黒岩重吾
落日の王子 蘇我入鹿(下)
五
新宮|板蓋宮《いたぶきのみや》は、飛鳥寺の南方に造営されていた。これまでの大王《おおきみ》の宮と異り、朝堂院も含めた宮全体が築地塀《ついじべい》によって囲まれている。宮の屋根を板で葺《ふ》いたことといい、女帝好みの新しい宮であった。
南門を入ると朝堂院があり、正面が大殿《おおどの》である。女帝が住む内裏は大殿の北に、女官達が住む脇殿《わきどの》は宮の東北部に建てられていた。内裏の西側には石敷の大井戸があった。また石敷の排水溝は宮の直ぐ傍を流れる飛鳥川の支流にまで達していた。
上宮王家《じようぐうおうけ》の王や女王達が抗議のため豊浦《とゆら》の屋形を訪れている時、入鹿《いるか》は女帝と板蓋宮を散策していた。女帝はいよいよ明日板蓋宮に移る予定であった。板蓋宮の外では佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》が警護の兵を率い、張り切って巡廻していた。今日の女帝は寡黙であった。
女帝が新しい宮に移り住んだなら、これまでのように気易く入鹿とは会えない。仮宮は豊浦の屋形の敷地内だから、自由に入鹿と会うことが出来たのだ。女帝に従っていた女人達は大井戸から溢《あふ》れている泉を見て思わず喚声をあげた。水は澄んでおり、溝の敷石は陽の光を浴びて煌《きらめ》いてみえた。石の色は様々である。女人達は排水溝に流れている水に手を差し入れ、すくって飲み始めた。
女帝の頭上には陽除けの青い絹蓋《きぬがさ》が差し掛けられていた。大きな絹蓋なので、二人の女人が重そうに持っていた。
「喉《のど》が渇いたであろう、そなた達も飲むのじゃ……」
女帝は絹蓋の柄を持っている女人達にそういうと、これからの住居になる大殿の階段に腰を下ろした。内裏と大殿は、百済宮のように直線の渡り廊下によって繋《つなが》っていた。
女帝と会おうと思えば、大殿で女帝を待つわけだが、女帝と簾《すだれ》越しに会えるのは大夫《まえつきみ》以上の重臣達だけだった。
女帝は百済宮の時と同じく、朝堂院に顔を出したりしない。男王以上に、女帝は大王としての尊厳を要求されていた。それは神祇《じんぎ》の最高司祭者が持つ尊厳である。
女帝が腰を下ろした場所は軒が陽を遮り、涼しい微風が吹いていた。入鹿は腰に吊《つる》した金銅の酒壺《さかつぼ》に、溢れ出ている井戸の水を汲んだ。女帝に差し出すと、女帝は、
「御苦労じゃ」
と礼を述べ、旨《うま》そうに白い喉を動かしながら飲んだ。入鹿は別な生物のように動いている女帝の喉を眺めながら、今度、女帝と二人切りになるのは、何時のことだろう、とぼんやり思った。仮宮の時のように、気易く板蓋宮に通うわけにはゆかない。宮を守っているのはもう|東 漢《やまとのあや》氏の兵達ではない。佐伯連子麻呂が率いる東国から来た舎人《とねり》達であった。入鹿が入ろうとすれば、一応はとがめる、女帝の意向を伺いたい、というに違いなかった。宮廷警護の舎人達は、政治状態も分らぬ野暮な武人ばかりだった。
それを考えるだけで入鹿の気持は鬱陶《うつとう》しくなる。調子に乗り佐伯連子麻呂を宮廷警護長にしたことを悔いた。それに、入鹿はもう、女帝が少々重荷になり掛けていた。入鹿は計算だけで女帝に近付いたのではない。大王という地位にある女人に対する憧《あこが》れもあった。だが、所詮そういう憧れは、肌を合せるうちに薄れる。女帝も普通の女人と変りはない、と知った時、憧れは消える。そういう意味で、入鹿の女帝に対する憧れの気持はもう稀薄である。だが、女帝は天真爛漫《てんしんらんまん》な性格だった。感情を隠さない。だから、入鹿と対等に話し合うことの出来る女人は、女帝だけであった。
入鹿は、解放感に浸りながら、一抹の未練を女帝に対して抱いていた。
軽王《かるのきみ》の話によれば、先年雨乞いをした時の女帝の表情は、この世の人のものではなかった、という。風に絹蓋を飛ばされ、滝のように雨に打たれながら、女帝は観音|菩薩《ぼさつ》のように笑みを浮べていたらしい。しかも女帝の眼は雷光の彼方を凝視し、まるで雷光を呼び寄せようとしているかのようであった、という。軽王は真剣な表情で、自分の姉で大王だから、悪口はいえぬが、女帝はこの世の人間にない恐ろしい力を持っているように思えた、と入鹿に告げたことがあった。
入鹿は軽王からその時の模様を聴き、女帝は多分神懸りに遭ったに違いない、と思った。長い間自由を束縛され、孤閨《こけい》を守っていた女帝のエクスタシーとは、入鹿も想像しなかった。
「ああ、旨かった……」
女帝は酒壺の水を半分以上飲んでいた。入鹿は残りの水を飲んだ。身体中の隅々まで冷たさが行き渡る。
「大臣《おおおみ》、朕《わ》は明日から、この新しい宮に住む、大臣はもう、訪れては来るまい」
黒眼勝ちの女帝の眼が瞠《みは》られ、入鹿の眼を見詰めていた。嘘が通じない眼である。
「これまでのようには、参れません」
「それでは、時々、来てくれるというのか」
「吾《わ》が夜、この宮に参れば、噂《うわさ》が拡まる、それよりも、吾が大王をお迎えしましょう」
「噂は、とっくに拡まっている筈……」
女帝はとがめるようにいった。
入鹿は首を横に振った。
「いや、大王《おおきみ》が住んでおられた仮宮は豊浦の屋形の敷地内にあったのと同じこと、知っている者は女人達だけです、大王と吾が、山野を散策しても、それだけでは何の証拠にもならぬ、だが、吾が夜、宮を訪れたなら、これはいい逃れが出来ぬ」
「構わぬではないか、蘇我|大郎《たいろう》は大臣じゃ、推古女帝の恋人であった三輪君逆《みわのきみさかふ》は、宮廷警護長、身分が違う、それでも推古女帝は海石榴市《つばいち》に宮を造り、逆と会っていた……」
女帝の入鹿に対する愛情はまだ冷めていなかった。いや、漸《ようや》く炎を燃やし始めたところだった。そんな時、新しい宮が完成したため、女帝は入鹿と別れねばならなくなったのである。
「それはそうです、何処《どこ》かに離宮を造れば良い、ただ、板蓋宮と百済大寺の工事で、民は疲弊し切っています、今、離宮を造るといえば、民の不満は倍加する、斑鳩宮《いかるがのみや》の皇子など、真先に立って騒ぐに違いない、斑鳩宮の皇子は、まだ大王になることを諦めていない」
「あの皇子は恐ろしい皇子じゃ、大臣入鹿の悪口ばかり申しておる、朕は斑鳩宮の皇子に大王位を譲りたくない」
「分っております、先夜も申しましたように、吾は大王の後の大王は軽王がふさわしいのではないかと思っています、その後は矢張り葛城皇子(中大兄皇子)ということになる、斑鳩宮の皇子には渡さぬ、それと離宮の件は、今|暫《しばら》くお待ち下さい……」
「余り待てぬぞ、蘇我大郎、朕はもう老いている、花の生命は短いのじゃ」
入鹿は思わず返答に詰まった。女帝はすでに四十歳になっていた。ただ生活の苦労が全くなく、天真爛漫な性格と、持って生れた肌の白さで、年齢よりもずっと若く思える。
どう見ても三十半ばだった。だから女帝に老いという言葉は当て嵌《は》まらない。だが、それは他人が女帝を見た感じである。
女帝は自分の年齢を一刻《ひととき》たりとも忘れたことがなかったのだ。そういえば、女帝の化粧は若い女人達よりも厚い。
「大王、大王はまだまだ若い、今暫くお待ち下さい、吾はここ一、二年の間に、吾のことを噂するような者が一人も居なくなる人物になる……」
女帝は何かいい掛けたが口を閉じた。
先日|山背大兄皇子《やましろのおおえのおうじ》は、蘇我大郎入鹿は女帝を利用して権力を伸ばし、倭国《わこく》の独裁者になる積りだから、利用されないように注意して欲しいと忠告した。
女帝は憤りの余り、それを入鹿に告げたが、ひょっとすると山背大兄皇子の忠告は当っているのではないか、と一瞬女帝は思ったのだ。女帝は慌ててそんな自分の思いを打ち消した。女帝には女帝としての誇りがあった。
入鹿に利用された、などと考えたくない。
ただ、最近、女帝には不安があった。入鹿の子を身籠《みごも》ったのではないか、という不安である。女帝自身、はっきりした自信がないし、入鹿にはまだ知らせていなかった。
もしそうなら、仮令《たとい》、入鹿の気持が去ったとしても、朕と大郎入鹿は後の世まで離れられなくなる、と女帝は入鹿を見詰めた。
入鹿は今、女帝の眼の中にこの世の人と思われぬ不思議な光が宿っているのを見た。黒い瞳《ひとみ》の奥にもう一つ暗い洞があり、そこから怪し気な光が放たれているようだった。
周囲の玉砂利は陽光に映え眩《まぶ》しいほど輝いていた。そのせいかもしれないが、白昼、幻を見たような思いだった。
「大臣、戻りましょうか?」
と女帝が立ち上った。
もう女帝は何時もの女帝に戻っていた。
入鹿が上宮王家の王や王女達が、今来《いまき》に造築中の蝦夷《えみし》、入鹿の墳墓について抗議しに来たことを知ったのは夕刻であった。
入鹿は蝦夷に何故会ったのか、戸口で追い返せば良い、と不満を申し立てたが、何といっても、山背大兄皇子やその弟達は蝦夷には甥《おい》に当る。
戯れに会ってみたまでだ、と蝦夷は入鹿ほど問題にしていなかった。
ただ斑鳩宮に住む王達は、何処となく様子が変で、神懸りに遭っているようだ、と蝦夷は小首をかしげた。蝦夷は、彼等が来て抗議したことよりも、王と王女達の様子に奇異なるものを感じているようだった。
軽王や巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》も同感らしい、という。
「神懸り? 一体、どういう状態なのか、説明して下さい」
入鹿は膝を乗り出したが、蝦夷も上手《うま》く説明出来ないようだった。入鹿は、自分が席に居なかったことを悔いた。
蝦夷は、上宮王家の一族は蘇我本宗家の威光を恐れていないようだ、と腕を組んだ。そんな蝦夷の眼は、過ぎ去った遠い彼方を思い出しているようだった。推古女帝が亡くなった後、蘇我本宗家に嫌われているのを知っているにも拘《かかわ》らず、山背大兄皇子は、大王になる資格のある者は自分しかない、と執拗に蝦夷に訴えた。たんに資格上の問題だけではなく、山背大兄皇子は大王になることに対し、自分勝手な思い込みにしろ、一種の使命感のようなものさえ持っていた。父聖徳太子が山背大兄皇子に教えた仏教と道教思想である。
蝦夷が嫌ったのは、山背大兄皇子のそんな使命感だった。仏教を利用し、蘇我本宗家の富を蓄え、権力の増大を図って来た馬子、蝦夷にとって、上宮王家の精神的な使命感は、邪魔物以外、何物でもなかった。馬子の弟であり、蝦夷にとっては叔父に当る境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》は、上宮王家の思想に洗脳されていたとしかいえない。
だからこそ、蘇我氏が総力をあげて馬子の墓(石舞台)を造っている最中、墓所の廬《いおり》(屯所)を壊し、引き揚げたのだ。それは蘇我という氏族に対する裏切り行為である。だが聖徳太子に洗脳されていた境部臣摩理勢には、裏切り行為などという意識はなかった。
「厄介じゃのう、斑鳩宮の一族は……」
蝦夷は腕を組んだまま呟《つぶや》くようにいった。
「吾の一撃で吹き飛ぶような連中だが」
と入鹿も呻《うめ》くようにいった。
父が洩《も》らした、厄介という意味が入鹿にもよく分るのだ。一番問題なのは、山背大兄皇子を始め、上宮王家の一族が、蘇我本宗家を恐れていないことだった。ひょっとすると、山背大兄皇子等は、死をも恐れていないのではないだろうか、と入鹿は一瞬思った。だが入鹿はそんな思いを、馬鹿なと打ち消した。上宮王家の思想には、人間である以上、生きている間は人生を楽しく享受する、という考え方があった筈だ。だから山背大兄皇子は、獣のように、媾合《まぐわ》った大勢の女達と共に住み、彼女達に産せた子供達を自分の手から放さないのである。現実の人生を楽しく享受している皇子が死を恐れない筈はない。
「父上、吾は女帝が板蓋宮に移られた後、斑鳩宮に行って参ります」
と入鹿は肩を聳《そび》やかした。
「何のためじゃ?」
と蝦夷は上眼遣いに入鹿を見た。
「斑鳩宮の一族が、本当に厄介者かどうか、この眼で確かめる」
「大郎、決して刀を抜いてはならぬ、今はまだその時期ではない」
「分っております、吾も大臣、軽はずみな真似は致しませぬ」
入鹿は息を吸い込むと膝を叩いた。
五月中旬、入鹿は巨勢臣徳太、|大伴連 馬飼《おおとものむらじうまかい》を豊浦の屋形に呼んだ。入鹿が、今から斑鳩宮に行き、山背大兄皇子に会い、東国の乳部《みぶ》の民を十人ばかり返してやる積りだ、一緒に行かないか、というと、徳太も馬飼も好奇心に満ちた表情で、大臣のお伴をしたい、と答えた。徳太も馬飼も痩《や》せ衰えた使役の民が数人、路傍に転がっているのを見ていた。
東国の乳部の民である。蘇我本宗家の墓を造るため容赦なくこき使われたので、纏《まと》った布は破れ、鎖骨が飛び出、胸の肉は落ち、胸骨もはっきり現れていた。
入鹿の姿を見ると、雀《すずめ》の命令で、東漢氏の兵士達が使役の民を馬に乗せた。豊浦の屋形から斑鳩宮まで、道を通って行くと五里以上ある。当時南北に通じる道は三道しかなかった。立つのもやっとの使役の民に五里を歩かせるのは無理であった。
巨勢臣徳太、大伴連馬飼は、当時飛鳥朝廷の重臣であり、それぞれ十名以上の従者を連れていた。入鹿の護衛兵も二十名以上居るので、一行は五十名以上になる。それに縄で縛された使役の民十人が馬に乗っている。使役の民は縄で縛されて落ちないように馬に括《くく》りつけられていた。
真夏の烈日が容赦なく照りつけるが、馬に乗った入鹿は絹蓋など使用していない。
普通なら大臣の身分だし陽除けの絹蓋に覆われた輿《こし》に乗り、団扇《うちわ》を使いながら気楽に行くところだが、今日の入鹿は、戦場に向うようであった。
それに入鹿は輿に乗るより、馬に乗って山野を駈け廻る方が性に合っていた。
一行は途中豪農の屋形に立ち寄り水を飲んだが、昼過ぎ斑鳩宮《いかるがのみや》に到着した時は、入鹿を始め、徳太も馬飼も全身汗|塗《まみ》れだった。
好奇心で入鹿に付いて来た徳太と馬飼は、途中、来たことを何度も後悔した。
まさか入鹿が烈日に灼《や》かれながら、馬で行くとは思ってもいなかったからだ。
いうまでもなく、現在の法隆寺は、当時はまだ建てられていない。
当時の斑鳩宮は、現在の法隆寺東院にある伝法堂、絵殿、舎利殿から夢殿にかけてのあたりにあった。何度も述べているように、山背大兄皇子は一族と共に斑鳩宮に住んでいるので、建物の数は板蓋宮などよりも多かった。
斑鳩宮の西方には、斑鳩宮と対をなす如く、土塀に囲まれた斑鳩寺(若草|伽藍《がらん》)が建っていた。飛鳥寺と同じように柱や塔の欄干などに思い切り朱色を使い、華やかである。
斑鳩寺は、現在の法隆寺と異り、塔、金堂、講堂が南北にならぶ四天王寺式伽藍配置であった。場所は斑鳩宮から西方約六百尺ほどのところにある。
勿論《もちろん》当時の斑鳩宮、斑鳩寺は今はない。前者は六四三年皇極二年十一月大臣入鹿を総帥とする飛鳥朝廷軍の攻撃で全焼した。そして後者は六七〇年天智九年に全焼している。
だが現在の法隆寺の再建については、正史は沈黙している。再建後の法隆寺の名前が、初めて正史(『続日本紀』)に登場するのは、七一五年元明の時代である。何故正史が沈黙しているかは謎だが、兎《と》に角《かく》、法隆寺が再建されたのは、天武・持統・文武・元明の何《いず》れかの時代なのである。現在の法隆寺を見る限り、大氏族が再建に熱を入れたのであった。天皇家と関係した大氏族の可能性が強い。
それは兎も角、入鹿達の姿を見た舎人《とねり》の一人が、驚愕して山背大兄皇子に報告した。
山背大兄皇子は奥の屋形で、妃や女人達に囲まれながら眠っていた。女人達は大きな団扇で山背大兄皇子に風を送っている。女人達は汗を掻《か》いていた。
跳び起きた山背大兄皇子は、舎人達に、武器を持って、門を守るように命じた。
斑鳩宮を守っているのは、五十人ばかりの舎人達だった。|膳 《かしわでの》臣《おみ》の子弟、三輪君《みわのきみ》の子弟など大和の名門豪族の若者達も混じっているが、大多数は、美濃を始め、東国から来ている舎人達である。勿論、奴《やつこ》と呼ばれている雑役夫も、かなり居た。だが男達の総数は百名に満たない。
斑鳩宮は騒然となった。蝉《せみ》の鳴き声が一斉に消え、怯《おび》えた女人達の中には、悲鳴をあげる者も居た。山背大兄皇子は斑鳩宮では一番高い築山の上の屋形に立って、宮の外を眺めた。東漢氏の兵士達の槍の穂先が陽光に煌くが、攻撃して来る気配ではない。一行はゆっくり築地塀に囲まれた斑鳩宮の南門に向ってやって来る。そして山背大兄皇子は、馬の上で縛されている使役の民を見た。
山背大兄皇子は大きな溜息をつくと、思わず額の汗を腕で拭《ふ》いた。
蘇我大郎入鹿が嫌がらせにやって来た、と判断したからである。
山背大兄皇子は、築山を駈け降りると、殺気立っている舎人達を、戦ではない、刀を抜くな、矢を射るな、と絶叫して制した。こちらから先に矢でも射たなら、それこそとんだことになる。山背大兄皇子は、舎人の長《おさ》の三輪君文屋《みわのきみふみや》と、田目連《ためのむらじ》を呼ぶと、相手が何者か確かめ、蘇我大郎入鹿なら、丁重に用件を訊くように命じた。
入鹿達が、斑鳩宮の南門前の広場に到着した時、舎人達を従え、門の前に立ったのは、三輪君文屋だった。
入鹿は雀に命じ、使役の民を縛した馬を広場に並ばせた。そして入鹿は東漢氏の兵士達に囲まれ、その後ろに居た。
巨勢臣徳太、大伴連馬飼は一番後ろで、暑さも忘れ、これから何が起るか、と眼を光らせていた。
先ず三輪君文屋が、何者か! 山背大兄皇子が御住まいになる斑鳩宮に、何の用件で参ったのか、と大声で訊いた。
「参られたのは、大臣《おおおみ》蘇我大郎入鹿、大夫《まえつきみ》巨勢臣徳太、大夫大伴連馬飼殿で御座る、用件は、使役の奴を返すためじゃ、この旨、山背皇子に伝えられたい」
雀は馬に乗ったまま、三輪君文屋に向い合うと、文屋を睨《にら》みつけながら叫んだ。
「蘇我大郎? 何処《いずこ》に居られる?」
兵士達に囲まれているので、入鹿の姿は見えない。
「ここに居る、吾は気が短い、早く伝えぬと奴を斬り捨て、ここに置いて帰るぞ」
入鹿の言葉に、三輪君文屋は慌てて舎人達に守られて築山から下りた山背大兄皇子の許《もと》に走った。三輪君文屋は平伏し、皇子に入鹿がやって来た用件を告げた。
「使役の民を、蘇我大郎が直々《じきじき》に返しに来たというのか、何? 大夫連中も一緒だと、分った、乳部《みぶ》の民は吾の民じゃ、受け取ろう、それが十人であろうと百人であろうと構わぬ、立派に受け取り、体力をつけてから故郷に戻そう、蘇我大郎と大夫達をここに案内しろ、蘇我大郎は短気で気の荒い人物じゃ、何も恐れることはないが、客人として丁重に案内しろ、女人達には酒肴《しゆこう》の準備をするように申し伝えろ」
三輪君文屋が山背大兄皇子の命令を聴いている間に、使役の民は馬から地面に下ろされた。地面というより小石を敷き詰めた広場であった。
疲労|困憊《こんぱい》している使役の民の中には、まともに坐れず、敷石の上に転がる者も居た。汗も出尽したのか、陽に灼けた顔は異様に黝《くろ》ずみ乾いていた。
「雀、槍を持った兵士達を十名集めろ」
入鹿の命令で、兵士達は穂先を煌かせながら雀の傍に集合した。
「雀、奴達を貫け、屍《しかばね》は門の中に投げ込め……」
雀はちらっと入鹿を見たが、兵士達に向って、坐ったり転がったりしている使役の民の前に立つように命じた。門内に居た山背大兄皇子の舎人達が騒然となった。
大抵の使役の民は、ただ空ろな顔を上げるだけで、助命を懇願する気力もないようであった。ただ一人だけが、悲鳴をあげると、入鹿には理解出来ない東国の言葉で雀に向って助命を懇願し始めた。そして身体を揺すりながら、膝と脛《すね》で雀に近付こうとした。腕を縛されているので這《は》うことが出来ない。
駄目だと思ったのか、彼は転がり始めた。
転がった方が雀に近付くことが出来る。兵士の一人が驚いて、足で彼の腹を蹴った。
槍を突き付けながら、止れ、止れ、と大声で叫んだ。
雀が入鹿を見た。雀の涼し気な黒い眼に、一瞬困惑の色が浮いたのを入鹿は見逃さなかった。何時だったか入鹿は、狩りの獲物《えもの》である血塗れの大鹿を嶋の屋形の女人達の部屋に投げ込んだことがあった。女人達は喉が裂けるのではないか、と入鹿自身驚いたほどの悲鳴をあげた。その時、雀は今と同じような困惑の表情を浮べた。
「雀!」
と入鹿は大喝《たいかつ》した。
雀は、はっと答えると兵士達に槍を構えるように命じた。もう雀の表情に躊躇《ちゆうちよ》がなかった。雀が兵士達に、殺せ! と命令しようとした時、入鹿は再び大声で叫んだ。
「雀、殺さぬともいい、槍を引かせよ」
「はっ?」
と雀は怪訝《けげん》そうに入鹿を見た。入鹿の命令を聞き違えたと思ったのだろう。三輪君文屋が他の舎人達とやって来たのはその時である。広場に転がされた使役の民に槍を突き付けている兵士達を見て、三輪君文屋は仰天した。
「蘇我大郎、待たれい、待たれい、山背大兄皇子は、蘇我大郎を始め大夫達を丁重に御案内せよ、と、吾に申された、皇子は、乳部《みぶ》の民を返しに来られた蘇我大郎に感謝しておられる……」
三輪君文屋は入鹿の方に走り寄った。
雀は兵士達に槍を引かせた。だが今度は、入鹿を守っている兵士達が三輪君文屋に槍を向けた。馬上の入鹿は、頭《ず》が高い、と怒鳴って三輪君文屋を睨んだ。
入鹿の気迫と無数の槍に圧倒された三輪君文屋は崩れるように敷石の上に坐った。
「山背皇子に伝えておけ、今日のところは、生きたまま奴達を返すが、次回はそうはいかぬ、二度とくだらない真似はするな、今度王達が押し掛けて来たなら、二十人を殺して、斑鳩宮に返す、三度目は四十人じゃ、分ったか、このことを山背皇子に、よく伝えておくのじゃ、吾は斑鳩宮に入りたくはない、噂では、獣の棲家《すみか》と同じように臭いということじゃ、巨勢臣徳太、大伴連馬飼、おぬし達は、入ってみたいか?」
「大臣、結構で御座居ます」
二人は同時に叫んだ。
入鹿が巨勢臣徳太と大伴連馬飼を連れ、斑鳩宮に乗り込み、山背大兄皇子をののしったことは、群臣に蘇我本宗家と上宮王家の関係が、完全に決裂状態に入ったことを感じさせた。もし両者が相争うことになれば、どちらかに付かねばならない。群臣は今更のように、上宮王家が孤立していることを認識した。仮令《たとい》、蘇我本宗家に反感を抱いていても、上宮王家に味方は出来ない。
上宮王家は、女帝、軽王を始め重臣達に嫌われているのだ。声なき声というのは恐ろしいものだ。上宮王家が、蘇我本宗家の専横を非難すればするほど、両者の激突を予感し、我身を守るために、上宮王家を批判し始めた。時の流れとはそういうものである。
時の流れが荒れ狂い岩や岸の土を削り取っている時は、一人で元に戻そうとしても無駄である。時の流れが間違っていても勢いには勝てないのだ。焦れば焦るほど孤立し、荒れ狂う激流の中に呑《の》まれてしまう。
山背大兄皇子を始めとする上宮王家は、今や時の流れに呑まれようとする堤のようなものだった。堤はこれから先に行ってはならぬ、と激流に向って叫んでいる。だが、激流の音に消されて、その声は誰の耳にも入らない。いや、いらぬ堤は邪魔だ、壊してしまえ、という理不尽な声だけが、時の流れに迎合し、合唱となっているのだ。
入鹿は時の流れが蘇我本宗家に向っているのを見抜いていた。女帝は板蓋宮に居る。北には飛鳥寺、豊浦の屋形があり、南には入鹿の嶋の屋形がある。宮は新しく大きくても、女帝は蘇我本宗家の掌中に捕われているのも同じだった。しかも女帝は、板蓋宮に移り、新宮の生活に慣れて来ると、仮宮の時のように入鹿を待ち始めた。
入鹿は女帝のそんな気持を見抜きながら、板蓋宮には行かなかった。入鹿は高句麗《こうくり》の使者や亡命貴族達を難波《なにわ》の館に集めて宴を張り、重臣達や主な群臣を招待し、高句麗の情勢を語らせた。亡命貴族達も、入鹿の意を察し、泉蓋蘇文《せんがいそぶん》を褒め始めた。高句麗の使者や亡命貴族達は、今の倭国に必要なのは、中央集権と強力な軍事体制である、と説いた。
百済《くだら》の使者も時々宴に加わったが、同盟国である高句麗の使者達と同じ意見だった。
こうして入鹿は、世論を中央集権化に向けさせるべく懸命に努力したのである。
九月になると、今来に造築中の、蝦夷《えみし》、入鹿の双墳墓も半ば出来上っていた。今年中には完成の予定である。最早、蘇我本宗家に真向から批判を加える者は上宮王家以外に居ない。批判者は沈黙を守っている。入鹿の判断では批判者の最有力者は、蘇我氏の支族である石川麻呂だった。石川麻呂の父倉麻呂は、蝦夷が田村皇子(舒明)を大王位につけるべく推した時、中立の立場を守った。蘇我馬子の異母弟|境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》は山背大兄皇子を推し、蝦夷と摩理勢は対立した。蝦夷も摩理勢も、倉麻呂を自分の方に付けようと強引に口説いたが、倉麻呂は中立の立場を守り通した。大王位など、どちらに行っても良い、というのだ。一見優柔不断だが、中立の立場を守り通す、というのも大変である。それなりの信念がなければならない。石川麻呂は倉麻呂の子供だけに、父の血を受け継いでいた。
蘇我本宗家の行動に対しては、傍観者だった。山田寺の建立に全力を注いでいる。何度も述べているように東漢氏の中にも石川麻呂に協力している者はかなりいた。
傍観者だけに、入鹿にとっては、気になってならない存在だった。もし山背大兄皇子が居なかったなら、入鹿は最初に石川麻呂を斃《たお》していただろう。
皇極二年(六四三)九月、上《かみ》の大臣《おおおみ》蝦夷、大臣入鹿は葛城《かつらぎ》の高宮に中国風の祖廟《そびよう》を建てた。朱塗りの八角堂で屋根瓦は青い。
八角堂の中には石人像が置かれた。碑文は百済二十一代|蓋鹵《こうろ》王の弟|※[#「王」+「昆」]伎《こんき》王が倭王武(雄略)時代、河内飛鳥に渡来し、以後、その子孫が、葛城の地を与えられ、渡来系の本宗家として蘇我氏を名乗り、現在に到ったという内容だった。
蝦夷、入鹿はことの趣旨を述べ、石川麻呂は勿論、蘇我氏の全氏族を始め、|漢 直《あやのあたい》、|書 直《ふみのあたい》等の渡来系の氏族を召集した。河内の渋川の屋形で、蘇我氏のものとなった物部《もののべ》氏の旧本貫地を管理している入鹿の弟の畝傍《うねび》も顔を見せた。畝傍は|西 漢《かわちのあや》氏を率い、河内方面の蘇我氏の権益を守っているので、めったに大和には来ない。呼ばなかったのは山背大兄皇子《やましろのおおえのおうじ》だけである。
蝦夷は集った各支族達に、今こそ、蘇我氏が一致団結して、大臣馬子時代をしのぐ権力を得なければならない、と説いた。だが、入鹿には、蝦夷の考え方は古く思われた。蘇我氏は、上宮王家、石川麻呂とすでに分裂している。今更、氏族の一致団結を説いても無理であった。
入鹿にとっては、同族の石川麻呂よりも、政局に対して意見の合う軽王《かるのきみ》、巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、|大伴連 馬飼《おおとものむらじうまかい》の方が大切だったのだ。
同族でも蘇我本宗家に批判的な支族は、入鹿にとっては敵であった。だが入鹿は祖廟を建て、悦に入っている蝦夷を今日はそっとしておいてやりたかった。だからその日の入鹿は珍しく控え目であった。
今日は上宮王家を除き、蘇我氏の殆《ほとん》どが参集していた。古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子、石川麻呂の姿も見えた。
午前中、参集した全員が祖廟を拝み、その後、蝦夷、入鹿だけが計画していた舞が、女人達によって祖廟の前で舞われた。
『日本書紀』が皇極元年(六四二)条に記している|八※[#「にんべん」+「八」/[月]]《やつら》の舞である。八人が八列になり、六十四人が方形で舞う群舞は、中国では天子にのみ許されている舞であった。
これまで倭国の大王で、八※[#「にんべん」+「八」/[月]]の舞を行った者は居ない。入鹿が唐から戻って来た学問僧達から得た智識をもとに、蘇我本宗家が初めて行った舞であった。如何《いか》にも天子にのみ許されている舞らしく、美しく嫋々《じようじよう》としながらも荘厳さが感じられた。
八※[#「にんべん」+「八」/[月]]の舞の意味を知らない参集者達は、気品のある舞に圧倒されて眺めていたが、舞が終ると、葛城山に響き渡るような拍手を送るのだった。
舞が終った後、入鹿は壇上に立ち、今の舞こそ、八※[#「にんべん」+「八」/[月]]の舞といい、中国の天子にのみ許される舞であることを告げたのだ。
土の上に板を並べただけの席に坐っていた蘇我氏の支族を始め、渡来系の各氏族達は、ああ、これが天子の舞か、と嘆声を洩らし、その後入鹿が喋《しやべ》った意味の重大性を感じて息を呑んだ。舞の間|啼《な》きやんでいた秋の虫が一斉に啼き始めた。樹々の葉の一部は紅を帯び、なかには黄色くなり掛けているものもあった。葛城山に秋がやって来るのは飛鳥よりも早い。
祖廟に近い上座の席には石川麻呂が蘇我|日向《ひむか》達と共に居た。入鹿から命令された蘇我《そがの》田口臣《たぐちのおみ》川掘《かわほり》は、石川麻呂の直ぐ後ろに坐り、石川麻呂の反応を窺《うかが》っていた。
「そうか、蘇我氏も、天子の舞をするようになったか、結構なことじゃ、どうじゃ日向?」
と石川麻呂は日向に話し掛けた。
「さようで御座居まする、それに大臣大郎は倭国の天子のように堂々としておられる」
と日向は答えた。
二人の会話は、川掘が予想していたものと全く違っていた。中国で天子にのみ許されている舞をすれば、蘇我本宗家に反感を抱いている石川麻呂は、蘇我本宗家に対する憎しみの言葉を口にするに違いない、というのが入鹿の意見だった。ところが、石川麻呂も日向も、寧《むし》ろ蘇我本宗家に対して好意を抱いているようであった。
石川麻呂は、蘇我本宗家の発展を喜んでいるような気さえする。
蘇我田口臣川掘は間諜《かんちよう》としてはまだ若かった。石川麻呂も日向も、川掘が蘇我本宗家の間諜であることを鎌足から聞いて知っていたのだ。だから、蘇我本宗家に対する悪口をいわなかったのである。
石川麻呂は大王家に対して、そんなに忠節な人物ではない。ただ、蘇我本宗家だけで、倭国の権力を握り、独裁政治を行おうとしている大臣入鹿のやり方には反対だった。
今のようなことを続けておれば、大王家に仕える古い名門氏族の間に反蘇我の機運が起りそうな気がする。石川麻呂はそれを憂えていた。案の定、僧旻《そうみん》の講堂で仏教や唐の国家制度を学んだ中堅官人の間に、大王を全く無視し、蘇我本宗家と重臣達だけで政治権力を掌握している現状に反感を抱く者が現れて来た。
神祇の長官|中臣御食子《なかとみのみけこ》の養子|鎌足《かまたり》なども、その一人らしい。先日、石川麻呂は鎌足と会い、話し合ってみて、鎌足の学識才能に感嘆した。中国に行っていないのに、僧旻の代りに講義が出来るのだ。僧旻の講堂で学んだ中堅官人達は、身分の上下を越え、そんな鎌足に一目も二目も置いていた。
石川麻呂は、鎌足と話しているうちに、蘇我本宗家に対する反抗の機運が盛り上って来た時、リーダーシップを取るのは、従来の大豪族ではなく新興知識人である鎌足に違いない、とさえ感じたのだった。
そんな鎌足が石川麻呂に、蘇我田口臣川掘は、蘇我本宗家の間諜の疑いがあり、蘇我各支族の動向を探っていると思われるから、注意をするように、と忠告したのだ。半信半疑だったが、石川麻呂は今日の席で、はっきりした思いだった。川掘の席は石川麻呂の直ぐ後ろである。間違いなく川掘は、石川麻呂、日向、それに|高向臣 国押《たかむくのおみくにおし》などの会話に聴き耳を立てていたのだ。
それにしても、天子にのみ許されている舞をするとは、一体どういうことだろうか、と石川麻呂は蝦夷、入鹿の心中を測り兼ねた。自分達が倭国の大王になることを宣言したのも同じではないか。
そういえば、今来《いまき》に造築されている双墳墓についても、蝦夷の墳墓は大《おお》| 陵《みささぎ》、入鹿の方は小《こ》| 陵《みささぎ》と呼ばせているらしい。
幾ら大王が女帝であり、入鹿と親しいといっても、このまま蘇我本宗家の専横が続き権力が益々《ますます》肥大化すると、鎌足がいっているように反蘇我本宗家、反大臣の世論が起るに違いない、と石川麻呂は思った。そして何時の日か、蘇我本宗家に対する不満が爆発する。二年先か、十年先か、それは石川麻呂には分らなかった。
先日石川麻呂は鎌足に、蘇我大郎入鹿が、高句麗の泉蓋蘇文のように、政治、軍事の権力を一手に握る可能性はないだろうか? と質問した。それに対し鎌足は落ち着いて答えた。
「それはありますまい、何故なら、高句麗と倭国は置かれている立場が、違いまする、高句麗は、唐の脅威を肌で感じている、だが、海の中にある倭国で、唐や新羅《しらぎ》の脅威を論じたとしても、それは一種の政治論に過ぎません、いってみれば政治を論じ、遊んでいるのと同じで御座居ましょう、吾は、大臣蘇我大郎入鹿は、その点を少し勘違いされている、と考えておりまする」
鎌足は、一語一語、自分の言葉を確かめるようにいったが、肉付きの良い白い顔には薄い嗤《わら》いが浮んでいた。
つまり鎌足は、高句麗の武人達は、唐の攻撃を現実のものとして受け止めたが故に、泉蓋蘇文の許で一致団結している、といっているのだ。祖国を守るために、泉蓋蘇文に独裁権力を与えている、といって良い。
だが倭国には高句麗のように、現実的な危機感はない。唐の攻撃や新羅と唐の親密さから来る危機を論じたとしてもそれは政治談議に過ぎないのだ。つまり、政治を論じながら、論じることを愉しんでいるという。
そんな倭国に、独裁者泉蓋蘇文が生れる土壌は狭い、と鎌足は結んだのだった。
あちこちで獣の肉が焼かれ、酒が運ばれた。石川麻呂が鎌足の言葉を反芻《はんすう》していると、紫冠を被《かぶ》った入鹿が石川麻呂の前で胡坐《あぐら》をかいた。
「如何《いかが》で御座ったか、八※[#「にんべん」+「八」/[月]]の舞は?」
入鹿の質問に石川麻呂は一礼した。
「如何《いか》にも、天子にのみ許されている舞、その風格に襟《えり》を正しました」
石川麻呂の後ろで、川掘が他人に分らぬように頷《うなず》いている。石川麻呂は嘘をついていない、といっているのだ。
入鹿は肩透かしを喰ったような思いだった。ただ入鹿は、石川麻呂の言葉を素直に信じるほど単純ではなかった。
上《かみ》の大臣《おおおみ》として、自分の代りに政治を執る入鹿大臣を監督する立場になった蝦夷から視《み》ると入鹿はまだ若く、暴走し兼ねない面がある。蝦夷は入鹿の暴走をチェックするべく上の大臣の呼称を承認したのだ。
だが蝦夷の老いは、生存中に巨大な墳墓を造ったり、葛城の本貫地に祖廟を建てたりしたところに、はっきり表れている。老いといえば苛酷《かこく》かもしれないが、入鹿のようにエネルギーが溢れている年齢では、考えつかないことだった。ただ入鹿は上の大臣蝦夷の意向に反対しなかった。父の願望に添いながら、自分の目的に向って邁進《まいしん》しよう、と考えていた。いうまでもなく、蘇我本宗家の地位を高め、倭国の政治権力を握ることである。
大王家は暫くの間、蘇我本宗家の傀儡《かいらい》になる。それも邪魔なら消してしまう。入鹿は自分の考えを絶えず父に吹き込んでいた。
蝦夷が、今来の双墳墓を、大陵、小陵と呼ばせるようになったのは、入鹿の考え方が影響していた。と同時に、矢張り大臣の地位から更に上り、これまで倭国になかった上の大臣という地位についたことが、蝦夷を大胆にさせた。それに、大臣入鹿は女帝と情を通じ、女帝の信頼が厚い。上の大臣はいうまでもなく、大臣の上の大臣である。これまで倭国には大臣の上の存在は大王だけであった。
蝦夷には上の大臣と呼ばれているうちに、以前のように大王を意識しなくなった。大王に権力があれば別だが、現在の大王は女帝であり、入鹿のいいなりである。神祇の最高司祭者としての神聖さはあるが、権力は殆どない。
蝦夷が、自分達の墳墓を大陵、小陵と呼ばせ、祖廟を建てた記念に、入鹿の進言で八※[#「にんべん」+「八」/[月]]の舞を舞わせたのも、入鹿に引き摺《ず》られたというよりも、上の大臣と奉られている地位から来た錯覚であった。
何故なら現在の蝦夷には、入鹿のように、将来、大王の地位まで奪ってしまおう、という野望がなかったからである。
それは兎も角、蝦夷、入鹿が葛城に建てた祖廟の前で八※[#「にんべん」+「八」/[月]]の舞を行ったことは、反蘇我本宗家系の群臣に衝撃を与えた。彼等は、僧旻の講堂で学んでいた連中が殆どだった。中国王朝の革命の実態を勉強している。中国の歴史を学べば、倭国に革命が起っても当然である。蘇我大郎入鹿も、僧旻師から、仏教と共に中国の歴史、律令制度などを学んでいる。
蘇我系の大王とはいえ、かつては大王を殺害した蘇我本宗家であった。
反蘇我系の群臣が、蝦夷、入鹿の行為に、中国王朝の革命の匂《にお》いを嗅《か》ぎ取ったとしてもおかしくないだろう。
そして反蘇我本宗家系の群臣の眼は、僧旻の師範代になっている鎌足に向けられた。
鎌足の養父|御食子《みけこ》は、大王家の神祇の長官だが、どちらかといえば、蘇我本宗家寄りだった。
それは御食子が中臣家の維持に汲々《きゆうきゆう》としているからである。それだけではなく、支族の中臣連|塩屋枚夫《しおやひらふ》などは御食子の地位を狙っていた。御食子は神祇の長官であり大夫《まえつきみ》の地位にもあった。御食子は神祇の権威を高めるために、常陸《ひたち》の鹿島神宮の中臣氏から、神童の誉れが高かった鎌足を呼んだのである。神祇にも仏教文化のような華やかさと形式が必要となったのだ。鎌足は御食子の期待に添った。
飛鳥に花を咲かせた学問文化の中で、鎌足は頭角を露《あら》わした。今や大豪族の子弟達、中堅官人達で、鎌足の名を知らぬ者は居ない。それほど鎌足の学才は優れていたのだ。
通説では鎌足は藤原で生れ、父は御食子、母は大伴夫人となっている。藤原仲麻呂が撰したとされている『大織冠《たいしよつかん》公伝』が、この通説を生んだ。元来中臣氏は神と大王の中を執る臣、であった。古代に於ては占いを職業としていた。時代の流れと共に神事にたずさわった。画期的な変化の時代は、何といっても仏教伝来である。この異国の神は豪華で、神秘的であり、経典は学問であった。
旧来の神事を踏襲していては大王家の神は異国の神に追い払われてしまう。そこで大王家の神事も、仏教に負けないような形式と学問が必要になった。仏教伝来の欽明朝に、天児屋根命《あまのこやねのみこと》の十七世の孫《そん》、鎌大夫の孫と称する常磐《ときわ》が従来の卜部《うらべ》を改め中臣氏を名乗ったのも、仏教に対抗するため、と思われる。つまり神前に於ける祝詞《のりと》の奏上も、仏教の読経に対抗して案出された、とする説は説得力がある。
馬子が物部氏を滅ぼし、大王家に仏教が取り入れられてから、神事の中臣氏が、僧侶に負けないだけの優秀な人材を求めたのも当然であろう。そして御食子の代に、常陸の鹿島神宮の中臣氏に鎌子という神童が居ることが判明した。大王家に於て中臣氏の地位を保持すべく懸命に人材を探していた御食子は、鹿島神宮の鎌子を呼び寄せ養子にしたのだ。『大織冠』に於ける、母が大伴夫人などという記述は、鎌足の出生を飾るための創作である。というのは、藤原氏の全盛期を描いた『大鏡』は、堂々と、鎌足の出生地を常陸の鹿島としている。もうその頃には鎌足の出生を隠す必要がないほど、藤原氏は揺ぎのない存在になっていたからである。だからこそ『大鏡』の記述には真実性がある。
常陸の地方神である鹿島神宮の宮司であった中臣氏に生れた一青年が、何故中央の中臣氏に呼ばれたか、という点に、不審を抱くのは尤《もつと》もだが、仏教文化に対抗するため優秀な人材を集めようと|※[#「足へん」+「宛」]《もが》いていた中臣本宗家の立場を認識した場合、この不審点は解決されよう。多分鎌足は、常陸に居た少年時代から神童の誉れを高くしていたのだろう。
鎌足が生れたのは推古二十二年(六一四)である。私は鎌足が中央の中臣家に呼ばれたのは、六三〇年前後と考えている。学問僧僧旻や霊雲が、唐使|高表仁《こうひようじん》と共に倭国に戻って来たのは舒明四年(六三二)であった。
僧旻達が戻って来ると同時に学問文化の花が咲き始めたのだ。いってみれば、飛鳥の学問文化は、鎌足のために花を咲かせたともいえるかもしれない。
それは兎も角、鎌足は間違いなく、常陸で生れ、学才を買われて御食子の許に来たのである。そして鎌足は見事、御食子の期待に添った。八世紀以後の藤原氏が余りにも大きな権力を得たところから、始祖鎌足を過小評価する説がある。だが、大化の改新の前、倭国に花を咲かせた学問文化の実体と、その中で頭角を露わした鎌足の存在を認識したなら、鎌足を過小評価することは出来ない。
鎌足の学識、洞察力、そして政治力は、飛鳥の群臣の中では間違いなく群を抜いていたのであった。だからこそ、乙巳《きのとみ》のクーデターは成功したのである。
皇極二年(六四三)九月、鎌足は山田にある石川麻呂の屋形に居た。塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式の山田寺は七分通り完成していた。当時の氏寺はその氏族の城をも兼ねており、土塁といっても良い厚い築地塀によって囲まれていた。石川麻呂の屋形は山田寺の直ぐ傍にあった。
蝦夷、入鹿が葛城で八※[#「にんべん」+「八」/[月]]の舞を行ったことは、大王家に仕える反蘇我系の中堅官人に大きな衝撃を与えた。彼等は、大臣入鹿が、将来大王家を斃し、中国王朝の歴史の如く、自分が大王になる積りであることを感じ取ったのである。大王家に仕える中堅官人は、大王家の|伴 造《とものみやつこ》としての自覚があった。もし蘇我本宗家が大王になれば、中堅官人達の存在は稀薄になる。かりに蘇我本宗家が大王にならずに、中国のように皇帝を呼称し、大王を神祇の最高司祭者として残したとしても、古くからの伴造達の地位は揺らぐ。
中堅官人達は集ると、ひそひそとそのことを話し合った。場所は板蓋宮《いたぶきのみや》の朝堂院であった。
重臣連中は豊浦の屋形に行き、政治を執っているが、古くからの中堅官人達は相変らず板蓋宮の朝堂院に集った。集っても、政治に関する仕事はない。宮廷内部の仕事ぐらいである。自然彼等は蘇我本宗家の行動を批判し、このままにしておいては、大王家は勿論、自分達の地位も危い、と危機感を抱きながら政治談議に花を咲かせた。そして最後には、ひそひそと、中国の皇帝のように、倭国の大王が政治権力を持つべきである、遠い昔はそうではなかったか、といい合うのであった。
彼等がいう遠い昔とは蘇我氏の勢力が擡頭《たいとう》した欽明朝のことではない。
倭国が、中国南朝と交渉を持ったのは倭の五王の時代のことである。だが、二百年もの昔の王朝である。宮廷の中堅官人達は、その王朝のことは詳しくは知らなかった。中国との交渉のことも殆ど忘れ去られていた。
ただ推古時代に作られた『天皇記(大王記)・国記』によると、かなり強力な王朝であったようである。『大王記・国記』は、現在、上の大臣蝦夷が保管していた。
欽明時代、政治権力が大王家に握られていたとする説は誤りである。
欽明は、大臣|蘇我稲目《そがのいなめ》が擁立した大王であり、稲目は二人の女を欽明の妃としている。
堅塩媛《きたしひめ》と小姉君《おあねのきみ》だが、堅塩媛が大后(皇后)の地位にいた、という説があるぐらいで、すでに蘇我氏の政治権力は百済との外交を通じ、強くなっていた。当時は、また大伴、物部の両大連が居て、何かと政治に口をはさみ、欽明が大王として政治を行う余地は少なかった。
欽明の陵が、蘇我氏の勢力圏の檜隈《ひのくま》にある見瀬丸山古墳である可能性が強いことを考えれば、欽明の晩年、大臣稲目の政治権力は一段と飛躍していた、と考えて良い。
だから中堅官人達が懐かしがった倭国の王朝は、倭王武によって代表される、河内の王朝なのだ。
しかも、当時有力だった氏族の中には、蘇我氏の擡頭と共に地位も低下している者がかなり多い。
そうした中堅官人達が、大臣入鹿の独裁者的な行動に、大王家の危機を感じて憂え、鬱屈の吐け口としたのも当然であろう。
一人が忿懣《ふんまん》を洩らすと、同じ思いの者が同調する。だから新宮板蓋宮の朝堂院は、鬱屈した中堅官人達の溜り場になった。
彼等は、蘇我本宗家の御機嫌を伺っている王族や重臣達をののしり、軽王に対してさえも、批判の眼を向けた。
鎌足は、もう御食子の代理として、神祇関係の職務を行うようになっていた。
自然、板蓋宮に顔を出す機会は多い。
鎌足は何気ない顔で朝堂院に寄り、彼等の不平不満を聴いた。鎌足は僧旻の師範代的地位に居る。その学識才能は、中堅官人達の畏敬の的であった。次第に彼等は、自分達の不平、不満を鎌足に訴えるようになった。
先述した如く、鎌足の養父御食子は蘇我本宗家寄りだった。
だから、彼等は始めは用心していたが、鎌足が大王家の衰退を嘆くと、待っていたように不満をぶちまけたのである。
鎌足は、彼等の信頼を得るため、御食子を非難し、このままでは、御食子の後を継ぐ積りはない、とさえ洩らした。
中堅官人達はまだ鎌足の本心を知らない。
鎌足に、御食子の後を継いで神祇の長官になって貰《もら》わなければ困る、と暗に、自分達の指導者が、鎌足であることを仄《ほの》めかすのだった。
勿論、六四三年の時点では中堅官人達に、クーデターの意志はない。
ただ、不平、不満をお互い、ぶちまけあって、鬱屈を晴らしていたのである。
鎌足は、そういう不平、不満分子の中から、本当に蘇我本宗家を憎んでいる者達を選んでそれとなく自分の意を伝えた。宮廷警護長、佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》、副警護長、|葛城 稚犬養 連 網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》、それに新しく副警護長になった|海犬養 連 勝麻呂《あまいぬかいのむらじかつまろ》達である。鎌足は神祇の長官にならないのは、将来政治の世界で活躍したいためだと告げた。そして御食子が蘇我本宗家寄りなのは、蘇我本宗家の信頼を得る、という点で都合が良い、と自分の考えを述べた。蘇我本宗家の情報も得られる。げんに鎌足は、蘇我本宗家と石川麻呂との亀裂が想像している以上に深いのを知っていたが、これは御食子の情報であった。
鎌足が、佐伯連子麻呂など反蘇我氏の武人や官人に、口を酸っぱくしていったのは、大臣入鹿が間諜を放って、蘇我本宗家に反感を抱いている人物達を調査しているので、朝堂院などで、軽々しく蘇我本宗家の悪口をいってはならない、ということだった。それに、今は中堅官人達がどんなに焦っても蘇我本宗家に指一本触れることは出来ない。だから今は耐え忍ばなければならない時期だ、と説いた。
