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白鳥の王子 ヤマトタケル
東征の巻(上)
黒岩重吾
目 次
凱 旋
出 産
揺れる地
海の彼方の戦
王の思惑
謎の神託
影の男子
東国への道
逃 亡
闇の攻撃
勝利の後に
尾張に
伽の女人
運命の炎
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〈主要登場人物〉
倭建《ヤマトタケル》――――本名、小碓《オウス》。オシロワケ王と播磨稲日大郎姫《ハリマノイナビノオオイラツメ》の間に生まれた大和国の王子。武勇と優しさをあわせ持ち、人々に慕われている。熊襲《くまそ》征伐後、ヤマトタケルを名乗る。
オシロワケ王(景行帝)大和の三輪《みわ》王朝の王。倭建の父。
八坂入媛《ヤサカノイリビメ》――オシロワケ王の妃。倭建の母の死後、皇后のようにふるまう。
倭姫《ヤマトヒメ》王―――オシロワケ王の妹で、倭建の叔母《おば》。巫女《みこ》的女王。
弟橘媛《オトタチバナヒメ》―――倭建が最も愛する妃となる巫女的能力を持つ美少女。
穂積内彦《ホヅミノウチヒコ》――弟橘媛の兄。倭建に仕え,葛城宮戸彦《カツラギノミヤトヒコ》らとともに熊襲征伐に同行した。
吉備武彦《キビノタケヒコ》――東征副将軍。倭建とともに生きることを誇りとする。
久米七掬脛《クメノナナツカハギ》―倭建の部下で弓の名手。輸送部隊指揮官・側近として東征軍参加。
丹波猪喰《タンバノイグイ》――丹波森尾の孫。倭建に心酔し、東征軍従軍を願い出る。
物部十千根《モノノベノトチネ》―オシロワケ王に重用され、東征を進言。腹黒く、権謀術数に長《た》ける。
大伴武日《オオトモノタケヒ》――住吉周辺の一族。東征副将軍。容姿端麗で武術にすぐれる。
尾張音彦《オワリノオトヒコ》――朝日雷郎勢力と伊勢湾を隔てて向き合う、尾張天白川の首長。
宮簀媛《ミヤスヒメ》―――尾張音彦の娘。美しいが、気性が激しい。山の神の霊が憑《つ》く魔性の女。
朝日雷郎《アサケノイカズチノイラツコ》――伊勢朝日周辺の新首長。気性荒く好戦的。
遠淡海《トオツオウミ》王――一帯の首長(湖の王)。平和を望む。
稚王子《ワカオウジ》―――平和を望む父・遠淡海王に反対、倭建軍の通行を拒否。
素賀《スガ》王―――天竜川と大井川間の勢力。倭建軍の通行を拒否。久努と姻戚《いんせき》同盟関係にある。
久努《クヌ》王―――天竜川と大井川間の勢力。素賀王に同調。
廬原《イオハラ》王―――駿河を勢力下に収め、清水の良港を有する。勇猛を誇示する性格で、倭建に最も反抗。
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凱 旋
九州南部の熊襲《くまそ》を征伐したヤマトタケル(倭建)の一行は、帰途、吉備国(岡山県)に寄った。ヤマトタケルはオオタラシヒコオシロワケ王(景行帝)と播磨《はりま》の印南《いなみ》(稲日)大郎姫の王子である。
タケルは播磨の印南の山野で育ったが、古代の吉備の勢力は印南にまで及んでいた。
タケルの母は印南の首長の娘だが、吉備の血が入っている。
当然、タケルにも吉備の血が流れていた。
タケルは吉備国の島々を眺めた時、懐しさに似たものを感じたが、それは血のせいかもしれなかった。
タケルは瀬戸内海に面し、島々の見える高台の屋形《やかた》で二ケ月間過ごした。
朝陽に映える海、夕陽に染まる海にはそれぞれの趣きがあった。朝陽の場合は、東の空が白みはじめると島は闇の塊となり、次第に黒い巨岩に見えてくる。その後紫色に変り、緑の島となるのだ。
夕陽が沈む場合は、島の色が微妙に異なる。まるでそれぞれの島が陽の光を宿しているようだ。
タケルは海で魚を釣り、山で鹿を射た。十代に戻ったような楽しい日々だった。
弟橘《おとたちばな》媛ひめを呼び寄せ、大和には戻らず吉備で過ごしたいと思ったほどである。
勿論《もちろん》、部下達が共に残ったのではない。葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》や弓の名手達は吉備に寄らずに先に帰した。
全員が残ると父のオシロワケ王が反乱でも起こすのではないか、と疑いかねない。
ヤマトタケルは父王に好かれていなかった。父王が好いているのは、稚足彦《わかたらしひこ》またその同母弟の五百城入彦《いほきのいりびこ》である。二人はヤサカノイリビメ(八坂入媛)の王子だった。
大体、父王は大勢の妃《きさき》を持ち、王子や王女は数え切れないほどである。その中で父王の死後王位に即《つ》くのは一人だ。
当然、王子の間で王位争いも起こる。
父王としては、好む王子に王位を継がせたいから、嫌いな王子に辛《つら》く当ったり、政界から疎外する。
地方を治めよ、という名目の許《もと》に大和から追放する場合もある。
タケルも父王が嫌いだった。自分に対する愛情がないというせいではない。何となく肌が合わないのだ。
勿論、母と父王との間に愛情がなかったこともタケルに影響している。
当時の婚姻は殆《ほとん》どが勢力を拡げたり、維持するための政略結婚だが、女人の場合は慣習として受け入れ、相手をあまり好かなくても諦《あきら》めてしまう。歳月が過ぎると諦めの愛情が生まれる。
だがタケルの母親の場合は違ったようだ。母親には好きな男子《おのこ》がいて、オシロワケ王の妻になっても、諦め切れなかったらしい。
母から直接聴いたのではないが、タケルは印南に戻り調べた結果、そう確信した。
当然、父王としてもそういう母が憎く、生まれたタケルにも愛情が持てなかった。
父王の気持も理解できなくはないが、タケルも仙人ではない。生身の人間である。
父王の憎悪を感じると反発もする。ことに父王とタケルとの間の溝が埋められないのは、タケルが武勇の男子だったからである。
武術の腕でタケルに勝てる王子はいない。父王は次第に警戒心をタケルに抱くようになった。
タケルはそれを考えると大和に戻りたくはない、と思うのである。
その日、タケルは屋形の庭に立ち、瀬戸の夕陽を眺めていた。
吉備武彦《きびのたけひこ》が傍《そば》に立っている。
夕餉《ゆうげ》の仕度の最中らしく、魚の焼ける匂いがする。この辺りは魚が新鮮で、タケルは毎日、山の幸と共に海の幸を味わうことができた。
「王子、朝夕が冷え込む季節となりました、そろそろ夕餉の刻《とき》です、屋形に戻られては如何《いかが》でしょうか」
「こうして海を眺めていると、気持が鎮まる、苛立《いらだ》つ部分が海に溶け込んで行きそうな気がするからかもしれぬ、多分、吾《われ》には海人《あま》の血が流れているからだろう」
「はあ、やつかれも海は大好きです」
そちとは違うのだ、とタケルはいいたかった。
「のう武彦、王子に生まれなくて良かったのう、王子などくだらぬ」
「王子、それは……」
と武彦は絶句した。
「海は広々として美しい、吾を落ち着かせるのだ、そろそろ父王からの使者が来る頃だ」
「やつかれは、何時《いつ》までも逗留《とうりゆう》していただきとうございますが……」
「そうもできぬ、父王は、何故早く戻らぬのかと苛立っているに違いない、これ以上いるとそちに迷惑がかかる、船の準備が出来次第、出発しよう」
タケルは丹波猪喰《たんばのいぐい》を呼んだ。
猪喰は何時ものように庭の繁みの中から現われた。庭といっても殆どが自然のままで、屋形の周囲の草木を刈り取り平地にした程度である。
「どうじゃ、丹波に戻る決心はついたか?」
とタケルはいった。
タケルは猪喰に、これ以上自分の傍にいても将来の保証ができないから、丹波に戻るように、といい続けて来た。
だが猪喰は応じない。
「将来のことなど毛頭考えてはおりません、王子様の傍で働きとうございます」
とタケルに訴えるのみで、戻るとはいわない。
吉備国に滞在している間、タケルと猪喰は同じ問答を繰り返してきたのだ。
猪喰はタケルの間者《かんじや》として働いている。そういう面における猪喰の能力は抜群であり、手放すのは惜しい。
だがタケルは、故郷に戻った方が猪喰にとっても丹波にとっても幸せである、と感じていた。
猪喰は大和の有力豪族ではない。猪喰はオシロワケ王によって政界から疎外されたイニシキノイリヒコ(五十瓊敷入彦)王に仕えていた丹波森尾《たんばのもりお》の孫だった。森尾は仇《かたき》を討つべく大和の音羽山に籠《こも》っていたが、タケルに討たれた。猪喰に味方する勢力は大和にはなかった。
昨日、タケルは猪喰にかつてそちは熊襲征討が終ったなら、故郷に戻るといっていたではないか、と強くいった。昨日までタケルはそのことを忘れたふりをしていたのだ。
猪喰に対する未練のせいである。
猪喰は唇を噛《か》んで叩頭《こうとう》した。地につけた膝《ひざ》が土の中にめり込む。
猪喰は懸命に自分の感情を抑えているようである。猪喰は両|拳《こぶし》を握り締めるとタケルを見上げた。
「王子様、約束を守れ、とおっしゃるわけですか……」
「当然だろう、男子に二言はない」
「分りました、これ以上、王子様の御意向にさからうわけには参りませぬ、やつかれは故郷に戻ります、ただ、一つだけお願いがございます」
「内容による、申してみよ」
「もし王子様が、何時の日か再び征討将軍としてまつろわぬ賊を従わせに出陣なさる時は、どうか供の端に加えていただきたいのでございます」
猪喰は顔を上げたまま地に両手をついた。猪喰の手は土を強く掴《つか》み、関節が異様に膨れて見えた。
タケルは猪喰の熱気を肌で感じた。
「再び征討将軍か、吾としては暫《しばら》く休みたい、東の国は西国よりもまつろわぬ国が多いらしい、だが二、三年先か、ひょっとすると十年先かもしれぬ」
「十年でも、二十年でもお待ちします」
猪喰の言葉は遠くに離れている恋人を待つ女人に何処か似ていた。
「よし分った、そういう時がもし来た時は、必ずそちを呼ぶ」
「王子様、約束でございます」
「そうじゃ、約束じゃ」
タケルは、帯にはさんでいた刀子《とうす》(小刀)を渡した。約束の証《あかし》だった。
「有難き幸せ、やつかれは心をはずませ、故郷に戻ります」
「身体には注意しろ、そちが病の身であったら、呼ばぬぞ」
「心得ております」
「そちには妻子がいる、幸せにしてやるのだ」
猪喰は叩頭したが答えない。
妻子はいると告げたが、家族については口にしなかった。何か複雑な事情があるのかもしれない。それを感じるが故に、タケルは猪喰に家族の話を殆どしなかった。
タケルは武彦に丹波への道を訊《き》いた。
「船で印南へ行き、印南川をさかのぼり、山を越えますと出石《いずし》の方に出ます」
「但馬《たじま》の出石か、新羅《しらぎ》王子の天日槍《あめのひぼこ》が来たという土地だな、猪喰、二人ほど従者をつけよ」
「やつかれ一人で充分です、供は足手|纏《まと》いになります」
「そちらしい、旅は自然の気持で行くものだ、そちの意のままにせよ」
土にめり込んでいた猪喰の膝が浮いた。
タケルは眼を剥《む》いた。猪喰の身体が三寸(九センチ)近く宙に浮いている。理由はすぐ分った。土につけた両手に力を込め身体を浮かしているのだ。
タケルも初めて見た技である。武彦も唸《うな》り鼻を鳴らした。
地面から離れたまま猪喰の身体が後ろに動いた。猪喰は音を立てずに立っていた。
これでは、従者は足手纏いになるのも当然である。
武彦が腕を叩《たた》いたのは、知らなかった猪喰の技を見、武術仕合をしたくなったからであろう。
タケルには武彦の胸中が手に取るように分る。タケル自身も猪喰と武術を競い合いたくなったからだ。
タケルは武彦にいった。
「好い匂いがする、今日の焼き魚は何かのう?」
「多分アジです」
と武彦は答えた。
「アジの塩焼きか、唾《つば》が出てくるぞ、さあ屋形に戻ろう」
とタケルは笑った。
タケルは吉備武彦を残し、播磨の印南川で船から降りる猪喰を乗せ吉備国を出た。
晩秋もそろそろ終ろうとしている。波は荒かった。その分だけ櫂《かい》を漕《こ》ぐ舟子達の声は勇ましい。
印南の川口に船を着けた。
猪喰は十日分の焼き米と防寒用の麻布を背負った。タケルは上質の絹布五匹を土産として渡した。当時の絹布は米と共に貨幣の価値がある。猪喰は絹布を麻布で包み縄で縛って手に持った。
刀は帯に差し、弓は肩にかけている。矢は十本ばかり束ねて背中の麻布にくくりつけていた。
タケルは舷側《げんそく》で猪喰を見送った。身体一杯荷をつけているにも拘《かかわ》らず、猪喰は猿のように縄梯子《なわばしご》を下りた。
小舟に乗り移る際も身軽で、殆《ほとん》ど小舟は揺れなかった。当時の小舟は丸木舟に近い。それが揺れないのは身が軽いせいではない。一種の武術といって良い。忍び歩く間者には最も必要な武術だった。
タケルは猪喰を帰したことを微《かす》かに悔いた。
タケルの船は住吉津に着いた。タケルは到着を知らせる使者を穂積内彦《ほづみのうちひこ》と宮戸彦に遣わした。共に戦った部下達がやってくるまで住吉に滞在した。
大和に直行しなかったのは、オシロワケ王がどういう気持を抱いているか、知りたかったからである。
吉備国に滞在し過ぎたので、不機嫌でいるのは間違いなかった。
住吉津辺りは白砂青松の浜だった。その白浜は高師浜の先まで続いていた。
まだ当時は大山《だいせん》古墳(伝仁徳陵)も百舌鳥《もず》陵山古墳(伝履中陵)もない。それ等の巨大古墳ができたのは五世紀の半ばだから、タケルの時代よりも数十年後であった。
タケルが砂浜に腰を下ろして海を眺めていると内彦が到着した。
タケルは、内彦を砂浜に案内せよ、と部下に命じた。
内彦はタケルに、宮戸彦以下、タケルの側近の部下達は明日の早朝にでも打ち揃《そろ》ってタケルを迎えるべく来る旨を告げた。
「明日の早朝、それでは夜を徹して来るつもりか、半日ぐらい遅くなっても構わないのじゃ、慌て者ばかりだのう」
タケルは苦笑し舌打ちしたが、部下達の気持が嬉《うれ》しい。
「本来なら、王子の到着の知らせを受けた者から駆けつけるはずでございますが、それでは不公平になるという声が起こり、一団となり参ることになったわけです、幸いやつかれは、妹が王子の妃《きさき》なので、一足先に参ることを許されたわけです」
「うむ、弟橘媛はどうじゃ、身籠《みごも》っていたというが」
「はい、今月か来月か出産予定でございます、本人は一日も早く王子をお迎えしたく住吉に参りたいと申しておりましたが……」
内彦が口籠ったのは、タケルに気を遣ったからであろう。
多分、その身体で王子をお迎えに行けるのか、万一のことがあればどうするつもりじゃ、と内彦が止めたのかもしれない。
「いや、無理をしない方が良い、大和でゆっくり会える、それはそうと、父王の御機嫌は……」
タケルは口辺に薄い笑みを浮かべた。そちがいわずとも大体察しはついている、とタケルの微笑は告げていた。
内彦は慎重に話しはじめた。
オシロワケ王は、熊襲の援軍を得た狗奴《くな》国が敗れた経過を聴くと機嫌が良かった。
タケルの武勇を褒め、小碓《おうす》(タケルの実名)は、軍事将軍になるために生まれてきた男子だと満足気だった。
先に帰り、戦の経過をオシロワケ王に報告したのは内彦と宮戸彦である。
二人はタケルが熊襲タケルから名前を貰《もら》い、小碓をタケルと変えた件を伝えた。
「どうしたのじゃ、父王の機嫌が悪くなったか」
「はあ、戦勝報告では御機嫌が良かったのですが……」
と内彦は口籠った。
「当然であろう、父王にとっては熊襲タケルは蕃《ばん》族の首長だ、そんな者の名を何故貰うのか、と怒られるのは当然じゃ、誰でもそう思う、だが案ずることはない、吾《われ》はちゃんと理由を述べる、父王が納得されるようにな、納得されなければそれで良い」
「はあ、それだけならあまり気になりませんが」
「何だ、奥歯に物のはさまったようないい方をするな、はっきり申せ」
「こういう問題は、今申し上げるべきではないかもしれませんが……」
内彦はいいにくそうにいって、冷たい潮風を浴びた額に手を当てた。
「どういうことじゃ、弟橘媛の兄である以上、そちは吾の縁者だ、二人切りの時は、遠慮せずに何でも申せ」
「では申し上げます、王も御高齢です、いずれ王位継承問題が持ち上がりましょう……」
といって内彦は視線を伏せた。
内彦は勝手に名前を変えたことについて、オシロワケ王が完全に納得しなければ、王位継承問題が起きた時に不利になる、といいたかったのであろう。
タケルは、王位などに未練はない、といいたかった。
もし数年前なら、激しい口調でそれを告げていたであろう。だがタケルは喉《のど》まで出かかった言葉を呑《の》んだ。部下達の気持を察したからである。
タケルの側近の部下達は、タケルが王になることを望んでいるに違いないのだ。それを思うと王位など要らぬ、と軽々しくいえない。
「内彦よ、吾も王位を考えぬわけではない、ただ王位に執着し、父王の機嫌を取るのは吾の性に合わぬ、王位というものは、入る時は自然に入ると思っておる、父王よりも天神が決めてくれるであろう」
「やつかれも、そうは思いますが……」
「矢張り父王の意向も無視できぬ、と申したいのであろう、心配するな、実際に戦を体験し、吾も色々と得るところがあった、機嫌を取るのは苦手だが、童子のように反抗したりはしない、さあ屋形に戻るか」
「王子、安心しました」
「ただ父王の意はヤサカノイリビメが産んだ王子達にある、多分吾の母は、心まで父王に与えなかったに違いない、父王はそのことを根に持っているかもしれぬ」
タケルは砂を蹴《け》るようにして立った。内彦への信頼感から出た言葉だが、それはタケルが自分自身にいい聞かせた言葉でもあった。
翌朝|卯《う》の下刻(午前六時―七時)大勢の部下達が住吉に到着した。道案内人となったのは大伴武日《おおとものたけひ》の部下だった。
武日の一族は住吉周辺にも勢力を伸《の》しており、大和と絶えず往来している。
一行は夜に入った頃、舟で河内《かわち》の平野川を下り河内湖に入り桑津で上陸、住吉に着いたのである。
早朝に着く予定だったが遅れたのは、途中で月が厚い雲に入り暗闇になったからだった。桑津付近で上陸場所が分らなくなり、夜が白むまで待ったのだ。
桑津から住吉まで約一里(四キロ)強だから、上陸してからは半刻《はんとき》(一時間)ちょっとしかかかっていない。
一行の中でもオシロワケ王の命令で大和に残り、戦に加わらなかった大伴武日や美濃弟彦《みののおとひこ》は感動で眼を潤ませた。
タケルが一段とたくましくなったような気がする、と告げた。
久米七掬脛は住吉の海で釣れた魚、また海人が海に潜って獲《と》った鮑《あわび》や栄螺《さざえ》を自ら料理した。
酒が入ると戦の話になる。
宮戸彦が女人に騙《だま》され、重傷を負った話など何度聞き返しても飽きることはない。
宮戸彦が渋面をつくるのを見て、
「もう、その話はやめろ」
とタケルは止めた。笑っているがその眼は宮戸彦の胸中を察せよ、といっている。
話題は、タケルに移った。
「王子、皆、色々と噂をしていますが、熊襲タケルは懸崖《けんがい》を這《は》い登り、宙を飛んできたとか……やつかれも凄《すさ》まじかった勝負を知りとうございます」
と大伴武日がいった。
戦に参加できなかっただけにタケルの口から直《じか》に聴きたかったのだろう。
皆の眼がタケルに注がれた。
二人の勝負を知っているのは、この中では内彦と久米七掬脛だけだった。
「熊襲タケルは……」
口を開きかけた七掬脛は、
「黙れ! 吾が話す」
タケルの一喝を浴び思わず首を縮めた。
タケルはゆっくり酒杯を傾けた。
「噂は大きくなる、熊襲タケルは西海の彼方《かなた》の国に棲《す》むという龍のようにいわれている、それでは彼が可哀相だ、吾は龍から名前など貰わない」
一座は静かになった。
タケルは顎《あご》の下から血を噴き出しながら棒立ちになった熊襲タケルの顔を思い浮かべた。赤銅色《しやくどういろ》の顔が見る見るうちに蒼白《そうはく》になった。
こうして思い浮かべると、獰猛《どうもう》というよりも悲し気な眼をしていたように思える。
何故だろう、とタケルは今更のように小首をかしげた。
ひょっとすると熊襲タケルは、自分について語られ膨れ上がった虚名を何処かで苦々しく思っていたのかもしれない。
だからこそタケルの名を貰ったのだ、とタケルは自分に頷《うなず》いた。
タケルは酒をあおると部下達を眺めた。
「今、大伴武日は、タケルは懸崖を這い登り、宙を飛んだ、といった、それが噂であろう、このような話は、語られる度に大きくなるものだ、彼は武勇の長《おさ》だが超人ではない、あの岩のある斜面なら、吾でも登れる、吾は山登りが得意だったからのう、それに彼の脚力は確かに素晴らしい、姿を現わすと二丈(六メートル)は跳んだであろう、跳躍力なら吾と同じぐらいだ、ひょっとすると内彦の方が優れているかもしれぬ」
「王子、とんでもありませぬ」
内彦が肩を竦《すく》めた。
「いや、遠慮することはない、吾はどの程度の武勇の士を斃《たお》したかを話しているのだ、ただ力は大変なものじゃ、宮戸彦に勝るとも劣らぬ、それは彼が槍《ほこ》(矛)を振り廻した時の空気の唸《うな》り声で分った、風を起こした」
宮戸彦が息を吐き出した。唸り声に似ていた。
「吾は甲冑《かつちゆう》を脱いで良かった、と闘志を燃やした、これで吾は身軽さの点では彼より勝ったことになる、その自信が勝敗を分けたのだ、吾は余裕を持ち彼の力を消耗させた、結局熊襲タケルは吾の策にはまり自滅したといって良い、彼を超人のように噂するのはやめよ、吾には超人を斃す力はない、これが真相だ、真相とはそんなものなのだ」
一同は思い思いの感慨を込めた吐息を洩《も》らす。武日は叩頭《こうとう》した。
「王子、お話を伺い身が締まりました、王子は今、武術とは何かを語られたのです」
「そうじゃ、しかし王子、よく策と技が一体となりましたのう、一対一の闘いでは策を練っている間がありませぬ」
と宮戸彦が顎を撫《な》でた。
「勿論《もちろん》じゃ、その暇はない、あれ以来吾はどう闘ったかをよく考えた、考えた結果を話したのだ、多分、間というのは閃《ひらめ》く光のようなものであろう、その一瞬の間にどう出るかを心と身体が決める、多分、あのような決闘は、もう二度とできぬような気がする、さあ、武術談はこれで終りだ、今日は愉《たの》しく酒に酔おう」
タケルが酒杯を高々と掲げると、一同は歓声をあげた。
酒宴は夕餉《ゆうげ》まで続けられた。
翌日ヤマトタケルの一行が、大和に出発する準備をしているとオシロワケ王の使者、忍之別《おしのわけ》王子が来た。
忍之別王子はオシロワケ王とヤサカノイリビメの間に生まれた第三王子である。二十歳を出たばかりだが、ヤサカノイリビメを母に持つだけに王子としては有力だった。
タケルは忍之別王子と会う前に甲冑を纏《まと》った。王子は屋形で待たした。
タケルは、刀を吊《つる》し矢筒を背負い足音も荒く部屋に入った。
忍之別王子は、気配で振り返り眼を剥《む》いた。タケルの甲冑には戦塵《せんじん》の匂いが染みついている。
若い王子はそれだけで圧倒され身体は石のように硬くなった。
タケルは荒い足音のまま忍之別王子の傍を通ると上座に坐《すわ》った。
金銅の環頭の刀をはずすと傍に置いた。忍之別王子は唾《つば》を呑み刀を眺めた。眼の奥が引き攣《つ》っていた。刀に血痕《けつこん》でもついていないか、と緊張しているのだ。
タケルは笑いたくなるのを我慢し、
「忍之別王子、何の用で見えた?」
と重々しい声を発した。
王子は我に返り、胸を反らした。顔を歪《ゆが》めたのはあまり慌てたせいで首の筋を痛めたからであろう。
「大伴武日に伝えたはずですぞ、吾は父王の命令を伝えに参った」
「父王の御機嫌は如何《いかが》かな?」
「うるわしいはずはござらぬ、兄王子が勝手に名前を変えられ、しかも、長期間吉備に滞在し、まだ戦の報告をされていない、父王はお怒りです」
「昨日、吾の部下が迎えに来たばかりじゃ、明日の早朝に大和に向うつもりでいた、忍之別王子よ、おぬしは戦を知らぬ」
「それは……」
「恐ろしい戦であった、戦の報告を父王に伝えるために吾が遣わした穂積内彦、葛城宮戸彦からすでに詳細は報告されていると思うが、吾を始め部下達は未知の山野で死の鬼神と戦ったのだ、吾がこうして甲冑を纏っているのも何時、死の鬼神が襲ってくるか分らぬからだ、恐怖心で頭がおかしくなったせいかもしれぬのう……」
「恐怖心、武勇の兄王子が……」
忍之別王子は窺《うかが》うような眼になった。王子が知っている倭男具那《やまとのおぐな》は、恐怖心とは全く無縁な王子であったからだ。
「ああ、吾が吉備に滞在したのは、恐怖の心を洗い流すためだった」
「しかし、まだ甲冑を……」
「そうじゃ、完全に洗い流せないからだ、今も何処からか死の鬼神が吾を狙っているような気がしてならぬわい」
タケルの声は大きい。
外の部下達は、自分達の主君は気でも狂われたのではないか、と耳を欹《そばだ》てているに違いなかった。
「そ、そんな……」
と忍之別王子はどもった。馬鹿な、と自分の耳と眼を疑ったのであろう。
タケルは王子を睨《にら》んだ。眼に異様な光が宿る。それは狂気に似た光の矢で四方に散っている。それだけに不気味だ。
タケルは傍に置いた刀を掴《つか》むと眼の前に立てた。今にも柄《つか》に右手がかかりそうである。王子の顔から血の気がなくなった。白い石に化したようだった。
タケルは黄泉《よみ》の国の鬼神が放ったような含み笑いを洩らした。タケルの顔が四方に動く。
「来ているぞ、来い、斬ってやる」
タケルの眼が再び王子に注がれた。王子は悲鳴にも似た声をあげた。
「あ、兄王子、吾は忍之別王子じゃ」
「ふむ、忍之別か、何の用で参った」
「父王の御命令です、そう申した」
「いや、聞いてはおらぬぞ」
「申し上げた」
「おぬしは確かに忍之別か?」
「そうです、父王は早く宮に参り戦勝を報告するように、と吾を遣わされた、吾は父王の代理じゃ、く、狂われたか……」
忍之別王子は立とうとし、腰を落した。刀が鳴り半分ほど刀身が現われ冷たい光を放っていた。
「王子、王子、如何なされました?」
部屋の入口には部下達が不安そうな顔を揃えていた。
「吾を狙っている、だから斬る」
タケルが刀を抜こうとすると、部下達は部屋に跳び込み、忍之別王子の前で平伏した。
もしタケルが王子を斬ったりすれば、オシロワケ王はタケルを許さない。
「王子、気を確かに……やつかれです、宮戸彦です」
宮戸彦は胸を叩《たた》き、部屋中に響き渡るような声で呼んだ。獣の咆哮《ほうこう》のような音声《おんじよう》でタケルを正気に戻そうとしたのかもしれない。
「宮戸彦か、おう、そこで慄《ふる》えているのは忍之別だな、今から戻り父王に申されよ、大和に戻り次第、御報告に参ると、ただ吾は怪しい鬼神に狙われているので甲冑を纏って参るが、他意はない旨を伝えるのだ、さあ、先に戻れ」
忍之別王子は転がるようにして屋形を出た。王子は山人達が担ぐ輿《こし》に乗り二上山に向った。
昼なら、真東に進めば二上山を越え、大和に入る道が便利だ。後に竹内道といわれるようになったが、比較的|平坦《へいたん》な道である。部下達が平野川から河内湖に舟で入ったのは徹夜で来たからだ。夜は舟が便利だ。
タケルは不安そうな部下達を前にして手を横に振った。
「心配するな、鬼神の間者は忍之別と共に去った、もう何時もの吾だ、出発は明日にしよう」
部下達は叩頭したまま動かない。
「どうしたのじゃ、訊《き》きたいことがあれば遠慮なく申せ」
「分りました、ただ王子が忍之別王子の前で刀を抜こうとされたので、皆驚いた次第です」
「ちょっと脅したまでだ、あれで良い、それに忍之別は、吾が戦の恐怖で気がおかしくなったといいふらすであろう、それで構わぬ」
内彦が膝《ひざ》を進めた。内彦は弟橘媛がタケルの妃《きさき》となり、子を産もうとしているだけに他の部下よりも口を開きやすい。
「王子、それでは王子の名に……」
傷がつきます、といいたかったのだろう。
ただ内彦の眼は、タケルが本心でいっているのかどうかを探っていた。
「吾の名か?」
タケルは宙を睨んだ。その瞬間タケルの身体は二尺(六〇センチ)ほど宙に跳んでいた。
鋭い気合と共に刀身が一閃《いつせん》し鞘《さや》におさまった。まさに眼にも止まらぬ早業である。
「今、襲ってきた鬼神を斬ったところだ、何だその顔は……」
タケルは謎めいた笑みを浮かべ一同を眺めた。流石《さすが》にタケルのためには生命も惜しくないという部下達も視線を伏せる。
「内彦に答えよう、吾は吾だ、名前など問題ではないぞ、さあそれぞれ休め、警護する者は吾の隣りの部屋だ、吾は眠るぞ、昨夜の酔いがまだ残っているわい」
タケルの異様な言動は側近の者達だけではなく、兵士達の間にも伝わった。
タケルの声が大きいので声が筒抜けである。
翌朝、住吉を出発した際のタケルは何時ものタケルに戻っていたが部下達の口は重く表情は暗い。
天下の豪傑を自負している宮戸彦さえも、幅広い肩が落ちていた。
タケルは九州に連れて行った愛馬に乗った。すでに四世紀の後半に入っているが、北九州に較べると馬は数えるほどだ。
大和やその周辺で乗馬が普及したのは五世紀に入ってからである。
早朝の出発前、宮戸彦や内彦を始め主な部下達は、タケルの異様な言動について胸の中を打ち明けた。
タケルが忍之別王子に対し、気がおかしくなっていると思わせようとしたのではないか、というのが一同の主な意見だった。兼々《かねがね》、オシロワケ王がタケルに好意を抱かず、タケルの優れた武勇に警戒心を抱いていることを部下達は知っていた。
一同の中で一番古くからタケルに仕えているのは内彦と宮戸彦である。
二人は竹を割ったようなタケルの性格を熟知していた。
二人はタケルは多分、オシロワケ王の警戒心を解くために恐怖の鬼神に取り憑《つ》かれたふりをしたに違いない、といい張った。
「となると、我々にも演技されたわけか、宙に跳び、鬼神を斬られた時の形相には演技と思えぬものがある」
大伴武日が腕を組んだ。
「それが問題じゃ、何も我々にまで演技される必要はない、だから一抹の不安は残る」
と宮戸彦が顎《あご》を捻《ひね》りながら内彦に同意を求めた。
「その通りだ、我々を信頼されているはずだ」
と内彦が眉《まゆ》を寄せた。
「吾はよく料理を作った、恐怖心に捉《とら》われると食事の際、無意識にしろ、毒が入っていないか、と不安に思うものだ、王子様には、そういう気配が感じられなかった、戦の前も、戦の後も、それに凱旋《がいせん》される最中も同じだった、演技なさっているようには思えませぬが」
七掬脛は側近の中では新参者だけに、宮戸彦や内彦には一歩譲るところがあった。それに豪族としても、葛城・大伴・穂積・吉備などに較べると地位が低い。これは美濃弟彦や丹波猪喰なども同じである。
自然、先輩の内彦達には丁重な言葉遣いになったりする。
美濃弟彦が小さく頷《うなず》いた。弟彦は自分の意見を口にしない。
「そうだ、演技をされているのなら七掬脛や猪喰が見抜く、猪喰奴、王子の命令に従わず、隠れて付いてくれば良かったのじゃ、おい猪喰」
宮戸彦が周囲を見廻した。
一瞬一同は、猪喰が床の下から現われてきそうな気がした。だが猪喰は現われなかった。この時一同は、猪喰の価値を今更のように強く認識したのである。
大伴武日が思い出したようにいった。
「美濃弟彦、おぬしはどう思う、共に王子に生命を捧《ささ》げる男子じゃ、遠慮せずに意見を述べよ、水臭いぞ」
「遠慮はしておらぬ、先刻より考えておりました、確かに皆がいったように、演技とは見えぬが、王子の御心中を推測すると演技と考えてもおかしくはござらぬ、おそらくいずれにしろ、或《あ》る時機が来るまで真実は分らぬような気がする、その点、内彦殿は王子の縁者、内彦殿一人が、絶対口外せぬと王子に約束されて、それとなく真実を訊かれては如何《いかが》でしょう」
「それは皆が望むところだ、昨日も内彦が訊こうとしたら、突然王子は宙に跳ばれた、どうも演技臭い」
と武日がいった。
「そういわれれば演技臭いぞ、王子らしい演技かもしれぬ、内彦頼む」
宮戸彦は力を得たようにいって内彦に頭を下げた。
「いや、王子は縁者だからといって口を割られるような方ではない……」
内彦が渋面を作ったのは、タケルの縁者といわれたせいかもしれない。内彦はそのことで特別な眼で見られるのを嫌っていた。
結局、タケルがオシロワケ王に会うまでに、内彦一人が訊くことで一同の話は纏《まと》まったのである。
タケルは甲冑《かつちゆう》を纏い、一行は三刻(六時間)ほどで石川に達した。石川は後に楠木正成で有名な千早赤坂周辺の山中に源を発し二上|山麓《さんろく》で大和川と合流する。大和から流れて来た大和川は、その辺りで玉串川・長瀬川・平野川となり河内湖に注ぐ。古代では大坂城や四天王寺のある上町台地の東方は、東は生駒《いこま》山麓まで湖だった。
一行は石川の傍で一休みした。一行の中には男子と共に下働きの女人も混じっている。男子は小川に放尿し、女人は草叢《くさむら》にしゃがむ。
幸い晴天で晩秋にしては暖かい日だった。
山々の紅葉も終ろうとしていた。冬になっても葉の落ちない山林の緑も薄い。川の東は高台になっており二上山に続く。
タケルが勢い良く放尿を終えると内彦がやってきた。
「王子、いよいよ大和でございますなあ」
「ああ、ここまで来ると、大和の優雅な風景に早く接したくなる、弟橘媛とも会いたい」
「媛も同じ思いでしょう」
内彦の言葉が途切れたのは、どう話せば本音を知ることができるだろうか、と一瞬迷ったからだった。
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出 産
石川の水は滔々《とうとう》と流れていた。川岸の葦《あし》の間には小魚を求めて水鳥が泳いでいる。
穂積内彦《ほづみのうちひこ》はタケルの恐怖が本物かどうかを探るために色々と質問したが、タケルの態度には別に変ったところがなかった。
「王子は怒られるかもしれませんが、少し気になることがございます」
「何が気になると申すのだ? 遠慮せずに申せ」
「では申し上げます、王子は恐怖の鬼神に取り憑《つ》かれたと忍之別《おしのわけ》王子に話されました、それが拡まり名に傷がついても構わぬと……今でも、そうお考えでしょうか?」
「何だ、またその話か、一向に構わぬぞ、吾《われ》は嘘をついてまで武勇を誇りたくない」
「しかしやつかれは、熊襲《くまそ》タケルを王子が斃《たお》された後、一足先に戦の報告のために戻りました、僅《わず》かの間とはいえ、王子に恐怖の鬼神が取り憑いた御様子は全く見られませんでした、吉備《きび》に滞在された時のことは知りませぬが、住吉でお迎えした時の王子は、戦で、一段とたくましくなられ、まさに大将軍にふさわしい風格を備えられました、宮戸彦《みやとひこ》を始め、王子にお仕えしている一同は喜んだ次第でございます」
内彦は唾《つば》を呑《の》んだ。何時もの自然体で話しているつもりだが、どうしても緊張してしまう。主君の本心を探っているのだ。緊張しない方がおかしい。
「内彦、一体何をいいたいのだ、武勇の王子に仕えたつもりだったが、戦から戻ってみると、恐怖の鬼神に取り憑かれた王子に変っている、こんなはずではなかった、もう仕えるのは止そうといいたいのか?」
「王子、とんでもございませぬ」
内彦はその場に平伏した。
「おおい、妙なのはそちではないか、突然、地に伏したり訳が分らぬ、まあ、その伏せ方は実に素早く、そちの武術が衰えていないのが窺《うかが》えて喜ばしいがのう」
明らかにタケルは内彦をからかっていた。
タケルを見上げる内彦の眼は充血している。ここまで話せば、内彦が何をいいたいのか、タケルには察しがついているはずである。
タケルがとぼけているのか、察しがつかないのか内彦にはまだ分らない。
ここまで来た以上、廻りくどい訊《き》き方は捨てねばならない、と内彦は決心した。
「王子にお訊きします、やつかれは王子が申される恐怖は、王子の武勇を警戒されるオシロワケ王の眼を欺《あざむ》くためのものと推察しております、甲《かつ》冑ちゆうを纏《まと》い、忍之別王子に会われたのも、大変な演技と感心致しました、ただ、人の眼を欺くためのものなら、その旨をやつかれだけには知らせていただきとうございます、誰にも洩《も》らしませぬ、王子、この通りです」
内彦は草を引き抜くと口に銜《くわ》えた。口が見えなくなる。内彦は口を失っても洩らさない、と告げているのだ。
タケルは含み笑いを洩らすと、
「内彦、立つのじゃ」
と呟《つぶや》きながら、この手に縋《すが》れ、といわんばかりに腕を差し出した。主君であるタケルがすべきことではない。内彦は跳び上がった。
「王子、勿体《もつたい》のうございます、二度となさいますな」
「のう内彦、吾にはそちが変ったように思える、吾は自分の心を欺き、演技のできるような男子《おのこ》ではない、そのことはそちが知っているはずだ、確かに吾は武勇の王子といわれてきた、音羽山の鬼神といわれていた丹波森尾《たんばのもりお》を斬り、西の国に行ってはその名も高い熊襲タケルを斃した、住吉で話したようにタケルは超人ではないし、吾も超人ではない、武勇の裏側には恐怖も潜む、多分、住吉で、あの向うが大和だとほっとしながら生駒《いこま》山や二上山を眺めた時、これまで隠れていた恐怖の鬼神が牙《きば》を剥《む》きはじめたのだ、鬼神も怯《おび》える武勇の王子という虚名にいささか疲れたのかもしれぬ、裸になって少し休みたくなったのであろう、内彦、皆の者に申せ、時には春の陽射しのような眼で吾を眺めよとな、そうでなければ、そち達の眼にも吾は疲れる、内彦、分ったな」
「王子、分りました」
内彦は旨《うま》くいいくるめられた思いだった。そんな内彦が戻ると一同の視線が集中する。結果はどうだった? と皆が訊いているのだ。
分らぬ、と内彦は首を横に振った。一行は石川の東側の高台を進み竹内道を進んだ。当時の道としては比較的幅が広い。
といっても二人が並んで歩ける程度だが、こんな道は滅多にない。
二上山では古い時代から矢尻《やじり》の石を始め、石器に使用された石が採れた。
弥生時代よりも古い縄文時代の石の採掘場もある。
竹内道は、採掘場に向う人々が自然に作った道だ。
古代人の脚は強力である。時には馬に優る場合もあった。急な坂道にかかった時、タケルは馬から降りた。
タケルの馬の手綱を取ったのは大伴武日《おおとものたけひ》の部下だった。
葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》と内彦がタケルの前を進んだ。
内彦がタケルとの遣《や》り取りを話したのは、峠を越え当麻《たいま》に着いた時だった。
当麻には勇猛な豪傑がいた。垂仁《すいにん》帝時代に、出雲出身の野見宿禰《のみのすくね》と素手の仕合をして負けた。蹴殺《けころ》されたのである。
野見宿禰は海の彼方《かなた》の武術を心得ていた。足技である。
童子時代にタケルはその話を聞き、山に登ると足技を磨いた。タケルの武術が人々に恐れられるほど優れたのはそのせいだ。
野見宿禰は殉死の習慣を廃し、埴輪《はにわ》を墳墓に立てることを提案し採用された。宿禰の子孫は土師《はじ》氏を名乗り埴輪を作り、主家の葬儀を掌《つかさど》るようになった。
当麻の高台で一行は水を飲んだ。当麻はまさに大和の地だった。右手前方は葛城|山麓《さんろく》から連なる丘陵地帯と平野である。
苔《こけ》に覆われた岩のような感じの畝傍《うねび》山が坐《すわ》り、その北方の耳成《みみなし》山は華奢《きやしや》で若い女人の乳房に似ている。畝傍山の彼方は丘陵地帯と、後に飛鳥の都となった小盆地である。吉野の山々に連なる多武峯《とうのみね》には雲が垂れ込め、三輪山は淡い霧に霞《かす》んでいた。
三輪山の麓《ふもと》にはオシロワケ王の巻向宮《まきむくのみや》や、王族達の屋形が集まっている。
宮戸彦は竹筒の水を飲み、熊笹に勢い良く放尿すると内彦の傍に立った。
「内彦、おぬしでも分らぬのか?」
「分らぬ、ただ王子はあまり吾の行動に気を遣うな、といわれた、王子は、王子に取り憑いた恐怖の鬼神について我々が疑心暗鬼に陥り、探ろうとしていることを察しておられる、気を遣うな、といわれたのは、もう放っておけ、という意味じゃ」
「つまり構うな、といわれたのだな、それも何時もの王子らしくないではないか、王子は我々の主君だが何時も心を開かれていた、隠し事はなかった、急に心を閉じられたのはおかしい、王子の身に何か起こったか、また、我々を信用されなくなったのか……」
宮戸彦は不機嫌だった。タケルは主君であると共に裸で接しられる仲間でもあった。だからこそ宮戸彦は、タケルのために生命を捧《ささ》げるつもりでいるのだ。宮戸彦は身体が大きく力持ちだが情の男子だった。
「信用はされている、ただ暫《しばら》くの間、一人になりたい、といわれているのだ」
と内彦は説明したが、宮戸彦には理解できないようだった。
「内彦、吾は王子に対しお節介を焼いたことはないぞ、ただ王子の気持が何処にあるのか分らぬようでは不安でならぬ」
「では、今度はおぬしが当ってみれば良いではないか……」
「おぬしに話さない王子が、吾に話すはずはない」
と宮戸彦はふくれた。
「それは分らぬ、王子はおぬしに親愛感を抱いている、それぐらいおぬしだって分っているだろう」
「親愛感、それは皆同じだ、王子は依怙贔屓《えこひいき》をなさる方ではないぞ」
と宮戸彦は反駁《はんばく》したが、嬉《うれ》しさは隠しようがない。そういうところは童子のように単純だった。
一行は再び出発した。
当麻から畝傍山の北に出、東行し耳成山の南に達した時、晩秋の陽は西に傾きつつあった。
宮戸彦は、その間何度かタケルに話しかけようとしたが、何となく見えない幕に遮られているようで声をかけられない。別に気難しい顔ではなく、時には馬上で眠っているにも拘《かかわ》らず、見えない幕は消えないのだ。
泊瀬《はつせ》川まで達した時、五百城入彦《いほきのいりびこ》王子が部下と共に対岸まで迎えに来た。
使者を乗せた舟が川を渡ってきた。
使者は五百城入彦の伝言を内彦に告げた。タケルの凱旋《がいせん》を歓迎するためオシロワケ王は、五百城入彦王子を遣わしたが、宮に参るのは明日で良い、という。
「その件は承知した、我々は舟で川を渡る故、その場で待つようにと五百城入彦王子に伝えよ」
とタケルは内彦を通し、使者に伝えた。
川の西岸には、タケルの側近の部下が集まっている。総勢で五十人ほどだ。
大伴武日は有力な軍事氏族でもあり、部下は多い。
「さあ、川を渡るぞ」
とタケルは大声で命じた。
一行はすでに用意した舟にタケルを乗せた。タケルの舟には内彦と宮戸彦が乗る。
側近の中ではこの二人が最も古くからタケルに仕えているのだ。
一行が泊瀬川の東岸に近づくと、五百城入彦王子が二十歩ほど後ろに退《さ》がった。親衛隊の兵士十数人が王子を守るように身を構えている。
「王子、五百城入彦王子は、我々が攻撃すると恐れられているようですぞ、凱旋将軍を迎える態度ではない」
と宮戸彦が鼻を鳴らした。
「どうやら巻向宮は、王子を警戒している」
内彦が不安そうにタケルを見た。
「吾が甲冑《かつちゆう》を纏《まと》っているからだろう、それに忍之別王子は、吾の気がおかしい、と報告しているに違いない、当然王子は誤って吾に斬られるのではないか、と恐れ緊張している、滑稽《こつけい》なことじゃ」
「では王子は、わざと狂気をよそおっておられるのですか?」
この時とばかり宮戸彦が訊《き》いた。
「そちも疑っているのか、吾は戦の鬼神が恐い、だから甲冑を纏っている、別に他意はない、内彦にも説明したはずだ」
タケルに睨《にら》まれ、内彦は叩頭《こうとう》した。宮戸彦も広い肩を落した。
舟は東岸の船着場に着いた。
内彦が舟から降り、動かぬよう舟を押えた。重い甲冑を纏っているにも拘らず、タケルは身軽に舟から降りた。
側近の者達が舟から降りタケルの傍に集まった。
タケルは舟で運ばれた馬に乗った。
「五百城入彦王子、吾は狗奴《くな》国と熊襲軍を破り、熊襲タケルを斃《たお》し、勝利と共に凱旋した、遠く離れて吾を迎えるとは解せない、迎えるのなら傍に参られよ」
戦塵《せんじん》の中をかいくぐったタケルの声は一段と大きく、大和の山野に響き渡った。
「小碓《おうす》王子、父王も喜んでおられる、吾は王の代理で参った、おぬしこそ、馬より降り、吾の傍に来て報告されよ」
と五百城入彦王子も大声で答えた。
ヤサカノイリビメが産んだ王子の中では、入彦王子は武術が優れている。
「おう、離れていては報告できぬ、傍まで行き馬から降りる故、その場におられよ」
タケルは周囲の部下に、
「進め」
と腕を振った。
驚いたのは入彦王子だけではない。部下達は眼を剥《む》きタケルを見直した。
タケルの態度は戦の際の突撃命令に何処か似ていた。
「吾と共に進むのじゃ、吾が凱旋を告げる間、吾の後ろに従え、何をしている」
タケルの声は山野に響き渡った。
五百城入彦王子は口が渇いた。幾ら気がおかしくなっていても、王の代理である吾を攻めたりはすまい、と自分にいい聞かせる。げんにタケルの部下達はとまどっているではないか。
入彦王子は親衛隊の隊長に小声で告げた。
「吾の両側と前を固めよ、念のためだぞ、相手が刀を抜くまで待て、こちらからの攻撃は絶対ならぬぞ」
凱旋将軍を迎えに来たのではない。敵を迎え撃つために来たようなものである。
数名が入彦王子の前に立った。
タケルは悠然と進んだ。宮戸彦や内彦も仕方なくタケルに従ったが、入彦王子の迎え方に殺気を感じ、
「場合によっては戦になるかもしれぬぞ」
と眼で告げ合った。
タケルは数歩前まで近寄った。甲冑を纏ったまま身軽に馬から降りた。
「入彦王子、王子の部下は吾の前に立ち塞《ふさ》がっている。無礼であろう、伏せよ、さもないと斬る」
タケルの眼光は磨いた刃物そのものだ。入彦王子は射竦《いすく》められたように馬から降りた。
タケルは親衛隊を睨みつけながら前に出た。石のように立っていた兵士達が驚いて道を開けた。
「蹲《うずくま》るのじゃ」
と入彦王子が叫んだ。
慌てて兵士達は蹲り叩頭した。
タケルは緊張のあまり眼を剥いたように見える入彦王子の前に立った。
足で地を踏み鳴らした。
「おう、やっと傍まで迎えに来られたな、父王の代理の役、御苦労じゃ、王子は今、父王は喜んでおられると告げたが、王子自身の顔は強張《こわば》り、まるで敵と対面するようであった、ことに王子の部下が吾の前に立ち塞がるなど許し難い、王子の胸のうちを知りたいものじゃ」
「吾は喜んで迎えに参った、だが王子こそ戦の中にいるが如く甲冑を纏い、殺気を全身から放ち進んできた、王子の形相こそ敵に対するようだった、吾は、王子が大和の地を忘れ、吾の顔も忘れたのではないか、と驚愕《きようがく》したのじゃ、吾の警護兵も同じであろう、無礼は許されよ」
「今回だけはのう、ただこれだけは申しておきたい、戦は体験しなければその恐ろしさが分らぬ、敵は西の果ての国、狗奴国と熊襲じゃ、眠っている間も敵が奇襲をかけて来るような気がし心から眠れない、大和で眠るのとは訳が違う、吾が甲冑を纏っているのは、戦の鬼神にまだ取り憑《つ》かれているせいかもしれぬ、仕方あるまい、この甲冑は血の匂いを放っているのじゃ」
タケルは短甲を叩《たた》いた。
入彦王子の眼が血の痕跡《こんせき》を探すが如く甲冑に注がれた。
「王子、ここはまほろばの国じゃ、明日、宮に参る時は甲冑を脱がれた方が良い、血の匂いはこの国では無用じゃ」
「分っておる、だがのう、外で血を流せばこそ大和は国のまほろばとなるのじゃ、入彦王子も一度、戦を体験した方が良い」
「うむ」
と入彦王子は頷《うなず》いたが、怯《おび》えに似た色が顔に走ったのをタケルは見逃さなかった。
「小碓王子、今日はゆっくり休まれよ、大和の山野は王子の気を落ち着かせるであろう」
と入彦王子はいった。
その声は別人のように和やかだった。
タケルがオシロワケ王に、諸王子も次々と征戦に参加すべきだ、と進言するのを恐れたせいかもしれない。
「おう、では父王に、お出迎えの礼を述べていただきたい、吾は今日は屋形に戻り、明朝、凱旋の御報告に参ろう」
とタケルは大声でいった。
最初は、どうなることかと気が気でなかった側近の部下達も、タケルと五百城入彦王子との応答に一安心した。
タケルは堂々としていたし、オシロワケ王に対する礼も述べた。忍之別《おしのわけ》王子との対面とはかなり違っていた。
おそらく五百城入彦王子は、確かにタケルの態度には異常なところがあったが、恐怖よりも、まだ戦の鬼神に取り憑かれているせいだ、と感じたに違いなかった。
屋形に戻ったタケルは甲冑を脱ぎ湯を浴びて身体を洗った。
タケルは夕餉《ゆうげ》を共にすべく、弟橘《おとたちばな》媛ひめの屋形を訪れた。そのことは、タケルの使いによって媛に伝えられていた。
袍《ほう》を纏い床に坐《すわ》ってタケルを迎えた弟橘媛は、熱い視線をタケルに注いだ。
産み月が近いので下半身は膨らんでいるが、気のせいか頬《ほお》の辺りの肉が落ちやつれたように思われた。
タケルは弟橘媛の前に胡坐《あぐら》をかいて坐った。
「少しやつれたのではないか」
「いいえ、元気でお待ち致していました」
「それなら良いが、色々と心労はあったことと思う、もう安心せよ、吾はこの通り元気じゃ、吾の子はどうか」
タケルは弟橘媛の腹部を掌《てのひら》で撫《な》でた。袍の上からだが腹部は今にも破裂しそうに張っていた。
タケルは掌を下腹部に当て眼を閉じた。全身の感覚を掌に集中する。
弟橘媛は熱を体内に注がれるような気がした。胎児は父親の手を感じたのか嬉《うれ》し気に動きはじめた。
「王子様、動いています」
「感じる、おう、足で吾の掌を突いているわい」
「これまでも動いていましたが、こんなに喜び暴れたのは初めてでございます」
「赤子といえども父親の気持は伝わる、こんなに暴れているところをみると、早く外に出たいのであろう、どうじゃ、今宵《こよい》、産むか?」
タケルは掌を動かさず、いたわるように弟橘媛を見た。
「産む、と申しましても……」
弟橘媛も、タケルの言葉の意味が解せないようであった。出産は幾ら母親であろうと人間の意のままにはならない。
「媛よ、そなたが産みたければ吾が産ませてみせよう、吾にはそのぐらいの力がある」
タケルは莞爾《かんじ》と笑った。
弟橘媛から掌を離すと指先でやつれた頬の辺りを撫でた。
「王子様、どのような方法でございましょう?」
「心配するな、何も無理はしない、吾が掌から生命の力を注ぐ、さっきと同じように掌を当てているだけじゃ、多分赤子は吾に会いたくて暴れるであろう、赤子を包んでいるそなたの子袋も産む準備をはじめる、もしそなたの子袋が、まだ準備が整わないと思った場合は赤子は静かになる」
「王子様、これまでにも……」
「何だ、妬《や》いているのか、安心せよ、吾もこういう気になったのは初めてだ、こうして無事戦場から戻り、そなたと再会したせいであろう」
「王子様、産みとうございます、私《わ》は、ひょっとすると王子様には二度とお会いできないのではないかと案じていました、熊襲の首長は、山をも崩す力持ちと聞いていました故……」
弟橘媛は、タケルの指の動きに忘れていた夜を感じたように、羞《はじら》いを浮かべて視線を伏せた。
「噂は十倍にも二十倍にも大きくなる、熊襲タケルは優れた武術者だが超人ではない、人間じゃ、ただ吾の武の技が一歩だけ優《まさ》っていた、故に勝てた」
タケルの指はその間に、首筋から上衣と袍を突き上げている豊かな胸の膨らみにと這《は》った。
タケルの指先が乳房の先を突いた。
弟橘媛が声にならない悲鳴を洩《も》らし胸を押えた。
「乳が、まだ赤子を産まないのに」
「そうか、もう乳が出たか、出産は今宵に決めよう、その前に夕餉じゃ」
弟橘媛は胸を押えたまま立った。また乳が出たのかもしれない。
タケルの身体が熱くなった。体内深くで蠢《うごめ》いていた欲望が血を騒がしたのであろう。普通ならその場で媛を抱き締めるところだ。
だが今の媛にそれを求められない。 弟橘媛もそのことはよく承知していた。乳に濡《ぬ》れた上衣を着替えて戻ってきた媛は、若い女人を連れていた。
