかかってとらえようとしたのだが、栄七郎はだまってとらえられはしなかった。腕には覚えがある。当て身をくらわせ、|蹴《け》りをくれ、肩車、払い腰、足払いと暴れまわった。店の者の通報で援軍を繰り出し、やっと逮捕したのだという。
「勘弁してください」
と久蔵はあやまった。
「この男が野里栄七郎でわたしの友人であり、講道館に入門している一級の者であることは事実です。どうか許してやってください」
巡査は少しは軟化したが、許してはくれなかった。
「これから取り調べがあるし、何よりも背後関係を吐いてもらわなければ、出してやるわけには行かない」
という。
久蔵は横山作次郎のもとへとんだ。講道館の者が警察|沙汰《ざた》をおこしたとき、警察に顔のきく横山が奔走して無事に済ますことがあるのを、久蔵は知っていたのだった。
横山のはからいで、栄七郎は十日ほど留置場におかれただけで出された。しかし即刻破門であった。五か条の誓文の第二条には、
「御道場ノ面目ヲ汚シ候様ノ事一切仕間敷候事」
とあるが、栄七郎は新米の身でそれをおかしてしまったのだ。
文無しで上京した栄七郎は。文無しのまま、せっかくもらった講道館一級の資格も|剥奪《はくだつ》されて久慈へ帰ることになった。
「柔道は修行だぞ」
と諭したことばも今はむなしい。
せめてと鉄道馬車で送り、上野駅で別れる際に栄七郎ははじめて久蔵に|詫《わ》びをした。
「久蔵さん、大した迷惑をかけてしまって」
「迷惑なんて何でもねえ。それより、お前にも、二段ぐらいとって柔道の先生になってもらいたかった」
「泥棒は先生になれねえ」
栄七郎は唇をゆがめた。
「何だ、泥棒って」
「|辻《つじ》投げをやった。だって、横山先生だって昔やったそうだ」
血気さかんなころ、横山が辻斬りならぬ辻投げで腕だめしかたがた小遣銭をせしめたということは講道館の語り草になっていた。しかしそれにしても御一新の|余燼《よじん》がまだくすぶっていたころの話である。それをいまやるというのが、栄七郎の単純でおろかなところだ。
「ではおらと別れてからは、ずっと辻投げで食べていたのか」
「五、六回それをやって宿屋ぐらしをしていた。でも、そのうちにやられた」
「誰にだ」
「それは久蔵さんにも言えねえ。おそろしく強いやくざの親分だった。それを知らねえでかかったらやられた」
「それから子分になったというわけか」
「まんず、そうだ」
運が悪かったということであろうか。しかし栄七郎だったらどっち道、このような成行きにしかならなかったという気がした。栄七郎は、その親分に義理だてするためか、あるいはふたたびそこへもどされるのを恐れてか、とうとう背後関係についてはまったく口を閉ざし通しであったという。
「久蔵さん。おらの分もがんばって、日本一になれな」
栄七郎はいっぱし|浪花《なにわ》|節語《ぶしがた》りのようなことを言って線路の向こうへ消えて行った。
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7 訃  報
ずいふん長い時間をかけて紺野は原稿を読み終えた。その間に、妻のつけた酒を飲んでいるから、紺野もわたしも少し酔っていた。
「このあとは書き継がないんですか」
「ちょっと単調になってきたんでね。それに、わたしは教師だから、どのような環境や教育が三船十段のような名人をつくり出したかに興味があったのだけれども、何かその辺も割れてしまった気がする」
「どういう教育ですか」
「小中大学と、教育はむしろ拒絶した方じゃないか。早稲田も慶応も中退だし。やっぱり幼児期の教育の影響が強いのだろうね。久之丞の」
「愛情ですか」
「まあ、そうだ。しかし一方、やる気は充分に育てていると思う」
「むつかしいですね」
「うん。やっぱり天才は教育と別に考えた方がいいのかも知れない。とにかく図抜けた才能があったことはたしかだ。何しろ、中学で柔道を始めたとたん、師範格になるんだから。講道館に入門したときも、最初から強かった。だからこの小説のあとは、稽古、研究、昇段のくりかえしです」
「しかし三船十段なみの素質の人は、講道館にはたくさんいたのでしょう」
「それはいた。だから、その中でも一番になろうという執念が人一倍強かったということが言えると思う」
「そういう点では、野里栄七郎一級は失格ということになりますね」
「そう。結局は継続できなかったわけだから。それから、体つきは似ていたが、妻の弟の茂も落第だね。死んでしまっては話にならない」
「あれ、死んだんですか」
紺野はびっくりした。
「失礼。実はこの原稿を読み返しながら、そのことばかり考えていた」
妻が、
「自殺なんです」
と放り捨てるように言った。紺野は応答に困ったように一瞬口をつぐんだが、やがて、
「たいへんでしたね」
と気の毒そうに言った。
「生命力がなかったんです。どうにも仕方がなかった」
生命力がないから死ぬというのは何の説明にもなっていないが、それよりほかに言いようがなかった。
「紺野先生もスポーツマンだが、弟の茂も万能選手だった。おとなしいしまじめだし、ほんとうに惜しい男でしたよ」
「三船十段とはむしろ正反対ですか」
「そう。やっぱり気が弱すぎたと思うね。一方、日本一になるというような人は、それなりの|あく《ヽヽ》の強さがあるとか、一癖も二癖もあるとかしなければならないんじゃないか。それに好きであることね。三船十段は三度の飯よりも柔道が好きだったらしい。だから、このあと、五段になっても六段になっても十段になっても稽古をやめなかった。病床では、入院は寒稽古よりもつらいと言っているそうだから、そういう点では寒稽古も暑中稽古もけっこうきびしかったはずだが、日本一になろう、あるいは日本一を継続しようという目標があるから耐えられたし、何よりもやっぱり柔道が好きだったのでしょう」
「好きこそ物の上手なれですか」
「そう。しかも尋常でない好きさね」
紺野とそういうやりとりがあった数日後、三船十段はとうとう|逝《い》った。さきに「三船十段病む」と報じた朝日新聞にはつぎのような|訃報《ふほう》がのった。
「寒ゲイコよりつらい」と老いの身にムチ打って病とたたかってきたわが国柔道界の長老、三船久蔵さんは、二十七日未明、郁子夫人(七二)、ムコ養子の貢司氏(五六)絢子さん(五〇)夫妻ら親類の人たちにみとられて、静かに息を引き取った。
昨年十二月一日から入院していた東京・神田の日大付属駿河台病院の六五七号室は、連日つめかけた柔道関係者らの見舞客が持ちこんだ花が廊下まではみ出して、故人への信望を示していた。
同日午前二時半ごろ、最期の脈をとった同病院の梶原長雄主治医が、目を赤く泣きはらした看護婦を従えて病室を出てくるなり、ひとこと「ただいま、おなくなりになりました」と目を伏せた。
ここ数日、酸素吸入、リンゲル注射と、柔道一筋にきたえぬいた体を、ほとんど気力だけで持たせていたという三船さんだった。
「おどろくほどの生命力でした。わたしにも、たびたび再起してやる仕事があるから……と気丈なことをいわれ――」と梶原主治医。
しのび泣きのもれる病室を背に、三船さんのオイに当たる前講道館審議員白井清一九段も「ほんの一週間前までは看護婦さんに冗談をいうほどの元気だったのが。苦しいなどとはひとこともいわずに……」と肩を落とした。数日前には、つききりで看病の郁子夫人にノートを待ってこさせ「自他共栄」とか「無」「中心帰一」などと無心に書き、枯淡の心境をあらわしていたという。
午前六時過ぎ、なきがらは家族につきそわれて東京・板橋の自宅へ。オリンピックにちなんで名づけ、元気なころはよく散歩に連れ歩いたという愛犬「オリン」と「ピック」も、主人の写真の帰宅をさびしげに見守っていた。
午前九時ごろから、死去の知らせを受けた門弟の栗林友二栗林商船会長など講道館関係者や親類縁者がつぎつぎに訪れ、控えの間には故人をしのぶ人たちがふえていった。
正午前、講道館の嘉納履正館長も弔問、焼香。郁子未亡人から、
「最後まで講道館のことを思っていたらしく、昨夜も柔道着に着替えるつもりだったのでしょうか、パジャマのボタンをはずすしぐさをしながら、コウドウカン……コウドウカン……などと、とぎれとぎれにいっておりました」と聞いて、ことばもなく目をうるませていた。
詳報であった。それだけ三船十段は話題の柔道界の重鎮だったということになる。
分校の山には雪が降りつづいていた。土地の者たちは、冬休み明けの方がかえって雪が多く、子どもたちがかわいそうだと言う。
のんのんと雪は降りしきる。それを見ながら、これで茂も三船十段も、久慈生まれの脚の長い小柄な人間はいなくなってしまったとわたしは思った。
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8 日本一の声価
久蔵が三段になったのは、明治三十九年一月十四日、鏡開きの日であった。講道館は創始以来、門弟から月謝をとっていない。それで門弟たちは、元日から七日までの間に、嘉納館長への謝礼のつもりで道場へ|餠《もち》を持参した。正月の第二日曜日にそれを切り、油であげて、みんなで食べるのが講道館の鏡開きであった。
当日は、まず嘉納師範から門弟たちに対し、年頭のあいさつと講話があり、つづいて門弟代表が賀詞を述べる。このころは富田常次郎とか横山作次郎など、高弟が代表した。
そのあと、師範が昨年においていちじるしい進歩を示した者、稽古熱心だった者、新しい技を編みだした者等を名ざしで賞揚し、その者たちに乱取りを行わせたり、型を演じさせたり、試合をさせたりする。そして特にすぐれた者は昇段を許されるのである。
このとき、久蔵は、昨年の紅白試合の抜群のはたらきをほめられた。二段昇段の直後、新井二段ほか六名を抜き、大将の杉村陽太郎三段を絞めながら、後にひっくりかえられて負けた試合である。
三段になったのは、二段昇段後わずか十一か月であった。三段昇段が日本一の柔道家となるためのとりあえずの目安であった。入門したとき、前田光世など、三段の者たちが実力の上で最高峰と知ったからである。それが入門三年たらずで達成された。年齢は満二十二歳九か月である。力がみなぎっている。もはや誰と立ち合おうが負ける気はしなかった。
前田光世は久蔵が入門した翌年、富田常次郎と共に柔道指導のために渡米し、富田が帰国してもそのまま向こうに残っていた。その前田とやったとしても勝算は充分にあった。
前年の成績のよかった者の模範演技が終わったところで|御神酒《おみき》がまわし飲みされる。|大盃《たいはい》になみなみと御神酒をつぎ、まず嘉納館長が飲む。それから富田常次郎、山下義韶、横山作次郎と高弟が口をつけ、そのあと久蔵たち実力者から初心者へとまわってゆく。その間、最初についだ酒がなくなることのないよう、注意しながら飲む。一杯の酒を全員でわかち合うという同門意識を、年頭においてあらためて確認するためである。二まわり目からはつぎ足しては飲み、つぎ足しては飲みしてもよい。
久蔵はこころよい新年の酒を味わった。日本一はほとんど目前と言っていい。
強さに自信のある久蔵は、乱闘もよく演じた。これは持って生まれた性分である。|喧嘩《けんか》好きであるために柔道家になったというところもある。加えて三日間だけ内弟子となった師匠の横山作次郎が、無類の喧嘩好きと来ている。横山は、喧嘩のたねをつくるためか、|傲慢《ごうまん》な性格のせいか、道のまん中を歩いて、向こうから馬車が来ようが人力車が来ようがゆずることがなかった。いわんや人間には絶対ゆずらない。このような横山と一緒に歩いていては、喧嘩をするなという方が無理なくらいである。
横山は今文という小川町にあるすきやき屋でよく食事をしたが、ここで酔いどれ相手の喧嘩をすることも多かった。横着な酔っぱらいを三船がとがめて投げとばし、それをいかって仲間たちがかかって来ると、横山も加わって片っぱしからのばしてしまうというのがそのパターンである。
あるとき、やはり今文の二階の座敷で飲んでいたとき、小用に立った久蔵がかえりに十数人で宴会をやっている者の一人に喧嘩を売られた。
「横柄な|面《つら》ァしてその辺をのし歩くんじゃねえぞ、小男のくせに」
少々尊大な顔をし、目つきがするどいのは昔からである。それを咎められて喧嘩となるということも珍しくはなかった。久蔵はさっそく喧嘩を売って来た男を投げとばした。仲間たちが色めきたち、たちまち乱闘となる。久蔵は当たるをさいわいなぎ倒すが、テーブルに背中を打ちつけて気絶した者とか、壁に投げつけられて怪我をした者でもなければ、倒れても倒れても起き上がって向かって来る。ちょっと持て余し気味になると、それまで見物をしながら|盃《さかずき》を口にはこんでいた横山が立ち上がった。
「あとはわしがやる。三船は下へまわって庭で待っておれ」