ただ、信頼出来るこの三人には、蘇我本宗家に対抗出来るのは石川麻呂だけであり、重要なのは石川麻呂を守《も》り立て、蘇我氏の勢力を二分させることであり、それ以外、蘇我本宗家の権力拡張を喰い止める方法はない、と自分の考えを述べた。二十歳で、『太公六韜《たいこうりくとう》』の書を読破した鎌足は、信頼出来る三人にも、自分に蘇我本宗家を打倒する気持があることを、話さなかった。幾ら口止めしても、このような重大事は必ず洩れる。それよりも、鎌足が狙ったのは、反蘇我本宗家の機運を盛り上げることと、蘇我氏の分裂であった。何といっても、蘇我本宗家には、東漢氏を始め、渡来系の氏族が付いている。だが、蘇我倉山田石川麻呂にも、心を寄せている東漢氏は居る。ことに東漢氏以外の渡来系の氏族の中には、蘇我本宗家の蝦夷、入鹿よりも、温厚で財力のある石川麻呂に好意を抱いている者が多かった。
日向の紹介で石川麻呂と親しくなった鎌足は、山田の屋形で、石川麻呂の子弟に学問を教えるようになっていた。子弟に学問を教えるという口実があるから、鎌足は堂々と石川麻呂の屋形に出入り出来た。
鎌足が視た石川麻呂は策を弄《ろう》する政治家ではない。だが石川麻呂の父倉麻呂が、大王家の財政を担当していただけに、石川麻呂も計数に明るい。ただ評判ほど温厚な人柄ではなく、気性の激しい面も持っていた。ことに、従兄弟にあたる入鹿が、一方的に政治を執ることに対して反感を抱いていた。
大臣になった入鹿は、完全に蘇我倉山田家を無視している。入鹿は自分の血族よりも、軽王や、巨勢臣、大伴連などと親しく付き合っていた。
蝦夷にはまだ、蘇我氏は、百済王族の子孫であり、氏族は一体とならなければならない、という古い観念が残っていたが、入鹿にはもうそれはない。同じ氏族でも、協力しない者は敵なのだ。入鹿には蝦夷のような氏族観念は稀薄だった。これも入鹿の性格だけではなく時代の流れの所産である。
石川麻呂が住んでいる山田は、飛鳥から磐余《いわれ》に通じる山田道の南端近くにあった。
両側は低い丘陵である。東側の八釣山は南に行くにしたがって高くなり、多武峰《とうのみね》に達する。眺望は豊浦《とゆら》の屋形、嶋の屋形ほど良くないが、飛鳥の北東を押える要衝の地であった。
ズボン様の袴《はかま》をはき襟《えり》の詰まった上衣を着た石川麻呂の傍には、石川麻呂の腹心の田口臣筑紫《たぐちのおみつくし》が居た。同じ田口臣だが筑紫は石川麻呂の腹心になり、川掘は入鹿に忠節を尽している。そういう意味で、六四〇年代には、蘇我氏の同じ支族同士でも、各人の政治観や人間観によって分裂していたのである。
鎌足は石川麻呂に、大臣入鹿を軍事大将軍とする飛鳥朝廷軍は、近々斑鳩宮を攻撃し、山背大兄皇子を殺害するに違いない、と自分の予想を話した。
「鎌子、そなたは今、飛鳥朝廷軍と申したな、何故じゃ?」
と石川麻呂が眉を寄せて質問した。
「はっ、我等の一族、|中臣連 塩屋枚夫《なかとみのむらじしおやひらふ》は、軽王、蘇我大郎と親しくしております、また、父御食子も御存知の通り、保身のために蘇我本宗家の機嫌を伺っています、おかげで、大臣始め、重臣達の情報が吾の耳に入って参りまする、それによると、過日、蘇我大郎が、大夫達と斑鳩宮に押し掛けられた、多分、山背大兄皇子は、警備のために舎人達に戦の訓練をさせるに違いありませぬ、皇子は勝気な方です、だが、その時こそ、上宮王家は最大の危機を迎える、泊瀬部大王《はつせべのおおきみ》(崇峻)が密かに兵を集められた時も、それを口実に嶋大臣は大王を殺害された、父御食子の話では、蘇我大郎を始め重臣達は、山背大兄皇子は、大王位が自分に来ないので業を煮やし、実力で大王位を奪い取る積りだ、と考え皇子に謀反の疑いを持っておりまする、蘇我大郎は、なかなかの賢者、決して自分一人では動きますまい、もし斑鳩宮を攻めるなら、軽王始め、重臣達と共に行動されるでしょう、だから、飛鳥朝廷軍と申し上げたわけで御座居まする」
石川麻呂は溜息を洩らすと、眉を寄せたまま頷いた。石川麻呂にも入鹿の計算したやり方が鎌足の話で納得出来たのだ。
「蘇我大郎は、挙兵される時、蘇我倉家にも兵を集めるよう、要請なさると思います、矢張り大郎は、自分が主役になって上宮王家を滅ぼした、と噂されたくない筈……」
鎌足は石川麻呂の顔を澄んだ眼で見詰めた。今、鎌足は石川麻呂の返事を待っているのである。
「中臣連鎌子、吾の父倉麻呂は、推古女帝が亡くなられた時、生命の危険を感じながらも、大臣蝦夷の説得を拒絶し、中立の立場を守った、蘇我本宗家から興兵使が来ても、吾は断わる、上宮王家は、何といっても蘇我氏の同族じゃ、兵は興せぬ、と断乎《だんこ》、拒否する」
「蘇我大郎は、蘇我倉家を恨みますぞ」
「それは覚悟の上じゃ、それにしても、軽王まで、蘇我大郎に協力するとはな……」
石川麻呂はいまいましそうにいった。
「軽王には吾も失望しました、軽王は蘇我大郎の言に釣られ、大王位を夢見ておられる、多分、蘇我大郎は軽王に、大王位を約束し、二人で倭国《わこく》の政治を執ろう、と持ち掛けたに違いありますまい、大夫《まえつきみ》、もし蘇我大郎が飛鳥朝廷軍の総大将となり、上宮王家を滅ぼしたなら、その後、どうなると思われます?」
「そなたの申す通りだ、政治権力は、蘇我大郎の手に集中するかもしれぬ、だが、上宮王家は、何といっても、廏戸《うまやどの》皇子(聖徳太子)の家柄、大王家との関係も深い、蘇我大郎に対する反撥の声も、あちこちから起るに違いない」
石川麻呂の言葉に対して鎌足は小首をかしげた。それは違っている、と鎌足はいっているようだった。
「意見があれば、隠さずに申せ、吾は、はっきり、大臣を批判しておる、そなたも同じじゃ、先日、僧旻に会った時、中臣連鎌子は、十年に一人、出るか出ないかの人物、と褒めておった、吾はそなたと親しくなって、心強く思っておる、吾を信頼して欲しい」
鎌足は坐っていた毛皮の上に手を付き、礼を述べた。
「大夫、吾の意見を申し上げます、大夫のお考えは甘い、何故なら、蘇我大郎は軽王を始め、重臣達と上宮王家を滅ぼす、滅ぼした後、蘇我大郎は大夫をどう視られるでしょうか、興兵の命令を下したにも拘らず、大臣の命令を諾《き》かなかった不届き者、と蘇我大郎は大夫を憎まれるでしょう、大郎の性格から考えて、そう判断しておかしくありますまい、大夫、蘇我倉家は、蘇我氏ですぞ」
流石《さすが》に石川麻呂は顔から血が引いて行くのを感じた。受け取り方によれば鎌足は、山背大兄皇子を滅ぼした後の蘇我本宗家の攻撃目標は、石川麻呂殿、あなたですぞ、といっているのだ。石川麻呂は腕を組み入鹿の性格を考えてみた。鎌足の意見には聞き流せないものがあった。
「そうかもしれぬ、吾を憎むだろう、だが吾は矢張り上宮王家に兵を向けることは出来ぬ、昨日、|高向臣 国押《たかむくのおみくにおし》が来た時も、そのことだけは申しておいた、父倉麻呂も死に際に、蘇我本宗家の命令でも、それだけはするな、と吾に申した」
「国押臣は蘇我本宗家に絶えず出入りしておられるが……」
「いや、国押の心は吾にある、国押は蘇我本宗家の情報を吾に伝えてくれるために、蘇我本宗家に出入りしておるのじゃ、心配は要らぬ」
田口臣筑紫《たぐちのおみつくし》が、鎌足の疑いを解くように、その点については、自分も保証する、といった。鎌足は何時もの彼らしくない鋭い眼を、石川麻呂に向けた。
「大夫、そこまでの御決心がおありなら、吾の本心を申し上げる、このままでは蘇我倉家は危険ですぞ、蘇我本宗家に抵抗した蘇我の大支族を、あの大郎入鹿が放っておく筈はない、上宮王家の次の攻撃目標は、蘇我倉家ですぞ、御用心されておいた方が賢明で御座る」
石川麻呂は大きく吐息をつき頷いた。
「分っておる、だから蘇我氏の支族の中でも吾に心を寄せる者、また、高向臣を始め西史氏、また渡来系氏族などの掌握に掛っている、筑紫がそれをやっておるのじゃ」
鎌足は、筑紫に向って微笑したが、直ぐ表情を引き締めた。
「それは良いお考えです、蘇我本宗家に反感を抱いている者は意外に多い、ことに中堅官人達や、かつての名門氏族で、今は陽の当らぬ場所で鬱屈している者の中に、反蘇我本宗家の機運が盛り上ろうとしています、吾は彼等をよく知っている、彼等は大夫に好意を寄せている、だからといって、彼等を団結させることが出来るか、残念ながら出来ませぬ、柱がない、団結させる柱が御座らぬ」
日頃冷静な鎌足が、拳《こぶし》を握り膝を叩いた。
「吾では、蘇我本宗家に対して役不足だというのか? いや、その通り、吾では駄目だ」
と石川麻呂は頷いた。
「いや、役不足とは申しませぬ、ただ、蘇我本宗家は、上の大臣、大臣を柱にし、軽王を味方にし、重臣達を支配しております、だが、こちらには、柱がない、吾は柱が欲しいのです、その柱と大夫が組まれたなら、将来、蘇我本宗家に対抗出来る勢力を生み出すことも、不可能では御座らぬ、蘇我本宗家も、蘇我倉家にうかつに手が出せなくなります……」
「柱か……」
石川麻呂は鎌足の眼を見た。
二人の視線が合った時、微《かす》かに頷いたのは石川麻呂であった。
「お分りなされたか?」
「ああ、軽王以外の王族を柱にしなければならない、という意味であろう?」
「流石は大夫、その通りで御座居まする……」
「あの皇子か?」
「その通り葛城皇子(中大兄皇子)以外、柱になる王族は居りませぬ」
鎌足の口調には自信が溢れていた。
「確かに葛城皇子以外居ない、だが、吾には皇子の若さが気になる、それに、先日の宴席で同席したが、葛城皇子は狩りの話に夢中であった、蘇我本宗家を余り意識していないのではないだろうか、葛城皇子は、葛城に住んで居る我等の支族の家で成長されたので、蘇我本宗家を憎んでいないように思われるが……」
「分っております、だが、葛城皇子は蘇我大郎を憎んでおられる、吾は吾の勘に自信を持っておりまする」
石川麻呂は返事をせず瞑目《めいもく》した。鎌足が、何故そう自信を持って告げたのか、考えているようだった。慎重な人物だな、と鎌足は石川麻呂を頼もしく思った。
「葛城皇子はまだ十八歳、憎むとすれば、政治の件ではあるまい」
と石川麻呂は呟くようにいった。
「その通りで御座居まする、葛城皇子は、大王の御気持が、蘇我大郎に傾いているのを知り、大郎を憎んでおられる、つまり、葛城皇子は、大王の愛情に飢えておられる、だから、狩りばかりして憂さを晴らされるのも当然です、何時だったか宮廷で葛城皇子にお会いした際、吾はそう感じました」
「それなら納得出来ないこともない、葛城から飛鳥に来られてまだ三年じゃ、大王の愛情に飢えておられるだろう、しかし、宴席で、葛城皇子は、明るい顔で蘇我大郎と話をしていた」
「大夫、あの夜のことは、吾もじっと観察しておりました、葛城皇子は、蘇我大郎を憎んでいる反面、それを大郎に知られることを恐れておられる、と吾は視た、大変な演技力で御座居まする、なみの皇子ではない、と吾は視ましたぞ」
|造 媛《みやつこひめ》が現れ、鎌足は挨拶した。造媛は肌に艶《つや》があり、切れ長の眼で眉が長い。それにどちらかといえば下脹《しもぶく》れなので優しい感じを与える。日向《ひむか》が造媛に夢中になっているのも当然である。造媛の次妹は|遠智 媛《おちのいらつめ》だった。姉に劣らぬ美貌だが遠智媛の方は面長で姉よりも知的な感じだった、気性も遠智媛の方が激しい。才気のある女だった。
鎌足は石川麻呂の屋形に出入りするようになってから、この二姉妹を中大兄皇子の妃にすることを考えていた。
中大兄皇子は、まだ妃を持っていない。新しく建てた屋形には、地方豪族が差し出した女人達が仕えている。現在皇子は、それ等の女人達と媾合《まぐわ》っているようだが、彼女達を妃にすることは出来ない。
矢張り最初に皇子の妃となる女人は、王族か、畿内豪族の女《むすめ》、ということになる。もう十八歳だから、豪族達の中には、自分の女を皇子の妃に、と考えている者が多い筈だった。
蘇我田口臣筑紫が厠《かわや》に立った時、鎌足は石川麻呂に、内密にお願いしたいことがある、と囁き、石川麻呂を屋形の庭に誘い出した。
鎌足の心中を知った石川麻呂は意外そうに、鎌足を見た。
「遠智媛は構わぬ、だが、日向は造媛を妻にしたがっておる、それに二人は深い仲じゃ、そのことは、そなたも存じておろう」
「薄々は存じておりまする、勿論、無理にとは申しませぬ、とりあえず遠智媛だけでも早く……」
鎌足は、石川麻呂に向って深々と頭を下げた。鎌足は、中大兄皇子と石川麻呂の女との婚姻は、中大兄皇子を対蘇我本宗家の柱にする上で、最も必要だ、と考えていたのだった。また石川麻呂にとっても、女と中大兄皇子との婚姻は蘇我本宗家に対する大きな武器となる。
入鹿は、巨勢臣徳太や大伴連馬飼等と斑鳩宮を訪れてから、斑鳩宮を攻撃し、上宮王家を滅ぼす決意を固めていた。だがそれには、徳太や馬飼が積極的に攻撃軍に参加するだけの理由が必要だった。ところが山背大兄皇子は、入鹿の予想に反し、蘇我本宗家に反抗はするが、謀反の気配は見せなかった。少しでも謀反の気配を見せてくれれば、それを理由に一挙に攻撃出来る。入鹿の祖父、大臣馬子が崇峻《すしゆん》を殺したのも、崇峻が馬子を滅ぼそうと兵を集めに掛ったからである。
入鹿は、どういう方法で斑鳩宮を攻めたら良いか、と蝦夷に相談した。老獪《ろうかい》な蝦夷は、戦の準備をさせれば良いではないか、と智慧《ちえ》を授けた。
「問題は、その方法じゃ、吾もそれぐらいのことは存じておりまする」
入鹿は時の流れを洞察し、新しい学問を身につけているが、権謀術数という点では、蝦夷に及ばなかった。
蝦夷はこの頃、夜になると、毛皮に身体を横たえ、何人もの女人達に身体中を揉《も》ませていた。旧暦十月の飛鳥は、夜になると底冷えがする。勿論蝦夷は、他の重臣の前では、このような姿はめったに見せなかった。
蝦夷が、自分の老いをさらけ出すことの出来る男といえば、入鹿しか居なかった。
「どんな風に考えておる?」
「夜陰に乗じて火矢を射るとか……」
「風の激しい季節じゃ、そんなことをすれば燃えてしまう、火矢は駄目じゃ、だが矢を射ると相手は用心する、当然、兵を集めに掛るだろう、それで充分じゃ、謀反の準備をしておるのだからな、それと大郎、そなたは女帝と親しくはなかったのか?」
蝦夷は眼を細めて入鹿を見た。
「板蓋宮に移られてから、余り会っておりませぬ、何かと、人の口がうるさい」
「ほう、それでは何のために女帝と情を通じたのじゃ、女帝のことは吾におまかせ下さい、と胸を張って吾に申したのは何時だったかのう?」
蝦夷の眼は決して笑っていなかった。年齢のせいか、酒のせいか白眼の部分が黄ばみ、黒眼も濁った感じがする。それだけに、笑わずに見詰められると、不気味だった。
「父上、吾にも心積りがある、御心配は御無用です」
入鹿は軽く頭を下げると立ち上った。
父に自分の弱点を突かれた思いで、入鹿は豊浦《とゆら》の屋形を出ると夜空を睨んだ。底冷えはするが風は殆どなかった。多武峰連山の彼方に新月が鋭く煌いていた。
豊浦の屋形の周囲には篝火《かがりび》が燃え、|東 漢《やまとのあや》氏の兵士達が槍を持って守っている。槍の穂先が赤く光るのは、兵士達が身体を動かすせいである。この季節でも、直立不動の姿勢で立っていると、身体の芯《しん》まで冷え込んでしまう。
雀《すずめ》が数人の兵士達を従えて迎えた。入鹿は四月まで女帝が居た仮宮に住んでいた。何故か、かつてのように大勢の女人達が居る嶋の屋形に戻る気がしない。
時たま訪れ、女人達と媾合うが、葛城の高宮に行き、楓《かえで》と夜を過す時の方が多かった。女帝のために建てた仮宮にも、入鹿に仕える女人は、何人か居た。だが入鹿は、今住んでいる屋形で、女人と媾合ったことがない。
女帝を穢《けが》してしまうような気がして出来ないのだ。或る意味で、それは入鹿のロマンチシズムでもある。だが、絶対的な権力者を志向している人間が持ってはならない美意識かもしれなかった。
雀は、入鹿が何時ものように女帝の仮宮を改造した新しい屋形に戻るものとばかり思っていたようだ。
「兵士達の中には弓矢を携えている者は居るか?」
と入鹿は雀に訊いた。
篝火に微かに照らされていた雀の顔色が変った。雀は何時も背中のみならず馬にも靫《ゆぎ》をつけ、無数の矢を入れている。入鹿を警護する兵士達は、弓矢を携えているが、夜の兵士達は、槍、刀だけで武装していた。屋形を少し離れると暗闇《くらやみ》である。満月の夜なら草叢《くさむら》の揺れ具合も、判別出来ないことはない。
だから弓は役に立つ。だが今夜のように月影の薄い夜は、十尺離れると人間と樹木が識別出来ない。弓矢は役に立たないので、今夜は警護の兵士達は携えていなかったのだ。
「申し訳、御座居ませぬ」
雀は路上に平伏した。
「もう良い、これからは何時も、刀、槍、弓は携えるようにせよ、雀、今から斑鳩宮を攻撃する、兵士達は十人ばかりで良い、馬に達者なものばかり集めろ、弓矢は小墾田《おはりだ》の武器庫に行って取って参れ」
「大臣、十人で斑鳩宮を攻撃なさるのですか?」
跳ね起きた雀は驚いたような口調でいった。
入鹿は雀を手招き、斑鳩宮を守っている警護の兵士達を矢で射斃《いたお》し、それから宮に矢を射込むだけだ、と囁《ささや》いた。
「女人にたわけてばかりおる軟弱な皇子だが、仕えている舎人達は強者揃《つわものぞろ》いじゃ、さあ雀、大急ぎで弓矢の達者な者を十人集めろ」
「分りました、直ぐ集めまする、吾君大郎、屋形の中でお待ち下さい」
「ああ、吾は屋形に戻っておる、嶋の屋形ではないぞ」
「分っておりまする」
雀は角笛を取り出すと低い音で鳴らした。兵士達が雀の廻りに集る。雀は彼等に、召集する兵士達の名前を告げているようだ。
東漢氏の兵士達の屋形は、豊浦の屋形の西方にあった。半刻《はんとき》もたたないうちに、弓矢を携えた兵士達が、かつての女帝の仮宮、今は入鹿が住んでいる屋形に集合した。
新月は多武峰連山から西に移動している。だが薄い雲が空を覆い始め、まさに飛鳥の山野は暗闇だった。戦の気配がないので、女帝が住んでいる板蓋宮にも警護の篝火は燃えていなかった。
雀が先頭に立ち、中《なか》つ道《みち》から下《しも》つ道《みち》に出て北上する。時々、獣が驚いたように道を横切る。狐、山犬、野兎の類だった。兎《と》に角《かく》十尺の前方が見えない暗闇である。道に慣れている雀も、馬を走らせるわけにはゆかなかった。並脚《なみあし》より少し速い程度で馬を進めた。
斑鳩宮の警護の兵達に、こちらが何者か見破られると都合が悪いので、松明《たいまつ》も燃やしていない。まさに入鹿の一団は闇の中に溶け込んだ影のようなものだった。襲撃団の存在を示すのは馬の蹄《ひづめ》の音だけであった。
月が高取山の彼方に移った頃、一行は斑鳩宮の近くに到着した。斑鳩宮の背後は生駒連山の南端部にある高安山である。夜道なので一行は迷った。この道に間違いない、と思って進むと、山の方に入り込んだ。
「道をよく覚えておかねばならぬな……」
と入鹿は雀にいった。
茅葺《かやぶ》きの農家があったので、戸を蹴破《けやぶ》り、農家の主人に外に出るように、雀が命じた。土間の上に筵《むしろ》を敷いただけの家である。これがこの時代の平均的な農家であった。家には数人居る筈だが怯え、闇に紛れて隠れ、誰も出て来ない。
雀は松脂《まつやに》を塗った矢に火をつけた。弓を引き絞ると屋根に向けた。
「我等は盗賊ではない、斑鳩宮に行く途中迷ったのじゃ、この近くと思う、この家の長《おさ》は道を知っている筈、案内するように、兎のように隠れていても無駄だ、火矢を射る、あっという間に燃えるぞ」
雀の言葉にぼろを纏った老人が転がり出た。赤ん坊が泣き出したのは、女が赤ん坊の口を塞いでいたからだろう。
老人は、半里ほど北方だ、と告げた。半里といっても、道は一本だけだ。
「分った、斑鳩宮に通じる道まで案内しろ」
「お前様達は?」
老人は恐る恐る訊いた。
「斑鳩宮に仕えるため、三輪山から参った者じゃ」
「御苦労さまで御座居ます」
老人は慣れているらしく、草叢を掻きわけ、田畑を迂回《うかい》しながら進んだ。
「斑鳩宮の皇子の評判はどうかな?」
と入鹿は声を和らげて老人に訊いた。
「それはもう、徳のある皇子様でいらっしゃいます、御仏様の生れ変りのような方で御座居ます」
「ほう、どうしてじゃ?」
入鹿は込み上げて来る不愉快さを押えながらいった。老人は、飢えた者には、粟粥《あわがゆ》などをめぐんで下さる、といった。
そういえば、板蓋宮の使役の民の中には、斑鳩宮に逃げ込もうとした者が大勢居た。
蝦夷、入鹿の墳墓の造築にこき使われている使役の民も、逃亡した者は斑鳩宮に逃げ込もうとする。だが、東国から来た者は、斑鳩宮が何処にあるか知らなかった。斑鳩宮と間違って飛鳥寺に逃げ込み、警護の兵に殺される者もかなり居た。
だが山背大兄皇子も、蘇我氏などに較べると、裕福ではない。山背の秦《はた》氏や、斑鳩宮の近くの|膳 臣《かしわでのおみ》などの援助はあるが、今や、東国の乳部《みぶ》は、入鹿によって押えられたのも同然だった。
だから山背大兄皇子は、逃亡者を救けるために、豪農から調《ちよう》を多く取り立てている、という噂だった。そういう豪農達の不平は、飛鳥まで伝わって来ている。その代り、今案内しているような貧農たちの評判は良いのかもしれない。
暫く行くと、斑鳩宮に通じる道に出た。山背大兄皇子の父聖徳太子が馬に乗り、飛鳥に通った、という道であった。
「ここを北に行けば、斑鳩宮に出ますだ」
老人は小首をかしげ、疑わしげに入鹿を見た。入鹿が乗っている白馬は、暗闇の中でも見える。老人の後に廻った雀《すずめ》が弓を引き絞った。
「ああ、御苦労じゃ」
入鹿が頷いた瞬間、鋭い弓鳴りの音と共に、雀の矢が老人の背から心臓を貫いた。
老人は低く呻いたが、そのまま路上に崩れた。仮令《たとい》間近とはいえ、この暗闇である。雀の腕は素晴らしかった。おそらく老人は自分が射られたことも知らずに死んだに違いなかった。
「勝手な行動、申し訳御座居ませぬ」
と雀は入鹿に一礼した。
「仕方あるまい、白い馬に乗って来たのが不味《まず》かった、しかし、用心に越したことはあるまい、この道なら大丈夫じゃ、雀行くぞ」
入鹿は白馬の尻《しり》に鞭を当てた。
兵士達は、雀が老人を射殺したのを見、形相が変っていた。血の匂いが武人の闘争心をあおりたてたのだった。雀の狙いは、たんに身許を知られたくない、という警戒心のためだけではなかった。兵士達に、これは戦だぞ、ということを知らせたのである。
暗闇の細道を騎馬団は走った。馬は草叢や田畑に入ったりしない。手綱を操らなくても、道を走って行く。薄雲が消えたらしく、淡い月影と星明りに斑鳩寺らしい建物が見えて来た。斑鳩寺の手前で道は二つに分れている。左に行けば斑鳩寺、右に行けば斑鳩宮だった。雀が入鹿の傍に来た。
「吾君大郎、その馬では、乗り手が大郎であることが分ります、右手に丘らしいものがございます、そこでお待ち下さい」
「雀のいうのも尤もじゃ、残念だが、ここで待つ、火矢は使うな、もし、こちらに斃れた者が出たら、必ず置き捨てずに、遺体は運んで参れ」
雀は気負い立った兵士達を集め、入鹿の命令を伝えた。雀は弓を身体に掛けると、斑鳩宮に向って疾走した。入鹿の傍には二人の兵士達が警護のために残っている。
蹄の音が乱れたかと思うと、叫び声と悲鳴が聞えて来た。それもあっという間である。
雀達が一列になって戻って来た。
「吾君、追手が参るとめんどうで御座居まする、馬を走らせましょう」
雀の白い歯だけが、成功を物語っていた。
雀の報告によると、斑鳩宮の門を警護していた兵士達は、防戦する間もなく矢に射斃され、東漢氏の兵達は更に槍で胸を刺した、という。それから斑鳩宮を一廻りし、裏門に居た二人の警護の兵士を斃し、雀は樹に登り、大殿と仏殿の壁に矢を射て戻って来たのだった。
「多分、斑鳩宮の皇子は、警護の兵士が射られたことを知らないと存じまする」
雀は若いが、武人の長としての報告は要領を得ていた。
「何故、斑鳩宮の皇子が知らない、と判断したのじゃ?」
と入鹿は訊いた。
「はあ、宮を一廻りしましたが、女人達の声も聞えませんでした」
「分った、そちの報告に間違いはないだろう、屋形に戻ったら、兵士達に酒を飲ませてやれ」
「吾君大郎、御意向に背くようですが……」
雀は、今夜の襲撃を、嫌がらせよりも、前哨戦と考えている、といった。入鹿が思わず頷くと、戦である以上、夜陰に紛れた襲撃の度に、兵士に酒など飲ませておれば、彼等の気持がだらけて使い物にならない、というのだ。
「雀、その通りじゃ、これから半月ばかりの間、二、三日おきに襲撃しろ、人数は増やすな、一人でもやられると、こちらの素姓がばれる、吾の目的は斑鳩宮の皇子が、戦の準備を始めることじゃ、武器や、農兵など集めたらしめたものだ、謀反を企てている、という理由で、一挙に叩き潰《つぶ》せる、良いか、もし味方の兵が射られたなら、顔に魚油を掛けて焼け、遺体といえども、誰だか分らぬようにするのじゃ、分ったか?」
「分りました、ただこれからは、敵も我等の襲撃を宮の外に出て待ち受けるでしょう、今夜のような成功は、無理だと存じまする」
「斑鳩宮、斑鳩寺、あの付近に間諜を置いておけ、絶えず連絡が取れるようにするのじゃ」
「分りました、必ず吾君大郎の御意向に添い奉りまする」
若い雀は、燃えていた。自然入鹿に対する声も熱気を帯びている。入鹿は雀を傍に呼び肩を叩き、そちは若い、焦るなよ、と笑ったのだ。
それ以来、斑鳩宮に、正体不明の襲撃隊が押し寄せるようになった。警護の兵士を矢で射殺し、門を閉めていると巨石で打ち壊して中に入り、矢を射っては、疾風のように走って行くのだった。深夜とは限らない。夜明けまで、兵士達が宮を守り、今夜は来なかった、とほっとした途端現れる。矢の達人ばかりで、馬の上から矢を射るが、驚くべき正確さだった。
なかには斑鳩宮に仕える舎人達の矢を受け、落馬する者が居た。途端に他の兵士が皮袋に入れてある魚油を掛け、燃やしてしまう。だから山背大兄皇子は、この襲撃隊が何者か分らなかったのである。
ただ執拗な襲撃ぶりから判断して、単なる嫌がらせとは思えなかった。
襲撃に備えて付近の農民達が動員された。
指揮者は地方の豪族の子弟である舎人達である。聖徳太子時代からの関係もあり、舎人達の数は五十人を越えていた。動員された農民は約百名である。
山背大兄皇子も、本格的な防衛対策に乗り出したのである。こうなると、十名や、二十名の襲撃隊では効果がない。途中で待ち伏せられたりしたら、襲撃隊の方が全滅する恐れがある。
入鹿はこの時を待っていた。斑鳩宮の奇襲攻撃をその日限りで止めさせたのだ。
入鹿は久し振りに板蓋宮《いたぶきのみや》を訪れた。今、入鹿が住んでいる屋形に女帝を招待したのは、約二カ月前である。入鹿は、板蓋宮を訪れた時は、勝手に大殿に上ったりしない。宮廷警護の兵士達は無視し、朝堂院から宮の内庭までは独断で入るが、女帝が生活している内裏と渡り廊下で繋れている大殿まで来ると、必ず女人の長を呼び、来訪したことを伝えるようにしていた。それは女帝に対する入鹿の接し方だった。女帝が礼節を弁《わきま》えない人物を嫌うのを入鹿はよく知っていた。舒明生存中から采女《うねめ》として宮廷に仕え、舒明が亡くなった後も故郷に戻らず女帝に仕えている女人の長は、息長《おきなが》氏と関係のある近江《おうみ》の豪族の女だった。彼女は女帝と入鹿の関係を知悉《ちしつ》していた。
だが、女帝に入鹿の来訪を伝えた女人の長は、女帝は頭痛で床に伏しているので、会えない、と入鹿に告げた。入鹿は困惑したような女人の長の表情を読み取った。
女帝は急に床に伏したに違いなかった。長い間、入鹿が来ないので、女帝は嫉妬《しつと》の炎を燃やしていたに違いない。また入鹿と会えない淋《さび》しさに身の置きどころがない思いで毎日を過していたのであろう。
女帝は天真爛漫だが、やはり女帝だけに誇りが高い。待ちに待った入鹿が来たのを知り、喜びと同時に、自分の誇りと恨みを入鹿に示したくなった。だから急病を装い、入鹿に会えない、と女人の長に告げさせたのだ。入鹿はそう感じ取った。
「この頃は、朝晩が酷《ひど》く冷える、風邪を引かれたのではないか、お見舞い申す」
入鹿は階段を上ると履《くつ》を脱ぎ大殿に入って行った。渡り廊下の前には簾が垂れ下っている。軽王でさえも渡り廊下を通り内裏に入っていない。
「大臣《おおおみ》、いけません」
女人の長は精一杯声を張り上げた。
入鹿が行くことを内裏の女帝に伝えたに違いなかった。
「そなたの責任ではない、吾が大王によく申し上げるから心配するな」
入鹿は内裏の戸を開けた。唐の香料の匂いが入鹿の鼻を衝《つ》いた。数人の女人達が慌てたように絹の几帳《きちよう》の前に立ち塞がった。
女帝の姿は女人達に遮られて見えない。多分、女帝は慌てて横になったのだろう。
淡紅色の絹の覆衾《おおいぶすま》(蒲団)の一端が入鹿の眼に映った。内裏は、板床の上に何枚も麻布が敷かれ、下からの寒気を防いでいる。その上に鹿の毛皮が到るところに置かれていた。入鹿は毛皮の上に胡坐をかくと、腰に吊していた長刀を傍に置いた。
「大王、御身体の具合が悪いのに、寝所まで押し掛けて申し訳ありませぬ、大王に是非御知らせしなければならぬことが生じた、女人達を退らせて下さい」
「朕《わ》は頭が痛い、それにそなたの声は大き過ぎて、頭に響く、また別な日にして欲しい」
と女帝は籠った声でいった。
覆衾を頭から被っているに違いなかった。
入鹿には、拗《す》ねた女帝が可愛らしく思えた。入鹿は宥《なだ》めるようにいった。
「大王、吾は忙しいのですぞ、しかし御身体が悪いのなら、今は戻ります、暫く横になっておられたら頭痛も治りましょう、吾はこの頃大王が住んでおられた仮宮を住居としている、今宵、そこで、夕餉《ゆうげ》を共に致し度《と》う御座る、その際、山背皇子の謀反の企てを、お話し申し上げます」
「何だと、山背皇子が謀反だと……」
驚いた女帝は覆衾を取ったらしく涼し気な声がはっきり聞えて来た。
「近くの農民を動員し、奴達にまで弓矢を持たせております、いや、詳しいことは、今宵、吾の屋形で……」
入鹿はいうだけいうと、女帝の顔も見ずに宮殿を出た。山背大兄皇子のことを入鹿が女人達の前で話したのは、女帝の心中を慮《おもんぱ》かったからである。これで女帝は女人達に気兼ねすることなく吾に会いに来れるだろう、と入鹿は計算したのだった。実際、仮宮の時と異り、板蓋宮に住むようになった女帝は、自由に行動出来なくなっていた。板蓋宮は大変な工事の後完成したのだ。盗賊や浮浪者に火でもつけられたら大変である。だから警護の兵士達も宮廷警護に熱を入れていた。宮廷警護長の佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》や副警護長の|葛城 稚犬養 連 網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》、|海犬養 連 勝麻呂《あまいぬかいのむらじかつまろ》達は連日宮廷に出仕している。
政治の殆どは上の大臣蝦夷の屋形で行われ、小徳以上の者は豊浦の屋形に顔を出していたが、用事のない中堅官人の中には、新しい板蓋宮に参朝する者が多くなっていた。もし入鹿が早朝に宮廷に行き、政治談議に花を咲かしている彼等を見たなら、おやっ、と思ったに違いなかった。中堅官人の大半は古くから大王家に仕える|伴 造《とものみやつこ》達であり、僧旻《そうみん》師の講堂で勉強し、新しい時代の流れがやって来るのを、待ち望んでいる者達だった。
彼等が待ち望んでいる新しい時代の流れとは、大王家による中央集権化であった。
女帝は宮廷に出仕している中堅官人達とは親しく話したりはしない。
だが、彼等が何を望んでいるか薄々感じていた。だからこそ、仮宮時代のように自由に遊べないし、入鹿とも会えないのだった。
話し合ったことがないが、女帝は、彼等が蘇我本宗家に対して反感を抱いており、自分と入鹿との関係に冷たい眼を向けているのを知っていた。女帝はそのことを、まだ入鹿には話していない。
入鹿がかつての女帝の仮宮を改造した屋形に帰って間もなく、女帝の使者がやって来た。使者は、頭痛がとれたので日暮れ前には訪れる、という女帝の伝言を入鹿に伝えた。女帝は女人達を連れ、宮廷警護の兵士達に守られ入鹿の屋形にやって来た。
副警護長の海犬養連勝麻呂は、|東 漢 直 雀《やまとのあやのあたいすずめ》に女帝が戻るまで帰らない、といい張った。新しく副警護長になった勝麻呂は、年齢も雀と違わず、熱血漢である。いうまでもなく蘇我本宗家、ことに入鹿に反感を抱いている一人だった。雀は女帝の警護は自分が引き受けたから戻れ、といい、その件で二人はいい争った。声高な二人のいい争いは、女帝を宴席に迎えた入鹿の耳にも伝わった。
入鹿の形相が変ったのを見て、女帝は立とうとした入鹿を制止した。
「朕が、宮に戻るように命じる、そなたも大臣《おおおみ》じゃ、余り声を荒げたりしない方が良い」
女帝は入鹿を宥めると、顔を真赫《まつか》にして、雀と口論している勝麻呂に、早く宮に戻るように、と命じた。
「今、盗賊が宮に火を放ったらどうなる? 朕は、大臣が守ってくれる、それとも大臣の警護では不足だというのか……」
女帝は勝麻呂を叱咤《しつた》した。
今、女帝は入鹿の代りに叱咤したのだ。勝麻呂は、歯を噛み締めながら腰をかがめた。その瞬間、勝麻呂の瞼《まぶた》は不覚にも無念の涙で熱くなっていた。いや、そういう無念さを味わったのは何も勝麻呂一人ではない。佐伯連子麻呂、葛城稚犬養連網田など大王家に仕える中堅氏族の子弟達は、何度も味わっている。
乙巳《きのとみ》のクーデターが成功したのは、鎌足、中大兄皇子の背後に、反蘇我系の中堅氏族の子弟達の力があったからである。その主力は、僧旻の講堂で、鎌足と共に学んだ若い学友達だった。
「宮廷に仕える者の中に、この頃、吾に反抗する者が多くなったような気がする、吾がかつてのように、気軽に大王にお会い出来ないのも、ああいう連中の眼があるせいです、山背皇子が謀反を企てるのも無理はない」
入鹿は吐き出すようにいった。
だが入鹿は内心、その激しい口調ほど、勝麻呂に対して腹を立てていなかった。今迄にない新しい贅沢《ぜいたく》な宮の副警護長に選ばれたのである。若い勝麻呂が気負い立つのも無理はない、と思っていた。海犬養連勝麻呂を副警護長に推薦したのは阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》だった。軽王を通じ、大臣になったばかりの入鹿に頼んで来たのだ。犬養連は、古くから大王家に仕える伴造である。拒否する理由もないので入鹿は承認したが、考えてみると宮廷には、古くから大王家に仕えている伴造ばかり集り過ぎているようだ。
これも徐々に改革しなければならないが、今、なさねばならないのは、斑鳩宮に籠っている上宮王家の殲滅《せんめつ》だった。
これを成功させたなら、蘇我本宗家の威力に恐れをなし、反抗する者も激減するに違いない、と入鹿は考えていた。
宴席用の部屋は、庭に面しており、西側は赤い絹幕が垂れている。西陽が絹幕を照らし、部屋の中は赤い明りに彩られていた。派手好きの入鹿は、華やかな色を好んだ。入鹿は紅色に染まって見える巨大な白熊の毛皮に女帝を坐らせた。
庭で人の気配がするのは、警護の兵士だろうか。厨《くりや》の方から、女人達の声が聞えて来た。笑い声だったが、女帝が来られている、と、咎《とが》められたらしく、笑い声は消えた。
入鹿は女帝に、山背皇子が農兵達を集め、武器を持たせ、戦の用意をしているので、近々、斑鳩宮を討つ積りだ、と決意を述べた。女帝は山背大兄皇子を嫌っていたが、戦になるとは思ってもいなかったのだろう、顔を曇らせた。それは本当か? と訊き、入鹿が黙って頷くと、女帝は縋《すが》るように入鹿を見た。
「どういう積りなのか、朕には分らぬ、戦を仕掛けても勝てる筈はないのに……大臣、何とか、戦だけは避ける方法はないでしょうか?」
「山背皇子は時の流れを知らぬ、斑鳩宮に籠って、この飛鳥の地を嫌って来ようとしない、時の流れを知らぬ故、戦を仕掛ければ、味方が現れると錯覚しているのじゃ……」
「でも、何故、戦など?」
「大王になれぬ、と知ったからでしょう」
「朕は一度話してみたい、明日にでも使者を斑鳩宮に遣わし、皇子に、一度、板蓋宮に来るように命じる、そうじゃ大臣、どうしても腹の中を打ち明けなければ、山背皇子だけを撃てば良い」
女帝は戦だけは避けようと懸命になっていた。多分女帝は、戦になれば、上宮王家の一族が殲滅されることを察知したからだろう。
「大王、それは甘い御考えで御座る、戦の準備をしている山背皇子が来る筈がない、もし来るとすれば、財《たから》王か、舂米《つきしね》女王の何れかじゃ……いや、案外片岡女王かも知れない、同母兄妹なのに、山背皇子は、獣のように片岡女王と媾合っている、という噂ですぞ」
女帝は眉を寄せた。そんな不潔な話は聴きたくない、といった表情だった。
「もし来たら、斑鳩宮を撃つことだけは、止してほしい」
「大王がそれほどお望みなら……さあ、これで固い話は終った、今宵は存分、お愉《たの》しみ下さい」
入鹿が手を拍《う》つと女人達が現れ、幕の裾を絞り紐で結んだ。幕の外は庭に面した広い縁側だった。縁側というより一つの部屋といって良い。一面に鹿の皮が敷き詰められた縁側の上は長い軒である。そこには二個の唐風《からふう》の椅子《いす》が、大きな食卓をはさんで向い合っていた。
女帝は食卓と椅子を見て眼を瞠《みは》った。
唐から帰朝した留学生に描かせた絵をもとに、入鹿が配下の優れた工人に命じて作らせたものである。椅子は漆を塗り、真珠光を放つ貝殻を嵌《は》め込んだ螺鈿《らでん》作りだった。
「大王、今宵のために造らせた、吾も坐るのは初めてです」
漆を塗り磨き上げた食卓の四隅には唐草模様の金飾りが嵌め込まれていた。
女帝も、こんなに素晴らしい食卓は持っていなかった。渡来系の優れた工人を大勢配下に持っている入鹿なればこそ、出来る贅沢だった。
縁側からそんなに離れていない場所に、二個所石の囲いがあり、松脂を塗った薪が積まれている。奴達が魚油を掛け火をつけると、二つの薪は凄《すさ》まじい炎をあげて燃え上った。微風と共にその熱が伝わって来るので、縁側でも寒くはなかった。水を満々と湛《たた》えた大きな桶《おけ》が、眼につくだけでも四個置かれていた。
火の粉が散り、火事になるのを用心しているのだ。入鹿や女帝の眼の届かない場所には、大勢の奴達が手桶を抱えて蹲《うずくま》っていた。
火勢の凄まじさに女帝は気を呑まれたようであった。不安気に入鹿を見た。
「大丈夫で御座る、この思い出の屋形を燃やすような馬鹿な真似は致しませぬ」
赤い布が庭に敷かれ、女人達が琴を弾き始めた。それを合図のように、女人達が酒肴を運んで来た。様々な色で染めた華やかな裙《もすそ》をはき、袖の長い上衣を着、肩には淡い色彩の領布《ひれ》(ショールのたぐい)をはおった女人達が舞を舞い始めた。舞といっても現代のように様式化されたものではなく、踊りに近い。奴達が次々と薪を投げ入れると、火がはぜる。女帝は、はっとしたようにその方を見るが、舞を舞っている女人達は火勢など気にしていなかった。陽は生駒連山の彼方に落ち、茜《あかね》色の帯状の雲が段をなし、上層の雲の色は深紅であった。タ焼けの美しさが今宵の宴《うたげ》に華を添えていた。
入鹿にすすめられ、女帝は金銅の酒杯を口に運んだ。庭で薪を燃やし暖を取るなど、入鹿らしい豪快なやり方だった。火に怯えたのか、山々に戻った鳥が飛び立ち騒いでいる。入鹿は、女人の一人に命じて、雀を宴席に呼ばせた。女帝が居るので、雀は入口で蹲った。
「一寸、失礼します」
入鹿は女帝に頭を下げると、雀の傍に行った。
「雀、夜が更けてから、二十騎で斑鳩宮を襲え、ここ数日襲っていないので油断している筈じゃ、それと、今回は正門に火を放って燃やせ、正門だけで良い……」
「吾君、間違いなく燃やして参ります」
雀は入鹿に一礼すると姿を消した。
入鹿は山背大兄皇子の性格を考えたのだ。皇子は謎《なぞ》の襲撃隊に警戒を厳重にしている。多分、蘇我本宗家の私兵ではないか、と推察しているに違いない。とすると、参朝するようにという女帝の|詔 《みことのり》を受けても宮から出ないだろう。まして、正門を燃やされたなら、それこそ、女帝の詔をさえも疑って、宮に閉じ籠り戦の準備に取り掛るに違いなかった。だから今宵の襲撃は、山背大兄皇子を斑鳩宮に閉じ込めるための駄目押しのようなものだった。
女帝の顔は炎と酒で紅色に染まっていた。
「失礼しました」
入鹿は無造作に腕を伸ばすと、女帝の手を握り締めた。
その夜女帝は、入鹿と一夜を共にし、翌日、板蓋宮に戻ったのだ。
入鹿の推測通り、参朝するように、という女帝の詔を受けても、山背大兄皇子は姿を見せなかった。皇子は自分の代理として、財王、舂米女王を宮廷に行かせたのだ。
戦の準備をしているのではないか、という女帝の詰問に対し、二人は素姓の分らない襲撃隊が宮を襲い、一昨夜は正門まで焼いてしまった。これまでも矢を射込まれるなど嫌がらせが続いていたが、正門を焼いたのは本格的に攻撃を仕掛けて来る予告とも受け取れる、だから我等の王は防戦の準備をしている、と答えたのだった。
入鹿にいわれた通り女帝は、山背大兄皇子は、まだ大王《おおきみ》になるという意志を抱いているのか? と訊いた。
財王は胸を張り、大王を始め大臣が推してくれるなら、我等の王は大王になり、仏教を拡め、もっと民、百姓を幸せにする夢を捨てていない、と答えた。
山背大兄皇子が来なかったことで、不機嫌になっていた女帝は、財王の返答を聞くと、朕が大王では、民、百姓は幸せになれぬというのか、と激怒した。
財王が宮を去ると、女帝は直ぐ葛城稚犬養連網田を入鹿の許に遣わした。
待っていた入鹿は宮廷に行き、女帝から、女帝と財王のやり取りの一部始終を聴いた。
入鹿が考えていた以上に、山背大兄皇子は馬鹿だった。だが普通の馬鹿ではない。
入鹿の思考力の届かぬところで、懸命に抵抗しているように見える。そして山背大兄皇子は、その抵抗が自分の死、ひいては上宮王家の滅亡に繋ることを薄々感じているような気がするのだ。何のために抵抗しているのか分らないだけに、入鹿は一瞬、得体の知れない不気味さを感じた。そして入鹿は、そんな自分の弱さに猛然と腹を立てた。
吾は倭国の最高権力者、独裁者になろうとしている。群臣からも嫌われ孤立している斑鳩宮の皇子に、一瞬でも不気味さを感じるような脆弱《ぜいじやく》な精神で、倭国の独裁者になれるか、と入鹿は自分自身を叱咤したのであった。
「大王、山背皇子に、謀反の意志があると吾は視た、軽王《かるのきみ》が質問に来られる、その時は一昨夜も申した通り、そうお答え下さい」
爛々《らんらん》と光る入鹿の眼を見て、女帝は吾に返ったようである。
「斑鳩宮を攻めるのか?」
と女帝は身体を慄わせ、強張《こわば》った声でいった。入鹿は顎鬚《あごひげ》を握り締めた。
「そういうことは、大臣である吾にまかせていただきたい、それとも山背皇子に大王位を譲られるお積りか、軽王にそう申されるのか?」
「大臣、朕は、何もそういうことは申しておらぬ……そうではないか?」
女帝は思わず入鹿の方ににじり寄ろうとした。そんな女帝を撥《は》ね除けるように、入鹿は仁王立ちになった。
「軽王が来られたら、山背皇子は大王位を窺い、謀反の準備をしている、とおっしゃっていただきたい、落ち着いたなら、また御招待申し上げる」
入鹿は踵《きびす》を返すと荒々しい足音を立てながら大殿を出た。
宮廷を出た入鹿は雀達を従え、上の大臣蝦夷が住んでいる豊浦の屋形に向って馬を走らせた。入鹿が乗った白馬の鬣《たてがみ》が晩秋の風に靡《なび》き、金銅の杏葉や雲珠、それに大刀の飾金具が煌《きらめ》く。遠くからその煌きを見た飛鳥の住人達は慌てふためき、路端に蹲った。華麗な金銀に飾られた白馬に乗った人物は、大臣蘇我大郎入鹿以外いないのだ。
有力豪族である巨勢臣徳太、大伴連馬飼なども、馬に贅沢な飾金具をつけているが、入鹿ほどではない。それに入鹿に遠慮し、馬は白馬ではなかった。
豊浦の屋形で蝦夷、入鹿は女人達を遠ざけ、二人切りで話し合った。蝦夷は暫く黙って聴いていたが、吐息を洩らした。
「そうか、兵を集めてしまったか……こうなった以上は戦も仕方がないであろう、馬鹿な皇子じゃ、吾は、山背皇子を始め一族を捕え、東国、出雲などに流す積りでいたが、兵を集めた以上、流罪では済むまい」
「流罪では他の者に対する見せ令《し》めにならぬ」
「大郎、上宮王家を滅ぼすのは易しい、大王まで味方にしたのだからな、だがな、石川麻呂を始め、蘇我の支族の中には、我等をより一層批判する者が出て来る、当然、反蘇我本宗家の機運が、我等の見えないところで盛り上る、それは覚悟の上じゃな」
「軽王を始め、有力豪族が、斑鳩宮を攻める、父上、吾が攻めるのではない、その点は充分考えておりまする」
「大郎は指揮を執るだけじゃ、戦に出てはならぬ、絶対にならぬぞ」
「分っております」
入鹿は厚い胸を勢い良く叩いた。
「しかし、馬鹿な皇子じゃ、勝てぬことが分っておりながら、何故、戦の準備をする、何故、我等に頭を下げて来ぬ? 皇子の父廏戸皇子は、確かに大王に匹敵する地位に居た、だが、それも吾の父嶋大臣のおかげではないか、蘇我本宗家あっての上宮王家じゃ、山背皇子には、それが分らぬのか、たわけ者めが!」
珍しく蝦夷は青筋を立て、吐き出すようにいった。入鹿は、相槌《あいづち》を打ったが、父も吾と同じような不気味さを感じたのかもしれない、と思わず拳を握り締めていた。
豊浦の屋形を出た入鹿は、斑鳩宮の皇子は、何故抵抗するのか、何故なのか? と自分にいい聞かせながら、久し振りに嶋の屋形に戻った。酒をあおり、女人を抱き、まだ心の何処かに喰い込んでいる不気味さを振り払おう、と思ったからだ。
しかし数人の女人に、身体を揉ませ、酌をさせながら酒を浴びるように飲んだが、女人を抱く気にはなれなかった。入鹿が吠《ほ》えるように大声を出して起き上ると、女人達は悲鳴をあげた。酒壺を持っていた者は壺を落し、入鹿の身体を揉んでいた女は腰を抜かしたように尻餅《しりもち》をついた。
山背大兄皇子は同母妹の片岡女王とも媾合っているという、いやそれだけではない、皇子の弟の財王は、山背大兄皇子と女人達を共有している、という噂も流れていた。だから重臣を始め群臣達も、斑鳩宮を獣の棲家と呼んでいるのだった。
そんな財王が宮廷にやって来て、女帝に、兄の山背大兄皇子は、大王になることを、今でも望んでおり、兄が大王になったなら、倭国の民、百姓は今よりも幸せになるだろう、と述べたのだ。それに、女帝は口にしなかったが、財王は入鹿が耳にしたなら激怒するようなことをいったようである。多分、入鹿が大王になろうとしている、と告げたのであろう。
