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白鳥の王子 ヤマトタケル
西戦の巻(下)
黒岩重吾
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〈主要登場人物〉
倭男具那《ヤマトノオグナ》――本名、小碓《オウス》。後のヤマトタケル。オシロワケ王と播磨稲日大郎姫《ハリマノイナビノオオイラツメ》との間に生まれた大和国の王子。武勇と優しさをあわせ持ち、人々に慕われている。
オシロワケ王(景行帝)大和の三輪王朝の王。男具那《オグナ》の父。
八坂入媛《ヤサカイイリビメ》――オシロワケ王の妃。男具那の母の死後、皇后のようにふるまう。
倭姫《ヤマトヒメ》王―――オシロワケ王の妹で男具那の叔母。巫女的女王。
弟橘媛《オトタチバナヒメ》―――男具那が最も愛する妃となる巫女的能力を持つ美少女。
葛城宮戸彦《カツラギノミヤトヒコ》―男具那を慕い、行動をともにする巨漢の部下。
穂積内彦《ホヅミノウチヒコ》――宮戸彦らとともに男具那を護る部下の一人。弟橘媛の兄。
吉備武彦《キビノタケヒコ》――男具那とともに生きることを誇りとし、熊襲征伐に同行。
久米七掬脛《クメノナナツカハギ》―祖は九州。熊襲の血も入るが、男具那に仕えて熊襲征伐に同行。
日向襲津彦《ヒムカノソツビコ》―日向出身で熊襲の血が流れているが、男具那に同母兄のような愛情を抱く。熊襲征伐副将軍。
丹波猪喰《タンバノイグイ》――丹波森尾の孫。男具那に心酔し、熊襲征伐同行を願い出る。
羽女《ハネメ》――――宇沙王族の女人剣士。兄の仇、鼻垂討伐のため男具那に同行を願い出る。
土鳴《ツチナリ》――――宇沙軍団長。羽女とともに男具那に同行を願い出る。
国前《クニサキ》王―――九州国東半島の首長。男具那より征東将軍に任じられる。
神夏磯媛《カムナツソヒメ》――豊前宇沙の女王。(巫女的女王の子孫)
鼻垂《ハナタリ》――――宇沙の賊長。鼻の大きな大男。
耳垂《ミミタリ》――――宇沙地方の賊。耳が大きい。
川上建《カワカミノタケル》―――狗奴国・熊襲の首長。勇猛な巨人。
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十三
男具那《おぐな》は、鼻垂《はなたり》の屋形に囚《とら》われていた女人を、賊の屋形に集めた。
鼻垂は隠れ家の傍に、球珠《くす》国の女人以外、各地から攫《さら》って来た数人の女人を監禁していたのだ。
その中で、最初に救った球珠国の女人は一番の美貌《びぼう》で、女人そのものの魅力をそなえていた。先祖は韓《から》の国から渡来して来たらしく、女人は骨が華奢《きやしや》で、肌は絹のようになめらかだ。名前は美麗《びれい》といった。
倭人《わじん》の名前とはどこか異なる。
当時の倭人は、山や川、また動物や植物を名前につける場合が多い。
男具那は闇《やみ》の中から自分を凝視《みつめ》ている羽《はねめ》女を呼んだ。
「羽女、村長《むらおさ》の招待じゃ、皆、賊から解放されて喜んでいる、やはり顔を出さねばなるまい、吾《われ》は宴《うたげ》が終ればここに戻り、泊まるが、それまで賊に捕えられていた女人を守って欲しい、兵士たちは燃えている、見境がなく乱入するかもしれぬ、もちろん、そち一人ではない、音尾《おとお》と子の太尾《ふとお》も一緒じゃ」
「私《わ》は、一人で守れます」
羽女の声は、今にも剣の柄《つか》を叩《たた》きそうだった。相変らず勝気な女人である。
「羽女、仇《かたき》を討ったのではないか、もっと喜べ、気を張るな、何だか怒っているようだな」
羽女が蹲《うずくま》った。篝火《かがりび》が顔を伏せている羽女の姿を照らしていた。
「王子様、私は喜んでいます、王子様に感謝しています、感謝の念は阿蘇《あそ》山よりも大きく、今にも胸が張り裂けそうです、たぶんそのせいで、声が押し潰《つぶ》されているのでございましょう、どうして私が怒りましょうか」
今度は声に情熱が篭《こも》っていた。
「分った、吾はそちを一人にするのが不安なのじゃ、音尾参れ」
「王子様、おっしゃる通りです。逃れた賊が闇《やみ》の中に潜んでいるかもしれません、奴《やつこ》も羽女殿とともに、女人たちの警護にあたります」
「よし、それで安心じゃ、皆、行くぞ、鼻垂の首を刺した竹槍《たけほこ》は宮戸彦《みやとひこ》が持て、宮戸彦、ただしあまり振り廻《まわ》すな、首が落ちるぞ」
「王子、御心配なく、放尿の時のように、しっかりと持ちます」
宮戸彦の声もはずんでいた。
「宮戸彦、嘘《うそ》を申すな、放尿の時は、いつも得意気に振り廻しているではないか、吾は何度もおぬしの尿を浴びたぞ」
と早速|内彦《うちひこ》がからかった。
「こいつ、好《い》い加減なことを、勢いがよいから飛び散るのじゃ、おぬしのは何だ、まるで、もやしの先から滴《しずく》が垂れているようではないか」
宮戸彦は自分の言葉に満足し、どうだ、といわんばかりに哄笑《こうしよう》した。
「今の勝負は、宮戸彦の勝ちじゃ」
と男具那がいった。
「王子、もう一言いわせて下さい、振り廻すだけではなく、宮戸彦のは、曲っているのです」
「何だと、いわせておけば……」
宮戸彦は竹槍を振ろうとし、慌てて持ちなおした。
「二人とも、あまりうかれるな」
武彦《たけひこ》が叫んだ時、男具那の傍にいた猪喰《いぐい》が山犬のように跳んだ。鼻垂に受けた傷は浅く、もう男具那の身を守っていた。刀が肉と骨を切断する音とともに悲鳴が闇を裂いた。
猪喰はすぐ戻って来た。
「賊は潜んでいただけです、何でもありません」
緊張し、同時にしゅんとした二人を慰めるように猪喰がいった。
「武彦、猪喰、すまぬ」
宮戸彦と内彦が謝った。
「いや、おぬしたちに謝られると身体がかゆくなる、怪しい気配は感じたが、賊がどこに潜んでいたかは分らなかった、猪喰の眼には負ける」
と武彦は肩を竦《すく》めた。
男具那は、あまり緊張するな、といった。逃げのびた賊には、男具那軍を攻撃する気力はない。ただ投降しようかどうしようか、と窺《うかが》っているだけだ、と部下たちの緊張をほぐした。
迎えに来ていた村長は、足が竦んでいる。鼻垂に対する恐怖心が甦《よみがえ》ったのであろう。襲津彦《そつびこ》が早口で何かいった。この地方の言葉らしく男具那にはよく分らない。
村長はほっとしたように、歩き始めた。
男具那は襲津彦に、何といったのだ? と訊《き》いた。
「王子の部下には、闇夜でも、昼と同じようによく見える眼を持った者が何人もいる、安心しろ、といったのです」
「おう気転の利いた言葉じゃ、村長はそれで安心したわけか、元気のよい歩き方じゃ」
間もなく男具那たち一行は村長の家に着いた。藁葺《わらぶ》きの竪穴《たてあな》式住居が十数軒集まっている。隠した酒を次々と解放された女人たちが運ぶ。篝火が勢いよく燃え、勝利の酒宴は盛大である。今宵《こよい》は無礼講なので、あちこちの草叢《くさむら》で、兵士たちが女人と媾合《まぐわ》っている。小太鼓が鳴り、男女は踊り狂う。宮戸彦は、鼻垂の首がついた竹槍を土深く刺し、更に小石で倒れないようにし、その傍で酒をあおった。村人たちも、賊たちに捕えられていた女人も、竹槍の傍に来ては、鼻垂の首に罵声《ばせい》を浴びせ、拳《こぶし》を振りあげた。ほとんどは鼻垂に従っていたのだが、それは恐怖のせいで、内心は憎んでいたのである。
自然、竹槍を抱えるように、酒杯を傾ける宮戸彦の傍には何人もの女人が集まり、酒を注ぐ。宮戸彦にだけ独占させておくのは馬鹿気ていると、内彦や武彦も加わった。
猪喰は男具那の傍で、黙然と飲んでいる。
男具那は襲津彦にいった。
「戦はこれからだのう、日向《ひむか》方面の状況が気になるだろう」
「王子、その通りです、早く日向に行き兵を集め、南方の熊襲《くまそ》を討ちたい、この戦で、北九州の賊は王子を恐れ、しばらくは大人しくしていよう、吾は明日にでも日向に発《た》ちたい」
「そうだのう、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》は球珠国で吾と会う、それではおぬしには遅い、おぬしと別れるのは少し淋《さび》しいが、目的は狗奴《くな》国を叩くことじゃ、明日吾は和尚《かしよう》山、米神《こめかみ》山を視察し宇沙《うさ》に入る、もしおぬしの気がはやるなら、間道を通り宇沙に入り、出発の準備にかかった方がよい」
「王子、そうしたい、吾も離れるのは淋しいが……」
「申すな、お互い軍事将軍となった王子じゃ、それにしてもよく、鼻垂軍の討伐に協力してくれた、嬉《うれ》しく思っているぞ」
いつか二人は手を握り合っていた。
男具那は猪喰を呼び、土鳴《つちなり》の様子はどうであったか、と訊いた。
「はっ、王子様が危惧《きぐ》されたように、土鳴の胸中には、場合によっては、鼻垂に寝返るという気持が幾分か、存在していたかもしれません、と申すのは土鳴は、軍団の中でも最強とされている五十名の親衛隊を自分の傍に置き、最も激しい戦場には出動させませんでした、しかも、絶えず、間者らしい兵を大蔵《おおくら》山の東部、つまり王子様と鼻垂との戦場に送り、様子を探らせていました、奴《やつこ》が見張っているのを察知したらしく、東方の戦況を知る必要がある、と申していましたが、明らかに嘘でしょう、はっきりした証拠がないので断言はできませんが、王子様の軍が崩れるか、賊共が間道を突破し、宇沙に進撃したなら、寝返るつもりだったと思います、それに国前《くにさき》王の使者も三度にわたって、親衛隊を主戦場に出すように、と要請して来ました、これらのことを総合すると、戦況によって寝返る、という計画だったと思います、ただ、これはさっきも申し上げた通り、証拠がございません……」
猪喰は、自分の推測です、と叩頭《こうとう》した。
「そちの勘はまず間違いないような気がする、この点については、吾《われ》が土鳴に問い質《ただ》そう、もし、そちの推測が正しいのなら、土鳴はたぶん、敗走する耳垂《みみたり》の賊兵を追い、山国《やまくに》川の上流に向うはずじゃ」
「耳垂軍を殲滅《せんめつ》させ、その功をもって、罪滅ぼしとなすつもりですね」
「そうじゃ、それもできないようなら、土鳴は駄目だ、ただ、どんな功をたてても、裏切りの心を抱いたことは許せない、襲津彦、おぬしはどう思う?」
「はあ、土鳴と音尾との関係を考えると、裏切るかどうしようか、と悩むでしょう、悩まないまでも、自分の身を保ちたい、と一瞬、卑劣になる人物は多いと思われます、だが、我らと鼻垂の状況を探るべく、実際に偵察隊を出したとすれば、これは明らかに裏切り行為、後でどんな功をたてたとしても、汚点は消えますまい」
襲津彦はきっぱりといった。男具那も同じ考えだった。ただ男具那は大将軍だが、大和《やまと》の王子である。
宇沙国が三輪《みわ》の王権に服従しても、宇沙国には独自の治世方針が存するのだ。ただ宇沙国を賊の手から救った男具那としては、去る前に国の権力を定めておきたかった。
羽女と音尾の顔が浮かんで消えた。
いつの間にか、内彦たちの姿が闇《やみ》に消えている。集まっていた女人たちもいない。
どうやら内彦たちは、勝利の喜びを女人たちと媾合うことで倍増しているようだ。
男具那は縁先の平地に蹲っている猪喰にいった。
「猪喰、そちも女人と戯れてはどうか、吾が村長《むらおさ》に命じ、適当な女人を宛《あて》がおう」
猪喰が平伏した。
「王子様、奴には心に誓ったことがございます、どうかお気を遣わないで下さい」
「ほう、女人の肌には触れまい、と心に誓ったのか……」
「はい、国の神に誓いました」
「それなら仕方があるまい」
理由を訊《き》きたかったが、猪喰を苦しめそうな気がして、男具那はやめた。
男女の喘《あえ》ぐ声があちこちから聞えて来る。
まさにこの時代ならではの性の饗宴《きようえん》であった。
喘ぎ声は男具那の体内に入り欲望の埋《うず》み火に火を点けた。血潮は炎となり下半身を焦がす。男具那はまだ二十歳代だ。いくら酒を飲んでも欲望の炎は消えそうにない。
「襲津彦、我らも女人と戯れようか、このままでは、血が鼻からも耳からも出そうじゃ」
「鼻血に耳血ですか、吾もさっきから燃えている、鼻垂に捕えられていた女人の中に好い女人がいた」
「男子《おのこ》のためにこの世に生まれて来たような女人であろう、山間《やまあい》にひっそりと咲く百合《ゆり》の花のような女人じゃ」
「王子が眼をつけるのも無理はない、あの女人は王子に譲ろう、吾は別な女人でよい、眉《まゆ》が濃く、胸の盛り上がった女人がいた、明らかに狗奴国の血が混じっている、一夜妻にはあのような女人がよい」
「ほう、いろいろと眼を走らせていたわけか、だが、年長の王子だからといって、先取りは許されぬ、腕較べでもして決めよう」
「王子、本当に吾は、眉の濃い野性的な女人の方がよいのじゃ、何も遠慮しているわけではありませぬぞ」
「そうはゆかぬ、なぜならこれは吾が自分に決めた生き様の問題だからだ、これを無視すると、吾は吾でなくなる」
「分らないでもないが、もっと自然の方が……王子は、あまりにも自分を縛りつけている」
「仕方がない、今更自分を変えられぬ、さあ襲津彦、何で勝負をするか?」
「王子がいい出したことじゃ、王子が決められよ」
「腕相撲でもするか、いや、おぬしはわざと負けそうじゃ、女人を賭《か》けたのじゃ、力較べは野暮ったい、もっと和《やわ》らかいものの方がよい、そうだ、睨《にら》み合いをしよう、先に笑った方が負けじゃ」
「それは面白い、いろいろと顔の表情を変えるわけですな」
「そうじゃ、ただし手を使わずにだぞ」
男具那と襲津彦は睨み合った。村長が魚油の明りを近づけた。襲津彦が頬《ほお》を膨らませた。精悍《せいかん》な顔が崩れ豚のようになる。男具那はまず耳を動かした。普通の人間にはできない。襲津彦の眼を見詰めながら鼻孔を動かす。動かしながら鼻の孔《あな》を拡げる。
母が亡くなった後、男具那は、いろいろと顔の表情を変え、鏡を見て一人で愉《たの》しんだことがある。悲しい時、淋しい時には特別おどけた顔になり、一人で笑った。
思い切り笑うと淋しさが紛れた。
襲津彦は頬を膨らませることしかできない。
男具那の鼻孔が信じられないほど拡がり、舌が伸びてとがった先が鼻孔に触れた時、襲津彦は顔を歪《ゆが》め、懸命に笑いをこらえた。
男具那はそのまま、にやりと笑って見せた。
襲津彦はたまらず吹き出し、腹を抱えて笑い出した。あまりのおかしさに襲津彦の眼には涙が滲《にじ》んでいる。
わざと笑ったのではない。涙がそれを証明している。
襲津彦はごつい拳《こぶし》で眼を拭《ふ》いた。
「王子、負けました、いや、王子にそんな芸があるとは思ってもいなかった」
「当然じゃ、この芸を見たのは、兄の大碓《おおうす》王子だけじゃ、播磨《はりま》にいた頃、兄王子とは仲が悪かったが、この芸を見せると笑い転げた、あの兄王子がのう」
兄は美濃《みの》国で兄《え》ヒメと愉しく過しているだろうか。たぶん、何人も子供ができているに違いなかった。男具那は東の方を見た。
「誰でも笑い転げますぞ」
「とにかく吾の勝ちじゃ、そろそろ参ろうか」
男具那は魚油の明りを消させた。
「村長、鼻垂の首の下で女人と媾合っている連中が、吾がいないのに気づいたなら、この部屋で女人と戯れている、と申すのじゃ、一刻《いつとき》ほど時間を稼げ、分ったな」
襲津彦が男具那の言葉を訳した。
「我々も女人と戯れたい、だから警護兵と離れ、自由な時を持ちたいのじゃ、これから女人と抱き合おうと胸をはずませている時、王子、大丈夫ですか、などと跳び込んで来られたら、せっかくの愉しみも消えてしまう、分るな」
襲津彦は村長に念を押した。
「はい、分りました」
と何度も叩頭したが、村長は緊張している。男具那は襲津彦に、本当に分ったのか、といった。
「まるで怒られた時のような表情だぞ」
「王子、皆、賊の監視下にあったのだ、長い間自由がなかった、解放されたと分っていても、実感が伴わないのじゃ、理解されたい」
同じ九州島の出身だけに、襲津彦は彼らの気持を理解していた。
こんな時男具那は、吾はやはり大和の王子だな、と思ってしまう。そういう思いは軍事の将軍には不必要なものかもしれないが、これが男具那の性格なのだ。
猪喰を連れ、接収した賊の屋形に戻った。いつの間にか山音尾《やまのおとお》の周囲には十人ばかりの男子がいた。
「王子様、昔の部下たちです、鼻垂が殺されたのを知り、集まって来ました、屋形の警護兵として使いたいのですが……」
「音尾がそう申すのなら構わぬ」
兵士たちは地に伏し男具那を拝んだ。
「そちたちは、なぜ逃げていたのじゃ、逃げずに音尾に仕えなかった?」
と襲津彦が怒鳴った。
「王子様、奴《やつこ》が、遠くに潜むように命じたのです、大勢で途《みち》を作れば、鼻垂に気づかれます、奴の命令に従ったのです」
「そうか、よく分った、忠節の兵だ、吾は日向出身の襲津彦王子じゃ、懸命に屋形を守れ、賊はまだどこかに潜んでおる、油断はするな」
音尾は兵士たちに、持ち場につくようにいった。
男具那と襲津彦は屋形に入った。
鼻垂に捕えられていた女人は、六名だった。香料と若い女人の体臭が屋形に篭《こも》っている。汗臭く、生臭く、しかも甘い果実の匂《にお》いがした。
猪喰は松明《たいまつ》を持ち中に入ると、底の浅い器を探した。鼻を鳴らしながら魚油を見つけた。真っ暗な部屋に淡い明りがともった。
男具那は美麗を呼んだ。部屋の隅で蹲《うずくま》るようにして坐《すわ》っていた美麗は、呼ばれるのを待っていたように立つと、男具那の傍に寄り添った。胡座《あぐら》をかいた男具那の膝《ひざ》に柔らかい掌《てのひら》を置いた。髪は草の匂いがする。
男具那は入口に坐っている猪喰に、酒はないか、と訊いた。猪喰はまた鼻を鳴らすようにして酒の隠し場所を探し出した。
炊事場の一角の穴に酒や米が蓄えられていた。
男具那と襲津彦は酒を飲み、女人たちを集めた。美麗は、男具那に寄り添っている。
襲津彦は魚油の明りで女人たちを照らし、気に入った女人を呼び寄せた。
眼鼻だちがはっきりした骨太の女人だった。美麗とは正反対の女人である。
そういえば襲津彦は、大和で二人の女人を妻にしているが、一人は色が白く華奢《きやしや》で、今一人は小麦色の肌で、精悍な感じであった。
襲津彦は睨むようにその女人を見、二の腕を取って引き寄せた。
「そちはどこから来た?」
「私《わ》は豊後《ぶんご》でも南の緒方《おがた》川の近くです」
「何だと、では直入《なおいり》だな、祖母《そぼ》山を知っているか?」
「はい、私が住んでいた家からも見えます」
突然、女人の眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「日向の傍ではないか、なにゆえ、鼻垂に捕えられた?」
「私は十六の年齢《とし》でした、北の賊に襲われ、両親も兄も殺され、私と妹は賊の首長に捕えられ……鼻垂に売られたのです」
女人は眼を閉じると首を横に振った。これ以上は話せない、とでもいうように、強く唇を噛《か》んだ。
「許せぬ、許せぬぞ、賊の名は?」
「山蜘蛛《やまぐも》と申します」
「山蜘蛛か、吾《われ》は日向の襲津彦だ、明日にでも日向に戻る、熊襲を討つ前に山蜘蛛の首を刎《は》ね、鼻垂と同じように竹槍《たけほこ》に刺し、朽ち果てるまで晒《さら》しておく、妹がどこに売られたのか、分らぬのだな」
「妹は、妹は……」
女人の眼からまた涙が溢《あふ》れ出た。
「どの賊に売られた?」
「十二歳でした、山蜘蛛に弄《もてあそ》ばれ、自害しました」
女人は号泣した。屋根を貫き、夜空に届くような声である。捕えられていた女人たちがいっせいに自分の身を思い嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。
男具那は酒をあおった。煮えたぎっていた欲情が嘘《うそ》のように消えて行く。襲津彦も掴《つか》んでいた女人の腕を離した。
「王子様、離さないで下さい、私は恐い」
女人は髪を振り乱し、胡座をかいている襲津彦の膝に身を投げかけた。
「王子様、どうなさったのです?」
入口からとがめるような羽女の声がした。
猪喰が困ったように、入ろうとする羽女を止めていた。
男具那は酒壷《さかつぼ》を持つと床を蹴《け》るようにして立った。
「まだまだ世は乱れている、賊は跳梁《ちようりよう》し、婦女子は賊に弄ばれ、他国に売られているのだ、吾の遠征にもし意義があるとすれば、少しでも乱れた国を平和にし、農民たちが平和に暮せるようにすることだ、それには国の統一が何よりも必要じゃ、権力を拡張するためだけではないぞ、父王よ、民の平和のために吾は戦う、平和をもたらすためには、血を流さねばならぬ」
男具那は大声で叫び、酒壷の酒をあおると、入口の方に歩いた。
羽女が中に入ろうとしている。猪喰は両手を拡げて、そんな羽女を止めていた。
「羽女、どうした?」
羽女は蹲った。
「女人たちが泣いています、何をなされたのですか?」
羽女の声は鋭かった。いくら王子でも、泣いて嫌がる女人に、乱暴は許せない、それでは鼻垂と一緒ではないか、と羽女は突き刺すような眼を男具那に向けた。
「馬鹿者、襲津彦王子が、鼻垂に囚われたか、と訊《き》き、女人は話している最中、昔を思い出し泣いたのじゃ、吾に対し、何が申したいのだ?」
羽女は叩頭《こうとう》した。
「申し訳ありません。王子様のお力で憎い賊を斃《たお》し、兄の仇《かたき》を討った喜びに昂奮《こうふん》しているのでございます、私《わ》の無礼をどうか、罰して下さいませ」
「何も罰するほどのことはない、今も申した、倭《わ》国が統一すれば、今よりも民は平和に暮せる、戦の意義はそこにある」
「王子様、私に難しいことは分りません、どうか、罰して下さい」
「本当に、別人のように昂奮しているぞ、罰の必要はない」
山音尾が背後から、戻るのだ、と羽女にいっているが、羽女はきかなかった。
猪喰がしきりに|※[#「目+旬」、unicode7734]《めくば》せしているが、暗いので男具那は気がつかなかった。
男具那が戻ろうとした時、蹲っていた羽女が猪喰の隙《すき》を見て中に入ろうとした。猪喰は慌てて腕を伸ばして止めた。羽女が跳び、驚いた猪喰も跳んで羽女の両足を掴まえた。二人はもつれたまま地上に落ちた。
男具那も屋形から跳び出していた。
「どうしたのだ!」
「王子様、私に罰を……」
猪喰と揉《も》み合いながら羽女が叫ぶ。
「何の罰だ、吾には分らぬ、音尾、一体どうしたのだ?」
「王子様、申し訳ありません、羽女殿は、王子様の手で打たれたいのでございます」
音尾は恐縮し切っている。
「吾に打たれたい、なぜじゃ?」
「はあ、奴の推測では、羽女殿は女人でございます」
恐縮のあまり音尾はどもっていた。
「当り前だ、優れた女人の剣士、大和にもおらぬぞ、それに美しい、まさしく巫女《みこ》王を守る女人じゃ」
猪喰は事態を察したらしく、羽女から離れいつものように蹲っていた。羽女も身体を蝦《えび》のように曲げ地に伏している。男具那の脳裡《のうり》に自分の脚を抱き締めた時の、異様な羽女の顔が浮かんだ。
「王子様、女人は男子《おのこ》よりも感情が昂《たか》ぶり異常になります。今の羽女殿はそんな状態だと……」
音尾は袖《そで》で額の汗を拭《ぬぐ》った。
羽女が伏せていた顔を上げた。篝火《かがりび》に眼が赤く光って見えた。あの時の眼だ、と男具那は思わず息を止めた。
女人の性《さが》が血潮をたぎらせている眼だ。だが男具那には羽女の情がよく分らない。感性の鋭い男具那には珍しいことだが、羽女は巫女王を警護する剣士である。
女人の剣士は大人になっても童女のままでいなければならない、と男具那は聞いていた。当然羽女はまだ男子を知らない。
そんな羽女が、自分に情を燃やすなど、男具那は考えていなかった。今の羽女の異常さが理解できない理由であった。
音尾が恐縮して汗を拭《ふ》いたり、いつもと違って落ち着きのない猪喰を見ると、二人が、羽女の異常な状態を理解しているぐらいは男具那にも分る。
「羽女、吾に打たれたいのか?」
男具那は羽女の傍に寄った。
「はい、打たれとうございます」
「そちは兄の仇を討った、気持が燃えている、それは分る、そちは剣士、どうじゃ、吾と武術の腕を競わないか、汗をかけば気が鎮まるであろう」
「王子様、本当でございますか?」
羽女は男具那の皮履《かわぐつ》を掴んだ。皮を通して彼女の掌のぬくもりが足に伝わる。よほど身体が燃えているに違いなかった。
「もちろんじゃ」
音尾が蹲《うずくま》って叫んだ。
「王子様、武術仕合は素手でお願いします、何卒《なにとぞ》、奴《やつこ》の願いをおきき入れ下さい」
喉《のど》が今にも裂けそうな音尾らしからぬ声だった。悲鳴に近い声である。
男具那は、自分が羽女を傷つけてしまうことを、音尾が恐れたのだ、と思った。
羽女の腕を男具那は把握していた。身が軽く普通の男子《おのこ》では勝てない。それに打ち込みの瞬間に全身の力が入るので、男子の上半身を半分に割るぐらい剣に力があった。だが男具那には羽女に負けない自信がある。
「音尾殿、これを」
羽女は剣を外すと音尾に投げた。闇《やみ》の中なのに音尾の両腕にゆっくりおさまった。
「よし、素手で相手になろう」
男具那も剣を外すと猪喰に渡した。
「王子様、あそこの方が跳べます」
羽女の姿が篝火の明りから消えた。
賊の屋形は高台にある。屋形の前の平地は狭く、後ろは斜面である。
羽女は斜面を嫌い、下の野に走ったのだ。
羽女に主導権を奪われているようだが、あまり気にならなかった。
何だか愉《たの》しい遊びが始まりそうだった。
素手で闘えば羽女の肌にも触れるし、場合によっては胸の膨らみを叩《たた》くことになるかもしれない。
いつの間にか猪喰が消えていた。賊が潜んでいないか、探りに行ったのだ。
間者としても最高である。
「王子様、ここでございます」
羽女が坂を駈《か》け上がり、跳びながら下りた。闇の中で、夜の鬼神が踊っているようだった。
「よし、行くぞ、闘いはもう始まったぞ」
男具那は、斜面を走った。闇が揺れ影が迫って来る。下りる男具那に向って真っ向からぶつかろうとしている。明らかに羽女の立場は不利であった。
男具那は迫ってきた影の下腹部に蹴《け》りを入れた。まともに入ったなら、羽女は気絶する。羽女の影が消えた。男具那の足は空を蹴ったが、躱《かわ》された場合のことは計算に入っている。
男具那は宙を跳んでいた。斜面を駈け下りたのだから跳躍力は強い。跳びながら男具那は羽女が身を伏せたのを知り、にやりとした。
影が立ち上がり、今度は上から襲って来た。やるな、と男具那は身を引き締めた。羽女が身を伏せ、男具那を避けたのは、有利な場に立ちたかったからに違いない。
羽女は身を縮めて跳んで来た。男具那は一転して避け、着地した羽女の腹部に拳《こぶし》を叩き込んだ。羽女は男具那の手首を打つ。男具那の拳はわずかに外れ、腹部の端に当った。羽女は荒い息を吐いたが、呻《うめ》き声にはなっていない。ほとんど打撃を与えていないが、羽女の次の攻撃を狂わせるだけの効果はあった。
