[#表紙(表紙6.jpg)]
白鳥の王子 ヤマトタケル
終焉の巻
黒岩重吾
[#改ページ]
〈主要登場人物〉
倭建《ヤマトタケル》――――本名、小碓《オウス》。オシロワケ王と播磨稲日大郎姫《ハリマノイナビノオオイラツメ》の間に生まれた大和国の王子。武勇と優しさをあわせ持ち、人々に慕われている。熊襲《くまそ》征伐後、倭建を名乗る。
オシロワケ王(景行帝)―大和の三輪《みわ》王朝の王。倭建の父。
八坂入媛《ヤサカノイリビメ》――オシロワケ王の妃。倭建の母の死後、皇后のようにふるまう。
倭姫《ヤマトヒメ》王―――オシロワケ王の妹で、倭建の叔母。巫女《ふじよ》的女王。
弟橘媛《オトタチバナヒメ》―――倭建が最も愛する妃となる巫女的能力を持つ美女。
穂積高彦《ホヅミノタカヒコ》――弟橘媛の縁者で、倭建に仕える。警護隊長。東征軍に従軍。
吉備武彦《キビノタケヒコ》――東征副将軍。倭建とともに生きることを誇りとする。
久米七掬脛《クメノナナツカハギ》―倭建の部下で弓の名手。輸送部隊指揮官・側近として東征軍に参加。
丹波猪喰《タンバノイグイ》――倭建に心酔し、東征軍従軍を願い出る。武術に優れ間者として働く。
物部十千根《モノノベノトチネ》―オシロワケ王に重用され、東征を進言。腹黒く、権謀術数に長《た》ける。
大伴武日《オオトモノタケヒ》――東征副将軍であったが、オシロワケ王の帰還命令により軍を離れる。
穂積内彦《ホヅミノウチヒコ》――倭建の部下。東征軍従軍を望んだが、巻向宮の警護隊長として大和に残る。
尾張音彦《オワリノオトヒコ》――尾張天白川の首長。倭建と宮簀媛の婚姻を望むようになる。
宮簀媛《ミヤスヒメ》―――尾張音彦の娘。美しいが、気性が激しい。山の神の霊が憑《つ》く魔性の女。
大裂《オオサキ》――――伊勢朝日周辺の盗賊。朝日雷郎《アサケノイカヅチノイラツコ》討伐後、猪喰の部下となる。
[#改ページ]
一
三浦《みうら》半島からその海を見た時、倭建《やまとたける》は軽い眩暈《めまい》を覚えた。普通の海で、確かに潮の流れは速く、白い波頭が消えては現われ、まるで踊っているようだが、これまで見てきた海と何かが違っていた。
海の底が盛り上がったような房総《ぼうそう》半島は眼の前に見えるが、見なれた風景とは違って見えた。
後ろからついて来る丹波猪喰《たんばのいぐい》にいった。
「猪喰よ、この海は吾《われ》を拒否しているような気がする、理由はないが地の果ての海のようだ、潮の匂いも違う、どうじゃ、この海は吾に敵意を示しているぞ」
「大海原の潮が一気に流れ込んでいます、気の荒い海かもしれません、だが吾は敵意など感じませぬ、王子様はお疲れです、この地で暫《しばら》く休憩を取られては如何《いかが》でしょうか」
「成すことを成し、早く大和《やまと》に戻りたい、タラシナカツヒコ王やワカタケル王の顔も見たくなった、子供を思い出すなど、今回の旅では初めてだ」
ワカタケル王は、倭建と弟橘媛《おとたちばなひめ》の間に生まれた王だった、もう三歳になる、いや四歳だったか。
倭建は一瞬、歳月の感覚を失った。東征の旅に出てから一年足らずだが、二年も三年もたったような気がするのだ。一体どうしたのであろう。
狭い海峡が抉《えぐ》られたように見える。海底は霞《かす》んでいた。眼をこすると海は泡立ちながら盛り上がってくる。海水は地に押し寄せ樹林をなぎ倒し、倭建を呑《の》み込んでしまうかもしれない。
逃げなければ、と思いながらも身体《からだ》が動かない。凄《すさま》じい光景に圧倒されているのではなかった。眼の前の海だが現実の出来事に思えない。遠くの海を見ているような気がした。
盛り上がった海は大きな渦を巻きながら沈み、広々とした大海原につながった。
倭建は猪喰に、見たか、と口を開こうとし、足で砂浜の貝を蹴《け》った。宙で貝が口を開き赤みをおびた舌を出して嘲笑《ちようしよう》する。
砂浜の貝でさえ、馬鹿な王子よ、といっている。
猪喰は三歩手前に立ち、倭建を凝視していた。
倭建が見たのは幻覚である。現実ではない。不安そうな猪喰の眼がそれを証明していた。
「猪喰よ、海の毒気に当てられたのかもしれぬ、珍しく頭がふらっとした、吾は今、貝を蹴ったか?」
「貝を蹴られたようですが砂が飛び、王子様はよろけられました、御気分が悪いのなら屋形にお戻りになるべきです、少しお顔が蒼《あお》い」
「うむ、沼の毒気はよく耳にするが、海の毒気は初めてじゃ、吉備武彦《きびのたけひこ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》はもう待っているであろう、なあに、軽い風邪じゃ、参るぞ」
倭建は天を仰ぎ、胸をついて自分を励ました。
倭建の一行がいる場所は、三浦半島の走水《はしりみず》(横須賀《よこすか》市走水か?)の高台である。そこに立ち倭建は房総半島を眺めていた。
左右にいるのは吉備武彦と久米七掬脛である。すでに春も終ろうとしている。新緑の季節にはまだ早いが、海峡をはさんで眼前に横たわる房総半島の山々には、心なしか、新鮮な緑が混じっているような気がした。
警護隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》と兵たちは、丘の木々の間に身を潜め、警戒の任務についている。
陽や雪に灼け、倭建の削《そ》げた顔は茶褐色だ。ただ眼光だけは炯々《けいけい》と光り、磨《と》いだばかりの刃物のようだった。
精悍《せいかん》といえば精悍だが、長征と戦塵《せんじん》の疲労が染みついていた。
それは吉備武彦も同じだった。ただ七掬脛だけは、疲労の色と共に剽軽《ひようきん》さを漂わせている。彼の持ち味だ。
丹波猪喰は数歩離れた草叢《くさむら》に立っていた。陽灼けは倭建よりも濃く、それが疲れを押し隠しているようだった。
海は緑だがところどころに潮が渦まき、流れの速さを示していた。岸沿いに漁船が点在しているが、沖には少ない。
口を真一文字に結んでいた倭建がいった。
「武彦、相当の速さだのう、この流れは……」
「はあ、豊後《ぶんご》水道の速吸《はやすい》の瀬戸、また明石《あかし》の海峡に勝るとも劣りますまい」
「風が強ければ、相当荒れるのう」
「潮と潮とがぶつかり大波が立ちましょう」
「ここまで来れば急ぐことはあるまい、それにしても長い旅だった。東は毛人《えみし》の国か」
倭建は呟《つぶや》くようにいった。
時々、海鳥が矢のように海面に落ち、小魚を咥《くわ》えて舞い上がる。咥えられた瞬間、失神するのであろう。鱗《うろこ》が陽の光に映えないのはぐったりとしているからだ。
三浦半島に到着して以来、身体だけではなく、心にも疲れを感じるようになっていた。
弟橘媛を伴い大和に戻りたい、望郷の念にさいなまれる。
吾は戦い過ぎたのだ、と何かが呟く。すべての戦に勝ったが、勝利感が湧かない。今回の東征は倭建が望んだのではなかった。父オシロワケ王の命令に心ならずも従ったに過ぎない。
それにこんなに多くの戦を体験するとは思ってもいなかった。好んで戦ったのではない。戦わなければ東に進めないから剣を抜いたのだ。
相模国《さがみのくに》に入って以来、弟橘媛が病むようになった。涙を見せまいと明るい顔で迎えるが、倭建の眼を誤魔化《ごまか》すことはできない。日がたつ度に、精気が薄れてゆくのが分る。
何時の間にか猪喰が背後に蹲《うずくま》っていた。
「王子様、半島の根っ子は武蔵国《むさしのくに》、東国の雄、毛野国《けぬのくに》はその北にございます」
猪喰は、毛野国王と会い、大和王権の権威を示さなければ、東征の使命は終らない、といっていた。
駿河《するが》の廬原王《いおはらおう》が大和王権の将軍、倭建王子に屈服し、倭建王子に推された根子王子《ねこのみこ》が、駿河の王となったことは、毛野国王に従属していた東の諸国を震駭《しんがい》させた。
使者を相模に滞在している倭建のもとに遣わし、喜んで王子を迎え入れる、という王も現われはじめた。
房総半島では安房国《あわのくに》などが恭順の意を表わした。ただ上総国《かずさのくに》の海上王《うなかみおう》は毛野国と婚姻関係で結ばれ、倭建が上陸してきたなら一戦を交える積りらしい。
当時の毛野国は後の上毛野《かみつけの》・下毛野《しもつけの》を合わせた大国で、猪喰がいったように、東国最大の雄である。
毛野国は、その名の通り毛人の血が濃い。
頭髪、眉《まゆ》をはじめ体毛が濃く、眼窩《がんか》が窪《くぼ》み、顔は彫りが深く、大和王権が熊襲《くまそ》と呼んだ九州南部の人々と共通している面が多い。
だからといって同一人種と決めつけるわけにもゆかない。
毛人の中には背が高く、瞳《ひとみ》の青い人々もいた。遠い昔に大陸から移って来た人々も混じっているのであろう。
げんに毛野国は、甲斐《かい》、信濃《しなの》、越《えつ》などを通し、後にいう日本海を通じて新羅《しらぎ》や高句麗《こうくり》とも交易していた。その一方で上総を通じ、太平洋沿岸の諸国とも交易している。
毛野国の領域は、現在の群馬・栃木両県とされているが、海に接していないのに拘《かかわ》らず交易の幅が広いのは、南北の海に交易路を持っているからだった。
それだけ文化面でも優れている。
たとえば新羅の王墓から出土している出字型の金銅の王冠は、翡翠《ひすい》をはじめ様々な玉をつけ、豪華という点では王冠の中でも群を抜いているが、同型の王冠が、毛野国の中枢部である群馬県から出土しているのだ。
今回の東征の最大の目的は、毛野国に大和王権の威光を再認識させることにあった。
三世紀後半、北部九州の卑弥呼《ひみこ》王権は、卑弥呼が亡くなると大和に遷都した。
卑弥呼王権の鬼道を倭《わ》の諸国が優れた神の祭祀《さいし》と認め、東は関東、西は北部九州まで、大和王権を盟主とする倭連合国が成立した。
新しい巨大墳墓である前方後円墳を連合国の王たちは取り入れ、連合国に属している証《あかし》とした。
四世紀前半である。
毛野国もその後、連合国に加わったが、朝鮮半島との交易を通じ独自で勢力を拡張し、倭連合国から脱し、独立せんばかりの力を蓄えた。
大和王権の首長たちは、毛野国を含めた東国を蝦夷《えみし》と呼び、蕃夷《ばんい》の国としたが、それは恐怖心からだった。
もし毛野国がオシロワケ王に恭順の意を表わしたなら、東国で大和王権に敵対する国はなくなる。毛野国より東の毛人諸国は、当時の大和王権には異国と同じであった。
オシロワケ王としては、毛野国王が、恭順の意を表わさないまでも、大和王権の権威を再認識することを望んでいた。
倭建が毛野国に寄らずに戻れば、オシロワケ王は、王の命令を達成できなかったと責めるであろう。
駿河までの数々の輝ける武勲も水泡に帰してしまう。
「王子様、上総の海上王は、毛野王の意を受け、戦を辞さないでしょう、何も上総を通る必要はございますまい」
「猪喰よ、何も作戦会議を開いているわけではない、吾《われ》は海を眺め疲れを癒《いや》しているのだ」
「時、場所、身分を忘れ、僭越《せんえつ》なことを申し上げました、お許し下さい」
猪喰は数歩後ろに退《さ》がった。猪喰にしては珍しく場違いな進言だった。猪喰は影の存在を自認し、余り表に出ない。
多分猪喰は、これまで仕えてきた倭建に、口を出さざるを得ない異様な気を感じたのであろう。
吉備武彦、七掬脛共、消耗した倭建の気が染《うつ》っているに違いない。それとも、浦賀《うらが》の海底に異国者を怯《おび》えさせる神が潜んでいるのか。
ただ倭建は、猪喰の忠告に、少しだけ自分を取り戻した。
「武彦、二、三日のうちに作戦会議を開こう、上総に入り込んでいる大裂《おおさき》も、今日、明日中に戻ってくるに違いない、休憩は良いが、兵たちを励まし、訓練も絶やすな」
倭建は自分自身を叱咤《しつた》するようにいった。
倭建の軍は総勢二百人だった。その中には、駿河の根子王子が従軍させた兵も混じっている。また港には、遠淡海《とおつおうみ》の水軍十船がいた。遠淡海王は倭建には命も救われ王位も得た。
倭建を終生の恩人と見做《みな》し敬い、水軍をつけさせているのだ。
走水の屋形に戻った倭建は、弟橘媛の身が気になった。
屋形は、当地を支配している師長王《しながおう》が別宅を提供してくれていた。走水から現在の浦賀港にかけては良港が多く、海路の重要地だった。師長王の王族がそれらの港を押さえており、海人《あま》の首長なども住んでいて、好《よ》い屋形が多い。
滞在が長引いているのはそのせいかもしれない、と倭建は苦笑した。
弟橘媛の屋形は、十数歩離れたところにあった。地床式で、床には板を張り、細断した藁《わら》を麻布で巻いた寝具は寝心地が良かった。飲み水は井戸水だった。
二十坪ほどの屋形は布で間仕切りし、四部屋になっている。
弟橘媛は一番奥の部屋で休んでいた。足音で倭建の来訪を知ったらしく上半身を起こし、正座した。やつれて少し頬骨が出ているが、小窓から差し込む陽の加減か、息を呑《の》むほど色が白い。透き通っているようで微《かす》かに青みさえ感じられる。眼が潤んでいるように見えるのは涙のせいか。
髪を結わずに長く垂らしているが妖《あや》しい風情があった。弟橘媛は嬉《うれ》し気な色を黒い瞳に浮かべた。両手を膝《ひざ》に置く。
倭建は向かい合って坐《すわ》ると胡坐《あぐら》をかいた。
心なしか熱っぽい媛の手を取り、指を絡ませる。その熱が倭建の指を吸い込むように密着させた。
「どうなのだ、嘘を申してはならぬ、身体の具合が悪いのではないか」
「大丈夫です」
「何時もそういうが、身体に熱がある、吾の指がそういっている、聞けば、毎朝、水で身を浄《きよ》めているらしい、病んだ時は身体に悪いではないか」
弟橘媛は視線を伏せた。
「私は巫女《みこ》として参ったのです、巫女である以上、どんなに熱が出ても身を浄めねばなりません」
そういいながら指に力を込める。
「巫女か、だがそなたは巫女であると同時に吾の妻じゃ、病んだ以上、巫女を捨て妻となるべきじゃ、このようにだ」
倭建は媛の腕を引き寄せた。血の気のない媛の顔が淡紅色に染まった。媛は腕を引き、さからおうとしたが倭建は媛の上半身を抱き締めていた。媛の胸の鼓動が高鳴り、強い力で響いた。
倭建は、自分は何故弟橘媛を抱いてしまったのかよく分らない。やつれた媛が不愍《ふびん》だった、と同時にいとおしさがつのった。気がつくと腕が媛の背に廻《まわ》っていた。衝動としかいえない、媛の息は熱っぽく甘い。
「王子様、神がお怒りになります、今の私はまだ神の妻、どうか腕を解いて下さい」
媛は懸命に訴える。だがそんな媛の眼には虹《にじ》がかかっている。言葉と裏腹に媛は王子と一体になりたがっていた。
「神の妻から吾の妻に戻るのだ、そなたはもう充分任務は果たした、父王は吾をうとみ、兄王子に王位を譲りたがっている、これ以上、父王に義理立てすることはないぞ、神が吾を憎むのなら憎めば良い、吾は自分に忠実な人間に戻る、吾は疲れた」
媛は最後の気力を絞って顔を横に振る。
「本当じゃ、吾にもよく分らぬ、走水の高台に立ち海を眺めた時から、もう成すことは成した、という気持になった。地の果てに来た、と感じた、だが吾は東征大将軍、そんな思いは誰にもいえぬ、多分、気づいたのは猪喰のみであろう、吉備武彦も七掬脛も吾と同じように疲れていたに違いない、吾は叫び出したいのを抑え、そなたと会った、吾の胸を裂き本心を掴《つか》み出して、疲れたなどといえるのはそなたのみじゃ」
倭建は鼻孔を媛の髪に埋《うず》めて思いきり吸いながら、指に髪を巻いた。
「嬉しゅうございます、私も王子様と一夜を共にしたい、とどんなに欲したことでしょう、その度に私は自分と闘い、神の妻の座を守り通したのです、王子様、私は今宵《こよい》からまた王子様の妻に戻ります、ただ、今はまだ明るく侍女の眼があります、今宵は夕餉《ゆうげ》を共にし、私と一夜を……」
弟橘媛は倭建の上衣《うわぎ》の胸に埋めた顔を押しつけるようにして振った。橘《たちばな》の香りがした。
弟橘媛は橘の木に取り巻かれた産屋で生まれたという。当時、橘は不老長寿の神木と信じられていた。媛の幼女時代の名は大橘媛だった。
倭建の欲情の炎は激しく燃えていた。夜までの四|刻《とき》(八時間)が、途方もなく長い時のように思えた。
夜までは待てぬ、待てぬぞ、喉《のど》まで出かかった言葉を倭建は渾身《こんしん》の気で止めた。欲情との闘いは、百人力の勇士と闘うよりも苦しい。何故なら相手の刀を躱《かわ》すべく跳ねることもできないし、宙を舞うこともできないからだ。
身体を動かさず内面のみの気で闘う。しかも相手は我身の欲情だ。火花を散らすこともなく、気でもって押し潰《つぶ》さねばならぬ。或《あ》る意味で、身を襲う激痛との闘いと何処か通じるものがある。
突然、弟橘媛が激しく身を慄《ふる》わせた。身体の中で小太鼓が打たれているようだった。
「どうした、媛」
驚愕《きようがく》が煩悩の炎を打ち消す。
媛は何かいおうとしたが身体が動かない。痙攣《けいれん》はおさまったが全身が石のように硬くなっている。それに重い。
倭建が抱えようとしても持ち上げられない。床に横たえるのがせいぜいだった。
倭建は大声で侍女を呼んだ。
それまで息を殺していた侍女たちが慌てて現われた。
「寝具を敷くのだ、それに医師《くすし》も呼べ」
何が起こったのか分らないが、自分の欲情が原因のような気がした。弟橘媛はまだ神の妻である。妻を倭建に奪われるのを知り、神が怒ったのかもしれない。
侍女が寝具を敷き、倭建と共に媛を横たえた。
「媛よ、吾が悪かった、許せ、神にも許しを乞《こ》うぞ」
倭建の言葉が耳に入ったのか、硬直していた媛の顔がゆるんだ。
「王子様、医師は要りません、神に許しを乞うのは私の方です、もし許しを得たなら、侍女を遣わします」
「しかし……」
「私は身勝手な女人《によにん》、王子様の許しも得ずに大和《やまと》を出て傍に参ったのです、私は神に罰せられても仕方がありません、私はこれから近くの山に入り、再び王子様の妻に戻りたい旨を神に告げましょう」
「うむ」
倭建は返答に詰まった。弟橘媛は最初、神の許しを乞い、許しを得たなら、といったのだが、今の言葉にはそれがない。神の許しを得ても得なくとも、吾の妻に戻るといっている。大変な違いだった。まだ、完全に正気に戻っていないのかもしれない。
もし、神が許さないのに人の妻になったなら、神は媛を罰するだろう。
止めなければならない、と倭建は媛に自分の顔を近づけた。
媛は眼を閉じている。透けているような白い肌に微かに血が映えていた。
倭建は自分の眼を確かめるように何度も力を込めて瞬きをした。幻ではない。まだ十代の半ばだった弟橘媛の顔である。
あれは媛との婚姻の夜だった。媛は白い寝衣を纏《まと》い寝具の上に坐っていた。灯油の明りが微かに媛の顔を照らしている。寝衣と同じように媛の顔は白かったが、瞼《まぶた》の辺りが山桜の花の色のようにあえかに染まっていた。普通、灯油の明りは色を消すものである。
それにも拘《かかわ》らずはっきり瞼は色づいていた。倭建がこの上もなく媛をいとおしく思ったのは、気丈と噂されていた媛に秘められていた含羞《はじらい》を見たせいかもしれない。
倭建は言葉を失い、自分の屋形に戻った。
一刻後、弟橘媛は近くの山に入り、樫《かし》の木の傍に坐った。
かつて倭建は平群《へぐり》に行った時、樫の枝を取り、弟橘媛に、髪にさせば良い、といって渡した。樫は生命力の強い木として知られている。
弟橘媛は、与えられた樫の枝を肌身離さず持っている。媛のお守りだった。
媛は布で巻いていた枝を出し髪にさした。
手を合わせ眼を閉じ気を整えていると、次第に雑念が消えてゆく。小鳥が囀《さえず》る声が琴の音のように聞えてくる。
「神よ、私は倭建王子の妻に戻ります、お許し下さい」
繰り返し唱えていると天空から聞えてくる琴の音が伴奏となり神の声のように思える。雲に乗り媛は空中に漂う。もう何の雑念もない。
神と人の世との境を浮遊していた。
突然、黒雲が湧き周囲が暗くなった。眼を開くと、怪獣、怪魚に似た雲が媛を取り巻いていた。激しい風が下から吹き上げ、媛を雲の中に放り投げる。今度は天からの強風が媛を落す。悲鳴をあげかけたが媛は顎《あご》が砕けるほど口を閉じ我慢した。また媛は持ち上げられる。裳《もすそ》が乱れ下半身が剥《む》き出されそうになる。空中で舞いながら媛は裳を掴み脚に巻きつける。そんな媛を嘲笑《あざわら》うように怪しい風が股間《こかん》を撫《な》でた。
雲の中から獣にも似た声がした。
「弟橘媛か、吾《われ》は神、神を裏切るとは浅ましい女人だ、八つ裂きにしてばら撒《ま》こうぞ」
「神よ、許したまえ、私は王子様の妻に戻りとうございます」
「何と醜いことを申す、そちは大和を出る時、神に仕える故に王子の身を守りたまえ、と念じたではないか」
「私はどうなってもよろしゅうございます、王子様の身はお守り下さい」
「ほう、どうなっても構わぬと申したか」
「はい、構いませぬ」
「うむ、けなげな愛情だのう、吾はこの地の神、先々のことは約束できぬわい、ただ、女人の身でよくここまで来たのう、故にこの地にいる間だけは王子の妻たることを許そう、だがその前に、白銀の雲も負けそうなそちの肌がどんなに美しいか吾が見よう、触れてもみたいものじゃ」
「お許しを」
「愚か者め、巫女《みこ》をしているが、吾はそちの心の中と淫《みだ》らに濡《ぬ》れているそちの身体を見抜いているわい、神の力を侮ってはならぬぞ」
媛を取り巻く黒雲が割れた、真赫《まつか》に燃えるような奇怪な眼が現われた。瞳《ひとみ》は渦を巻いている。媛の眼は釘《くぎ》づけになる。黒雲が裂けそうな口を開き、眼と同じような真赫な牙《きば》を剥いて哄笑《こうしよう》した。生臭い息が強風と共に媛の身体を木の葉のように舞わせた。裳を押さえていた媛の手は信じられないほど力強い風にあおられて離れ、裳と共に上衣がめくれ上がる。露《あらわ》になった乳房が見えない手で鷲掴《わしづか》みにされて引っ張られる。ちぎれそうに痛い。
流石《さすが》の媛も悲鳴をあげた。
奇怪な笑い声が耳に響き、淫らな言葉を吐いた。
媛の真白い両脚は無惨に開かれ、風が股間を激しく叩《たた》く。風というより熱く太い棒で嬲《なぶ》られているようだった。
恐怖と羞恥《しゆうち》心に媛は意味不明の叫びをあげた。脚を閉じようにも木の葉のように舞っているので力が入らない。
上衣が脱げて空中に飛んでゆく。風はますます強くなり両脚を押し拡げる。太い棒が待っていたように股間の割れ目に入り込んできた。
もう媛は叫ぶこともできない。
「どうじゃ、神の力が分ったか」
媛は頭が空になっていた。
気がつくと空から落ちている。
私は死ぬのだ、と媛は観念した。遥《はる》か下に森や田畑、それに海が見える。
丘ではなく海に落ちて欲しい、と媛は念じた。小さな森や田畑がみるみる拡がった。媛は眼を閉じた。
弟橘媛は失神から目覚めた。まだ頭がふらついている。おそるおそる辺りを見廻《みまわ》した。
驚いたことにさっきの樫の木の傍に坐《すわ》っていた。衣服に乱れはなく、髪には樫の木枝がささっている。
衣服が湿っているのは、噴き出た汗のせいであろう。真昼に夢を見たのか。
ただ夢にしては余りにも生々しい。黒雲の生臭い息、真赫に燃えた眼と牙。それに全裸になり弄《もてあそ》ばれるように空中で舞わされた。あの姿を王子に見られたなら、私は舌を噛《か》み切って死ぬ。
媛は思わず歯を噛み締めた。
あれは悪夢に違いなかったが、ひょっとすると、現実に悪の鬼神の世界に連れて行かれたのかもしれない。
悪の鬼神というより神が憤ったのだ。それにしても醜い神である。神の嫉妬《しつと》の恐ろしさを弟橘媛は初めて知った。神が嫉妬するなど、これまで思ってもいなかった。
それにしても湿った衣服が肌に密着して気持悪い。
屋形に戻り衣服を着替えようと思った時、媛は肌が濡れているのは汗だけではないのに気づいた。股間が濡れているのだ。思わず、誰かに見られていないか、と前後左右を眺めた。
弟橘媛が神に接する時、侍女たちは草叢《くさむら》に蹲《うずくま》り顔を伏せている。神は俗人がいるのを好まない。
媛は身動きできなかった。こんな体験は初めてである。おそるおそる胸に手を当てた。乳房が引きちぎられそうになった感触は今も残っている。まだ鼓動は掌に響くほど高いが、膨みは変わっていない。
濡れた股間は気味が悪いというよりも何処かに甘い疼《うず》きを伴っていた。
媛は顔を赭《あか》らめた。自分がこのような淫《いん》を体内に宿しているなど、これまで思ってもいなかったからだ。
多分、神の妻から王子の妻になると決めた時に宿ったのかもしれない。
思い出しても身慄《みぶる》いしたいほど嫌な悪夢だったが、あの鬼神はいった。
「この地にいる間だけは王子の妻になることを許そう」
脳裡《のうり》に刻み込まれている神託だった。
この地から離れたなら、王子の妻の座から降りねばならない、とも解釈できる。それがどういう意味なのか媛にもよく分らなかった。ひょっとすると行く先々の神の許しを得なければならないのだろうか。
それも仕方がないと媛は思う。
媛は倭建を救うために巫女として、王子の許しも求めず、意のままに大和を出たのだ。
これからは巫女としての力を発揮できなくなる。私は身勝手な女人だったと媛は思い知った。王子に詫《わ》びたい。
ただ王子の邪魔にだけはなりたくなかった。もし足手纏《あしでまと》いになるのなら、死を選ぼう、そんな自分に未練はない、と媛は誓った。
現代では想像できない熾烈《しれつ》で純な愛が古代には存在したのである。
「もう神の許しは得た、皆、姿を見せるように」
媛の声に数人の侍女がほっとした面持ちで立った。
媛は集まった侍女たちに、自分が天に昇ったのを見たかどうか、と訊《き》いた。
誰も見た者はいなかった。
やはり真昼の悪夢だったのか、違うと媛は首を振った。媛は間違いなく悪夢のような神に接した。
ひょっとすると媛の心に宿っていた淫が生んだ神かもしれなかった。
「さあ戻りましょう、海のせいかこの辺りの風は湿気《しつけ》が多い、衣が濡れた、でももう神に接する衣服は必要がなくなりました」
媛は自分自身にいい聞かせるように呟《つぶや》くのだった。
陽が西の空に傾いた頃、弟橘媛の侍女が倭建の屋形を訪ね、媛がお待ちしている旨を告げた。
まだ夕焼には時刻が早いにも拘らず西の空は茜《あかね》の色に映えていた。その雲がまた山々を紅に染めている。
倭建は、陽も雲も山々も自分と媛との一夜を祝ってくれているような気がした。
栗色の愛馬は尾張《おわり》においたままなのが少し残念だった。当時、倭国《わこく》に入っている馬は少ない。豪族でもなかなか持てない。
大和でも、馬に乗れる者はオシロワケ王以下十人ほどだった。豪族たちが馬に乗るようになったのは、約五十年後の五世紀前半だった。
倭建は馬に乗って弟橘媛の屋形に行きたくなったのである。すぐ童子じみている、と苦笑した。
媛は倭建のために鹿肉や鶏肉を料理していた。巫女は肉は口にしない。
間違いなく媛は倭建の妻に戻ったのである。媛は華やかな赤、緑、黄の縦縞《たてじま》の裳と淡紅色の上衣《うわぎ》を纏《まと》っていた。倭建は、こういう衣服を媛が持参していたことを知らなかった。
倭建の姿を見ると媛は家に入った。
当時の女人は、男子を門前で迎えず、家の中で待つのが習慣だったのだ。
各国によってその習慣が異なるのは勿論《もちろん》である。
「媛よ、吾を迎えよ、そなたを見たい」
と倭建は大声でいった。
[#改ページ]
二
弟橘媛《おとたちばなひめ》が倭建《やまとたける》を出迎えたのは、倭建との一夜のために用意された家である、住んでいる屋形のすぐ傍であった。
茅《かや》を葺《ふ》いた竪穴《たてあな》式の住居だった。
屋根には鰹木《かつおぎ》を模した何本かの棒がならべられている。
いうまでもなく鰹木は南方の風習である。
弟橘媛は何時《いつ》もは侍女と寝泊まりするが今日は一人だった。
竪穴式住居は弥生《やよい》時代以来、民の家だった。後の貴族階級の中には、高くなった場所に床を造った地床式や、高床式の屋形に住む者がいるが僅《わず》かで、村長《むらおさ》邸は地面を掘り藁《わら》を敷き詰めた竪穴式の家に住んでいる。
夏は蒸し暑いが、冬は暖かく過ごし易い。
村長の家はかなり広く、土壁に沿って藁が敷かれ、麻布がかけられていた。かなり幅のある麻布なので贅沢《ぜいたく》である。庶民は藁の上に寝るのだ。中央に囲炉裏があった。
腰掛けにもなる寝具に二人は坐《すわ》った。
細い四本の杭《くい》を地に打ち込み板を置いた即製の卓には侍女によって用意された酒肴《しゆこう》が並べられていた。
木の実、焼き魚、鹿の焼き肉、塩汁で煮た貝などである。酒壺《さかつぼ》と酒杯も置かれている。倭建の腹が鳴った。
夕餉《ゆうげ》を手伝う二人の侍女は、家の外で待っていた。二人の間には稚建《ワカタケル》王という今年四歳になる子がいる。だが、弟橘媛は子があるように見えない。
倭建は新婚の初夜のような気がした。大和《やまと》は遥《はる》かに遠い。遠いというだけではなく、自分とは関係のない国のように思えた。
では自分が何のために別世界ともいえる走水《はしりみず》にいるのか。そんなことはどうでも良かった。
吾《われ》は弟橘媛と一夜を過ごすためにこの地に来たのだ。東征大将軍など、そのための仮称に過ぎない。何故か倭建は解放感を覚えた。それまで自分を縛っていた見えない縄が切れて飛び散ったような気がした。
倭建が酒杯を手にすると弟橘媛が酒壺を持って注ぐ。渓流のせせらぎにも似た音がする。
弟橘媛は結っていた髪を解いていた。両頬に垂れ、背中にまで落ちている。屋根の半ばに開かれた明り取りから光が差し込み、髪が濡《ぬ》れているように見えた。
「媛よ、吾が注ごう」
「嬉《うれ》しゅうございます」
媛が酒杯を持った。注ぎながら倭建は、媛の手首の辺りが意外に痩《や》せているのにはっとした。先刻、手を取り合ったが、気が昂《たか》ぶっていたせいかこんなに痩せているとは気づかなかった。それに熱があるようだ。
倭建が身体《からだ》の状態を訊《き》くと媛は眼を瞠《みは》り、喰《く》い入るように見返した。
「王子様、私はこれから王子様の妃《きさき》に戻るのです。気持も肌もはずんでいます、私の身体が熱いのは燃えているからです、何も気になさることはありません」
弟橘媛は手にした酒杯を口に運ぶとなみなみと注がれた酒を半分近く飲んだ。
「おう、勢いの良い飲み方じゃ」
「格別においしゅうございます」
媛は妙に光る目で、残った酒を見ると、今度は眼を閉じて一気に飲み干した。絹肌の喉《のど》が微妙に動く。
初めての飲み方だった。
「大丈夫か?」
「王子様、お酒の味が初めて分りました」
媛は倭建の方に首を傾け艶《つや》やかに笑った。黒髪が倭建の頬を撫《な》でた。その髪に重みがあった。
倭建は髪を掌《たなごころ》に載せた。さらりとした髪が指からこぼれる。その際の何でもない筈《はず》の感触が疼《うず》きを伴い微妙な刺戟《しげき》となる。掌の髪の重みが指にかかり、倭建は髪の先を指に巻いた。別な生物のように指の付け根に纏いつく。
媛は吾を欲しているに違いない、と倭建は髪の束を手に巻きつけた。無意識に引っ張ると草の根をわけた時のようなやや甘みをおびた女人の匂いがした。たまらず倭建は髪の分け目に鼻孔を押しつけた。汗ばんだ草いきれに似た匂いを嗅《か》いだ。いとしい女人の匂いには明らかに媛の情念がこもっている。
「媛よ、いとしいぞ」
倭建は媛の頭皮を歯で噛《か》んで口中に咥《くわ》えながら塩っぱい汗を思いきり吸った。媛は溜息《ためいき》にあえかな嗚咽《おえつ》を混じえた。倭建の身体は慄《ふる》えはじめる。髪のついた頭皮を噛みちぎり食べたかった。胸の鼓動が高まり、血が騒ぎ、潮騒《しおさい》の響きをたてながら体内を駈《か》け巡る。このような情炎は初めてだった。新婚の夜にもなかった。
当時の倭建は何人もの若い女人に取り囲まれている。弟橘媛は正妃にしたぐらいだから最も好ましい女人だったが、あの夜は今宵《こよい》のような深い情炎はなかったような気がする。
吾はどうしたのか。それとも媛が変わったのか。媛を目茶苦茶にし、自分も狂い共に死の淵《ふち》を浮遊したくなった。
「何故じゃ? 分らぬ、何故こんなにいとしいのか、死も今の吾の情を止められない」
「私も……王子様に殺されとうございます」
媛は熱い頬を寄せ倭建の手を掴《つか》む。
「おお死じゃ、死こそ最高じゃ、そなたに較べると王位など問題ではない」
倭建は媛の頭皮の汗を吸いながら、媛の袖《そで》をめくり速やかに腋窩《えきか》に右手を差し入れた。淡い春草に似た翳《かげ》りは絹糸のような感触だった。
倭建は春草もろとも腋窩の肌を鷲掴《わしづか》みにした。肉を掘るように指を突っ込む。
媛は苦痛に似た声を放ったが、それは痛みではない。昂奮《こうふん》の極致が放つ悦楽である。
これまで嗅いだことのない麝香《じやこう》らしい匂いがした。
中国から渡来したという秘薬を若い頃、オシロワケ王から与えられたことがあった。王は、勿体《もつたい》をつけ、一国分ぐらいの値打ちがあるといった。
「水など浴びなくとも良いぞ、そなたの匂いが消える、吾は吸い続けたいのだ」
得体の知れない鬼神が憑《つ》いたのかもしれない。倭建は自分で何をいっているのか意識していなかった。
弟橘媛の息が次第に荒くなる。火照《ほて》りは衣を通し倭建に伝わる。脈打つ血が熱を伝えるのだ。
倭建は媛の上衣の紐《ひも》を解いた。紐をその場に放り投げると媛を藁の寝具に横たえた。媛は抵抗しない。半眼で倭建を見ているが無の彼方《かなた》を見ているようだった。
媛にも何かが取り憑いているのか。
倭建の手が裳《もすそ》にかかると媛の手が裳を押さえた。倭建は頭を媛の手にぶつけるように下ろし、裳にかかった媛の指を咥え、両手で一気に裳を引っ張った。白い大腿《だいたい》が花を開いたように眼の前に拡がる。日が落ちてきたせいかそれは幻の花のように見えた。
「媛よ、吾は仙界にいるような気がする、そなたは仙女だ」
「王子様もこの世の人とは思えません。人と獣が入り混じった武の鬼神のようです」
「おう、それで良いのだ、吾は自分でも恐ろしいほど滾《たぎ》っている、そなたの唇を舌を、腋窩を、そして乳房を噛みきりたい、吾は異常だ」
倭建は子を産んでいるにも拘《かかわ》らず豊かに盛り上がった媛の乳房に歯を当てた。
媛が眼を見開いた。靄《もや》がかかっているようだが瞳《ひとみ》の奥に小さな火が燃えていた。蛇の舌のような炎だった。媛のものではないにも拘らず違和感を覚えない。寧《むし》ろ狂気にも似た自分の欲情に応えていてくれている。
媛も倭建と同じ情炎の波に揉《も》まれているのだ。
二日前まで巫女《みこ》として神に仕えていた身とは到底思えなかった。
媛は吾となら何時でも死ぬ気でいるのを倭建は感じた。
媛は倭建が東征大将軍の地位を捨て、自分と一体になろうとしているのを感じていた。荒れ狂う男子《おのこ》となってだ。媛はそんな男子を受け入れるために神の妻から解き放たれたのだ。
倭建の勃《た》った男子が濡れそぼった媛の赤い洞に入る。
二人は獣の叫びをあげながら寝具の上で絡み合った。倭建は媛の骨を折れんばかりに抱き締め汗をすすり飲む。媛は炎にあぶられ身悶《みもだ》えし倭建の肩に噛みつく。
媛の身体が激しく痙攣《けいれん》し、雷光に脳裡《のうり》を砕かれながら倭建の男子を喰いちぎろうとする。甘いというより余りにも強烈な疼きが潮となり、出口を求めて肉壁を溶かせてゆく。だが媛の痙攣が強いため、溶けた筈の肉壁が防潮堤のように盛り上がり潮の奔流をせき止めるのだ。
出口を失った甘美な潮は、行き場を失い、断末魔の洪水となり、ひたすら肉壁を破っては押し流す。潮は逆流できないので出口の肉を潰《つぶ》すまで渦を巻く以外にない。
潰されそうで潰れない肉が放つ甘美さは、苦しみの悦楽だった。叫ぼうにも悦楽感が喉に詰まって声が出ないのだ。
倭建は巨大な石に押し潰されそうな声にならない声を放った。媛も同じである。二人の口が密着し、お互いの声を呑《の》み合った。
二人の痙攣はますます激しくなり、一体となって慄える。渦を巻いていた倭建の潮がついに最後の砦《とりで》を破り、奔《はし》り出た。咆哮《ほうこう》は明り取りや厚い茅《かや》の屋根を貫き周囲にまで響いた。
外で蹲《うずくま》っている侍女は二人共、蒼白《そうはく》な顔になった。媛に悪の鬼神が憑いたとしか思えないのだ。
二人は暫《しばら》く失神状態だった。倭建は深い息を吸うと、ぐったりとなっている弟橘媛に顔を寄せた。部屋の中は薄暗いのではっきり分らないが、眼窩《がんか》のあたりが黝《くろ》ずみ、酷《ひど》く疲れているような気がした。初めて経験したような凄《すさま》じい媾合《まぐわい》だったが、それにしても媛の疲れは酷すぎる。
頬に触れてみると火のように熱かった。倭建は寝具から下りると灯油を持ち、媛の傍らに坐った。
「眩《まぶ》しゅうございます」
媛は羞《はじら》うように手で顔を覆った。
「熱があるのではないか、病ならばすぐ休め、吾《われ》はさる」
「王子様、離れないで下さい、今宵だけは」
「今宵だけ、媛よ、何をいう、これからは毎夜通うぞ、そなたが病であろうと顔を見に来る、どうも気になる、医師《くすし》を呼ぶ」
「手を……」
倭建が差し出した手を媛は熱い手で握り、今は二人きりでいたい、という。少しの間でも離れていたくないようだ。
「分った、傍にいよう、それはそうと夕餉を食べるのも忘れていた、何か食べるか?」
倭建の腹が大きな音をたてた。忘れていた空腹感に襲われたのだ。
「はい、貝と木の実を」
起きようとする媛を手で制し、倭建は器に三品ほどとり、寝具に腰を下ろした。
「のう媛よ、男子と女人が愛し合っておれば、男子が女人に食べ物を与えるのも自然であろう、それは吾が王子であろうとなかろうと関係がない、大体、倭国《わこく》には妙な風習がある、巫女《みこ》に男子が近づいてはならぬ、貴人は奴婢《ぬひ》と喋《しやべ》ってはならぬ、王や王族はたとえ妃であろうと女人に酒を注いではならぬなど、身分や性別の規則が多過ぎる、女人に酒を注げないのなら、寝所で女人を抱くことも駄目な筈だ、そうであろう」
「嬉《うれ》しゅうございます、でも……」
「でもなど不要じゃ」
倭建は焼いた木の実の皮を剥《は》ぎ、塩をかけて弟橘媛の口に入れた。媛は眼を閉じ歯で噛む。倭建は胸が詰まる想いがした。
もの心がついて以来、倭建には平和な歳月などなかった。絶えず誰かに狙われていた。それは倭建の武勇が全国に鳴り響いていたからである。
倭建が王位を継いだ場合、大和《やまと》王権は強化され、王の威光は倭国全域におよぶ。それを望まない国々や有力豪族の中には倭建を眼の仇《かたき》にするものが現われた。
オシロワケ王には王子が多い。王自身、何人か分らないほどである。
倭建は競争相手や倭建の存在を眼の上の瘤《こぶ》と考える反対勢力に狙われた。
倭建の青春は見えない敵との戦いだった。やっと筑紫物部《つくしもののべ》を斃《たお》し、一息つくと、今度は父・オシロワケ王にうとまれた。父王は倭建を王位に即《つ》けたくなかったのだ。
倭建は父王の命令で勇猛で鳴る熊襲《くまそ》を討つように命じられ、熊襲|建《たける》を殺した。当時の倭建は男具那《おぐな》という名だったが、死に際しての熊襲建の願いで建の名を貰《もら》い、倭建と名乗るようになったのだ。その際、部下であると共に自分の手足のような葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》が深傷《ふかで》を負い、ついに彼は故郷で死亡した。
無念の気持が癒《い》えぬ間に父王は、倭建に東征を命じた。反抗的な東の国々を大和王権に服従するように説得し、従わぬものは討て、という。
父王は、吾に死ねというのか、と倭建は叔母《おば》で巫女の倭姫《やまとひめ》に悲憤を訴えたが王命にはさからえない。仕方なく吉備武彦《きびのたけひこ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、丹波猪喰《たんばのいぐい》らと共に長い東征の旅に出、当時の大和王権にとっては東の果てに近い房総《ぼうそう》半島を眼前に見る三浦《みうら》半島の走水まで来たのである。
過去を振り返ると、心の安まる日々はそんなになかったような気がする。毒気を感じる海を前にして、気が抜けたのも、旅の疲れというより、生きてきた日々の疲れかもしれなかった。
「お許し下さい、私はどうかしています」
媛は寝具の上に坐《すわ》ると脱がされた裳を取ろうとした。媛の眼が別人のように光っていた。
「どうしたのだ?」
倭建が媛の手を取ると、媛は思いがけない力で振り払い身を固くした。眼の光がますます強くなり、倭建の薄れた気を強く刺戟《しげき》する。過去の世界に浮遊していた倭建は現実に戻った。
「怪しい鬼神が王子様を窺《うかが》っています」
媛の声は凜《りん》としている。
「何処《どこ》にじゃ、吾には分らぬが……」
「家の周囲の雑木林の中でございましょう、お気をつけ下さい、倭姫様よりいただいた剣は?」
「吾の屋形に置いて来た」
「あの剣は神剣、邪気も容易《たやす》くは危害を加えられません。どうか何時も身につけて下さい」
「分った、今日はそなたと会うゆえ、剣など要らぬと思ったのだ」
「人を斬る剣ではありません。王子様のお守りでございます」
「約束するぞ、これからは忘れぬ」
そういう間にも媛は裳と上衣《うわぎ》を纏《まと》い、侍女を呼んだ。食事を片づけるようにいった。
「毒が盛られているかもしれませぬ、恐く怪しい気がするのです」
「夕餉《ゆうげ》などどうでも良い、焼米さえあれば充分だ、怪しい気は?」
「まだ消えていませぬ」
裏の林の方から狐らしい啼《な》き声がした。それに呼応するように、村で飼われている犬が吠《ほ》えた。あちこちで犬が吠える。
弟橘媛は部屋の中央に立ち手を合わせていたが、
「林の中にまだいます、私は水を浴びて参りますゆえ、ここにてお待ち下さい、出てはなりません」
「大丈夫だ、これがある」
倭建は土壁に立てかけていた愛用の大刀を握った。初めて自分が全裸でいることに気づき、急いで衣服を着た。
大和を出て初めて、媛と二人だけの世界を浮遊しようと望んだのに、東の果ての国でまで曲者《くせもの》に狙われるとは、なんということだろう。
平穏な日とは縁がないのか、吾の宿命なのか、と唇を噛《か》んだ。
ただ弟橘媛は怪しい鬼神といった。あの激しい媾合にも拘《かかわ》らず、媛はいまだ巫女としての能力が残っていたのか。
媛は侍女を伴いすぐ傍の小川で水を浴び俗人としての穢《けが》れを取り祓《はら》う。もし自分が感じた邪気が倭建を毒するものなら、これ以後、二人で過ごす日はないであろう。俗人の悦《よろこ》びを貪《むさぼ》りながら倭建の身を守ることはできない。神が許してくれようとくれまいと、媛は男子の肌に触れられなくなる。
川水は冬の冷たさを残していた。肌が痛いほど縮まる。
人の世の楽しみなど、どうでも良い。ただ王子と今一度、一夜を共にできれば、「死んでも良い」と口まで出かかった言葉を媛は呑み込んだ。眼尻《めじり》から溢《あふ》れ出た涙が川水で凍りついたように冷える。
未練じゃ、と媛は舌先を噛んだ。激痛が全身を走り煩悩の火が消える。舌が傷ついたらしく、生温かい血が口中から唇の端を伝わり顎《あご》に落ちた。その血もあっという間に川水となる。
四半|刻《とき》(三十分)は川に入っていただろうか、媛は凍りついたような身体に衣服を纏い、倭建がいる家に向かった。
「王子様、どうぞ外に」
「怪しい鬼神は去ったか……」
「いいえ、まだ林の奥に潜んでいます、猪喰殿をお呼び下さい、私が案内しましょう」
「吾も行くぞ、猪喰一人には行かせぬ」
「王子様、邪気は人ではありません、明らかに獣です」
「獣だと?」
尾張の宮簀媛《みやすひめ》を乗せて走っていた大鹿の姿が浮かび、倭建は声が詰まった。
宮簀媛の呪縛《じゆばく》を破ったのは弟橘媛だった。宮簀媛は弟橘媛を恨んでいるかもしれない。
だが幾ら性悪の怨念《おんねん》を弟橘媛に抱いていたとしても、この東の地まで恨みを晴らしに来ることはないだろう。
しかも、鬼神の邪気は、弟橘媛にではなく倭建に向けられているらしい。
「王子様、吾が参ります」
闇の影のように猪喰が現われた。何処にいたのか、倭建にも分らなかった。
「猪喰、怪しい曲者は吾を狙っているのだ、敵に後ろは見せられぬ、しかも弟橘媛が近くまで案内するという、今、背を向けたなら、吾は吾でなくなる」
「弟橘媛様」
止めていただきたい、と猪喰は訴えるようにいった。
「私は行きます、王子様と一緒に……でも百歩ほど手前で、止まるか進むか、考えましょう。警護兵は要りません」
媛はきっぱりといいきった。心に期すところがあるのだろう。二人の侍女がすぐ後ろにいた。
新緑の頃なのに夜の林は湿っている。潮風が樹林に沁《し》み、木や落ち葉を絶えず濡《ぬ》らしているのかもしれない。
「一寸《ちよつと》待て」
一行を止めた倭建は地に伏せ、湿《し》っ気《け》た落ち葉に耳を当て見えない鬼神の場所をさぐった。かつて大和王権に反抗し、音羽山の頂上に籠《こも》り、父王を殺す計画を練っていた丹波森尾《たんばのもりお》を斃した頃は、こうして二、三百歩先の曲者の気配をさぐることができた。もう十年も前である。
懸命に雑念を消すが、今の倭建にはそれだけの力はなかった。
あちこちで小さな獣の気配がするだけだ。兎やリス、狐、狸などであろう。人の気配に驚き、眼を覚まし、こちらの様子を窺っているようだ。
倭建は立って顔の汚れを落した。
無念の形相で首を横に振る。
「王子様、私の後に続いて下さい、猪喰殿も」
鬼神の気配をさぐる力は、媛の方が優れているらしい。
媛は闇に向かって腕を伸ばし、指で円を描きながら前に進む。一寸先も見えない闇だが、木を避けながら歩く。まるで媛の指先に眼がついているようだった。
時々媛は立ち止まった。微動だにせず石に化したようだ。
媛は左の方に進みはじめた。百歩ほど進んだであろうか、林から出た。粘りつくような湿っ気が去り、あくのある草の匂いが鼻をついた。
「王子様、曲者は獣の鬼神です、ここは草原ですが灌木《かんぼく》があちこちに群れをなしています、この原の左手に丘があり、そこに獣がいます、王子様が進むと獣は必ず襲ってくるでしょう、私は戻ります、これ以上いると王子様の邪魔になりましょう」
「獣か、猪か熊か、それとも狼か?」
「分りませぬ、ただ、鋭い角か牙《きば》を持っているようです」
角か牙、と倭建は鸚鵡《おうむ》返しに呟《つぶや》いた。
大鹿かもしれぬと得体の知れない不安がよぎった。倭建は武の闘志で不安を砕く。
「猪喰殿、王子様から離れぬように」
「分りました」
「暗闇で怪しい気配を感じたなら矢を、それと王子様、最後まで追ってはなりません、罠《わな》にはまります」
媛は武人の長《おさ》のような口調で告げた。
倭建と猪喰は下草に足を取られないようにゆっくりと進んだ。灌木は生き物のように足に纏いつく。どうしても音がする。
「方向は間違いないな」
「まず間違いありません。雲が厚く星が見えないのが残念ですが、そんなに狂いはない筈《はず》です。火矢を使えたなら申し分ないのですが……」
「火矢か、魚油の用意は?」
「二本分ぐらいならございます」
猪喰は腰紐《こしひも》に差している細い竹筒を叩《たた》いた。流石に闘者に徹している猪喰である。あらゆる場合に備えて対応できる武具を身につけていた。
「よし、一本を射よ」
倭建の命令を待っていたように猪喰は布を刀子《とうす》(小刀)で切り矢尻《やじり》に巻いた。魚油をたらして火打ち石で火をつけ前方の丘の方に矢を放った。一点の火が闇を飛ぶ。百歩以上の距離だった。地に落ちずに微《かす》かな火の粉を散らして消えた。
丘の中腹の木に当たったようである。
下草に燃え移らなかったが進行方向が確認できた。闇の中を徘徊《はいかい》していた小さな獣たちが走った。だが、弟橘媛が告げた怪しい獣が動く気配はない。
二人は進む速度を速めた。数十歩進んだ時、闇の塊りが跳ねた。姿は見えないが凄《すさま》じい勢いで迫ってくる。
倭建は刀を抜くと突進した。幸いつむじ風で獣の襲撃を確認できた。倭建が先に跳んだので猪喰は側面に廻《まわ》った。
つむじ風と倭建が衝突した。
「王子様」
返事がない。つむじ風は一回転して丘の方に走ってゆく。倭建は追っているようだ。猪喰は倭建の名を連呼したが返事はなかった。
倭建は見えない獣を懸命に追っていた。間違いなく襲ってきたつむじ風の真ん中を斬り裂いた筈だが何の手応《てごた》えもない。
見えない獣はそんな倭建を嘲笑《ちようしよう》するように獣の強臭を残し去ってゆくのだ。その瞬間、眩暈《めまい》がしたが、気がつくと憑《つ》かれたように獣を追っていた。灌木や隈笹《くまざさ》、それに草叢《くさむら》を跳び越え、まるで自分が獣に化したような走り方だった。全くみえないが眼の前に木があるとよけ、石だと跳んでいる。だが幾ら追いかけても相手は掴《つか》まらない。
つむじ風は丘に達したらしく木の葉を鳴らしながら舞い上がった。刀を握りなおし跳び上がろうとした倭建の脳裡《のうり》に最後まで追っては相手の罠にはまる、と念を押した弟橘媛の言葉が甦《よみがえ》った。
刀の柄《つか》の持ち方を変えた時、我に返ったのであろう。
倭建が身を縮め刀を突き上げたのとつむじ風が舞い降りたのと同時だった。見えない敵も、倭建が罠にかかった、と油断をしたのかもしれない。
鬼神でも人間でも、一瞬の油断が勝敗を決める場合がある。生命を賭《か》けた勝負というのはそんなものだ。
倭建の刀は重い獣の腹部あたりを貫いていた。腕が痺《しび》れ獣の角に顔面を強打されていた。闇を慄《ふる》わすような悲鳴を耳にした倭建は、刀に喰《く》い込んだ肉の手応えを感じながら気を失った。
どのくらいの時がたったのだろうか、気がつくと束ねた木の枝に火をつけた猪喰が傍らにいた。
「おう猪喰か、やったぞ、斃《たお》した、どんな獣だ?」
頭を上げようとしたが動かない。
「王子様、じっとしていて下さい、額が裂けている、獣は傷つきながら丘に逃げたようです、点々と血が続いています」
「うむ、逃げたか、だが間違いなく深傷《ふかで》じゃ、遠くまでは逃げられない」
「最後まで追ってはなりませぬ、相手は獣でも得体の知れない鬼神、媛のお言葉をお忘れですか」
「しかし……」
「なりませぬ、王子様は闇の原野を跳ばれました、あれは人の業ではありません、やつかれ(臣下)もあっという間に王子様の気配を失いました、足音も聞えぬのです」
「吾《われ》は腕に感じたぞ、巨大な獣を突き刺した肉の手応えを」
「獣は大鹿です」
猪喰は折れていた鹿の角を拾って見せた。倭建の額を裂いた角らしかった。
「鹿だったのか」
思わず倭建は眼を閉じた。言葉が出ない。
不安は当たった。偶然なのか、それとも宮簀媛が寄越したのか。
「毒を消します」
猪喰は魚油とは別な竹筒に入った酒を額の傷に注いだ。火で焼かれたような痛みに身体を蝦《えび》のように反らせた。
もし宮簀媛が寄越した鹿なら、何故、倭建を狙ったのか、宮簀媛が憎いのは倭建ではなく弟橘媛ではないのか。
ただ呪力《じゆりよく》では、宮簀媛は弟橘媛には及ばない。弟橘媛を斃せないから倭建を殺そうとしたのか。
女人の心は吾には分らない、と倭建は傷の痛みに堪えながら顔を歪《ゆが》めた。
猪喰は傷口に蒲《がま》の穂から採った粉薬を塗り、布で額を巻いた。一|刻《とき》ほどすると何とか頭が動くようになった。
猪喰の肩に縋《すが》り戻ろうとした倭建は、複雑な思いで深傷を負った鹿が逃げた丘の方を眺めた。
まるでそれを見ていたように獣の啼《な》き声がした。闇を縫って何処までも届きそうな声は、鹿よりも狼に似ていた。尾を引く声は痛みの中に恨めしさが漂っていた。
「王子様、参りましょう」
猪喰は倭建の複雑な思いを断ち切るように、地を踏み鳴らして歩きはじめた。
二人が三、四百歩戻ると、数え切れぬ松明《たいまつ》と共に、吉備武彦と久米七掬脛が倭建を探しに来た。武彦がいった。
「その傷は?」
「獣の角だ、だが獣は斬り殺した、たいした傷ではない、猪喰の手当が大げさなのじゃ、傷がなおり次第海を渡るぞ、闘志が湧いたわい」
倭建は哄笑《こうしよう》したが痛みに顔が歪むのはどうしようもなかった。
[#改ページ]
三
一夜明けたなら傷は癒《い》えると軽く考えていたが、そう簡単には治らなかった。
顔の右側から顳《こめ》|※[#「需+頁」、unicode986c]《かみ》の辺りまでの傷である。そんなに深くなく出血も少ないが、痛みが取れない。それに高熱で身体が慄《ふる》える。
弟橘媛《おとたちばなひめ》は毎日顔を見せ、治るように願った。媛はまた巫女《みこ》時代に戻ったような厳しい表情だった。
仙界を浮遊し、抱き合って舞ったような一夜を忘れたのか。岸に打ち寄せられた真白い石のような媛の顔を見ると、媛は大丈夫です、という風に頷《うなず》くのだ。
十日たった。その夕、倭建《やまとたける》は去ろうとした媛の裳裾《もすそ》を掴《つか》んだ。傷口が痛んだが気にならない。
傷などどうでも良かった。いや、傷のせいでこの地に逗留《とうりゆう》しておれるのである。
振り返った媛に微笑はない。倭建をとがめている。
どうしたのだ、悪い鬼神でも憑《つ》いたのではないか、先夜は吾《われ》と夜を共にできれば死んでも良いといったではないか、吾に嘘をついていたのか。
「王子様、お手を離して下さい、今の私は王子様の傷を治すのに懸命なのです、普通の傷ではありません、怪しき傷、それを治すには薬草などではなく、神の力が必要となりましょう、神は嫉妬《しつと》深い、私が男子の肌に触れるのを許しませぬ」
「傷など治らなくても良い、もう我儘《わがまま》はいわぬ、今宵《こよい》だけだ」
冷ややかな媛の顔がぼやけた。倭建は眼を指でこすった。
媛は背中を見せ、俯《うつむ》いていた。肩が小刻みに慄えている。媛は泣いている。そう感じた時、倭建は裳裾から手を離していた。拒否している女人を無理じいし、泣かせるのは男子のすることではないからだ。その瞬間、倭建は本来の自分を取り戻していた。
弟橘媛は振り返らずに去って行く。
夕餉《ゆうげ》が済み、倭建は吉備武彦《きびのたけひこ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、丹波猪喰《たんばのいぐい》を呼んだ。傷が気にならなくなっている。
酒を命じた。それまで傷に悪いと酒を断っていた。
集まった三人は神妙な面持ちである。久米七掬脛だけは何か問いたいような表情だった。
「どうしたのだ七掬脛、訊《き》きたいことがあれば訊け」
「王子様、傷跡が入れ墨のように黝《くろ》ずんでいます、瘡蓋《かさぶた》ができたようです」
「瘡蓋だと、媛がいた時は、じくじくして痛んでいたが」
倭建は指先で傷口に触れてみた。七掬脛がいったように瘡蓋ができている。それに痛みもない。
「おう、何時の間にか傷が治っているぞ、祝い酒にしよう、そちたちにも心配をかけた、三日間か、それにしても酷《ひど》い目にあったものじゃ」
武彦が唇をへの字に曲げ、七掬脛が低く唸《うな》って眼の入れ墨を撫《な》でた、猪喰が真正面から倭建を凝視《みつめ》た。
「王子様、もう十日たっています、よくうなされ、眠られていたので、昼夜の区別がつかなかったのでしょう、それに、こんなにはっきりと話されたのも傷を受けて以来初めてです」
「何だと、十日たったと」
倭建は愕然《がくぜん》とした。傷の痛みが酷く、負けるものか、と自己を叱咤《しつた》していた記憶はあるが、三、四日と思っていた。
「瘡蓋はそのままに、自然に剥《は》がれるまでお待ち下さい」
七掬脛が大声で制した。
「うむ、分った、吾は高熱で意識が薄れていたのじゃ、もう大丈夫だったが、弟橘媛は毎日きて祈っていたような気がするが」
一同は大きく頷いた。
さっきの媛は幻覚ではなかった。
「猪喰よ、そちは媛の家に行き、酒を飲んでも良いかどうか訊いてまいれ、勝手な酒盛りで浮かれていては、看病してくれた媛に悪いからのう」
「その通りでございます」
七掬脛が剽軽《ひようきん》な声で応じた。
王子よ、やっと治りましたな、と安心した顔になった。
戻って来た猪喰は、酒盛りは海を渡るまで待つように、という媛の忠告を伝えた。
三人共、ほっとしたようだ。酒盛りは男子の最大の愉《たの》しみだといって良い。女人よりも酒、という者も多い。
皆、倭建の身を案じているのだ。彼等の忠節に応《こた》えなければならない、と胸の中で呟《つぶや》く。
武彦が膝《ひざ》を進めた。
五日前に上総《かずさ》の須恵《すえ》の使者が来たが、何時《いつ》治るか分らなかったので、王子は土地の水が合わずに病に罹《かか》り伏せておられると告げて戻した、という。
毛野国《けぬのくに》と通じている海上国《うなかみのくに》と異なり須恵の首長は倭建に好意的らしい。
「仕方あるまい、傷を受けた吾が悪い、須恵は、半島の中では比較的平地が多いと聞いているが……」
武彦の説明によると、房総半島の西海岸は東海岸より平地が少ないが、西海岸でも、須恵は比較的平地を有し、豊かだった。
「半島は丘陵が低く、山路といっても、そんなに険しい道はないようです、まず須恵に渡り海上国の首長に使者を送り、我等が東に来た意を伝えては如何《いかが》でしょう、海外の情勢も話し、そろそろ倭国《わこく》の団結が必要な旨を丁寧に述べれば、海上国も戦を挑むようなことはない、と考えますが」
武彦の言葉に、七掬脛と猪喰が頷く。
倭建が寝込んでいる間に東征の策について話し合ったらしい。
「うむ、須恵から使者を遣わそう、友好のために毛野国を訪れる、と伝えれば、海上国もやたらに戦を仕かけられまい、毛野国は信濃《しなの》、越《えつ》を通じて北の海を通り新羅《しらぎ》と交易があるという、視野は広い筈《はず》だ、ただ何といっても東国の雄、何処《どこ》まで心を拡げられるかが問題だが」
王子、もし毛野国が我等を拒否すれば、と武彦が眼を光らせた。戦を辞さぬとお考えですか、と訊いている。
「武彦、それは今、ここで決める必要はない、これまで戦や病などにより、兵も減った、大伴武日《おおとものたけひ》も呼び戻された、もしオシロワケ王が、毛野国と戦えというのなら、武日に数倍の兵を与え援軍として遣わす筈じゃ、のう七掬脛、援軍が来ないとすれば、父王は、戦を避けよと命じていることになる、違うかな」
「いやいや御高察、おそれ入りました」
七掬脛は顔を叩《たた》く。
「どうじゃ、武彦」
「吾は王子の命じられる通りに動きます、ただ、王子がいわれるように、毛野国相手にこの寡兵では、まさか勝てますまい」
武彦は初めて笑うと遠くを見るように眼を細めた。
故郷の吉備《きび》に思いを馳《は》せたのか。それとも、少し冷た過ぎるのではございませぬか、とオシロワケ王にいいたかったのか。
二、三日の間に出発する旨を決めて三人は倭建のもとを去った。
上総の須恵は現在の君津《きみつ》市、木更津《きさらづ》市を合わせた地域と考えられる。
なお海上国は、上海上《かみうなかみ》と下海上《しもうなかみ》とに分れ、上の方は市原《いちはら》市、下は銚子《ちようし》市から西方、西北、西南の広い地域であった。後に、それぞれ国造《くにのみやつこ》となった。
毛野国は、現在の群馬、栃木両県だが、古代の毛野国はもっと広く、武蔵《むさし》の北部から信濃の東部まで拡がっていたと考えて良い。
毛野国という国名から推察すると、当然、大和《やまと》王朝が毛人《えみし》と呼んだ蝦夷《えみし》の血が混じっていたと考えられる。
後に毛野国は上毛野《かみつけの》、下毛野《しもつけの》と分れたが、下毛野の領域は蝦夷の領域に続いていたのだ。
その夜、倭建は戸を叩く音に眼を覚ました。真夜中で風も強い。本能的に傷に手をやる。瘡蓋はついていた。
初めは風に戸が鳴っているのだ、と眠ろうとしたが女人の声がする。弟橘媛らしい。
媛が会いに来たのだ。跳び起きると戸を開けた。媛は数歩手前に立っている。身体《からだ》から淡い光が放たれていた。
「王子様、お迎えに参りました」
媛は艶然《えんぜん》と微笑した。こんなに艶《つや》っぽい媛の顔は見たことがない。媛は子を産み、すでに二十代の前半である。だがどんな場合にも野の百合《ゆり》のように清楚《せいそ》なところがあった。それは含羞《はじらい》である。ただ先夜だけは何処か違った。媾合《まぐわ》っている最中、二人は雄と雌の獣だった。それでも自分を取り戻した時、媛は心なし含羞《はにか》んだ。
だが今宵の媛は全く違う。迎えに来ただけなのにあでやかに咲いた花のようで、花芯《かしん》に吸い込まれるような淫《みだ》らさがあった。それがまた魅力的である。
風が媛の衣服を乱し、媛の匂いを運んでくる。それは甘酸っぱくねとついて倭建の肌に纏《まと》いつき、股間《こかん》の男子を勃起《ぼつき》させる。倭建は理性をうしなった。
走水《はしりみず》に来て自分も変わったが媛も変わった。
こういう淫らな媛をも吾は欲していたのだ、と倭建は舌鼓を打ちながら前に進む。
警護兵がどうなっているかも気にならなかった。
媛が手放してはなりませぬ、と忠告した倭姫から貰《もら》った草薙剣《くさなぎのつるぎ》も念頭になかった。媛が自ら迎えに来たのだ。警戒心など全くない。
相変わらず風は強い。海は荒れているらしく、時々雷を思わせる音をたてる。
弟橘媛の宿泊所は倭建のすぐ傍だった。媛は海とは反対側の丘の方に行く。それも気にならない。
「媛よ、閨《ねや》はどこじゃ?」
獣のように濁った声だ。生唾《なまつば》が口中に溜《た》まっていて、声も生臭くなっていた。
媛は振り返り指を口に当てた。妙なことに指が濡《ぬ》れて光っている。倭建は口中の唾を呑《の》み込む。唾に媚薬《びやく》でも混じっているのか体内が熱く下半身がむず痒《がゆ》くなる。
何処を歩いているのか分らない。何時の間にか風はやんでいた。足や身体に木の枝や草が触れる。どうやら丘を登っているらしい。
闇のなかに家が見えた。この辺りには珍しい高床式の二階建てだった。正面に階段があって柵《さく》のついた縁が家を取り巻いている。正面の戸の前は酒宴でも開けそうな広さである。媛は宙を歩くように階段を上った。
倭建は喘《あえ》いだ。全身が汗に濡れ、まるで水を浴びたようだ。
媛は戸を開けて中に入った。肩で息をしながら倭建は媛に続いた。余りの豪華さに眼を瞠《みは》った。
板壁ぞいに数十個の灯油がともっていた。
その炎は、赤、橙《だいだい》、黄と様々な色だ。こんな炎は見たことがない。それぞれの明りに、絹の寝具が華やかに染まっていた。馬鹿な、吾《われ》は夢を見ているのか、と眼をこすった。
「王子様、やっと二人だけになれました、この夜をどんなにお待ちしていましたか、お会いしとうございました」
「先夜、会ったではないか……」
「私ではございませぬ」
「それでは誰だ、そなたは弟橘媛じゃ」
媛は口を少し開き舌を出して笑った。顔を左右に振ると腰紐《こしひも》を解いた。袖長《そでなが》の上衣《うわぎ》と肌衣を脱ぐ。眩《まぶ》しいほどの肌が現われた。肌が灯油の明りで様々な色に変わる。胸の膨らみが大きい。その重みで少し垂れているが、飛びかかって噛《か》みつきたいほど肉感的だった。身体が溶けそうな淫乳《いんにゆう》が蓄えられているに違いない。女人の中の女人である。こういう乳房を持った女人はいない。何処かにいたような気がするがさだかではなかった。もう生唾も湧かない。口中は乾ききっていた。
媛は裳《もすそ》を下ろした。音も立てずに落ちた。全裸の媛が眼の前に立っている。腰部がくびれ、脚が長く山野を駈《か》け巡りそうだった。臀部《でんぶ》の肉が張っていて微妙に動く。股間の翳《かげ》りが淡く息づいている。
媛とは何処かが違う、妙だぞという疑惑が脳裡《のうり》を掠《かす》めないでもない。だが眼の前の女人が放つ妖《あや》しい芳香に倭建には、疑惑を確かめる力はなかった。
触れない前から身体が疼《うず》き、今にも破裂しそうである。倭建は四つん這《ば》いになった。
「王子様、そのままお進み下さい」
倭建は這っていった。涎《よだれ》を垂らしているが気づかない。眼は獣欲に濁り光が消えている。
媛がゆっくり股間を拡げた。
倭建は媛の太腿《ふともも》に顔をこするようにつけた。何という柔らかく弾力のある肌だろうか。顔が今にも太腿の中に吸い込まれそうだが、内側から肉がうごめき撥《は》ね返してくる。
吸い、また撥ね返す肌に鼻孔を力一杯押しつけると、ぐっと吸われて息ができなくなる。苦しみが恍惚《こうこつ》感に変わり、天上界に浮いているように思えた。
妖しい芳香を放つ果実が眼の前にある。倭建が手を伸ばし|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取ろうとすると、肌が撥ねた。倭建は無様に引っ繰りかえった。慌てて太腿に縋《すが》りつく。
「そんなに私がいとしゅうございますか」
「おう、いとしいぞ」
媛の声ではない。滴が垂れるような声だ。
「ではこのままお戻り下さい」
「何をいう、媛よ、そなたが吾を呼んだのじゃ、どうして戻れようか……」
「走水の海を渡らずに尾張に……」
「えっ、尾張?」
流石に驚き倭建は顔を上げた。
媛の身体が後ろにさがった。
弟橘媛ではなかった。尾張の宮簀媛《みやすひめ》である。
「おう、そなたは……」
「私が欲しゅうございませぬか」
宮簀媛は身軽な鹿のように跳び寝具に横たわった。
今の倭建には弟橘媛も宮簀媛も区別はなかった。あるのは脳を狂わせても武者振りつきたい女体だけだった。
「欲しいぞ、欲しい」
倭建はまた這って近寄った。
丁度その時、眠っていた弟橘媛は息が止まり眼が覚めた。
妙な胸騒ぎがする。本能的に倭建の傷を思った。弟橘媛は叫んだ。
「水じゃ、水をもて」
万一に備え、器に盛った新しい水が寝具の周囲に張りめぐらされている。
媛は次々とその水を頭から浴びる。だがそれだけでは足りない。媛の声に、侍女が戸外の目無し籠《かご》の水を運んできた。
竹で編んだ籠だが、一滴の水もこぼれないように作られていた。小川から汲《く》んだばかりの新しい水だった。
弟橘媛は寝衣を脱ぎ裸になると懸命に持ちあげて浴びた。小川に行って禊《みそぎ》をする間がない。倭建の身に何かがおこっている。
侍女が新しい布で媛の身体を拭《ふ》く、今一人の侍女は畳まれた衣服を差し出す。
「そなたたちはここにいるのじゃ、私が一人で行きます」
媛は外に出た。
倭建の家の前には屈強な二人の警護兵が立っていたが媛が出ても微動だにしない。直立不動の姿勢だった。金縛りにあっているのかもしれなかった。