入鹿は山背大兄皇子を、何時も軟弱な皇子と軽蔑《けいべつ》していた。だが入鹿の思い過しかも知れないが、ひょっとすると皇子は、死を恐れていないのかもしれないのだ。とすると山背大兄皇子は、軟弱な皇子と軽蔑は出来ない。入鹿が不気味な思いを抱いたのも、そのせいかもしれなかった。
入鹿は鹿の毛皮を纏うと皮の帯を締め、屋形を出た。何時の間にか風が強くなり篝火の炎が大きく揺れている。
自宅に戻るべく、兵士達に警備について指示を与えていた雀が、入鹿を見て飛んで来た。
磨いた細い刀子《とうす》を曲げたような鋭い月が、高取山の南方の空で光っていた。入鹿が見上げると巨大な岩のような雲塊が迫り、あっという間に光を消してしまった。木枯しが獣の悲鳴のような声をあげ、樹々はまるで枝を振りながら騒いでいるようだった。数日前に降った雨のせいで、冬野川の激流が凄まじい音を立てていた。
入鹿は刀を抜くと、枯葉を切り払いながら歩いた。雀が兵士達に命令し、入鹿の前に走った。真暗闇なので、三尺先の樹が見えない。勿論、何処が川岸か分らなかった。
前方を走っていた兵士の一人が、絶叫しながら川に転落した。
「吾君、これ以上は危う御座居ます」
雲塊が去り、再び鋭い月が現れた。入鹿は眼の前に、両腕を拡げて立ち塞がっている雀の黒い影を見た。
「落ちた兵は泳げぬか?」
と入鹿は呻くようにいった。
「はっ、この流れと寒さでは……」
雀は相変らず両腕を拡げたまま答えた。これ以上、一歩も入鹿を進ませない、という必死の気迫が漲《みなぎ》っていた。
「そうか、吾は大事な兵を一人殺したか」
入鹿は自分に向って叫んだ。憤然と憤りが込み上げて来た。
己の怯懦《きようだ》のために兵を殺したのと同じである。入鹿は木枯しに負けないように激しい息を吐きながら、刀を土に突き刺した。
「もういい、腕をおろせ、吾はこれ以上は進まぬ、雀、明日、二百名の兵を集め、戦の訓練を始めろ、吾は数日のうちに斑鳩宮を攻撃し、山背皇子を殺す、必ず殺す」
「吾君大郎、明日から戦の訓練を始めます」
雀は部下の兵士を呼び、槍を|※[#「てへん」+「宛」]《も》ぎ取ると、入鹿の刀の傍の土中深く貫いた。
そして雀は槍の傍に蹲った。
吾の生命は大郎のものです、と雀はいっているのだ。
時、皇極二年(六四三)旧暦十月二十五日の深夜であった。
六
皇極二年(六四三)旧暦十一月十日の深夜、入鹿《いるか》は豊浦《とゆら》の屋形で、上《かみ》の大臣《おおおみ》蝦夷《えみし》と話し合っていた。
蝦夷は上の大臣になって以来、政治の大半を大臣入鹿にまかせていた。ただ最後の決定は蝦夷が下す。そういう意味で蝦夷は大王《おおきみ》と殆《ほとん》ど同じであった。
だが蝦夷は、神祇《じんぎ》の最高司祭者ではない。だから新嘗《にいなめ》の儀式など古来から大王が掌《つかさど》る儀式は、矢張り大王にまかさねばならないのだ。
そこに、現在の蘇我本宗家の限界があった。
入鹿は何とかその限界を打ち破ろうと努力していた。斑鳩宮《いかるがのみや》の山背大兄皇子《やましろのおおえのおうじ》を滅ぼすことは、限界への挑戦でもある。
山背大兄皇子の父聖徳太子は、蘇我|馬子《うまこ》と相談し、一時期仮の大王になったことがあった。対隋外交に於て男王が必要だったからである。推古女帝の時代で、女帝はその件で、馬子と聖徳太子を恨んだ。
それは兎《と》も角《かく》、仮の大王にしろ山背大兄皇子の父は、間違いなく一時期大王と同じだったのである。そして明日、大臣入鹿を総帥とする飛鳥連合軍は、斑鳩宮を攻撃し、山背大兄皇子を始め、聖徳太子の一族を滅ぼそうとしている。
これはまさしく、限界への挑戦だった。もしこれが成功したなら、畿内の有力豪族達は、蘇我本宗家の実力を再認識し、倭国《わこく》の最高権力者であることを認めるだろう。
女帝の後、自分が大王になる日は近い、と入鹿は計算していた。
夕刻から飲んでいるので、入鹿はかなり酔っていたが、明日のことを思うと流石《さすが》に何時ものようには酔えない。
「父上、出発します、畝傍《うねび》の屋形の周辺には、もうそろそろ軍勢が集結している筈じゃ、ただ、明日の斑鳩宮攻撃は、飽く迄|吾《わ》の独断で、父上は関与していないことになっている、なかには、非難する者も出て来ると思いますが、責任は総て、吾が引き受ける、だから軍勢も、畝傍に集めた」
父上、御心配は無用じゃ、と入鹿は胸を叩いた。入鹿が斑鳩宮攻撃を決意したのは先月の末であった。これまで日が掛ったのは、蝦夷がなかなか承諾しなかったからである。蝦夷は若かった頃、山背大兄皇子を排し、田村皇子(舒明)を大王にするため、叔父|境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》を殺した。蘇我氏が分裂したのはそのためだった。あの当時は殺す以外方法がない、と血気に逸《はや》ったが、今になって思うと、殺さなくとも良かった、という気がしないでもなかった。
人間、年齢《とし》を取ると余り血を流したくなくなる。今の蝦夷がそうであった。そんな蝦夷が、斑鳩宮の攻撃を許可したのは、攻撃軍に時の有力者が加わることが、はっきりしたからだった。軽王《かるのきみ》、|大伴連 馬飼《おおとものむらじうまかい》、巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、|中臣連 塩屋枚夫《なかとみのむらじしおやひらふ》、それに飛鳥の副寺司、|大狛 法師《おおこまのほうし》も奴《やつこ》達を率いて攻撃軍に加わる、という。
大狛法師にとって斑鳩宮の宗教は仏教ではなく、仏教に背く異端宗教であった。それは大狛法師一人だけではない、有力豪族の寺に仕える僧侶達の大多数は、大狛法師と同じような考えを抱いていたのだ。
ただ蝦夷は、石川麻呂から何の反応もないのが気掛りらしかった。蝦夷はまだ蘇我氏の血縁関係を重視していた。だが若い入鹿にとって、血縁関係など余り重要ではなかった。
入鹿にとって必要なのは、倭国の独裁者になろうとしている自分の協力者だった。仮令《たとい》、かつての敵であろうと構わない。
馬子に滅ぼされて以来、名を変え、地方に隠れている物部《もののべ》氏の支族達が、もし入鹿に頭を下げて来るなら、入鹿は味方にする積りでいた。だが蝦夷は、物部の名前を聞いただけで眉をしかめる。
「石川麻呂からは、まだ返事がないのか?」
蝦夷は酒杯を口に運んだ。この頃蝦夷は微《かす》かだが手が慄《ふる》えるようになっていた。ことに、今頃のような冬の季節になると、腰や、手脚の関節が痛むらしい。隙間《すきま》風が入ると数多い魚油の明りが揺れる。その度に蝦夷の顔に刻み込まれた深い皺《しわ》が動くように思えた。
入鹿は刀を取ると白い歯を見せた。
「父上、何度も申しておるように、吾は石川麻呂には期待しておらぬ、いや、寧ろ石川麻呂には来て貰《もら》いたくない、父上、明日斑鳩宮を攻撃するのは飛鳥連合軍で御座居まするぞ、蘇我本宗家の私兵ではない、だから吾は、|東 漢《やまとのあや》氏の兵は余り動かさぬ、飛鳥連合軍に参加しない石川麻呂など、最早、問題では御座らぬ、だから、参加されては困るのです」
「それは分らぬこともない、だが、石川麻呂には、明日の攻撃のことは伝えてあるのだな?」
蝦夷は疑い深そうに眼を光らせた。
「勿論《もちろん》です、では吾はこれで……」
入鹿は一礼すると刀を吊《つる》して、豊浦の屋形を出た。屋形の周辺は何時もの通りで、特別な警備はしていなかった。槍を持った東漢氏の兵士達が、屋形の周囲に立っていた。枯れた薄原《すすきはら》にも警護の兵士が潜んでいる筈だが、緊迫した空気は感じられない。
上の大臣蝦夷は、一応、斑鳩宮攻撃の件には無関係、ということになっていた。
入鹿が門を出ると、馬に乗った雀《すずめ》が数人の兵士を率いて待っていた。
|雷 《いかずちの》丘《おか》の傍まで来た時、入鹿は雀に松明《たいまつ》をつけさせた。竹竿《たけざお》の先に取り付けられた松明が赫々《あかあか》と燃え、暗い道を照らす。
「吾君大郎《わがきみたいろう》、我等は矢張り、攻撃軍には参加出来ないのでしょうか?」
と雀が無念そうにいった。
松明を持った東漢氏の兵士達は、入鹿達よりも数間《すうけん》先を進んでいた。
「吾は大将軍じゃ、攻撃するのは将軍達で良い、この戦の勝敗は始めから決っておる、吾が戦に加わる必要はない」
と入鹿は答えた。
入鹿は内心戦に加わりたかったのだが、飛鳥連合軍の総帥としての立場上、自分を抑えたのだ。
「しかし……」
雀は何かいい掛けて口を閉じた。入鹿が遠慮せずに申せ、というと、大将軍なら斑鳩宮の近くまで行って、指揮を執《と》るべきだ、という。
「ああ、それは分る、だが明日の戦は違う、相手は何といっても廏戸《うまやど》皇子(聖徳太子)の一族じゃ、世間の口もある、吾は大将軍であると同時に大臣じゃ、大臣には大臣の立場がある、分らぬか!」
入鹿は叱咤するようにいった。
雀が頭を下げたのを見ながら、入鹿はふと明日の斑鳩宮の光景を思い浮べた。斑鳩宮は、獣の棲家だ、という評判が立っている。
大狛法師が奴達を率い、戦に参加する決心を固めたのも、そのためだった。大狛法師にとって、明日の戦は、穢《けが》れた場所を浄《きよ》めるための戦である。おそらく巨勢、大伴など大豪族の兵士達も、斑鳩宮が獣の棲家になっている、という噂は知っている。だから兵士達には、斑鳩宮を攻撃することに対し、何の抵抗感もない。おそらく兵士達は、斑鳩宮に攻め込むと狼藉《ろうぜき》の限りを尽すだろう。
女人達は兵士達によって衣服を剥ぎ取られ、暴行される。それも一人ではなく何人もの兵士によってだ。聖徳太子の女《むすめ》達も、山背大兄皇子の女達も、兵士達の獣欲から逃げることは出来ない。斑鳩宮は獣の棲家だが大人しい獣達だった。だが襲う兵士達は違う。牙《きば》を剥いた獰猛《どうもう》な獣に変る。下賤の兵士達に犯されている女王達の白い肌が入鹿の脳裡に浮んだ。
入鹿は首を横に振った。
敗者の運命は常に悲惨なのだ。それを避けるためには勝者にならねばならない、と入鹿は胸の中で呟《つぶや》いた。感傷などに浸っている時ではない、と入鹿は自分に向っていい聞かせた。
蝦夷が疑惑を抱いた通り、入鹿は石川麻呂に興兵使を差し向けていなかった。石川麻呂の性格から考えて、入鹿を総帥とする飛鳥連合軍に加わる筈はない。間違えば石川麻呂は上の大臣蝦夷に会い、山背大兄皇子を説得に行くから、斑鳩宮の攻撃は暫《しばら》く見合せて欲しい、と頼み込む可能性がある。蝦夷は斑鳩宮攻撃に対し、入鹿ほど積極的ではない。ひょっとすると石川麻呂の懇願に同調するかも分らなかった。
そんなことになると、軽王を始め、大伴、巨勢などの有力豪族も動揺する。入鹿が石川麻呂に興兵使を差し向けなかった理由の一つはそこにあった。
第二の理由は、豊浦の屋形で入鹿が蝦夷に一寸《ちよつと》説明したように、大臣入鹿を中心とする独裁勢力から、石川麻呂を完全に切り離すためだった。斑鳩宮の山背大兄皇子は、異端の思想を貫くため、まだ大王位を狙《ねら》っている。
それは入鹿や軽王だけではなく、女帝にとっても煩わしいことだった。入鹿は昨日、軽王と共に板蓋宮《いたぶきのみや》を訪れ、山背大兄皇子が兵を集め、反乱の準備をしているので、斑鳩宮を攻撃し、山背大兄皇子を討伐することを報告している。
女帝は流石《さすが》に戦の|詔 《みことのり》を出すことは拒んだが、大臣の思うようにせよ、と承諾した。気が乗らない表情をしながらも、女帝は決して反対しなかった。
つまり入鹿は女帝、軽王などの大王家と有力豪族を味方に引き入れ、飛鳥に巨大な勢力を打ち立てようという計画を持っていた。その勢力の中に、石川麻呂を加えてはならない、というのが入鹿の考え方だった。
何度も述べているように、入鹿にとって必要なのは血縁支族よりも、自分の力になってくれる有力豪族なのだ。石川麻呂のように、入鹿のやり方に批判的な人物を、何も味方にする必要はなかったのである。
おそらく斑鳩宮への攻撃は、凄惨《せいさん》な結果を生むに違いない。有力豪族の中には、その結果に対して罪の意識を抱く者も出て来るかもしれなかった。しかし、その罪の意識こそ団結の絆《きずな》になる、と入鹿は先を読んでいた。
一行は豊浦の屋形の北方を東西に通じている道を西に向った。山田道から上《かみ》つ道《みち》に接続している道である。
東漢氏の兵士達は、怪しい者が潜んでいないか、と枯野や田畑を松明で照らしながら進んだ。豊浦の屋形から畝傍の屋形まで一里ばかりである。ゆっくり馬を進めても半刻《はんとき》足らずで到着する。
畝傍の屋形の周辺には篝火《かがりび》が赫々《あかあか》と燃え、槍を持った東漢氏の兵士を始め、百済《くだら》からの渡来系の氏族の兵士達が警護に当っていた。斑鳩宮の攻撃は明日の夕刻から行われる予定だった。屋形の門のところに入鹿の股肱《ここう》の臣となっている蘇我《そがの》田口臣《たぐちのおみ》川掘《かわほり》が、部下と共に入鹿を待っていた。
「吾君大郎、お待ち申して居りました」
川掘は入鹿の命令で斑鳩宮の様子を探りに行き、一刻ほど前に戻って来たところだった。入鹿は川掘に屋形に入るように命じた。
屋形では軽王を始め、大伴連馬飼、巨勢臣徳太、土師《はじの》連裟婆《むらじさば》、中臣連塩屋枚夫、|倭 首《やまとのおびと》馬飼《うまかい》など、斑鳩宮攻撃軍の将軍副将軍連中が酒を飲みながら入鹿の帰りを待っていた。上座に坐っていた軽王は酒を飲み過ぎたせいか青くなっている。将軍連中の視線が一斉に入鹿に注がれた。明日の攻撃に対し、上の大臣蝦夷が、入鹿に何をいったか、皆知りたがっていた。
入鹿は軽王の傍に腰を下ろすと、一同を見廻し、女人が注いだ酒杯の酒を一息に飲んだ。そして大きな声でいった。
「上の大臣は、吾の説明により、山背皇子の謀反を確認された、ただ、出来るなら捕えよ、と吾にいわれた、謀反の罪を告白させることが肝要だ、という御意見じゃ、吾も尤《もつと》もだと思う、ただ戦は理想通りにはゆかぬ、山背皇子は百姓も動員し武器を持たせている、だから激戦になるだろう、捕えることばかりに気を取られていたなら逃してしまう、山背皇子が逃げるとすれば、その場所は深草|屯倉《みやけ》しかない、吾は弟|畝傍《うねび》に明日、深草屯倉に兵を差し向けるよう、命じておいた、だから山背皇子には逃げ場がない」
入鹿は一気に喋《しやべ》った。
深草屯倉(京都市伏見周辺)は山背大兄皇子の直轄地で、秦河勝《はたのかわかつ》が聖徳太子に献上した屯倉であった。かつては秦氏の領地である。ただ秦河勝が亡くなった後、秦氏と山背大兄皇子の間は、聖徳太子時代ほど親密ではなくなった。といっても秦氏が斑鳩宮に心を寄せていることは間違いなかった。もし、山背大兄皇子を、深草屯倉に逃したなら、秦氏が匿《かくま》う可能性がないではない。となると、ことは、面倒になる。入鹿としては、何が何でも、明日の攻撃で、山背大兄皇子とその一族を殲滅《せんめつ》したかった。
捕える、というのは建前で、本音は殺せ、である。そして軽王を始め将軍連中は入鹿の心中を理解していた。また入鹿に負けないぐらい山背大兄皇子を殺したがっているのは軽王であった。大王位を狙っている軽王にとって、山背大兄皇子は眼の上の瘤《こぶ》であった。いうまでもなく軽王は息長《おきなが》系である。現在のところ軽王は処世上、入鹿と親交を結んでいるが、自分と姉の女帝が息長系の出身であることを忘れたことがなかった。それに軽王は他の将軍連中以上に、山背大兄皇子の異端思想を嫌悪していたのだ。
「大臣、斑鳩宮の警備は?」
と軽王が訊《き》いた。
入鹿は末席に控えている川掘に説明させた。
川掘の偵察によると、山背大兄皇子は飛鳥の気配が尋常でないことを察したらしく、見張りの兵を各所に配置していた。ただ、明日、攻撃を受けることは知らないらしく、甲冑《かつちゆう》姿の武人達は見受けられない、という。
「警戒が厳重なので、斑鳩宮の内部は分りませぬ」
と川掘は頭を下げた。
入鹿は十一月に入ってから、東漢氏の間諜を放ち、斑鳩宮の様子を探索させていた。
先月動員した農兵達を、山背大兄皇子はいったん家に戻したが、一昨日、再び動員し、大和川の見張りの兵も増やしていた。入鹿が斑鳩宮攻撃の決意を軽王に告げ、二人で、大伴、巨勢を始め、蘇我本宗家に意を寄せる有力豪族に軍勢を集めるように、と伝えた直後からである。
飛鳥にも山背大兄皇子に意を通じる者が居たのだろう。誰かが通報したに違いない、と入鹿は読んでいた。だが、確実なものではない。飛鳥連合軍の将軍達の誰かが通報したのなら、見張りを強化するぐらいでは済まないだろう。大掛りに戦闘の準備を整えるか、斑鳩宮を脱出する筈である。
入鹿は酒杯を傾けると、珍しく蝦夷を真似たように眼を細めた。
「獣達が棲《す》んでいる宮だ、別に知る必要はない、それに、今の斑鳩宮には援軍が来ない、山背の秦氏も、山背皇子のために、氏族の存亡を賭《か》けるような馬鹿な真似はするまい、|膳 《かしわでの》臣《おみ》が兵を繰り出したとしても、せいぜい農兵数十名じゃ、とすると、斑鳩宮の軍勢は、どんなに多く見ても二百名は越えまい、そのうち弓矢、刀に勝れている舎人《とねり》達は約五十名じゃ、それに対して我軍は六百名、それに、吾は東漢氏の勇猛な兵士達百名を、土師連裟婆の軍に加える、攻撃は陽が沈んでからだが、斑鳩宮の反乱軍は朝まで保《も》つまい……」
入鹿は眼を見開くと、一座を眺め渡し、酒を注いだ酒杯を挙げた。
「明日の勝利のために酒杯を干そう」
「おお、明日の勝利のために……」
軽王が応じると将軍連中は一斉に酒杯を挙げるのだった。
将軍連中が従者を連れ帰ると、女人達が酒宴の席の後片付けをする。
入鹿は雀を呼び入れた。
入鹿が雀に飲め、といっても、雀は酒杯に手を出さない。入鹿には雀の気持が痛いほど分った。二十歳を過ぎたばかりの雀は、明日の攻撃に参加したくて仕方がないのだ。
入鹿は一昨日|東 漢 長 直阿利麻《やまとのあやのながのあたいありま》を呼び、屈強な兵士百名を集めるよう、命じた。
阿利麻も、雀は当然攻撃軍に参加する、と思い込んでいた。雀が参加しないことを知り意外そうな顔をした阿利麻に入鹿はいった。
「阿利麻、斑鳩宮の攻撃など、たいした戦ではない、反乱軍の鎮圧に過ぎぬ、何年か先、もっと大事な戦が起る、その時こそ、雀は将軍の一人として戦わねばならぬ、くだらぬ戦に加わり、万が一流れ矢にでも当ればことじゃ、阿利麻からも、吾の気持を雀に良く伝えておけ」
その名の通り阿利麻は東漢氏の長の一人であった。阿利麻は昨日雀を呼び、入鹿の気持を伝えたが、雀は充分理解していないようだった。そのせいか今日の雀は何時にも増して寡黙で表情が暗い。
「雀、吾の命令が諾《き》けぬか、これじゃ」
入鹿は自分の傍にあった銅製の酒壺を取ると、自分の酒杯に酒を注ぎ、雀に差し出した。項垂《うなだ》れていた雀ははっとしたように姿勢を正すと、両手で酒杯を受け取った。主君が自分の酒杯に注いでくれた酒である。飲まないわけにはゆかない。雀は叩頭《こうとう》するといった。
「吾君大郎、畏《おそ》れ多う御座居まする」
潤んだ眼を入鹿に向けた。
「構わぬ、飲め」
入鹿が叱咤すると雀は眼を閉じ、一息に飲み干した。入鹿はもう一度注いだ。雀がそれを飲み干すとまた注ごうとした。雀は酒杯を置いた。
「吾君大郎、お許し下さい」
「女人のようなことを申すな、それでも吾の警護長か!」
「警護長なればこそ、酔えぬので御座居まする、酔えば眼も曇りまする」
「それぐらいのことは分っておる、では訊く、そちは戦に参加して吾の警護が出来るか、どうだ? 出来るのなら申してみよ」
入鹿の眼は炯々《けいけい》と光っていた。雀は返答に詰まり思わず歯を噛みしめた。
「雀、そんなに明日の戦に加わりたいのなら、そちを軍事将軍に任じよう、その代り警護長の任を解く、どちらでも良い、明日までに決めておけ!」
入鹿が荒々しく膝を叩くと、雀は一尺ほど退った。床に額を突き、軍事将軍よりも、矢張り警護長として吾君を守りたい、と声を慄わせた。入鹿は大きく頷《うなず》くと満足そうに雀を見た。
「吾もそうだ、もう暫《しばら》くそちに守られていたい、不思議なのじゃ、そちが傍に居ると何故か不安感が薄らぐ、雀、庭に出てみよう」
入鹿が立つと雀は跳ね起き、入鹿よりも先に庭に出ていた。畝傍の屋形の庭は広い。中央に池があり、池の東方には弥勒菩薩《みろくぼさつ》を安置した小さな仏殿が建てられていた。
嶋大臣と呼ばれた馬子の|石川 精舎《いしかわのしようじや》を真似たのだ。だが入鹿にとって仏教は、政治の道具に過ぎなかった。入鹿に宗教心は殆どない。
入鹿が庭に出るのを待っていたように、白い月が顔を覗《のぞ》かせた。月影が暗い池を淡く照らした。今夜は風もなく水面は鏡のようだった。暗闇に溶け込んでいた畝傍山が闇を抉《えぐ》り取ったような黒い姿を見せた。月影は二上山、葛城山までは届かない。今夜はここ数日吹き荒れた木枯しもやんでいた。
入鹿は池の傍に立ち仏殿を眺めた。
「仏殿の中の弥勒菩薩は半跏思惟《はんかしい》像じゃ、釈迦《しやか》入滅後五十六億七千万年目に、我々|煩悩《ぼんのう》の徒を救済するため兜率天《とそつてん》の浄土から下生する、という、だが吾は浄土とは無縁じゃ、いや、政治の最高権力をこの手に握ろうとしている吾にとって、浄土は不必要じゃ、吾が、斑鳩宮の皇子が嫌いなのは、現世の悦楽を貪欲《どんよく》にむさぼりながら浄土を口にしていることだ、また自分達だけ贅沢な生活を味わいながら、民、百姓も自分達と同じ人間だと喚《わめ》いている、本心からそう思うなら宮を捨て、子供、女人を捨て、田畑を耕せば良い、雀、そうは思わぬか……」
入鹿は自分の背後を警護している雀の方を振り返った。雀は一瞬困惑したように俯《うつむ》いたが、直ぐ顔を上げるといった。
「申し訳ありませぬ、吾には仏教のことはよく分りません」
「ああ、そちは正直で良い、吾よりずっと正直じゃ、あの仏殿は父が建てた、吾は浄土を信じぬ故、屋形の庭に仏殿を建てたりはしない、だが仏殿を壊す積りはない、いや、もし吾が倭国の権力の総《すべ》てをこの手で握ったなら、飛鳥寺以上の巨大な寺を建ててみせる、唐に負けないだけの寺じゃ、吾の権力を示すために必要ならな……」
屋形の周囲には篝火が赫々と燃えていた。寒さをしのぐため相撲を取っている兵士達も居るらしく、騒々しい兵士達の声が聞えて来た。雀がその方を睨《にら》んだので入鹿は雀を制した。
「構わぬ、放っておけ、そんなに不安なら刀を抜いて手にしておれば良い」
と入鹿は哄笑《こうしよう》した。
流石に雀は刀を抜こうとはしなかった。
雀は肩幅の広い入鹿の背を見詰めながら、自分が主君に惹《ひ》かれている理由が分ったような気がした。雀は東漢直であり、蘇我本宗家の大郎入鹿に部下として仕える運命にあった。だが、それだけで雀は入鹿のために生命を投げだそうとしているのではなかった。
難しいことは分らないが、入鹿は雀を信じ切っていた。警戒心の強い入鹿が、雀に対しては裸であった。雀にとってはそれだけで充分なのだ。
熱いものが雀の胸に込み上げて来た。
「吾君大郎、何時までも庭に居れば風邪を引きまする、屋形にお入り下さい」
と雀は力強い声でいった。
翌日、十一月十一日は朝から強い木枯しが吹いた。山、丘、そして雑木林の樹々は呻《うめ》きながら揺れた。まだかろうじて枝にしがみついていた枯葉は、次々と吹き飛ばされ、空に舞った。まるで巣を失った小鳥が塒《ねぐら》を求めて飛んでいるようである。厚い雲が空を覆い昼になっても飛鳥の山野は薄暗かった。
昼前から、昨夜の将軍副将軍達は、それぞれ私兵を率い、畝傍山の東方の原野に集った。軽王も甲冑に身を固め金銀で飾られた刀を吊し、矢張り甲冑姿の舎人《とねり》達約二十名を率いてやって来た。
大狛法師は甲冑こそ着ていないが、厚い毛皮を身体に巻き、長い刀を吊し、槍を持った十数名の奴達を連れて来た。
巨勢臣徳太、大伴連馬飼両将軍は流石に飛鳥連合軍の主力の貫禄を見せ、それぞれ、二百名前後の兵を率いている。両者の軍勢だけで四百名に達する。入鹿は東漢氏を始め、渡来系の兵百五十名を動員した。そのうち東漢直|県《あがた》を隊長とする百名を副将軍土師連娑婆の軍に編入した。馬飼、徳太は小徳であり、娑婆と中臣連塩屋枚夫は大仁である。
副将軍の一人である倭首馬飼は小仁だった。当時はまだ、推古朝時代に、馬子と聖徳太子が制定した冠位十二階制が施行されていた。
一位から六位までを列挙すると、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼である。
だから小徳は第二位で小仁は第四位だ。
推古朝時代の遣隋使の長《おさ》小野妹子《おののいもこ》が第五位の大礼だから、小仁以上は大変な高位であった。
入鹿は東漢直県を副将軍にしたかったのだが、県は小野妹子と同じ大礼である。
だから県が率いる東漢氏の兵士達を土師連娑婆の軍に編入したのだった。娑婆は蘇我本宗家に忠節を誓っており、東漢氏と仲が良い。それに娑婆の妻は東漢氏の女人だった。
東漢直県は正式に副将軍にはなれなかったが、副将軍格であった。
東漢氏は百済、加羅諸国から渡来して来た氏族だが、古くから大王家に仕えている名門氏族に較べると位が低い。
現在小仁の位にあるのは東漢長直阿利麻だけであった。入鹿は山背大兄皇子とその一族を殲滅し、騒ぎが落ち着いたなら、眼を掛けている東漢直ら、数人の位を上げよう、と考えていた。入鹿の警護長の雀など、年齢が若いせいもあるが、まだ九位の大義であった。
入鹿は畝傍山の北方に設営した本営で総指揮を執る積りだったので、甲冑に身を固めていなかった。チョッキ様の毛皮を着込み、その上に金糸で縫い取りした紫の上衣、同色のズボン様の袴《はかま》をはき、皮の長履《ながぐつ》をはいていた。
入鹿は大臣《おおおみ》として冠位を与える側なので、位はない。十二階を超越しているのだ。軽王も女帝の弟なので位はなかった。金糸で縫い取りした紫冠を被り、馬に乗って、集って来る軍勢を眺めていた入鹿は甲冑姿の軽王を見て、おやっと思った。入鹿は軽王も本営で自分と共に指揮を執る、と思っていたのだ。
眼を釣り上げ、緊張し切った顔で近付いて来た軽王に、入鹿は、王も斑鳩宮に攻め込む積りか、と苦笑しながら訊いた。
軽王は甲を叩いた。
「ああ、吾は行く、吾が行けば全軍の士気が揚る、大臣は大将軍じゃ、本営に居られた方が良い、これだけの軍勢で攻めれば斑鳩宮など、二刻《ふたとき》(四時間)ぐらいで陥落する」
「分った、兎に角、兵達を本営の前まで進めよう、出撃は午《うま》の刻(午後零時)、申《さる》の刻(午後四時)までに斑鳩宮に到着し、日が暮れる前に総攻撃を掛ける、軽王は今直ぐ将軍、副将軍を本営に集めて貰いたい」
軽王が斑鳩宮に行くのを知り、入鹿は出し抜かれたような気がした。入鹿は攻撃軍の大将軍である。本営で指揮を執るのが当然だが、実際は自分も刀を抜き攻撃に加わりたかった。昨夜の会議でもそのことをいったのだが、軽王を始め将軍連中に、大将軍は本営に居るべきだ、といわれ諦《あきら》めたのだった。
攻撃軍が畝傍山東方から、本営が設けられた畝傍山北方に移動している間に、入鹿は|高向臣 国押《たかむくのおみくにおし》に、東漢直県を連れて来るよう、命じた。高向臣は河内石川の上流を本貫地とする渡来系の氏族であった。蘇我氏の同族であるが国押には東漢氏の血が流れていた。入鹿は高向臣国押が密《ひそ》かに石川麻呂に意を通じていることを知らなかった。
今日の国押は戦況を伝える連絡兵の隊長であった。国押は直ぐ県を見付けて連れて来た。
入鹿は国押に、本営に行って待つように命じ、県と二人切りになった。勿論警護長の雀は兵士達を指揮し、入鹿の警護に当っている。斑鳩宮の刺客が混雑に紛れ込んでいないとは限らない。若い雀の眼は初めての戦に血走っていた。
東漢直県は入鹿の傍まで来ると馬から降り、手綱を持ったまま一礼した。
「県、何度もいっているようにそちは副将軍と同じじゃ、攻撃軍の中で吾の本当の部下は、そちとそちが率いる東漢氏の兵士達だ、大伴、巨勢などの軍勢に遅れを取ってはならぬぞ、そちたちが戦功をあげれば、東漢氏の名を揚げることになる、いや、吾の権威も増す、いいか、吾と全東漢氏の名誉は、そち達に掛っておるのじゃ、分っておるな」
東漢直県は熱気が迸《ほとばし》り出るような眼を入鹿に向け、両手を握り締めた。力余って手綱を引いたのだろうか、垂れていた手綱が張った。
「吾君大郎、吾におまかせ下さい、斑鳩宮には真先に突入します」
「よし、頼んだぞ、戦が終ればそちの位を上げる、雀はそちを羨《うらやま》しがっておる、雀は戦いたくて仕方がないのじゃ」
入鹿は馬から降りると県の肩を叩いた。県は入鹿と同年輩である。板蓋宮の造営には、造営工の長の一人として活躍した。今来《いまき》の漢人達と異り、古い時代に渡来した東漢氏の中では、阿利麻に次ぐ大物であった。そんな県の眼が感激に赧《あか》くなっている。入鹿は馬に乗ると県に、兵を集め、本営に行くように命じた。
斑鳩宮を攻撃する飛鳥連合軍六百余名が畝傍山の北方に移動したのは午の刻の前であった。挂甲《けいこう》を着ている武人は幹部連中である。毛皮で作った皮甲や、先祖から伝わる短甲姿の兵士達が多い。挂甲は無数の鉄、銅の小札《こざね》を皮紐《かわひも》で結びつけた甲で、馬に乗った場合自由が利く。六世紀後半に作られ始めたものだ。
短甲は厚い鉄板を鋲留《びようど》めしたもので、五世紀、六世紀前半の武人の甲だった。七世紀になった今では作られていないが、兵達は先祖から伝わる武具として丁寧に保存していたのだ。皮甲は鹿の皮を始め獣の皮から脂や水分を抜き固くした甲であった。
刀を吊していない農兵達も槍は持っていた。棒の先に短剣を付けた即製の槍もかなり多い。
入鹿は本営に集った将軍、副将軍達に日が暮れないうちに斑鳩宮を完全に包囲し、総攻撃を掛けるよう、何度も念を押した。攻撃が夜になってしまうと、山背大兄皇子に逃げられる恐れがあったからだ。
「大臣、心配は御無用……」
軽王が初めて着た甲を威勢よく叩くと、大伴、巨勢などの将軍達が軽王に同調し、臆病者は居ない、と顎鬚《あごひげ》を掴《つか》んだり、胸を反らせたりした。
入鹿が本営に造った即製の櫓《やぐら》に坐り、敵は獣の反乱軍で数も少ない、一気に殲滅せよ、と大声を張り上げると、将軍、副将軍、隊長達が刀を抜き、鬨《とき》の声を挙げた。そして六百名の軍勢は鼓の音と共に下つ道を北に向って進み始めた。午の刻であった。
下つ道を北上すると、河内から大和に通じている長尾道の延長道路に出る。そこで西に向って道路沿いに進み、更に二上山の麓を北上したとしても、斑鳩宮まで約五里、申の刻には斑鳩宮に到着する、古代人の脚は現代人が想像する以上に速い。
だから日が暮れない間に攻撃出来る筈だった。ただ一抹の不安は軽王が出陣したことであった。軽王はそんなに勇猛な人物ではない。甲冑姿だが、心の底では斑鳩宮の戦闘力を軽視しているから出陣する気になったのだろう。と同時に、他の将軍達に自分の勇気を示すためでもあった。
その点入鹿は、斑鳩宮の戦力を悔ってはいなかった。斑鳩宮に仕えている連中は得体の知れない思想に酔っている。舎人達だけではなく、奴達も同じであろう。ことに斑鳩宮の奴達は、蘇我本宗家の奴達などよりも厚遇されている。決して牛馬のようにこき使われていない。だから奴達も死を恐れていないかもしれなかった。ひょっとすると、敵軍は攻撃軍を途中で迎え撃ち、戦をいどんでくる可能性もあった。
奇襲を受けないとも限らない。その時の軽王の狼狽《ろうばい》振りが、入鹿には手に取るように見えるのだった。巨勢臣徳太、大伴連馬飼は信頼出来る。それに土師連裟婆と東漢直県が居る。彼等は真先に敵の部隊に向って行くだろう。狼狽した軽王が退却を命じても従うような両者ではなかった。
あの二人と東漢氏の兵士達が居る限り、攻撃軍の士気は揚るに違いない、と入鹿は安心した。
その反面、飛鳥連合軍六百余名の中で、本当に頼れるのは蘇我本宗家直属の兵士達だけかもしれない、と入鹿は思うのだ。吾の力はまだまだ小さい、と入鹿は吐息をついていた。
その頃、斑鳩宮《いかるがのみや》の山背大兄皇子は、宮の一番奥の屋形に居た。飛鳥と同じく斑鳩の山野にも木枯しが吹き荒れている。
今、山背大兄皇子が居る屋形は、東西に伸びた三十余坪の建物で、父聖徳太子が住居としていた屋形であった。現在の法隆寺東院伝法堂のある場所である。
壁は土壁で、屋根は茅葺《かやぶ》きだった。斑鳩宮の内部には仏殿や小さな講堂もあるが、それ等の仏教関係の建物の屋根は青い瓦葺である。
山背大兄皇子は両側の壁を眺めた。木枯しが強いため、窓は板戸で閉じられている。魚油の明りが隙間風に揺れていた。建物は父が建てて以来のものだから四十年以上たつが、雨漏りもしなかった。
山背大兄皇子の傍には妃の舂米《つきしね》女王と子供の弓削《ゆげ》王が居た。今年二十歳になったばかりの弓削王の顔は緊張で引き攣《つ》っていた。舂米女王の母親は| 膳 大郎女《かしわでのおおいらつめ》(菩岐岐美郎女《ほききみのいらつめ》)で、舂米女王は山背大兄皇子の正妃であった。山背大兄皇子は他の庶妹も妃にしているが、舂米女王以外の妃は山背大兄皇子が独占しているわけではない。同母弟の財《たから》王、日置《ひき》王と共有している妃も居たのだ。
現在、斑鳩宮には聖徳太子の一族が二十余名住んでいる。その中には麻呂子《まろこ》王、弓削王など山背大兄皇子の子供も居たが、弟達の子供も共に住んで居た。
斑鳩宮が、飛鳥朝廷から嫌われ、異端者扱いを受けているのは、前にも述べたが、普通なら離れ離れに住んでいる筈の一族が、斑鳩宮に集っていることも原因の一つだった。当然そこには複雑な男女関係が生じる。だから争いが生じ別れて住むのが自然なのに、余り争いもなく仲良く斑鳩宮に住んでいる。
飛鳥の古くからの豪族達が、斑鳩宮の王達に対し、不気味な思いを抱くのも不思議はなかった。
山背大兄皇子は板床の上に置かれた木の椅子に坐り、西の壁を眺めていた。そこには渡来系の絵師達に描かせた寿国の絵があった。
山背大兄皇子は、少年の頃、育てられていた山背の秦河勝のところから斑鳩宮に引き取られた。早く一緒に住みたいという父太子の願いで、まだ十歳にもならないのに、斑鳩宮で住むようになったのだ。
それ以来、仏教、道教などを勉強させられたが、父太子が理想郷としていたのは、道教思想の寿国であった。神仙思想の寿国で現世のものである。だから斑鳩宮の寿国の絵は山野に理想郷を求め豪華な衣服の神々や華麗な宮殿を描いていた。
有名な|天寿国 繍帳《てんじゆこくしゆうちよう》は、聖徳太子の妃の一人であった| 橘 大郎女《たちばなのおおいらつめ》(|位奈部 橘 王《いなべのたちばなのひめ》)が亡き太子をしのび、太子が住んでいるであろう、寿国を想像して織らせたものだが、仏教思想が強くなり、天界に寿国を求めている。
そういう意味で、斑鳩宮に描かれている寿国とは、かなり性格が異っているのだ。
太子の思想を強く受け継いだ山背大兄皇子が求めた寿国も、天界にあるのではなくこの世にあるのだった。
だから山背大兄皇子を始め、太子の子供達は斑鳩宮に集り、理想郷をつくろうとしたのであった。だが現世の幸せを追求し過ぎると、一種の刹那《せつな》的な享楽主義になり兼ねない。
確かに斑鳩宮の王達には、そういうところがあった。ただ王達がそれだけに溺《おぼ》れなかったのは、矢張り聖徳太子の偉大さのせいである。斑鳩宮の王達にとって新しい思想を創造した父の太子は超人であり、また神仏でもあった。
聖徳太子は現世の幸せを追求したが、宗教探求への熱意は喪《うしな》わなかった。だからこそ、太子は刹那的享楽主義者にはならなかったのである。
山背大兄皇子を始め王達が、刹那的な享楽に溺れ掛けては吾に返ることが出来たのも、父太子を穢してはならない、という連帯意識で結ばれていたからである。
今、聖徳太子が残した斑鳩宮に危機がおとずれようとしていた。
一昨日の昼、近くの百姓が木の札に書いた文を警備の兵に届けた。百姓の話では馬に乗った貴人風の人物に手渡された、という。木の札には流麗な字で、近く蘇我大臣入鹿、軽王を大将軍とする大軍が斑鳩宮を攻撃する、と書かれていた、その字を見ても学識のある人物であることが分った。
山背大兄皇子は、本当に攻撃して来るのかどうか、迷いに迷った。先日も女帝は山背大兄皇子の代りに参朝した財王に、反乱の準備をしているというが本当か、と問い質《ただ》した。
飛鳥では山背大兄皇子に謀反の疑いを掛けているらしい。だから動員した農兵達を家に戻したのだ。もしこの文に、迂闊《うかつ》に乗り、再び兵を集めたりしたなら、それこそ斑鳩宮を攻撃する口実を与えるようなものだ。
だからといって、敵軍が現れてから応戦の準備をしているようでは、女人、子供達が逃げ出す暇もなく敵兵達に蹂躪《じゆうりん》される。山背大兄皇子は一昨夜、弓削王などの子供達を集め、対応策を相談した。その結果、応戦の準備だけは整えておく方が良い、という結論に達した。
ことに武術の達者な弓削王は、一日も早く挙兵し、飛鳥に攻撃を掛けるべきだ、と戦に対して積極的だった。だが弓削王は若いだけに斑鳩宮に対して険悪な政治情勢を無視していた。皇子は挙兵に対しては反対した。その結果、応戦の準備を整える、ということになったのだ。舎人達は武器庫から弓矢、刀槍を出し斑鳩宮に仕える奴達に与えた。動員された農兵達は五十名ばかりであった。彼等にも武器が支給された。
ただ武器を持ち、宮の外に集結すると、反乱のための挙兵と間違われるので、殆《ほとん》どが宮の内部で警備に当った。
斑鳩宮から半里ばかり南方の大和川に馬を飛ばし見張りに当ったのは舎人達だった。奴、農兵達も含めた総兵力は二百に満たない。飛鳥の軍勢はおそらく数倍の兵力で攻撃して来るに違いなかった。一日でも宮を守れたら好運といわねばならない。
山背大兄皇子を始め王達は、内心恐れていたものが遂にやって来たか、と暗い気持だった。
舎人達と同じように昂奮《こうふん》しているのは若い弓削王一人だけである。
「父上、お願いで御座居まする、どうか、舎人達と共に今宵、飛鳥を攻撃させて下さい、敵は、まさか我々が攻め込むなど、夢にも思っておりますまい、敵の虚を衝《つ》くのです」
弓削王は椅子の傍ににじり寄ると血を吐くような声でいった。一昨夜以来、弓削王は一貫して奇襲攻撃を進言していた。五十名の舎人と共に夜陰に紛れ飛鳥に忍び込み、蘇我蝦夷が住む豊浦の屋形を襲い、蝦夷を殺害し、更に板蓋宮を襲い女帝を捕えて、大王位を山背大兄皇子に譲る詔を出させる、という勇猛大胆な作戦だった。
何度も聴いているうち、斑鳩宮の運命を変えるのは、弓削王が進言している作戦を実行する以外ない、という気がしないでもない。だが山背大兄皇子は踏み切れなかった。王達が口を揃えて反対したように、あの文が偽物であったなら、まんまと蘇我本宗家が仕掛けた罠《わな》に掛ることになるからだった。
先月から続いて起った挑発も、蘇我本宗家の仕業かもしれなかった。つまり、蘇我本宗家は何とかして、吾に挙兵させようとしている、と山背大兄皇子は考えていた。山背大兄皇子の代りに参朝した財王が、女帝に反乱の準備をしているのか、と詰問されたのが、何よりの証拠である。ただ財王の、山背大兄皇子に謀反の気持は毛頭ない、何故ならそういうことは父太子の遺志に反するからだという堂々とした答弁に、女帝も反乱に対する疑いを消したらしい。だから、じっと忍耐していたなら、この危機を乗り切れるかも分らない、と山背大兄皇子は溺れる者が藁《わら》にも縋《すが》るような気持でいたのだった。
幾ら荒々しい気性の入鹿でも、まさか兵を集めてこの斑鳩宮を攻撃したりはしないだろう、というのが山背大兄皇子を始め王達の判断だった。いや、判断というより願望だったのかもしれない。巨大な獣が牙を剥き、斑鳩宮に迫って来ているのを、山背大兄皇子は肌で感じていた。一刻の猶予もならないほど危機は迫っている、と弓削王は叫んでいる。いや、それは弓削王だけの声ではなかった。山背大兄皇子自身、胸の中でそう叫んでいるのだ。
山背大兄皇子は絶望的な眼を寿国の絵に向けた。父太子が望んだ理想郷が、今となっては実に空しく思えた。斑鳩宮が滅びてしまえば、理想郷も何もない。
あの蘇我馬子でさえ、父太子には一目も二目も置いていたという。その父が遺した宮を蘇我本宗家が攻撃したりするだろうか、と山背大兄皇子は縋るように寿国の絵を見詰めた。絵の中の神々は無表情だった。俺達は知らんぞ、といっている。現世の享楽に溺れた罪かもしれなかった。
「弓削王、王達を講堂に集めよ、今一度相談してみよう」
と山背大兄皇子はいった。
弓削王は激しく首を横に振った。
「父上、それでは一昨夜と同じことになりまする、どうか御決断を……」
弓削王は山背大兄皇子が坐っている椅子の脚に手を掛けた。
「弓削王、何をいうか、斑鳩宮では、そんな独断は許されぬ」
「父上、非常の場合で御座居まする」
弓削王は椅子の脚を放そうとしない。
山背大兄皇子は、そんな弓削王に、二十年前の自分の姿を見たような気がした。若かった山背大兄皇子は蘇我本宗家の蝦夷が推す田村皇子と大王位を争い、執拗に蝦夷に喰いさがった。馬子の弟であり蝦夷には叔父に当る境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》が自分に味方してくれたこともあったし、蘇我本宗家との決戦まで考えた。だが頼みの綱であった母の刀自古《とじこの》郎女《いらつめ》(馬子の娘)が亡くなり、境部臣摩理勢もまた蝦夷が差し向けた兵士達に殺されたので、諦めざるを得なくなったのだ。あの時の無念さは今でも忘れていない。
「弓削王、今少し待て、夕餉の際、もう一度話し合おう、それまでに吾も、考えてみる、ただ大王が吾に謀反の疑いを掛けたのは、吾が先月、農兵を動員したからじゃ、蘇我本宗家が仕掛けた罠に掛ったような気がする、今は大事な時じゃ、早まってはならぬ、また独断も禁物じゃ、さあ、舎人達を励まして来い、舎人達はそちの武勇に期待しておる、吾も宮を見廻ろう」
そういうと山背大兄皇子は屋形から出た。
西側に山背大兄皇子と諸女王が住んでいる、南北に長い大きな屋形があった。四十余坪の屋形だが、南面の部屋は、土壁で北面の間と遮られている。山背大兄皇子は南面の部屋に住んでいた。その屋形の南方には竜田川の支流から水を引いた人工の小川が流れていた。小川の上に跨《また》がって建っている屋形は食堂兼宴会用である。その傍には大きな井戸や炊事場があった。その辺りは宮でも奥まった場所で庭には砂利が敷かれていた。一族が食事するための屋形を建てたのは聖徳太子であった。大王の宮にも食事のための屋形などない。そういう点でも斑鳩宮は、当時の倭国としては風変りな宮であった。
山背大兄皇子が造った築山はもっと南方で、舎人達が住んでいる屋形に近かった。動員した農兵達は南門、東西の門の内側を奴達と共に守っており、諸女王や女人達が住んでいる小川の北側には姿を見せていない。ただ、舎人達が刀を吊し、矢を入れた靫《ゆぎ》を背負い弓を持って警備に当っている。靫は矢を入れて背に負う筒型の武具で、木、革、竹などで出来ていた。舎人達は落ち着こうとしているが緊張感は隠せない。
諸女王を始め女人達は、それぞれの屋形の内部で、息を止めたように、ひっそりと坐っていた。
陽は裏山の上にあった。もう一刻もすれば斑鳩宮一帯は夕闇の中に沈むであろう。冬の季節は陽が落ちるのが早い。
馬の蹄《ひづめ》の音が近付いて来た。飛ばしに飛ばしているようだった。弓削王が血相を変え正門の方に走って行った。木枯しの音が凄まじいにも拘《かかわ》らず、山背大兄皇子は高くなった胸の鼓動をはっきり耳にした。山背大兄皇子は小川に掛けられた小橋の前で立ち止った。
舎人の長《おさ》三輪君文屋《みわのきみふみや》と弓削王、それに大和川周辺で見張っていた舎人が走って来た。二人の舎人は小川の前で崩れるように膝を付いた。
「吾王、飛鳥の方角から大軍が……数え切れないほどの軍勢で御座居まする」
精悍《せいかん》な顔をした見張りの舎人は苦し気に肩を上下させながらとぎれとぎれにいった。
「こっちに向って来ておるのだな……」
山背大兄皇子は抑揚のない声でいった。山背大兄皇子と弓削王との眼が合った。弓削王は左手で刀の柄《つか》を握り、右拳を自分の腹に当てていた。憤りと無念さに弓削王の眼は白く光って見えた。山背大兄皇子は、自分が実に無意味なことをいったのに気付いた。
かつて田村皇子と争った時のエネルギーは現在の山背大兄皇子には余り残っていなかった。飛鳥の朝廷に参朝しないのも、気負いたって反抗しているわけではなかった。はっきりいって年齢と共に蘇我本宗家を始め有力豪族達と争うのが煩わしくなったのだ。父太子の遺志を継いで大王になり、仏教と道教を混合した政治を行いたい、とは思う。だから大王位への執着は捨てていないし、舒明が亡くなった後も、大王になる意志があることを、蘇我本宗家や重臣達に示した。時には斑鳩宮の権威を守ろうと、女帝に会って蘇我本宗家の専横を忠告した。
だが父太子が没してすでに二十余年たつ。この二十余年間、山背大兄皇子は斑鳩宮に籠り、太子の一族と共に、政治には関与せず、仏教、道教の混合した寿国を夢見ながら過して来たのだ。斑鳩宮に争いはない。そして斑鳩宮の半分は女人達だった。美しい大勢の女人達、それに太子の思想で結ばれた弟妹、自分と弟妹の子供達、はっきりいって斑鳩宮には、山背大兄皇子を鍛える荒々しいものがなかった。それに山背大兄皇子には行動力、権謀術数を弄する手腕もない。二十余年間、入鹿などには想像も出来ない平和な世界に住んでいたのだ。穏やかで平和な世界にどっぷりと浸っていた、ともいえる。しかも山背大兄皇子には聖徳太子ほどの宗教心、学究心もない。口にしている仏教王国も建前といって良い。はっきりいって今の山背大兄皇子は気位ばかり高い享楽主義者だった。
飛鳥の重臣達は何も山背大兄皇子を畏れる必要はなかったのだ。もう山背大兄皇子は飛鳥の政界にとって無害な人物になっていた。入鹿を始め有力豪族達は、斑鳩宮の一族を毛嫌いする余り、勝手に危険視していたのである。
そこに上宮王家《じようぐうおうけ》の悲劇の一端があった、といえよう。
山背大兄皇子は吾に返った。舎人達は膝を突き、弓削王は石像のように立ち、山背大兄皇子の返事を待っている。
「武器庫の弓矢は全部出したか?」
と山背大兄皇子は三輪君文屋に訊いた。
「まだ、残っておりまする」
「全部出せ、奴達にも与えよ、屋形の屋根、塀にも登り、矢の雨を浴びせるのじゃ、どんなに大軍であろうと、我等には父太子がついておられる、斑鳩宮には一歩も入れるな」
「はっ、分りました」
山背大兄皇子は舎人達の後を追おうとした弓削王を呼び止めた。女王達を宮の奥の内殿に集めるよう命じた。
「王子達もじゃ、ただし十五歳以上の王子には弓矢を持たせよ、弓削王、そなたが王子達に弓矢を教えているのを吾は良く知っておるぞ」
「父上、無念で御座居まする」
「吾も同じだ、さあ、吾の命令を早く伝えよ」
弓削王が去ると、財王が駈け寄って来た。
「蘇我入鹿|奴《め》、攻めて来たのですか、悪虐非道な奴じゃ」
