黒岩重吾
落日の王子 蘇我入鹿(上)
一
蘇我大郎入鹿《そがのたいろういるか》は蘇我本宗家の長子で舒明《じよめい》十二年(六四〇)にはまだ大夫《まえつきみ》であった。父は時の大臣蝦夷《おおおみえみし》である。大夫は大臣を補佐する地位で、後の天智時代の御史大夫といったところである。
入鹿には他に鞍作《くらつくり》などという名前があるが、ここでは通称に従い入鹿としておく。
入鹿はまだ三十歳を過ぎたばかりで、肌は茶褐色に近く眼は異様に大きい。体毛はその身体のように強靭で、黒く太い眉は怒った時のように吊り上っている。
今、入鹿は自分の警護長|東 漢 直 雀《やまとのあやのあたいすずめ》を始め兵士達を率い、祖父|馬子《うまこ》が住んでいた嶋の屋形の傍を通り冬野川(細川)沿いにある馬子の墳墓(石舞台)に参った。祖父を尊敬している入鹿は月に一度は馬子の墳墓に参り、蘇我本宗家が祖父時代以上の権力を得る日がやって来ることを念じるのだった。
馬子が建てた飛鳥寺にも参拝するが、墳墓に参ることの方が多い。その方がより深く祖父と通じ合うことが出来るような気がする。
そういうところに入鹿の性格がよく表れている。
墳墓への参拝を終えた入鹿は甲斐の白馬に乗り冬野川沿いの道を多武峰《とうのみね》の方に進んだ。
馬に乗った入鹿が着ているのは麻の服だが腰には皮のベルトが締められている。ベルトの留具は金銅製で、ベルトには金モールが無数につけられていた。刀の柄にも翡翠《ひすい》の玉が嵌《は》め込まれ、金銅の龍虎が彫られている。長い袖を無造作に折り曲げ、体毛の見える骨太の手首を剥き出している。長靴に似た鹿皮の履《くつ》を履《は》いているが、その履にも金飾りが煌《きらめ》いていた。顎鬚《あごひげ》、口髭も伸び放題だが、額は広く聡明な感じだ。
野性の荒々しさと知性が見事に混じり合い、蘇我本宗家の長子としての風格があった。
ことに張った顎には強い意志と生命力が漲《みなぎ》っていた。
入鹿の警護長東漢直雀はまだ二十歳になっていない。入鹿と対照的な容貌で色白で眼が涼しい。柔軟な身体で腕が長く、剣や弓矢の腕前は群を抜いていた。五十尺離れた山鳥を楽に射落す。入鹿は剣では雀に負けないが、弓矢では及ばなかった。
漢《あや》氏はかつて古代朝鮮に中国が作った楽浪郡、帯方郡に住んでいた漢人であった。四世期初頭|高句麗《こうくり》は楽浪郡を滅ぼし、百済《くだら》はまた帯方郡を併呑した。その結果、楽浪、帯方両郡に住んでいた漢人は百済を中心に朝鮮各地に移り住んだが、四世紀末から五世紀にかけての高句麗の南下で、一部の漢人達が倭《わ》に移り、その後五世紀後半、雄略時代に続々と倭に渡来し、河内、大和に移り住んだ。大和に住んだ漢人を|東 漢《やまとのあや》氏といい、河内の漢人を|西 漢《かわちのあや》氏、また|西 史《かわちのふみ》氏とも呼ぶようになったのだ。
朝鮮から渡来したが漢氏には漢人の血が流れている。
蘇我氏にも百済王族の血が流れていた。河内に渡来した百済|蓋鹵《こうろ》王の弟|※[#「王」+「昆」]伎《こんき》王の子供達は雄略に寵愛《ちようあい》され、葛城《かつらぎ》本宗家が滅びると同時に、葛城氏の本貫地を貰《もら》い、蘇我と名乗ったのは五世紀の末であった。それ以来東漢氏は蘇我氏を主君と仰ぐようになったのである。
直《あたい》は、東漢氏の有力者に与えられた姓《かばね》である。
雀は入鹿の警護長になって以来、入鹿のためには生命を捧げる積りでいた。単に自分の主君だからだけではない。雀は入鹿の勇猛さと聡明さに惹《ひ》かれていたのである。
突然入鹿が馬に鞭《むち》を当てた。雀は部下の兵士達に続け! と命令すると懸命に入鹿の後を追った。道は狭く馬二頭は並んで走れない。
雀は入鹿の後ろに付き、離れなかった。
樹々から無数の鳥が飛び立った。入鹿は振り返ると雀に白い歯を見せ馬の速度を落した。並脚《なみあし》で少し進んだが馬を止めた。
入鹿は息を切らせていないが雀は追うのに懸命だったので全身汗|塗《まみ》れになっていた。
舞っていた鳥が再び樹々に戻った。冬野川に舞い降りた川蝉《かわせみ》が小魚を捕えると素早く対岸の樹に隠れた。春の陽は明るく、入鹿が身につけた金の装身具が眩《まばゆ》いほど輝いていた。
小魚を食べた川蝉は冬野川の岩床に降りた。満腹したのかゆっくり歩いている。
入鹿は濃い水色の小鳥を眺めていた。
大王舒明《おおきみじよめい》は伊予道後温泉で皇后|宝 皇女《たからのひめみこ》と共に療養していた。胸を患っているから生命はそんなに長くない。入鹿の脳裡に神秘的な美をたたえながら爛熟《らんじゆく》し切った宝皇女の雪のような顔が浮んだ。勝気な宝皇女は退屈し切っているに違いなかった。温泉につかることも山野を散策することにも飽きただろう。宝皇女は息長《おきなが》氏の血を引いており、どちらかといえば北陸系なので肌のきめが細かい。質の良い絹糸のような光沢があった。
皇后だから大王が病に罹《かか》っても他の男性とは関係することが出来ない。
だが吾には百済王族の血が流れている、と入鹿は眼を細めた。
息長系の継体が近江の国(通説は越前)から出て来て大和で大王になるまでの応神、仁徳王朝の始祖王は、矢張り朝鮮半島から来た、と入鹿は聞いていた。
そういう意味では蘇我氏の方が、倭国《わこく》の本当の大王かも知れない、と時々入鹿は思うのだった。
「雀、馬上から、あの川蝉を射ることが出来るか?」
と入鹿は雀に問い掛けた。
「川蝉は矢の羽音にも敏感です、でも御命令とあれば……」
「それでは射てみろ」
雀は矢を引き絞った。歩き廻っている川蝉に暫《しばら》く狙いを定めていたが、矢を放った。矢の羽音に驚いた川蝉は飛び立ったが、矢はそれを待ち構えていたように空中で川蝉を刺し貫き、冬野川に落ちた。
「雀、見事だ、折角の獲物《えもの》じゃ、兵士達に取りに行かせろ」
雀は二人の兵士を指名し、矢と共に流れている川蝉を取りに行くように命じた。指名された二人の兵士は馬から降りると、上衣を脱ぎ冬野川に飛び込んだ。旧暦三月だが川の水はまだ冷たい。
「雀、よく飛び立った川蝉を射たな」
「吾君《わがきみ》大郎、まぐれで御座居まする」
「まぐれではあるまい、どういう風に狙った? これは大事なことなのじゃ、鳥も人間と同じように動く場合がある、照れずに話せ」
入鹿は厳しい表情でいった。
「はっ、申し上げます、川蝉は獲物を狙うと一直線に降りて咥《くわ》えます、だが、飛び立つ際は余り真上にも横にも飛びません、大体東から飛んで獲物を取ったら西へ、西から来たなら東へ飛び、それから方向を変えて樹林や灌木に逃げ込み獲物を食べます、今の川蝉を見ていると岩床の上で北の方に首を向けておりました、本能的に北の方へ飛ぶのではないかと判断し、一尺ほど前に矢を放ちました、偶然、運良く当りましたが、吾君大郎、人間なら反対側に逃げる場合もありまする、人間と川蝉が同じ行動を取るとは限りますまい」
「雀、よく申した、その通りじゃ、人間なら身を伏せる場合もあるし、後ろに下る場合もある、ことに人間は一人一人別々じゃ……」
入鹿は空を見上げると哄笑《こうしよう》した。入鹿の眼は子供のように笑っていた。
川に飛び込んだ兵士が戻って来ると路上に蹲《うずくま》って矢を差し出した。
「吾君大郎、申し訳御座居ませぬ、矢の勢いが余りにも激しいせいか、川蝉は砕け、川水で流され、矢についているのは一本の羽がついた肉片だけで御座居まする」
入鹿は兵士が差し出した矢を受け取ると、
「これも良い教訓じゃ、小鳥を矢で射ても意味がない、雀、行くぞ」
入鹿は馬を戻すと嶋の屋形の方に走り始めた。雀達の一行が慌てて入鹿の後を追った。
田畑で働いていた農民達は入鹿の一行を見ると蹲り、なかには草叢《くさむら》に隠れる者も居た。
入鹿は甘橿丘《うまかしのおか》の麓にある豊浦《とゆら》の屋形の傍を通り西に向い、四半|刻《とき》足らずで舒明が宝皇女と住んでいる廏坂宮《うまさかのみや》(橿原市大軽町)に着いた。舒明は伊予道後温泉に滞在しまだ戻っていなかった。そのせいか、南門で宮を警備している警護の兵士達は宮の柵にもたれたり、中には路上で横たわり眠っている者も居た。旧歴三月、春の陽はうららかで、宮の傍には遅咲きの八重桜が重い花弁をもの憂げに開いていた。
柵にもたれて雑談していた兵士が、入鹿の一行を見付け、慌てて昼寝をしている兵士を起した。眼をこすりながら起きた兵士は、白馬と金色に煌く入鹿の装身具を見て、愕然として地上に坐った。立っていた兵士達も平伏した。入鹿は宮門の傍まで来ると馬上から声を掛けた。
「大王はまだ戻っておられないのか?」
「はっ、お戻りになっておられません」
「宮廷警護長は?」
「朝堂におられます」
「佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》であったな、大王が留守なのに、ちゃんと宮に来ておる、なかなか忠節な武人だのう」
廏坂宮は仮宮なので朝堂院は狭く朝堂も大殿も貧弱だった。入鹿は馬に乗ったまま朝堂院に入った。雀が馬から下り、兵士達に馬を預けると入鹿の後を追った。宮に入る時は誰でも馬から下りなければならないが、入鹿だけはそういう慣例を無視していた。
宮廷警護長佐伯連子麻呂は朝堂で中堅官人達と雑談していたが、入鹿を見ると朝堂院の庭に飛び出して来た。馬上の入鹿の眼光に射竦《いすく》められた子麻呂は崩れるように庭に敷きつめた小砂利に膝を落した。佐伯連は古くから大王家に仕える軍事氏族である。
「大夫、大王はまだお戻りになっておられません」
「何時頃お戻りかな?」
入鹿の声は子麻呂を威圧するように力強い。
「はっ、昨日河内から使者が参り、数日後にはお戻りになるとか……」
大殿の南門の内側を散策していた采女《うねめ》達が、入鹿を見ると恐れて南門の傍の控えの屋形の裏側に姿を隠した。上衣は白絹だが裙《も》は赤、緑、黄と華やかに彩られている。
「宮廷警護長、女人達は春の陽を愉しんでおる、美しいのう、毎日ここに来ておれば、美しい女人達とも親しくなれる、恋人は出来たか?」
入鹿は薄|嗤《わら》いを浮べた。
佐伯連子麻呂の顔面が蒼白になり、身体が慄《ふる》えたのが入鹿には痛快だった。
「大夫、宮の女人と親しくなることは古より禁じられております、佐伯連子麻呂、宮を守る武人で御座居まする、吾《われ》にとって宮は神聖なもの、佐伯連の名を穢《けが》すような真似は絶対致しませぬ」
「一寸《ちよつと》からかったまでじゃ、そうむきになるな、だが宮廷の女人は美しい、手折れるものなら手折りたい、そちも内心は同じ思いであろう、まあ皇后が戻られたら、蘇我大郎入鹿が御機嫌伺いに参ったと申し伝えて欲しい、子麻呂、分ったか」
「はっ、必ずお伝えします」
佐伯連子麻呂は何かいいかけて唇を噛んだ。入鹿が大王のことを口にしなかったのが子麻呂には不満だったに違いない。
入鹿がいい忘れた、と思ったのかもしれない。だが子麻呂はそれを口にすることが出来なかった。入鹿に威圧されて自由に喋《しやべ》れなくなってしまうのである。
子麻呂にはそんな自分が情けなく、また無念であった。入鹿は子麻呂を見詰めている雀に叫んだ。
「雀、戻るぞ!」
朝堂院の中なのに、入鹿は馬に鞭を当てた。まるで馬場を走るように朝堂院の庭を一周すると小砂利を撥《は》ね飛ばしながら宮を出たのだった。
胸を患った舒明《じよめい》が皇后|宝 皇女《たからのひめみこ》と共に伊予道後温泉から廏坂宮《うまさかのみや》に戻って来たのは、舒明十二年(六四〇)の四月だった。舒明の最初の宮は|雷 《いかずちの》丘《おか》の近くの岡本宮だが、舒明八年火災に遭い、田中宮(橿原市田中町)、廏坂宮と遷《うつ》っている。廏坂宮の直ぐ近くの石川には、かつて蘇我馬子《そがのうまこ》の屋形があった。
馬子は鹿深臣《かふかのおみ》と佐伯連《さえきのむらじ》が百済《くだら》より持ち帰った弥勒《みろく》の石像と仏像を貰い受け、屋形の近くに仏殿を造って弥勒の石像を安置し、三人の尼を呼んで、仏像を拝ませた。また屋形の内部にも仏殿を造った。俗にいう石川|精舎《しようじや》である。
馬子はその後飛鳥寺の建立に全力を投じたが、倭国《わこく》での仏法の始まりは、この石川精舎より興った、ともいわれている。それは兎《と》も角《かく》、高市郡の石川や、その南方の檜隈《ひのくま》には|東 漢《やまとのあや》氏を中心とする渡来人が多く、蘇我氏の勢力範囲である。そういう意味でも舒明は蘇我本宗家の掌中に捕えられていた、ともいえる。
旧暦四月だから桜の花はとっくに散り、畝傍《うねび》山や、その南方の山々の緑は、眩《まぶ》しいほど明るい陽の光に照り映えていた。舒明は現在|息長《おきなが》氏を始め蘇我本宗家の援助を得て、百済川(曾我川)の近くに百済宮(北葛城郡広陵町)を建てていた。同時に百済大寺も宮の傍に建てている。
この百済大寺の建立には蘇我本宗家よりも斑鳩宮《いかるがのみや》に居る聖徳太子の子、山背大兄皇子《やましろのおおえのおうじ》の意志が働いている。舒明が息長氏に頼り、飛鳥から脱して百済に宮を造ったのも、蘇我本宗家にとっては余り愉快なことではなかった。ことに、大臣蝦夷の反対を押し切った百済大寺の建立に入鹿は立腹した。宮を建てるだけでも大変なのに、並行して大寺を建てるのだから、百済川の近辺には使役の民が溢《あふ》れている。百済宮の建立の使役には西国の民が、大寺には、東国の民が徴発されていた。この百済大寺は後の大安寺である。
蝦夷、入鹿が百済大寺の建立は急がなくても良い、と忠告しても、珍しく舒明は諾《き》かない。憑《つ》かれたような表情で、聖徳太子(当時は廏戸《うまやど》皇子)の御意志だ、という。舒明は自分の病が不治の病であることを知り、死を覚悟していたのかもしれない。大人しい舒明が蘇我本宗家の意向に抵抗したのは、百済宮と百済大寺の建立だけであった。
舒明が健康を害し始めたのは、一昨年の秋頃からだった。だから一昨年は、秋から十二月の中旬まで有間温泉で療養している。
用明以来、倭国の政治権力は、殆《ほとん》ど蘇我本宗家の手に渡っていた。だから用明以来の大王《おおきみ》は宮や寺を造り、国政の小事を掌《つかさど》ることは出来るが、実質的には天神地祇を祭る神祇《じんぎ》の最高司祭者としての地位を保っているに過ぎなかった。大王であった崇峻《すしゆん》が大臣馬子によって殺されても、新羅《しらぎ》征討のため筑紫に派遣されていた有力豪族の間に余り動揺が起らなかったのはそのためである。だが天神地祇を祭る最高司祭者の権威は高く、格としては政治権力よりも上にあったのだ。
そういうところが、倭国と中国との違いだった。中国の天子は皇帝として政治の権力をも掌握している。朝鮮三国でも、一応貴族との合議体制をしいているが、王の政治権力は確保されていた。だが倭国で民を統治する政治権力は蘇我本宗家が握っていた。といっても、蘇我本宗家は、まだ独裁者ではなかった。古くから大王家に仕えている中堅氏族の中には、一応蘇我本宗家に服従しているものの、内心では大王家を中国の皇帝のように思っている者も多かった。蝦夷の子入鹿にはそれが不満だった。政治の権力を握っている蘇我本宗家が、何故大王家に遠慮しなければならないのか、と常々不服に思っていたのだ。
その点、祖父の馬子は偉大だった、と思う。馬子は海外の使者達を推古女帝の代りに引見したのだ。馬子のそういう権力に疑惑を抱く者は、当時は少なかった、と聞いている。そういう点で入鹿は父蝦夷に批判の眼を向けていた。と同時に、何かといえば蘇我本宗家のやり方に口をはさむ斑鳩宮の山背大兄皇子に憎悪の念を抱いていた。
入鹿にとって仏教は、祖父馬子、父蝦夷と同じく絢爛《けんらん》たる大陸文化だった。そして天神地祇を祭る大王家の地位を低下させると同時に自分の願望や一族の繁栄に力を貸してくれる有徳の神であった。だが聖徳太子の子の山背大兄皇子やその一族は違う。彼等は、民、百姓も自分達と同じ人間であり、牛馬とは違う、と考えているらしかった。入鹿達には想像も出来ない人間平等主義、博愛主義者だった。馬子が聖徳太子を嫌ったのも、太子が異端思想の持主だったからである。民、百姓を人間として尊重したなら、牛馬のようにこき使えない。当然、百姓は牛馬のように扱われることに反撥し、権力に抵抗する。聖徳太子は、仏教、道教からそのような思想を得て、自分の子供達に伝えたらしいが、倭国の専制的な王者になろうとしている入鹿にとって、それはまさに危険思想だった。
入鹿は何時も巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》などに斑鳩の軟弱な皇子奴! と侮蔑《ぶべつ》的な言葉でののしっていたが、内心では不気味さと得体の知れない苛立《いらだ》ちを感じていたのだ。
ことに斑鳩宮に大勢の妃や皇子達を集め、一族が仲良く住んでいることも気に喰わなかった。当時は通い婚で、男は好きな女の屋形に通い、子供を産ませる。その子供は女の実家が養うか、乳人《めのと》が引き取って育てるのが通例だった。ところが山背大兄皇子は通い婚など無視し、女に子供を産ませると、女と子供を斑鳩宮に引き取ってしまう。山背大兄皇子にいわせると、斑鳩宮こそ、寿国(道教思想の国)だ、という。何が寿国だ、そんなことで政治が執れるか、と入鹿は山背大兄皇子に対して憎悪の牙を剥いていたのである。
入鹿は山背大兄皇子を、たんに軽蔑していたのではない。彼の軟弱に見える生活態度の中に、恐るべき危険思想を感じ取っていたのである。蝦夷は、あんな軟弱な皇子は問題にしなくても良い、と入鹿にいっているが、聡明な入鹿は違っていた。入鹿は山背大兄皇子の生活の中に、自分の行く手を阻む巨大な岩を感じていたのである。そこが入鹿と蝦夷の違いだった。
今、入鹿を聡明、と述べたが、それは勉学と動物的な嗅覚《きゆうかく》に支えられた聡明さ、といい直した方が良いかもしれない。
蝦夷が余り朝参しなくなったのは、舒明四年(六三二)頃からだった。その年唐使|高表仁《こうひようじん》が、推古十六年(六〇八)の遣隋使に加わった学問僧|僧旻《そうみん》、推古二十二年の遣隋使|犬上御田鍬《いぬがみのみたすき》等を伴って倭国に来た。大臣蝦夷は船三十二艘、鼓、吹《ふえ》、旗幟《きし》をもって難波《なにわ》の江口(淀川河口)に迎えた。その時蝦夷は倭国の最高権力者として高表仁に会ったが、舒明に会わせようとしなかった。入鹿が、蝦夷に馬子の時の例を説き、蘇我氏が倭国の最高権力者であることを唐使に示すべきだ、と忠告したからである。
高表仁は舒明に会いたがったが、会うことが出来ず、難波の館に三カ月泊った後、遂に唐の皇帝の朝命を伝えずに帰国したのだ。その時、倭国の王は誰か? という点で高表仁は入鹿と争ったのである。
『旧唐書倭国伝』はその時の模様を次のように述べている。
「表仁無《ひようじんすい》[#二]|綏遠之才[#一]《えんのさいなく》、与[#二]王子《おうじと》[#一]争《れいを》[#レ]礼《あらそい》、不《ちよう》[#レ]宣《めいを》[#二]朝命《のべずして》[#一]而還《かえる》」
この時の王子は山背大兄皇子、古人大兄皇子《ふるひとのおおえのおうじ》という説もあるが、蝦夷、入鹿が次期大王位につけ、自分達の傀儡《かいらい》にしようと考えていた大人しい古人大兄皇子が、大唐の使者と争う筈はない。政治の圏内から離れ斑鳩宮に籠っていた山背大兄皇子も唐使と争うような立場ではない。
古人大兄皇子は、舒明と馬子の娘|法提郎媛《ほてのいらつめ》の間に出来た蘇我系の皇子だが、優柔不断の皇子だった。六四五年、入鹿が中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》と中臣鎌足によって殺されると、古人大兄皇子は自宅に逃げ戻り、剃髪して吉野宮滝離宮に籠ったが、間もなく中大兄皇子が差し向けた僅かな私兵によって、何等の策もなく殺されている。一方、舒明四年、中大兄皇子は僅か七歳だから、『旧唐書倭国伝』が記述している王子ではない。とすると『日本書紀』は伏せているが、その王子こそ入鹿ということになる。
蝦夷も高表仁の事件以来、馬子時代の権力を取り戻そうと、飛鳥の豊浦《とゆら》の屋形に籠って政治を執り、余り朝参しなくなった。自然群臣も、舒明の宮よりも、蝦夷の屋形に集るようになった。これを憂えた敏達の孫|大 派 王《おおまたのおおきみ》は、舒明八年(六三六)、蝦夷に次のように忠告した。
それについて『日本書紀』は、「大派王、豊浦大臣に謂ひて曰はく、『|群 卿《まへつきみたち》及び百寮《つかさつかさ》、 朝参《みかどまゐり》すること已《すで》に懈《おこた》れり、今より以後《のち》、卯《うのとき》の始《はじめ》に朝《まゐ》りて、巳《みのとき》の後に退《まか》でむ。因りて鐘を以て、節《ととのへ》とせよ』、といふ。然に大臣従はず」と述べている。
つまり舒明八年には、蝦夷は完全に舒明を無視し、入鹿と共に政治を執っていたのである。そういう状態だったから、唐使が入鹿を王子、と記述したのも無理はない。
舒明が廏坂宮に戻ったのを知った入鹿は、部下の|東 漢 直《やまとのあやのあたい》に命じて巨勢臣徳太を自宅に呼んだ。当時入鹿はかつて馬子が住んでいた嶋之庄に新しい屋形を造っていた。嶋之庄は多武峰から流れた冬野川が飛鳥川と合流した地点の北側の高台にあった。背後には多武峰の連山が、飛鳥北部の嫋々《じようじよう》とした山々と異った深い山容を呈していた。尾根と尾根との間の渓谷は厳しい。入鹿の屋形から眺める飛鳥川は清冽《せいれつ》で、飛鳥川沿いの真神原《まがみがはら》、甘橿丘《うまかしのおか》、|雷 《いかずちの》丘《おか》が一望の許に眺められる。そして真神原には馬子が建てた巨大な飛鳥寺があった。
入鹿の屋形の周囲は土を盛り上げた築地塀《ついじべい》が取り巻き、城のような様相を呈していた。築地塀の四隅の楼には、刀、槍を持った|東 漢《やまとのあや》氏の兵が、昼夜を問わず警護にあたっている。普通なら警護の兵は築地塀の外に立つ。兵が築地塀に接続した楼に立つような屋形はこれまでにない。そういうところに警戒心の強い入鹿の性格が表れている。だから飛鳥の人々は、入鹿の屋形の傍を自然に肩を丸め、頭を下げながら歩くのだった。入鹿が宮廷の群臣や飛鳥の住人達に恐れられている所以《ゆえん》は、物々しい入鹿の戦闘的な警備の仕方にもあった。それに入鹿は身長五尺七寸、肩幅は広く、当時にしては巨漢だった。体毛は濃く、伸びた顎鬚《あごひげ》を左手で鷲掴《わしづか》みにし、刀子《とうす》で切ると、川原の砂を踏むような音がした。
屋形は茅葺《かやぶ》きで五十坪ばかりの掘立形式だが、板床には鹿の皮が敷きつめられていた。居間には当時にしては珍しい木製の椅子と机が置かれていた。居間と来客用の間は土壁で仕切られている。山背大兄皇子が住む斑鳩宮には、仏殿の間があり、屋根は瓦で葺いているが、入鹿の屋形には瓦が使われていない。実質的な倭国の大王を自認している入鹿は、大王家の習慣を真似て、遠江《とおとうみ》や越《こし》の国の豪族達の娘を采女《うねめ》と称して屋形に住まわせていた。遠江には蘇我氏の部民《べみん》が居る。浜松の伊場遺跡から宗我部の木簡が発見されている。蘇我氏の私兵は東漢氏だけではない。東国にも蘇我氏に仕える精兵が居たのだ。
巨勢臣徳太が従者を連れ、馬を飛ばしてやって来たのは、午後四時頃だった。旧暦四月の陽は長く、西陽は遠くの山々の緑を紫赤色に染めていた。近くの樹々の葉は磨き上げた青磁のように輝いている。
入鹿は長刀を吊《つる》し、徳太と共に屋形を出た。この季節は屋形の中に居るよりも外に出た方が気持が良い。入鹿は屋形を出る時は、どんな場合も長刀を身から離したことがなかった。百済の武王が蝦夷に贈ったのを、入鹿がねだって貰い受けたのだ。徳太が一瞬、羨ましそうに入鹿の長刀を眺めた。入鹿は左前の麻の上衣を着て、ふくらんだズボン様の袴《はかま》をはいている。この姿なら何時でも馬に乗ることが出来る。
巨勢氏は蘇我氏、葛城氏と同じく武内宿禰《たけのうちすくね》が祖とされているが、大化以降、蘇我倉山田石川麻呂《そがのくらやまだのいしかわまろ》と巨勢氏との関係が良好であったために同祖とされた可能性が強く、氏族は全く違う。巨勢氏は六世紀以降、朝鮮関係で勢力を得た新興氏族である。本貫地は御所《ごせ》市南西部の古瀬《こせ》近辺である。ただ、蘇我氏と葛城氏との密接な関係から考察すると、紀路、曾我川周辺の氏族として、武内宿禰の系譜に組み入れられた可能性も強い。ただ武内宿禰を祖とする系譜は蝦夷、入鹿時代にはなかった。蘇我本宗家は冠位十二階制の枠を越えている。群臣に冠位を与える側なのだ。与えられる側の巨勢氏などと祖を同じくする筈はない。馬子が聖徳太子と作った『天皇記』(当時は大王記)では、蘇我本宗家の祖は大王家の始祖王となっていたと思われる。
それは兎《と》も角《かく》、巨勢氏は軍事氏族的な性格を有していた。東漢氏以外、軍事氏族を輩下に持たない入鹿としては、巨勢臣徳太は有力な味方だった。入鹿は徳太に、倭国では手に入り難い切子ガラスの碗なども与えている。その度に徳太は心の底から嬉しそうな顔をする。徳太は自分の感情を余り隠さない。その点が他の重臣達と違う。大伴連《おおとものむらじ》 長徳《ながとこ》など連日のように、蝦夷が住んでいる豊浦《とゆら》の屋形に行っているが、入鹿は余り信頼していなかった。何となく蝦夷、入鹿の真意を探りに来ているようなところがあった。
入鹿と徳太は馬子の墳墓の方に歩いて行った。後ろから|東 漢 直 雀《やまとのあやのあたいすずめ》と部下の兵達が周囲を警戒しながら歩いて来る。入鹿は徳太に舒明の病状を訊いた。
「かなりお顔の色が悪いようです、それに痩《や》せられました、皇后《きさき》も御心配されています」
徳太は声を潜めて舒明の病状を報告した。
舒明と一緒に道後温泉に行ったのは、神祇の長官で大夫《まえつきみ》であった|中臣連 《なかとみのむらじ》御食子《みけこ》の養子|鎌足《かまたり》(当時の名は鎌子)と中大兄皇子(葛城皇子)、僧|旻《みん》達だった。舒明は病気療養のため一昨年の秋有間温泉に行き、その年の新嘗《にいのあえ》を怠っている。新嘗は大王としての神聖な行事だった。その年の新穀を神々に供え、自らも食して、来年度の豊作を祈願する。大王だけに許された行事である。病気療養のためとはいえ、それさえ怠っている舒明にはすでに大王としての使命感が稀薄になっていた。舒明の生命が余り長くないのを、入鹿は昨年感じたのである。
入鹿は自分の健康を誇示するように、空を仰いで深呼吸した。その深呼吸の音は猛々しい獣が吐く息の音に何処か似ていた。
入鹿は、美貌だが如何にも勝気さが表れている皇后の顔を思い浮べた。皇后|宝 皇女《たからのひめみこ》は、馬子と守屋の仏教戦争の前に、馬子によって暗殺されたと噂《うわさ》されている押坂彦人《おしさかのひこひと》大兄皇子の孫である。夫舒明は押坂彦人大兄皇子の子供だった。押坂彦人大兄皇子には息長《おきなが》氏の血が流れており、蘇我氏とは縁がない。宝皇女は六〇二年の生れだから、もう四十歳に近い、入鹿はまだ三十を過ぎたばかりだった。入鹿は宝皇女が自分に好意を抱いているのをこの頃感じていた。
病弱のせいもあるが、舒明は性格的に大人しく、どちらかといえば優柔不断である。勝気な宝皇女が、そういう夫に物足りなさを感じるのは当然である。その点、入鹿は精悍《せいかん》そのもので豪放な性格だった。
「大夫《まえつきみ》は元気か? とお尋ねでした」
徳太が入鹿の心中を察したようにいった。入鹿はそれには答えず哄笑し、冬野川の渓流の方に歩いて行った。岩床に坐り鹿皮の履を脱ぐと足を川につけた。川水はまだ冷たく汗ばんだ身体が洗われるようである。
「巨勢臣、大王《おおきみ》の御生命も余り長くないな」
入鹿は呟《つぶや》くともなく呟き徳太の顔を見た。
入鹿と並んで岩床に腰を下した徳太は、表情を引き締めると頷《うなず》いた。父|大臣《おおおみ》蝦夷はすでに六十近い。大臣の位は間もなく入鹿が受け継ぐ筈になっていた。それは舒明が亡くなり蘇我系の古人大兄皇子が大王になった時である。古人大兄皇子は、熱心な仏教徒で、争い事を好まない。それに権力欲も余りなかった。古人大兄皇子が大王位につけば、蘇我本宗家が名実共、倭国の大王になる日はそんなに遠くない。
入鹿としては何が何でも、古人大兄皇子を大王にしたかった。だが邪魔者が一人居た。斑鳩宮に住む山背大兄皇子である。
推古女帝が亡くなった時、積極的に次期大王になろうとしたのは、現大王舒明(田村《たむら》皇子)ではなく、聖徳太子の子、山背大兄皇子の方であった。皇子の母は蝦夷の妹|刀自古郎女《とじこのいらつめ》である。蝦夷が山背大兄皇子を推さなかったのは、父馬子が、仏教・道教思想にかぶれ、人間は平等だななどといい出した聖徳太子を嫌っていたからである。それに山背大兄皇子は、性格が狭隘《きようあい》で自分の父を疎外した蘇我本宗家を恨み、何とか自分が大王になり、蘇我本宗家を見返してやろうという野心に燃えていた。だから山背大兄皇子が大王になったなら、蘇我本宗家の意のままにはならない。場合によっては政治権力が、蘇我本宗家から斑鳩宮に移る危険性があった。蝦夷が田村皇子を推したのは馬子の遺命だった。
田村皇子は息長系だが、馬子の娘法提郎媛を妃にし、古人大兄皇子を産ませている。蝦夷は田村皇子の次の大王を古人大兄皇子に賭けて、田村皇子を推したのだ。
この時蝦夷に同調したのは、大《おお》|伴 連《とものむらじ》 鯨《くじら》、采女臣摩礼志《うねめのおみまれし》、高向臣宇摩《たかむくのおみうま》、中臣連御食子、難波吉士身刺《なにわのきしむざし》などであった。一方山背大兄皇子を推したのは、馬子の弟|境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》、巨勢臣大麻呂《こせのおみおおまろ》、佐伯連子東人《さえきのむらじあずまひと》、紀臣塩手《きのおみしおて》で、蝦夷の弟|倉麻呂《くらまろ》は中立の立場を守った。大夫《まえつきみ》達の意見が二手に別れたのは、すでに馬子の時と違って蘇我氏が分裂し、境部臣摩理勢が強硬に山背大兄皇子を推したからである。結局、蝦夷が叔父にあたる境部臣摩理勢を殺し、田村皇子は大王位について舒明となったのだ。
だから巨勢臣大麻呂の子である徳太は、山背大兄皇子側についても良い筈だが、時の流れが蘇我本宗家に集るのを洞察し、入鹿に協力するようになっていた。ただ佐伯連、紀臣などの氏族は、山背大兄皇子を見放しているものの、蘇我本宗家と距離を置いていた。
大王家の有力氏族である巨勢、大伴、中臣、土師《はじ》氏などは蘇我本宗家に服従しているので入鹿としては心強い。ただ神祇の長官の中臣連御食子はその職業上、大王と接する機会が多いので、中臣氏の真意は計り難い、と入鹿は感じていた。中臣氏が蘇我本宗家に味方しているのは、斑鳩宮の皇子が古来からの神祇を軽んじているからであろう。大王が神祇の最高司祭者である以上、神祇を軽視する皇子が大王になられては、中臣氏としては困るのだ。その辺りのことは、入鹿もよく心得ている。
何時の間にか陽は生駒連山の彼方に落ちようとしていた。杉の樹立が仄《ほの》暗くなり始め、塒《ねぐら》を求めた山鳥が樹立の中に入って行く。入鹿は警護の兵士を呼び、弓矢を手にした。岩床に坐ったまま強弓を引き絞って杉の樹立に狙いを定めた。一羽の山鳥が高い杉の樹の上に止っている。皮を一気に切り裂くような音がして矢は射たれ山鳥を貫いた。
「夕餉《ゆうげ》の酒の肴《さかな》じゃ、取って参れ」
入鹿の命令に兵の一人はふんどし一つになって冬野川に飛び込んだ。入鹿は徳太をうながして立ち上った。
魚油の明りで、徳太と酒を汲み交わしながら、入鹿は今後の政局を論じ合った。徳太も古人大兄皇子を次期大王にすることは絶対必要だ、と入鹿の意見に賛成した。だがそれには皇后を味方につけなければならない、と意見を述べた。だから入鹿に、時々舒明の宮に顔を出し、皇后と親しくして欲しい、という。
「ああ、それは分っておる、だが再三顔を出し、あらぬ噂を立てられては困るからのう、群臣の中には鳥の羽音と狼の遠吠えを間違える奴等が多い」
入鹿は哄笑しながら、金銅の酒杯を遠江から呼び寄せた色白の女人の前に差し出した。女人は顔の彫りも深く畿内の倭国人とは違った美貌の持主だった。東国の蝦夷の血が混じっているからだろう。畿内の住人達にとって遠江は遠い異国だった。
その夜入鹿は色白の女人を抱き締め刺し貫きながら、吾は何時の日か倭国《わこく》の大王になる、大王になると胸の中で絶叫していた。
五月五日入鹿は雀を隊長とする東漢氏の兵を連れ、舒明が療養している廏坂宮を訪れた。
当時、舒明は小徳以上の重臣とは大殿で、それ以下の有力群臣とは朝堂院で会っていた。
ただ仮宮ということも原因だが、群臣が余り朝参しないし、間もなく百済宮が出来るので、廏坂宮の朝堂院は、朝堂が東西二棟ずつ並んでいるに過ぎない。
内裏と大殿の周囲には回廊もなく、大殿の南正面には形ばかりの門があった。朝堂院の南には宮の正門がある。
子麻呂は、朝堂に居たが、馬に乗った入鹿の姿を見、慌てて入鹿が馬を止めた宮の門まで足を運んだ。大臣蝦夷が廏坂宮に来たのはたった一度だが、入鹿は時々舒明や皇后に会いに来ている。政治のことよりも世間話が主だった。
子麻呂が一礼したが入鹿は何時ものように馬から降りなかった。入鹿は大王や皇后には礼儀正しいが、子麻呂に対しては横柄だった。
子麻呂には宮廷警護長としての誇りがあった。だが入鹿に見据えられると、自然に砂利の上に膝を突いていた。入鹿の威力に圧倒されてしまうのだ。入鹿はまだ大夫《まえつきみ》だが、父蝦夷と同じ大臣《おおおみ》という意識があった。大王家に仕える氏族という点では、佐伯氏は蘇我氏よりも古い。馬子以来、倭国の政治権力を蘇我本宗家が握っていることは子麻呂も充分承知している。だが子麻呂にとって倭国の大王は矢張り舒明だった。入鹿に対して膝をつき一礼しながらも子麻呂の胸には、蘇我本宗家に対して鬱屈《うつくつ》したものが煮えたぎっていた。
その点、蘇我倉麻呂の子石川麻呂は温厚で、人間的な器も大きく、入鹿のように横柄ではない。だから子麻呂は蘇我本宗家よりも、支族の石川麻呂に心を寄せていたのだ。
「大王の御容態が良くないことを聞き、御見舞に参った、吾が参ったことを大王と皇后に伝えられたい」
入鹿の声は吠えるように大きかった。
宮庭を散策していた女人達が、驚いたような視線を門の方に向けた。訪問者が入鹿だと知ると、顔を背け急ぎ足で宮に戻って行く。子麻呂は入鹿に、暫くお待ち下さい、と告げて宮の方に歩いて行った。落ち着こうと思うが、どうしても小走りになる。
その間、入鹿は大王が宮に居るにも拘《かかわ》らず、馬に乗ったまま朝堂院に入った。ただ入鹿は勝手に大殿に入ったりはしない。蝦夷、入鹿には渡来人のブレーンが多い。彼等から儒教を学んでいる入鹿は、大王家に対しては或る程度の礼節を守っていた。ことに入鹿は、舒明の皇后宝皇女の信頼を得たかった。入鹿は宝皇女に学識のない粗暴な男と思われたくなかったのである。女人はその地位に拘りなく粗暴な男性を嫌うことを入鹿はよく知っていた。駈け足で戻って来た子麻呂は入鹿に、大王は宮の一室の仏間で、僧|恵隠《えおん》から無量寿経《むりようじゆきよう》の講義を受けている、と報告した。
恵隠は僧旻《そうみん》等と共に推古十六年(六〇八)隋に渡り、昨年九月新羅使と共に倭国に戻って来たばかりである。推古十六年隋に渡った学生は他に|東 漢 直 福因《やまとのあやのあたいふくいん》、奈羅訳語恵明《ならのおさえみよう》、|高向漢人 玄理《たかむくのあやひとげんり》、|南淵漢人 請安《みなぶちのあやひとしようあん》、|新漢人 広済《いまきのあやひとこうさい》等計八人だった。福因は推古三十一年(六二三)に医師|恵日《えにち》等と新羅使と共に戻って来たが、僧旻が戻って来たのは舒明四年(六三二)だった。
入鹿と礼を争った高表仁、新羅使も一緒であった。だが請安、玄理はまだ戻ってこない。それにしても恵隠の中国滞在は約三十年に及ぶ。隋の煬帝《ようだい》が殺され唐が興ったのは六一八年だから、六〇八年の遣隋使に従った学問僧達は、中国王朝の交替を体験して戻って来たわけだ。ただ、今、舒明が講義を受けている僧恵隠は、政治よりも仏教の研鑽《けんさん》に励んだ僧で、儒教や法家《ほうか》思想をも唐に学んだ僧旻とは帰国してからの教え方が違っている。僧旻は恵隠と違って政治にも興味を持ち、昨年から畝傍《うねび》山の東方の自宅で、貴族達の子弟に儒教や唐の律令体制を講義していた。
蝦夷も時々豊浦の自宅に僧旻を呼び、唐の政治体制の講義を受けた。その時は入鹿も蝦夷と共に僧旻の講義を聴いていた。
だから入鹿は、大唐の政治体制がどういうものか知っていた。唐の律令制度は、倭国では想像もつかないほど進歩している。
倭国も何《いず》れそうならなければならないが、現在の倭国では有力氏族が私民を有し、東国や西国の国々の中には独立国家的な国造《くにのみやつこ》がまだ存在し、大王や蘇我本宗家の命令は徹底しない。倭国にとって唐の律令体制は、まだまだ先のことである。
それにしても、恵隠に仏教の講義を受けている舒明は、政治に対する意欲など、全く放棄しているようだった。病弱な吾身の安泰を願っているのだろう。それとも無量寿経の教えを聴くことに精神の安らぎを求めているのかもしれない。無量寿経は、後に日本浄土教の根本聖典となった。入鹿にとっては無縁の経典だった。
入鹿は苛々しながら待った。
入鹿の地位なら大殿にまで行って良いのだが、公式の訪問ではないし、入鹿は宝皇女に礼節のある人物、と思われたかったのである。大殿と内裏は廊下によってつながれている。控えの間と大殿の間には玉砂利が敷かれていた。
内庭に人影はない。入鹿は四半刻ほど待たされた。気の短い入鹿が大殿を睨《にら》みつけていると、大殿の東から数人の采女を伴った|宝 皇女《たからのひめみこ》が現れた。髪に金花を飾り、長い金の耳飾りを垂らしている。唇に朱を塗った宝皇女は四十前とは思えない。女人の盛りはすでに過ぎているが、残りの桜花の重たげな色香が漂っていた。入鹿は馬から降りると一礼し、大王の御容態はどうかと丁重な言葉で尋ねた。
正門で大声を出した入鹿とは別人のようだった。宝皇女は黒眼勝ちの眼を細め微笑を浮べながら、見舞の礼を述べた。
「大王は受講でお疲れになり、お休みになりました、大夫にくれぐれもよろしく、とのことです、雨もやみ、今日は暖かい、今から畝傍の山にでも行ってみようと思っています」
一緒に行こう、とはいわなかったが、宝皇女の眼は、入鹿が行くことを望んでいた。
入鹿は顔を上げると、お供して良いでしょうか? と訊いた。紫色の長い上衣を着た宝皇女は華やかな裙裾《もすそ》を翻しながら階段を降りた。采女の一人が持っていた履《くつ》を素早く宝皇女にはかせた。紫色に染めた鳥皮の履である。子麻呂がやって来て平伏し、輿《こし》の用意をさせましょうか? と訊いた。宝皇女は首を横に振ると、きっぱりとした口調でいった。
「輿も供も要らぬ、大夫《まえつきみ》とこの辺りを散策するだけじゃ、心配は無用、大夫の兵士達が警護してくれる、宮廷警護長、そなたは宮を守っておれば良い」
宝皇女が歩き出すと、子麻呂は無念そうな顔で立ち上った。入鹿はそんな子麻呂を見て、彼が自分に好意を寄せていないのを今更のように感じた。
廏坂宮から畝傍山までは僅かな距離だった。入鹿は兵士達に離れて警護するように命じた。兵士の一人が入鹿の馬の手綱を取った。采女達も二人から離れ、咲き乱れている花々を摘みながら楽しそうに歩いて行く。薄紫の藤の花や白い卯《う》の花、触れるだけで指が染まりそうな紫色のかきつばた。様々な色をしたあじさいが山野を彩っていた。微風と共に花の香りが匂って来る。当時の山野には、現代では想像出来ないほど花々が多かった。采女達にとって、この季節の山野の散策は楽しみの一つだった。
自然宝皇女と入鹿から注意が外れる。入鹿は三尺ほど後ろから歩いたが、宝皇女は野の花を摘みながら入鹿を待つ。そんなことを繰り返しているうちに次第に二人は肩を並べて歩いていた。ただ入鹿はどんな場合も、ほんの少しだけ後ろに下っていた。宝皇女が野の百合を見付け根元から抜こうとした。根が強く抜けないようであった。
「蘇我大郎入鹿、私《わ》の力では無理です」
二人切りになり心を許したせいか、宝皇女は入鹿の名を呼んだ。宝皇女の額に微《かす》かに汗が滲《にじ》んでいる。入鹿にはそんな宝皇女が、自分より年齢《とし》上には見えなかった。何時も皇后の立場を自覚し毅然《きぜん》としているだけに、こんな場合は嫋々とした女人の姿に戻る。入鹿は笑いながら百合の根元を指ではさんだ。宝皇女の指と入鹿の指が触れ合った。宝皇女が息を呑《の》み、微かに顔を赧《あか》らめたのを入鹿は感じた。皇后は吾に好意を抱いてくれる、と入鹿は胸のときめきの中で呟いた。古人大兄皇子を次期大王につけ、蘇我本宗家が完全な権力を握るためにも、入鹿は宝皇女の好意を得なければならない。だからこうして、入鹿が宝皇女の供をしているのは、計算ずくの行動だった。
そんな入鹿にとって胸のときめきは計算外のものである。入鹿の傍には各地から集めた若い女性が無数に居るのだ。宝皇女の指に触れて、胸がときめくなど、入鹿は思っても居なかった。矢張り皇后という宝皇女の地位に、他の女人にない何かを入鹿は無意識のうちに感じていたのだろうか。
今の入鹿には、手に入らないものは殆どない。馬子のように大王を殺すことさえも出来る。入鹿は自分を王《きみ》と呼び、自分のためなら平気で生命を投げ出す|東 漢 直 雀《やまとのあやのあたいすずめ》を始め東漢直達の顔を何人か思い浮べた。ただ、今入鹿が大王を殺しても、自分が大王になることは出来ない。倭国の天子、最高司祭者になる者は、大王家の血筋を引いていなければならないのだ。入鹿には、大王家の血は流れていない。同じ蘇我一族だが、山背大兄皇子の父聖徳太子は、用明の子供だった。つまり山背大兄皇子は、大王の孫ということになる。舒明が亡くなったら、山背大兄皇子は、次の大王になろうとするだろう。推古が亡くなった時も、積極的に大王になろうとし、結局蘇我氏を決定的に分裂させた男だ。
現在も斑鳩宮に大勢の妃や子供達を集め、寿国に住んでいると思っているくせに、山背大兄皇子は何故か政治に関心を抱いているらしく、思い出したように宮にやって来ては勝手な意見を述べるのだ。まだ倭国の大王になりたいのか。ただ山背大兄皇子の場合、次期大王になりたいと申し出ても、頭から撥ねつけるわけにはゆかない。何故なら皇子にはその資格があるからだった。だが入鹿にはそれがない。
入鹿は唇を噛むと、吾も百済王族の子孫だ、と斑鳩宮の方を睨みつけた。斑鳩宮は畝傍山に登らなければ見えない。
「恵隠《えおん》の話では、南淵請安《みなぶちしようあん》、 高向玄理《たかむくげんり》達も、近々、帰国するそうです、唐は大きく、何処が国の果てなのか、分らない、と恵隠は申していました、それにしても、二人が倭国を離れたのは、我が子供の頃です、だからもう三十二年になる、すっかり唐人になり切っていることでしょう、ただ唐は、高句麗《こうくり》、百済よりも、新羅と親しいようじゃ」
宝皇女が突然話題を変えたのは、入鹿との指の触れ合いに胸がときめき、自分を恥じたからであろう。そして宝皇女の表情は、宮廷に居る時のように毅然となっていた。
そのことは唐使|高表仁《こうひようじん》が来た時、入鹿は高表仁から唐の意向を知らされていた。隋が倒れたのは、煬帝の三度にわたる高句麗攻撃が失敗し、国内が疲弊し反乱が起ったからである。六一二年の攻撃には、煬帝は二百万の大軍を率いて自ら遼河を渡った、という。唐の高祖李淵は煬帝を斃《たお》し帝位についたが、国内を平定したのは六二四年だった。
そして高句麗、百済、新羅の三王を冊封したが、朝鮮三国の領土争いはやまなかった。ことに高句麗と百済は、まるで連合国のように、新羅を攻めたのである。新羅としては、唐の力を借りて、高句麗、百済両国に対抗せざるを得ない。ことに唐にとって高句麗は隋以来の宿敵である。六二六年高祖の後を継いだ太宗は、すでに高句麗征討を決意していた、と思われる。げんに六三一年太宗は広州司馬長孫師を派遣し、かつて戦死した隋兵の骨を祭り、高句麗の忠霊塔を破壊した。高句麗|栄留《えいりゆう》王(建武王)は、将来、唐が高句麗を攻撃して来ることを予測し、百姓を動員して扶余《ふよ》城から渤海《ぼつかい》湾に到る長城を築き始めた。千余里の長城である。
宝皇女と入鹿が畝傍山山麓を散策している今も、高句麗は長城を築いているのである。完成するまで十六年も掛ったといわれている。舒明時代、倭国内部は比較的平穏であったが、朝鮮三国には不気味な暗雲が空を覆い始めていた。唐は新羅と結ぶことによって、高句麗と百済を牽制していたのである。唐からの帰国者が新羅使と共に倭国に戻っていたのは、そのためだった。政治には関係のない宝皇女も、宮を訪れる学問僧達から、そういう海外情勢を聞いて、知っていたのである。
「皇后、何れ唐は高句麗を攻撃するでしょう、幸い倭国は海の中に国がある故、朝鮮三国のような領土争いはありませんが、このまま平和な日が続くと油断していてはなりません、ことに恵日等が申した通り、大唐は律と令の定まった新しい国です、倭国も大唐のような国にしたいものです、吾《われ》は請安達が戻れば、講堂を建て、大唐の新知識を学ぶ積りであります、大唐に較べたなら、倭国など、まだまだ蛮国です」
「大夫《まえつきみ》は学問に熱心じゃ、私も頼もしく思っています、ただ、もう大唐の使者と争うようなことはやめた方が良い」
「あの時は吾も若う御座居ました、今は深く恥じております」
入鹿は宝皇女に一礼した。その時采女達が悲鳴をあげた。入鹿が本能的に長刀の柄に手を掛け、采女達の方を見ると一頭の大鹿が角を振り立てながら猛進して来た。宝皇女も悲鳴をあげたが、思い直したように口を固く結んだ。入鹿は宝皇女の前に立つと抜刀し、大鹿を睨みつけた。警護していた兵士達が慌てて走って来るが、距離があるので間に合いそうにない。入鹿は長刀を大上段に振りあげると大鹿の眼を睨んだ。もしここで宝皇女の身に何かあったなら、入鹿の権威は失墜する。
大鹿はすでに十尺ほどの距離に迫っていた。入鹿の眼は爛々と輝き、炎を噴き出しているようだった。入鹿は大鹿が首を下ろしたのを見た。角が前に下る。入鹿は大上段に振り被《かぶ》っていた長刀を槍のように持ち替えた。入鹿は大きく息を吸い込み鹿の両眼を睨んだ。この大鹿を一撃で倒すには、鹿の両眼の間に長刀を刺さねばならない。深く脳まで刺し貫かねばならなかった。荒々しい息が聞えるほど大鹿は近付いて来たが、突然大鹿は右に身を翻した。入鹿の気迫と殺気に恐れをなしたのかもしれない。大鹿は背高く伸びた草叢の中に飛び込んだ。立ち竦んでいた采女達が喚声をあげた。だが入鹿は長刀を構え直したまま動かなかった。大鹿がこんな凄《すさ》まじい勢いで人間に向って来るなどめったにないことである。それには何か理由がなければならない、と入鹿は本能的に考えたのだった。入鹿は宝皇女に叫んだ。
「皇后《きさき》、動いてはならぬ」
入鹿の怒声に宝皇女は身体を硬直させた。入鹿の勘は当っていた。大鹿の後を追って現れたのは巨大な山犬である。山犬は草叢に飛び込んだ大鹿の後を追おうとしたが、刀を向けている入鹿を見ると、立ち止ったのだ。山犬特有の唸《うな》り声に、樹々に群がっていた鳥が一斉に羽ばたいて飛び立った。
山犬は自分の敵が大鹿ではなく、入鹿であるのを感じたのかもしれない。入鹿が再び刀を大上段に振り被ると、山犬は二、三歩後ずさりした。大鹿よりも頭脳が優れている山犬は、武器を持った人間の強さを知っている。それと入鹿の気迫が山犬を圧倒したのかもしれない。東漢氏の兵士が喚声をあげながらやっと近付いて来た。危険を察した山犬は大鹿の後を追うように草叢に逃げ込んだのだ。
宝皇女を襲おうとした大鹿と山犬が、入鹿の気迫に恐れをなして逃げたという噂は、たちまち宮廷内部から群臣の間に伝わった。采女達は口々に、宝皇女の前に立ちはだかった入鹿の姿は鬼神のようであった、と話した。狼でも入鹿の前では摺伏《しようふく》したに違いない、といい合った。
群臣の或る者は入鹿に、大変なお手柄です、とお世辞をいい、また或る者は、大夫なればこそ、野獣も避けたのでしょう、と入鹿の歓心を得ようとした。その度に入鹿は、相手はたかが獣じゃ、武器を持った兵士達ではない、と吐き出すように答えた。