媛は戸の前に立った。急に体が重くなり動くのがやっとである。
戸に手をかけたが開かなかった。異臭がする。得体の知れない獣の匂いだった。
「王子様」
何度も呼んだが、老婆のように声が嗄《しわが》れている。媛は焦った。このまま時がたてば取り返しがつかなくなる。
媛は戸を背にした。体が軽くなった。怪しい鬼神が媛を拒否しているのだ。左手の木立の前に猪喰が寝ている小屋があった。
「猪喰殿」
媛は大声で呼んだ。声はよく通り周囲に響き渡った。
猪喰の眠りは毎日二|刻《とき》(四時間)ほどである。短いがその間は熟睡していた。警護兵は相変わらず動かなかった。石になっている。
猪喰は夢の中で夜鳥の声を聞いたような気がした。その声は啼《な》き、また訴えているようで余り気持の良いものではない。
何の鳥だろう、清冽《せいれつ》な声は? 眠りながら探る。猪喰の癖だった。身につけた間者《かんじや》の本能かもしれない。
媛の声だと気づいた時、猪喰は寝具の傍の刀を手にしていた。猪喰は眠気が砕けるような拳《こぶし》の一撃を側頭部にくらわせる。身体で戸を叩《たた》き破り、走り出た。自分を呼ぶ媛の声で居場所が分った。
倭建が宿泊している戸の前だ。猪喰の眼は並ではなかった。身体中の気が眼に集まっている。猪喰は飛ぶように走った。
近づくと媛の気配が感じられた。目を閉じても走れた。
「媛」
「猪喰殿、王子様の家に怪しい鬼神が」
猪喰は石のような警護兵に活を入れた。二人は倒れ、意識を取り戻して起き上がった。
「周囲を見張れ!」
猪喰は大喝し、戸に体当たりした。そんなに厚くない板戸だが鉄戸のようで、激痛と共に猪喰は飛ばされた。
宙で回転し、かろうじて立った猪喰は茅葺《かやぶ》きの屋根に跳び上がった。刀を抜いて茅を切る。屋根から内部に入ろうとした。
戸口に立った弟橘媛は、神の加護がないのを知った。どうすれば良いのか。
乱れる気持を鎮めると倭建の顔を思い浮かべた。王子を救うのは私の愛しかない、と呟《つぶや》く。
二人で平群《へぐり》を散策した時、倭建は樫《かし》の枝を採り、媛の髪にさした。
「そなたによく似合う、すこやかに、何時までも吾の傍に」
数年前のことだが昨日のことのように思い出される。葉は殆《ほとん》ど枯れて繊維の一部のみになっていたが、媛はお守りとして布にくるみ糸で縫い、胸につけていた。禊の水を浴びるときだけ外した。さっきも外して寝具においた。
「猪喰殿、降りて下さい、私が戸を開けます」
茅の屋根は見た目よりも厚い。
弟橘媛は走り戻ると今にも折れ、砕けそうになったお守りを胸に吊《つる》した。役に立つかどうか分らないが、神の加護がない以上、お守りと自分の念力で闘う以外なかった。
猪喰は今一度体当たりしたが、相変わらずびくともしない。
「私が念じますゆえ、猪喰殿も気を戸に集めて下さい」
媛は戸に身体を預けると、お守りで戸を撫《な》でる。固く冷たかった戸が、撫でる度にきしむような音をたてた。苦痛の声に聞える。猪喰も、砕けよと気を放った。
十数分もたっただろうか、媛が撫でる板が普通の板に戻った。
「猪喰殿、今じゃ、草薙剣《くさなぎのつるぎ》を」
猪喰は岩を砕かんばかりの勢いで突っ込んだ。戸は呆気《あつけ》なく割れ猪喰もろ共に転がった。室内は暗闇で何も見えない。草薙剣が何処にあるのかも分らなかった。
室内には獣の匂いが満ち吐き気がしそうだった。
「王子様」
媛はお守りを胸に当てた。
「おう、媛か……」
間違いなく倭建の声だが消え入るように弱々しい。
「剣をやつかれに放って下さい、ここです」
猪喰は壁を叩き居場所を知らせた。
「猪喰、身体が萎《な》えている、腕が動かぬ、正面の壁に立てかけてある」
「御免」
猪喰は左の壁に跳んだ。見えない腕が襲ってきた。だが気配があった。明らかに戸を砕かれ外気に触れた鬼神の力は弱っていた。猪喰は身を伏せ拳を突き出した。手応《てごた》えはない。
戸外で火打ち石の音が三度ほどした。見えない鬼神は間違いなく闇の中にいる。獣の匂いがますます強くなる。汗を流しているのかもしれない。倭建の気配は不思議なほどなかった。王子は消耗しているのだ。
明りが欲しい、と猪喰は念じた。
この獣の鬼神は毒気が武器だ。猪喰を襲った腕も実体のあるものではない。毒気に違いない。猪喰の頭が痺《しび》れ眩暈《めまい》がした。
「媛様、火を……」
猪喰の声を耳にした弟橘媛は火のついた藁束《わらたば》を投げた。ふらついていたが猪喰は飛んできた藁束を掴《つか》んだ。草薙剣が見えた。炎の傍を握っているのだろう。指が焼ける。猪喰は再び跳び剣を手にした。
雷が落ちたらしく茅葺きの屋根が裂けた。
獣の匂いが消えた。寝具に裸の倭建が横になっている。
猪喰は燃えている藁束を弟橘媛に渡し、草薙剣を寝具に置くと戸外に出た。
倭建の手が草薙剣に触れた。悪夢が徐々に去り、意識がはっきりとしてきた。
弟橘媛は火をかざし倭建を見ている。
倭建が覚えているのは弟橘媛が訪れ、自分が弟橘媛の後に続いたことだけだった。
「媛よ、どうしたのだ、吾《われ》は何故裸で寝ている?」
「悪い毒気に当てられたのです、王子様、この地は不吉です、早く去られた方がよろしゅうございます」
「そうじゃ、吾には良からぬような気がする、媛よ、頭が痛い、割れそうじゃ」
「冷たい水で冷やし、薬草を持参します、今宵《こよい》はなにもかも忘れてお眠り下さい」
媛は侍女に薬草を命じた。
戸外は騒然としていた。
吉備武彦や久米七掬脛が、雷のような音に何事かと手勢を率いて駆けつけたのだ。
猪喰は、何でもないと懸命に打ち消した。
ただ両者にはそれとなく、
「得体の知れない鬼神が王子様を狙っているようじゃ、吾が草薙剣で追い払った」
と説明したが、両人ともそんなことで納得しない。
「どんな鬼神じゃ、あれだけの轟音《ごうおん》を放った以上、姿がある筈《はず》じゃ、おぬしは見たに違いない、隠さずに話せ」
と髭《ひげ》をしごいて詰め寄る。
武彦は勇猛で兵法にも優れているが、剛直で、理非を明らかにしないと納得しない。その点、七掬脛は融通性があった。
「武彦、大勢の兵が聞き耳を立てている、後にでも猪喰に聴けば良いではないか、猪喰が何でもないといっている、この場は戻ろうか、吾は戻るぞ」
数人の部下と共にさっさと去った。
武彦も殺気だった兵士たちを見て、ここではまずい、と髭から手を離して戻った。
早朝、猪喰は鬼神が逃げた屋根を見た。大きな音にしては穴は小さい。しかも、最初、猪喰が入ろうと茅の屋根を穿《うが》った場所である。猪喰は舌打ちしながら、ねちっこいが荒々しい獣の鬼神ではないような気がした。
その足で武彦と七掬脛を訪れ、昨夜の様子を詳しく説明した。二人共、この地は早く出発した方が良い、という。猪喰も同意見である。
ただ、出発の日を決めるのは巫女だった弟橘媛である。それには倭建が出発の決意を述べ、媛が神に訊《き》く。
不安なのは、倭建が何時、健全な心身を取り戻すかにあった。
昨夜、裸で寝具に横たわっていた倭建は別人のようだった。
尾張で宮簀媛に溺《おぼ》れていた時よりも昨夜は酷《ひど》い。果たして東征将軍として大和《やまと》を発《た》った時の王子に戻るだろうか。
猪喰は一抹の不安を拭《ぬぐ》いきれなかった。
頭痛も取れ、食欲も出、倭建が健全な身体になったのは三日後だった。
悪霊がつかないように家の周囲は神木の板で覆われ、食事を運ぶのは禊《みそぎ》をし、樫《かし》の木の芯《しん》を身につけた弟橘媛だけだった。
倭建は、もう健康になったので、外に出たい、といったが、媛はなお二日間、籠《こも》っていて欲しい、と頼んだ。
倭建は、五色の明りも、絹張りの部屋も覚えていない。
媛が異様な気配を感じ、猪喰と共に邪気を追い払ったのは間違いなかった。なぜなら身体を動かすのも億劫《おつくう》なほど疲れ果てていたからだ。
倭建としては、この地の神に睨《にら》まれ、取り憑《つ》かれたとしか考えられない。
元気を取り戻した以上、一刻も早く海を渡り須恵の地に行きたかった。
それに外へ出るのを媛に止められてから、武の血が滾《たぎ》った。
兵士たちが自分をどのように見ているかが気になる。その勇猛さで東の荒ぶる神々に恐れられている東征大将軍・倭建王子が、得体の知れない異国の鬼神にいたぶられ、家からも出られなくなったとなれば、倭建に仕する兵士たちの気持も変わる。
大和を出て以来の数々の勝利さえも、煙のように消えかねなかった。
率いてきた兵士たちは、倭建が、泣く子も黙る勇猛な武人であるがゆえに戦に際し奮いたつのである。一人で十人分の武勲をたてるのも、大将が倭一の勇者だと信じているからだ。
その信頼感が崩れれば、強い兵士もただの人になる。過去の栄光など実体がない。
人生とはそんなものだ。大将を信じ異国の地に行く場合はとくにそうである。現在の倭建に畏敬《いけい》の念を抱けなければ、一瞬にして闘志は萎える。
倭建はそのことをよく知っていた。
弟橘媛の許しを得、戸外に出た倭建は吉備武彦、久米七掬脛、それに親衛隊長とした穂積高彦《ほづみのたかひこ》を呼び、低い丘陵が海に浮く房総半島を眼の前にした丘に行った。
高彦は警護隊長だったが、新たに編制した親衛軍の隊長に任じた。
警護隊長は副隊長の葛城石《かつらぎのいし》が昇進した。
倭建は自分の気持を切々と訴えた。
「そなたたちの忠誠心が吾の病ぐらいで微動だにしないのはよく分っている、だが兵士は違う」
真っ先に頷《うなず》いたのは七掬脛だった。
「そういうこともないとはいえますまい」
「そこで吾の武勇がいささかも衰えていないことを全軍に知らせる必要がある、吾は考えた、この地域で武術を誇る若者を集め、最も優れている者と吾が仕合《しあい》をする、吾の腕はまだ衰えていない、勝敗は一気につく、それにより吾に対する兵士たちの危惧《きぐ》の念は一掃される、どうじゃ」
武彦が首を横に振った。
「お待ち下さい、大将軍ともあろう方が、土豪の若者を相手に仕合をなさるのはよろしくありません、王子の格が落ちる、仕合の相手は吾の部下で充分です」
「部下に勝っても、吾が勇名である証《あかし》にはなるまい」
七掬脛が咳《せき》払いをし叩頭《こうとう》した。
「王子様、武彦殿が申す通りです、王子様の器が小さくなります」
「ではどうすれば良い? 吾がそなたたちと闘うか」
一同は唇を突き出し、また顎《あご》を撫でて沈黙した。皆、困惑していた。
[#改ページ]
四
倭建《やまとたける》は吉備武彦《きびのたけひこ》と久米七掬脛《くめのななつかはぎ》の忠告に理を感じ自分を抑えた。口を突き出し海を睨《にら》む。眼が血走っているように見えた。走水《はしりみず》まで来て弟橘媛《おとたちばなひめ》が変わったせいか、倭建も変わった。
武彦や七掬脛は、口にこそしないが、弟橘媛が突然、神に仕える巫女《みこ》から普通の女人に戻り、倭建の妃《きさき》に戻ったことに好《よ》い感じを抱いていないに違いなかった。
それが分るだけに倭建は自分の武勇が全く衰えていないことを誇示したかったのだ。
倭建は息を荒め、潮が白く泡立っている海を睨んだ。
武彦や七掬脛相手に武術を競い合うのも大人気ない。もう倭建は三十歳に成ろうとしていた。
「吉備武彦、日を費しすぎた、海を渡ろう、遠淡海《とおつおうみ》の水軍にも命じ船を整えよ、兵にも気合いを入れるのだ、走水の首長に潮の具合を調べさせよ、明日にでも征《ゆ》くぞ」
倭建は咆哮《ほうこう》するようにいった。
「それがよろしゅうございます、渡海の準備をいたしましょう」
「武彦よ、そちは最初から吾《われ》に仕えてきた、本来なら吉備国の王になってもおかしくない、だが吾に仕えたが故に故郷にも戻れず、まだ東の荒ぶる国に進まねばならぬ」
「王子、何をいわれるのですか、吾は王子に仕え、苦楽を共にしてきたことを天の神に感謝していますぞ、吉備国の王になる望みなど抱いてはおりませぬ」
武彦は真赫《まつか》になり抗議した。倭建に対する忠誠心を疑われた気がしたからだ。
「いやいや、それは分っておる、吾は済まぬといっておるのだ」
「王子、そのお言葉は無念ですぞ。吾は王子と共にここに立っていることに満足している、済まぬ、などといわれるのは心外ですぞ、情けない」
武彦の眼が赧《あか》くなった。節々が盛り上がった拳《こぶし》で自分の胸を叩《たた》いた。力が強いので肉と骨が響き合った。
「おい武彦、そうむきになるな、王子様は苦楽を共にしたおぬしに感謝しておられるのだ、王子様、戻りましょう、妙な風が吹いてまいりました」
七掬脛が険悪になりかけた二人の間を取りなすように肩を竦《すく》めた。実際、潮風が木々の枝を揺るがし草を薙《な》ぎ倒すように吹いてきた。
武彦も倭建とのやりとりに何時《いつ》までもこだわっているような男子《おのこ》ではない。少し倭建が、水臭いと感じただけだ。
「王子、吾は走水の長《おさ》に会い、渡海の用意をさせます、この季節、潮は速いが、そんなに海は荒れますまい」
「よし頼むぞ、吾は屋形に戻っている」
倭建は親衛隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》を呼び、戻る旨を告げた。
屋形に戻る途中、雑木林の中から妙な声が聞えてきた。人の声だが嗄《しわが》れていて何をいっているのかよく分らない。
倭建の命令で高彦が二人の兵と共に雑木林に入った。戻ってきた高彦は顔を歪《ゆが》めていた。
老いて枯木になりそうな巫女が理解できない言葉で喋《しやべ》っているという。
「他には?」
「老婆一人でございます」
「よし、行ってみよう」
高彦は止めたかったが、親衛隊長は主君を守るのが任務で、よほどのことがない限り忠告できない。
高彦は倭建をその場に案内した。
老いた巫女は年齢《とし》も推測できなかった。破れたぼろ布を纏《まと》っているが枯草のような肌がはみ出し、肋骨《ろつこつ》が並んでいる。垂れ下がった乳房はしなびて皺《しわ》だらけである。髪は白いがところどころ抜け落ち地肌が透いて見える。肉の落ちた鼻の下には連なった縦皺が口を越えて顎《あご》の辺りまで伸びていた。変色した唇にも皺が罅《ひび》となっている。これほど老いた顔は初めてだった。
ただ首に連ねた玉が巫女であることを示していた。胡坐《あぐら》をかいて坐《すわ》っているが二個の土器が置かれている。飯粒がついているのは村人が運んでいるからに違いない。
「幾つになる?」
倭建が訊《き》いたが、言葉が分らないのか聞えないのか前方を見詰め、何かいっている。
村人が老婆を殺し、玉を奪わないのは、巫女と認めているからに違いなかった。この辺りの言葉でも普通に喋っていたならその内容の断片ぐらい分る筈《はず》だが、全く理解できない。気になるのは、濁った眼を倭建に向ける時、何となく眼が光るような気がするからである。
倭建は、尾張《おわり》で覚えた方言を使ったが、通じないらしい。相手にせず帰るべきだが何か気になるものがあった。
「二、三人の兵を遣わし、この辺りに住む民を連れてまいれ、この老婆について色々と訊きたい」
間もなく蓬髪《ほうはつ》の男子が連れられてきた。麻布を纏い、臑《すね》を剥《む》き出しているが腰紐《こしひも》は獣の皮だった。狩猟も生業《なりわい》の一つなのだろう。
四十前後の男子は、老婆の数歩前で蹲《うずくま》った。枯木のような巫女に畏敬《いけい》の念を抱いていた。男子は倭建の大和《やまと》言葉を少しは分るらしい。
彼が告げるところによると、祖父の時代からいる巫女で、年齢は百歳を超えていた。近くの小屋に住んでいるが、雨が降らない時はここに来て、神託を唱えているらしい。
村人たちにも、何をいっているか分らない内容が殆《ほとん》どのようだった。
「吾に何かいっているようだ、訊いてみろ、吾は大和の倭建王子、遠慮することはないぞ、何でもいわせよ」
男子は躊躇《ちゆうちよ》したが、倭建の威厳に平伏し、おそるおそる老婆の前に近づいた。三度|叩頭《こうとう》し、早口で話しはじめた。方言が多くはっきり聞き取れない。
突然老婆は倭建に両手を合わせた。まさに百年の歳月が宿った底光りのする深い眼差《まなざ》しを向けた。
「王子、王子、日は変えねばならぬ、底知れぬ海の底から恐ろしい牙《きば》を持った鬼神が現われ、船を打ち砕く、信ぜよ、私《オレ》の申すことを……」
驚いたことに大和の言葉だった。老婆はそのまま打ち臥《ふ》す。口から泡を吹いている。
「王子様、水を、と申しています」
駆け寄った男子が叫ぶ。倭建は竹筒の水を渡すように兵に命じた。
器に入れ口に注ぐと起き上がり、またぶつぶつと呟《つぶや》く。村の男子も今度は何をいっているのか分らないようだった。
宿をかりている家に戻ったが、老いた巫女の言葉が気になる。
倭建に告げる時、何故、大和の言葉になったのか。神が憑《つ》いたとしか思えない。だが神託なら弟橘媛が告げても良いではないか。
そう思い倭建は深い吐息を漏らした。
倭建と媾合《まぐわ》ったことによって、神は弟橘媛を嫌悪したのかもしれない。
日を変えよ、というのは、海を渡る日のことであろう。だが倭建は武彦に、走水の首長と渡海の打ち合わせにいかせている。
怪し気な老婆の言によって、武彦が決めた日を変えるわけにはゆかない。
弟橘媛なら別だが、媛にはすでに巫女の威光はない。
吾は情に溺《おぼ》れたのか。
東征大将軍であったなら、情炎がどんなに燃えようと抑えるべきだった。武彦をはじめ、自分に従ってきた部下のためにだ。
だが済んだことは悔いても仕方がない。
部下の士気を昂《たか》めるためにも出発の日を変えるわけにはゆかなかった。
牙を持った鬼神とはどんな姿をしているのだろうか。
鰐《わに》のことか。古代ではサメを鰐と呼んでいた。
かつて秦《しん》の始皇帝時代、東方の神山に向かおうとした徐福《じよふく》は巨魚を恐れ、始皇帝は海に出て、巨魚を殺したという伝承がある。その巨魚とはサメのことである。
倭建は酒を飲みながら自分にいい聞かせた。今更、何を恐るべきものがあろうか。相手が鬼神、怪物であろうとだ。負ければ自分に死を与えれば良いではないか。恐怖ではなく闘魂の叫びを放ち死ねれば満足である。
出発は突然の嵐さえなければ二日後と決まった。
翌日は雨が降り出発の日もまだ小雨が残っていたが風がない。海は靄《もや》がかかったように煙り、房総《ぼうそう》半島も見えないが、土地の首長はもう二|刻《とき》もすれば雨もやみ、陽が照る、といった。
この辺りの海のことについて知り尽くしている。
首長は髪は美長良《みずら》で、上下に分れた衣服を纏っているが海人《あま》らしく袖《そで》は短い。若い頃は船を漕《こ》いだらしく腕の筋肉が盛り上がっていた。
首長は木製の腰掛けに坐った倭建の前に蹲っている。入江には三十|艘《そう》の船が碇泊《ていはく》していた。一艘に十人は乗れる準構造船だ。丸木船の前に波|除《よ》けをつけ、横揺れで沈没しないように舷側《げんそく》が補強されている。
なかでも一際大きい船は倭建用だった。漕ぎ手は二十人に近い。中央には旗も翻っていた。
まず武彦たちが乗った十艘の船が日の出と共に出航した。舟子《ふなご》たちの掛け声が夜明けの海に響く。首長が立ち一礼する。
「王子様、御案内いたします」
倭建は海を見た。舟子が漕ぐ艪《ろ》は二列になり水煙をあげ、まるで巨魚が潮を噴きあげながら悠々と泳いでいるようだ。倭建はふと老いた巫女の神託ともつかぬ妖言《ようげん》を思い出し、海を睨《にら》んだ。
「この辺りに船を砕くような巨魚が来るか?」
「はい、何年かに一度、十人乗り程度の船と同じ潮噴き魚がまいります、しかし、船に当たったりはしません、古老の話では、牙を剥いた鰐が五十年ほど前に船を襲ったことがあるとのことです、ただ、死者は出ませんでした、王子様の船は漕ぎ手が二十人、大船でございます、潮噴きであろうと砕くことは不可能です」
「別に心配しているのではない、訊いているだけじゃ」
不機嫌そうな倭建を見て首長は慌てて、
「倭国《わこく》一の勇者でおられる王子様には、どんな巨魚であろうと避けて通りましょう、くだらぬことを申しました」
と腰をかがめて詫《わ》びた。
自分の失言に怯《おび》え、我が手で口を割りたい、といった表情である。
「行くぞ」
倭建は船の方に向かったが、海の鬼神は巨魚ではないか、とふと思った。振り返ると侍女を連れた弟橘媛が輿《こし》に乗っている姿が見えた。
桟橋に繋《つな》がれている倭建の船は長さが四丈(十二メートル)もある。
舟子たちは袖も裾《すそ》も短い単衣《ひとえ》の布を纏っていた。太腿《ふともも》の肉が瘤《こぶ》のように盛り上がっている。陽灼《ひや》けで顔も足も茶褐色である。倭建を見て一斉に蹲る。
「頼むぞ」
倭建は海にも響き渡るような声を出した。
王子に声をかけられるなどと考えてもいなかった舟子たちは感激し深々と叩頭した。
倭建は穂積高彦に、丹波猪喰《たんばのいぐい》を呼ぶように命じた。一人で船内を点検していた猪喰は、舷側から軽々と桟橋に跳び下りた。
「何も怪しい点はございません」
「舟子以外に吾の船に乗るのは弟橘媛と二人の侍女、そちと高彦と五人の兵であったな」
「その通りでございます」
「刀は百二本、槍《やり》も倍は積みこむのだ」
猪喰は一瞬不思議そうに倭建を見直したが、質問はせず、
「承知しました」
と答える。その辺りが倭建の手足となって動く猪喰らしい。よほどのことがない限り理由は訊かない。
倭建の一行が船に乗った頃、霧が薄れ房総半島がおぼろな姿を見せはじめた。吉備武彦の船団はすでに黒い点となっていた。
舳先《へさき》に立った走水の船長《ふなおさ》がホラ貝に似た貝を吹き鳴らす。舟子たちは、力強い声を発し漕ぎはじめた。
海は凪《な》いでいる。沖の方は潮流がぶつかり合い波をたてているが、これは毎日のことで問題ではない。船の先を進むのは先導船である。走水の海人たちが乗っていた。両側には警護兵が乗った船が数十歩ほど離れて進んでいる。他の船団は彼方《かなた》にいた。
間もなく走水の白波の群れに入った。白い渦が巻いては消え、また現われる。渦は海人にとっては海底の龍宮城(神仙郷)への出入口とされていた。建物の軒先につけられたりもするが、天上界への門でもあった。古代の人々は渦を神聖視していた。
舟子たちの掛け声が一段と高くなる。力強いだけでなく海に祈りを捧《ささ》げているようだった。
倭建は布を裂き海に放った。布は海上に揺れながら浮いていたが、突然湧いた渦の中に巻き込まれ姿を消す。その渦は獲物を呑《の》みこんだ海の口のようでもあった。食い終ると渦は消え、すぐ傍らにまた白い口を開く。
「のう猪喰、海は水だが巨大な生物だのう、ひょっとすると雷神の暴れる天も生物かもしれぬ、我々は気づいていないだけだ、地も同じじゃ、天や海に較べると、人間とは小さなものだ、海辺の砂粒と同じじゃ」
「はあ……」
「何かいいたそうだな、遠慮するな、そちに似合わないぞ」
「確かにその通りでございます、ただ人間が砂粒のように小さくとも、それなりに生命があり、大波を浴びてはぶつかり合い、争っています、その限りにおいては傷つきながらも必死に生きているように思われます」
「そちの申すことはよく分る、そちは一刻一刻、身を刻んで生きているからのう、吾がいっているのは、人間の生命は天、地、海に較べると儚《はかな》いものだ、という意味だ、いや、こういうことをいうと、猪喰に、王者は人の世を儚んではなりません、と叱責《しつせき》されそうだ、そちに甘えた愚痴と思え」
「そんなことはございません、王子様はすべてお分りです、余計なことを申しました」
「おいおい、たまには場所も時も忘れ、お互い言葉をぶつけあい、日常以外について論じても良いではないか」
「はっ、年に一、二度は……」
「猪喰らしいのう」
舳先に立っていた船長が何か叫んで手を右方の大洋に向けた。東の方四、五百歩の海が泡粒が集まったように色が変わっていた。それが移動してるようだ。
波が立てる白波ではなかった。
猪喰が船長に、何事か、と訊《き》いた。
「潮の流れに乗って回遊する魚の大群のように思われます、ただそれにしては波が荒いのが少し気になりますが、ひょっとすると鰐の群れがイワシを追っているのかもしれません、これからは、思い出したように鰐が現われます」
船長は貝を吹いて、両側の警護船に東方の海の異変を知らせた。警護船も貝の音で確認を知らせる。
倭建は興味を抱いて立った。多少船が揺れても、身を揺れに合わせれば倒れたりはしない。
確かに海の色が黝々《くろぐろ》としていた。それが潮流の数十倍の速さで近づいてくるのだ。
警護船が貝を吹き、こちらの船長に合図した。
船長は大きく右手を振り、猪喰に、左方に回転する旨を伝えた。
「王子様、お坐《すわ》り下さい、念のために魚群を避ける、と申しております」
倭建は頷《うなず》いて坐った。
海底より牙を持った鬼神が現われる、といった巫女の言葉が甦《よみがえ》った。鬼神は巨魚かもしれなかった。弟橘媛は眼を閉じ微動だにしない。神に無事を祈っているようだった。話しかける雰囲気ではない。
船長の命令で梶《かじ》取りが梶を動かす。右舷《うげん》の舟子が漕ぐ力を落した。船は白波をたて急回転し北方に向きを変えた。
倭建と弟橘媛は、船底に張られた板に腰を下ろしていた。
「媛、何でもない、念のためじゃ」
そういいながらも倭建は緊張していた。
あんな枯木のような老婆の言が当たるか、と倭建は呟《つぶや》きながら、高彦にいった。
「用心のためじゃ、兵に槍を持たせよ、警護船の兵にも伝えよ、弓矢と槍じゃ」
「王子様、向うの船に移りましょうか」
隊長の高彦は弓を肩にかけ槍を持って、緊張した顔を向けた。海での変事にどう対応するかは倭建にも咄嗟《とつさ》の判断がつかない。ただ、船と船を寄せ合うのは楽ではないように思えた。
「副隊長が乗っている、槍と弓矢を見せ、戦の準備をさせよ」
黒い海はあっという間に数十歩の距離に迫っていた。獣がどんなに走ってもこんな速さは出ない。
高彦は弓と槍を高々と上げ、大声で咆哮《ほうこう》した。両側の警護船も分ったらしく、兵たちは弓と槍で応《こた》えた。
黒い海面の傍に水《みず》飛沫《しぶき》をあげて巨魚が宙に跳び上がった。驚愕《きようがく》のどよめきが起きた。見えたのは上半部だけだが、男子の二倍はあった。下半部も加えれば数倍であろう。
「王子様、見たこともない大鰐でございます、御用心下さい」
船長の声が掠《かす》れていたのは驚愕のせいに違いなかった。飛び出しそうなほど眼を剥《む》いている。黒い海が二つに割れ、船から離れてゆく。小波も黝《くろ》く、時々銀色に光った。
倭建は船長を見た。口を開け顎を突き出し坐りこみそうだった。安堵《あんど》感が全身に滲《にじ》み出ている。
怪物のような巨魚はイワシを追い向きを変えたに違いなかった。倭建の視線を感じた船長は姿勢を正していた。
「もう大丈夫です、いや、やっこも自分の眼を疑いました」
船長は懸命に漕いでいる舟子に、速度の半減を命じた。力尽きかけている舟子たちの掛け声は断末魔のようだった。これ以上漕げば腕が動かなくなる。
槍を構えていた高彦が船長に、体長はどのくらいか、と訊いた。
「一丈半、いや二丈あるかもしれません」
二丈なら六メートルである。まさに怪物だ。
「それにしても、一匹というのはおかしゅうございます、最低、二匹はいます」
「油断は禁物だぞ」
倭建は叱咤《しつた》した。
突然、船の舳先が持ち上がった。立っていた船長は絶叫して海に転落した。隠れ磯《いそ》に乗り上げたような音と共に船底が割れた。舟子たちが漕《こ》いでいた艪《ろ》が折れ、何人かの舟子が海に落ち、また折れた艪によって胸や背を突き刺された。
倭建は舳先が持ち上がった瞬間、弟橘媛の手を取り船底に転がった。途端に船底を突き上げられ舷側《げんそく》に跳ばされ頭を打った。頭の中が白くなり気がつくと媛との手が離れていた。舷側に掴《つか》まり立とうとすると、腕を鉄棒で擲《なぐ》られたような衝撃を受け引っくり返る。弟橘媛は腰掛けの板に縋《すが》りついていた。船内は阿鼻叫喚《あびきようかん》の坩堝《るつぼ》であった。
巨魚はあちこちに自ら体当たりしてくる。立とうとしても船の大揺れで足をすくわれて立てないのだ。
「媛、板を離すな」
倭建がいえるのはそれだけだった。舷側に縋りついている二本の腕が見えた。舟子か警護兵か区別がつかない。倭建がその手首を掴み引っ張り上げようとすると、嘲笑《ちようしよう》するように船が傾いた。倭建の上半身が海面に乗り出す。息ができないほど海水を浴びた。
握っていた手首が軽くなった。気合いを込めて引っ張ると、肉が半分食いちぎられ眼玉の飛び出た顔と上半身が持ち上がった。その顔は今まで生きていた人間の顔ではない。長い間海面に沈んでいたようである。あっという間に血の殆《ほとん》どが洗い流されたせいかもしれない。胸の下はなく赤い臓物が垂れ下がっている。
流石の倭建も息を呑み腕を離した。海中から現われた鰐が鋭い歯の並んだ大口を開き、胸骨を砕いて咥《くわ》え、海中に没した。
「王子様、媛様」
警護船が十歩の距離に迫っていた。襲われているのは倭建が乗っている船だけのようだ。倭建は怒鳴った。
「弓じゃ、矢を射よ」
人間という獲物を咥えようと海面に現われた鰐に、数本の矢が放たれる。二本が命中した。
北側の警護船も近づいてきた。
襲っていた鰐が海中に潜った。
「媛、大丈夫か……」
「王子様は?」
「おう、案ずるな、鰐ごときに負けるものか、警護船が傍らに参っている、次に襲われる前に乗り移るのだ」
倭建は北側の警護船に、船を近づけるように、と命じた。
弟橘媛は海水を浴びた髪を掻《か》き上げた。蒼白《そうはく》な顔だが眼には恐怖心など全く宿っていない。ただ眼を背けたくなるような決意が怪しい光を放っていた。
「どうしたのだ?」
「王子様、海の神が私を欲しています、ゆえに私は海に入ります、この鰐たちは海の神の命により、私を奪いに来たのです、私が海の神の妻になれば、王子様は御無事でしょう」
「狂ったか媛、吾《われ》がそなたを離すと思うのか、媛は吾の正妃だぞ、いとしい妹《いも》じゃ」
倭建は凍りついたように冷たくなっている媛の両手を握った。
媛は眼を細め、首を左右に振る。引き寄せようとしたが重い石のようで動かない。
「王子様、船が参りましたぞ」
高彦の声だ。
「おう高彦、無事であったか、綱を投げさせよ」
警護船の船長が錘《おもり》のついた綱を投げようとした途端、船が持ち上げられた。そのまま凄《すご》い速さで走り出した。巨魚が船をかつぎ何処かに連れ去ろうとしている。一匹なのか二匹なのか分らないが左右に揺れない。
媛は垂れた髪を絞りはじめた。一滴ずつ落ちてゆく。媛は眼にこそ涙を浮かべていないが、眼の代わりに黒髪が泣いているようだった。
どうしたなら媛を引き止められるか。
倭建は刀子《とうす》(小刀)を抜いて媛の胸につきつけた。
「媛、吾は許さぬ、そなたは吾の妃《きさき》じゃ、忘れたのか、いいか、もう東征はやめじゃ、二人で大和に戻り静かに暮らそう、王位争いなど興味がない、吾の願いじゃ、傍にいて欲しい」
媛は眼を閉じた。瞼《まぶた》が膨らみ訴えるように動く。その間も媛は櫛《くし》で髪を整え、絞り続ける。髪からは雨粒のように涙が流れた。
「王子様が亡くなられたなら、私は傍におれませぬ、ゆえに私は海の神のもとに行き、王子様の安泰を願うのです、刀子は役に立ちませぬ、おしまい下さい」
波を掻き分け走ってはいるが、船は殆ど揺れていない。媛は立った。
「媛様、何をなさる?」
高彦が媛を止めようと迫ってきた。
「高彦、そちも私と同じく穂積の男子、私が海に入らねば、船は割れ、王子様は鰐に喰われる、勇猛で鳴る倭建王子も、海の中では戦えますまい、すべては王子様のためじゃ」
弟橘媛が舷側に立つと、走っていた船がゆっくり止まった。
抱き止めようとした倭建の足が船底の割れ目にはさまった。腕を伸ばしたが動かない。
媛は舷側に足をかけると、
「私の君、さらばでございます」
媛の顔はもの静かだったが、諦念《ていねん》ではなく、倭建の代わりに死ぬことへの充実感が漲《みなぎ》っていた。
媛は脚を折り、裳《もすそ》を翻さずに海に飛び込んだ。
「弟橘媛!」
割れ目から足を引き抜いた倭建は、媛を救けようと自ら海に飛ぼうとした。海が割れ、目の前に白い壁が現われた。まさに想像を絶する巨魚が二匹並び、目が眩《くら》むほどの白い閃光《せんこう》を放ちながら倭建を撥《は》ね返した。弟橘媛を得た海の神は、倭建の死を許さなかったのだ。
何事もなかったように海は凪《な》いでいる。舷側で後頭部を打ち失神していた倭建は人の声で意識を取り戻した。全身水浸しである。
高彦が倭建の身体を揺すりながら名を呼んでいた。
倭建が見たのは澄んだ青い空である。陽はすでに房総半島の山々の上に昇り、大海を照らしていた。下半身が海水につかりながら何が起きたのかはっきりせず空を眺めた。脳裡《のうり》に靄《もや》がかかっている。
だが倭建の眼に涙が滲んでいた。巨大な魚の尾がふと思い出された。
「王子様、気がつかれましたか?」
「媛は海の中か、浮いてはおらぬな」
高彦は今一度照り映える海を眺め、唇を噛《か》んで叩頭《こうとう》した。
「媛は何故海に……」
飛び込んだのか、といおうとして倭建は唸《うな》り、上半身を起こした。無意識に抑えていた記憶が甦《よみがえ》ったのだ。
吾の生命《いのち》を救けようとしたのか。
二|艘《そう》の警護船が迫って来た。
船は大変な浸水だった。船長も舟子の姿もない。
倭建と高彦だけが生きている。
警護船の一艘が横づけになった。
「王子様、お乗り下さい」
倭建は無言で乗り移った。身体中が冷えている。何かを確かめるように弟橘媛がいた腰掛けの辺りを見た。浸水の中にいるのではないか、と凝視した。
「猪喰もいた筈《はず》だぞ」
「今一艘の船に乗っておられます」
「本当か、吾と同じ船にいたように思うが」
「王子様の船を調べられた後、あの警護船に乗り移られました」
高彦が近づいて来た船を手で指した。舳先《へさき》に、船長と共に猪喰の姿が見えた。
「七掬脛は彼方の船団であったな」
「はい」
船長が海水を浴びないように掛けた筵《むしろ》の下から麻布の衣服を取り出した。
倭建は船が須恵《すえ》の港に着いてもぼんやりしていた。
老いた巫女《みこ》の言に従い、一日延ばしていたなら巨魚に襲われることはなかったかもしれない。だがそれは無理である。
皆が知れば、枯木のような老婆の言にまどわされたと噂がたち、倭建の権威は落ちるのだ。
媛の死は運命としかいえない。
多分、自分の死を悟っていたがゆえに、弟橘媛は巫女から女人に戻り、倭建の妻になったのであろう。
そういえば走水に近づくにつれ、弟橘媛は衰弱していった。病んでいたような気がする。
須恵の宿で倭建は深い眠りに襲われた。後頭部の打撲が原因かもしれなかった。
[#改ページ]
五
須恵《すえ》の港から少し東に離れた高台の屋形を、在地の首長が倭建《やまとたける》のために提供した。身体《からだ》の痛みにより身動きできない疲労感に王子は泥のように眠った。
夢に何度も弟橘媛《おとたちばなひめ》が現われ、王子に笑顔を向ける。そんな媛に話しかけようとするが、倭建は口も動かなかった。
「無理をしなくても良いのです、私は王子様の傍にいます」
媛の顔は穏やかで幸せそうである。
媛は死んでいないのだ。あの大鰐《おおわに》(サメ)の襲撃は悪い夢であった。げんに傍にいて話しているではないか。
倭建は安心して眠る。
二日、三日たっても倭建は起きない。
ひょっとすると倭建は、無意識のうちに夢から醒《さ》めるのを恐れているのかもしれなかった。何故なら醒めた途端、倭建は弟橘媛の死という現実に直面する。眠っておれば、夢の中で媛と会い続けることができる。
現実に直面するのを恐れている倭建には、東征大将軍の資格はない。
弟橘媛の死と、倭建が臆病風《おくびようかぜ》に吹かれ動けなくなったという噂は、あっという間に房総半島一帯に拡がった。
倭建を迎え入れるか、それとも迎え撃ち、敗北させるかで揉《も》めていた上海上国《かみうなかみこく》は、放った間者《かんじや》の情報を得て、国には入れない、もし入ろうとすれば武力によって撃退する方針を固めた。
上海上国は房総半島一の強国で、東北の下海上国《しもうなかみこく》とも血縁関係で強固に結ばれている。
勇猛な吉備武彦《きびのたけひこ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、丹波猪喰《たんばのいぐい》も、今回ばかりは旨《うま》い案が浮かばなかった。
猪喰は須恵の案内人を傭《やと》い、山賊から部下となった大裂《おおさき》などと共に、山に入り、上海上国の様子を探っていた。動き廻《まわ》っている方が猪喰の性に合う。
武彦たちと顔を合わせ、思案に暮れてもどうにもならない。どんな時にも深刻な顔にならない剽軽《ひようきん》な七掬脛さえ、今回は暗かった。何時《いつ》もの冗談が出ない。
倭建の金縛り的な病だけではなく、弟橘媛の死に、武彦や七掬脛も打撃を受けている。それは猪喰も同じだ。
須恵に上陸したものの袋の鼠といった絶望感に囚《とら》われている。先に対する展望がなくなったのだ。
猪喰は十数人で一隊をつくり、あちこちの小丘の上に布陣している上海上国の兵士たちを眺め、刀を抜いて突撃したい衝動にかられた。一つの隊ぐらいは潰《つぶ》せるが、相手は二十隊ぐらいいる。それも見張りをかねた先陣で、都の周辺には、本隊が待ち受けているだろう。
大裂などを含め、猪喰の部下は十人足らずだ。上海上軍の先陣も突破できない。
岩に当たって砕け散る玉のような死を選ぶ時かもしれない。
「猪喰様、突入しますか」
猪喰の殺気を感じ取ったような大裂の声に猪喰ははっと我に返る。吾《われ》も頭を病んだのか、と自分を叱咤《しつた》した。死ぬのは易しい、一瞬の間だ。だが猪喰には自分に課した使命があった。
最後まで倭建の手足となって働き、王子に万一のことがあれば、王子の子、稚建《わかたける》王を大王位にするのだ。口にこそ出さないが、倭建と弟橘媛に誓っている。その使命を果たさない限り死ねないのである。
この程度のことで、死を考えるなど衰弱している。遠く離れた異国の山部、海は有害な気を放っているのかもしれない。
「大裂、何をいうか、今、突入すれば全滅ではないか、おぬしは死にたいのか」
「申し訳ありません、房総半島の山々は低過ぎる、まるで寝具のようです。気持がだらけ愚かなことを申しました」
大裂は大きな拳《こぶし》で自分の頭を殴った。
「どうじゃ、向うの丘に布陣している隊長を捕らえられぬかのう、生きたまま捕らえれば何か吐く、いや、吐かせる」
「隊長ともなれば武具をつけている、板甲《いたよろい》か皮甲か、それとも鉄甲か、それに刀も兵士と違いましょう、兵士たちは鋤《すき》や鎌などの農具を武器にしているようです、なかには竹槍《たけやり》を持ったものもいる、隊長はすぐに見分けられます、問題はどうして捕らえるか……」
「夜になれば無理だ、陽が落ちぬ間に近くまで行き、策を練ろう、おびき出す」
「やりましょう、身体が燃えてきた」
大裂は木に登り、小隊のいる丘を眺めた。山賊だっただけに木登りは旨い。
「向うも見張りの兵が木に登っています、だが、どうにも木の枝に腰をかけて眠っているようじゃ、我々が眼の前の丘にいるとは思ってもいない、右側から迂回《うかい》して丘の麓《ふもと》の雑木林に潜り込む、まず見つかることはないでしょう」
「よし、行くぞ」
猪喰は部下たちに、隊長を生きて捕らえる、と告げた。
「戦ではない、殺してはならぬ、殺せば相手に、王子様を攻めるという口実を与えかねない、敵兵の武器は農具が主じゃ、こちらも槍の柄で戦う、それに兵は戦に慣れておらぬ、突き倒すのは簡単じゃ」
半|刻《とき》(一時間)後、猪喰の一行は敵が布陣している丘の麓に辿《たど》り着いた。上海上軍の兵士たちは倭建の間者がすぐ下にいるなど夢にも思っていない。家族や村の娘の話をしている。倭建軍は延々と続く小山の遥《はる》か彼方《かなた》で居眠っているらしい、と信じ切っていた。
勇猛な倭建は正妃の弟橘媛を海神に奪われ、その衝撃で寝込み死線をさ迷っている。隊長も兵士も意気消沈し、戦意もなく漁師の船を奪って逃げる者も続出している、というのが噂だった。
彼等はおれたちは何も戦に駆り出されることはない、という不満を抱いている。
隊長は海人《あま》が住む村の長《おさ》である。隊長だけに闘志はあるが、丘の上での当てのない布陣は辛《つら》い。海での戦なら血が滾《たぎ》るが、丘での戦いとなると何となく頼りなかった。小太鼓の音で、力一杯|艪《ろ》を漕《こ》ぎ、矢を射、敵の船に体当たりして攻め込む。周囲が海だから敵味方とも逃げ場がなく、戦は凄《すさま》じい。死ぬか生きるかである。
そういう点、こういう丘での戦なら、幾らでも逃げられる。
ふん、丘の戦など本物の戦とはいえぬわい、くだらない、と隊長は思っていた。自然隊長自身がだらけていた。時々、部下に村から運ばせた竹筒の酒をちびりちびり飲んでいる。
猪喰は腰紐《こしひも》にぶら提げている麻の小袋を解いた。中には木を焼いた炭の粉が入っていた。部下を集め顔に塗った。眼だけ残して真っ黒になる。入れ墨どころではない。
「好いか、頂上近くまで這《は》い上り、息を殺して潜むのだ、吾と大裂は丘の向う側の斜面に火をつける、敵兵は仰天してこっちに逃げる、幸い北風が吹いているので向う側の火の廻《まわ》りは速い、逃げて来る兵は槍の柄で突き倒す、殺してはならぬぞ、火をつけたなら葉笛を鳴らす」
部下たちは真っ黒になった顔を見合わせ仰天した。仲間の顔が分らない。まさに黒人だった。
須恵の村人の話では、昔、丸木船に乗った黒人が流れついたことがある、という。
敵兵は驚愕《きようがく》し混乱するに違いなかった。猪喰と大裂は丘の西側を迂回して向う側に出た。火打ち石で数ヶ所に火をつけた。敵兵はまだ気がついていない。
二人は這い登り、丘の西端の木立に身を潜めた。十人ほどが雑談している。甲は木の板である。一人だけ皮甲の男がいた。短いが刀を吊《つ》っている。雨に備えて作った小屋の中にいた。藁《わら》を編んで布状にした覆いを屋根代わりにしていた。
隙だらけで布陣などとはいえない。
猪喰と大裂は顔を見合わせ苦笑した。
火などつける必要はなかった。
「行くぞ、吾は隊長を狙う、大裂は雑兵を倒せ」
「おう」
猪喰は小屋に走った。
入ると隊長は恐怖の声をあげ竹筒を落した。それでも刀の柄《つか》に手をかけ立ち上がろうとする。猪喰の槍の柄が隊長の腹部を突いた。嘔吐《おうと》した時のような声と共に倒れ、胃の中の酒を吐き出す。
近くにいた雑兵が気づき、鍬《くわ》を持って駆け寄って来た。大裂が早業で槍の柄を繰り出す。人形が押されて倒れるように地面に転がった。
猪喰は失神した隊長を引きずり斜面に転がした。葉笛を吹く暇もない。大声で呼んだ。
「皆の者、行って蹴散《けち》らせ、童子の集まりじゃ、蹴散らしたならすぐ吾の後を追え」
漸《ようや》く煙が立ち昇りはじめた。斜面を転がり、石にぶつかった隊長は、衝撃で気を取り戻した。
何が何やら分らず猪喰の黒い顔を見たが、恐ろしい鬼神を見たように眼を剥《む》き、這ったままで逃げようとした。横腹に蹴りを入れると引っ繰り返ったが、立つ気がない。猪喰は紐《ひも》で手を縛ると数度、平手打ちを喰《く》わせた。
「南の方じゃ、走れ」
刀を抜いた猪喰を見て斬られる、と思ったらしくよろけながら走り出した。
勝手な方角に逃げようとしたが手を縛られているので速度は遅い。灌木《かんぼく》に足を絡まれ、引っ繰り返るとすぐには立てない。
猪喰たちは一つの丘を越えるたびに、数本の木の枝を伐《き》り落して目印にしていた。
日が暮れないうちに出来るだけ南に戻っておきたかった。
隊長の手を結んでいた紐を解いた猪喰は相手の下帯に結びなおした。紐の一端を自分の左手首に巻きつけた。
「逃げようとしたならそちの股間《こかん》を蹴り潰す、死にはせぬが一生使いものにならぬぞ、念のためじゃ」
猪喰は下帯に蹴りを入れた。隊長は眼を閉じ、恐怖に身体が硬直する。猪喰の足先はフグリの一寸《ちよつと》手前で止まっている。
「目を開いてよく見よ」
片足で立ったまま右手で隊長の頬を打った。強張《こわば》った頬は、皮を打たれたような音をたてた。
怯《おび》えて眼を見開き、猪喰の足先を見て、痰《たん》を詰まらせたような声を放った。
猪喰が二つ目の丘の頂上に達した時、大裂が部下と共に追いついた。一人の負傷者もいなかった。丘は燃えているが低いし、余り風もないので、山火事はそんなに拡がらない、と猪喰は見た。猪喰は隊長を須恵まで連行することにした。
倭建が上海上国への攻撃を決意したなら、道案内として利用すれば良い。
日が暮れる前一行は小川を見つけて顔を洗い、焼米と射た山鳥を焼いて夕餉《ゆうげ》を摂《と》った。汗塗《あせまみ》れの身体も洗う。
猪喰は隊長の下帯に結んだ紐を解いた。これでは小用もままならない。
焼き鳥の匂いに隊長の腹は鳴りどおしである。猪喰は初めて穏やかな口調でいった。
「吾は征東大将軍、倭建王子様に仕える丹波猪喰じゃ、もしそちが、隠さずに喋《しやべ》れば夕餉を与えよう、答えぬのなら、左の手首を斬り落す、次に右じゃ、ただ、嘘をついた場合はまず左眼を抉《えぐ》り取る、次は右眼じゃ、吾は嘘はつかぬぞ、いったことは実行する」
猪喰は隊長の人差指の第二関節を、親指と人差指ではさんだ。力を込めると隊長は悲鳴を洩《も》らした。今にも関節が砕けそうだった。息一つ乱さずに猪喰はいう。
「そちの骨を潰すくらい簡単じゃ、この親指と人差指で眼を抉り取るのだ、眼玉は骨よりも柔《やわ》い、分るかのう」
「隠さず申します」
放尿を終え、川水で身体を洗った隊長は、部下が与えた焼き鳥にむしゃぶりつく。
小川の傍で一行は夜を明かすことにした。
二人の部下が交替で、不寝の見張りに立つ。猪喰は捕虜の隊長と身体を接して眠った。相手の身体の動きがすぐに伝わるからである。
十呼吸もしない間に猪喰は鼾《いびき》をかいていた。腹が一杯になった隊長は煌《きらめ》く星を眺めていたが、次第に瞼《まぶた》が重くなる。
かつて同じ体験をしたことがある。魚を釣っていて突風に襲われ、艪を流して漂流した。二日間は殆《ほとん》ど眠れなかったが、三日目の夜、満天の星を眺めていると瞼が重くなり、気が妙に安らいだ。死ぬというより、これから常世《とこよ》の国に運ばれるのだな、と感じた。
もう十数年も前のことだが、その翌日、駿河国《するがのくに》に流れついて一命を取り止めたのである。
捕虜になったり、丘で寝ているのに、何故、安らかな気持なのか。星が同じように煌いているせいかもしれない。
隊長は家族の顔を思い浮かべるよりも早く眠りに落ちていた。
須恵の海で漁師が浜辺に流れついた白絹の領巾《ひれ》と櫛《くし》、それに枯れ枝を見つけたのは、猪喰たちが朝餉を摂《と》っている頃だった。
櫛には漁師が見たこともない青い玉が二個も嵌《は》めこまれていた。また不思議なことに枯れ枝には葉がついている。ただ漁師が掌に載せた途端葉は落ち、岸辺の波に呑《の》まれた。その枝が樫《かし》の木で、かつて倭建が弟橘媛の髪にさしたものであることを漁師は知らない。
漁師は領巾と櫛が余りにも高貴すぎて、盗み取ることが出来ず、村長《むらおさ》の家に持っていった。
村長は弟橘媛の船が鰐《わに》《サメ》に襲われ、媛が海中に掠《さら》われたことを知っていた。
ひょっとしたら媛のものかもしれない、と倭建の宿泊所に届けた。親衛隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》は見た途端、胸が熱くなり眼を赧《あか》くした。
弟橘媛は高彦と同じ穂積氏の女人である。
倭建はまだ意識が混濁し眠り続けていた。高彦は征討副将軍・吉備武彦の宿泊所に運んだ。
武彦は蹲《うずくま》り叩頭《こうとう》した。
海水で濡《ぬ》れている領巾と櫛を侍女に洗わせた。侍女は須恵の首長が差し出した伽《とぎ》の女人だった。すぐ使者を久米七掬脛のもとに遣わした。猪喰も呼びたいがまだ戻ってきていない。一昨日、情報を集める、といって大裂と共に偵察に出たきりだった。
「あの領巾には弟橘媛様の帯がついている、媛が王子様を起こすべく運んでこられたのであろう、高彦殿、おぬしが王子様の傍に持って行くべきじゃ」
「吾もそう思う、だが、猪喰も一緒の方が良い」
「それはそうだが、猪喰はまだ戻らぬ、それに領巾を運ぶのは早い方が良いぞ、このままでは王子様は危い」
「分った、乾き次第運ぼう、しかし、こういう場合は男子である我等が運ぶより侍女の玉津《たまつ》殿にまかせた方が良いのではないか、玉津殿は大和に戻るべきなのに、媛の代わりに巫女《みこ》として我等と行動を共にしている」
七掬脛は救われたような顔で、それが良い、と深く頷《うなず》いた。初めからそう考えていたのだが、武彦に遠慮したのかもしれない。
もし倭建に万が一のことがあれば、オシロワケ王の勅命がない限り、副将軍の武彦が全体の指揮を執る。
玉津は神事の氏族である忌部《いむべ》氏の女人だった。忌《き》という字の通り、穢《けが》れを祓《はら》う儀式を執り行う。もう三十代半ばだが媛が倭建と婚姻する前に仕えていたことがあった。
その後俗界に戻り人妻になったが夫に先立たれ、また媛に仕えたのだ。
武彦に呼ばれた玉津は、干されている領巾を見るや地に伏した。
「玉津殿、弟橘媛殿は、これと領巾を王子に渡すべく我等に送られた、だが我等の手は血で穢れている、ゆえに玉津殿からお渡し願いたい」
「はい、そう致します、それには王子様の宿泊所をまず浄《きよ》めねばなりません、それも闇の中で行います」
「おう、総《すべ》て玉津殿にまかせる」
玉津はただちに小川で身を浄めると共に、弟橘媛の遺品である白絹を纏《まと》った。倭建の宿泊所の周囲に篝火《かがりび》を燃やし、部屋には短冊形の白絹を無数に吊った。闇が訪れると灯油に火をつけ室内を隈なく歩き、邪気を祓った。領巾と櫛は胸から吊り下げられた竹籠《たけかご》に入れられている。
玉津は王子の傍に坐《すわ》り、天と地の神に、邪気が入らぬように祈り、夜が終り朝に入る時を待つ。当時はまだ時刻を表わす名称もなく丑三《うしみ》つ時もないが、邪気の跳梁《ちようりよう》が止むのは朝が訪れる前とされていたようだ。
その時刻を知るのは巫女のみである。
寝具に横たわっている倭建は時々うなされ、苦し気に喘《あえ》ぐ。
祈っていた玉津は夜が深まるにつれ、胸を押さえつけられるような苦しみを覚えた。部屋の邪気が暴れているのかもしれない。邪気も自分の祈りで苦しんでいるのだ、と玉津は一層、祈りに力をこめた。
どのくらいたっただろうか。玉津の身が軽くなり宙に浮く。同時に睡魔に襲われた。玉津は愕然《がくぜん》として舌を噛《か》む。激痛に睡魔が消える。玉津は坐ったままだった。舌から血が流れ生温かく口中に溢《あふ》れる。
意識がはっきりした。ねっとりとしていた室内が爽《さわ》やかになった。
夜と朝の境目の時が訪れた。玉津は口中の血を飲むと籠の中の領巾と櫛を取り、王子の傍に置こうとした。
突然、闇から見えない手が伸び玉津の手首を掴《つか》んだ。懸命に動かそうとしたがびくりともしない。
玉津はまた舌を噛んだ。眼が眩《くら》みそうな痛みだ。血が舌から噴き出るのが分る。手が軽くなった。玉津は急いで王子の傍に領巾と櫛を置いた。安堵《あんど》のせいか気が遠くなった。
倭建は意識を取り戻した。
果てしない緑色の空間に見たことのない屋形が建っていた。その空間が海ではないか、と気づいたのは、眼の前を魚が泳いでいるからである。屋形は華麗だった。土で造った壁によって囲まれ、門の内側には赤、緑、黄などに色分けされた楼閣が建っている。屋根は茅葺《かやぶ》きではない。土を焼いて作った瓦《かわら》で葺かれている。屋根の四隅には渦巻きの紋様が飾られ、楼閣の窓からは鮮やかな衣服の女人が倭建を眺めていた。
正面の巨大な屋形も瓦葺きだった。
倭《やまと》にはない瓦を知っているのは、古老たちが、朝鮮半島の楽浪《らくろう》・帯方《たいほう》の郡の素晴らしさを語り伝えたからである。
昔、倭人《わじん》たちは海を越え、朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡に行った。そこには中国文化が華やかさを競っていた。幅広い道には牛車《ぎつしや》が通り、袖長《そでなが》の美しい衣服を纏った女人が乗っている。宮殿といわれる屋形なども、赤い柱や緑の手摺《てす》り、白い壁で造られ、倭人にとっては仙界の建物だった。
今、倭建が見ているのは、古老が伝えた宮殿である。
大きな門戸が開き団扇《うちわ》を手にした弟橘媛が現われた。裾《すそ》の長い裳《も》は五色に染め分けられた縦縞《たてじま》で鳥革《とりかわ》の履《くつ》は赤い。淡紅色の上衣《うわぎ》を纏い、二段に結った髪には、金銀の飾りをつけている。数人の侍女が従っているが、未知の顔だった。
門戸は開かれたが媛は立ち止まり進もうとしなかった。
倭建は駆け寄ろうとしたが身体が動かない。そんな倭建を嘲笑《ちようしよう》するように魚の群れが通り過ぎる。
媛は首を横に振った。来るなといっているようである。華やかな衣服を纏っているのにその顔は淋《さび》しそうだ。
何とか傍まで行きたい。全身の気を足に集め、跳ぼうとしたが全く動かない。
弟橘媛が右手にしていた団扇をゆっくり前後に動かした。団扇に見えない紐《ひも》がついているのか、倭建は引っ張られるように前に進んだ。後|一寸《ちよつと》というところで媛は団扇を止めた。
「媛よ、こんなところに何故いるのか、さあ吾《われ》と戻ろう、吾にはそなたが必要なのじゃ」
「王子様、私は海神が統治する龍宮城に住む身となりました、王子様が病んでおられると知りお呼びしたのです、どうか、私のことは忘れ、大和にお戻り下さい、子の稚建も王子様の帰りを待っているでしょう、何時までも私に未練をお持ちになる限り、王子様の将来は暗うございます、勇猛な王子様らしく私を忘れ、敵に立ち向かい下さい」
「何をいう、そなたは吾の正妃じゃ、そなたは生きて眼の前にいる、相手が海神であろうと吾は負けぬ、そなたを連れ戻す」
弟橘媛は深い吐息を洩らすと、まだお分りになりませぬか、と手を差し伸べた。
「連れ戻せるのなら、私の手をお握り下さい」
「おう、連れ戻すとも」
倭建は媛の手を握った。だがその手は空を掴んでいた。幻なのか、と凝視《みつめ》たが、媛の手は差し出されたままである。
「お分りになりましたか、私はもう、王子様とは違った世界に住む身となっているのです、どうか情に溺《おぼ》れて眼を曇らせず、現実を洞察し、何時もの王子様らしく堂々と立ち去って下さい、何時までもそこに立っておられると、海底の岩にしがみついて動けぬ貝になります、それで良いのですか」
「何だと、吾が貝になると申すのか」
「そうです、喋《しやべ》りもできない貝です」
「媛よ、そなたは本当に海神の妻になったというのか、その証拠を見せよ、証《あかし》さえ確認すれば、吾は男らしく決然と去る」
「悲しいことをおっしゃいます、私が秘めている姿を露《あらわ》にせよと、でも、それで王子様の生命《いのち》が救かるのなら、王子様、よく御覧下さい」
弟橘媛の手が静かに裾長の裳に触れた。
五色の裳が消え巨大な尾鰭《おびれ》がゆっくり水を掻《か》いている。
驚愕《きようがく》の叫び声を懸命に抑えに抑えた倭建に、媛がいった。
「王子様、さらばです、ただちにお戻り下さい、鰐《わに》が運びましょう」
再び裳が魚の下半身と尾鰭を隠す。
媛の身体が宙に浮いた。いや泳ぎはじめたのだ。侍女たちが続く。美しく華やかな魚の群れである。
倭建は自分を取り戻した。船を打ち壊され海に跳び込んだ弟橘媛の姿がまざまざと甦《よみがえ》った。
「おう、媛よ、さらばじゃ」
倭建は大声で叫んだ。泳いでいた媛が一回転したのは倭建の声を確認したからに違いなかった。
龍宮城の門戸が閉まると同時に眼の前が暗くなった。巨大な鰐《サメ》が、乗るように、といわんばかりに海底に横たわった。
倭建が乗ると鰐は凄《すさま》じい速さで泳ぎはじめた。海面に近づくと突然息苦しくなった。
鰐は倭建を背に乗せたまま海面に跳び上がった。眼の眩むようなまばゆい光の洪水に倭建は眼を閉じ叫び声をあげた。
人の声と足音に眼を開いてみると、暗い部屋の中に横たわっていた。
灯油の明りが揺れながら燃えている。
自分を呼ぶ武彦と七掬脛の声がした。
「おう、吾はここじゃ、入れ」
松明《たいまつ》をかかげた二人が入ってきた。
「王子、気がつかれましたか」
武彦の声がやけに太い。
傍に白衣の女人が横たわっている。
玉津は舌を噛みきり血塗《ちまみ》れの顔で死んでいた。
倭建は武彦と七掬脛から、これまでの経過を聴いた。ただ唇を噛み締めるのみで言葉が出ない。
それに倭建は粥《かゆ》の汁だけで生きていたので、身体は衰弱していた。
二人が玉津の遺体を運んだ後、倭建は寝具に横たわった。
弟橘媛の領巾と櫛が傍にある。倭建の身を守ろうと龍宮城から運んでくれたのであろう。夢の中で見たのだが、五色に彩られた華やかな宮殿は脳裡《のうり》に刻み込まれていた。それと同時に弟橘媛の言葉を忘れていなかった。
何時までもそこに立っていると岩にしがみついている貝になりましょう、といった。そこというのは龍宮城の門の前だが、それは媛に対する未練の情をも意味する。
もう自分のことは忘れて、勇猛な王子に戻れ、と媛は叱咤《しつた》したのだ。
そのために媛は倭建の生命を救ったのである。
吾は立ち直るぞ、何度も繰り返しているうち、倭建は深い眠りについた。
病の眠りではない。再生への眠りだった。
夜明けに猪喰は捕虜を連れて戻った。
猪喰は、捕えた隊長が知る限りのことを聴き出していた。
上海上国は、兵を動員したが半数以上が、海戦のための水軍だった。交易用の大型船が四、五十|艘《そう》集められた。船に十人以上乗れるから、水軍だけで最低五百人である。
他に都の周囲に四、五百人の兵を集めた。陸海合わせて千人といえばかなりの大軍である。
ただ倭建は、これまで一度も負けたことがなかった。兵士は皆十人力で、矢を百丈(三百メートル)も飛ばし、巨岩を軽々と持ち上げ石のように投げると噂されている。
それが連戦、連勝をもたらしたのだ。上海上国の王には、攻撃する決意はないようだった。
攻めて来るのは受けて立つというのが本音らしい。
それに正妃である弟橘媛が死亡したので、倭建は暫《しばら》く軍を進撃させまい、と楽観している節もある。
当時は正妃が亡くなった場合は喪に服し、争い事は慎むのが習いだった。
勿論《もちろん》、小隊長級の推測だから、余り当てにはならないが、当たらずといえども遠からじ、と猪喰は判断した。
武彦も七掬脛も、同感だった。
上海上国は、尾張や大和周辺の諸国とも交易を行っている。当然、葬儀の神事を熟知している筈《はず》だ。
武彦や七掬脛も、弟橘媛の殯《もがり》を、どのように行うかで頭を悩ましていた。
殯は倭国の古くからの葬礼で、貴人の遺体を仮宮《かりみや》に横たえ、生前の徳や業績を称《たた》えるのである。
弟橘媛の場合、遺体がない。それに倭建の意識が混濁し、王子自身の生命が危険だった。
吉備武彦が意見を述べた。
「王子は昨夜、意識を取り戻された、もう大丈夫じゃ、後は回復を待つのみじゃ、捕虜は小屋に閉じ籠《こ》めておこう、猪喰のいうように道案内になる」
武彦がいうように、倭建が健康を取り戻さない限り、須恵の地から動けないのだ。
三人の会議所に穂積高彦が走ってきた。
「王子様が、焼き鳥を肴《さかな》に、酒を飲みたいとおっしゃっています」
三人は唖然《あぜん》として顔を見合わせたが、次の瞬間、歓声をあげていた。
[#改ページ]
六
いやに腹が空く、倭建《やまとたける》は焼き鳥や獣の肉をむさぼり喰《くら》った。どのぐらいの胃になっているのだろう。喰っても喰っても満腹感がない。
「王子様は食事も摂《と》らずに眠っておられた、その分を今、食べておられるのじゃ」
吉備武彦《きびのたけひこ》が豪快に笑った。
「おう、十人分ぐらいは喰って下さい、元気になるのが第一じゃ」
久米七掬脛《くめのななつかはぎ》が大きく頷《うなず》く。
「しかし妙じゃ、吾《われ》には胃がない、あるのは食物を欲しがる見えない袋じゃ、しかも、底がない、変だとは思わぬか……」
二人とも妙だと気づいている。それを知られまいと愉《たの》し気に笑っているのだ。
吾はおかしい、本当に吾の身体か。腹が悲鳴をあげるように鳴った。
武彦と七掬脛はぎょっとしたように倭建の腹を見る。念のために腹を叩《たた》いてみた。膨れていない。
「猪喰《いぐい》、相変わらずそちは寡黙じゃ、吾に遠慮しておるのではないか、おかしい、と申せ、それが普通じゃ、何故なら吾がおかしいと思っているのだからな……」
「そう思われるのなら、王子様は正気でございます、そんなに御心配は要りません」
「何だと、おかしいと気づいたゆえに、正気だと……猪喰は吾をからかっているのか、敵の隊長を一人くらい捕らえたからといってのぼせているのか、無礼だぞ」
これまでこんな風に思ったことはない。二人でいる時は部下というより友人であり、弟でもあった。吾のために死ね、といえば猪喰は分りました、と平然と死ぬ男子《おのこ》である。
猪喰は仕えたい、といった時からそういう男子だった。
今、それをいおうか。いいたい。猪喰がどんな顔をするか見たい。
武彦が一歩乗り出した。陽に灼け顔も熱くなっている。顔中|髭《ひげ》だらけだ。眼だけがいやに光っていた。
部下の中で、様を付けずに王子と呼ぶのは武彦だけである。巨大な吉備国の王族だ。武彦がいなければ、熊襲《くまそ》征討が成功していたかどうかも分らない。
武彦はそのことを自負している。
だがこいつは大将軍ではない、副将軍なのだ。吾の部下なのだ。こいつに何も遠慮することはない。
何だその眼は、まるで悪の鬼神でも眺めているようではないか。
「王子、猪喰が申したことは間違いございません、王子も人間、何日も食物を摂らねば、幻を呼びます、だが王子は、正気だからこそ、妙だと感じられた、猪喰はそれを指摘したのです、王子、猪喰は少しものぼせてはいない……」
「おう、やっと詰め寄ってきたな、吾はそれを待っていた、武彦、本音で話せ、そちは吾の傍から離れ吉備に帰りたがっている、弟橘媛《おとたちばなひめ》も死んだしのう、吾に前途はない、王子これ以上は無理です、大和に戻りましょう、何時も、その声が噴き出かかっている、さあいえ、遠慮するな、それに吾は父王に憎まれている、吾の傍にいても出世は出来ぬ、そのことも知っている」
「王子、吾に死ね、といわれるのか、鬼神に取り憑《つ》かれた叫び声を何時までも聴いているよりも、一言、死ね、と命じられた方が気が楽じゃ」
武彦が倭建を睨《にら》みつけた。赤い隈《くま》が瞳《ひとみ》を取り巻いている。だが黝《くろ》ずんだ肌から血の気が失せ、乾いた土色になっている。点々とある白い斑点《はんてん》は汗が乾いて塩になったに違いない。
武彦が腕を振り、袖《そで》の内側の短い刀子《とうす》を取り出した。七掬脛も猪喰も止められなかった。雷光のような速さだ。
武彦は生身の刀子を膝《ひざ》においた。
七掬脛は倭建の口が膨らんだのを見た。眼の中に無数の光の破片が踊っていた。
悪鬼が憑いている。
七掬脛は下腹部に力を込めた。部屋中に響きわたる音がした。屁《へ》を放《ひ》ったのだ。意のままに屁を放てるのは七掬脛の特技だった。
倭建の前でこの特技を披露したのは初めてである。
「何じゃ」
光の破片が一ヶ所に集まった。
「王子様、吾も腹が空きました、おお、鳥の肉が少ない」
七掬脛は外を向き、
「もっと肉じゃ!」
と叫んだ。
異様な匂いが鼻孔から吸い込まれ、倭建は思わず、胸がつかえたような声を出した。
十人分は詰め込んでいた肉が腹の底から蠢《うごめ》き出した。果てしないほど拡がっていた胃袋が呑《の》み込んだ肉と共に縮まってくる。懸命に押さえたが、胃はぐんぐんせり上がってきた。
胃から胸に腐敗物が絡み蠢いている。こんな不快な嘔吐《おうと》感はこれまで経験したことがなかった。
この席で吐けば恥だ、皆、生き返った吾を祝ってくれているのだ。どうしてこんなに喰ったのだろうか。
倭建の顔色がみるみる蒼白《そうはく》になり腹に凭《もた》れた反吐《へど》の攻撃と戦う以外、何も考えられなかった。
「王子、気分でも……」
「うむ、今になって満腹感じゃ、外に出て吐く、大丈夫、一人で行く」
込み上げてくる嘔吐物を気で押し戻そうとしたが、何時ものように気が集まらない。食道の管が、まるで大便を排泄《はいせつ》するように汚物を押し上げる。最後の関門は喉《のど》だ。口中の筋肉を下げてせり上がってくる汚物を喉仏あたりでくい止めようとした。だが汚物は荒れ狂っている巨大な蛇のようだった。
喉仏が決壊する衝撃で眼が霞《かす》む。外部の攻撃には無敵の倭建も内からの反逆には手の打ちようがなかった。
倭建は出口に倒れるように跳んだ。胸をしたたかに打った途端、嘔吐物が口中に溢《あふ》れた。胸で汚物が暴れ息が詰まった。こんな不快な苦痛を味わったのは初めてだった。
嘔吐物は鼻から眼の玉まで攻撃してきた。だが堪《こら》えて戸に手を伸ばして開けた。這《は》って顔だけを外の土に叩きつけた。
土堤が決壊し嘔吐物は洪水のように吐き出された。出る。限りなく溢れ出る。十人分も喰った分が未消化のまま吐き出された。身体は動かない。汚物は息をする度に鼻孔から入る。臭い、糞溜《くそだめ》の中に顔を突っ込んだようである。
「水じゃ、水をかけるのじゃ」
武彦か七掬脛か、誰の声か分らない。
「王子様、御免」
七掬脛が大甕《おおがめ》に満たした井戸水を嘔吐物に注いだ。二杯、三杯とかけられる。
「顔にもだ」
仰向《あおむ》けになった倭建に穂積高彦《ほづみのたかひこ》が水を浴びせた。実に気持が良い。身も心も洗われて爽快《そうかい》感が甦《よみがえ》った。
武彦、七掬脛、猪喰の三人が不安気に立っている。それぞれの思いがあるにせよ、三人の眼は自分を気遣っていた。
「吐いた、食べ過ぎて吐いた、醜態じゃ」
「王子、一休みされた方が……まだ完全に回復されていなかったのです、我等が悪うございました」
武彦の言葉に続いて七掬脛が、
「お粥《かゆ》を口に入れられる程度でした、吾ともあろう者が、それを忘れて……医師《くすし》役を自負する吾の責任です、お許し下さい」
「何をいうか、大将軍としての自覚が足らなかったのじゃ、そちたちは宴《うたげ》を続けよ、吾は一休みしてくる、猪喰、屋形まで供をせよ」
倭建は猪喰たちに何をいったか覚えていなかった。ただ、一同を傷つける暴言を吐いたような気がする。武彦が刀子を取り出したのを覚えている。何故か。だが今それを思い出そうとすると頭が痛くなる。