「入鹿かどうかは分らぬ、案外|軽王《かるのきみ》も加わっているかも分らぬ、軽王は大王になりたくて仕方のない男じゃ、それに息長《おきなが》氏系だからな……」
「兄上、我等は蘇我氏です、何故我等が蘇我本宗家から敵視されるのでしょうか?」
と財王は首を振った。
「いうまでもない、父太子が余りにも偉大であったからじゃ、蘇我本宗家は人望が我等に集るのを恐れた、それが憎しみに変った、それに父上の思想を蘇我本宗家は異端思想と視た、理由は数え切れないぐらいある、しかし、蘇我本宗家が息長氏系に大王位を渡したことだけは間違いじゃ、何時か蘇我本宗家は息長氏系の大王によって滅ぼされる、財王、王達を築山の屋形に集めて欲しい」
山背大兄皇子は二人の舎人を連れ築山の屋形に上った。そこからは宮の外がよく見える。大和川を越えた騎馬隊はすでに斑鳩宮に迫っていた。舎人達、奴達、それに農兵まで弓を持ち、騎馬隊に向って雨のように矢を射った。余りにも凄まじい矢の攻撃に騎馬隊の進撃が止った。王達が続々と築山の屋形に集り、戦の様子を眺めた。
皆平服である。山背大兄皇子を始め甲冑《かつちゆう》姿の者はいない。
だが間もなく戦の模様が変った。いったん退いたが、主力軍の応援を得た騎馬隊は再び攻撃に掛った。矢で射られ斃《たお》れても斃れても攻撃して来る。彼等は馬を走らせながら布陣している舎人達に執拗な攻撃を繰り返した。馬を走らせながら矢を放つのだ。山背大兄皇子を始め王達が驚いたのは先頭を切っている騎馬隊の兵達が死を恐れていないことだった。山背大兄皇子にとって六百余名の敵軍は雲霞のような大軍に思えた。
陽が生駒山の彼方に沈み始めた。斑鳩《いかるが》、平群《へぐり》の山野は茜色の夕映えに、まるで血を流したように赫く染まった。枯草までが赫々と燃えているようである。宮の外で布陣していた舎人達は、敵軍を支え切れず大勢の死傷者を残し宮の内部に退却した。屋根や築地塀から矢を浴びせるより仕方がない。三輪君文屋が農兵達に最後の突撃の命令を下したが農兵達は怯えて攻撃しようとはしなかった。敵軍は遂に斑鳩宮を取り巻いた。
陽は生駒山の彼方に沈み、赫々と燃えていた山野の夕映えはあっという間に消え、濃い夕闇が斑鳩の山野を覆い始めた。舎人達を始め奴達の奮戦は凄まじかった。先述したように、普通、奴達は人間扱いを受けない。牛馬のようにこき使われる。ところが斑鳩宮では雑役以外の面では舎人達とほぼ同じように扱われた。彼等は斑鳩宮に仕える奴婢《ぬひ》と媾合《まぐわ》い子供を生んでいる。斑鳩宮以外生きる場所はなかった。だから奴達は死を恐れず戦った。奴達の弓矢に宮の傍まで近付いた敵軍が何度か退いたほどである。
だがその奴達も、一人、二人と矢を受けて斃れた。夜になると共に火矢が放たれた。南正門の内側の舎人達の屋形が燃え始めた。じっと観戦していた山背大兄皇子は財王と共に内殿に戻った。女王達や子供達は蒼白《そうはく》になり慄えていた。
木枯しが激しいので火勢は凄まじかった。斑鳩の山野の百姓達は家から出、原野や田畑に坐り込み、空高く昇る炎の柱を眺め手を合せた。彼等はその火の柱こそ斑鳩宮の守護神で、今にも敵に襲い掛るに違いない、と期待し、また仏に祈った。だが火の柱は守護神でも何でもなかった。火勢は斑鳩宮の数多い屋形を、一屋残さず焼き尽そうと荒れ狂っているのだった。
山背大兄皇子は飼っていた犬を射殺し、投げ込んだ。もし内殿が焼けたなら、犬の骨を見て人間の骨と間違うかもしれない、と期待したからだ。馬の骨を投げ込むことも考えたが馬の骨は太く、誰が見ても人間の骨には見えない。
弓削王を始め王達も、まだ戦っている。甲冑姿の三輪君文屋が舎人の田目連《ためのむらじ》、菟田諸石《うだのもろし》、伊勢阿部堅経《いせのあべのかたぶ》などと共に内殿に駈け込んで来たのは亥《い》の刻だった。午後十時前である。二刻以上も激戦が続いているのだ。木の階段を一気に駈け上った甲冑姿の三輪君文屋は顔の血を拭《ぬぐ》おうともせず、逃げなければ敵兵は今にもここに押し寄せて来る、と告げた。
山背大兄皇子は財王を始め諸女王を連れて内殿から裏に出た。その辺りはまだ火の手は廻っていない。樹立《こだち》の中に入ると、一寸先も見えないような暗闇だった。山背大兄皇子始め諸女王、それに王子達は用意されていた馬に乗った。一行が生駒山の山中に辿《たど》り着いたのは子《ね》の刻(午前零時頃)であった。馬を山麓の松の樹に繋《つな》ぎ、衣服を破りながら道なき道を這い上った。
山背大兄皇子達一行が身を寄せ合うようにして坐ったのは小さな渓流の傍だった。王達の半数は斑鳩宮に残って敵と戦っている。傍に居るのは財王、それに舂米女王を始め諸女王と仕える女人達、また稚い王子達だけだった。舎人は三輪君文屋等三人である。冬の深夜の山中は凍えるように寒かった。ここから斑鳩宮は見えないが宮が燃える炎で夜空が染まっていた。
一行は三日二晩生駒山中で寄り添って過した。虚脱感、無力感が山背大兄皇子を襲っていた。山背大兄皇子は身を動かすのさえ億劫《おつくう》だった。
三輪君文屋は一先ず深草|屯倉《みやけ》に身を寄せるべきだ、と提案した。現在深草屯倉を管理しているのは秦《はた》氏である。山背大兄皇子を迎えた以上、秦氏としても皇子を見殺しにするわけにはゆかない。また飛鳥に於ても、蘇我氏の悪虐非道な行為に対し非難の声が上るだろう。場合によっては武蔵国の乳部《みぶ》まで逃げ、機を見て挙兵し蘇我本宗家と対決することは不可能ではない、と必死で説いた。だが三輪君文屋の進言も、冬の山中に籠り心身共疲労し果てた山背大兄皇子には空しく響くのみだった。山背大兄皇子は斑鳩宮で平穏な、そして贅沢な生活に慣れ過ぎていた。時々斑鳩宮を疎外している飛鳥の朝廷や蘇我本宗家に吠えたが、それは所詮虚勢だった。
火を吐くような三輪君文屋の言葉も、木枯しに揺れ動く樹林のざわめきの中に消えて行く。山背大兄皇子には山を越え、山背まで逃げ延びる気力はなかった。といって、このまま山中を彷徨《ほうこう》しておれば凍え死ぬ、食糧もすでに底をつきかけていた。山背大兄皇子は無気力に首を横に振った。
「文屋、そちは攻めて来たのは蘇我の兵士だけではなく、巨勢、大伴の軍勢も居るようだ、といっていたではないか、多分、巨勢、大伴以外の豪族も加わっているに違いない、飛鳥の連合軍が攻めて来たのじゃ、大王の詔が出ているかもしれぬ、それに深草屯倉に逃げたとしても秦氏は動くまい、父上の時代と違って、今の秦氏は吾によそよそしい……」
山背大兄皇子は這いつくばり渓流の水を飲んだ。諸女王は余りの寒さに恐怖心も忘れ、ただ身を寄せあって|蹲 《うずくま》っていた。稚い王子の中には、早く宮に戻りたいと駄々をこねている者も居た。
財王が山背大兄皇子にいった。
「兄上、斑鳩宮の火はもう消えています、多分宮は灰になったでしょう、だが鬼のような敵も、斑鳩寺にまで、火をつけておりますまい、山の中で凍え死ぬよりも、御父上が遺した斑鳩寺に戻りたい」
「ああ、吾もそう思う、山の水は喉が凍るほど冷たい、ここでは心も凍ってしまう」
と山背大兄皇子は力なく答えた。
三輪君文屋を始め舎人達が号泣した。彼等は武人らしく最後まで戦いたかったのだ。舎人達の号泣に、蹲っていた諸女王が、何事が起きたのだろうか、と顔を上げた。寒さに慄えていた彼女達は、舎人達が何故泣いたのかも理解していなかった。
斑鳩宮の戦況を絶えず入鹿に伝えたのは、連絡兵の隊長|高向臣 国押《たかむくのおみくにおし》だった。国押の報告によると、土師連《はじのむらじ》裟婆《さば》と|東 漢 直 県《やまとのあやのあたいあがた》は豪雨のように降り注ぐ矢を物ともせず、先陣争いを行った結果、二人共矢を受け、土師連裟婆は戦死し、東漢直県は重傷を負った。ただ、それで奮起した両名の部下達が真先に斑鳩宮に突入し、続いて巨勢《こせ》、大伴の軍勢が続き、斑鳩宮の戦は夜明けまでに終った。山背大兄皇子の子の弓削《ゆげ》王は十数名の舎人達を率い斑鳩寺に移り、最期まで戦ったが、翌日矢を受け倒れたところを、大狛法師《おおこまのほうし》に斬られた。斑鳩宮の諸王も、夜明けまでに殆ど戦死したが残った者も斑鳩寺で自決した。
ところが山背大兄皇子と諸女王、また皇子の稚い子供達は襲撃の夜、暗闇に紛れて逃げ延びた。巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、|大伴連 馬飼《おおとものむらじうまかい》等は内殿らしい焼跡に遺骨を見付け山背大兄皇子のものと思い込み、いったん兵を退かせたが、遺骨を取り出して調べてみると犬の骨であった。それで付近一帯を捜索中だ、というのが三日目までの報告だった。
軽王《かるのきみ》はすでに本営に引き揚げ、心配気にやって来た古人《ふるひとの》大兄皇子《おおえのおうじ》と共に、入鹿の傍に居た。
高向臣国押が山背大兄皇子一行が生駒山に隠れているらしい、と伝えたのは三日目の夕刻だった。捜索隊が生駒山山麓の百姓の挙動がおかしいので捕え、拷問《ごうもん》したところ山背大兄皇子の舎人達の一人が食糧を求めて山から出て来た、と白状したのだった。
入鹿は刀を握ると椅子から立ち上っていた。国押を見下ろすと大声で叫んだ。
「よし、吾も兵を率い、生駒山に行く、この手で、山背皇子の首を刎《は》ねる、国押、そちも兵を集めて後から参れ、吾の兵達が大勢死んだ、県は重傷を負って動けない、そちにも東漢氏の血が流れておる、必ず見付けて捕えるのじゃ」
膝を突いていた国押は、両手を前に差し出すと、土に額をこすりつけた。
「吾君大郎に申し上げまする、あの辺りの百姓共は斑鳩宮の皇子に心を寄せております、万が一ということも御座居まする、大臣はどうか、この本営にお留まり下さい」
国押は顔を上げると、如何にも入鹿の身を案じている忠節の臣、といった眼で入鹿に懇願するのだった。国押は石川麻呂に意を寄せていたが、石川麻呂の命令で入鹿に近付き、入鹿の信頼を得ようと必死だった。つまり国押は石川麻呂のために、蘇我本宗家の情報を集めていたのである。入鹿はそのことを知らなかった。
本心から入鹿の身を案じていた古人大兄皇子が国押に同調した。
「大臣、嶋大臣(馬子)は泊瀬部《はつせべ》皇子(崇峻)に申された、『王たる者は刑人を近づけず、自ら往《いでま》すべからず』と、国押が申す通り、大臣は矢張りここに居られた方が良い」
嶋大臣は用明元年(五八六)五月、穴穂部《あなほべ》皇子、|物部 大連 守屋《もののべのおおむらじもりや》と共に、三輪君逆《みわのきみさかふ》を討とうと屋形を出た泊瀬部皇子に、王たる者は、といって屋形に留まるよう忠告したのだった。
尊敬している祖父馬子の言葉を、古人大兄皇子にいわれ、思い出した入鹿は、やっと落ち着きを取り戻した。
入鹿は再び椅子に坐ると大きく頷いた。
「分った、吾はここに居ろう、国押は兵を集め、生駒山に行け、捕えたら連れて参れ、吾が首を刎ねてやる」
「吾君大郎、必ず捕えまする」
国押は再び頭を下げると、馬に乗り鞭《むち》を当てた。
国押は兵を集めたが、すでに戌《いぬ》の刻(午後八時頃)になっていた。それに国押には、山背大兄皇子を捕える意志はなかった。高向臣国押は二十名足らずの兵を率い生駒山に向ったが、夜道を理由にわざと迷い、夜明け頃|信貴山《しぎさん》の南に着いた。
『日本書紀』は入鹿の命令に対し国押が「僕《やつかれ》は天皇の宮を守りて、敢へて外に出でじ」といったと記述しているが、国押は入鹿を吾君と呼ぶ直属の部下であり、そんな反抗的な態度は取れない。ことに国押は入鹿の信頼を得、翌年|甘橿丘《うまかしのおか》に籠った蝦夷、入鹿の警護の任に当っている。石川麻呂側のスパイとして入り込んだのだ。そのためにもここで入鹿に逆らう筈はない。『日本書紀』の創作である。
国押達が夜明けの薄闇の中に姿を現して来た二上山を眺めながら、馬に水を飲ませていた頃、生駒山を出た山背大兄皇子の一行は、心身共疲れ果て、斑鳩寺に入っていた。
山背大兄皇子を始め弟王、諸女王、王子達が首を吊り自決したのは、一行が斑鳩寺に戻ったのを知り、捜索している軍勢が押し寄せた時であった。
『上宮聖徳法王帝説』は、入鹿が、「山代大兄及其昆弟等合十五王子を悉滅」と記述している。また同書によれば、山背大兄皇子には、舂米女王との間に、難波麻呂古王、麻呂子王、弓削王、佐々女王、三嶋女王、甲可王、屋治王の七王子が居た。聖徳太子の子供は山背大兄皇子を含めて十四王である。とすると孫王を含め二十一王が聖徳太子の一族ということになる。
一方『聖徳太子伝|補闕《ほけつ》記』は攻撃者の中に軽王、大狛法師などを加え、「太子子孫男女廿三王を討つ。罪無くして害を被る」と記述し、二十三王の名を列挙している。ただこの名前の中には信用出来ないものがあり、当時二十三王が斑鳩宮に居た、という根拠は何もない。
とすると前者(略して『法王帝説』)が正しいか、ということになるがこれも当てにはならないのだ。ことに舂米女王が山背大兄皇子の子七名を生んだとする記述、また後者(略して『補闕記』)の八名の記述は信用出来ない。何故なら山背大兄皇子には他にも大勢の妃があった筈で、当時の王族の男女関係(一夫多妻制)から考えても、舂米女王一人にのみ七名の子供を産せる筈はないだろう。とすると『法王帝説』や『補闕記』は創作された原資料を使用したとしか思えない。
では創作された原資料とは何であろうか。ここで舂米女王の母が|膳 《かしわでの》菩岐岐美《ほききみの》郎女《いらつめ》であることが問題になって来る。菩岐岐美郎女は『法王帝説』によれば、何と聖徳太子の子を八人も生んでいる。これも信じられないことだが、この両者が|膳 《かしわで》氏系であることを考えると創作された原資料の正体がほぼ判明して来る。『法王帝説』の編者を法隆寺の僧侶団とする説は多いがそれにしても原資料は矢張り膳氏の家記であろう。膳氏は開明派の有力豪族で、菩岐岐美郎女の父|加多夫古《かたぶこ》(『法王帝説』)は『日本書紀』では、傾子《かたぶこ》、|賀※[#「てへん」+「施のつくり」]夫《かたぶ》などという名で登場する。膳氏が家記を創作して記述したとしてもおかしくない。
また推古朝頃成立したといわれている『上宮記』の逸文は、舂米女王の弟とされる長谷部《はせべ》王の子四名をあげているが、この長谷部王が太子の子であるかどうかは疑問である。
つまり、斑鳩宮が滅びた時、太子の子や孫が宮に何人いたかを、我々は知ることが出来ない。そして先述した通り、山背大兄皇子の子供達の系譜も信頼出来ないのである。
ただ聖徳太子の子供達(山背大兄皇子の弟妹)のうち何人かが、太子の遺志を受け継ぎ、斑鳩宮に集っていたことは間違いないだろう、とすると『法王帝説』が述べる昆弟達にも当然子供が居たわけで、ひょっとすると、斑鳩宮で滅びた太子の一族は、諸文献が記す数よりも多いかもしれない。だがその数も名前も永遠の謎である。
ここで、斑鳩宮が滅びた六四三年から六四四年に掛けての朝鮮三国の情勢について触れてみたい。
六四三年は、高句麗の独裁者となった泉蓋蘇文《せんがいそぶん》と、政治権力を一手に掌握した百済の義慈《ぎじ》王が共同して新羅を攻めた年であった。
勿論、両国を牽制する唐に対する思惑は、高句麗と百済とでは異る。高句麗は、唐との戦を覚悟して新羅を攻めているが、百済にはまだ、そこまでの決意はなかったようだ。
ただ高句麗、百済の両国が新羅を攻めたのは、将来の唐の攻撃に備えてそれぞれ勢力の拡張という意図があった。それに、新羅は唐と密着しており、新羅を温存させておくことは、両国にとって危険だった。
泉蓋蘇文と義慈王は、共通の危機感を抱いたが故に手を結んだのである。
また先に述べたように、泉蓋蘇文と義慈王がクーデターを起し、権力を掌握したのも、この危機感による。
唐の太宗は、司農|丞相《じようしよう》|里 玄奨《りげんしよう》を高句麗、百済に送り、両国の新羅攻撃を止めさせようとした。『三国史記』によると里玄奨は泉蓋蘇文に、「新羅は命運をわが国に委ねて朝貢を欠かしたことがない、汝(高句麗)は百済と共に直ぐ兵をひくべきである。もし更に新羅を攻めるなら、来年は必ず兵を出し、汝の国を討つ」と最後通告を送った。
それに対し泉蓋蘇文は「高句麗と新羅がお互い、相手を恨んですでに久しい、ことに先年の隋との戦に対し、新羅はその間隙に乗じて高句麗の地を奪っている、それを返さない以上、戦は終らない」と答えた。
つまり泉蓋蘇文は国運を賭けて、新羅を攻めているのである。泉蓋蘇文がこれだけ強気になれたのも、百済の義慈王と手を結んだせいであろう。
義慈王は、六四三年十一月、新羅から唐に行く道を塞いでいる。唐に朝貢しながらも、義慈王の本心は新羅を滅ぼすことにあったようだ。
高句麗と百済の攻撃に対し、新羅は防衛戦を繰り返しながら、何とか唐の救援軍を引き出そうと必死であった。
唐の力を借りなければ、新羅が崩壊するのは眼に見えていたようだ。
当時の新羅の王は善徳《ぜんとく》王だが、奇しくも倭国と同じく女王だった。
高句麗と百済の攻撃に対し、新羅は六四三年九月使者を唐に送り、太宗に救援軍の派遣を懇願した。その内容は次のようなものである。
高句麗、百済の両国が連合し、何度も新羅の城数十を攻めて来ている。両国は何が何でも、太宗の臣の国である新羅を乗っ取る積りである。ことにこの九月には、大軍で攻めようと計画している。その場合新羅はどうなるか分らない。どうか一軍でも良いから救援軍を送って欲しい、そのためには、太宗の命令は何でも諾く、というようなものだった。
新羅が、高句麗、百済の同盟軍の攻撃に対し、国家存亡の危機感を抱いていることがよく表れている。
それに対して太宗は色々な策を述べたが、最後に、新羅は女性を王としているので隣国から侮られている、だから自分の親族の者を遣わして王としたらどうか、当然、その王を守るために軍隊を派遣する、という策を告げた。
はっきりいって善徳王の退位を促すと共に太宗の一族を新羅国王にしたい、と要求したわけである。
新羅を足掛りにして、朝鮮半島を自分の勢力下に置こうという太宗の野望の表れだが、これでは新羅としては立つ瀬がない。
唐からも見放された形で、新羅はまさに窮地に追い込まれたのだ。だが、太宗の要求を知った新羅の武人達は憤激したに違いない。当時新羅には花郎《はらん》集団があった。新興貴族の子弟の中でも若くて凜々《りり》しい武人の集団だが、この花郎出身の将軍|金※[#「广」に「臾」]信《きんゆしん》などもその一人だった。金※[#「广」に「臾」]信は約百年前に新羅に滅ぼされた金官加羅国王の子孫である。金※[#「广」に「臾」]信は六四二年高句麗の捕虜になっている新羅の宰相|金春秋《きんしゆんじゆう》(後の武烈王)を、三千名の決死隊を率い、救援に行ったことがあった。金春秋は真智《しんち》王の孫であり、母は、真平《しんへい》王の娘で王位に即《つ》く資格を持った人物である。それだけではなく、武人としても勇猛であったようだ。
金春秋が、高句麗の捕虜になったのは、自分の娘が夫と共に百済軍の攻撃で死んだので、百済を攻撃し仇《あだ》を討とうと思い、高句麗に援軍を頼みに行った時である。『三国史記』によると、金春秋は高句麗の領土返還要求に応ぜず毅然とした態度を取ったので、その言動が不遜だとされ、高句麗に抑留されたという。『三国遺事』には、領土返還要求を拒否したこと以外に、高句麗の或る者が、「普通の使者ではなく、わが国(高句麗)の形勢を偵察に来たので、殺した方が良い」と述べた、と記されている。
もし金春秋が六四二年に高句麗に行ったとしたなら、百済攻撃の援軍の依頼だけではなく、両国の関係の調整が主目的であったと思われる。時期的にも泉蓋蘇文のクーデターの後であろう。何故なら、金春秋は乙巳《きのとみ》のクーデター(大化の改新)の後、六四七年倭国に来ているからだ。『日本書紀』は質と書いているが、この場合の来倭も倭国と新羅の関係を新たなものにすべくやって来たに違いない。『日本書紀』でさえも金春秋を、「姿顔美くして善《この》みて談笑す」と褒めている。胆の坐った大政治家であったのであろう。
それは兎も角、『三国史記』も『三国遺事』も共に、金春秋を奪還するため、金※[#「广」に「臾」]信が決死隊を率いてやって来ることを知った高句麗王が、金春秋を釈放した、と述べている。
こうして金※[#「广」に「臾」]信は金春秋と組み、新羅の国運を発展させ、統一新羅への道を開いたのである。
げんに新羅の使者が新羅王の件で唐の太宗に侮辱された翌年(六四四)、金※[#「广」に「臾」]信は百済を攻撃して大勝している。以後軍事将軍としての金※[#「广」に「臾」]信の活躍は続く。
金春秋と金※[#「广」に「臾」]信の関係は、中大兄皇子と中臣鎌足との関係に似ている。『三国遺事』は、二人の英雄がどうして結びついたかという説話を載せているが、中大兄皇子と鎌足の結びつきに似ているので、簡単に述べておく。
金※[#「广」に「臾」]信には二人の妹が居た。或る夜、姉の宝姫が西岳で放尿すると、その尿が京城に満ち溢れるという夢を見た。妹の文姫に話すと、文姫は、絹の袴でその夢を買った。
それから十日後、金※[#「广」に「臾」]信は、金春秋と自分の家の前で蹴鞠《けまり》をしていたが、わざと金春秋の衣服を踏んで紐を切り、金春秋を家に連れ込んだ。それを縫ったのが文姫である。金春秋は金※[#「广」に「臾」]信の意を知り文姫と媾合《まぐわ》い、自分の妃にしたのである。
この説話によると金※[#「广」に「臾」]信は期するところがあって金春秋に近付いたわけだが、鎌足が中大兄皇子に近付いたのとそっくりである。それに『日本書紀』によれば、鎌足が中大兄皇子に近付いたのは、飛鳥寺の西側の槻《つき》の林にある広場で中大兄皇子が打毬(蹴鞠)をしている時だった。中大兄皇子の皮鞋《かわぐつ》が毯を蹴った時落ちた。鎌足はそれを掌に乗せ、前に進むと跪《ひざまず》いて恭しく奉った。それ以来二人は親しくなった、というのである。藤原氏の家伝も同じような説話を記述している。
明らかに英雄物語を彩るためのエピソードであって事実ではない。ただ飛鳥寺の傍の槻林に集会場のようなものがあったことは発掘によっても確認されている。おそらく貴族達の集会場でもあり、遊び場でもあったのだろう。だから蹴鞠が機縁で結びついたというより、鎌足はそういう場所で、有力者、例えば石川麻呂を介して中大兄皇子と親しくなった、と解釈するのが自然である。蹴鞠が西欧から中国に伝わったのは唐の太宗の時代とされている。とすると蹴鞠は朝鮮や倭国に伝わったばかりで、貴族達にとっては胸躍らせるハイカラな遊びであった。
当時の貴族達の風俗の象徴でもある蹴鞠が、このような説話成立の際に取り入れられたとしてもおかしくはない。
新羅の金春秋、金※[#「广」に「臾」]信が結びついた蹴鞠も、同じような理由で説話に取り入れられたのだろう。
皇極三年(六四四)五月、鎌足は三島(大阪府高槻市三島江か?)に居て天下の情勢を模索していた。
この正月、鎌足は女帝から神祇の長官に任ぜられたが、病弱と、今少し勉強したい、という理由で断わり、正月以来三島の別邸に籠っていたのだ。神祇の長官には叔父|国子《くにこ》の子の国足《くにたり》が任ぜられた。鎌足は自由な身になりたかったのである。
斑鳩宮の滅亡は矢張り飛鳥の群臣に大きな衝撃を与えた。何といっても聖徳太子の一族が斑鳩という地で一人残らず死んだことが、群臣の胸を衝いたのだった。
実際に攻撃したのは入鹿ではなく、軽王を始め大伴、巨勢、中臣などの重臣達だが、いざ戦が終ってみると、死んだ諸王に同情が集った。一人残らず殺さなくても良い、という批判者の言葉だった。
軽王、大伴、巨勢などの王族、重臣達は酒席などで、太子の一族全員を殺す積りはなかった、捕える積りだったが、自決されたのでどうしようもない、と弁解した。はっきり口には出さないが、それとなく大臣入鹿の命令だから仕方がない、と仄《ほの》めかしたりした。
入鹿自身、上の大臣蝦夷に呼ばれ説教されたことが、噂となり大袈裟《おおげさ》に拡がった。
蝦夷は斑鳩宮攻撃に同意していた。だが殺すのは山背大兄皇子一人で、他の諸王は逮捕し流刑に処す積りだった。だから蝦夷は入鹿に、何故太子の一族を皆殺しにしたのか? と叱責したのだった。だが噂は、上の大臣蝦夷は斑鳩宮攻撃を知らなかった、それで入鹿は叱責されたのだ、という風に拡まったのである。蘇我本宗家の分裂を願う群臣の願望が、色々と誇大に創作され、噂となったのだ。
なかには、蝦夷は、入鹿に、この愚者《おろかもの》、汝の生命は危くなった、と怒ったと囁く者も居た。また他の者は、蝦夷は、これで蘇我本宗家も終りだ、愚者奴! と青筋を立てて怒鳴ったと尤もらしい顔で話した。
つまり、斑鳩宮攻撃と上宮王家の滅亡の全責任は大臣入鹿にある、というのが批判者達の一致した意見だった。泉蓋蘇文の如く独裁者たらんとする入鹿に、批判の眼を向けていた者は意外に多い。倭国は高句麗のように、唐の脅威を直接受けていないし、新羅と戦ってもいなかった。重臣、群臣は、朝鮮三国と違って、まだまだぬるま湯に浸っていたのである。
入鹿一人が批判の対象にされると、軽王や大伴、巨勢など、戦に参加した者達に対する風当りは少なくなる。所詮弱い人間は世間の評判を気にする。何時か戦に参加した将軍連中は、あれほど、斑鳩宮を嫌悪していたにも拘らず、蘇我大郎入鹿の命令とはいえ、やり過ぎだったかもしれない、と弱音を洩らしたりするようになっていた。
勿論将軍連中は、入鹿と会った時は、弱音など口にしない。彼等はまだ入鹿に睨まれるのを恐れていた。
だが、入鹿は強靭《きようじん》だった。世間の批判に対し弱音を吐かないのは独裁者のみである。またそういう者こそ独裁者の資格があるのだ、と入鹿は自分にいい聞かせた。
入鹿は|東 漢《やまとのあや》氏を始め、自分に意を寄せている蘇我氏の支族を間諜として使い、批判者達を次々と捕えた。少しでも反省の色を見せない者は甘橿丘の西麓に造った刑場で処刑した。処刑された者の中には上宮王家に舎人を出していた三輪君《みわのきみ》、|膳 《かしわでの》臣《おみ》、|犬養 連《いぬかいのむらじ》などの中堅官人などが多かった。
これまで板蓋宮の朝堂院に集り、蘇我本宗家を非難していた者も、何人か捕えられた。
彼等は群衆の前で、東漢氏の兵達に射られたり、槍で突かれ、また首を刎《は》ねられたりした。
入鹿はよく処刑場に行き自ら処刑に立ち合った。そんな時、入鹿の傍には、難波の館に滞在している高句麗や百済の使者が居た。
入鹿は高句麗や百済の使者が来ると、歓待し、帰国の際、高句麗の泉蓋蘇文、百済の義慈王に書をことづけた。入鹿にとって、泉蓋蘇文や義慈王は理想の独裁者だった。
義慈王に追放され、倭国に逃れて来た翹岐《ぎようき》王子は、一時蝦夷の庇護《ひご》を受け亡命政権を樹立した。だが入鹿が大臣となり政治権力を握ると同時に見放され、河内の百済郷の屋形で憂鬱な日々を過していた。
入鹿は始めから翹岐王子に好意を抱いていなかった。
それを知った義慈王は大いに喜び、同盟を結び、共に新羅を討とう、と申し出て来た。
同盟には蝦夷が反対したので盟約は成らなかったが、入鹿と義慈王は意を通じ合っていた。
鎌足が三島の別邸に籠ったのは、こういう事態を洞察したからである。つまり上宮王家が滅びた後のごたごたに捲《ま》き込まれたくなかったのだ。
蘇我本宗家を斃《たお》し、中央政界に乗り出そうという野心を抱いている鎌足にとって、一番危険なのは蘇我本宗家に睨まれることである。
入鹿は学識の評判が高い鎌足のことを忘れていない筈だった。飛鳥に居ても、鎌足は入鹿に捕まえられるような軽率な行動は取らない自信があった。だが入鹿が血眼になって、反蘇我本宗家の群臣を探している以上、身動き出来ない。それよりも三島で英気を養い、嵐が去るのを待った方が良い、と判断したのだ。
ことは鎌足の睨んだ通りに運んだ。
入鹿が狂ったように群臣を捕え処刑したのは三月の末までだった。群臣は恐怖におののき、入鹿の悪口を口にする者は居なくなった。入鹿も気が落ちついたのか、政務の間を縫って狩りに興じるようになっていた。
それには大きな理由もあった。
女帝が入鹿の子を身籠り、この夏には出産の予定になったのだ。女帝は後ろ腹で妊娠しても普通の女人のように腹が出ない。身籠っているのが知れたのは最近だった。勿論女帝自身は知っていたが女人達にも隠していたのだ。
後、二、三カ月で出産となると流石《さすが》に女人達も気付いた。女帝はまだ黙っているが、女人達の口から、そのことが洩れ、飛鳥中に拡がったのである。
女帝の相手は、蘇我大郎入鹿しか居ない、というのが殆どの群臣の判断である。ただ、女帝が豊浦《とゆら》の仮宮に住んでいたのは昨年の三月、四月の頃で、新宮板蓋宮が完成するまでだった。当時、入鹿は自分の家のように仮宮に通っていた。
もしその間の子供だとすると時期的に合わない。だから入鹿ではないかもしれない、という者もいた。
昨年七月、女帝が入鹿に招待され、かつての仮宮に泊ったのは一夜だけだった。その一夜で身籠ったのだろうか。入鹿の子供だとすると、その夜以外考えられない、と宮廷警護長や副警護長は軽王や石川麻呂に話したようだった。
女帝が身籠ったことを三島の鎌足に伝えたのは、石川麻呂に心を寄せている蘇我田口臣筑紫《そがのたぐちのおみつくし》だった。筑紫の顔は蒼白で、これが本当なら大変なことになる、と声を慄わせた。
鎌足は屋形から庭に下りると川に面した樹立の中に入った。木洩《こも》れ陽《び》が時々鎌足の顔を彩る。筑紫は鎌足の顔を見て思わず息を呑んだ。鎌足の眼はものの怪《け》にでも憑《つ》かれたように怪しく光っていた。
筑紫の昂奮は次第におさまって来た。
狼に似た野犬が木立から飛び出し牙を剥き鎌足に向って咆哮《ほうこう》した。筑紫は本能的に刀の柄に手を掛けた。だが鎌足は野犬など気にもしていない。野犬が今まさに飛び掛ろうとした時、鎌足は、一体何ごとが起ったのか、といわんばかりの顔で、野犬を見た。途端に、まるで射竦《いすく》められたように、凄まじい野犬の闘志が萎《な》えた。野犬は牙を剥き唸った。だがその四肢は石にでもなったように動かない。筑紫は野犬の唸り声が次第に恐怖の悲鳴に変って行くのをはっきり感じた。筑紫はほっとして刀の柄から手を放した。軈《やが》て野犬は四肢を慄わすと小便を垂れ尾を巻いて逃げて行く。
今、野犬が鎌足の眼に見たのは何だったのだろうか。中臣家は代々|卜占《ぼくせん》を業として来た。古代では顔や眉に墨を塗って占ったりしたらしい。そういえば陽が欅《けやき》の大樹の葉に遮られ、鎌足の顔は暗い。そして木洩れ陽が時々鎌足の顔を彩った。
「筑紫殿、蘇我本宗家の命運もこれで尽きましたぞ、いよいよ我々の時代がやって来る」
と鎌足は呟くようにいった。
「鎌子(鎌足)殿、女帝は蘇我大郎の子を孕《はら》まれた、蘇我大郎は産まれる子供を大王位に即《つ》けるに違いありませぬ、そうなると、もう蘇我本宗家は大王になったのも同じこと、何故、蘇我本宗家の命運つきるのか、吾には分らぬ……」
と筑紫は不思議そうに鎌足を見た。
きっと鎌足は歩きながら神を呼んで占い、神懸りの状態で宣託を告げたに違いない、と筑紫は思った。野犬が鎌足を恐れて逃げ出したのも神懸りのせいだ、と筑紫は納得した。
だが鎌足は神を呼んで占ったのではなかった。人間に対する鋭い洞察力がいわせた言葉であった。
「筑紫殿、明日にでも三島を発《た》ち、明後日の夜に石川麻呂殿にお会いしたい、吾の意向を石川麻呂殿にお伝え願いたいのだが」
「それは、もう……」
と筑紫は答えた。
木立を出ると淀川に通じる川が眼の前に流れている。その先には海のように幅広い淀川が川水を満々と湛え、初夏の陽光に眩しく輝いていた。荷物を積んだ小舟が淀川の方に向って行く。荷物は大切なものらしく布で覆われていた。舟人が櫓《ろ》を漕ぎ、小役人らしい人物が傍で坐っていた。
三島から飛鳥に行くには陸路よりも水路の方が便利だった。三島は山背国《やましろのくに》の乙訓郡《おとくにぐん》と接している。淀川を遡《さかのぼ》ると現在の大山崎、つまり天王山の近くで淀川は三川に分れる。古代では無数の川に分れていたが、主な川は現代と同じく三川だった。南下するのが木津川である。乃楽山《ならやま》(奈良市北方の丘陵地帯)の北方に達し、大きく湾曲して西に延びている。有名な恭仁《くに》京は木津川沿いになる。
中央の淀川は曲りくねりながら宇治川、瀬田川となり琵琶湖に達する。一番北は桂川である。
獰猛な野犬が鎌足の形相に恐怖して逃げたのは、鎌足の総てのエネルギーが頭脳に集中していたせいかもしれない。そうなのだ、その時、これからの倭国の政治情勢が鎌足の頭の中で渦《うず》を巻いていたのだった。しかも、その中心に立ち采配を振っているのは自分だった。鎌足の采配の振り方一つで倭国の政治は変るのだ。多分鎌足は人間の限界を越えた精神力を駆使していたに違いない。だから野犬はものの怪に遭ったように怯《おび》えたのだった。
翌日の朝、鎌足は従者と馬を船に乗せ、大和に向った。夕刻近く、乃楽山に近い木津川の船着場に着いた。船着場から飛鳥まで約十里である。鎌足と従者は近くの農家で一泊し、ゆっくり馬を進ませ上つ道に出た。磐余《いわれ》で一休みし、日が暮れるのを待って山田道を通り石川麻呂の屋形に着いたのだ。
飛鳥を避けたのは、人眼につかぬよう用心したからである。現在鎌足は蘇我本宗家に睨まれていない。だが養父の御食子《みけこ》も、神祇の長官である国足《くにたり》も蘇我本宗家に尾を振っている。蘇我本宗家に睨まれたなら、神祇の長官の地位を奪われる、と恐れているようだった。
鎌足が御食子や国足に会わず直接石川麻呂の屋形に行ったことが知れたなら、蘇我本宗家は鎌足の行動に疑惑の眼を光らせるだろう。
だから鎌足は人眼を避けたのだった。
鎌足は石川麻呂と屋形の庭の小さな仏殿で、二人きりで会った。
鎌足は石川麻呂に、いよいよ蘇我本宗家、ことに入鹿を斃《たお》す時がやって来た、と切り出した。
「石川麻呂殿、吾が筑紫殿に、蘇我本宗家の命運もこれで尽きた、と申したのは大王が蘇我大郎の子を身籠られたからで御座る、蘇我大郎がどう考えようと、子供が生れたなら、群臣が想像することは決って居りまする、つまり、大郎入鹿は自分の子供を大王《おおきみ》にしようとするに違いない、と考えるでしょう、石川麻呂殿は、如何《いかが》お考えになられる?」
「ああ、吾もそう思う、大郎入鹿の性格から考えても、当然のことじゃ……」
鎌足は頷き、鼓でも打つように軽く膝を打った。鎌足は微笑していた。
「吾もそう思いまする、当然、軽王《かるのきみ》も、葛城皇子(中大兄皇子)も、そう考えるでしょう、大王位を狙い蘇我本宗家と親交を保っている軽王は、さぞ失望されているでしょう、そして大郎入鹿に対する葛城皇子の憎悪は、益々|熾烈《しれつ》になる、石川麻呂殿、葛城皇子は間違いなく蘇我本宗家打倒の太い柱になりまする、大夫《まえつきみ》、葛城皇子と縁戚関係を結ぶのは今をおいてない、吾は来月中にも飛鳥に戻って参りまする、その時、是非葛城皇子を呼ばれ酒宴の席を設けていただきたい、石川麻呂殿、蘇我本宗家が斃れたなら、時期を見て葛城皇子を大王にする、その時こそ、石川麻呂殿には左大臣になっていただく、我等の手で唐のような中央集権政治を行うのです、石川麻呂殿、我等の手で新しい時代を開きましょう」
鎌足は石川麻呂ににじり寄ると膝の上に置かれた石川麻呂の手を取った。
左大臣になっていただく、といった時、石川麻呂が一瞬|眩《まぶ》しそうに眼を細めたのを鎌足は見逃さなかった。大事を共にするには、心の繋りだけでは不安だった。心の繋りに実益が伴うとなると結びつきは一層強くなることを鎌足は知っていた。ことに石川麻呂の家は蘇我倉山田という名前が示す通り、父倉麻呂以来、大王家の財政を管理していた。諸蔵の管理者でもあり、計数に明るい。左大臣という地位がどんなものか、石川麻呂は良く知っていた。
石川麻呂は気持を落ち着けるように腕を組んだ。
「鎌子殿、葛城皇子を大王位に即《つ》けるといっても、蘇我大郎が承知しないだろう、勿論蝦夷もだ、誰を大王にするかは、大臣の権限じゃ、我等がどう足掻《あが》いても、手出しは出来ぬ、鎌子殿はその辺のことをどう考えている?」
「おっしゃる通りです、だから、我等が取る道は一つ、蘇我本宗家を斃す以外ありますまい」
仏殿の中は魚油が細々と燃え薄暗い。だが鎌足は、腕を組んでいる石川麻呂の身体が硬直したのをはっきり見た。
石川麻呂は、鎌足が蘇我本宗家に反感を抱き、石川麻呂を中心とする蘇我倉山田家、中大兄皇子と組み、蘇我本宗家に対抗する力を築きたい、と念願しているのを知っていた。
何れ蘇我本宗家と衝突する日が来るかも知れない。だがこれまで石川麻呂は、挙兵して蘇我本宗家と対決するなど考えたこともなかった。挙兵しても到底勝目はなかったからだ。
今、石川麻呂は、火を吐くような鎌足の言葉に、挙兵の匂いを感じた。仏殿の中は暑苦しかった。石川麻呂の額に脂汗が滲《にじ》んだ。
「鎌子殿、吾は前からいっているように、蘇我本宗家、ことに大郎入鹿の独断的なやり方には反感を抱いている、しかし、挙兵は無理じゃ、そなたが、武力で蘇我本宗家を斃そうと考えているなら、吾は反対じゃ、また吾にそのような期待を抱かれては迷惑じゃ」
石川麻呂は、いうべきことはこの際いっておかねばならぬ、と思ったのだ。うかつな行動を取れば、蘇我倉山田家の滅亡につながり兼ねない。入鹿は、石川麻呂に、蘇我本宗家打倒の意があると知ったなら、容赦なく兵を差し向けて来るだろう。入鹿は、蘇我倉山田家の有力氏族だからといって、遠慮するような人物ではなかった。
「石川麻呂殿、挙兵など、吾は一度も考えたことが御座居ませぬ、吾は十歳頃より中国の書を読み漁《あさ》りました、今年で三十一歳になりまする、中国には倭国にない政治、兵法の書が無数に御座居まする、二十年間勉強した結果、吾なりに得たところがありまする、蘇我本宗家を斃すといっても、相手は大郎入鹿一人、吾が石川麻呂殿にお願いしたいのは、吾が大郎入鹿を斃した後の混乱を収拾していただくことで御座居まする……」
鎌足は仏殿の板床に手を突いた。
「何だと、そなた一人で大郎入鹿を斃すというのか、如何《いか》なる方法をもって?」
石川麻呂は愕然として鎌足を見た。
「色々と考えておりまする、おっしゃる通り挙兵して大郎入鹿を斃すのは絶対不可能、だが、吾一人で斃すのは不可能ではありませぬ、何故なら、その場合は、相手が油断しているからで御座居まする、相手が油断しておれば、女人でも鬼を刺すことが出来る、吾は中国の書から、そういうことも学びました」
鎌足は顔を上げた。
石川麻呂は鎌足に、床の手を上げるようにいった。常陸から出て来て、飛鳥の群臣に、その学識により一目置かれるようになったこの白皙《はくせき》の男は、ただ一人で蘇我大郎入鹿を斃す、といっているのだ。温厚な石川麻呂の胸に熱い血潮が騒いだ。石川麻呂は感動さえ覚えていた。
「鎌子殿、そなたの決意には打たれた、吾に出来ることなら、何でもする、申してみよ」
と石川麻呂はいった。
「有難きお言葉、この鎌子終生忘れませぬ、先ずこの計画は、石川麻呂殿と吾しか知らぬことにして頂きとう御座居まする、石川麻呂殿がどんなに信頼されている方にも、口を閉じておいていただきたいのです、例えば、蘇我田口臣筑紫殿、高向臣国押殿、皆、信頼出来る方達ですが、吾の計画を知れば、自然、挨拶も違うようになります、吾にはそれが恐ろしゅう御座居まする」
「ああ、鎌子殿のいう通りだ、石川麻呂、この釈迦像の前で約束致す、誰にも話さぬ」
「では鎌子、石川麻呂殿にお願いが御座居まする、唐より帰国された|南淵漢人 請安《みなぶちのあやひとしようあん》師に講堂を建てて頂きたい、請安師は僧旻《そうみん》師に負けない学識を持っておられまする、それに温厚な人柄故、石川麻呂殿に好感を抱いておられる、その際吾は講堂で、請安師の助手になりとう御座居まする」
南淵漢人請安は|高向漢人 玄理《たかむくのあやひとげんり》等と共に、舒明十二年(六四〇)唐から帰国している。
六〇八年推古十六年の遣隋使に加わったから、滞在は三十余年、学識は僧旻よりも深い。
現在中大兄皇子は、この南淵漢人請安について儒教を学んでいた。中大兄皇子は皇極女帝の長子である。だから請安は週に一度、入鹿の嶋の屋形の東の高台に建てられた中大兄皇子の屋形に通っていた。
鎌足は石川麻呂に紹介され、中大兄皇子とはすでに面識があった。学識の面での鎌足の評価は高い。鎌足は中大兄皇子に、誰を師にしたら良いだろうか、と訊かれ、南淵漢人請安を推薦したのである。
「鎌子殿が請安師の助手に? いや、講堂を建てることはた易いが……」
と、石川麻呂は不思議そうにいった。
「もし吾が請安師の助手になれれば、葛城皇子と自由に話が出来まする、葛城皇子と馬を並べて歩いているところを蘇我大郎に見られても怪しまれないで済みまする、一番危険なのは機が熟さないうちに、蘇我大郎に疑いを抱かれることです」
「ああ、鎌子殿のいう通りじゃ、講堂を建てるぐらいはた易いこと、明日にでも請安殿にその意を伝える、請安殿も喜ぶであろう、それに鎌子殿が葛城皇子の師として請安殿を推薦したので、請安殿は鎌子殿に感謝している、葛城皇子は頭が良く、なかなか負けん気の強い皇子じゃ、鎌子殿のいう通り、頼み甲斐のある皇子、来月中にも葛城皇子を我家に招きたい」
「吾も数日のうちに、飛鳥に戻って参りまする」
二人は顔を見合せた。今度は石川麻呂の方から鎌足に腕を差し伸べていた。
鎌足には二歳になる男児が居た。車持国子《くるまもちのくにこ》の女、|与志古娘 《よしこのいらつめ》が産んだ真人《まびと》(後の定恵《じようえ》)である。現在車持家で養われているが、鎌足は深夜石川麻呂の屋形を辞すと、妻子にも会わず三島に戻った。三島に籠ってから半年近くたつが、鎌足は妻子に会っていない。
鎌足には妻子のことよりも、政治の方がずっと大切だった。後のことだが白雉《はくち》四年(六五三)の遣唐使に、この定恵が加わっている。時に定恵は僅か十一歳だった。当時の遣唐使は先ず海を渡ることが大変なのだ。果して唐に到着するかどうかもはっきりしない。どういう理由があるにせよ、十一歳の吾子を遣唐使に加えるなど、冷徹に先を読む人物にしか出来ないことであった。ことに定恵の場合、鎌足は人質として唐に送った可能性が強いのだ。
鎌足は、目的のためには情を断ち切ることの出来る人物であった。後年、鎌足と共に政治を執った中大兄皇子は、鎌足の影響をかなり受けている。
六月下旬、石川麻呂は自宅に中大兄皇子を招き酒宴を催した。すでに中大兄皇子は十九歳になっていたが、正式の妃はなかった。鎌足が使者となり石川麻呂の意を伝えたので、中大兄皇子は何故招待されたか、よく知っていた。南淵漢人請安の講堂は現在建築中だが、鎌足はすでに、請安の師範代格で、中大兄皇子の屋形を五度も訪れていた。だから中大兄皇子にとって鎌足は学問上の師でもあった。請安には僧旻のように政治への情熱がない。ただ学んで来た唐の学問を熱心に教えるだけである。
鎌足が中大兄皇子の師として請安を推薦した理由もそこにあった。もし皇子の師が僧旻では入鹿を始め、蘇我本宗家の眼が光る。
上宮王家を殲滅した後、入鹿は僧旻が飛鳥連合軍の斑鳩宮攻撃を批判した、という理由で、僧旻の講堂を閉鎖していた。僧旻は蘇我本宗家に、睨まれているのだ。そんな人物を中大兄皇子の師に出来ない。
中大兄皇子にとっては、請安が教える儒教よりも、鎌足が説く、唐の政治状態の方がずっと面白かった。唐では皇帝が絶対的な権力を握り、律と令とによって政治が行われている、という。鎌足はそれが新しい政治のあり方だ、と説いた。
倭国なら大臣ではなく、大王が政治権力をも握るべきだ、というのだ。当時の倭国にとって律と令による政治などまだまだ考えられない。だが唐のように皇帝、つまり大王が政治権力を掌握するという政治方式はそんなに不自然なものではなくなっていた。僧旻師等が群臣に隋、唐の政治について講義して来た結果、群臣の中にそういう政治形態を待ち望む声が出て来ているからであった。ことに、蘇我本宗家が大臣になって以来、活躍の場を喪った中堅氏族の子弟等の間から、その声は起っている。
蘇我本宗家の容赦ない弾圧で、蘇我本宗家を真向から批判する者は少なくなったが、それ等の声は陰の世界で拡がっていた。
鎌足は表に出ない、そういう陰の声をも中大兄皇子に伝えた。
中大兄皇子は、請安師の講堂が建ったなら、自分の方から講堂に出掛けて講義を受けよう、といい出していた。
ただ鎌足は、中大兄皇子に、蘇我本宗家打倒の決意があることを告げていなかった。中大兄皇子が、入鹿への憎悪を剥き出しにする日を辛抱強く待っていたのだ。
その日が近いうちにやって来ることを鎌足は確信していた。
鎌足が中大兄皇子を案内し、石川麻呂の屋形に到着すると、石川麻呂が不安そうな顔で門の前に立っていた。中大兄皇子に挨拶した石川麻呂は鎌足を別間に連れて行った。
今宵、中大兄皇子の傍に最初にはべるべき|造 媛《みやつこひめ》が、夕刻より姿を消した、というのであった。造媛は石川麻呂の長女である。石川麻呂の異母弟|日向《ひむか》と深い関係があった。石川麻呂は日向を説得し、日向も一度は別れることを納得したが、矢張り思い切れずに造媛を呼び出した、という。
鎌足にとって男女関係など、そんなにたいした問題ではなかった。だから日向は石川麻呂の説得に応じる、と思っていた。間違いなく鎌足の失策である。男女関係に対する洞察力が足らなかったのだ。鎌足は、二度とこのような失敗は繰り返さない、と自分に誓った。
「石川麻呂殿、吾から葛城皇子に詫びまする、妹の|遠智 媛《おちのいらつめ》、また|姪 娘 《めいのいらつめ》は?」
「姪娘はまだ子供だが、遠智媛は、皇子の妃になれるなら、と喜んでおる」
「遠智媛も、匂うような女人です、皇子とて不足はありますまい、吾は先に庭の仏殿に行っておりまする、少し後で皇子を御案内下さい」
不安気な石川麻呂に、鎌足は一礼すると、吾にまかせて欲しい、と微笑した。ここで中大兄皇子を怒らせたなら、鎌足に対する石川麻呂の信用も薄れる。何が何でも中大兄皇子を納得させねばならなかった。
魚油の明りが一つ燃えているだけの薄暗い仏殿に正座した鎌足は、瞑目して中大兄皇子を待った。石川麻呂に連れて来られた中大兄皇子は、この中か? といいながら不審気に覗き込んだ。
「皇子、酒宴の前に申し上げたいことが御座居まする」
鎌足は床に両手を突いた。
「何だ、内密の話か?」
鎌足が叩頭し、伏したままでいるのを見て、中大兄皇子は舎人を立ち去らせた。
「鎌子、頭を上げるのじゃ、吾はそちを師と思っておる、遠慮なく申せ」
中大兄皇子は鎌足と向い合うと胡坐をかいて坐った。母に似て色白だが眼光は炯々《けいけい》としている。
「皇子、皇子の御母、大王が、蘇我大郎入鹿の子を身籠っておられるのを御存知でしょうか?」
「ああ、そのぐらいのことは知っておるぞ、一昨日も宮に参り、本当かどうか、この眼で確かめて来た」
中大兄皇子は感情を抑え切れず絞り出すような声でいった。