「私の縁者でございます、王子のために呼び寄せました、何なりとお命じ下さい」
媛は思いを断ち切るような口調でいった。
「サザメと申します」
手を突いた女人はどう見ても十三、四歳である。月のものが現われたので連れてきたのであろうが、遊びに夢中になっていてもおかしくない感じだ。身長も五尺(一五〇センチ)に足りない。
「分った、必要ならば命じる、だが今宵は大変なのだ、媛が出産する」
「王子様、それは……」
と弟橘媛は首を横に振った。まだ信じられない、といった感じだった。
「吾と媛が協力し合う、二人の情念が一致した時、新しい生命が誕生する、サザメと申したな、そなたも媛の傍に坐《すわ》り無事の出産を念じよ」
「はい」
とサザメは掠《かす》れた声で答えた。
タケルのいっていることがよく分らないようである。
「さあ、まず夕餉じゃ、媛はあまり食べない方が良いかもしれぬぞ、その方が力が入りやすい、武術も同じだ、腹一杯食べると動作が鈍くなる、そうだ、吾も半分にしよう」
夕餉を軽く済ませたタケルは、弟橘媛に出産の用意をするように命じた。
媛に仕える女人達が水を入れた壺《つぼ》や、新しい布を揃えた。
タケルは屋形の外を流れる小川に入った。晩秋の小川は身体が凍るほどである。長くつかっていると次第に身体の感覚がなくなってくる。それは、体内で騒いでいる欲情をも鎮めた。
禊《みそぎ》は身体だけではなく心をも浄化するのだ。夕闇が濃くなる頃、タケルは小川から出た。身体を麻布で拭《ふ》き、更に摩擦をして身体を暖めた。
弟橘媛が横たわっている部屋はすでに闇で、魚油の明りが微《かす》かに媛の顔を照らしていた。
タケルは自分の念力で媛が出産することを疑っていなかった。
「サザメと申したな、縁者とあらば懸命に天神に祈れ、一族の女人が吾の子を産むのだ」
「はい」
サザメの声に力が籠《こも》った。
媛に仕える女人達は、隣りの部屋で息を殺して坐っていた。
こんな出産は初めてだ。皆、緊張するのも無理はない。
タケルは媛の下腹部に掌を当てた。全身の気を掌に集め、媛の体内に送り込む。
赤子が動きはじめた。たんに手足を振るのではなく身体全体を動かしている。
四半刻《しはんとき》(三十分)もたつと、タケルは全身に汗をかいていた。
媛も微かに呻《うめ》きはじめた。赤子を産む前、女人は激痛に呻く。なかには絶叫する者もいるという。
「痛むか……」
「いいえ、痛みではありませぬ、下半身が痺《しび》れるような、奇妙な感じでございます」
「そうか、赤子が全身で動いているぞ、吾の掌はそれを感じる、もうすぐじゃ、念じよ」
「はい、おう、うずきます」
と媛は叫び嗚咽《おえつ》を洩らした。
苦し気ではあるが痛みではない。それは寧《むし》ろ悦楽の声に似ていた。
媛の嗚咽にタケルは反応した。全身の気を掌に集めているにも拘《かかわ》らず、下半身の奥に火花が散りはじめた。
子供を産ませまいとする悪の鬼神がタケルに取り憑《つ》いたのかもしれない。
タケルは唸《うな》りながら火花を掌の方に引き寄せようとした。汗が勢いの良い湧き水のように噴き出す。胸の鼓動が激しく息が苦しくなった。
「天の神、地の神、水の神よ、吾に力を与え給え、悪の鬼神を叩《たた》く力を」
火花は前後左右に暴れ、のたうち廻った。タケルの精気を一挙に吐き出させ、体内の気を萎《な》えさせようとする。
タケルは無意識に掌を突き出した。媛の腹部が圧迫された。
媛が絶叫した。
タケルもそれに合わせるように、「かっ」と一喝した。その瞬間、火花は爆《は》ぜるような熱流となりタケルの掌から媛に注がれた。
媛の下半身が持ち上がり両脚がそれを支えた。赤子が出ようとしている。
「長《おさ》よ、取り上げよ」
とタケルは叫んだ。
何度か出産に立ち会い、赤子を取り上げている女人の長が跳んできた。
「まかせたぞ」
その場に崩れそうになる身体を何とか持ち上げ、タケルはよろけながら縁に出た。冷たく爽《さわ》やかな夜気が、空洞のようになったタケルに精気を注ぎはじめた。
人間の身体は、巨石のように重いのか、と息をはずませていたタケルの身体が次第に軽くなった。
この世に生を得た赤子の泣き声を耳にしたのは、タケルが両腕を伸ばし、深々と息を吸った時だった。
こうして弟橘媛は、凱旋《がいせん》したタケルと再会した夜、男児を産んだのである。
タケルはその赤子に、ワカタケルと名づけた。
翌朝は市のように賑《にぎ》やかだった。
弟橘媛の兄の内彦も、媛が赤子を産んだことを初めて知ったのだ。
「王子、媛も赤子も幸せです、それにしてもまさに奇跡のような出産、やつかれは、良くやったと媛を褒めてやりとうございます」
内彦は大喜びだった。
「うむ、褒めてやれ、吾にふさわしい妃《きさき》じゃ、ところで媛が差し出した夜の伽《とぎ》の女人は、どういう縁者だ?」
タケルの質問に内彦は肩を竦《すく》めた。
「異母妹でございます、北河内の母方の家で育てられましたが、この夏に大和に参りました。媛は王子をお迎えしても、御|寵愛《ちようあい》を受けられない身でございます、夜の伽の女人を差し出す以上、同じ氏族の者にと決めていたようです、媛の心情を思うとやつかれも反対できませんでした、申し訳ありません」
「何も気にすることはない、もう一年もすれば、魅力的な女人になるであろう、暫《しばら》くは媛の世話をすれば良い」
タケルは媾合《まぐわ》わなかったことは話さなかった。
その頃、オシロワケ王は巻向宮でヤサカノイリビメと話し合っていた。
タケルが西に征《い》っている間に、ヤサカノイリビメは伊勢国から探し出してきたワタリメを王に差し出していた。ワタリメは十四歳だが、サザメと違って何処となく女人の色香を発散させている。身体は華奢《きやしや》で稚《おさな》さが残っていた。ワタリメの魅力は、稚さと色香という相反するものが混じったところにあった。数え切れない女人に接してきたオシロワケ王は、これまでになかった女人に巡り合った思いで、ワタリメに溺《おぼ》れていたのである。
若い女人との関係に嫉妬《しつと》しないどころか、次々と魅力ある女人を探し出してくるヤサカノイリビメに、オシロワケ王の頭が上がらないのも当然である。しかもヤサカノイリビメは、差し出した女人が子を産み、王がその女人に興味を失ったのを知ると、彼女達の子を自分の子として育て、女人を遠い実家に帰してしまうのだ。
オシロワケ王にとってはそれも有難い。興味を失った大勢の女人が傍にいて、絶えず恨みや嫉妬の眼を向けられると思うと、流石《さすが》の王も気が重くなるのは自然である。
それにこの頃のオシロワケ王は、ヤサカノイリビメが産んだ稚足彦《わかたらしひこ》王子を次の王位に即《つ》けたいと考えるようになっていた。
稚足彦王子はヤサカノイリビメが産んだ子の中で長男だし、温厚な人柄で妙な野望がない。
老いたせいか、オシロワケ王は素直で大人しい王子に惹《ひ》かれるようになっていた。
勿論《もちろん》、ヤサカノイリビメは、稚足彦を王位に即けようと懸命である。そのために各国に使者を遣わし、若い女人を探しているのだ。
ヤサカノイリビメにとって一番危険な王子といえば、ヤマトタケルと名前を変えた小碓王子だった。
「恐怖の鬼神に取り憑かれている、と忍之別王子は申していましたが、五百城入彦王子が見た感じでは、戦の鬼神が棲《す》んでいて、敵も味方も分らぬほど殺気だっていたとのことです、恐ろしゅうございます」
ヤサカノイリビメは脂肪のついた二重|顎《あご》を竦めた。首の肉が盛り上がり二重顎が三重になった。
昨年まで太っていたオシロワケ王は、イリビメとは反対に痩《や》せてきていた。そのせいで肌がゆるみ、老人の斑点《はんてん》があちこちに浮いている。
「戦とはそのようなものだ、吾《われ》も若い頃、二、三度、戦に加わった、南|山背《やましろ》の武埴安彦《たけはにやすびこ》との戦では将軍となった大彦《おおびこ》の名ばかり高まったが、勝利を得たのは吾が死をいとわず活躍したせいだ、吾は十五歳だった」
オシロワケ王は遠くを見るような眼になった。
武埴安彦は、大和に近い宇治川沿いに勢力を張っていた巨大豪族で、負ければ三輪《みわ》王朝の崩壊に繋《つな》がりかねなかった。
ヤサカノイリビメは、王が戦に加わったことを初めて知った。
ただ武埴安彦との戦があったのは五十年ぐらい前だから、オシロワケ王はまだ童子である。小首をかしげたくなる話だが、イリビメは感嘆したように見た。
「そういえば、前王の時の戦にも加わられたとか……」
「おう、和珥《わじ》の狭穂彦《さほびこ》の反乱であろう、吾は敵兵を追い過ぎて敵陣に入り、もう少しで生命を落すところであった、兄のイニシキ王子は後方で慄《ふる》えていたがのう」
オシロワケ王は眼を見開くと歯の欠けた口を開き、唾《つば》を飛ばして笑った。
イニシキ王子とは、タケルが音羽山で斬った丹波森尾が仕えていたイニシキノイリヒコ王子のことである。
タケルの祖父王で、オシロワケ王の父である垂仁帝《イクメイリビコイサチ》が、長子であるイニシキノイリヒコ王子を次第に疎外するようになったのは、王子の武勇があまりにも優れていたのも一因だとされていた。勿論、オシロワケ王が、そんな兄を排して王となれた裏には、有力豪族の思惑があった。その葛藤《かつとう》は歴史の闇に葬られている。
「武勇の王子でいらっしゃったのですねえ」
オシロワケ王は顎をつまんだ。たるんだ肌を引っ張った。肌は一寸近く伸びた。
「おう、そんな吾でも戦が終った後は、恐ろしさに慄えた、小碓王子が、恐怖の鬼神に取り憑かれたというのも分らなくはないぞ、ことに相手は狗奴国と熊襲だからのう、今|迄《まで》、木刀の仕合に勝ち、のぼせ上がっていたのじゃ、好い経験であったに違いない」
「王様、味方と敵との区別がつかないのが、私《わ》には恐ろしゅうございます」
「なあに大丈夫だ、落ち着けば元に戻る」
オシロワケ王は、伸び切った肌を離したが、若い頃のように勢いよく戻らない。徐々に縮んで行く。
ヤサカノイリビメは内心舌打ちした。イリビメは、この機会にタケルに対する恐怖心をあおりタケルを追放させよう、と狙っていた。
だが王は男子《おのこ》である。男子には女人に分らない視方があった。王はタケルが恐怖を覚えたことを喜んでいた。
オシロワケ王が、タケルに好意を抱けない理由の一つは圧倒的な王子の武勇にあったからだ。今一つは、タケルを産んだイナビノオオイラツメが、最後まで自分を愛さなかったからである。
ヤサカノイリビメは鋒《ほこさき》を変えた。
「王様、王の使者である王子に、甲冑《かつちゆう》を纏《まと》い、向い合うというのはあまりにも礼を失しています、ひょっとすると甲冑姿で宮に参るかもしれませぬ」
「確かに無礼じゃ、もし甲冑を纏って参ったなら使者を遣わして脱がせる、小碓の気がおかしくなっていたとしても、それぐらいの判断力はあるであろう」
「私は恐ろしい気がします、もしその判断力が欠けていたなら、どうなさるおつもりでしょうか」
ヤサカノイリビメは、精一杯かぼそい声でいった。
「甲冑を纏ったまま、無理に宮に入ろうとしたなら、凱旋《がいせん》将軍の王子といえども、許せぬぞ、謀反《むほん》の疑いも湧いてくる、王子を捕え、島流しじゃ」
「謀反の疑い、本当に恐ろしゅうございます、あの武勇の王子が暴れたら、捕えられるでしょうか?」
「そこまで心配するな、吾の間者が王子の屋形を見張っている、甲冑を纏って王子が出たならすぐ連絡がある、各王子に兵を集める用意はさせている、それに宮は何時もの倍の警護兵で囲い、王子を出迎える吾の親衛隊も数が多い、それよりも吾は、王子が名を変えたことを問いただしたいのだ」
ヤサカノイリビメの恐怖心に、オシロワケ王は機嫌を悪くした。王子を恐れるなど、王としての権威に関わるからである。
王の胸中を感じたイリビメは太った身体を縮めて見せた。
「お許し下さい、女人の戯言《たわごと》でございました」
「そうじゃ、会わぬうちからあまり気を遣ってはならぬぞ、吾は、倭《わ》国を統一しようとしている王者だ、何事も吾にまかせよ、おう、ワタリメを呼べ、二人で朝餉《あさげ》じゃ」
オシロワケ王は思い出したように周囲を眺めた。王の眼に、もうヤサカノイリビメの姿はない。最も大事な宝を探す眼だった。
「はい、すぐ……」
ヤサカノイリビメは大急ぎで立つと、
「ワタリメ、王様がお呼びですぞ、早く来なさい、女人達は朝餉を運びなさい」
落ち着いた声で告げた。
少しでも自分の存在が邪魔になったと感じると、未練を消して立ち去るのがイリビメの特技だった。その辺りも、王に気に入られている所以《ゆえん》である。
化粧をしていたワタリメは、鏡で顔を見、眼を細めて微笑した。ちょっと口を突き出し、夢を見ているような表情になった。
オシロワケ王が最も好む顔である。自分に納得して頷《うなず》くと、華奢《きやしや》な肩を落し、恥ずかしそうに両手を前で重ね、そのままの恰好《かつこう》でゆっくり立った。
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揺れる地
巻向宮《まきむくのみや》でヤマトタケルは、オシロワケ王と向い合っていた。左右には数え切れないほどの王子達が並び、タケルの報告に聴き入っている。
オシロワケ王の傍にはヤサカノイリビメが正座している。
タケルの叔母《おば》に当る倭姫《やまとひめ》王も、タケルの凱旋《がいせん》報告なのでオシロワケ王の要請により出席していた。姫の席は王の左前だった。
倭姫王はオシロワケ王の同母妹で、泊瀬《はつせ》川の上流の宮に住んでいた。巫女《みこ》王である。もう五十歳だが俗界から離れた毎日を過ごしているせいか、澄み切った感じで、年齢よりも十歳は若く見えた。
昔からタケルに対しては好意的である。
タケルは九州島に着いて以来、数々の賊を征伐し、狗奴《くな》国と同盟軍の熊襲《くまそ》に勝ち、熊襲タケルと呼ばれている川上タケルを斃《たお》した経過を報告した。
オシロワケ王は、最初は正座していたが、途中から欠伸《あくび》をし、身体を揺すりはじめた。
タケルの報告が長いので、一休みした後はワタリメを呼び首や肩を揉《も》ませた。
ただ、タケルが熊襲タケルを斃した経過は熱心に聴き入った。
「よし、そこまでで良い、ところで小碓《おうす》王子よ、蕃人《ばんじん》の首長の名前を貰《もら》いしかも吾《われ》の了承も得ずに小碓の名を捨てたのは何故じゃ、吾を納得させる理由を述べられるか、述べられるなら述べてみよ」
オシロワケ王の言葉に、五百城入彦《いほきのいりびこ》王子は待っていたといわんばかりの顔を向けた。
タケルに好意を抱いている倭姫王も緊張の面持ちになった。
「その件でございますが、吾にもはっきりと説明はできない不思議な一瞬でございました」
「何だと、どういう一瞬なのだ?」
オシロワケ王は身体を乗り出した。顔をしかめ、ワタリメに、
「もっと上だ」
と揉む場所を告げた。ワタリメは慌てて懸命に揉む。白い指が川面で跳ねる小魚のようである。
タケルは眼を閉じ、思い出すように手を額に当てた。
タケルの口はなかなか開かない。大部屋の下座には、穂積内彦《ほづみのうちひこ》や葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》などが坐《すわ》っている。タケルが一体どんな返答をするのか不安そうだった。
タケルは部下達に、タケルの名前を貰ったことを詳しく説明していなかった。
「どうしたのだ、口がきけなくなったのか?」
とオシロワケ王は苛立《いらだ》った。
タケルは眼を開けた。焦点が定まらないのか、宙をさ迷っていた眼がオシロワケ王に向けられた。息が絶える間際の熊襲タケルの眼であった。
「熊襲タケルは死ぬ前に吾に、自分の名前を貰ってくれなければ、死んでも死に切れない、と申しました、その時、熊襲タケルは青白い光のする見えない剣を吾に突きつけたのです、その剣が吾の眉間《みけん》に刺さりました」
タケルの眼が見開かれた。生命の根源にも似た炎が眼に宿った。その炎が意外にも青白い剣となりオシロワケ王に向けられた。
オシロワケ王の身体が硬直したらしく、首を揉んでいたワタリメが悲鳴をあげた。オシロワケ王の叱責《しつせき》を恐れたらしく慌てて口を手で覆った。
だが王はワタリメの存在も念頭になかった。心はタケルの眼光に射竦《いすく》められて放心状態である。
「父王、聴いておられますか?」
とタケルがいった。
何時の間にか裁かれているのはタケルではなく、オシロワケ王になっていた。王子達は、タケルに熊襲タケルの鬼神が乗り移ったように感じた。
オシロワケ王は、見えない手で頭を突かれたように頷《うなず》いた。
「吾は感じました、あの時、もし吾が拒否したなら、吾は熊襲タケルに取り憑《つ》かれ、寿命がないと……恐ろしい男子《おのこ》でした、ひょっとすると吾は、自分の身を守るためにタケルの名前を貰ったのかもしれません、ただそれ以来、吾は怯《おび》えています、勝利の報告に、こういうことを申すのは申し訳ありませんが、吾は今度の戦で、生まれて初めて恐怖を感じたのです、多分、タケルの名を捨てたなら、吾の寿命は長くないでしょう、もし勝利の褒賞がいただけるのなら、勝手にタケルの名を貰ったことをお許し願いたいのです」
タケルは叩頭《こうとう》する前に今一度オシロワケ王に光の矢を放った。
オシロワケ王の顔が、雷に打たれたように引き攣《つ》った。
「許すぞ」
とオシロワケ王が呟《つぶや》いた。だが自分の呟きに驚いたように周囲を見廻す。王は倭姫王の存在を確認したようだ。
「おう、倭姫王、そなたもタケルの弁明を聴いたであろう、それが真実か嘘《うそ》か、神託を受けよ」
当時は、大事なことを決める際、巫女王が神託を受け王に告げる風習が残っていた。邪馬台国《やまたいこく》の卑弥呼《ひみこ》以来の習慣だった。
ただ、邪馬台国や、その後を受け継いだ崇神《すじん》王朝時代は、巫女王の権威が王よりも上だった。巫女王の神託を得なければ、王といえども勝手に大事を決定することができなかった。
だがオシロワケ王の時代では、王の権威が増し、時には巫女王の神託を受けずに大事を決定する場合があった。
巫女王の方は、王から神託を受けよ、と命令されると断るわけにはゆかない。
「今、神託を受けるのでございますか?」
「そうだ、今だ」
「でも王は今、小碓王子が熊襲タケルの名を貰ったことを許されました」
倭姫王の声は深山のせせらぎに似て清澄である。列席者は息を潜めた。
「そのようだ、だがはっきりと覚えておらぬ、吾は王として真実を知らねばならぬ」
「ではすべてを神に委ねられるのですね」
「そうじゃ、二言はないぞ」
「分りました、ただ、王が許すとおっしゃられた以上、神託がどのように出ても、小碓王子を許さねばなりませぬ、そうでなければ神託は受けられません」
「分った、王子が嘘をついていたとしても、吾は王子を許そう、王に二言はないからのう」
オシロワケ王は無念そうにいって離れていたワタリメに、肩を揉むようにと命じた。
倭姫王は侍女を呼び頭から絹衣を被《かぶ》り部屋から出た。神託を受けるには、俗界から離れ、身を浄《きよ》めねばならない。
神は紀元前数世紀もの昔に、中国の人々が信じた天神である。山や水の神とはまた異なる。天神思想は弥生時代に日本に伝わり、卑弥呼の鬼道の根源となった。
日本には卑弥呼時代から太陽信仰(天照大神)があったように考えられているが、鬼道とは太陽信仰ではない。
中国の魏《ぎ》の時代のことを記した『魏書・東夷伝《とういでん》』の中に「韓伝」や「倭人伝」も含まれているが、邪馬台国の宗教は鬼道と記され、太陽信仰があったとは記されていない。
鬼道とは後漢時代の初期道教のことだが、その源泉は墨子の天神思想にある。
天には主宰者である神が存在し、人間が罪を犯すと、罰として鬼神を遣わし、生命を奪ったり、病を与えたりする。人間に降りかかる災いは、天神の意というのが墨子の思想である。
後漢時代の黄巾《こうきん》の乱の張角《ちようかく》や、五斗米道《ごとべいどう》の張陵《ちようりよう》は、この思想を更に拡げ、初期道教に発展させた。
それが鬼道である。
勿論《もちろん》、卑弥呼の鬼道の中には太陽信仰も含まれており、鏡が照射する陽の光を病人に当て、病の治癒を宣言したりもしたであろう。
太陽信仰以外に日本古来の呪術《じゆじゆつ》も混じっていたものと考えて良い。
だが根源は天神である。
日本の太陽信仰がはっきりした形で表われたのは、六世紀後半の敏達《びだつ》朝と考えられる。
この時、『日本書紀』は初めて、太陽を祀《まつ》る部(祭祀《さいし》の役所や領域)を設置したことを述べている。
そういう点からも、日本の王家が初期に信仰したのは、主に天神だったと考えて良い。
勿論、時代と共に日の神信仰も強くなった。
ヤマトタケルの時代では、更に水の神、山の神、地の神なども神として民の信仰を集めたが、王家の巫女王が神託を得るのは矢張り天神であった。
中国などと異なり女性が巫女王となったのは、日本古来からの女性観と卑弥呼の影響であろう。
倭姫王は宮中にある高殿に上ると絹衣を取った。神託を得る間に、侍女が琴を弾いて神が憑きやすいようにした。
神は琴の音を好むと考えられていた。
神が憑いたのであろう。倭姫王の身体が慄《ふる》えはじめる。琴の音が一段と強くなった。倭姫王は言葉にならない声を発すると両手を挙げた。全身の力が尽きたように上半身が折れる。
琴を弾いた侍女は汗まみれで荒い息を吐いていた。
高殿を出た倭姫王は頭から絹衣を被るとオシロワケ王達が待つ宮殿に入った。雲の上を歩くようにゆっくりと歩き席に坐った。
「どうであった?」
と待ち兼ねたようにオシロワケ王が訊《き》いた。王子達は固唾《かたず》を呑《の》む。
「神託を得ました、小碓王子がもし名を変えていなければ、熊襲タケルの鬼神に憑かれ、狂い死にしていたところでした、これからはヤマトタケルと名乗るべきです」
オシロワケ王は顔を歪《ゆが》めてタケルを眺めた。王子達の視線がタケルに注がれた。
王の眼には失望感と共に恐怖さえ宿っていた。熊襲タケルの武勇を加えたタケルへの恐怖だった。
ヤサカノイリビメは女人だけに嫌悪感が強い。眉《まゆ》を寄せてオシロワケ王に囁《ささや》いた。
「タケルなどという名前は王子らしくありません」
「仕方があるまい、神託は曲げられぬ」
「でも王は、小碓王子の申したことが、本当かどうかを神にうかがわれたのです、蕃夷《ばんい》の首長の名前を貰うのは許さぬ、と命令されてもおかしくはございません」
ヤサカノイリビメは昂奮《こうふん》していた。声が大きくなりそうである。
「もう遅い、神託では小碓がタケルと名を変えなければ、小碓は死ぬと出た、今、名を戻せ、と命令すれば、吾が小碓の死を望んでいることになる」
ヤサカノイリビメは唇を噛《か》んだ。
「そこまではできぬぞ、もう口をはさむな」
「申し訳ありません」
ヤサカノイリビメは叩頭するより仕方なかった、心の何処かで、倭姫王は、小碓王子に好意を抱いているのではないか、と疑った。
ヤサカノイリビメは猜疑心《さいぎしん》の強い女人だった。すでに女人の色香で通る年齢ではない。王は若い女人に夢中である。ヤサカノイリビメの望みといえば、自分が産んだ王子を王位に即《つ》けることだった。稚足彦《わかたらしひこ》と五百城入彦のどちらかである。稚足彦は長子だが性格が弱く武術の面でも弟に劣った。だがヤサカノイリビメとしては、そういう子が可愛いのである。
ただ小碓王子に対抗できる王子といえば、弟の方だった。できれば稚足彦を王位に即けたいが、オシロワケ王が弟王子を推せばそれでも構わないと考えていた。
そういう意味で、ヤサカノイリビメにとって一番邪魔なのは、ヤマトタケルだった。
実際、顔を見ているだけで胸が悪くなるほどである。ことに、タケルの母のイナビノオオイラツメには、何時も嫉妬《しつと》の炎を燃やしていた。美貌《びぼう》に自信のあるイリビメさえも近寄り難い品を備えていたし、王も皇后を熱愛していた。
イリビメのタケルに対する憎悪には、そういう怨念《おんねん》が絡んでいたのである。
オシロワケ王は、明らかにタケルを嫌っているが、次の王を誰にするかは口にしない。
王はまだまだ女人にも王位にも執着していた。
勿論、次の王を誰にするかは、オシロワケ王の一存では無理である。まだ倭国は統一されていない。女人を通じて縁戚《えんせき》関係のある各地の国も、三輪《みわ》の王権が不安定になれば、自国の勢力を拡張しようと狙っている。有力豪族も同じだ。
王に対する忠誠よりも、氏族の繁栄が第一なのである。繁栄を維持するために王権を利用しているに過ぎないのである。
当然、オシロワケ王が亡くなれば、自分の氏族にとって有利な王子を、次の王として推す。場合によっては、王の意向など無視される。
オシロワケ王が、かりに稚足彦王子を次の王にする、と遺言しても、王が亡くなれば、前王の意志は、有力氏族の利害関係で押し潰《つぶ》されてしまう。
オシロワケ王が、次の王を誰にするか、という意向を示さないのも、そのことをよく知っているからであった。
ヤサカノイリビメには、それがよく分らない。皇后気取りであるから、王の威光や権力は最高のものだ、と思い込むようになっていたのだ。
タケルの名は、倭姫王の神託により正式に認められた。
『記紀』に記す倭建命《やまとたけるのみこと》(日本武尊)である。
本小説では、小碓王子をタケルと表わしてきたが、これ以降、倭建とする。
あっという間に新しい年の春が来た。弟橘《おとたちばな》媛ひめが産んだ若建《わかたける》王は、媛の実家の穂積氏が養育に当った。
二十歳になったばかりの弟橘媛は、子を産んだにも拘《かかわ》らず体形が全く変らない。ことに持ち前の絹肌には練りに練ったような艶《つや》が滲《にじ》み出、明るい日など、遠くからでも肌が輝いて見える。
それに弟橘媛は、子を産んでから予知能力が更に強くなった。身籠《みごも》っている時、身体を何時も浄《きよ》めようと毎日水を浴びたせいかもしれなかった。
だが倭建は、弟橘媛を正式な巫女にはしなかった。
巫女になると、戦の場合、連れて行かねばならなくなる。それに倭建が軍事将軍にならない戦でも、オシロワケ王の命令により従軍するという事態になり兼ねない。
「媛よ、そちの能力は人前では示すな、隠しておくのだ、吾と共に過ごしたければのう……」
「はい、私《わ》は王子様の妃《きさき》でいとうございます、王子様を愛し、王子様に愛される、それだけが私の生甲斐《いきがい》です」
「おう、嬉《うれ》しい言葉だ、ただ、そなたは将来を予知する不思議な力を有している、だがそれを感じたとしても吾には喋《しやべ》るな」
弟橘媛の不思議そうな顔に倭建はいった。
「そなたの予言によって、吾は自分の行動を決めたくないからだ、そなたの予言で動くようになると吾は吾ではなくなる、そなたに操られているような思いになるであろう、多分、そう思いはじめると、吾はそなたを避ける」
「はい、よく分りました、王子様は、どんな場合でも御自分を見失わずに生きられる方です、少し淋《さび》しい思いも致しますが……」
「いや、それほど意志は強くもないし、自分を過信してはおらぬ、時には、そなたに訊く時があるかもしれぬ、その時はそなたの能力で神意を受け吾に告げて欲しい、頼むぞ」
倭建が弟橘媛の手を強く握ると、媛は嬉し気に握り返した。
「はい、果して御期待に添えるかどうか分りませんが、全力を尽しましょう」
「吾は力強い味方を得た、だがこのことは内密だぞ、今の能力を知れば、倭姫王がそなたを傍に再び呼び寄せるに違いない、吾はそなたを倭姫王に取られたくはない」
「嬉しゅうございます、私は王子様のために、この世に生まれてきたような気が致します」
と弟橘媛は力強くいった。
子を産んで以来、弟橘媛は更に女人らしくなったが、その一方で、倭建の妃としての自信を持ち、人間的にも一段と成長した。
倭建が弟橘媛の巫女的な能力を現実に知ったのは、年が明けてからだった。
弟橘媛の屋形に泊まり朝餉《あさげ》を共にした後、倭建は縁で木刀を振っていた。
弟橘媛はそんな倭建を眺めていたが、
「王子様、縁から降りて下さい」
といった。
倭建は汗を拭《ぬぐ》いながら訊いた。
「どうしたのだ?」
弟橘媛は階段を駆け降りた。地に立つと木立の上で舞っている鳥達を眺めている。
こんな弟橘媛を見たのは初めてだった。倭建は縁から跳び降りると媛の傍に立った。確かに鳥の囀《さえず》りは騒々しい。次々と雑木林から飛び立っては舞う。
弟橘媛は眼を閉じ手を合わせた。
「王子様、地の神が怒り暴れています、間もなく地が揺れましょう」
弟橘媛の言葉が終らぬうちに地が大きく揺れた。
屋形の侍女達が悲鳴をあげた。
「落ち着くのじゃ、火に水をかけよ、消して出よ」
弟橘媛の声は屋形中に響き渡った。
地が揺れることはよくあった。古代人は地の神が憤って暴れた、と解釈する。古代人にとっては、それが最も合理的な考え方だった。
媛の命令に侍女達はわれに返り、竈《かまど》の火に水をかけた。
消し終った時、第二の揺れが襲った。転がった者がいたほどの激しい揺れだった。
あちこちの屋形が火を出し、燃えた家は数え切れない。宮の一部も燃えた。
倭建はその時、弟橘媛に神意を受ける能力があるのを感じたのだ。
弟橘媛は鳥の騒々しい囀りに異変を感じ、地が揺れそうだ、と思ったのだが、倭建も地が揺れるとは感じなかった。
二人は小川に沿って歩いた。
「王子様、鵠《くぐい》でございます」
弟橘媛が生駒《いこま》山の方を見た。
数え切れない白鳥が北の方に向って飛んでいる。鵠と呼ばれた白鳥は秋になると北方から来、冬を過ごすと北の国へと帰って行く。
「おう、もう間もなく暑い日がやってくる、早いものだ」
侍女達も陽に映える白鳥を眺めていた。
警護の兵達は数十歩から百歩ほどの距離を置いている。
間もなく白鳥は点になり消えて行った。
今、倭建の警護隊長や副隊長は若い。隊長は大伴倉先《おおとものくらさき》、副隊長は穂積身刺《ほづみのむささし》である。いずれも二十歳代に入ったばかりだ。
内彦や宮戸彦は穂積・葛城氏の中でも重要な人物となっている。
日向襲津彦《ひむかのそつびこ》は、宇沙で別れた切りだが、噂では隼人《はやと》と親密な関係を保ちながら、日向国王の要望で留まっていた。
九州南部の隼人は倭建との戦に敗れたが、その勢力は再び盛り返しつつあった。
元来が勇猛な種族であり、航海にも優れ、各国との交易により財力を得ている。敵に廻せば危険である。
襲津彦は戦で叩《たた》くよりも、共存、共栄策の方が大和の王権にとって得策である、と判断したに違いない。
隼人族は倭建をさえも怯《おび》えさせたのだ。
実際、凱旋《がいせん》して以来、倭建は大人しくなった。かつてのように山野を動き廻り、狩猟に熱中し、獲《と》った大猪や大熊を担いで成果を誇るというようなこともなくなった。
内彦や宮戸彦なども、吾君《わがきみ》は戦には勝ったが胆《きも》を盗まれたのではないか、と憂えていた。凱旋以来半年たち、半信半疑であった部下達も、倭建がかつての闘志を失ったことは、認めねばならない状態だった。勿論《もちろん》心のどこかでは、吾君は今のような弱者ではない、お考えがあってのことだ、とかつての武勇の王子を信じている。だがそれも期待感のようなものだった。
「のう、弟橘媛、先日内彦が参ったが、そなたの屋形にも寄ったとのこと、吾について何か話していなかったか」
「はい」
返事はしたものの弟橘媛は困惑したらしく、視線を伏せた。
「遠慮は禁物だぞ、吾とそなたとの間だ、はっきり申すように」
「申し上げます、兄はまだ王子様が本当に変られたかどうか疑っています、隠さずに話せ、と私《わ》に詰め寄り、私は困惑致した次第です」
「ほう、困惑したと申すのか、面白いのう、そなたはどう思う……」
倭建は四方を見廻した。侍女達は離れているし、傍に人影はない。
「私を信じていただけるのですね」
「当り前だ、だからこそ訊《き》いておるのだ、これまで吾の方から誰にも訊いておらぬ」
「大地が揺れた時、王子様は悠然となさっておりました、あの揺れは、何十年に一度という地災とのこと、もし本当に臆病《おくびよう》になられていたのなら、あんなに落ち着いてはおられない、と感じました」
倭建は舌打ちすると足で地を蹴《け》った。
「そうか、思いがけない地災にほころびが出たのう、もし臆病になっていたなら、逃げ出すか、地に伏すか、何か叫ぶかするはずだ、と申すわけだな、しかしだのう、恐怖のあまり、身体が金縛りにあい、動かなくなった、とは考えられぬか……」
倭建は真面目な顔でいった。
「金縛りになったのなら、身体は強張《こわば》り、顔は石のようになります、でも王子様は地の揺れに乗っておられました、自然と調和された姿ともいえましょう、多分、あのお姿のまま、自然の静寂の中に立たれたとしてもお似合いです、だから私は、王子様には恐怖の鬼神など憑《つ》いていないと感じました」
倭建は感嘆の溜息《ためいき》が出そうになった。
弟橘媛の観察の鋭さもあるが、その表現力の豊かさに魅せられたせいもあった。弟橘媛の肌の艶《つや》が、表面だけではなく、もっと心の深い部分から滲《にじ》み出ているような気がした。
「見事じゃ」
倭建は両腕を拡げた。
「さあ参れ、そなたを抱きたくなった」
弟橘媛は侍女の視線など気にせず倭建の胸に身を投じた。当時の人々は、現代人よりも寒さに強く、余り下着を重ねない。
この季節なら絹の上衣の下に、せいぜい一枚である。絹衣はあってなきが如しだ。倭建の腕の中で柔肌が熱を帯び胸の鼓動が高鳴る。倭建の胸に押し潰《つぶ》されそうになった乳房は、撥《は》ね返そうとしたはずみに、まだ溜《た》まっていた乳液を放出した。
「王子様、乳汁が……」
「おう乳か、若建の代りに吾が飲もう」
倭建は素早く弟橘媛の胸を拡げた。搗《つ》き立ての餅《もち》のような肌が現われ、淡紅色の乳首から乳液が滴り落ちた。片方の乳首を指で押えた倭建は、舌を乳暈《にゆううん》に当てて思い切り乳を吸った。甘みのある乳が倭建の口中に迸《ほとばし》り出た。喉《のど》を鳴らしながら飲み、乳が涸《か》れると今一方の乳首を吸った。
乳暈は吸われて赧《あか》らみ、乳首は勃起《ぼつき》している。その周囲に倭建の唇の跡がはっきりついていた。
胸を隠そうとした弟橘媛を倭建は制した。
「この美しさは鮮烈といって良い、今|暫《しばら》く吾に見せよ」
倭建が飽くことなく眺めていると、遠くで人の声がした。何かの合図である。
倭建の手と媛の手が同時に胸を隠した。
「媛よ、吾が変っておらぬことは、当分、内彦にも内緒だ、今の吾は静かに暮したいのだ、妙だのう、吾は狗奴国や熊襲と戦うまでは、戦に血をたぎらし、軍事将軍になるために生まれた男子《おのこ》だと自負していた、だが戦に勝ったにも拘《かかわ》らず、今はそなたを愛し、歌でも詠み、仙人のように暮したいと思うようになった、何故かは分らぬ、どうやら吾には、軍事将軍と仙人の血が混じって流れているのかもしれぬ、時には相反する両者が葛藤《かつとう》するのだ」
「王子様、私は女人です、王子様の胸中、分りますと申し上げるのはおこがましゅうございますが、王子様の苦しみは何となく肌で感じられます、何故なら王子様は凡人ではございません、だから悩まれるのでしょう、私が王子様を深く愛するのも、王子様が凡人ではないからです、私は王子様のためには生命も要りません、何時もそう思っています」
弟橘媛の衣服の胸に乳液が染みていた。そのことを知っているが、弟橘媛はあまり気にしていなかった。王子様が飲まれた乳汁なのです、と弟橘媛は誇っているようだった。
「嬉《うれ》しく耳にした、だがそなたを犠牲になどさせぬ、安心しろ」
倭建は白い歯を見せると近づいてきた女人の長《おさ》に顔を向けた。
「どうしたのじゃ?」
「はい、大伴武日《おおとものたけひ》殿の使者が参っております」
「武日の使者か、会おう、ここに参るように申せ」
武日の使者は刀を警護隊長に預けると、倭建の数歩手前で蹲《うずくま》った。
「百済《くだら》の王子が住吉津に着きました、百済王の使者として参ったようです、何か重要な使命を帯びて参ったに違いありません、王子様に一応お知らせしておくようにとのことです」
「武日の労をねぎらうぞ」
使者が戻った後、倭建は北部九州の首長が口々に、北方の騎馬民族の高句麗《こうくり》が南下政策を取り、百済を脅かしている、と話したことを思い浮かべた。
倭建は凱旋報告の際、そのこともオシロワケ王に伝えたが、王は倭建が熊襲の首長の名を貰《もら》ったことを重視し、高句麗の南下政策はあまり気にしていなかった。
オシロワケ王にとって、朝鮮半島の北方の国のことなど、現実の問題ではなかったのだ。その辺りにも、身体のみならず、オシロワケ王の政治感覚が老いていることが窺《うかが》われた。
北部九州の実情を知らない諸王子も、倭建の報告にあまり関心を抱かなかった。
「戦の危機は、倭《わ》の国だけではないのですね」
と弟橘媛がいった。
「海によって隔たれているとはいっても、我国も、大陸と無関係といってはおれぬ、大体我々には、倭列島に住んでいた住民の血だけではなく、朝鮮半島とその北方、更に西の中国大陸、また南の島々の血が混じっている、皆、海を渡ってきたのだ、それに大陸の人々は、我々が想像できない新しい文化を持っている、騎馬民族の高句麗など、馬にまで鎧《よろい》をつけている、という、本当か嘘か知らないが、もし事実なら恐ろしい戦力といわねばならない、吾が滅ぼした鼻垂《はなたり》・耳垂《みみたり》などとは違うのだ、内彦にも情報を掴《つか》むように、そなたから伝えよ、この頃は河内の新興勢力と親しい物部《もののべ》が政界で力を得ておる、縁戚《えんせき》関係にあるとはいえ、穂積は物部の支族、何かとやり辛《づら》いだろうが、そちからも励ますように」
「有難いお言葉でございます」
「今日は吾の屋形に戻ろう」
「はい、あまり私の許《もと》に通われると他の妃に妬《ねた》まれます」
「いや、今宵《こよい》は一人で寝るぞ、それにそなたは、妃達に妬まれてもあまり気にしないであろう」
「妬まれても致し方ない、と思ってしまいますが、私にも妬みがあります」
「何だと……妬みがあると、吾は他の妃の許には、月に一度ぐらいしか通わぬぞ、だがそなたとは、三日に一度は会っている」
「鋭い洞察力を持たれた王子様も、女人の胸の中はお分りにならないのですね、私の情は毎日、燃え続けているのです、故に、毎日でもお会いしとうございます、勿論《もちろん》、厚かましい望みであることは、承知していますが……」
弟橘媛は艶然《えんぜん》と笑った。
倭建は、その笑みに救われた思いがした。明らかに嫉妬《しつと》を口にしながら、弟橘媛は恨みがましくならない。爽《さわ》やかである。
もしククマモリヒメだったなら、恨みが表情や声に滲み出る。
ククマモリヒメは、倭建の最初の妃であったフタジノイリヒメの縁者だ。フタジノイリヒメが亡くなった後、ヒメが産んだ帯中津彦《たらしなかつひこ》王子を養っている。倭建と会うとそれが口に出る。
「来られる度に、閨《ねや》を共にしていただかなくとも良いのです、でも、十日に一度ぐらいは王子に会いに来ていただきとうございます」
切口上でいわれると倭建も返答ができない。弟橘媛の屋形に通い過ぎていることに対し、負い目があった。痛い場所を刺される感じで、もう会わないぞ、と思ってしまう。
ククマモリヒメは、自分の言動が、倭建を遠ざけることになるのに気づいていない。
倭建は、自分に若く魅力的な妃ができ、その妃の許に通うようになったなら、弟橘媛はどういう態度に出るだろうか、とふと思った。
ククマモリヒメのようになるのだろうか。弟橘媛だけは、そうはなって欲しくない、と望みたい。
だが、これは男子の勝手かもしれない。
突然、弟橘媛が倭建の胸中を読んだように小首をかしげた。
「王子様、私のことなら御心配なく」
「心配とはどういう意味だ?」
「王子様に私よりも素晴らしい妃ができ、その妃の許に毎夜通われても私は王子様の負担にはなりませぬ」
「馬鹿なことを考えるな」
と倭建はいったものの、弟橘媛の勘の良さには舌を巻いた。ひょっとすると男子の胸の中を読み取る術を知っているのかもしれない。
「はい、今は馬鹿なことです、でも将来は分りません、王子様は大勢の妃を持たなければならない身、私はそのことを覚悟しています」
「そうか……将来は分らぬか、そなたの申す通りかもしれぬ、ないとはいえぬのう」
「その通りです、でも御心配は要りません」
弟橘媛は再び艶然と笑った。
オシロワケ王の使者として、物部十千根《もののべのとちね》が倭建の屋形を訪れたのは三日後であった。
物部十千根はすでに六十歳に近い。髪など白くはなっているが、矍鑠《かくしやく》としており、肌の色艶《いろつや》は良い。
物部氏の祖の饒速日命《にぎはやひのみこと》は、卑弥呼が死亡し、北九州の邪馬台国が一時崩壊しかけた時、東遷し、河内や大和に移ったといわれている。
大和の在地豪族、長髄彦《ながすねびこ》の娘を妻にし、河内と大和に勢力を拡げた。
先代の垂仁帝時代の終り、イニシキノイリヒコ王がオシロワケ王と王位を争った際、十千根はオシロワケ王に味方した。
オシロワケ王が王になると共に、石上《いそのかみ》神宮の管理権を掌握し、神祇《じんぎ》・軍事氏族として勢力を強めた。大和よりも河内の方に部下が多く、河内の新興勢力とも手を結んでいる。
物部十千根が大和の三輪王朝から離れると、オシロワケ王の軍事力は弱体化する。
それだけにオシロワケ王は、何かと十千根の機嫌を取っていた。
かつて倭建が男具那《おぐな》を名乗り、武勇の王子としての評判が高かった頃、何者かが男具那を襲撃した。曲者を探った結果、河内に来た筑紫《つくし》物部の一党と判明した。
結局、倭建は彼等を殲滅《せんめつ》したが、十千根は、自分は関係がない、という顔をしていた。
色々な点から、倭建は十千根を信頼していなかった。
十千根も、そのことはよく知っているはずである。それにも拘らず十千根がオシロワケ王の使者として訪れたのは腹に一物があるからに違いなかった。
十千根は三日後に、百済の王子がオシロワケ王に正式に百済王の意を伝えることになった、と告げた。
倭建も、有力な王子として当然、会見の儀式に出席しなければならない。
話しているうちに、十千根は自分が来た理由をそれとなく伝えた。
百済王の意は、高句麗の南下策に対応するため、百済と倭が同盟を結ぶことにあった。
「百済王としては、我国の兵を必要としているわけです、ということは、高句麗の南下が現実のこととして受け取られているからでございましょう、王子は熊襲を征討された際、北九州の王達に会われ、朝鮮半島の様子をお耳に入れているはずです、どういう風にお考えになりましたでしょうか?」
十千根の眼には、年輪を経た人間の持つ深さがあった。
倭建は軽い圧迫感を覚えた。
倭建が凱旋《がいせん》将軍として勝利を報告した後、酒宴がもよおされた。物部十千根もその席に出ていたが、そういう質問は全くしなかった。
腹の深い男子である。それだけに油断ができなかった。
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海の彼方の戦
倭建《やまとたける》としては物部十千根《もののべのとちね》に、北九州で知った情報を話さざるを得なかった。
十千根は、時々白い顎鬚《あごひげ》を撫《な》でながら、頷《うなず》いて聴いた。
「ということは、北九州の勢力は、高句麗《こうくり》の南下政策に神経をとがらせているということですな」
「そういうことじゃ、もし、高句麗が百済《くだら》を滅ぼしたなら、朝鮮半島南部は百済人で溢《あふ》れる、また北九州に逃亡してくる兵も多いであろう、文化水準の高い者達だけなら良いが、なかには自棄《やけ》になっている兵達も混じる、漸《ようや》く危険な狗奴《くな》国と隼人《はやと》を制圧し平和を取り戻したばかりだ、北九州としてはこれ以上の騒乱は真っ平というところじゃ」
「よく分ります、噂では、高句麗には騎馬軍団なるものがあり、歩兵は蹴散《けち》らされる、ともいわれています、吾《われ》は高句麗が、朝鮮半島南部も占領してしまうことを恐れます、洛東江周辺には大勢の倭《わ》人が住んでおり、交易面でも大事な場所です、最近は丹後などでも鉄器が作られるようになりましたが、まだまだ朝鮮半島南部の鉄は大事です」
十千根は一息入れると反応を窺《うかが》うように倭建を見た。
どうやら十千根は、百済王子と意を通じているようだった。
「高句麗の騎馬軍団がどんなものか分らぬが朝鮮半島の北から南に馬で攻めてくるのは大変だぞ、山が殆《ほとん》どで平地は狭隘《きようあい》だからのう、高句麗軍といえども主力は歩兵であろう、それに百済だって、そう簡単に滅亡はしまい、あまり悲観的になる必要はあるまい、戦などはない方が何よりじゃ、狗奴国と戦い、つくづくそう思った」
十千根の眼光が鋭くなる。
「これは勇猛な王子のお言葉とも思えませぬ、戦がないのは理想でございます、だが人間に欲がある限り、好まなくても戦は起こりましょう、叩頭《こうとう》したからといって敵は攻撃の手を緩めませぬ、叩頭ばかりしておれば、次々と首を刎《は》ねられるばかりです」
「それはそうだが、戦は恐ろしい、戦っている時は無我夢中だが後で振り返ると背筋が寒くなる」
「ほう、熊襲《くまそ》との戦に怯《おび》えられた、というわけですか、王子が……」
十千根の口調には倭建を小馬鹿にしているようなところがあった。十千根は倭建を自分の挑発に乗せようと望んだらしい。
物部十千根は、倭建が、恐怖の鬼神に取り憑《つ》かれたなど信じていなかった。
だが倭建は十千根の挑発に乗らなかった。
「そうだな、戦に怯えたのかもしれぬ、吾《われ》には軍事将軍としての資格がないようだ」
「これは異《い》なことを承ります、王子の部下達は、王子がずっと勇猛であった、と褒め称《たた》えていますぞ、部下の眼は誤魔化せますまい」
「どうかな、吾は軍事将軍だ、どんなに怯えていてもそれを部下達には見せられない、だから余計に苦しい、吾が怯えを見せていたなら、勝利はなかったであろう、まあ責任感だけで戦ったようなものだ、それだけに今はほっとし、戦はもう真っ平という心境じゃ、分ったかのう」
「そういうことなら……」
まだ信じ難いような十千根に倭建は欠伸《あくび》を手で押えていった。
「女人を愛し、旨《うま》いものを思い切り食べる、これが平和だ、平和が良い」
十千根は狐に騙《だま》されたような顔で戻った。
物部十千根はオシロワケ王に、倭建が恐怖の鬼神に取り憑かれたというのは、満更|出鱈目《でたらめ》でもなさそうです、と報告した。
「王子は平和を望んでおられます」
「ふーむ、あの暴れ者の王子がのう」
とオシロワケ王は不思議そうに頷いた。そんな王の表情には安堵《あんど》の色が浮いていた。
百済の王子はオシロワケ王に上質の絹や、まだ当時の倭国では作れない陶質の土器類を献上した。
後に須恵器《すえき》と呼ばれるようになった土器は、高温で焼くので硬く、その肌が美しかった。
百済の王子の要請は次のようなものだった。高句麗の都は鴨緑江《おうりよつこう》の北方にあるが、最近の情報では鴨緑江を越え、平壌《ピヨンヤン》に都を遷《うつ》す準備を整えていた。
平壌城を強化し、王自ら二万の兵を率いて守りを固くしている。明らかに百済を攻撃するつもりだった。
百済としては、高句麗の攻撃を待たずに平壌に先制攻撃をかけ、平壌を奪うつもりだった。そのため、五万の兵を集め、王自ら指揮を執り、日夜、戦の訓練に励んでいる。
今、倭国が一万の援軍を送ってくれれば、高句麗軍を大敗させ、鴨緑江の北に追い返すことができるであろう。百済が敗れると、朝鮮半島南部の倭国の権益も危うくなる。
今こそ、百済と手を結び、高句麗を叩《たた》くべきだ、というのであった。
百済の王子は、倭建が九州の狗奴国・熊襲の連合軍に大勝し、九州島を制圧したことも知っていた。
オシロワケ王は内心、複雑な思いだった。
今の倭国には、一万もの援軍を送る力はない。倭列島内部でも、それだけの大軍は集められなかった。だいいち船がなかった。
せいぜい数百名の兵を派遣するのが精一杯だった。
それに、九州島を制圧した、と百済王子はいったが完全に統一したわけではない。
九州には、大和の三輪《みわ》の王権にまだ服従しない勢力があった。
吉備《きび》国などは、昔から大和の王権とは親しいが、まだ独立国といって良い。
出雲《いずも》や但馬《たじま》なども独立国的な性格を持っている。
それに東方では、後の毛野《けぬ》国を始めその周辺の国々は大和の王権に反抗的だった。
倭列島内は、百済の王子が思うほど統一されていないのである。何といっても、卑弥呼《ひみこ》が死亡してから今まで、百二十年ほどしかたっていない。
それに倭列島は朝鮮半島よりも広く、大和の王権の力が及ばない地域が多いのだ。
百済王の意を伝えた王子は、三輪|山麓《さんろく》の海石榴市《つばいち》の屋形に十日ほど滞在することになった。泊瀬《はつせ》川沿いの高台で景観が良い。それに屋形の近くの市では、倭列島の各地から運ばれた様々な品が売買されていて賑《にぎ》やかである。そういう品の中には、沼《ぬな》川(新潟県|糸魚川《いといがわ》市姫川)の翡翠《ひすい》の玉や、朝鮮半島から入ってきた金銀の装飾品もあった。
海外の使者達は市で愉《たの》しむことができる。
迎賓館としての屋形が建ったのも無理はない。
オシロワケ王は、渡来系の倭人に命じて返書を作らせた。王の周辺には、中国や朝鮮半島の血を引く倭人が多く、文の仕事に携わっている。
返書の字は勿論《もちろん》漢字だった。
倭国は百済王が想像する以上に広く、東の各地には反抗的な部族が多い。倭王は百済王の危惧《きぐ》の念を充分理解し、百済に対する協力は惜しまないつもりだが、現在は援軍を送ることは難しい。倭国内が統一された暁《あかつき》には、強力な軍を送り共に高句麗と戦うであろう。故に今|暫《しばら》くは守りに徹し、高句麗軍を撃破されんことを切望してやまない。
ただ朝鮮半島南部に居住する倭人集団は武器も豊富で闘志に燃えている。もし必要なら、それらの倭人集団に働きかけては如何《いかが》であろうか、彼等の利益に直接関わる問題だけに百済王の要請に応じる可能性は大である。それが倭王の希望であることを伝えられても何ら異存はない。
返書の内容は大体そんなものであった。オシロワケ王はたくみに百済王の要請を断っていた。ことに朝鮮半島南部の倭人集団を使えなどというのは厚かましかった。
邪馬台国時代の頃から、現在の釜山《プサン》周辺に住んで鉄を採掘したり、交易に従事していた倭人集団は、三輪王権よりも北九州の勢力と親しいのである。
百済軍と共に高句麗軍と戦うことを、倭王が望んでいるなどと聞けば、自分の手を汚さず、何を勝手なことをいう、と憤るに違いなかった。まさに、他人の下帯で相撲を取る、とはこのことだった。
返書の内容については、倭建は相談を受けていない。
オシロワケ王は、渡来系の史人《ふひと》などの意見も入れ、殆《ほとん》ど自分で作ったのだ。断る返書だけに百済王に不快感を与えぬよう、気を配っているが、まさに実を伴わない形式的な受諾であった。
ただ返書で無視できないのは、倭列島が統一されていないという事実が、再認識されたことである。
この件に関してオシロワケ王は正直だった。当然、諸王子や、三輪王権を支える有力氏族の間から、倭列島を早く統一し、王権を強化することが、国の大事な策である、という声が出はじめた。
倭建は、統一戦など真っ平だ、という態度を取った。
これはあながち演技ではなかった。
凱旋《がいせん》以来、恐怖の鬼神に取り憑かれたと思わせているうちに、武闘への情熱が弱くなった。
かつての倭建は、王になるよりも軍事将軍で良い、それが自分に似合っている、と思っていた。まさに勇猛な王子だったのである。
だが今は、再び軍事将軍になり、まつろわぬ国々を征討する意欲はない。もしそういう事態になったなら武勇を誇っている五百城入彦《いほきのいりびこ》王子が将軍になれば良い、と望んでいた。