羽女は男具那の下腹部を蹴上げたが、足先がそれて太腿《ふともも》を掠《かす》った。男具那の腕が蛇のように羽女の脚に巻きつく。同時に男具那の足は羽女の足首の辺りを払っていた。
両脚を取られ、羽女は仰向《あおむ》けに転倒した。男具那はそのまま乗りかかった。
羽女の腕が男具那の背中に廻《まわ》った。顔面への突きを警戒していた男具那にとっては、予想もしなかった羽女の腕の動きだった。
男具那は下になった羽女に抱き締められたのだ。胸の膨らみが信じられない弾力とともに男具那の胸を圧迫した。これは武術仕合ではない、と男具那が愕然《がくぜん》としたのは、頭を持ち上げた羽女の唇が男具那の唇に押しつけられた時だった。
突然、男具那の股間《こかん》が熱くなり、男子のものに火がつき、熱い鉄の棒となって、破らんばかりに袴《はかま》を突き上げた。
男具那は本能的に唇を離していた。
「何をするのだ?」
「王子様、私《わ》はまだ童女、大人の女人になりとうございます。王子様、私を女人に……」
羽女の息は火のように熱い。衣服は汗で濡《ぬ》れ、髪が匂《にお》った。湿った藁《わら》のような匂いの中に果実が混じっている。男具那の下腹部は痛いほど膨張し、今にも破裂しそうだった。
篝火の明りもここまでは届かない。
「何をいうのだ、そちは巫女王に仕える剣士ではないか、剣士でも巫女、男子と媾合《まぐわ》うことは許されぬぞ」
男具那は、今いった言葉を飲み込みたくなった。恰好《かつこう》をつけるな、と男具那の欲情が喚《わめ》く。
「私は、仇を討つため、何人もの賊を斬《き》りました、もう巫女としては仕えられません、王子様、ああ、私は王子様の熱い槍《ほこ》を感じます、お願いでございます、どうか私を貫いて下さい」
「そうか、巫女をやめるのか、それなら吾《われ》が女人にしてやろう、おう、衣服を通して、そちの肌が吸いついて来る」
男具那は身体を起こすと、馬乗りになって羽女の上衣《うわぎ》の紐《ひも》を解いた。まるでこの一瞬を待っていたように厚い雲が割れ、淡い月の光が羽女の肌を青白く染めた。汗の肌は月光に映え、杏子《あんず》のような香りがした。羽女は戦い易いように下着をつけていない。男具那は羽女の胸に顔を押しつけながら、胸の膨らみの実を吸った。乳首も濡れてはいるが、汗のせいだけではない。女人の身体の粘液が滲《にじ》み出ているのだ。羽女は呻きながら身体を反らせた。自分で男子用の袴《はかま》の紐を解いた。
「おう、腰も上げるのじゃ」
男具那は羽女の袴を引きずり下ろした。
古代の袴は現代のズボンに似ていて、ところどころを紐で結んでいる。
男具那の指先は、羽女の草叢《くさむら》をさ迷った。そこは柔らかく、絹綿のようである。その下は、叱《しか》られた時の童女の唇のように閉じられていた。ただ潤いは陰《ほと》の辺り一面を濡らしている。
羽女の腕にますます力が入った。眼は閉じられ、寄せられた眉《まゆ》は、男具那の槍が自分の体内を貫く時の痛みと快感をすでに味わっているようだった。
月明りでその表情を見た男具那は堪《こら》え切れなくなった。
男具那は両掌《りようて》で羽女の頭を押え、一気に貫いた。
羽女は目を開き、頭を上げようとしたが、男具那が押えているので動けない。汗が再び吹き出るように滲み出た。
「そちは女人になったぞ」
と男具那は羽女の髪を噛《か》み、頭皮に歯を立てた。
男具那と羽女は同時に呻いた。羽女の熱い洞は粘液を吹き出しながら、侵入して来た異物を殺そうと肉の牙《きば》で噛みつき、締めつけ、また押し返そうとする。信じられないほどの力を持った肉の筒だ。
男具那が呻いたのは、体内の奥の快美な炎が、火花を散らしながら揺れ動き始めたのを感じたからだった。
間もなく火花はそれぞれの場所で快美感を燃やし、一挙に爆発する。
男具那の全身の筋肉が固くなった。
間違いなく羽女は剣士だ。身体の内部まで鍛えられ、筋肉は厚く力強い。
男具那は激しく動いた。頭を上げられないので羽女は、男具那を乗せたまま背を反らせた。痛みのせいか、精神的な悦《よろこ》びのせいか、それは分らない。それにしても乗せた男具那を、身体で持ち上げるなど、異常な力といわねばならない。
散らばっていた火花がいっせいに燃え始めた。
男具那は吠《ほ》えた。
体内の爆発が始まったのだ。虹《にじ》を伴った白い光が脳裡を走り、頭の中のものがすべて|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取られたようなめくるめく快美感に、男具那は自分を忘れた。
羽女は嗚咽《おえつ》を洩《も》らしながら上半身を地に落した。
男具那の腕の力が抜け地上に投げ出された。だが羽女の腕の力は一向に弱まらない。男具那が離れるのを恐れるように締めつけるのだ。
同時にいったんゆるんでいた羽女の洞が再び蠢動《しゆんどう》し始めた。疲れて弱まった男具那の男子《おのこ》を優しく繊細な触手で愛撫《あいぶ》する。見えない羽毛が内側にも入り込みあらゆる部分を揉《も》み解《ほぐ》す。
男具那の疲れは心地よい愛撫に消え、再び活力が漲《みなぎ》って来た。待っていたように厚い肉壁が男具那を締め始めた。
「おう羽女、そちは初めてなのか」
羽女は眼を閉じたまま頷《うなず》いた。
「不思議な女人だ、そちの身体は吾を悦ばすためにあるようじゃ」
「嬉《うれ》しゅうございます」
羽女は掠《かす》れた声で呟《つぶや》く。羽女の声は疲労で掠れたのではない。情のせいである。
男具那の男子は羽女の声にも反応した。男具那は甦《よみがえ》り、仙界への浮遊を求めて力強く漕《こ》ぎ出した。
どのぐらい時がたったのか、男具那は羽女と腕を絡ませたまま仰向いていた。
屋形の方から咆哮《ほうこう》が聞えて来た。襲津彦である。
羽女は男具那の肩に顔を寄せていた。
二人の周囲に人の気配はない。音尾も遠慮し、斜面の上にいるのだろう。
だが猪喰は近くにいるはずだった。気配を隠して近くに潜み、男具那を守っているに違いなかった。
「羽女、そちはこれからどうする、もう巫女王を守れないぞ」
「王子様、宇沙ではもう巫女王の時代は終りました、これからは、男子が王になるべきです、王子様がいわれたように、民の平和を守るため政治を執らねばなりません」
「その通りじゃ、王はもともと民を守るためにある、家族を守るために男子は闘う、それと同じだ、だが王になると本来の目的を忘れてしまう、権力の虜《とりこ》になる、ほとんどの王がそうなのだ、だから吾は王は好かぬ」
「王子様なら権力の虜には、なりません」
「いや分らぬぞ、吾はまだ二十代だ、心はそんなに汚れてはおらぬ、だが三十、四十代となると、気のつかぬうちに権力欲、物欲が強くなって来る、父王を見ているとそれがよく分るのだ、たぶん父王も、若い頃は、武勇の王子であったに違いない、羽女、吾は軍事将軍でよい、その代り、次の王には、あまり汚れなき性格の王子を推し、吾は補佐する、そう思っている、だが、誰も吾の心は理解できないであろう、さあ、もう屋形に戻る、いささか眠くなった」
羽女はまだ男具那と一緒にいたいようだった。女人の情とはそのようなものである。
男具那は羽女の情を断ち切らねばならないのだ。男具那は、熊襲を討ちに来た大和の王子である。
男具那は、口笛を三度鳴らした。
闇が動いた。微《かす》かな草の音とともに猪喰がやって来た。ほとんど姿が見えない。
「王子様、何か御用でございますか?」
「戻るぞ」
「はっ」
闇が人影になり男具那の傍を走り抜けて行く。まるで風のようだ。
「羽女、警護を頼む、そちは宇沙にとって、なくてはならぬ人物だ」
叱咤《しつた》するような男具那の声に、羽女は立った。
「音尾殿とともに私は王子様の警護に当ります」
「おう、頼むぞ」
男具那は屋形に戻った。
屋形内は女人の香と汗の匂《にお》いで噎《む》せ返るようである。
「襲津彦、吾《われ》は眠るぞ」
男具那の声に応《こた》えるように、女人の悦楽の絶叫が響いた。
襲津彦も吠えた。
荒い息を吐くと襲津彦はいった。
「王子、ちゃんと二人の女人を慰めましたぞ」
「おう、それでよいのだ、吾は眠い」
男具那は壁際の床に横たわると、数呼吸もしない間に深い眠りに陥った。
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十四
翌朝、男具那《おぐな》は襲津彦《そつびこ》が屋形を出る音で眼を覚ました。女人たちは解放感と疲れで眠っていた。男具那は跳び起きると衣服を着た。
夜は白みかけているが日の出はまだである。
襲津彦を迎えた警護の兵士たちの声がする。
そういえば山音尾《やまのおとお》や太尾《ふとお》、それに羽女《はねめ》も屋形を警護する、といっていた。
男具那は自分の従者を集めている襲津彦に声をかけた。
「王子、もっと眠られたらよい」
薄闇《うすやみ》の中で襲津彦の顔はさだかではないが、歯だけが白い。東の空の微《かす》かな明りが、襲津彦の歯に映えているのだ。それほど襲津彦の歯は美しかった。
「馬鹿なことを申すな、おぬしは今から熊襲《くまそ》と戦うべく日向《ひむか》の国に向うのだ、間道の入口まで送るぞ」
「王子、吾《われ》は女人ではない、見送られるのは大嫌いじゃ、王子、大和《やまと》以来、いろいろと厄介をかけました、王子とともに旅ができ、共に戦えてよかった、父王の子にも、王子のような男子《おのこ》がいたのを初めて知った、これまでは、朝餉《あさげ》や夕餉《ゆうげ》の時、わずかに話し合うぐらいなので、王子がよく分らなかった、知り合えて本当に嬉《うれ》しい、次の王は王子じゃ、吾は王子に仕え、軍事将軍として、まだまつろわぬ東の国と戦う、王子、再会を愉《たの》しみにしていますぞ」
「おう、吾もじゃ、そのためには戦に勝たねばならぬ、おぬしが戦うのは、たぶん大隅《おおすみ》の隼人《はやと》族であろう、勇猛だぞ、油断はするな」
「もちろんじゃ、では参るぞ」
「船の用意は?」
「私《わ》が神夏磯《かむなつそ》媛ひめ様の宮に使者を走らせました、御安心下さい」
闇《やみ》の篭《こも》った草叢《くさむら》から、影のように立ったのは羽女であった。羽女の声は武人のものであり、情炎に身を灼《や》いた女人の声ではない。
「御苦労、よく気がついた」
男具那は羽女の変身に感嘆した。昨夜は、羽女にたぶらかされたのではないだろうか、と一瞬疑ったほどだ。
それにしても、宮戸彦《みやとひこ》や内彦《うちひこ》、武彦《たけひこ》は村長《むらおさ》の屋形でまだ眠り惚《ほう》けているのだろうか。襲津彦が戦に出発するのに、男具那が最も信頼している部下たちがいないのはまずい。襲津彦に対して面子《メンツ》が立たない。
「音尾、襲津彦王子が征《ゆ》く、宮戸彦たちは無礼講で、酒に酔い痴《し》れ眠りこけたのだろうが、共に見送るべきだ」
男具那の声が終るか終らないうちに、あちこちの草叢から人影が立った。
「王子、眠りこけてはおりませぬ、半刻《はんとき》(一時間)前に眼を覚まし、王子のお出ましをお待ち致しておりました」
大きな声は宮戸彦だった。
「内彦、ここで、見張っております」
「吉備武彦《きびのたけひこ》、ここでございます」
皆、声が大きいのは、男具那に、眠りこけたのだろうが、といわれたせいである。
「いや分った、吾が悪かった、許せ、眠りこけていたのは吾だ」
と男具那は肩を竦《すく》めた。
宮戸彦が鼻垂《はなたり》の首級が刺さったままの竹槍《たけほこ》を持ち上げた。
「王子、戦は終りました、大将軍は休まれるべきです、眠りこけて当然でございましょう」
清冽《せいれつ》な空気を吸っていた男具那の鼻孔を、嫌な匂《にお》いが刺した。すでに腐り始めている鼻垂の首級である。
あまり振り廻《まわ》すな、といいたかったが、襲津彦を送るには絶好の首級かもしれない。
「王子、優れた部下を持たれている、吾は羨《うらや》ましい、では参ります」
襲津彦が再び白い歯を見せた。
「間道までの道は分るか、まだ夜は明けていないぞ」
「太尾が御案内します」
と音尾がいった。
「頼むぞ、襲津彦、吾の傍に参れ」
男具那が両腕を差し出すと、襲津彦は強く握った。襲津彦の身体からは、酒と香料と獣の匂いがした。
「王子、元気で、再会を愉しみに、思う存分戦って参ります」
「おう襲津彦、吾にはおぬしが、同母の弟のような気がしてならない、別れ難いが、大和での再会が愉しみじゃ」
襲津彦の手に力が入った。
「王子、何よりの言葉、吾も同母の兄者《あにじや》のような気がしてなりませぬ、兄者と呼んでよろしゅうございますか」
「兄者と呼べ、そんな馬鹿丁寧な言葉は要らぬぞ」
「兄者、血が躍るような思い、もう心残りはない、では行く」
「日向に着いても慌てるな、敵の状況を探り、作戦計画を立てるのだ、吾は数日後に球珠《くす》国に参り、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》と会う、隼人の状況を掴《つか》んでいるであろう、必要だと判断した場合は使者を送る、血気にはやるな」
「兄者の忠告、肝に銘じて忘れぬ」
襲津彦は、未練を断ち切るように男具那の腕を離した。襲津彦の眼が光り、歯が白く見えた。なぜこんなに白いのだろう、と男具那は不思議だった。まるで童子のような歯である。
襲津彦は部下を集めると、
「さあ、日向に戻るぞ」
と怒鳴った。声には出さないが、部下たちがどよめいたのがよく分った。襲津彦が連れて来た若い部下たちは、皆日向出身である。
襲津彦の、「戻るぞ」という言葉に望郷の念が湧《わ》いたのかもしれない。
男具那は小丘の上に立った。東の空は水色に染まっている。山々の黒い稜線《りようせん》は空を抉《えぐ》っているようだ。
薄闇は野を這《は》い、襲津彦たちの姿は、間もなく消えた。
男具那は兵たちを集め、駅館《やつかん》川沿いに北上した。妙見《みようけん》山と和尚《かしよう》山の戦場地まで約二里(八キロ)である。一行が進むと農民たちは蹲《うずくま》り叩頭《こうとう》した。感謝の気持からだろう、何度も叩頭する者もいた。
四半刻《しはんとき》(三十分)もたたないうちに陽は姿を現わした。この日を祝うように雲は少ない。宮戸彦は農民たちが叩頭する度に得意気に竹槍を上げる。
あまりの腐臭に男具那は鼻を歪《ゆが》めた。内彦も武彦も同じ思いらしい。
男具那は我慢ができなくなった。
「宮戸彦、布にでも包め、その匂いには我慢ができぬ」
「はあ、でも農民たちは喜んでおります」
「鼻垂の首級を取ったことはもう知れ渡っているではないか、首級に草と布を巻け、陽に射られるとますます臭くなるぞ」
「王子のおっしゃる通りだ、宮戸彦、おぬしは鼻汁で鼻が詰まっているからあまり匂わない、のう武彦」
内彦が鼻を押えると、武彦も、その通り、と応じる。宮戸彦は、よい匂いだ、といわんばかりに鼻を鳴らした。
男具那は振り返って羽女を見た。視線が合った途端、羽女は顔を伏せた。
羽女にとって鼻垂は兄の仇《かたき》だった。いくら腐臭を放っても臭いとはいえないのかもしれない。
宮戸彦は仕方なさそうに男具那に訊《き》いた。
「本当に布でくるむのですか?」
「そうしろ、胸が悪くなる」
「王子様、匂い消しの草がありますが」
と音尾がいった。
「そんな草があるのなら持って来い」
「はっ、ただ今」
音尾は蹲っている農民に近づくと、何かいった。中年の農民は他の仲間に音尾の言葉を伝えた。間もなく農民たちが黄色い小花のついた草を抱えて集まった。その草花は、鼻を衝《つ》く匂いを放っている。甘い匂いではないが、悪い匂いではない。嗅《か》ぎ続けているとくしゃみが出そうである。
「虫除《むしよ》けに使います」
「これで腐臭が消えるのか……」
男具那は小首をかしげた。
「完全には消えませんが、いくらか薄くなります」
「少しでも薄くなればよい、やってみろ」
音尾は宮戸彦から竹槍を受け取ると、鼻垂の首を刈った草花に置いた。鼻垂は恨めしそうに眼を剥《む》いている。血ではないが、鼻孔から、赤黒い液体が流れ出た。音尾は鼻垂の顔も草花で覆った。農民が持って来た縄で草花もろとも首級を巻いた。更に麻布を被《かぶ》せて縄で巻いた。
「王子様、これであまり匂いませぬ」
確かに鼻を歪めたくなるような匂いは消えている。虫除けの匂いが腐臭を消したのだ。面白いものだ、と男具那は思った。どんな国であろうと庶民の知恵は生きている。生きるための知恵だが、こういう知恵が大きなものを生むに違いない。
「よし、そちが首級を持て」
「はっ、奴《やつこ》が持たせていただきます」
音尾は麻布でくるんだ鼻垂の首級を、布ごと貫いた。槍《ほこ》(矛)を高々と上げた。
集まっていた農民たちが喚声をあげる。
古代人の足は速い。一刻半(三時間)ほどで、昨日の戦場に達した。生臭い匂いが篭《こも》り、草や田畑は荒れに荒れ、数え切れないほどの し屍《かばね》が横たわっていた。眼をつぶっている者はほとんどいない。皆、眼を剥き、顔は恐怖と苦痛に歪んでいた。
男具那軍と、鼻垂軍との戦のような、一方的なものではない。
かなりの激戦の後、族は耳垂《みみたり》軍の敗走をきっかけに総崩れになったのである。
血《ち》飛沫《しぶき》が草や木にどす黝《ぐろ》くこびりついていた。陽が真上に昇った頃には、腐臭が一面にただように違いない。
火をつけて焼いてしまうのが最適だが、宇沙《うさ》軍の戦死者も混じっている。遺族のことを思うと、焼けと簡単にいえない。
駅館川の屍は、ほとんどが海の方に流れており、川底の葦《あし》に引っかかっている者はわずかだった。
馬を引いた一隊がやって来た。国前《くにさき》王の部下たちで、馬は男具那のために用意されたものである。
男具那は隊長に、舟は準備しているか? と訊いた。十五|艘《そう》の舟が用意されているようだった。さすがは海に面した国東《くにさき》半島の王である。一艘に数人は乗れるから、三往復すれば、全軍が駅館川を渡ることができる。
「吾《われ》は舟で渡る、この馬に乗り、川を渡る者は誰かいないか?」
男具那の声が終らないうちに、羽女が手を挙げた。内彦が悔しそうに、ずるいぞ、あの女人、といった。
「馬鹿、王子が媾合《まぐわ》われた女人じゃ、赤子を産めば、王子の妃《きさき》ということになる」
と武彦が真面目《まじめ》な顔でいった。内彦は首を竦め、宮戸彦が意味あり気に鼻の下を撫《な》でた。淫《みだ》らな想像をしているらしい。
「よし羽女、馬を向う岸に渡せ、宮戸彦、その顔は何だ、昨夜の女人を思い出しているのか、ほら涎《よだれ》が出ている」
男具那が指を指すと、宮戸彦は慌てて大きな掌《てのひら》で口を拭《ふ》いた。武彦と内彦が哄笑《こうしよう》した。滅多に笑わぬ猪喰《いぐい》もおかしさをこらえていた。宮戸彦も怒るに怒れない。
羽女が馬に乗り、悠々と川に入った。
「王子、凄《すご》い女人ですなあ」
と宮戸彦は照れ隠しに感嘆している。
「女人というより武人だ」
男具那は球珠国に連れて行きたかった。だがそんなことをすれば、大和の王子の名前に傷がつく。男具那を待っているのは巫女《みこ》王たちだ。
それに羽女はこれからの宇沙国にとって、重要な人物だった。
御許《おもと》山の山麓《さんろく》にある神夏磯媛の宮の近くで、国前王が馬に乗った男具那を迎えた。
男具那は国前王から戦況の報告を受けた。
耳垂の軍が敗走を始めたのは、鼻垂の軍が全滅したという知らせが入ってからだった。
「土鳴《つちなり》将軍は、耳垂の首級をあげるべく、山国《やまくに》川に向いました、勢いに乗じていますので、勝利は間違いないでしょう」
「徹底的に叩《たた》く必要がある、土鳴の判断は正しい、神夏磯媛は?」
男具那は鋭い眼を宮に向けた。
たとえ人前に姿を現わさない巫女王でも、男具那に服従し、救いを求めたのだ。
戦に勝ち帰還した男具那を迎えるべきである。
「もう巫女王の時代は終りました」
昨夜羽女は、はっきり断言した。
男具那としては、堂々と宮に乗り込み、なにゆえ出迎えないのか、と詰問してもよいのである。
見渡すと羽女の姿が見えない。下手で蹲《うずくま》っていた猪喰が男具那の胸中を見抜いたように頷《うなず》いた。男具那が、来い、と頷くと傍に来た。
「羽女殿は宮に行かれました、たぶん、神夏磯媛様に王子様が凱旋《がいせん》されたことを告げに行かれたのでしょう」
猪喰は男具那の胸中を見抜いていた。恐るべき洞察力である。猪喰とは口を開かずに話し合うことができるかもしれない。
「王子様、明日には土鳴殿が兵を率いて戻って参ります、明日のために高い座が必要でございましょう」
「それは考えていた、国前王を呼べ」
猪喰の姿が消えるとすぐ、国前王がやって来た。男具那は土鳴が戻って来た際、戦況報告を聴くための座を用意せよ、と命令した。
「明日の朝までに造ります、王子様は今宵《こよい》も土鳴将軍の屋形にお泊まりですか?」
「いや、土鳴の屋形とは決めていない、国前王の屋形でも構わぬぞ」
「光栄でございます、ここから二里半ばかりのところに吾の休養のための屋形があります、海の見える高台なので、眺めも良く、王子様のお泊まりには最適かと存じます」
「それはよい、土鳴が戦っているのに、彼の屋形ばかりに泊まるのも気が重い、では国前王の屋形に泊まろう」
男具那は部下たちを周囲に集めた。
音尾に、吉備武彦が連れて来た兵たちを、農家に分宿させるように、告げた。
「そのつもりでいます」
男具那が馬に乗った時、羽女が戻って来て神夏磯媛の伝言を伝えた。
神夏磯媛は土鳴が戻ってから、土鳴と一緒に礼を述べるつもりだった、という。
「私《わ》は、それでは王子様に対して失礼にあたる、今すぐ礼を述べるよう、申しました、今、宮を出る準備をしていますので、今少し、お待ちいただけないでしょうか」
羽女は神夏磯媛の態度を恥じているようだった。
「羽女、そちの心遣いはよく分った、だが吾は国前王の屋形に行きたくなった、明日にでも改めて、媛《ひめ》と土鳴に会おう、そちも今宵はのんびりと疲れを取れ、兄の仇《かたき》を討ったのじゃ、音尾と酒でも酌み交わせ」
男具那は宮戸彦たちに、
「行くぞ」
と羽女から眼を離していった。
顔を合わせておれば未練がつのる。羽女は唇を噛《か》み、叩頭《こうとう》した。男具那の態度を冷たく感じたのか、これが当然なのだ、と自分にいい聞かせたのか、男具那にも分らなかった。
男具那たちは自国へ案内する国前王の後ろを進んだ。
国前王の屋形からは、周防灘《すおうなだ》が一望の許《もと》に眺められ、長門《ながと》や周防《すおう》国が水平線に長い海蛇のように横たわって見えた。
後の離宮といった屋形で、仕える女人はそれぞれ異なった魅力を備えていた。
西陽に映える海は、時には茜《あかね》色に、また蜜柑《みかん》色に輝く。妖《あや》しいほどの美しさだった。
国前王は男具那に囁《ささや》いた。
「お気に召しましたら、夜の伽《とぎ》にお呼び下さい」
「吾は構わぬが、三人には好みの女人を宛《あて》がって欲しい」
「分りました、猪喰殿は?」
「猪喰は要らぬ、女人を断っているようだ、奴だが吾は信頼しておる」
「よく承知しています、部屋も一部屋用意しております」
国前王は、男具那と猪喰の関係をすでに男具那から聴いていた。
宮戸彦たちは、同じ部屋だが、少し離れた下座で酒を飲んでいる。猪喰は縁先の地に敷かれた筵《むしろ》に坐《すわ》り、一人で飲んだ。
奴ということになっているので、内彦や宮戸彦の仲間には決して入らない。宮戸彦たちも、最初は警戒心を抱いていたが、次第に、変った男子《おのこ》だ、と気にしなくなった。ただ、今度の戦で、間者としての能力を認め、尊敬の念だけ抱いているようだった。
ことに、昨夜、伽の女人を拒絶してからは、仙人のような男子ということになり、宮戸彦は、若仙人と呼ぶようになった。
宮戸彦にそう呼ばれても、猪喰はにこりともしない。だが別に不愉快そうではなかった。
男具那は自分の傍に来た侍女を、すべて宮戸彦たちの方に行かせた。国前王と二人だけで飲んだ。土鳴のことがまだ気になり、国前王の胸中も訊《き》いてみたかったからだ。
その采配《さいはい》、人を視る眼力の鋭さに、国前王は男具那に心酔していた。
「国前王、土鳴将軍は、明日戻ると思うか?」
「鼻垂に協力した耳垂軍は総崩れで敗走しました、御覧になられたように、野に捨てられた弓矢、刀、槍などは賊のものです、耳垂の本拠まで追撃したとしても、賊に戦う力はあまりありません、だから今日中に掃蕩《そうとう》戦は終っているはずです」
「だから明日には戻るというわけか、それにしても連絡兵が来ないな」
「この際、賊を殲滅《せんめつ》しようと全力をあげているのでしょう」
と国前王は答えたが、どこか声に自信がない。
「王も土鳴軍と一緒に戦っている、だから土鳴の戦いぶりは肌で感じているはずだ、吾《われ》が受けた報告では、手抜きをしたのではないか、と思われる節がある、国前王はそうは感じなかったか?」
「やはり報告が入っていたのですか、王子は親衛軍の投入が遅い、と判断されたのではないでしょうか?」
「その通り、戦の様子を窺《うかが》っていた節がある、王も親衛軍の投入をせかせたのではないか」
「はあ、ただ、土鳴将軍は、鼻垂軍の待ち伏せを考慮し、親衛軍を手許に置いていたようです、吾にはそう返答しました」
「王は、どう感じた? 宇沙と国東は将来、兄弟のように仲良くせねばならない、宇沙の存亡は国東の運命を握っているのだぞ」
「宇沙と国東半島は、切り離すことができませぬ」
「遠慮は要らぬ、感じたことを申すのだ」
「はあ」
国前王は視線を伏せ、低い声で呟《つぶや》くように呻《うめ》いた。呻いたというより吐息かもしれない。どうやら国前王は、胸中に湧《わ》いた思いを話そうかどうしようか、と迷ったようだ。たぶん、自分の返答が土鳴の運命を左右することになる、と躊躇《ちゆうちよ》したのであろう。
「軍団の将軍は、時には王よりも国の存亡にとって大事なのだ、私情は捨て、率直に述べるように」
「分りました、確かに一瞬ですが、今は賊の待ち伏せだとか、賊の増援部隊に備え、兵力の投入をためらう時ではない、と腹立たしく思いました、なぜ、土鳴将軍が親衛軍を温存しようとしたのか、吾には不可解でした……」
「その通り、吾が放った間者の報告を分析した結果、おかしい、と感じた、問題は大事な時に、なぜ、兵を温存しようとしたかだ、土鳴将軍は、戦況|如何《いかん》では鼻垂に通じようとしたのではないか……」
「まさか、そこまでは……」
国前王は愕然《がくぜん》とした表情で答えた。
「いや、冷静な分析の結果じゃ、それにしても、土鳴将軍はなぜ、耳垂との戦況報告を寄越さぬ?」
男具那は嫌な予感に襲われた。
土鳴が耳垂と手を結んだのではないか、と一瞬疑ったのだ。
「吾は連絡兵を置いて来ました、もう参るはずでございます」
国前王は、警護隊長を呼んだ。髭《ひげ》の濃い巨漢である。
「厚岩《あついわ》、連絡兵はまだか?」
「まだでございます」
「よし、十名の兵を連れ、駅館川まで行け、そちは馬で行くのだ、もし連絡兵に会えば、馬に乗せ、急いで連れて参れ」
厚岩は巨漢だが動作は俊敏だった。
「すぐ行きます」
跳ぶように立つと走り去った。