「皇子、もし大王が入鹿の子を産れたなら、入鹿は当然その皇子を大王にしようと画策し始めまする」
「分っておる、それぐらいのことは、鎌子、顔を上げよ、一体何がいいたいのじゃ」
「もしそうなれば、倭国の大王位は蘇我本宗家の手に移りまする」
「ああ、無念だがそうなるであろう、鎌子、そちは大臣を入鹿と呼び捨てにしておるな、大臣に知れたら、即座に捕えられるぞ、恐ろしくないのか?」
中大兄皇子はかっと眼を見開いた。
「皇子がお知らせになるのですか?」
「何故吾が知らせる? 吾にとっても憎い入鹿じゃ」
中大兄皇子はいってしまって、はっとしたように口を閉じ仏殿の外に視線を注いだ。
「皇子、よくこの鎌子を御信頼下されました、吾は入鹿を斃す積りでおりまする、今のままでは、倭国の政治は入鹿に握られ、何れこれまでの大王家は入鹿によって滅ぼされるでしょう、それを阻止するには、入鹿を斃すより方法はありますまい、大王家のために、倭国のために、この鎌子、身命を賭して入鹿を斃す積りで居りまする」
「その方法は?」
「石川麻呂殿にも申し上げました、相手を油断させれば、女人でも鬼を刺すことが出来ると……」
鎌足は顔を上げ、中大兄皇子の炯々とした眼を見詰めた。中大兄皇子の眼が魚油の明りに輝いた。
「大夫《まえつきみ》もその決意を知っておるのか、信頼出来るのか?」
中大兄皇子は、溢れる感情を抑え切れず叫ぶようにいった。
「信頼出来まする、その信頼を一層強めるためにも今度の婚約は無事に終えとう御座居まする、何といっても石川麻呂殿には人望があります、|東 漢《やまとのあや》氏の中にも石川麻呂殿に意を寄せている者は多いのです、皇子が石川麻呂殿と組めば、最早、入鹿を恐れる必要はありますまい、皇子には必ず唐の皇帝のような権力を持った大王になっていただく積りです」
「吾は何をすれば良い? 場合によっては入鹿を斃す刀を持っても良いぞ」
若い中大兄皇子は何時の間にか、入鹿|誅殺《ちゆうさつ》の主役になっていた。鎌足が思う通りに中大兄皇子の気持は動いて行った。
「今は何卒《なにとぞ》、御婚約を無事に終えて下さい、皇子の妃は石川麻呂の女、遠智媛で御座居まする」
「造媛はどうした?」
と中大兄皇子は眉を寄せた。
鎌足は中大兄皇子の傍ににじり寄った。両手で皇子の右腕を取ると、自分の額の上に持ちあげた。
「造媛には想っている人物が居りました、知らなかったのは吾の不覚で御座居まする、どうかこの御腕で、思う存分お擲《なぐ》り下さい」
「そちを擲っても仕方がない、相手は?」
中大兄皇子は鎌足の腕を振り放すと、吐き出すようにいった。
「石川麻呂殿の異母弟|日向《ひむか》です、探し出して首を刎《は》ねるのは困難なことでは御座居ますまい、ただ、大きな噂になりまする、入鹿は多分、皇子と石川麻呂殿の関係に疑惑の眼を光らせるでしょう、石川麻呂殿も動けなくなりまする、吾にはそれが恐ろしい……入鹿|奴《め》を斃すには、どうしても石川麻呂殿の力が必要で御座居まするぞ」
鎌足は諄々《じゆんじゆん》と説くようにいった。何時もの講義の口調になっていた。
中大兄皇子は唇を結んで聴いていたが、鎌足が話し終ると、待ち兼ねたようにいった。
「鎌子、そちが入鹿を斃したいというのは本心か?」
「勿論本心で御座居まする」
「分った、吾は遠智媛を娶《めと》ろう……」
今度は、中大兄皇子の方が鎌足に手を差し出していた。
こうして中大兄皇子はその夜、石川麻呂がこの夜のために建てた新しい屋形に遠智媛と共に泊った。この遠智媛が生んだのが大田皇女(大津皇子の母)と|※[#「盧」+「鳥」]野《うのの》讚良《さららの》皇女《ひめみこ》(後の持統天皇)である。
なお中大兄皇子は後に妹の姪娘も妃にし、御名部《みなべの》皇女《ひめみこ》と阿陪《あべの》皇女《ひめみこ》(後の元明天皇)を産せているが、日向と逃げた姉の造媛は妃にしているにも拘らず子供を産せていない。
子供が出来なかった、というより、造媛は中大兄皇子にとって名目だけの妃であったのであろう。つまり中大兄皇子は復讐《ふくしゆう》のために、かつて自分を振った造媛を妃にしたと考えたい。
それは兎も角、六四四年皇極三年の夏、鎌足の作戦通り、中大兄皇子を太い柱とする入鹿打倒の勢力が密かに結成されたのだ。
入鹿はそのことを知らなかった。
七月に入ると女帝は度々使者を豊浦《とゆら》の屋形に遣わした。
入鹿が居ないと、上《かみ》の大臣《おおおみ》蝦夷に、入鹿への手紙をことづけた。入鹿に会いたい、というのだ。出産を間近に控え、女帝は気が立っていた。ことに、このところ入鹿が顔を見せないので、女帝の気持は落ち着かなかった。当時紙は貴重品で、大夫クラスしか持っていない。女帝は貴重な紙を惜し気もなく使った。手紙を書いても気に入らないと破ってしまう。また女帝は気が昂《たか》ぶると、仕えている女人に鏡を投げたりした。
入鹿が板蓋宮を訪れ、女帝と会ったのは先月である。その時入鹿は女帝に、身籠った子は本当に自分の子か? と訊いた。女帝は激怒し、金製の花を連ねた胸飾りで入鹿の顔をぶった。入鹿が女帝に贈った胸飾りだった。
入鹿は女帝が豊浦の仮宮に住んでいた頃、しばしば女帝を訪れ、閨《ねや》を共にした。ところが女帝は身籠らずに板蓋宮に移った。
ところが昨年十月、入鹿が女帝を豊浦の屋形に招待し、久し振りに一夜を共にした時身籠ったのだ。入鹿が一応疑ったのも当然である。だが眼を釣り上げ、金の胸飾りを引きちぎって入鹿の顔に叩きつけた女帝の激怒は俳優《わざびと》の演技ではない。
入鹿は女帝が自分の子を身籠ったのを知ったのだ。だがそれ以来入鹿は板蓋宮を訪れていない。何故か女帝に会うのが億劫なのだ。
鎌足は、入鹿は女帝が身籠ったのを知って、生れた子供を将来大王にする夢を抱いている、と入鹿の心中を推測していた。
だが入鹿はそんなことを考えていなかった。もし女帝が無事に出産し、子供が健康に育ったとしても、大王位に即《つ》けるには、まだ二十年は掛るのだ。入鹿は二十年も遠い先のために布石を打つような人物ではなかった。入鹿は頭は良かったが鎌足などに較べると短気で激情家である。二十年先に女帝が産んだ自分の子を大王《おおきみ》にするよりも、自分の手に大王位を奪いたかった。入鹿は子供の成長を待つほど忍耐強い人物でもないし、子供に頼って蘇我本宗家の権力を強化するなど、性格的に合わなかった。
入鹿は自分の手に、独裁者の権力を握りたいのだ。そんな入鹿の性格を理解する者は少なかった。蝦夷でさえも、女帝が入鹿の子供を産んだなら、その子を大王位に即けることを考えていた。その暁には蘇我本宗家が馬子も握れなかった強大な権力を握れると眼を細めていた。入鹿はこの頃、そんな蝦夷さえも鬱陶しくなっていたのだ。
倭国が高句麗のように唐の脅威を直接受けていたなら、入鹿のもとに群臣が集るだろう。そして入鹿は泉蓋蘇文と同じような独裁者になれる。だが倭国と唐とは余りにも離れ過ぎていた。
夕刻、入鹿は楓《かえで》が居る葛城の高宮の屋形に向っていた。供は雀《すずめ》以下数人である。
最近入鹿は楓に会いに行く時は警護の兵を少なくしていた。大勢で押し掛けると、楓が困るからだった。兵士達の食事も楓や楓に仕える女人達が作らねばならない。
入鹿にとって楓は他の女性とは別な存在だった。楓にだけは、不思議に優しくなれるのだ。女帝を除いた大勢の女人達を欲望だけの対象にして来た入鹿にしては珍しいことだった。
葛城山や二上山の上空の雲は夕陽に灼《や》けていた。だが両山の雲の様子は異る。葛城山は二上山よりも高く金剛山と連なっているだけに幾重にも重なり合った雲は厚く深紅の絹布を重ねたようだった。ところが二上山の雲は真夏の入道雲である。入鹿はさっきから何度もその雲を眺めていた。百済から渡来して来た石工に造らせた石像のような形をしている。蝦夷は群臣に大《おお》| 陵《みささぎ》、小《こ》| 陵《みささぎ》と呼ばせている今来《いまき》の双墳墓の周囲にそれ等の石像を並べていた。
黄泉《よみ》の国を守る石像だった。顔は猿に似ているが、如何にも黄泉の国の警護兵らしい。悪霊さえもこの顔には慴伏《しようふく》して退散する、という。
ただ雲の形は石像に似ているが顔は違う。女人の顔のようだった。雲が動くせいか、楓になったり、女帝の顔になったりする。
入鹿は雀を呼んで、二上山の上の入道雲が誰かに似ていないか、と訊いてみた。
雀は張り裂けそうに眼を見開き雲を見ていたが、困惑したように首をかしげた。
「酒に酔って真赫になった兵士のように見えまする」
「兵士だと……」
入鹿は、そちの眼は節穴か、と怒鳴ろうとして、吾はどうかしている、と苦笑した。
雲の形など、人によって見た感じも異るものなのだ。多分雀の脳裡には入鹿を守ることしかないのだろう。だから酔い痴《し》れた兵士の顔に見えたに違いない。
「面白いものだ、吾には女人に見える」
雀は顔を伏せた。
「雀、川掘《かわほり》の報告によると、官人共は色々な噂をしているらしい、女帝が吾の子供を産んだなら、吾がその子を大王位に即けるだろうと、鳥のように囀《さえず》っているようだ、だが吾にはそんな気はない、吾は女人ではない、これから生れる子供に望みを託すような悠長な心は持たぬ、欲しいものは吾自身の手で掴み取る」
何時の間にか入鹿の声は大きくなっていた。
「吾君大郎、お声が……」
と雀は後ろを振り返った。
「兵士達に怪しい者が居ると申すのか?」
「兵士達は大丈夫で御座居まする」
入鹿は雀の視線を追った。
田畑仕事を終えた百姓が数人、道端に蹲《うずくま》っていた。
「雀、吾は百姓共にわざと聴かせているのだ、吾が喋ったことを噂にして貰いたい、どうじゃ、百姓共、噂にするか!」
入鹿は馬上から百姓達を見下ろした。百姓達は地面に額をこすりつけ慄えている。
入鹿はそれを見て哄笑するのだった。
だが激情にかられたそういう放言が、如何に危険な結果を招くかを、蘇我本宗家で自由に育った入鹿は気付いていなかった。
周囲を窺いながら生きて来た鎌足との違いである。
入鹿が葛城の屋形に着いた時、陽はすでに山の向うの西の海の彼方に落ち、山野は濃い夕闇に覆われていた。入鹿は屋形の前に立っている楓の白い顔を見た。白い一輪の花が咲いているようだった。入鹿は馬に鞭を当てた。朧《おぼ》ろな白い花が見る見る楓の顔に変った。入鹿は手綱を引き絞り馬を止めると、飛び降り楓を抱き締めた。
華奢《きやしや》な楓の身体は今にも折れそうだった。だが楓は喘《あえ》ぐだけで苦しい、とはいわない。入鹿はそんな楓を軽々と抱きかかえ屋形の中へ入った。
女人達が酒肴を運んだ。入鹿は雀を呼び共に酒を飲んだ。兵士達は馬に水を飲ませると屋形の傍に建てられた小屋で夕餉を摂った。だがその間も半数の兵士は空腹をこらえ屋形を警護していた。
楓は何時もより無口だった。まだ飛鳥の言葉に慣れていない楓は寡黙な方だが、今夜は殆ど喋らなかった。だが不機嫌なのではない。畿内の女人達よりもずっと大きく、青みがかった眼が艶っぽく潤んでいた。
入鹿が一緒に食べよう、といっても楓は微笑して首を横に振るだけで、酒肴を口にしない。女人の一人が果実を薄く切り瑠璃《るり》の皿に盛り運んで来た。
「何だ、酒を飲まずに、そんなものを食べるのか?」
と入鹿が不思議そうにいうと楓は頬を赧らめて俯いた。
「はい、ここ数日、胸が閊《つか》えて、このようなものばかりいただいております」
楓は消え入るような声でいった。
入鹿の眼が楓の腹部に注がれた。
「楓、そなたは吾の子を身籠ったのか?」
入鹿は彼らしくないはずんだ声でいうと、楓を自分の傍に引き寄せた。
秋の虫が騒々しいほど啼いていた。葛城山の総ての虫が屋形の周囲に集り啼いているようだった。
七
皇極三年(六四四)の夏の終り、皇極女帝は板蓋宮《いたぶきのみや》で男児を産んだ。大臣《おおおみ》蘇我大郎入鹿《そがのたいろういるか》の子である。
一番喜んだのは入鹿の父、上《かみ》の大臣|蝦夷《えみし》であった。現実の大王《おおきみ》が産んだ男児である。その男児が成長すれば誰|憚《はばか》ることなく大王位に即《つ》けることが出来る。
大王位をめぐって、田村皇子(舒明《じよめい》と山背大兄皇子《やましろのおおえのおうじ》の間にはさまり、遂に叔父である境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》を死に追いやった張本人だけに、蝦夷は両手を高々と挙げ、真蘇我よ、蘇我よ、蘇我の子らは男なら大王……と思わず歌いたくなった。
蝦夷は女帝が板蓋宮に移っても一度も訪れたことがなかった。そんな蝦夷が絶えず宮を訪れるようになったのは、矢張り孫の顔を見たいからであった。
入鹿を総帥とする飛鳥連合軍が、上宮王家《じようぐうおうけ》の一族を殲滅《せんめつ》して以来、蝦夷は不機嫌で、酒を飲み、若い女人と媾合《まぐわ》っては憂さを晴らしていた。だが、女帝が男児を産んでから、蝦夷は上機嫌になり、屋形を訪れる群臣に惜し気もなく物を与えるようになった。
入鹿はそんな蝦夷を苦々しい思いで眺めていた。最早入鹿には、自分の子が成長するまで待っている忍耐心はなかった。いや仮令《たとい》、今直ぐ子供が成長したとしても、入鹿は子供を大王にはしたくなかった。入鹿が望んでいるのは、高句麗の泉蓋蘇文《せんがいそぶん》のように、自分が独裁者になることであったのだ。
そこに入鹿と蝦夷との間の大きな違いがあった。蝦夷も、政治権力を蘇我本宗家が握らねばならない、と考えていた。だが入鹿のように完全な独裁者になろうとは思っていなかった。それは矢張り大王の存在価値を認識していたからであった。政治権力は持たなくても神祇《じんぎ》の最高司祭者としての大王が必要な場合がある、という観念から蝦夷は抜け切れなかった。だから蝦夷が最も欲していたのは、父系に、蘇我本宗家の血を引く大王が実現することだった。だがそれが夢に過ぎないことを蝦夷は知っていた。ところが、突然、その夢が実現しそうになったのである。
蝦夷が狂喜したのも無理はなかった。
女帝が男児を産んでから、二十日近く、入鹿は板蓋宮に行かなかった。入鹿は葛城の高宮にある楓《かえで》の屋形に籠《こも》っていたのだ。
昼は雀《すずめ》を始め|東 漢《やまとのあや》氏の兵を連れ、葛城山で狩りをした。夜は獲物《えもの》の肉を喰い酒を飲み、そして楓を抱いた。
蝦夷から入鹿の許《もと》に毎日のように使者が来た。使者は女帝が産んだ赤ん坊の状態を告げ、早く飛鳥に戻って来るように、という蝦夷の命令を伝えた。
その日、血に染まった鹿や猪を東漢氏の兵士達に担がせ、葛城山から戻って来た入鹿は、楓の屋形の前で自分を待っている蝦夷の使者を見ると、吠《ほ》えるように怒鳴った。
「父上はまた、宮に行かれたのか!」
入鹿の形相を見て使者は怯《おび》えながら、赤ん坊の顔が一日一日大臣に似て来るという蝦夷の伝言を告げた。
「大臣、上の大臣は明日中に豊浦《とゆら》の屋形に戻られるよう御命令されています」
「分った、明日は戻る、父上も老いたな、生れたばかりの赤ん坊が、吾の顔に似たりするか……」
入鹿は嫌悪の表情を浮べ、吐き出すようにいった。使者が告げた蝦夷の言葉を聴いただけで、父の心境が手に取るように分るのだ。甘い、甘過ぎる、吾にはその甘さが堪らないのじゃ、と入鹿は胸の中で叫んでいた。
だからといって入鹿は女帝が産んだ子供を見たくないのではない。入鹿にも今からでも板蓋宮に飛んで行き、どんな子か見たい、という気持があった。だが、そんなことをすれば、女帝を籠絡し子供を産せ、大王家を乗っ取ろうとしている、と群臣が反感を抱くのは眼に見えていた。またなかには、鬼神のような大臣だが、所詮、子供に甘い父親ではないか、と侮蔑《ぶべつ》の眼を向ける者も居るだろう。
入鹿は、大王家を乗っ取るため、女帝を籠絡して子供を産せた、と思われたくなかった。それは入鹿が生れながらに持っている美意識であった。入鹿は女帝と関係した。その時、女帝を利用するという気持が全くなかった、といえば嘘になる。だからといって計算ずくで女帝と媾合ったのではない。大王の地位にある女帝に神秘な魅力を感じ、惹《ひ》かれたのは間違いなかった。それに、女帝が入鹿にとって好ましい女人でなかったなら、入鹿は女帝と関係を持ったりしなかったであろう。
ただ、今の入鹿は女帝と媾合った時の、自分の心の奥底に潜むものの姿を凝視したくなかった。それは入鹿の人間的な弱さかもしれない。だからこそ入鹿は反対に、群臣に対し、毅然《きぜん》として胸を張っていたいのだ。
そんな入鹿の心の葛藤を見抜いているのは楓だけかもしれない。雀にも分らないに違いなかった。
昨夜入鹿は不覚にも泥酔し、媾合おうと楓の身体に手を掛けたが、そのまま眠ってしまった。どのくらい眠っただろうか、ふと眼を覚ますと、楓は傍に坐り、優しく入鹿の顔を眺めていた。魚油の明りだけの薄暗い部屋なので楓の顔ははっきり見えない。それなのに優し気な表情だけは分った。
楓は入鹿に、もうそろそろ豊浦の屋形に戻った方が良い、と微笑《ほほえ》んだ。その時入鹿は、楓が自分の気持を見抜いているのを知ったのだ。
蘇我《そがの》田口臣《たぐちのおみ》川掘《かわほり》が蝦夷の使者としてやって来たのは、入鹿が楓の屋形に籠ってから二十日目だった。川掘は入鹿が信頼し、情報蒐集の任に当らせている人物である。蝦夷はそのことを知っており、川掘を行かせたのだ。
入鹿に一礼した川掘の表情は緊張で強張《こわば》っていた。
「川掘、そう固くなるな、まあ上れ」
入鹿は縁に立って顎《あご》をしゃくった。だが川掘は、その場を動かなかった。
「吾君《わがきみ》大郎、上の大臣は、今直ぐ豊浦の屋形に戻られるよう、命令されております」
「分っておる、一緒に戻る、そんなに眼を釣り上げて吾《わ》を見るな、酒でも飲もう」
狩りに行かない日は、朝から酒を飲んでいるので、入鹿は酒浸りの状態だった。
「吾君大郎、酒を飲んでいる暇は御座居ませぬ、上の大臣は、もし大郎が直ぐ戻らなければ、大臣の位を解き、兵を差し向ける、と激怒されています」
「ほう、兵を差し向けて、吾を討とう、というわけか……」
「とんでも御座居ませぬ、大臣を連れ戻すためです、吾君大郎、内密のお話が」
「だから、上れ、と申しておるのだ」
「吾は上の大臣の使者として参りました、この屋形には上れませぬ」
川掘の様子にはただならぬものがあった。入鹿は事態が、自分の想像以上に切迫しているのを感じた。だが入鹿はこんな場合、駄々っ子のようになる。勝手にしろ、というと入鹿は屋内に戻り、板床の上に仰向けに寝た。
川掘は二人のやり取りを不安そうに眺めていた雀を呼んで耳打ちした。雀は顔色を変えると履《くつ》を脱ぎ、入鹿の傍ににじり寄った。
楓は別として、今、許可を得ないで入鹿の傍に行けるのは、雀だけだった。
「吾君大郎、上の大臣は、吾君がここに居られるのは、楓様のせいだ、と川掘殿におっしゃったようです……」
流石に入鹿は酔いが醒《さ》めた。蝦夷は、場合によっては楓を殺す、と匂《にお》わせているのだ。それが単なる嚇《おど》しでないことを入鹿はよく知っていた。父ならやり兼ねなかった。
入鹿は暫《しばら》く眼を閉じていたが跳ね起きると、雀に出発の準備をするように命じた。
入鹿は裏庭に出ると裸になり、葛城山から引いた小川の水を浴び、酔いを消した。
楓が入鹿の身体を拭《ふ》いた。この頃の楓は入鹿に尽すことに喜びを感じるようになっていた。
「もう直ぐ秋じゃ、その時は葛城山の紅葉を見にやって来る、飛鳥に連れて行ってやりたいが、今はそれが出来ぬ」
入鹿が視線を逸《そ》らすと、楓は激しく首を横に振った。そして楓は、自分には東国の蝦夷の血が流れているからこの葛城山がある限り、少しも淋《さび》しくない、と答えるのだった。
楓は気丈な女でもあった。
入鹿達は昼過ぎ楓の屋形を後にし、飛鳥に向った。
川掘の話では、群臣は、女帝が産んだ子供について、色々と想像をめぐらせている、という。始めは入鹿の子供であることに疑惑を抱く者はいなかった。ところが入鹿が一度も宮を訪れず、蝦夷が絶えず会いに行くのを見て、上の大臣の子供らしい、という噂《うわさ》が拡がっているようだった。
女帝が誰の子供だ、といわないので、一層噂が噂を生んでいるらしかった。
「そうか、父上の子供だという噂が拡がっているのか、父上が、吾を飛鳥に戻そうと必死になったのも無理はないのう、川掘、女帝が産れた子供は吾の子供だ、だが吾は……」
その子を大王にする積りはない、と入鹿は胸の中で叫び、突然馬に鞭《むち》を当てた。
入鹿の顔を見ると蝦夷は、激怒していたことも忘れたように、たくましい男の子じゃ、といった。蘇我本宗家から大王を出せる、これほど目出度いことはない、と上機嫌だった。
蝦夷は入鹿に、何故子供の顔を見に行かないのか? と詰問しなかった。蝦夷の命令を無視し、葛城に居続けた入鹿である。当然、第一になされるべき質問だった。
多分蝦夷は、入鹿の心中を見抜いていたのだろう。老獪《ろうかい》な蝦夷は詰問することで、入鹿と衝突することを恐れた。場合によっては、親子が分裂し兼ねない議論になることを蝦夷は予測していたのであろう。
入鹿は蝦夷が詰問したなら、唐と朝鮮三国、それと倭国《わこく》との関係を述べ、子供が成長するまで待つような悠長な気持にはなれない、と自分の心中を打ち明ける積りだった。その覚悟を決めて戻って来たのだ。だが、父が何時までたっても切り出さないので、入鹿は肩透かしを喰ったような思いだった。意気込んでいただけに拍子抜けした。ただ入鹿は僧旻《そうみん》師が褒めたほど、聡明な人物だった。拍子抜けしたが、父の気持が次第に分ると同時に、父と衝突してまで、急いで結着をつける問題ではない、と反省した。
将来、入鹿が独裁者になる日が来ても、蘇我本宗家だけは分裂させてはならない、と入鹿は思い直したのだ。そのために父も、自分の命令に従わず葛城に居続けた入鹿を叱責《しつせき》せずに迎えたのだ。矢張り大変な忍耐力といわねばならない。
入鹿は酒杯の酒をあおると、
「それはそうと父上、葛城に吾を迎えに来た使者の話によると、群臣の中には、女帝が産んだ子の父親は、吾ではなく父上だと本気になって信じている者も多いようですぞ、余り繁々《しげしげ》と宮に行かれるのも、如何なものですかな……」
と苦笑しながらいった。
蝦夷はゆっくり頷《うなず》きながら顎鬚《あごひげ》を撫《な》でた。
「吾の子であろうと、大郎の子であろうと構わぬ、蘇我本宗家のためなら我慢する」
蝦夷の表情が余りにも真面目であっただけに、入鹿は絶句した。
入鹿は大きく息をつくと、
「いや、流石《さすが》は父上です、恐れ入りました」
と父に向って頭を下げていた。
翌日入鹿は久し振りに板蓋宮を訪れた。入鹿は白馬に乗ったまま南門を通り朝堂院に入った。南門を守っていた舎人《とねり》達は慌てて膝を突いたが、馬から降りるように、と誰も入鹿に注意しなかった。北の第一朝堂に居た宮廷警護長|佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》が、入鹿の傍に走り寄った。
佐伯連子麻呂は馬の前で、跪《ひざまず》くと絞り出すような声で、大臣、と呼び掛けた。
馬上の入鹿はそんな子麻呂を皮肉な眼で眺めた。
「吾は子供に会いに来た。大王《おおきみ》の意向は関係ない」
子麻呂は庭土の上に両手を突いた。必死に憤りの感情を抑えているのか、両肩が慄《ふる》えていた。
「お願いで御座居まする、馬からお降り下さいませ」
「上の大臣も、馬から降りておられるのか?」
「はっ、上の大臣は輿《こし》に乗っておられまする」
「輿なら乗ったままで良いが、馬なら駄目だ、というわけか、何故だ?」
若いが一徹者の佐伯連子麻呂と顔を合せると、入鹿は子麻呂を苛《いじ》めたくなる。
「大臣、馬は動物、輿は人が担いでおりまする、何卒《なにとぞ》、お願い申し上げます」
入鹿の眼は益々《ますます》意地悪く光った。佐伯連子麻呂は蘇我本宗家に対し、犬のように尾を振っていない。佐伯連子麻呂の主君は蘇我本宗家ではなく大王家であった。そして子麻呂は、そのことを隠そうとはしなかった。入鹿が子麻呂を追い詰めたくなるのは、たんに子麻呂の性格が一徹なせいだけではない。入鹿に対して尾を振らないからであった。
入鹿はもう少しで、顔を土にこすりつけて頼め、といおうとして、喉《のど》まで出掛った言葉を呑《の》んだ。朝堂院の東、西の朝堂には大勢の群臣が居た。彼等は息を殺し、ことの成行きを眺めていた。入鹿は彼等の幾つかの眼に、自分に対する憎悪の光を見た。
大臣の威光がどんなに強くても、それだけでは彼等から憎悪の光を取り去ることは出来ない。もし入鹿が佐伯連子麻呂にこれ以上の無理難題を吹っ掛けたなら、彼等は益々入鹿を憎むだろう。
入鹿はこの時、父蝦夷が女帝が産んだ子に、蘇我本宗家を託そうとしている気持が何となく理解出来た。
気が緩んだのか、吐息をついて立ち上った佐伯連子麻呂を見て、入鹿は馬から降りた。入鹿は無言で大殿《おおどの》に向って歩いて行ったが、佐伯連子麻呂は、かつてのように、大王の意向を確かめるまで、お待ち下さい、と入鹿を引き留めなかった。
女帝が入鹿の子を産んだことは、佐伯連子麻呂にとっては、矢張り大きな衝撃だったに違いない。
入鹿は刀を付けたまま大殿に上った。宮に住んでいるのは女人だけで、雑役の奴《やつこ》達は絶対建物の中に入らない。だが入鹿は警戒を怠らなかった。入鹿が来たことは女人達によって女帝に伝えられていた。入鹿は瑠璃玉《るりだま》のついた簾《すだれ》を両手で開き、内裏に通じる渡り廊下に進もうとした。廊下の中央辺りに一人の女人が坐っている。髪を中央から左右に分け、耳の辺りまで下ろして結んだ少女であった。少女は色が白く黒眼の勝った眼は楓のように大きい。楓のように彫りは深くないが、黒い眉が異様なほど長い。少女は銀花の髪飾りをつけ、翡翠《ひすい》の玉のついた金の耳飾りを垂らしていた。少女は袖の長い薄紫の上衣を華やかな裙《もすそ》の上に着ている。仮令《たとい》色は薄くても紫色の上衣は王族や大臣以外着られない。
少女は入鹿を見上げると微笑み、廊下に手を突いて頭を下げた。
「そなたは何者だ、吾は大臣蘇我大郎、大王と子供に会いに来た」
入鹿はそういってから、吾はこんな少女に何故、名乗ったりしたのだろう、と舌打ちした。名乗らなくても宮廷の女人は、皆入鹿を知っているのだ。
「大王はお身体《からだ》の具合が悪く、今まで休んでおられました、大臣が来られたのを知りお顔をなおしておられます、少しお待ち下さいませ」
少女は顔を上げると眼を見開いたまま入鹿を見詰めた。爽《さわ》やかな鈴を鳴らしたような澄んだ声だった。しかもその声には入鹿が思わず耳を傾けたくなるような余韻があった。
少女は入鹿を少しも恐れていない。
「そなたは何者じゃ、紫の上衣を着ているところを見ると、大王の縁者か?」
「近江《おうみ》坂田の鏡王の娘、額田《ぬかたの》郎女《いらつめ》と申します、大王が出産されましたので、お手伝いに参りました……」
「ああ、息長《おきなが》王の郎女か、幾つになる?」
「もう十五歳になりました、でも額田郷の額田部氏の許で育てられて十余年、近江の国のことは余り覚えていません、ただ大きな鏡のような湖が光っていたことだけは記憶に残っています、飛鳥は美しい都ですが、湖がないのがもの足りません、船に乗りとう御座居ます」
額田郎女は渡り廊下に正座しているが、入鹿と対等に喋《しやべ》っていた。そして入鹿は何時の間にか、彼女との会話に引き込まれていた。
入鹿が額田郎女に、茅渟《ちぬ》の海に浮いている大きな船に乗せてやろうか、というと、額田郎女は首を横に振り、海は恐ろしいので乗りたくない、と答えた。自分の気持を隠さずに話す額田郎女に、入鹿は好意を抱いた。
額田郎女こそ、中《なかの》大兄《おおえの》皇子《おうじ》の弟|大《おおし》海人《あまの》皇子《おうじ》と愛し合い、万葉の世界を彩った|額田王 《ぬかたのおおきみ》その人である。
内裏の方で鈴が鳴った。それを合図のように額田郎女は立ち上った。
「大王が呼んでおられますので、御案内致します」
入鹿は額田郎女の後を歩きながら、宮に来て、女人に案内されて女帝の部屋に入るのは初めてではないか、と自分の頬を抓《つね》りたい気持だった。
白い絹の寝衣を着た女帝は薄絹の帳《とばり》の中に坐していた。赤ん坊は小さな覆衾《おおいぶすま》(蒲団)の中で眠っている。帳の下座には東漢氏の乳人《めのと》が居た。彼女は東漢氏の長《おさ》の娘で、子供を産んだばかりだった。蝦夷の命令で乳人となったのである。女帝は釣り上った眼を入鹿に向けた。間違いなく女帝は入鹿を恨んでいた。
入鹿が葛城に住んでいる女人の屋形に入り浸っていたことは、噂になり女人達の口から女帝に伝わったのだろう。
「父上もいっておられた、本当に強そうな男児じゃ……」
入鹿は呟《つぶや》くようにいうと赤ん坊を眺めた。顔が赤く、何処《どこ》か猿に似た感じがする。これが吾の子か、と入鹿は不思議な思いだった。自分の子供だという実感が湧《わ》かない。
「ああ、強い男の子じゃ、普通の赤ん坊のように余り泣かない、そのくせ乳だけは倍も飲みます、このままでは軽《かるの》郎女《いらつめ》の身体が持たない、上の大臣にも申しておいた、もう一人乳人が居る」
軽郎女というのは下座に居る乳人の名であった。
当時、大王家で生れた赤ん坊は一カ月ぐらい乳人が来て乳を飲ませ、その後、乳人の実家で育てられることになっていた。
また貴族の女人が子供を産んだ場合は、その女人の実家が育てる。だが皇極女帝の場合は大王である。女帝が、この宮で自分が育てる、といい出し兼ねなかった。
ただこれまでの慣習では、大王の子供は宮の外で育てられねばならない。蝦夷は子供を産んだばかりの東漢氏の女人達の中から、二人の乳人を選んでいた。何《いず》れも|東 漢 直《やまとのあやのあたい》の女人であった。
「乳人の件は父上も考えられておられる、大王も、思ったより顔の色艶《いろつや》が良い、吾も安心しました、それではまた……」
入鹿が一礼して退ろうとすると、女帝は身体を乗り出し絹の帳を開けて入鹿を睨《にら》んだ。
「大臣、朕《わ》が大臣の子供を産んだのに、何故直ぐ参朝しなかったのじゃ、一体、何処の女人とたわけておった?」
女帝は勝気なだけに眼光が鋭い。それに嫉妬《しつと》の炎が燃えているので、流石の入鹿も思わず視線を逸《そら》せた。
「女人とたわけておったのでは御座らぬ、葛城山で狩りをしている最中谷に落ち、腰骨を打って寝込んでおった」
途端に女帝は帳を引き裂いた。
「葛城山には東国の蝦夷の国の毛人《もうじん》を住まわせているらしいが、そんなに毛人が好《よ》いのか……」
覆衾の赤ん坊が泣き始めた。額田郎女が素早く赤ん坊を抱き、あやした。入鹿の方を見ると直ぐ部屋を出るようにと|※[#「目」+「旬」]《めくばせ》した。入鹿が居れば居るほど女帝の気持が昂《たか》ぶる、と判断したのだろう、実に機転の利いた少女である。
入鹿は額に冷や汗を滲《にじ》ませながら宮を出たのであった。
『日本書紀』は、皇極女帝が入鹿の子を産んだことを記載していない。だが「斉明即位前紀」に実に奇妙な記事がある。いうまでもなく皇極と斉明は同一人物である。皇極は乙巳《きのとみ》のクーデターで入鹿が殺された後いったん退位したが、弟の孝徳が亡くなると、再び大王になった。これを重祚《ちようそ》というが、『日本書紀』が「皇極紀」にも記す|天豊財 重 日足《あめとよたからいかしひたらし》姫天皇、つまり斉明天皇である。奇妙な記事とは「天豊財重日足姫天皇は、初めに|橘 《たちばなの》豊日《とよひ》天皇の孫|高向《たかむく》王に適《みあひ》して、漢皇子《あやのみこ》を生れませり、後に息長足日広額《おきながたらしひひろぬか》天皇に適して、二の男、一の女を生れます」のことである。
橘豊日天皇は用明のことであり、息長足日広額天皇は舒明である。だから舒明との間に産んだ二男一女というのは、中大兄皇子、大海人皇子、間人《はしひとの》皇女《ひめみこ》で、これは先ず問題はない。
問題は用明の孫の高向王と媾合って産んだという漢皇子である。高向王を『紹運録』は用明の子とするが、正史である『日本書紀』には高向王の名は用明の子の中に記載されていない。用明はいうまでもなく母親も皇后も蘇我系である。だから用明の皇后が産んだ子は聖徳太子を始め、父系も母系も蘇我系となる。私は『紹運録』が、高向王を用明の子としたのは、高向王が蘇我系であることを暗示したものと考えている。では高向王とは一体何者か。兎《と》に角《かく》『日本書紀』は、用明の孫としか記していないし、高向王なる名が出て来るのは、一回限りで全く正体不明の王である。
高向というのは河内の高向のことである。場所は蘇我氏の祖が渡来して来た当時住んでいたと思われる河内飛鳥の西南で石川の上流にあたる。この辺りから石川の下流に掛けての土地は、渡来系氏族の本貫地といって良い。
とすると高向王というのは、高向に住んでいた渡来系の王ということになる。『日本書紀』によると、女帝は舒明の皇后になる前、高向王の妻になり漢皇子《あやのみこ》を産んだ、というのだ。これは一寸考えられないことで、私は女帝が産んだ漢皇子の父親は、『日本書紀』が、その名を抹殺しなければならない人物だった、と考えたい。つまり高向王というのは、その名を抹殺された人物の代りに創作された名で、実在しない人物である。
大体「記 紀」は、大王の系譜を最初に記述しているから、女帝の場合も、「皇極即位前紀」に高向王、漢皇子の名を記載しなければならない。それを「斉明即位前紀」に持って来たのは、舒明が亡くなり、皇后|宝 皇女《たからのひめみこ》が皇極女帝になってから漢皇子を産んだからだろう。
当時、皇極女帝が関係を持つような人物といえば、先ず蘇我蝦夷、入鹿が考えられる。ただ年齢的に見て蝦夷はすでに老齢であり、入鹿の可能性がずっと強い。
それに漢皇子が蘇我氏の子供であることは、漢という名前からも推察がつく。当時の大王家の子供達の名は、育った土地名か、また乳人の氏族の名前がつけられた。だから漢皇子の名は、蘇我氏を吾君と呼んで仕えた漢氏が乳人になったのでついた名前である。
東漢氏か|西 漢《かわちのあや》氏かはっきりしないが、西漢氏は西史氏と呼ばれる場合が多い。だから漢氏となると東漢氏で皇極が産んだ漢皇子は入鹿の子と考えたい。
こうして東アジアを含めた新時代の激流と共に、正史が秘めている生臭い人間関係も加わって、時は乙巳《きのとみ》のクーデターに向って進んで行ったのだ。
稲淵は飛鳥川の上流の南淵川の山麓と飛鳥川との間の狭い地域である。嶋の屋形から徒歩で半刻《はんとき》足らずの場所にあった。
嶋の屋形から飛鳥川に出、川を南に遡《さかのぼ》るともう山に入る。そして飛鳥川は川に向って突き出た南淵山によって大きく湾曲している。稲淵は山麓の南側にあった。飛鳥川を東に遡ると、栢森《かやのもり》に出、そして芋峠《いもとうげ》に達する。飛鳥川をはさんで、南淵山の南西の山は高取山だ。いうまでもなく、芋峠に達する飛鳥川沿いの山道は、天智十年(六七一)の冬、天智天皇となった中大兄皇子に追われるように、坊主頭となった大海人《おおしあま》皇子が、女人達や舎人《とねり》達と共に雪に降られながら歩いた道である。
|南淵漢人 請安《みなぶちのあやひとしようあん》は、蘇我倉山田石川麻呂《そがのくらやまだのいしかわまろ》の資金を得て学堂を建てた。請安は政治講義に走り勝ちな僧旻《そうみん》と異なり、政治には余り関係なく、隋、唐で学んだ周公、孔子などの儒教を群臣の子弟に教えた。
中大兄皇子は、最初請安を馬子の墓(石舞台)を見下ろす小丘にある自宅に呼んで学んだが、稲淵に学堂が建つと同時に、請安の許に通うことになった。
通うといっても五日に一度ぐらいだが、その日は必ず鎌足が居た。鎌足は僧旻の時と同じように請安の高弟であった。請安は実に三十年も隋、唐に居たのだ。朝鮮三国の言葉と混じった新しい倭国語を知らなかった。また忘れている倭国語もあった。そんな時、鎌足が請安の講義を説明する。
請安の学堂は僧旻の学堂よりも小さい。それでも有力氏族の子弟や新しい知識に飢えている中堅官人が集った。
鎌足は中大兄皇子が学堂に来る日に、蘇我本宗家、ことに大臣入鹿に反感を抱いている中堅官人をそれとなく呼んだ。彼等は宮廷警護長佐伯連子麻呂、副警護長の|葛城 稚犬養 連 網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》、三輪君東人《みわのきみあずまひと》、穂積《ほづみの》臣咋《おみくい》、羽田臣、|膳 《かしわでの》臣《おみ》の子弟、また石川麻呂の子弟、それに蘇我田口臣筑紫《そがのたぐちのおみつくし》など蘇我倉山田石川麻呂系の官人達である。
鎌足の意を受けた中大兄皇子は、それ等の官人達と気易く話し、学問を論じ合った。ことに三輪君東人は、阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》の部下として東国、北陸の蝦夷征討に従軍しており、入鹿に反感を抱いていた。入鹿の耳に入るのを恐れ、政治談議はしなかったが、中大兄皇子はこうして古くから大王家に仕える中堅官人達の信望を集めたのだ。中大兄皇子を柱にし、その柱の廻りに中堅官人を集めるという鎌足の第一の作戦は成功した。
蘇我本宗家に少しでも対抗出来る力を持っている蘇我氏の支族といえば石川麻呂だけである。その石川麻呂も|高向臣 国押《たかむくのおみくにおし》を完全に掴《つか》み、東漢氏の有力者を徐々に自分の方に集め始めていた。宮廷の財政を担当していただけに石川麻呂は資産家であった。石川麻呂は少しでも多く東漢氏を味方につけるために、惜し気もなく資金をばら撒《ま》いた。
こうして入鹿の知らない間に石川麻呂、鎌足を中心に、反蘇我家の中堅官人達は自然に団結し始めたのである。そして彼等は、自分達の本当の中心人物が中大兄皇子であることを知らなかった。知っているのは鎌足と石川麻呂のみであった。時が来るまで絶対知らせてはならない、というのが鎌足の作戦だった。これも『太公六韜《たいこうりくとう》』の書から得た知識である。
請安の講義は大体昼頃終った。真先に飛鳥川沿いの坂道を馬でおりるのは中大兄皇子であった。その後に中大兄皇子に仕える舎人達が続く。犬養連の子弟、三輪君の子弟、鴨君《かものきみ》など大王家の名門氏族の舎人が多い。佐伯連子麻呂などと共に、乙巳《きのとみ》のクーデターで中大兄皇子の手足となって活躍した舎人達であった。
狭い道で、人なら二人並んで歩けるが、馬二頭が並ぶのは危険である。
大抵の場合鎌足は請安の講義を受けた官人達を最後まで見送り、請安と次の講義の打ち合せをして帰る。請安は自分の学堂が反蘇我系集団を作っていることを知らなかった。
請安は学識は深いが、政治には余り関心がないからである。だからこそ、入鹿も請安の学堂に疑惑の眼を向けなかったのだ。
すでに旧暦十月の山々の葉は紅、黄、緑と様々に彩色され、春の季節に負けない美しさだった。山々だけの色彩でいえば紅葉なら紅の色が鮮やかで、しかもその範囲が広い。だから春の草花の色より美しいともいえる。
鎌足は二人の従者を連れ、飛鳥川沿いの道を下りた。中大兄皇子の屋形は冬野川沿いにあった。中大兄皇子は飛鳥の中央道である中《なか》つ道《みち》と冬野川沿いの道が交叉《こうさ》した辺りで鎌足を待っていた。葛城稚犬養連網田と交替で請安の学堂に来ている|海犬養 連 勝麻呂《あまいぬかいのむらじかつまろ》も中大兄皇子の傍に居た。
「鎌子、明日狩りに行かないか、舎人達の話では多武峰《とうのみね》の山々には雉《きじ》が多くなったそうじゃ、勝麻呂も連れて行きたいが」
と中大兄皇子は鎌足にいった。
中大兄皇子は、なかなか勇猛な皇子で、入鹿に負けないぐらい狩りが好きだった。当時の貴族達の遊びといえば狩りか蹴鞠《けまり》、それと馬を乗り廻すことぐらいだ。鹿や猪などの狩猟と異り、鳥や兎の狩りは手軽なので、絶えず行われていた。
「なかなか結構で御座居まするな、では卯《う》の下刻(午前七時頃)屋形に参ります」
鎌足は微笑すると馬から降り一礼した。
最近中大兄皇子の入鹿に対する憎悪は益々強くなって来ている。原因はいうまでもなく母、皇極女帝が産んだ入鹿の子|漢皇子《あやのみこ》のせいだった。漢皇子は東漢氏の支族の長の娘、軽郎女が乳人となり、軽の屋形に居た。|石川 精舎《いしかわのしようじや》の南、現在の大軽の地である。この辺りは蘇我氏の勢力範囲であると同時に、東漢氏の居住地帯でもある。
女帝が入鹿の子を産み、東漢氏が乳人となったことによって、反蘇我系の官人達は苛立《いらだ》っていた。漢皇子が成長すれば大王になることは間違いない、と考えるからである。
請安の学堂で中大兄皇子に接するうち、中堅官人達はこの皇子こそ、大王になられるべき方だ、と親愛感と共に、期待を寄せるようになった。中大兄皇子は古人《ふるひとの》大兄《おおえの》皇子《おうじ》と異り、新しい時代の知識を備えている。唐の政治制度などもよく知っていた。だから中大兄皇子が大王になったら、唐のような中央集権政治の実現も不可能ではなくなり、今のように大豪族のみが私利私益を得る時代は終りになる、と夢見ていたのだ。
だが蘇我本宗家から大王が出たなら、古くから大王家に仕える中堅官人達は益々押えつけられ、蘇我本宗家と親しい大豪族は一層勢力を拡大するだろう、新しい時代の倭国に対する自分達の夢は消えざるを得ない。反蘇我本宗家系の中堅官人達はそんな風に考えていたのだった。だが、彼等の考えは間違っていた。入鹿は独裁者になったなら、唐の制度を取り入れ、中央集権制度を強化し、これまでの大豪族を弱体化したい、と何時も考えていたのである。
大豪族が今迄のような力を持っていたなら、独裁者でおれなくなる。だから入鹿は、新しい時代の倭国の独裁者になったら、中堅官人達を抜擢《ばつてき》することを密《ひそ》かに考えていた。軽王《かるのきみ》にも、これまでよりも中央集権制度を強化したい、その場合は大豪族の勢力を削がねばならない、と洩《も》らしたことがあった。
王族である軽王は入鹿の考え方に共鳴した。王権の強化に繋《つなが》る、と判断したからだろう。ただ入鹿はこれまで、新しい時代が来たら、中堅官人達を抜擢する方針を抱いていることを口にしなかった。何故なら、独裁者になるには、先ず大豪族の協力が必要だったからである。
だから中堅官人達は入鹿の真意を知らない。それは或る意味で入鹿の盲点でもあった。鎌足が反蘇我系の中堅官人達を結集させることが出来たのも、入鹿の盲点を突いたからである。
翌日鎌足は狩りの仕度をし、僅《わず》かな供を連れ、早朝冬野川沿いにある中大兄皇子の屋形を訪れた。皇子は早く起きたらしく、もう馬に乗り、屋形の前で待っていた。
まだ十九歳だけに感情を抑え切れないらしく、鎌足の姿を見ると鞭を当てて馬を走らせて来た。鎌足がこれまで観察して来た中大兄皇子は、鎌足にとって理想的な皇子だった。何といっても入鹿を憎んでいるし、それに行動力があった。行動力がなければ、大事が起ると周章|狼狽《ろうばい》し、悩んだり考えたりする。結局臆病風に見舞われ、大事な計画を洩らし兼ねない。それが一番危険なのだが、中大兄皇子にはその危険性がなかった。
不安なのは、一刻も早く入鹿暗殺の計画を実行したい、という焦りだった。
中大兄皇子は鎌足に、入鹿を狩りに誘い機を見て射殺するのが一番ではないか、と意見を述べた。鎌足は首を横に振り、入鹿の傍には、何時も東漢氏の兵が警護している、狩りの場合も同じで、万一失敗すれば、総ての計画が駄目になる、とはやる中大兄皇子を抑えたのだ。
「皇子、万が一の失敗も許されぬのです、狩りに誘って射殺するという方法は、昔は通用しました、だが今はもう古い手ですぞ、そのようなありふれた手を使うのが一番危険なのです、ことを行う時は、入鹿を一人にせねばなりますまい」
「入鹿を一人に……そんなことが出来るのか?」
と中大兄皇子は苛立って反問した。
「吾におまかせ下さい、必要なのは忍耐ですぞ、皇子は頭が優れ、勇気があり、行動力に富んでおられる、ただ一つだけ足りないものが御座居ます、それは焦らないということ、忍耐心ですぞ」
鎌足はその時の会話を思い出しながら皇子を迎えた。冷え込みの強い朝で、中大兄皇子の吐く息が白かった。皇子は腰に刀を吊《つる》し、靫《ゆぎ》を背にしていた。靫は矢を入れる筒である。
鎌足はゆっくり馬から降りると、皇子に向って深々と頭を下げた。
「今日は好い獲物がありそうです」
中大兄皇子は礼に応じると早口でいった。
「鎌子、わざわざ馬から降りて挨拶《あいさつ》などしなくても良い、吾とそなたは、大事を共にする同志ではないか……」
「有難きお言葉を頂き、鎌子、感激致しておりまする、だが皇子、もし吾が馬上で皇子に挨拶しているのを入鹿|奴《め》に見られたなら、怪しまれます、皇子、入鹿奴に疑われたなら折角の大望も水の泡のように消えて行くのですぞ、くれぐれも御注意下さいますよう……」
鎌足は中大兄皇子の眼を強く見詰めると、再び恭しく頭を下げた。若い中大兄皇子は、そんな鎌足の言葉に、鎌足に対する信頼感を一層深めるのだった。
冬野川を一里強ほど遡ると多武峰《とうのみね》の山麓に達する、だが当時はそこまで馬に乗って行けない。半里も行くと、南北、ことに南の多武峰連山の尾根が冬野川に迫って来る。もう馬が通るのがやっとで、一行は潅木《かんぼく》や枯草によって遮られた急斜面の道を登ったり下りたりしながらゆっくり進んだ。
狩りは名目で、如何《いか》にして入鹿を斃《たお》すかが、鎌足と中大兄皇子の目的だった。中大兄皇子が葛城に居た頃|舎人《とねり》として皇子に仕えた海犬養連勝麻呂が今日は中大兄皇子に呼ばれ、顔|馴染《なじみ》の二人の舎人と共に今日の狩りに加わっていた。勝麻呂は二十五歳、武術に優れているが思慮深く、中大兄皇子が最も信頼している部下の一人だった。
だから勝麻呂は中大兄皇子の気持をよく知っており、入鹿を憎んでいた。
鎌足も中大兄皇子も入鹿|誅殺《ちゆうさつ》の計画を勝麻呂に話していないが、勝麻呂は薄々感じていたのか、何時だったか皇子を訪れ、入鹿を殺したい、と洩らした。それで中大兄皇子は、今日、勝麻呂を連れて来たのだ。
鹿が跳び出し、枯草の中に消えた。
「勝麻呂、舎人達とあの鹿を追え」
と中大兄皇子が命じた。
皇子の言葉が終るか終らないうちに勝麻呂と舎人達は馬に鞭を当て鹿を追った。
「鎌子、勝麻呂に我等の計画を打ち明けては駄目か、先夜も入鹿を殺したい、と憤っておった」
「勝麻呂殿なら先ず大丈夫と思いますが、その前に吾が試してみましょう、皇子のためになら何でも成し遂げる人物でなければなりますまい、皇子、あそこに岩場があります……」
鎌足は馬から降りると手綱を取り、潅木を掻《か》き分けながら小山を登り、馬を岩場の傍の樹に繋いだ。中大兄皇子も鎌足の後ろに従った。
鎌足は中大兄皇子を岩場に坐らせると、直ぐ傍に膝を突いた。