久蔵が階段をおり、庭に出ると、すでに二、三人が二階から放り投げられてもがきながらうめいている。なるほど、畳の上で投げられても起き上がる奴は、このように外へ放り投げれば一発でまいるのだ。
「三船、ついでにそいつらを池に投げこめ」
横山は二階の廊下に仁王だちになって叫んだ。言われるとおり、久蔵はすでに戦意をなくしてしまっている連中をそばの池に放りこんだ。
「それ、もっと行くぞォ」
横山は片っぱしから酔っぱらいを投げおろす。久蔵はそれを受けとめて池に投げこんだり、ぶざまに落ちて|痙攣《けいれん》しているのを池に蹴落としたりした。相手を殺してしまいかねない喧嘩である。
とうとう十数人全員が池にたたきこまれてしまい、横山と久蔵が二人で飲み直していると数人が詫びに来た。
「いったいどちらの親分さんで」
「ばか、やくざではない。講道館の者だ、横山だ」
その名を聞くと一同はふるえて逃げ帰り、翌日はその者たちのそれこそ親分が、子分たちの無礼を詫びる使者を講道館につかわした。
鉄亜鈴で腕力をつける。この鍛錬法は嘉納館長もとり入れていた。鉄で下駄をつくり、それを履いて足払いや大外刈の型の練習もした。ろうそくを何本も立てておいてするどく足を振る。その勢いで炎を消すこともこころみた。仲間同士、帯を短くして背中合わせになって首にかける。そうして置いて一方がかがみこんで一方を背負い上げる。その姿勢のまま何歩あるけるか。これは絞められた場合のための、首やのどの鍛錬になった。
しかし、久蔵は部分的な力の鍛錬よりは、稽古による技の練習が結局は何ものよりもまさることを知っていた。たとえば寝技に熟達しようとすると、立技では絶対勝負しない。いかに投げられようがとばされようが、寝技で勝負をつけることを心がけた。
明治四十年五月、春の紅白試合のあとに四段になった。それを待っていたように、講道館では先輩に当たる杉村陽太郎が久蔵を一夜、四谷の三河屋という料亭に招いた。酒を酌みかわしながら杉村は言った。
「三船君、僕のあとをついで、東京帝大の柔道教導(師範)になってくれないか」
杉村は外交官となってフランスに行くことが決まったのだという。それまで杉村は学生でありながら帝大の教導を兼ねていた。
四段になれば無敵も同じであった。杉村陽太郎からもよほどのことがない限り一本をとられることはない。腕には自信があったが自分はまだ若輩だという遠慮があった。それで、
「まだ若いのでどうでしょう」
と言った。
「帝大には僕より年上の学生も多いわけですから」
久蔵は満で二十四歳一か月である。
「何、教導をしている間に学生はどんどん若返って行く。そのうち、|年恰好《としかつこう》だって似合わしくなるさ。何よりも君は技が切れる。もう講道館一と言っていいだろう。僕はそこを見こんでいるのだ。同郷のよしみもある。ぜひ引き受けてくれたまえ」
押して乞われるとことわりきれなかった。以前から柔道家は柔道で暮しをたてるものだと思っている。すでに二、三の実業家から頼まれて、個人的な指導も始めていた。教導に踏み切ることにした。
「ありがとう。これで僕も安心してフランスに行ける」
杉村はにっこりした。
久蔵が東京帝大の教導となったと知ると、ほかの学校からもつぎつぎに申しこみが来た。そしてついには明治大学、日本大学、国学院大学、東洋大学、早稲田中学、赤坂中学、東洋商業などの柔道師範を引き受けることになる。ひとりではまわりきれないので、下宿に書生をおいて指導を手伝わせるようにもなった。
こうして久蔵は柔道専門家としての道を歩み始めるのであるが、師範としての評判のみでなく三船強しの声価がたかまり、日本一と紙上で評価を受けるのは明治四十五年のことである。その年三月五日の朝日新聞は、つぎの如くに報じた。
講道館柔道ならざれば、柔道にあらざるかの如き観をなして、今は|春辺《はるべ》と全盛の栄華の夢に|耽《ふけ》る講道館嘉納門下の一万有余の子弟中を物色して、新進気鋭の花形役者に、勇猛一代の誇りとすべき強者四人を獲た。横山、山下、永岡、磯貝の東京京都の七段の指南役たる所謂大家を除いて、此の我等が挙げんとする新人四人に、試合場裡に於いて|敢《あへ》て敵する者はあるまい。此の四人は日本の国技柔道の選手として無上の名誉と責任とを有つてゐる……
五段三船久蔵は四強の随一である。身長五尺二寸五分、体重は十五貫に足らぬ小男であるが、全身に|溌溂《はつらつ》なる精気は|迸《ほとばし》つて、技の霊妙神速にして猛烈窮むる所を知らず。講道館初期の鬼才五尺二分の西郷四郎も物かは、真に近代の柔道に一大エポックを作らんとしてゐる。今春の鏡開きにも眉青く|眼《まなこ》爛々たる三船が虚を窺つて発する気合には、道場着を掴む手も仕掛ける足腰も唯風の動くが如くにして、角力取に見まほしき六尺豊かの肥大漢三段草場は、ころりと転げ廻つて居つた。|而《し》かも三船は|唯僅《たゞわづ》かに|笑《ゑみ》を洩らすのみなるに、早くも草場は流汗|淋漓《りんり》、玉を為してゐた。講道館の対外試合に百戦百勝し、嘉納師範を助けて今日の講道館あるを得せしめし横山指南が、近来健康勝れず、漸く老いんとする此の頃、彼れ三船五段は有段者の稽古を預り、行くは講道館を背負つて立たんとする有様である……
このあと、記事は久蔵の寝技のみごとさにふれ、四段の宮川一貫が立技ではどうにか防げても、寝技となるとまったく太刀打ちできなかったことにふれている。
また翌日の新聞にはつぎのようなエピソードがのせられた。
三段門脇誠一郎は講道館の力持である。講道館道場の二階に武者修業せる彼は、日夜通常の人が両手にてやうやく挙げ得る位な鉄亜鈴を振るひ、訪客が机の側の薬瓶を見て、何の|病《やまひ》かと問へば、何に|次亜燐《にありん》ですと、強烈なる身体に始終鉄剤を用ひて居る。稽古後には、講道館裏口の井戸側の、柔道界の人には有名なる力試し石を悠々指し上げる。石の重さは二十五貫と云つた。日曜等には亀井戸辺へ遊び、境内の四十三貫の大岩石を|荷《にな》ひ、帰つては|鶏卵《けいらん》を十箇も一|丼《どんぶり》に解き|啜《すゝ》る。又雀位の小鳥等は両脚を持つて引き裂き、生食する等、体力中心の動物的生活をやつてる。……中略……三船一日門脇を稽古せる際、ゆくりなくも三船は得意の寝技にて強猛無比の門脇を押へ込んだ。門脇は起きんとする、三船は起させじとする刹那、門脇全身の猛力を集めて最後の活躍を試みんと、オツと叫んで身を躍らせたるに、|肋骨《ろつこつ》二本、自身の蛮力に堪へずめりと音を立てゝ折れた。しかも三船の押さへ込みは破るに由なかつた。見る人聞く人|悉《ことごと》く今更三船の寝技の精妙と門脇の強猛なる獣力には怖れ|戦《をのゝ》いたと云ふ。実に五段三船は近来の寝技家である。
又三船は、道場に出でず、稽古を休むこと数日なるも、彼は日夜工夫を重ねて新技を考へ出さんとしてる。彼が案出せる柔道の新手は甚だ多数に上つてる。|出足払《であしばらひ》に似たる|小外刈《こそとがり》等も、未だ確たる名称はないが三船の新案と聞いた。此頃の鏡開きにも宮川の腕を|荷《にな》つてくるりと|転《ころ》げ廻り、遂に押さへ込みに変化した技等も奇々妙々、名前の知れぬ珍手である……
敵の意表をつく勝負師根性がつぎつぎに新手を誕生させて行った。のちに久蔵は、
「僕を小さく生んでくれた母親に感謝する」
と言うようになるが、小さいからこそ、技の研究に懸命にならざるを得なかった。柔よく剛を制し、小よく大を屠る柔道の本質に、久蔵の体が似合わしくできていたとも言える。その結果、体力腕力に頼る草場三段、門脇三段のような大男を寄せつけない強さを獲得したのである。
体の大きい者といえば力士が連想されるが、久蔵はその力士とも対戦することがあった。しかしこれは、広瀬武夫がロシヤの大男を相手にしたようなもので勝負にならない。その証明のように、久蔵が自分の倍近くもある力士を、今まさに肩車で放り捨てようとしている当時の写真がのこっている。
また、道場で何度も投げられたせいであろう、少しは柔道の心得もある平ノ石という力士が、
「どんな三船先生でも、わたしが後ろから抱きあげたら、宙に浮くでしょう」
と言った。
「ではやってみよう」
と久蔵は後ろ向きになった。すかさず平ノ石は抱きかかえにかかる。とたんに久蔵の体はすばやく旋回し、後ろ跳腰の逆回りを演じていた。平ノ石の巨体は魔術にかかりでもしたように遠く高くとんだ――という。
格闘技であるから、柔道と相撲はどちらが強いかとか、レスリングとではどうか、ボクサーと立ち合ったらどうであろうかなど、世間の者たちは素朴な興味を持つ。それにこたえ、明治のころには柔道と相撲、柔道とボクシングなどの試合の行われることがあった。久蔵の場合は平ノ石と立ち合って相撲を問題にしなかったが、柔道家のすべてがそううまく行ったとは限らない。
野里栄七郎同様、久蔵を慕って上京した久慈出身の権藤雄作は、講道館の中でも少しは目だつ強い人間であったが、外人ボクサーと試合をして肋骨を折り、それがもとで大成しないでしまった。
さて、先ほど引用した記事の最初に、久蔵は四強の随一と書かれたが、それに続く者に半田義磨四段、高橋数良四段、中野正三三段がいた。
半田義磨四段は、久蔵が入門した当時、秋の紅白試合に甲組(一級)でありながら甲組の副将、大将を抜き、さらに初段も四人抜いて、七人目に出会って敗れた、当時の半田初段である。
高橋数良四段は明治十八年香川県生まれで高松中学出身、菊池寛や三木武吉と同窓である。講道館に入門後は久蔵同様、横山作次郎にかわいがられ、裏取り(返し技)の名手と呼ばれている。
中野正三三段は明治二十一年新潟県生まれである。久蔵よりは二年おくれて三十八年に講道館に入門したが、左右の跳ね腰が得意で、特に明治四十二年、三段となってからはその強さは無類となった。のちの石黒敬七八段は、中学時代にこの中野の豪快な投げ技(跳ね腰ではなくてつかみ投げとでも言うべきもの)を見て、石黒流空気投げを発明する。
以上、三船久蔵五段、半田義磨四段、高橋数良四段、中野正三三段が当時の四強であるが、その少し前、明治四十三年ごろには、「三尊、二烈、三柱」ということが言われていた。
三尊は三船五段、徳三宝四段、半田義磨四段である。続く二烈が高橋数良四段、中野正三三段。そして三柱というのは、この五人の現役の大先輩である山下義韶七段、横山作次郎七段、それに大角圭巌という四段である。
五人の現役のうちから、のちの四強に一人抜けているが、それが徳三宝という個性的な男である。
徳三宝は明治二十年、鹿児島県生まれで五尺七寸八分(一七五センチ)二十三貫五百(八八キロ)という、当時としては大兵肥満の男で、鬼横山の再来と言われた。二十歳のときに白帯で講道館に入門し、足掛け四年で四段になったという豪の者である。久蔵は才能のある弟子としてこの徳三宝に特に目をかけ、三宝のメモによれば、四年ほどの間に三千九百本余りの稽古をつけている。大は小によって磨かれたのである。
もっともこの徳三宝、明治四十三年に破門されて九州に帰った。力にまかせての粗暴なふるまいと、在学していた高等師範でのカンニング問題が嘉納師範の|逆鱗《げきりん》にふれたのである。久蔵は傷心の三宝を新橋駅まで送り、因果を含めて切符を買い与えた。久蔵は個性が強く、嘉納師範に対しても、
「先生のおっしゃることは嘘だと思ってきいていますから」
などとさからい、指示に従わないことも間々あった上、
「わたしは生涯、上司というべき方を持たなかった」
とも言い放つほどであったが、師範の柔道の創始者としての識見には心服していた。
この徳三宝とは、横山作次郎と一緒のときのように、よく飲みに行ってはやくざと喧嘩をした。何しろ久蔵の目つきがするどい上に徳三宝の人相がいかついから、いやでもやくざの標的となってしまうのである。
ある晩、浅草で十人近くの者たちが喧嘩を売って来た。
「本気でやるとか、貴様ら」
徳三宝が肩をそびやかして|吼《ほ》えたとたん、久蔵はひらりととんで電柱の蔭に姿をかくした。十人ていどなら、徳三宝一人で片づけられるのだ。
「それ、たたんじまえ」
「どぶへつっこんでやれ」
やくざたちはつぎつぎにおどりかかるが、徳三宝は苦もなくつぎつぎに放り投げる。乱闘ではなく、大人と子どもの十人|掛《がけ》のようなものだ。
徳三宝一人によって十人ほどのやくざがへこまされているところへ久蔵があらわれて、一人の腕をひしいだ。もうかなわないと思っているところへ、さらにこわい目つきの男が加勢に現われたのだから、相手はすっかりおびえてしまう。死にそうな悲鳴をあげるのを、構わず腕が折れるほど絞めつけ、投げ倒し、蹴とばしてまわる。鬼の徳三宝にしても、|嗜虐性《しぎやくせい》はたっぷり持っていた。死の寸前まで、やくざたちをいためつける。
この夜は、通報をきいて車で駈けつけた親分が詫びを入れ、あらためて二人を料亭に案内してごちそうした。そして、
「精神修養のため、子分どもに柔道を教えてください」
と頼みこんだ。