緊張した沈黙が二人の間に走った。二人とも同じ疑惑に捉《とら》われていた。
「そんなことはありますまい、土鳴将軍が耳垂と手を結ぼうとしても、兵士たちが承知しません、兵士たちには、宇沙の地に両親、妻子がいます、土鳴将軍だけが逃げるというのなら別ですが」
「そうだな、兵士が承知するまい、宇沙の地に入る安心院《あじむ》盆地の鼻垂と、山国川の奥に棲《す》む耳垂とでは、同じ賊でも兵士たちにとっては条件が違う、裏切りは無理だ」
男具那は苦笑した。どうも戦が始まって以来、猜疑《さいぎ》の眼で人を見るようになったのではないか、と反省させられた。何となくおおらかさが薄れたような気がする。
厚岩が連絡兵を連れて戻ったのは、半刻《はんとき》後だった。
連絡兵の報告によると、土鳴は山国川沿いに逃げた耳垂と賊を追い、山国盆地の方まで兵を進めている、とのことだった。
山国盆地は狭隘《きようあい》の地だが、耶馬渓《やばけい》よりも更に二里ほど奥で、周辺の山々には耳垂と通じている賊が多い、という。
「土鳴将軍は、何が何でも耳垂の首級をあげたい、と胸中を奴《やつこ》に明かしました」
国前王の説明では、和尚山、妙見山の戦地から、山国盆地までは八里(三十二キロ)前後はある、という。
男具那は布に地図を描《か》かせた。かなりの山奥である。
「ほう、吾にはよく分らぬが、山国盆地の南方の山を越えたなら、もう球珠国ではないか?」
「さようでございます、吾が把握している限りでは、山国盆地から球珠国最大の日田《ひた》盆地に道が通じております」
「ほう、その距離は?」
国前王は地に伏している連絡兵に訊《き》いた。連絡兵に選ばれるだけに、周辺の地理に詳しい。二人の連絡兵は私語を交わしていたが、年輩の一人が、四里ぐらいと思います、と答えた。
「えっ、何だと、たった四里か?」
男具那には予想もしていなかった返答だった。国前王が補足するようにいった。
「二人とも、実際に行ったことはありませんが、山人や村人の噂《うわさ》で申しているようです」
「球珠盆地までは?」
男具那の問に国前王は連絡兵に訊く。二人はまた話し合っていたが、年輩の連絡兵が答えた。距離的にはあまり違わないが、山が険しく、山道は狭く曲りくねっており、距離感は倍以上ある、という。獣途《けものみち》といってよい道が大半らしい。
男具那は、速見《はやみ》郡に行き、速津媛《はやつひめ》に会い、由布院《ゆふいん》盆地を通り、球珠盆地から日田盆地に入る予定だった。
だが耶馬渓の耳垂が殲滅されたとなると、山国盆地から日田盆地に入る方がずっと早い。久米七掬脛も、日田盆地で男具那と会うことになっているのだ。
「国前王、いろいろと役に立った、無心の境地で土鳴将軍の凱旋《がいせん》を待とう」
と男具那はいった。
土鳴が戻って来たのは三日後の夕だった。その間、連絡兵が三度来て、耳垂を追い詰めていることを報告した。耳垂が捕えられ首を刎《は》ねられたという報告があったのは、その日の朝である。
耳垂の首級は土鳴が自ら持参し、男具那に差し出した。
捕えられていた賊の捕虜が、首級は間違いなく耳垂のものである、と証言した。耳垂という仇名《あだな》がついた通り、耳朶《みみたぶ》が実に大きく、人間のものとは思えない。賊の捕虜以外、残っていた宇沙の兵士の中にも、耳垂の首級である、と証言した者が何人かいた。
男具那は土鳴の労をねぎらった。だからといって謀反の心を抱いたことを許すわけにはゆかない。
男具那は、土鳴に残るように命じた。
「そちと話があるのだ、海辺にでも出てみよう」
「はっ、分りました」
一瞬土鳴の身体が固くなったのは、罰を覚悟したせいかもしれない。男具那には宮戸彦ら三名と猪喰が従ったが土鳴は一人である。
国前王の屋形から海辺まで数百歩だった。海のない大和で暮しているせいか、潮の匂《にお》いや波の音は男具那を惹《ひ》きつける。それは男具那の体内に流れている印南《いなみ》の海人の血のせいかもしれなかった。
数え切れないほどの星が囁《ささや》き合っているようにまたたいている。波は穏やかだが岩に打ち寄せると飛沫《しぶき》をあげる。砂浜に対しては優しいのだ。
男具那は、砂浜に腰を下ろした。土鳴にも、坐《すわ》るように、といった。
土鳴は正座した。
男具那は仰向《あおむ》けに横たわると、夜空を眺めた。土鳴をどう処罰するか、男具那は決めていなかった。土鳴に謀反の心があったかどうかも訊いていない。
耳垂を山国盆地まで追い、首級をあげたのは罪ほろぼしのつもりであろう。
ぼんやり星を眺めていると、ふと星が語りかけて来るような気がした。
男具那は無心の境地になり、星の言葉に耳を傾けた。
「詰問してはならぬ、土鳴将軍に素直に告白させるのじゃ、それができれば男具那よ、そちは大将軍じゃ、処罰はその後、考えればよい」
星はそういっていた。
自分自身の能力を試すにも、よい機会かもしれない、と男具那は感じた。
「穏やかな海だ、鼻垂、耳垂を退治したおかげで、宇沙にも平和がやって来た、この国東半島も含め、宇沙は纏《まと》まり、民が喜ぶ政治をせねばならぬ」
「はい」
「それにしても、凶悪な賊に対して、こんなに早く大勝利をおさめるとは、吾《われ》も考えていなかった、最低、十日の日数は必要だ、と視ていた」
「はっ、やつかれもそのように思っていました、王子様のお力です」
男具那にとって土鳴の返答は、あまり感じのよいものではなかった。自分を褒めるよりも、山音尾の功績を褒めてもらいたい。
男具那は返事をしなかった。こんな見えすいたお世辞は真っ平である。
「続けて、よろしゅうございましょうか?」
と土鳴が低い声でいった。
「ああ、構わぬぞ」
「王子様のお力がなければ、山音尾の奇襲作戦も功を奏しません、鼻垂と耳垂の獰猛《どうもう》さに対し、宇沙の兵士は怯《おび》えていました、だが王子様の御協力があり、音尾の戦法は活《い》きました、大効果をあげたのです、だから宇沙の者の中では、音尾が第一の功労者だと思います」
「そちは、山音尾の奇襲作戦と申したのう、音尾が親子で途《みち》を作っていたのは、知っていた、というわけか……」
「もちろん存じております、賊の征伐に対し、やつかれと音尾は意見を異にしていました、音尾は積極的な征伐を主張し、やつかれは、まず宇沙国が富むことを考えたのです、富めば人も集まり、多くの兵を養えます、国を富まし、強力な兵を持ってから、安心院の鼻垂を征伐し、その後、耳垂を退治しようと思っていたのです、だが王子様が宇沙に来られ、事態は急変しました、音尾の途が役に立ったわけです」
「そちは今でも、宇沙の軍団だけでは、鼻垂を退治するのは無理だ、という意見か」
「さようでございます、国前王も、王子様が来られるまでは、鼻垂退治に消極的でした、宇沙軍だけで奇襲攻撃をかけ、一時的に成功しても、鼻垂は耳垂の力を借り、逆襲して来ます、この周辺の賊共は皆、連絡しあっているのです」
土鳴の意見を聴いていると、一理あるような気がして来る。
「そちは音尾が途を作っているのを、どうして知ったのだ、間者でも放ったのか?」
「とんでもございません、やつかれは、音尾が軍団を去って以来、音尾の動向が気になっていました、確かに賊に対する意見は異なりますが、軍団にとって音尾は必要な人物です、ある日、やつかれは音尾に会いに行きました、軍団への復帰をうながすためです、音尾は留守でした、時おいて今一度行ったのですがいません、音尾の妻は、山に獣を獲《と》りに行ったと申しましたが、何だかとまどった様子でした、何かあると思い、早朝に訪れたのです、ちょうど音尾は太尾と出掛けた時でした、やつかれは二人を尾行し、途を作っているのを知ったのです、ただ、そのことはやつかれの胸に秘めて来ました、音尾と話し合っても無駄だ、と思ったからです」
「なるほど、音尾に対するそちの気持は、今申した通りであろう、ただ胸に秘めた、と申したが、誰にも話さなかったのか、信頼する部下にも……」
「はい、話していません、やつかれの部下をお調べになればすぐ分ります、一度でも喋《しやべ》れば、隠し通せません」
「その通りだ、では訊く、なぜ喋らなかったのか?」
「王子様、喋れば鼻垂の耳に入る恐れがございます、それでは宇沙国を裏切ることになります、やつかれは、国力さえ整えば、鼻垂を征伐するつもりでいました、その際、音尾が作っている途は役に立つはずです、賊を利するようなことはいえませぬ」
「うむ……」
仰向いて喋っていた男具那は、上半身を起こした。土鳴は忍耐深く、慎重な性格のようである。それに、今の説明が真実なら、土鳴は愛国心が強く、私情のために宇沙国を裏切るような人物ではない。
猪喰が二人の会話に聴き入っているのは、気配で分った。
「土鳴将軍、吾は大将軍として、そちに訊問《じんもん》したいことがある、和尚山、妙見山の戦だが、そちは戦が激しくなっても、親衛軍を傍に置き、長い間投入しなかったというではないか、なぜだ?」
男具那の口調は厳しくなっていた。
「申し訳ありませぬ、罪に問われることは覚悟しておりました、国前王とともに賊の砦《とりで》である妙見山を攻めた際、意外にも耳垂の援軍が多いのに気がついたのです、ということは、鼻垂の精鋭軍は間道を狙《ねら》い、宇沙に進入する計画に違いない、と判断しました、おそらく王子様の軍は音尾が作った途を利用し、大勝利をおさめるつもりに違いない、それならこの機会に耳垂の本拠地に乗り込み、耳垂軍を殲滅《せんめつ》しよう、と欲を出した次第です、宇沙の親衛軍を出さなくとも戦況は五分と五分でした、やつかれはすぐ間者を米神《こめかみ》山に遣わし、王子様の軍の戦況を窺わせました、想像通り鼻垂軍は間道で大敗している様子との報告を受け、部下に最終目的は耳垂だ、といい聞かせ、親衛軍を突入させたわけです、やつかれの目的は果せましたが、親衛軍の投入が遅れた件について弁解の余地はありません、罰は覚悟しております」
「戦にとって大事なのは、全軍が団結して敵に当ることだ、味方の間に罅《ひび》が入れば、悪くすれば総崩れになることもある、軍団長でありながら勝手な行動を取った罪はまぬがれ難い、明日にでも厳正に裁くであろう」
「はっ、王子様のお気持を騒がせ、申し訳ありませぬ」
土鳴は数歩|退《さが》ると立った。
猪喰が咳《せき》をした。話したいことがあるようだ。男具那は手で招いた。
「王子様、神夏磯媛は王子様に降服の船を出しました、降服し賊を討つ力を王子様に借りたいと提案したのは羽女殿とのことですが、土鳴がどういう態度を取ったかは、国前王の説明以外、はっきり致しておりません、奴《やつこ》の身分で、出過ぎたことを申すことを、お許しいただければ……」
「そちは仮りの奴じゃ、遠慮せずに申せ」
「はい、奴はこの際、その間の事情を羽女殿に今一度、詳しく訊《き》かれた方が、ことがはっきりするのではないか、と何となく感じましたが……」
猪喰の話し方は、控え目だった。それだけに、かえって重みを感じる。
「おう、その通りじゃ、猪喰、朝餉《あさげ》を終えてから、羽女と会う、羽女にその旨を伝えよ」
「分りました」
猪喰の姿が闇《やみ》に消えた。男具那の胸が微《かす》かにときめいた。羽女の汗の匂《にお》い、甘酸っぱい果実の匂いを男具那は忘れていなかった。
男具那が勢いよく立つと、宮戸彦たちが男具那を取り巻く。
「何でもない、吾は眠るぞ」
男具那は屋形に向って走り始めた。
翌日男具那は、縁に正座する羽女と会った。
羽女は男子《おのこ》用の袴《はかま》をはき、素顔である。剣は外し、手の届かない場所に置いていた。朝陽が羽女の顔に映え、肌が輝いて見えた。男子の恰好《かつこう》はしているが、若い女人の肌は柔らかく、血の色さえも滲《にじ》み出て光っている。
二人は視線を合わせた。羽女は自分の感情を抑えるように歯を喰《く》いしばっていた。
男具那は話そうとしたが言葉が喉《のど》につかえて出ない。黒い瞳《ひとみ》の勝った羽女の眼を凝視《みつめ》ていると、たまりかねたように羽女が視線を伏せた。
呪縛《じゆばく》から解き放たれたように男具那は口を開いた。
「羽女、呼んだのは他でもない、土鳴軍団長について調べたいことがある、そちが、豊《とよの》国は吾に服従し、吾の力を借りて賊の征伐に乗り出すべきだ、と神夏磯媛に進言した際、土鳴軍団長がどういう態度を取ったか、詳しく述べてみよ」
「はい、その件に関しては、私《わ》が神夏磯媛様に進言したのでございますが、当然その前に、土鳴軍団長に私の意を伝えました、軍団長も王子様の力をお借りすることを考慮していたらしく、私に賛成しました、ただ、宇沙とは兄弟国である国前王の同意を得た方が、媛様も神託を下し易いので、王を説得すると申しました、確かに国前王の協力は絶対必要です、私も、そうして欲しい、と申しました」
羽女の返答によどみはない。それに羽女が男具那に嘘《うそ》をつくはずがなかった。
土鳴軍団長に疑わしい点はないようである。だが親衛軍を出し遅れたのは、将軍として失格といってもよい。
「そうか、吾に服従することに、反対しなかったのだな」
「その通りでございます、土鳴軍団長について何か……」
羽女は出過ぎたことを訊いた、と思ったのか、手で口を押えた。
「羽女、吾《われ》の傍に参れ」
男具那の言葉に、羽女は周囲を見た。
「訊きたいことがあるのだ」
羽女の顔に微かに血が映えた。抑えていた女人の情が顔に出たのかもしれない。
羽女は前に進もうとし、躊躇《ちゆうちよ》した。
「羽女、これは命令だぞ」
厳しい男具那の声に、羽女は膝《ひざ》で進んだ。
一歩手前で羽女は止まった。男具那は羽女の体臭と髪の匂いを嗅《か》いだ。体内の血が騒ぎ下半身が疼《うず》き始める。男具那は狼狽《ろうばい》しながら、内彦たちを呼んだ。
三人の部下が縁に控えた。
「怪しい者がいないか、周囲を見張れ」
男具那の命令に、部下たちは一瞬顔を見合わせた。王子は少しおかしい、と三人はとまどったようだ。
当然である。男具那が三人を呼んだのは、燃えようとする欲情を抑えるためだったからだ。
「羽女、土鳴軍団長は、親衛軍を出し遅れた、我らを裏切る気持があったのではないか、と疑ったが、その疑いは晴れた、だが、軍事将軍としての責務を果さなかった罪は大きい、どう裁いたならよいか、迷っている、そちの意見を申せ」
「今、直《す》ぐでございますか?」
「おう、直ぐじゃ、時はない」
羽女は視線を伏せ、しばらく考えていた。
「土鳴軍団長は慎重な方です、その点、山音尾は情熱的で、行動家でございます」
羽女は口を閉じた。これ以上は喋れない、と羽女の口はいっていた。
「分った、会ってよかったと思う」
男具那は、羽女を抱き締めたいのを抑えた。
「戻ってよいぞ」
と男具那はいった。
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十五
土鳴《つちなり》をどう罰するかについて考えると、眠れそうにない。男具那《おぐな》はこの際、山音尾《やまのおとお》を宇沙《うさ》国の軍団長に抜擢《ばつてき》し、土鳴を副軍団長に降格することが最適のように思えたが、自信がなかった。
なぜなら男具那は、土鳴よりも音尾に人間的な好感を抱いているからである。
その感情が決定を下す邪魔になった。
こういう時は一晩熟睡し、早朝のすがすがしい海辺にでも出れば、正しい判断が下せそうな気がした。
男具那は、宮戸彦《みやとひこ》と猪喰《いぐい》を呼んで、早朝、考え事のため浜辺に出るが、警護は要らない、と告げた。
宮戸彦は眼を剥《む》き、猪喰は顔を伏せる。
「宮戸彦、大事な決を下さねばならぬのだ、一人にして欲しい、分ったな」
宮戸彦が息を吐いた。吐く音が次第に大きくなる。炎を強くするため、竹製の送風管に息を吹き込んでいるような音と顔だ。
男具那は黙っていた。
案の定、宮戸彦がたまりかねたように口を開いた。
「王子、やつかれたちの声が大きいのなら、猪喰だけでもお連れ下さい、影のように音もなく走る特技の持ち主です、それに猪喰はいつも、王子とはかなりの距離を保っています、王子の邪魔にはなりません」
男具那は宮戸彦の手を取り、
「よくいってくれた」
とその髭面《ひげづら》に自分の頬《ほお》を押し当てたいほど嬉《うれ》しかった。男具那は、宮戸彦がそう答えるのを期待して、二人を呼んだのだ。
主君と部下の心が通い合う、というのはこのことだろう。
奴《やつこ》にしているせいか、男具那は猪喰が自分を見張っていても、まったく気にならないのだ。
そのくせ呼べば、動かなかった空気が、風になったように現われる。
男具那は自分の感情を抑えていった。
「宮戸彦のいう通りにしよう、猪喰、日の出の前に起こせ、浜辺を歩きたい」
「安心致しました、猪喰、頼むぞ、賊の残党が王子を狙《ねら》っていないとも限らぬ」
と宮戸彦はいった。
翌朝、男具那が目を覚ますのと、猪喰が縁を叩《たた》いたのと、ほとんど同時だった。
男具那はまだ闇《やみ》の残っている戸外に出た。猪喰は男具那の後ろからついて来る。男具那は浜辺に出た。
海はまだ闇を吸い込み黝々《くろぐろ》としている。ただ砂浜に打ち寄せる波が微《かす》かな明りに光って見える。
男具那は砂浜に横たわった。東方の雲はわずかに白んでいるが真上は暗い。
今日は雲が厚いようだった。波の音は強くて長い。
男具那は潮風を胸一杯に吸った。海のない大和《やまと》国に住んでいる男具那には、潮の匂《にお》いは新鮮である。
しばらく横になっていると、波の水《みず》飛沫《しぶき》が男具那の顔を濡《ぬ》らした。潮が満ちて来たらしい。
四半刻《しはんとき》(三十分)も横になっていただろうか。その間男具那は、ほとんど無の境地で、土鳴や音尾のことを忘れていたのだ。
ただ顔を布で拭《ぬぐ》って猪喰を呼んだ時、迷いが吹っ切れたような気がした。
「王子様」
猪喰は十歩ほど離れた砂浜にいた。いつの間にか砂を掘り、身を横たえていたのだ。隠れていた、といってもよいだろう。
男具那は波打際から離れた。
気づかぬうちに夜はほとんど明けている。果てしない海はその姿を現わしていた。ただ雲が厚いせいで、薄墨色の布が拡がっているように見える。波だけが淡い明りに映え、到るところで牙《きば》を剥いていた。
「猪喰、今日は海が荒れそうだ」
「はっ、風も少し強くなりました」
「猪喰、もっと近くに参れ」
男具那が腰を下ろすと、猪喰は三歩ほど離れた場所に う蹲《ずくま》った。
「のう猪喰、吾《われ》は昨日から土鳴の処罰について悩んでいた、土鳴が大将軍であれば、土鳴の兵法は容認できる、だが土鳴軍団は、国前《くにさき》王が率いる軍団と協力し合い、賊を攻めたのだ、耳垂《みみたり》の本拠地を叩《たた》くため、親衛軍の投入を遅らせたのなら、そのことを国前王に打ち明け、王の了解を得なければならない、そうではないか」
「当然でございます、あの戦では、勝手な行動は許せません」
猪喰はきっぱりといった。男具那の命令で土鳴の行動を監視した猪喰は、土鳴に疑惑さえ抱いたのだ。
口にこそしないが猪喰は、厳しく罰する必要がある、といいたそうだった。
ただ土鳴は耳垂の本拠地まで兵を進め、耳垂を斃《たお》している。その功も考慮せねばならない。耶馬渓《やばけい》まで進撃した兵士たちは、功は軍団長にあり、と思っているに違いない。
男具那が迷っていたのはそこだった。その迷いも猪喰の言葉で完全に吹っ切れた。
「その通りだ、それはそうと、波の音に聴き入っていると大和を思い出す、不思議だのう、大和には海がないのに、たぶん、吾の先祖は海を進み大和に入ったのであろう、波の音に先祖の血が騒いでいるのかもしれぬのう、猪喰はどうだ?」
「はっ、但馬《たじま》の海を思い出します、ただ但馬の海はこのように静かではありません、少し波が強くなると、岸辺の岩に襲いかかって参ります、奴《やつこ》の先祖も海を渡って但馬に来たのでょう」
猪喰は淡々とした口調でいった。気持を抑えて喋《しやべ》っている。変った男子《おのこ》だ、と男具那は胸の中で呟《つぶや》いた。奴として男具那に仕えているが、男具那に対する忠誠心は、内彦《うちひこ》たちに劣らない。少しも出過ぎず黒衣《くろこ》の役に徹している。
「そちにも妻子がいる、故郷が恋しいであろう」
「王子様、前にも申した通り、奴は二度と戻らぬ、と妻子に申し渡し、国を出ました、国を捨てたのです、故郷への未練はありません」
「国を捨てたと申すのか、そういえば、そちの祖父、丹波森尾《たんばのもりお》殿も、吾《われ》の伯父《おじ》、イニシキノイリビコ王の仇《かたき》を討つため、国に戻らず、音羽《おとわ》山に潜み、仇討ちの機会を狙っていた、普通なら伯父王の死の後、丹波《たんば》に戻るはずだが……」
「王子様、祖父には祖父の気持があったと思います、それと同じように、奴には、奴の気持がございます、奴はすでに国を捨てました、王子様にお仕えできただけでも幸運なのです、御推察下さい」
猪喰は両腕を砂につけて叩頭《こうとう》した。
前から感じていたが、猪喰には、男具那にもいえない深い事情がありそうだった。
「分った、故郷などと女々しいことを口にしてしまった、もう申さぬ」
「はっ、申し訳ありません」
砂についた猪喰の両腕が慄《ふる》えていた。
「さあ、戻ろう」
男具那は勢いよく砂を蹴《け》って立った。
熊襲《くまそ》との戦に勝ち、凱旋《がいせん》したなら、猪喰の力になってやりたい、と男具那は思った。もし猪喰が受け入れるならば、の話だ。
いつも影を背負っているような猪喰に、男具那は妙に惹《ひ》かれるものを感じていた。
明るく豪快な宮戸彦たちとは異なった暗い魅力である。たぶん男具那の中にも、はっきりとは自分でも掴《つか》めないが、猪喰に通じるものがあるのであろう。
その日の午後、男具那は屋形に、国前王を始め、山音尾、土鳴、また羽女など戦に加わった隊長たちを集めた。
男具那は彼らに、鼻垂《はなたり》、耳垂の賊を滅ぼした意義を述べた。
それは宇沙国の安泰と繁栄に役立つだけではなく、北九州の賊たちに大打撃を与え、賊に怯《おび》えている各国を奮い立たせ、賊の力を借り、北上しようとしている熊襲を含む狗奴《くな》国の出鼻をくじいたことになり、その戦果には計り知れないものがある、と功をねぎらった。
「吾は大将軍として、賊の殲滅《せんめつ》に最も功績のあった者として山音尾をあげる、音尾は副軍団長の地位を捨て、野に下った後も国を憂え、子の太尾《ふとお》と二人で何年も、安心院《あじむ》に通じる間道の上に隠れ途《みち》を作り、賊の襲撃に備えた、誰にも知らせず黙々と働いた行為は称讃《しようさん》に価する、故に吾が持参した金銅の柄《つか》の環刀大刀を与え、名前に彦《ひこ》の貴号をつけることを許す、同時に宇沙国の大将軍に任命し、長《おさ》として新しい軍団を編成することを命じる」
男具那が口を閉じ、土に敷いた筵《むしろ》に坐《すわ》っている一同を睥睨《へいげい》すると、音尾は顔を赧《あか》らめ、何かいおうとした。
奴にはその資格はありません、といおうとしたのかもしれない。
「これは吾の命令じゃ」
と男具那は一喝し、音尾の口を封じた。
「次に土鳴将軍だが、和尚《かしよう》山、妙見《みようけん》山の戦において、精鋭軍の投入の時機を誤り、国前王に不安感を与えた罪は見逃し難い、されど、その失策を取り戻そうと、敗走する耳垂を追い、賊を殲滅、耳垂の首級をあげた功績も大である、吾は戦においては連合軍同士の信頼感が第一だ、と考える、故にそれを損ねた罪と、耳垂を斃した功を勘案し、土鳴将軍を、新しい軍団の副将軍に任命する、これからは音尾将軍を補佐し、共に手を取り合って、宇沙国の発展に貢献するように」
叩頭していた土鳴は、嗚咽《おえつ》をこらえた。土鳴は軍団から放逐されることを覚悟していたのかもしれない。
男具那は、国前王の闘志を褒め、名前にワケをつけることを許した。
ワケには、大和の王家から分れた氏族という意味と、親父のある者、という二つの意味がある。
国前王は感激し、今後も男具那王子に忠節を尽す、と述べた。
男具那は更に、女人の身でありながら、男子に負けぬ武勇を示した羽女に、神夏磯《かむなつそ》媛ひめの補佐役の地位を与え、女人軍団の長に任命した。
その夜は改めて、新しい宇沙国の出発を祝う宴《うたげ》がもよおされた。
宴の最中に、男具那の命令で因島《いんのしま》に残り、舟から矢を射る練習をしていた弓の名手の石占横立《いしうらのよこたち》ら三名が加わり、一層、宴を盛り上げた。
宮戸彦、内彦、それに武彦《たけひこ》らは男具那の傍で酒を飲みながら、口々に今の王子には名実共に大将軍の貫禄《かんろく》がある、と褒めた。その口調には畏敬《いけい》の念が篭《こも》っている。
「王子の背後から光が昇っていましたぞ、王子はもう王者です」
宮戸彦は、自分の眼で見た光を追い求めるように男具那を見た。
「そうじゃ、王者の威厳があります」
内彦も同調した。
「宮戸彦に内彦、二人は吾の死を望んでいるのか」
と男具那は笑いながらいったが、宮戸彦は踏まれた蛙のような声を出し、眼を剥《む》いた。眼の玉が今にも飛び出しそうである。内彦の顔が石になった。
武彦だけが吐息をついた。
「王子、やつかれは舌を噛《か》んで死にます、なにゆえ、やつかれが王子の死を……」
宮戸彦は絶句した。剥いた眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「宮戸彦、冗談だ、むきになるな、ただ、そちが父王の前で吾が王者だ、などといえば、父王は間違いなく吾に死を命じるだろう、だから王などとはいうな、いいたい気持は分る、だが押し殺すのじゃ、内彦もだ」
「王子」
宮戸彦と内彦は床に額をすりつけ、全身を慄《ふる》わすと号泣した。
眼を閉じた武彦の瞼《まぶた》からも涙が滲《にじ》んだ。
自分を祝い、新しい宇沙国の首途《かどで》を祝う席で、なぜ、こんな悲哀に包まれるのか。
冗談めいた口調にしろ、今、口にすべきではなかった、と男具那は悔いた。
吾はまだ童子の残片を身につけている、と男具那も舌を噛みたい気持になった。
男具那はこの時、猪喰に通じるものが何か、と問われれば、この孤独感だな、と思った。他の王子に劣らない自負はあるがなぜか父に嫌われている。
どんなに功績をたてても、父王は男具那を跡継ぎにはしないだろう。なぜか、と訊《き》かれても理屈では説明できない。
「父王は吾を心の深い部分で嫌っている、そして吾も同じだ、吾は父王に親愛の情を抱いていない」
男具那はそう答えるより仕方がなかった。
「王子、大功をあげましょう」
と内彦が叫んだ。
号泣していた宮戸彦が涙を飛ばしながら顔を上げた。
「王子、やつかれが悪うございました、内彦の申す通りです、大勝し、王の期待以上の功をあげたことを示しましょう、王のお気持も変るかもしれませぬ」
「王子、堂々と凱旋できるよう、大勝しましょう」
武彦が拳《こぶし》を握った。
吉備《きび》の王族である武彦は、何かを感じているのかもしれない。
王位など望んでいない、と男具那はいいたかったが、それをいえば部下たちの闘志を削《そ》ぐことになる。男具那は勢いよく立った。