南淵請安、高向玄理が大唐より戻って来たのは、その年の旧暦十月だった。二人共|今来《いまき》の漢人《あやひと》である。今来の漢人というのは東漢氏などよりも、新しく渡来した漢人という意味である。舒明に無量寿経を講義した恵隠《えおん》も滋賀漢人だった。請安、玄理も隋、唐での滞在年数は約三十年になる。そして彼等は先述したように、隋、唐の王朝交替の際の激動、そして唐の朝鮮三国対策を熟知していた。こうして大和には、唐からの新帰朝者により、唐の学問、新しい政治情勢がもたらされたのである。
南淵請安達が戻って来た日に、舒明は漸《ようや》く半ば完成した百済宮に移った。と同時に、大和での蘇我氏の本貫地葛城の高宮で育てられていた中大兄皇子(葛城皇子)が、舒明の望みで、百済宮で舒明と一緒に住むようになった。時に中大兄皇子は十五歳だった。六四〇年舒明十二年の冬であった。舒明は皇子と一緒に住むようになって、張り詰めていた気持が緩んだのか、急に病が重くなった。毎日寝たきりの生活である。
九月、入鹿は蝦夷が住んでいる豊浦《とゆら》の屋形を訪れた。豊浦は甘橿丘の西北の麓である。蘇我|稲目《いなめ》が最初に仏像を安置したのは豊浦だった。さらに向原にあった自宅の一部を寺に改造し、百済聖王から欽明に贈られた金銅の釈迦像を安置した。だがその金銅像は、排仏派の大連|物部《もののべの》尾輿《おこし》等によって難波の堀江に流された。もと居た異国に戻れ、という尾輿の意志で、堀江に流されたのである。『日本書紀』によれば西暦五五二年だから、九十年も前のことだった。蝦夷が豊浦寺として新たに再建したのは舒明六年である。
稲目が仏教を取り入れたのは、蘇我氏が百済王族の出であり、百済王や貴族達と親しく、新しい大陸文化として仏教を認識していたからであった。また仏教を大王家にも崇拝させ、大王家の神祇の最高司祭者としての格を下げようとする意識も、稲目にはあった。
稲目の子馬子が、軍事、祭祇氏族の物部氏を斃し、仏教を大王家に認めさせた理由の一つも、そういう稲目の意志を知っていたからである。そのためには、大王家の外戚になり、実力の上では、大王の上に立たねばならない、と馬子は考えていた。馬子の執念が用明を大王位につけたともいえる。それにしても、父蝦夷の代になってから、蘇我氏が分裂し、蝦夷は馬子時代ほどの権力を握っていない。入鹿には、それが歯痒《はがゆ》くてならなかった。入鹿の宿願は何としても、蘇我本宗家を、祖父の時代以上のものにしたい、ということだった。
その日、蝦夷は、重臣達を豊浦の屋形に集めていた。集ったのは、宝皇女の弟|軽王《かるのきみ》、古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子、蘇我倉山田石川麻呂、巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、大伴連《おおとものむらじ》 長徳《ながとこ》、土師連裟婆《はじのむらじさば》、阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》、上毛野君形名《かみつけののきみかたな》、高向臣《たかむくのおみ》 国押《くにおし》、紀臣塩手《きのおみしおて》、|中臣連 《なかとみのむらじ》御食子《みけこ》などであった。塩手は推古が亡くなった後、山背大兄皇子を推している。巨勢臣徳太の父大麻呂も山背大兄皇子を推していた。山背大兄皇子の姿が見えないのは、蝦夷が使者を出さなかったからである。古人大兄皇子が来ている以上、山背大兄皇子も、来て良い筈だが、重臣達は気にしていなかった。山背大兄皇子は、政治の圏外に置かれていたからだ。
上座について蝦夷が重々しい口調で、大王の病状が非常に悪く、大王の快癒を仏に念じているが、万一の場合を考えておかねばならない、と述べた。誰も口を開く者が居ない。入鹿は腕を組み、集った群臣の顔を眺めていた。その表情から、彼等の本心を探る積りだった。入鹿にはその学識で最近頭角を露《あら》わしている鎌足の姿が見えないのが、いささか物足りなかった。鎌足は御食子の養子だから、御食子が出席している以上、欠席しても不思議はない。御食子はすでに老いており、ただ蝦夷の御機嫌取りに出席したように思える。蝦夷の屋形は大王家の宮と同じように、日常生活をいとなむ住居の間と、接見の間は渡り廊下でつながれている。大臣として倭国の政治を執っている接見の間は広かった。
蝦夷は正面奥の一段と高くなった板床の間に、東国の蝦夷から贈られた白熊の皮を敷き、胡坐《あぐら》をかいて坐っていた。その傍に古人大兄皇子が落ち着きのない表情で坐っている。時々|顎鬚《あごひげ》に手を当てたり、太腿《ふともも》を撫《な》でたりしている。蝦夷と群臣の間に坐っている入鹿は、その度に古人大兄皇子を睨んだが、皇子は気がつかない。古人大兄皇子は自分が大王になったとしても、蘇我本宗家の傀儡《かいらい》であることを知っていた。だから寧《むし》ろ大王になるより、政争外に身を置き、のんびり暮したい、と望んでいる。だが蝦夷や入鹿が、それを許さないことも皇子は知っていた。そういう意味で古人大兄皇子は政争の犠牲者だった。
群臣の中で一番毅然としているのは矢張り阿倍倉梯麻呂である。蘇我石川麻呂は穏やかな表情で、やや背を丸めて坐っている。石川麻呂が何を考えているのか、入鹿にも見当がつかなかった。石川麻呂の父倉麻呂は、山背大兄皇子と田村《たむら》皇子(舒明)が大王位を争った時も中立的な立場を守り通した。明らさまに蘇我本宗家に反抗していないが、服従もしていない。東漢氏の中には石川麻呂に心を寄せている者もかなり居た。石川麻呂は今年の三月から現在住んでいる山田に、山田寺を建立し始めている。蘇我氏の氏寺は飛鳥寺である。馬子時代は本家、支族を問わない蘇我氏の氏寺であった。石川麻呂が氏寺を建て始めたのは、ひょっとすると蘇我本宗家と支族とは別だという意思表示かもしれない。山田寺の建立には東漢氏もかなり力を貸している。
当時は各豪族が競って氏寺を建立し始めた時代だから、石川麻呂が山田寺を建てたからといって不自然ではない。ただ入鹿は飛鳥寺という蘇我氏の氏寺があるにも拘らず、南門、塔、金堂が南北一直線に並ぶ四天王寺形式の巨大な氏寺を建て始めている石川麻呂に油断のならないものを感じていた。
それに石川麻呂は、倉麻呂が亡くなって以来、蘇我倉山田石川麻呂と名乗るようになっていた。蘇我本宗家と一線を画そうとしている。
「次期大王に誰がなるかじゃ、皆の意見を聴きたい、こういう場だから、意見は述べ難いであろう、だから大臣として吾《われ》が指名する、勿論《もちろん》ここだけの話じゃ、遠慮なく述べよ、巨勢臣の意見は?」
蝦夷が巨勢臣徳太を指名したのは、会議を有利に導くための作戦だった。徳太は緊張した面持ちで、古人大兄皇子の名を告げた。次に大伴連長徳に訊いた。長徳は大王家の名門氏族大伴本宗家の長男だった。『聖徳太子伝|補闕《ほけつ》記』には、山背大兄皇子を襲った人名の中に、軽王(後の孝徳)と共に、|大伴 連 馬甘《おおとものむらじうまかい》公の名が記されている。この馬甘公は、大伴連馬飼、つまり長徳のことである。
乙巳《きのとみ》のクーデター(大化の改新)の後軽王は大王孝徳となった。だが時の政治権力は中大兄皇子と鎌足が握っていた。そして孝徳五年(六四九)、時の右大臣石川麻呂は中大兄皇子と鎌足の罠《わな》に掛り、謀反の疑いで攻められ、山田寺で自殺した。石川麻呂の後を継いで右大臣に抜擢《ばつてき》されたのが大伴連長徳である。この時、巨勢臣徳太は左大臣に抜擢されている。蝦夷も入鹿も、自分達が数年後滅び、自分達に忠節を尽していたこの両名が、左右大臣に抜擢されることは夢にも思っていなかったであろう。
長徳は、徳太と同じように古人大兄皇子の名をあげた。中大兄皇子も考えられるが、年齢の点で今は無理で矢張り古人大兄皇子が最適と思う、と自分の考えを述べた。ただ長徳は、山背大兄皇子が、皇后宝皇女に、大王に万が一のことがあれば、次期大王には自分が最適である旨使者を遣わして申し出た、と述べた。自分の意見を述べ終った長徳は、緊張のせいか顔を赧らめると、何となく一座を見廻した。
蝦夷が膝を叩いた。
「これまでの倭国の風習を破り、斑鳩宮に大勢の妃や王子達を集め、軟弱な生活を送っている山背大兄皇子に、大王位を渡すことはできない、もし大臣の意見に不服がある者が居れば、手を挙げて欲しい」
誰も手を挙げる者は居なかった。
入鹿は蝦夷の質問の仕方は単純過ぎてまずい、と苦々しく感じた。こういう質問をされたなら、内心山背大兄皇子に意を通じている者が居たとしても、誰も手を挙げる者は居ない。蝦夷は宝皇女の弟、軽王に眼を向けた。俯《うつむ》いていた軽王は、顔をあげると、山背大兄皇子を大王位につけることは不賛成だ、と珍しくきっぱりと述べた。軽王は性格的に優柔不断なところがあり、自分の意見を強く述べない。だから軽王の今日の態度は珍しく群臣の注目を浴びた。軽王は話し続けた。
「実は昨日、皇后に会い、大王の気持を詳しく聴いて参った、大王は葛城皇子に大王位を譲りたい、という気持を抱いておられるが、年齢的に今は無理なので、矢張り古人大兄皇子か、また山背大兄皇子に大王位を譲りたい御意向のようじゃ、皇后も古人大兄皇子殿か、山背大兄皇子か、迷っているとのことじゃ」
緊張した沈黙が会議の席に流れた。突然山背大兄皇子の名が出された上に、宝皇女が迷っていることを知り、蝦夷も入鹿も愕然とした。
大王が山背大兄皇子に好意を抱いているのは、百済大寺の建立に、山背大兄皇子が力を貸しているから理解出来ないこともなかった。
政治の圏外に居るとはいえ、山背大兄皇子には、|膳 臣《かしわでのおみ》、秦《はた》氏などの財力者が付いている。げんに膳臣はこの会議に出席していない。
軽王の思い掛けない発言によって、一時会議の流れは山背大兄皇子に集中した。廏戸皇子(聖徳太子)が亡くなってから、まだ二十年もたっていない。太子とその子山背大兄皇子の人間主義的な思想は、為政者にとっては危険思想以外何物でもなかった。
勿論太子が山背大兄皇子に教えた人間主義は、現代のような人間平等主義ではない。ただ、当時は、民、百姓は為政者から牛馬のように扱われていた。貴族達にとっても、民、百姓は牛馬と同じようなものだった。ところが太子は、民、百姓も人間であり、幸を得る権利がある、と説き出したのだ。全く革命的な思想で、為政者達にとっては、得体の知れない異端思想だった。当時、民、百姓は貴人に出会うと、草叢の中に隠れて身体を見せないようにしていたのである。隠れる場所がないと路上に這《は》いつくばり、顔を土にこすりつけるのが習慣だった。ところが太子は、そういう民、百姓も貴人も同じ人間であり、それが仏教の教えであると、説いたのだ。太子の思想の中には道教思想が、かなり深く混じっている。そして山背大兄皇子は、その太子の思想を受け継ぎ、斑鳩宮に大勢の妃や王子達を集めて一緒に住んでいるのも、太子流の人間平等思想の一つの表れだった。
舒明が、そんな山背大兄皇子に好意を抱いたのは、百済大寺の建立に財力の面から援助を受けたからだけではない。晩年の舒明には、為政者というような意識は余りなかった。仏教を信奉し、天神地祇を祭る最高司祭者という意識しかなかったのだ。それに大王になったのも自分の意志ではない。大臣蝦夷に強引に推され仕方なくなったのである。だから権力をほしいままにしている蘇我本宗家よりも、かつての自分のライバルだった斑鳩宮の山背大兄皇子に好意を抱いたのである。
中臣連御食子、阿倍倉梯麻呂も、山背大兄皇子の大王位即位に反対した。石川麻呂は中立の立場を守った。ただ石川麻呂、阿倍倉梯麻呂等は、この席で古人大兄皇子を次期大王と決めてしまうのは、舒明がまだ生存中でもあり、時機尚早である、と逃げた。もう暫く考えてみたい、というのである。
こうして次期大王を決める会議は、山背大兄皇子を除外する件ではほぼ一致したが、古人大兄皇子については全員の指名を得られないまま終ったのである。
その夜入鹿は不満を蝦夷にぶちまけた。
かつて蝦夷は、推古が亡くなった後、山背大兄皇子を強硬に推す支族の境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》を攻め、死に追いやった。石川麻呂が古人大兄皇子を推さずに、暫く考えさせて欲しい、といったのは、明らかに蘇我本宗家、つまり、蝦夷、入鹿に反感を抱いているからである。
蘇我倉山田石川麻呂と名乗り、蘇我本宗家から離れようとしている石川麻呂は、入鹿には危険な存在に思えた。今こそ蘇我氏が一致団結し、蘇我氏が名実共に天下を取るという馬子以来の宿願を、石川麻呂は破ろうとしている。入鹿は蝦夷に、若き日の蝦夷が境部臣摩理勢を死に追いやったように、石川麻呂を斃《たお》すべきだ、と詰め寄った。
「父上、父上が斃した摩理勢は、父上にとっては叔父でしょう、だが石川麻呂は父上からみれば甥ですぞ、甥の分際で大臣である父上の意向にさからうなど、吾《われ》には許せない、今、蘇我本宗家は政治権力の殆どを手中におさめている、石川麻呂の勢力が大きくならないうちに、石川麻呂を斃すべきです、今、斃してしまえば、我等にまともに刃向う者はない、山背大兄皇子が兵を集めても、皇子に味方する有力氏族は|膳 《かしわでの》臣《おみ》と皇子に舎人《とねり》を出している三輪君《みわのきみ》ぐらいじゃ、我等にとって問題にならない、父上、斃せば勝ちですぞ、漢書にもあったように思います、勝つことだけが万能なのだ、と……」
入鹿は膝を叩き、火を吐くような口調で訴え続けた。何処からか隙間風が入るのか、魚油の炎が揺れ、蝦夷の顔を時々暗い翳《かげ》りが覆った。蝦夷は会議の席の時のように肩を張っていなかった。入鹿の前で気を許したのか肩を落している。魚油の明りのせいもあるだろうが、入鹿にはそんな蝦夷が老いて見えた。
蝦夷は手を叩いて最近寵愛している女人を呼び、酒を持って来るように命じた。女人は出雲《いずも》の豪族の娘で、色が白く、ほのぼのとした感じの女人だった。眼が細く切れ長である。女人は須恵器《すえき》の壺《つぼ》に入った酒と金銅の酒杯を運んで来た。
「父上と二人だけで、話をしとう御座居ます」
入鹿の意を察した蝦夷は、女人を去らせた。入鹿は酒壺を取り父の酒杯に酒を満たした。それから自分の酒杯になみなみと注ぎ一気に飲んだ。
「大郎の気持は良く分る、だが吾が摩理勢を斃したために蘇我氏は完全に分裂したのじゃ、今、石川麻呂を斃せば、本家以外の蘇我氏は団結して、我等を憎むようになる、吾にはそれが眼に見えておる、そちも知っているように東漢氏の中には石川麻呂に心を寄せている者がかなり居る、彼等が率いる東漢氏は当然、弟の連子《むらじこ》につくであろう、残念ながら蘇我氏は物部《もののべ》氏のような軍事氏族ではない、吾は大臣として権力を持っておるが、吾が手足のように動かせる軍事氏族は東漢氏しか居ない、よいか入鹿、もし東漢氏が分裂すれば、蘇我本宗家に反感を抱いている有力氏族は、公然と反抗し始めるかもしれない、最も油断が出来ぬのは阿倍倉梯麻呂じゃ……」
「それぐらいは吾も分っております、だから吾は軽王と親しくし、大王位という餌で釣っている、軽王を通じて、倉梯麻呂は牽制出来ます」
阿倍倉梯麻呂の娘|小足媛《おたらしひめ》は軽王の妃になったばかりだった。
蝦夷は漸く酒杯の酒を飲み干すと、首を横に振った。
「古人大兄皇子が大王《おおきみ》になっていれば別だが、今は石川麻呂を斃すのは無理であろう、大郎、大王の寿命は後|僅《わず》かじゃ、今は忍耐しておらねばならない時なのじゃ」
「それなら先ず山背皇子を斃すべきです、あの皇子に味方する有力氏族は殆どない、と吾は思いますが……」
「そうかな大郎、そちはまだ若い、人の心の裏を読む力が少し足りぬ、大王は死を覚悟した途端、蘇我本宗家に敵意を示した、だから大王位を山背皇子に、などという馬鹿なことをいい出した、だが、何といっても大王は大王、古くから大王家に仕え、自分達の主君は大王だと思っておる氏族はまだまだ多いのじゃ、吾の父嶋大臣は確かに大王崇峻を斃した、それでも父に正面切って反抗する者も居なかった、その理由が分るか、崇峻は蘇我系の大王だからじゃ、だが、今の大王は蘇我系ではない、息長《おきなが》系だ、そちはそれを忘れておる」
蝦夷は入鹿の逸《はや》る心を押えるように、落ち着いて話した。
入鹿は深く息を吸い込んだ。蝦夷の言葉には一理あった。
古人大兄皇子が大王になってから、蘇我本宗家に反抗する者を斃しても遅くはない、と入鹿は考えなおした。入鹿は気性が激しく短気な人物だ、と恐れられている。だがそれは入鹿の地位と彼の勇猛さにも一因があった。確かに入鹿は気性が激しいが単純な激情家ではなかった。学問に対する入鹿の知識欲は、貪欲《どんよく》なまで旺盛《おうせい》であった。漢書の中で気に入った文章を入鹿は暗記し、座右銘にしている。先ず心を治む、と入鹿は自分の胸の中で呟いた。だが入鹿の性格では、なかなか出来ないことである。
漢書といえば、中臣連御食子の養子鎌足(鎌子)は、太公望の遺書と伝えられる『太公六韜《たいこうりくとう》』を読破している、という。中国古兵学の最高峰ともいわれる『太公六韜』は、権謀術数の書でもある。
神祇の長官の養子が何故、『太公六韜』などを読んでいるのであろうか、入鹿はこれまで、鎌足と余り言葉を交わしたことがなかった。
身分も違うし、入鹿は神祇の長官など問題にしていなかった。ただ蝦夷の話では、鎌足は大王の宮にも参朝するし、豊浦の屋形にもよく顔を出す、という。ひょっとすると政治に興味を抱いている男かもしれない、と入鹿は思った。
舒明が危篤状態に陥ったのは十月の初旬だった。身体が火のように熱くなっており、時々意識を喪《うしな》う。大殿に、山背大兄皇子、古人大兄皇子、軽王を始め重臣達が集った。
蝦夷、入鹿も久し振りに大王と会った。意識を取り戻すと大王は宝皇女に命じて、古人大兄皇子、中大兄皇子、間人皇女《はしひとのひめみこ》、また飛鳥に戻ったばかりの大海人皇子《おおしあまのおうじ》などの子供達や山背大兄皇子を病床に呼んだ。蝦夷が呼ばれたのはただ一度だけだが、皇子達は何度も呼ばれた。だが蝦夷は、ただ一度呼ばれた時、皇子達の前で、思わず自分の耳を疑ったような言葉を聞いたのだった。
鬚《ひげ》が茫々と伸び痩せ衰えた舒明は蝦夷に向って、山背大兄皇子に大王位を譲りたいのでよろしく頼む、と告げたのである。蝦夷が思わず、えっ、と息を呑んだ時、舒明は意識を喪った。本当に意識を喪ったかどうか、蝦夷にも分らなかった。そして舒明は譫言《うわごと》で、中大兄皇子(葛城皇子)、間人皇女、大海人皇子、山背大兄皇子の名を呼ぶのだった。古人大兄皇子の名は譫言の中でも出なかった。どうやら舒明は、馬子の娘で、蝦夷の妹の法提郎媛《ほてのいらつめ》に産ませた古人大兄皇子を心から愛していなかったようである。
大王になっても、蘇我本宗家の傀儡であることを知っていたからであろう。事実、大王として在位中、舒明は政治を執ることが出来なかった。舒明は死ぬ間際、古人大兄皇子を無視することで、蘇我本宗家に対する憎しみを、大臣蝦夷に知らせたのかもしれない。
舒明は翌日百済宮で亡くなった。崩年四十九歳といわれている。舒明の和風|諡号《しごう》は、『日本書紀』では息長足日《おきながたらしひ》 |広額 天 皇《ひろぬかのすめらみこと》である。間違いなく舒明は息長系の大王であった。
舒明の遺言は重臣達にも伝わり、飛鳥は次期大王を誰にすべきかで騒然となった。蝦夷、入鹿はもとより、大部分の有力群臣も山背大兄《やましろのおおえ》皇子を大王にすることは反対だった。蘇我本宗家の権力を恐れただけではない。先述したように、私兵を有し、本貫地の民、百姓を牛馬のようにこき使っている豪族達にとって、太子の遺志を継ぎ、民、百姓も同じ人間だという異端思想の持主である山背大兄皇子は得体の知れない不気味な存在だった。
豪族達は先ず、こういう皇子が大王になれば、自分達の既得権利が制限されるのではないか、と恐れた。それに蘇我本宗家に対する思惑もある。有力群臣は口を揃えて、山背大兄皇子が大王位に即《つ》くことに反対した。だからといって、古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子を黙殺した舒明の遺志を無視するわけにはゆかない。中大兄《なかのおおえ》皇子はまだ十六歳であり、大王になるには若すぎる。
舒明が亡くなって以来、入鹿は豊浦の屋形に泊り込み、蝦夷と策を練った。大勢の有力群臣も豊浦の屋形に集った。その時、御食子《みけこ》の代理として現れたのが鎌足である。時に鎌足は二十八歳だった。
山背大兄皇子は、使者を蝦夷の屋形に寄越して、舒明の遺言があった以上、自分が大王になる、と宣言している。鎌足は末席に坐り、蝦夷、入鹿から意見を求められるまで、自分の意見を述べない。だが問われると、年齢に似合わない落着いた口調で自分の意見を述べた。
鎌足は舒明が亡くなって以来、神祇の長官の代理として、連日百済宮に顔を出し、殯《もがり》の準備をしている。|宝 皇女《たからのひめみこ》とも話し合い宝皇女の意向も聞いていた。宝皇女は夫舒明の遺志を知っているが、蘇我本宗家を始め、有力群臣の大部分が、山背大兄皇子が大王につくことに反対していることも熟知していたのだ。もし蘇我本宗家や有力群臣の意向を無視して、山背大兄皇子が大王になれば、倭国《わこく》の政治は乱れ、内乱が起きる可能性があることを心配していた。それに宝皇女も山背大兄皇子に好感を抱いていない。鎌足は内乱という言葉を使ったが、山背大兄皇子が、崇峻《すしゆん》の二の舞になることを恐れたのだろう。
「吾《われ》の身分で、不遜だとは思いましたが、皇后《きさき》に、山背大兄皇子に会っていただくようお願いしました」
「大臣の許可も得ないで、そんなことを申したのか?」
神祇の長官の養子の身分で生意気な、とばかりに入鹿は鎌足を睨みつけた。何故なら、それは入鹿が考えていたことだったからだ。山背大兄皇子を説得出来るのは、宝皇女以外にないことを入鹿も知っていたからである。
鎌足は入鹿と違って色が白く、二十八の若さなのに太っている。武術の鍛練が足りないからだろう。鎌足は僧|旻《みん》の屋形に出入りしたり、中国の書ばかり読んでいる、という評判だった。倭国に戻って来たばかりの南淵請安《みなぶちしようあん》とも会っているらしかった。鎌足は板床に手をつくと、申し訳ありません、と入鹿に詫びた。
集っている群臣の視線が一斉に、そんな鎌足に注がれた。
「大郎、鎌子は大王の殯の打ち合せで、毎日皇后と会っている、皇后としても当然、次期大王の話を持ち出すだろう、皇后も心配されておるのじゃ」
と蝦夷が大臣らしい貫禄で、入鹿を制した。
入鹿が不満そうに腕を組むと、鎌足は入鹿に向って顔を上げた。発言を続けて良いかどうか、入鹿に尋ねているようだった。満場の群臣は明らかに鎌足の言葉を待っていた。入鹿は仕方なく、鎌足に、皇后はどういわれたか? と訊いた。ただ鎌足が自分に対して礼節を尽したことに、入鹿は少しだが自尊心を取り戻すことが出来た。そして、噂通り学識のある男だ、と鎌足を見直した。それは入鹿自身、知識欲が旺盛だったからである。
「鎌足、皇后はどういわれたのじゃ?」
入鹿は組んでいた腕を解くと膝の上に置いた。
「皇后は御自分が山背大兄皇子にお会いになり、現在の情勢を伝え、諦めるよう、説得する、とおっしゃっておられます、そしてもし山背大兄皇子が、どうしても諾《き》かなければ、情勢が落ちつくまで皇后御自身が大王になられる、となみなみならぬ決意を吾に伝えられました」
入鹿は石川麻呂と阿倍|倉梯麻呂《くらはしまろ》、それに軽王《かるのきみ》までがほっとしたように頷いたのを見た。いや、信頼している巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》やこの頃蘇我本宗家に追従している大伴連《おおとものむらじ》 長徳《ながとこ》まで、安心したような表情を示した。入鹿は形相を変えた。何もこの席で次期大王のことまで発言する必要はないのだ。入鹿は鎌足に旨《うま》くやられたような気がした。
この席に集った有力群臣が鎌足の言葉に安堵《あんど》の表情を浮べたのは、彼等が舒明の前の大王だった推古女帝のように、宝皇女が大王になることを内心望んでいたからに違いなかった。ことに石川麻呂や阿倍倉梯麻呂が危惧していたのは、蝦夷、入鹿が飽く迄、古人大兄皇子を大王にする、と主張し兼ねないことだった。その時、石川麻呂は蝦夷、入鹿の憎しみを買っても、反対する積りでいたのだ。石川麻呂は、この席で宝皇女の意志を伝えた鎌足を、勇気と智謀のある人物だ、と感じた。
入鹿の形相が変ったのを見た蝦夷が鎌足に、殯の儀式は、どういう順序で行われるのか、皇后の意志は決っているのか? と訊いた。
「はあ、その点について、皇后は大臣か大夫《まえつきみ》とお会いして相談なさりたいそうです、ただ、問題は誄《しのびごと》(大王の死を悲しみ偉業や徳を述べる儀式)をなさる皇子達の順序です、山背大兄皇子は当然、第一番に自分がなさろうとされるでしょう」
「それは許さぬ、古人大兄皇子が第一番じゃ」
と入鹿は叫んだ。
入鹿の傍に坐っていた古人大兄皇子は顔を赧らめ、視線を伏せた。舒明の口から、自分の名が一度も出なかったことに、古人大兄皇子は衝撃を受け、一層気が弱くなっていた。
鎌足は無言で頭を下げた。
群臣が帰った後、入鹿は蝦夷の居間で酒を飲んだ。蝦夷は集った群臣の腹中を鎌足の言葉で読んでいた。皆、宝皇女の即位を望んでいるようだった。蘇我本宗家に忠節を尽している巨勢、大伴の有力豪族さえも、今はことを荒だてたくない、と願っているのだ。これが自然の成行きかもしれない、と蝦夷は思った。居間は土壁で仕切られ、竃《かまど》には勢い良く薪が燃えている。接見の間よりずっと暖かい。
出雲の女人が蝦夷の肩を揉《も》み始めた。蝦夷は疲れたように欠伸《あくび》をした。入鹿には眠気など全くなかった。
「大郎、大王には見事にやられたのう、何のために叔父摩理勢まで殺し、大王につけてやったのじゃ、全く恩を知らぬ大王だった、それはそうと大郎、そちは明日にでも皇后と会って参れ、吾よりもそちの方が皇后と親しい、皇后が大王になると宣言すれば、山背皇子も引き下がらざるを得ないだろう、宝皇女が大王になっても蘇我本宗家の威力は変らぬ、いや増すばかりじゃ、吾は大王が亡くなった時から、こうなっても仕方ない、と思っていた、宝皇女は勝気だが所詮女人だ、政治に口を出させない、それこそ、新しい女帝の時代を利用して、政治権力を完全に握ってしまう、入鹿、そちは宝皇女が、大王位につくのが不服なのか?」
入鹿は蝦夷に、そちはまだ若い、といわれそうな気がした。蝦夷が考えていることは入鹿にもよく分る。祖父馬子が大臣だった推古時代に戻り、おおいに政治権力をふるう積りなのだろう。それに推古時代と違って、斑鳩宮の権威は落ちている。だが入鹿は馬子時代以上の権力を望んでいた。
あの時代とはすでに時代の流れが違っているのだ。唐から帰朝した学問僧達は、大唐の学問、政治制度を有力群臣やその子弟達に説いている。大唐では天子は天の子であると同時に皇帝として政治権力をも一手に握っているのだ。倭国のように神祇の最高司祭者である天子と、政治権力を握っている大臣とに分れていない。入鹿にとって不気味なのは、学問僧達の智識が、有力群臣の子弟達に伝わることだ。天子は大王であると同時に皇帝として政治権力をも握らねばならない、という思想は入鹿にとっては危険思想だった。
ことに大唐では皇帝の許に総ての権力が集っていると同時に、律と令によって国家組織が成り立っている、という。入鹿にはまだはっきり分らないが、倭国の数十倍はあるという大唐の広い国を、皇帝が指名した官人が治め、律と令が行き届き、人民は律と令に従って働いているらしかった。だから、有力豪族でも、そんなに私有地や私兵を持っていない、という。事実はそこまで徹底していないが、唐から帰った連中の表現はオーバーである。倭国では想像もつかないような政治制度だった。その点、現在の倭国は、中央の有力豪族はもとより、畿内外の東国や西国ではまだまだ|国 造《くにのみやつこ》が、民、百姓を有し、それぞれの国で勝手な政治を行っているケースが多い。
倭国が、朝鮮との交流を通じ、中央集権化を計ったのは、蘇我稲目が大臣になってからである。朝廷の直轄地を畿内の各地に置き、そこの田畑を開墾し、池を掘り、提防を築いて水利の便を計った。これを屯倉《みやけ》という。この屯倉の開発には渡来人がおおいに活躍している。勿論それまでも、大王、皇后、皇子の名を付した名代《なしろ》、子代《こしろ》などがあり、その部民《べみん》は大王、宮、皇后、皇子のため労働し、貢納した。それを管理したのは大王家に服従している国造であった。
馬子は推古時代、朝鮮三国と隋との外交を通じ、大陸の政治制度を知り、稲目時代よりも更に中央集権化に熱を入れたのだった。馬子の力により、国造の任命権は大臣が握るようになったのだ。だから、東国、西国の国造も、もう大和朝廷に反抗し、反乱を起すだけの力はない。国造達は争って彼等の子弟を朝廷に送り、舎人《とねり》として仕えさせ、大和朝廷への服従を誓うようになった。
だが、大唐の律令制度と、倭国の政治形態との違いは、国造に任命される者は矢張りその地方の豪族であり、私有地、私兵を有していることだった。例えば東国の蝦夷の国を除き、最後まで大和朝廷に反抗し、独立国家の威厳を保とうとしたのは、矢張り東国の毛野国《けののくに》である。舒明時代には、ほぼ大和朝廷に服従したが、毛野国の国造は毛野氏の一族の者でなければならなかった。もし朝廷が、大和朝廷の官人を、毛野国の国造として送り込んでも、土着豪族から相手にされないだろう。他処者《よそもの》が支配者になった、という反撥から暗殺されるのが落ちであった。
だが大唐では、皇帝が完全に政治権力を握っており、律と令により政治が行われているから、唐の政治制度を採用したら、毛野国の国造は、土着の豪族でなくても良いのだ。皇帝が命令した官人が行って、定められた法律により、毛野国を管理することが出来る。先年唐から戻って来た恵日《えにち》が、中国の政治体制を学ばなければならない、と蝦夷に建言したが、それは律と令による合理的な新しい政治体制だった。新しく、そして優れているものは、必ず古いものに取って替る。これが、時の流れだ。
何れ倭国も唐の政治を採用する時代がやって来るに違いなかった。またそうしなければ、朝鮮三国と対抗してやって行けない。
問題は、そういう時代になった時、蘇我本宗家が大臣として政治権力を掌握し続けることが出来るかどうかだった。唐の政治体制から考察すると、それは不可能だった。
もし政治権力を握った倭国の皇帝が、大臣に一時筑紫を治めろ、と命令すれば、大和を捨てて筑紫に行かねばならない。それが律令制度による新しい政治体制なのである。父蝦夷にはそれがまだ分らない。大臣に、そんな命令を下せる者は居ない、と思っている。入鹿にとって、蝦夷は矢張り、新しい時代の波から取り残されようとしている大臣だった。
入鹿の不安は、遠い海の彼方から静かに押し寄せて来る新しい時代の流れなのである。そういう時代が来た時、蘇我氏が政治権力を掌握し続けるためには、何が何でも蘇我本宗家が大王にならねばならなかった。
いや、今の大王では駄目である。神祇の最高司祭者であると同時に、政治の最高権力者でもある皇帝になる必要があった。
天子と皇帝を一体化した天子皇帝である。
入鹿は、兎に角、蝦夷に時代の流れを教えねばならない、と思った。そのためにも、学問僧、学識者から、唐の学問、政治制度をより一層深く学ぶ必要がある。入鹿が学んだことを、蝦夷がどう理解するか、それは入鹿にも分らない。ただ、もし蝦夷が理解出来なければ、入鹿は独断で皇帝の地位を掴み取らねばならなかった。そのことはまだ蝦夷に話していない。唐から学問僧達が戻って来、新しい唐の学問を知るにつれ、入鹿はそのことを密《ひそ》かに胸の中で考え続けていたのだった。
木枯しが吹いていた。茅葺きの屋根が唸り、板壁がきしむ。彼方の葛城山や二上《ふたかみ》の山々が呻《うめ》き声をあげているように思える。
時には狼の群れの遠吠えのようにも聞えるのだった。
「さあ、吾は今夜は戻ります、明日、宮に行き、皇后《きさき》に会うなら、衣服を整えねばなりません」
入鹿が残っていた酒を飲み干すと、蝦夷は入鹿の顔を見詰めていった。
「大郎、そちは鎌子の発言で、苛立っているのではないか……」
「生意気な人物です、吾が述べなければならないことを鎌子がしたり顔で喋った、あれで鎌子は、今日集った連中達に、強い印象を与えたでしょう、宮廷に、こういう人物も居たのか、と見直した者も出た筈です、しかし、吾がもっと早く宝皇女に会っておくべきでした、大王に対する憤りから、百済宮に顔を出さなかった吾の手抜かりでした」
「大王は亡くなられたばかりじゃ、政治のことは余り申すな、そうだ、皇后の機嫌を取っておくのも悪くはない、殯の儀式は盛大にやろう、大臣が出来るだけのことをするから、安心するように、と伝えてくれ」
「分っております、お父上はもうお休み下さい、群臣と連日会われたのでお疲れが出たでしょう……」
入鹿は廊下を渡り、接見の間に入った。蝦夷や入鹿の部下の|東 漢 直《やまとのあやのあたい》とその部下が一斉に平伏した。
「吾は今から嶋の屋形に戻る、馬の用意をしろ」
と入鹿は大声で命令した。
木枯しが吹きまくり、真冬のような夜だが、豊浦の屋形の周囲には、数十人の東漢氏の兵士達が居た。夜空には巨大な無数の雲塊が走っていた。旧暦十月中旬の月は凍りついた鏡のようであった。屋形の傍には切妻屋根をしのぐほどの高い楼が立ち、兵士達は暗闇《くらやみ》の中で眼だけを光らせていた。皆、東漢氏の兵士達で、自分達の王は蘇我本宗家だ、と思い込んでいる。
翌日、入鹿は白い麻の喪服を着た。当時の喪服の色は白である。入鹿は大王や皇后が乗るような輿に乗った。だが長刀だけは身から離さなかった。入鹿の輿をかつぐのも、東漢氏の兵士達だ。
入鹿は十数名の兵士達に守られながら百済宮に行った。舒明の遺体は棺におさめられ、造営中の殯宮《もがりのみや》の一室に安置されていた。貴人が亡くなった後、長い日数をかけて殯を行うのは、倭国の伝統である。大王の場合は日数が長い。昔は皇子皇女達を始め重臣達は地に這いつくばり、大王の死をいたんで泣き叫んだり、大王の偉業をたたえたりしたが、朝鮮三国、ことに百済との国交が親密になった六世紀の半ば頃から、立って誄《しのびごと》をするようになった。ただ、それを述べるまでは、皆地に坐っている。始めから立ったままで、誄の儀式を行うようになったのは、孝徳時代からである。七世紀の半ばだ。
殯宮を建てているのは、百済大寺の建立に当っていた苦役の民であった。指揮を執っているのは渡来系の造寺工達だった。山背大兄皇子が派遣した造寺工達もいた。百済大寺の大匠《おおたくみ》(造寺長)は東漢直であった。
矢張り白い喪服を着た宝皇女は、殯宮に急いで立てた小屋で、舒明の冥福を祈っていた。佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》が率いる兵士達が、造宮中の殯宮を守っている。
輿から降りた入鹿は、宝皇女に会いたい、と子麻呂に告げた。殯宮では遺体をそのまま安置するので、夏など、二、三日で腐敗する。腐敗を遅らせるように、塩を棺に詰めているが、どうしても異臭が漂う。だから臭い消しの香《こう》を薫《た》くが、完全に異臭を消すことは出来ない。だが今は季節が初冬なので、香の匂《にお》いだけで異臭はなかった。
子麻呂は宝皇女に、入鹿の来訪を告げた。
「殯宮に来ていただきたい、と申されております」
子麻呂は両膝をついて入鹿に宝皇女の意を伝えた。入鹿が頷いて宝皇女が居る部屋まで行こうとすると、子麻呂が恐る恐る入鹿に、出来るなら、刀を預りたい、といった。入鹿が子麻呂の眼を見詰めると、子麻呂は視線を伏せた。
「昨日、斑鳩宮の皇子がいらっしゃいましたが、矢張り預らせていただきました」
宝皇女を守っている宮廷警護長としては、当然の要求である。だが入鹿の眼光に威圧された子麻呂は半ば諦めていた。入鹿は大王と会う時も、刀を身から離したことがない。
「斑鳩宮の皇子か、あの皇子ならそちが申す前に、刀を外したであろう」
入鹿の言葉は当っていたらしく、子麻呂は、はっ、と両手を地につけた。そして、そんな自分に対して、腹を立てていた。入鹿は哄笑すると、東漢氏の兵士の隊長である東漢直雀を呼び刀を渡した。雀はまだ二十歳になったばかりだが、東漢氏の中でも、勇武をもって知られている若者である。相撲を取っても弓矢でも入鹿に劣らない。入鹿が最も信頼している部下の一人であった。
宝皇女が喪に服している小屋は、仮小屋なので挟い。藁畳《わらだたみ》が敷かれ、その上に大きな熊の毛皮や鹿の毛皮が置かれている。その部屋に三人の女人が控えていた。
入鹿は上《あが》り框《がまち》に両手をつき頭を下げた。もし、お休みの時間があれば、誄のことで相談したい、といった。宝皇女は疲れているのか眼の下が黝《くろ》ずんでいた。急に数歳も年齢《とし》を取ったような感じだった。宝皇女は頷き、女人達に、庭に出ているように命じた。
舒明の死の打撃は、矢張り大きいようであった。それに次の大王を誰にするとか、殯の儀式で、誰が最初にするかなど、宝皇女が頭を悩ましている問題は多かった。馬子の時代と異なり蘇我氏は二つに割れ、石川麻呂は蘇我本宗家よりも、斑鳩宮の皇子に意を通じているという噂を、宝皇女も耳にしていた。
「誄の件では私《わ》も悩んでおる、古人大兄皇子、中大兄皇子、山背大兄皇子、この三人の中から選ばねばなりますまい……ただ大王は死ぬ間際、次期大王は、山背大兄皇子か、中大兄皇子のどちらかにせよ、と申された、どういうわけか、古人大兄皇子のことは口にされなかった、それで我も悩んでおるのじゃ」
入鹿は直ぐには答えず、宝皇女の顔を眺めていた。先日の軽王の説明では、大王は年齢的に中大兄皇子は無理なので、古人大兄皇子か、山背大兄皇子に大王位を譲りたいということだった。どうやら軽王は蘇我本宗家の怒りを恐れて古人大兄皇子の名を勝手に出したようだ。また蝦夷の話では危篤状態になった時、突然山背大兄皇子の名を出し、よろしく頼む、といって意識を喪った、という。だが今、宝皇女は中大兄皇子の名を出した。山背大兄皇子を憎んでいる蘇我本宗家に対する配慮からだろうか。
最初に山背大兄皇子が誄《しのびごと》をすれば、蘇我本宗家が黙っていない。大臣蝦夷は自分の権限で誄の順序を変更する危険性があった。そうなれば、殯宮の儀式は遅れてしまう。
この時入鹿はふと、宝皇女は、中大兄皇子に、最初に誄をさせたいのではないか、と感じた。と同時に宝皇女の発言の重要さをも強く意識した。
政治は蝦夷が執っているが、天子である大王家の問題に対しては、政治に対するほど発言力がない。唐の政治制度を知り始めた入鹿の不満はそこにあったのだ。
舒明が古人大兄皇子を無視したことを、群臣は知っている。或る意味では彼等は、蝦夷、入鹿がそれに対してどういう態度に出るだろうかと、好奇の眼で眺めていた。
巨勢臣徳太や大伴連長徳の話では、群臣の中には、亡き大王が遺言された以上、蘇我本宗家も古人大兄皇子を大王にすることは出来ないだろう、と噂話に花を咲かせている者が多いようだった。
入鹿は大王と大臣との格の違いを感じて来たが、今の宝皇女の言葉で一層痛感した。考え方によれば、誄の順序や、次期大王について宝皇女の発言力は強いのだ。もし宝皇女に、これは大王家の問題で、政治ではない、だから大王家の者達が集って相談する、と突《つ》っ撥《ぱ》ねられたなら、蘇我本宗家としては、どうすることも出来ない。だが幸い、今の大王家には、稲目時代の力はなかった。それに推古以来、皇后の意向を尊重し、蘇我本宗家が重臣達と相談して決める、という習慣が出来掛っていた。
「古人大兄皇子は、皇后が産まれた皇子ではありませんが長子です、大臣も、長子が最初に誄をするのが当然だ、という意見です、吾もそう考えていましたが、今の皇后のお言葉で、少し考えが変りました、亡き大王の御意向が、中大兄皇子におありだったのなら、御意向を尊重し、最初に誄を述べるのは、矢張り、中大兄皇子になされたら如何でしょうか、吾が、大臣を説得してみせます、吾が説得しなければ殯の儀式は何時までたっても行われない、という事態になり兼ねません、皇后、吾にまかせていただけないでしょうか!」
「大夫《まえつきみ》が、大臣を説得してくれる、というのですか?」
宝皇女の顔に安堵の表情が浮んだ。
この頃、入鹿は唐の新しい知識を吸収し、政治の上でも、色々と発言している。そして蝦夷が、そんな入鹿の意見に耳を傾けていることを宝皇女は知っていた。入鹿は膝を進めた。二人の膝が、まさに触れ合いそうな距離である。宝皇女は何故か怯《おび》えたように戸口に視線を向けた。
「必ず説得します、ただそれには条件がある、誄を最初にするのは中大兄皇子、次は古人大兄皇子です、山背皇子は四番目か五番目にしていただきたい、もし皇后がこの順序で良い、とおっしゃられるなら、吾は大臣を説得しましょう……」
蝦夷、入鹿は山背大兄皇子を山背皇子と呼んでいた。大兄は大王位継承の有資格者だからだ。
入鹿の膝が微かに宝皇女の膝と触れた。宝皇女は、はっとしたように身体を硬くした。
初冬なので板戸は閉まっているが、どんな用事で、仕えている女人が戻って来るかもしれなかった。それに舒明の遺体を安置している北の方向には明り取りの窓があった。
宝皇女は明らかに怯えていた。二人の距離は余りにも近過ぎた。万一人に見られたなら、どんな誤解を招くかも分らない。これまで入鹿は宝皇女に対して礼節を尽していた。
入鹿は虎をも恐れない荒々しい男だ、というのが一般の評判だったが、宝皇女が実際に接する入鹿は、そんな人物ではなかった。勇猛な武人の風格と共に、学問僧のような礼節をもわきまえていた。
だが今日の入鹿は違う。入鹿の体内で獣の血が荒れ狂っているようだった。疲れていた宝皇女はそんな入鹿に荒々しい男の匂いを嗅《か》ぎ、息が苦しくなり、人に見られないか、と怯えたのだった。
「分りました、我の口から皇子達に伝えましょう、何だか喉《のど》が渇いた、白湯を飲みたい、采女を呼んで下さい」
と宝皇女は掠《かす》れた声で告げた。
誄の順序で悩んでいた蝦夷は、入鹿の提言を受け入れた。中大兄皇子(葛城皇子)は舒明が宝皇女に産ませた皇子である。まだ十六歳だが、中大兄皇子なら一番妥当である。それに宝皇女の意向なら誰も文句はいわない。山背大兄皇子は、次期大王を噂されている皇子だが、蘇我系の皇子で、舒明や宝皇女と血縁関係はなかった。
蝦夷は殯宮の儀式に備えて、豊浦の屋形から、石川の屋形に移った。蝦夷は河内にも葛城にも屋形を持っている。それぞれ大王家の離宮に匹敵するほどの屋形だった。十月七日、宝皇女と大臣蝦夷は、皇子、皇女達や群臣を百済宮に集めた。皇子、皇女達は中大兄皇子、間人皇女《はしひとのひめみこ》、宝皇女の弟の軽王、敏達の孫|大 派 王《おおまたのおおきみ》、それに山背大兄皇子等である。
その席で、宝皇女の口から、誄を述べる皇子達の順序が発表された。山背大兄皇子は五番目だった。途端に皇子は身体を慄《ふる》わせ周囲を見廻した。推古女帝は亡くなる前、山背大兄皇子を大王にする、と遺言した。山背大兄皇子はそう解釈したのだ。何故自分を大王にしないのか、と山背大兄皇子は、大臣蝦夷にしつこく抗議した。そのため、自分に味方した境部臣摩理勢は蝦夷によって自殺に追い込まれた。あの当時の山背大兄皇子は若かった。だがあれから十年以上の歳月が流れている。
山背大兄皇子もすでに四十歳を過ぎていた。舒明は死ぬ間際、中大兄皇子が大きくなるまで、大王位を継いで欲しい、と山背大兄皇子に頼んだ。だが先日宝皇女と会った時、宝皇女は、今は大臣と大夫の入鹿が反対しているので、暫く時を貸して欲しい、場合によっては我が大王になっても良いといった。その時、山背大兄皇子は、大王の意向は忠実に守られねばならない、蘇我本宗家は大王ではない、大臣に過ぎない、と力説して宝皇女と別れたのだ。
山背大兄皇子としては、自分が大王になったら、政治権力も蘇我本宗家から奪い、巨大な宮と寺を造り、父が理想としたように民、百姓にも仏教や道徳を伝えたい、という望みがあった。何も私欲だけで恋々と大王位に執着したのではない。だが誄を述べる順序で、自分が五番目になったのを知らされた時、山背大兄皇子は、蘇我本宗家だけではなく、諸皇子群臣も、自分を敬遠しているのを悟った。理由は、諸皇子や群臣が自分を異端思想の皇子だ、と考えているからであろう。
比較的山背大兄皇子に好意を寄せている石川麻呂さえ、今は白々しい横顔を向けているようだった。石川麻呂が山背大兄皇子に好意を寄せているように見えたのは、彼も蘇我本宗家を嫌っていたからだろう。真の好意ではなかったようだ。山背大兄皇子は、自分が全く孤立しているのを痛感したのだ。舒明が山背大兄皇子の名を口にしたため、諸皇子、群臣はかえって、山背大兄皇子を意識し、反撥したのかもしれない。山背大兄皇子が瞼《まぶた》に父聖徳太子の顔を思い浮べ、吾はどうしたら良いでしょう、と呟きながら眼を開けると、軽王が薄笑いを浮べて、自分の方を見ていた。宝皇女の弟の軽王さえ、自分を嫌っているのだ、何故なのか、民、百姓に生きる喜びを与えるのが何故悪いのか、と山背大兄皇子は叫びたかった。
舒明十三年(六四一)十月九日から、百済宮の北に建てられた殯宮《もがりのみや》で、殯の儀式が始まった。世にいう百済の大殯である。山背大兄皇子が、殯宮に現れたのは、数日後である。山背大兄皇子は一人で舒明の霊の安らかならんことを祈った。諸皇子が集った初日は姿を見せずに、勝手に日を選び殯宮に来た山背大兄皇子の行動に、群臣は猜疑《さいぎ》の眼を向けた。山背大兄皇子はまだ大王位を狙っている、と群臣は噂した。
殯の儀式は十二月中旬まで続けられた。その間、入鹿と蝦夷は、巨勢臣徳太、大伴連長徳等と、次の大王《おおきみ》を誰にするかで相談し合った。今の状態では古人大兄皇子に大王位を継がすことは無理であった。中大兄皇子はまだ若い。それに中大兄皇子を大王にすると、大王家と蘇我氏の血の繋《つなが》りが、完全に切れてしまう不安があった。蝦夷が田村《たむら》皇子(舒明)を推したのは、蘇我系の古人大兄皇子を将来大王にするためだった。となると中間的な大王が必要になって来る。中間的な大王といえば、女帝以外にない。推古女帝の時代は長かったが、政治権力は馬子が握って放さなかった。
結論は一つしかない。|宝 皇女《たからのひめみこ》を大王にすることである。それに宝皇女も暫くの間自分が大王になっても良い、とそれとなくいっている。蝦夷も入鹿も宝皇女なら安心だ、ということで意見の一致を見た。重臣達も賛成した。石川麻呂も宝皇女を推している。
殯の儀式が終った十二月中旬、入鹿は百済宮で宝皇女と会った。疲れも取れたのか、宝皇女は元気を回復し、活々《いきいき》としていた。唇に朱を塗った宝皇女は、白の喪服を脱ぎ、紫の上衣と、赤、黄、紫、白など鮮やかな縦縞の裙《もすそ》で入鹿と、大殿で会った。金の耳飾りの下には透明な瑠璃玉《るりだま》が光っている。その瑠璃玉の中にも金が入っていた。倭国人など想像もつかない遠い西の国で作った玉であった。
入鹿は、宝皇女に、大臣始め重臣達も、宝皇女が次期大王になることを望んでいる旨を告げた。眼に艶を浮べた宝皇女は楽しそうに笑った。舒明が亡くなって以来、初めて見せた笑いだった。宝皇女は誄の件で揉めた時、次期大王位が自分に廻って来るのをすでに予知していたようだった。だから自分が大王になっても良い、といったのだ。
「皆が望むなら、暫くの間、私《わ》が大王になっても良い、だが私は女人で贅沢《ぜいたく》じゃ、百済宮は建てたばかりだから、まだここに住むが、何れ宮を何処《どこ》かに建てねばならない、その時は、唐の皇帝の宮に負けないような立派な宮を建てて欲しい、私の望みを達してくれるなら、大王になっても良い」
宝皇女の言葉を聴きながら、入鹿は女人だな、と思った。宝皇女が求めているのは、大王の権威ではなく贅沢さのようであった。入鹿は、大王になっていただけるなら、お望み通りの宮を造る、と約束した。
こうして宝皇女は、舒明の後を継いで大王となった。皇極女帝である。即位の儀式は皇極元年(六四二)一月十五日、百済宮で行われた。