人間というのはどんな勇者にも弱い面がある。それは、絶えず自分を駆り立てる情熱が途切れた時、どういう状態になるかが分らないことだ。
まさに今の倭建がそうであった。
戦への恐怖心はないが、戦よりも平和の方が良い、というのが本心だった。
まつろわぬ国、といっても、それらの国々が大和の王権を攻撃するだけの力はない。それなら別に征討しなくても、大和周辺の生産力を増し、武力を充実させれば、交渉により服従させることができるのではないか、と倭建は考えた。
だがそれはこれから王権を固めねばならない王朝の王子のものではない。王子として失格である。
穂積内彦《ほづみのうちひこ》や大伴武日《おおとものたけひ》などは、主君は臆病《おくびよう》になったのではないか、と心配した。
葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》は、賊の妻や部下から受けた傷が再び悪化し、葛城の屋形に籠《こも》っていた。
大体、葛城氏は、三輪王朝に協力はしているが、オシロワケ王とは一線を画していた。
宮戸彦は、倭建の勇猛心と人柄に惹《ひ》かれて臣下となったのである。
葛城氏の中には、そういう宮戸彦に批判的な者がかなりいた。
そんな宮戸彦の容態が悪化したのは初夏だった。
宮戸彦の部下が伝えたのである。
倭建は馬を飛ばし宮戸彦の屋形を訪れた。
宮戸彦の傷は塞《ふさ》がっていた。だから悪化するといっても黴菌《ばいきん》が入ったりはしないはずである。
宮戸彦も、時々王子にお会いしたくなるが、古傷が痛み長く歩けないので屋形に籠っている、というようなことを倭建に伝えていた。
まさか古傷から容態が急変するなど想像してもいなかった。
葛城山の山麓だが高台にある宮戸彦の屋形は風通しが良い。それにも拘《かかわ》らず部屋には腐臭が漂っていた。
「王子、わざわざ」
と宮戸彦は呻《うめ》くようにいったが、顔は膨れて丸くなっており動かすことができない。瞼《まぶた》は腫《は》れて眼は細くなっていた。
身体に掛けた布から丸太ん棒のような脚がはみ出ている。
「どうしたのだ、宮戸彦」
「申し訳ありませぬ、王子」
「謝ることはない、傷は治っていたと思っていたがのう」
「治っておりました、ただ動きが鈍くなっていたのです」
宮戸彦は喘《あえ》ぐような声で、休み休み話しはじめた。
葛城に戻った宮戸彦は悔いが残っていた。旨《うま》く賊の女人に騙《だま》されて山中に連れ込まれ傷を負ったのである。そのため倭建と共に最後まで戦うことができなかった。勝利を実感として味わえなかったのは当然である。
宮戸彦は一見豪放|磊落《らいらく》だが繊細な心を持っていた。だからこそ情も深いのだ。
宮戸彦にとって、主君と共に最後まで戦えなかったのは一生の負い目となった。
倭建が凱旋するまで、宮戸彦は負い目を忘れるように酒を飲み、狩猟に熱中した。
葛城山には、狼や猪、それに熊が棲《す》んでいる。獰猛《どうもう》な猪や熊は宮戸彦には自分を忘れることのできる闘いの相手だった。
倭建が凱旋して間もなく宮戸彦は、獣を追い葛城山の南方に連なる金剛山に入った。
そこで体長六尺(一八〇センチ)以上もある大熊に襲われたのである。突然の襲撃で、宮戸彦を守ろうとした部下は大熊の爪に引き裂かれ、また撥《は》ね飛ばされた。矢は間に合わず、宮戸彦は刀を抜いて襲いかかってきた大熊の頸《くび》を突き刺した。頸部《けいぶ》を貫かれたにも拘らず大熊は宮戸彦に体当りした。体重は五十貫(約二〇〇キロ)はあった。
宮戸彦は大熊と共に急傾斜の山林の中に転がり落ちたのである。
「王子、間違いなく熊は斃《たお》しました」
宮戸彦は渾身《こんしん》の力を込めていった。それは宮戸彦にとっては武人としての誇りだった。
宮戸彦の顔に汗が噴き出た。息苦し気に宮戸彦は喉《のど》を鳴らした。
侍女が壺《つぼ》の水を飲ませた。
「宮戸彦、喋《しやべ》るな、もう良いぞ」
「王子、残念でございます、熊の爪が脚に刺さり、そこから毒が……」
痰《たん》が詰まったらしく宮戸彦は吐き出そうとしたが、なかなか出ない。すでに痰を吐き出すだけの力もなくなっているのである。
宮戸彦は突然吐息を洩《も》らした。宮戸彦は眼を閉じている。それが吐息ではなく鼾《いびき》だと知った時、倭建の眼は熱くなった。
宮戸彦らしくなくあまりにもか弱い鼾だった。
宮戸彦の死が近いのを倭建は感じた。
倭建が帰ろうとすると宮戸彦は眼を開けた。
「王子、内彦や武彦《たけひこ》は?」
「後で来るであろう、そちの部下の知らせに吾は飛んできたのだ、武彦はまだ吉備じゃ、今、倭国は何となく騒然としておる、百済の王子が倭国に軍事援助を求めてきた、朝鮮半島の騒乱は倭国にも及ぶからのう」
「王子、最後に酒を飲みとうございます」
「酒だと……」
「王子と酒を酌み交したいのです、何卒《なにとぞ》お許し下さい、ただ残念ですが、やつかれは王子の酒杯に注げませぬ、妻の酌でお許し願えるでしょうか」
「それは構わぬが、その身体で酒など……」
「王子、今は何を飲んでも同じです」
宮戸彦は死を覚悟していた。
それを感じると、矢張り宮戸彦の願いをかなえてやりたかった。
宮戸彦の正妻はトハタといい、二十代半ばで、男子を一人産んでいた。色白だが女人にしては骨太である。
播磨《はりま》の垂水《たるみ》の豪族の娘だった。
葛城氏は葛城|山麓《さんろく》だけではなく、播磨にも勢力を拡げていた。
宮戸彦の妻は、やや青い色をした須恵器《すえき》の酒杯を運んできた。
「朝鮮半島の南部に居住している我等の縁者が運んできたものでございます」
「おう、土師器《はじき》などに較べると美しいのう」
「倭国も、須恵器を作る工人を呼ぶべきです、文化という点では、我国は遅れています」
「その通りだのう」
宮戸彦の妻は倭建の酒杯に酒をなみなみと注いだ。
宮戸彦は身体を動かせない。当然、手に酒杯を持てない。
「トハタ、吾の酒杯にもなみなみと注ぐのだぞ」
「でも……」
「吾の申すことが諾《き》けぬか、それなら播磨に戻れ、離縁だ」
宮戸彦は眼を剥《む》こうとするが、膨らんだ瞼は殆《ほとん》ど動かない。
「はい、注ぎます」
多分、宮戸彦は苛立《いらだ》つと、何時も離縁だ、と怒鳴っているに違いなかった。
トハタは諦《あきら》めたような顔で注いだ。
「王子、お飲み下さい」
と宮戸彦はいった。
「おう、そちと飲むのも久し振りだ」
倭建はゆっくり飲んだ。宮戸彦は到底一息に飲めないからである。
トハタは口を開けた宮戸彦の唇に酒杯をつけるようにして飲ませた。宮戸彦がむせないように気を遣っていた。
宮戸彦は口を鳴らしながら飲んだ。それでも酒杯の三分の一を飲むのがやっとであった。
「王子、旨うございます」
「うむ、不思議な味だ」
涙味というやつかもしれなかった。
宮戸彦の顔がみるみる赧《あか》くなり汗が噴き出てきた。
「大丈夫か?」
「腐った傷が酒の味に喚《おめ》いております、愉快ですなあ」
「もうやめろ」
倭建が命令口調でいったのは、宮戸彦がもっと飲みそうな気がしたからだった。
「はっ、王子、最後に申し上げたいことがございます、お許し下さい」
「おう構わぬぞ」
宮戸彦は、部屋を去るようにトハタに命じた。
「内密の話だ、盗み聴きした者は斬る」
「分りました、おまかせ下さい」
トハタは部屋を出ると、控えている侍女達を遠ざけた。
「王子、お耳を」
倭建は宮戸彦の口に耳を寄せた。
「王子、今こそ倭国は統一されねばなりません、王子が勇気を失われたという噂は、やつかれの許《もと》にも届いております、やつかれは王子の本心ではないと思っていますが、もし臆病の鬼神に取り憑《つ》かれたのなら、追い払って下さい、今こそ王子が勇気をふるわれる時でございます」
宮戸彦の声が乱れてきた。酒の勢いを借りて話そうとしているのだが、息が詰まりかけているのだ。
「宮戸彦、しっかりしろ」
倭建は唸《うな》っている宮戸彦の頭を揺すった。
「王子にはまだまだ人望がございます、だが、オシロワケ王はもう駄目です、王子は万難を排し王にならねばなりません、軍事将軍ではない、王です」
宮戸彦の身体が痙攣《けいれん》しはじめた。何かいおうとしているが声にならない。口から泡が噴き出た。
「トハタ、水だ、水だ、それに薬じゃ」
倭建は大声で叫んだ。
内彦達が駆けつけたのはその時であった。だが宮戸彦は痙攣したまま泡を吐き続けた。もう意識はなかった。
宮戸彦が死んだのは三日後だが、病が悪化し、瞼《まぶた》が腫《は》れて眼が開かなかったにも拘《かかわ》らず、息が切れた瞬間は眼を剥《む》いた、という。
まるで魔神と戦っているような形相で、侍女達の中には、その顔の恐ろしさに気絶した者もいたらしい。
宮戸彦の死は、倭建にとって大打撃であっただけではない。オシロワケ王にとっても打撃であった。
朝鮮半島との交易を通じ、勢力を強めていた葛城氏は、三輪の王権とはっきり一線を画しはじめた。と同時に葛城氏は、河内の勢力との友好関係を強めた。
後にホムタワケを王とする河内王権が、三輪王朝に取って替ったのも、葛城氏が河内王朝を支えたからだった。
河内王朝とはいうまでもなく応神《おうじん》・仁徳《にんとく》王朝のことである。九州勢力と河内の勢力が合体した新王朝となった。
百済王子が援軍を求めに来倭しオシロワケ王に会ったのは、百済の近肖古王《きんしようこおう》の時代であった。
『三国史記・百済本紀』によると二十四年(三六九)、高句麗の故国原王《ここくげんおう》は騎馬軍団を含む二万の兵で百済の雉壌《ちじよう》を攻めた。王は太子に命じて高句麗軍を急襲させた。高句麗軍は五千余名が戦死したり捕虜となり敗れている。
また、二十六年(三七一)には攻めてきた高句麗軍を破った百済王は、太子と共に精兵三万を率い平壌城を攻撃し、高句麗王は流れ矢に当り戦死した。
大勝だが平壌城を奪取した記録はない。
百済王子が来倭したのはこの前であろう。
『日本書紀』によると神功《じんぐう》皇后五十二年条に、百済人|久《く》※[#「低のつくり」、unicode6c10]《てい》らが「七枝刀《ななつさやのたち》・七子鏡《ななつこのかがみ》」を皇后に奉った。この七枝刀は、石上《いそのかみ》神宮の宝庫におさめられていて現在に伝わり、国宝となっている。
鉄刀には銘文がある。
この解読には様々な説があるが、東晋の泰和(太和)四年(三六九)に未だかつて存在しない七枝刀を、百済王と太子が、倭王旨のために作った、侯王に供するによろし、と読むのが理解しやすい。
ただ侯王は、百済王よりも一段下と見る説もあり、上意下達文とも考えられる。
ただ文中、生を聖音(恩)に依り、とあり、これも解釈次第で、意味が大きく異なってしまう。百済王が聖音としたのが、東晋の皇帝ではなく倭王とすると、百済は倭に服属的な関係にあったということになる。だが四世紀後半の倭がそれほど強大であったとは到底思えない。
矢張り、百済王が高句麗の南下政策に対抗するため、倭と友好を保とうとして、時の倭王に贈ったものであろう。
ただ、倭王の手に渡ったのは、作られてから数年後ではないか。
その頃、倭建はすでにいない。
オシロワケ王の時代では、百済に大軍を送る余裕がないことはすでに述べた。
数百名程度の水軍なら不可能ではないが、それでは百済は納得しないし、倭の軍事力に失望する。倭への蔑視《べつし》に繋《つな》がりかねなかった。
諸王子を始め、三輪王朝を支える有力豪族達は、時代は倭国の統一を望んでいる、といいはじめた。
確かに邪馬台国《やまたいこく》が北九州から大和に遷《うつ》って百余年の歳月が流れている。だが東には三輪王朝に服従しない国が多い。これでは、強力な対外政策は打ち出せない。
巻向宮《まきむくのみや》を取り巻く世論が、東を討つべし、と高まって行ったのも自然である。
もしいよいよ東征ともなれば勇猛な王子が将軍とならねばならない。
まだ王権が脆弱《ぜいじやく》な時代なので、有力豪族を将軍に任命するわけにはゆかなかった。王子が将軍になってこそ、諸豪族が従うのである。
当然、軍事将軍はどの王子が最適か、ということになる。
諸豪族の間では二人の王子の名が取り沙汰《ざた》された。五百城入彦と倭建だった。
五百城入彦は、倭建と共に武術の王子として知られている。強力で槍《ほこ》に熟達していた。ただ実戦の経験がない。
倭建は何といっても、北九州の王が困り果てていた賊を殲滅《せんめつ》し、熊襲と呼ばれて恐れられていた強力な敵を破った。しかも首長の一人である熊襲タケルと対決し殺している。
倭建の武勇は倭国一だった。
だが倭建は恐怖の鬼神に取り憑かれ、かつての勇猛さは見られない。
巻向宮でオシロワケ王や諸王子と朝餉《あさげ》を摂《と》る際も寡黙だった。そういえば眼にも往年の鋭さがない。
今は弟橘《おとたちばな》媛ひめを寵愛《ちようあい》し、殆《ほとん》ど毎夜のように媛の屋形に通っていた。倭建に仕えた部下の中にも、本当に人が変られた、と小首をかしげる者もいた。
ことに宮戸彦が亡くなって以来、倭建は意気消沈している。もう友ともいえる部下を殺す戦など真っ平だと公けの席で口にしていた。
最初は演技ではないか、と猜疑心《さいぎしん》で眺めていたオシロワケ王を始め王子達も、倭建は本当に、恐怖の鬼神に取り憑《つ》かれた、と思うようになっていた。
倭建が大和に凱旋《がいせん》して、すでに一年たっている。あれだけ、山を駈《か》け、狩猟に熱中した倭建が、ただの一度も狩に出ていない。
人が変った、と周囲が見たのも無理はなかった。
当然である。倭建自身、自分が変ったのがよく分る。オシロワケ王に睨《にら》まれないため臆病《おくびよう》をよそおったのだが、よそおっているうちに戦が嫌になってきたのだ。
俗にいう、木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊になったのである。
ただオシロワケ王は東征を決断していなかった。一つ間違えば王権が揺らぐからである。王はもし東征を決断すれば、今回は五百城入彦王子を将軍に任ずべきだと考えていた。
ヤサカノイリビメに産ませた稚足彦《わかたらしひこ》か、五百城入彦を王位に即《つ》かせるのなら、何等かの武功が必要だった。
兄の稚足彦は温厚で、軍事将軍として全軍を指揮するのは無理である。となると弟の五百城入彦を将軍にすることによって、有力豪族を納得させねばならない。
五百城入彦が人望を集めれば、稚足彦は自然に王位に即ける。弟王子が、軍事面で兄王を補佐するという形が整うからだ。
幸い稚足彦は学識に優れている。五百城入彦と組めば、良い王になれる。
ヤサカノイリビメとの夕餉《ゆうげ》の席で、オシロワケ王は自分の考えを口にした。ところが当然賛成すると思っていたイリビメが、反対した。
「私《わ》は賛成しかねます、もし王が、王権の強化を望まれるのなら、五百城入彦のように武勇な王子を傍に置く必要がございましょう、私は王子を遠くに派遣することは不安でございます、王子の身のことではありません、王の身に何か起こらないかと心配なのです」
「吾《われ》の身にだと……」
どういう意味だ? といいかけてオシロワケ王は言葉を呑《の》んだ。
ヤサカノイリビメは、謀反でも起きたならどうなさるおつもりですか、といいたいに違いない。
オシロワケ王は、謀反など念頭になかった。謀反を企《たくら》む王子といえば、倭建しかいない。もし倭建にその気があれば、熊襲を討った後、北部九州と吉備、それに播磨の勢力を集め、オシロワケ王と戦うことも可能だった。
大和内部でも倭建の人望は高い。
戦の勝敗は、オシロワケ王にも予想がつかなかった。
いや倭建の反乱は成功していたかもしれない。それを恐れたからこそ、オシロワケ王は大伴武日などの有力豪族の子弟を倭建に同行させなかったのである。
オシロワケ王が倭建に反乱の意志がないことを感じたのは、穂積内彦や宮戸彦などが先に戻ってきたからだった。
内彦や宮戸彦が、倭建のために生命を投げ出す覚悟を決めていることを、オシロワケ王は知っていた。
最初オシロワケ王は、反乱の準備のためではないか、と間者を放って探らせたが、そんな様子は全くなかった。
吉備の方にも間者を放ったが、戦の準備など全くなく、倭建は瀬戸内海に面した別荘で、心身を休めていた。
オシロワケ王と一戦を交えるつもりなら、吉備で大軍を集めねばならない。倭建には吉備の血が混じっており、吉備・播磨は彼の勢力圏ともいえるからだ。
オシロワケ王は、倭建に謀反の気持がないことを確認した。と同時に、ひょっとしたなら謀反が成功するかもしれない絶好の機会を倭建が失ったことも知ったのだ。
案の定、凱旋した後の倭建は臆病風に吹かれていた。
勝利を得たのに、臆病風に吹かれるというのは矛盾するが、矢張り戦を終えた後の虚脱感のせいであろう。戦の際は無我夢中だが、終って我に返ると抑えていた恐怖心が眼を覚ます。よくあることだった。
オシロワケ王の侍女は、ヤサカノイリビメの息のかかった者ばかりだが、王は念のために侍女をも退《さ》がらせた。
王以外の者といえば、ヤサカノイリビメとワタリメだけである。
「のうヤサカノイリビメ、そなたは五百城入彦が都から離れたなら、誰かが吾に危害を加えるかもしれぬ、と恐れているのか」
「その通りでございます」
ヤサカノイリビメは重々しく叩頭《こうとう》した。贅肉《ぜいにく》のついた顎《あご》が二重になる。
「そなたが恐れているのは王子だな?」
「賢明な王の御推察におまかせ致しましょう」
「大体見当はついている、だがあの王子には謀反の意志などないぞ、そなたは臆病になったように見せているだけで、牙《きば》を隠していると疑っているようだが、それは考え過ぎだ、あの王子がいったように蕃夷《ばんい》の首長の名前を貰《もら》ったのも身を守るためだ。大体、そういう勝手なことをすれば、王たる吾にどう思われるかぐらい分るはずじゃ、それが分らないというのは王子が錯乱していたからであろう、かつての王子ならそういう馬鹿な真似はしまい」
「錯乱かもしれませぬ、でも、王を無視した行為であることに間違いはありません、あの王子には昔から傍若無人なところがございました、私にはそれが恐ろしゅうございます、私は何も五百城入彦の身を案じて申しているのではありません、入彦にも手柄は立てさせてやりとうございます、でも、それよりも王の身の安全が気になるのです」
「少し気にし過ぎだぞ」
オシロワケ王は舌打ちした。
倭建のことでヤサカノイリビメと話し合っているよりも早くワタリメと戯れたかった。
「その通りかもしれません、ただ、これは王の耳にすでにお入りかもしれませんが、私が最近耳にしたところによると、殺されたはずの大碓《おおうす》王子は、美濃の山奥で生きているとのことです、風の便りですし、本当かどうか分りませんが、もし生きているとすると、あの王子が逃がしたことになります、王には嘘の報告をしたのです、油断できない王子といえましょう」
「大碓が生きているという噂は吾も聞いておる、だが真偽は分らぬ、だが王子が嘘の報告をした、と決めつけるのはどうかな、大碓が殺されたふりをして脱出したということも考えられる、ただ、今では大碓を弟王子に殺させたのは少しやり過ぎであったと反省している、いずれにしろ、吾も小碓《おうす》を全面的に信用しているわけではない、それにまだ東征するかどうか吾は決定していないのだ」
「よく分りました、これ以上は申しません、ただ私は王の身を案じて申し上げているのです、その点だけは、どうか御理解下さい」
ヤサカノイリビメは再び深々と叩頭した。
オシロワケ王はワタリメと二人切りになったが、何時ものように若い身体に溺《おぼ》れられなかった。
ワタリメの乳首や腋窩《えきか》、また下腹部などに口を這《は》わせたが欲情が滾《たぎ》らない。
この頃のワタリメは、媾合《まぐわい》の悦《よろこ》びをかなり感じるようになっていた。
最初の頃はただ身体を硬くし、オシロワケ王のしつこい愛撫《あいぶ》に堪えていた。
時には呻《うめ》き声を洩《も》らすが、悦びからではなく苦痛もしくは悲しみの嗚咽《おえつ》であった。
今は違う。愛撫に堪えているうちにそれに慣れ、次第に快感を覚えるようになった。練絹のような柔らかい肌が汗ばみ、自然に身体がくねるのだ。息遣いも荒くなり蜜《みつ》のように糸を引く声が洩れる。
腋窩からは杏子《あんず》に似た甘い匂いが発散する。
オシロワケ王は、ワタリメの声や匂いに昂奮《こうふん》し、老いた欲望を奮い立たせるのだ。
オシロワケ王が、ワタリメを溺愛《できあい》するようになったのは、彼女と閨《ねや》を共にすると不思議に他の女人よりも昂奮するからだった。
自分の身体が若さを取り戻しいきり立つことを確認するのは、王にとっては最高の喜びである。
他の女人では、どんなに若く美しくても、ワタリメのように昂奮しない。大事なものが途中で萎《な》えたりする。
それは王の自信を揺るがし、自分が持っている権力さえも頼りなく思える。
そういう意味で王にとっては、ワタリメが最も大事な存在だった。
もしワタリメを奪おうとする者が現われたなら、王は絶対許さないだろう。それが五百城入彦であってもである。
だがその夜、王は途中で萎えた。王はその原因を一番よく知っていた。
それは矢張り東征の件だった。
時の流れは東征に向っている。だが大将軍を決める自信がない。五百城にしても、倭建に決めても不安だった。
ワタリメに溺《おぼ》れられないのである。
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王の思惑
高句麗《こうくり》が南下してくれば朝鮮半島全体が戦場となる。百済《くだら》のみならず倭《わ》国と利害関係の深い朝鮮半島南部も戦乱の渦に巻き込まれる。
南伽耶《みなみかや》(金海)や、その周辺には大勢の倭人が住んでおり、銀を採掘したり交易に当っていた。
葛城《かつらぎ》氏の一族などもかなり前から釜山《プサン》周辺に勢力を張っている。
倭国が朝鮮半島の騒乱を対岸の火事視して、手を拱《こまね》いているわけにはゆかないのであった。ことに百済の王子が援軍を求めているのだ。
だからといって、援軍を出せる状態ではない。東の国々には、三輪《みわ》の王権に従わない王がかなりいる。
まだまだ倭国は纏《まと》まっていないのである。
オシロワケ王は、この状態が三輪王朝にとって如何《いか》に危険であるかをよく知っていた。
女色に溺《おぼ》れていても、嗅覚《きゆうかく》だけは衰えていない。だからこそ長年、王として君臨し得たのだ。
「ワタリメ、少し休むぞ」
オシロワケ王はワタリメの身体から離れた。ワタリメの体内にあった王の男子《おのこ》は完全に萎《な》え、親指ほどの大きさに縮んでいた。
「はい、お身体をお拭《ふ》きしましょうか?」
ワタリメは、今宵《こよい》の媾合《まぐわい》はこれで終った、とほっとしたようである。
「うむ、冷たい水でな、揉《も》むようにして拭くのじゃ」
王は仰向けになると荒い息を吐いた。この頃は、ワタリメを上から抱いていると疲れが早い。
ワタリメは、井戸から汲《く》み上げたばかりの壺《つぼ》の水を布に浸し、王の身体を拭いた。
王が全く無防備になるのはこの時ぐらいのものである。もしワタリメに殺意があったなら、彼女でも刺殺できる。
拭かれる間、オシロワケ王は子供のように舌を鳴らしていた。水が冷たいからであろう。
ワタリメは厠《かわや》に行く許しを得て寝所から離れた。厠といっても部屋から出るわけではない。絹布で区切られた部屋の隅に置かれている壺にするのだ。大きい方の場合はそれ用の壺があり、終ると板で蓋《ふた》をし部屋の外に置く。
不寝番の侍女が新しい壺と換える。
オシロワケ王は放尿の音を何となく聞いているうちワタリメの尿を身に浴びたくなった。気持がよく若返りそうな気がする。
西の海の彼方《かなた》には想像もできないほど大きな国があり、王の後宮には数千人の女人がいるという。夜の伽《とぎ》に当らない女人が多く、王に呼ばれるのを首を長くして待っているうちに年齢を取り、退《さ》がることになるらしい。王も若ければ、毎夜新しい女人を呼べるが、オシロワケ王の年齢にもなると、そんなことは不可能だ。
新しい女人も悪くはないが、今のオシロワケ王は、裸の身体を眺めるだけで充分である。ワタリメがいるせいだった。
かつては羨《うらや》ましかった巨大な国の王が、気の毒にさえ思えるのだ。
ワタリメが戻ってきて、オシロワケ王の傍に横になる。ワタリメは、今宵の務めは終ったとほっとしているが、オシロワケ王の淫心《いんしん》はまだ萎えていない。
ワタリメの放尿の音を耳にしているうち、欲情がたぎり老いた肉体を叱咤《しつた》していた。
「ワタリメ、今一度じゃ」
「はい」
王はワタリメの首下に腕を差し入れ、抱き寄せると指先がすべるような絹肌を愛撫しはじめた。
ワタリメは王の髭面《ひげづら》に桃のような頬を寄せ、眼を閉じている。彼女は身動き一つしなかった。肌を味わうことに満足した王は、華奢《きやしや》なワタリメの手首を握り自分の身体に置く。王が何を要求しているのか、ワタリメは分っていた。ワタリメの指は少し勢いづいた王の男子をまさぐった。訓練が行き届いているので王が満足するように指ではさみ、微妙に動かす。
王は次第に元気が出てきた。この分では大丈夫だ、と自分に呟《つぶや》く。その自信がさっきとは別人のような欲情をたぎらせはじめた。
自分でも不思議である。吾《われ》は若返った、と王は悦楽感に眼を細め、脂肪太りの腹を波打たせた。
王はワタリメを腹に乗せた。ワタリメには王に対する異性愛は殆《ほとん》どない。ただ嫌悪感は毎夜の慣れと、実家に対する思いで相殺されている。開発されかかった身体が悲しく反応する。嗚咽《おえつ》が洩《も》れる。
王はだらしなく口を開き、犬のように舌をのぞかせていた。
ことが終った後、ワタリメは新しい壺の水で王の身体を拭いた。
王の身体から離れたいが、いわねばならぬことがあった。
ワタリメは伊勢の度逢《わたらい》(渡会)氏の一族で、一族は海の神と日の神を祀《まつ》っていた。度逢神社だが、後に日の神だけを祀るようになった。伊勢神宮の始まりである。日の神は天照大神となり、七世紀の終りか八世紀に、天皇家の皇祖神となったのだ。
オシロワケ王はワタリメの下腹部に手を当てながら大きな欠伸《あくび》をした。
これ以上は待てない、とワタリメは感じた。いったん眠ると、呼んだぐらいでは起きない。
「王様、先日、伊勢の国から叔父《おじ》が参りました」
「知っている、海の幸を持ってきた、吾はその礼として上等の絹布十匹、また十振りの剣を渡してやったぞ、ワタリメも知っているはずだ」
「はい、嬉《うれ》しゅうございます、度逢の一族は子孫代々、王様に忠誠を尽しましょう、この間叔父は、船を造る工人が足りないので、王様の御期待に充分そえないと嘆いておりました、何といっても殆ど在地の者だけで船を造っています、もし、大和の兵士を大勢|尾張《おわり》に運ぶようなことにでもなれば、漁の舟を全部集めても足りぬ、と不安そうでした」
王はワタリメの身体に這《は》わせていた指で草叢《くさむら》を掻《か》いた。まだ完全に成長していないのがいとおしいのである。
「それはそうだ、そういう時が来れば船造りの工人を送らねばなるまい、待てよ」
オシロワケ王は、ワタリメの言葉に、度逢という地の重要性を感じた。身体は老いたが頭の方はまだまだ老いていない。
「ワタリメよ、良いことを話してくれた、大和は周囲を山に囲まれ、海に面していない、分ってはいるのだが、船の重要性を忘れてしまう、こういうことでは、他国に軽視されてしまう、早速、海人族の長《おさ》、珍彦《うずひこ》の子孫に命じて舟工を送らせよう、安心せよ」
「嬉しゅうございます」
「可愛い女人だ、しかし東征の噂は地方にまで行き渡っているのだのう、これは時の流れかもしれぬぞ」
といって王はまた欠伸をした。
オシロワケ王が東征の決意を固めたのは、この時だった。
王が口にした珍彦は、かつて邪馬台国《やまたいこく》が北九州から大和に移った時、水軍の長となった人物である。その子孫は大和に住み、一族の者が大和川や河内湖の舟、また朝鮮半島に行く船を造っているが、かつてのような海人の勇猛心はすでに失われていた。
オシロワケ王は数日後、珍彦の子孫の長を呼び、伊勢の度逢に舟工を遣わし、五十|艘《そう》の外洋船を造るように命じた。
「これから、珍彦の直系の子孫は倭《やまと》氏を名乗るようにせよ、三輪の王朝の水軍じゃ」
「はっ、全力で船を造りこの御恩に応えます」
この倭氏は後に倭直《やまとのあたい》という姓《かばね》を得、大和|国造《くにのみやつこ》となった。
オシロワケ王の決断は、王子達や有力豪族を驚かした。皆、王は女人に溺《おぼ》れ、大事な決断を下せなくなっている、と思っていたからである。
勿論《もちろん》、誰も閨《ねや》の中で若い女人の肌をまさぐりながらの決断などと、想像した者はいなかった。
その辺りに、オシロワケ王の凄《すご》さがあったのだ。
東征が近いとなると、問題はいよいよ大将軍である。
群臣は、それぞれ適任者と思われる王子を推す。有力豪族は王に直言し、小豪族は、王族や妃《きさき》を通して伝えた。
倭建《やまとたける》と五百城入彦《いほきのいりびこ》の両王子が圧倒的に多かった。
オシロワケ王もなかなか決断を下せない。ただ五百城入彦は、母親のヤサカノイリビメが反対するにも拘《かかわ》らず、今回は自分だ、と王に申し入れた。
「もし今回も留守役になれば、吾は卑怯《ひきよう》者の汚名を受けます、吾にとっては最も辛《つろ》うございます、何卒《なにとぞ》、吾を大将軍に任じて下さい」
と五百城入彦は懸命だった。
オシロワケ王としては、彼を大将軍に任命したかった。
一応、武功を挙げさせたい。
だがヤサカノイリビメの反対論も無視できなかった。
最近のヤサカノイリビメは、五百城入彦が軍を率いて大和を離れたなら、倭建は間違いなく謀反を起こし、オシロワケ王を殺し、自分が王になる、と眼の色を変えて詰め寄ったりする。
ヤサカノイリビメはワタリメの縁者の巫女《みこ》を寵愛《ちようあい》していた。どうやらその巫女に占って貰《もら》っているらしい。
オシロワケ王は、倭姫《やまとひめ》王に頼み神託を得て決めようか、とも考えた。
ただ、大将軍を任命するのは王の権限である。こういうことまで倭姫王に頼んでいては王の権威に傷がつく。
珍しくオシロワケ王は悩んだ。
そんな或《あ》る日、ヤサカノイリビメを通じ、物部十千根《もののべのとちね》が極秘で奏上したいことがある旨を伝えた。
物部十千根は、昔からオシロワケ王に仕え、王を助けてきただけに、王の性格、気持をよく知っていた。
かつて倭男具那《やまとのおぐな》と呼ばれ、大和には男具那に優る武術者はいない、といわれていた若き日の倭建を襲ったのは筑紫《つくし》物部だった。
倭建を斃《たお》し、三輪の王権の力を削ぐためだった。あの事件に十千根は直接関与してはいないが、知らなかったわけではない。
物部自慢の武術者集団が、倭建とその部下達によって全滅したのを知った時、十千根は茫然《ぼうぜん》とした。最初は信じられなかった。真相を知り、恐ろしい、と思った。
復讐《ふくしゆう》しようといきり立った河内在住の物部に、それは一族を破滅に導くようなものだ、絶対ならぬと圧力を加えたのは十千根だった。
十千根は息を潜めるようにして、一日一日とより一層|逞《たくま》しく成長して行く倭建を眺めていた。
倭建の息のかかった部下に物部はいない。オシロワケ王が、倭建に好意を抱いていないのを知っていたからである。
十千根は、三輪王朝はいずれ、北部九州の勢力と合体した河内の勢力によって斃《たお》される、と睨《にら》んでいた。げんに優れた渡来人をも交えた北部九州の勢力は、徐々に、河内を始め、播磨《はりま》・山背《やましろ》に移住しつつあった。
この勢力が後に三輪王朝を崩壊させ、応神《おうじん》・仁徳《にんとく》王朝を打ち立てたのである。その際河内の物部は新王朝の樹立に力を貸した。
十千根は、そういう将来をも遠謀していたのである。
オシロワケ王に人払いを要請した十千根は、東征の機運が盛り上がっている今こそ、軍事行動を起こすべきだ、と述べた。
「分っている、問題は誰を大将軍にするか、じゃ、今回の軍事行動は熊襲《くまそ》征討よりも難事だぞ、西の場合は、我等に味方する王も多い、だが東は少ない、尾張の半分と美濃の半分、後は我等の勢力がどんなものか、と様子を窺《うかが》っている、駿河《するが》、相模《さがみ》など毛野《けぬ》寄りだぞ、失敗すれば三輪の王権を揺るがしかねない」
と王は眉《まゆ》を寄せた。
「承知しております、ただ今回は、軍事行動といっても大和の王権の力を示すだけで充分でございます、東国には確かに、毛野を始め、我等に従わない国々は多うございますが、大和を攻めるだけの力はありませぬ、一番危険なのは毛野です、故に毛野は避けて、その周辺の国を通り、もし抵抗する勢力があれば討つ、それと我等にとって最も大事なのは大和周辺の国々でございましょう、尾張、美濃、伊賀、このあたりは押えねばなりませぬ、尾張には、すでに物部の支族も根を張りつつあります」
「十千根、吾が問題にしているのは、誰を大将軍にすべきか、ということじゃ、吾はそれで悩んでおるのだ、武勇の王子といえば五百城入彦か、倭建ということになる、ただ倭建の場合は昨年、西討将軍になった、それに恐怖の鬼神に憑《つ》かれ、果して大将軍の任に堪えるかどうか疑問じゃ、だが、ヤサカノイリビメは五百城入彦を大将軍に任ずることに反対しておる」
オシロワケ王は口を閉じた。
王の胸中を十千根は知っていた。十千根は膝《ひざ》を進めても構わぬかどうかを訊《き》き、王が頷《うなず》くと傍に寄った。
「王に申し上げます、倭建王子が恐怖の鬼神に取り憑かれたかどうかは分りませんが、王子は毎朝、日の出前に起きて木刀を振っています、ひょっとすると恐怖の鬼神と闘っているのかもしれませんが、それだけの闘志があれば大将軍に任じられてもおかしくはありますまい」
と十千根は声を潜めていった。
「ほう、毎朝木刀を振っていると……知らなかったのう、それなら大将軍の資格は充分じゃ、多分、あの王子なら熊襲征討以上の武功をあげるであろう、となると人望は倭建に集まる、次の王は彼ということになる」
オシロワケ王は周囲を見廻し、首を横に振った。吾は、倭建が王になることを望んでいないぞ、と伝えたのだ。これまで、これだけはっきり自分の意志を伝えたことはなかった。
十千根は王の眼を見、微笑した。承知しています、と告げたのだ。
「それでは何故?」
と王は囁《ささや》くようにいった。
「白鳥は寒くなると倭国に飛んでき、春には北の方に飛び去ります、翌年戻ってきますが、飛び去ったすべての白鳥が戻ってくるとは限りますまい」
十千根の声は殆《ほとん》ど声にならないが、オシロワケ王ははっきり聴くことができた。
流石《さすが》に王の顔が強張《こわば》った。十千根は倭建が大将軍になっても、大和に凱旋《がいせん》するとは限らないと匂わしているのだ。
それは病に罹《かか》るかもしれない、といっているのではない。戻らないように手を打ちましょう、と告げているのだった。
オシロワケ王は低く唸《うな》った。
「それが可能か?」
「なさねばなりません、次の王のためにも……」
「そうか、そこまで吾の胸中を読んでいたのか、昔、白鳥が、自分を殺すため九州から飛んできた荒々しい鳥を殺したという噂が流れた、確たる証拠もなく噂は消えたが、そちは真相を知っていたのではないか?」
「申し訳ありませぬ、詳しいことは存じませんが、どうも九州の鳥は勝手に飛んできて、勝手な行動を取ったようです、吾は吾に告げずに九州の鳥に隠れ家を与えた河内の鳥共に厳重な注意を与えました、もし今度、勝手なことをすれば、土地を没収し追放すると申し渡しました、王も御承知のように、河内の鳥共はそれ以来大人しくなり、三輪の王朝に仕えております」
「白鳥が殺したというのは?」
「それも証拠はありませんが、ほぼ間違いないようです」
「そうか、矢張りのう、恐ろしい武術じゃ」
「その通りでございます」
十千根は重々しく頷いた。
白鳥とは倭建であり、九州の鳥は筑紫物部のことだった。河内の鳥とは河内物部である。
二人の間に沈黙が流れた。
「酒を飲むか」
と王は緊張に堪え切れずにいった。
「この席では要りませぬ」
流石に十千根は腹が据わっていた。
「白鳥を戻らぬようにする自信は?」
「ございます、それがなければこのようなことは申し上げられません」
「方法は?」
「まだ白鳥は飛んでおりません、あまり焦らず吾におまかせ下さい、時には余裕がございます」
「分っておる、だが失敗し、誰が謀《はか》ったかがばれると大変なことになるぞ、そちが腹の中にしまっている大事の一つだけでも申せ」
それによって決める、といわんばかりにオシロワケ王は眼を剥《む》いた。声を潜めているので表情が過剰になる。
「鳥は空を飛んでおります、羽がある故飛べるのです」
「羽をもぐという意味だのう、それは分っておるが、どういう方法で……」
と王は小首をかしげた。王にはまだ羽の意味が分っていなかった。
「このように御考え下さい、たとえば白鳥は西に飛び獰猛《どうもう》な鷲《わし》を殺しました、白鳥だけの力ではありません、沢山の鳥が従っていたからでございます、吾が申している羽は、従っている有力な鳥のことでございます」
「おう、分ったぞ」
そちは何という腹の黒い策謀家だ、とオシロワケ王は叫びたかった。
倭建を大将軍に命じたなら、東征の際には有力豪族を率いて行く。穂積内彦《ほづみのうちひこ》、大伴武日《おおとものたけひ》、吉備武彦《きびのたけひこ》などがそうだ。
今、十千根はそれ等の羽を途中で呼び戻せば良い、といっているようだった。
「その通りでございます、白鳥は地方で暴れている薄汚れた鳥共を退治します、そろそろ終りかけた頃、羽をもぎ取るのです、理由は何とでもつきましょう、吉備の羽なら、吉備方面が騒々しくなった、引き返して制圧するように、と命令を下される、引き返さざるを得ないでしょう」
「まさに名案じゃ、流石は知謀の将だ、他にも策を考えよ、万全の策をじゃ、あの白鳥はただの鳥ではないぞ、怪しい鬼神がついておるからのう、勿論《もちろん》極秘だ」
「心得ています、秘密を洩《も》らせば吾は口が裂けましょう、神に約束します」
「分った、ただ問題は、競争相手の鳥じゃ、東に征きたがっておる、何か納得させるだけの理由を作らなくてはのう」
「分りました、何か策を講じましょう」
数日後倭建は、穂積内彦、弟橘《おとたちばな》媛ひめと共に三輪山から矢田丘陵の南を通り平群《へぐり》谷を散策した。倭建と内彦は新しく北部九州から入った馬に乗り、弟橘媛は輿《こし》に乗っていた。
矢田丘陵の紅葉は鮮やかで、陽に映えた紅は眼に沁《し》みるようだった。
倭建と内彦は馬から降り、平群谷の小途《こみち》を歩いた。平群谷の東は矢田丘陵、西は生駒《いこま》山系である。平群谷は山間の狭隘《きようあい》な土地だが、大和川に面した南部は平野で田畑が多い。
平群谷に住む人々は僅《わず》かで、四世紀後半の頃はまだ有力豪族とはいえなかった。
平群氏が勢力を強めたのは、五世紀になってからである。大和と河内との往来が盛んになったからだ。
大和川に面し、竜田道を押える要衝の地であることが認識され、人々が集まった。東西の交易、また軍事面からも大事な場所だった。
倭建は高台に立ち、北部に行くほど狭まる平群谷を眺めた。中央を流れている川は竜田川である。
小途の東側は鬱蒼《うつそう》と繁った山林だった。樫《かし》の木が多い。倭建が使っている木刀も平群谷の樫から作ったのだ。
狭隘の地だが山々は重畳とした感じである。岩肌が露出している山もあり雄々しい。
倭建は凱旋して以来、何度かこの地を訪れていた。
「王子、いよいよ東国への派兵が近づいたようです」
内彦は倭建の表情を窺《うかが》った。倭建は眼を細め景観に酔っているようだった。
内彦は口を閉じた。聞えているに違いないのだが戦などに関心がないようである。
内彦にはまだ倭建の胸中が分らない。本当に恐怖の鬼神が取り憑いたままなのか。
内彦は思わず溜息《ためいき》を洩らした。
「妙な息を吐くな、今度の大将軍は五百城入彦であろう、父王も入彦王子の武功を望んでおられる」
倭建は淡々とした口調でいった。
「王子、それは分りませぬぞ、王子を大将軍にという声は強うございます、それに物部十千根が王妃を通じ、二度も王と会っています」
「十千根か、物部本宗の長《おさ》だが、吾は好きではない、イニシキノイリヒコ王を追い落した際の冷酷さは吾の性には合わぬ、父王も十千根に乗っていると足許をすくわれるぞ」
「そこでございます、一昨日、久し振りに十千根を訪れ話し合いました、どうも胸中が探れません、何かを腹に秘めている」
内彦はいまいまし気にいった。
「そちは吾の縁者でもあり、昔から吾の部下じゃ、策謀家の十千根が胸中を明かすはずはあるまい、あまりこせこせと動くな、内彦らしくないぞ」
「それは分っていますが……」
穂積は物部の支族だが、内彦が倭建と親しいので、十千根は内彦を警戒していた。
「のう内彦よ、そちは吾が大将軍に任ぜられることを願っているようだが、今の吾は戦は真っ平だ、これは本心だぞ、宮戸彦《みやとひこ》の死でそれを痛感した」
「お言葉を返すようですが、宮戸彦は武勇の王子に仕えたことを誇りに思い亡くなったと思います、王子、どうか宮戸彦の心中をお察し下さい」
「臆病《おくびよう》な王子に仕えたはずはない、というわけか、宮戸彦に悪いのう」
「王子、やつかれは臆病な王子とは思っていません」
と内彦は悲痛な声をあげた。
傍の山林から小鳥が数羽も飛び去った。
「おいおい、宮から離れているが、間者がいたらどうする、そちの声に驚き耳を塞《ふさ》ぐかな、それなら好都合だが」
倭建は声を立てて笑った。
「申し訳ありません」
内彦は身体を縮め叩頭《こうとう》した。今度は囁《ささや》くように低い。
倭建は内彦を手招き、袖《そで》が触れ合うほど傍に寄せた。
「内彦、よく聴け、確かに吾は臆病になっている、だからそういわれても腹は立てぬ、今はのんびりと過ごしたいだけじゃ、だから五百城入彦が大将軍に任じられることを望んでおるのだ、ただのう、吾の血は昔も今も変ってはおらぬ、ことに倭の国はまだまだ統一されていないし、王権も安泰ではない、そのことぐらいは承知している、故に、もし吾が東征将軍に任じられたら、これも天命かと思い受けるであろう、断ったり逃げたりはしない、その覚悟だけはできておる、内彦よ、安心しろ」
「王子、安心致しました、無礼なことを申し上げたことをお詫《わ》びします」
内彦は蹲《うずくま》ると膝《ひざ》を地につけ叩頭した。
「仰々しい詫び方だのう、少し宮戸彦に似てきたのではないか、それとな、今回は五百城入彦が征きたがっている、それにも拘《かかわ》らず吾が征くとなると、入彦だって面白くない、ますます吾を敵視するようになる、母は異なるが、兄弟であることに違いはない、吾としてはこれ以上憎み合って生きたくはないのだ、その思いも吾を臆病にしている」
飛び去った小鳥が舞いながら戻り囀《さえず》りはじめた。
内彦は歯を噛《か》み締めて嗚咽《おえつ》を抑えた。倭建の複雑な心境に初めて触れた思いがしたのかもしれない。
王子として生まれたことによって、倭建は内彦達が知らない苦悩を背負っているのだ。
オシロワケ王は、あまりにも多くの子をつくり過ぎた。つくる方は勝手だが、つくられた方は、ただ一人に与えられる王位が関係しているだけに、一刻もぼんやりしてはおれないのである。
優れた王子になればなるほど緊張を解けない。
倭建は自分の言葉を反芻《はんすう》するように微笑し、平群谷の山々を眺めた。
細めた眼は穏やかだった。
内彦は王子のその眼に、運命に対する諦念《ていねん》の光が宿っているのを初めて知った。
弟橘媛の声が聞えてきた。媛はよほど愉《たの》しいらしく明るい声で笑っていた。媛の声はもともとよく通るのだ。
「今少し女人らしい方が……」
と内彦はいった。
「いや、今の吾には弟橘媛のような堂々とした女人が良い、何かと気持が楽になる、 じ嫋嫋《ようじよう》とした女人は一夜で飽きる、付合い切れない」
「しかし、あれでは男子《おのこ》のようです」
と内彦は渋面を作った。
「馬鹿なことを申すな、媛は女人中の女人だ、絶えず吾の気持を察し、吾をほぐそうとしてくれている、たまには今日のように、思い切り愉しめば良い、そうじゃ、その弓を貸せ」
弓を持参していなかった倭建は内彦の弓矢を借りると、山林に向け弦を引き絞った。
山鳥でも射るつもりだろうか、と内彦が鳥を探していると、倭建は矢を放った。
矢は樹林を縫い高い木の枝を折った。小枝は大きな葉をつけたまま落ちた。
「吾が取ってくる、狙いは樫の葉じゃ」
倭建は山林に入ろうとする警護兵を制し、刀を抜くと自ら山に入った。下草や熊笹などを切り払い、落ちている樫の小枝を取った。
「内彦、弟橘媛を呼べ、吾の贈り物を渡す」
倭建は媛が来る迄《まで》に刀子《とうす》(小刀)で枝を細く削った。深紅の楓《かえで》の葉も取ると樫の葉と合わせ、鮮やかな髪飾りを作った。
「王子様、何か御用でしょうか」
と弟橘媛は腰を落すと笑顔でいった。その眼が髪飾りに注がれている。
「おう、樫の葉と楓で髪飾りを作った、そなたに似合いそうだ、参れ」
倭建は嬉《うれ》し気に傍に寄った媛の髪に作ったばかりの木の葉の飾りを挿した。
「嬉しゅうございます、見ても構いませんか?」
「贈り物じゃ、眺めよ」
弟橘媛は懐中から布に包んだ銅鏡を出し、自分の髪を眺めた。
「雄々しく美しゅうございます」
「そなたそっくりだのう」
倭建の言葉に弟橘媛は顔を染めた。
「私《わ》はそんなに雄々しくはございません」
「いや、雄々しいぞ」
と内彦がからかった。
「兄上、許しませぬ」
弟橘媛は手を挙げて睨《にら》む。
「媛よ、それが雄々しいというのだ、媛に睨まれると大抵の男子は萎《な》える」
と倭建は大笑した。
百舌鳥《もず》が鋭い声を発しながら飛んで行く。今一羽の百舌鳥がその後を追う。夫婦なのだろうか。空中で戯れると二手に別れて消えた。
「媛よ、戻ろう、どうしたのだ、媛の顔は楓の葉のように赧《あか》い」
「知りませぬ」
「許せ、冗談じゃ」
倭建は無造作に弟橘媛を抱き寄せた。
倭建が巻向宮《まきむくのみや》に呼ばれたのは翌々日だった。五百城入彦も呼ばれていた。
東征の将軍を決定するつもりだな、と倭建は感じた。五百城入彦は緊張し切っていた。すでにヤサカノイリビメから伝えられているようである。
奥の部屋から現われたオシロワケ王が上段の間に坐《すわ》った。
「両王子に申す、いよいよまつろわぬ東の国を討つ軍を発することになった、問題は誰を大将軍にするかだが、そち達二人のうち一人ということになった、いずれが大将軍に任じられても、諸王子、群臣とも了承するであろう、吾は考えた末、石上神宮の巫女《みこ》に神意を告げさせることにした、いうまでもなく石上神宮の神は、武の神でもある、大将軍を誰にするかを決めるのに倭姫王をわずらわせることもない、これは吾の命令だ、如何《いか》なる結果になろうと、二人共従わねばならぬ、そして結果に対し怨恨《えんこん》を抱いてはならない、分ったな」
オシロワケ王は何時もの王らしくなく一気にいった。
二人共従わざるを得ない。叩頭するとオシロワケ王は、「退《さ》がって良いぞ」といい渡し座を立った。
五百城入彦の顔には血が昇っている。入彦は、母に対して、今回大将軍に任じられなければ面目が立たぬ、といい続けてきたのだ。神託によって決められるとは思ってもいなかった。
二人は並んで宮を出た。
「倭建王子、吾はおぬしと武術の腕を競い合いたかった、勝った者が大将軍になる、それなら納得できる、今更神託とはのう」
と五百城入彦王子が無念そうにいった。
「ああ、吾もその通りじゃ」
と倭建は答えた。
倭建には五百城入彦の一徹さが好ましく思えた。腹を割って話し合えば、案外仲が良くなるのではないか。
「どうじゃ、武術仕合を父王に申し出ようではないか、今からでも」
と入彦は刀の柄《つか》を叩《たた》いた。
「おう、賛成じゃ」
まだおぬしには負けぬぞ、と倭建は眼を輝かした。突然、十年前の自分に戻ったような気がする。
二人は踵《きびす》を返し宮に入り、オシロワケ王への奏上を願い出た。父だが、王である以上勝手に会えない。
オシロワケ王は二人に会ったが、奏上の内容を聴くと不機嫌に答えた。
「神託によって決める、これは王の命令だ、誰の発案じゃ」
「吾です」
五百城入彦が胸を張った。
オシロワケ王は一瞬とまどったようだが、顔を歪《ゆが》めて一喝した。
「退《さ》がれ!」
五百城入彦は唇を噛《か》んだが、これ以上願っても無駄だと感じたらしく、
「無念です」
と呟《つぶや》くと叩頭《こうとう》した。
怒鳴ったものの、オシロワケ王は武術仕合に未練があった。
二人に武術を競わせ、勝者を大将軍に任ずるのが最も公平な方法に思い、最初物部十千根に自分の意を告げた。
十千根は、両手を床につき深々と頭を下げて答えた。
「恐怖の鬼神に憑《つ》かれたように申されているようですが、倭建王子の武術は西征の前よりも上です、残念ながら入彦王子の勝利はまず無理、吾の間者《かんじや》が申しています」
十千根の重々しい言葉に、オシロワケ王は武術仕合を諦《あきら》めたのだった。
負けた場合、五百城入彦は自信を喪失する。それは後々まで残るし、群臣の眼も違ってくるからだった。
オシロワケ王は、倭建に再び不快感を抱いた。
倭建の悲劇は父王に嫌われることに始まりそれに終っている。
その夜倭建は、弟橘媛に石上神宮の巫女が神託を下すことになった、と告げた。
「吾には父王の本心がまだ分らぬ、一体誰を大将軍に任じたいのかがはっきりしない、ヤサカノイリビメは明らかに吾を外に出したいと念じている、だが父王は王じゃ、イリビメの子に王位を譲りたいのなら、この際、五百城入彦に武功をあげさせたいであろう、入彦もそれを望んでいる」
「それも神託の日に分りましょう」
「そうだな、公正な神託とは思えぬ、石上神宮は物部十千根が掌握しているからのう」
「王子様、いずれにしろ御用心下さい」
「勿論《もちろん》じゃ、父王ほど生きたくはないが、もう十年は生きたい」
倭建は坐《すわ》っている弟橘媛を軽々と抱き寄せた。
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謎の神託
神託の日が来た。
倭建《やまとたける》は夜の明けぬうちに石上《いそのかみ》神宮に着いた。石上神宮の巫女《みこ》は夜明け前に琴を弾き、神意を受ける。夜明けと同時にそれを王に告げるのだった。
石上神宮の前には篝火《かがりび》が燃え、松明《たいまつ》を持った警護兵が周囲を守っている。
神宮の背後は神山である。巫女が呼んだ神は神山に降りるのだ。神山には鏡や剣、玉などが埋められていた。
巫女は、かつて神宝が置かれていた楼観の上で神を呼ぶのである。
楼観の前にはオシロワケ王とヤサカノイリビメ、王と向い合って倭建と五百城入彦《いほきのいりびこ》が坐った。
王子や王族、それに有力豪族は二人を中にして縦に並んだ。
神山の方から左側は王子、右側は豪族達である。
楼観の琴の音はいやに高く、懸命に神を呼んでいるようだ。時々、人間のものとは思えぬような巫女の叫び声が聞えてきた。
卑弥呼《ひみこ》時代ほどではないが、当時はまだまだ神の存在が信じられていた。
倭建は小首をかしげた。呻《うめ》くような叫ぶような巫女の声が異常なものに思えた。
それは五百城入彦も同じらしく、松明の明りに、巨大な影のように見える楼観を見上げた。不審を抱いたのは二人だけではなかった。オシロワケ王も同じである。
巫女の神託は、物部十千根《もののべのとちね》にまかせてあった。
審神者《さにわ》は十千根である。巫女が意味不明のことを告げようと、十千根がそれを解釈するのだ。それが審神者である。
十千根は、オシロワケ王の意を酌み、神の意が倭建にあることを告げるであろう。