「精神修養のためならいいでしょう」
と、久蔵、三宝は、いためつけた子分たちの指導を引き受ける。
しかし、親分はまったく気持がおさまっていたわけではないらしく、よほど酒がすすんでからだしぬけにピストルをぬいた。それをつきつけ、
「いかな柔道の先生でも、このピストルにはかなわねえでしょう」
と薄ら笑いを浮かべる。
「さあ、どうかね」
と久蔵も笑って首をかしげて見せた。
「ねらい定めて撃ってみなさい」
「いいんですかい」
親分はあらためてピストルを構えた。とたんに久蔵は親分の腕を払いあげて寝技におさえこんでいた。手練の久蔵からおさえこまれて素人が動けるものではない。親分はあきらめきって、
「なるほど、撃たねえうちに倒すんですか」
と脱帽した。
このようなことだから徳三宝とはことのほか仲がよかった。稽古もよくやった。負けず嫌いの徳三宝が、一度でも久蔵を倒してみたいと、一日に八回も稽古を申しこんだこともある。
その徳三宝も、倫理感の強い、学者気質の嘉納師範の怒りにふれてしまっては久蔵もとりなしようがなかった。三宝はやくざの精神修養の師となったのに、自分自身の精神修養の方は足りなかったのである。
越えて大正二年のころ、嘉納師範が中心とたのむ高弟は、三船久蔵五段、中野正三四段、石田信三四段、小田|常胤《つねたね》四段となっている。永岡秀一六段が京都から東京の講道館にもどってきたとき、この四人を講道館の中心として六段に立ち合わせたのである。
明治の末期から大正にかけ、数え上げられる強者の中には常に久蔵が入っている。これは久蔵が強さを長期間持続していたことを証明するものである。同時に久蔵が全く講道館から動かなかったことをも物語る。
この時期、久蔵と同程度に強い柔道家に佐村嘉一郎五段と田畑昇太郎五段がいた。
佐村嘉一郎は明治十三年熊本県生まれ、講道館には久蔵よりも五年早く入門したが、その強さを認められて大日本武徳会の柔道教師となり、関西で活躍している。
田畑昇太郎は明治十七年大阪府生まれだから久蔵より一歳年下である。この人は生っ粋の京都の武徳会育ちで、五段までは講道館ではなくて武徳会で段位をとっていた。やはり関西を活躍の舞台としている。
世は強豪俊秀|雲霞《うんか》の如くであるが、その中で久蔵は講道館から動かず、ひたすら技を練磨して、柔道のメッカにおける最高峰を心がける。六段のころに一度だけ外国行に心を動かされたことがあるが、それは嘉納師範から翻意をうながされてとりやめになった。
講道館から離れない。これが結局久蔵大成の要因となった。
さて、朝日新聞でも認められ、久蔵は自他共に許す柔道日本一となった。久蔵はそれまでひかえていた結婚に踏みきることになる。
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9 負 け じ 魂
わたしの未完の小説の唯一の読者となってくれた若い紺野は、昭和三十九年度一年だけで山の分校を去らなければならないことになった。一年生九人のための、臨時の増員であったからである。生徒からも学区の父母たちからも親しまれた、温厚で研究熱心な教師であったから、留任運動もやってみたがきまりはまげられなかった。
しかし紺野は転任までの二か月ほどの間にずいぶんと三船久蔵のことを学習していた。わたしの知らなかったことがらについては、小説の資料にしてもらってもいいと、日曜日には目ぼしい柔道家に会いに行って話をテープにおさめて来たりもしている。彼の留任のための署名運動が行われたり、集会が開かれたりするのを、じっと見ているのがてれくさいということもあり、方々とびまわったのかも知れない。彼が収録したテープの中にはつぎのようなものがあった。紺野の相手は、平泉の中尊寺というお寺からそう遠くないとこに住んでいる岩淵信八段である。
紺野 三船先生の印象をおききしたいんですが。この辺には三船先生と直接組み合ったことのある人があまりいないんです。
岩淵八段 ああ、あれはずいぶんと嘘つきだ。柔道回顧録なんか、みんな嘘だな。
紺野 どうして嘘ですか。
岩淵八段 負けたことがないようなことを書いているだろう。しかし、わしは三回投げている。
紺野 ほう、三回も。いつごろのことですか。
岩淵八段 わしが二十二、三歳のころだよ。三段だった。
紺野 すると三船先生は……。
岩淵八段 わしは彼と十六歳ちがうからね。三十八歳か九歳。たしか大正十一年だったと思うな。三船先生は六段。
紺野 先生の円熟期ということになるでしょうか。
岩淵八段 そう、だからもう人気は徳三宝の方だったな。われわれ若い者は、講道館に行っても、三船先生ではなくて徳三宝から稽古をつけてもらった。
紺野 徳三宝は三船先生の弟子で、あまり乱暴をするものだから、三船先生に尺八で殴られて気絶したりしたそうですね。
岩淵八段 修行時代にはそういうこともあったろう。しかし徳三宝は破門がとけて復帰して間もなかったんだろうな。たいへん張り切っていて、また強さも強かった。講道館に来ると十五、六人をたて続けに投げて、あまり息も切らさずに帰って行ったものだ。みんな英雄でもあるように尊敬したね。
紺野 徳三宝はそのころ三十五歳ぐらい。
岩淵八段 そう、とにかく人気がある。だから押すな押すなで、いつも二十人近くが順番を待っていた。そういうとき、三船先生から稽古をつけてやるから来い、と声をかけられた。わしはもうすぐ徳三宝と組めるところだったが。
紺野 それまで手合わせをしたことはなかったんですか。
岩淵八段 ない。わしは海軍で柔道をやったものでね。海軍の師範も三段だった。大正十年に満期除隊になって講道館にはその年の十月に入った。
紺野 三船先生には同郷の後輩だ、という気持もあったんでしょうか。
岩淵八段 それはそうだろう。しかし徳三宝の方が魅力があったからな。それでももちろん三船先生は尊敬していた。なにしろ一時代を築いた方だから。それに、わしが稽古をつけてもらう前には、佐藤金之助という内弟子が実に派手にぽんぽん投げられていた。だから、わしは徳三宝に向かうつもりで、本気でかかって行った。
紺野 それでどうでしたか。
岩淵八段 するとわしの|内股《うちまた》で軽くとんでしまったんだよ。三船先生はおこってね、「お前、礼儀を知らん。粗暴な男だ」と言う。どうやら大家は投げてはいかんのらしいね。わしは若いもんだから恐縮して稽古を二日休んでしまった。
紺野 そういうこともあるんですかね。
岩淵八段 投げたのが尾を引いたよ。翌年五月の春季紅白試合で、えらいしっぺ返しをくった。どうやら、三船先生を投げた奴は昇段しないで、投げられた奴が昇段するらしい。紅白試合のとき、わしは紅軍の中堅だった。大将が早稲田の石黒敬七四段だよ。この試合、前評判では嘉納師範の|娘婿《むすめむこ》の鷹崎かわしかが抜群をとるだろうということだった。前の年の秋の紅白試合では、慶応の阿部という男が四人を抜き、成績抜群でその日のうちに昇段している。だから四、五人を抜けばいいわけだ。当日は最初に山本武四郎という、法政の学生で、東京学生軍を編成するときは大将となる三段を投げた。つぎは明治の大将の藤島だ。これも投げて、つづいて松本、間庭、鈴木とあわせて五人を破ってしまった。
紺野 たいへいお強かったんですね。
岩淵八段 |ホラ《ヽヽ》じゃないぞ。これ、ここに記録がある。
紺野はそのとき見せられた記録のコピーを取り出した。
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たしかに五人抜いている。他には二人を抜いた者が三名いるのが目立つくらいで、多くは×印の引き分けであった。岩淵八段と共に期待された鷹崎は佐藤新作と対戦して引き分けである。
岩淵八段 徳先生はわしの試合を見て喜び、この分では昇段まちがいない、帰らないで残っておれ、と言われた。それで残っていたが発表にならない。徳先生が、これはおかしいと審議会の役員にきいたら、「四段ともなれば、人格識見も問題となる。岩淵は強いには強いが礼儀を知らん。だから抜群にはならない」という返事だったそうだ。徳先生は、「残念だ、何か思い当たるふしはないか」ときかれる。それで、稽古をつけてもらったとき、投げたからはずされたのでしょうか、とこたえると、「わかった、それだ、それだ」ということだった。審議会の役員というのは、嘉納館長さんや三船先生だよ。
紺野 それは残念でしたね。それで昇段せずじまいですか。
岩淵八段 いや、八月に名誉昇段者となった。するとわしは、たった三か月で人格識見がりっぱになったというわけか。
このあと、わしは講道館から派遣されて沖縄へ行き、沖縄一中などで柔道を教えた。翌年、沖縄を代表して講道館の有段者会に出席した。会のあと講習がある。そのとき、嘉納館長が、「三船君がこんど投げの型の裏技を考え出した。それをやって見せる」と言った。三船先生はそこでいろいろな相手に投げさせ、その裏を演じて見せた。そしてわしの前に来て、「岩淵の内股はこうしてよけるんだ」とみんなに言った。「岩淵、わしを投げて見ろ」。みんな集まってきたね。わしは去年のことがあるから、「先生、ほんとうに投げていいんですか」と念を押した。すると、「いい」と言う。それで内股をかけたら抱きついてきた。そこで腕をかかえて巻きこんだら、向こうは小さいし軽いからふっとんでしまった。
紺野 内股巻きこみというわけですか。
岩淵八段 そうだ。ところが三船先生、またおこりだした。「君は無礼な奴だ。礼儀を知らない」。腹がたったから、「内股をやれというからやったのです」と言い返した 。すると、「あれは巻きこみじゃないか」と言う。「いいえ、連続技だから、あれも内股の一つです」。わしも負けてはいなかった。すると先生、「じゃ、もう一回やってみろ」と言う。「ほんとうに投げてもいいんですか」。「いいとも」。それでまた内股をかけた。三船先生はまた抱きつく。また腕をつかんで巻きこんだ。そしたらまたふっとんだ。さあ、おこって、おこって……。
久蔵のこのような一面はあまり語られていない。そういう意味では、紺野は得がたいインタビューをしたことになった。これを卒業式間近い分校の宿直室できいたとき、
「岩淵八段はよほど腹にすえかねたんだね」
とわたしは言った。久蔵は昭和の初期には講道館内の一つの有力な勢力となり、武徳会派、東京高師系に対して独自に三船派をつくって、反対派からは、
「三船が稽古しているから、道場へ行くな」
と言われるほど敬遠されたこともあったというが、岩淵八段はそういう派閥争いからではなくて、昇段できなかったことのうらみを抱きながら反感をつのらせたようである。
「しかし僕は、このような三船名人の一面は、人間的でかえっておもしろいと思いました」
「もと腕白だからね。三つ子の負けじ魂百までだ」
久蔵は強すぎたためと、十段という最高峰をきわめたため、やがて神格化され、みずからもその評価に合わせる生き方を強いられることになったと思う。しかし完璧な人格というのはこの世に実在しない。
「蓄財にたけていたという評判もあります」
「うん、それは才能の一つだ」
久蔵は商人の子である。それが金にルーズだったらまさに不肖の子である。久蔵が金にきびしいのは、農民の子がすべてつつましく働き者であるのと同様、商人の子として当然そうなったまでだとわたしは評価していた。
「久蔵は自分の柔道生活を、修行の時代、指導の時代、精進の時代と三つにわけているようですね」
「そう。それは、柔道だけでなく、彼の人格の変容にもつながっていると思う。はじめから聖人という人はどこにもいないのだから」
久蔵は結婚により、やみくもに柔道の上達に|賭《か》けた修行の時代と|訣別《けつべつ》するのである。
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10 空 気 投 げ
妻のイクは久蔵と同じ久慈町の下大川目の生まれで旧姓は平谷と言った。近郷にきこえた旧家の出である。叔母がサメといい、久蔵の次兄平作の妻で、夫が校長をしている侍浜小学校で裁縫教師をしていた。つまり久蔵は、|嫂《あによめ》の|姪《めい》を嫁として迎えたのであった。
久蔵はそれまで浮いた|噂《うわさ》はまったくなかった。柔道のために酒と女をつつしむことを心に誓い、酒は横山と共にたまに羽目をはずすこともあったが、女は近寄せなかった。そういう点では愚直なほどに潔癖であったと言ってもいい。そしてそれは、柔道家として大成するため、たしかに効を奏した。
女の情に|溺《おぼ》れることがなかったためか、久蔵の結婚はひどく唐突で散文的であった。父の久之丞から、「お前の嫁にふさわしい女性がいるからそれに決めないか」と手紙をもらい、そのつもりで郷里の久慈へ帰ったのが大正元年十一月のはじめである。ところが久之丞は、嫁にいいと思っただけで先方に話を通してはいなかった。一方実力が講道館随一の久蔵は、柔道教師としては引っぱり|凧《だこ》で、十近くの学校の指導を引き受けている。その忙しさは目がまわるほどであった。
