[#表紙(表紙5.jpg)]
白鳥の王子 ヤマトタケル
東征の巻(下)
黒岩重吾
目 次
怪しい夢
慄える国
異変と哄笑
山の鬼神
化身の襲撃
消えた情炎
湖の夜
謎の水軍
智将の姿
帰国命令
仮 病
女人の内紛
同じ星
弟橘媛の病
焼津の勝利
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〈主要登場人物〉
倭《ヤマト》 建《タケル》――――本名、小碓《オウス》。オシロワケ王と播磨稲日大郎姫《ハリマノイナビノオオイラツメ》の間に生まれた大和国の王子。武勇と優しさをあわせ持ち、人々に慕われている。熊襲《くまそ》征伐後、ヤマトタケルを名乗る。
オシロワケ王(景行帝)―大和の三輪《みわ》王朝の王。倭建の父。
八坂入媛《ヤサカノイリビメ》――オシロワケ王の妃。倭建の母の死後、皇后のようにふるまう。
倭姫《ヤマトヒメ》王―――オシロワケ王の妹で、倭建の叔母《おば》。巫女《みこ》的女王。
弟橘媛《オトタチバナヒメ》―――倭建が最も愛する妃となる巫女的能力を持つ美少女。
穂積高彦《ホヅミノタカヒコ》――弟橘媛の縁者で、倭建に仕える。警護隊長。東征軍に従軍。
吉備武彦《キビノタケヒコ》――東征副将軍。倭建とともに生きることを誇りとする。
久米七掬脛《クメノナナツカハギ》―倭建の部下で弓の名手。輸送部隊指揮官・側近として東征軍参加。
丹波猪喰《タンバノイグイ》――丹波森尾の孫。倭建に心酔し、東征軍従軍を願い出る。
物部十千根《モノノベノトチネ》―オシロワケ王に重用され、東征を進言。腹黒く、権謀術数に長《た》ける。
大伴武日《オオトモノタケヒ》――住吉周辺の一族。東征副将軍。容姿端麗で武術にすぐれる。
尾張音彦《オワリノオトヒコ》――朝日雷郎勢力と伊勢湾を隔てて向き合う、尾張天白川の首長。
宮簀媛《ミヤスヒメ》―――尾張音彦の娘。美しいが、気性が激しい。山の神の霊が憑《つ》く魔性の女。
朝日雷郎《アサケノイカズチノイラツコ》――伊勢朝日周辺の新首長。気性荒く好戦的。
遠淡海《トオツオウミ》王――湖一帯の首長(湖の王)。平和を望む。
稚王子《ワカオウジ》―――平和を望む父・遠淡海王に反対、倭建軍の通行を拒否。
素賀《スガ》王―――天竜川と大井川間の勢力。倭建軍の通行を拒否。久努と姻戚《いんせき》同盟関係にある。
久努《クヌ》王―――天竜川と大井川間の勢力。素賀王に同調。
廬原《イオハラ》王―――駿河を勢力下に収め、清水の良港を有する。勇猛を誇示する性格で、倭建に最も反抗。
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怪しい夢
その日は朝から風が強かった。日暮頃からますます強くなり三輪山や巻向《まきむく》山が唸《うな》り声をあげた。
晩秋に近い季節だが、木々の呻《うめ》きはすでに冬を思わせた。
弟橘媛《おとたちばなひめ》にとっては寝苦しい一夜となった。子の若建《わかたける》王は乳母《めのと》が育てているので屋形にはいない。当時の王や王族の子は、乳母によって育てられるのが習慣だった。
母親にとっては淋《さび》しいことである。とくに弟橘媛のように、愛情によってつながっている夫が、大和から遠く離れた戦場にいるような場合は、孤独感が深まる。
ただ弟橘媛は強い性格だった。彼女には倭建《やまとたける》王子の妃《きさき》という誇りがあった。それも形式的な妃ではない。愛されているのである。
弟橘媛は侍女達に淋しさを見せたことがない。ただ毎朝、雨の日も風の日も井戸水を浴び倭建の無事を祈った。
また一日に二|刻《とき》(四時間)も部屋に籠《こも》り、神に近づくべく修行した。そういう点は、倭姫《やまとひめ》王に仕えていた巫女《みこ》時代と同じである。
子《ね》の正刻(午前零時)頃、突然風がやんだ。まるで風の鬼神が自分の意図で吹き荒れるのをやめたようである。
待っていたように夜鳥が鳴いた。風の唸りや木々の呻きで神経が冴《さ》えていた弟橘媛の瞼《まぶた》が次第に重くなった。
「王子様、私《わ》も寝ます」
と弟橘媛は呟《つぶや》いて眠りに入った。
弟橘媛は、起きた時と眠る時、倭建が傍にいるように話しかけることにしていた。
勿論《もちろん》、侍女に聞えないようにだ。
どのぐらいたったろうか。弟橘媛は夢を見ていた。
青い海の彼方《かなた》に長い岬が突き出ていた。厚い雲が山を覆っている。
弟橘媛は小舟に乗っていた。舟子がいないのに小舟は岬の方に進んでいる。岬が近づくにつれ弟橘媛は胸騒ぎを覚えた。
倭建の身に何か異変が起こっているような気がした。突然、海も岬も消えて柵《さく》に囲まれた屋形が現われた。
弟橘媛は何時の間にか地に立っていた。歩こうとしたが金縛りにあったように身体が動かない。
屋形が透けて見える。倭建が寝具に横たわっていた。病に罹《かか》っているのか苦しそうな表情だ。
「王子様」
弟橘媛は叫んだが声が出ない。屋形の上に霧のようなものが浮いていた。次第に濃くなり人の形になりはじめた。はっきりしないが女人のようだ。霧の女人は宙を浮きながら戸口から部屋の中に入った。苦し気だった倭建が両腕を上げて迎えている。
弟橘媛が知っている倭建の顔ではなかった。眼尻《めじり》が下がり口が開き涎《よだれ》が垂れていた。醜いというよりも、病に斃《たお》れ、死を前にした老人のような顔だった。
「王子様、なりませぬ、それは呪われた鬼神でございます、王子様」
絶叫するが声は出ない。
霧の女人が嘲笑《ちようしよう》するように弟橘媛を見た。口も眼も鼻もない。それなのに嘲笑しているのがはっきり感じられる。
弟橘媛は息が苦しくなった。眼を閉じようとしたが、瞼が動かない。汗が噴き出てきた。魚油の中につかったような感じである。
霧の女人は腕を拡げた倭建に纏《まと》わりついた。
倭建は上を向き両脚を蛇のようにくねらせ卑猥《ひわい》な声を放った。
弟橘媛の心の臓が止まった。失神した時悪夢から醒《さ》めた。
風は相変らず強い。柵や板が吹き飛ばされているのが分る。
弟橘媛は侍女を呼んだ。灯油の明りを持った侍女が現われた。
「悪い夢を見ました、私は何か叫びませんでしたか」
「風の音が騒々しくて……」
侍女は済まなそうに俯《うつむ》いた。
「聞えなければ構わないのです、新しい寝衣を、私は今から水を浴びます」
「大変な風です」
「構いません」
私は王子様を救けねばならない、と弟橘媛は自分にいった。
悪夢が正夢なのかどうかは、弟橘媛には分らない。もし正夢なら倭建は妖《あや》しい女人に取り憑《つ》かれていた。
それは倭建の精気を吸い取り死に到らせる恐ろしい鬼神だった。
だが弟橘媛は賢明な頭脳と強靱《きようじん》な意志の持ち主だった。あの悪夢は、孤独感と女人の嫉妬《しつと》心の産物かもしれない。
倭建は行く先々で夜の伽《とぎ》の女人と媾合《まぐわ》う。それは贅沢《ぜいたく》な食事のもてなしと同じような風習である。だからといって妃である以上、無関心ではおれない。
弟橘媛は血の通った女人である。想像すれば嫉妬も湧く。媛が部屋に籠り自分を無にする時を持つのも嫉妬心をできるだけ抑えるためである。
翌日は風もおさまり晴天だった。弟橘媛は泊瀬《はつせ》川の斎宮にいる倭姫王を訪れることにした。
倭姫王ならあの悪夢が本当かどうか見抜いてくれるに違いなかった。
朝餉《あさげ》を摂《と》った媛は輿《こし》に乗り、二人の侍女と二人の警護兵に守られ泊瀬渓谷に向った。
倭姫王は不思議そうに媛を見た。
「昨夜は眠れなかったようじゃ、王子の悪い知らせを受けたのですか?」
「いいえ、でも悪い夢を見ました、私の淋しさが生んだいまわしい夢かもしれません、でもひょっとして、本当なら……」
「どのような夢じゃ?」
「はい、霧のような女人が、王子様に纏わりつくのを見ました……」
弟橘媛は口を閉じた。
「私は巫女王じゃ、すべてを話すが良い」
弟橘媛はその際の倭建の表情が異常で、死を前にした老人のようであった旨を隠さず話した。
「そなたは毎日水を浴び、身を浄《きよ》めているというが、ひょっとするとかつての巫女の能力を取り戻しているかも分らぬ、正夢かどうか、私が神に訊《き》いてみましょう、もし正夢ならどうする?」
「東国に参り、王子様を救い出します」
「倭建は、その女人から離れぬ、と申すかも分らぬぞ」
「私は死を恐れません、王子様はこれからの倭《わ》国にとって大事な方です、私はすでに若建王を産みました、この生命を王子様に捧《ささ》げても、何の悔いもありません、私にとっては喜びでございます」
「そこまで決心しているのか、倭建も幸せな王子じゃ、私は倭建とそちのために、神におうかがいしよう」
「有難うございます、感謝の申し上げようがありません」
「私も倭建が好きなのじゃ、倭建のような王子は二度と現われぬ気がする、大和に来て山を駆け巡っていた時から光が放たれていた、若者は皆光を放つが、倭建の光は特別でした、光が強いだけではなく熱を帯びている、ただ不安なのはその熱が敵のみではなく、自分をも灼《や》いてしまうことです、倭建にはそなたが必要じゃ、どんな神託が下ったかは、後日知らせる、一日で下るか、数日かかるか、それは分らぬ」
倭姫王は媛を見て、すべては神が知っておられる、と頷《うなず》いた。
当時の人々は神の存在を信じていた。信じていたが故に神と接する巫女は、神に祈る際、現代では考えられないほどの能力を発揮した。
その能力には、透視的な力も入っていた。そこには現代の科学によって論じ切れないものがあったはずである。
倭姫王は三日後、神託を下した。
それによると、倭建に取り憑いている尾張《おわり》の女人は妖《あや》しい鬼神ではなかった。ただ童女の頃から山が好きで、よく山に入った。自然に山の神の霊を受けた。倭建にもそれがあり二人は山の神を通じて結ばれあったのである。
ただ山の神の霊を受けた女人は情が濃く、このまま放っておくと、倭建は情に溺《おぼ》れ、力を喪《うしな》う危険性があると神は告げた。
倭姫王はいった。
「弟橘媛よ、行くが良い、倭建を救《たす》けることができるのはそなたのみです」
「すぐ参ります」
「それには周囲の反対を押し切らねばなりません」
「覚悟はできています」
「倭建に与えた銅剣は、身から離さぬようにそなたが忠告しなさい、そなたの無事を祈っています」
弟橘媛は感謝の言葉を述べ屋形に戻った。自分が見た悪夢は正夢だった。あの女人の形をした霧は山が生んだ霧に違いない。
倭建も山の霊を受けているというが、印南《いなみ》から大和に来た倭建は、狩猟にかこつけ山にばかり入っていた。大和やその周辺の山で、倭建が入らなかった山はない。
倭建が丹波森尾《たんばのもりお》を斃《たお》したのも、山人も近寄らない音羽《おとわ》山の頂上だった。
倭建に憑いている山の霊は、彼に好意的だが、中には倭建に対して憤っているものがあるかもしれない。
それ等の霊は普段は眠っているが、何かのきっかけで眼を覚ます。今回は倭建が知り合った女人に仲間の霊が憑いているので、眼覚めたのであろう。
情を通じ、お互いに交歓するから情は熾烈《しれつ》になるのだ。
弟橘媛は、そう感じた。
現代人の解釈ではないが、巫女の素質を持っている媛がそのように感じたとしても当時では不自然ではない。
弟橘媛は兄の穂積内彦《ほづみのうちひこ》に会い、自分が見た夢や倭姫王の神託を隠さずに話し、倭建の許《もと》に行きたいと告げた。
内彦は巫女ではない。嵐を呼び雷《いかずち》を落す神の存在は信じているが、山の霊が尾張の女人と倭建に憑き、倭建が情に溺れて生命も危ない、などという話になると素直に信じられなかった。
媛の夢は倭建への慕情が激しくなり、見捨てられたのではないかという不安感が生んだものと解釈する。優れた武人としての内彦の解釈も自然だった。
武人の能力と巫女の能力は性格が違う。
「媛よ、媛の気持は分るぞ、王子は伽の女人に情を抱いたかもしれぬ、ただ情を抱いたとしてもその女人に恋々となさるようなことは絶対ない、何故なら次の日、未知の地に行けばまた新しい女人が現われるからだ、確かに男子《おのこ》は女人に対して気が多い、だからといって愛している妻を忘れたりはしない、媛らしくないぞ、妻は家にいて王子が凱旋《がいせん》されるのを待つべきだ、東国に追い掛けて行けば、王子が嗤《わら》われるぞ、もっと身を浄め、女人の業火《ごうか》を鎮めるのじゃ」
内彦は、弟橘媛が何をいおうと反対だった。氏族の恥辱にもなるというのである。
媛は女人の嫉妬や業火ではないと懸命に説いたが内彦は媛の東国行きを許さなかった。巫女的な能力のない内彦には媛の胸中が分らないのだ。
「媛よ、これは最も大事なことだからよく聴け、これ以上倭姫王様のお力を借りてはならぬぞ、倭姫王様が媛に頼まれ、媛を東国に行かせようとなされたなら、オシロワケ王様の耳に入る、王子は強力な反乱軍、朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》軍に大勝し、意気揚々と尾張に入られた、こんな時に王子が呼ばれもしないのに妻が追い掛けて行けば、宮廷内において王子の威名に傷がつく、いうまでもなく王子には競争相手が多い、ちょっとしたことで足を引っ張ろうと王子の隙《すき》を窺《うかが》っている者もいるのだ、そのことは媛もよく知っているであろう、辛《つら》いだろうが今は動くな」
内彦は懸命に説得した。もう媛としては返答のしようがない。
内彦に見えない世界の出来事を幾ら説いても、内彦の理解が得られるはずはなかった。
媛は悩みながら屋形に戻った。それにこれ以上、倭姫王の力に縋《すが》ることはできない。
内彦がいう通り、オシロワケ王の耳に入れば、媛だけの問題では済まなくなるのだ。
弟橘媛は悩んだ。
悩み抜いた末、媛は誰にも告げずに東国に行こうと決心した。
その夜、媛は信頼できる侍女二人と五人の警護兵のうち二人を連れて行くことにした。
「私の命令です、誰にも話してはならぬ、私は大事な用で王子様に会いに東国に参るのです」
二人の警護兵が納得したのは、二人共、倭建の部下だったからである。残りの三人は内彦が遣わした兵士だった。
二人の侍女は、かつて媛が倭姫王に仕えていた頃からの女人である。
それぞれ十日分の米を背負い一行は夜明けと共に出発した。
媛がいないのを知った残りの警護兵はすぐ内彦に報告する。内彦は媛が東国に向ったのを知り追手を向けるだろう。
その際、何処で捉《つか》まるかである。伊賀に入っていれば内彦も連れ戻すのを諦《あきら》めるかもしれない。媛の狙いはそこにあった。
「全力で進む、夕餉《ゆうげ》は日が暮れてからじゃ、日暮まで十里(四〇キロ)以上は歩きたい」
追手を諦めさせねばならない、と媛は説いた。
一行は泊瀬川沿いの道を宇陀《うだ》に入った。警護兵も侍女も未知の地である。警護兵が田畑で働いている農民に伊賀に行く道を訊《き》いた。絹布を頭から被《かぶ》った弟橘媛は、一眼見ただけで貴人であることが分る。
農民は蹲《うずくま》りながら丁重に教えた。吉野の方から流れてくる宇陀川は、現在の榛原《はいばら》で湾曲して東に向う。宇陀川沿いの道を行けば伊賀の盆地に入るのだ。曲りくねった道だから十里近い。
一行を邪魔する者はなかった。弓矢を背負い槍《ほこ》を持った男子が二人もいれば、農民でもただの旅人でないことぐらい判別できる。
ただ宇陀川沿いの道を進みはじめた頃、当地の豪族の子弟が追い掛けてきた。
「貴人とお見受けしましたが、どなた様でございましょうか?」
「東征将軍、倭建王子様のお妃《きさき》様であらせられる、王子様の許《もと》に参られる、邪魔は無用じゃ」
弟橘媛の意を受けた警護兵は堂々と名乗り、槍の柄で土を突いた。
豪族の子弟は飛んで帰り、宇陀北部の首長が追ってきた。
平伏して伊賀までの警護を願い出た。
「急ぐ旅路じゃ、伊賀までの道案内と宿所の手配をお願いします」
侍女が弟橘媛に代って答えた。
倭建の威名はこの辺りでは鳴り響いている。朝日雷郎軍が大敗したことも首長は知っていた。
弟橘媛の身に万が一のことがあれば、首長を始め一族はどうなるか分らない。
東国への旅は媛が悩んだ割には楽だった。楽ということは、追手に捉《とら》えられる確率が高いということだ。ただ、追手は兄の部下である。
媛の意に反し、強引に連れ戻すことはないはずだ。媛は最悪の事態になれば刀子《とうす》を抜き、自分の胸に当てることも覚悟していた。
伊賀の盆地に着いたのは、農家の夕餉も終った頃だった。夕闇はすでに濃い。
宇陀の首長は伊賀盆地の首長とは顔|馴染《なじ》みである。東国から交易のために大和に行く旅人は、鈴鹿、伊賀、宇陀を通り大和に入るのだ。
内彦が弟橘媛の失踪《しつそう》を知ったのは巻向宮《まきむくのみや》だった。
倭建の大勝利と尾張入りはすでに伝えられていたが、その続報がない。更に東に向ったのか、尾張に留まっているのかが分らなかった。
オシロワケ王は、王族や物部十千根《もののべのとちね》などの重臣と会議を開き、現状を把握するための使者を派遣することを決めつつあった。
倭建の大勝利は歓迎すべきだが、王子が勝利におごり、報告を怠っているのは不届きである、とオシロワケ王は憤っていた。
物部十千根にそそのかされているヤサカノイリビメは、この時とばかり、
「王よ、倭建王子は、勝利におごり謀反を企《くわだ》てているのかも分りません」
と王に耳打ちしていた。
老いたオシロワケ王の心は揺れる。謀反など現実に有り得ないとは思っても、猜疑心《さいぎしん》が深まるのはどうしようもない。
もともとオシロワケ王は、イナビノオオイラツメが産んだ倭建と兄の大碓《おおうす》王子に愛情を抱いていない。
ことに倭建王子が武勇の王子だけに、警戒心が深まっていた。
使者を遣わす件は一応|纏《まと》まったが、誰が使者になるかは纏まらなかった。
事態を憂えた内彦が強硬に、自分が使者になることを願った。
物部十千根が反対した。その理由は、倭建と内彦の関係があまりにも深過ぎるということだった。
「使者の役目は重大じゃ、冷静に観察し、情に溺《おぼ》れずに実態を報告せねばならぬ、それには倭建王子と距離を置いた人物の方がよろしゅうございます」
と十千根はいった。
ヤサカノイリビメが産んだ五百城入彦《いほきのいりびこ》王子が十千根に同調する。
内彦は色をなしていった。
「十千根殿、吾《われ》が情に溺れ、真実を報告しないとおっしゃられるのですか」
「そうは申していない、内彦はまだ若いのう、落ち着いて考えてみよ」
十千根は顎鬚《あごひげ》をしごきながらいった。
「吾は落ち着いています」
「そうかな、吾が申しているのは、おぬしと王子との関係じゃ、おぬしはずっと王子の警護を担当してきた、おぬしにとっては主君じゃ、だからおぬしが使者になり、真実を報告しても周りはそう見ない、蜜柑《みかん》の実の傍で、蜂《はち》に襲われたからといって手を振れば、それを見る人は、誰も蜂に襲われたとは思うまい、蜜柑を取ろうとしていると判断する、吾はそれを強調している、周りも納得する使者でなければならぬということじゃ、そういう意味で、おぬしは不適任なのだ」
十千根の返答は実に老獪《ろうかい》だった。
十千根が席を見渡すと、一同は納得したように頷《うなず》く。
内彦は唇を噛《か》むより仕方がなかった。
使者を誰にするかは明日決めようということになった時、内彦の部下が宮に来た。部下は宮の内部には入れない。ただ内彦は宮の警護隊長である。警護兵が内彦に伝えた。
内彦は驚愕《きようがく》した。
内彦は弟橘媛が急病である旨を会議に出席している大伴国足《おおとものくにたり》に伝え、宮を出た。
早朝に弟橘媛が屋形を出たとすれば、もう三刻(六時間)以上はたっている。
内彦は屋形に戻ると馬に乗った。三人の部下に自分の後を追うように命じ、内彦は馬を飛ばした。
馬なら一刻に五里(二〇キロ)は走る。勿論《もちろん》、途中で水を飲ませたりしなければならないが、長距離でも、人間の倍は進む。
内彦は伊賀盆地で追いつくはずだと判断した。
内彦は計算通り、弟橘媛が伊賀の首長の屋形で夕餉を食べ終った頃、首長の屋形に着いた。
媛が屋形にいるのを確認した内彦は洗い場で井戸水を浴び、馬に積んでいた新しい衣服に着換えた。
媛は妹だが倭建の妃である。汗と塵《ちり》にまみれた衣服では会えない。
媛も追手は覚悟していたが、内彦が一人で追ってくるとは予想外だった。
灯油の明りが揺れる部屋で向い合ったが、内彦の説得に対し、媛はただ首を横に振るのみである。
内彦は仕方なく、巻向宮での会議の内容を話した。
「媛よ、これは大事なことなのだ、王子は王に疑われている、尾張に着いて以来、何の報告もないからじゃ、吾《われ》は使者として王子の許に参りたい旨を申し出たが、ヤサカノイリビメの味方になっている物部十千根に反対された、こんな時媛が勝手に参れば、王子の立場はますます悪くなる」
内彦の腹を割った言葉に弟橘媛は漸《ようや》く重い口を開いた。
「兄上に申し上げます、王子様が尾張に入られてすでに四ケ月、もう秋です、何故、王子様は連絡をなさらないのですか、それをお考えになりましたか?」
「王子の御性格は吾が一番良く知っている、王子は、征討大将軍としての任務を着実に果たせば良いと考えておられる、使者がないのは任務を間違いなく遂行されておられるからだ、吾は王子を信じている」
「私《わ》も信じています、でも王子様の身を思うたら、たんに信じると肩を張るだけでは足りますまい、兄上にはすでに申し上げた通り、王子様の身に起こる異変について、心配するべきではないでしょうか、兄上もその不安を抱かれたからこそ、使者を望まれたのではありますまいか、兄上の純なお気持は痛いほど分ります、ただどうか今一度かつての兄上にお戻り願いたいのです」
といって媛は叩頭《こうとう》した。主君の妃に叩頭され内彦は狼狽《ろうばい》した。説得されるよりも、こういう態度に内彦は身を縮める。
「媛、吾に叩頭してはなりませぬぞ、そうされると話もできなくなります」
内彦の言葉遣いが改まった。
「兄上、私の眼をどうか……」
媛の眼に灯油の明りが乱れて映っていた。媛は泣いている。
内彦は胸を衝かれた。
「媛よ、昔の吾に戻れとは?」
「警護兵として王子様の身辺に鋭い眼を走らせていた頃のことです」
「ああ、あの頃か、そう申せば絶えず王子の身を案じていた、何処から曲者《くせもの》が襲ってくるか、分らぬからのう、気持の休まる暇がなかったのう」
何気なく答えた内彦は、自分の頬を打ちたくなった。
今の内彦は、かつての十分の一も王子の身を案じていない。王子が遠く離れているせいもあるし、王子の超人的な能力を自分の眼で見てきたからである。
王子の身に異変など起こるはずはない、と内彦は自分にいい聞かせていた。だがそれは怠惰以外の何物でもない。
王子を信じるという言葉で、怠惰を弁解している。
「媛よ、許せ、かつての吾に較べ、今の吾は王子の身を案じていない、案じてはいるが、離れているが故に、案じてもどうにもならないと半ば諦《あきら》めていたのかもしれない、媛の申す通りだ、尾張からの情報が全く入らないのは妙だ、ただ吾は、王子が女人に溺れるなど想像したくはない、もっと別な異変が王子の身に起こっているのかもしれぬ、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、丹波猪喰《たんばのいぐい》など傍に仕えている者が、何の報告も寄越さないのも不思議じゃ、吾はもっと早く行動を起こすべきだった、媛よ、そなたは予定通り、夜明け前にでも出発せよ、尾張に参り、自分の眼で見た通りを、密使を通じて吾に伝えるのだ、十千根は何故そなたが尾張に行ったかを吾に問い詰めるであろう、王子の立場もある、問題はどう答えるかにある」
「巫女《みこ》が必要になり、私が妃としてではなく巫女として参ったと返答して下さい、王を始め皆の者が、使者の問題を論じているのなら、倭姫王様も御存知であることを告げていただいても構いません」
と媛はきっぱりした口調でいった。
内彦の部下達が到着したのは三刻後である。内彦は武術に優れた二人を媛の警護兵として尾張に行かせることにした。
夜明け前に朝餉《あさげ》を摂《と》り、東の空が微《かす》かに白みはじめた頃、弟橘媛の一行は尾張に向って出発した。
媛の出発を見送り、その無事を念じた内彦は再び馬を飛ばし大和に戻った。
弟橘媛の失踪《しつそう》と内彦がそれを追ったことは、すでに人々の口に上って宮に伝えられていた。内彦は十千根に呼ばれた。
宮の警護隊長の地位にありながら、勝手に大和を離れ会議に欠席したのは許し難いというのであった。
自分の行動を糾弾されることを内彦は覚悟していた。
今は弟橘媛が無事に尾張に着くことを願うのみである。
内彦は、媛は倭建に呼ばれたと告げ、尾張行きを望んでいたが、許可が得られないので失踪し、自分が後を追ったと説明した。
「ふむ」
十千根は意地悪気に顔を歪《ゆが》めた。
「王子からの使者があったのか?」
「いいえ」
「どうして王子に呼ばれたというのだ?」
「弟橘媛は巫女でございました、夢で告げられたと申すのです」
「夢だと、それは正式の使者ではない、勝手に思い込まれたのであろう、そちは伊賀で追い着いたというが、どうして連れて帰らなかった、媛は王子の妃じゃ、勝手な行動は許されぬぞ」
「はあ、ただいちがいに勝手とはいい切れぬところがございました、それで無理に連れ帰ることを諦めたのです」
「勝手とはいい切れぬと……どういう訳じゃ?」
「媛は、夢の内容につき倭姫王様にうかがい、その真偽について相談しました、倭姫王様は神の意を得られたのです、その神託の結果、媛の夢は正夢で、すぐ尾張に行くようにとのことでした、その理由についてははっきりしませんが、王子は病に罹《かか》られたのかもしれません」
「倭姫王様の神託があったのか……」
十千根の顔が歪んだ。
「弟橘媛は、かつて倭姫王様に仕えていました」
「知っている、これが真実なら無理に連れ戻すこともできまい、何れ倭姫王様にことの真偽はおうかがいするがのう、問題はそちが無断で警護の任務を放棄し、大和を離れたことじゃ、その罪は償わねばならぬぞ、何れ王から沙汰《さた》があるであろう、それまで屋形にて身を慎んでいるように」
「覚悟しております」
内彦は叩頭《こうとう》した。
多分、警護隊長の任を解かれることになるだろうが、仕方がなかった。
弟橘媛が鈴鹿峠を越えようとした時、媛は行く手の樹々が騒いでいるように見えた。
風はあるが枝や葉の揺れ方が異常だった。見えない力が枝や葉をなぶっているのである。
弟橘媛は警護兵を止めた。
「曲者《くせもの》が潜んでいるのではないか、探って参れ」
内彦が遣わした警護兵が飛んで行った。弟橘媛の従者が二人、媛の左右を固めた。
警護兵は槍《ほこ》を構え、山林の中に入った。猿の群れが木から木へと移動した。
だが相変らず木は騒いでいた。
弟橘媛は道に蹲《うずくま》ると眼を閉じ心を澄ませた。
山中を走る足音がした。数人らしく近づいてきた。弟橘媛は眼を開けた。木のざわめきは止んでいた。
「戻れ、曲者じゃ」
弟橘媛の声は山々に響くほど鋭い。槍を持った二人の警護兵が道に跳び出すのと同時に曲者が姿を現わした。
毛皮を纏《まと》った山賊で槍や剣を持っている。
「高貴な女人じゃ、宝物を持っているぞ、すべていただきじゃ、逃がすな」
弟橘媛の真上から山賊が襲ってきた。三人の山賊が警護兵に向い、残りが退路を遮断した。
山賊の長《おさ》らしい男子は山林の中に傲然《ごうぜん》と立ち、弓につがえた矢を弟橘媛に向けた。
「なかなかの美人じゃ、今、射殺すのは簡単だが、宝物を奪った後、その身体もいただく、土臭い女人ばかり抱いていたので、吾も土臭くなった、おう甘い匂いがたまらぬぞ」
髭《ひげ》だらけの山賊は大きな鼻の穴を拡げた。巨漢である。
弟橘媛はゆっくり立つと澄んだ眼を向けた。
巨漢は弓を引き絞ると、俊敏な動作で矢を警護兵に向け獣のように吠《ほ》えた。だが矢は一向に放たれない。腕が石のように固くなり動かなくなっている。
山賊の長の顔が真《ま》っ赫《か》になった。
二人の警護兵と三人の山賊の闘いになったが、山道が狭いので二人対二人だ。一人の山賊は側面から襲おうと木に跳びついた。
内彦が選んだだけに二人の警護兵の武術は優れていた。
一人は木に跳びついた山賊に槍を投げた。脇腹に突き刺さり山賊は絶叫しながら転げ落ちた。正面の山賊が槍で突いてくると身を躱《かわ》しざま抜いた剣で槍を撥《は》ねた。穂先が切れて落ちる。たたらを踏んだ山賊の胸に空中で楕円《だえん》を描いた剣が突き刺さる。
今一人の警護兵は槍と剣で闘っていたが、山賊は一方的に防ぐのがやっとであった。
吠えていた山賊の長は恐怖で声が出なくなった。自分の腕が石になり、引き絞った弓矢を握ったまま動かない。
槍や剣を構え、媛の従者と睨《にら》み合っていた背後の山賊は、長が金縛りに遭っているのを知り、悲鳴をあげて逃げ出した。
退きながら懸命に防いでいた山賊も、力尽き、よろけたところを、腹部から背中まで刺し貫かれ眼を剥《む》いて斃《たお》れた。
呪力《じゆりよく》の矢を放っていた弟橘媛が二人の警護兵に、捉えて連れてくるように命じた。
山賊の長の腕から弓矢が落ちた。
二人の警護兵は金縛りから解け、逃げようとした山賊の長の脚を槍で叩《たた》き折り、引きずって連れてきた。
「媛様、如何《いかが》致しましょう」
道に這《は》いつくばり助命を懇願する山賊の長には眼もくれず、弟橘媛は警護兵にいった。
「どんな方法をとっても旅人や村人から奪った財宝を取り戻すように、私は従者と共に先に参る、伊賀の亀山で待とう」
弟橘媛が進むと間もなく何処に隠れていたのか、在地の住人が数人、道に伏して媛を迎えた。
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慄える国
山中で賊に出遭《であ》ってから四日後、弟橘媛《おとたちばなひめ》の一行は鈴鹿の豪族の屋形で船出を待っていた。本来なら今朝にでも船に乗る予定だったが海がしけ、船が出せなくなった。
当時の海岸線は、現在よりもずっと山寄りだった。
鈴鹿の豪族は倭建《やまとたける》に屈服している。倭建の妃《きさき》である弟橘媛を丁重にもてなした。
夕方、西の空が茜色《あかねいろ》に映えたのを見て、
「明日は海もおさまりましょう、船は出せます」
と自信あり気だった。
海人《あま》は空の色で明日の天候を予測できるのだ。
珍しく弟橘媛は眼が冴《さ》えて眠り難かった。寝具の傍に坐《すわ》り気を鎮めたが落ち着かない。
鈴鹿の山々の方から狼《おおかみ》の遠吠《とおぼ》えが聞える。
戸を開け縁に出ると、槍《ほこ》を持った警護兵が叩頭《こうとう》した。
「異常はございません」
「御苦労です、おう、星が出ていますね」
何時《いつ》の間に厚い雲が消えたのか、星が煌《きらめ》いている。まだ雲は残っているが薄雲である。弟橘媛は縁に坐り北極星を眺めた。動かない星は、中国では天帝の住む場所とされていた。前漢時代は天帝そのものだった。
北極星を眺めながら弟橘媛は倭建《やまとたける》が、尾張《おわり》の女人に心をまどわされることなく、征東大将軍の任務を遂行し、無事に凱旋《がいせん》するように念じた。
懸命に念じていると、北極星が赤い光を放ったのが見えた。光は遥《はる》かなる闇《やみ》をこえて媛の胸を貫く。突然、弟橘媛の胸が熱くなる。雲が北極星を消した。
痛みの伴う胸を押えながら弟橘媛は、
「私《わ》に邪心はありませぬ、私は王子様の身を案じ、お力になるべくお傍《そば》に参ろうとしているのです」
と自分に念じた。邪心とは嫉妬《しつと》の炎だった。こうなると自分の内部との闘いである。もう眠ることなど念頭にはなかった。力のある限り念じ続ける以外はない。自分の身がどうなっても構わなかった。
弟橘媛はそういう女人だった。
その頃、倭建は自室で宮簀媛《みやすひめ》とたわむれていた。倭建に纏《まと》いつく時、媛は何時も寝衣を脱いで裸になる。
「王子様への情は胸を焦がし、熱い汗を絶えず滲《にじ》ませます、自分でも不思議です」
宮簀媛は倭建の手を取り弾力のある豊かな胸に乗せた。粘っこい汗が滲み出ているが、そんなに熱い感じはしない。
「胸を焦がすほどではないがのう」
「いいえ熱いのです、でもこの感じは私以外には分らないかもしれません、自分だけの熱さが悦《よろこ》びにつながるのは素晴らしいことです」
閨《ねや》での宮簀媛は奔放《ほんぽう》だった。これまで倭建が閨を共にしたどの女人よりも欲情も喜悦も激しかった。ふと倭建は宮簀媛の愛情は、倭建を愛すると同時に、自分の喜悦をむさぼり喰《く》うことにあるのではないか、と感じたりもする。
だがそんな時宮簀媛は目眩《めまい》がするほどの妖《あや》しい花の香りを発し倭建に挑んでくる。疲れ果てていても応じてしまう。抵抗できない魅力だった。
倭建の顔は宮簀媛の腋窩《えきか》に押えつけられた。あまりの香りに脳の芯《しん》がしびれ、倭建は歯を剥《む》いた。柔肌だが腋窩の肌には身がつき軽く噛《か》むと歯ごたえがあった。
「おう、噛み切るぞ、どうじゃ」
噛みながら汗を吸うと馥郁《ふくいく》とした香りと共に粘い液が滲み出た。汗なら塩っ気があるが、その液には甘さがあった。身籠《みごも》り出産していない鹿の乳には甘さがあるというが、乳かもしれなかった。
倭建は喉《のど》を鳴らして飲んだ。倭建の胸に乗っている胸と腹部が痙攣《けいれん》し、倭建の肌に快い波を伝える。
「うむ、旨《うま》いぞ、こんな甘い汁がそなたの体内にひそんでいようとは思ってもいなかったぞ」
「お吸い下さい、もっと噛んで力一杯、私は甘美な陶酔と共に、身体が溶けて行く思いです」
「うむ、ここか」
倭建は更に歯に力を込めた。宮簀媛は泣くように嗚咽《おえつ》を洩《も》らし歯ぎしりした。倭建が媛を抱き伏せようとした時、嗚咽が悲鳴に変った。媛は腕を引っ込めると身体を蝦《えび》のように曲げた。媛の腋窩から血がしたたり落ちた。血の筋は細い蛇のように媛の白い身体を伝って流れた。
倭建は愕然《がくぜん》として跳ね起きた。強く噛んだが媛の腋窩を咬《か》み裂いた覚えはなかった。
「宮簀媛、どうしたのじゃ、何が起こった、吾《われ》が傷つけたのか、おう、酷《ひど》い血じゃ」
「いいえ、王子様ではございませぬ、何者か、王子様と私の間を妬《ねた》んだ者の仕業でございます、王子様の歯に乗り憑《つ》き狼の牙《きば》となりました」
「何だと、二人の間を妬んだ者だと、一体誰じゃ?」
「王子様に乗り憑くなど普通の者にはできません、王子様と深い関係にあり、鬼神の力を借りることができる女人でございます、その女人は、二人の間を裂くべくもう伊勢の海まで参っています」
「それはない、弟橘媛は大和で留守を守っている、吾の許可なしに来たりはせぬ、それに弟橘媛は嫉妬《しつと》をするような女人ではない」
宮簀媛は腋窩の辺りを押えながら奇妙な笑い声を洩らした。倭建が思わず身慄《みぶる》いしたほど掠《かす》れた声だった。
「王子様は、女人にはお甘い、女人の本性を御存知ありません」
宮簀媛が衣服を纏ったので倭建は、
「媛、戻るのか、今宵《こよい》は朝まで傍にいてくれると思ったぞ」
「私もお傍にいとうございます、でも嫉妬の鬼神の牙にかかった傷は、このままでは悪化してしまいます、今から傷の手当に参りとうございます、この近くでは一里ほど離れたところにあるこのような傷に効く岩清水が一番です」
「もう戌《いぬ》の刻は過ぎている、月は淡い、危険じゃ」
「御心配は要りません、私は傷よりも嫉妬の鬼神が恐ろしゅうございます」
宮簀媛は戸を開けると姿を消した。倭建も急いで後を追う。
「何処《どこ》じゃ、宮簀媛が消えたのは?」
警護兵に訊《き》くと闇の中に暗い穴が開いたような雑木林の方を手でさした。林は丘陵地帯に続いている。
倭建は雑木林に向って走った。童子時代から脚力に自信があった。それでも二、三度|草叢《くさむら》に足を取られて転倒した。
小川を跳び越えようとした時、川岸に人の気配がした。倭建はたたらを踏み、とどまろうとしたがまたもや小石に足を取られ小川に転落した。
「王子様、いかがなされました、闇夜を走り、二度も三度も転がられるとは、そんな未熟な王子様、やつかれは見たことがありません」
川岸に人影が見えた。
「おう、丹波猪喰《たんばのいぐい》、そちは大伴武日《おおとものたけひ》らと東方に向っているはず、どうして戻ってきたのだ」
川から上がった倭建は身慄いして水浸しの上衣と袴《はかま》を脱いだ。
猪喰が身につけていた布を出し倭建に渡した。倭建は素っ裸になり身体を拭《ぬぐ》った。
「まだ、誰の眼にも触れておりません、戻りましょう」
「何を申す、戯《たわむ》れていて吾は宮簀媛を咬み深い傷を負わせてしまった、媛は岩清水で傷をなおしに行った、吾は追わねばならぬ、女一人を闇の中に放っておくわけにはゆかぬ、吾は行く」
「裸で行かれるのでしょうか」
「おう、誰も見ている者はいない、愛《いと》しい女人を守るのだ、裸であろうと構わぬ、猪喰、吾に説教するとは何事だ、そちは本物の猪喰か」
「王子様、どうか夢からお醒《さ》め下さい、そのお姿は征東大将軍、倭建王子とは思えませぬ、媛様がごらんになれば、どんな思いをなさるのでしょうか」
「媛様だと?」
「弟橘媛様でございます、王子様の身に危険を感じ尾張に来られるべく大和を出られました、もう伊勢あたりに参られておいででしょう」
「弟橘媛が参る、本当か?」
「はい、やつかれは大和にも間者を放っています、物部十千根《もののべのとちね》は媛様の東国行きを阻止しようとしましたが、媛様は出られたのです、内彦《うちひこ》殿は、警護隊長の任を解かれました」
「そこまでして媛は何故吾のもとに……」
「王子様の前途は多難です、故に王子様を守られるため」
「吾は呼んでいないぞ」
「倭姫《やまとひめ》王もお許しになりました」
突然、倭建は寒さを感じた。宮簀媛は嫉妬の鬼神によって咬まれた、といった。嫉妬の鬼神とは弟橘媛のことだったのか。
「王子様、戻りましょう」
猪喰は濡《ぬ》れた倭建の衣服を抱えると楽々と小川を跳び越えた。七尺(約二メートル)ぐらいの幅はある。
倭建は自分の脚力が猪喰より衰えているような気がした。それが倭建をふるい立たせた。数尺の助走で跳んだ。川岸に足がついたが土が崩れ岸に縋《すが》りつくのがやっとだった。
倭建は猪喰の手をかりて立った。
「素っ裸では走りにくい」
といって倭建は舌打ちした。
「王子様の力は萎《な》えています、何時もの王子様ではありません」
「どういう意味だ」
「王子様に纏《まと》わる怪し気な女人が、王子様の力を弱めています、やつかれはそれを耳にし、心配して戻って参ったのです」
「怪し気な女人、そういう女人は吾の傍にはいない」
そうはいったが、猪喰が宮簀媛のことを指しているのは明らかだった。
「王子様、弟橘媛様が参られます、王子様の妃ですでに子を産んでおられる女人、温かくお迎え下さるよう願い上げます」
「うむ」
倭建は低く唸《うな》った。
弟橘媛が来るとなると宮簀媛との関係が問題になる。
倭建の妃達は他の女人をあまり嫉妬しない。女人に通じる嫉妬はあるが、王子ともなると大勢の妻を持つので、自然、嫉妬を抑えるようになる。
自分が愛されている時だけが幸せで、新しい女人が現われると、仕方がないと諦《あきら》めてしまう。諦め切れなくても諦めざるを得ない。それが大王《おおきみ》を始め王族と婚姻した女人の宿命だった。
だが宮簀媛は違った。その激しい性格通りの独占欲を示した。倭建への独占欲から妃である弟橘媛を憎んでいた。
更に不思議なのは、弟橘媛が尾張に来ることを感じていた。それは何故か。
それにしてもこの闇夜、一人で傷を治すべく山に行くなど女人の行為とは思えない。
宮簀媛のこれまでの行為には、確かに人間離れのしたところがあった。
もし本当に弟橘媛が来るようなら、宮簀媛との関係を絶ち、東国に向け出発せねばならない、と倭建は自分にいい聞かせた。
宮簀媛が倭建の屋形に現われたのは夕餉《ゆうげ》の前だった。その間、媛は自室に籠《こも》っていたらしい。
何時ものように媛は一人で夕餉にはべった。血がしたたり落ちるような傷を負ったにも拘《かかわ》らず、媛は健康そのもので、腕の動きも普通だった。
倭建は殆《ほとん》ど食事を摂《と》らなかった。昨夜考え抜いた末、宮簀媛と別れようと決意したのである。
「どうなさったのでございます?」
「気分が優れぬ、夕餉は要らぬ」
「それはお身体に悪うございます、昨夜はあれほどお元気だったのに……」
宮簀媛は胸中を探るように眼を細めた。
「昨夜は昨夜じゃ、今日は起きた時から頭が重い、そなたはどうじゃ?」
「王子様の傍に参ると病も悩みも消え元気になります」
「傷は?」
「綺麗《きれい》に治りました、このように」
宮簀媛は袖《そで》をめくり、二の腕の奥を倭建に見せた。艶《つや》やかな肌には何の傷跡もない。
「不思議じゃ、昨夜は血がしたたっていた」
「申し上げた通り、神の岩清水で治しました、王子様、遠慮なく傷つけて下さい、御心配は要りません」
「不思議だ、媛よ、そなたは本当に人間か」
「何を疑われるのですか、私は王子様にお仕えする女人でございます」
「そうか、だが今は夕餉は欲しくない、媛よ、悪いが今宵は一人で寝る、休みたい」
「王子様、ひょっとすると病に罹《かか》られたのではないかと案じ、岩清水を持って参りました、傷だけではなく、気の病の妙薬ともなりましょう、お酒に少し混ぜてお飲み下さい、すぐ元気を取り戻されます」
「気の病ではない、身体が病んでいる」
「だからこの岩清水を……」
宮簀媛は板膳《いたぜん》に置いてあった酒壺《さかつぼ》を取った。懐《ふところ》から枝に生えているような緑の葉を出し、二つに折って酒壺にかざした。岩清水にも似た水滴が灯油の明りに煌《きらめ》きながらしたたり落ちた。
「何だそれは、見せろ」
倭建が手を伸ばして葉を取ろうとすると、宮簀媛は素早く懐に入れた。
「駄目です、私以外の者がさわると、薬効がなくなります、どうかお酒を」
宮簀媛は、覗《のぞ》き込むように顔を寄せた。
昨夜、倭建を燃やした芳香が微《かす》かに匂《にお》った。
「酒は要らぬ」
「王子様、薬でございます、お飲みになるのを見届けたなら私は膳を片づけて退《さ》がりましょう、約束いたします」
「そうか、本当に退がるか、今宵は気分が悪いのだ、済まぬ」
「王子様が私に詫《わ》びられるなど、淋《さび》しい、さあお酒を」
宮簀媛は酒杯を倭建に持たせると酒を注いだ。
「おう、この程度で良い、それ以上だと悪酔いする」
倭建は半分にも満たない酒を飲んだ。一瞬、眼が眩《くら》んだ感じがして息をついた。どういう薬酒なのか、身体の隅々まで酒が行き渡ったような気がした。蝮酒《まむしざけ》よりも数倍きつかった。頭の方から空中に浮遊して行くような酔い方だった。下半身は重く正座しておれない。
倭建は|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》くように両手を動かし倒れるのを防いだ。
「宮簀媛、どうしたのだ、一体どんな酒を飲ませた?」
「王子様によく効く薬湯です、さあ、寝所までお連れしましょう、ほら、もうお元気になられました」
倭建は宮簀媛が差し出した手を握った。途端に腰が軽くなった。倭建は宮簀媛に手を取られながら寝所まで歩いた。
「さあ、もう気の病は去りました、寝衣に着替えられ、横たわり下さい」
宮簀媛は蹲《うずくま》って上衣の紐《ひも》を解きはじめた。倭建はされるままになっていた。心の何処かで、今賊が現われたなら吾は防げぬ、死ぬのだ、と囁《ささや》く声がする。だがそれもあまり気にならない。
宮簀媛は倭建を裸にすると寝具に横たえ、立て膝《ひざ》で見下ろした。部屋の明りは弱く媛の顔は殆《ほとん》ど見えなかった。
「私《わ》は夕餉を下げます、そのままでお待ち下さい」
宮簀媛は拡げた寝衣を倭建にかけた。倭建は桃の花園を浮遊している感じだった。
次第に身体中の血が騒ぎはじめた。血という血が小人になり、お互い笑っているような気がした。小人の笑いに染まったのか、倭建は口許《くちもと》をゆるめ、得体の知れない笑みを浮かべていた。
間もなく小人達は抱き合って踊り、身体の隅々を走り廻る。小人達の手や足が身体のあちこちを引っ掻《か》くが少しも痛くはなかった。かえって微妙な刺戟《しげき》感に身体がうずくのだった。
宮簀媛が戻った頃、倭建は抑え切れない欲情に喘《あえ》いでいた。
「王子様、どうなさいました?」
「おう媛よ、吾はそなたが欲しい」
「私も王子様が欲しゅうございます、それなのに王子様は私を遠ざけようとされました、恨めしゅうございます」
「吾の本心はそなたにある、だが媛が勝手に来る」
「媛とは何処の方でしょう」
「吾の妻じゃ」
「どうして勝手に来られるのですか、王子様が東征大将軍として荒ぶる神たちを征伐されようとなさっているのに、留守を守らず勝手に追いかけてこられるとは、何というはしたない媛様でしょう、私には考えられません」
「はしたない女人ではないぞ」
「では何故、王子様を追ってこられるのでしょう」
「それは、吾の身に危険が迫っているからだ」
そういいながらも倭建は宮簀媛を抱き寄せようと腕を伸ばした。だが腕は鉄の棒のように重く自由に動かない。宮簀媛はそれを知っているように怪し気な笑みを浮かべ眼を細めた。
「どういう危険でしょう?」
「それは分らぬ、だが媛はかつて巫女《みこ》だった、知る力は人よりも優れている」
「それなら私も同じです、でも王子様の身に危険など迫っておりません、私には身体の傷を一夜で治す力があります、万が一危険が迫ったなら、私が必ず守ります、どうか御安心下さい」
「分った、媛よ、吾の傍に来るのだ」
「いいえ、その前におっしゃって下さい、追ってこられる媛のお名前は?」
「名前か……」
倭建は弟橘媛の名を口にしようとしたが、頭では分っているのに言葉に出ない。焦っているうち弟も橘も消えて行った。
「さあ、お名前を」
「妙だ、今の今まで覚えていたのに消えた」
「名前が消えるとはどういうわけでしょう、王子様は嘘《うそ》をついておられます」
「嘘などついていないぞ」
「お忘れになったわけですね」
宮簀媛は倭建の胸中をいたぶるような口調でいった。
細めた眼が妖刀《ようとう》のように光る。
「そうじゃ、忘れたのだ、おう身体がうずく、吾はそなたを抱きたい」
「名前も思い出せないような媛のことなど気になさるのはおかしゅうございます、本当にお忘れになったのなら私が王子様の傍に参りましょう」
「おお、忘れたぞ」
倭建は身体が自由になったのを感じた。倭建は獣のような唸《うな》り声を発して宮簀媛を抱いた。
宮簀媛が倭建の屋形を出たのは一刻《いつとき》(二時間)ほどたってからである。倭建は眠りその鼾《いびき》は屋形の外にまで洩《も》れていた。
子《ね》の下刻(午前零時―一時)で、淡い月は西に傾いている。
猪喰は床下に忍び二人の会話を盗み聴きしていた。
主君である倭建が激怒しそうだが、猪喰は宮簀媛に疑惑を抱いている。主君の生命を縮めそうな女人だった。猪喰の使命は主君を守ることにあった。激怒した主君に首を刎《は》ねられても生あるうちは使命に忠実であらねばならない。
宮簀媛の会話から、媛が倭建と弟橘媛の間を裂こうとしているのが分った。理由がどうであれ、許せなかった。
猪喰は床下から這《は》い出ると宮簀媛の後を追った。媛は自分の屋形の前で立ち止まると不審そうに振り返った。淡い月と星明りだけなので気配でしか感じられないが、猪喰は息を止めて地に伏した。宮簀媛は振り返ったままである。次第に息が苦しくなった。猪喰は土に鼻孔を埋め、地に沁《し》みついている空気を吸った。百呼吸はそうしていたであろうか。
宮簀媛は疑いを晴らしたらしく階段を上り屋形に入った。媛の姿が屋形に消えたのを確認した猪喰はむさぼるように空気を吸った。今でいえば五分以上、殆ど息をしていないのである。地に沁みている空気は僅《わず》かである。通常の呼吸の十分の一もないのだ。
猪喰は近くの丘陵に仮小屋を造っていた。倭建の警護兵は尾張音彦《おわりのおとひこ》が建てた屋形に分散して泊まっているが、猪喰は利用しない。間者として猪喰は隠密《おんみつ》行動を取っている。そのためにも宿泊所は秘密にせねばならなかった。知っているのは久米七掬脛《くめのななつかはぎ》のみである。倭建が猪喰に用がある時は七掬脛を通じて呼ぶ。猪喰の希望でそうしたのだが、倭建はそのことの重要性をよく認識していた。
小屋には猪喰の部下の犬足《いぬたり》と犬牙《いぬきば》が折り重なるようにして眠っていたが、二人は猪喰が小屋に入る前に眼を覚ましていた。
猪喰はそのまま眠り、二人は小屋を見張る。小屋の周囲には雨水の浸入を防ぐため溝が掘られているが、灌木《かんぼく》で覆われていて分りにくい。
翌日猪喰は、二人を船着場に走らせた。弟橘媛を守らせるためだ。
その日の夕から雨が降ったが宮簀媛は昨夜に続き倭建の屋形を訪れた。戻ったのも同じ時刻である。
三日目の夜も宮簀媛は来た。ただ会話の中で、大和からは誰も来ない、と倭建にいわせたのが猪喰には気になった。
忘れさせるのと、来ないと信じ込ませるのとでは意味が違う。来ないと信じ込めば安心感が伴い、記憶の喪失は完璧《かんぺき》なものとなる。
怪しいと感じた猪喰は仮眠を取ると夜明け前に船着場に向った。小雨が降っていたので雨除《あまよ》けの蓑《みの》を纏《まと》って走る。間者にとって雨は難敵だった。ただ仮小屋から船着場まで一里(四キロ)強なので大雨でない限りそんなに時間はかからない。
船が着くのは夕刻までだ。鈴鹿を早朝に出ても陸地沿いに進み揖斐《いび》川の下流で一泊し、夕刻近くに尾張音彦の勢力下にある港に着く。
二人は交易の旅人といつわり海人《あま》の家に泊まっていた。絹布などを泊まり賃として払う。
一人が纏えるだけの絹布を渡せば、半月ぐらいは泊まらせ食事も与える。当時の絹布はそれだけの値打ちがあった。
二人は猪喰に、昨日と今日の海は比較的穏やかなので、伊勢からの船が着くに違いない、と伝えた。
海人の家に泊まるとそういう情報も得られる。
昼下りに弟橘媛を乗せた船が着いた。一行は船着場の長《おさ》の屋形に向った。
雨は止んでいた。猪喰達は蓑を背負い見つからないように弟橘媛を警護した。
猪喰は音彦の屋形に媛が到着するまで守るつもりだった。
おそらく夕餉《ゆうげ》を摂《と》り一泊し、翌日の朝餉《あさげ》を終えて音彦の屋形に向うはずである。その前に使者が媛の来訪を倭建に告げるに違いなかった。案の定、夕餉が終る頃、媛の警護兵一人と長の部下が音彦の屋形に向った。
猪喰は木に登り、犬足と犬牙は長の屋形の周囲を窺《うかが》った。
猪喰が使者となった警護兵の身に不安を覚えたのは、二人の姿が消えた後だった。
倭建が弟橘媛の到着を知ったなら、媛は来ないと倭建にいわせても無意味である。
猪喰は木から降り、犬足に二人を追い警護するように命じた。
「すぐ追え、どうも気になる」
犬足は二人を追って走った。
一刻ほどたったが犬足は戻ってこない。もう家々では夕餉の煙が立ち昇っている。
気になった猪喰は犬牙と共に音彦の屋形に向った。当時は現代と比較にならないほど人口が少ない。倭《わ》列島全体で二百万といったところか。ことに尾張は大和に較《くら》べると、集落も小規模である。
集落と集落の間は未耕地の原野が多い。大和などの平野では湿原地帯だが、尾張では傾斜地だったり、凹凸《おうとつ》の多い地が未耕地となる。現在の熱田神宮《あつたじんぐう》あたりまでは海だったことはすでに述べた。現在の名古屋市の殆《ほとん》どが海なのである。
犬牙は船着場から音彦の屋形までの道を調べていた。犬牙も真剣な面持ちだった。道は小丘の麓《ふもと》にさしかかった。左手の小丘は雑木林で右側は|薄ケ原《すすきがはら》である。人気はない。
「危険じゃ」
猪喰は周囲を窺った。
「しかし犬足が消えるとは……」
信じられません、と犬牙は呟《つぶや》いた。
「無事だったら戻ってくる、何かあったのだ」
「素早い男子《おのこ》です、まさに犬の足です」
「となると地上からではあるまい、木の上から矢を射《い》られた、あの犬足も防げなかった」
「危険な場所に来ると、繁《しげ》みだけではなく木の枝にまで眼をやる男子です」
「普通の警護ならな、ただ犬足は気づかれないように尾行し警護していた、もし不測の事態が起きたなら犬足といえども我を忘れる」
「では最初に弟橘媛様の使者が襲われたと……」
「吾の判断が間違っていれば良いが」
二人は雑木林の傍の道を探るようにして進んだ。
道に流れているおびただしい血痕《けつこん》を見つけたのは同時だった。猪喰は走ろうとする犬牙を制し周囲の様子を窺った。
血痕を見ただけで犬牙は走ろうとした。もし弟橘媛の使者が襲われたのを眼の前にしたなら、犬足は我を忘れる。
十歩ほど先の草叢《くさむら》が乱れていた。血は草の根を染めている。
弟橘媛の警護兵と船着場の長の部下は血だらけになって倒れている。折り重なっているのは殺された後、道から引きずり込まれたからに違いなかった。
「犬足は雑木林だ」