「ああ、その通りじゃ、吾は勝利のために舞おう、国前王、小太鼓の名手はおらぬか、吾は今、新たな勝利に向って舞うぞ、琴は要らぬ、吾の舞に合わせて小太鼓を打てばよいのだ」
「お気に召すかどうか分りませんが、呼びます」
国前王の命令で、宴席の末端で飲んでいた小太鼓を打つ男子が現われた。
男具那は刀を抜いた。勇ましい剣舞である。
男具那は舞っている間に自然に歌っていた。
阿蘇《あそ》の火を 刀に巻きて 戦えば
火の子は唸《うな》り 風を呼ぶ
猛《たけ》き男子ら 空を飛び
炎となりて 撃ちてし止まむ
炎となりて 撃ちてし止まむ
実際男具那は風に吠《ほ》える炎のように、動き、跳び、刀を振って舞った。
男具那が舞い終ると、海にまで届くほどの拍手と喚声が起こった。
男具那は、到着したばかりの弓の名手を呼び、
「余興のつもりで矢を射てみよ」
と命じた。
石占横立ら三人は相談していたが、それぞれが武術を披露することになった。
まず横立が敷かれた宴席の筵の外に立ち、弓に矢をつがえた。四本の矢を口に咥《くわ》える。
二十歩ほど離れた場所に田子稲置《たごのいなき》が立ち、直径二寸(六センチ)前後の石を持った。左手の布袋にも数個の石が入っているらしい。
男具那を始め部下たちも、どんな武術を披露するのだろう、と固唾《かたず》を呑《の》んだ。
稲置が篝火《かがりび》の炎に照らし出された横立の顔を睨《にら》みつけた。横立がゆっくり息を吸い込む。
「やっ!」
静まり返った夜気を裂くような気合いとともに、掌《てのひら》の石を稲置は上に放った。石が闇《やみ》に消えた瞬間、横立は矢を放った。鉄の矢尻《やじり》が石に当り見事な火花を散らした。再び気合いが放たれ、二本目の矢が次の石に当り火花を散らす。息をつく間もなく五本の矢が放たれ、ことごとく石に当った。
射終ると横立は男具那に叩頭《こうとう》した。
人間業とは思えない武術である。
「見事じゃ」
男具那が手を叩《たた》くと、拍手が響き渡った。
「いや、驚きました、これでは、敵の隊長たちは離れていてもことごとく斃《たお》されます」
武彦は唸《うな》るようにいった。
「うむ、これは一万の兵力に相当するかもしれぬのう、おう、二人の稲置が何かするらしい、今度は何か?」
二人は男具那に叩頭すると、離れて向い合った。距離は十歩ばかりである。
石を掌に乗せた横立が二人の間に立った。
不思議なことに呼吸を整えているのは、二人の稲置よりも横立の方だった。
稲置は矢を弓につがえ夜空に向けている。どうやら、横立が放った石を二人が矢で射るらしい。これも大変な難事である。なぜなら一人の矢が先に石に当れば、石は横にそれるから、後の矢は当らない。
宮戸彦も息を呑んでいた。
横立が、「やあう」と叫んだ。気合いではない。獣が吠えるような叫び声である。
尾を引いた声が終ると横立は石を真上に放った。
石は驚くほど真直《まつす》ぐ放り上げられた。石が闇に消えたのと、二人が矢を放ったのと同時だった。火花が見事に二つ散った。矢が石に当った音はまったく同時である。
今度は横立を真ん中にして三名が男具那に叩頭した。
三人の中で横立が長《おさ》的な存在らしい。
再び拍手が轟《とどろ》き渡った。
男具那に呼ばれた三名は、男具那の前で蹲《うずくま》った。
「いや驚いたぞ、吾《われ》の部下たちも優れた武術者だが、感嘆していた、たぶん、弓矢ではかなわぬと思ったのであろう、それにしても、弓矢の鬼神たちの芸を見たようじゃ」
「お褒めいただき感激でございます」
男具那は自ら、三名の酒杯に酒を注いだ。
「頼もしい部下を得た、心強く思う、一つ訊《き》きたいが、かりに吾が石を投げたならどうじゃ、今のように当るか?」
「はあ……」
横立は口篭《くちごも》ったが、思いなおしたように、
「これは三名の気が一致しなければ無理でございます、一人が矢を放ち、一人が石を放る場合も同じです」
といった。
「吾もそう思っていた、もしこれが径三寸ぐらいの石ならどうじゃ?」
「径三寸の石なら、かなり重うございますので速さも遅くなります、それと、その石が闇《やみ》に消えるまでなら、他の方が放り上げられても当てられます」
「おう、それで納得した、賊の頭は径三寸以上ある、走っていても当てることができるわけだな」
「三十歩以内なら、まず失敗は致しません」
「その言を得て、力強く思うぞ」
男具那は、自分の矢を一本ずつ褒賞として与えた。
翌日、神夏磯媛が戦勝を祝い、宇沙国を安泰に導いてくれた男具那に礼を述べるため、男具那が泊まっている国前王の離宮に来た。
剣・鏡・玉を吊《つる》した霊木を持参した。海で男具那を出迎えた時と同じく、服属の証《あかし》だった。
後に、天皇家の三種の神器となったが、当時は各国の王が、剣・鏡・玉を祭祀《さいし》権の象徴として持っていたのだ。それを持参するということは、国の祭祀権を献上する、という意味であり、儀式でもある。
巫女《みこ》王が支配する北九州の各国は、百年以上も昔の、邪馬台《やまたい》国が盟主であった連合国家の性格を残しており、祭祀権の方が政治権よりも上であった。
九州から東遷した邪馬台国は三輪《みわ》王朝となり、東国などより広い地域を服従させねばならないため、祭祀の格が低下し、外交権や武力を伴う政治権とほぼ同格になった。
倭《わ》国統一に大きく踏み出した五世紀の応神《おうじん》・仁徳《にんとく》王朝では、祭祀権は実質的な意味において、政治権力を握る大王の掌握するところとなり、あまり祭祀に左右されなくなった。
倭の五王の武《ぶ》とされる大王・雄略《ゆうりやく》が、三輪山の神の正体を知ろうとし、力持ちの部下を山に登らせ、大蛇を捕えた。大王は大蛇の雷光のような眼に驚愕《きようがく》し、三輪山に帰した、という説話が『日本書紀』に載っている。
三輪山の神の威力に恐れをなしたわけだが、神の正体を探ろうと、部下を神聖な三輪山に入らせた大王には、祭祀を至高のものとする考えがないことを示しているといえる。
その点、男具那が活躍している四世紀後半の北九州の国々では、まだ祭祀が王の権威の象徴であったのだ。
男具那は急造の高い座に坐《すわ》り、神夏磯媛が差し出した霊木を受け取ったが、
「巫女王の忠誠は確認した、ただこれから以降は、群臣の意見を重視し、政治にあまり口をはさまないようにするのじゃ、祭祀は、飢饉《ききん》や疫病のないことを祈るのが最も重要な任務であると心得よ、政治に口をはさむ場合は、国の政治をつかさどる群臣が意見を求めたようなことのみに限るのじゃ、もし今この場で吾が申したことを誓約したなら、この三種の神器を、改めて巫女王に吾が授けるであろう」
「約束いたします」
神夏磯媛は声を慄《ふる》わせながら答えた。
「それと羽女はこの戦で男子《おのこ》に負けぬ功をあげた、故に女人たちの長とし、巫女王の補佐役とする、補佐役の意見は重要じゃ、充分耳を傾けるように」
「そういたします」
男具那は眼の端に女人たちの先頭に坐っている羽女を捉《とら》えていた。
羽女は叩頭し、視線を伏せている。男具那の顔を見るのが辛《つら》いのかもしれない。
男具那は、明日の朝にでも宇沙国を発《た》ち、球珠《くす》国に向う決意を固めた。
いつまでも宇沙で時を費やしてはおれないのだ。
男具那は神夏磯媛から渡された霊木を高々と上げた。
「巫女王よ、いつまでも三輪の王に忠誠をもって仕えるように、誓約できるか」
「はい、誓約いたします、もし誓約に背くことがあれば、海の魚が海面に浮き、飛んでいる鳥が落ちて、朽ち果てるように、私《わ》の身は朽ち果てるでしょう」
そういう神夏磯媛の声には生気がなく、顔も無表情だった。
返答の内容は立派だが、服属の儀礼の言葉である。
巫女王の時代はもう終りました、といった羽女の言葉は、神夏磯媛の存在感の薄さを間違いなく捉えていた。
男具那は霊木を神夏磯媛に返した。媛とともに儀式に参列した一同が、「おう」と声をあげて叩頭した。
翌朝、男具那たち一行は、二里(八キロ)以上は離れた山国《やまくに》川に向って出発した。
滞在した日はわずかだったが、初めての戦を体験し、また羽女と一夜を共にした男具那は、宇沙の地に離れ難い思いを抱いた。
山国川まで、山音尾親子、土鳴、それに羽女などが送って来た。
男具那は大和から連れて来た馬に乗った。一行の中で馬に乗っているのは男具那だけであった。
厚い雲が空を覆い、今にも雨が降りそうである。昨日も降りそうだったが降らなかった。梅雨の季節である。球珠国への旅は雨になるかもしれない、と男具那は感じた。ただ、戦の前からほとんど雨は降っていない。その点は幸運といわねばならなかった。
山国川の西は筑紫《つくし》に連なる山々で、南は黒煙をあげている阿蘇の巍々《ぎぎ》とした大山脈だ。だが鉛色をした雲は山国川上流の山々に覆い被《かぶ》さり、ほとんどの山は見えない。
「雨でございます」
音尾が山々を覆う雲を見た。
「なあに、旅路じゃ、雨ぐらい何でもない、道案内の者は大丈夫だな」
「はあ、猿のように山々を越え、筑紫と往来している者です」
音尾は五人の道案内を呼んだ。
道案内たちは藁《わら》の履《くつ》をはいているが、背中には何足もの履を背負っている。
「雨や霧でも迷ったりはしないな」
「大丈夫でございます、さいわいここ数日雨がなかったので、川の水は少のうございます、それが何よりの幸運でした、賊共がいた川沿いの集落に参れば、賊共から解放された人々が出迎えてくれます、ただこれからは雨、山国盆地に着くまで濡《ぬ》れに濡れます、楽な行軍ではありません」
道案内人の長《おさ》は蹲り、音尾に答えた。
音尾がそれを男具那に告げる。
「濡れるぐらい当然じゃ、戦の最中の雨よりもずっとましだ、音尾、気にするな、と伝えるように」
音尾が男具那の意を伝える。
道案内人の長の名は猿脛《さるすね》だった。健脚のせいでそう呼ばれるようになったらしい。
三十半ばで、約二十年、筑紫との間を往来している。
賊に見つからないように、山の獣途《けものみち》を何度も通り、地理には熟達していた。
各国の言葉を覚え、畿内《きない》の言葉も話せる。
山を眺めていた猿脛が音尾に、雨具を身につけるように、と進言した。
猿脛の進言を音尾が男具那に伝える。
男具那は猿脛に、申したいことがあれば吾に告げよ、といいたかった。
いちいち人を通すのは煩わしい。
だがそれはできない。当時の慣習に反するからだ。男具那に直接話しかけられない武彦の部下の兵士たちがひがみかねない。
征西大将軍としての男具那は、規律を守る必要があった。
男具那は、内彦ら三人を周りに集めた。
「山音尾、猿脛が吾《われ》に申したいことがあれば、宮戸彦、内彦、それに武彦の三名に伝えるように命じよ」
音尾が猿脛に告げると、猿脛は三人に向って、よろしくお願いします、と叩頭《こうとう》した。
いよいよ宇沙と別れる時が来た。
羽女の姿がいつの間にか見えない。さっきまで音尾について来たのだ。
男具那は土鳴を呼んだ。
「土鳴副将軍、宇沙国繁栄のために、音尾ビコに協力するように」
「王子様の御寛大さに応《こた》えるためにも、全力をあげ、音尾ビコ大将軍に協力致します」
土鳴は蹲《うずくま》り土に手をついた。
「おう土鳴、そちは今、新しい初心を吾に告げた、いつまでも初心を忘れぬように、音尾ビコ、土鳴副将軍の初心を聴いたのう」
と男具那は音尾にいった。
「はっ、やつかれも土鳴副将軍と腕を組んで、新しい宇沙国のために任務をまっとうします」
「のう音尾ビコ、そのためには、徹底した討論が必要じゃ、結論はその後に生まれる」
「身に染みて、受け給《たま》わりました」
「では参るぞ、そうじゃ、羽女の姿が見えぬ」
男具那は、今、気がついたようにいった。
「今までおりましたが……」
音尾も不思議そうに周囲を見廻《みまわ》した。
男具那の傍の草叢《くさむら》が揺れ、羽女が姿を現わした。
羽女は紐《ひも》に吊《つる》した銅鏡の破片を男具那に差し出した。邪馬台国時代のものらしく、割れた断面をなめらかに磨き、紐を通す穴が開けられている。飾り物になっているが、かつては権威の象徴であったのかもしれない。
「王子様、私《わ》の家に代々伝わって来たものでございます、私は王子様の勝運をこの鏡に祈りました、どうかお受け下さい」
「家の宝を吾にくれると申すのか、おう、喜んでもらうぞ」
そなたとの一夜を吾は忘れぬ、と男具那はいいたかった。男具那は羽女の指を握り、鏡を受け取った。たぶん、今まで羽女が身につけていたのであろう。鏡は暖かい。
男具那は紐を首にかけ鏡を上衣《うわぎ》の内側に垂らした。
堪《こら》え切れぬように羽女は嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。そんな自分を恥じるように勢いよく立った。三歩|退《さが》ると叩頭する。立ち、退り、叩頭までの三つの動作は俊敏で、戦の時の羽女を思わせた。
「羽女、その調子で生きるのだ」
男具那は声に力を込める。
「王子様、忘れませぬ」
二人だけが理解し合う会話の内容だった。
「出発じゃ」
男具那が馬に乗り手を挙げると、隊長たちが兵士に告げる。
男具那たちの一行は蓑《みの》に似た雨具を纏《まと》い、山国川沿いの道を雲に覆われた山に向った。半刻《はんとき》(一時間)もたたないうちに雨が降り始めた。
道案内たちが先を進み、その後を武彦、内彦、それに宮戸彦が進む。男具那の後ろには、馬の手綱を取った猪喰がいた。国前王が男具那に献上した馬である。馬には男具那が大和から運んで来た絹織物、装飾品などとともに、予備の武器類が積まれていた。
耶馬渓はいうまでもなく、文政《ぶんせい》元年、頼山陽《らいさんよう》が当地を旅し、その優れた景観に魅入られ、天下に耶馬渓ほどの景観なし、と褒めたことにより、その名が全国に拡まったのである。
頼山陽が旅したのは、現在の本《ほん》耶馬渓や羅漢寺《らかんじ》耶馬渓で現在の耶馬渓の数分の一であった。
本耶馬渓の奥の山移《やまうつり》川流域は頼山陽の耶馬渓に入っていない。この辺りは断崖《だんがい》絶壁が多く、深い山林が連なり、吸い込まれるような景観だが、到底人が歩ける場所ではない。
それに較べると、山国川本流の流域には、川岸は旧溶岩によって段丘をつくり、風化して、狭い田畑なら耕せないことはない。森林も多く、段丘は川沿いに連なっている。
耳垂はこの辺りから山国盆地をも支配していたのだ。
雨はまだそんなに激しくはないが、次第に雨具を通し、衣服を濡らした。
蒸し暑い季節なので、雨と汗が入り混じり、気持は悪い。身体全体が蒸されるのだ。
ただ古代の人々は、雨や悪路の行軍には比較的慣れていた。
雨が降れば歩き難《にく》いのは当然だ、と思っている。そういう意味では自然を受け入れていた。
一行は黙々と進み、喉《のど》が渇くと木の葉を毟《むし》り取り、雨水で喉を潤す。
一行は山国川の東岸を進み、現在の青《あお》の洞門《どうもん》の近くに来た。
いうまでもなく青の洞門は、江戸時代の曹洞《そうとう》宗の僧|禅海《ぜんかい》が、岩壁にかかっている桟道が危険なので、鑿《のみ》で岩を穿《うが》ち洞の道を造った。要した年月は二十年とも三十年ともいわれているが、真相はさだかではない。
禅海をモデルにした菊池寛《きくちかん》の『恩讐《おんしゆう》の彼方《かなた》に』は、あまりにも有名である。
もちろん当時は、洞門はもとより桟道もない。案内人の長《おさ》である猿脛が宮戸彦に、
「ここで川を渡ります、川水はまだそんなに増えていません、今のうちです」
と告げた。
「深さは?」
「深いところで胸までです、雨具は頭に乗せて下さい、夜になると雨水が増え、渡り難くなります」
このぐらいならた易い、と猿脛はいうが、奥の山々に雨が降り始めたので、水嵩《みずかさ》は増えていた。
宮戸彦は男具那に報告した。
まったく未知の道なので、猿脛にまかせるより仕方がなかった。猿脛は腰に吊《つ》っていた法螺貝《ほらがい》に似た貝を取り、口に当てた。
対岸に向って吹いた。吹くというよりも大声を出した、といってよい。声は数倍の音声となって周囲に響き渡る。
いつの間に集まっていたのだろうか。対岸の林から十数人が現われた。長い綱を身体に巻き、一列になり川岸まで来た。
「何者だ、賊の生き残りではないか?」
と宮戸彦は刀の柄《つか》に手をかけた。
「賊の生き残りは、山奥に逃げ隠れています、賊から解放された村の者で、王子様を始め、兵士たちが、流されないように手伝います、少し水嵩が増していますので」
猿脛が、貝を吹くと、村人たちは巻いていた綱を解き川に入った。
「宮戸彦、善良な人々だ、刀から手を離せ、そちらしくないぞ」
男具那の叱責《しつせき》に、宮戸彦は首を竦《すく》め、
「王子、まだ戦の昂奮《こうふん》が抜けていません」
と頬髯《ほおひげ》を撫《な》でた。
「分らぬことはない、よく暴れたからなあ」
と男具那は笑った。
村人たちは長い綱を持ち、川を渡って来た。
猿脛が、馬上の男具那を見て、何かいった。村人たちは蹲り、何度も叩頭する。どうやら賊から解放してくれた男具那に礼を述べているようだ。
「おう、吾も喜んでおるぞ、そちたちのように善良な人々は、幸せに暮さねばならぬ、そのために吾は大和から参った、どうやら川を渡るため、綱を対岸に渡してくれるらしい、礼を申す」
宮戸彦が男具那の言葉を猿脛に告げた。猿脛が村人たちに伝える。村人たちは、「オーエ」と喜びの喚声をあげた。
蔓《つる》を十本も縒《よ》り一本の綱にしているので、実に強靭《きようじん》である。対岸の綱は木に巻きつけられた。こちらの方は巨石に巻かれた。
「王子、この綱に軽く手をかけ、流されないようにお渡り下さい、とのことです」
と宮戸彦がいった。
「よし、吾は馬に乗って渡る、猪喰、手綱を取れ」
男具那の言葉が終らぬうちに、内彦と武彦が前に出た。
「王子、我らが先に参ります」
男具那の返答も待たずに、雨具を頭に乗せた二人は綱に手をかけ川に入った。手綱を取った猪喰が続く。宮戸彦は男具那の背後を守る。
石占横立《いしうらのよこたち》ら三人の弓の名手は、それぞれ巨石の上に立ち、矢を弓につがえ、対岸および周囲を警戒する。こういう場合、三人が加わったことは実に心強い。対岸に賊が隠れていようと、姿を見せた瞬間、三人に射貫かれる。
まさに完璧《かんぺき》の守りだった。男具那を乗せた馬は懸命に泳ぐ。綱の効果は大きく、流される不安はない。男具那一行が渡り切ると、武彦が兵士たちに、渡るように命じた。
「間隔をあけてゆっくり渡るのじゃ、流れはゆるいぞ」
全員の兵士たちが渡り終えると、弓の名手が渡った。
再び男具那たちの行軍が始まった。
男具那たちは途中で大雨に降られた。滝のような大雨で三尺(九十センチ)先が見えない。猿脛たちの進言で、そういう時は休む。木蔭《こかげ》に入るのだが雨は容赦しない。
雨具など役に立たず衣服はずぶ濡《ぬ》れである。少し雨がおさまると火を燃やし暖を取り、衣服を乾かす。川を渡ってから山国盆地まで、約二里半(十キロ)だが、三|刻《とき》(六時間)以上もかかった。
平地なら一刻で歩ける距離だ。
山国盆地の賊も逃げており、住民たちは男具那の一行を歓迎してくれた。
男具那と宮戸彦たちは、山国盆地の長《おさ》の家に泊まることになった。盆地といっても川沿いの狭隘《きようあい》の地である。住民たちは稗《ひえ》や粟《あわ》を食べ、山や川で獲物を獲《と》る。
兵士たちの大半は家に入り切らず、濡れたまま眠らねばならない。
だが当時の行軍とはこんなものだ。
男具那たちも、身体を暖め、仮眠できただけである。
一夜明けると雨はやや小降りになっていた。男具那は火をたき、濡れた兵士たちに暖を取らせた。いよいよ日田《ひた》盆地に向うのだが、今度は本格的な山越えである。距離は二里強だが、道なき道を這《は》い登らねばならない。
男具那は猿脛を通し村長《むらおさ》に雨の具合を訊《き》いた。村長は、夕方までにやみそうだ、という。
「よし、もう一泊しよう、今宵《こよい》は兵士たちを眠らせねばならない」
濡れてさえいなければ蒸し暑い季節なので、地に横たわっても暖を取る必要はないのだ。昨夜はあまり眠っていないから熟睡できるはずだった。まだ戦は始まっていない。ここで無理をするのは愚である、と男具那は判断した。
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十六
山国《やまくに》盆地といっても、川に沿った狭隘の地で、果して盆地といえるかどうか分らない。
山国盆地から日田《ひた》盆地には山越えだが、予想以上に道は険しかった。
まさに獣途《けものみち》で、上ったり下りたりせねばならなかった。それに一行を邪魔したのは雨である。
さいわいもう一つの峯《みね》を越えたなら日田盆地に着くという場所まで来た時、雨雲が去り、夏の陽光が兵士たちや山の樹林を照らした。
高い場所だが夏の陽光である。
男具那《おぐな》は行軍を停止した。
「濡《ぬ》れた衣服を乾かし、少し早いが夕餉《ゆうげ》を摂《と》るのじゃ、その後はここで眠る」
男具那の命令を聞いた兵士たちは、大喜びである。
もちろん男具那は、戦になればこうはいかぬぞ、と武彦《たけひこ》や内彦《うちひこ》を通じ、兵士たちに念を押させた。
平地なら灼熱《しやくねつ》の陽光に灼《や》かれるところだが、場所は海抜百丈約三百メートル)以上はあるので、意外に涼しい。それに風が熱気を冷やしてくれた。
男具那や宮戸彦《みやとひこ》たちは、岩清水で身体を洗い、衣服を着換えた。
着換えの衣服は、水の入らぬ竹篭《たけかご》に入っている。
『日本書紀』は、失った兄の釣り針を求めて山幸《やまさち》が龍宮城《りゆうぐうじよう》に行く際、無目篭《まなしかたま》に乗った、と記述している。竹で編んだ篭で、海水が入らないようになっているのだ。
耳垂《みみたり》から解放された農民たちが、ここまで担いで来たのである。
「日田盆地では、久津《ひさづ》媛ひめ、速津《はやつ》媛ひめが出迎える、それに神仙郷のような高所の盆地らしい、薄汚れた衣服を纏《まと》っておれば恥をかくぞ」
「王子、久津媛と速津媛は若いのでしょうか、神夏磯《かむなつそ》媛ひめのような巫女《みこ》王じゃ、がっかりしますなあ」
宮戸彦がたくましい身体を、水に浸した麻布で拭《ふ》きながらいった。
「馬鹿、おぬしは巫女王と媾合《まぐわ》いたいのか、巫女王は神に仕えるお方だ、おぬしのような、不潔な男子《おのこ》とは縁がない、だいたい、祀《まつ》り以外の日は、屋形の中に隠れておられる」
と内彦がからかった。
「内彦、不潔な男子とは何だ、だいたいおぬしは吾《われ》以上に女人が好きではないか、そのくせ、聖《ひじり》のようなことをいう、そういう男子は心も不潔じゃ」
「心が不潔、許さぬぞ」
内彦が立つと宮戸彦も立った。その勢いで水《みず》飛沫《しぶき》が周囲に飛んだ。
「二人とも、静かにしろ、浄《きよ》い岩清水を穢《けが》し、あまつさえ、王子にかけるとは許されぬぞ、まったく阿呆《あほう》じゃ」
珍しく武彦が二人を叱咤《しつた》した。
男具那は岩に背中をつけながら、楽し気に三人の部下たちを眺め、身体を洗っていた。
男具那に水飛沫をかけたと知り、宮戸彦と内彦は、慌てて石のようになり、
「申し訳ありませぬ」
と叩頭《こうとう》する。
冷たい水で二人の股間《こかん》の一物は縮んでいる。男具那は声に出して笑った。
「おい、そのふぐりと竿《さお》は何だ、色だけ一人前だが、童子のように小さいぞ、なにゆえ、自慢たらしく吾に見せつけるのだ」
二人はあっと叫び、慌てて水につかる。
「様ないぞ」
武彦が哄笑《こうしよう》した。
「武彦、おぬしだけ好《よ》い恰好《かつこう》をするな」
二人は武彦を睨《にら》んだが、あまり迫力がない。
男具那は身体を洗うと、新しい衣服に着換えた。
下手の小川で水につかっていた兵士たちが、何となく騒然としている。どこからか、猪喰《いぐい》が飛んで来た。
「王子様に申し上げます、土折猪折《つちおりいおり》という賊に捕まっていた女人が逃げて来て、王子様に救いを求めています」
「何だと、土折猪折だと、山蜘蛛《やまぐも》に劣らぬ、獰猛《どうもう》な賊ではないか、よし、その女人と道案内人を呼べ」
間もなく兵士の隊長に連れられ、ぼろの麻布を纏った若い女人が這《は》うようにしてやって来た。顔も手脚も泥《どろ》まみれである。
男具那の前で蹲《うずくま》った女人は、言葉の分る道案内人に、懸命な口調で訴えている。
道案内人が内彦を通し男具那にいった。
「昨夜の豪雨で捕まっていた住居が浸水し、外に出られたので、死を覚悟で逃げ出したとのことでございます、女人は筑前《ちくぜん》の者で、川名女《かわなめ》と申しております」
女人は慄《ふる》え、土に手を突いていた。
髪も泥だらけだが、わずかに見える肌は白い。
男具那は、道案内人に通訳をさせていろいろと訊《き》いた。
男具那の知識では土折猪折は英彦《ひこ》山に拠《よ》っているが、その勢力は筑前に拡がっていた。また鼻垂《はなたり》や耳垂《みみたり》に劣らぬ獰猛な賊として恐れられている。
なぜ、日田盆地の方に女人が逃げて来たのか、不思議だった。
女人の返答は次のようなものである。
土折猪折の本拠地は確かに筑前側だが、賊は勢力の拡張を狙《ねら》い日田盆地からあまり離れていない山中に、隠れ場所を作った。
山を穿《うが》ち、巨大な穴をあちこちに掘り、砦《とりで》も造っていた。ただ、まだ賊の人数は多くなく、三十名前後だ、というのである。
「ここから、どのぐらいかかるのか?」
「はい、豪雨もやみましたし、三|刻《とき》というところでございます」
「それでも、往復すれば一日|潰《つぶ》れる、兎《と》に角《かく》そちは岩清水で身体を洗え、女人用の衣服はないが、男子用のものがある」
男具那は、道案内人に、女人の身許《みもと》を訊くようにと告げた。
宗像《むなかた》氏の支族に生まれた、という。
「えっ、宗像、名族だのう」
宗像氏は、筑前と朝鮮半島南部の伽耶《かや》国との交易権を握っていた。本拠地は、現在の宗像市である。
将来のためにも、女人が捕えられていた新しい拠点の賊を叩《たた》き潰しておいた方がよいかもしれない、と男具那は思った。
放っておくと、賊は山中のあちこちに勢力を拡げ、球珠《くす》盆地や日田盆地の国々に攻撃をかけて来る恐れがある。
それに宗像氏に恩を売っておくのも大事だ。
女人は泥まみれの衣服のまま岩清水で、顔や衣服を洗った。
大勢の男子たちの前で裸になるのは、彼女にとって堪え難いことなのだろう。
顔、それに身体を洗い、濡れた衣服を纏って蹲った女人を見て男具那は驚いた。抜けるように色が白く、濡れた肌が陽に映え、内側から輝いているようである。一重の眼は切れ長で鼻筋が通り、泥まみれの時には、想像もできなかった美貌《びぼう》だった。
宮戸彦が獣の吠《ほ》えるような声を発し、慌てて大きな掌《てのひら》で口を塞《ふさ》いだ。
男具那は、名族である宗像氏の女人に間違いない、と思った。
「猪喰、新しい衣服を与えよ、もちろん、麻布の衣服じゃ」
男具那の命令に猪喰が渡すと、女人は草叢《くさむら》に入り、蹲ったまま着換えた。
身体を動かす度に草が揺れ、白い肌が見える。