猪喰は黙々と傍に寄り添っている。
「猪喰、この倭建が鬼神に操られた、許せ」
「人間にはそういう時がございます」
「そちには何といった?」
「たいしたことではございません、吾は忘れました」
相変わらず猪喰の顔は暗い。そげた顔に孤独の翳《かげ》りが漂っている。眼は遠くを見ているようだ。そういえば狼の群れは丘の頂きに立ち無表情に遠くを見ている。獲物を追っているのか、仲間の群れを探しているのか。何を考えているのか読めない無心な眼だ。
若い頃、絶えず山に入っていた倭建はよくそういう狼に遭った。無心ともいえるし凍りついたとも表現できる。いや、神に話しかけているのかもしれない。
獲物を狙う時の狼の眼は刃物のように鋭いが、爛々《らんらん》と輝いているというより静謐《せいひつ》である。気を押し殺しているのだ。
倭建は狼の眼が好きだった。
猪喰の眼は狼に似ている。それも群れをなしている狼ではない。猪喰は群れから離れている。
「そちが忘れることはない、話せ」
語気を強めた途端に頭が割れそうに痛んだ。
「王子様、まだ病は完全に回復していません、どうかお休み下さい」
風に向かって突っ立とうとする草藁《くさわら》に、風にさからうな、と諭しているようでもあった。
「分ったぞ、そちの申すことを諾《き》く」
そちは吾の片腕じゃ、と喉まで出かかった言葉を呑んだ。口から出れば、白々しく浮いたものになる。猪喰にそんな言葉など必要ではなかった。
武彦、七掬脛、猪喰の三人は、倭建が去った後酒盛りを続けた。そうしなければおられない気持だった。
「いや、おぬしの放屁《ほうひ》には参った、しかし、あれだけ凄《すさま》じいものとは知らなかった、何の音だと吾もぎょっとしたぞ、あの緊迫した時にだ」
武彦は髭をしごき、喉を鳴らして酒を飲むと、苦渋の顔に笑みを浮かべた。
「吾自身も驚いたわい、渾身《こんしん》の力と気を屁に集めたからのう、あんなにでかいのは初めてだ、それに糞も出たと、観念したほどじゃ」
剽軽《ひようきん》な七掬脛が真面目な顔でいった。七掬脛には、伝承上の人物である猿田彦《さるたひこ》に似たところがある、似ているというより、猿田彦の名が出ると、七掬脛のような男子ではないか、とよくいわれたものだ。
猿田彦は鼻が手で掴《つか》めるほど長く、巨眼で身長は三丈もある。ただ神事で舞ったり道化役を演じ、なかなか剽軽な神だった。
七掬脛の剽軽さが似ているのかもしれない。ただ七掬脛は人並の身長だが入れ墨のせいで巨眼に見える。それに面長で鼻も確かに長い。七掬脛は何処《どこ》かで猿田彦に親近感を抱いていたのだ。
「無理もない、吾も失神しそうな程、臭かった」
「一世一代の放屁よ、しかし王子様に効くとは思っていなかった、捨て鉢の放屁じゃ」
「いや、礼をいう、刀子を出したものの、死ねといわれれば死ぬより仕方がないからのう、半ばこれまでと覚悟したわい」
猪喰が沈鬱《ちんうつ》な顔で口を開いた。
「武彦殿、それはない、悪鬼が憑いても王子様の正気は犯せまい、その点は王子様を信じる、眠りからは覚められても、ただ完全ではなかった、そこを狙って怪し気な鬼神が憑いたのじゃ」
「分っている、だがのう、吾《われ》は出世しない、それを知っているから早く戻りたいだろう、といわれた時は眼の前が暗くなったぞ」
「武彦殿、それは王子様に棲《す》む弱気の虫じゃ、多分、王子様もお戻りになりたい、媛《ひめ》様が亡くなられたのだからのう、だが戻られても王子様の立場はない」
猪喰のたんたんとした言葉に、一座がしんとなった。皆、内心では大和に戻った際の倭建の今後に危惧《きぐ》の念を抱いていた。だがそれを口にするのは禁忌だった。
東征において赫々《かつかく》たる成果をあげ、疲労|困憊《こんぱい》して大和に戻る倭建。普通ならオシロワケ王によって盛大に迎えられ、大和王権の重鎮として遇される筈《はず》である。だがそれはないのだ。
倭国《わこく》中に勇名を馳《は》せた倭建に対するオシロワケ王の嫉妬《しつと》と危惧の念、それをあおる正妃ヤサカノイリビメと王子イホキノイリビコなどの王族たち。
そんな大和の王権に倭建が坐る場所がない。
げんに倭建の貴重な戦力である大将|武日《たけひ》を、オシロワケ王は呼び戻した。倭建が力を付けるのを削《そ》ぐためだった。
武彦は拳《こぶし》を結び膝においた。力を入れすぎて指の関節が白くなり、今にも飛び出しそうだ。
「猪喰、おぬしは何をいおうとしているのか、分っているのか?」
「武彦殿、いわねばならない時がきた、吾は行く先々の情報を得るため山野を駈《か》け巡りながら何時《いつ》も考えていた、一体、何のための東征かと、王子様を憎むオシロワケ王のためか、その度に吾は違う、と自分に言い聞かせた、王子様の名をあげ、次の王には王子様しかいない、と王族や有力者に思い知らせるためだと、だが、大伴武日殿が呼び戻されて以来、吾は疑問を抱いた、今の王は心が狭い、王族も同じじゃ、王子様が有名になればなるほど王子様への嫉妬が深まる、何とか王子様を排除しようとする、武彦殿、七掬脛殿、そうは思わぬか……」
武彦は尿を浴びた岩のような顔になり、七掬脛の長い鼻は歪《ゆが》み今にもくしゃみが出そうだ。
「それは分っている」
武彦が唸《うな》るようにいった。
「猪喰、分っていても王子様は征《ゆ》かれる、それが王子様の生き様じゃ」
七掬脛が鼻をすすった。
勿論《もちろん》、と猪喰はいって二人を睨《にら》むように見た。
「だがのう、今日の王子様を見て、吾は知ったぞ、王子様も内心では悩んでおられることを、普通なら弱さを出されない方だ、媛様の死でこれまで我々にも見せまいとしていた悩みが出てしまった、あれは王子様の苦悩の叫びではないか、王子様が、怪し気な尾張の宮簀媛《みやすひめ》に溺《おぼ》れたのも、その表われだったのだ」
「猪喰、何をいいたいのじゃ、隠さず本心を出せ、そちらしくない」
武彦は声を抑えた。
「これからは東征ではない、戦は極力避ける、訪問じゃ」
「しかし、これまでは刃向かわなければ戦わないと伝えていたではないか、だが、諸国は王子を迎え撃とうとした、仕方なく戦った」
「そうではない、吾は考えに考えた、何故、諸国が我等に敵意を示し、軍を動員して迎え撃ったか、我等を、大和王権の使者というよりも、征服者と見たからではないか、戦わなければ蹂躙《じゆうりん》されると恐れたからであろう、何故か、それには裏がある」
猪喰は言葉を呑《の》むと、酒杯をかたむけた。残った焼き鳥に塩をかけた。
珍しく七掬脛が早口で訊《き》いた。
「猪喰、じらすな、早く喋《しやべ》れ」
「物部十千根《もののべのとちね》が東国に使者を出し、工作している、王子様はたんなる使者ではない、大和王権に従わざる国々は、戦で従わせると、我等と戦った国々はそれに怯《おび》え、それならばと兵を動員した」
武彦は唇をへの字に結び、七掬脛は首を左右に振った。
武彦が腕を組み顔を屋根に向けた。
「一理はあるが」
と呟《つぶや》きながら、
「それなら諸国の王がいう筈だ、大和から使者があって、王子は戦うために来た、と伝えた、と……だがそういった王はいない」
武彦は納得できないという。
「その辺りが物部十千根のずる賢いところじゃ、王に会っていったりはしない、郡に行き、そういう風説を流す、なかには遠淡海《とおつおうみ》王のように風説にまどわされず王子様を迎え入れようとした王もいる、だが風説にまどわされた稚《わか》王子は己れの権力を確保するために風説を利用した、王を監禁し、王子様に軍を向けたのじゃ」
「うーむ、そういわれると確かに風説の力は大きい、尾張音彦《おわりのおとひこ》王も、交易の旅人を装った怪しげな者が入り、戦をあおるようなことをいっていたと漏らしたことがある、音彦殿は中立派だったが、怪しげな者が大和の使者であると睨んでいたようじゃ、うむ、猪喰の眼力が正しいかもしれぬのう、だが、風説の張本人が物部十千根という証拠はあるまい」
「それはない、だが、そういう策謀をめぐらす者は、物部十千根以外にはいない、いうまでもなく前王・イクメイリビコイサチ王(垂仁《すいにん》帝)の皇后は丹波道主《たんばのちぬし》王の娘・ヒバス(比婆須)媛だった、長子はイニシキノイリビコ王じゃ、この王こそ王位につく筈であったが、物部十千根の父が策をめぐらせ、今のオシロワケ王を王とした、そのためイニシキノイリビコ王は河内《かわち》で憤死したといわれている」
「しかし、今のオシロワケ王の母も、ヒバス媛様と……」
「そういうことになっているが怪しい、世間では信じる者がいない、その功により物部は石上《いそのかみ》神宮の祭祀《さいし》権を得た、物部は軍事よりも策の氏《うじ》族じゃ」
「昔、王子を暗殺しようとしたのも、河内と筑紫《つくし》の物部だったのう、オシロワケ王の母上については色々な噂がある、そういえば猪喰の縁者、丹波森尾《たんばのもりお》は音羽《おとわ》山に籠《こも》り、オシロワケ王の殺害を企てていたというが、そちが物部を憎むのも無理はない。これも因縁だのう」
「武彦殿、因縁の話をしているのではない、物部十千根は王子様の敵、油断ならぬ人物、と、説いている」
猪喰の白眼に隈《くま》のような血筋が浮いた。これほどの感情を表わすのは珍しい。
「失言じゃ、今、我等は王子の将来について話している、要するにこれからは儀礼的な訪問、吾も賛成だが、果たして王子が……」
「武彦殿、我等三人、揃って申し上げましょう、これまでも王子様は、平和|裡《り》に諸国の王と会うことを願っておられた」
と七掬脛がいった。
「だがのう、儀礼的な訪問となると、会いに行くぞ、では済まぬ、猪喰はすでに最前線まで行き、隊長を捕らえている、上海上国《かみうなかみこく》は、戦を覚悟しているだろう」
武彦の言葉に猪喰は頭を下げた。
「早まったことをした、申し訳ない、捕虜の件は吾にまかせていただけぬか、吾が王子様に話してみる」
「おいおい水臭いぞ、頭など下げるな、ただのう猪喰、これからは、大和に戻ってからの事など時々話し合おう、そちはどう考えているのか知らないが、吾の王子様への忠節は変わらないぞ、吾は王子が好きなのだ」
「おう、吾も」
七掬脛が口に運ぼうとしていた酒杯を上げた。武彦が自分の酒杯をそれに合わせる。猪喰も同じだ。三つの酒杯は力強い音を立てた。
一昼夜眠り、倭建は回復した。酒に酔い吐いたことは覚えているが、酒盛りの記憶が全くない。これまで幾ら酒に酔ってもその場の状況を覚えていない、ということはなかった。それが何となく気になる。
何故記憶にないのか。
弟橘媛の領巾《ひれ》と櫛《くし》が流れついた海岸に行きたくなかった。何時までも滞在できない。敵も、部下も、弟橘媛に恋々とし腑抜《ふぬ》けになったと軽蔑《けいべつ》するだろう。部下たちも未知の遠国に来ている。大将軍が腑抜けになったと知れば戦意を喪失する。
脱走兵も出るし、軍規が乱れ、民家に押し入り掠奪《りやくだつ》したり、女人を犯したりする。それで東征は終りだ。
幸い吉備武彦、久米七掬脛、猪喰が毅然《きぜん》としているので、軍規は保たれていた。
猪喰が少人数で、上海上国の小隊長を捕らえ、小屋に監禁していることも、兵の士気を高めている。
穂積高彦と数人の警護兵を連れ、海岸に向かった倭建は小屋を見、猪喰を呼ぶ気になった。
今日の海は凪《な》いでいた。磯に打ち寄せる波も、挑むよりも岩を撫《な》でて消え、媚《こ》びているようだった。
穏やかな海峡をへだてて三浦半島が海上に横たわっていた。
倭建は弟橘媛の領巾が流れついたという岩塊の傍に行った。岩陰の砂利浜に打ち上げられていたらしい。しゃがんで海水を掌《てのひら》ですくった。この海の中に夢で見た龍宮城があるのだろうか。不思議なほど鮮明に覚えていた。胸の鼓動が高くなる。だが媛はもういないのだ。途端にすべてが空しくなり、掌の海水を砂利浜に叩《たた》きつけた。
これからどうすべきか。雄々しい王子様にお戻り下さい、と。
雄々しさとは何であろう。浜に腰を下ろしてぼんやり思った。童子時代から人に負けるのが嫌だった。いや、人だけではない、何に対してもだ。たとえば山に入っても険阻な獣道があれば獣に負けるものかと走った。山を登ると、こんな山に負けてたまるか、と攀《よ》じ登った。
何時の間にかそんな負けじ魂が勇ましい王子、雄々しい王子といわれるようになった。
倭建の武勇の根幹にあるのは、負けるものかという生得の闘争心である。
人のみならず自然に対しても闘争心を抱いた。武勇の王子、勇猛な王子といわれると、その名を穢《けが》すまいと闘志を燃やした。
寡兵と共にここまでやって来られたのも、負けじ魂の闘争心のおかげのような気がする。
弟橘媛がいなくなり、根幹の闘争心が希薄になった。何もかもが空しく思える。
これではならぬ、と自分を奮い立たせるが、すぐめんど臭くなる。
恰好《かつこう》をつけているだけではないか、と何処からか声がする。
大体、東征大将軍に命じられ、東に来たのが間違いだったのだ。父・オシロワケ王の魂胆は眼に見えている。自分を追い出し、イホキノイリビコ王子に王位を譲るためではないか。
それが分っていて何故承諾したのか。オシロワケ王の命令にはさからえない、という服従心があった。何といっても倭国の王であり父である。さからえば自分の身がどうなるか分らない、それは怯えであると同時に、王位争いに憂き身を悄《しよう》するのがくだらなく思えた。
自分が大和を離れれば王位とは縁が薄くなる。それで平和におさまるのなら良いではないか、と納得した。
何故か。肉親の争いにうんざりしたのか。それとも諦念《ていねん》というやつだろうか。
生得の負けじ魂、闘争心はどこに消えたのか。本来なら大和に踏み留《とど》まり、こん畜生、と戦うべきではなかったか。
父王や異母兄弟を相手に……。
吾《われ》は怯懦《きようだ》だったかもしれぬ、と倭建は砂利浜に仰向《あおむ》けに転がった。
恰好をつけているが、地上から隠れた根は卑怯《ひきよう》者なのだ、臆病《おくびよう》者だ、と呟く。次々と自分をけなす声が胸の底から湧いてくる。皆、それぞれに一応の理が備わっており反論できなかった。自然に苦笑が湧いた。これまでなら自分を叱咤《しつた》し拳《こぶし》の一つを頭に叩き込むはずだ。
だが、今は違った。苦笑が声になり笑いとなった。何もかも馬鹿気ているような気がした。空は澄んで青と銀色に光る雲が悠々と浮いている。雲の海は果てしなく何処まで続いているのか見当もつかない。多分、想像もつかない巨大な滝となり万雷の音を響かせて落下しているだろう。
滝水は底のない空間に落ち、途中で飛び散り雲や霧となって宙に漂うに違いなかった。となるとあの銀塊のような雲も、天上から落ちた滝の飛沫《ひまつ》の集まりかもしれない。
そんなことを思うと、人間は砂利浜を這《は》う虫よりも小さな存在ではないか。
悩み事自体が滑稽《こつけい》である。
倭建は、死さえも恐くないような気がした。ひょっとすると媛に会えるかもしれない。
猪喰が現われたのは、倭建が天を眺めながら微笑んでいる時だった。
猪喰は胸を衝《つ》かれ息を呑《の》んだ。これまでの倭建には見られなかった穏やかな笑顔である。透明感さえ漂っていた。
また得体の知れない鬼神が憑《つ》いたのではないか、と近くで蹲《うずくま》った。死の前に、こういう微笑を浮かべる人間がいる。苦痛から解放され恍惚《こうこつ》となっているのだ。死の鬼神が欲や喜び、悩みをまず奪い取るからである。
「おう猪喰、妙な眼で吾を見ているな、どうしたのじゃ」
上半身を起こした倭建は手で頬を撫でた。砂が顔につき何処か童子のようであった。
「いや、何でもございません、兵が呼びに来ましたが……」
「いや、何でもない、実は先夜の酒盛りのことだが、吾には記憶がない、こんなことは初めてじゃ、覚えていないというのは恐い、吾は何か、訳の分らないことをいったのではないか、隠さず話せ」
「別に妙なことはおっしゃいませんでした」
猪喰は即座に答えた。
もし倭建が先夜の件について訊《き》いても、三人は何事もなかったと答える結論を出していたのである。
「それにしては妙だ、覚えていないのは」
「王子様は眠り続けておられました、眠気が少し残っていたのかもしれません、気にされない方がよろしゅうございます」
「眠気のせいかもしれぬ、しかし、いやに空腹だった、まあ良い、呼んだのは他でもない、上海上国に対し、こちらがどう出るかだ、一応、三人の意見を聴きたい、小隊長といえども、隊長を捕まえた以上、相手も覚悟を決めているだろう」
「王子様、相手の戦闘力を知るためとはいえ、捕まえ、連行したのは吾の短慮でした、申し訳ございません」
片手を砂利浜に突き、詫《わ》びる猪喰を、倭建は怪訝《けげん》に見た。
「何を詫びている?」
「酒盛りの後、我等三人、今後のことについて話し合い、王子様に我等の意見を申し上げることにしました、勿論、王子様が駄目だ、とおっしゃれば我等は御命令に従います」
「うむ、何だかくどいのう、何時もの猪喰らしくないのう、吾は何時も、そちに作戦を訊いているぞ、その上で吾なりに決定する、何だ、申せ」
「今回は吾が捕虜を連れて上海上国に参ります、その際、銅鏡や剣、また髪飾りなどをたまわりたく存じます、この辺りは、東国でも東の果てに近く、まだまだ銅鏡は貴重品です、王の墳墓の埋葬品にふさわしい品、上海上国の首長も受け取るに違いありません」
「それが三人の進言か?」
「三人の一致した見解です」
「これまでも通過に際し、吾の意は伝えてきた、だが、捕虜と共にそれだけの品を渡すとなれば、吾が服従の意を表明しているようだな、そんな馬鹿な、吾は大和王権のもとに、倭の諸国が纏《まとま》ることを説きに来たのだ、頭を下げて友好関係を結びに来たのではないぞ、何故だ!」
猪喰は叩頭《こうとう》したまま答えない。
普通なら倭建は怒って大喝している。相手が気を許した猪喰でもだ。だが怒るべきなのに血が滾《たぎ》らなかった。
「何とかいえ」
倭建が舌打ちすると猪喰は顔を上げた。
「王子様、大和王権のために、という名目は無用です、これからは王子様御自身のために、色々と策をお練り下さい」
猪喰はきっぱりと言った。
[#改ページ]
七
倭建《やまとたける》が自分に負けない猛将と思っていた吉備武彦《きびのたけひこ》、剽軽《ひようきん》だが死を恐れない猛将|久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、それに私情を余り出さず、ただ影のようになって動いている丹波猪喰《たんばのいぐい》、その三人が揃って今後について進言した内容は、倭建にとっては想像外のものだった。
これからは、東征ではなく東旅と考えるべきだ、というのである。
大和《やまと》王権の友好の使者であり、襲われない以上戦わない旨、使者を遣わして行く先々の王や首長に伝えるべきだ、という思い切った内容だった。
使者は友好の証《あかし》として、磨きに磨いた銅鏡や剣、最高の絹布などを渡す。
更に倭建が率いて来た勇猛な軍は、上海上国《かみうなかみこく》の王の許可がない限り郡を通らない旨を約束する。
三人の気持は分るが、東征大将軍である倭建は流石《さすが》に憤然とした。
「武彦よ、吾《われ》はこれまでも東の国に、戦は好まぬ、大和王権のもとに倭国《わこく》は団結せねばならぬ、と説《おし》えに来たと伝えている筈《はず》だが」
「王子、問題はそこでございます、まず、大和王権のもとに団結をというのと、たんなる友好の使者とは大変な違いです、それに、最初の戦で朝日郎子《あさけのいらつこ》に大勝して以来、東の諸国は畏怖《いふ》感と警戒心を抱いてしまいました、更に物部十千根《もののべのとちね》あたりが、王子の軍は諸国を服従させるために東に向かったという風説を流しているようです、これでは武闘派が穏健派を抑える国が出ても仕方がない、これまで我等に刃向かった国は皆そうです、ゆえに今後は、戦よりもまず交渉、それも粘り強く友好の使者であることを説く、はっきりいって、弟橘媛《おとたちばなひめ》殿が亡くなられ、我軍の兵士は動揺しています、それに皆、疲れている、これ以上の戦は無理だ、と残念ながら考えざるを得ません」
武彦の火を吐くような進言に七掬脛と猪喰が頷《うなず》いた。
倭建は弟橘媛の死の衝撃で、兵士たちの疲労や心情を考える余裕がなかった。
見えない鞭《むち》で頭を叩《たた》かれたような気がした。戦うのは兵士である。指揮だけではどうにもならない。
三人が、これ以上の戦は無理だという点で一致した根本の理由は痛いほど分る。
倭建がオシロワケ王や王族、また王に阿諛《あゆ》追従する豪族に見捨てられていることを知っているからだ。猪喰が海辺でそれをいっている。
援軍をよこさないばかりか、倭建の東征を邪魔しているのだ。
オシロワケ王の命令で大和に戻った大伴武日《おおとものたけひ》を含め、この三人は倭建が東征の旅に出た時から、その事実を薄々感じていたに違いなかった。
よくここまで吾に忠節を尽くしてくれた、と倭建は眼を閉じたくなった。胸の底から悲哀の入り混じった血が込みあげてきた。眼が潤みそうだ。
七掬脛が膝《ひざ》を叩いた。一瞬、先日の放屁《ほうひ》ではないかと息を止めたほど重い音がした。武彦も顔を歪《ゆが》めた。
「王子様、大事なのは御無事に大和に戻られることです、我等はそのために、これまで以上に……」
珍しく七掬脛が声を呑《の》み唇を結んだ。入れ墨のせいで一段と大きく見える眼を閉じた。気持を抑えているのだが、眼の周囲の入れ墨が慄《ふる》えていた。多分、仕える、忠節を尽くす、励む、といおうとしたのだろう。
「七掬脛、もう良い、王子様はお分りじゃ」
武彦が顔を伏せた。何時も堂々としている男子《おのこ》である。武彦も溢《あふ》れる思いを抑えかねていた。
猪喰は鋭い眼を向けたままだ。
「よし分った、粘り強く交渉しよう、ただ、西の国々では大和の王権に服従するとき、鏡、剣、玉の三種を献上する風習がある、鏡と剣を与えるとなると、我等が上海上国に服従したと受け取られかねないぞ、幾ら友好の使者でも鏡と剣は考えものだ、友好の品については吾ももう一度考えよう、それと猪喰、上海上国の隊長はそちが小屋に監禁しているようだが、もっと良い家に移し優遇するのじゃ、夜の伽《とぎ》の女人《によにん》も与えよ、須恵《すえ》の首長にいえば適当な女人を宛《あてが》うであろう、それなりの代価は払うのだぞ、最後に、今から一ヶ月の間は弟橘媛の喪に服する期間とする、兵は動かさぬ、その間に上海上国とは交渉を行う、使者は久米七掬脛とする、兵は二、三人で良いであろう、何か訊《き》きたいことがあれば申せ」
倭建の声は須恵について以来、初めてといって良いくらい活《い》き活《い》きとしていた。
捕虜となっていた隊長は驚いた。小屋から連れ出され槍《やり》を持った兵に囲まれ、丘のある高台に連行されたときは、いよいよ殺されるのか、と覚悟した。
隊長も噂で弟橘媛の死は知っている。喪に服する期間があるから、その間は大丈夫ではないか、と安心していたのだが、連れ出された途端、心臓が凍った。背筋が冷たくなり足に鉛の錘《おもり》をつけられたような気がした。前に進もうとしても足が動き難《にく》い。
十歩ほど歩いたが足がもつれ、だらしなく倒れ土で頭を打ち失神した。気がつくと戸板に横になっている。頭がぼけていたせいか、殺されて運ばれている最中だな、と思った。何処《どこ》を槍で刺されたのだろうか、と手で服に触れた時、おやっ、手が動くではないか、と我に返った。
生きているのだ、しかも縄で縛られていない。だが身体《からだ》を動かした途端、殺されそうな気がして慌てて薄目になって窺《うかが》って見ると、前後計四人の兵士が戸板を運んでいる。戸板が余り揺れないのはそのせいである。二人なら歩くたびに響く。
囚人を運ぶのに何故四人もかかっているのだろう、と疑問が湧いた。この辺りは隊長になっただけに頭が働く。
薄目を開けている隊長に気づき一人の兵士が何か叫んだ。言葉が分らない。慌てて眼を閉じたが一瞬遅く戸板が地に下ろされた。
先を歩いていた兵士の長《おさ》が嬉《うれ》しそうに笑って覗《のぞ》き込んだ。眼の縁と頬に入れ墨をしている。恐ろしい顔だが笑顔のせいか猿がはしゃいでいるように見えた。
「気がついたようじゃ、何か喋《しやべ》って欲しい」
ゆっくりとした大和言葉である。捕虜の隊長は海人《あま》で、尾張や河内《かわち》に行き、そこの海人と交易した経験があった。長の話す内容は理解できた。
「やっこは何故運ばれている、殺されるのか?」
長が右手を左右に振った。
殺したりはしない、といっている。途端に安堵《あんど》感に全身の緊張がゆるみ小水が洩《も》れそうになった。
「小水が……」
「立てるか?」
おそるおそる足に力を入れると普通に動いた。
「立てる」
「逃げたりはしないのう」
数人の兵士に囲まれているし、隊長は逃亡など全く考えていなかった。殺される筈だったのに助かったのだ。それだけで充分である。隊長は立つと誇りを取り戻し胸を張った。
「おう、逃げたりはしない、やっこは上海上国軍の隊長じゃ、掴《とら》えられた鯉のように動かないぞ」
緊張のせいか尿が出難い。尿道の奥に尿が満ち溢れているのに尿道が開かない。吾は隊長だと下腹に気合いをこめると奔流のように出た。何という快感だろう。生きているからこそこんな悦《よろこ》びを味わえたのだ。放尿の気持良さを初めて知った思いだった。
小途《こみち》を少し上がると平らかな高台があった。そこには須恵の首長の一族の家が数軒集まっている。一望のもとに広々とした海や三浦半島、更に北の山々が見渡せる。西の相模《さがみ》湾の根っ子には、頂上付近に雪を残した倭国一の不二(富士)山の雄姿が他の群山を威圧するように薄雲の上に突き出ていた。
もうすぐ梅雨の季節だが、厚い雲はなかった。陽に大海原が照り映えている。海人の隊長の胸が騒ぐ。まさに絶景である。
家々は竪穴《たてあな》式ではなく、高床式に近い建て方だった。床と地面が離れていた。
贅沢《ぜいたく》な家だな、捕虜の隊長は感嘆した。
小途を上がった広場の所々は柵《さく》で囲まれ、兵士がいた。
隊長の到着を知ったらしく、部下を従えた肩幅の広い男子が現われた。眼の周囲を太い入れ墨で囲っている。長い刀を吊《つる》し、悠々と近寄ってきた。倭建王子《やまとたけるのみこ》ではないか、と隊長の足が止まった。ただ、倭建なら入れ墨はしていない筈だ。武将の一人である。
捕虜の隊長は無意識のうちに蹲《うずくま》っていた。武将は三歩ほど手前で止まると、観察するようにしげしげと隊長を眺めた。
「吾は大和王権から遣わされた友好の使者、倭建王子に仕える久米七掬脛じゃ、おぬしの名は?」
声高ではないが胸に響く力強さがあった。
「やっこは、シラナムと申します、上海上国の数ヶ村の長でございます、不覚にも捕まえられ、この様《ざま》です」
名前を訊かれたのは初めてだった。久米七掬脛の名は耳にしたことがあった。
倭建の側近中の側近である。もし殺す積りなら、久米七掬脛が出迎え、名乗ったりはしない。
「御苦労をかけた、まあ立たれよ」
シラナムは狐につままれた思いで立った。
七掬脛は自分が出て来た家にシラナムを連れて入った。隣の小屋から若い女人が酒肴《しゆこう》を運んで来た。十七、八歳で潮風になぶられ色は茶褐色だが、眉《まゆ》は濃く眼も大きい。なかなか魅力的な女人だった。坐《すわ》った際|膝頭《ひざがしら》の後ろが盛り上がったのは肉が締まっているからである。シラナムは三十代の後半である。当時では今でいう熟年に入るが、海で鍛えているだけに頑健だった。丘にいる時は毎夜のように女人を閨《ねや》に引き込んでいた。戦に動員されて一ヶ月半、女人の肌に触れていない。夢を見ては精を放出している。そんなシラナムの眼の前に甘い香料の匂いを発散させた若い女人が現われ、手の届くところに坐ったのだ。心臓の鼓動が音を立てて鳴り生唾《なまつば》が湧いてくる。
七掬脛は部屋に入った正面の壁を背にしていた。七掬脛についているのは二十歳前半のやや太り気味の女人だった。子の一人か二人はありそうである。肌の肌理《きめ》は自分についた女人よりも細かいが、どう見ても若さが違う。シラナムに酌をする女人は若鹿のような女人だった。嵌《は》めてもゆるめだな、と淫猥《いんわい》な妄想に胸中が熱くなる。この若鹿の女人に締められたなら竿《さお》がしなりそうだった。
何の目的でこんな魅力的な女人を吾につけたのか、とシラナムはいぶかった。酌だけで去られたなら気が変になりそうである。自分で放出するより仕方がないが、それでは小屋から出された意味がない。また一人で監禁されるのなら死んだのも同じだ。
だが七掬脛の眼の前で女人の手を握ったりはできない。
シラナムの顔は赧黝《あかぐろ》くなった。鼻孔が開き、全力で獣を追った犬のような荒い息を吐く。
七掬脛は手にした酒杯をあげた。
「おぬしも不運であったのう、おぬしを捕らえた猪喰の一行は、上海上国の布陣の状況を調べている最中熊に襲われ、二人の部下が喰《く》われて死亡したのだ、その騒ぎをおぬしらの国の間者《かんじや》が見つけ、矢を射、猪喰の部下の一人を殺してしまった、猪喰が怒ったのも無理はないであろう、どうじゃ?」
「はあ、熊と間者、この辺りにそんな大熊が現われたという噂は余り耳にしませんが、間者については、やっこは存じません」
「熊は何処にでも現われる、熊も獲物を追ってやって来る、山が深い浅いは余り問題ではない、猪喰が怒ったのは上海上国の熊だったということじゃ、シラナム殿だったな、やっこと卑下することはないぞ、飲もう」
「はあ……」
若い女人が身体を寄せた。香料以外に女人の匂いがする。鼻孔が更にふくれ血が脈を打ち、下半身が熱くなった。熊が現われたならそれで良い。殺された者にとっては不運だった。それであの猪喰が怒ったというのなら吾《われ》の不運である。
間者に射殺されたのは油断していたからだろう。吾が油断していたように。
もうそんな話などどうでも良い。この女人と媾合《こうごう》させてくれるのか。
「偵察隊の隊長が怒って、おぬしたちを攻撃した、どうじゃシラナム殿、武人ならその気持も分るのではないかな」
「はあ、それは……」
「おぬしから布陣の状況を色々聴いた、よく喋ってくれたと喜んでいた、王子様もじゃ、おぬしたちは、海戦には闘志を燃やすが、丘での戦いには自信がないことも我等は知った、だがのう、もしおぬしの王が、シラナム殿がそういう軍事機密を喋ったと知ればどうなる、王もお怒りだろうな」
鼻孔を拡げていたシラナムの身体が固くなった。滾《たぎ》っていた血が滞り、伸びていた鼻下が縮まる。
「久米七掬脛様、そんなことを何故王に喋られるのでしょう、それなら吾を殺していただきたい、吾の家族まで罰せられる」
七掬脛は顎鬚《あごひげ》をしごきながら旨《うま》そうに酒を飲んだ。妙な飲み方で口中の酒を舌で掻《か》き廻《まわ》しているようだ。喉《のど》を鳴らして飲みほすと、傍の女人を引き寄せ頬に口をつけた。まるで唾を肌に塗りつけているような舐《な》め方である。
シラナムの身体がまた熱くなった。殺すなら殺しても良い。その前に女人を一夜抱かせて欲しい、と下半身を疼《うず》かせた。
「シラナム殿、よく分られたようじゃ、おぬしはすでに王を裏切っている、だが、そんなことを王に話す積りは毛頭ない、シラナム殿はすでに我等の味方じゃ、ゆえに、魅力のある女人を選んでおぬしに与えた」
「やっこ、いや吾にこの女人を……」
「そうじゃ、頬を吸おうと乳首を噛《か》もうと、ホトの繁りや溝に舌を這《は》わそうと、おぬしの自由じゃ」
品のない喋り方で、まるで舌を這わせているように瞼《まぶた》を細め目尻《めじり》を下げている。それがシラナムの淫欲《いんよく》の炎をフイゴで吹かれるようにあおるのだ。
シラナムはおそるおそる女人の肩に手をかけた。七掬脛は相変わらず目尻を下げたまま頬を寄せ合って酒を飲んでいる。シラナムが何をしようと、知らぬ顔だ。
いっている事は本当のようだな、とシラナムは判断した。女人を抱き寄せたまま勢いよく飲み、空の酒杯を傍に置いた。酒よりも女人じゃ、柔肌じゃ、と喚《わめ》きたい。
女人は待っていたように頬を寄せてきた。シラナムは女人の手を握ると袖《そで》の中に手を入れた。小麦色の肌にしては手触りはなめらかだった。唾を呑《の》みながら指先で肌を撫《な》でると女人は上半身をくねらして息をはずませる。その拍子にシラナムの指先が腋窩《えきか》に達した。濃い繁りが濡《ぬ》れているのは昂奮《こうふん》しているせいであろう。シラナムは歯を鳴らして指を伸ばした。指先が繁りに包まれる。その一本一本が纏《まと》いつき身体に妖《あや》しい気が走る。汗の匂いには鼻の奥を刺すような生臭さがあった。夏の草叢《くさむら》を歩いていると時々これに似た匂いを感じることがある。それでいて何処か酸っぱい。長い間この匂いを忘れていた。
シラナムは七掬脛がいるのも忘れ唸《うな》り声に似た欲望の呻《うめ》き声を洩らした。
「シラナム殿」
七掬脛の声に愕然《がくぜん》として袖から手を抜く。指先でつまんでいた脇毛が一本ついていた。シラナムは叩頭《こうとう》しながら濡れた指先を咥《くわ》え、脇毛を舌に載せ、コンブでも味わうように噛んだ。
返事をしようとしたが舌がもつれて濁った声しか出ない。勿論《もちろん》、明瞭《めいりよう》な言葉など無理である。
「吾はこの女人と媾合《まぐわ》いたくなった、酒は酒、女人は女人、それぞれ味は違うが今は女人の方が良い、そうそう、この家は暫《しばら》くの間シラナム殿が使えば良い、おぬしの世話は傍にいる、ほら、おぬしが脇毛を、一本抜いて口に放り込んだ若い女人がすべてする、何なりと命ずれば良い、寝具を敷かせてはどうかな」
七掬脛は豪快に笑うと女人を抱えるようにして立った。シラナムの滾っていた血が静止した。二人の間は近いといっても一歩半は離れている。一本だけ抜いた細い脇毛を何時《いつ》、どうして見たのか。しかも七掬脛は傍の女人と戯れていた。鬼神のような眼力の持ち主である。この男子なら胸の中も見透かすに違いない。どんな策も通用しないのなら、一夜でも与えられた女人と媾合い悦楽を満喫した方が得ではないか。
何か魂胆があるに違いないが、逆らわぬことだ、とシラナムは自分に納得させた。
「あの、寝具はどう致しましょう」
女人がなまめかしい眼を向けた。止まっていた血が再び滾りはじめた。
「おう、頼むぞ」
シラナムは奥歯に引っかかっていた脇毛を噛み切ると、酒と共に胃に流し込むのだった。
七掬脛がシラナムに与えた女人は、須恵の首長に仕える女人の一人だった。貴重な飾り物と交換に得たのだが、女人や家族にも貝輪やガラス玉などの財貨を与えた。女人を選ぶに際して、大事なのは閨での媾合が好きでなければならない。シラナムを溺《おぼ》れさせるだけの魅力が必要である。そのためには女人自身が媾合に熱心であることだ。
義務で閨を共にしても男子は満足しない。時にはしらけて、こういう女人は要らないと言い出すかも分らない。
七掬脛は須恵の首長と会った時から、シラナムに与えた女人に眼をつけていた。本当は自分が貰《もら》いたいくらいだった。
贅肉《ぜいにく》のない若鹿のように締まった身体と濃い眉を見た瞬間、情の濃い女人と睨《にら》んでいた。彼女の役目はシラナムを溺れさせることである。男子は女人に溺れると大抵のことはする。
七掬脛はシラナムに与える前に女人にいった。
「大事なのはそなたの魅力じゃ、それとおおいに愉《たの》しめば良い、そなたが愉しければシラナムは溺れる、本当は吾も媾合いたいが、残念じゃ」
「私も……」
女人は頬を微《かす》かに染めながら妖しく光った眼を向けた。七掬脛は彼女の手を取りたくなったが、任務に私情はならぬ、と自分にいい聞かせて我慢したのだ。
ここまで来る間に七掬脛は大勢の女人と閨を共にしている。通る国々の王や首長が夜の伽《とぎ》の相手として若い女人を与えてくれるのである。それは当時の風習だった。
気前の好《よ》い王の中には、何人もの女人を酒席にはべらせ、好きな者を選んでいただきたいという者もいる。
吉備武彦にも同じように夜の伽の女人が与えられた。それが習慣だから遠慮したりはしない、断ることは、もてなそうとしている相手に対して失礼にあたる。
当時、儒教の礼の思想は倭国《わこく》に入っていないが、相手に悪いという気持は、失礼だというのと大体同じである。儒教が入らなくても、主君に忠節を尽くし、親に対しては、喜ばせたいと思うのは人間の自然な気持だ。
実際、武彦、七掬脛、猪喰など、大和王権内での出世に不利だと感じていながら、倭建に懸命に仕えている。後の忠という思想を知らなくても生命《いのち》懸けで仕えたいという主君はいるのである。
人間の気持とはそんなものなのだ。
それにしても妙なのは丹波猪喰だった。倭建のためなら死をいとわないで生きている武人だが、女人に対する欲望をどう処理しているのか、見当がつかない。
猪喰にも夜伽の女人、という首長がいるが、受けたことは一度もなかった。大伴武日がいた時、身内の酒盛りで女人の話がよく出た。武日は七掬脛に負けない女人好きだった。酒席は盛り上がる。
女人の話となると黙々と酒を飲む猪喰を見て、七掬脛が笑いながらからかった。
「のう猪喰、おぬし女人嫌いは異常だぞ、まさか阿豆那比《あずなひ》ではあるまいな」
阿豆那比とは、同性愛の古代語である。
途中から倭建の側近となった猪喰は、酒を飲んでも先輩に一歩身を引いているところがあった。
そんな猪喰の顔色が珍しく変わった。
「七掬脛殿、いって良いことと悪いことがあるぞ、その言は二度と口になさるな」
数百丈もの地の底から吐き出された炎のような凄《すご》さが感じられた。猪喰と親しくなって初めての圧迫感だった。
剽軽《ひようきん》な七掬脛も心の躱《かわ》しどころがなかった。
「冗談ではないか、これぐらいのことで同じ仲間に牙《きば》を剥《む》くとはのう、見損なったぞ」
「おぬしは母親と媾合った、とからかわれて平気か?」
「何だと……」
「顔色が変わったな、牙を剥いている」
そういうと猪喰は酒盛りの席から去った。武日が真面目な顔でいった。
「猪喰の女人嫌いには、どうやら深い理由があるようだ、これから猪喰の前では女人の話は止《よ》そう」
「うむ、吾《われ》も悪かった、あの反撃には驚いた、これまでの猪喰らしくない」
七掬脛の呟《つぶや》きに武彦が頷《うなず》いた。
「誰にも話したくないのだ、猪喰が我々の酒盛りに余り顔を出さないのも、女人の話から逃げているのだ、それにしても七掬脛殿、阿豆那比は酷《ひど》い、謝っておいた方が良いぞ」
「おお、そうする」
翌日、七掬脛は猪喰に謝りに行った。
七掬脛がやって来た胸中を読んだらしく、猪喰は照れたように眼を伏せた。
「七掬脛殿、吾がどうかしていた、寝不足で悪酔いしていたのじゃ、おぬしの冗談に顔色を変えるなど、吾ではない、妙な鬼神に憑《つ》かれていたのじゃ」
猪喰に謝られ、七掬脛は改めて、好い男子だと、これまで以上の親しみを感じ、仲好くつきあった。
ただ、女人に対してだけは、一体何故だろう、という疑問は消えなかった。
七掬脛が倭建の許可を得てシラナムに魅力ある女人を与えたのは、彼を味方にするためだった。
シラナムは倭建の使者となった七掬脛と共に上海上国に戻る。自国について求められた情報も喋《しやべ》り、倭建に弱みを握られている。その上、酒池肉林の待遇を受け、夢のような日々を過ごした。
七掬脛は三日に一度シラナムに会い、国に戻れば、倭建が如何《いか》に人間味|溢《あふ》れる王子であるかを告げるように説いている。百人の兵にも負けない勇猛な王子であることは東の国々に知られているが、人間味については皆無だった。
七掬脛は会う度にシラナムを洗脳していった。
「分っております、倭建王子様は百人力の豪傑ですが、愛の神にも似た暖かい王子様でもあります、ゆえに親しく迎えられるよう吾はお願いします、捕虜になり、想像もしていなかった暖かい待遇を受けました、噂により痛めつけられ嬲《なぶ》り殺しにされると覚悟していたのですが、噂とは好い加減なものです」
嘘でないことはその表情を見れば分る。
実際シラナムは、須恵の都に連行された時は、死を覚悟していたのだ。
七掬脛の報告を受けた倭建は、思わず手で膝《ひざ》を叩《たた》いた。
シラナムの報告は間違いなく上海上国の王の気持を和らげるであろう。それなら、倭建の力で廬原国《いおはらのくに》の王となった根子王《ねこのおう》が当地に来、倭建と共に上海上国を訪れれば、王は他の王族や重臣が何といおうと、倭建を畏敬《いけい》の念で迎えざるを得ないであろう。
戦をしなくても済む。
何故そのことが思いつかなかったのか、と倭建は自分の頭を打ちたかった。多分、平和裡に進むよりも、上海上国との戦に囚《とら》われていたに違いなかった。
余りにも激しい戦をこえてきた。戦塵《せんじん》が肌や肉に染みて取れなかったせいであろう。上海上国も毛野国《けぬのくに》と手を結んでいる以上、刃向かうであろうという先入観があった。
だが、これからは違う。場合によっては自分が一歩下がっても、友好の使者として無事に大和《やまと》に戻らねばならないのだ。
弟橘媛が死んだのも、自分が父王によって東征の旅に出されたからではないか。
敵は東国よりも大和かもしれぬ、と倭建は唇を結んだ。倭建を敵視しているのは、父オシロワケ王だけではない。皇后ヤサカノイリビメ、イホキノイリビコ王などの王族、数えられぬほど多い。腹の黒い物部十千根も父王の意を受け、何かと策謀している。
希望という雲を払い現実を直視すれば、今の大和には、倭建の居場所はないのだ。
倭建は武彦と猪喰を集め廬原国の根子王をこの地に呼ぶ旨を述べた。
「駿河《するが》は遠い、だが海路を取り往復十日あれば充分であろう」
三人共、ほう、という顔をしたが異存はなかった。
ただ若い根子王は倭建の力によって王位に即《つ》いたばかりである。国を空けている間に他の王族が謀反を起こさないか、という不安はあった。三人の表情を読み、
「吾もそれが不安じゃ、ただ母の蚊姫《かのひめ》はしっかりしている、国を空けるというのも一月くらいじゃ、いいか、吾に斬られる筈だった根子王子を吾は斬らなかった、その後、根子王子は吾に次のように申した」
倭建はその時の光景を思い出しながら根子王子の言葉を繰り返した。
『倭建王子よ、王子がどういう人なのか吾にも分らなくなった、王子は雷《いかずち》の鬼神をもひしのぐ獰猛《どうもう》な王子と聞いていた、征服すれば女人や子供をも殺すと……だが王子は強いだけではない、人を魅了する優しさがある、いや包容力かもしれない、何故か?』
倭建が口を閉じると一同が強く頷く。皆、覚えているのだ。
「今の吾は根子王子の讃辞《さんじ》が欲しい、必要なのだ、上海上国王と談笑しながら酒杯を傾けるために、根子王の讃辞が要る、シラナムの言も効果があるが、廬原国の王の言となれば、上海上国王も風説にまどわされず吾を見直すであろう」
「おう、よく分りました、吾が使者として廬原国に参りましょう」
武彦が今にも飛び出しそうな口調でいった。倭建は首を横に振った。
「武彦は吾や廬原国王と共に上海上国の王と会わねばならぬ、使者は猪喰じゃ、戦をしないためにも廬原王の同席が必要なのだ、と説いて欲しい、吾が切に望んでいると……」
「はっ、遠淡海《とおつおうみ》の船がまだ三|艘《そう》も残っています、それで行きましょう」
猪喰は淡々と答えた。
[#改ページ]
八
猪喰《いぐい》に捕らえられた上海上国《かみうなかみこく》の隊長・シラナムは倭建王子《やまとたけるのみこ》の意向通り、王子が友好のために訪れることを上海上国王に伝えると約束した。
約束を破れば、シラナムが上海上国の布陣について倭建に喋ったことがばれる。死は間違いない。それに、どうやら倭建は戦をする意志が全くないようだった。
廬原国《いおはらのくに》王になった根子王子《ねこのみこ》も、倭建の訪問の意を伝えるべく、間もなく来るという。それを上海上国王に伝えるのもシラナムの役目だった。
シラナムは迷わなかった。女人を与えられ歓楽の夜を何日か過ごした今となっては、戦が馬鹿らしく思えた。それよりも平和に暮らす方が良い。
二日間降っていた雨がやんだ日の朝、シラナムは久米七掬脛《くめのななつかはぎ》と上海上国に向かった。七掬脛は倭建から王に賜わる銅鏡を持参している。
銅鏡には銘文が刻まれていた。
呉《ご》から倭国《わこく》に渡来した工人が作った三角縁神獣鏡《さんかくぶちしんじゆうきよう》である。東海地方から北部九州まで行き渡っているが、上海上国王は手にしていない。
銘文の意味は、海東に遊びこの明鏡を作る、この鏡を持つ者は子孫が長生きする、というものだった。七掬脛は数人の従者を連れている。
ただ、上海上国王が、どういう態度をとるかは分らない。シラナムは、捕虜というよりも客として厚遇された、と話す積りでいるが、王が信じるかどうか不安だった。
一行は山間の小道を北に向かう。峻険《しゆんけん》な山がなく、切り立った崖《がけ》も余りないので、久米七掬脛には平野を歩くようなものだった。一刻ほど行くとシラナムの顔が強張《こわば》りはじめた。小丘を登り、遠くの小山を指差して、兵が布陣しているという。
七掬脛は欠けた歯を見せて笑うとシラナムの尻《しり》を叩《たた》いて励ました。
「のうシラナム殿、おぬしは数ヶ村の村長でもあり、隊長ではないか、それに捕虜ではない、王子様の客として滞在した、戻る前に何度も王への報告は練習したであろう、丘から転落し、長い間|昏睡《こんすい》状態だった、気がついても足が攣《つ》って自由に歩けず、回復するまで滞在していたのだ、女人を与えられたことなど喋らなくても良いぞ、王を裏切ったのではないかと疑われるからのう、今のおぬしは王子様の意を伝えるべく上海上国に戻る使者でもある、何度も練習したように敵軍、いやいや、上海上国軍に会えば、胸を張って堂々とその旨を告げる、どうもいかんのう、顔が強張っている、空を見上げ、天に向かって怒鳴る積りで声を出すのだ、さあ、ここで練習じゃ……」
「そういわれても、急には……」
頑丈な身体に似ず、気の弱いところがあるらしく、落ち着きがなく周囲を見廻《みまわ》す。
「のうシラナム殿、小屋に監禁されていた時は、死も覚悟していたではないか、殺される前に腹一杯飯を食べたい、女人と媾合《まぐわ》いたいと喚《わめ》いたと聞いたぞ」
七掬脛がにやっと笑うと慌てて首を振った。
「それは嘘じゃ、吾《われ》は戸板で運ばれ、女人を宛《あてが》われた、男子なら誰だって媾合いたくなる、吾は喚いたりはしない」
流石《さすが》にシラナムは必死になって弁明した。
おう、その調子じゃ、と七掬脛は頷《うなず》いた。
「今のはいい過ぎ、兵士たちは勝手なことをいうからのう、まあしかし、おぬしは一時死を覚悟した、放尿する時も、上海上国の隊長だ、じたばたしない、と兵士共を睨《にら》みつけたではないか、吾は隠れて見ていた、ああ、立派な武人だと感心した、尿も雨垂れではなく豪雨のように勢いが良かった、それに股間《またぐら》の男子もなかなかのものじゃ、吾と良い勝負」
「いやいや、それほどでもないが」
シラナムは口をへの字に結んで顎《あご》を撫《な》でた。思い出した。最初は出難く、脂汗が身体中に滲《にじ》んだが、吾は隊長だ、隊長だと下腹に気合いを入れていると奔《はし》り出た、自分で感心するほど勢いが良かった。
この久米七掬脛は、勢いの良いところだけ見たに違いない。倭建軍の副将軍格の男子が本気で感心していると思うと、自信が湧いてきた。
シラナムは、吾は隊長だと何度も腹の中でいい聞かせた。恐怖心が薄れてゆく。
自然にシラナムの腰が据わり胸が拡がる。眼光も鋭くなってきた。
「のうシラナム殿、この大役を立派に果たせばおぬしは王に認められ、出世をするぞ、将来は外交の長として重宝がられるかもしれない、力が強いだけではせいぜい門番の長か、まあ出世しても大隊長どまりだな、だが外交の能力を認められれば王の側近として取り立てられる、嘘ではない、分るだろう」
「そうだな、しかし七掬脛殿は口が旨《うま》い」
シラナムは顎先を引っ張り何となく空を見た。
これで大丈夫だが、もっと自信をつける方法はないか、と七掬脛は周囲を見廻した。数匹の猿が木の枝に坐《すわ》り、幹に縋《すが》って立ちながらこちらを窺《うかが》っている。
シラナムを更に乗せるために道化役を演じた方が良いと思った。
長《おさ》の大猿は木ではなく繁みに覆われた岩の上にいた。顔だけ出して二人を窺っている。流石に長らしく食物を持っていない。眼つきが鋭く、少しでも危険があれば全員に知らせるべく身構えている。
七掬脛は従者に、喋《しやべ》っても良いが静かにしているように命じた。胡坐《あぐら》をかいて坐り、腰に巻いた布を出して、頬被《ほおかぶ》りにした。大猿は何事かと眼を凝らすが微動だにしない。
七掬脛は笑いながら手招く、これも反応がない。猿を傍に寄せるのは這《は》うのが一番だ、と祖父に聞いたことがある。
七掬脛は、シラナムの周りを這って歩いた。絶えず大猿に微笑みかける。特技は声色の物真似だ。大猿の視線は七掬脛一人に注がれていた。眼つきが和らかくなっているのは、警戒心が薄れたせいである。仲間を呼ぶ際の猿の動作を思い出しながらキーキーと声をあげた。シラナムが吃驚《びつくり》して首を伸ばした。
猿とはゆかないが人間の声ではない。這いながら頬被りを取り、口に咥《くわ》えて左右に振った。布がゆっくり揺れる。
七掬脛が自分に呼びかけているのを大猿は感じたようだ。大猿の眼が布を見ている。這いながら尻を持ち上げ咥えていた布を取り、片手で大猿に差し出す。両足と一本の手で這わねばならない。前に進む時にどうしても身体が揺れる。
大猿は興味津々の面持ちである。この姿勢で襲って来られないことを大猿は知っている。布を差し出しているのは、自分にくれるということか。大猿も小首をかしげた。七掬脛は差し出している布を咥えた。大猿は怒って歯を剥《む》いた。くれるといっているのに、何故咥えたのか、嘘をついたのか、と今にも怒りの声を発しそうである。
もう警戒心はない、布を貰《もら》いたいのだ。
「シラナム殿、吾に乗れ、早く」
「えっ、吾が七掬脛殿に……」
「そうだ、おぬしは吾の背にまたがる、馬を知っているか?」
「一度見ましたが、交易で運ばれてきた馬です」
「敬語は要らぬ、そろそろ高句麗《こうくり》のように馬に乗って走り廻る時代が来る、王子様も一頭持っておられる、尾張に置いてきたが」
喋る時は布を口から取らなければならない。大猿に差し出すのだ。大猿が初めて声をあげた。間違いない、布が欲しいのだ。
猿以外の獣は布に余り興味を抱かない。人間に一番近い獣はやはり猿か、と七掬脛は妙に感心した。
「早く乗れ、猿が逃げる」
シラナムは思い切って七掬脛の背にまたがった。外見よりも骨格がたくましく頑丈な背中である。足が地面につかないように膝《ひざ》を折った。
「いいか、吾は布を咥える、吾が声をあげたならおぬしが布を取る、だが歯で噛《か》んでいるからなかなか取れない、おぬしは力を込めて取る、吾は這いながら怒った真似をする、分ったな」
「うむ、分った、しかし何故?」
「まあ見ておれ、今に分る」
七掬脛は腹に力を込めた。流石に重いが布を咥えたまま黙々と這う。時々大猿の方に訴えるような眼を向ける。
大猿は考え込んでいた。七掬脛が一行の長だと思っていたのに乾分《こぶん》が乗った。どうして長の地位を奪われたのか、と思案気だった。どうも布を咥えながら自分に救けを求めているようだ。
頃合を見て七掬脛は、布を取れ、とくぐもった声を放った。
シラナムが手を伸ばし布に手をかけた途端、大猿は岩から跳んだ。猛烈な勢いで、キャッと声をあげ突進してきた。
「今だ、早く取れ」
だが海人《あま》のシラナムは魚を捕ることは慣れているが、大猿に襲われたのは初めてである。噛みつきそうな大猿の形相に驚愕《きようがく》し、布を取るのも忘れて逃げようとし、無様に転落した。度胸のない男子である。
舌打ちした七掬脛は、布を取り、大猿に差し出した。
大猿は腕を一振りして布を取り、嬉《うれ》しそうに跳び跳ねた。
腰をさすりながら起きたシラナムを、歯を剥いて威嚇《いかく》した。
「よしよし、その布はそちにやる、頭に被ってみろ、案ずることはない、長は吾じゃ」
驚いたことに大猿は七掬脛の言葉が分るらしく布を頭に載せた。七掬脛が拍手するとまた跳ぶ。何時《いつ》の間にか数匹の猿が周りを取り巻いた。
七掬脛が、心配はないぞ、とシラナムの手を取り引き寄せると、周りの猿たちが嬉しそうに囃《はや》したてた。
「いや、七掬脛殿恐れ入りました、まさしく倭建王子様の副将軍、この猿たちと言葉を交わし、心を通わせるとは並の男子ではない、向かうところ敵なしという王子様軍の強さを知らされた思いです、吾は懸命に平和を説きます、戦っても到底勝てぬ」
シラナムは坐りなおすとしみじみとした口調でいった。その声こそ力強く本物である。
どうやら猿との交流は、七掬脛が期待した以上の効果をあげたようだった。
「おう、シラナム殿、よくいってくれた、もう何もいい足すことはない、これからのことはおぬしにまかせる、頼むぞ、戦は無意味じゃ」
「その通りです」
一行は間もなく猿たちに見送られて上海上国に向かった。
一刻《いつとき》後、狭い谷間の川の傍で、一行は上海上国軍の兵に取り巻かれた。
シラナムは別人のように堂々としていた。
「吾は上海上国軍の隊長シラナムじゃ、ここの隊長を呼べ」
兵士の中にはシラナムの顔見知りもいて、「シラナム様、御無事でしたか?」と声をかける者もいた。現われた隊長は隣村の村長・タグノだった。海人仲間で、共に漁に出たこともある。
「無事だったのか、驚いたぞ、おぬしは捕らえられ、拷問を受けて死んだという噂じゃった、それにしてもその男子は?」
タグノは板甲《いたよろい》を纏《まと》い、頭に竹を連ねた冑《かぶと》を被っている。腰の刀は一昔前の銅剣である。兵たちの中には、棒に銅剣をつけた槍《やり》を持っている者もいた。
「倭建軍の副将軍、久米七掬脛様じゃ、友好の証《あかし》に素晴らしい銅鏡を我等の王に賜わるべく、倭建王子様の使者として来られた、間もなく廬原王となった根子王子も到着し王子様が友好の使者であることを説かれる筈《はず》じゃ」
七掬脛に親愛の情を抱いたシラナムは、熱気|溢《あふ》れる口調だった。猿たちが七掬脛に従ったことも話したかったが、それは酒盛りの際でも良いと思い直した。
人間というのは一寸《ちよつと》したことによって大きく変わる。シラナムが七掬脛に好感を抱いたのも、女人や酒肴《しゆこう》を宛《あてが》われたせいだけではない。それだけなら、相手が何を計算しているのだろう、と疑いの気持が消えない。七掬脛のために熱弁をふるったりはしない。人間対人間の親愛感がシラナムを別人のように変えたのだ。
七掬脛が微笑を送ると、隊長は慌てたように叩頭《こうとう》し、シラナムに、
「大隊長のもとに行くか」
「大隊長はウロコ王だったな」
「そうじゃ、王の甥《おい》じゃ」
「うむ、一度お目にかかったことがある、連れていってくれ」
隊長に案内二人、七掬脛の一行は王都の方に向かった。それには小櫃《おびつ》川の支流沿いに丘を越え、養老川の上流に出ねばならない。その辺りは丘陵と丘陵の間の平地である。田畑もあり、二里ほど北西に進めば現在の市原《いちはら》市に達する。上海上国の都である。都といっても集落が集まり王都は環濠《かんごう》に取り巻かれている。
多少の起伏はあるが田畑が多く、山間の盆地を進むようなものだ。
地形を見て久米七掬脛は、両側の丘陵に上海上国軍が潜んでいるのは間違いないと視た。
もし倭建軍が進撃して来たなら挟み撃ちにする積りであろう。前後左右からの攻撃を受ける。
七掬脛は川の傍で上海上国の使者を待つことにした。タグノとシラナムがいる以上、不意打ちをかけられることはないだろうが、用心に越したことはない。七掬脛が迎えを待つというと、タグノは不機嫌になった。自分を信じないのか、という。
「おぬしもシラナム殿も信じる、ただ、ここから都にかけては、最も大事な地じゃ、かなりの軍勢を小山に潜ませているに違いない、将軍格の大隊長は、吾《われ》が使者であるのを知らない、捕虜にしようと襲って来る危険性がある、おぬしとシラナム殿は一走りし、ウロコ大隊長に吾が上海上国王に、友好の証として鏡を持参している旨を告げて欲しい」
二人は顔を見合わせたが、シラナムはタグノを川岸に呼んだ。
七掬脛の提案を受け入れるかどうかについて相談している模様だった。シラナムの説得が利いたのか、タグノは承諾した。
シラナムは、念のためにタグノの部下を十人ほど警護兵として残しておくが構わないか、という。七掬脛が妙な行動に出ないか、また逃げないか、と疑っているのであろう。
警護兵というより監視の兵である。
「当然のことじゃ、なるべく早く頼むぞ」
七掬脛は苦笑を笑顔に変えた。
この十人なら七掬脛一人で倒せるからだ。
「七掬脛殿、何かその、友好の証はないか、あれば持参したい」
タグノの眼が腰の刀に向けられた。
柄《つか》の頭に環がついている。長い鉄刀でタグノの銅剣とは較べものにはならない。
「分った、この鉄刀を渡そう、これを示せば信じていただけると思う」
シラナムは、済まない、と軽く叩頭した。
三斤以上もある重い鉄刀を受け取り、一瞬腕に力を込め驚いたように刀を見返す。こんな重い刀を持っている者はいない。今更のように倭建軍の力を感じたらしい。
二人が去った後、七掬脛は葦《あし》の生えている川岸に腰を下ろした。
タグノの部下たちは一塊になって立っている。七掬脛が刀を渡したので皆、安心した表情である。こういう時のために須恵《すえ》国から通訳を一人連れてきていた。通訳なしでは、会話が旨《うま》く交わせない。東国でもこの辺りになると武蔵から毛野国《けぬのくに》の発音が混ざり聞き取り難《にく》い。
「気を楽にして休むように伝えよ、吾は少し眠る」
七掬脛は草を根っ子から引き抜き集めて枕にした。仰向《あおむ》いて寝転ぶと眼を細めて雲を眺めた。倭国《わこく》の果て近くまで来たような気がする。上海上国と戦火を交えず友好|裡《り》に通過できたなら、もう戦をすることもないだろう。流石にほっとした思いである。大和を発って一年、妻子の顔を思い出したことは一度もなかったが、脳裡《のうり》にふと浮かんだ。
無意識に微笑が浮かび瞼《まぶた》が重くなった。
七掬脛は草叢《くさむら》が慄《ふる》えるような鼾《いびき》をかいて眠った。半刻ぐらい眠ったろうか。
足音で眼が覚めた。
眼をこすり上半身を起こすと十数人もの兵士がやって来る。鉄の短甲に冑を被《かぶ》った武将である。タグノがいった王族の大隊長かもしれない。
傍にタグノがいた。シラナムの顔が見えない。王に報告すべく都に行ったのかもしれない。友好の使者となった以上、何事に対しても、余り神経をたてない方が良い。
奥歯を噛み締めて立った。
タグノは七掬脛の刀を持っていない。
鉄甲の武将は十歩ほど前で止まった。タグノの部下たちは蹲《うずくま》り、武将に向かって叩頭した。
武将は七掬脛に負けないほど眉《まゆ》が濃く、眼が大きい。鼻はややひしゃげているが顎髭《あごひげ》は密生し黒く光っていた。入れ墨はしていないが、自分の同族のような気がした。
毛野国の血が入っているのかもしれない。
久米七掬脛も体毛が濃く、股間《こかん》の繁りは臍《へそ》の辺りまで帯のように続いている。
「タグノ殿、吾の刀は?」
「シラナムが持ち、王に報告に参った、我等の将軍ウロコ様じゃ」
「それは光栄、吾は使者だから吾の方から挨拶《あいさつ》せねばならない」
七掬脛は通訳を呼びウロコ将軍に近づいた。
ウロコは眼を剥《む》き、傲然《ごうぜん》と立っている。
ただ友好の使者だが服従したのではない。七掬脛もウロコの眼を睨《にら》むように見てゆっくり歩いた。刀がないので何となく腰が軽い。
二歩手前で止まると視線を外さず底力のある声でいった。
「吾は倭建王子様に仕える久米七掬脛、我等の祖国は遥《はる》か西の国、火を噴く阿蘇《あそ》山の近くの首長、この度、友好の使者としてはるばるこの地に参った。上海上国王に王子様から預った大和《やまと》の鏡をお渡ししたい、受け取っていただければ、王子様は友好国の廬原国王と共に王に会われるであろう、お出迎え御苦労じゃ」
通訳が腰をかがめて伝えた。
ウロコは聴いていたが、通訳にもう要らぬ、といった。
「使者殿に訊きたい、友好の使者というが、これまで倭建王子は戦を重ねて来た、それで友好関係を結びに来たといえるだろうか、その獰猛《どうもう》ぶりは我等の耳に入っているぞ」
通訳を排除したのは、七掬脛の口上を理解したからであろう。
ウロコの言葉も聴き取り難いが、大体理解できた。大和や尾張から来る交易の商人と会っているからに違いなかった。
「その点については、王子様から王に話されるであろう、東の国の中には我等の訪問を戦に来たと勘違いし、軍を召集、攻撃を仕かけてくる国がある、たとえば遠淡海《とおつおうみ》国などがそうじゃ、王子様を迎え入れようとした王を子の稚《わか》王子が監禁し、我等を攻めてきた、王子様としてもだな、戦わざるを得ない、監禁されている王を解放せざるを得ないわけだ、正統な王だからのう、げんに王子様によって解放された王はおおいに喜び、王子様のために水軍を差し出し須恵国まで送っている、もし王子様が噂のように獰猛なら、そこまでするであろうか、おぬしは上海上国の王族で、王都を守る将軍でもある、洞察力は抜群の筈じゃ、吾の申したことが嘘か本当か、理解していただけると思うぞ、廬原王が王子様と共に来るのも、そういう誤解を解くためじゃ、分り難かったなら通訳に話させようか」
「いやいや、大体分る」
「大体では駄目じゃ、ちゃんと分って貰《もら》わなければ、真実が曇り、見えてこない場合がある、おい、通訳」
七掬脛は自分が話したことを喋《しやべ》り直し、ウロコ将軍に話すように命じた。
ウロコは渋い顔になっていった。
「通訳は要らぬといったであろう、それに二度も話したわけじゃ、大体でなく、全部分る、まあ、我等の王が王子から聴くことになる、それで判断される」
「おぬしが前もって王に伝えておく義務がある、おぬしは王の代理として吾の言を聴いている、伝えぬというのはおかしい」
「おかしいとはどういう意味か?」
ウロコは顔を赧《あか》くすると七掬脛の前に立ち塞《ふさ》がった。眼を剥いて睨みつけた。場合によっては王子の使者とはいえ容赦せぬ、と殺気が走る。
タグノが慌てて腰をかがめていった。
「ウロコ様、どうか穏やかに……」
「ウロコ将軍、吾を斬るなら刀を抜かれよ、吾は刀を帯びていない、魚を斬るようなものじゃ、上海上国には、おぬしのような将軍が多いのか……」
七掬脛は胸を叩《たた》き天を仰いで哄笑《こうしよう》した。
ウロコは真顔になり歯ぎしりした。確かに何時の間にか刀の柄に手をかけている。そういえば七掬脛の腰には刀がない。
こいつは何という男子だ、吾が刀を抜くのを愉《たの》しんでいるようだ、度胸のある男子じゃと感心した。
ウロコは舌打ちして刀から手を離した。
「のう使者殿、おかしいとはどういう意味か、ちゃんと説明していただきたい」
「簡単なことじゃ、使者の言を王に伝えぬというのは、何か腹に一物があるからではないか、伝えたくない何かが……」
「冗談ではない、腹に一物などない、おぬしは吾を怒らせるようなことばかりいう、吾は間違いなく使者の言を伝える、だがのう、正式に伝えるのは倭建王子ではないか」
「勿論《もちろん》だ、おぬしの王が正確な情報を持っておられるのと、歪《ゆが》んだ意見に耳を傾けられるのとでは、王のお考えはおおいに違ってくる、吾はそれをいっておるのだ、おぬしは私情を捨て、吾の言を伝える義務がある、それが忠臣というものだ、さっきもいったように遠淡海の稚王子の反逆は、王子様が王を救い出さなければ国が滅びていたところじゃ」
七掬脛は、おぬしは稚王子ではあるまいな、と腹の中を窺《うかが》うような眼を向け、にやっと笑った。
「うぬ、いわせておけば……」
ウロコは顔を真赫《まつか》にしたまま地団駄踏んだ。
おぬしが刀さえ持っておれば、といいたそうだ。こういうこともあろうかと思い、七掬脛は刀を渡したのだ。
ウロコは直情径行らしい。こういう人物はまず腹に一物がない。
七掬脛は後方の樹林で猿のあげた声を聞いた。おやっと振り返ると例の大猿が木の枝に坐《すわ》り歯を剥いている。
七掬脛を慕いここまで付いて来たらしい。乾分《こぶん》の猿もいる。胸が熱くなった。人間よりも誠実な猿だ。
七掬脛が大猿に顔を向け、来いよ、といわんばかりに口を鳴らすと枝から跳び降り跳ねるようにしてやって来た。大勢の猿が後に続く。
「な、何だ、あの猿共は?」
「吾を慕って来たらしい、吾はおぬしと容貌《ようぼう》や体型が似ているが、昔は山人族、猿に好かれる、なあに、危険ではない、ただ、人の真似をするのが旨い、多分、おぬしの様子をじっと見ていた、何なら頭から湯気を立てているおぬしの真似をさせようか……ほら、大猿は腰に手を当てている、おぬしが刀に手をかけているからじゃ」
ウロコは慌てて刀から手を離した。
「何故おぬしを慕った?」
「吾の腹に猿に対する愛情があったからだ、大猿はそれを見抜いた、それだけのことじゃ」
ウロコは腕を組んで大猿を眺めた。
「吾の腹に一物があったならこの猿は見抜くか……」
「ああ、見抜くであろう、歯を剥いて叫び、吾に危険じゃ、と知らせる」
「吾の腹には一物がない、吾が呼べばこいつは寄って来るかな」
「その顔では無理じゃ、猿の長《おさ》を疑っている、私情を捨て吾と握手をする、大猿はおぬしの顔が誠実か、腹に一物があるかを判断する、大猿が信用すれば、寄って来る」
「うーむ」
ウロコは天を仰ぎ川下の方を眺めた。上海上国の都がある。
ウロコ将軍は倭建軍が攻めて来たなら、死を覚悟で戦う積りだった。ただ友好の使者で戦が目的ではないのなら、民を苦しめる戦はしたくなかった。何が何でも戦うという主戦論者ではない。
これまで七掬脛が話した内容を考えると、友好が目的のような気がする。確かに遠淡海の水軍は倭建軍を守るようについて来ている。倭建を少しでも憎んでいたなら、絶対有り得ないことである。それに廬原王も倭建の真意を告げに来るという。
新王となった根子王子が、上海上国王に会いに来るというのは、倭建の人柄に惹《ひ》かれたからであろう。
七掬脛を王都に連れて行き、まず使者としての口上を述べさせよう。
ウロコ将軍は自分に誓った。自分の考えは会議の場で述べれば良い。上海上国にも稚王子のような強硬派がいる。彼等をどう抑えるかが国を愛する我の義務だ。
この七掬脛は生意気で口が達者だが、根は堂々としており胆が据わっている。腹は立ったが、何故か親近感が湧く。
「おう、では手を結ぼう」