二人は踏み躪《にじ》られた灌木《かんぼく》を掻《か》き分けて入った。十数歩のところに背に矢を受け犬足が刀を握ったまま倒れていた。その三歩ほど先に胸を血に染めた曲者《くせもの》が眼を剥《む》いて横たわっている。犬足の刀子《とうす》(小刀)が曲者の頸部《けいぶ》に刺さっていた。
犬牙が犬足の矢を抜き抱き抱えた。犬足の致命傷は胸を貫かれた刀傷だった。
犬牙が声を殺して泣いている。二人は縁者で兄弟のように育った仲である。
「犬足、眼を開けるのじゃ、このぐらいの傷で死ぬはずはないぞ、しっかりしろ」
「葬ってやれ、生き返ることはない」
事態は猪喰が想像した通りのようだった。
弟橘媛の使者が襲われたのを見た犬足は無我夢中で走った。二人を守らねばならないのだ。それが犬足の使命である。
「仇《かたき》を討つ、必ず」
と犬牙が呻《うめ》くようにいった。
猪喰は首を横に振った。
「いや、それよりも弟橘媛様を守るのが我等の使命じゃ」
猪喰の声は毅然《きぜん》としていた。
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異変と哄笑
犬足《いぬたり》を地に埋めた二人は、その宿から弟橘《おとたちばな》媛ひめが泊まっている海人《あま》の長《おさ》の屋形を見張った。屋形の警護兵が増えていた。表と裏を槍《ほこ》を持った二人の兵が守っている。
何時《いつ》もは一人が見廻《みまわ》るだけだ。
曲者《くせもの》は屋形を襲うかもしれないと猪喰《いぐい》は推測していた。
弟橘媛の使者が殺されたことは、すでに海人の長の耳に入っている。尾張音彦《おわりのおとひこ》も知っているに違いない。当然、弟橘媛の警戒は厳重になる。
曲者達が狙《ねら》うとすると媛が眠っている時だ。猪喰ならそうする。海人の長も、まさか屋形内まで侵入するとは想像していない。そんな危険が生じるのは戦の時だけである。そこに隙《すき》が生じる。
犬足を殺した曲者の正体は推測でしかないが、宮簀媛《みやすひめ》に関係のある者達のような気がする。
倭建《やまとたける》を独占しようとしている宮簀媛にとって、一番の邪魔者は弟橘媛だった。宮簀媛はよく山に出かけており、山人族と親しい。彼等の中には宮簀媛を女神のように敬う者もいた。そういう者達にとって宮簀媛の命令は絶対的である。
問題は尾張音彦が関係しているかどうかだ。猪喰にもその点は分らないが、もし関係しているとすればその背後には物部十千根《もののべのとちね》がいる。物部の交易者は前から尾張と親しい。
物部十千根はオシロワケ王の側近で、ヤサカノイリビメとも親しく、倭建を押え込もうとしている。
それは兎《と》も角《かく》、倭建が宮簀媛に溺《おぼ》れ、何時までも尾張に滞在しているのは危険だった。
王子のためにも、弟橘媛を守らねばならない。猪喰は眼を光らせて闇夜《やみよ》を見た。
雨があがり月の明るい夜だった。
木立や屋形の影が朧《おぼろ》に識別できる。
猪喰は正面の柵門《さくもん》の斜め向いの木に登っていた。犬牙《いぬきば》は裏門を見張っていた。
警護兵は槍を立て仲間と話し合っている。曲者に対する緊張感は感じられない。曲者が屋形を襲うなど考えられないのであろう。だらけている。
猪喰は耳を澄ました。夜鳥が時々奇妙な声で鳴くが静かだった。月が雲に隠れると屋形の影が消え真の闇夜になる。
猪喰の耳は地を掃くような音をとらえていた。よほど注意していないと分らない。次第に下草がすれる音になった。獣か人が草叢《くさむら》を進んでいる。
音が近づいてくるのを知った時、猪喰は下枝に移った。刀を抜くと曲者を待った。
月が雲から現われた。雑木林の中にまで月の光は入らない。猪喰は木から降りて地に伏せた。曲者は一人ではないような気がした。刀を左手に持った猪喰は懐中《かいちゆう》の刀子《とうす》を二本口に咥《くわ》えた。
警護兵は相変らず雑談している。
曲者達の気配が消えた。明らかに警護兵をうかがっていた。何故《なぜ》、月明りを利用して警護兵を殺さないのだろうと猪喰はいぶかった。月明りが消えたなら曲者も見つかりにくいが警護兵も見えなくなる。ひょっとすると暗闇でも眼が利くのかもしれない。また、記憶に焼きつけた場所や姿は消えないのかもしれない。それなら恐るべき相手になる。猪喰は木立から出ると土の上を這《は》い曲者に近づいた。
数歩手前で止まる。
うむ、と猪喰は声に出さずに唸《うな》った。草叢から矢尻《やじり》が出ていた。月光に微《かす》かに映える。
曲者の胸中が読めた。曲者は月が雲に入る寸前に矢を射て警護兵を斃《たお》し、後は暗闇にまぎれ屋形に忍び込むつもりに違いなかった。
曲者の胸中が読めたので、猪喰は有利になった。おそらく曲者は、警護兵に狙いをつけながら月光を気にしている。自然警戒心が薄れる。
猪喰は更に二歩ほど近づいた。案の定、敵は気づかない。
矢尻は二本だった。猪喰は刀子を手にした。曲者との距離は約三歩である。姿は見えないが矢尻の背後の闇が何となく動いているような気がした。息や体温が自然の闇を微かに動かしている気配である。
月明りが暗くなりかけた。猪喰は気配の人影に刀子を投げた。呻《うめ》き声と同時に二本目を放つ。手応《てごた》えがあった。刀を抜いた曲者が石礫《いしつぶて》のように襲いかかってきた。
曲者は三人だったのだ。一瞬の虚をつかれ、猪喰は後ろに跳んで刀を避けた。猪喰に立ちなおる余裕を与えず向ってきた。猪喰は石につまずき仰向けに倒れた。だが猪喰は本能的に刀を横に払っていた。向ってきた曲者の刀と猪喰の刀が火花を散らした。鉄の焼ける匂《にお》いが鼻をつく。よろけた曲者の足首を猪喰の足が蹴《け》った。曲者が倒れるのと猪喰が跳ね起きたのと同時だった。二人の立場は逆転した。
猪喰は曲者の脛《すね》を狙って刀をふりおろした。曲者は反射的に払おうとしたが刀が届かない。足首が切断され血が噴き出す。肉に巻かれた白い骨が悲鳴をあげたように思えた。曲者がはなった呻きである。
曲者は転がって逃げようとしたが動きは鈍い。曲者はすでに反撃する力を失っていた。右足首は切断されているので立ち上がれない。猪喰は曲者の太腿《ふともも》を深々と斬《き》った。それでも曲者は転がったが木にぶつかり動けなくなった。
曲者は喘《あえ》ぎながら眼を剥《む》いた。刀だけは離さない。曲者の顔は多量の出血ですでに蒼白《そうはく》である。
「誰に命令された?」
猪喰は刀を突きつけていった。曲者は答えない。
「宮簀媛だな」
苦痛に曇った曲者の眼が揺れた。
「よし喋《しやべ》らなくても良い、そちは吾《われ》に媛に命令されたと告白した、それを尾張音彦と媛に告げるぞ」
「ち、違う」
曲者は薄れてゆく意識を呼び戻そうとした。苦しげにいった。
「嘘《うそ》じゃ、媛ではない」
「媛じゃ、悪い女人だ」
「うぬ」
宮簀媛の悪口をいわれた曲者は、最後の気力を振りしぼった。刀を突き出そうとしたがすでにその力はない。
「怒ったのは白状したのと同じだ、死ね」
猪喰は曲者の頸部《けいぶ》に深々と刀を突き刺した。犬足、仇《かたき》の一人を殺《や》ったぞ、と猪喰は曲者を蹴って刀を抜いた。
猪喰は刀子を放った場所に走った。刀子を頸部に受けた曲者は絶命していたが、今一人の姿はない。傷を負ったまま逃げたのだろう。
「何者じゃ?」
異変に気がつき近づいてきた警護兵が槍を構えていた。
「弟橘媛様を襲おうとした曲者を斬った、くだらぬ話に夢中になって、警護をおろそかにしてはならぬぞ」
「まことか」
「そんな槍の構え方で曲者《くせもの》を防げるか、こうだ」
猪喰は刀の峯《みね》で槍を叩《たた》いた。呆気《あつけ》なく槍は地に落ちる。
「こっちはこうだ」
驚く今一人の槍を下から撥《は》ねあげると、槍は宙に舞った。
「もっと武術に励め」
呆然《ぼうぜん》としている二人を置き、猪喰は木立に消えた。
屋形の裏にまわり口笛を鳴らすと犬牙の口笛が返ってきた。裏側は無事なようである。
「猪喰殿、それで傷は?」
「擦《かす》り傷だけだ、曲者は身が軽くなみなみならぬ武術の持ち主、多分、山人の中でも優れた者だ、問題はあと何人残っているかだな」
「犬足が一人、猪喰殿が二人を斃した、あと二、三人ではないでしょうか」
「うむ、吾もそう思う、多分|今宵《こよい》は大丈夫だが油断はするな」
「勿論《もちろん》、猪喰殿は一休みされては?」
「ああ、雨はなさそうじゃ、仮眠をとる」
猪喰は草を切ると臥所《ふしど》を作り横になった。眼を閉じ、呼吸しながら気を頭に送る。昂《たか》ぶった神経が安らぎ二十呼吸もしないうちに眠りに入った。
二刻《ふたとき》(四時間)近く眠った猪喰は犬牙と交替した。
弟橘媛の一行が屋形を出たのは朝餉《あさげ》を摂《と》った後だった。辰《たつ》の刻《こく》(午前八時)である。
警護兵は十人に増えていた。異変が続いて起こったので皆緊張している。張り詰めた気配でそれが分った。
猪喰と犬牙は先まわりし、弟橘媛の使者が殺られた辺りを探った。木の枝で待ち伏せていないかも調べたが発見できなかった。
「必ず何処《どこ》かにいる、吾は探し出す」
と猪喰は何度も自分にいい聞かせた。
待ち伏せているというのは猪喰の勘だった。弟橘媛が倭建に会えば、宮簀媛は倭建を独占できない。倭建は眼覚める。
宮簀媛は、何が何でも弟橘媛を消さねばならないのだ。そういう場合の女人の情念には恐ろしいものがある。
猪喰は媛の一行の三百歩ほど先を進んだ。一番危険なのは山が道に覆いかぶさろうとしている場所だった。曲者としては姿を隠しやすい。
尾張音彦の屋形まで四半里(一キロ)ぐらいに近づいた猪喰は犬牙に合図して道沿いの雑木林に入った。道は樹林に覆われた丘の下に消えていた。
「いるとすればあの丘だな」
「吾もそう思います」
「犬牙、そちはこの道沿いの林や草原を調べながら丘に行け、吾は先に丘に走る」
「くれぐれも御用心を」
「おう、そちもな」
猪喰は駈《か》けるようにして丘に辿《たど》りついた。丘の手前は草原だった。原といっても起伏が激しく雑草が生い茂っている。猪喰は草や灌木《かんぼく》、笹《ささ》などが生い茂った原をゆっくり進んだ。弓は左肩にかけ、矢は紐《ひも》で束ねて腰に吊《つる》した。矢筒を背負わなかったのは身軽でいたかったからである。
丘は急斜面で登りにくかった。猪喰は丘を見まわし裏側から登ることにした。傾斜がゆるやかである。それでも、一歩一歩確かめるようにして進まねばならない。
猪喰は道に面した丘の木立や灌木を丹念に調べた。だが曲者の姿はなかった。勿論、潜んでいる気配もない。
犬牙は十歩ほど奥を調べた。
「猪喰殿、ここではありません」
と犬牙は木立の間から首を横に振る。
「うむ、先を調べるか」
道を眺めると弟橘媛の一行の姿が見えた。三百歩ほどの距離である。道の向う側は熊笹《くまざさ》の繁《しげ》みで急傾斜になっている。
「吾が熊笹を調べます、猪喰殿は先に」
「ただここから先は比較的見晴らしが良い、待ち伏せには適していない」
「穴を掘り潜んでいるかもしれません」
犬牙の言葉に猪喰は頭を叩《たた》かれた気がした。
「穴か、うっかりしていたぞ、熊笹の繁みを調べよう」
「猪喰殿、根が地中に張っており、穴など掘れないでしょう」
「短時間ではのう、だが屋形の襲撃に失敗した場合にそなえて掘っているかもしれぬ、穴の上を熊笹で覆えば絶好の隠れ場所になる、どうもここが気になるのだ」
「分りました、調べましょう」
「よし、犬牙は先の方からこちらに向って調べよ、吾は手前から調べる、行け」
犬牙が走りはじめた。猪喰は熊笹に跳び込むと刀で笹を伐《き》った。
弟橘媛の一行が百歩ほど手前に迫った時、
「いたぞ」
犬牙が大声を発した。数十歩先で犬牙と曲者が闘っていた。曲者は二人である。猪喰は刀を抜いたまま懸命に走った。犬牙は二人の強敵を相手にし、防ぐのに精一杯だった。
「おう、吾が斬る」
猪喰が大声で叫んだのは敵の気を削《そ》ぐためである。猪喰に背を向けていた一人が振り返った。二十歩ほどの距離があったが猪喰は刀子を投げた。それも走りながらである。刀子は弧を描きながら曲者を襲う。曲者は恐るべき武術者が迫ってくるのを感じた。普通ならまず届かない。曲者は刀で刀子を払うと何か叫び熊笹の群れを駈け下りた。仲間の一人にここは退《ひ》け、といったに違いない。
弟橘媛の警護兵達の数人が槍《ほこ》を手に駈けてきた。犬牙と闘っていた曲者は身を翻《ひるがえ》して逃げようとしたが慌てたせいで熊笹に足を取られた。犬牙は咆哮《ほうこう》をはなちながら刀もろ共体当りをくらわせた。刀を腹部に受けた曲者と犬牙は抱き合うようにして熊笹の斜面を転がった。
「猪喰殿、逃げた奴《やつこ》を」
「おう」
熊笹が繁った地面は軽々とは走れない。曲者はよほど慣れているのか跳ねるようにして走る。猪喰も真似《まね》たが曲者との距離は開いて行く。斜面の先は狭い草原で雑木林の小丘に続いている。
これ以上追っても曲者を捕えるのは無理だった。猪喰は立ち止まると左肩の弓をはずし腰に吊《つる》していた矢をつがえた。こういう時は矢筒は不要である。一呼吸の時が大事だ。曲者は草原に入った。距離は数十歩もある。猪喰は焦らなかった。深々と息を吸い込むと弓弦《ゆづる》を絞った。矢は鋭い羽音をたて草原を逃げる曲者の腰部のあたりに刺さった。
曲者は倒れたが姿が草叢《くさむら》に消えた。だが草叢は動かない。かなりの距離だったので矢は致命傷を与えていないはずだ。曲者は痛みをこらえ息をこらして猪喰を待っているに違いなかった。恐るべき闘魂だった。
姿を隠したまま草原を渡り切れないと猪喰はみた。動けば必ず草が揺れる。猪喰は草原を凝視しながら進んだ。
曲者が倒れた辺りの草は僅《わず》かに乱れていた。猪喰は十数歩の距離から矢をはなった。矢は曲者に当らず土に突き刺さった。音で分る。
猪喰は弓をその場に置きゆっくり近づいた。何時、何処から襲ってくるかも分らない。身軽になる必要があった。
草原といっても平らな地ではない。かなりの起伏がある。曲者はおそらく低地に潜んでいるに違いなかった。
猪喰は斜めに進んだ。刀で草を切りながら低地を観察できる場所に立った。猪喰が見当をつけた辺りは灌木地帯である。数歩の距離まで迫り刀子を投げた。手応えはない。
ただ曲者は矢傷を受けている。相打ちを狙って突いてきたとしても最初の一撃さえ躱《かわ》せば良い。後の攻撃は弱いはずだ。
猪喰は灌木を薙《な》ぎ払いながら進んだ。突然、右側の草叢が盛り上がり、刀と共に曲者が襲いかかってきた。猪喰が矢を射た草叢である。そこにはいないと睨《にら》んでいただけに予期せぬ攻撃だった。猪喰は刀で受けたが脇腹《わきばら》が熱くなった。猪喰は草叢に跳んだ。曲者も体勢を立て直して身構えた。驚いたことに腰と背に二本の矢が突き刺さっている。
曲者は超人的な闘志の持ち主だった。ただ猪喰が予想した通り、捨て身の攻撃を躱された曲者の身体は荒い息と共に揺れている。刀を構えているのがやっと、といった状態だった。
犬牙が駈けてきた。猪喰は刀を突き出しながら身を伏せるように曲者《くせもの》の足許《あしもと》に足から飛び込んだ。予想外の攻撃に、曲者は体勢を崩しながら身を躱した。猪喰の左手が曲者の足に絡みつく。倒れた曲者の脇腹を猪喰の刀が深々と抉《えぐ》った。
「猪喰殿」
「犬牙、大丈夫じゃ、この曲者を見よ、二本の矢を受けながら襲ってきた」
「考えられません」
「鬼神が憑《つ》いたとしか思えぬ」
曲者は眉《まゆ》が濃く顎《あご》が張っていた。眼は剥《む》いたままだ。流石《さすが》にその顔は歪《ゆが》んでいる。
「おう、弟橘媛様の警護兵か」
「行くぞ」
猪喰は曲者の頸部《けいぶ》に止《とど》めの一撃を与えると前方の雑木林に向けて走った。脇腹に激しい痛みを覚えた。上衣が裂け血塗《ちまみ》れである。
「心配するな、傷は浅い」
猪喰は自分を叱咤《しつた》した。
弟橘媛が尾張音彦の屋形に着いた時、倭建はいなかった。東方の賊の様子を知らせる使者と川沿いの屋形で会っているという。
尾張音彦は弟橘媛のために有力者の家を提供した。音彦の縁戚《えんせき》者で長男は道案内をかね、大伴武日《おおとものたけひ》の軍に従っていた。
弟橘媛は水を浴び長旅の汗を流した。媛は巫女《みこ》として倭姫《やまとひめ》王に仕えていた。身体を浄《きよ》めるために水を浴びるのは慣れている。神事の際は凍《い》てつく真冬でも水を浴びるのだ。
弟橘媛の到着を知り夕餉《ゆうげ》の前に久米七掬脛《くめのななつかはぎ》が挨拶《あいさつ》に来た。
七掬脛は側近の長として倭建に仕えている。時には倭建のために食事を作ったりもする。倭建にとって七掬脛は最も気の休まる男子だった。
弟橘媛の到着を知った七掬脛は、倭建に屋形に戻るようにと進言したが、倭建は言を左右にして応じなかった。
夕餉頃には、宮簀媛が来るに違いないと七掬脛は睨《にら》んでいた。
宮簀媛に溺《おぼ》れている最近の主君の姿は、七掬脛にとって堪えがたいものがあった。まるで別人の主君である。熊襲《くまそ》の長に貰《もら》った倭建の名が泣く。七掬脛はそれとなく何度か忠告したが倭建は諾《き》かなかった。
「吾は間もなく東の国の荒ぶる者達を討ちに行く、反抗する者は一人残らず斬る、戦の毎日じゃ、今吾は英気を養っているのだ、大目に見ろ、七掬脛らしくないぞ」
倭建はわざとらしく哄笑《こうしよう》するのだった。
英気を養っているのでなく吸われている、と七掬脛はいいたかった。だが女人に溺れている男子《おのこ》には何の役にも立たない。
多分、自分を失うほど女人に溺れたことはなかったに違いない、と七掬脛は思った。
七掬脛は、何時になく強硬に忠告した。
「弟橘媛様は王子様の身を案じて参られたのです、何とぞお会いになり、媛様のお気持にお応え下さい」
「媛の気持は嬉《うれ》しいぞ、ただ吾は今、武日の使者に作戦をさずけている、ここは戦の場といって良いぞ、それにだな、吾が呼ばないのに媛は来た、それが今一つ吾には納得が行かぬ、吾が呼んだのなら当然会いに行く、何故媛はここまで来たのか、誰かがそそのかしたのか」
そそのかすという倭建の言葉に七掬脛はこれ以上いっても無駄だ、と感じた。
「それはありますまい、それではやつかれのみが御挨拶に参ります」
七掬脛は決然とした口調でいった。
「うむ、そちが行くか……」
倭建が何となく瞬《まばた》きをしたのは、一瞬自分に恥じ、心に迷いが生じたせいかもしれない。だが倭建はすぐ肩を張った。
「丁度良い、たんに媛をねぎらうよりも、何故勝手に来たのか、問いただすように、どうも不愉快だ」
「王子様、媛様は正妃でございます」
「分っている、正妃であろうと連絡もせず、吾の意も訊《き》かずに追ってくるとは不届きではないか、これでは軍の士気にも影響する、そうであろう、七掬脛」
倭建の眼が異様に光った。主君の眼ではないと七掬脛は息を呑《の》んだ。
「では参ります」
七掬脛が叩頭《こうとう》すると、
「ちゃんと来た理由を訊くのだぞ」
と倭建は念を押すようにいった。
弟橘媛は懐し気に七掬脛を見た。七掬脛は弟橘媛と会えて喜ばしい、と率直に告げた。ただ一通りの挨拶が終ると二人の会話はとぎれた。
媛は七掬脛の胸が閊《つか》え、大事なことを抑えているのを感じた。ただこの部屋は尾張音彦の一族のものである。誰が何処で盗み聴きしているか分らない。
「七掬脛殿、夕餉を摂《と》る前に散策しましょう、外の方が気持が良い」
七掬脛は媛の意を察した。
二人は屋形を出た。外といっても尾張一族の住居内である。柵門《さくもん》は兵士によって守られている。
弟橘媛は住居を囲っている柵の傍まで歩いた。つきそっているのは大和からの二人の侍女だけである。だが見えない眼があちこちの屋形から二人を窺《うかが》っている。
柵の外は広場でその先は田畑である。
「七掬脛殿、ここなら大丈夫です、王子様の身に何か異変でも……」
「異変というほどのものではありませんが」
七掬脛は口籠《くちごも》った。
「王子様は、何故|私《わ》が無断で追ってきたのか、と憤っておられたと思います」
七掬脛は驚いて弟橘媛を見た。媛の表情は一見穏やかだが内に気迫が籠っていた。
「憤ってはおられませんが、ただ何故だろうと不審に思われているようです、できれば理由を知りたいとおおせられていました」
媛は頷《うなず》いた。
鳥が塒《ねぐら》を求めて林に飛んでゆく。媛は眼で追いながら呟《つぶや》くようにいった。
「当然でしょう、私は王子様にののしられても仕方ありません、七掬脛殿、今から私が申すことは胸中に秘めて下さい、それが約束できますか?」
「では王子様には何と報告を……」
「王子様の身に異変を感じ、心配のあまり追ってきたと報告して下さい」
「分りました、そうします、それ以外のことはやつかれの胸に秘することを誓います」
「では神のお告げを話します、王子様の身に悪い鬼神が憑《つ》きました、蛇のような女人の情念です、大体女人は情を抑え、愛する男子に尽すのが普通です、でも今回の女人の情念は王子様に憑き、王子様の御命を吸い取るまで燃え続けるでしょう、王子様を愛するよりも自分の情と欲に溺れています、本来の王子様は、そのような女人には背を向けられるのですが、今回は悪い鬼神のせいで眼が眩《くら》んでおられる、七掬脛殿、私の申したことは間違っていますか?」
「その通りです、その女人は尾張音彦殿の娘です、で、悪い鬼神の正体は?」
「まだ分りません、二、三日のうちに私が見破りましょう、私は負けません」
弟橘媛は眼を見開き、山々を眺めた。そんな媛の顔を見ているうち、七掬脛の瞼《まぶた》が熱くなった。媛が心から倭建の身を案じ、愛しているのを痛感した。神が媛にお告げをたまわったのも無理はない。
「弟橘媛様、やつかれにできることがあれば何でもおっしゃって下さい」
「いいえ、その必要はありません、案じることはない、私は生命を賭《か》けているのです、必ず勝ちます」
生命を賭けていると弟橘媛がいった時、光のようなものが媛の体内で輝いたようだった。それは媛の心に宿った神かもしれない。
「その通りです、弟橘媛様は勝たれます」
七掬脛は自分のことのように力強くいった。媛は微笑した。
「七掬脛殿、王子様のもとに戻り、先に私が申した通り、異変を感じたので来たと伝えて下さい、それ以外のことは不要です、それと王子様の命には従うのです、反抗してはなりません」
「分りました」
七掬脛は勢い良く立った。
七掬脛が川沿いの屋形に戻ってみると、倭建は宮簀媛と酒を飲んでいた。この頃の倭建の酒量は増えている。宮簀媛は男子に負けずに酒を飲む。二人は顔を寄せ合い同じ酒杯で飲んでいる。
「おう七掬脛、ここに参れ、そちも飲むが良い、旨《うま》い酒じゃ」
「はっ、いただきます」
七掬脛は倭建の前に坐《すわ》ると捧《ささ》げるように酒杯を持った。
「私が注ぎましょう」
宮簀媛は赧《あか》くなった眼許を細めた。吸い込まれるように妖《あや》しい艶《つや》を宿した眼だった。七掬脛も一瞬ぞくっとした。倭建をたぶらかす憎むべき女人だが、傍に坐《すわ》ると色香に包まれ憎しみも薄れる。
七掬脛は、そんな自分を叱咤《しつた》し弟橘媛の顔を思い浮かべた。
宮簀媛は酒壺《さかつぼ》の酒を注いだが酒杯から溢《あふ》れた。
「媛よどうした?」
「七掬脛殿の酒杯が揺れたのです」
宮簀媛は澄まし顔で嘘をつく。
「七掬脛、媛が注いでいるのだ、しっかりせよ」
「申し訳ありません、やつかれの不注意です」
七掬脛は叩頭《こうとう》して詫《わ》びた。
こういう場合、七掬脛は決してさからわない。当り障りなく受け流す。七掬脛の剽軽《ひようきん》さはそういう柔軟性から生まれていた。
「よし、酒を飲んだなら舞え、久米舞《くめまい》じゃ、面白い歌があったではないか、新しい妻には旨いものを、古い妻には肉のない筋を与えよという歌じゃ、男子の気持を見事に歌いあげているぞ、さあ、久米舞じゃ」
倭建は弟橘媛の返答を聴こうともしない。七掬脛を遣わした目的を忘れているようである。
七掬脛としてはこの場で久米歌を歌いたくなかった。弟橘媛を侮辱することになる。
倭建が口にした古い妻は明らかに弟橘媛をさしている。新しい妻とは宮簀媛のことだ。
逡巡《しゆんじゆん》している七掬脛を倭建は酔いに濁った眼で睨《にら》んだ。
「七掬脛どうしたのじゃ、そちは久米ではないか、氏族の歌は高らかに歌うものだ、それが氏族の誇りだぞ」
「はっ」
「何を悩んでいる、そちは吾の側近の長《おさ》、吾の命に従わないのなら任務を解かねばならぬのう」
倭建は宮簀媛を抱き寄せると、
「のう媛」
七掬脛に聞えるようにいう。
「王子様、その通りでございます」
媛は甘えながら頬《ほお》を合わせる。
王子様、そこまで狂われたか、と七掬脛は叫びたかった。何処かで声がした。
「王子様の命には従うのです」
そうだった、と七掬脛は自分に頷く。弟橘媛はこのことまで見抜いているのである。倭建がいっているのではない。悪い鬼神がいわせているのである。
「王子様、歌います」
七掬脛は縁の端に立った。
久米歌は舞いながら歌う。身振り手振りで歌の意を表す。
歌は次のようなものだ。
宇治の高城でシギ鳥のわなを張っていたなら、鷹《たか》がかかった、大きいぞ、古女房が欲しがったなら、痩《や》せたソバのホのように身のないところを削ってやろう、新妻の場合はサカキの実が多いように、たっぷり身のついたところをやろう。
男子が酒宴で舞い歌うのだが、前妻にとっては残酷な歌である。
七掬脛は、時には足を踏み鳴らし、時には身を縮めながら歌い舞った。
舞い終り平伏すると倭建が拍手した。
「おう見事に歌った、まさに久米は男子中の男子だ、何も古い妻に遠慮する必要はない、ところで古い妻が来たらしいが何を申していたのじゃ?」
倭建の甲高い声に七掬脛は、王子様、気を確かにお持ち下さい、と念じながら顔を上げた。
「王子様の身に異変を感じ、案じられて参られたとのことです」
「吾の身に異変だと、どうかしているのではないか、この通りじゃ」
倭建は部屋中に響き渡るような声をはなち、身体を波打たせながら笑った。
[#改ページ]
山の鬼神
翌日、弟橘《おとたちばな》媛ひめは、自分の身を案じてきた久米七掬脛《くめのななつかはぎ》に警護兵を一人頼んだ。
「誰かが私《わ》を狙《ねら》っているような気がします、大和からついてきた警護兵は長旅に疲れています、休ませてやりたいのです」
「やつかれもそう思っていました、丹波猪喰《たんばのいぐい》の部下の犬《いぬ》牙きばは媛様が尾張《おわり》の港に着かれて以来、媛様の警護に当っています、今一人、やつかれの部下に優れた武術者がいます、昼までに二人を来させましょう」
七掬脛は、丹波猪喰が傷を負い療養していることを話さなかった。
「王子様はお元気でしたか」
「はっ、はいお元気です」
突然の質問に七掬脛はどもりかけた。酒を飲みながら宮簀媛《みやすひめ》と戯れている王子の顔が脳裡《のうり》に浮かび胸が詰まった。
七掬脛は俳優《わざひと》になっても通るぐらいの演技者だが、不意の質問に対応できなかった。媛は七掬脛の動揺を見抜いたが、微笑した。
私には分っているのです、気にすることはないと媛は告げているようだった。
「七掬脛殿、私はこれから毎朝、王子が戻られるまで水を浴びて神に祈ります、ただ、尾張氏の井戸では効き目が薄い、故にあまり人が使わない小川を探して下さい、その際に警護兵が必要なのです」
「分りました、犬牙ならすぐ見つけましょう」
「それと今一つ願いがございます」
「何でもおっしゃって下さい」
「王子様がおられる場所は、ここからどのぐらい離れていましょう」
「約五里(二〇キロ)というところでしょうか」
「私をその場所の近くまで案内して下さい、王子様に私が近くまで参っていると告げていただきたいのです、勿論《もちろん》、王子様は憤り、七掬脛殿を責めるかもしれません、私が懇願したとでも旨《うま》く誤魔化《ごまか》して下さい」
「今日ですか?」
「明日で結構です、七掬脛殿、宮簀媛に憑《つ》いている鬼神は王子様の胸中深く潜っているのです、遠くで祈ったぐらいでは王子様を救えません、ことに女人の情が鬼神となった場合は根が深うございます、私は動かねばなりません」
「承知しました、ただ、お泊まりになる場所が問題です」
「その心配は不要です、ここに戻ります、私は女人ですが、倭姫《やまとひめ》王に仕え、巫女《みこ》として修行しました、これでも足は速いのです、案じる必要はありません」
弟橘媛は穏やかに頷《うなず》いた。そんな媛の態度に七掬脛の気持は和らいだ。
その日のうちに犬牙と七掬脛の部下の雄虫《おむし》が警護兵として来た。
トンボも含め、当時の虫は再生信仰の対象にされていた。人名に虫の名がつくのはそのためである。
犬牙は弟橘媛を丘と丘との間を流れる小川に案内した。五尺(一五〇センチ)ほどの川幅で両側は灌木《かんぼく》と雑木林だった。尾張音彦《おわりのおとひこ》の屋形から四半里《しはんり》(一キロ)ほどしか離れていない。
水は澄んでいて底の小石が陽《ひ》の光を浴びて、まるで活《い》きているようだ。
「犬牙殿、良い小川です、明日は夜明け前にここに参り水を浴びましょう、戻って朝餉《あさげ》を摂《と》り、王子様のおられる屋形に参ります」
「媛様、やつかれ達は、左右の丘の上で、曲者《くせもの》を見張りましょう、ただ念のために武術の心得のある侍女をお傍《そば》に……」
犬牙の忠告に媛は眼を細めた。
「もっと近くで警護して下さい、私は浄《きよ》めた衣を纏《まと》い小川に入ります、気を遣うことはない」
「はっ、御命令通り」
犬牙と雄虫は硬くなって叩頭《こうとう》した。
翌日は雨だった。雨除《あまよ》けの蓑《みの》を纏った一行は犬牙の案内で小川に到着した。夜明け前の闇《やみ》である。空は雨雲に覆われているので星明りもない。だが犬牙は数十歩ほど歩いて少し立ち止まるだけで迷わずに昨日の場所に案内した。
雄虫も犬牙の眼には感心したようだ。
「眼だけは猪喰殿に褒められている、多分、鼻も利くのじゃ」
雑木林も灌木も暗闇で、二人が身を潜めると闇に溶けて消えた。
弟橘媛は小川に入った。夏はまだ遠く、身が凍りつくほどの冷たさである。
倭建《やまとたける》が大和を離れて以来、媛は度々水を浴びて王子の武運を祈っている。凍った肌が体内の気によって血行を速める。
血は勢いづき徐々に肌を暖める。何時《いつ》か冷たさが消え、精神の集中が可能になる。
媛は脳裡に大和にいた頃の王子の顔を思い浮かべ語りかけた。
「王子様、お許しを得ずに参りましたが、これも王子様の身を案じてのことです、どうか私を思い出して下さい、私は王子様が無事、東征の任務を果たされるために生命を投げ出す決意を固めています、女人の情に溺《おぼ》れて参ったのではございません、よろずの神よ、私の誓いに耳を傾け、私に力を与え給え」
媛は何度も神に祈った。
脳裡に浮かんだ王子の顔は大和にいた時のままだが、何も答えない。どのぐらいの時がたっただろうか。東の空が心もち白みはじめた。
媛は小川から出、濡《ぬ》れた衣を脱いだ。白い肌もまだ闇に包まれて、ただ闇の影が動くだけである。
侍女が弟橘媛の身体を拭《ふ》き新しい衣を纏わせた。
媛が尾張音彦の屋形に戻った頃、東の空は漸《ようや》く薄青色に白んでいた。
媛は朝餉を摂ると待っていた七掬脛に案内され、倭建が滞在している屋形に向った。
倭建の屋形は川の傍にある。媛は屋形の見える丘に登った。
媛は草叢《くさむら》に正座し、王子が立ち直れば生命を捧《ささ》げる覚悟でいることを神と王子に告げた。すでに死を覚悟した媛の顔は穏やかだった。無心の境地で祈ると、媛は何事もなかったように屋形に戻った。
三日たった。
倭建の食欲がなくなったのは三日目の朝餉の前だった。身体の力が萎《な》えたようで何をするのも億劫《おつくう》になった。
これまで倭建は健啖家《けんたんか》だった。嫌いなものは何もない。時には一番鶏《いちばんどり》が鳴く頃、空腹で眼が覚めることもある。
その日ほど食欲がないのは、生まれて初めての出来事といって良いかもしれない。
宮簀媛は早く起き、侍女に朝餉の用意をさせた。
当時の味つけは塩と小魚などである。それでも結構、好《よ》い味になる。野菜や木の実の入った汁、飯、焼いた川魚、それに山菜などがつけられた。
倭建は甕《かめ》に汲《く》まれた水を浴び、胸のつかえを治そうとした。冷たい水のせいで幾分かさっぱりしたが、食欲は出ない。
「王子様、どうなさったのです、お顔の色が悪うございます」
宮簀媛は心配顔でいった。
何時もなら突っ立った倭建の身体を拭くのだが、その日の倭建は石に腰を下ろしてしまった。
「身体がだるい、風邪《かぜ》でも引いたのかな」
宮簀媛は倭建の顔を拭くと自分の額を押しつけた。
「熱はありませぬ、王子様、気のせいです」
「気のせいではない、身体に力が入らぬのだ、こんなことは初めてじゃ、そうじゃ、この地の水が合わぬのかもしれぬ、これからは水も熱して飲もう」
「水は活力のもとでございます、沸かしたなら力が半減しましょう、さあ、朝餉を摂って力をおつけ下さい」
「朝餉は要らぬぞ」
「でも、少しでもお口に……」
「入らぬ、戻してしまう、身体を拭け、吾《われ》は横になる、矢張り悪い風邪を引いたようじゃ」
宮簀媛が懸命にすすめても倭建は朝餉を摂らず寝具に横たわってしまった。
宮簀媛は、侍女達に当り散らした。
侍女達は叩頭して聴くが、何故《なぜ》怒られるのか、と内心は不快である。
親しい者同士は囁《ささや》き合う。
「王子様の身体が悪くなったのは、閨《ねや》のことが過ぎるからでございましょう」
「その通りです、夕餉を終えて、夜半過ぎまでのことが多い、私達も眠れない、これでは病に罹《かか》りそうじゃ」
「声が過ぎます、夜半過ぎというよりも、夜明け前までの時もある、それにしても王子様は、お気の毒なほど、お痩《や》せになられました……」
「そうじゃ、媛様はよく太られ、全身から艶《つや》が滲《にじ》み出ておられる」
「女人は弱いといわれますが、媛様は違います」
「閨のことでは、男子は弱いといわれているではありませんか」
「そなたはよく御存知ですね」
「私は知りません、話で聞いているだけじゃ」
「どうかしら、でも最近の媛様は気味が悪い、まるで王子様を食べて活々《いきいき》となさっているようです」
「本当に、王子様と会われてから人が変られました」
侍女達は口を袖《そで》で隠しながら噂《うわさ》話に夢中になった。
昼過ぎ、大伴武日《おおとものたけひ》の使者が戦況を告げに来た。尾張周辺はほぼ服従したので、更に東に進むべきだ、という武日の意見を伝えた。
倭建は薄暗い部屋で寝具に横たわったまま聴いた。
宮簀媛は寝具の傍に坐《すわ》っている。媛の顔はその内部から妖《あや》し気な光を放っているようだ。放つというよりも滲ませている、といった方が適切である。朧《おぼろ》な光で霧に囲まれているように見えた。
冷気を浴び、使者の背筋に寒気が走った。
「考えておく」
寝転んだまま倭建は答えた。声が掠《かす》れて使者の耳に届かない。
「王子様は、考えておくとおっしゃいました、退《さが》りなさい」
宮簀媛の声は大きく女人にしては太い。何時もはこんな声ではない。今日は特別だった。萎《な》えた身体の倭建の身にその声が重く響いた。
「媛よ、吾は暫《しばら》く一人になりたい、眠りたいのだ、だが砕けた針が眼の内側で舞っており、なかなか眠れぬ、吾は一人になる」
「王子様、大丈夫でございます、邪気が王子様の眠りを妨げているのです、私が神に祈り、邪気を追い払いましょう、さあ、眼を閉じて下さい」
「眼は閉じている」
「私が王子様に息を吹きます、どうか私の息を吸って、身体の隅々の血に息を与えて下さい」
「うむ」
宮簀媛は倭建の鼻孔《びこう》に口を寄せて息を吹きかけた。それは妙に甘く倭建の脳を痺《しび》れさせるような匂いがした。
倭建の意識は媚薬《びやく》を嗅《か》いだようになくなった。
だがそれも二刻《ふたとき》(四時間)ほどの間だった。倭建は心の奥を針で刺されたような痛みを覚えて眼を覚ました。
呻《うめ》いていると宮簀媛が入ってきた。倭建は思わず眼をこすった。媛の顔が何時もの倍ほど大きく膨《ふく》らんで見えた。
倭建は身体を起こそうとしたが動かない。
「何をなさっているのです?」
宮簀媛が倭建を睨《にら》んだ。
「山犬か、そちは!」
山犬とは狼《おおかみ》のことである。口が裂け鋭い歯が剥《む》き出ていた。
「王子様、お気を確かに」
今度は鹿になった。
「うむ、鹿だったのか、何時も鹿の傍にいたな」
「さあ、お眠りなさい、お疲れで眼が乱れておられるのです」
「おう、猪じゃ、寄るな」
倭建は叫んだが声にならない。
「私は猪などではありません、このように可愛《かわい》い小蛇です」
猪が消え、小蛇が倭建の首に巻きついた。倭建は脂汗をしたたらせながら悶《もだ》えた。暴れようにも身体が動かないのでどうしようもない。そのうち息が苦しくなり失神した。倭建は苦痛の眠りに入った。
宮簀媛は暫く、倭建の寝顔を凝視《みつめ》ていた。半刻(一時間)ほどたったろうか、倭建の顔が歪《ゆが》んだ。鬼神の呪術《じゆじゆつ》から覚めようとしているようだ。
宮簀媛は大きく口を開け顔を寄せた。息を吹き込もうとした瞬間、媛は悲鳴をあげてひっくり返った。
裳《も》が乱れ、太った太腿《ふともも》が薄暗い部屋ではねた。
媛は山に棲《す》む獣《けもの》のような声で唸《うな》った。
眼を見開いた倭建は息を呑《の》んでそんな媛を眺めた。
媛は這《は》いながら部屋を出ると大声で警護兵を呼んだ。
「曲者《くせもの》が屋形の周囲に忍び寄っている、一人は女人に違いない、うむをいわさず捕えて斬《き》り捨てるのじゃ」
新しい警護兵の長《おさ》は穂積内彦《ほづみのうちひこ》の縁者の高彦《たかひこ》だった。高彦は主君の精気を吸い取っている宮簀媛に好意を抱いていない。
「曲者の気配はありませぬ、それに女人とは妙です、どうしてお分りですか?」
「私には分る、山鳴《やまなり》は何処《どこ》じゃ?」
媛の声は四方に響き渡った。
槍《ほこ》を手にした山鳴と三人の部下が駆けつけた。
山鳴は尾張音彦の部下で、宮簀媛の警護の任についている。
「おう山鳴か、私に危害を加えようとして曲者が現われた、場所は分る、私に従え」
宮簀媛は髪を振り乱して走った。山が好きで絶えず山に入っている媛は足が速い。山鳴は慌てて媛を追った。
媛は雑木林や丘を越えて走る。何処に曲者がいるのか見当がついているようだった。
宮簀媛がひっくり返ったのは、丘の上から放った弟橘媛の念力のせいである。
宮簀媛が来るのを知った弟橘媛は、雄虫をうながしその場を離れていた。
「私は勝ちます、これから王子様は、次第に正しい気を取り戻されるでしょう」
媛の言葉には自信が溢《あふ》れていた。
その頃、倭建は高彦と話し合っていた。
「吾には何が何やらさっぱり分らぬ、今日は身体の具合が悪く病の床に臥《ふ》した、そんな吾を宮簀媛が看病してくれた、吾の記憶に残っているのは、媛が叫び声をあげて倒れたことだけだ、媛は外に出たようだが何をしている、ここに呼べ」
「王子様、宮簀媛様は曲者が来たと叫ばれ、山鳴殿を連れて外に」
「曲者だと、ここに参ったのか」
倭建は刀を掴《つか》んで立とうとしたが、まだ身体の自由がきかない。
「いいえ、やつかれには曲者の気配が感じられませんでした、それに曲者の中に女人がいるなど妙なことを口走られたのが気になります」
「女人だと、曲者の中に……」
本能的に倭建は弟橘媛の顔を思い浮かべた。そういえば媛は尾張音彦の屋形まで来ているという。
「はっ間違いなくそのように申されました、ひょっとすると弟橘媛様が来られたのかもしれません」
「何を申すか、弟橘媛が曲者であるはずはないではないか、吾の妃《きさき》じゃ」
「王子様は何故、お会いにならないのですか、王子様の身を案じて参られたのです」
警護隊長の高彦は、弟橘媛の縁者でもあった。
倭建は苦い顔になった。
そういえば、何故会わないのか自分でもよく分らなかった。勝手に追ってきたのは不届きだ、と怒ったようにも思うが、今は面会を拒否するほど腹が立っていない。
倭建は顎《あご》を撫《な》でた。
「高彦、吾は留守を守るように媛に命じて戦に出たのだ、その媛が吾に会いに来た、命令に背いて勝手に来た媛を迎え入れては軍の士気に影響しよう、だから会わないのだ」
「媛様は、重大な用事があって参られたのかもしれません、公けに会いにくい王子様のお気持も分りますが、どうか媛様の胸中もお察し下さい、ひそかに会うという手もございます」
「ひそかにか……」
急に弟橘媛が憐《あわ》れに思えてきた。だが宮簀媛が許さないだろう。
突然、倭建は宮簀媛が鬱陶《うつとう》しく思えてきた。そういえばこれまでの自分は媛のいうなりになっていたような気がする。
倭建は拳《こぶし》を振り胸を叩《たた》いた。萎《な》えている身体に強く響く。
「王子様、お願いでございます、これまで申しませんでしたが、丹波猪喰殿は弟橘媛様を襲おうとした曲者と闘い傷を負われました、また犬足殿は無念にも……」
高彦の声が掠《かす》れた。
「何だと、何故申さぬ」
「はっ、申し上げようとしたのですが、王子様は後で告げよ、と怒られたのです、その後も……」
「馬鹿な、吾は覚えておらぬ、まことなら吾はどうかしていた、そういえば今日のことも記憶にない、猪喰の傷は? 猪喰は何処にいる、吾を案内せよ」
倭建は刀を杖《つえ》に立ったがまだ身体がふらついて歩けない。
だが倭建の眼光はかなり鋭くなっていた。宮簀媛と共にいる時のどんよりした眼ではない。
「王子様、御安心下さい、やつかれは床の下にて傷を治しています」
猪喰の声は倭建の足許《あしもと》から部屋中に響いた。
倭建は高彦の肩を借り、猪喰は犬牙に支えられて屋形を出た。
猪喰がこの屋形では話しにくいといったので、倭建は外に出たのだ。
猪喰が案内したのは、屋形から三百歩ほど離れた場所に造られた住居だった。住居といっても丘の起伏を利用して穴を掘り、雨水が入らないように周囲に溝を掘った簡単なものである。穴の入口は戸板と灌木《かんぼく》で覆われていた。
猪喰の傷口は漸《ようや》く出血が止まった程度で、肉が盛り上がり、自由に動けるようになるには一ケ月はかかりそうだった。
そんな身でありながら主君を守るべく床の下に潜んだ猪喰の忠誠心に、倭建は胸を打たれた。
眼から鱗《うろこ》が落ちたような思いだった。
猪喰は弟橘媛の使者が殺されたことからこれまでの経過を話した。
「王子様、問題は誰かが弟橘媛様を殺そうとしたということです、理由は王子様に会わせないためでしょう、となると曲者に命令した者は限られます」
倭建は心の臓に痛みを覚えた。
「猪喰、誰じゃ?」
「王子様の胸中は?」
「待て、何故、媛を吾に会わせまいとしたのか、理由はそれだけか、他にも理由があるのではないか」
倭建は冷や汗が滲《にじ》み出るのを覚えた。
「他の理由とは?」
「うむ、たとえば弟橘媛は重要な情報を得た、東征に関することかもしれぬ、いや、巻向宮《まきむくのみや》での権力闘争ということも考えられる、尾張の誰かがそれを吾に知られたくなかった」
「それも一理でございましょう、ただそれなら女人の媛様が来られるのは危険です、穂積内彦殿か、信頼できる部下が使者になりましょう、僅《わず》かな供を連れ、女人の身で尾張まで来られることはありますまい、内彦殿の性格から考えても、それはあり得ないとやつかれは思いますが」
「うむ、確かに媛が使者になるのは危険だが、相手を油断させるという点では男子よりも上じゃ」
「媛様は王子様の正妃でございます、もし油断をさせるのなら、別な女人を使いましょう、媛様は自分の御意志で来られたに違いありません、王子様の身を案じられたのです」
「それだけなら、何故媛を殺そうとしたのか、そこまですることはあるまい、媛に危害を加える者こそ、大変な危険を背負うことになる」
「その通りです、だがそこまでの危険を冒しても、媛様を王子様に会わせたくない者がいたのは確かです、半ば狂ったとしかいえないでしょう」
「猪喰、構わぬ、そちが考えている者の名を申せ、誰であろうと吾は動ぜぬぞ」
「王子様はもうお気づきです」
「宮簀媛というのか」
「まず間違いございません」
「しかし、媛がのう」
倭建にはまだ媛への未練があった。それに倭建を情の虜《とりこ》にしたほどの魅力のある媛が、そんな恐ろしいことをするとは思えなかった。
「王子様、宮簀媛様は間違いなく怪しい力をお持ちです、山が好きでよく出かけられたようですが、山の鬼神が憑《つ》いているということも考えられます」
「山の鬼神か、吾も昔は山が好きだった」
倭建は大和の王を斃《たお》すべく音羽山に隠れていた丹波森尾《たんばのもりお》を斃した日のことをふと思い出した。
猪喰は森尾の孫である。
「吾には山の鬼神は憑かなかった」
「鬼神が憑くのは女人です、男子には憑きません」
「それはそうだが、宮簀媛だという証拠はあるまい、それに尾張音彦の屋形は平穏で、曲者が出入りするような気配はなかったぞ」
「曲者《くせもの》は山人族です、皆、猿のように身軽で健脚でした、尾張音彦殿の部下ではありません、音彦殿は知らないでしょう」
「猪喰、曲者の口から吐かせたのか、それなら納得する」
「強情な奴《やつこ》達で、死ぬまで吐きませんでした、だがやつかれの責めに、眼で告白しました、口よりも眼の方が正直です」
「眼でか……」
倭建は猪喰の説明に真と実を感じた。それにも拘《かかわ》らず全面的に信じたくない。情のせいだけではなかった。そういう女人に溺れたとなると自分の沽券《こけん》に関わるからである。
その頃宮簀媛は屋形に戻ったが、倭建がいないのを知り、再び探しに出ていた。
宮簀媛に従ったのは山鳴と部下二人である。
時々媛は鼻孔のあたりに両掌《りようて》を寄せ、匂いを嗅いだ、腹を空かせた獣が獲物を求めている時と同じだった。媛が倭建の匂いを嗅ぎ取ったのは、数十歩ほど歩いた後である。
媛の眼は暗闇で微《かす》かな光を見つけた時のように開かれた。
媛はまっすぐ小丘の方に眼を向け、掘られた穴にゆっくり向った。
高彦が穴の中に横たわる倭建に告げた。
「王子様、会ってはなりません、まず弟橘媛様にお会いし、遠路の旅の疲れを慰められるべきです」
「しかし、宮簀媛には何と……」
「やつかれがはっきり告げます、王子様は気分が悪く、どなたとも会いたくないと申されていると」
「媛は無理に入るかもしれぬぞ」
「王子様に、そんな無礼を働く者はいないはずです、もしいるとすれば曲者ということになりましょう」
「曲者か……」
「王子様は東征大将軍であられるのみならず、正后が産まれた王子、今おられる大勢の王子の中でも王に近いお方です、王子様の意にさからって近づく者は曲者ということになりましょう」
猪喰は傷口を押えて言った。
「猪喰、分った、そちは休んでおれ、高彦に応対させよう」
倭建は決意を固めた。弟橘媛を守るために傷を受けた猪喰の忠誠心が、邪気を追い払って行く。
倭建の命を受けた高彦は、灌木で隠された戸板の前に立ち、大手を拡げた。
「宮簀媛様、これ以上は入れませぬ、王子様の御命令です」
宮簀媛は途端に泣き出しそうな顔になった。うちひしがれたように膝《ひざ》をつく。
「高彦殿、王子様がそんなことをおっしゃるはずはありません、一昨夜も昨夜も、それについさっきまで二人は一緒でした、王子様は片時も私を離さないとおっしゃっています、私が嘘《うそ》をついているかどうか、王子様にお訊《き》き下さい」
泣くような声で訴え、高彦を見上げる。倭建を籠絡《ろうらく》していたあの女人と同一人物とは思えない。憎まねばならないと足に力を入れたが憐れみの情が湧く。
「それはなりません、王子様の御命令じゃ」
「それは嘘です、何かの間違いです、悪い鬼神に王子様はまどわされていらっしゃいます、私の顔を見れば、王子様は正気に戻られましょう、どうか入れて下さい」
蹲《うずくま》った宮簀媛は両手を地につきそのまま這《は》い寄ってきた。驚いた高彦は半歩|退《さ》がった。媛の手が伸び高彦の足首に巻きつこうとした瞬間、犬牙が叫んだ。
「吾の友、犬足を殺した曲者は許しませぬぞ」
這っていた媛は跳ね起きた。
「誰じゃ、曲者か?」
「吾の眼を見られよ、忠犬の輝きを受けられるか」
犬牙と宮簀媛の眼が噛《か》み合い空中で火花を散らした。犬牙は媛の眼が五色に変るのを見た。それらが光の渦となり襲いかかってくる。
一瞬、眼を閉じかけたが、潰《つぶ》れても構わぬと反対に力一杯見開いた。脳裡《のうり》に光の矢を受けた犬牙は気が遠くなった。倒れなかったのは無意識の武術である。童子の手で押されても倒れていたであろう。
霞《かす》んだ眼に宮簀媛の眼が空洞になっているのが見えた。媛も全力を出し切ったに違いない。
犬牙は自分の耳を疑った。犬足の声がする。犬牙はその声を、口ではなく眼から媛に告げた。
「忠犬の勝利じゃ、王子様はお会いにはなれぬ、戻るのじゃ、山の鬼神よ、戻れ」
犬牙の声は光となり、媛の洞のような眼を刺す。宮簀媛は手で顔を覆った。よろけたが倒れなかった。
「王子様、私に帰れとおっしゃるのですか」
その声は穴の中に響き倭建の耳を叩《たた》いた。
無意識に開こうとした倭建の口を猪喰が手で塞《ふさ》いだ。
「お恨みします、王子様は私に嘘をつかれた、私を離さないとあれほどおっしゃったのに」
宮簀媛は項垂《うなだ》れて帰って行った。
大きな吐息をついた高彦が犬牙にいった。
「不思議じゃ、夢の中で起きたことのように思える、吾だけでは危なかった、犬牙殿の力じゃ」
「いや、吾ではありません、殺された犬足の鬼神が力を貸してくれたのです」
犬足よ、弟橘媛様は必ず守る、安心せよ、と犬牙は胸中で呟《つぶや》いた。
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化身の襲撃
倭建《やまとたける》は久米七掬脛《くめのななつかはぎ》と穂積高彦《ほづみのたかひこ》とに守られ、弟橘媛《おとたちばなひめ》に会うべく尾張音彦《おわりのおとひこ》の屋形に戻ることにした。丹波猪喰《たんばのいぐい》は動いたせいで塞《ふさ》ぎかけていた傷の一部が裂け出血したので、同行できなかった。
自分が宮簀媛《みやすひめ》に溺《おぼ》れている間に、猪喰の一族でもあった犬足《いぬたり》が殺され、猪喰が深傷《ふかで》を負った。弟橘媛を守るためだった。
悔いの念が倭建の眼を覚めさせたのである。ただ、宮簀媛に対する未練は残っている。宮簀媛がそんなに悪い女人には思えないからである。
弟橘媛なら宮簀媛にどんな鬼神が憑《つ》いているか知らせてくれそうな気がした。
倭建は複雑な思いだった。
その頃、弟橘媛は小川の傍《そば》で倭建の無事を祈っていた。倭建と顔を合わすことができれば王子を取り戻せると、弟橘媛は信じていた。
陽が西に傾き茜色《あかねいろ》の夕焼けに田畑も野も燃えるようである。弟橘媛を守っているのは四人の侍女と二人の警護兵だった。
警護兵は、大和から媛について来た若い男子《おのこ》だ。二人共、あの穂積内彦《ほづみのうちひこ》の部下だった。
風はなく草木は微動だにしない。聞えるのは微《かす》かな小川のせせらぎのみである。
「妙だな、あまりにも静か過ぎる、それにしても綺麗《きれい》な夕焼けじゃ、紫の器が横にならび、下から炎で熱しているようじゃ、赤い湯気が昇り、淡紅色の雲となっている、こんな美しさは初めてだ」
警護兵の一人がいった。
「本当じゃ、大和の夕焼けも美しいが、大和には海がない、陽は海にも映えている、おう、こうしている間にも海に虹《にじ》の道ができたぞ、あれが幻影でなければあの道を歩いてみたいものだ、きっと神仙郷に辿《たど》り着くぞ」
「そうだのう、神仙郷もいいが、仙女とはどういう女人であろうか、裳《も》をなびかせて空を飛ぶというが、本当にいるのかのう」
「神仙郷はある、仙人も仙女もいる、ただ、我々のような凡人には縁のない国じゃ、おう、燃えていた雲が暗くなってきたぞ、その代り、もっと上の雲が紅に染まりはじめた、多分、仙女が色を変えているのであろう」
「どんな仙女かのう」
二人が西の空に見とれながら話し合っていると東の方の草が音もたてずに左右に分かれた。獣が近づいてきていた。二人の警護兵は気づかなかった。
「妙だな、音がするぞ」
一人が東の野を見た時、草叢《くさむら》の中から鹿《しか》の角が現われた。
「鹿だ、大きな鹿だぞ、それにしてもおかしい、我々を恐れないぞ」
鹿はどんなに大きくても人間を恐れる、人間が持っている弓矢の力を鹿は知っていた。鹿にとって矢を射る人間は、猪《いのしし》や熊《くま》よりも強悪な存在だった。
幸い倭《わ》列島に鹿などを襲う獅子《しし》や虎《とら》など、獰猛《どうもう》な肉食動物がいない。
狼《おおかみ》はいるが、虎などに較《くら》べると逃げやすい。
「いかん、こちらに向って走り出したぞ」
二人の警護兵は角をふりたてて突進してくる大鹿に驚愕《きようがく》した。
鹿に襲われるなど初めての経験である。二人が叫びながら剣を抜いた時、大鹿は眼の前に迫っていた。
突く間もなく警護兵の一人は撥《は》ねられた。
鹿は今一人の警護兵には見向きもせず弟橘媛に向って突進した。
警護兵の叫び声に眼を閉じ、神に倭建の無事を念じていた弟橘媛は立った。
大鹿は二十歩ほどの距離に迫っていた。武術の心得のある侍女が刀子《とうす》を手に鹿の前に跳び出した。