男具那は通訳の案内人に、何人ほどの女人が捕まっているのか、と訊いた。
「数名とのことでございます」
「賊の数にしては女人が多過ぎる、いったいどういう理由からだ」
道案内人は、川名女からの返答を伝えた。
土折猪折は、山に篭《こも》り、筑前で暴れていたが、次第に諸国の守りが固くなった。このままでは勢力が弱体化するのを恐れ、当時は球珠国に属していた日田盆地を狙う計画を立てた。
その拠点として砦を造り始めた。本格的な攻撃は百人以上の賊を収容できる砦を造り終える秋以降とのことだった。
彼女の返答には、怪しい点がない。
三十人程度の賊なら、男具那が行かなくても、宮戸彦に十人ばかりの兵を与えれば充分だろう。
荒い息が聞えて来た。
宮戸彦が喉《のど》まで出かかった言葉を懸命に抑えている。
数人の女人が捕えられていると知った瞬間から、全身の血が煮えくり返るほど、救出に行きたいに違いなかった。
いつもなら、
「王子、賊を退治しましょう」
というところだが、言葉を抑えているのは、日田盆地のすぐ手前まで来ているのと、目的が賊の退治よりも、女人にあるからではないか。
内彦も武彦も、眼を輝かせている。やはり行きたいのだ。
男具那は三人の部下に、行くか、と訊いた。
「王子、参ります」
三人が同時に叫んだ。蹲っていた女人が、上目遣いに男具那を見た。気のせいか眼の奥に紅のような光が走った。美貌という点では羽女《はねめ》よりも劣るが、羽女にない色香が滲《にじ》み出ている。
だからこそ、宮戸彦を始め内彦、武彦などがいきりたっているのだ。
おそらく同じような女人が数人監禁されている場面を想像しているのであろう。
「三名のうち一人が、兵十名を連れ、賊の砦を急襲し、女人を救出する、刃向って来る賊は斬《き》ってもよいが、山の中に逃げ込んだ賊を追ったりはするな、時が惜しい、もちろん、砦は壊し、賊が住めないようにせよ、分ったか」
「王子、分りました」
三人が同時に叫ぶ。
「皆、行きたいだろうが、一人で充分だ、誰を行かせるかだが、今更、武術較べをしても始まらぬ」
男具那に顔を見られた三人は唾《つば》を呑《の》んだ。まるで女人と媾合《まぐわ》う前の時に似た形相だ。男具那は笑いを抑え、真面目《まじめ》な顔でいった。
男具那は猪喰に矢を三本持って来るように命じた。
一本の矢の羽に紐《ひも》を巻き、矢尻《やじり》を三人に向けた。
「いいか、三本のうち一本に紐がついている、それを当てた者が行く、さあ、誰でもよい、一本ずつ取れ」
男具那が矢尻を前に出すと、珍しく三人の身体が竦《すく》んだ。まるで矢尻に何か印がついているように睨む。
「いくら睨んでも印はない、こういう場合は勘と勇気だ、吾《われ》もどの矢に紐がついているかは分らぬ」
「じゃ、やつかれが……」
最初に手を出したのは武彦だった。真ん中の矢を取ったが駄目である。
途端に宮戸彦と内彦が左右の矢を取った。
紐の矢を当てたのは宮戸彦である。宮戸彦は、矢を高々と上げ、
「吾だ、葛城《かつらぎ》の宮戸彦だ」
まるで祭りのように踊った。
「運のよい奴《やつ》だ、宮戸彦よ、女人にばかり目が眩《くら》んでいると、賊を逃がすぞ」
内彦がいまいまし気にいい、小石を蹴《け》った。女人は宮戸彦を見、胸を抱き抱えるような仕草で叩頭した。そういえば彼女の胸は上衣《うわぎ》を突き破るように膨らんでいた。
武彦は昂《たか》ぶりを鎮めるように、大きく息を吸い込む。
「よし武彦、そちが連れて来た兵士の中から、十名ばかりを宮戸彦に与えよ、宮戸彦は長《おさ》となり、土折猪折の賊を討ち、捕まっている女人を救出する、他に宮戸彦の部下二名も従う、それと道案内人が一人、これでどうだ」
男具那の言葉に宮戸彦は、おまかせ下さい、と胸を叩《たた》いた。宮戸彦は行軍中、身から離さなかった丸太ん棒のような木刀で土を叩いた。
宮戸彦がこれを振り廻《まわ》すと、刀や剣など折れてしまう。このような武器は、宮戸彦のような力持ちに、有効なのだった。
宮戸彦は女人の前で仁王立ちになり、
「確か川名女と申したな、今からそちの仲間を救出に行く、賊の砦まで案内しろ」
宮戸彦の声は大きい。木々の葉が揺れそうだった。女人は一層身を縮めた。だが縮めれば縮めるほど乳房や尻の部分が膨らむ。
宮戸彦の声には唾《つば》が混じっていた。
道案内人の長が、犬脛《いぬすね》という男子を呼び、同行するように、と命じた。
「王子様、かなりの言葉を話せますし、ちょっとした崖《がけ》なら、軽々と登ります、必ずお役に立ちましょう」
もちろん、宮戸彦を通じて男具那に伝えたのだ。
「よし、行け、我々は日田盆地に入り、久津媛の宮に行く、賊を討ち、女人を救出したなら、久津媛の屋形に来い、そうだのう、明日の夜までだ、逃げる賊は追うな」
男具那の命令を宮戸彦は復唱した。
一行が出発した後、男具那は猪喰を呼び、尾行するように命じた。
宮戸彦は木刀を背負い、刀は腰に差し、山に入った。大変な道で、熊笹《くまざさ》や灌木《かんぼく》を掻《か》き分けて進まねばならない。
川名女は道案内人の犬脛と絶えず話し合っている。
宮戸彦にとっては不愉快である。
宮戸彦は川名女を呼んだ。
「川名女、そちは吾の言葉が分るか?」
艶《つや》のある眼で見詰めていた川名女は、
「少しは分ります」
と答えた。
「よし、それなら、大事なことは、吾に申せ、吾は長じゃ、分るな、長」
「はい、宮戸彦様は頭《かしら》でございます」
「頭か、何だか賊になったようだが、まあ、そういうところだ、それぐらい分ればよい、おい犬脛、賊はどこに隠れているか分らぬぞ、川名女が語ったことは、すべて吾に伝えろ」
「はい、お伝えします」
「今まで何を申していたのだ?」
「はい、いくつぐらいの尾根を越えるとか、恐ろしい獣は棲《す》んでいないのか、など訊《き》いておりました、はい、川名女は、尾根は三つぐらいで、獣は猿と猪が主だとのことでございます」
「熊は少ないのか?」
「はい、あまりいないようです」
「捕えられている女人について語ったか?」
「いいえ、砦《とりで》まで遠うございますし、奴《やつこ》にはそういう質問をする権限はございません」
「うむ、よく自分の任務を心得ておる、そういう質問は吾がする」
宮戸彦は童子時代、葛城山を庭のように思い遊んだ。男具那に仕えるようになってからは、山登りに必ず同行した。
宮戸彦は山に関しては自信があった。
実際、他の兵士たちは宮戸彦の健脚に驚き、ついて歩くのが精一杯である。陽光は容赦なく照りつけるし、山の樹林に入ると、兵士たちはほっとした表情になる。
犬脛も宮戸彦の健脚には圧倒されていた。しかも宮戸彦は思い出したように、丸太ん棒のような木刀を振り廻すのだ。
もちろん、兵士たちは、宮戸彦のような力強い男子《おのこ》が長になったことを喜んでいた。
一|刻《とき》半(三時間)ほどで兵士たちの竹筒の水はほとんど空になった。ただ雨が降ったおかげで、尾根と尾根との谷に流れている小川は水量が多い。
宮戸彦は谷間の小川で兵士たちを休ませた。交替で川に入らせる。実際、冷たい水に身を沈めていると汗みどろになった疲れが取れる。
男具那に見込まれ、長年仕えているだけに、宮戸彦も、兵士の扱い方は心得ていた。
宮戸彦は石に腰をかけ、白い脚を川水につけている川名女と並んで坐《すわ》った。
通訳の犬脛が近づいて来たので、
「二人だけで話したいことがある、離れておれ」
と追い払った。
「ゆっくり話す、それに少しこの地方の言葉も分って来た。賊の隠れ家までどのぐらいかかる?」
川名女が、口を開け小首をかしげたので、宮戸彦はゆっくりと訊きなおした。
半分ぐらい分ったらしく、川名女は嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。二刻(四時間)ぐらい、と答えた。水に入れた脚をゆっくりと動かす。陽は澄み切った川水を通し、白い女人の脛《すね》に光を与えていた。
語り部に聴いた仙女の脚のような気がした。宮戸彦は川に跳び込み、輝きながら揺れている川名女の脚に喰《く》いつきたくなった。心の臓の鼓動が大きく、傍の女人に聞えそうである。
「うむ、去れ!」
と宮戸彦は自分に気合いを入れた。
賊に捕まっている女人たちを救出してもいないのに、救けを求めている女人に欲情しているようでは、男具那王子が信頼している部下とはいえない。不忠の部下といわねばならない。
もし川名女にその気があれば媾合《まぐわ》いたいが、それは賊を斃《たお》し、女人を救出した後のことである。
川名女は宮戸彦の気合いに驚いたように、身を縮め、ふくよかな胸を両手で覆う。
たぶん、毎夜のように砦の頭に弄《もてあそ》ばれ、怯《おび》え切っているのであろう。本能的に身を守ろうとするのだ。
「許せぬ!」
と宮戸彦は喚《わめ》いた。
道案内人を始め、部下たちが驚いて宮戸彦を見た。川名女に怒った、と錯覚したようである。だが宮戸彦には部下の視線など入らない。
川名女を弄んだ賊は、丸太ん棒のような木刀で叩《たた》き殺すだけではおさまらない気がした。脚を一本ずつ砕き、手を引き裂き、最後に股間《こかん》のものを潰《つぶ》して、谷に放り込んでやりたい。
途端に宮戸彦は、少しでも早く賊の隠れ家を襲いたくなった。
「皆の者、休憩は終りだ、賊を一人残らず殺す」
怒鳴ってから宮戸彦は、男具那に、山に逃げ込んだ賊は追うな、と厳命されたことを思い出した。
「山に逃げた賊は追わぬ、だから山に逃してはならぬ、逃す前に斬《き》るのだ、隊長は吾《われ》が殺す、分ったな」
あまりの凄《すさ》まじい声に部下たちは静まり返った。
「返事がないぞ、どうした!」
「分りました」
立ち上がって叫んだのは、宮戸彦が大和《やまと》から連れて来た部下の草押《くさおし》だった。
草押の声に釣られたように、他の兵士たちもいっせいに、分りました、と答えた。
川名女も驚いたように、水から脚を出した。
宮戸彦の勢いと兵士たちの対応で、出発することが分ったらしい。もちろん、宮戸彦がなぜ、激怒しているのかは分っていない。
宮戸彦は道案内人に命じた。
「賊に捕えられていた川名女は、後二刻ぐらいだと申しているが、だいたいどの方向じゃ、見晴らしのよい場所に来たなら説明させろ」
「分りました」
道案内人は宮戸彦の命令を川名女に伝えた。
先頭を行くのは川名女で、道案内人が続く。宮戸彦はその後ろだった。兵士たちは再び汗を拭《ぬぐ》いながら黙々と歩く。
宮戸彦たちは谷間の川の上を進んでいた。川は小野《おの》川で、海抜三百四十丈(約千メートル)の岳滅鬼《かくめき》山に源を発していた。
鬼が棲むというのでこんな名前がついたのだろうが、賊が棲むにふさわしい名前だ。男具那たちの場所から砦まで直線距離で二里半(十キロ)あるから、後一里半としても、かなりの時はかかる。
二つ目の尾根を越えた時、道案内人が宮戸彦を呼んだ。
川名女が道案内人に川の向こうに聳《そび》える山を見て、しきりに訴えている。
「宮戸彦様、あの山の向い側に賊の砦があるそうです」
「うむ、岳滅鬼山の連山だな、二百丈はあるぞ、いったん下りねばならぬのう」
「川名女もそう申しております」
道案内人が、川名女を呼び捨てにしたのが不快だが、これは宮戸彦の私情である。
「山の名は?」
「高塚《たかつか》山と申すそうです」
「ここから眺めると小野川の支流が高塚山の麓《ふもと》を流れているようだ、あそこまで下り、今一度川水を浴びる、それから賊を退治する」
兵士たちは宮戸彦の言葉に救われたような思いだった。川に向って獣途《けものみち》があり、川名女は慣れた道のように下り始めた。
宮戸彦も負けじ、と続いた。女人の脚に負けているようでは自慢の健脚が泣く。
陽は相変らず暑い。宮戸彦は重い丸太ん棒を背負っているが、下りる際に木々につかえ、邪魔になった。そのため川名女や道案内人との間が開いた。
「少し待て」
と怒鳴りたいところだが、誇りが許さない。宮戸彦は背中の木刀を右手に持ち、杖《つえ》代りにして下りた。時には尻《しり》ですべらなければならないような急斜面もあった。
突然、川名女の悲鳴と、あっ、と叫ぶ道案内人の声が聞えた。人間が転げ落ちるような音がした。
川名女がすべり落ちたようだ。宮戸彦は木刀を投げ捨てて下りた。道案内人の姿がなく、下の方で川名女の、助けて、という声がした。
前は崖《がけ》で獣途は崖の左側から川に下りている。相当な急斜面だ。
「すぐ行くぞ」
大和の山々で鍛えた足を活《い》かすのはこの時とばかり、宮戸彦は足を速めた。
未知の山ではかなり無謀な行為といわねばならない。突然、獣途が広くなった。堆積《たいせき》した落葉が乱れているところを見ると、ここからすべり落ちたに違いない。
上の方から兵士の一人が転がり落ちて来た。悲鳴をあげながら右手の岩から真下に転落した。岩の先は三丈(九メートル)以上の崖になっている。
宮戸彦は大きく息をすると、落ち着くのだ、と自分にいい聞かせて落葉の上を歩いた。
蔓草《つるくさ》の網が落ちて来たのはこの時だった。足許《あしもと》ばかりを気にしていたので、樹林に注意する余裕がなかった。
網に絡まれ身体が宙に浮いたと思ったら、凄《すご》い勢いで宮戸彦の身は網とともに上に飛ばされた。木を曲げて作った網の罠《わな》である。
宮戸彦の身体は高い木に激突し、そのまま吊《つ》るされた。一瞬、気が遠くなり自分がどこにいるのかも分らない。
異変を知った兵士たちが走り下りて来たが、半分は転倒し、起きようとしたところを隠れていた賊の槍《ほこ》(矛)の餌食《えじき》になる。
空中に吊られた網とともに揺れていると、木の枝が宮戸彦の頬《ほお》を刺した。激痛に意識が戻り、惨めな自分の立場に気づいた。
「くそ、やられた」
と刀に手を伸ばそうとしたが、網に絡まれて腕は動かない。
「宮戸彦様、宮戸彦様」
草押の声に下を見ると、彼と三人の兵士が数名の賊と闘っていた。賊は長い刀と槍で、兵士たちは刀だ。
その周辺には槍で刺された兵士たちが深傷《ふかで》を負い、呻《うめ》いていた。
宮戸彦は全力で網を破ろうと暴れたが、蔓草の網は恐ろしいほど強靭《きようじん》で、いたずらに網が揺れるだけである。
「宮戸彦様」
賊の槍を斬り落した草押が上を向いた。
「吾のことは放っておけ、闘え、後ろだ!」
宮戸彦の声に草押は身体を沈め、背後から刀で襲って来た賊の腹を突く。血《ち》飛沫《しぶき》で草押の身体は血みどろになっている。
宮戸彦目がけて矢が飛んで来た。本能的に身体をよじると、矢は宮戸彦の尻を掠《かす》めた。浅い傷だが、それだけに痛みは頭に響く。今度は矢が二本飛んで来た。
もう一度暴れたが避けられない。一本は左腕に、一本はまた尻に刺さった。これでは嬲《なぶ》り殺しである。
賊がなぜ待ち伏せていたのかなど、考える余裕はなかった。尻の方の矢は浅く宮戸彦が暴れると落ちた。
「宮戸彦様、これを」
草押は握っていた刀を網を吊《つる》している草の綱に投げた。宮戸彦が選んだ部下だけに、武術は優れている。刀は見事に綱を切断した。
だが草押は刀を上に投げたため下半身は空き、武器を失った。刀子《とうす》に手をかけた草押の腹に賊の槍が深々と刺さった。
その様子を眼に焼きつけたまま宮戸彦は網に絡まれて転落した。息が詰まるほどの衝撃と激痛に目が眩《くら》んだが、今度は気は確かだった。
転落した拍子に左腕の矢が抜け、そのまま急斜面を落ちて行く。
岩にぶつかり木に当り、やっと止まったのは川に落ちる崖の上だ。太い松が宮戸彦の転落を防いだのである。
今度は頭を打ったらしく再び意識が朦朧《もうろう》とした。だが矢傷の痛みですぐ意識は甦《よみがえ》った。
宮戸彦はようやく事態を認識した。賊に待ち伏せされていたのは、あの川名女という女人のせいらしい。
川名女が逃亡し、賊が追って来て、宮戸彦たちが来たのを知り待ち伏せていたということが考えられる。
だが川名女に対する疑惑も湧《わ》いて来た。あの女人は、賊の廻《まわ》し者ではないか、という疑いだ。
宮戸彦としては、あんなに美しく、羞《はじらい》を含んだ女人を、賊の廻し者とは考えたくなかった。
今頃、川名女は賊の手中に落ち、いたぶられているかもしれない。
身動きできぬ網の中で、宮戸彦は血が滲《にじ》むほど唇を噛《か》んだ。
待ち伏せていた賊に気づかなかった愚かさが腹立たしい。その理由は一つだ、あまりにも川名女に気を取られ過ぎていたのである。
「くそ、くそ……」
宮戸彦は思い切り息を吸い胸を膨らませ、網を破ろうとした。だが蔓草を縒《よ》り、作った網はびくともしない。
宮戸彦が呻いていると、意外にも川名女が、三人の賊とともに現われた。しかも川名女は槍を手にしている。
「おう、そちは……」
宮戸彦は後の言葉が出ない。疑惑の方が当っていたのだ。
そんな宮戸彦を川名女は、嘲笑《ちようしよう》するように睨《にら》んだ。
「そちは力持ちだが、阿呆《あほう》じゃ」
川名女は、宮戸彦も理解できる言葉でののしった。
「賊の廻し者だったか……」
「阿呆じゃ、今気がついたのか」
川名女は槍の穂で宮戸彦の口辺を叩《たた》いた。女人とは思えぬ力で、穂は空気を裂き唸《うな》りながら襲いかかった。
口辺が痺《しび》れ頬が割れたような痛みだった。川名女が獲物をいたぶっている蛇のように口を開け、舌なめずりした。美しい女人だけにその変貌《へんぼう》は恐ろしい。
血が口に入るが拭《ぬぐ》うこともできない。
女人に騙《だま》された無念さで、胸が張り裂けそうであった。
宮戸彦は口中に入った唾まじりの血を川名女に吐きつけるのがやっとであった。
だが川名女は後ろに退《さが》り身にかかるのを避けた。
「くそ、いったいそちは……」
宮戸彦の言葉が分ったのか、川名女は雷《いかずち》のような眼を向けた。
「私《わ》は、王子軍に殺された耳垂の正妻じゃ」
川名女は正妻といったが、なまりが強く宮戸彦には理解できない。
ただ耳垂の名は分った。
「耳垂の……」
「妻じゃ」
今度は宮戸彦にも理解できた。
髭《ひげ》にうずもれた三人の賊が、この阿呆|奴《め》、といわんばかりに、いっせいに笑った。
「おう、妻だったのか、吾《われ》の油断、王子に申し訳ない、早く槍で刺せ」
「そう簡単には殺さぬ、いたぶるだけいたぶり、耳垂の無念を晴らす」
川名女は槍の穂先で、宮戸彦の股間《こかん》を軽く突いた。蛇のような眼の奥に、残忍な悦《よろこ》びの炎が蠢《うごめ》いていた。
いたぶることに快感を覚え、昂奮《こうふん》しているのである。
蝦《えび》のように身体が曲がっているので、穂先は股間の上あたりを突いた。槍の先が骨を抉《えぐ》る。
「殺せ!」
と宮戸彦は絶叫する以外ない。痛みよりも自分に対する無念の涙が流れた。
賊の妻に騙されるとは何事か。王子に申し訳ない、と自分の爪《つめ》で自分を抉りたいのだ。
血涙とはまさにこのことである。
「殺さぬ」
川名女が笑う。口辺から悦楽の涎《よだれ》が流れていた。白い肌に脂が滲み出、陽に妖《あや》しく煌《きら》めいている。
川名女は槍を抜くと、今、刺したばかりの槍の穂を頬《ほお》に当て、穂先を舐《な》めた。先のとがった長い舌が穂先に絡まる。
怪女に違いなかった。
どんなにあがいても、網から逃げ出せそうにない。これ以上いたぶられ殺されるよりは死を選ぼう、と宮戸彦は思った。
舌を噛《か》もうとした時、上の方から賊たちが悲鳴をあげながら転げ落ちて来た。
それも一人ではない。二人、三人、四人と数が増える。待ち伏せられただけに、宮戸彦の兵士たちに、闘いを盛り返す力があるはずはない。ことに賊は圧倒的に多いのだ。
今少しで舌を噛み切るところだった宮戸彦は慌てて、舌を引いた。歯と歯とが強くぶつかり、口中が衝撃で痺れた。
川名女も賊たちの異常に気づいたようだ。槍を持ちなおし顔を上げた。
鋭い羽音とともに飛んで来た矢が、三人の賊の一人の胸を貫いた。賊は信じられない面持ちで、矢を両手で握った。
引き抜こうとしたらしいが、すでにその力はない。二、三歩よろけ崩れた拍子に崖《がけ》から川に転落した。
再び羽音をたてて矢が飛んで来た。逃げようとした賊の頸部《けいぶ》を右から左に貫いた。血《ち》まみれになった矢尻が慄《ふる》え、賊は声もなくその場に崩れ落ちた。
残った賊の一人が喚《わめ》きながら草叢《くさむら》に跳び込んだ。その賊めがけて跳び降りて来たのは猪喰だった。
猪喰の刀が賊の肩を割った。凄まじい悲鳴と血飛沫とともに、槍を持った賊の腕が飛んで岩場に転がり落ちた。賊の手は身体から離れているのに、刀を握ったままだ。
川名女が男子《おのこ》のように吠《ほ》えた。身を翻すと槍で宮戸彦を刺そうとした。
たて続けに弦《つる》が鳴り、二本の矢が飛んで来て、川名女の左|膝《ひざ》と右|肘《ひじ》を貫き、骨を砕いた。
信じられないほどの弓の達人だ。
川名女の槍は宮戸彦の身体を掠《かす》め、松の幹を突いた。
草叢から跳び出したのは猪喰だった。
這《は》い廻って呻《うめ》いている川名女には眼もくれず、宮戸彦を絡めている網を裂いた。
「宮戸彦殿、怪我《けが》は?」
「なあに、これしきの掠り傷、何でもない、しかしよく来てくれた、礼を申すぞ」
「王子様の命令です、石占横立《いしうらのよこたち》とともに尾行しました、この女人、何者ですか?」
「耳垂の妻と申しておった、王子をおびき出し、罠《わな》にはめるつもりだったようだ、吾でよかった、そうだ、道案内人が消えたが」
「賊に刺され死亡した、兵士たちのうち、無傷の者は三人ほどじゃ、死者は四人、残りは重傷」
「猪喰殿、吾が悪かった、賊に捕えられていた女人と思い込み、油断をしておった、王子に合わせる顔がない、吾は最低の武人じゃ」
宮戸彦は呻いている川名女に、血の混じった唾を吐きかけると、立とうとした。
だが尻の傷と股間の傷で立てない。ちょうど、男子の一寸(三センチ)ほど上の部分を槍の穂先で突かれたのだ。一寸下だったら、宮戸彦の一物は砕けていたかもしれない。
「む、無念」
宮戸彦は喚くと激痛を我慢し、膝で立った。両脚で立つよりも膝で立つ方が、股間と尻にかかる力が弱まり、何とか立てるのだ。
猪喰は二歩退った。
耳垂の妻を斬《き》るべきだ、と猪喰はいっている。
「お許し下さい、耳垂の妻というのは嘘《うそ》でございます、私《わ》は土折猪折の女人の一人に過ぎません」
川名女は突然泣くような声を出し、這い寄って来た。宮戸彦に縋《すが》りつこうとしている。
「宮戸彦様、私は奴婢《ぬひ》になります、宮戸彦様が飽きるまで……」
川名女は、自分の身体を売ろうとしている。生命《いのち》さえ助かれば、何をされてもよい、というわけだ。
「吾はここまで虚仮《こけ》にされたか、葛城の宮戸彦よ、恥じろ」
宮戸彦は腰に差していた刀を抜くと、縋りつこうと両手を差し出した川名女の腕を斬った。
血飛沫とともに腕が飛んで来た。宮戸彦の腕に当って落ちた。
「宮戸彦殿、刀子を握っている」
と猪喰がいった。
「おう、恐るべき執念」
切断され血まみれになった腕が、刀子を握り慄《ふる》えていた。
やはり耳垂の妻に違いなかった。
「無念じゃ!」
川名女は片腕で身体を支えながら、獣のように口を開けた。
首を斬れば川名女の顔が飛んで来そうな気がする。
「黄泉《よみ》の国の耳垂の傍に行け、一緒になれるぞ、感謝しろ」
宮戸彦は袈裟懸《けさが》けに斬った。宮戸彦の刀は肩から胸を切断し、血の幕を空中に張った。
さすがの川名女も、今度は声もなく岩場に崩れる。
猪喰は川名女の遺体や腕を、無造作に崖から川に蹴落《けおと》した。
弓の名手、石占横立《いしうらのよこたち》が現われた。
「宮戸彦様、御無事で何よりでございます」
「いや、すまぬ、大変な腕だのう、女人と思い気がゆるんでいた、恥じる、それはそうと猪喰殿、賊は何人ぐらい殺した?」
「二十人以上じゃ、深傷で呻いている者も合わすと、二十数名になる、砦《とりで》が本当にあるかどうか、吐かせますか」
「おう、王子に報告せねばならぬ」
猪喰は頷《うなず》くと、深傷の賊を岩場に引きずって来た。傷口に鋭い木の枝を突っ込み、どこから来た? と訊《き》いた。賊は激痛に失神した。
そんな賊に猪喰は竹筒の水をかけた。
意識を取り戻した賊は拷問に堪えられず、掠れた声で喋《しやべ》った。
猪喰は賊の言葉をかなり理解できる。
「やはり土折猪折は、勢力を日田盆地に拡げるべく、高塚山に砦を築いている、砦の長《おさ》は土折猪折の弟と申していますぞ」
「そうか、耳垂と土折猪折とはかなり深い関係にあったわけだな、川名女の願いを受けて、かなりの賊兵を出したところをみると……」
猪喰は賊に質問していたが、肩を竦《すく》めて宮戸彦にいった。
「驚いた、川名女は土折猪折の娘らしい」
「何だと、娘か、さすがは賊の頭の娘、なかなか根性がある女人だ」
宮戸彦は、傷の痛みに眉《まゆ》を寄せながらいった。
見事に騙《だま》されたが、男子を惹《ひ》きつける魅力を備えた女人であったことだけは確かであった。
[#改ページ]
十七
日田《ひた》盆地は何度も述べているように、当時は球珠《くす》国に含まれていた、と考えてよい。
球珠国の女王は久津《ひさづ》媛ひめで、男具那《おぐな》が日田盆地に入った頃、媛《ひめ》の使者はすでに日田盆地に来ていた。
使者が伝えたところによると、先に狗奴《くな》国や熊襲《くまそ》の様子を探りに行っていた久米七掬脛《くめのななつかはぎ》はすでに球珠盆地に到着している、という。
「王子様がこの日田地方に来られるのか、球珠盆地に来られるのか、分りませんでしたので、久津媛様は久米七掬脛様とともに、王子様をお迎えする準備を整え、同時に出発の準備にもかかっています、奴《やつこ》は今すぐに戻り、久津媛様に王子様の御到着を伝えます、遅くとも久津媛様は、三日以内にここに参られます」
男具那は、両方の用意をしている、という久津媛の気配りを褒めた。
使者は嬉《うれ》し気に叩頭《こうとう》し、拝みながら戻った。
日田盆地の豪族は比多《ひた》族である。邪馬台《やまたい》国時代の関係から、久津媛を女王としているが、軍事力面、経済力では比多族の方が上だった。
周囲を山に囲まれ、この辺りでは広い盆地だが、海抜は最も高い。
有明《ありあけ》海に注ぐ筑後《ちくご》川が、盆地を流れている。筑紫《つくし》に接しており、日田盆地の中心部から筑紫の浮羽《うきは》まで二里半(十キロ)ほどだった。
ただ盆地は高所にあるので、川の落差が酷《ひど》く、舟で筑紫には行けない。当時は川沿いの道を歩き、筑紫と交易をした。
比多族の長《おさ》は比多大米《ひたのおおめ》という名前だった。
大米は髭《ひげ》の濃いなかなかの巨人で、三十代の後半である。
比多大米は、自分の屋形を男具那に提供した。自分たちは親族の屋形に分散した。北進し、九州島を支配下におさめようとしている狗奴国から身を守るには、男具那に協力する以外、方法がないことをよく承知していた。
高い盆地なので、平野よりも日が暮れるのが早い。
男具那たちは大米の屋形で申《さる》の正刻(午後四時)頃から夕餉《ゆうげ》を摂《と》ることにした。
雨にずぶ濡《ぬ》れになりながらの行軍だったので、兵士たちは疲れていた。
兵士たちも分散し、農民の家に泊まることになっている。