二人の手が結ばれた。
「どうだ、力を出し合うか?」
七掬脛の言葉にウロコは、
「おう、童子から櫂《かい》を漕《こ》いだ手だぞ」
「よし」
二人はお互いの拳《こぶし》を潰《つぶ》さんばかりに力を入れた。自慢しただけに大変な力だ。ただ七掬脛は猿に似て腕が長い。長さの分の力を掌《てのひら》に集めた。二人の顔は火のように真赫になった。
大猿が跳び廻《まわ》り長い腕を二人に差し出した。もう好《い》い加減にやめろ、といわんばかりに声をあげた。単純な男子だ、と笑っている。
「いや参った」
七掬脛の声と同時にウロコも降参した。ほぼ同時だったが、二人は、おぬしの勝ちだ、といい合う。
大猿が両手を打つ。勝負はつかず、といっているようだ。
「どうじゃ、吾《われ》の腹に一物があるか?」
ウロコが自分の腹を指差すと、言葉が分るのか、大猿はウロコの腹に鼻孔を寄せ、キーキーと叫んで跳ねた。
「ウロコ将軍、何もないようだな、あれば顔を寄せない」
「やっと分ったか、それにこの猿は嬉《うれ》しそうじゃ」
ウロコは部下に命じ小袋に入った焼米を大猿に渡した。それを見た十数匹の猿たちが一斉に歓声をあげる。匂いで焼米だと分るらしい。
大猿は小袋を咥《くわ》えると跳びながら戻って行った。
猿たちの声が次第に遠くなる。
「七掬脛殿、急ごう、雲が出てきた」
一行は王都に向かった。
[#改ページ]
九
廬原国《いおはらのくに》の根子王《ねこおう》が数|艘《そう》の船を率い、倭建《やまとたける》のもとに来たのは久米七掬脛《くめのななつかはぎ》がシラナムを連れ、上海上国《かみうなかみこく》に発《た》ってから三日後だった。
戦を避けるために呼んだのだ。倭建の胸中を察した根子王は甲冑《かつちゆう》を部下に持たせ、麻の上衣《うわぎ》と袴《はかま》姿である。
髭《ひげ》を生やし、一段とたくましくなっていた。倭建は高台の屋形の前で坂を上ってくる根子王を迎えた。
倭建の姿を見た根子王は、懐しさの余り走り出そうとしたが、立ち止まり叩頭《こうとう》した。
部下たちも一斉に叩頭した。
王は替ったが、廬原国は倭建軍と戦ったのだ。その国の新王となり、今、東国の平和のために根子王は海を越えて来てくれた。
根子王が、果たして来るかどうかは疑わしかった。部下の中には、倭建に好《よ》い感情を抱いていない者もいる筈《はず》だ。また、王になって日がたっていないのに国を空けることへの不安感がない筈はない。
根子王に好意的な豪族の中にも反対論があったに違いなかった。
それらを説得し根子王はやって来た。倭建のためだ。
眼を赧《あか》くするのもまた武人である。
「来たか……」
倭建は自分に呟《つぶや》く。だが、抑えきれずにその声が次第に大きくなる。
倭建は一歩、二歩と前に進んだ。威厳を示すためにこの場に悠然と立っているような気持にはなれない。
今は威厳など唾《つば》と共に捨てれば良い。
根子王が来るかどうかで吉備武彦《きびのたけひこ》が眼を剥《む》くような謀り事があった。
弟橘媛《おとたちばなひめ》が亡くなって以来、その思いが強まっていた。それも根子王の姿を見なければ口から出せないのだ。
「来たのだ」
「おう、来ましたぞ王子」
豪快な武彦が絞り出すような声でいった。
「根子王来たる」の報に武彦も跳び出し、倭建の傍に駆けつけたところだった。二歩が三歩になった時、根子王が走り出した。
武彦が倭建の前に立った。
「吾《われ》が迎えます、王子はここで……」
お気持は分る、だが最初に迎えるのは、副将軍の吾ですぞ、と武彦の輝く眼が告げていた。
倭建が頷《うなず》くと同時に武彦は走っていた。
武彦と根子王は、激突するように身体《からだ》をぶつけて抱き合った。
余り感情を表わさない丹波猪喰《たんばのいぐい》も、珍しく眼を細め、二人を見ていた。
根子王は気を取り直したように倭建に叩頭した。うむ、よく来た、と倭建は大きく頷いた。走ってくる根子王に腕を差し出す。
根子王は両手で握った。
「何時も思っていました、今、どうなさっているかと……」
「嬉しい言葉じゃ、王になったばかりで、何かと大変であろう、使者から吾の胸中を聞いたと思う、もう戦はしたくない」
「吾におまかせ下さい、上海上国と絶えず交易している者を三人、連れて参りました」
倭建の手を更に力強く握る。
「そうか、おい痛いぞ」
根子王は慌てて手を離した。
「総《すべ》ては王子様のおかげです、あの……」
根子王は悲鳴をあげると蹲《うずくま》り、弟橘媛の死に対し哀悼の意を述べた。
「根子王よ、黄泉国《よみのくに》で媛も喜んでいるであろう、立て、これも運じゃ、人間には天命がある、誰でも死ぬ時は死ぬ、確かに辛《つら》かった、だがのう、媛の死のせいで吾は考え方を変え、戦を放棄したのだ、もし媛の死がなかったなら、吾は牙《きば》を剥くなら剥けと軍を進めていたであろう、媛の死に報いるためにももう血は要らぬ、立て、根子王よ」
根子王は嗚咽《おえつ》を漏らしながら立った。
眼は真赫《まつか》で濡《ぬ》れた顔が光っていた。
「何だ、童子のような顔ではないか、さあ、酒盛りじゃ」
倭建は根子王の腕をつかんで屋形に入った。
翌日の早朝、根子王は、上海上国と交易をしている三人を使者として遣わした。
使者は友好の証《あかし》として、倭建王子と共に根子王も上海上国に行く旨を伝える。
出発の前に倭建は、胸に秘めていた大事を武彦、猪喰に告げた。
武彦の部下である百余人のうち、八十余人を吉備国に帰すというのである。
全く想像もしていなかった倭建の言葉に、武彦は眼を剥き声が詰まった。呆気《あつけ》に取られ、愕然《がくぜん》とした。
「王子、何といわれた?」
「武彦の兵士、八十人を吉備国に帰すのだ、大和《やまと》を出た時は百三、四十人はいた、だが長い旅で病に罹《かか》り、また討ち死にし、大勢が異国で亡くなった、もう、これ以上の死は不必要じゃ、ゆえに故郷に戻す、残すのは武彦の警護兵だけで良い」
「王子、何を考えておられる、皆、吾と共に王子に仕え、大和から見れば東の果てに近いこの地まで来たのですぞ、どういう場に立っても背中を向けることなどできぬ、そういう卑怯《ひきよう》なことをしたなら、この吉備武彦、おめおめと故郷に戻れぬ、吾はそんな屈辱的な命には従えませぬ」
怒気が声を噴き上げ身体が慄《ふる》えた。
あの熊襲《くまそ》征討では肥後の金峰《きんぽう》山で、死を覚悟し、強力な熊襲建《くまそたける》軍と戦い、倭建は熊襲建を斃《たお》し、建の名を献上された。
帰途、倭建は吉備国に滞在し、山で狩りをし、海で魚を獲《と》り、酒を飲んでは寝ずに語り合った。まさに武彦は倭建の片腕として生きてきた。それ以外の生き方を考えたことがない。
倭建が尾張《おわり》国で宮簀媛《みやすひめ》に狂った時、非難したが、倭建の身を思ってのことだ。
「のう、武彦、何もそちに帰れといっているのではない、そちの兵士を戻せ、と告げている、皆、故郷に帰りたがっている、大和を出発してから一年以上もたっているのだ、吾の命を受けて貰《もら》いたい」
武彦は、七掬脛と叫ぼうとし、いないのに気づき、大事な時に、とののしりたくなった。
根子王は石のように立ち、猪喰は、同調を求める武彦を拒否しているのだった。だが武彦は訊《き》いた。
「猪喰、おぬしは知っていたか」
「知らぬ」
「どう思う、吾が憤るのも当然であろう」
「ああ、気持は分る」
「そうか、それならば王子に申し上げよ」
「吾がいうことはない、王子様とおぬしの間のことじゃ」
「何だと、逃げるのか」
「逃げるのではない、吾はこの件について喋《しやべ》る立場にない、王子様はおぬしに告げているのだ」
猪喰は睨《にら》むように武彦を見た。追い詰められた獣の眼に似ている。恐怖、憎悪、悲哀が入り混じっている。苦痛の喘《あえ》ぎさえ感じられた。武彦がひるむと猪喰は口を真一文字に結び外に出た。
「待て!」
武彦は怒鳴ったが、倭建が猪喰の代わりに口を開いた。
「武彦、猪喰を責めるな、これは吾とおぬしの問題じゃ、気を鎮めよ、のう、武彦、吾にはもう東国で戦う意志はない、攻められれば戦う、だが誰も攻めてはいない、吾が攻めて来ると敵愾心《てきがいしん》を抱いて待ち受けているだけではないか……」
「しかし王子、これからの旅はまだ長い、危険です」
「危険な国を訪れる必要はない、避けて通るだけじゃ、そちの胸中は痛いほど分る、吾の胸もそちの憤りと悲しみを感じ、痛んでいるのだ、見よ」
武彦はあっと思った。猪喰の眼と似ているではないか。
「王子、辛い、辛うございます、吾は王子が倭男具那《やまとのおぐな》と呼ばれていた頃から王子に仕えていた」
「分っている、だからそちとは今後も旅を共にする、だがのう、大和から従軍した兵たちの大半は吾を知らぬ、皆、故郷を恋しがっている、帰してやれ」
「王子は吾を苦しめ、苛《いじ》める、吾は辛い、ここまで来て」
倭建の|※[#「目+旬」、unicode7734]《めくば》せに、石のように立っていた根子王も外に出た。
倭建は腰を下ろし酒壺《さかつぼ》を手にした。
「武彦よ、坐《すわ》れ、共に酒を酌み交わそう、さあ武彦」
武彦は落ちる水鼻を拳《こぶし》で拭《ぬぐ》うと腰を落した。
武彦にも倭建の決断の理由は身が裂けるほど分る。
倭建は自分を見捨てた父のオシロワケ王のために戦うのが無意味なのを痛感したのだ。
名を轟《とどろ》かせ大和に戻っても、倭建の坐る場所はない。警戒され、再び地方に飛ばされるか、暗殺者に狙われるだけである。
それなら、倭建を迎え入れない国に寄る必要はない。避けて通れば良いのだ。それに兵士の数が多ければ、相手国は恐怖心を抱き警戒する。戦の準備もする。
戦をする無意味さを悟った以上、大勢の兵士は不必要だ。それに武彦も、故郷を思う兵士の気持はよく知っていた。
一致団結し規律を乱さないが、海の彼方《かなた》を眺めている兵士の表情に望郷の念が滲《にじ》み出ているのを知っていた。
武彦といえどもその度に胸が痛む。兵士の大半に妻子がいる。皆、夫や父の帰国を待ちわびているのだ。
武彦は大和に戻れば、兵士たちを国に帰そうと決めていた。
酒を酌み交わすうちに過去の思い出話も出る。怪し気な女人を追い掛けて傷を受けた葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》、笑顔が魅力的だった。まさに男子が惚《ほ》れる豪傑である。
「男子が惚れるからと言って女人が惚れるとは限らない、その辺りが妙なのだ」
「王子、その通りです、その点、王子は男子にも女人にも惚れられる」
「いや、それは違うぞ、吾に惚れる男子は限られている、真っ直ぐで純な者ばかりじゃ、そういう男子は少ない、腹に一物ある者は吾を嫌う、残念ながらそういう男子が多い」
「王子、そんな者は男子ではない、真の男子かどうかはここにあります」
武彦は胸を叩《たた》いた。厚い肉の音が部屋に響く。
武彦、苦労をかけて済まぬ、吾も今少し謀り事を腹におさめておけば良かった、と倭建は自分に呟いた。イホキノイリビコ王子を殺す機会は幾らでもあった。彼を殺し父王を幽閉すれば王になれたのだ。物部十千根《もののべのとちね》なども這《は》いつくばってすり寄ってくる。
真っ直ぐであり過ぎた、と酒をあおり、酒壺を持った武彦に勢い良く酒杯を差し出した。
「さあ、これを飲み、兵士たちに告げよ、この地に残す兵士は後軍となる」
「分っております、後軍の行く先は故郷、だが今はそれは告げられぬ、吾と共に行く者の心を乱したくない」
「武彦の兵じゃ、そちにまかす」
倭建は頷《うなず》いた。
武彦は吉備国の王族であり十数人の警護兵がいる。武彦に同行させるのは親衛隊である彼等だけで良いと倭建は考えていた。ただ、決めるのは武彦だった。
倭建の軍勢は大幅に減った。
倭建の警護兵や久米七掬脛の部下、それに猪喰の手足となっている大裂《おおさき》ら五人、総勢数十人だった。
倭建を迎える上海上国の使者が来たのは翌日の夕刻だった。
布陣している軍を解き、倭建の来訪をお待ちしている、という。使者は平服で、その態度も丁重だった。根子王が同行するのを知り、上海上国も久米七掬脛の言を信じたのである。
上海上国の兄弟国の下海上国《しもうなかみこく》や、後の下総《しもうさ》の国々も動員していた軍を解いた。東国といっても、この辺りの国々は、大和王族よりも毛野国《けぬのくに》と親しいのだ。
倭国《わこく》の大半が大和王族に従属するようになったのは、五世紀の応神《おうじん》・仁徳《にんとく》王朝時代の後半ワカタケル大王(雄略《ゆうりやく》)の時代である。
倭建の東征はそれよりも百年も前のことなのだ。
房総半島に勢力を張っていた上・下の海上国が倭建を迎え入れた意義は大である。
その名の通り海人《あま》族だけに顔は陽に灼《や》け人々はたくましい。
上海上国王は身長六尺(百八十センチ)に近い巨躯《きよく》だった。
いったん胸襟を開くと、遠来の客を迎えるように親し気だった。王も、大和王族の力がどんなものかはよく知っていた。
倭建を上座に自分は下座に坐り、鏡の礼を述べた。文字の意味を訊《き》く。
「この鏡を作ったのは中国の呉《ご》の人じゃ、国が乱れ、北方の胡《こ》人と呼ばれる異人種が入って来て、海の中に不老長寿の国があると知り、船団を組んで倭国にやって来た。鏡作りの工人たちだったので大和の王に頼まれて差し上げた鏡を作ったという次第じゃ、だから海原に遊ぶ、と自分の気持を述べている」
「しかし、国を逃げ出したわけでしょう、遊ぶ、というのはどうもよく分りかねますなあ」
「その辺りは、中国人の度量の大きく広いところじゃ、悠々と海を渡って来た、というところであろう」
「王子殿、我等は海人、北は蝦夷《えみし》の国、南は尾張、紀国《きのくに》にも行きますが、その度に一度や二度は大波に襲われ死を覚悟する、げんに十|艘《そう》行けば、二、三艘は沈没する、死者が出ない航海はまず少ない、中国といえば、ここから日向《ひゆうが》に行くよりも遠い国でしょう、半分は死ぬ、それにも拘《かかわ》らず、悠々と海を渡って遊ぶ、という心境、いや、我等には分らぬ、しかし大きい、仙人のようじゃ」
「うむ、まさに仙人だな」
眼を剥《む》いて字を眺めている王に、倭建は改めて中国人の器の大きさを感じた。
倭人も歌を詠むが、このように、空中に浮遊して人生を眺め、遊ぶ、と達観したような歌はない。どうも中国人とは感性が違うようだ、何故か? と訊かれても分らない。
ただ、自分にはないがもっと早く人生について考えれば良かった、という気がしないでもない。
これまで余りにも真剣であり、真っ直ぐであり過ぎた。
上海上国王は、居並ぶ王族や部下に、鏡の文字の意味を説明する。
皆、唖然《あぜん》とし、顔を見合わせ、首を捻《ひね》ったり、唸《うな》ったりした。海という文字が記されているだけに他人の事と思えないのであろう。
王は海に鍛えられた底力のある声でいった。
「皆の者、遠い異国の戯言《たわごと》と思ってはならぬぞ、大事な教えがある、それは交易にも遊ぶという気持の余裕が大事である、とこの文字は教えている、荒波を越え、蝦夷の国に行き、そこの女人と媾合《まぐわ》う、愉《たの》しみではないか、この地の海人でなければ味わえぬ、幸せに思うのだ、それが遊びではないか、熊の肉を喰《く》えるのも蝦夷なればこそじゃ、おう、吾《われ》はもっと若ければ、もう一度蝦夷の国に行きたいぞ」
首を捻り、髭《ひげ》を撫《な》でていた者たちの眼が、王の叱咤《しつた》といって良い語調に輝きはじめた。
皆、蝦夷の国に行った体験を思い出していた。眼が活《い》き活《い》きとし、そうじゃ、と頷く。なかには膝《ひざ》を叩く者もいた。
優れた王だ、と倭建は感嘆した。この王が率いる軍勢と戦っていたなら、相当苦戦していたであろう。
それにしても、蝦夷の国が話に出るのは初めてである。
倭建は王に、蝦夷の国について訊いた。
王が語るところによれば、田畑は少なく、毛人《えみし》の殆《ほとん》どは海や川で魚を獲《と》り、山で猟をして生活していた。田畑が少ないせいか、土地争いがなく団結心が強い。弓矢に優れ、国を荒そうとする者に対しては徹底的に戦う。毛野国とも血縁関係があり、蝦夷の国に侵入しようとする国はなかった。
大和では蝦夷のみならず毛野国をも毛人と呼んでいた。
二、三百年前には、毛野国にも蝦夷が住んでいたという。毛野国に蝦夷との混血が多いのも当然であろう。
酒宴には若い女人が舞った。
背は低いが腰がしっかりとして尻《しり》が張っている。乳房も豊かで、まだ十六、七歳なのに腰を捻り身体を動かす度に揺れる。薄羽の上衣を纏《まと》っているが、透けて見えるようだ。
「王子殿、我等の女人は骨太で力が強い、櫂《かい》で川舟を漕《こ》ぐくらいは慣れたものですぞ」
舞が終ると、王は倭建に、
「夜の伽《とぎ》には、どんな女人がお好みかな」
と訊いた。
途端に舞っている女人たちのえもいわれぬ匂いが鼻を衝《つ》き、股間《こかん》が疼《うず》く。
人生四、五十年といわれた時代だが、倭建は三十歳になったばかりである。
「花の舞の中にあって花弁を避けるのは無粋だが、まだ弟橘媛の喪に服している」
「おう、それは失礼なことを……」
「吾の代わりに部下によろしく」
「おまかせ下さい」
いったん胸を開くと王は竹を割ったような男子だった。
王は数日間、滞在するようにといったが、倭建は出発することにした。
大和《やまと》を出発する前の計画では武蔵《むさし》の毛野国から信濃に出、伊那《いな》から尾張に戻る予定だったが、その計画は放棄した。
今は一刻も早く大和に戻りたい。これまでに充分使命は果たした。たとえそこに自分の留《とど》まる場所がなくても大和の地を踏みたかった。
武彦や七掬脛も、倭建の胸中を汲《く》んでいる。ことに武彦は、大和での居心地が悪かったなら、吉備国に住まわれたら如何《いかが》か、とまでいってくれていた。
吉備国の東部の播磨《はりま》の印南《いなみ》には、倭建の母の墳墓がある。倭建の心の故郷はその地だった。兄の大碓《おおうす》王子と喧嘩《けんか》をした山野や川が倭建を呼んでいる。
それも大和に戻ってからのことだ。
おそらくオシロワケ王は、ほくそ笑みながら承諾するであろう。これで邪魔者は去ったと。
三日後、倭建は上海上国王の好意に礼を述べ、海路で浦賀水道を通り、三浦半島の北部に出て、足柄《あしがら》坂を越え甲斐《かい》の南部に入り、伊那から尾張に入る道順を根子王に話した。
根子王は暫《しばら》く考えていたが、その辺りに倭建の一行をはばむ勢力はないが、大変な難路で、これから梅雨期にはいるし、進むだけでも疲労|困憊《こんぱい》する、と話した。
「それよりも帰途、往路とは別の道をお通りになるのなら、舟で相模湾を渡り酒匂《さかわ》川の港に入られては如何でしょうか、その辺りは我国とも親しく優れた道案内人を選びます、そこから川沿いに北上し足柄の坂を通り、西に不二山を眺めながら南下すると、我らの国の沼の傍に出ます、西に四、五里で不二川、我らの都です、暫く滞在され、不二川沿いに北上すれば甲斐国の都(甲府)でございます、我国と甲斐国は不二川で繋《つな》がり絶えず往来していますので、我等の国を歩くようなもの、まさに東の不二山に遊ぶ、というお気持になるでしょう」
「おう、根子王、礼を述べるぞ」
「とんでもございません、吾は王子様によって陽の当たる場に出ることができました、吾も吉備武彦殿のように王子様の部下に……」
「その言|嬉《うれ》しく聴いた、だが気持だけで充分じゃ」
吾が王位に即《つ》けば、と捨てていた望みがふと頭を持ち上げる。
遠淡海王《とおつおうみおう》も臣下になりたい、と望んでいる。それなればこそ、水軍を上総まで派遣し、倭建を守らせたのである。
空しい欲は吾を苦しめるだけじゃ、と倭建は親愛の笑みを浮かべながら首を横に振った。
根子王は無念そうに唇を噛《か》む。
倭建の一行は降りはじめた長雨の中を出発した。上海上国王が酒匂川まで船を出してくれた。
総勢五十人足らずなので十艘あれば充分である。王は、倭建との戦に備え、百艘の水軍を集めていた。その水軍の一部が倭建を送ることになったのである。
武彦の部下を帰らせて良かったと思う。
雨は降っているが風は穏やかなので海は荒れていない。
根子王は川まで同行することになった。最初は断ったのだが、是非お願いします、と頭を下げられると承諾せざるを得ない。倭建の方から呼んだのだ。帰りは必要ないというのは勝手が過ぎる。
倭建は根子王と同じ船に乗った。船は浦賀水道を南下し、三浦半島の沖を通り、半島の西側で碇泊《ていはく》し一夜を明かした。
根子王は、倭建が次の王になるものと思い込み、何《いず》れ大和に参り再会する日を待ち望んでいる、と熱を込めて話す。
倭建としては、
「まだ若く、やっと王になったばかりではないか、まず自分の国を治め、民を豊かにするのが大事じゃ、何年もかかる、大和に来るのはそれからで良い」
としかいえない。
「分っています、ただ、朝鮮半島の高句麗《こうくり》、百済《くだら》、新羅《しらぎ》などを思えば、倭の国も一つに纏《まとま》るべきでしょう、小国が競い合っているという時代ではありません」
根子王はすでに大和の王が、倭国の王と認めているようだ。何れ、そのような国々が東国に増えてくるだろう。
倭建には根子王の若さが羨《うらや》ましかった。
長雨の雲は厚くどんよりとしている。何時《いつ》、雲が割れ陽が射すであろう。
情熱の滾《たぎ》った根子王の言動に、倭建は十年前の自分を見るような気がした。
このまま人生をあきらめて良いのか。倭建に忠誠を誓っている武彦、七掬脛、猪喰、それに大和に呼び戻された大伴武日はどうなるのか。
父王が本心から自分をうとんじ、大和から追い出そうとしているなら、父王を斃《たお》し、自分の力で王位を奪い取っても良いではないか。
根子王の熱気が倭建の闘志をあおる。
その一方で、父王に刃向かうなど祖霊を穢《けが》すことになる、人の道に外れている、と自分を戒める声もする。当時はまだ、道の思想は入ってないが、優れた男子なら、どう生くべきか、ぐらいは考える。それが道の思想に繋がるものであることはいうまでもない。
航海の間、倭建は時に昂揚《こうよう》し、また沈んだ。
船は三日碇泊し、四日目に酒匂川の港に着いた。
根子王は早速、郡の首長に道案内人を集めさせる一方、相模《さがみ》の首長、師長王《しながおう》に倭建の来訪を伝えた。
廬原《いおはら》国と相模国は隣り合っており、友好関係にある。走水で倭建に屋形を提供した師長王は、根子王が王位に即いたことを祝っていた。
師長王は倭建の宿舎を訪れて再会を喜んだ。
師長王は、倭建が平和|裡《り》に上海上国を訪れ、歓待されたことを知っている。すでに倭建が戦を放棄したことは、武蔵、相模まで知れ渡っていた。人の口は吹き渡る風のように拡がるのだ。
戦において負けを知らない倭建王子だけに、国々の王は、安心した。誰も倭建が弱気になり戦を放棄したなどとは思わなかった。大和王権がより友好的になったと判断した。
それだけ倭建の勇猛さは轟《とどろ》き渡っていたのである。
酒匂川の河口で根子王と別れた倭建は、廬原国に必ず寄ると約束し、若き王と別れた。
一行は酒匂川の西方を足柄坂に向かって進んだ。いうまでもなく西の山々は箱根の山の尾根に変形したものである。
丘を混じえた平野の東方に横たわる山々は丹沢大山の南端の尻尾《しつぽ》で北方から相模湾に這《は》っている。
倭建にとっては東征に発《た》って以来ののどかな風景だった。
上海上国に着くまでの一年有余は、異国の荒ぶる神と戦わなければならないという緊張感、オシロワケ王の猜疑心《さいぎしん》と胸先で対決せねばならなかった。
ただ戦への緊張感が薄れたせいか、弟橘媛への思慕の念が込みあげてくる。のどかな風景がそれを増幅させる。
小川の傍で一休みした時、久米七掬脛が思いだしたようにいった。
「王子様、今だから申しますけど、上海上国に着いた日は監禁されました、吾《われ》の入れ墨を見て、友好の使者の顔ではない、戦の使者の顔だといって諾《き》かない、いや参りました」
「戦の鬼神か、なかなか旨いことをいうじゃないか、まさにその通り」
武彦がからかう。
そんな武彦に七掬脛は墨で隈《くま》どった眼を剥《む》いて見せた。入れ墨が吊《つ》り上がり顔の上半分が眼になったようで、まさに戦の鬼神である。
「おう、恐ろしい、醜い」
といって顔を手で覆った。
「二人共、童子のような真似はよせ、それで根子王の使者が行くまで監禁されていたのか」
「あのシラナムが懸命に弁護したせいで軟禁になりました、使者が来た途端、良い家に移され、女人も宛《あてが》われた次第です、あの王はなかなかの人物です」
「伽《とぎ》の女人のことはいわなかったじゃないか、どうだった?」
武彦が髭《ひげ》をしごいた。
「吾の顔を見た途端恐ろしくて失神した、気合いを入れて覚ましたが、また失神じゃ」
「ほう、それでも媾合《まぐわ》ったのか」
武彦が七掬脛相手に、こんなに愉《たの》し気に話すのも珍しい。兵士の大半を帰国させ、責任感が軽くなったからに違いない。
丹波猪喰は川岸で膝《ひざ》を抱えて坐《すわ》り、二人の会話には加わらなかった。
実際、猪喰はどんな場合でも孤影を漂わせていた。ことに、女人の話には絶対乗らない。
倭建も不思議だが、猪喰にその理由を訊いたことがなかった。
話すものなら猪喰の方から話すだろう。
猪喰の傷を掻《か》き廻《まわ》したくなかったのだ。
[#改ページ]
十
雨が降り続き、一行は酒匂《さかわ》川の河口から足柄峠《あしがらとうげ》に向かう途中の集落(現在の小田原)で数日間滞在した。
帰心矢の如しだが、ここまで来た以上焦ることはなかった。在地の首長も好意的である。二日目に思わぬ事件が起きた。
曲者《くせもの》が一人、近くの農家に押し入り、十五歳の娘を犯したのである。
両親は棒で擲《なぐ》られ縄で縛られ放り出されていた。
最初は山賊か曲者の仕業と考えられたが、戸の前の畑が踏み荒され、刀子《とうす》が落ちていた。
両親は刀子を村長《むらおさ》に差し出した。畑の足跡は農家近くまであるし、刀子の持ち主が曲者に違いなかった。刀子は村長から在地の首長を経て倭建《やまとたける》の手に渡った。
倭建は刀子を見た瞬間、連れてきた部下の誰かに違いない、と感じた。
これまでも、戦の際、これに似た事件はあったが、皆、倭建の耳に伝えていない。
どんな戦にも有り勝ちなことで、犯人の詮索《せんさく》をしていたなら戦などできない。
ただ公然とした暴虐行為だけは禁じていた。
倭建は、親衛隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》に刀子を見せ、見覚えはないか? と訊《き》いた。まだ事件は公になっていない。
「見覚えございませぬ」
と高彦は答えた。
倭建は胸を撫《な》で下ろした。自分の警護兵の中から犯人が出れば、倭建の面子《めんつ》が立たない。犯人を公衆の面前で斬ったとしても、しこりは残る。倭建の警護隊は昔から選《よ》りすぐった親衛軍で、皆、倭建を慕い、主君として仕えたいと望んだ者ばかりである。その精神的な連帯感で繋《つな》がっているのだ。
それが崩壊する危険性を感じる。
倭建は武彦《たけひこ》、七掬脛《ななつかはぎ》、猪喰《いぐい》の三人を呼び、刀子を示し、事件の内容を伝えた。
たんなる夜這《よばい》なら問題にならない。だが犯行が悪質である。両親に乱暴し、縄で縛って雨が降る戸外に放り出し、娘を犯したのだ。
許されるべき行動ではなかった。
倭建から刀子を受け取った武彦の眼が刃物のように鋭くなった。刀子の根っ子の辺りを睨《にら》んでいたが、黙って七掬脛に渡した。緊張した面持ちの七掬脛は、小首をかしげながら猪喰に渡した。
猪喰は冷静な口調でいった。
「大裂《おおさき》やその部下はこういう刀子は身につけておりません」
「王子、一番部下が多いのは吾《われ》です、八十余人故郷に戻しましたが、警護兵が約二十人、手仕事の従者が十人近くいます、見覚えはありませんが、見たような気がしないでもない、宿所に持ち帰り、厳重に調べとうございます」
「分った、だがのう、かりに武彦の部下から犯人が出ても余り気にするな、人間には魔がさすということがある、長い旅じゃ、気がおかしくなった者が出ても仕方あるまい」
「もし犯人が見つかりましたら、吾が処罰します」
「いや、それは待て、住人の前で斬るだけが罰とはいえぬぞ、処罰する前に結果を知らせるように……」
武彦は宿舎に戻ると警護隊長のカサヒコを呼び、事情を話した。
刀子を手にしたカサヒコは眉《まゆ》を寄せた。
見覚えがあるようだった。
「隠さず話せ」
「はっ、まだ確証はありませんが、警護兵でなく、武具などを運ぶ従者のササオのものではないか、と、この刀子は綱を切ったりする際よく使われています、それにササオは房総半島の須恵《すえ》の地で、故郷に帰れるとばかり思っていたようです、武彦様は年長者や家族持ちをまず帰国の一番手とされました」
「当たり前ではないか」
「次に妻だけではなく子供もいる者を二番手とし、八十余人を選ばれたわけです」
「当然だろう、そちも賛成していたではないか……」
「あの人選は間違っていなかった、と信じておりますが、長い旅に出て、帰国者を選ぶとなると、どうしても外れた者には不平、不満が出ます、ササオは妻はいるが子供はいません、それに三十歳になったので、帰国できると思い込んだようです、期待感が思い込みに変わったのでしょう、これは洩《も》れ聞いたのですが、吾がササオを憎んでいて帰国させなかった、と吾を恨んでいるようです、申し訳ありません」
カサヒコは額に汗を滲《にじ》ませながら詫《わ》びた。
あの場合の倭建の命令は急だった。残された者の間に多少のしこりはある、と想像していたが、殆《ほとん》ど自分について来たがっている、と武彦は思っていた。
何故なら武彦自身、倭建を見捨てて帰るなど、想像できないからである。
だが部下は違う。それなのに部下も自分と同じような気持を抱いていると疑いもしなかった。
吉備《きび》の王族であり、東征副将軍の資格がない、と武彦は恥じた。
同時にササオに対する憤りで顔が赧《あか》くなる。
「警護兵たちの女人関係は?」
「不寝番以外の夜は、それぞれ旨《うま》くやっているようです、吾は暴力で女人を犯してはならぬ、そういうことをすれば吉備の王族の顔を汚すことになる、と何時《いつ》も伝えてあります」
「よし、ササオを縄で縛って引きずって来い」
カサヒコは警護兵を連れて逮捕に向かったが、身の危険を察したササオは宿所から逃亡していた。そんなに遠くには逃げてはいない。武彦は自分の手で捕まえる積りだったが、何といっても未知の地である。酒匂川を越えられたり山に入られると探すのが大変だ。
武彦は倭建に総《すべ》てを報告した。
倭建は珍しく眼を細め、
「武彦、よく報告したぞ、在地の首長にも捜索を依頼しよう」
大変な捜索になったが、それが正しかった。犯人がどう逃げるか、を知るのは土地勘がなければ難しい。
捜索の情報はそれぞれ村々に告げられた。
そうなると、犯人は道を訊くこともできない。
約二|刻《とき》(四時間)後、食糧、蓑《みの》を背中に酒匂川の支流を渡ったところを村人たちによって捕らえられ、倭建に引き渡された。なかなかの巨漢で、気性の激しい男子であることは、地面に引き据えられても顔を上げ、武彦を睨む目つきに表われている。
武彦としては即座に斬り殺したく、うずうずしていた。倭建は武彦にいった。
「そちの気持はよく分るぞ、だがこの事件は吾が武彦の兵を帰国させたところから起こった、それに死人は出ていない、被害を受けた農家には布や米を渡し償いをする、さて問題の処罰だが殺してはいないが質《たち》が悪い、そこで、在地の首長の意に従う、やっことして一生ここで働き続けるのも良し、死罪もまた可なりじゃ」
在地の首長は、川がよく洪水で溢《あふ》れ、護岸工事が大変なので縄つなぎのやっことして働かせたい、という。
縄つなぎとは、労働の時以外は、何時も身体《からだ》を縄で縛られているやっこであった。
一生縄つきというのは、死よりも辛《つら》いかもしれない。
それに在地の首長は、農民に対する償いの額が余りにも大きい、と恐縮した。
一寸《ちよつと》した騒動だが、しこりを残すような出発ではなかった。
道案内人の先導のもと、倭建の一行は足柄峠に向かった。峠を越えても甲斐《かい》までは遠い。
足柄峠は、相模《さがみ》と駿河《するが》の境にあり、中世に箱根道が利用されるまでは、東西を結ぶ交通の要衝である。
なだらかな山が連なる吉備国で育った武彦にしてみれば、西方の足柄山も、箱根山も、雲を衣代わりに纏《まと》った巨大な山々であった。そういう山が重なり続いているのだから、山の気に圧倒されそうだ。
ササオ事件で怒ったが、反対に在地の首長に感謝されてみると、気が清々とした。
これまでの武彦だったら、倭建に報告する前に自分の手で捕らえようと走り廻《まわ》ったかもしれない。
大局を眺めるという点では、色々と教えられるものがあった。
猪喰は大裂と共に先導の道案内人の傍に行っている。一ヶ所にじっとしてない。何時も動き廻っていた。情報はそうして集めるものだろう。
間もなく、音もなくといった感じで山と山とが寄り合っている足柄峠の坂下の近くに来た、その辺りには幾つかの集落があった。
人々は狩りで生活しているが、粟《あわ》や稗《ひえ》を作っていた。
足柄峠を通るには、在地の首長に通行の代を払わねばならない。それが住民の生活を支えるのだ。
倭建に敵意がないことは、すでに知られていた。集落の首長は一眼顔を見ようとやって来た。
倭建は彼等に上質の麻布を渡した。
集落の長《おさ》たちは、熊、狸、馬、鹿などの毛皮を持参した。
幸い雨が降っていなかったので、猪の肉を焼いて酒盛りにした。猪の肉は硬いが塩と刻んだ草の葉を混ぜた調味料をふりかけると結構旨かった。それに、どろっとした地酒はなかなかのものである。
地元の長連中は、倭建の熊襲《くまそ》征伐を聴きたがった。
こういう場合は、久米七掬脛の独壇場である。会話が旨いので、間を用い、この辺りの連中にも理解できるように話す。身振り手振りが伴うので、方言が違っても通じるようだ。ことに足柄峠には東西の旅人が通る。彼等は大和《やまと》言葉も知っていた。
「そりゃのう、熊襲建は熊襲の王者じゃ、大変な巨漢で身体は何と八尺もあり、眼は雷《いかずち》の如く、睨まれると身動きできなくなる、見えない気が刀となって飛び、刃向かう者を斃《たお》すのだ、それに声がまた雷に似ている、大喝すると草木さえ恐れて慄《ふる》える、げんに青々とした木の葉が散ったのを吾は見た、あれは熊襲建が吐く息で吹き飛ばされるのだ、下に落ちるのではなく舞い上がって飛びながら落ちる、いや、大変な男子じゃ、我等も様々な勇者と戦ってきたが、熊襲建ほどの武人は初めてだった、今後も現われないであろう、ああ……」
如何《いか》にも思い出し、感じ入ったような吐息をつく。村長たちはそんな勇猛な武人を、倭建王子がどう斃したのか、早く話して欲しい、と身体を乗り出す。
七掬脛は空になった酒杯に、酒壺《さかつぼ》の酒を満たした。普通なら伽《とぎ》の女人が注ぐのだが、この辺りにはそういう習慣がないのか、酒盛りの席には男子だけだった。
七掬脛にはそれが不満だが、女人の要求はできない。
「こちらから女人を要求してはならぬ、そういう者は吾の部下ではない」
倭建は熊襲征伐の時からそういっている。
古くからの部下たちは倭建に対し、絶対の忠節を誓っていた。倭建の命令に背けない。
多分、足柄峠の住人たちは、東西をつなぐ要衝に住むがゆえに、案外、進んでいるのかもしれなかった。この地を占領しようという者はいないのだ。もし、何処《どこ》ぞの国がそんな暴挙に出れば、他の国々が黙っていない。そういう面で、何処の国からも侵されない自由な地域なのである。
七掬脛が喉《のど》を鳴らして酒を飲むと、村長たちの眼は七掬脛の口許《くちもと》に集まる。
いよいよ、倭建が熊襲建を斬り殺す場面である。
倭建はもう好《い》い加減にせよ、といいたかったが、七掬脛の口を閉ざせば皆が興醒《きようざ》めする。
倭建は憮然《ぶぜん》とした面持ちで酒を飲んだ。吉備武彦はあの金峰《きんぽう》山の戦を思い出しているらしく、遠くに視線を遊ばせながら何処か陶然としていた。
猪喰は相変わらず冷静だ。まるで独りで酒を飲んでいるようだった。
七掬脛は、口を開きかけ咳払《せきばら》いした。周囲が静まりかえる。誰も喋《しやべ》っていないのに、聴き手の緊張感で空気が凍結したようである。
「熊襲建は六尺はある大刀を持っていた、それを力の限り振り廻すのだからたまらない、必死の思いで飛びかかる兵も、刀もろ共宙に舞う、なかには刀を取られた上、身体を真っ二つに斬られた者もいる、兵士たちの血を浴びた熊襲建の顔は真赫《まつか》で、動くたびに血が飛び散る、ぼうぼうと生え、顔を覆い尽くした髭《ひげ》も、顎《あご》髭も血の塊じゃ、いや、血の鬼神じゃ、いや、恐ろしいぞ」
舌|舐《な》めずりした七掬脛はまた酒壺を手にした。
今度は酒杯に触れず、両手で壺を持って飲んだ。七掬脛自身完全に酔っており、次から次へと話が出そうだ。朝まででも話し続けられる。懐古の情が、押し寄せる波濤《はとう》のように七掬脛の胸を満たして揺するのだ。
葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》が笑っている。穂積高彦がからかっている。十尺以上飛ぶ男子だった。
勇猛な話をしているにも拘《かかわ》らず何故か眼に涙が滲《にじ》んでくる。
「その時、群がる熊襲の兵を薙《な》ぎ倒し、颯爽《さつそう》と現われたのが、倭建王子様じゃ、我等の兵も、熊襲の兵も、まるで風にあおられるように散り、二人を取り囲んだ、誰も手出しをする者もいない、いや、手出しは無用じゃ、それが天の命であることを我等は感じた。王子様と向かい合うと熊襲建は喚《わめ》いた、『斬られに来たのか、若いのに憐《あわ》れな男子じゃ』と、だが王子様は刀を構えたまま無言だった、総《すべ》ての気を刀に集中されている、相手の戯言《たわごと》に乗って気を散らすような王子様ではない、ただ我等は流石《さすが》に不安だった、王子様は五尺五寸、それに対して熊襲建は八尺じゃ、また胸が厚い、まるで千年たった檜《ひのき》のようじゃ、猪に似ている……」
皆|固唾《かたず》を呑《の》む。
七掬脛は、おう、と叫びながら自分の胸を叩《たた》いた。皮の厚い太鼓を叩いたような音がした。皆、息を止め、穴を開けるほどの眼で七掬脛を眺める。
「王子様は真正面に刀を構え、切っ先をやや下げながら一寸、二寸と前に進まれる、熊襲建は血塗《ちまみ》れの刀を大上段に振りかぶったが、何故か斬りつけられない、何故だろう、それはのう、王子様の刀に隙がないからじゃ、皆の衆、分るかのう……つまり、刀と身体が一体になっている、王子様と思えば刀、刀と思えば王子様、これでは熊襲建も、刀を振り下ろせない、巨漢の熊襲建の全身から汗が噴き出てきた、初めはただの汗だったが血が噴き出す汗に交じって総てしたたり落ちた。あの大熊の鬼神のような熊襲建の顔が何と強張《こわば》り、かっと見開いた眼が信じられない物を見たように、ぐるぐる廻っていた、しかも半分飛び出ている、二人の距離が縮まった、しかしだな、そこは熊襲建、一歩も退《ひ》かない、王子様の刀は熊襲建の胸に二尺まで近づいた、どうなるか、熊襲建としては刀を振り下ろす以外にないだろう、そうしなければ胸を貫かれる、熊襲建は岩を真っ二つにするような勢いで刀を振り下ろした、その声は山をも慄わせたぞ」
まるで手に取って見せるような話し方である。村長たちは七掬脛の口調に酔い、自分たちが戦の場にいるような顔をしていた。
「待っていたように王子様は刀で受けた、二本の刀が火花を散らし鉄の灼《や》ける匂いがした、驚いたことに王子様は受けた刀をゆっくり上げられた、何という怪力か、熊襲建は全身の力を込め喰《く》い止めようとするが王子様の力の方が強い、いや、力というより技かもしれぬ、両者の刀は絡み合ったまま中段で止まった、熊襲建は両肩に瘤《こぶ》ができたように力を込めている、それにしても王子様は冷静そのもの、息こそ多少荒いが汗一つかいてはいぬ、熊襲建はこれはまずいと後ろに跳んだ、王子様も前に跳ぶ、今度は王子様が斬りつけた、熊襲建は、かろうじて顔の前で受け止めた、いや、受け止めたと思ったのじゃ、王子様は横に跳びながら熊襲建の胴を深々と斬った、血が噴き出し、血塗れの内臓がぬるっとはみ出た、蛇が穴から出たような感じだった、熊襲建は地も割れそうな悲鳴をあげ、巨石を落したような音をたてて倒れた、それでも起きようとする、王子様は足で敵の胸を押さえ、熊襲建の首を刎《は》ねるべく刀を振り翳《かざ》した、熊襲建がその時いったのだ、『大和の王子に吾《われ》の名、建を差し上げます』と、いい終るやはみ出た内臓を取り出し、自分の首に巻いて死んだのじゃ、いや、凄《すご》い死に様《ざま》だったぞ」
七掬脛が話し終って、暫く沈黙が続いたのは、余りにも真に迫る説明に、ただただ圧倒されたからであろう。
村長《むらおさ》たちは地酒と七掬脛の弁舌に酔い、遂に倭建が熊襲建を斃した話が聴けた、と満足気にそれぞれ家路についた。
「おいおい、七掬脛、おぬしの講釈は巫術《ふじゆつ》者に似ておるのう、熱気で相手を酔わせる、内臓で自分の首を絞めても、腸が伸びて首は絞まらない、全く好い加減な講釈じゃ、しかし聴いていた村長たちは誰一人疑わなかったのう、吾も騙《だま》されかけたわい、呆《あき》れたやつじゃ」
と武彦が言った。
「しかしのう、熊襲建は王子様に建の名を差し上げた、そういう男子の勇猛な死に様を伝えるには、話を作らねばならぬ、あの最期で皆、熊襲建の真の凄さを再認識したのだ、王子様が建の名を貰《もら》った以上、熊襲建は真の豪傑であった、と知らさねばならぬ、何処にでもいるような男子から名を貰ったとなると、王子様の名が汚れる」
七掬脛は倭建の同意を得ようと振り返った。
腕を組み眼を閉じていた倭建は頷《うなず》いた。
「おう」
「見ろ、王子様も了解されている」
嬉《うれ》し気な七掬脛に猪喰がいった。
「了解されたのではない、鼾《いびき》じゃ」
その返答の通り、倭建は何時の間にか眠っていたのである。
倭建は薄暗い樹林の中にいた。
何処からか、猿の群れが口をとがらせ叫んでいるような奇妙な声が聞えてきた。果実を奪い合っているのかもしれない。それにしても耳の奥が引っ掻《か》かれるような不快な響きを伴っている。
何故だろうと倭建は耳を澄ませた。これまで聞いたことのない猿の声だ。猿だけではない、樹林もざわめいていた。風も吹いていないのに樹林が音を立てる筈《はず》はない。
怪しい気が籠《こも》っているのかもしれない。倭建は周囲を窺《うかが》った。確かに右手の方に猿の群れがいる。
樹林の奥で白い靄《もや》が揺れていた。鈍い光を放っているようだ。靄は次第に近づいて来る。まるで樹林が存在していることなど問題にしていないように進む。靄ではなく霧に違いないと思った。
突然、猿が木の枝から跳び降りた。驚いたことに一斉に平伏する。
靄でも霧でもなく動物らしい。何時か何処かで嗅《か》いだことのある生臭い匂いがした。
倭建は自分の眼がおかしくなったのではないか、と疑った。眼をこすり凝視した。眼は正常である。それは途方もなく長い角を持った白鹿だった。悠々とやって来る。
五尺先のものが見え難い薄暗さなのに白鹿は雪のようにはっきりしている。眼は血の色だ。
「鹿か!」
倭建が刀の柄《つか》に手をかけて一喝すると、
「シカでございます」
集まっていた村長たちが訊問《じんもん》に応じるように答えた。
倭建は我に返った。どうやら一瞬のまどろみの間に夢を見ていたらしい。
だが、何故、村長たちが、シカ、と答えたのか。
猪喰が何時になく底力のある声で、理由を説明した。
倭建は眠りながら、村長たちに足柄峠の坂下の本当の名は? と訊《き》いたらしい。
「そうか、シカ、というのか」
勿論《もちろん》、倭建は夢で見た白鹿のことなど口にしなかった。皆が心配する。倭建が溺《おぼ》れた尾張《おわり》の宮簀媛《みやすひめ》は鹿の鬼神と思い込まれていた。倭建自身、そうに違いない、と考えていた。
弟橘媛《おとたちばなひめ》は、宮簀媛の呪力《じゆりよく》から倭建を解放すべく、自らの意志で大和《やまと》から来た。宮簀媛と闘い勝って倭建を正気に戻した。
その弟橘媛も今はもういない。
「王子、今宵《こよい》の酒盛りもこの辺りで終りと致しましょう。明日は足柄峠を越えねばなりません」
武彦が毅然《きぜん》とした口調でいった。
七掬脛と猪喰も同調した。
「よし、今宵は愉《たの》しかったぞ、明日は道案内人を頼む」
翌日は朝からの雨で、出発は二日も延びた。まだ小雨が降っていたが何時までも滞在できない。
倭建は自ら雨除《あまよ》けの蓑《みの》を纏《まと》い、徒歩で峠を越える積りだったが、側近の三人が、是非|輿《こし》に乗っていただきたいと要請した。倭建が勝手な行動をとるのではないか、と危惧《きぐ》の念を抱いているのは明らかだった。
巨漢の道案内人が先導するし、危険視するほどの賊はいない。東西を結ぶ要衝なので旅人|狙《ねら》いの山賊はいるが、倭建たちにとっては、こそ泥といった程度である。
倭建は輿に乗ることにした。
草薙剣《くさなぎのつるぎ》を腰に吊《つる》した倭建が輿に乗り、蓋《ふた》の柄を強く握ると四人の担ぎ手が立った。
村長の話を聞いたのであろう、一眼、倭建の顔を拝むべく、かなりの村人が遠巻きにしている。
輿を担ぐのは、警護兵の中でも力持ちの武人たちだった。
猪喰は大裂と共に、シカと名づけられた坂下を徹底的に調査していた。大部分が集落の中だが、上りの勾配《こうばい》が少しきつくなると家はなくなる。
危険があるとするとその辺りだった。ことに竹藪《たけやぶ》が密生した場所は入念に調べた。
一行が竹藪の傍まで来た時、輿に乗った倭建が、
「待て」
と命じた。
倭建は夢の中で味わった生臭い匂いを嗅いだのである。
武彦と七掬脛は怪訝《けげん》そうに倭建を見た。
「輿を降ろせ、輿が邪魔になる」
「王子、怪しき者の気配はありませぬぞ」
武彦がたしなめるようにいった。
「武彦殿、眼に見える曲者《くせもの》ではない、王子様は物の怪《け》を感じられたのじゃ」
猪喰がそういったのは、倭建の表情を読んでいたからである。鬼神に対しては猪喰も手が出ないのだ。
倭建は輿から降りると、「行くぞ」といって歩き出した。竹藪の中に入られては難儀だなと案じた猪喰は内心ほっとした。
おそらく倭建は竹藪の中に物の怪を感じたのであろう。だが夢ではなく今は現実の世界で、鬱蒼《うつそう》とした竹藪に入り込むほど倭建の理性は衰えていなかった。
先導者もほっとした面持ちになった。
竹藪が切れ密生した樹林の山道になった。片側は灌木《かんぼく》と岩の斜面である。
突然、先頭が乱れ、「鹿だ、山の神じゃ」という悲鳴にも似た叫び声が聞えた。
普通なら動じる筈なのに、倭建は不思議なほど冷静だった。
昨日の夢のせいで慌てなかったのかもしれない。
倭建は腰に吊していた草薙剣を抜いた。
「王子、暫《しばら》く様子を窺った方が、たかが一匹の鹿に大騒ぎすることもあるまい」
武彦が忠告した。
「その通りです、猪喰の報告を待ちましょう」
七掬脛も同調した。
「分っている、確かに一頭の鹿に大騒ぎする方がおかしい、普通なら追い払うべきであろう、大騒ぎしているのは、普通の鹿ではないからじゃ、大鹿か白い鹿であろう」
猪喰が走って来た。
倭建がいったように現われたのは一頭の大鹿だった。白鹿でところどころに薄茶の模様となって入っているが光々しい、という。道の案内人は山の神だと畏《おそ》れ、道に平伏《ひれふ》し動く気配がない。
「王子様、斬るのはまずうございます」
猪喰は在地の住人の気持を忖度《そんたく》していた。
「分っている、ただ、通らねばならぬ、戻るわけにはゆかないからのう」
倭建は抜いた草薙剣を頬に当てた。叔母倭姫《おばやまとひめ》宮は、神宝だといって与えてくれた。
冷えた刀身が熱した肌に心地が良い。神気が乗り移ったようで身体が引き締まるのだ。
誰にも手出しをさせるな、自分で解決せよ、と刀身が伝える。いや、倭建の内部からの声かもしれない。
警護兵が後ろに下がり、倭建は先頭を進んだ。猪喰も背後からついてくる。
道を曲ると夢で見た白鹿が立っていた。怯《おび》えた眼でもなければ、敵意も感じられなかった。眼も普通の鹿と変わらず夢の中でのように赧《あか》くはない。
ただ白鹿には、この坂を支配するのは自分だという存在感があった。
倭建は草薙剣を持ったまま白鹿の三尺傍まで近寄った。白鹿は怯えない。何故じゃ、と倭建は考える。刀身を頬に当てたせいか、異常なほど神経が冴《さ》えていた。
草薙剣を白鹿の鼻先に向けた。それでも動かず道を遮っている。
そうか、こいつは幻だな、と倭建は自分に呟《つぶや》く。本物の白鹿は別な場所にいるに違いない。
倭建は微笑した。
「そちは影か、影でも代役は務まるであろうし、何故、道を塞《ふさ》ぐ? 理由を申せ」
返事はない。
倭建は剣の先を鹿の角に当てた。
「人間の言葉でなくても良い、質問には答えよ、そちが邪魔をしているから我等は通れぬ、もしどうしても通さぬのならその老いた角を切るぞ、鹿の神力は角にあるという、どうじゃ」
倭建は剣の切っ先を角の根本に当てた。
山林の中から声がした。男女の区別のつかない奇妙な声だった。
「王子よ、王子はもう尾張に寄らずに、海に戻り、大和に帰るのじゃ、それが一番じゃ」
白鹿は微動だにしていない。
「そんなことはできぬ、甲斐《かい》から美濃《みの》に寄り、久し振りに兄王に会う、大和がどうなっているのか探らねばならぬ、そのためにも尾張は欠かせない、さあ、道を開けよ」
「不幸が起きる、尾張は避けた方が良い、いいたいことはそれだけじゃ、忘れるな」
声が終ると同時に眼の前の白鹿が消えた。
やはり幻だったのか。
倭建は草薙剣を鞘《さや》におさめ、猪喰に、遣《や》り取りを聴いたか、といった。
「いいえ、聞えませぬ」
「吾の声もか?」
「はっ」
倭建は、平伏している道案内人に、山の神の了解を得た、と告げた。
[#改ページ]
十一
道案内人も、倭建《やまとたける》の警護兵も、巨大な白い鹿の角に草薙剣《くさなぎのつるぎ》をつきつけている倭建を見た。
ただ鹿に語りかけている倭建と鹿の会話を聞いた者はいない。
草薙剣は角の根っ子に当てられていた。
まるで幻でも見ているような不思議な光景だった。
しかも突然、鹿が消え、何事もなかったように倭建は歩き出したのだ。
「山の神の了解を得た」
と倭建はいったが、誰もその意味が分らない。だが皆は倭建の言葉を信じた。
鹿が消えたのは、そのせいだと思った。
一行は黙々と歩いた。
足柄峠《あしがらとうげ》を越えると、現在の御殿場《ごてんば》の北に出る。すぐ西方に天にも届かんばかりの不二山が聳《そび》えている。何という神々しく巨大な山であろうか。何度見ても飽きない。
倭建は不二山に畏敬《いけい》の念を抱いていた。
たんに高いというのではない。優雅で厳かである。いやそれよりも不二山は群れたがっていない。大和では見られない高い山々が遥《はる》か北方に連なっているが、不二山だけは、離れた場所に独りで聳えているからだ。
何という偉大な孤独感だろうか。
倭建が不二山に惹《ひ》かれるのは、たった独りで群山を圧しているからである。
いや、群れた山など不二山の眼中にはないのではないか。
不二山が意識しているのは、天のみである。その崇高な山気に魅せられるのだ。
「王子、凄《すご》い山ですなあ、吉備《きび》あたりの山々は、山といえない、丘に思えてくる」
「吾《われ》も不二山のように生きたい」
その返答をどう解釈したのか、武彦《たけひこ》は、うむと頷《うなず》いていた。
「王子はもう不二山ですぞ、吾はそう思っている、だから最後までお仕えしているのです」
「そういわれると身が縮まる」
不二山には部下が要らない。どんなに凄い雷神も、掠《かす》り傷さえつけられないだろう、だが吾には武彦のような部下がいる、それだけでも大変な違いだ、と自分に呟《つぶや》いた。久米七掬脛《くめのななつかはぎ》がいった。
「王子様、吾は不二山に登りとうございます、山頂で天に向かって両手を挙げ、大声で吠《ほ》えたい、これも山人族の血のせいでしょう」
「そうか、登りたいか……」
そういう血気もあったのか、と倭建は七掬脛を見直した。倭建は、山頂まで登りたいなどと、考えたこともなかった。
山人族には、山人族の血があるのだろう。
倭建は猪喰《いぐい》を呼んで不二山への思いを訊《き》いた。
「七掬脛殿の気持は分ります。ただ吾は山人族の出ではないので、そうは思いませんが、狙われる山です」
「狙われる?」
「頂上まで登って、下界を見下ろしたい、と望む山人が必ず現われます、何故なら群れていないからです」
「なるほどのう……」
独りで傲然《ごうぜん》と立っているがゆえに、頂上に立ち、周囲の山々を眺めたい、と望む山人が現われるという感想も倭建には刺戟的《しげきてき》だった。げんに七掬脛がそうだ。
四人の中では、猪喰が最も冷静に観察しているのかもしれない。
そうか、誰にも傷つけられぬ山だが、独りで立つのは、狙われるということか。
猪喰、そちは吾が狙われやすい、と申しているのか、と眼でたずねた。猪喰は、視線を伏せる。その通りです。御用心のほどを、と猪喰は無言で告げていた。
群れから離れた王者の孤独と危険性を、猪喰は誰よりも強く感じていた。
倭建の一行は湯船原《ゆぶねはら》で一泊した。
翌日は三国峠《みくにとうげ》を越え山中湖に出る。雨さえ降らなければ、約四、五日で甲斐《かい》の酒折《さかおり》に到着の予定だった。現在の甲府である。
夕餉《ゆうげ》の際、足柄峠の白鹿の話が出た。
皆が見たから幻ではないが、何故、一瞬のうちに消えてしまったのか、が話題になった。
武彦も七掬脛も、倭建がその理由を知っている、と推察しているようだ。
「皆が幻を見たのであろう、越《えつ》の国の海での話だが、海の上に都が現われることがあるらしい、猪喰は丹波の海を知っている、その幻を見たことがないか?」
「見たことはありませんが、確かに越の海の話は聞きました、ただ足柄峠の白鹿は、幻にしては余りにも鮮やかでした、不思議です」
猪喰は喰《く》い入るように倭建を見た。真実をお話し下さい、といっているのだった。
七掬脛が身体を乗り出す。
「そういえば、王子様とあの鹿は、話し合っているように見えましたぞ」
「確かに、吾も鹿の口が動くのを見た」
倭建は苦笑して見せた。
「それなら声を聞いたであろう」
「いや、それが……」
武彦と七掬脛が頭を掻《か》く。
「何も話してはいぬ、ただ吾は草薙剣を抜いた際、この霊剣はそちよりも強いぞ、消えなければ老いた角を切る、と胸の中でいった、切っ先が角に触れたと感じた時、幻は消えた、別に話し合ったわけではない」
倭建としては、そういわざるを得なかった。尾張《おわり》に寄らず、海で大和に戻れ、と鹿が告げたなどと話せない。あの鹿は、尾張は危険だ、と教えている。
本当かどうか分らないのに、そんなことを話せば、武彦らに先入観を与えてしまう。それよりも、黙っていた方が良い。
何故危険なのか、倭建も判断しかねた。多分、宮簀媛《みやすひめ》と会うなといっているのだろう。
弟橘媛《おとたちばなひめ》の力に負けたが、宮簀媛の未練が、どんな埋火《うずみび》になっているのか、倭建にはよく分らない。
倭建が宮簀媛を思い出しても胸が騒がないのは、あの恋情が消えたからである。続いていたなら胸はときめく筈《はず》だ。
もし宮簀媛が鹿の鬼神だとすると、足柄峠の鹿は、尾張で再会した場合の宮簀媛と倭建の関係は悪い結果をもたらす、と予言したことになる。
自分さえしっかりしておれば、宮簀媛の魔力に掴《つか》まる筈はない、と倭建は自信を抱いていた。
それとも、尾張周辺に不穏な動きがあることを、宮簀媛が足柄峠の山の神を通じて教えたのか。
白鹿との会話は口にすべき性質のものではなかった。
その夜は妙に苛立《いらだ》ちすぐに眠れそうにない。倭建は親衛隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》を呼び、酒を命じた。
弟橘媛が連れて来た侍女はすべて帰し、身の周りを世話する女人はいない。媛が亡くなって以来、禁欲生活を続けている。意志の強い倭建も、時には禁を破りたくなる時があるが、自分を抑えてきた。
身代わりとなって亡くなった媛を思うと、閨《ねや》の愉《たの》しみに溺《おぼ》れることはできない。
寝具に胡坐《あぐら》をかき、酒を飲んでいると、女人との関係を絶っている猪喰の気持を思った。
大和《やまと》を出発して一年、猪喰が女人と媾合《まぐわ》ったという話は聞いたことがない。まだ三十代の前半で、普通なら女人なしではおれない筈だ。
これまでその件で質問したことはなかった。七掬脛は猪喰の禁欲を何処かで信じていないところがあった。
猪喰は情報|蒐集《しゆうしゆう》のためよく姿を消すが、その時、媾合っているに違いない、とからかったことがあった。それに対し、猪喰は表情一つ変えなかった。そう思うなら勝手に思えば良い、といった感じだった。反駁《はんばく》もしない。七掬脛は少ししらけたように、
「分った、おぬしは変わり者だ、余りむきになるな」
と笑ったが、
「吾はむきになっていない」
たんたんとした口調でいわれ、
「済まない」
と叩頭《こうとう》した。
二人の遣《や》り取りを見ていた倭建は、間違いなく女人とは無縁だ、と感じた。
何か理由があるに違いない。もしそうだとすれば、よほどの痛みであろう。
そのように推測したがゆえに、これまで一言も触れなかったのである。
猪喰はすぐ現われた。
それが癖になっているのか、屋根裏に視線を向け、窓から外を眺める。すでに陽は落ち月影が微《かす》かに木々の葉を濡《ぬ》らしている。この季節では窓を閉めたりはしない。
この辺りで高床式の建物といえば、この地方の首長とその一族の家だけだった。村長《むらおさ》級でも土を掘り、藁《わら》で葺《ふ》いた竪穴《たてあな》式である。
首長は倭建の宿として、妻の家を提供していた。
「大丈夫じゃ、吾もさっき調べた。今宵《こよい》は何となくそちと酒を酌み交わしたくなった。傍に参れ、吾は時々、無性にそちと二人きりになりたくなる」
猪喰は膝《ひざ》を使い倭建の傍に来た。
倭建が酒壺《さかつぼ》を持とうとすると、猪喰が素早く取った。
「王子様、それはなりません、やつかれ(臣下)が注ぎます」
「余り堅いことを申すな、酒を飲む時ぐらい、垣を取り払っても良いではないか」
「一事は万事と申します、やつかれにとって王子様は主君、これだけは取り払えませぬ」
「窮屈だのう」
「お許し下さい」
「相変わらず頑固な男子じゃ、そちの好きなようにせよ」
猪喰は酒壺を捧《ささ》げ持つと自分の前に置かれている酒杯に注いだ。
貴重な灯油の明りが小窓から入る微風に揺れた。
「これは命令だ」
と倭建は立て続けに三杯の酒を飲ませた。顔には余り出ないが猪喰は酒に強い。ただ自分の限度を心得ていて、取り乱すほど飲まなかった。
武彦や七掬脛からも、窮屈な男子だと思われている。すぐに女人の話はできない。
「のう猪喰、本心を告げると吾《われ》は大和に戻りたくない、父王が大伴武日《おおとものたけひ》を呼び戻した頃からその思いが強くなった。大和に入る前に軍を解散し、母の故郷の播磨《はりま》に行き、静かに余生を過ごしたい、こういえば、女々しい男子と軽蔑《けいべつ》するであろう、仕える主君を間違ったと……」
明りを背後から受けているせいか、猪喰の眼が時々洞のようになった。洞の奥から光の矢が走る。
猪喰は酒壺を捧げ持った。無言だがそれが返答である。簡単に答えられないことを倭建に告げているのだ。
「そうだのう、猪喰も返事ができぬ、当然じゃ、ああいったが、吾《われ》の心も決まっていない、吾も迷っている、そういえば、吾はかつて大和の音羽山に潜み、オシロワケ王を殺害せんと狙っていた、イニシキノイリビコ王の警護隊長だった丹波森尾《たんばのもりお》を殺した、そちの祖父だ、あの時、丹波森尾は吾にいった、オシロワケ王は卑劣な王だと、吾は若く、何をいっているのだと怒った、丹波森尾の言は正しかったようじゃ……」
倭建は、死に際し丹波森尾が叫んだことを覚えていた。あれから十年はたつ。
間違いなく父のオシロワケ王は、正統な王位継承者であるイニシキノイリビコ王を自殺に追い込み、自分が王となった。
オシロワケ王の側近者だった物部《もののべの》タラオはイニシキノイリビコ王から石上《いそのかみ》神社の祭祀《さいし》権を奪った。タラオは、物部|十千根《とちね》の父である。軍事将軍となりオシロワケ王の片腕となっている。大和王権から丹波の勢力を追い出したのは、オシロワケ王と物部だった。
その間の事情を、今の倭建は知っている。
北九州の邪馬台国《やまたいこく》が東遷し、卑弥呼《ひみこ》の子孫が、大和に王権を樹立した。
吉備や出雲が協力したが、新しい大和王権は、更に有力な国を味方につけねばならなかった。オシロワケ王の父・イクメイリビコイサチ王(垂仁《すいにん》帝)は、丹波国と婚姻を通じ縁戚《えんせき》関係を持った。
当時の丹波国は、後の丹後をも含み、朝鮮半島と交易し、鉄を生産し、豊かで強力な国だった。
時の流れを察した丹波道主《たんばのちぬし》王はヒバス媛を初め、何人かの女人を大和に行かせ、諸王と婚姻させた。
イクメイリビコイサチ王は、ヒバス媛を正妃にしたのである。媛が産んだのがイニシキノイリビコ王だったのだ。
オシロワケ王の母はヒバス媛ではない。
猪喰はオシロワケ王を暗殺せんと大和に潜入したが、警戒が厳重でなかなかその機会がない。そのうちオシロワケ王が、王位をイホキノイリビコ王子に譲るべく、倭建を疎外しているという情報を得、倭男具那《やまとのおぐな》といわれていた王子に近づいた。勇猛なだけでなく人望のある王子だった。王子を一眼見た途端、猪喰の心は慄《ふる》えた。惹《ひ》かれたのである。理屈も何もない。理由を説明せよといわれても不可能である。
倭建が放つ見えない光に打たれたといって良い。
倭建もそんな猪喰に前世から仕えている部下のような親しみを抱いた。これも理屈ではなかった。
倭建は今、何処に行くべきか分らない、と猪喰にいったが、これは主君が部下にいうべき言葉ではない、友といって良い武彦にもいえないことである。七掬脛にもだ。
猪喰のみにしかいえないところに、二人の宿命的な関係があった。
「どうじゃ、返事はできぬか、無理な質問じゃ、しなくても良いが……」
「確としたことは申せませんが、天命に従うべきだと思います」
「天の命、無為自然か?」
「無為とは少し異なりましょう、王子様は起《た》つ時は起たれる方です、やつかれが、このようなことを申し上げるのは無礼ですが、王子様は、そういう方だと信じています」
「うむ、その通りだ、流れに流されて溺れたりはしない、そんな吾の姿を見たなら、吾に名をくれた熊襲建《くまそたける》が泣くであろう、それにしても、今宵は妙に神経が昂《たか》ぶる、この地の神が何かと騒いでいるのかもしれぬ、もしそうなら女人好きの神のようだな、珍しく伽《とぎ》の女人が欲しくなった。弟橘媛が亡くなって以来、こういう苛立ちは初めてじゃ」
「はあ」
猪喰は困惑したような声を出した。
「そういえば猪喰、そちはどうじゃ、女人の噂がさっぱり耳に入らぬ、時々、武彦や七掬脛がからかっているようだが、この頃は余り口にしなくなった。たんに無視しているのではなく、そちは、くだらぬことを訊くな、と冷ややかに怒っているからじゃ、男子は酒を飲めば女人の話をする、酒の肴《さかな》のようなものだ、一体、何故なのか、吾もかねがね不思議に思っていた、吾とそちの間には、何の膜も溝もない、だが媾合《まぐわい》の話だけはできぬ。訊《き》けぬ、もし溝があるといえばそのことだけじゃ、どうじゃ、吾に話せぬか、心の深い傷がそちの口を塞《ふさ》いでいるのであろうが……」
猪喰が凍りついたのが分った。懸命に自分を抑えているらしいが、肌が寒くなるような気が倭建を包んだ。
凍った猪喰が呼んだのか、風が流れ込んできて灯油の明りを消した。
部屋は暗闇に変わった。
「申し訳ありません。火打ち石で明りをつけます」
「いや、明りはよい、それにしても余計なことを訊いたようじゃ、いささか酔った。吾も眠るとしよう」
「王子様、申し訳ありません。時が来ればすべてを告白します。どんなことであれ、王子様との間に溝を作ってはならないのです。それが恥辱を伴うものであっても」
「いや、もう構わぬ。そちの傷を掻《か》き廻《まわ》そうとした吾がどうかしていた。忘れよ」
「何時か必ず」
「酒の肴として話せる時が来たなら聴こう、今宵は良い、命令口調だった吾が悪かった、本当に眠くなった、そちも戻り身体《からだ》を休めよ」
嗚咽《おえつ》を噛み砕いたような息とも声ともつかぬ奇妙な音がした。猪喰が放ったのか、風の呻《うめ》きかは倭建にも分らなかった。
猪喰はすぐ傍の家に戻った。竪穴式の狭い家だった。大裂《おおさき》は鼾《いびき》をかいて眠っていた。
筵《むしろ》のような寝具に横たわった猪喰は珍しく眼を開けて屋根裏の闇を眺めた。
その闇には更なる暗黒があった。そこに猪喰自身がいた。いや、今一人、刀を抜いて猪喰と向き合っている。二十年近い昔である。その時、猪喰は十代の後半だった。
大和《やまと》のイクメイリビコイサチ王の晩年、次の王になるべきイニシキノイリビコ王は、物部と組んだオシロワケ王の策にはまり河内《かわち》に追いやられた。
丹波道主王の弟、ヒコウシ王はイリビコ王を王位につけるべく策を練った。
沿海(日本海)諸国を連合させ、大和王権にイリビコ王の王位を認めさせることが主目的だった。丹波、出雲《いずも》、越の連合国である。同時に大和王権内のイリビコ王派を団結させ、物部十千根《もののべのとちね》を排除し、オシロワケ王の王位への野望を諦《あきら》めさせる、という計画だった。
そのためヒコウシ王は、十数人の部下と共に大和に向かった。イニシキノイリビコ王派とは連絡がついている。猪喰は若いが一行の長格の一人として加わっていた。警護の副隊長というところである。
南|山背《やましろ》にはイリビコ王派が多い。彼等はヒコウシ王の一行を歓迎した。それがヒコウシ王を油断させたのかもしれない。
ヒコウシ王は、彼等が申し出た警護兵の強化は目立ち過ぎるし、物部を刺戟《しげき》してはまずいという理由で断った。
乃楽《なら》山は山背と大和とを遮るような低い丘陵地帯である。大和王権にとっては北方に対する城壁といって良い。