その中を無理して一週間の休暇をとり、帰ったのである。まだ話していないからといって、|空身《からみ》で帰京するわけには行かなかった。
「すぐに話をつけてください」
とせきたてた。話をすると、先方はイクを|妻合《めあ》わせることは承知したが、何さま急なことである。仕度のため、二、三か月の猶予がほしいと言って来た。
「仕度ではない、本人をもらうのだ」
と久蔵は強引であった。そして久慈に帰って間もない十一月六日、とうとう婚礼をあげてしまう。嫁の顔をはじめて見たのは当日のことであった。
三日ほど久慈にいて帰京である。しかし婚礼で金を使い果たしていたので、途中、以前から講演を頼まれていた福島県の飯坂温泉郷に立ち寄り、そちこちの学校をまわって生活費をかせいだ。妻のイクは、ひとりで小石川餌差町の明治館という下宿に行かされた。そして天才久蔵を育てた父の久之丞は、久蔵に嫁をもらってやって安心したように、翌大正二年に七十九歳で亡くなるのである。
親の眼鏡を信用しただけの電撃結婚であったが、この結婚は久蔵にとってさいわいした。イク(のち郁子)は|瓜実顔《うりざねがお》の日本型の美人であり、典型的な良妻賢母タイプで、このあと久蔵のよき理解者となって彼の指導期、精進期をたすけるのである。
久蔵はいつも新しい技のことを考えており、夢の中でそれを発見することもあった。するとさっそく起き出して柱相手にそれをかけてみる。書生をおこして相手にすることもある。ときには妻の郁子も試験台にした。
並の人間には考えられない生活であるが、郁子はじきにそれに適応して行った。試合とか指導にもよく連れ歩かれたから、柔道に対する理解も深まった。それで、ついには技についての感想や意見を述べられるまでになるのである。昭和二十年五月に久蔵は十段に昇段するが、|愛弟子《まなでし》の白井清一(のち九段)は、郁子の内助の功をたたえ、「先生が五段で奥さんが五段、二人分合わせて十段だ」と言ったものである。
結婚によってさらに生活の安定を得た久蔵は、やがて、
――相手の体にふれず、前に立っただけで相手が倒れてしまうというような技はないものだろうか――
と考えるようになった。技の追求が、いよいよデリケートになって行ったのだ。
しかしただ前に立っただけで相手は倒れてくれはしない。ならば指でちょっとさわる、または組むには組むが腰も足も使わぬ、というふうに考えを変えて行った。そしてその技はしだいに現実のものとなる。その経過を久蔵はつぎのように説明する。
……私は力の原理を考えた。球は当たった瞬間にポンとはね返る。この原理は何にでもあてはまる。球というものは平面的にいえば円であり、立体的にいえば球である。この二つから考えた。「押さば引け、引かば押せ」ではなく「押さばまわれ、引かばななめに」というのが本当だと気がついた。……中略……相手の動きを利用するのだ。自分もそれについて動く。まだ体と体がぶつからない前に相手を投げられればよい。あるとき、相手の袖をつかんでいて、ちょっと動いたらポンところんだ。「しめた。これだ」
この技は両袖をとって相対しているとき、相手が動き移ろうとする瞬間に、身をちぢめつつ、敵を押上げて、その重心を奪うのである。つまり、体をまるくさばく。相手はフンワリと宙に浮き、ストンと倒れる。球の原理を利用したものだ。足も腰も使わない。私の空想はついに実を結んだのである。(「日本経済新聞」・昭和三二年一〇月二三日)
大正十二年のことで、久蔵は七段であった。この技は嘉納師範によって「|隅落《すみおと》し」と名づけられ、講道館五教の中にも加えられた。しかし誕生当時は、投げるかたちがバケツの水をまくようすに似ているので、「バケツ投げ」と称した者もある。のちには「空気投げ」が通称となった。
この「空気投げ」には、別に石黒敬七のものがある。これが生まれたのは石黒が新潟県柏崎中学時代だから大正二、三年のことだ。前にもちょっとふれたが、中野正三四段(当時)が柏崎中学校に指導に出向き、そのとき生徒や柔道教師を振りまわして投げたのにヒントを得て、中学生のうちに完成したものである。それは、
「相手の左襟と右袖をにぎって立ったまま、腰も足も相手の体に触れずにサッと一振りして相手を一回転さして倒す」(石黒敬七著「柔道世界武者修行記」)
もので、早稲田大学に進んでから鷹崎正見三段(当時)が、
「空気に投げられるような感じがするから、空気投げがいいよ」(同書)
と命名してくれたのである。この技は、講道館の機関誌に「透落し」「|隙《すき》落し」「|捻《ひねり》投げ」「浮落し」というふうに書かれたこともあるそうだから、久蔵の「隅落し」にも似ていたであろう。にもせよ、僚友の命名で、石黒独自の振りまわし投げは「空気投げ」と呼ばれるようになり、石黒はこの技を大いに用いて勝ちまくった。
久蔵の技はあとから生まれ、館長から「隅落し」と命名されながら、「空気投げ」が通称となったのは、やはり投げられる感じと、足も腰も使わない、さわっただけで決まる投げ技の故であろう。どちらも工夫のすえにつくり出された独自のすぐれた技であり、双方空気投げにはちがいないので、これには石黒流と三船流とがあることになる。
さて、久蔵もこの空気投げで相手を投げつけながら「指導の時代」をすごしていたが、空気投げ誕生七年にして、これが晴れの舞台で強豪相手にみごとに決まるのである。
昭和五年十一月十五、十六の両日、第一回全日本柔道選士権大会が神宮外苑相撲道場でひらかれた。これは専門選士と一般選士をそれぞれ年齢別に分けて選士権を争わせるものである。このとき、専門選士で優勝したのは古沢勘兵衛五段、須藤金作五段、尾形源治五段、天野品市五段らであったが、この試合のほか、投げや極めの型、五人掛、高段者乱取り、女子乱取りなどが行われた。七段になっていた久蔵は、二日目の高段者乱取りで、関西の雄、佐村嘉一郎七段と相対したのである。
雑誌「柔道」(昭和六年新年号)では、このようすを、
山下九段審判に立てど、別に勝敗を宣するに非ず。凡そ十分間にて「止め」を宣す。三船七段に送足払、浮落し等の技ひらめきたり。
とそっけなく表現しているが、佐村は福岡高等学校教授、三船は講道館指南役として、共に不敗を誇っている。柔道愛好家たちは、西の佐村か東の三船かと二人の対決に注目していた。特に当時海軍経理学校で、久蔵から柔道の指導を受けていた生徒たちは、息をつめる思いでこの日を待っていた。というのは、久蔵はこの試合での勝敗の|帰趨《きすう》について予告していたからである。
「わしはね、今度の佐村七段との試合では、空気投げで勝負をつけてみせるよ」
久蔵は経理学校では、乱取りのあと、生徒たちを車座にすわらせ、自分の武勇伝を語り聞かせるのが常であった。それがおもしろいというので、経理学校に数多い嘱託教授の中ではもっとも人気があった。その折、
「君達のうちで誰でも、わたしをちょっとでもころがしたり、手をつかせたりすることができたら、一段昇格させてやる」
とも言っていた。
もっとも、指導の場合も車座の武勇伝の場合も、ことばは相かわらず五目弁であった。
「さあ、みなさん、そこヘネマってください」
などという。「ネマル」というのは「すわる」の東北弁である。東北地方の者になら通ずるが、他地方の者たちはどうしたらいいかわからず、まごまごしてしまう。
「しょっぱい」は「ソッペエ」、「醤油」は「ソーユ」。それで、岩手県江刺市(当時岩谷堂町)出身の高橋|康《やすし》八段(現岩手県柔道連盟副会長)は、明治大学時代、開西生まれの者たちに対し、師範の久蔵の通訳をさせられたほどである。
だから、海軍経理学校で勝負の予告をしたときも、
「ワスはね、今度の佐村シヂ段とのスアイでは、空気投げで勝負をチゲデみせるよ」
と言ったはずである。
海経二十期生の瀬間喬(横浜、のち海軍主計中佐)は生徒の中でも際立って強く、いつかは久蔵に手をつかせてやろうとひそかにねらっている一人であったが、一方、それだけ久蔵から目をかけられてもいたので、特に佐村七段との試合は気が気でなかった。
――たしかに三船先生はお強いが、あんなにはっきり予告なさっていいのだろうか――
さて当日、永岡九段が有段者三人を順次相手にして乱取りを行ったあと、五十畳の畳の上で久蔵は佐村と相対した。久蔵は四十七歳で五尺二寸五分十五貫である。佐村は五十一歳で五尺四寸二十貫、いがぐり頭でずんぐりした体躯であった。
二人はたがいに右自然体に組むと畳の上を静かに移動した。そして場外に出ようというところで中央にもどろうとした、その瞬間、久蔵の足がとんだ。久蔵は特に得意技はつくらない主義であったが、周囲の者たちは長い脚で相手を刈りあげる足払いに脅威を感じていた。その|送《おくり》足払いである。佐村の体は宙に舞い上がり、どうと落ちたが辛うじて身を反転させて、背をつくことはまぬがれた。
二人はふたたび右自然体に組むと、こんどはじっと静止していた。やがて間合いをはかっていた佐村が久蔵を左で小さく押すと、一転して大きく引きながら膝に足をかけた。膝車である。久蔵は大きくよろめき、手をついた。寝技にうつればうつれる態勢であったが、佐村は深追いをしない。
三たび右自然体に組んだ。こんどは久蔵が積極的に動く。やがて佐村の体を後方に押しあげるように崩すと身を沈め、俵でも放るように両腕を大きく旋回させた。
「タィシェ」
久蔵の鋭い気合いと共に佐村の体はもんどりうった。みごとな三船流空気投げである。雑誌「柔道」では「浮落し」をとっているが、投げる方向が三船流空気投げでは後隅であり、「浮落し」では前隅である。一瞬のことでもあり、かたちが似ているので、「柔道」の編集記者はそう見たのであろう。
満場の観客の前で三船流空気投げはきまった。久蔵は面目をほどこしてひきさがった。のちに学校でこのようすをきいた瀬間喬は、ほっと|安堵《あんど》の胸をなでおろした。
――三船先生はまるで神様のようなお人だ――
この久蔵の快挙に感動したのは、彼の弟子やファンだけではない。出身地久慈ではそれこそ大さわぎであった。明治末から大正、昭和と、柔道日本一の実力を維持し続けている三船の久蔵さんが、これも日本一に近い佐村七段を得意の空気投げで投げつけた――。
この大会の半年ばかり後、久慈町では武徳殿の落成式に久蔵を招待している。昭和六年一月に昇段して八段となった久蔵は、妻の郁子、娘の|絢子《あやこ》、弟子の白井清一を伴って故郷に錦をかざった。
久蔵はもはやむかしの「三船の|叔父《おんじ》」ではない、われらが「三船の久蔵さん」であり、「三船先生」であった。一行が町に姿を見せると、旗行列が待ちかまえていた。町長、助役、消防団長らを従え、官庁や学校を訪れると、どこでも熱烈な歓迎を受ける。特に柔道部のある農学校の熱狂ぶりはすさまじかった。提灯、のぼり、プラカードを押したて、久蔵一行をいつまでも帰そうとしない。
夜は町中総出の提灯行列である。それが済むと料亭で歓迎会であった。大広間でナニャドヤラが踊られる。ナニャドヤラは青森県東南部と岩手県北部に伝わる古い歌踊であった。盆踊りに限らず、祭礼とか不祝儀とか、何かにつけて歌われ踊られる。
|半被《はつぴ》を着た若者たち三、四人が、締め太鼓を腹の前にさげ、ドンドンドコスコドン、と景気をつけた。そのあとについて男女が踊りくるう。
わたしゃ音頭とって踊らせるからにゃ
夜明けがらすの渡るまで
今夜のおどり誰ァじゃま入れた
それは押し出せたたき出せ
これはナニャドヤラの中でも久慈の二つ甚句と呼ばれるものであった。久蔵にとっても|馴染《なじ》みの深い踊りである。羽織をぬいで加わり、腕白の昔にかえって踊った。廊下には勝手にあがりこんだ見物人たちがひしめいている。今や久蔵は、税務署長となった長兄平吉、校長となった次兄平作を遠く高く越え、日本の名士として久慈町民の|讃仰《さんぎよう》の的となっているのであった。
佐村嘉一郎七段との対戦と共に、久蔵が会心の試合として人に語るのは、昭和九年五月の天覧試合における、田畑昇太郎八段との特選乱取りである。
田畑昇太郎もまた久蔵の如く、中学時代から無類に強く、天才児とうたわれた柔道家である。年も久蔵より満一歳若いだけであるから、佐村とのときよりもさらに|恰好《かつこう》のライヴァルとして愛好家の関心をあつめた。
ところが対戦一か月余り前の三月末、久蔵は流行性感冒にかかり、それがさらに肺炎に進行してしまった。酸素吸入や輸血が必要になるほどの重態である。柔道家の妻になりきっていた郁子は、晴れの天覧試合に出場させたい一心で、ひそかに自分を夫の身代わりにしてくれるよう神に願をかけたりもした。そしてその願いは通ずるのである。久蔵は試合近くになるとしだいに快方に向かい、代わって試合もせまった五月一日に、郁子と娘の絢子が同時に病床に伏したのだ。