屋形の近くを筑後川が音をたてて流れていた。雨のせいで水嵩《みずかさ》が増し、濁流である。
大米は男具那のために、屋形のすぐ傍に高座《たかざ》を造らせていた。
掘立柱の簡単な高座だが、久津媛と会うには高い座が必要だった。
男具那は大米の屋形の部屋の奥に坐《すわ》った。そこは板を積み、麻布を数枚重ね、その上に絹布を敷いていた。
内彦《うちひこ》と武彦《たけひこ》は、男具那の前の板床に、向い合って坐っていた。
二人は男具那の部下だが、穂積《ほづみ》、吉備《きび》氏の子弟である。ことに吉備氏は、大米の感覚では、大和《やまと》の王朝に匹敵する巨大豪族であった。弓の名人たちは、縁に坐っている。
大米は内彦と武彦に対しても丁重だった。
「今一人、葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》がいる、土折猪折《つちおりいおり》に捕えられていた女人が逃げ出し救いを求めたので、他の女人の救出に向っている、土折猪折は高塚《たかつか》山に砦《とりで》を造り、日田盆地を狙《ねら》っているらしいぞ」
「はい、獣を獲《と》りに山に入った者が、三人ほど戻りません、最近、一人が賊に襲われ、矢で射られ怪我《けが》をして戻りました、近々、賊を退治せねばならない、と思っていたところでございます、賊の砦が高塚山とは知りませんでした、好《よ》い情報をいただき、御礼申し上げます」
大米は男具那の言葉をかなり理解した。日田地方の長だけのことはある。分らない部分は、筑紫との間を往来している商人《あきないびと》が通訳する。
彼は部屋の隅に坐っていた。
男具那たちをここまで案内した道案内人は、任務から解放され、農家で身体を休めている。
「比多大米に訊《き》く、もし狗奴国が攻めて来た場合、戦える兵士たちは最大でどのぐらいだ?」
「はあ」
大米は俯《うつむ》き、考えているようだったが、日田地方だけで二百五十名ないし三百名ぐらいです、と答えた。
「山国《やまくに》盆地はここよりも狭いと聞いておる、球珠国全体の兵力は五百名程度か?」
「はあ、王子様の炯眼《けいがん》恐れ入りました」
「熊襲といったいとなり、九州島を制圧しようとしている狗奴国の賊は、吾《われ》が征伐する、ただ、狗奴国の威を借り、狼藉《ろうぜき》を働いている賊は今のうちに徹底的に叩《たた》いておかねばならぬ、山間《やまあい》の狭隘《きようあい》の地に拠《よ》る賊は、兵力は少ないかもしれぬが地の利を得ている、それにお互い連絡を取り合い、情報が早い、吾は宇沙《うさ》地方の鼻垂《はなたり》、耳垂《みみたり》を殺し、その部下たちは殲滅《せんめつ》したが、すぐ協力し合うのには驚いた、勢いを拡げぬうちに叩いた方がよい」
大米が理解し難かったのは、地の利を得ているとか、協力し合うなどの易しい言葉だった。ただそういう言葉は日田地方ではかなり発音が違うようであった。
大米は大きく頷《うなず》き、
「賊共も連合関係を深め始めました、勢力を強固なものにし、更に拡張するには、連合以外ありません、最近、土折猪折の娘が、王子様に殺された耳垂の妻になった、と耳にしましたが、それなど賊共の変化です」
「ほう、賊同士の婚姻か、彼らなりに部族国家をつくるつもりか、これも時の流れだ」
「それにしても、鼻垂、耳垂共の壊滅は、北九州の賊共を震駭《しんがい》させたことと思います、鳴りをひそめるでしょう、今こそ、我らが、賊共を叩かねばなりません、叩くことによって狗奴国の北進も弱まります」
「その通りじゃ……」
と答えたが、男具那は小首をかしげた。
「さっき、土折猪折の娘が耳垂の妻になったといったが、宇沙では、誰も知らなかったぞ」
「土折猪折の情報なら、宇沙よりも、日田地方の方が、入り易うございます、何といっても、当地は土折猪折の勢力圏と接しております」
「それはそうだな、だが耳垂を殺し、捕えられていた女人を解放したが、耳垂の妻はいなかった、逃げたのか、それとも、本拠地以外の場所に住まわせ、時々、通っていたのか……」
「通っていた、ということも考えられます」
男具那の脳裡《のうり》に、救いを求めた若い女人の姿が浮かんだ。
「土折猪折には妻がいるのか?」
「はい、名族、宗像《むなかた》氏の女人を攫《さら》い、正妻にしているとの噂《うわさ》でございます」
「宗像の女人か……」
悪い予感がした。
だが宮戸彦のことだ。罠《わな》にはまっても脱出はするだろう。それに丹波猪喰《たんばのいぐい》と弓の名手|石占横立《いしうらのよこたち》を宮戸彦の守りとして行かせた。猪喰の間者としての力は抜群である。
「王子様、何か……」
男具那の表情が険しくなったのを見て、大米が不安そうに訊いた。
「いや、何でもない」
と男具那は答えた。
猪喰が飛んで来たのは宴《うたげ》が始まって間もなくだった。
猪喰は縁の下から内彦に声をかけた。宮戸彦が罠にかかり深傷《ふかで》を負い、今、運ばれているという報告に男具那は、一瞬、眼の前が暗くなった。
男具那は、内彦に命じた。
「猪喰をここに呼べ」
「はっ、猪喰は宮戸彦のもとに走り去りました」
武彦が刀を引き寄せた。
「落ち着け、武彦、宴の最中だ」
「王子様、何か異変でも」
と大米が訊いた。
「うむ、実は賊を退治し、女人たちを解放すべく山に入った吾の部下、葛城宮戸彦が罠にかかり傷を負い、今運ばれて来る、この辺りで傷に効く薬草は?」
「傷薬はいろいろございます、早速用意させましょう」
大米は女人の一人に、妻を呼ぶように命じた。大米の妻は三十半ばでよく太っている。
大米とともに男具那を迎えたが、今は炊事場で酒の肴《さかな》を作っていた。
酒宴の席に出るのは若い女人の方がよい、と大米は命じたのだ。
側面の戸から蹲《うずくま》るようにして入って来た妻に、大米は、傷薬の用意を命じた。
「湯と新しい布も必要じゃ、準備せよ」
大米の妻は男具那に叩頭《こうとう》して消えた。
宮戸彦よ、頑張るのじゃ、そちは死ぬはずがない、そちほどの男子《おのこ》が……と男具那は胸の中で呟《つぶや》いた。
実際、あの巨漢がこの世から消え去るなど、男具那には想像もできなかったのだ。
大丈夫だ、傷が深くても、肉が厚いから、身体の内部まで損なわれていない、巨漢は得だ、と男具那は思い、低く笑った。
男具那の眼は吊《つ》り上がっていた。自己を納得させる笑いだが、陰に篭《こも》り無気味だった。
内彦と武彦は、そんな男具那を不安そうに眺めている。
大和《やまと》を出て以来、男具那がこんなに不安を顔に表わしたのは初めてだった。
男具那は、二人の硬直した表情に気づき、大将軍である自分の立場を意識した。
部下が一人、深傷を負ったからといって、大将軍が狼狽《ろうばい》していては、兵士たちの士気に影響する。
実際に戦ってはいないが、男具那たちは戦場に来ているのである。
「内彦に武彦、二人とも、木から落ちた猿のような顔で吾を見ているぞ、何か妙なものでも吾の顔についているのか?」
といって男具那は頬《ほお》を撫《な》でた。
「王子、木から落ちた猿とは酷《ひど》うございます、そんなに妙な顔でしたか」
内彦が不思議そうに男具那を真似て自分の頬を撫でた。内彦は剽軽《ひようきん》な男子である。男具那の心中を察しおどけてみせたのだ。
実際、眼と眉《まゆ》の間を伸ばし、顎《あご》と口を突き出した内彦の顔はどこか猿に似ていた。
「おう武彦、内彦を見よ、木から落ちた猿そっくりじゃ、自分がどこにいるのかも分らず、きょとんとしておる」
「王子、驚きました、おっしゃる通りです、いや、内彦がこんなに猿に似ていたとは……」
武彦もこの場を盛り上げようと、手を叩いた。
男具那は二人に釣り込まれ、明るく笑った。空になっている酒杯を口に運ぼうとし、眼の前で俯いている女人に、
「酒を注げ、なみなみと注げ」
と酒杯を差し出した。
女人は大米の娘で、まだ十五、六歳である。男子を知らないに違いない。胸の膨らみは大きいが、どこかあどけない顔だった。女人は酒の入った土器を傾けたが、慌てていたので酒がこぼれた。
「申し訳ありません」
慌てて布を出し床を拭《ふ》く。女人の項《うなじ》の白さが男具那の眼に眩《まぶ》しく、自然に血がたぎる。
いったいどうしたことだろう、と男具那も慌てた。宮戸彦の身を案じ、気持が落ち込んだばかりではないか。
そんな自分が童女に対し欲情を抱いたのだ。
「気にするな、誰でも失敗はする、さあ、注ぎなおせ」
女人は慄《ふる》えながら、今度はこぼさずに注いだ。
大米もほっとしている。
男具那はたて続けに酒を飲んだ。
「武彦に内彦、そろそろ宮戸彦を迎えてやろうではないか」
「王子、参りましょう」
短い梯子《はしご》を下りた。続いて二人も下りる。
「いや驚いた、吾《われ》は今、大米の娘が床を拭いた時、項の白さ、胸のふくよかさに血が騒いだ、男子とは憐《あわ》れなものじゃ、宮戸彦が、賊の女人に騙《だま》されても、不思議ではない、騙されない方が不思議だ」
「王子、その通りです」
二人が同時に叫んだ。
宮戸彦の身を案じる気持に変りはないが、男具那の心は完全にほぐれた。
「そういえば、そちたちも行きたくてたまらなかったであろう、籤《くじ》に外れて残念だったか?」
「王子、残念でした」
と内彦が無念そうにいった。
「やつかれも……」
武彦も眼を輝かせた。
「そうか、宮戸彦|奴《め》、運がよいのか悪いのか、しかし、結果は悪かったのう」
「傷だらけになっては、悪かったとしかいえますまい、しかし、ひょっとすると宮戸彦|奴《め》、媾合《まぐわ》ったのではないかな、武彦、どう思う?」
内彦が訊《き》いた。
「媾合ったに違いない、だから腰が動けなくなり罠にかかったのであろう」
と武彦が答える。
「吾もそう思うぞ、そうでなければ、罠にかかるような腑抜《ふぬ》けではないはずだ」
男具那の気持がほぐれたのを知り、二人は勝手なことをいい合った。
だがそれは宮戸彦の心情を思い遣《や》る厚い友情の会話だった。たぶん今の二人は、心底から媾合っていて欲しい、と思っているに違いなかった。媾合う前に罠にかかったとなると、宮戸彦の心中の無念さは、察するにあまりある。
「どうじゃ、賭《か》けようではないか、吾も媾合った後、腑抜けになったとは思うが、三人が同じでは賭けにならぬ、そこで吾は、媾合わなかった、という方に賭ける、そちたちは媾合った方だ、それで構わぬか」
さすがに内彦と武彦は顔を見合わせた。
二人は谷から跳び降りるような声で、
「王子、構いませぬ」
と答えた。
その後、内彦がいったい何を賭けるのですか? と男具那に訊いた。
「そうだな、何にしようか……」
男具那は前方の人影に眼を向けた。
「おう、王子、戻って来たようです」
今にも駈《か》け出しそうな二人を、男具那は、何を賭けるか、まだ決めてないぞ、と制した。二人は驚いて男具那を見たが、冷静になれ、と告げている男具那の意を察した。
「王子、戦の場です、あまりよい物は持っておりません」
と内彦が肩を竦《すく》めた。
「馬鹿、何も物を賭けるとはいっていない、そうだな、負けた者は素っ裸になり……」
「えっ、素っ裸」
と武彦が眼を剥《む》く。
「うむ、そうじゃ、吾《われ》の馬に乗り川沿いの道を駈ける、なあに、ここにはまだ馬が入っていない、馬の稽古《けいこ》は素っ裸で始めるといっておく」
「そ、それで王子が負けられた場合は?」
内彦が額の汗を拭いた。
「もちろん同じじゃ、賭けには王子も部下もない、平等でなければならない、馬の稽古だといえば、感心するだろう、それに初めから話す必要もない、見つかった場合は、そう説明すればよいのだ」
「しかし、王子が裸で……」
武彦も困惑しているようである。
二人は顔を寄せて話し合っていたが、王子が負けられた場合は、素っ裸ではなく、下帯をなさるべきです、といった。
「何を申す、平等じゃ」
「いいえ、それはなりませぬ」
二人は意外に強硬だった。
男具那の立場や身を案じているのである。
二人が真剣なのを知り、男具那も、このあたりで折れなければならない、と感じた。
猪喰が戻って来た。
「王子様、宮戸彦殿はかなりの深傷ですが元気一杯で、王子様の前には立って報告する、といって聞きません」
「立って報告、歩ける状態か……」
「無理でございます、まず立てませぬ」
「分った、立つのは許さぬ、これは吾の命令だ、と伝えよ」
猪喰は走り去る。まさに脱兎《だつと》のような速さだった。
「よく働きますなあ、公けの席では奴《やつこ》として身を縮め、まったく影の存在に徹しています、立派な武人です」
武彦が感心したようにいった。
内彦も相槌《あいづち》を打った。
男具那も猪喰の立場が気になっていた。奴となっているので、公けの席では男具那と直接話ができない。猪喰にとっては不自由だし、男具那も苛立《いらだ》つことがある。
この際、猪喰を公けの席でも話せる部下に昇格しようと思った。
内彦、武彦に告げると、二人も大賛成だった。猪喰は武功を誇らないが、猪喰がいなければ、宮戸彦を取り戻せたかどうかは疑問だった。
男具那たちは間もなく杉板に横たわった宮戸彦に会った。
武彦の部下も大半が傷を受け、半分は死亡していた。宮戸彦が大和から連れて来た葛城氏の部下も、二人のうち一人が死亡し、一人はかなりの傷を負っている。
板を担いでいた部下たちは、男具那を見ると、板を下ろし、叩頭《こうとう》した。
血《ち》まみれの兵士たちが多い。
「武彦、ただちに休むように命じろ、それと宮戸彦の傷の手当がつき次第、兵士たちにも手当をさせろ、猪喰と石占横立、よくやったぞ、どうじゃ宮戸彦」
宮戸彦が板から這《は》い出そうとしたので、
「宮戸彦、命令だ、横たわっておれ」
男具那は腰を折ると、宮戸彦を軽く叩《たた》いた。宮戸彦が思わず呻《うめ》いたのは、傷に響いたのであろう。
宮戸彦の口辺が腫《は》れて紫色になり、血が滲《にじ》んでいた。
上衣《うわぎ》の腕の部分と下半身にも血が滲んでいる。
「王子、申し訳ございません」
宮戸彦は頭で板を何度も叩くと号泣した。
「男子《おのこ》ではないか、泣くな、生きた顔を見、何よりじゃ、すぐ傷の手当をする」
「王子、すべてはやつかれの責任、死に価します、生命《いのち》を取りとめたのは、猪喰と石占横立のおかげです」
「分っておる、詳しいことは傷が治ってからじゃ、今は黙って横たわっておれ」
「無念です、やつかれは阿呆《あほう》、あんな女人に騙されるなぞ、王子を警護する資格はありません」
「喋《しやべ》るな、命令だぞ、後で面白い話をしてやる、愉《たの》しみに寝ておれ」
「面白い話?」
宮戸彦が顔をしかめたのは、上半身を持ち上げようとしたからである。傷口に響いたのだ。
「今は駄目だ、後じゃ」
「王子、内彦と武彦も……」
「ああ知っておる、そちが赧《あか》くなったり、蒼《あお》くなったりするのを愉しみにしておるわい」
男具那の言葉に宮戸彦は二人を睨《にら》んだ。
「申せ、いったい何じゃ、内彦」
「宮戸彦、身体が動くようになってからじゃ、のう武彦」
「そうじゃ、身体が動かなければできる話ではない、あまりにも憐れだからな」
珍しく武彦が揶揄《やゆ》するようにいった。武彦は内彦に較べると口は重い。あまり冗談のいえない男子だった。
そんな武彦が揶揄したのも、宮戸彦を力づけるためである。宮戸彦が二人に怒れば怒るほど、その時だけでも自責の念が薄れるのだ。
傷の手当を受けた宮戸彦は、風通しのよい小屋で横たわっていた。さいわい尻《しり》の矢尻は旨《うま》く抜けたし、左腕の傷はそんなに深くはなかった。一番|酷《ひど》いのは股間《こかん》の上に受けた傷だった。深さは一寸(三センチ)もあり、骨まで抉《えぐ》られている。もう一寸下だったら、宮戸彦の一物は砕け、一生、女人と縁がなくなる。
川名女《かわなめ》は、一物を狙ったのだが槍《ほこ》(矛)の穂先がそれたのであろう。傷は一晩中|疼《うず》き、さすがの宮戸彦も眠れなかった。
大米の奴婢《ぬひ》らしい女人が粥《かゆ》を運んで来る。
大小便も横たわったままで、奴婢の手を借りねばならない。
奴婢が若いので、宮戸彦は醜態を見せねばならない身が、情けなかった。最初は、奴婢に、大小便ぐらい一人でするから外で待て、といったが、今の宮戸彦は一人でできる状態ではない。
身体を動かすと尻と股間の傷が痛むのだ。まさに激痛で、出ようとする尿も止まってしまう。
仕方なく奴婢の手を借りねばならない。
それにかなり発熱し、身体全体が重く、腫れているような気がする。
男具那を始め、内彦と武彦は宮戸彦に罪はない、といってくれる。
今まで大きなことをいっていただけに、自責の念にさいなまれるのだ。
三日目は、久津媛が日田盆地に来る日だった。球珠国の女王として、男具那に、賊を退治してくれたことの礼を述べ、狗奴国との戦に勝利を得られるよう、神に祈るためだった。
男具那たちが、宮戸彦の病室となっている小屋に来たのは、宮戸彦が朝餉《あさげ》と排泄《はいせつ》を終えた後だった。
武彦と内彦は時々顔を見せているが、男具那が来るのは宮戸彦が運ばれて来て以来初めてである。
宮戸彦は慌てて身体を動かそうとしたが、まだまだ痛む。
傷の治療にあたっている老婆は、完全に治るまで一月近くかかる、といっていた。
「じっとしていればよい、何か不満はないか?」
男具那は笑っているが、意味あり気だった。宮戸彦は内彦と武彦を見た。二人とも、男具那と同じような笑みを浮かべている。
面白い話がある、といっていたが、それだなと宮戸彦は勘を働かせた。
「はっ、身体を動かせないので、何かと苦労しておりますが……」
宮戸彦は、若い奴婢を老婆に替えて欲しい、というつもりだったが言葉がとぎれる。
「今は仕方がないぞ、そちの好きな若い女人が、何かと世話をしている、痛いのは我慢しろ」
内彦が頬《ほお》を膨らませた。笑いを抑えるのに懸命な様子だ。
いつもなら、何がおかしい、と怒鳴るところだが、怒鳴る気力も起こらなかった。
柄にもなく雀のように眼を動かし、三人の様子を探った。男具那には、そんな宮戸彦の胸中がよく分った。
「王子、お願いがございます」
「おう、どんな願いじゃ、かなえられるものならかなえてやるぞ」
「申し上げます、吾の介抱をしてくれるのは若い女人、元気な時なら嬉《うれ》しゅうございますが、今は身動きもかなわぬ身、できれば、今少し年齢《とし》を取った女人に替えていただけませんか」
「ほう、若い女人では到らぬわけか、介抱の仕方が荒っぽいのじゃな」
「そ、そんなことはありません、ただ、やつかれはその……一人では尿も、大きい方もできませぬ」
宮戸彦の顔に汗が滲んだ。
「当り前だ、だから若い奴婢が……おう分ったぞ、若い奴婢はそちの一物に怯《おび》え、旨く、尿を器に溜《た》めることができないのだな、それなら分るぞ」
男具那の言葉に内彦が手を叩いた。
「王子、そりゃそうです、宮戸彦のものを見ればやつかれのものも縮みます」
男具那がたまりかねて吹き出し、一同はどっと笑う。まるで小屋が揺れるような笑い声だ。木の枝の小鳥が驚いて飛び去った。
男具那は咳払《せきばら》いをしていった。
「分ったぞ、理由が何であれ、そちの望みを早速大米に伝え、あまり顔のよくない女人に替えよう、安心せよ」
男具那は、宮戸彦の胸中を見抜いていた。
想像以上に繊細なところがあるのだ。
「王子、勝手なことを望み、申し訳ありませぬ」
「いや、簡単なことじゃ、それはそうと、先日そちに面白い話をする、と申していたであろう、今日はそれを伝えに来た」
「どんな話でしょうか?」
宮戸彦の眼が、内彦と武彦に向いた。二人とも澄ましているが、これからの問答を期待し、落ち着かない。負ければ素っ裸で、馬に乗らねばならないのだ。
「説明しよう、我らはそちとあの女人の関係について賭《か》けたのだ、負けた者は素っ裸になり、馬を走らせる、だから嘘《うそ》は駄目だぞ」
男具那は珍しく舌なめずりをした。
「やつかれと、斬《き》った賊の女人の関係……それについて賭けられたのですか」
横たわったまま宮戸彦は眼を剥《む》いた。
「まあそう怒るな、これも無聊《ぶりよう》を慰める一つの方法だ、つまりだな、そちは無類の女人好き、それにあの賊の女人は妖《あや》しい魅力を持っていた、内彦も武彦も、行きたがったのだからな、いや、吾《われ》も大将軍でなければ行きたかった、賊に捕えられている女人を救い出せば皆感謝する、ことに案内した川名女はな、感謝の証《あかし》として当然|長《おさ》に身を投げだす、それも義理ではなく心からじゃ、男子《おのこ》なら誰でも考えることだ、別に卑劣なことではない……」
「王子、賭けの内容は?」
宮戸彦は絞り出すような声でいった。
「おい武彦、あれは何だったかな」
「はあ、確か宮戸彦と女人が媾合《まぐわ》ったか、媾合わなかったか、ということでございました」
と武彦はわざとのように大きな声で答えた。
「そうじゃ、宮戸彦、そちはあの女人にはめられた、そこで我らは賭けたのじゃ、そちが網にかかる前に、あの女人と媾合ったか、どうかについて……正直に申せ、媾合うのも良し、媾合わぬのも良し、だが、そちの返答|如何《いかん》では、吾も裸になって馬を走らせねばならぬのだ、嘘は駄目だぞ」
「王子はどっちに……」
宮戸彦は上半身を起こそうとして、呻《うめ》いた。
「それはいえぬ、そちが答えてから申す」
「おう、天神、地神に誓って答えますぞ、葛城宮戸彦は任務を果す前に、道案内の女人と媾合うような男子ではございません、やつかれを見張っていた猪喰も知っているはずです」
「えっ、媾合わなかったのか、残念じゃ」
と男具那は首を横に振った。
「無念、王子はやつかれが媾合った方に賭けられたのですか」
宮戸彦の眼から涙が溢《あふ》れ出た。男具那に、その程度の男子、と見られていたのか、と悔しかったのだろう。
「相変らずの慌て者だのう、これだけの深傷を負ったのに、あの魅力ある女人と、何もなかったとはのう、残念だったとしかいえないぞ、そうか、何もなかったのか」
男具那が無念そうに深い溜息《ためいき》をつくと、宮戸彦は傷のない右腕で涙を拭《ふ》いた。
男具那の話し方が、なにゆえ媾合わなかった、大損だったぞ、と本心からいっているように聞えたので、宮戸彦は改めて耳を欹《そばだ》てた。男具那はわざと残念そうに頷《うなず》いていった。
「王子、賭けに負けられて申し訳ありませんでした、淫心《いんしん》はきざしましたが、媾合《まぐわい》は、女人たちを救い出した後、と自分を抑えたのです」
男具那に釣られ、宮戸彦はどこかすまなそうな口調になっていた。
男具那が肩をゆすって笑うと、内彦がいった。
「この阿呆《あほう》が、賭けに負けたのは、吾と武彦じゃ、王子はおぬしが何もしなかった方に賭けられたのじゃ」
「何だと、吾があの女人に手を出した、と想像したのはおぬしたちの方か、長い間、苦楽を共にした吾を侮辱したな、許さぬ」
宮戸彦は張り裂けるような声を出すと、上半身を起こした。尻《しり》と股間《こかん》の傷がよじれ血が滲《にじ》み出た。宮戸彦は右腕を伸ばし内彦の袖《そで》を掴《つか》もうとした。
「この馬鹿者、皆、そちの気持をほぐそうとしてやった遊びだ、そんなにむきになるな」
男具那は宮戸彦の手首を掴んだ。
「分ったか、宮戸彦」
「はっ、遊びとはいえ、この二人は……」
「そこが遊びじゃ、傷のせいでいつもの豪快な宮戸彦が消えておるぞ」
「王子、痛《いと》うございます」
「どこが痛いのじゃ?」
「はっ、尻の傷です」
「股間の傷の方だろう」
と内彦が揶揄《やゆ》した。
「こいつ、王子、お願いが今一つございます」
宮戸彦は、顔をしかめながら横になった。
「何だ、遠慮なく申せ」
「賭けに負けた二人は、素っ裸で馬に乗るとのことですが、どうか、その罰は、やつかれが治った後、やつかれの眼の前で行なわせていただきとうございます、やつかれは、それを眺めながら、思いきり笑ってやりとうございます」
「おう、それは面白い、宮戸彦も馬鹿な賭けの対象にされ、腹立たしいであろう、よし、そちの回復まで待つ」
「王子、それは酷《ひど》うございます」
二人は口を揃《そろ》えていったが、男具那は首を横に振りながら、これで宮戸彦の面子《メンツ》も立つ、と|※[#「目+旬」、unicode7734]《めくばせ》した。
二人は王子の※[#「目+旬」、unicode7734]に気づいた。
「賭けに負けた上、宮戸彦の前で大恥をかくのですか」
と内彦が額を叩《たた》いた。
「王子、何も宮戸彦を喜ばせるために賭けをしたのではありませぬ」
武彦も不服そうにいって、低く唸《うな》った。
「ざまみろ、おぬしたちの小さな一物を、馬の背ですり潰《つぶ》すのを愉《たの》しみにしておるわい」
宮戸彦は傷の痛みを忘れたように喚《わめ》いた。これでよいのだ、と男具那は自分に頷く。
「宮戸彦、早く見たければ懸命に傷を治せ、我らは、二、三日のうちに筑後に向って出発する、いよいよ、熊襲と組んだ狗奴国との戦じゃ、だが傷が治らないうちに来ても駄目だぞ、戦に加われないからのう」
「王子、懸命に治します」
「そうじゃ、懸命に治せ」
内彦の言葉に、
「うるさいわい」
と宮戸彦は怒鳴ったが、その眼には、二人と離れ難い思いが篭《こも》っていた。
白い絹布で顔を覆い、赤い裳《も》をはいた久津媛と男具那は対面した。
眼と鼻、それに唇の一部しか見えないが、久津媛は青白い顔をしていた。三十半ばらしいが、神夏磯《かむなつそ》媛ひめと同じく何となく精気が感じられない。久津媛は一度も婚姻していないようだった。巫女《みこ》王は夫を持つことが許されていない。だが語り部の伝えるところでは、邪馬台国の女王、卑弥呼《ひみこ》は、自分の恋人を食事を運ばせる役につけ、時々|閨《ねや》を共にした、という。
久津媛も、そのぐらいのことはしてもよいのだが、あまりにも巫女王の地位に縛られているようだ。
久津媛は神夏磯媛と同じように、女人の剣士を従えていた。男子の兵士たちは数十歩も離れている。女人の剣士といっても、男具那の見るところでは恰好《かつこう》だけで、武術は駄目なようであった。気配で分るのだ。
そういう意味では、羽女《はねめ》は大変な剣士といわねばならない。
男具那は比多大米が造った急ごしらえの高座に坐《すわ》った。
久津媛は男具那に、鏡、剣、玉のついた神木の枝を渡した。降服の証《あかし》である。
女人の剣士の長《おさ》らしい人物が琴を弾き、久津媛は男具那にはほとんど理解できない言葉で、歌うように話した。
まるで神のお告げを喋《しやべ》っているようであった。
琴が鳴りやむと、久津媛は両手を挙げ、天を仰いだ。まるで倒れるように木の腰掛けに坐った。比多大米は久津媛に叩頭《こうとう》すると、男具那に神託を混じえた久津媛の挨拶《あいさつ》の内容を説明した。
それによると久津媛は、西の果ての国まで名が轟《とどろ》いている大和の王子に会えたことを心から喜ぶとともに、球珠国は大和の王に従い、忠誠を尽すことを誓ったらしい。
同時に神のお告げがあり、狗奴国との戦では大勝利をおさめて、無事大和に凱旋《がいせん》されるであろう、というようなことである。
男具那は立つと大声でいった。