勝麻呂は舎人達と共に鹿を追っているらしく、遠くの方で、叫んでいる。鹿が逃げた枯草の原は冬野川に達していた。鹿の行方を阻むことが出来たなら斃すことも出来るが、今の状態では先ず無理だろう。冬野川沿いの狭いでこぼこ道を、馬で飛ばすことは不可能だった。
「勝麻呂の忠誠心をためすというわけか……」
中大兄皇子にとって鎌足は十歳以上も年齢《とし》上だった。だから、計画の主導権は鎌足が握っている。中大兄皇子は意見を述べ、相談する立場だった。鎌足の学識、事態に対する洞察力は素晴らしいもので、中大兄皇子は鎌足の足許にも及ばなかった。そのことを中大兄皇子はよく自覚していたので、二人の間に亀裂《きれつ》は生じなかった。まさに鎌足にとって理想的な柱であり、パートナーである。
「皇子、皇子は漢皇子のことを如何《いかが》思われますか?」
鎌足は澄んだ晩秋の空を眺めた。眼に不気味な光が宿っていた。中大兄皇子は鎌足よりもやや後方に坐っているので、鎌足の表情が窺《うかが》えない。
「母上が産れた皇子だが、父が入鹿だと思うと憎い、蘇我本宗家は、漢皇子を将来大王にする積りだろう、舎人達もそういっている」
「皇子、吾もそう考えています、もし漢皇子が大王になれば、倭国は入鹿のものです、再び蘇我の天下がやって来る、いや、嶋大臣(馬子)時代のような中途半端な天下ではありませぬ、入鹿奴は独裁者として倭国に君臨するのです、皇子、皇子には父上、母上と同じく息長《おきなが》氏の血が流れている、入鹿は、息長氏の血の混じった皇子達を抹殺するでしょう、入鹿の性格ならやり兼ねない、同族である上宮王家さえ、子供、赤ん坊に到るまで殺してしまった、あれは入鹿の差し金です、入鹿の残虐な性格があれではっきりしました、恐ろしい男ですぞ」
「ああ、ただ攻めたのは軽王《かるのきみ》始め、大伴、巨勢《こせ》、土師《はじ》、大狛法師《おおこまのほうし》、それに……」
「|中臣連 塩屋枚夫《なかとみのむらじしおやひらふ》でしょう、吾は先日、それとなく枚夫に会い、何故子供、赤ん坊まで殺したのか、と訊きました、御存知のように枚夫は、年齢で隠退した吾父|御食子《みけこ》と同じく、入鹿に尾を振っている痴《し》れ者《もの》ですが、流石《さすが》に上宮王家の一族全員が死んだことには衝撃を受けておりました、枚夫の説明によると、入鹿は戦死した土師《はじの》連娑婆《むらじさば》に、一人も逃すな、と厳命を下したようです、だから上宮王家の諸王子を殲滅するため、東漢氏の精兵を、土師連娑婆に預けた、と申しておりました、だから、軽王を始め、攻撃に参加した大夫《まえつきみ》達は、山背大兄皇子一人を斃せば充分だ、と考えていたのです、確かに山背大兄皇子は一族全員を連れ、斑鳩寺に入り自殺しました、だが皇子、斑鳩宮は焼け落ち、宮と寺の周辺に居るのは、攻撃軍だけです、それなのに、どうして斑鳩寺に入れたのでしょうか、二十数人の上宮王家の一族が戻って来るのを誰も見なかったと、いうのでしょうか?」
「いや、吾も疑問を抱いていたのじゃ」
と中大兄皇子は頷《うなず》いた。
「当然な疑問です、枚夫の話では焼け落ちた斑鳩宮や、その周辺に居たのは入鹿の命令を受けた東漢氏の兵士達だった、ということです、とすると入鹿奴は、生駒山に逃げた山背大兄皇子が、死を決意して、斑鳩に戻ることを予期して、東漢氏の兵士達を、斑鳩一帯に配置していた、と考えられる、軽王は早く引き揚げ、大伴、巨勢は山背大兄皇子を探し、生駒山に行っている、だから東漢氏の兵士達は、皇子達一行を斑鳩寺にわざと入れ、全員の自決を強要した、それが真相ですぞ」
話しているうちに、鎌足の声は火を吐くように熱を帯びて来た。中大兄皇子は、まるでその声に酔ったように聴いていた。
勿論、鎌足は同族の枚夫の弁解は聴いた、だが枚夫はそこまで話していない。枚夫は、ただ、全員が自決するとは想像していなかった、と話したのだ。東漢氏の兵士達が、上宮王家の全員の自決を強要した、などというのは鎌足の創作である。
だが僧旻の学堂で師範代として講義をしたことのある鎌足の口から、熱血|溢《あふ》れる言葉が奔《ほとばし》り出ると、如何《いか》にも真実らしく聞えるのだった。
そして鎌足は時々振り返り、喰い入るように中大兄皇子を見詰める。
「軽王を始め、|大伴連 馬飼《おおとものむらじうまかい》、巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》など、そのことを知りませぬ、上宮王家全員が死亡した原因は入鹿奴にあるのです、入鹿の性格は残虐にして冷酷、もし漢皇子が大王にでもなれば、蘇我本宗家の悪口をいう者は全員捕え、殺すでしょう……」
鎌足は声を落し沈鬱《ちんうつ》な表情になった。前途を憂い、声も出ない、といった顔付きである。鎌足が漢皇子の成長に危惧の念を抱いていることは理解出来る。ただ中大兄皇子はこれまで、漢皇子に対し、鎌足ほど切迫した危機感を抱いていなかった。
勿論漢皇子は、入鹿の子だから憎いが、入鹿に対する憎しみと較べると問題にならない。
「だが、母は漢皇子を産んでしまった、今更、どうすることも出来ない」
「皇子、何故出来ないのでしょうか、我等の目的は入鹿を斃すことです、と同時に蘇我本宗家も斃さねばならない、斃さねば、我々がやられます、漢皇子も、蘇我本宗家の一員ですぞ、それに警備の兵も少ない、皇子、禍根は早いうちに断たねばなりませぬ……」
鎌足は何時の間にか中大兄皇子の方を向いていた。中大兄皇子の顔は、血が引き蒼白だった。そして皇子は刀の柄を確《しつか》り握っていた。
「漢皇子をどうするのじゃ、殺すのか?」
「皇子、仕方ありますまい、もし皇子が大王《おおきみ》で、漢皇子が成長しておれば、謀反の罪を被《き》せて殺すことも可能です、だが、現在皇子は大王ではありませぬ、漢皇子も赤ん坊です、皇子、御決断下さい」
中大兄皇子は瞑目《めいもく》した。漢皇子の殺害など少しも考えていなかっただけに、酷《ひど》い衝撃だった。鎌足は中大兄皇子の履《くつ》を掴んだ。
「皇子、入鹿を斃し、蘇我本宗家を斃すという我等の大望を達成するためには、非情にならねばならない、吾は皇子に、隋、唐以前の中国の歴史を講義しました、皇帝になるためには、肉親をも殺さねばならない、これが大唐を出現させた中国の歴史なのです、それに漢皇子など皇子の肉親ではない、皇子は肉親と考えておられるのですか?」
「いや、肉親とは思っていない、憎むべき入鹿の子じゃ」
中大兄皇子は憤然として宙を睨んだ。
鎌足は中大兄皇子に眼を閉じるようにいった。中大兄皇子は素直に眼を閉じた。請安《しようあん》の代りに皇子の屋形を訪れ講義した際、鎌足は大事なことを話す時、皇子に眼を閉じさせた。そういう点で、鎌足は呪術《じゆじゆつ》の効果をよく知っていた。
「皇子、入鹿奴は大王が漢皇子を産まれても、大王にも漢皇子にも会おうとしなかったのですぞ、佐伯連子麻呂などの話によると、大王はその間、酷く苦しまれた御様子、入鹿に代って参朝した蝦夷に、大王は、入鹿は何処で何をしているのか! と怒鳴られたとのことです、大殿の外まで大王の声が聞えたというから、大王は張り裂けるような声をあげられたに違いない、皇子、お母上のお顔を思い浮べるのじゃ、そう、お母上は入鹿奴を憎み恨んでおられますぞ、入鹿が帰ろうとすると、皇子のお母上は、入鹿に、二度と参るな、そちの顔など見たくない、と叫ばれたのです、当然で御座居ます、入鹿奴は葛城の高宮で、女人にたわけておったのですから……」
鎌足の声は、時には高く、時には低くなり、中大兄皇子の体内に入り込むと、見えない蛇となり、皇子の心を噛《か》み、入鹿に対する皇子の憎悪をあおるのだった。
「母上は無念であったであろう……」
と中大兄皇子は呟《つぶや》くようにいった。
「皇子、入鹿と漢皇子は同一人物なのです、吾は先日、久し振りに鹿の骨を焼いて占いました、恐るべきことを発見したのです、入鹿の霊が漢皇子に入り込んでいる、漢皇子は入鹿と同一人物なのですぞ」
履を握っていた鎌足は、何時の間にか中大兄皇子の膝の辺りを静かに撫でていた。
「そうだ、入鹿と漢皇子は同一人物なのだ」
と中大兄皇子が呟いた。
鎌足の表情に満足気な笑みが浮んだ。
「皇子、眼を開けて吾を見て下さい」
中大兄皇子は閉じていた眼を開けた。
「皇子、今、いったことを覚えておられまするか?」
「ああ、覚えておるとも、入鹿と漢皇子は同一人物だ……」
「その通りです、今のうちなら漢皇子を抹殺出来ます、皇子、信頼出来る部下は?」
「勝麻呂が一番じゃ、勝麻呂の話では、佐伯連子麻呂も、|稚犬養 連 網田《わかいぬかいのむらじあみた》も、勝麻呂と同じように入鹿を憎んでおる」
「このことは、他人の耳に入れるわけにはゆきますまい、皇子が御命令し難いなら、吾が皇子に代り、勝麻呂殿に申し上げます」
鎌足の言葉に、中大兄皇子は安心したのか、頼む、と頭を下げていた。
勝麻呂達が無念の表情で戻って来た。三人に追われた鹿は肩に矢を受けたまま冬野川に飛び込んだ、という。中大兄皇子は、勝麻呂を残し、舎人達に、道まで下り見張るように命じた。皇子と鎌足に異様な雰囲気を感じたのであろう。勝麻呂は一段下った潅木の傍に蹲《うずくま》った。
「勝麻呂殿、そなたは入鹿を憎んでいる、とおっしゃっておられるが、まことかな」
「大臣の入鹿殿なら、憎んでおりまする」
勝麻呂は緊張しながら鎌足を見詰めた。鹿を追い走り廻り、矢を射たので眼はまだ殺気立っておりその顔は汗|塗《まみ》れだった。
「勝麻呂殿だけに話そう、皇子と吾は、入鹿を斃す計画をずっと練って来ている、入鹿は漢皇子を大王位に即け、自分は大王の父として倭国の独裁者になろうとしている、あの冷酷非情で残虐な入鹿が独裁者になれば、どんな倭国が出来るか、考えただけでおぞましい、得をするのは入鹿に媚《こ》びへつらう大豪族だけで、我等は入鹿の洟《はな》のかみ方や咳《せき》払いにも一喜一憂せねばならなくなる、我等は何のために僧旻師、請安師の許で学んで来たのか、新しい時代を作るためじゃ、だが暴虐な入鹿が生きている限り、我等の望みは達成出来ぬ、勝麻呂殿、そなたは皇子のために、一命を投げ出す用意はあるか?」
「鎌子殿、吾は葛城皇子(中大兄皇子)のためなら、水火をいといませぬ、何なりと吾に御命令下さい」
勝麻呂は鎌足を睨みつけるように見ると、刀の柄を握り締めた。
「勝麻呂、入鹿と漢皇子《あやのみこ》は同一人物じゃ」
と中大兄皇子が語り掛けるようにいった。
「入鹿殿と漢皇子が同一人物とは?」
勝麻呂は不思議そうな眼を中大兄皇子に向けた。勝麻呂は、矢張り鎌足よりも中大兄皇子に命令されたいに違いなかった。
鎌足が中大兄皇子の方を向き、小さく頷《うなず》いて|※[#「目」+「旬」]《めくばせ》すると、皇子は感情を抑え兼ね甲高い声で、漢皇子を殺せ、失敗は許されぬ、と叫んだ。まだ若く激情家の中大兄皇子は、鎌足のように落ち着いて命令を下すだけの余裕がなかった。後年中大兄皇子は、性格的な面からも、鎌足から学んだものが多い。
「勝麻呂、入鹿が倭国の大王になる野望を今のうちに断つ、そのためにも、漢皇子は殺さねばならぬ、出来ぬ、と申すか」
気の短い中大兄皇子は叱咤するようにいった。
「皇子、皇子の御命令なら」
「ああ、吾の命令じゃ……」
そんな中大兄皇子の言葉を受けたように、
「漢皇子の次は入鹿ですな、それはそうと勝麻呂殿、漢皇子の殺害方法については、吾に一案が御座る、何といっても軽の地の舎人達の大半は、蘇我氏と東漢氏じゃ、充分計画を練らねば失敗する、今度、皇子の屋形で、ゆっくり話し合いたい、勝麻呂殿、大役で御座るぞ」
と鎌足は重々しくいった。
「ああ、勝麻呂、大役じゃ」
励ますような中大兄皇子の声に、海犬養連勝麻呂は下草に顔を伏せていた。漢皇子は入鹿の子供でもあるが、中大兄皇子の母の大王が産んだ子供でもあった。皇子の命令を承諾したものの、勝麻呂の心は乱れていた。
女帝が産んだ漢皇子が東漢氏の手で養育されるようになっても、入鹿は漢皇子に会いに行ったりはしなかった。入鹿の耳にも、女帝が入鹿を恨んでいる、という声が入って来た。あれ以来、入鹿は女帝に会っていない。上《かみ》の大臣《おおおみ》蝦夷も参朝しない。蘇我本宗家は大王家を全く無視して政治を執った。
入鹿が女帝に会いたくないのは、女人としての女帝を意識するからだった。入鹿は最初、女帝の気高い魅力に惹かれた。それは女帝が美貌であると共に大王であるからであった。入鹿が対等に話をすることが出来、時には入鹿を叱責する女人は女帝だけだった。これまで入鹿が媾合《まぐわ》った大勢の女人は、奴隷のように入鹿のいうままになった。入鹿は女帝に、自分と対等、いやそれ以上の女人を見たのだ。だが子供を産んだ女帝は嫉妬だけの普通の女人に戻っていた。嫉妬を抑え甲斐甲斐《かいがい》しく入鹿に尽す楓の方がずっと魅力的だった。年齢の点でも問題にならないほど楓は若い。
入鹿が宮に行かないのは、嫉妬に狂った女帝と会うのが煩わしかったからである。最初は自分を抑えても勝気な女帝は軈《やが》て感情を抑えられなくなる。入鹿は二度と、女帝のヒステリックな声を聞きたくなかったのだ。
旧暦十一月中旬、飛鳥の山野は毎年のように木枯しに襲われていた。北風は多武峰を含む音羽連山に衝突して咆哮《ほうこう》し、真神原《まがみがはら》(飛鳥川の東方)目掛けて吹き下りて来る。そして余勢を駆って甘橿丘《うまかしのおか》から高取山に遮られ、時には真神原で渦を巻く。そんな時の木枯しの音は、まさに群狼が一斉に咆哮しているようだった。
その日も木枯しの激しい日だった。豊浦《とゆら》の屋形には入鹿が召集した重臣達が集っていた。一昨日と昨日、入鹿を始め大夫《まえつきみ》達は百済《くだら》の使者と会った。百済の使者は、唐の太宗がいよいよ高句麗討伐に乗り出す計画を進めていることを告げた。
三十年前、隋との戦いで隋の捕虜となり、今は唐の武将となっているかつての高句麗の貴族が、部下を率いて高句麗に逃亡し、太宗の計画を伝えたのだった。それによると唐の太宗は来年の春、つまり六四五年の春、自ら兵を率い、水陸数十万の大軍で高句麗を攻撃する、というのであった。
太宗自ら出陣する、というところに、唐の並々ならぬ決意が窺われた。
偽の情報ではないか、と百済は疑ったが、その後間もなく、百済にも高句麗に対して軍を興すように、という太宗の勅命が届いたので、本当だと知った。勿論、新羅にも動員令が下されている筈だ。百済の義慈王は、太宗の決意を知らせると共に、翌六四五年こそ、高句麗、百済の運命が決まる年でもある旨、使者を通し、入鹿に伝えたのだ。
高句麗は唐に服従する意志は全くない。泉蓋蘇文《せんがいそぶん》の下、挙国一致、唐軍と戦う決意を固めていた。三十年前、隋が高句麗を攻めた時、百済の武王は隋の要請で大軍を動員したが百済の国境を守ることに全力を注ぎ、高句麗を攻撃しなかった。つまり、百済は高句麗寄りの中立を守ったのだ。
唐はそのことをよく知っており、今度、そういう卑劣なことをすれば、将来百済をも滅ぼすであろう、と威嚇《いかく》の書を送って寄越したという。だから百済としては、かつてのように唐の眼を誤魔化すことは出来なかった。
百済の義慈王は、そのような朝鮮三国の情勢を述べ、この際、倭国に軍事同盟を結ぶよう要請して来たのだ。
軍事同盟を結べば、唐が百済を攻めるような事態が起きたなら、倭国は唐を敵に廻し、戦わねばならない。入鹿は唐から帰国した学問僧達から、唐の国力を嫌というほど教えられていた。
勇猛で、独断でことを決め勝ちな入鹿も、流石に軍事同盟を結ぶことには躊躇《ちゆうちよ》した。
百済の使者は、至急返事が欲しい、といったが、入鹿は上の大臣の承諾が必要だと百済の使者を納得させ、巨勢臣徳太、大伴連馬飼などと共に豊浦の屋形に戻って来たのだった。
百済の使者は難波の館に滞在することになった。
入鹿はことの成行きを蝦夷に報告すると共に、軽王《かるのきみ》、阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》、息長《おきなが》山田公などの重臣達を召集したのだ。蝦夷は真向から反対した。倭国が他国から攻撃を受けないのは遠国で、水軍力が優れているからだが、大唐が本気になって倭国を攻めたなら、倭国の水軍力ではどうすることも出来ない、というのが反対の理由だった。水軍力が問題になったので、水軍の長《おさ》である阿曇《あずみの》連比羅夫《むらじひらぶ》も呼ばれた。だが比羅夫が来るまでに会議の大勢は決していた。巨勢臣徳太を始め、軍事同盟に賛成する者は一人も居なかった。
入鹿も軍事同盟を結ぶ気はなかった。だが全員が反対すると、強引に逆らってみたくなるのが入鹿の性格だった。何時の間にか入鹿一人が、軍事同盟を結ぶべきだ、と叫んでいた。
大夫達も蝦夷が反対しているので心強いらしく、入鹿が机を叩き顔を真赫にして、高句麗、百済、倭国の三国が一心同体になれば、大唐といえども恐ろしくはない、と叫ぶと、顔を背けるのだった。そして蝦夷の表情を窺う。その度に蝦夷は入鹿に向って首を横に振った、入鹿は会議の席で一人浮いている自分に気付いた。これ以上、自分一人が反対意見を述べたなら、大臣という地位に傷がつき兼ねない。入鹿はもっと逆らいたいのを我慢して蝦夷にいった。
「問題は水軍力じゃ、間もなく水軍の長阿曇連比羅夫が来る、比羅夫が駄目だ、といえば吾も引き下る」
軽王始め座の全員がほっとしたように吐息をついた。安堵《あんど》の吐息だった。阿曇連比羅夫の意見は聴かなくても分っていた。
入鹿も分っていたので、比羅夫の名をあげたのだ。一刻ぐらい待ったろうか、比羅夫が駈けつけた。
当時、比羅夫は漸く三十半ばに達したばかりであった。
入鹿は末席に坐った阿曇連比羅夫を睨みつけるように見た。比羅夫も席に漂う緊張感で、大事な議論が行われていたことを感じたらしく、頬を強張らせた。
「阿曇連比羅夫、大臣として問う、唐の軍船が倭国に攻めて来た場合、打ち破る自信はあるか、正直に答えろ、誰にも遠慮は要らぬ」
入鹿は深呼吸をすると表情に似ず穏やかな口調で質問した。
「えっ、唐の軍船が攻めて来た、何時です?」
阿曇連比羅夫は腰を半分ほど上げた。
「坐れ比羅夫、落ち着くのじゃ、大臣は将来の話をしておる、もし攻めて来たなら防げるか、と訊いておるのじゃ」
と蝦夷が声を荒らげた。それでも水軍の長か、といっているようだった。阿曇連比羅夫の今の狼狽振りを見ただけで大体の見当がつく。倭国の水軍で唐の軍船を迎え撃つのは先ず無理であった。
「唐の軍船の数にもよりまする」
と比羅夫は手で額の汗を拭いた。
「唐の軍船が海を渡り、百済を攻めた場合を考えてみよ、五十|艘《そう》か、百艘か?」
と入鹿は眉を寄せた。
「はっ、吾は高句麗の使者から唐の軍船のことを聞いたことが御座居まする、非常に大きな船で、倭国の軍船の倍近くはある、とのことでした、噂では唐は更に水軍力を強化し、巨大な軍船を建造中とか、つまり、隋が高句麗攻撃に失敗したのは陸兵にばかり頼っていたからだ、と悟ったようで御座居まする、吾はまだ唐の軍船を見ておりませぬが、あの広い海を渡り百済を攻める以上、間違いなく軍船の大きさは倭国の軍船の倍はありましょう、唐の軍船が五十艘なら我方の軍船は百艘、いや百五十艘は必要で御座居まする」
「そうか、では、唐の軍船の三倍の数の軍船があれば勝てるのじゃな……」
と入鹿は眼を剥いた。
「いや、それで五分と五分、勝てるとはいい切れませぬ、大臣、朝鮮三国の情勢は緊迫しておりまする、今は百済大寺造営などに貴重な資材と百姓を使っておる時では御座居ませぬ……」
この時とばかり阿曇連比羅夫は兼々《かねがね》思っていたことを述べたのだ。
「何をいうか、大王の御命令で造営しておるのだぞ、退れ!」
百済大寺造営長官になっている阿倍倉梯麻呂が激怒した。
「倉梯麻呂、余り怒るな、比羅夫の頭の中は軍船のことで一杯なのじゃ」
と軽王が顎鬚を撫でながら倉梯麻呂を制した。比羅夫の失言に対し、怒ったのは倉梯麻呂一人で、他の重臣達は無言で表情さえ変えない。重臣達は唐と朝鮮三国の緊迫した状態を知っていた。そして戦は倭国に飛び火するかも分らないのだ。百済大寺の造営にこれ以上百姓や資材を使うことは、確かに時代錯誤かもしれなかった。
だが女帝には、唐と朝鮮三国、倭国との緊迫した情勢は理解出来ないだろう。
「比羅夫、ようするに今の水軍力では唐の水軍に勝てぬということだな……」
入鹿は遠くを眺めるような眼付きで訊いた。
「大臣、今のままでは勝てません、火矢が唐の巨大な軍船に届きませぬ」
「分った、上の大臣、百済との軍事同盟は止めます、ただ、比羅夫がいったように、のほほんとしている時代ではない、この飛鳥を守るためにも、要所要所に城を築かねばならぬ、我等も戦の準備をすることで、百済の義慈王を力づけたい、吾は前々から豊浦の屋形を甘橿丘の上に移し、要塞化することを考えていた、倭国がどんな状態にあるかを群臣に教えねばならぬ、学問僧の講義で頭だけは強くなったが、戦のことなど全く考えていない連中が多い、上の大臣、早速工事に取り掛りましょう」
こういう場合の入鹿の決断は早かった。
入鹿は百済との軍事同盟の締結が、蝦夷によって拒否されるのを知っていた。その代償として、兼々考えていた甘橿丘の上に屋形兼城塞を建てる計画を実行に移そうとしたのだ。入鹿は、自分の考えを二、三度蝦夷に話したことがあった。蝦夷は、そんなことをすれば、群臣は、蘇我本宗家が大王家を乗っ取る準備に掛った、と警戒するに違いない、と入鹿の考えに反対していたのだ。
「それはこの席で議論することではない、後日、話し合おう」
集っている重臣は、思いもよらない入鹿の発言に息を呑《の》んだ。
甘橿丘に登れば、飛鳥一帯を眺めることが出来る。だから甘橿丘の上に屋形を建てたなら、屋形の住人は大王が住む板蓋宮を見下ろすことが出来るのだ。
現在の大王、皇極女帝には政治権力はない。だが天神地祇を祭る最高司祭者としての大王の地位は大臣よりも高い。
群臣の間に、大王は天の子、つまり天子である意識はまだまだ根強い。その大王の宮を上から見下ろすのは、大王の権威を侮辱することになる。つまり、蘇我本宗家は、大王家の権威など認めない、と宣言したのと同じなのである。重臣達が息を呑んだのも無理はなかった。
入鹿の発言に、入鹿と仲の良い軽王さえ顔を強張らせた。蝦夷が入鹿の発言を封じたのも当然である。蝦夷は独裁者になろうとは思っていなかった。大王家を利用して政治権力を完全に掌中におさめようと考えていたのだ。そんな蝦夷にはまだかつての貴族合議政治の残滓《ざんし》がこびりついている。だから蝦夷は群臣の思惑を気にしたのだった。
だが今の入鹿は違う。入鹿は独裁者になろうと考えていた。そんな入鹿にとっては大王家は寧《むし》ろ邪魔であった。女帝が産んだ自分の子、漢皇子さえも今は兎も角、将来は邪魔になりそうな気がするのだ。そこが、蝦夷と入鹿の違いだった。
ただ入鹿も群臣の前で、蝦夷と論争したくなかった。入鹿は激昂《げつこう》し易い自分の性格をよく知っていた。
入鹿は息を呑み、表情を強張らせている重臣達を眺めながら、独裁者になるためには、重臣達がまだ抱いている貴族の合議政治への郷愁を打ち破らなければ駄目だ、と判断した。
「上の大臣、蘇我本宗家の祖が葛城から飛鳥に移って来たのは、飛鳥が都に適している、と考えられたからではないでしょうか」
入鹿は姿勢を正すと蝦夷の方を見た。
「ああ、父、嶋大臣はよくそういわれていた」
と蝦夷は慎重に答えた。
「都に適している土地といえば、周囲の地形が、守り易く、攻め難くなっておらねばなりますまい、その点は飛鳥は西の畝傍山から南にかけての丘陵が複雑で、慣れぬ者など、何処をどう歩いているのか分らぬ、東の音羽連山は峻険《しゆんけん》で天然の要塞《ようさい》じゃ、北は開いておるが、香久山、|雷 丘《いかずちのおか》、甘橿丘と続く丘陵に軍勢を集めれば、巨大な要塞になります、ただ、天然の要塞も、放っておけば何の役にも立ちませぬ、倭国の将来を思い、今からでも重要な丘陵地帯に砦《とりで》を造ることを、吾は提案したい、上の大臣如何でしょうか……」
「唐と朝鮮三国の情勢が、大臣がいうほど緊迫しているなら、本気になって考えねばならぬ、ただ、二、三年前から、板蓋宮、百済大寺と大工事が続き、東の民、西の民も疲弊しておる、外敵を防ぐ場合、一番大切なのは民、百姓じゃ、民、百姓が兵になって戦う、だから急な工事は考えぬ方が良い」
蝦夷は年齢だけに矢張り慎重だった。
軽王が尤《もつと》もだ、という風に頷いた。入鹿には、蝦夷の考え方が物足りない。百済の義慈王が同盟を申し入れて来た、というのは、朝鮮三国の情勢が倭国が想像しているよりも緊迫しているからではないか。
入鹿はそんな風に考えていた。
「上の大臣、民、百姓が疲弊しているなら、百済大寺の造営工事は暫く延期すべきでしょう、先ず飛鳥の要塞化が第一だ、と吾は考えまする」
「大臣、お待ち下さい、百済大寺の造営は、息長足日広額《おきながたらしひひろぬか》大王(舒明)の御遺言でもあり、現|大王《おおきみ》も熱を入れられておるのです、今、工事を中止すれば、工事再開のめどはなかなか立ちますまい、このまま続ければ、来年の夏までには完成出来る、と思っておりますが……」
阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》は必死の面持ちでいった。阿倍倉梯麻呂は、現在百済大寺の造営長官であった。倉梯麻呂が入鹿の意見に口をはさんだのは当然である。入鹿は冷たい眼を倉梯麻呂に向けた。入鹿は軽王とは仲が良いが、倉梯麻呂には好い感じを抱いていなかった。
かつて入鹿が上宮王家《じようぐうおうけ》の乳部《みぶ》の民を武蔵国から徴発しようとした際、難色を示したのは阿倍倉梯麻呂だったからである。
阿倍倉梯麻呂の娘|小足媛《おたらしひめ》は軽王の妻になっており、有間皇子を産んでいる。だからその時も軽王が倉梯麻呂を説得し、倉梯麻呂も渋々承諾したのだが、どちらかといえば蘇我本宗家よりも大王家に肩を入れている。
入鹿が軽王等と斑鳩寺を攻めた時、阿倍倉梯麻呂は言を左右にして攻撃軍に加わらなかった。
いうまでもなく阿倍臣は軍事氏族であり、阿倍倉梯麻呂は、陸の軍事長官的な地位にあった。それだけに、倭国の独裁者になろうとしている入鹿には、阿倍倉梯麻呂は目の上の瘤《こぶ》でもあった。
「倉梯麻呂、阿倍臣は軍事氏族ではないかな、どうだ?」
「軍事氏族で御座居まする」
阿倍倉梯麻呂は入鹿を見返した。
「軍事氏族なら、倭国の軍事を第一に考えるべきではないか、それとも阿倍臣は寺工か?」
「お待ち下さい、吾は軽王の御依頼を受け、現大王の御勅命で百済大寺造営長官になりました、大王の御勅命を受けた以上、長官としての任務を全うしなければなりませぬ」
「それは違うぞ、大王の勅命があったのは、上の大臣《おおおみ》が大臣であった当時、おぬしを百済大寺造営長官に任じたからじゃ、今、吾は大臣じゃ、吾がおぬしを解任すれば、もうおぬしは百済大寺の造営に関係がなくなる、そういうことは分っているのだろうな……」
木枯しが吹き捲《まく》る季節なのに、倉梯麻呂の額には汗が滲み出ていた。
「蘇我大郎、百済大寺の造営については、吾にも考えがある、吾にまかせてくれないか」
軽王が険悪になった二人の間に割って入った。軽王としては、入鹿の機嫌を損じたくなかったが、義父である倉梯麻呂をも味方にしておきたかった。何といっても倉梯麻呂は大伴、巨勢に優る軍事力を有していた。
「どのように考えておられる?」
と入鹿は軽王に訊いた。
「吾は明日にでも大王に会う、唐、朝鮮三国の緊迫した情勢を説明し、百済大寺の使役の民の数を半減させよう、大王としても、工事が中断するよりも良い筈じゃ、倉梯麻呂、こういう情勢じゃ、軍事面のことも、考えるべきではないかな」
軽王は倉梯麻呂に|※[#「目」+「旬」]《めくばせ》した。
軽王は何といっても大王の弟であり、娘の夫である。入鹿との衝突を避けさせたい、と望んでいる軽王の気持を踏み躪《にじ》ることは倉梯麻呂には出来なかった。阿倍倉梯麻呂は低い声で答えた。
「分りました、ただ使役の民を半減しようと、工事だけは続けて頂きとう御座居まする」
倉梯麻呂の言葉を受けた軽王は、入鹿と蝦夷の顔を見較べながらいった。
「大臣、これでどうかな、明日、大王を説得する、吾にまかせて貰《もら》いたい」
入鹿としてもこれ以上、自分の意志を通すことは出来なかった。大伴連馬飼、巨勢臣徳太なども石の像のように口を閉じていた。入鹿は今更のように、独裁者への道が遠いのを痛感した。入鹿は確かに有力な氏族を味方として掌握していた。だが全部を掌握しているのではなかった。それに蘇我氏の有力な支族である蘇我倉山田石川麻呂は、明らかに蘇我本宗家に反感を抱いていた。しかも天神地祇の最高司祭者である大王が厳として存在している。
もし入鹿が、真の独裁者になろうと思えば、大王を始め蘇我本宗家に反感を抱いている有力氏族を一人残らず斃さねばならなかった。
高句麗の独裁者|泉蓋蘇文《せんがいそぶん》は、独裁者になるために、自分に反対する諸大臣を含む貴族達百余名を宮の南に設けた酒宴の席に招待し、彼等を一挙に殺したのだ。そして、そのまま宮に乗り込み、栄留王を殺し、その身体を切り刻み溝の中に捨てたのだった。
今、入鹿が独裁者になろうと思えば、百名も殺さなくても良い。僅か十人で充分だった。王族では何かとうるさい|大 派 王《おおまたのおおきみ》だけである。大王は女帝だし自分の子供を産んでいる。軽王は入鹿の味方だった。とすると、石川麻呂と、石川麻呂の許に出入りしている蘇我氏の支族の長三、四人、それに、阿倍倉梯麻呂、また豊浦《とゆら》の屋形に余り顔を出さない紀臣の首長と息長山田公ぐらいを殺せば、充分である。他の有力氏族、地方の豪族も蘇我本宗家に慴伏《しようふく》する。その時点で完全に入鹿は倭国の独裁者になることが出来るのだ。どんなに数えても十人足らずだった。十人足らずなら何時でも殺せる。と入鹿は胸の中で呟いた。呟くことで入鹿の気持はおさまった。だが、入鹿の胸中の暗殺リストの中には鎌足や中大兄皇子は入っていなかった。まさに入鹿の盲点である。
「阿倍倉梯麻呂、百済大寺造営の件は軽王にまかせる、ただ現在の唐と朝鮮三国の情勢は、大寺など建てているほど、のんびりしたものではない、ということを、おぬしもよく認識して貰いたい、それで良いか」
気持のおさまった入鹿は落ち着いた声でいった。
「結構で御座居まする」
と阿倍倉梯麻呂は頭を下げた。
集った重臣達はほっとしたように吐息を洩らした。
翌日軽王は姉の皇極女帝に会い、国際情勢を説明し、これまでのような調子で、百済大寺の造営は出来ない、と説得した。
女帝は意外にも軽王の説得を撥ねつけた。軽王に対し、それは蘇我大郎入鹿の意向だろう、と詰問し、百済大寺の造営は亡き大王舒明の遺志であり、何が何でも自分の眼の黒いうちに完成させる、と眼尻《まなじり》を釣り上げた。女帝は入鹿を愛し入鹿の子供を産んだ。だが入鹿はお義理のように一度会いに来ただけである。皇子が、皇子の乳人となった東漢氏の軽《かるの》郎女《いらつめ》の里に移された時も会いに来なかった。それに噂では、入鹿が愛し、蘇我氏の本貫地である葛城の高宮に住まわせている楓は、入鹿の子を身籠っている、という。
女帝の入鹿に対する愛情は憎悪に変っていた。愛情と表裏一体の憎悪である。それに女帝は勝気なだけに、憎悪も激しい。
女帝は入鹿が参朝し、自分の前に手をついて頼まなければ承諾しない、と蒼白な顔で、軽王に憤りをぶちまけた。入鹿と親しいのは良いが、入鹿の意のままに走り使いのように動き廻っている弟が腹立たしかった。阿倍倉梯麻呂のような有力者が味方についているのである、もっと毅然としろ、と女帝は軽王にいいたかった。
簡単にことが運ぶと思っていた軽王は狼狽し、それでは蘇我本宗家を敵に廻すことになる、と女帝に忠告したが、女帝は諾《き》かない。
「ああ、敵になろう、朕《わ》は蘇我大郎など少しも恐ろしくない、朕が蘇我本宗家に反抗すれば、蘇我大郎は朕を殺すというのか、軽王、朕の気持をはっきり蘇我大郎に伝えるのじゃ」
女帝は宮中に響き渡るように喚《わめ》いた。美貌で勝気なだけに怒った時の形相は凄まじかった。仕えている女人達は身体を硬直させ、息をするのもやっとであった。
軽王は這《ほ》う這《ほ》うの体《てい》で宮を出た。
宮に仕える女人達の口から、女帝の憤りの言葉が、噂となって拡がった。噂というものは、より大きくなって拡がるものだ。
宮に食糧を納入している|膳 《かしわでの》臣《おみ》の部民《べみん》達は、女人達から聞いた話に尾鰭《おひれ》を付けて、宮廷警護長や、副警護長に喋《しやべ》った。
内容は、女帝が軽王に、蘇我大郎入鹿を殺したい、今直ぐ宮に連れて来るように命じ、軽王が蒼《あお》くなって宮を出た、というようなものである。
噂を耳にした鎌足は、いよいよ入鹿を斃す時期が迫って来た、と胸を躍らせながら、その噂を、如何にも尤もらしい顔で、中大兄皇子や、石川麻呂に伝えるのだった。
入鹿はそんなことは知らない。軽王は女帝と入鹿が衝突するのを恐れ、暫く真相を報告しなかった。ただ、その頃から軽王は入鹿の独走を不安に感じるようになっていた。入鹿と親交を結んでいても、大王位が自分に来るかどうか分らない、と危惧の念を抱き始めていたのだ。
ことに、今女帝は、女の情念で入鹿を憎み、入鹿と親しい重臣達にも憎しみの眼を向け始めていた。
女帝が憤っているのを入鹿が知ったのは、軽王が女帝と会ってから十日後であった。
蘇我《そがの》田口臣《たぐちのおみ》川掘《かわほり》が知らせたのだ。入鹿は直ぐ軽王の屋形を訪れたが、軽王は風邪を引いて寝ていた。軽王は直ぐにも報告したかったが、熱を出し寝込んでしまったので、報告出来なかった、とわざとらしく咳き込んだ。そんな軽王に入鹿は油断出来ないものを感じた。入鹿が軽王と親交を結んだのは、唐の中央集権制度を、何時か倭国に取り入れなければならない、という点で意見が一致したのと、王族である軽王を味方にしておきたかったからだ。
推古女帝が亡くなり、大王位が舒明に移って以来、大王家には息長氏の血が濃く入り込んだ。蘇我系の王族は山背大兄皇子とその一族が全滅して以来、一人も居ない。
だから、政治を運営して行く上に於て、軽王のような有力王族を味方にしておくことは、これまでの蘇我本宗家にとって必要だった。
だが、現在の入鹿にとって最も大事なのは蘇我本宗家の栄華ではなかった。自分が独裁者になることだった。そんな入鹿にとっては、自分の子である漢皇子さえもうとましい。まして大王位に有りつこうと近付いて来る軽王は、うとましいだけでなく、邪魔な存在に変っていた。
入鹿は軽王が本気になって女帝を説得したかどうか、疑いながら豊浦の屋形に戻ったのである。
旧暦十一月下旬で、その日も昼過ぎから木枯らしが吹き荒れていた。
入鹿は蝦夷と二人切りで、二刻余りも話し合っていた。もう子《ね》の刻を過ぎようとしている。当時は貴族クラスでも余程の用事がなければ朝早く起き、夜は早く寝るのが習慣だった。夜の酒宴の際も、どんなに遅くても戌《いぬ》の刻には終る。
今のように電気がなく、また夜の遊びがないせいでもあった。だから子の刻まで起きているということはめったにない。
蝦夷は眼窩《がんか》が窪《くぼ》み疲労の色が濃い。隣室に控えている女人達は坐りながら眠っている。入鹿は甘橿丘《うまかしのおか》に屋形を建て、蘇我本宗家の邸宅を城塞化することを蝦夷に要求していた。と同時に、百済大寺の工事を中止するよう、入鹿が女帝に要求することの承諾も求めていた。蝦夷は大抵入鹿の要求を呑むが、この二つの件は首を縦に振らないのだ。
反対に蝦夷は、ことを焦ってはならない、と入鹿をたしなめるのだった。漢皇子さえ成年になれば、蘇我本宗家がこれまでにない大きな権力を握り、繁栄する時代が来る、というのである。
「大郎、そちが先日、重臣達の前で、甘橿丘の上に屋形を建てる、と公言したことは不味《まず》かったぞ、多分重臣達の中には、そちが大王《おおきみ》を威圧し、大王を足下に跪《ひざまず》かせる積りだ、と受け取った者も居る、折角大王がそちの子を産んだのじゃ、蘇我本宗家と大王家が一体となる日が間もなくやって来る、何も今、大王と争う必要はない、そちもそちだ、大王が漢皇子を産んで三カ月になるのに、たった一度しか大王と会っていない、大王とて女人じゃ、そちが甘い言葉の一つでも掛ければ、態度も変る、そちのいうままになる、三度甘い言葉を掛けてみよ、きっと百済大寺の工事も中止するであろう、そちには分らぬか、強引に造営工事を進ませているのは、そちに対する面当てだぞ、女人とはそんなものだ、大王に子供を産せたのに、それぐらいのことがそちには分らぬのか……」
蝦夷が何時ものように、今夜は眠る、といわずに入鹿をたしなめているのは、このまま女帝と対立したなら、漢皇子が成長するまでに、蘇我本宗家が弱体化する、と感じていたからだった。蝦夷は今、何に対しても折れようとしない入鹿に危惧の念を抱き始めていた。
親子の論争は果しなく続けられた。蝦夷がこれほどの粘りを示したのは異常であった。
上の大臣になって以来、蝦夷は政治の殆どを入鹿にまかせ、入鹿の政策を是認した。
是認しない時もあったが、入鹿が説得すると、焦らずにやれ、といいながら承諾した。
それだけに、入鹿は次第に蝦夷の粘りに圧倒された。蝦夷の顔の疲労の色が濃くなるにつれ、入鹿の気持も弱って来た。
「分りました、大王に会います、新しい屋形を建てる件については、考えておいて下さい」
入鹿はそういうと、豊浦の屋形を出た。
木枯しが激しいので、篝火《かがりび》を燃やせない。下旬の月は消え掛けており、屋形を守っている東漢氏の兵士達の顔も識別出来なかった。
槍を持った兵士達は、絶えず屋形の周囲を廻り、兵士同士出会うと合言葉で確認し合っている。
暗闇の中から雀が現れた。
「雀、今から葛城に行く」
「吾君大郎、この風の中を……」
雀の声にはとまどいがあった。
「寒いのか」
入鹿はいどむように雀にいった。
鬱屈した思いが胸の中にあった。
「いいえ、寒くは御座居ませぬ……」
雀は唇に指を当てると音を鳴らした。木枯しの唸り声を貫き透すような鋭い音だった。数人の兵士達が雀の傍に集った。
「大臣の馬をここに、今から葛城に行く」
雀は叱咤するように兵士達に命じた。
雀の声には何の逡巡《しゆんじゆん》もなかった。途端に入鹿は葛城に行く気をなくした。
「雀、考えが変った、嶋の屋形に戻る、今夜は吾と付き合え、酒でも飲もう」
入鹿は兵士が連れて来た愛馬の鬣《たてがみ》を撫でると馬に乗った。
女帝に会い、優しい言葉を掛け、閨《ねや》を共にしたなら、百済大寺の造営工事を、女帝が中止することぐらい、蝦夷にいわれなくても、入鹿には分っていた。だが、今の入鹿は、女帝の機嫌を取る気にはどうしてもなれなかったのだ。確かに楓を愛してしまったことも一つの原因かもしれない。だがそれだけではない。相手が女帝であろうと、入鹿は女人に対し、演技をして取り入ることの出来る性格ではなかったのだ。
大王である女帝は、今、入鹿を憎んでいた。愛情と表裏一体の憎悪だけに、入鹿を見れば、ストレートに憎悪をぶつけて来るだろう、そんな場合、自分がどんな態度に出るか、入鹿はよく分っていた。無言で女帝を睨みつけるに違いなかった。入鹿も三十半ばを過ぎている。ののしったりはしないが、そのまま踵《きびす》をめぐらし宮を飛び出すだろう。
結局、女帝に会ったことによって、事態は益々悪くなるのだ。
嶋の屋形に戻ると、入鹿は眠りこけている女人達を叩き起し酒盛りの準備をさせた。
寝静まっていた嶋の屋形の中は嵐のように騒々しくなった。入鹿は屋形を守っていた警護長と雀を強引に部屋に上げた。酒の相手をさせるためであった。入鹿に命令だといわれた以上、雀も警護長も断わるわけにはゆかない。入鹿は手を拍《う》ち、屋形中に響き渡るような声で怒鳴った。
「竈《かまど》に薪をどんどん放り込め、威勢よく火を燃やすのじゃ、それから酒じゃ、酒を早く持って参れ」
女人達は身体を寄せ合って暖を取り眠っていた。起された女人達は寝衣に幅広い布を掛け、寒さに慄えながら入鹿の命令に従った。ここ暫くなかったが、かつての入鹿にとってこのような行動は日常茶飯事だった。
厚い熊の皮の上に胡坐《あぐら》をかいた入鹿は、専用の金銅の酒杯になみなみと注がせた酒を喉を鳴らしながら飲んだ。雀と警護長は須恵器《すえき》の酒杯である。そして二人は入鹿にすすめられるままに飲んだ。入鹿の傍には、越と出雲の国の女人が、寄り添うように坐っていた。両国が完全に大和朝廷に服従したのは六世紀の後半である。入鹿の祖父、馬子の時代だった。そういう意味で両国の女人は異国の女人ともいえる。
「雀、父上は吾に、大王に会い、機嫌を取れ、といわれた、だが吾は女人の機嫌は取れぬ、損だと分っていても取れぬのだ」
雀は黙って頷き眼を伏せた。
「雀、分るか、吾の気持が、これは難題だのう、そちには分るまい、ただ雀、これだけはいえる、吾は計算ずくで大王に近付いたのではない、そんなことは吾には出来ぬ、それが出来るくらいなら、明日にでも大王の機嫌を取りに行く、大王と一夜を明かした部屋は今も残っている、大王を思い出の場所に招待する、床を鹿の毛皮で蔽《おお》い、壁と屋根の下に熊の毛皮を貼りつける、何十枚の毛皮を使っても良い、そうすれば竈の火など燃やさなくても暖かい、酒が更に身体を暖めてくれる、後は簡単じゃ……」
入鹿は酒をあおると哄笑した。
女人達は身体を固くして入鹿の放言に耳を|※[#「奇」+「支」]《そばだ》てていた。めったに聴ける話ではない。
「吾君大郎……」
雀が伏せていた顔を上げ、何処か悲しそうな眼で入鹿を見た。もうそれ以上、何もいわないで欲しい、と雀の眼はいっていた。
入鹿は声を落した。
「ああ分っておる、繰り言は止そう、ただな、吾にはそんな簡単なことが出来ぬのだ」
入鹿は左隣に坐っていた若い色白の女人を引き寄せた。海目《あまめの》郎女《いらつめ》といい、絹も及ばないほどなめらかな肌の持主で、やっと十七歳になったばかりである。この秋、|高向臣 国押《たかむくのおみくにおし》が越の高向(福井県坂井郡丸岡町の辺)から連れて来て入鹿に差し出したのだ。国押は自分の妻の一人にする積りだったが、余りにも美貌なので入鹿に差し出したのである。越の高向は河内を本貫地とする高向臣の一族が、馬子時代に移住した際出来た地名であった。
高向臣国押が、入鹿の後宮に入れた海目郎女は、在地の豪族の娘だった。
「雀、海目郎女はまだ男を知らぬ、そちにやるから、媾合え」
入鹿の腕の中で海目郎女は生れたばかりの小鳥のように慄えた。
「そればかりはお許し下さい」
雀は床に両手を突くと入鹿を見上げた。
「駄目だ、吾の命令じゃ」
大声で叫びながらも入鹿の胸中は、外の木枯しが吹き抜けて行った後のように寒々としていた。
このままでは雀の忠節を踏み躪《にじ》りそうな事態になり兼ねない。それが分っておりながら、どうすることも出来ないのだ。
突然雀が置いてあった刀を手に持って立ち上った。
「吾君大郎、馬が駈けて来ます、御免」
雀は刀を持ったまま部屋の外に飛び出した。警護長が雀の後に続いた。
雀の奴、旨《うま》く逃げたな、と入鹿は内心ほっとし、酒杯の酒をあおった。その時入鹿の耳にも馬の蹄の音が聞えて来た。しかも一騎ではない、数騎のようだった。
入鹿は海目郎女を突き飛ばすと刀を吊し、槍を持って烈風の中に出て行った。
嶋の屋形を守っていた東漢氏の兵士達に囲まれながら、馬から降りた男達が、上の大臣の使者じゃ、と叫んでいた。
槍を握り縁《えん》の上に立っている入鹿のところに雀が走って来た。
「吾君大郎、軽の地に住む吾の一族の者です、上の大臣の命令で……」
雀は凍りついた庭地に膝を突いた。
「何だと、軽の地の者だと……、呼べ」
雀が角笛を吹くと、警護長が使者の長らしい人物と共に縁の傍まで走って来た。明りのない闇夜なので、使者の顔は分らない。雀と並んで蹲った使者の口から悲痛な呻き声が洩れた。
「どうしたのじゃ、聞えぬぞ」
入鹿は階段を降りた。
「大臣、無念で御座居まする。何者かが軽《かるの》郎女《いらつめ》の屋形に火を放ち、皇子は火の中で、軽郎女と共に……」
「焼け死んだのか、父上は?」
「馬で出掛けられました」
最近蝦夷は殆ど馬に乗っていない。そんな蝦夷が身体が凍るような深夜の木枯しの中を、馬で出掛けたのは、奇蹟を願ったからに違いなかった。蝦夷は蘇我本宗家の将来を漢皇子《あやのみこ》に賭けていたのだ。自分の眼で漢皇子の遺骸を見なければ納得出来なかったのだろう。
「雀、直ぐ吾も出掛ける、馬を用意して待て」
入鹿は毛皮を着るべく屋形に入った。
風が強かったので、火は隣に建っていた軽郎女の父母の屋形も焼いて漸くおさまった。当時は火が出ると、小川の水を甕《かめ》などで汲み、リレー式に手渡して消火に当るが、風の強い日など殆ど役に立たない。飛び火で火事が拡がるのを防げれば良しとせねばならない。
入鹿が駈けつけた時、二つの屋形は燃え尽きていた。
蝦夷は|東 漢 直《やまとのあやのあたい》等に囲まれ、茫然と立っている。漢皇子の屋形を警備していたのは、二人の東漢氏だが、二人共矢で射られ、更に槍で刺されて殺されていた。この暗闇である。一度離れたならもう見えない。また木枯しが、忍び寄る足音を消す。それに二人共、漢皇子を殺しに来る者が現れようとは、想像もしていなかったに違いない。
「父上……」
入鹿も流石に胸が一杯になり蝦夷の手を握った。
「大郎、甘橿丘の上に屋形を建てよう、城塞化するのじゃ、倭国の最高権力者が誰であるかを、我等に反抗する者に見せてやる、百済大寺の造営に携わっている使役の民を、我等の屋形の造営に使う……」
蝦夷は腹の底から絞り出すような声を出した。
こうして、漢皇子殺害という思い掛けない事態は、蝦夷をも独裁者の道に走らせたのだった。上宮王家《じようぐうおうけ》の一族が全滅して以来、眼に見えない亀裂を生じていた蝦夷と入鹿の関係は回復した。蝦夷は、独裁者たらんとしている入鹿に蘇我本宗家の将来を賭けたのである。
蝦夷、入鹿は月が替ると重臣達を豊浦の屋形に呼び、倭国の政治は総て大臣の命令で行うことを宣言した。
そして阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》の百済大寺造営長官の任を解いた。後任者を決めなかったから、百済大寺造営工事はストップしたのも同じである。
と同時に、甘橿丘の上に蘇我本宗家の屋形を建てることを明らかにし、百済大寺の使役の民を屋形の造営工事に当てることを告げた。
「もし大王《おおきみ》が反対したなら、百済大寺に兵士を差し向け、使役の民を甘橿丘に集める、吾の決意は変らない、軽王《かるのきみ》からも大王に伝えていただきたい、ただ、吾は何も大王家に敵対する積りはない、我等の屋形を城塞化せねばならないほど、朝鮮三国の情勢は緊迫しておる、ということじゃ、大王は女人、なかなか海の向うの政治情勢はお分りにならぬらしい、軽王、よろしくお願い申すぞ」