大臣蝦夷は石川の屋形の近くに新しく屋形を造り、そこで政治を執るようになった。前の屋形よりも畝傍山山麗に近い。宮を真似て、住居の屋形と政治の間を廊下で繋ぎ、高い築地塀で囲った。入鹿はその間、嶋の屋形から豊浦の屋形に移った。
嶋の屋形には入鹿好みの東国の女人達を数人住まわせ、夜が近づくと欲望のおもむくままに馬を走らせ、嶋の屋形に通うのだった。その時は東漢氏の兵を従え、戦場におもむくように馬に鞭を当てる。これは何も嶋の屋形に通う時だけではなかった。蝦夷が住んでいる畝傍の屋形を訪れる時も同じだった。
飛鳥の人々は疾駆して来る騎馬団の蹄《ひづめ》の音を聞くと、急いで身を伏せ草叢に姿を隠した。うろうろしていて入鹿が率いる騎馬団に出会ったりすると、撥ね飛ばされるか、そうでなければ東漢氏の兵士達の鞭をくらう。そういう点で、入鹿の性格は実に荒々しい。山背大兄皇子の思想に反撥している入鹿は、意識して民、百姓を牛馬のように扱った。だが入鹿は獰猛《どうもう》なだけの人物ではない。何度も述べているように知識欲が旺盛で、聡明な点も持っていた。だから入鹿の獰猛さは、いってみれば入鹿のポーズの一つであったのだ。
百済の武王が亡くなったのは六四一年三月だった。武王はその名の通り武勇の王で、治政時代に十度も新羅を攻めている。新羅に攻められたのは一度だけだったが武勇一点張りではなく、賢明な王でもあった。『三国史記』には次のような記事が載っている。六一二年武王十三年、隋の大軍が遼河を渡り高句麗を攻めた。その時武王は、兵を挙げて国境を厳重に守り、隋を援助すると声明したが、実は隋と高句麗の両国を取り持つ政策をとった、というのである。
武王の死を知った蝦夷が、阿曇連比羅夫《あずみのむらじひらぶ》を弔使として派遣したのは、六四一年の夏であった。その阿曇連比羅夫が、舒明が亡くなったのを知った百済の弔使と共に倭国の筑紫に戻って来たのは、六四一年の十二月下旬だった。
大体倭国と百済、新羅の往来は、春から夏頃までである。七世紀にはかなり大きな帆船が建造されていたが、冬の玄界灘を渡るのは危険で、秋から冬にかけては、比較的往来が少ない。だが阿曇連は古くから海人集団を率いる|伴 造《とものみやつこ》である。七世紀になると、水軍の将軍も兼任していた。阿曇連比羅夫が荒れ狂う冬の玄界灘をものともせず戻って来たのは、比羅夫に流れている海人族の血のせいだった。
筑紫で正月を迎えた比羅夫は、百済の弔使を筑紫に置いたまま、数人の従者と共に、早馬を飛ばして大和に戻って来た。比羅夫の本貫地は河内だが、屋形は山背にも曾我川の傍にもあった。比羅夫は筑紫で宝皇女が大王になったことを聞いていた。だが、比羅夫が最初に訪れたのは蝦夷の屋形だった。
当時、倭国を訪れる百済、新羅、高句麗の使者は難波の館(大阪城近辺の上町台地)で休息し、それから大臣蝦夷の屋形を訪れて国王の意を伝える。大王が朝鮮三国の使者達と会うのは、彼等が、それぞれの国の王族の場合だけであった。また利害の異る朝鮮三国の使者が一緒に蝦夷の屋形を訪問したりはしない。
ただ舒明の死を悼《いた》む弔使のような場合、使者は当然新大王に簾《すだれ》ごしに拝謁し、哀悼の意を伝える。だから大王が朝鮮三国の使者と会うのは、その時次第だが、先ず会えない。
ただ普通は大臣が大王の代りに会うのが習慣だった。
海外に派遣されていた倭国の使者が、帰国した場合も、先ず大臣蝦夷に会い、報告する。それから大王に挨拶《あいさつ》するため、参朝するが、この場合も、高位の者に限られていた。大体小徳以上の者である。参朝しても大王に拝謁し帰国の挨拶をするだけで、政治的な問題は報告しない。
阿曇連比羅夫が、最初に大臣の屋形を訪れたのは、その当時の習慣に従ったまでである。比羅夫は、百済滞在中に体験した政変を詳しく蝦夷に報告した。それは政変というよりも、武王の後を継いで三十一代の王となった義慈《ぎじ》王のクーデターといっても良かった。
畝傍の屋形に居た蝦夷は報告の重大さを知ると、豊浦の屋形に居た入鹿を呼んだ。豊浦の屋形から畝傍の屋形まで一里半ほどである。入鹿は例の如く東漢直雀と部下の兵士達を率いて、馬を飛ばして来た。道なき道を一直線に飛ばして来たのだろう。蝦夷が想像していたよりも入鹿の到着は早かった。
比羅夫が報告した政変の内容というのは、次のようなものであった。
義慈王の父武王は、治政中に十度も新羅を攻めたが、武王の正妃は戦に飽きていた。義慈王は武王の妃の長子だが武王の正妃の子供ではない。武王の死と同時に好戦的な武王に反撥していた貴族集団が、正妃と皇子の翹岐《ぎようき》王子を擁し、度々戦場にもおもむいた義慈王を排除しようとしたのだった。
翹岐王子は義慈王の異母弟である。
正妃と翹岐王子を取り巻く貴族集団が最も恐れたのは、新羅を攻めることにより、唐と新羅が完全に結びつくことだった。それに、正妃は何よりも平和を求めていた。正妃達の動きを素早く察知した義慈王は、共に戦場に征《い》った将軍達を集め、挙兵して正妃を殺し、翹岐王子と彼の姉妹、それに取り巻きの貴族集団を捕まえて、島に流したのだった。
義慈王にとっては、自分の意志に背く貴族達は、国の敵であった。つまり義慈王が父の正妃を殺してまで掴み取ったのは専制王権だったのだ。義慈王は王子時代、海東の曾子《そうし》と呼ばれたほどの人物である。大唐が、何れ高句麗征討に乗り出すことを知っていた。その時に必要なのは貴族による合議政治ではない。王の命令で挙国一致の行動を取れる専制政治であったのだ。
六四一年のこの政変は『三国史記』には記述されていない。だが『日本書紀』は次のように述べている。
「今年の正月《むつき》に、国の主《こきし》の母薨《おもみう》せぬ。又|弟王子《だいわうじ》 児翹岐《こげうき》及び其の|母 妹《おもはらから》の女子四人《えはしとよたり》、内佐平岐味《ないさへいきみ》、高き名有る人|四十余《よそたりあまり》、嶋《せま》に放たれぬ」
通説は義慈王の母が死に、兄弟姉妹や一族を義慈王が追放したとしている。だが実母の弟や姉妹なら、義慈王は何も捕えて流刑に処したりはしない筈である。義慈王は長男だが、正妃の王子ではなかったので、将軍連中とクーデターを起し、正妃を殺し、その子供達を捕まえて、王位を獲得したものと思われる。『日本書紀』の記事による百済の政変にかなりの真実性があることは、島流しにあった翹岐王子などが、その後倭国に来て、阿曇連比羅夫の家に一時住んだ記事などからも推察される。『三国史記』によると、義慈王は、即位した翌年、自ら兵を率いて新羅を攻めている。義慈王は、武王の政策を受けつぎ、新羅と戦うことによって、百済の威力を示し、勢力を増そうとしたのであった。
阿曇連比羅夫の報告は入鹿に、朝鮮三国の情勢が想像していたよりも緊迫していることを感じさせた。そして入鹿は追放された翹岐王子よりも、義慈王の決断力、果敢な行動力に魅力を感じたのだった。だが、蝦夷は、翹岐王子に同情した。蝦夷は戦ばかりをするのが能ではない、と義慈王を批判した。その点で、蝦夷と入鹿の意見は分れたが、兎に角、翹岐王子を倭国に連れて来て、朝鮮三国の情勢を聴こう、という蝦夷の意見に入鹿は同意した。比羅夫は翹岐王子達が流された島を知っていた。百済南部の離島だった。比羅夫の話では、島を守る兵士もいないし、連れて来ようと思えば、今、直ぐにでも実行出来る、という。
蝦夷は比羅夫に、休養を取った後、戦船十艘で翹岐王子達を倭国に連れて来るように命じた。その命令は政治の実権を握っている大臣として出されたもので、新大王皇極は全く知らない。
入鹿は蝦夷の屋形で三日間滞在した後、豊浦の屋形に戻ることにした。入鹿を警護している東漢直雀は、何時ものように、入鹿が馬を飛ばすと思い、入鹿の様子を窺《うかが》っていたが、入鹿は一向に鞭を当てない。並脚でゆっくり馬を歩かせている。入鹿は動物的嗅覚で、百済の政変が、朝鮮三国に大きな影響を与えることを感じていた。そしてそれは何時の日か、倭国にも伝わって来るに違いなかった。
皇極は女帝なので政変を起す心配はなかった。だが問題は皇極の後を継ぐ大王だった。もしその大王が、天子だけの地位に不満を抱き、政治権力も掌握しようとしたなら、誰を敵と考えるだろうか。
百済の政変は王家内部の争いだった。
現在の倭国では、実力で大王位を狙う皇子は居ない。中大兄皇子は十七歳になったばかりだ。だが舒明の殯で、誄を述べた時の中大兄皇子の態度は堂々としていた。それに中大兄皇子には、古人大兄皇子には見られない気迫があった。あの気迫は若さから生れたものだろうか。いや違う、と入鹿は首を横に振った。天性のものに違いなかった。
「吾君《わがきみ》、御気分でもお悪いのですか?」
と雀が訊いた。
「気分は爽快だ、それはそうと、この頃、僧旻《そうみん》の講堂には、群臣の子弟等が、かなり通っているらしいな、一寸|覗《のぞ》いてみよう」
と入鹿は眼を細めていった。
二
僧旻《そうみん》が唐《とう》から倭国《わこく》に戻って来たのは、舒明四年(六三二)だった。僧旻が唐の新知識を官人達の子弟に教えるため講堂を開いたのはそれから数年後であった。入鹿《いるか》は僧旻から教えを受けたが、通説のように、僧旻の講堂に通って学んだのではない。僧旻を入鹿がかつて住んでいた畝傍山《うねびやま》北方の屋形(橿原市今井町近辺)や豊浦《とゆら》の屋形に呼んで勉強したのである。
入鹿は何といっても、大臣蝦夷《おおおみえみし》の子である。蝦夷は官人達に冠位を授ける地位にあった。そういう意味で、大臣の地位は大王《おおきみ》に匹敵する。だから入鹿は僧旻から個人教授を受けたのだ。入鹿は生れながらに利発であり、頭脳は明晰で、僧旻を驚かせた。時には入鹿の父蝦夷も共に僧旻の講義を聴いたが、蝦夷の頭脳はすでに硬化していた。
僧旻は自分の講堂に集っている群臣の子弟に対して、思い出したように、入鹿のことを褒めていた。僧旻は、周易《しゆうえき》の講義と共に、唐の国家制度、つまり律令制度なども教えていたが、群臣の子弟は、なかなか理解しようとしない。
群臣の子弟は僧旻の講義を理屈の上では理解出来るが、感覚的に拒否してしまう。長い間、巨大な私有地や、私民の労役の上で胡坐《あぐら》をかいて生きて来た大小豪族達の子弟にとって、私有している民、百姓の否定に繋《つなが》る律令制度は、自分達の富や勢力の崩壊を招きかねないからだ。
そんな時僧旻は、熱心に講義を聴き、鋭い質問を発し、新しい国家制度のあり方に眼を輝かせる入鹿を思い出し、内心そんな入鹿に不気味さを感じながら、大臣の子の大夫《まえつきみ》は、唐の国家制度こそ新しい国家のあり方かもしれない、といわれている、と褒めるのだった。
ただ、僧旻の講堂に集る群臣の子弟の中には、僧旻の講義に共鳴する者も居た。それは巨大な私有地、私民を持っていない中小官人の子弟である。
とくに大王家の神祇《じんぎ》の長官の養子である鎌足などは、その筆頭であった。鎌足には、唐の国家制度は、唐の都のように眩《まぶ》しいものに思われた。何故なら、そういう時代がやって来ても、他の豪族と違って、鎌足には失うものは何もないからだった。それどころか、大王の片腕になって、大きな権力を得ることが出来る。神祇の長官など問題ではない。
だから僧旻の講堂に集る群臣の子弟といっても、講義を受ける姿勢はそれぞれ違っていた。
僧旻が入鹿を褒める度に、鎌足は入鹿の気持を考えるのだった。蘇我本宗家は大臣として権力の大部分を握り、東国、西国の各地にも私有地、私有民を持っている。
もし僧旻が説くような唐の国家制度が倭国に取り入れられたなら、大臣の地位は一体どうなるのか。唐では皇帝が権力を一手に掌握し、政治制度が完備し、皇帝の命令によって政治が行われている。
僧旻の話では、国土が倭国の何十倍あるか分らない大唐の国が、律令制度によって、皇帝の眼が行き届いている、という。それはまさに、皇帝の許《もと》に総《すべ》ての権力が集められた中央集権国家制度であった。
鎌足がどう考えても、大臣には利がない。これまでの大臣の地位、権力、財産は剥奪され兼ねない。勿論《もちろん》、僧旻は、唐の国家制度の総てを熟知しているわけではなかった。
僧旻は学問僧で政治家ではないし、唐の政治に参与したわけではない。だから僧旻の講義には誇張された面がないではなかった。
げんに新しく戻って来た南淵請安《みなぶちしようあん》は、教えを請いに行った鎌足に、律令制度の大唐でも、反乱は起るし、皇帝の眼が行き届かない面は多い筈《はず》だ、と説いた。
だが僧旻の講義に誇張された面はあるが、皇帝の権力は倭国と較べものにならないほど強く、法式や命令によって政治が運営されている、という点では、僧旻の講義は正しかった。
鎌足は僧旻に、何故大夫は師の講義を熱心に聴いて頷《うなず》いたのか、と訊《き》いてみたかった。
考え方によれば、蘇我本宗家にとって、唐の国家体制を説く僧旻の講義は、危険思想を説いているようなものであった。
あの聡明な入鹿にそれが分らない筈はない。入鹿に対する鎌足の疑惑、警戒心はそういうところにもあったのだ。
僧旻の講堂には、蘇我本宗家以外の蘇我氏の子弟も顔を見せていた。石川麻呂の異母弟蘇我|日向《ひむか》も居たし、また蘇我|田口臣筑紫《たぐちのおみつくし》や川掘《かわほり》も居た。日向は鎌足より少し年齢《とし》上だが川掘はまだ二十三歳であった。筑紫は鎌足と同年輩だった。蘇我田口臣は馬子時代に高市郡田口に住むようになった蘇我氏の一支族である。日向も筑紫も石川麻呂に心を寄せ、蘇我本宗家に好意を抱いていないようだった。だが川掘は蘇我本宗家に忠実であった。
鎌足は僧旻の講堂に集る蘇我氏の子弟達と親しく慎重に付き合っていた。付き合いながら彼等の性格も分析していたのだ。
蘇我の分家の各支族は川掘など二、三名を除き大体、蘇我本宗家に対して余り良い感じを抱いていなかった。鎌足は、そのことを日向から聞いて知っていた。その原因は蘇我本宗家だけが権力を得ていることにもあるが、何といっても、大臣蝦夷が叔父の境部臣摩理勢《さかいべのおみまりせ》を自殺に追い込んだことが大きな理由である。それ以来、蘇我氏は完全に亀裂を生じたのだ。
鎌足は僧旻の講堂に絶えず顔を出し、集る群臣の子弟達と親しく接触しながら、自分が政治の場で活躍する日を考えていたのであった。
僧旻の講堂で鎌足の才能は群を抜いていた。二十歳の時、すでに『太公六韜《たいこうりくとう》』を読破した鎌足は、時々、僧旻を驚かすような学識を示した。群臣の子弟達が、そういう鎌足に注目したのも当然である。
鎌足は自分の学識を発揮し、僧旻に認められることによって、身分を超越し、大勢の群臣の子弟達と親しくなったのである。
僧旻にとって鎌足は第一の高弟だった。
鎌足が認められたのは僧旻だけではなかった。舒明十二年(六四〇)に唐から戻った南淵請安や高向玄理《たかむくげんり》などにも、その学識や才能を認められた。
つまり鎌足は、新しく帰国した学問僧や留学生達に認められることによって、学問僧達から新知識を吸収しようとしている群臣の子弟に、その存在を認められたのである。
六三〇年代の後半から六四〇年代にかけての飛鳥には、これまでの倭国に存在しなかった新しい権威が生れつつあった。その権威は、続々と唐から戻った学問僧達によってもたらされた学問文化という権威である。
従来の身分序列は、学問文化の前では影を薄める。大豪族の子弟であっても、頭が悪ければ自然に存在価値が稀薄になる。
鎌足が大豪族の子弟の中で頭角を現し、彼等から尊敬され、身分を越えて彼等と親しく交際出来たのは、時代の流れがもたらした学問文化のおかげである。
神祇の長官の養子に過ぎない鎌足が、何故|乙巳《きのとみ》のクーデター(大化の改新)の主役になり得たかを考察する場合、我々は通説が見逃し勝ちなこの事実を強く認識すべきであろう。
六四二年、皇極女帝が即位した年に、鎌足はすでに二十九歳になっていた。最早、僧旻から学ぶべきものは殆ど学び取っていた。
それにも拘《かかわ》らず鎌足が僧旻の講堂に顔を出していたのは、自分の存在を権威づけるためであった。げんに鎌足は、僧旻に頼まれ、僧旻の傍に坐っていた。時には僧旻に代って講義することさえあったのだ。
入鹿が僧旻の講堂の前で馬から降りた時、僧旻は熱弁をふるっていた。すでに五十を過ぎていたが、僧旻の講義は何時も熱が籠っていた。脚の短い机の前に坐った僧旻は、講義に熱が入ると、机を叩いたりする。学者肌の南淵請安と異り、僧旻は政治に対して情熱を持っていた。群臣の子弟の中には、僧旻よりも遥《はる》かに地位の高い者が居る。だが、学問という立場で講義をしている僧旻は、大豪族の子弟にも遠慮しなかった。講堂の中では、自分の学問だけが権威なのである。始めは僧旻のそういう態度に反撥していた大豪族の子弟も、今ではかえって、そんな僧旻に魅力を感じるようになっていた。
そして何時か倭国も、唐のような法式の備わった国になることを漠然と予感していた。恐れている者も居たし、中小官人のように待ち望んでいる者も居た。
入鹿が講堂に入った時、集っていたのは次のような群臣達の子弟だった。
|大伴 連《おおとものむらじ》、巨勢臣《こせのおみ》、紀臣、阿倍臣、粟田臣、息長《おきなが》山田公、采女《うねめ》臣、高向臣、蘇我臣、河辺臣、物部《もののべ》連、坂本臣、田中臣、阿曇《あずみ》連、穂積臣、羽田臣、難波吉士《なにわのきし》、佐伯連、土師《はじ》連、犬養連の諸氏族、|船 史《ふねのふびと》、|書 首《ふみのおびと》、|東 漢 直《やまとのあやのあたい》、忌部首《いみべのおびと》、吉備笠臣、鴨君、佐味君、小墾田《おはりだ》臣、小子部連《ちいさこべのむらじ》、多《おおの》臣、境部連、星川臣、大野君その他である。
大伴、巨勢、紀、阿倍、蘇我などの大氏族の子弟達は僧旻の直ぐ前に坐り、坂本、田中、穂積などの中位官人がその次に、東漢直、船史、書首などの子弟が後列に居た。
学問を論じる場合は身分序列の影は薄くなるが、坐る場所となると、身分が物をいうのだ。それにしても鎌足が僧旻と大豪族の子弟の間に坐っているのは、入鹿には異様に思えた。
中臣氏は神と大王との中を執り持つ氏族であるが、今日の鎌足は、僧旻と群臣の子弟との中を執り持っているようだった。
入鹿が入って来たのを見た僧旻は、講義をやめた。入鹿は僧旻が頭を下げるよりも早く一礼すると、最後列に腰を下ろした。
「大夫《まえつきみ》、こちらにお坐り下さい」
鎌足は立膝《たてひざ》で素早く前列の端に坐り、自分の場所を入鹿のために空けた。こういう場合の鎌足の動作は機敏だった。
入鹿は胡坐をかくと膝に手を当てた。
「いや、吾は突然立ち寄り、講義の邪魔をしたのではないか、と案じておる、ここで拝聴したい、僧旻師、どうか講義を続けて下さい」
入鹿は何時もの荒々しい声ではなく、落ち着いて答えた。群臣の子弟の中には振り返って礼をする者が居た。入鹿は一人一人に笑顔で応じた。
僧旻が机を叩き講義を始めた。
僧旻はどうして隋が斃《たお》れ、唐王朝が興ったかを話していた。その主要原因が隋の高句麗征討による人民の疲弊にあることを、入鹿は何度も聴き、知っていた。中国は倭国とは較べものにならない程広い。だから隋の時代はまだ律令制度が徹底せず、人民の不満は反乱に繋るのだった。中国のような大きな国では人民の不平によって一個所に反乱が起ると、連鎖反応式に各地で反乱が起る。
機を窺《うかが》っていた名門氏族が挙兵すると、たんなる反乱というよりも内乱になる。隋王朝を斃した李淵(唐の高祖)も北周の八柱国の一つ唐国公であった李虎の孫で、隋の煬帝《ようだい》の母方のいとこにあたる。だから中国のような広い国では、皇帝は徳を持たなければならない、と同時に徹底した律令制度が要求される、と僧旻は結んで講義を終えた。
入鹿は最後まで僧旻の講義を聴いていた。
最後列だったので、入鹿は真先に雀と共に講堂から出た。
講堂の周囲の樹々には群臣の子弟達の馬が繋れていた。
入鹿が馬に乗ろうとしていると僧旻が来た。
「今日は吾堂に来ていただき、嬉しく思います、それに大夫の礼節をわきまえられた態度には感じ入りました」
と僧旻は嬉し気に眼を細めた。
入鹿は豪快に笑った。
「当然のことです、それよりも、師の講義は何時聴いても飽きが来ない、そこが人の心を惹《ひ》きつける、また一度ゆっくり、師から教えを受けたい」
蘇我氏の一族を始め、講義を受けていた群臣の子弟が集り、入鹿に挨拶した。その中には鎌足も居た。視線が合うと鎌足は深々と頭を下げた。
一人、自分の馬の方に歩きかけた蘇我|日向《ひむか》も、入鹿の廻りに大勢の者が集っているのを見て、仕方なさそうにやって来た。日向は蝦夷の弟倉麻呂の子供だが、正妻の子供ではない。蘇我本宗家の後を継ぎ次の大臣《おおおみ》の地位を約束されている入鹿には、一歩も二歩も退いて挨拶せねばならない立場だった。
「暫くお会いしませんが、大臣にはお元気でお過しですか?」
日向は低い声でいった。
入鹿は蘇我本宗家を守るためには、何《いず》れ石川麻呂を斃さねばならないと決意していたが、ことに日向には生理的な嫌悪感を抱いていた。
卑屈で陰険な感じがするからだった。肩を縮めて上眼遣いに話し掛ける態度も気に入らない。
「大臣を案じるなら、たまには顔を見せたらどうかな、吾《われ》は口先だけの挨拶は好かぬ」
入鹿は吐き出すようにいうと、僧旻に一礼し、馬に乗った。
日向が蒼白《そうはく》になり俯《うつむ》いたのを横眼で見ながら、入鹿は雀に、行くぞと声を掛け、馬に鞭《むち》を当てた。
蘇我日向は大化の改新後、右大臣の地位にあった異母兄石川麻呂に謀反の罪を着せ、山田寺に逃げた石川麻呂の妻子を斬殺した張本人である。日向の後ろで糸を引いたのは時の大臣鎌足であった。孝徳五年(六四九)、この日より七年後の出来事である。
入鹿と雀を始め、東漢氏の兵士達が走り去った。蘇我|田口臣 川掘《たぐちのおみかわほり》が従者と共に入鹿の後を追った。
皆の前で恥を掻《か》かされた日向は、憤りと恐怖感に身体を慄《ふる》わせながら、従者が手綱を取っている馬の方に歩き始めた。そんな日向を、もし他人が見たらぞっとするような冷たい眼で眺めていた人物が居た。鎌足である。だが鎌足は直ぐ穏やかな表情に戻ると、講堂に入ろうとしている僧旻に挨拶した。
「僧旻師、吾はこれで失礼します」
「鎌子殿、何時も御苦労じゃ、そなたの学識には愚僧も感嘆しておる、先日御父上にも申し上げたが、これからの時代に必要なのは鎌子殿のような、学識と思慮分別のある人物です、今度大王にお会いした時は、鎌子殿のことを申し上げておこう」
と僧旻は眼を細めた。
「身に余る光栄です」
「大夫の学識も大変なものじゃが、短気なのが気になります、もし大夫に鎌足殿ほどの思慮と分別があったら偉大な大臣になれるであろう……」
僧旻は何かいい掛けて口を閉じた。
その時鎌足は、入鹿の性格が短気で良かった、と胸の中で呟《つぶや》いた。もし入鹿が、僧旻が感嘆したほどの明晰《めいせき》な頭脳以外に、遠謀深慮の性格を持ち合せていたなら、将来、鎌足が幾ら権謀術数を弄《ろう》しても、付け入る隙《すき》はないからである。
鎌足は、僧旻もそれをいいたかったのではないか、と感じた。
家伝はその日の出来事を次のように述べている。
「講|訖《をは》り、将に散ぜんとす。旻法師撃[#レ]目して留む。因りて大臣は語りて云ふ。吾が堂に入りし者、宗我大郎に如《し》く者無し。但し公の神識奇相は実に此人に勝る、願くは深く自愛せよ、と」
家伝の大臣とは、いうまでもなく鎌足であり、宗我大郎とは、本家の主である入鹿のことである。家伝は鎌足の偉大さを記述した藤原氏の家伝だから、この記述にはかなりの誇張がある。だがその家伝でさえも、入鹿の学識、才能を褒めているのだ。ただ入鹿の欠点は短気なことであった。入鹿と鎌足の違いは、大臣の権力と富に包まれ育った人間と、周囲を窺いながら下から這い上って来た人物が持つ性格の相違ともいえよう。
入鹿が曾我川に沿って南下し横大路に出た時、従者を連れた川掘の一行が追いついた。
横大路は南大和を東西に横切る当時の大路で、西は竹内峠を通り河内の丹比道に通じている。東は三輪山麓から宇陀の墨坂を通り伊賀方面に通じる。河内と東国を結ぶ横の大路である。
これに対して大和平野を南北に通る三道は、東から上《かみ》つ道、中《なか》つ道、下《しも》つ道があった。
上つ道は天理市から南下し、大和東部の山麓沿いの道で、現在の桜井市(桜井駅の西)で、飛鳥に通じる山田道と結合する。山田道は西方にゆるく湾曲しながら飛鳥に達する。
中つ道は上つ道の西方二キロにあり、大和平野を南北に縦貫している。北は後の平城京の東端を通り山背に達し、南は飛鳥の嶋之庄から芋峠《いもとうげ》を越え吉野川に達する。
下つ道は矢張り中つ道の西方二キロを南北に縦貫している。北は平城京の中央部を通り、南は耳成山の西、畝傍山の東方を通り、現在の近鉄線岡寺駅の辺りまで達していた、と推定されている。更に南下すると山道に入り、東は壺坂峠、西は芦原峠を越えて吉野川に達していたようである。
騎馬の音を聞き、直ぐ入鹿の背後を固めた雀は、入鹿を追って来た一行が川掘だと知ると、入鹿にその旨を伝えた。蘇我田口臣の一族の大半は石川麻呂に好意を寄せているが、若い川掘は入鹿の行動に魅せられ、入鹿を慕っている一人だった。蘇我氏の支族の半数は、蘇我本宗家に対して好い感情を抱いていない。だが、川掘のように蘇我本宗家に忠誠を誓っている者もかなり居たのである。
入鹿は振り返ると、来い、と叫び川掘を呼んだ。川掘の顔は紅潮していた。入鹿の後を追い馬を飛ばして来たからだった。
川掘は入鹿と馬を並べた。
「どうしたのじゃ、急な用事でも生じたのか?」
「いや、さっきは気分がすっとしました、吾君大郎の一喝《いつかつ》で、日向の奴、蒼《あお》くなって慄えておりましたわ、吾はああいう、何を考えているか分らない奴は大嫌いなのです、あれでは日向も、暫《しばらく》く屋形から出られますまい」
「何だ、それをいいに来たのか……」
入鹿が苦笑すると川掘は首を横に振った。
「それだけでは御座居ません、吾はもう、僧旻師の講堂に通うのは、やめようと思っております」
といって川掘は顔を引き締めた。
「どうしてじゃ、僧旻が、吾の悪口でもいったのか?」
「そうではありません、吾君大郎のことは、思い出したように褒めておられます、ただ、吾は大唐の、法式備わり定まれる制度を、何も倭国《わこく》に持ち込む必要はない、とこの頃考えるようになりました、大唐は何処《どこ》が果てやら分らぬ広い国故、法式の制度も必要でしょう、だが倭国は今のままで良いのではないでしょうか?」
川掘は真剣な眼を入鹿に注いだ。川掘は入鹿を吾君、と呼んでいた。
「何故じゃ?」
川掘が直ぐ返答しないので、入鹿はもう一度、何故じゃ? と訊いた。川掘は暫く唇《くちびる》を噛《か》んでいたが、そういうことになれば、大豪族達がおさまらない、と答えた。
「それだけではあるまい、隠しだてはするな、さあ、また馬を飛ばすぞ、川掘、遅れるな!」
入鹿は叱咤《しつた》するように叫ぶと馬に鞭を当てた。旧暦二月の初旬であった。飛鳥の山影はすでに緑に色づいているが桜の花はまだ開いていない。寒さの厳しい春の遅い年であった。ただ樹々の間に蹲《うずくま》るように咲いている紅梅が、春の訪れを告げていた。
入鹿の体内に血が滾《たぎ》り、何かが爆発しそうであった。入鹿は白馬の次に寵愛《ちようあい》している栗毛の馬に鞭を当て続けた。数十頭の四歳馬の中から入鹿が選んだ駿馬《しゆんめ》であった。入鹿の馬はみるみる川掘や雀達の馬を引き離した。熱した入鹿の頬《ほお》を冷たい風が吹きつける。川掘や雀達が必死になって入鹿の後を追って来る。身体に血が滾ると入鹿は自分を押えられなくなるのだ。中つ道に出た入鹿は嶋の屋形に向って走り続けた。鞍《くら》の居木《いぎ》が股間《こかん》を揺すりながら圧迫する。体内の血が下腹部に向って奔流のように流れて行く。馬が苦しそうに喘《あえ》ぎ始めた。そんな馬に入鹿は容赦せずに鞭を当てた。土塁といって良いほどの厚い築地塀《ついじべい》に囲まれた巨大な飛鳥寺の傍まで来た時、入鹿の馬の速力が落ちた。
「もう少しじゃ、頑張るのじゃ」
入鹿は狂ったように鞭を当てた。馬の毛が吹き出す汗に濡《ぬ》れ異様な匂いがした。屋形を守っていた東漢氏の兵士たちが何事か、と走り寄って来た。坂道に掛った時、馬は苦し気にいななきよろけた。よろけながらも馬の習性で走ろうとしたが、すでに力を使い果していた。入鹿は鞭を持ったまま馬から飛び降りた。馬が倒れるのと、入鹿が転倒したのと殆《ほとんど》ど同時であった。もし、入鹿が飛び降りなかったら、入鹿は頭の方から前方に投げ出されていただろう。入鹿は腰と肩を路上で打ったが、たいした痛みはなかった。
入鹿が立ち上り、坂道を歩き始めると、川掘と雀がやっと追いついた。
「大丈夫じゃ、心配するな、それより雀、数日のうちに二十頭の馬を集めろ、河内の馬で良い、その中から良い馬を吾が選ぶ、川掘、吾について参れ」
入鹿は倒れた馬には見向きもせず屋形に入った。嶋の屋形は入鹿の後宮になっていた。
遠江《とおとうみ》や越《こし》の国から集めた若い女人達が数人住んでいる。屋形の板床には鹿の皮が一面に敷きつめられていた。屋形の中は女人の香料と毛皮の匂《にお》いでむせ返るようであった。
竃《かまど》の火が赫々《あかあか》と燃え屋形の中は暖かい。
入鹿は無造作に衣服を脱ぐとふんどし一つになり、胡坐をかいた。
入鹿に命じられた二人の女人が水甕《みずがめ》に布を浸して絞ると、汗まみれになった入鹿の身体を拭《ふ》き始めた。
「川掘どうした、あれだけ馬を走らせたのじゃ、汗臭い身体では女人に嫌われるぞ、裸になって汗を拭け」
「はあ、でも吾は……」
流石《さすが》に川掘は顔を赧《あか》らめた。入鹿の屋形に居る女人達は皆色が白く美貌の者ばかりだった。なかには異国の蝦夷の血が混じっている者も居る。そういう女人は彫りが深く眼が大きい。
川掘がもじもじしていると、入鹿は哄笑《こうしよう》し、他の女人達に川掘の衣服を脱がせるように命じた。女人達は待っていたように川掘の傍に群がった。あっという間に川掘も衣服を剥ぎ取られた。冬野川から汲み取られた水は身体が凍るように冷たかった。その冷たさが入鹿にとっては気持が良いのだ。今年の始め武蔵国から呼び寄せた楓《かえで》はまだ十八歳になったばかりで未通女《おぼこ》であった。明らかに蝦夷の血が混じっていた。畿内の女人とは異り眼窩《がんか》が窪《くぼ》み、黒眼の部分が微《かす》かに青い。武蔵国には上宮王家《じようぐうおうけ》(斑鳩宮の王家)の封土があり乳部《みぶ》の民が居る。入鹿は山背大兄皇子への反撥から、楓を武蔵国から呼び寄せたのだ。
入鹿はまだ楓とは媾合《まぐわ》っていなかった。楓は淡紅色の絹の衣服をまとっていた。
入鹿が楓の身体に触れなかったのは、楓が余りにも神秘的な美しさを透き通るような肌に秘めていたからである。入鹿は楓とこの嶋の屋形で媾合いたくなかった。葛城の高宮の屋形にでも連れて行き一夜を過したかった。
だが今日の入鹿は違っていた。自分でも押え切れない荒々しい血が滾っている。愛馬を乗り潰《つぶ》した呵責《かしやく》も影響していた。入鹿は楓の手首を掴んだ。他の女人と異り楓の手首は細い。楓の手から入鹿の身体を拭いていた布が落ちた。胡坐をかいたまま入鹿は楓を横抱きにした。楓は恐怖と羞恥《しゆうち》に身体を固くしていた。顔には血の気がなく怯《おび》えた眼が大きく見開かれている。入鹿の下半身は痛いほど充血し柔かい楓の身体を突いていた。
「川掘、そちは吾に忠誠を誓うか?」
と入鹿は楓の腰紐《こしひも》に手を掛けながらいった。
身体を縮めるようにして女人達に身体を拭かれていた川掘は、はっとしたように姿勢を正した。
「はっ、吾は吾君大郎のためには生命もいといません」
「よし、それなら、共にここで媾合うのじゃ、好きな女人を選べ」
入鹿は楓の腰紐を解いた。女人達は屋形内では裙《もすそ》をはいていない。何枚もの絹の布を分けると華奢《きやしや》な手首からは想像もつかない豊かな胸のふくらみが眩しく入鹿の眼を射た。入鹿が楓を押し倒すと、楓は眼を閉じ、お許し下さい、と低い声で呟いた。
「何も恐れることはない、楓、吾は楓が好きなのじゃ」
だが楓は太腿《ふともも》を強く合せて動かない。
「開くのじゃ、楓、開くのじゃ」
入鹿の語調は強かった。楓の眼尻《めじり》が濡れ、脚の力がゆるんだ。
二刻《ふたとき》後、白馬に乗った入鹿は川掘、雀と共に豊浦《とゆら》の屋形へ向った。先刻までの荒々しい入鹿ではない。新しい馬に乗った入鹿は西に傾いた早春の陽を浴びながら、飛鳥の野を散策しているようなのどかな表情をしていた。
豊浦の屋形も東漢氏の兵士達が守っている。入鹿は川掘と共に雀も屋形に入れた。
女人達が酒肴《しゆこう》を運んで来た。
入鹿は川掘に、もう暫く僧旻の講堂に通うように命じた。蘇我氏の支族の中で川掘はとくに信頼出来る。不審そうに入鹿を見詰める川掘に、入鹿は僧旻の講堂に通い、群臣の子弟達の動向を探るように告げたのだった。入鹿は僧旻の講義に、仏教王国を夢見ている山背大兄皇子とは違った意味の危険思想を感じ取っていた。いや危険思想ではあるが、入鹿は僧旻によって、新しい眼を開かされたのである。それは入鹿自身が総ての権力を一手に握る中央集権国家だった。
だが父の蝦夷はそこまで考えていない。馬子時代の権力を得れば良い、と思っている。
「川掘、吾は僧旻を始め、唐から帰国した学問僧達のおかげで眼を開いたのじゃ、吾が何故、僧旻を屋形に呼んで大唐のことを学んだか、そちには分らないようじゃな」
入鹿は酒杯を口に運びながら微笑した。
「大唐は強大で恐ろしい国です、そういう点で大唐の政策を知る必要があったからではないでしょうか?」
「勿論それもある、唐から帰国した連中は皆新羅を通って戻って来ている、彼等は一様に、唐は百済よりも新羅と親交を深めている、と報告している、蘇我氏の祖は百済王族の出じゃ、だからといって、時代の流れを無視するわけにはゆくまい、これまでの倭国は、百済とばかり親交を深めて来た、これからはそうもゆかぬ、ただ吾が僧旻等から得たことは、強大な権力を一手に握る人物が必要だ、ということだ、法式が備わり命令が徹底出来る国も、そういう人物が出現しなければ不可能じゃ、そうは思わぬか?」
入鹿の声は何時になく落ち着いていた。馬を乗り潰したほど荒れ狂っていた入鹿の血は、楓と媾合ったことによって静まっていたのだ。入鹿は話している間も川掘の顔から視線を離さなかった。
川掘の顔が紅潮した。川掘は入鹿と親しく、入鹿の信頼を受けていたが、これまで、入鹿からこのような言葉を聞いたことがなかった。それだけに若い川掘の血が騒いだ。
「吾君大郎のおっしゃる通りです、唐の皇帝は強大な権力を持っている、吾が僧旻師の講堂に通いたくなくなったのは、何も広大な私有地や大勢の私民を失いたくないからではありません、吾には、そんな私民も、紀臣や巨勢臣のような広大な土地もありません、吾には、僧旻師が、倭国の大王も、唐の皇帝と同じような強大な権力を持たねばならない、と暗に教えているような気がするからです、百済の義慈王が武王の正妃を殺し、王子や大勢の貴族を追放したのも、唐の皇帝のようになりたかったからでしょう……」
「その通りじゃ、だが有力豪族達は内心、僧旻を始め、唐から戻った学問僧達の講義に困惑しておる、僧旻の講堂に通っている有力豪族達の子弟も思いは同じであろう、それに総ての権力を大王に渡すことを本気で考えている者は先ず居ない、皆、自分の身が可愛いからのう、だが時の流れは、強大な権力者を要求している、頭の古い豪族達が寄り集って議論しても、何も生れぬ、吾を始め若い者達はそのことをよく知っておる、だから僧旻の講堂に集るのじゃ、皆、混乱し模索しているのじゃ、川掘、そちもそうではないか」
「その通りです」
川掘は拳《こぶし》を握り締めていた。
「僧旻達が撒《ま》いてくれた新しい種のおかげで混乱の時代がやって来そうだ、大風が吹けば巨木が倒れても不思議ではない、大雨が降れば山が崩れてもおかしくはない、吾にとっては絶好の機会でもあるのじゃ、川掘、吾がいっている意味が分るか?」
川掘の掌《てのひら》に汗が滲《にじ》み、緊張の余り息が苦しくなった。十日に一度だが、川掘は二年近く僧旻の講堂に通っていた。学問が好きなだけに頭は良い。最初川掘は、入鹿が馬子時代の権力を取り戻したがっている、と漠然と考えていた。だが今の入鹿の言葉はそうではない。入鹿は倭国の最高権力者になろうとしているのだ。ひょっとしたら川掘は、そういう入鹿の真意を知るために、僧旻の講堂に行きたくない、といったのかもしれない。
「分ります、吾君大郎、吾は先にも申した如く、大郎のためなら生命はいといません」
板戸の傍に坐っていた雀は、思わず、吾も同じです、と叫んだ。
入鹿は微笑すると酒杯を持って立ち上った。川掘に、雀にも酒を飲ませてやれ、と命じると、明り取りの窓から外を眺めた。樹立の直ぐ後ろに、甘橿丘《うまかしのおか》の支脈が迫っていた。
庭には紅梅が咲き桃の蕾《つぼみ》がふくらんでいる。入鹿は甘橿丘を眺めながら、皇極女帝の宮を百済(北葛城郡広陵町)から飛鳥に移す必要がある、と考えた。その時入鹿が建てる屋形は甘橿丘の上以外にはなかった。
夫、舒明を喪《うしな》い、新大王になった皇極女帝の愉《たの》しみといえば女人特有の贅沢《ぜいたく》さ以外にはない。それに皇極女帝は、そういう贅沢さを無条件に享受し得る性格の持主である。
「川掘、斑鳩宮《いかるがのみや》の皇子の子弟達は、僧旻の講堂に来ているか?」
入鹿は西陽に染まっている紅梅に眼を向けた。川掘は姿を見たことがない、と答えた。
入鹿は満足気に頷《うなず》いた。新しい時代の波に取り残されている斑鳩宮の一族の姿を、入鹿は川掘の返答の中に視《み》た。
「川掘、さっき吾が申した通り、そちは今暫く僧旻の講堂に通え、そして群臣の子弟の動向を探るのじゃ、これからは人前で吾と会っても親しく話をするな、特別な用事が出来た時は夜陰に乗じて参れ、吾が嶋の屋形に居る時でも構わぬ、眠っている時でも良い、分ったか?」
川掘は鹿の毛皮に手をつくと無言で頭を下げた。川掘は今、入鹿の胸中を読んだのである。それは入鹿が将来大王家を斃し、名実共に倭国の王者となることだった。いや大王というより、天子の地位と皇帝の権力を握った天子皇帝である。
入鹿は頭を下げている川掘の傍に腰を下ろし、川掘の肩を叩いた。
「これからは吾よりも、古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子と親しくしろ、先ず古人大兄皇子を大王にせねばならぬ、古人は骨のない皇子だ、古人が大王になれば、何時か吾は倭国の大王になる、五年先か、十年先か、いや十年も待てぬ」
入鹿は金銅の盃を雀の前に差し出した。
雀が注ぐと一息に呑み、隣の部屋に控えていた女人達を呼んだ。
豊浦の屋形に住み、入鹿に仕えている女人達の中には、琴を弾いたり、歌舞の才にたけている者が多かった。
入鹿は女人達に琴を弾かせ舞を舞わせた。
風が次第に強くなり樹立《こだち》が揺れ始めた。東漢氏の兵士達は足踏みしながら寒さに耐え、槍を握っていた。雀は厠《かわや》に行った。厠は飛鳥川から水を引いた小川の上に造られている。
放尿を終えた雀は外に出た。兵士達が二人、足踏みしながら話し合っていた。雀は一人の兵士の槍を|※[#「てへん」+「宛」]《も》ぎ取ると、もう一人の兵士を蹴倒した。地上に倒れた兵士の胸に槍先を突きつけた雀は大声で叫んだ。
「何をたわけておる、吾が大夫《まえつきみ》の御生命を狙う者だったらどうする、これで吾君の屋形を守っているといえるか!」
戸外の騒然とした様子に、形相を変えた川掘は刀を持って立ち上った。
「川掘、うろたえるな、あれは雀じゃ」
と入鹿は笑った。
皇極元年(六四二)三月、阿曇連比羅夫《あずみのむらじひらぶ》は、義慈王によって捕まえられ、島に流された武王の王子、義慈王の異母弟にあたる翹岐《ぎようき》王子を始め貴族連中を倭国に連れて戻ってきた。蝦夷は入鹿よりも、百済王族の子孫である、という意識が強かった。それだけに百済王の正妃の子供を救出したということで大喜びだった。入鹿は蝦夷の喜び方が余りにも異常なので唖然《あぜん》としたほどだった。
蝦夷は翹岐王子を始め貴族達を難波の館に泊めて、盛大な宴を張った。宴には大伴、巨勢、紀などの有力豪族、小徳以上の群臣が蝦夷の命令で集った。
翹岐王子を救出した祝賀の宴は三日間も続けられた。入鹿も最初の宴には出席したが一度だけで馬鹿らしくなり、飛鳥に戻った。入鹿にとっては追放された翹岐王子よりも、現実に権力を握った義慈王の方が大切に思えたのだ。何だか父が老いた、という気がしてならない。
皇極女帝の弟|軽王《かるのきみ》も、最初の夜は義理で顔を出したが、二日目は入鹿と相前後して百済宮の傍の屋形に戻った。義慈王のクーデターについては、百済の使者から真相を聴き大体のことは知っていた。
群臣が難波の館に行ったので、皇極女帝が住んでいる百済宮は何時もよりも閑散としているに違いなかった。こんな時こそ、女帝を慰めるべきだと、入鹿は思った。
入鹿が雀を始め東漢氏の兵を連れ百済宮に行ってみると、宮廷を守っていたのは、副警護長の|葛城 稚犬養 連 網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》であった。
網田に率いられているのは、主に東国の|国 造《くにのみやつこ》達の子弟である。大臣家に仕えている隼人《はやと》達は、全焼した百済大寺の整地に行っているらしい。実際の労役に服しているのは各地から徴発された民、百姓である。隼人達の仕事は彼等の監督であり、逃亡者が出ないように見張ることだった。
百済大寺は昨年の冬舒明が没すると直ぐ放火により焼け落ちたのだ。誰が放火したのか未だに分らない。丁度、誰が舒明の誄《しのびごと》を最初にするかで、大臣蝦夷を始め皇子や群臣が協議している時だった。百済大寺の建立に私財を注ぎ込んでいた山背大兄《やましろのおおえ》皇子と、その一族にとっては、大きな損害だった。入鹿は放火には関係がない。ただ百済大寺が全焼したことにより、山背大兄皇子の権威が、かなり失墜したのは事実である。
内裏正門(紫門)の控えの間に居た網田は、兵士の注進を受け、宮の南門に駈けつけた。入鹿は相変らず馬に乗ったまま、現れた網田に、女帝にお会いしたい、と命令口調でいった。葛城稚犬養連網田は葛城氏ではない。葛城の地に新しく居住した犬養連の一支族であった。二代前、葛城に住む時は、入鹿の祖父馬子の許可を得て土地を得たのである。だから馬子時代は、蘇我本宗家に忠誠を誓っていたが、舒明時代、宮廷の副警護長になってからは、余り蝦夷の屋形に顔を見せなくなっていた。
そういう点でも、現在の蘇我本宗家には、馬子時代の権力はない。
網田は地上に膝をつき入鹿に礼をした。
「ただ今、軽王、中臣鎌子殿が来ておられます」
「ほう、鎌子が来ておるのか……」
入鹿は吐き出すようにいい、馬から降りた。網田が鎌足に対して殿をつけたのは父の御食子《みけこ》が神祇の長官であると同時に、大夫《まえつきみ》であったからである。御食子は鎌足を可愛がっているから、当然神祇の長官の地位を世襲する。それに鎌足は、その学識と才により、群臣の子弟達に尊敬されていた。
「構わぬ、吾は参る」
馬から降りた入鹿は刀を吊《つる》したまま宮の庭に入った。宝皇女が大王になってから、入鹿は宮の南門で馬から降りるようになっていた。女帝に粗野な人物と思われたくないためだった。網田は佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》のように、入鹿の刀を預りたい、とはいわない。だが女帝の意向を訊こうともせず宮に向う入鹿を見て、流石《さすが》に網田は狼狽《ろうばい》して入鹿の後を追った。
「大王《おおきみ》に大夫が来られたことをお伝えします」
と網田は縋《すが》るような眼でいった。
「何だ、まだ知らせてなかったのか、任務怠慢だぞ」
入鹿が怒鳴ると網田は何度も腰を折り、内裏正面の門に向って走って行った。朝堂院に居た群臣は入鹿を見ると平伏した。群臣達の中には朝堂から飛び出し地上に平伏する者も居た。東西の朝堂や庭も含め、群臣が参朝する場所を朝堂院という。
百済宮は仮宮ではないのでかなり規模は大きい。推古女帝の宮であった小墾田《おはりだ》宮よりも大きかった。朝堂も東に三棟、西に三棟あった。朝堂院の周囲は回廊ではなく築地塀である。築地塀の南北は六百尺、東西は五百尺もあった。朝堂院に参朝している群臣は舒明時代より少なくなっていた。
内裏正門も刀を吊した舎人《とねり》達が守っていた。舎人達も入鹿を見ると平伏する。
内裏は回廊によって囲まれ、内裏正門に接続していた。回廊内部の広さは、朝堂院を囲む築地塀内の敷地の約四分の一であった。
南門を入って内裏正門に到る朝堂院の庭は朝廷とよばれている。内裏正面から大殿に到る広場は中庭であった。入鹿は中庭に入り掛けたが、矢張り女帝に礼儀知らずと思われるのを恐れた。内裏と大殿は渡り廊下で繋れている。女帝の居間は内裏だが、大殿は神聖な神祇の場と考えられていた。いうまでもなく倭国の大王は神祇の最高司祭者だった。だから大王にとって大殿は大王という地位の象徴の場でもあった。よほどの高官でなければ大殿に入れない。鎌足が軽王と共に大殿に居れるのは、中臣家が神祇を掌《つかさど》る神官の宗家だからだった。
入鹿は内裏正面の門に突っ立ち腕組みして大殿の方を眺めた。網田は大殿の階段の下で膝をつくと、入鹿が来たことを告げた。
大殿には二枚の簾が垂れ下っている。女帝は簾の内に居た。今日は弟の軽王が来たので、簾は左右に開かれ女帝は顔をさらしていた。大王家の親しい血縁者や、大臣以外と会う場合、女帝は簾越しに話を聴いたり意思を述べたりする。それが天神地祇を祭る最高司祭者の権威であった。蘇我本宗家がどんなに政治的な権力を持とうと、神祇の権威には手がつけられない。
入鹿は祖父にあたる大臣馬子を偉大な人物だった、と尊敬していた。だが、入鹿は馬子に対しても不満を抱いていた。
馬子が|東 漢 直 駒《やまとのあやのあたいこま》に命じて崇峻《すしゆん》を殺した時、何故実力で大王位を奪わなかったか、ということだった。あの時、大和の豪族達は馬子の命令で新羅征討のため大軍を率い筑紫に駐留していたのだ。馬子が大王になっても蘇我本宗家に刃向う者は畿内には居ない。遠い筑紫で反蘇我氏の連中が幾ら切歯扼腕《せつしやくわん》しようと、既成事実の前には屈服せざるを得ないのだ。
げんに近江《おうみ》(通説は越前)から大和に入り、大王位についた継体は、応神王朝とは余り血縁関係がない。つまり継体は、大伴、物部という味方があったにせよ、実力で大王位を勝ち取ったのである。
何時だったか入鹿はそのことで、蝦夷に不満を洩《も》らした。蝦夷は愕然としたように入鹿を見詰め、父、嶋大臣は政治権力を一手に握ることに全力を尽しており、神祇の最高司祭者である大王になることまでは考えていなかった、と答えた。
「あの当時、大王には父に命令する権力はなかった、それと何といっても、蘇我氏には百済王族の血が流れておる、古くから倭国に居る豪族達が何時までも黙ってはいまい、その点|男大迹大王《をほどのおおきみ》(継体)は古くから大王家に皇后や妃を出していた息長《おきなが》系の大豪族だった、尾張氏とも縁戚関係を持っておる、だから、大伴、物部が引張り出したのじゃ、もし蘇我氏が大伴、物部と同じように、古くから倭国に居た氏族だったら、父は多分、大王になっていただろう」
「しかし、祖父が殺した泊瀬部《はつせべ》大王(崇峻)には蘇我氏の血が流れている、泊瀬部の母は曾祖父稲目大臣の娘でしょう」
「ああ、だが泊瀬部大王の父は|天国排開広庭 大王《あめくにおしはらきひろにわのおおきみ》(欽明)じゃ、女人の血だけでは何ともならぬ」
「父上、倭国というのは妙な国ですなあ、これが中国なら、我々はとっくに大王になっている、ただ幸いなことに、隋、唐帰りの連中が中国の歴史を教えてくれました、これまでの中国では実力さえあれば皇帝になれた、ただ今の唐のように法式が備わってしまえば、昔のように簡単には皇帝を斃せない、吾が倭国の大王になれるのは、唐の制度が入らないうちじゃ」
入鹿は握り締めた拳で太腿を叩いた。
蝦夷は入鹿を睨み、馬鹿なことを考えるな、と叱責し、古人大兄皇子さえ大王になれば、天下は我々の物じゃといった。
入鹿が蝦夷とそんな会話を交わしたのは、丁度一年前であった。
入鹿は正門の柱の傍で、両脚を拡げて立ちながら、ふと父との会話を思い出していた。
網田が戻って来て、女帝がお待ち申し上げている、と告げた。