一行が乃楽山を越えようとした時、タラオの子・物部十千根が率いる数十人の兵が襲ってきた。予期しなかった不意打ちである。
物部十千根は、丘に兵を伏せていて矢を射させた。矢は豪雨のように降り注いだ。応戦する余裕もなかった。草叢《くさむら》や灌木《かんぼく》に身を伏せて矢を避けるのがやっとであった。
猪喰はヒコウシ王を突き飛ばし、王に重なり矢を避けた。王は太腿《ふともも》に矢を受けていた。敵が刀や槍《やり》で襲いかかってきた時、戦える兵は半数になっていた。
猪喰は若いが、剣では丹波でも屈指の武人だった。
何人斬ったか自分自身でも分らない。負傷した王を岩陰に隠し武の鬼神のように戦った。返り血で全身は真赫《まつか》になり、血《ち》飛沫《しぶき》でまともに眼も開けられない状態だった。
身体が鉛のように重くなり刀も力強く振れない。何時の間にか王と離れていた。
突然、眼の前に長刀を抜いた武人が現われた。年齢《とし》は三十前後か、眼光が炯々《けいけい》とし、口辺に薄い嗤《わら》いを浮かべていた。皮|綴《と》じの短甲を纏《まと》っている。
「よく動くのう、残念だろうが王は殺した、そちも最期じゃ、だが、なかなか感心したぞ、黄泉《よみ》の国に行く前に、名を名乗れ、胸に止めておく」
「無用じゃ、卑劣な男子、そちは物部十千根だな」
「ほう、よく分ったな、褒めてとらすぞ、では心安らかに死ね、大和の将軍に殺されれば本望であろう」
十千根の刀が真正面から降ってきた。自分でも受けられたのが不思議だった。多分、武の鬼神が憐《あわ》れんだのかもしれない。刀と刀が火花を散らし、百貫の重石《おもし》を受けたような気がした。
奇蹟《きせき》が生じた。猪喰の刀が十千根の刀に喰《く》い込み離れなくなったのだ。十千根は慌てた。刀を引けば喰い込んだ猪喰の刀が押してくる。傲慢《ごうまん》だった顔が蒼白《そうはく》になり脂汗が滲《にじ》み出た。
「集まれ、皆、ここに来い!」
十千根としては兵たちを呼び集め、助けを求める以外に方法はなかった。恐怖心が眼を霞《かす》ませていた。
今一息じゃ、と思った時、何処《どこ》からか声がした。
「死ぬな、逃れて復讐《ふくしゆう》をとげよ、十年、二十年先で良い、生きていてこそ復讐できるのだ」
その声が猪喰の胸を貫いた。
走り寄る兵たちの姿が見えた。
猪喰は全身の力を込めて十千根に体当たりした。十千根は仰向《あおむ》けに倒れた。後頭部が岩にでも当たったのか周囲に響く音がした。
猪喰は刀を握り走っていた。途端に喰い合っていた十千根の刀が落ちた。
不思議に身体が軽くなった。
三人ほど斬ったような気がするが覚えていない。無我夢中だった。
猪喰は西の山に入っていた。小さな洞を見つけ潜り込み横になった。全身が痺《しび》れている。再び身体が重くなり泥のように眠った。どのぐらい眠ったのか分らない。
痛みで眼が覚めた。
初めて衣服がぼろ布のように裂け、身体のあちこちに傷があるのを知った。
尿意を覚え、洞から這《は》い出た。陰嚢《いんのう》の辺りが痛む。人気《ひとけ》のないのを確認し、股間《こかん》の竿《さお》を取り出し愕然《がくぜん》とした。陰嚢が割れ大きな傷口から血塗《ちまみ》れの肉塊《にくかい》がはみ出ていた。袴《はかま》のその辺りの部分が裂け血がこびりついている。刀で斬られた記憶はない。多分、矢が陰嚢を貫いたのであろう。
猪喰は山中で二ヶ月ほど過ごした。刀子《とうす》や刀で獣を獲《と》り、夜、田畑の作物をとって食べた。
秋の終り頃、猪喰は丹波に戻ったのである。ヒコウシ王をはじめ、殆《ほとん》ど全員が死亡していた。生き残ったのは猪喰と警護兵の一人だけだった。
それ以来、猪喰は生殖能力をうしなった。
かつての丹波の仲間の猪喰を見る眼は冷たい。皆、ヒコウシ王を捨てて逃げ帰った卑怯《ひきよう》者と眺めている。生き残った警護兵は自殺した。
猪喰も何度か死を考えたが、物部十千根に対する復讐心が生を選んだのである。
丹波森尾が倭建を襲い、殺されたという噂を聞いて間もなく猪喰は丹波を出た。
大和周辺の山に洞を掘り生きた。一人で武術を磨きながら情報を集めた。
時には巫術《ふじゆつ》者にもなった。
オシロワケ王が倭建を疎外しているという噂も耳に入った。そんな時、倭建は無念の死を遂げたイニシキノイリビコ王の傍に丹波森尾の墓を造り手厚く葬ったのだ。
それを知り、猪喰は倭建に仕えながら、物部十千根を殺す日を待とうと決意したのだ。
故郷に妻子を残しているといったが、妻など持ったことはない。持てない身体だった。
何時もは大裂の鼾など気にならない。横になればすぐ眠れる。
だが屋根裏の闇に、二十年近い昔の物部十千根の顔がはっきり見える。冷酷な眼に薄嗤いを浮かべ猪喰を見下ろしていた。
倭建の命で酒をかなり飲んだが酔いが一向に廻《まわ》らない。
女人と媾合《まぐわ》えなくなった理由を、倭建に話すべきか。話さなければ、その件に関する溝は埋まらない。
話せば倭建も納得する。だが物部十千根の名を出さねばならなかった。
十千根がオシロワケ王に取り入るべく、倭建を疎外しようとしているのは間違いない。大伴武日を呼び戻したのも十千根の策であろう。
寝つかれない猪喰は外に出た。月が殆ど雲に隠れ、真の暗闇だった。
倭建がいったように、もしオシロワケ王が心から嫌っておれば、王子は大和には住めない。多分、播磨《はりま》か吉備に行くことになるだろう。武彦は良いが、問題は吉備の長《おさ》連中がどういう考えを抱くかだ。
なかには、大和の王権と事を構えることに危惧《きぐ》の念を抱く者もいる筈《はず》だ。
最初は良いが倭建の居心地は悪くなる。
それより不安なのは、物部十千根が何を策しているかであった。
ひょっとすると倭建の死を望んでいるのかもしれない。
大伴武日を戻した真の意図は、そこにあるような気がしないでもなかった。
これは武彦も七掬脛も気づいている。だが絶対口にできない。
となると猪喰の敵は物部十千根ということになる。猪喰は珍しく低く唸《うな》った。
これも天命なのか。
まず尾張に近づけば、尾張から美濃、それに近江《おうみ》の情勢を徹底的に調べる必要があった。
倭建もその辺りのことは考えているようだ。猪喰に洩《も》らす言葉の端にそれが出る。
猪喰は人の気配を感じて寝る時もはなさない刀の柄《つか》に手をかけた。
倭建の家の方である。猪喰は足音を殺して走った。警護の兵ではない。気配で分るのだ。
暗闇の中から気配だけが猪喰の方に近づいて来た。
猪喰は刀を抜いた。距離は十歩ほどだ。
「猪喰か、慌てるな」
意外にも倭建の声である。流石《さすが》の猪喰もたたらを踏んで止まらざるを得なかった。
「王子様」
息がはずみ声がもつれている。
「そちの宿に行くところであった。今少し話をしたい」
「はっ」
「さっきは悪かった、女々しいことをいったり、くだらない質問をした。人間は鉄ではない。時には胸の中に穴が空く時もある。許せ」
「とんでもございません、やつかれこそ……」
「そちが詫《わ》びることはない。詫びるのは吾の方だ」
「勿体《もつたい》ない、王子様、やっこにおっしゃる言葉ではありません」
猪喰は地に伏せ叩頭《こうとう》した。
「吾はそちをやっこなどと思っていない。吾の決意をいう、もし父王が吾を殺したければ吾は戦う、この手で父王を斃《たお》し、王位をかち取る、甲斐の酒折宮に着いたなら、そちは吾から離れ、大和の様子を調べよ。これは揺るぎない決定じゃ、立て、虫のように地に這いつくばるな」
倭建の声は低かったが、火を吐くような熱気が感じられた。
[#改ページ]
十二
甲斐《かい》の国は周囲を山に囲まれた盆地である。南の富士川の両側も山が迫り、平野部を狭くしている。空から眺めると富士川流域の桶《おけ》の上に酒杯が載ったような形をしている。
甲斐の首長は、三百丈(九百メートル)から五百丈(千五百メートル)級の山々が連なって南に延びてきた尾根の麓《ふもと》に、倭建《やまとたける》のために仮宮《かりみや》を用意した。
倭建が足柄峠を越えて甲斐の国に寄ることはすでに使者が知らせていた。
倭建は大和王権が友好のために遣わした王子として迎えられたのである。
北方の山々は、現在の御岳昇仙峡《みたけしようせんきよう》であり、酒折宮《さかおりのみや》は後の善光寺の傍にあった。
盆地といっても、低い丘陵地帯が到るところにある。
宮は一寸《ちよつと》した高台に建てられていた。甲斐の首長の別荘で、その周囲には幾つもの宿泊所が建てられた。
周囲が山々という点では大和と変わりはないが、山の高さや峻険《しゆんけん》さが異なる。
倭建が酒折宮で旅の疲れを休めていた二日目、ぼろ布を纏《まと》った数人の男子《おのこ》が宮の近くに現われた。
彼等は皆、大きな荷物を担ぎ、刀を吊《つる》し弓矢を背にしていた。
一行は陽に灼《や》け、肌は樹皮のようになり、乾いた汗が塩となりこびりついている。ただ眼光だけは炯々《けいけい》とし、獲物を狙う獣のようだった。
一人だけ刀を吊し、荷を担いでいない男子がいるが、一行の長《おさ》であろう。
警戒にあたっていた甲斐の兵が一行を見つけた。この異様な風体は交易の旅人ではない。しかも全員が獣のような気を放っている。
一行は雑木林の傍の小川で顔を洗い、水を飲み、焼米を食べた。
三人の甲斐の兵は、自分たちだけでは近寄り難いものを感じた。といって放っておくわけにはゆかない。
村人を呼び、倭建の警護兵に連絡をするように命じると共に、槍《やり》を構え、おそるおそる近づいた。
一行は兵たちを眺めたが気にも留めずに、音をたてて焼米を噛《か》んでいる。
数歩手前で思い切ったように兵の一人が訊《き》いた。
「何者か、何の目的でここに来た?」
胡坐《あぐら》をかいていた長らしい男子が口を動かしながら立った。刀に手をかける様子もなく近づいた。槍の穂先など問題にしていない。兵は及び腰で叫んだ。
「吾《われ》は大和から来られた倭建王子様をお守りする兵じゃ、曲者《くせもの》は通さぬぞ、この槍が眼に入らぬか、突くぞ」
さっきまで射貫くように光っていた眼が和んでいた。半ば笑いながら首を横に振る。
「それは御苦労じゃ、王子に代わり礼をいう、だがのう、そんな槍の構えでは警護の役はつとまらぬぞ、何時《いつ》もは農業か?」
「吾は村長《むらおさ》の息子じゃ、田畑も耕すが、武術の稽古《けいこ》も怠らぬ、種|蒔《ま》きと刈り入れ時以外は、首長の宮の警護の任にもついている、他の二人も同じじゃ」
そういえば、他の二人は得体の知れない男子の左右に立ち、槍を構えていた。
取り囲まれたことになるが、彼には眼に入らないらしい。
「どんな武術の稽古をしている? みろ、腰が据わっていない、槍で突くにしろ、刀で斬るにせよ、大事なのは腰じゃ、吾を見よ」
男子は自分の腰を叩いたが、そのまま一瞬きした。眼にもとまらない早業である。
「あっ」
と叫んだ時、兵士の穂先は男子に奪われていた。兵士の手から槍の柄が抜けた。男子は、奪った槍を左右に払い、他の二人の兵士の槍を撥《は》ねた。その槍は二本共、空中に飛び雑木林に落ちてゆく。
三人の兵士は何が起こったのかすぐ分らず、唖然《あぜん》として立っていた。
男子は槍の柄を土に立て、
「剣技とはこういうものだ、分ったか」
相変わらず柔和な眼でいった。
槍を取られた兵士は腰が抜けたのか坐《すわ》り込んだ。他の二人は海で泳ぐように両手を振りながら逃げて行く。
「あなた様は?」
「名は後で名乗る、吾のいうことに答えよ、倭建王子の親衛隊長は穂積高彦《ほづみのたかひこ》か」
「はっ、確か穂積様と聞いております」
「そうか、吉備武彦《きびのたけひこ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、それに丹波猪喰《たんばのいぐい》は元気でおるか」
「吾は、将軍たちの名前は知りません」
「よし分った、そちはこれから王子の屋形に走り、親衛隊長の穂積高彦に、こういうのだ、大伴武日《おおとものたけひ》が戻ってきたと」
男子は武日と名乗った、自分の名前を慈しむように眼を細める。ぼろ布を纏っているが、オシロワケ王に呼び戻された東征副将軍・大伴武日だった。
「復唱せよ」
坐り込んだ兵士はどもりながら復唱した。
「いいか、親衛隊長にだけ告げるのだ、この大伴武日がすぐ会いたいといっていると、我等はここで待っている、行け」
武日は坐り込んだ兵士に活を入れた。
埴輪《はにわ》のような恰好《かつこう》をしていた兵士は、魂を吹き込まれたように、跳び上がり走り去った。
甲斐の兵士から大伴武日の名を告げられても、高彦は信じられなかった。今頃は大和で大活躍をしている筈《はず》である。それに、得体の知れない男子は、このことを誰にも話すな、と命令したという。高彦は倭建に告げるかどうか迷った。ただ、もし本物の武日なら何か重大な理由があって会いたいといったのである。
そうでなければ、堂々と倭建と会う筈である。兵士の話では鬼神のような武術者らしい。
迷った末、猪喰に相談することにした。倭建はあの夜、猪喰を呼んだ。内密の話があったらしい。ひょっとすると、大伴武日と称する武人が現われた事実と関係があるのかもしれない。
武彦に話せば、「何故、王子に話さぬ」と怒鳴られそうだ。大和王権と肩を並べる吉備国の王族だけに煙《けむ》たい。
その点、情報|蒐集《しゆうしゆう》を主な任務としている猪喰に耳打ちしてもおかしくない。
七掬脛は甲斐の首長の屋形に出掛けていた。高彦は猪喰に話した。
「よし、吾が行く、おぬしが酒折宮を離れるのはおかしい。親衛隊長は、王子様の命がないのに宮を離れてはならぬ、このことは誰にも話すな、兵士には口止め料に布でも与えた方が良いぞ」
猪喰は高彦に報告した兵士を案内人として連れて行くことにした。酒折宮の周辺は連日、駈《か》け廻り大体の場所は分るが、何といっても未知の地である。目的地を誤ったなら大変だ。
それにちゃんと高彦に報告した点、その兵士の行動は信用できる。一着分の麻布を貰《もら》うことになった兵士は大張り切りである。四半|刻《とき》(三十分)の距離は古代人の足で一里(四キロ)というところだ。
雑木林と小川を告げられた猪喰は、兵士をその場に待たせて真っ直ぐ近づいた。人影がないのは一行が雑木林に入り込んでいるからだった。もうそろそろ雨季でこの二、三日、雨こそ降らないが雲が空を覆っている。
雑木林の近くの丘に立った猪喰は大声でいった。
「大伴武日殿、迎えに参った、まだ本物かどうか分らぬので顔を見せられよ、吾は丹波猪喰、この声は覚えておられよう。参るぞ」
猪喰は周囲を警戒しながらゆっくり進んだ。田畑は通らず草叢《くさむら》の中を進む。実際、一抹の疑惑はあった。
雑木林の中から「おう」という数人の声があがった。猪喰は足を速めた。小川の手前の薄《すすき》の中から突然人が立ち上がった。
「猪喰か、吾じゃ、大伴武日じゃ」
陽に灼けた顔が笑っている。猪喰も予期していなかった現われ方だが、猪喰は走った。
頷《うなず》きながら出した武日の両手を力強く握る。蒸し暑い日だった。二人は腕相撲でもするようにお互いの手を揺すり合った。
「武日殿、まるで間者《かんじや》のようだのう」
「ひょっとしたらおぬしが来るのではないか、とこうして待っていた、剣だけではない、間者の腕もよかったであろう、大和にこそ入らなかったが、尾張から美濃、近江《おうみ》の辺りを調べていた、不穏な動きを感じたからじゃ、大変なことになっているぞ、オシロワケ王は、王子を暗殺する積りらしい、近江から尾張北部、美濃の辺りにまで忍びの兵を出している……」
「忍びの兵?」
「そうじゃ、堂々とした軍団を組まずに、農民や交易の旅人に変装した兵じゃ」
「物部十千根《もののべのとちね》だな」
猪喰が血の混じった呻き声を出した。武日は驚いて手を離した。手の汗が飛び散った。
「流石《さすが》は猪喰、よく分ったのう」
「おぬしを呼び戻し、王子様の兵力を減らしたのも十千根の策であろう、王子様は房総半島の須恵の地で、軍の半分以上を故郷に戻された、王子様には、東国で戦う意志はない、物部十千根は王子様を攻撃する好機と判断したのであろう、卑怯《ひきよう》な男子だ」
「そうだ、オシロワケ王は急に老いた、十千根に乗せられている、猪喰、王子様の居場所は大和《やまと》にはない、それを知らせるために吾は来た、まず武彦や七掬脛に危険を知らせ、今後のことを話し合わねばならぬ、そのためには、王子に会う前におぬしらに会わねばならぬ、そうか、おぬしは知っていたのか」
「推測していた、そう考える以外、東国に来ているおぬしを呼び戻す理由はないからじゃ」
「うむ、となると武彦も七掬脛も……」
「口には出さぬが、胸中に決意はあると思う」
「今夜中に武彦らに会い、大和周辺の情勢を知らせたい、その結果、吾は正式に申し上げる、猪喰、会合の場をつくってくれ」
「分った、子《ね》の刻あたりが良い、今少し酒折宮に近づいて待たれよ、吾が連絡する、これからその場所まで行こう」
待たせていた甲斐の兵士を帰した猪喰は、大伴武日の一行と共に雑木林に入った。武日の部下は七人に減っていた。逃げた者もいるし、病で死んだ者もいる。また武日の命令で帰った兵士もかなりいた。妻子のある者は総《すべ》て戻したのだ。
人眼につかないように田畑を避け、林や竹藪《たけやぶ》、丘を通り酒折宮から四、五百歩の場所まで進んだ。これ以上近づくと倭建の警護兵に見つかる。
猪喰はぼろ布を纏った武日の部下たちを眺め、今更のように彼等の忠誠心に胸が熱くなるのだった。
吉備武彦、久米七掬脛は猪喰の報告を聴き武日との再会に胸をはずませたが、倭建の将来を思い歯軋《はぎし》りした。
武日の帰還を倭建に告げる前に、武日から詳しく話を聴き、それぞれの決意を固めることで意見が一致した。
主君である倭建の身の安全を思う点では皆同じだが、どう対処するかとなると、それぞれの意見は異なるかもしれない。勿論《もちろん》、最終的に決断を下すのは倭建である。
これまでの赫々《かつかく》たる成果も、倭建の叡知《えいち》と勇気のせいだ。だからこそ忠節心も強まる。
ただ今日はこれまでと違う。場合によっては大和王権と対決せねばならない。
子の刻、一行は宿舎を出た。親衛隊長の穂積高彦が部下の兵士を制した。
顔など見えない暗闇である。歩く気配に耳をとがらせた兵士が、
「止まれ、何者だ」
と槍をつきつける。
「吾じゃ、高彦だ、静かにせよ」
高彦の声に、兵士は、
「はっ」
と安心して槍を引く。
今宵《こよい》も雲が夜空を覆い、土の湿気が混じった匂いが鼻をつく。
東国を旅するうち、それぞれの土地には独特の匂いがある、と嗅《か》ぎ分けられるようになった。湿気の匂いも異なる。
猪喰は葉笛を吹いた。すぐ近くで武日の葉笛が返ってきた。葉笛に釣られたように夜鳥が啼《な》いた。
「猪喰か?」
「おう、皆来た」
「ここじゃ、草叢《くさむら》だ、足元は大丈夫」
武日は竹笛を打ち鳴らした。
数歩の距離である。明りはつけられない。不寝番の警護兵がやってくる。
武彦が、「武日、吾じゃ」と手を打ち鳴らしながら近づく。武日も竹笛を捨て、手を鳴らして応じた。暗闇の中では音が眼の代わりになる。二人は相手の手と触れると抱き合った。お互い名を呼び、髭面《ひげづら》を擦りあわせる。七掬脛も同じだ。
懐旧の情を吐露する余裕はない。
一行は草叢に坐ると、武彦や七掬脛が持参した酒を飲み、早速、武日の報告に耳を傾けた。
武日は尾張に入ると、誰とも分らない曲者《くせもの》に襲撃された。相手は数人で遠くから矢を射てくる。こちらが矢を射返すと姿を消したが、ほっとする間もなく、山間《やまあい》の道で山賊から襲われた。武日たちは応戦し半数を斬り殺したが、部下も三人が死に二人が負傷した。
驚いたことに負傷し逃げられなくなった曲者は捕まるのを恐れ、刀子《とうす》で喉《のど》を刺し自害した。間違いなく訓練された暗殺者である。
尾張音彦《おわりのおとひこ》の屋形に到着するまで二度も襲われた。
武日は、音彦が放った曲者ではないかと問い質《ただ》したが、音彦は否定し、重い口を開いた。ひょっとすると、オシロワケ王の暗殺者かもしれない、と告げた。
大伴武日が呼び戻された頃、尾張の南部の伊良湖岬《いらごみさき》の根っ子に住む物部の長《おさ》が訪れ、倭建王子が尾張に入ったなら、その動向を知らせるようにといった。
「オシロワケ王の意向です、倭建王子は征服した東国の国々の反感を買い、生命《いのち》を狙われているので、王子を守らねばならぬ」
というのがその理由だった。
尾張音彦は、大和の王権に服従しているが、倭建には好意を抱いている。
形式的には承諾したが、倭建が戻って来たなら知らせ、警戒するよう、話す積りだったという。
武日は半月ほど尾張にいたが、大和には向かわず養老山沿いに美濃《みの》に入った。倭建の兄である大碓《おおうす》王に会い、倭建の現在の状況を知らせる積りだった。大碓王は濃尾平野の北部、後の武儀《むぎ》郡一帯の王である。
オシロワケ王はかつて、倭建に兄の大碓を殺すように命じた。倭建は殺したふりをして兄を逃がした。
オシロワケ王が倭建に不信の念を抱くようになったのは、それが原因の一つだった。
武日が大碓王を頼ったのも当然である。
大碓王が倭建の味方になることを表明してくれれば、東国諸国の大半が倭建に味方する可能性が出てくる。
不破《ふわ》の関(後の関ヶ原)で東西の軍の決戦によって、誰が倭国《わこく》の王者であるかが決まるであろう。
だが武儀に入った武日を待ち受けていたのは、倭建が遠淡海《とおつおうみ》で戦っていた頃、病床にあった大碓王が亡くなった、という悲報だった。
東征中の倭建にその悲報は知らされなかった。倭建は東征中、大碓王の名を一度も出したことはない。だが、帰途、美濃に寄る、といっていたから、大碓王との再会を望んでいたのは間違いない。
武日が、大碓の死を告げた時、席にいた一同の荒い息が止まった。沼の蛙の声が無性に煩わしかったが、それさえも一時聞えなくなった。倭建の将来を思う際、誰も口にしないが大碓王が救いの柱だった。
その柱が忽然《こつぜん》と消えたのだ。何という悲運であろうか。
「内彦《うちひこ》はどうしている? 大和では副将軍格だろう」
武彦が喉がせり上がったような声でいった。
現在の親衛隊長、穂積高彦の兄の内彦は、武彦たちの仲間で、最初から倭建に仕えていた。身の軽さで内彦に及ぶ者はいなかった。
「内彦は病床の身らしい、何でも突然倒れ、動けなくなったという、それでも懸命に歩く練習をしているらしいが、前のような身にはなれぬ」
「あの内彦が、歩く練習とは、猿のように木から木に飛んだのに、信じられぬ、嘘じゃ、物部十千根が毒を飲ませたのではないか」
七掬脛は歯軋りした。
熊襲《くまそ》征討に同行した猪喰は、内彦の脚力や身の軽さに舌を巻いた。
金峰《きんぽう》山での戦の際、内彦は前日から食当たりで下痢気味だった。
熊襲と遭遇する前、隊列から離れ灌木《かんぼく》の群れの中で蹲《うずくま》った。
何気なく眼をやった猪喰は十数歩ほど離れた灌木が揺れているのを見た。
猪喰は走りながら内彦に、
「敵じゃ、注意せィ」
と怒鳴った。
三人の熊襲が、海中で魚を突くヤスに似た槍を持って、しゃがんでいる内彦に襲いかかった。袴《はかま》を下ろし便を出している最中だ。これではどんな武術の達人もどうにもならない。
驚いたことに内彦は、袴を脛《はぎ》に絡ませたまま玉のようになって灌木の中を転がった。
内彦が飛ぶのは知っている。だが丸くなって転がる技を身につけていたとは流石の猪喰も想像していなかった。間違いなくそれも武術だった。三人の熊襲が慌てて追おうとした時、一人の首に猪喰が投げた刀子が深々と刺さった。
「済まぬ」
という声を耳にしたような気がしたが、はっきりしない。あの状態では転がるのが精一杯で、口を開ける余裕などない。残った二人のうち一人が猪喰に向かってきた。
普通の槍より柄が短いが、それだけ自由自在に操る。猪喰は刀で迎えた。
最後の一人が内彦を追った。雑木林の傍まで転がった内彦は身体を丸め転がりながら袴を徐々に脱いでいた。まさに神技である。
林まで追いつめた熊襲の兵士は、懸命に槍を突き出した。兵士の腋《わき》が動いた時、糞《くそ》だらけの袴が飛んできた。袴は槍に絡みつき糞が兵士の顔に飛び散った。
兵士は灌木に足元を取られ引っ繰り返った。下半身裸の内彦は起きようとした兵士の胸を蹴《け》り、刀子で喉を突き刺したのだった。
刀は排便の際、置いたままで、内彦としては一生の不覚だったが、刀を取り、応戦しなかったが故に、身を守れたし、敵を斃《たお》すことができたのである。
もし応戦していたなら、膝《ひざ》から下に絡みついている袴のせいで自由に動けず、内彦といえども殺されていたに違いない。
今でも丸い石のようになって転んで行った内彦の姿が、猪喰の脳裡《のうり》に焼きついていた。
あれほどの武技を持った内彦も病には勝てないのか。
猪喰は暗澹《あんたん》となり、身が湿気《しけ》た土地に沈んで行くような気がした。
武彦も呻《うめ》きに似た声を放つのみである。
「問題は、現状を王子様に話すかどうかだな」
七掬脛が妙にやさしい声でいった。出そうな溜息《ためいき》を気力で声に変えたらしい。
暗闇の中で呼吸が止まった。
大伴武日が噛《か》み締めていた口を開いた。
「吾《われ》はこれを告げるために参った、話さねばならぬ、おぬしらを呼んだのは、ここでかまた先でかを相談しようと思ったからじゃ」
「我等の王子じゃ、今でも良いが眠られている、敵が押し寄せてくるわけでもないし、明朝で良いのではないか、こんな大事な報《しらせ》を先に延ばすことは許されぬ」
吉備武彦が拳《こぶし》を握り締めていった。
「思うぞ」
声にならない一同の声が一致した。
倭建は武日の顔を見た途端、破顔しかけたが、射るような眼に変わった。襲って来た曲者を斬らんとする刃物の光である。
眼を合わせた大伴武日は早く告げよ、何を躊躇《ちゆうちよ》している、と叱咤《しつた》されたような気がした。王子は何もかも御存知《ごぞんじ》だ、と武日は感じた、息苦しいほど詰まっていた胸に風穴を開けられたようである。
倭建は殆《ほとん》ど表情を変えなかった。削《そ》げた岩が風雨に打たれながら、樹林の咆哮《ほうこう》や自分を叩《たた》く霙《みぞれ》や雨の音を静かに聞いているといった感じだった。
要点を話し終りほっとした武日に、
「どんな理由があるにせよ、吾の命令に背き、戻って来たのは良くないぞ、だが暫《しばら》く兄上の喪に服する身となった、罰は与えぬ、前と同じように仕えよ」
複雑な笑顔を見せ、倭建は一人になった。
父王が自分を嫌っていたのは分っていた。東国で死ぬのを望んでいるのは感じていたが、暗殺者を向けるほどの憎悪心を抱いているとは想像していなかった。
何故か、と問いたい。
ただその疑問は、自分が甘かったという結論になる。
そこまで憎まれ、恐れられていたのだ。
ただ武日がいったように、父王は老い、今は正妃となっているヤサカノイリビメと、物部十千根のいうがままになっている、と解釈すれば、少し気が楽になる。
老いが痴呆《ちほう》を呼ぶ場合は多い。痴呆は正当な判断力や感情を失わせる。
自分の意志が何処《どこ》にあるかを識別できなくなったのだ。
確かに気は楽になるが、それは希望であり、現実から逃げているぞ、という声が鞭《むち》となって鋭くしなる。
当分の間、自分が甘かったという厳しさと、痴呆のせいにして気を楽にする両者の葛藤《かつとう》の間で過ごさねばならない。
倭建は信濃に向かうのを半日遅らせた、兄・大碓に対する喪のため、というのが、建前としての理由だった。
その間、倭建は家から出なかった。
東征に出て初めて食欲をなくした。絶えず胃がむかつき、獣の肉は勿論《もちろん》、焼き魚を見ても吐きそうになった。
喪のため、食事を制限している、と発表した。そうしなければ、皆が心配する。兵士たちは不安がるに違いなかった。
不安といえば、倭建自身が、これまで味わったことのない漠とした不安感に襲われた、変な夢も見た。
海に跳び込んだ弟橘媛《おとたちばなひめ》が、波に翻弄《ほんろう》され苦し気にもがいている。時には大波に持ち上げられ舷側《げんそく》で腕を伸ばしている倭建の傍まで来る。指と指とが触れ合いそうな近さだ。倭建は上半身を折り、懸命に掴《つか》もうとするが、嘲笑《ちようしよう》するように媛を乗せた大波は去ってゆく。
「王子様……」
弟橘媛は悲痛な表情で手を振る。助けて、といっているのか、別離を告げているのか、どちらとも分らない。
「媛!」
絶叫して倭建は眼を覚ました。全身|汗塗《あせまみ》れで、暫くは息が吸えない。
また足柄峠の白鹿が宙を飛んで襲って来る。幾ら斬っても刀は空を切る、草薙剣《くさなぎのつるぎ》がない。確か腰に吊《つる》していた筈《はず》だ、と右手で探すがない。鹿はそんな倭建を角で突く。激痛に失神し、気がつくと白い霧に包まれている。霧の中から宮簀媛《みやすひめ》が現われる。
妖《あや》しく光る眼で睨《にら》みながら近づく。
「王子様、私を捨てましたね」
「弟橘媛が来たのだ、仕方がない、寄るな」
「寄るなとは冷たいお言葉、闇が訪れ夜が明けるまで、眠るのも惜しんで私を愛されたのに」
「男女の間には別れがある、恨むな」
「王子様と私との間には別れはございません、前世から二人は結ばれているのです、王子様が亡くなられても私はお傍にいます、私の息が縄となり天地が裂け、この世が終るまで二人は離れますまい」
宮簀媛が口を開ける。何時の間にか媛の顔が大鹿に変わる。巨大な波に似た真赫《まつか》な口である。血が滲《にじ》んだような舌が飛び出し倭建の顔を舐《な》める。逃げようとするが金縛りにあったように動かない。白い煙にも似た霧が噴き出し、倭建を包み舌の上に載せる。
「愛しい王子様、おいしい王子様」
悲鳴をあげようとするが霧が喉《のど》に詰まり声が出ない。
呼吸ができず胸の臓腑《ぞうふ》が抉《えぐ》られ、心臓が破れる苦しみに倭建は失神した。
気がつくと身体中が汗塗れだが、汗というより獣が吐き出した粘液である。
いや、女人が洩《も》らす粘液かもしれない。
小川に入るべく部屋を飛び出そうとすると、それは普通の汗に変わっているのだ。
そんな悪夢が毎夜のように続いた。
甲斐の首長が遣わした女人が食事を運んでくるが、僅《わず》かに粥《かゆ》をすするのみだった。しかも彼女たちは戸口に置くのだ。内に入れない。
「兄の喪中である、その間は誰とも会わない」
こういわれると、どうしようもなかった。喪が一日も早く終るのを念じるのみだった。
十日間で倭建の身体は痩《や》せ衰えた、頬骨がとがり、眼が窪《くぼ》み、精悍《せいかん》さが消え別人のようになった。
だが倭建は武彦をはじめ猪喰にも弱みを見せたくなかった。
生まれて初めての不安感だが、自分の力で立ち直りたかった。
弱り、不安に怯えている姿を見せたくないというのは、倭建の美学である。
それが崩れない限り、立ち直れるのを知っていたのだ。
十五日目、倭建は、兄・大碓《おおうす》王の霊と酒を飲み、喪を終えると告げ、酒を運ばせた。
おそらく一升は飲んだであろう。
衰弱した身体にとっては大変な酒量である。五升分ぐらいだ。
倭建は泥酔し二日二晩眠った。
未《いま》だ夜の明けない早朝眼を覚ました倭建は、頭痛で眩暈《めまい》のする身体を井戸に運んだ。
釣瓶《つるべ》がいやに重かった。
気を集中する力が薄れていた。荒い息を吐きながら坐《すわ》っていると、人の気配がした。猪喰に違いなかった。
猪喰も深い傷を負った身だ。
「猪喰か」
「はっ」
「井戸水を吾にかけよ、頭の靄《もや》を散らすのだ」
と倭建は命じた。
[#改ページ]
十三
梅雨に入ったらしく数日前から雨が降り通しだった。
邪気が去ったのか倭建《やまとたける》は何時《いつ》になく心身共に充実していた。そういう時は不思議に先が見える。また側近たちと話し合うと胸中が読めるのだ。
オシロワケ王が老いで呆《ほう》け、イホキノイリビコ王子を擁した物部十千根《もののべのとちね》が権力を握っている以上、堂々と大和《やまと》には戻れない。
十千根の部下は暗殺者集団になり、尾張《おわり》、美濃《みの》、また不破《ふわ》の関(関ヶ原)辺りで倭建を待ち伏せているのだ。
また倭|男具那《おぐな》と呼ばれていた若い頃、倭建は筑紫《つくし》物部に狙われた。
ただ大伴武日《おおとものたけひ》の話では、暗殺者集団の数は多く、在地の豪族が彼等に力を貸していたりするという。
物部十千根が、軍を動員し倭建討伐の旗を揚げないのは、大和にはまだまだ親倭建王子派がいるからである。そういう連中に憎まれることを十千根は恐れた。
暗殺なら後々には影響しない。
それでも十千根は、倭建がオシロワケ王の命令に背き、東征を打ち切り、大和を攻めていくという風説を流した。
倭建王子は謀反人ということになる。
十千根の巧妙な策で、親倭建王子派は次第に少なくなっていた。
倭建はのんびり美濃に戻る余裕がないのを知った。大碓《おおうす》王子が生きていたなら、美濃に長期間|逗留《とうりゆう》し、大和王権の内部を攪乱《かくらん》するという手もある。
兄王子が亡くなった今、それも不可能だ。
倭建は、会合の後、大伴武日だけを残した。
「武日、何人かの道案内人に聴いたのだが、ここから尾張に行くには、諏訪《すわ》の湖《うみ》(諏訪湖)に出、天龍川沿いに下り、伊那《いな》から飯田を通り、山越えで美濃と尾張の境の恵那《えな》に出、尾張に入るのが一番らしいが……」
「王子、吾《われ》もその道を通り酒折宮《さかおりのみや》に寄ったのです、実際、山越えといっても想像以上に山が高く道は険阻です、しかも梅雨の季節、大変な旅ですが、今いわれた方法が最適と存じます」
「よし、二、三日のうちに出発しよう。梅雨の切れ間を待っていては何時になるか分らぬ。坂道を上るのと同じだ、最初が急坂なら後は楽、ところで武日、吾を殺すという物部十千根の意向は尾張音彦《おわりのおとひこ》にも伝わっている筈だ。音彦は吾に好意を抱き、中立派として吾を迎えるというが、尾張が吾を逗留させれば、音彦の立場は悪くなる。もし十千根が擁するイホキノイリビコ王子が王位につけば、謀反者に加担したという理由で、まつろわぬ賊とされるかもしれぬ、それにも拘《かかわ》らず音彦が吾を迎え入れる裏には、何か魂胆がある筈だ、単に好意だけではあるまい、そちは洞察力の鋭い男子《おのこ》、吾とは長い仲だ、吾が不快になろうと隠さずに話せ、今後の身の処し方にも関係してくる」
倭建は淡々とした口調でいった。
武日が話し易いように、何もかも分っているのだと微笑し、視線を木立に向けた。色鮮やかな緑の葉も、赤や黄色い花も雨に濡《ぬ》れ、力なく滴を次々とたらしている。
沈黙が続くかと思ったが、武日は床に音をたてて手を突いた。
「王子、お許し下さい。何時話そうか、話そうかと思い悩みながら、今に到りました、大伴武日一生の不覚でございます」
「顔を上げよ、詫《わ》びは良い、吾がそちだとしても、多分、同じように悩んだであろう」
倭建は髭面《ひげづら》の武日に何度も頷《うなず》いてみせた。
弟橘媛《おとたちばなひめ》のために倭建との関係を裂かれた宮簀媛《みやすひめ》は次第に心を病むようになった。何日も部屋に籠《こも》り侍女とも話さないかと思うと、突然屋形を出、半裸になり音彦に理解できぬ言葉を放ちながら舞ったりする。時には裳《もすそ》を下げ、淫《みだ》らな恰好《かつこう》で、まるで倭建に抱かれているように腰を前後にゆする。そんな時の媛の声は媾合《まぐわい》の嗚咽《おえつ》そっくりで、音彦や侍女も息を呑《の》むのみだった。
一人や二人の侍女が屋形に連れ戻そうとしても、撥《は》ね飛ばされる。淫らな鬼神が取り憑《つ》いたようで、音彦自らが全力で押さえねばならない。
音彦は断腸の思いで媛を屋形内に作った部屋に監禁した。
部屋は頑丈で堅い栗の木で作り、戸には鉄の留め金をつけた。最初は木にしたが壊されたからである。音彦には媛だけが娘だった。父親として媛が憐《あわ》れで仕方がない。
そんな時、音彦は弟橘媛が荒れる海に入り、倭建を助けるために亡くなったという噂を耳にした。
音彦は、倭建が尾張に戻ったなら媛と婚姻させたいと願うようになった。
媛の病を治すにはそれ以外の方法はない、と思ったのだ。
倭建のもとに戻る武日が尾張を発《た》つ前、音彦は、平伏して、倭建と媛との婚姻の成就に力を貸していただきたい、と頼んだのだった。
「尾張音彦は、もう願いが叶《かな》えば、大和の葛城《かつらぎ》にも二人の婚姻を伝え、王子を次の大王にすべくオシロワケ王や取り巻きの物部と対決する覚悟があることを吾に伝えました、勿論《もちろん》、心が病んだ媛を王子の妃《きさき》になど、身のほども知らぬ不遜《ふそん》な願いであることも、充分承知している、王子が断られても恨んだりはしないと申しました」
武日は倭建と視線を合わす勇気がないらしく、膝《ひざ》に眼を落している。
葛城か、と倭建は歯を噛《か》み締めるようにして呟《つぶや》いた。
尾張氏は火明命《ほあかりのみこと》を祖とするが、命は、天孫ホノニニギノ(火瓊瓊杵)尊《みこと》と鹿葦津姫《しかあしつひめ》の間に生まれたとされた。鹿が関係している。天孫族だが一族の中には葛城にいたという伝承もある。
葛城氏と繋《つな》がりが深い。
ただ葛城氏は大和の三輪王権に対し、独立的な勢力を維持していた。倭建に仕えた宮戸彦も葛城の出身だ。尾張音彦の働きかけ如何《いかん》では、後ろ楯《だて》となる可能性はあった。
それと倭建が、心が病んでまで自分を慕っている宮簀媛に、不気味さと一口にはいい表わせぬ憐みの情を抱いたとしても不自然ではない。
倭建は一呼吸を置くと武日にいった。
「よくぞ話した、それで納得できる、保身のためには親子の情など無視し勝ちな今の世にあって、そこまで娘を思う尾張音彦は立派だ、ただし、他言は無用、申し出の件はとくと考えておく」
実際、即座に結論は出せなかった。
弟橘媛は今でも倭建の胸中で生きている。あれだけ宮簀媛に溺《おぼ》れ、東に進むことさえ忘れた筈《はず》なのに、媛を思い出そうとしても胸がときめかない。
ただ物部十千根の軍を破り大和に入るには、尾張音彦の力が必要である。
長雨はやむ気配がない。こんな夜に思い悩んでも、良い結論が出そうになかった。
とにかく尾張に近づくことだ。
行動によって行く道も決まる、と倭建は自分に鞭《むち》を打った。
倭建の一行は二日後、酒折宮を出発した。
山間の雨は想像以上に苦難の日々となった。何度か山水が溢《あふ》れ、行手を阻まれた。諏訪に到着したが湖沿いの道は進めず、山に入り迂廻《うかい》せねばならなかった。一行が天龍川沿いの伊那に到着したのは、十数日後だった。
東は伊那山脈、西は木曽山脈にはさまれた伊那は、山間の盆地としてはそれなりに田畑もあり狩猟と稲作で比較的住み易《やす》い地である。
ただ土地の首長の話では十年に一度は長雨により天龍川の水が溢れ、住居や田畑を潰《つぶ》すという。
どうやら十年に一度の豪雨らしかった。
数日逗留し、雨がやむのを待ったが、天の試練か、一向にやみそうにない。
勇猛な吉備武彦《きびのたけひこ》や大伴武日も、雨が相手ではただ鉛色の空を眺める以外にない。
足柄峠《あしがらとうげ》の白鹿は、海に出よ、といった。あれは山の神だったか、夢だったか、はっきりと覚えていない。
普通なら脳裡《のうり》から消えている筈のお告げが、思い出されたりする。
山が崩れるような音と共に地が震えたのは、早朝だった。
凄《すさま》じい洪水が山村を薙《な》ぎ倒し、藁葺《わらぶ》きの民家を呑み、土を削って高台にある首長の家の真下まで襲ってきた。
水に流される藁屋根にしがみついている人々が悲鳴をあげながら濁流に呑まれる。
洪水の姿が凄じいので人々の悲鳴は鳥の囀《さえず》りにも及ばない。濁流の中から二本の腕が突き出て空に踊る。必死で顔を出し空気を求めているが、あっという間に腕は水中に消える。何とか水に呑まれまいと流れる木に縋《すが》っている者もいるが、木もろ共に水中に消える。水の中で龍が暴れているようだ。水没した木はすぐ水面に浮かぶが、縋っていた人はいない。藁屋根に乗り流されて行く者もいるが、無事なら幸運な方である。
「おう」
倭建は信じられない光景を見た。北の山の斜面が動きはじめたのだ。地震でも山は動かない。緑の樹々が間違いなく揺れている。揺れているのではなく裂けようとしているのかもしれない。揺れた場所が赤茶けた色に変わる。樹々は巨大な鉈《なた》で伐《き》られたように重なって落ちてゆく。
蓑《みの》を着た久米七掬脛《くめのななつかはぎ》が、倭建の名を連呼しながら駈《か》けて来た。
「あ、あれは何じゃ?」
「王子様、山崩れです、高い方へ、ここも危い」
巨岩が二つに割れて落下するのを初めて見た。長雨で山肌が弱り岩や樹々を巻き込んで崩れるという。
伊那山脈、木曽山脈に降り注いだ水は、幾つもの川となり天龍川に注ぐ。これだけの長雨なら水が溢れても仕方がないが、山が崩れ土砂となると、流れ場を失った水は高台にまで襲いかかるのだ。
勿論、何十年に一度の惨事である。
倭建の一行はその惨事に遭遇したのだ。
首長の家は無事だったが集落の半数は流された。
兵士たちの殆《ほとん》どは民家に泊まっている。
倭建は四分の一の部下を失った。
大伴武日の兵を合わせても七十人足らずになった。
洪水の跡は惨憺《さんたん》たるものだった。
だが人々は蟻のように動いた。雨が小降りになるのを待ち、樹々を伐り小屋を建てる。一日でもぼんやりしておれない。被害を受けた人々は残った食物を集め平等に分ける。
田畑は天候が回復するまで諦《あきら》め、弓矢を手に山に入り獣を射て獲《と》って飢えをしのぐ。そしてまた田畑を作る。
数百年も昔の人々がそうして生きたように、裸になって生産をはじめる。
倭建は洪水で死亡した兵士たちを弔い、尾張に向けて出発した。
南方の飯田は伊那ほどの被害は受けていなかった。しかも伊那よりも広く田畑も豊かである。
飯田から恵那までは大変な山越えである。
梅雨の切れ間を待ち、飯田峠を越え、木曽川に出る。後の木曽路である。そこは美濃国だった。
丹波猪喰《たんばのいぐい》を尾張音彦のもとに遣わすことにした。
「四、五日中には着くと伝えよ、どういう道かは話すな」
「分りました、一応おうかがいしておきたいのですが、兄王子の墓に参られるのでしょうか」
「参るか、参らないか、それを考えている。吾《われ》に対する父王の意向は兄上の子にも当然伝わっている筈だ、吾が行けば迷惑をかけることにもなるかもしれぬ。行きたいのはやまやまだが」
「はっ、ただ王子様を狙っている物部十千根の暗殺者たちは、王子様が行かれると推測し、武儀《むぎ》周辺で待ち構えているものと思われます」
「それぐらいのことは分っている、余計なことは申すな」
猪喰は叩頭《こうとう》して去った。
猪喰が何をいいたいかは痛いほど分る。猪喰は、墓参りには反対なのだ。
尾張音彦と会うまでは、危険な場所は避けていただきたい、といっている。
ただ倭建としては兄・大碓王子の墓に参り、オシロワケ王と対決する決意を述べたかった。オシロワケ王は、自分に兄を殺すことを命じたのだ。
黄泉《よみ》の国の兄も、倭建を、
「戦え、勝て」
と励ましてくれるに違いなかった。今の倭建はそんな兄の声を聞きたかった。
だが悲願を達成するには、油断は絶対禁物だった。矢の擦り傷から毒が入り死に到ることもある。これまでの戦で無事だったのが不思議なくらいだ。
それにもし、倭建が暗殺者集団を殲滅《せんめつ》したなら、兄の子を初め、武儀の一族が倭建に味方をしたのではないか、とオシロワケ王に疑われる。王の性格からどんな嫌がらせをするかも分らない。
倭建が迷った理由はそこにあった。
武彦や側近者は、そのことを承知しているので意見をいわないに違いなかった。
案の定会議を開いても、皆、唸《うな》るばかりで口を開かない。
彼等は皆、吾の迷いを知っている、と感じた時、倭建は決断した。
「血は同じだが、兄とは余りにも早い別れだった、しかも父王は、吾に兄を殺させようとした、そんな兄の傍まで来たのだ、墓参りもせずに放っておくわけにはゆかない、それでは倭建の名が泣く」
一同はその言葉を待っていたように頷《うなず》く。
「だが、武儀の一族に迷惑をかけるわけにはゆかぬ、吾は行くが皆と別れる」
驚愕《きようがく》の声が部屋に満ちた。
「最後まで吾のいうことを聴け、これは敵を欺く兵法でもある」
大声で一同を黙らせると自分の考えを話した。
物部十千根が放った暗殺者集団は間違いなく、この近くにいて倭建軍の動静を窺《うかが》っている。また別な一団が大碓王子の墓の近くにいて倭建の墓参を待ち構えているに違いなかった。
僅《わず》か七十人前後とはいえ、鍛え抜かれた強兵の軍団だ。
暗殺者たちは、倭建が軍団から離れて行動するなど思ってもいないだろう。
「大伴武日、そちが尾張まで来て、美濃を歩き、部下と共に甲斐《かい》まで来れたのは、皆、破れた布を纏《まと》い、何も持たぬ流浪の民、といった姿だったからではないか、刀は葦《あし》で巻き背負う、そちと再会した時と同じじゃ、兵士たちが尾張に向かう時、吾は夜の間に雑木林に隠れている。我等を窺っている暗殺者たちは絶対気づくまい……」
「しかし、危険じゃ」
武彦が呻《うめ》くようにいった。
「これからはどう動こうと危険なのじゃ、伊那の時のように動かなくても死ぬ場合は死ぬ」
「王子様、それでお供は?」
久米七掬脛が訊《き》いた。
「まず、吾は大伴武日と数人の部下を連れて行く、流浪の民の真似は武日にまかせる、それと、兵の中から背丈と顔が吾に似ている者を選び、影武者にせよ、穂積高彦《ほづみのたかひこ》の警護兵が影武者の周囲を囲み、四半|刻《とき》たって墓に行く、武彦と七掬脛は部下を率い、尾張の方に進め」
「分りました、三隊に分れるわけですね、武日、頼むぞ」
武彦も倭建の意志は変わらぬ、と判断した。考えてみれば、兄の墓の傍まで来ていて立ち寄らないようなら兄弟とはいえない。また倭建の名がすたる。
選ばれた兵は固くなりながら、真新しい王子の衣服を纏い、輿《こし》に乗った。伊那で洪水に遭ったとき、何度か輿など捨てかけたが、尾張音彦に再会する時に必要だと考えて、兵に担がせたのだ、兄の墓参に役立つとは想像もしていなかった。
倭建と武日らは麻布を泥で汚して着た。
武儀までは遅くても二日あれば行ける。
幸い厚い雲は空を覆っているが、雨は小雨だった。一行はボロ布の上に蓑を纏って進む。ただ蓑のおかげで武器が隠せた。武日の部下の中には弓矢を背にしている者もいた。
中津川で傭《やと》った美濃の道案内人には、上質の絹布五反に値する金鎖を与えた。米にすれば一年分に相当する。
山間《やまあい》の曲りくねった狭い道を瑞浪《みずなみ》、多治見《たじみ》と進む。丘を連ねた平野が北方に開けている。
濃尾平野の東端である。
身分を隠している倭建は、これまでのように在地の首長に宿泊所を頼んだりはできない。幸運にも多治見で雨が切れたので雑木林で野宿することにした。
武日は野宿に慣れているらしく、木の枝を伐り取り、草を刈って即製の臥床《ふしどこ》を作った。
蓑で覆って寝るのだ。
「雨さえ降らなければ、これで充分です、ただ蓑を顔の上まで掛けなければ、蚊に刺されて眠り難うございます」
野宿に慣れている武日は、倭建と並んで寝るのが嬉《うれ》しいらしい。
こんな場合でも部下は交替で見張りをする。不寝番である。
二人は竹筒の酒を飲んだ。
「雨の場合はどうするのだ?」
「村長《むらおさ》たちの家には稲を置く小屋があります、この季節では稲の代わりに藁《わら》や筵《むしろ》が積まれています、地方はのんびりしていて、忍び込む者のことなど念頭にありません。日が落ちる前に夕餉《ゆうげ》を済ませ、一番|鶏《どり》が鳴くまで泥のように眠ります、家の戸は雨除《あまよ》けに閉めますが、止め木を差したりはしません、ただ、そういう小屋は時々、村の若い男女が媾合《まぐわい》の場所として利用しますから、鉢合わせの危険性がないではない、それが厄介です」
「ほう、そういう時は?」
「忍んで来る足音で分ります、見つかれば驚いて悲鳴をあげるので、二人が小屋に入るまでに出ねばなりません、流石《さすが》に少し侘《わび》しいです、雨に打たれて二人が終るまで蹲《うずくま》っているのですから……」
「うむ」
それは大変だ、侘しいどころの話ではない、と武日たちの胸中が察せられる。
大和《やまと》では高床式の大きな家で眠り、何不自由のない生活である。
「一晩中、打たれたという夜もあるであろう」
「それはありません、どの男女も早朝の仕事が待っています、長くて一刻、大抵半刻で終ります」
倭建は、農民の生活を殆《ほとん》ど知らないことに気づく。想像もできない日々であろう。
だが王者は血塗《ちまみ》れの権力争いを勝ち抜かねばならないのだ。どういう地位に生まれようと、人間には喜びよりも苦しみの時の方が長いような気もする。
地虫が首に這《は》い上がって来たので叩《たた》き落した。
倭建の気持を和らげるように、武日はそんな一夜の体験談を話した。
二人の男女が小屋に来たので傍の草叢《くさむら》で待っていると、四半刻(三十分)後に別な足音がした。一人で女人だった。先の二人は媾合の最中である。彼女はそれを承知しているらしく跳び込んだ。悲鳴と女人の怒声、藁束の崩れる音で大変な騒ぎとなった。
若い男子が新しい女人と深い仲になり密会の場所に同じ小屋を利用した。それを知った彼女が憤り二人に襲いかかったのだ。
騒ぎがおさまると半裸の女人が小屋から跳び出て来て大声で泣きはじめた。
後の女人が追い出されたと思ったが、どうやら先に来ていた女人らしい。多分、女人の扱いに慣れているのだろう。ところが驚いたことに彼は、後から来た女人と媾合《まぐわ》いはじめた。彼女の声は小屋を破らんばかりである。泣いていた女人はその声に奮起したのかまた小屋に入った。
「いや、あの時は二刻以上も雨に濡《ぬ》れていました、結局、その若者はなかなかの精力家で、二人を相手にし、満足させたようです」
もし話しているのが大伴武日でなかったなら、宴席での作り話と笑い飛ばしたであろう。
倭建としては、大変だったのう、と溜息《ためいき》をつかざるを得ない。艶《つや》話のおかしさよりも、雨に打たれながら、小屋が空くのを待っている武日らの胸中を察するからだ。
武儀に着くまで怪しい者に尾行されている気配はなかった。おそらく暗殺者たちは、影武者を擁した軍団を追っているのであろう。
道案内人に麻布を渡し、大碓王子の墳墓の場所を村人に訊かせた。
麻布が効いたらしく村人が案内してくれた。武日の部下が同行し、倭建と武日は近くの竹藪《たけやぶ》に身を潜め、部下が戻ってくるのを待った。
大碓王子の墳墓の近辺は最も危険である。暗殺者の何人かは、倭建が必ず現われるものと信じ待ち伏せているに違いない。
彼等がいなければ物部十千根は愚者としかいえなかった。ただ彼等は倭建の軍団が南方に向かったのを知り、墓参りを避けたと油断しているだろう。
間もなく武日の部下が戻って来た。墳墓は北から南に連なっている尾根の先端にあると、武日に報告した。
「怪しい者は見当たりませんが……」
「当たり前だ、我等と同じように、森や林に潜んで見張っている、見える場所にいる筈《はず》はない」
数百歩先は飛《ひ》に続く深い山の波で、東は槍《やり》、穂高、乗鞍《のりくら》など倭国《わこく》でも高峯《こうほう》を誇る雄々しい山々が越《えつ》の国まで連なっていた。
梅雨の前までは雪を残していたであろう。勿論《もちろん》、倭建が立っている丘からは見えない。その丘は土地の人々から加茂丘と呼ばれていた。麓《ふもと》を流れる川は神通川だった。
道案内人がいった。
「川沿いを北に進めば、墳墓に出ます。川と盆地を見下ろす場所です」
「主な道は川沿いだな」
「はい」
武日が訊いた。
「王子、川に出ますか、それとも丘伝いに……」
道案内人が答えた。
「丘伝いの方が安全だと思います」
「吾《われ》も同意見じゃ。相手が油断しておれば、こちらはより慎重に行動するのだ」
丘伝いといっても、灌木《かんぼく》や雑草の生い茂る斜面を幾つか上り下りせねばならない。実際、墳墓の見える丘に立った倭建は汗塗れになっていた。
雨が降っていないのがせめてもの救いだった。墳墓は三十メートルほどの長さである。後に前方後円墳と呼ばれるようになった墓だ。大碓王子は、オシロワケ王と正妃との間に生まれた長子の王子だ。
本来ならもっと大きく造るべきだが、武儀の一族は大和王権に遠慮したのであろう。
周囲は円筒|埴輪《はにわ》で囲まれ、川原石によって後円部の半分まで覆われていた。
先に来ていた部下は墳墓から離れ、曲者《くせもの》が現われないかと警戒している。後円部の頂上の下に大碓王子は永遠の眠りについていた。
双子だから倭建と同年齢だ。
まだ三十歳、若い死だった。
次の大王になってもおかしくない身である。長兄に櫛角別《くしつのわけ》王子がいたが最初に殺された。温厚で学識のある王子だった。武勇という点では、大碓や倭建に劣るが、気の休まる兄王子だった。
垂仁帝の子で、オシロワケ王の異母兄に、生まれながらに喋《しやべ》れない王子がいた。出雲の白鳥の霊験で話せるようになったが俗事を避け、生駒《いこま》山中で鳥や獣と共に暮らした。仙人といって良い。ホムツワケ王子である。
倭建は老いた王子に会い、櫛角別王子を殺し、自分を狙っているのが、物部十千根の一族で、河内に住む物部が筑紫《つくし》から呼んだ暗殺集団であることを知った。
彼等は三輪王朝を斃《たお》し、新しい王朝を河内に樹立しようとしていた。新王朝と共に物部氏も全国的な勢力に拡げようという野望があった。
それは武力による統一王権である。だがそのためには当時、倭男具那と呼ばれていた倭建が邪魔だったのだ。
倭建がもし王になったら、その武勇と器で人望が集まり、新王朝の樹立は不可能になる。
彼等にとって倭建は、最も邪魔な人物だったのだ。
筑紫物部の中で最も武術に優れたマグヒコが倭建を狙った。櫛角別王子が闇夜に殺されたのは、マグヒコが櫛角別王子の住居を倭建の屋形と間違えて侵入したせいだった。
マグヒコは倭建に殺される前にそのことを告白した。
今、彼等の血を受けた物部十千根は、老いたオシロワケ王を掌中にし、正妃格のヤサカノイリビメと組んで、倭建を殺そうとしているのだ。
吾は戦わねばならぬ、必ず物部十千根の首を斬り、父王を隠退させ、王位に即《つ》く。
それ以外に倭建の生きる道はなかった。
「それにしても兄者、おぬしも無茶な男子であったぞ、父王が妃にしようとした美濃の女人を横取りしたのだからな、大胆不敵な男子だ、父王が憤り殺そうとしたのも無理はないかもしれぬ、だが、吾の場合は理不尽じゃ、吾を好かぬ、王位を譲りたくないという私情からだ、吾は戦う、兄者に報告に参った」
口には出さずに思いを告げた。
墳墓の方から声がした。生前の大碓と全く同じ怒鳴るような口調である。
「まだ分っていないな、男具那、理由など付け足しじゃ、人間の本質は勝手なものだ。ことに父王はそうだ。我等の母に惚《ほ》れて播磨《はりま》まで来て追い駈《か》け廻《まわ》し、力で皇后にした。だが母に逃げられると、子の我等まで憎くなり、ヤサカノイリビメの子に王位を譲りたくなった、となるとおぬしは眼の上の瘤《こぶ》、邪魔者だ、別に悲憤|慷慨《こうがい》することはない、ただ父王がおぬしを殺そうとしていると、決めつけるのはよせ、呆《ほう》けた父王に知らせず、ヤサカノイリビメ、十千根が勝手に暗殺者を指し向けているのかもしれん」
「おう兄者、生きていたのか……」
倭建が思わずそう叫んだほど大碓王子の声は活《い》き活《い》きとしていた。だが返答はない。吾の錯覚か、と傍の武日を見た。武日は眼を閉じ黄泉国《よみのくに》での冥福《めいふく》を祈っているようだ。兄の声を聞いていない。
相変わらず勝手な兄者じゃ、そう呟《つぶや》くと倭建の重い胸が一瞬軽くなった。それは兄が言ったように、十千根の独断かもしれないからだ。
用心のため十歩ないし十数歩離れて南に向かった。行く先は尾張である。
部屋に監禁されているという宮簀媛は、どんな風に変わっているだろうか。父の尾張音彦は、そんな娘が余計にいとおしく憐《あわ》れなのかもしれない。
病んだ心が治るなら妻にしても良いのではないか。
弟橘媛をしのぶ気持は変わらないが、媛も認めてくれそうな気がする。勝手だろうかと苦笑した。
数歩前を歩いていた武日が振り返った。
「王子、左手先、五百歩のところに数人いるようです。ただ我等の姿では王子かどうか思案しかねているでしょう」
「うむ、刀を抜き蓑《みの》の下に隠しておけ、もし曲者だとしても、まだ吾を見抜いていない、近づいて話しかけてくる、相手が大和言葉なら躊躇《ちゆうちよ》せずに斬るのだ、皆に伝えよ」
倭建は決然といった。
[#改ページ]
十四
倭建《やまとたける》の一行は四半|刻《とき》(三十分)ほど南の尾張《おわり》に向かった。
大伴武日《おおとものたけひ》の部下が東方で見つけた数人を絶えず監視した。
彼等も蓑《みの》を纏《まと》っている。梅雨期だが今は雨が降っていない。それに西の空から薄陽が射していた。
在地の農民なら蓑を脱ぐ筈《はず》だ。となると彼等は旅人ということになる。それに倭建と四、五百歩の距離を保ちながら南下している。彼等が歩いている辺りは雑木林や丘があり、旅人が進む道などない。
物部十千根《もののべのとちね》が放った暗殺者集団の可能性が濃くなった。
小丘の麓《ふもと》と川の間の小道で一行を停止させた。
今頃は影武者と穂積高彦《ほづみのたかひこ》の一行が、大碓《おおうす》王子の墓に参っているだろう。当然、彼等を見張っている者もいる筈だった。それに南の木曽《きそ》川沿いには主力の吉備武彦《きびのたけひこ》軍が倭建を待っている。
倭建は大伴武日に自分の意見を述べた。
大碓王子の墓の近くまで、自分たちを見張る怪し気な人物を見かけていない。敵は明らかに墓の周辺に隠れ、倭建の墓参を待っていた。
だが最初に来たのは、小人数の旅人らしい連中である。ただ敵の隊長は念のために兵をさき、尾行を続けさせた。それが東方の数人である。
その後、二十人ばかりの兵士に護衛された倭建らしい人物が墓参に現われた。
敵の隊長が超人的な洞察力を持っていなければ、影武者の集団を倭建の一行と判断するのが自然だった。彼等は弓矢を背にし、武装している。
おそらく敵の隊長は襲う場所に兵を伏せている可能性が強かった。問題は敵の兵力である。
当然、穂積高彦は待ち伏せを予想して何時でも戦える準備を整えているが、敵が数倍の兵力なら苦戦はまぬがれない。
高彦たちは倭建を無事に尾張に行かせるため影武者を擁したのだ。死を覚悟しているだろう。
「武日、我等を監視している者が数人だとすると、敵の本隊は十倍と考えて良い、おそらく数十人であろう、どうかな」
「王子、やつかれもそう思います」
武日の声は心なしか重苦しかった。
それに倭建を見返す眼に苦悩が滲《にじ》んでいる。倭建の胸中を見抜いているせいかもしれない。
二人はほぼ同時に叫んだ。
「見殺しにはできぬ、戻るぞ」
「それはなりません、影武者をつくった意味がない」
二人は睨《にら》み合った。武日は倭建の動きを制するように北方に移ると大手を拡げた。
「武日、許せ、吾《われ》を愚かな王子と蔑《さげす》め、高彦は穂積|内彦《うちひこ》の弟じゃ、見殺しにはできぬ、行くぞ、吾を放っておけ」
倭建は纏っていた蓑を脱ぎ捨てると、武日の傍をすり抜け走りはじめた。
武日は眼を閉じ天を仰いだが、張り裂けるほど眼を剥《む》くと部下たちに怒鳴った。
「王子に続くのだ、蓑を捨てよ、卑劣な敵を斬りまくれ」
武日が蓑を捨てて走ると、部下たちも獣のように吠《ほ》え、後に続いた。
懸命に走ると間もなく前方の丘の麓あたりから雄叫《おたけ》びが聞えてきた。東の監視者など眼中になかった。
「王子、|薄ヶ原《すすきがはら》に入りましょう、敵に気づかれずに出来るだけ近寄り、斬り込む、我等は六人、だがこの奇襲には六十人の力がありますぞ」
武日はしたたる汗を腕で拭《ふ》いた。
「武日、すまぬ」
「吾に詫《わ》びなど不必要です。吾は王子と一体、どうして王子と別れましょうや」
「よし、ここで水を飲もう、飲み終ったなら行くぞ」
倭建の一行は薄ヶ原を進んだ。幸い丘の麓まで続いているので敵には気づかれない。
雄叫びと共に刀と刀が喰《く》い合う音が空気を裂く。斬り合いは薄ヶ原に続く小さな雑木林で行われていた。味方の兵を敵の兵、二、三人で囲んでいる。敵は四、五十人だが高彦の部下は十数人に減っていた。
「いいか、我等六人で六組の敵を斬る、なあに尻《しり》でも脚でも一突きすれば敵は崩れる、あっという間じゃ、いいか、一突きすれば、別な敵を突け」
こんなに凄《すさま》じい顔をした倭建を兵たちは見たことがなかった。濃い眉《まゆ》が吊《つ》り上がり、眼は火を噴かんばかりである。
その凄じさは兵たちを痺《しび》れさせ、生命《いのち》は要らぬと奮い立たせた。
六人は同時に喚声をあげて突っ込んだ。
喚声に敵兵が振り向こうとする。その横顔を倭建の刀が貫いた。頬が割れ白い骨が剥き出、砕けた眼玉が飛び出た。素早く刀を抜くと慌てて刀を向けた兵の胸を突き心の臓を破る。血《ち》飛沫《しぶき》と共に敵兵は刀を振り上げたまま崩れ落ちる。
劣勢だった傷だらけの味方の兵が、仰天して逃げようとする敵兵の腹に身体《からだ》ごと刀を刺した。
彼の直刀は背骨を断ち斬り、敵兵は悲鳴をあげる暇もなく、つんのめるように倒れ、下草を掴《つか》みながら断末魔の痙攣《けいれん》と共に動かなくなった。
武日の部下は選《え》り抜きの武術者である。
半数に減っていた高彦の警護隊の兵士たちも倭建の斬り込みに、武の鬼神に変身したような力を取り戻し、反撃した。
あっという間に死傷者が続出した敵兵は、二、三人が逃げ出すと総崩れになった。
倭建は高彦の名を呼びながら探した。
雑木の外れの灌木《かんぼく》に倒れていた兵士が血塗《ちまみ》れの顔を上げた。
「王子様、隊長はこの先の丘の麓です、数本の矢で射られ……」
苦し気に告げると血の塊りを吐き出して倒れた。
倭建は刀を握ったまま走った。
部下の兵士がいったように高彦は胸や脚を数本の矢で射られていた。抜き取ろうとしたのだろうか、半分は折れたまま刺さっていた。それでも木の幹に縋《すが》り立とうと喘《あえ》いでいる。傍には三人の敵兵が斃《たお》れていた。高彦を守ろうとした味方の兵士も、矢で射られ槍《やり》で刺し殺されたらしく死亡している。高彦の傍には首のない影武者の遺体が転がっていた。
「高彦、吾じゃ、傷は浅いぞ」
倭建は膝《ひざ》をつき、高彦の身体を抱き抱えた。意外に軽いのは血の大半が失われたせいかもしれない。まだ生きているのが奇蹟《きせき》だった。
「王子様、どうして……」
「敵の攻撃を知り引き返したのだ、敵の大半は斃したぞ、残りは逃げたが大勝じゃ、そちは吾を守るために戦った、よくやったぞ、もう大丈夫じゃ」
生命を吹き込もうと口を寄せて叫んだ。
「御無事なのですか、ここは黄泉《よみ》の国かと」
「吾は無事じゃ、手を握れ」
高彦の手はすでに冷たく、晩秋の柿に触れているようだった。倭建は高彦の手を自分の頬に当て熱を注いだ。一瞬だが指先が慄《ふる》えた。霞《かす》んだ眼に淡い光が宿った。
「何故戻られたのですか?」
声は掠《かす》れていたが詰問しているようだった。倭建が尾張に行くために敵兵を引き寄せたのである。その間にできるだけ遠くに行って貰《もら》いたかった。
そうでなければ死ぬ意味がない。
「そちを救い、敵兵を斃すためだ、吾は元気じゃ、安心しろ」
宿った光が薄れてゆく。
倭建は高彦の身体を揺すりながらその名を連呼した。
「王子様は倭国《わこく》の王者、部下を救うために危地に戻られるようなら、王者の資格はありません」
それが高彦の最期の言葉だった。
何時《いつ》の間にか傍に大伴武日が立っている。
武日も前に立ち、倭建を阻止しようとした。それこそ当然の行動である。
穂積高彦も、何故戻られたのか、ととがめるようにいった。高彦が倭建をとがめたのは初めてだった。
吾には王者になる資格はないかもしれぬ、と倭建は高彦の言葉を反芻《はんすう》した。
僅《わず》かに見開いている高彦の瞼《まぶた》を閉じた。血のついた眼尻《めじり》に露のような涙が滲《にじ》んでいるのを倭建は見つけた。顔は土気色《つちけいろ》だがそのせいか安らかな死に顔だった。
覗《のぞ》き込んだ武日が高彦にいい聞かせるように呟《つぶや》いた。
「高彦は自分を救けに戻って来てくれた王子の気持に感激し泣いたんです。だから喜びながら死んだ。幸せな奴です」
それが慰めの弁であったとしても倭建は勇気づけられた。
「うむ、そう思いたい、手厚く葬ろう」
味方の死者は十数人だったが、敵の死者は四十人を超えた。倭建の奇襲により傷を負って倒れた後、殺された敵兵は多い。
それにしても倭建の影武者を擁した高彦隊を襲った敵兵は六、七十人である。
東方に現われた監視者や、あちこちに動き廻《まわ》っている間者《かんじや》を加えると、百人近い暗殺部隊だった。
当時では軍団といって良い。
ここでは打撃を受けたが、また新しい軍団を編制し、倭建を斃すため派遣するだろう。容易ならぬ決意が必要だった。
宮簀媛《みやすひめ》を妃《きさき》とし、尾張音彦《おわりのおとひこ》を味方につけねばならない。今の兵力で身を守るのは不可能だった。
ただ物部十千根が大打撃を受けたのは間違いない。そう簡単に軍団は編制できない。
おそらく本格的な軍団が現われるのは、夏が過ぎてからであろう。
それまで倭建を狙うのは、小人数の暗殺部隊に違いなかった。
二日後、倭建の一行は吉備武彦軍と合流し、尾張に到着した。
丹波猪喰《たんばのいぐい》がすでに倭建の意向を伝えている。尾張音彦は十数人の部下と共に河内《かわち》側の向う岸まで倭建を迎えた。
長雨でどの川も川水が増し、少し大きな川は舟で渡らねばならない。
音彦は二十|艘《そう》以上の舟を集めていたので渡河は楽だった。
途中で音彦の別荘で疲れを休めることになった。半年余りだが、音彦は四、五歳も年齢《とし》を取ったような気がした。
武彦、武日、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、猪喰も同席させた。
音彦は大和《やまと》の動向を伝えた。
その中には、武日も知らなかった新しい情報があった。
それによると先日、オシロワケ王の使者と称する物部|石根《いわね》が音彦を訪ね、倭建王子が来たなら味方のふりをして匿《かくま》い、機を見て外に連れ出すように、と告げたという。
皆、緊張の面持ちで倭建の返答を待った。
「同伴者は?」
「尾張の海に面した岬の根っ子に住む物部の長《おさ》ですが」