蝦夷は叔父である境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》を死に追いやった往年の血気を取り戻したように、顔を紅潮させていた。
ひょっとすると蝦夷は、蘇我本宗家の余命が幾何《いくばく》もないことを無意識に感じ取っていたのかもしれない。蝦夷の言動は生命の尽きる前の最後の炎にも似ていた。
軽王を始め重臣達は、蝦夷の気迫に圧倒され、反対意見を出す者は勿論、忠告する者さえ居なかった。
女帝は軽王から、蘇我本宗家の並々ならぬ決意を聴かされた。だが女帝には唐や朝鮮三国の政治情勢はよく分らなかった。何といっても海の向うの話で、飛鳥には戦の気配はなかったからだ。ただ、漢皇子が殺されたことは女帝にも大きなショックだった。自分には予想も出来ない事変が起りそうな気がした。それが何だか女帝には分らない。
女帝は暗殺者を憎み、また大王家を無視し、独裁者たるべく立ち上った蘇我本宗家に怯えた。軽王に説得されなくても、これ以上意地を張り通すことが出来ないのを女帝は感じた。
女帝は遂に百済大寺の造営工事を一時ストップさせることにした。だが蘇我本宗家に怯えながらも、女帝は入鹿に対する憎悪を軽王に洩らした。
「軽王、蘇我大郎は冷酷な男じゃ、そなたは大郎と親しいようだが、用心が必要じゃ、何時、そなたを裏切るかもしれませぬぞ、大郎とのこと朕も浅はかだったと後悔しているのです」
漢皇子の死、それに続く蝦夷の、独裁者たらんとする宣言を聴き動揺していた軽王は、姉の眼に涙が浮いているのを見て、はっと吾に返った思いだった。軽王は女帝の複雑な思いの涙を、単純に入鹿に対する無念の涙だと感じたのだ。後年、中大兄皇子と鎌足に裏切られ、愛する皇后|間人《はしひとの》皇女《ひめみこ》を中大兄皇子に奪われた軽王は頭は良かったが、人間心理に対する深い洞察力に欠けていた。
軽王は思わず躪り寄ると女帝の手を握った。
「姉上、よくいってくれた、この機会に、暫く茅渟《ちぬ》宮に引き籠っておろう、病を理由にすれば疑い深い大郎も納得するだろう」
女帝は黙って弟の顔を見た。
女帝としては、大王家が孤立し掛っている今こそ、弟である軽王に頑張って貰いたかったのだ。
だが人間には器《うつわ》というものがある。軽王にはそれだけの器がないのかもしれないと女帝は自分に頷いた。
「ああ、和泉の海は美しい、暖かくなれば、朕も茅渟宮に行き、海を見たいものじゃ」
といって女帝は軽王の手を静かに放した。
茅渟宮は女帝と軽王の父、茅渟王がかつて住んでいた場所にあった。和泉の海の近くで、三年ほど前、軽王はそこに屋形を建て茅渟宮と呼んでいたのだ。
そして軽王は、翌年六月入鹿が中大兄皇子、鎌足等に殺されるまで、茅渟宮に籠っていたのである。
六四五年皇極四年三月、甘橿丘の上に蘇我本宗家の巨大な屋形が建てられた。甘橿丘は北方豊浦に向って幾つもの支脈が突き出ている。東の支脈を削って道を造り登り切ったところに上の大臣蝦夷の屋形が建てられた。大臣入鹿の屋形は西方の支脈の上に造られた。
蝦夷と入鹿は、最早誰にも遠慮しなかった。皇極女帝が住む板蓋宮を眼下に睥睨《へいげい》することが出来るのだ。甘橿丘から眺める飛鳥の都は華麗だった。丘の直ぐ東方に、馬子が建てた蘇我氏の氏寺飛鳥寺がある。塔を中心にして三方に金堂を配する伽藍《がらん》配置で、当時、飛鳥寺ほど巨大な寺はなかった。馬子は配下の総ての渡来人を動員してこの寺を造ったのだ。木部は赤や青で彩られ、塔の頂には金色の相輪が陽に煌《きらめ》きながら天に向ってそびえている。この塔こそ、天を祭る大王家の柱に挑戦した異国の神の柱であった。
思えば敏達《びだつ》十四年(五八五)、馬子が豊浦の地に塔を建てた日から、蘇我氏は大王家の神格に正面切って挑戦したともいえる。その塔は|大連 物部守屋《おおむらじもののべのもりや》によって焼かれたが、馬子は守屋を滅ぼし、巨大な飛鳥寺を建てることによって、蘇我氏の威光を示し、蘇我氏の権力を不動のものにしようとした。
だが馬子の理想は達成されなかった。蘇我系の大王たるべき聖徳太子が馬子に反抗したため、蘇我氏は分裂し、大王位を一時|息長《おきなが》系に譲らざるを得なくなったからである。そして蘇我本宗家は孤立した。
だが今、蘇我本宗家は馬子時代より以上の権力を得ようと立ち上ったのだ。だがそれは、たんに大王家を威圧し、無視することだけで可能なのではない。有力氏族をも威圧し服従させねばならない。
漢皇子を殺され、蝦夷もやっとそれに気付いたようであった。
蝦夷は入鹿と相談し、自分が住む屋形を上《かみ》の宮門《みかど》、入鹿の屋形を谷の宮門と名付けた。
子供達を王子《みこ》と呼び、甘橿丘を守る東漢氏を始め、訪れる重臣達にもそう呼ばせた。
屋形の外は城柵で囲まれ、蝦夷と入鹿の屋形の門の傍には武器庫が造られた。二つの武器庫には数百の槍、刀、弓、そして数千本の矢がおさめられた。
支脈と支脈との間には、昼夜を問わず槍を持った東漢氏の兵士が居た。警護の兵士達は百名を超えていた。
更に甘橿丘の上には、蝦夷、入鹿を守る親衛隊の兵士達数十名が居た。
蘇我本宗家を護衛する親衛隊の総大将は|東 漢 長 直 阿利麻《やまとのあやのながのあたいありま》だった。だが阿利麻は東漢氏の族長といってよく、政治の場として増築した畝傍の屋形や、新しく蝦夷、入鹿が建てた武器庫兼監視所の性格を持った桙削《ほこぬき》寺の護衛長も兼ねていた。
桙削寺は阿利麻が直接指揮して建てたもので、飛鳥川上流|栢森《かやのもり》を見下ろす山頂にあった。
芋峠から吉野に通じる道を押える役目を果す城塞だった。寺門には巨大な武器庫が造られ、兵士達が常に山道を見張っている。
だから阿利麻は総大将といっても、名目だけで直接甘橿丘に籠っていない。
何時か、甘橿丘の蝦夷を守る隊長は私兵を率いて警護を申し出て来た高向臣国押になっていた。国押は越前の高向から自分の妻にするため呼び寄せた海目《あまめの》郎女《いらつめ》を入鹿に差し出して以来、入鹿の信頼を得ていた。
それに私兵を率いて、甘橿丘を守るなど、この上もない忠誠心だと入鹿は感じ入ったのだ。ことに国押が、かつて親しくしていた石川麻呂を、漢皇子《あやのみこ》が殺されて以来完全に見放し、蘇我本宗家に意を寄せて来たことに満足していた。
国押は、漢皇子が成長すれば、蘇我氏から大王が出るのに、皇子が殺されても無関心でいる石川麻呂に腹を立てたのだ、と蝦夷や入鹿に石川麻呂を見放した理由を述べた。
この国押の石川麻呂に対する批判は、入鹿だけではなく大いに蝦夷の気に入り、国押を自分が住んでいる上の宮門の警護長にしたのである。位も小仁から大仁に進めた。ただ警護長といっても毎日来るわけではない。一日置きぐらいに顔を見せ、東漢氏の兵達を激励した。いうまでもなく国押は石川麻呂と意を通じており、この時点に於ては石川麻呂側の完全なスパイとして蘇我本宗家に接近して来たのである。
それを見抜けなかったところに、蝦夷、入鹿の大きな誤算があった。高向臣は百済からの渡来系氏族であり、国押には東漢氏の血が流れていた。だから国押が蘇我本宗家に忠節を誓うのも当然だと、蝦夷、入鹿は頭から信じ込んでしまったのだ。
新しい時代の流れに氏族意識は不必要であると考えていた入鹿さえ、無意識のうちに血の流れを重視していたのかもしれない。
甘橿丘を守らせたのは東漢氏を主体とする渡来系氏族で、古くから大和に居住する豪族の私兵は一人も居ない。
入鹿は軽王と親交を結び、巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、大伴連馬飼、|中臣連 塩屋枚夫《なかとみのむらじしおやひらふ》等を味方にして、倭国の権力を掌握しようとした。だが漢皇子が殺されて以来、軽王は病を理由に茅渟宮に去った。飛鳥での権力争いに捲き込まれたくなかったせいだが、そのため阿倍倉梯麻呂は、蘇我本宗家が政治掌握の場としている畝傍の屋形に余り顔を見せなくなった。その他の諸重臣は、畝傍の屋形に顔を見せるが、気のせいか、入鹿には彼等がよそよそしく思えて来た。こうなると、蝦夷、入鹿としては、武力を背景に、大臣の権威、権力を誇示しなければならなくなる。
蝦夷、入鹿は畝傍の屋形を増築した際、屋形の周囲に堀をめぐらし、門の傍に武器庫を造った。そして畝傍の屋形も五十名を超える東漢氏の兵士達に守らせた。
甘橿丘から畝傍の屋形に行く際、入鹿は五十名以上の警護の兵士を従えた。いうまでもなく隊長は、大義から小礼の位に昇進させた東漢直雀だった。
入鹿としては、雀を甘橿丘の警護の総大将にしたかったが、何といっても雀はまだ若く、それに高向臣に較べると東漢氏は一段格が落ちる。雀を国押の上にするわけにはゆかなかった。そんなことをすれば高向臣が雀を妬《ねた》むからだ。
入鹿は反蘇我系の重臣、群臣を畝傍の屋形に集め、泉蓋蘇文《せんがいそぶん》がしたように、一挙に殺害する方法を考えていたのだ。
軽王が去った今、一手に権力を握るためには、それ以外の方法はなかった。
そして上の大臣蝦夷も、入鹿の方針を是認していた。
蝦夷、入鹿は、漢皇子が殺された時の経験を活かし、火事に備えて、門の傍に舟の形をした巨大な水桶《みずおけ》を置いた。小さな水桶は城柵に沿って並べられ、その数は数え切れない。
そしてそれ等の水桶の傍には木鉤《きかぎ》(とびぐちの類)が立て掛けられていた。
夜になると甘橿丘の麓や、蝦夷、入鹿が住む上の宮門、谷の宮門の周辺には篝火が燃え、樹立の暗がりには東漢氏の兵士達が潜んでいた。怪しい人影を見付けると、彼等は動物の啼き声を出した。相手が同じような声を出さないと、即座に槍で突くよう命じられていた。
そんなものものしい蘇我本宗家の警戒ぶりは、見えない敵に向って絶えず咆哮している巨大な虎に似ていた。
実際、蝦夷、入鹿が焦っていたのは、漢皇子の暗殺者が分らないことだった。多分、暗殺者の背後には猫のように眼を細め、虎視眈々《こしたんたん》と蘇我本宗家を狙っている見えない敵が居るに違いなかった。
蝦夷、入鹿は、蘇我本宗家に意を寄せている配下の渡来人に命じ、暗殺者を探索させた。
だが五月に入っても分らない。
そんな緊迫した飛鳥の都の中で、皇極女帝は全く政治の圏外に置かれていたのである。女帝は吾子中大兄皇子が鎌足と組み、暗殺者に命じて漢皇子を殺させたとは、夢にも思っていなかった。
漢皇子を殺害した結果、蘇我本宗家の緊張は、鎌足が予想していた以上に高まった。甘橿丘には警護の兵が昼夜の別なく守っていた。蝦夷、入鹿は外出の度に警護の兵を数十人も引き連れている。これでは、有力豪族を味方にし挙兵して戦をいどむ以外、蘇我本宗家を襲う方法はないように思えた。
だが、各有力豪族は、蘇我本宗家の、戦をいどむような示威行動に怯え、おそるおそる蘇我本宗家が政治を執っている畝傍の屋形に顔を出している。
一体、誰が漢皇子を殺害したのか、有力豪族達にも分らない。ただ蘇我本宗家の従来の慣習を破った強引なやり方に対し、反対の気運が、中堅官人達の間に漲っていることだけは、有力豪族達も察知出来た。だからといって、うっかりそういう気運に乗れば、それこそ蘇我本宗家を敵に廻してしまうことになる。殺気立っている入鹿は、それこそ警護の兵を率い、敵とみなした有力豪族の屋形に押し寄せて来るだろう。
だから、大伴、巨勢を始め、これまで豊浦《とゆら》の屋形に集っていた大夫《まえつきみ》達は、入鹿の顔色を窺いながら畝傍の屋形に顔を出しているのだった。
阿倍倉梯麻呂だけは河内の阿倍野の屋形に引き籠り、飛鳥に顔を出さない。それだけではなく、倉梯麻呂は私兵を茅渟《ちぬ》宮に派遣し、宮を守らせているようである。
石川麻呂は蘇我田口臣筑紫など、蘇我系の間諜を使い、畝傍の屋形の会議の模様を探らせた。筑紫等の報告によると、入鹿は四月の下旬、阿倍倉梯麻呂に、北陸の蝦夷を征伐したいから、飛鳥に来るように、という命令を下したが、倉梯麻呂は病気を理由に阿倍野の屋形から動かない、という。
入鹿は偽の病だ、と激怒し、阿倍倉梯麻呂の屋形を襲撃する議を大夫達に計ったが、賛成する者は一人も居なかった。
有力豪族達は、他の豪族を攻撃するよりも、自分の身を守るのにせい一杯なのである。
大夫達は、朝鮮三国の情勢が緊迫している間、倭国内部で戦を始めるのは適当ではない、ということで意見が一致している、という。それに、阿倍倉梯麻呂は大夫達に人気があった。有力な軍事氏族の長でもあり、人間的な器も大きい。娘|小足媛《おたらしひめ》は軽王の子有間皇子を産んでいる。現大王の弟王と縁戚関係にあるのだ。
入鹿がいきり立っても、大夫達は軽々しく同意しないのも当然だった。
そのため入鹿は一層|猜疑《さいぎ》の眼を有力豪族達に光らせている、という。
そんな時に、蘇我本宗家を打倒するために、有力豪族を口説くことは出来ない。入鹿の耳に入る危険性が強いからだ。また蘇我本宗家に反感を抱いている有力豪族も、先ず現段階では兵を挙げない。
そんな中にあって鎌足は南淵請安《みなぶちしようあん》の屋形にも通わず、中大兄皇子や石川麻呂とも会わず、香久山の北方の屋形に籠っていた。
鎌足は決して、入鹿打倒を諦めているのではなかった。
鎌足は、石川麻呂や中大兄皇子にも述べた通り、正面切って蘇我本宗家を打倒すべく挑戦しても勝目はない、と考えていた。相手が眠っておれば、女でさえも鬼神を殺せる、というのが変りのない鎌足の信念であった。今もそれは変らない。
あの忠誠心に溢れた東漢氏の兵士達に囲まれている入鹿を城塞のような甘橿丘から呼び出し、一人にする方法はあるだろうか。それを鎌足は、ここ十日ばかり考え続けて来たのである。
鎌足が、これ以外はない、という最終的な結論に達したのは五月の初旬だった。
ただ、鎌足の案を中大兄皇子が受け入れるかどうか疑問があったので、鎌足は第二案を用意した。
その日は鬱陶しい雨が降っていた。鎌足は信頼の出来る使者を石川麻呂の屋形に遣わし、使者は直々《じきじき》石川麻呂に会い、鎌足の伝言を告げた。
今夕、中大兄皇子を|遠智 媛《おちのいらつめ》の屋形に呼んで欲しい、という伝言である。石川麻呂は承諾し、使者を中大兄皇子の許に派遣した。何といっても遠智媛は中大兄皇子の妃である。だから中大兄皇子が遠智媛の許にしげしげと通ったとしても不自然ではなかった。
それでも鎌足は入鹿の眼を恐れて、なるべく日を明けて通うように、と中大兄皇子に忠告していたほどだった。
夕闇に紛れて鎌足は蓑《みの》を着、一人石川麻呂の屋形に向った。本道を通らず百姓達が勝手に造った間道を選んだ。繁った草が顔に被《かぶ》さるような道だが、鎌足は眼を閉じてでも行けるようになっていた。
鎌足が近付くと石川麻呂の部下が松林の中から現れた。鎌足と同じように蓑を着ているが槍を持っていた。
石川麻呂は待ち兼ね、雨の滴に濡れるのもいとわず縁に立っていた。
「葛城皇子はお待ち兼ねだ、鎌子殿何処でお会いする?」
石川麻呂も数日前から、鎌足の連絡を、今か、今か、と待っていたのであった。
「皇子は遠智媛様の屋形に?」
と鎌足は低い声で訊いた。
石川麻呂が頷いたので、鎌足は遠智媛の屋形に行く、と告げた。
遠智媛の屋形は石川麻呂の屋形の北にあった。資産家の石川麻呂が娘と中大兄皇子のために建てた屋形である。広いベランダもある大きな屋形だった。
「待っていたぞ鎌子、遅かったのう」
中大兄皇子も部屋から出、縁に立って鎌足を迎えた。鎌足は石川麻呂に、遠智媛を今宵は本宅に泊めて欲しい、と頼んだ。
石川麻呂が中大兄皇子に鎌足の言葉を伝えた。政略的な関係だったが、遠智媛は面長な色白の美貌で、中大兄皇子の寵愛《ちようあい》を受けていた。
遠智媛は恨めしそうに中大兄皇子を見た。皇子が久し振りに来たのだから、遠智媛としては、一夜、ずっと皇子に寄り添っていたかったに違いない。
「重大な話がある、今宵は父上の屋形に泊れ、またゆっくり参る」
中大兄皇子の言葉を受けて石川麻呂が、大きく頷いた。石川麻呂の命令で部下が絹蓋《きぬがさ》を持って来た。遠智媛は名残り惜しそうに中大兄皇子を見、鎌足に会釈して屋形を出た。
中大兄皇子を上座に、石川麻呂と鎌足が向い合って坐った。遠智媛に仕える女人も石川麻呂の屋形に移ったので、この屋形に居るのは中大兄皇子、鎌足、石川麻呂の三人だけだった。
「皇子、それに石川麻呂殿、この鎌子の考えを最後まで聴いていただきとう御座居まする」
鎌足は二人の顔を眺めながら、落ち着いた口調でいった。二人の緊張感に胸が息苦しくなるほどだが、鎌足の声は穏やかだった。
「ああ、そちの考えを待っていたのじゃ」
中大兄皇子は膝を進めた。
二十歳になったばかりだ。滾《たぎ》る血潮に身体が自然に前に進むのかもしれない。
「皇子、石川麻呂殿、入鹿|奴《め》をおびき出す方法はただ一つ、大王《おおきみ》が病の床につかれ、会いたいと言われている、と入鹿奴に伝えることです、その際は甘橿丘《うまかしのおか》の屋形に女人を遣わしても良い、入鹿一人をおびき出すには、大王の詔《みことのり》が必要で御座居まする、そして場所は宮しか御座居ますまい、大王の前なら入鹿も刀を放しまする、佐伯連子麻呂の話によれば、入鹿奴は大王にお会いする時、刀を自分の警護長に渡すそうです、だが、今度は警護長を朝堂院に入れてはまずい、入れるのは入鹿一人……」
「鎌子、母大王を利用するわけだな、しかも母上には知らせないのだろう」
中大兄皇子は眉を寄せ、睨みつけるように鎌足を見た。
「勿論で御座居まする、入鹿奴を暗殺するために宮に呼ぶなど大王にお話しになれば、大王はお怒りになり、密かに入鹿に……」
「何だと鎌子、母上が吾の計画を入鹿に密告すると申すのか、鎌子、そちは、母上が吾より入鹿を愛していると申すのか?」
中大兄皇子の声が大きくなった。
石川麻呂が手を口に当て中大兄皇子を制した。鎌足は一歩下ると板床に両手を突き頭を下げた。
「皇子、大王が入鹿奴に密告するというようなことは、先ずありますまい、だが、皇子が、入鹿暗殺の計画を大王にお話しになれば、どうなりますか、皇子、大王はお許しになるとお思いですか、正直に御返答下さい」
鎌足は叩頭《こうとう》したまま囁《ささや》くようにいった。
中大兄皇子は荒々しい息を吐いた。外の気配に注意していた石川麻呂が、また指を外に向けた。中大兄皇子は、絶望的な眼を石川麻呂に向けた。石川麻呂が無言で見返すと、中大兄皇子は拳《こぶし》で自分の左胸を叩いた。
「鎌子、母上はお許しになるまい……」
と中大兄皇子は痛さに、呻くようにいった。
「大王は、入鹿奴の野望を御存知ありませぬ、多分、皇子をいさめられるでしょう、大王が黙っていても、何時か女人に伝わる、宮というところはそういう場所なのです、入鹿奴の耳に入らないとは限りますまい、吾はそれを申し上げたかったので御座居まする」
鎌足は相変らず頭を下げたままであった。
「分った、鎌子、頭を上げて欲しい、少し昂奮し過ぎたようじゃ、こんなことでは駄目だのう、ただ母上が大病だなどと偽り、入鹿を呼び寄せるのは、吾には堪《たま》らないのじゃ、母上を冒涜《ぼうとく》することになる、石川麻呂、そう思わぬか、他に手はないか」
中大兄皇子は縋《すが》るように石川麻呂を見た。石川麻呂は深い吐息を漏らすと鎌足を見た。だが鎌足は頭を下げたまま返事をしない。
「皇子、ここまで事態が悪化した以上、他に方法がなければ、鎌子殿が今申した方法で入鹿をおびきよせるより仕方ありますまい、だがこれは最後の手段として取っておきましょう、鎌子殿、皇子のお気持は吾にも痛いほど分る、もっと別な方法はないだろうか」
と石川麻呂は穏やかな声でいった。
中大兄皇子も気を取り直したようにいった。
「鎌子、吾の声が激しかった、頭を上げて欲しい、そちが居なければ、我々は入鹿を斃《たお》すことが出来ぬのじゃ、吾はそう思っている……」
鎌足はやっと顔を上げると中大兄皇子の傍に躪《にじ》り寄りまた頭を下げた。鎌足は床に両手を突いたまま嗚咽《おえつ》していた。間もなく鎌足は涙を拭おうともせず頭を上げ、中大兄皇子を見詰めた。鎌足の眼から雨の滴のように涙が頬を伝い床板に落ちているのを見て、中大兄皇子は胸を衝かれた。
鎌足は嗚咽しながら、とぎれとぎれに話した。
「有難きお言葉、鎌子、終生忘れませぬ、ただ皇子、大王の詔がなければ、入鹿奴は板蓋宮に参りますまい、皇子、それだけはお許し下さい、お分り下さい、今、入鹿を呼び寄せることの出来るのは、大王お一人で御座居まする」
「分る、矢張り母上が大病だと偽る以外、手はないか……」
中大兄皇子は絞り出すような声でいった。
鎌足は首を横に振ると、初めて涙を拭った。
「非常に危険で御座居ますが、他に一つだけ御座居ます、ただ、入鹿がそれに乗るかどうか……」
「どういう手だ、申してみろ」
中大兄皇子は眼を輝かせ身体を乗り出していた。鎌足はたくみに若い中大兄皇子の気持を掴んだようである。石川麻呂は今更のように、聞きしに勝る智謀者だ、と感嘆した。
おそらく鎌足は、最初の案が中大兄皇子に蹴《け》られることを覚悟していたに違いなかった。それも計算に入っているのかもしれない。
それにしても鎌足は、一体どういう案を持っているのだろうか、と石川麻呂さえも身体を乗り出したくなった。
鎌足は石川麻呂に顔を向け、これには大夫《まえつきみ》も協力してもらわねばならない、といった。
「ああ、吾に出来ることなら……」
「皇子、大夫も御存知のように、蘇我本宗家は、高句麗、百済の使者とは難波の館で会い、饗宴《きようえん》も難波の館で行っております、余程高位の者以外は大和には入れぬし、また大王には拝謁させない、いや、大和に入れても畝傍の屋形で上の大臣を自称している蝦夷が、大王の代りに会っています、ことに蘇我本宗家が権力を握った嶋大臣(馬子)の時代から、余程の使者でない限り、大王自ら外国の使者と会うということがなくなりました、推古十六年の唐使|裴世清《はいせいせい》の場合は大王が会われましたが、あれは特例です、だが、こちらのやり方|如何《いかん》では、宮廷で朝貢の儀式を行うことも出来なくはありません」
鎌足は一息つき、腕で顔を拭うと、中大兄皇子と石川麻呂を見た。
中大兄皇子は膝の上の拳を握り締めている。石川麻呂も瞬きをするのを忘れたかのように鎌足の話に聴き入っていた。
「というと……」
石川麻呂が吾に返ったように呟いた。
鎌足は群臣の子弟達に講義をする時のように姿勢を正した。
「皇子、大夫も御存知のように、現在、新羅は百済に攻められ、高句麗の圧迫を受け、唐と結び両国と戦う決心を固めています、何れ唐は宿敵高句麗を討つでしょう、高句麗、百済としては唐が攻めて来るまでに、何とかして新羅を滅ぼしたい、百済の義慈王が再三新羅を攻めているのも、そのためです、だが、新羅も必死です、金春秋《きんしゆんじゆう》、|金※[#「广」に「臾」]信《きんゆしん》などの名将、猛将が居ます、た易く滅ぼされたりはしません、義慈王が焦って、倭国に軍事同盟を申し入れて来たのも、そのためです、流石に入鹿も軍事同盟には乗りませんでしたが、仲の好い義慈王のために援軍を送り兼ねない、ただ漢皇子《あやのみこ》が殺されて以来、百済どころか、蘇我本宗家に危機感を抱き、軍事的威力で群臣を押え込もうとしていますので、百済への派兵は到底無理です、だが、新羅は現在の倭国内部の情勢を知りません、倭国の大軍が海を渡り百済の味方となり、攻めて来ないかと戦々|兢々《きようきよう》としています、新羅が朝貢の使者をこの度寄越したのも、そのせいでしょう、ところが、吾が聴いたところでは、入鹿奴は、新羅使の貢物だけを取り上げ、自分はもとより、大夫達にも会わせず、難波の館でも、一番粗末な屋形に泊め置き、放っているとのことです、石川麻呂殿、本当のことでしょうか?」
「その件なら、吾も噂を耳にした、新羅の朝貢の品は何時になく豪華であったようだ、新羅としては、今、倭国に攻められては困るからのう……」
と石川麻呂は答えた。
「で、朝貢の品は入鹿奴が一人占めにしたのですか?」
「いや、入鹿もそこまで馬鹿ではない、大伴、巨勢を始め東漢氏の長《おさ》達、それに飛鳥寺などに与えたようじゃ、昨日も、吾に意を通じている東漢直が、どうしたら良いでしょうか、と相談に来た」
「勢力を固めるため、買収もやっているわけですな、それはそれとして石川麻呂殿、蘇我本宗家に見捨てられ、帰る機会さえ喪うかもしれない新羅使を暫く留め置くことは可能でしょうか、いや、大夫の力でそれをしていただきたいのです……」
「吾だけの力ではなあ……」
袖を合せ、両手を握り合せていた石川麻呂が思わず腕を組んだ。
「皇子、皇子も力を貸していただきたいのです」
鎌足はまた頭を下げた。
「大夫、力を貸す、吾はどうすれば良いのじゃ、入鹿を斃すためなら何でもする」
若いだけに中大兄皇子は、石川麻呂のように躊躇しなかった。
「吾の計り事を許していただきたいのです」
「母上が関係してくるのじゃな」
流石に中大兄皇子は鎌足の心中を見抜いたようだ。鎌足は満足そうに笑った。
「皇子、よくおっしゃって下さいました、その通りです、石川麻呂殿が新羅使に密使を送る、大王が宮で会いたがっておられる、と伝えるわけです、勿論、蘇我本宗家は百済の味方だから内密にして欲しい、と伝える、吾の判断では新羅使は、喜んで飛んでこよう、また、大王が会われるまでに、ことがばれたら、入鹿奴に殺されるかもしれないから、と新羅使を脅しておくのも一つの手でしょう、如何でしょうか?」
鎌足は中大兄皇子を見た。
「良い計り事じゃ、吾は鎌子の意見に賛成じゃ、新羅使の朝貢の儀式を板蓋宮で行い、その場に入鹿を呼び出すというのであろう」
中大兄皇子は、はずんだ声でいった。
「皇子、その通りで御座居まする、勿論、その際は大王がお会いになりたがっている、と入鹿に伝えなければなりますまい、その点はお許し下さい」
「分っておる、母上が大病だと騙《だま》すより、その方がずっと良い、大夫、鎌子の計画に力を貸して欲しい」
「やってみましょう、ただ、それでも大郎が宮に来なかった場合は?」
石川麻呂の声は責任の重大さに掠《かす》れていた。
「機を見て、大王に大病になっていただきます、皇子、大夫、吾の判断では、入鹿奴は間違いなく、蘇我本宗家に協力しない群臣を一堂に集めて虐殺しますぞ、それも近いうちです、場合によっては、その場所を宮にするかもしれませぬ」
初めて鎌足は火を吐くような声を出した。
時、皇極四年(六四五)五月中旬の深夜であった。
五月に入ると鬱陶しい梅雨の季節になるのだ。連日の長雨に飛鳥の山野は煙ったように霞み、田畑は溢れんばかりに水を湛え、道はぬかるんだ。
そんな或る日、蘇我《そがの》田口臣《たぐちのおみ》 川掘《かわほり》が、思い掛けない情報を入鹿に伝えた。
板蓋宮の朝堂院に集っている中堅官人達が、軽王《かるのきみ》が茅渟《ちぬ》宮に去った今、次の大王は、女帝の長子中大兄皇子がなるべきだ、と論争している、ということを伝えた。
「何だと、葛城皇子を大王に……」
入鹿は谷の宮門の簾を掻き分けると、眺望がよく利く縁に立った。今日も空は厚い雨雲に覆われ、今は主に女人達が住んでいる豊浦の屋形も長雨を浴び、気のせいか病んでいるような感じがした。明るい日ならよく見える畝傍山も今日は雨に煙って見えない。
入鹿は川掘を呼んだ。
「川掘、もう豊浦の屋形は要らぬのう、何だか目障りじゃ、女人達の後宮も、この甘橿丘の上に造れば良い……」
入鹿は自分の傍に膝を突いた川掘を見ようともせず、豊浦の屋形を睨みながらいった。入鹿の眼は、かつて女帝と夜を共にした仮宮の方に注がれていた。
縁の前は庭で、その先は高い城柵によって囲まれている。雨除けの竹傘を頭に被った雀《すずめ》が、庭に現れた。この頃の雀は、以前に増して入鹿の身辺から離れない。夜も余り家に帰らず、入鹿の傍で仮眠を取っているようだった。
「雀、邪魔だ、景色が見えぬ」
入鹿は苛々して怒鳴った。
雀の姿が消えた。入鹿は怒鳴ったことを後悔した。自分でも、どうしようもないほど緊張しているのが分る。
こんな時は落ち着かなければならぬ、と入鹿は自分にいい聞かせた。入鹿は最近寵愛している海目《あまめの》郎女《いらつめ》を呼び、酒を持って来るように命じ、縁に腰を下ろした。楓《かえで》は相変らず葛城の高宮の屋形に居る。もう直ぐ入鹿の子供を産む筈だった。見舞ってやらなければならない、と思いながら、甘橿丘に移ってから一度も訪れていない。
海目郎女が酒壺と酒杯を持って来た。
「川掘、そちが得た情報、どう思う?」
入鹿は酒杯を傾けると息をついた。
「不届きで御座居まする、朝堂を政治論議の場にするなど、もってのほかです」
「いや、吾が訊いているのは、そんなことではないのだ、葛城皇子か、そういえば皇子も、もう二十歳だ、石川麻呂の娘を妃にしたらしい、うかつであったなあ、そうか、石川麻呂奴、葛城皇子と組んだか……」
「と、申しますと……」
川掘が怪訝《けげん》そうに尋ねた。
「分らぬか、宮に集る群臣が葛城皇子を大王に、といっている以上、何かの理由がある、皇子に援助者が付いた、と吾は感じたのだ、だから群臣が勢いづいて、たわけたことをいって気炎をあげておる、援助者とは誰か? 婚姻関係を結んだ石川麻呂以外ない、何故早く気付かなかったのか、雀、雀」
入鹿は立ち上ると、飛んで来た雀に、蓋《かさ》の用意をするように命じた。
上の宮門に行くと、高向臣国押は入口を入ったところの控えの間に居た。蝦夷の護衛長だが、主君の身を守ろうとする熱意は雀とは全然違う。東漢氏の血は流れているが、臣だけに国押の方が雀よりも位が高い。国押はそれを鼻に掛け、雀に対して威張ったりはしない。だが雀は何となく国押を嫌っているようだった。そのことを雀は口には出さないが、入鹿にはよく分るのだ。
蝦夷は紫檀《したん》の小机に向い書を読んでいた。入鹿も読破した『太公六韜《たいこうりくとう》』の書である。
入鹿は蝦夷に川掘から得た情報を伝え、中大兄皇子と石川麻呂は組んでいるに違いない、と述べた。
「それに中堅官人共が味方している、父上、これは油断のならぬ勢力じゃ、軽王が飛鳥から去った今、阿倍倉梯麻呂も葛城皇子、石川麻呂と意を通じている」
「漢皇子を殺したのも……」
「殺した者は分りませぬ、だが、今申した連中が糸を引いているに違いない……」
入鹿は板蓋宮に女帝を訪れた際、朝堂から自分を睨んでいた群臣の眼に憎悪の光が宿っていたのを忘れていない。漢皇子の暗殺者はあの中に居るかもしれないと入鹿はふと思った。
「石川麻呂|奴《め》、奴《やつ》は自分が蘇我氏の本家になる積りじゃな、東漢氏の中にも、石川麻呂に意を通じている者が居るようだ、大郎の考えは?」
「父上、最早猶予は出来ぬ、高句麗の泉蓋蘇文のように石川麻呂を始め、我等に反感を抱いている連中を一堂に集め、一挙に殲滅する、十人であろうと二十人であろうと、多いほど結構じゃ、父上、吾が計画を練る」
「場所は?」
蝦夷は拳を握り締め呻くようにいった。
「石川麻呂奴等が一番安心するのは……」
そこまでいった時、入鹿の脳裡に女帝の顔が浮んだ。入鹿は宮の朝堂院が一番だ、といおうとして口を閉じたのだった。皇子を始め重臣達を一挙に殺害するのだから兵士達は殺気立ち獣のようになるだろう。またそうでなければ一人も残さず殲滅することは出来ない。となると、女帝の身も安全とはいえなくなる。入鹿は女帝にだけは危害を加えたくなかった。
「矢張り畝傍《うねび》の屋形が良い」
と入鹿は答えた。
「石川麻呂奴は、まだ一度も畝傍の屋形に顔を見せていない、警戒している」
と蝦夷は首を横に振った。
「分った、もう一度考えてみます」
といって入鹿は上の宮門を出た。
控えの間で二人の密談を盗聴していた高向臣国押は、詳しくは聴けなかったが、石川麻呂に対する危険を感じた。翌日国押はそのことを石川麻呂に告げたのだった。勿論、蝦夷、入鹿はスパイが傍に居るなど夢にも想像していなかった。
五月下旬、梅雨が明けた。烈日が飛鳥の山野を灼《や》き、真赫な夕陽となって二上山の彼方に落ちて行く。西の空は茜色に染まり、甘橿丘から眺める東の音羽連山は紫赤色に彩られていた。屋根と屋根との間の渓谷だけが薄墨色だった。夕闇は渓谷から這い上り次第に山全体を包んで行く。
入鹿はさっきから半刻も板蓋宮を眺めていた。今頃女帝は何をしているのだろうか。暑い一日だった、女人に囲まれ清冽《せいれつ》な井戸水で白い肌を拭いているだろうか。それとも庭を散策しているかもしれない。
だが入鹿は感傷に浸っているのではなかった。今の大王が女帝ではなく男王だったら、もうとっくに、朝堂院に反蘇我系の皇子や重臣を集め、自ら東漢氏の精兵を率い、斬り込んでいたに違いなかった。そして一人残らず斬り殺していただろう。だが女帝の宮だと思うと、どうしても、それが出来ないのだった。入鹿は自分の中に潜む人間的な弱さを初めて知り、自分を叱咤し、歯ぎしりしていた。女帝と媾合《まぐわ》ったことをこれほど悔いたことはなかった。
「雀、吾は独裁者にはなれぬのか!」
入鹿は傍に蹲っていた雀を振り返った。夕陽を浴びた入鹿の眼は赫く、雀には入鹿が涙を流しているように思えた。入鹿が何故泣いているのか雀には分らない。雀はただ刀の柄を強く握り入鹿を見上げた。
「吾君大郎、吾は大郎のためなら水火も辞しませぬ、大郎を悩ますものなら悪霊であろうと、斬って捨てます」
「悪霊の化身か、雀、吾はそちがいう悪霊の化身になりたいのじゃ……」
入鹿は吐き捨てるようにいうと、夕靄《ゆうもや》に包まれた板蓋宮を睨みつけた。
八
五月下旬、楓《かえで》は葛城の高宮の屋形で男児を産んだ。鼻の大きい赤ん坊で、間違いなく入鹿《いるか》の子であった。入鹿は珍しく三日間ほど楓の傍で過した。女帝が産んだ漢皇子《あやのみこ》と異り、自分の子だという愛着感を覚え、離れ難かったのだ。
当時、女人は子供を産むと親|許《もと》で育てるのが習慣になっていた。また大王家の場合は乳人《めのと》が育てることもあった。
楓は、入鹿が大王家の采女《うねめ》にならい、武蔵国から呼んだ女人だった。だが生れたばかりの赤ん坊と共に、遠い武蔵国まで帰すわけにはゆかない。
入鹿は考えに考えた末、これ以上女人や子供は不必要だという蝦夷《えみし》の考えを押し切り、甘橿丘《うまかしのおか》の自分の屋形に引き取ったのである。
勿論、楓と子供が住む屋形を大急ぎで建てさせた。六月初旬のことである。
入鹿が葛城の高宮の屋形に籠《こも》っている間に、入鹿にとっては不愉快な儀式が板蓋宮《いたぶきのみや》で行われようとしていた。
蘇我本宗家が相手にしなかった新羅使が、皇極女帝に拝謁を願い、許された、というのだ。何処に隠していたのか、かなりの調《ちよう》を、息長《おきなが》山田公を通じて宮廷に運んでいた。
それ等の調の大半は入鹿が奪い、大伴、巨勢など有力豪族や|東 漢 直《やまとのあやのあたい》等に与えたものであることを入鹿は知らなかった。
朝貢の儀式は六月十二日に行われる、という。そして女帝から、朝貢の儀式に参列するようにという詔《みことのり》が、諸皇子を始め、蘇我本宗家、石川麻呂、重臣達に伝えられていた。
これまでの慣例を破り、政治の最高権力者である大臣《おおおみ》の立場を無視したやり方だった。はっきりいって、新羅使が大王家に直訴し、それを大王家が受け入れたのだ。
全く蘇我本宗家を無視しているが、入鹿にも手落ちがなかったとはいえない。
倭国との友好を求め、折角《せつかく》難波にまで来た新羅使に、入鹿は会おうともせず朝貢の調だけを奪い取り、諸重臣や東漢直等に与えてしまったからである。
いうまでもなく、当時の新羅の王は奇しくも倭国《わこく》と同じく女帝だった。だから善徳《ぜんとく》女王は皇極女帝が喜びそうな金製の装飾品などを新羅使にもたせたのだ。
それを知った女帝が直接新羅使に会い朝貢の儀式を行うと聴き、巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、|大伴連 馬飼《おおとものむらじうまかい》など入鹿と最も親密な有力豪族は、入鹿から与えられた新羅使の調を息長山田公を通じ新羅使に返していたのだ。
女帝が新羅使に会うと決った以上、女帝に対する調を奪ったことがもし暴露されると、後でどんな問題になるかもしれない。
有力豪族達が奪った調を返したのも当然だった。
はっきりいって、これは女帝の蘇我本宗家に対する挑戦とも受け取られ兼ねなかった。
事実、そう受け取った有力豪族は多い。
鎌足の狙いは見事適中したのだ。女帝は新羅使に対する朝貢の儀式が、蘇我本宗家に対する挑戦と受け取られようとは、夢にも思っていなかった。
その第一の理由は、調を贈って来たのが、自分と同じ女帝である善徳女王だったからである。だから調の殆どが黄金や翡翠《ひすい》の装飾品だった。皇極女帝は、海の彼方の女帝から同じ女帝に対する親愛の証のプレゼントとして受け取った。
息長山田公、中《なかの》大兄《おおえの》皇子《おうじ》が、女帝に新羅使と直接会い、労《ねぎら》いの詔を出すのは当然のことだ、と説き、女帝があっさり承諾したのも自然である。その時、中大兄皇子は蘇我大郎入鹿も大臣として朝貢の儀式に顔を見せる筈だ、と女帝に告げた。
「大臣が顔を見せれば、新羅使も喜ぶでしょう」
と中大兄皇子は、鎌足に教えられた通りのことを女帝に告げた。鎌足の心配は杞憂《きゆう》であった。大臣も喜んで参朝する、と伝えただけで皇極女帝の顔は晴々としたからだった。
女帝は女帝なりに騒然としている飛鳥の都を憂えていた。自分が産んだ漢皇子《あやのみこ》が殺されると同時に、蝦夷、入鹿は城塞《じようさい》のような屋形を甘橿丘に建て、また飛鳥のあちこちに警備の兵を置き、今にも戦争が起りそうな状態である。漢皇子が殺されてから時がたち、犯人が反蘇我本宗家の者らしいという噂《うわさ》を耳にして、入鹿に対する女帝の怨念《おんねん》の情も薄らいでいた。
新羅使の朝貢の儀式に、久し振りにかつての恋人に会うのは楽しみでさえあった。
女帝は女人達が落ち着いて散策も出来ない飛鳥の都の状態について、入鹿と話し合いたい、とも思っていたのだ。
そういう女帝の気持ちを入鹿は知らない。
六月七日、入鹿は雀《すずめ》を始め警護の兵士を連れ甘橿丘の東端に立っていた。そこには新しく楼が建てられ東漢氏の兵士が守っていた。
雀の命令で楼の上から見張っていた三人の兵士が降りた。入鹿は刀を吊《つる》したまま楼に登った。相輪が煌《きらめ》く飛鳥寺よりも、入鹿の眼は東南の板蓋宮に注がれた。
板蓋宮の周囲は草原と田畑で夏草の緑が眩《まぶ》しい。
入鹿は龍を彫った刀の柄を握り締めながら眼を閉じた。
槻林《つきばやし》に囲まれた広場で会うと明るい顔で会釈する中大兄皇子が、ひねこびた顔で皇極女帝の傍に居た。
「入鹿|奴《め》は、臣下の分際で母上を弄《もてあそ》び捨てた憎い奴です、吾《わ》は必ず入鹿奴を斃《たお》し、唐のような皇帝、いや、天子皇帝になる積りです、母上、吾に味方する者は多い、蘇我倉山田石川麻呂と配下の東漢氏、阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》と彼の軍勢、それに宮廷警護長、副警護長、皆、吾の味方です、吾が号令を掛ければ五百の兵はたちどころに集る、だが、五百を千名にするには母上の詔が必要なのです、母上、何度もいっているように自分達の屋形を上《かみ》の宮門《みかど》、谷の宮門、と呼ばせ、また自分達の墳墓を大《おお》| 陵《みささぎ》、小《こ》| 陵《みささぎ》と呼ばせている蘇我本宗家は間違いなく、大王家を滅ぼそうとしているのですぞ、入鹿奴は、自分が大王になる積りです、母上、時機を逸してはなりません、吾が兵を挙げたなら、蘇我本宗家討伐の詔をお出し下さい」
はっとして入鹿は眼を開いた。
板蓋宮の辺りにかげろうが燃え、そのせいか入鹿は皇極女帝の顔を思い出せなかった。入鹿は胸の中で叫んだ。
「大王《おおきみ》、吾は弄んだのではない、確かに計算はあった、だが吾は大王の神秘な魅力に惹《ひ》かれたのじゃ、だが大王、そなたは情の強い普通の女人であった……」
入鹿は眼を閉じた。
板蓋宮の大殿《おおとの》には、石川麻呂、阿倍倉梯麻呂、中大兄皇子、息長山田公を始め反蘇我本宗家の群臣が集っていた。
今なのじゃ、今、攻撃すれば一挙に殲滅《せんめつ》出来る、と入鹿は呻《うめ》いた。
途端に、恐怖に引き攣《つ》った皇極女帝の顔が瞼《まぶた》に浮んだ。
「大郎《たいろう》、朕《わ》はそなたを愛した、そなたの子を産んだ、その朕を殺し、そなたは大王位を奪おうというのか……」
「大王、あなたを殺す積りは毛頭ない、だが吾は、倭国の最高権力者にならねばならぬ、大王、あなたが女人でなかったなら……」
入鹿はかっと眼を剥き歯ぎしりした。
新羅使の朝貢の儀式の場に、入鹿に敵意を抱いている皇子や重臣を集め、東漢氏の精兵を率い、一挙に攻め込み、新羅使もろ共、皇子や重臣達を殺し、泉蓋蘇文《せんがいそぶん》のように大王も殺す。そして古人《ふるひとの》大兄《おおえの》皇子《おうじ》を大王にする。蘇我本宗家の傀儡《かいらい》の大王である。大王になった古人大兄皇子は機を見て大王位を入鹿に譲る。
中国王朝ではそんなに珍しくない出来事だった。
「雀、来い、吾の傍に来るのじゃ」
入鹿の命令に、雀は猿のように素早く楼の階段を登って来た。階段といっても梯子《はしご》を立て掛けたような階段だった。
「吾君《わがきみ》、お顔の色が……」
「雀、六月十二日に、新羅使の朝貢の儀式が宮で行われる、吾に敵意を抱く皇子、重臣共を宮に集め、一挙に殲滅する、どうじゃ」
「吾君、吾に百名の兵士を与えて下さい、必ず一人残らず……」
雀は炯々《けいけい》とした眼で板蓋宮を睨《にら》んだ。今にも兵を率いて板蓋宮に進撃しそうな気配だった。入鹿は雀の気配に圧倒された。雀はまるで入鹿の命令を待っていたようだった。
入鹿は大きく深呼吸をすると気を静め首を横に振った。
「雀、冗談じゃ、忘れるのじゃ、吾の戯言《ざれごと》を」
「吾君大郎、戯言で御座居まするか、吾君に敵意を抱いている奴《やつこ》達は日に日に増えております、吾は吾君が甘橿丘に城を築いた時、いよいよ戦を始められる、と胸を躍らせておりました」
入鹿には雀の気持が痛いほど理解出来た。雀は日夜入鹿に仕えている。雀は入鹿が何を望んでいるか知っている筈だった。
「もう少し待て、吾はやる、その時そちを軍事将軍の一人にする、ただ、大王《おおきみ》が女人では困るのじゃ、吾は蘇我本宗家の大郎入鹿じゃ、女人の大王を殺したといわれたくない、分った、来年まで待て、この秋まででも良い、大王を説得し、大王位を葛城皇子に譲らせる、その時こそ、吾は刀を抜く」
「吾君、時は大郎を待って居ります」
雀の声には熱気が籠っている。
入鹿は自分が雀に励まされているのを感じた。雀も飛鳥の情勢が緊迫しているのを肌で感じていたに違いなかった。
六月九日、入鹿は五十人の警護の兵を連れて畝傍の屋形に行った。槍を持った|東 漢《やまとのあや》氏の兵士達が屋形の周囲を守っている。板蓋宮よりも警戒は厳重だった。蘇我本宗家の威光はまだまだ衰えていない。巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、|大伴連 馬飼《おおとものむらじうまかい》などの大夫《まえつきみ》を始め、蘇我氏の支族、それに蘇我本宗家と親しい土師連《はじのむらじ》、難波吉士《なにわのきし》などの中堅官人達も次々と集って来た。板蓋宮の大殿よりも大きい政治の間は賑やかである。
入鹿は机のある別室に巨勢臣徳太と大伴連馬飼を呼んだ。唐風の部屋で入鹿の後には唐の貴人を描いた屏風《びようぶ》があった。こんな見事な屏風は今の倭国では作れない。
入鹿が坐っている椅子は女帝と仮宮を改造した屋形で会った際作らせた漆塗りで螺鈿《らでん》作りである。
二人の大夫は、何故入鹿が自分達を呼んだか知っていた。
「この十二日、新羅使の朝貢の儀式が板蓋宮で行われる、いうまでもなく、他国の使者と会うのは大臣じゃ、これが倭国の慣習じゃ、大王は新羅の王が女帝ということで親愛感を抱き特別に会われるらしいが、政治的な意図が絡んでいたなら問題だのう、といって、大王が拝謁を許され、喜んでおられる儀式を今更取り消すことも出来まい、どう思う?」
入鹿は、二人の大夫の顔を探るように見た。何といっても大伴、巨勢は、東漢氏についで、蘇我本宗家にとっては大事な人物だった。馬飼と徳太は顔を見合せた。
「遠慮は要らぬ、思っていることを述べて欲しい」
「大臣、大王が喜んで決められた以上、取り消すというのは問題でしょう、ただ大臣がいわれるように、政治の儀式にすると大臣の立場がなくなる、吾は先日より徳太とも相談しましたが、政治にたずさわっている大夫は全員欠席すれば良い、我等が儀式に顔を見せなければ、これは大王家の儀式、つまり大王が個人的に会われたということになる、大臣の立場に疵《きず》はつきますまい」
馬飼の返答に徳太は大きく頷《うなず》いた。
入鹿は馬飼の返答を聴き、吾意を得たりとばかり頷いた。実際入鹿は、大夫達は朝貢の儀式に参朝しないよう命令しようと考えていたのだ。蘇我本宗家の威光を保つにはそれ以外方法がなかったからだ。
その点、流石《さすが》に信頼している大伴、巨勢の考え方は、入鹿の期待に背かなかった。
入鹿は両人の手を取りたいのを我慢した。
「吾の考え方もそうじゃ、だから、朝貢の儀式に参朝する者は大王家内部の人物となるだろう、皇子達だな、古人《ふるひとの》大兄《おおえ》皇子にも、参列して欲しいという大王からの使者があったらしい、吾の考えでは、古人大兄皇子は参列させよう、と思っている、当然葛城皇子も顔を出すだろう、軽王《かるのきみ》はどうかな?」
「軽王は茅渟宮《ちぬのみや》に籠り切りなので、どうするか、多分使者が大王の意を伝えていると思いますが」
「病が軽ければ、軽王も顔を出すかもしれぬ、それにしても軽王は、本当に病なのかな」
入鹿は薄|嗤《わら》いを浮べた。
漢皇子《あやのみこ》が殺され、飛鳥が騒然となったので、軽王は政争の渦《うず》に巻き込まれるのを恐れ、病を口実に茅渟宮に籠った、と入鹿は睨《にら》んでいた。多分、馬飼、徳太も同じ思いだったのだろう。
兎《と》に角《かく》軽王は大王位に即《つ》く意志がないことを表明したのも同じであった。
「さあ、ただ軽王は大王の弟、ひょっとしたら顔を見せるかもしれませぬ」
と徳太がいった。
「それはそうと、新羅使は、よく朝貢の調を隠していたのう」
入鹿が馬飼、徳太の顔を見据えると、馬飼が頭を下げ、続いて徳太が深々と項垂《うなだ》れた。
「大臣が取っておくように申された調ですが、息長《おきなが》山田公から、あれは新羅の女王から大王に渡されたもの、返還しなければ大王のものを横取りしたことになる、という申し入れがありましたので渡しました、大王のものを横取りした、といわれると、どうしようも御座居ませぬ、今日、大臣に報告する積りでおりました」
「吾もです、報告が遅れて申し訳御座居ませぬ」
と徳太は一層深く頭を下げた。
「仕方があるまい、大王のものを横取りしたといわれてはな、多分、石川麻呂が情報を洩《も》らしたに違いない、要らぬことを……」
入鹿は舌打ちしたが流石に両人を叱責《しつせき》することは出来なかった。