今回の神託はそのように仕組まれていた。
何が起きても安心なのだが、矢張り狂ったような巫女の声と、今にも絃《げん》が切れそうな琴の音は不気味だった。
オシロワケ王は豪族達の上座に坐っている十千根を眺めた。顔は闇に溶けて分らないが松明に光った眼で判別できた。十千根の眼が揺れていた。
「どうした、十千根」
とオシロワケ王は声をかけそうになった。王は慌てて手で口を押えた。
神を騙《だま》そうとしている偽の神託行為に、神が憤っているのではないか、と怯《おび》えに似たものが胸中を走る。
「ヤサカノイリビメ」
と王は隣りに囁《ささや》いた。
「何でございましょう、王よ、今は私語はなりませぬ」
とイリビメは低い声だが、たしなめるようにいった。何となく声は固いが、そんなに動揺していない。
「うむ」
母性愛は、時には死も罪をも恐れぬ、とはよくいったものだ、と王は感心した。子のためには、神をも恐れないのかもしれない。
琴の音が闇を引き裂き、絃が切れる音がした。一瞬の静寂の後、巫女が絶叫した。
「お許しを!」
と悲鳴をあげた。
巫女は何か未知の獣に襲われたらしい。それとも投げられたのか。巫女は楼観の縁を囲んでいる柵《さく》を破り、地上に落下した。
地響きの音は人間が落ちたというよりも、巨大な石が落ちたようだった。
後の噂では、巫女は地に三尺(九〇センチ)ほどの穴を掘り、無残に砕けていたという。
物部十千根は立ち上がり、何か叫ぼうとしたが声が出ず、坐り込んでしまった。
幾ら十千根が、神託を解説する審神者であったとしても、今の巫女の悲鳴を解説するわけにはゆかない。
オシロワケ王は、硬直していた口が開いた時、無意識のうちに十千根を呼んでいた。
神託の行事の責任はすべて十千根にある、と王は呟《つぶや》いた。神の罰から逃げるための本能がいわせたのだ。
列席者は騒然としたが、下半身が土に埋められたように立てなかった。
十千根も同じである。王の許《もと》に行こうとしたが下半身が動かない。水に溺《おぼ》れている者のように両手を振った。
「倭建、この神託は無意味じゃ」
五百城入彦が叫んだ。甲高《かんだか》いがよく通る声だった。
「おう、吾《われ》もそのように思う」
「武術じゃ、武術で決めよう」
「王がどういわれるか?」
と倭建はいった。
この時点で倭建は、武術仕合も致し方がない、と思っていた。
「吾が父王に申し上げる」
といって五百城入彦は、オシロワケ王に説きはじめた。
「父王、征討将軍を誰にするかは、大体、王が決められる慣習です、神託を得るのは、何処を討つとか、困難に直面した時です、多分神は怒られたのでしょう、この上は、武術仕合で決めるべきです、勝利者が征討将軍になる、公平な方法でしょう」
「その通りです、武術仕合により決められるべきです」
やっと口が自由になった十千根が、這《は》いながら訴えた。
もともと十千根は、武術仕合では、五百城入彦は倭建に勝てない、と睨《にら》んでいた。そのことはオシロワケ王にも伝えてあった。
「王よ、武術仕合はなりませぬ」
ヤサカノイリビメが掠《かす》れた声でいった。彼女は入彦の武術を過信していた。
オシロワケ王は深呼吸をした。胸に入った空気が甘く感じられた。
神の怒りが解けたのだ、とオシロワケ王は思った。
今は王の威厳を取り戻さなければならない。このままでは集まった豪族から軽蔑《けいべつ》される。
それは三輪王朝の崩壊に繋《つな》がりかねなかった。
オシロワケ王は胸を反らせた。
「五百城入彦が申した通りじゃ、神託により征討将軍を決めることは取りやめる、武術仕合によって決めよう、勝利者が征討将軍となる、これは決定じゃ」
王の言葉に十千根は拍手した。釣られたように列席者が手を拍《う》った。
これで王の威厳は保たれた、と王は胸を撫《な》で下ろした。倭建の勝利を信じている十千根も同じ思いだった。
物部十千根にとって最も大事なのは、倭建を征討将軍にし、都から追い払うことである。
問題は、倭建がわざと負けないか、という点である。一抹の不安は拭《ぬぐ》い去れないが、倭建は誇りのある王子だ。その誇りを穢《けが》したりはしないだろう、と十千根は倭建の心中を睨んだ。
一行は巻向宮《まきむくのみや》の南庭に場所を移した。
倭建は複雑な思いだった。五百城入彦とは腕を競ったことはないが、自分が本気になれば負けるとは思えなかった。
だが勝てば東征将軍にならなければならない。
といって故意に負けるなど考えられない。どうしようか、と倭建は悩んだ。
その間にも弟橘《おとたちばな》媛ひめの顔が浮かぶ。東征将軍となれば、二年ぐらいは媛とは会えない。それを思うと故意に負けるのが一番のようである。
五百城入彦は将軍になりたがっていた。熊襲《くまそ》を斃《たお》し、武功をあげた倭建を妬《ねた》んでいる。
もし倭建が勝てば、五百城入彦はますます妬むに違いなかった。
決心がつかないまま倭建は宮に着いた。樫《かし》で作った木刀が数本並べられた。木刀といっても刀の形ではない。先を丸くした棒である。
倭建も五百城入彦も、部下に命じて甲冑《かつちゆう》を運ばせ身に纏《まと》った。当時の甲《よろい》は小さな鉄板を革で綴《と》じた短甲だ。鉄板が鋲留《びようど》めになるのは五世紀になってからだった。
勿論《もちろん》、甲冑を纏うのは王族や有力豪族で、兵士達は木の板を胸に当てたり、楯《たて》で矢を防ぐ。
倭建は手頃な木刀を持つと、決心がつかないまま五百城入彦と向い合った。
「勝った者が将軍だぞ」
とオシロワケ王は念を押した。
五百城入彦が昂奮《こうふん》しているのは、その息遣いで分った。そんな入彦を見ているうち勝つのは楽だな、と感じた。
こういう武術仕合では、昂奮したり緊張すると身体が自由に動かなくなる。自然、刀の突きも鈍くなるのだ。
だからといって倭建は油断はしなかった。油断は、昂奮よりも駄目である。
決断のつかないまま向い合っていると、五百城入彦は、山野に響くような気合と共に突っ込んできた。入彦の出方が分らなかったのは、矢張り油断していたからであろう。
倭建は身を躱《かわ》すのがやっとであった。甲冑のせいか身軽に動けない。入彦の木刀はもう少しで、倭建の顔面を砕くところだった。
最初に突きを放ったせいで、入彦の緊張感は消えていた。反対に倭建の方が緊張していた。
入彦は相手に立ち直る余裕を与えず突きを入れてくる。倭建は防ぐのがやっとである。息がはずみ身体が自由に動かない。こんなことはこれまでになかった。
入彦は勢いに乗っていた。相手の劣勢を読み取り、立ち直る余裕を与えず攻めまくった。入彦の技は突きだった。それも単純な突きではない。木刀は上下左右に変化した。木刀自身が自由自在に動き廻っているようである。
甲冑がなければ跳んで躱し、間を取ることもできるが、甲冑のせいで跳べない。
防戦一方の倭建は、何も考えることができなかった。もし仕合が優勢なら、負けてやっても良い、と考える余裕も生まれるかもしれない。だが入彦の最初の攻撃でその余裕が失われたのだ。
オシロワケ王を始め物部十千根も予想外の仕合に動揺した。ことに十千根は倭建の勝ちを信じ、王に告げただけに血の気がなくなる思いだった。
ただ倭建が相手の猛攻を防ぎ得たのは、凱旋《がいせん》以後も毎日木刀を振り、身体を鍛えていたせいである。
仕合場を一周した頃、倭建は漸《ようや》く相手の攻撃に慣れてきた。入彦も疲れたのかもしれない。僅《わず》かな疲労が木刀の速度に影響するのだ。
倭建の眼は、入彦の木刀の動きを完全に捉《とら》えるようになっていた。ただ問題は、真っ直ぐ突いてきた木刀が、上下左右に変化することである。
倭建が防禦《ぼうぎよ》に精一杯なのはそのせいもあった。倭建にとっては初めての技である。
何故か? と倭建が疑問を抱いたのは、それだけの余裕が生じたからだ。それを察知したように入彦は攻撃をやめた。
二人共|汗塗《あせまみ》れで荒々しい息を吐いていた。
二人は向い合ったまま相手の隙《すき》を窺《うかが》った。入彦には、これまでと同じような攻撃を仕掛ける体力はないようである。
何時の間にか倭建は、入彦に対し闘志を燃やしていた。武術の王子としての誇りが眼を覚ましたのである。入彦の一方的な攻撃のせいだった。このまま負けることはできなかった。
睨み合っている間に倭建は入彦の腕に眼を向けていた。真っ直ぐ突いてくるにも拘《かかわ》らず木刀の切っ先が上下左右に変化するのは、腕の力だけではない。手首の動きによるとしか考えられなかった。だがそれには想像を絶した握力が必要となる。
倭建は身体中の力を抜き、摺《す》り足で前に出た。待っていたように相手の木刀が突き出された。予想していた倭建は身を縮めながら木刀で払った。
間違いなかった。手首でこねるようにして突き出しているのだ。
倭建は右側に跳び、三歩以上は離れた。そのまま猛然と突っ込むと、渾身《こんしん》の力を木刀に込め相手の冑《かぶと》に振りおろした。
入彦は木刀で受けた。木刀と木刀とが咬《か》み合い火花が散ったほどである。
入彦が微《かす》かに眉《まゆ》を寄せたのは腕が痺《しび》れたせいに違いなかった。
一気に攻撃に出れば勝てそうだが、今の効果を知りたかった。そのまま相手を釣るように半歩|退《さ》がる。
入彦は最後の好機とばかりに絞り出すような気合を発し、突っ込んできた。手首をこねなかったのは、その力が失せていたからである。
倭建が身を開いて払うと入彦の手から木刀が落ちた。列席の王子達が一瞬息を呑《の》んだ。
だが倭建は身動きせずに入彦を眺めた。構わず拾え、とその眼は告げている。
入彦は唸《うな》り倭建を睨《にら》みつけたが、
「残念だが吾の負けじゃ」
と大声でいった。
あっさり負けを認めたあたりは立派だった。
倭建は愕然《がくぜん》として我に返った。入彦の木刀を叩《たた》き落すことに熱中したあまり、勝敗を忘れていたのだ。
それに入彦がこんなにあっさりと、敗者であることを認めるとは考えていなかった。
「いや、まだじゃ、もう少しで吾が負けるところであった、仕合は終っていない」
「勝敗は時の運でございます、確かに木刀を落されただけで、負けたとはいえませぬ、だが五百城入彦王子はいさぎよく負けを認められました、立派でございます、倭建王子が勝者ということになりましょう」
と物部十千根が倭建の言葉を遮るようにいった。十千根は審判者でもある。
朝陽が雲に入り、雲塊が磨かれた白銀のように輝いた。
また戦か、と倭建はその雲を眺めながら呟《つぶや》いた。
ヤサカノイリビメが安堵《あんど》の吐息を洩《も》らした。雲が二つに割れた。
白銀に輝いていた雲の一つは、陽の光に淡紅色に染まった。今一つは陽の熱に焼かれたのか灰色になった。しかも二つの雲は離れて行く。
倭建は不思議な思いがした。雲はこれまで一つだった。だが分れると同時に色も形も変ってしまった。
それは人の運命に似ているかもしれない。何時どうなるかは誰にも分らないのだ。分っているのは天の神だけのような気がした。
神託の巫女《みこ》が落ちたのも、五百城入彦が負けたのも、神が倭建に与えた運命かもしれなかった。
オシロワケ王の命令で、東征の準備が始まった。
倭建は王の許可を得て、使者を吉備武彦《きびのたけひこ》に遣わした。武彦とその軍勢は倭建にとっては大きな戦力だった。
西討には参加しなかった大伴武日《おおとものたけひ》も、今回は従軍することになった。倭建にとってはそれも心強い。
勿論、穂積内彦《ほづみのうちひこ》も久米七掬脛《くめのななつかはぎ》も加わる。
残念なのは葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》が黄泉《よみ》の国に逝ってしまったことだ。多分宮戸彦は黄泉の国で東征を知り切歯|扼腕《やくわん》しているであろう。
宮戸彦は、たんに武力に優れているだけではなく、豪傑と呼ぶにふさわしい人物だった。だからこそ女人に騙《だま》され、死に到る傷を受けたのである。武人の枠からはみ出た明るさも宮戸彦の魅力だった。
その宮戸彦が欠けるのは淋《さび》しかった。今一人は丹波に帰国させた猪喰《いぐい》である。帰国して以来、音信があったのは一度だけだった。
丹後の鉄を運んできた一国の長《おさ》が、猪喰が山に入っている旨を伝えた。
「何だと、山で何をしているのだ?」
驚いた倭建の質問に、長は叩頭《こうとう》し、
「仙人になると申しておりました、それ以外は分りません」
と顔を地につけるのみだった。
猪喰には妻子がいるはずだ。家族を捨て山に入るとは、何というたわけ者か、と倭建は怒鳴りたかった。
それに猪喰は仙人になるような人物ではない。倭建にも分らない暗い疑念を引きずって生きているような男子《おのこ》だった。あの怨念《おんねん》は、仙人の世界のものではなく、地を這《は》う人間のものだ。
山に入るようなら帰国させなければ良かった、と倭建は悔いた。
「たわけ者が!」
猪喰を思い出すと、ついののしってしまう。それだけ猪喰に会いたかった。
春も過ぎようとしていた。吉備武彦も百五十名の軍団を編制し大和に向ったようだ。
そんな或《あ》る日、弟橘媛に仕える女人が、倭建の屋形に来た。
弟橘媛が、倭姫《やまとひめ》王に会うべく泊瀬《はつせ》川の斎宮に向うという。
倭建は弟橘媛の屋形に飛んで行った。
弟橘媛は今まさに家を出ようとしているところだった。
馬を走らせて来る倭建を見て輿《こし》から降りた。
「どうしたのだ? 突然」
倭建も馬から跳び降りた。
「倭姫王様が私《わ》を呼んでおられます」
そういう間も弟橘媛の眼は、泊瀬の渓谷の方に注がれていた。そういえば何時もの活々《いきいき》とした媛の顔ではない。見えない霧に蔽《おお》われているようだった。
「使者が参ったのか」
「いいえ、でも呼んでおられます、私には分ります」
「倭姫王様の声が聞えると申すのか?」
「その通りでございます、王子様はお戻り下さい、多分、倭姫王様は王子様に御用があり、私を呼ばれたのです」
倭建は眼を閉じ雑念を払った。
弟橘媛はかつて倭姫王に仕えた巫女だった。媛に聞えるものなら自分にも聞えるかもしれない、と倭建は耳を澄ました。
だが聞えるのは鳥の声と川を進む舟の櫂《かい》の音だけだった。
「王子様、私は参ります」
「今も呼んでおられるのか?」
「はい」
「吾には聞えぬ」
「神の世界と武術の世界は異なります」
「そうか、神の世界の声なのか、分った、警護兵は?」
「私の侍女達で充分です」
「分った、何時頃戻る?」
弟橘媛の屋形から倭姫王の宮まで半里(二キロ)であった。
西の空が茜《あかね》に燃え、二上山が黒い影となって浮き上がって見える頃に弟橘媛は戻ってきた。
部下の知らせを受けた倭建は媛の屋形に向った。
弟橘媛に遠く離れた倭姫王の声を聞く能力があると思うと、媛に近寄り難いような気品を感じた。と同時に媛と自分との間に距離が生じたような気がしなくもない。
倭建を迎えた媛の顔からは、朝方感じた見えない霧は消えていた。
ただ心なしか何時もの色香よりも澄んだ感じが強い。
媛に会ったなら、御苦労だった、と抱き上げるつもりだったが、腕がぎこちなく、床に坐《すわ》ってしまった。
「御苦労だった、倭姫王様は何故そなたを呼ばれたのだ?」
「今度の東征のことでございます、東の方はまつろわぬ国が多く、西討よりも大変なので、私にも色々と心構えを話されました」
「例えば……」
「はい、でもこれは王子様がお決めになることですので」
弟橘媛は視線を伏せた。
「遠慮せずに申せ」
「はい、できれば王子様と一緒に行った方が良いと申されました」
「巫女として加われ、と申されたのであろう、妃《きさき》としてではなく……」
「その通りでございます」
「巫女として加わるとなると閨《ねや》を共にはできぬぞ」
「はい、それは覚悟しています」
弟橘媛はきっぱりと告げると、自分の決心を確かめるように唇を強く結んだ。
「倭姫王様の神託というわけか」
「いいえ、神託ではありません、神託なら王子様に直接告げられます、多分、私に巫女としての能力が残っているのを知られ、戦に際し役に立つのではないか、と思われたのでしょう」
「そなたは今、吾が決めることだと申したが、倭姫王様の御意向とあれば同行せねばなるまい」
「いいえ、倭姫王様は王子様の意にまかせるべきだ、と申されました、ただ神意を受けられたような場合は、私に命じられます、途中からでも私は駆けつけます」
「そうか、考えさせてくれ」
「はい、王子様の意のままに」
「弟橘媛よ、吾は今宵《こよい》泊まるぞ、構わぬか」
「何故構わぬか、などとおっしゃるのですか、私は何時も、王子様にお会いしたい、泊まっていただきたい、と念じていますのに」
「済まぬ、斎宮に行ったせいか、そなたに神を感じる、何時ものように振る舞えぬのだ」
弟橘媛は激しく首を横に振った。
「嫌です、私は女人です、王子様の妃でございます」
媛の眼が赧《あか》くなった。媛が放っていた澄んだ気が女人の情に変る。
「おう、媛は何時もの媛じゃ」
倭建は媛の手を取った。媛は蝶《ちよう》になったように倭建の胸に顔を埋めるのだった。
翌朝、朝餉《あさげ》を終えた倭建は弟橘媛に送られて屋形を出た。三輪山は半ばまで霧に蔽われていた。
媛の屋形で一夜を過ごした朝は、何となく気がのんびりする。警護兵は数人で、隊長は大伴倉先《おおとものくらさき》だった。
「泊瀬川に寄ってみる」
「はあ」
倉先は何かいいかけたが、すぐ部下の二名に先を調べるように、と命じた。
倭建が東征将軍に決定したことは、すでに東国にも伝わっていた。倭建の生命を狙うべく東国からの曲者《くせもの》が大和に入っている可能性がある。
倉先はそれを心配していた。
勿論《もちろん》、倭建にも曲者のことは念頭にある。だが怯えていては自由に行動できない。
川岸の近くは夏草が繁っていた。曲者が最も潜みやすい場所だった。当時は道といっても広い道は殆《ほとん》どない。大抵は二人が並んで歩ける程度である。
ところどころに草が伐《き》られ広くなった場所があった。貴人を通すために庶民が蹲《うずくま》るための場である。
警護兵はそれ等の民の中に曲者が混じっていないかを調べる。
倭建は川岸まで行き、馬から降りた。十年前なら草原の草を蹴散《けち》らし、馬を走らせていたところだ。
警護兵の一人が手綱を取った。川にはまだ霧が残っていた。水鳥が葦《あし》の中から小魚を追って現われた。倭建と視線を合わすと驚いたように飛び、十間(一八メートル)ほど離れた場所に舞い降りた。
のんびりした気分になっていたが、視線が鋭かったに違いない。
水鳥を睨《にら》むようでは駄目だ、と倭建は苦笑した。 数十歩ほど離れた草原から矢が天に向って放たれた。微《かす》かな矢音だが、倭建は聞き逃さなかった。
「王子様、曲者が……」
と倉先が叫んだ。
「待て、矢を見よ」
倭建は血相を変えた倉先を手で制した。誰が放ったのか矢は真っ直ぐ上に飛ぶと、反転し矢尻《やじり》を下にして落下し川面で水《みず》飛沫《しぶき》をあげた。
「吾を狙ったのではあるまい、だが鳥もいない、何のための矢か?」
「王子様を狙ってはいませぬが、騎馬の王子様を見ているはずです、愚弄《ぐろう》するために矢を放ったとしか思えませぬ、ひょっとすると我々の眼をあの矢に集め、その間に曲者の仲間が近寄っているかも分りません、油断は禁物です」
「うむ、警戒は必要だ」
倭建の前後を二人の兵が守った。倉先は近くに曲者が潜んでいないかと三人の兵と共に草原に入った。
二本目の矢がまた空に向って射られた。矢は上空で反転し、同じように川の中央に落ちた。
驚いたことに、矢が落ちた場所は一本目の矢と殆《ほとん》ど変らない。美濃弟彦《みののおとひこ》を始めとする弓の名手達に匹敵する腕だった。
「王子様、捕えて参ります」
倉先が草叢《くさむら》の中から憤然とした声でいった。
「用心しろ、皆離れて行け、曲者は弓の名手だぞ」
「必ず捕えます、曲者の出方によっては斬《き》り捨てます」
「倉先、落ち着け、吾を射ようと思えば空に射たりはしない、吾を愚弄しているか、それとも合図をしているかのどちらかだ、三名で曲者を囲むつもりで進め、走るな、慎重に進め」
倭建は、傍にいる三名を矢が放たれた草叢に潜ませた。
曲者の意図は分らないが、危害を加えるつもりはなさそうな気がした。放たれた矢がそれを告げている。矢は喋《しやべ》らないが、殺気が感じられない。
「となると、何かの合図か……」
と倭建は自分に呟《つぶや》いた。
倭建は草原を眺めた。倉先達の進み具合は草が揺れるのでよく分るが、矢が放たれたあたりの草は動かない。
曲者は潜んだままで動かないのだろうか。
間もなく倉先達は曲者が潜んでいそうな場所に着いた。曲者は逃げていないはずだが、幾ら探しても見つからない。
「何者だ、王子様と知って矢を放つとは重罪だぞ、姿を現わせ」
倉先達は草を伐《き》り払って探したが、何処に逃げたのか、曲者がいる気配もなかった。
他の場所から矢を放ったのではないか、と疑ったが、すぐ否定した。それなら矢はあんなに垂直には上がらない。
「土を掘って潜んでいるかもしれぬぞ、草の根っ子を見逃すな」
倉先は汗塗《あせまみ》れになっていた。
倭建は、何時の間にか曲者は川に入って姿を消したのではないか、と考えた。いや、姿を消したというよりも、自分の方に近づいているのではないか。
倭建は身体を乗り出すようにして、葦の群れを凝視《みつめ》た。まだ霧が残っているので視界ははっきりしない。
倭建の眼は影のように見える葦が微かに揺れているのを捉《とら》えた。
間違いなく曲者は水中を潜りながら近づいてきているのだ。
不思議と倭建には危機感が湧かなかった。
倭建は小石を拾うと霧の中の影に向って投げた。影は一瞬拡がったが消えてしまった。
気づかれたと知り、川底に潜ったのかもしれない。何処に行ったのかと視線を凝らしていると背後で水音がした。
倭建は身を翻しながら刀を抜いていた。
「王子様、お久し振りでございます、こんなところから御|挨拶《あいさつ》をするのをお許し下さい」
川面に顔だけが出ている。猪喰だった。
水の中から現われたその顔は後の河童《かつぱ》そのものである。
猪喰の指が口に当てられた。倭建が頷《うなず》くと猪喰の顔が水中に没し、今度は倭建の眼の前に現われた。
「王子様、今宵は屋形に?」
声にならない声だが理解できた。
「お休みになられる頃、小石を投げます」
それだけ告げると猪喰の顔は水中に没した。
近くの草叢に潜んでいた部下が駆けつけた。川面の水紋はもう消えている。
「王子様、何かおっしゃいましたか?」
と部下は蹲った。
「いや何も申さぬ、ただ川に石を投げただけじゃ、何も案ずることはない、馬に乗る」
倭建は馬の上から、
「倉先、戻れ!」
と大声で叫んだ。
馬上で猪喰の顔を思い出し声をたてて笑いたくなった。そんな主君の顔を見、倉先は渋い顔をしている。
戻ってきた倉先に、
「安心しろ、曲者の正体は分った、いや曲者ではない、吾の味方だ」
と倭建は嬉《うれ》しそうにいった。こんな晴れやかな主君の顔を見るのは久し振りだ。まるで未練を残して別れた女人と再会したようである。
だが理由は告げられていない。
何故、王子様は味方だとお分りになったのか、と倉先は不思議だった。警護隊長としてはそれを知りたい。これからのこともあった。だが倭建が口にしないのに、質問するのもはばかられた。
馬上の倭建はそんな倉先の心中を読んでいた。だが猪喰についてはまだ話せなかった。
それに猪喰が倉先達の眼を掠《かす》め、倭建の傍まで来ていたのを告げると、隊長としての面子《メンツ》を潰《つぶ》すことになる。
屋形の傍まで来た時、倭建は倉先にいった。
「理由を話そう、熊襲を討った後、吾は九州島に一人の間者を残して来た、その後の様子を探らせねばならぬからのう、戻ってきたなら合図として天に向って矢を二本放つようにと命じていたのだ、吾はそれを忘れていた、吾の失態じゃ」
「安心致しました、それにしても弓の名手でございます」
「ああ、弓だけではない、身が軽い、七、八尺ぐらいの土塁でも跳び越えるし、屋形の二階から楽々と跳び降りる、それに鹿のように走る、大変な男子《おのこ》だ、長い間連絡がなかったので亡くなったに違いない、と諦《あきら》めていた、だからすぐ合図の矢を思い出せなかった」
「恐ろしい武術者でございます、機会があれば一度その者の武術を教えて貰《もら》いとうございます」
「そういう機会があればのう」
と倭建は言葉を濁した。
その夜、夕餉《ゆうげ》を早めに終えると二階の寝部屋に入った。当時は日が暮れるまでに夕餉を終える。暗くなれば眠りにつく。
魚油などの明りは、王族や有力豪族でない限り使用しない。明りを使用するのは、特別の夜だけだった。
猪喰が柵《さく》を越え屋形の庭に忍び込んで来るのは、日が暮れてからである。
異変でも起これば篝火《かがりび》を焚《た》き松明《たいまつ》を持った兵が警護するが、普通の夜は、王子の屋形といえども明りはない。
槍《ほこ》(矛)を持った兵が曲者《くせもの》がいないか、と屋形の周囲を歩いて警護に当る。月のない夜など全くの暗闇なので忍び寄る曲者は気配で探るのだ。
猪喰は、自分の気配を消すだけの術を身につけていた。こういう曲者に襲われるとどうしようもない。そのため、身に危険を感じる貴人は、柵内に犬を放っていた。
倭建はこれまで犬を飼わなかったが、凱旋《がいせん》して以来、飼うようになった。
臆病《おくびよう》になったことを示すためでもあった。
その夜は放っている犬を小屋に繋《つな》いだ。
犬が吠《ほ》えたのは戌《いぬ》の正刻(午後八時)頃だった。日は短くなりすでに闇夜である。
倭建は音を立てずに板戸を開けると縁に出た。
犬の声はすぐやんだ。鎌のような月の光は弱く暗闇といって良い。
倭建はゆっくり縁を歩いた。
「王子様」
葉ずれのような声がした。驚いたことに声は下からではなく倭建の前方の闇の中から聞えてきた。前方は宙である。眼を凝らしたが影も見えない。
「何処じゃ?」
「下でございます、お傍に参ります」
猪喰は音を殺して入口に通じる階段を上ると、一階の縁から上に跳んだ。二階を支える横木に手をかけ、振り子のように身体を振ると狭い縁に跳んだ。
流石《さすが》に三呼吸ほど荒い息を吐いたが、すぐ平常に戻る。
「驚いたのう、前よりも一段と身軽になった、猿も顔負けだ」
「恐れ入ります」
「中に入るか、女人達は寝入っている」
「ここの方が……」
「何時大和に参ったのだ?」
「王子様が征討将軍になられたと聞き、飛んで参りました、半月ほど前です」
「呆《あき》れた奴《やつ》じゃ、誰も連れて行くとは申しておらぬぞ」
「奴《やつこ》が丹波に戻り、山に入って修行したのも、いざという時に王子様にお仕えするためでございます、どうか奴の端にお加え下さい」
といって猪喰は平伏した。
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影の男子
丹波猪喰《たんばのいぐい》は様々な情報を倭建《やまとたける》に伝えた。
猪喰は、神託は倭建を東征将軍に指名するように仕組まれていた、と告げた。
仕組んだのは石上《いそのかみ》神宮を管理する物部十千根《もののべのとちね》だった。
十千根とオシロワケ王、それにヤサカノイリビメは東征将軍について何度も話し合った模様である。
猪喰は、巻向宮《まきむくのみや》の床の下に潜り込んだり、時には石上神宮の巫女《みこ》達の屋形に侵入し、情報を得たのであった。
「妙だな、吾《われ》を東征将軍にしたがる理由が吾には理解できない、吾が東征に成功すれば吾の名は、倭《わ》列島の隅々まで行きわたるであろう、それは自分の子を王位に即《つ》けたがっているヤサカノイリビメの嫌うところだ、ことに五百城入彦《いほきのいりびこ》は間違いなく東征将軍になりたがっている、それを押えてまで、何故吾に……」
「はっ、その辺りに十千根の策謀が感じられます、十千根が王位に即けたいのは間違いなく、稚足彦《わかたらしひこ》王子様です」
「凡庸な王子じゃ、五百城入彦なら納得できるがのう」
「そこでございます、凡庸な王子が王になれば、三輪の王権は ぜ脆弱《いじやく》化します、十千根はそれを狙っているのかも分りません」
「十千根は三輪王朝を斃《たお》そうと狙っているのか」
「断定はできませんが、その可能性はあります、かつて河内に来た筑紫《つくし》物部が王子様を狙いました、これは王子様の武勇が邪魔だったからでしょう」
猪喰の声が一段と低くなった。
「そのために武勇の王子を排し、脆弱な王子を王位に即けようと策謀しているわけか、父王は気づかれていないのか」
「十千根の策謀に乗っておられるところをみると残念ながら……」
「今は女色に溺《おぼ》れておられるからのう」
「王子様、東征中は御用心下さい、敵はまつろわぬ国だけではありません」
「ああ分っておる、だが神を裏切ろうとした巫女は楼観から落ちた、神はまだ吾を見捨てていない、そちもな……」
「奴《やつこ》は王子様にお仕えするのが生甲斐《いきがい》なのです、丹波の山に籠《こも》ったのも、仙術を身につけ、王子様の役に立ちたいからでございます」
珍しく猪喰は声を詰まらせた。
「分っておる、冗談じゃ、東征中は吾のために働いてくれ、そちのような人物が必要なのじゃ」
「そのお言葉、忘れませぬ、これからも暫《しばら》くは身を潜め、人眼を避けて情報を集めます、急用の節は久米七掬脛《くめのななつかはぎ》殿に……」
「ほう、七掬脛と会ったのか」
「夕餉《ゆうげ》の後に会いました、奴《やつこ》の小屋を教えてあります、では奴はこれで」
「おう、頼むぞ」
猪喰の姿が闇に消えた。二階から跳び降りたのだが殆《ほとん》ど音がしない。恐るべき身軽さである。
倭建は吐息をつくと鎌に似た月を仰ぎ見た。どうやら倭建の人生には、平穏という言葉は無縁のようだった。だがそれは運命というより倭建自身が招いたものである。
倭建が武勇を好まず、大人しい王子であったなら平穏な日々を過ごせたかもしれないのだ。夜の微風が頬を撫《な》でて行った。
倭建は両手を拡げ、何度も風を腹の底まで吸った。武勇の血が騒ぎはじめる。
「神よ、平穏など要りませぬ、どんな凄《すさ》まじい運命でも吾は受けて立ちます、その代りどうか萎《な》えることのない闘魂をお与え下さい」
倭建は眼を見開き天神に向って呟《つぶや》いた。
倭建の心境は複雑だった。
西征の場合は、九州島内の賊の一部と、狗奴《くな》国・隼人《はやと》であった。確かに彼等は強靱《きようじん》だが地域は限られている。
だが東国となると限りなく広い。それにどの国が敵なのかもはっきりしていない。
三輪の王権に服従しているように思われる国も、何処まで信頼して良いのか分らなかった。
行く先々で戦をしておれば、兵力も補給も足らない。それこそ上野《こうずけ》(毛野《けぬ》国)に到着するまでに戦力の大半を失う。
これまで三輪の王権は、婚姻関係を通じ、丹波・美濃を始め、吉備《きび》や九州島に勢力を拡げた。
いや吉備と九州島の場合は、三輪の王権が邪馬台国《やまたいこく》であった頃からの関係である。
かつての邪馬台国は北部九州にあったが、当時から服従しない国は多かったのだ。
今回の東征は、征討というよりも、三輪の王権の威光を、東の諸国に示す程度で良い。
倭列島が纏《まと》まるのは、まだまだ先のことである。
オシロワケ王が何といおうと、戦に重点を置いてはならない、と倭建は自分に呟いた。
倭建は、オシロワケ王に愛情を抱いていない。それは王も同じだ。
だが倭建は、オシロワケ王に謀反を起こすつもりはなかった。
倭建には、三輪王朝の王子としての血が流れている。
オシロワケ王が亡くなり、稚足彦か五百城入彦が新しい王になった場合は別である。新王が自分に危害を与えようとしたなら断固として戦うに違いなかった。
だがそれは将来のことである。
今は無事に東国から戻ってくることを考えれば良かった。
数日後、吉備武彦《きびのたけひこ》が百五十名の兵士を率いて大和に到着した。
大伴武日《おおとものたけひ》は百名の兵を集めていた。
倭建の通常の部下は、警護兵を含め五十名である。
穂積内彦《ほづみのうちひこ》は当然従軍するつもりで、五十名の兵を集めたが、出陣も間近になった日、巻向宮の警護隊長に任命された。
父の忍山《おしやま》から告げられた内彦は、父の命令であっても従えぬ、と反抗した。
「吾への反抗は王への反抗になるぞ、宮の警護隊長の件を吾に伝えたのは物部十千根殿だが、オシロワケ王の命令とのことじゃ」
「父上、十千根の策謀じゃ」
「何を申すか、気がおかしくなったのではないか、物部と穂積は同族だぞ、そちの言動は穂積一族に累を及ぼすことになる」
「父上、妹の弟橘《おとたちばな》媛ひめは王子の妃《きさき》となり、子を産んでおります、父上から十千根殿に再考を……」
忍山は眼を閉じると顔を横に振った。たるんだ瞼《まぶた》が膨らみ、涙を溜《た》めているようである。
これ以上、父に訴えても無駄だと判断した内彦は夜になるのを待ち倭建の屋形に行った。
出陣も近く、屋形には篝火《かがりび》が赫々《かつかく》と燃え、槍《ほこ》を持った兵士が門を守っていた。
内彦はすぐに声が出ない。
「内彦、どうしたのじゃ、石になったのか?」
と倭建がからかうようにいった。魚油の明りは淡く、倭建の眼が異様に光っていた。それは明るい声と不似合いだった。
「王子、突然、宮の警護隊長を命じられました、これでは従軍不可能です、何か引っ掛かるものがございます」
「宮の警護隊長は、王から信頼された者が選ばれる、そちは信頼を得たのだ、吾も喜ばしく思っている」
「王子、やつかれは王子と従軍しとうございます、王子から王に、是非この内彦|奴《め》が要る、連れて行きたい、と訴えていただきとうございます、内彦、一生のお願いです」
内彦は叩頭《こうとう》し、床を額で叩《たた》いた。
「それは無理じゃ、出陣に際し、王の機嫌を損ないたくない、先刻、父王からの使者が来た、吾や大伴武日が都を離れると武勇の士が減る、この際宮の警護を一層厳重にしたい、故にそちを借りるとな、父王が理をもって吾を説いたのは初めてだのう、父王も強引過ぎると気になさったのであろう、そちは父王に認められた、それで良いではないか」
「王子は承諾されたのですか」
「理をもって説かれた以上、嫌だとはいえぬからのう」
「しかし、この裏には……」
「待て、それ以上申すな、口を開くな」
鞭《むち》打つような鋭い声が内彦を叩いた。
物部十千根の名は出すな、と王子は命じていた。
内彦は呻《うめ》いた。
一呼吸置いて、倭建の淡々とした声が内彦の胸に沁《し》みた。
「のう内彦、そちが警護兵として吾に仕えるようになってから、十年近い歳月が流れた、あの当時の仲間は殆どおらぬ、それも世の流れだ、そちは穂積の長《おさ》となる男子《おのこ》、穂積には穂積としての生き方がある、まして王の命令、しかも出世じゃ、そちの胸中は痛いほど分る、だがのう、怪我がもとで黄泉《よみ》の国に行き、従軍できぬ宮戸彦《みやとひこ》はそちよりも辛《つら》い思いでいる、吾はそちが警護隊長に任命されたことをそちのために喜んでいる」
「王子」
内彦は爪《つめ》で床を掻《か》き毟《むし》りたい思いだった。
「何も申すな、宮の警護隊長ともあろう者が、夜陰に乗じ吾に会いに来るようなことをしてはならぬ、出陣の際も宮を守るのだ、見送りなど無用じゃ、内彦、戻れ!」
空気を裂くような倭建の声が内彦の胸を貫いた。
内彦は慟哭《どうこく》した。
倭建の屋形を出た内彦は篝火の明りが届かない暗闇で蹲《うずくま》った。こういう離れ難い思いは女人に対してもなかった。
何故か今生《こんじよう》の別れになりそうな気がする。不吉な、と内彦は自分を叱咤《しつた》して立った。
弟橘媛が、
「倭姫《やまとひめ》王様が呼んでおられます」
と告げたのは、出陣三日前の夜だった。
弟橘媛は倭姫王に会っていないが、姫王の声を聞いたという。
「吾もお伺いせねばならないと思っていたのじゃ、ただ石上神宮の巫女《みこ》が神託を下すことになったので、遠慮していた、本来は倭姫王がなさるべきことなのにのう」
「あの巫女には神罰が下ったのです」
巫女は楼観から落ち即死した。
原因は分らないが神罰が下ったのは間違いない。多分、物部十千根に命じられ、誰を東征将軍にするかを決めていたに違いなかった。
もしそうなら神に対する背信行為であり、神が憤ったのも当然である。また巫女自身も恐怖の虜《とりこ》になっていたであろう。発作的に跳び降りたとも考えられなくはない。
だが原因を追及しても意味はなかった。
倭建は武術仕合で五百城入彦に勝ち、東征将軍に任じられたのである。仕合経過がどうであれ、将軍になったのは倭建の意志ということになる。
倭建は日の出前に泊瀬《はつせ》川のほとりにある宮を訪れた。
日の出前は、倭姫王が神に朝餉《あさげ》を供え、自分が朝餉を摂《と》る前だった。
宮に入った倭建は白砂の庭に坐《すわ》り倭姫王を待った。東の空は僅《わず》かに白んでいるが闇は濃い。
倭姫王に仕えている巫女が、倭建の来訪を姫王に伝えた。
間もなく、白い絹布を頭から被《かぶ》った倭姫王が現われた。
「待っていました、西の国から戻り、あまり日がたっていないのに東の国に征《い》くのは大変でしょう、でも神意です、神がそなたを選んだのです」
「よく分っています、征くことに悩みはありません、いずれこの国は大和の王の許《もと》に纏《まと》まらねばならないのです、国の中が乱れておれば海の彼方《かなた》の強国に侮られましょう、侵略されるかも分りません、国が纏まることは民の平和にもつながります、そのことを伝えに吾は参るのです」
「流石《さすが》は倭建王子、そなたの心境は神の意に近い、よくそこまで成長しました」
「まだまだ成長しておりません、吾は普通の男子でございます、神の意などとは縁遠い人間です、まつろわぬ賊は滅ぼします」
「それは神も同じじゃ、神もまつろわぬ人間を滅ぼします、病を与え、雷《いかずち》で砕き、風にて叩く、時には洪水により田畑の作物を流したりもします、ただ、人間には、何故神が憤っているのか理解はできません、でも、神を敬い、畏《おそ》れる気持は生じましょう、それで良いのです、一番危険なのは自惚《うぬぼ》れることです」
「倭姫王様、吾は自惚れることは恥と考えるようになりました、吾はまだまだ未熟です」
「倭建よ、私《わ》はそなたのような男子こそ長生きして貰《もら》いたいと願っています、さあ、私の傍に来なさい」
倭建は膝《ひざ》で倭姫王の傍に進んだ。
「両手を挙げるのじゃ、昔から伝わる神宝の剣を渡す、短い剣だが、この剣さえ身に帯びておれば身に危害を受けない、この剣は、かつて邪馬台国がこの国に遷《うつ》って来た時、出雲の国から献上されたものと伝えられています」
「有難く拝受いたします」
倭建は、簡単に火を点《つ》けられる火打石と、未知の地の病に効くという薬を貰った。
「倭建よ、顔を上げなさい」
倭姫王は倭建の耳許に顔を寄せた。
「私の兄だが、今のオシロワケ王には、王としての資格がない、このままでは三輪の王権は三代目が危うくなるでしょう、私はそなたの凱旋《がいせん》を待っています」
「凱旋した暁には、その足で御礼に参ります」
と倭建は自分にいい聞かせるように叩頭した。
倭建は凱旋することはなかったが、三輪の王権は倭姫王が予言した通り、オシロワケ王の孫の仲哀《ちゆうあい》帝の時崩壊し、新しく河内の応神《おうじん》・仁徳《にんとく》王朝に取って替られたのである。
倭建は泊瀬川沿いの道を屋形の方に戻った。今日の警護は副隊長の穂積身刺《ほづみのむささし》と兵一人なので気が楽だった。
兵は倭建の矢筒を背負い弓を持っていた。倭建は神宝の銅剣を革帯にはさみ、袋に入った火打石と薬は帯に吊《つる》した。
身につけると身体の芯《しん》が火照り、勇気が湧いてくるような気がする。
それは間違いなく明日への勇気であった。自分では悩んでいないつもりだが、今のような爽快《そうかい》感は凱旋して以来味わったことがなかった。
倭姫王から賜る神宝のおかげで、見えない塵《ちり》のように体内のあちこちについていた心の垢《あか》が払拭《ふつしよく》されたのかもしれない。
吾も悩める男子だったのか、と倭建は馬上で苦笑した。
翌日は弟橘媛と別離の宴を張った。
弟橘媛は、もし可能なら巫女として同行したい、と申し出た。
同行させても良いのだが、吉備武彦や大伴武日は女人を連れて行かない。
供の巫女なら構わないが、弟橘媛は妃であった。
「吾もそなたとは離れ難い、だが西討の際は女人を連れて行かなかった、今回もしそなたを同行すれば、兵の間からどのような陰口が洩《も》れるやもしれぬ、長い旅じゃ、大事なことは軍団が一つに纏まり続けることだ、敵は外よりも内にある、そなたは留守を守れ、実家で育てている若建《わかたける》王の養育に当るのじゃ」
倭建を凝視《みつめ》ていた弟橘媛の頬に、珍しく淋《さび》し気な翳《かげ》りが宿った。
弟橘媛は他の女人と異なり、あまり淋しそうな顔はしない。勝気だがおおらかで明るかった。
弟橘媛は一瞬視線を落したが、自分を励ますように微笑した。
髪の中から短い木の枝を取り出し、掌に載せて倭建に見せた。
「王子様、見覚えございましょうか?」
「勿論《もちろん》じゃ、吾が平群《へぐり》谷で得た樫《かし》の小枝の一部であろう、あの時は鮮やかな緑の葉がついていたのでそなたの髪飾りにと思って矢で射たのだ、葉はすぐ枯れたようだが、この小枝は艶《つや》やかに光っておるではないか、毎日磨いているようだな」
「はい、小枝でも樫は樫、まるで鉄のように硬うございます、それに鏡のように光っています、私《わ》は髪の中にこれを挿しているのです、もし王子様の身に危険が迫った場合は、串《くし》のような小枝が私の頭を刺します」
「そなたの気持は嬉《うれ》しい、だが見知らぬ地じゃ、危険は多い、吾のことはあまり気にするな、吾は滅多なことでは命は落さぬ、倭姫王にも凱旋を誓った」
「私も凱旋をお待ち致しています、他の誰よりも」
弟橘媛は小枝を受け取ると髪に挿した。
倭建は不思議な思いで弟橘媛を眺めた。媛には間違いなく神のような能力があった。
倭姫王と会っていなくても、姫王の胸中を読めるのだ。それにしても、髪に挿した小枝が頭を刺すとは本当だろうか。もし本当なら大変な超能力といわねばならない。
「のう媛、そなたは人の心が読めるであろう」
倭建の真剣な表情を見て、弟橘媛は視線を伏せた。自分が持っている能力を知られたくないのかもしれない。そんな羞《はじら》いを感じた。
「遠慮せずとも良い、申せ」
「読めることもありますが、身近で接する人々だけでございます」
「身近というと吾もだな」
「はい、でも王子様は分らない場合が多うございます」
「ほう、何故じゃ」
弟橘媛の白い絹のような顔が赧《あか》らんだ。
「私の心が燃えているからです、人の心を読むには私自身が無心にならなければなりません、王子様には無理です、お許し下さい」
「いやいや、何も謝ることはないぞ、そなたの返答を耳にし、嬉しくなった、では吾は別として倭姫王はどうじゃ、半里以上も離れているではないか」
「倭姫王様の場合は特別です、姫王様が発せられる見えない光の波が私と同じなのでしょう、それは音の波といっても良いかもしれません、だから離れていても、私に呼びかけられたなら分るのです」
「見えない光の波、音の波、吾にはよく分らぬが、もう少し具体的に説明できぬか」
「申し訳ありません、口に出しては説明できないのです」
弟橘媛は、訴えるような眼を向けた。その眼は、これ以上何も訊《き》かないで欲しい、と告げていた。
「無理には訊くまい、ただそなたの巫女としての能力は非常に優れている、吾は凱旋できるであろうか?」
「王子様、神託をお求めなら私は身を浄《きよ》め、楼観に上らねばなりません、それに王子様には無心の境地になれないので神意は得られません」
倭建は弟橘媛の手を取った。
「分らぬとは申さぬ、だが、凱旋できるかできぬかぐらいなら、神意を受けなくても、勘で予知できるであろう」
「はい、勘なら……」
「どうだ、できるか、できぬか」
倭建は呻《うめ》くようにいった。
「できます、できますとも、王子様は何故、迷われているのですか?」
弟橘媛の声は励ましているようだった。
「いや、迷ってなどいないぞ、そなたの予知能力に頼ってみたくなったのじゃ、安心せよ、吾は神宝をいただいたのだ、吾は凱旋する」
倭建は弟橘媛が思わず呻いたほどに手に力を込めた。弟橘媛の呻きが情を秘めた熱い吐息に変る。
倭建は弟橘媛の両脇に手を入れると軽々と抱き上げ、傍に坐《すわ》らせた。
「さあ、並んで食べよう、もっと吾に身を寄せるのだ」
片手で抱き寄せると、上衣を通し媛の肌のぬくもりが伝わってくる。媛は顔を倭建に寄せたが慌てたように戻そうとした。だが媛を抱く倭建の力はますます強くなる。
「侍女達が」
と媛は声にならない声で呟《つぶや》く。
「暫《しばら》くは会えぬのだ、見せておこう」
と倭建は豪快に笑った。西討から戻って以来の大きな笑いだった。
屋形を守っていた警護兵達は顔を見合わせた。口にこそ出さないが、武勇の王子がお戻りになったぞ、とお互いに告げ合っている。
「出陣が近いのう」
「おう、東の国はどんな国であろう、山に魔神が棲《す》むというが本当であろうか」
「魔神であろうと悪鬼であろうと、王子様に勝つ奴《やつ》はいないのじゃ」
「そうだ、龍のような熊襲《くまそ》タケルの首を刎《は》ねられたのだからのう」
自分を鼓舞するように、兵士達は槍《ほこ》の柄で土を叩《たた》くのだった。
出陣の前日、倭建は東征大将軍に任じられた。吉備武彦と大伴武日は副将軍である。久米七掬脛は輸送部隊の指揮を執ると共に、倭建の側近として仕えることになった。弓の名手達は、尾張の国で合流するはずである。
丹波猪喰が戻ったことを知っているのは七掬脛だけで、武彦も武日も知らない。
何時までも隠し通せるわけでもなく、途中で知らすと、水臭い、と感じるかもしれない。
ことに武彦は西討の際共に活躍し、猪喰の働きをよく知っていた。武術に優れ、脚力は抜群で、情報|蒐集《しゆうしゆう》能力には、武彦も舌を巻いていた。
確かに猪喰は、武彦や宮戸彦、それに内彦から一歩身を退いている。大和の有力豪族の子弟ではないということと、西討の直前、志願して倭建の部下に採用されたからである。
「あまり気にするな、仲間じゃ、皆もそう思っている」
と倭建は何度かいったが、猪喰の態度は改まらなかった。その夜、倭建は武彦らに会わせるべく猪喰を呼んだ。猪喰は会うのは大和を出てからにしていただきたい、といった。
「奴《やつこ》は間者として自由に行動しとうございます、間者の任務は、仲間からも自由であることです、間者である限り、内彦殿達と仲間付合いはできません、いったん仲間付合いをすれば、途中で抜けられないし、自由を束縛されるからです、それよりも皆様方とは一段下の間者として扱っていただいた方が気が楽だし、何時、抜け出ても水臭いといわれないし、間者としての任務が全うできます」
猪喰は懸命に訴えた。
猪喰の返答の内容は大事だった。それは戦における間者の任務が如何《いか》に重要であるかを倭建は狗奴《くな》国・熊襲との戦で知った。
「よく分った、だが武彦や武日には、戻ったことを告げ、直属の間者としての任務を与えたと話そう」
「有難うございます、つきましてはお願いがあります」
「おう、何なりと申せ」
「今|迄《まで》口にしませんでしたが、丹波で奴に仕えていた若い男子五名を連れてきております、何れも縁戚《えんせき》関係の者ばかりで、心に表裏はありません、共に山に籠《こも》り、武術もかなり優れ、それに健脚です、情報を蒐集する際五人がおればおおいに助かります、何卒《なにとぞ》奴と共にお供に加えて下さるよう伏してお願い申し上げます」
「水臭いぞ、何故今迄黙っていた、吾は情報蒐集の際は、そちに部下を与えようと思っていたのだ、或《あ》る情報を得た場合、そこに留まりもっと知りたいと思うこともあるだろう、だが吾に報告のため、大事な場を離れねばならないということになれば、情報の価値も半減する、手足となる部下は必要じゃ」
「有難うございます、五人も大喜びでしょう、早速伝えます」
「何処にいる?」
「音羽山に……」
「何だと音羽山だと」
「はい、鬼神と化した丹波森尾《たんばのもりお》が復讐《ふくしゆう》を誓い隠れていた場所です」
「吾が斃《たお》したあの岩場か……」
倭建は約十年前の出来事を昨日のことのように思い出した。
あの時の森尾はまさしく鬼神そのものだった。
「森尾の復讐の相手は父王だったのう」
「はっ、今一人、物部十千根でございます、イニシキノイリヒコ王から、王位を奪うべく画策したのは十千根」
猪喰は淡々といったが、それだけに森尾の怨念《おんねん》が消えていないことを感じさせた。
「前にも申しましたが、王子様が斬られたのも当然です、三輪の王朝を斃そうと狙っていた以上、王子様の敵となります、それに森尾は王子様に斬られなければあのまま山頂にて朽ち果てていたでしょう、それではあまりにも無念、奴は王子様に感謝しております、故に直訴し西討に加わらせていただいたのです」
猪喰は多分、倭建の胸中を察したに違いなかった。
「よく分っておる、近い縁戚者は?」
「犬足《いぬたり》、犬《いぬ》牙きばと申します」
「ほう兄弟か」
「従兄弟《いとこ》同士でございます」
「では途中で会おう」
「お諾《き》き入れいただき有難うございます、では、奴は一足先に」
猪喰は闇に消えた。
船はまだ計画の半分しかできていなかった。ただ軍勢が約三百名なので、食糧その他を陸路の輸送にすれば、兵士達は船に乗れる。
当時の尾張は熱田《あつた》神宮のあたりは海であった。例えば難波《なにわ》も、大坂城あたりまでが海で、高台は天王寺と大坂城を結ぶ岬に似た台地である。台地の東は生駒山麓《いこまさんろく》まで湖であった。
それと同じく北方から海に延びた熱田台地も岬といって良く、東西は海で、東は現在の天白《てんぱく》地区が海岸で湾をなしていた。
西は広々とした海で、現在の海部《あま》郡の北部、津島市あたりが海岸線となる。
最近の説では、揖斐《いび》川沿いに大垣市あたり近くまで、海ないし、潟であったのではないかという。
そういう意味で、桑名から陸路で熱田神宮あたりまで行こうとすると、養老郡を通り大垣市の近くまで北上し、幾つもの川を渡り、熱田岬の方に南下せねばならない、大変な迂回《うかい》となる。
大和からの陸路なら、近江の蒲生《がもう》郡を通り関ケ原を抜け美濃に出、西春日井あたりから南下する方が楽である。となると伊勢国から尾張に入るのは、船によるのが一番だった。
桑名あたりからなら、伊勢湾を横切ると現在の東海市に達する。
知多半島の根っ子の部分である。
本小説で倭建が活躍する末に近い四世紀後半では熱田神宮の近辺は有力な勢力はなかった。
継体《けいたい》大王に妃・目子《めのこ》媛ひめを出した尾張氏が熱田神宮の傍に勢力を張るのは、約百年後の五世紀後半である。
四世紀後半の尾張は、美濃と接した尾張北部の犬山市、また春日井市に纏《まと》まった勢力があり、南部の勢力は知多半島の根っ子、現在の大高町周辺にあった。
海上交通路から考えても当然で、現在の天白川の南、大高城|趾《し》あたりから名和町の丘陵地帯にかけて海人《あま》が勢力を張っていた。
大高町の氷上山には、宮簀《みやす》媛ひめを祭神とする氷上姉子《ひかみあねこ》神社がある。
倭建が東征の第一歩として向おうとしている尾張は、大高近くだった。
翌朝、甲冑《かつちゆう》を纏った倭建は吉備武彦、大伴武日、それに久米七掬脛を従え、巻向宮に参り、オシロワケ王に出陣の報告をした。
倭建は武装しているので宮の柵《さく》内には入れない。
柵門に蹲《うずくま》った倭建は、無言で叩頭《こうとう》した。
屋形の正面の縁に立ったオシロワケ王は激励の言葉を述べたが、はっきり聞えない。
オシロワケ王は、遠くまで響く声を出す力を失っていた。
宮の正面の屋形の前には、数え切れない王子・王女が立っていた。大碓《おおうす》がいない今ではすべて異母兄弟、姉妹である。よくこれだけの子を色々な女人に産ませたものだ、と倭建は今更のように父王の好色に呆《あき》れた。