「吾《われ》は球珠国王の忠誠の誓いを嬉《うれ》しく聴いた、吾は宇沙、国東《くにさき》の王たちを励まし、その兵士たちとともに、宇沙から山国川周辺の賊を滅ぼし、筑紫との境から球珠国にかけて蠢動《しゆんどう》する賊も叩いた、これにより賊の脅威はなくなったが、守り一方では駄目だ、本来なら狗奴国、熊襲との戦のために、兵士たちを徴発し、連れて行くところだが、球珠国が更に北方の賊を攻め、平和を保つ決意を示すなら、徴発はやめよう、巫女王の決意を聴きたい」
男具那の声は朗々としていて、周囲の山々に響き渡る。
大米が男具那の言葉を久津媛に伝える。
久津媛は腰掛けから立つと、男具那の広く大きな心に感謝し、賊を攻め、国の平和を守る決意を表明した。
再び女人剣士の長が琴を弾き、久津媛が歌うような声で、男具那王子が、一層の栄光に輝くように、と神の宣託を告げるのだった。
久津媛との儀式が終ると、速津《はやつ》媛ひめの使者が来て、媛が病床に伏し、ここまで来れないことを伝えた。
使者は、どんな罰を受けるかもしれない、とおどおどしていたが、男具那は形式的な儀式にうんざりしていたので、寧《むし》ろほっとした思いだった。
男具那は比多大米を通し、速津媛の使者に、宇沙と協力し民の幸せに力を注ぐように伝えた。
周囲の賊を滅ぼしたので、宇沙の国力は充実し、これから一段と飛躍する。自然、速見《はやみ》国は、宇沙に協力せざるを得なくなる。
使者は速津媛の贈り物として、絹布や飾り玉を男具那に献上した。
こういう贈り物は大歓迎である。行く先々でおおいに役立つからだ。
男具那は日田盆地に数日滞在した。
久米七掬脛が合流する予定だが姿を現わさなかった。
宮戸彦のように賊に襲われたのではないか、また谷底に落ちたのではないかなどと気になったが、いつまでも待つわけにはゆかない。
男具那は、比多大米に命じ、弓矢、槍《ほこ》、食糧などを用意させた。二十人の奴《やつこ》がそれらを運ぶことになった。
男具那軍に、兵士を出さないだけでも、球珠国にとっては大助かりである。
男具那は、久米七掬脛が来たなら、筑後川の下流一帯を押えている水沼県主《みぬまのあがたぬし》のもとに来るようにと大米に伝えてもらうことにした。
水沼県主は、後の筑後、三瀦《みづま》郡を本拠地とする海人的な豪族で、筑前《ちくぜん》国の沖《おき》ノ島の女神を宗像氏とともに祀《まつ》っている。
男具那は筑後に向けて出発する前日、宮戸彦を見舞った。
宮戸彦は、杖《つえ》に縋《すが》ってでも後を追う、といったが、男具那は、
「宮戸彦、そちが筑後に来た時、足を引きずっていたなら、向うの小屋の中で休んでもらうことになる、我らは戦に行くのだ、走り廻《まわ》ることができなければ役に立たぬ、そのぐらいのことは、そちにも分っているであろう、来るのなら完全に治ってからだ」
男具那の表情も口調も厳しかった。
もし宮戸彦が傷が完治しないうちに筑後に来たなら、途中で傷が悪化し、一生、不自由な身体になるかもしれない。男具那はそれを一番心配していたので、厳しかったのだ。
そういう男具那の気持は、内彦や武彦も充分承知していた。
「宮戸彦、王子のおっしゃる通りだ、傷の完治が第一、分っているな」
と内彦も感情を押し殺していった。
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十八
日田《ひた》盆地から筑後《ちくご》の浮羽《うきは》までの距離は、約四里(十六キロ)ほどである。だが高所の盆地から平野に下りるので、道は想像以上に険阻だった。
場所によっては、兵士たちが男具那《おぐな》の馬を抱き抱えるようにして下ろさねばならないところもあった。それに梅雨はまだ終っていない。
泥《どろ》まみれの兵士たちが先に下り、綱をかけた馬を下ろすのだ。そんな場合は山中の巨石を下ろすほどの労力が要る。
四里の距離でも、平野の二十里を行軍したほど疲れる。
二日がかりで浮羽に着いた時は、男具那も兵士たちも疲れ切っていた。
浮羽から東方を見ると筑後川をはさみ、百五十丈(四百五十メートル)級の山々が連なっているが、男具那たちは、その山々を越えて来たのである。
越えたというよりも、岩の多いそれらの山々を這《は》うようにして下りて来た、といってもよいかもしれない。
浮羽の首長は、筑後川の下流を押える水沼県主《みぬまのあがたぬし》と同盟関係にあり、北進しようとする狗奴《くな》国と対決しようとしていた。
男具那たちは二日間休養し、浮羽の首長が提供した舟で筑後川を下ることになった。
浮羽の首長は、北九州の山に拠点を持つ賊を震駭《しんがい》させたことを男具那に深く感謝した。
南北を山にはさまれた浮羽の地も、山賊に悩まされていたのである。
浮羽の首長は、男具那が狗奴国を攻撃する際、二百名の兵を出すことを誓った。
男具那や内彦《うちひこ》、武彦《たけひこ》などは舟で、兵士たちは陸路を通り、筑後川の下流に向った。川は御井《みい》郡を通り、水沼県主の勢力圏である久留米《くるめ》に達する。
早朝に浮羽を出た舟は、夕暮には久留米の近くに達した。
男具那が浮羽で休んでいる間に、浮羽の急使が、水沼県主に男具那が久留米に向っていることを知らせた。
梅雨の季節は、まだ終っていない。上流の山中に降った雨のせいで筑後川は水嵩《みずかさ》を増し、滔々《とうとう》と流れている。自然水流は速い。川用の舟だが、川幅の広い筑後川を水路としているだけに、全長五丈(十五メートル)もある準構造船である。中国に続く大海原にも乗り出せそうだった。
有明《ありあけ》海沿岸から筑後川流域の人々は、二、三百年ぐらい前から、十丈(三十メートル)近い船に乗り、年に一度は大海原を渡り、中国大陸に行っている、という。
浮羽の首長は男具那に、水沼県主の一族の祖は、勇猛な海人である、と説明した。
男具那にとっては、百年前でさえ、はるかの昔に思える。二、三百年も前となると想像もつかない。
男具那たちは久留米の手前で舟から降り、出迎えた水沼県主の一族である尾水《おみず》の饗宴《きようえん》を受けた。
たんに大和《やまと》の王子というだけではなく、男具那自ら賊を滅ぼしたことにより、男具那の評価は一段と上がっていた。
男具那は、たんに権威だけを振り廻《まわ》す王子ではないのである。尊敬に価する勇猛な王子であった。
男具那を迎えた水沼尾水《みぬまのおみず》には、大海原を生命賭《いのちが》けで渡った海人族の血が流れている。彼らは権威だけには決して屈しない。
勇気と武術、それに優れた智能《ちのう》が備わっているが故に、男具那に心から服従したのである。
男具那は水沼県主の別荘のある久留米に留《とど》まることにした。久留米は筑後川に沿っており、南方は阿蘇《あそ》に連なる山々が張り出して来ている。
豊沃《ほうよく》の地でもあるが、筑前《ちくぜん》と筑後との境に存在し、両者を睥睨《へいげい》する要衝の地でもあった。
男具那は出迎えた水沼尾水に、率いて来た兵士たちが泊まる小屋を急造するように命じた。
尾水は三十代になったばかりで、背は高くないが肩幅が広く首が太い。
「雨風をしのげる小屋で構わぬ、戦が始まるまで兵を訓練する、それには夜の休養が必要だ、熟睡できる場所がない、何なら県主が参った時に、直接申してもよいのだが……」
男具那は炯々《けいけい》とした眼を尾水に向けた。
「王子様、小屋を建てるぐらい、簡単でございます、やつかれがこの近辺の民を集め、数日のうちに十戸建てましょう」
「分った、まず十戸じゃ、入り切れぬ兵士たちは農家に分散させる」
一戸に数人が泊まったとしても、十戸では足りない。だが尾水は水沼県主の異母弟である。県主ほどの権力は持っていない。尾水に対してあまり強引な要求はできない、と男具那は思った。
尾水の歩き方には特徴があった。重いものを担いでいるように、地を踏み締めて歩くのだ。後ろから見ると腰が太く、尻《しり》の肉が盛り上がっている。
昼過ぎから雨が降り出したので、男具那たちへの饗宴は水沼県主の別荘で行なわれた。
狗奴国の首長は菊池《きくち》川の名を取り、キクチヒコと名乗っていた。
「川上《かわかみの》タケルは?」
と男具那は尾水に訊《き》いた。
「狗奴国の南、球磨《くま》川の上流を拠点とする熊襲《くまそ》の首長でございます、王子様の征討を耳にし、精兵を率いて北上、キクチヒコとともに王子様の軍を迎え討つべく、狗奴国の中央部に集まっている、とのことです、詳しいことは我らの長《おさ》、水沼県主が説明しましょう」
「水沼県主はいつ参る?」
「王子様を三瀦《みづま》でお迎えすべく準備しておりましたが、王子様がこの地に留まられることになったので、吾《われ》は部下を走らせました、明朝までには返事があると思います」
「おう、この雨じゃ、梅雨が完全に明けなければ、戦は無理だ、泥土での戦は、地理を知らぬ我らにとって不利になる、焦れば敵の思う壷《つぼ》、水沼県主もその辺のことは心得ておるであろう」
「はあ、遅くとも明後日までには挨拶《あいさつ》に参ります」
男具那が久留米に滞在することを決めたのは、ここが要衝の地であるからでもあるが、やはり水沼県主を本拠地から挨拶に来させることにあった。それは男具那個人の問題ではない。だいたい男具那はそういう形式ばったことは大嫌いである。だが征討大将軍としての男具那はオシロワケ王の代理だ。それなりの権威は保たなければならなかった。男具那もそういう分別を弁《わきま》える年齢になっていたのだ。
饗宴の席には久留米の女人がはべっていた。色白で華奢《きやしや》な女人もおれば、髪や眉《まゆ》が濃く大柄な女人もいる。朝鮮半島や中国、さらに原倭人《げんわじん》の血も混じり、様々な体型や容貌《ようぼう》の女人が生まれたのである。これは男子《おのこ》にもいえる。尾水の体型は原倭人の血を感じさせた。
尾水は酒は強いが寡黙だった。それと水沼県主が来る前に余計なことをいわない方がよい、と自制しているのかもしれない。
宴《うたげ》が終る頃は闇《やみ》に包まれていた。
尾水が内彦に何か囁《ささや》き、宴にはべる女人たちに頷《うなず》いた。女人たちは夜の伽《とぎ》を命じられているらしい。
内彦が男具那に顔を向け、眼を女人たちに走らせた。
「王子、今宵《こよい》の伽は?」
と内彦は訊いていた。
男具那は無言で首を横に振った。
内彦は尾水の配慮に礼を述べながら、
「我らは戦の前には女人と媾合《まぐわ》わぬ、どうかこれ以上のお気遣いは無用」
ときっぱりと断った。
未練がましいところがまったくないのは、たぶん宮戸彦《みやとひこ》のことが念頭にあるからに違いなかった。
戦の前に女人を断つのが慣習だ、といわれた以上、尾水も納得した。
男具那は、尾水が怪《け》訝げんそうな表情を浮かべたのを見逃さなかった。
たぶん、この地方にそんな慣習はないのであろう。大和にだってない。内彦はそういうことによって、今後、いちいち断らねばならない煩しさを避けたのである。
だが尾水としては、奇妙な慣習だな、と感じたのも無理はない。
戦になれば明日の生命は保証されない。媾合ってすっきりするのが常識だった。
尾水や女人たちが戻ると、屋形はひっそりとした。ただいつやむともなく降る雨の音が、身に沁《し》みるようだ。西の果てに来たな、と男具那は感傷に捉《とら》われた。
男具那は何となく飲み足りなく、内彦、武彦、それに猪喰《いぐい》も呼んだ。奴婢《ぬひ》に命じ、酒壷《さかつぼ》を運ばせた。
「宇沙《うさ》の時はそうでもなかったが、ここまで来ると大和からは遠いな、と思う、大和は国のまほろばじゃ、弟橘《おとたちばな》媛ひめは今頃どうしているであろう」
男具那の妃《きさき》の弟橘媛は、内彦の妹である。
内彦は部屋中に響くほど大きなくしゃみをした。もう少しで男具那は酒杯の酒をこぼすところだった。
「王子、伽の女人をはべらせればよろしゅうございましたな」
「内彦、何を申すか、吾はただ雨の音に大和の青垣《あおかき》を思い出しただけだ」
「雨がやめば、勇猛な狗奴国と熊襲と呼ばれる隼人《はやと》を相手に戦うのですぞ、感傷は御無用」
内彦は男具那の憤然とした声を聞き流し、平然といい放った。何といっても内彦はこの中では一番早くから男具那に仕え、しかも縁戚《えんせき》関係にある。武彦よりも男具那に対し遠慮がない。それにしても、剽軽《ひようきん》な内彦としては珍しい言動だった。
武彦は眼を逸《そ》らし、猪喰はいつものように俯《うつむ》き加減に、黙然と飲んでいた。
「雨の音に風情を覚えたのだ、感傷ではないぞ、真《まこと》の男子は、豊かな感性を持ち合わせている、男子であるが故に、勇ましい歌も、また嫋々《じようじよう》とした歌も詠《よ》むのだ」
男具那はむきになりかけたが、何故内彦が彼らしくない言動を示したのだろう、と酒杯の酒をあおった。尾水の顔に一瞬浮かんだ怪訝な表情を思い出した。
「内彦、申したいことがあれば、ずばりと申せ、持って廻ったいい方は気に喰《く》わぬ」
「では申し上げます、王子は尾水をどう視《み》られました?」
内彦と同時に武彦の眼も男具那に向けられた。猪喰だけは俯いたままである。
「頼り甲斐《がい》のある男子だ、戦では役に立つ、ただ吾が伽の女人を蹴《け》ったので、信頼されていないのではないか、と一瞬、不信感を抱いたかもしれぬ、それとも、大和の男子は女人をそんなに気にしているのか、と、まあ違和感を抱いたような気がしないでもないぞ」
内彦が納得したように頷き、
「さすがは王子、炯眼《けいがん》お見事でございます」
いつもの剽軽な笑みを浮かべた。
「くだらぬ世辞は止《よ》せ、それぐらいは気づいているぞ」
「王子、やつかれは、王子がおっしゃった違和感には、軽蔑《けいべつ》に似た気持も入っていた、と視ました」
内彦は武彦を見た。
男具那は武彦に、どう感じたか、と訊いた。武彦は小首をかしげた。
「軽蔑とまではいい切れませんが、やはり異国人か、といった程度の気持だと感じました、内彦の申したことに一理あります」
「猪喰、そちは?」
と男具那は訊《き》いた。
「王子様を始め、二人の意見と同じでございます、ただ表情だけですべてを知るのは無理でございましょう」
男具那は改めて内彦に訊いた。
「分った、ところでそちの腹の底にあるのは何だ、大事な理由があればこそ、吾の怒りを覚悟して申したのであろう」
「その通りでございます、この度の戦には尾水は欠かせない男子、手足となって働いてもらわなければなりませぬ、やつかれの思い過しかも分りませんが、少しでも軽蔑に似た気持を抱いたとしたら、尾水に死を覚悟した働きを期待するのは無理です、やつかれはそれを案じました、今一度尾水に真の服従心を求めとうございます、それには尾水と武術仕合をするのが一番だ、と感じました」
内彦の言葉が終ると、猪喰がわずかに顔を上げ、喰い入るように男具那を見た。猪喰も同意見のようだった。
男具那は、部下たちが自分と同等、いや場合によってはそれ以上に成長しているような気がした。男具那にはそれが嬉《うれ》しい。
男具那は大きく頷《うなず》くと、自分の意見を述べた。
見た感じでは、尾水は背こそ低いが大変な力の持ち主である。まともに力をぶっつけ合えるのは宮戸彦ぐらいのものだった。ただ歩き方から推測すると、そんなに身が軽いとは思えない。身が軽いという点では、男具那を除くと内彦が一番だ。猪喰も身は軽いが、跳躍力では内彦に一歩譲る。猪喰の特技は疾走力だった。
「内彦、そちが相手をせよ、ただし尾水が応じた場合だぞ」
気が乗らない尾水を無理に仕合させるわけにはゆかなかった。
翌朝、尾水がやって来て、水沼県主は今夕にでも挨拶に参上する旨を告げた。
男具那は、屋形の縁の傍に坐《すわ》って報告した尾水に、かなり武術の心得があるようだが、といった。尾水が心持ち顔を上げたのは自信があるからだろう。
「どういう武術だ、吾に披露して欲しい」
尾水は小首をかしげ、男具那の真意を探るように上眼遣いに男具那を見た。
ややあって尾水は、相手が要ります、と答えた。男具那はその通りだ、と膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「そちの部下が相手なら、そちも部下も思う存分、力をふるえまい、吾の部下の内彦がそちの相手になる」
尾水は武彦と向い合い、男具那の前に坐っている内彦を見た。内彦は肩を竦《すく》め微笑《ほほえ》んだ。どこか童子に似た微笑で、男具那に指名されたことを心から喜んでいるようである。内彦は背こそ高いが、そんなに頑丈ではない。そのあたりに身の軽さの秘訣《ひけつ》があるのだが、尾水には分らない。
「王子様、武術仕合となれば、武器によりますが、傷を負います」
それで構わないのでしょうか、と尾水は男具那と内彦を見た。その瞬間尾水の眼は炯々と光り、内彦の力がどの程度か探り出そうとしていた。
「水沼尾水、おぬしは怪我《けが》が恐いのか……」
と内彦は相変らず微笑みながらいった。尾水の顔が憤りで赧《あか》くなった。尾水は大きく息を吸い憤りを鎮めた。
「王子様、内彦様がどうなっても構わぬのなら、吾の武術を披露致しましょう、武器は何がよろしゅうございましょうか」
「そうだのう、味方同士だ、殺し合っても意味がない、木の棒か、手頃な竹か……どちらでも選べ、ただし両者とも長さは同じだ、内彦、それで構わぬな」
「やつかれはどんな武器でも構いませぬが、王子の御命令通り、木の棒に致します」
尾水の首筋の血管が膨れた。尾水は自分の武術に誇りと自信を抱いているようだった。
早速、雑木林の木が伐《き》られ、即製の木刀が作られた。尾水のは直径が二寸(六センチ)近い。内彦のはやや細い。
「内彦、それに水沼尾水、どちらが負けようと遺恨は許さぬ、お互いに武術の披露をするのだ、相手の木刀が身体に当れば、勝負は終りだ、真剣なら大怪我じゃ、それで構わぬな」
両者共に、構いませぬ、と男具那に叩頭《こうとう》した。
二人は屋形の前の広場で向い合った。雨はほとんどやんでいるが、長雨で土はぬかるんでいる。当然、内彦としては、いつものような跳躍ができない。ぬかるみは内彦にとって不利なような気がした。
内彦は向い合った時、尾水の気迫が尋常でないのを感じた。武術の気が木刀に伝わり、内彦を圧倒していた。こんなに条件が悪いのなら武術仕合など、するのではなかった、と悔いたほどだ。負ければ内彦だけの問題では済まない。男具那が軽蔑されるのだ。
内彦は尾水の気を散らすように木刀の先を円形に廻した。渦巻のように廻り相手の眼を晦《くら》ます効果がある。
だが尾水には内彦の術は通じなかった。裂帛《れつぱく》の気合いとともに渦巻の真ん中を突いて来た。張り裂けんばかりに瞋《いか》った眼は、そんな小細工は通用せぬ、と叫んでいた。内彦は身を縮め尾水の木刀を撥《は》ね上げた。腕が痺《しび》れ、一瞬木刀を落しそうになった。
木刀を握っている尾水の力は内彦の倍はありそうだった。
尾水の木刀が唸《うな》りながら落ちて来た。
内彦には身を躱《かわ》す暇がない。木刀で受けねばならない。内彦の木刀は受けるのが精一杯で撥ね上げる力はなかった。自分の木刀が微《かす》かに頭に当った。内彦は本能的に相手の股間《こかん》に跳び急所目がけて木刀を突き出した。防禦《ぼうぎよ》本能が生み出した奇策だが、尾水には予想外の攻撃だった。
尾水は内彦の木刀を払いながら身を躱す。内彦は後ろに跳び、体勢を立てなおした。もう内彦は泥にまみれている。
尾水も荒い息を吐いていた。二人の距離は五尺(百五十センチ)ほど離れていた。
縁先に坐っていた猪喰が、ぬかるみに坐った。猪喰も不安感を抱いたのかもしれない。
再び尾水が喚《わめ》きながら突進し木刀を突き出す。内彦が後ろに跳べたのは、少しぬかるみに慣れたせいだった。ただ尾水に空を突かせても防禦から攻撃に転じる余裕がない。尾水はそんな内彦を見抜いたように、一呼吸も置かずに攻め続けた。
内彦は跳んで逃げるのに懸命だ。汗が眼に入り一瞬尾水の姿がぼやけた。これでぬかるみに少しでも足を取られたなら負けである。
その時、内彦は微かに口笛の音を聞いたような気がした。猪喰が時々一人で吹いている口笛である。その音には身に沁《し》みるような哀愁が篭《こも》っていた。宮戸彦は冗談めいて、戦に不向きだ、女人の涙じゃ、やめてくれ、一物が腐るわい、と悪口を吐くことがあった。
ただ男具那が、吾《われ》は好きだ、淋《さび》しいが、かえって死など問題ではない、と勇気が湧《わ》く。宮戸彦もそういう境地で聴けばよい、と猪喰の口笛を続けさせる。
また猪喰は葉笛も吹くことがある。口笛以上に嫋々《じようじよう》としており、遠くからでも聞える。
男具那は猪喰の葉笛を、様々な合図として利用しよう、と考えていた。
内彦は猪喰の口笛に自分を取り戻した。
内彦はぬかるみを恐れるあまり、得意の足を使い切っていない。ぬかるみを走ったなら、尾水と間隔を開けることができる。今度は尾水が焦る番ではないか。そう思った途端、内彦は眼の汗も拭《ふ》かず横に跳んだ。そのまま端に走った。
尾水は眼を剥《む》き懸命に追って走る。広場の端は草叢《くさむら》で、その先は川であった。内彦は草叢の中に入り、呼吸を整えた。
内彦の眼に、ぬかるみに坐った猪喰が、指先で泥をはじいているのが見えた。
そうだったか、と内彦は猪喰に感謝した。このぬかるみに、なぜ泥をはじかぬ、と猪喰は教えているのだ。そのために猪喰は縁から下りたのである。
「内彦様、広場に出られよ」
と尾水がいったのは、草叢の中の闘いが不利だ、と判断したからであろう。
尾水はようやく、内彦の武術は身の軽さにある、と悟ったようだ。
内彦は広場中に響き渡るような声を出した。
「水沼尾水、戦が平地で行なわれることは滅多にない、草叢の中、灌木《かんぼく》、それに山林の傾斜面で行なわれる、それでもおぬしは平地でしか、武術を披露できぬ、と申すのか!」
内彦の一喝は尾水に衝撃を与えた。まさに内彦の言葉は実戦で闘う戦士のものであった。
水沼県主の別荘を守る尾水の部下たちは、内彦の言葉を何と聴いたであろう。尾水は草を薙《な》ぎ払い木刀を打ち込んで来た。内彦は待っていたように左手の草叢に跳び込んだ。そのまま内彦は平地に出ると懸命に走って男具那の前に立った。
泥《どろ》まみれだが内彦の顔には余裕があった。尾水も懸命に走ったが、ぬかるみに足を取られてよろけた。
尾水を迎えて木刀を構えた内彦の息はほぼ平静だが、尾水は肩で息をしている。
呼吸を整えるため、尾水の方が五尺ほど距離を取っていた。
その間内彦は履先《くつさき》でぬかるみを抉《えぐ》り、泥を固めた。尾水が呼吸を整え、前に出ようとした瞬間、内彦の履先は泥の塊を尾水の顔に飛ばしていた。避ける間もなく、尾水は泥を顔に浴びた。何か叫びながら退《さが》ろうとした時、内彦は前に跳びながら、尾水の胴に木刀を叩《たた》き込んでいた。
あまりの衝撃に尾水は眼が眩《くら》み、息が詰まり、その場に崩れる。
「それまでだ、勝負はあった」
と男具那が叫んだ時、内彦は高々と木刀を上げ、大声でいった。
「水沼尾水に申す、吾はかつて九州島にて王とあおがれた饒速日命《にぎはやひのみこと》を祖とする物部《もののべ》の支族、穂積内彦《ほづみのうちひこ》なり、そちの武術はこの眼で確かめた、なかなかの勇者じゃ、王子、やつかれもかなり苦戦いたしました、これまで、やつかれをこれほど手こずらせた者は数少のうございます」
やっと息ができるようになった尾水は、ぬかるみに伏し、男具那に叩頭《こうとう》している。
尾水にとっては、完全な敗北だったが、内彦が物部の同族だと知り、畏敬《いけい》の念さえ抱いた。恨みなどまったくない。
内彦が身分を告げたのは、尾水が抱くかもしれない恨みを払拭《ふつしよく》するためだった。内彦の策は見事に成功した。
内彦に対する畏敬の念は、当然、男具那にも向けられる。
内彦はそのことをも計算していたのだ。
内彦はたんに軽口を叩く剽軽な男子《おのこ》ではない。その剽軽さは彼の一部に過ぎない。
男具那は両者に衣服を着換えるように命じ、改めて水沼尾水に持参の刀子《とうす》(小刀)を渡し、尾水の武術を褒めた。
内彦は猪喰に礼を述べたかったが、その機会がない。
猪喰は付近の地形を調べに出ていた。
新しい場所に着くと、猪喰はすぐ地形を調べ、男具那に報告する。
そろそろ水沼県主が着く頃なので、猪喰を探していた内彦は屋形に戻った。戻る途中、川の方から歩いて来た猪喰に会った。猪喰に逃げられそうな気がし、内彦は駈《か》け寄った。
内彦は自然な気持でいった。
「済まぬ、おぬしの助けがなければ負けていた、感謝する」
猪喰は、照れたように答えた。
「ふと思いついた、普通ならおぬしが勝つ、ただぬかるみに気を取られ過ぎ、仕合の初めからそれが引っ掛かっていただけじゃ、それに気づいてくれてよかった」
「その通りだが、ただ仕合は勝つか負けるかだ、弁解は通用しない、負ければ王子の顔に泥を塗り、尾水や彼の部下に侮られる、今後の戦に影響して来る、猪喰、この借りは忘れぬぞ」
内彦は猪喰の手を取りたい思いだったが、たいしたことではない、と猪喰は首を横に振った。可愛気《かわいげ》のない奴《やつ》だ、と内彦は腹立たしさを覚えた。猪喰にはどこか内彦たちを寄せつけないところがあった。何も内彦たちが他所者《よそもの》扱いにしているのではない。猪喰の方が仲間になることを拒んでいた。
「じゃ、吾《われ》は先に」
猪喰が足を速めた。
本当に可愛気のない奴だ、と内彦はぬかるみに唾《つば》を吐いた。ただ猪喰に助けられたせいではないが、猪喰にはどこか憎めないところがあった。
水沼県主は五十前だった。その勢力圏は、東は久留米、西は筑後川の河口一帯、北は後の神埼《かんざき》郡、三根《みね》郡に及んでいる。筑前の海人族の雄、宗像《むなかた》氏とも同盟関係にあった。
|吉野ケ里《よしのがり》遺跡で有名になった神埼郡は『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』に記述されている華奴蘇奴《かぬそぬ》国、また三根郡、三瀦郡は弥奴《みぬ》国ではないか、といわれている。脊振《せふり》山山系の南麓《なんろく》一帯を押え、有明海を通じ、中国・朝鮮半島と交易している。北九州でも屈指の強国だった。
髪に白いものが混じっているが、骨太で五十前とは思えぬほど頑健だった。
水沼尾水は県主の異母弟で、県主から信頼されていた。県主の長子、八彦《やつひこ》も男具那に紹介された。八彦は二十代の半ばである。
水沼県主を始め支族の長《おさ》たちが、男具那の言葉を比較的理解できたのは、海人族として各地と交易しているせいだった。
言葉に対する理解力が優れているのだ。ただ大和の言葉は流暢《りゆうちよう》に喋《しやべ》れないので、古老が通訳として出席していた。
男具那は、狗奴国の状況を報告するように命じた。
水沼県主の報告は次のようなものだった。
海と陸の両方から間者を放ち調べているが、大和の王子、男具那の到来を知り、キクチヒコは軍を集め、戦闘準備に余念がなかった。総兵力は千名近く、そのうちの三分の二以上を玉名《たまな》と山鹿《やまが》近辺に集め、残りは南の金峰《きんぽう》山の東方に布陣していた。