大伴連馬飼、巨勢臣徳太の両名は勿論、朝貢の儀式の際、入鹿暗殺の計画が出来上っていることを知らなかった。
計り事が洩れたなら何もかも終いになる。反対に倭国の大王家が滅ぼされる恐れがあった。だから十二日の入鹿暗殺を知っている者は鎌足《かまたり》、中《なかの》大兄《おおえ》皇子、石川麻呂、それに|佐伯連 子麻呂《さえきのむらじこまろ》、|葛城 稚犬養 連 網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》、|海犬養 連 勝麻呂《あまいぬかいのむらじかつまろ》の六名しか居なかった。
|高向臣 国押《たかむくのおみくにおし》さえ、詳しいことは教えられていなかったのだ。
六月十日の朝、額田《ぬかたの》郎女《いらつめ》が采女《うねめ》と舎人《とねり》を従えて甘橿丘にやって来た。女帝の使者としてやって来た、という。女人であろうと、蝦夷、入鹿の許可を得ないと甘橿丘の屋形には来られないのだ。入鹿は畝傍《うねび》の屋形に行くところだった。額田郎女は息長氏の血を引く鏡王の娘である。板蓋宮で会った如何《いか》にも聡明そうな少女の顔を入鹿は覚えていた。
入鹿は雀に命じて谷の宮門まで案内させた。額田郎女は薄紫の上衣に縦縞《たてじま》の五色の裙《もすそ》をはいていた。紅の絹紐《きぬひも》で上衣を結び、白い鎖を肩に掛けている。
舎人は女人達を守るために付いて来たので、屋形の外で待たせた。
入鹿は豊浦の屋形や、かつて推古女帝が住んでいた小墾田《おはりだ》宮跡を見下ろせる縁《えん》に額田郎女を招いた。その縁からは北方に香久《かぐ》山、耳成《みみなし》山、それに北西に畝傍山が眺められる。
大和三山が一望の許《もと》に眺められるのだ。耳成山や香久山の辺りにはかげろうが燃えていた。無数の池が鏡のように輝いている。
額田郎女は女帝の手紙を入鹿に渡すと、縁の柵にもたれ、飽きずに飛鳥の山野を眺めている。他の女人達は縁に正座し緊張した面持ちで入鹿が手紙を読み終るのを待っていた。
その頃紙は、漸《ようや》く倭国で作られ始めたが、唐の紙のように薄くなかった。唐から帰朝した学問僧や留学生の指導で工人が作ったのだが、紙の目も荒く白くない。それでも紙は貴重品だった。文は木簡《もつかん》に書かれるのが普通である。女帝はなかなかの達筆で、新羅国の女王からの調を受け取る日、是非大臣にも来て欲しい、と書かれている。話したいことが山ほどあるので、朝貢の儀式の後、是非野でも散策しながら話をしたい、と述べられていた。
紙からは女帝がつけている香料の匂《にお》いがした。読み終った入鹿は女帝の手紙を机の上に置いた。山野の風景を眺めていた額田郎女が、柵に身体を寄せたまま振り返った。
「大臣《おおおみ》、ここは中国の書に出て来る仙境のようなところですね、ここから眺めるとこの広い飛鳥の都が庭のように思えます」
額田郎女は黒い大きな眼を見張っていた。感激したせいか頬が紅潮している。
「ああ、吾は前々からここに屋形を建てようと思っていた」
入鹿は自分で気付かないうちに額田郎女と並んで坐っていた。
「でも、こんな素晴らしい大きな庭なのに、私達女人はのんびり散策出来ません、槍を持った兵士達が、あちこちに居るんですもの、大臣、戦が起るのですか?」
「いや、戦など起らぬ、ただ大王の子を殺した悪い奴が居る、そういう奴さえ捕まれば、安心して散策出来る、もう直ぐじゃ」
「大臣の前では、猪でも山犬でも小さくなって逃げるというではありませんか、それなのに、どうしてこんなに警戒を厳重にするのですか……」
「猪や山犬なら恐《こわ》くはない、だがな、見えない敵は恐いぞ、だから兵士達に守らせている、額田郎女は吾が恐いか……」
「いいえ、少しも恐くはありません、だって大臣は学識のある方と聞いています、だから恐くないのです、それに時々、優しい眼をされます」
「それは、そなたが可愛いからじゃ、誰でも可愛いものには優しい眼を向ける」
額田郎女は、柵から身体を乗り出すようにして下を眺めた。
「危いぞ、落ちたらどうする?」
「大臣、大王に会ってあげて下さい、大王は大臣に会われる日を楽しみにしておられます、だってこの頃、絶えずお化粧されたり、鏡を見られたりされているんですもの」
入鹿がおやっと思って額田郎女を見ると、彼女はいたずらっぽい眼で入鹿を見上げ頭を下げるのだった。化粧や鏡のことなど勝手にいったのではない。鎌足の意を受けた息長山田公に教えられた通り喋《しやべ》ったのだ。額田郎女も、口には出さないが、女帝が入鹿に会いたがっているのを知っていた。
だから自然に話せたのである。
それに額田郎女はまだ少女であった。入鹿は額田郎女の話をそんなに抵抗なく聴くことが出来たのだ。
その夜上の宮門を訪れ蝦夷に会った入鹿は、新羅使の朝貢の儀式に顔を出してみても良い、といった。
「大夫達には、吾は顔を出さない、と申してある、だから吾が居ないと知り、参列する者も居るかもしれませぬ、そういう連中こそ、間違いなく我等の敵じゃ……」
だが蝦夷は入鹿の参列に反対した。
入鹿の代りに、大王家の一員として古人大兄皇子が出席する、他の出席者は古人大兄皇子が見届けるので、何も大臣が顔を出すことはない、というのだ。
「大王が勝手に新羅の女王の代理である使者に礼を述べるのじゃ、今度の朝貢の儀式は政治抜きじゃ、大臣が顔を出すと政治が絡んで来る、放っておけ」
蝦夷は入鹿の参列に反対だった。
蝦夷にいわれなくとも、そのことは充分分っていた。
「だが父上、吾が宮に顔を出せば、吾は倭国の大臣として新羅使に睨みを利かすことが出来ます、勿論吾は大王と並び、諸皇子や新羅使と向い合う、新羅使も蘇我本宗家を無視したことを後悔するでしょう、父上、もしこのまま見逃せば、新羅使は今後、倭国の大臣達を無視し、大王家と直接取引きし兼ねない、この点は如何でしょうか?」
入鹿のいい分にも一理はあった。
蝦夷はこの頃、少しの酒にも酔うようになっていた。
「大郎、大王に会いたくなったか?」
入鹿は何故か狼狽《ろうばい》し一瞬顔を赧《あか》らめた。
「大王にも色々と話したいことがあるのです、父上、吾は大王に退位をすすめる積りじゃ……」
入鹿は女人達を去らせた。
入鹿は蝦夷と二人きりになると、自分の計画を述べた。葛城皇子を大王位に推せば、自分の長子なので皇極女帝は賛成する。そして葛城皇子が大王になった直後、反蘇我本宗家の王族、重臣を宮に集め、一挙に殲滅《せんめつ》する、という恐るべき計画だった。
「父上、これが時の流れです」
蝦夷は腕を組み瞑目《めいもく》した。入鹿が苛々《いらいら》するほど長い間眼を閉じていた。
「父上……」
「ああ分っておる、大郎、そなたは宮に重臣を集め、一挙に殲滅出来るのか、本当に出来るのか……」
蝦夷の顔は酔っていたが、その時だけ、眼から酔いが消えたようだ。
「出来ます、大王が女人でなければ……」
入鹿は膝を叩くと睨むように蝦夷を見た。蝦夷に心の弱さを突かれたような気がしたからだ。
「それなら良い、好きな通りにしろ、漢皇子さえ生きておればな、大郎、そなたは大王と並び、諸皇子や新羅使と向い合うのだぞ」
と蝦夷は念を押すようにいった。
「それは吾が申したこと、少しでも不服を唱える者があれば、即座に立ち去る」
大王と並び新羅使の上表《じようひよう》を受ければ、大臣としての権威に疵はつかない、というのが蝦夷、入鹿の考え方だった。ただ、何といっても、大王が直接、外国の使節、ことに倭国が蕃国《ばんこく》と下に見ている新羅使に会うのは異例である。蝦夷の許可は得たものの、入鹿はまだ式に顔を出すかどうか、決め兼ねていた。
入鹿が外に出ようとすると入口の控えの間に高向臣国押が坐っていた。蝦夷との部屋は離れているので密談を聴かれたとは思えないが、恭しく顔を伏せた国押を見て、入鹿は何となく気になった。入鹿は国押を信頼していたが、雀が国押を嫌っているのが気になるのだ。
「上の大臣の警護、御苦労じゃ、ところで国押、そちはどう思う、宮で行われる新羅使の朝貢の儀式に吾が顔を出すことを……」
国押は顔を上げると膝に両手を突き姿勢を正した。
「難しい問題で御座居まする、大臣が政治を執られるのは、これまでの倭国のしきたりです、ただ、今度の新羅使の朝貢を政治と見做《みな》すかどうかでしょう、新羅の女王が友好のしるしに調を倭国の女王に奉った、と解釈すれば、これは倭国の大王家と新羅王家の親善ということになります、しかし、幾ら女王同士と申しましても、外交抜きの親善はありますまい……」
「そこだ、吾が躊躇《ちゆうちよ》しているのは、ことに、新羅使は大臣である吾には内密にことを運んだ、息長《おきなが》山田公などが手を貸したらしい、吾が出れば、大王の権威に屈服したように取られるかもしれぬのう」
「はっ、その恐れは充分御座居まする、小徳以上の者に、朝貢の儀式に参列するよう、大王が詔を出されたようですが、大臣が出られなければ、参列する者は、諸皇子を除いて、まず、ありますまい、ただ問題は石川麻呂殿です」
高向臣国押はまた一礼した。落ち着いて喋っているが国押の全身は緊張感で強張《こわば》っていた。石川麻呂の名を耳にした途端、予想通り入鹿は眼を釣り上げた。
「石川麻呂がどうかしたか……」
「これは噂で御座居ますが、大王は石川麻呂殿に新羅使の上表文を読むよう、詔を下されたとのことです、吾の判断ですが、大王が詔を出された以上、石川麻呂殿も断わり切れないと思います、もし大臣が出席されなかったなら、新羅使は蘇我氏に石川麻呂殿が居る、という印象を強く受けて帰国することになります、また群臣も、大臣と石川麻呂殿との間に亀裂が生じた、などと噂し兼ねません」
「そんな噂は問題ではない、だが、確かに石川麻呂一人が目立つことは間違いない、国押、そちは、昔、石川麻呂と親しくしていたのではなかったのか……」
「はっ、申し訳ありません、温厚な方だという噂でしたが、財力家だけに、へつらって来る者に、物を与える癖がおありです、それで、吾も疎遠になりました」
国押としては、入鹿に疑われないため、石川麻呂の悪口をいわざるを得なかった。
猜疑心の強い鎌足の意向で、国押は十二日の儀式の場で入鹿暗殺の計画があることを教えられていなかった。
だから国押は、入鹿の機嫌を損わないようなことをいったまでだ。
入鹿は屋形の外に出た。丘の上だが夏の夜は蒸し暑い。篝火《かがりび》が赫々《あかあか》と燃え、槍を持った半裸の東漢氏の兵士達の胸は汗に濡れ、篝火の炎で油を塗ったように光っていた。
西の方の樹林は伐り取られている。楓《かえで》と赤ん坊のための屋形が造られているのだ。
入鹿は雀《すずめ》を連れ東端の望楼の方に歩いて行った。入鹿を見ると東漢氏の兵士達は蹲《うずくま》る。雀の部下が松明《たいまつ》をかかげ道を照らした。
磨かれた槍の穂先が様々な色に煌《きらめ》く。
入鹿は楼に登った。明るい月光に飛鳥寺が巨大な奇岩のように見えた。だが、他の建物は殆ど闇に覆われて見えない。
板蓋宮の方は黒い幕を張ったように思えた。
国押の言葉から、入鹿は、中大兄皇子と石川麻呂の関係が益々緊密になったのを悟った。中大兄皇子が女帝に申し出て、石川麻呂に、上表文を読むよう詔を出させたに違いなかった。
蝦夷、入鹿の親子が甘橿丘に籠っている間に、女帝と中大兄皇子の関係は、入鹿が想像している以上に親密になっていたのだろう。それに中大兄皇子はもう二十歳だった。
あの黒い幕の中に、何が隠されているのか。入鹿は眼を見開き闇の彼方を睨んだ。
石川麻呂が中大兄皇子と組んでいることは間違いなかった。とすると石川麻呂が狙っているのは、中大兄皇子を大王位に即《つ》けることであった。
「それならそれで良い」
入鹿は山犬のように唸《うな》った。その時こそ何の躊躇もなく中大兄皇子や石川麻呂を斃せる。
入鹿は闇の中に凄愴《せいそう》な光景を見ていた。
大王になった中大兄皇子、石川麻呂を始め、蘇我本宗家に敵意を抱く諸重臣を殲滅する光景であった。高句麗の使者の話では、泉蓋蘇文《せんがいそぶん》は斬られた栄留王の首を槍で突き刺し、宮廷の溝に投げ捨てた、という。
だが泉蓋蘇文は非人間的で残忍な男ではない。真から残忍で冷酷な男なら、高句麗の武人達が泉蓋蘇文の許で一致団結する筈はなかった。
泉蓋蘇文は国を守るため栄留王や軟弱な貴族連中を斃したのである。
吾も同じだ、と入鹿は声に出して叫んだ。
時の流れは、独裁者と中央集権を要求しているのだ。それは吾じゃ、蘇我大郎入鹿じゃ、と入鹿は叫び、刀を抜いていた。
「吾君!」
刃物の煌きを見た雀が階段を駈け上って来た。
十一日から降り出した雨は十二日になっても止まなかった。雨のせいか身体《からだ》は重たく、入鹿は楓に起されたが、なかなか起きる気になれない。赤ん坊が泣き始めたので、入鹿も背伸びをしながら起き上った。
赤ん坊は間もなく楓の手を離れ、東漢氏の乳人の許に移されることになっていた。
宮廷から迎えに来た使者は、すでに谷の宮門の軒下で雨を避けながら待っている、という。入鹿は雀を呼び、使者の名を訊いた。
中臣家と同じく大王家の神事を掌《つかさど》る忌部首子麻呂《いみべのおびとこまろ》であった。
時刻は辰《たつ》の上刻だった。そんなに激しい雨ではないが、厚い雲が空を覆い飛鳥の山野は煙っていた。女人達が甕《かめ》に汲んだ小川の水は冷たい。楓が裸になった入鹿の身体を水につけた布で拭いた。凍るような冷たさに眠気も身体の重さも消えた。
「大王《おおきみ》はお淋しいでしょう」
膝をつき入鹿の背中を楓は力を込めて拭いた。漢皇子《あやのみこ》を殺された女帝の気持を、楓は一人の女人の気持として感じ取っていた。
「大王というものは、そういうものだ、だから吾は今日、大王位を葛城皇子に譲るよう、説く積りじゃ、大王は自由な女人になれる、まだ女人の色香は消えてはいまい、大王には、その方が幸せなのだ」
女人達が直ぐ新しい甕を運んで来た。楓は入鹿の首の辺りを拭いた。
「どうして、今日は宮に行かれるのですか?」
楓は低い声でいった。
入鹿の参朝を気にしているようであった。矢張り入鹿が、女帝と会うと思うと気が重いのだろう。入鹿は哄笑した。
「楓、吾が大王に未練を抱いていると思っているのか?」
「いいえ、そんなことは思ってもいません、ただ今日は何となく重苦しい雨の日です、川の水も何時もより冷たく感ぜられます、夏の風邪は長引きます、儀式に出られても、どうか雨に打たれないようになさって下さい」
「要らぬ心配じゃ、諸皇子や新羅使を雨の庭に立たせても吾は大殿に入る、何故なら吾は倭国《わこく》の大臣《おおおみ》だからだ、吾が倭国の最高権力者であることを、葛城皇子、石川麻呂に教えてやろう、いや、大王にもな……」
そういうと入鹿は楓の頬を軽く叩いた。
入鹿は用意された輿《こし》に乗った。東漢氏の兵士達が輿を担ぎ、雨除けの絹蓋《きぬがさ》を他の兵士が差し掛けた。従者を下に待たせていた忌部首子麻呂が雨除けの蓑《みの》を着た。
輿に乗るより、馬に乗って丘を下りた方がずっと楽だが、何といっても大臣としての貫禄を示さなければならなかった。急|勾配《こうばい》の道なので、輿に付けられたすべり止めの棒を確《しつか》り握らねばならない。甘橿丘を下りた時は絹衣の袖は雨に濡れ気持悪く垂れ下っていた。
当時の袖は手が隠れてしまうほど長かった。入鹿は馬に乗った時のように袖を捲《まく》った。
もう朝貢の儀式は始まっていた。板蓋宮の南正門を副警護長の海犬養連勝麻呂が数人の舎人達と守っていた。
入鹿を待っていたのだろう。勝麻呂は背が折れるほど身体を曲げて礼をした。
「大臣、朝貢の儀式は今始まったばかりで御座居まする、大王は何度も女人を寄越され、大臣はまだか、とお待ちで御座居ました」
「そうか、大王は待たれておられたか……」
勝麻呂は叩頭《こうとう》したままだった。
宮で大王が外国使と会うのは推古十六年(六〇八)に来倭した唐使|裴世清《はいせいせい》以来である。
大臣が宮に参朝していたのは六三〇年代舒明朝の初めの頃までであった。だがその頃でも、大臣は宮で外国使と会うが大王は顔を出さない。大臣が大王の代りに政治を執っているからである。
それだけに、善徳女王との個人的な親善関係の儀式とはいえ、大王が外国使、ことに倭国との関係が険悪になっている新羅使と会うなどとは異例中の異例だった。勝麻呂が気を遣い、身体を固くしているのも無理はない、と入鹿は思った。
輿から下りた入鹿は雀に、雨の中で待っているよりも二刻《ふたとき》ほど嶋の屋形に行って休め、といった。雀が諾《き》こうとしないので、入鹿は眼を剥いた。
「儀式が終ってから、吾は暫く大王と話をする、場合によっては、夕刻になるかもしれぬ、ここには、兵士達を十人ばかり残しておけば良い、吾の命令じゃ、もう一度いうぞ、雀は他の兵士を連れて嶋の屋形に行くのじゃ、ここに戻って来るのは申《さる》の上刻で良い、それでもかなり待たねばならぬぞ」
雀は一寸視線を落した。
「吾君大郎、分りました」
雀は直ぐ|東 漢 直 兎《やまとのあやのあたいうさぎ》を呼んだ。兎は入鹿の副警護長格だった。
「兎、そなたは兵士十二名と共に、ここで大臣をお待ちしているのじゃ、吾は大臣の命令で嶋の屋形に行く、一刻たてば交替の兵士を差し向ける、分ったな……」
そういう間に、また雨が激しく降り出した。
稲妻は見えなかったが遠くの方で雷が鳴っている。多分淡路島のあたりだろう。
雨除けの絹蓋を持った東漢氏の兵士が入鹿と一緒に朝堂院に入ろうとすると、勝麻呂が素早く絹蓋《きぬがさ》の柄に手を掛けた。
勝麻呂が着ている蓑は雨に濡れ滴が落ちていた。
「大臣、今日は吾がお持ちします」
「ほう、宮廷副警護長が吾の蓋を持つというのか……」
勝麻呂は中堅官人だが、海犬養連は古くから大王家に仕える由緒ある氏族だ。
勝麻呂の行為は入鹿の権威欲をくすぐった。入鹿は警戒心を忘れ、
「分った、勝麻呂が持て……」
といい、東漢氏の兵士に宮の外に出るように命じた。東西の朝堂の軒下には中堅官人達が並んでいたが、入鹿を見ると一斉に頭を下げた。大王の再三の懇願で、遂に入鹿が宮に来たのだ。宮の中で一斉に挨拶《あいさつ》されると矢張り気持が良い。朝堂の儀式は内の南門の中で行われているらしく、朝堂院は静かであった。入鹿は忌部首子麻呂に先導されながら胸を反らせて歩いた。
石川麻呂が上表文を読むとすると、中大兄皇子は何処に立っているのだろうか。女帝の傍に大王気取りで立っているのではないか。
今、入鹿の脳裡にあるのは、自分が立つべき場所であった。
内の南門を入ると、宮の内庭である。宮廷警護長の佐伯連子麻呂の姿が見えない。
暫く来ない間に宮の中も少し変っていた。例えば内の南門には前よりも頑丈な木の扉が取り付けられていた。
入鹿は刀を吊したまま内の南門を通った。内庭には雨除けの天幕が張られ新羅使の一行はその中に居た。新羅使達は皆、蹲《うずくま》っている。佐伯連子麻呂は内の南門と天幕との間に雨に打たれながら蹲っていた。刀を吊していない。どんな高位の者であろうと内庭に入る時は刀を外し、内の南門を警備している舎人達に預けるきまりになっている。このきまりを無視していたのは、蝦夷と入鹿だけであった。
佐伯連子麻呂が入鹿の方を向き、叩頭した。額が濡れた玉砂利に着きそうであった。その時、顔に隈《くま》を塗り猿のような顔をした小子部連《ちいさこべのむらじ》配下の俳優《わざびと》が、まるで猿そっくりな足取りで近付いて来た。足音を立てないのは流石であった。
俳優は叩頭しながら、腰の刀を解く演技をした。もともと俳優は大王を慰めるべく、滑稽《こつけい》な演技で歌い、舞うことを職としているのだ。
演技は堂に入っており、まさに猿そっくりだった。それに一言も口を利かないのも見事である。入鹿は何時もの警戒心を忘れ、吊していた刀をその俳優に渡した。内庭を見渡しても、誰一人として刀を吊している者は居ない。俳優は入鹿の刀を捧げながら内の南門の方へ跳ねながら歩いて行く。
入鹿が苦笑して見送っていると忌部首小麻呂《いみべのおびとこまろ》が、大臣、大王がお待ちです、と囁《ささや》いた。
入鹿は蹲っている新羅使達の傍を、彼等を無視しながら通った。大殿の戸は開け放たれているが雨の日なので内部は薄暗い。それに女帝は簾《すだれ》の内側に居るようだった。
中大兄皇子、古人大兄皇子が新羅使の前に坐っていた。入鹿の予想と異り二人共大殿の方を向いている。二人と少し離れた場所に石川麻呂が居た。三人が入鹿に会釈したので入鹿は気を良くし、会釈を返した。
入鹿は大殿の階段を上り、女帝の傍に立ち、皇子や石川麻呂、新羅使と向い合う積りでいた。ただ暗い大殿の中に見えるのは簾だけで、内側の女帝の顔も見えない。
これまでと違って近付き難いものが大殿の内部に漂っていた。見えない幕が、入鹿と女帝の間を遮っている。
この時入鹿は、朝貢の儀式に顔を出したことを微《かす》かに悔いた。
このままでは大臣の威光を損い兼ねない。入鹿は意を決すると階段の下まで行った。
「大王、何度ものお誘いにより、参りました、儀式をお始め下さい」
簾が割れ、女帝が姿を現した。耳、首、胸、腕に金銀や翡翠の装身具をつけている。
全身を装身具で飾り立てている、といって良い。装身具が余りにも豪華過ぎるせいか、入鹿には女帝の顔が疲れているように思えた。かつての若々しさが喪われているのだ。
女人達が唐風の椅子を置き、女帝はそこに坐った。
「大臣、御苦労でした、大夫、新羅使の上表文を読むように」
どうやら朝貢の儀式は入鹿が来るまで、待たれていたようだ。
石川麻呂が上表文を読み始めた。
入鹿は自分が立つべき場所がないことに気付いた。女帝の傍に立ち、中大兄皇子や石川麻呂を睥睨《へいげい》しようと思って意気込んでやって来たのに、それが出来ないのだ。女帝が姿を現したにも拘らず、矢張り入鹿と女帝との間の見えない幕は取れない。
階段の下に立っていると雨が降り掛って来る。といって階段を上り、大殿に入って仁王立ちになるわけにはゆかない。女帝が呼ばないのに女帝の椅子の傍に胡坐をかいて坐ることもためらわれた。
「大臣」
古人大兄皇子の声に振り返ると、古人大兄皇子が場所を開けた。入鹿は救われた思いで玉砂利の上に敷かれた毛皮に腰を下ろした。天幕のおかげで雨が掛らない。石川麻呂は上表文を読み続けている。
この時、内の南門の傍にある控えの間に隠れていた鎌足が、佐伯連子麻呂に|※[#「目」+「旬」]《めくばせ》した。子麻呂が腕を上げると舎人達が門の扉を閉めた。天幕の一番前に坐り、背後に背を向けている入鹿は扉が閉められたことに気付かなかった。
息長山田公や神祇の長官中臣連国足は出席しているが、年齢のせいか|大 派 王《おおまたのおおきみ》の姿は見えなかった。大伴、巨勢を始め、畝傍の屋形に出入りしている重臣達の姿はなかった。
中大兄皇子と石川麻呂が幾ら手を結んでも、矢張り重臣達は入鹿に睨まれることを恐れている。そのことだけが入鹿にとっては慰めだった。
|葛城 稚犬養 連 網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》は新羅使に変装し顔を伏せていたので入鹿は気付かなかった。
|海犬養 連 勝麻呂《あまいぬかいのむらじかつまろ》が刀を入れた箱を背負い、這《は》うようにして天幕に近付いて行った。雨が降りしきっているので、その音は聞えない。
女帝はじっと入鹿を見詰めている。白粉を思い切り塗り厚化粧しているが、それが目立ち、華やかな装身具と共に、かえって年齢を感じさせる。
女帝の黒い眼には様々な思いが込められていた。
今や時の権力者、大臣蘇我大郎入鹿暗殺の計画が実行されようとしていた。
鎌足は弓矢を持ったまま内の南門の控えの間から様子を窺《うかが》っている。これまで鎌足は見えない黒幕に徹して来た。だから入鹿も、中大兄皇子と石川麻呂が組み、何事かたくらんでいることは気付いていたが、鎌足の存在は余り重視していなかったのだ。
鎌足は、暗殺の場でも黒幕に徹しようとしていた。吾は頭だ、そして頭の命令通り動く手足が暗殺の実行者だ、というのが鎌足の考え方であり、性格でもあった。
雨は容赦なく降り続いていた。
上表文を読む石川麻呂の声が、ともすれば雨の音に消されそうだった。天幕に忍び寄った勝麻呂が背負っていた箱を置き、新羅使に扮《ふん》している葛城稚犬養連網田と新羅使の後ろに蹲っている佐伯連子麻呂に刀を渡した。
新羅使は、入鹿暗殺の計画は知らない。ただ、怪しい者が忍び込み、朝貢の儀式を潰《つぶ》す陰謀があるので、宮廷副警護長が新羅使に変装し、守備に当る旨、前もって知らされていたので、網田が刀を受け取っても驚かなかった。ただ新羅使達の間に緊張の気配が流れた。普通なら入鹿は、ここで気付いていた筈だった。だが一段と激しくなった雨が彼等の緊張感を消した。それよりも入鹿は、女帝の居る大殿に上って行けぬ自分の弱さに歯ぎしりしていたのだ。こんな場所で、皇子達と一緒に女帝と向き合っているなら、来るのではなかった、と後悔していた。
女帝には確かに女人としての若さは喪われている。だが金銀宝石を惜し気もなく身につけ、薄暗い大殿の椅子に坐っている女帝は間違いなく倭国の神祇の最高司祭者である大王であった。理屈ではないのだ。大殿には大臣入鹿でさえ入って行けない見えない幕が垂れていた。
何故吾を何度も呼んだ? 吾に恥をかかす積りで呼んだのか? と入鹿は本能的に刀の柄に手を掛けようとし、刀がないことにはっとした。もし入鹿が刀の柄をこの瞬間に握っていたなら、入鹿は大声で、
「吾は大王に拝謁に来たのではない、吾は帰るぞ!」
と叫んで席を立っていた筈だ。
入鹿は何時も龍虎を彫った金銅の刀の柄を握り締めることによって、自分を勇気づけて来たのだった。その刀がないのだ。入鹿は今更のように大王家の神祇の儀式ともいえる場所にやって来た自分の愚かさを悔いた。
中大兄皇子は入鹿の気配に苛立っていた。何時入鹿が席から立ち上るかも分らない。そうなるとことがめんどうになる。騒ぎが宮の外の東漢氏の兵士達に聞えたら、彼等は主君の身を案じて乗り込んで来るかも分らない。入鹿の傍には、入鹿のためには死を恐れない者が居ることを中大兄皇子は知っていた。
中大兄皇子は衣服の中に短剣を隠していた。皇子は右手で短剣の柄を握り締めながら静かに一歩後退した。振り返ると子麻呂が刀の柄に手を掛け、斬り掛る機会を窺っていた。今だ、斬れ、と中大兄皇子は無言で短剣を抜いた。中大兄皇子の気迫に、子麻呂も刀を抜いた。流石に入鹿は異様な気配を背後に感じて振り返った。子麻呂は無我夢中で入鹿の背筋目掛けて刀を振り下ろしていた。
入鹿は右半身が痺《しび》れるような重い衝撃を肩に感じた。
「何をする!」
入鹿は両手で子麻呂の刀身を握った。子麻呂が刀を引くと入鹿の指が三本切れて落ちた。古人大兄皇子や新羅使が総立ちになった時、中大兄皇子が絶叫しながら短剣を持って体当りして来た。
入鹿は転がりながら立ち上った。全身血|塗《まみ》れになった入鹿は、眼を剥いて女帝を睨みつけた。
「吾《わ》を罠に掛けたな、|宝 皇女《たからのひめみこ》、吾を罠に……」
驚愕の余り椅子から立ち上った女帝は、
「違う、大郎、朕《わ》ではない、大郎!」
と叫んだ。
子麻呂が再び刀を振りかざし、女帝の方によろめきながら歩いて行く入鹿の脚を斬りつけた。入鹿は玉砂利に転倒した。
「宝皇女、そなたは吾を……」
眼の前が昏《くら》くなって行く。入鹿は玉砂利を握り締めようとしたが、指が半分以上ないので握ることが出来ない。それでも入鹿は顔を上げ、もう殆ど見えない眼で女帝を睨んだ。
「大郎、違う、それは違う……」
大殿から駈け下りようとした女帝は、余りにも凄惨な光景を眼の前に見て気を喪い板床に倒れた。
昏い、昏過ぎる、生きなければ、と入鹿は最後の気力を振り絞り、腕で這おうとした。
雀《すずめ》、何をしておるか雀、走れ、走るのじゃ、吾は負けぬぞ、負けぬ、新しい時代が来るのじゃ、と入鹿は暗く深い穴に落ちながら叫んでいた。
葛城稚犬養連網田が、倒れながら悶《もだ》えている入鹿の背中に刀を突き刺した。刀身は胸を貫き玉砂利に喰い込んで折れた。
弓矢を持って様子を窺っていた鎌足が走って来た。鎌足は大殿の下に立つと、
「何をしておるのじゃ、大王《おおきみ》を奥にお運びせよ」
と何時もに似ない大声で命令した。
自分を取り戻した中大兄皇子が大殿に駈け上ろうとするのを、鎌足は両手を拡げて制した。
「大王は、入鹿誅殺には何の関係も御座居ませぬ、それよりも皇子、これからですぞ、皇子は大王に代り阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》、大伴連馬飼、巨勢臣徳太等に軍勢を率いて飛鳥寺に集合するよう詔を出されたい、吾は早馬の使者を軽王《かるのきみ》に出します、それから石川麻呂殿、直ぐ東漢長直阿利麻に軽挙妄動は慎むよう使者を出されたい、入鹿が死んだ今、蘇我氏の柱は石川麻呂殿ですぞ、高向臣国押には東漢氏の兵を更に五十名ほど預け、直ぐ甘橿丘に行かせて下さい、蝦夷の屋形を取り巻き、集って来る東漢氏との連絡を遮断させる、石川麻呂殿、お願い申しましたぞ、それから葛城皇子、直ぐ舎人達と宮廷警護の兵士達を集め、武装して飛鳥寺にお入り下さい、飛鳥寺は蘇我本宗家の氏寺、ここを押えてしまえば、蝦夷は手も足も出ますまい……」
鎌足はまるで暗唱していたようにいった。これまでの囁くような声と違い熱気溢れる声で、これからのことを指図するのだった。
「入鹿は?」
と中大兄皇子は昂奮に血走った眼を血の川の中で横たわっている入鹿の屍《しかばね》に向けた。
「宮の隅に運び、筵《むしろ》でも掛けておきましょう、皇子、門に詰めている兵士達をお呼び下さい、後で宮の外に出しましょう、さもないと雀が部下を率い、宮の中に攻め込んで来ます」
鎌足の声はもう、学を講義する時のように落ち着いていた。
入鹿の屍は直ちに兵士達によって宮の隅に運ばれ筵が掛けられた。
茫然と坐っていた古人大兄皇子が、腑抜《ふぬ》けのように立ち上った時、鎌足は弓矢を持ったまま傍に行った。
「古人皇子、大郎入鹿は韓人によって殺されました、お分りですか、韓人が殺したのですぞ」
鎌足は眼を細め古人大兄皇子を見詰めている。古人大兄皇子は夢でも見ているような表情で頷いた。
「ああ、大臣は韓人に殺された」
古人大兄皇子は、まるで暗示に掛けられたように呟くのだった。
入鹿誅殺の報は宮に詰めかけていた総ての中堅官人達に告げられ、彼等の歓声は宮中に響いた。
異常に気付いた東漢直兎が、宮に入ろうとしたが、佐伯連子麻呂の命令で宮を守っていた舎人達や兵士達が正門を守り、中に入れない。この時に備え、宮の近くに待機していた石川麻呂の部下達が数十名、主君石川麻呂を守るために駈けつけた。石川麻呂の部下の大半は東漢氏の兵士であり、指揮していたのは蘇我田口臣筑紫《そがのたぐちのおみつくし》である。
鎌足の作戦通り、蘇我田口臣筑紫が東漢氏の兵士を率い正門を守った。宮廷警護の舎人達や兵士達は女人達が出入りする大殿の東西の門を固めるため移動した。
東漢直兎が率いている兵士は僅か十二名であった。それに対し、蘇我田口臣筑紫が率いている石川麻呂の部下の兵士は五十名を越えている。しかも睨み合っているのは同じ東漢氏である。
兎は雀に報告すべく嶋の屋形に馬を飛ばした。
入鹿警護の兵士達が去ったのを見た鎌足は、早速入鹿の屍を宮の外に運び出させた。
路端に筵を敷き入鹿の屍を置き、更に筵で覆った。鎌足は入鹿を警護している東漢直雀の性格をよく知っていた。
雨晒《あまざら》しにして放っておいたりしたなら、それこそ斬り死にを覚悟で宮に攻め込むかもしれない。入鹿に生命を捧げている熱血の武人である。場合によって主君入鹿を殺した張本人は女帝だ、と錯覚し、女帝の生命を狙うかもしれなかった。鎌足が危惧したのは、有力豪族の兵士達が集らない前に、戦が始まることだった。
雀の率いる東漢氏の兵士達が、主君入鹿の仇を討とうと死を恐れず宮に攻め込んで来たなら、現在宮を守っている百数十名の兵士で防ぎ切れるかどうか分らない。
ただ鎌足が一安心したのは、入鹿誅殺の報が飛鳥中に知れると共に、中堅官人達がそれぞれ部下を率いて、続々と宮に集って来たことである。皆、入鹿に反感を抱いていた連中である。
中大兄皇子は鎌足の指示通り、中堅官人とその兵士達を率い飛鳥寺に入った。土塁に囲まれた巨大な飛鳥寺は城塞と同じである。
蝦夷、入鹿が飛鳥寺の防備に手を抜いたのは大きな失策だった。入鹿は、まさか自分が敵の罠にやすやすと掛り、殺されるなど夢にも思っていなかったからだ。
雀が馬を飛ばし板蓋宮にやって来た時、宮の正門は武装した兵士達によって守られていた。まだ雨は降り続き、入鹿の屍を覆う筵を濡らしていた。入鹿の血は殆ど流れ去り、新しく掛けた筵のところどころに桜花のような淡紅色の血が滲んでいる。
雀は馬から飛び降りると入鹿の屍に抱きついた。鎌足が兵士達に命じ、何度も入鹿の瞼を閉じさせようとしたが、兵士が手を離すと瞼はかっと見開いた。入鹿の無念の形相は凄まじく兵士達は胆を冷やし、幾ら鎌足に命じられても瞼に触れる恰好をするだけで、瞼を閉じさせようとする者は居なかった。
「吾君……」
雀は叫んだが掠れて声は出ない。入鹿の屍は夏なのに氷のように冷たく、眼窩には雨水が溜り滂沱《ぼうだ》の涙を流しているようだった。雀は入鹿を暖めようと寝転んで抱きながら、入鹿の瞼を撫でた。その時を待っていたように入鹿は初めて瞼を閉じた。まだ無念の形相だが、瞼を閉じたせいか入鹿は酷《ひど》く淋しそうだった。
雀を追って来た東漢氏の兵士達が輪になり、雨に濡れた路に平伏した。
雀、大王が女人でなかったなら……入鹿のその言葉を雀は何度耳にしただろうか。
雀はよろけながら立ち上った。
蘇我田口臣筑紫を始め、反蘇我本宗家の蘇我氏の支族、それに石川麻呂に心を寄せていた東漢氏の兵士達が百名近く武装して雀の行動を見守っている。
今斬り込み討ち死にするのはた易い。だが雀は入鹿の屍と離れたくなかった。
宮を守っている兵士達の後方に石川麻呂の姿を見た雀は、思わず大声で叫んでいた。
「吾君を裏切った石川麻呂殿に申す、吾君の敵と組んだ麻呂殿の生命は長くはない」
雀は路上に平伏している兎に命じた。
「吾君大郎を馬にお乗せするのじゃ」
入鹿の屍は馬に乗せられ、雀を始め東漢氏の兵士達に見守られながら甘橿丘に運ばれた。
夕方から夜に掛け甘橿丘には高市郡に居住している東漢氏の族長達が兵士を率いて続々と集った。だがその数は三百名にも及ばなかった。石川麻呂を始め反蘇我本宗家の蘇我氏の支族が、大臣が殺された以上、無駄に血を流すことはない、と説いたからである。ことに石川麻呂の使者に説得された東漢長直阿利麻が動かなかったことが、大勢に影響した。本来なら千名以上の軍勢が甘橿丘に布陣した筈である。
蘇我倉山田石川麻呂の大きな功績といわねばならない。
それに反して中大兄皇子が布陣した飛鳥寺には大伴連馬飼、巨勢臣徳太など、入鹿と親しかった有力重臣も、時の流れが一変したのを知り、手兵を率いて集った。中大兄皇子側の軍勢は千名を越えた。阿倍倉梯麻呂も五百名の軍勢を率い、河内から中大兄皇子に味方すべく、軽王と共にやって来るという情報が伝えられ、中大兄皇子側の士気は弥《いや》が上にも昂《たかま》った。
甘橿丘の蝦夷の屋形、上の宮門を守っていた|高向臣 国押《たかむくのおみくにおし》は兼ねての計画通り、甘橿丘に集合した東漢氏の族長達と蝦夷の接触を出来る範囲で絶った。蝦夷には、最早戦をしても全く勝目がない以上、潔く降服すべきだ、と夜を徹して説いた。
高向臣国押のこの説得は老いた蝦夷に残っていた闘志を削いだ。死を覚悟して甘橿丘に集って来た東漢氏の族長達の間に動揺が起ったのも当然である。
攻めるにも中大兄皇子を擁する敵軍は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺に籠っているのだ。それだけでも闘志が削がれる。
雀は初めて高向臣国押と激論を交わした。寺など何時でも建てられる、今は主君の仇を討つべく総力をあげて飛鳥寺を攻撃すべきだ、と主張した。
だが国押は雀を軽くあしらった。
高向臣国押は雀に較べると位が高く年齢も十歳以上も上である。それに入鹿という主君を喪った雀の立場は弱くなっていた。
高向臣国押が雀を睨みながら皮肉な口調でいった。
「それなら何故、そちの叔父の|東 漢 長 直阿利麻《やまとのあやのながのあたいありま》が来ないのか、阿利麻が来たら吾もそちの意見に耳を傾けても良いぞ」
「ああ、吾が呼んで来る」
雀は上《かみ》の宮門《みかど》を飛び出した。外で待っていた兎と数名の兵を連れ、入鹿の屍が安置されている谷の宮門に走った。入鹿の屍は即製の木棺に入れられていた。臭い除けの香が部屋中に薫《た》かれているが、微かな死臭が漂っている。大勢の女人達も一夜で十歳もふけたような顔で、痴呆《ちほう》のように雀を見るだけだった。赤ん坊を抱き末席に坐っていた楓が泣き腫《は》らした眼を雀に向けた。だが眼光が鋭い。
「雀殿、兵士達に何時ものような気力がありませぬ」
楓は雀に、主君入鹿の仇を討たないのか、と問い掛けているのだった。
雀は、入鹿がこれまでの女人以上に楓を愛した理由を今知った。楓は入鹿に対しては優しい女人だが、他の女人にない真の勇気があった。だから東国の蝦夷は強いのだ。
「楓殿、吾君の仇は吾が討つ」
雀は棺の前で跪《ひざまず》くと、板床に手を突き入鹿に叩頭した。雀の胸の中で入鹿はまだ生きていた。雀には入鹿の傍に居れない自分というものが考えられないのだった。雀は眼を閉じながら胸の中の入鹿に、吾君大郎、吾は東漢長直阿利麻の屋形に行き、阿利麻を連れて参ります、と報告していた。
谷の宮門を出た雀は、戦が始まるぞ、吾君の仇を討つ戦じゃ、寝呆《ねぼ》けている者は吾が斬る、と叫びながら刀の柄を握り締めて走り廻り、兵士達の士気を鼓舞し続けた。
雀は兎と兵士二十名を連れ畝傍の屋形の近くにある阿利麻の屋形に馬を飛ばした。
阿利麻は雀と会ったが甘橿丘に行くことを拒否した。雀が地に膝を突き懇願しても応じない。東漢氏の族長の中で最も信望の厚い阿利麻である。顔に刻まれた皺《しわ》は深く、頬髯《ほおひげ》、頭髪には白いものが混じっていたが、年輪を経た樹皮のような深い威厳があった。
「雀、そちには分らぬのじゃ、先のない吾の生命、何で惜しかろう、だが吾は東漢氏を守らねばならぬ、時の流れの中で我等東漢氏は生き残り繁栄しなければならぬのじゃ、石川麻呂殿が葛城皇子の味方になられた以上、最早大勢は決っておる、おそらく大王家は復活する、もし吾が兵を率いて甘橿丘に行ったなら、東漢氏は末代まで賊党として、さげすみを受けねばならぬ、だから吾は東漢氏を守るために動かぬのじゃ」
「分らぬ、そんな理由は吾には通らぬ、己の怯懦《きようだ》を弁護しているに過ぎぬ、東漢氏の主君は蘇我本宗家じゃ、主君が殺された、何故仇を討たぬ、何故じゃ?」
雀は路面を拳で叩きながら叫んだ。
怯懦とののしられ、阿利麻の傍に居た阿利麻の子供達が血相を変え、刀に手を掛けた。
阿利麻は両手を拡げて子供達を制した。
「雀、そなたは大郎のために死ね、それも東漢氏の誇りじゃ、吾は行かぬぞ、昔、我等の祖、東漢直駒は嶋大臣の命令で泊瀬部《はつせべ》大王(崇峻)を殺害した、だが駒は嶋大臣の手で殺されたのじゃ、蘇我本宗家は確かに我等の主君だ、だからといって東漢氏は埴輪《はにわ》ではない、生きた人間なのじゃ、駒の時代はもう終った、吾は主君よりもこの高市郡に住む大勢の東漢人の方が大切なのだ、それが分らぬか!」
「分らぬ」
路面を叩き続けている雀の拳が裂け血が流れ始めた。
「雀、行け、吾は氏族のために生きる」
東漢長直阿利麻はそういうと子供達や部下に守られながら屋形に入った。
雀が周囲を見渡すと、二十名の部下は十名に減っていた。阿利麻と雀の論争を聴き、姿を消したのであろう。
副警護長だけに兎は居た。
雀は馬に乗ると兎にいった。
「兎、吾は国押を斬る、国押は己の妻を吾君に与え、吾君の歓心を買ったような人物じゃ、信じ難い、ひょっとすると石川麻呂の間諜かもしれぬ」
「吾もそんな気がします」
と兎は答えた。
馬を走らせ畝傍山を越えた雀は、甘橿丘が燃えているのを見た。風のない日で煙は天に向って昇っている。上の宮門、谷の宮門が今燃えているのだった。それは間違いなく蘇我本宗家の滅亡を示す煙だった。
高向臣国押の説得で闘志を喪った蝦夷を見、甘橿丘に集った東漢氏の族長達は次々と兵を連れて山を降り始めた。
それを見た蝦夷は、蘇我本宗家の最後の時が来たのを知り、直属の部下に、総ての屋形に火をつけるように命じ自決したのだった。
楓は刀子《とうす》で赤ん坊の心臓を刺し、自分も胸を刺して入鹿の死に殉じた。
雀達は暫く馬を止め甘橿丘の煙を眺めていた。そのうち雀の気持は自分でも不思議なほど落ち着いて来た。
「兎、吾は飛鳥寺に行く、そちは兵を連れ軽《かる》に戻れ、駄目じゃ、これは命令じゃ!」
雀は一喝すると馬に鞭を当てた。
飛鳥寺は数えきれない幟《のぼり》で取り巻かれ、士気を鼓舞するように鼓が鳴っている。雀は刀を抜くと、胸の中の入鹿に報告した。
「吾君大郎、吾は今より吾君の許に参ります」
かっと眼を剥いた雀に、飛鳥寺に布陣した兵士達の顔が見えた時、矢が唸りを立てて飛んで来た。何本目かの矢が雀の甲を貫いた。雀は馬を飛ばし続けた。顔や首に矢を受けながら雀は馬から落ちるまで眼を剥き続けていた。だが地に斃れた雀の顔には微笑のような安らぎの表情が浮んでいた。入鹿に会える時が来たのを知った微笑かもしれない。
『日本書紀』を始め如何なる文献も雀のことを記述していない。だが雀は間違いなく飛鳥寺に布陣する大軍に向ってただ一人で突入して行ったのである。入鹿にはそのような部下が居たのだ。
なお鎌足と中大兄皇子に利用された石川麻呂は入鹿誅殺の五年目、孝徳五年(六四九)蘇我臣日向の讒言《ざんげん》により、謀反の罪を着せられ、妻子、部下と共に山田寺で自決している。石川麻呂と共に入鹿誅殺に活躍した蘇我田口臣筑紫も中大兄皇子が差し向けた軍勢に捕まり、後ろ手に縛られ殺された。政敵を次々と斃して行くという鎌足の策謀である。
入鹿誅殺に始まる蘇我本宗家の滅亡を普通大化の改新、また乙巳《きのとみ》のクーデターという。まさに政治権力を一手に握ろうとしていた蘇我本宗家の大臣蘇我大郎入鹿を、鎌足と中大兄皇子が斃した事実はクーデターと呼ぶにふさわしい大事件であった。
だがそれは何も入鹿側だけにいえることではない。僧旻《そうみん》に唐の国家制度を学んだ鎌足も、政治の場で活躍すべく大王家を皇帝とする中央政権を狙い策動したのである。クーデターではあるが、新しい時代の流れが要求した必然的な激突といえよう。
げんに六四四年の末、唐の太宗は諸軍、新羅、百済、契丹《きつたん》などに高句麗を討つように命じ、翌六四五年太宗は大軍を率い、自ら高句麗討伐に乗り出したのである。
唐の第一次高句麗征討だった。
入鹿が殺された六月も太宗の軍は遼東で激戦を展開していたのである。
なお皇極女帝はいったん軽王《かるのきみ》(孝徳)に大王位を譲ったが、六五五年、|天 豊《あめのとよ》 財《たから》 重日足姫《いかしひたらしひめ》天皇(斉明)として重祚《ちようそ》した。だが六六〇年唐と新羅によって百済が滅ぼされると、中大兄皇子は百済内の百済復興軍を救援することを決め、六六一年、もう六十歳前後になっていた母斉明を連れ筑紫に向った。全軍の士気を鼓舞するという名目で気の進まない斉明を無理に連れて行ったのである。
斉明女帝となった皇極女帝はもう疲れ果てていた。女帝の生命の炎は入鹿の死と共に終ったのだ。女帝は同年七月筑紫朝倉宮で亡くなった。女帝の死は異様であった。
『日本書紀』は次のように述べている。
「天皇、|朝倉 橘 広庭 宮《あさくらのたちばなのひろにはのみや》に遷いて居《おはし》ます。是の時に、|朝倉 社《あさくらのやしろ》の木を斬り除《はら》ひて、此の宮を作る故に、神|忿《いか》りて殿《おほとの》を壊《こぼ》つ。亦《また》、宮の中に鬼火|見《あらは》れぬ。是れに由りて、大舎人《とねり》及び|諸 《もろもろ》の|近 侍 《ちかくはべるひと》、病みて死《まか》れる者|衆《おほ》し」
これは五月の出来事で、斉明の崩御は七月だが、八月には「皇太子(中大兄皇子)、天皇の喪《みも》を奉徙《ゐまつ》りて、還りて磐瀬宮《いはせのみや》に至る。是の夕《よひ》に、朝倉山の上に、鬼《おに》有りて、大笠を着て、喪の儀《よそほひ》を臨《のぞ》み視《み》る。|衆 《ひとびと》皆《みな》嗟怪《あやし》ぶ」
この記述を私は、入鹿誅殺の光景に悩まされた女帝が、精神錯乱状態になって死亡した事実を叙述したものと考える。
一時は深く愛した入鹿が、自分の前で斬られ、突かれ、血|塗《まみ》れになって自分を恨みながら死んで行った光景は、女帝の脳裡から一生消えなかったに違いない。
疲労|困憊《こんぱい》した老女帝が死を前にし、錯乱状態となってもおかしくはないだろう。
大笠を着た鬼とは間違いなく入鹿の怨霊《おんりよう》である。入鹿は女帝に計られたと思い込んで死んだのだ。
なお、朝倉宮の傍に中大兄皇子が建立したという八幡神社がある。母と入鹿鎮魂のために中大兄皇子が建てたのであろう。
入鹿の死後、時の流れは天智となった中大兄皇子の時代を経て壬申《じんしん》の乱に向って行ったのだ。
〈了〉
あ と が き
「落日の王子──蘇我入鹿」は飽く迄小説である。当然、作者が創作した人物が登場している。例えば入鹿の警護長となった|東 漢 直 雀《やまとのあやのあたいすずめ》もその一人だ。小説では実在人物である東漢|長直阿利麻《ながのあたいありま》の縁戚関係者にしたが、警戒心の強かった入鹿が忠節心のある若者を警護長に選んだとしてもおかしくないだろう。
|額田 王《ぬかたのおおきみ》も登場させたが、彼女の年齢から考え、おそらく皇極女帝に仕えたのではないか。大海人《おおしあまの》皇子《おうじ》(天武)との熱烈な恋は、入鹿が殺された後、孝徳朝時代に生れたと想像出来る。
『日本書紀』は入鹿を斃《たお》した息長《おきなが》氏系の天皇、天武の時代に最初の編纂《へんさん》が行われたと考えられる。だが七二〇年(養老四年)に修《おさ》めたのは『日本紀』であって『日本書紀』ではない。我々は『日本書紀』を読む場合、この点に留意し、時の権力者によって度々加筆された書であることを銘記すべきであろう。
次の図書を参考に致しました。
門脇禎二「蘇我蝦夷・入鹿」(吉川弘文館)、井上光貞「日本の歴史 飛鳥の朝廷」(小学館)、浅野清「古寺解体」(学生社)、金井塚良一「渡来系氏族壬生吉志氏の北武蔵移住」(埼玉県史研究第三号)、森浩一「大王と古墳をめぐって」(東アジアの古代文化第十二号 大和書房)、野村忠夫「研究史 大化改新」(吉川弘文館)、家永三郎「上宮聖徳法王帝説の研究」(三省堂)。
なお、「三国史記」「三国遺事」は林英樹訳(三一書房)、「日本書紀」は「日本古典文学大系」(岩波書店)を使用した。
昭和五十七年五月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年四月二十五日刊