これは単なる偶然ではなかったかも知れない。久蔵の一人娘絢子は大正三年(一九一四)の生まれであるが、これを久蔵は自分が亡父久之丞にかわいがられた以上にかわいがった。
絢子は父に似て運動が好きであったが、とりわけ水泳が得意であった。それで小学生のころはよく水泳の選手になり、大会に出場した。そういうとき、久蔵は妻や弟子を連れて勇んで観戦に出かけたものである。競技前の練習のため、絢子はプールに入る。当然のことに水着は|濡《ぬ》れるわけである。すると久蔵は弟子に言うのだ。
「おい、絢子の水着を買って来い」
それを聞きつけて絢子がなぜかと聞くと、
「かぜを引いたら大変じゃないか」
とこたえた。太平洋で、久之丞から臭気つきのしぶきを浴びて育った久蔵とも思えない。絢子も、さすがにこのときは久蔵の過剰な心配が周囲の者に対して恥ずかしかったと、人に述懐している。
とこがそのような絢子も、母の郁子の方がもっともっと父から愛されていたと思っている。家に帰って来ると、片ときも妻をそばから離そうとしない。茶の間から台所に行こうとするのさえ、
「そういうことは絢子にさせなさい」
というほどだったという。出張や試合にはいつも連れ歩き、柔道の技についても常に相談していた。
絢子は昭和十一年、貢司を婿養子に迎え、|雄久《かつひさ》、|晴久《はるひさ》の二子を生むが、このような三船家に入った貢司の久蔵に対する感想は、「家族の和を大事にする人」であった。
だから郁子、絢子の二人が、久蔵が回復しかけたとたん、同じ急性肺炎にかかったというのも、偶然ではなくて身代わりだという気がするのである。
五月五日の試合当日、久蔵はまだ全快したわけではなかった。熱はまだ三十八度二分ある。体重はふだんの十五貫(五六・三キロ)が十二貫(四五キロ)に減っていた。練習は一か月半ほどまったくやっていない。対する田畑は健康そのもので、五尺四寸五分(一六五センチ)二十三貫(八六キロ)の堂々たる体躯であった。若いころは五尺七寸(一七三センチ)二十二貫(八二・五キロ)の徳三宝とたたかい、一本ずつとりあって引き分けたこともある。まさに日本のトップレベルの実力者であった。
試合場は宮中である。前年十二月二十三日に皇太子が誕生した、その祝賀のための全国武道大会であった。
天覧試合であるからすべての選士が特に緊張している。高段者特選乱取りの久蔵、田畑にしても同様であった。久蔵は熱のある身なので注射をうって出場している。
田畑は左、久蔵は右が得手であった。田畑は当然の如くに左自然体に組んで来た。久蔵はそれにあえてあらがわずに両袖をとり、機を見ては相手の左襟をとって右自然体となった。
田畑五十歳、久蔵五十一歳。田畑は果敢に攻め、釣込足、膝車、左大外刈、小内刈とつぎつぎに技を放って来る。久蔵は身軽にひょいひょいとんでよけたが衰弱は隠せない。特に田畑の得意な釣込足には何度か膝をつかせられた。久蔵も気力をふるい、巴投げ、三船流空気投げと手練の技をくり出すが通じなかった。
田畑攻勢、久蔵守勢のまま時間が経過する。動くと疲労が増すので久蔵はじっと|堪《こら》える柔道になった。田畑はしきりにまわりこみ、久蔵の体をくずそうとする。とたん、すっと久蔵の体が沈むと、右手が機敏に田畑の右足をすくった。田畑は思わず後隅に仰向けになり、したたかに|尻餠《しりもち》をついた。歓声があがった。奇策の|踵返《きびすがえ》しである。この技も久蔵苦心の発明に成るものだ。
――一本取った――
久蔵はほっとした。しかし特選乱取りだから、勝負の宣告はない。田畑はあせって横捨身、釣込足と攻めたてたが、余裕の出て来た久蔵は軽妙にそれを防ぐ。やがて、
「それまで」
の声で両者は別れた。
家族のお蔭で勝てた、というのが実感である。帰宅すると、久蔵は病床にある妻と娘の手をにぎり、涙を流した。
勝負強い久蔵も、もはや初老である。力や熱気よりも、技が精妙洗練の色合いを濃くしていた。晴れの舞台での三船流空気投げや踵返しも、強烈さよりも美しさを感じさせた。久蔵は美と真を追求する精進の時代に入っていたのである。
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11 エピソード
鈴木 すると柔道の技というのはすこぶる力学的な方法でつくられるものなんですね。
三船 柔道に限らず、何でもそうでしょうがどこまでも科学的に研究して行かなければ、本当の千変万化の技は生まれて来ませんよ。
鈴木 おもしろおかしく柔道をとく人たちが、何となくやっていたら偶発的に技が生まれたとか言うことがありますが。
三船 いやいや、そういうことはありません。あれはさかんに研究してやっとつくりあげたもんですよ。
三船流空気投げの話である。聞き手は「北の文学」監修者の鈴本彦次郎であった。「北の文学」に小説が入選して以来、わたしはたまに会っては、「女と寝なくちゃ、小説は書けませんな」というような指導を受けていた。
この対談は、三船十段が亡くなる七年前の昭和三十三年秋、久慈市に三船記念館ができてその落成式典が行われ、十段が出席しての帰りしなに、地元の岩手放送に乞われて盛岡で行われたものである。精進の時代の、久蔵の一つの到達点を示すものとして、死後二か月ほどして再放送された。わたしは卒業式も終わった山の分校で、転任を目前にひかえた若い紺野と共にこれに聞き入ったのである。
鈴木彦次郎は時折盛岡弁をまじえてゆっくり話し、久蔵は五目弁で、ドゴマデモとか、|作《チグ》リアゲダというような言い方をした。
三船 昔は柔道は押さば引け、引かば押せと言ったもんですがね。相撲で言えば押さば押せ、引かば押せの押しの一手ですね。あの土俵の丸い場所を考えて、体の大きい力のある人は、相手が押して来たらば押し返せ、あべこべに押してやるということなんですよ。しかし柔道は押さば引け、引かば押せということを指導原理にしておったんですね。しかし、それよりも変わったことはなかろうかとわしは研究しましてね。よく講演のときにも言うんですが、押さばまわれ、引かば斜めに、という指導原理を考えました。つまり相手が押して来たらばですね、さっとまわってしまうのです。まわると相手は後なんですから……。
鈴木 重心が後ですね。
三船 相手が引いたらばですね、押してはいかんですね。引くのに順応して隅の……、後隅の右側なら右、左側なら左後隅の方にすっと押して行くんですな。だから押さばまわれ、引かば斜めにということばを使ってですね、わしの今後の指導原理とすべきであるというふうに、あるていどの経験の結果、確信を持って来ました。わしはいつもそれによって動いていますよ。
鈴木 はあ、その押したときにまっすぐじゃ、なるほど重心が後にかかりますから、なかなか倒せないということになりますね。
三船 そこでわしはちょっと斜めに行く。ところが斜め、斜めと行くと、丸くなってしまうんですよ。
鈴木 あ、そうか。なるほどそうですね。
三船 だからして、押さばまわれ、引かばまわせ、と言ってもいいんですよ。
鈴木 おんなじことになるんですね。
三船 向こうが引いたらですね。さっと斜めに持って行く。斜め、斜めと線を持って行くと丸くなるんだから、やっぱり|まわせ《ヽヽヽ》と同じことなんですね。
鈴木 そうすると柔道のあらゆる技というものは、この原理を中心としているということになりますか。
三船 そうです。丸いということばはひじょうにいいことばですね。円満も丸いし、家庭の和(輪)も丸いし、大きく言えば世界の平和も世界中円満ということです。それでわしは笑うんですが、元来我々はどこに住んでおるんだ、我々は地球の上に住んでいるんではないか、地球の上に住んでいたら、地球そのものになりきっちゃえばいいんだ、つまり丸くなりきっちゃえばいいんだ、そうすれば喧嘩もなければなにもないじゃないか、丸くおさまるんだから、とね。
鈴木 それはほんとうに嬉しいお話ですね。
三船 それを実際の、倒すとか、逆をとるとか、押えるとか、まあ攻めるとかね、そういう方面にもその原理をあてはめて研究して行くと、無駄な力を用いなくともさっとその技がかかるんです。ただ勝ち負けということのみでなく、勝つにしても何にしても、芸術的にね、その技が生まれなくちゃいかん。わしから言わせると、柔道の技もですね。正しく立派にきれいにかけなければいかんですよ。強引じゃだめですよ。故にわしが言う柔道は、自然の実現じゃないか。これはもう立派な芸術だと思っています。
鈴木 全く柔道によってですね。今の先生のお話のとおり、世界各国で柔道が盛んになってまいりまして、いわゆる日本独特の芸術で世界が丸くなるということは、実に愉快なことでございますね。
考えてみれば、久蔵の柔道は腕白の喧嘩好きに発している。強引、機略、奇襲、勝つためにはどのようなことでもやる喧嘩柔道が始まりであった。それが最後に行きついたのが芸術論であるというのがわたしにはおもしろかった。相手が郷土の文学者であるということも手伝って、ことさら久蔵は美意識を強調したのかも知れないが、たしかに久蔵の技は晩年に近づくに従い、強さ、するどさよりも、美しさ、さわやかさが優先して行ったようである。戦争が終わってから発明した球車などは、三船流空気投げと共に美の極致と言ってよかった。
「ただ気になることがあるんですよ」
紺野はひとしきり久蔵の芸術論に共感したあとに言った。
「世界が丸いとか、柔道は芸術だとか言いながら、一方で、“わしは負けたことがない”なんて最後まで言っているのは矛盾だと思うんです」
「たしかにそうだね。老人|童《わらし》というか、とにかく負けず嫌いの気性は生涯つづいたのだね」
亡くなる九か月前の「朝日新聞」の「新・人国記」(昭和三九年四月一六日)はつぎのように始まっている。
「過去の経歴を……」
とさきに手紙をしたら「柔道一筋」という返事がきた。
講道館十段、指導常任相談役の三船久蔵(久慈市)は東京・常盤台の自宅で語る。応接間に自筆の「武士魂」と書いた彫刻がある。達筆である。
「わしは今日まで負けたことがないんだよ」(笑)
また、「週刊朝日」の徳川夢声との対談(昭和二九年一月一七日発売号)ではつぎのように言っている。
三船 (年齢は)満七十歳と何カ月かになります。せんころ、四月二十一日(昭和28年)に、わたしの|古稀《こき》を祝賀して、日比谷公会堂で柔道大会をやってくれましたよ。「きょうはおれを投げてくれ。三船を投げるものが出たということが、なによりのぼくへのお祝いになる。八百長は絶対やらん。真剣にやろうじゃないか」といって、七段と六段に三人がけでやりましてね、とうとうぼくは、みんな投げちゃった。(笑)
紺野は、
「負けてくれないと、底まで好きになるわけには行かないという気がするんです」
と言った。
「人間だからね。わけて芸術ということになると、勝った勝ったの一点張りではこわばりが強すぎて、むしろ美感がそこなわれるというところがある」
「でないと、あの写真の延長のようですしね」
あの写真というのは、久蔵が全盛期に自宅の庭先で裸になり、弟子二人に体を布でこすらせているものである。眼がするどく、ひげをたくわえた風貌は男前ではあるが、弟子に体をこすらせているということもあり、|傲岸不遜《ごうがんふそん》とも見えなくはないのだ。紺野は久蔵に関心を持ちはじめて以来、あの写真が最もよくないと言っていた。
「わたしも、久蔵の負けた姿に接したいね。新選組の奥田にやられたときのように、決定的に負けたというような。はかない哀感が感じられて、久蔵はぐんと人間的になるね」
わたしも紺野同様、無責任な自分の好みを口にした。
喧嘩に負けた話はひとつだけあった。もっともこれは血気さかんな青年時代のことで、|生出寿《おいでひさし》という海軍兵学校第七十四期の人が書いた、『捨身提督・小沢治三郎』に、つぎのような記述がある。
(私立)成城中学に入った小沢(三好註・治三郎、明治十九年宮崎県生まれ。終戦時の連合艦隊司令長官で海相|米内《よない》光政をたすけて終戦の実現に尽くした)は、つまらない喧嘩で人生を狂わされるようなまねはすまいと思っていた。とはいうものの喧嘩を売られれば、やはり引っこんではいなかった。
……中略……
明治三十八年春のある日、神楽坂を歩いていると、小柄だが気の強そうな青年が喧嘩を吹っかけてきた。小沢は色が黒く、大男で、傍若無人に見え、敵愾心を燃やしたようである。相手にしないでいると、ムキになり、
「慶応の三船を知らんか」
と、身がまえて組みついてきた。小沢は無言でそれを力でねじ伏せ、背中を下駄で歩いてやった。
この三船が、のちの柔道界の大物、三船久蔵十段であった。
小沢が三船に勝ったのは、柔道ではなくて、喧嘩が強かったからだという。(生出寿「捨身提督・小沢治三郎」徳間書店・七九〜八〇ページ)