入鹿は振り返ると、後ろから付いて来る網田にいった。
「網田、そちは宮を警護しろ、吾の警護は不必要じゃ」
網田が雷に撃たれたように棒立ちになるのを見た入鹿は、大股《おおまた》で大殿に向った。
鎌足は大殿の正面入口の傍に坐り、軽王《かるのきみ》は女帝と向い合って坐っていた。向い合うといっても、軽王は簾の外なので、女帝との間は十尺近く離れている。
鎌足が床に手をついて挨拶した。入鹿はそんな鎌足に、御苦労、と声を掛け、軽王の傍に行き膝をつくと先ず女帝に挨拶をした。鎌足は神祇の長官である御食子《みけこ》の代りに宮に来ているが、まだ、直接女帝と言葉を交わせる身分ではなかった。だから鎌足の奏言を軽王が女帝に伝えるのだった。政治的な権力は稀薄だが、女帝は大王としての権威を持っていた。形式的な権威かもしれないが、入鹿にはそれが鬱陶《うつとう》しくてたまらない。軽王も鎌足も、昨夜は翹岐王子を倭国に迎えた宴に出席していた。軽王が後ろに退き、入鹿のために席を空けた。女帝の弟だが軽王は入鹿に遠慮していた。
軽王が、何時の日か大王になりたい、という野心を抱いているのを入鹿は知っていた。大王になるには、何といっても蘇我本宗家の推薦が必要である。女帝の意志だけではどうにもならない。だから軽王は、大臣蝦夷の権力を継いでいる入鹿の機嫌を損うのを恐れていた。
軽王は入鹿に、翹岐王子の宴に、今夜も出席したいが、少し腹の具合がおかしいので遠慮させていただきたい、と弁解した。
「いや、吾も今夜は出席しません、百済王に追放された王子じゃ、余り盛大な宴を張る必要はありますまい……」
入鹿の言葉に軽王はほっとしたようだった。
「大夫、鎌子が亡き大王の喪葬について相談に来た、朕も早くしたい、と思う、喪葬が終らなければ、新しい宮に移れぬ」
と女帝が入鹿にいった。
舒明が亡くなったのは昨年の十月だった。遺体は宮の北に造られた|殯 宮《もがりのみや》に安置され、殯の儀式が行われたが、正式の喪葬はまだ行われていない。正式の喪葬が行われるのは遺体を墳墓に葬る時であった。
大抵一年か二年の間、殯宮に安置された後、墳墓に葬られる。
女帝が新しい宮に移りたがっているのを入鹿は知っていた。
「今年の冬で一年になります、だから今年の秋か冬あたりで如何《いかが》でしょうか、大王の宮については、吾は吾なりの考えが御座居ます」
「どう考えておるのじゃ?」
女帝は思わず身体を乗り出した。
そんな女帝を見て、入鹿は女人だな、と胸の中で呟いた。女帝と舒明との仲はむつまじかった。舒明は大人しく、色好みの大王ではない。皇后以外の妃も馬子の娘|法提郎媛《ほてのいらつめ》しか居なかった。
他に寵愛したのは吉備国から後宮に入った采女《うねめ》の蚊屋采女ぐらいである。法提郎媛は古人大兄皇子、蚊屋采女は蚊屋皇子を産んでいるが、歴代の大王に較べると女人関係は少ない方である。げんに女帝は中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》(葛城皇子)、間人皇女《はしひとのひめみこ》、 大海人皇子《おおしあまのおうじ》と三人の子供を産んでいる。女帝は舒明に愛されたのだ。
だが舒明が亡くなって半年たった今女帝の頭にあるのは新しい宮のことであった。
「吾は時代の流れを考えております、これまで倭国の眼は主に朝鮮三国に注がれておりました、だが吾の祖父嶋大臣は、時の流れを洞察し、対隋外交に力を注ぎました、時の流れに遅れないためです、嶋大臣の眼が間違っていなかったことは、大唐より帰国した大勢の学問僧達によって証明されています、今の倭国にとって、大事なのは朝鮮三国よりも大唐だ、と吾は考えています、だからこれからの政治は、唐を意識して行わねばならない、何時までも、東の蕃国《ばんこく》と唐に思われてはなりません、大王、軽王、お分りですか?」
入鹿の声は力強く大殿の中に響き渡るようであった。それは入鹿の性格だった。いったん意見を述べ始めると身体中のエネルギーが沸騰する。胸の中に一物を秘めて喋るようなことをしない。馬子や蝦夷との違いは、そういう点にも表れていた。入鹿が父蝦夷よりも群臣に恐れられているのは、入鹿の性格の激しさにあった。
軽王は緊張しながら大きく頷いた。
鎌足は俯きながら入鹿の言葉を聞いている。入鹿とは余り話し合う機会がない。だから鎌足は、入鹿が何を考えているのかを知ろう、と必死であった。鎌足は義理で聴いているのではない。全神経を耳に集中していたのだ。
女帝は入鹿の気迫に圧倒された。
「大夫《まえつきみ》、朕の宮のことは?」
と女帝は入鹿の燃えるような眼を見ると思わず視線を伏せた。
「宮も同じです、唐の使者が来た場合、倭国の大王の宮はこんなものか、と思われたくない、だから大王の新しい宮は、百済、高句麗、新羅の王達の宮をしのぐ大きな宮を造るべきだ、と吾は考えています、吾の意見は父、大臣にも伝えますが、大王からも大臣に申していただきたい、吾はそのことを伝えるため、今日参りました、亡き大王の喪葬の件については、大王家の問題ですし、軽王、|大 派 王《おおまたのおおきみ》達と御相談されて決めていただきたい」
入鹿は喋り終った途端、喉が渇いた。
「大夫は時の流れをよく学んでおる、大きな宮を造るのも、朕のためだけではないのです、倭国のためには必要なのじゃ、軽王、このことを群臣にも伝えて欲しい」
女帝はほっとしたように軽王に眼を向けた。
軽王も帰国した学問僧達、ことに高向玄理から、唐の国家制度を学び、これからの倭国の政治は、これまでよりも一層唐に眼を向けなければならない、と考えていただけに、入鹿の意見には賛成だった。
「大王、今日はこれで失礼します、大王が望まれていることは何でも吾におっしゃって下さい、少し喉が渇いた、長殿で喉を潤したいですが……」
皇極女帝は傍の鈴を取った。女帝の住居になっている内裏に居た女人が、鈴の音を聞き、渡り廊下を通って大殿に来た。
「大夫に酒肴の用意を」
と女帝は命じた。
長殿は内裏正面の門の傍にある。
控えの間だが、参朝した小徳以上の高官達は、長殿で休むことがあった。大臣や王族達が休む場合、大王から酒肴が出される。
軽王が入鹿に、鎌足も同席して良いか? と訊いた。
「とんでも御座居ません、吾はこれで退《さが》らせていただきます」
と鎌足は床に手を付き辞退した。
「いや構わぬ、学識のほまれ高い人物じゃ、吾も色々と意見を聴きたい」
と入鹿はいった。
入鹿と軽王は肩を並べて正門の傍の長殿に入った。
この長殿は、軽王が大王(孝徳)になり、難波に宮を造った時は、中庭の左右に二棟建てられたが、皇極女帝の時代には、正門の傍にしかなかった、と思われる。
絹衣をまとった女人達が酒肴を運んで来た。鎌足は上《あが》り框《がまち》の傍に坐り、入鹿や軽王とかなりの距離を置いていた。
喉が渇いていた入鹿は酒杯に注がれた酒を喉を鳴らしながら飲み干した。入鹿の飲み方は豪快だった。軽王も入鹿に釣られたように飲んだ。鎌足は自分のペースを守りゆっくり飲む。入鹿から見れば舐《な》めるような飲み方だった。
昨夜の宴について話がはずんだ。
大臣蝦夷が難波の館(森の宮近辺か?)に出向いたのは初めてだった。小仁以上の群臣の大部分が集った盛大な宴であった。
舒明四年(六三二)唐使|高表仁《こうひようじん》を迎えた時以来の宴である。ただあの時蝦夷は豊浦の屋形に居り、難波の館まで出向いたのは入鹿だった。
「父上の喜び方も少し度が過ぎておる、翹岐《ぎようき》王子は義慈王によって追放されたのじゃ、何もあんなに盛大な宴を張る必要はない、それも三日間じゃ」
「大臣は三日間、宴に出られるのかな?」
軽王も不思議そうにいった。
「いや、明日は戻られる筈じゃ、それはそうと軽王、唐の動きは不気味ですぞ、高句麗の使者は、明日にでも唐が攻めて来るように申しておる、その点、百済は賢い、毎年唐に朝貢しながら、新羅を攻めておる、今のうちに領土を拡げたい、というのであろう、ただ翹岐王子は、新羅は唐と手を結んでいるから、新羅を攻めるのは危険じゃ、と申していたが……」
「吾もそう思う、今の唐は国内も治まり、百万の大軍を集めることが出来るという、翹岐王子は、新羅を攻めるよりも、今は新羅と手を結び、国力を養う時だ、という意見だった、だが百済の新しい王は相変らず新羅を攻めておる……」
入鹿に釣られて酒を飲んだ軽王の顔はすでに赫くなっていた。鎌足は黙って二人の会話を聴いている。
こういう場合、自分を認めさせるために、意見を述べて当然だが、鎌足は唖《おし》のように黙していた。
酔った軽王は下座に居る鎌足の存在を忘れているようだった。入鹿は時々鎌足に視線を向けながら、影のような男だな、と思った。
舒明が亡くなった後、山背大兄皇子は、舒明の遺言通り、自分が大王になりたい、という意志を蝦夷に伝えた。その件で蝦夷は群臣を集めて協議した。鎌足は御食子《みけこ》の代理として豊浦の屋形に来た。末席に坐った鎌足は、蝦夷や入鹿から意見を求められるまで、口を開かなかった。もし意見を求められなかったら、最後まで黙って語らなかったであろう。
「鎌子、そちの意見はどうじゃ?」
ゆっくり酒杯を口に運んでいる鎌足に、入鹿は荒々しい声で訊いた。
鎌足を見ていると、何となく怒鳴りたくなる。
「はっ、吾は神祇の氏族の者です、政治に対して意見を述べるなど……」
鎌足は口籠《くちごも》ると頭を下げた。
「嘘を申せ、大王に斑鳩の皇子と会うように申したではないか?」
「はい、殯《もがり》の儀式について奏上した際、御下問がありましたので、不遜と思いながらつい申し上げてしまいました、大夫に叱責され、以後、気をつけております」
そういえばあの時入鹿は、大臣の許可を得ないで、そんなことを申したのか、と怒鳴った。
鎌足の返答に、入鹿は顎鬚を左手で握った。あの時入鹿は大勢の群臣を前にして怒鳴ったのだ。鎌足が意見を述べないのも無理はなかった。
吾の欠点は短気なところにある、と入鹿は苦笑した。と同時に、鎌足が入鹿の叱責を受け、反省していることを知り、少し機嫌が良くなった。
「吾に対しては構わないのじゃ、吾が怒ったのは、そちが直接、大王に意見を述べたからじゃ、さあ、遠慮なく述べて欲しい」
鎌足は困ったように軽王を見た。
鎌足の学識と才を買い、鎌足を可愛がっていた軽王は、入鹿に鎌足を認めさせる好機と思ったようであった。
「鎌子、大夫は腹の底を割って話す人物を好む、遠慮せずに申せ」
鎌足は姿勢を正すと、視線を入鹿に移した。入鹿の眼と合っても、鎌足は視線を逸らさなかった。
鎌足は何れ唐は高句麗を攻撃するに違いない、と話した。すでに唐は、高句麗征討で戦死した隋兵の遺骨を集め、高句麗の忠霊塔を破壊している。新しく帰国した学問僧の意見も、将来、唐が高句麗を攻撃する、という点では一致している。唐が新羅と親交を保っているのは朝鮮三国が団結されては困るからである。だから百済が新羅を攻撃するのは、唐の罠《わな》にはまるようなものだ。何故なら新羅は自国を守るために益々唐に縋《すが》らなければならなくなる、というのだった。
「つまり、新しい王の政策には反対だ、というのじゃな、いや、構わぬ、思っていることを遠慮なく話せ」
「いいえ、別に反対しているわけでは御座居ません、百済と新羅は宿敵、百済が攻めなければ、何れ新羅が攻めるでしょう、それよりも問題は、大唐が高句麗を滅ぼした後です、唐は高句麗を滅ぼしただけで満足するでしょうか、一匹の獲物を斃せば二匹斃したくなるもの、二匹を斃せば三匹目が欲しくなります、吾は百済も新羅も、そのことを知って欲しい、と思っております」
「では、大唐は新羅まで狙っておる、というのか?」
と軽王が口をはさんだ。
入鹿は軽王の表情を見て、軽王と鎌足が余り政治の話をしていないのを知った。
「僧曼《そうみん》師に聞えたら叱責されるかも分りませんが、吾はそのように考えております、勿論、唐が高句麗を滅ぼすことが出来たなら、という仮定の上でのことですが……」
「もしそうなれば大変じゃのう、倭国ものんびりしておられぬ」
入鹿は酒杯を傾けながら呟くようにいった。
「はい、そういう意味でも必要なのは、倭国内部の団結ではありますまいか、申し訳ありません、少し口がすべりました」
と鎌足は頭を下げた。
鎌足は入鹿のように雄弁ではなかった。寧ろ、とつとつと喋る方である。入鹿は鎌足の意見を聴き、群臣の子弟達が身分を忘れ、鎌足の学識、才能に魅せられる気持が納得出来た。
唐が朝鮮三国を滅ぼした後のことなど、入鹿も考えていなかったからである。
倭国の群臣の中で、将来、唐が新羅まで攻撃することを予想している者が居るだろうか。
案の定軽王が鎌足に、そんなに遠い先のことまで考える必要はない、といった。
「いや軽王、政治を執る以上、遠い将来のことまで考えておかねばならない、それに鎌子が述べた通り、大事なのは、倭国内部の団結じゃ、それが出来ておらぬ」
「そういえば、斑鳩宮《いかるがのみや》の皇子達は、昨夜の宴に、誰一人として顔を見せなかった、大夫、斑鳩宮の皇子は、まだ次の大王は自分だ、と思っているようじゃ」
軽王は、酒を喉に流し込んだ途端大声を出したので、激しくむせた。女人が驚いて軽王の背中を撫でた。鎌足も喉が渇いたのか酒杯を口に運んだ。
軽王の言葉に入鹿は眉を寄せた。王族の中で気骨があり、蘇我本宗家に反抗的なのは|大 派 王《おおまたのおおきみ》だけであった。山背大兄皇子は大派王を通じ舒明と親しくしていたのだ。
ことに舒明が没して以来、山背大兄皇子は、中央政権から疎外され、孤立している、といって良い。現在の山背大兄皇子の味方は、聖徳太子系の王と膳臣《かしわでのおみ》、舎人を斑鳩宮に出している三輪君《みわのきみ》氏、山背の秦《はた》氏だが、中央政権で要職についたり、勢力を持っている者は殆ど居ない。
ただ敏達の孫の大派王だけが、山背大兄皇子に好意を寄せていた。
大派王は、敏達の孫であり、年齢も六十を過ぎ王族の長老格だった。蘇我本宗家に権力の殆どを握られていた舒明は、鬱屈した思いを大派王に打ち明けていたのである。そういう意味で大派王は舒明の親友ともいえる。だから舒明時代、大派王は絶えず舒明の近辺にあった。
大派王が上宮王家《じようぐうおうけ》(斑鳩宮の王達)に好意を寄せていたのは、父が聖徳太子と共に、馬子の守屋征討戦に従い、仲が良かったせいでもある。それに聖徳太子の妃で、太子が寵愛した位奈部《いなべの》|橘 王《たちばなのひめ》 も敏達の孫にあたる。そういう血縁関係以外に、大派王は大王家を無視している蘇我本宗家に反感を抱いていた。大派王は大臣の権力を押えなければならない、と思っていたのだ。
だからこそ大派王は舒明時代、大臣蝦夷に参朝をうながしたのである。
皇極女帝としては、亡夫大王舒明が心を許していた王だけに、大派王を心の支えにしている部分があった。女帝は何といっても蘇我系ではない。だから身近に、大派王のように、比較的権威を持っている王を置いておきたかったのだ。
入鹿はそのことをよく知っていた。山背大兄皇子は、大派王を通じ、大王位に即《つ》くことを諦めていない旨、皇極女帝に伝えたのであろう。
入鹿は思わず、大派王奴! と叫びたくなった。だが入鹿は親しくしている軽王にも心を許していなかった。所詮軽王は王族であり、何時か、入鹿の敵になる人物だからだった。
ことに鎌足には隙を見せられない。
「鎌子、良い意見を聴かせて貰った、これからは神祇の長官の代理として、大臣《おおおみ》の屋形に顔を見せるが良い、大臣にも、そなたのことは良く申しておく」
「光栄で御座居ます」
と鎌足は頭を下げたのだった。
入鹿は蝦夷に、唐の脅威を告げ、今のうちに蘇我氏を団結させるべきだ、と説いた。
だが蝦夷は、入鹿の意見に余り耳を傾けない。そんな遠い先のことを考えるよりも、しなければならないことが眼前にある、というのだった。
蝦夷は翹岐王子こそ百済の王であり、義慈王は仮りの王である、という方針で百済にのぞまなければならない、と入鹿に説いた。つまり倭国としては、翹岐王子を百済王と認める旨義慈王に告げ、百済に圧力を掛ける。当然義慈王は自分を認めない倭国に不安を抱き、翹岐王子を擁する蘇我本宗家を、倭国の最高権力者と考え、服従を誓うに違いない、というのだった。
蝦夷はそのことを百済の義慈王だけではなく新羅にも伝えることを考えていた。百済に攻められている新羅としては当然、倭国の協力を得ようと使者を送り貢物を持って来る。蝦夷は入鹿に腹の中を打ち明けた。
「先ず、百済、新羅に倭国の王者が蘇我本宗家であることを、この際、徹底的に認識させる必要があるのじゃ、それには翹岐王子を利用するのが一番じゃ、百済、新羅が蘇我本宗家を倭国の王者と認めたなら、我等から離れようとしている石川麻呂なども、蘇我本宗家の威厳を再認識する、そちは一時、石川麻呂を攻める、などと申しておったが、そんなことをすれば、群臣が我等に反感を抱くばかりじゃ、ことに、かなりの|東 漢 直《やまとのあやのあたい》等が石川麻呂に好意を寄せておる、大郎、我等の直属の部下といえば東漢氏しかない、巨勢、大伴、紀など、我等に頭を下げておるが、本心は分らぬぞ、ことに阿倍氏は間違いなく大王家に心を寄せておる、何れ、吾はそちを大臣にする積りじゃ、だが、吾が視るところではそちはまだ若い、暫く吾のやり方を見ておれ」
久し振りに蝦夷は意気|軒昂《けんこう》としていた。まるで十歳も若返ったようである。入鹿は蝦夷の胸中を知り少しは安心した。翹岐王子を迎えて、新しい子供を得たように喜んでいる、と誤解していたからだった。
だが若い入鹿にとっては、蝦夷のやり方は矢張り、まどろっこしく思えた。
確かに百済、新羅は一時的に蘇我本宗家を再認識するかもしれない。だが百済、新羅が大臣蝦夷を王者と認めても、石川麻呂を始め、群臣が百済、新羅のように、大臣を倭国の王者と認めるとは限らない、群臣は蘇我氏が分裂しているのを知っているのだ。
入鹿は、暫くことの成行きを観察しよう、と思った。だからといって、入鹿は、その間、手をこまぬいて眺めているわけにはゆかなかった。入鹿には、どうしても早急になさねばならない重大な問題があった。それは、皇極女帝の宮を飛鳥に移すことだった。
馬子が巨大な飛鳥寺を甘橿丘の東方に建てて以来、蘇我氏の勢力と権威は西方の畝傍《うねび》山近辺から飛鳥に移っていた。塔を中心に三方に金堂を配する飛鳥寺は、当時の四天王寺形式の諸寺に較べ、その規模は群を抜いている。それこそ、馬子が、勢力下にある総ての渡来人の技術を集めて建立した巨大な蘇我氏の氏寺なのである。
推古時代のように、女帝の宮を飛鳥に移し、女帝を始め群臣に、蘇我本宗家の権力の威大さを認識させねばならない。
蘇我本宗家の権力の復興はそこから始まる、と入鹿は考えていたのだ。
遅れていた春がやって来た。
山野には、桜、つつじ、白いあしびの花が一斉に咲き乱れた。女人の唇に似た可憐なかたかごの花が羞《はじ》らうように春風に揺れ、飛鳥川の岸から黄色いやまぶきの花が川面を覗《のぞ》き、その傍に薄紫のすみれが寄り添うように花弁を開いている。
旧暦三月が過ぎ、四月に入るとあじさいの花が咲き始める。
その間蝦夷は、翹岐王子を阿曇連比羅夫《あずみのむらじひらぶ》の家に泊らせ、傍に新しい屋形を造らせた。そして蝦夷は、翹岐王子を連れ、高句麗の使者や百済の使者を石川の屋形に呼び宴を張った。その宴には当然有力氏族達が出席した。
また蝦夷は翹岐王子と、義慈王に追放された貴族達を連れ百済宮に行き、喪に服している皇極女帝に対面させた。普通なら喪に服している女帝は外国の使者とは会わない。
蝦夷が女帝に会わせたのは自分の権力を示すためと、翹岐王子を百済王として認めさせるためであった。大派王は大王家の慣例にないことだ、と反対したが蝦夷は問題にしなかった。
蝦夷は絶えず翹岐王子を石川の屋形に呼び、共に洒を酌み交わして談笑し、馬や刀などを与えた。
蝦夷は翹岐王子と兄弟のように付き合い、百済王は義慈王ではなく翹岐王子だ、と百済の使者や群臣に宣言するのだった。
その頃から蝦夷は、翹岐王子を、百済王にすることを真剣に考えるようになっていた。つまり蝦夷は、自分のいうままになる王を、百済王にしたくなったのだ。
その場合、百済王を動かすのは蘇我本宗家、ということになる。
後のことだが、斉明六年(六六〇)百済は唐・新羅の連合軍の攻撃に破れ、義慈王は唐軍に捕えられた。その後、百済復興をめざして鬼室福信《きしつふくしん》等が兵を挙げ、中大兄皇子は全面的に百済復興を応援し、大軍を派遣した。その際、六三一年舒明三年に倭国に来、それ以来倭国に居た百済の豊章《ほうしよう》王子を、百済王として、百済に送った。六六一年九月のことであった。そして中大兄皇子は「壬申の乱」で活躍した多臣品治《おおのおみほむじ》の父、蒋敷《こもしき》の妹を豊章王子に与え妻とした。中大兄皇子が、これほど百済復興に執念を燃やしたのは、百済を倭国の属国にしたかったからである。
だから、自分のいいなりになる豊章王子を、百済王にしたのだった。結局、百済救援は失敗し、百済は完全に滅び、豊章王子は行方不明になった。
時代も、時の情勢も違っていたが、翹岐王子を百済王にしようとした蝦夷の考え方は、豊章を百済王として、百済に送った中大兄皇子の野望と似ていた。
豊章王子が倭国に来たのは六三一年だから、王子は時の百済王、武王の子供であろう。
それは兎も角、蝦夷が、翹岐王子こそ、百済王である、と宣言していた頃、十五歳になっていた豊章王子も、畝傍の屋形に住んでいたのだ。
蝦夷は大臣であり大王ではない。ただ蝦夷が翹岐王子を百済王にすれば、当然蘇我本宗家の権力は一挙に強化される。
だが義慈王が、クーデターで手に入れた王位を易々《やすやす》と翹岐王子に渡す筈はなかった。だから蝦夷は義慈王に圧力を掛ける積りでいた。と同時に、義慈王が翹岐王子に王位を譲ったなら、百済と同盟を結び、外敵に当ることを約束しても良い、と考えていたのだ。翹岐王子には、義慈王に追放された有力貴族がかなりついており、彼等は百済内部にも味方を持っている。
蝦夷の野望は、そんなに非現実的なことではなかったかもしれない。それにしても、翹岐王子に対する蝦夷の厚遇は少し異常過ぎた。
翹岐王子と猟をしたり、酒宴を開き、群臣に百済王、と呼ばせたりした。
六月には河内の錦部郡百済郷(河内長野市太井)に、翹岐王子や亡命貴族のために大きな屋形を建ててやった。
そして蝦夷は、翹岐王子の屋形を百済の大井の宮と呼ばせ、百済の使者が来ると、その使者を翹岐王子の屋形に行かせた。
そんな時、翹岐王子は、百済王になったような態度で、百済の使者に会った。
『日本書紀』は次のように述べている。
「秋|七月《ふみづき》の|甲 寅 朔 壬 戌《きのえとらついたちみづのえいぬのひ》に、|客 星《まらうとほし》月に入れり。|乙 亥《きのとのゐのひ》に、百済の使人大佐平智積《つかひだいさへいちしやく》等に朝《みかど》に饗《あ》へたまふ。乃ち健児《ちからひと》に|命 《ことおほ》せて、翹岐が前に相撲《すまひと》らしむ。智積等、|宴 畢《とよのあかりをは》りて退《まかりい》でて、翹岐が門《かど》を拝《をがみ》す」
大佐平といえば百済の官位では一位で、当時の倭国の大徳にあたる。その高官が翹岐の屋形を拝んだ、というのである。明らかに蝦夷の命令でそうしたのだろうが、智積は翹岐王子こそ百済王だ、と蝦夷にいわれ、仕方なく拝んだのだろう。
智積も、倭国で翹岐王子が厚遇されていることは聞いていたが、まさか大臣蝦夷が、ここまで翹岐王子に肩入れしているとは思っていなかった。多分驚愕し、このままでは大変なことになる、と思ったに違いない。
翹岐王子に対する蝦夷の態度は確かに異常ではあったが、その作戦は或る程度の効果を生んだ。これは大佐平智積の報告を聴いて驚いた義慈王が、自分が王であることを認めてくれたなら、百済王は大臣蝦夷を機会を見て倭国王として認める、という交換条件を出したからであった。『日本書紀』はこのことについては一切触れていない。
それまで入鹿は蝦夷と異り、義慈王の行動力に魅せられ、寧《むし》ろ翹岐王子に反感を抱いていた。だから、蝦夷にも、追放された王子は、実力がないから追放されたので、翹岐王子を百済王にするなど夢想に過ぎない、と忠告した。
蝦夷は珍しく入鹿の忠告など全く諾《き》かなかった。蝦夷は蘇我本宗家の権力を挽回するため、彼なりの方法で走り出していた。入鹿は間もなく父の真意を知った。漸く父も倭国の独裁者になろう、と決意したのだ。その手段は入鹿が考えている手段とは異る。が入鹿には父の決意が嬉しかった。手段は異るが、目的は一緒なのだ。
入鹿は忠告をやめ、傍観者になった。
義慈王がどういって来るか、待つことにしたのだった。そして川掘に命じ、群臣の反応を窺わせた。群臣の中でも有力群臣、巨勢、大伴、紀氏、それに王族の軽王などは翹岐王子に好意を寄せていた。
有力群臣は、クーデターで、王権をかち取った義慈王に対して、批判の眼を向けていたのだ。彼等はまた大臣蝦夷の腹の中を知らなかった。
入鹿は川掘の報告を聴き、馬子の子供だけあって、父もなかなかやるな、と何となく父を見直したほどである。
ただ蝦夷が翹岐王子にだけ拘《かかわ》っておれない事態が倭国に生じた。
旧暦六月から七月にかけ、雨が全く降らなかったのだ。雨が降ったのは六月十六日の小雨だけで、後は一滴も降らない。
真夏の陽光が容赦なく照りつけ、草花を枯らした。池の水は日照り続きで少なくなり、湯のようになった。魚は死に浮き上って腐臭を放ち始めた。飛鳥川、曾我川も川底を見せ、魚が死に、農民達は各地で水争いを始めた。雨が降らないのは大和だけではなかった。山背、河内、紀などの畿内諸国全域である。怪し気な呪術者達は、農民達に頼まれ、小枝を折って、麻や楮《こうぞ》から取った白い繊維を掛け、雨が降るように祈った。こういう呪術者を巫覡《かんなぎ》という。彼等は雨乞いの代償として蓄えていた僅かな穀物や家畜を巫覡達に渡した。
何時もは水量の多い冬野川さえ川床が露出し始め、農民達は桶《おけ》をかついでは冬野川に水を汲みに来る。一家全員が水を汲みに来るので、冬野川は祭の時のように混雑した。
入鹿は兵士達に命じて、冬野川の上流を守らせ、農民達を入れなかった。
農民達の中には、深夜、監視の眼を盗み、水を汲もうとして、兵士達に斬られた者も出た。入鹿は篝火《かがりび》を焚《た》かせて川を守らせた。
それは入鹿だけではない。有力豪族達は皆本貫地の川の水を確保するために兵士を出動させたのだ。当時、最も恐ろしい自然現象は旱魃《かんばつ》と洪水だった。
ただ洪水の場合は、地域によって被害程度が異るが、旱魃だけは何処も同じである。
それだけに被害が大きい。
七月の中旬になると、事態は一層深刻になり、各地で田畑の作物が枯れ始めた。もしこれ以上日照りが続くと、今年の収穫に大打撃を与えることは間違いなかった。
大臣蝦夷は、連日、天文、遁甲《とんこう》の術にたけている渡来系の学問僧や、唐から帰国した学問僧を呼び、何時頃雨が降るか、と訊いた。
だが、天文に優れている学問僧達も、怪星が現れたのは、天上界に異変があった証拠で、果して何時雨が降るか分らない、という。群臣もそれぞれ、村に居る呪術者を探し出し、祈祷《きとう》させたが全く効果がなかった。
水神社を始め、村の社の前には殺され、神に捧げられた牛馬が積み重ねられ腐臭を放っていた。
七月二十七日、蝦夷は飛鳥寺に百人の僧を集め大雲輪請雨経を読ませ、自ら香炉《こうろ》を持って香を薫《た》き、雨乞いをした。入鹿も土の上に坐り、雨が降るように、と熱心に仏に祈った。この日は蘇我倉山田石川麻呂を始め、蘇我氏の全員が久し振りに飛鳥寺に集った。
読経は三日二晩繰り返し繰り返し続けられ、民、百姓達も田畑にひれ伏し、仏や神に雨乞いをした。その効果があったのか、翌二十八日の夕、久し振りに雲が空を覆い小雨が降った。
だが小雨は二刻《ふたとき》ばかりでやみ、深夜になると雨雲は去り、星が煌《きらめ》き始めた。
こんな時の星の煌きほど恨めしいものはない。二十九日の早朝、蝦夷は疲れ果て豊浦《とゆら》の屋形に戻り、昼過ぎまで眠りこけた。入鹿は眼を覚した蝦夷に、早馬を飛ばし西国の天候を調査させてはどうか、と提言した。小雨だったが雨雲が出て降った以上、近々本格的な雨が降りそうな気がしたからだった。それに雨は西国や四国からやって来る。
「父上、ここで気落ちしてはなりませぬぞ、吾も天文の知識を持ち合せています、何だか大雨が降りそうな予感がする、西国が雨ならしめたものです、もう一度、僧を集めて雨乞いを致しましょう、今度は西国の雨がやって来るまで、父上も吾も飛鳥寺を離れず、祈祷を続けるのです」
三日二晩の雨乞いに、全精力を使い果した蝦夷は、窪《くぼ》んだ眼を入鹿に向けた。
「西国の雨か、それを待てば良かったのう、何故、先にそれをいわなかった?」
「吾もうかつでした、今からでも遅くはありますまい」
蝦夷が僧を集め、飛鳥寺で雨乞いの祈祷を始めるまで、入鹿は旱魃の状態を調べるため、河内、近江まで行っていたのだ。
蝦夷が雨乞いをするという知らせを受け、大和に戻った時、すでに、大和、河内、山背などから大勢の僧が集っていた。
最早、入鹿が口出し出来る状態ではなかったのだ。それに入鹿も仏の御利益を心の何処かで信じていた。
「入鹿、そちは大臣の代理として、西国に使者を出せ、阿曇連比羅夫《あずみのむらじひらぶ》が適任じゃ」
疲れ切っていた蝦夷は再び寝所に戻った。
入鹿は東漢氏の隊長に十数名の兵士をつけ、比羅夫の屋形に走らせた。
比羅夫は屋形に居なかった。大和川の水量が少なくなり、船の往来が不可能になっていたので、比羅夫は戦船や飾船などを河内湖に移す作業を監視していた。
比羅夫が豊浦の屋形にやって来たのは深夜である。
比羅夫の本貫地は河内だが、阿曇達の遠祖は、筑紫や淡路島を本貫地とする海人集団だった。
代々水軍を擁して大和朝廷に仕え、現在比羅夫は倭国の水軍の長である。
入鹿は蝦夷の代理として、比羅夫に船と早馬を出し、吉備国と四国の天候の模様を調べて報告するように命じた。
「分りました、直ぐ河内の船を出し、早馬を走らせましょう、淡路の山に登れば、四国の雲の状態が分ります、ただ、大和から吉備国の境まで、八十里以上御座居ます、途中で馬を換え、寝ずに走ったとしても一日半は掛りましょう、早馬が戻るのは、早くて三日ないし四日、船の場合は、六、七日掛ります」
「それは仕方がない、だが途中で雨雲を見付けたなら直ぐ引き返して知らせて欲しい、頼むぞ」
翹岐王子を倭国に連れて来た功により、阿曇連比羅夫は、冠位十二階の最高位である大徳に栄進していた。
比羅夫は武人であり、政治には余り関心がなかった。それだけに大徳の位を得たことを武人として光栄に思い、蝦夷に好意を寄せていた。
比羅夫が従者を連れ、馬を飛ばして走り去ったのを見て、入鹿は気がゆるみ、横になると泥のように眠った。
入鹿は三十日の昼前まで眠ったのである。
その頃、神祇の長官|中臣 御食子《なかとみのみけこ》は、軽王、大派王と共に皇極女帝に会っていたのだ。入鹿はそのことを知らなかった。
御食子が重い腰を上げたのは、数日も執拗《しつよう》に鎌足に説得されたからである。何といっても、大王《おおきみ》家は神祇の最高司祭者であった。政治は大臣にまかせているが、こういう旱魃に際しては、大王である女帝が、倭国本来の神である天神《あまつかみ》、地神《くにつかみ》に雨乞いをすべきだ、と説いたのだった。御食子は、それを知れば蝦夷、入鹿が怒らないか、と不安に思ったが、鎌足は、これは大王家の神祇の問題であり、大臣が容喙《ようかい》すべきことではない、と何時になく執拗に説得したのだった。
鎌足は、蝦夷が飛鳥寺に大勢の僧を集め、自ら雨乞いをすることを知った時、直ぐ僧旻《そうみん》の屋形を訪れ、雨は降るだろうか、と訊いた。
僧旻は、西国、四国、南紀の海の雲が分らない以上、降るとも、降らぬともいえぬ、と答えた。自分の講堂に出入りする群臣の子弟の中で、僧旻が最も可愛がっていたのは、いうまでもなく鎌足だった。
僧旻は鎌足が政治に関心を持っているのを知っていたし、鎌足のような人物が政治の中枢部に居なければ、これからの倭国の発展はない、と常々考えていたのだ。
僧旻は鎌足の質問の裏にあるものを直ぐ感じ取った。
入鹿は鎌足と同じく僧旻から教えを受けていた。それに僧旻は時々、思い出したように入鹿を褒める。だから、鎌足は僧旻に対して、蘇我本宗家に対する反感を洩らしたことがない。これまで鎌足は僧旻と何度も膝を交えて話し合ったが、蘇我本宗家の権力について触れたことがなかった。二人にとって蘇我本宗家を話題にすることはタブーであった。
ただ僧旻は唐の律令制度を講義しながら、将来は、倭国も、唐のような国家制度にしなければならない、と考えていた。
その場合、蘇我本宗家に政治権力を持たせておくわけにはゆかない。
つまり唐の皇帝は天子であると同時に、皇帝として、政治権力も握っている。だから律令制度が旨く運営されているのである。
倭国のように天子である大王と、政治権力を握っている大臣の権力が分れていたなら、なかなか法式の備わった国にすることは出来ない。
律令制度で最も大切なのは、権力の一本化である。倭国の天子は、政治権力こそ持っていないが、大王家の格は大臣よりも上であった。もし大王家が政治権力を完全に掌握したなら、唐のような新しい国家をつくることが出来る。僧旻の悲願はそこにあった。だが、何度も述べているように、僧旻は、唐の国家制度について講義はするが、倭国の大王が政治権力を持つべきだ、というような意見を述べたことはなかった。そんな講義をすれば、自分の生命が危いのを僧旻は心得ていた。
僧旻が自分の講堂で、入鹿を褒めたのも自分の真意を入鹿に悟られたくなかったからだ。入鹿の屋形に通い講義をした時も、僧旻は、中央集権化の必要性を述べ、東国、西国の果ての国造達の権力を、蘇我本宗家がもっと強力に把握すべきだとさえ説いて来たのである。
つまり僧旻は、新しい国家がどうあるべきかを、講堂に出入りする群臣の子弟の判断にまかせるような講義方法を取っていたのだ。僧旻は今来《いまき》の漢人《あやひと》だが、古くから倭国に居る東漢氏のように、蘇我氏を自分の主君だとは考えていなかった。
唐から舒明十二年(六四〇)に戻って来た南淵請安《みなぶちしようあん》、高向玄理《たかむくげんり》達も新来の漢人であり、古い漢人達と、蘇我氏に対する考え方は全く違っていたのだ。
深夜だが、民、百姓の水争いの声が、あちこちから聞えて来る。
民、百姓も生きるためには権力者に牙を剥く。有力豪族達が、本貫地に戻ったりしているのも、旱魃による民、百姓の反抗を押えるためだった。
僧旻は、そろそろ自分の真意を鎌足に伝える時機がやって来たのを感じた。お互い、相手に対して疑心暗鬼状態でおれば、将来、かえって禍根を残すことになり兼ねない。
それに二人の真意はすでに通じ合っている筈だった。
「鎌子殿は、飛鳥寺の雨乞いに出席されるのかな?」
僧旻は、慎重に言葉を選んでいった。
「僧旻師、吾は神祇の氏族の者です、残念ながら僧侶の読経に加わることは出来ません、だからといって、この状態を見逃すわけには……」
尊敬している師だけに、鎌足の言葉は丁重であった。僧旻は腕を組んで鎌足を見詰めた。
「鎌子殿、今夜、愚僧の屋形に来られたのは、何か、考えられることがあっての上じゃ、と愚僧は思うが……」
僧旻としては、これ以上口を開くわけにはゆかなかった。これだけで充分な筈だった。ここまでいって鎌足が腹の中を割らなかったなら、惜しい人物だが、縁無き衆生《しゆじよう》の一人と思わねばならない。
鎌足は、僧旻が重大な決意を固めたのを感じた。
「はっ、神祇の氏族の者として、もし、飛鳥寺での雨乞いが成功しなければ、天神、地神に雨乞いをしなければならない、と思っています、その際は、天子であり最高司祭者であられる大王に祈っていただかなくてはなりません、そのことで御相談に参ったのです」
「神祇の長官は御承諾されたのかな?」
僧旻は眼を閉じた。
大王家が蘇我本宗家と雨乞いで競うことになる。重大な問題だった。
「大王に祈っていただく以上、失敗は許されません、何とか雨が降る日を知る方法はないでしょうか、それさえ分れば神祇の長官を説得する積りでおります」
僧旻は眼を閉じたまま首を横に振った。
「半日前なら、葛城山の頂上に登り、西国の雲を眺めておれば分らぬこともない、だが、それでは遅過ぎる、どうしても一日前には、大王に奏上せねばなりますまい、それには矢張り西国、四国、紀南、いや、せめて西国の雲の状態だけでも分れば良いのじゃが、鎌子殿、早馬を使うことは出来ぬかな」
僧旻は薄眼を開け鎌足を見た。
鎌足は吐息をついた。自分に馬の達者な部下が居ないのが残念だった。それにもし居たとしても、馬を乗り換えねばならない。
そんなことをすれば、当然、大臣蝦夷の耳に入る危険性があった。
「もし早馬を使えても、そのことが今、大臣の耳に入れば、大変なことになります、大臣は百人の僧を集め、自ら雨乞いをなさるとのことです」
僧旻はかっと眼を見開くと膝を叩いた。
「この際、|大 派 王《おおまたのおおきみ》に御相談されるのが一番じゃ、大派王は、大王家の権威が薄れているのを憂えておられる、鎌子殿、夜が明けぬうちに大派王の屋形に参られては如何かな、愚僧も参る」
「僧旻師……」
鎌足と僧旻の眼が合った。二人は暫く、お互いの眼を見詰め合ったまま身動き一つしなかった。この瞬間から、鎌足と僧旻は結び合ったのだった。
僧旻と鎌足は、畝傍山の近くにある大派王の屋形を訪れた。何事かと思いながら二人を屋形に上げた大派王は、二人の来意を知ると眼を輝かせた。大王家の権威が薄れていることを日頃から嘆いていた大派王は、皇極女帝が自ら雨乞いすることに賛成した。
問題は、蘇我本宗家に知られずに、西国の天候の模様を探り出すことであった。
「頼むとすれば、阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》以外にない、倉梯麻呂なら秘密を守ってくれる、他の者は信頼出来ない、吾から倉梯麻呂に頼んでみよう、勿論この件は軽王《かるのきみ》にも話さないよう、約束させる」
と大派王は身体を乗り出した。
阿倍倉梯麻呂の本貫地は磐余《いわれ》だが、屋形は百済宮の近くにあり、難波の四天王寺近辺にも別荘を持っていた。軍事氏族なので、配下に水軍を擁している。ことに播磨国の海人集団の長である播磨直とは、代々親交があった。
僧旻と鎌足は、阿倍倉梯麻呂との交渉は大派王に一任することにして、それぞれ自宅に戻ったのである。
大派王の意を受けた阿倍倉梯麻呂が、早馬の使者を播磨に飛ばしたのは七月二十七日、蝦夷が飛鳥寺で雨乞いを始めた日であった。そして播磨直の屋形に滞在していた使者が、瀬戸内海の遥か西方に雨雲らしい雲が現れている、という報告を受けたのは七月三十日の夕刻だった。播磨直の部下達は、釣りをしていた海人達からも、雨が近い、という知らせを得た。阿倍倉梯麻呂の部下は、空も山影も茜色《あかねいろ》に燃えているような夕焼を眺めながら、大和に向けて馬を走らせたのである。
その頃、阿曇連比羅夫の部下達は、海に船を出し、紀、播磨に向って馬を走らせていたのだ。
倉梯麻呂から、雨が近い、という報告を得た大派王は、早速、僧旻、神祇の長官中臣御食子、鎌足を呼んだ。皇極女帝に雨乞いを頼む以上、女帝の弟軽王を除外するわけにはゆかない。ここで一番問題になったのは、軽王が入鹿と仲の良いことだった。
軽王が入鹿の機嫌を損じることを恐れて、雨乞い奏上に反対すれば、これまでの苦心は水の泡となる。
「吾が軽王を説得する、これは神祇の最高司祭者である大王家の問題じゃ、大王家は天の子である、大臣蝦夷が雨乞いをしたのに、大王がしなければ、民、百姓は何と思うか、大王家の権威は益々薄れる、大王家の存在そのものが危くなる、軽王も大王の弟じゃ、吾が意を尽して説いたなら反対はしない、神祇の長官もそのことを力説して貰いたい」
硬骨漢の大派王は、火を吐くような口調でいった。
「阿倍倉梯麻呂殿が、西国の模様を調べたことは、御内密に願います、もしそのことを軽王が知られたなら、大臣《おおきみ》や大夫《まえつきみ》に遠慮されるでしょう、愚僧が考えますには、大王の雨乞いは、飽く迄、大王家の問題で、形式的なものだ、ということを軽王に説いていただきたいのです、今、大王家の権威を余り力説されたら、後々、煩わしい問題が起り兼ねません」
僧旻は慎重な人物だった。
僧旻が恐れたのは、直情径行な大派王が、大王家の権威を強調する余り、蝦夷、入鹿の反感を買うことであった。
何故なら入鹿は、女帝の雨乞いを知ったなら、どういう経過で、女帝が雨乞いをするようになったか、軽王から訊き出そうとするに違いないからだ。入鹿と仲の良い軽王は当然、大派王と神祇の長官が頼みに来た、と喋ることが予想される。
「吾もそう思います、ことにこの件に、僧旻師や吾が加わっていたことを知れば、大夫は激怒し、僧旻師の講堂を焼き兼ねません、大夫は気性の荒々しい方です……」
末席に坐っていた鎌足は板床に額をこすりつけた。
「分った、それにしても軽王は、何故、蘇我本宗家とあんなに親しくしておるのかな……」
大派王は無念そうに呟いた。
この時鎌足は、前々から抱いていた疑惑がふと頭を持ち上げたのを感じた。その疑惑というのは、軽王が次の大王位を狙っていることだった。蝦夷、入鹿とも、次の大王は古人大兄皇子、と考えているに違いない。
だが古人大兄皇子と較べると、軽王は学識が豊かで、政治に対する関心も強い。
南淵請安と共に倭国に戻って来た高向玄理を自分の屋形に招いて、唐の国家制度を勉強したりしている。
そういう軽王が、次期大王位を狙っているとしてもおかしくない。だが、大王となるためには、蘇我本宗家の強力な推薦がなければ絶対不可能である。
軽王が入鹿に接近しているのは、大王位に対する野望のせいではないか。
ただ、現在の状態では、軽王が大王になっても、政治権力は入鹿が握って放さないであろう。とすると軽王は、形骸だけの大王ということになる。
賢明な軽王に、それが分らない筈はない。鎌足は軽王の真意を知りたい、と思った。
その夜、大派王と御食子の二人だけが、軽王の屋形を訪れ、女帝に対して雨乞いを奏上したいが、共に宮に行って欲しい、と頼んだ。
案の定軽王は渋った。大臣蝦夷が雨乞いに失敗した直後である。蘇我本宗家は、女帝の雨乞いを、自分達に対する挑戦と考えるのではないだろうか、と危惧の念を洩らした。
「これは大王家の神祇の問題で御座居ますぞ、民、百姓は、仏教に縋るよりも、天神、地神に縋りたい、と騒いでおります、天神、地神に祈る方は、大王しか御座居ませぬ、大臣には、その資格はない……」
大派王が激して来たので、御食子は慌てて、形式的な雨乞いです、といった。
「この状態では当分、雨は降りません、だからといって放っておけば、大派王がおっしゃるように、民、百姓の恨みを買います、それに、神祇の長官として、大王に雨乞いを奏上しなければ、職務怠慢になります、神祇の長官の職を辞さなければなりません……」
御食子は、泣きそうな顔で、何度も頭を下げた。
「神祇の長官の立場は分らないでもない、確かに職務怠慢ということになる、そうだな、雨乞いをするとなると、早い方が良い、今なら、雨は降るまい……」
軽王が恐れたのは、女帝の雨乞いにより、雨が降ることであった。もし、そんなことになれば、大臣蝦夷の面子《メンツ》は丸潰れである。
入鹿が激怒するに決っている。
軽王は立って、窓から空を眺めた。雲一つない夜で、満天の星が不気味なほど煌いていた。軽王はその星を眺めながら考えた。もし自分が同調しなくても、御食子は神祇の長官として、何れ女帝に雨乞いを奏上するだろう。それは神祇の長官の職務である。
女帝は大王家の慣習を知っている。当然、御食子の要請も承諾する。それなら、雨が降る可能性が少ない今日明日中の方が良い、と軽王は決心したのだった。
八月一日朝、大派王は、軽王、御食子と共に参朝し、女帝に雨乞いの件を奏上した。女帝はすでに、蝦夷が雨乞いで失敗したのを知っていた。だが、女帝はそんなことは気にしていなかった。というより女帝は、蝦夷が百人の僧を集め、飛鳥寺で雨乞いを始めたのを知った時、自分もやってみたい、と思っていたのだ。中臣御食子が、何故、女帝に雨乞いを奏上しないのか、女帝は内心不服にさえ感じていたのだ。
これが男の大王なら、蘇我本宗家の反撥を意識し、雨乞いの日など、慎重に考えるだろう。だが女帝は単純に、こういう場でこそ、自分の力を発揮してみたい、と気持を弾ませたのだった。
「神祇の長官、朕はそなたの奏上を待っていたのじゃ、民、百姓は水争いで殺し合っているというではないか、朕は今日の昼からでも雨乞いを始めたい、直ぐ準備を始めるように」
と女帝は御食子に命令した。
「えっ、今日の昼からで御座居ますか……」
準備に今日一日は掛るので、明日の早朝からでも雨乞いをして貰おうと思っていた御食子は慌てた。西国に雨雲がある、といっても、今日はまだ降りそうになかった。
「いや、大王のいわれるように今日の昼からでも良い、早い方が良いのじゃ、準備など要《い》らぬ、大王が雨乞いをなさる場所さえ決めれば、それで充分じゃ、民、百姓の苦難を思えば、一刻も早い方が良い」
軽王は慌てて御食子に|※[#「目」+「旬」]《めくばせ》した。
大掛りな準備をすればするほど、蝦夷、入鹿の反撥を買う。それに、明日に延して、雨でも降られたら困る。今日の昼なら、先ず雨は降らない。軽王は西国に雨雲が現れていることを知らなかった。
こうして女帝は昼過ぎ、参朝していた群臣を連れ、南淵の河上(坂田寺跡近辺か?)に行って、雨乞いをしたのだった。
軽王の意向を受けた御食子は女帝が坐る場所に板を置いただけであった。
女帝が雨乞いに南淵に向ったことは、蘇我本宗家に心を寄せる群臣の注進で、豊浦《とゆら》の屋形に居た蝦夷の耳に入った。
残暑が厳しく、うだるような暑さだった。
群臣の注進を受けた蝦夷は、入鹿の許に使者を走らせた。入鹿も、暑さには勝てず、嶋の屋形でふんどし一枚になって横たわり、女人達に木の葉で作った団扇《うちわ》であおがせていた。
雀が蝦夷の使者の報告を入鹿に伝えた。
「ほう、大王が雨乞いをなさる、というのか、如何にも、女人らしい、勝気な方じゃ」
入鹿は横になったまま苦笑した。
入鹿は皇極女帝の気持が、何となく分るような気がした。新しく大王になって以来、女帝は何かしたくて、たまらないのである。まだ亡き大王の正式の送葬が終っていないので、新しい宮も造れない。宮滝の離宮に行き、憩うことも出来ない。蝦夷が失敗したのを知り、挑戦してみる気になったのも無理はない、と入鹿は思ったのだ。
「父上は何を慌てておられるのじゃ、雨など降る筈はない、まだ早馬の使者からの報告はないのだ、大王がなさることだ、放っておけば良いのじゃ」
入鹿はめんどう臭そうにいった。
それでも入鹿は雀と東漢氏の兵を率い、豊浦の屋形に行った。
蝦夷は入鹿が来るのを待ち兼ねていた。
蝦夷は百人の僧を集め、三日二晩の雨乞いをして、失敗していた。降ったのは小雨だけである。大臣の権威が落ちたのではないか、と危惧していた。
「雨など降る筈はありません、父上、ごらんなさい、相変らず今日も、灼熱《しやくねつ》の太陽が草木を枯らしています」
入鹿は落ち着いていった。
蝦夷は、まだ雨乞いの疲労が取れていないようだった。
「そのことを心配しているのではない、吾が雨乞いに失敗した直後に、当てつけがましく大王が雨乞いをするとは何事か、大王は我等に挑戦しておる、そうは思わぬか?」
「これが男の大王なら、吾も黙ってはいません、だが、女人のすること、そんなに気になさる必要も御座居ますまい」
「入鹿、そちは大王には甘いようじゃな、女人であろうと大王じゃ、問題は大王が自分の意志で雨乞いをなさる気になったのか、ということじゃ、大王をたきつけて、我等の面子を潰そうと計った者が居ないとは限らない、もし、そういう者が居れば、許してはおけぬ」
蝦夷は何時になく執拗だった。
「そんな者が居るとは思いませぬが、吾が調べてみましょう、大王は神祇の最高司祭者です、神祇の長官の御食子あたりが、奏上したのかもしれません、ただ、こういうことは、大王家の問題でしょう、大王家には天の子という意識がありますし、御食子としても神祇の長官の立場上、黙っておれなくなったのだ、と吾は推察します、大臣、吾は大王の性格をよく知っています、|息長足日 広額 大王《おきながたらしひひろぬかのおおきみ》(舒明)が亡くなって以来、毎日退屈しておられる、我等に対する挑戦というよりも、宮を出る口実が出来たので、山遊びでもなさる積りで、出掛けられたのでしょう、余り気になさらない方が良い」