「なるほど、矢張り物部か、どうも、一番、吾を殺したがっているのは物部のようだな、昔、吾を狙ったのも河内の物部が呼んだ筑紫物部だった、今、ヤサカノイリビメと組んでイホキノイリビコを次の王に、と企《たくら》んでいるのは物部十千根じゃ、噂によると父王は老いている、病勝ちだという、確かに父王にとって吾は邪魔者だ、だが父王が吾を暗殺する使者を寄越すだろうか、物部石根が本当に父王の使者かどうかは疑問だぞ……」
猪喰が眼で頷《うなず》いた。
「とおっしゃいますと?」
音彦が真意を促すように訊《き》いた。
「ひょっとすると父王は判断力を失っているかもしれぬ、物部十千根が父王の名をかたり吾を殺そうとしているのかもしれぬ」
「王子、それは少し甘い……」
武彦が噛《か》みつくようにいった。
「確かに甘いかもしれぬ、それなら、自分の妃にしようとした美濃の女人を横取りした兄の大碓王子を何故生かしておいた? それが不思議だ、吾を殺すより先に兄を殺すのが当然であろう、父の性格から考えるとそうなる」
「それもそうじゃ、オシロワケ王の勅命と決めつけるのは早過ぎる」
武彦らしくあっさり納得した。
「七掬脛の意見はどうじゃ遠慮せずに申せ」
「やつかれも成る程と思いました、ただ、王子様が現在の大和の王権にとって眼の上の瘤《こぶ》なのは間違いないと思われます」
「当たり前だ、だから墓参の帰りに襲われたのだ、予想していた以上の兵力だな、これからも暗殺部隊を送り込んで来るだろう、ヤサカノイリビメとイホキノイリビコが旗を振っている以上、諸豪族も傍観する以外にない」
「情けない奴等《やつら》だ」
武日が吐き出すようにいった。
倭建は猪喰に、大裂《おおさき》など数人の部下を連れ、大和に戻り現在の王権の状況を調べるように命じた。その件はすでに猪喰に伝えている。
「穂積内彦に会い、高彦の壮絶な死に様も伝えよ、忠節の武人であったとな、明後日には出発じゃ」
「大勢では目立ちます。大裂と今一人、三人で充分です」
倭建は了承した。
会議が終ると音彦が、
「王子様と二人きりでお話したいことが」
口籠《くちごも》るようにいった。
宮簀媛との婚姻話なのは皆知っていた。
倭建は武彦らに、酒でも飲んで疲れを取るようにいって、音彦と二人、二階に上がった。
一階より風通しが良い。梅雨季の晴れ間なので、農民たちは田畑に出ている。放っておくと農作物についた虫が増えるので取っているのだ。土に肥を撒《ま》いている者もいた。童子たちは小川で魚を獲《と》っている。川で洗濯している女人もいた。男女とも半裸である。
それにしても尾張は田畑の多い肥沃《ひよく》な土地である。海産物も豊富だった。海人《あま》が多く、海人が地名になった土地もある。
尾張を味方にするかしないかでは、今の倭建にとっては大変な違いだった。
音彦の話によると宮簀媛は倭建が尾張を離れて以来、塞《ふさ》ぎ込み、喋《しやべ》らなくなった。音彦に対しても口を開かない。母は幼い頃に亡くなっているし、娘は媛だけなので音彦は可愛がってきた。
次第に食事を摂《と》らなくなり痩《や》せはじめた。
このままでは死ぬのではないか、と音彦は憂えた。
大和から追って来た弟橘媛《おとたちばなひめ》は倭建の正妃であり、あの場合、宮簀媛が身を退《ひ》くのは当然である。
顔も表情がなくなり父である音彦を見ても、他人を見るような眼を向ける。
倭建への恋情のせいだった。
そんな娘を憐《あわ》れに思ったが音彦もどうすることもできない。
その衰弱ぶりから音彦は娘の死をも覚悟した。
そんな宮簀媛に食欲が出、屋外にも出るようになったのは、弟橘媛が海に跳び込み死亡したという噂が尾張に伝わった頃からだった。
ただ相変わらず無口で、必要以外のことは何一つ喋らない。二ヶ月ぐらいで宮簀媛の外見は普通に戻った。昔と同じように健康そのものとなった。
安心も束の間で宮簀媛は半裸で外に出たり、異様な行動を取るようになった。何人かの侍女をつけても、振り切って走る。
女人とは思えぬほど脚力があり、侍女が追っても追いつかない。
無口で聴き入っている倭建の視線を避けるように音彦は俯《うつむ》いた。
「申し訳ありません、嘘をつきました、丘の頂上に立つと衣服の総《すべ》てを脱ぎ捨てるのです、何か訳の分らないことを叫ぶのですが……時々、王子様の名も呼んだりします、何人もの巫女《みこ》や巫術《ふじゆつ》者を集め、娘についている得体の知れない病の鬼神を追い祓《はら》おうとしましたが、駄目でした、仕方なく娘を部屋に閉じ込めざるを得なくなったのです」
音彦は唇を噛み、視線を落したままだった。ここまで赤裸々に告白した以上、流石《さすが》に顔を上げる力が萎《な》えたのであろう。
「そうか、で、部屋の中では?」
「動き廻ったり、時々叫んだり泣いたりしています、また王子様が来られる、とも……」
「吾が来る、と……」
流石に倭建は不気味な気がした。
眼を閉じ、宮簀媛の顔を思い浮かべようとしたが、白い霧に包まれたようにさだかではない。
「音彦殿、そこまでよく話された、だが、吾と会えば治るとは限るまい」
「多分、治ると思います、娘には、王子様に対する恋情の鬼神が憑《つ》いているのです、もし王子様とお会いし、妃《きさき》の一人にしていただければ、鬼神は去るでしょう、最後に呼んだ巫女がそう申していました、王子様、この通りです、無理難題を承知の上でお願いします」
音彦が顔を上げた。赧《あか》くなった両眼が、もし願いを叶《かな》えていただければ、御恩は忘れません、と告げていた。
全力を尽くして王子をお守りする、といっているのだ。
「分った、ただ少し考えたい、親衛隊長の穂積高彦が死んだところじゃ、二、三日待って貰《もら》いたい」
音彦は無言で叩頭《こうとう》した。
音彦の屋形の別邸まで、何事もなかった。間者《かんじや》らしい者も姿を見せない。何といっても物部十千根軍は大敗北を喫したのである。大和では十千根も蒼《あお》くなっているに違いなかった。
倭建は夕餉《ゆうげ》の席に大和に行く猪喰を呼んだ。猪喰にとって大和は危険な国になっている。ひょっとすると永遠の別離の夕餉になるかもしれない。
猪喰は女人とは縁のない身だった。身体《からだ》だけではない。気持もそうだった。どんな女人を見ても色香を感じないという。
音彦の別邸は熱田《あつた》神社の北方にあった。神社の周辺は海である。気のせいか波の音も聞えてくる。
大伴武日は末弟の乎多《おた》にも会うように猪喰に告げていた。大和には倭建に心を寄せる武人もいるのだ。
倭建としては、猪喰に、警戒を厳重にして任務を達成するように、と激励する以外なかった。
心が病んでいるらしい宮簀媛との婚姻については触れたくない。
猪喰に意見を求めるのは酷である。
倭建自身まだ迷っているのだ。
ただイホキノイリビコや物部十千根と戦い勝利を得るためには、尾張の力が必要となってくる。
王家が様々な女人を妃にするのは習慣で、殆《ほとん》どが勢力を拡張するための政略結婚である。
余り深刻に考えずに、宮簀媛との婚姻を決めた方が良いかもしれない。
見慣れた猪喰の顔を眺めていると、意外に気持が落ちついてきた。
猪喰には何万年も前から灌木《かんぼく》を突き抜けて立っている古びた石のようなところがある。そんなに皺《しわ》もないのに何故か風雪に刻み込まれたような容貌《ようぼう》だった。こいつには欲がないのだなと思う。色欲はもとより権力欲もない。
何のために生きているのだと訊《き》けば、
「王子様のために……」
と答えるだろう。いや、そんな問いは心外です、と無言で見返すかもしれない。
猪喰には無駄な言葉は必要でなかった。
「猪喰、そちは寝溜《ねだ》めができるようだな」
「二日ほど眠れば三日徹夜しても平気です」
「ふーん、たいしたものだ、これも不思議に思っていたのだが、眠ろうと思えばすぐ眠れるのか」
「はい、雨の山中でも、蓑《みの》を顔にかけて横たわれば、雨の音が眠りの歌のように聞え、数呼吸もしないうちに眠れます」
「雑念をすぐ消せるのだな、人間は物心がつくと色々な思いで心が乱れる、眠れないのはそのためなのだが……」
「雑念で乱されることはありません」
「噂で聞いている仙人のようだな」
珍しく猪喰は笑った。
「やつかれは人間でございます、仙人のように穏やかではありません」
猪喰に釣られて倭建も笑った。
まさしく猪喰のいう通りである。
人間である以上、様々な感情の波がぶつかり合う。時には荒ぶる神となり、また風のない春の海のように穏やかにもなるのだ。
猪喰も同じであろう。問題は荒ぶる神を、どういう方法で鎮めるか、であった。
笑った猪喰の顔は風雪に刻まれているにも拘《かかわ》らず、何処《どこ》か童子のようだった。
こいつは何時も死を恐れていないな、と倭建は感じた。ひょっとするとその辺りに仙人に近いところがあるのかもしれない。
仙人は不老不死らしい。死がないので恐れることはない、だが人間には必ず死がくる。勇猛な倭建も、戦の場では死など念頭にないが、風邪をひき、熱でも出ると、死ぬのではないか、と怯《おび》えたりする。
少なくとも死を考える。それは死への恐れなのだ。
王者が墳墓を巨大化したのは民への威厳を示すためだけではない。巨大な墳墓を造ることによって、死への恐れを少しでも薄めようという気持があるからではないか。
流石に王者はそれを口にはしないが、本音を垣間見《かいまみ》た気がした。
ただ何時も死を恐れない、というのは並の人間には無理だった。まさに猪喰は万人に一人の超人かもしれなかった。
猪喰が去った後、高彦の死以来の昂《たか》ぶりが薄れた。
人間、死ぬ時がくれば死ぬ、吾《われ》も高彦も同じじゃ、何処か諦念《ていねん》に似た思いが倭建を安らかにした。
ひょっとしたら、と危惧《きぐ》の念を抱いていた宮簀媛の夢も見なかった。
翌日は雨だった。だが猪喰は夜の明ける寸前、大裂と彼の部下と共に大和に向けて発《た》っていた。
武彦たちの宿泊所の前には、矢尻《やじり》を天に向けた矢が立っている。
猪喰は武人として戦場に向かう意を武彦たちに告げたのであろう。王子を守るように、と頼んでいるのかもしれない。
武彦の側近の者は猪喰が発ったことを知らなかった。
最初は、我等に黙って行くとは友情の薄い男子《おのこ》じゃ、と怒っていた武彦らも、最終的には如何《いか》にも猪喰らしい、と納得した。
少し考える、といったせいか、音彦は宮簀媛について何もいってこない。
その夜、武彦が久し振りに、
「明日は釣りでもどうです?」
と誘った。
海人《あま》の血が流れている武彦は潮の匂いを嗅《か》ぐと血が騒ぐようだった。
かつて熊襲《くまそ》に大勝した倭建は、大和に戻る途中吉備国に寄り釣りをしたことがあった。二年か三年前か、そんなに遠い昔ではないが、十年も前のような気がする。
過ぎ去った歳月の距離感は、境遇の激変を物語っていた。
山人族出身の七掬脛は釣りは肌に合わないようだった。山での狩りを好む。
七掬脛は小舟に乗って揺られていると、気が滅入《めい》るという。
倭建は武彦と二人で釣った。
半|刻《とき》ほどはよく釣れた。一尺ほどの鯛《たい》や、大きなカサゴなどが勢い良く喰《く》いつく。
潮の流れが止まったらしく当たりがなくなった。
「王子、丘に戻って鯛を喰いましょう」
獲《と》ったばかりの鯛をぶつ切りにして塩をかけて食べる、切り身が口中で跳ねるような感じがたまらない。
「おう、旨《うま》そうだ」
何かを訴えたそうな武彦の眼を見て、話したいことがあるのだな、と倭建は感じた。
漁船を漕《こ》いでいるのは尾張の海人である。聴かれたくない話に違いなかった。
丘に戻った武彦は、自ら刀子《とうす》で鯛をさばいた。身はまだ生きている。白く艶《つや》やかで歯で噛《か》むと勢い良く締めてくる。甘味が塩と混じって得もいわれぬ旨さだった。持参した竹筒の酒が口中を溶かす。
二人で一尺の鯛をあっという間に食べ終った。
「武彦、何かいいたいことがあるようだが、遠慮は要らぬぞ」
「宮簀媛殿のことです、このままでは王子は流浪の王子になりかねません、尾張との婚姻関係は大和《やまと》の諸勢力に影響を与えましょう、いや、大和のみならず東国の国々に対しても」
「そうか、武日も七掬脛も同意見だな」
「その通りです」
「そうか、東国の兵も動員し、大和王権を打倒しろ、と申しているのだな」
「今後、大和の情勢がどう変わるかは分りません、だがその準備は必要です、王子の気持は分ります、宮簀媛殿は普通ではない、ただ吾は今は迷う余裕はない、と考えています」
余裕といったが、真意は王子は断れる立場ではない、と武彦は告げている。高彦の死が武彦らの気持を固めさせたに違いなかった。
「もともと吾が撒《ま》いた種だ、どうあろうと妃にする、ただ、東国への動員は今少し時が欲しい、美濃も味方にせねばならぬ」
「勿論《もちろん》です、猪喰の報告も得たい、東国諸国の兵を得るためには吾や七掬脛も使者になりましょう、ただ、余り時はございません、夏の終りか秋には兵を動かしとうございます」
倭建も、高彦が死んで以来、最終的に、それ以外ないかもしれない、と決意していた。
ただ、物部十千根らが、呆《ほう》けた父親を無視して自分を殺そうとしているなら、密《ひそか》に大和に忍び込み、イホキノイリビコと十千根を殺し、ヤサカノイリビメを追放するのも、一つの策ではないか、と考えていた。
それなら大きな戦にならずに済む。
東国の動員といっても簡単なものではない。遠淡海《とおつおうみ》や駿河《するが》の根子王《ねこおう》などは動員に応じてくれそうだが、倭建が廻《まわ》っていない国々は多い。
たとえば倭建が勝利した伊勢の朝日など、再び独立派が勢力を盛り返している、と尾張音彦は話していた。
高彦の死は武彦らにも衝撃を与えた。
側近の将も昂奮《こうふん》しているのだ。
夕刻前、音彦が蒼白《そうはく》な顔で現われた。
宮簀媛はこの二日間、泣き喚《わめ》き、板壁を叩《たた》いて暴れている、と告げた。
何時までも宮簀媛との再会を延ばすわけにはゆかなかった。
[#改ページ]
十五
一夜を共にするために宮簀媛《みやすひめ》と会うことになった前夜、倭建《やまとたける》は井戸水を浴びて身を浄《きよ》めた。
暑い季節なので冷たい水は気持が良い。
眠る前に酒を飲み熟睡した。眠れないのではないか、と不安を抱いていたが、媛との日々を思い浮かべていると気が安らいだ。
昂《たか》ぶりはなく穏やかな気分になった。心を病むまで自分を慕っているのかと思うと、憐《あわ》れである。そんな憐憫《れんびん》の情が、心の葛藤《かつとう》を包んだのかもしれない。
倭建は夢を見た。
白い上衣を纏《まと》い男子《おのこ》のような筒型の赤い裳《もすそ》をはいた宮簀媛が、大鹿に乗り駈《か》けて来た。解いた黒髪が風になびき、颯爽《さつそう》としている。
自分が何処に立っているのかは分らない。ひょっとしたら宙に浮いているような気もする。多分そうなのだろう。鹿が跳ねて宙に浮いた。鳥のような白い羽根が生え、近づいてくる。
宮簀媛は笑っていた。稚《おさな》い顔で何の邪心もない。倭建は媛を迎えるべく両手を拡げた。媛も両手を拡げると飛び降りた。
「危い」
と叫んだ倭建の胸に媛は鳥のように飛んできた。倭建は力一杯抱き締めた。だが媛の身体は煙のように消えた。
何だ夢だったのか、と倭建は呟《つぶや》いたような気がするが、そのまま眠ってしまった。
夢だけは鮮明に覚えている。汗もかいていなかった。
早朝、眼覚めた倭建には、媛に対するいとおしさの思いが生まれていた。
倭建は勇気が満ちてくるのを覚えた。媛の病を治す、と自分にいい聞かせた。
再び井戸水を浴び身体《からだ》を浄めた。新しい衣服を纏い、腰には草薙剣《くさなぎのつるぎ》だけを帯びた。
尾張音彦《おわりのおとひこ》が迎えに現われた。沈鬱《ちんうつ》な表情だが眼の奥に縋《すが》るような光が宿っている。
普通なら婚姻の夕餉《ゆうげ》を共にすべきだが、宮簀媛は、決まった時刻に食事を摂《と》れる状態ではないらしかった。
食事を運ぶとすぐ食べる時もあるしそのまま見向きもしない場合もあるという。
「それで良いではないか、食事が必要なら伝える」
「お心遣い、感謝します」
「そんなに気を遣うな。媛は吾《われ》の妃《きさき》だ」
力強くいうと音彦は感動を抑えるように唇を結んだ。
媛の屋形は丘の上にあった。古くからの侍女ではなく、新しい侍女が宮簀媛の世話をしていた。若い侍女を嫌うので年齢《とし》は四十代の後半だった。
何故若い侍女を嫌うのか分らない、と音彦は視線を伏せた。
ひょっとすると若い女人に雌の匂いを嗅《か》ぎ取り本能的に嫉妬《しつと》するのではないか。
媛の屋形は高台にあり、坂道を上らねばならない。
「警護兵は?」
「武術に優れた四人の女兵に、昼夜交替で守らせています」
倭建の時代は女人の兵士もいたのだ。
坂道の下に麻布を纏い、髪を後ろで束ねた女人が立っていた。女人にしては逞《たくま》しく、骨太だが穏やかな顔だった。顔は陽に灼《や》け小麦色だった。二人を見ると蹲《うずくま》って挨拶《あいさつ》した。
宮簀媛の世話をしている侍女のヤマメだった。倭建は立つようにいった。
「どうだ、媛の様子は?」
「はい、不思議でございます、昨夜から突然穏やかになられ、今朝は普通に朝餉を摂られました。それと……」
口籠《くちごも》るヤマメに倭建は微笑んだ。
「媛は吾の妃じゃ、遠慮することはないぞ、何も隠さずに詳しく話すように」
「はっ、はい、今日、王子様がお戻りになる、とおっしゃって、お化粧も入念になさっておられます、私が何も話さないうちにです」
ヤマメは舌をもつれさせた。嬉《うれ》しさと不安感が入り混じった表情になった。
倭建と音彦は思わず顔を見合わせた。宮簀媛の超能力はまだ衰えていない。
「ヤマメ、媛は新しい衣服に着替えたのか」
音彦が早口で訊《き》く。
「はい、今朝早く」
ヤマメが倭建の来訪を告げたのはその後である。これまで暴れたり壁にもたれて坐《すわ》り、歌を歌う媛とは別人なので、ヤマメも不思議だった。
ヤマメがそれをどうして知られたのか? と訊くと、媛はヤマメを睨《にら》んだ。
「王子様と私《わ》は夫婦じゃ、それを知らぬのか、心と心が通じ合っている、王子様は必ず来られる、私は昨夜、王子様に会いました、王子様は東国の長旅で疲れておられたが、私を優しく迎えて下さったのじゃ、明日は行く、とおっしゃったのです」
そういい終った媛は幸せな夢を見ている顔になっていた。
大変なことを話してしまったのではないか、と恐る恐る顔を上げたヤマメに倭建は頷《うなず》いた。
「不思議がることはない、吾は昨夜、鹿に乗って飛んで来た媛と会ったのじゃ、媛の心が身体を脱け、吾のもとに参ったのであろう、心配するな、吾が媛の心の病を治そう」
倭建は樹々の間を縫っている坂道を見上げた。妖気《ようき》は感じられなかった。
ヤマメは頑丈な肩を竦《すく》め、息遣いを抑えながら聴いていた。半分納得し残り半分は怯《おび》えていた。無理もない。夢を現実の出来事のように話しているのだ。
王子様も普通ではなく何処《どこ》かおかしいのではないか、と怯えているのかもしれない。
「音彦殿、吾は一人で行く、その方が良い、媛にとって父である音彦殿は、自分の自由を束縛する鬱陶《うつとう》しい存在なのだ、悪くとって貰《もら》っては困るぞ、今の音彦殿は愛情を深めれば深めるほど媛は息苦しくなる、音彦殿の気持は媛に伝わるから、媛は重い石を背負わされたような気持になるのだ、押し潰《つぶ》されそうな圧迫感を覚える、げんに音彦殿は媛を監禁している」
「王子様、監禁しなければ何処に行くか分りません、山の中で野垂れ死にするか、盗賊に犯され、殺されるか、父として娘を守るのは当たり前です」
音彦はむっとしたらしく抗議するようにいった。媛に関する限り音彦も広い視野を失っていた。
「その通りじゃ、だがそれは媛が病んでいない場合にのみ通用する弁じゃ、心を鎮められよ、媛は心を病んでいる、はっきりいおう、父も他人も区別がつかない、多分、そんな馬鹿な、と反駁《はんばく》したいだろうが、それが現実じゃ、厳しいようだが音彦殿には病んだ女人の気持は分らない、何故なら別世界の心だからだ、ただ心が病めばどうなるか、真剣にそれだけを考えられた方が良い、勿論、それでも分らぬ、しかし、少しは媛に近づける」
音彦は黙り込んだ。思い当たる節があったのかもしれない。
「王子様はお分りか……」
「ああ少しは、何故なら媛の心の総《すべ》ては吾に向けられている、気を集中すれば少しは理解できる、音彦殿、今は媛を吾にまかせられよ、神憑《かみがか》りした時の巫女《みこ》を邪魔してはならぬ」
「神憑りした時の巫女……」
音彦はその言葉で、はっと気づいたようだった。どんなに媛を思い、憐み、気を遣おうと、媛にとってはそれが煩わしいのである。そのことを音彦は今、理解した。
音彦は倭建と一緒に媛に会い、喜ぶ顔を一目見たかったのだ。
音彦の藁《わら》にも縋るような気持は痛いほど分る。だが敢《あえ》て倭建は一人で会うことにした。
二人で媛を訪れるとどうなるか。
媛が喜べば良い。
だが今の媛はまず邪魔者を追い払おうとするかもしれない。倭建に走り寄る前に、音彦に対し牙《きば》を剥《む》き、荒々しい唸《うな》り声を放つ可能性が強い。
何故なら媛にとって音彦は、父というより監禁者なのである。二人の間を裂こうとして一緒に来た、と媛が勘違いしたとしても不思議ではなかった。
「お願いします、それにあのような娘を妃にしていただいて、何と御礼を申し上げて良いやら」
「そんな礼は無用じゃ」
音彦の眼が赧《あか》い。
何時《いつ》の世でも娘に対する父親の気持はそんなに変わりがない。ことに宮簀媛は一人娘だった。
去って行く音彦の幅広い背中に苦悩と悲哀が見えない翳《かげ》りとなって纏いついていた。
坂道を百歩ほど上ると狐が素早く道を横切った。小鳥が囀《さえず》り暑いがのどかな日だった。陽はやや西に傾いている。
坂を上ると槍《やり》を手にした女人の兵士が待っていて蹲まって叩頭《こうとう》する。皮甲《かわよろい》を纏っていた。上衣《うわぎ》は半袖だが肘《ひじ》の辺りの筋肉は逞しい。
屋形を囲っている柵《さく》の高さは八尺はあった。敵からの攻撃を守るというより、媛が逃げ出すのを防ぐ目的でめぐらしたのであろう。
その柵に見えない棘《とげ》があるのを感じた。
こんな柵に囲まれていたなら病はかえって重くなる。曲者《くせもの》の侵入を警戒したとしても、柵の高さは五尺までに切らねばならない。
暑い季節なので屋形の窓は連子になっている。嵌《は》めている木が太い。まさに犯人を監禁する小屋の窓と同じだ。これも細い連子窓にする必要があった。
屋形は静まり返っていた。
ヤマメが身を固くしていった。
「王子様、嘘ではございません、昨夜までは壁を破るほど叩《たた》かれていたのです」
「気にするな、それと昨日までのことは総て忘れるのじゃ、いいか、媛は昔の媛に戻ったのじゃ、多少異常なことが起きても騒ぐな、驚くな、遠慮せずに吾にいうのだ」
「はい、分りました」
「ヤマメとかいったな、これまで何をしていた?」
「若い頃、村長《むらおさ》の家に嫁いだのですが、夫も子も病で亡くなり、尾張海鳥《おわりのうみとり》様の屋形に仕え、膳部《かしわべ》の女人として数年たちます」
「そうか、夫も子も亡くなったのか、不運だのう、どうして宮簀媛の世話をするようになったのじゃ」
その辺りのことを倭建は知っておきたかった。ヤマメは媛のいる屋形を見た。余り静かなので小首をかしげてから口を開いた。
半年ほど前の雨の夜、宮簀媛が音彦の屋形を逃げ出した。
ヤマメは身体をこわし実家に戻っていた。人の気配で戸を開けると雨でびしょ濡《ぬ》れになった媛が立っていた。
ヤマメは媛の顔を一度見たことがあるが、雨の闇夜で月も星明りもない。
どうしたのか、と訊くと空腹らしく、食べるものが欲しい、という。
濡れた衣服では風邪を引くと、着替えるようにいった。媛も気持が悪いのか与えられた麻の布を纏った。
濡れた媛の衣服に触れて吃驚《びつくり》した。絹布である。よほどの有力者でなければ絹の衣服など着ない。
宮簀媛が少しおかしい、という噂は耳にしていたので、ひょっとしたら、と思った。
だがヤマメは何もいわずに干魚と粟《あわ》や稗《ひえ》の混じった握り飯を与えた。朝餉《あさげ》にしようと取っておいたのである。
媛はむさぼるように食べた。
ヤマメは布で媛の濡れた髪を拭《ふ》いた。媛は握り飯を食べている。召使いに世話されることに慣れている女人だった。
食べ終った媛はよほど疲れていたのか、筵《むしろ》の臥所《ふしど》に横になると寝入った。
一睡もせず夜の明けるのを待ち、近くの村長に知らせたのだ。多分、二、三日、寝ずに歩いて来たのかもしれない。媛は昼近くまで眠った。
媛の衣服は竈《かまど》の火で乾かした。
衣服を着替えた媛は、
「疲れが取れた」
と口を開いた。
ヤマメに対する感謝の言葉なのだろう。
媛は頼りな気だった。ただヤマメは、何処に行くのか、とか、家に戻りなさい、など忠告めいたことはいわなかった。
媛はヤマメの家を出た時、知らせを受け、飛んで来た音彦に捕まったのである。
今の屋形に監禁する時、世話する侍女をつけたが、媛はどの侍女も寄せつけなかった。時には歯を剥き爪を立てて追い出すという。だが侍女がいなければ一人で生活できる状態ではなかった。衣服は洗えないし、食事も作れない。
音彦は殆《ほとん》ど喋《しやべ》らない媛に、どういう侍女なら構わないのか、率直に告げて欲しい、と手を握った。
「私が家を出た日、食事を与えてくれた人」
珍しく媛ははっきりと答えた。ヤマメのことだった。病は重いが、媛にはまだ正常な心が残っているのだ。
音彦は自らヤマメの家に行き、媛の世話を頼んだのだった。
「よく分った、媛は愛情に飢えている」
「はい、でも王子様をお慕いする余りです、もし王子様が媛様に優しくされたなら、殆ど治ると思います」
「そうかのう」
「はい、板壁を叩いたりなさっている時も、王子様はどうなさっているでしょう、と話しかけると、はっとしたように静かになられます、申し訳ありません、王子様のお名前を出したりいたしまして」
「なあに、構わぬ、媛が良くなればそれで良いのだ」
倭建はヤマメに、家に入り媛の様子を見るようにと命じ、屋形の周りを歩いた。気を集中したが、怪しい気配は全くなかった。媛の気配さえ感じられない。それがまた不安感を呼ぶ。
板壁に耳をつけ内部を窺《うかが》ってみたが、無人のようだった。そんな筈《はず》はない。媛は毎日のように板壁を叩き暴れたのだ。
媛は何処か異国的な容貌《ようぼう》だった。そんなに彫りが深いというのではないが、細い切れ長の眼は瞳《ひとみ》が大きく白眼の部分が赤ん坊のように青い、それに野性的な気が宿っていた。何時でも跳びかかって来そうである。手首は細く指が長いところも倭《わ》の女人と異なる。腰部が締まり尻《しり》の肉が張っていた。
倭建が表の戸口に立つと緊張し切った表情でヤマメが出て来た。
「媛様は奥の間に正座しておられます、王子様が傍まで来られている、とおっしゃって」
何故か瞼《まぶた》を拭《ふ》いた。
「吾がここまで来ているのを知っているのか、それにしても、正座しているとは」
どういう意味だ、と考えた。
これまで聞いた媛の言動から、跳びついてくるのではないか、と予想していた。それとも涙を流し打ち伏すか。
正座は予想外だった。
媛については、余りにも多くの情報が入っている。ただ一ついえるのは、それらの情報は、倭建がいない時の媛の言動である。
余り情報に惑わされてはならない、もっと素直になるべきだ、と自分にいい聞かせた。
戸は厚く内側から開けられぬように、二本の留め金が深く差し込まれていた。その部分だけ戸は更に厚くなっている。留め金は鉄棒に近い。それを見て憐憫《れんびん》の情が込み上げてきた。
「媛様に鬼神が憑《つ》くと大の男子《おのこ》以上に力を出します、それ故、このように……」
ヤマメは声を詰まらせた。彼女も憐《あわ》れに思っているのだろう。倭建は二本の留め金を抜き、本能的に一歩|退《さ》がった。隠れていた媛が跳びかかってくるような気がしたのだ。だが誰も出てこない。
「宮簀媛、そこにいるのか、吾《われ》じゃ」
「はい、お待ちしていました、お迎えに出たく、胸は張り裂けそうですが、私は囚《とら》われの身、ゆえに奥の間でお待ちしています」
囚われの身、という言葉に媛の血を流すような自己抑制への決意が感じられた。媛はこれまで板壁を叩き、倭建の名を口走って暴れていた。そのために監禁されたのだ。そんな自分を囚われの身といったのは、恋してはならない王子を恋慕したため監禁されたという意識がはっきりしているからである。
倭建は竹を編んで作った間仕切りを開けた。
髪を両頬に垂らして正座していた媛は、虹《にじ》色に光った眼を向けた。瞼を閉じて俯《うつむ》いた。媛が洩《も》らした息が棒立ちになった倭建の頬を撫《な》でた。その息には間違いなく媛の濃い情が込められていた。
「宮簀媛よ、そなたはもう囚われ人ではない、何故なら媛は吾の妃になるからじゃ」
俯いていた媛の顔が撥《は》ねられたように上がった。
「王子様、本当に妃になれるのですか?」
媛の顔が輝いた。
「勿論《もちろん》じゃ、そのために来た、だから囚人ではない」
媛は跳ねて立った。獣のような脚力だが、自然な気がした。大手を拡げた倭建の胸に抱きつき顔を埋《うず》めた。この瞬間、倭建はすべてを忘れた。
媛の柔《やわ》い身体は夏の気温よりも熱く感じられた。立って抱き合ったまま二人は口を合わせ、お互いの唇や舌を吸い、肌の細部を確認し合うように擦りつけた。
媛の丸められた舌は筍《たけのこ》の先のように尖《とが》り倭建の舌を上下左右から突く。
何時の間にか二人は抱き合ったまま床に転がっていた。
倭建は腰紐《こしひも》を解き、草薙剣と共に置く。汗塗《あせまみ》れの二人は全裸になっていた。
百済《くだら》の使者がオシロワケ王に献上したという麝香《じやこう》のような匂いが倭建の脳の芯《しん》を溶かす。汗が滲《にじ》み出ているにも拘《かかわ》らず媛の肌はなめらかで、肉を掴《つか》もうとする指がすべる。何時か倭建は指先を立てて媛の肌を掴んでいた。
媛の喘《あえ》ぎ声は苦痛を押し殺しているように聞える。だが単調ではない。あえかな音色に変わり、時々|喉《のど》を鳴らすと唸《うな》り声になる。だがそれも一瞬で、むせび泣くような嗚咽《おえつ》が続く。
その媾合《まぐわい》の声と共に、媛の身体も微妙に変わる。声が針となり様々な角度から悦楽の坩堝《るつぼ》を刺し、徐々に破壊へと導いてゆく。手足が痺《しび》れ脳が溶け、心の臓が甘く締めつけられ息が詰まった。全身の火花は火柱に変わり奔流は堰《せき》を突き破る。
倭建は咆哮《ほうこう》しながら媛の骨を砕かんばかりに腕に力を込めた。
反り返った媛の声も喉を裂くようにして迸《ほとばし》り出た。
二人は抱き合ったまま荒い息を吐いた。
身体中の精が抜けたようである。
「王子様、私《わ》は妃ですね」
「勿論じゃ」
「嬉《うれ》しゅうございます、留め金の鉄棒は取って下さい」
「ああ、取るとも、誰も媛を束縛できない」
「お慕いしていた甲斐《かい》がありました」
赧《あか》くなった媛の眼が潤んだ。
「媛よ、ただこれだけは知っておく必要がある、吾は大和《やまと》の王朝に狙われている、身を守るために吾は戦わねばならない、何かと忙しくなる、ゆえに毎日、媛と会うわけにはゆかぬのじゃ」
「戦いは嫌いです」
「ああ、吾もそう思う、では媛、吾が死んでも良いのか」
「嫌、死ぬなんて……」
「戦をしなければ吾は死ぬ、黄泉《よみ》の国に行けば、そなたと会えぬぞ」
「分りました、でも、できるだけ会って下さい、もう無理はいいません、ただ、お顔は見たい」
「ここにいる時はのう、多分、もう一ヶ月もすれば丹波猪喰《たんばのいぐい》が戻り、大和の情勢を知らせる、吾の生命を奪おうとする者はすでに尾張に入っている、この周辺に潜んでいるかもしれぬのだ、媛も注意せよ」
「私は大丈夫です、曲者が近づけば匂いで分ります」
「そうか、そういう面では、そなたは人並以上の力を持っているのう、それはそうと、父上の話では、そなたは暴れたり、走り廻《まわ》ったり、また逃げ出したようだな、何故そんな無茶をしたのだ?」
媛は首を横に振った。
「暴れたりした覚えは殆どないのです、ただ私は何時も王子様をお慕いしていました、お慕いする余り眠れない夜もあります、そんな日は気が昂《たか》ぶり、自分で何をしているのか分らなくなるのです、父に掴まえられ、初めて、自分のしていたことを知らされるのですが、余り記憶にないので、本当だろうか、と疑ったりしました、だから、同じ事を繰り返したのでしょう、でも、もう絶対致しません、王子様が傍にいらっしゃるのですから」
「吾の妃《きさき》じゃ、人に嗤《わら》われるようなことをするな、誇りを持つのじゃ、それに、正式に祝いの酒盛りをせねばならぬ」
「嬉しゅうございます」
そんな媛は心が病んでいるように見えない。倭建と会った喜びで、一時的に回復したのであろう。ただ倭建の態度如何では再発する可能性があった。
『古事記』は、信濃《しなの》から尾張に戻った倭建は美夜受比売(宮簀媛)と再会するが、食事を運んで来た媛の衣服の裾《すそ》に月経(生理の血)がついていた、と述べている。
この記述は余りにも生々しい。皇太子級の王子を迎える礼儀に反する。
おそらく裳《もすそ》についていたのだろうが、正常な精神なら絶対有り得ない。かりに、編纂《へんさん》者の創作としても、媛の心が乱れ、病んでいることを、このような表現で知らせたかったのであろう。
数日後、音彦の屋形で婚姻の儀式が挙げられた。
尾張の各地から数人の首長が集まり、二人の婚姻を祝った。
儀式といっても、現代のような神事が行われるわけではない。
幸い晴天だったので、屋形の外の庭で飲み、歌い、舞う。神事といえば巫女《みこ》が琴を弾き二人の幸せを神に祈る程度だった。
酒盛りの宴《うたげ》は三日も続いた。三日目は雨が降ったので屋内の大広間で行われた。
首長たちは飲み疲れ、翌日は輿《こし》に乗り、眠りながら自宅に戻った。
殆《ほとん》ど酒盛りだが婚姻の儀式を挙げることによって、宮簀媛は伽《とぎ》の女人ではなく、妃として認められたのだ。
また儀式の効果は政治的な意味を持つ。
大和王族を初め、東国の諸国は尾張国が倭建を次の大王として認めた、と受け取る。
このことは東国の諸国のみならず、大和王権内部にも大きな衝撃を与えた。
倭建が大和に戻るのを拒否した皇后格のヤサカノイリビメ、イホキノイリビコ、それに物部十千根《もののべのとちね》らに対し、内心|反撥《はんぱつ》しながらも中立的な態度を示していた諸氏たちが動きはじめた。
実際、オシロワケ王は老いて呆《ほう》けていたのだ。痴呆症は急速に進んでいる。
まだ人の顔を忘れるほどではないが、重大事を指示する能力はなかった。
「王がおっしゃっていました」
ヤサカノイリビメが、自分たちに都合の良いように十千根に告げると、十千根は王族や諸豪族に王の意志として伝えるのだ。
皆、半信半疑だが、臣下と隔離されているので、誰も王の真意を質《ただ》せなかった。
秋には新嘗祭《にいなめさい》が行われる。その儀式は古くからのもので、王は神に秋の収穫を感謝し、来年の豊作を祈るのだ。
大病でない限り王は出席しなければならない。
王と会えない王族や有力豪族は、新嘗祭を待った。
もし王が欠席するようなら、倭建王子派は何らかの行動に出る必要があった。
反物部派の筆頭は大伴《おおとも》だった。
大伴は代々親衛軍の長《おさ》として王を守る任務についている。ところが宮中の王と会えないのだ。対等である物部に圧倒されているのが現状だった。
物部は技術者集団を率い王に仕えていたが、先王あたりから軍事権を握りはじめていた。各地で反乱が起こると物部が軍を率いて押さえる度数が多くなった。
軍事警察的な性格が強化された。
軍事警察も、技術者集団の中に入る、と物部十千根はうそぶいていた。
親衛軍の大伴が、そういう物部に不快感を抱くのは自然である。
そのうち、親衛軍も技術者集団だ、といいかねなかった。
大伴|武日《たけひ》の弟、乎多《おた》は大和に逗留《とうりゆう》している吉備と組んだ。いうまでもなく倭建には吉備の血が流れている。
五世紀に活躍する和珥《わに》、巨勢《こせ》、平群《へぐり》、阿部《あべ》などの有力豪族は、倭建の時代にはまだ出現していない。
葛城山《かつらぎさん》の一言主神《ひとことぬしのかみ》を信仰する葛城は、大和の王権と一線を画していた。
葛城の勢力は大和から河内の和泉《いずみ》の方に拡がっている。それに尾張とも関係がある。
ただ葛城の領域は、大和川から吉野川の近くまで南北に拡がっている。それぞれの首長の意見が纏《まとま》り難い。
大和王権に与《くみ》しないが、尾張に反感を抱く首長もいた。
葛城全域を味方に引き入れるのは困難なので、大伴乎多は、物部に対する反感度の強い中部葛城に接近した。小越の麓《ふもと》に勢力を張る中部葛城は、後に葛城襲津彦《かつらぎのそつひこ》を首長とした大葛城となった。
いうまでもなく襲津彦の娘の磐之《いわの》媛ひめは仁徳《にんとく》大王の皇后となり、履中《りちゆう》、反正《はんぜい》、允恭《いんぎよう》の大王を産み、葛城時代をつくったのだ。
ただ物部は、これまで王権の命令で、各地に征《ゆ》き賊と戦っているので、大和周辺には物部の影響が強い。
尾張にも物部が進出している。
倭建と尾張との婚姻を機に、政治の流れが動き出した。
親倭建派、反物部派が裏で連絡を取り合いはじめた。
そんな時、尾張でも緊迫したやりとりが続いた。
吉備武彦《きびのたけひこ》が、倭建の命を勅とし、東国各国を巡り、兵を動員したい、と訴え出した。
武彦は、物部十千根が倭建討伐の軍団を編制する前に東国の兵を動員、不破《ふわ》の関(関ヶ原)から西に進み、迎え撃つ敵を撃破すべきである、というのである。
大伴武日、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》は口にこそしないが、武彦の意に賛成していた。
「猪喰が戻るのを待て、大和にも吾の味方はいる、攻める前に彼等を纏めねばならぬ、猿のように、走れば良いというものではない」
と倭建は武彦を抑えていた。
[#改ページ]
十六
緊迫した日々が続いたが、倭建《やまとたける》は宮簀媛《みやすひめ》の屋形に通った。夕暮れになると何となく足が媛の屋形に向いてしまうのである。
まるで鳥が塒《ねぐら》に戻るのと同じようだった。勿論《もちろん》当時の王族や首長は通い婚で、夫婦といえども同居しない。
ただ農民の場合は同居が主だったのではないか。古代の庶民の夫婦生活は、文字による記録がない以上、推定の域を出ない。
同居といっても、男子《おのこ》が妻の家に入り込む場合もあり、地域によって異なったと考えられる。
猛暑の一日だった。余りの暑さに倭建は、吉備武彦《きびのたけひこ》、大伴武日《おおとものたけひ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》らと川で水浴びをした。尾張《おわり》に来て以来、雨が余り降らなかった。連日、灼熱《しやくねつ》の陽が山々や家を焙《あぶ》り、眼に見えて川水が減っていた。
「七掬脛、川水も湯気をたてているようだな」
武彦が冗談をいった。
実際、陽に映えた川面《かわも》はそんな感じである。七掬脛が何時になく真面目な顔で答えた。
「しかし川水は冷たいぞ、油断をせずに入らねばならぬ」
「ふむ、その通りだ、王子様を狙う曲者《くせもの》と同じじゃ、王子、川に入る前に、水を浴びられた方がよろしゅうございます」
七掬脛の意を汲《く》んだ武彦が倭建にいった。
実際、北方の山々の水を集めて海に注ぐ川水は、暑い陽射しでも、冷たい。川水は池や沼の水と違うのだ。
皆、倭建の身を案じている。
倭建は頷《うなず》き、竹を編んで作った籠《かご》に川水を汲み、身体《からだ》に浴びた。目無籠ともいわれ、水が洩《も》れないほどきっちり編まれている。
身体が竦《すく》み、ふやけていた脳が引き締まった。想像以上に冷たい。
跳び込まずに脚の方から川に入り、泳いだ。岩の傍まで行って潜ってみた。小魚が何匹か身体に当たって逃げる。
思っていたよりも底は深かった。水面に出ようとしたが、意志に反して身体は岩底に引っ張られた。
黝々《くろぐろ》とした岩に洞があった。暗い洞の中から女人が手招いている。弟橘媛《おとたちばなひめ》だった。さだかではないが、媛は悲し気な顔をしている。
「媛!」
と叫ぼうとした倭建の頭部が岩に当たった。衝撃を受けたが痛みはなく、そのまま倭建は失神した。
武彦と七掬脛によって倭建は救われた。武日が倭建の胸を押し続けると水を吐き出した。意外にも大量の水を飲んでいた。小魚が口中から跳び出したほどである。
武日の話によると、倭建は岩を抱き抱えるようにして失神していたらしい。そんな記憶はないが、事実であろう。岩底は削られているが、洞などないという。
弟橘媛の幻を見たなどといえなかった。
その日、屋形に運ばれた倭建は発熱した。かなりの高熱である。
宮簀媛が懸命に看病した。布を井戸から汲んだ冷水に浸し、額に載せた。
高熱にうとうとしながら夢を見た。弟橘媛と宮簀媛の顔が交互に現われるのだ。
その度に名を呼んだような気がするが、はっきりとした記憶はなかった。
殆《ほとん》ど徹夜で数日看病したにも拘《かかわ》らず宮簀媛にはそんなに疲れは表われていない。
献身的な看病に気持が燃えたせいであろうか。
猛暑と発熱で倭建は憔悴《しようすい》した。童子時代から頑健で、風邪を引いてもこじらすことがなく、二、三日で治った。
これまで数日間も寝込んだ経験は初めてだった。
それだけに大和《やまと》との対決を前にして病に伏したことは衝撃だった。丹波猪喰《たんばのいぐい》からの連絡がない。自分の身に何かあったなら、必ず知らせる、と猪喰はいっていた。
連絡がないのは、身に異変がなく、報告すべき緊急事態がないからであろう。それが分っていながら猪喰との繋《つな》がりが切れたような不安感に襲われた。
熱が引いたので宮簀媛は屋形に戻った。
看病の礼を述べると、
「王子様の病を憎みましたが、その間お傍で看病でき、嬉《うれ》しくもありました、今、病が治りほっとしましたが、ずっとお傍にいることができないと思うと、胸に穴が開いたような淋《さび》しさを覚えます、明日にでもお会いしたい、王子様のお身体に差障りがなければ……」
「なあに大丈夫だ、そなたのお陰で病の邪神は退散した。吾《われ》も会いたい、必ず行く」
今、倭建を襲う奇妙な不安感を癒《い》やしてくれるのは宮簀媛以外になかった。体力が衰えたせいか武彦らと戦の論議をするのも億劫《おつくう》だった。
これまで倭建の体内を貫いていた勇武の鬼神が消えている。張り詰めて東国の国々を廻《まわ》り、いよいよこれからという大事な時に突然、虚脱感に襲われたのだ。
多分病からであろう。それぐらいの自覚はあったが、焦っても気が漲《みなぎ》らない。
何となく顔が痩《や》せたような気がしたので、銅鏡を出して眺めた。
眼窩《がんか》が窪《くぼ》み眼に力がなく頬の肉が落ちていた。まるで別人のようである。何時《いつ》もの倭建なら鏡に映る我が顔を睨《にら》みつけているであろう。だが睨む気力も湧かない。
力なく銅鏡を置くと吐息を洩らした。そのくせ宮簀媛に会いたい。
翌日、媛の屋形に行く準備をしていると、武彦、武日、七掬脛が現われた。三人共、深刻な表情である。何時もは陽気で、酒の神・猿田彦の子孫ではないか、とからかわれる七掬脛も眼が沈鬱《ちんうつ》だった。
武彦が三人を代表して、完全に健康を取り戻すまで、宮簀媛に会わない方が良い、と忠告した。
倭建の憔悴ぶりが異常だったのだろう。
媛は倭建の妃《きさき》である。妃に会いに行くのが何故悪い、といいたい。こういう私的なことで忠告をされたのは初めてだった。
余計なことではないか、と怒鳴りたいが三人の気持は痛いほど分った。
鏡の中の顔が脳裡《のうり》に浮かぶ。死の鬼神に血を吸われた顔ではないか、と思わず眉《まゆ》を寄せた。
どんなに淋しくても、それだけは口に出せない。矢張り武彦がいう通り、病が癒《い》えていないのであろう。
「分ったぞ、暫《しばら》く休養する、だが媛は吾の妃だ、元気になれば会いに行く、大丈夫じゃ」
寝具に横たわると武彦らは部屋を出た。
媛の徹夜の看病で熱が下がり、起きて喋《しやべ》れるようになったのに、武彦らは媛に好感を抱いていない。男子《おのこ》の精気を吸う物の怪と思っているのかもしれなかった。
確かにそういうところがあるが、それも心を病んだせいだ。倭建に再会して以来、ほぼ治っている。
倭建が憔悴したのは、高熱が数日間も続いたせいだった。その間|殆《ほとん》ど食事らしい食事は摂《と》っていない。
粥《かゆ》汁を飲んだくらいだ。
倭建はもう一度銅鏡で眺めた。陽が傾いたせいか部屋内が薄暗くなり、さっきよりも陰翳《いんえい》が濃い。眼は暗い洞の奥に蹲踞《うずくま》っているようだった。気が放つ光もない。
ひょっとすると武彦らは、看病している時にも、媛が倭建の精気を吸い取ったのではないか、と勘違いしているのかもしれない。
おおらかで面白い七掬脛までが、と腹立たしく舌打ちした。
夕餉《ゆうげ》はまた粥だった。よく煮て柔くした木の実と若菜の汁である。汁は魚の身を塩で味つけしてあった。病み上がりだが、なかなか旨《うま》い。
寝る前に倭建は草薙剣《くさなぎのつるぎ》を麻の寝具の傍に置いた。もし媛が怪し気な鬼神なら、自分に近づけないのではないか。
媛は草薙剣をのけてほしいなど一言もいわなかった。
今日の倭建にとって草薙剣は一尺ほどの短剣だがずっしりと重い。焼津《やいづ》での戦が遠い昔のように思える。
床に置き、横になると吸い込まれるように眠った。
翌日は、媛が来て夕餉を運んだ。昨夜、倭建が行かなかったので一言か二言、いうなと思ったが何もいわない。侍女たちに指図し、甲斐甲斐《かいがい》しく動いた。
何だか眼の艶《つや》が鈍い光を放ち、顔も活《い》き活《い》きとしている。倭建と再会するまで病んでいたとは到底信じられなかった。
そのような日が数日続き、倭建も益々元気を取り戻し戸外を散策するぐらいまで回復した。
武彦らは、倭建が宮簀媛の屋形に通わなくなったので小首をかしげながら一安心している。
そんな時、猪喰が連れて行った大裂《おおさき》の部下|小鹿《こじか》が、猪喰の使者としてこれまでの経過を報告に来た。
その中に倭建にとって衝撃の情報があった。倭建と弟橘媛との間に生まれた稚建《わかたける》王が、悪い物を食べたらしく梅雨入り時に亡くなったのだ。
この季節は食物が腐りやすくよく下痢をおこす。どういう食物に当たったのか十日間ほど下痢が続き、最後は血便状態になり死亡した。まだ四歳だった。
ただ稚建王は、倭建と弟橘媛との間の子供である。ヤサカノイリビメや物部十千根《もののべのとちね》にとっては邪魔者だった。毒を盛られたという噂も流れている。
その件に関しては噂だけで現在のところ真相は分らない。
猪喰は万一の場合を想定し、倭建がフタジノイリビメ(垂仁《すいにん》帝の娘)に産ませたタラシナカツヒコ王を山背《やましろ》に移す策を探っていた。
それには山背の豪族の承諾が必要だ……大伴氏らの協力も得なければならない。
タラシナカツヒコ王は十二歳だが、頑健で弓矢に優れ、武術においても童子とはいえないだけの技を磨いている。
しかも母親の父が垂仁帝だけに、ヤサカノイリビメにとっては最も鬱陶《うつとう》しい王だった。
もう山背に移す手筈《てはず》は整い、倭建の許可を得るだけの準備が整ったので、使者を遣わした、というのだった。
大和では、間違いなくオシロワケ王は老いて痴呆《ちほう》気味であり、ヤサカノイリビメと物部十千根が組み、イホキノイリビコを次の王に擁立する計画が進んでいる。
猪喰はタラシナカツヒコ王を大和から脱出させる許可を急いでいた。
猪喰の連絡が遅れたのは、稚建王の死去以来、タラシナカツヒコ王の脱出計画に力を注いだからのようだった。
見えない手が草薙剣を掴《つか》んでいた。何時の間にか倭建は剣の柄《つか》を握っている。突然、熱い血が体内の何処《どこ》からともなく噴き出してきた。
一体、憔悴した身体の何処にそれだけの血が潜んでいたのだろう。地下から温泉が湧き出たように身体中を駈《か》けめぐった。喘《あえ》ぎながら流れる音を倭建は聞いた。
使者にこそいわせていないが、猪喰は稚建王の死を毒殺と睨《にら》んでいた。
「よし、タラシナカツヒコ王を大和から連れ出せ、吾の命令だ、食事を摂り次第、すぐ行け」
「はっ、有難きお言葉、猪喰様も喜びましょう、やつかれはすぐ戻ります」
「飯は?」
「焼米を持っております」
「うむ、猪喰に伝えよ、大和方面のすべてをまかせていると」
「申し伝えます」
小鹿はその名の通り、跳ねるようにして走り去った。
家屋も草原、松林も白くぼやけ揺れて見えた。その中を木の棒を持った稚建王が走っている。顔を突き出し眼を剥《む》き懸命な顔だ。王の前を蝶《ちよう》が舞うようにして飛んでいた。王は木の棒を両手で振り上げると振り下ろす。蝶は一回転して身を躱《かわ》し上に舞う。空を見上げ悔しそうに王は棒を振り、
「下りて来い」
と叫ぶ。
倭建は幼い稚建王に、武術を磨くにはまず棒で動く物を打たねばならぬ、と教えていた。
立木の打ち込みはその後だ。倭建もそうして自分の武術を鍛えたのだ。
「父上、逃げられました」
稚建王が泣きそうな顔で倭建を振り返る。
「当たり前だ、蝶も棒に当たれば死ぬ、懸命に逃げる、負けずに打て、そのうち当たるようになる」
「やります」
負けん気が強いらしく、くそ、と呟《つぶや》きながら棒を振り廻《まわ》す。
そんな稚建王が胸を押さえてしゃがみ込んだ。走り寄って見ると顔を歪《ゆが》めて苦しんでいる。
「どうした、しっかりしろ」
抱き抱えようとしたがいない。倭建は枯れた草叢《くさむら》を掴《つか》んでいた。幻だった。
最も愛した弟橘媛が産んだ吾の子だ、毒殺したのなら絶対許せぬ、と倭建は歯軋《はぎし》りした。
武彦らも憤りに殺気立っている。
ただ稚建王が毒殺されたという証拠はない。季節的に見て食当たりかもしれなかった。だが倭建には王の死、という事実があるのみである。
「よし、大和《やまと》と戦う、武彦と七掬脛は東国に行き兵を興せ、だがこの動員は大事じゃ、吾《われ》も行く、明日にでも出発じゃ」
命じられた二人は思わず顔を見合わせた。
確かに倭建の健康はかなり回復しているが、未《ま》だ遠くへ行くのは無理だった。やっと歩けるようになったばかりだ。
この身体での長旅は死を意味する。
七掬脛が大きなくしゃみをした。何かが破裂したような音に、武日が周囲を見廻《みまわ》した。
「王子様、驚かせて申し訳ありません、夏の虫が鼻に入りました、くそ、今出します」
七掬脛は人差指と小指で鼻孔を拡げ、黒い虫らしいものを引っ張り出し、地面に叩《たた》きつけると踏み潰《つぶ》した。
こういう時の七掬脛は、よく倭建に、お言葉を返すようですが、と忠告する。
「何だ、七掬脛……」
倭建は先手を打った。
「いや、これは恐れ入りました、王子様が動員のために東国に行かれるのは結構ですが、その時、敵が攻めて来たなら、指揮をとる者がいません、大将軍は中央におられ、軍全体を動かさねばなりますまい、今、尾張を空けられるのはまずうございます」
武彦と武日が、その通りだ、とばかりに大きく頷《うなず》く。
その御身体で長旅は……などといわれたなら「何を申す、吾は元気じゃ」と反駁《はんばく》できるが正論を述べられると、理のある弁が出ない。
渋い顔をしていると武彦が七掬脛の後を引継いだ。
「王子、小鹿の言によれば、今、猪喰は夜も寝ずに走り廻っているようです、一刻も早くタラシナカツヒコ王を山背に移し、大和の情勢を伝えるためです、その猪喰が戻って来た時、王子がここにいなければ、誰に報告して良いのか悩みましょう、猪喰の報告を受け、決を下すのは王子です、王子以外にはいません。諸国の兵は吾と七掬脛が集めます、大伴武日は親衛軍の長《おさ》、王子の傍を離れるわけにゆきますまい」
武彦らと共に行く積りだった武日は、言葉に詰まった。これも正論である。まして穂積高彦《ほづみのたかひこ》が死亡した今、倭建の傍を離れるわけにはゆかない。
「分った、東国に行く計画を立てよ、武日は親衛隊長兼任で残って貰《もら》おう、タラシナカツヒコ王は、猪喰なら脱出させるだろう」
倭建は自分を励ますように力強くいった。
その夜は雨が降った。夏も盛りを過ぎ、朝夕に何となく秋の気配が感じられる。とくに夕暮れ時になると虫が鳴きはじめる。床の下で鳴く蟋蟀《こおろぎ》の声を聞くとはっきり、夏が過ぎ行くのが分る。
倭建は房総半島の須恵《すえ》で、もう戦はしないと誓った。主力である武彦軍の大半を帰国させた。
尾張まで戻った途端、誓いを破らなければならなくなった。それも戦の相手は巨大な大和王権である。
自分の身を守るためのやむを得ない戦だった。いや違う。理不尽なものとの戦いだ。
宮簀媛が夕餉《ゆうげ》の仕度に来た。これまでと異なり化粧をしている。眼尻《めじり》に墨を入れ、口紅も濃い。倭建と再会して以来の妖艶《ようえん》な化粧だった。かつて倭建と熱烈に愛し合った頃に、このような化粧をしたことがある。墨のせいか眼に妖《あや》しいような翳《かげ》が宿る。蠱惑《こわく》の光といって良いかもしれない。
監禁されていた部屋で正座し、しおらしく倭建を迎えた媛とは別人のようだった。侍女たちとは異なる若い女人の香りが鼻孔をつく。
その日の食事は豪華だった。蚫《あわび》に栄螺《さざえ》、それに獣の肉や焼いた松茸《まつたけ》などが出された。
松茸は秋の珍味で夏の盛りは過ぎたとはいえ、この暑い季節に生えたりはしない。昨年のものなら干涸《ひから》びてしまっている。
その松茸は今朝採って来たばかりらしく、香《かぐわ》しい匂いを放っていた。
倭建は鼻孔を寄せながら訊《き》いた。
「何処に、生えていた? この季節の松茸など初めてじゃ」
「はい。誰も知りません、私《わ》のみが知っています、昔、鹿の女王に案内され山中の洞で見つけました、松の根が洞の奥深くにあり、外界と異なり晩秋のように涼しいのです、そこだけ秋が早くきます、ゆえにこのような松茸が生えるのです、その場所は山人さえも知りません」
倭建は媛と共にいた大鹿を思い浮かべた。
「そうか、そのような場所があるのか」
「王子様、今焼いたばかりです、早くお食べ下さい」
媛は器に入っていた果物を手にして絞り松茸に振りかけた。
松茸と果物の絞り汁とが合い、口中が溶けそうなほど旨い。媛は嬉《うれ》しそうに眼を細めた。虹《にじ》に似た光が煌《きらめ》く。
全部食べたがもっと食べたい。
倭建が要求すると媛は首を横に振り、謎めいた微笑を浮かべた。
「今日はこれだけです、仙薬と同じ貴重な松茸ゆえ、そんなにはございません」
「そうだろうな、この季節の松茸とはまさに仙薬じゃ」
夕餉を終えると媛は、
「お待ちしています」
と床に手をつき、喰《く》い入るように凝視《みつめ》ると伏した。媛の眼から放たれた虹の光彩に胸の奥が鞭《むち》で打たれ、脳裡《のうり》が甘く疼《うず》いた。
そういえば得体の知れない病に罹《かか》って以来、媛と閨《ねや》を共にしていなかった。
女人を抱きたいという欲情は余り湧かなかった。
だがその夜は違った。媛が去った途端、部屋のみが妙に寒々しくじっとしておれない。寝床にいった。柔《やわ》い寝具が古びた板のように見え、床は川水が涸《か》れた後の土砂を連想させた。
蟋蟀の声が益々侘《ますますわび》しさを深める。
媛の屋形はすぐ近くだ。ただ武彦らは、今いけば倭建を止めるだろう。武彦らは媛を怪しい女人と視ている。
それに今は稚建王の死を知らされたばかりである。大和に戻れば真っ先に抱き抱えたい我子だった。
最低十日間は喪に服し、禁欲に徹しなければならない。
倭建は草薙剣を抜くと、裂帛《れつぱく》の気合いをこめて空を斬った。自分を包んでいる欲望の鬼神を追い払いたい。
眼を吊《つ》り上げて闇を睨《にら》み剣を振り廻している倭建を見た者がいたなら、王子は狂われた、と驚くに違いなかった。
上下を突き、左右を払い、前を斬り一回転して背後を斬る。間もなく倭建は草薙剣と一体となった。無我の境地に入ったのだ。汗が飛び散り、その汗を斬ったのも意識していなかった。
その頃、宮簀媛は寝具の上に坐《すわ》り控えていた。医薬を拒み山の頂上まで駆け上った獣のような荒い息を吐いていた。女人のものではない。夜気に混ざる見えない光が映えるのか、眼が銀色に光っていた。いや眼だけではない。絹の寝衣を纏《まと》った肌からも妖気《ようき》といって良い青白い光を放っている。
媛は苦し気に顔を上げて目を開くと、舌を丸めて空気を吸った。その度に泥水が喉《のど》に詰まったような呻《うめ》き声を洩《も》らした。
もし侍女などが、その声が媛のものだと知ったなら卒倒するだろう。
倭建が草薙剣と同化した頃、媛は苦し気に胸を掻《か》き|※[#「手へん+劣」、unicode6318]《むし》った。爪でも伸びているのか寝衣が破れ、乳房が跳び出た。媛は指を曲げて鷲掴《わしづか》みにした。力が入っているらしく指先が乳房に埋没する。
媛は血を吐き出すような声と共に悶絶《もんぜつ》した。時を同じくして倭建は草薙剣を鞘《さや》におさめた。邪気が払われたような爽《さわ》かな音と共に寝具に横たわった。そのまま熟睡し、夜明けと共に起き、井戸水で身体を洗った。
昨夜、草薙剣を抜いた記憶はあるが、その後のことは余り覚えていない。
その日は、兵を動員するには、どういう国々が良いか、と尾張音彦《おわりのおとひこ》も加わり話し合った。
東国では遠淡海《とおつおうみ》、駿河《するが》、それに大碓《おおうす》王子が治めた美濃の武儀《むぎ》が主力、という点で大体一致した。
それにしても、猪喰の報告が欲しい。猪喰のことだから、物部十千根が、どの辺りの国々の兵を動員するかを探り出しているだろう。
その日も宮簀媛が夕餉を作った。心なしか昨夜よりも化粧が濃く、寝不足なのか白眼に血筋が走っている。香料の匂いが濃い。
ただ新しい松茸の香りがすがすがしく、酒肴《しゆこう》が入り混ざり腹が鳴る。
昨夜、仙薬といった松茸を食べたせいか、倭建の身体は妙に火照《ほて》り、疼いていた。
媛は松茸は明日の分しかない、と告げた。
ただこの松茸を三日間食べれば定められた寿命よりも十年は長生きする、と訴える。
「王子様が何時までも若々しく、老いを知らずに生きて下さるように念じています」
「それは無理な願いじゃ、吾《われ》もただの人間、仙薬の効き目があったとしても一時のものじゃ、年齢《とし》と共に老いてゆく、若さだけを求めては困る、そなたも同じであろう」
媛は眼を細めて酒を注いだ。
「いいえ、私は老いませぬ、そう自分にいい聞かせると老いの歩みは遅くなります、倭《わ》の国には不老長寿の仙薬がある国があると伝えられています、その国が何処にあるかは誰も知りません、でもひょっとしたらこの松茸が採れる洞の辺りもその一つかもしれません、あの山の麓《ふもと》には、昔から色々な人が流れついたという伝承があります、色の黒い人や肌が真っ白で茶色の髪の人などです」
「黒い人の話は聞いたことがある」
「私は仙界の話を信じています、人は平等に老いるとは限りません、百歳以上生きた人もいます」
「それはそうだが……」
倭建は宮簀媛のもとに行きたいが、稚建王の喪に服さねばならないので、終るまでは行けぬ、といった。
王族級で肉親の喪は長い。時には戦の準備をすすめていたのを取り止《や》めたりする。
稚建王の場合は死亡したのを知らされたので、亡くなってから日がたっている。
殯宮《もがりのみや》もなく、喪といっても気持の上だけのものだ。だが最低、十日間は女人を絶たねばならない、と自分は決めていた。
不服そうな顔をすると思ったが、意外にも媛は甘い笑みを浮かべた。先に延ばされたことへの恨みなど全く感じられない。それだけにその笑みは、捉《とら》えた獲物を眼の前にして舌|舐《な》めずりするような不気味さを秘めていた。
だが倭建にはそれを見抜けなかった。媛を抱き締めたくて疼いているのである。媛への欲情を抑えるのに精一杯だった。
夏の盛りを過ぎたとはいえ、まだ寝苦しい猛暑が続いている。
夕餉が終り媛が屋形に戻ると季節が突然変わったように涼しくなった。待っていたように秋の虫が一斉に鳴き出した。
虫の声が空気に混じり見えない指となり心の臓の辺りを撫《な》でる。先日以上の侘しさに襲われた。建は武彦らと戦の話に燃えていたのだ。馬鹿な、と自分を叱咤《しつた》しまた草薙剣を抜いた。気合いをかけて空を斬るが昨夜よりも重く、床を踏み締めて振れない。重みに思わずよろけたりした。
汗が気持悪く滲《にじ》み出るが、ねっとりと肌を包み、雨の雫《しずく》のようにしたたり落ちる。
昨夜はその汗さえも斬ったものだ。汗の粒が眼に入り、たたらを踏んで剣を落した。
剣を鞘におさめたが病み上がりのような疲労感である。病はまだ完全に治っていなかったのかもしれない。
喘《あえ》ぎながら寝具に横たわった。
何処からか季節外れの松茸と甘い果実の入り混じった匂いが流れ込んできた。
媛の言葉が思い出され、万病に効く仙薬のような気がして鼻孔を拡げて吸った。
間違いなく仙薬らしい。香りが身体の隅々にまで行き渡り、疲れが消えた。瞼《まぶた》が重くなり心地良い眠りに入って行きそうだった。
夢なのか現実なのか倭建には分らなかった。薄暗い竹藪《たけやぶ》の中を懸命に歩いていた。果実と筍《たけのこ》を採りに来たのに間違いない。何時の間にか稚建王がいなくなった。ただ先方で足音がする。
「稚建王、そこに止《とど》まっているのだ、この竹藪は広いのだ、迷うと出られなくなる」
大声で呼ぶと竹藪の木霊《こだま》が返ってくる。普通の木霊とは異なり甲高《かんだか》く響いているようである。
「出られない、出られない」
それもしつこく続く。
木霊にあおられたように竹が囁《ささや》き合うような音を立てる。
「父上、ここです」
声が遠い。
「行くな、行くな」
それも木霊になる。
急に無数の針を突き刺されたような気がし、思わず刀を抜くなり竹を二つに斬った。
竹が悲鳴をあげて倒れた。
「斬ったぞ、斬ったぞ、もうここから出さない、殺そう、殺そう」
竹藪がざわめき揺れる。
「皆の者、鎮まれ、ここにおられるのは東征大将軍、倭建王子様じゃ」
響き渡るように声がした。
竹藪の奥から竹の輿《こし》に乗った女人が現われた。人が担いでいないのに輿は宙に浮き、密生した竹などないように進んで来た。
女人の顔の周りを妖《あや》し気に光が包んでいた。
「おう宮簀媛か、よく来てくれた。稚建王がいなくなったのじゃ」
「御心配ありません。私の屋形にお連れしました」
妖しい光のせいで媛の顔ははっきりしないが、その声は間違いなく宮簀媛だった。
[#改ページ]
十七
竹藪《たけやぶ》を過ぎると草原である。淡い雲を通した陽の光はまるで虹《にじ》のようだった。赤、黄、白、紫と様々な花が咲いていた。蝶《ちよう》が舞い白い小鳥が飛んでいる。香《かぐわ》しい匂いが心地よい風に乗って鼻孔をくすぐる。
倭建《やまとたける》は眼をこすった。草原の彼方《かなた》に五色の屋形が見える。門の傍に二重の屋根の楼観が建っていた。屋根は板ではない。魚の鱗《うろこ》のようなものに覆われ勾配《こうばい》があった。倭国《わこく》では見たことのない瀟洒《しようしや》な楼観だった。
二百年以上も前、倭国の人々は海を渡り、中国が領土とした朝鮮半島の楽浪《らくろう》郡を訪れていたという。後に帯方《たいほう》郡も加えられたが、その都には、人々が語り伝える龍宮城のような宮があった。門には楼観があり、柱は朱色で様々な玉や美しい貝殻が鏤《ちりば》められていたらしい。
語り部たちが夢で見たように話すせいか、仙界の宮のようである。
倭建は童子時代に聞いたが、この世のものとは思えなかった。魚の鱗で覆われた屋根はどんな色をしていたのだろうか。
幻だ、吾《われ》は夢を見ている、と凝視《みつめ》たが間違いなく宮だった。
「宮簀媛《みやすひめ》よ、あれがそなたの屋形なのか、行ってみたい、早く」
「王子様、御心配されなくても消えたりは致しません、私《わ》が御案内します、部屋には一本の角の生えた鹿を描いた織物が敷かれ、臥所《ふしど》は鳥の羽根の寝具がございます、横たわると宙に浮いたような心地で、香しい匂いがします、天井からは五色に光る玉が連なって下がり、羽毛の臥所を囲んでいるのです」
「玉の間仕切りか、それは聞いたことがないぞ、そういう寝具に横たわりたいものだ」
「はい、私も王子様と一緒に……」
「おう、媛よ、さあ行こう」
何時の間にか媛は輿から降り草原に立っていた。手に竹籠《たけかご》を持っている。
「その前に薬草で身を浄《きよ》めねばなりません、俗界の穢《けが》れを祓《はら》うのです、穢れがついていると門扉が開かず、どんな刀や槍《やり》でも破れません」
「薬草だと、何処《どこ》にある?」
倭建は本能的に腰の草薙剣《くさなぎのつるぎ》に手をやった。帯はない。屋形を出る際、忘れたのだろうか。そういえば、何時、どのようにして自分の屋形を出たのか記憶にないのだ。
媛は眼を細めて微笑んだ。幾ら探してもございません、と教えているようだ。
「さあ、ここにございます」
媛は身をかがめ、変哲もない野の草を採った。小さな黄色い花が、ついている。
差し出されるままに口に入れたが苦くて吐き出しそうになった。口が苦さで痺《しび》れ舌が硬直し感覚がなくなった。
「吐かれるようだと屋形に入れません」
「分った」
痺れた口を動かして何とか飲み込む。心なしか身体《からだ》が熱くなった。媛は蜜蜂《みつばち》が群がっている白い花に近づいた。花を採ろうとすると蜂が一斉に飛び凄《すさま》じい羽音をたてて媛に襲いかかった。
「媛、危い」
走ろうとしたが倭建の身体は金縛りに遭ったように動かない。
媛は身体を回転した。人間業ではない。上衣《うわぎ》が巨大な蝶の羽のように拡がり蜂の群れを叩《たた》き落した。蜂たちは砕かれた粉のように飛び散って落ちる。媛の眼が爛々《らんらん》と輝き、雷光に似た光を放った。
唸《うな》り声ではなく悲しそうな蜂の声を耳にした。
蜂は一匹もいない。
媛は花をつむと優しい手つきで手に載せ匂いを嗅《か》いだ。
「王子様、次はこの花を食べて下さい、口の痺れが消え爽快《そうかい》な気持になられます」
楼観は消えていない。陽を浴びた玉が五色に輝く。何の花か知らないが、その甘い匂いは鼻孔から体内に入り身体をくすぐる。混じった苦さが甘みを濃くし、身体の隅々まで溶けてゆく。