「危ない、逃げよ」
弟橘媛の声が終らぬ間に鹿は頭を下げた。鹿の角は前向きではないし、相手を斃《たお》すためのものではない。鹿は頭を下げ、角を前向きにして攻撃したりはしない。だがその大鹿は猛牛に変身したかの如《ごと》く侍女を撥ねた。侍女の手から刀子が落ちて飛び、角で胸を叩《たた》かれた侍女は悲鳴もあげずに悶絶《もんぜつ》した。
「騒ぐではない、狙いは私《わ》じゃ」
弟橘媛は刀子を構えると突進してくる大鹿の眼を睨《にら》みつけた。倭建を取り戻すまでは絶対死ねない身体《からだ》である。弟橘媛は心の臓の前に五寸(一五センチ)の刀子を突き出し鹿の眼を睨みつけた。まるで地から生えた太い木のように媛は微動もしない。大鹿を眼の前にして媛は無念無想の境地だった。
覆われた毛に火をつけられたような熱さと痛みに猛《たけ》り狂っていた大鹿は、突然、二、三歩の距離に岩があるのを見た。山野を走り廻っている獣はどんなに飢えて獲物を追いかけていても、木や岩にはぶつからない。それは獣の本能である。
大鹿は岩上から光を放っている岩を見て上に跳んだ。避けるだけの距離はない。大鹿としては跳び越す以外なかった。
弟橘媛はそれを待っていたように身を縮めた。蹄《ひづめ》が弟橘媛の頭上を掠《かす》め、鹿は媛を跳び越えた。着地した大鹿は数歩前に小川があるのを見た。身を灼《や》く熱気を冷やすため、大鹿は小川に跳び込む。水につかった大鹿は平常心を取り戻し、自分が何をしていたかを疑うように周囲を見廻す。
川岸に立った弟橘媛は、そんな大鹿に慈愛の視線を送った。
一人の警護兵が剣を抜いて走ってきた。弟橘媛は腕で制した。
「手出しは無用じゃ、憑《つ》き物は落ちた」
弟橘媛の言葉が理解できたのか、小川から出た大鹿は項垂《うなだ》れながら去って行く。
「皆の者、鹿が狂ったのは、誰かが悪の鬼神を鹿に憑かせた、悪いのは鹿ではなく悪の鬼神を操った者じゃ、倒れた者をここに運べ、鬼神が去った以上、傷も治るはずじゃ」
警護兵と媛の身を庇《かば》って角で叩かれた侍女が弟橘媛の前に横たえられた。
鹿の角先は鋭くない。警護兵も侍女も棒で突かれ、叩かれたような衝撃で失神したのである。
弟橘媛は二人が突かれた場所に手を当て懸命に精気を注ぎ込む。侍女達も警護兵も蹲《うずくま》って神に祈る。媛は倭建の正妃である。貴人中の貴人だ。従者の身に手を当てたりはしない。皆感動し媛のためなら生命はいらないと自分に誓う。
侍女と警護兵が意識を取り戻すと喚声があがった。
その頃、山腹で鹿を操っていた宮簀媛は漸《ようや》く身体を起こしていた。
弟橘媛の呪力《じゆりよく》が素晴らしいことは知っていたが、これほどとは思わなかった。まともに闘っては負ける、と宮簀媛は絶望感にとらわれた。倭建を奪われるぐらいなら死んでも良いと思った。倭建なしでは媛は生きて行けなかった。
このまま二人を会わせてしまえば、もう倭建は戻らない。媛は衣服を脱ぎ裸になると谷川に入った。泳いでいる川魚を無造作につかみ空に放り上げた。何処《どこ》からか鷹《たか》が現われ空中で咥《くわ》える。宮簀媛の手にかかると川魚は動かない川石のようである。
魚の匂《にお》いを嗅《か》ぎ取り蛇や獣が集まった。鹿などと異なる肉食獣である。約百匹の川魚を与え終ると宮簀媛は大蛇を呼んだ。
約一丈(三メートル)近い大蛇である。
「私も行く、王子を取り戻すのだ」
宮簀媛は鎌首を持ち上げた大蛇の頭を叩いた。
宮簀媛は大蛇と並んで走った。髷《まげ》は解けて髪は後ろになびき、吊《つ》り上がった眼は赫《あか》く燃え、並んでいる大蛇に何処か似ている。
どうやら宮簀媛には山の鬼神が憑いていた。山に棲《す》む獣や蛇、また鳥までも宮簀媛の命令に従うのはそのためのようだった。
ただ倭建は、物心がついた頃から山で遊び、時には獣と共に暮した。倭建は山の獣達の匂いを忘れていない。
大蛇の匂いに気がついたのは倭建である。立ち止まり鼻孔を拡《ひろ》げた倭建は同行している久米七掬脛にいった。
「七掬脛、生臭い匂いがする」
七掬脛は鼻頭に指を当て上に押した。鼻孔が拡がり前方に向く。七掬脛は一周りした。
「王子様、よく気がつかれました、蛇の匂いでございます、ただ妙なのはこの周囲の蛇ではありません、遠くの蛇ですぞ」
倭建はその場に伏せ耳を地に当てる。暫《しばら》く使っていなかったが得意の技である。倭建の聴覚は武術といって良いだろう。
二十呼吸ぐらい耳を当てていただろうか。額や頭についた虫を振り払いながら立った倭建の顔は引き締まっていた。
「七掬脛、蛇だ。地を這《は》う音がする、あの嫌な音は蛇以外にない、信じられないが、蛇と共に人も走っている、ここからの距離は数百歩というところだろうか」
「王子様、一応は用心されるべきです」
「吾《われ》を追ってきているのか、それは分らぬ、ただ、吾は蛇が嫌いじゃ」
「それはやつかれも同じです」
「こちらに来ているとすると四半刻《しはんとき》もかかるまい、何処かで様子を見るか……」
倭建は周囲を見廻した。
左前方に雑木林がある。ひときわ高いのは欅《けやき》のようだった。
「高彦、皆木に登れ、地上で待つのは危険じゃ、太い枝に腰をかけ、すぐにでも矢を射れるように備えておけ」
倭建は雑木林に向って走った。七掬脛と高彦が顔を見合わせ、頼もし気に頷《うなず》き合う。
倭建は宮簀媛に会う前の精悍《せいかん》な男子に戻っていた。
倭建と七掬脛は欅に、高彦や他の警護兵もそれぞれ木に登り矢を弓につがえる。
すでに林の中は薄暗い。鳥達も塒《ねぐら》に戻っている。ただ山野にはまだ西の空の残光が映えていた。
驚いたことに雑木林に入ってきたのは宮簀媛だった。
「王子様、何処にいらっしゃいますか、お慕いするあまり、後を追って参りました」
宮簀媛は林のあちこちに視線を走らせた。
倭建は懸命に瞳《ひとみ》をこらしたが媛は一人だった。媛の声はか細く、倭建の心を掻《か》き廻す。肩を落した媛の姿は可憐《かれん》で、今にも消え入りそうだった。
昼夜をわかたず、倭建を情痴の世界に引きずり込んだ媛とは別人のようである。
宮簀媛から逃げたはずなのに、いとおしさが込み上げてきた。
媛と視線が合えば、ここだぞ、と叫んで木から跳び降りそうである。倭建は眼を閉じ息を制して気を抑えた。充実していた力が失われ逃げる前の自分に戻りそうである。
七掬脛が無言で倭建の腰紐《こしひも》に手をかけた。
王子、お気を確かに、と七掬脛の手に力が入る。実際、倭建の身体は揺れ、今にも枝から落ちそうだった。七掬脛が太い指で腰をつく。一、二、三回と数を増やした。八までつくと休みまたつきはじめた。
八つか、と倭建は胸の中で呟《つぶや》く。明らかに何かの合図である。
宮簀媛がまた呼びかけるが倭建は聞いていない。八つの意味を考えている。
七掬脛の指が背骨をついた。眼が刺戟《しげき》され、倭建は七掬脛を見た。
七掬脛が頷き、倭建と視線を合わせながら、一、二とつき間を置いて三、四、五、六と続け、最後の二つは自分の頭を叩いた。指先で髪の型を作る。髷である。
ヒメだな、と七掬脛に確認を求めた。
七掬脛は大きく頷いた。最後の二つがヒメなら、最初の六つは名前である。
ミヤスなら三つのはずだ。そうか、と倭建は口中で呟いた。オトタチバナである。弟橘媛を思うようにと七掬脛が合図を送ったのだ。
倭建は再び眼を閉じ、まだ再会していない弟橘媛の顔を思い浮かべた。
「媛よ、よく来たぞ、吾は尾張に来て以来、媛のことを忘れていた、許せ、今は一刻も早くそなたの顔を見たい、そなたは吾の正妃じゃ、そなたが同行したいといえば、吾は東《あずま》の国々にそなたを連れて行こう、もう他の女人に狂ったりはしないぞ」
自分にいい聞かせているうちに、倭建の身体に気力が満ち溢《あふ》れてきた。
倭建は両拳《りようこぶし》を握り眼を見開いた。
木の上の兵士達がざわめいた。
「射よ、頭じゃ」
七掬脛が怒鳴った。
見たこともない大蛇が下草を分けながら欅の木に向って進んでくる。口の裂け目は一尺はある。鉄を溶かす炉の中の火にも似た舌を上下左右に動かしている。
大蛇の後ろに宮簀媛がいた。さっきまでの可憐さは消え、眼は嫉妬《しつと》と憤りに青く燃えている。
「王子様、そこにおられるのに何故《なぜ》私から隠れているのですか?」
「弟橘媛よ、力を貸せ」
と倭建は胸中で叫んだ。
大蛇は凄《すさ》まじい勢いで欅の木に跳びかかった。呆然《ぼうぜん》としていた兵士達が矢を射たが蛇の皮に撥《は》ね飛ばされた。
大地震に襲われたように木が揺れた。
倭建は刀を抜いた。この時になって、大和をたつ前に倭姫《やまとひめ》王から貰《もら》った銅剣を尾張音彦の屋形に置いてきたことに気づいた。
木から跳び降りた高彦が刀ごと大蛇に体当りをしたが、大蛇の尻尾《しつぽ》が矢のような速さで高彦を叩《たた》いた。刀の切っ先が僅《わず》かに掠《かす》っただけで高彦は三歩ほど飛ばされた。
「王子、刀をおおさめ下さい、あの木に……」
七掬脛が二歩ほど離れた栗《くり》の木を指さした。
「分った、その前に」
倭建は刀を逆手に持ち替えると鎌首をあげた大蛇の口中に突き刺した。大蛇は信じられない速さで頭を振って避けた。引こうとした刀身を大きな口で咥《くわ》えた。
倭建は刀の柄《つか》を離すと栗の木に飛んだ。七掬脛が落下しながら大蛇の鎌首に刀を突き刺す。倭建の刀を咥えた瞬間なので大蛇の動きは遅かった。
宮簀媛が大きくのけぞったのは、大蛇に呪術をかけていたせいだろうか、七掬脛の刀は大蛇の鎌首を貫いていた。
だが大蛇の生命力は驚異的だった。咥えた刀を吹き出すと、七掬脛に絡みついていった。七掬脛は転がりながら逃げる、そんな大蛇に向けて矢が放たれる。今度ははじき返すだけの力がない。
「おう、逃げるぞ、追え」
七掬脛の命令に再び矢が放たれ、木から跳び降りた警護兵が剣を抜いて雑木林の奥に逃げた大蛇を追いかけた。大蛇が逃げ込んだあたりはすでに暗く、木々の形もさだかでなかった。
宮簀媛の姿が何時の間にか消えていた。
「戻れ、もう放っておけ」
倭建は警護兵を集めた。
林から出るとまだ夕闇には間があり、山野の形がはっきりしていた。
「あの深傷《ふかで》では長くは持つまい、しかし妙だな、宮簀媛が何時の間にか消えている、七掬脛、そちは消えるのを見たか」
「いいえ、やつかれは見ておりませぬ」
「そうだった、そちが蛇の鎌首を刀で貫いた時じゃ、高彦は?」
「はっ、やつかれは大蛇に夢中で、宮簀媛様が現われたことさえも……」
「それはないであろう、宮簀媛は何処に隠れているのか、と吾に訊《き》いた、のう七掬脛、そちは弟橘媛の力を借りよ、と八つ吾の腰をついた、七掬脛は見ておるぞ」
「王子様、やつかれも知りません」
「何を申すか、げんにそちは……」
「王子様が幻を見られ、宮簀媛の名を口にされ、怯《おび》えられたので、やつかれは弟橘媛様の力が大事だと思い、八つ叩いてお知らせしたのです」
「嘘を申せ、それなら何故口で知らせぬ、その方が楽ではないか?」
「王子様は、声をかけられる状態ではございませんでした、声をかけた途端、枝から落ちそうな気がしたのです、故に弟橘媛の名を唱えながら指で……」
「まことか、では吾は幻を見ていたのか」
背に冷たいものが走り、倭建は口を閉じた。
弟橘媛は灯油の明りが揺れる薄暗い部屋で、倭建と二人きりになった。夕餉《ゆうげ》の席でも一緒だったのだが、大勢の人がいた。
こうして二人きりになると、胸が熱くなり、倭建に縋《すが》りつきそうになる。そんな媛を抑えたのは、想像していた以上に倭建がやつれていることだった。本人は、媛と会えて勇気を取り戻した、もう吾の身を案じることはない、といっているが、弟橘媛が観察した限りでは、まだまだ精気が薄い。
宮簀媛との濃厚な情事の結果である。
「お会いしたかった……」
弟橘媛は込み上げてくる思いを抑えるのに懸命だった。広い海を渡りやっと会えたのに、膝《ひざ》に手をかけることもできない。媛は女人であり嫉妬《しつと》も湧く。それらのすべてを抑え込んだのは、倭建を昔の凜々《りり》しい王子に甦《よみがえ》らせるためだった。
それには女人の情を捨てねばならなかった。今の倭建に必要なのは、恋情よりも深い愛情だった。そのためには母性愛さえ必要となる。
「どうした、弟橘媛、いやに堅苦しいではないか、何も遠慮をすることはないぞ、さあ」
倭建は弟橘媛の手を取り引き寄せようとした、媛は手が灼《や》け、心の臓が痛くなる。
倭建は腕に力を込めたが意外にも媛の身体は重たかった。
弟橘媛は倭建に活性の気を送るべく、騒ぐ情を打ち消した。
「王子様、今日は朝も怪しい女人と一緒におられました、私はそういう王子様と肌を合わせることはできませぬ」
「尾張王の娘じゃ、別に怪しい女人ではないが情が濃すぎる、夜の伽《とぎ》の女人ではないか、そんなに怒ることはあるまい」
「伽の女人でしたなら私は何も感じません、でも王子様は東征大将軍の任務を忘れられるほど彼女に溺《おぼ》れました、昼夜を分かたず閨《ねや》を共にされ、兵士達も噂で知り、顰蹙《ひんしゆく》しております、これでは戦には敗れ、大和への凱旋《がいせん》も夢になりましょう、王子様を破滅に追いやる女人は悪い鬼神のついた怪しい女人でございます、私も王子様に抱かれたい、でも、今宵《こよい》閨を共にすると、私の力は半減します、私は王子様を滅ぼす怪しい女人の力を封じるためにここまで参りました、どうか、私の心をお汲《く》みになり、今宵は一人でお休み下さい」
「弟橘媛よ、媛の気持は嬉《うれ》しいが、吾は女人に滅ぼされたりはせぬ、倭建はそこまで腐ってはいぬぞ、げんに吾を追ってきた大蛇を斬り殺した、あれは宮簀媛の化身じゃ、もう大丈夫だ」
「いいえ、化身ではございません、怪しい女人が呪力《じゆりよく》で大蛇を動かしただけです、あの女人は、明日は平気な顔で現われましょう、王子様を誘います」
「何だと、明日現われると……」
「尾張音彦殿の娘、当然、挨拶《あいさつ》のために参ります」
「妙だ、七掬脛が大蛇を刀で貫いた時、宮簀媛も大きくのけぞった、打撃を受けたに違いない」
「王子様、お願いでございます、どうか深くお眠りになり、活力を取り戻して下さい」
弟橘媛は、自分の手を握っている倭建の手を優しく撫《な》でた。
倭建の眼を凝視《みつめ》ながら口を開いた。
「倭《やまと》は 国のまほろば たたなづく 青垣《あおがき》 山隠《やまごも》れる 倭しうるわし」
「おう、吾の歌ではないか、懐しいぞ」
「はい、そうです、命の 全《また》けむ人は たたみこも 平群《へぐり》の山の 熊かしが葉を うずにさせ その子」
「思い出すぞ、樫《かし》の木の葉をそなたに渡した」
倭建はうっとりとした眼になった。弟橘媛は歌い続けた。倭建は花が咲き競っている晩春の山野に立っているような気がした。頬を撫でてゆく微風には穏やかな花の香りが混じっていた。官能を刺戟《しげき》する甘さではない。何となく眼を閉じて横になりたくなるような香りである。
「王子様、寝具に横たわるのです、何も考えずにお眠りなさい」
弟橘媛が手を引くと、倭建は身軽に立ち、寝具に横たわった。
弟橘媛は半刻(一時間)ほど手を倭建の頭に置いて邪気を払った。倭建は深い眠りに入っていて起きない。
弟橘媛は大和からついてきた侍女二人を呼んで手伝わせ、衣服を新しい寝衣に替える。
弟橘媛が眠りについたのは真夜中に近い時刻である。仮眠をとると一番鶏《いちばんどり》の鳴き声と共に起き、侍女に小川の水を汲ませ身を浄《きよ》める。
朝餉の時刻が来ても倭建は眠り続けていた。予想していた通り、宮簀媛が侍女に朝餉を持たせてきた。少し顔は蒼《あお》いが傷を受けた様子はない。
弟橘媛の侍女が媛に告げた。
「王子様は眠っておられる、今日は朝餉は要りません」
だが宮簀媛は立ち去らない。
弟橘媛は戸外に出た。二人は初めての対面である。媛が想像していた以上に宮簀媛は妖《あや》しく美しかった。ただその眼は憎悪と嫉妬に光っている。
「私は王子様の正妃、弟橘媛です、そなたは何者じゃ、私に挨拶もせぬとは無礼です」
弟橘媛の態度は毅然《きぜん》としていた。
「私は尾張の王、音彦の娘の宮簀媛でございます、御挨拶がおくれました」
宮簀媛は、弟橘媛の体内から発する光に眼を伏せた。
「私が参った以上、王子様のお世話は私がします、そなたの手を借りる必要はない、戻りなさい」
突然、弟橘媛の声が大きくなった。屋形中に響き渡るような声である。宮簀媛の侍女が捧《ささ》げるように持っていた食器を載せた板を落した。土器が砕け汁や煮物が飛び散った。
宮簀媛は顔を慄《ふる》わせた。
「私が王子様のお世話をしていたのです」
「もう必要ないと申しているのじゃ、私の意が通じないなら尾張音彦を呼びます」
「父上は関係ありません」
「王子様は東征大将軍、そなたの父は、王子様に協力し屋形を提供したのです、私の意にさからうのは、王子様にさからうことになる、早く退《さ》がるのじゃ」
「私は王子様を愛し、王子様も私を愛して下さいました、媛様が正妃であろうとなかろうと、結ばれた私達には関係がない、王子様の意を聴きとうございます」
「王子様は眠られている、起こすことはなりません」
「それは卑怯《ひきよう》です、王子様の真意をただすのが恐《こわ》いのですか」
宮簀媛は細めた刃物のような眼に薄嗤《うすわら》いを浮かべた。
弟橘媛はゆっくり首を横に振る。
「眠ることによって王子様はお疲れを癒《いや》しておられるのです、そなたの醜い欲には応じられない、戻らなければ本当に音彦殿を呼びます」
七掬脛や高彦はすでに弟橘媛の両側にいた。七掬脛は今にも走り出しそうである。
宮簀媛は眼を剥《む》いた。一瞬、瞳《ひとみ》が消えて白眼になった。身を翻し走って行く。
「砕けたものを片づけなさい」
侍女に命令し、屋形に入った弟橘媛は、倭建が眠り続けているのを見て安堵《あんど》の吐息をついた。
宮簀媛の声に眼を覚まさなかったのは、すでに倭建が正常になりつつある証《あかし》だった。
夕餉の前に倭建は眼を覚ました。朝餉を摂《と》らずに眠り続けていたことを知り驚く。
「不思議じゃ、久しぶりに頭がすっきりしている、多分夢であろう、宮簀媛が朝餉を持参したがそなたが追い返した、宮簀媛は吾を呼んだが吾はあまり心が動かされなかった」
「夢ではございません、私が追い返しました、昨日は王子様に話さなかったのですが私は昨日大鹿に襲われ死ぬところでした、鹿は人間を襲ったりはしません、多分、宮簀媛の呪力かと思います、どうか、宮簀媛の誘いに応じないで下さい、王子様の身を危うくするのは間違いなくあの媛です、私はそのことを感じ、大和から参りました、そうでなければ自分勝手に来たりはしません」
「心配するな、吾は眼覚めたのじゃ、女人に溺れ、東征大将軍の任務を忘れていたとは男子の恥じゃ、熊襲《くまそ》の王者から貰《もら》った倭建の名が泣く、そうだ、そなたは大鹿に襲われたと今申したな、宮簀媛には鹿の鬼神が憑《つ》いているようじゃ」
倭建は宮簀媛と山中で過ごした時の奇妙な出来事を話した。
「宮簀媛は鹿と話ができるようじゃ、大鹿を友と呼んでいた」
弟橘媛は眼を閉じ暫《しばら》く考えていたが、
「いいえ、鹿の鬼神ではありますまい、宮簀媛に憑いているのは獣達を支配している山の鬼神に違いありません、媛は鬼神の力を借りて私を襲い、王子様を襲わせたのでしょう、勿論《もちろん》、王子様を自分のものにするためです」
「山の鬼神か、そうだのう、そうでなければ鹿が人を襲ったりはしない、吾は明日にでも東の国に進もう、吉備武彦《きびのたけひこ》や大伴武日《おおとものたけひ》は、吾が動かないので苛立《いらだ》っている」
「早い方がよろしゅうございます、明日にも御出発下さい」
「おう、そうしよう、ただ夢に見たのだが、そなたに追い返された後、宮簀媛は山に入った、少し気になる」
「王子様が大鹿を追って行かれた山ですね」
「多分そうだと思う、はっきりはせぬ」
「音彦殿に訊《き》かれれば……」
「宮簀媛は普通ではない、昔、赤い鳥が飛んできた、媛はその鳥を追って勝手に山に入った、尾張音彦は捜索隊を山に差し向けた、媛は崖《がけ》から飛び降り、鹿によって救《たす》けられた、故に媛が山に入っても音彦は詰問しない、止められぬのじゃ」
「分りました、私も王子様と共に、音彦殿に会い、これまでの媛の異常な行動を聴きとうございます」
「うむ、それが良いかも分らぬ、尾張音彦に会おう」
倭建は七掬脛を遣わして音彦を呼んだ。
音彦は倭建と宮簀媛の関係を知っていた。困ったことになったと思ったが、男女の関係には口をはさめないものがある。倭建が出陣するまでだと傍観していたのだ。
音彦は弟橘媛の質問に、宮簀媛が普通の女人とは異なり、色々と悩まされたと話した。
「肌の黒い男子が漂流して来た時のことは、すでに倭建大将軍に話しましたが、その他にも色々ございます、実はその前にも行方不明になったことがありました、確か七歳の時です、侍女の話では当時、山々を転々としている山人族がこちらに来ていて、宮簀媛に木の実などを与えていたらしいのです、吾は、山人族に連れ去られたのではないかと疑い、捜索隊をあちこちに出しました。三日ほどで媛は山から現われことなきを得たのですが、矢張り山人族と一緒のようでした、詳しいことは話さないのですが、あっちこっちの山々を転々としたようです、ただ、傷は受けていません、それ以来、二、三年に一度、そういう連中が来ると連絡があるらしく、媛の方から姿を消すのです、何故媛が彼等に気に入られ、媛も彼等を慕うのか、吾にはさっぱり見当がつきません、何とか媛を婚姻させようとしたのですが駄目でした、一度など途中から逃げ戻ってきたこともありました、弟橘媛様、媛と山人族が何故異常なほど親密になったのか、神の意を得ていただければ幸甚でございます」
弟橘媛が巫女《みこ》王、倭姫に仕えていたことを音彦も耳にしていた。
「それは無理です、俗人に戻って以来、私の能力は半減しました、私が神意を得られるのは、王子様の御命運にかかわることだけです、ただ、尾張王の説明で少し納得したことがございます、どうも、宮簀媛の血には、山人の血が流れているのではないでしょうか、媛の母親は、何処の出身でしょう」
「東の国の首長の娘です」
音彦は話しにくそうにいい、額に手を当てた。何か隠している様子だった。
「まだ、おられますか?」
「いや、宮簀媛を産むと間もなく亡くなりました」
音彦は指で額を叩《たた》いた。
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消えた情炎
その翌日、宮簀媛《みやすひめ》の姿が消えた。また山に入ったのかもしれない。
尾張音彦《おわりのおとひこ》は困惑しながらも、よくあることなので、とそんなに不安ではなさそうだった。年に一度か二度、宮簀媛は侍女を連れて山に入る。だが侍女達はすぐ媛を見失ってしまう。多分媛は一人になりたいのであろう。二、三日たつと媛は何でもなかったように戻ってくる。
最初は心配し兵を出して捜索したりしたが、毎度のことなので、またかという程度である。
弟橘媛《おとたちばなひめ》は自分を襲った曲者《くせもの》のことを忘れていない。猪喰《いぐい》まで負傷した。尾張音彦の部下でないことだけは確かだった。げんに音彦は曲者を捜させているが手がかりはない。
倭建《やまとたける》はすぐにでも東国に発《た》ちたいといったが、弟橘媛は止めた。完全に回復するまでは十日間は必要だった。毒気が身体に残っているせいか、まだ血の気がなく身体も痩《や》せていた。
ただ倭建の精神は昔に戻っている。
倭建は早朝に起きると木刀を振り、木に登り飛び降りる。
「もう大丈夫だ、吾は行く」
「いいえ、まだ駄目です、完治しないと無理はできません」
弟橘媛は応じなかった。弟橘媛が倭建を止めるには身体以外にも理由があった。宮簀媛が一向に山から戻らないことである。
弟橘媛の神力に負けた宮簀媛は、山に入り鬼神の力を取り戻しているのかもしれない。それだけなら良いが、倭建を奪う企《たくら》みを抱いているような気がする。
宮簀媛の倭建への情は我欲そのもので愛とは無関係だった。
倭建の身を滅ぼしても自分のものにしたいという、沼の瘴気《しようき》にも似た情である。倭建の身を思いやる愛の片鱗《へんりん》もない。倭建を取り戻したなら、共に死んでも良いと牙《きば》を剥《む》いているような気がする。
女人の性そのものである。だからこそ、何をするのか分らなかった。
倭建を自分のものにしたなら、生命も惜しくないに違いない。それが恐ろしい。
弟橘媛は早朝、宮簀媛がどのあたりにいるかを知ろうとしたが駄目だった。
弟橘媛にとっての朗報は、猪喰が意外に早く回復し、かつての力を取り戻したことである。
その日猪喰は倭建のもとに来て夕餉《ゆうげ》を共にした。久米七掬脛《くめのななつかはぎ》も加わった。
熊襲《くまそ》討伐に加わった仲間が顔を合わせ、王子と夕餉を共にするのは久し振りである。
猪喰は間者の任務に徹するあまり、このような場に顔を出さなかった。
倭建に回復の宴《うたげ》といわれ参加したのである。
猪喰は倭建と顔を合わすなり縁に平伏した。
「王子様、不覚を取り申し訳ありません」
「何を申すか、よくぞ弟橘媛を守ってくれた、犬足《いぬたり》の死は残念だった、吾の責任でもある、許せ」
「そんなことはございませぬ、我等は王子様にお仕えした以上、死をも覚悟の上です、ただ、身を護《まも》れなかった武術の足りなさを悔むのみです」
七掬脛が、もうそれで良い、と手を拍《う》った。
「猪喰、己れを責めるな、どんなに武術を極めたとしても避けられないことがある、吾とて雷光の槍《ほこ》は躱《かわ》せない、くよくよするな、今宵《こよい》はおぬしの回復の宴じゃ、愉《たの》しく飲もうではないか」
七掬脛の明るい声に猪喰はほっとした。救われた思いである。北の海に面した雪国で生まれ育った猪喰は遊びの少ない性格だった。七掬脛はそのことをよく心得ていた。
弟橘媛も笑顔でいった。
「猪喰殿、そなた達の活躍がなかったなら私は危なかった、深く感謝します」
「そうじゃ、弟橘媛の申す通りじゃ、さあ飲もう」
弟橘媛は自分の手で猪喰の酒杯に酒を注いだ。
七掬脛は久米歌《くめうた》を歌い、猪喰も重い口を開いて丹波の歌を歌った。
倭建の酔いが早かったのは、身体が完治していないからであろう。酔うと共に倭建は何時《いつ》になく感傷的になった。
「こうして酔うと葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》の豪傑《ごうけつ》笑いが聞えてくる、死ぬような男子《おのこ》ではなかったが、女人の罠《わな》にかかり、傷が悪化して亡くなった、侘《わび》しい限りじゃ、宮戸彦が死ぬような時は、万余の敵を相手にして斬《き》りまくり、身体が裂けながらも、いや、死んだにも拘《かかわ》らずなお敵を斬り、気がついたなら黄泉《よみ》の国にいた、と哄笑《こうしよう》するような男子であった、本当に残念じゃ」
明るい七掬脛が思わず弟橘媛を見たのは、宮簀媛のことが浮かんだからだ。
弟橘媛は、気にする必要はない、と笑顔で返した。
おう、と七掬脛は胸を叩《たた》いた。
「王子様、やつかれもそう思っていました、しかし死んでも斬ったというのは、まさに宮戸彦そのものでございますなあ、自分が黄泉の国にいるにも拘らず斬っていた、実際宮戸彦は暴れ出すと自分が何処《どこ》にいるのか分らなくなる男子です、いや、これは面白い、実際、王子様の想像力は真に迫っています、故に優れた歌も詠まれる」
「身体が裂け、黄泉の国で暴れている宮戸彦、眼に浮かぶようです」
猪喰も同調した。
「でも王子様、現実はそうなりませんでした」
弟橘媛が爽《さわ》やかな声でいって、倭建を見た。からかっているようでもある。
「おうそこじゃ、女人に溺《おぼ》れたせいだ、吾もよく眼が覚めた、皆は危惧《きぐ》の念を抱いているようだが、弟橘媛がいる限りもう大丈夫だ、媛が来なかったなら、吾も宮戸彦と同じ運命をたどっていたかもしれぬぞ、吉備武彦《きびのたけひこ》と大伴武日《おおとものたけひ》が吾を待ち焦がれている、明日は出発じゃ」
「王子様、もう三日お待ち下さい、もし王子様の御了承を得られたなら今一度、尾張音彦を呼び、宮簀媛の母親について色々と訊《き》きとうございます」
「媛はまだ戻らぬのか?」
「消えたままです、私を襲ったのは間違いなく宮簀媛と親しい山人《やまびと》です、では山人は何故、媛の命《めい》を受け、私を襲ったのでしょうか、たんに親しいというだけでは納得できない、私は東征大将軍・倭建王子の正妃です、そういう私を襲う以上、宮簀媛と山人は主従関係にあるか、血縁者でしょう、そのあたりのことを詳しく聞きとうございます」
「うむ、本当に弟橘媛を襲ったのが、宮簀媛の命令を受けた山人ならばだな……」
倭建はその件に関しては疑いを抱いているようだった。
「王子様、その件は間違いございません」
猪喰が底力のある声でいった。
「間違いないと……調べたのか」
「犬牙《いぬきば》が曲者を斬った際、痛めつけて白状させました、宮簀媛と親しいというだけではなく、媛を守らねばならない、と死ぬ前に洩《も》らしたようです」
「そうか、間違いないか、となると宮簀媛を斬らねばならぬ、弟橘媛の生命を狙うとは、恋情に錯乱したとはいえ許せぬ」
倭建は複雑な気持を呑《の》み込むように酒杯の酒を一気にあおった。
弟橘媛は首を横に振った。
「王子様、それはなりませぬ」
「何故じゃ、許し難い行為ではないか」
「はい、でも宮簀媛は尾張の王の娘で、王子様と深い関係にありました、そんな媛を斬られては王子様の名が穢《けが》されます、尾張一族のみならず周辺諸国も王子様に背きましょう、絶対、罰を加えるべきではありません」
「では放っておくのか」
「私が尾張音彦と話し合います、宮簀媛の血筋を知れば、或《あ》る程度、媛の呪力《じゆりよく》を封じることも可能でございます、どうか宮簀媛のことは私におまかせ下さい、私が大和から尾張の国に参ったのもそのためです」
「王子様、こういうことは弟橘媛様におまかせになるべきです」
七掬脛の言葉に猪喰も大きく頷《うなず》いた。
「信頼する三人の言が一致した、分った、弟橘媛にまかせよう、だが期限は三日、これ以上は待てぬぞ、早く東《あずま》の国に行かねばならぬ、あまり尾張に留まっていると父王は疑いの眼を向ける、猜疑心《さいぎしん》の強い性格だからのう」
「それで結構でございます」
弟橘媛の顔は自信に満ちていた。媛はそんなに自信があったわけではない。ただ今の倭建に対しては、媛は強い存在であらねばならなかった。
宮簀媛が姿を消すことには慣れていたが、今回は七日もたつ。そんなに長期間も山に入っていたことはなかった。
媛の父・音彦の顔にも不安の色が濃い。媛が倭建を熱愛していたことは音彦も知っていた。
だが弟橘媛が来て以来、倭建の気持は変り宮簀媛を遠ざけた。媛は夜の伽《とぎ》の女人であり、弟橘媛は正妃である。当然のことだった。ただ宮簀媛は一途な女人だった。それだけに悩みは深いであろうと音彦は憂えていたのだ。
山に入ったのも悩みを消すためだと理解していたが、それにしても長過ぎる。それ以外に妙な噂《うわさ》が音彦の耳に入った。山から山へと移りながら暮している山人族が宮簀媛の命を受け、弟橘媛を襲ったというのである。
音彦には信じられないことだが、弟橘媛を護《まも》っていた兵士や、船着場から音彦の屋形まで警護していた兵士も何人か殺された。
船着場の長《おさ》に仕えているが、広い意味では音彦の部下といって良いだろう。
宮簀媛がその異変に関係あるかどうかは別として、弟橘媛が襲われたのは間違いない。尾張の王としての音彦の権威に傷がついた。それに、東征大将軍である倭建に対する責任問題も出てくる。
倭建に呼ばれた音彦は、叱責《しつせき》を覚悟していた。場合によってはどんな罰を受けるかも分らない。音彦は緊張していた。
意外にも二人は穏やかな表情で音彦を迎えた。倭建が口を開いた。
「音彦、今日は弟橘媛が色々と質問する、できる限り隠さずに話して欲しい」
「はっ、何なりとお訊《き》き下さい」
弟橘媛は音彦の緊張をほぐすようにいった。
「音彦殿、私の夫、倭建王子に伽の女人を与えていただき、まず礼を述べましょう」
「はっ、いや、他意はございません」
音彦は突然、見えない鞭《むち》で打たれたような気がした。
弟橘媛は、分っていますと頷いた。とがめている顔ではない。
「ところで宮簀媛については、色々と話を聞きました、色の黒い人が流れついた時のこと、赤い鳥を追いかけて山に入った話、また鹿《しか》の長《おさ》と思われる大鹿と親しいことなど、普通の女人と変っています、それに、よく山に入るようですが、何のためですか?」
「はっ、その件に関しては吾も何度か詰問しました、その度に、山が呼んでいると答えるのみです、呼ばれると自然に足が山に向うようです、山では鹿をはじめ、様々な獣や鳥と話をするということですが、宮簀媛が獣や鳥と話を交せるとは思えません、山で何をしているのか、父である吾にも分らないのです、父として失格です」
「そんなことはありません、父母の意に従わない子は多いのです、ことに子に神が憑《つ》いた場合は、父母とて人間、神の前にはどうしようもありません、ところで先日、宮簀媛の母は東国の女人ということでしたが、何かいいにくいことがお有りのようでした、実は、私を襲った曲者の一人は、丹波猪喰に殺される前、責められて宮簀媛との関係を認めたようです、命を受けたとまで、はっきり申さなかったが、媛が関係しているのは間違いないようです」
「それは、信じられません、幾ら何でも吾の娘が弟橘媛様を襲うなど……」
音彦は絶句した。
弟橘媛は首を振りながら微笑した。
「分ります、音彦殿に話すはずはありません、媛は王子様を自分一人のものにしたくなったのです、女人の暗い情です」
「しかし」
「音彦殿に罪はありません、そこで訊きたいのですが、宮簀媛の女親は、何処の国のどういう女人だったのですか、隠さずに話して下さい、大事なことです」
音彦の顔に脂汗が滲《にじ》み出ていた。弟橘媛は黙って音彦が口を開くのを待った。
音彦は吐息を洩らした。布を出し汗を拭《ふ》き、屋形に眼をやった。何処か遠くの方を眺めている視線だった。
「分りました、申し上げます、ただこのことはどうか胸に秘めていていただきたいのです、伏してお願いします」
「おう、吾が約束するぞ」
倭建が口を開いた。
今日は内密の話なので、屋形に侍女はいない。高彦をはじめ数人の警護兵が屋形を護っているのみだ。彼等には、屋形内部の声は聞えなかった。
音彦は意を決して話しはじめた。
宮簀媛の女親はクシハネといった。クシは櫛《くし》の意味で当時は女人の霊力に関係があると考えられていた。
クシハネは駿河《するが》の王の娘である。本拠地は今の焼津《やいづ》だった。
クシハネは近隣にない美貌《びぼう》の女人だったが十八歳まで婚姻《こんいん》の話がなかった。当時は十五、六歳での婚姻が普通である。
それには理由があった。クシハネは十五歳の時、神隠しにあい、三ケ月ほど行方が不明だった。遠江《とおとうみ》、甲斐《かい》、相模《さがみ》などの王はそのことを知っていて、クシハネとの婚姻を避けたのである。神隠しにあった女人には神が憑いていて、良き妻にはなれないと信じられていた。
駿河の交易の船が尾張に来た時、交易の長が、クシハネを侍女として使っていただけないかと音彦に申し出た。
クシハネは神隠しにあった期間中、山にいたという記憶しかなかった。
「クシハネが富士の山の神に召されたのではないかと、噂し合っています、これでは人間の妻にはなれません、罰が当ります、故に侍女として使っていただきたいと駿河の王はお願いしている次第です」
音彦にも妃《きさき》はいたが当時は子がなかった。まだ十八歳だった音彦は、クシハネに興味を覚え、侍女として使う旨を約束した。
クシハネを見た音彦は一眼で魅せられた。心が身体ごと吸い込まれるような魅力を覚えた。
音彦は周囲の反対を押し切り、クシハネを妃にしたのである。間もなく生まれたのが宮簀媛だった。
「山に入っていると申していますが、ひょっとすると神隠しの一種かもしれません、山の神が時々呼んでいるということも考えられます、宮簀媛は王子様とお会いするまで一切の婚姻を受けつけませんでした、故に、王子様の伽の女人にならないか、と話した時も、当然拒否されると思っていたのです、実は媛があっさり承諾したのでとまどったほどでございます」
音彦は深い吐息をついた。
「なるほど、大体分りました、神隠しですか、でも富士山の神とは限りますまい、富士山の神なら、仕える山人がこの辺りまで来て宮簀媛と接触したりするのも妙です、あちこちに移動する山人は、その地における山の神に仕えるといわれています、私の予感では、近々媛は戻って参りましょう、その際、私は媛と対決し、媛に憑いている山の鬼神の呪力を封じましょう、でも、よく告白してくれました、王子様の出発も可能になります」
自分を咎《とが》める言葉が出なかったせいか音彦は救われたように汗を拭いた。
倭建は今更のように宮簀媛に溺《おぼ》れた自分を悔いた。
二人きりになった時、倭建は訊いた。
「弟橘媛よ、吾にはよく分らぬが、神隠しにあうというのは、神が攫《さら》うのか、それとも神に呼ばれ、無意識に山に入るのか、何《いず》れじゃ?」
「私にもよく分りません、ただクシハネがどういう状態で消えたのかは、矢張りクシハネのみが知っていることでしょう、もし、山人族に攫われたのなら、クシハネは、山の神に仕える山人の長によって犯された可能性がないでもありません、その場合、クシハネは山人族の長の妻となり、一族の者と見なされましょう、たとえ俗界に戻られても山人族にとってクシハネは女王ということになります、女王の命令は絶対的です」
倭建は眼を剥《む》いた。
「待て、そうなると宮簀媛は、山人族の長の子である可能性も出てくるではないか、ただ駿河で神隠しにあった年齢と、音彦の妃になった年齢との間には三年も空いている,胎児が三年も女人の体内にいることはない、矢張り音彦の娘ということになるのう」
「音彦殿の娘かもしれませんが、宮簀媛の母が山人の女王なら、娘の媛も女王でございましょう、そうでなければ、幾ら親しい宮簀媛の命とて、私を襲ったりはしますまい」
「その通りじゃ、媛は何れにしろ山人の女王だった、分らぬものじゃ」
「女人は男子には分りませぬ」
弟橘媛は謎めいた微笑を浮かべたが、そこには色香よりも決意のようなものが漂っていた。
夕餉《ゆうげ》の後、弟橘媛は音彦より与えられた自分の屋形に戻ろうとした。
弟橘媛と会って以来、倭建は肌を合わせていない。倭建が望んでも、宮簀媛の邪気が完全に消えない以上、王子様にも私にも害になります、と弟橘媛は断った。
自分に弱みがあるだけに、倭建は従うより仕方なかった。
だがその夜はいとしさと欲情が昂《たか》ぶり、独り寝は淋《さび》し過ぎた。といって、伽の女人を音彦に頼むのは、男子の誇りが許さない。
「弟橘媛、そなたは吾《われ》が嫌になったのか、今回の醜態を知った以上嫌われても無理はないが、吾は怪しい鬼神に憑かれ自分を見失っていたのだ、吾が愛しているのは弟橘媛、そなたじゃ、そなた以外にはいない、そのことは分っているはずじゃ、今宵は肌を合わせよう」
弟橘媛は首を横に振った。口を結んで視線を伏せる。膝《ひざ》の上で伸ばした左右の指を合わせた。精神を統一すべく腕を持ち上げた。弟橘媛は倭建を前にして、まるで神と向い合っているようだった。
「媛よ、そなたは吾の子を産んでいる、肌を合わせたからといって、神力が落ちるはずはあるまい、神は二人の媾合《まぐわい》を許されているのだ」
倭建の口調は何時になく熱っぽい。媛の傍《そば》に寄ると媛の膝頭に手をかけて、太腿《ふともも》を割ろうとした。弟橘媛が妃になった当時の倭建である、甘い戦慄《せんりつ》に媛は腕を落しそうになった。
当時は一夫多妻が慣習だから、正妃であろうと女人が子を産むと、男子は若い女人を次々と妃にする。王や王族のみならず、豪族でも同じだった。倭建が東征大将軍として東の国々に向けて出発した時から、弟橘媛はただ倭建の無事を祈る女人となっていた。
倭建が大和に凱旋《がいせん》してきても、もう二人が閨《ねや》を共にすることは二度とない。娘のような若い年齢の女人に譲らねばならなかった。侘《わび》しい運命だが、それが現実である以上、女人は自分を無にし、いとしい男子を諦《あきら》めねばならないのだ。
だが、倭建は諦めていた女人を眼覚めさせ、若い頃と同じように火をつけようとしている。その悦楽の炎は頭の中を空にし、下半身を溶かせ、身は仙花の間を浮遊する。あの悦《よろこ》びを今一度味わえるのなら、死もいとわない、と媛は無意識に呟《つぶや》きはじめていた。
合わせていた指が離れると同時に腕が落ちた。腰が崩れて膝が割れる。
倭建は飢えた獣のように荒い息を吐いた。
「そうだ、それで良いのだ、これで二人は昔に戻れる、吾とそなたが夜明け近くまで戯れ合った若い日に」
倭建は媛が纏《まと》っている白い寝衣の裾《すそ》を剥《は》いだ。媛の頭は霞《かす》み精神は緩んでいた。官能だけが敏感になり、血潮が音を立てながら体内を巡りはじめた。何処にあるのか自分でも分らない奥底の洞に、血は騒いで流れ込む。洞の肉がそれに呼応するように疼《うず》き、膨らんでくる。
甘い喘《あえ》ぎが弟橘媛の口から洩《も》れた。
「そうじゃ、おう、肌は熱く火のようだぞ、媛よ、今宵のために媛は大和から来た、吾と肌を合わせるために」
倭建の手が媛の両|腿《もも》の谷間を進み、潤んでいる繁《しげ》みに達した。
媛の喘ぎ声は嗚咽《おえつ》に変る。
「吾も熱い、寝衣など要らぬ」
倭建は自分と媛の腰紐《こしひも》を解いた。媛は半ば口を開け悶《もだ》えるのみである。
倭建の指が媛の上衣を広げ乳房に触れた。溶けていた媛の眼が瞬《またた》いた。何処から吹き込んできたのか、冷たい風が胸から背中に抜けた。
「おう、何だこれは、邪魔だ、取ろう」
倭建は媛が首から吊《つる》して胸にかけている守り袋を引いた。いったん去った風が舞い戻り媛の脳裡《のうり》を貫いた。
媛は悲鳴をあげて上半身を起こした。
守り袋の中にはかつて倭建から貰《もら》った樫《かし》の葉が入っていた。
「王子様、なりませぬ、それは平群《へぐり》の樫でございます」
「おう、吾がそなたに与えた、うむ、痛い」
守り袋を引いた指が激痛に歪《ゆが》みそうになった。
弟橘媛は自分を取り戻していた。急いで裾の乱れを合わすと、深々と叩頭《こうとう》した。
「王子様、お許し下さい、私が悪うございました、私は王子様の身を護るため、巫女《みこ》として参ったのです、身が引き裂かれるほど苦しくても、王子様をお受けできないのでございます」
「そうだったのう、吾もどうかしていた、それにしても、そなたは若々しく美し過ぎる、吾が与えた平群の樫の葉、ずっと身につけていたのか、嬉《うれ》しいぞ、だが木から離れた葉じゃ、もう枯れているであろう」
「いいえ、袋の中の葉は見ておりません、でも私には分ります、緑の艶《つや》も鮮やかに、私の肌から養分を取り、息づいています、私には分るのです」
「そうか、あの葉はまだ生きているのか、そなたから肌の水を与えられ養分とした、不思議な葉だ、寒さが忍び寄ってきたぞ、酒でも飲み熟睡しよう、明日からは東の国じゃ」
倭建は拳《こぶし》で腰を叩《たた》いた。
その頃、宮簀媛は五里(二〇キロ)ほど離れた山中の岩床に坐《すわ》り、懸命に山の神に祈り続けていた。
媛の周りには蛇や鹿、猿、山犬などの獣が命令を待つように蹲《うずくま》っていた。木にも様々な鳥が止まっている。猿は木にも地上にもいた。
突然媛は凄《すさ》まじい悲鳴をあげるとその場に倒れた。山犬が悲し気な咆哮《ほうこう》を放つと、まるでそれが合図のように獣達は散って行く。
木々がざわめき、鳥が空を舞う。
獣達も鳥も消えるように姿を消した。彼等を通じて山の呪力を得、遠く離れた倭建に悪霊を送り込んでいた媛は、弟橘媛の強靱《きようじん》な意志の力に負けた。
呪力の根源は何といっても人間の意志の力である。
倒れていた宮簀媛は起き上がると身を慄《ふる》わせた。唇を噛《か》み眼を剥《む》いて前方を睨《にら》む。
「無念じゃ」
媛は誰に告げるともなく呟《つぶや》いた。
「駄目でございましたか……」
繁みの中から現われたのは、四十年輩の男子である。山人族の頭の一人だった。髷《まげ》は結わず紐で後ろを束ねていた。庶民の女人の髷に似ている。
「おう山長《やまおさ》か、無念じゃ、弟橘媛は思っていた以上に手強《てごわ》い、恐るべき女人です」
山長と呼ばれた男子は地に手をついた。
「媛、落胆は禁物でございます、やつかれは次の手を考えています」
「次の手と申すと」
「やつかれは部下を大和に走らせています、倭建王子が宮簀媛様に夢中になり、東征の意欲を失っていると噂を流させましょう、大和の王は詰問の使者を尾張に遣わすに違いありません」
「でも、王子様はすでに東の国に向っている」
「やつかれが耳にするところによると、大和の王は倭建王子を好いておられません、朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》が戦を挑んだのも、大和の王の意を得たが故、という噂も流れています、おそらく王以外にも王子を嫌っている王族や豪族がいるはずです、悪い噂を流せば必ず王の使者は、東の国に王子を追い詰問するでしょう、王子に仕える将軍連中の心は離れます、となると王子は負けます、尾張に戻る以外ありません」
「でも弟橘媛がついています、憎いが油断ができぬ強い媛じゃ」
「尾張に戻るまであと一年はかかります、その間に殺す機会は何度か訪れましょう、媛様、落胆は禁物ですぞ、やつかれ達がついています」
山長の励ましに宮簀媛の力のない眼が怪しい光を放ちはじめた。
「山長、そうじゃ、一年もある、私は何としても倭建王子を私の夫にしたい」
「媛様の望みはかなえましょう、広い倭《わ》国の中で、大和の王を斃《たお》す者は、倭建王子以外にはありますまい、このまま放っておけば、大和の王は、遠い昔から我等が住んでいた国々を滅ぼし、我等が土地を奪いましょう、我等は倭建王子を擁して戦うのです」
「山長よ、そち達は毛人と呼ばれているのう」
「我等が倭の国の原住民なのです」
山長は拳を握り胸を叩いた。
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湖の夜
倭建《やまとたける》は弟橘媛《おとたちばなひめ》の力で立ち直った。
倭建は弟橘媛を連れ、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、丹波猪喰《たんばのいぐい》らと共に東の国に向うこととなった。
予定より四ケ月以上遅れていた。山々は紅葉に映えて鮮やかである。腰には環頭太刀《かんとうだち》以外に、倭姫《やまとひめ》王から貰《もら》った銅剣を吊《つる》している。倭建の眼は爛々《らんらん》と輝き、身体から精気が放たれていた。
尾張《おわり》に逗留《とうりゆう》していた時とは別人のようで、七掬脛も猪喰も昔の王子に戻られたと信じ、勇み立った。
倭《わ》国の五世紀の大王は、中国の宋《そう》王朝に遣使し、安東将軍、倭国王、また安東大将軍倭国王に任じられた。
中国の昇明二年、西暦四七八年、時の倭国王の武(雄略大王)は朝貢し上表文を順帝にたてまつった。
その文章が『宋書・倭国伝』に載っているが、気宇壮大で流暢《りゆうちよう》である。
「封国(倭国)は偏遠《へんえん》にして、藩を外に作っている。祖先の王は自ら甲冑《かつちゆう》を纏《まと》い、山川を跋渉《ばつしよう》し、休む暇もない、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷《しゆうい》(九州島南部の熊襲《くまそ》か)を服すること六十国、海を渡って海北を平らげること九十五国である。王道は融泰《ゆうたい》にして、土をひらき畿をはるかにした(後略)」
まさに堂々とした文章である。雄略大王が寵愛《ちようあい》した渡来系の文人の手になるものと思われる。海を渡って朝鮮半島南部の国々を平らげたというのは眉唾《まゆつば》もので、『三国史記・新羅本紀』にあるように倭人《わじん》の海賊的な略奪行為のことと考えられる。
ただ五世紀に、大和王権による東征、西征が行なわれたのは間違いない。本小説による倭建の時代は四世紀後半なので、いささか時代は古すぎるが、王族将軍による示威的な軍事行動が始まったとしても、そんなに不自然ではない。
事実、倭建は、東の国々を服従させるのが目的ではなかった。各国の動向を調べると共に、攻められたなら撃破し、王権の武威を示すのが真の任務である。
自分達に従わないといって戦をしていたなら、軍が持たない。将軍である吉備武彦《きびのたけひこ》、大伴武日《おおとものたけひ》などの軍を合わせても五百名に足らないのである。
九州島南部の熊襲との戦いも、将軍の一人である川上タケルを斃《たお》し、勝利宣言をして戻ったが、熊襲の勢力はなお盛んで、いささかの衰えもない。
吉備武彦と大伴武日は、三河国の豊橋で倭建の一行を待っていた。山を越えれば浜名湖である。当時は湖というより潟だった。太平洋側には、浜名湖のような良い潟は少なく、各国の交易の船が出入りしている。尾張音彦《おわりのおとひこ》の屋形からは約二十五里(一〇〇キロ)弱だった。
現在の豊川の東側を東北に延びる山々は、おおむね百五十丈(四五〇メートル)前後の高さで、それほど峻険《しゆんけん》ではない。現在の大岩町あたりから湖に通じる道や、遠州灘《えんしゆうなだ》に出る道もあった。交易の人々がよく通る道だった。
ただ山々は、後の遠江《とおとうみ》と三河を分けている。ことに遠江には、倭建軍と一戦も辞せずという勢力があるようだった。
朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》との戦の際、倭建軍に投降した山賊、大裂《おおさき》はその健脚と嗅覚《きゆうかく》を買われ、部下と共に間者として活躍していた。
大裂は遠江や駿河の動向を調べていた。大裂の報告によると天竜川と大井川の間に素賀《すが》、久努《くぬ》の勢力があった。何《いず》れも後の国造《くにのみやつこ》族で、素賀は王を自称し、倭建軍は通さぬと強硬であった。今のところでは久努も、素賀王に同調していた。
豊川の首長は穂氏だが、中立的というよりも友好的だった。駿河は尾張との交流が深く、尾張音彦が倭建の一行を厚くもてなした以上、何も反抗する必要はない、と考えていた。
吉備武彦と大伴武日が、かなりの期間豊川に留《とど》まっておれたのは穂の首長の意向による。
倭建は三日後の朝、両将軍の陣営近くに到着した。陣営といっても農家を借用したり、兵士達に建てさせた小屋に住んでいる。
倭建が豊川に向ったことは、すでに犬牙《いぬきば》が報告していた。犬牙は二十五里もある道を二日弱で走破していた。
小雨が降る中を武彦と武日は蓑《みの》を纏《まと》い、豊川の川岸で倭建が現われるのを、今か今かと待った。
小雨の対岸からも火矢《ひや》が射られた。
倭建が到着したという合図だった。
「良かったのう、これまで女人に溺《おぼ》れられたことがなかっただけに、どうなることかと生命の縮む思いであった、箝口令《かんこうれい》はしいてあるが、こういうことは隠し通せぬ、兵士達の士気にも影響する」
武彦は呟《つぶや》くようにいいながら対岸を凝視する。武日が人差指で口を叩《たた》いた。
「そうなのじゃ、弟橘媛が来られたことも知っている隊長がいた、誰から訊《き》いたのか、と訊くと、地元の長《おさ》が噂《うわさ》しているらしい、驚いた」
「そうか、それなら遠江、駿河にも知れているかもしれぬのう、よし、噂については吾《われ》から王子に告げる」
「しかし、立ち直られた王子を傷つけることにならないか」
武日は少し顔を曇らせた。
「いや大丈夫、王子は昔から、自分についての噂を耳にした際は、隠すことなく知らせよ、とおっしゃっておられる、隠すことこそ、王子を傷つけることになる」
「吾よりも、おぬしの方が王子と親しい、王子の性格は肚《はら》の底まで知っている」
「そんなことはない、おぬしも同じじゃ」
武彦は反駁《はんばく》するようにいったが、事実は武日のいった通りである。何といっても武彦は王子の熊襲征討に参加した。長い間戦火の中で過ごしたのである。この結びつきは強い。倭建が戦の疲れをいやすべく、大和に戻る途中吉備に寄ったのも、友情に通じる信頼感のせいだった。大伴武日も戦に加わることを望んだが、オシロワケ王の命で大和から離れられなかった。忠誠心は吉備武彦に負けないが、王子と武彦の結びつきの強さには及ばない淋《さび》しさがあった。
「おう、見たぞ、火矢じゃ」
武彦と武日は部下が火をつけた矢を高々と雨空に射た。川幅は三百歩以上はある。王子達の姿は小さい影となり、顔の判別は不可能だった。
王子達は数|艘《そう》の川舟に乗り、武彦達の方に向った。
倭建は舟から降りると、蹲《うずくま》った両人の前に立った。