小沢提督は、当時中学生である。宮崎の中学校をやはり喧嘩で退学させられて東京に出て来たのであった。だから、柔道の段位など持っていなかったはずである。それにしてもおそろしい剛力と言っていい。喧嘩十段とはこういう場合をさすのであろう。
分校の一室で、去りゆく紺野との話は延々とつづいた。
「そういえば、久蔵は戦中戦後と、すくなくとも食べものなどでひもじい思いはしていないのですね。久慈から送り主の名前を隠した品物がつぎつぎと届けられたそうです。麦とか|稗《ひえ》とか小豆とか大豆とか……。久蔵はそれを東京で困っている人たちに分け与えたらしいですね」
「郷党はずいぶんだいじにしたようだ。大成してからは、よく|親戚《しんせき》や知人を東京に呼び寄せ、ごちそうしている」
「後輩で、野里栄七郎、権藤雄作の二人は情ない結果に終わりましたが、堀野忠文という|二戸《にのへ》郡(久慈の隣郡)出身の弟子は強かったようですね」
「そう、のちに八段になるが、木村の前に木村なく木村のあとに木村なしと言われた木村政彦と全日本選手権で対戦し、技ありをとっている。そのまま行けば木村を破れたが、最後の三十秒におさえこまれて逆転されてしまった。もっとも久蔵は指導技術もすぐれていたから、門下生から強豪が輩出するのは当然だ。ヘーシンクだって講道館で修行したから久蔵の門下生といえなくはない」
「イギリスのレゲット(BBC)というような人も、外人としては強い弟子だったようですね」
「うん、外人といえば、久蔵は占領軍に当て身を教えてはよく缶ビールを献上されていたらしい」
「学校柔道は昭和二十六年まで復活しませんでしたが、新しい柔道の全日本選手権は昭和二十三年にはもう開かれていますね。そのときは決戦で木村政彦と松本安市が無勝負。二十四年の戦後第二回大会では木村と石川隆彦が戦ってやはり無勝負、二人優勝です」
「自分で禁止しながら、占領軍自体に柔道熱が高かったということがあるから、復興も比較的早くすすんだのでしょうね。木村、石川二人優勝のときの主審は久蔵で、のちのちまで批判されるけれども、その大会の翌日には全日本柔道連盟が発足し、翌二十五年の愛知国体では柔道は正式種目となった。久蔵は講道館十段としてそういう動きの中心となるのだね」
「同時に十段の神格化の傾向も強まるわけです」
「負けず嫌いの久蔵が生きている話もきいたよ」
それは、わたしの町からそう遠くない、江刺市で生まれた、千葉|翠《みどり》という全日本クラスの柔道家からきいたものである。前に出て来た、高橋康八段の教え子である。千葉は国士館大学の学生のとき、熊本県生まれの牛島辰熊八段から指導を受けたが、牛島が二十五、六歳のころ、三船久蔵から稽古をつけてやろうと言われた。牛島は明治三十七年生まれだから三船よりは二十一歳年下である。大正十四年から三年連続で神宮大会青年団の部で個人優勝をとげ、昭和六、七年には全日本選士権大会専門壮年前期の部で連続優勝をしている。のちには木村政彦の師匠となった。この牛島の二十五、六歳といえば昭和三、四年、最も脂ののりきっているころのことである。
牛島は大先輩から稽古をつけてもらうのだから、力まずにゆったりと組んだ。とたん、三船の内股がかかって来たので、さからわずにみずから少しとんで投げられた。まわりの者たちは日本一の牛島を投げるのだから、さすが三船というような顔をして見ている。もう一本やろうと立ち上がったら、三船は、
「やめた」
とひきさがってしまった。牛島は投げられただけで終わりである。いかにも弱いように見える。
「こういう稚気というか、老人|童《わらし》みたいなところが三船十段にはあったんだね。そういう性格がうけて、指導に行く各学校での生徒からの評判もよかったのだろうが」
「牛島さんは投げられっぱなしですか」
「いや、これにはあとがあってね。その翌日、さらに翌々日と手合わせを申しこんだが相手になってもらえなかった。三か月ぐらいたってやっと承知してもらったので、牛島は恨みをはらすつもりもあって、組んだとたん、|送《おくり》足払いで投げつけた。三船さんはもののみごとに吹っとんだそうだよ。もちろん、投げられてだまっている三船さんではないからね、『もう一丁』とかかって来る。そしたら牛島さん、こんどは自分が『やァめた』と逃げた。名人を足技でとばすのだから、牛島はやっぱりすごいと評判になったらしい」
「おもしろいですね。しかしこのような話は三船さんは自分ではしないでしょう」
しかし、考えてみると、負けたとは決して言わない、言おうとしない久蔵の負けん気が、彼の大成の因をなしているのはまちがいがないところだ。弟子に稽古をつけるときも思いどおりにゆかないとおこった。五目弁の通訳をつとめた高橋康八段によると、
「乱取りのとき、技をかけられてもがんばってこらえていると、かっかっとなった」
という。そして意趣がえしのようにぐいぐいぐいぐい押して来て、道場の羽目板に|貼《は》りつけてしまう。こちらは窮屈でしようがないから出て行くと、足払いでしたたかに投げつけられるというのだ。
こらえるとおこられるからと、柔らかく素直に組んでいると、これはもう水車のように投げられる。隅落しでも球車でも何でもかかった。崩しがうまいのである。高橋康八段は、
「知らぬうちに崩されている」
と久蔵の崩しのうまさに舌を|捲《ま》く。
「それに首も腕も太さが同じで、鋼のようですから」
かくて、平泉の岩淵八段のような、久蔵よりも気の強い人間をのぞき、弟子たちはみな久蔵の前でころりころりころがるのである。
昭和四十年三月末、わたしは紺野と別れた。ひきつづき同じ職場に勤めることができれば、二人の三船久蔵研究はこのあとも進んだかも知れないが、紺野の転任で頓挫してしまったのだ。
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12 琥 珀 の 技
ことしの冬は骨の髄にしみ透るような寒さが続いた。わたしの町より百キロ近くも北寄りの盛岡はことさらで、雪の量も多く、家並の蔭には踏み固められた雪がもう一度|凍《い》てついていた。
妻の弟の茂が死んであしかけ二十七年になる。悲しみはその年月の中で風化しつつあるが、いつまでたっても二十歳から越えることのできない茂への|不憫《ふびん》な思いは消えることがない。
三船十段の死後、わたしもずいぶん多くの身内の死に遭って来た。昭和四十年代の実母、養父につづき、五十年には「北の文学」の師、鈴木彦次郎が亡くなった。そして、五十二年は妻の父、万司である。
温泉地で自殺した茂を迎えに行った万司は、クンノコ山の大田中の出で、茂よりも小柄であったが、やはり脚だけは長く、温厚で子どもを叱るということがほとんどなかった。もと大田中の血筋というものかも知れない。一方勝手なところもあって、
「自分の死後は、うちの宗教は仏教から神道に変えるように」
と遺言した。もっともこれには理由があって、久慈市侍浜地区で、葬式が神葬祭でないのは、|野越《のごし》という屋号の旧家と、万司の婿入りした佐々木家だけであった。葬式の日に客たちが魚を食えることでもあり、自分も近所と同様の葬式をしてもらいたかったのであろう。
佐々木家は神葬祭になったので、歿後十年ごとに祭忌を行うことになる。それをちょっと繰り上げ、ことし茂の三十年祭を行うことにした。東京に行っている長姉が、派出看護婦でついていた患者を盛岡に送って来るというついでもあったからである。会場は盛岡にした。次姉、三姉、四姉は、今はいずれもわたしの町またはその周辺に住居を持っている。
盛岡では名の知れたそば屋で三十年祭を済ませた。そのあとはホテルに泊まり、きょうだいたちで思い出話をすることになっている。
夕刻、そば屋を出ようとすると雪であった。きょうだいたちは構わず町に出て行ったが、わたしは少しためらった。かぜぎみなので、ホテルは近いがタクシーを呼ぼうかと思ったのである。
寒気がきびしいので雪は細かくさらさらしている。首をすくめてその雪を見ていると肩をたたかれた。
「よう、何しに来たの」
ふりかえると、文学仲間の七宮|三《けいぞう》であった。岩手大学に在学中から、
「俺は金にならない原稿は書かん」
などと生意気なことを言い、わたしを|刺戟《しげき》していた男である。もとは地元紙の記者で、東京の支局に長くつとめていたが、今はある商事会社の重役となり、「岩手宰相論」など、岩手の人物史を中心にものを書いている。
「ちょっと寄ってかないか。僕の事務所は真向かいなんだよ」
なるほど、真正面の小さなビルに見慣れた商事会社の看板がかかっていた。
「奥さんもどうですか」
重ねてさそわれて寄ってみる気になった。
七宮の部屋は二階であった。ソファに腰をおろし、女事務員のいれてくれたコーヒーをすすりながら、ふと、七宮の机の上に置かれている|飴色《あめいろ》のものが目についた。
「それ、なに」
「ああ」
七宮はふりかえってわたしの指さしたものを見ると、
「|琥珀《こはく》細工だよ、三船十段からもらった」
とさして興もなげにこたえた。
「琥珀? 三船十段?」
わたしの脳裡には、久蔵の生涯のさまざまなシーンがすばやくひらめいた。しかも七宮という姓は、久蔵が仙台二中に入学する前に入った、教成館(のち一関中学校となった予備校)館長と同じではないか。しかし七宮はわたしの意気ごんだ表情には気づかず、
「東京支社にいたころもらったんだよ」
と言った。
「いや、彼にインタビューしたんだがね。空気投げはどういう技かってきいたら、説明すると長くなるから、実際にあなたを投げてみようって立つんだよ。こわくてね、願い下げにしてもらった。ほら、岩手県人の経営している|九重《ここのえ》でだよ」
「ああ、もと日劇の向かいですね」
妻は|相槌《あいづち》をうった。わたしと一緒に、何度かその店に入っている。田舎者のわたしは、東京といえば国電有楽町駅|界隈《かいわい》しか歩きまわれないのであった。そこをはじめて案内されたというのも、大学に入ったばかりの茂からである。
「あんたのおじいさんかひいおじいさんは、もしかすると偉い人かい」
わたしは七宮にきいた。
「そう偉いってほどではないが、一関藩の士族ではあったらしい」
「もしかすると、教成館の館長は……」
「ああ、祖父だよ。あんたは一関中学出身だろう。だから少しはつながりがあるわけだな」
わたしとのつながりはごく少しだが、しかし三船久蔵とのつながりは少しどころではない。
「そのおじいさんの名前は」
「サネモリ、こう書くんだ」
七官は自分の名刺に、七官|孚盛《さねもり》、号|稲峯《とうほう》と書いた。短歌か俳句をやるのかも知れないが、それはこの際問題ではない。
「それで、あの琥珀細工は、もしかするとおじいさんと関係がありはしないかね」
「あるよ、祖父が細工師にたのんで彫らせたらしいんだ」
「やっぱり。見せてもらっていいかい」
「どうぞ」
わたしが立ち上がる前に七宮が女事務員に命じて持って来させた。飴色にわずかに緑色のまじった、美しい透明感のある置物である。柔道着を着た少年が相手を投げとばしているさまが|精緻《せいち》にきざみこまれていた。妻ものぞきこんで、
「みごとですね」
と|溜息《ためいき》をついた。
「久慈産の琥珀は、古墳時代にはすでに中央におくられていたんですね。赤外線吸収スペクトルという方法で調べたら、京都の長池古墳や奈良の東大寺山古墳に埋められていたものは久慈産の琥珀だったというじゃありませんか」
七宮は妻にともわたしにともなく言った。
「すごいことだこれは」
わたしは感激していた。久慈産の琥珀が、最近またもてはやされ始めていることは、テレビや新聞のニュースで知っている。しかしそのことよりも、目の前の美麗な琥珀細工は、わたしが文学青年時代に調べて書いた未完の小説の、クンノコが、姿を変えたものらしいのだ。
「これ、おじいさんの遺品かな」
「いや、三船久蔵のものらしい。よくはわからないんだ。祖父の孚盛は明治三十六年か七年に死んじゃっているんだが、これを親父に|托《たく》して、いつか三船という久慈出身の者に返してやれって言ったんだそうだ。しかし親父はその後岩手を出て、四国とか神戸とか、あっちの方につとめていたからね。それで僕も中学は神戸なんだよ。終戦のころ疎開のようなかたちで岩手にもどって来たが、親父はこの琥珀細工のことは忘れるともなく忘れていたんじゃないか。死ぬまぎわになって、これが出て来てね、僕に『三船って子に渡してくれ』だって。三船っていったら、もう三船十段しかないだろう。それで社の仕事でインタビューしたときに持って行ったわけ」
「十段は何て言っていた」
「忘れていたよ。けれど、クンノコ泥棒はやった覚えがあるから、そのことと関係があるのかなあなんて言っていた」
「じゃ、それはわたしの方がよく知っている」
事情は想像がついた。