「この花は?」
「野の花です、でも、どんな野の花でも、何万本かに一つは、他の花にない蜜を溜《た》めているのです、人間には分りませんが蜂は嗅ぎつけます、だから群がるのです」
「そうだな、人間にもいえる。外見には分らない力を秘めた者が、たまにはいるのだ、さあ、行こう」
媛が差し出した手を握った。湿り気を帯びた柔い掌《てのひら》が密着する。媛の掌に吸盤があって吸い込まれるような気がした。
身体の芯《しん》が溶けてゆく。一部ではない、全身が甘く疼《うず》くのだ。見えない数千本の絹糸が蜜を含みながら快感のツボをくすぐる。
みるみる熱い血が迸《ほとばし》りはじめ下半身に集まった。微妙な感触を残して血が走るのだから堪《こら》え切れなくなった。一体どうしたのだ、仙界の媚薬《びやく》か、だがそんな疑惑も脳天から消えてゆく。上半身は宙に浮いているように軽いが、下半身は重く、まるで肉欲の塊りだった。
鼻息が荒くなり、股間《こかん》が勃《た》って衣服をこする。倭建は唸りそうになった。
「王子様、お会いしとうございました」
媛が両手を拡げると上衣が拡がり何も見えなくなった。
仙界にいるのは二人だけであった。二人は抱き合うと、お互いの骨を折り、肉と肉とを混ぜるべく両腕に力を込める。何時草原に横たわったかなど念頭にない。
タタラから吐き出されるような息遣いで、媛の上衣を拡げた。押さえつけられていた小兎が穴から飛び出すように乳房が現われた。倭人にしては大きい乳暈《にゆううん》が息づき淡い茶褐色の真ん中から乳首が顔を出す。倭建は手で乳房を絞り上げ、乳首もろ共、乳暈を吸い込んだ。媛の下半身が跳ね上がり屹立《きつりつ》した股間を痛いほど衝く。
身籠《みごも》ってもいないのに媛の乳首から甘い液が滲《にじ》み出てきた。粘っこい果実の汁に似ていて懸命に吸うと、勢い良く奔《はし》り出た。
媛は恍惚《こうこつ》とした表情で身体を慄《ふる》わせる。乳の原液かもしれない。
倭建の頭は虹の靄《もや》で満たされた。
何も考えられない。何時衣服を脱ぎ捨てたのか、倭建も媛も全裸になっていた。
草原に横になったのに二人は抱き合ったまま宙に浮いていた。
内なる臓《はらわた》を絞るような快感は下半身だけではない。あらゆる肌が疼き爆《は》ぜそうだった。
「おう、どうなのだ、吾はどうかしているぞ、仙界にいるのか」
「はい仙界です、現世では味わえない悦《よろこ》びの園」
「駄目じゃ、吾には大和《やまと》……」
「大和など現世のこと、ここにはありませぬ」
媛の眼尻《めじり》が顳《こめ》|※[#「需+頁」、unicode986c]《かみ》の方まで裂けた。途端に一番疼いていた背骨の奥が溶けはじめた。
「おう、そちは妖女《ようじよ》か」
媛は裂けた血走った眼で笑う。やっとお分りになりましたか、といっている。
全身が爆ぜた。白い光が下半身から脳裡《のうり》を貫き、心の臓が止まった。
「人間の女人は、このような悦びを与えることはできません、おう、私もまた」
媛は身体を波打たせ虚空を睨《にら》んだ。再び倭建の背骨が溶けてゆく。媛の髪が風にあおられ巨大な鳥の翼のように拡がり、何も見えなくなった。
倭建は暗い闇の中に一人で残されていた。身体はねとつき、脱力感で息をするのもやっとだった。
一体どうなったのか、頭が霞《かす》みさっぱり分らない。やっとの思いで媛の名を呼んだが返事がなかった。手で草を握ろうとした。
確か草原だった。指に触れたのは麻布の寝具である。
あれは夢だったのか。だが倭建は全裸だった。身体は生臭い汗でねとついている。
寝具の傍の草薙剣を探したがない。
倭建は打ちのめされた蛇のように這《は》った。
壁の隅でやっと見つけた。鉄塊のように重い剣を抜いた。夜気に混じっている見えない光が微《かす》かに刃《やいば》に映える。
冷えた刀身を肌に当てていると、少し精気が戻ってきた。
漸《ようや》く自分がいる場所が分った。
尾張音彦《おわりのおとひこ》の別荘の寝所だった。
やはり夢なのだろう。だが媛との現世には味わえない媾合《まぐわい》の悦楽ははっきり覚えている。玉を鏤《ちりば》めた楼観も、魚の鱗で覆った二重の屋根も。げんに媛の乳汁の味はまだ口中に残っている。
火打ち石で灯油の明りをつけた。寝具は乱れに乱れ、覆って寝る布は壁際に飛んでいた。媛が訪れたのは間違いない。
背中を冷えた風が撫《な》でる。
壺の水を飲み戸を開けた。階段の下に二人の警護兵が立っていた。
穂積高彦《ほづみのたかひこ》が亡くなって以来、大伴武日《おおとものたけひ》が親衛隊長を兼任している。
不寝番の兵は、武日が選《え》り抜いた強兵だった。二人共、武日と彷徨《ほうこう》し、酒折宮《さかおりのみや》に戻ってきた兵士である。
一人が倭建を見て叩頭《こうとう》した。もう一人は前方を向いたまま曲者《くせもの》を警戒していた。
「吾の部屋から人声がしたか?」
「はっ、王子様と女人の声が……」
流石《さすが》に少し口ごもっていた。
「女人の声は宮簀媛ではなかったか」
「はっ、媛様のようでした、何時来られたのかと不思議に思ったのですが……」
「そうか、いや、それを確かめたかった、誰かに命じて酒を持参させよ」
護衛兵が聞いた以上間違いなかった。
宮簀媛は並の人間ではない。鹿の鬼神、いや山の鬼神が憑《つ》いているのか、心を身体から離すことができるようだ。それに幻影を作り出して見せる。
このままでは大和との対決など絵空事になる。
何とかして宮簀媛と離れなければならない。ただ媛を捨てれば尾張音彦は倭建から離れる。音彦の援助がなければ事は成らない。
自分一人なら良い。弟橘媛《おとたちばなひめ》もいないし、これも天命と諦《あきら》め、流浪の王子になって生きる。また死に場所を見つけて自ら死ぬことも可能だ。
今の倭建は、死をそんなに恐れていなかった。母に早逝されて以来、愛を知らない。数え切れないほどの子を作った父王は、早くから倭建を嫌っていた。愛とは無縁な孤独な運命のもとに生きねばならない。そんな倭建は、武勇の裏側に人生の虚無感を抱いていた。
その反面、吉備武彦《きびのたけひこ》、大伴武日、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、また丹波猪喰《たんばのいぐい》など部下というより友人に思える。肉親でもある。
自分の死は彼等に打撃を与える。
武彦は吉備に戻れば吉備の王族として、大和王権に対抗する勢力となるかもしれない。だが武日、七掬脛、猪喰はどうなるか。
物部十千根《もののべのとちね》とヤサカノイリビメは、彼等を許さないだろう。彼等に将来はない。
それを思うと死ねない。
吾は独りではないのだ、と倭建は悩む。後世にその名を残した倭建は単なる豪傑ではなかった。
やはり彼等のためにも戦わねばならないのだ。
その夜、酒を飲むと異様な疲労感に泥のように眠った。
宮簀媛と閨を共にするのを避けるため、稚建《わかたける》王の喪を更に十日間のばした。
倭国では喪に服することは大事な行事である。
倭建は尾張音彦を呼び、自分の決意を告げ、暫《しばら》く媛の屋形に通えないので、媛に説明して欲しい、と要求した。
音彦はすぐに縁者の子弟を集め、親衛軍を編制し、軍事演習などもはじめていた。
音彦は当然、喪の重大性を意識している。
「当然のことです、今朝、媛と会いましたが別人のように元気になっています、父である吾が、こんなことを申すのも妙ですが、一段と若返り艶《つや》やかな女人になりました、これも王子様のお陰と喜んでいる次第です」
音彦は眼を細め、嬉《うれ》し気だった。
媛が昨夜、倭建の屋形を訪れたと話しても信じないだろう。
待ちに待っていた倭建の妃になり、艶やかになった、と勘違いしている。
倭建は屋形に戻ると、七掬脛を呼び、昨夜のことを告げた。
武彦や、武日に話せば、夢を見られたかといわれるに決まっていた。
その点、剽軽《ひようきん》な七掬脛は軍事専門の武骨な人物ではなかった。世の中の様々なことを知っている。
久米は山人族で、九州から大和に来、今の勢力を得るまでには様々な苦労をした。
下積みの苦しみや悩みを知っていた。
神祇《じんぎ》の氏族ではないが魔除《まよ》けなどに詳しい。
倭建が昨夜のことを話すと入れ墨で隈《くま》取られた眼を剥《む》いた。恐ろしそうに身体を竦《すく》める。
「山の鬼神に似ています、霧などが湧くと女人が現われ、男子《おのこ》を誘う、うかうか付いて行けば崖《がけ》から落ちて死んだり、道に迷い、帰れなくなって飢え死にしたりします、飢え死にの場合は、殆《ほとん》どが衣類を脱ぎ裸になっているようです、山の鬼神には女人が多く、精を吸われるらしく、皆、新しい屍《しかばね》でも殆ど骨だけだといい伝えられています」
自分の話に一層恐怖心を抱いたらしく珍しく血の気がなくなっていた。
倭建は眉《まゆ》を寄せた。
「恐い話じゃ、だが宮簀媛は鬼神ではない、人間じゃ、ただ我々にない力を持っているような気がする、たとえば気が身体から脱け出し、吾《われ》の前では媛そのものになる、何も吾を殺したいのではなく、会いたくて気が媛になる、だがそれは邪気じゃ、何とか、それを止める方法はないだろうか?」
「王子様、草薙剣は?」
「寝具の傍に置いてあったが、部屋の隅に移されていた、草薙剣には媛の来訪を止める力はない」
「うーん、大変な邪気です」
「山の鬼神にはどう対処する?」
「はあ、山に入る場合は川水で身を浄《きよ》め、また玉や霊木の枝を身につけたりしますが、鬼神に見込まれたなら余り効果はないようですが……」
「霊木か、橘《たちばな》か柏《かしわ》の葉が良いという、効くか効かないか、やってみよう、何といっても稚建王の喪中だ、媛と閨《ねや》を共になどできぬ、十日と決めた喪が終れば妃《きさき》じゃ、媛の屋形に泊まっても構わぬ、だが、前のように溺《おぼ》れたりはせぬ、安心せよ」
「いや、安心しました、皆、口にはしませんが、それを一番恐れているようです」
「心配するな、女人に溺れ、そちたちの忠節心を踏み躙《にじ》ったりはせぬ、ただ、尾張音彦を味方にするためにも、媛との関係は保たねばならぬのだ、すぐに霊木を集めよ」
「はっ、屋形を包むほど集めましょう」
七掬脛は笑顔を取り戻した。
山人族である七掬脛は、木には詳しい。部下と共に山に入り、霊木の葉を集めた。
倭建は近くの小川で一刻以上も身を浄めた。屋形で夕餉《ゆうげ》を共にしていたが、その日は身体の具合が悪いという理由で、部屋に閉じ籠《こも》った。
草薙剣を膝《ひざ》に置き、鏡を胸に吊《つる》して端座し、無念無想の境地に入った。
夜になると風が吹き、霊木の枝が板壁を叩《たた》く。その音が騒がしく、心の静寂を破られる。
木の枝がお互いに喋《しやべ》りあっているような気がした。
突然、戸の開く音がした。草薙剣を握り睨《にら》むと闇の中に朧《おぼ》ろな人影が月影に似た光を放っている。宮簀媛だった。
「媛、服喪中だ、入ってはならぬぞ」
「私をお斬りになりますか?」
「吾のいうことが聞けぬようなら斬る、喪を穢《けが》す者は誰であろうと許さぬ」
草薙剣を抜くと媛に向けて構えた。途端に、媛ではない邪気の仕業だ、と気づいた。霊験のお陰だろう。
斬る、斬らねばならぬ、と気を剣に伝え、じりじりと膝で前に進んだ。
「妃である私をお斬りになるとは、非情な王子様です、王子様に嫌われたなら、私は有りません、生きている意味がなくなります、生きるのも、死ぬのも同じなのです、お斬り下さい」
媛の手が裳《もすそ》と上衣《うわぎ》を締めている絹の腰紐《こしひも》にかかった。
「媛、脱ぐな」
「私の身体をどうしてお嫌いになるのですか、昨夜はあれほど悦《よろこ》ばれたのに」
媛が紐を引っ張ると、衣服が落ち何も纏《まと》わぬ裸身になった。眼尻《めじり》が裂けて、血が噴き出た。いや血ではなく妖《あや》しいほど赫《あか》い光が倭建を射た。手が無感覚になり、もう少しで剣を落しそうになった。裸身は内に光を宿した青白い霧に似ていた。
邪気じゃ、と自分にいい聞かせる。
媛は宙に浮かぶようにゆっくり近づいて来た。
「警護兵、幽鬼じゃ」
力一杯叫んだ積りだったが声が出ない。
邪気により縛されていた。
「気を内に集めるのです」
何処からか声がした。弟橘媛の声に似ている。霊木には橘の枝も吊されていた。その枝が媛に伝えたのか。
「おう」
倭建は三歩|退《さ》がった。
ゆっくり近づいてくる宮簀媛の邪気を睨みながら気を内に集めた。かつて巨大な熊に襲われたが、気で闘った。十年以上も前のことである。
剣の柄《つか》を握る手に力が籠った。剣と手が一体となる。霧のような媛が止まった。
倭建は躊躇《ちゆうちよ》しなかった。凝縮されていた体内の気が剣を動かした。
剣は媛の胸を貫いた。裂けていた眼尻が回転し、人形《ひとがた》の霧は吸い込まれるように二つの洞となった眼に入り、消えてゆく。
倭建は崩れるように床に坐《すわ》った。
信じられなかった。部屋にいるのは倭建一人である。倭建の剣が貫いたのは、やはり宮簀媛ではなく媛の邪気だった。
多分、媛だけの邪気ではない。倭建の内部にそれを誘う淫欲《いんよく》の気が棲《す》んでいたに違いなかった。
その頃、丹波猪喰は情報|蒐集《しゆうしゆう》のため、大和《やまと》のあちこちを駆け廻《まわ》っていた。動くのは主に夜で、昼は多武峯《とうのみね》の洞で眠った。
かつて山賊だった大裂《おおさき》が投じた穴である。岩の裂け目にできた穴で洞窟《どうくつ》と呼べるほどのものではない。それだけ人眼につき難い。大裂も小鹿《こじか》と共に近くの洞穴を塒《ねぐら》としている。
猪喰はまず病床の穂積|内彦《うちひこ》と会い策を練った。親倭建派の中で最も信頼できるのは、十年以上も前から倭建と苦楽を共にした内彦だった。内彦は弟の高彦が物部十千根の暗殺隊との戦いで死亡したのを知り、歯軋《はぎし》りした。病でなかったなら自分の手で十千根を殺す、と鬼の眼になった。
復讐《ふくしゆう》は後で、大事なのは倭建の身を守ることだった。猪喰の説得に内彦も納得し、親倭建派の中でも信頼できる者たちの名を教えた。
大伴武日の弟・乎多《おた》、中臣葉白《なかとみのはしろ》、繕止利《かしわでのとり》、など有力者がいたが、政治は痴呆《ちほう》気味のオシロワケ王に代わり、ヤサカノイリビメと、イホキノイリビコ、それに物部十千根が執っているので、政策を変更できる力はない。
親倭建派と睨まれたなら、生命も危い。
彼等は真正面から十千根に対決できなかった。鬱屈《うつくつ》を酒によって晴らす程度だった。猪喰もそういう状況は予想していた。
「王子様は東軍を率い大和に入られないのか、もし攻めて来られたなら大勢の勇士が馳《は》せ参ずるであろう、そのことを是非、王子様に伝えて欲しい。病む身といえども、吾も槍《やり》を杖《つえ》にして王子様のために戦うぞ」
内彦の忠節と情熱に猪喰は会うたびに血が胸に滾《たぎ》るのを覚えた。
だが、まだその時機ではない。倭建はやっと尾張に戻り、音彦の娘・宮簀媛と婚姻し、尾張を味方につけたばかりで、東国の挙兵は秋になる、と焦る内彦をなだめた。
猪喰が最も望んでいるのは情報だった。
十千根は暗殺隊だけではなく、周辺の有力豪族を籠絡《ろうらく》し、軍を動員する筈《はず》なので、是非、何処に触手をのばしているかを知りたい、といった。
親倭建派には、憤りを抑え、情報蒐集に徹して貰《もら》いたい、と説いた。
それと倭建とフタジノイリビメとの間に生まれたタラシナカツヒコ王を大和から安全な地に移したい旨も口にした。
「十千根は、タラシナカツヒコ王まで狙っているのか」
「今はまだそこまで牙《きば》は剥きますまい、だが、王子様が東国の兵を集められたなら、まず間違いなく王を殺すでしょう、本心は今すぐにでも殺したい、だがそれをしたなら沈黙を守っている親倭建王子派を刺戟《しげき》し、内戦になるかもしれぬ、と恐れ、我慢していると吾は視ている」
「丹波猪喰、噂以上の人物じゃ、吾も一抹の危惧《きぐ》の念は抱いていたが、そうだのう、そちの申す通りじゃ、どうだ、思い切って丹波に……」
「いや、オシロワケ王と丹波の関係は悪化しています、今の丹波の王に、タラシナカツヒコ王を擁するだけの勇気は残念ながらありません、ただ伏見あたりには、大和王権を苦々しく思っている者が多い、伏見かその近くの山背《やましろ》では?」
「そうじゃ、宇治の勢力もオシロワケ王に反撥《はんぱつ》している、吾が飛んで行きたいが、この身では無理じゃ、伏見の勢力は、丹波系のイニシキノイリビコ王を河内に追いやり憤死させたオシロワケ王や物部十千根を憎んでいる、伏見が良いかもしれぬのう、吾が責任を持つ、タラシナカツヒコ王をお移ししろ」
穂積内彦の決断は早かった。倭建が買っていただけの人物だった。
内彦は早速、数人の部下をタラシナカツヒコ王の警護兵として派遣することにした。
猪喰は大裂にも、交易人を装い、情報を集めるように命じていた。各地の交易人は三輪山の麓《ふもと》にある市場(後の海石榴市《つばいち》)で自国の産物を他国のものと交換する。東は武蔵、西は筑紫《つくし》や日向《ひゆうが》あたりからも来る。政治とは関係がない市場だが、当然、政治がらみの情報も集まる。
その日は朝から雨で、身体がだるかった。岩山には岩清水が伝い落ちる洞もあるし、そうでない洞がある。
猪喰たちが選んだ洞の内部は何時も乾いていた。岩清水は外側の岩を伝って落ちる。それに夏は涼しく過ごし易い。
洞の岩盤に敷いた筵《むしろ》に横たわりうとうとしたが、なかなか眠れなかった。洞の入口は蔓《つる》を編んで草と共に覆い、分らないようにしていた。ただ一気に眠れない日は、虫が気になる。熟睡すれば虫に噛《か》まれても気づかないが、寝苦しい日は手を這《は》っただけでも叩《たた》き殺す。そのせいで更に神経が昂《たか》ぶるのだ。
それでも肉体を酷使している疲労が浅い眠りに誘う。
猪喰は月夜の海辺に立っていた。まだ十五歳である。岩壁に打ち寄せる波は穏やかで綺麗《きれい》な波|飛沫《しぶき》をあげ陽に煌《きら》めく。それは初夏の季節のせいだった。冬になると白い牙を剥いた大波が岩壁を崩さんばかりに襲いかかり、その飛沫はゆうに三丈(九メートル)に達する。太古より海と闘っている岩が呻《うめ》き、岩壁に生えている殆《ほとん》ど葉のない灌木《かんぼく》が揺れる。押し寄せる大波は休む間もなく海全体が吠《ほ》えながら攻撃してくる。遠く離れていても飛沫が風に乗って降り注ぐ。
それに較べると風のない初夏の海は信じられないほど穏やかだった。
猪喰は舷側《げんそく》を補強した丸木船が流れているのを見た。人が乗っているが死んでいるのか、舷側にもたれて動かない。手を挙げて大声で呼んだが返事がない。猪喰は声が出なくなるまで叫んだ。自分の声で生き返るかもしれない、と思ったからだ。
それが効いたのか、船は岸から二百歩ほどまで近づいた。舷側に顔を乗せている一人は少女らしい。髪に挿している飾りが金色に光るのは飾り物で、高貴な人物のようだった。猪喰は纏《まと》っていた衣服を脱ぐと下帯だけになり海に入った。まだ水は冷たかったが無我夢中で泳いだ。船には一本の櫂《かい》しか残っていない。今一人は老人だった。頬の辺りが裂けてめくれた肉の間から白い骨が見えた。
何かいったが倭人《わじん》の言葉ではないのでよく分らない。櫂を取った猪喰は懸命に漕《こ》いだ。やっとの思いで岸辺に着くと、猪喰の従者が海に入って来て船を引っ張った。少女に水を飲ませた。従者は伽耶《かや》国の言葉が少し喋《しやべ》れた。老人との会話で漂流の理由が分った。金飾りをつけた女人は新羅《しらぎ》に近い伽耶国の王族の姫だった。猪喰は余りの美しさに人間ではなく仙女のように感じた。年齢《とし》は十二歳である。透き通るような白い肌、一直線に近い長い眉《まゆ》、珍しい二重《ふたえ》の瞼《まぶた》、白眼の部分は青く澄んでいた。鼻は高く作り物のようだった。
二日前、突然、新羅の兵が姫の宮に夜襲をかけ火を放った。姫に仕えていた老人は王の命令で姫を連れ出し、数人の部下と共に三|艘《そう》の舟で海に逃れた。大きな港のある南伽耶(金海地方)に向かった。途中で海が荒れ、他の舟は沈没し姫が乗った船だけが漂流したのである。
姫は一年|逗留《とうりゆう》した。猪喰は姫に憧《あこが》れたが丹後の王の弟が自分の妻にする、といい出した。
婚姻の二日前、猪喰は姫を誘い海岸を歩いた。青みを帯びた眼は泣き濡《ぬ》れて真赫《まつか》になっている。一年の間に倭人の言葉をかなり喋れるようになっていた。
姫が婚姻を嫌がっているのを猪喰は知っていた。相手は三十代の後半で、五人の妻がいる。
猪喰が手を取り慰めていると、姫が突然、抱きついてきた。頭に血が昇りはっきりした行動を覚えていない。ただ猪喰は岩蔭《いわかげ》で姫を抱いた。十六歳だった猪喰が初めて媾合《まぐわ》った女人である。
姫は猪喰に、何処かに連れて行って欲しい、と訴えた。あの男子《おのこ》の妻になるくらいなら死ぬ、と泣く。
猪喰は頷《うなず》いた。姫と一緒なら死んでも良い、と思った。猪喰は姫を山に隠し海人《あま》の船を盗んだ。夜になり姫を乗せて伽耶国に向かった。伽耶国に着く自信はなかったが、無人島でも良い、と思った。
焼き米と水だけは十日分用意していたので、食糧は大丈夫だった。持ち上げられないほどの大きな魚も釣った。姫ははしゃいで手を叩いた。船旅の数日間は新婚旅行といって良い。姫も伽耶国に戻れるとは思っていなかったようだ。四日目に嵐に遭い、艪《ろ》が折れ、手漕ぎの櫂だけになった。流されていると、二十人乗りの大きな倭人船に見つけられた。
出雲《いずも》から伽耶国に行く交易船だった。
驚いたことに船長《ふなおさ》は丹後に流れついた姫のことを知っていた。
「姫は伽耶国に連れ戻す。王は喜ばれるぞ、だがおぬしは丹後に戻るのだ、男子というものはそういうものだ」
髭《ひげ》に埋《うず》まったような船長は、折れた艪をなおし、食糧を与えてくれた。泣き叫ぶ姫に別れを告げ、猪喰は教えられた通り大山の方に漕いだ。淀江《よどえ》に着き、陸路丹後に戻ったのである。外の岩清水に眼を覚ました。
何故か感覚のない筈の股間が疼《うず》いた。十千根よ、八つに裂いて殺す、と猪喰は呟《つぶや》いた。
[#改ページ]
十八
遠くで木と木を叩《たた》き合うような音がした。何の音だろうか、と倭建《やまとたける》は眠りから覚めた。その音は遠くではなかった。宿舎としている屋形の板戸が叩かれている。コツコツと正確な音だった。
秋を告げる虫の声は遥《はる》か彼方から屋形を取り巻いていた。床下でも鳴いている。
板戸を叩く音は一向にやまない。それに正確で調子が狂わなかった。冷静な叩き方ともいえる。
やはり宮簀媛《みやすひめ》か、とどきっとした。喪の十日間は今宵《こよい》で終ろうとしている。子《ね》の刻が過ぎれば正確には明日だが、この時代にはまだ暦は入っていない。
明日といえば夜が明けてからだった。
それに警護兵がいる筈《はず》である。宮簀媛でも、喪の間は出入りが禁止されている。兵は一応媛を制止し、倭建の意向をたずねることになっていた。
草薙剣《くさなぎのつるぎ》を手に戸に近寄った。
「誰じゃ」
低い声で訊《き》いた。
「王子様、喪が明けましたゆえ、お顔が見たく参ったのです」
案の定、宮簀媛である。虫の音に乗せられたような声だった。止め木を外し戸を開けた。警護兵が何をしているのか、と気になった。月明りに兵が立っているのが見えた。戸の音はかなり響いた筈なのに微動だにしない。
倭建は媛の傍を通り兵に近づいた。
槍《やり》を持ち不動の姿勢で前方の闇を凝視《みつめ》ていた。二人の前に廻《まわ》ったが気がつかない。
眼は見開いているようだが、前に立っている倭建に気づかないところを見ると、眠っているのかもしれない。もう一人もだ。
屈強の兵士が二人、立ち寝入りするとは考えられなかった。
宮簀媛が睡眠の術をかけたのだろう。草薙剣に気を込め、顔前でひと振りすると、眠りから覚めた。
「曲者《くせもの》か!」
槍を構えようとして、倭建であることに気づき、驚愕《きようがく》して蹲《うずくま》った。今一人も眼覚めさせ、理由を訊いた。二人共、自分たちが眠っていることを意識していなかった。
一人が顔を上げると絞るような声でいった。
「王子様、おっしゃられれば何か白い物が闇の中からふわりと現われたような気がし、それを睨《にら》んだような気がしないでもないです、もし眠ったとすれば、自分を許せません」
槍を取りなおし、首を刺そうとしたので、倭建は無造作に柄を掴《つか》み槍を|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取った。
「白いものが現われたなら眼を凝らすのは当然、多分、それに気を取られ、吾《われ》が近づいたのに気づかなかったのであろう、その辺りに隙があったのじゃ、お互い注意し合って警護の任につけ」
倭建は屋形に戻った。明りはついていなかったが、その甘い香りは宮簀媛のものだった。何時の間にか媛は寝具の傍に坐《すわ》っていた。
喪が今夜限りで終ろうとしているにも拘《かかわ》らず、押しかけて来た媛の恋慕の情は分るが、何故、明日まで待てなかったのか、という憤りも湧く。それに警護兵を妖《あや》しい術で眠らせたことは許し難かった。
「戻るのだ、吾はそなたの父、尾張音彦《おわりのおとひこ》殿にはっきり告げた、喪が終えたなら、戦までの短い日々かもしれぬが、そなたを妃《きさき》とし、寵愛《ちようあい》しようと、それにも拘らず、たったの一日を待てぬとは」
「喪は終りました、今宵の真夜中に、今はもう新しい日なのです」
部屋の中には明り取りの窓から入る微《かす》かな月明りだけで殆ど暗闇に近い。だが宮簀媛は音もなく手を伸ばすと王子の膝《ひざ》に触れた。袖《そで》から現われた手首のあたりが青い蛇のように思えた。くねりながら王子の太腿《ふともも》に這《は》ってくる。この暗さの中で色など見える筈はない。媛の顔も近づいてきた。
「やめるのだ、喪の間も待てぬようなら吾の妃となる資格はない」
「何という非情なお言葉、王子様は心が変わられました」
媛の眼が濡れて見えた。一|雫《しずく》の涙が糸を引いたように頬に伝わる。唇の端を通り首筋にまで落ちた。媛の上衣《うわぎ》がほどけ乳房が露《あらわ》になっている。間違いなく見える。意志とは関係なく眼が吸い寄せられた。風もないのにあおられたように襟が拡がった。香料に入り混じって汗の匂いがした。気だるい甘さだが鼻孔を刺す若草の匂いは媾合《まぐわ》っている時の媛独特のものだ。嗅覚《きゆうかく》が細い電光のように身体《からだ》を貫いた。誓っていた禁忌が薄れた。総《すべ》てを忘れ、ただ悦楽の波に溺《おぼ》れていた記憶が甦《よみがえ》る。今も掌《てのひら》に吸いつく媛の信じられないほどの柔らかい乳房は、乳首を立て、湿りをおびて吾に握り潰《つぶ》されるのを待っているのだ。ホトは濡れて蠢《うごめ》いている。
破滅か、それも良し、色に溺死《できし》した最低の王子と黄泉《よみ》の国《くに》で嗤《わら》われようと、吾が選んだ道なのだ。まだ黄泉の国ではない。現世に生きている。
媛の裳《もすそ》が割れ真白い膝と太腿がはみ出した。脛《はぎ》が開き足首が床に投げ出された。足の指が動き淫《みだ》らだった。
「溺死か、許せ」
誰に許しを乞《こ》うたのか自分でも分らなかった。寝衣の紐《ひも》を解こうとした時、指先が草薙剣に触れた。鋼の先が心の臓を貫き、奥底の小箱を割った。
うむ、と呻《うめ》いた瞬間、弟橘媛《おとたちばなひめ》の顔が浮かんだ。
「許しません」
はっきりした弟橘媛の声だった。
「おう、弟橘媛、来たのか、待っていたぞ」
途端に宮簀媛の顔が歪《ゆが》み、絶叫した。一瞬、現実が消失した。
夢を見ていたのか、と倭建は眼に活を入れた。夢ではなかった。
暗闇なので顔はさだかではないが、宮簀媛らしい女人が寝具に横たわり鼾《いびき》をかいていた。
倭建はそんな媛を置いて外に出た。
戸の傍に警護兵がいた。
「王子様、大きな声が……」
「何でもない、悪い夢を見たのかもしれぬ、小川の水を飲みたい、いや、ついてくる必要はない、一人でいたいのだ」
訴えようとする兵を一喝すると倭建は二百歩ほど先の小川に向かった。
まだ呆然《ぼうぜん》とし現実の出来事に思えなかった。月が出ているので近くなら道に迷うことはない。高台を少し下りると川が流れていた。冷水を浴びて、気を取り戻したかった。
宮簀媛は間違いなく来た。護衛兵も彼女の叫び声を聞いている。それに媛は寝具に横たわっているのだ。はっきり声を聞いた。だが、弟橘媛の姿はなかった。媛は自分を助けるために海に跳び込んで死んだのだ。生きている筈はない。
「媛よ、許さぬ、とよくいってくれた、吾はもう少しで淫欲《いんよく》に溺れ死ぬところだった、この倭建の名を穢《けが》しては、黄泉の国でも果てしなく苦しまなくてはならぬ」
自分に呟きながら一寸《ちよつと》した雑木林に入った。林沿いに行けるが遠廻りになる。林は四、五十歩ほどだが入ると月明りが消え、一寸先も見えない暗闇だった。
木の枝を手に前を探りながら進む。下も隈笹《くまざさ》や灌木《かんぼく》が生えているので、不注意だと足を取られる。
だが幾ら行っても林が終らない。おかしいな、と小首を捻《ひね》ると橘《たちばな》の香りがした。もうそろそろ小さな黄色の実を結ぶ。香《かぐわ》しい匂いを嗅《か》いだ倭建は、媛か、と呟《つぶや》いた。
倭国《わこく》では西から南の方に生えるが、東国で橘の匂いを嗅いだのは初めてだった。
倭建は橘の匂いに誘われて進んだ。無の境地だった。
どれだけ歩いただろうか。前方に微かに明りが見えた。
何だろうと思いながら進むと、赤い門と楼観が見えた。思わず眼をこすった。
楼観の壁は白く屋根は青い瓦《かわら》だった。勿論《もちろん》当時は瓦などないので、巨大な魚の鱗《うろこ》で作られた屋根のように見えた。下の方は霧に包まれ、形はさだかではない。
語り部に聞いた龍宮城のようである。
それにしても雑木林の中に龍宮城があるなど信じられない。眼をこすって見直したが間違いなかった。連子窓は赤い。
時々、弟橘媛のことを思い出し、海神がいるという龍宮城を想像したりすることがあるが、青や赤で彩られている屋根のついた宮とはどんなものだろう。
倭国にそんな建物はない。
それにしても深夜なのに、建物の色まで見えるのはどういうわけか。
幻に違いない、と何度も眼をこすり頬を叩《たた》いたが建物は消えない。何時《いつ》か倭建は龍宮城に向かう道を歩いていた。竹を敷きつめたような道で宙に浮いている。百歩ほど進むと、白い布を纏《まと》った兵士がいる門に着いた。女人のような裳に似た袴《はかま》をはき、刀を吊《つ》り下げていた。
倭建を見ると叩頭《こうとう》し門内に入れた。玉砂利の道が楼観に続いている。砂利と思ったが様々な貝殻であることが分った。形も色も多様で美しい。楼観の縁に立つと緑の裳と白い上衣の侍女らしい女人が現われ部屋に案内した。煌《きら》めく貝殻を鏤《ちりば》めた光沢のある椅子と机がある。驚いたことに窓の外は透明な海で色とりどりの魚が泳ぎ、群れをなして戯れていた。
もう幻を見ている、という気もしなかった。宮簀媛が深夜に訪れて以来、現実と夢の世界が混合している。幻とも現世とも分らない時が続くと、今見ているものが現実となった。
窓から海中を眺めていると衣服を脱ぎ泳ぎたくなった。龍宮城を訪れ、何年も過ごした山幸も現世を忘れていたのだろう。
「王子様」
「おう、弟橘媛」
弟橘媛は透けて見える絹布を頭から被っていた。顔は定かではないが、間違いなく媛だった。
「媛、どんなに会いたかったか……」
近寄ろうとしたが金縛りにあったように動けない。媛は頭に見たこともない薄紅色の冠を載せていた。
「私《わ》も同じ思いです、そこの椅子にお坐り下さい」
「身体が……」
「いいえ、動きます」
何時の間にか金縛りが解けていた。
弟橘媛は倭建と向き合って坐った。
「媛よ、そなたの顔をはっきり見たい」
「それはできません、私はすでに海神の妻、王子様といえども素顔にはなれません」
「そうか、やはり海神の妃か、無念じゃ、しかしさっきは……」
「はい、でもあの時は海神の許可を得て参ったのです、危いところでした」
倭建は喰《く》い入るように凝視《みつ》めた。白い百合《ゆり》の花を連想させる可憐《かれん》な顔は変わっていない。ただ絹布が邪魔だった。かつて愛した長い眉《まゆ》、眼、そして高い鼻や淡紅色の唇に触れてみたい。
倭建の胸中が分るのか、媛はゆっくり首を横に振る。
「王子様、お会いしている時は短うございます。今夜の衝撃で宮簀媛は病床の身となりました。気を取り戻さない間に王子様は媛から離れねばなりません、名を残されるか、穢されるかは王子様の気持次第です」
「おう、その通りじゃ、離れるぞ、それにしても宮簀媛は一体何者じゃ、女人なのか、それとも物の怪なのか」
「物の怪ではありません、ただ媛は四歳の時、一人で山に入り道に迷いました、そして鹿に育てられました、その鹿は鹿の中でも長《おさ》格だったのですが、その巨体のせいで絶えず山人に狙われたのです、二代前も三代前も矢に射られ殺されました、媛はそのことを知りませんが何時しか鹿の怨念《おんねん》を植えつけられたようです、勿論、父母も知らないことです、女人でありながら獣の怨念を潜ませている、考えてみれば不幸な女人でしょう、そんな媛が王子様を愛してしまった、いいえ、愛というよりも取り憑《つ》かれたといって良いでしょう、獣の怨念の炎を燃やしている以上、自分を抑えたり、犠牲にして王子様の身を守ることはできないのです、ただ王子様が欲しい、王子様が弱ろうと媛は何とも思わない、かえって、これで王子様は自分から逃げられない、と見えない牙《きば》を剥《む》いているのです、お分りになりましたか」
「納得がいったぞ、必ず吾は離れる」
弟橘媛は、倭建の身を守るために海に跳び込んだのだ。それこそ本当の愛ではないか。
「ただ宮簀媛には獣の鬼神が憑いています、よほどの決意が必要となります、草薙剣は敵を斬るには力を発揮しますが、媛には殆《ほとん》ど利きません」
「そのようだ、だが吾は勝つ、尾張から離れる、吾は大和の王権と戦わねばならぬ」
「王子様、時が参りました、もう二度とお会いすることはありますまい、それに王子様のお力になることもできません、これが最後です」
「媛よ、もう少し、頼む、今しばし……」
倭建は立とうとしたが動けない。弟橘媛の顔が淡い霧に包まれた。窓の外の海には巨大な魚が現われ、悠々と泳いでいる。戯れていた小魚の姿は消えていた。
「媛!」
「王子様の妻になれたことは幸せでした、倭国一の男子《おのこ》ですもの」
巨魚が魚体を曲げた。サメか、それは分らないが、媛を乗せようとしているのは間違いなかった。
媛は人形《ひとがた》の霧になり椅子から立ち昇った。その霧の奥につぶらな瞳《ひとみ》が見えた。倭建は熱いものが込み上げて来て喉《のど》が詰まった。十四、五歳頃の弟橘媛である。
あの頃の媛は、恋慕の情よりも、不思議な男子を見たという眼で眺めていた。
婚姻の夜、そのことを訊《き》いた。
媛は羞《は》じらいながらいった。
「だって、他の王子たちとは違って、ひどく淋《さび》しそうな感じを受けましたから、武勇の王子、と評判だったのに、それで何故かしら、と不思議に思ったのだと思います」
弟橘媛は、そのことを二度と口にしなかったが、その言葉は倭建の胸に刻まれ、忘れたことはない。媛を愛したのも、倭建の真の姿を見抜いていたからである。
媛が消えると同時に部屋が暗くなった。椅子もなく倭建は落葉の上に横たわっていた。
朝、倭建は大伴武日《おおとものたけひ》の部下によって屋形から一里ばかりの海辺に面した丘で発見された。彼等の話によると倭建の部屋で見つかった宮簀媛は深い眠りに落ちていて、尾張音彦が媛の屋形に連れて行ったが、眠り病に罹《かか》ったように眼が覚めない、という。
弟橘媛は、宮簀媛は多分、衝撃で暫《しばら》く動けない、といった。
幻ではなかった。弟橘媛は自分を救い、今後の生き方を示すために来たのだ。
「王子様、丹波猪喰《たんばのいぐい》様の使者が参りました。猪喰様は明日、戻られるようです」
「そうか、猪喰も来るのか」
いよいよ戦の時がきたのを感じ、遥《はる》か拡がる大海原に向かって頷《うなず》いた。
結果がどうなろうと吾《われ》は悔いない、倭建の名を穢さないぞ、と。
ただ、弟橘媛は、お会いできるのはこれが最後です、といった。媛は真実を告げたに違いない。胸の深くに穴が開いたような気がした。胸を力一杯打った。全身に響く。
「吾は男子じゃ、倭建じゃ、何のために媛は会いに来たのか、吾を救い、吾に誇りを復活させるためではなかったか」
倭建は胸の洞に再生の気を吹き込むように何度も深呼吸をした。
両|拳《こぶし》を握り、猛然と歩きはじめた。
宿舎の近くまで戻ると、武日が走って来た。
「王子様じゃ、王子が戻られたぞ」
「おう、王子か?」
遠くの声は吉備武彦《きびのたけひこ》である。皆、首を長くして待っていたのだ。百歩ほど先の草叢《くさむら》に叩頭した男子が立っている。明日戻る筈《はず》の猪喰だった。顔はさだかではないが、刃物のような気が伝わってくる。
倭建は走りたいのを我慢して進んだ。
髭《ひげ》だらけの久米七掬脛《くめのななつかはぎ》もいた。首が長く伸びている。しっかりしろ七掬脛、吾は元気だ、もっと信頼せよ、と呟《つぶや》き、自分に舌打ちした。すべては宮簀媛に溺《おぼ》れた自分の責任である。
何年も会っていなかったように出迎えた側近の顔を見廻《みまわ》した。
倭建はまず不安に強張《こわば》った尾張音彦に会い、昨夜の経過を話した。
宮簀媛は喪が明けるのを待たずに深夜、会いに来た。媛は怪しい術を使い警護兵を一時眠らせたらしい、媛と二人で部屋にいたなら喪を穢《けが》すことになる。そこで動きそうにない媛を部屋に残し、一人で外に出、雑木林で一夜を明かした、と説明した。
媛は昏睡《こんすい》状態にあるらしいが、媛が自分で招いた結果だ、ときっぱりといった。
「音彦殿、宮簀媛はまだ治っていない、今暫くの時が必要じゃ、分っていただきたい」
「愚かな娘です、王子様のおおせの通りです、時を待ちましょう、あの状態で王子様の妃《きさき》に、など口が裂けても申せません、ただ今暫く見捨てないでいただければ……」
音彦は項垂《うなだ》れ、言葉が続かなかった。娘を憐《あわ》れむ気持と、倭建に迷惑をかけた謝罪の念が入り混じり男子の嗚咽《おえつ》となった。
倭建は部屋に側近を集め、猪喰の報告を聞いた。
何より倭建を喜ばせたのは、正妃だったフタジノイリビメに産ませたタラシナカツヒコ王を、山背《やましろ》の伏見に移し終えたことだった。その首長は丹波と親交があった。オシロワケ王の父・垂仁《すいにん》帝の時代から、丹波と大和は同盟的な関係にあったが、伏見の首長は両者を取り持ったといわれている。
弟橘媛が産んだ稚建《わかたける》王が亡くなった今、タラシナカツヒコ王は、倭建の後を継ぐ有力な王となる。王位継承権もある。オシロワケ王がこれまでタラシナカツヒコ王を殺さなかったのは、まだ童子なのと、倭建への恐怖心のせいだろう。
猪喰の手を握り、よくやってくれた、と褒めたかったが皆の眼がある。
「よし、それで大和の情勢は?」
「王子様に心を寄せる者たちも多いようです、大伴、穂積《ほづみ》、それに宮戸彦《みやとひこ》殿を出した葛城《かつらぎ》の一部、また播磨《はりま》、吉備、筑紫など、西方の有力氏族などです、それに対して、オシロワケ王とヤサカノイリビメに追従する王族の大半は、イホキノイリビコ王子側です、また物部十千根《もののべのとちね》はオシロワケ王の御意と告げ、木津川《きづがわ》、淀川沿いの勢力を味方に引き入れ近江から美濃の一部まで押さえた模様です」
もともと天磐舟《あまのいわふね》に乗り生駒《いこま》山に降臨したという物部氏には、海人族的な性格があった。
当時の大和《やまと》王権を支えているのは、五、六世紀に登場する蘇我《そが》、物部、大伴、平群《へぐり》、阿倍《あべ》などの氏族よりも、倭国の各地に勢力を張る有力首長だった。
倭建がオシロワケ王の命を受け、西に東にと奔走したのも、その名目は各地の首長を押さえ、大和王権に服従させるためだった。
勿論《もちろん》、オシロワケ王の本意は、王位を力で奪い取りかねない倭建を、征討将軍に任じ大和から引き離し、ヤサカノイリビメに産ませたイホキノイリビコ王子を次の王にすることにあった。
大和周辺の王と称する首長は、ほぼ大和王権に服従しているが、それは特定の王にではない。もし倭建が王位に即《つ》いたなら、倭建王に服従することになる。
そういう意味で、大和周辺を取り巻く首長の動向は重要であった。
猪喰が述べた河内の淀川水系は三嶋を含む摂津の勢力、木津川は崇神《すじん》帝時代に反旗を翻した武埴安彦《たけはにやすひこ》やその一族、近江は守山《もりやま》や後に息長《おきなが》を称した琵琶湖の北東部の勢力などであった。
ことに近江の勢力は、美濃と大和を結ぶ蒲生野《がもうの》を押さえ、油断ができない。
美濃でも近江に接する地方は、倭建の兄・大碓《おおうす》王子の勢力圏ではない。もし、両者がオシロワケ王側につくと、尾張も安泰ではなかった。何故なら、音彦の勢力圏は木曽川の東部までで、西部の養老山系側(後の安八《あんぱち》郡、養老郡)は独立的だった。しかも近江に通じる不破の関(関ヶ原)を押さえているのだ。
更に猪喰は重大な情報を得ていた。弟橘媛を出した穂積氏が告げたのだが、物部十千根は、近江の湖東の首長に出兵を促したという。
「うむ、それで近江の動きは?」
「近江路をたどり、湖東の様子を窺《うかが》いましたが、動きが尋常ではありません、養老の方も同じです」
「尾張を攻める積りか」
眼を剥《む》いた武彦が唾《つば》を飛ばさんばかりの勢いでいった。
「その辺りは分りかねる」
「尾張も問題だぞ」
大伴武日が両手で膝《ひざ》を叩《たた》いた。無理に出したような嗄《しわが》れた声だった。
「何処で誰が盗み聴きしているかも分らぬ、もう少し声を潜めよ」
倭建が憮然《ぶぜん》とした表情でいった。
一瞬、室内が静かになる。虫の声が勢いづいた。武日の発言は勇気のいるものだった。倭建の前では口にし難い大事をついていた。
皆が口を閉じたのは、宮簀媛が再び病み、倭建との婚姻の前途が危くなってきたからである。
以前から尾張音彦は、オシロワケ王と倭建との関係を睨《にら》みながら、どちらかといえば倭建に好意的だった。その裏には宮簀媛が倭建に抱いた恋慕があった。
宮簀媛を愛していた音彦は、倭建が東国に征《ゆ》く頃から、媛と倭建の婚姻を望んでいたのかもしれない。媛の恋慕は異常であり、それを治すには倭建との婚姻しかなかった。倭建を承諾させるために音彦は自分の勢力圏である尾張を率い、味方になろうと決意したのだ。
げんに音彦はそれを口にしている。
音彦はオシロワケ王を斃《たお》し、倭国の王に倭建を即け、宮簀媛を正妃にしよう、と望んだ。娘のためだけではない。深読みすれば、正妃の父として大和王権内での権力を得たいのかもしれない。
だが今の宮簀媛の病状は異常である。
娘への不安と、倭建に見離されはしないかという危惧《きぐ》の念が交錯している筈だ。
おそらく音彦のもとには、様々な情報が寄せられているに違いなかった。
物部十千根は、間者《かんじや》を交易人にし、倭建に不利な情報を伝えているに違いない。
諸国と交易する者たちも一種の技術者であり、物部は彼等の大半を掌握していた。
後世に物部が大連《おおむらじ》となったのも、十千根が軍事力以外に交易の重要さを認識していたからである。
「猪喰よ、そちはどう思う? 遠慮せずに申せ」
間者については猪喰が一番詳しかった。
「王子様、尾張の津には、各地の交易人が集まっています、津の長《おさ》は音彦殿の甥《おい》です、当然、世をまどわす情報を伝えているとしても不思議ではありません」
「つまり音彦は、吾は王権から見離され孤立しているという情報を得ているわけだな」
「そう推察するのが自然です、勿論、大和には王子様の味方がいるという情報も得ているでしょう、だがそれは十に一つ、とやつかれは視ています」
「そうであろうな、そんな中で音彦は娘のために吾の味方となったのだ、吾が宮簀媛と別れたなら、音彦は父王、いや大和王権の実権を握ろうとしている、ヤサカノイリビメ、イホキノイリビコ、また二人を担いでいる物部十千根につく、別に音彦を非難しているのではない、裏切りの動機というのは大抵そんなものだ、それで大裂《おおさき》はまだ戻らぬか」
「近江の動向をより詳しく調べさせています、数日後には戻る筈です」
「無事ならな」
武彦が宙を睨んだ。
猪喰は口を噛《か》み、答えなかった。
倭建は武彦にいった。
「十日待とう、それと、大裂が戻ればすぐ軍を動かせるように兵の士気を鼓舞しておけ、吾は毎日宮簀媛を見舞う、たとえ媛が正気に戻っても妃にはせぬ、喪を穢した媛は許せない、それに媛の病が完治するとは思えぬ、皆、尾張をあてにするな」
意外にも緊張していた武彦の顔が緩んだ。皆が一番不安に思っていたのは、倭建と宮簀媛の関係だったのかもしれない。
済まぬ、許せ、と倭建は心の中で呟《つぶや》いた。武彦たちだけではなく、媛にも詫《わ》びていた。
宮簀媛は昏睡状態のままだった。
粥《かゆ》汁はすするが意識がないので倭建が訪れても反応がない。これまでの妖《あや》しい色香は失《う》せ、砂浜に打ち上げられた真白い貝殻に似ていた。
十日目に大裂が戻って来た。
近江の兵、百数十人が伊吹山に集まっているという。養老の兵も動員されており、おそらく不破の関に集まる可能性が大であると報告した。
倭建は武彦に東国の兵の動員を命じたが、武彦は応じなかった。
尾張音彦が協力しない限り、大々的な動員は無理だと反駁《はんばく》した。
武彦が倭建の命に強く抵抗したのは初めてである。武彦の反駁には理がある。
近江の兵が伊吹山に集まっている今、東国まで行き、兵を動員していては間に合わない。また自分の留守の間に音彦が、養老や美濃の長《おさ》と通じ背後から倭建を攻める危険性が大だというのだった。
皆も武彦に同調した。
宮簀媛との婚姻が破れそうになり情勢は一変した。もう時間的に余裕などない。
こういう場合の倭建の決断は速い。
「よし、物部十千根にそそのかされた伊吹山の奴《やつこ》らを殲滅《せんめつ》し、勢いに乗じて大和に入り、物部十千根を斬る、出発は明後日、兵を鼓舞せよ」
皆、声にこそ出さないがお互いに頷《うなず》き合う。本来ならば歓声をあげるところだが、外に聞えてはまずい。
兵士たちの動きが慌しくなったのを見て、音彦が倭建の屋形に駆けてきた。
音彦の顔には不審の念が表われていた。
「王子様、戦の準備ですか」
「その通り、物部十千根に踊らされた馬鹿共が攻めて来る気配がある、音彦殿も承知であろう」
「いや、吾は一向に……」
音彦は慌てて否定したが、わざとらしく驚いた顔になり、
「その情報は丹波猪喰殿が……」
告げられたのですか、と首を伸ばした。
「まあそんなところだ、ただ音彦殿、このことだけは頭に刻み込まれたい、オシロワケ王は病んで政治はとれない、大和に王はいないのだ、十千根が何をしようと王ではない、臣下じゃ」
鋭い剣のような厳しい口調に、音彦は思わず叩頭《こうとう》していた。
[#改ページ]
十九
倭建《やまとたける》が今にも出兵しそうなので、尾張音彦《おわりのおとひこ》は、数日、待って欲しい、と申し出た。
百人の兵を動員し、倭建と共に戦うというのだった。
今度ばかりは、音彦も決意を固めたようだが、倭建は、酒宴の席にいるかの如く、おおらかに笑った。
「音彦殿、戦は兵力ではない、その場の状況判断と士気じゃ、吾《われ》は倭国《わこく》の西の果ての熊襲《くまそ》を破り、更に房総半島まで征《い》った、ただの一度も敗れたことはない、安心せよ、吾が得た情報では伊吹山《いぶきやま》の賊は二百人足らず、増えないうちに行き、叩《たた》き潰《つぶ》す、そのまま、近江から山背《やましろ》、大和《やまと》にと入り、病んだ父王の名をかたり、吾を狙う物部十千根《もののべのとちね》を殺す、その際、宮簀媛《みやすひめ》が元気になっておれば、迎えの使者を遣わそう、ただ、五百本の矢と二十個の槍《やり》を貰《もら》いたい、いささか武器が不足している。それと十日分の食糧じゃ、それだけで良い、兵は要らぬ、なお荷を運ぶ奴《やつこ》を十人ばかり借りたい」
「王子、すぐ集めさせます」
倭建の笑顔に心が安らいだのか、音彦も緊張感をほぐした。
吉備武彦《きびのたけひこ》、大伴武日《おおとものたけひ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》たちは、久し振りの戦じゃ、腕が鳴ってうるさかった、と張り切っている。
倭建は、伊吹山の敵を蹴散《けち》らしたなら、一気に大和に入る、と告げていた。
王者になるためだった。
倭建軍は百人足らずである。だが、これまで三倍、四倍の敵に打ち勝ってきた。敗戦など念頭にない。皆、戦に燃えていた。
大和に戻り、倭建王子が王位に即《つ》く。
そのための東征であった、と隅々の兵士までが血を滾《たぎ》らせた。皆、肩を叩き、また組み合って燃えていた。
甲冑《かつちゆう》を身に纏《まと》い、草薙剣《くさなぎのつるぎ》を取ろうとした倭建は愕然《がくぜん》とした。幾ら探しても部屋の中にない。
宮簀媛が深夜来た時は確かにあった。弟橘媛《おとたちばなひめ》が現われ、華麗な幻の屋形に行った時は、草薙剣のことは考えていなかった。いや、あれは夢だったのかもしれない。
それ以来、宮簀媛が病み、何となく草薙剣のことは忘れていた。
宮簀媛が隠したのか。
漠とした不安感を覚えながら長刀を腰に吊《つる》し、布で巻いた短剣を右側の皮紐《かわひも》に差した。
武彦たちに、草薙剣が紛失したとはいえない。最後まで隠し通さねばならなかった。
ただ宮簀媛が持ち帰り、自分の部屋に隠している可能性がないではない。
何《いず》れにせよ、出陣の前に宮簀媛に別れを告げる必要があった。
昏睡《こんすい》から覚めたが媛は外部のことには関心がないらしく、部屋に閉じ籠《こも》っていた。かつてのように大声をあげたり、壁を叩いて暴れるようなことはなかった。
食事も殆《ほとん》ど摂《と》らずぼんやりしているらしい。
戸も自由に開けられるのに、外に出ない。心の病が鬱《うつ》の症状をおこしているらしかった。
そんな媛が草薙剣を隠したりはしないだろうが、やはり訊《き》かざるを得ない。
出陣の前日、宮簀媛の屋形を訪れた。
甲冑姿の倭建を見て、媛に仕える侍女が怯《おび》えたように叩頭《こうとう》した。垂れ髪で可憐《かれん》な感じの若い女人だった。
「何も恐れることはないぞ、吾《われ》は征《ゆ》く、別れを告げに来たのだ、少し訊きたいことがある、媛の様子じゃ」
倭建は東側の縁の傍に侍女を呼んだ。
侍女は水の入った大きな壺《つぼ》を静かに縁に置いた。
倭建の質問に侍女は固くなりながら答えた。大体のことは知っていたが、最後に消え入るような声で話した。
「はい、この水ですか、井戸から汲《く》みました、食事は余り摂られませんが、水はよくお飲みになります、ただ時々、指に十数本の髪の毛を巻いて、器の水を掻《か》き廻《まわ》されるのです、お尋ねしてもお答えになりません」
「髪の毛……頭の髪か?」
「そのようです」
「自分の髪を抜くのか?」
「いいえ」
侍女は身体を固くして首を横に振った。
「何だと、では誰の髪じゃ、本当に人間の髪か……」
「はい、三寸ほどの長さです」
侍女の視線が一瞬、倭建の髪の辺りに注がれたような気がした。頭の後ろが寒くなった。
「どうして媛の髪の毛でない、といえるのか……」
「媛様の髪の毛はもっと細うございます」
髪の毛がすっと背筋を走り抜けたような気がした。
倭建の髪の毛は真っ直ぐで太い。思い出した。大和から尾張に来、泥沼にはまったように媛に溺《おぼ》れた時、媛は時々、倭建の髪の毛を冗談のように抜いたことがあった。
あの時の倭建は、媛のそんな戯れをとがめなかった。いや、何をする、といいながら、顔を緩めていた。
「その髪の毛は何処《どこ》にしまってあるのだ?」
「布で包み、懐に」
もう良い、分った、と叫びたいのを抑え、倭建は頷いた。笑う演技などできない。
「誰にも喋《しやべ》るな、そちが先に行き、戸を開けよ」
宮簀媛は板壁に凭《もた》れ、脚を投げ出すようにして坐《すわ》っていた。
室内が薄暗いので表情がさだかでない。身体全体に精気がなく、鈍い目を向けたが口を開かなかった。倭建を分ったかどうかも疑わしい。
そこにいるのは媛というより魂を抜かれた女人だった。
「宮簀媛、吾はこれから戦に征く、暫《しばら》くは戻らぬ、別れを告げに来たのだ」
視線は倭建に向けられているが何をいっても返事がない。
こんな媛が指に髪の毛を巻き、飲み水を掻き廻すのだろうか。
背を向けようとしたが、草薙剣のことを訊かねばならない。
倭建は宮簀媛の前に腰を下ろすと、素足に触れた。冷えている。
無表情な媛の眼に変化が起きた。
「王子様」
「おう気がついたか、吾だ」
「戦に?」
「そうじゃ、賊を破り大和に入る、暫くの別れだ。それはそうと草薙剣を知らぬか、吾の屋形にない」
倭建は無意識のうちに宮簀媛の足を優しく撫《な》でていた。気のせいか、暖かくなった。血は媛の眼にも巡ったのか白眼が赧《あか》らんだ。そんな媛に憐《あわれ》みを覚えたが、媛の言葉が打ち砕く。
「草薙剣なら弟橘媛様がお持ち帰りになられました」
「馬鹿な」
絶句し言葉も出ない。
充血した媛の眼に憎悪の薄い嗤《わら》いが浮かんだ。
倭建は床を鳴らして立っていた。
「媛、弟橘媛はすでに亡くなっている、どうして剣を持てよう、かりに媛の霊が現われたとしてもそれは不可能じゃ」
宮簀媛は項垂《うなだ》れたまま再び口を閉じた。もう何があっても石のように動かず、話さないに違いない。
珍しく倭建は、纏《まと》っている甲冑が重く感じられた。草薙剣を隠したのは弟橘媛ではない、宮簀媛に違いなかった。倭建を征かせたくなかったのだろう。罪を弟橘媛になすりつけたのは、嫉妬《しつと》が生んだ憎悪である。
それにしても不吉な出陣だった。
女人の怨念《おんねん》を背負って征かねばならない。
多分倭建は関係してはならない女人に溺れ、彼女に一生消えることのない業火を燃やしてしまったのだ。
何度か述べたように、当時は一夫多妻が慣習で、王や王族は何人もの妻を持つ。げんに父・オシロワケ王が関係した女人は数え切れない。子の倭建でも、それらの女人の大半を知らなかった。
だがオシロワケ王が、女人の業火に身を焼かれたことはない。次から次にと女人を漁《あさ》ったせいだろうか。それだけではなく、王は余り女人に好かれなかった。それも大きな理由だ。嫌な男子《おのこ》に女人は業火の炎を燃やしたりはしない。
倭建の母、イナビノオオイラツメ(稲日大郎姫)は、オシロワケ王に求婚されても王を嫌い逃げ廻ったという。
正妃にはなったが、殆ど大和《やまと》に行かなかった。母が短命だったのは、嫌な男子と閨《ねや》を共にしなければならなかったからではないか。
その点、倭建が媾合《まぐわ》った女人は王子にしては酷《ひど》く少ない。その代わり彼女たちは懸命に倭建を愛した。尽くしてくれた。
弟橘媛はいうまでもないが、宇沙《うさ》王族の女人剣士|羽女《はねめ》なども、兄の仇《かたき》を討つため熊襲征討に同行したが、真の動機は倭建への愛情である。
だが宮簀媛だけが倭建を苦しめた。燃えた炎を自分で消せず、炎の蛇と化して巻きつき、倭建を欲した。
そうなのだ、宮簀媛には吾に尽くす、という愛情がない。多分、媛は飢えた獣が獲物をむさぼるように食べたかった。それは、愛情とは異質の淫欲《いんよく》の業火である。
だが宮簀媛だけを責めるわけにはゆかない。女人の業火を燃やしたのは、倭建自身だったからだ。
倭建の胸中を知らない軍団は闘志に燃えていた。今回の戦に勝てれば大和に戻れるのだ。何が何でも勝利の雄叫《おたけ》びをあげねばならない。一行は尾張の平野を西に進み、昼過ぎ、木曽川に着き、尾張音彦が用意した小舟に分乗し、北方に向かい、夕刻前には海津《かいづ》に上陸した。
この辺りまでは音彦の勢力圏である。夕刻には雨になったが、在地の首長が民家を宿泊所にしてくれたので雨に悩むことはない。
吉備武彦は雨空を睨《にら》み、三日ぐらい続くのではないか、と予想した。
「よし、雨がやむまで待つ、その間、伊吹山周辺を調べよ、賊の動きがどうなっているか、徹底的に探るのだ」
倭建は丹波猪喰《たんばのいぐい》に十人の兵を与えた。
もう宮簀媛の問題でくよくよしている暇などなかった。まず勝たねばならないのだ。勝利こそがここまで自分について来てくれた部下たちへの褒賞だった。
海津から伊吹山の手前の不破の関(関ヶ原)までなら半日で行ける。ただ海津と西の養老の間には揖斐《いび》川が流れていた。養老には物部十千根の手が伸びており、兵が動員されている可能性が強い。
三日目に猪喰が戻って来て、海津の兵、数十人が動員されているらしい、と告げた。猪喰は板甲を纏《まと》った隊長らしい男子を捕まえていた。大きな家があったので日暮れ時、様子を窺《うかが》っていると、捕虜の男子が出て来た。峯打《みねう》ちで失神させ、小舟で運んできた。
房総半島の海上《うなかみ》国との対決でも猪喰は、村長《むらおさ》だった隊長を捕まえている。
捕虜は何を訊いても話さない。唇を縫いつけたように結び、殺すなら殺せ、といわんばかりだった。
動員された村長にしては、胆《きも》が据わっていた。
倭建は大伴武日らと共に、綱で両手を縛った捕虜を小屋に連れ込んだ。
「猪喰、この男子、本当に農家の村長かな」
武日が捕虜を睨みつけていった。
「吾も疑っている、武人のようじゃ、物部十千根の間者《かんじや》かもしれぬ、ただ何も喋らないので断言できないが」
「いためつけたか?」
「少しは、だが死ぬ覚悟なのか、何もいわぬ」
猪喰は刃物のような眼を捕虜に向けた。
「仕方ない、何が何でも口を割らせよ、よほどの大事を隠しているのかもしれぬぞ」
倭建の言葉に、猪喰は大きく頷《うなず》いた。
小屋に入れると同時に、猪喰は鋭い気合いと共に板甲を蹴《け》り、呻《うめ》きながら倒れた捕虜の胸に飛び乗った。鋭い音と共に板甲が二つに割れ捕虜は失神した。無造作に板甲を剥《は》ぎ取り、衣服を裂き裸にした。
腕を後ろ手に縛り活を入れる。捕虜は屁《へ》に似た音をたてて息を吐き眼を開けた。自分の立場が分らないらしく起きようとしたが、縛られていることを知り、眼を剥《む》いてもがいた。
猪喰は刀子《とうす》を抜くと傍にしゃがんだ。
「さあ吐け、何人の農兵を動員した。今、何処に向かっている?」
捕虜の男子には贅肉《ぜいにく》がない。寧《むし》ろ痩《や》せていて、肋骨《ろつこつ》なども見えるが肩、腕、腿《もも》などは筋肉が盛り上がっている。
唾《つば》を吐いて横を向いた男子に乗りかかった猪喰は、縛った腕を捻《ひね》った。骨の折れるくぐもった音と同時に捕虜は跳ね、小屋が慄《ふる》えんばかりに絶叫した。猪喰は無表情に中指の骨も折った。捕虜の下半身が小波のように揺れ、尿が洩《も》れた。
折れた中指を引っ張った猪喰は爪の内側にゆっくり刀子を刺し込んで肉を抉《えぐ》る。今度は声が裂け、擦れたような悲鳴になった。捕虜の眼は歪《ゆが》み、今にも飛び出しそうだった。大きく喉を鳴らし再び失神した。
猪喰は脳に手刀をくらわせ意識を戻すと、今度は人差指の骨を折った。
悲鳴は濁り大蛙が一挙に踏み潰《つぶ》されたような音だ。脳の筋肉が痙攣《けいれん》し、今にも頭を破りそうである。
倭建をはじめ声を出す者はいない。猪喰の顔は凍りついた樹皮を連想させた。
「よく聞け、今度は爪の付け根まで突き刺し掻き廻す、手の爪は勿論、足の爪も全部剥ぐ」
「殺せ、殺せ!」
捕虜が喉《のど》を引き攣《つ》らせながら叫んだ。
「猪喰、間違いなく大和の言葉だ、物部の間者に違いない、全部吐かせるのだ、全部だぞ」
倭建は淡々とした口調でいうと小屋の外に出た。武日と久米七掬脛の顔は汗に濡《ぬ》れていた。
吐息を洩らした武日が嗄《しわが》れた声で七掬脛にいった。
「猪喰の責め方には無駄がない、まるでおぬしが魚をさばくようじゃ」
「くだらぬ冗談は止せ」
七掬脛は唾《つば》を吐く。
「無駄がないゆえ、優れた間者にもなれる、奴《やつこ》が吐けば養老の軍を殲滅《せんめつ》できる」
武日は不思議なほど冷静だった。
また獣の声と地響がして小屋が揺れた。
右手の指五本を潰した時点で、捕虜は切れ切れの声で吐いた。
猪喰の報告によると、兵力は数百人、今日中には動員を終え、明日は不破に向かうという。
「捕虜は?」
「喉を刺し、楽にしてやりました」
「そうか、武日、部下に穴を掘らせ、奴を葬ってやれ、忠節な間者だ」
「王子様、葬ってやれば奴も黄泉《よみ》の国に行けるでしょう」
「うむ、終ればすぐ進撃だ、先廻《さきまわ》りをして不破で待ち構える、道案内人に伝えよ、急ぎの行軍だと」
「はっ、ただちに」
武日と七掬脛が兵に急行軍の準備をさせていると、狸を射殺した吉備武彦が戻って来た。
七掬脛から急変した状況を聴き、狸を地に叩《たた》きつけた。
「狸料理が無駄になったか、だが狸の肉より賊の肉をぶっ斬る方が面白い」
武彦は骨を鳴らしながら腕を振った。
一行は道案内人に先導され、黙々と進んだ。幸い晴天の夜で夜空にはところどころ薄い雲がたなびいているが、月が明るい。
倭建は道案内人に、進めるところまで進みたい、と告げた。道に詳しい案内人も夜は手探り状態で進まねばならない。昼の速さの五分の一ぐらいに落ちる。
ただ養老山脈沿いに不破に出る道は、交易人が通る道で、当時としてはましな方だ。勿論《もちろん》、生い茂る雑草を通行人が踏み固めた程度で、人工的なものではない。倭建としては、一刻でも早く不破に到着し養老の兵を粉砕したかった。そのためには最適の地を確保しておかねばならない。
月明りは、夜の行軍にとって欠かせない。樹々や岩、小川などを教えてくれる。月がない夜は、満天に星が煌《きら》めいていても、進む方角を何とか知るぐらいだ。
小川の傍で竹筒の水を飲み、新しい水を満たす。中秋の水はすでに冷たい。道案内人は、渡り易い場所も知っている。そうでなければ道案内人としては失格だった。
優れた道案内人は、行程によって異なるが、一回で、農民が半年働くぐらいの収入を得るのだ。
夜が白みはじめた頃、山に入り仮眠を取ることとなった。その間も監視兵は交替で見張る。
案内人の説明によると、一行はすでに養老山系の北端まで二里(八キロ)のところに来ていた。その北には宮山(後の南宮山)があり、近道で不破に行くには宮山と養老山系の間を通らなければならない。倭建軍が待ち伏せしているのを敵が知っていたなら宮山の北方の垂井《たるい》に出、遠廻りで不破に行く。だがまずその可能性はなかった。
猪喰は健脚の兵に養老軍の様子を探らせた。多分、今頃は、眼を覚まし、朝餉《あさげ》の準備をはじめたところだろう。
猪喰の推測に誤りがなければ、昼頃までに養老軍は現在地に到着する。
武彦は倭建に、今、仮眠をとるよりも、先に宮山に行き、山間《やまあい》の模様を眺望できる場所で敵が来るのを待ち伏せるのが得策だ、という。
倭建もそれは考えた。だが、その辺りの村人が、どういう行動を取るか予測がつかない。もし早くから行き山に潜んだなら、遅れてやって来る養老軍に通報する村人が現われるかもしれない。湖東から来た伊吹山の勢力が養老軍とつながっているとしたなら、不破近辺の僅《わず》かな集落の住人も身の保全を考える。養老に味方する危険性がないとはいえない。
倭建は自分の意見を述べた。武彦はあっさり応じた。
「なるほど、密告されたら、待ち伏せしていても意味がない、王子がいわれる通りじゃ、養老の兵の動向を掴《つか》み、その直前に潜みましょう」
二|刻《とき》ほどたった。
思いがけず監視兵が、かなりの兵が進んで来ているのを見つけた。
倭建が想像していたよりも養老軍の行動は早かった。ただちに全軍が起こされた。
猪喰は敵状を探るべく南に走った。山麓《さんろく》沿いの道と川の先は湿地帯と狭い田畑だった。
川は揖斐川の上流の一つである。
小手先の策は不要だ。全軍の兵を道沿いの雑草に潜ませ、半数が弓に矢をつがえて待っている。賊が通りかかれば一斉に矢を射る。少なくとも一人で数本を射なければならない。二、三十人は矢傷にのたうつ。賊が向かって来る前に半数が突っ込む。矢を射終えた兵もその後に続く。
敵軍の兵力は、こちらより二、三十人多いぐらいだろう。かりに倭建軍の倍としても、この奇襲攻撃にはたえられない。倭建軍は歴戦の勇士ばかりである。上総《かずさ》の須恵《すえ》で半数が帰る時も、彼等は従軍を志願した。戦に際しては死を恐れないし、敵に逃げる余裕を与えない。
大半が刀を抜く間もなく殺される。
陽は明るく、海の辺りまで見える、東側だから慌てて川に飛び込む以外にない。そういう兵はまたも矢の餌食《えじき》になる。
猪喰は間もなく戻ってきた。
敵の総兵力はやはり百二、三十人だが、農兵が殆《ほとん》どで、半分以上は鍬《くわ》や鎌などを肩にしていた、竹槍《たけやり》を持っている者もいる。
「慌てて寄せ集めたか、二百人であろうと大勝は間違いない、兵士たち一人一人に、敵共の様子を知らせよ、丸腰同然だと伝えるのだ」
集められた隊長たちは、歓喜の叫び声をあげそうな顔で散って行った。
一刻後、敵軍が眼の前にさしかかった。恐るべき軍勢が潜んでいるのも知らず、話し合っている者もいる。なかには鋤《すき》の柄の方を杖《つえ》代わりにして足を引ずっている者もいた。
先頭を行く隊長らしい男子は短甲を纏《まと》い、冑《かぶと》をかぶっている。
「王子様、もう一人、首長らしい奴が、中央に……おう、あれです」
草の間から覗《のぞ》くと輿《こし》に乗っていた。養老の首長であろう。板に菅編みでも敷いているのか、甲冑《かつちゆう》姿で脚を前に投げ出している。四人の兵が輿を担いでいた。輿は威厳を示すためだろうが、何となく滑稽《こつけい》で、噴き出したくなった。
倭建は、合図の矢を隊長に放った。狙った通り太腿《ふともも》に刺さった。隊長は二、三歩進んでよろけひっくり返ると、絶叫した。
それを合図に、次々と矢が放たれた。一矢を放つとすぐ傍に置いた矢筒の矢を弓につがえて射る。歴戦の勇士である。第二矢を射るまで、一呼吸といったところか。
養老の兵士たちは反撃できなかった。奇襲攻撃に対する訓練が全くなされていない。中央の首長は輿から跳び降り、
「突撃じゃ、すぐ傍におるぞ」
と叫ぶが、阿鼻叫喚《あびきようかん》の農兵たちには通じなかった。二、三人が川に向かって逃げ出すと我先にと走り出した。