これでは特別な王子や王女以外、自分の子といった愛情は感じないのも当然である。
その代り限られた王子、王女に対する愛情は深くなる。
殆《ほとん》どは産ませ捨てである。
オシロワケ王の激励が終ったので倭建は立った。
「吾は今から見知らぬ東国に向って発ちます、もしまつろわぬ国があれば討ち、大和の王朝の威光を示して参りましょう、凱旋《がいせん》が二年先か三年先か分りませぬが、必ずや任務を果たし、まほろばの国に戻ってくることをここに誓います」
倭建は刀を抜いた。磨き抜かれた刀身が朝陽に煌《きらめ》く。
王子や王女達がざわめいた。
倭建は頭上で刀を振り廻すと、天に向って吠《ほ》えた。
まるで群れ集まった山犬が遠くに向って吠えたようで、宮を巻き人々を慄《ふる》え上がらせ、余韻を残しながら消えた。
王子も王女も静まり返っている。
倭建の声が消えてから、小鳥が解き放たれたように木々を飛び立った。
刀身を鞘《さや》に収めた倭建はそのまま門を離れた。
一行は泊瀬川沿いの道を宇陀《うだ》に向った。
宇陀の地は、神武天皇が兵を休め、奥坂越えに大和に入り、磯城《しき》の賊を滅ぼし、国を統一したことで有名である。
勿論《もちろん》、神武東征説話は殆どの部分が創作であるが、日本の最初の王が西から東に来、大和に入ったという伝承の上に作られた説話であろう。
倭建の一行は宇陀川沿いに伊賀に向った。
七世紀後半の壬申《じんしん》の乱の際、吉野の大《おお》海人皇子《あまのみこ》(後の天武《てんむ》天皇)は、東国に入るべく吉野から宇陀に出、伊勢国まで殆ど眠らずに行軍した。
倭建一行が東に向った道は、後、大海人皇子が強行軍した道である。
ただ倭建は大海人皇子と異なりゆっくり進んだ。
一行は果てしない道を進まねばならないのだ。何も慌てる必要はなかった。
倭建の傍には吉備武彦と大伴武日がいた。二人の兵士達は、それぞれの隊長が指揮している。
二人は副将軍だ。
「天候は何時まで持つかのう」
二人は本能的に西の空を眺めた。
晴れた空に翳《かげ》りを蓄えた白い雲が浮いている。雨雲は全く見られなかった。
「二、三日は持ちそうです」
と武彦が自信あり気にいった。
「どうかな、西からの雨雲は速いからのう、あっという間に空を覆い雨を降らす」
「王子、人の世と似ています」
武日が武者らしからぬ口調でいった。
「そうだな、明日、何が起こるか分らないからのう」
倭建は何となく泊瀬の山を眺めた。
このあたりの山々は神秘的で縹渺《ひようびよう》とした感じがある。山が眼の前に連なっているのに何処か翳りが感じられるのだ。
『日本書紀』は泊瀬の山を詠んだ大王・雄略《ゆうりやく》の歌を載せている。
隠国《こもりく》の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走《わし》り出の よろしき山の 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗《ぐは》し あやにうら麗し
大王は泊瀬の山を褒めているが、大王がとくに惹《ひ》かれたのは、隠国とあるように山々に漂う翳りであろう。
そのあたりに、その行動から窺《うかが》い知れぬ大王の感性の一端が感じられる。
いうまでもなく大王は、倭建よりも約百年後の人だが、倭建も泊瀬渓谷の翳りが好きであった。
暇があれば山に入り狩に興じていた十年前にはなかった感情である。
倭建は、現在長谷寺が建っている辺りを眺めた。
ふと仙人が現われそうな気がした。
「やっ、鹿じゃ」
と倭建の視線を追っていた武彦がいった。鹿かどうか分らぬが獣であることに間違いない。
鹿はすぐ山林に姿を消した。
「鹿ではない、人のような気がしたぞ」
と武日がいった。
「狩人か、しかし泊瀬渓谷での狩は禁じられている、矢張り鹿だぞ」
武彦は眼を凝らしたが、
「うむ、吾の眼に狂いはない」
と胸を反らせた。
倭建は、ふと猪喰のような気がした。
あれ以来、猪喰は姿を見せない。それとなく七掬脛に訊《き》くと、
「はっ、一行の前方に怪しい者がいないか、調べているようです、今はやつかれも連絡できませんが、現われないのは、事態が平穏だからだと思います」
倭建は、七掬脛の困惑した表情を思い浮かべ微笑した。
「王子、何がおかしいのですか?」
と武日が訊いた。
「いや、鹿か人か分らぬが、ふと猪喰ではないか、と思ったのだ」
「丹波猪喰ですか、王子、猪喰は丹波に戻りました、今は平和に暮しているでしょう」
と武彦が口をはさんだ。武日と顔を見合わせたのは、倭建の胸中を察したからであろう。共に戦った武彦は、倭建が猪喰をどんなに信頼していたかを知っている。
何時までも二人に隠しておくべきではない、と倭建は思った。
「実は大和に戻っておる、間者の任を与えたので、出発まで二人にも黙っていた」
武彦は眼を剥《む》き、武日は驚いて口を開けた。
倭建はそんな二人に、合図の矢を放った日のことを話した。
「今度現われたならそち達にも会わせる」
どんな現われ方をするだろうと思うと、愉《たの》しくなった。
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東国への道
一行は夕刻には伊賀に入り山麓《さんろく》の盆地で夕餉《ゆうげ》を摂《と》ることにした。
急がず悠々と行進したのだが古代人の足は速い。
曲りくねり上り下りの多い道を、一里(四キロ)、半刻《はんとき》(一時間)の割合で休む間もなく進んだのだ。
尾張《おわり》までの食糧は持参している。
兵士達は、雑穀の混じった米を一升余と、干肉、干魚などを携帯していた。
先発隊が農家から女人や土器を徴発し、一行が着いた時はすでに米が炊き上がっていた。
久米七掬脛《くめのななつかはぎ》が行軍の途中で獲《と》った兎や山鳥を焼き、塩と独得の調味料で味をつける。
七掬脛はその調味料の原料は秘密にしていた。
吉備武彦《きびのたけひこ》や大伴武日《おおとものたけひ》が幾ら要求しても教えない。
倭建《やまとたける》は大体知っていたが、七掬脛の胸中を思い秘密を守っていた。調味料は粉末にした魚や獣の肝、それに薬草なども加えている。粉末だから焼いた肉にかけても良いし、塩を混ぜて液状にしても良い。時には酒も調味料になる。実際、味つけに関しては、七掬脛の腕は抜群だった。
なかには真似をして勝手に作る者もいたが、苦かったり、舌を刺したりして七掬脛のような微妙な味が出ない。
倭建は串《くし》に刺した山鳥の焼肉をどろっとした液につけて食べた。空腹のせいもあるが口中が溶けるほど旨《うま》かった。
「うーむ、流石《さすが》は七掬脛じゃ、武彦に武日、そち達も七掬脛の調味料をかけてみよ」
「そんなに旨うございますか」
武彦と武日は塩をかけていた。
「旨いとも、器を出せ」
倭建は底の浅い皿に調味料を注いだ。
「これでございますか……」
二人共、得体の知れないものを眺めている表情だった。確かに見た眼は泥に似ていた。
「うむ、問題は味じゃ」
「はっ、では」
武彦は汁状の調味料を焼鳥にかけて頬張った。武日も同時に食べる。
「おっ、旨い」
お世辞ではなく二人は叫んだ。兎の焼肉にも調味料をかけて舌鼓を打つ。
武日などは食べ終ると汁をすすり眉《まゆ》を寄せた。
七掬脛が歯を見せて笑った。色が黒い上に眼の周りに墨を入れているので、歯の白さが美しく鮮やかである。
「七掬脛、調味料だけだとまずいのう」
といいながらも飲み込んだ。
「当り前だ、七掬脛のことじゃ、味を出すために獣の小水を混入しているかもしれぬぞ、雌の月のものもな」
倭建がからかうようにいうと、
「えっ、七掬脛、本当か……」
二人は眼を剥《む》き七掬脛を見た。武日は今にも吐き出しそうな顔である。
「御安心なされ、そういうものは入ってはおりませぬ」
「内容は秘密だから訊《き》いてはならぬぞ、それにしても調味料の汁だけすするというのも浅ましい、吾《われ》は料理には詳しくないが、これはすべてのことに当て嵌《は》まる、人間関係、政治、また人生にもな、大事なのは調和であり、混じり合うことじゃ、これは男子《おのこ》と女人との媾合《まぐわい》がはっきり証明している、男子も女人も一人では子供は産めぬ、そうであろう」
「混じり合うことによって別なものが生まれるということですか」
「そうじゃ、焼肉と調味料が混じり合い、別な味が生まれた、だがどんなことであれ、新しいものを生むためにはそれなりの努力が要る、この世には、混じり合おうとしても駄目な場合が多いからのう」
これ以上話すと愚痴になる、と倭建は苦笑した。
「七掬脛よ、調味料の秘密は話さなくても良い、こういう調味料を作り出すこつは何かのう、普通の者にはまず無理じゃ、一言では話し難いだろうが、そちはこつを知っているはずだ、前から聴きたいと思っていた、難しい質問なのは知っている」
倭建は七掬脛に穏やかな眼を向けた。
七掬脛は恐縮したように叩頭《こうとう》した。
「やつかれの味を褒めていただき光栄です、調味料を作るこつは別に難しいものではございません、興味でございます」
「興味……」
三人が呟《つぶや》き、叫び、頷《うなず》いた。
「はあ、どんなものにも味がございます、木の葉、草、樹皮、獣、魚、貝、それに王子様が申された月のものにもそれぞれの味があります、調味料を作る際は、この味とあの味を合わすと、どんな味になるだろうと興味津々です、これは調味料だけに限りません」
といって七掬脛は童子のような笑いを浮かべた。
「おう、その通りだ」
倭建は手で膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「そうだ、大事なのは興味だ、何に対しても興味を持とう、それは学ぶということにも通じる、女人への興味も大事だぞ、そち達は、興味といわれた途端、そのことばかり考えていたであろう、勿論《もちろん》、吾もそうだ」
倭建が肩を竦《すく》めると、緊張気味の一座が爆笑した。
現在|上野《うえの》盆地と呼ばれている伊賀盆地はそんなに広くはなく、取り囲む山々も険阻ではない。ただ盆地を通り抜け東の方の山々に入ると一挙に山容が変る。後に鈴鹿の関が置かれた鈴鹿山脈が巍々《ぎぎ》として行く手を遮っている。
爆笑が話題を変えた。
倭建を始め副将軍達も東の国は全く知らない。
一応、大和と交易のある国々に寄り、まつろわぬ国の様子を聴き、服従するように勧告するのが使命だ。行く先々の国で戦っていては、この兵力では勝ち目はなかった。
九州島の賊や、狗奴《くな》国、隼人《はやと》と異なり、東の国々は果てしなく広いのだ。
交易のある国も、倭建の一行を快く迎えるとは限らない。なかには、倭建を殺そうと狙っている国もあるに違いなかった。
邪馬台国《やまたいこく》が東遷し、大和に王朝を樹立してから、まだ百年しかたっていないのである。
かつてのように戦に明け暮れはしていないが、皆、自国の勢力を拡大したい、と狙っていた。
ただそれらの国が、三輪の王権をどのように見ているかだ。三輪山麓に宮を定め、東国などでは考えられない巨大な墳墓を造り、吉備や丹波と同盟し、東の国まで名が響いていた勇猛な熊襲《くまそ》を滅ぼした。
元来が北九州の出身だけに、瀬戸内海沿岸諸国、また九州島のかなりの国は、三輪王朝に服従している。
倭《わ》列島の中では、最も巨大な勢力に違いなかった。
問題は、三輪の王権が倭列島すべてを統一し、君臨するのか、東の上野《こうずけ》(毛野《けぬ》国)、越《こし》などが勢力を拡げ、睨《にら》み合いの状態になるかであった。
その際の身の処し方によっては、将来に禍根を残すことになる。
そういう意味で、東の国の王達も、倭建を将軍とする軍団が来るのを知り、緊張状態にあった。
徹底的な抗戦を決意している国もあるだろうし、戦などせず友好国になった方が得だ、と計算している王もいるはずである。
ただ上野およびその周辺の国々は、三輪王朝、何物ぞと闘志を燃やしている。
上野には更に北方の毛人《えみし》が多いらしい。身長はそんなに高くはないが、肩幅が広くがっちりしていて腕力が強い。
「王子、熊襲とどちらが強うございますかな……」
と武彦が訊《き》いた。武日が眼を光らせた。
この中で熊襲征討に参加できなかったのは武日だけである。オシロワケ王の命令で大和に残されたのだが、それだけに武日は劣等感を抱いていた。それが闘志になっている。
「まあ同じぐらいであろう、油断することはないが過大視することは危険じゃ、皆同じ人間ではないか、もし鬼神軍団がいるのなら、父王の命令であろうと、吾は行かぬ、完全に負けることが分っていて征《い》くのは阿呆《あほ》じゃ」
倭建ののんびりした口調に一同も解放された気分になる。
そういえば西討の時と異なり、今回の倭建には何処か飄々《ひようひよう》としたところがあった。
部下達にはそれが余裕に見える。
一廻り大きくなられた、と部下達は倭建を眺めた。
「それにしても猪喰《いぐい》の顔を見とうございます」
と武彦が呟《つぶや》くようにいった。
猪喰は西討の際、倭建の親衛隊といって良い部下達と距離を置いていた。
ただ顔を見ないと何となく気になる男子である。猪喰は接する人々の胸に影のようなものを残して行く。それが猪喰の魅力だった。
「猪喰が現われないのは危険がないからだ、そのうち現われるであろう、ひょっとすると暗くなった林の中に潜んでいるかもしれぬぞ」
陽はすでに落ち、山々も雑木林も色を失い闇の塊になっていた。
倭建の言葉に釣られたように一同は近くの雑木林を見た。
「猪喰から連絡はないか」
と倭建は七掬脛に訊いた。
猪喰は急用の場合は、七掬脛に命じていただきたい、と倭建に告げていたが、連絡できない場合もあった。
「はあございませぬ、この時刻なら火矢を空に射れば猪喰の部下が見つけるかもしれません、王子様の近くに連絡係の兵がいるはずでございます」
「兵も横になっているかもしれぬぞ」
「まず巻貝を鳴らし、その後で火矢を放ちます」
七掬脛は部下に命じて法螺《ほら》貝によく似た大きな巻貝を持ってこさせた。
鳴り物は弥生時代にはすでに琴や笛、銅鐸《どうたく》などがあった。貝類も腕輪だけではなく音を出すために使用されたと考えられる。また琴や銅鐸などから推測すると、小太鼓類もあったのではないか。
七掬脛は巻貝を口に当てて音を立てた。貝類特有の嫋々《じようじよう》とした音が闇に包まれようとしている山野を這《は》い木霊《こだま》を返しながら地に吸い込まれるように消えて行く。
巻貝は二度鳴った。
その後に火矢が放たれる。
「多分、何等かの合図があるはずでございますが」
七掬脛は胸近くまで垂れている長い鬚《ひげ》をしごいた。周囲を見渡す。
「おう、あれじゃ」
倭建は前方を指差した。
伊賀盆地の中心部近くに蹲《うずくま》るように闇が固まって見える丘陵の上から放たれた火矢だった。距離が遠いため火花を思わせる。
夜営の場所から一里近く離れていた。
「王子、我等の行く手に邪魔がないか見張っているのでございましょう、明日はあの丘の下を通り、伊賀盆地を横切る予定です、我等も間者《かんじや》を放ち、行く手を調べさせていますが、あの丘まで行っているかどうか」
武日が唸《うな》るようにいった。
「うむ、猪喰は我等の行く手に敵がいないかどうか調べている、多分、部下は伊勢国に入っているはずじゃ、いや、あの火矢は猪喰の部下かもしれぬ」
「どうして部下だと……」
と武彦が訊いた。
「いや、これは吾の勘じゃ、理由はない」
倭建は、もし猪喰なら近くの雑木林か草叢《くさむら》から現われそうな気がしたからである。
「半刻もかからないでしょう、矢のように飛んで参ります」
といって七掬脛は大きな巻貝を撫《な》でた。
夜営の四方には、道や草叢、雑木林を問わず槍《ほこ》を持った兵士達が警護に当っていた。
皆、夜眼の利く者ばかりで松明《たいまつ》は持っていない。曲者《くせもの》を探す場合は松明が必要だが、未知の地で夜営するような場合は、火の明りはかえって曲者に居場所を教える危険性があった。
松明や篝火《かがりび》は、状況に応じて燃やすのだ。
倭建は吉備武彦、大伴武日らと村長《むらおさ》の家に泊まることになっている。
村長の家といっても竪穴《たてあな》式でそんなに広くない。勿論《もちろん》その場合は借り賃として村長が喜ぶだけの絹布を渡す。
武彦と武日も当時では珍しい馬を伴っているが、絹布や貝輪などを積んでいる。
倭建は寝所を守っている警護兵に松明を燃やすように命じた。
すでに暗闇で月明りは淡く、人影も判別できない。倭建が何処に泊まるかを猪喰は知らないはずだ。
倭建達は家に入り、魚油の明りをつけて酒盛りをはじめた。
警護隊長の大伴倉先《おおとものくらさき》が戸口に蹲《うずくま》った。
「王子様、闇の中から王子様に呼ばれましたという声が聞えて参りますが、何処に潜んでいるか、さっぱり分りません、王子様がお呼びになられたのですか?」
「おう、吾が呼んだ、戸口に来るように伝えよ」
間もなく倉先に連れられて見知らぬ若者が戸口に平伏した。
猪喰の部下、犬足《いぬたり》の従弟にあたる犬《いぬ》牙きばだった。
倭建の質問に、長《おさ》は、伊勢国の朝日《あさけ》地方に潜入している旨を告げた。
「ほう、潜入とは尋常でない、不穏な動きでもあるのか?」
「朝日周辺の新しい首長は雷郎《いかずちのいらつこ》と申し気の荒い人物のようでございます、不届きにも兵を集め、王子様の軍と戦う気配が窺われます」
「それは初耳だ、よくぞ知らせた、前の首長は我等と友好を保っていたので安心していた、雷郎は前首長の弟か、子か」
「末弟のようです、噂では昨年の夏、前首長が亡くなると、首長権をめぐり数人の兄弟が争い、雷郎が兄達の殆《ほとん》どを殺し首長権を得た模様です、気性の荒い曲者でございます」
「吾は朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》と戦うために来たのではない、朝日の首長は味方だと思っていた、いや吾だけではなく父王を始め重臣達も朝日の勢力が背くとは想像していなかったようだ、朝日といえば我等が最初に立ち寄る尾張の天白川の首長とは深い関係にあるだろう、両勢力は伊勢湾をへだてて向い合っている、当然交易も盛んに行なわれているし、両者の往来は絶え間がないはずだ」
「はっ、長はその辺りのことも調べていると思います」
犬牙は余計なことをいわなかった。
「分った、我等は鈴鹿を越えた辺りで留まり、猪喰の報告を待つ、猪喰には、調査を急ぎ、鈴鹿の駐屯地に来るように伝えるのじゃ」
「王子様の御命令を伝えるべく、奴《やつこ》はただちに引き返します」
「休まないでも良いのか……」
「一夜ぐらいなら休まずに走れます」
「見事じゃ、行け」
犬牙が去った後、倭建は唸《うな》りながら武彦らと顔を見合わせた。
尾張に渡る船は鈴鹿川の河口に集結していた。予定の半分も集まっていないが、天候さえ良ければ海を渡れる。
船に乗る者を増せば良いのだ。
朝日の勢力とは、現在の朝明《あさけ》川から桑名にかけての豪族で、伊勢湾の北西部に勢力を張っていた。
海の交易も盛んなので、船の数は当然多い。交易の船は有事の際は水軍となり活躍する。
オシロワケ王や物部十千根《もののべのとちね》が朝日地方をまつろわぬ国に入れなかったのは、前の首長が比較的友好的だったからである。
それにしても杜撰《ずさん》な計画による東征だった。
尾張に着くまでに強力な敵と戦わねばならない。尾張まではのんびりと進むつもりできただけに、参った、というのが偽らざる気持だった。
「王子、緒戦としては絶好の戦になります、全軍で攻め、徹底的に叩《たた》きましょう、大勝は東の国々に伝わり、戦わずに王子に降服する国が増えましょう、それに兵士達の士気も上がります」
武日はなみなみと酒を注ぎ酒杯を上げた。
「大勝すればな、だが勝てたとしても戦が長引き苦戦するようなことになれば逆効果じゃ、尾張は疑心暗鬼になるし、東の国々は吾を軽視する、それを考えると先が思いやられるぞ、それに戦は敵を知ることにある、九州島の熊襲に勝てたのも、敵の情報が入ったせいだ、猪喰にはこういうこともあろうかと行く先々の調査を命じたが、何といっても丹波の男子《おのこ》、地元の情勢には詳しくない」
倭建の言葉に武彦が頷《うなず》いた。
「武日、確かに王子がいわれる通りじゃ、一気に攻めれば地の利に熟知している敵の罠《わな》に嵌《は》まる危険がある、ここは鈴鹿を越えたところで布陣し、敵がどう出るか、また勢力などを探る必要があるのう、それにしても王子、物部十千根は伊勢の状況も知らなかったのでしょうか、今の十千根は王の相談役、当然、尾張までの情勢は熟知していなければなりません、十千根の責任ですぞ、王子は鈴鹿に留まり、巻向宮《まきむくのみや》に急使を遣わし、朝日勢を叩く軍団を要請されては如何《いかが》でしょう、王子の軍は尾張より東の征討にあります、この要請は正当なものだと思いますが……」
武彦は成長していた。何といっても吉備の兵を率い、倭建と共に戦ったことが武彦の成長に役立ったのであろう。
武日も唸りながら拳《こぶし》で膝《ひざ》を叩き、無責任な十千根を罵倒《ばとう》した。
「七掬脛、そちはどうじゃ?」
倭建は黙って耳を傾けている七掬脛に眼を向けた。
武彦や武日と共に倭建の親衛隊出身だが、久米氏は吉備や大伴のような有力豪族ではない。それだけにこのような場ではあまり自分の意見を口にしなかった。
「はあ、やつかれも考えていましたが、九州島の場合と異なり、朝日の様子が分りませぬ、矢張り鈴鹿で要害の地を見つけて陣を張り、猪喰の報告を聴いた上で決断されては如何でしょうか、物部十千根殿は伊勢国の状況判断に無知でした、その責任を問い、応援の兵を要請するのも、一つの方法とは思います」
皆、オシロワケ王と物部十千根に憤りを抱いていた。王の責任は口にできないので憤りは十千根に集中する。
倭建は苦い酒を飲んだ。
倭建としては、どんな理由があるにせよ応援の兵は要請したくなかった。
尾張より東の征討が目的だが、兵を率い大和を発った以上、率いている兵力だけで敵を撃破したい。
それが倭建の武であり生き方だった。勿論、途中で倭建に従う者が現われれば率いて行く。
それに今回は、明らかにオシロワケ王と十千根はぐるである。
策を弄《ろう》し倭建を将軍に任命した。ひょっとすると十千根は、朝日の動向を察知していた可能性も考えられる。
それにも拘《かかわ》らず黙っていたのは、
「吾に死ね」
ということか、と倭建は胸の中で叫んだ。憤怒が血の潮騒《しおさい》となり身体中を巡りはじめた。倭建は憤怒を抑えるようにゆっくり酒杯を傾けた。
「皆の者、吾は勝つ」
抑えた声だが重い響きだ。
皆は不動の決意と闘志を王子に感じ、眥《まなじり》を決し、拳を慄《ふる》わせた。
『古事記』によると東征に際し倭建は倭姫《やまとひめ》王に会った際、「天皇は吾に死ね、と思われているのか」と自分の心境を打ち明けている。
この思いは、最後まで倭建の心底から消えることはなかったのだ。
猪喰は犬足と共に朝日川と鈴鹿山脈との間の高台に潜んでいた。雑木林の中である。
現在の朝日《あさひ》町や桑名市の殆どは海であった。
北方の養老山脈から東南に突き出た丘陵地帯が岬となって桑名市の北部に達している。岬の東部、揖斐《いび》川、木曾《きそ》川の河口も海で、長島町はその名の通り島だった。
朝日の海岸線は鈴鹿山脈の麓《ふもと》に近い。
猪喰が潜んでいる雑木林から海まで約一里、北の朝日川まで半里足らずだ。秋の陽に海は眩《まぶ》しく煌《きらめ》いていた。集落は雑木林と朝日川との間にあった。川を越えたあたりにも拡がっている。
猪喰が朝日の勢力圏に潜入してからすでに三日たっていた。
二日目に動員された二人の兵士を襲い、一人を殺し、一人に拷問を加え大体の勢力を白状させた。
それによると朝日の勢力圏の人口は約二千数百人だった。どんなに多くても三千人どまりである。半分が女人だから男子は千五百人となる。となると軍団は二百名から二百数十名というところだ。
倭建軍の方が数は多いが、地形が分らないので、うかうか進撃できなかった。
猪喰は隊長あたりの有力者を拉致《らち》し、情報を得たかった。
猪喰が拷問を加えた農兵から訊《き》き出した有力者は大鳥《おおとり》といい、雑木林からあまり離れていない家の主だった。五十戸ほどの集落の長である。
息絶え絶えの農兵の告白によると、朝日雷郎は川の北側に住み、倭建軍が攻撃してくるものと決めつけ、挙兵の準備をしていた。
大鳥は二十名の兵を率い雷郎軍に加わる予定らしかった。
得たい情報のすべてを訊き出すと、猪喰は農兵を殺し埋めた。
猪喰は間者である。自分の存在は絶対知られてはならない。猪喰も犬足も、万が一捕まるようなことがあれば、舌を噛《か》み切ってでも死ぬ決心だった。
「どうやら明日は出陣らしい。出入りしている農民達も今宵《こよい》は自分の家で家族と別れの宴を張る、長《おさ》の家も同じであろう、襲うのは今宵じゃ、長の場合は傷を負わせてでも捕える、家族は妻か娘だ、何が何でも長の口を割らねばならない」
猪喰は囁《ささや》くようにいった。
今の猪喰は全身が氷のようであった。ただ氷の内部に炎が燃えている。
倭建に対する忠誠の炎である。
「反抗する者は?」
「斬るのはまずい、長の憎悪をかきたてる、できれば木刀で失神させるか、身動きができないようにする、勿論《もちろん》、身が危うい場合は斬らねばならぬ」
「分りました」
「木刀の先はできるだけ丸めておけ、突いた場合、相手が受ける衝撃は大きいが、傷をつけぬ、この襲撃は尋常ではないぞ、目的は長を拉致することじゃ」
猪喰は太い木刀の先を刀子《とうす》で丸く削りはじめた。犬足も真似る。
長の家は地床式で周囲の家より一廻り大きい。
猪喰の予想通り、陽がそそり立つ鈴鹿山脈の上に達した頃|夕餉《ゆうげ》の準備が始まった。出入りしていた者がいなくなったのは、自分の家に戻ったからである。
二人は夕闇に紛れて這《は》いながら長の家に近づいた。家の近くに松が生えている。猪喰は素早く松に登り部屋を観察した。
別れの宴なので、室内に魚油の明りをともし、酒盛りを続けているようだ。
猪喰は松から下りると家に近づいた。
家に柵《さく》や濠《ほり》はない。 平和な村のせいもあるが、長の権力がそんなに強くないからである。朝日雷郎の屋形なら濠に囲まれているであろう。
戸口は開いていた。
居炉裏を囲み四人の親子がいた。正面には四十前後の男子が坐《すわ》っている。頑丈な身体である。背後には槍《ほこ》や剣が立てかけられていた。左手は妻らしい。三十代後半で小柄な女人だ。田畑の仕事に従事しているので陽に灼《や》けている。右手は十七、八歳の女人である。娘に違いなかった。結婚してもおかしくない年齢だ。父親より母親似で、下り加減の眉《まゆ》などそっくりだった。整ってはないが愛くるしい顔である。
戸口に背を向けているのは童子だった。今、この家に集まっているのは正妻と子供達に違いなかった。
他にも若い妻がいるはずだが、別の家で待っているのかもしれない。
闇が濃くなった。家の周囲に井戸はないが数十歩離れた場所に小川が流れている。
夕餉を終えた女人達が器を洗ったり壺《つぼ》に水を入れたりしていた。
この家の妻も器を洗いに小川に行くはずだった。
「犬足、そちは家を出た女人を狙え、木刀は使わず当て身で失神させる、肩に担いで雑木林に逃げ込め、吾は長を狙う」
犬足は無言で頷《うなず》いた。
当時は一夫多妻が普通である。勿論、庶民は財力がないので妻は一人だが、村長にでもなると二、三人の妻を持つ。
酒盛りを終えたなら、この村の長は閨《ねや》を共にすべく若い妻が待つ家を訪れるに違いない、と猪喰は睨《にら》んだ。
四半刻《しはんとき》ほどたった頃戸口から人影が現われた。淡い月影がその姿を照らした。娘の方だった。
抱えた竹籠《たけかご》に夕餉の器が入っている。
娘の影に犬足の影が絡みついた。音も立てずに一つの影が崩れ落ちる。影が抱えていた器はもう一つの影が奪った。その影が崩れた影を肩に担ぎ走りはじめた。あっという間に闇に消える。
よくやった、と猪喰は頷き戸口に視線を注いだ。間もなく長と妻が現われた。
「じゃ行ってくる、夜の明けぬうちに戻る」
方言が混じっているが猪喰にはよく分る。
「私《わ》からもよろしくと……」
妻がいった。
「うむ、申しておく」
長が歩きはじめると妻は叩頭《こうとう》した。若い妻の許《もと》に行く夫を頭を下げながら見送っている妻の心境はどんなものであろうか。
だがそんな光景は、当時では日常茶飯事だった。猪喰には一片の感傷もない。
家を出た時長の影は肩を張っていた。明日から軍団に入り小隊長あたりの地位が与えられる。その意気込みが影に現われている。
猪喰は足音を殺して尾行した。
長の影は数十歩離れた家に向っているらしい。刀も吊《つる》していないのは集落内という安心感のせいだろう。それにしても気が緩んでいた。三十歩ほど歩き長は振り返った。
妻がまだ見送っているかどうかを気にしたらしい。家は闇に包まれ、戸口は僅《わず》かの明りがついているが人影はない。
長の影が止まった。猪喰は地に伏せて息を殺した。
長が止まったのは猪喰の気配に気づいたからではなかった。突然大地に雨が叩《たた》きつけるような音がした。放尿である。量は多く勢いが良い。影が天を仰いだ。淡い月を眺めているようだ。今生の見収めか、と酒のせいで感傷的になっているのかもしれない。
放尿を終えると長は歩きながら歌いはじめた。民謡らしく嫋々《じようじよう》とした歌である。
裸で歩いているのも同じだな、と猪喰は相変らず冷たい眼を長に注いだ。
猪喰は足音を殺したまま足を速め、村長が向っている家の蔭《かげ》に身を潜めた。
村長は歌いながら近づいて来た。月影に浮かぶ影が三歩ほどの距離に迫った時、猪喰は木刀を腹部に突き出した。真剣勝負と同じ鋭い突きである。もし先を丸めていなかったなら、腹部を貫き背骨を折っていたかもしれない。
手応えは充分だった。村長は嘔吐《おうと》するような呻《うめ》き声を洩《も》らし身体を二つに折った。
猪喰は重い村長の身体を担ぎ、雑木林に向った。林は闇の中に黒い塊となっている。
猪喰が合図の口笛を吹くと犬足も返してきた。
一歩一歩と足許を確かめながら雑木林に入った猪喰は村長を下ろした。村長が呻いて身体を動かした。猪喰は村長の口に布を当て声が出ないように巻き、両手も後ろで縛った。その後、腹部に拳《こぶし》を叩きつけて再び動けないようにする。
「長、吾が村長を担ぎます」
「気を遣うな、今は少しでも早く集落から離れねばならぬ、娘が戻らないのに不審を抱いた村長の妻が騒ぎはじめるまで四半刻の余裕はある、その間、できるだけ離れる、さあ行くぞ」
猪喰は再び村長を担いだ。
現在地から南方の三滝川まで約千歩足らずである。三滝川を越えれば朝日の勢力は弱まる。その辺りは現在の四日市市西方の勢力だが猪喰の調査では中立派が多い。倭建軍につくか朝日に味方するか決めかねているのだ。可能な限り戦を避けたいと願っている。
未知の地の闇だがこの辺りは、鈴鹿山脈の土砂によってできた沖積地で殆《ほとん》どが平野である。草原や田畑なので月を頼りに行けば方角が狂うことがない。
それに耳を澄ませば海岸に打ち寄せる波の音が微《かす》かに聞える。
海は東方にあった。
百歩ほど進んだ時、背中の村長が気がつき暴れはじめた。
猪喰は村長を投げ出した。布で口が塞《ふさ》がっているので悲鳴はくぐもっている。犬足も娘を下ろした。
村長は自分の身に何が起こったのか分らない様子だ。起きようとし、腕が後ろ手に縛られているのを知り呻いた。娘は坐り込んだが傍の男子が父であることを知ったらしい。泣きながら村長に身体を投げ出した。
猪喰は刀子《とうす》で口を塞いでいた村長の布を切った。村長に乗りかかり刀子を口中に入れる。
「おい、もう一人は娘だ、分るか、分るなら頷け」
刀子の切っ先は舌の奥を突く。
村長は呻きながら頷いた。
「よし、吾は盗人ではない、朝日の賊の様子を調べるためそちを捕えた、今から南に連れて行く、そこで詳しく訊く、そちが素直に白状すればそち達に危害を加えない、だが嘘をついたり誤魔化すとそちの生命だけではない、娘の生命もない、これは脅しではないぞ」
猪喰の部下が娘の腕を捻《ね》じった。娘は悲鳴をあげた。
「もう少し捻じったなら腕は折れる」
猪喰の声には何の感情も混じっていない。淡々としているだけに村長には不気味だった。
叫びたいのだが、刀子を口中に入れられているので唸《うな》るだけである。
「分ったな、頷け」
村長が頷くのを待って猪喰は刀子を抜いた。
「さあ行くぞ、この辺りならそちの方が道に詳しい、まず海に出る、海岸伝いに南に行く、娘と一緒なのを忘れるな、分ったならはいといえ」
「はい」
と村長は濁った声で答えた。刀子で口中に傷を受けたせいかもしれない。
猪喰の部下は娘の腰紐《こしひも》に綱をかけ、自分の腰紐と結んだ。
「もう一度申す、そちが逃げたなら娘の生命はない」
と猪喰は念を押した。
月はそろそろ満月に近いが、雲が空を覆っているので、月明りは大地の闇に届かない。雲の一部がやや明るくなっている程度である。
東方の波の音は間違いなく聞えている。猪喰は砂浜が南方に続いているのを確認していた。
闇のせいで村長の足は遅かった。
猪喰には村長が何か企《たくら》んでいるような気がしてならない。
素朴そうな感じの村長だが、戦に加わる際は隊長の一人となる。たんなる農民ではないのだ。
そういえば背は低いが肩幅は広く頑丈な身体である。
雑木林の傍まで来た。林はまさに一寸先も見えない闇である。
村長は立ち止まり振り返った。
「どうした?」
村長は顔を上げてくぐもった声を出す。口を布で覆われ、両手は後ろで縛られている。
これでは足が遅くなるのも無理はない。げんに石に足を取られ倒れ、闇の中では見えないほどの小川に落ちていた。
村長は顔を何度も突き出した。
「口の布を取れと申すのだな」
村長は頷く。
「よし喋《しやべ》れるようにする、だが娘が捕まっていることを忘れるな」
と猪喰は念を押した。
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逃 亡
猪喰《いぐい》の一行は雑木林を避けて田畑用の小途《こみち》を通り海の方に向った。
間違いなく、村長《むらおさ》はこのあたりの地理に詳しかった。田畑は三百歩ばかりで|薄ケ原《すすきがはら》になる。村長が薄ケ原に入ろうとするので、猪喰は縄を引いた。
「ここに入るつもりか?」
「はあ、この薄ケ原は海岸の松林にまで続いています」
「しかし、この地形から判断すると薄ケ原の右手、つまり南の方には小川が流れているはずだ、小川といっても幅は数歩ほどある、吾《われ》はそれを渡ってきたぞ」
猪喰がいったのは現在の海蔵《かいぞう》川の支流だった。何度もいっているように当時の海岸線は一里(四キロ)以上も山に近い。
「相当廻り道になります」
「廻り道でも構わぬ、薄ケ原よりもましだ」
「灌木《かんぼく》や熊笹も生えています、足を取られる恐れがございます」
「構わぬ」
村長は俯《うつむ》いたが思い切ったようにいった。
「後ろ手に縛られていると歩きにくうございます、大人しく参りますので、どうか紐《ひも》を……」
村長のいう通りだが、猪喰は拒否した。
海蔵川を渡るまでは敵地といっても良い。油断はできなかった。
珍しく村長は逡巡《しゆんじゆん》している。
「犬足《いぬたり》、油断するなよ、何か匂う」
「はっ、分りました」
猪喰の鋭い声に部下の犬足は縄を握りなおした。
猪喰は村長の腰を蹴《け》った。村長はよろめいた。
「進むのだ、幸い雲が薄くなっている、間もなく月明りが地に届く」
猪喰の決意が固いのを知り仕方なさそうに村長は歩きはじめた。確かに灌木や小石が多く歩きにくい。長年にわたり鈴鹿山脈から流れ出た土砂や石は海を埋めて大地をつくったのだが、海岸よりもこの辺りは荒々しかった。
村長は足許《あしもと》を一歩一歩確かめながら進む。
「蟻《あり》が這《は》うようじゃ、どうした?」
「この辺りの土地には詳しくありません」
「そんなはずはない、まだ朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》の勢力圏じゃ、何か企《たくら》んでいるな」
「とんでもありません」
村長は後ろ手の両手で背を叩《たた》いた。こんな状態では何もできない、と告げているのだ。川の近くまでに村長は三度転倒した。
猪喰さえも転倒こそしなかったが足を取られてよろめいた。
山の手の方で夜鳥が鳴いた。一羽ではなくあちこちの夜鳥が鳴きはじめた。
猪喰は本能的に暗闇に包まれた山の方を眺めた。
身を翻した村長が信じられないほどの勢いで猪喰に体当りした。何時の間にか後ろ手に縛られた紐を解いていたのだ。
猪喰は猪に当られたような気がした。一瞬息が詰まり眼から火花が散った。
村長の娘が待っていたように薄ケ原に跳び込んだ。
犬足も村長の体当りに気を取られ、本能的に手許が緩んだのである。
「娘を追え」
と猪喰は叫ぶのが精一杯だった。
村長が猪喰を上から押え込もうとした時、猪喰は足を撥《は》ね上げた。股間《こかん》には命中しなかったが足先が村長の太腿《ふともも》に喰《く》い込んだ。
村長は呻《うめ》いて横に倒れたが、両手が猪喰の腕を掴《つか》み、信じられないような力で引っ張った。
腕が肩から抜けるほどの痛みに襲われながら猪喰は続け様に足蹴りを繰り出した。何度目かの蹴りが股間の急所を襲った。
村長は呻いて猪喰の手を離した。
猪喰が跳び起きると、村長は転がりながら薄ケ原に逃げ込んだ。
村長が薄を掻《か》き分けて走らなかったのは、急所の痛手から回復していないからである。
猪喰は追おうとしたが立ち止まった。腕の付け根が焼かれるように痛む。それに村長は薄ケ原に潜み、急所の回復を待ちながら猪喰の攻撃に備えているのだ。
うかつに薄ケ原に跳び込めば猪喰の方が不利になる。
猪喰は片膝《かたひざ》を立てて坐《すわ》り、呼吸を止めた。左腕をゆっくり廻した。十数本の針が打ち込まれたような激痛が走った。明らかに肩の付け根の腕の骨が離れかけていた。
猪喰は左|肘《ひじ》を曲げると、気合を発し肘を叩いた。脳裡《のうり》を白光が裂き眼が眩《くら》んだが、上腕部の骨はぐきっという衝撃と共に肩におさまった。
猪喰は何度も深呼吸をし、汗塗《あせまみ》れの顔を上衣の袖《そで》で拭《ふ》いた。眼に汗が沁《し》みて痛む。
犬足が村長の娘さえ捕まえてくれれば問題はない。
だが薄ケ原は静寂そのものだ。娘も暗闇に身を隠しているのであろう。犬足も今の自分のように相手を窺《うかが》っているに違いない。
実直そうな村長だったので甘く見過ぎた。猪喰らしくない失敗である。
たとえ斬り殺しても村長は逃すことはできなかった。
村長の報告を受けた朝日雷郎は、警戒を厳重にするに違いない。間者がさぐっているなど考えてもいないから色々と情報を集めやすいのだ。
猪喰は刀子《とうす》を抜いて地に横たわり耳を当てた。二人の間は十歩も離れていないのに村長の気配は感じられない。
どうやら波の音に合わせて呼吸をしているらしい。
村長だから狩猟に関して達人かもしれなかった。
狩猟の達人は、獣に近づく際呼吸を断つといわれている。それは武術にも通じるものがある。
おそらく山の手の方で聞えた夜鳥の声は、村長を探している部下であろう。
だが村長は合図を返していない。その余裕がないからである。
もし部下達が同じ合図を放ったなら、隠れている村長は応じるだろうか。
応じまい、と猪喰は想像した。潜んでいる場所を知られるからである。
村長は猪喰の武術の腕を知っている。容易ならぬ達人と判断しているに違いない。村長にとって有利なのは場所を知られていないことにある。彼は武器も持っていなかった。
案の定、夜鳥の声がした。さっきよりも少し近づいている。追手は海岸の方に来ている。
追手との距離は約四、五百歩である。次第に近づいてきている。猪喰としてはこのままじっとしているわけにはゆかない。
村長も取るべき行動は二通りしかなかった。猪喰に奇襲をかけるか、逃げるかだ。
猪喰は刀子を自由に使えるように柔らかく持った。場合によっては刀子を投げねばならない。
猪喰はゆっくり二歩進んだ。どんなに音を殺しても草の音は消せない。
村長《むらおさ》も逃げた気配はなかった。となると薄ケ原に転がり込んだ場所から動いていないということになる。
三歩、四歩と進む。薄ケ原まで後四、五歩だ。月が厚い雲に入り闇の塊のような薄の群れが消えた。
まさに、ぬばたまの闇で何も見えない。
村長は奇襲に出るだろう、と猪喰は思った。草を踏む足音で猪喰の存在が分るからだ。
奴は武器がない、と猪喰は自分にいい聞かせゆっくり刀子を振った。更に二歩進んだ。突然すぐ前から夜鳥の呼び声がした。
猪喰が刀子を突き出して突っ込むのと、村長が横に転がったのとほぼ同時だった。
刀子は村長の腰のあたりを掠《かす》めて土中に刺さる。
村長には猪喰を攻撃する余裕はなかった。猪喰に場所を知られることを覚悟してまで合図を返したのは、逃げるためだった。
猪喰の攻撃は追手にまかせよう、と決めたからである。
猪喰は懸命に追った。音で前を逃げる相手を追うだけだ。手の届く範囲だがなかなか捕えられない。
猪喰は刀子を投げるべく手を上げた。まるで背中に眼がついているように相手は伏せた。
猪喰の刀子は相手の頭上を掠め、闇に吸い込まれた。
それだけではない。はずみのついた猪喰の足が伏せた相手に引っ掛かり、猪喰は薄の群れに投げ出された。
身体を丸め、一回転して立ち上がった。村長が立ったのとほぼ同時だった。
百歩ほど離れた場所で女人の悲鳴がした。犬足が捕えたのだ。
ほんの一瞬だが村長の身体が硬直した。猪喰はそれを逃さなかった。睨《にら》み合うとまずいので股間に足蹴りを飛ばした。
村長は身を躱《かわ》せずに頑丈な太腿《ふともも》で受けた。猪喰の蹴りには棒で擲《う》ったような力がある。村長がよろめく。猪喰は息をつかせず二の蹴りを放った。太腿の内側に喰い込んだ。
村長は腰を捻《ひね》りながら頭突きに出た。だがそれには最初ほどの威力がない。
猪喰は気持だけ身体を引くや手刀を村長の頭部に振りおろした。苔《こけ》の生えた石を擲ったような手応えがあった。
村長は頭から倒れた。失神したらしく動かない。
猪喰は村長の腰紐を解き、再び後ろ手に結んだ。さきの失敗を繰り返さないように厳重に巻いた。
口笛が鳴った。犬足の合図である。猪喰も口笛で返した。
何度か合図を交換した後、犬足は口を布で覆った娘を連れてきた。
「長、申し訳ありません、油断していました」
「こちらも同じだ、追手が迫っている、全く油断ができぬぞ、農耕よりも狩猟が得意のようじゃ、厳重に縛れ」
娘の上衣は破れ、肩が剥《む》き出していた。
雲から月が出て娘の肌を蒼白《あおじろ》く照らし出した。月影に濡《ぬ》れたような肌である。乳房の膨らみが半分はみ出していた。
猪喰は仰向けにした村長の胸部を軽く手刀で打つ。
村長は大きな息をついて眼を開けた。その口を素早く布で覆う。
村長の腹部に足を載せて猪喰はいった。
「不届きな奴《やつこ》じゃ、そちは自分が犯した過《あやま》ちを悔いねばならぬ、犬足、娘を連れてこい」
猪喰は刀子を握りなおすと闇を裂いた。娘が異様な声をあげた。猪喰は娘の上衣に手をかけると無造作に引っ張る。音も立てずに上衣の半分が剥《は》がれた。月影に濡れたほの白い肌は、闇の中に浮いているように見えた。
「奴、よく見ろ」
猪喰は骨に罅《ひび》が入るほどの力で村長の胸を蹴ると、掌一杯の薄を引き抜き縄のようによじった。
「犬足、倒れぬように娘を抱け」
猪喰の腕が闇に踊った。薄の縄が乾いた音を立てて娘の背中に喰い込んだ。苦痛の呻《うめ》きが覆った布から洩《も》れ、娘は身体を振り縄から逃れようとする。だが犬足が前から抱き締めているので逃げられない。
猪喰は容赦しなかった。村長への憤りを娘に叩《たた》きつけているようである。月が雲に入り白い肌を隠したが猪喰の処罰はやまない。枯れた薄ではない。指が触れれば傷がつきかねない程の鋭い刃を持っている。
想像以上の苦痛に娘は失神した。その拍子に尿を漏らす。
村長は身体を揺さぶって唸《うな》った。
「二度と裏切らぬな、どうだ?」
村長は頷《うなず》く。猪喰は口を塞《ふさ》いでいた布を外した。
「裏切りませぬ」
「今度裏切ったなら、そちの前で娘を嬲《なぶ》り殺しにするぞ、分ったか?」
「はい、奴《やつこ》が悪うございました」
「よし、娘の眼を覚まさせよ」
「はっ」
犬足は数え切れない傷がつき、血が滲《にじ》み出ている背中を五本の指先で引っ掻いた。痛みが脳を刺激し、娘は意識を取り戻した。呻いた後初めて泣き声を洩《も》らした。
猪喰は腰紐《こしひも》につけていた予備の布を広げ娘の上半身を覆った。
村長が叩頭《こうとう》し鼻をすすった。
「有難うございます」
「おう、そちの娘が憎くて傷つけたのではない、何事もそちの口を割らせるためじゃ、よし、薄ケ原を突っ切り海に行く、ただ追手に掴《つか》まれば、二人の生命はないぞ、覚悟しているな」
「はい」
「よし、参るぞ」
猪喰は村長を先に歩かせた。村長の反抗心が消えたことを猪喰は感じていた。
だが犬足には、
「奴が逃げたなら、娘を殺せ」
と村長に聞えるようにいった。
想像以上に広い薄ケ原だった。月は何度か雲に入った。
松林に着くまで約|四半刻《しはんとき》(三十分)ほどかかった。
その間に二度ほど夜鳥の声がした。近づいていたその声が遠くになったのは、薄ケ原に入らず南に向ったからであろう。
ひとまず危機は去った。
昼見れば素晴らしい松林だが、夜は変哲もない闇だった。ただ月が出ると砂浜に黒い幕が張られているように見える。
「ひと休みだ、奴よ、娘に海につかるようにいえ、痛むが傷のために良い」
猪喰の言葉に頷いた村長は、娘に海に入るように命じた。波はかなり強く波頭を光らせながら打ち寄せていた。
父の血を受けているらしく勝気な娘も、猪喰の責めに反抗心を失っている。
それよりも猪喰が裸身にかけた一枚の布が娘の敵意を和らげたのかもしれない。
娘は全裸になり海に入った。波が傷を洗い思わず苦痛の悲鳴を洩らした。だがその後は口を閉ざした。
「美しく芯《しん》が強い、素晴らしい娘だ、そちはもう少しであの娘をぼろぼろにするところだったぞ、いいか奴、そちが素直に吾の問いに答えたなら、娘をあれ以上責めないし、生命も保証する、男子《おのこ》の約束じゃ」
「はい」
村長は肩を慄《ふる》わせて項垂《うなだ》れた。
「そちは村の長じゃ、吾が申すことは理解できるであろう、王子様は何も朝日の者達を攻めるために来たのではない、倭《わ》国が纏《まと》まらなければ、時の流れに逆らうことになる、そういう時代になったので東の諸国に三輪の王朝の意向を知らせに参ったのだ、ところが朝日雷郎は何を勘違いしたのか、不届きにも王子様の不意をつくべく軍を集めた、これでは王子様としても朝日雷郎を叩《たた》かねばならない、攻められれば反撃するのは当り前だからのう、違うか?」
「はあ、ただ奴達の王は、大和の軍が攻めてくると申されましたが……」
「それは嘘だ、王子様の軍は鈴鹿方面から海を渡り、尾張に寄ることになっている、このことは当然、尾張に伝えられているはずだ、それとも尾張と朝日雷郎は手を取り合って、王子様と戦おうとしているのか」
「それは耳にしておりませぬ、ただ奴達は大和の軍に攻められると聞きました」
「馬鹿な、戦うための口実じゃ、ところでそちの武術は何処で覚えた?」
「はっ、奴達は鈴鹿の山々で獣を獲《と》ります、時には猪や熊に襲われ格闘せねばなりません、奴達はそういう危険に備え、武術に励んでいる次第です」
「矢張りそうか、だが朝日の者達にも農耕に励む者もいるであろう」
「深い山に入り獣を獲る者は奴達を含めて僅《わず》かでございます、殆《ほとん》どの者は海で魚や貝を獲り、また田畑を耕しております」
「そうか、となると夜鳥の声もそち達だけの合図か」
「はい、深い山ではぐれないための合図でございます、鳥の声は獣を安心させますので……」
「よく分った、さあ行くぞ、娘の衣服は後で調達する、この闇だ、吾が渡した布を腰に巻いて歩くように申せ」
村長は砂浜で蹲《うずくま》った娘に猪喰の意を伝えた。
娘は猪喰の刀子《とうす》で切られ、血と尿で汚れた衣服を海水で洗っている。
村長がうながしているにも拘《かかわ》らず立とうとしない。女人の衣服への執着は男子よりもずっと強い。
「行くぞ、早くせよ」
猪喰の声は鋭かった。娘は恐怖心に怯《おび》え本能的に立った。濡《ぬ》れた衣服を絞り肩に載せたが悲鳴をあげて手に持ちなおす。衣服が背中の傷に触れたようだ。
「早く」
猪喰の叱咤《しつた》に歩きはじめた。
途中で海に突き出た高台もあったが殆どが砂浜である。
海に沿って進むので、月が雲に入っても方角を誤ることはなかった。
三滝川まで約一里の距離を、半刻(一時間)ほどで進めたのも、砂浜のおかげだった。
猪喰は犬足に命じて舟を探させた。川口に近く川幅は広い。川を渡るには舟以外にない。猪喰の予想通り、川岸のあちこちに舟があった。
渡し舟というよりも漁舟である。
追手の合図も聞えない。だが猪喰は安心しなかった。追手は村長の合図を聞いている。当然、薄ケ原の傍まで来る。
問題はそこで海岸に出るか、薄ケ原沿いに南に進むか、であった。
何人の追手か見当はつかないが、二手に分かれ、一手は海岸に出て自分達の後を追ってくる、と考えるべきである。
杭《くい》に繋《つな》がれている舟は小さく、二人乗りだった。大きな船は船着場にあるのであろう。小さな舟でも四人乗れないことはないが、丸木舟なので危険だった。
猪喰は村長に自分の考えを告げた。
「二手に分かれたとして、海岸を追ってくるのは何人だ?」
嘘は許さぬぞ、と猪喰は眼だけが僅かに光って見える村長を睨《にら》んだ。
村長は小首をかしげた。一瞬、どのように返答しようか、と迷ったらしい。
「追手の総数は?」
と猪喰は土を蹴《け》った。
この川さえ渡れば朝日雷郎の勢力圏外である。
後一息だった。気を緩めるよりも猪喰の緊張度は強くなっていた。
「はあ、数名か、十名前後です」
「となると海岸を追ってくるのは三名から五名だな」
猪喰は耳を澄ませたが足音は聞えなかった。だが波の音で足音を消せないことはない。
「よし一|艘《そう》に四名乗る、だが川を渡るのは夜が白みはじめてからじゃ、それまで葦《あし》の中に潜んでいよう、奴《やつこ》、今一度口を塞《ふさ》ぐぞ」
村長は気持を隠すように視線を落した。猪喰の言葉に、追手がここまで来たとしても無駄と気落ちしたのかもしれない。
川岸に生えている葦の中に入ると、小舟の姿は完全に隠れてしまう。
犬足は川を渡りたくても意見はいわなかった。まさに無私の心で猪喰に仕えていた。
追手らしい気配が川岸に感じられたのは、四半刻ほどたってからである。人数は分らないが猪喰が予想した通り、三名から五名といったところであろう。
何か話しているが声が低いので内容は聞き取れない。
間もなく追手らしい一団は川沿いに上流の方に移動をはじめた。
川を渡るには幅の広い川口よりも上流の方が良い。猪喰が川口に潜んだのはその逆を突いたのだった。
「長、お眠り下さい、夜が深まると冷え込みがきつくなります」
「うむ、二刻ほど眠る、朝日の奴よ、そち達も眠った方が良いぞ、知っていることを素直に語れば痛めつけたりはしない、勿論《もちろん》生命は保証する、絶対じゃ」
村長は慄《ふる》えている娘の方に顔をやった。大きく頷《うなず》く。素直に喋《しやべ》るから娘だけは殺さないで欲しい、といっているのだ。
「男子の誓いじゃ、安心しろ」
猪喰は眼を閉じると舷側《げんそく》に寄りかかった。
十呼吸もしないうちに猪喰は眠っていた。
猪喰は村長親娘を連れ朝餉《あさげ》の時刻には、犬《いぬ》牙きばが待っている隠れ家に到着した。
竪穴《たてあな》式の農家で、高価な絹布を渡し十日ほど借りたのである。
三滝川から二里(八キロ)ほど南方の台地にあった。集落の外れにあり、あまり人目に立たない。この辺りの住人は朝日雷郎に反感を抱いていた。雷郎は絶えず南へ南へと勢力を伸ばそうとしており、住民達は安心できない。