喧嘩をしていた久蔵からクンノコを取り上げた七宮館長は、いずれ返そうと思っていたが、そのうちに久蔵は仙台二中に入学してしまった。そして、風の噂でか、あるいはのちに一関の近くにやって来た長兄の平吉からか、館長は久蔵が柔道にうちこんでいることを聞いた。ならば一度は|兇器《きようき》となった|塊《かたまり》のままでなく、細工をほどこした置物として返してやろうと考えた。教育者ならば思いつきそうなことだ。それで柔道をしている久蔵の姿を彫らせたのである。ところがそれができあがって返す間もなく、七宮館長は病を得て亡くなってしまった。七宮館長の歿年と久蔵の講道館入門の年とは同じころである。置物は館長の息子、つまり七宮三の父親に托された。しかし父親は久蔵をよく知らないし、関心もそれほどなかった上、四国の方へ転出してしまったから、久蔵には手渡すことができず、館長には孫にあたる三に引き継いだのである。
それを話すと七宮は、
「そうかあ、それは奇縁だ」
と夢からさめでもしたような顔になった。
「そういうことだったのか。僕は、祖父が十段の前途を祝すためにわざわざつくったものか、あるいは十段から借りたものかと思っていた。そうか、これの塊で、久蔵はあんたの先輩たちをなぐったのか」
七宮はしげしげと置物を見た。見れば見るほど精細で美しいつくりである。よほど名のある細工師につくらせたものにちがいない。わたしもしばしこれを眺めたあと、
「しかし三船久蔵のことだが、どこかで手痛く負けていないとしっくりしない」
と言った。
「だってそうでないと、ほんとうに美しい技にはならないだろう」
「こわれそうなまでにデリケートな美しさね」
と七宮はわかってくれた。
「待てよ。そういう場面があった気がするぞ」
七宮は何かを思い出す目つきになった。
「おい、そこの本棚に『武道と私』という本がないか」
事務員は立ち上がって七宮専用らしい本棚を探した。
「あります」
「持って来てくれ。たしか実業家が三船を破ったというところがあったと思う」
「実業家が」
わたしは胸をおどらせた。七宮は急いでページをめくりながら、
「老松信一というね、柔道家から教わって買った本なんだよ。十段の|追悼《ついとう》特集をつくるときだったかな」
と言った。
「老松さんならわたしも知っている。今、講道館の資料室長をやっておられるよ。『柔道百年』の著書もある」
「そうなんだ」
やがて七宮はその個所を見つけた。わたしは急いで目を走らせた。「武道と私」というのは、実業家や政治家で武道を修行した人が、その思い出や効用について、書いたり語ったりしたものをまとめた本である。七宮が示したのは、明治海運株式会社社長の肩書きのある、内田信也という明治十三年生まれの人のものであった。
……僕は終始スポーツを継続し、その後、政界に入って東京に住むようになってからも相変らず溜池の体育倶楽部に行って、永岡秀一先生や東大、商大の教師である子安五段(当時)、警視庁教師の前田五段(当時)らと烈しい修業をしたものだ。そして立ってはいつも投げられたが、寝業では僕がつねにリードした。鉄道大臣在任中の昭和十年十二月水道橋の講道館に行ったところ、柔道界の麒麟児三船久蔵八段(当時)が『内田さんは寝業が得意だが、私の研究では締め業は直ぐ解き放すことができる』という。負けず嫌いの僕は然らばとばかり早速実演に入ることになった。何せ、相手は名にし負う三船さんだから渾身の力を揮い、目をつぶってウンと一声、送り襟で締め上げたところ、見物席からほどなく「いけないっ」という声と共に引分けられてしまった。そこで三船八段はと見ると、これはまた完全に落ちているのでビックリした。おそらく同君が落ちたのはあまり例はないことと思う。早速活を入れて取り直し、今度は立業でいったところ、水車の如く何本も投げられて退いたことがあった。このことは僕の口からいうのもどうかと思い、多年他言したことはなかったのだが、後年、永岡、三船氏柔道界の巨頭と会食した折、ご本人から実はかくかくしかじかと自白されたので、ここではじめて公表し、三船君をしておそらく最初にして最後の経験を得せしめたことの顛末を述べておく次第である。(「武道と私」自由経済新聞社・第一集三一ページ)
わたしは納得し、微笑した。目をつむると脱力している久蔵の姿が目に浮かぶ。それはひどく愛らしい感じがした。
「ありがとう、三船久蔵はやっぱり久慈の腕白坊主だよ」
わたしは七宮に本を返しながら言った。
「暴虐にやられた、という感じだろう」
七宮も微笑した。
「負けたことがない、というようなコメントは、もしかすると久蔵のユーモアだったのかな」
思い出してみると、朝日新聞の記事にも、「負けたことがないんだよ(笑)」となっていた。そう発言すると思わず笑いだしたくなるような雰囲気があったのだ。
外には街灯がともっている。そこだけに白く光る雪が降りそそいでいるのが見えた。
「茂の引き合わせかも知れない」
わたしは立ち上がりながら妻に言った。まったく、彼の三十年祭でもなければ、七宮の事務所にあがりこんで、久蔵の知られていなかった側面にふれることもなかったのだ。
事務員を何度もわずらわすのは悪いと思い、わたしは自分で本棚に「武道と私」をおさめた。するとそれの置いてあった隣に、「歌集・遠風の音・美船航児」の背文字が見えた。
「何だ、これは。十段のお婿さんのペンネームじゃないのか」
「ああ、そうだ。いつだったかな、三、四年前のことだよ。俺のうちへ送ってくれた。毎年年賀状は差し上げているから」
「読ませてもらっていいか」
「構わないよ」
十段に関する歌もあるに違いないと思った。箱入りの|堅牢《けんろう》なつくりの本である。十段をうたった歌はすぐに見つかった。標題に、
病院の合宿 養父三船久蔵日本大学駿河台病院に入院加療中の処、一月二十七日逝く。享年八十三歳。
とあり、八首がおさめられている。読んでいて、胸をつかれる歌に出会った。
講道館葬すみて帰れば小屋ぬちにオリンは見えず今日逝きしとふ(父の愛犬)
わたしは妻を招き寄せた。そしてその一首を指さした。
「愛犬が十段のあとを追ったらしい」
「そうですね」
妻はたちまち涙ぐんだ。十段がかわいがったピックとオリンの写真は妻も見ている。妻は同じようなスピッツを分校時代から飼い、わたしの生家に移り住むようになってから亡くしていた。妻は長い間泣きくらし、代わりの犬を飼おうとしなかった。
「十段も二十年祭だ」
とわたしは言った。久蔵はもはやわたしの身内のようであった。
「あの茂が引き合わせてくれた」
七宮にもう一度礼を言って外へ出た。ほどなく呼んでもらったタクシーが来る。
――そうだ、紺野先生にこのことを知らせねば――
紺野は山の分校を去ったあとは、岩手県の各地の小学校をまわっていたが、今は自分の郷里の町の学校に赴任している。茂の三十年祭の十日ほど前、偶然に酒場で会ったときは、
「山の分校で先生がつくった民話劇を、今の学校で生徒にやらせたら、たいへんな評判でした」
とよろこんでいた。同僚と一緒にすぐ出て行ったので、久蔵談義をよみがえらせることにはならなかったが、その紺野が久蔵が落とされたことを知ったら、どんな顔をするであろうか。
ふと妻がわたしの心を読みでもしたように、
「三船先生、ご自分の記念館の額には、子どもたちへのいましめとして、一番先に『けんかせぬこと』と書かれたそうですね」
と言った。
「そうなんだよ。それが何ともおもしろい」
こまかな盛岡の雪は、わたしたちの目の前にいよいよはげしかった。
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13 山下泰裕選手と……
この物語を書きあげたのは昭和六十年二月半ば、東京のホテルグランドパレスにおいてであった。やっと終わったという解放感と、ちょっとした心残りとがあった。心残りというのは、今人気の山下泰裕選手を登場させたいのに、登場させないでしまったことである。
彼のオリンピック無差別級における活躍は記憶にも新しかった。モスクワ・オリンピックに出場できなかった彼にとり、昭和五十九年のロスアンゼルス・オリンピックは、最初で最後のオリンピックであった。緒戦、セネガルのユーリーを二十七秒で返し技(対大内刈)、二回戦は西ドイツのシュナーベルを二分五十秒、送り襟絞めに屠った。しかしこのとき、山下は軸足の右ふくらはぎをいためている。肉離れである。準決勝の相手、フランスのデルコロンボからは、その怪我のため、大外刈りの効果をとられた。しかしその後、大内刈と横四方固めで攻め、二分十秒、合わせ技で一本をとっている。決勝はエジプトのラシュワンで一九〇センチ一四〇キロの巨漢であったが、右足をひきずりながら対戦し、けっきょくこれも一分五秒、横四方固めにしりぞけた。かくて昭和三十二年生まれの山下泰裕は、十九歳で日本チャンピオン(史上最年少)になってから、全日本選手権八連勝、世界選手権九五キロ超級三連覇(内一回は無差別級も併せて制覇)などの偉業に加えて、念願のオリンピック優勝も果たしたのである。このとき山下選手の痛みやすい足を気づかい、随行して手当てをした柔道家が、三船記念館初代指導主任をつとめた久保正太郎五段(現友愛道場主)であった。
この山下の体格が身長一八〇センチ、体重一二六キロである。彼は怪我をおし、技と精神力とで柔道世界一となった。しかし、彼にその体力がなかったらどうであったか、つまりは、三船久蔵のように小さかったらどうか、ということである。無差別級の世界選手権やオリンピックで優勝できたであろうか。
そして、そのことは、もし山下と全盛期の三船久蔵が対戦したらどうであったろうかという興味にもつながる。
ヘーシンクになら、三船久蔵は勝っただろうという人がいる。石黒流空気投げの石黒敬七八段である。ヘーシンクは一九八センチ一一九キロのオランダの大男だ。昭和三十六年の世界選手権で神永昭夫、古賀武、曾根康治など日本のトップレベルの選手たちを総なめにし、史上初の外人チャンピオンとなった。そして三十九年の東京オリンピック無差別級決勝でも、日本代表の神永昭夫が体落しをかけて来るところを返して寝技にもちこみ、首をがっしりとかかえた袈裟固めに破って優勝している。ヘーシンクに歯の立つ人間が一人もいないことを思い知らされ、日本の柔道ファンたちは|切歯扼腕《せつしやくわん》したものだ。それは、当時分校に一緒につとめていた紺野もわたしも同じである。
石黒敬七八段の文章はつぎのようなものであった。
……ところで、人からよく聞かれる質問に『ヘーシンクと三船十段はどちらが強いか』というのがある。これは“|雷電《らいでん》と|大鵬《たいほう》とどっちが強いか”というようなものだが、ぼくは、もし三船十段全盛のころなら、かならず、十段は、なんらかの奇技妙手を考案して、ヘーシンクに勝ったのではないかと思う。逆、当て身を自由に用いられた旧幕以前なら問題はないが、スポーツ柔道の今日、体格に大差ある今日では、彼等と同等の体格力量で争うか、非凡の技術をもって戦うほかあるまい。(「サンケイスポーツ」・昭和四〇年一月二八日号より)
巨大な体格の有利さは認めているが、三船十段にそれを|凌駕《りようが》する非凡の技を見ているのである。
山下泰裕が無敵ぶりを発揮し始めてからは、わたしは山下だったら全盛期のヘーシンクにも勝っただろう、と思うようになっていた。テレビ観戦であるが、何度か両者の柔道には接している。|贔屓目《ひいきめ》もあるかも知れないが、山下の方がより柔軟でかつ安定感があるように思われるのだ。
ならば、山下と三船だったらどうか。これはわからない。どうやら三船の強さ、すさまじさはなみなみならぬものがあった。何しろ、石黒八段ほどの柔道専門家が、ヘーシンクの体力を上まわる技を認めているのだ。
しかし一方、最近の無差別級の試合で、|短躯《たんく》軽量の者が優勝した例はない。やはり柔道は巨漢の方が有利なのである。それでわたしも、柔道は、柔よく剛を制するものではなくなったから、剛が剛を圧する剛道と名称をあらためるべきだ、などと人に言ったりするようになっている。
全盛時の三船久蔵一五九センチ五六キロ、山下泰裕一八〇センチ一二六キロ、身長差は二一センチで体重は倍以上も違う。その上山下には、身長差一〇センチ、体重差一四キロと、自分より大きく重いラシュワンを、怪我の身で破った技もある。何よりも日本選手権八連勝の実力は不世出と言ってよいであろう。斎藤仁選手が山下に迫っていると言われているが、昭和六十年二月現在、山下が記録を九連勝とのばすことを疑う者はないと言ってよかった。山下はやはり久蔵を問題にしないかも知れない。
しかし考えてみると、久蔵は|肥大漢《ヽヽヽ》草場三段や|力持ち《ヽヽヽ》門脇三段を問題とせず、身長差一六センチ、体重差三〇キロ以上の巨漢徳三宝をも手玉にとって指導したのである。しかも火の玉のような負けじ魂を持っていた。