「吉備武彦に大伴武日、二人共立て、色々と心配をかけたがもう大丈夫だ、吾は立ち直った、悪い酒に酔っていたのだ、さあ立て」
王子の声は力強く響き渡る。二人が立つと王子は左右の腕で二人を抱き抱えた。
「王子」
感きわまった二人は言葉が出ない。倭建は背後にいた弟橘媛を傍《そば》に呼んだ。武彦と武日は深々と叩頭《こうとう》する。
「弟橘媛は巫女《みこ》王として加わることになった。そち達も知っているように、媛は神力を持っている、戦の指揮は吾がとるが、媛は悪気を祓《はら》い、長征の無事を神に念じる、媛が傍におれば、吾は千人力じゃ」
「弟橘媛様、王子と我軍をお護《まも》り下さい」
二人が叩頭すると弟橘媛はいった。
「この度の東征には悪い神が立ちはだかっています、私《わ》はそれらの悪鬼と闘い、退散させねばなりません、そのためにも私は毎日身を浄《きよ》め、神の意を受けねばならぬ、私は侍女と共に夜を過ごしますが、私の寝所には持参した幣《みてぐら》をかけましょう、警護の兵は私の寝所よりも二十歩は離れるようにして下さい、神の意を得る巫女にとって男子《おのこ》の気は厳禁です」
「はっ、そのように致します」
武日と武彦は鸚鵡《おうむ》返しに答えたが、思わず倭建の顔を見た。
男子の気を絶つ以上、倭建は媛の寝所に行けない。
これからの長い旅の間、媛は王子と閨《ねや》を共にしないというのか、王子の気持は? と二人は驚いたのである。
倭建は顎《あご》を引き締めて頷《うなず》き返した。
「おう媛の申す通りに致せ、大和に戻るまでの間、弟橘媛は神の妃《きさき》となる、吾は戦や旅に関する神意を受ける以外、媛のもとには近づかぬ、このことを神を始めそち達に約束する、この誓約をもし破ることがあれば、吾の身と子孫が滅びようと誰をも恨まぬ」
倭建は右手をあげると力強く宣言した。その声は木霊《こだま》となりあちこちに伝わる。まるで神々が伝えあっているようだった。
その夜、弟橘媛は倭建とは別な小屋で一夜を明かした。
倭建の宣言は、将軍から隊長、更に兵士達にも伝えられ、萎《な》えていた全軍の士気が盛り上がった。
翌日、倭建は武彦と武日以外、久米七掬脛、丹波猪喰、更に間者の大裂なども加え、倭建軍と一戦を交えようとする素賀、久努の動向を聴いた。
遠江の地理や王及び首長達の動きを最も良く知っているのは大裂だった。
長い間山賊となり、朝日雷郎と対決していた大裂の調査は驚くほど詳しかった。
大裂の報告は次のようなものだった。
天竜川と大井川との間を勢力圏とする素賀と久努の首長は婚姻で同盟関係にあった。
素賀は海に面した素賀丘陵の高台に屋形を構え、北部の掛方あたりまでを領土としていた。久努は太田川沿いに勢力を張り、その屋形は現在の久能《くのう》にある。その子孫は久努朝臣《くぬあそん》となっている。
動員可能な兵士は、両者を合わせて、四、五百人と大裂は推定していた。
となると倭建の軍勢とほぼ互格になる。
「問題は士気と、何処まで本気で戦うか、ということだな、吾は別に戦をするために来たのではない、はっきりいえば示威だ、その辺りのところを遠江の首長が理解しているかどうかが問題じゃ、遠江では、数十年間にわたり大規模な戦はないようじゃ、それだけ戦には慣れていないし、強がってはいても内心|怯《おび》えていると考えた方が良い、まず大事なのは吾の真意を知らせることにある」
「王子、おっしゃる通りです、使者ならやつかれが参ります」
武彦が肩をいからせた。
「慌てるな、使者の件はゆっくり考える、他に何か意見はないか?」
倭建は一同を見廻《みまわ》した。
武日が武彦に負けじとばかり身体を乗り出した。
「申し上げます、問題なのは、久努、素賀の首長が何故強がっているのか、ということでございましょう、我等の真意を理解していないということもありますが、更に東の隣国の意を受けている可能性もございましょう」
「それはある、東の隣国といえば駿河の廬原《いおはら》王の勢力圏に入る。尾張音彦の説明によれば、廬原王は清水という良港を有し、相模《さがみ》、武蔵《むさし》などの国々と親しいということじゃ、我等を阻止せよと廬原王がけしかけているかもしれぬ、何れにせよ、遠江の王と話し合う必要があろう、勿論《もちろん》、戦をしかけてくるようなら殲滅《せんめつ》する」
倭建は力を込めていった。宮簀媛《みやすひめ》との情愛に眠っていた武勇の血が滾《たぎ》っていた。
武彦も武日も倭建に呼応して眼を輝かせた。
「武彦に武日、明日にでも出発の準備にとりかかれ、我軍は山を越え、浜名湖の周辺で布陣し、戦に備える、大裂、そちは吾が遠江に入った場合、素賀王、久努王がどれだけの兵を動員したかを調べよ、久米七掬脛は吾の使者として穂王に会い、遠江の王達に、吾の意が戦ではなく大和の王権との友好にあることを伝えるように、と申せ、猪喰は我等よりも先に遠江に入り、湖の王に、我軍の滞在に便宜をはかるように申し入れよ」
猪喰は傷も完治し、間者《かんじや》活動を続けたがっていた。
翌々日、倭建は軍の先頭に立ち山を越えて湖に達した。武彦や武日は、三河の穂王が遠江の王達に使者を出し、猪喰が湖の王の意を確かめるまで、王子は三河に滞在すべきだと忠告したが、倭建は蹴《け》った。
「今は吾が先頭に立たねばならぬ、そういう時なのだ」
倭建は兵士達に怯懦《きようだ》の王子と見られることを最も恐れた。遠い異国の地にある兵士は勇気のある将を求めて頼る。将が勇猛であればこそ兵士も力を発揮するのだ。
武彦、武日の両将軍も納得した。
湖一帯の首長は遠淡海《とおつおうみ》王だった。倭建の軍が滞在して三日たっても王からの連絡がない。
猪喰の報告では遠淡海王はすでに五十代に入っており、戦よりも平和を望んでいた。だが息子の稚《わか》王子は、隣国の久努、素賀両王の手前もあり、このまま通すわけにはゆかない、と父王に反駁《はんばく》しているらしい。
ただ猪喰の調査では、遠淡海王は都に兵を動員していなかった。やや屋形の警護が強化されている程度である。
武彦と武日は、使者を遣わし王を呼び寄せるべきで、もし王が応じなかったなら百名ほどの兵で一挙に攻め、王を捕えるべきだと進言した。
倭建は武彦らと共に湖の見える高台に立った。広い湖で北方は果てしなく続く山々である。王の屋形は湖と山の間の高台にあった。
「どうじゃ湖の眺めは?」
「湖というより広い潟です、これが広々とした大海原につながっているとするとなかなかの良港、北の方はさだかではないが、海と潟とを遮る岬のあたりに舟が群がっているようです」
武彦は眼を細めた。吉備国には海人《あま》が多く、水軍力は強かった。
陽《ひ》はやや西に傾いていた。
「よく分ったのう、点のように見えるが船じゃ、川舟よりも大きい」
「しかし王子、妙ですぞ、漁の船なら引き揚げる時刻、いや、早朝から出ているから、もう一|刻《とき》ぐらい前には港に戻っているはずです、ところが魚を釣っているように動かない、冬も近い季節、あの辺りはかなり波が出ている……」
武彦の語調は自分にいい聞かせているようだが、うむ、と喉《のど》を絞り腕を組んだ。
「これはおかしい、何故船が動かずにいる、王子、妙ですぞ」
倭建は破顔しながら頷いた。
「昨日ここに来て眺め、妙だと思った、多分兵士が乗っている水軍であろう、我々が東国に行くには、湖の北を廻るか、船で横切らねばならぬ、湖の北を廻るとなると、遠淡海王の本拠《ほんきよ》地を通る、我々を通すか、一戦を交えるか、どちらかじゃ、だが陸の戦では我軍に勝てぬ」
「王子、申し訳ございません」
武彦はその場に坐《すわ》り込むと両腕を折って平伏した。武日はあまりにも突然のことなので唖然《あぜん》としている。
「武彦立て、吾も海の戦を忘れていた、昨日気づき、今、猪喰に調べさせている」
武彦は拳《こぶし》で自分の頭を叩《たた》いた。頭が割れたのではないか、と思えたほどの音がした。
「武彦、王は水軍で我等を攻めてくると申すのか」
武日が眼を吊《つ》り上げた。
「攻めてくるのか、それとも守りなのかそれは分らぬ、だが遠淡海王の兵力は水軍が主じゃ、間違いない」
武彦が唇を噛《か》んだ。
「その無様な姿は何だ、武彦、立て」
倭建の命令に武彦は跳ねるようにして立った。
「戻ろう、夕刻までには猪喰が戻ってくる」
倭建は歩きながら考えた。王の真意がよく分らない。武彦が口にしたように、攻めか守りか、がはっきりしない。何れにしろ水軍を動員したところをみると、倭建に対し友好的とはいえなかった。
「王子、王の本拠地は手薄でしょう……」
と武日が今にも刀を抜きそうな口調でいった。
「王の屋形周辺は手薄だ、だが海には水軍がいる、ひょっとすると、猪喰が調べる前に兵と船を集めたのかもしれぬ、こういう時こそ落ち着かねばならぬ、もし遠淡海王と戦い、長引くようなことになれば、遠江の素賀、久努両王だけではない、駿河や相模の王達が我軍を侮り勢いづく、我軍の兵は増えない、食糧のことも大事じゃ、ここは何らかの策にて我等の武威を示し、王を屈服させねばならない、いたずらに猛《たけ》り立つな」
倭建の声は力強いが穏やかだった。胸中を見抜かれた武日は叩頭《こうとう》した。
倭建は湖岸の民家を十戸ほど接収していた。代価として絹布を与えたが、せいぜい数日のつもりだった。竪穴《たてあな》式の住居で、一戸に数人が寝泊まりした。兵達は斜面に穴を掘り、雨露をしのぐために穴を葦《あし》の束で覆う。切り取った草を集め蔓《つる》で巻いて束にするのだ。
激しい風雨には堪えられなかったが、ちょっとした雨からは結構しのげた。
夕刻、調査を終えた猪喰が戻ってきた。
「船は約十数艘で、内海と海を遮る岬の内側に碇泊《ていはく》しています、一艘には三、四人が乗っていますので、約五十人前後でしょうか、弓矢、剣などで武装している様子です、よほど海が荒れない以上、四、五日ぐらいの碇泊は可能と思われます、闇《やみ》に紛れて兵達が攻撃する恐れもありますので、大裂の部下も加え、海辺の警戒に当らせています」
「攻撃か、その可能性も強いのう」
高台から望見した時と異なり、海からの奇襲を現実のものとして考えねばならなかった。
「猪喰、そちは王は平和を望んでいると申した、となると好戦的な稚王子の主張が通ったことになる、どういう目的かは知らぬが、水軍で我等を威嚇《いかく》する以上、平和的とはいえぬ」
「王子様、やつかれもそのように考えざるを得ません、王の屋形の手薄は騙《だま》しということも考えられます、今宵《こよい》の警戒は厳重にすべきでしょう」
「分った、武彦に武日、両者合わせて数十名の兵を出し、夜襲に備えさせよ、同時に全軍に戦になるかもしれぬと伝えよ、油断は禁物じゃ、暫《しばら》く吾は一人になる、何故水軍を動員したかを考えたい」
遠淡海王の意図が分らぬことが、倭建を苛立《いらだ》たせた。
こういう時は巫女として従軍している弟橘媛に告げ、神託を得るのも一つの方法だった。ただ神託を受けた場合はそれに従わねばならない。成功すれば良いが、失敗すれば巫女としての存在に深い傷を与えることになる。それを思うとうかつに相談できなかった。
倭建は警護隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》を呼び、夕暮れの湖岸に向った。陽はすでに西の山に沈み湖面は暗い。打ち寄せる波と湖面を掃くような風の音が何時になく鋭かった。
碇泊している船は薄闇に溶けて見えない。気持を鎮めて闇を凝視していると、今にも敵の水軍が現われそうな気がした。本能的に刀の柄《つか》に手をかけ、吾は怯えているのか、と呟《つぶや》く。
「王子よ、何に怯えているのか、武装した兵が乗り込んだ船が闇を待っているのだ、奇襲をしかけてくると判断してもおかしくはない、そう思うのが大将軍の任務ではないか」
倭建は自分の声をはっきり聞いたのだがそれを批判する声が告げる。
「東の国々は果てしなく遠い、これからが未知の地ではないか、いたずらに戦をし、兵を消耗させるようなことがあれば、東征は失敗する、大和に戻っても父王にさげすまれるだけだ、名声は地に堕ち、王位への望みも絶たれ、空しく生きねばならぬ、可能な限り戦は避けて進むのだ、それが真の大将軍じゃ、王子は戦の将軍ではないのだぞ」
批判の声の方が長々と続く。
倭建は今更のように、東征が如何《いか》に困難であるかを知った。このまま敵地に入り冬を迎えれば兵士を飢え死にさせてしまう。
倭建は満足そうなオシロワケ王の顔を思い浮かべた。倭建の悩んでいる姿を見て喜んでいるのだ。王は告げる。
「倭建よ、そちは生まれてくるのではなかった、邪魔な王子じゃ」
「その通りです。東《あずま》の毛人《えみし》が死を与えるでしょう、あの王子がいては、私の子、ワカタラシヒコ王子は王にはなれませぬ」
皇后|面《づら》をしているヤサカノイリビメの声がした。
「王は一人じゃ、どちらかが死なねばならぬ、これが運命というものだ」
オシロワケ王は孫よりも若い女人を抱き寄せ、皺《しわ》だらけの顔をすりつけた。若い女人は嫌悪と恐怖に蒼白《そうはく》になる。
「王よ、倭建王子はしぶとい王子です、そう簡単には死にますまい」
如何にも策謀家らしい顔をした物部十千根《もののべのとちね》が、顎鬚《あごひげ》を撫《な》でながら首を伸ばす。
「どうするのだ?」
「吾におまかせ下さい、倭建は耳の聡《さと》い王子、東の国で聴いているかもしれませぬ」
「おのれ、物部十千根、許さぬぞ」
倭建は刀を抜きかけた。
「王子、曲者《くせもの》ですか」
高彦が刀を抜いて走り寄った。
倭建は我に返った。父王やヤサカノイリビメ、物部十千根の声が生々しく残っている。
「いや何でもない。湖から敵が現われたのかと思った」
「王子、もう少し高台にお戻り下さい、曲者は湖を渡り、襲ってくるかもしれません」
高彦が湖を睨《にら》みつけた。
「何だと……もう一度申してみろ」
「敵は湖に船を浮かべ、王子のお生命を狙《ねら》っています、湖を渡りひそかに攻めてくる危険性は大です」
「この季節にか、湖の水は冷たい」
「武彦様が申しておられました、優れた海人《あま》の中には冬の季節でも、布を纏《まと》い海に潜る者がいるとのことです、布を纏うと裸よりも暖かいと申されていました、体温の消耗が防げるせいでしょうか、やつかれは海人ではないので分りませんが」
「分った、戻るぞ」
倭建の声は叫びに似ていた。
倭建は高彦の言葉に、自分の考えに盲点があったのを知った。
高彦は碇泊している船を守りの水軍とは考えていないのだ。倭建を襲う奇襲部隊と決めつけている。それが正しいかどうかは別として、高彦の考えは、吉備武彦を始め、部下達のものに違いなかった。
倭建は船団が、漁舟をよそおい岬の内側に碇泊しているのを見た。武彦が驚愕《きようがく》したほど倭建の眼は鋭く確かだった。だがその後で遠淡海王の意を考えあぐねた。それに対し、武彦らは迷わずに奇襲部隊と判断していたのだ。戦の将軍の勘の方が正しいかもしれない、と倭建は今気づいたのだ。
「高彦、吉備武彦をこの場に呼ぶように、急ぐのじゃ」
「はっ、やつかれが走ります」
碇泊している船が奇襲部隊なら、先手を打たねばならない。未知の地で、敵を迎え討つのはまずい、と倭建は判断した。
宿泊地近辺の地理もはっきりしていないのだ。今は水軍に優れている武彦に頼る以外なかった。
武彦は高彦と共に走ってきた。
「おう待っていたぞ、吾はそちの考えに同意した、あの船団は怪しい、何の意味もなく隠れるように碇泊しているはずはない、奇襲をかけてくるに違いない、武彦、先手を打つとなるとどういう方法があるか?」
倭建の質問に我意《わがい》を得たりと胸を叩《たた》いた。
「吾の軍団に吉備水軍の隊長がおります、すでに策は聴いています、彼が申すには敵の水軍は夜を待っているとのことです、おそらく我等が寝入るのを待ち、王子の近くに上陸し、奇襲をかけてくると申しています、彼があの水軍の長《おさ》ならそうすると……」
「闇に紛れて船を進ませ、上陸するというわけか、布を纏い、海に潜ってやってくるという手もないではないが……」
武彦は首を横に振った。
「数人の暗殺者の場合はそれも可能でしょう、ただその場合は、船団を碇泊させたりはしません、人眼につかぬように一、二|艘《そう》の船を海辺に寄せ、海人を潜らせます、この季節に海に潜るのは海に慣れた海人でも上陸後、身体が痺《しび》れ、自由に動きにくい、刀、槍《ほこ》を思い切り振れませぬ、あれだけの船を集めた以上、我等に見られても仕方ない、と覚悟の上です、暗殺者を出すような姑息《こそく》な真似《まね》はしません、全軍で奇襲攻撃をかけてくるつもりです」
「見られても仕方がないというのは……奇襲攻撃の意味がなくなるのではないか?」
「王子、申し訳ありませんが、王子さえも、最初は奇襲攻撃の水軍とは考えられなかった、倭建王子の軍に百人足らずの兵力で攻撃をかけるなど、普通なら誰も考えません、敵は我等の油断を頼りにしているのです」
「そうだのう、吾も油断していた一人じゃ」
「いや王子は油断されていない、だから吾を呼んだのです、それに猪喰も、再調査のため王の本拠地に向いました、王は王子との戦を望んでいない、それにも拘《かかわ》らず水軍を動かしたのは稚王子の意が通ったのでしょう、猪喰も船団を見て、再調査が必要だと感じたようです」
「よし、敵軍を殲滅《せんめつ》するぞ、場合によっては全軍を動かす、武日を呼べ」
倭建は船が碇泊している湖を睨《にら》んだ。
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謎の水軍
久米七掬脛《くめのななつかはぎ》の祖は北九州の山人族だった。海人と違って水軍にはうとい。そんな七掬脛は倭建《やまとたける》と吉備武彦《きびのたけひこ》のやりとりを聴いていて疑問を感じた。
水軍にうといので口をはさむのを控えたが、どうも敵の策が分らなかった。
確かに何気ないように浮いているが、昨日から倭建軍の見える場所に集まっている。
当然、倭建軍の誰かがそれに気づく。気づいた以上、夜襲ではないかと疑われても仕方がない。
当然、倭建軍は夜襲に備えて布陣する。幾ら地理を熟知していたとしても、待ち受けている倭建軍を襲ったりするだろうか。
倭建王子の勇猛ぶりは東国の諸国に知れ渡っているのだ。
かりに敵の水軍が夜襲をしかけてきたとしても、それは奇襲ではない。攻めるかもしれないと知らせているのも同じだからである。
武彦の判断では、敵の水軍はどんなに多くても百人以下である。数十人程度である。それだけの兵力では、奇襲以外の攻撃で、倭建の軍団に勝てるはずはない。
七掬脛は懐から数種類の薬を取り出した。乾燥した薬草の粉末である。
火打石で枯れ葉を燃やし、気持を落ち着ける薬を手にした。
弟橘媛《おとたちばなひめ》のおかげで宮簀媛《みやすひめ》の呪縛《じゆばく》から解放された倭建は、全軍に対し武勇の王子であることを誇示している。そのためには自ら昂奮《こうふん》し無理をしているきらいがあった。
「もう少し、落ち着かねばならない」
七掬脛は自分に呟《つぶや》くと、掌中に残した薬を持って倭建のもとに行った。
「王子様お話がございます」
倭建は呼んだ大伴武日《おおとものたけひ》と水軍の夜襲に際しての布陣を話し合っていた。
「おう七掬脛か、そちもこれと思う戦法があれば話せ」
「王子様、やつかれは山人族の子孫でございます、山での戦なら自信がありますが、水軍との戦いはさっぱりです、今はお願いがあって参りました」
「何だ、いつもの七掬脛らしくないぞ、腹の中に一物があるようだ」
「いや、流石《さすが》は王子様です、恐れ入りました、王子様の洞察力にかなう者は倭《わ》にはいません」
「気持が悪いぞ、そちらしくない世辞じゃ」
倭建の眼は七掬脛の手に移った。
「その手に持っているのは一体何じゃ、どうも薬らしい、吾《われ》に薬を服《の》ませようというわけか、吾は元気だぞ」
七掬脛は肩を竦《すく》めて額を叩《たた》いた。鋭い音が部屋中に響く。
「お見事、その通りでございます、この地は土地の水が異なっています、毒消しの薬を持参しました、白湯《さゆ》でお服み下さい」
「水が変ったぐらいで薬を服するか、心配するな」
七掬脛は待っていたように背筋を伸ばし、別人のような声を張りあげた。
「これは異《い》なことを承ります、王子様は東征大将軍、全軍は王子様の下で一致団結しているのです、王子様の身に万一のことがあれば軍は動きません、大和を発《た》つ時、やつかれが薬を勧めた時は服むと約束されました、約束に二言はございますまい、この通りです」
七掬脛は突然、蛙のように床に平伏し叩頭《こうとう》した。
「ええい、立て、分った、服むぞ、そちには吾も勝てぬ」
七掬脛は白湯を二つの器に入れ、薬を混ぜるとまず自分が服んだ。毒味である。
「どうか、一気にお服み下さい」
七掬脛は器を捧《ささ》げ持った。
「苦い薬であろう、そちの顔に書いてあるぞ」
吉備武彦、大伴武日、久米七掬脛、丹波猪喰《たんばのいぐい》、この四人は倭建が最も信頼している側近であり幹部だった。
渋面を作ったが倭建は一気に服み干した。
「国は変りましたが、これで水当りはございません、やつかれ安心致しました、やつかれは少し武彦殿に話がございます」
七掬脛は武彦の陣営に行った。
武彦は数|艘《そう》の小さな漁舟を徴発していた。海人《あま》の部下を集め、注意を与えている。
「おう七掬脛か、全く我等を馬鹿にしておる敵じゃ、海の戦には無知と舐《な》めているに違いない、今宵《こよい》は月夜だ、海辺なら敵の襲撃を捕捉《ほそく》できる」
武彦は意気|軒昂《けんこう》だった。
「のう、武彦、今おぬしは、敵は我等を馬鹿にしているといったが、どうも妙だな、王子様の武勇は東国中に鳴り響いている、それなのに何故《なぜ》、無謀な襲撃を行なおうとしているのか、ここの将は、そんなに阿呆《あほう》なのかな、吾にはそれが不思議でならない、水軍の戦に口をはさむのは気がとがめるが、変だと思わぬか?」
「それは敵がだな、我等が油断していると考えているからだ」
「何故我等が油断していると考えるのだろう、おそらく敵も、我等の軍には吉備水軍の長《おさ》、吉備武彦がいるぐらい知っているはずだ、それなのに昨日から船を浮かべている、攻撃するぞ、と知らせているようなものではないか、その辺りをどう判断している」
「岬の傍《そば》に碇泊《ていはく》しているし、我等があまり気にしないと舐めているのであろう」
武彦は海辺にいる部下の海人を呼んだ。
「二艘の舟に乗れ、一艘に四人、皆、櫂《かい》を取って漕《こ》ぐ、可能な限り敵の水軍の傍に近寄る、夜の海だ、発見できなければ戻れ、月と星に注意せよ、方角を誤るな」
「武彦将軍、残りの舟は?」
「岸に上げておけ、数艘で見張りなど無理じゃ」
武彦は突然、海での作戦を変更したようだった。
「七掬脛、おぬしは王子に旨《うま》い食事を与えたり、薬を服ませたりばかりしていると思っていたが、鋭いことも申すではないか、いわれてみると確かに妙だのう、夜襲なら船を岸に隠しておくはずだ、何故それに気がつかなかったのか、水軍の戦がないので、血が飢えていたのかもしれぬ、もしあの船団が見せかけのものだとすると……だから海の警備を敵の偵察に変えたのだ、王子に話そう」
食事のことなどいわれたが、別に不愉快ではなかった。武彦は如何《いか》にも武人らしい性格で、腹に一物を置かない。
「おぬしの良いところは、面子《メンツ》にこだわって、自分の意見に固執しないところだな」
「こいつ」
武彦は七掬脛の背を拳《こぶし》で叩いた。二人は熊襲《くまそ》との戦では共に戦い、同じ釜《かま》の飯を食べた仲である。
その頃、倭建はさっきまでの昂奮《こうふん》状態から脱していた。土を踏む感触が重く、不思議なほど冷静になっているのが自分でも分った。
敵の夜襲に備えての布陣だが、敵が何処《どこ》を狙《ねら》ってくるのかがはっきりしない。倭建が接収した宿泊所は村長《むらおさ》級のものだが狭い。倭建としては、何処にでも身軽に移れる。宿泊所にどの家を接収しようか、と迷った結果、海辺の近くの家にしたのである。
敵が、かりに倭建の宿泊所を知り、そこを狙ったとしても、大軍でなければ、簡単に移動できる。
となると敵は倭建がいない場所を攻撃することになる。無意味な夜襲だ。それに部下の兵だが、夜営の場所も昨日になって決めたばかりで、移動は簡単である。
もし倭建が水軍の夜襲に備え布陣をしたなら、敵は攻めやすい、だが軍を別の場所に移動させれば、夜襲の効果はない。うろうろしているところを隠れていた倭建軍の攻撃を受け大打撃を受ける危険性がある。そんな無謀な攻撃をかけてくるだろうか。
水軍の夜襲は間違いない、と断定するのは危ない。大将軍はもっと色々な角度から考えるべきではないか。
そんな時、武彦と七掬脛が戻ってきた。続いて大伴武日も顔をみせた。
「王子、七掬脛の意見には理があります、水軍の夜襲があるものと決めこむのはまずい、と思いなおしました」
「吾に何の薬を服ませたのか知らないが、吾も冷静になったぞ、吾の意見を申す」
倭建は自分の考えを述べた。
「ひょっとすると水軍は囮《おとり》かもしれぬ、その場合は、夜陰にまぎれ、北方から敵が襲ってくる可能性が多い、どうも我等は狭隘《きようあい》の地に野営をしてしまったようだ」
大伴武日は、水軍を無視して北上しようといい、武彦は今回の場合、倭建軍は数において優れているので、軍を二手に分け、北方と水軍とに備えるべきだと述べた。
「皆、それぞれが一理ある、ただ猪喰がまだ戻ってきていない、それによって王の都をはじめ、北方の動向もかなり掴《つか》める、七掬脛、何か意見があるか?」
「この地に入り込んでいる敵の間者を探すべきでしょう、夜襲ともなれば、敵としては我等の布陣状態を完全に掴まねばなりますまい、かなりの間者が入り、各地の民と連絡し合っているに違いありません、我等がこの家に集まっていることも、間者は知っていると考えて良いでしょう」
今宵の七掬脛はかなり冴《さ》えていた。
「敵はたいしたことがない、と思ってきたが、油断し過ぎていたかもしれぬぞ、弟橘媛にも神の意をうかがって貰《もら》う、大伴武日は自軍を率い、北方を警戒する、吾の命令があるまであまり進むな、この夜は出歩いている者があれば敵の間者と思え、吉備武彦は水軍に備えよ、布陣は武彦にまかせる」
倭建は警護隊長の高彦に命じた。
「弟橘媛の侍女に吾が神意をうかがいに参る旨を伝えよ」
高彦が走ったのを見て倭建は水を浴びた。四半刻《しはんとき》(三十分)後、倭建は木を組み合わせて造った弟橘媛の神殿に向った。
今の弟橘媛は巫女《みこ》王であり、倭建といえども軽々しく傍には寄れない。
神殿といっても小屋のようなものだが、一般の家と違って床が高い。適当な樹林の木を柱にし、雨風|除《よ》けの筵《むしろ》で覆い、板を屋根にしている。一日あれば、何処にでも造れる仮りの神殿である。
神殿には縄梯子《なわばしご》で上るのだが、侍女が地に蹲《うずくま》っていた。
「神意をうかがいに参った、媛には意が伝わっていると思うが……」
「王子様、お上り下さいとのことです」
倭建は軽々と縄梯子を上った。明りがないので中は真っ暗である。
「弟橘媛、吾じゃ、寒くはないか?」
「王子様、私《わ》は神に仕える身でございます、暑さ、寒さなど感じませぬ」
「それで安心した、早速、神の意をうかがいたい、吾は敵が攻めてこない限り、戦などするつもりはない、だが、この国の様子は妙じゃ、王は平和を望んでいるというが、どうも我等を攻撃してくるような気がしてならない、そこで神意を得たい、どの方面を守るべきか、攻めるべきか……」
「王子様、私も邪気を感じています、半刻ほど神殿の外でお待ち下さい、神が降りて下されば良いのですが……」
暗闇なので弟橘媛の顔は勿論《もちろん》、姿も見えなかった。倭建は縄梯子を下りた。
琴の音が聞えてきた。神意をうかがう際、侍女が琴を弾く。巫女の精神を統一し、神が降りやすいようにするためである。聞えるのは風の音だけである。時々、神殿を囲っている筵が風にあおられて戸を叩《たた》くような音を立てる。
倭建は高彦と共に神殿の周囲の警戒に当った。七掬脛がいったように、夜襲なら間者が大勢入り込んでいるはずだった。こちらの動きを細部まで掴んでいなければ、暗闇での攻撃は無理だからだ。
倭建軍の巫女王である弟橘媛も、間者の攻撃の的になる。間者は敵の状態を探るだけではない。重要人物を殺すのも使命である。
二十人ばかりの兵が警護に当っているが、神殿は林の中なので、完全な警護は無理である。
林の中に入り込んでしまえば、捜すのは不可能に近い。高彦が口笛を二度吹いた。暗闇の中から味方の口笛が三度返ってきた。口笛が合言葉になっている。
「三十歩ほどの場所だな、神殿近くに敵が潜んでいなければ、まだここまで間者は入り込んでいない、高彦、十歩離れよ、念のために調べてみよう」
「分りました」
倭建と高彦は十歩の間を保ちながら林の奥に入った。同じ速度で進むので、二人の間は常に十歩だ。数歩進み二人は止まる。二人の間は樹林が生えているが暗闇で見えない。だが二人はどの場所にいるか、見当がついている。倭建が指を鳴らすと二人は雑念を消す。まるで眼の前に向い合っているようにお互いの気を通じ合う。
かつて穂積内彦《ほづみのうちひこ》が警護隊長だった時、この方法で闇の中に潜む敵を何度も見つけたことがあった。
内彦が編み出した気の術である。内彦の縁戚《えんせき》者である高彦は内彦から伝授され、術を自分のものとしていた。
二人は神殿の北部を調べ東部にかかった。少しでも気持が緩むとお互いの気が通わない。一見簡単なようだが消耗度は激しい。
数歩ほど更に東に進んだ時である。倭建は直径半尺(一五センチ)ほどの木の傍に立ち、高彦の気を受けた。だが高彦の気配が伝わってこない。
倭建は呼吸を止め気を澄ました。獣ではないかと疑ったのだ。だが獣なら別な気が放たれる、それもない。
おそらく高彦も二人の間に何者かがいるのに気づいているに違いなかった。
雲に隠れていた月が現われ樹々を照らすが、光は林の中までさし込まない。
怪しい気配を感じたなら、二人のうち一人が行動し、一人は退路を塞《ふさ》ぐことになっていた。
行動を起こす者は何等かの合図を送る約束だ。口笛を吹くか、指を鳴らすか、また小石を投げる。
気づいていないのか、高彦の方からの合図がない。行動できない状態なのかもしれなかった。
よし行くか、と倭建は口を結んだ。十年も若返ったような感じである。そんな倭建を制すように木に小石が当る音がした。耳を澄ましていなければ聞えないほど微《かす》かな音だった。
倭建は刃の峯《みね》を指で押えて音を消し、刀を抜いた。高彦の気が伝わってきた。高彦は前に進んでいる。もし曲者《くせもの》がいたとしたなら、迫ってくる高彦に注意を向けているはずだ。
倭建は地に伏した。暗闇の場合は眼よりも耳の方が役に立つ。
落葉を踏む音がする。距離からいって高彦に違いない。それにも拘《かかわ》らず曲者が動く気配はなかった。迫ってくる高彦を待っているに違いない。一人なら不安はないが二人だとすると、高彦の身が危うい。
気の消し方から武術に優れた者ということが分る。
落ち着くのだ、焦るな、と自分にいい聞かせ、土の匂《にお》いを嗅《か》いだ。腹の底まで吸い込む。少しでも林に同化するためだった。同化の具合が深くなればなるほど曲者の動きを察知できる。
倭建は刀子《とうす》(小刀)を口に咥《くわ》えると、刀を左手に持ちなおして這《は》った。三歩ほど進むと耳を澄ました。
倭建が進んだことで曲者は高彦の行動に集中できなくなる。すでに高彦との距離は数歩に縮まっているにも拘らず曲者は動かなかった。
倭建は再び地に耳を当てた。
高彦も曲者を警戒し、立ち止まったようだ。倭建の鼻が獣らしい匂いを嗅いだ。七、八尺も離れていない。だが獣ときめつけるわけにはゆかない。これほどまでに気配を消せる獣に会ったことがないからだ。
倭建が身を起こした瞬間闇が動いた。何も見えないのに闇の塊が飛んでくるのが分った。刀子を投げ、刀を突き出し身を伏せた。刀を握った腕が重く痺《しび》れる。曲者は初めて呻《うめ》いた。何処を刺したのか倭建には分らなかった。刀を握りなおした時、予想もしない獣が倭建の顔面を襲った。刀で防ぐ余裕がなく、本能的に腕で払った。獣は軽かった。それが獣ではなく曲者が纏《まと》っていた毛皮であることに気づいたのは、傷を負った曲者が刀もろ共、頭から突っ込んできたからだった。
倭建は身を開き、つんのめる曲者を背後から斬った。曲者は初めて夜鳥に似た叫び声を放ち大きな音を立てて倒れた。
「王子様」
高彦が今一人の曲者を追っている。
「無理をするな、この闇じゃ」
曲者が林の奥に逃げ込んでいるのを知って、倭建は高彦を止めた。
「こっちに来い、林から引きずり出せ」
高彦はもう殆《ほとん》ど意識のない曲者の腕を掴んで引いた。
「王子様、恐ろしく身の軽い奴です、それに獣の皮を纏っていました。一人を逃したのはやつかれの未熟のせいです」
「なあに、未知の国じゃ、獣の鬼神のような曲者がいてもおかしくはない、だが毛皮を纏っていたところを見ると海人ではない、山人だのう」
尾張で弟橘媛を襲ったのも山人だと猪喰はいった。まさかとは思うが、その仲間かもしれない。遠淡海《とおつおうみ》軍の挙兵に呼応し、弟橘媛を襲ったのも仲間の可能性もあった。
絶えず弟橘媛をつけ狙っているとなると油断のできない相手である。
曲者を雑草の上に仰向けに横たえ、火打石で火を起こし枯れ枝を燃やした。
「高彦、曲者に意識があるなら少しでも口を割らせよ」
高彦は火の明りを曲者の顔に近づけた。
「何者だ、何処から来た?」
曲者は薄眼を開けたが殆ど反応がない。高彦はそんな曲者の顔に火を押しつけた。肌の焦げる匂いがして、曲者の身体が痙攣《けいれん》する。
「話せ、話せば苦しまずに黄泉《よみ》の国に行かせてやるぞ、尾張《おわり》の曲者の仲間か……」
曲者が泡を噴いたのを見て高彦は坐《すわ》り、曲者の口に耳を寄せた。曲者は何か告げようと口を開いたが息絶えた。
「残念です、もう少しで口を開くところでした」
舌打ちする高彦に倭建はいった。
「高彦、甘いぞ、この奴《やつこ》は喋《しやべ》るために口を開こうとしたのではない、そちに噛《か》みつくためじゃ」
「えっ、まさか」
高彦は本能的に耳に手をやった。
「そのような解釈もできるというわけだ、何《いず》れにしろ並の者ではない、これからは弟橘媛の警護を一層厳重にしよう、枯れ草をかけて焼いてやれ、己れの目的に生命をかけた、生きておれば敵だが死ねば土、勇敢な士じゃ」
高彦は薄《すすき》を切り集め死体を覆い火をつけた。異変に気づき警護兵が集まってくる。
「王子様だぞ、弟橘媛様を襲おうとした曲者を斃《たお》された、それぞれ警護の場につけ、何時曲者が現われるかもしれぬぞ」
高彦の叱咤《しつた》に警護兵は散った。
「これから神意をうかがうのだ、血を浴びた身では駄目じゃ、小川で身を浄《きよ》め、新しい衣服と取り換えよう」
倭建は林の傍を流れている小川に入った。
身体が凍りつくような冷たい水である。
高彦は倭建の衣服を抱えて闇を走る。高彦が戻るまで倭建は川水につかっていた。
高彦も川で身を浄めた。
神殿の前には槍《ほこ》を持った二人の侍女がいた。倭建を見て縄梯子への道を開けた。
倭建は仮り小屋に似た神殿に上った。板床がきしんだ。
「王子様、神託が下りましたが、解くのは難しゅうございます、旅の身、審神者《さにわ》がいません」
弟橘媛がいった審神者とは、神託の言葉が難解な時、平易な言葉に訳し伝える者のことだった。
「案ずるな、吾が審神者になり、神意を解こうぞ」
「では申します、幹は泣き東風に枝は荒れて騒ぎ、木は倒れようとしている、海に乱れはあれど、木を救わばおさまらん」
弟橘媛は琴を弾いていた侍女の長に、
「そうでしたね」
と確かめた。
「弟橘媛、神託は受けた、吾は間違いなく解して行動する故、安心せよ、旅は長い、充分休まれよ」
暗い部屋の奥に媛の白い顔が浮いているような気がする。倭建は近寄りたい自分を抑え神殿から降りた。
神託を解く鍵《かぎ》は、海に乱れはあれど、という表現である。海の乱れとは敵の水軍のことと判断してまず間違いはない。木を救わばおさまらん、というが、木とは何であろうか。東風に枝は荒れという言葉も気になる。あの曲者は東国から来た山人かもしれない。宮簀媛の母は廬原《いおはら》の山人と深い関係を持っている。それに倭建に最も反抗しているのは廬原王のようだ。東風が東の国のこととすると、廬原王あたりの勢いが遠淡海に及んで戦をはじめようとしている、と解けないことはない。
問題はやはり木ということになる。もし木が倭建ということになると、倭建が殺されようとしていると解けないこともない。
東国の暗殺者は、倭建をも狙っているのかどうか。どうも分りにくいが、木が大丈夫ならば水軍は自然におさまりそうだ。
倭建が神意をうかがったことは、武彦達も知っている。
倭建は将軍達を集め、神託を告げた。
「この地の乱れは東風にあおられた枝にある、多分枝とはこの国の王ないし王族にあるのではないか、木が何であるかは判然としないが、海の乱れ、つまりあの水軍は木さえしっかりしておれば自然におさまりそうじゃ、故に、あまり気にすることはない、吾も武彦も水軍に眼を奪われ過ぎた嫌いがある、油断はできぬが布陣の場所を変える、王の屋形がある北方に備えるべく北に移す、まだ月がある、武彦も武日も、北の丘陵地帯に兵を移せ、間もなく猪喰が戻ってくる、その報告を聴いた結果次第では、北に向けて進撃を開始するぞ、皆、疲れているだろうが、この一両日が大事なのだ」
「北への進撃、待っていました」
腕を鳴らしていた武日が、吠《ほ》えるように叫んだ。
武彦は海岸には十人ほどの連絡兵を配置したのみで、主力軍を北に移した。
二刻(四時間)ほどたち、北への布陣が始まりかけた頃、猪喰と犬牙《いぬきば》が戻ってきた。
二人は縄で縛った隊長らしい武人を連れていた。冑《かぶと》は鉄だが甲《よろい》は革である。右腕に巻いた布には血が滲《にじ》み、擲《なぐ》られたらしく顔は腫《は》れていた。
「王子様じゃ、頭が高い」
猪喰が縄を引っ張ると、さんざん痛めつけられていたらしい捕虜は、土人形のように崩れ落ちた。
「どうした?」
「王子様に申し上げます。やつかれが最初調べた時、遠淡海王は穏健派で、稚《わか》王子が抗戦派と申しましたが、それは間違いございませんでした、この奴《やつこ》は稚王子派の隊長ですが、奴が申すには、稚王子は武闘派の部下と語らい、宮室にいる王を監禁、王子様に刃向うべく兵を集め、現在、南進の準備を整えています、どうやら遠江の東の廬原王と稚王子は意を通じているらしく、廬原王の間者が参り、稚王子をそそのかした形跡がございます」
「うむ、神託の意が解けて来たぞ、それで水軍は?」
「はっ、水軍の長は王の味方ですが、王が監禁されたので、水軍を集め、今後の状況を窺《うかが》っているとのことです。ただ船の食糧は四、五日分なので、もし稚王子が勢いづけば、稚王子に味方せざるを得なくなることも考えられます」
「猪喰、よく白状させたぞ、神託とぴたりと合っている、神託の木は王で、枝は稚王子じゃ、よし、その捕虜が非を悔い吾に味方するなら、先導者となせ、怪しければ斬れ」
捕虜は大声をあげて命|乞《ご》いをした。倭建は捕虜の身を猪喰に預けることにした。
弟橘媛の神託と猪喰の報告が合ったことで、全軍は神が自分達に味方していることを知り、おおいに勇気づけられた。
倭建は主力軍を現在の神座《かみくら》から低い丘陵地帯に移動させた。
敵の捕虜の告白では、夜明けを待って敵は総攻撃をかけるらしい。幾ら地理に明るくても、夜の総攻撃は無理である。一部を捕捉《ほそく》しても、全軍を壊滅することは不可能だ。
矢張り眼で倭建軍の布陣状態を確認できる夜明けを待たねばならない。
捕虜の話が嘘でなければ、稚王子軍は夜明け前までに神座の北方に集結させるらしい。
一番大事なのは、倭建軍の移動を敵の間者に知られないことである。
倭建は囮《おとり》の数十人を残すことにした。囮軍の長は久米七掬脛に命じた。
「王子様、やつかれも戦いとうございます、このように胸が鳴ります」
七掬脛が両手を振ると、鞭《むち》で石を叩《たた》くような音がした。
「何だ、その音は?」
武彦が不思議そうに訊《き》いた。
「勿論《もちろん》、筋肉が鳴っている音じゃ」
七掬脛は昂然《こうぜん》として胸を叩いた。今度は皮を叩いたような鋭い音である。
倭建は、苦笑したかったが、七掬脛の気持も分らないではない。
「のう七掬脛よ、囮というのは斬り合う戦よりもずっと頭を使う、敵をあざむかなければならないからだ、そちの武勇は吾《われ》がよく知っている、それにも拘《かかわ》らず囮の長《おさ》に命じたのは、柔軟な頭が必要だからだ、作戦の長と思えば良いではないか」
倭建の諭すような説明に、憮然《ぶぜん》としていた七掬脛の表情がみるみる明るくなる。
「王子様、よく分りました、戦は勇むばかりでは勝てませぬ、頭が必要なのです」
七掬脛は、自分の頭を指差し、おぬし達とは違うぞ、といわんばかりに吉備武彦《きびのたけひこ》と大伴武日《おおとものたけひ》を見やり、にやりと笑った。
二人は仕方なく肩を竦《すく》める。
「そうじゃ、七掬脛よ、そちの料理の腕に勝る者はいない、今度の任務も同じじゃ、様々な味つけが必要だぞ」
倭建の言葉に七掬脛は叩頭《こうとう》した。料理の腕を褒められ、感激したようである。
「王子様、必ず御期待に添います、敵軍はやつかれがすべて引き受けましょう」
「おいおい、では我等はどうするのだ?」
武彦が口を尖《とが》らせた。
「丘の上で眺めておれば良い」
「こいつ、いわせておけば……」
「囮の長だ、口の達者なのも才能よ」
といって七掬脛は嬉《うれ》しそうに笑うのだった。
倭建は囮軍を残し、主力軍を率いて北に向った。捕虜の隊長と猪喰《いぐい》が夜道を先導した。猪喰は慎重の上にも慎重だった。捕虜の隊長が右といえば理由を訊き、犬牙《いぬきば》と部下をまず進ませ、敵兵がいたかどうかを探らせる。
もし敵軍が待ち構えている場所に案内されたなら、倭建軍は大打撃をこうむる。
「いいか、もし騙《だま》したならそちの眼玉をくりぬき、鼻を削《そ》ぎ、舌を抜いて殺すぞ、それだけではない、そちの妻や子を草の根を分けてでも探し出し、焼き殺す、分ったな」
猪喰は百歩ぐらい進むと捕虜の耳に口を寄せていう、その声は感情が籠《こも》らず刃物のようだ。口だけではない。猪喰は刀子《とうす》を抜き捕虜の頬に押しつける。
どのぐらい進んだろうか。捕虜は倭建軍を起伏のある野に連なっている丘に案内した。
「湖までの距離は?」
「約|四半里《しはんり》(一キロ)と少しでございます」
「四半里か、そちの軍は丘と湖の間を進むか、それとも丘を越えるか……」
捕虜の隊長は黙り込んだ。
猪喰は刀子で相手の頬を叩いた。
「何故黙った? 隠し事があるな」
「ご、ございません」
「では、何故|喋《しやべ》らぬ?」
「奴《やつこ》は、そこまで教えられていません」
「ふむ、本当かな」
「はっ、稚王子様は疑い深い方です、故に作戦に関しては口が固うございます」
猪喰は捕虜を犬牙に預け、倭建に報告した。
「夜明けまでに一|刻《とき》半(三時間)はあるのう、丘の高さは?」
「せいぜい五丈(一五メートル)から十丈ぐらいとのことです」
「捕虜を連れて参れ」
倭建は猪喰を介して丘の状態を訊いた。西から東の湖の方に連なっていた。
「敵を油断させるのが第一だ、我等が待ち構えていることは絶対知られてはならぬ」
丘陵の先には川が流れていた。
倭建は何処に布陣するかを考えた。敵軍がどの辺りまで来ているか偵察できる昼なら、地形上から丘に隠れ、敵が川を渡ったのを見届けて総攻撃をかける。奇襲でもあり、兵が多い倭建軍は圧倒的に有利であった。
当時の内海といって良い湖は今よりも広く、平野部は少ない。海に面した現在の平野部は、大半が山々の土砂が流れ、その堆積《たいせき》によってできた。
古代から陸の部分がオカと呼ばれているのも、平野部が殆《ほとん》どないせいである。
倭建は、軍を三隊に分けた。丘陵部と湖との間の狭い平地を武彦にまかせ、中央部の丘には武日の部隊を潜ませた。
倭建は自ら数十名を率い、武日軍の西部の台地に布陣した。
敵軍に発見されないように全員が身を隠した。
倭建は、武彦と武日に命じた。
「いいか、敵はまだ我等がここで待ち受けているとは知らない、故に敵が近づこうと通り過ぎようと、夜が明けていない以上、攻撃はしかけるな、暗闇では攻めても意味がない、驚いた敵が逃げれば追いかけても闇を相手にするだけじゃ、夜明けを待て、もし吾の命に背き、敵の影に怯《おび》え刀を抜く兵があれば、折角、ここで待っている全軍の利を損うことになる、そういう兵は死罪じゃ、吾の命令は徹底させろ」
「王子、万が一、敵に発見された場合は?」
と武日が訊いた。
「その者だけが戦う、他の兵は動かずに潜んでおれ、殺されても仕方がない、大事なのは我軍の存在を隠すことじゃ」
「王子、一人が見つかれば、敵は探索をはじめるでしょう」
「暗闇の中での探索は無駄じゃ、もし敵が松明《たいまつ》で探しはじめたなら仕方がない、攻めろ、その場合は合言葉を使う、ヤマトじゃ、相手がヤマトと答えなければ殺せ、他に何か質問はないか」
武彦が口を開いた。
「敵が我等に気づかずに通り過ぎても、追わないというわけですか」
「その通り、闇を追っても仕方あるまい、夜明けまで待って行け」
倭建は七掬脛と猪喰を呼び、周囲の枯れ草を切らせた。夜明けの戦に必要なのは視界だった。
倭建は、この戦に大勝したかった。まさに東国での戦だった。大勝すれば倭建の勇猛さは東国の隅々にまで行き渡る。各国の王達も倭建に畏怖《いふ》の念を抱く。当然反抗する者は少なくなる。
倭建はできるだけ戦はしたくなかった。兵は限られており増えることがない。戦をする度に消耗してゆく。それを喰《く》い止めるためにも大勝したい。
「王子様、吾も今一度敵軍の状況を調べとうございます、地理に詳しくともこの闇です、先軍は松明を燃やしながら進んでおりましょう」
「犬牙はじめ、部下が探っているであろう、まあのんびり待て、少し働き過ぎじゃ、疲れると勘が鈍るぞ」
「その通りじゃ、おぬしは殆ど眠っていないのじゃないか、少し眠れ」
七掬脛がいった。
「吾は大丈夫、歩きながらでも眠る」
「何だと、獣でも歩きながら眠る獣はおらぬぞ」
七掬脛は眼を剥《む》いた。
「それは冗談だが枝の上でも眠れる、ではちょっと休んでくる、王子様、失礼します」
猪喰は傍の松らしい木に猿のように登った。猪喰の姿が消えた。
「本当に猿じゃ、王子様、風邪に御注意下さい、高彦、蓑《みの》を」
警護隊長の穂積高彦は、部下が背負っていた倭建の蓑を二着運んだ。刈った枯れ草を積み、蓑を敷くと寝具になる。遠征には蓑が必要であり、蓑や食糧を運ぶ隊も従軍していた。
「七掬脛、兵達も休ませよ、ただ敵が何処まで迫っているか分らぬ、何時でも起きられるように」
この二日間、兵達はあまり睡眠を取っていなかった。
「この戦に大勝すれば存分に休める、隊長を通じて兵達にその旨を伝えよ」
七掬脛が隊長を集めている間に倭建は横になった。蓑をかけると引き込まれるように眠った。
一刻(二時間)ほど眠っただろうか、風の音で眼を覚ました。傍にいたはずの七掬脛がいない。
倭建は口笛を鳴らした。数歩ほど下にいた高彦が這《は》い上がってきた。
「久米七掬脛殿は、弟橘媛様の様子を見に行かれました」
「分った、油断せずに見張れ」
弟橘媛の一行は、倭建の後方百歩ほどのところで休んでいる。媛の警護兵だけではなく、倭建の警護兵も一部加わり、警護に当っていた。
皆、倭建を中心に一体となっている。兵達を早く大和に帰してやりたい、と思う。だがこの戦に勝っても長い旅は続く。
今頃、巻向宮《まきむくのみや》ではオシロワケ王が若い人と戯れているのではないか。
迫り来る冬を前に、倭建や兵士達が、どんな思いで戦場にいるのかなど考えてみたこともないに違いない。
げんに大和からの使者も食糧も送られてこない。東国での状況を探るぐらいの関心を抱いても良いのではないか。
それを思うと憤りが湧《わ》いてくる。
倭建は大和の王権の威厳を示すために戦っているのである。
ふと双子の兄、大碓《おおうす》王子の顔が浮かんだ。オシロワケ王に、兄王子を暗殺するように命じられたが、倭建は兄王子を逃した。美濃の武儀郡《むぎごおり》の首長となっているという。東国からの帰りに是非会って兄弟の絆《きずな》を確かめあいたくなった。
「倭建よ、大和に戻るのは危ういぞ、父王は五百城入彦《いほきのいりびこ》王子に王位を譲りたいのだ、おぬしは邪魔者だ、それに物部十千根《もののべのとちね》は自分の力を増すため、五百城入彦と共におぬしを殺そうと企《たくら》んでいる、戻るな」
「戻るなといわれても、東の国に吾の領土はない、吾は戻らざるを得ない」
「伊吹上《いぶきやま》一帯に根を張るのだ、兵を養い、吾とともに大和を攻めよう、我等兄弟が王者になっても誰も文句はいわないぞ、我等の母は皇后だからのう」
「王か……」
倭建は口に出して呟《つぶや》いた。大碓王子の眼が闇の洞の中から異様に光っている。オシロワケ王と五百城入彦王子を斃《たお》すことは可能かもしれない。だがその後は、大碓王子と倭建との戦いになる。
骨肉の兄弟の争いである。
「兄者、それだけはできぬ、吾は兄者とは争いたくない」
「それならおぬしが王になれ、吾が補佐する」
眼の洞の光が怪しく煌《きらめ》き、その光影は舐《な》めるようだ。
「それはできぬ、兄者が先に生まれた、その天命にさからうのは吾の性に合わぬ」
「天命か、相変らず甘いことをいっておるな、大和に戻っても間違いなく死だ、吾が申すことに従わねば流浪の王子となる、それでも構わぬと申すのか」
「流浪の王子か、それが天命ならばのう」
大碓王子が天をむいて哄笑《こうしよう》した。兄ではない。何時の間にか三人の顔に変っている。オシロワケ王、イホキノイリビコ王子、物部十千根、いやその後ろに女人の顔が見える、醜悪なほど太ったヤサカノイリビメである。
「倭建、ようやく分ったのか、そなたは初めから流浪の王子なのです、今頃気がついても遅い」
垂れた下顎《したあご》に涎《よだれ》がしたたり落ち、蜘蛛《くも》の糸のように垂れ下がっている。
「許せぬ、たとえ女人であろうと」
倭建は刀の柄《つか》に手をかけようとして眼が覚めた。冷や汗に身体が濡《ぬ》れていた。
さっき眼覚めたのに不覚にもまた眠っていたらしい。闇を分けるようにして暗い影が現われた。
「おう、猪喰か」
「王子様、敵は半里ほど北方の湖沿いを南下しています、この暗闇故、先の者が松明を燃やしているので、進み具合が手に取るように分る、と犬牙が申していました」
「暗闇が幸いしたか、丘越えはないのか?」
「もしあったとしても、小人数による攪乱《かくらん》部隊でございましょう、大部隊なら松明を燃やして参りましょう」
「よし、半里とすると早くて四半刻か、夜明けはあと一刻というところか」
「夜の長い季節、一刻ないし一刻半、でございましょう」
「敵は我等が待ち受けていることを知らない、湖沿いに進んでくる敵を通り過ごさせ、夜明けを待って背後から攻める、武彦の軍団じゃ、となると背後からだけ攻めていては効果が薄い、武日の軍で挟み打ちにするか、側面から攻めさせる」
「やつかれもその作戦が効果的だと……」
「よし、武日を呼べ、一里ほど南下させよう」
猪喰の報告に、いよいよ来たか、と武日は奮い立った。
「いいか、巻貝の合図で攻めるのだ、それまでは滾《たぎ》る血を抑えて待つ、敵が立ち直りかけたところを襲うのだ、勿論《もちろん》、吾も加わる」
「王子、それは……」
武日と猪喰が同時に口を開いた。
「吾は兵士達に武勇を示さねばならない、少し呆《ほう》け過ぎた、兵達の信頼を取り戻すにはそれ以外にないのだ、武日、軍を湖を望む高台に布陣させよ」
地から湧き出たような倭建の声に、忠告は無駄だと二人は唇を噛《か》んで叩頭《こうとう》した。
「王子、巻貝の合図がない間に、敵兵が敗走してきた場合は如何《いかが》いたしましょう」
「その場合は躊躇《ちゆうちよ》せずに攻め、一人も逃がすな、さあ行け」
倭建は高彦を呼び、部下に背負わせた甲冑《かつちゆう》を纏《まと》った。甲《よろい》は鋲留《びようど》めの短甲である、冑《かぶと》も鋲留めだが、まだ眉庇《まゆびさし》のついた恰好《かつこう》の良いものではない。
三尺近い長刀を腰に吊《つる》し、革の腰紐《こしひも》には一尺五寸の短刀を差した。更に短い刀子《とうす》(小刀)を数本腰紐に差す。
高彦も鉄の甲冑だが、警護兵は革甲である。兵士達は手に槍《ほこ》を持ち弓を肩にかける。
武彦軍だけを丘に残し、倭建と武日軍は南に移動した。弟橘媛も倭建軍に従う。
仮眠は悪夢を呼んだが、それだけにかえって倭建の神経は冴《さ》えていた。
流浪の王子ならそれでも良い。その力がどんなものかを見せてやろうという決意に、全身が闘志の塊になっていた。
倭建は武彦軍と武日軍の中間に布陣した。弟橘媛に警護兵をさいているので、総勢は三十人ほどである。