何時か入鹿は女帝のために弁解していた。
畝傍山に行った時の女帝は如何にも女人らしかった。入鹿は、女帝を蘇我本宗家の前に立ち塞《ふさ》がる大王とは考えていなかった。
もし入鹿に人間としての弱点があったとしたなら、女人に対する甘さかもしれない。
後年、甘橿丘に城のような屋形を建て、眼下に女帝の板蓋宮《いたぶきのみや》を眺めながら、入鹿は宮を攻撃することもなく、手をこまぬいていた。もし時の大王が女帝ではなく男王であったなら、入鹿は東漢氏の兵を率い、板蓋宮を攻撃し、焼き払っていただろう。
その時殺されるのは入鹿ではなく、中大兄皇子や鎌足であった筈である。
そういう意味では、皇極が女帝であったため、乙巳《きのとみ》のクーデターは成功したともいえるかもしれない。
三
西から風と共に、大和の方にやって来た雨雲の速さは、鎌足達が予想した以上に速かった。皇極女帝が板の上に坐り、天神や四方の地神に雨乞いを始めて二刻《ふたとき》もたたないうちに、葛城、二上、生駒連山の上空は、不気味なほど暗くなった。
雨雲の先陣は強い風であった。樟《くす》の枝に結ばれた白い絹布が風になびき、山野の樹々の枝は揺れ、水を待ち焦れていた樹の葉達は歓喜の叫び声をあげた。
枯れかけていた草叢《くさむら》は、女帝の徳を称《たた》えるように慴伏《しようふく》し、飛び立った鳥達も、今まさに降ろうとしている雨を迎えて大空で舞うのだった。
女帝に従って来たのは、中大兄《なかのおおえ》皇子、軽王《かるのきみ》、|大 派 王《おおまたのおおきみ》、息長《おきなが》山田公、|中臣連 《なかとみのむらじ》御食子《みけこ》等と、宮廷警護の兵士、大勢の女達である。
中大兄皇子は雨雲が来ることを知らされていない。吃驚《びつくり》したように空を眺めたが、まるで神懸りにあったように手を合せ、雨を念じている女帝を見ると、思わず手を合せた。
雨雲が来るのを予測していた大派王や中臣連御食子も、こんなに早く雨がやって来るとは予想していなかった。もし女帝が二刻《ふたとき》遅れて宮を出ていたなら、危険を覚悟して西国に馬を走らせたことも無駄になっていたところだった。大派王は喜び、思わず軽王に礼を述べようとし、はっとして口を閉じた。
軽王は痴呆《ちほう》のように口を開け、自分の眼が信じられないのか、瞼《まぶた》を閉じていた。
軽王は、大派王達が、西国の雨雲を探るために馬を走らせたことを知らない。雨乞いは早いうちに、と女帝をせきたてたのは、今なら雨が降らない、と信じ切っていたからだった。入鹿は当然、軽王に不信感を抱くだろう。軽王は次の大王位を夢見て入鹿に近付いていたのだ。入鹿に見放されたなら大王になれる可能性は少ない。軽王は女帝と共に雨乞いの場に来たことを悔いていた。そして西の空の雨雲は夢であって欲しい、と眼を閉じていたのであった。
大派王は、軽王の表情を見て、女帝をせきたてた軽王の真意を読み取った。
女帝の弟だが、油断のならない人物だ、と大派王は胸の中で呟《つぶや》いたのである。
各人各様が、それぞれの感慨に浸っている間に雨が降り始めた。何時の間にか厚い雨雲は東の空まで覆い尽くしていたのである。
飛鳥の空は夕暮のように薄暗く、雷が鳴り、電光が閃《ひらめ》いた。
大派王が、宮に戻るよう女帝をうながしたが、女帝は動かなかった。夫が亡くなって以来、女帝は初めてエクスタシーを味わっていたのである。
まるで滝に打たれたような女帝を乗せた輿《こし》が百済宮に戻ったのは、夜になってからであった。女帝は輿の上でも神懸り状態になっていた。この時の女帝には、蘇我氏も、大派王、軽王も関係がなかった。
雨は翌日になると大雨になり、乾き切っていた田畑を潤し、川は水を溢れさせたのである。
旧暦八月一日だから、台風の来襲と考えて良いだろう。なお『日本書紀』は、天皇が、「跪《ひざまづ》きて四方を拝《をが》む」と記述している。雨乞いのための中国式行事というのが通説だが、書紀|編纂《へんさん》当時の知識で記述されたもので、女帝の雨乞いは大王家に古来から伝わる天神地祇の行事の一つとして考えてもおかしくない。
雨は四日三晩降り続いた。民、百姓に取っては、救いの台風だった。
大臣蝦夷《おおおみのえみし》の権威は確かに失墜した。民、百姓達だけではなく、群臣の中にも、女帝を見直す者が出て来た。
阿部倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》は口が固く、早馬を西国に走らせたことを誰にも洩《も》らさなかったので、真相を知る者は倉梯麻呂以外、大派王、僧旻《そうみん》、中臣連御食子、鎌足だけである。
蝦夷は、女帝の雨乞いは、女帝の意志ではない、と入鹿《いるか》にいった。女帝をそそのかした者が居るに違いない、というのだ。
入鹿は蝦夷の意見には反対だった。夫を喪《うしな》って以来、女帝が苛立《いらだ》っていることを、入鹿はよく知っていた。入鹿は女帝の行為を、蘇我本宗家に対する挑戦とは考えなかった。
女帝は鬱屈《うつくつ》した思いを雨乞いによって発散させたに過ぎない、と思っていた。雨が降ったのも、そういう時期に来ていたからだ、と冷静だった。げんに西国の雲の状態を調べるため、早馬と船を出した阿曇連比羅夫《あずみのむらじひらぶ》は、もう一日早く命令を受けていたなら、大雨の来襲を知ることが出来た、と悔しがっていた。
軽王が豊浦《とゆら》の屋形にやって来たのは、雨が去った翌日だった。飛鳥川の流れは勢いが良く、雲一つない秋空の陽を受けて煌《きらめ》いていた。
軽王は蝦夷に、女帝の雨乞いについて弁解に来たのだった。軽王は次のように弁解した。大臣蝦夷が、飛鳥寺に大勢の僧を集め、雨乞いをしたのを知った女帝は、何故朕にもさせぬ、朕は天神地祇の最高司祭者である大王ではないか、と神祇の長官の中臣連御食子に怒った。御食子は慌てて大派王に相談した。
相談を受けた大派王は軽王に、この際|大王《おおきみ》家としては、矢張り雨乞いをせねばならない。もししなければ、全く無能な大王と民、百姓のそしりを受ける。明日参朝し、女帝に雨乞いについての打ち合せをするから、出来れば百済宮に来て欲しい、と使者を寄こして申し入れて来た。軽王は迷った。深夜まで空を見ていたが星は煌き、雨など降る様子はない。
もし軽王が行かなくても、女帝と大派王は、雨乞いの日を決めるだろう。
雨乞いの日が遅くなればなるほど、雨が降る危険性が出て来る。軽王は、明日なら絶対雨が降らない、と思った。女帝をせかせ、明日中に雨乞いの行事を決行するよう奏上しようと考え、早朝百済宮に行き、女帝と会った。その結果、その日の午後、雨乞いが行われることになった。
軽王は、大臣蝦夷の面目が潰《つぶ》れないように、雨乞いを急がせたのだった。
軽王は蝦夷にいった。
「良かれと思ってしたことが裏目に出た、まさか、雨が降るなど考えてもいなかった、吾《われ》には悪意など全くなかったのじゃ」
蝦夷は軽王の説明を聞き、嘘をついていない、と感じたが、一応、吾に知らせる暇はなかったのか、と質問した。
「その暇はなかった、兎《と》に角《かく》、雨が降らない間に、雨乞いをして貰《もら》わなければならない、大王をどう説得しようか、と夢中だったからじゃ、吾は大夫《まえつきみ》と親しい、あんな結果になって本当に申し訳ないが、どうか、吾の心中を察していただきたい」
と軽王は答えたのだった。
軽王が豊浦の屋形に来て、蝦夷に弁解している時、入鹿は雀《すずめ》と彼の部下の|東 漢《やまとのあや》氏の兵士達と共に、宇陀《うだ》の阿騎野ヶ原で狩りをしていた。大鹿数頭を斃《たお》し、嶋の屋形に戻ったのは夕闇が迫る頃だった。入鹿は血だらけの一頭の大鹿を、兵士達に命じて、女人達の部屋に放り込み、女人達に悲鳴をあげさせた。
放り込まれた大鹿に当った女人は恐怖の余り失神した。入鹿はそれを見て哄笑《こうしよう》し、失神した女人を抱き抱え、別室に連れ込むと、鹿の血で汚れた女人の衣服を剥いだ。
狩りをした後など、入鹿の血はどうしようもなく燃え滾《たぎ》るのだった。眼を閉じぐったり横たわっている女人の肌には血の気がない。乳暈の色も梅の花のように薄い。酒杯のように盛り上った乳房が静かに上下していた。入鹿は荒々しい息を吐きながら自分の衣服を脱ごうとした。
その時、蝦夷の使者がやって来て、至急豊浦の屋形に来るようにという蝦夷の命令を伝えた。軽王が来て入鹿を待っている、というのだ。入鹿は舌打ちすると女人の頬を軽く叩いた。眼を開けた女人は、さっきの恐怖を思い出したのか、両手で顔を覆った。
「そちは媾合《まぐわ》いたいため、気を喪ったふりをしていたのではないか」
と入鹿は笑いながらいった。
女人は顔を覆ったまま、激しく首を横に振った。入鹿は哄笑すると、女人に、早く衣服を着換えるようにいい、屋形を出た。
雀はすでに兵を集め、硬い表情で入鹿を待っていた。蝦夷の使者としてやって来たのは、蝦夷が信頼している|東 漢 長 直阿利麻《やまとのあやのながのあたいありま》だった。阿利麻は雀の叔父であった。
「阿利麻、御苦労じゃ、少し女人と戯れておった」
入鹿はそういうと用意された新しい馬に飛び乗った。雀の馬は入鹿のすぐ後ろから付いて来る。阿利麻は五人の部下と共に、入鹿よりも二十尺ばかり前を進んでいた。
嶋の屋形から中《なか》つ道《みち》に出た時、入鹿は振り返り右腕を振って、雀に傍に来るように命じた。
「雀、何を怒っておるのじゃ?」
入鹿は雀の硬い表情を窺《うかが》いながらいった。
「いいえ、何も……」
雀は馬の上で顔を伏せた。
「隠さずとも良いぞ、そちの顔に出ておる、吾が女人達の部屋に鹿を放り込ませたので、怒っておるのだろう……、だがな、そちはまだ若い、悲鳴をあげながら、女人達は結構喜んでいるのじゃ、あれは戯れだぞ」
「はあ、分っております、ただ噂《うわさ》というものは大きくなります、口さがない者達が、何をいい出すかも分りませぬ」
雀は唇を噛んだ。
「噂か、良いではないか、吾は荒々しい気性だと恐れられておる、もっと恐れられたいのう、この時代に必要なのは柔弱な人物ではない、重臣達に恐れられる力じゃ、この力だけが蘇我本宗家の太い柱になる」
「しかし、屋形が血で汚されるのは……」
「雀、それも古い時代のことじゃ、心配するな、豊浦の屋形を血で汚したりはしない、雀、吾がいいたいことはそれだけだ……」
雀は一礼すると、また入鹿の後ろを守った。
入鹿は西の空を鋭い眼付きで眺めた。
朱を流したような夕焼けが葛城、二上山を染めている。吾は何時の日か倭国《わこく》の王者になる、その日まで、吾は重臣達に恐れられる人物でおらねばならない、と入鹿は胸の中で呟《つぶや》いた。
だが、恐れられる人物は、必ず敵をつくる。入鹿はそのことも熟知していた。そして敵が現れたら斃すまでだ、と入鹿は無意識に腰の刀に手を当てているのだった。
豊浦の屋形には、軽王《かるのきみ》以外、巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、|大伴 連 馬飼《おおとものむらじうまかい》達が集り、酒を飲みながら雑談していた。彼等は、蝦夷の雨乞いが失敗したのは運が悪かったのだ、と慰めに来たらしい。と同時に、大臣に対する自分達の気持が変っていないことを知らせる目的もあったのだろう。彼等は狩猟姿のままやって来た入鹿を見て眼を見張り、今日の獲物《えもの》はどうだったか、と質問した。入鹿は数頭の大鹿を獲ったが、襲い掛って来た大猪を斃し損ねた、と無念そうに話した。狩猟の話になると入鹿の口調に熱が入る。入鹿は両腕を振り、身体全体で喋《しやべ》る。
軽王を始め一同が、豊浦の屋形を去ったのは夜になってからだった。
一同が去るのを待ち兼ねたように、蝦夷は軽王が女帝の雨乞いについて弁解に来た、といった。蝦夷は入鹿に意見を求めた。
「軽王の話に嘘はないでしょう、吾は軽王の気心を良く知っています、我等に挑戦するような度胸はない、問題は大王について雨乞いに行った|大 派 王《おおまたのおおきみ》と息長《おきなが》山田公ですぞ」
「ああ、吾もそう思う、ただ問題は大王の意向じゃ、何といっても、亡き大王や現大王は蘇我系ではない、息長系じゃ、大王はどうも蘇我本宗家に反感を抱いておる、大王はそんなに意識していないかもしれないが、血の流れは恐ろしいからのう」
蝦夷は腕を組み、憮然《ぶぜん》とした表情でいった。
入鹿は焼いた鹿の肉を頬張っていたが、酒と一緒に呑み下すと、薄笑いを浮べた。
「何がおかしい!」
と蝦夷が入鹿を睨《にら》んだ。
「父上、大王は鬱屈しておられるだけじゃ、そんなに案ずることはありません、それより息長山田公は石川麻呂と親しい、吾にはその方が気懸りです、父上、大王のことは吾にまかせていただきたい」
入鹿の口調は自信有り気だった。蝦夷が不思議そうに入鹿を見ると、入鹿は女人の前に酒杯を差し出した。
「しかし、吾に挑戦するように雨乞いをしたではないか」
蝦夷は自分が失敗しただけに、女帝の雨乞いにこだわっていた。
「だから大王も女人だ、と申しておるのです、父上がそんなに案じられるなら、吾は明日にでも百済宮に行き、大王に会い、大王の真意を探って参りましょう、大王は吾にまかせていただきたい」
入鹿は眼を閉じると、酒杯に注がれた酒を一息に呑《の》んだ。入鹿の瞼に、畝傍《うねび》山の麓を散策していた女帝の顔が浮んで消えた。
一瞬だったが入鹿は女帝に女を感じた。そして女帝も入鹿に男を感じた筈である。あの時の女帝の怯《おび》えたような表情と、大きく見開かれた黒眼勝ちの眼は、間違いなく女人の微妙な情感を表していた。
その夜入鹿は畝傍の屋形に泊った。入鹿はこの頃、瞳《ひとみ》が青みがかった楓《かえで》を寵愛《ちようあい》し、嶋の屋形から畝傍に屋形を移し、住まわせていたのである。入鹿が楓の身体を刺し貫いてから、約半年たつ。当初、楓はまるで埴輪の女人のように身体を固くして入鹿に抱かれていた。だが今は違う。入鹿が荒々しく抱けば抱くほど楓の身体は反り返り、入鹿を締めつけ、悦楽の呻《うめ》きを洩《も》らすようになっていた。
翌朝入鹿は、白い麻の衣服を着、畝傍の屋形を出て、百済宮を訪れた。宮廷警護長の佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》が現れ、女帝が殯宮《もがりのみや》に行っていることを告げた。舒明の遺体は正式の送葬が終るまで殯宮に安置されているのだ。
これは大王家の習慣だった。送葬の儀式が終り、遺体が墳墓に葬られるまで、皇后は、毎日殯宮に行き、夫の霊を慰める。
「吾も殯宮に行き、亡き大王をお慰めしよう」
「では、吾が御案内します」
子麻呂が緊張していった。
「いや、その必要はない、それに大王にもお話し申し上げたいことがある」
入鹿の鋭い視線を浴びて、子麻呂は立ち竦《すく》んだ。佐伯連は大王家の軍事氏族だった。そして子麻呂は武人としての誇りを持っていた。だが入鹿に睨まれると子麻呂は、何時も眼に見えない圧迫感を覚え、自分の意志を通せなくなるのだ。子麻呂はその度に誇りを傷つけられた。大夫《まえつきみ》は何も、女帝に危害を加えに行くのではない、と子麻呂は自分に弁解した。
「大夫、殯宮に入られるのは、大夫お一人にしていただきたい」
子麻呂は必死の思いでいった。
振り返った入鹿は、馬上で白い歯を見せた。
「当り前じゃ、雀、兵士達を暫《しばら》く休ませておけ、そちだけが付いて来れば良い」
入鹿は雀と二人で、百済宮の北方にある殯宮を訪れた。柵《さく》で囲まれた殯宮にも、警護の兵士達が居た。子麻呂の部下達だった。
舒明が亡くなってすでに一年近くたっている。遺体は白骨化しているだろう。すでに殯宮に異臭はない。それどころか、微《かす》かな香料の匂《にお》いが秋の微風に乗って流れて来た。殯宮の近くの草原では、数人の女人達が秋の花を摘んでいた。香料の匂いは彼女達のものらしい。
入鹿は馬から降りると、馬を雀に預け殯宮に入って行った。白い絹衣を纏《まと》った女帝は板床の上に坐り香を薫《た》いていたが、入鹿の足音を耳にすると、とがめるように振り返った。入鹿は白い砂利の上に立ち止った。女帝に一礼し、殯宮に向って手を合せた。
入鹿といえども、殯宮の中に入って行く権利はなかった。またそんなことをすれば、女帝は入鹿を恐れ憎むに違いない。入鹿は直ぐ殯宮の柵の外に出た。女人達は花を摘みながら雀を盗み見していた。陽焼けした雀は若い武人らしく眉が濃い。鼻筋が通り漢人の貴人の血が流れているだけに気品があった。
入鹿は殯宮の柵門を守っている兵士の長に、何処から来たか? と訊いた。
「武蔵国で御座居ます」
彫りの深い顔をした兵士の長は深々と腰をかがめていった。
入鹿は楓の顔を瞼に浮べながらいった。
「武蔵国か、遠くから来ておるのう、国が恋しいであろう」
「吾は武人です、大王を守るために参りました」
兵士の長は、入鹿に叩頭《こうとう》したまま答えた。
まだ二十を少し過ぎたぐらいに違いない。だが骨格はたくましかった。武蔵国の豪族の子弟であろう。入鹿は彼の肩を叩き、何時の日かそちの子供は、吾を守るために、武蔵国から来るであろう、といってやりたかった。
入鹿が女人の方に近付くと、女人達は花を抱き抱え、怯えたように立ち竦んだ。宮廷に入ると、最近の入鹿は礼節を守っている。だが女人達は入鹿を荒々しい鬼神のように恐れていた。宮廷外に於ける入鹿の行動の荒々しさが、拡大されて女人達の耳に入っている。宮廷で入鹿を恐れていないのは女帝一人だけだった。
女人達が摘んでいたのは、淡紅色のなでしこや、黄緑のいちしの花であった。
入鹿が近付くと稚い顔をした下ぶくれの女人は、摘んだ花の茎を固く握り締めた。
「ほう、美しい花じゃのう、先日の雨で、花も開いた、今年の秋は花も見られぬか、と吾も案じていたのじゃ、良かったのう」
女人は無言で頷いた。返事をしようとしたが声が出ないらしい。入鹿が、自分には構わずに花を摘め、といったが誰も動かない。
入鹿は一輪のなでしこを摘んだ。
「どうも、邪魔をしてしまった」
入鹿はなでしこの花を胸に挿すと殯宮の方に戻った。女帝が出て来たのはその時である。女人達は慌てて女帝の傍に駈け寄って行く。
女人達に取り囲まれている女帝を、入鹿は離れた場所で眺めていた。女帝が入鹿の方を見たので、入鹿はもう一度頭を下げた。
女帝は顔を背けると、女人達と共に百済宮の方へ戻り始めた。入鹿は女帝の後ろから付いて歩いた。女人達が時々後ろを振り返るところを見ると、入鹿の尾行を気にしているらしかった。突然、女帝が立ち止った。
「大夫、何か朕に用か?」
と女帝は甲高い声でいった。
「少し、お話が御座居ます、ここでも結構ですし、宮でも構いません」
入鹿は穏やかな表情でいった。女帝に警戒心を起させないためだが、女帝と向い合うと、自然に穏やかな表情になる。
「重大な用か?」
「そんなに重大というほどのことでは御座居ませんが、この眼の覚めるような秋晴れの下で、大王と花でも摘みながら、お話しとう御座居ます」
入鹿は胸に挿したなでしこの花を手に取ると、眼を細め匂いを嗅《か》いだ。雀が吃驚《びつくり》したような顔で入鹿を見詰めていた。女帝はとまどったようである。入鹿は立ったままで女帝を待っていた。何故か入鹿には、女帝は必ず自分の傍に来る、という自信があったのだ。それは入鹿の動物的な嗅覚《きゆうかく》かもしれない。
案の定、女帝は女人達と共に入鹿の傍に来た。宮の中では考えられないことだった。
「その先の原にでも参りましょう、秋の花がこのように美しく咲いたのは、大王が雨を降らせたおかげです、何ともいえぬ香りがする」
入鹿はなでしこの花を鼻孔に当てると薄《すすき》の原に入った。刀を抜くと無造作に薄を切り小道をつくった。女帝は救いを求めるように周囲を見廻した。宮廷警護の兵士達の姿は見えない。それに入鹿を警護しているのは雀一人である。入鹿は十五尺ばかり進むと、草に覆われた盛り土の上に腰を下ろした。百年ばかり前に造られた墳墓だが、すでに墳墓という意識はなかった。
「さあ、なかなか坐り心地がよろしゅう御座居ます」
入鹿は切った薄を集め、女帝のために坐る場所をつくった。女帝は、女人達に、そこで待っているように告げると、顔を上げ、きっとした表情で入鹿の方に近付いて来た。
「大王、足許《あしもと》に御注意下さい」
昂然《こうぜん》と顔を上げているので、女帝は足許のことなど気にしていなかった。入鹿が声を掛けた途端、女帝は草の根に足を取られ転倒した。転倒した時、本能的に薄を握ったので柔かい女帝の人差指の付根と掌が切れ、血が流れ出た。
入鹿が起き上ろうとした女帝を抱き起した。贅肉《ぜいにく》のついた女帝の身体は意外に重い。
入鹿は女帝の掌を自分の口許に引き寄せると、傷から流れ出る血を吸った。女帝は必死になって手を引こうとしたが、女帝の手首を握った入鹿の腕の力は強い。薄の原の中なので、二人の姿は女人達から見えない。入鹿は腰の皮紐に差した刀子《とうす》を抜くと、麻の袖先《そでさき》を素早く切り、女帝の掌に巻いた。
その間女帝は茫然《ぼうぜん》としていた。女帝を抱き起してからの入鹿の行動は、まさに暴力的であった。女帝は生れてからこの年齢《とし》まで、男性からこのような暴力を受けたことがなかった。得体の知れない戦慄《せんりつ》に襲われ女帝は暫く身動き出来なかった。女人達が息を呑み、薄の原を覗《のぞ》き込んでいた。
「大夫、礼を申します」
と女帝は掠《かす》れた声でいった。
女帝は入鹿の暴力的な行動をとがめることが出来なかった。何故出来ないのか、と自分でも歯痒《はがゆ》い思いだった。女帝は身体が慄《ふる》えているのを入鹿に知られたくなかった。
女帝が血の滲《にじ》んだ掌の白布に視線を落すと、入鹿は草叢に覆われた盛り土を指差した。
「どうか、あそこにお坐り下さい、立ったままではお疲れでしょう」
「いや、別に疲れぬ、立ったままで良い」
女帝はゆっくり墳墓の上に立った。女帝は、何事が起ったのだろう、と肩を寄せ合っている女人達の姿を見ることが出来た。女人達の視線を浴びた女帝は、取り乱したところを見られたくないと思い、微笑し、安心するように、女人達に頷いて見せた。
「大夫、朕に何の話があるのですか?」
と女帝は入鹿を見下ろしていった。
「大王の雨乞いのおかげで、草花も生き返り、このように美しい花が咲きました、吾も良かった、と思っています、ただ、口さがない連中の中には、大王は大臣に恥をかかすため雨を降らせた、といいふらしている者も居るようです」
入鹿は大きく眼を見開き、女帝の表情を凝視した。途端に女帝の眼が釣り上った。
「大夫、朕にはそんな気持は毛頭なかった、朕は前々から、天神地祇に、雨が降るよう祈ってみたかった、それは朕の義務です、神祇の長官が、なかなか奏上しないので、大臣の後になってしまった、結果的に大臣に恥をかかせたことになったが、朕には悪意はなかった、そんなことで、朕の悪口をいう者が居るのか、一体誰じゃ!」
「愚かな連中です、吾は一喝《いつかつ》してやりました、吾は大王の味方です、ただ大王、これからは騒々しい時代になります、確かに神祇の行事は大王家内部の問題で、吾が口出すことではありませんが、これから吾に出来ることがあれば、どんなことでもお力になります、どうか吾に相談して下さい、新しい宮のことも、吾は吾なりに考えています、どんなことでも良い、吾に申しつけて下さい」
「大夫の気持は嬉しく思います、それはそうと大臣は、朕を恨んでいるのか?」
女帝の眼に不安の色が走るのを入鹿は見た。馬子が物部守屋《もののべのもりや》を滅ぼし、独裁的な権力を握り、崇峻《すしゆん》を殺して以来、大王家は蘇我本宗家を恐れていた。女帝の夫、舒明は生前、蘇我本宗家を敵に廻したなら、何をするか分らぬ、と女帝に洩らしていたのだ。
「大臣がどう思おうと、吾が居ります、大王、どうか吾を信じて戴《いただ》きたい、吾は大王の力になりたいのです、今日はそれを申し上げるために参ったのです」
入鹿は盛り土の墳墓に近付くと、女帝に腕を差し出した。女帝は困惑したように女人達を見、微かに首を横に振った。
「大夫、女人達が見ています」
と女帝は低い声でいった。
「転ばぬように下りて下さい」
入鹿が微笑を浮べながら囁《ささや》くようにいうと、女帝は顔を赧《あか》らめ、足許に注意しながら、墳墓から下りて来た。入鹿は女帝の前を歩きながら、呟くようにいった。
「吾がお力になれるようなことは、今、御座居ませぬか?」
「本当に、朕の力になってくれるというのか?」
「吾の言葉に偽りは御座居ません」
「朕は、焼けた百済大寺を新しく建立したい、上宮王家《じようぐうおうけ》の力は、もう当てには出来ぬ、百済大寺の建立は亡き大王の御遺志なのです」
入鹿は立ち止ると生い繁る薄の間に咲いていたなでしこの花を摘んだ。
「大王、これをお受け取り下さい、約束いたしましょう、吾にまかせていただきたい」
入鹿が差し出した花を女帝は左手で受け取り花を見た。花を見るというより羞らいで視線を伏せたような顔の動き方だった。上眼遣いに入鹿を見ると、無意識に薄で切った右手で花弁に触れた。如何《いか》にも女人らしい仕草である。もし、二人を見詰める女人達の眼がなかったら、入鹿はこの場で女帝を抱き締めていただろう。多分、女帝はそんなに抵抗せず入鹿の胸に顔を伏せるに違いなかった。
もう女帝は、入鹿が自分の掌を舌で舐め、血を吸ったことをとがめていないのだ。
神祇の最高司祭者である神聖な女帝にとって、指の傷口とはいえ、男の唇を受けたことは、身を穢《けが》されたことになる。
もしこれが、入鹿以外の男性だったら、女帝は絶対許さなかったであろう。
入鹿は女帝の自分に対する気持が、普通の好意でないのを、確認したような気がした。
入鹿は雀と共に馬に乗った。
「吾君、何か大事なことが……」
と雀が心配そうにいった。
「吾の顔が強張《こわば》っておるとでもいうのか、何でもない、大王と重大な話をしていたせいかもしれぬ」
入鹿は馬に鞭を当てた。
舒明が亡くなって以来、女帝は独閨の淋《さび》しさに、眠れない夜も多いに違いなかった。
女帝は四十歳、すでに姥桜《うばざくら》に近いが、容姿は余り衰えていない。
入鹿は馬上で、女帝の手を取った時、女帝の身体に走った戦慄を反芻《はんすう》していた。女帝は必死で手を引こうとしたが、そんなに力は入っていなかった。
吾は一体、女帝に何を求めているのだろうか、曾我川の傍で馬を止めると百済の宮を振り返った。入鹿の胸に苦いものが込み上げて来た。そうなのだ、入鹿は蘇我本宗家の権力を守るために女帝に近付いているのである。
だがそれだけではない、と入鹿は思い直し、吾は女帝が好きなのだ、と自分に向って呟くのだった。大王の皇后として過して来た女帝には、あの年齢にしては考えられない無邪気さがあった。だからこそ雨乞いの奏上があった時、待っていた、とばかりに飛びついたのである。女帝に会って、入鹿は自分の勘が間違っていなかったのを感じたのだ。
入鹿は鎌足に負けないくらいの頭脳と学識を持っていた。ただ、入鹿は蘇我本宗家の大郎として育った。それに加えて荒々しい血が流れている。だから思い込んだことは行動に移す。それも直ぐにだ。
だが鎌足は違う。常陸《ひたち》の香取、鹿島神社の祭祀者《さいししや》中臣家で育ち、その才を買われて中臣連御食子の養子になった鎌足は、周囲を窺い、自分の足音にも耳を|※[#「奇」+「支」]《そばだ》てながら生きて来たのだった。入鹿が陽とすれば鎌足は陰である。つまり鎌足は陰のように生きてきた。入鹿のような人物は、影の行動をつい見落してしまう。だから今度の場合も、入鹿は真正面から女帝にぶつかって行ったが、そのため女帝を利用した僧旻《そうみん》や鎌足達の策謀を見破れなかったのである。
入鹿の悲劇はそこにあった。
入鹿は大臣蝦夷に、女帝が百済大寺の再建に熱意を燃やしていることや、早く新宮に移りたがっていることを告げた。
父を口説く入鹿の声には熱が籠っていた。百済大寺と新宮を造営するには、使役の民を大々的に徴発せねばならない。しかも入鹿は、朝鮮三国はもとより、唐に対する威厳を示すために、これまでにない新しい大きな宮をつくる必要がある、と力説した。
「父上、女人を喜ばすには、欲しがる物を与えることです、大王は吾に好意を抱いている、大王の気持を引きつけるには、兎に角、与えることです、どうか、大王の望みをかなえるようにして下さい」
蝦夷は、百済大寺と、新しい宮を同時に造るとすれば、使役の民は幾ら居ても足りない、倭国全土から徴発せねばならない、となかなか承諾しない。
入鹿は、彼にしては忍耐強く父を口説き続けた。今の女帝の宮は、蘇我本宗家の勢力範囲から離れている。斑鳩《いかるが》の上宮王家に近い。だから、女帝の新宮は、推古時代のように飛鳥に持って来なければならない。そのためにも、女帝を喜ばすだけの大きな宮を造る必要がある、と説いた。
「使役の民は、何も倭国の民、百姓だけとは限りますまい、幸い越《こし》の国の蝦夷は倭国に服従を誓って居る、阿倍|倉梯麻呂《くらはしまろ》に命じて、越の国周辺の蝦夷を連れて来れば良い、それなら、地方の豪族達も、納得するでしょう」
入鹿は毎日のように豊浦の屋形を訪れ、父を口説いた。女帝の意向はすでに決っていた。
もし百済大寺の再建に大臣が賛成するなら、新しい宮は飛鳥に建てても構わない、というのだった。女帝の意向を知った軽王始め重臣達も入鹿の意見に同調した。九月になって蝦夷は到頭根負けして、入鹿の要求を全面的に飲んだのだった。阿倍倉梯麻呂は兵を率いて蝦夷を連れて来るため越の国に出陣した。
女帝の意向がはっきりしているので、阿倍倉梯麻呂としても、従わざるを得なかった。
皇極元年(六四二)九月、女帝は大臣蝦夷を通じ、百済大寺の再建と新しい宮の造営のため、民、百姓を徴発する詔《みことのり》を出した。
この件に関して『日本書紀』は次のように述べている。
「朕《われ》、大寺を起し造らむと思欲《おも》ふ、近江と越との丁を発《おこ》せ(中略)是の月に起して十二月より以来《このかた》を限りて、宮室を営らむと欲ふ。国国に殿屋材《とのき》を取らしむべし。然も東は遠江を限り、西は安芸を限りて、宮造る丁を発せとのたまふ。癸酉は、越の辺の蝦夷、数千内附《ちあまりもうきつ》く」
最後は越の周辺の蝦夷が数多く服従したという意味だが、新宮の使役のために徴発したのだろう。そのために、大臣蝦夷は、越方面の長達を大和に呼び、宮廷や自分の屋形で饗宴《きようえん》をもよおしている。
それは兎も角、新宮と百済大寺を同時に造営することは、大変な工事であったに違いない。九州と関東を除いた殆《ほとん》どの地域から、民や、百姓が徴発されたのだ。この時点で、入鹿と女帝は完全に組んだのだが、当然、女帝に対する反撥も起った、と思われる。
乙巳《きのとみ》のクーデター(大化の改新)を、大王家と蘇我本宗家の対立、また蘇我本宗家の専横を憎んだ大王家の忠臣達が団結して蘇我本宗家を斃したとする説は余りにも単純である。
女帝が大臣や入鹿の同意を得なければ、このような使役の民の大徴発は不可能であった。
とくに、新宮、板蓋宮《いたぶきのみや》は、間違いなく、女帝と入鹿によって造営されたのだ。
蘇我本宗家に反撥していた者たちの危機感は、この頃から急速に盛り上った、と考えて良い。
このような大工事に対し、女帝に忠告したのは斑鳩宮《いかるがのみや》の山背大兄《やましろのおおえ》皇子だった。父聖徳太子の遺志を継ぎ、斑鳩宮に大勢の妃や女人達を集め、彼女達に産ませた子供達と一緒に生活し、人生を愉《たの》しむことで寿国を夢見ていた山背大兄皇子は、理想主義者だった。
当時は通い婚で、男は女人に子供を産ませると、女の実家が育てる習慣があった。ところが、そういう習慣を無視し、斑鳩宮に妃や子供達を呼び寄せ、共に暮したのが、仏教と道教思想を高句麗僧達から学んだ聖徳太子なのである。山背大兄皇子も、同じことをしていた。
太子が道教思想を受け入れていたことは、『釈日本紀』に引用されている湯岡碑文を読むとはっきりする。湯岡碑文は太子が二十三歳の時、師の高句麗僧と道後温泉に遊んだ際、碑を建てて筆のおもむくまま記した一文である。
その文体から、推古朝のものであることは、まず間違いないとされ、太子に関する金石文の最右翼に位置する貴重なものだ。
碑文の内容は、「惟ふに、夫れ、日月は上に照りて私せず、神井は下より出でて給へざるなし(中略)百姓はこの所以に潜扇す、すなはち、照らし給へて、偏私することなきは、何ぞ寿国に異らむ(後略)」というようなものである。
つまり、太子は、日月は上(天)にあって私せず、とはっきり述べている。当時の大王家は天子であり、天と日は大王家のものであった。
そして民、百姓は、大王家、豪族達と異り、余り人間扱いを受けていなかった。先にも述べたように、為政者から牛馬のようにこき使われていたのである。ところが太子は、天も日月も、普遍の愛を持っており、大王家のものだけではない、民、百姓のものでもある、と断言しているのだ。人間平等主義であり、当時にとっては、革命的な異端思想である。しかも太子は、それを自分の理想とする寿国(道教思想の国)と宣言しているのだ。太子が、蘇我馬子と合わずに斑鳩宮に移ったのは、太子が、民、百姓も生きている間に人生を愉しむ権利がある、という道教思想に共鳴したからである。権力者にとっては、危険思想だった。太子の子山背大兄皇子は、太子ほどの智も徳もなかったが、太子の遺志だけは受け継ぎ、忠実に守っていた。
だから山背大兄皇子は、大王が百済大寺と新宮を同時に造営することに反対したのだった。山背大兄皇子は女帝に会い、大勢の民、百姓を苦しめるような大工事は慎むべきだ、と説いた。宮の完成を待ってから、百済大寺の造営を始めるべきである、と忠告したのだった。
だが、新しい大工事に張り切っている女帝に取って、山背大兄皇子の忠告は、不愉快以外の何ものでもなかった。それに山背大兄皇子は女帝に、大王の徳を説き、民、百姓の生活が潤うように努力するのが、大王の義務である、などといい、蘇我本宗家の政治を批判した。
舒明の殯《もがり》の時、山背大兄皇子は誄《しのびごと》の順位が五番目になったのを恨み、初日の儀式に現れなかった。そのような鬱屈した憤りが、女帝と会って爆発したのだ。もともと山背大兄皇子は、直情径行な性格である。山背大兄皇子は女帝の心情を理解せず、大臣や大夫のいうなりになっていると、将来、蘇我本宗家に大王位を奪われ兼ねない、など余計なことも口走ってしまった。
百済大寺の再建と大きな新宮の造営は、一年近く舒明の喪に服して来た女帝にとっては、最大の愉しみだった。山背大兄皇子は皇子なりに真情を吐露した積りだが、女帝は嫌がらせをいいに来た、と感じた。憤りのために、女帝はその夜、眠れないほどだった。
女帝は翌日、宮に来た軽王に山背大兄皇子に対する怒りをぶちまけた。
軽王は山背大兄皇子が、まだ大王位に執着していることを知っていた。軽王は、直ぐ親しい入鹿に、女帝から聴いた山背大兄皇子の言動を告げた。
「年齢の割には馬鹿な皇子じゃ、まだ、自分が次の大王になれる積りで居る、だが、何時までも放っておくと民、百姓を扇動し兼ねない、一度、懲らしめておく必要があるな」
入鹿は遠くを見詰めながら、顎鬚《あごひげ》を撫でた。
「そうじゃ、斑鳩宮で女人、子供と戯れておれば良いのに、出しゃばりおって、吾も、あの賢者振りが気に入らぬ」
「大王は、さぞお怒りであろう」
「蒼い筋が見えたほどじゃ」
勝気な女帝が、激怒している様子が、入鹿には想像出来た。
山背大兄皇子が、百済大寺と新宮の造営のことで女帝に忠告し、女帝の逆鱗《げきりん》に触れたという噂は、たちまち群臣の間に拡がって行った。山背大兄皇子は、自分で自分の墓穴を掘りつつあったのだ。
入鹿は蝦夷に、この際、一挙に山背大兄皇子を攻め滅ぼしたら良い、と進言した。蝦夷は入鹿の意見に反対だった。何といっても山背大兄皇子は、蘇我本宗家の大王の血を引いている。舒明以後、大王の母系は蘇我氏から息長《おきなが》氏に変った。だから、現在の大王は、蘇我氏と血縁関係はない。
山背大兄皇子は、蘇我系の用明の孫であり聖徳太子の子である。そういう点で、山背大兄皇子は、孤立はしているが、まだまだ皇子に同情を寄せている者が居た。蘇我本宗家の蝦夷、入鹿を恐れて親しく付き合う者は居ないが、総ての重臣、群臣に見放されているわけではない。げんに入鹿のライバルになり兼ねない蘇我石川麻呂など、山背大兄皇子に同情している節がある。
蝦夷は入鹿に、兵を出し山背大兄皇子を斃すのはた易《やす》い、だが、そういうことをすれば、石川麻呂は益々蝦夷、入鹿から離れて行く。重臣達は、蘇我本宗家を恐れると同時に警戒心を抱く、それが危険だ、と蝦夷は説いた。何故なら、警戒心を抱くと、そういう者同士が自然に団結するからだ、というのだった。年齢を取っているだけに、蝦夷は流石《さすが》に慎重だった。そんな父が、入鹿には歯痒い。入鹿は膝を進めた。
「父上、父上は前々から、生きている間に我等親子の墓を葛城の本貫地に造り、蘇我本宗家の威厳を示したい、と申されていた、大王も百済大寺と新宮の造営に全国から、民、百姓を徴発された、吾の考えでは、集めた使役の民の一部を、父上と吾の墓の造営に当てれば良い、如何ですか……」
「ああ、それは良い考えじゃ、寺と新宮の造営には数え切れないほどの民が集る、それこそ、この飛鳥の都を蟻《あり》のように這《は》い廻るであろう、それはそうと入鹿、そちは何時も吾に、大王のことは、まかせて欲しい、と自信有り気に申しておるが、一体何を考えておるのじゃ?」
蝦夷は上眼遣いに入鹿を見た。
入鹿は女人達を退らせると、女帝の情を得る積りでいる、と蝦夷に囁いたのだ。蝦夷は低く唸《うな》った。
「父上、残念ながら今の大王は、蘇我系の大王ではない、だが、吾が大王と情を通じることが出来たなら、大王は蘇我本宗家のものです、大王を完全に我等の掌中に握るには、それ以外の方法はありますまい、父上、唐から帰った学問僧達や、翹岐《ぎようき》王子の話を聴くと、唐は明らかに新羅と意を通じている、唐の政策は明白です、隋以来の宿敵高句麗を狙っておるのじゃ、百済の義慈王が独裁政権を樹立したのも、今のうちに新羅を斃し、唐の野望を封じるためだ、と吾は読んでおります、もし高句麗が唐に斃されたなら、百済も安泰ではない、今、韓土は、東に伸びようとしている唐の巨大な腕を前にして、緊張し切っている、海の中に倭国があるから大丈夫だ、と安心している時代ではないでしょう、今こそ蘇我本宗家が、倭国の政治権力を一手に握り、将来に備えなければならない大事な時です、大王を味方につけることも、そのための手段です」
蝦夷は何時ものように、そちはまだ若い、といえなかった。蝦夷は入鹿の意見に耳を傾けながら、自分が時代の流れに乗り遅れているような気がした。
「そちは大変なことを喋っておるのだぞ、大王と情を通じたなら、どんなことになるか、いやもし、大王に撥《は》ねつけられ、それが噂になれば、そちの威力は失墜する」
蝦夷が呟くようにいうと、入鹿は彼らしくなく眼を細め、父上、御安心下さい、と落ち着いて、自分の胸を叩くのだった。
「父上、蘇我本宗家は|橘 《たちばなの》豊日《とよひ》大王(用明)以来、大王を出して来ている、大王家に匹敵する家柄です、吾が大王と情を通じても、おかしくありますまい、三輪君逆《みわのきみさかふ》とは血筋が違う」
蝦夷は黙って頷くと、女人を呼ぼうとし、入鹿に注意され、自分で金銅の酒壺《さかつぼ》を取った。今、蝦夷は入鹿の気迫に圧倒されていた。入鹿が女帝と情を通じるなど、考えても居なかったことだからだ。
敏達《びだつ》の皇后|豊御食炊屋姫《とよみけかしきやひめ》は、敏達が亡くなると敏達の宮の警護長であった三輪君逆に殯宮も守らせた。この炊屋姫と情を通じようとしたのが、欽明が小姉君《おあねのきみ》(蘇我稲目の娘)に産ませた穴穂部《あなほべ》皇子である。穴穂部皇子の狙いは、炊屋姫と情を通じることによって大王位を得ることにあった。穴穂部皇子は炊屋姫に会うため、何度も殯宮にやって来た。炊屋姫は穴穂部皇子を嫌い、三輪君逆に命じて、殯宮から追い出した。三輪君逆は凛々《りり》しい武人であった。炊屋姫を守るため敢然と穴穂部皇子に立ち向った。炊屋姫は三輪君逆を信頼しているうちに、信頼が恋に変ったのである。敏達を喪い孤閨《こけい》を守っていた炊屋姫にとって、三輪君逆に対する恋情は、紅蓮《ぐれん》の炎となって燃えたのだ。そして三輪君逆も、炊屋姫の恋情に応じた。五八六年の出来事である。
二人の恋愛は、宮廷の群臣を驚愕させたに違いない。何といっても炊屋姫は王女で、しかも敏達の皇后であった人だ。一番激怒したのはいうまでもなく穴穂部皇子である。穴穂部皇子は、時の大臣蘇我馬子と敵対関係にあった物部守屋《もののべのもりや》と組み、兵を興し、炊屋姫の別荘|海石榴市《つばいち》宮(桜井市金屋)に隠れていた三輪君逆を殺してしまったのである。
『日本書紀』が、穴穂部皇子と物部守屋に追われた三輪君逆が、炊屋姫の別荘である|後 宮《きさきのみや》に隠れたことを述べている以上、二人の恋愛は、長らく人々の口から口ヘと伝えられた恋愛だったに違いない。
穴穂部皇子と物部守屋は、結局、蘇我馬子を始め、諸皇子によって殺されるが、その裏には、恋人を殺した両人に対する炊屋姫の恨みが籠っていたのだ。
いうまでもなく炊屋姫は、後の推古女帝である。
まさに、二人の恋愛は世紀の恋愛だったのだ。
入鹿が蝦夷に強くいいたかったのは、蘇我本宗家の大郎である自分には、女帝と情を通じる資格がある、ということだった。
だから女帝との関係が公になっても、三輪君逆のように非難されない、という自負があったのだ。
蝦夷は入鹿の野望を、積極的には承認しなかった。だからといって、そういうことは絶対駄目だ、と反対し切れなかった。
蝦夷が、入鹿の野望に危惧の念を抱きながらも、暗黙のうちに了承したのは、蝦夷なりの計算があったからである。もし、入鹿が女帝と情を通じ合ったなら、どんな行事であろうと、参朝しないで済む、ということだった。参朝は入鹿にまかせておけば良いのだ。そうなれば、群臣は大臣《おおおみ》の威力を再認識するに違いない。だが、入鹿を代理で参朝させれば、入鹿を大夫《まえつきみ》のままで置いておくわけにはゆかなかった。自分と同じように、入鹿も大臣にせねばならない。
蝦夷も次第に、入鹿に次の時代の王者を夢見るようになっていた。
目的に向って強引に進んで行く入鹿の若さとたくましさに、蝦夷は引き摺《ず》られ勝ちであった。
皇極元年(六四二)の九月から十月にかけ、入鹿は絶えず百済宮に出掛けて行った。そんな時は配下の、寺造、宮造の長を同行した。蘇我本宗家に忠実な東漢長直阿利麻を寺造の長に任じた。阿倍倉梯麻呂が百済大寺の造営長官に任じられたのは、もう少し後である。また宮造の長は|書 直《ふみのあたい》| 県《あがた》であった。
書直は百済からの渡来氏族である。書直県は百済宮の大匠(宮造の長)でもあった。なお県の母親は東漢氏だったので、東漢書直県とも呼ばれていた。
新宮は飛鳥に造り、来年中には完成することを、入鹿は女帝に約束した。そして新しい宮の完成図を図工に描かせ、女帝に見せたりした。これまでの大王の宮は総て茅葺《かやぶ》きだったが、今度の新しい宮は檜皮葺《ひわだぶ》きであった。
全く面期的な、如何にも女帝が喜びそうな豪華な宮である。女帝は庭を広くして欲しいとか、眺望の良い楼を造って欲しい、など入鹿に注文をつけたが、入鹿は女帝の要求を総て受け入れた。女帝が入鹿を信用し始めたのも無理はなかった。そして入鹿は、板蓋宮《いたぶきのみや》が出来るまで、小墾田《おはりだ》の仮宮に移るよう、女帝にすすめた。女帝を飛鳥に住まわせることは、入鹿の念願だった。飛鳥は、曾祖父|稲目《いなめ》以来、蘇我氏によって開拓された都といって良い。
飛鳥の田畑は乾田であった。固い赤土である。だから、蘇我氏は飛鳥川、冬野川から水を引き、田畑を潤すようにしたのだ。と同時に鋤《すき》、鍬《くわ》で田畑を耕すように農民を指導した。
大和中央部の湿田は、農工具や、灌漑《かんがい》工事の飛躍的な進歩がなくても稲を作れる。
だが、飛鳥のような乾田はそうではない。勿論、飛鳥にも弥生時代からの集落遺跡がある。だがそれは冬野川の下流の湿地帯だった。
そういう意味で、飛鳥はまさしく、蘇我氏によって花開いた都である。蘇我氏が河内の石川から葛城に移住したのは、雄略が没した後だから、五世紀の末である。
葛城から東の高市郡に移ったのが六世紀中葉だった。そして六世紀後半に更に東の飛鳥地方に進出したのだ。
女帝は|大 派 王《おおまたのおおきみ》、軽王《かるのきみ》と相談し、なるべく早く小墾田の仮宮に移る、と入鹿に約束した。
入鹿は女帝が一時住む小墾田の仮宮の造営にも取り掛った。小墾田の仮宮は、大臣蝦夷が住んでいる豊浦の屋形から余り離れていない。かつて推古女帝が宮を建てた場所だった。女帝が小墾田の仮宮に住めば、入鹿は女帝の屋形に自由に出入り出来る。板蓋宮が完成するまで、一時、東漢氏に仮宮を守らせても良い、と入鹿は考えた。
入鹿は燃えていた。女帝を飛鳥に住まわせることは、女帝を蘇我氏の掌中に捕えたのも同じだった。入鹿が、女帝と情を通じる日が来たとしたなら、それは飛鳥の仮宮である。
大派王や、息長山田公は、女帝が小墾田の仮宮に住むことに反対するかもしれない。
だが、すでに、板蓋宮の基礎工事は始まっている。既成事実の前には、大派王も息長山田公も手が出ないだろう。
重要なのは既成事実を作り、それを強引に推し進めて行くことだ、と入鹿は考えていた。群臣の思惑を気にして、右顧左眄《うこさべん》しているようでは、権力を一手に握れない。
百済大寺と板蓋宮の大工事は、入鹿にとって、権力を握るための一手段だったのだ。
入鹿は小墾田の仮宮の造営を急がせた。仮宮は女帝が板蓋宮に移るまで住む宮だが、余り小さな宮は造れない。仮宮であっても、女帝が喜ぶような宮を造りたかった。使役の民は、東国、西国から集って来るが、百済大寺、板蓋宮の大工事に取られるので、入鹿の思うようには工事は捗《はかど》らなかった。
入鹿は仮宮の造営の長である東漢直|麻呂子《まろこ》に仮宮は昼夜兼行で工事を行うように、命じた。遠い西国や東国から飛鳥に集められた使役の民は、飛鳥の言葉が分らない。
だから命令が徹底せず遅れがちだった。入鹿は深夜、雀を連れて小墾田に行き、無数の篝火《かがりび》の中で俯《うつむ》いている造宮工達を激励した。造宮工達は皆、馬子の時代から蘇我氏に仕えている渡来人だった。彼等は使役の民とは違う。集められた使役の民の仕事は、土を掘り、道を作り、切った木や石を、山や川から運んで来るのだった。つまり、単純な重労働は総て使役の民が行う。入鹿は工事の進捗《しんちよく》状態を女帝に報告し、時には女帝を工事現場まで連れて行ったりした。女帝はもう入鹿を恐れていなかった。
女帝は、自分の望みを達成させるべく、必死になっている入鹿に、親愛の情を覚えるようになっていた。大派王などが、正式の送葬が終っていないのに、余り出歩くのは良くない、と女帝に忠告しても、女帝は受け付けなかった。
十一月中旬、山背大兄皇子が百済宮に来て、女帝に、工事が大掛り過ぎる、と忠告した。女帝の雨乞いで、雨は降ったものの、日照りが長過ぎたために農作物の収穫は平年よりもかなり少ない。使役の民の中には、満足に食物が与えられず、石を運ぶ途中倒れ、そのまま起き上れない者も出て来た。また病人が続出し彼等は川原、草叢、山の中で横たわり、小役人が鞭を当てても動かない。
幸い暖冬だったから死者の数はそんなに多くなかったが、雪でも降れば、倒れた者は全員凍死するのは間違いなかった。
山背大兄皇子が、再び女帝に忠告したことを、入鹿は軽王から知らされた。
山背大兄皇子は女帝に、使役の民が病苦で転がっているのを見ても、何とも思わぬのか、と詰め寄ったらしい、それで女帝は動揺しているという。
入鹿は雀《すずめ》を始め東漢氏の兵士達を連れ、馬を飛ばして百済宮の近く、曾我川に面した軽王の屋形を訪れた。造営中の百済大寺の傍まで来た時、入鹿は倒れている苦役の民に麦粥《むぎがゆ》を与えている女人達を見た。屈強な男達が大釜《おおがま》をかつぎ、大きな木製の匙《さじ》で麦粥をすくった女人達は、わざわざしゃがんで倒れている男達に食べさせていた。
倒れている男達の中には、身を起し、女人達を伏し拝みながら食べている者も居た。
入鹿は馬に鞭を当てた。近付いて来る蹄《ひづめ》の音に驚いて入鹿を見た女人の一人は、入鹿の形相の凄《すさ》まじさに悲鳴をあげて麦粥を落してしまった。
「誰の命令で、こんなことをしておるのか!」
馬上の入鹿は鞭を持ったまま荒々しい声で詰問した。