昭和二十六年に久慈市で生まれ、少年時代に三船記念館で柔道をならった柏崎克彦は、文字どおりの久蔵の後輩であり、久保正太郎主任の教え子であるが、昭和五十六年にオランダで開かれた世界選手権六五キロ以下級で優勝した。この柏崎は、大先輩の三船の柔道を評し、
「|朽木《くちき》たおしのような手も使い、どんなことをしてでも負けないというような柔道だったと思います」
と言っている。朽木たおしというのは、自分が投げられながらも相手の足を手で払い、勝ったと思っている相手をたおして逆転する技である。絶対に負けないという執念の見本のような技と言っていい。久蔵はこのような技が得意である。
はげしい負けじ魂と精妙な技、これを考えると、久蔵はヘーシンクはおろか、山下をも倒しそうな気がする。
そして、無責任なスポーツファンは勝手な予想をして楽しむものだが、向こうっ気の強い本人たちは、それぞれ自分は絶対あの選手には負けない、という気負いに満ちているに違いないのだ。
編集者がホテルのロビーに原稿をとりに来ることになっていて、その時間がせまっていた。窓の外はすでに暗く、ビルの灯りがにぎにぎしく東京の夜をいろどりはじめている。思いは残るが、原稿はもう手渡さなければならなかった。
部屋を出る前に、ベッドの|枕元《まくらもと》の受話器をとり、家に電話した。岩手はまだ雪に埋もれている。
「やっと終わったよ」
わたしはベッドに仰向けになった。電話に出た妻は、
「それはようございました。疲れたでしょう」
と労をねぎらった。
「うん。しかし飲めばなおる。そっち、何もないか」
「特にありませんけれど、三船十段のビデオが届きました」
「なに、届いたか」
わたしは起き上がった。それはNHK盛岡が制作した番組のビデオテープで、前年の暮れに放映されたものである。わたしは講演旅行に出かけており、家内は放映を知らないため、共に見逃してしまった。それで放送局にダビングを依頼していたのである。
「山下選手の談話を筆記しておきました。あなたがほしいと言ってらっしゃいましたから」
「そうか。惜しかった」
「間に合いませんか」
「時間がない。でも万一、いくらかでも余裕があると編集者から言われたら入れようかな」
しかし、どう日数を勘定してみても、余裕はあるはずがなかった。
「手元に用意してあるんです。読みましょうか」
「よし、頼む」
妻の好意を無にしたくもなかった。
「ちょっと早口で、聞きとれないところもありましたけれど……。山下選手は三船十段の柔道をどう見ているかという質問にこたえたものです」
妻は読み始めた。
……変わったのは東京オリンピックでヘーシンクに負けてからなんですね。そしてその……技だけでは力に通用しないということを、日本の柔道家みんながですね、現実に試合でこう……見せつけられたんですよ。今までの日本のやりかたというものがうちくだかれるわけですね、技あれば力を制するということがね。
それから技ではだめだと……。相手の力を防げるていどの力があり、こちらが技をほどこせるていどの、つまり、相手が十の力があればせいぜい五か六の力がないと、こちらの技がかからないと……。
体形もちがうんです。考え方もちがうんですね。力だけじゃかないませんから、外人には……。それで、両方ないとどうしても外人に通用しないと、そういうふうに思いますね。
まあ、三船先生ぐらい上手になられますとですね、そりゃ、実力以上のものがかかるかも知れませんけれども、現実にはやっぱりそれで世界を制するとか、日本を制するということは、今では不可能だと思うんです。
わたしの柔道というのは、今、少し固まっています。もっともっと技をふやして行きたいと思っているんですけれども、その中に空気投げとか隅落しが入っているかというと、ちょっと入っていないですね。もっとちがった技をね、わたしにふさわしいような、向いた技をやっていきたいと思います。(NHK盛岡放送局制作「いわて人物評伝・三船久蔵」より)
「ありがとう。だいたい思ったとおりだ」
妻に礼を言い、岩手の千葉翠七段もほば同じ考えだった、と思い出していた。千葉七段は現在岩手県警察学校の副主幹で、県柔道連盟の理事長でもあるが、わたしの質問に対し、
「ハズミということがないわけではないが、小さい者が大きい者を投げられるわけがありません」
とこたえていた。
「それから、大きい者を投げる必要もなくなっているのです。だから、選手そのものがそういう努力をしなくなりました」
なるほど、今は体重別で勝負が争われるようになっているから、選手は同クラスの者にだけ勝つ工夫をすればいいのである。そして千葉翠七段も、やはり一七八センチ、九二キロの巨漢タイプであった。
妻は電話の向こうで、
「それからちょっとした裏話ですが、山下選手ははじめ、NHK盛岡の取材に応じるつもりはなかったそうです。それを、岩手に縁の深い久保正太郎五段がすすめて出てもらったのだといいます」
とつけくわえた。
「もう少し早く届けばようございましたね」
「それはそうだが、ま、仕方がない」
妻は、わたしの翌日の予定を聞いて、電話を切った。
持ち重りのする原稿をかかえ、部屋を出た。
――やっぱり山下選手は三船十段を越えたつもりだ――
時代がうつり、柔道についての考え方も変わったのである。
ロビーに編集者をいくらか待たせたかも知れなかった。エレベーターを待ち、扉があくと急いで入りこんだ。とたん、わたしは声をあげそうになった。背広を着た童顔の巨漢が乗っているではないか。山下選手に違いなかった。何という偶然であろう。
「こんばんは」
とわたしは会釈した。ふだんであれば声はかけられない。しかし執筆が終わったということもあり、浮かれた気持になっていた。
「こんばんは」
山下選手も会釈を返した。白い歯がのぞいた。人なつこい笑顔である。扉がしまり、エレベーターが下降を始めた。
「わたし、小説を書いているんです」
「はあ」
「今、ちょうど三船十段の小説を書きあげたところです」
「そうですか」
山下選手は柔和な細い眼をみはった。わたしは、
「ごくろうさまですね」
と言った。オリンピック以来の健闘をねぎらったつもりであった。
「ありがとうございます」
山下選手が律義におじぎをしたところで、エレベーターはすでに階下であった。エレベーターを出、一緒にロビーを突っきる形になった。とっさに、四、五分、時間をもらって話を聞くことを考えた。しかしそれはやめた。
フロントまで来たところで、山下選手は、
「失礼します」
と別れをつげた。
「どうも」
とわたしは笑顔で送った。折目正しい、まだ学生のように初々しい若者である。柔道選手にありがちな、肩をいからし、がに股で歩くということもない。さりげない正常歩で山下選手は遠ざかって行った。
――山下さん、あなたは全盛時代の三船久蔵に勝てると思いますか、と急いできいたらどうだったろうか――
ちょっぴり惜しかったという気がした。しかしこたえはわかっているのである。それは三船久蔵にしても同じことだ。山下選手は出口から夜の街並に消えた。
編集者が近づいて来た。
「山下選手じゃありませんでしたか」
「ええ、びっくりしました。何しろ、柔道家の小説を書き終えてとびのったエレベーターに彼がいるんですから」
「奇縁ですね」
「しかし、偶然に恵まれるというのは嬉しいものです。これ、書き加えましょうか」
「済みませんけれど、もうぎりぎりです。これからすぐ印刷所ですから」
編集者はわたしから原稿を受けとると、そそくさと出口ヘ向かった。
小説のできばえはわからない。しかし、ついている、という感じはあった。疲れをいやす酒の飲めるところを探すつもりでロビーを歩いていると、案内板で、武道会のもよおしがこのホテルで行われたのがわかった。山下選手がいたのはそのためである。わたしは地下の日本料理の店に入り、酒をたのんで山下選手のことを思い返していた。
――彼の時代はいつまで続くだろうか――
全日本選手権の制度はなかったが、明治末期から大正初期にかけ、三船久蔵の日本一の期間も長かった。昭和十年代から戦後にかけての十年間、木村政彦七段も不敗を誇り続けた。しかし、どのような名人天才も、絶頂期を永遠に維持することはできない。好漢山下はいつまでその連覇の記録を伸ばすことができるか――。
酒はつかれた体にじんわりときいた。陶然としながらわたしはしだいに満ちたりた気持になっていた。三船久蔵がするどい目つきをやめ、慈愛に満ちて|微笑《ほほえ》んでいる。海軍経理学校では、もっとも人気があったという。それは東京帝大でも明治大学でも同様ではなかったであろうか。明治大学では不世出の横綱双葉山と共に師範をつとめたこともあり、昭和十四年にとった写真には、二人の日本一が仲よく膝を並べておさまっている。
するどさ、すさまじさだけでなく、明るさと豪放さも併せ持っていた久蔵は、あの子|煩悩《ぼんのう》な父親久之丞の性格をそのまま受け継いだとも言えそうであった。
五月、山下泰裕選手は、大方の予想どおり、全日本選手権の九連覇をなしとげた。そして明けて六月、突如引退を表明するのである。消息通にとって、それは予想されたことだといわれたが、|疎《うと》いわたしにとっては青天の|霹靂《へきれき》であった。山下選手は、このあとどういう生き方をするものか、それはわからないが、少なくとも、久蔵のようにあくなき技の追求者というよりは、温厚な指導者となるのがふさわしい感じがする。そのようなことを考えると、小よく大を制する非凡な業師久蔵は、まさに真の意味の最後の柔道家であった。
[#地付き]〈了〉

あ と が き
三船久蔵は単なる選手ではなくて、求道的であったという点でも真の柔道家であった。探求の末に発明した技には、三船流空気投げ(隅落し)、球車のほか、田畑八段との対戦に用いた踵返し、諸手刈り、三角固めなどがある。
四十歳にしてすでに歯がなかったので、流動物にして食物を摂取することが多かったが、稽古のあとは必ず休んだという。訪問者があってもこの休憩時間はきちんととった。体の節制につとめたその上で精進をおこたらない。往年の久蔵から稽古をつけてもらった岩手の柔道家たちは、みなその体の柔軟さに驚歎している。警察学校の千葉翠七段は、
「身のこなしが柔らかいし、動きのすばやさはたいへんなものだ。ふだん摂生していないとああいうふうにはできない」
という。
「そうでなければ華麗な技は維持できないし、何よりも息があがってしまうでしょう」
地元久慈市の柔道家宇部年久六段(前久慈柔道協会会長)も、
「体のさばきが何ともたくみでした」
と久蔵の往時をしのぶ。
「思いがけない方向に動いているんです。そしてあっと思う間に崩されている。こちらが技をかけようとすると、前もってわかるのでしょうね。決してかけさせてくれません。十段のお姉さんの子どもさんも、体質的に猫のように柔軟な体を持っていましたが、十段はそれに加え、細心に摂生をされましたから体の柔らかさが長く維持できたのですね」
三船家では孫の雄久氏(日本テレビ運動部)が柔道三段で、野球や柔道番組をつくるなど、マスコミで活躍しているが、やはり久蔵の体には感嘆している。
「筋骨がすごいですね。それから脚がとても長い。だから空気投げのようなものもできたんじゃありませんか」
愛妻のため、家族のためにも体を大事にしたには違いないが、久蔵はより多く柔道のために体をつくり続けた。そして死の直前まで、彼は現役の柔道家であったのである。大宅壮一に対して語った、「過去の自慢をするのは、現実の悲哀を物語るにすぎない」ということばは、常に高みを求めてやまない現役の久蔵の、あくなき求道精神に発した本音であったと言っていい。
書き終えて、一業に秀でた人間のすさまじい闘志にふれた感動が、ずっしり胸底に残っている。
この原稿を「別冊文藝春秋」第一七一号(一九八五年三月)に書いたときの編集担当者が、この物語にも出てくる「北の文学」の師である鈴木彦次郎さんの令息文彦さんだというのも奇しき|縁《えにし》であった。そのことを思いながら、単行本の|上梓《じようし》、文庫判の出版でお世話になった文藝春秋の西永達夫さん、豊田健次さん、阿部達児さん、そしてすべてを担当して下さった高橋一清さんに衷心からお礼を申し上げる。
一九八九年晩秋
[#地付き]三 好 京 三 
*参考図書 「柔道百年」(老松信一著)、「柔道回顧録」「柔道一路」(三船久蔵著)、「嘉納治五郎著作集」ほか。
[#改ページ]
単行本
昭和六十年十月文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
琥珀の技
三船十段物語
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 三好京三
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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