三輪の王朝は、当時はまだ伊勢国さえも完全におさめ切っていなかった。
倭建《やまとたける》の軍が朝日雷郎を滅ぼすことを願っていた。
朝日雷郎が倭建軍を攻撃しようとしたのも、住人達の願望が声となり雷郎に伝わったのかもしれない。
となると朝日雷郎が攻められるまでに攻めようと戦闘準備にかかったのも無理はない。
犬牙は周辺の情報を蒐集《しゆうしゆう》していた。
在地の住民の不安感は、倭建の軍が、男子や食糧をどのぐらい徴発するかにあった。
伊勢の沿岸の住民、ことに海人達はオシロワケ王の命令で約五十艘の船を造っていた。兵士を輸送するための船なので、海を航行する準構造船である。舳先《へさき》に波除けをつけ、舷側を補強している。十数人が乗れる船だ。
勿論、オシロワケ王は海人達に、報酬として絹布や飾り物などを与えていた。
三輪の王権といっても、報酬なしで伊勢国の海人を使える力はない。
ただワタリメを王妃として差し出している度逢《わたらい》氏は、配下の海人を働かせている。
この場合は、報酬を出すのはオシロワケ王ではなく度逢氏であった。
その代りにワタリメの発言力は強まる。
猪喰は犬牙に、得ている情報を倭建に伝えるように命じた。
「王子様はまだ、在地の住民の不安を御存知ない、早くお知らせせねばならぬ」
犬牙はただちに鈴鹿川の上流(現在の関町)に駐屯している倭建の許《もと》に走った。
猪喰は村長の娘のために衣服を調《ととの》えてやった。
背中が蚯蚓脹《みみずば》れになった娘は、寝る時は俯《うつぶ》せにならねばならない状態だった。
この種の傷に効くといわれている薬草の粉が塗られ、傷の手当には万全を尽した。
できるだけ村長の気持をほぐさねばならない。
村長は娘の生命の保証を確認すると、初めて朝日雷郎の動員計画を話した。
驚いたことに村長は軍の小隊長ではなく、大隊長級の権限を与えられていた。
狩猟の腕が武術の腕に繋がっているからである。
村長の集落は約百人だが、戦闘に参加する者は二十名を超えていた。だが村長が掌握する兵は、他の集落の兵も加えると百人を超える予定だった。
しかも村長の長女は雷郎の妻の一人になり子を産んでいた。
猪喰に不意を襲われ捕虜になった村長が懸命に反抗した理由が理解できた。追手の執拗《しつよう》さや的を射た追跡も納得された。
朝日雷郎の軍は約三百人だが、戦が始まると百人の海人が約十艘の船で鈴鹿川の川口に集結している王子軍の船を焼き、上陸して王子軍の背後から攻める作戦のようだった。
「朝日軍は何処で戦う予定だ?」
「そこまでは聞いておりません、奴《やつこ》の想像では三滝川沿いに布陣するのではないかと思います、しかし想像ですので……」
外れた場合はお許し下さい、と村長は叩頭《こうとう》した。
「三滝川か、だが上流の丘陵地帯だな、上流になると川幅が狭く、徒歩で渡れる、地理不案内の王子様の軍が進んできたところを一挙に叩《たた》く作戦であろう」
「奴ならそういう作戦を立てます」
「陸の兵は二百人か、朝日雷郎は王子様の兵力を知らない、平地での戦は避けるであろう、もし王子様の軍が、三滝川の中流地域を進んだなら、高台から攻め下りることになる、王子様には不利だ」
猪喰は村長の表情を窺《うかが》ったが、動揺はなかった。
娘の生命を救うために、裏切る覚悟を決めているのかもしれない。
「奴に今一度|訊《き》く、朝日の海人が王子様の船を焼く作戦は本当か?」
「奴はそう聞いております」
「もしその作戦が行なわれなかったなら、そちは嘘をついたことになる」
猪喰の言葉に村長は睨《にら》み返すように眼を光らせた。
「嘘ではございません、奴の知っていることをすべてお話ししたのです、ただ、奴が消えた以上、朝日の王は、奴が王子様に捕まったと疑いましょう、娘も同じ運命にあると……奴一人ならどんなに責められても口は閉じたままですが、娘も一緒となると、奴が口を割ることも当然王は考えられる、奴が知っている作戦を変更する可能性がないとはいえないでしょう、奴は嘘をついておりません」
猪喰は腕を組んだ。
村長の返答には理があるし、その声は娘を思い必死であった。
これ以上、嘘ではないか? と訊いても返答は同じに違いなかった。
「分った、今一つ訊こう、そちの長女は雷郎の妻になっていると申したが、雷郎は何故、小集落の長の娘を妻にしたのか、そち達が兵力になると計算したせいか?」
「それは……」
「そちはもう何も隠せないのだ、娘のためとはいえ朝日雷郎を裏切ったのだ、そちが何かを隠せば、そちの報告はまやかしに違いない、と吾は疑う、娘の生命も保証はせぬ、さあ、話せ」
村長は唇を噛《か》んで俯《うつむ》いた。
猪喰は舌打ちし吐息をついた。
「また娘を責めるか、今度は背中ではなく胸じゃ、あの美しくまろやかな胸の膨らみも傷だらけになり、血に塗れる、気にそまぬが吾は責めねばならぬ」
猪喰はゆっくりと立った。
「話します、すべてを話します故、お許し下さい、ただこの話は兵力とは関係ございませんが」
「構わぬ、どう判断するかは吾じゃ」
「一番上の娘が十五歳の時でした」
覚悟を決めたらしく村長は話しはじめた。
十年近く前だった。朝日雷郎は勇猛で狩猟を好む男子《おのこ》である。
村長の一族に山の案内を命じた。村長と一族は雷郎と山に入り、大きな熊と猪や鹿を獲《と》った。
その夕、雷郎は村長の家で酒宴をもよおした。村長は十八歳になる新しい妻を伽《とぎ》の女人にしたが、雷郎は村長の娘に眼をつけた。
村長の娘には婚約者がいた。隣村の長の長子だった。当然二人は深い関係に入っており、村長の娘は婚姻を祝う酒宴を待ち望んでいた。
だが雷郎は娘でなければならぬ、と村長が幾ら頭を下げても諾《き》かない。
村長の娘は一夜の伽の女人となったが、雷郎は娘を気に入り、そのまま連れ帰り妻にしたのだ。
娘は雷郎の子を産んだので、村長は雷郎の縁戚《えんせき》者となり、色々な面で優遇されることになった。雷郎が村長を信用しているのは、そういうところにあった。
「よくある話だのう、問題は娘を奪われた隣村の男子じゃ、黙って諦《あきら》めたか……」
「気骨のある男子でございましたが、それが災いし村を出、山に籠《こも》り盗賊になり果てました」
「盗賊、それは面白い、当然、雷郎を憎んでおるであろう、部下は何人ぐらいだ?」
「十数人ということです、だが旅人を襲う盗賊です、事情は何であれ、許せません」
「そちも恨まれているのではないか、何故、娘を逃がさなかったかと……」
「それは逆恨みと申すものでございましょう、雷郎様は朝日の王です、命令には従わねばなりません、奴は立身出世を望んで娘を伽の女人にしたのではございませぬ」
村長は顔を上げた。声が慄《ふる》えているのは当時の思いが甦《よみがえ》ったせいかもしれない。
猪喰には村長が話したがらなかった気持がよく理解できた。
村長には思い出したくない出来事なのである。
と同時に猪喰が盗賊に眼をつけることを恐れたのかもしれない。
「雷郎は、そち達には王かもしれないが、王子様にとっては、盗賊と同じようなものだ、しかしよく話した、その盗賊には、どうすれば会える?」
「何度か、討伐に行ったようでございますが、深い山のあちこちに隠れ家を持ち、逃げ廻りますので、征伐できないようです」
「どうすれば会えるか、と訊いておるのだ、そちなら会えるはずだ」
「はあ」
「隠し事は許さぬぞ」
「はあ、奴は隠れ家の一つを知っています、そのことは王にも知らせていません」
「当然であろう、知らせたりはしないから、そちは人間として信頼できるのだ」
と猪喰はいい、初めて白い歯を見せた。
月影が初めて照らした猪喰の笑みを、村長はどう受け取めたのか。
村長は叩頭した。
猪喰は犬足に、娘の介抱と警護を命じ、村長を連れて倭建の陣営に向った。
昨夜から今夜にかけて僅《わず》かしか眠っていないが、今の猪喰には眠る暇などなかった。
陣営まで六里(二四キロ)以上ある。後ろ手に結んでいた村長の手は前で結んだ。その方が歩きやすいからだ。
南に進み、鈴鹿川に出た時は流石《さすが》にほっとした。川沿いに西に進めば、倭建の陣営に出る。川岸の草叢《くさむら》で一休みすることにした。
竹筒の水を村長に飲ませた。水に飢えていた村長は喉《のど》を鳴らして飲む。
村長は大きく息を吐いた。
「そちを信頼した以上、紐《ひも》を解いてやりたいが、それはできぬ、分るか」
「当然でございましょう、奴《やつこ》にもよく分ります、それにしても王子様は、敵にしては恐ろしい部下をお持ちです」
「吾よりも、もっと優れた部下がいる、王子様は、勇者がお仕えしたくなるようなお方なのだ」
二人の会話の内容はこれまでと全く違っていた。人間として通い合うものが生まれたせいである。
「長は大和のお方でございましょうか、いや、無礼なことをお訊きしました、調子に乗り過ぎたようです」
「なあに気にするな、大和の者とは訛《なまり》が違うからのう、吾は北の海に面した丹波国で生まれた、だが王子様にお会いし、仕えたいと思った、それまで王子様以外に、そういう気持になったお方はいない、多分そちには分らぬであろう、今の吾は王子様のために働くことが生甲斐《いきがい》なのだ、ただそれだけじゃ」
「はあ、丹波は強い力を持った国と聞いています」
どうやら村長は、何故丹波の王に仕えないのか、と訊いているようである。
「強い国じゃ、色々なことがあって吾は国を出た、吾の主君は王子様じゃ、さあ行くか」
といって猪喰は立った。
猪喰が村長と共に倭建の陣営に着いたのは、昼頃だった。
猪喰は村長を陣営内の小屋に置き倭建と会った。
猪喰の報告を受けた倭建は低く唸《うな》った。
大隊長級の村長を捕え連行したとは大変な功績である。
殆《ほとん》ど二晩も眠っていないので猪喰の頬はこけ、眼は血走っていた。声も酷《ひど》い風邪に罹《かか》ったように掠《かす》れている。
「一眠りせよ、急ぐことはない」
「奴は今宵《こよい》ゆっくり眠ります、それとお願いがございますが」
「何なりと申せ」
「村長が知っていることをすべて告げましたのは、奴が捕えた娘の身を思ってのことです、でき得れば娘の身が安全であることをお告げいただければ幸甚です、朝日雷郎を憎んでいる盗賊を捕える際も懸命になりましょう」
「分った、吾の口から申そう、今でも良い、ここに連れて参れ」
「ここでございますか」
「戦の場だ、高座など不必要じゃ」
と倭建は猪喰の胸中を見抜いていった。
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闇の攻撃
翌日、倭建《やまとたける》の軍は東に移動し、後の鈴鹿の関に布陣した。
在地の山人族が道案内人となり、鈴鹿の難所を通り抜けたのである。
鈴鹿山系は関から北方に向け三百丈(九〇〇メートル)から四百丈級の険阻な山が連なっている。途中で養老山系と対峙《たいじ》し関ケ原まで達する。
人跡未踏の峻険《しゆんけん》な山々が多い。こういう山に逃げ込まれると、討伐は無理である。
捕まえる方法は、賊が食糧を求めて山を下り村を襲う時だが、何時、何処に現われるか分らないので、村長《むらおさ》程度の力ではどうしようもない。
村の中には賊が現われると、食糧や女人を差し出すことによって安全を保とうとする村もあった。
倭建は猪喰《いぐい》に十人の兵を授け、山に入る村長の大鳥《おおとり》と連絡させることにした。
明らかに猪喰は村長の信頼を得ていた。しかも娘が人質になっている。
村長が裏切ることはまずない、と倭建は判断した。
「王子、山賊が見つかるまで待たれるわけですか……」
吉備武彦《きびのたけひこ》や大伴武日《おおとものたけひ》は不安がった。
日がたつうちに朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》が、軍を編制し、防備を強化して攻撃してくることに危惧《きぐ》の念を抱いたのである。
「なあに、東国は広くて遠い、急ぐことはない、もう三日ほど待て」
倭建は、狩りを愉《たの》しむような表情である。
武彦や武日は、倭建が前よりも一段と大きくなったような気がした。
兵は尾根の端や丘の上に布陣し、敵が現われたなら何処からでも攻撃できるような態勢をとった。
村長が山賊の頭である大裂《おおさき》と接触したのは二日目だった。
大裂は、朝日雷郎が降服したら、戦利品の一部と奪われた雷郎の妻を貰《もら》いたいという条件を出した。
猪喰は倭建にそれを伝えた。
「山賊の頭は、この条件が入れられたなら雷郎の屋形の近くまで道案内人になると申しております」
倭建は武彦、武日、それに久米七掬脛《くめのななつかはぎ》に山賊の頭の条件を告げた。
「そち達の意見を遠慮なく述べよ」
倭建の表情は活々《いきいき》としている。
熊襲《くまそ》征討に従軍した武彦と七掬脛は、その表情で倭建の胸中が読めた。
倭建は条件を呑《の》むつもりでいるのだ。
「王子は遠慮は無用と申されているぞ」
と武彦は顎《あご》をしゃくった。武日が緊張の面持ちでいった。
「王子、山賊が条件を出すなど気に入りません、山賊は奴《やつこ》以下でございます」
七掬脛が顎鬚《あごひげ》を撫《な》でた。実戦を知らないな、と七掬脛はいっている。
倭建は穏やかな口調でいった。
「武日よ、そちの気持は分る、だがのう、時には山賊も百人の兵に匹敵する場合があるのだ、こちらは兵が少ない、大事なことは朝日雷郎を叩《たた》き、尾張以東の国々に、吾《われ》の武勇を知らせることにある、そういう意味では大きな意味を持った戦ということになる、大勝すればこれからの旅は楽になるのだ、だが苦戦すれば苦難の旅となる、この戦の様子はあっという間に東国に拡がり、毛野《けぬ》国まで達するのだぞ、戦では差別がない、敵よりも吾に協力する賊の方が大事じゃ」
倭建は最後の言葉が気に入ったのか白い歯を見せた。
「王子、分りました、やつかれは小事にこだわっていたようです」
「うむ、分れば良い、問題は山賊が裏切るかどうかだが、吾は猪喰が捕えた村長を信じる、それに山賊はなかなかの熱血漢で頭も良さそうだ、条件に絹布や武器などを要求するかと思ったが、戦利品を戴《いただ》きたいと申しおった、愉快な男子《おのこ》じゃ、雷郎を憎み続けておるのだろう、当然じゃ、権力を笠《かさ》に、他人の女人を奪うなど絶対許されぬ行為じゃ、それだけでも雷郎は叩かねばならぬ」
穏やかだった倭建の顔が引き締まった。眉《まゆ》が吊《つ》り上がり、頬が赧《あか》らむ。その声は石を叩き割るようだ。
猪喰が現われた。
「おう、この席で申せ」
「王子様、部下の報告によりますと、約三百名の朝日軍が三滝川の北に集結しているとのことでございます」
「賊め、来たのう、問題は川を越えて攻めてくるかどうかじゃ、賊も我軍がここに布陣していることは知っておろう、ここは賊の勢力圏ではない、うかつには攻めてくるまい、といって、何時までもここにいるわけにはゆかぬ、この辺りには雷郎に反感を抱いている勢力が多い、百人近く動員できるのではないか、動員でき次第、夜陰に乗じて三滝川の南方に布陣する、その数は動員兵を含め三百人じゃ、吾が軍の指揮を執る、大伴武日は副将軍として吾と共に参れ」
「はっ、力一杯戦います」
感嘆した武日は拳《こぶし》を握った。
倭建の部下の中でも武日は端整な容貌《ようぼう》の男子だった。如何《いか》にも大伴氏の貴公子といった感じである。
武術に優れ、勇気もあるのだが、亡くなった葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》は、
「おぬしはまだ尻《しり》が青い」
とからかっていた。
その度に武日は顔を赧らめ、むきになって弁解した。
確かに武日は生真面目過ぎて人間の幅に欠ける。
倭建は、武日が実戦の体験により、器が大きくなることを期待していた。
倭建は武彦に眼を向けた。二人の眼が合った時、武彦は自分の任務を悟ったようだ。
倭建は軽く頷《うなず》いていった。
「武彦、そちは猪喰と共に山賊の案内で朝日雷郎の屋形を襲う、雷郎は多分三滝川に布陣した主力軍を指揮している、屋形には女人と子供しかいない、だが屋形を占拠し一族を捕虜にすることは、朝日の本拠を制圧したことになる、そちの奇襲が成功すれば、戦わずして三滝川の主力軍は崩れる、分るか」
「王子、よく分ります」
「よし、そちは吉備から率いてきた兵士のうち、半数を連れて行け、山賊、大裂とその部下は猪喰に掌握させる、早朝出発せよ、猪喰、村長は信頼できると思うが油断はするな」
「心得ました」
と猪喰は低い声で答えた。
「王子様、やつかれは……」
と七掬脛は不服そうに訊《き》いた。
七掬脛は倭建の料理長になっているが、眼の周りに入墨をした久米(来目)氏は勇猛な山人族だった。
戦となれば武器を手に戦いたいのだ。七掬脛の体内には武勇の血が滾《たぎ》っている。
熊襲征討に際しても、おおいに活躍した。
「七掬脛よ、そちは吾の傍にいて警護にあたれ、大事な任務だぞ」
「はっ、大任でございます」
七掬脛は嬉《うれ》しそうにいった。
夕餉《ゆうげ》の後、倭建は武彦を呼んだ。
「武彦よ、吾がそちを奇襲の長に任じたのは、そちが実戦を経験しているからじゃ、そちは痛いほど知っていると思うが、戦わずして勝利を得る、これこそ最も貴重な勝利といえる、吾と武日は三滝川に向うが、そちの奇襲が成功すれば、崩れる賊を追いながら、勝鬨《かちどき》だけをあげておれば大勝ということになる、旨《うま》く行けば我軍は無傷で大勝を得られるというわけだ」
「王子、大任を与えていただき、闘志に溢《あふ》れております、王子の眼と合った時、王子の胸中を知り胸が慄《ふる》えました、王子の御期待に添うべく全力をあげます」
「おう、流石《さすが》は艱難《かんなん》を共にした武彦だ、女人、子供は捕えよと申したが、抵抗する者は斬れ」
「分りました」
「今宵《こよい》は熟睡じゃ」
と倭建は欠伸《あくび》をしてみせた。
倭建が武彦を呼んだのは、与えられた任務が如何に大事であるかを説くためだったが、武彦は充分に承知していた。
実戦の経験のない武日は、武彦の任務が自分よりも重要であることに気づいていなかった。
倭建と共に敵の主力軍と戦えると燃えているのだ。倭建は部下達を信頼し、部下達も倭建に忠誠を誓っているが、それに慣れてはならないことを倭建は知っていた。
大将軍として倭建は、部下達の気持を一層燃やさねばならないのだ。
それでこそ、気の遠くなるほどの長い東征を成功に導くことができるのである。
翌朝、一番鶏と共に起きた倭建の一行は、夜明けと共に朝餉《あさげ》を済ませ、三滝川に向けて出発した。
吉備武彦と猪喰は朝日の村長《むらおさ》を伴い、七十数名の兵を率いて夜が明けるまでに進んでいた。
朝餉は焼飯を齧《か》じり、竹筒の水を飲むだけである。
兵士達は任務の内容を知らないが、別働隊として先発した以上、重要な作戦であることを感じていた。
山人族の道案内人が鈴鹿山系の山麓《さんろく》伝いに高さ四百丈(一二〇〇メートル)に近い鎌ケ岳に向った。
道案内人は鈴鹿山系に入っては、猪、大鹿、また時には熊などを獲《と》るが、山に入ると十日ぐらい戻らないことが多い、という。その道案内人も鎌ケ岳の中腹以上は登ったことがなかった。
村長の話では、大裂は、鎌ケ岳の南にそそり立つ三百丈の入道ケ岳とその南の野登山の間に重要な拠点を持っていた。
鈴鹿川の支流、御幣《おんべ》川は両山が対峙《たいじ》した渓谷を東に流れている。現在の小岐須《おぎす》峡である。
「猪喰よ、宇沙《うさ》の賊と初めて戦った時の興奮を思い出すのう、だが今回は、おぬしが村長を捕まえ、山賊を味方につけたので大助かりだ、実際おぬしの功績は大きい」
「武彦殿、まだ奇襲は成功しておりませぬ、大事なのは結果ですぞ、山賊が何処まで我等に協力するか不安です」
「確かに山賊次第という不安もある、だが、山賊が協力をこばんでも、村長が案内するだろう、村長は娘を人質に取られているし、王子の器には感動したようだからのう」
「しかし、長女が雷郎の妻になっている、完全に信頼はできぬ」
「相変らず警戒心が強いのう、だがその警戒心が、小倉の海岸で海を潜って来た鰐《わに》のような曲者《くせもの》を見破ったのだ、おぬしは一体、何時気を休めるのだ、眠っている時か……」
猪喰はそれには答えず口許《くちもと》に暗い微笑を浮かべた。
猪喰の眼が光った。
村長が渓谷に近い山村を睨《にら》んでいた。
「武彦殿、兵を」
「おう」
武彦は掌を後ろに向けて手を挙げた。兵達が止まる。
猪喰は村長の傍に寄った。
「何か合図があったのか?」
「川沿いの林が光ったように思えました」
「鏡の光か」
「多分、一度合図の矢をお願いします」
猪喰が武彦に伝えると矢尻に白い布を巻いた矢が空中に放たれた。矢は風に流され林の手前に落ちた。
それを合図のように林から矢が放たれた。同じように白い布が巻かれていた。
「間違いありません、ただ大裂は一人で来いと申しております」
村長は叩頭《こうとう》し、顔を上げると訴えるように猪喰を見た。
「一人だと……吾がついて行くことは了承しているのであろう、朝日雷郎の屋形を攻めるのだ、そち一人では意見も述べられないし返答もできぬ、それにどうして一人で来い、と合図したことが分るのだ」
猪喰の声は村長を責めた時のように厳しかった。
「矢が一本でございます、これは奴《やつこ》一人が来るようにという合図なのです」
「そうか、大裂は林の辺りに来ているのか」
「奴は林の先にある渓谷の上ではないか、と思っています、矢を放ったのは大裂の部下でございましょう」
「渓谷の上、用心深いのう」
「はっ、追われている身でございます」
「追われながら、何時の日か復讐《ふくしゆう》を願っているのだな」
猪喰は倭建に音羽山の頂上で斃《たお》された丹波森尾《たんばのもりお》を思った。オシロワケ王を斃す執念に取り憑《つ》かれていたが、もし倭建に殺されなくとも、願いは達せられず、空しく音羽山で朽ち果てたに違いなかった。
そう思った時猪喰は、大裂に憐《あわ》れみを伴った親近感を覚えた。
「猪喰様、奴をどうか御信頼下さいませ、奴は裏切りません」
村長は蹲《うずくま》ると手を合わせた。こういう村長の態度は初めてといって良い。村長は誇りが高い男子だった。
「よし、信頼しよう、ただ、これからの打ち合わせもある、吾は大裂に会わねばならぬのだ、その旨、大裂に伝えるように」
「有難うございます、猪喰様の意向は必ず伝えます」
村長はあっという間に草叢《くさむら》に消えた。
武彦が猪喰の傍に来た。
「大丈夫か」
「今は大裂と村長を信頼する以外ないでしょう、二人の力を借りねば、奇襲は難しい」
「そういうことだのう」
武彦は納得したものの不安そうに林を眺めた。猪喰も信頼はしているものの危惧の念は捨て切れない。
村長は四半刻《しはんとき》(三〇分)もたたずに戻ってきた。
「大裂がお会いしたいと申しております、ただお会いするのは一人にしていただきたいとのことです」
「我等を信じていないわけだな」
と武彦が口をとがらせた。
「武彦殿、獣のように追われているのだ、許されたい」
「獣のようにのう、では猪喰、頼むぞ、大任なのだ」
武彦は自分の任務が如何に大事であるかを噛《か》み締めたようだ。
猪喰は村長と共に林に向った。雑木林だがかなり広い。人の気配に猪喰は眼を木立の上に注いだ。
「降りよ、吾と村長だけじゃ」
猪喰の声は峻烈《しゆんれつ》だった。木が揺れ下草の上に大裂の部下が跳び降りた。麻布の上衣に同様の袴《はかま》をはいている。腰紐《こしひも》には短い山刀を吊《つる》し、弓矢を背にしていた。履《くつ》は革で作られている。脛当《すねあて》も革である。
腰をかがめたが、何時でも襲いかかれる体勢を取っている。髯《ひげ》が長く伸び顔を覆っていた。
「丹波猪喰様じゃ、大裂のところに案内せよ」
と村長《むらおさ》が声をかけた。
獣のような男子は睨《にら》むように猪喰を見ると、身を翻して歩きはじめた。
足は驚くほど速い。猪喰は速度に呼吸を合わせ部下の後を追った。
川の音が聞えてきた。林を出ると灌木《かんぼく》の混じった草原が川まで続いていた。
川の西方に山が迫り渓谷となっている。川の流れは速い。
部下は川沿いに渓谷の方に向うと、川水が飛沫《しぶき》をあげている岩に跳び降りた。岩は川面に顔を出してはいるがそんなに大きくはない。
「これは武術だのう」
と猪喰は村長にいった。
「獣と同じでございます」
「そうだのう」
猪喰は岩に立っている男子《おのこ》の足に眼を注いだ。両脚を開いてはいるが重心は右足にかかっている。岩の表面が傾斜しているのだ。
部下は次の岩に跳んだ。前よりも大きい岩である。
「猪喰様、奴《やつこ》が先に参ります」
「吾が先に行こう」
村長の表情が心持ち緩んだように思えた。猪喰に信頼されていることを感じたせいであろう。猪喰が先に進むと、大裂の部下と村長にはさまれることになる。
村長を信頼していなければできないことなのだ。
「猪喰様、岩はすべりやすうございます」
「分っておる、吾も山に入り、川を渡った」
猪喰は川岸から跳んだ。着岩する際右足に重心をかけた。案の定《じよう》、心持ち傾斜していた。部下は猪喰が岩に立ったのを見ると、川に入った。太腿《ふともも》の半ばぐらいの深さである。今度はゆっくり進んだ。
川を渡り終えた時、大裂の部下は初めて白い歯を見せた。
なかなかやるではないか、とその顔はいっている。
三人は川に沿って山に入った。大裂の部下は渓谷に向わず山を登りはじめた。獣途《けものみち》を暫《しばら》く行くと岩壁に出た。左側の急傾斜の山林を這《は》うようにして登る。這えないほどの難所には綱が木から木に結ばれている。
これでは追手が来ても、綱を外されたなら立ち往生である。
「考えたな」
と猪喰は自分に呟《つぶや》いた。大裂は間違いなくただの山賊ではない。叡知《えいち》の男子だった。それだけ頼り甲斐《がい》があるということになる。
綱を伝い崖《がけ》に近い急斜面を登ると水音が聞えて来た。渓谷が近いようである。
巨大な岩が剥《む》き出た場所まで来ると、
「ここでお待ち下さい」
と部下は村長にいった。
「山登りは不得手でございます」
村長は荒い息を吐きながら汗を拭《ふ》いた。
「ここは山の砦《とりで》といって良い、この大岩には十人ぐらい立てるであろう、ここから追手に向い矢を放てば、掌の小鳥を捻《ひね》り潰《つぶ》すようなものだ、ここを陥れるには百人以上の兵が要る、大裂は優れた兵法者だ」
「はっ、大裂はこのような場所を数ケ所持っているようです」
「監視の兵は木の上か」
猪喰は視線を凝らしたが人の気配はなかった。消えた部下の足音も聞えない。
流石《さすが》に猪喰は不気味な気がし、呼吸を整え、異変に即応できるように雑念を払った。山の霊気が身を包む。
落葉を踏む音を耳にした猪喰は眼を見開くと刀の柄《つか》に手をかけた。
足音はゆっくり近づいた。
「久し振りじゃ、岩に上られよ」
低い声だがよく響く。
「猪喰様、大裂です、奴《やつこ》に申していますので、少しここでお待ち願えますか」
猪喰は黙って頷《うなず》くと岩から離れ木立に入った。
大岩から綱が垂れた。村長は綱に縋《すが》り岩上に上った。
猪喰は槙《まき》らしい木にもたれ、身体を休めた。声はするが何を話しているのかよく分らない。ただ岩上以外に人の気配はなかった。
右手の山林の奥で微《かす》かな音がした。猪喰は耳を澄ませた。下草を踏む音である。猪喰は槙から離れ手頃な松に近づくと素早く登った。
枝に腰を下ろした。岩の上で話し合っている二人の顔が見える。大裂の顔は髯に包まれているが、鼻が高く整っていた。
突然大裂が顔を上げ、手で村長の口を封じた。ゆっくり立つと岩の端から、
「王子様の使者に申し上げます、熊が近づいております、大きくはありませんが用心のため木にお登り下さい」
下を覗《のぞ》きながらいった。猪喰の姿が見えないので、不思議そうに顔を上げた。
猪喰と視線が合った。
「足音がしたのでここで様子を窺《うかが》うことにした」
大裂の顔に驚きの表情が走った。
大裂は岩に坐《すわ》ると猪喰に叩頭《こうとう》した。
「もう何も申し上げることはございません、喜んで御案内致します」
「おう、王子様もお喜びであろう、なるべく早い方が良いぞ」
「はい、熊の肉にて勝利の酒盛りを致しましょう」
大裂は指笛を二度鳴らした。
何処かに潜んでいる部下に合図をしたのだ。熊は人の気配に立ち止まっている。
大裂は弓に矢をつがえた。
大裂が矢を放つ前に空気を裂く弓弦の音が二度鳴った。熊は咆哮《ほうこう》とも悲鳴ともつかぬ声をあげ走りはじめた。かなりの深傷《ふかで》らしく足音は乱れている。
矢は熊の頸部《けいぶ》に二本刺さっていた。
岩上に姿を現わした大裂と村長を見て突進しようとした。大裂は慌てなかった。
放たれた矢は頭を上げた熊の頸部に深々と突き刺さった。
立ち上がろうとした熊は前脚から崩れて横転した。大裂は山刀を抜き|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いている熊の喉《のど》に突き刺して抉《えぐ》った。
大裂が吉備武彦に挨拶《あいさつ》した態度は、丁重なうちにも毅然《きぜん》としたものがあった。
僅《わず》か十数人で朝日雷郎に反抗し続けただけに気骨の男子である。
倭建は血統による差別観を嫌っていた。倭建の側近の部下達は皆対等なのである。倭建が認めるのは人間としての能力だった。
そういう主君に仕えているので、武彦も自然、相手の能力を視る。
勿論《もちろん》、吉備の首長の一族の武彦に、血統意識が完全にないといえば嘘になる。だが当時の有力豪族にしては、比較的差別観が少ない。
ことに倭建に味方する者に対してはそうだ。大裂との対面を終えた武彦は猪喰にいった。
「なかなか誇りの高い山賊だのう、それにおぬしには心酔しているようじゃ、どうやってあの山賊を魅了した?」
「武彦殿、大事な男子ですぞ、大裂に向って山賊などと口にせぬことだ、大裂がいなければ奇襲は困難じゃ」
「いや、つい口から出た、吾君《わがきみ》の協力者と思うことにしよう、吾君のためじゃ」
武彦は苦笑し肩をすくめた。
倭建が猪喰になみなみならぬ眼をかけていることを武彦は知っている。最初は、道で拾ったのも同然の奴のような男子に何故、と内心不服だった。宮戸彦や内彦も同じ思いであった。だが猪喰の情報|蒐集《しゆうしゆう》能力の凄《すご》さと、主君に対する忠節に私心がないことを知り納得した。
確かに猪喰には暗い翳《かげ》りが漂っており、武彦に対しても一歩身を退《ひ》いている。
余計なことも喋《しやべ》らないし、同じ釜《かま》の飯を食う仲間同士のような気やすさは湧かないが、皆猪喰を認めていた。
それに猪喰は女人に接しない。丹波には妻子がいるのだから、肉体的な欠陥が原因ではないようだが、何か深い事情があるに違いなかった。
気やすくは接しられないが、主君にとって欠くべからざる男子であると認識することによって、武彦はそれなりの友情をはぐくんでいたのだ。
猪喰が、
「大裂は数人の部下を連れて行きたい、と申している、吾《われ》は構わぬと思いますが」
とそれとなく武彦の意を訊《き》いた時、
「大裂はおぬしにまかせた、頼むぞ」
と武彦は力強くいった。
武彦なりの友情の証《あかし》だった。
「ではそうさせていただく」
ぶっきら棒な口調だが、猪喰は熱の籠《こも》った眼を武彦に向けた。
猪喰は武彦の友情に感謝していた。
大裂は部下の二人に山に入り、四、五人集めるようにと命じた。
熊の肉で酒盛りが始まった。戦勝を念じた酒宴だった。
陽が鈴鹿山系の西に傾くと、あっという間に夕闇が迫ってくる。高山が群れ集った山脈だけに山頂が夕映えに輝いていても、東側の山麓には闇が籠るのだ。
大裂の説明によると、山麓《さんろく》沿いに朝日の山まで約三里(一二キロ)だった。そこから朝日川沿いにある雷郎の屋形まで約二里である。
夜道で起伏の多い道を行かねばならない。三里の距離だが二刻《ふたとき》(四時間)強は必要となる。今宵は半月だが、雲に隠れたままなら三刻は覚悟しなければならなかった。
大裂はここで仮眠を取るよりも、まず朝日の高台に進み、時間があれば仮眠を取れば良いと進言した。
朝日の高台から雷郎の屋形までは一刻強で充分だという。
村長《むらおさ》も賛成だった。
「大裂、そちの部下は何時頃参る?」
猪喰の質問に対し、
「もう要所、要所に配置ずみでございます」
と大裂は何でもないことのように答えた。
酒盛りの最中に大裂の部下は、命令を伝えるべく走っていたのである。
「よし、出発しよう、だが大鳥は戻れ、娘に顔を見せて安心させよ」
奇襲隊は、闇に包まれた鈴鹿山系の山麓を黙々と進んだ。雲が空を覆っているが、そんなに厚くはない。半月は雲を通し地を照らしているが、山や雑木林の識別は全く不可能である。
松明《たいまつ》を持っているのは、大裂と武彦軍の隊長だけだ。松明を多くつければ、朝日軍に発見される恐れがある。
猪喰が村長と娘を連れて脱出したのは、東の海岸線であった。今一行は、西の山麓を北に向っているのだ。
一昨夜は、海岸があったので迷わず、かなりの速度で三滝川の南まで脱出できた。山麓伝いとなるとよほど地理に熟知していなければ、この速度で進めない。昼の平坦《へいたん》な道ならゆっくり歩いている速さだが、眼に見えない樹林、灌木《かんぼく》、小川、それに丘の起伏が絶えず行く手を邪魔している闇夜である。大裂がいなければ、再々立ち往生をし、また這《は》って進まねばならないのだ。
夜明けまでに、朝日雷郎の屋形を襲撃することは不可能だった。
小丘を登ったところで大裂は立ち止まった。
最初から大裂についていた部下に火矢を放て、と命じた。部下は魚油をひたした布を矢尻《やじり》に巻き、火打石で点火した。
火矢は放たれたが、それに応《こた》える合図はない。
三本目の火矢が放たれた時、闇の彼方《かなた》に火がついた。どの程度の火勢か分らないが、かなり遠い。
雲のせいで星は見えないが、真北に近いようであった。
「もう一息です、参りましょう」
と大裂は振り返って猪喰にいった。
「驚いたのう、何時の間に配置した?」
「犬のように走るのが、奴《やつこ》らが生き延びる唯一の方法でございます」
「それにしても見事じゃ、あの合図がなかったなら、そちでも闇夜は進めまい」
「さようでございます、あの火まで約二千歩、多分、一刻はかかりましょう」
「そうか、二千歩の距離でも一刻か……」
「闇の山麓を前方に進むのは、川伝いの数倍の時を要します」
「そうだのう、吾にも経験がある」
猪喰は九州島の戦を思い出した。
進むと間もなく合図の火は消えた。
一行はほぼ予定の時刻に高台に着いた。
猪喰は兵士達に仮眠を取らせるようにと武彦に要望した。
「よし、ここまではおぬしの意見に従おう、進軍の際は吾が指揮を執る、構わぬな」
「勿論《もちろん》です」
と猪喰はきっぱり答えた。
武彦が率いている兵は、吉備から武彦についてきたのだ。主君は武彦であって猪喰ではない。
猪喰は大裂にその旨を伝えた。
「そう致します、ただ雷郎の屋形までは奴《やつこ》が御案内します」
「当然じゃ、屋形内は殆《ほとん》ど女人や子供と思われるが、守りの兵士もいよう、戦になる」
「奴の部下が守りの様子を探っております、夜明け前、朝日川の川沿いで報告を受けられましょう」
「よくやっておる、王子様にも詳しくそちの働きをお伝えする」
武彦は呻《うめ》くようにいった。
実戦を味わっている武彦は、大裂の働きが、どんなに重要であるかをよく知っていた。武彦も、大裂をたんなる山賊と視ていなかった。
兵士達は一刻半ほど仮眠を取った。起きると交替で小川に入り、冷水につかり心身を引き締めた。
東の空が微《かす》かに白みはじめた頃、武彦が率いる兵は朝日雷郎の屋形の三百歩ほど西の高台に布陣した。
なかなか厳重な備えで、屋形は濠《ほり》と柵《さく》によって囲まれていた。
柵の内側には高床式の倉や、雷郎の屋形、それに一族が住んでいるらしい屋形が十戸以上はあった。
大裂は部下を率い、警備の様子を調べ、武彦に報告した。
南側に陸橋があり外側を十数人の兵士が守っていた。
陸橋の内側にも同程度の兵士がいるものと思われた。
濠は内側の盛り土が高く土塁《どるい》のようになっている。見張りの兵が十数人立っていた。まだ闇が濃く大裂らは発見されていない。
武彦は隊長を呼び、今のうちにできる限り濠に近づき、巻貝の音と共に見張りの兵を射殺すように命じた。
「三十名を連れて行け、二人で一人の兵を射よ、射終ったなら濠の北に集結し、濠を渡り柵を壊して内部に突入する、我等は南の陸橋から突入する故、北方の防備はおろそかになる、柵は一人か二人が入れるだけ壊せば良いのだ、そこから突入する、手間どるな、抵抗する者はすべて殺せ、行け」
武彦は猪喰と作戦を練った。
陸橋を渡られたなら濠の防備は殆ど消滅する。
雷郎は本拠地の屋形を襲われるとは想像していないから、防備の兵は少ない。それでも陸橋は精兵で固めているはずだ。
奇襲に対しての備えもあるに違いない。
慎重な猪喰の意見に対し、武彦は全兵力での奇襲攻撃を主張した。
「兵力は我等がまさる、敵は我等に気づいていない、先に五十本の矢を射れば十人は戦闘力を失う、その後一気に突っ込み残りを粉砕する、そうか、陸橋の内側には頑丈な柵門があるのう、そこで手間どると敵の矢を浴びることとなる、これは完璧《かんぺき》な奇襲攻撃なのだ、我軍の兵は一兵たりとも傷つけたくない、猪喰、おぬしは兵力を裂いて東側から濠を渡り、陸橋の内側の兵を攻めるという意見だな」
といって武彦は腕を組んだ。
「武彦殿が正面から攻めている間に東側の濠を渡る、ただ内側の土塁が高く、簡単には渡れぬ、だから吾も慎重になっている、そうだ、大裂は山賊だ、濠を渡り柵を乗り越える良い方法を知っているかもしれぬぞ、山賊とはいえ、もとは朝日の村長《むらおさ》になる人物じゃ、良い意見があれば採り入れた方が良い」
「大裂か、少し抵抗があるのう」
「武彦殿、兵は傷つけたくないのであろう、身分にこだわっている時ではないぞ」
「いや、身分にはこだわらぬが、山賊だからのう、分った、おぬしが訊《き》けば良い」
腕組みを解いた武彦は仕方なさそうに鬚《ひげ》をしごいた。
猪喰にはそんな武彦の胸中がよく分った。
山賊は旅人を殺し女人を攫《さら》う。大裂もそういう悪逆非道なことをしているに違いない。武彦にはそれが許せないのだ。
猪喰もそういう山賊は許せない。だが猪喰は倭建の敵である朝日雷郎を斃《たお》すためには、どんな方法を取っても良いと考えていた。
だからこそ村長を攫い、その娘を責めたのだ。
その辺りが猪喰と武彦の違いであった。
猪喰に呼ばれた大裂は、
「もう時が少のうございます、あっという間に東の空が明るくなります」
と叩頭《こうとう》した。
作戦会議などをしている余裕はない、といっているのかもしれない。
「そちの意見を訊きたい」
猪喰の質問に大裂は眼を輝かせた。
「正面から攻め、内側に奇襲をかける、それが一番でございます、奴《やつこ》は山の賊、山を走るのが武術となります、故に何時も縄を用意し、木から木へと跳ぶのです」
「では縄で柵を越えると申すのか」
「それ以外、手はありません、見張りの兵を矢で斃《たお》せても、そうたやすく柵は壊せません、それに柵を壊す音で敵兵は気づきましょう」
「なるほど、ではそちが、まず縄で侵入し、部下達が濠に縄を垂らし兵が土塁に上りやすいようにするというわけだな」
「はっ、それと同時に部下が人梯子《ひとばしご》になります、武彦様の兵は、部下が造った人梯子を上り、柵を越えます、二十人ぐらいならあっという間です」
「分った、頼むぞ」
猪喰は大裂の作戦を武彦に告げた。
「ほう、山賊達が梯子になるというわけか、王子の兵士がその梯子を上がるのだな、なるほど山賊らしい働きじゃ、吾は賛成だぞ」
と武彦は頷《うなず》き猪喰を見た。
「問題は敵の見張りを射る合図の貝を鳴らす時だな」
「武彦殿、それはおぬしが決めることじゃ」
と猪喰は澄まして答えた。
「合図が送られると見張りを射る、二人一組だから外すことはないが、我軍が攻め入る場所の見張りは必ず斃さねばならない、よし、その場所の射手を増やそう」
「結構でござる、吾も久し振りに矢を射てみたい」
「おっ、おぬしも射手になるか、じゃ吾も」
「いやそれは駄目だ、おぬしはここの将軍じゃ、命令だけで良いぞ」
と猪喰は笑った。
「くそ、残念じゃ」
武彦はいまいましそうに舌打ちした。
[#改ページ]
勝利の後に
闇はかなり薄れているが、漸《ようや》く山や木立、立っている人を識別できる程度であった。
ことに当時は田畑と雑木林、それにまだ耕されていない草原で、現代のような平地は殆《ほとん》どない。
平地といえば、祭祀《さいし》の場か集会の地である。
朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》は警戒心の強い男子《おのこ》らしく、濠《ほり》の外側は約十数歩の幅で平地にしていた。
平地を進んで来る敵は、土塁《どるい》の上から射やすい。
東側の見張りは四人だった。兵士達が静かに進み、草叢《くさむら》や木蔭《こかげ》に潜むのを待って、選ばれた兵士達が弓に矢をつがえた。
巻貝を口に当てた兵士が吉備武彦《きびのたけひこ》の合図を待っている。
土塁は薄闇に盛り上がって見えた。その部分だけ濃い闇が固まっているようだ。意外なことに見張りの兵士達は柵《さく》の外側にいた。
警戒を厳にせよ、という雷郎の命令だろう。だが、王子軍が眼の前にいることに見張りは気づいていなかった。
見張りの一人は槍《ほこ》の柄を地に立て東の空を眺めていた。早く夜が明けることを願っているに違いない。
新しい見張りと交替できるのだ。
丹波猪喰《たんばのいぐい》は傍の兵士に腹部を射るように命じた。猪喰は頭部を的にした。
「合図を鳴らすぞ」
武彦は猪喰が頷《うなず》くのを確認して刀を抜いた。猪喰と傍の兵士が矢を放った後に合図の巻貝が吹かれた。
猪喰の標的は二本の矢を頭部と腹部に受け、殆ど声も立てずに崩れ、土塁から濠に転落した。
あちこちの悲鳴は、鶏や蛙《かえる》の声が入り混じったようだった。
大裂《おおさき》の部下が草叢《くさむら》から走り出て濠に跳び込んだ。土塁に取りつくと石を巻いた縄を柵に投げる。柵に引っ掛かった縄を手繰《たぐ》り一人、二人と土塁に上った。まるで猿のように身軽である。
一人が四つん這《ば》いになり、一人がその背に膝《ひざ》で立った。彼の両腕は柵を抱え込んでいた。二人一組の人梯子《ひとばしご》が三組できた。
大裂は人梯子の上り方を示すべく真っ先に走った。四つん這いになった部下の尻《しり》に乗ると、背を丸めて柵を抱えている部下の背に立つ。柵の先端に手をかけ、無造作に乗り越えた。大裂に続いた武彦の兵士達が濠に跳び込み大裂を真似る。
土塁に上るには四つん這いになっている男子の足首に縋《すが》らねばならない。
猪喰は舌を巻いた。兵士達が次々と足首に取りつき濠から這い上がるが、彼は堪えた。
「うむ、見事じゃ、山賊共を見直したぞ、この功績は王子にお伝えしよう」
と武彦は唸《うな》った。
陸橋に奇襲をかけた武彦の主力部隊は、矢の攻撃だけで警護の兵の半数近くに打撃を与えた。陸橋を守ろうと槍や剣で立ち向った敵兵は数人である。
だが彼等も内側に王子軍が攻め込んだのを知ると、濠に跳び込んで逃げようとした。
濠から這い上がろうとする敵兵に容赦なく矢が浴びせられた。
内側から柵門を守る敵兵はいない。あっという間に柵門は壊され、主力軍は内部に突入する。
「女人や子供には手を出すな、刃向う者だけ斃《たお》せ、降服する者は捕虜だ」
武彦の声が響き渡る。
主力軍が突入した途端、敵兵は呆気《あつけ》ないほど簡単に降服した。多分、本拠地を守っていた警護兵達は、数十倍の王子軍に攻撃されたような恐怖心に襲われたに違いなかった。気がつくと武器を投げ捨て地に這いつくばっていたのだ。
精鋭部隊といっても軍事専門の兵士ではなかった。有事の際に戦うべく選ばれた若者で、暇な時、武術の訓練をしているに過ぎない。
しかも兵士達には、本格的な戦の経験がなかった。
本拠地にいた女人や子供は約三十人で、負傷者も含め、捕虜の兵士は二十数人だった。死者は十数人だが、おそらく何人かの逃亡者がいるはずである。
武彦軍の損害は、負傷者が僅《わず》か三人だ。まさに大勝である。
一番の功績者は大裂を長《おさ》とする山賊だった。
猪喰は戦勝を報告すべく三滝川に向った。大裂の部下が道案内人となった。
大裂の部下は雷郎が布陣している場所を避け山麓《さんろく》を進んだ。
朝日雷郎の本拠地から三滝川まで二里半(一〇キロ)強だが、山麓の丘陵地帯を進むと三里はある。
だが大裂の部下は、上り下りの多い山道を約|二刻《ふたとき》(四時間)で歩いた。
丹波の山で脚を鍛えた猪喰なればこそ遅れずに歩けたのである。
猪喰の報を受けた倭建《やまとたける》はすぐ大伴武日《おおとものたけひ》と久米七掬脛《くめのななつかはぎ》に、武彦軍が大勝利をおさめ、雷郎の本拠地を占領したことを告げた。
武日は奮い立った。
「王子、兵士達に吉報を知らせ、一挙に敵を攻めましょう」
「吉報を知らせよ、だが攻撃は待て、もう、逃亡の兵士が雷郎に知らせている頃だ、暫《しばら》く様子をみよう」
「はっ、吉報を知らせます」
武日は数人の隊長を呼び、吉報を伝えた。
隊長達は、顔色を輝かせ、兵士に告げるべく戻って行く。
武日は総攻撃の命令が出ないのが不満のようだった。
「武日、そちの気持は分る、ただ雷郎がどう出るかが問題だ、雷郎としては今、軍を戻すわけにはゆかぬ、となると捨て身になり攻めてくるかも分らぬ、雷郎の活路はそれしかないからのう」
「王子、だからこそ、我軍の士気が上がっている今、先手を取って攻撃をかけるべきでしょう」
「激突となると勝っても損害が出る、尾張《おわり》に到着するまで、兵を減らしたくないのだ、こういう場合は、敵の闘志を喪《うしな》わせるのが第一だ、そうじゃ、猪喰が捕えた村長が今朝ほど戻ってきたな、名は何と申したか?」
倭建は七掬脛に訊《き》いた。
村長は今朝方、七掬脛の許《もと》に来て、
「猪喰様の命令で戻りました、本陣で待つようにとのことです」
と報告した。
大鳥《おおとり》は娘と会っていない。猪喰の情けに報いるには、少しでも役に立たねばならぬと思い、王子軍の本陣に出頭したのだった。
「王子様、名は大鳥です、やつかれの小屋に待たせていますが、少しでも王子様のお力になりたいと申しております」
「おう、呼べ」
大鳥は十歩ほど離れた地に平伏した。殆《ほとん》ど眠っていないので顔は削《そ》げているが、眼は生命力の炎を燃やしていた。
「三歩のところまで近づけよ」
七掬脛にうながされ、大鳥は三歩前に坐《すわ》った。
「もう耳にしたとは思うが、猪喰は武彦軍と共に雷郎の本拠地を制圧した、女人子供に傷はつけておらぬ、だがそれも、これからの雷郎の出方次第だ、これ以上|吾《われ》に刃向うと申すのなら、雷郎の一族はもとより、兵士達の家族も殲滅《せんめつ》する、そのことを雷郎の軍に知らせよ、兵士達は、本拠地を占領されたことを知らぬ」
「はっ、すぐに知らせます」
「七掬脛、そちも共に行け」
二人が走り去る姿を見ながら、倭建は武日にいった。
「多分敵軍は崩れはじめる、問題は雷郎がどう出るかだな、追撃の可能性はまだ残っておるぞ、ただ戦は我軍の損害を最少にとどめて勝利を得るかにある、ことに今回の東征は大和の王権にとっては初めてのものだ、王権の力をまつろわぬ国々に示すのが目的じゃ、服従しないからといって毎回戦をしておれば、千人の兵でも足らぬぞ、そちの闘志は認めるがのう、さあ、敵軍の様子を眺めよう」
倭建は武日と共に丘に登った。
警護隊長の大伴倉先《おおとものくらさき》と副隊長の穂積身刺《ほづみのむささし》が十数人の兵を率いて従った。
畳々と聳《そび》えながら北に連なる鈴鹿山系の尾根は巨大で谷は深い。途中で瘤《こぶ》を背負ったような形の尾根もある。瘤からまた新しい尾根が延びている。高台から眺める伊勢の海が一望の許に眺められる。
現代では想像できないほど山と海の間は狭い。
三滝川の上流は鈴鹿川に較べると川幅が狭く、両軍は何時でも川を越えて攻撃できる。川をはさんで布陣している両軍の間は四、五百歩はあった。
高台から眺めると敵は平野寄りの小丘などに集結している。
「武日、陣に行き軍を指揮せよ、雷郎は捨て身の攻撃をかけてくるかも分らぬぞ、その際は全力で粉砕せよ、もし大鳥の知らせに敵が動揺し退却をはじめたなら前に進んで矢攻めじゃ、いいか、小太鼓を打てば敵の攻撃じゃ、貝を鳴らせば退却、間違うな、ここからだと敵の動きがよく分る、行け」
「王子、参ります」
武日は顔を紅潮させて走り去った。武日は威力を示すよりも戦うことを望んでいるようだった。熊襲征伐に参加できなかったことで、武彦や七掬脛、また猪喰に劣等感を抱いていた。
突然、敵兵が動きはじめた。右往左往している兵もあれば、中央に集まる兵もある。
本拠地が占領された以上勝利はない。家族を救うためにも降服せよ、と大鳥は説いた。その効果が表われはじめている。
だが倭建は中央の兵達が気になった。槍《ほこ》や刀が煌《きらめ》きはじめたのは、明らかに攻撃をはじめるため槍を持ち直し、刀を抜いているからに違いない。
「よし、小太鼓を打て、激しく鳴らせ」
倭建の小太鼓が合図になったように敵軍が進撃をはじめた。
全体の約三分の一で、残りの兵達は相変らず右往左往している。なかには退却をはじめる者もいた。
倭建が最初に予想したように、雷郎は降服を嫌い捨て身の攻撃をかけてきたのだ。だが流石《さすが》に従う兵は少ない。
仮眠を命じたはずの猪喰が現われた。
「良いところに来た、武日に伝えよ、敵の兵は約百人、残りは戦意がない、敵を粉砕し、できれば雷郎を捕えよと」
「分りました」
猪喰は獣のように下に跳んだ。
倭建は身体中の血が沸き立つのを覚えた。自分も駆けつけ刀をふるいたかった。
だがこの程度の戦に刀はふるえない。
大将軍として戦況を判断し、指揮を執らねばならなかった。
倭建の主力軍は意外に慎重だった。敵軍が川を越えはじめるのを待って矢を射はじめた。
「武日め、やるのう」
と倭建は叫んでいた。
武日はさっきの倭建の言葉を噛《か》み締めたに違いなかった。
捨鉢《すてばち》の敵に対し矢攻めに徹しているのもそのせいであろう。
敵の大半は川を渡り切らずに斃《たお》れ、無事に渡った者も圧倒的な数の倭建軍の槍や刀の前に突かれ、斬られているようだ。
甲冑《かつちゆう》姿の三人が川岸に現われたのは、攻撃軍の半分が斃れた後であった。
「雷郎だ、捕えよ」
倭建は思わず絶叫していた。ここからでは倭建の声が聞えるはずはない。
倭建の軍団は、その命令が聞えたように川を渡りはじめた。
その間も雷郎に向け矢が射られる。
信じられないような光景を倭建は見た。甲冑姿の三人が丘の方に逃げはじめたのである。
「追え、必ず捕えよ、卑怯者《ひきようもの》じゃ」
戦場にいるように倭建は刀を抜いていた。
半刻(一時間)足らずで戦は終った。
戦意を喪失した敵軍は総崩れになって逃げた。
丘の窪《くぼ》みに潜んでいた雷郎は、捕えられる寸前、自ら剣で首を貫き生命を絶った。
そのあたりは流石に首長だった。
残りの二人は雷郎の弟と甥《おい》だが、弟は捕虜となり、若い甥は斬り死にした。
雷郎を確認するため呼ばれた大鳥は、感無量らしく遺体に叩頭《こうとう》する。
猪喰に捕えられなければ、朝日軍の隊長として、倭《わ》軍と戦っていたはずだ。
倭建は武彦に勝利を知らせる使者を遣わし、逃亡兵が多い故、警戒を怠らぬように命じた。
雷郎の弟は石脚《いしあし》という名前である。
倭建は甲冑を脱がされ半裸となった石脚を自ら訊問《じんもん》した。朝日を攻めるつもりなどなかったのに、何故雷郎は攻めてきたのか、と問い質《ただ》した。
縄で後ろ手に縛られた石脚は観念した模様で、倭建の訊問に答えた。
「奴《やつこ》は戦に反対したのでございます、ところが兄は交易の者の申すことを信じ、王子様の軍が攻めてくると怯《おび》え、兵を集めたのでございます」