東の空が心なしか青みを帯び、湖面が陸の起伏と何とか区別できるようになった夜明け前、敵の先頭部隊が通り過ぎた。もう松明は消している。
部隊の総勢は数十人、殆《ほとん》どが槍を肩にしていた。おそらく主力部隊は二百人ぐらいに違いない。先頭部隊が闇に消えると主力部隊が現われた。
武彦軍の攻撃は行なわれていない。全軍が通り過ぎるのを待っているのであろう。
兵士達は何時でも矢を放てるように矢を弦につがえている。
倭建が待ち伏せている小丘の雑木林と敵の距離は約数十歩だ。やや東の青みが増し、湖面は黒い板のように見えた。陸地は黒い塊や起伏である。塊は林や丘である。敵兵は黒い影だった。
敵の全軍が通り過ぎたらしく、武彦軍が喚声と共に攻撃をはじめた。
倭建の前を通り過ぎようとしている敵兵は慌てふためき踵《きびす》を返した。
戦機は予《あらかじ》め計画していた通りにはやってこない。戦機が何時かを見極めるのが大将軍の眼力である。
倭建は高彦に、木立や枯れ薄《すすき》を利用し、できるだけ近寄るように命じた。
「慌てて戻る敵兵に、一斉に矢を射る、戦機は今じゃ」
倭建は刀を抜いた。敵兵との距離が三十歩ほどに縮まった時、貝を吹かせた。夜明けのしじまを破り貝の音は湖にも響き渡る。
突然の貝の音に敵兵は思わず立ち止まった。なかには向きを変えたり、蹲《うずくま》った者もいた。矢が一斉に放たれる。固定した的を射るようなものだ。一矢、二矢、三矢と続いた時、敵の一部が絶叫しながら攻め込んできた。
戦闘体形がなっていない。恐怖のあまり走ってくる犬のようである。槍を前にし突っ込んでくるが、身体は石のように硬くなっている。刀を振り翳《かざ》して現われた倭建を見てもすぐに向きを変えられない。
敵兵の二人は槍を倭建に向けるまでに首を刎《は》ねられた。薄闇に噴き出る血|飛沫《しぶき》は黒煙のようである。
倭建は面白いように自由自在に刀をふるった。猪喰や七掬脛も斬りまくっている。敵兵は武器を持って向っては来るが、木製の人形が意味なく動いているように見えた。多分、恐怖心で槍や刀を振りまわしているからに違いない。
突き出してくる槍が身体と共に強張《こわば》っているのだから、鋭さが全くない。槍の柄を斬ると、敵兵はつんのめってくる。斬ってくれ、といわんばかりである。
間もなく斬る敵兵がいなくなった。周囲は死屍《しし》累々で、重傷を負った兵達が泣き呻《うめ》いている。
北方と南方の喚声は、武彦軍と武日軍のものだ。大きな石を湖に放ったような音が絶え間なく聞えてくる。恐怖心のあまり逃げようと湖に身を投じているのだ。
「南に行くか、それとも北か……」
倭建は刀を鞘《さや》におさめて呟《つぶや》いた。
南北の喚声が近づいてくるのは、敵軍が押されているからだ。間もなく敗戦兵があちこちに逃亡しはじめる。
「王子様、一つだけ気になることがあります」
と猪喰が周囲に眼を光らせながらいった。
「弟橘媛か……」
「媛様の警護は充分だとは思いますが、丘越えの敵兵はいない、と決めつけるのも危険な気がします」
「それはそうだ、敵は我等の待ち伏せに気がつかないほど愚かとはいえ、これは我らの北上が速過ぎたからじゃ、丘越えの南下もあるぞ、よし、弟橘媛の陣に参ろう」
大勢が決した以上、大事なのは最後の守りだった。
倭建は急いで弟橘媛の陣に行った。媛は丘と丘との間に布陣していた。警護兵は南北の丘の上で見張っている。
弟橘媛は筵《むしろ》を斜めに張った即製の小屋の中にいた。小屋の周囲は槍を持った数人の女人兵が警護にあたっていた。
倭建は丘の上に立った。陽は東の空に顔を出していた。帯のような雲が陽に映えながらも黝々《くろぐろ》と浮いている。
丘も漸《ようや》く姿を現わしていた。闇の残りをその襞《ひだ》に潜ませながらも、陽を浴びた木立や枯れ草が微《かす》かに光って見えた。
「敵兵の姿はないようだな」
倭建の呟きに高彦が首を横に振り、弟橘媛を護《まも》っている部下を呼んだ。
「偵察は怠りないか」
「はっ、ただ今も数人の兵が北方の丘の先まで様子を探りに参っています」
「どの丘じゃ?」
「黝々とした木立に覆われた森のような丘のあたりです、もう四半刻もたてば報告に戻る予定です」
倭建は高彦にいった。
「湖沿いの軍と歩調を合わさなければ、小部隊の側面は価値がなくなるとすると、少し遅過ぎる、多分稚王子は全軍を進みやすい湖沿いに集めたのであろう」
「はあ、ただ油断はできませぬ」
「そうじゃ、ひょっとすると通り過ぎているかもしれぬ、だが側面軍は主力軍の大敗を知らない、おそらく気づくのはかなり南下してからであろう、降服するか、死を覚悟で都に戻るか……」
「媛様を狙うかもしれません」
その時、弟橘媛を護っている女人軍の隊長が、弟橘媛に神が降りた、と告げた。
「媛様の神託が告げられます」
「おう、すぐ参る」
倭建は媛が籠《こも》っている仮り小屋の傍に蹲った。
「媛、どのような神託だ?」
「今回は審神者《さにわ》は不必要でした、神の言葉を私が理解したのです、王者は王者の地を求めて進むべし、といわれました」
小屋の中は暗い。倭建は弟橘媛に憑《つ》いた神は、まだ小屋にいるような気がした。
「吾に、ここに留まるな、とおっしゃっているのだな、だが、弟橘媛よ、そなたの身が危ういのだ」
「神託でございます、もう王子様が異論なければ、私は王子様に従い、王者の地に参ります」
「王者の地か、となるとこの国の都ということになる」
倭建は決断した。武彦と武日軍は、敗走する敵軍を追い、都に向っているに違いなかった。この国の都は間もなく倭建軍に屈服する。となると都に君臨するのは、勝者の大将軍・倭建王子しかいない。
倭建は、弟橘媛と共に北上し、都に向うことを宣言した。
「警護の女人軍、男子軍、よく聞け、我軍は大勝したが、側面軍が媛を狙うかもしれぬ、一時も油断してはならぬぞ、七掬脛、そちも媛の警護に当るように」
四半刻(三十分)もたたないうちに弟橘媛は女人軍に護られて小屋から出た。
女人軍は一人一人が槍を持ち、輪になって媛を護衛した。媛の姿は女人軍に遮られ、外からは見えない。
男子軍が、女人軍の側面と後方を護った。
すでに完全に夜が明けていて、湖の中央部は朝陽に眩《まぶ》しく映えていた。
湖沿いの道には数え切れないほどの敵兵の死体が転がっている。
血塗《ちまみ》れで眼を剥《む》いている者もいれば、内臓がはみ出た者、腕や脚の裂けた者など、眼をそむけたくなるほど凄惨《せいさん》な死体ばかりだった。
人間の死に様は様々だが、このような姿にだけはなりたくない、と倭建は自分に呟いた。
この辺りの戦は終っているのか、凄惨な光景が信じられないほど静寂である。
「王子様、雁《かり》が飛んできています」
倭建の胸中を察したのか、猪喰が眼を北の空に向けた。湖岸沿いの山は、峻険《しゆんけん》な山々に連なっている。
語り部《べ》達が話す龍が棲《す》んでいそうな山々だった。
雁は数十羽もいた。三列に並んで飛んでいる。冬の間だけ南の国にいて、暖かくなると北の国へ戻る。広い海の彼方《かなた》にその国はあるといわれていた。
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智将の姿
倭建《やまとたける》は吉備武彦《きびのたけひこ》と大伴武日《おおとものたけひ》に使者を送り、敗走する敵を追って王の都を占領せよ、と命じた。
「かりに待ち伏せの敵兵がいたとしても小部隊じゃ、蹴散《けち》らして行け、都を占領したなら、敗走する敵は追うな、吾《われ》と弟橘媛《おとたちばなひめ》が到着するまで都を守れ」
戦には勢いがある。勢いを削《そ》ぐような作戦はたてたくなかった。
少し気になるのは敵が南下させたかもしれない側面部隊である。ただ、敵の主力軍の数から推測する限り、多くて数十人だった。
その程度なら、吾が自ら叩《たた》き伏せよう、と倭建は闘志をみなぎらせた。
弟橘媛を擁した倭建軍は丘を越えて進んだ。偵察隊が絶えず伏兵がいないかどうか前方を調べた。
都までは約二里(八キロ)である。さっきまで丘に響き渡っていた戦の喚声も遠のき、今にも消えそうだ。もうまともな戦は行なわれていない。武彦・武日軍は、ひたすら都に向って進撃しているようである。
弟橘媛を擁する倭建軍の兵士達は約五十人である。その中には倭建の警護兵も加わっており、武勇に優れた兵士ばかりだった。偵察隊の兵士が丹波猪喰《たんばのいぐい》が戻ってきたことを報告した。
「敵の捕虜を連れておられます」
「分った、気を緩めずに任務に励め」
厳しい声だが、倭建は親しい友が戻ってきたような喜びを覚えた。
猪喰は信頼する部下だが、倭建は何時《いつ》か、友人のような気持を抱いていた。猪喰になら、弱さや不安感を吐き出せるような気がする。
勿論《もちろん》、武彦や武日に対しても親愛の情は抱いている。
ただ、武彦は吉備国の王族であり、武日は大和王族の護衛軍の長《おさ》である。二人に対しあまり弱音は吐けない。
そこが二人と猪喰との違いだった。猪喰に対しては私的なことでも話せる。猪喰は、倭建以外の命令は受けない。だが武彦と武日は違う。もし、オシロワケ王から、大和に戻れという命令が来たなら、二人は悩むであろう。二人は、倭建の東征に将軍として随行するに際し、オシロワケ王の許可を得ているのだ。
倭建が王に要請したにせよ、将軍に任じたのはオシロワケ王だった。王はそれだけの権限を持っているのである。
勿論二人は、王の帰還命令をこばみ、倭建に従うと申し出るだろう。だが、倭建としては、二人を大和に戻さねばならない。二人の将来にかかわってくる大事である。二人を留めおいたなら、王に対する反乱ということになりかねなかった。
反乱か、と呟《つぶや》いて倭建は顔を横に振った。東国での緒戦の大勝を眼の前にしながら、倭建の顔が翳《かげ》る。
だが猪喰には、大和に戻れなどという命令は誰からも下らない。丹波の国を出た猪喰は自由人だった。
倭建が、猪喰に友情に通じる親愛感を抱くのもそのせいだった。
猪喰が倭建のそんな思いを、何処《どこ》まで感じているかは倭建にも分らなかった。
猪喰が連れてきた捕虜は冑《かぶと》こそ木製だが、甲《よろい》は鉄の短甲だった。何枚もの鉄板を革紐《かわひも》で結んだものである。細工は粗いが、当時、鉄の短甲を纏《まと》えるのは、かなりの地位の者である。
普通の兵士は、革甲ないし、木製の短甲だった。
捕虜は太腿《ふともも》に矢を受け、右手の二の腕を刀で斬られている。
「兵士が殺そうとしていたところを止め、連れて参りました」
と猪喰が苦笑した。猪喰は身軽に動けるように、鉄の短甲は纏っていない。軽い革甲である。
倭建は猪喰と共に灌木《かんぼく》の繁《しげ》みに入った。かなりの出血で、捕虜の顔は蒼白《そうはく》である。顔も血塗《ちまみ》れで、眼は空《うつ》ろだった。
猪喰は捕虜の髪を掴《つか》み顔を持ち上げると竹筒の水を飲ませた。捕虜は喉《のど》を鳴らして飲む。このような負傷者がまず求めるのは水だ。
猪喰が竹筒を離そうとすると捕虜は両手で掴んだ。猪喰は足で捕虜の傷口を思い切り蹴《け》り上げた。
「こいつは副将軍格です、別働隊については、かなり知っていると思います」
猪喰は、水が欲しければ喋《しやべ》るのだ、と捕虜の腹を蹴った。捕虜は呻《うめ》いて身体を二つに折る。
暫《しばら》く待って猪喰は竹筒を捕虜の顔の前につきつけた。捕虜が掴もうとすると、駄目じゃ、と上に上げる。三度ほど繰り返すと、
「み、水を下され、吾は詳しいことは存じませぬ」
捕虜は猪喰を拝んだ。
「詳しくなくても良い、隊長の性格、それに人数だ、まあ、隊長の性格が大事だのう、水は存分に飲ませてやる、話せ」
「もう、二口だけ、先に……」
「よし、二口だけだぞ」
捕虜が三口目を飲もうとした時猪喰は竹筒を取りあげた。捕虜は、生命に縋《すが》りつくような眼で竹筒を見た。
「話せ、隊長はどんな男子《おのこ》じゃ」
少し水を飲んだせいで、捕虜は僅《わず》かだが元気を取り戻した。水に対する執着のみで捕虜は話しはじめた。
別働隊の長は稚《わか》王子の従兄《いとこ》で三十代の将軍である。武術はさほどではないが、頭がよく新しいものを考案するのが好きな人物だった。獣を獲《と》る罠《わな》なども、たんに穴だけではなく、触れれば矢が飛ぶような仕掛けをつくったりした。
稚王子は勇猛だが頭の面では従兄にかなわないという。
「それで別働隊の隊長にしたのだな」
「そのようです」
「作戦家のようじゃ、我等をどう攻めるか、洩《も》らしていなかったか……」
「吾は知りません、嘘《うそ》ではない、水を下され」
「もう少し話せ」
「すべて話しました、水を」
猪喰が倭建を見たのは、捕虜をどうしようか、と訊《き》いたのである、この出血では、後、半刻《はんとき》(一時間)も持たないと倭建は見た。
倭建は何となく頷《うなず》き灌木《かんぼく》の群れを出た。
倭建が警戒した側面隊の隊長が、作戦家であるというのは、用心すべきである。
丘を進むのはまずそうである。幾ら偵察隊を出しても、完璧《かんぺき》に伏兵を発見するのは無理である。
倭建は味方が勝利を得た湖岸の道に出ることにした。
久米七掬脛《くめのななつかはぎ》も猪喰も賛成だった。
「隊長が作戦家とは面白い、我等が湖岸を行けば、丘で待ち伏せても役に立たない、我等の大勝利を隊長はすでに知っているだろう、とすると、弟橘媛を擁する我等を狙《ねら》って来るのは間違いない、どういう手で来るかな?」
「敵の居場所にもよりましょう、我等より南に行っていれば、我等に知られるのを覚悟で、湖岸沿いに攻めて参りそうです、丘を進めば我等に追いつきません、ただ、弟橘媛様の様子をうかがっていたとすると、この近くにいましょう、我等が湖岸に向う背後から攻撃してくる可能性が大です」
「稚王子は勇猛さに酔い我等を襲うべく南下した。だが、頭の良い従兄が、それをどう見たかだな、稚王子が思い通り軍を進めると見たなら、側面の丘を通って南下するだろう、もし我軍が稚王子軍を要撃し、そう簡単に南に進めない、と推測したなら、稚王子軍と絶えず接触するであろう、地理をよく知っているといっても闇夜《やみよ》だ、自分勝手な行動はするまい」
倭建は猪喰を見た。
「どう思う、猪喰」
「王子様のお考え通りでしょう、味方の完敗を知り、この近くで我等をうかがっているものと思われます」
「となると、敵は女人の多い弟橘媛を狙うだろう、巫女《みこ》を斃《たお》したとなると軍の士気もあがり、反撃の機会も生まれてくる、敗走兵も集まりやすい」
倭建は稚王子の従兄の胸中が読めるのが愉《たの》しかった。
どう考えてみても、それ以外の策は思いつかなかった。もしそれ以外の作戦があるとするなら、全員が死を覚悟して攻撃してくることだ。
だがそれは智将《ちしよう》の作戦とはいえない。それに稚王子軍の敗走ぶりから推測しても、敵兵に死を覚悟して戦う闘志はなかった。
弟橘媛に対する奇襲攻撃か、と倭建は丘を眺めた。
今、倭建がいる小丘の東は雑木林だった。林の東は高低のある|薄ケ原《すすきがはら》で湖の方に続いている。
「よし、見張りの兵を残し、全員雑木林に入れ、敵を誘《おび》き出す、七掬脛と猪喰には吾の策を告げる」
倭建の策を聴き、七掬脛は眼を剥《む》き、猪喰は叩頭《こうとう》した。
一行は雑木林に入った。
一刻(二時間)後、倭建軍は雑木林を出、湖岸に向った。
弟橘媛は意外にも一行の先頭にいた。輿《こし》に乗っているが巫女なので左右は麻布を張り顔は前方しか見えない。
媛の周囲を護っているのは侍女達である。
媛の警護兵は輿から数歩離れた左右を進んだ。一行が進んでいるのは湖岸沿いの薄ケ原である。湖に面した道には数人の兵士達がいた。
四半刻(三十分)ほどたっただろうか。右手の丘から四、五十人の敵兵が現われた。距離は二百歩ほどある。薄ケ原に最も近い丘だ。
倭建軍は待っていたように止まり、弓に矢をつがえる。
輿が地に下ろされた。
侍女達は刀子《とうす》を抜き、草叢《くさむら》に身を伏せた。
敵兵は倭建が睨《にら》んだ通り弟橘媛の輿めがけて突進してきた。
敵兵が三十歩ほどまで迫ってきた時、草叢に伏せた十数人の兵士が矢を放つ。混乱する敵に本隊の兵士達が矢を射た。
近くの大きな的を射るように矢は次々と突き刺さる。
「皆の者、倭建じゃ、吾の罠《わな》にかかりあがいている残敵を皆殺しにせよ」
地に下ろされた輿に立ったのは、意外にも倭建だった。敵兵の攻撃を知るや、女人の衣服を脱ぎ、短甲を纏《まと》い、冑《かぶと》をつけたのだ。刀を高々と振り翳《かざ》す倭建の勇姿に兵士達はどよめいた。
雑木林の中で弟橘媛を説得し、媛の代りに輿に乗ったことを殆《ほとん》どの兵士は知らなかった。
兵士達は勇気を倍加した。
倭建は敵兵の後方で、叫びながら刀を振っている武人を見た。甲冑《かつちゆう》を纏っているその様子から攻撃軍の隊長と見抜いた。
矢をかいくぐってくる敵兵もいる。
沸き立った自軍の流れを止めてはならない、と倭建は軍に叫んだ。
「敵を攻めよ、一人も逃すな」
倭建軍は喚声をあげながら攻撃に出た。
警護隊長、穂積高彦《ほづみのたかひこ》が倭建の前に立つ。
「高彦、見えるか、あの隊長が……」
「はっ、稚王子の従兄でございましょう」
「吾の警護兵は二人で充分じゃ、他の者を連れて敵の隊長を捕えよ、傷を負わせても構わぬが殺してはならぬ、生け捕りじゃ、行け」
「はっ、参ります」
高彦は部下達と共に走り出した。
幸い敵兵には矢を射る余裕がない。槍《ほこ》や刀でかかってきても、倭建にかなう者はいなかった。漸《ようや》く辿《たど》り着き、倭建に刃を向けても、藁《わら》のように斬られた。それでも、倭建に斬られる者は幸運である。殆どは倭建軍の矢に射られたり、兵士達の刀槍《とうそう》に斃《たお》れた。
倭建が輿に立ち、刀を振って以来、敵軍は攻めるよりも守りに転じている。崩れるのは呼吸を数える間であろう。
「久し振りじゃ、もっと斬りたい」
倭建は攻めてくる敵兵に、来い、と刀を振ったが近寄るまでに味方の兵の餌食《えじき》になる。
高彦と部下達は、敵軍を迂回《うかい》して薄ケ原を走った。生け捕りにするには隊長の背後に廻り、退路を遮断せねばならない。
智将だが武勇の士ではない。味方が崩れるよりも早く逃げ出すかもしれなかった。
「よし行け、側面からだ、殺すな」
高彦は部下達に隊長を襲うように命じると、自分は退路で待ち構えるべく懸命に走った。退路を知るには薄ケ原よりも丘の方が良い。
倭建の前の警護隊長だった穂積内彦《ほづみのうちひこ》は高彦の血縁者である。内彦の脚力は素晴らしく、彼と競走して勝つ者はいなかったと聞いている。
高彦は何時も内彦から、走れ、走れ、といわれてきた。猪喰にはかなわないが、脚には自信があった。それでも汗塗《あせまみ》れになり、息を切らしながら高台に上った。
敵兵はすでに崩れていた。ただ幸運にも甲冑姿の隊長は、崩れる自軍を喰《く》い止めようと、刀を振っている。
「逃げるな、攻めよ」
という隊長の悲痛な声が聞えてきそうである。
高彦は纏っていた短甲を脱ぎ、木の枝にかけた。数度深呼吸をすると再び走った。
高彦が隊長から三百歩ほど離れた丘の麓《ふもと》まで走った時、高彦の部下達が襲った。
隊長の護衛兵が懸命に立ち向う。隊長はこれまで、と逃げ出す。甲冑を纏っているので脚は遅い。
隊長が逃げ出したのを見て、護衛兵達も背を向けるか、高彦の部下達に斬られ、突かれる。
高彦は息を整えながらゆっくり動いた。重い短甲を脱いだので身は軽い。
どうやら隊長は丘の麓の雑木林に向っていた。身を隠すつもりなのだろう。高彦も側面から雑木林に入った。
案の定隊長は雑木林に入ったが、かなり眼が眩《くら》んでいるらしく、灌木《かんぼく》に足を取られてひっくり返った。
高彦は足元に注意して進んだ。僅《わず》かな距離だが、あまり走り慣れていないらしく隊長は疲労|困憊《こんぱい》していた。
やっと立ち上がったが、甲冑の重さに堪えられず脱ぎはじめた。
隊長が脱ぎ終えた時、高彦は数歩の距離に立っていた。
「おい」
刀を抜いて立っている高彦を見て、隊長は慌てて剣を持った。銅剣ではなく鉄刀らしい。
髭面《ひげづら》だが武勇の王族という感じではない。
「落ち着いて聴け、吾はおぬしを殺しに来たのではない、捕えに来たのだ、剣を抜けば斬る、降服せよ」
「吾が誰か知っているのか、稚王子の従兄にあたるコタリ王じゃ、全軍の副将軍だ」
恐怖心のせいか、その声は強張《こわば》っていて聞えにくい。
「知っているから斬らぬ、吾は東征大将軍、倭建王子様の警護隊長の穂積高彦だ、王子様の命令により捕えに来た、だが剣を抜けば仕方がない、斬らねばならぬ、おぬしの首を持参せねばならぬ」
「吾を捕えてどうする、皆の前で殺すのか?」
「それは王子様の胸中にある、まあ吾の考えでは、おぬしに色々とお訊《き》きになりたいのであろう」
「訊いた後、殺すに違いない」
殺さない、とはいえなかった。それにしても自分の身ばかりを案じるなど、卑劣な男子《おのこ》である。高彦は唾《つば》を吐きたい思いがした。
「これを見よ」
高彦は眼の前の小枝を切った。落ちるのを手で掴み放り上げる。落ちてくる木枝を、三つに切った。まさに眼にも止まらぬ早業だった。
コタリ王は神を見たような驚愕《きようがく》と恐怖の顔になった。
「コタリ王よ、おぬしが十人かかっても吾には勝てぬ、降服せよ」
高彦が傍に寄ったが、コタリ王は動けなかった。
「吾は反対した、だが稚王子はきかなかった」
「その件は王子様に話すが良い、おぬしも、もう知っているだろうが、稚王子の軍は全滅した、おぬしの逃げ場はない、降服するか、死ぬかだな、どうだ」
高彦が刀を振る、コタリ王の耳を斬り落しそうな傍である。王は怯《おび》えて首を縮めた。
「甲冑を纏いたい」
「それなら降服するのだな」
コタリ王が無言で頷《うなず》いた時、高彦を呼ぶ部下達の声が聞えた。
「おうここだ、隊長は降服したぞ」
と高彦は大声で叫んだ。
高彦達は捕虜になったコタリ王を連れ、陣営に戻った。
倭建の作戦に同意し、七掬脛に護られて湖岸沿いにいた弟橘媛もすでに戻っていた。
倭建の訊問《じんもん》に、コタリ王は稚王子が王を監禁し、主戦派と共に兵を動かした顛末《てんまつ》を語った。その際、水軍の長は稚王子に同調せず、船団を避難させたのである。
遠淡海《とおつおうみ》王が監禁されている場所はコタリ王も知っているので、都に同行すれば王を解放すると告げた。
「そちは稚王子派だな」
倭建はコタリ王を睨《にら》みつける。
「王子様、吾は稚王子と異なり、情報を集め、将来を見通す眼力をそなえています、熊襲《くまそ》を征討した倭建王子様の武勇はよく存じており、王子様に逆らうことの非を説きました、にも拘《かかわ》らず稚王子は生まれながらの荒い気性です、それに東国の廬原《いおはら》王の扇動に乗り、無謀な戦に走りました、吾は王子様に刃向う気持はございません」
「それは妙だな、別働隊の隊長に任じられ、吾を攻めたではないか」
「稚王子にさからうと、監禁どころか、殺される恐れがございました、仕方なく戦に加わりました、どうか、お許し下さい」
「廬原王の兵も、この戦に加わったのか」
「僅かではございますが、間者部隊が参りました、弟橘媛様を狙ったようです」
「不届きな奴だ、卑劣者め、何《いず》れ吾が討ち滅ぼそうぞ、これから都に参る、コタリ王、そちの命運は遠淡海王の手にまかせよう、王は吾に味方しようとして監禁されたのじゃ」
「お許し下さい、もっと稚王子を説得すべきでした」
「そちの説得に耳を傾ける王子ではあるまい、問題はそちが戦に加わり、吾と弟橘媛を狙ったことじゃ、とにかく、遠淡海王の意一つだ、ただし、監禁されている王が死んでおれば、そちは死罪じゃ」
「お許し下さい」
「見苦しいぞ、自分の行動に対する責任は自分が負うべきだ、それが男子だ、ましてそちは王族ではないか、吾はそちを智将《ちしよう》と思い、そちの作戦を読み、戦うのを愉《たの》しみにしたのだ、智将は確かに賢者でなければならぬが、断固とした信念も併せ持つ、それは生き方にも反映する、だがそちは何だ、信念もなければ胆《きも》もない、そちのような男子を相手に懸命に戦ったのかと思うと情けない、勝っても愉しくない」
喋《しやべ》っているうちに倭建は、このような男子に口を利いている自分自身に腹が立ってきた。
「虫め!!」
倭建はコタリ王を蹴飛《けと》ばすと転がった王の腹に足を乗せた。刀を抜き喉《のど》につきつける。
コタリ王は声が出ない。恐怖のあまり眼を剥《む》き泡を噴いている。
倭建がコタリ王を貫こうとした時、大きな咳払《せきばら》いが聞えた。
「何じゃ、七掬脛?」
「王子様の刀が穢《けが》れましょう、全く腑抜《ふぬ》けの王族ですが、その者は遠淡海王を裏切った男子です、もし王が無事救出されたなら、その者の身を王にゆだねては如何《いかが》でしょうか、王子様が返り血を浴びるほどの人物ではございません」
「まあな、確かに虫じゃ、吾が斬るまでもないであろう、遠淡海王に斬らせよう」
倭建は今一度蹴ると、刀を鞘《さや》におさめた。
都を制圧した武彦が迎えに来た。
稚王子は湖北に逃げたが、遠淡海王に忠誠を誓う部下達の案内で、武日軍が稚王子を追っているという。
遠淡海王も監禁されてはいたが、無事らしいと伝えた。
「よし、王を迎え、散った兵は都に戻るようにと触れよ、吾は戦は好まぬ、だが反抗する者は殺す、そう伝えよ、武彦、急使を出せ」
「はっ、ただちに」
倭建の一行は隊列を整え、堂々と都に迫った。コタリ王は縄で縛られ、引きずられるように歩いている。
間もなく都に着いた。王都といっても勿論《もちろん》城壁があるわけではない。方形の濠《ほり》で囲まれた約二千坪ほどのものである。
王や王族の屋形が中央にあり、その周囲には有力者の屋形があった。それらは高床式の建物である。濠内のあちこちには竪穴《たてあな》式の家があった。有力な農民の家だが竪穴式だった。農民といっても、非常時には兵士になる。
当時は戦に専念する職業的な兵士はいない。戦は滅多にないし、地方の王には大勢の専門兵士を養うだけの財力はない。
方形の濠の外にも幾つかの集落があった。湖の傍にあるのは海人《あま》の家である。
人口は数百人から千人だ。それが地方の王都である。
濠の内側は柵《さく》で囲まれている。柵には南北に門があり、陸橋が通じていた。門を守っているのは武日の兵士達だった。
倭建は二階建ての王の屋形に入った。女人達も皆逃げて人影はない。
弟橘媛を王妃の屋形に移した倭建は、遠淡海王の救出に全力を尽すように命じた。
無人の都にも王が戻れば民が戻る。
稚王子は兵士達に、倭建は残虐な鬼神の王子で、捕まれば全員が殺されると脅していたらしい。
兵士達が稚王子に従ったのは、そのせいらしかった。
夕方になって、遠淡海王が、十代の水下王子と共に救出されたことが伝えられた。王は感激し、都に向っているという。
「よし、勝利の宴《うたげ》じゃ、全兵士達を労《ねぎら》うぞ」
倭建の勝利宣言に、あちこちで歓声が沸き起こった。
屋形の周囲には十数個の篝火《かがりび》がたかれた。
王が水下王子と共に戻ってきた時はすでに夕闇が濃い。
倭建は正面の階段を上った縁に胡坐《あぐら》をかいて坐《すわ》った。階段の中段には武彦と武日が立つ。刀を帯びてはいるが甲胄《かつちゆう》は脱ぎ平服だった。
階段の下には筵《むしろ》が敷かれている。王や王子の席である。
篝火が王の席の左右で燃えていた。
王は両手を筵につき深々と叩頭《こうとう》した。篝火に照らし出された顔は赧《あか》いが、皺《しわ》をくっきりと浮き上がらせている。年齢は五十代前半といったところか。
倭建は会釈を返すと凜《りん》とした声でいった。
「遠淡海よ、王は温厚で平和を好むと聞いている、故に吾に対する戦には反対であったようだ、その点はおおいに認めよう、ただ、稚王子の反乱に対し為《な》す策を知らず、捕えられ監禁されたというのは王らしくない、王というのは王子をも含め、部下の心を把握しておかねばならない、たんに温厚な王というだけでは威厳がないぞ、その点をどう思う!?」
「倭建王子様に申し上げます、御|叱責《しつせき》の点は吾の油断のせいです、まさか、屋形内の吾を囲み連れ去るという暴挙に出るとは思ってもいませんでした、おっしゃる通り、王としての資格に欠けています、もし王子様の許可を得れば、水下王子に王位を譲り、吾は後見人になるつもりです」
「その件は後で話し合おう、王には人望があるとのことじゃ、その人望は王にとって大事な資格、若い王子では何かと揉《も》め事が絶えない、まあ無事に救出されて良かった、吾はおおいに喜んでいる、ところで捕虜にしたコタリ王は、稚王子に味方し、吾を攻めた、打ち首にしようと思ったが、考えるところがあり王にまかせることにした、今は小屋に監禁している、さあ、遠淡海に真の平和が訪れたことを祝って、宴を張ろう、王よ、今からでも遅くはない、屋形に仕える者を集めよ、皆、姿を消しているので宴も張れぬわい」
「王子様、御厚情は忘れませぬ、侍女を始め、料理や炊事の者達を大急ぎで集めます、一刻お待ち下さい」
「おう、今宵《こよい》は徹夜だ、ゆっくり待つぞ」
倭建は、莞爾《かんじ》として笑った。
王が約束した通り、大勢の侍女や炊事の者達が続々と屋形にもどった。皆、集落の外で身を隠していたという。
倭建は遠淡海王を屋形内に招じ入れ、共に酒を酌み交した。
王の話によると、稚王子は亡くなった第二妃が産んだ王子で、水下王子は第三妃の王子だった。王妃はまだ健在だが、産んだのは王女である。
弟橘媛は宴席には加わらず、侍女達と遅い夕餉《ゆうげ》を摂《と》った。
武彦と武日は、倭建と王を囲むように席の左右に坐る。七掬脛と、猪喰はやや下座である。
遠淡海王は意外にも、コタリ王の助命を懇願した。
「もしお許しを得れば、王族の地位を剥奪《はくだつ》し、部下として使いとうございます」
「王にまかせたのだ、吾への遠慮は無用じゃ」
王は倭建の眼に浮いた不快の念を見逃さなかった。
「確かに胆のない男子ですが、稚王子が吾を監禁するまでは、どちらかといえば戦に否定的でした、稚王子に脅されたのでしょう、それはそれとして、我国で、最も学識もあり、各国の情報に詳しい男子でございます」
「これからも政治に必要な人物と申すのだな」
「はあ、それと……」
王は周囲に気を遣ったのか口籠《くちごも》った。
「皆、吾の身内だ、遠慮せずに申せ」
「コタリ王の妻の一人は、久努《くぬ》国の王族の女人なのです、すでに五歳の子をもうけています、その関係もあり、久努王と親しく、更に東の素賀《すが》王とも親交がございます」
王が告げた内容は、倭建にとっては大きな収穫だった。
久努、素賀両王の動向は、今回の東征にとっての関門の一つだった。
両国の東には、現在の静岡市から焼津にかけて勢力を張る廬原王がいる。かなりの勢力で、東の毛野《けぬ》国と通じ、倭建に反抗していた。
久努、素賀の両王は、廬原王にあおられ、倭建と一戦を交える気配を示していた。
もし両王が倭建を友好的に迎えるとなると、廬原王の動揺は大きい。
「今回の戦で、王子様の武勇と、軍団の力は東国の諸国をおおいに震駭《しんがい》させたと思われます、コタリ王を使い、両王を味方にすれば、色々な点で王子様の重荷も軽くなると思われますが……」
「分った、つまり王の身柄は王にまかせよう、斬らなくて良かった」
それは倭建の素直な言葉だった。あの時、七掬脛が止めなければ、倭建はコタリ王を間違いなく殺していた。
倭建は数日間兵を休めることにした。
温厚な遠淡海王が再び王になったので、逃げていた農民が戻ってきた。
水軍も都に戻り、あらためて王に忠誠を誓った。
ただ王を監禁し、倭建に刃向った稚王子が逃亡した。
倭建としては、何が何でも稚王子を捕えなければならない。
遠淡海国の民も、稚王子の消息が不明だったなら、心から落ち着かない。
遠淡海王と部下達に命じて王子を捜索させた。
コタリ王は小屋に監禁されている。倭建と遠淡海王との間で罪を問わないことにしたが、すぐ許すと有難みを覚えない。死を覚悟させた後で恩赦にすれば、感激し、王への忠誠を誓う。
倭建は穂積高彦に命じて、小屋を厳重に守らせた。
時には小屋の前で剣と剣を合わせた。その度にコタリ王は、自分の首が飛ぶような気がして息を詰まらせるのだった。
その昼、倭建は王の屋形にコタリ王を連れてこさせた。
睡眠不足で眼が充血し、頬は削《そ》げ別人のようになったコタリ王は足を引きずって歩いた。
縄で縛られていないのが不思議らしく、時々|脛《すね》をさすったり足首を撫《な》でたりしていた。王の屋形では、一番高い座に倭建が坐《すわ》り、その両側に吉備武彦と大伴武日が坐っている。遠淡海王は中央の床にいた。
コタリ王は縁から部屋に入ったところに坐らされた。
遠淡海王とコタリ王の眼が合う。
「王よ、申し訳ありません」
コタリ王は床に顔を伏せた。
「コタリ王よ、顔を上げよ、王に詫《わ》びる前に、東征大将軍、倭建王子様にお詫びし、御|挨拶《あいさつ》するのじゃ」
遠淡海王は大声で叱咤《しつた》した。
コタリ王は、こんなに激しく厳しい王の声を初めて耳にした。まるで雷の鬼神がついたようである。
コタリ王は慌てて、上半身を床にすりつけんばかりにし、改めて詫びた。
倭建は無表情である、まるで蚊の鳴く音でも耳にしているような顔だった。
王と並んで坐っていた久米七掬脛が口を開いた。
「コタリ王よ、よく聴け、倭建王子様は、おぬしを打ち首にするとおっしゃったのだが、遠淡海王が、おぬしの罪を許していただきたいと王子様に懇願された、何度もじゃ、おぬしの才は情報を知るところにあるらしい、そこで倭建王子様は、おぬしを許すことにされた、ただし、条件がある、逃亡した稚王子の居場所を探し出すことじゃ、これに成功すれば、おぬしは王族として遠淡海王の補佐役に戻す、失敗すれば王族の地位も剥奪《はくだつ》し、小役人として王に仕えることになる、何《いず》れにせよ生命は助かったが、王族と小役人とでは、天と地ほど身分が違う、全力を尽し、捜索せよ、そのために三十人の兵を与える、ただおぬしの話を聴き、指揮を執るのは丹波猪喰じゃ」
「はっ、分りました、今からでも捜索にあたりましょう、丹波猪喰様は何れに?」
コタリ王の声に精気が甦《よみがえ》った。どうやら自信がありそうである。
「ここじゃ」
声はしたが姿は見えない。驚いて室内を眺め廻《まわ》したコタリ王は、横窓から覗《のぞ》いた猪喰の顔を見た。
愉快そうに倭建が笑った。
「猪喰は偵察隊の長じゃ、猿よりも身軽だ、それに人の心の中を見抜く眼は鬼神に似ておる、嘘《うそ》は無駄だぞ、嘘だと猪喰が知った途端、そちの首は胴から離れている」
猪喰の顔が消えた。
コタリ王は汗塗《あせまみ》れになっていた。
猪喰はコタリ王の屋形で、捜索について色々話し合った。
久努国に逃げたのではないか、という猪喰の質問に、その可能性はないでもない、とコタリ王は答えた。
コタリ王の表情が一瞬曇ったのを猪喰は見逃さなかった。
猪喰は刀の柄《つか》に手をかけた。
「嘘をついたな、首が胴から離れるぞ、さっきそう聴いたであろう」
「嘘はついておりません、妻の身が案じられたものでございますから」
「妻といえば、久努王族の娘のことか?」
「はい、天竜川の中流、根堅《ねがた》の地に住まわせております」
「うむ、その情報、早く知りたかったのう、おぬしは監禁されていたから話す暇はなかった、となると稚王子はおぬしの妻の屋形に行き、強引に連れ出し、久努国に逃げ込んでいるかも分らぬ、王族の娘を助け出したという口実ができるからのう」
「はあ、吾も不安に思いました」
「ただ我軍は総崩れになった稚王子軍を追い都に入り、湖北を押えた、稚王子は監禁した王を殺す暇もなかった、となると稚王子は人眼を忍んで動かねばならぬ、とにかく根堅の屋形に行ってみよう、距離は?」
「八里はございます」
根堅は現在の浜北森林公園の近くである。
猪喰はコタリ王と根堅に向ったが、コタリ王の部下十人に、引佐の山間にある村長《むらおさ》の家も捜索させた。
村長の娘は鄙《ひな》に稀《ま》れな美貌《びぼう》の女人で、戦が始まるまで、稚王子が寵愛《ちようあい》していた女人の一人である。ただ村長の娘といえば、妃《きさき》にするには身分が低い。屋形に住まわせるには他の妃からの抵抗もあり、都の北に屋形を建て、通っていた。
勿論《もちろん》、その屋形には、女人も稚王子もいない。
猪喰は犬牙《いぬきば》を捜索隊につけた。
「村長の娘を連れて逃亡しているかもしれぬぞ、村長に隠し事は許すな、稚王子が来たものという前提に立って行動せよ」
「分りました、参ります」
猪喰とコタリ王は途中で犬牙一行と別れ、根堅に向った。
根堅まで四刻(八時間)はかかる。晩秋の日は短い。
二里足らずでコタリ王は顎《あご》を出し喘《あえ》ぎはじめた。猪喰のように鍛えていないコタリ王は馬力がない。
猪喰は、倭建軍の中でも指折りの健脚だった。コタリ王がついて行けないのも無理はない。
「コタリ王、道案内人として、健脚の兵を二人借りる、王は後から来るのじゃ」
「まことに申し訳ありませぬ、学識には自信があるが……」
「そんなことはどうでも良い、部下に妃を稚王子に掠《さら》われる危険性があることを説明し、獣に負けぬ脚を持つ者を選ぶのじゃ」
数人の兵士が志願した。こういう時は自分の力を示したくなる。それに旨《うま》く行けば褒賞にありつく。
猪喰はそういう兵の気持を読んでいる。
「いいか、まず脚力で選ばれた者には、目の細かい上質の麻布をそれぞれ二着分ずつ与えるぞ、更に功績があった旨、遠淡海王にも報告する、出世の道が開けるわけじゃ、頑張れ」
猪喰の言葉に志願者が更に増えた。
「二百歩ほど先の丘の麓《ふもと》に枯れ木の群れが見えるであろう、吾はあの木に白い布を巻く、そち達はここからその木を叩《たた》いて戻るのだ、分ったのう、勝者は二人だ、さあ、吾が行けといえば走るのだ」
競走に参加した者は不思議そうに猪喰を見た。何時白い布を巻くのか、と不審の面持ちである。
猪喰は腰紐《こしひも》にはさんでいた布を示した。
「そち達と一緒に吾も走る、吾が一着なのは決まっている、だから吾が先にこの布を巻く、後から着いたそち達は、その木を叩くというわけだ、分ったか……」
返事はあったが少ない。
猪喰は内心ほくそ笑んだ。猪喰が予想した通り憤りを顔に出した者もいる。
「何かいうことはないか、遠慮せずに申せ」
背が低く顔の大きい若者が口を開いた。
「猪喰様が一着とは限らないと思います、皆、脚力に自信を持った者ばかりです」
「それは当然だ、吾が一着といわれて、腹が立たない方がおかしい、吾より先に着いた者がいれば、その者達には特別、布一着分を与える、吾の言葉に嘘はないぞ」
皆、呻《うめ》き声を洩《も》らした。なにくそと闘志を燃やした者も多い。
「さあ、構えよ」
猪喰は布をゆっくり振り回した。走れ、と命じて布を振ると脱兎《だつと》のように走り出す。猪喰は布を腰紐にはさむと自分も走った。兵士となった若者達は、農業、漁業、また狩猟に励んでいても走る訓練は受けていない。
その点猪喰は走り廻っている。
猪喰は足で地を蹴《け》った。三十歩ほどで若者達を追い抜き先頭に立った。
猪喰が目的地に着き、布を木枝に巻き終った時、先頭の若者との距離は二十歩近くあった。
「ここじゃ、遅いぞ」
猪喰は木を叩くと出発点に駈《か》け戻った。
先頭の若者は歯を喰《く》い縛って戻ると、よろけて小石につまずき倒れる。
二着の若者は数歩後から到着した。三着がそれに続く。四着以下は十数歩も遅れていた。猪喰は三着までの三人を道案内人として同行させることにした。
兵士達全員は、畏敬《いけい》の眼で猪喰を眺める。
選ばれた三人は、猪喰のためには死をもいとわないような顔になっていた。
「さあ行くぞ、日暮までには着きたい」
猪喰は先に出発した。
風は冬を思わせる冷たさだが三人は汗をかいていた。
陽が西の山の彼方《かなた》に沈み、闇が雑木林や山間に闇をつくる頃、猪喰達は根堅の集落に着いた。
二十戸足らずの小集落である。
久努の王族の娘・クヌ姫の屋形は農家よりも一段と高い場所に建っている。
高床式の建物である。
猪喰は枯れ草の急坂を這《は》い上り、屋形の様子を眺めた。二人の兵士らしい若者が話し合っている。侍女が水が入っている大きな壺《つぼ》を運んでいた。
夕餉《ゆうげ》はすでに終ったらしい。
兵士は二人共剣も槍《ほこ》も身につけていない。木の棒を持っている。
村の若者を警護の兵士として使っているようだった。
油断はできないが稚王子が来ている様子はない。
猪喰は道案内にした三人に、暫《しばら》く枯れ草に潜んでいるように命じ屋形の裏側に廻った。
二人の侍女が夕餉の器を洗っている。まだ十代の後半である。ふっくらとした頬が赧《あか》いのが印象的だ。
猪喰は音をたてずに近づいた。
何時の間にか傍《そば》に立っている猪喰を見て一人は腰を落し、一人は悲鳴をあげようとして猪喰に口を塞《ふさ》がれた。胸の膨らみが動悸《どうき》で破裂しそうになっている。
「コタリ王に頼まれて来た、味方だ、安心せよ、分ったか……」
口を塞がれた侍女は頷《うなず》く余裕もない。柔らかな身体が硬直している。
「味方だ、声をたてるな」
猪喰はゆっくり手を離した。
「坐《すわ》っていないで立つんだ」
猪喰がもう一人の侍女にいうと、彼女は白い太腿《ふともも》を剥《む》き出した衣服の裾《すそ》を慌てて合わせる。
「戦があったのは知っているか?」
「はい」
「敵は来たか?」
侍女は恐ろしそうに首を横に振る。
「吾はコタリ王の意を伝えに参った、コタリ王は間もなく来る、安心せよ、コタリ王の妻は無事だな?」
侍女が頷いたのを見て猪喰は合図の指笛を鳴らした。
三人の兵士は、警護の兵を取り囲み、コタリ王の使者である旨を告げた。
警護の兵は怯《おび》えながら納得した。
猪喰は三人に屋形の周囲を見張らせた。稚王子が生きていたなら必ず来る、と猪喰は確信していた。
コタリ王の妻は二十代の前半で、子を産んではいるが二十歳前に見える。眉《まゆ》は濃く長い、眼窩《がんか》はやや窪《くぼ》み、瞳《ひとみ》が大きい。なかなかの美貌だった。
幸い気性が勝っていて、疑問があると猪喰に反問する。
「何故、稚王子が来ると確信しているのですか」
「稚王子の逃げる場所は久努国しかない、それには手土産が必要だ、そなたが遠淡海王に生命を狙われているので連れてきた、と久努国の実家にいえば、立派な手土産になる」
「分りました、私はどうすれば……」
「この家にいれば良い、稚王子が来るとすれば今宵《こよい》、今宵さえ無事に過ぎたならもう来ない、来ても遅いことを知っているであろう」
「分りました、普通にしておれば良いのですね」
「その通りじゃ」
度胸も据わっており、判断力も優れている、コタリ王には勿体《もつたい》ない妻のようである。
おそらくコタリ王の一行は一刻(二時間)は遅れて到着するに違いなかった。
猪喰は、コタリ王が到着するまでに稚王子が現われることを望んだ。
コタリ王が来れば、騒々しくなり稚王子は警戒して襲ってこない。それにしても、敗戦以来、稚王子は何故、すぐにコタリ王の妻を掠《さら》わなかったのか。
考えられるのは、寵愛しているという若い女人の家だった。稚王子はおそらくそこに身を寄せ、女人を連れて何処かに潜んだのであろう。
そのため無駄な日を喰《く》ってしまったに違いない。犬牙達が女人の家に向っているが、今はもうその家にはいまい。こちらに向っているに違いなかった。
ただこれはすべて猪喰の嗅覚《きゆうかく》であり想像である。こういう場合、殆《ほとん》どはずれないが、たまにはずれることもあるのだ。
猪喰は獣のように鼻孔を拡げながら闇の中を這うようにして警戒に当った。
三人の兵士には屋形のすぐ傍を守らせていた。うかつに歩き廻られては、傍まで来ているかもしれない稚王子に気づかれてしまう。
猪喰は屋形から二百歩ほど離れた高台にいた。月明りの夜だが、数歩離れると人影は見えない。こういう場合は、耳が大事だ。
猪喰は掌《てのひら》大の木片を耳朶《じだ》の後ろにつけた。微《かす》かな音でも察知できるように猪喰が考案した補聴器である。これをつけると普通では聞えない音も捕捉《ほそく》できるのだ。
半刻ほどたった時、東方で草がすれ合うような音がした。獣の身体と枯れ葉がすれ合う音である。
音は断続的に聞えるが消えない。
ヒトだな、と猪喰は息を止めた。草の音は獣にしては雑である。
猪喰は音を頼りにゆっくり進んだ。間もなく足音も聞えてきた。
三、四人である。コタリ王達ではないと知り猪喰は安堵《あんど》の吐息を洩《も》らした。
猪喰にとって稚王子は獲物である。絶対捕えねばならない。
このような闇では、勝負は眼ではなく気と気との闘いになる。
刀を抜いた猪喰は大きな木の幹で気を殺し、近寄る敵を待った。道案内人となった三人を呼ぶつもりはない。忍び寄る曲者《くせもの》に悟られ、敵を逃がしてしまう。地理不案内の闇夜である。逃げられたなら捕えられるのは一名がせいぜいだった。
猪喰は足音から敵を三人と睨《にら》んだ。稚王子と直属の部下である。
猪喰は木を離れ足音を殺して後退した。可能なかぎり曲者を近づけた方が得である。猪喰の気を曲者はまだ嗅《か》ぎ取っていない。
猪喰は枯れ草の原まで退いた。
遠ざかっていた曲者の気がまた近づいてきた。
三人は一列になっている。前の二人の足音は低く、山を歩き慣れている者のようだった。一番後ろの曲者は足音が雑だった。下草を踏む場合も、左右の足音が異なっている。山を歩き慣れていない者に違いなかった。
もし三人の中に稚王子がいるとすれば雑な足音の持ち主である。前の二人は武術に優れた護衛兵であろう。
厚い雲が空を襲い、月も星も目立たない。
猪喰は枯れ草の中に蹲《うずくま》った。
足音は十歩ほどに迫っている。ただ曲者が方角を変えなければ、数歩ほど離れた場所を行きすぎる。
先頭の曲者が立ち止まった。釣られたように続く曲者も止まる。
「どうした、曲者か?」
一番後ろの曲者が掠《かす》れた声で訊《き》いた。
「曲者か、獣か……」
と先頭の曲者が声に出さずに呟《つぶや》くのを猪喰は感じた。
猪喰の気に気づいたのだ。
猪喰は息を止めた。左手には刀を、右手に刀子《とうす》(小刀)を握っている。
「どうしたのだ?」
また一番後ろの曲者が苛立《いらだ》って訊く。馬鹿な男子である。自分の居場所を知らせているのと同じだ。
猪喰は全神経をその曲者に注いだ、掠れた声だが、先頭の曲者から数歩後である。
先頭の曲者は猪喰の気が消えたのに小首をかしげた。音もたてずに消えたのは気持悪い。猪喰の気は再び戻らなかった。
猪喰は先頭の曲者を完全に無視することによって気を消した。
「右寄りに行く」
先頭が二番手の者に告げた。
「王子様、右に寄るそうです」
流石《さすが》に猪喰の鼓動が高鳴った。猪喰は俯《うつむ》き、ゆっくり息を土に吐いた。
先頭の曲者は気づかずに進みはじめた。
二番手が続く。王子と呼ばれた曲者も動いた。
猪喰は上半身を伸ばし、枯れ草から顔を出した。闇が動いている。しかも猪喰に背を向けて進んでいるのだ。
一番後ろの曲者こそ猪喰が狙っている獲物だった。襲ってくれ、といわんばかりである。
猪喰が背後二歩に近づいたにも拘《かかわ》らず、王子と呼ばれた曲者は気づかない。
猪喰は獣のように跳びつくと右脚の太腿《ふともも》を刀子で突いた。
王子は闇を裂く悲鳴をあげて倒れ、刺された刀子を握りながら転がった。半尺(一五センチ)の刀身は柄元まで入っている。そうたやすくは抜けない。
先頭の曲者が刀を抜いて迫ってきた。二番手の曲者は王子の手を取り、逃げようとしている。
横に跳んで曲者の刀を避けた猪喰はそのまま十歩走った。
呻《うめ》いている王子の腕を肩に廻した曲者は走りはじめたが、速度は赤子以下である。何といっても王子は自分の足では歩くこともできない。重い王子の身体を引きずるようにして逃げようとしたが、灌木《かんぼく》に足を取られ転倒した。起きた曲者は喚《わめ》いている王子を放って走り出した。
先頭の曲者は忠節の武人らしく刀を構えて迫ってくる。荒い息の音が聞えた。
猪喰の呼吸は平静である。
息が荒いと普段どおりに刀を振れない。曲者は懸命に切り込んできたが、大振りだった。
「遅いぞ」
猪喰は刀を振りながら身を躱《かわ》した。切っ先が曲者の腹部を割った。闇の血を浴びながら突っ込んできた。
その咆哮《ほうこう》は悲鳴に似ている。猪喰は曲者の刀を刀身の背で叩《たた》き落した。曲者はつんのめるようにして倒れ、起き上がろうとしたが、猪喰に頸部《けいぶ》を貫かれ、くぐもった声を発して動かなくなった。
猪喰は這《は》いながら逃げていた王子の腹を蹴《け》った。
「稚王子か」
「無念じゃ」
「王を裏切り、戦をしかけた悪じゃ、何が無念か、当然の報いじゃ」
猪喰は稚王子の胸を蹴り動けなくすると両手で小刀の柄を握って抜いた。
刀身に肉が絡みつき、片手では到底抜けない。
稚王子は激痛に絶叫し失神した。
猪喰は倒れている曲者の上衣を剥《は》ぎ、帯状に裂くと、出血を止めるべく太腿を強く結んだ。
稚王子は、村長の娘を連れていなかった。
間もなくコタリ王が駆けつけ、妻の安全は確保された。
猪喰はコタリ王に稚王子の顔を確認させた。松明《たいまつ》に照らし出された王子は、激痛に顔を歪《ゆが》めながらも、眼を剥《む》いてコタリ王を睨みつけた。
コタリ王が降服したことを知っていた様子である。コタリ王は視線を逸《そ》らせたが、気を取り直していった。
「稚王子、父王に対するおぬしの裏切りはやはり許せぬ、故に吾は反省し、倭建王子様に投降したのじゃ」
稚王子が唾《つば》を吐きかけると、コタリ王も負けずに吐き返した。
猪喰は納得し自分に頷いた。コタリ王が視線を逸らせたままだったなら、遠淡海王の補佐役として留めおくことは不安だった。気の弱さは狡猾《こうかつ》に通じるからだ。
補佐役として不適任であると、倭建に申し出るつもりだった。
実際は、コタリ王の確認など要らないが、王がどのように対応するかを知るために会わせたのだ。
翌日、倭建は根堅から運ばれてきた稚王子を、都の広場の中央に横たえさせた。
「王子様、油断のできぬ曲者ですぞ」
地を這うような猪喰の声だった。どのように処罰するかは倭建の胸中にかかっているが、コタリ王のように赦《ゆる》してはなりませぬ、と猪喰の声は告げていた。
「おう、よく捕えた、大きな功績じゃ」
倭建は、猪喰に金銅の柄のついた刀子を与えた。
広場には倭建軍の将軍、隊長、遠淡海王を始め王族や有力者が集まった。
妻を伴い都に戻ったコタリ王も遠淡海王の傍に立った。
太腿を強く結んではいるが、出血は完全にとまらず、稚王子の顔は蒼白《そうはく》だった。
稚王子は筵《むしろ》もない地面に寝かされている。倭建は即製の台に立った。
刀の柄《つか》に手をかけた倭建は、湖や山に響きわたるような声でいった。
「死じゃ、本来なら王子の死は首を吊《つる》すのだが、そういう特典は与える必要がない、槍《ほこ》による死だ」
ざわめきがやみ、空気は緊張した状態に凍りつく。
「理由を申す、吾は父、オシロワケ王の命を受け倭《わ》列島の統一を望み、東国に来た、戦をするために来たのでも、国を奪いに来たのでもないことは前もって知らせてある、時代はこの数十年の間に変っている、騎馬集団を駆使して戦をする強国、高句麗《こうくり》は北の国より朝鮮半島に南下し、すでに楽浪、帯方両郡を併合し、百済《くだら》をうかがう勢いじゃ、もし高句麗が百済と新羅《しらぎ》を自分のものとすれば、何れ倭列島にも侵攻して参るやも知れぬ、故に、倭列島諸国は纏《まと》まって強い国をつくらねばならぬ、吾はそれを伝えに来たのじゃ、遠淡海王は吾の意をよく理解し、温かく迎えることにした、それにも拘らず、頭が悪く蛮勇を好む稚王子は、王の命に背き、王を監禁し、吾を撃とうと兵を向けた、それだけでも何度死んでも許せぬ罪だが、大勢の領民を戦死させた、田畑を耕し、山で狩る平和な日々を過ごす人々をだ、稚王子を愚か者といって済ますことはできぬ悪じゃ、分ったか」
倭建は大喝し辺りを睥睨《へいげい》する。
遠淡海国の王族や有力者は一斉に叩頭《こうとう》した。
倭建の言葉の一つ一つを胸に噛《か》み締める。
海外の情勢まで教えられ、眼を開いた者もいた。
倭建は猪喰の後ろに坐《すわ》っている大裂《おおさき》を呼んだ。
大裂は身をかがめて近寄り平伏する。
「大裂、そちが部下に命じ、稚王子に死の罰を下せ、槍で刺せ、ただちにじゃ」
稚王子は大裂の部下達によって、木の幹に縛りつけられた。
稚王子は、叫び声をあげる気力もなかった。二人の兵士が槍で稚王子の左右の胸を貫いた。
「王族の墓に葬ることはならぬ、山に穴を掘って埋めよ」
倭建は胸に穴が開いた稚王子の遺体を一瞥《いちべつ》すると、表情も変えずにいった。
倭建はこれからどう動くかについて、吉備武彦や大伴武日のみならず、遠淡海王や王族の意見も聴くことにした。
王の人柄から判断し、遠淡海国とその周辺で厳しい冬を過ごした方が良いのではないか、と倭建は考えていた。
倭建はコタリ王に、久努、素賀両国に使者を遣わし、戦をするために来たのではない主旨を徹底して伝えることを命じた。