「私は、舂米女王《つきしねのみこ》に仕える者で御座居ます」
「舂米女王、では山背皇子の命令か?」
入鹿は大兄皇子、と呼ばない。何故なら大兄とは大王位を継げる資格のある皇子の尊称だからである。
「舂米女王のおおせです」
舂米女王は、聖徳太子と菩岐岐美郎女《ほききみのいらつめ》の間に生れた女王で山背大兄皇子の異母妹だった。菩岐岐美郎女の父は太子と仲の良かった膳部加多夫古《かしわでのかたぶこ》である。
舂米女王は現在、山背大兄皇子と共に斑鳩宮に住んでいた。
女人は恐怖の余り、路上に坐り慄えていた。
「舂米女王の命令なら山背皇子の命令と同じだ、斑鳩宮の皇子は、大王と吾に対して、嫌がらせをしておるのか?」
だが女人は慄えるだけで返事が出来ない。他の女人達は抱き合うような恰好《かつこう》で寄り添っていた。入鹿は彼女達に命令した。
「女人の長は誰か、前に出ろ!」
入鹿は女人達を睨みつけた。入鹿は眉が濃く眼が大きい。それに眼光が鋭いので、入鹿が睨むと鬼神のような顔になった。女人達は口を開くことが出来ずに立ち竦んでいた。
「吾君……」
入鹿の後ろに居た雀が低い声でいった。
入鹿が振り返ると、雀は視線を伏せ、頭を上げた。何時も一緒に居るので、雀の気持は良く分る。雀は相手は女人だから、余り怒鳴ると恐怖で声が出ない、といっているのだった。若くて凛々しい武人の雀は、女人達に好意を寄せられることが多い。
入鹿は苦笑すると声を和らげた。
「少し訊きたいことがあるのじゃ、女人達にも長は居る筈、それとも長は居ないのか?」
思い切ったように年輩の女人が前に出た。
首に青い石を連ねて巻き、上衣は白く裾は蝦茶《えびちや》色だった。髪は耳の後ろでたばねていた。俗にいう束髪である。
入鹿は彼女に、このようなことを、毎日するよう舂米女王に命じられたのか、と訊いた。
「はい、雨の日以外は、病める者達に食物を与えるよう、おおせつかりました」
覚悟を決めたのか、年長者だけにはっきりした口調で答えた。
「そうか、女帝の新宮や仮宮の造営にたずさわっている者達にもか?」
「いいえ、百済大寺の使役で、病んだ者達だけで御座居ます」
「それは妙ではないか、山背皇子の父、廏戸《うまやど》皇子は病める者達に対して、そのような区別をなされたかな?」
入鹿は薄嗤《うすわら》いを浮べていた。
女人の長は、一瞬詰まったように視線を伏せた。もしうかつな返答をしたなら、どんなことをいわれるか分らない、と思ったのだろう。顔を伏せたまま黙り込んでしまった。入鹿は返事が出来ないのか? といったが、女人はお許し下さい、と答えるのみだった。入鹿は眼を斑鳩宮の方に向けた。
「山背皇子に伝えておけ、このようなことをされると、百済大寺や、女帝の宮の工事は遅れるばかりじゃ、とな、分るか、皆、働くのをやめて寝転がって粥を待つようになる、仮病の者が続出する、分ったな、分ったら返事をしろ!」
入鹿の眼は憤怒で燃えていた。
入鹿が、山背大兄皇子を、このまま放っておくわけにはゆかない、と決意を固めたのは、粥をやっている女人達の行為に、蘇我本宗家に対する上宮王家の挑戦を感じたからだった。
入鹿はその日、軽王《かるのきみ》に、山背大兄皇子は明らかに、女帝と蘇我本宗家に対して挑戦している、と告げた。軽王は入鹿の意見に同調した。
軽王も入鹿と同じように、帰国した学問僧達から、大唐についての知識を得ていた。
軽王は、これまでのように朝鮮三国だけではなく、唐との外交が必要なことを痛感していた。対唐政策上からも、女帝のために大きな宮が必要だ、と考えていたのだ。だから、軽王は軽王なりに、新しい時代の流れを読み取っていた。その点寿国を夢みている山背大兄皇子や、硬骨漢の|大 派 王《おおまたのおおきみ》には、入鹿や軽王のような時代感覚がない。
入鹿と軽王は、山背大兄皇子をののしり、時代の流れを論じながら酒を汲みかわした。入鹿は軽王が大王位に執着していることを知っていた。女帝の弟である軽王は当然、次の大王になる資格がある。
だが、大臣蝦夷は古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子を大王にしようと考えていた。いうまでもなく古人大兄皇子は蘇我系の皇子である。
その点入鹿は、将来、自分が皇帝になり、倭国の政治権力を一手に握りたい、という大きな野心を抱いていた。だが現在の状態では、天神地祇の祭祀権を持った王にはなれない。だから入鹿は、兎《と》に角《かく》、政治権力を一手に握る皇帝に先ずなりたい、と考えていたのだった。政治権力さえ完全に握れば、祭祀権を持つ大王が別に居ても、そんなに恐れる必要はない。そして皇帝の地位さえ確固としたものになれば、神祇の最高司祭者の地位など何時でも剥奪出来る。その時こそ、天子であると同時に皇帝でもある大王が生れるのだ。
ただ皇帝になるには、蘇我本宗家に刃向う者は斃《たお》し、近付いて来る者は利用し、味方にしなければならない。軽王のような人物こそ、最も利用し甲斐のある人物である。
だが軽王は愚鈍ではない。軽王が入鹿に近付いているのは、たんに難しい時代の流れを二人が認識しているからだけではなかった。
軽王は女帝の後の大王位を狙っていた。
勿論入鹿はそのことを良く知っている。だから軽王に対し、古人大兄皇子は、時代感覚がなく、自分は大王に推す気はない、とそれとなく期待を抱かせていた。
だが入鹿は、軽王を大王に推す積りはなかった。何故なら軽王は、入鹿の傀儡《かいらい》になり、入鹿の意のままに動く人物ではないからだ。
三日後、入鹿は軽王の屋形を訪れた。
軽王の屋形は柵に囲まれ、門には兵が居た。入鹿の来訪を知った軽王は、階段の上の板の間まで姿を現した。高床式の大きな屋形は回廊によって取り囲まれている。屋形の裏側には広い板の間(現在のベランダ)が北方に突き出ていた。春、夏、秋など気候の良い日は、この板の間で酒宴を開いたりする。
蝦夷が住んでいる豊浦の屋形にも広い板の間が造られている。だが屋根や壁もないので、冬の季節の酒宴は屋内で行われる。板の間は柵で囲まれているが、柵には洗濯物が干されていた。
軽王の後ろから現れた若い女人が膝をつき入鹿を迎えた。阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》の娘|小足媛《おたらしひめ》で、四年前軽王の妻になっていた。生れた子供の有間皇子はすでに三歳になっていた。
十九歳の小足媛は、まるで東国の蝦夷の血が交っているように色が白く眼が大きい。
入鹿は一人、刀を吊《つ》ったままゆっくり階段を上った。軽王と会釈を交わした入鹿は微笑を浮べながら小足媛に声を掛けた。
「今日は遊びに来られたのか?」
小足媛は緊張した面持ちで頭を下げた。
「ああ、姉が有間皇子の顔を見たいというので、昼、宮に連れて行った、もう帰るところじゃ、小足媛、有間皇子を連れて参れ」
軽王は時々皇極女帝のことを、姉と呼び捨てにする。実の姉だから呼び捨てにしてもおかしくないが、矢張り大王である。軽王は呼び捨てにすることで、女帝の実弟であることを強調したいのだろう。
小足媛は、奥の部屋で遊んでいたらしい有間皇子の手を取って連れて来た。
「有間皇子、蘇我大郎が来られた、挨拶してみろ、名を名乗るのじゃ」
軽王は眼を細めて有間皇子の頭を撫でた。
だが有間皇子は、恐ろしそうに小足媛の腕の中に逃げ込み、母親似の大きな眼を見開いたままであった。小足媛が有間皇子に、名を名乗るようにいった。有間皇子は小足媛の腕の中で、入鹿の眼を見詰めながらいった。
「有間皇子です」
女性のような声だった。そして有間皇子は小足媛の胸に顔を埋めてしまった。
「おお、なかなか利発な皇子じゃ、大王もお喜びになられたに違いない」
「母上、もう帰りたい」
そういうと有間皇子はまた入鹿の方を見た。大きな眼を見張り、何者なのか観察するような眼であった。
熊の毛皮の上で胡坐《あぐら》をかいた入鹿は哄笑しながら有間皇子に腕を差し伸ばしたが、有間皇子はまた小足媛の胸に顔を埋めてしまった。
軽王と小足媛の間に生れた有間皇子は斉明四年(六五八)、中大兄皇子に対する謀反の罪で捕まり、紀の国で首をくくられ、殺された。僅か十九歳だった。
勿論、皇極四年(六四五)、中大兄皇子達に殺された入鹿はそのことを知らない。
「どうも、脆弱《ぜいじやく》なので困る」
軽王は弁解するようにいった。
「いや、これからは頭の時代じゃ、有間皇子も、きっと優れた皇子になられるだろう」
入鹿は何故か穏やかな気持で、有間皇子を眺めていた。
小足媛と有間皇子が従者に守られ実家に帰った後、入鹿は軽王に、山背皇子が、百済大寺の造営で倒れた使役の民達に粥をほどこしていたことを強調した。これは女帝と蘇我本宗家に対する嫌がらせ以外の何物でもない、と入鹿はいった。軽王も同調したが何時ものように、山背大兄皇子をののしる声に力がない。女帝と会った際、女帝に何かいわれたに違いない、と入鹿は感じた。
そういう点、入鹿の嗅覚は鋭かった。
「軽王、山背皇子に忠告され、大王は動揺されているというが、どのような御様子だった?」
軽王は女人を呼び酒肴を運ばせた。肴の中には阿倍倉梯麻呂が軽王に贈った燻した鮭《さけ》などもあった。当時は、なかなか手に入り難い食物だった。
入鹿は最近、比較的自由に女帝と会っているが、軽王には及ばない。何といっても軽王は女帝の弟であり、会いたい時に百済宮に行って女帝と会うことが出来る。肉親の安易さから、女帝は入鹿にいい難いことも軽王に話す。だから入鹿は、軽王から女帝の真意を知ることが出来た。
女人達が酒壺の酒を、軽王や入鹿の酒杯に注いだ。
「いや、動揺というより、姉上は山背皇子に憤りを抱いたようじゃ、何といっても百済大寺の造営は亡き大王の御遺志だからのう、ただ、板蓋宮、百済大寺、姉上の仮宮と三つの工事を同事に行っておる、使役の民が足りぬ、それに一番工事が進んでいないのは百済大寺じゃ、姉上は百済大寺の造営に従事しておる使役の民が少ないのではないか、と吾にいわれた、だから病人が多く出るし、山背皇子が文句をいってくる、越《こし》の国の民の徴発が計画通り進んでいない、だからこの際、阿倍倉梯麻呂を百済大寺の造営の長官として、越の国の民をもっと徴発すべきだ、というのが姉上の考えのようじゃ」
軽王の意気が上らないのも無理はなかった。現在、百済大寺の造営の長は東漢長直阿利麻である。蘇我本宗家の配下であった。阿利麻は確かに造営の技術には勝れているが、阿倍倉梯麻呂のような大豪族ではない。徴発した越の民や東国の蝦夷を自由に使いこなせない、げんに百済大寺の造営工事に従事させられた使役の民の中には逃亡者が続出していた。
新宮板蓋宮の宮造の長は書直県だが、大臣蝦夷が命令を下したので、入鹿は東漢氏の兵士達を動員し、逃亡者を監視させていた。だが百済大寺の造営は女帝の意志であり、大王家の問題だった。だから逃亡者を監視する兵は出していない。
大臣蝦夷は入鹿の説得で渋々百済大寺の造営を許可したのである。蝦夷や入鹿にとって大切なのは百済大寺よりも女帝の宮となる板蓋宮だった。
入鹿は眼を閉じ酒杯の酒を一息に飲むと、荒々しい息を吐いた。
「困ったものじゃ、山背皇子が、くだらないことを大王に告げ口したため、大王は焦り始めた……」
入鹿は空の酒杯を持ち眼を閉じたまま動かなかった。入鹿の脳裡に倒れた病人達に粥をやっている斑鳩宮の女人達の姿が浮んだ。女人達の後ろには、倭国の政治を監督し、蘇我本宗家の専横を押えるのは吾しかない、と胸を張っている山背大兄皇子が居た。自分の発言は仏の発言であり、自分には仏が付いていると信じ切っているだけに危険な人物だった。これからも、何をいい出すか分らない。
山背大兄皇子の母は入鹿の祖父|馬子《うまこ》の娘で蝦夷の姉の刀自古郎女《とじこのいらつめ》だった。だから入鹿にとって山背大兄皇子は従兄弟である。だがそういう血縁関係は、入鹿にとっては無縁だった。いや血縁関係を楯《たて》にして、何かと蘇我本宗家に反撥して来る山背大兄皇子は、眼の上の瘤《こぶ》であった。
入鹿はかっと眼を見開いた。
軽王は入鹿に睨みつけられたと思ったのか、ぎょっとしたはずみに酒が気管に入り、咳《せ》き込んだ。女人が驚いて軽王の背中をさすった。
「吾に酒じゃ」
入鹿はぼんやりしている女人に激しい口調で命じた。そして軽王の咳がおさまるまで、ゆっくり酒を飲んだ。
「軽王、百済大寺の造営は推古女帝と上宮王家《じようぐうおうけ》、それに亡き大王の御遺志でもある、いってみれば大王家内部の問題じゃ、寺工達の監督の長は東漢長直阿利麻でもよいが、寺の工事を進めるにはもっと大きな力が必要じゃ、軽王も大王の弟王、この際、軽王が姉上と相談し、百済大寺造営の長官を決められては如何かな、阿倍倉梯麻呂なら、最適任者と吾は思う、だからこの際、吾は百済大寺の造営から手を引く……」
入鹿から思い掛けない言葉を聴いた軽王は、安堵と喜びに相好《そうごう》を崩した。
入鹿はそんな軽王を眺めながら、吾よりも腹の底の浅い人物だな、と苦笑した。
「だが、それには条件がある、武蔵国にある上宮王家の乳部《みぶ》の民を使役の民として徴発する、もしこの条件を大王が認めたなら、吾は大臣を説得し、百済大寺の造営長官の任命権を大王に与えよう、吾が直々《じきじき》大王に話しても良いが、それよりも軽王からいっていただいた方が、角《かど》が立たなくて良い」
乳部というのは皇子に与えられた養育地である。つまり皇子の直轄地のことだ。山背大兄皇子の父聖徳太子の乳部は武蔵国にあった。山背大兄皇子は父の乳部を引き継いでいたのだ。乳部の長は新羅からの渡来氏族である吉士《きし》氏である。聖徳太子が寵愛した難波吉士の支族でもあった。なお武蔵国には大王家の屯倉《みやけ》が多い。北武蔵の横渟《よこぬ》屯倉の管掌者も吉士氏であった。
「申し上げることは申し上げる、姉上は山背皇子を嫌っているから承諾されるだろう、ただ、阿倍倉梯麻呂は、余り良い顔をしないと思う、難波吉士とは仲が良いからのう」
「だが百済大寺の建立は推古女帝と上宮王家の遺志じゃ、斑鳩宮の乳部の民を徴発してもおかしくない、だいたい、今度の再建に、山背皇子は文句をいうだけで、何もしていない、懲らしめのために、絶対必要だ、と吾は思う」
こういう時の入鹿の口調は独裁者的であった。それに入鹿のいい分には筋が通っていた。山背大兄皇子は何もしていない。使役の病人に粥を与えるなど、嫌がらせ以外の何物でもなかった。
だが軽王は入鹿の意図を見抜いていなかった。入鹿は上宮王家の乳部の民を徴発したなら、その民を使い、葛城の南部の今来《いまき》に、父と自分との墳墓を造ろう、と密《ひそ》かに考えたのだった。直情径行な山背大兄皇子が黙っている筈はない。蘇我本宗家に対して牙《きば》を向いて来るのは間違いなかった。その時こそ、山背大兄皇子とその一族を殲滅《せんめつ》出来る絶好の機会がやって来る、と入鹿は判断したのである。
入鹿は雀と馬を並べ、軽王の屋形から豊浦の屋形に向った。茜色《あかねいろ》の夕映えに染まった大和三山の雄姿は薄紫に羞らうような淡紅色を交えていたが、冬の日は暮れるのが早い。横大路から中つ道に出た頃、空は暗くなり微かな残光に山々は薄墨色に染まっていた。すでに大きな雲塊と雲塊の間に蒼白い月が凍りついたような顔を覗かせていた。
「吾君大郎、何か御心配ごとでも?」
雀が不安そうな眼を入鹿に向けた。
そういえば今日の入鹿は何時ものように馬を飛ばさなかった。東漢氏の兵士達も気が抜けたような顔で入鹿の後ろから付いてくる。
「心配するな、考えることが余りにも多くて、馬を飛ばさなかったのじゃ、吾にとって来年は大変な年になる、雀、吾の名は多分、後の世まで残るであろう、そうなのだ、今の倭国にとって必要なのは、独裁者的な王者じゃ、それが分らぬ者は、時の流れを知らぬ」
「吾の生命は、吾君大郎に捧げております」
「雀、吾は敗けぬ、吾が王者になった時、そちは大夫《まえつきみ》じゃ、いや、倭国の大将軍かな、さあ、今から馬でも飛ばすか……」
入鹿の言葉が終らぬうちに、雀は振り返り、鞭を持つと兵士達に、行くぞ、と大声で叫んでいた。
豊浦の屋形に戻った入鹿は大臣蝦夷に会い、今日の出来事を詳しく報告した。入鹿が父に説いたのは、大王家内部のことは、大王家にまかせておけば良い、ということだった。
その代り政治権力は蘇我本宗家が握る、それが来年の蘇我本宗家の最大の課題だ、と入鹿は力説したのだ。つまり、大王家と蘇我本宗家との分離である。例えば大臣《おおおみ》の位は独立したもので、大王が授けるものではない。大臣が適任者に授位すれば良い。また大臣は参朝する必要はなく、自分の好きな場所で政治を執れば良い、というまさに革命的な構想だった。
黙って聴いていた蝦夷は酒杯を置くと腕を組んだ。舒明が亡くなり|宝 皇女《たからのひめみこ》が女帝になってから蝦夷は殆ど参朝していない。
とくに今年になってから、蝦夷が百済宮を訪れたのは百済の翹岐《ぎようき》王子と亡命貴族達を女帝に会わせた時だけだった。朝鮮三国の使者達は難波の館に滞在し、大夫達が彼等の報告を聴き、饗宴する。
使者達の位が高位の場合は、畝傍《うねび》の屋形に呼び、蝦夷が直々饗宴する。
だから王族クラスの使者達も、百済宮を訪れ、女帝と会うことはめったになかった。
これは大臣蝦夷が女帝を完全に無視したからではない。女帝はまだ亡き大王の喪に服しており、海外の使者と公の場所で会うことが出来なかったからである。
だから、海外使者との応対は、蝦夷の命令で大夫達が行っていたのだ。いうまでもなく、大夫達の中で一番の権力者は入鹿だった。
「入鹿、そちのいうことは吾にも分る、ただ、それには色々と問題がある、例えばじゃな、亡き大王の送葬が終り、現大王が新しい宮に移ったらどうなる? 吾も今更参朝する気はないが、群臣はどう思うかな?」
「父上、その時は大臣の紫冠を吾に与えて下さい、吾が大臣として、海外使者と会い、父上の命令を伝達します、国内の政治については有力豪族と会っていただければ結構です、つまり、父上は大臣の上の大臣、いってみればもう大王です」
「大変なことを考えておるな、だが新しい宮が出来、現実に大王がそこに住んでいる以上、海外の使者を大王に会わせないわけにはゆかないだろう、百済の義慈王は、百済王は倭国に居る翹岐王子だ、と吾が宣言しておるので、女帝など問題にしていないから良いが、他の諸国はそうもゆくまい、また群臣も納得しないだろう」
「だから高位の使者の場合だけに限ったらよいでしょう、普通の使者なら、今迄通り、吾と大夫達が難波の館で会えばよい、どうしても参朝したい、という使者があれば、父上が畝傍の屋形で、大王の代理として会われるのです」
「成る程、それも一理じゃ、この問題については吾もよく考えてみよう、大王が喪に服していたおかげで、宮に行かなくなったが、怠け癖というのは恐ろしい、この頃は参朝のことなどを考えただけで億劫《おつくう》じゃ、吾がそちに大臣の紫冠を与える、ひょっとしたら倭国に二人の大王が存在することになるかもしれぬ」
「いや、二人の大王ではない、神祇の最高司祭者である大王と、政治の最高権力者である皇帝です、これなら争いは起らないでしょう、つまり、父上は皇帝になる……」
「皇帝か、大唐の学問を勉強したそちが考えそうなことじゃ、だが群臣の中には、相変らず大王家を蘇我本宗家より、一段も二段も上に見ている者が多いぞ、それに上宮王家に心を寄せている者も居る筈じゃ、入鹿、そちはまだ若い、決して焦るなよ」
「分っております、だからこそ、大王と軽王を吾は放さない、軽王には、次期大王はあなただ、と匂わせてあります」
「馬鹿な、次期大王は古人大兄皇子じゃ」
蝦夷はとがめるように入鹿を見た。
入鹿は笑みを浮べながら父を見返した。
「勿論です、大王は皇帝の傀儡《かいらい》でなければならない、近い将来、大王の地位など、皇帝に較べて問題にならない程低下する、そのためにも古人大兄皇子は利用価値がある、父上、吾は蘇我本宗家の大郎です、安心して下さい」
そういうと入鹿は笑みを浮べたまま、たくましく盛り上った自分の胸を叩いたのだった。
皇極元年(六四二)十一月下旬百済大寺造営の長官として阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》、副長官には穂積臣百足《ほづみのおみももたり》が新しく任ぜられた。
上宮王家の乳部《みぶ》の民を武蔵国から徴発する件について、阿倍倉梯麻呂は難色を示した。軽王は蘇我大郎入鹿の意向でもあるし、大王も承諾していることだから、と説いたが、蘇我本宗家に反感を抱いている阿倍倉梯麻呂は、なかなか納得しない。軽王に、王は入鹿に利用されているのではないか、といい、大臣《おおおみ》蝦夷、大夫《まえつきみ》入鹿に対する反撥の気運が大派王や大王家の軍事氏族の間に起りつつある、と告げた。阿倍倉梯麻呂は軽王と入鹿の親交を知っているだけに慎重に話した。大派王や軽王の身に危険が生じる恐れがあるので女帝の雨乞いが成功した真相には触れなかったが、それとなく、余り蘇我本宗家と親しくしていると、利用されるだけで損だ、と匂わした。
女帝は偉そうに忠告する山背大兄皇子に不快感を抱いており、上宮王家の乳部の民の徴発に賛成していた。それに有力豪族である巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、|大伴 連 馬飼《おおとものむらじうまかい》など百済宮に参朝せず、豊浦の屋形に出入りし、大臣蝦夷の機嫌を取っている。
軽王は阿倍倉梯麻呂に、蘇我本宗家に反抗することは非常に危険だ、と自分の意見を述べた。そして、自分が入鹿と親しくしているのは、大王位を狙っているからだ、と腹の中を打ち明けたのである。何といっても小足媛《おたらしひめ》の父だけに、警戒心が薄らぐ。
「阿倍倉梯麻呂、ここはよく考えて欲しい、確かにそなたが申すように大臣や大夫に反感を抱いている者は多いかもしれない、だが、山背皇子に対する群臣の反感はもっと強い、上宮王家の乳部の民を徴発しても、怒る者は殆ど居ない、もし居るとすれば、|膳 臣《かしわでのおみ》、それに舎人《とねり》を出している三輪君氏の一族、上宮王家と関係の深い難波吉士氏やその支族ぐらいなものじゃ、彼等の現状をよく視ろ、亡き大王の時代と違って、三氏族とも完全に政治から疎外されておる、位も低い、そなたは武人としては勝れた将軍だが、政治に対してはまだまだ眼が足りぬ、今、大臣や大夫に反抗するのは危険じゃ、吉士氏と仲が良いそなたとしては情に於て忍び難いところがあるかもしれぬ、だが今度は私情を捨てて欲しい」
軽王は諄々《じゆんじゆん》と説いた。
何といっても阿倍倉梯麻呂より軽王の方が政治家としての感覚は勝れていた。また学もある。
四十半ばを過ぎ、額に深い皺《しわ》を刻んだ阿倍倉梯麻呂は、軽王の弁舌の前で返す言葉もなく項垂《うなだ》れていたが、思い切ったように顔を上げ、この件に関し、女帝は本心から承諾されているのか、と訊いた。
「ああ、吾は嘘はいわぬ、何なら今から姉上に会いに行っても良い、勿論山背皇子はこのことを知らぬ、知れば激怒するだろう、だが非は山背皇子にある、何故なら百済大寺の再造営に力を貸さない、いや、かえって邪魔をしている、姉上に、工事を遅らすように忠告したり、病んだ使役の民に粥など与え、嫌がらせをしておるのじゃ」
阿倍倉梯麻呂は心を決めたのか、軽王に頭を下げた。
「分りました、ただ上宮王家の乳部の民を吾が徴発することは出来ません、大王の詔《みことのり》か、大臣の命令をいただきとう御座居ます」
阿倍倉梯麻呂の要求は尤《もつとも》もだった。
軽王は承諾した。
ただ軽王としては女帝の詔よりも、大臣の命令で徴発したかった。何故なら、今度の大工事は、蘇我本宗家よりも女帝の意志が強く働いているという噂が立ち、群臣の中にも、女帝を批判する者が居たからだった。
翌日軽王は豊浦の屋形に出向いた。入鹿は意外にも女帝に会いに百済宮に行っている、という。軽王は入鹿に先を越された思いで、慌てて百済宮に馬を走らせた。
女帝は大殿で、入鹿と愉し気に談笑していた。軽王はこの頃の女帝が何となく艶《つや》っぽくなったような気がしていたが、今日の女帝を見て、はっと息を呑んだ。まだ正式の送葬が終っていないにも拘らず女帝は唇に鮮やかな紅を塗っていた。女帝の頬は紅潮し眼が潤んでいる。軽王は、見てはならないものを見たような気がした。
「軽王、大夫《まえつきみ》は今、朕の胸が晴れるようなことを申していたのです、何だかわかりますか?」
「さあ、吾には……」
「斑鳩宮に使者を出し、山背皇子を呼びつけ、乳部の民の徴発をこの場で申し渡せば良い、と教えてくれたのじゃ、大夫もこの場に居てくれるそうです」
女帝の口調には、今にも使者を出しそうな意気ごみが感じられた。軽王は慌てて、女帝と入鹿を見較べながら、それでは余りにも角が立ち過ぎる、といった。入鹿は一瞬軽王を見据えたが、直ぐ肩を揺すって哄笑した。
「吾は戯れに申し上げたまでじゃ、別に呼びつけなくても、詔を出されるだけで良い」
「大夫、そのことだが、出来れば大臣《おおおみ》の命令もいただきたいのじゃ、阿倍倉梯麻呂も、それを願っておる」
軽王としては、そういうより仕方なかった。軽王は今、その件で豊浦の屋形を訪れ、大夫が宮に来ていることを知って慌てて駈けつけた、と説明した。
途端に女帝は顔色を変えた。
「軽王、朕の詔だけでは駄目だ、というのですか?」
「いや、そういうわけではありません、ただ、大王の詔と大臣の命令があれば、斑鳩宮の皇子も、それは許せぬ、と宮に乗り込んでは来れない、と思ったからです」
軽王の言葉が終らぬうちに入鹿は大きな声でいった。
「軽王が申される通りです、馬鹿な皇子だから何をいいに来るか分らぬ、そんなことで大王が悩まれると思うと、それだけで吾も腹が立つ、大臣の命令書は間違いなく吾が引き受けます、軽王が大王の詔と同時に、それを阿倍倉梯麻呂に渡せば良い、何も山背皇子に伝えなくても良い、大王、ああいう皇子は無視なさるのが一番です」
入鹿は軽王が傍に居るにも拘らず、熱っぽい眼を女帝に注ぐのだった。
女帝が百済大寺造営のため、上宮王家の乳部の民を徴発する詔を出し、大臣蝦夷がその命令を山背大兄皇子に伝えたのは十二月一日だった。事前に何の知らせも受けていなかった山背大兄皇子は入鹿の予想通り激怒して百済宮に押し掛けて来た。
宮を警護していた佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》は、女帝の意を受けていたので、山背大兄皇子を宮に入れなかった。
佐伯連子麻呂は宮廷警護長だった。
「大王の御命令です、上宮王家の皇子であられようと、宮にお入れするわけには参りません、どうかお戻り下さい」
「本当に大王の御意志か?」
山背大兄皇子は悲痛な声でいった。佐伯連子麻呂の傍には、数人の舎人達が山背大兄皇子を睨みつけていた。華やかな女帝の笑い声が聞えて来た。女人達が大殿正面の戸口から覗いている。山背大兄皇子は屈辱感に塗《まみ》れながら、自分が完全に孤立してしまっているのを感じたのだ。東国から来た舎人達の中には、刀に手を掛けている者さえいた。山背大兄皇子は、宮廷警護長|三輪君逆《みわのきみさかふ》の制止も諾《き》かず、炊屋姫《かしきやひめ》に会うべく、宮に入って行ったという穴穂部《あなほべ》皇子の話を思い出した。あの時、穴穂部皇子には物部守屋という有力な味方が居た。だが、今の山背大兄皇子には、物部守屋に匹敵するような味方は居ない。居るとすれば|大 派 王《おおまたのおおきみ》だが、王には物部守屋のような軍事力はない。それに山背大兄皇子は流石に穴穂部皇子ほど馬鹿ではなかった。
「また参る、その時は是非お会いしたい、と大王に申し上げておいて欲しい」
「はい、お伝え致します」
佐伯連子麻呂は沈痛な眼を山背大兄皇子に向けた。佐伯連子麻呂が嫌っている蘇我大郎入鹿は、まるで女帝の肉親のように、自由に宮に出入りしているのだ。佐伯連子麻呂は、馬に乗り悄然《しようぜん》と去って行く山背大兄皇子を眺めながら、不運な皇子だ、と憐みさえ感じたのであった。
宮廷警護長に同情されるようでは、もはや山背大兄皇子の命運は尽きた、といっても良い。
山背大兄皇子が女帝に面会を強要し、女帝に撥ねつけられた、という噂は瞬く間に群臣の間に拡まった。
武蔵国にある上宮王家の乳部の民を大和まで連れて来るのは来年の春である。その民を大臣蝦夷と自分の墳墓の造営に使えば、山背大兄皇子はどんなに激怒するだろうか。その時こそ、馬子以来、蘇我本宗家と対立して来た山背大兄皇子を始め、上宮王家の一族を殲滅する絶好のチャンスがやって来るに違いない、と入鹿はほくそ笑んだのだった。
だが、総ての有力者達が、山背大兄皇子を嘲笑《ちようしよう》したのではない。同じ王族として大派王は女帝の行動を苦々しい思いで眺めていた。
まだ正式の送葬が終っていないのに、女帝は入鹿と一緒に造営中の板蓋宮を観《み》に行ったりしている。大派王には、女帝の行動がはしたなく思えた。女帝が早く自由な身になりたがっているのを大派王は知っていた。
大派王は、この際、送葬を早く済ましてしまった方が良い、と判断した。幸い亡き大王も女帝も蘇我系ではない。息長《おきなが》系だった。舒明は押坂彦人《おしさかのひこひと》大兄皇子の子であり、女帝は皇子の孫で、父は茅渟《ちぬ》王である。
押坂彦人大兄皇子は、敏達《びだつ》と息長|真手王《まておう》の娘広姫の間に生れた。押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子と物部守屋が対立し、一触即発の時期に不審の死をとげた。物部守屋は、穴穂部皇子よりも押坂彦人大兄皇子を味方に抱き込もうとしていたから、皇子は馬子に殺された可能性が強い。だが皇子の死の真相は闇に葬られたままである。
大派王は送葬の誄《しのびごと》の順位で、蘇我本宗家を見返してやろうと考えた。
亡き大王の殯《もがり》の儀式の誄は、大王と女帝との間に産まれた中大兄皇子(葛城皇子)が述べている。とすると、今度は女帝の弟の軽王が最初に誄をするのが自然である。中大兄皇子には弟の大海人《おおしあま》皇子が居るが、まだ十二歳だから誄は無理であった。
大派王は軽王の屋形に行き、女帝が入鹿と出歩いたりしているので、正式の送葬を早く済ませた方が良い、と進言した。
軽王も軽々しく出歩く女帝の行動を何処か苦々しい思いで眺めていた。だが入鹿と一緒の時が多いので、出歩くな、と忠告出来なかった。
軽王は入鹿に睨まれるのを一番恐れていたからであった。軽王は大派王に、送葬の件に関しては自分も同じ考えだ、と返答した。
すると大派王は膝を進め、今度は二度目の誄でもあるので、軽王が最初にすべきだ、と自分の胸の中を打ち明けた。大派王は『新撰姓氏録』にあるように敏達の孫と解釈したい。王族の長老格の大派王は豪毅な性格で、舒明が最も信頼していた王族だった。軽王は慌ててそれは困ると返答した。何故困るのか、と大派王が詰め寄ったので、軽王は、そういうことをすれば、次期大王位を自分が狙っている、と群臣に思われる。今のところ自分にはその意志がないから、群臣に変な疑いを掛けられたくない、と心境を説明した。
「軽王、群臣よりも、蘇我大郎に遠慮なさっているのじゃろう?」
と大派王は痛いところを突いて来た。
軽王は思わず顔を赧らめた。
「吾は蘇我大郎とは確かに仲が良い、学問の話をしても合うし、時代の流れを読み取る眼も同じじゃ、だが、何も遠慮しているわけではない、大派王、亡き大王は奇妙な遺言をされた、大派王も存じておる筈じゃ、亡き大王は、山背皇子、葛城皇子の名を口にされた、それで揉《も》めて吾の姉が女帝となったのじゃ、群臣は、その間のいきさつをよく知っておる、次期大王について、大王には大王の意向が、大臣には大臣の考えがあるだろう、こういう微妙な時期に、吾が最初に誄をすれば、女帝や、群臣にあらぬ疑いを掛けられる、それよりも大派王、王は王族の中で最年長者じゃ、それに亡き大王とは親しかった、何なら大派王が最初になされては如何かな……」
軽王は冗談半分にいったのだった。ところが大派王は真顔で、大王さえ承諾されるなら、自分が最初にしても良い、と答えたのだ。大派王は唖然《あぜん》としている軽王を見て、これから宮に参り、大王の御気持を訊こう、と腰を上げていた。
老人は短気だから困る、と軽王は苦笑しながら、大派王と共に女帝に会い、誄の順位について、大派王の意見を述べた。
今日の女帝は機嫌が良かった。小墾田《おはりだ》の仮宮の造営がほぼ完成し、今年中に移れる見透しがついた、という報告が入鹿からあったからである。
女帝は早く百済宮を出、仮宮で良いから、自由に過したい、と望んでいた。その自由が眼の前に迫っているのだ。女帝の機嫌が良いのも無理はなかった。
「朕は構わぬ、大臣と大夫には知らせるのですね?」
と女帝が念を押すようにいった。
軽王が思わず視線を逸《そ》らせると、大派王は、誄は大王家内部の問題だから、大臣に計る必要はない、と答えた。
「大王、大王は蘇我系の大王では御座居ませぬぞ、そのことを良く御考え下さい」
大派王の声はしわがれており、その口調は説教じみていた。それだけに大派王は真剣だった。まさに老いの一徹である。
女帝は、突然少女のような声で笑った。年齢に似合わない甲高い声だった。大派王は、女帝のこのような異常な笑い声を初めて耳にした。
舒明が生存中も、女帝はこんな声で笑ったことがなかった。
「大派王、軽王、今度は二度目の誄じゃ、本人が出る必要はない、代理の者で良い、軽王、朕の意向を蘇我大郎に伝え、大臣の了解を得て欲しい、大王家内部の問題だからといって、大臣を無視するわけにはゆくまい……」
大派王は女帝に旨《うま》く逃げられたような気がした。その点軽王は、代理の者が誄をするなら、入鹿も納得するだろう、と胸を撫で下ろした。大派王は思わず顔がゆるんだ軽王を皮肉な眼で見た。大王家の地位の低下を憂えて来た大派王は、この際、大王家の威厳を蘇我本宗家に再認識させる必要がある、と決意していたのだ。
大派王は、立ち上り掛けた女帝に、今暫くお待ち下さい、と大声で叫んでいた。
「大王、亡き大王や大王にも、息長氏の血が流れておる、この際、息長氏の者に、日嗣《ひつぎ》の誄を、述べて貰い、このことをはっきりさせる必要がある、と吾は思っておりますぞ」
女帝は政治に関しては余り関心がないが、自分が息長氏系の大王であることを意識していた。
日嗣の誄は大王が位についた事情を述べる誄であった。女帝は困惑したように顎鬚を撫でている軽王に、そなたはどう思う? と質問した。
「大臣がどう思うか、問題じゃ」
と軽王は呟いた。
「軽王、大臣、大臣と何故そんなに気を遣われる? 今度の誄の儀は、大王家内部の問題ですぞ、大臣の権限外じゃ」
「それはそうだが……」
女帝は入鹿と親しい軽王の立場を良く理解していた。
女帝は暫く、大派王と軽王を見較べていたが、決心がついたように大きく頷いた。
「軽王、大派王が申すことは尤もじゃ、日嗣の誄は息長山田公に述べて貰います、その件についは蘇我大郎も交え、朕の気持を伝えたい、明日の朝、もう一度参るように……」
大派王は、何も入鹿を呼ぶ必要はない、と反駁《はんばく》したが、今度は女帝は諾かなかった。
「これは朕の意志じゃ」
そういうと女帝は控えていた女人を連れて、内裏に入ってしまった。
軽王には、女帝の気持が分らなかった。一体、入鹿にどう説明する積りだろう、と不安でもあった。軽王は昼過ぎ、一人で百済宮を訪れ、女帝と会ったのだ。
女帝は軽王に、自分の気持を説明した。
亡き大王舒明を大王に推したのは大臣|蝦夷《えみし》であった。その時のライバルが山背大兄皇子である。蝦夷は舒明を大王にするため、山背大兄皇子側に付いた叔父の境部臣麻理勢《さかいべのおみまりせ》を滅ぼしている。つまり、大臣蝦夷は蘇我氏の一族を滅ぼしてまで、舒明を大王に推したのである。蝦夷が最も嫌ったのは、山背大兄皇子が大王になることだった。
女帝は笑顔さえ見せながらいった。
「日嗣の誄で、亡き大王を強く推した大臣の徳を褒めれば良いではないか、斑鳩宮の皇子はまだ大王位に執着があるようだが、日嗣の誄で、その資格がないことをはっきりさせる、このことを明日、蘇我大郎と息長山田公に朕が申します、大臣も納得する」
軽王は改めて女帝の賢明さを見直した。自分の姉であるところから、軽王は女帝を矢張り甘い眼で眺めていた。だが女帝は軽王が思っていたよりも、ずっと賢かった。ただ、日嗣の誄をする以上、当然押坂彦人大兄皇子も登場するし、息長氏の系譜も述べることになる。
息長山田公は、推古女帝時代、蘇我馬子と聖徳太子が作った『大王記・国記』に息長氏の系譜が余り重要視されていないことに不満を抱き、独自で息長氏の系譜を纏《まと》めていたのだ。
「軽王、分っておる、朕にも亡き大王にも息長氏の血が流れています、だが大臣はそれを知っていて亡き田村《たむら》皇子を、大王に推した、そのことは充分自覚している筈じゃ、それに蘇我大郎は朕に好意を抱いている、軽王、そなたは、もっと堂々と蘇我大郎と付き合うべきです」
軽王は女帝に忠告され、励まされて屋形に戻ったのだった。
女帝の作戦は成功した。
入鹿は日嗣の誄で、大臣蝦夷に対する讃辞が送られることを知り、納得したのであった。
十二月十三日、亡き大王の正式の送葬が行われた。諡号《しごう》は息長足日《おきながたらしひ》 |広額 大王《ひろぬかのおおきみ》であった。大派王の代理として最初に誄を述べたのは巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》で、軽王の代理者は粟田臣細目《あわたのおみほそめ》だった。そして|大伴 連 馬飼《おおとものむらじうまかい》が大臣蝦夷の代理者となった。
また翌十四日に、息長山田公が日嗣の誄を述べた。蝦夷や入鹿が予想していた以上に、息長山田公は、息長氏の系譜を長々と語った。だが息長山田公も、正面切って蘇我本宗家に挑戦する気持はなかった。息長山田公は女帝に命じられた通り、大臣蝦夷の功を褒め称えたのである。
山背大兄皇子は、ここでもまた疎外され、もはや、大王位を諦めざるを得ないほどの打撃を受けたのだった。
息長山田公が日嗣の誄をしたからといって、大臣蝦夷の権力が低下したわけではない。
ただ蝦夷が、現在の大王が蘇我系でないことを今更のように痛感したのは事実である。
豊浦《とゆら》の屋形で日嗣の誄の内容を聞いた大臣蝦夷は入鹿を呼び、次の大王は何が何でも古人大兄皇子にしなければならない、と決意の程を示した。入鹿にも父の決意は頼もしかった。ただ、入鹿自身は蝦夷ほど大王位を問題にしていなかった。蘇我本宗家の権力さえ強くなれば、大王位は自然に古人大兄皇子に廻って来る、その時こそ入鹿が政治権力を完全に掌握した皇帝になる日であった。大王などもはや問題ではない。
入鹿はかつて父に、皇帝になれば良い、といったことがあった。だがその時蝦夷は、今ほど熱心に耳を傾けなかった。
「皇帝か……」
大臣蝦夷は唸るように呟くと、恐ろしい者でも眺めるように入鹿を見詰めた。蝦夷は、入鹿が将来、大王位を狙っているのを知っていた。だが入鹿の口から何度も出た皇帝という今日の言葉には蝦夷を戦慄させる不思議な魅力があった。
「そうです、皇帝です」
「皇帝か、皇帝なら大王が居てもなれるな」
蝦夷は眼を閉じた。
入鹿は豪快に笑った。
「父上、時の流れに眼を向けて下さい、大王など、居ても居なくても構わない時代がやって来る、だがまだ早い、前にも申した通り、先ず大臣の位を大王家から完全に独立させる、そして軍事力を養う、権力を得るには、軍事力が絶対必要です、東漢直等を結束させ、軍事力を強化する、大王家の有力氏族に負けないだけの軍事力を持ったなら、吾に大臣の位を譲って下さい、父上は皇帝と称されたら良い……」
何時もの癖で、熱すると、入鹿は拳《こぶし》を握り締め自分の太腿《ふともも》を叩く。
「皇帝か……」
蝦夷は憑《つ》かれたような口調でいい、眼を開けた。気に入った女人を得た時、蝦夷は下唇で上唇を覆う癖があった。蝦夷は今、下唇で上唇を覆い掛け、ゆっくり戻すと大きく息を吸い込んだ。気持を静めているに違いなかった。
「大郎入鹿、今来《いまき》に吾とそちの墳墓が出来たなら、吾の墳墓を大陵《おおみざき》と呼ばせよう、そちの墳墓は小陵《こみざき》じゃ、突然皇帝を呼称しても、群臣は納得するまい、徐々に既成事実を作って行こう、その方が良い、ただ焦っては駄目じゃ、大郎、焦るなよ」
もう蝦夷は何時ものように眼を細め、落ち着いた口調になっていた。陵は皇帝の墳墓の呼称である。
入鹿は大臣蝦夷が、漸く自分の考えに同調し始めたのを知って満足した。
来年こそ、父蝦夷の代理として倭国の政治を執ろう、と入鹿は考えていた。
皇極二年(六四三)は、入鹿にとってこれまでにない新しい年になる筈だった。
舒明の遺体は十二月二十一日、滑谷岡《なめはさまのおか》(高市郡冬野村)に葬られた。女帝が待ちに待っていた日が来たのである。
もう女帝は夫の喪に服さなくても良い。女帝は自由の身となった。
女帝の仮宮は十一月に完成していた。正式の送葬が終らなければ移れないので、女帝は一日千秋の思いで移れる日を待っていたのだ。
仮宮は蝦夷が住んでいる豊浦の屋形とは、眼と鼻の先であった。豊浦の屋形の北方は低い小丘だが、女帝の仮宮はその丘を越えた小丘の麓に建てられていた。
仮宮とはいえ、女帝が住む宮である。その大きさは入鹿の嶋の屋形くらいあった。
築地塀で囲むことは出来なかったが、頑丈な柵で囲った。ただ、豊浦の屋形から、女帝の仮宮に忍び込もうと思えばた易《やす》い。
豊浦の屋形の裏庭伝いに小丘に登り、丘を越えたなら、仮宮を見下ろすことが出来る。
そういう意味で、仮宮は、豊浦の屋形の敷地内に包含されている、といっても良い。
入鹿が、仮宮をそういう場所に建てたのは、自由に仮宮に出入りするためだった。
夜なら人眼を忍んで会いに行くことが出来る。
女帝が女人達と共に仮宮に移ったのは、舒明の遺体を滑谷岡に葬った翌々日の二十三日である。これを見ても、女帝が如何に、自由になれる日を、待ち焦れていたかが分る。
入鹿は仮宮を東漢直等に守らせることにした。豊浦の屋形を守っているのは東漢直とその部下である。だから入鹿は、東漢氏の兵士の数を増やし、仮宮も守らせることにしたのだ。
もしこれが正式の宮なら、こういうことは蘇我本宗家の力でも不可能である。大王の宮を守るのは、古くから大王家に仕える軍事氏族と定められていた。
ただ仮宮は一時的な宮なので、入鹿は強引に自分の計画を実行に移したのだった。
宮廷警護長佐伯連子麻呂は、豊浦の屋形に来て大臣蝦夷に、どうかこれまで通り、自分に宮を守らせて欲しい、と申し出た。
佐伯連子麻呂としては、当然の申し出であった。
蝦夷は、女帝と大夫入鹿が決めたことなので、自分は関知しない、と撥ねつけた。どうしても納得しないのなら、入鹿に会ってみろ、といったのである。
豊浦の屋形からの通報で、そのことを知った入鹿は、雀に嶋の屋形の警備を厳重にするように命じた。東漢氏の兵士達は、嶋の屋形に通じる坂道の下あたりから、屋形の門まで列をつくって、佐伯連子麻呂の到着を待った。
佐伯連子麻呂は馬に乗り、東国出身の舎人数人を連れてやって来たが、殺気立った表情で自分を迎えた東漢氏の兵士達を見た途端、気負い立っていた力が萎《な》えるのを覚えた。坂道の下で待っていた雀は、佐伯連子麻呂に、馬から降りるように、と告げた。
「もうここから、蘇我大郎の屋形で御座居ます、馬から降りられたら、刀を吾にお預け下さい……」
佐伯連子麻呂は、冬の陽に冷たく煌《きらめ》いている槍の穂先を見た。その無数の煌きが、嶋の屋形の門まで続いているのだ。
佐伯連子麻呂は、口惜しさを押えながら、馬から降りると、刀を雀に渡した。
雀は馬に乗ったまま佐伯連子麻呂を見下ろした。
「宮廷警護長、吾が先導致します、ただ、部下の方達は、ここでお待ち願いたい、門まで来られても結構ですが、来られるなら、刀を外していただきます」
「吾、一人で参る」
佐伯連子麻呂は流石《さすが》に憤然としていった。
東漢氏の兵士達は、まるで大王の宮を守るように入鹿の屋形を守っているのだ。佐伯連子麻呂は、それでも、必死の思いで胸を張り、雀の後から坂道を歩いた。
丁度その頃、高句麗の使者が筑紫に到着していた。使者は、高句麗で起った恐るべきクーデターを説明するため、倭国にやって来たのだった。
四
腰に刀を吊《つる》した入鹿《いるか》は、階段の上の広い濡《ぬ》れ縁の上に立ち、佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》を待っていた。雀《すずめ》に先導されながら、子麻呂は必死の面持ちだった。道の両側には、槍を持った|東 漢《やまとのあや》氏の兵士達が並んでいるのだ。佐伯連は、大王《おおきみ》家に古くから仕える軍事氏族だった。それだけに、子麻呂には武人としての誇りがあるのだろう。子麻呂は階段の下まで胸を張って歩いて来たが、自分を見下ろしている入鹿の鋭い眼を見ると、本能的に叩頭《こうとう》していた。
深呼吸し、顔を上げたが、両脚を開き、傲然《ごうぜん》と濡れ縁に立っている入鹿の姿が、これまでになく巨大に見えた。大夫《まえつきみ》は大王ではない、大王に仕える大夫だ、と子麻呂は胸の中で呟《つぶや》いたが、それは、入鹿が大王のように思えたからである。階段の下には玉砂利が敷かれていた。屋形に入れない来客のために、わざわざ敷いたようである。数え切れない玉砂利は綺麗に磨かれているようだった。子麻呂は途端に落ち着きを喪《うしな》い、玉砂利に視線を落した。張り詰めていた子麻呂の気持が緩んだ。何時の間にか子麻呂は、玉砂利の上に膝をついていたのである。
「大夫に申し上げます、吾は宮廷警護長として、大王をお守りするのが役目で御座居ます、仮宮といっても、大王が住まわれる以上、宮で御座る、吾に守らせていただきたい」
子麻呂は必死の思いで大きな声を出した。
「何じゃ、そんなことを申しに参ったのか、案ずることはない、板蓋宮《いたぶきのみや》が出来るまで、大王は、吾《われ》が守る、しかし、そちの熱意は立派なものじゃ、吾は新しい宮の宮廷警護長を、誰にしようか、と考えていたが、そちの熱意を知って心が決った、板蓋宮の宮廷警護長に、そちを任じよう、副警護長はそちの仲の良い|葛城 稚犬養 連 網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》で良いだろう、どうじゃ?」
子麻呂は入鹿が掛けた罠《わな》に掛るために、わざわざ嶋の屋形に来たことを歯ぎしりしながら悟ったのである。たんに虎のように荒れ狂う勇者ではない。蘇我大郎入鹿は子麻呂などよりも、ずっと智謀の男であったのだ。
「はっ」
と子麻呂は呟いた。子麻呂は玉砂利が掌に食い込むほど強く握り締めていた。
「佐伯連子麻呂、新しい大宮、板蓋宮の宮廷警護長は不服か、そちには任務が重い、というのか!」
入鹿は階段の上に立ちはだかると、真下の玉砂利の上に坐っている子麻呂を睨《にら》みつけた。東漢氏の兵士達が、思わず背筋を伸ばし、槍を握り直したほどの大きな声だった。
「とんでも御座居ませぬ、喜んでおります」
子麻呂は慌てて弁解した。
入鹿は初めて表情を緩めた。
入鹿は階段を下りると、鳥皮の履《くつ》をはいた足を玉砂利に乗せ、子麻呂と向い合った。
「子麻呂、そちは父から話を聴いていないか、そちの祖父、佐伯連丹経手《さえきのむらじにふて》は、吾の祖父、嶋大臣の命を受け、土師《はじ》連、的臣《いくわおみ》等と共に穴穂部《あなほべ》皇子を殺した、偉大な功績じゃ、だから父|大臣《おおおみ》も、吾も、そち達の氏族を信頼しておる、分っておるな」
「はっ、父からも、その話は聴いております」
「そうか、それなら、吾のいうことも分る筈じゃ、新しい宮が出来るのは、多分、四月か五月頃だろう、それまでゆっくり休養しろ、大王は、吾が引き受けた」
入鹿は子麻呂の肩を叩くと哄笑《こうしよう》した。
入鹿の指に嵌《は》められた太い金の指輪が、冬の陽に煌《きらめ》いた。入鹿は行動的で、狩猟などの時の荒々しい性格は人々に恐れられているが、服装などには気を遣い、身を飾るのは好きだった。また文字なども達筆である。そして優雅なセンスも持ち合せている。皇極女帝が、入鹿に好意を寄せているのも、入鹿が勇猛なだけではなく、大陸の文化を身につけているからだった。それは大唐のきらびやかな文化である。例えば入鹿が何時も腰に吊している大刀の柄《つか》には、翡翠《ひすい》の玉が嵌め込まれ、龍虎が彫られている。また鞘《さや》には、無数の金の飾りが付けられていた。派手好きの貴族も、流石《さすが》に刀の鞘に、金の飾りを付けた者は居なかった。