農兵たちが力を発揮するのは味方が優勢になった時である。それこそ数をたのみ別人のように強くなる。
今回のような場合は、怯《おび》えの本能に支配されてしまう。仲間があっという間に矢に射られ、|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》きながら倒れるのだ。それに助けを求めて傍の兵士の足に縋《すが》りつく。
これでは反撃のしようがない。
「突撃じゃっ!」
倭建は刀を振るった。
凄《すさま》じい嵐のような喚声と共に全軍が襲いかかった。首長を取り巻いていたのは、一族の子弟らしい武人たちだ。
だが戦の経験のある者は一人もいない。刀は抜いたが、武術を知らないので、やたらに振り廻すだけである。
倭建は、武彦らに軍団の長《おさ》は殺さずに捕えよ、と命じていた。
武彦は長に近づき敵兵の刀を払った。簡単に宙に飛ぶ。敵兵は恐怖に口を開け、妖怪《ようかい》を見たように眼を剥《む》く。武彦はその顔を二つに裂いた。一瞬、白い骨と脳が見えたが血《ち》飛沫《しぶき》と共に倒れる。
首長が川に飛び込む寸前に、
「待った」
と怒鳴りながら七掬脛が跳びついた。血刀を提げた武彦が駈《か》けつけた時、七掬脛は首長の両腕を紐《ひも》で結んでいた。
「七掬脛、ずるいぞ、おぬしは血を浴びていないではないか、賊共を斬らずにここで逃げる首長を待っていたな」
七掬脛は眼を細め、嬉《うれ》しそうに笑った。
「おいおい、あれはな、戦というより案山子《かかし》の試し斬りじゃ、刀を抜いたからといって自慢にはなるまい、王子様の命令は、軍団の首長を捕えよ、であろう、その方法は口にされなかった、ようするに捕まえた者の勝ちよ」
顎《あご》を撫《な》でようとした時、斬られた兵の首が飛んできた。七掬脛は顔を反らせて避けたが鼻頭に当たり顔面に血飛沫を浴びた。顔だけは武彦より血塗《ちまみ》れである。その首は眼を開けたまま足元に落ちた。
武彦は大笑すると、素早く首長の手を結んだ紐を奪い取った。
「ほら、おぬしが紐を離した瞬間、こいつは逃げようとした、吾《あ》が捕えた、まあ、二人で捕えたことにしよう」
武彦は布で七掬脛の顔を拭《ふ》いてやった。
倭建軍は川に跳び込んだ敵兵にも矢を射た。何とか川を越え逃げた兵士は二、三十人であろうか。
倭建軍はほぼ無傷の大勝だった。死者、重傷者はなく軽傷を負った兵士は四人に過ぎない。
首長は観念したらしく、使者が来て、オシロワケ王が物部十千根、近江の軍と一体となり倭建王子を討て、という勅を下したことを告白した。
「大和《やまと》では、王子様を謀反人と決めたようでございます、やつかれは、気が進まなかったのですが、王様の勅命には逆らえません、はい、お許し下さい」
養老の首長の告白によると、伊吹山の山麓に、布陣している兵は五百人を超えていた。勿論《もちろん》、首長を味方にするため、大軍にしたのだろう。
猪喰は大裂《おおさき》たちを現地に残していた。
「父王は老い、頭が呆《ほう》けている、げんに尾張音彦は吾の味方だぞ、養老の首長でありながら、好い加減な風説に怯え、物部の間者《かんじや》に騙《だま》され、吾を殺そうとした罪は許し難い、そのため、大勢の農民が田畑から引き離され兵となり死亡した、その大罪も加え、死罪じゃ」
倭建は、即座に首長を斬るように命じた。
兵士たちの死体はことごとく川に放り込み、重傷者はその場に置き去りにした。
倭建には、敵の重傷者を送り返す余裕はない。
倭建以下、全兵士の生死が、迫りつつある戦にかかっているのだ。
倭建軍は休むことなく、翌朝、宮山に向かって出発した。宮山の手前で大裂と会うことになっている。大裂は最も新しい情報を得ている筈《はず》だった。
昼過ぎ、倭建は大裂と会った。破れた麻布を纏い縄を腰紐がわりにしている大裂は、何処から見ても流浪の旅人だった。
武彦らも同席した。
驚いたことに昨日の戦の模様は宮山周辺の村人たちに伝えられていた。逃げた兵の中には、養老に戻ると、倭建軍が迫って来て妻子も殺される、と恐れ、宮山の方に行った者もいるらしい。
養老と宮山は近い。縁者もいるに違いなかった。
この調子では今日中に、伊吹山の兵にも伝えられるだろう。
敵を怯えさせるには、勇猛で鳴らした倭建の力が全く衰えていないことを知らせた方が良い。警戒心から守りを厳にするかもしれないが、やたらに攻撃してこない。寡兵の倭建軍にとって危険なのは、兵力に優る敵の先制攻撃である。もしそれがないとすれば動き易い。
風説は、二倍にも三倍にも膨れる。間違いなく伊吹山の敵は、今更のように倭建の勇猛ぶりを再認識し、慎重になるに違いなかった。怯えていると味方の一軍が崩れ、全軍が崩れかねない。
それに大裂の報告によれば敵の兵力は猪喰が知らせたより多くなっていた。約三百人だという。
倭建軍は意気|軒昂《けんこう》だった。何といってもこちらの損害は軽微で、相手は全滅といって良い。一人一人の兵士が、王子は負けることがない、と信じ込んだ。それは一人で数人分の力を得たのと同じである。
一行は山に囲まれた不破の原に沿う樹林の中をゆっくり進んだ。後に東国と西国を結ぶ重要な関となった不破は、その名の通り南北を山にはさまれた要害の地だった。兵を山々に遣わし、伏兵を探らせたが、いなかった。
だが倭建は用心した。山が迫ったなだらかな丘や平地を通らず、外部から見えない山森の中を東へと向かった。巨木は少ないが雑木が鬱蒼《うつそう》と繁っている。すでに紅葉もはじまっていた。道などない。時々、狐や猿、兎などが跳び出して逃げる。
一歩進むにも灌木《かんぼく》や隈笹《くまざさ》を掻《か》き分けねばならない。先導者は大裂である。かつて山賊をしていただけに山の性格が分っていた。後に関ヶ原と呼ばれた原からは見えない繁みを、一行は這《は》うようにして進んだ。
夕刻前には柏原の地に着き、伊吹山と向かい合う清滝の丘陵地帯で夜営をした。
[#改ページ]
二十
石灰岩の多い伊吹山は、雄大でがっしりとし男性的な山だった。ところどころ紅や黄色に染まり、秋の気配をただよわせているが緑は深くて濃い。
大和を発し東征の途中、伊賀で鈴鹿《すずか》のごつごつした山を見、大和をめぐる山々との違いを感じたが、伊吹山は鈴鹿の山を一回り大きくしたような山だった。
四千五百尺程だが、屹立《きつりつ》した山頂ではなく、巨亀を連想させる悠々とした頂は、数え切れない山々の鬼神を棲《す》まわせているように見える。
物部《もののべ》勢と近江《おうみ》軍が、不破《ふわ》の原ではなく、伊吹山の山麓《さんろく》で、倭建《やまとたける》軍を待ち受けた気持も何となく分るようだった。
敵軍は伊吹山に頼っているのだ。この山を擁して戦うかぎり、倭建軍といえども絶対勝てない、と自軍の兵士にいい聞かせ必勝の信念を抱かせているだろう。
湖東だけではなく、守山、また山背《やましろ》の兵も集めているに違いなかった。
大裂《おおさき》などの調査でも、最大四百人という。物部|十千根《とちね》が必勝を期したにしては多くはない。草津か今の栗東《りつとう》あたりに、もう四、五百人を集めている可能性がないではなかった。
だが伊吹山の兵が総力だとすると、大和および周辺の有力豪族のかなりが、オシロワケ王の勅である動員命令に応じなかった可能性が大である。
勅は形式的なもので、老衰しているオシロワケ王が出したものでないことを、皆、知っているのかもしれない。
それに倭建の子、タラシナカツヒコ王がすでに大和を脱出し、南|山背《やましろ》に匿《かくま》われたことを知らぬ者はいない。
皆、右顧左眄《うこさべん》し、身の安全を願い、兵を出し渋っているのであろう。
倭建は吉備武彦《きびのたけひこ》、大伴武日《おおとものたけひ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、丹波猪喰《たんばのいぐい》に自分の考えを述べた。
「我軍の兵はこれまで戦に戦を重ねてきた、伊吹山に拠《よ》る敵兵は最大四百、我軍の約四倍だが、烏合《うごう》の衆、問題ではない、大事なのは敵に打ち勝った後のことじゃ、幸いタラシナカツヒコ王は大和にいない、人質に取られる心配はない、一気に大和を攻めよ、勿論《もちろん》、栗東か草津あたりに敵の後軍がいるかもしれぬ、それも今の我軍の強靱《きようじん》さを思うと、必ず勝てる、ただ大和に戻っても攻めて来る敵がいなければ戦は無用じゃ、武彦は兵を休め、時が来るのを待て、武日は七掬脛と共に親衛軍を取り込め、物部十千根は大和から追放する、分ったか」
倭建は伊吹山を睨《にら》んだ。だがこれまでと違い、応じる者がいない。重苦しい沈黙が一同を支配した。
武彦は武日と、七掬脛は猪喰と視線を合わせた。
どうした? 倭建が訊《き》く前に武彦が口を開いた。倭建の表情を見逃すまい、と眼が光った。
「御命令は確かに、それと王子も勿論、我らと共に……」
「勿論じゃ、吾《われ》が尾張に戻るとでも疑っているのか、それはないぞ、吾は大和の王者になる、ただ、戦には予期せぬ事が起きる、そんな場合、一時、別れ別れになるかもしれぬ、吾がいっているのは、どんな事が起きても、迷うことなく大和に行けといっているのだ」
何故、大事を前に、これまで口にしたことのない、別離めいたことをいったのか、と倭建は悔いた。
武日が山の地肌を蹴《け》り唾《つば》を飛ばさんばかりの勢いでいった。
「予期せぬことなど起こる筈《はず》はありません、吾は王子様の帰還命令に背き、尾張から酒折宮《さかおりのみや》に戻りました、吾一人ではなく王子様と共に大和に凱旋《がいせん》したいからですぞ」
「その通りです、王子様」
七掬脛が眼を赧《あか》くして叫んだ。
ただ猪喰だけが歯を噛《か》み締め、激情を抑えていた。
吾は何か取り返しのつかぬことをいってしまったのか、と倭建は無言で猪喰に問いかけた。
その場の空気を払うように、猪喰が彼らしくない凜《りん》とした声でいった。
「王子様、賊共への作戦は」
「おう、では告げる、敵は山麓《さんろく》の高台に布陣しているという、まだ我等に気づいていない、低地から高台への攻撃は無理じゃ、火を放つのも一策だが風向きでどう変わるかも分らぬ、となると低地におびき出す、そのためには奴等を無視して、堂々と大和の方に進む、我等が大和に戻るのを恐れ、戦をしかけてきた、放っておく筈はない、慌てて追いかけて来るだろう、兵たちは弓に矢をつがえ、敵の接近を待って一斉に射る、十人ずつ数組に分れ、矢のある限り射る、これまでの戦で、即座に隊列を変える訓練は充分している、その点、奴等には戦の経験がない、緒戦で敵の三分の一は叩《たた》く、次は逃げる敵を追わずに高地を見つけ陣を張り、次の決戦に備える、奴等の弱点は、我等を放っておくことができないことじゃ、その点、我等は奴等を放っておいても良い、これだけでも有利じゃ」
「おう王子、その通りです、あの山に陣を構える敵を相手にするより、平地におびき出した方が良い、吾もそう考えておりました」
武彦が眼を輝かせた。一瞬抱いた不安は消えていた。
七掬脛が唸《うな》るような溜息《ためいき》を洩《も》らした。
「王子様、それ以外の策はありません、あの山は敵にするには不気味です、もし風向きが良く火を放っても、燃え拡がった途端、山が風向きを変え、火は我等に襲いかかりましょう、山から離れれば離れるほどよろしゅうございます」
山人族出身だけに、七掬脛の深い溜息は実感を伴っていた。
「ただ、十人程度を近づかせ、矢を射させてみたい気もする、敵は気づいてないからのう」
「王子様、それはやめた方がよろしゅうございます、賊共の餌にとびつくようなものです、こっちが釣りましょう」
珍しく七掬脛が厳しい口調で止めた。剽軽《ひようきん》さを売り物にしている七掬脛だけに、別人のように思えた。
武日が大きく頷《うなず》いた。
「王子様、七掬脛が申す通りです、最初の策が最良と考えられます」
一同は皆、敵を誘《おび》き寄せる策に同意していた。
「よし、兵を七組に分けよ、弓に矢をつがえ、何時でも射られる準備を整えて行進させよ、なお、猪喰は大裂ら数人を率い、軍の先を進み前方に敵がいないかどうかを絶えず警戒せよ、暫《しばら》くは丘また丘の道が続く、伏兵に油断するな」
倭建の命令は直ちに兵士たちに伝えられた。歴戦の勇士ばかりだ。これが最後の戦になるかもしれないと思い、これまで以上の戦功をあげようと奮いたつ。
実際、戦の経験のない烏合の衆と、歴戦の兵士では、力の差は十対一、というところか。初めから風の音にも怯《おび》えているのだ。
戦場になると道案内人は使えない。初めからその約束である。
大裂が道案内人の代わりに倭建軍を先導した。一行は小太鼓を打ち、鬨《とき》の声を放ち進んだ。
隊長以外はすべて矢をつがえた弓を手にしている。
敵は倭建軍が眼下を通り過ぎても攻めて来ない。どう対応するか軍団の長《おさ》たちが協議しているに違いなかった。
その辺りは比較的平らかで、田畑も結構ある。
一行が志賀谷の丘を越え、天野《あまの》川の支流に達した時、自軍の後方を監視していた間者《かんじや》が、敵軍の攻撃を告げた。
その辺りには幾つかの支流があるが、みな浅い川だ。深いところで胸までというところか。
数本の川を渡ると南北に丘が連なっていた。布陣するには最高の場所だった。
行進中に敵に襲わせるという策は、敵の攻撃が予想以上に遅くなったために駄目になったが、待ち伏せ作戦に切り換えた。
兵二十数人を川沿いの草叢《くさむら》に並ばせた。
彼等の矢は、まず敵兵の倍近くは飛ぶ。
倭建は武彦と丘の中腹の樹林に立った。伊吹山とは二里(八キロ)近く離れているが、その雄大さは衰えていない。
また山が近い、と思うと好《よ》い感じがしなかった。
三軍に分れた敵が、天野川の支流の一つに近づいた。
「武彦、何本もの川を無傷で越えさせるのは勿体《もつたい》ないな」
「その通り、吾が手勢を率い、加わります」
止める間もなかった。丘から戦地を見た時、武彦も倭建と同じ感を抱いたのであろう。武彦軍は手前の川を越えると、一本東の川に進んだ。敵の先軍約百人が喚声をあげながら攻めて来た。
養老軍と異なり、皆、槍《やり》や刀を持っている。ただ何といっても先軍同士の戦は弓矢の強弱で決まる。
「行け、進め、敵は小人数じゃ、押し潰《つぶ》せ」
隊長の叫びにあおられていた兵たちは、まだ矢など届かないと思っている川向うの倭建軍から矢を射られ乱れた。慌てて弓隊が矢を射たが川にも届かない。敵の後軍は先軍が矢を浴びているとも知らず、押し寄せる。
逃げるに逃げられず、刀や槍を振り廻《まわ》して川に突進してきた。
「人形《ひとがた》を射るようなものだ」
武彦自ら強弓で兵を射る。胸は板や皮で覆っているが、顔や太腿《ふともも》は剥《む》き出しだ。
武彦の矢は狙い通り、顔、首、太腿を射、敵兵は絶叫しながら転がる。首に刺さった矢を抜こうと握った途端息が絶え、声も出さずに倒れる兵もいる。
武彦軍は敵の一部が川を越えるまで矢を射続けた。脛の一端でも傷つければ敵兵は戦列から離脱せざるを得ない。
その辺りが歴戦の勇兵と、初めて戦を体験する者との違いだ。
武彦隊だけで三十人ぐらい射《い》斃たおしただろうか。
「退け、矢の補給じゃ、丘に戻れ」
武彦は本隊に最も近い川で敵を待っている倭建軍に、
「四、五十人は斃したぞ、この隊も負けぬように射よ、敵兵は戦を知らぬ、刀、槍を振り廻して来るが、隙だらけじゃ、脚を折って走る鹿の群れじゃ、思う存分叩け」
大声で激励した。
武彦は実戦の様子を詳しく倭建に告げた。
この丘での戦では、敵兵の半分は矢傷を受ける、後は白兵戦だが、敵兵は怯えているので、我軍が一丸となって攻撃すれば、敗走する。
「厳正にして公平に予想、楽観的な面は少しもありません」
武彦は、周囲の兵に聞かすべく、大声で報告した。
副将軍が自ら矢を射た後の報告である。兵士たちは、彼方《かなた》の敵を睨《にら》み、早く来い、早くじゃ、と闘志を滾《たぎ》らす。
ただ戦の展開は予想と少し異なった。
最初の戦で倭建軍の強さを知った敵の隊長は、待ち受ける倭建軍を避け、軍を北方に散開させ川を渡った。
川をはさんでの戦はまずい、と判断したのであろう。
倭建はすぐ七掬脛に、北方に廻った敵兵に備え、二十数人の兵を移動させた。
「七掬脛、鼻を叩く、決戦はこの丘、忘れるな」
「分っております」
敵の第三軍と四軍が一体となって川を攻めて来た。矢による損害を少なくしようと何ヶ所かに散って川を渡る。そんな敵兵に待ち伏せていた倭建軍は懸命に矢を射るが、第一回目ほどの効果はない。矢の届かない場所に散り川を渡るからだ。
うかうかすると待ち伏せ軍は左右から包囲される。第三軍と四軍は武人集団である。物部直属の兵かもしれない。
「川の軍を戻らせよ、鳴らせ」
倭建の命令で退却の小太鼓が打たれる。弓矢の兵たちは丘に戻ってきた。数人が欠けていた。
遠くに廻った敵の第二軍を迎え撃った兵たちも戻って来た。この方は負傷者は少ない。隊長は、敵には余り戦意がないようだ、と告げた。二十人前後に矢傷を負わせたらしいので、少なくても、矢だけで敵に与えた損害は五十人以上だ。
「よし、敵が丘の上に攻めて来るまでに、百人以上は矢で斃す、敵は半数近くを失うことになる、おそらく敵は怯え切っているであろう、我等はそんな敵に総攻撃をかけ粉砕する、いいか、弱腰の敵は数は多くても烏合《うごう》の衆じゃ、大和に戻る前の大暴れ、一人残らず斃し、大和を震駭《しんがい》させよ」
倭建の声は全軍に響き渡った。
丘には下段、中段、上段と射手が布陣していた。まず下段の兵が、三十歩ほど手前に近づいた敵兵に矢を浴びせる。
下段といっても平地より十歩は高い。皆、繁みに隠れているので射手の姿は見えない。それでも喚声をあげながら刀や槍を振り突っ込んで来た。武人集団である。
矢が当たるとよろめいて倒れる。下段が次の矢をつがえる間に中段が射る。続いて上段だ。倭建軍から放たれる矢は切れ目がない。まさに降り注ぐ豪雨のようである。
長い東征の間に弓矢が戦にとってどんなに大事であるかを倭建の全軍は知っている。弓矢の訓練は欠かしたことがない。一戦あれば新しい矢を補充した。
一人で二十本から三十本の矢を矢筒に入れていた。
敵も攻撃だけでは無理だと四方に散り、矢を射るが、訓練ができていない。それに丘の雑木林や灌木《かんぼく》、竹藪《たけやぶ》に潜んでいる倭建軍の兵士がよく見えない。ただ矢が放たれた場所に射返すが、倭建軍は矢を射ると伏せて新しい矢をつがえるので、敵兵の矢は当たらない。飛んできても木に当たって落ちたり草叢に刺さったりする。
負傷者を増やすばかりだと判断した敵軍は退却しはじめた。軍を編制しなおし、攻撃する積りであろう。
この好機を逃す手はない。
「攻撃じゃ、全滅させよ」
倭建は刀を抜いて、行け、と振った。
その時、新しい甲冑《かつちゆう》を纏《まと》った隊長の顔を見た。物部十千根である。
「十千根、吾が殺す」
倭建は絶叫し、丘を駈《か》け下りた。
長い東征の間の憤りがこの瞬間に爆発した。倭建は何時《いつ》も山野を走り廻っていた十余年前の若者に戻っていた。十千根だけは何が何でも自分の手で殺す、と走った。全軍の指揮を執らねばならない大将軍の立場を忘れた。弟橘媛《おとたちばなひめ》が死んだのも、宮簀媛《みやすひめ》を狂わせたのも、すべて物部十千根のせいに思えた。
どんな場合にも失わない状況把握の冷静さが消えていた。宮簀媛との愛欲に溺《おぼ》れた時のように、ただ血だけが滾《たぎ》っていた。
どのぐらい走ったのか自分でも分らない。
ふと気づくと陽は落ちかけ西の空が茜色《あかねいろ》に染まっている。かなりの高台である。どうやら物部十千根を追って伊吹山に上っていたらしい。
十千根は十歩ほど上の岩に坐《すわ》っていた。
陽に新しい甲冑が煌《きら》めく。刀の柄に顎《あご》を載せ悠然と倭建を見下ろした。心の臓が破裂しそうに鳴っているのに十千根は悠然としていた。十千根はすでに五十歳である。顔には皺《しわ》が刻まれ眉《まゆ》にも白いものが混じっていた。それにも拘《かかわ》らず息が乱れている様子はない。
「十千根、許さぬぞ、勝負をしろ」
十千根は白い顎髭《あごひげ》をしごいた。十千根の顔ではなかった。老いているにも拘らず眼光は炯々《けいけい》とし、両眼からは数十本の針のような矢が放たれていた。冑《かぶと》の代わりに白い頭巾《ずきん》を被《かぶ》っている。見えない矢が身体のあちこちに刺さり痛い。
「誰じゃ、十千根ではないな、名を名乗れ」
地の底から這《は》って出たような声で老人は笑った。坐っている岩が揺れ山地が鳴った。
「倭建王子、分らぬのか、この吾《われ》が分らぬとは、王子の強運も遂に尽きたか、王子は一生、強運の星のもとにある、と思っていたが、憐《あわ》れだの、所詮《しよせん》、たんに勇猛だった王子に過ぎなかったのか……」
「何だと愚弄《ぐろう》するのか、抜け、その刀を」
「刀など抜く必要はない、運のつきた王子はもう敗者だ、今少し手強《てごわ》いと思ったが」
老人は岩から立つと憐れむように見、白い霧を吐いた、霧は白い生き物のように倭建を取り巻く。霧によって身体《からだ》が宙に持ち上げられた。
「怪しい術を使うな、そうか分ったぞ、山の神か……」
「やっと分ったか、この山の神じゃ」
「伊吹山の神が何故吾に」
「そちは愚かだった、確か王子は須恵の地で戦を捨てた筈《はず》じゃ、兵も半分以上も帰した、それなら何故、吾の山に布陣している軍と戦った、あんな軍は放って大和《やまと》に戻れば良い、王子の勇猛ぶりは全国に鳴り響いている、大和に近づくにつれ王子に味方する者が増えるのじゃ、戦わずして王子は大和の王者となり凱旋《がいせん》できたのじゃ、愚か……」
倭建は地肌に叩《たた》きつけられた。砕けた岩で骨の折れる音がした。息が詰まり眼から火花が出た。何時の間にか伊吹山の中腹にいた。
山の神は相変わらず十歩ほど上にいる。
「許せぬ、吾はそなたに敬意を払い山に布陣する敵を攻撃しなかった、それなのに」
倭建は無意識に腰の草薙剣《くさなぎのつるぎ》を探していた。山の神は嘲笑《あざわら》うようにいった。
「草薙剣はない、宮簀媛が隠した、これも媛に溺れ悦楽をむさぼった報いじゃ、人間はのう、たとえ王者であろうと一人で勝手に生きられぬ、自分が生きている間に撒《ま》いた種は実を結ぶ、好《よ》い実もあるであろうし、悪い実もある、王子はどうやら悪い実を得たのう」
「何故じゃ、何故宮簀媛は草薙剣を隠した?」
「王子が尾張を出ない、と思った、かりに出ても、あの剣がないと戦に負け、自分のもとに戻ってくる、と願ったのじゃ、女人は業が深い、王子ほどの男子《おのこ》も、それが見抜けなかった、淫欲《いんよく》のせいでのう」
神は笑った。
森林が慄《ふる》え岩が砕け、地が鳴った。
「淫欲だけではない、あの時は……」
「ほう、あの時はどうだったのじゃ」
「媛がいとしかった」
「恰好《かつこう》の良いことをいうな、色香に溺れ、悦楽を求めたのではないか、王子と宮簀媛との間に本物の恋などない、あったのは邪恋だけじゃ」
「うぬ……」
返答に詰まった。総《すべ》ては、その一言に込められているような気がする。だが、邪恋に悩み苦しむからこそ人間といえるのではないか。
そうなのだ、吾は神ではない、人間なのだ、と倭建は自分に呟《つぶや》いた。神を相手に論争してもどうにもならない。結論など出なかった。それよりもこの伊吹山の神は吾を嘲笑《ちようしよう》し、憎んでいる。
何故か、と倭建は懸命の気力を絞って山の神を睨んだ。
「吾は伊吹山での戦は避けた、それなのに何故、吾を山に誘い、敵視するのか!」
「近江の兵たちは伊吹山を神の山として信仰し、祀《まつ》っている、その兵たちを皆殺しにした者は許せない、放って大和に行けば戦は避けられたのじゃ」
「物部の兵もかなりいた」
「今回は物部十千根も少しやり過ぎた、うむ、そろそろ眠る時がきた」
山の神は倭建に背を向けた。
「待て」
と叫んだが再び白い霧に覆われ、周囲が見えなくなった。そのまま倭建は失神した。誰かが自分の名を呼びながら身体を揺すっている。激痛が走り眼を開けた。
「王子様」
猪喰だった。後ろに大裂の顔も見える。
「おう、吾はどうした?」
「敵軍の中に突入され、独り伊吹山の方に走られたので、大裂と後を追って参りましたが、まるで風に乗ったような速さで、山麓《さんろく》で見失い、一夜明け、探していると、王子様が下りて来られたのです、しかし傷を負われている、どうなさいました」
「無念じゃ、倭建ともあろう者が幻を追い、闘って敗れたとは、吾の名もこれで終りか」
拳《こぶし》を地につけて立った。左の胸骨に痛みが走った。歯を喰《く》い縛って堪《こら》えた。だがかなりの急斜面なのでよろけた。足で支えると折れた骨の先が肺の臓を刺すように痛む。
「御免」
猪喰が倭建の片腕を取り自分の肩にかけた。
「王子様、人間に敗れたのではありません、相手は変化の術を使う神、少しも不名誉でありませぬ、王子様は九州一の勇者、熊襲建《くまそたける》にも勝たれた、倭国《わこく》で王子様に勝る武術者はいますまい、人間は神を避けることが可能な場合もあります、神を斬ろうとしても斬れません、そのことは誰でも知っています、恥ではございませぬ」
猪喰の一語一語は乱れた胸に沁《し》みてくる。旨いことをいう男子じゃ、猪喰は、と倭建は感心した。それだけ心が鎮められたのだろう。肩を借りていることにも抵抗はなかった。猪喰と出遭った時から、こうなる運命だったのかもしれない。
「戦は?」
「多分、勝利に終っているでしょう」
「武彦たちは吾を探すのに懸命であろう」
「王子様の御意向通り、大和に向かっているかもしれません」
「そうだな、そういって武彦に怒られたのう、吾は何時も一緒ではないかと……ひょっとすると吾はあの時、別離を予感していたのかもしれぬのう、痛む、少し横たわりたい」
大裂が木の枝や草を切り、柔《やわ》い臥所《ふしど》を作った。大裂は倭建の傍に跪《ひざまず》いた。
「王子様、傷の手当てが必要でございます、骨に罅《ひび》が入っているのなら、布で巻かねばなりません、やつかれは傷の手当てに慣れております、上衣をお脱がししとうございますが」
「うむ、頼む、宙から地に落ちた時、骨を折ったのかもしれぬ」
猪喰も手伝い上衣と肌着を脱がせた。背中から肋骨《ろつこつ》にかけて真赫《まつか》に脹《は》れ、熱くなっていた。
「この場所です、冷水で冷やさねばなりません、その後、布で固く縛りましょう、その間動くのは禁物です」
髭《ひげ》だらけで何処《どこ》か熊に似ている。まさに泣く子も黙るという容貌《ようぼう》だが不安気に強張《こわば》っていた。折れた骨が肺の臓に刺さっていたなら、どんなに優れた医博士《いのはかせ》でも治療は不可能である。
痛みは断続的に続くが、自分でも不思議なほど冷静だった。自分をこんな目に遭わせた神への憎悪も憤りもない。生まれて初めて闘った相手に敗れ、これまで血を滾《たぎ》らせていた何かが消えた。その何かがどんなものであるかは倭建にも分らない。ひょっとすると自分の運命に向けていた憤りの牙《きば》かもしれない。
母を童子時代に喪《うしな》った倭建は母親の愛情を知らない。父王にはうとまれ、兄・大碓《おおうす》との間も旨くゆかなかった。
倭建は家族の愛を知らないで育った。倭建の武術が優れたのも、底流に、人間は己れ独りの力で自分を守らねばならない、という孤独感のせいかもしれなかった。闘志の源泉もそれであろう。自分を守るには負けてはならなかった。
だが負けた。相手はどんな勇士も勝てない神であった。
神に負けたか、と呟いていると奇妙なおかしさが込み上げてきて、腹も笑いそうだった。痛みも強くなる。
大裂は倭建を乗せる板を作り、猪喰と共に担いだ。幾ら強情な倭建も暫《しばら》くは歩けそうにない。
一刻《いつとき》ばかり下りただろうか。林と薄《すすき》の原との間に清水が湧いていた。
大裂は早速その清水で脹れた部分を冷やし、藁と草で小屋を作った。雨露をしのげる程度だが、この季節なら養生の場としては充分である。
二人は川で魚を釣り、林で鳥や鹿を獲《と》るので、食物に不自由はなかった。
冷やした効果で脹れがひき、痛みも心持ち薄らいだ。
途端に大和に戻りたくなった。
武彦、武日、七掬脛がどうしているかも気掛かりである。
この程度の痛みなら板に横たわらなくても歩ける。
二人は板を輿《こし》と思うべきです、という。
「王子様が輿に乗られて何がおかしいのですか、当然でしょう」
猪喰に強くいわれると、我意を強く通せなかった。
「分った、歩けなくなれば輿に乗ろう、だが歩けるところは歩く、輿にばかり乗っていては身体がなまるのだ、それと、帰途は伊賀路を通りたい、伊吹山が睨みをきかす近江路は何となく気が重い」
大裂は、自分にまかせて欲しい、と胸を叩いた。
「王子様、尾張は避けましょう、養老山脈と鈴鹿山脈の間の牧田川沿いに南下し、伊賀路に出ます、やつかれの故郷のような地、御安心下さい」
大裂は人差指で髭《ひげ》を撫《な》で嬉《うれ》し気にいった。無理もない。その辺りは山賊であった大裂にとっては故郷の地であった。
牧田川沿いの道は交易の旅人が通るが、当時は、道といえるほどのものではない。獣途《けものみち》を少し広げた程度である。平坦《へいたん》ではなく時には山に登るような急坂も多い。
伊賀路に近づいた時、獣の皮を纏《まと》い、刀や槍《やり》を持った曲者《くせもの》が竹藪《たけやぶ》から跳び出した。
「曲者か」
倭建の声に大裂は腰をかがめ指差した。彼らは土下座している。
「王子様、かつてのやつかれの部下です、山賊稼業はやめましたが、朝日の新王になじめず、山で暮らしております、やつかれが王子様の従者として伊賀路に来るのを知り、迎えに参った次第です、輿は四人で担ぎますゆえどうかお気を遣わずお休み下さい」
多分、大裂が知らせたのであろう。食事の獲物を獲るため大裂は何度か山に入っている。倭建に気を遣わせぬよう連絡したのであろう。
「うむ、今の吾《われ》には心強い味方じゃ」
大裂は褒められた童子のように嬉し気に眼を細め、部下を呼んだ。部下たちに命じ、板に棒をつけ、四人で担げる輿にした。かなりの坂でも掛け声を放ちながら上り下りする。
輿の震動に慣れたのか、倭建は何時か眠っていた。
童子の倭建が川沿いの道を駈《か》けている。大和周辺では見たこともない川である。河原には拳大の綺麗《きれい》な石が多く、玉のように光っていた。故郷の印南《いなみ》の川である。川には無数の魚が泳いでいて、童子の倭建は手製の竹槍で突き刺し、焼いて食べた。兄の大碓王子は身体こそ、倭建よりも大きいが、魚を刺すのは不器用だった。
倭建の獲った魚を横取りし、よく喧嘩《けんか》になった。そんな時、
「くだらないことで兄弟が喧嘩をしてはいけません」
二人を優しくたしなめるのは、玉のように輝く若い母だった。母はオシロワケ王の命令に従わず、播磨《はりま》の印南に居続けた。
[#改ページ]
二十一
何処《どこ》からともなく大裂《おおさき》の部下が集まり、その数は十人近くになっていた。
再び倭建《やまとたける》はうとうととした。今度は夢も見なかった。籠《かご》に乗り空中を漂っているような感じである。雲の中から妙《たえ》なる琴の音が聞えてくる。鳥も囀《さえず》っているが柔らかに笛を吹いているようだった。
気持良かった。身体が甘く痺《しび》れてくる。ためしに大きく息を吸ってみたが、胸は痛まない。
ふと吾《われ》はもう死んでいるのか、と思った。このままでは大和《やまと》に戻れない。
丹波猪喰《たんばのいぐい》の名を呼んでみた。
「王子様、暫くお眠り下さい」
猪喰の顔が傍にあった。
「いや駄目じゃ、このままでは間違いなく死ぬ、吾は痛みを受けねばならぬ、苦痛こそ、吾を生の世界に呼び戻すのだ、吾は輿から降りる、歩くのじゃ」
猪喰が悲しそうな眼をした。
猪喰を部下にして以来、こんな猪喰の顔を見たことがない。
「山の中の険阻な道といえぬ道でございます、どうか今暫く輿に」
「そうじゃ、大裂がいるであろう、大裂はこの山は庭のようだといっていた、山から下りる道を探すようにいえ、野に出たなら輿から降りる、これは約束じゃ、それまでは輿に乗る」
「お待ち下さい」
大裂が来たらしく話し声がする。猪喰は何故あんなに悲しそうな顔をしているのか。そうか、吾と別れを告げているのではないだろうか。ひょっとすると、もう死んでいるのではないか、と折れた骨の辺りを叩《たた》いてみた。微《かす》かに痛むが、さっきとは大違いである。どうも、感覚が薄れてきているようだ。
くそ、吾は生きるぞ、このままでは死ねぬ、と輿から降りようとしたが身体が動かない。
猪喰を呼ぼうとした時、戻って来た。
「王子様、大裂は野に出る道を知っているようです、ただ急な坂道なので、輿は担げません、大裂をはじめ、王子様を背負わなければならない、と申しておりますが……」
「分かった、大裂を呼べ」
髭だらけの大裂に倭建はいった。
「苦労をかける、背負ってくれ」
熊男にも似た大裂の顔が輝いた。
「そうか、では頼む、身体が痺《しび》れて動かぬ、輿に乗り過ぎた、どうも吾に輿は合わぬのだ」
大裂が手で鼻をこすった。鼻孔が大きいせいか空気が洩《も》れ屁《へ》に似た音がした。倭建は思わず笑った。少し身体が軽くなったような気がした。
大裂が頭を掻《か》きながら幅広い背を向ける。部下たちが倭建の身体を持ち上げ大裂の背に移した。暖かかった。失われていた感覚が甦《よみがえ》り、胸や脚も痛んだ。
大裂の部下たちが前後左右を取り巻く。
彼等は一体となり行動した。大裂は倭建を背負っているので両手は使えない。ところが部下たちが大裂の手となるのだ。急斜面にかかると下に部下が下りて大裂を支える。また足下に身体を丸め、踏み台となる。見事な業だった。
半刻《はんとき》足らずで山と野と海を望む高台に出た。風が吹いていた。
白い糸を重ねたような白波を立てた海は知多《ちた》半島まで続いている。
岸辺の津《つ》は後の四日市である。
今下りて来た養老の山々は南西の鈴鹿山脈に続く。その辺りは、何万年も前から、山々が流した土砂が、堆積《たいせき》してできた野である。
海を眺めながら倭建の脳裡《のうり》には、東征の旅で初めて見た巨大な岩塊のような鈴鹿の山々が浮かんだ。
大和はもう近い。
「野に出たなら吾は歩く、杖《つえ》さえあれば大丈夫じゃ、歩くぞ」
猪喰は澄んだ眼で倭建を凝視《みつめ》た。何時《いつ》もの眼ではない。遥《はる》か彼方《かなた》にいる倭建を刻印でもしているように眺めていた。
「分かりました」
猪喰は大裂に命じて杖を作らせた。
半刻後に野に出た。
杖を手にした倭建は足を引きずりながら、一歩一歩、大和に向かって進む。
大和に何が待っているのか、誰にも分からない。吉備武彦《きびのたけひこ》、大伴武日《おおとものたけひ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》などは今頃どうしているだろうか。すでに乃楽《なら》山あたりで、大和へ進撃する準備を整えているかもしれない。木津川周辺から山背《やましろ》川、宇治には伝統的に反大和派が多い。ただ、倭建がいないと、集まる兵士は限られる。
十歩ほど歩くと息が切れた。倭建は立ち止まり前方を睨《にら》む。右側は野を圧するような鈴鹿の山々だ。東征に出た時と異なり、今にも地響をたてて野を潰《つぶ》しそうな獰猛《どうもう》さが感じられた。
そうか、吾は疲れているな、と自分に呟《つぶや》く。物心がついて以来、絶えず戦ってきたような気がした。疲れたのも無理はない。眼の前に小丘がある。鹿ならば数歩で飛び越えられそうな低さだ。野のうねりといっても良い。木は殆《ほとん》どなく草が覆っている。兎が飛び出し倭建の前を駈《か》け抜けて走った。普通なら反対側に逃げる筈《はず》である。吾を仙人と間違えているな、と倭建は微笑んだ。
大裂が前に廻《まわ》り蹲《うずくま》った。倭建を背負って丘を越える積りらしい。
「大裂、大丈夫じゃ、これは丘ではない、野だ、吾は杖で歩く」
大裂は驚いて猪喰を見た。猪喰は黙って、王子様の御意に従え、と頷《うなず》く。
倭建は杖を前に出し、身体をかけて足を踏み出す。土が柔《やわ》いのか杖が土中に入り込み、身体が前にのめった。そのせいか一歩進むのがいやに重たい。息をはずませながら全力で杖を握り足に体重をかける。前に進めた。この調子じゃ、吾は歩ける、大和に戻るまでには傷も癒《い》える、と呟いた。
土にめり込んだ杖を抜き、前の草叢《くさむら》に突き立てた。力が余ったのか腕が痺れる。低い丘の上に立った時は噴き出した汗で身体が濡《ぬ》れていた。
空は青いが白いちぎれ雲が西に流れている。まるで走っているように見えた。鈴鹿の山々はその雲を鷲掴《わしづか》みにして食べそうな形相をしていた。山が怒っている。
前方は波のように小丘が連なっていた。
猪喰が水の入った竹筒を差し出した。
「うむ、丁度|喉《のど》が渇いたところだ」
喉を鳴らして水を飲んだ。身体の隅々までが待っていたように水を吸う。身体が軽くなった。
「ここは何処《どこ》じゃ?」
大裂に訊《き》いて猪喰が答えた。
「能煩野《のぼの》と申します」
「そうか、のぼのか、好《よ》い名前だ、大和はもうすぐだのう」
「はあ、ただ鈴鹿の関あたりで一泊せねばなりません、大裂の部下が宿泊所の準備に走っております」
「うむ、そういえば陽が西に傾いているのう、大和に戻り吾の顔を見た父王は驚愕《きようがく》するに違いない、一体どんな顔をなさるだろうか……」
「王子様、オシロワケ王様は重態です、もし王子様に会われても、もうお分りにならないでしょう」
「そんなに悪いのか」
「ヤサカノイリビメさえ、侍女と間違われることがおありとの噂です」
「父王がヤサカノイリビメを侍女と、しかしヒメは老婆じゃ、これは驚いた、そこまで呆《ほう》けられたのか、父王が皺《しわ》だらけのヤサカノイリビメの手を握り、寝具に入れようとなさる、多分、ヒメは吃驚《びつくり》して濁った鳥のような声をあげるに違いない、いや、滑稽《こつけい》じゃ」
水の精気が体内を駈け巡ったせいか、元気を取り戻した倭建は哄笑《こうしよう》した。
猪喰は潤んだ眼に微笑を浮かべた。
「はあ、滑稽でございます、王子様を女人と間違われるかもしれません」
「こいつ、何をいう、気持が悪いぞ、しかし父王は女人好きであった、もうけた王子、王女は数十人だが、閨《ねや》を共にした女人は数百人、いや、千人を越えるであろう、女人の毒に当たって呆けられたのか、父王はどうでも良い、物部十千根《もののべのとちね》あたりが、ヤサカノイリビメやイホキノイリビコを擁し、天下を乗っ取るのは許さぬ、さあ、大和に行くぞ」
倭建は勢い良く杖を地に突き立てた。先は斜面である。杖の先が地につくかつかぬうちに体重を杖にたくした。猪喰が慌てて手を差し伸べたが間に合わず斜面を転がり落ちた。草に覆われた丘には倭建を遮る木がない。
「王子様!」
絶叫した猪喰が跳びついたその瞬間、倭建は突き出た石に胸を打った。
白い矢が倭建の胸から脳裡を貫いた。何が起こったのか分らない。手にしていた杖は二尺ほど離れた草叢に落ちている。
ののしり声がした。その方を見ると兄の大碓《おおうす》王子が嗤《わら》っている。大人の身体《からだ》だが顔は童子である。
「弟よ、吾はおぬしと一緒に生まれたばかりに不幸だった、母はなぜかおぬしを可愛がった、何故だ、理由が分るか、吾は知っているぞ、おぬしの顔が母によく似ていたからじゃ、残念ながら吾は父王に似ていた、だから母は冷たかった、父王も吾を憎んだ。多分、自分の顔が嫌いだったのだろう、弟よ、その様《ざま》は何じゃ、だらしなく横たわりおって、黄泉《よみ》の国に迎えてはやるがこれだけはいっておく、おぬしは英雄などではないぞ、皆にはやされ英雄面をしていただけじゃ、真の英雄はくよくよ悩んだりはせぬ、だがおぬしは女人関係一つでも悩んでいる、そんな英雄がいるものか、女人に関しては父王の方が英雄じゃ」
大碓王子の声が次第に遠ざかり、顔もさだかではない。白い霧が立ち昇った。
大碓の名を呼ぼうとしたが胸が痛み声にならない。猪喰が囁《ささや》くようにいった。
「王子様、御無理は禁物です、少しお休みになられ、輿《こし》にて大和に……」
「いや、歩く、輿は性に合わぬ、木の棒を」
「今は御無理です、ではやつかれが背負います」
「猪喰、東征大将軍になった身が、背負われて大和に戻れるか。立てる、歩ける、あの棒を渡せ」
猪喰は一瞬眼を閉じて考えたようだ。
「分りました」
倭建は渡された棒を掴《つか》んだ。身体を起こそうとしたが胸に激痛が走った。その痛みが自分の身体への怒りを呼び起こした。棒の先で胸を突いた。脳が裂け眼に火花が散った。
痛みが死を呼ぶのなら呼べば良い、死など恐れぬ、吾《われ》が恐れるのは痛みに負けることだ、と自分に憤った。
眼の眩《くら》むような痛みと戦いながら上半身を起こした。胸骨がずれて鳴った。いや、折れた骨先が肉を裂いたのかもしれない。だが呻《うめ》きが洩れるのだけは抑えた。
大きな息はできない。棒の下部を持ち土に立てた。痛みで気合いは込められない。だが倭建は膝《ひざ》を折り棒に縋《すが》るようにして立った。流石《さすが》に肩で息をした。相変わらず激痛は続いている。
「王子様、まだ下りでございます」
猪喰が耳の傍で大声を放った。
「おう、分っている」
濁り、吐き出すような声だ。
棒を上段に持ち土に突く。足を前に出しながら、倒れれば恥だぞ、と自分にいい聞かせる。
従う者は忠臣ばかりだ。誰に恥かしいというのか、と自分に呟く。
「自分自身にだ」
激痛を突き破った声がする。
猪喰は倭建の頬に浮かんだ凄愴《せいそう》ともいえる笑みを見て息を呑《の》んだ。
人の胸中を読むことにかけては自信があった。その表情で大体見当がつく。
だが今、この状態で倭建は何故笑ったのか、猪喰にも分らなかった。
倭建は激痛と誇りとの闘いとなった。
呻きを噛《か》み潰し、呑み込んで食べた。余りにも痛みが続くのでゆっくり噛み潰す余裕がない。
時には誇りが勝ち足取りが確かになる。
猪喰もただ茫然《ぼうぜん》として従うのみだった。
また小丘を越えた。
倭建は転ばなかった。
大裂が猪喰に囁いた。
「王子様は武の鬼神であられます」
「うむ、それだけではない、人間の情を持っておられる、ゆえに吾は生命を捧《ささ》げたのだ」
大裂は嗚咽《おえつ》を洩らした。
「王子様を狙う奴《やつこ》たちを皆殺しにしとうございます」
「殺す、まず物部十千根じゃ、必ずな」
突然、倭建の足が速くなった。まるで風の鬼神に乗ったようである。
部下たちは慌てて追いかけた。
倭建の誇りが激痛を斃《たお》したのだろうか、痛みが消えた。胸の辺りは重いが、深々と呼吸ができる。重い鎖を解かれたように進んだ。猪喰たちも追いかけるのに懸命だった。
奇蹟《きせき》が起こったと皆信じた。
ただ激痛が消えた時から周囲の風景が変わっていた。鈴鹿の山々や連なる丘が倭建の眼から消えていた。広々とした野が大和の方に拡がっている。遠くに、三輪山、香具山、耳成《みみなし》山、それに畝傍《うねび》の山々が見える。そういえば、平群《へぐり》の山々や、稜線《りようせん》のはっきりした生駒の山々が横たわっている。
大和は近い、もう眼の前なのだ。
いよいよ大和だ、と倭建は足を速めた。歩きながら倭建は口ずさんでいた。
倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し
そうなのだ、倭の国だけは吾が王者となり治めねばならぬ、武彦、武日、七掬脛、間もなく戻るぞ、敵を斃し吾を迎えよ。
何故、自分がこんなに速く走れるのか倭建は信じられなかった。
倭建の足は地から離れ、身体が浮いていた。案内するように眼の前を一羽の鳥が飛ぶ。
弟橘媛《おとたちばなひめ》だった。どうして媛が。眼をこらすとまるで煙が散るように姿が消えた。身体が一段と軽くなり、上空に昇った。何という身軽さだろうか。これまで背負ってきた総《すべ》てから解放された感じだった。
銀のような雲が流れてきて褥《しとね》になった。雲は西の方に流れた。数え切れない白鳥が飛んできて倭建を取り囲んだ。
前方から同じように雲に乗った男子が近づいてきた。顔に見覚えがある葛城宮戸彦だった。倭建を見て懐しそうに笑う。
「何だ、生きていたのか、相変わらず女人を追い掛けていそうな顔だな、吾は大和に戻るところじゃ」
「御同行致します」
また雲に乗った穂積内彦が近づいてきた。長い竹を持っている。内彦は竹竿《たけざお》で二階の屋根まで軽く跳ぶ。
「おう内彦、病が治ったのか、元気そうじゃ、雲の上で跳べるか?」
「容易《たやす》いことです」
内彦は竹竿を雲に突き立てた。内彦の身体が宙に飛び、一回転すると雲に下りた。
「見事じゃ、内彦、妹の弟橘媛は吾を助けるため海に跳び込んだ、無念じゃ」
「いや、ここにおります」
さっき消えた筈の弟橘媛が微笑みながら叩頭《こうとう》した。話しかけているが何をいっているのかよく分らない。
「媛よ、耳が悪くなったようじゃ、大きな声で話せ」
「お待ちしていました」
弟橘媛は嬉《うれ》し気に両手を差し出した。倭建も手を差し出したが、指先が届かない。
倭建は焦って上半身を倒した。前のめりになり雲から落ちた。
何処から飛んできたのか猪喰が抱え、雲に乗せた。猪喰は宙に浮いている。
「猪喰か、何時もと同じだのう、吾が危くなると何処からか現われて救ってくれる、礼をいうぞ」
「王子様、やつかれは隠れの身です、礼など御無用でございます」
猪喰の眼は何故か悲しみを宿し、遠くを眺めていた。
倭建は何故か急に眠くなった。
猪喰はあっと自分の眼をこすった。走っている倭建から白い鳥が羽撃《はばた》いて空に舞い上がったのだ。ゆっくり回転していたが西の方に飛び去る。雲が茜色《あかねいろ》に燃え、白鳥は紅に染まった。羽撃く度に輝き、猪喰は眼が眩《くら》みそうになった。
「おう」
大裂も口を開け、燃える白鳥を眺めている。白鳥というよりも赤鳥だった。
ただそれは幻だったのかもしれない。一呼吸もしない間に白鳥は矢のように飛び姿を消した。
倭建を見て猪喰が愕然《がくぜん》とした。姿が消えているのだ。
「大変じゃ、王子様がいないぞ、走れ」
猪喰の叫び声に皆が一斉に走った。
倭建から白鳥が飛び出した時、王子は百歩ほど先を走っていた。白鳥に気を取られている間に見失った。いや白鳥と共に倭建は走っていた。猪喰が気を取られたのは白鳥が紅に燃えた時だった。
倭建が越えた小丘に立つと下の灌木《かんぼく》の傍に仰向《あおむ》けに倒れていた。
「王子様」
猪喰はほっとして声をかけた。
倭建は仰向けに倒れまるで眠っているような穏やかな顔だった。
ただ微動だにしない。猪喰は気を殺し手を倭建の胸に置いた。冷気に襲われ身体が固くなり思わず手に力が入った。胸の骨が折れているのだ。眠っていても呻《うめ》くだろう。
鼓動がなかった。
猪喰は自分の足が土の中に落ちていくような気がした。信じられないが、倭建は死んでいた。両|拳《こぶし》を握り膝をつくと空を仰いだ。もう白鳥はいない。
あの白鳥は倭建の霊であったのか、それなのに王子は前に進んでいた。あの時、気づくべきだった、と猪喰は歯軋《はぎし》りした。
風が木の葉を運んできた。微《かす》かな音をたてて顔の傍に落ちた。
猪喰は倭建の声を聞いた。
「猪喰よ、死ぬ時は独りで死にたい」
「王子様」
「分るだろう、吾もそちと同じように、孤独なのだ、周りに人がいると落ち着かぬ、葬るのなら静かに頼むぞ」
幻聴かもしれないがはっきりしていた。猪喰は嗚咽を噛み殺した。
倭建の一言、一言が身に沁《し》みる。王子が片腕のように寵愛《ちようあい》してくれた気持が、今、はっきりと分った思いだ。だからこそ倭建は猪喰を、側近であると同時に、自由に活躍できる間者《かんじや》にしたのだ。
自分が倭建に惹《ひ》かれていたのも、王子が孤独の人だったからだろう。王子は死んでからそれを口にしたのだ。
王子様、口の中で呟《つぶや》きながら猪喰は穏やかな倭建の動かぬ顔に叩頭した。一粒の涙が倭建の頬を流れている。王子様はまだ生きている、と顔を寄せると新しい涙の粒が王子の眼尻《めじり》に滲《にじ》んだ。はっとして猪喰は眼を閉じた。その涙は倭建が流したのではなく猪喰が落したものだった。
猪喰たちは倭建が死んだ小丘に穴を掘り遺体を葬った。仮の埋葬である。
三日間、小川で身を清めては喪に服した。
何《いず》れ倭建は大和か河内の巨大な墳墓に葬られる、それまでは猪喰たちが埋葬した小丘で仮眠を取って貰《もら》わねばならない。それも安らかに……。
その日猪喰は最後の別れを告げた。
「安心してお眠り下さい、やつかれは必ず物部十千根を殺し、山背に匿《かくま》ったタラシナカツヒコ王を、次の王者に致しましょう、王子様の血統は絶えることがございません」
猪喰は大声で叫んだ。
大裂たちも叩頭し拳で涙をぬぐった。
三日後、かつて丹波|森尾《もりお》が潜んでいた音羽山の山頂近くの洞窟《どうくつ》にいた。
丹波森尾は猪喰の縁者で、丹波系のイニシキノイリビコ王が、オシロワケ王や物部氏により河内に追放されたのを恨み、オシロワケ王の暗殺を企てていた。
まだ小碓《おうす》王子と名乗っていた倭建に殺されたが、すでに老いた森尾に、オシロワケ王を殺す力はなかった。
運命とは不思議なものだ。
物部十千根を討ち、イニシキノイリビコ王の霊を安めようと大和に出てきた丹波猪喰は、倭建の部下になり、王子を追い詰め、死に到らしめた物部十千根を殺そうとしている。
オロシワケ王は病が重く、何時亡くなるか分らない身だ。討つべきは、物部十千根のみになった。十千根のために、女人に子を産ます能力を失った。
天敵とは十千根のような人物をいうのではないか。
そうなのだ、イニシキノイリビコ王、丹波森尾、そして倭建の仇《かたき》だけではない。自分のためにも復讐《ふくしゆう》の剣を振わなければならない相手である。
紅葉はますます深く、咲き落ちる花に似ていた。陽も紅葉に染まって見える。
猪喰は洞の中で十日過ごした。そろそろ木枯しの季節である。心なしか吹く風が荒くなり紅葉も深紅の葉も何処か色|褪《あ》せてきた。
猪喰は大裂たちと共に、連日のように石上の近くにある十千根の屋形を探り、十千根の行動を調べた。
吉備武彦らの軍は山背と大和の境にある乃楽山に布陣し、宇治や山背川(淀川)流域の兵を集めているようだった。
武彦が乃楽山を越え、大和を攻撃しないのは、噂では、行方不明になった倭建を探しているかららしい。
何といっても、東征大将軍、倭建は皇太子格で、武彦らにとっては錦《にしき》の御旗であった。
十千根はヤサカノイリビメ、イホキノイリビコ、それに呆《ほう》けているオシロワケ王を錦の御旗としていた。
だが民は王が呆けていることを知らない。
武彦としては決戦の前に倭建をいただきたいのだ。
猪喰は何度か武彦に会おうか、と迷った。もし倭建が死んだことを知らせたなら、嘘《うそ》じゃ、あの王子が死ぬ筈《はず》はない、と首を横に振るだろう。
猪喰と大裂が死に様を詳しく話し、死を信じたとすれば……。
猪喰としては、ここは決戦に持ち込まず、吉備に戻り、兵を募って貰いたかった。
何れは倭建の子、タラシナカツヒコ王を擁し、倭国《わこく》の王者にするのだ。王はまだ十二歳である。十年先になるかもしれない、いや二十年先かもしれない。
その時のために軍事力を養う。
今、物部十千根との戦に勝っても、王に即《つ》ける王子がいない。
大和およびその周辺は、王位をめぐり混乱期に入る。
それよりも、物部十千根を殺した後、武彦に会う。吉備に戻るか、タラシナカツヒコ王が成人するまで中継ぎの王をたてるべく画策するか、それは武彦の自由である。
考え抜いた末、まずは十千根を殺すべきだ、と決断した。
その後、丹波に戻るか、タラシナカツヒコ王の傍にいるか、その時の気持次第である。
大裂は伊勢に戻る積りはなく、猪喰と行動を共にするといっている。
その日は小雨の夜だった。蓑《みの》を纏《まと》った猪喰たち一行は十千根の屋形に向かった。
戦に備えて屋形の周辺の濠《ほり》には篝火《かがりび》が燃えている、雨で月明りのない夜だが、猪喰のような暗殺者にとっては絶好の明りだった。
まず箸墓《はしはか》墳墓に出、遠くの明りを目標に黙々と歩く。イホキノイリビコらの王族も篝火を燃やしている。どうぞ迷わずにお通り下さい、といっているようなものだ。
篝火の傍には武装した兵たちが屋形を守っていた。ただ彼らは甲冑《かつちゆう》の上から、蓑を被《かぶ》るように着ているので、敏捷《びんしよう》な行動は取れない。
猪喰らは兵たちの視線が及ばぬ闇の田畑や野を進んだ。大和盆地は他国の野と違って、比較的丘が少ない、田畑のないところは湿地帯で葦《あし》などが生えている。
この時のために猪喰は大きな底板をつけた草履を作っていた。これだと足が余り泥にめりこまない。
晩秋の風は冷たかった。兵たちは暖を取るべく篝火周辺に集まり、手をかざしながら雑談している。猪喰たちには全く気づかない。
一刻《いつとき》ほど歩いただろうか。物部十千根の屋形の傍に近づいた。篝火の数は数個もあり、この辺りでは一番豪華だった。警護の兵士の数は十数人で、暖を取っている者などいない。
皆、槍《やり》を持ち暗闇を警戒していた。それに十千根一族の屋形は濠で囲まれている。
ただ山に面した裏側は篝火も少なく、警護も手薄である。
猪喰たちは山に入り隈笹《くまざさ》の間から屋形を眺めた。右端の篝火の傍にいるのは三人だった。正面の兵たちと異なり、山を監視していなかった。この辺りに隙がある。
「右端の三人を殺す、蓑の下には甲《かぶと》を纏っている、できるだけ近寄り背後から迫り刀子《とうす》で喉《のど》を裂け、声をたてさせるな、殺せば遺体を草叢《くさむら》に隠し、三人が何喰わぬ顔で警備につく、吾と大裂、あと二人が濠を越え、屋形に入り十千根を殺す、成就したならここに戻る、他の兵たちに怪しまれたならすぐ殺し、山に逃げよ」
猪喰は濠を覗《のぞ》いた。大裂が身体に巻いていた綱を解き下に落す。綱の先には鉄戈《てつほこ》がついている。水底についた綱を上げて水深を調べる。約三尺だった。
「猪喰様、濠に入れば全くの暗闇です」
大裂の眼が篝火の傍にいる警護兵の方に向けられた。
なるほど、と猪喰は大裂の胸中を読んだ。殺すよりも兵など無視し濠を渡った方が良いのではないか、と大裂は告げていた。
成長したな、と今更のように感嘆した。
「その方が良策じゃ、敵兵は放っておく、大裂、そちから濠に入れ」
「分りました」
猪喰が持つ綱を伝い大裂は濠に下りた。次は猪喰だ。部下たちが一人を残して濠に入った。
ただちに三人の部下が人|梯子《ばしご》をつくる。残っていた一人は、口笛を聞き、濠の縁に手をかけ身体を下ろす。一番上の人梯子の兵が、下りてきた足首を握り、両肩に誘導した。
一番下の兵はゆっくり身体を縮める。自分の肩に三人もの人間が乗っているので大変な重さである。気を抜けば一瞬のうちに崩れる。ただ両手を壁となった濠に突っ張り、重量を減らす。
全員が濠に下りると、再び人梯子で屋形内に這《は》い上がった。腹部から下は冷たい水に濡《ぬ》れ、凍りそうな感じだった。
だが、物部十千根への憤りが熱気となり、冷水を忘れさせる。
これまでの調べで十千根が居住する屋形は分っていた。一番大きな屋形の二階だった。それに正面の梯子の下に、松明《たいまつ》を持った兵が二人いた。
猪喰は大裂に囁《ささや》いた。
「松明を持たない兵も二、三人いる、それにしてもあの松明は有難い、吾とおぬしで奴を殺し、松明を奪い取る、同時に他の者が残りの兵を殺す」
作戦は部下たちに伝えられた。
一同は刀を抜き足音を殺して近づいた。案の定、松明の手前にいる二人の兵が闇に浮かんだ。
猪喰は松明の兵を大裂と部下にまかせ、一歩半の距離から跳び、兵の首を刺した。相手が倒れる前に引き抜くと今一人の兵の胸を貫く。叫び声をあげる暇もないほどの早業である。大裂と部下が松明の兵士に刀ごと突っ込む。松明を奪い取ると、残っていた兵が悲鳴をあげた。矢が放たれ、逃げようとした兵の背中に刺さった。大裂は刀で首をさした。松明を持った二人の部下は何|喰《く》わぬ顔で階段の下に立つ。問題は濠の外側の兵士だが、悲鳴の後が静かなので、異変に気づかなかった。
猪喰と大裂は正面の階段を上がった。戸が開かないのは内側に止め木を差しているからだ。大裂は刀子《とうす》で戸の端を削りはじめた。これは大裂の得意技である。時間にすれば八半刻(十五分)といったところか、戸が開いた。
猪喰は腰の竹筒の油を布にたらし火打ち石で火をつけた。異変に気づいたのか、濠外で叫び声がした。だが屋形内の者たちはまだ眠りこけている。二人は二階に通じる階段を上がった。物部十千根の顔は何度も見ている。猪喰は十千根の首に刀を突きつけると木枕を蹴飛《けと》ばした。
眼を覚ました十千根の胸に刀の切っ先を当てながら猪喰はいった。
「物部十千根、倭建王子様に仕える丹波猪喰じゃ、乃楽山の戦以来、この日を待ち続けていた、おぬしは死ぬ」
「乃楽山……」
十千根の声が終らぬうちに猪喰は胸を貫いた。悲鳴は殆《ほとん》どなかった。手にした刀がわななく。猪喰は十呼吸ほど刀を抜かなかった。十千根のわななきは復讐の証《あかし》だった。
山背の宇治の山々と伏見丘陵の間を山科川が流れている。その辺りの首長は、タラシナカツヒコ王の母を出した勢力だった。
北は東山、東は百五十丈から二百丈級の宇治山系、西は伏見丘陵に囲まれた小盆地だった。要害の地でもある。
大和の物部の長・十千根は曲者《くせもの》に殺されたが、誰がいうともなく、殺したのはヤマトタケルの側近、丹波猪喰に違いないという噂が流れた。
ヤマトタケルの傍に、吉備武彦、大伴武日などの名ある武将と共に猪喰がいることを十千根は知っていた。
「表の武将の行動は間者《かんじや》が掴《つか》める、だが裏の武将は見えぬから恐ろしいのじゃ」
十千根はかねがね、一族や部下にいっていた。
物部の間者の長・クマは何度か猪喰の顔を見ている。一度見たなら忘れられない顔だった。
眼窩《がんか》が窪《くぼ》み、その底から眼だけが光って見えた。まるで潜んでいる竹藪《たけやぶ》や、雑木林の総てを見通すような眼光だった。眼に刃物が宿っている武人をクマは初めて知り身慄《みぶる》いした。
長である十千根を殺したのは、あの人物以外にない、とクマは歯軋《はぎし》りする思いだった。
タラシナカツヒコ王を山科に移したのも猪喰に違いない、と睨《にら》んでいた。
おそらくタラシナカツヒコ王の警護に当たっているのではないかとクマは変装し、一人で伏見や山科を歩き探った。だが、猪喰の姿はなかった。
何処に消えたのか。
物部十千根が死亡し、オシロワケ王側が反撃の力を失ったのを知り、吉備武彦は兵を率いて吉備に戻った。
大伴武日は実家の河内に、久米七掬脛は飛鳥《あすか》の西方の久米に戻った。
オシロワケ王は政務の力を失い、宮に籠《こも》ったままだった。
ヤサカノイリビメも、女人一人では政治を執れない。有力豪族が納得しない。
王はいるが、王権は空白といって良かった。
クマは主君の仇《かたき》を討つのに懸命だった。猪喰は倭建の仇を討ったのだ。それなら猪喰を殺し十千根の仇を討ちたかった。
その日もクマは宇治に行った。雨に備えて蓑を纏った。というより腰に吊した二尺の刀を隠すためでもあった。
筒の水を飲み、タラシナカツヒコ王が住んでいる屋形が見える山の尾根の先端に坐《すわ》った。
山麓から伏見丘陵にかけて田畑が拡がっていた。真ん中に淡く光った川が南北に流れている。山科川である。
人の気配はない。クマは蓑を脱ぎ、草を切り眺めも坐り心地も良くした。
田畑には農民が出、まるで虫のように動いていた。
ひょっとすると農民に化けているのかもしれない、と感じた。これからは一人一人の農民を調べねばならない。自分を励ますように息を吸った時、微《かす》かだが獣に似た匂いがした。蓑の上に置いた刀を抜き、振り返ると松の樹林から猪喰が現われた。腰に毛皮を纏い、脛当ての布を巻いている。
刀を抜いていた。二人の間は数歩である。猪喰は提げるように刀を持ったまま間合を詰めてきた。空気が圧縮されたように重くなり鼓動が高くなった。
クマの存在を無視したように近づく。刀を持つ腕が固くなるのが分った。
不意をつかれたし、猪喰は上にいる。しかもクマの逃げ場はないのだ。
クマは捨て身の攻撃に出た。跳ぶと同時に猪喰の腹部に突き入れた。熊や猪に襲われた時も、得意の突きで斃した。
猪喰は身を躱《かわ》すと、左手の木の実を投げた。クマの右眼が火を噴き、返す刀が半呼吸遅れた。
猪喰は飛び降りながらクマの頸部《けいぶ》に突きを入れ血《ち》飛沫《しぶき》を浴びないように横に倒れた。クマは血を噴きながら尾根の突端から転落した。一瞬、空気が赤く染まった。
その間、二人は言葉を交わしていない。
布で刀を拭《ふ》いた猪喰は樹林の繁みに入った。住居にしている洞穴は、尾根から二十歩下にあった。入り口は草や灌木《かんぼく》で覆っているので狩り人にも分らない。
猪喰は息を呑《の》んだ。
倭建が立っている。しかも猪喰を睨みつけていた。
「王子様、生きておられましたか」
猪喰は草叢に蹲《うずくま》った。
「生死は関係がない、いいか、吾のいうことをよく聴くのだ、そちがこんなところでうろうろしているのはタラシナカツヒコ王を守るためだろう、だがそれはもう良い、王がどうなるかは天命じゃ、人の力の及ぶところではないぞ、この吾がいうのだから間違いない、それよりも、そちが物部十千根を斃したことは丹波では評判じゃ、イニシキノイリビコ王の無念を晴らしたからのう、故郷に戻れ、分ったか」
「はっ、しかし……」
「迷うな、吾の友よ、吾もそちと同じように影の男子じゃ」
「えっ、友と……おっしゃいましたか」
猪喰は思わず眼をこすった。
倭建の姿は消えていた。
幻ではなかった。猪喰は間違いなく倭建と話していたのだ。何時の間にか淡い霧が立ち籠めていた。その中から聞えてくる。「友」という声が。その時猪喰は倭建の死を確信した。
猪喰は、眼を拳でこすりながら丹波の方を眺めた。
倭建の子、タラシナカツヒコ王は後年、息長足姫《おきながたらしひめ》を妻としホムタワケ王子を産ませた。妻は神功《じんぐう》皇后、王子は大王・応神《おうじん》で大和を征覇し、五世紀の軍事の王権を樹立した。丹波猪喰の名はどの文献にも載っていない。
[#地付き](完)
[#改ページ]
あとがき
[#地付き]黒 岩 重 吾
ヤマトタケルの名を『日本書紀』は日本武尊、『古事記』は倭建と記す。
日本という字が、七世紀後半の天武朝に生まれたのはほぼ間違いない。
当然、倭建の方が古く、本小説では『古事記』の方を採った。
学界では、ヤマトタケルは神話の世界の王子とし、実在性は疑われている。
聖徳太子の同母弟・来目《くめ》王子が、太子の命令で新羅《しらぎ》への征討将軍となり、軍を率いて筑紫に征《い》ったことが、ヤマトタケルを生んだとする説がある。来目王子は筑紫で病死するが、次は異母兄|当摩《たぎま》王子が将軍となる。王子は妻の舎人姫王《とねりのひめおう》を連れて行くが明石の沖で病死する。弟橘媛の原形というわけである。
ただタケルという名が流行したのは、四、五世紀である。熊襲タケル、出雲タケルなどの名が見られる。
大王・雄略も名はワカタケルである。
私は父に憎まれ、最後に謀反を起こした雄略の子で吉備系の星川《ほしかわ》王子などが関係しているのではないか、と考えている。何《いず》れにせよ、四世紀末あたりから五世紀の半ばにかけて、大和の王権による倭国《わこく》統一戦争があったのは間違いない。
当時の武人|埴輪《はにわ》などから考えても、服従しない国々があり、戦となったのであろう。
当然、諸王子が軍を率いて各国に征った。
おそらく「記紀」が記すヤマトタケルは、そういう王子の一人で、戦死し、悲劇の王子として語り部たちの口によって後世に伝えられたのではないか。
その中に星川王子、来目王子、舎人姫王などが織り込まれた。
つまり、ヤマトタケルは実在したとも、しなかったともいえない。
古代の倭国統一戦に出陣した大勢の王子の物語りが、語り部たちによって語られ、天武朝あたりに「記紀」が記す物語りになったのであろう。
古代の王の親子は中国皇帝とその子たちに似ている。
王たちは大勢の侍女(後の采女)と閨《ねや》を共にし、次々と子供を産ませる。
たとえば本小説の景行帝には、王子、王女を合わすと八十人もいたと記されている。
王子たちは各国に分けられ、「別《わけ》」となりその地方を治めた。勿論《もちろん》、後世の創作だが、私は三、四十人ぐらいはいてもおかしくない、と考えている。
それだけの子供をつくれば、一人一人の子供に愛着を持てない。可愛い子供もいるし、憎い子供も混じっている。
憎い子供の中に武勇に優れた者がいれば、王位を狙わないかと恐れる。また兄弟同士、次の王位を狙って争う。中国の帝位継承と同じである。
私は悲劇の英雄、倭建に親子の相剋《そうこく》を感じた。
熊襲征討の後、東国征討を景行帝に命じられた倭建は、思わず倭姫にいう。
「天皇は吾、死ねと思《おぼ》ほす所以《ゆえん》か」と。
この倭建の悲痛な叫びこそ、本小説のテーマである。
倭建は勇猛だが、好戦的な王子ではない。父に命じられ仕方なく西国から東国まで征って戦うのである。
だが弟橘媛が海に飛び込んで死亡したのを見て、自分に対する父の命令が如何に理不尽なものであるかを知り、軍の大半を解散する。大和の王権からみれば、倭建の行為は抗命罪ということになる。それを承知で解散した以上、王権の軍と戦う以外にない。
倭建は伊吹山|山麓《さんろく》の戦いで傷を負い、伊勢の能煩野《のぼの》で亡くなるが、まさに孤独な王子である。
ただかつての部下たちは全員、最後まで倭建に従う。裏切った者は一人もいない。それだけの器を倭建は備えていたのである。
本小説に登場する丹波猪喰は作者の創作であり、どの文献にも出てこない。
四世紀の大和王権は後の丹後をも含めた但馬と同盟的な関係を持っていたが、どうやら四世紀後半、母が但馬系のイニシキノイリビコ王子は政界から疎外された。
大和王権は但馬を圧迫したのだ。
猪喰は、そんな大和王権に一矢を報いるべく大和に潜入するが、倭建に会い、その人柄に惹《ひ》かれ、影の武人として仕える。
猪喰は何物にも興味を示さず、ただ倭建への忠節心だけで生きる。
稀有《けう》の武人だが、倭建なればこそ、そのような部下を持てたのである。
平成十二年五月
本書は平成十二年六月刊の小社単行本『孤影立つ―白鳥の王子 ヤマトタケル 終焉の巻―』を改題し、文庫化したものです。
角川文庫『白鳥の王子 ヤマトタケル―終焉の巻―』平成15年9月25日初版発行