「とくに久努国王には、稚王子が、そちの妻を奪いに来たことと、吾の部下が阻止し、妻の身を安泰《あんたい》にしたことを話せ、その際、猪喰は使者と同行し吾の意を伝える、刃向うなら稚王子を斃《たお》した時と同じように徹底的に戦うが、そうでない者には、海外の情勢や時の流れを告げ、大和の王族のもとに倭列島の諸国が纏《まと》まるようにと告げるだけじゃ、国を奪ったり戦をしに来たのではない、勘違いしてはならぬ」
「王子様のお気持、よく分ります、もしお許し願えれば、吾自らが参り、久努国王と素賀国王に会い、王子様の意をお伝えしましょう」
「そち自らが参ると申すのか……」
倭建は一瞬とまどった。
「王子様に生命を、猪喰殿に妻を救われた御恩は忘れませぬ」
倭建はコタリ王の眼を見て、何らの野心がないことを感じた。
コタリ王は情報に通じているが、それは時の流れを理解できる能力でもあった。
もしコタリ王の力により、素賀、久努両王が、倭建軍に対する敵意を放棄すれば、倭建の任務の大半は達成されたことになる。
倭建は、猪喰と大裂を同席させる条件で、コタリ王の願いを許可した。
行けば話し合いもあるしコタリ王が戻るのは一ケ月後ということになる。季節は冬に入る。
倭建は遠淡海国とその周辺で越冬することにした。
その決意を固めさせたのは、遠淡海王が水軍の提供を申し出たことも一因だった。
もし久努、素賀両国王が、倭建に恭順の意を示せば、陸路よりも海路で倭建軍を輸送できる。
ただ海路の場合は、春が来るのを待たねば船での輸送は無理だった。
「王子、未知の陸路よりも、海路の方が早く行けますぞ、春を待ちましょう」
吉備水軍の威力を知っている吉備武彦は、遠淡海王の提案に大賛成だった。
倭建は、弟橘媛に自分の意を告げ、
「媛よ、神の意は如何《いかが》であろう?」
と訊《き》いた。
それに対して弟橘媛はいった。
「これまでのところ、神の意は王子様の決意にあります、うかがいをたてる必要はございません」
多分、弟橘媛はこれまでの結果を見て、神が倭建についていると信じていたに違いなかった。
倭建は、オシロワケ王にも使者を遣わし、遠淡海国での成果と、同国で越冬することを報告することにした。
使者には大伴武日の従弟《いとこ》である大伴|弓手《ゆみて》を任じた。
無断で越冬すれば、疑い深いオシロワケ王の猜疑心《さいぎしん》を刺戟《しげき》することになるかもしれない。
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帰国命令
倭建《やまとたける》王子が遠淡海《とおつおうみ》を帰順させ、同国およびその周辺の人望を集めたことは、大和にも伝えられた。
オシロワケ王(景行帝)をはじめ重臣達は、今更のように倭建の偉大な力を知った。
オシロワケ王とヤサカノイリビメの危惧《きぐ》の念はますます深くなった。もし倭建が、東国の兵を集め大和に攻めて来たなら、大和の王権は危うくなる恐れがあった。
倭《わ》列島の西部、現在の中国地方から九州島出身の女人を母に持つ王子の中には、倭建に好意を抱く者が多い。
トヨトワケ(豊戸別)王子、トヨクニワケ(豊国別)王子などがそうである。
トヨトワケ王子は豊国(現在の福岡県西部と大分県)系で、トヨクニワケ王子は日向《ひゆうが》(大分県南部と宮崎県)系である。
吉備《きび》系の王子や王も倭建の味方だ。
皇后面《きさきづら》をしているヤサカノイリビメは、稚足彦《わかたらしひこ》王子(後の成務帝)と五百城入彦《いほきのいりびこ》王子を王位に即《つ》けるべく執念を燃やしているので、倭建を最も恐れ、憎んでいた。
ヤサカノイリビメが頼りにしている有力豪族は、物部十千根《もののべのとちね》だった。
物部氏は河内《かわち》と大和に勢力を張り、オシロワケ王の時代に軍事氏族として力をつけつつあった。
ヤサカノイリビメは物部十千根を宮に呼んだ。
ヤサカノイリビメは、皇后面をしているが、皇后ではない。
皇后は亡くなったハリマノイナビノオオイラツメ(播磨稲日大郎姫)である。いうまでもなく倭建の母であった。今は播磨の墳墓に眠っている。
「物部十千根はすでに存じておろう、倭建は大勝したらしいのう、戦の鬼神がついているのであろうか、誰と戦っても勝つ、それに人望を得ている」
あまりにも憎い王子じゃ、と口にせんばかりだった。稚足彦王子や五百城入彦王子は、倭建のように人望がない。当然である。遠くに赴き、まつろわぬ国々と一度も戦っていない。
五百城入彦王子の場合は、山背《やましろ》とか近江など、近隣の国々と揉《も》めるのを解決したことはあるが、戦の場で力をふるったことはなかった。
自然、倭建と二人の子を比較してしまう。
「なかなかやりますなあ、大勝したあげくに、遠淡海の湖の周辺で越冬するとのことです」
物部十千根は白いものが混じった鬚《ひげ》をしごいた。悠然としている。遠くにある高い山を眺めて愉《たの》しんでいるような眼だった。ただ妙なことに澄んでいない。策をめぐらせている狡猾《こうかつ》な光が宿っていた。
「ほう、そんな情報まで……」
「交易を装い、何人かの間者《かんじや》を尾張《おわり》と美濃《みの》に潜らせています。倭建王子が遠くに行けば行くほど入手できる情報も遅くなりますが、遠淡海あたりまでなら十五日もあれば充分です、故に、越冬は我等に幸いしました」
「ほう、どのように?」
「策は吾《われ》にまかせて下さい」
物部十千根は策を口にしなかったが、大伴武日《おおとものたけひ》軍を呼び戻すことを考えていた。武日が自軍を導いて大和に戻れば、倭建軍の戦力は大打撃をこうむる。纏《まと》まった兵力を持っているのは吉備武彦《きびのたけひこ》だけである。半減とまではいかないが、それに近い戦力に落ちる。
そのためには、呼び戻すに足る事件をつくらねばならなかった。
オシロワケ王は倭建を嫌っている。ただ、倭建を東征大将軍とした際、吉備武彦と大伴武日を副将軍に任じた。
いくらオシロワケ王でも、恣意《しい》的に呼び戻すわけにはゆかない。
物部十千根はトヨクニワケ王子に、謀反人の罪を被《き》せ、暗殺する計画を立てた。
何といってもオシロワケ王の王子で、倭建派である。倭建派の王族は動揺する。
反乱を未然に防ぐために大伴武日を呼び戻したい、といえばオシロワケ王は承諾する。
大伴氏は王家の親衛軍的な性格を持っていた。
物部十千根は早速宮に参上し、オシロワケ王に会った。
若い女人を溺愛《できあい》しているせいか、王はとみに衰えていた。眼のたるみが酷《ひど》い。王は海を渡ってきた朝鮮半島南部の人々の子や孫を集め、山野の薬草を煎《せん》じて毎日飲んでいた。すべて精力をつけるためだが、何処《どこ》まで効果があるかは疑問だった。
げんに老化が進んでいるところを見ると、あまり役に立っていないようである。
オシロワケ王は十千根が告げた尤《もつと》もらしい情報を単純に信じた。
「そうか、早速捕え、白状させよ、謀反は絶対許し難いぞ」
「それはなりません、何といっても王子です、徹底的に調べ、証拠を握ってからのことです、今捕えても白状されないでしょう、この件は吾にまかせていただけませんか」
「おう、すべて物部十千根にまかせる」
「有難うございます、ただしこの件は胸中に秘め、他言は禁物です」
「こんな大事、誰にも洩《も》らさぬ、ヤサカノイリビメにもだ」
「お願いします、もし洩れれば大和は戦の渦に変るかもしれません」
「戦の渦に……そんなにトヨクニワケ王子の味方は多いのか?」
「それを今から調査するところでございます、ただ王も御存知のように、王子は倭建王子派、他にも大勢おられます」
「そんなにいるか、何といっても母親は吉備だからのう」
オシロワケ王は、当時を思い出したのか、垂れた頬《ほお》をつまんだ。嫌がっている皇后の閨《ねや》に通った日々が脳裡《のうり》をよぎったのかもしれない。
物部十千根はトヨクニワケ王子暗殺の方法を練った。狩りに誘い出し殺すのも一手だ。相手は身の危険を感じて体《てい》よく断るかもしれない。
間者の報告によると、九州の海に面した豊国の血が流れているだけに、狩りよりも釣りが好きだという。
難波《なにわ》の海に近い河内の佐野(今の和泉)に別荘を持ち、女人を住まわせている。その別荘を訪れた日は、釣りに出ることもあるらしい。その辺りはチヌ(黒鯛《くろだい》)や鯛が釣れる。
物部の一族も大津に住んでいた。そんなに離れていない。
物部十千根は大津の長《おさ》に命じ、大鯛を釣るか手に入れて活《い》き魚にしてトヨクニワケ王子に賜るように命じた。
「釣れる場所に案内するといえば、必ず乗ってくる」
十千根の策を受けた物部大津は配下の海人《あま》に命じ、大鯛を釣らせた。二尺半(七五センチ)の大鯛が獲《と》れた。活きたまま運ぶには、海水を張った木箱を十箱ぐらい用意せねばならない。一箱の海水の酸素がなくなり魚が弱りはじめると新しい海水の箱に入れる。
現代のように酸素を補給する器具などない時代だが、魚も、海水に空気が溶けていないと呼吸ができずに死ぬことを当時の人々は知っていた。
冬は鯛など滅多に釣れないが、この季節に二尺半の大鯛は稀有《けう》の例である。
届けられたトヨクニワケ王子は驚嘆した。寒い季節なので春がくるまで釣りは諦《あきら》めていた。
トヨクニワケ王子は、物部大津に誘われるままに、大鯛を釣るべく佐野の別荘に行った。
物部大津から情報を得た十千根は、十人の兵に命じ、夜の間に別荘を取り囲んだ。何れも武術に優れた兵である。トヨクニワケの警護兵は数人だった。暗殺の計画が謀られていることをトヨクニワケ王子は知らなかった。
夜明け前、物部大津は海人と共にトヨクニワケ王子を迎えに行った。
当時の海釣りには竿《さお》などない。板に巻かれた錘《おもり》と餌《えさ》を海に落した後、釣り糸を指にかけ、魚のいるたなを探し、魚が喰《く》いつくのを待つ。魚信は糸から指に伝わる。今でも、竿のない平釣りは漁師の間でよく行なわれている。
トヨクニワケ王子が勇みたって、白い息を吐きながら海に向った時、暗殺団が王子を襲った。王子の警護兵は刀を帯びていたが殆《ほとん》ど応戦する間がなかった。
迎えに来た物部大津の一行は素早く姿を隠した。暗殺者にかかわっていることを知られたくなかったのである。
トヨクニワケ王子が刀を抜いた時、暗殺者の刀が王子の胸を貫いた。王子は本能的に間者の刀を右手で掴《つか》んだ。三本の指が飛び、一瞬、王子は指が焼けたような気がした。眼の前が白くなった後、深い闇《やみ》の谷に王子は落ちて行った。
暗殺者は王子を殺すと、残った警護兵にはかまわず遁走《とんそう》した。生き残った警護兵は追った者もいるが、突然の襲撃に狼狽《ろうばい》し脚も自由にならない有様である。
王子の死体を取り囲み、号泣するのみだった。トヨクニワケ王子暗殺の報が巻向宮《まきむくのみや》に伝えられるや、オシロワケ王は物部十千根に命じ、兵を動員し、宮を警護した。
十千根の間者達は四方に飛び、トヨクニワケ王子が謀反を企んでいたと流言《りゆうげん》を放った。
各地の王族や豪族は兵を集め、大和国および周辺諸国は戦に備える。
オシロワケ王は十千根の策を入れ、武日の弟、乎多《あだ》|※[#「低のつくり」、unicode6c10]《て》を使者として遠淡海に遣わした。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は十数人の部下と共に伊賀から伊勢に達し、陸路を通り尾張に到着した。海が荒れていたので海路を避けたのである。
鈴鹿の山々には雪が積り、寒風は厳しい。例年にない寒さで倭建が越冬したのも無理もない、と思った。
王の勅命を伝えねばならないと思うと気持が暗い。乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は倭建に直接仕えたことはないが、その武勇と聡明《そうめい》さに畏敬《いけい》の念を抱いていた。
兄の武日の倭建に対する忠節の念は変っていない。
オシロワケ王の勅命を伝えたからといって、軍を率いて大和に戻るとは考えられなかった。
尾張音彦《おわりのおとひこ》の説明によると、倭建の人望は東国の各地に響き渡り、反抗する賊軍は殆どいないであろう、ということだった。
遠淡海の東に続く久努《くぬ》と素賀《すが》の勢力も、最初は反抗的だったが、今は倭建を迎える方針に変ったという。
不明なのは更に東の廬原《いおはら》王だけで、廬原王が倭建を平和|裡《り》に迎えれば、海に面した東の国々はすべて大和の王権に対し、友好国となるに違いないという。
宮簀媛《みやすひめ》は挨拶《あいさつ》にも出なかった。倭建との恋愛以来、媛は鬱《うつ》病状態で自分の屋形に籠《こも》っていた。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は、媛の顔を見たかったが、病とあれば仕方がない。尾張音彦も媛の名前は口にしなかった。
トヨクニワケ王子が殺され、大和が緊張状態にあることは、流石《さすが》に音彦の耳に入っていなかった。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は、倭建王子の激励のために遣わされたと述べ、真実は話さないでおいた。
遠淡海から東は雪が降っていた。乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]達の一行は雪道を黙々《もくもく》と進む。ただ未知の国の道だが、交易の人々の足跡が、雪の下に道があることを知らせている。
冬になると、海が荒れるので、交易の旅人は、海路よりも陸路を選ぶことが多いのだ。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]達は雪|除《よ》けの蓑《みの》を頭から被《かぶ》り、一歩一歩、雪を踏み締めながら歩く。交易の旅人達は乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]の一行を見ると、枯れ草の原に入り、道を譲る。
弓や刀を身につけた一団を見、自分達と同じような旅人ではない、と身を退《ひ》くのである。
自分の脚に頼り、国から国へと旅をしている人々は、勘が鋭かった。それは身を守るための勘でもあった。
多分、自分では意識していないが、武人達は、殺気を放ちながら未知の国を歩いているに違いなかった。
遠淡海に入ると乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]の一行は倭建軍の見張りに発見された。
槍《ほこ》や弓矢を構えて近づいてくる見張りに、乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は、名を名乗り、倭建王子に会いに来た目的を告げ、大伴武日の弟であることを告げた。
見張りの隊長は詰問口調をあらためたが、まだ警戒心はゆるめない。自分の任務に徹した隊長だった。倭建の軍勢が何故強いかということが、その隊長の態度を見ただけでも納得できた。
見張りの隊長は乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]を倭建の屋形近くまで案内すると、部下を警護隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》のもとに走らせた。
報告を受けた高彦は驚いた。大伴乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]をよく知っている。年齢《とし》上だが血族の内彦とは親交があり、好感を抱いていた。
高彦は屋形にいる倭建に、乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]がオシロワケ王の使者として来たことを告げ、倭建の命令で乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]を迎えに行った。
「乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]殿、久し振りじゃ、何用か知らぬがよく参られた、懐しい顔に会えて嬉《うれ》しゅうございます」
「内彦殿が、無事に使命を果たすように、と申していたぞ」
「内彦殿も元気か?」
「ああ、この初冬、珍しく風邪を引いたが、今は回復した」
「何よりの知らせでございます、王子様もお待ちです」
高彦の案内で乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は倭建と会った。オシロワケ王の使者なので、倭建は屋形の縁に立って出迎えた。
倭建も、乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]が遠淡海までやってきた理由は推測しかねた。
これまでの戦に勝ち、倭建の武勇が東国に響いていることはオシロワケ王も知っているはずだった。普通なら励ましを込めた労《ねぎら》いの言葉を伝える使者を寄越しても良い。だが倭建は父王に好かれていない。そんな使者をわざわざ遣わす父王でないことを倭建はよく知っていた。
倭建が第一に考えたことは、大将軍の任を解かれることだった。遠淡海まで来たことで使命の大半は果たしている。この辺りで可愛がっている稚足彦王子か五百城入彦王子を大将軍にする可能性はあった。
勿論《もちろん》、確信はない。
倭建と視線を合わせた大伴乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は平伏する。叩頭《こうとう》したまま顔を上げない。肩が微《かす》かに怯《おび》えているのを倭建は見た。
倭建は、勅命の内容が自分にとって不快なものであるのを感じた。乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]がなかなか顔を上げない理由はその辺りにあった。
「遠慮するな、何を命じられても吾《われ》は平気だぞ、さあ中に入れ、遠路をよく参った」
倭建は中に入って乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]を待った。
遠淡海王が差し出した侍女代りの女人に酒を命じた。
弟橘媛《おとたちばなひめ》は妻というよりも巫女《みこ》として倭建に従っている。大和の時のように部屋を共にはできない。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は話そうとして顔を上げたが、口が開かない。顔が強張《こわば》り喉《のど》がつかえてしまっている。いや、強張っているのは身体全体だった。
「おい、どうしたのだ、酒など飲み、気を楽にして喋《しやべ》るか」
「王子様、大和は大変でございます、トヨクニワケ王子様が謀反をたくらみ、物部十千根殿に殺されました、オシロワケ王様は、軍を動員、宮の警護に当てられました、各地でも、大和の騒然とした動きに動揺し兵を集めている国もあるということでございます」
「トヨクニワケ王子が謀反をたくらんだと、何を申す、トヨクニワケ王子は、吾がよく知っている、いうまでもなく母方は九州の豊国だが、大和には謀反をたくらむような兵力はない、それに温厚な方じゃ、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だ」
「はっ」
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は再び叩頭した。膝《ひざ》の上の盃《さかずき》が慄《ふる》えていた。
「それでは王は、吾に戻れと申すのか?」
「王子様ではなく、兄大伴武日に……」
「武日だと、武日に戻れと」
「はい。大和を出た時の軍を率いて戻られるようにとの御命令です」
倭建は激情を抑えるように深く息を呑《の》み込んだ。
様々な思いが脳裡《のうり》を走った。武日が戻れば、倭建軍の主力は吉備武彦の軍と、倭建の警護兵を含め二百人足らずになってしまう。倭建が幾ら勇猛で智謀《ちぼう》の将だからといっても、戦をすれば苦戦はまぬがれない。
倭建はふと父王の意に疑惑を感じた。父王はひょっとすると、倭建の赫々《かつかく》たる武功に恐れをなしたのではないか。
大伴武日軍を戻すことで、倭建の力を削《そ》ごうというのが真の目的かもしれない。
自分に対する父王のこれまでの冷たい仕打ちが胸を突き刺した。
西征で強敵である熊襲《くまそ》と戦い、帰ってきたばかりなのに東征を命じられた。
吾に死ね、ということか、と父王を恨んだ時もあった。
「大伴乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]、吾が拒否すれば、そちはどうする、黙って戻るか、それとも吾を斬るか」
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は真《ま》っ赫《か》になった眼を倭建に向けた。
「どうして吾が王子様に刃を向けましょうや、大和に戻ります」
「というよりも、任務を果たせなかった罪を背負い、途中で自決するであろう、違うか?」
「それでは王子様に罪がかかります、吾は何とかいい繕《つくろ》います」
「いい繕うか、そんな弁明は通らぬぞ」
話しているうちに、激していた倭建の胸は次第におさまってきた。倭建が許さなければ、大伴武日が罪を問われる。
オシロワケ王の本心が何処にあるか、今の倭建は問う立場ではなかった。自分に忠節を尽してくれた武日のためにも父王の意に従わなければならない。
屋根の雪が落ちたらしく大きな音をたてた。住人の話では、この辺りでは珍しい大雪らしい。
「よく分ったぞ、大伴武日とその軍は大和に戻そう、猪喰《いぐい》を呼べ」
猪喰は越冬の間も四方に走り廻り情報を得ていた。猪喰は半刻(一時間)後に現われた。
「猪喰、そちは大伴武日が泊まっている屋形に参り、ただちに参るように伝えよ、急用があると申せ」
大伴武日は湖の東側にいた。三里(一二キロ)ほどの距離がある。東の国々の警戒に当っているのだ。
倭建は遠淡海王に、大伴乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]とその部下の泊まる部屋を用意するように命じた。
「大伴武日が参るのは夕餉《ゆうげ》になる、それまで休み、旅の疲れを癒《いや》せ、部下も休ませよ、武日が参ったなら呼ぶ、安心せよ」
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]を宿舎に向わせた後、倭建は久米七掬脛《くめのななつかはぎ》を呼び、弓矢を肩に戸外に出た。雪はやんでいるが野も山も雑木林も雪に覆われていた。雲間から出た陽の光に丘の雪が白銀のように輝く。雪のない湖が妙に暗かった。
「久し振りに兎でも獲《と》りたくなった、二人で参ろう」
久米七掬脛は、大伴乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]が来たことを知った時から、危惧《きぐ》の念を抱いていた。だが、倭建が話さない以上、自分の方から訊《き》けない。
王子が話したくなければ話さない方が良い。何れ話す時がくる、と七掬脛は思った。
雪を被《かぶ》った枯れ葉の小丘を行くと兎の足跡が見つかった。
「狐《きつね》や狸《たぬき》ではないであろう」
「まず兎です、あそこに糞《ふん》があります」
七掬脛は窪地《くぼち》にある糞を見つけて走り寄った。雪から笹《ささ》が覗《のぞ》いていた。
「間違いありません」
七掬脛は欠けた歯を見せた。ここ二、三年の間に前歯が欠けはじめていた。ただふとした拍子にそのせいか人の好さそうな顔になる。
「王子様、あの雑木林に続いています」
七掬脛は指で差した。
「いや、もうよい、小さな兎を追っても仕方がない、ここでもう休もう」
倭建は刀の鞘《さや》で雪を掻《か》いた。雪の下は枯れ草である。心なしか青いものも混じっていた。
「そちも坐《すわ》れ」
倭建は枯れ草に腰を下ろし脚を投げ出した。七掬脛は窪地の雪を掻いた。
「おい、糞の傍《そば》だぞ」
「かえって風情《ふぜい》があります」
七掬脛は糞の横に坐った。
「なるほどのう、そちは時々面白いことを申す、というより味がある」
「いや、恐れ入ります」
七掬脛は頭に手をやった。
倭建は暫《しばら》く雪景色を眺めていたが呟《つぶや》くようにいった。
「大伴乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]がオシロワケ王の命を伝えに参った、トヨクニワケ王子が謀反の罪で殺され、大和は騒然としている、大伴武日は軍を率いて戻れということだ、武日はどう申すかな、だが戻さねばならぬ、武日が拒否してもだ」
七掬脛の顔が酒を飲んだように一瞬|赧《あか》くなったがすぐ土色に変る。
「王子様」
「何も申すな、吾の運命にも味がついた、そんな感じだ、何も申すなというのに」
七掬脛は声を噛《か》み殺す。
「トヨクニワケ王子は謀反をたくらむような人物ではない、豊国には兵がいるが大和にはいない、どうして挙兵ができるのか、東の国々から戻ったなら必ず真相を調べる」
七掬脛は微《かす》かに首を横に振った。
それでは遅い、今から戻り調査すべきです、といいたかったに違いなかった。
「そちのいいたいことは分る、だが吾は更に東の国に征《ゆ》く、七掬脛、そちは吾を励ますのだ、今度の東征で、吾は弱い男子《おのこ》であることを知った、普通の男子なのだ、ただそれを知ったことで安心した面もある、泣くこともできるからだ、勿論《もちろん》、一人の時だが」
倭建は艶《つや》やかな絹綿にも似た雪の中に手を突っ込むと、雪をすくいあげて口に入れた。
オシロワケ王の仕打ちに対する憤りと悲しみを雪で凍らせているのかもしれない。
大伴武日が馳《は》せ参じたのは夜になってからだった。湖を舟で渡ってきたのである。
倭建の使者は武日の弟が来たことを知らせていなかった。
倭建は魚油の明りをつけ、武日と会い、乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]が、オシロワケ王の勅命を知らせるべく来た旨を告げた。
「吾が軍を率い、大和に戻るのですか、これからの王子の東征をオシロワケ王はどう考えておられる? 吾は拒否しますぞ」
「大伴武日、拒否はできぬ、吾は父王の命令を受けた、今、戻るように申しているのは吾だ、戻らないなら武日は吾の命令に従わないということになる」
「王子それは酷《ひど》うございます。乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]をここに呼んでいただきたい」
武日がこんなに激昂《げつこう》したのを、倭建は初めて見た。乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]が伝える命令を聞いたなら、武日は有無をもいわせず弟を斬り殺しそうだった。
倭建に呼ばれ乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]が現われた。
「おう兄者……」
「何が兄者だ、よくそんなくだらない命令を伝えに参ったのう、吾は戻らぬぞ、オシロワケ王にそうお伝えせよ、あの大伴武日は、倭建王子に仕える武人、王子以外の命令は、たとえ、オシロワケ王であっても諾《き》けぬとな」
「兄者、胸中は分ります、だがそれでは王子様が疑われますぞ、今の大和は謀反人に味方をしているのは誰か、で騒然としているのです、吾は断腸の思いで参りました」
「何が断腸だ、許さぬ」
倭建が感じた通り武日は刀の柄《つか》に手をかけた。
「待て、武日坐れ、そこに」
倭建は一喝した。
武日は自分が斬られたように呻《うめ》いて坐った。
「武日、もう一度命令する、そちは大和から率いてきた軍と共に大和に戻るのだ、分ったか、これが吾の命令だ」
「王子……」
武日は肩を慄《ふる》わせ嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。声が出ない、武日の声は床に伝わり楯《たて》が泣いた。慄えている武日の身体が板床をきしませたのであろう。
「武日、吾の命令に従わなければ、吾はそちを斬らねばならぬ、吾の刀をそちの血で染めよ、というのか」
「無念でござる」
「吾も無念だ、さあ、酒にしよう、武日も今夜は眠れまい、夜が明けるまで飲もう、吾も飲むぞ」
倭建は吉備武彦、久米七掬脛も呼んだ。丹波猪喰は東国の情報を知るべく久努《くぬ》国に行っていた。
武日は何時もの冷静さをかなぐり捨て、飲んでは拳《こぶし》で瞼《まぶた》を拭《ぬぐ》い、また飲んだ。
七掬脛も氏族に伝わる久米歌《くめうた》を歌い舞った。
一睡もせずに飲み明かした武日は、兵を集めるべく湖の東に渡った。
百人近い兵を率いてやってきたのは、武日の部下の河内長尾《かわちのながお》である。長尾は軍の隊長として活躍していた。
倭建が縁に出てみると長尾が平伏している。倭建は大喝した。
「どうしたのだ、武日は?」
「申し訳ありませぬ、武日様は高熱を発し、身動きもできぬ状態です、故に、吾が大伴軍を率い、乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]様と共に大和に戻ることになりました」
本当か、といおうとして倭建は口を閉じた。今、急いで真実を知ろうとするのは、武日のために良くない、と倭建は自分を抑えたのである。それだけ倭建の人間としての器は大きくなっていた。
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仮 病
季節は冬である。食に当って下痢をしたり、高熱を発するような病人はあまり出ない。
もし大伴武日《おおとものたけひ》が、実際にそういう病に罹《かか》ったとしたなら、風邪をこじらせた場合だった。
武日は今朝まで飲み明かしていた。風邪に罹っていたような気配は全くなかった。
仮病かも分らぬ、と倭建《やまとたける》が眉《まゆ》を寄せた。
大伴武日軍を率いて来た河内長尾《かわちのながお》を部屋に上げた。
「長尾、隠さず申せ、本当に病か、仮病ではないのか」
長尾は腕を床につき、叩頭《こうとう》した。腕にはかなりの力が籠《こも》っており、肘《ひじ》の部分がふくれ、慄《ふる》えていた。
「武日様は間違いなく病でございます、それはもう大変な下痢で、やつかれは、武日様の身を案じております、仮病ではございませぬ」
長尾は唇を噛《か》み締めた。血がしたたり落ちた。懸命に激情を抑えている。
「分った、今から吾は武日の見舞に参る、いずれにしても間もなく夜だ、出発は明日の早朝になろう、それまでに、病が治れば良いが……」
倭建は吉備武彦《きびのたけひこ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》と共に武日の屋形を訪れた。勿論《もちろん》、警護隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》は兵を率いて従う。
武日が泊まっているのは、遠淡海《とおつおうみ》王の一族が湖畔に建てた高床式の屋形である。高台にあり、三十歩ほど歩けば、湖の船着場に出る。
屋形の傍まで行った倭建は、武日の唸《うな》り声を耳にした。
「王子様、仮病とは見えませぬ」
七掬脛の言葉に、
「先入観は禁物じゃ」
倭建は叩《たた》き出すようにいって、足音も荒々しく階段を上がった。
戸を開けた途端、異様な匂いがした。煎《せん》じ薬と下痢の匂いが入り混じっている。
遠淡海王に命じられ武日に仕えている二人の侍女は縋《すが》りつくように倭建を見た。
「どうじゃ?」
「戻られて間もなく吐かれました、それから下痢が始まり、ずっと苦しまれています」
「武日、参ったぞ、どうした」
「おう、王子、やつかれは腹をいためました、申し訳ございません」
とぎれとぎれにいうと、唸《うな》り声を発した。驚いたことに眼の下に隈《くま》ができていた。頬もとがっている。朝の武日とは別人のようだった。
倭建は武日の額に手を当てた。確かに熱が出ている。
枕元には煎じ薬、裾《すそ》には下痢用の壺《つぼ》が置かれていた。異様な匂いはこの壺から出ている。
「何に当った、あれほど元気だったのに」
仮病に違いない、寝具を剥《は》ぎ取っても、大和に戻そう、となみなみならぬ決意を抱いて訪れたのである。
仮病ではない、と思うと途端に武日の下痢の症状が気になった。
「何といっても、東の国は未知の国、王子も御注意を、ああ、申し訳ございませぬ、また腸が絞《しぼ》られて参りました」
「うむ、外に出よう」
入口で覗《のぞ》いていた七掬脛が素早く寝具に近寄ると、枕元の壺を取って抱えた。
階段を下りてきた七掬脛に、
「どういうわけじゃ?」
と倭建は訊《き》いた。
「やつかれは、口に入るものには詳しゅうございます、一体、何を食べているのかと……」
七掬脛は煎じ薬の匂いを嗅《か》いでいたが、取り出した卵に垂らした。
「七掬脛、それは煎じ薬だぞ」
「そのようです、ただ山野の薬草が、すべて身体に効くとは限りません、薬の中には体内に入り、毒に変じるものがございます、もしそういう薬なら、やめさせねばなりますまい」
腹を下す音が聞えてきた。
吉備武彦が肩を竦《すく》めた。勇猛な武将も、こういう音には弱い。七掬脛は犬のように鼻孔を拡げて匂いを嗅いだ。
「水便の匂いじゃ、王子、下痢止めの煎じ薬を飲んでおれば、あとこれでこじれることはないと思われますが、下痢止めも効かないとなると……これは重症です」
七掬脛は食事のみならず、薬にも詳しかった。
「どうしたら良いのじゃ?」
倭建が不安気にいった。
「やつかれが薬を作りましょう、この下痢止めは身体に悪うございます、やつかれが侍女に、煎じ薬を与えるまで、白湯《さゆ》以外は与えてはならぬと申し渡します」
「何だか、毒でも入っていそうだな」
「調べれば分ります」
侍女が下痢の壺を持って下りてきた。
倭建はいったん戻ることにした。
「一体、何を飲んだというのであろう、それにしても容態が不安じゃ」
それとなく七掬脛の顔色を窺《うかが》った。もし死が迫っているのなら、七掬脛もこんなに悠長な態度ではおれないはずである。
倭建としては、七掬脛に頼る以外なかった。七掬脛は壺の煎じ薬を犬に飲ませた。犬も匂いがきついので飲まない。部下に命じて犬を仰向けに押えつけ、鼻孔を閉ざすと口を開ける。煎じ薬を椀《わん》一杯分流し込んだ。
犬が下痢に襲われたのは約半刻(一時間)後である。七掬脛の胸中を読んだ吉備武彦も一緒に見ていたが、
「七掬脛、そちが睨《にら》んだ通りだった、武日が飲んでいたのは下す方だったのか」
「普通の仮病では駄目だと思い、腹下しの薬を大量に飲んだのじゃ、今なら大丈夫、このまま続けたなら、身体中の水分が失せ、枯死する」
「王子に申し上げるか……」
「問題はそこじゃ、多分、王子様も今頃は気づいておられるであろうが、ただ、真相を申し上げれば、仮病ということになる、それでは、治った後は大和に行け、と命令されるであろう、王子様は、そういうお方だ」
「七掬脛よ、どう申し上げる」
「大伴武日殿の病は、王子様の傍に居残れば治るに違いありませぬ、と申し上げる」
「うむ、流石《さすが》は七掬脛、その診断には、おぬしの料理よりも優れた味があるぞ」
「吾の料理を小馬鹿にしたな」
二人は顔を見合わせると、愉快そうに笑った。
大伴武日の病状について、久米七掬脛から、報告を受けた倭建は、すべてを了解した。
七掬脛は口にしなかったが、武日は大和に戻りたくないために病になったのに違いなかった。
七掬脛が調べた煎じ薬が怪しかった。
「そうか、ここに居残ることが、武日の病を治す良薬というわけか……」
倭建はそれ以上は追及しなかった。武日の自分に対する忠節心が痛いほど伝わってきた。それはたんなる忠節心ではない。男子同士が求め合う親愛感も含まれていた。
それが倭建の胸を灼《や》くのだ。
オシロワケ王の命令に背いた以上、武日の前途は暗い。武日はそのことを充分承知していた。
「分った、武日をどうするかは吾が決めよう、大和に戻すにしても、今の状態では無理だがのう」
「武日殿は喜び、間もなく病も治りましょう」
七掬脛は嬉《うれ》し気に顔をほころばせた。
「早とちりするな、何時までも残留させるとは決めていないぞ」
倭建が苦笑すると、七掬脛は手で顔を叩《たた》いた。肩を竦め、何処《どこ》か猿のような顔になった。
「申し訳ございません、どうもやつかれにはそそっかしいところがございます」
そういいながらも、何とぞよろしく、と声を出さずに呟《つぶや》いて退《さ》がった。七掬脛の唇の動きで、彼が何をいったのか、大体想像がついた。
弟橘媛《おとたちばなひめ》ほどではないが、声にはならない言葉を、倭建はかなり読むことができた。
弟橘媛は完全な読む力を持っていた。媛が巫女《みこ》としての能力を認められたのも、そういう特技のせいである。
倭建は弟橘媛の意も聴こうと思った。何といっても事は重大だ。武日の将来だけではなく、自分の命運にも影響がある。武日を残留させれば、倭建が王の命令を無視した、と憤るに違いなかった。
このところ、戦が終ったせいで、弟橘媛の神託をあまり求めていない。
弟橘媛が巫女として従軍したので、夫婦でありながら、二人の寝所は別々である。
当時の慣習としては自然のことだが、大和での騒乱が本当かどうかは別として、オシロワケ王が、倭建の身について、案じていないのは間違いなかった。
遠い東の国にいる倭建軍から、大伴武日軍を呼び戻したなら、倭建軍は弱体化する。そんなことくらい、オシロワケ王は承知している。
父王よ、吾に死ね、とお考えなのか。
九州まで征《ゆ》き、大敵である熊襲《くまそ》軍を破り、戻ってくるや、今回の東征を命じられた時も、倭建は同じことを思った。
倭建は弟橘媛の屋形に行った。
侍女が倭建の来訪を伝えた。倭建は、絹布が垂らされた戸口まで近寄った。
王子といえども男子である以上、巫女と直接に話し合えない。
絹布を通した弟橘媛の顔は優しく見えた。童子時代に脳裡《のうり》に焼きついた母の顔に似ている。
「王子様、悩まれているようです、何事でしょうか?」
倭建は我に返った。弟橘媛の顔があった。
「おう、媛よ、そんなに顔に表われているか、今回は、吾一人では決断し難いのだ」
「昨日から屋形の外が騒々しゅうございます、何か異変かと案じていました」
弟橘媛は絹布に顔をつけるようにしていった。絹布を引き裂き、媛を思い切り抱きしめたかった。豊かな胸に顔を埋め、大声をあげたい。泣くのではない。やり切れない孤独感を叫びにしたかったのだ。
「王子様、侍女の長《おさ》を供にし、外に出ます、湖の傍ででも、悩みをお打ち明け下さい」
「媛よ、そちは巫女じゃ」
「王子様の妃《きさき》でもあります、絹布で顔を覆いましょう、素顔はみられませぬ、神もお怒りにはならない、と思います」
「分った、吾の後をついて参れ」
倭建は、警護隊長の穂積高彦一人を連れ、湖に通じる小道を進んだ。
弟橘媛も穂積氏の出だから、媛と高彦は血がつながっている。
媛は薄い絹布を前髪から垂らしていた。
残雪が凍りついている小道には、獣の足跡がついていた。鹿のようであった。
高彦が先を進み、小道を邪魔する枯れた灌木《かんぼく》や木の枝を刀で切った。それを合図のように小鳥が舞い、木の枝に止まる。
気のせいか、冬の季節は小鳥の動きも鈍い。湖に沿って小舟が進んでいる。漁舟ではなく交易の旅人を乗せた舟のようである。この季節でも、交易は行なわれている。
間もなく湖の近くの岩場に出た。高彦は枯れ草を集め、二人が坐《すわ》る場所を作った。湖を望む東側以外は枯れ草や木立が取り囲んでいるので、まともに風を受けることはない。
倭建は、この岩場に何度か来て湖を眺めた。不思議に気持が落ち着く場所である。
「媛よ、ここに坐れば良い」
媛は微笑み、一尺(三〇センチ)ほどの高さに積まれた枯れ草の上に正座した。
倭建も媛と並んで腰を下ろした。
「そなたの顔を覆っている絹布が邪魔だ、少しの間、はずせぬか?」
「王子様、私は神の声を聴かねばなりません、私《わ》もはずしとうございます」
「分っている、冗談じゃ」
二人の間は少し離れているが、倭建は媛の体温を感じた。媛は膝《ひざ》の上で両手を組んでいた。白絹のような指には鈍い艶《つや》が滲《にじ》んでいる。倭建は、その指を手に取り歯で噛《か》みたかった。荒々しい獣の気が体内に湧いてくる。
倭建は、倭姫《やまとひめ》王が守り刀として与えてくれた銅剣を握った。力を込めると、獣の気が薄れてゆく。心の何処かで、獣の気に身をゆだねたいという思いがする。
「王子様、悩みをお話し下さい」
「悩みなど、どうでも良いとふと思う、そなたと二人でおれるならのう」
「私も辛《つろ》うございます」
媛の声は湿っていた。媛にも獣の気が宿ったのだろうか。
大和を出て以来、二人は肌を合わせていない。
「これも運命か……」
「どうか早くお話し下さい、まだ王子様のお役に立ちます、ただこれ以上心が乱れれば、判断力が薄れます」
「そうだのう、吾は弱い、そなたより弱い」
風が湖の方から吹き、媛の絹布を剥《は》ぐように持ち上げた。媛は指先で絹布をはさみ、顔を覆いなおす。強い意志力である。
倭建は見えない手で顔を打たれたような気がした。
「オシロワケ王が使者を寄越した、大和に謀反が起きたようじゃ、警備のために、大伴武日とその軍を戻すように、とのことじゃ」
一気に話すと、武日が重病に罹《かか》り、動けない身になったことなどを説明した。
「東征軍には痛いが、武日軍は明日にでも戻すことにした、問題は武日じゃ、病に苦しみながらも、戻るのを拒否している様子、それで悩んでいる」
弟橘媛は眼を細め、湖を凝視《みつめ》た。雲が厚く、陽の光に映えない湖は鉛が蠢《うごめ》いているようである。ただ中央の一部が白い。雲の何処かからか、陽が差しているのかもしれなかった。
弟橘媛の視線は、そこに注がれていた。倭建もうかつに声をかけられない感じだった。
媛は自分に頷《うなず》き、倭建に微笑みかけた。
「王子様、神意がどこかは私にも分りませんが、こうされては如何《いかが》でしょうか、病が治った後、大伴武日殿が大和に戻らずこれまでのように王子様に仕えたなら、オシロワケ王様はやはり疑いましょう、故に、武日殿はいったん大和に戻る、戻るという意を大和に使者を遣わします、その後、暫《しばら》く消えたら如何でしょうか……」
「姿を隠すわけか?」
「そうです、春になり、王子様が東に進まれる頃、何処かの国で合流される、遠淡海王は全面的な信頼を王子様に寄せておられます、王に話され、二、三ケ月、武日殿を匿《かく》まっていただくのが最善と思います、神隠しにでも遭ったことにして、使者をオシロワケ王様に遣わされたなら、あまりお疑いにならないのではないでしょうか」
倭建は胸中で唸《うな》った。
大伴武日が、何時の間にか倭建軍に加わっていたとしても、オシロワケ王の耳に届くのは、数ケ月先である。その間に、王の猜疑心《さいぎしん》もかなり薄れるのではないか。
まさに優れた策だった。
「媛よ、良い策を与えてくれた、礼を申すぞ」
「私は王子様の妃です、礼などとおっしゃられると悲しくなります」
「うむ、礼は不必要だ」
倭建は膝《ひざ》に置かれた媛の手を握った。媛の身体が硬くなる。だが媛は握られたままでいた。
「その策は、そなたが考え出したものであろう、神意ではない、この瞬間のそなたは巫女《みこ》ではなく吾の妃だ、こう握っていても、神はお怒りにならないであろう」
「この瞬間だけです、もうお離し下さい、こんな状態でいれば、私は巫女には戻れませぬ」
「構わぬではないか、巫女をやめ、吾の妃に戻れば良い、さあ」
倭建の腕が媛の肩を抱こうとした。媛は首を横に振って王子の手を避けた。
「東の国々は、まだまだ多うございます、どうか、東征大将軍の任務を果たして下さい、私がいることによって、王子様の気持が乱れるのなら、私は、大伴武日軍と共に大和に戻りましょう」
「そなたは強い女人だ」
「いいえ、弱うございます、ただ、王子様と共に大和に戻りたい、その望みの故に堪《た》えているだけです、王子様に申し上げます」
弟橘媛は赧《あか》くなった眼で倭建を見た。
「何じゃ?」
「どうか伽《とぎ》の女人をお召し下さい、私に遠慮は無用です」
「伽の女人か……」
倭建はゆっくり立った。袴《はかま》についた枯れ草を払い落すと腰に手を当てた。
「まだ大丈夫だ、確かに男子の欲は熾烈《しれつ》だが時には煩《わずら》わしく思える、余計なことを案ずるな、今は煩わしい、さあ高彦、戻るぞ」
倭建は、湖に響き渡れ、とばかりに大声を出した。
大和に出発する前、オシロワケ王の使者となった乎多《あだ》|※[#「低のつくり」、unicode6c10]《て》は、見舞をかねて武日が病に臥《ふ》している屋形を訪れた。相変らず屋形内は異様な臭気に満ちていた。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は武日の弟である。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は武日が下痢薬を飲んだことを知らない。未知の国の風土病に罹《かか》り、兄は死ぬのではないか、と案じた。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は、
「兄上、大丈夫ですか?」
と何度もいったが、返ってくるのは唸《うな》り声だけである。
「吾は兄上の軍と共に大和に戻ります、一日も早く回復され、大和に来られることを念じています、では兄上、再会を愉《たの》しみに」
武日の病状を知ると、大声を出すのもはばかられた。
不安の思いに胸を痛めながら乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]は、武日軍の隊長・河内長尾と百人近い兵と共に倭建に別れを告げ、大和を去ったのである。
その頃、七掬脛は下痢止めの煎《せん》じ薬を作り、武日に飲ませていた。
去って行く大伴武日軍を見送る倭建の胸は複雑だった。
だが感慨にふけっている時はない。
倭建はただちに遠淡海王に会い、病が治った後の大伴武日を、暫くの間、人眼につかない場所に匿まって欲しいと頼んだ。
「色々と事情があるのだ、王よ、口にすることはできぬが分って欲しい」
「たやすいことでございます、本来なら、吾は自分の子によって生命を絶たれるところでした、少しでも王子様のお役に立てれば幸せです、何なりとおおせ下さい」
倭建は、絶対、人の口にのぼらないようにして欲しい旨を告げ、遠淡海王は誓約した。
七掬脛の煎じ薬が効き、下痢が止まったのは三日後である、だが、武日は衰弱し切っていた。
倭建は毎日のように武日を見舞った。身体に被《き》せられた鹿の毛皮は、武日には重たく、倭建が見舞っても、武日は起きられない。何とか顔を動かすのみである。
自分が見舞うことが、武日の重荷になりそうな気がした倭建は、病が治るまで見舞はやめることにした。
七掬脛が懸命に看病にあたっている。それで充分である。七掬脛は薬のみならず、病人を勇気づける人間味をそなえていた。そういう意味では名医だった。
武日が回復したのは、約十日後だった。倭建に病の完治を報告に来た武日は、身体がひとまわり小さくなったようだった。
乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]と武日の兵達は、すでに大和の近くにまで戻っているはずだ。
「身体が治ったのは何よりじゃ、今後どうするつもりだ、遠慮することはない、本音を申せ」
声は厳しいが倭建の眼は優しい。何とでもするぞ、といっている。
「吾は王子のお傍にいとうございます、故に、兵を戻しました、ただ、吾が残ったことにより、王子に御迷惑がかかるのではないか、と吾は案じています」
「分った、では吾が決めよう、構わぬな」
「勿論《もちろん》です、王子の御命令に従います」
一瞬、武日の顔が強張《こわば》った。処罰を受ける罪人の心境かもしれない。
「そちは遠淡海王が決めた隠れ家に行け、吾が軍が出発するまで身を潜めよ、病が癒えたそちは、大和に戻る途中に行方不明になった、神隠しにでも遭った、ということにしよう」
「神隠しですか……」
武日は驚いたように鼻をすすった。一体、どういうことか、と首を捻《ひね》っている。
「そうじゃ、その後、吾を追って参れ、駿河《するが》あたりで合流せよ」
「王子、では戻らずに……」
「そういうことじゃ、これは弟橘媛の策じゃ、吾と媛以外誰も知らぬ、吉備武彦も、七掬脛にも知らせぬ、分ったな」
「お気持、感謝の言葉が出ませぬ」
武日の眼が潤み、鼻汁が出た。
「その顔は何だ、さあ、明日にでも大和に向け出発せよ、遠淡海王の使者が隠れ家に案内する、武日よ、更に武術を磨き、狩や魚釣りを愉《たの》しめ、春が参るのはあっという間だ」
武日は指で鼻下をこすり、身体を慄《ふる》わせ、奇妙な声を洩《も》らした。感動を抑えた喜びの嗚咽《おえつ》であろうか。
翌日、武日は最も信頼のできる三人の部下を連れ、武彦や七掬脛に送られ、帰途についた。
自分の手足となって働く大裂《おおさき》と共に、丹波猪喰《たんばのいぐい》が遠淡海に戻ってきた。
大裂は山賊だったが、男子として猪喰に惚《ほ》れ、猪喰に仕えている。
長い間|素賀《すが》王、久努《くぬ》王の動静を調べていた猪喰は、大伴武日軍が大和に戻ったことを、初めて知った。
猪喰は顔を曇らせたが、その件については一言も口にせずに、両王について話した。
猪喰の報告は次のようなものだった。
遠淡海の王子の反乱と敗北により、遠淡海王が、全面的に倭建に服従し、協力を誓ったことは、倭建に反抗的だった両王の姿勢を変えた。
遠淡海王は両王に使者を遣わし、倭建王子は戦をするためではなく、海外の情勢を説き、大和王権を中心に、各国が団結するよう、説得すべく東国に来た旨を伝えたのである。
朝鮮半島の北の大国、高句麗《こうくり》は強力な騎馬軍団を擁《よう》し、新興国の新羅《しらぎ》と百済《くだら》両国を合併せんと計っている。朝鮮半島が高句麗に征服されたなら、倭《わ》列島も海が間にあるからといって安泰ではなくなる。北部九州の諸国は、朝鮮半島の騒乱に敏感で、緊張感が高まっている。
東の国々が、遠く離れているからといって、時の流れに鈍感であってはならない、と遠淡海王は説いた。
また倭建王子は、たんに勇猛というだけではなく叡知《えいち》の王子である旨をも伝えた。
素賀、久努の両王が、倭建を親しく迎える策を選んだのは、やはり遠淡海王の説得が効を奏したからである。
「ただ問題は、大井川の東の国でございます、廬原《いおはら》王の勢力下ですが、王は毛野《けぬ》国王と婚姻関係を持ち、大和への敵愾心《てきがいしん》が旺盛《おうせい》です、王子様と一戦を交えるべく、焼津から藤枝にかけて兵を集めている模様です」
猪喰の情報では、二百人程度だが、戦になれば四、五百人に増える可能性が大だった。大伴武日軍が去った今、倭建軍は四百人に足らない。
「大井川の西は、素賀王の勢力圏だな?」
「そうです、素賀、久努両王の兵力は期待できませんが、大井川を越える際、地形に詳しく、我軍にとっては有利となります、おそらく廬原王が、大井川沿いではなく、藤枝あたりを戦の場としているのも、我等が、何処から川を越えるか、分らないからでしょう」
猪喰は戦うのなら早い方が良い、と意見を加えた。敵の戦力が整わないうちに兵を進めるのは戦の常道である。
ただ猪喰は口にしなかったが、大伴武日軍が大和に戻ったことも、進撃を早める大きな理由だった。何故なら廬原王はそのことを知らない。もし知れば勇気づく。敵を勇気づかせてはならなかった。
倭建も、猪喰の胸中は読んでいた。
「よし、三日以内に東に向って進む、ただ陸路を通っていては駄目だ、情報が筒抜けになり、敵を利することになる、海じゃ」
海路を進むには、遠淡海王の水軍の協力が必要だった。
遠淡海王の水軍は、稚《わか》王子が王を監禁した際、王に忠実で、稚王子に反抗した。
そういう意味では遠淡海王の主力軍といっても良い。
倭建はただちに遠淡海王を呼んだ。
「王よ、大井川より東の勢力は、吾を力で阻止《そし》する構えらしい、吾は戦は好まぬが、敵対するのなら戦わざるを得ない、前から考えていたのだが、王の水軍を貸して貰《もら》えぬか、海を進み、大井川の西に上陸したい、その辺りなら素賀王の勢力圏内じゃ、吾は丹波猪喰を使者として素賀王に遣わす」
「王子様、吾も海路が良いと考えていました、ただ、まだ海が荒れやすい季節です、御前崎《おまえざき》の沖を通り、万一風に遭えば危険です、故に菊川の河口に上陸し、兵を纏《まと》め、廬原王と交渉されるのが良策と存じます」
「この辺りの海には不案内じゃ、王の進言を受け入れよう、どのくらいかかる?」
遠淡海王は布に地図を描いた。
海が穏やかなら二日で到着するが、荒れた場合は、三日になるか、五日かかるか、海次第だという。