仮宮に女帝が移ってから、入鹿は毎日のように仮宮を訪れた。女帝が好みそうな金製品を惜し気もなく、女帝にプレゼントした。
仮宮を守っているのは東漢氏の兵士達である。入鹿は自分の屋形に出入りするように、女帝の仮宮を訪れた。もはや、女帝は入鹿を恐れなかった。入鹿の来訪を待ち焦れるようになった。女帝と入鹿が情を通じ合っているのではないか、という噂《うわさ》は群臣に拡がった。だが入鹿はまだ、女帝と情を通じていない。入鹿は時機を窺《うかが》っていたのだ。
筑紫に着いた高句麗の賀正の使者が難波《なにわ》の館に到着したのは、皇極二年(六四三)一月中旬だった。入鹿は蝦夷《えみし》の代理として、諸重臣と共に高句麗の使者を饗応《きようおう》した。
そこで入鹿達は、昨年十月高句麗で起ったクーデターの内容を知ったのである。
当時、高句麗の最高位である大対盧《だいたいろ》(倭国の大臣にあたる)の地位にあった泉蓋蘇文《せんがいそぶん》は、栄留《えいりゆう》王の命令で唐との国境に千里にわたる長城を築いていた。唐にとって、高句麗は隋以来の宿敵で何《いず》れ唐が高句麗を攻めるのは間違いない、というのが泉蓋蘇文の意見だった。
だから扶余《ふよ》城から渤海湾に到る大長城の築造に対しても、泉蓋蘇文は積極的だったのだ。
絶えず長城の築造を監視し、苦役の民が逃げ出せば容赦なく殺した。時には栄留王の許可を得ずに唐との国境付近で軍事訓練を行ったりした。泉蓋蘇文のそんな行動を栄留王を始め、有力貴族達は苦々しい思いで眺めていた。栄留王を始め有力貴族達は、唐に対する危機意識が、泉蓋蘇文ほど強くなかったのだ。それに泉蓋蘇文の行動は独断的で、時には王権を無視したりする。だが泉蓋蘇文は高句麗の大対盧として、軍事力を握っていた。ことに唐に憎悪の念を抱く武人達の中には、栄留王や軟弱な貴族達よりも、勇猛な泉蓋蘇文を支持する者が多かった。
こうして、栄留王や有力貴族達と、泉蓋蘇文を始め武人達との亀裂は深まったのだ。そこで栄留王は、有力貴族達と謀り、泉蓋蘇文を殺すことにした。だが、泉蓋蘇文は絶えず屈強な武人達に守られて居り、なかなかチャンスがない。そのうち泉蓋蘇文は栄留王達の密謀を知った。
国を唐から守るためには、今の栄留王や、貴族達では駄目だ、と泉蓋蘇文は判断した。何時唐が攻めて来るか分らない緊迫した時なのに、勝手な意見を述べ合っていても仕方がない、と泉蓋蘇文は前々から思っていたのである。
そして、泉蓋蘇文は自宅に有力貴族を集めて宴を張り、直属の部下に命じて、自分を殺害しようとしていた貴族達を皆殺しにしたのだった。それから兵を率いて王宮に乗り込み、王を殺し、栄留王の弟大陽王の子を立てて王とし、自分は莫離支《ばくりし》(首相)となった。昨年の十月のことで、現在の王は泉蓋蘇文が擁立した宝蔵《ほうぞう》王だ、と使者は述べた。
使者達からクーデターの詳細を知らされた飛鳥の重臣達は衝撃を受けた。使者達は始め、クーデターの内容を控え目に報告したが、酒が入ると共に口が軽くなり、殺された貴族達は百人以上にのぼることや、栄留王は虐殺され、王の遺体は溝に棄《す》てられたことなども話した。
貴族達の何人かは唐に逃げたが、逃げ損った反対派の貴族は総て殺されたのである。
泉蓋蘇文のクーデターは、百済の義慈王のクーデターとは較べものにならないほど残虐であった。ことに飛鳥の重臣達は、大臣的な地位にある権力者が王を殺し、遺体を溝に捨てたという事実に衝撃を受けたのだった。しかも遺体は切り刻まれていた、という。酔いが深くなるにつれ、使者達は、泉蓋蘇文が兵を率い、王宮に乗り込んで行った有様を身振り手振りで喋《しやべ》った。
現在の高句麗は、泉蓋蘇文が独裁者的な権力を握って、唐の侵攻に備えて、軍事体制を強化しているという。
飛鳥の重臣達が、王を殺した泉蓋蘇文をどう思うか? と使者達に訊くと、使者達は声を揃《そろ》えて、唐が侵略して来ることは間違いなく、国を守るためには、仕方のない行為だった、と答えるのだった。勿論《もちろん》、使者達は泉蓋蘇文の命令で倭国《わこく》に来たのだから、泉蓋蘇文の悪口はいえない。それに彼等は、泉蓋蘇文によって抜擢《ばつてき》されて使者になった者だけに、泉蓋蘇文に忠誠心を抱いていた。
また使者達は、口々に新羅をののしり、新羅は間違いなく唐と通じている、と告げた。
高句麗の使者達が、あてがわれた夜伽《よとぎ》の女人達と共に寝所に入った後も、入鹿は昂奮《こうふん》して眠れなかった。大臣的な人物が王を虐殺し、遺体を溝に捨てるなど、今の倭国では考えられないことだった。祖父馬子は泊瀬部《はつせべ》大王(崇峻《すしゆん》)を殺したが、自ら手を下したのではない。部下の|東 漢 直 駒《やまとのあやのあたいこま》に命じて殺したのだ。ところが馬子は、東漢直駒が、崇峻の妃であった|河上 娘《かわかみのいらつめ》を盗んだという理由で駒を殺してしまった。河上娘は馬子の娘だった。
入鹿は、大王であろうと恐れずに殺した馬子を尊敬していた。大臣蝦夷に対し、馬子ぐらいの胆力を持って欲しい、と願っていた。だが、入鹿は馬子に対しても不満があった。東漢直駒が、河上娘を盗んだというのは、駒を殺すために仕組んだ罠だと聞いていた。馬子ほどの人物も、自分の命令で大王を殺した駒を生かしておけなかったのである。矢張り有力貴族達の眼を気にしたのだ。
馬子に較べると、自ら兵を率いて王宮に乗り込んだ泉蓋蘇文という人物は、何という大胆不敵で勇猛な男だろうか。
それに高句麗の武人達は、そんな泉蓋蘇文に忠節を誓っているらしい。今夜の使者達の言動を見ても分る。
入鹿には、尊敬していた馬子も、泉蓋蘇文に較べると小さな人物のように思えた。
それにしても、泉蓋蘇文のクーデターは、飛鳥の朝廷に衝撃を与えるだろう。百済の義慈王の場合は傍観していた有力豪族や、大王家に仕える名門氏族達も、今度は真剣に、泉蓋蘇文のクーデターの意味を考えるだろう。兎《と》に角《かく》、高句麗の大臣が王を殺し、独裁者としての権力を握ったのである。当然、倭国の有力豪族達の眼は蘇我本宗家に注がれるに違いなかった。大臣蝦夷、大夫入鹿が、どういう行動に出るかを窺い、それぞれ思惑を抱いて近付いて来るに違いなかった。
いや、なかには、大王家の存立に対して危機感を抱き、蘇我本宗家を打倒しようと画策する者も出て来るかもしれない。
皇極二年(六四三)は入鹿が思ったよりも、蘇我本宗家にとっては重大な年になりそうだった。
翌日、豊浦《とゆら》の屋形に戻った入鹿は、高句麗の使者が倭国に来た事実を詳しく、蝦夷に説明した。
高句麗の使者は、たんに賀正のために来たのではない。泉蓋蘇文のクーデターと、現在高句麗が置かれている立場を説明するために来たのだった。泉蓋蘇文や、彼に忠節を誓っている武人達は、唐の高句麗への攻撃を現実のものと認識していた。しかも背後の新羅は唐と意を通じ油断が出来ない。幸い百済は高句麗と協力して新羅に圧力を掛けているが、百済一国では心許《こころもと》ない。高句麗としては、この際、背後を固める意味に於ても、倭国の協力が欲しいのだ。珍しく、高句麗の使者が、金銀の貢物を持って来たのは、そのためだった。
高句麗の使者は、大和に入り大臣蝦夷に会いたがったが、蝦夷は、政治に関しては大夫入鹿にまかせてあると告げ、高句麗の使者とは会わなかった。入鹿は倭国に金銀の貢物を持って来た高句麗の足許を読み、蝦夷に、会う必要がない、と忠告したのだ。
泉蓋蘇文のクーデターの真相を知り、衝撃を受けていた蝦夷は、入鹿の忠告に従った。
入鹿が政治の前面に立ち、蝦夷が後ろで采配を振るう、というこれまでの入鹿の主張に、蝦夷は全面的に同意したのだ。はっきりいえば、政治の実権を入鹿に委ねたわけである,蝦夷は冷酷無残な高句麗のクーデターの詳細を知り、自分の時代が過ぎようとしているのを感じたのである。
今の時代が要求しているのは、有力豪族達の合議政治ではなく、蘇我本宗家の独裁政治である、というのが、入鹿の主張だった。
大臣蝦夷は、入鹿の若さの猛進を恐れながらも、時代の流れが、自分ではどうしようもない方向に進みつつあるのを感じたのである。それは間違いなく、五十半ばを過ぎた蝦夷の老いであった。
高句麗の使者は十日間難波の館に居たが、大臣蝦夷に会えないまま帰ることとなった。
ただ実権はないが、高句麗には新しい王が即位した。そこで入鹿は、朝鮮三国との外交に熟達している津守連大海《つもりのむらじおおみ》を宝蔵王即位の祝賀の使として高句麗に行かせることにした。
蝦夷が承諾したので、入鹿は突然、津守連大海を豊浦の屋形に呼びつけ、高句麗に行くように命令したのである。何時もなら形式的にせよ、軽王《かるのきみ》、大伴《おおとも》、巨勢《こせ》などの有力豪族に相談しているところだが、今度は蘇我本宗家の独断であった。
椅子の上に胡坐《あぐら》をかいて坐った入鹿は、突然の命令に驚いている津守連大海に厳しい表情でいった。
「今月の末、高句麗の使者達と一緒に、難波の海から出発するようにせよ、船は、阿曇連《あずみのむらじ》に命じて準備させる、たんに新王の即位を祝うために行くのではないぞ、高句麗の政治情勢を充分調査して来るのじゃ、大任だぞ」
「はっ、大夫《まえつきみ》の御命令、確かに承諾致しました、出発の準備が整い次第、参朝し、大王《おおきみ》に御報告申し上げたい、と思いますが……」
津守連大海は、鹿皮の上に手をつき、必死の面持ちで顔を上げた。
入鹿は首を横に振った。
「大王には、吾から申し上げておくから参朝の必要はない、大王は仮宮にお住まいじゃ、それとも、大臣《おおおみ》の命令だけでは行けぬ、と申すのか……」
「いいえ、そういうわけでは御座居ませぬ、ただ高句麗は遠い国、何卒《なにとぞ》、大夫から大王によろしくお伝え下さい」
「ああ、明日か明後日にでも申し上げておく、それと、吾はもう大夫ではない、そちが出発するまでに大臣になる」
入鹿はゆっくり鬚を撫でた。
「はっ、大夫が、大臣に?」
驚いた顔の津守連大海を見て、入鹿は笑った。
「心配するな、高句麗の泉蓋蘇文のように、自分勝手になるのではない、父上はかなり疲れておられる、それで大臣の位を吾に譲られるのじゃ、だから父上は大臣の上の大臣、大海、何か良い呼称はないか、高句麗に行って、その呼称も研究して参れ」
と入鹿は上機嫌な口調でいった。
入鹿の上機嫌なのも無理はなかった。津守連大海が来る前、蝦夷は入鹿を自室に呼び、政治を行う以上、これまでのように大夫では、大伴、巨勢などの大夫に対して具合が悪い。だから入鹿に、大臣の紫冠を授けよう、といったのだった。泉蓋蘇文のクーデターの真相を知って以来、蝦夷は蝦夷なりに、悩み、考え続けた結果の発言である。
入鹿には勿論異存がなかった。
ただ大臣の紫冠は形式的にしろ大王が大臣に授けるものである。大臣が勝手に新しい大臣を決めて紫冠を授けることなど、これまで例がない。
だから蝦夷は入鹿に次のように告げたのだ。
「明日にでも大王にお会いし、吾は病のために政治を執れないので、大郎入鹿に大臣の位を譲りたい、至急大王の承認を得たい、と申し上げる積りじゃ」
それに対して入鹿は冷ややかな口調で質問した。
「では、父上は隠居なさるお積りですか? 政治を全部、吾にまかせる、とお考えですか?」
「いやそうではない、何というても、まだそちは若い、政治面では未熟なところがある、重要なことは吾が決める」
「父上、いったん、大王から吾が紫冠を授けられたなら、大臣は吾一人で、父上には何の権限もなくなりますぞ、吾が権力の亡者なら、大臣になった途端、直ちに父上を逮捕しますぞ」
入鹿は顔色を変えた蝦夷を見て、膝を進めて、蝦夷に囁《ささや》いたのだ。
入鹿の意見は、女帝の承諾を得ずに、大臣蝦夷が独断で、大臣の紫冠を自分に与えて欲しい、というのであった。
蝦夷と入鹿はその件について議論し合ったが、結局、結論が出ないまま、入鹿は津守連大海を呼んだのである。蝦夷が入鹿の要望を簡単に承諾しなかったのは当然かもしれない。そんなことをすれば、大王の大権を犯すことになる。大臣の任命権を奪われた大王は、もはや、大王としての資格がない、ともいえる。何故なら、形式的にせよ、大臣を任命することだけが、大王の政治的権威であった。
もしそれを喪えば、大王は政治的権限を全く奪われ、神祇《じんぎ》の最高司祭者だけになってしまう。
舒明《じよめい》以来の大王は、大臣の位を蘇我本宗家の人物に与えるのが習慣となっていた。大王の勝手な意志で、蘇我本宗家以外の人物に与えることはできない。もしそんなことをすれば、大王の地位どころか生命も危うくなる。だから、各大王は蘇我本宗家の人物を大臣に任命するのだが、兎に角、任命権は大王側にあった。入鹿は、形式的な任命権を大王から奪ってしまおう、というのであった。
蝦夷にとって、入鹿の要望は、まさに革命的であった。蝦夷が恐れたのは、女帝よりも、王族を始め、有力豪族の反撥《はんぱつ》だった。
高句麗のクーデターでは、泉蓋蘇文の部下には武将が多く、彼等は兵士を把握し、泉蓋蘇文に忠節を誓っている、という。
だが蘇我本宗家が完全に把握している武人といえば、東漢氏だけであった。軽王には軍事将軍|阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》が付いている。大伴、巨勢などの有力豪族はそれぞれ私兵を有している。
彼等は一応蝦夷を大臣と認め、蘇我本宗家の機嫌を窺っているが、忠節心などない、ことに大伴氏は百済より渡来した蘇我氏よりも古くから倭国に居て、大王家に仕えている名門氏族である。巨勢臣も蘇我氏より古くから葛城南部に勢力を張っていた豪族である。
蘇我氏の祖は百済王族で、五世紀後半に倭国に渡来し、雄略に信用され親交を結んだ。そして葛城氏が雄略により滅ぼされた後、葛城内大臣が所有していた宅七區《いえななところ》を与えられた。葛城の高宮である。そこを根拠地として、次第に勢力を東に拡げ現在に到ったのだ。
大陸文化の摂取に懸命だった舒明以後の大王や倭国にとって、文化的な渡来人を配下にした百済王族の蘇我氏は、必要欠くべからざる氏族だった。だが蘇我氏から大王が出、蘇我氏が政治の実権を握るにおよび、古くから倭国に居る豪族や名門氏族の中には、機会があれば、蘇我本宗家を斃《たお》そうと、密《ひそ》かに狙っている者が居るに違いなかった。
大臣蝦夷には、それが誰か分らないのだ。
真向から反蘇我の旗幟《きし》を鮮明にしている者が居ないからだった。いや、一人だけどうにもならない人物が居た。同じ蘇我系の山背大兄《やましろのおおえ》皇子である。だが、皇子の場合は、有力豪族、名門氏族も、そして女帝さえも、彼を嫌っているから、問題にするにあたらなかった。
それは兎も角、蝦夷には、大王の大権を犯す勇気はなかった。矢張り入鹿に紫冠を与え、大臣の位につけることを女帝に奏上しようと、一晩考えた末、決心した。
大臣蝦夷が女帝に会うため、金糸を縫い込んだ紫冠を被《かぶ》り、礼装用の紫衣を着ていると、入鹿が入って来た。
「お父上、大王にお会いに行かれるのですか?」
「ああ、昨夜の件で、大王とお会いする」
「お父上、今日は大王と香具《かぐ》山に行く約束をしております、昨夜の件は、今少しお待ち下さいませんか、お父上、お願い申し上げます」
入鹿は床に坐ると蝦夷に向って手を突いた。
蝦夷は大きく深呼吸すると、自分の決心は変らない、と告げた。入鹿は意外にも、床に這《は》いつくばったまま、蝦夷の足許《あしもと》に近付いた。蝦夷の傍に居た女人達が驚いてそんな入鹿を眺めた。蝦夷は眉を寄せて入鹿を睨《にら》んだ。
「大郎入鹿、その様は何じゃ、そんな蛙のような恰好《かつこう》は見たくない」
と蝦夷は思わず叱咤《しつた》した。
だが蝦夷の足許に坐った入鹿は不敵な顔で蝦夷を見上げた。
「父上、お坐り下さい、お話し申し上げたいことが御座居ます、内密な話故、女人の耳に入れとう御座居ませぬ」
蝦夷は女人達を去らせた。入鹿は立ち上ると、蝦夷の耳に口を寄せた。
「父上、吾は昨夜、大王と情を通じました、大王は大変なお悦《よろこ》びです、吾が大臣に任命される件は、吾から大王に申し上げます、父上、どうか吾におまかせ下さい」
「何だと……昨夜、大王と……」
蝦夷は眼を剥き絶句した。
昨夜は津守連大海が帰った後も、蝦夷と入鹿は夜遅くまで話し合っていたのだ。
「父上、声が大きゅう御座居ます、女人の口はうるさい、大臣任命の件は、吾にまかせていただけますな」
入鹿は微笑しながら一礼した。
「分った、そなたにまかせる、だが余りやり過ぎるな、蘇我本宗家を斃そうと狙っている連中は必ず居る、それを忘れるな」
「これを機会に、そういう連中が誰か、確かめたい」
と入鹿は微笑を浮べたまま答えた。
女帝と昨夜情を通じた、と入鹿は蝦夷にいったが、嘘であった。女帝に会いに行こうとしている蝦夷を止めるには、そういう以外に方法はなかったから、いったまでだ。
だが嘘にしろ、蝦夷にいってしまった以上、このまま放っておくわけにはゆかない。高句麗の使者に会って以来、入鹿は自分の進むべき方向を決めていた。泉蓋蘇文のように、自分が独裁権力を握ることであった。そしてもし、自分に反抗する者があれば、容赦なく斃し、実力で諸豪族を屈服させる、それ以外に新しい政治体制をつくる方法はない、と入鹿は考えたのだった。
入鹿が前々から考えていたことが、泉蓋蘇文のクーデターで、確かめられたことになる。
ただ、現在の入鹿には、斃すべき大王は居なかった。しかも大王は女帝で入鹿に好意を抱いている。入鹿も、気品のある女帝の容貌、それに、年齢の割には天真|爛漫《らんまん》な性格が好きだった。入鹿としては、そんな女帝を利用し、蘇我本宗家の独裁体制をつくりたくなかった。寧《むし》ろ、気に喰わない大王の方が良い、と思っていた。それなら闘志も湧くし、チャンスを見付けて大王家を斃すことが出来る。入鹿は男性的な性格だった。女帝に対してはどうも闘志が起らない。
だが権力の座を獲《か》ち取るためには、女帝だからといって、放っておくわけにはゆかなかった。男の大王だったら斃すことは出来るが、女帝は斃せない。その代り情を通じて利用することが出来る。女帝を利用するというのは入鹿の性格に合わないが、この場合、それ以外方法がなかった。
旧暦一月下旬である。まだ寒い季節だが、淡紅色の梅の花は、もう春の訪れを告げていた。
豊浦の屋形の裏の小丘には白い残雪が木の下の黒土を僅かに彩っていた。椿《つばき》の花が重たげな花弁を垂れている。間もなく散り行く生命を知っているようだった。小鳥が無心に囀《さえず》っている。時々、すすり泣くような呻《うめ》き声や、悲鳴が聞えて来る。板蓋宮の苦役の民が小役人に鞭《むち》打たれているのだ。石や材木を運んでいるのだろうか。威勢の良い掛け声も聞えて来た。
入鹿は小丘を登った。頂上の小途《こみち》を少し歩くと、直ぐ下に女帝の仮宮が見える。暖かい日なので、女人達が鞠《まり》投げに興じていた。
仮宮の柵の処には、槍を持った兵士達が守っている。少しでも油断をすると警備の長の鞭が飛んで来るので、兵士達の眼は光っていた。佐伯連子麻呂の要望を拒絶し、|東 漢《やまとのあや》氏達に宮を守らせたのだ。女帝に万が一のことがあれば、入鹿の立場は失墜する。だから、仮宮を守っている兵士達は、選《え》りすぐった精兵だった。入鹿は松の樹の傍で、暫《しばら》く嬉々《きき》と戯れている女人達を眺めていた。
女帝は屋形の中に居るらしく、姿を現さない。入鹿は突然、大声をあげると小山を駈け降りた。女人達は悲鳴をあげ、屋形に逃げ込もうとしたはずみに倒れた者も居た。
兵士達が形相を変えて駈け込んで来た。
入鹿を見た兵士達は槍を持ったまま膝を突いた。警護の長が周囲を見廻しながら顔を上げた。
「吾君、何事で御座居ますか?」
「女人をからかったまでじゃ、そち達は、吾が駈け降りたところを見なかったか?」
と入鹿は訊《き》いた。
「申し訳御座居ませぬ、宮の外ばかりに、眼を向けておりましたので……」
と警護の長が弁解した。
女帝が正面玄関の広い濡れ縁に姿を現した。始めは驚いた女人達も、入鹿のいたずらだと知り、鞠を拾いに庭に出て来た者も居た。この頃、女人達は、入鹿を恐れなくなっていた。ことに入鹿は気前が良く、百済の使者が持って来た金銀の飾り物なども女人達に与えた。
百済宮に居た頃、女人達は入鹿を獰猛《どうもう》な獣のように恐れていた。だが知り合ってみるとそうではない。部下達には厳しいが、女帝の女人達に対しては気さくであった。昔、恐れていただけに、女人達は反動的に、入鹿に親愛の情を抱いたようだ。
なかには、入鹿に対して思慕の念を密かに抱いている女人も居た。伊勢国から来た采女《うねめ》だった。大王が女帝の場合、采女達は女帝に仕えている間|空閨《くうけい》を守らなければならない。
年齢頃《としごろ》の女人達にとって、男気がない、ということは矢張り淋《さび》しい。だから手近な男性と関係を結んだりする。手近な男といえば宮廷警護の舎人《とねり》達だった。舎人達は、采女達と同じように地方豪族の出身である。
見付かったなら、男性は死罪、女の方は奴隷にされたり、故郷に帰されたりする。そんな厳しい罰があるのに、後宮の女人達と男性の関係は後を断たなかった。
だが仮宮を守っているのは東漢氏の兵士達である。兵士達は采女達と身分が違う。それに厳格な規律の許で宮を守っている兵士達は、女人達に笑顔さえ見せなかった。もし、少しでも、だらけているところを警護の長に見付けられたなら厳しい罰を受ける。
そういう意味では、仮宮に自由に出入りする入鹿は、女人達にとっては、甘えることの出来るただ一人の男性であった。
入鹿と視線を合せた伊勢の豪族の娘、|高目 娘《たかめのいらつめ》は、微かに顔を赧《あか》らめた。入鹿は高目娘を手招いた。高目娘は一瞬皇極女帝の顔色を窺い、立ち竦《すく》んだ。高目娘は、女帝が入鹿に好意を抱いているのを感じていたからだった。
入鹿を見て微笑した女帝の顔が強張《こわば》った。
入鹿は女帝を無視して、高目娘の名を呼んだ。高目娘は女帝の視線に射竦められながら、おずおずと歩いて来た。
「高目娘、そなたの実家は伊勢国の朝日だったのう」
「はい……」
「この三月に吾は伊勢に参る、そなたの実家に寄り、そなたが元気で、大王にお仕えしていることを伝えておこう」
「有難う御座居ます」
高目娘は消え入るような声で礼を述べた。女帝は荒々しく屋形の中に入ってしまった。
天真爛漫な性格だけに、感情を隠さない。入鹿は高目娘に、低い声で、案じることはない、と囁き、階段を上り、仮宮に入って行った。入ったところは広間で、板床のあちこちに毛皮が敷かれ、二人の女人が琴を弾いていた。女帝の姿が見えない。広間と、その次の部屋は簾《れん》によって仕切られていた。簾は小さな瑠璃玉《るりだま》に繊維の糸を通している。瑠璃玉の数を思い切り増やしたので絶えず煌《きらめ》いていた。
簾の傍には両膝に手を置いた女人が二人、姿勢を正して坐っていた。
「大王《おおきみ》にお伝え願いたい、高句麗の使者が持参した素晴らしい首飾りを持参したと……」
入鹿はそういうと明り取りの窓の傍に立った。女人は奥の部屋に入ったが、間もなく現れ、大王がお待ちしている、と告げた。
簾の内側は女人達の部屋である。その部屋に向って右側に、板壁で仕切られた調理部屋があった。飛鳥川の水は、その調理部屋まで引かれていた。調理部屋には大きな竃《かまど》があり、絶えず薪が燃やされていた。そのため調理部屋は暖かく、その暖気が女人達や、女帝の部屋にまで伝わるのだ。暖気がなければ、鹿の皮を何枚床に敷いても、寒さは厳しく、屋形の中で震えておらねばならない。当時はまだ炭や火鉢はなかった。
女帝の部屋は、女人達の部屋の奥にあった。鹿の皮と共に、巨大な熊の皮が敷かれていた。東国の蝦夷が貢物として持って来た熊の皮の一枚を、入鹿が女帝にプレゼントしたのである。
女人達の部屋と女帝の部屋は簾で仕切られている。ただ女帝の部屋の右側には厠《かわや》に通じる渡り廊下があった。渡り廊下から女帝の部屋に忍び込めないように、頑丈な戸があり、内側から止木が掛っている。だから、外から戸を開けることは出来ない。
入鹿は何度も仮宮に遊びに来ているが、女帝の部屋に入ったのは、今日が初めてだった。女帝は寒いのか、何枚も着た絹衣の下で身を縮めていた。入鹿の姿を見ると、一層身を固くした。
「朕《わ》に、何か、くれるというのか?」
と女帝は掠《かす》れた声でいった。
「はあ、高句麗の使者が持って来た貢物の中でも、これほど素晴らしい品は御座居ませぬ、大王に差し上げようと思い、取っておきました」
入鹿は胸の襟《えり》に手を入れると皮袋を取り出した。緊張し切っていた女帝の眼に好奇の色が浮いたのを入鹿は見逃さなかった。女帝は人一倍派手好きの女人だった。だから、初めての板蓋宮の造営に夢中になっているのである。入鹿はゆっくり皮袋の紐を解いた。
大きな瑠璃玉のついた長い金鎖だった。しかも瑠璃玉の中には金箔《きんぱく》が入っているのだ。
入鹿は金鎖の端を両手で持ち金鎖を垂らした。女帝は憑《つ》かれたように眼を瞠《みは》った。女帝の部屋の明り取りの窓は小さい。
昼なのに魚油を燃やし、炎が薄暗い部屋を照らしていた。隙間風で魚油の炎が揺れると、金鎖や瑠璃玉が様々な色に光る。倭国からは想像もつかない遠い国、幻の国で作られた金鎖であった。
「こんな素晴らしい瑠璃玉と金鎖を見たのは、朕も初めてじゃ」
「大王の胸に飾られるために、遥か西の国からやって来た宝物で御座る、大王、吾が胸に飾ってしんぜましょう、ここに来て、吾に背を向けて下さい」
入鹿にいわれて、女帝ははっと自分の立場に気付いたようだった。女帝は手を拍《う》って女人を呼ぼうとした。女帝が手を拍つ前に、入鹿は底力のある声でいった。
「大王、吾は、吾の手で大王の身に飾りたい、大王、ここに来るのです」
底力のある声だが、何時もと違い入鹿の眼は穏やかだった。穏やかというよりも、寧ろいとし気に女帝を眺めていた。隣の部屋の琴の音色が入鹿の声を消していた。
女帝は憑かれたように立ち上った。
「さあ、吾の前に坐るのです、後ろを向いて」
何の香料か、女帝がつけている香料の匂いは強い。だが嶋の屋形に居る入鹿の女達が発散させている香料の匂いに較べたならずっと増しであった。女帝の黒髪と白い項《うなじ》が入鹿の眼の前にある。かりにも大王《おおきみ》であり、重臣達と会う場合も、簾越しに話すのが女帝の習慣であった。倭国の政治権力の大半を握っている入鹿でも、た易く触れることの出来ない女人である。その女帝が今、入鹿に背を向け、息をはずませている。女帝が慄えているのが、入鹿にははっきり感じられた。
入鹿は女帝の肩越しに金鎖を垂らすと、白い項で留め金を嵌《は》めた。倭国では到底作れない巧妙な技術だった。金鎖を掛け終ったのに、女帝の身体は金縛りにあったように動かない。入鹿は女帝の胸に両腕を廻すと、白い項に髭に覆われた厚い唇を押しつけた。女帝は両手で顔を覆うと、苦痛に似た呻き声を洩らした。
「大王、深夜に出直して参る、止木を外しておいて下さい、大王、お分りかな」
入鹿が女帝の耳朶《じだ》に口を押しつけると、女帝は子供のように頷くのだった。
こうして入鹿は女帝と情を通じたのだ。入鹿は毎夜のように深夜に通った。入鹿と女帝との関係が暫くの間噂にならなかったのは、仮宮を守っていたのが、東漢氏の兵士達だったからである。だが、こういうことが知れない筈はない。二人の関係が飛鳥の群臣の噂となったのは、春の花が咲き乱れている三月初旬だった。
そんな或る日、入鹿は蝦夷に、重臣を呼び集め、大臣の紫冠を授けて欲しい、と申し出たのだ。女の最後の炎を入鹿との恋に燃やしていた女帝は入鹿のいいなりだった。入鹿は、蝦夷から大臣の紫冠を授けられることを、女帝には話さなかった。こういうことは、先に告げるよりも、実行した後で、簡単に報告した方が良い、というのが入鹿の考え方だった。
何故なら、先に女帝に告げると、どうしても、女帝の承諾を得なければならない。
何度も述べるように、大臣を任命するのは大王家の大権である。当然、女帝は考え悩むに違いなかった。入鹿は女帝を悩ませたくなかったし、色々と女帝に説明するのも億劫だった。すでに入鹿は、独裁者たるべく走り始めていたのだ。
ただ入鹿にとって、一番気になるのは軽王だった。軽王は女帝の弟であり、妃である小足媛《おたらしひめ》の父は、阿倍倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》である。現在倉梯麻呂は百済大寺造営の長官に任ぜられているが、阿倍氏は軍事氏族であり、倉梯麻呂の軍事力はあなどれなかった。
入鹿としては、自分が完全に独裁的な権力を握るまでは、軽王を味方につけておきたかった。入鹿は、軽王に知らせるべきかどうか、で迷った。蝦夷は、入鹿と女帝との関係を知っているが、まだ女帝の承諾だけは得ていた方が良い、と考えているようだ。
入鹿は、父以外に相談相手が居ないのを痛感した。蘇我田口臣川掘《そがたぐちのおみかわほり》も、|東 漢 直 雀《やまとのあやのあたいすずめ》も若い。入鹿の命令なら、生命を捨てても実行するが、入鹿の相談相手にはなれない。
とすると、入鹿としては、父に相談するより仕方なかった。
「大郎入鹿、そんなことで悩んでいるようでは、まだまだ大臣になる資格はないぞ、もっと頭を使うのじゃ、頭を……」
蝦夷は老獪《ろうかい》な笑みを浮べた。
「父上、どんな方法が御座居ますか?」
「色々ある、だがそれには矢張り、大王の承諾を得ておかねばならぬ、そちは、自分では賢者だと思っているようだが、吾が視る限り、まだまだ若い、直情径行じゃ、なあに、吾は今夜にでも、病者になる、そちは吾の生命が危い、と申し、大王をここにお連れするのじゃ、吾は大王の前で、紫冠を授けよう、そうじゃ、明日にでも僧侶を飛鳥寺に集め、吾の病平癒を祈願させろ……」
顎鬚《あごひげ》を撫でている蝦夷を見ながら、入鹿は、父の智謀に感嘆し、吾はまだまだ若い、と胸の中で呟いた。
蝦夷は蝦夷なりに、唐や朝鮮半島の情勢を考察し、時代の流れが若い入鹿を求めているのを感じていた。これまでのように豪族達に遠慮して政治を行ったなら、蘇我本宗家は先細りになるのは間違いない。
だからといって、入鹿の行動力には、若さからくる政治感覚の未熟さが感じられた。放っておけば暴走する恐れがある。蝦夷は、入鹿の背後に居て、手綱を締める積りでいたのだ。
「大郎入鹿、大臣の紫冠はそちに授けるが、吾は、大臣の上の大臣、何時かそちがいったように皇帝の積りでおる、重大な問題にぶつかった時は、必ず相談するのじゃ、分ったか!」
蝦夷の声は年齢に似ず鋭かった。
入鹿は思わず蝦夷に頭を下げた。蝦夷はこれまでも、比較的入鹿の意見を諾《き》き入れ、入鹿の行動を是認してくれている。おそらく、蝦夷は蝦夷なりに、入鹿に時代の流れを視、自分に納得するものがあるからだろう。蝦夷は老いてはいたが、まだ呆《ほう》けてはいなかった。
こうして、蝦夷は病の床についた。勿論|仮病《けびよう》である。入鹿は翌日、女帝を豊浦の屋形に連れて来た。大臣蝦夷が突然倒れたという入鹿の報告に、女帝は驚いて見舞いに来たのだ。仮宮が豊浦の屋形の直ぐ傍にあったのも都合良かった。明り取りの窓は閉められ、魚油の炎は暗く、絹布に顔を埋めた蝦夷は、彼らしくないか細い声で、吾の生命はもうない、蘇我本宗家の大郎入鹿に大臣の紫冠を授けたい、といった。こんな状態を見た以上、軽王《かるのきみ》や|大 派 王《おおまたのおおきみ》に相談するとは、女帝もいえなかった。しかも女帝は入鹿を寵愛《ちようあい》しているのだ。女帝は即座に承諾した。入鹿は用意されていた紫冠を女帝に渡し、改めて女帝の手から受け取り、大臣になったことを女帝に承認させたのだった。入鹿が大臣になったのは、確かに蝦夷と入鹿の意志であり、女帝が積極的に任命したのではないかもしれない。
だが蝦夷は『日本書紀』が「私《ひそか》に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬《なずら》ふ」と述べているように、完全に女帝を無視したのではない。六四三年の春の時点では、蝦夷は、まだ大王家の大権を無視出来なかったのである。
雨乞いの時と同じように、蝦夷は忍耐強く床に伏していた。その間、飛鳥寺に集められた数十人の僧が、蝦夷のために、延命の経を読んでいた。女帝の承認の上で、入鹿に大臣の紫冠が授けられたことは、直ぐ飛鳥の群臣に伝わった。入鹿は紫冠を授かると同時に軽王に報告し、軽王は慌てて蝦夷の病気見舞いに飛んで来たからであった。
蝦夷の病が重い、という噂を聞いた重臣達は、続々と豊浦の屋形に集った。誰一人として蝦夷の病気を仮病と疑う者は居なかった。
大臣蝦夷は、自分の死を予感したからこそ、女帝に奏上して、大臣の紫冠を入鹿に授けたのだ、と見舞いに来た重臣達は納得した。
だが、なかには、何故、大臣が亡くなってからにしないのか、と不審に思った者も居ないではなかった。蘇我倉山田石川麻呂《そがのくらやまだのいしかわまろ》、阿倍倉梯麻呂、僧旻《そうみん》、|中臣連 鎌足《なかとみのむらじかまたり》など、後に入鹿を斃し、クーデターを起した連中であった。だが不審に思った連中も、蝦夷の仮病は疑わなかった。まさか、倭国に二人の大臣が存在するようになるなど、この時点では、誰一人として想像出来なかったからである。
蝦夷は恐ろしいほどの忍耐力で、病の床に伏していた。ただ、仮病でも、老いて寝ていると、死後を思うのだろう。蝦夷は入鹿に、前々から希望していた墳墓を、生存中に是非造りたい、といった。
蝦夷が仮病で寝ている間に、入鹿が大臣として先ず始めたことは、土師連《はじのむらじ》の長に、墳墓の設計と造営を命じたことだった。
墳墓を造ることについて入鹿は昨年の秋までそんなに熱心でなかった。蝦夷の気持は分らないではないが、入鹿はまだ三十代だった。蘇我本宗家の威力を示すためとはいえ、自分の墳墓はまだ早過ぎるように思えた。そんな入鹿が、父と同じ場所に双墳墓を造ろうと思い立ったのは、矢張り上宮王家《じようぐうおうけ》の乳部《みぶ》の民を蘇我本宗家の墳墓の造営工事にこき使おう、と考えたからである。
ことに泉蓋蘇文《せんがいそぶん》のクーデターを知って以来、入鹿は実力で政敵や、蘇我本宗家に反抗している者達を斃す決心を固めていた。
最初に斃すのは、群臣が、あっと眼を剥くような大物でなければならない。
それには、上宮王家がぴったりだった。
山背大兄皇子は、もし入鹿が、蘇我本宗家の墳墓の造営に、上宮王家の乳部の民を使ったと知ったなら、抗議してくるのは間違いない。
父聖徳太子の意向を忠実に守り、斑鳩宮《いかるがのみや》に籠っている山背大兄皇子は人間の器が小さく短気だった。場合によっては、蘇我本宗家討伐の計画を練るかもしれない。
上宮王家を斃す口実は、幾らでも捏造《ねつぞう》出来るに違いなかった。
そう思い立ってから、入鹿は墳墓の場所を探して歩いた。葛城の南部の巨勢《こせ》氏の本貫地の方まで足を伸ばした。だが何も巨勢氏の本貫地に蘇我本宗家の墳墓を造る必要はない。
巨勢氏だって、自分達の本貫地に蘇我本宗家の墓を造られては良い感じがしない。
結局、入鹿が決定したのは、前から考えていたように蘇我氏の勢力範囲であり、蘇我氏に仕える東漢人を始め渡来人が多く住む今来《いまき》であった。
蝦夷、入鹿が造った双墳墓については色々な説があるが、『大和志』から、御所市東南・古瀬・水泥《みどろ》と吉野郡大淀町今来の境を、『日本書紀』の今来とし、そこの水泥古墳を、双墓にあてる説が多い。だが、水泥古墳は巨勢氏の本貫地であり、場所的にも、当時の蘇我本宗家勢力圏から離れている、とすると、東漢氏を始め渡来人が最も多く住んでいた檜隈《ひのくま》界隈にその場所を求める方が適切である。その辺りにある七世紀中葉の双円墳といえば、現在の梅山古墳(欽明陵)しかない。梅山古墳は、現在は前方後円墳になっているが、これは幕末に、天皇の威厳を高めるために変えられたので、元来は見事な双円墳、つまり円墳が二つ並んでいた古墳であった。江戸時代の図面に双円墳となっている以上、幕末の修復に際して前方後円墳に変えられたとしか考えられない。場所的にみても、現在の近鉄吉野線飛鳥駅の北東であり、蘇我本宗家の勢力圏内にある。なお、元禄十五年に、梅山古墳の南側水田から、猿石と呼ばれる有名な石像四個が発掘されている。猿とも人間ともつかない奇面で、その石像は陽根を出している。梅山古墳の双墳を、蝦夷、入鹿が造営した大陵、小陵とすると、この猿石は、何等かの意味で、梅山古墳に関係して作られた石像かもしれない。
また、実際の欽明陵は、梅山古墳の北方一キロにある巨大な前方後円墳、見瀬丸山古墳(三一八メートル)と考えたい。
皇極二年(六四三)三月中旬、入鹿は土師連の長、土師娑婆連猪手《はじのさばのむらじいて》、それに雀を始め東漢直等を連れて、大陵、小陵を造営する場所を訪れた。ゆるやかな丘陵地帯の合間にある平坦地である。
この三月下旬には、武蔵国から上宮王家の乳部の民が二百数十名、飛鳥に到着する。百済大寺の造営の使役として徴発したのだ。到着次第、蝦夷、入鹿の双墳の造営に使わねばならない。この場所は蝦夷も気にいっており、最終決定を入鹿にまかせていたのだった。土師連の長は綺麗な円墳を二つ合せた双墳墓の設計図を幾つか作っていた。
「吾君《わがきみ》、これで如何ですか」
土師連の長は、入鹿を吾君と呼び、設計図を取り出した。すでに、入鹿も蝦夷も見て知っていた。東西に並んでいる円墳で、水をたたえた周濠をめぐらしている。
「それで良い、明日以降、新しく飛鳥に到着する使役の民は、総て墳墓の造営に使え、新宮の造営長官には、すでに申し伝えてある」
入鹿は土師娑婆連猪手に、葛城にある高宮の屋形に来るように命じ、土師連の長達と別れた。
勿論、入鹿の警護に当っている雀は、入鹿から離れない。猪手も数人の部下を連れていた。新しく造った高宮の屋形には楓が居た。入鹿はここ暫く、女帝の許に通っていたので、楓と会っていなかった。馬上の入鹿は眼を細め、馬を進めながら葛城山を彩っている桜の花を眺めた。桜花もその種類によって色が異る。白い梅の花のような色もあれば、桃花に似た派手な色もあった。
蝦夷、入鹿が建てた葛城の高宮の屋形は、二人の双墳墓を作ろうとする場所から南西一里半の葛城山麓にある。一言主神《ひとことぬしのかみ》 を祀《まつ》る一言主神社は高宮の屋形を見下ろす高台にあった。飛鳥から葛城山麓に来ると風景が全く変る。飛鳥寺のような荘厳、華麗な寺院、重臣達の屋形もない。田畑と原野が拡がり、百姓達の姿も少なく、苦役の民の姿も見えない。
飛鳥では一日中鞭が唸り、あちこちから苦役の民の悲鳴が聞えて来る。そんな飛鳥に較べると、葛城の高宮は、実にのどかな光景であった。
葛城氏の祖である葛城襲津彦《かつらぎのそつひこ》の娘|磐之媛《いわのひめ》は、河内王朝の大王、仁徳の皇后になった。そして、履中《りちゆう》、反正《はんぜい》、允恭《いんぎよう》を産む。何処まで事実か、もう入鹿の時代でははっきりしないが、それによって葛城氏は河内王朝の外戚となり、大王家と匹敵するほどの勢力を得た、といわれている。
だが、葛城氏のために仁徳に嫁いだ磐之媛は悲劇の女性だった。磐之媛は、仁徳の女性関係が余りにも酷《ひど》いのに悩まされ続けた。
磐之媛は嫉妬《しつと》深い女性だった、といわれている。だが入鹿は、嫉妬深いというよりも、葛城氏の娘であるという誇りを持っていた女人に違いない、と想像していた。
磐之媛は紀州に行ったがその帰途、夫が自分の異母妹八田皇女を宮中に納《い》れたのを知り、夫が住む難波高津宮に戻らなかった。山背の筒城宮に入ってしまったのである。仁徳は戻ってくれ、と手を変え品を変え、磐之媛に懇願したが、磐之媛は遂に戻らなかったと伝えられている。
葛城氏の娘である誇りのせいだろう。
磐之媛が一番戻りたかったのは、夫の居る難波高津宮ではなく、少女時代を過した実家のあたりだったに違いない。
紀州から山背に行く時、磐之媛は那羅山《ならやま》(奈良市北方の奈良坂附近の山々)で歌を詠んでいる。
つぎねふ 山背河を宮泝《みやのぼ》り 我が泝れば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり
果して磐之媛が詠んだ歌かどうか分らないのだが、飛鳥時代に於ても、葛城山麓は、飛鳥とはまた違った嫋々《じようじよう》たる風景だった。
楓が住んでいる屋形は高台なので、眺望が拡がり、田畑や鮮やかな草花に彩られた野や緑の丘陵などが眺められた。入鹿は、楓には五人の女人を奴婢《ぬひ》としてつけていた。楓の寝室と客室は板壁によって仕切られていた。
多くの女人の中で、楓だけは別扱いだった。雀はそのことを良く知っているので、土師娑婆連猪手にも、耳打ちしておいた。
だから猪手は現れた楓に対して丁重だった。最近の楓は、肌の色が透けるように白くなり、愁いを含んだ青い瞳は唐の青い瑠璃とはまた異り、翡翠のように淡い色をしていた。
入鹿は雀にも屋形へ入って休め、といったが、雀は、自分の役目は、吾君を守ることだ、といって上ろうとしない。東漢氏の兵士達を、屋形の周囲の要処に立たせている。
入鹿は縁側に立つと、雀を呼んだ。
「雀、酒を飲むのは、憩うためではない、吾には相談相手が少ない、そちは若いが、吾は頼りに思っておる、上って、猪手と、腹を割って話せ」
雀は漸く乗馬用の皮靴を脱いだ。麻のズボン様の袴《はかま》に、筒袖《つつそで》の上衣、皮帯を締め刀を吊した雀は、屋形に入ると、刀だけ外した。
楓が奴婢に命じて酒肴を運ばせた。干魚、山鳥の干肉、それにつくし、わらびなど採《つ》んで来た山菜を塩湯で煮たものだ。
貯蔵されていた栗なども出された。
喉が渇いていた入鹿は須恵器の酒杯に注がれた酒を一息に飲み干し、楓に注がせた。
「猪手、大臣が倒れてからすでに一カ月近い、経の効果があったのか、どうも回復しそうじゃ、だが、大臣は吾に、大臣の紫冠を授けられた、大臣の病が回復されたからといって、紫冠を返すわけにもゆかぬ、そちはどう思う?」
猪手は、入鹿よりも、楓の余りの美しさに圧倒されたようだった。どう見ても楓は倭人ではない。蝦夷の中でも純粋の毛人のようであった。毛人は、これまで何度か南の島に流れ着いた西域の国の異人に似ていた。
髪の色が赤や金で、眼窩《がんか》が窪《くぼ》み、瞳《ひとみ》が青い。それに鼻梁《びりよう》が倭人よりずっと高いのだ。
倭国の東の果てに住む人が、どうして誰よりも西域に住む異人に似ているのか、猪手には理由が分らない。
だが、女人に関する限り、入鹿は理由など余り詮索しなかった。美しければそれで良いではないか、というのが、女人に対する入鹿の考え方だった。
「吾君、当然で御座居ます、大臣は吾君大郎に決定しました」
楓に気を執られていた猪手は慌てたようにいった。
「では、父上はどうなる?」
「大臣の上の大臣、ということに……」
猪手は急いで酒杯を傾けながら上眼遣いに入鹿を見た。蘇我稲目が大臣になって以来、土師氏は蘇我氏に仕えて来た。現在、蘇我氏は、本宗家と蘇我倉山田石川麻呂に分裂して、土師氏の中には石川麻呂に心を寄せている者も多い。だが猪手は蘇我本宗家に忠誠を誓っていた。石川麻呂は、温厚な人柄で、一部に人気があるが、何といっても入鹿の決断力、勇猛さ、それに学識は石川麻呂よりも一段上だと猪手は思っていた。
今のところ、蘇我本宗家を打倒する氏族はない。それに猪手は、荒々しいが、余り気取らない入鹿の人間臭さが好きであった。
「大臣の上の大臣か、それは吾も考えた、だが所詮、大臣は大臣じゃ、昔から中国には、天子は天の子として神に仕え、皇帝は民を統《す》べる、という考え方があったようじゃ、皇帝は、民を統べると同時に天子でもあるわけじゃ、倭国の大王は天子だ、天子であると同時に最高司祭者でもある、だが倭国の大王は皇帝ではない、何故なら民を統べていない、民を統べているのは大臣、蘇我本宗家じゃ」
入鹿は酒をあおると、荒々しい息を吐いた。入鹿が雀を見ると、雀は大きく頷いた。
雀は入鹿の望みを知っている。だが雀にとっては、入鹿の望みなど関係がなかった。雀は、入鹿の警護長として、入鹿に生命を捧げて仕えているのであった。
猪手はむせた。慌てて気を落ち着けようとすればするほどむせる。奴婢が、楓の命令で猪手の背中を撫でた。
入鹿は冷たい眼を猪手に向けた。
「猪手、酷く狼狽《ろうばい》しておるようじゃな?」
「吾君、そんなことは御座居ませぬ、春の風に乗った花の粉が喉に入ったまでで御座居まする、確かに、大郎のいわれる通り、民を統べているのは大臣で御座る」
「だから、大臣が二人居るのは困るのじゃ、また倭国の大王は確かに天子じゃ、だから大臣は皇帝といったところかな……」
そういって入鹿は哄笑した。
「吾が、こう宣言すれば、|大伴 連 馬飼《おおとものむらじうまかい》、巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》の両人も、眼を白黒させるであろう、両人の顔が見たいものじゃ」
「その通りで御座居ます」
猪手は調子に乗って追従《ついしよう》笑いを浮べた。
「猪手、そちは吾の考えをどう思う?」
入鹿は真顔になると、猪手の真意を見抜くような鋭い眼を向けた。入鹿の眼光に射竦められたように猪手は思わず頭を下げた。
「吾は大郎の御命令とあらば、火の中、水の中であろうと、いといませぬ」
「そんなことを訊いているのではない、父上の呼称じゃ、皇帝では角がたつか、猪手も余り賛成ではないようじゃな」
入鹿は苛々《いらいら》し始めていた。土師娑婆連猪手は、東漢氏以外の氏族として、入鹿が初めて信頼を置いた人物である。入鹿が挙兵し号令をかければ、真先に部下を率いて進む軍事将軍の一人だった。その猪手も皇帝という呼称には抵抗感があるようである。
「吾君大郎、確かに突然のこと故、驚きましたが、よく考えれば、二人の大臣はおかしい、といって、皇帝と呼べば、直ぐには馴染《なじ》めない群臣が多いと存じます、だから一時、御父上を上《かみ》の大臣《おおおみ》と呼ばれては如何でしょうか?」
と猪手は思い切ったようにいった。
「上の大臣か、考えたな、確かに、皇帝と呼ぶには、時期が早過ぎる」
入鹿は盃を持ったまま縁側に出た。
春の陽は葛城山の真上にあった。彼方の田畑や原野で、かげろうが燃えていた。屋形の直ぐ下は黄色い布を敷きつめたような蒲公英《たんぽぽ》の原であった。
最近蝦夷は、この葛城の高宮に、蘇我本宗家の祖廟《そびよう》を建てたい、といっていた。祖廟は中国の風俗で、先祖の霊を祀る社《やしろ》である。入鹿も父の意向に同意していた。
葛城の高宮が、蘇我本宗家の本貫地であり、高宮に祖廟を建てることによって、この地が蘇我本宗家のものであることを宣言したい、と入鹿は思っていたのだ。
推古三十二年(六二四)、入鹿の祖父馬子は、葛城県は吾の本貫地である、だから、葛城県を、吾の食封地にして欲しい、と推古女帝に申し出て、拒否されている。女帝のいい分は、自分は蘇我氏より出ており、大臣馬子は伯父である。与えたいのはやまやまだが、今の自分は大王である、愚かな婦人だから、公私の別をわきまえなかった、と後の世の人にいわれるのは耐えられない、というような内容であった。
二十代に、入鹿は、その話を父から聞き、祖父馬子も老いていたのか、と歯ぎしりした記憶があった。当時、馬子の権力からすれば、何も女帝に懇願しなくても良かったのだ。この葛城の高宮を中心とする葛城県は、蘇我本宗家のものだ、と宣言すれば済むことだった。そうすれば女帝は馬子を恨んだかもしれない。
だが恨んだからといって、取り戻す力はなかった筈である。
入鹿は淡い春霞がたなびく縹渺《ひようびよう》とした葛城山麓の風景を眺めながら、大臣蝦夷の全快記念に、この高宮に蘇我本宗家の祖廟を建て、葛城県が、蘇我本宗家のものであることを宣言しよう、と決心したのだった。
陽が葛城山の西に落ちたので、土師娑婆連猪手は帰った。
まだこの季節は、陽が落ちると底冷えがする。女人達は絶えず薪を竃にくべ、火を燃した。
入鹿は雀に、飛鳥に戻るようにいったが、雀は、葛城の屋形は警護も手薄だし、油断は出来ない、という。
「雀、吾は楓と媾合《まぐわ》うのじゃ、この屋形は狭い、そちは飛鳥に戻れ」
少しは気を利かせ、と入鹿は舌打ちした。
「吾君大郎、吾は筵《むしろ》一枚あれば何処ででも眠れます、戸外の縁に筵を敷き、仮眠を取ります故、御安心下さい」
こういう場合、雀は頑固だった。