石脚は汗塗《あせまみ》れになりながら懸命に、雷郎の独断による戦である旨強調した。それも倭建軍が朝日を攻めてくると怯えた結果だというのである。
「交易の者とは何者じゃ?」
「はあ、大和から絹や飾り物を運んでくる者達で、当地の海産物などを持ち帰っています、巻向宮《まきむくのみや》にも出入りしていると聞いております」
「その者達が、吾《われ》が朝日を攻めると伝えたのか」
「はい、その点は間違いございません、奴も聞きました」
「名前は?」
石脚は三人の名前を告げたが倭建は聞いたことがなかった。
武日や七掬脛も知らなかった。
「その者達は前からの知り合いか」
「この度は新しい顔でございました、奴はその点でも不審に思い、軽挙妄動は慎むべきではないか、と兄に忠告したのでございます、そのことは一族の者も承知しております」
「雷郎の独断といいたいのだな」
「兄を誹謗《ひぼう》するわけではございませんが、思い込んだら他人の意見に耳を傾けるような男子《おのこ》ではございません、反対する者には、死をも含めて厳しい罰を与えます」
倭建には石脚がそんなに嘘をついているようには見えなかった。
猪喰の報告では村長の大鳥も、突然動員令を受けたという。
倭建軍が朝日に攻めてくるというのが動員の理由だった。
倭建は石脚を睨《にら》みつけていった。
「吾は東の国々に倭の諸国は一つに纏《まと》まらなければ、緊迫した海外情勢に対応できぬことを知らせるべく参ったのだ、吾は反抗する敵とは戦うが、こちらから戦をしかけ、民を殺したりは絶対しないぞ、もし朝日の首長が不審を抱いたなら、使者を遣わし吾の意をうかがうべきではないか、それにも拘《かかわ》らず挙兵し、吾を攻めてくるとは言語道断じゃ、主な罪は雷郎にあるかもしれぬが、口先だけで忠告し、保身のために雷郎と共に吾を攻めたそちの罪も許せぬ、死をもって償わねばならぬ、そこの木に縛りつけろ」
倭建の声は山野に響き渡るほど凄《すさ》まじかった。
這《は》いつくばっていた石脚は、異様な呻《うめ》き声をあげて眼を閉じた。雷郎と異なり胆力のない男子である。
石脚は半裸のまま木に縛りつけられた。夕刻には、雷郎の本拠地に部下を半分残した武彦が戻って来た。
倭建の軍団は、負傷者こそ十人ばかり出たが、死者は一人もいなかった。
倭建も予想していなかった大勝である。
夕餉《ゆうげ》は勝利の宴《うたげ》と変った。
倭建の大勝を知り、伊勢の各地から首長達が祝いを述べに来た。獲《と》れたての魚や獣、また酒などを持参した。
首長達は、噂で耳にしていた倭建の武勇が噂以上であることを知り、三輪《みわ》の王権に服従を誓ったのだ。
倭建は、兵士達にも酒を飲ませ、勝利を祝わせた。
これから長い旅になるのだ。兵士達の士気を鼓舞せねばならない。
兵士達が多少はめを外したとしても黙認しなければならなかった。
倭建は美酒に酔えない。
大和から来て、朝日雷郎に嘘を吹き込んだ交易者のことが気になった。
交易のために朝日に来た者が、何故そんな嘘をついたのか。大和の王権に反感を抱いている他国から来た者なら、そういう嘘をつきかねない。倭建が率いる軍団を破ることは、大和の王権を弱体化させるのに役立つ。
だが石脚の告白では交易の者は大和から来たという。それも馴染《なじ》みの者ではなく新顔だった。彼等がついた嘘は酒席の気炎にしては質が悪すぎた。
大和の王権よりも倭建自身に悪意を抱いている者の仕業のような気がしてならない。
邪馬台国《やまたいこく》が東遷し、三輪|山麓《さんろく》に王権が樹立されてから約百年の歳月が流れた。
大和の王権は倭列島の各地と交流している。有力豪族が私的に交流する場合もあれば、大和の王権が財力を蓄えるために交易する場合もある。
そういう場合、遠方の地に技術者を派遣する。鏡や、剣、刀、槍、新しい衣服を作る技術者である。また屋形や墳墓を造る技術者も加えられる。
遠方の地では、そういう技術者が歓迎される。
また日本海側の国々には、大和にはない新しい文化が入っていたりする。日本海を渡って伝えられた大陸の文化である。大和から遣わされた技術者は、そういう文化を吸収する。
当時の交易とは、たんに物を交換するだけではなかった。新しい文化を交換するのも交易の重要な目的だった。
大和において、そういう技術者の多くを掌握しているのは物部《もののべ》だった。
倭建は酔えない酒をあおるように飲んだ。
物部の長十千根《おさとちね》の腹黒い顔が浮かぶ。
現在の十千根は、オシロワケ王に何かと策を授けている。
オシロワケ王が王位に即《つ》けたのは、十千根の策と力によるところが多い。
西征から戻った倭建は当分は穏やかに暮したかった。弟橘《おとたちばな》媛ひめという最も愛する女人を得たのだ。せめて三、四年は二人の愛を確かめたかった。だが自分の意志に反し東征将軍として長い旅に出発せねばならなくなった。
今回の東征が、自分の意志に反していたが故に、倭建は、自分が何故将軍に選ばれたかが推察できるのである。
それは薄暮の中の影のようなおぼろな姿だが、倭建には見えるのだ。
五百城入彦《いほきのいりびこ》王子は、今回は将軍になりたがっていた。それは入彦の言動からも分る。
オシロワケ王は、迷っていた。
入彦が東征将軍になることに、反対だったのは入彦の母・ヤサカノイリビメである。このことも情報により知っていた。
このヤサカノイリビメと組んだのが物部十千根である、皇后格のイリビメの歓心を得、より一層自分の地位を強固にしようとしたのであろう。それとも、倭建の存在が邪魔で、暫《しばら》く大和から追い出そうと謀ったのか。
この二人に押されてオシロワケ王も、五百城入彦を将軍にすることを主張しなくなった。もともとオシロワケ王は、自分に愛情を示さなかったイナビノオオイラツメが産んだ大碓《おおうす》王子や小碓《おうす》(倭建)を、可愛がらなかった。ことに武勇の王子・倭建が王権を奪取しないかと恐れていた。
オシロワケ王にとって倭建は不必要な王子だった。
薄暮が暗さを増すと共に、消えて行くはずの影が何故か一層はっきりしはじめた。影は倭建を見て嗤《わら》っていた。
「そなたは要らぬ王子なのだ、雷郎に敗れ、死ねば良かったのだ、実際しぶとい王子じゃ」
その声はヤサカノイリビメだった。
「勝利に酔わせておけばよろしゅうございます、東国は果てしなく広い、何れにしても王子も人間、不死身ではありません」
男子の声がした。
何時の間にか影が二つになり向き合っていた。
顔は見えないが、男子の声は物部十千根だった。倭建は刀を握った。
「矢張りそうだったのか、吾を亡き者にするため、交易者を遣わし、雷郎をまどわしたのか、許せぬ」
影を睨み刀を抜こうとした途端影が消えた。倭建は眼をこすった。
倭建は横になっていた。泥酔し一瞬眠ったようだった。
あちこちで篝火《かがりび》が燃え、兵士達の歌う声が聞える。なかには怒鳴りあっている者もいた。勝利の酒宴もそろそろ終ろうとしている。
「王子、久し振りに酔われましたのう」
といったのは向い合っている武彦だった。
「少し眠ったか……」
「ほんの僅《わず》かです、眠るぞ、といわれ横になられました、何か夢を見られたらしく、少しうなされていました」
「大勢の敵を相手に刀を振り廻していたような気がする、それはそうと猪喰は?」
「屋形の傍で飲んでいます、勝利を祝う宴《うたげ》故、共に飲もうと申したのですが……」
変人じゃ、といわんばかりに七掬脛が鬚《ひげ》をしごいた。
「皆の仲間だが、奴《やつこ》として仕えているからのう、その方が色々と情報を得やすいのであろう、猪喰の自由にさせてやれ」
「王子、今回の大勝の功労者は猪喰です、猪喰が村長の大鳥を捕えなければこうはいかなかったと思います、山賊も味方しなかったでしょう」
といって武彦が、雷郎の本拠地を占拠するまでの経過を話した。
「武彦も酔ったのう、すでに報告している」
「申し訳ありません、王子のお耳を煩わせました」
「いや、気にすることはない」
といいながら倭建は武彦の胸中を読んでいた。武彦は同じことを二度報告するような男子ではない。
それなりの理由があるはずだった。
どうやら、大鳥と大裂がいなければ、ここまでの勝利は得られなかったといいたいのであろう。
「大鳥をどうするかだな、朝日の一族にとっては裏切り者ということになるのう、だがこの敗戦の責任が雷郎にあると考える者も多くなる、吾は山野に響き渡る声で、雷郎の独断による無謀な戦である旨をさっき述べた、戦の真相を知れば、雷郎を批判し、大鳥を擁護する者も多くなる、吾が新しい土地を与えよう、大鳥はどうしている?」
「今宵《こよい》は娘と……」
「山賊の方は?」
「はっ、雷郎の本拠地に残してきました、勿論《もちろん》、やつかれの部下が監視しています」
武彦が顎《あご》を撫《な》でた。
「雷郎に奪われた恋人を探しているのではないか」
「その通りでございます、ただその恋人は雷郎の妻となりすでに子を産んでいるようです、再会したとしても、どうなりますことか……」
「そうだのう、だが山賊とはいっても、大裂という男子はなかなか胸中の熱い人物だ、ただの山賊ではないぞ」
「そのようです、やつかれも見直しました」
「旨《うま》く行けば良いが、男女の間というのは、本人が思う通り行かぬものだからのう」
倭建は壮烈な戦死を遂げた羽女《はねめ》を思った。もし羽女が生きており、倭建が彼女を大和に連れ帰ったとすればどうなっていただろう。多分、弟橘媛との間もこじれ、女人の嫉妬《しつと》が渦を巻くに違いない。
「王子様、あの山賊はこの戦に彩《いろど》りを添えてくれました」
七掬脛が何時になくしみじみとした口調でいった。
「彩りか、七掬脛は味のあることを申す、料理の味つけが旨いのも、多才の故であろう、そういえば、そちは時々板に絵を描いているというではないか、吾はまだ見たことがないが……」
倭建の言葉に七掬脛は照れたように頬を撫でた。酒で赧《あか》くなっていた顔が火照った。
七掬脛のそんな顔を倭建は初めて見た。
「どうした七掬脛、いとしい男子に会った乙女《おとめ》のような顔になったぞ」
武彦と武日が笑った。
「王子のいわれる通りだ、七掬脛、眼の周りの入墨まで赧くなっておるぞ」
と武日が冷かした。
七掬脛は反駁《はんばく》もせず蚊の群れに刺されたように、顔のあちこちを掌で叩《たた》いた。
「だがのう……」
倭建は大声でいった。
気合を入れられたように、三人は倭建を見た。
「絵を描けるとは素晴らしい、吾も時々描きたいと思う、それだけ生命の喜びが深くなるからじゃ、七掬脛、何時頃から描きはじめた?」
「はっ、九州島に参った際です、地図を描いているうちにふと絵も描くようになりました、故にまだまだ幼稚です、人に見せられるようなものではございません」
「旨く逃げたな、何時か、好い絵が描けたなら見せて貰《もら》おう、無理に見せよとはいわぬ、安心せよ」
七掬脛は唇を噛《か》んで叩頭《こうとう》した。何でもないような倭建の言葉に七掬脛は主君の感性の深さを知ったのだ。
翌日倭建は猪喰を呼び、大鳥を連れてくるように命じた。
大鳥は昨夜、娘が軟禁されている小屋に行き、元気な姿を確かめると猪喰の許《もと》に戻っていた。
倭建の前には、武彦、武日、七掬脛などが坐《すわ》っている。
倭建は大鳥を数歩の距離に坐らせた。
「大鳥よ、今回の働きは見事であった、そちのような人物が今後の朝日には必要じゃ、三滝川の傍に土地を与えよう、そちが長《おさ》じゃ、ところで今日は石脚を処刑する日だが、そちは石脚を生かしておきたいか、それとも死んだ方が良いか、どう考えている? 直《じか》に答えて良いぞ」
「はっ、申し上げます、願わくば生を賜りますよう伏してお願い申し上げます」
大鳥は顔を地につけた。
倭建がその理由を訊《き》いたのに対し、大鳥は次のように答えた。
雷郎に較べると石脚は温厚で、村長達にも好感を持たれていた。
朝日は何といっても朝日雷郎の一族が支配している。もし石脚が処刑されると、朝日には有力な支配者がいなくなり、支配権をめぐって村長を含めた争いが始まる。
数十年間平和だった地が乱れるのは大鳥にとって堪えられないことだった。
もし石脚の生命が助かるのなら、石脚は倭建の恩に深く感じ、今後は大和の王権に誠意をもって服従するに違いないというのである。
大鳥の論旨には、将来に対する部分を除いて筋が通っていた。
「そちの申すことはほぼ分った、だが、石脚が大和の王権に心から服従するとは限るまい、吾を恨み反抗の炎を燃やすかもしれぬではないか」
倭建の大鳥に対する語調は穏やかだった。
「王子様の御質問だ、遠慮せずに答えよ」
と猪喰が命じた。
大鳥は恐る恐る顔を上げた。
「確かに奴《やつこ》の推測でございます、ただ石脚様は、反抗よりも平和を好む方でございます、これは間違いございません、それに奴も朝日を平和な国にするべく全力を尽すつもりです、勿論《もちろん》、生命を賭《か》けるつもりでございます、本来なら死を賜って当然の身、残りの生命に何の未練がございましょう」
大鳥は自分の声の激しさに気づいたらしく、
「御無礼をお許し下さい」
と顔を地に伏せた。
「いや、なかなかの弁じゃ、そちの弁には卑劣な計算が感じられぬ、それを認めよう、石脚の生命は助けよう、だがそれには条件がある、顔を上げよ」
「はっ」
倭建は大鳥の眼に微笑みかけた。
「条件というのは、石脚が死罪をまぬがれたのは、そちが生命を賭けて吾に願った、ということにする、どうだ、その条件を呑《の》むか」
「王子様」
大鳥は感動のあまり声が出ない。眼に涙が溢《あふ》れ喉《のど》が詰まった。
石脚に対する死の宣告が、大鳥の将来を保証するためになされたものであることを大鳥は悟ったのだ。
大鳥だけではなく倭建の部下達も悟った。
石脚が、大鳥が述べたような人物なら、今後石脚は大鳥を優遇するに違いなかった。
「よし、処刑の場に参るぞ」
と倭建は部下達にいった。
空は暗く今にも雨が降りそうだった。
立木に縛られた石脚は排泄物《はいせつぶつ》に塗《まみ》れ首を垂れていた。
倭建の一行が近づいたので顔を上げたが、その表情は空ろだった。
「武日、部下に命じて水をかけさせろ、排泄物は洗い流せ」
と倭建は石脚を凝視《みつめ》ながらいった。
戦というものはこういうものだ、と倭建は自分にいい聞かせた。戦に敗れたなら自分が石脚にならないとも限らないのだ。
だが倭建は石脚とは違った。間違いなく倭建は捕虜になるぐらいなら自決する。そういう点は雷郎と同じだった。
こんな男子は生かしておく値打ちもない、と自分に囁《ささや》く声を倭建は聞いた。武人の声だ。
だが大鳥のことを思うと生かさねばならないと思う。王者の声である。
数人の兵が小川の水を壺《つぼ》に入れて運び石脚に浴びせた。
水を浴びせかけられたことによって石脚は意識を取り戻したようだ。
寒いのか石脚は慄《ふる》えはじめた。処刑に怯《おび》えているのかもしれない。
倭建は数歩離れた台上に立った。捕虜や負傷者も石脚の後ろに坐らされた。
「石脚、そちに申し渡すことがある」
武日が兵士に命じて石脚の縄を解かせた。
石脚は崩れるように坐った。
「昨日吾はそちに死罪を告げた、兄とはいえ雷郎の無道な暴挙を止めもせず、唯々諾々と従ったからだ、今でもそちの罪は死をもって贖《あがな》うべき重罪だと吾は思うが、朝日の民のために吾に協力した村長の大鳥は、そちの温厚な人柄を説き助命を願い出た、朝日が乱れないためにそちが必要だと申すのだ、吾は朝日の民をいささかも憎んではいない、皆が幸せな暮しをいとなむことを切に願っている」
塩をかけられた青菜のようだった捕虜達の眼が活々《いきいき》としはじめた。捕虜達も石脚と同じように殺されるのではないか、と怯えていたのだ。
背後の活気に漸《ようや》く石脚は活き返った。身体に筋が入りはじめた。
「そこで、大鳥の功労と民を思う熱意に打たれ、そちの生命を助けることにした」
倭建が一呼吸おくと、石脚は初めて感動の声を放ち深々と叩頭した。
「温厚なそちが首長になれば、朝日も生まれ変るであろう、捕虜もこの場で解放する、そちは大鳥を補佐役とし、国を栄えさせよ、分ったか」
「王子様、御温情は忘れません、必ず平和の道を歩きます」
「よし、今から全員に食事を与える、食べ終ったなら負傷者を連れて帰り、傷の手当をせよ、本拠地にはまだ吾の兵士達がいるが、そち達に敵意がないことを確認すれば引き揚げさせる、逃亡者にも吾の意を伝え、平和な生活に戻らせよ」
倭建が戻りはじめると捕虜達の歓声が起こった。
朝日雷郎との戦は予想外のものだったが、一つの戦は終った。
おそらく雷郎に対する大勝利は、すぐに尾張から東国に伝えられるに違いない。
それにより倭建の勇猛さに畏怖《いふ》の念を抱き、戦を避けて迎える国々が多くなるであろう。だが中には、勇猛な相手なればこそ挑戦しようという者も現われるのだ。
ただ倭建はこれから先に自分の行く手に立ち塞《ふさ》がるであろう強敵はあまり気にならなかった。
倭建が心に翳《かげ》りを宿したのは、大和王権の内部から伸びる陰湿な手であった。
かつて筑紫《つくし》物部が倭建を暗殺しようと筑紫からはるばるやってきた。
明らかに河内の物部が彼等を匿《かく》まったのである。当時、物部十千根が関与していたかどうかは分らない。
それと大事なことは、オシロワケ王に暗殺部隊を容認していた気配はなかった。
筑紫物部が、倭建を暗殺しようとしたのは、三輪王権の脆弱《ぜいじやく》化が目的だった。
河内の新興勢力は、三輪王権に取って替るべく策謀を練ったのだ。
だが今回、朝日雷郎をあおったのは、明らかに三輪王権内部の勢力であり、オシロワケ王がそれを黙認しているとしか考えられない。
父王は吾の死をも望んでいるのか、と倭建の気は重くなるのだ。
夕餉《ゆうげ》の後、伊勢の海岸に出た倭建は、大和に戻りたくなった。
そんな倭建が、東征の道を歩み続けたのは、誇りだった。
卑怯者《ひきようもの》という汚名だけは浴びたくなかったのである。
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尾張に
倭建《やまとたける》は三日間も鈴鹿川の河口に留まった。
食糧を集め、兵士達の英気を養った。
倭建の大勝により、三輪王権の威力は増した。
倭建の命令により、伊勢の南部、また伊勢湾に面した尾張の豪族が食糧や弓矢を倭建に献上した。
伊勢湾の各地から船も集まった。
丹波猪喰《たんばのいぐい》が、戦を勝利に導いた村長《むらおさ》の娘の婚約者、山賊の大裂《おおさき》の拝謁を許していただきたい、と願い出たのは三日目の朝だった。
倭建はそれとなく猪喰に、大裂と対面するのは三日目にせよ、と久米七掬脛《くめのななつかはぎ》を通して知らせていた。
大鳥と共に大裂は戦勝に貢献している。
普通なら末席にでも坐《すわ》らせ、功を褒め、労を労《ねぎら》うところである。
ただ何といっても大裂は山賊だった。鈴鹿川周辺の民に被害は与えなかったが、朝日《あさけ》地方の北部の民は被害を被《こうむ》っていた。
昔の倭建なら、面白い奴だ、山賊でも構わぬ、戦功をたてたのだ、吾《われ》は会うぞと独断で拝謁を許していた。
だが今の倭建にはそれができなかった。三輪王朝の王子であり、王から東征大将軍に任じられている。
吉備武彦《きびのたけひこ》や大伴武日《おおとものたけひ》の手前、王子の品位に関わるような行動は勝手に取れない。武彦や武日は、倭建が山賊に会うことに難色を示すに違いなかった。
倭建は正式には会わないが、出発の前日あたりに密《ひそ》かに会う、と武彦と武日に意中を洩《も》らした。
二人は密かに会うという倭建の胸中を察し、反対はしなかった。
「王子、大裂の功績はやつかれ達も認めます、ただ何といっても山賊です、王子が山賊と対面し、自ら功労を称《たた》えたとなると、王子の威厳にかかわりましょう、王子は、次の王権を継がれる資格を持たれた方です、どうか内密にお会い下さい」
と二人は進言した。
山賊の力を借り、山賊を褒め称えたなどという噂が東国の各地に拡がることを、武彦や武日は恐れたのである。
「それは分っている、安心せよ」
と倭建は内心苦笑した。
七掬脛は、自分の祖先も山賊かもしれぬ、あまり堅苦しく考える必要はない、という意見だが口にはしなかった。
倭建の部下という点では対等だが、二人は副将軍であり、名門氏族の子弟である。
七掬脛は二人に一歩|退《ひ》かざるを得ないのだった。
倭建は数人の警護兵と共に、砂浜に面した松林で会うことにした。
周囲に人影はない。波はかなり荒く、白い牙《きば》を剥《む》きながら砂浜に打ち寄せていた。
かなり離れた岩場では裸の童子達が貝を獲《と》っている。波が荒いせいか漁舟は海に出ていなかった。
倭建は警護隊長の大伴倉先《おおとものくらさき》だけを連れ、松林に入った。下草は少ない。
猪喰と大裂は先に来て待っているはずだった。
十歩ほど入ると倭建は横笛を吹いた。気を紛らわすために持ってきたのだが、こういう時の合図には役に立つ。
松の木に登り、怪しい者はいないかと警戒していた猪喰は、二丈(六メートル)ほどの高さから跳び降りた。
倭建の傍に来ると平伏した。
「王子様、無理な願いにも拘《かかわ》らず諾《き》き入れていただき、厚く御礼申し上げます」
「猪喰、少し堅苦しいぞ、吾はそちと話していると気が楽になるのだ、胡坐《あぐら》をかけ、吾も坐る」
「はあ、しかし」
猪喰は平伏したまま困惑したように倭建を見上げた。倭建は舌打ちし左右を眺め、砂地から張り出ている木の根に腰を下ろした。
「これで良いだろう、坐れ」
「恐れ入ります」
猪喰が胡坐をかいて坐ったので、倭建は不思議そうにいった。
「大裂の姿が見えぬのう、何処にいる、気配では、木の上でもなさそうだ」
「大裂は、山賊だった我身を恥じ、地に潜っております」
「何だと、この松林の中か……」
倭建は唖然《あぜん》として周囲を窺《うかが》った。砂地を掘って潜っているのだろうが分らなかった。
「実は王子様にやつかれからお願いがございます、大裂がやつかれの部下になりたいと願い出ました、やつかれは叶《かな》えてやりたく思っていますが、如何《いかが》なものでございましょうか……」
猪喰がそれを望んでいることは顔に出ていた。
「ちょっと待て、大裂は戦利品の半分を得、雷郎《いかずちのいらつこ》に攫《さら》われた恋人を自分の妻にするということで吾に協力したのではないか、妻を連れてそちの部下になるというのか……」
倭建は、それはそちでも許さぬぞ、と鋭い口調でいった。
「はあ、最初はそういう条件を出しましたが、大裂の恋人は心変りがしており、今更山賊の妻にはならぬ、と大裂と会うことさえ拒否しました、何といっても、朝日の首長の妻となり、子までもうけた以上、戦死した雷郎に対する愛情をそう簡単には捨て切れないのでございましょう、大体女人は、あまり過去の男子《おのこ》に恋々としないようです、例外はございますが、男子の方が未練がましいもの、大裂は、岩に頭を打ち死のうと悩みましたが、やつかれの説教に今一度新しく生きたい、と立ち直った次第でございます」
「そうか、大裂の恋人は心変りをしていたわけか、雷郎の妻になり、子供を産み、満足していたのだな、そういう女人なら山賊に身を落した恋人に愛情など抱かぬだろう、とくに夫を滅ぼした吾に味方をしたのだからな、大裂を憎んでいるのだな」
「はあ、そのようです」
猪喰は低い声で答えた。猪喰の眼窩《がんか》に翳《かげ》りが漂っている。猪喰は妻子については殆《ほとん》ど喋《しやべ》らない。
倭建と共に九州に行き、熊襲《くまそ》を討ったが、丹波に戻った後もすぐ山に入り、家族と生活を共にした様子はなかった。
猪喰にも妻子に関しては、口に出せぬ悩みがあるのかもしれない。
「分った、そちの願い諾き届けよう、大裂を呼べ」
「王子様」
「礼は要らぬ、間者《かんじや》の役割がどんなに大事かは、戦でよく分っている、そちは間者の長《おさ》だが、部下が足りぬ、吾もそれを案じていたのだ、大裂がそちの部下になれば、吾も安心じゃ」
「嬉《うれ》しゅうございます、なお大裂に従いたいという三人の部下がいますが……」
「おう、その者も連れて行け、未知の地ばかりじゃ、信頼できる間者は多い方が良い」
「失礼します」
猪喰は袖《そで》の中から小石を出して彼方《かなた》に放った。まるで生物のように松の間を縫うようにして飛び、幹に当って落ちた。
その音を待っていたように砂地が盛り上がった。口に竹筒を銜《くわ》えた大裂は衣服についた砂や泥を払い落し、竹筒を懐にしまった。
竹筒の先を地の上に出して呼吸をしていたのである。
大裂はその場に蹲《うずくま》り叩頭《こうとう》すると、倭建の十数歩手前で平伏した。
山賊になっていたが、村長の長子だけに礼儀正しい。身長は六尺(一八〇センチ)近くあり肩幅が広く顎《あご》が張っている。
眼は当時の倭《わ》国人にしては大きい方だ。鼻は鼻頭にかけて盛り上がり、鼻翼は顎と同じように張っていた。
如何《いか》にも豪傑といった感じである。
猪喰は倭建と大裂の間に坐っている。
倭建は猪喰を通し、大裂の功労を称えた。多分、大裂にも聞えているだろうが、一応は猪喰を通すことにしたのだ。
「猪喰に仕えることは吾に仕えることになる、ただ東征といっても容易なものではない、朝日雷郎には大勝したが、遥《はる》か彼方の東の国々には、言葉も通じない国があるらしい、時にはそういう国々と戦わねばならぬ、勿論《もちろん》、そのことも理解して決意したとは思うが、力一杯働くように、そちは猪喰に仕えたいと思った、それだけで吾はそちを信じるぞ」
猪喰は視線を伏せて唇を噛《か》んだが、大裂に伝える。大裂は砂地に顔がつくまで叩頭し、自分が如何に感激しているかを伝えた。
猪喰は大裂に戻るように命じた。
「王子様、大裂も感激したようです、実は気になる情報を大裂はやつかれに告げております、この戦が始まる一ケ月ほど前、大和から交易の者が尾張に参りました、大裂はそのことを知り帰りを待ち伏せて襲ったのです」
猪喰の声は低く地を這《は》うようである。
「分った、海岸に出よう、松林には長くいるものではない、闇は林を好む」
実際、夕餉《ゆうげ》前で外は明るいが、松林には淡い夕闇が訪れていた。
倭建と猪喰は波打際に近い砂浜に坐った。そういえば、九州でも浜辺で猪喰と二人で話し合ったことがあった。
まだ一年しかたっていないが、遠い昔のような気がするのは何故だろう。
大和の王権内部における倭建の居場所が微妙に変ったせいかもしれない。
倭建はオシロワケ王に嫌われている。ただ熊襲征討前までは、倭建の聡明《そうめい》さと武勇が勝ち、オシロワケ王も倭建を敬遠する程度だった。それに倭建には、群臣の圧倒的な人望があった。
だが九州から戻ってきて以来、異母兄弟の王子や群臣の倭建に対する態度は変ってきていた。
理由ははっきりしている。オシロワケ王がヤサカノイリビメに頭が上がらなくなったせいである。次々と若い女人をあてがわれ、好色の海に溺《おぼ》れたオシロワケ王は、王の威厳を失っていた。
ヤサカノイリビメの意向ははっきりしている。自分が産んだ五百城入彦《いほきのいりびこ》か稚足彦《わかたらしひこ》王子を王位に即《つ》けたいのだ。
女人であるヤサカノイリビメは、そのことを隠そうとはしない。倭建に意を寄せる王子や群臣には冷たい眼を向ける。
オシロワケ王には、そんなヤサカノイリビメを叱咤《しつた》する力はすでになかった。
となると、倭建に好意を抱く王子や群臣も、これまでのように倭建に近寄れなくなった。
倭建は孤立することとなる。
倭建は自分の立場をはっきり自覚するようになった。
過ぎし日のことが、遠くの出来事のように思えるのは、そういう理由からである。
今の倭建は、かつてのように天真爛漫《てんしんらんまん》な王子ではない。
浜辺に出ると魚を焼く匂いが漂ってきた。満ち潮なのだろう。打ち寄せた波は少しでも長く砂浜に這い上ろうと叫んでいる。海は砂浜全部を覆い尽したいのであろう。
倭建にうながされ、猪喰は大裂が伝えた情報を話した。
大裂が交易の一行を襲った場所は養老山系の南端、多度山と揖斐《いび》川の間だった。現在の桑名市北方の多度町である。交易の旅人は約十人ほどだった。大裂は何時ものように草叢《くさむら》で待ち伏せていた部下に矢を射させ、旅人を襲った。
大抵は矢を射られた時に恐慌状態になり、襲われると地に伏せて助命を懇願する。だがその一行は違った。矢傷を負った者達も刀を抜いて大裂達と戦った。
結局重傷を負った三人と死亡した二人を置き、半数は逃亡した。
大裂の部下も一人が死亡し、二人が重傷を負った。被害がその程度で済んだのは、奇襲に際しての矢の攻撃で相手にかなりの負傷者が出ていたからである。もし全員が健在だったなら、大裂の方が敗れていたに違いない。
大裂がこれまで襲った旅人で、こんなに手強《てごわ》い相手はいなかった。
勿論大裂が交易の旅人を襲うのは、相手を殺傷するためではない。交易の荷を奪うためである。
ところが養老山で襲った旅人は、僅《わず》かな海産物を持っていた程度で、荷といえるほどのものではない。故郷への土産程度だ。大裂は部下の一人が死亡した憤りで重傷の旅人の口を割らせようとした。拷問の結果一人が口を割った。
彼等は河内の物部《もののべ》の者達で、尾張に弓矢を届けに来た帰りだった。矢はこれまで以上に鋭く強い矢尻《やじり》をつけていた。
それだけ告白すると旅人は息が絶えた。残りの重傷者は口を割らずに死んだ。
「王子様、一人が珍しい刀子《とうす》を持っていました、大裂は自分のものにしていたのですが、王子様にお仕えするに際し、献上したいと申し、やつかれが預っていますが……大裂は旅人から奪った刀子を王子様に献上して良いものか迷い、やつかれに預けたのでございます」
「見よう」
猪喰は布で包んだ刀子を倭建の二尺ほど前に置いた。
倭建は刀子を出して眺めた。鞘《さや》は漆塗りで柄《つか》は太い鹿の角である。柄頭には二つの水晶の切子玉が嵌《は》め込まれていた。大きな玉なので柄頭に嵌め込むには相当な技術が必要である。柄はよく磨かれ艶《つや》が滲《にじ》み出ている。
当時、鹿の角の柄は珍しい。明らかに渡来系の工人に命じて作らせた特製品である。
オシロワケ王は持っているが、王子達にとっても貴重なものだった。
「吾《われ》も持っていない、多分|長《おさ》であろう、大裂に伝えよ、戦利品として貰《もら》っておくとな」
「喜びましょう」
「問題は矢を運んだに過ぎない者が、何故このような貴重品を持っていたかだな、ここが大事だ、どうも身につけていた者の刀子ではあるまい」
「王子様も……」
そのようにお考えですか、と猪喰はいいたそうだった。
「そう思うであろう、一行は物部十千根《もののべのとちね》か、十千根に通じる河内物部の長が派遣した使者に違いない、となるとこの刀子は物部の長が使者の長に、身分の証明として預けたものであろう、次に、何故尾張に新しい矢を運んだかだな……」
猪喰は黙って倭建を見た。
この考えるような言葉は、自分に向けられたのではなく、倭建の自問自答であることを猪喰は承知していた。
「二つの答えが得られる、一つは河内の物部が河内の新興勢力と通じ、三輪王朝の打倒を企《たくら》んでいる証《あかし》かもしれぬ、旧王朝を打倒する以上、新勢力は諸国を味方につけた方が得策だ、もう大和周辺だけの問題ではない、尾張以東の東国の協力がこれからは大事だからのう、第二は吾の東征を邪魔とする勢力が、尾張に策謀の手を伸ばした、朝日雷郎のように戦で吾を打倒しようというのか、暗殺の手段に訴えるのかは分らぬがのう、新しい矢尻の矢を運ばせたところを見ると、戦かもしれぬ、この場合は、ヤサカノイリビメも承知していると考えた方が良い、父王は黙認というところか……」
倭建は自分に頷《うなず》くと薄い笑いを浮かべた。
「猪喰、どう考える?」
「王子様のいわれるように、いわれた二つのうちの何れかでございましょう、ただ即断は禁物です」
「うむ、承知している、もし前者なら三輪王朝の危機だのう、吾が東に行くのも、新しい王朝の地盤固めということになる、馬鹿気たことだ、まあ何れにしろ、尾張に行けば分るであろう、それにしても、これだけの情報を得ていながら、今まで胸中に秘めていた大裂は見事じゃ、雷郎が所有していた財宝の中に沼《ぬな》川の勾玉《まがたま》があったと思うが、それを渡せ、勾玉ならあまり目立たぬ」
「大裂も、王子様に仕える決意を固めた上で、やつかれに話したようです」
「分るぞ、そちも良い部下を持った、それと、今の件は武彦や武日にも話すな、動揺はしないだろうが、大和に残っている者達に敵意を抱くかも分らぬ、折角旅に出たのだ、家が気になると旅が面白くなくなる」
「やつかれの胸に秘めておきます」
倭建は夕餉《ゆうげ》の席で、鈴鹿川河口での滞在を二日間延ばすことを武彦と武日達に告げた。
「と申すのは、武彦には陸路を進んで貰いたいからだ、陸路といっても川が多く、船が必要だが、揖斐川河口にはここに集めた船を廻そう、武日は吾と共に船で行く、念には念を入れた方が良い」
「何か情報が入ったのでございますか、例えば尾張に不穏な動きがあるとか……」
武日は顎《あご》を張った。緊張した時の武日の癖である。
「いやそうではない、ただ今回の東征で最も大事なのは尾張だ、尾張は東国諸国の西端に位置する、大和にとっては、東国との関係において要衝の地だ、だから尾張までは、慎重な行動を取った方が良い、全軍で海を渡るよりも、二手に分かれた方が安全だ、それに武彦は尾張に到着するまでに在地の勢力に武威を示せる、猪喰は部下とした大裂などと共に一足先に出発させよう、尾張は確かに海、また美濃を通じ、大和とは交流を持っている、大和の勢力を知っているし、一応服従的な態度を取っているが、本心からのものではない、倭《わ》国が一つの国として纏《まと》まっているわけではないから当然であろう、陸と海の両道から行くのも、武威を示すための策じゃ」
倭建は意味あり気に笑うと、
「武日、本道を堂々と歩むのは恰好《かつこう》が良いが未知の国では危険じゃ、吾はそち達と共に無事|凱旋《がいせん》せねばならぬからのう」
「王子、よく分りました」
武日は納得したような面持ちである。
「王子、もし敵対する賊がおれば……」
と武彦が今にも腕を叩《たた》かんばかりの勢いでいった。
「勿論《もちろん》征伐せよ、途中の海人の地の勢力は、大和との交流も深いし、そんな馬鹿な者はいないとは思うが、何といっても未知の道、何が起こるかもしれぬ、ただし武彦、賊が逃げた場合、深追いはするな」
「心得ております」
「陸路は海路よりも遅れる、武彦軍は明日の朝餉を済ませた後出発せよ、朝日の大鳥《おおとり》に揖斐川まで案内させよう、今宵《こよい》は出陣前夜の酒宴じゃ」
と倭建は大声でいった。
当時の尾張の主な勢力は、前にも述べたように北部では現在の犬山市、南部では知多半島の根っ子、また海部《あま》郡などにあった。今、倭建が海を渡って行こうとしている尾張は、知多半島の根っ子である。
天白川の南部だが、当時は天白川の大半は海であった。
その勢力の首長は尾張音彦《おわりのおとひこ》である。製塩や漁労が主で、交易品は塩だった。
音彦の悩みは宮簀《みやす》媛ひめにあった。宮簀媛は十八歳でまだ独りである。この春、尾張北方の勢力の長《おさ》と婚姻が纏まりかけたが、最終段階になって、媛は拒絶した。
まだ婚姻する気はなく、もしどうしてもしなければならないのなら海に飛び込み、死を選ぶというのであった。
音彦は、それが口先だけではないことをよく知っていた。女人には珍しく強固な意志の持ち主で、自分が決心したことは身の危険など恐れずに実行する。
宮簀媛が童女だった頃、屋形に美しい鳥が飛んできた。羽毛が火のように赤く、首と尾が白い。音彦もこれまで見たことがない鳥だった。飛ぶと炎の塊が飛んでいるようである。媛は欲しいといい出した。
何人かの巫女《みこ》が神に祈り鳥を落そうとしたが駄目である。その鳥は半日も屋形の周辺にいたが、夕闇が迫る頃山の方に飛び去った。
宮簀媛の姿が消えたのはその日である。
翌朝になり媛がいないので大騒ぎになった。音彦は、ひょっとすると鳥を探しに山に入ったのではないか、と思った。勘である。
音彦の弟を長とする十数人の捜索隊を山に入らせた。
音彦の勘は当った。媛は低いが渓谷の上の岩に坐《すわ》っていたのである。三日後だった。捜索隊がほっとし、媛の名を呼びながら近づくと、
「近づいてはならぬ、近づけば飛び降りる」
と叫んだ。
眼から炎が噴いたような凄《すさ》まじい顔だった。崖《がけ》から突き出た何かに赤い鳥が止まっている。時が過ぎ夕闇が迫ってきた。
夜になったなら大変である。隊長の命令で隊員の一人が樹々が密生している崖沿いに宮簀媛に近づいた。
だが今一歩というところで媛に気づかれた。
媛は叫び声もあげずに崖から飛び降りたのである。媛は奇跡的に助かった。何故か灌木《かんぼく》に横たわっていたのだ。
捜索隊は気を失っている媛を救助したのだ。
音彦が他の女人にはない激しい血が、媛に流れているのを知ったのはその事件からだった。
媛が十二歳の時、遠い南の島から丸木舟に乗った男子《おのこ》が一人、知多半島に流されてきた。肌は真っ黒で髪は縮れている。
男子は捕えられ小屋に監禁された。
人々は海の神だといい、また人間と獣との間に生まれた男子だともいった。
勿論、海の彼方《かなた》に住む人間だと説いた者もいる。
宮簀媛もそうだった。音彦は媛に小屋には近寄るな、と命じたが、媛は父の眼を盗み流されてきた男子に会いに行った。
媛と会うと彼は哀《かな》しそうな眼になった。媛に何かを訴えているようである。
媛には彼が海に戻して欲しいといっているような気がしてならなかった。
彼が流れついて十日目、長老の呪術者《じゆじゆつしや》が、海からの訪問者をどうするかについて神の意を問うことになった。
その結果、黒い男子は海に流されることになった。
媛はほっとしたが、食糧や水は二日分しかない。媛は父に十日分の食糧を積むように懇願したが、父はそんな必要はない、と応じない。
媛は奴婢《ぬひ》に命じ七日分の食糧と水を用意させた。十日分は無理だったのである。
翌朝、それを知った音彦は驚き、媛が用意した食糧を押えた。
音彦は媛を呼び、二日と決めたのは長としての自分であり、今更変更はできない、と申し渡した。
媛はいった。
「父上、私《わ》はあの海から来た男子の妻になりましょう、故に十日分の食糧を用意していただきたいのです」
音彦が驚愕《きようがく》したのはいうまでもない。
「何だと、気でも狂ったのか」
「いいえ、正常です、あの男子は哀し気な眼で私を凝視《みつめ》ましたし、私は胸を衝《つ》かれ心が熱くなったのです、妻になっても良いと思いました、だから私は彼と共に参ります」
「船に乗ると申すのか」
音彦は媛が演技をしているとは思えなかった。媛の眼は濡《ぬ》れて訴えていた。
媛は間違いなく黒い男子の妻になるつもりなのだ。
音彦は赤い鳥を追い、山に入った媛の姿を眼の前に見た思いだった。
「それは許さぬ、吾は尾張一族の長だ、海から来た男子は悪霊を背負っている、だから追放と決まった、積み込む食糧や水も、一族が集まり相談し合い、吾が決定したのだ、今更変更できぬ、媛は吾の娘だが、吾の決定に反抗しようと申すのなら、黒い男子の船が見えなくなるまでそちを監禁せざるを得ない」
音彦が、言葉だけではないぞと睨《にら》むと、媛は父を憐《あわ》れむように見返し、首を横に振った。
「それは無駄でございます、彼は明日か明後日、またこの地に戻ってきましょう、私を連れて行くためにです」
「馬鹿な……」
「その時、私が監禁されたままでしたら、この地に災害が起こります」
媛は平然といい放った。
「戯言《ざれごと》じゃ」
と叫んだが、音彦は媛の言葉にいい知れぬ恐怖を覚えた。
「では、十日分の食糧と水を積んだなら、戻らぬのだな、そちは妻になるなどいわぬな」
「はい、また航海の無事を祈って送り出せば、多分戻りますまい、あの男子が背負っているのは悪霊ではなく神でございます」
「分った、一族を集め、今一度会議を開く」
音彦は招集した一族に、昨夜、夢に神が現われ、十日分の食糧と水を積まなければ、黒い男子は再び戻り、当地に災害をもたらす、と告げたことを話した。
「吾は神のお告げに従う、これは吾の決定じゃ」
音彦がこんなに断固《だんこ》とした決定を下したのも珍しい。その結果、海から来た旅人は宮簀媛の要望通りの食糧と水を積み、引き潮と共に海の旅に出た。彼は二度と戻らなかった。
海の旅人が故国に戻ったのか、他の国に辿《たど》り着いたのかは誰にも分らない。
ただそれ以来、音彦の権威はこれまで以上に高まった。
媛が十五歳になると、何度か婚姻話が出たが、すべて媛の拒否にあって潰《つぶ》れた。だが何時までも婚姻しないわけにはゆかない。当時は殆《ほとん》どが政略婚姻であり、それを決めるのは首長であった。媛の我儘《わがまま》をこれ以上許すと音彦の権威に傷がつく。
倭建の一行を迎えるに際し、音彦が悩んだのはそのことだった。
倭建に関して妙な情報が伝えられたのは一ケ月以上も前だった。
尾張の海部郡の長の子が音彦を訪れてきた。彼は音彦と酒を酌み交しながら次のようなことを洩《も》らした。
大和の王権は広い倭国を統一せねばならないと考慮中であり、近々、王子を大将軍とした軍団が来る。大将軍には多分倭建王子が選ばれるはずだが、王子は大和の王権内では孤立しており、オシロワケ王にも嫌われている。王子はそのことをよく知っており、王に反旗を翻すかもしれない。その際、尾張がオシロワケ王側に立つか、倭建に味方するかは、尾張の命運にかかわる。海部郡の勢力はオシロワケ王と親交があり、倭建には味方しない。音彦を長とする知多半島の勢力も今のうちに決断しておいた方が良いという。
明言はしないが、反乱軍には味方するな、という忠告が含まれていた。
音彦も大和の王権と交流はあるが、海部地方ほど深い関係ではない。それに音彦が耳にしているのは、オシロワケ王よりも倭建王子の勇猛さだった。
ことに九州島の熊襲で勝利をおさめて以来、倭建の武勇は東国にも拡まっており、大和王権の次の王は倭建王子だと思っていた。 音彦は意外なことを知らされた面持ちで、
「倭建王子が反旗を翻すというのは本当なのか」
と反問した。
「それは内々の情報ですぞ、だいいち倭建王子が大将軍になるということも、我々は知らない、もし王子が大将軍になれば、この情報は重大な意味を持ちます」
「かなり確度が高いということか」
「そういうことになりましょう、ただこの話は、長の胸一つにおさめていただきたい、もし洩れると大変なことになります」
「分っている」
そういう密談があって約二十日後、音彦は倭建が大将軍になったことを知った。
大和の王権が、伊勢で船を造っている以上、尾張に来るのならまず海を渡り知多半島に上陸するはずである。
音彦が、どのように迎えようか、と思案していると、大和から使者が来て、十日ほど滞留するから協力するようにという要請があった。
音彦にとっては厄介なことである。尾張で反旗を翻されたならどう対応するか、音彦はまだ決めていなかった。
海人の長から伝えられたことは胸中におさめ、一族の者にも知らせていない。結局来た時のことで、それまであれこれ考えても仕方がないと腹を据えた時、朝日雷郎が倭建軍を攻めた。どうやらあの情報は偽りではなかったらしい。
音彦は内心、倭建軍が敗北することを願った。そうなれば知多半島には来ない。厄介なことは起こらずに済む。
音彦の願いに反し、倭建軍は大勝し雷郎は戦死してしまった。
倭建の勇猛さは音彦にも伝えられた。それは誇張されているだけに大変なものである。
倭建は雷郎の剣を二つに折り、逃げる雷郎を掴《つか》まえると傍の岩に叩《たた》きつけた。雷郎の頭は潰れ、二つの眼の玉が空高く飛んだ、という。
また別な噂によると、倭建の武勇を恐れた雷郎は降服した。だが倭建は自分に反抗した者は許さぬ、これからの見せしめだと雷郎を木に縛り火焙《ひあぶ》りの刑に処した。
大和から連れてきた部下と共に、雷郎が焼かれて絶叫するのを眺めながら酒を飲み、
「この酒は鯛を肴《さかな》にして飲むよりも旨《うま》いぞ、これから反抗する者はすべて火焙りじゃ」
と哄笑《こうしよう》した。
誇張された噂だとは分っていながら耳にした者は慄《ふる》えた。
また倭建は女人が好きだが、趣味が異常で、女人を裸にして鞭《むち》で打ち、その女人が失神してから媾合《まぐわ》う癖があるという。
そんな噂話を耳にしただけで、女人は悲鳴をあげた。
倭建がいよいよ船に乗ったという情報が入った。
音彦にとって今一つの悩みは、夜の伽《とぎ》の女人に誰を選ぶかであった。
何といっても倭建は、オシロワケ王の皇后が産んだ王子である。王子の中でも最も地位が高い。そういう王子を迎える以上、伽の女人は何人かいる妻のうちの一人か、宮簀媛のような娘でなければならない。
音彦が見て最も美しいのは宮簀媛だった。たんに美貌《びぼう》というだけではなく、まだ男子を知らないのに内から妖美《ようび》な光が放たれているような気がする時がある。ぎょっとして思わず眼を凝らすと童女に戻っている。
宮簀媛の内部には様々な美が秘められていて、ふとした拍子に虹《にじ》の光彩のように滲《にじ》み出るのである。
こういう女人を音彦は知らない。
例えば宮簀媛の眼は細く切れ長だった。白眼の部分が赤子のような青みを残しているが、その時々により刀身のように光ったり、氷のように冷たくなるが、また春の穏やかな海のように和らかく感じられたりする。
眼に虹の光彩が表われないのは、男子を知らないし、女人の情炎を味わったことがないからだろう。
妖《あや》しい美を体内に秘めているにも拘《かかわ》らず、宮簀媛は男子に興味を示さない。
だが男子の方は宮簀媛に惹《ひ》かれる。倭建が媛を見たなら、伽の女人として差し出すよう要求するに違いなかった。
宮簀媛の性格から推測すると、媛は拒否するに違いない。
媛には尾張の立場が分っていないのだ。
音彦は悩んだ末、倭建が尾張に滞在中、媛を山にでも隠そうと思った。
事の経過を率直に話せば、媛も応じるであろう。
朝餉の後、音彦は媛を呼び、
「話したいことがある」
と告げた。
「はい、何でございましょう」
媛はまじまじと音彦を見た。媛の眼に青みが拡がり、音彦は吸い寄せられるような気がした。媛は音彦の胸中を読んでいた。
「大事な話だ、海辺でも歩きながら話そう」
音彦と宮簀媛は、二人の侍女と二人の警護兵を連れ北の海辺に出た。
その辺りは東側が湾になっており、北方に岬が突き出ている。岬の根っ子は、後の熱田である。
海のあちこちには漁舟が出ていた。尾張は海産物が豊富で、海人が多いのだ。
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伽の女人
その辺りは砂浜というよりも、小石を敷きつめたような浜であった。
岩が砕け、風雨に晒《さら》され、波で洗われ今のような丸い石になったのである。その間、何万年、何十万年という歳月をへている。
小石といっても、もうすぐ砂になりそうな小粒のものもあった。
小石の浜には美しい貝殻が多い。宮簀《みやす》媛ひめは綺麗《きれい》な貝殻を集めて自分で磨き、紐《ひも》に通して胸に飾っている。
貝殻に紐を通すのも媛自身の手による。専門の工人もいるが、媛は自分で作るのが好きだった。
小石の浜は次第に狭《せば》まり海に突き出た岩床で遮られている。
岩床には海女がいた。栄螺《さざえ》や鮑《あわび》を獲《と》っているのである。
百歩ほど離れているが女人達の声はよく聞える。
「父上、ここまでにしましょう」
宮簀媛はやや斜めになっている小石の浜に腰を下ろした。トンボが木の枝や草に止まるような自然な動作であった。
これ以上近づけば、女人達は身を隠さねばならない。
宮簀媛は民に対する思い遣りが深い。
音彦《おとひこ》も宮簀媛と並んで腰を下ろした。媛の裳《も》は短く、投げ出した脚から膝《ひざ》小僧や脛《すね》が剥《む》き出ていた。肌は油を塗ったような艶《つや》がある。膝の皿が小さく、倭《わ》人の脚ではない。
音彦は媛の脚を見ると何時も不思議に思う。媛の母は東の国の女人だが、媛のように恰好《かつこう》の良い脚ではなかった。音彦も脚は短く太い。膝の皿も大きい。
媛は海の彼方《かなた》を眺めながら胸の飾りを鳴らしていた。媛の青みがかった眼は無心に遠くをさ迷っている。
こんな時の媛は童女のようだった。
「父上、今日のお話は、大和から来るという王子のことでしょう」
媛は謎《なぞ》めいた口調でいった。
媛は巫女《みこ》ではないが勘が良い。
「おう、そうだ、よく分ったのう」
「侍女達が大和の王子のことを噂《うわさ》しています、恐ろしい王子とか……」
「そうじゃ、獰猛《どうもう》な王子じゃ、勇者で鳴る朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》を斃《たお》し、火焙《ひあぶ》りにしながら酒を飲んだという、朝日の一族はあまりの獰猛さに恐れ戦《おのの》き、全面的に降服したらしい」
「本当のことでしょうか、人を焼くと臭うございます、お酒もまずくなるのでは……」
「うむ、それも一理じゃ、だが昔から勇猛な王子だった、吾《われ》は十年も前から男具那《おぐな》王子のことは噂で聞いている、まだ二十歳にもならないのに山に棲《す》む鬼神を斬り殺した、げんに一昨年は西の果てにある九州島に行き、泣く子も黙るという嵐の鬼神のような熊襲建《くまそたける》と素手で戦い、岩に叩《たた》きつけて殺したという、相手の刀を奪うように建の名を奪い、自分の名前にした、大和のオシロワケ王もあまりにも王をないがしろにした王子の行為に憤られたが、王子が何をするか分らないので、我慢されているとのことじゃ、その王子がここに来る」
音彦は媛を脅そうと声に力を込めたが、媛の眼は相変らず夢でも見ているようだった。
「何時だったか、大和の使者が参りました、その使者から王子のことを聞かれたのですね」
「うむ、王族の間でも評判が悪い」
「お気の毒な王子ですね」
「何だと、何が気の毒なのだ?」
「王や王族から嫌われている以上、気が休まる時はないではありませんか」
「それはそうだが、性格が異常だからだ」
「それも考えられますけど、自分を曲げないから嫌われているのかもしれません、自分に忠実な王子ともいえましょう」
音彦は驚いた。媛がこのように倭建《やまとたける》を弁護するとは思ってもいなかった。
「媛よ、恐ろしくはないのか……」
「噂の通りだと恐ろしゅうございます、でも、そういう方が我家に来られるのです、どういうお方か見てみたい好奇心もないとはいえません」
本当に変った女人だ、と音彦は舌打ちしたかった。我《が》を通すといえば、媛も同じ性格だった。
媛は音彦の命令など諾《き》きそうになかった。これからもそうに違いない。
ただ音彦には媛の解釈を頭から否定できないものがあった。
オシロワケ王はどうやら倭建を排除したがっている。それは倭建が獰猛な王子という理由だけではない。
次の王位問題が絡んでいるのだ。王位に即《つ》かせたくない王子なのである。倭建はそれを知っているが故に我意を通そうとしているのかもしれない。
だがそれは悲劇を招く。
音彦は吐息をついた。
「媛よ、好奇心では済むまい、倭建王子が媛を見れば、夜の伽《とぎ》に差し出せと要求するに決まっている、媛はそれを断ることはできないぞ、前の婚姻の場合とは違う、媛が王子の要求を断ると、場合によっては吾も死を覚悟せねばならない、媛にはその重大性がよく分っていないのではないか……」
「父上、私《わ》はそれほど愚かではありません、分っています、父上は私に、何を望んでおられるのですか?」
媛は澄んだ眼を向けた。
「吾は媛を山の中に隠したい、もし媛のことを訊《き》かれたなら、悪い病に罹《かか》っているので、遠くに住まわせていると説明しよう、幾ら好色な王子でも、それ以上は追及しまい、吾の妻にも若く美しい女人はいる、伽の女人として不足はないはずじゃ」
「父上のお気持、嬉《うれ》しゅうございます、勝手|気儘《きまま》な娘なのに……」