当時の航海はそんなものである。
「王子様、百人程度なら兵をお出しします」
「王の気持、嬉《うれ》しく聴いた、考えておく」
稚王子が遠淡海王を監禁した際、都から遠く離れていた豪族の中には、王への忠誠を守った者がかなりいた。彼等は今、王に警護兵を出している。
王がいった百人とは、王の親衛軍でもあった。
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女人の内紛
早春、倭建《やまとたける》軍は東に向って進んだ。
遠淡海王は水軍を提供することを申し出たが、熟慮の結果、倭建は陸路を進むことにした。
少なくとも今回の東征の目的は、倭《わ》列島の統一を、独立を望む各国に説くと同時に、大和《やまと》王権の威光を示すことにあった。久努《くぬ》王と素賀《すが》王に会わなければならない。
大和王権に従わない国でも、相手が戦をいどまない限り、倭建の方から戦は仕かけない。初めから兵力は少ない。まして大伴武日《おおとものたけひ》が抜けた今では、戦は無理である。
荷物を運ぶ奴《やつこ》まで加えても百数十人だった。
倭建が九州島で熊襲《くまそ》と戦った時は、北九州の各国が援軍を出した。熊襲軍を圧倒する兵力になった。そういう場合は安心して戦うことができる。
その点、今回はどんな戦にせよ背水の陣というところがある。父・オシロワケ王に対する不信感もあった。
本来なら、寡兵にて東の荒ぶる国々をこれ以上進むのは不可能、と判断したといって大和に戻っても良い。立派な理由になる。
そのことも考えたが、それは倭建の生き方に反するのだ。どう理由づけようと、臆病《おくびよう》な王子と陰口をきく者が必ず現われる。それが倭建には堪えられないのだ。幸い、吉備武彦《きびのたけひこ》、大伴武日、また久米七掬脛《くめのななつかはぎ》、また丹波猪喰《たんばのいぐい》など、何一つ文句をいわずに従ってくれている。
大伴武日にオシロワケ王の帰国命令を伝えるべく乎多《あだ》|※[#「低のつくり」、unicode6c10]《て》が来た時、倭建は吉備武彦に訊《き》いた。
「東に行くべきか、西に戻るべきか、意見があれば遠慮せずに申せ」
武彦は莞爾《かんじ》と笑った。
「王子の決意のままに」
倭建がどのように決めようと、吾《われ》は喜んで従う、と答えた。その笑いは作ったものではない。武彦は、今更何をおっしゃるかと笑い飛ばしたのだ。
案の定、大伴武日は仮病をつかい、部下の兵だけ帰してしまった。
七掬脛や猪喰も同じであろう。勿論《もちろん》、執拗《しつよう》に訊き続けたなら、考えているところを述べるかもしれないが、倭建はそれ以上訊かなかった。
水軍の援軍を得たことは、倭建にとっては大きかった。奴たちも武装し、兵士としての戦力になったからである。
遠淡海王の勢力圏は天竜川までで、川を越えると久努国だった。現在の磐田《いわた》市を中心とする国で、東の素賀国に較べると小さい国である。
久努王は、素賀王と共同歩調を取ることで独立性を維持してきた。最初、倭建軍に反抗の姿勢を示したのは、武蔵《むさし》の方に顔を向け勝ちだった素賀王の意向に従ったまでである。倭建軍を歓迎することになり、胸を撫《な》でおろしていた。
倭建は、武彦、七掬脛を従えて久努王と会った。
猪喰は表に出るよりも、間者《かんじや》として動くことを望んでいた。倭建にとっても猪喰の情報はおおいに役立つ。
猪喰は犬牙《いぬきば》や大裂《おおさき》らと共に、廬原《いおはら》王の支配する大井川の東方に向った。
久努王は四十代の前半で、一見勇猛な感じだった。ただ小国の王である虚勢と劣等感が感じられる。
東国にまで名の響いた倭建に対しては、劣等感による恭順の意を全面的に示した。
倭建を最上段に、武彦と七掬脛を上座にして挨拶《あいさつ》した。こういう時に大伴武日がいないことは倭建にとっては矢張り痛手である。
久努王は大和王権の有力豪族である武日が、倭建の副将軍として従軍していることを知っている。
倭建王子を久努国に迎え、お会いできたことは光栄である旨、挨拶した。
倭建はこのように平和|裡《り》に会えたことは喜ばしいと述べた。
「大伴武日もこの席に連なるはずだったが、病のために遠淡海国で療養している、あと数日もすれば回復するらしいが、病だけは日数がかかろうと完治が必要じゃ、故に、遠淡海の船に戻り、完治後吾を追って参る、この席にいないのは吾も残念じゃ」
倭建は重々しくいった。
武日が後から参加するのは嘘《うそ》ではない。実際、倭建の口調には武日の忠誠を思う気持が滲《にじ》み出ていた。
武彦も七掬脛も口を結んで頷《うなず》く。武日を思う心は倭建と変りはない。
それに武日軍は戻ったが、遠淡海王でさえ大和に向ったことを知らない。倭建の命令で美濃《みの》に行ったと信じている。
オシロワケ王の命令を伝えに来た乎多※[#「低のつくり」、unicode6c10]も、内心は倭建の味方であった。倭建の不利になるようなことは口外していない。
たとえ数人の部下しかいなくても、武日が倭建に従軍することは、今後の東進に対して強い武器になる。
「王よ、王の祖先が何代もの昔、大和の王権に祭祀《さいし》の面で畏敬《いけい》の念を抱いていたことは、王も知っているであろう、それにも拘《かかわ》らず吾が遠淡海国に勝利するまで、吾に反抗の姿勢を示していた、その理由は?」
武蔵や毛野国の意が及んでいることを知ってはいたが、倭建は久努王の口から聴きたかった。
久努王は、申し訳ありませぬ、と叩頭《こうとう》し、額に滲んだ汗を手でぬぐって理由を話した。
王によると、ここ二、三十年の間に廬原国の勢力が強大になった。廬原王は若い頃から勇猛を誇示する性格で、国力の拡大に野望を燃やした。勢力圏は大井川以東の駿河《するが》全域にわたり、相模《さがみ》や武蔵、また上総《かずさ》の勢力と連合し、大和の王権に対抗する連合国家をつくり、その王になる野望を燃やした。
娘が素賀王とも婚姻し、西方にも勢力を伸ばしつつあった。
遠淡海国の稚王子が倭建軍に反抗したのも、廬原王の援軍を当てにしたからだった。だが遠淡海国の水軍が稚王子に従わなかったので、廬原王は援軍を出さなかった。
久努王によると、倭建王子に最も敵対心を燃やしているのは駿河の廬原王で、当初、素賀王は廬原王の意を受け、倭建軍を阻止しようとし、久努王にも同調を求めてきた。
毛野や武蔵の意向という倭建の判断とは少し違っていた。
「久努王殿、なかなか良い情報じゃ、とするとこれより東の国々で、戦も辞さずというのは廬原王ということになる、そう視《み》て間違いないか」
「毛野国のことは分りませんが……」
久努王は言葉を濁したが、武蔵までの諸国では廬原王のようだった。となると廬原王との戦で勝利をおさめたならもう戦はしなくとも任務は果たせるようだ。
「素賀王が平和裡に吾を迎える気になったのは、吾が遠淡海国で大勝した故か?」
「それが第一の原因ですが、今一つ、廬原王の娘との間があまり旨《うま》くいっていないのです、吾も会っていますが細面で、狐に似た顔です、それにことある度に、廬原王の娘であることを楯《たて》に威張り、他の若い妃《きさき》に嫉妬《しつと》して苛《いじ》めているようです、素賀王も最初は我慢していましたが、この頃は嫌気がさし、婚姻を後悔しています」
「ほう面白い話じゃ、で二人の間に子供は?」
「二人の子供がいます、素賀王としては実家に戻したいようですが、何といっても廬原王の娘、そんなことをすれば後が不安です」
「よく分った、他言はせぬ」
倭建は苦笑した。どうやら素賀王は、倭建に廬原王を叩《たた》いて貰《もら》いたく、歓迎することにしたらしい。この辺りのことは、猪喰が懸命に調べてもなかなか真相を知り難い。
おそらく廬原王はかなりの兵を集め、戦を挑んでくるだろう。素賀王にも援軍を出させよう、と倭建は思った。
いったん鼻につき出した女人は、顔を見るのも嫌なものである。その女人が廬原王という虎の威を借りて王が寵愛《ちようあい》する若い妃を苛めるとなると、離婚どころか、殺しても飽き足らない憎しみを抱いているはずである。
廬原王を斃《たお》せば、憎い妃を追放することができるのだ。
倭建としては素賀王の望みに力を貸すわけだ。それなりの代価は払って貰わなければならない。
武彦の顔が赧《あか》くなっているのは、懸命に笑いをこらえているからである。七掬脛はさばけた顔で聴いているが、胸中の笑いが聞えそうだった。
そういえば猪喰の部下になっている大裂は、恋人を盗られた恨みから、朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》に復讐《ふくしゆう》した。女人との関係は、時によると男子の人生を変えてしまうのである。
その点、倭建は女人にめぐまれていた。幸運というべきか。
ただ幸運を当り前だと傲慢《ごうまん》になってはならない。傲慢になった途端、幸運は去ってしまう。幸運は天が与えてくれた恵みと感謝し、大切にすることが必要である。
弟橘媛《おとたちばなひめ》を大事にせねばならない、と倭建は自分に誓うのだった。
倭建は、翌日、久努王が用意してくれた屋形に武彦を呼び、酒宴を開いた。
「廬原王を倒せば東国は平和裡に我等を迎えてくれる、どうやらそういうことらしい、ひとつ頼むぞ」
倭建が酒杯をあげると、
「王子、勝利のために……」
武彦が乾杯の辞を述べ、三人はなみなみとつがれた酒を飲み干した。
「猪喰の情報が待たれますなあ、それにしても素賀王も狡猾《こうかつ》な男子です、王子様の力で妃《きさき》を追放しようというところでしょう、思いきり、利用すべきです」
七掬脛が憤然とした口調でいった。
「どう利用すべきかは、素賀王に会ってから考えよう、今回の東征が成るも成らぬも、駿河との一戦にありということか、このことを部下達によく伝え、兵士の士気を鼓舞するのだ、ことは早い方が良い、のろのろしていると廬原王の戦力が増す、武彦、遠淡海王の水軍にも、武器と食糧を素賀王の都に運ぶように伝えよ」
「分りました。王子、おっしゃる通りです。廬原王との戦は可能な限り早い方が良いでしょう、兵士たちは冬の休みで疲労はありませぬ、闘志をふるいたたせるため、明日の早朝に全軍を進め、素賀王の都まで早足で進ませましょう、兵士達の身体だけではなく、心まで休んでしまってはどうにもなりませぬ」
武彦は久努王が差し出した、夜の伽《とぎ》の侍女が注いだ酒を喉《のど》を鳴らして飲んだ。七掬脛の傍にも伽の女人がはべっている。大和周辺の女人と異なり、二人共|眉《まゆ》が濃く、眼が大きい。
倭建はわざと渋面をつくった。
「武彦、そちがはやる気持は分るが、早朝の行軍ともなれば、そちが先頭に立たねばならぬ、今宵《こよい》くらいゆっくり、時を忘れてはどうかな」
「王子」
武彦は酒杯を砕かんばかりに握り、両腕を張った。
「この地はすでに戦の地と心得ています、片時たりとも、時を忘れることなどできません、それに吾は二刻も熟睡すれば充分でございます」
七掬脛は心なしか、肩を竦《すく》めたようだ。久しぶりに魅惑的な女人を得たのである。今宵は愉《たの》しく過ごそうと鼻の下を長くしていた。
「七掬脛はどう考える?」
倭建は七掬脛の返答を愉しみにしていった。七掬脛は咳払《せきばら》いした。武彦とは正反対に酒杯をゆっくり膝《ひざ》前に置いた。
「やつかれの考えは武彦殿とは少し違います、この地から素賀の都まで僅《わず》か六里(二四キロ)と聞いています。普通に進んで三刻(六時間)、早足なら二刻半で到着しましょう、早朝に進むより、普通に朝餉《あさげ》を済ませた後、急ぎの行軍を命じても昼下がりには着きます、何も今宵は慌てる必要はございますまい」
喋《しやべ》り終ると今一度咳払いをし、酒杯を取った。
武彦は眼をいからせて七掬脛を睨《にら》んだ。
「七掬脛は久米《くめ》の出、武勇の氏族の出ではないか、戦の場に向う場合、平時のようにのんびりと朝餉を食べたりはせぬぞ、冬の休みに慣れ、戦の地であることを忘れたのではないか」
「武彦殿、ゆっくり朝餉を食べた後、兵を集め、急行軍を命ずれば、兵士の士気は高まる、軍事の演習は素賀の地に着いた後で行なえば良い、場合によっては、素賀の地で休む間もなく、大井川沿いの高台に布陣せねばならぬ、あまり早くからいきり立つと兵は疲れる」
「何をいう、普通の朝餉と早朝の朝餉とはたった半刻の違いじゃ、あまり早くからというのは大げさだぞ、七掬脛は半刻が惜しいのか」
「時には半刻のまどろみが、何ともいえぬのじゃ、武彦殿は少し武骨すぎる」
「武骨じゃ、武骨が悪いか!」
武彦は大声をあげた。
七掬脛は、汁をすするように酒を飲んだ。
「いやいや、武骨が悪いなどとは申しておらぬ、ただのう、酒は一気に飲み干すもよし、こうして舐《な》めるように……」
七掬脛は、猫が水を飲むように音を立てた。二人の遣り取りを聴いていた倭建は、それぞれに理があるのを感じた。まさに二人は柔と剛といって良い。
ただ七掬脛がいったように、朝餉を早め、早朝に出発しても、早く到着し過ぎては時を持て余してしまう。だが戦の訓練ともなれば、朝餉を早めることも必要だ。
「分った」
倭建は、二人が息を呑《の》んだほど大きな音を立てて膝を叩いた。
「二人のいい分にはそれぞれ理がある、五分と五分、故に吾が垂らした布の内側に指を立てる。何本立てたか見事に当てた者の方の意見を採る」
七掬脛が剽軽《ひようきん》な口調で訊《き》いた。
「王子様、指を立てない場合もあるわけですか?」
炯眼《けいがん》だった。
倭建は最初は指を立てないつもりだった。七掬脛は、参謀に向いているようである。
「それはないぞ」
倭建は笑いながらいった。
二人の女人が布を垂らした。
倭建は五本の指を立てた。二人共、二本、三本と考えるだろうと判断したからである。
案の定、武彦は二本といった。
七掬脛はにやにや笑いながら、倭建の顔をうかがっている。
「四本です」
「残念じゃ、五本じゃ」
倭建は前の布を取った。武彦は残念そうに頭を掻《か》いたが、七掬脛は当った、という表情である。
結局三回目に武彦が二本で当てた。
武彦がおおいに喜んだのを見て、倭建は、七掬脛は武彦に勝ちを譲ったのではないか、と思った。
素賀王は何処かオシロワケ王に似ていた。五十歳前後なのに若い妃《きさき》がかなりいる。そういう色好みなところが顔に出ているのかもしれなかった。
素賀王の宮は小笠山の西麓《せいろく》にあった。小笠山の低い山々は、北から南に延びている。南は遠州灘《えんしゆうなだ》に接していた。
小笠山の北方は今の掛川《かけがわ》市である。北方と東方は高い山系であった。ことに東の山を越えると大井川が流れている。山と川は駿河の勢力から国を守る天然の要塞《ようさい》となっていた。
倭建が素賀の都に到着すると間もなく猪喰の部下の犬牙が現われ、猪喰が二日後に戻り、廬原王の勢力、布陣の状況を報告する旨を伝えた。
その頃、素賀王の宮では蚊媛《かひめ》が王に詰め寄っていた。廬原王の娘である蚊媛は、正妃であり、妃の中では最も地位が高い。蚊媛は四十歳、すでに一男一女をもうけていた。
長男の根子《ねこ》王子は二十歳、将来、素賀王となる資格がある。
素賀王には他の妃に生ませた王子が十人近くいる。その辺りもオシロワケ王に似ていた。
根子王子は、蚊媛が廬原王の威を借りて威張るのと同じように妃の威を借りて威張るので人望がなかった。
蚊媛は素賀王が、倭建側についたことを二日前に知り、
「王は、私の父を裏切るのですか?」
と憤っていた。
場合によっては使者を廬原王に走らせねばならない、と思案していた。そんな時、突然、倭建が軍勢を率いて都に入ったのである。
素賀王は倭建に寝返ることを決めて以来、蚊媛に知られないように久努王と連絡を取ったので、すぐには蚊媛の耳に入らなかったのだ。
蚊媛はその名の通り、痩《や》せていた。四十歳だが、肌に艶《つや》がなく青い血管が浮き出ている。一見五十歳近くに見える。
そんな蚊媛が若い妃のことで、眼を吊《つ》り上げて嫉妬《しつと》するので、素賀王は蚊媛と会うたびに食欲がなくなるほど気が重くなる。ただ蚊媛のことで廬原王に憎まれるのが恐ろしく、これまで耐えてきたのだ。
素賀王は倭建に会った途端、王子に魅せられた。
それまでの噂《うわさ》で、蛮《ばん》神をもひしぐ戦の鬼神のような猛烈な王子を想像していたのだが、倭建は全く違った。
堂々とはしているが、軽やかで凜々《りり》しい武人だった。それに威張らない。勇よりも知を感じさせる眼で、朝鮮半島や、更に西の広い国のことを説き、海の中の倭国は纏《まと》まらねばならない、と情熱を込めて話した。
倭建が話す言葉の一つ一つが真実の姿を告げているようで、素賀王は自分が狭い井戸の中にいたような思いがした。
蚊媛が来たのは倭建が去るのと同時だった。
「王よ、我国を制圧にやって来た異国の王子を、どうして歓迎するのですか、王は私の父、廬原王の意を受け、久努王と共に倭建軍と戦うことを決められていたのでしょう、何故、私の父を裏切られたのです?」
蚊媛は身体を慄《ふる》わせながら詰問する。膝《ひざ》に置いた手の血管も慄えている。何時もならうんざりし、胸の中で「うるさいのう」と叫ぶところだが、今日は感じが違った。
眼の前の蚊媛が一段と小さく見え、声もあまり気にならない。
素賀王はあまり意識していないが、王は結局、倭建の威を借りているのである。所詮《しよせん》、素賀王はその程度の王だった。
蚊媛が話し終り、肩で息をついたのを見て、王はもっともらしい顔でいった。
「蚊媛よ、吾は海外の情勢を知ったぞ、我等は大和の王権に較べると情報が遅い、たとえば朝鮮半島だが、ここ百年の間に小さな国々は大きな国へと順《したが》った、高句麗《こうくり》、百済《くだら》、新羅《しらぎ》じゃ、大勢の倭人が住んでいる朝鮮半島南部の任那《ミマナ》諸国も、連合を強めている、倭建王子の話によると、ひょっとすると北の高句麗国、馬に乗って敵を攻める騎馬軍団を持つ強国が朝鮮半島を統一するかもしれぬ、大戦争が起こる、倭人は朝鮮半島から駆逐される、となると交易が途絶えることになる、朝鮮半島と関係のある倭の諸国としては黙っているわけにはゆかない、高句麗と戦が始まる事態になりかねないのじゃ」
滔々《とうとう》と喋《しやべ》る素賀王を蚊媛は唖然《あぜん》と眺めた。これまでこんな自信あり気に喋る王を見たことがなかった。
「素賀国は、朝鮮半島とはそんなに関係がありません、関係があるのは西の国々だけです」
「それは狭い見解じゃ、たとえば東の大国毛野国は信濃《しなの》、越《えつ》国を通じ新羅国と交易がある、廬原王も毛野国には頭が上がらぬ」
「そんなことはありません」
蚊媛は父が侮辱されたように王を睨《にら》んだ。
「そなたがそう思うならそれで良いが、倭列島内の国々は一つに纏《まと》まって海外の国に対処しなければならぬ、西の国々が高句麗と戦っているのに、東の国々が、西とは関係がないと傍観はできぬ、西が敗れたなら我等も敗れる、我等だけが高みの見物とはゆかぬのだ、倭建王子はそのことを我等に伝えるべく東に来られたのじゃ、我等を制圧に来られたのではない」
「纏まるといっても、一人の王を中心にしてでしょう、王の中の王、大王です、大和の王者が大王に加わり、東の国々は大和に服従する、王よ、甘い言葉にまどわされてはなりません」
「何も直属の部下になるのではない、大和の王を中心にした連合国に加入するというだけだ、今、大和の王権に従っている国々は数十ケ国にのぼる、毛野国は大きいが、従っているのはせいぜい十数ケ国、問題にはならぬ、倭建王子の話では、尾張国も、もう完全に大和の王権に従っているという、尾張国王が倭建王子を迎え入れたのが、何よりもの証《あかし》じゃ」
「王は何だかんだといっておられるが、私の父王を裏切ったことは間違いありません、私には異国の王子など迎えられない、根子王子も同じ意見です」
素賀王は内心にんまりとした。王は蚊媛に生ませた根子王子があまり好きではなかった。廬原王の手前、根子王子に王位を譲らねばならないのだが、他に方法はないかとこれまで悩んできた。
素賀王が、王位を譲りたいと望んでいるのは、第二妃である久努《くぬ》媛が生んだ山守《やまもり》王子だった。久努媛は数年前に亡くなった。
「蚊媛よ、素賀国の王は吾じゃ、そなたや根子王子がどう申そうと決定権は吾にある、吾はすでに諸王子や王族に、倭建王子に協力することを申し渡している、何なら今からでも諸王子、王族、有力豪族を集め、吾の決定を再確認させる、もしあくまで反対なら、容赦《ようしや》はせぬぞ」
蚊媛は自分の耳を疑い、心の臓が痛くなった。
これまで全く知らなかった王が眼の前にいた。勝手放題なことを述べている。
「な、何をするのです」
「仕方がないのう、監禁じゃ」
「父を裏切るだけではなく、私と王子を監禁とは、何という恐ろしいお方になられたか、悪の鬼神が王に憑《つ》いたとしか思えません、私は王子と共に父王のもとに帰ります」
「勝手にすれば良い」
よろけるように蚊媛が去ると素賀王はすぐ山守王子を呼んだ。山守王子は十七歳だが、なかなか利発な王子で、けっこう人望があった。
素賀王の脳裡《のうり》には、父である遠淡海王を監禁し、倭建と戦を交え、大敗した稚王子のことがあった。
根子王子に味方するのは、廬原王に近い、大井川東岸地域の豪族と、王子の直属の部下程度である。都での人望はあまりないが油断はできなかった。
「父王、何の御用でございましょうか」
「山守王子、吾が倭建王子を迎え入れることは、すでに皆に申し渡した、大半は賛成しているが、なかには廬原王を恐れ、吾の意に反対している者もいると思う、どうじゃ、その方は?」
「はい、申し上げにくうございます」
「根子王子のことなら遠慮するな、場合によっては監禁じゃ」
「では申します、根子王子は、次の王になる王子と考えられています」
「何をいうか、まだ決めてはいないぞ、ましてこういう事態じゃ、もう無理じゃ、これは断言できる」
次の王はそちじゃ、と素賀王は出そうになった声を落した。山守王子も王の胸中を読み取ったのか、眼を輝かせた。
「ただこれまで、王位継承者と思われていたので、王子に媚《こ》びている連中もけっこういます、それ等の者の中には腹黒い男子もいましょう、父王が決断されたのなら、早いうちに根子王子と、母の妃を監禁なさるべきでしょう、一刻も早いうちに」
山守王子の顔が赧《あか》らんだ。武勇の気迫が身体から滲《にじ》み出ていた。母のいない山守王子は、孤独に堪え、一人で自分を鍛えてきた。山守王子には、根子王子のような甘えや弱さがない。
素賀王は眼を瞠《みは》った。何時の間にこんなに成長していたのだろう、と見直すと眼が熱くなった。
「分った、そうする、警護隊長を呼び兵を集めさせよ」
「吾も同行しとうございます、裏切り者を見張らねばなりません」
「分った、そちも部下を連れて参れ」
「父王、兵を動かすとあれば、倭建王子にも伝えねばなりますまい、父王の意をはっきりさせれば、王子も安心しましょう」
「うむ、王子の申す通りじゃ」
素賀王の警護隊長と山守王子が根子王子の屋形を取り囲んだのは、半刻(一時間)後だった。
王子の屋形では蚊媛と根子王子が、今後のことを相談している最中だった。
根子王子は、東の山を越えて、大井川の西岸の勢力を集め、廬原王の軍勢と呼応して、素賀王を攻めるべきだと説いていた。この期《ご》におよんでも、まだ都に未練のある蚊媛よりも、緊急事態に対する洞察力は秀《ひい》でていた。
だがそんな根子王子も、父王がそんなに早く、自分達を監禁するとは想像していなかった。一日は余裕がある、と視《み》ていた。
五十人近い兵に取り囲まれ、王の命令といわれると、屋形を守る兵も戦えなかった。
蚊媛と根子王子は監禁された。それは、倭建に対する王の服従の証ともなった。
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素賀《すが》王が蚊媛《かひめ》と根子《ねこ》王子を監禁したという報はすぐに倭建《やまとたける》に伝えられた。
倭建は、二人に油断しないように、と素賀王にそれとなく伝えていた。
素賀王は倭建の威を知り、廬原《いおはら》王と対決する決意を固めたようである。
倭建は、吉備武彦《きびのたけひこ》と久米七掬脛《くめのななつかはぎ》を呼んだ。武彦が眼を輝かせていった。
「王子の威は東国に鳴り響いています、素賀王は現実に王子に接しその強い威に打たれたのでしょう」
倭建は鼻下を撫《な》でて武彦の昂奮《こうふん》を抑えた。
「それもあるが、もともと素賀王は、根子王子を嫌っていた、ということだ、ただ廬原王を恐れ、仕方なく根子王子に王位を譲るつもりでいた、だが、本来は山守《やまもり》王子に王位を譲りたかったのだ、吾の顔を見た途端、積年の鬱屈《うつくつ》が爆発し、可愛い山守王子のために根子王子を監禁したというわけだ。いずれにしろ蚊媛と根子王子は利用価値がある。武彦、そちは部下を遣わし、警備を厳重にせよ、絶対逃がしてはならぬ、それと七掬脛もだが、明日までに二人の利用方法を考え、述べよ、吾も考える」
倭建は今度は顎《あご》を撫でた。込み上げてくるやりきれなさを顔に出さないためだった。二人にはその思いをとくに知られたくなかった。
倭建は警護隊長の穂積高彦《ほづみのたかひこ》と二人の兵を連れ、宿舎とした屋形を出た。南に歩き優雅な感じの山々が両方に張った小丘に登った。山桜はまだだが梅の花が咲いていた。何となく顔を寄せて香りを嗅《か》いだ。
あるかないかの香りだが、童子時代の亡き母の香りは、こんな匂《にお》いに似ていたに違いない、と鼻孔がただれるまで嗅いだことがあった。今は母を思うことも滅多にない。
倭建は素賀王が変心した胸中を説明した。
或《あ》る意味でそれは倭建の父・オシロワケ王の胸中を話したのと同じだった。
オシロワケ王は、自分を愛さなかったイナビノオオイラツメを憎んだ。父王が倭建と兄の大碓《おおうす》王子を疎外するようになったのは、二人の母への憎悪が絡んでいる。
それに二人共、自我が強くオシロワケ王に対し反抗的だった。オシロワケ王はそんな二人がうとましくなった。大碓王子は美濃《みの》に行ったが、倭建には人望があった。
倭建ほど賢明で武勇に優れた王子はいない。オシロワケ王は、うとましい倭建が次第に恐ろしく見えてきた。自分を殺し王位を奪う、と怯《おび》えたのかもしれない。そこまで怯えたかどうかは別として、オシロワケ王は、ヤサカノイリビメに生ませた五百城入彦《いほきのいりびこ》王子や稚足彦《わかたらしひこ》王子に王位を譲りたくなった。
いずれにしろ倭建はオシロワケ王にとっては邪魔者である。
ただ正妃(後の皇后)が産んだ王子だけに、そう簡単に暗殺できない。また失敗した時のことを思うと恐ろしい。
そこでまず都から追い払うために、熊襲《くまそ》征討や、東国への征討を命じたのである。
死んでこい、というのがオシロワケ王の本心だった。
東国には大和の王権に従わない国々がかなりある。倭建が、いくら、戦に来たのではない、大和の王権のもとに倭《わ》列島は統一されねばならない、と説きに来た、といっても、戦で対抗しようという国は必ずある。
だが倭建に与えられた兵力は少ない。しかも倭建の武勇が東国に広く伝わり、東征が旨《うま》く行きそうだとなると、オシロワケ王は大伴武日《おおとものたけひ》とその軍勢を引き戻した。
とにかく、死ね、戻るな、という意図は明白である。
倭建は先刻、素賀王が変心した胸中を話しているうち、オシロワケ王の胸中を告げているような気になった。倭建は、叫び出したい憤りと悲哀を抑えながら、淡々と話したのだ。
まだ本格的な春にはなっていないが、冬の季節に較べると、陽は幾分やわらかだった。彼方《かなた》に拡がるやや水色がかった暗い海も、心なしか穏やかに思えた。
オシロワケ王と素賀王を重ね合わすと、監禁されている根子王子が不憫《ふびん》に思われた。まさに倭建は根子王子と同じ立場に置かれているといってよいのだ。
数歩離れていた高彦が咳払《せきばら》いをした。
倭建は本能的に刀の柄《つか》に手をかけ周囲を見廻した。
曲者《くせもの》が忍び寄る気配はなかった。
倭建は無言のまま、鋭い眼を高彦に向けた。高彦が身体を硬くして叩頭《こうとう》した。
自分の咳払いが、無の境地に遊んでいる倭建を邪魔してしまった、と詫《わ》びている。
だが高彦が咳払いしたのは、異常な気配を感じたからに違いなかった。
倭建が小さく頷《うなず》くと高彦は顔を上げた。突きささるような倭建の視線に眼を伏せた。
倭建は高彦を手招いた。
「曲者の気配か?」
「王子様、やつかれの錯覚でした、お許し下さい」
「気にすることはない、高彦よ、隠さずに申せ、吾自身に異常な気配があったのではないか?」
「はっ、それは……」
いうべきか黙すべきか高彦は一瞬迷ったようだが、再度、うながされると口を開いた。
高彦は倭建が隙《すき》だらけになっているように見えた。素賀王は倭建に協力したが、何処《どこ》まで信用できるか分らない。いってみれば敵地といってよい。監禁された蚊媛や根子王子の味方が、倭建を狙っていないとは限らない。その可能性は大だった。
瞑想《めいそう》にふけっている時でも、倭建はあまり隙を見せなかった。高彦は倭建の身に異変が生じたのではないか、と疑った。
「お許し下さい、思わず警告の咳払いを出してしまいました」
「いや構わない、もし曲者に襲われたなら避けられたかどうか……吾は多分、虚の世界に入っていたのであろう、もう大丈夫だ」
倭建は莞爾《かんじ》と笑った。
翌日の夕餉《ゆうげ》の席で武彦と七掬脛はそれぞれの案を出した。
武彦の案は、蚊媛と根子王子を木にくくりつけ、攻撃の際、それを担《かつ》がせて進撃すれば、敵軍が気勢をそがれて逃げ腰になるというのが第一案だった。
第二案は第一案より凄《すさ》まじかった。両人の首を廬原王に送り届けるのだ。倭建軍の勇猛さと決意を示すことにより、敵を怯えさせ、戦意を削《そ》ぐこと大である、と武彦は説いた。
如何《いか》にも武将としての武彦の決意を示していた。
それに対して七掬脛は、蚊媛と根子王子を取引に利用すべきだという。
「平和|裡《り》に王子様を迎え入れられ、二人の生命を救《たす》け、根子王子には大井川の西岸を与える、つまり、裏切った素賀王の領地の一部を根子王子に与える、というわけです、それが受け入れられなければ、武彦殿の策の通り、木にくくりつけて進撃するというのは如何《いかが》でしょうか」
武彦が肩を張った。
「七掬脛、そんな先の話に敵は乗ったりするかな」
「確かに疑わしい、ただ乗る乗らないは、敵次第じゃ、乗れば儲《もう》けものというわけじゃ、王子様の策は?」
「吾は今、無の心境じゃ」
「無、でございますか」
武彦が不思議そうに小首をかしげた。
「うむ、蚊媛と根子王子を得たことは思わぬ利じゃ、雲から絹布が舞い降り、星から金銀の飾りが落ちてきたようなものじゃ、もともとは無かったものと考えて良い」
「はあ……」
二人は倭建の胸中を計りかね、お互い顔を見合わせた。
「故に、無いものは無いものとしても構わぬ、いや、これは何も決定ではないぞ、吾は二人に、利用方法を考えよ、といった、この命令は撤回する」
「えっ、王子、おっしゃることがよく分りません、確かに無かったものですが、げんに得たのです、我等の手に」
武彦は手を拡げたり握ったりした。それに倭建の論は、夢を見ながら話しているようなところがあって、理解し難かった。
武彦がいったように、宝物を得ているにも拘《かかわ》らず、もともと無いものだと思えといわれても、そう簡単には納得できない、拡げた袋に木の実が落ちてくる。確かに木の実はそれまでなかったが、何かそれを握った感触は現実に存在する。
倭建の命令なら従わざるを得ないが、二人共、不服そうな顔だった。
倭建の顔は穏やかで澄んでいた。
「吾は明日、蚊媛と根子王子と話し合ってみようと思う、結論は、猪喰《いぐい》が戻り、敵軍の詳しい情報を得てから出す、吾としては、なるべく戦はしたくない、これまで充分戦い、大勝利を得た、ただ、我軍の兵士も死んでいる、異国の地に屍《しかばね》を埋めたくないのじゃ」
その点では二人とも頷かざるを得ない。
翌日の昼、大裂《おおさき》が戻ってきた。二人が監禁されて三日目だった。
大裂の報告では、蚊媛と根子王子が監禁されたことを知ったのか、廬原王は軍勢を都の方に退《ひ》かせていた。
猪喰は廬原王が、情勢の変化を感じ取り、守りの姿勢に転じたのかもしれない、と視《み》た。敵の様子を、もう二、三日観察して報告したい、と告げた。
犬牙も、猪喰の手足になるべく再び敵地に入っていた。
一昼夜、一睡もしていない大裂を民家に休ませた後、倭建は廬原王の胸中を想像した。
廬原王にとって、二人が監禁されたことは、大きな衝撃だったに違いなかった。
素賀王は、廬原王の側につき、倭建軍と戦うはずだった。それが倭建を迎え入れたのである。廬原王にとってはまさに裏切りだが、まだ、心の何処かでは、素賀王には何か策があるのではないか、と望んでいる面もあった。
倭建とその軍勢を油断させておき、倭建を暗殺するか、また廬原王の軍勢を大井川の西部に導き入れ、無防備状態の倭建軍を攻める。これまでの素賀王との深い関係や、王の性格から有り得ることだ、と半ば望みながら期待していた。
勿論《もちろん》、その際活躍するのは、自分の娘、蚊媛が産んだ根子王子である。
根子王子からの報を今か今かと待っている廬原王に入ったのは、監禁されたという報であった。
廬原王が驚愕《きようがく》したのは無理はない、と倭建は思った。
勇猛な王だが廬原王が倭建軍に戦をいどもうとしたのは、久努《くぬ》、素賀両王が味方することへの安心感のせいではないのか。
ことに素賀王の協力は絶対必要だった。だからこそ、最後まで望みを捨て切れなかった。二人の監禁は、素賀王の決意さえ示していた。倭建に王の軍を援軍として加える、という決意である。
廬原王が攻めから守りに転じたのは、素賀王軍が、倭建側につくと怯《おび》えたからではないか。
倭建は廬原王の心境をそのように読んだ。
倭建は武彦に、主力軍を大井川の西側地域を睨《にら》む丘陵に布陣させた。
蚊媛と根子王子が監禁されている家を訪れてみると、叫び声が聞えてきた。
警護の兵達は無関心である。
倭建の姿を見て、兵達は一斉に平伏した。
「ここは戦場だ、平伏は要らぬ」
隊長に、何を叫んでいるのか、と訊《き》いた。
「出せ、出せと喚《わめ》いているのでございます、一日に何度も飢えた犬のように吠《ほ》えます、声が掠《かす》れて、何をいっているのか分りませんが……」
「元気な王子だのう、夜もか……」
「流石《さすが》に夜は眠っているようです」
「王子を縛ってはいないな?」
「はっ、最初は縛っていませんでしたが、食事を運ぶ際、戸を開けると跳び出そうとしますので、昨日から縛りました、武彦様から、絶対逃がしてはならぬ、と厳命されていますので」
警護の長《おさ》は恐縮したように首を縮めた。
「それなら縛っても仕方ないであろう、その時、その時の判断が必要じゃ、蚊媛の方は?」
「縛ってはいません、ただなかなか気の強い女です、我等に悪態をつきます」
「そういう女人だから素賀王に嫌われる、よし、根子王子だけ出し、縄を解け」
「はっ、ただ……」
「逃げはしないか、と心配なのか、大丈夫だ、高彦、逃がすなよ」
倭建は高彦に念を押した。
警護の長は三人の兵と中に入った。怒声と激しい音がした。板壁が壊れそうな音をたてた。どうやら根子王子は縛られたまま体当りをくわせたらしい。
争う音がして縄で縛られた根子王子が現われた。身長は五尺七寸(一七一センチ)以上はある。肩幅が広く胸や太腿《ふともも》の肉が張っている。それに面構えも屈強そうだ。浅黒い顔で、濃い眉《まゆ》が吊《つ》り上がり、眼は細いが眼光が炯々《けいけい》としている。頬骨《ほおぼね》が張り丈夫そうな顎《あご》がそれを受けていた。鼻は高くないが鼻翼が張り、精気を漲《みなぎ》らせている。
警護兵の腕を振り払おうと身体を捻《ひね》った。右腕を掴《つか》んでいた兵が振り廻され、左腕を掴んでいた兵とぶつかった。
根子王子はすかさず、一人の兵の膝《ひざ》を蹴《け》った。兵は、たまらず、崩れ落ちた。かろうじて王子の腕を取っている今一人の兵に頭突きをくわせた。兵は眼が眩《くら》んだらしくよろけた。
根子王子は倭建の方に突進した。高彦が素早く槍《ほこ》の柄で足を払った。
根子王子は横倒しに倒された。もがいて起き上がろうとするが、両腕を縛られているので、呻《うめ》きながらもがく以外ない。
倭建は高彦に、警護兵を数歩|退《さ》がらせるように命じた。根子王子の前に立った。
「それが素賀国の王子の姿か、両脚を切られて転がされた猪《いのしし》に似ているわい」
当時は豚のことを猪といった。
「うぬ、無礼者、許さぬぞ」
「どちらが無礼者か、吾は東征大将軍、倭建王子じゃ、立ったまま挨拶《あいさつ》もできぬとは、憐《あわ》れな姿だ」
「何だと、そちが倭建王子か、盗みを働いた奴《やつこ》のように縄でゆわえ、引き出しておいて、何を申すか、縄を解け、吾の力が恐ろしいか、勇猛な王子の名が泣くぞ」
俯《うつぶ》せになりながら頭を持ち上げ唾《つば》を飛ばしながらののしる王子の姿に、若き日の大碓王子を感じた。
奇妙な懐しさを覚える。
「何とかいえ、何だその眼は、吾を憐れんでいるのか!」
「憐れじゃのう、吾は外に出たなら縄を解くように命じた、だがそちは柵《さく》内から放たれた狼《おおかみ》のように暴れた、暴れるだけしか能がないのか、素賀王が、王子をうとましく思う気持がよく分るわい、静かにしていたなら、縄を解いたのになあ、物事を判断する頭がないからその様《ざま》じゃ、吾はもう少し優れた王子と見込んでいた、残念だった、吾は愚かな男子とは話したくない、自分自身が愚かになるような気がするし、時が勿体《もつたい》ない」
根子王子は踏まれたたたらが放つような息を吐いた。無念そうに唸《うな》る。
「失望した、戻るか……」
自分自身に呟《つぶや》くようにいって背を向けた。
「待て王子」
「ほう、何だ?」
背中を向けたままいった。
「すぐ縄を解け、吾はそんなに愚かな者ではない」
「縄を解けば、話ができると申すのか」
「勝負じゃ、勇猛さを天下に轟《とどろ》かせている倭建王子と勝負をしてみたい、話はそれからだ」
「吾と勝負か、勝てると思うのか」
倭建は振り返ると根子王子を眺めた。今度は、自分の童子時代の姿と重なる。
「おう、刀、槍《ほこ》、素手、何でも良いぞ」
高彦が不安そうに倭建を見た。どうかおやめ下さい、と訴えている。
倭建には勝つ自信があった。戦の経験があるし、これまで数え切れないくらい真剣で闘った。おそらく根子王子には真剣で人を殺した経験は少ない。せいぜい一度か二度であろう。
「縄を解いてやる、じっとしているのだ、動くと斬《き》られるぞ」
倭建は自ら刀を抜くと根子王子の傍《かたわ》らに立った。
「吾を斬るのか」
と王子は叫んだ。流石に不安な表情だった。
「そちの縄を切る、俯《うつむ》いてじっとしておれ、切るのは背中と腕の間の部分じゃ、恐怖で動くと本当に肉を斬る、さあ俯け」
根子王子は眼を空に向け、しばたいたが、覚悟を決めたらしく俯いた。見守る兵達は緊張し、しわぶき一つたてない。
倭建は切っ先で縄との距離を計り、鋭い気合と共に刀を振り下ろした。結んでいた三本の縄が切られた部分ではじけ飛んだのは、根子王子の筋力のせいかもしれない。
衣服には傷一つない。
「縄は解けた、腕は自由じゃ、立て」
根子王子は、信じられないように腕を動かした。自由になっているのを知ると、勢い良く立った。気勢を削《そ》がれたのか、睨《にら》みつけたが跳びかかったりはしない。
「根子王子、王子は何人の人を斬った?」
「吾は人など斬らぬ、王者は穢《けが》れた罪人を斬ったりはせぬ」
「曲者《くせもの》に襲われたこともないのか」
「王子が侵入してくるまで平和だった」
「吾は侵入したりはせぬ、素賀王が迎えてくれたので、平和裡に入ったのだ、それは後の話だ、吾は若い頃から曲者に狙《ねら》われ、襲われた、何人斬ったか、覚えてもいぬ、また熊襲との戦では数えきれないほど兵士を斬った。熊襲の長、川上建《かわかみたける》とは二人だけで斬り合い、斃《たお》した、それまで吾は小碓《おうす》王子という名であったが、吾の剣で倒れた川上建は、死の間際に、吾の武術と勇猛さを称《たた》え、自分の名である建を吾に献上したのだ、それ以来、吾は倭建と名乗っている、知っているか?」
「風の便りに聞いた」
「事実じゃ、熊襲の長は六尺以上の巨漢であった、太い鉄棒を振り廻し、ゆうに一尺以上もある木の幹を一撃で払った、鬼神もおののく怪力の武人だ」
倭建はその時のことを思い出し、眼を細め、山々が連なる西の空を眺めた。淡々とした口調で、まるで自分にいい聞かせているようだった。警護の兵士達も熱心に聴き入っている。皆、倭建と熊襲の長との壮絶な戦いを想像し、眼を輝かせ固唾《かたず》を呑《の》んでいた。根子王子もその一人だった。倭建に勝負をいどんだことなど忘れている。
「根子王子、武器を手にしての戦いは、木刀を振り廻したり、力自慢とは全く違う、刀を持った相手に刀を向ける、人を斬ったことがないとどうしても身体が硬くなる、何時ものように自由自在に腕も動かない、最初は金縛りにあったようで、息も苦しくなる、高彦、そちの刀を渡してやれ」
「王子様、それは」
「吾の命令だ、はやく渡せ」
高彦の顔が蒼白《そうはく》になり身体が折れた。
「命令が聞けぬのなら警護隊長の任を解く、ここに参り、吾に渡せ」
声にならない声を洩《も》らした高彦は、叩頭《こうとう》したまま近づくと鞘《さや》ごと刀を渡した。倭建は根子王子に刀を放った。
倭建は喋《しやべ》ることで暗示を与えていた。まともに立ち合っても負けることは絶対ないが、狙いは戦わずに勝つことにあった。
「さあ、抜け、真剣勝負じゃ」
倭建は機先を制するように刀を抜いた。根子王子も眼を剥《む》き慌《あわ》てて抜いた。鞘は腰紐《こしひも》に差した。
倭建は根子王子を見て、赤子を斬るようなものだ、と苦笑した。力を込めて柄《つか》を握っているので腕の付け根の筋肉が盛り上がっていた。これでは岩が刀を掴《つか》んでいるのと同じである。刀は動きにくい。
「駄目だのう、そちの刀は手から離れない、これを見ろ」
倭建は人差指に刀の柄を乗せて立てた。指の上で刀は微動だにしない。
指から柄を離すと軽く一回転させる。兵達が感嘆の声を洩らした。素早く左手に移し同じように回転させた。
刀は生き物のように煌《きらめ》きながら宙で舞う。根子王子の顔は脂汗《あぶらあせ》で濡《ぬ》れている。
根子王子は、自分の身体に根が生えたような気がした。刀どころか足も動かない。倭建の刀が放つ見えない気が、縄よりも強く根子王子を縛っている。汗は身体中から滲《にじ》み出、衣服に染《し》みた。
「斬れ、いたぶらないで吾を斬れ」
根子王子は呻《うめ》くようにいった。恥辱と恐怖に溢《あふ》れて立っているよりも、斬られたかった。
倭建は切っ先を下にした。
「根子王子よ、死ぬのはたやすいことだ、生きていることが辛《つら》い場合もある、その辛さに堪えるのが男子だ、そちが死ねば母上はどうなる?」
「吾はどうすれば良いのだ」
根子王子は天を仰ぎ涙を流し項垂《うなだ》れる。
「刀を鞘におさめ、吾の警護隊長に渡せ、王子よ、素賀王も廬原王も強い、だが倭の国々は広い、もっともっと強い者が数え切れないほどいる、そちは外の世界を知らない、少し歩こう、吾の話に耳を傾けるのだ」
根子王子は、さっきとは別人のように大人しくなった。素直に刀を渡すと歩きはじめた倭建の後に従った。倭建の姿を見て襲うかもしれない、と高彦は疑っていたが、倭建には警戒心がなかった。王子は勇猛で気骨があるが、こういう人物は、いったん相手の魅力に触れると、素直になることがある。性格が一途《いちず》なのだ。縛られたまま暴れた王子を見て、倭建は好感さえ抱いた。腹黒い男子ではない、と見抜いた。
倭建は小川の傍の草叢《くさむら》に坐《すわ》ると根子王子を傍に坐らせた。
「根子王子よ、王子が一番憎いのは誰じゃ、吾か?」
「倭建王子、吾には分らなくなった、王子がどういう人なのか、王子は雷《いかずち》の鬼神をもひしぐ獰猛《どうもう》な王子と聞いていた、征服すれば女人や子供をも殺戮《さつりく》すると。だが吾にはそうは思えぬ、確かに剣を抜けば鬼神のように強い、多分、素賀国にも王子に勝てる勇者はいない、だが王子は強いだけではない、人を魅了する優しさがある、優しさというより包容力がある、数え切れないほど人を斬ったというのに、何故だろう、吾は王子の呪術《じゆじゆつ》にかかり騙《だま》されているのであろうか、何故じゃ?」
根子王子は訴えるようにいった。
倭建は懸命な王子の訴えを包むように頷《うなず》いた。
倭建は首の後ろで腕を組むと仰向けに横たわった。巨大な氷の塊のような雲塊が空に浮いている。高彦が警戒の色を強めた。倭建は隙だらけだった。両腕が首の後ろなので喉《のど》を根子王子に晒《さら》している。襲えといっているようなものだ。高彦は汗ばむ手に刀子《とうす》(小刀)を握った。
ただ高彦は、倭建の隙が根子王子を捉《とら》えていることに気づいていない。根子王子にとって、倭建の隙は親愛の情なのである。
「根子王子よ、吾は大勢の人を殺した、だが吾が殺したのは、彼等が吾に危害を加えようとしたからだ、身を守るためだ、殺された者達は、自分が何故殺されたのかを知っている、故に怨念《おんねん》の鬼神は吾にとりつかない、吾は自分を優しい男子とは思っていない、だが歪《ゆが》んだ道を歩きたくないし、吾に害をなす者は容赦《ようしや》せずに斬る、もし根子王子が吾に魅力を覚えたとしたなら、王子は吾と似た性格なのだ、だから自分の眼で吾の本質を見抜いた、騙されたのではない」
「まだ分らぬ、倭建王子は、大和の王権を担う王子じゃ、その王子に危害を加えようという者がいるのか?」
「大和の王権は素賀の王権の数十倍の大きさだ、吾は正妃の王子だが、王子の数は吾にも数え切れぬほどだ、そうなると血がつながっているが故に吾を恨む者も現われる、また大勢の王子には、それぞれ豪族がつく、利害関係でいうと、吾を憎んだり嫉妬《しつと》する王子派にとって吾は邪魔者ということになる、農民や海人《あま》にはそれぞれ苦労がある、だが王族や有力者の憎み合いは庶民の比ではない、浅ましいものだ」
倭建は吐き出すようにいった。
倭建の言葉は、先刻まで倭建を憎んでいた敵国の王子に告げるべきものではないかもしれない。だが倭建にとって、父王に監禁された根子王子は、自分と同じ運命に悩める者だった。
「倭建王子のおっしゃる通りです、人間は浅ましい、王も王族も、でも王子は吾のように父王にうとまれたことはなかったでしょう」
倭建に対する根子王子の言葉が改まった。最後まで残っていた倭建への虚勢も消えていた。何処かに縋《すが》りつくようなところがあった。
「父王にうとまれるか……」
倭建は身体を起こした。もう少しで、だから東の国に来た、と口にするところだった。
倭建は自分に向って首を振っていた。
「根子王子よ、あったともなかったともいえぬ、吾は父王に命じられて東征大将軍になったからだ、ただのう、根子王子の気持は痛いほど分る。吾が王子に親愛の情を抱いたのは、王子が監禁され、縛られながら暴れた姿を見た故《ゆえ》じゃ、自分の姿を吾は根子王子に見た」
倭建は喰《く》い入るように自分を眺めている根子王子の肩を叩《たた》いた。
「王子よ、吾はこれ以上血を流したくはない、戦をすれば大勢の血が流れる、遠淡海《とおつおうみ》の稚《わか》王子は、吾を迎え入れようとした父王を監禁し、吾に戦をいどんだ、その結果、無辜《むこ》の大勢の人々が死んだ、皆、平和に暮していた人々だ、この国では反対のことが起こった、父王は強硬派の根子王子を監禁し、吾を迎え入れたのだ、父王を恨む気持は分る、大勢の人々が血を流すよりは良いではないか」
「倭建王子は分っておられない、父王が母と吾を監禁したのは、倭建王子の力を利用し久努媛に産ませた山守王子を王位に即《つ》かせるためです、吾にはそういう父王が憎い」
「憎いであろうな、素賀王の胸中は、吾にもよく読める」
「本当ですか?」
「吾がそんな愚か者と思うか、ただ根子王子、吾は戦をしたくないのだ、それが吾の大切な望みじゃ、素賀王の魂胆が見えようとも、平和を優先する素賀王は吾と戦をしようとするそちよりも大事だ、人間として、どちらが好きかといえば、根子王子じゃ、嘘ではない、だが王子が吾に飽迄《あくまで》、敵意の牙《きば》を剥き、戦をし、血を流そうとするなら、好きな王子も、その母上も斬らねばならぬ、だが斬りたくはない、斬るなら、さっきの真剣勝負の際に斬っている、根子王子は大根と同じであったぞ」
根子王子は川に眼を落した。雲が川に映っている。小さな川魚は雲の中を泳いでいた。
倭建は嘘をついていない。それだけは確かだった。それに根子王子は噂《うわさ》に乗り、倭建軍は素賀国を征服するために来た、と信じていた。当然、財物は奪われ、女人は犯される。だが倭建の規律は厳しかった。夜になっても女人を犯そうとする兵士はいない。
根子王子には素賀王が憎い。その一方で倭建に対する敵意は消えていた。
「倭建王子よ、吾には王子と戦をする気持はありませぬ、ただ、もしこの根子王子が好きだというお言葉が本当なら、一つだけお願いがございます」
「どういうことじゃ、吾に可能なら、願いを叶《かな》えよう」
「申し上げます、東に進まれる時は、吾はお斬り下さい、監禁されたまま生き恥を晒《さら》したくない、ただ母だけはお救い下さい、逃がしていただきたいのです」
「流石《さすが》は第一王子、王子の望みは叶えるぞ、それと、もし、王子が母上を説得し、平和の使者として廬原王に会うのなら、吾はそちは斬らぬ、二人で廬原王に会い、吾が戦をするために来たのではないことを王に伝えて貰《もら》いたいのだ、頼むぞ」
倭建は根子王子の背を叩いた。
実際倭建は、大伴武日軍が都に呼び戻されて以来、戦に嫌気がさしていた。挑《いど》まれた戦でも、可能な限り避けたかった。
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弟橘媛の病
根子《ねこ》王子は倭建《やまとたける》に魅せられた。倭建は、王子がこれまで会ったどの人物よりも魅力的だった。殺戮《さつりく》の鬼であり、戦になれば女人や子供まで斬《き》る恐怖の鬼神とは別人だった。
確かに倭建は強い。根子王子が何人かかっても勝てない武術を身につけている。だが倭建が放つ雰囲気には、風の便りに耳にした異国の仙人のような滋味があった。
吾《われ》は倭建にたぶらかされているのか。
根子王子は悩みに悩んだ。その結論は、噂《うわさ》よりも自分の眼を信じることだった。
倭建の意を受けた遠淡海《とおつおうみ》王の親衛隊の隊長が、根子王子と蚊《か》媛ひめに会ったのは、その翌日だった。
隊長は、遠淡海国が、何故、倭建軍と戦ったかを詳しく話した。倭建を平和|裡《り》に迎え入れようとした遠淡海王を監禁した稚《わか》王子が、独断で戦をして大敗した事実を述べた。倭建のいう通りだった。
戦が終り、遠淡海王のもとには、穏建派の兵士や農民、海人《あま》が戻り、人々は前にも増して豊かに暮しているのである。
「遠淡海王の水軍がここまでやってきたのは、倭建王子様を守るためです、もし、倭建王子様が残虐な鬼神なら、どうしてそこまで致しましょうか、王子様は確かに大和王権のもとに、倭《わ》列島の諸国が団結し、新しい時代をつくる必要がある、と説いておられます、そのために東の国々に来られた、だが敵対しない限り武力は行使されない、これには間違いありませぬ」
隊長は熱意を込めて説いた。
隊長は遠淡海国の武人である。もし倭建が噂通り残虐な人物であったなら、ここまで懸命に根子王子に訴えるはずはなかった。口では褒めても、実は恐ろしい人物ですぞ、用心されたい、と囁《ささや》くか合図するはずである。だがそんな気配は全くなかった。
遠淡海王の隊長は倭建の人物に魅せられていた。
根子王子は、自分の眼が正しかったのを確信した。王子は倭建の味方になることを自分に誓った。
根子王子は、母の蚊媛に自分の決心を伝えた。倭建が依頼したように、母の父・廬原《いおはら》王に会い、友好的に倭建を迎えるように説く、というのであった。
蚊媛が今憎んでいるのは、倭建ではなく夫・素賀《すが》王だった。
いくら倭建に寝返ったからといって、自分と根子王子を監禁するのは許せなかった。それも、若い妃《きさき》に産ませた王子に王位を譲るためだった。
「根子王子よ、私が憎いのは素賀王じゃ、王だけは許せぬ、そちが廬原王に倭建王子との友好を説くのは勝手じゃ、どうやら倭建王子は私達に憎悪や悪意は抱いていない、私も倭建王子にはもう敵意はありませぬ、でも素賀王には牙《きば》を剥《む》く、復讐《ふくしゆう》する」
実際、牙の生えた老猿《ろうえん》のようだった。
倭建が蚊媛と根子王子に、廬原王に会い、平和を説いて欲しい、といった日、根子王子は倭建に蚊媛の胸中を隠さず話した。
「王子様、母は父王を許しませぬ」