奴婢達が戸外に居る東漢氏、兵士達に食物を運んでいる。入鹿がこの屋形に泊っている間、兵士達は徹夜で屋形を見張るのだ。
そういう点、入鹿は用心深かった。ただ、隊長の雀だけは、ゆっくり休息させてやろう、と思ったのだ。楓に仕える奴婢の中にも美貌の女人は居る。入鹿は雀に、好きな女を選んで媾合え、といったが、雀はただ頭を下げただけであった。
雀にも妻は居た。東漢氏の娘だった。そして雀は、その妻一人を守り、他の女人には手を出さなかった。
雀の命令で、東漢氏の兵士達は、農家から藁《わら》や筵を集めて来た。それを戸外の縁に敷くと、即席の寝具となる。
陽が葛城山の彼方に落ちると、室内は暗くなった。魚油の炎が夜の灯であった。だが、農家には夜の灯はない。百姓達は陽が落ちるまでに総てのことを終え、陽が落ちると、ただ眠るだけだ。その代り朝は陽が昇らぬうちに起きる。魚油の炎など、当時の百姓達にとっては手の届かない灯であった。
この屋形では楓が女主人である。奴婢達が湯に浸した布で、裸になった楓の身体を拭く。その後、楓は唐の香料を身体に塗った。唐から帰国した学問僧や留学生達の土産物である。先に身体を洗った入鹿は鹿の毛皮の上に横たわり、魚油の炎に照らし出された楓の肌を眺めていた。毛人の血が混じっている楓は身体の恰好も、倭人と違う。腰部が見えない手で締めつけられたように細い。その代り尻の肉付きが良い。女帝は贅肉がついているが若い楓には余分な脂肪がなかった。楓は瑠璃の瓶に入った唐の香料を腋窩《えきか》に塗り込んだ。入鹿が楓に与えたその香料は、今、女帝が好んで使っているものと同じだった。
入鹿はその香料はやめろ、といいたかった。だが入鹿が与えた時の、楓の喜びの表情を思い出すと、いえなかった。嶋の屋形に居る大勢の女人達の一人一人を入鹿は好んでいた。だが楓に対する情は、彼女達に対する情とは異質であった。わざわざ屋形を建ててやったのもその表れの一つだが、最も大きな違いは、思い遣《や》りだった。他の女人達に対しては、余りそれがない。
楓に対する入鹿の愛撫は、昔のように荒々しくない。入鹿は楓の反応の一つ一つを確かめながら、楓の柔かい肌をまさぐった。
陽が落ちると葛城山から風が吹き降ろして来る夜が多い。今夜もそうであった。樹々のざわめきは、楓の嗚咽《おえつ》の伴奏となる。奴婢達は土間続きの別棟に戻っている。時刻を見計らって、竃に薪を入れに来るが、主人達の行動に対しては無関心である。
楓は絶頂に達すると、木枕を放り出し、俯せになった。入鹿は大の字になり、放心したような眼を太い屋形の梁に向けた。だが、何も眼に入らない。
「大王のお身体は?」
楓の言葉に入鹿は我に返った。
楓が知っているぐらいだから、女帝と入鹿の関係は飛鳥だけでなく、大和一帯に拡がっているのだろう。
「大王のことは、口にしてはならぬ」
入鹿は激しい声で叱責した。
「お許しください」
「楓、仕方がないのじゃ、吾が申していること、そなたにも分るであろう」
楓は答えない。顔を鹿の毛皮に埋めている。
「分らないのか?」
普通なら入鹿は怒鳴っている筈だ。だが入鹿の声は、剣で胸を突き刺されたように低かった。まるで呻《うめ》いているようだった。
入鹿が女帝と情を通じたのは、蘇我本宗家の権力を、馬子時代以上のものにするためだった。だが、情を通じてみると、女帝には、年齢に似合わない可愛らしさがあった。それに女帝だけに天真爛漫である。時には大王である自分を意識し毅然となるが、怒って入鹿が帰ろうとすると、入鹿に、機嫌をなおして欲しい、と哀願する。
また入鹿が急用で帰らなければならなくなると、女帝は入鹿の腰に縋《すが》りついて、引き止めようとする。そのような女人は、女帝が初めてだった。楓もそんなことはしない。
そういう意味で、入鹿にとって女帝は、対等に付き合える女人だった。いや、時には、入鹿が一歩退かなければならない時もある。
入鹿は、そんな女帝に惹《ひ》かれている自分を知っていた。冷酷な計算だけで女帝と通じているのなら、入鹿の気持はもっと楽であった。入鹿は時々、自分にとって女帝は、どんな存在であるのか、と自問自答したりする。
だから楓に、女帝との関係を嫉妬されると、憤りを覚えるのだ。そしてその憤りは直ぐ自分自身に撥ね返って来る。
入鹿は栄留王を虐殺した高句麗の大臣泉蓋蘇文のことを思い浮べた。飛鳥の群臣の大部分は、王を虐殺するなど鬼のような人物だ、と泉蓋蘇文を憎み恐れている。だが入鹿は泉蓋蘇文に拍手を送っていた。唐に対抗するためには、王を始め、軟弱な貴族連中を一掃しなければならない、と決意したから、泉蓋蘇文はクーデターを起したのだ。
もし、そういう日が来たなら、入鹿も決然と起《た》って大王を斃さなければならない。それは蘇我本宗家が総ての権力を掌中におさめなければならない、と入鹿が感じた時であった。
その時の大王が男王なら、入鹿は容赦なくクーデターを起すであろう。だが、今の女帝がまだ大王だったら、吾にその決断が下せるだろうか、と入鹿は悩むのだ。
入鹿には、女帝を葬り去る自信はなかった。女帝と情を通じあうのも良し悪しかもしれない、と入鹿は大きな眼を開いたまま考え続けていた。
大臣蝦夷は床に伏して一カ月目に病回復の祝宴を豊浦の屋形で催した。蘇我本宗家と疎遠になっている蘇我石川麻呂を始め、蘇我氏の各支族も顔を見せた。日向《ひむか》も居た。
古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子、軽王《かるのきみ》、阿倍倉梯麻呂、巨勢《こせ》、大伴、息長《おきなが》などの重臣達も集った。
この夜、出席者達の眼を惹いたのは、十八歳になった中大兄皇子(葛城皇子)だった。初めて蘇我本宗家の宴に姿を見せたのだ。
屋形の北方に造られた宴会の大広間は屋根こそないが、広間を囲む欄干は朱色に塗られ、四隅の主柱には銅板が張られていた。また欄干には無数の鈴が吊られている。豊浦の屋形の周囲は陽が落ちると篝火《かがりび》が赫々《あかあか》と燃え、出席者の従者達が、何時もと違い、何処か殺気立った面持ちで、屋形を守る東漢氏の兵士達と向い合っていた。
従者達の数は何時もよりもずっと多い。
入鹿はその理由を間諜《かんちよう》として使っている蘇我田口臣川掘から聴いて知っていた。
誰がいいふらしたのか分らないが、大臣蝦夷の病回復の宴は罠で、蝦夷、入鹿は、泉蓋蘇文のように、集った王族、重臣達を一撃に葬る計画を立てている、という噂が流れたからだった。だから出席者は、警護の従者を大勢連れて来たのである。それを知った入鹿は、屋形を守る兵士達の数を半減した。
だが、そんな噂が流れたにも拘らず、王族、重臣達が集ったのは、蘇我本宗家の威力が再認識されたのと、大臣蝦夷が、病で倒れた時、紫冠を入鹿に与えたことについて、蘇我本宗家の意向を説明する、という宴の目的が通達されたからであった。
広間は飛鳥川の直ぐ傍まで張り出されていた。女人達が舞を舞い、琴を弾き、酒肴が運ばれたにも拘らず、宴席の談笑は何時ものようにはずまない。板蓋宮《いたぶきのみや》の造営は、今日は昼過ぎから中止されていた。大臣蝦夷の病回復を祝うため、使役の民にも倍の食物が与えられた。彼等はそれをむさぼり食うと、皆、泥のように眠りこけていた。
入鹿が造営の工事を中止させたのは、鞭で打たれる使役の民の悲鳴を、今日は耳にしたくなかったからである。
上座の欄干を背にして、蝦夷、入鹿を中心に王族や王子達が南を向いて並んでいた。
蝦夷の左隣には古人大兄皇子、中大兄皇子、入鹿の右隣には軽王が坐っている。小徳以上の重臣達が、蝦夷、入鹿達と向い合っていた。王族で出席していないのは、|大 派 王《おおまたのおおきみ》、山背大兄皇子等であった。
翹岐《ぎようき》王子は軽王の隣に坐しているが、亡命して来た当時ほど蝦夷が歓待しなくなったせいか、何となく落ち着きがない。
入鹿は、最初から、クーデターを起した義慈王の方に心を寄せていた。だから平和主義者の翹岐王子には冷たい。蝦夷が最近、翹岐王子によそよそしくなったのは、何といっても、泉蓋蘇文のクーデターの内容を知り、緊迫しつつある時の流れを入鹿と同じように感じたからであった。
欄干の鈴は春の風に、また女人達が舞う度に鳴る。飛鳥川の川沿いに篝火が焚《た》かれ、炎が川面に映えて、川が燃えているようだった。
群臣は酒を飲みながらも、時々、篝火の方を窺うように眺めていた。蝦夷、入鹿が出席者を虐殺するという噂が気になり落ち着かないのだ。
入鹿は酒に酔ったふりをしながら、出席者の態度を眺めていた。一番落ち着いているのは十八歳の中大兄皇子であった。向い合って坐っている石川麻呂や巨勢臣徳太と談笑していた。狩りの自慢話をしているようだった。
中大兄皇子は、最近、入鹿が女人達を住まわせている嶋の屋形の近くに屋形を建てて住むようになった。冬野川沿いで、入鹿の屋形よりも上流だった。僧旻《そうみん》よりも新しく来た南淵請安《みなぶちしようあん》を屋形に招いては唐の学問、ことに儒教を勉強しているようである。南淵請安は、僧旻よりも学者肌で、政治には余り関心を抱いていないようだった。
南淵請安は、中大兄皇子に儒教を教え始めると共に、飛鳥川上流の稲淵にある自宅を拡げ、今年から群臣の子弟にも教えるようになっていた。中大兄皇子は、何といっても、亡き大王と、現女帝との間に産まれた長子である。その中大兄皇子が、南淵請安を師としたのだ。これまで僧旻の講堂に行きそびれていた中級官人の子弟達が、稲淵まで通うようになった。佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》や、|葛城 稚犬養 連 網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》、|海犬養連 勝麻呂《あまいぬかいのむらじかつまろ》なども通い始めていた。
自分の母である女帝が入鹿と情を通じていることを知っている筈だが、入鹿に対して、中大兄皇子は丁重だった。視線を合せても逸《そ》らさないし、入鹿をそんなに憎んでいる様子はない。ただ自分に好意を抱いていないような気はする。だが、まだ十八歳だから、入鹿から見れば子供のようなものだ。狩りの腕は優れているかもしれないが、政治の上でライバルになるとしても、まだまだ先のことだ。もしそれまでに、蘇我本宗家に反抗するようなら斃してしまえば良い、と入鹿は考えていた。
入鹿は中大兄皇子を無視していたのではない。舒明の|殯 宮《もがりのみや》での誄《しのびごと》は十六歳にしては立派で堂々としていた。何時かライバルになる日が来るかも分らない。ただ、それは数年先のことだろう、と考えていた。入鹿の油断である。入鹿は蘇我本宗家の権力掌握に全力を注いでいた。そのためには先ず斑鳩宮《いかるがのみや》の山背大兄皇子を斃さなければならない。
入鹿がこの時点で、十八歳の中大兄皇子に油断していたとしても、仕方がないだろう。しかも中大兄皇子は、葛城皇子と呼ばれていたことでも分るように、蘇我本宗家の庇護の許に、蘇我本宗家の本貫地である葛城で育ったのである。
一、二年のうちに蘇我本宗家打倒の夢を燃やすようになるとは、思ってもいなかった。
ただ六四三年の三月の時点では、中大兄皇子は、蘇我本宗家打倒の意志はなかった。だが、中大兄皇子は入鹿を憎んでいた。自分の母である女帝と情を通じている入鹿に、母を穢《けが》されたという憎悪の炎を燃やしていたのである。折角、女帝が住んでいる仮宮に会いに行っても、女帝は我子に対して、本心から笑顔を見せなかった。確かに喜ぶが、心の何処かが絶えず他にあるように思える。十五歳の年齢まで葛城に居て、母と離れて育った中大兄皇子はそんな母と会うと、やり切れない程の腹立たしさと孤独感に襲われる。中大兄皇子の憎悪が入鹿に向けられたのも当然であろう。中大兄皇子は、毎夜、寝る時、入鹿を刀で切り刻む光景を色々と空想し、復讐《ふくしゆう》の快感を味わい、眠るのだった。勿論、入鹿はそこまで憎まれているとは知らない。中大兄皇子が考えられない忍耐力で自分の感情を隠しているからだった。
鎌足が中大兄皇子に眼をつけたのは、何も大王家に忠節を尽すためではなかった。鎌足は僧旻の講義を聴き、唐の学問を勉強した結果、倭国の律令化の必要を痛感した。そして、鎌足が政治家として名を成すには、自分と共に組むことの出来る大王が絶対に必要だった。
蘇我本宗家が、独裁的な権力を握ってしまえば、鎌足の出る幕はない。大王家は蘇我本宗家に圧倒され、大王家の神祇《じんぎ》を掌《つかさど》る中臣家は、祝詞《のりと》をあげる職業から、永久に脱出出来ない。だから、鎌足の野望は、大王家と組んで、蘇我本宗家を斃し、政治の舞台に乗り出すことであった。今の大王家に必要なのは政治権力だった。大王家がそれを得た場合、大王家は初めて唐の皇帝と同じような地位を得、倭国は時代の流れに沿った新しい政治国家になることが出来る。その際、大王を補佐するのは鎌足自身であった。
今、鎌足は珍しく焦り掛けていた。高句麗の泉蓋蘇文のクーデター以来、蘇我本宗家、それも入鹿が、泉蓋蘇文を意識し始めたからである。大臣蝦夷が入鹿に紫冠を授け、大臣にしてしまったのも、その表れだ、と鎌足は視ていた。入鹿が女帝と情を通じたのも独裁権力を得るために違いない、と鎌足は読んでいた。
鎌足が焦り掛けているのは、共に組む皇子、王族が見付からないからであった。山背大兄皇子も一応考えたが、女帝を始め、群臣が上宮王家に背を向けている以上、共に組んでも意味がない。
女帝は入鹿と情を通じているし、軽王は、次期大王位を狙っているらしく、蘇我本宗家寄りである。それに軽王は入鹿の力に縋ろうとしている。鎌足はそれが不満だった。うっかり、蘇我本宗家打倒の話を持ち掛け、入鹿に密告されたなら、鎌足の生命はない。
だから軽王の本心を確かめなければならないと思って、鎌足は、御食子《みけこ》の代理として、重大なこの宴に出席したのである。鎌足の眼は末席から、蘇我倉山田石川麻呂や、巨勢臣徳太と談笑している中大兄皇子に注がれていた。
先日、鎌足は御食子の代理として女帝が住む仮宮を訪れた際、宮から出て来た中大兄皇子と会った。その時の中大兄皇子の表情は、鎌足がはっとしたほど引き攣《つ》っていた。鎌足は川原の小石を敷き詰めた庭に坐って挨拶したが、中大兄皇子には、鎌足が眼に入らないようだった。そこで鎌足は中大兄皇子に、自分の名を名乗った。
中大兄皇子は、めんどう臭そうに頷き、行き過ぎたが、自分が皇子であることを思い出したのだろう、立ち止まり振り返った。
鎌足はまだ坐ったままだった。
舒明の殯の儀式、正式の葬礼の際、鎌足は御食子と共に何度か中大兄皇子に会っていた。中大兄皇子は、坐ったまま、また頭を下げた鎌足を不思議そうに眺めた。
「神祇の長官の子、中臣鎌子だったな」
鎌足はその時、自分の名を覚えていてくれたことへの喜びよりも、なかなか頭の良い皇子だな、と採点しながら、頭を上げたものだった。
「はい、中臣鎌子で御座居まする」
と鎌足は一語一語噛み締めるようにいった。
それから鎌足は、仮宮で簾越しに女帝と会った。中大兄皇子が女帝と何かいい争ったのではないか、と予想していたが、どうやら違ったようだ。鎌足は新宮板蓋宮に現在造られている祭祀《さいし》の場について御食子の意見を奏上したのだが、女帝の返事には気がなかった。その時鎌足は、中大兄皇子の顔が引き攣っていた理由を悟ったのである。
多分女帝は、中大兄皇子に対しても、気のない応対をしたに違いなかった。その時女帝の脳裡には入鹿のことしかなかったのである。鎌足はそれを知った時、組む相手として中大兄皇子を考えたのだ。
今宵の中大兄皇子は別人のように爽《さわ》やかだった。満月に近い明るい月が多武峰《とうのみね》の上に出ていた。それに宴会では到るところで魚油を燃やしているので、一人一人の表情がはっきり見える。落ち着きのない群臣が多い中で、中大兄皇子の明るい顔は、鎌足には印象的だった。四十歳になった古人大兄皇子が背を丸め、何となく陰気な表情をしているのと対照的である。宮廷の群臣の大多数は、蘇我本宗家は古人大兄皇子が、次の大王になることを望んでいる、と予測しているようだが、陰気で冴《さ》えない古人大兄皇子の表情を見ていると、どうもそんな気がしないのだ。鎌足が考えているように、入鹿が泉蓋蘇文と同じ行動を取る積りなら、大王など誰でも良い。
この時鎌足は、宴に出席している群臣の表情を窺っている人物を見付けた。蘇我田口臣川掘である。川掘も、僧旻の講堂に通って来ているので、鎌足とは親しく口をきく間柄である。だが今宵の川掘の眼は、魚油の明りを受け、鋭く光っていた。鎌足はそれとなく視線を伏せながら、川掘は蘇我本宗家の間諜かもしれない、と自分の胸に呟いた。
突然、入鹿が手を拍《う》った。大臣《おおおみ》の話があるので静かにして欲しい、と大きな声で告げた。宴の客達は一斉に口を閉じ、視線を蝦夷に注いだ。飛鳥川のせせらぎの音が、急にはっきり聞えて来た。
蝦夷は胡坐をかいたまま話し始めた。
自分の死の病が治ったのは御仏の加護であり、深く御仏に感謝している、と述べた後、一呼吸ついた蝦夷は、宴席を見廻しながらいった。
「吾は死を前にした際、大王の詔を得て、大臣の紫冠を蘇我大郎入鹿に授けた、もう噂で知っているであろうが、今日の好き日に、改めてそのことを発表する、これからは蘇我大郎は大臣じゃ」
有無をいわせぬ口調だった。告げ終ると、緊張感が解けたのか、蝦夷は大きく息を吸い込んだ。
石川麻呂は憮然とした表情で顎鬚《あごひげ》を撫でた。それを見た鎌足は、蝦夷や入鹿から、石川麻呂に連絡がなかったものと、判断した。
入鹿が前に置いてあった大きな鈴を鳴らした。群臣の胸に響き渡るような冴えた音がする。
「質問があれば、吾が答える、遠慮せずに訊いて欲しい」
入鹿は昂然とした口調でいった。
土師娑婆連猪手が手を挙げ、豊浦大臣のことをどう呼んだら良いのか、と訊いた。
豊浦大臣とは蝦夷のことだった。
「上《かみ》の大臣《おおおみ》、と呼んでいただきたい……」
今度の入鹿の口調は宴席の群臣に挑戦しているようだった。鎌足は胸の鼓動を押えるように、静かに深く息を吸い込んだ。群臣は鼻をすするのも、咳をするのも恐れているようだった。変な音を立てれば、舌打ちした、と疑われ兼ねない。
入鹿と土師娑婆連猪手との質疑応答は、始めから打ち合せがしてあったに違いないと鎌足は思った。直ぐ近くに居る日向《ひむか》の顔が歪んでいた。先年、大勢の群臣の前で、日向は入鹿に侮辱された。それ以来、鎌足は、日向に近付き、今は親しく話し合う仲になっている。鎌足は眼を細め、川掘に視線を走らせた。川掘は相変らず真剣な眼で、群臣の表情を窺っていた。蘇我本宗家の間諜に違いなかった。
それまで顎鬚を撫でていた石川麻呂が思い切ったように蝦夷にいった。
「豊浦大臣、これまで倭国に、二人の大臣は居らぬ、上の大臣も、大臣は大臣、吾には納得行き兼ねますが……」
始めから打ち合せてあるやり取りか、それとも、石川麻呂の本心か、と鎌足は息を止め、眼を見開いた。入鹿の形相が変るのを、鎌足ははっきり見た。これは芝居ではない、と鎌足は感じた。軽王《かるのきみ》が身体を乗り出すようにして入鹿を見詰めたからだった。
「蘇我倉山田石川麻呂……」
入鹿は膝を叩いて石川麻呂を睨んだ。
「何で御座る? 蘇我大郎」
流石に石川麻呂も必死の面持ちだった。
「吾に訊くように、と申した筈だが……」
「では、吾の質問に御返答願いたい」
「大臣入鹿が説明する、吾は上の大臣から紫冠を授けられて大臣となった、吾はその際、上の大臣を大帝と呼ぶことを考えた、だが上の大臣は、大帝という呼称は大王《おおきみ》と紛らわしい、と吾の進言を拒否された、それで、上の大臣と決めたのじゃ、石川麻呂殿、どうしても不服なら大帝でも構いませぬぞ」
誰一人、口をはさむ者は居なかった。今、入鹿は宴席の群臣だけでなく、大王家にも挑戦しているのである。古人大兄皇子は俯いていた。軽王も呆然として口を開けていた。背を向けている小徳以上の重臣達の表情は窺えない。だが入鹿と石川麻呂のやり取りは間違いなく芝居ではなかった。二人共真剣なのだ。それを知っただけでも、この席に来た甲斐があった、と鎌足は自分を押えるように唇を引き締めた。
ただ理解できないのは、中大兄皇子だった。群臣が息を呑んでいる入鹿と石川麻呂のやり取りの間中、余り表情を変えずに酒杯を口に運んでいる。今、酒を飲んでいるのは中大兄皇子だけだった。政治のことなど、余り関心がないといった表情である。
もしそれが演技なら俳優顔負けの演技だった。だが十八歳の皇子にこれだけの演技が出来る筈はない、矢張り政治に関心がないのだろう、と鎌足はなんとなくがっかりした。
入鹿に詰問され、石川麻呂は、蘇我氏の者として、一度ゆっくり話し合いたい、と答え、一時はどうなるか、と緊迫した入鹿と石川麻呂のやり取りは終った。
入鹿は、上の大臣の祝宴はこれで終る、と宴の解散を告げた。下座の者は上座の者が広間を出るまで、身を寄せて道を開けた。鎌足は日向の後から屋形を出た。混雑に紛れて身体をぶっつけ、振り返った日向に会釈した。
鎌足の屋形は香久山の傍だが、日向は石川麻呂が住んでいる山田の近くだった。
豊浦の屋形からは北と東で方向が違う。
「もし、およろしければ、近くまで御一緒させていただきます、今宵は久し振りで、女人の屋形に泊りたくなりました」
と鎌足は丁重にいった。
「鎌子殿、話し相手が出来て楽しゅう御座る、いや、今夜の蘇我大郎には呆れた、傍若無人というか、天下を取った気でおる」
日向は鎌足が、蘇我本宗家に好意を寄せていないことを知っていた。鎌足は、口に手を当て、そんな日向を制した。日向は振り返っていった。
「後ろに続いているのは、吾の従者ばかりじゃ、蘇我大郎が、東漢氏の兵を集め、宴席に集った我等を襲撃するという噂を聞き、十人以上の従者を連れて来た、心配は要らぬ」
「いや、どんな間諜を放っているか分りませんぞ、帰る途中に、何を喋るか、探らせるぐらいのことは、考えておられる、蘇我大郎は、そういう方じゃ」
鎌足の言葉に、日向は首を竦め、急に声を潜めた。だが相変らず入鹿をののしり続けている。蘇我臣日向は、石川麻呂の異母弟で、石川麻呂の長女に夢中だった。これからも、石川麻呂の自宅に寄る、という。
鎌足は日向に、石川麻呂を紹介していただけないか、といった。何度も顔を合せているが、鎌足は石川麻呂と親しく話したことがなかった。
「おお、鎌子殿の学識については、兄もよく知っている、今夜、一緒に参ろう、胸が閊《つか》えるような宴の後じゃ、兄も喜ぶに違いない」
僧旻の講堂に通う鎌足の名は、すでに鎌足が意識している以上に、知れ渡っていた。鎌足は、僧旻の師範代として講義が出来るのだ。そういう鎌足を、兄に紹介することを日向は喜んでいた。鎌足は日向に、蘇我本宗家打倒については何一つ語っていない。鎌足は、単純で心の狭い日向を信用していなかった。
鎌足が日向と親しくしたのは、石川麻呂に近付くためであった。今夜、鎌足は石川麻呂の態度を見て、蘇我本宗家を打倒するには絶対必要な人物だ、と判断したのだ。
東漢氏の中にも、石川麻呂に心を寄せる人物は多い。新しい学問文化を吸収した者にとくに多かった。月は多武峰から芋峠の上あたりに移っていた。芋峠、後年|大海人《おおしあま》皇子が兄天智(中大兄皇子)に追われるように吉野の宮滝に隠遁《いんとん》した際、通った峠である。芋峠の辺りには狼が出没する。
「僧旻師の講堂で一寸小耳にはさみましたが、高向臣《たかむくのおみ》 国押《くにおし》殿は、石川麻呂様と親しいとか……」
「ああ、高向臣国押は、兄が信頼している人物じゃ、蘇我本宗家にも出入りしているが」
高向臣は蘇我氏の支族だが、南河内の高向に住みついて以来、高向氏を名乗るようになった。国押には漢氏の血が混じっていた。本貫地は南河内だが、今は飛鳥に住んでいる。
唐から帰国した|高向漢人 玄理《たかむくのあやひとげんり》の本貫地も、国押と同じ南河内である。
高向臣国押も僧旻の講堂に通っているが、頭の回転が早く、学識も優れていた。鎌足は時々語り合うが、倭国を唐のような律令国家にしなければならない、と本気で考えている一人である。石川麻呂と親しくしながら、蘇我本宗家に出入りしているのは、矢張り入鹿に睨まれるのが恐いのだろう。
ただ高向臣国押は、東漢氏に人望がある。
大王家の軍事氏族が、蘇我本宗家に真向から反対出来ないのは、蘇我本宗家の輩下に東漢氏がいるからだった。東漢氏の中には、蘇我本宗家のためなら、死もいとわない、という人物が多い。ことに東漢氏の有力者に多い。
もし蘇我本宗家の力を弱める方法があるとすると、東漢氏を分裂させることだった。
その第一の方法は、石川麻呂の人望を高め、東漢氏の中に石川麻呂派をつくることである。高向臣国押など最も役に立ちそうな人物だった。
飛鳥川が闇の中に巨大な暗黒の口を開けていた。山犬の遠吠《とおぼ》えが聞えて来る。
日向は、まだ入鹿の悪口をいっていた。
蘇我倉山田石川麻呂は、分家といっても蘇我本宗家とは余り変らない地位である。それなのに蘇我本宗家は、石川麻呂を余りにも無視している、というのだった。鎌足は頷きながら、内心の微笑を押し殺した。入鹿が泉蓋蘇文を気取っていることは分る。だが、泉蓋蘇文の場合、貴族連中は別として、高句麗の軍事氏族の大半は泉蓋蘇文についていた。だから、あのクーデターが成功したのである。だが、今、蘇我本宗家についている軍事氏族といえば、東漢氏しか居ない。
阿曇連《あずみのむらじ》が居るが、政治には余り関心がなく、それも水軍を管轄している。問題は軽王についている阿部倉梯麻呂《あべのくらはしまろ》である。軽王は今、蘇我本宗家に近付いているが、自分が大王になれない、と知ったなら、何時までも蘇我本宗家に味方する筈はない。とすると、阿倍氏という軍事力を味方として持っている軽王も、こちらに抱き込まねばならない。軽王を抱き込む際必要なのは、大王、という餌であった。
四月初旬入鹿は、仮宮を訪れ女帝と会った。女帝は何時ものように嬉々として入鹿を迎えなかった。寧ろ不安そうであった。女帝も宴席での蝦夷、入鹿の発言を大派王から聴いて知っていた。
「大臣、二人の大臣が立ったためしはない、群臣の間に色々な声があるようだが……」
四月初旬、すでに飛鳥の黄昏《たそがれ》は初夏を思わす暖かさだった。部屋には唐から渡って来た香が焚かれている。甘いというより、心をしびれさせるような匂いがあった。何時までも嗅いでいると、眩暈《めまい》がしそうである。ただ戸が開け放たれているので、微風が籠った香の匂いを薄める。
金銅の酒杯、金銅の酒壺が女人によって運ばれた。舎人が弓で射た山鳥、干魚、それに活きた川魚が大きな皿に盛られている。
入鹿が活きた川魚を好きなのを、女帝はよく知っていた。入鹿はそれを自分で串に刺し、火で焼いて食べるのだ。
「大王、群臣が何をいおうと、構いませぬ、吾は父を上の大臣、と呼ぶことを宣言しました、父は吾にとっては上なる人、上の大臣でおかしくない、と思う、それとも……いや、これで良いでしょう、大派王が大王に、したり顔で密告したのか……」
入鹿が吐き出すようにいうと、女帝は首を振り、山背大兄皇子が、わざわざ忠告しに来た、といった。女帝の表情を見ていると、その裏になにかありそうだった。山背大兄皇子が女帝に忠告したのは、それだけではないな、と入鹿は感じた。
「大王、斑鳩宮の皇子は、もっと、たわけたことをいった筈じゃ、教えていただきたい」
「いや、それだけじゃ、大臣が二人出来たことは、皆、ひそひそと話しておる」
「大王が吾を信頼なさらないなら、別に聴きたくはない、急ぎの用があるので、今日はこれから上の大臣の屋形に参る、では、これで失礼します」
入鹿はわざとらしく敷かれた毛皮の上に手を突いた。こんな時の入鹿の表情は厳しく冷たかった。入鹿が立つと女帝は狼狽したように入鹿の手首を取った。男に去られるかも分らない女心の不安が行動に出ていた。もう女帝は自分の地位を忘れていた。
入鹿がそんな女帝の手を振り払い、刀を吊ると、女帝は接見の間に通じる戸口に立ち塞がった。いやじゃ、いやじゃ、と左右に首を振っている。入鹿は黒眼の勝った女帝の眼を見詰めた。
「大王は吾に隠し事をしている、山背皇子はもっとたわけたことをいった筈じゃ」
「いった、確かにいった、だが朕がそれをいうと、そなたは怒る、朕の心を疑う」
「吾が何故大王を疑う、大王がここに住まわれてから、吾は何度通って来た、最初に来た日には、まだ雪が残っていた、だが今は桜の花も殆ど散り、八重桜だけが僅かに残っておる、そんな吾を、大王は信じられないとおっしゃるのか……」
「いいえ、信じておる、だが、そなたは怒る」
「怒るかも分らぬ、だが、大王を疑ったりはしない、ただ、吾に喋りたくないのは、吾を信頼なされていないからじゃ、吾はそう思う」
「蘇我大郎、話す、話すからもっと居て欲しい、そなたが帰ると、朕は淋しい」
入鹿は微笑して頷くと、女帝の柔かい黒髪に指を当てた。女帝はそんな入鹿の指を口に咥《くわ》えると強く噛んだ。入鹿が思わず呻いたほどの痛さだった。入鹿は刀を持ったまま女帝の衾《ふすま》(寝床)の傍まで行くと胡坐をかいた。
「さあ、皇子が告げ申したことを話して下さい」
「斑鳩宮の皇子は恐ろしいことをいった、大臣親子は、大王家を滅ぼし、倭国を支配する積りだと、……そのために大臣を二人つくったと申した、いや、朕は信じぬ……」
女帝は激しく首を横に振った。少しでも入鹿に疑われるのを恐れているからである。
入鹿はそんな女帝を抱き寄せた。
「大王家を滅ぼす、というのは、吾が大王を滅ぼす、ということじゃ、つまり、吾が大王を刺す、大王はそれを信じなされたのか?」
「信じぬ、信じぬといったではないか……」
「恐ろしいことをいう皇子じゃ、吾が大王のお生命を断つ、いとしい大王を吾が殺す、吾は、山背皇子を許さぬ、たわけた言葉なら、まだ許せる、だが、吾の心に泥を投げつけ、大王まで侮辱した以上、吾は許さぬ、絶対許さぬ、上宮王家も、これで終りじゃ、大王、軽王に吾の言葉を伝えていただきたい、吾が山背皇子を許さぬ、ということを……」
入鹿は女帝の黒髪を静かに撫でながら、呟くようにいった。女帝は操り人形のように頷いていた。
四月初旬、東国武蔵国より連れて来られた上宮王家の乳部《みぶ》の民二百名は、上の大臣蝦夷、大臣入鹿が今来に造築し始めた双墳墓の使役に廻された。いうまでもなく上宮王家の乳部の民は、上宮王家の直轄地の民であり、蘇我氏がその民を勝手に、自分達の墓の造築のために使う権利は全くない。これは蘇我本宗家の上宮王家に対する挑戦というよりも、宣戦布告と同じであった。
阿倍倉梯麻呂は百済大寺建立の長官である。入鹿の命令で、武蔵国にある上宮王家の乳部の民を武蔵国から連れて来たのは、百済大寺の建立の使役に使うためだ、と思っていた。ところが、飛鳥に着いた乳部の民は新しく大臣になった入鹿の命令で、檜隈《ひのくま》の今来に集められた。武蔵国から飛鳥まで来る途中、五十名が病のために斃れたという。
大臣になってから入鹿は、女帝が住んでいる豊浦の仮宮を改造し、そこで寝泊りすることが多くなった。
嶋の屋形は入鹿の後宮のような存在となり、女人達だけが住むようになった。東漢氏の兵達は、豊浦の屋形の周囲を警備し始めていた。昼夜交替だが、その数は百名に達する。大王家の宮の警備の兵さえ、五十人に達しない。
阿倍倉梯麻呂は上宮王家の乳部の民が今来に集められたのを知ると、早速軽王に会い、蘇我本宗家の意向をただしてくれるように頼んだ。ところが軽王は、蘇我本宗家が蝦夷、入鹿の墓を造るために使うらしい、と蘇我本宗家の代理者のように答えた。阿倍倉梯麻呂は軽王が、山背大兄皇子を嫌っているのを知っていた。女帝も嫌っている。阿倍倉梯麻呂自身も、疎外されている山背大兄皇子に同情の心は抱いているが、好意は抱いていなかった。
軍事将軍であり、絶えず蝦夷を征服し、捕えた蝦夷を奴隷として扱って来た阿倍倉梯麻呂には、上宮王家の、仏教と道教が混合した人間平等主義が理解出来なかった。ただ阿倍倉梯麻呂が、山背大兄皇子に同情したのは、一時期舒明と大王位まで争った山背大兄皇子が、蘇我氏だけではなく余りにも他の群臣から疎外されていたからである。それに大人しい舒明はかつてライバルの山背大兄皇子に同情していた。そのことを阿倍倉梯麻呂は知っていた。
だから阿倍倉梯麻呂は、蘇我本宗家の代理人のように答えた軽王に反撥心さえ抱いたのだ。兼々、蘇我本宗家のやり方に批判的だった阿倍倉梯麻呂は、余りにも入鹿に接近している軽王に危惧の念を抱いていた。
何といっても軽王は、自分の娘|小足媛《おたらしひめ》の夫である。
軽王は上機嫌で、阿倍倉梯麻呂の危惧の念を一蹴した。軽王が上機嫌なのは、数日前、皇極女帝より、次の大王位が自分に譲られることを告げられたからである。新しく大臣になった入鹿も、賛成している、という。
入鹿は、新しい時の流れを理解出来る王族は軽王以外ないと女帝に告げたらしい。古人大兄皇子はもう時代の流れに乗れない古い人物である。問題なのは山背大兄皇子だが、上宮王家は、新しい時代の流れと対決しようとしている。とすると次の大王は軽王以外にない、と入鹿は女帝に自分の胸中を打ち明けたようだった。
女帝にとって軽王は実の弟である。入鹿に口止めされたが、早く知らせたい、という思いに勝てず、軽王に知らせたのだった。
軽王が上機嫌なのは当然である。だから軽王は、深刻な表情の倉梯麻呂の報告を問題にしなかったのだ。
「上宮王家の乳部の民など、どうなっても良い、新大臣入鹿の意向通り、今来の墓の造築に廻せば良いではないか、倉梯麻呂、そなたも大臣蝦夷の病回復の祝宴に参ったであろう、重臣、群臣の殆どが出席した、良いか、蘇我本宗家は、馬子時代の権力を取り戻しつつある、今は蘇我家に逆らうな、吾が大臣入鹿と親しくしているのは、吾には吾の考えがあるからじゃ、これは、倉梯麻呂、おぬしだけの胸中に秘めておくのだぞ、どうやら次の大王位は吾に来そうじゃ……」
軽王は声を潜め、もう一度、このことは誰にも洩らすな、といった。
「それは本当で御座居ますか?」
阿倍倉梯麻呂は一膝《ひとひざ》乗り出した。
軽王が大王になることを、阿倍倉梯麻呂が全く意識しなかった、といえば嘘になる。何といっても軽王は自分の娘を妃の一人にしている。軽王が大王になれば、阿倍倉梯麻呂は、大臣の次の位につくことが出来る。倉梯麻呂は武人だが、矢張り、人間として権力欲を消し去ることは出来なかったのだ。
倉梯麻呂の顔を見て軽王はいった。
「倉梯麻呂、蘇我大郎を大臣と呼ぶのじゃ、今からでも会って来るが良い、板蓋宮の造営は、もう終ろうとしている、余っている使役の民を故郷に帰すまでに、百済大寺の建立の使役に廻して貰えば良いではないか、その権限は大臣入鹿しかない、分っているな、倉梯麻呂、ここは頭を使うのじゃ、おぬしが、黙っておれば、板蓋宮の使役の民は故郷に帰ってしまう、おぬしはそれで良いのか……」
阿倍倉梯麻呂が、一番頭を悩ましていたのは、百済大寺の建立の使役の民が少なく、技術者が足りないことだった。板蓋宮の造営に取られているからである。
板蓋宮の使役の民を百済大寺の建立工事に廻して貰うなど、矢張り願ってもないことだった。ただ、上宮王家の乳部の民のことで、入鹿に文句をいえなくなる。だがそれも仕方なかった。阿倍倉梯麻呂は、百済大寺建立の長官として、責任があったからだ。
「軽王、分りました、この際仕方ありますまい、だが山背大兄皇子は怒るでしょうな、乳部の民が、蘇我本宗家の墳墓の造築に使われるのを知ったら……」
「勿論激怒するだろう、だが山背皇子には何も出来ぬ、せいぜい抗議にくるぐらいじゃ、今の上宮王家には、兵を集めて、蘇我本宗家と一戦交える力はない、倉梯麻呂、これからは兵力の強さがものをいう時代になる、百済大寺のことばかり考えずに、兵力を養っておけよ」
軽王は眼を細めると、倉梯麻呂に囁《ささや》いた。
「良いか、蘇我大郎が吾と親しくしておるのは、吾が女帝の弟であると同時に、吾にそなたがついているからじゃ、蘇我大郎は、次の大王は吾以外にないといったが、何処まで本心か分らぬ、蘇我大郎の言葉を素直に信じるほど、吾はお人好しではない、明日がどうなるか、今は吾にも分らぬ、誰にも分っていないのではないかな……」
「さようで御座居ますなあ」
倉梯麻呂が頷くと、軽王は両手で倉梯麻呂の手を取った。
「倉梯麻呂、吾に付いて来て貰いたい」
「分っております、ただ軽王、焦られるのは禁物ですぞ……」
阿倍倉梯麻呂が、思わず忠告するようにいったのは、大王位に対する軽王の野心が露骨に出て来たのを感じたからだった。軽王は王族であるにも拘らず、よく勉強し、学識は豊かで、時代の流れを洞察する眼を持っている、そういう点では、倉梯麻呂は軽王に及ばなかった。
ただ、阿倍倉梯麻呂が、軽王に対して、一抹の不安を覚えるのは、胆が据わっていないことだった。今も軽王は、入鹿が軽王に大王位を渡す、と仄《ほの》めかしただけで昂奮《こうふん》している。武人の倉梯麻呂には、そんな軽王が何処となく頼りなく思えてならないのだった。
四月中旬、武蔵国より連れて来られた上宮王家の乳部の民は、蘇我蝦夷、入鹿の双墳墓の造築に使われた。これは上宮王家に対する蘇我本宗家の挑戦だった。
『日本書紀』は、上宮王家の乳部の民を使った時期を皇極元年(六四二)の出来事としている。だが、入鹿が独裁者たるべく行動を開始したのは、矢張り、高句麗に於ける泉蓋蘇文のクーデターを知った六四三年と考えたい。事実、『日本書紀』は、泉蓋蘇文のクーデターの年を一年前の六四一年としており、誤りをおかしている。また蝦夷、入鹿が葛城高宮に祖廟を建て、|八※[#「にんべん」+「八」/[月]]《やつら》の舞《まい》をしたのも矢張り六四三年であった、と考えられる。
東国の乳部の民を蘇我本宗家の墳墓造りに使われたことを知った山背大兄皇子は激怒した。
だがこれまでの経験上、自分自身が抗議に出掛けても無駄だ、と考えた山背大兄皇子は、父聖徳太子と蘇我馬子の娘|刀自古郎女《とじこのいらつめ》の間に産まれた財《たから》王、日置《ひき》王、片岡女王、それに聖徳太子が菩岐岐美郎女《ほききみのいらつめ》に産ませた舂米女王《つきしねのみこ》達を、豊浦の屋形に行かせた。舂米女王は現在山背大兄皇子の妃になっており、難波麻呂古《なにわのまろこ》王を始め、大勢の王、女王を産んでいる。刀自古郎女は、蝦夷の姉である。だから財王、日置王、片岡女王にとって蝦夷は叔父ということになる。
蝦夷としても、会わないわけにはゆかない。それにしても斑鳩宮で、聖徳太子の子供達、つまり自分の兄弟、姉妹達と共に住み、血縁者同士が媾合《まぐわ》い、人間は平等だ、と説き、斑鳩宮こそ寿国だと信じ込んでいる山背大兄皇子とその一族は、蘇我本宗家のみならず飛鳥の群臣にとっては、異端者ばかりが集っている不気味な存在であった。噂では山背大兄皇子は、舂米女王以外にも大勢の異母妹と関係し子供を産ませている、ということだった。舂米女王が産んだといわれている七人の子供達の中には他の異母妹達が産んだ子供達がかなり居る、といわれていた。異母妹とは媾合っても良いが、群臣が嫌悪感を抱くのは、それ等の女、子供が同じ宮に住んでいることだった。
山背大兄皇子は斑鳩宮の主であった。その主である皇子が、一人の女性だけを寵愛し、七人もの子供を産ませることなど、当時の常識としては有り得なかった。物心つくまでに亡くなった子供達を加えると、山背大兄皇子は舂米女王を始め、異母妹に産ませた子供達は十数人に達する、という。しかも、同じ宮に住みながら、女性達は嫉妬もせず、山背大兄皇子を御仏のように思い、仕えているらしい。いうまでもなく当時は通い婚であった。好きな女性が出来ると、その女性の許に通い、子供が出来ると女性の実家が育てる。また大王家や有力豪族の場合は、部下の妻が乳母となり、育てることもあった。
だから山背大兄皇子のように、媾合った大勢の女達と同じ宮に住み、しかも産ませた子供達とも一緒に住んでいる、という例はない。
山背大兄皇子を嫌悪している重臣達の中には、斑鳩宮は獣の棲家《すみか》のようだ、とののしる者さえいた。斑鳩宮に於ける山背大兄皇子達の生活は知られていない。噂は噂を呼び、山背大兄皇子は斑鳩宮で、怪し気な秘法を行っている、という者も居たし、また皇子は同母妹である片岡女王と媾合っている、と噂し合う者も居た。
ことに巨勢臣徳太《こせのおみとこだ》、大伴連馬飼、それに神祇の氏族の中臣本家の支族長である|中臣連 塩屋枚夫《なかとみのむらじしおやひらふ》等は、山背大兄皇子を憎み嫌っていた。通説のように彼等は入鹿に迎合して山背大兄皇子を嫌っていたのではない。
大豪族にとって山背大兄皇子は異端思想の持主であり、彼等に理解出来ない人間平等主義は、彼等の生活感覚を崩壊させ兼ねない危険な要素を含んでいた。また神祇の中臣氏にとっても、山背大兄皇子の思想や、生活態度は許すべからざるものであった。聖徳太子時代にあった斑鳩宮の祭祀の場所は、今では戸も閉められたままで、内部は蜘蛛《くも》の巣だらけだ、と噂されている。
つまり蘇我本宗家を始め、飛鳥の重臣達にとって、斑鳩宮は、考えるだけで鬱陶しい、眼障りな宮なのであった。また山背大兄皇子が、大王家の血を引いており、蘇我本宗家の縁戚者だけに、余計に重苦しく鬱陶しい存在なのである。
財王、日置王、片岡女王、それに舂米女王などが豊浦の屋形を訪れた時、屋形に居たのは、上の大臣蝦夷を始め、巨勢、大伴、軽王などで、入鹿は皇極女帝ともう完成している板蓋宮を訪れていて、豊浦の屋形には居なかった。
暖かい日で、蝦夷は屋形の裏の宴席用の広間で、来訪者達と酒を飲みながら、高句麗の政治情勢を話し合っていた。次々と倭国にやって来る高句麗の使者や、身一つで逃亡し、倭国に亡命して来た者の話などを総合すると、高句麗は権力を一手に握った泉蓋蘇文の許に団結し、唐の攻撃に備えている、という。
唐の太宗は、泉蓋蘇文は主君を殺した不忠者で、そういう不忠者の支配下にある高句麗は、泉蓋蘇文を斃さない以上許しておけない、と泉蓋蘇文と武人達をののしり、高句麗討伐の準備をすすめているようだった。唐にとって、高句麗は隋以来の宿敵である。泉蓋蘇文のクーデターで、高句麗内部が分裂していると判断し、新羅と親交を保ちながら、虎視眈々《こしたんたん》と、高句麗攻撃の機を窺っていた。泉蓋蘇文は莫離支《ばくりし》となり権力を一手に握ると、百済の義慈王と同盟を結び、唐と親交を保っている新羅に圧迫を加えつつあった。
朝鮮半島に大きな戦乱の渦が巻き起るのは、もはや間違いなかった。それが来年か、十年先か、倭国にやって来る朝鮮各国の使者達の報がまちまちなので分らない。
大臣入鹿は百済義慈王のクーデター以来、倭国の軍事力の強化を蝦夷に説いていた。そして亡命して来た翹岐《ぎようき》王子に批判的だった。蝦夷は蘇我本宗家の威光を高めるため翹岐王子を百済王として、倭国に百済の代理政権を作ったが、泉蓋蘇文のクーデター以来、入鹿の意見に同調するようになっていた。だから現在、翹岐王子は疎外され、百済から倭国に来た使者も、翹岐王子の屋形を訪れなくなっている。蝦夷は蝦夷なりに時代の流れを見ている積りだったが、矢張り若い入鹿の方が洞察力が鋭い。
それは巨勢、大伴などの豪族、重臣達も認めざるを得なくなっていた。何故なら朝鮮三国の政治情勢は、入鹿が予言した通りに動いて行ったからだ。
唐が倭国を襲って来る日が、何時やってくるか分らない。入鹿は二、三年前から、飛鳥の重臣達が想像したこともないような突飛な意見を述べていた。舒明が生きていた頃、蝦夷を始め王族、重臣達は、そんな馬鹿な、大夫入鹿は若過ぎる、と内心苦笑していたのだが、僅か二、三年の間に大きく情勢は変った。それはもはや、突飛な意見ではなかった。今直ぐ、というのではないが、その可能性は否定し切れなくなって来た。
重臣達は飛鳥川のせせらぎに耳を傾け、優雅な山野を眺め、花の香りに包まれながら酒を飲み、政局を論じ合い、大臣《おおおみ》入鹿は先見の明がある、と褒めるのだった。
そんな時に、山背大兄皇子の使者として、上宮王家の王、女王達が、抗議にやって来たのである。
王達は王族であることを誇示するように、金糸の縫い取りの光る紫冠を被り、裾長の絹の上衣を纏《まと》い、漆塗《うるしぬ》りの皮帯を締めていた。女王達も色彩鮮やかな裙《もすそ》をはき、金銀の耳飾り、髪飾りを初夏の陽に煌《きらめ》かせながら、蝦夷達が一団となっている広間にやって来た。
軽王は好奇心に満ちた眼を向け、大伴連馬飼はしらけた顔になり、巨勢臣徳太は眉を寄せた。軽王が好奇心に満ちた眼を向けたのは、山背大兄皇子やその一族の生活態度の異様さを耳にしていたからだった。
財王始め四人は蝦夷に向って一列に並んで坐った。右端が財王、左端が舂米女王である。
蝦夷は憮然とした表情で鬚を撫でた。相手は王、女王だが、蝦夷にとっては甥と聖徳太子の娘である。それに今の蝦夷は上の大臣として、大臣の上に君臨している。
三十半ばの財王は蝦夷に向って軽く会釈した程度で、兄、山背大兄皇子の代理で来た、と告げた。財王の態度は堂々としていた。まるで山背大兄皇子になった積りでいる。
一番の年輩者は四十前の舂米女王であった。
「何か用か?」
蝦夷は顎鬚を掴みながらいった。余裕を見せて微笑を浮べようとしたが、蝦夷の表情は強張《こわば》った。斑鳩宮からやって来た一行が、血縁者どころか、別世界から現れた人間達に思えて来たのである。王も女王も爽やかな顔をしていた。上の大臣と呼ばれている蝦夷を少しも恐れていない。また阿諛追従《あゆついしよう》する気配など毛頭ない。王や女王達は、まるで仏の命令を受けてやって来たような態度である。
財王は涼しいがよく通る声で、上宮王家の乳部《みぶ》の民を山背大兄皇子の許可を得ず、蘇我本宗家の墳墓の造築に使う権利はない筈であり、直ぐ使役をやめさせ、斑鳩宮に来させて欲しい、と申し立てた。
全く朗々とした声である。その間、他の王や女王は顔を上げ蝦夷を見詰めている。
軽王始め重臣達も、遠い他国からやって来た異国人を眺めるような眼で、上宮王家の王達を眺めていた。上宮王家の王達は、意識して蝦夷の権力を無視しているのか、それとも本当に問題にしていないのか、蝦夷に対し、命令口調で喋っているようだった。
鬚を握っていた蝦夷の手に力が入った。憤りに指が慄えている。蝦夷に対して、こんな口のきき方をする者は居ない。
もし居るとすると女帝だった。ただ、女帝はこれまで蝦夷を怒らすほど傲慢な態度を取ったことがなかった。
「山背大兄皇子は申しておられる、上宮王家の乳部の民は、明日にでも斑鳩宮に連れて来るようにと……」
「山背皇子は、誰に申しておられるのかな?」
軽王は蝦夷の顔色を窺いながらいった。
「大臣じゃ」
財王がその声に似た涼しい眼を軽王に向けた。
蝦夷は大きく深呼吸した。入鹿なら当然大声で怒鳴っていただろう。だがこういう場合は、蝦夷は忍耐心が強かった。
「確かに斑鳩宮の皇子の伝言はうけたまわった、大臣と相談して返事を致そう、我等は今、酒宴の最中じゃ、これ以上邪魔されると興が殺《そ》がれる、兵士達に連れ出されないうちに帰るのじゃ、分ったかな……」
蝦夷は一語一語、気持を押えるように自分に確かめながらいった。怒鳴るよりも、こういった方が、軽王を始め重臣達に上の大臣としての貫禄を示せる、と判断したからだ。
黙っていた舂米女王が軽王に、女帝の弟である王として、蘇我本宗家の今回の専横をどう思うか? と訊いた。
舂米女王は聖徳太子の長女である。
舒明在世中、軽王は舒明の宮で舂米女王と会い、話し合ったことがあった。
「舂米女王、これは蘇我氏の問題、吾は関知しない」
軽王は渋面を作っていった。
「その通りじゃ舂米女王、斑鳩宮に住むそち達は、皆、蘇我氏から出ておる、これは蘇我氏の問題じゃ、軽王に詰問するなど無礼であろう、帰らねば本当に兵を呼ぶぞ」
蝦夷の言葉が終ると同時に舂米女王が立った。
「王を始め、大臣、重臣達に申します、これは蘇我氏だけの問題では御座居ません、乳部は大王位継承の資格がある山背大兄皇子が、大王家より戴いた部で御座居ます、蘇我本宗家が私的なことに使える筈はない、まさしく大王家をないがしろにした行為といわねばなりません、さあ、皆、帰りましょう」
舂米女王が昂然と胸を張って宴席の広間から回廊へ出ると、財王を始め、王達は臆する色もなく後に続くのだった。
「軽王、斑鳩宮の皇子は、まだ大王位に固執しているようじゃな……」
蝦夷は不快さを抑えながら落ち着いた口調で軽王にいった。
〈上巻 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年四月二十五日刊