珍しく、宮簀媛は視線を伏せた。暫《しばら》く考えていたようだったが、足許《あしもと》の小石を拾うと海に投げた。坐《すわ》ったまま投げたので力が入らず波打際に落ちた。
媛は立つと小石が落ちた場所に行った。音彦は今更のように媛の後ろ姿に眼を奪われた。腰部が締まり尻《しり》が豊かで脚が長い。
色は白くなく冬でも少し陽に焼けたような肌だが、何故か眩《まぶ》しい。
媛は履《くつ》を脱ぎ足首を波に洗われながら落ちた小石を探しているらしい。
だが媛が手にしたのは水色と赤の巻貝の貝殻だった。この辺りでは見かけない貝である。
遠い海から流れてきたのかもしれない。戻りながら布で拭《ふ》いた。
「父上、綺麗な貝でしょう」
「うむ、赤と水色の貝など見たことがない」
「私が小石を投げたのは、貝が見つかるようにと念じたからです、この通り美しい貝が現われました、多分、神のお告げでしょう、父上、私は山には隠れず、屋形に残り、倭建王子を迎えたいと思います、魔神のように噂されている王子が、どんな男子《おのこ》か知りたい」
媛は小さな貝が倭建であるかの如く、布で磨きながら活々《いきいき》とした声でいった。
「媛よ、屋形に残った以上、王子が大蛇のような男子であっても逃げられぬぞ」
「はい、覚悟しています、その時は埴輪《はにわ》になりましょう、父上を始め、尾張《おわり》の一族に迷惑はかけません」
「そうか、そこまで覚悟しているのなら、もう何も申すことはない」
音彦は唇を噛《か》んだ。
今は倭建の噂が真実でないことを願うのみであった。
伊勢湾に出ていた音彦の水軍は、昼前に大船団を発見し、八人が全力で漕《こ》いで音彦に伝えた。
宮簀媛は倭建を迎えるべく新しい衣裳《いしよう》を着た。裳は何時もより長く脛《すね》の半分まで隠している。色は赤く上衣は水色に近い淡い緑だった。
昨日拾った貝の色に驚くほど似ている。
音彦は男子なので気づいていなかったが、媛は貝の色を見て迷いが消えた。今、媛が着ている衣服は、婚姻用に作ったものである。たんなる偶然とは思えなかった。
相手が魔神でも構わない、私は倭建王子の伽の女人になる。この時のために、私は男子を避けていたのかもしれない、と媛は胸の中で呟《つぶや》きながら銅鏡に自分の顔を映して見た。
音彦の一族が船着場で倭建の一行を迎えた。大伴武日《おおとものたけひ》が音彦の屋形に来て、すでに使者が伝えていた倭建の東征を告げた。
音彦一族の屋形は、濠《ほり》で囲まれていなかった。尾張地方にもかつて戦はあったが、後の近畿地方や瀬戸内海沿岸、また九州島のような激しい戦はなかった。
間もなく倭建の一行が音彦の一族に案内されてやってきた。
甲冑《かつちゆう》を纏《まと》った倭建は一人だけ馬に乗っていた。船で運ばせた栗毛《くりげ》の馬である。当時の尾張にはまだ馬は入っていない。
倭建が馬に乗るのは戦場ではなく、のどかに道を進むような場合である。また今のように未知の地で相手が出迎えてくれるような時も馬に乗る。
馬を知らない人々にとって、馬に乗った貴人の姿は、威厳に満ち溢《あふ》れている。
庶民は身を硬くして蹲《うずくま》り、また草叢《くさむら》に姿を隠す。
音彦は、屋形の前で倭建を迎えた。左側には子供達が、右側には妻達が並んだ。家族全員で迎えることによって、獰猛という噂の倭建の気持を少しでもほぐそうとしたのだった。
弟を始め一族は、船着場で倭建を迎えていた。彼等は、少し離れた場所で見守った。
音彦の一番下の子は、まだ五歳だった。その母は二十三歳だ。
一夫多妻の時代なので音彦には、十代半ばの女人から三十代半ばの女人まで数人の妻がいた。
倭建は馬から降りると手綱を部下に渡し、音彦の前に立った。
音彦を始め子供達が一斉に叩頭《こうとう》する。
「やつかれは尾張音彦でございます、天下に名を轟《とどろ》かされている倭建王子様を我家にお迎えできて光栄でございます」
倭建は頷《うなず》き、
「尾張音彦、吾も名は聞いている、妻子共々の出迎え、嬉《うれ》しく思う」
倭建の眼は数人の妻と子供達に注がれた。
音彦と並んで立っているのは宮簀媛である。媛は喰《く》い入るように倭建を見た。
魔神のように恐れられている倭建は眼光こそ鋭いが、眉《まゆ》が濃く鼻筋の通った凜々《りり》しい男子だった。一文字に結んだ口許に強い意志が感じられた。
宮簀媛と視線を合わせた倭建は、瞬《まばた》きをした。一瞬自分の眼が信じられなかったのかもしれない。
倭建は表情を緩め、子供達の挨拶《あいさつ》に頷《うなず》くと、今一度妻達を見た。
宮簀媛の母親を確かめようとしたに違いなかった。
「王子様をお迎えした者共の名は……」
音彦は妻の名、子供の名を一人一人告げた。
その度に紹介された家族は叩頭した。
音彦が宮簀媛を紹介した。媛は倭建を睨《にら》むように見て叩頭した。鷹《たか》のような眼であった。
一同の紹介が終ると倭建は音彦に訊《き》いた。
「宮簀媛の母親は……」
「はい、病を得、十年ほど前に亡くなりました」
「そうか、母親が早く亡くなるのは悲しいことだ、音彦、潮風で身体がねとついている、湯を浴びたい」
「すでに用意してございます」
倭建達は水浴び場に案内された。
そこは貴人用の水浴び場で板囲いがされていた。
「私がお世話させていただきます、どうかお脱ぎになって下さい」
宮簀媛は両腕を差し出した。
すでに何人もの侍女が湯|甕《がめ》と水甕を用意している。
倭建は刀を板囲いに置き、刀子《とうす》は口に銜《くわ》えた。上衣と筒様の袴《はかま》を脱ぎ宮簀媛に渡す。媛は木の枝にかけた。
下着、下帯も取り媛に渡す。
「旅じゃ、捨てずに洗うように」
「そう致します」
媛は侍女の一人に、
「今直ぐ洗いなさい」
と命じる。
倭建は素っ裸になった。
一人で川にでも跳び込み、身体を洗う方がずっと気が楽だ、と倭建は苦笑した。
庶民は家の中だけではなく、畑や野で媾合《まぐわ》う。男子も女人も、異性の前で裸になることに抵抗はなかった。
自分の身体を洗うのに、女人の手を借りるのは好きではない。
媛の眼が針のように感じられる。こういう場合、大抵の女人には含羞《がんしゆう》が感じられる。媛にはそれがない。といって冷やかなのではなかった。熱い血が感じられる。
媛は湯甕に水を注ぎ加減をみた。
「王子様、お坐り下さい」
「湯は吾が自ら浴びる、吾に渡せ」
「でも……」
流石《さすが》に媛は視線を逸《そ》らせた。倭建は一糸も纏《まと》っていない。股間《こかん》の男子は媛の眼の前にあった。
「媛よ、吾は自ら浴びたいのだ、その方がすっきりとする」
倭建は角髪《みずら》の紐《ひも》を解き、髪を下ろしていた。そんな倭建の容貌《ようぼう》は一層|精悍《せいかん》である。倭建の声は大きく、侍女達も耳にしている。
媛は黙って湯甕を渡した。何が起ころうと自分の信念を貫く王子という気がした。
媛と性格がよく似ている。
倭建は両手で高々と湯甕を持ち上げると、頭から湯を浴びた。潮風は髪の根本にも染みついていて気持が悪いのだ。
「次を」
別の湯甕を受け取るとまた頭から浴びる。両手で髪を揉《も》む。石に繊維を巻いた垢取《あかと》りで身体をこする。
「王子様、背中を」
「うむ、頼む」
倭建が坐ると媛は垢取りで背中を流した。若鹿のような筋肉が盛り上がり垢取りを撥《は》ね除けようとする。媛は力を込めた。額に汗が滲《にじ》み、呼吸が荒くなる。
「おう、気持が良い、身体が生き返ったようじゃ、海人《あま》は、こういうもので潮を流すのか……」
倭建は感心したように垢取りを眺めた。
「はい、大和では?」
「布じゃ、河内の潮風も大和までは吹いてこない、宮簀媛、御苦労であった」
白い歯を見せた倭建に見詰められ、媛は視線を落した。初めて含羞が微《かす》かに頬を染めた。媛の心の臓が鼓動を速め、胸が甘い痛みを伴った。媛はこの時、異性へのときめきを初めて味わったのだ。
十五、六歳が婚姻適齢期だから十八歳になった媛は、すでに適齢期を過ぎた女人である。これまで、異性に無関心だったのがおかしい。それだけに、媛が味わったときめきは、すぐ、激しい情炎となりかねない危険性を伴っていた。
大伴武日や七掬脛《ななつかはぎ》は音彦の屋形の水浴び場で身体を洗った。間者の長の役に徹している猪喰《いぐい》は、兵士達と共に川水で潮を落す。
夕餉《ゆうげ》の宴《うたげ》は屋形の傍の広場でもよおされた。
雲は厚かったが、雨のない夜だったので、倭建達も広場に設けられた宴席に出た。
倭建達は、丸太を組み合わせ、床板を張っただけの高座の席についた。
高座でも倭建の席だけは一段と高い。
倭建を除いた有力な部下達は、床板の上に王子を取り巻くように坐《すわ》った。
高座にかけられた梯子段《はしごだん》を上がった場所には、音彦を始め一族が並んだ。
琴の音を合図に音彦が膝《ひざ》で進み出、倭建を迎えた喜びを述べた。
形式だけではなく音彦は喜んでいた。
魔神のような獰猛《どうもう》な王子と噂されていたが、そのような感じがしない。その言語、動作には部下達を惹《ひ》きつける爽《さわ》やかさがあった。
威厳は備わっているが、決して威張っていない。
宮簀媛は自分の眼で確かめたい興味を覚えると王子に会わない前に音彦にいった。媛の予知能力がいわせたのであろう。げんに媛は倭建の世話をし、王子に惹かれたようであった。
王子を見る媛の眼にはこれまで見たことのない彩りがある。媛は初めて男子に恋をしたのかもしれない。
間もなく舞が始まった。舞というよりも踊りに近い。鼓が打たれ、貝が鳴り、木と木がぶつかり、冴《さ》えた音を出す。
情熱的な踊りである。倭建の兵士達も酒を飲みながら見物した。
最後に一人の女人が踊った。顔を白く塗っている。袖《そで》のない短い裳《も》を纏《まと》い身軽に踊る。片足で立ち身体を回転させ、また身体を後ろに反《そ》らせ、両手を地につけたりした。鼓の音が激しくなると走り跳び逆立ちをした。
こんな凄《すさ》まじい踊りは倭建も見たことがなかった。
篝火《かがりび》の明りが踊り手の眼に映え、光を放つ。
顔は塗り潰《つぶ》しているが、踊りはじめた時から宮簀媛であることが分った。
踊り終ると踊り手は地に伏せ、倭建を見上げた。
「見事じゃ、堪能したぞ、吾の酒杯を渡そう、これで飲め」
倭建は飲んでいる酒杯を干すと、人差指に乗せ廻しはじめた。武日や七掬脛も眼を瞠《みは》った。二人共、初めて見る芸であった。倭建の指の動きは速くなる。指の角度により酒杯は時には斜めになり今にも落ちそうだが、指先に吸いついたように離れない。
倭建と媛との間は十歩はある。
「媛、受けよ」
倭建が叫ぶと酒杯は鳥のように宙を飛び、媛の前に落ちた。
息を呑《の》んで眺めていた音彦が思わず、
「あっ」
と呟《つぶや》いた時、媛の両手が伸び見事に酒杯を受け取った。拍手とどよめきが起こる。
武日と七掬脛も手を叩《たた》いた。
「猪喰、媛に酒を注ぐように」
倭建達がいる宴席に通じる梯子の下に坐っていた猪喰が、酒|壺《つぼ》を手にして立った。
媛は猪喰が注いだ酒を一気に飲み干した。再び拍手が沸き起こる。
倭建は、媛の踊りに昂揚《こうよう》していた。あの身軽さや素晴らしい踊りの美は武術に通じると感じた。
「媛よ、その酒杯をそこから吾に返せるか」
倭建の言葉に音彦が驚いた。
「王子様、もし酒杯が砕けるようなことがあれば大変でございます」
と音彦は、お言葉、お取り消し下さい、と叩頭《こうとう》する。
「王子、音彦殿の申す通りです」
武日も取りやめるようにと訴えた。これからも長い旅は続く。媛が投げ返した酒杯が倭建の手に届かなかったなら、間違いなく砕ける。それは不吉な旅を暗示していた。
「王子様」
七掬脛が床に両手をついた。
倭建は哄笑《こうしよう》した。
「何をむきになっておる、これは酒席の座興ではないか……媛よ、無理はしなくても良いぞ、そなたは女人、無理をするな、ただ吾《われ》に向けて投げてみよ、近くまで飛んできたなら吾が受け取ろう」
「はい、このままでしたら無理ですが、舞いながらなら……」
「おう、舞っている最中にか、面白い、失敗してもとがめはせぬぞ」
「ただ今から」
媛は酒杯を右手に持つと両腕を拡げて、踊りはじめた。
兵士達のざわめきもやんだ。酒宴の席は緊張感で闇が裂けそうである。
「鼓を打て」
媛の声に鼓の音が鳴りはじめた。
「速く」
媛が鋭く叫んだ。
間もなく媛は一本足で立った。身体を回転させながら両手も廻す。媛はすぐには酒杯を放らなかった。回転していることに没入していた。
酒席の座興といったが、媛の踊りを見ているうち、倭建も緊張した。
武術仕合を行なっているような気になって来た。媛は舞うことで精神を統一している。失敗せずに投げたいという気持に支配されていたなら、腕に力が入り酒杯は狙ったところから外れる。
媛は無心の境地に入ろうとしている。多分かなりの速さで酒杯は飛んでくるに違いなかった。
媛が鼓の音に合わせて舞っているようなので、倭建も体内の気を合わせる。
媛が気合を発した。
媛の手を離れた酒杯は凄まじい速さで倭建の頭上に飛んできた。倭建は片手を伸ばして受けた。
酒席は万雷の拍手で床も揺れるようだ。
倭建は崩れるように地に伏した媛にいった。
「見事じゃ、ここに参れ、共に飲もう」
汗塗《あせまみ》れの媛は身体を浄《きよ》めて倭建の席にはべった。
「あのような激しい舞は初めて見た、この尾張のものか?」
媛は誰にも教わらず自然に覚えたことを話した。
「稚《おさな》い頃から舞うのが好きでした、でも、私《わ》のような激しい舞はありません、父から、そんな勝手な舞は止せ、と度々|叱責《しつせき》されましたが、舞うと気持が落ち着きますので、時には隠れて一人で舞いました、鼓に合わせるようになったのは、三年ほど前からでございます」
「武術は?」
「武術と申しますと……」
媛は怪訝《けげん》そうに訊《き》いた。
「あの酒杯の投げ方はまさに石礫《いしつぶて》じゃ、舞も武術といって良いぞ」
「私は女人でございます、武術の稽古《けいこ》はしたことがございません、ただ舞っていると、腕など遠くに伸びそうな気がしますし、舞の技の一つとして酒杯をお返しできそうな気がしました」
「舞の技か、見事なものじゃ、もし武術の訓練を受けたなら優れた剣士になるであろう、今宵《こよい》は愉《たの》しませて貰《もら》ったぞ」
「王子様にお褒めいただき、光栄でございます」
音彦が、媛の自己主張の強さを述べ、自分の手にあまります、と嘆いた。
「まだ独り身か?」
「はい、十八歳にもなりますのに、婚姻致しません、無理にさせようとすれば、家を出、山に入るなどと申します、それが脅しではございません」
音彦は流れてきた黒人の事件について話した。
「本当に、信じられないほど色が黒うございました、媛は自分の生命を賭《か》けて海からの旅人を救いました」
「ほう、どういう話じゃ?」
音彦の話は、媛が自分の信念を貫くためには死をも恐れないことを示していた。女人にしては強過ぎる。ただ異常ではない。海から漂流してきた色の黒い男子を憐《あわ》れんだのである。気性は激しいが根本的に優しいのだ。
「好い話だ、ただ集団の中では調和できない場合も多いであろう、媛よ、そなたの父が首長であって良かったぞ、そなたを庇《かば》ってくれるからのう」
「分っています、ただ、皆に迷惑がかかるようなことは致しません、これでも自分を抑えているのです」
媛は顔を伏せた。
「勝手なことばかり申しています、本当に申し訳ありません」
音彦が汗を滲《にじ》ませながら詫《わ》びた。
宮簀媛は倭建を高床式の屋形に案内した。遠来の上客を迎えるための屋形だった。
寝具は幅が広く二人は眠れる。木枕が二つ並んでいた。
敷布は麻布だが、掛け蒲団《ぶとん》は表が絹布である。草か藁《わら》を細く刻み、布で包んでいた。
上客用の寝具にしろ、絹布の寝具を備えているのは、財力が豊かだからだ。
「警護の方達のために、屋形の周りと床下に筵《むしろ》の寝具を備えましたが……今宵は幸い雨は降りそうにありませんので、雨除けはつけてありません」
媛の説明には無駄がない。
「結構だ、ところで木枕が二つあるが、寝るのは吾だけじゃ、一つで良い」
「伽《とぎ》の女人の枕でございます」
媛の声がやや固くなった。
伽の女人は要らぬことを、前もって音彦に話しておくべきだったと倭建は悔いた。湯を浴びた時から媛が世話をしているのである。多分媛が夜の伽に選ばれているに違いない、と感じていたが、媛の口から出ないのに、先走って拒む必要はない、と黙していたのだ。
それに倭建は媛と一緒にいるのが不快ではなかった。ことに舞を見、酒杯を返された時から、魅力のある女人だと惹《ひ》かれた。
ただ音彦の話では、十八歳まで男子を拒否しているという。
男子に関心のない女人という気もしないではない。
それよりも、倭建が長い東征にも拘《かかわ》らず伽の女人を拒否しようと決意していた原因は、弟橘媛《おとたちばなひめ》にあった。弟橘媛への恋情が、そういう決意を生んだのだ。
これまでにも述べているように、当時は一夫多妻の慣習があった。
邪馬台国《やまたいこく》時代からの長い慣習である。村長《むらおさ》でも財力に応じ、何人もの妻を持つ。
王族級の妻は十人を超える場合が多い。げんにオシロワケ王の妻は、子を産まない女人も加えると数え切れないほどである。故に百人に近い王子、王女を持ったのだ。
倭建のような王子になれば、妻の数など問題にならない。今回のような長旅であれば、行く先々で伽の女人が差し出される。
それが慣習である以上、断るのは、貢物を拒否するのと同じで、差し出した相手の面子《メンツ》を傷つける。
ことに宮簀媛は首長の娘で、まだ男子を知らない。そういう女人を差し出すのは、音彦の誠意の証《あかし》でもある。
倭建としては、まず媛を傷つけないように説明しなければならなかった。
倭建は寝具の傍に胡坐《あぐら》をかいて坐《すわ》った。
「媛よ、そなたは魅力のある女人だ、そなたの舞を見ているうち、吾はそなたと共に舞いたくなった、若い男子だけではなく、あらゆる男子はそなたに惹かれるであろう、勿論《もちろん》吾もその一人だ、今そなたは枕の一つは伽の女人といったが……」
倭建は言葉を切ると、媛の反応を窺《うかが》った。
倭建を見詰めていた媛は、胸中を隠すように顔を伏せた。
王子は何故こんなことをくどくどと喋《しやべ》るのだろう、何故、自分の手を握り引き寄せないのか、と媛は不安にかられていた。
「はい」
情熱的な踊りを見せた媛らしくなく掠《かす》れた声は何処か怯《おび》えていた。
「吾はそなたの父に申すべきであった、吾は東国に発《た》つに際し決意したことがある、女人は近づけないという決意なのだ、勿論、尾張に来るまで、その決意を通している、そなたの魅力にそれも鈍りそうだが、守らねばならぬ」
倭建は媛が頷《うなず》くであろうと心持ち微笑を浮かべた。
だが媛はやや俯《うつむ》き、視線を膝《ひざ》に落したままである。舞で見せた激しい気性は何処に消えたのか。そういう媛は、淡い魚油の明りのせいか儚《はかな》げで別人のようだった。
今にも消えて行きそうである。
倭建は眼をこすりたくなった。俯いた媛の肩のあたりに月光に映えた靄《もや》が漂っているように見えた。
倭建は腹で息を吸い込みゆっくり吐く。強敵と向い合った時の心境で、雑念を消して媛を眺めた。靄が消えた。媛の華奢《きやしや》な肩が慄《ふる》えているのが分った。
消えた靄は媛の悲しみのように思えた。倭建は媛が不憫《ふびん》になった。大和を発つ時の決意が鈍って行く。
弟橘媛は遠い大和にいる。倭建が幾ら念じても、会えない。今、眼の前に思い切り抱き締めたい女人がいた。しかも彼女は倭建に抱かれるのを望み、身を慄わせているのだ。大和での決意を尾張まで持ち続ける必要はないのではないか。体内の血が疼《うず》きはじめ、下半身が熱を帯びてきた。荒い息を吐いた時、倭建は自分の手が無意識に前に伸びようとしているのに気がついた。
倭建は愕然《がくぜん》とした。怪しい鬼神にまどわされているような気がする。その鬼神は媛に憑《つ》いているのだ。
「媛よ、吾は説明した、これ以上は何も話さぬ、そなたは自分の屋形に戻るが良い」
媛が顔を上げた。
媛の眼に明りが映えて煌《きらめ》いた。媛の涙が光となって訴えているようである。
負けぬぞ、と倭建は自分に呟《つぶや》き、拳《こぶし》で頭を叩《たた》いた。目眩《めまい》を覚えたほどの一撃である。気が背筋を走り、眼から鱗《うろこ》が取れたようにはっきり見えた。
「媛、吾が申すことが分ったなら返事をするのじゃ、さもなければ父を呼ばねばならぬ」
倭建は毅然《きぜん》とした声でいった。
「分りました、私は戻ります、お心を乱し申し訳ありません」
「分って貰《もら》いほっとした」
吾はそなたに惹かれている、と倭建は胸の中で呟いた。
媛が去り一人になったが眼が冴《さ》えて眠れない。
倭建の寝具の傍での媛は、怪しい鬼神に憑かれていたようだ。明らかに普通の女人ではない。倭建は気を背筋に走らせることで自分を取り戻したが、油断していたなら媛を引き寄せていたに違いない。
一夜で媛に溺《おぼ》れ、魔性《ましよう》の虜《とりこ》になっていたような気がする。
音彦に、これからも夜の伽の女人を必要としないことを明日にでも告げねばならぬ、と倭建は自分にいい聞かせた。
朝餉《あさげ》の席にも宮簀媛は来た。昨夜のことなど何も覚えていないように明るく爽《さわ》やかな表情である。
未練がないといえば嘘になるが、倭建はこれで良いのだ、とほっとした気分だった。
暫《しばら》くは尾張にいて、その周辺の諸国に倭建が軍を率いてきた理由を告げねばならない。
そのためには、近辺の首長を尾張に集める必要があった。
最低一ケ月は滞在せねばならないのだ。
朝餉の後、倭建は音彦を呼んだ。
「吾は昨夜、媛とは媾合《まぐわ》っていない、媛からそのことは聞かれたか」
音彦は雷に打たれたような顔で床に手をついた。
「初耳です、媛が何か失礼なことを致したのでございましょうか?」
「いや、そんなことは全くない、媛には大抵の男子が惹かれるであろう、吾も、もう少しで誓いを破るところであった、誓いと申しても、吾が自分に誓ったのだが、吾には伽の女人は不必要なのだ、吾は大和に妃《きさき》がいる、その妃の一人を吾は熱愛している、その熱愛の証としての誓いじゃ、理解していただけたかのう」
「はあ、何となく……」
と音彦はいったが慌てて、
「宮簀媛以外の女人でも、必要とはなさらないのですか?」
と問いなおした。
矢張り音彦は理解していなかった。媛が気に入らずに、媾合わずに帰したと思っている。
倭建は舌打ちしたかったが、音彦が分らないのも無理はないかもしれない、と思いなおした。
倭建がいっていることは、現代でいえば、自分に誓ったが故に、女人は断つといっているのと同じだ。いや現代では修行のための禁欲といえば、かなりの人々は納得する。様々な思想が禁欲に価値を見出したからだ。だが古代では、そういう思想は殆《ほとん》どない。
僅《わず》かに巫女《みこ》が念力を保持するため男子を断つとか、呪術者《じゆじゆつしや》が、航海の安全を祈るため女人を断つなど、宗教的な職につく者が、利を求める代償として異性を断つのみである。
その点、倭建の誓いには代償などない。
音彦が、媛は嫌われたと誤解するのも無理はなかった。
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運命の炎
四日後、吉備武彦《きびのたけひこ》の軍が到着した。
揖斐《いび》川などの上流に大雨が降り、渡河予定地域は濁流が溢《あふ》れ、すぐには渡れる状態ではなかった。
水が減るのを待ち、川を渡ったので予定よりも遅れたのだった。
倭建《やまとたける》は滞在を延ばした。
武彦の兵士達を休養させねばならない。それに尾張の東北部にも、大和の王権の威を示す必要があった。
倭建はまつろわぬ賊達を叩《たた》くために、大伴武日《おおとものたけひ》に出撃させることにした。
尾張音彦《おわりのおとひこ》の兵士達も五十人ほど動員した。
戦に闘志を燃やしている武日は大喜びである。
音彦も周辺の賊が大人しくなるのは歓迎だった。
倭建の軍が征伐に来たとなると、服従を誓う賊も出てくるに違いない。それは音彦への服従にも繋《つな》がる。
音彦は、朝日雷郎《あさけのいかずちのいらつこ》軍が大敗したことを知り、これからは大和の王権の力に頼るのが得策だと考えていた。
倭建は出陣前の武日と尾張軍の隊長を呼んだ。隊長は音彦の甥《おい》だった。
勿論《もちろん》、将軍は武日である。
「賊共はいずれも小人数だが、地理に明るい、降伏する賊は受け入れ、反抗する賊は叩け、だが絶対深追いはするな、それと東方の山々には入るな、山麓《さんろく》沿いに南下し、海岸に出よ、いずれ我等の軍が征《い》くことになる」
倭建がいった東の山とは、現在の岡崎市から南北|設楽《したら》郡にかけての山々だ。
「そちの役目は、地理に不案内な将軍を補佐することにある、そのためにも友好的な首長は味方につけ、案内人を出させよ、吾《われ》は勇猛な熊襲《くまそ》を討ったが、それも現地の地理に詳しい者が吾の力になったからじゃ、案内人は間者《かんじや》にもなる、分ったか」
隊長は深々と叩頭《こうとう》した。
倭建が熊襲を討った話は尾張にも伝わっていた。噂は当然膨れあがり、倭建は武の鬼神のように思われていた。
地理に詳しい者が如何《いか》に大事か、朝日雷郎に大勝した蔭《かげ》の功労者が、捕虜になった村長《むらおさ》や山賊の大裂《おおさき》であることを、武日もよく知っていた。
倭建は丹波猪喰《たんばのいぐい》を呼び、大裂と三人の部下を武日軍に加えるようにと命じた。
大裂は動物的な勘の所有者である。
「武日、大裂には自由に行動させよ、情報を得る力は大変なものだ」
「王子、心得ています」
武日は山賊となった大裂を最初は低く見ていたが、今では見直していた。
武日は張り切って出陣した。
倭建にとってただ一つの不安は、武日の張り切りようだった。
三日後、倭建は腕を鳴らしていた武彦や久米七掬脛《くめのななつかはぎ》と共に狩を愉《たの》しむことにした。
猪喰は警護役として同行することになった。案内人は音彦の弟の山石《やまいし》である。その名の通り山の好きな男子《おのこ》だった。
知多半島の山々はそんなに高くはない。その代り丘陵地帯が続き、鹿が多い。
山石と五人の部下は自分の庭のように歩いた。三里(一二キロ)ほど東南に進んだあたりまで来た時、山石は、
「王子様、ここでお待ち下さい、やつかれは東の方に進み小太鼓を鳴らし犬を放ちます、鹿共はこの周辺の丘と丘との間に逃げて参りましょう」
「分った、小川が流れているし、狩り場としては最適じゃ」
倭建達は丘の中腹に腰を下ろし、山石の合図を待った。
「王子、優雅な狩という感じが致しますなあ、多武峯《とうのみね》の深山で熊を斃《たお》す方が気持が昂《たか》まります」
といって武彦は眼を細めた。
「東征の途中だ、気晴らしの狩はこの程度で良い」
「王子様のいわれる通りじゃ、見知らぬ深山に入ると突然山賊に襲われる危険がないとはいえない、のう猪喰」
七掬脛は振り返ったが、もう猪喰の姿は見えなかった。怪しい者がいないかと周辺の見廻りに出かけたのであろう。
警護兵は数人しか連れてきていない。兵達は丘の麓《ふもと》と頂上にいた。
「相変らず素早い男子《おのこ》じゃ、だがこんなところに怪しい者がいるとは思えぬのう、猪喰は動いていなければ気が落ち着かぬのであろう、女人にも興味がないようだし不思議な男子じゃ」
七掬脛は唇を突き出した。
「女人といえば昨夜の伽《とぎ》は音彦殿の侍女のようだった、どうも子供を産んでいる、そのせいか情が深かった」
と武彦は顎《あご》をなぜた。
「そりゃ子供を産めば音彦殿も若い女人に眼を奪われる、暫《しばら》く男子の肌に接していなかったのだろう、朝まで寝なかったのではないか、少し眼が窪《くぼ》んでいるぞ」
と七掬脛が武彦をからかった。
「馬鹿、眼が窪んでいるのは七掬脛ではないか、眼の周りの墨だけが光って見えるわい」
二人は負けじといい合う。
二人にとってはそういう会話が愉しいのだ。
倭建が大きな欠伸《あくび》をすると、二人の視線が注がれた。王子もお疲れじゃ、といっているようである。
倭建が宮簀媛《みやすひめ》と閨《ねや》を共にしなかったといっても誰も信じない。勿論倭建も弁解するつもりはない。弁解すれば禁欲の理由を話さねばならなかった。
弟橘媛《おとたちばなひめ》への恋情が禁欲の原因だなどといっても二人は理解しない。男子は何人もの女人を妻にするのが自然なのだ。
二人は多分、王子は自然に反しているというに違いなかった。
そう思った途端、倭建はおかしくなった。
「さあ、もうそろそろだ、鹿も足は速いぞ」
倭建は背中の矢筒の矢を取った。普通は警護兵の一人が倭建の矢筒を背負う。その日倭建が矢筒を背負ったのは、気を引き締めるためだった。滞在が長引くとどうしても気が緩むからである。
彼方《かなた》の丘で小太鼓が鳴った。同時に犬が吠《ほ》えた。倭建は弓に矢をつがえ麓《ふもと》近くまで下りた。丘の麓から小川までは灌木《かんぼく》まじりの草原である。
犬の声が次第に近づいてきた。鹿の足音も聞えはじめた。雑木林の蔭から数頭の鹿が現われた。長《おさ》らしい鹿は信じられないほど巨大だった。これまでの狩では見たこともない。
「よし、長は吾が射るぞ」
倭建は矢をつがえた弓弦を引き絞った。距離が約二十歩の近くまで迫った時、鹿の長は倭建に気づいた。
巨大な鹿は身を翻し、丘に向った。倭建が放った矢は鹿の尻《しり》を掠《かす》めた。慌てて二の矢を放ったが外れた。
「吾は追う、二人は他の鹿を追え」
倭建は懸命に追った。何人かの警護兵がそんな倭建を追う。倭建が大鹿が消えた丘の上に立つと、すでに大鹿は丘を下り、木立の多い丘の麓にいた。
とがめるように見ているその眼は人間に似ている。
「そちは鹿じゃ、狩の獲物じゃ、吾はそちを斃《たお》すぞ」
矢を放ったが大鹿は木立に跳び込んだ。倭建は唸《うな》ると自分を忘れ大鹿を追った。吾を忘れて獲物を追うなどというのは、十代の半ばの頃で、十年以上記憶にない。
倭建を呼ぶ声が聞えたが耳に入らない。
倭建は鹿に負けない脚力で走った。負けないといっても勝てなかった。大鹿は倭建との距離を縮めない。それに必ず身を隠す木立や草叢《くさむら》の前に立って倭建を見る。
矢筒に入れた二十本近い矢はすでに一本だけになっていた。
明らかに大鹿は倭建に挑戦していた。鹿の王者は呪力《じゆりよく》を備えているのであろうか。
「吾には力がある、吾は誰にも負けぬ、鹿ごときに負けるものか」
倭建は自分に呟《つぶや》き、右手で刀を、左手で倭姫《やまとひめ》王から貰《もら》ったお守りの銅剣を叩《たた》いた。本能的に妖気《ようき》を感じたからである。
どのぐらい大鹿を追っただろうか。何時か倭建は渓流の傍に出ていた。そんなに高くはないが、険しい丘の間を川が流れている。
上から大鹿を眺めた倭建は自分の眼を疑った。大鹿は川に突き出た岩床に四肢を折って坐《すわ》り女人の手を舌で舐《な》めていた。
女人以外に人の気配はない。
「何者だ、そちは?」
倭建の声に女人は振り向いた。驚いたことに宮簀媛だった。
そんなはずはない、吾は鹿の鬼神にたぶらかされている、と倭建は呼吸を整えた。暫《しばら》く眼を閉じ気合と共に眼を見開いた。全身の気が眼に集中する。
宮簀媛は艶然《えんぜん》と微笑んでいる。
竹筒に渓流の水を注ぐと、倭建の方に差し出した。倭建は猛烈な喉《のど》の渇きに襲われた。今は汗は引いているが、さっきまでは全身|汗塗《あせまみ》れだったのだ。
倭建が近づくと坐っていた大鹿が立ち上がった。
倭建を見る大鹿の眼は敵意に燃えていた。
「そなたの憤りは分ります、でも王子様は山の神も恐れる勇猛な方です、さあ行きなさい、これからは狩には注意するのです、そなたは鹿達の長でしょう」
宮簀媛は大鹿の頸部《けいぶ》を優しく撫《な》でた。まるで媛の言葉を理解するかの如く、大鹿はゆっくりと首を動かす。眼から敵意が消え悲しみを湛《たた》えたような光が宿る。
倭建の緊張感が不思議なほどほぐれて行く。
「さあ戻りなさい、私《わ》は王子様と共に戻ります」
宮簀媛が軽く首を叩くと、大鹿は岩床から生い繁る熊笹に跳んだ。あっという間に樹林の中に消えた。
倭建はまだ夢を見ているような気持だった。今にも覚めそうな気がする。
水が流れている。底の青い岩がはっきりと見えた。川魚が群れをなして泳いでいた。
もし夢でなければ得体の知れない鬼神の術にかかっているに違いない。
倭建は岩床に俯《うつぶ》せになると川魚の群れを見た。気を眼に集中すると、同じように泳いでいる魚の中にも動作の鈍いものが識別できる。眼光から発した気はそういう魚を捉《とら》える。
まるで魚は倭建に掴《つか》まるのを待っているように殆《ほとん》ど動かなくなる。実際は泳いでいるのだが、倭建には停止しているように見えるのだ。それも倭建にしか分らない一瞬の間である。
裂帛《れつぱく》の気合と共に倭建の手は水を貫き川魚を掴んでいた。自分の手の中で魚が跳ねようとしているのが感じられた。
倭建は掴んだ川魚を見た。間違いなかった。川魚は消えていない。
夢から覚めた、と倭建は頷《うなず》きながら川魚を放った。
夢から覚めた以上宮簀媛はいないはずである。倭建は冷たい川水で手と顔を洗うと起きた。
「王子様、鹿はもう放しました」
宮簀媛が近寄り布を持った手を差し出した。甘い香料の匂いが鼻孔をつく。
倭建は息を呑《の》んだ。
「どうなさったのですか、お顔が濡《ぬ》れたままです」
「宮簀媛、何故ここに来た、何故あの大鹿を知っている、これは夢ではないのか」
「王子様、夢ではございません、私はここにいます、この身体には血が通っています、女人の肌ですわ」
「では訊《き》く、何故ここにいる? ここは何処じゃ?」
「どうかお顔を」
そういわれてみれば川水で洗ったままで拭《ふ》いていない。倭建は布を取り顔と手を拭いた。
「媛、答えよ」
「魔神を見るように私を睨《にら》まないで下さい、私は尾張音彦の娘、宮簀媛です、ここは屋形から三里ほど離れた低い山の中です」
「三里、では吾は大鹿を追っているうちに音彦の屋形の方に近づいていたのか……」
「はい」
「大事なことを答えてないぞ、何故ここにいる?」
「王子様、これから私が話すことを、どうかお疑いにならずに聴いて下さい、私は昨夜、あの鹿の夢を見ました、鹿は私に訴えたのです、今日の狩で王子様に追われこの場所まで逃げてくる、どうか助けて欲しいと申すのです、それで私はここに参りました」
「夢であの鹿を見たと申すのか、それは信じられぬぞ、鹿とて獣じゃ、獣が夢に現われ人の言葉を話したりするとは思えぬ、吾は未だかつてそんな夢など見たことがない、第一、あの鹿が何故、そなたの夢に現われたのじゃ? そなたと昔から親しかったとでも申すのか、それなら夢に現われないと断言はできぬが、見たこともない鹿が夢に出るはずはない、絶対ないぞ」
倭建は腰に手を当て、騙《だま》されはしないぞ、と媛を睨んだ。
「王子様、私は真実を述べています、もし私が申すことが嘘なら私を斬って下さい、私はあの鹿とは昔から親しいのです」
「そういわれても証拠がないぞ」
「でも王子様は見られました、あの鹿が、私が話したことをちゃんと理解したことを、私が王子様のことを話せば大人しくなり、戻れといえば消えました、王子様も御存知のはずです、昔から親しくなければ私の話を理解したりはできません、そのことは王子様もお認めになると思います」
宮簀媛の声は低かったが、倭建の胸に響く熱が籠《こも》っていた。
倭建は返答に詰まった。媛の説明には一本の筋が通っている。
「なかなか頭の良い女人だ、旨《うま》く説明する、だが一番大事な説明が抜けておるぞ、どうしてあの鹿と会話が通じるほど親しくなったのか、吾が納得するように話せ、作り話なら吾は見破るぞ」
「分っています、王子様、どうかお坐り下さい、私も普通の女人でございます、立って睨まれていますと、なめらかな声が出ません、嘘をついているように詰まります」
そういえば媛は岩床の平らな場所に正座していた。
倭建の気持にも少し落ち着きが出ていた。実際、不思議な話だが、これまでのところ嘘をついているとは思えなかった。
自分が気負いたっていると、媛の説明を疑いながら聴く危険性があった。平静な気持で聴いてこそ正しい判断ができるのである。
「よし、坐ろう」
倭建は、媛と向き合い、胡坐《あぐら》をかいて坐った。
「王子様が父から聞かれたかどうか分りませんが、今から十年以上も前、羽毛が火のように赤い鳥が飛んで参りました、火の鳥というより、炎の鳥といえましょう、私はその鳥に魅せられました、何か私自身が内に秘めていたものが、鳥になったような気がしたからです、私は鳥を獲《と》って欲しいと願いましたが、誰にも獲れませんでした、そしてその鳥は山に飛び去ったのです、私は家を出、鳥を追って山に入りました、夜になり歩くこともできなくなったのですが、不思議に恐くなかった、でも、夜は草叢に身を縮めて眠りました、翌日眼が覚めた時、私はあの鹿が数歩の距離に立ち、私を見ているのに気づいたのです、私は驚きませんでした、その鹿の眼が優しかったからです、私は空腹でした、夢中で家を出たものの食物は持っていません、私が木の実を探しに山に入りますと、またその鹿が近づいてきました、私は吃驚《びつくり》しました、だって鹿の角から蔓《つる》がぶら下がって、木の実のついた小枝がついているんですもの、その鹿は私に食べ物を与えようとしているのです、私がその実を取ろうとすると鹿はゆっくり歩きました、そしてこの川に来たのです、岩の上に木の実が沢山ありました、誰が集めたのか私には分りませんが、私には、その鹿が置いてくれたような気がしました、私は木の実を食べ、その鹿に案内され、赤い鳥を見つけたのです、でも鳥を掴《つか》まえようと私が近づくと鳥は逃げます、その度に鹿は笑って大きく首を縦に振るのです、鳥は獲るものではないとその鹿が教えてくれているような気がしました、こうして三日たち、私達は仲良くなりました、お互いの気持が通じ合うのです」
媛は口を閉じると微笑みながら倭建を見た。倭建は媛の説明に没入していた。疑う気持など少しも湧かなかった。
「それから……」
「はい、翌日父が差し向けた捜索隊が来ました、鹿は私をあの小山の上に連れて行ったのです」
「崖《がけ》の上ではないか……」
「少し下流から登るとあそこに行けるのです、赤い鳥が飛んでいました、私にはもう獲るつもりはありませんでした、ただ眺めていたのです」
「それで」
「捜索隊はゆっくりと近づいてきました、ただ私が崖の上にいるので、傍までは来れません、隊長は王子様と今日狩に出た、私の叔父《おじ》でございます、叔父は懸命に私を呼び、戻ってくるようにと訴えていました、でも、私には殆ど耳に入りません、赤い鳥が飛んでいるからです、そのうち鳥は崖の下に舞い降りたのです、私が覗《のぞ》くと驚いたことに、あの鹿がいました、崖から生えている木に乗っているのです、それだけではありません、赤い鳥は鹿の角に止まっていました、まるで自分の巣に戻ったように私には見えたのです、鹿が私を呼びました」
「呼んだと……」
「はい、顔を上げ、優しい眼で来るように、と告げたのです、間違いありません、と同時に赤い鳥が初めて鳴きました、その鳥も私を見ていたのです」
「そんな……」
倭建には信じられないことだった。だが宮簀媛が嘘をついているとも思えない。
倭建は自分の眼で、宮簀媛と鹿との交流を見ていたのだ。
「お疑いですか」
宮簀媛の眼は澄んでいた。
「いや、疑っているわけではない、ただ、なかなか理解し難い話じゃ」
「はい、このことは誰も信じないでしょう、だから私は話していないのです、王子様にだけ話しました」
「そこで媛はどうした?」
「私は鳥も呼んでいるのを知りました、だから私は飛び降りたのです」
「叔父は見ていたのだな……」
「はい、でも叔父は赤い鳥や鹿のことは知りません、叔父達の場所から崖の下は見えませんから」
「よく怪我をしなかったものだ」
「私もそう思います、でも私の友の鹿が救ってくれたのでしょう、叔父達が見つけた時、私は灌木《かんぼく》の上に横たわっていました、勿論《もちろん》、赤い鳥も鹿もいません」
「媛はあの大鹿を友と申した、それからも時々会ったのだな」
「はい、年に一度か二度、侍女達と花摘みに出た時、あの鹿は現われたりします、何年か前、大変な寒さが続き大雪が降りました、この辺りでは珍しいことです、その夜、私の部屋に鹿が現われました、鹿が角で戸を叩《たた》く前から鹿が訪れたことを私は感じたのです、それも飢えて……」
「食糧を与えたのか?」
「焼米の入った麻袋を与えました、角にくくりつけたのです、鹿は嬉《うれ》しそうに闇の中に消えました、今でも父達は曲者《くせもの》が入り込んで焼米を奪い去ったと信じているのです」
「不思議な話じゃ、現実のものとは思えぬ、だが信じないわけにはゆかない気もする、今日はどうしてここに来た?」
「はい、王子様が叔父達と狩に出るのを知った時、私は夢を思い出しました、あの鹿が呼んでいるのを……私は最も信頼している二人の侍女と共に参りました、父は私の行動にあまり干渉しません、童女時代から、私が勝手なことばかりするので諦《あきら》めたのかもしれません」
「二人の侍女は?」
「百歩ほど離れた繁《しげ》みにいます」
「鹿のことは知っているのか?」
「薄々は感じているようです、でも、私が何も話さないので、そのことには触れません」
「よく分った、戻ろう」
「王子様、私が御案内します」
媛は慣れた道を歩くように急傾斜の繁みに入った。獣途《けものみち》があった。川水を飲むため獣達が歩く途である。
二人の侍女は黙って倭建に叩頭《こうとう》した。
倭建が川沿いの小丘に出ると、意外にも猪喰が現われた。地から湧いたようである。
夢の世界から現実に戻ったような気がした。宮簀媛も驚いたらしい。
「王子様、私と偶然会ったことは秘密にしていただきたいのです、何かと人の口はうるそうございます」
「分った、ここまで来れば道は分る、先に戻るが良い」
倭建は宮簀媛を行かすと猪喰を呼んだ。
「今の媛の頼みを耳にしたであろう?」
「はい、口の動きで大体分りました」
「そうだな、そちは口の動きで、何を喋《しやべ》ったかを知る能力を持っている、媛のことは胸のうちに秘めておけ、それはそうとよくここに現われたな」
「王子様が大鹿を追うのを知り、懸命に王子様を追いました、もう少しで見失うところでしたが、何とか……」
猪喰が視線を落したのを見て、倭建は猪喰が媛の話を聴いたのを知った。
猪喰は間者であると同時に倭建を守っているのだ。
それに今は戦もなく倭建は尾張に滞在中の身だ。猪喰が何時も傍にいてもおかしくはない。
「見事じゃ、ところで媛の話をどう思う?」
「真実でございましょう、媛が赤い鳥を追って山に入り、崖から飛び降りた話はやつかれも耳にしました、ただこの世の話とは思えぬところがございますが」
「吾もだ、多分真実であろうが、まだ疑っておる、ただあの媛には鬼神に憑《つ》かれたようなところがある」
「王子様、やつかれもそう感じました、どうかくれぐれもお気をつけ下さい」
「分っておる」
吾はまだ媾合《まぐわ》ってはおらぬのだ、と倭建は胸の中で呟《つぶや》いた。
「猪喰、行って吾が無事だと知らせよ、騒ぎが大きくならぬうちにな」
「分りました、王子様はお一人になります、油断は禁物です」
猪喰は倭建の傍を離れたくないようだった。猪喰の忠節を思うと彼の意に添ってやりたかった。
「よし、そちと戻り、無事な姿を見せよう、武彦や七掬脛も蒼《あお》くなっているであろう、行くか、だがあまり走れぬぞ」
実際、疲労感が今になって足を重くしていた。
「やつかれもです」
と猪喰は白い歯を見せた。
倭建を見た武彦や七掬脛は歓声をあげて走ってきた。警護兵も生き返った。倭建は大鹿を見失ってはならぬと超人的に走ったので、警護兵も追いつかなかったのであろう、と兵達をいたわった。
猪喰でさえも倭建を見失った、と嘘をついた。猪喰の脚力は部下の中では一番だ。
「そち達が追いつかなかったのも無理はない、もう一度走ってもあの速さは無理じゃ、だが大鹿はもっと速かった、残念ながら逃がした」
倭建は悔しそうに舌打ちした。
猪喰とは戻る最中に会ったと告げた。
倭建が戻ってきた安堵《あんど》感で、それを誰も疑う者はいなかった。
その晩、何時ものように寝具の用意をしていた宮簀媛が思い出したようにいった。
「王子様、弟橘媛《おとたちばなひめ》様は子供を産まれましたとか……」
媛は横顔だけを見せているので表情は分らない。
「ああ、一人のう」
「子供を産んでも愛しておられるのですね」
「子供を産もうと産むまいと弟橘媛には変りはあるまい」
「でも、大抵の男子《おのこ》は、妻が子を産むと新しい女人に気を惹《ひ》かれるようです、私の父も同じです、十人ぐらいの妻がいます、次々と年齢が若くなり、最近では私よりも若い十五歳の女人を寵愛《ちようあい》しています」
「うむ、まあ、それが慣習のようなものだからのう」
「王子様は慣習といわれましたが、私にはそれがどうしても納得できません、これまで私が婚姻を断り続けたのも、そういう慣習のせいだと思います、私には弟橘媛様が羨《うらや》ましい」
「人はそれぞれじゃ、大体男子は気が多い、これは神が定めたものだと思う、子孫を多く残すためにのう」
「勝手な理屈ですわ」
こういう女人の考え方は、当時ではまずなかった。
夜の伽《とぎ》も同じである。貴人が泊まると一族の長は、妻や子を一夜の相手として差し出す。それも慣習だが、宮簀媛にいわすと、女人を道具として扱っているということになるだろう。
「確かに勝手だのう、ただ世の中には勝手なことが多い、いちいち気にしていたなら人生は愉《たの》しくない、女人の顔だって同じだ、そなたのように美しい女人もいれば、醜女《しこめ》もいる、そなたは美しいから気にならないだろうが、醜女は、こんな不公平なことはない、とそなたを恨んでいるぞ」
「それは違います」
「そうかのう、勝手、不公平という点では同じではないか、あまり気にするな」
「王子様はずるうございます」
「何がずるい、女人は返答に詰まるとすぐずるいと逃げる、さあ、枕を貸してくれ、そろそろ眠くなった」
宮簀媛は俯《うつむ》き、木枕を胸に抱え込んでいる。
隙間風《すきまかぜ》に灯油の明りが揺れた。
媛の顔が翳《かげ》りで暗くなった時、倭建は眼を瞠《みは》った。顔が消え眼だけが光った。その眼は倭建を見ていた大鹿のものだ。
「馬鹿な」
と倭建は呟いた。
「何でございましょう」
顔を上げたのは媛である。
媛は鹿の鬼神かもしれない、と倭建は寒気がした。
「媛よ、本当に眠くなった、枕を……」
「はい」
今度は素直に枕を差し出した。木枕には媛の熱が籠《こも》り暖かい。
「もう去って良いぞ」
「はい、お休みなさい」
媛は去った。
緊張感が消え、倭建は深い眠気に襲われた。身体が寝具から少し浮いているような気がした。
木枕の熱が背筋から腰の方に伝わるのがはっきり分った。身体全体がくすぐられるような快い熱である。間違いなく媛の熱だった。
倭建は浮いた自分の身体が草原に横たわっているような気がした。
熱が次第に下腹部に集まって来た。倭建の臥所《ふしど》になっている草が背中をくすぐる。微妙なくすぐり方で体内の血が騒ぎはじめた。
倭建は甘く痺《しび》れた。味わったこともないような快感に襲われそうな気がする。
倭建は脇腹を草で撫《な》でられて呻《うめ》いた。股間《こかん》の男子は猛《たけ》りたっている。
倭建は東征に出発して以来初めて女人を求めた。女人の柔らかい洞穴が男子を包んでくれない限り、この異様な昂奮《こうふん》はおさまりそうになかった。
女人なら誰でも良いと倭建の欲情は叫んでいる。
倭建は発情した獣そのものになっていた。
音もなく戸が開き宮簀媛が入ってきた。香料の匂いに倭建はむせそうになった。渇いた口を開けて喘《あえ》いだ。
宮簀媛は足音もなく倭建の傍に来た。腰紐《こしひも》を解くと音もなく絹衣が床に落ちた。
「おう媛か、よく来た、待っていたぞ」
倭建は自分で何をいっているのか理解していなかった。煮えたぎる欲情の叫びである。
灯油の明りはまだ消えていない。
倭建の腕が傍に坐《すわ》った媛の腰部を掴《つか》んだ。媛が低い悲鳴を洩《も》らしたほどの凄《すさ》まじい力だった。指が柔肌《やわはだ》に喰《く》い込み、悲鳴は悦《よろこ》びの喘ぎに変ってゆく。
倭建は媛の身体を持ち上げ、すでに汗が滲《にじ》んでいる媛の両|太腿《ふともも》の間に腕を突き出した。
媛が叫んだ。部屋中に響き渡る。
両脚を開いた媛の身体は倭建の一本の腕に乗っていた。巨大な枝にまたがっているようである。
「これが吾の力だ、分るか媛、吾は誰にも負けぬ王子だ」
「王子様、だからお慕いしていました、王子様は倭列島一の男子です」
媛の太腿が倭建の腕を締めつける。
「そうか、吾を慕っていたか、可愛い女人だ、吾も会った時から惹かれていた」
「嬉《うれ》しゅうございます」
「おう、真の男子の力を見せよう」
倭建は両腕で媛を抱えなおすと、ゆっくり立った。媛を抱きながら猛りたった男子で媛を突き刺した。
媛は絶叫した。苦痛と悦楽の入り混じった声だ。叫びは苦痛であり、尾を引く嗚咽《おえつ》は悦びである。両者が二匹の蛇が絡み合うようにお互いをむさぼる。
次第に悦びが苦痛を消してゆく。
間もなく倭建は寝具に媛を横たえ、荒々しく攻めた。
媛の反応は初めての媾合《まぐわい》のものではない。それが倭建の欲情を一層あおった。
倭建の全身に甘い疼《うず》きを伴った妖《あや》しい火花が飛び廻った。出口を求めて火花同士がぶつかりながら下半身に向って行く。腰の深奥部が鈍く揺れている。そこには溶けた鉛のように重い悦楽の湖が決潰《けつかい》を待っていた。火花が湖に達すると同時に土堤は破れ湖は甘美な奔流となって媛の体内に氾濫《はんらん》する。
媛が苦し気に呻《うめ》いたのは、倭建が腕に力を込めたからだ。だが媛の呻きはすぐ絞り出すような嗚咽に変る。媛は閉じた眼を引き攣《つ》り眉《まゆ》を寄せ絹のような肌を痙攣《けいれん》させた。
媛も信じられないほどの悦びの爆発を待っていた。雷が巨木を裂くように身が砕かれることを切望した。
倭建は媛の情炎を察したように雷のような声を発した。
湖が決潰する。
媛の華奢《きやしや》な骨は折れる寸前までしなった。
倭建の腕から徐々に力が抜けて行く。
どのぐらいの時がたったろうか。遠くで獣の声がした。狼《おおかみ》ではない。
倭建は鼻孔を拡げた。媛の髪からこれまで嗅《か》いだことのない香りがした。倭建の身体を痺れさせ宙に浮遊させるような微妙な香りだった。
「そなたはこの世の女人か?」
倭建は媛の顔を引き寄せ、髪に鼻孔を押し当てた。
「はい、私は女人、ずっと長い間王子様をお待ちしていました、だから私は誰とも婚姻しなかったのです」
「信じられぬ、だがそなたはここにいる」
「王子様の妻になるために」
「吾は尾張に参るまでそなたと会ったことがない、何故吾を待っていた?」
「何時頃からか私は夢をよく見るようになりました、多分、私の身体に女人の花が咲いた頃からでしょう、大和の国から王子様が兵を率いてこられる夢です、でもお顔は見えません、何時もそうなのです、私は夢を見る度にお顔を見たいと祈っていました」
「顔を見ていないのに、何故吾だと……」
「お姿がそっくりなのです」
「不思議な女人だ、そなたは吾を狂わせてしまいそうだ、吾には愛する妻がいる、大事な任務がある、吾は狂えないぞ」
倭建は自分にいい聞かせるように呟《つぶや》いた。
「嫌でございます」
声にならない声がして媛は倭建の口を封じるように唇を押しつけた。
頭の芯《しん》が溶けるような妖《あや》しい香りが漂いはじめた。
[#地付き](下巻に続く)
本書は、平成九年五月刊の小社単行本『東征伝』を改題し、分冊のうえ文庫化したものです。
角川文庫『白鳥の王子 ヤマトタケル―東征の巻(上)―』平成14年10月25日初版発行