根子王子は不安気だった。蚊媛が素賀王に対する憎悪の炎を消さない限り、廬原王と素賀王の友好関係はありえない。一時的に平和を結んでも将来の戦の火種は消えなかった。それに蚊媛の憎悪を知った廬原王は、素賀王を許さないであろう。
倭建は素賀王の件は自分にまかすように、と根子王子にいった。
倭建は父のオシロワケ王を連想させる素賀王に好意を抱いていなかった。廬原王の出方によっては素賀王を引退させても良い、と考えていた。
結局、倭建は蚊媛と根子王子に自軍の二十人の部下をつけ、廬原王のもとに送り届けることにした。
根子王子は、倭建に、祖父・廬原王に平和を説き、必ず納得させる、といった。
勿論《もちろん》、口でいうほど易しいことではない。
廬原王には何人かの王子がいる。彼等にとって根子王子は甥《おい》だが、素賀王の子である。腹中に策を抱き、廬原王に会いに来たと疑うに違いなかった。
吉備武彦《きびのたけひこ》や久米七掬脛《くめのななつかはぎ》は、根子王子を行かせることは、狼《おおかみ》を檻《おり》から放ったにひとしく、危険である、と反対した。
「吾《われ》は根子王子を信じる、旨《うま》く行かなくても何等かの成果をあげるに違いない、それに蚊媛が憎いのは吾ではなく素賀王じゃ、監禁の身を解いてくれたことで吾に感謝している、できるだけ戦は避けたい、そのためには、可能な限りの手は打つ」
倭建の決意が変らないのを知り、武彦も七掬脛も納得した。
驚いたのは素賀王である。倭軍のために力を貸すという名目で、二人を監禁したのだ。倭建はその二人を、同盟関係から離脱した廬原王に会いに行かせたのだ。
倭建は仮りの宿所としている屋形に素賀王を呼び、蚊媛と王子を帰した理由を述べた。
「素賀王よ、根子王子は吾の意気に感じ、廬原王の槍《ほこ》をおさめることを約束した、吾は根子王子を信じ友好の使者として廬原王に遣わすことにしたのだ、王子は器が大きい、必ずや吾の期待にそむかないであろう、ただ、廬原王の王子達の中には、根子王子に反感を抱く者が多い、場合によっては王子の生命も危うい。故に万一に備え、兵を進め、都を守るように、吾の軍も加わる、ただ、国境いに兵は出さぬ、出す時は根子王子が殺される時だ、その場合は戦だ、王の軍は吾の精兵に従えば良い、遠淡海王の水軍も加わる、大勝は間違いない、熊襲《くまそ》を破って以来、吾はただの一度も敗れたことはないのだ、素賀王よ、安心して吾に従え」
熊襲を破った、と告げた時の倭建の声は、屋外にも鳴り響いた。素賀王が耳にしている熊襲は、毛むくじゃらの巨人軍だった。今、自分の眼の前にいる凜々《りり》しく精悍《せいかん》な王子は、間違いなく熊襲軍に大勝したのである。
素賀王は複雑な溜息《ためいき》を洩《も》らした。
交渉が成功したとしても、蚊媛と根子王子の憎悪が消えることはない。
倭建は、その辺りをどう考えているのだろうか。
ただ素賀王としては、倭建の意に従う以外は方法がなかった。
蚊媛と根子王子は、警戒の厳重な廬原王の都(富士川の河口か?)に入り、王と会った。何といっても蚊媛は王の娘であり、彼女が産んだ王子は、廬原王が期待していた孫である。
蚊媛は二人が素賀王に監禁されたことを恨み、王への憎悪を訴え続けた。蚊媛にとって倭建は、自分と根子王子を救ってくれた恩人だった。
蚊媛は倭建に感謝している。それは根子王子も同じだが、王子の場合は視野が広い。
根子王子は、祖父である廬原王に、倭建は征服ではなく、倭列島が大和の王権を中心に纏《まと》まることを説くために来た旨《むね》を告げた。
朝鮮半島の状況や、西の国々の動向も話した。西の国の大半は大和の王権に従っており、それが時の流れであると熱を込めて話した。廬原王には数人の王子がいた。
長子は岩《いわ》王子で次子は雲《くも》王子、三子は鼻崎《はなさき》王子である。この三王子は十八歳以上で、会議でも発言力があった。
三十歳の岩王子が眼をいからせた。
「何のかんのといっても、大和の王に服従せよ、ということであろう、父王は富士山の神に従う東国の王者だ、交易の者の言によれば、大和の王が信仰している三輪山は、富士山の爪にも足りぬ小さな山だという、そんな山の神に従う大和の王の力など、父王が備えられている神力に較べると問題にならぬわい、倭建王子を蹴散《けち》らすのみだ」
岩王子はその名の通り岩に似た顔だった。顎《あご》や鼻が大きく、眼窩《がんか》が窪《くぼ》み、顔の凹凸《おうとつ》が激しい。強力という点では諸王子の中でも群を抜いていた。父の跡を継いで王になるのは自分以外にないと自負しているが、賢明さでは雲王子に及ばない。
鼻崎王子は力もあり頭の回転も速いが、器が小さい。それにまだ二十歳の半ばだ。
廬原王は自分の後継者を誰にするかを決めかねていた。勿論、三王子の母はそれぞれ異なる。正妃《せいひ》は岩王子の母の鷹媛だった。すでに数年前に亡くなっている。
温厚で人望があるのは雲王子だが、武力は弱い。
根子王子は落ち着いていた。
「岩王子殿、熊襲は高千穂《たかちほ》という優れた山の神力を得、火を噴く山に守られていると聞いています、しかし、その熊襲も倭建王子に大敗したのです、これが事実です」
「どうしたそれが……、熊襲は弱かったのじゃ」
岩王子は肩をいからせ、眼を剥《む》いた。威厳の力で根子王子の口を封じようとしていた。
「蹴散らすといわれましたが、いうは易しゅうございます。倭建軍には、遠淡海の水軍と、久努《くぬ》、素賀の両王が味方になりましょう。吾は廬原王の軍が敗《ま》けるとはいいませぬ、だが戦は長引き、容易に勝敗はつきません、そのうち尾張《おわり》の王が倭建軍に援軍を遣わします」
根子王子は、廬原王に勝ち目はないと視《み》ていた。だがそれをいえば王の面子《メンツ》を潰《つぶ》す。王は嫌でも戦に走らざるを得ない。
「何れ勝負はつく、勝つまで戦うのみだ」
岩王子は声を張りあげた。
岩王子の声が高くなればなるほど、諸王子や群臣は虚勢を感じた。岩王子自身も、大声を出さなければ倭建が恐ろしいのかもしれない。
「岩王子、少し待て、雲王子の意見は?」
「はあ、吾《われ》は、父王が倭建王子と会われ、どの程度の連合か、お訊《き》きになられるのは如何《いかが》かと考えます、倭建王子は、大和の王権のもとに諸国が纏まるべきだ、といっているようですが、ゆるい連合体なのか、貢物や労役の民を要求するのか、相手の要求を聞くべきです、その上で父王が御決断するべきでしょう」
「雲王子、戦わずに倭建を都に入れると申すのか」
「根子王子が申したように、戦をするにしても、すぐに勝敗はつきますまい、となると農民の種|蒔《ま》きができません、秋の収穫がないとなると食糧の確保が難事になります」
「倭建軍も同じではないか……」
「違います、遠淡海および尾張が援助しましょう、食糧の面では不利です」
雲王子は父王に叩頭《こうとう》した。
素賀王が裏切り倭建王子に味方したのを知った時、廬原王が不安を抱いたのは雲王子が訴えた食糧だった。もし倭建軍が廬原王の勢力圏に入ってきたとすると、春の種蒔きができない。かりに一部で可能であったとしても敵兵によって田畑を蹂躪《じゆうりん》されかねなかった。となると、たんに食糧の問題だけではない。農民の戦意に影響してくる。農民達にとって最も大事なのは土地による農作だった。
廬原王は種蒔きの前に素賀王と協力し、倭建軍を撃退する予定だった。素賀王の裏切りにより、その計画が全く狂ってしまったのである。
雲王子の意見はまさに正鵠《せいこく》を射ていた。
目先の利く鼻崎王子は、二人の兄王子の意見を聴き、父王の表情を見て、雲王子に同調した方が得だ、と判断した。
「吾も戦が長引くのを恐れます、我軍は確かに強うございます、ただ、倭建王子が、尾張まで味方につけているとなると、種蒔きまでに尾張まで制圧しなければなりません、あと四十日が限度でございましょう」
鼻崎王子は、日数を計算したことで得意気にいった。この辺りが目先の利く王子といわれる理由である。
廬原王は腕を組んだ。
駿河《するが》より東の相模《さがみ》、また現在の房総半島の海上《うなかみ》氏などは廬原王と同じ姿勢である。そう簡単に大和の王権に服従しない。
戦も辞さずといった廬原王を応援している。だからといって、王が倭建軍と現実に戦った際、援軍を提供してくれる可能性は少ない。
まして久努王、素賀王が倭建についた今では、援軍は全く期待できなかった。
戦の場合必要なのは、口ではなく援軍だった。となると廬原王だけで倭建と戦わなければならなくなる。無敗の倭建軍に勝ち、尾張まで攻撃し、制圧するなど到底不可能だった。
卑怯者《ひきようもの》め、許さぬぞ素賀王、と王の憤りは倭建よりも素賀王に向けられるのだ。
それにしても、蚊媛と根子王子が憐《あわ》れであった。
「父王に申し上げます、我々は今まで倭建と戦うべく臨んで参った、素賀王が裏切ったからといって、今更、倭建に頭を下げ、迎え入れるわけにはゆきますまい、吾の軍団の隊長達は降服よりも死を、と叫んでいますぞ」
両|拳《こぶし》を握り締めた岩王子は鼻を鳴らさんばかりに声を荒げた。
「岩王子殿、倭建王子は我等が頭を下げることを求めていません、王子の言に耳を傾けて欲しい、というところです」
「何をいうか根子王子、そちは倭建に助けられ報酬を得たのか、素賀王の後、王位に即《つ》かせるとか甘言に乗ったのであろう、或《ある》いは我国に危害を加えるため、倭建の手先になったのか」
「岩王子、口が過ぎますぞ」
蚊媛が顔色を変えた。
廬原王は組んでいた腕を解くと、
「岩王子、ここは戦の場ではないぞ、今少し穏やかになれ」
激しい口調で岩王子を制した。
岩王子は第一王子であり、親衛軍の長《おさ》でもある。廬原王はこれまで岩王子と協力し、戦の準備を整えてきたのだ。
だが現状での開戦は明らかに不利である。ただ大和の王権に屈服したくない廬原王は、根子王子が説得するように、倭建の意見に、素直に耳を傾ける気にはなれなかった。
ここは何らかの策を講じなければならない、と廬原王は考えた。
「とにかく、蚊媛も根子王子も無事で良かった、今日はこれで打ち切ろう、さあ、今宵《こよい》は蚊媛と根子王子のために宴を開こう」
その夜の宴で、あれほど威勢の良かった岩王子は別人のように大人《おとな》しくなっていた。
戦の場ではない、という廬原王の一喝《いつかつ》が利いたのかもしれなかった。
廬原王は上機嫌で、根子王子をねぎらい、蚊媛には、もう素賀王のもとに戻る必要はない、といった。当地でのんびり余生を過ごせば良いというのである。
蚊媛は眼に涙を浮かべて父王に礼を述べた。ただ根子王子は可愛い。廬原王も、根子王子の将来については色々と考えてみるからあまり気にしないように、と蚊媛を慰めた。
根子王子の立場は微妙だった。素賀王のもとには今更戻れない。廬原王に仕えるにしても、岩王子は受け入れない。岩王子に睨《にら》まれたなら危険である。何時殺されるか分らない。当時は王位をめぐり、兄弟の間で血で血を洗う争いが繰り拡げられた。暗殺など日常茶飯事だったのだ。
根子王子はそのことを自覚していた。素賀王、廬原王のもとにおれないとすれば、倭建に仕える以外、将来はなかった。いや、そういう計算よりも根子王子は、倭建の魅力に惹《ひ》かれていた。
翌朝、廬原王は根子王子と、両人を送ってきた穂積高彦《ほづみのたかひこ》を呼んだ。
廬原王は次のように述べた。
「吾は大和の王子と死を賭《と》して戦うつもりでいた、戦の準備もしてきた、だが素賀王に監禁された蚊媛と根子王子を救《たす》けたのが、倭建王子であることを知り、王子と会い、その話に耳を傾ける気になった、ただ、倭建王子は強力な軍団を率いていると聞く、吾も諸王子も倭建王子に対する警戒心を解いていない、故に倭建王子は、軍団の主力を素賀王のもとに留め、警護兵は五十人までに制限されたい、それでも吾と会うというのなら、お会いし、その説に耳を傾けよう、如何《いかが》かな」
廬原王は高彦に、この案は自分が譲り得る限度であり、変更はしない、と伝えた。
高彦は王の眼を睨《にら》むように見た。
「王子様が、この条件を受け入れられなければ、戦ということになります」
開戦の準備ができている敵地といって良い国に、五十人の兵だけで入るのは実に危険だった。高彦は倭建の警護隊長である。
「信じるか、信じないか、それだけじゃ」
廬原王はきっぱりといい放った。
二日後、根子王子と高彦は倭建に会い、廬原王の条件を告げた。倭建は根子王子を外して、会議を開いた。
吉備武彦、七掬脛など大反対である。
「廬原王は王子を恐れている。故に王子様を罠《わな》にかけ、お生命《いのち》を奪うつもりに違いありません。幾ら精兵を備えても、五十人では危険です。この際、総攻撃をかけ、一挙に廬原王を斃《たお》しましょう」
倭建は沈黙を守っている丹波猪喰《たんばのいぐい》の意見を求めた。
「もう三日いただきとうございます、敵兵の動きを調べなおさなければなりません」
「駿河《するが》の国は広い、三日で伏兵を調べられるかのう」
「三日では無理です、ただ、戦のために集めた兵士をどの程度戻しているか、という程度は調べられます」
倭建は猪喰に、すぐ調査にかかるように命じた。
倭建は無性《むしよう》に弟橘媛《おとたちばなひめ》に会いたくなった。こういう時は自分自身に迷いが生じた時である。
駿河の王者、廬原王を説得できれば、倭建の使命は殆《ほとん》ど達したといって良い。
大和の王権に最も反抗的な毛野《けぬ》国の王者とは、無理をして会う必要がなかった。
倭建が幾ら兵法に優れた勇猛な大将軍でも、僅《わず》か百人前後の兵力で、毛野国を相手に戦うわけにはゆかない。
倭建は、オシロワケ王のために、生命を賭して戦う気持はなかった。
弟橘媛の宿泊所に行った倭建は胸騒ぎがした。数人の侍女達は雑木林の中に建てられた小屋のような仮りの屋形を取り巻くように坐《すわ》り、口々に神に祈っていた。
倭建は警護兵をその場に止め、一人で侍女達に近づいた。
「どうしたのだ、媛は病か?」
侍女の長《おさ》が上半身を上下させながら、弟橘媛は気分が悪く、朝餉《あさげ》も摂《と》らずに横になっている旨を話した。
侍女達は病の鬼神が退散するように、天の神に祈っていたのだ。
倭建は枝折戸《しおりど》を開けた。
中は暗く、開いた戸から入った明りが、藁《わら》を束ねた寝台に横たわっている弟橘媛を浮かび上がらせた。うとうとしていた媛は、倭建に気づき上半身を起こした。
「媛よ、大丈夫か、どうしたのだ?」
倭建は腰を落すと媛の額に手を当てた。
熱が全くない。寧《むし》ろ氷のように冷たかった。弟橘媛は力のない手で倭建の腕を握った。
「王子様、私は巫女《みこ》です、男子は私の肌に触れてはなりません」
「何をいう、そなたは吾《われ》の妻だ、妻が病になり、放っておく者がいるか、もう巫女ではないぞ、さあ横になるのだ」
倭建は弟橘媛を寝かせた。
熱があれば、風邪とか、食物が合わなかったなどと分るが、普通の体温より冷たいのが不気味だった。
「水はどうじゃ?」
「いいえ」
「そうだのう、熱がないのに喉《のど》が渇くはずはない、七掬脛に診《み》させる、やつは薬に詳しい、海を渡って来た医者に負けぬ」
「お許し下さい、そういうことをすれば、巫女としての力が無くなります」
「それでも構わぬ、吾は巫女としてのそなたよりも、妻としてのそなたが愛《いと》しい、また必要じゃ」
倭建の言葉に、名残りの雪のように儚《はかな》い感じだった媛の朧《おぼろ》な顔に、微かな精気が甦《よみがえ》った。だが弟橘媛は無性に首を横に振る。そうすることによって、倭建に対する忠誠と愛を貫こうとしているのかもしれない。弟橘媛は、巫女として倭建に仕えるべく、夫の許可を得ずに尾張に来たのである。
妻として従軍したのではない。弟橘媛は筋を通す女人だった。今、巫女の任務を放棄すれば、情に溺《おぼ》れて夫を追ってきた女人ということになる。
得体《えたい》の知れない急な病に苦しみながら、媛の心は愛と責任感との狭間《はざま》に立ち、葛藤《かつとう》していた。
倭建の胸が愛しさで燃えた。倭建は両手で弟橘媛の顔をはさむと、弟橘媛の唇に熱い自分の唇を押しつけた。
身体の気を媛の口中に注ぎ込んだ。
「さあ、唇を開くのだ、吾の精気には勢いがある、生命の気じゃ、媛よ、力の限り吸え」
倭建は戸外に顔を出し腹底まで気を吸い込み、弟橘媛の口に吐き込んだ。何度も繰り返しているうちに、心なしか媛の身体が暖まった。
「どうじゃ、媛」
「王子様、少し気力が湧《わ》いて参りました」
「よし、七掬脛に薬を調合させる」
倭建は高彦に、七掬脛を呼ばせた。
七掬脛は流石《さすが》に中に入るのを躊躇《ちゆうちよ》した。
倭建はこれまでの経緯を述べた。
「風邪でも食当りでもないような気がする、病の鬼神がついたのかもしれぬ、それに、弟橘媛はもう巫女ではない、吾の妻だ」
七掬脛は大きく頷《うなず》いた。
「分りました、まず媛様から御病状をお聴きします」
中に入った七掬脛は土床に蹲《うずくま》ると、何時、どういう状態で、御気分が悪くなられたか、と訊《き》いた。
弟橘媛はすでに、自分の病状を説明できるほどになっていた。倭建が訪れた時は、口を開くのもやっとの状態だった。
気分が悪くなったのは三日ぐらい前からで、次第に食欲がなくなり、昨夜あたりからは、手足を動かすのも自由にならない。
ただ身体の何処《どこ》にも痛みはなかった。強いていえば、胸が重く呼吸をするにも力を入れねばならなくなっていた。
「分りました、吾にも病の原因は判断しにくうございます、ただ、この雑木林は湿気《しけ》ていて、昨年の雪が落葉の下で蠢《うごめ》いています、こういう雑木林には悪の鬼神が棲《す》むものです、まずここから出て、明るい場所にお移りにならねばなりません、王子様の気で少しでも回復されたということは、風邪や食当りではありません、まず陽に当り、吾が煎《せん》じる薬をお飲み下さい、体内の血が勢いを回復する薬でございます」
七掬脛は倭建に弟橘媛の宿泊所を今すぐ陽の当る場所に移すようにすすめた。
「分った、宿泊所を決めるまで、吾の屋形に移れば良い」
「王子様、それは駄目です、軍の士気にも影響しましょう、私《わ》は王子様のお力になるべく参ったのです、お荷物になりたくない」
「媛《ひめ》よ、そんな心配は無用だ、もう一度申す、そなたは吾の妻、たまには共に暮し、朝餉《あさげ》、夕餉《ゆうげ》を共にしたい、今は身体の回復が何よりだ、それが吾への愛の証《あかし》じゃ」
弟橘媛は眼を閉じ、込み上げてくる思いを噛《か》み締めた。
媛はただちに藁の寝台ごと板に乗せられ倭建が宿泊所にしている屋形に移された。
七掬脛の勧めに従い、昼は陽に当るようにした。
七掬脛が診た通り、湿地帯の林に棲む病の鬼神が去ったのか、媛はみるみる元気を回復した。
三日目に媛は倭建の宿泊所の傍に造られた仮り小屋に移った。数歩離れているだけだ。共に住んでいる、といっても良い。侍女達の小屋も造られた。
まさに仮り小屋で風雨を防ぐ草葺《くさぶ》きの屋根と板壁だけで、板床もない、侍女達も土に置かれた藁の寝台で眠るのだ。
女人といっても、別扱いはできない。
当時の戦には巫女が従軍したが、皆、粗食に堪え、仮り小屋で夜を過ごしたのである。
兵士達の場合は、仮り小屋もないことが多かった。
倭建軍の場合は、迎え入れた王が、民に家を提供させたりしたので、かなり恵まれていたのだ。
猪喰が戻ってきたのは、四日目の早朝だった。仮眠以外、まともに睡眠をとっていない猪喰の眼は赧《あか》く充血していた。
猪喰の報告は次のようなものだった。
根子王子と会った翌日、廬原王は動員していた兵のかなりを家に戻したようだ。
国境いといって良い大井川東岸には兵士の姿は見えなくなった。
都を守っていた兵士も、百人程度に減った。最初の調査では、三、四百人はいた。
廬原王は、臨戦態勢を解いたのである。
だが、問題は伏兵だった。駿河は広く、猪喰には未知の国だった。
交易の旅人が歩く道沿いの様子は探れるが、三、四百歩も離れると、調査は無理である。
ことに丘が連なっている場合は、道沿いの丘を二つは越えなければ伏兵がしのんでいるかどうか、調べられない。
「伏兵がいそうな場所は?」
「大井川から二里強の場所に瀬戸川があります、川の周辺は枯れ草の野で、伏兵が少人数ずつ散って隠れておれば、見つけにくうございます、次に、川を渡り半里ほど北に行きますと、山が海に迫っています、海に面した山道を行くか北方に迂回《うかい》して山の北側を通るか、道は二つですが、いずれにせよ、兵を伏せやすく、我等が見つけるのは困難です、その山を越えると安倍《あべ》川ですが、そこから廬原王の都まで十里弱はございます、途中山が海に迫っている場所が多く、なかなか要害の地です」
猪喰は更に詳しく、地形を説いた。
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焼津の勝利
廬原《いおはら》王の領域は広かった。
現在の大井川から富士川流域までで、東西は約十五里(六〇キロ)である。現在の静岡市もその中に入る。
廬原王が、毛野《けぬ》国と共に、東国最大の強国を自負し、倭建《やまとたける》軍を迎え撃とうとしたのも無理はなかった。
もし廬原王が屈服すれば、毛野国以外に、倭建軍と戦おうとする王はいないであろう。
ただ、倭建はどうやら屈服を要求してはいなかった。倭《わ》列島の統一を説きに来たらしい。廬原王は、自分の面子《メンツ》さえ立てば、倭建を迎えても良い、と考えたようだ。
頼みの久努《くぬ》・素賀《すが》両王が、あっさり倭建を迎え入れたという、戦況の変化が、廬原王に平和を選ばせたのかもしれない。
倭建が、そう判断したのは、倭建が戦に飽きていたことも原因の一つだった。
自分の死を望んでいるオシロワケ王のために戦をする気が起こらないのだ。
だが、任務を放棄すれば、卑怯《ひきよう》な王子とそしられ、場合によっては謀反《むほん》の烙印《らくいん》を押される。
ここまで来た以上、形だけでも東の国々を訪れねばならない。戦は嫌だが、襲われれば戦って勝つ、それが部下や兵を守る唯一の方法である。
倭建は本隊は五十人にしたが、猪喰《いぐい》を一応別働隊の長とし、犬牙《いぬきば》、大裂《おおさき》をはじめ、二十数名の部下を与えた。
別働隊は、本隊とは数百歩の距離を保つことにした。本隊の後方からついてくるように命じた。本隊が進む道には、草や木の枝を折り、どの方向に進んだかを猪喰に知らせる。何といっても未知の土地である。丘と丘との間は雑木林であったり、枯れ草の原だ。何かの印をつけなければ、五十人ぐらいの本隊は、あっという間に消えてしまう。ことに、別働隊がいることは、敵には隠さねばならないので、火矢を放ったり、音を立てたりはできない。
本隊の進路を何時も確認しておくためには、後方を進まねばならなかった。
倭建は、駿河《するが》の道に詳しい案内人を、素賀王に二人出させた。
廬原王の使者も案内人となった。
出発する前、倭建は弟橘媛《おとたちばなひめ》と会った。媛の病は回復し、顔色も艶《つや》やかである。
「廬原王さえ平和|裡《り》に吾《われ》を迎えれば、東国の長い旅も終ったのと同じだ、すぐ迎えの使者を出す」
「王子様、何事でも終りの間近が大事です、どうか御注意下さい、水軍を利用されては?」
「船で行くことも考えた、だが廬原王も、清水に良港を持ち、水軍を擁《よう》している、王の水軍が待ち受けていたとしたなら、遠路を進んできた遠淡海《とおつおうみ》王の水軍は不利だ、安心せよ、油断はしていないし、罠《わな》にはまるような吾ではない」
弟橘媛は天を拝み、地を拝み、倭建に手を合わせた。天と地との精気を倭建に授けたのである。
吉備武彦《きびのたけひこ》と久米七掬脛《くめのななつかはぎ》も弟橘媛から精気を受けた。
媛は少しも不安気ではなかった。だが、何か気になることがあるのかもしれない。
数百歩離れて倭建を追おうとする猪喰を呼び、弟橘媛は、伏兵に気をつけるように、と忠告した。
弟橘媛が、猪喰に忠告したのは初めてだった。よほど気になるのであろう。
「分りました、吾は大裂と共に、王子様の後、百歩を進みます、御安心下さい」
猪喰自身、数百歩も離れていることに、不安を感じていたのだ。猪喰にとっては心強い忠告だった。
猪喰は犬牙に別働隊をまかせ、大裂と彼の部下を合わせ、十人ほどで倭建軍と、百歩の距離を保って進むことにした。
大裂の二人の部下は、左右に二十歩離れた。伏兵や、間者に対する警戒である。猪喰は、怪しい者を見つけたなら、ただちに報告するように、と命じていた。
倭建の本隊は、約三里の道を一|刻《とき》(二時間)で進んだ。現代では大変な強行軍だが、古代では比較的|平坦《へいたん》な道の場合は驚くほどの速さではなかった。
高草山の近くまで来て、意見が分かれた。廬原王の案内人は、海沿いの山道を行けば、距離は山を迂回《うかい》するよりも半分以下に短縮できるという。
海沿いといっても、海に面した山の獣道で、上り下りがきつく、容易に進めない。
山の北方に迂回し、安倍川に進んだ方が楽だ、と主張したのは素賀王の案内人だった。
確かに距離は倍以上になるが、交易の旅人は、大抵《たいてい》、その北方を通るという。
倭建は険阻《けんそ》な道の状況を訊《き》いた。海に張り出した山の中腹を通るという。
五十人が進むとなれば、二列は絶対無理で、一列になり、時には、這《は》うようにして進まねばならない場所もあった。
当然、山の上で待ち伏せされ、矢を射られたなら、逃れようがなかった。
武彦は口をとがらせた。
「何故、そんな危ない道を行こうとする?」
「吾はこの道を通り王子様のもとに参りました、確かに険阻ではございますが、たかが四半里(一キロ)です、後は山道でも容易です、それに、この辺りにはまだ王子様に危害を加えようという族《やから》がいます、北の道は確かに楽ですが、身を潜める場所が多うございます」
廬原王の案内人はよどみなく答えた。倭建が訊いた。
「廬原王の命令を諾《き》かぬ者がいるのか?」
「この辺りは北方の山際までが広々としていて、なかなか命令が伝わりにくうございます、安倍川以東なら大丈夫でございますが」
「なるほど、国が広過ぎて、命令が届かぬ、と申すわけか、大変だのう」
それなら何故、兵を五十人と制限した? といいたい。だが案内人にいっても仕方がない。
倭建は武彦と七掬脛を呼び、協議した。
「ひょっとすると待ち伏せの兵がいるかもしれぬのう、命令が伝わっていなかった、と弁解しておけば、失敗しても、責任はあまり追及されない、それに案内人は海側の山道といっているのだ、迂回すれば、我等が従わなかったことになる、これも責任逃れじゃ」
「王子、なかなか頭の良い王ですのう、王の裏をかき、案内人のいう通り、山道にするのも一つの方法、案内人を逃がさないように囲んでおれば、敵もすぐには矢を射かけられないのではないでしょうか」
「それはまずい、険阻な山道は絶対避けるべきだ」
珍しく七掬脛が真っ向から反駁《はんばく》した。
山人の出である七掬脛は、険阻な山道で襲われた場合、反撃もできないし、逃げ場もないのをよく知っていた。逃げようとすれば、急斜面や崖《がけ》から転落する。
七掬脛の説明に武彦も納得した。
「吾もそう思う、奇襲を受けた際、戦える道が良い、よし、吾から兵士達に説明しよう」
倭建は兵士達を集め、これからの行程は、山道よりも楽だが、敵が兵を伏せている危険がある、と告げた。
倭建が兵に向って直《じか》に話すのは異例である。
「平坦な道を歩いているとつい油断する、一番危険じゃ、故にこれからは、鳥が翼を拡げた形になって進む、速度は遅くて良い」
倭建は、軍団を十字の形にして進めることにした。当然、翼の部分にあたる兵士は、|薄ケ原《すすきがはら》や生い繁《しげ》る草木を掻《か》き分けるようにして進まねばならなかった。
敵に向う陣形といっても良い。
廬原王の案内人が叩頭《こうとう》した。
「王子様、奴《やつこ》が申したのは、念のための用心でございます、これでは遅々として進みません、廬原王様は、王子様の到着が遅いので心配されます」
「幾ら遅くなっても良い、これはそちの言のせいではない、何度も戦の場をくぐってきた吾の体験の産物だ、今一度いう、そちの言は関係がない」
五十人の半数が左右に拡がった。縦横とも、百歩の幅だった。どの方向からの奇襲にも即応できる陣形である。
勿論《もちろん》、敵が大軍なら効果はないが、倭建はもし伏兵がいたとしても、自軍の倍の百人前後と、推測していた。
それと同時に、兵士達は実戦に臨むように緊張する。それが何よりの効果だった。
一行は進行速度を半減し、山麓《さんろく》沿いに北に向った。風は南から北に向って吹いていた。四半里ほど進むと北からの風に変った。
この時を待っていたように前方約三里のあたりに火の手があがった。
東は山の尾根である。東を除くと広々とした薄ケ原だった。
「何だあれは?」
武彦が眼を剥《む》いて刀の柄《つか》に手をかけた。
倭建は軍を進めた。火の手は更に北西にもあがった。
「火攻めだのう」
倭建は本能的に倭姫《やまとひめ》王から貰《もら》った胸の守り袋に手を当てた。
守り袋には火打石が入っている。開けたことはないが、本当に役立つかどうか分らないほどの小さい石だった。当時は木の臼《うす》などに錐《きり》を揉《も》み込み火を起こす。火打石は殆《ほとん》ど使われていない。小さな石では火がつくほどの火花が出ないからである。
倭姫王が倭建に与えた石は、胸につけていても気にならないくらい軽かった。神に捧《ささ》げる火をつける石と倭姫王はいったが、果して効果があるかどうか難しかった。
悲鳴があがった。
逃げようとした廬原王の案内人を七掬脛が蹴倒《けたお》し、脇腹を蹴っていた。
倭建は全軍に、三十歩前の草を西に向って百歩ほど刈るように命じた。
「慌てるな、根本から刈るのだ、この北風では向い火は無理じゃ」
北風が強いので、火は凄《すご》い勢いで倭建軍の方に向ってくる。
おそらく敵は、南方の草原か、また山に軍を潜ませているに違いない。
倭建は守り袋から火打石を取り出した。ためしに二個の石を打ち合わせてみると、驚くほどの火花が散った。
倭建の判断は速かった。退路にあたる南の枯れ草に火をつけたのだ。
「左翼の者十人に命じる、草の刈るのを止めて南方の野に火を放て」
倭建の命令に、左翼を進んでいた兵士達は、刈った枯れ草を持って飛んできた。倭建がつけた火を持参の草に移すと、次々と南方の野に火を放つ。南北と西方を火で囲まれることになるが、この風は倭建軍の武器になる。南方に潜んでいる伏兵を倭建の火が攻めるからだ。
猪喰は北方に火がついた時、倭建軍との距離を五十歩に縮めていた。
倭建の命令を耳にした。
「大裂、南の伏兵は、王子様が放った火にまかせよう、一番危ないのは山の伏兵だ、木に登り、矢を引き絞っているかもしれぬ、そちは山に住んでいた、山の伏兵を見つけ出す力は吾よりも優れている、二人の連絡兵を連れ、共に東の山に行き、伏兵を見つけよ、見つけたならすぐ吾に知らせよ、勝手に殺すなよ」
大裂は髯《ひげ》ぼうぼうの顔を嬉《うれ》しそうに上下させた。動作が大きいので頷《うなず》くというよりもゆすった感じである。
大裂は山賊時代からの部下と共に、薄ケ原を分けて山麓に着いた。猪喰は周囲を眺めた。今のところ、倭建の火に動揺した伏兵の気配はない。もし南に伏兵がいないとすると、東の山麓に、かなりの兵が隠れている可能性が大である。
山での嗅覚《きゆうかく》は、大裂にまかせて間違いない。百歩離れた山林に人がいても嗅《か》ぎ出す能力を備えていた。まさに獣なみである。
大裂は山麓の雑木林の数十歩手前から這《は》った。這うといってもかなりの速さだ。二人の部下も這って続いた。
大裂は小丘を這い上り、山林を観察した。距離は約五十歩だが大裂の眼は木々の一本一本を逃さない。案の定、弓矢を持った兵が到るところの木にいた。大きな実が成っているようだ。約三、四十人である。
「阿呆《あほう》な奴《やつこ》よ、射てくれといわんばかりじゃ」
大裂は欠けた歯を剥《む》いて笑った。
「長《おさ》、茂みにも潜んでいますぞ」
大裂と並んだ部下が口を寄せた。
「うむ、分っておるわい、今から見つけるところじゃ」
「草原につながる灌木《かんぼく》の辺りです」
「うるさい、ふむ、いるのう、こりゃ相当の兵だぞ」
「その辺りだけで百人はいますぞ」
「うむ、間もなく敵が放った火が王子様の軍に迫る、おそらく王子様は攻めてくる火をとめるだけの広場を作っておられるだろう、南に放たれた火も勢いが良い、西方も火の海になる、となると山を攻めるということになる、狭い広場で敵の攻撃を迎え撃つのは不利じゃ、南に火を放たれたのは、早計だったかもしれぬのう」
大裂がそういった頃、南の草原に隠れていた約五十人の伏兵が、迫ってきた火に慌てて草を刈りはじめた。
大裂を追いたいのを我慢し、周辺を探っていた猪喰が伏兵を見つけた。
倭建の勘は当っていたのだ。火勢は予想以上に強かった。風にあおられ、地面を叩《たた》きまくるような音を立て、炎を空に吹きあげる。
「山の伏兵と合流する、矢をつがえよ」
猪喰は部下に命じた。
敵は猪喰達に全く気づいていない。
「三本の矢を次々と射る、我等は約十人、旨《うま》くゆけば三十人を斃《たお》せる、残りの敵は驚き南方に逃走する、火が恐いので薄《すすき》の群れに隠れたりはしない、逃げた兵に更に矢を射る、ただ、追いかけて射る暇はない、山の伏兵が気になる、敵の本隊は間違いなく山じゃ」
猪喰の命令には余分なものは全くなかった。部下達は納得し、矢を弓につがえた。
猪喰の予想は当っていた。伏兵は草を刈るのを諦《あきら》め、山の方に移りはじめた。当然、猪喰達の傍を通る。
「よし、もう十歩前だ、分らぬように這って進め、敵は、我等がここで待ち受けていることを全く知らない、大きな矢の的が、射てくれと近づいてくる、吾の命令まで待て、外すなよ」
部下達は顔を紅潮させ眼を光らせた。まさに猪喰がいう通りだった。何本射れるか、と気ははやっている。
猪喰は敵兵が十歩の距離まで近づくのを待った。自ら矢をつがえ思い切り絞った。
「やっ」という気合と共に射た。合図の矢だ。猪喰の矢は標的の喉《のど》に刺さった。進んでいた兵は自分の身に何が起こったのかも分らず矢を握《にぎ》ったまま倒れた。
猪喰に続き無数の矢が放たれる。敵兵の混乱は想像以上だった。仲間が次々と倒れるのを見て、悲鳴をあげながらも逃げはじめた。向ってくる者は一人もいない。逃げる兵の背に矢が射られる。
部下達は、十本近くの矢を射た。背負っている矢籠《やかご》の矢を殆ど射ていた。
「もう良い、追うな、大裂の傍に行く」
大裂は、猪喰が南の伏兵を矢だけで敗走させたのを見ていた。
山の伏兵もそれを知っている。だが動く気配がないのは、彼等の目標が倭建の本隊にあるからだった。
西方の火は北風にあおられ、南に燃え拡がっているが、倭建軍の方には燃えてこない。ただ敵が最初につけた火は、兵士達が刈り取った場から二十歩ほどの近くに迫っていた。
倭建が南に放った火は、かなりの枯れ草を焼き、奥に広場をつくっていた。
倭建は山の方に向い、十人ずつ五列の陣を敷いた。皆、弓に矢をつがえ、山の方からの攻撃に備えていた。
突然、山の樹林が騒々しくなった。木に登っていた敵兵が猪喰や大裂の矢に射られ、絶叫を放ちながら落ちてゆく。猪喰め、と倭建はにやりとした。廬原王が、五十人と決めたので、猪喰は素賀王の都に残したが、絶えず動き廻っている猪喰がじっとしているはずはない。
倭建の命令に、
「御安心下さい、守備の任務は全うします」
と何時になく威勢よく答えたが、敵の間者を誤魔化すためで、敵に見つからぬように、ついてくる、と倭建は信じていた。
阿吽《あうん》の呼吸である。
木々の兵が一掃され、敵はたまりかねて倭建に対する攻撃に転じた。敵兵は約数十人だ。
「矢が届く距離まで来たなら各列毎に射よ、三矢射たなら全力で攻撃だ、敵は猪喰の奇襲に狼狽《ろうばい》し、恐怖にかられている、一挙に叩き潰《つぶ》せ、隊長達は殺すな、捕まえよ」
倭建の声は山野に響き渡る。
猪喰は山の敵が倭建の本隊を攻撃しはじめたのを見ると、躊躇《ちゆうちよ》せずに山を襲った。
自信満々だった敵は南方の別働隊が敗走し、射手の大半が死傷し、逃げ場を求めるつもりで、倭建の本隊に攻撃したのだ。統制など取れていないから、山に達した猪喰の背後からの攻撃に、反撃の気力も失い、平伏して叩頭《こうとう》する、半分近くは火の中をかいくぐり、逃走を計った。
「隊長を逃すな、王子か王族だぞ」
武彦が猪喰に怒鳴った。
「分った。逃げた奴を追え、甲胄《かつちゆう》を纏《まと》った者だけだぞ」
猪喰は自ら走りながら叫んだ。
猪喰が眼をつけていたのは、敵の本隊が自棄《やけ》気味に倭建を攻撃した時、自らは攻撃に加わらず、
「攻めよ、倭建王子を殺せ」
刀を振って喚《わめ》いていた総大将格の隊長だった。
少なくとも兵士達が畏敬《いけい》の念を抱いている人物に違いない。そうでなければ、倭建軍を攻撃しない。その前に逃走しようとする者が出てくる。
猪喰との距離は百歩だ。
「あの男子《おのこ》ですな」
「うむ、王子か王族じゃ、必ず捕まえる」
隊長の傍らには数人の部下がいた。
「大裂、部下を二、三人散らせるか?」
「簡単でございます」
大裂は木に跳《と》びつくと猿のように登った。
枝に立ち、幹にもたれて矢を放った。矢は空気を裂いて飛び、部下の一人の胸を射た。百歩も離れた敵を射るのは、たんに力だけではない。まさに技と気と力が一致したからだ。
大裂は二矢をつがえた。何処《どこ》から矢が飛んで来たのか、と慌てる敵に矢を放つ。矢は唸《うな》りながら顔を動かしている部下の眼を射抜いた。眼玉が半分飛び出た兵は、持てる力を絞って悲鳴に変えた。戦の場での雄叫《おたけ》びにも負けぬ凄《すご》い悲鳴である。
甲胄姿の隊長は刀を振りながら逃げはじめた。
猪喰が彼を追うのを見て、大裂は木から飛び降りた。
猪喰は上半身に毛皮を纏っているだけだ。もともと脚力は抜群なので、みるみる隊長に近づいた。二人の護衛兵が立ち止まり猪喰に向ってきた。こんな雑兵を相手に戦っていて、隊長を逃すのは勿体《もつたい》ない。
「大裂、頼むぞ」
「おまかせ下さい」
大裂は三尺五寸(一〇五センチ)もある大刀を振り廻して二人に向っていく。猪喰はその傍を避けて隊長を追った。その距離はすでに二十歩に迫っている。
猪喰は走りながら手投げ用の刀子《とうす》(小刀)を腰紐《こしひも》の袋から取り出した。一気に距離を十歩に詰めた。相手の足は重く、完全に顎《あご》が上がっている。上半身は揺れ、腕は持ち上げるのがやっとのようだ。ちょっとした小石にでも足先が引っかかれば転倒するだろう。猪喰は相手の速度に合わせて十歩ほど走り、小坂を登り切った相手の脛《すね》に刀子を投げた。
当時は後世のような脛当《すねあ》てはない。せいぜい麻布を巻いている程度だ。猪喰の刀子は狙い通り、脛の裏側に突き刺さった。
隊長は喉にものが詰まったような声を洩《も》らし、脚を縮めて倒れた。下り坂だったので転がり、初めて痛みを感じたらしく大声をあげた。
刀を抜いた猪喰が近づいてみると、相手は木にもたれ、刀を抜いている。血は草を染めていた。相手が手にしているのは巨刀だった。猪喰は相手が立てないのを確認し、素早く木の裏側に廻った。相手は慌てて上半身をよじり刀を向けた。そんな恰好《かつこう》では長刀を握る力が半減する。
猪喰は気合を込めて巨刀の峰の辺りを打った。手から離れた巨刀は宙を飛ぶ。猪喰は前に立ち顎の下を蹴《け》った。足先が相手の喉に喰《く》い込み、後頭部が木の幹に当り、重い音を立てた。三度ほど続けると白眼を剥《む》き、頭を垂れた。
相手の喉仏を打ち砕くほど力は入れていない、気を失ったのである。猪喰は相手の腰紐《こしひも》を解くと手を縛《しば》った。地に俯《うつむ》けにして刀子を引き抜いた。その痛みに蛙のような呻《うめ》き声と共に意識を取り戻す。立ち上がろうとした脛の傷口を蹴った。
「そちは後ろ手に縛られている、刀子は脚の骨にまで刺さったので、立っても歩けない、そちは総大将のようだな、覚悟を決めて、卑劣な奇襲について話すのだ」
二人の護衛兵を斬《き》り殺した大裂が傍に来た。
「王子様に伝えよ、総大将らしい男子を捕まえたと……」
その捕虜が岩《いわ》王子であることは、王子の部下の何人かが告げた。
火は風に乗り、海辺近くまで燃えた。
現在の、焼津の地名は、火攻めで焼かれたところから起こった、と『記紀』は記述している。同時に倭姫王から貰《もら》った邪気を払う銅剣は、火を防ぐために草を刈ったことから後世に草薙剣《くさなぎのつるぎ》と呼ばれるようになった。
倭建は負傷した岩王子を板に乗せ、廬原王の都に運んだ。
人間とは妙なものである。いきり立った気持も、自分が置かれた情況や時の経過によって変る。
岩王子は縛られた板の上で、殺せ、殺せと喚いていたが、傷の痛みが酷《ひど》くなり、熱が出ると共に、呻くだけになった。それも弱々しくまるで息が絶えそうである。
倭建は、そんな岩王子に水を飲ませ、傷口に絶えず酒を注いで消毒した。何度も繃帯《ほうたい》を変えねばならない。
岩王子を殺すのは易《やさ》しかった。だが死ねば、廬原王との交渉に役立たない。生きておればこそ、人質にできるし、王との取引に利用できるのだ。
最初に捕まえた案内人は、廬原王に対する使者として先に行かせた。
岩王子を始め、五十人近い捕虜を連れている旨《むね》を伝えさせたのだ。しかも捕虜の大半は負傷している。これでは、強気の廬原王も、岩王子を奪回する兵は向けられない。
岩王子は、王は今回の攻撃のことは知らない、と言っているが、倭建は信じなかった。
奇襲作戦に集められた兵は約二百人だった。倭建軍を迎え討つべく都に集められた兵は五百人余というから、半数近いのだ。知らないはずはなかった。
倭建は都近くで兵を止め、七掬脛を使者とし、迎えに来るように、という使者を廬原王に遣わした。場所は清水である。
清水の港を持つ清水は、交易が盛んで廬原王にとっては大事な地域だった。
倭建はまず清水の首長を呼び、隊長のための家の提供を命じた。
岩王子に従った兵士の中には、清水の兵士もかなりいた。
東北に連なる由比の山々の彼方《かなた》に、倭《わ》列島最高の山といわれている不二(富士)山が、雲をいただき、浮いていた。
噂には聞いていたが、何度見ても想像以上に優美で荘厳な山だった。不二山が見えるようになってから、絶えず眺めていたが、こんなにはっきり見えたのはその日が初めてである。
それにしても、廬原王らが信仰している不二山が、自分の勝利を視《み》つめているように倭建には思えるのだ。げんに、岩王子を始め捕虜の負傷者は、打ちひしがれ、傷の痛みに呻いており、山を拝む余裕もない。
高台に陣取った倭建に、清水の首長が、銅鏡、剣、それに玉の三種の宝物を持って詫《わ》びに来た。
後に三種の神器といわれるようになった剣、鏡、玉を勝者に捧《ささ》げるのは、降服の証《あかし》でもあった。
それにしても廬原王の勢力下にある清水の首長が、三種の宝物を持っていることに、この地域の豊饒《ほうじよう》さが示されていた、良港を所有しているので、交易も盛んなのであろう。
即製の椅子に坐《すわ》った倭建の足元には、岩王子が横たわっている。息をする度に弱々しい呻き声が洩れる。
他の捕虜は縄で縛られ、坐らされていた。
清水の首長は四十代だろうか。よく太り頬が垂れている。山海の珍味ばかりを食べているのであろう。
それは、長い間平和に慣れ、安逸をむさぼっていることを示していた。
清水の首長は、岩王子を気にしながら、王子の密使を受け、数十人の兵を動員したと述べた。
「王子様、お許し下さい、やつかれの娘は、岩王子殿の妃《きさき》になっています、断り切れませんでした」
首長は何度も叩頭《こうとう》しながら弁解する。首長としては、そうする以外に仕方がない。
倭建は腹の底から絞り出すような声でいった。
「戦の経験はあるのか?」
「やつかれが王位についてからはございません」
「吾は西の果ての勇猛な国、熊襲《くまそ》を破った、以来、戦ばかりをしてきた、そんな吾に勝てると思ったのか……」
「恐ろしゅうございました、噂では王子様が、農民、海人《あま》、女人や子供を殺戮《さつりく》するということでございました、申し訳ありません」
「馬鹿者、戦では殺す、だが平和に暮す人々を何で殺す? くだらぬ噂を信じたか、まあ構わぬ、清水の捕虜は解き放つ、三種の宝物のうち玉だけは受け取ろう、そちは過去を悔いている、そちの誠実さに免じ、他の二種は返そう」
「有難き幸せでございます」
「そちが三種の宝物を差し出したのは、吾の部下になったことの証じゃ」
「王子様、その通りでございます」
「そちは廬原王に使者を遣わし、吾の意を伝えよ、その返事が届くまで当地に滞在する、屋形を用意し、吾の兵士に家を与えよ」
倭建の意は廬原王が退位し、王位は根子《ねこ》王子に譲る、その代りに王を始め、岩王子を除く王子達の生命は保証する、というのが骨子である。
廬原王の王子達はすべて王族の地位を剥奪《はくだつ》するが、三年後、根子王子に対する忠誠度により、王族の名誉を回復する権利を保留する。ただ、それは王となった根子王子が決定すると伝えさせた。岩王子は、遠淡海国の稚《わか》王子よりも悪質だった。倭建を罠《わな》にかけ、殺そうとした王子の死は当然である。ただ王子の傷は悪化しており、治療は絶望的だった。
七掬脛は、明日の夜までと診ていた。
倭建が出した条件は、そんなに厳しいものではない。といって寛容でもなかった。
根子王子の母は廬原王の娘だが、父は素賀王である、廬原の王に素賀王の血が混じる男子がなるのである。
王族を始め有力豪族の中には反発する者もいるだろう。
だが倭建は、根子王子の器を買っていた。
今はまだ若く、視野は狭いが、何れ能力のある王になるに違いなかった。
倭建の意の内容を知った清水の首長は、緊張の面持ちで叩頭したが、驚愕《きようがく》した表情ではない。娘を岩王子の妃にしている首長でも、倭建が出した条件は仕方がない、と納得した。最悪の場合は、岩王子の卑劣な攻撃を黙認した廬原王の死罪を覚悟していた。
もし廬原王が、倭建の条件を受け入れられないのなら、最後の一戦ということになりかねない。だが廬原王の王族をはじめ、有力豪族に、最早死を伴う戦をいどむ気力はなかった。
彼等は、倭建の力を嫌というほど認識させられたのである。その夜、岩王子は死亡した。倭建は遺体を清水の首長に渡し葬らせることにした。
三日目に廬原王の使者が来た。
王は全面的に倭建の条件を呑《の》んだ。
岩王子の遺体が舅《しゆうと》である清水の首長に渡されたことを、王は寛大な措置と感じた。
四日目、倭建一行が出発するまでは小雨が残っていたが、富士川の近くまで来た時は雨も止み雲が切れた。
倭建の来訪を待ち受けるように不二山がその全貌《ぜんぼう》を現わした。
兵士達は、歓声をあげた。山頂付近の雪が虹《にじ》に代った眩《まぶ》しい光を放っていた。あまりにも荘厳で神秘的な美しさだった。
武彦や七掬脛は眼を剥き、猪喰は眼を細めた。かつて倭建の生命を狙い、丹波から大和に潜入した猪喰は、自分の眼の黒いうちに不二山を眺望できるなど考えてもいなかった。
漸《ようや》く春は終ろうとしているが、不二山は六合目あたりまで雪に覆われていた。間もなく虹が消え、白銀が光り輝いた。
「あそこまで登った者がいるか?」
と倭建は使者に訊《き》いた。
使者は禁忌に触れたように首を縮めた。
「神がおられるところでございます、登った者はいないはずです」
「つまりいるかもしれないが、無事戻ってきた者はいない、というわけだな」
「はい」
使者は山に向って手を合わせた。
「不二山はそち達の神だ、だが今日は吾を迎えてくれているようだのう」
「その通りでございます、皆、今回の決定を不二山の神が喜んでいるのを知り、安心していることでございましょう」
「そうだ、間違いなく吾の意も廬原王の決定も正しかった、そうでなければ、不二山は憤るはずだ」
倭建が一日出発を延ばしたのは、雨を計算したからである。晴れた日に都に入りたかった。それが見事に的中した。
倭建は王の屋形に入ると、王族を始め官臣達を呼び集めた。
根子王子は最前列に坐り、倭建に叩頭した。
倭建は仁王《におう》立ちになると、根子王子が廬原王の跡を継ぎ、王になることを改めて宣言した。久し振りに山野に響き渡るような声だった。
「いいか、もう国々が争う時代は過ぎた、海の彼方《かなた》の朝鮮半島では、馬に乗って戦う騎馬《きば》軍団を持った高句麗《こうくり》が南へ、南へと勢力を拡張している、うかうかすると、高句麗は海を渡り我々の国に攻めてくるかもしれぬのだ、そういう時の流れを我々は知らねばならない、大和の王権は何も諸国を支配するというのではない、倭《わ》列島の纏《まと》め役じゃ、纏め役が、もっと権威と権力を持った方が良いと諸国の王が望む時代がくるかもしれない、それはずっと先の話だ、大事なのは時の流れを認識することだ、そして今を知ることじゃ」
倭建は声を落した。
同じようなことを何度も説いているうちに、自分でも話し方が旨《うま》くなったな、と思う。
実際、皆、緊張しながらも、新しい知識を得たような面持ちだった。
纏め役とは、初めて口から出た言葉である。勿論《もちろん》、オシロワケ王が望んでいるのは、纏め役などではない。大和の王の権威と力を各国の王に知らせることだった。
もし倭建がオシロワケ王に忠実だったなら、もっと別ないい方をしたであろう。
だが倭建としては、自分を遠ざけようとしている、いや死をも望んでいるかもしれないオシロワケ王の権威を口にする気にはなれなかった。
これまで述べてきたように、大和の王権を中心に纏まる、といういい方さえも抵抗があって口から出なくなっていた。
纏め役、という表現に倭建の今の気持がよく出ている。
廬原王の臣下達には、それが一層効果的だった。
皮肉な結果である。
東の国に来た理由を述べた後、倭建は根子王子を呼んだ。
父である素賀王に監禁され、母と共に生命はないものと一時は諦《あきら》めた若い根子王子は、自分の身に起こったことが、今でも信じられない模様だった。
理由ははっきりと分らないが、倭建が自分に寄せた奇妙な親愛の情は肌で感じていた。根子王子も、倭建に感謝以上の好感を抱くようになっていた。
「これから吾のいうことをよく聴くのだ、根子王子は王になる、だが王としての権威はない、分るのう」
「はい、分っています、故に困惑しているのです」
「まず、補佐役が必要じゃ、吾が聞いたところでは、おぬしの母には同母兄弟がいる、兄の方は有力な王族じゃ、弟も次第に力をつけつつある、まず、この両兄弟を補佐役にする、両者はおぬしの伯叔父ということになる、王子連中は、王子の身分を剥奪《はくだつ》しているから、三年間は大丈夫だ、その間に伯叔父両人を通じ、王としての権威を確立する、母の力も必要じゃ」
「はあ」
「次にはだ、おぬしの母は素賀王を憎んでいる、だが、おぬしのためにそれを忘れねばならぬ、素賀王への憎悪の炎だけを燃やしておれば、おぬしは王位どころか、生命《いのち》も危うい、敵は多いのだ」
「分っています、ただ母は……」
素賀王に対する憎悪は消えそうにありませぬ、と根子王子は胸の中で呟《つぶや》いた。
「おぬしの生命か、素賀王への憎しみか、おぬしの母は何を取るかのう」
倭建は腕を組むと、質問するようにいった。隣りの部屋で二人の会話を聴かされていた媛《ひめ》は思わず叫んだ。
「勿論、根子王子の御命じゃ」
倭建は驚いた根子王子に微笑で頷《うなず》き、蚊媛《かひめ》を呼んだ。
「蚊媛殿、根子王子は、敵地にいるのと同じじゃ、そのことを自分にいい聞かせ、母の愛情にて王子の身を守られよ」
「王子様、有難うございます、王子様への御恩は一生忘れません」
蚊媛は眼に涙を浮かべていた。
「なあに、そんなことよりも、大事なのは子を思う母親の気持だ、獣でさえも、子を守るためには生命を賭《か》ける、その点では、人間は獣に劣ることもある、欲が多いからじゃ」
「私は、獣になど負けません」
「それを毎日、自分に呟かれるのだ、それを忘れた時、根子王子の王位も御命も危うい、ここでの吾の役目は終った、後は二人の努力じゃ」
「王子様は、どうして根子王子に御親切なのでしょう」
蚊媛は赧《あか》くなった眼を向けた。
「別に理由はない、強いていえば、自分自身の一部を根子王子に見たせいでもあろう、さあ、今一度不二山を見よう、見れば見るほど吸い寄せられる、雄大な山、神秘な輝き、それだけではない、不二山は他の山と連なっていない、一人で立っている、そこに惹《ひ》かれる」
倭建は眼を閉じていた。
一人で立ち、一人で生きる、それこそ吾自身ではないか、と自分にいった。
それにしても不二山はあまりにも雄大だった。だが倭建は人間である。倭建の身体が千倍になり、勇気が万倍になっても不二山には及ばない。
倭建としては、生き様だけは、不二山と一体になりたかった。
本書は、平成九年五月刊の小社単行本『東征伝』を改題し、分冊のうえ文庫化したものです。
角川文庫『白鳥の王子 ヤマトタケル―東征の巻(下)―』平成14年10月25日初版発行