一方川上タケルは約三百名の兵を率い、金峰山に拠《よ》り、男具那たちを待ち受けている、という。ただ川上タケルの軍勢は三百名と推定したが、これは飽く迄《まで》推定で、はっきりしたことは分らない。川上タケルの本拠地は果てしなく連なる深い山に囲まれた球磨川上流の盆地であり、大軍を率いては来れない。だから最大限三百名と水沼県主は判断したのだ。
男具那は、布に描かれた地図を眺めながら、金峰山を攻撃するのと、菊池川を突破するのとでは、どちらが困難か、と訊《き》いた。
「金峰山でございます、長い菊池川を数百の兵では守り切れません、キクチヒコは我らの渡河を許し、玉名と山鹿の両方から攻めて来る作戦と存じますが、我らの渡河場所が分らぬ以上、兵を移動させるのに時を要します、その間我らは一気に南下し、兵を纏《まと》め、移動する敵を攻撃することも不可能ではありません、キクチヒコの軍さえ破れれば、金峰山の川上タケル軍を包囲し、撃破することも可能でございます、ただ王子様にお頼りする以上、我ら一同、王子様の作戦に従います故、遠慮せずに御決断下さい」
「おう、吾は征討大将軍として参った、遠慮はしないが、そちたちの意見には充分耳を傾け、そして決断する、それはそうと、最初、金峰山の敵を討ち、金峰山を我らのものとし、キクチヒコを征討するというのはどうだ?」
男具那は布に描かれた金峰山を眺めながらいった。金峰山の西麓は海に面しており狗奴国の中心部を睥睨《へいげい》できる要害の山だった。
筑後川の河口から海岸沿いに船で行くと、約十里、海が荒れさえしなければ二日で行ける。
「それも重要な作戦でございますが、熊襲軍の制圧に手間取るようだと、玉名に集結している敵軍の攻撃を受け、大打撃をこうむる恐れがございます、我らには海人族の血が流れております、この作戦についても、何度も討論致しました、大きな賭《か》けになると存じますが……」
水沼県主は言葉を濁したが、大和の王子がよく海路の攻撃に気づいたものだ、という驚きが表情に表われていた。
「戦には時には賭けが必要だ、こちらの兵力はいくらになる?」
「はあ、脊振山の南方、肥前《ひぜん》の勢力、筑後川流域一帯、筑前の兵を合わせますと、千数百名にはなります、王子様が征討大将軍として来られたので、各国の首長も今回は本気になりました」
「数は多いが連合軍だな、ところで水沼県主が掌握している兵は?」
「半数の七、八百名といったところでございましょう」
「兵士を乗せられる船は?」
「二十数|艘《そう》ございます、一艘に三十名は乗れますので、吾の軍は、全軍が乗船可能です」
「狗奴国の船は?」
「半数以下で、外海の航海には慣れておりません、海戦になれば我らの勝利は間違いございませんが、敵は海戦を避けましょう」
「金峰山の地理に熟達した者は?」
「要害の地なので、何度か間者を放ちましたが、山麓一帯しか調べられません、ただ金峰山の海側には狭い潟《かた》があります、潟を制圧するのは難事ではございません」
「山中は分らぬが、周辺の地理は存じていると申すのだな」
「熟知しているとは申せませんが、ある程度は……」
水沼県主の言葉に誇張は感じられなかった。控え目に話している。臆病《おくびよう》のせいではなく、長としての責任感が強いからであろう。信頼できる武将だった。
戦は梅雨が完全に明けてから後行なわれることになる。当地の人々の判断から、梅雨明けは数日後と考えられた。
「士気はどうじゃ?」
「宇沙の賊を一日で殲滅《せんめつ》し、北九州の賊共を震駭《しんがい》させた王子様の武威は、響き渡っております、王子様が征討大将軍として来られたことは、水沼一族や各地の首長を奮い立たせました、それに王子様の周囲には、饒速日命を祖とする内彦様、吉備《きび》の王者の血を引く武彦様がおられます、兵士たちの士気が旺盛《おうせい》なのも当然でございましょう、また我ら一族内において武勇を誇る尾水は、内彦様との仕合に敗けました、尾水が申すには、内彦様の武術は、優れた作戦のもとに力を発揮されている、とのことです、武術に作戦があるのを、尾水は初めて知った、と感嘆しておりました、このこともすでに兵士たちの間で噂《うわさ》になっております、兵士たちの士気はこれまでになく旺盛です」
「士気が旺盛なのは何よりだ、今、水沼県主は武術にも作戦がある、と申したが、それを学んだ尾水も立派じゃ、戦は士気と作戦によって決まる、安心して吾の作戦に従うように」
男具那は尾水を褒めることも忘れなかった。
宴がたけなわになった頃、別荘の警護隊長が、正面の階段に駈《か》けて来た。
王子の部下と称する怪しい奴《やつこ》が来ている、と告げた。尾水がすぐ隊長の傍に行った。
「名前は?」
「クメノナナツカハギとか申しております」
尾水が男具那に報告した。
「おう、間違いなく吾の部下の七掬脛《ななつかはぎ》じゃ、待っていた、ここに案内せよ」
男具那は水沼県主に、祖先は阿蘇山の近くで勢力を張っていた一族で、大和では久米《くめ》と呼ばれている、と説明した。
「敵を威嚇すべく、眼の周囲に入れ墨をしているが故に来る目、クメと呼ばれるようになった、一族はまだ阿蘇周辺に残っている、狗奴国ならびに隼人の情勢を探るべく、我らより早く大和を出た、待ち焦れていたのだ」
「それは心強うございます」
水沼県主も頬《ほお》をゆるめた。出自が阿蘇の周辺と聞いて、親しみを感じたのかもしれない。
警護隊長に案内された七掬脛が、十数名の部下を連れて現われた。
男具那は縁に立って七掬脛を迎えた。七掬脛は陽に焼け、一層黒くなっている。
男具那が驚いたのは、眼の周辺の入れ墨が一段と濃く二重になっていたからだ。
「王子様、お久し振りにお元気な姿を拝し、やつかれの喜び、これに優るものはございません」
地に伏した七掬脛は、顔を上げると、喰《く》い入るように男具那を見詰めた。
「おう、七掬脛、吾もそちの勇猛な顔を見るのを待ち焦れていたのだ、日田に到着した時、球珠《くす》盆地にそちが参った、と聞いて安心しておったが、会えて何より、まあ、宴席に加われ」
男具那は、七掬脛を招じ入れた。内彦たちも七掬脛に歓迎の言葉を浴びせた。
男具那は水沼県主に七掬脛を紹介した。
「七掬脛殿、その入れ墨には見覚えがある、阿蘇の北方に勢力を張っておられたのではないか……」
「おおせのごとく、阿蘇の北東部に多く住んでおります、一族の一部は阿蘇の北西部にもいます」
水沼県主に対して七掬脛が丁重に応対するのは、出身氏族の身分を意識しているからに違いなかった。
二人の会話は現地の言葉で交わされたが、お互い理解できたようだ。
宴が終り水沼県主や尾水らが引き揚げると、男具那は内輪の宴を張った。猪喰や弓の名手たちも加わり、解放された宴となる。
七掬脛が連れて来た部下たちは、武彦の部下たちとともに近くの小屋に泊まることになった。
驚いたことに球珠盆地に到着した、という七掬脛は、彼の影武者で、本物の七掬脛は熊本から金峰山の敵の様子を観察していて、球珠には寄らなかった、という。
「申し訳ございません、敵を欺くには先《ま》ず味方を欺く必要がございます、さいわいやつかれの一族は、阿蘇の西麓から熊本方面への地理に詳しく、やつかれは九州に到着して以来、全力をあげて狗奴国の中心部から菊池川流域、それに金峰山に集まった熊襲の布陣状況を調査していた次第です」
七掬脛は男具那を見てほっとしたのか、酒杯の酒を何杯もあおった。男具那の意向により、宴席に女人はいない。若い女人に膝《ひざ》をすり合わせて酒を注いでもらうと、どんなに意志が堅固でも、たぎる欲情は抑え切れない。男具那を始め、部下たちは若く頑健な身体である。しかも梅雨時の雨はそうでなくても欲情を刺戟《しげき》するのだ。
それなら最初から若い女人は排除すればよい、と男具那は思い、女人抜きの宴席にしたのである。
炊事場から酒を運ぶのは、四十歳を超えた奴婢《ぬひ》で、弓の名手たちがそれを受け取り、宴席に置くのだ。
「酒は旨《うま》いし、肴《さかな》も新鮮で、大和でもなかなか口に入らぬものばかりでございますが、今少し、味をつければ、もっと旨くなるのは必定、王子様、明日の朝餉《あさげ》はやつかれにおまかせいただけないでしょうか?」
突然の七掬脛の言葉に、内彦も武彦も唖然《あぜん》としたようだ。皆、最も新しい敵の情勢を聴くことができる、と内心緊張していたのだ。猪喰だけはほとんど表情を変えなかった。ただ、鋭い眼が一瞬、和らいだ。
「おいおい、七掬脛、少し酔い過ぎたようだな、おぬしは一昨日まで、金峰山の賊の様子を探っていたのであろう、水沼県主の間者も金峰山を重要視している、おぬしはほとんど寝ずに戻って来たに違いない、王子に敵の布陣とその他を報告するためではないか」
武彦が少しむっとしたようにいった。
内彦や武彦と、久米七掬脛はそんなに親しいわけではない。それに身分も違った。
もちろん、男具那の直属の部下になった時点において、そういう身分の差は取り払われている。ただ血統意識だけはなかなか拭《ぬぐ》い去れない。それだけ遠慮もある。
七掬脛が口を開こうとしたのを、男具那は制し、武彦に話しかけた。
「武彦、七掬脛は、我らの想像以上に動き廻っていた、それも敵の真ん中をだ、当然、報告すべきことを山のように抱えている、七掬脛はすぐにも報告したいのだ、我らの攻撃は早くて数日後だ、七掬脛は何からどう報告してよいか、考えたいのではないか、酒の肴を作っているうちに、次第に整理がつく、ここでな……」
男具那は七掬脛の頭に指を向けた。
武彦は自分がせっかち過ぎた、と気づいた。
「七掬脛、吾の言葉を撤回する、王子のおっしゃる通りだ、吾が早まった」
「武彦殿にも旨い肴を作りますぞ」
七掬脛の言葉に、一同は笑い、和やかな宴は続いた。
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十九
翌日、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》は暗いうちに起き、屋形の近くを流れる川で大きな鮒《ふな》を数匹釣った。魚篭《びく》に入れ笹《ささ》の葉で包み、屋形に持ち帰ると、炊事場に行った。驚く奴婢《ぬひ》たちに、
「何も気にすることはないぞ、吾《われ》が王子様の肴《さかな》を作るのだ、そちたちは遠慮せずに朝餉《あさげ》の用意をしろ」
七掬脛は大木を割って作った巨大な俎板《まないた》に鮒を乗せると、調理用の刀子《とうす》(小刀)で、鮒の鱗《うろこ》と内臓を取り、何度も水洗いした。先のとがった竹製の串《くし》二本で、器用に小骨を抜く。またたく間に三匹の刺身を作った。
食事専門の奴婢たちも、あまりの手際の良さに呆然《ぼうぜん》と眼を瞠《みは》っている。
「問題はこれからじゃ、海の魚と違って鮒には泥臭い匂《にお》いがある、笹の葉の匂いが泥臭さを少しは消してくれる」
独り言のようにいいながら刺身を新しい笹の葉に置き、上からも葉を被《かぶ》せる。
「更に大切なのは、味をつけることじゃ、塩味だけでは微妙な味がない、女人にもいえる、味がない女人は魅力がないぞ、どうじゃそちには味があるか……」
七掬脛は歌うようにいい、奴婢たちを一瞥《いちべつ》した。眼の入れ墨が凄《すさ》まじいだけに最初は恐怖で固くなっていた女人たちも、七掬脛の人柄を理解し、親近感を抱いていた。
七掬脛がにやっと笑うと、若い奴婢は顔を赧《あか》らめて俯《うつむ》き、他の奴婢たちも忍び笑いを洩《も》らした。
「刺身の味はこれじゃ」
七掬脛は腰に吊《つる》していた竹筒の蓋《ふた》を開け、赤い木の実を取り出した。二本の串をたくみに使う。
「王子様の肴じゃ、指で掴《つか》むわけにはゆかぬ、倭人《わじん》は指で食事を摂《と》るが、あまり感心したものではない、このように竹串を器用に使えば、飯でも肴でも自由に食べられる、なにゆえ、指で食べるのか、吾には不思議でならぬ、もちろん、吾の一族も指だからあまり自慢はできぬがのう」
七掬脛は二本の指を慄《ふる》わせて見せた。何となく卑猥《ひわい》な感じで、奴婢たちはいっせいに笑った。
「いったいどうしたのじゃ」
奴婢たちを管理している炊事の長《おさ》が恐い顔で入って来たが、
「何もしていない、楽しく朝餉の仕度をしているのだ、気難しい顔を見せられると朝餉がまずくなる、王子様に面目が立たぬ、その際は……」
七掬脛が刀の柄《つか》を叩《たた》き、睨《にら》みつけると、炊事の長は腰を抜かしてしまった。坐《すわ》ったまま動けない。
「黙って、そこで見ておれ」
七掬脛は、串ではさんだ木の実らしいもので刺身を撫《な》でた。
「これはな、梅の実を塩漬けにしたものだ、微妙な味が出る、次はだな……」
七掬脛は残った鮒の鱗や内臓を取ると、刀子で身を裂き、熱湯を浴びせた。身は白くなり縮む。それも梅の実で撫で、笹の葉でくるんだ。
奴婢の一人に大きな器を二枚出すように命じ、作ったばかりの刺身を入れた。
「これは吾が運ぶ、汁や菜っ葉はそちたちが運べ」
七掬脛は両手に器を持つと、腰を抜かしたまま涎《よだれ》を垂らしている長の傍に寄り、
「かっ!」
と気合いをかけ、長い脚で蹴《け》った。七掬脛という名がついただけに、驚くほど脚が長い。七掬脛の足先は長の顎《あご》の手前で止まった。長は首を蹴られた、と錯覚したらしく仰向《あおむ》けに引っ繰り返った。
「おう、これで抜けた腰は戻ったぞ」
七掬脛が今一度気合いをかけ、立て、と命じると、長は夢でも見ているような顔で、ふらふらと立った。
「食事を作る場合は、楽しい雰囲気で作れ、それで味が良くなる、分ったか」
七掬脛の言葉は、この地方の住人にもよく通じた。炊事場の長は何度も叩頭《こうとう》した。
七掬脛が鮒の刺身を運んだ頃、男具那たちは冷水で顔を洗い、眠気を取り、気合いをかけあっていた。身を引き締め、精神を統一するには、気合いが有効である。
「王子様、鮒の刺身を作りました、御試食下されば幸甚です」
「おう、鮒の刺身か、皆の分もあるか」
「六匹釣りましたので、余ると思います」
「よし、すぐ参るぞ」
七掬脛が床に器を置くと、奴婢たちが飯と汁を運んできた。その頃はまだ膳《ぜん》などはない。
飯やおかずの入った土器は床に置かれた。
器を乗せる膳ができたのは、早くて五世紀後半であろう。
ただ床の上に器を運んだ板を置き、その上に器を乗せた可能性はないでもない。
内彦《うちひこ》や武彦《たけひこ》も興味津々の面持ちで刺身を眺めた。笹の葉が敷かれているのに驚いた模様だ。弓の名人たちは、縁側に近い下座に坐っている。彼らは地方の小豪族の子弟であり、普通なら男具那とは直接話せない。
男具那も、弓の名人たちを、内彦や武彦と同列に扱わなかった。
男具那はなるべく部下を同列に扱っているが、当時の豪族たちの身分意識は強い。武彦など強大な吉備《きび》国の王族である。あまり身分が違う者を同列に扱うと、どうしても弊害が生じる。
宮戸彦《みやとひこ》、内彦、武彦たちは男具那を王子と呼んでいる。男具那がそう呼ばせたのだが、七掬脛の場合は、王子様であった。
だいたい、王子様が自然なのだから、それはそれで構わない、と男具那は放っておくつもりだった。
男具那は指で刺身をつまむと、口に放り込んだ。ほう、という表情で、次は熱湯をかけた方を食べた。
「うぬ、いずれも旨《うま》い、何をつけたのかしらないが、えもいえぬ味がある、最初のは鮒だが臭さが消えている、後の魚は何だ、やはり川魚であろう」
「光栄でございます、やはり同じ鮒です」
「ほう、これがのう、こりこりして、歯応《はごた》えがよい、内彦や武彦、それに猪喰《いぐい》も食べてみよ」
男具那は、器からそれぞれの刺身をつまみ、三人の器に入れた。
武彦が何をつけたのか? と訊《き》いた。
「いや、それは秘密でござる、お許し願いたい」
七掬脛は笑いながら断った。
猪喰の番になった。食べ終ると眼を細めた。男具那が訊いた。
「猪喰、そちはどう感じた?」
「梅の実を塩に漬け、長い間放っておくと、酸っぱく、また塩が沁《し》みて辛くなります、食当りや下痢によく効きます、ひょっとすると、それをつけたのかもしれません」
七掬脛は、猪喰に軽く頭を下げた。
「いや、参りました、猪喰殿の舌は素晴らしい、王子様、その通りでございます」
「こりこりした方は?」
猪喰が小首をかしげると、武彦が大きく頷《うなず》いていった。
「これは熱湯につけたのです、やつかれの国でも、時々こうします」
「その通りです」
七掬脛は楽し気に頷いた。当てられて喜んでいるようである。これなら他の部下たちと旨くやって行くだろう、と男具那は嬉《うれ》しかった。
朝餉を終えると男具那は七掬脛にいった。
「なかなか旨かったぞ、ただ旨さに慣れると、これまでの食事が頼りなくなる、だから、特別の時に限り、そちに味つけを命じる、それまではそちも、出されたもので我慢しろ」
「王子様のおっしゃる通りです、それにやつかれは大抵、塩を振りかけただけで食べています、このようなものは滅多に口にしません」
「そうか、では出陣の前夜、思い切り腕をふるえ、それにしても、この鮒の身にはほとんど小骨がないのう、だから思い切って食べられるし、口の中でたっぷり味わえる、変った鮒じゃ」
「そうおっしゃられると嬉しゅうございます、やつかれが小骨を抜きました」
男具那だけではなく、部下たちも思わず低く唸《うな》った。
「七掬脛、鮒の小骨を抜き取るなど難事じゃ、指先の器用さだけでは不可能であろう、何を使って抜く?」
「二本の竹串《たけぐし》です、童子時代から指が器用でした」
「面白い、別に抜かなくても構わぬ、どういう風に使うのか、吾《われ》に見せよ」
七掬脛は、腰に吊していた袋から二本の竹串を出した。一本を薬指に乗せ、他の一本を人差指と中指ではさみ、床を突く。眼にも止まらぬ早業である。突くたびに何かをつまみ左の掌《てのひら》に乗せた。
「このようなものでございます」
驚いたことに七掬脛の掌には、蚤《のみ》や塵《ちり》などが指で掴めるほど乗っている。蚤が跳ねると竹串で叩き落す。
部下たちは感嘆の呻《うめ》き声を洩らした。
「うむ、七掬脛の指さばきは器用というよりも、武術だ、そういえば、そちは脛《すね》と同じように指が長いのう、猿も、そちが指を立てたなら尻尾《しつぽ》を巻いて逃げるに違いない」
男具那の言葉に一同は笑い、拍手をした。
朝餉が終った後、男具那たちは七掬脛が調べた最も新しい敵の状況を聴いた。
七掬脛は十数人の部下を三組に分け、狗奴《くな》国内部の兵の動きを徹底的に調べた。
狗奴国の菊池《きくち》川流域から金峰《きんぽう》山の北部一帯の兵力は数百名で、主力は山鹿《やまが》を通った菊池川が北方に湾曲している菊水《きくすい》一帯に集結していた。丘陵地帯に布陣しているのは、男具那軍が渡河する場所に攻撃をし易いためである。
更に三百名は、キクチヒコの本拠地、阿蘇《あそ》山系の西麓《せいろく》、菊池川の上流の菊池を守っていた。菊池は南北が川、東部は山で、天然の要害の地だった。西部も迫間《はざま》川と菊池川が合流し、逃げ場がない。
敵が菊池を死守する覚悟なら、数倍の兵で攻めねばならなかった。
一方金峰山には球磨《くま》川から北上した熊襲《くまそ》と呼ばれる隼人《はやと》の兵、三、四百名が布陣しているが、河内《かわち》川を挟んで南の金峰山と競い合う熊岳《くまのだけ》にも、キクチヒコの兵が二、三百名は篭《こも》っていた。
もちろん、それ以外にも、小勢力があちこちで気勢をあげ、兵を集めている模様だった。
一方狗奴国の水軍は菊池川の河口と宇土《うと》周辺に集まっていた。明らかに水沼県主《みぬまのあがたぬし》の水軍を警戒しての布陣である。
七掬脛の報告は、水沼県主の間者の調査よりも新しく詳しかった。
「なお、やつかれの部下をキクチヒコの兵に変装させ、熊岳に潜入させました、どうやらキクチヒコの兵は、金峰山に篭っている熊襲に対し、好《よ》い感じを抱いていないようです」
男具那には、この七掬脛の報告は、最も大事なものの一つに思われた。
「ほう、なぜじゃ?」
と男具那の眼が光った。
「川上《かわかみの》タケルは六尺(百八十センチ)近い巨人で、勇猛というより獰猛《どうもう》な首長のようです、朝から酒を飲み、連れて来た女人に飽きると、付近の村長《むらおさ》に美しい女人を要求し、断ると家を叩《たた》き壊したりして暴れるとの噂《うわさ》を耳にしました、自然、部下たちにも乱暴者が多く、周辺の村人たちは女人を逃がす者が多いとのことです、狗奴国の兵が反感を抱くのも当然でございます」
「なにゆえ、傍若無人な振舞に及ぶのであろう、川上タケルの名は、勇猛な武将として響いている、そういう武将には節度があるものだ、勇猛と獰猛は大変な違い、人と獣ほども違う」
「自分たちの協力がなければ、戦には勝てぬという自惚《うぬぼ》れのせいではございますまいか……」
「そうかもしれぬのう、それと日向襲津彦《ひむかのそつびこ》が戦う、厚鹿文《あつかや》や|※[#「しんにゅう+乍」、unicode8fee]鹿文《さかや》の動きは耳に入っておらぬか?」
「これは噂に過ぎませぬが、襲《そ》の国と呼ばれている大隅《おおすみ》の隼人族は、西北の隼人族と異なり、あまり戦意がないようです、なかには平和を望んでいる者もいるとか、襲津彦様は戦い易いのではないでしょうか……」
「おう、それは好い噂じゃ、その噂が偽りでないことを祈りたい」
と男具那は力強くいった。
男具那は水沼県主に、狗奴国の軍勢は、川上タケルの兵力と合わせると千数百名に達するので、同盟国ないし友好国にできる限りの兵を動員するように、と命じた。
もちろん、三輪《みわ》王朝の征討大将軍・男具那王子が発した動員命令である。
「北九州の王たちに、この戦で徹底的な勝利を得なければ、狗奴国は必ず北上し、北九州を自分のものとするであろう、と伝えよ、吾は必ず勝つが、水沼県主を始め、各国の協力が必要だ、とくに朝鮮半島の情勢も緊迫しておる、強大な高句麗《こうくり》が、南に南にと勢力を伸ばしている、うかうかしていると、朝鮮半島の南部まで高句麗の支配下に入りかねない、十年先か二十年先か分らぬが、それまでに九州島に平和を取り戻し、豊饒《ほうじよう》にして強力な戦力を養っておく必要がある、民に平和をもたらすには、民を守るだけの武力が必要だ、そのためにも倭《わ》国は早く統一されねばならない、なぜなら海の彼方《かなた》の国を敵としなければならない時が迫っているからだ、この情勢を各国の王また首長に認識させよ、倭国内部で争っていたなら、外敵は海を渡り攻めて参るぞ、それに備えるためにも平和が必要なのじゃ」
男具那の動員命令には説得力があった。
水沼県主を始め、北九州の王や首長は、それぞれ一族の子弟を隊長にし、兵を集め、男具那のもとに送った。
北九州の各国がこんなに纏《まと》まったのは、やはり男具那の名が、九州にまで及んでいたからである。それに強大な吉備国の王族や、物部《もののべ》の一族が男具那を主君と仰ぎ仕えていることも、男具那に対する畏敬《いけい》の念を各国の王や首長に抱かせた。
それと、北九州の賊たちが鳴りをひそめていることも、北九州勢にとっては大きな安心だった。
水沼尾水《みぬまのおみず》は、想像以上の軍勢が集まるようだ、と昂奮《こうふん》気味に男具那に報告する。
男具那は七掬脛の報告を分析した結果、金峰山に篭る川上タケルを斃《たお》すことが迅速な勝利につながる、と判断していた。
何といっても最も勇猛な軍団である。それにより狗奴国の中央部を押え、北方から攻めて来る北九州軍と戦うキクチヒコ軍を背後から襲う。その際、鞍《くら》岳の狗奴国軍は放っておき、先《ま》ずキクチヒコの主力軍を撃破する。鞍岳の敵軍は孤立するから、もし反抗すれば、後で掃蕩《そうとう》すればよい。もちろん、この作戦を完全なものにするためには、攻めてから少なくとも三日以内に、川上タケル軍を敗北させねばならない。
問題は、どういう方法で川上タケル軍を殲滅《せんめつ》するか、であった。
北九州軍の主力は菊池川を渡り、狗奴国の主力と戦う。やはり千名の兵は必要だ。となると、水沼県主の兵はあまり借りられない。せいぜい二百名だった。男具那が連れて来た兵と合わせても、四百名足らずだ。
要害の山に篭る敵を攻撃するには、最低、倍の兵力が必要とされていた。
男具那は金峰山を攻めるには、水沼県主の水軍に頼る以外ない、と考えていた。七掬脛も、陸から攻めるには、倍の兵力が必要です、といい切っていた。
ただ狗奴国側は、当然、水軍による鞍岳、金峰山への攻撃を予想している。だからこそ菊池川の河口にかなりの水軍を集めているのだ。
その日男具那は弓の名手たちを残し、三十人以上乗れる船で有明《ありあけ》海に出た。左右の漕《こ》ぎ手は十数人で、船の長さは八丈(二十四メートル)以上もあった。舳先《へさき》には波除《なみよ》けの板がつけられている。
水沼県主の祖先を含め有明海沿岸の海人たちは、このような船で広々とした海を渡り、中国に渡ったこともあるという。
当時は、前漢《ぜんかん》から後漢《ごかん》にかけての時代で、中国は乱れに乱れていた。後漢王朝の人民搾取により、各地で反乱が起こり、その首長には当時の道教信仰者が多かった。
道教が宗教理論を持つようになるのは五世紀以降だから、漢代の道教には原始的な理論しか生まれていない。初期道教と呼ぶべきであろう。
当時の宗教反乱で有名なのは、黄巾《こうきん》の乱であり、五斗米道《ごとべいどう》であった。
中国史書の『三国志』は、初期道教を鬼道と記述している。
有名な倭の女王、卑弥呼《ひみこ》の宗教も鬼道だから、初期道教に類するものであった。それを倭にもたらしたのは、中国に渡っていた有明海沿岸の海人族であった。
西暦二世紀の頃だといわれている。
水沼県主は各国の兵の動員に懸命であり、動員状況その他を男具那に伝えるのは尾水であった。その日も尾水は男具那の船に乗っていた。
当時の有明海は、現在の大川《おおかわ》市近辺まで入り込んでおり、水沼県主の屋形から海までは近い。
有明海は西方の島原《しまばら》半島によって外海と遮られており、比較的、波は穏やかである。
弥生《やよい》時代に有明海沿岸の筑後《ちくご》・佐賀平野が栄えたのも、有明海を通じ朝鮮半島との交易が盛んだったせいである。
男具那たちは筑後川の水流に乗り、信じられない速さで有明海に出た。
尾水の命令で船長《ふなおさ》が速さを落した。
海に出ると雨がやんだ。厚い雲が空を覆っているが、西の空に雲の切れ目があって、薄い陽《ひ》が長い刃物のように海に落ちていた。
「もう二、三日で梅雨も明けましょう、漁師たちはそう申しています」
と尾水が男具那にいった。
「いよいよ、敵を滅ぼす時が来たのう、水沼県主はこの大きさの船を何|艘《そう》所有している?」
「すぐ使用できるのは十艘でございます、だが有明海沿岸の首長が保有する船も合わせますと十数艘になります故、かなりの兵の移動が可能です」
「筑後川を渡るに際し、この種の外洋船は必要となるか?」
「あまり必要ではありません、数人乗れる大き目の川舟で、夜、密《ひそ》かに渡る方が敵の目を晦《くら》ませます」
「千名運ぶのに何艘要る?」
「六、七名乗れる舟なら百艘、二往復で渡河できます」
「となるとこの種の大船は戦船になるのう、キクチヒコが菊池川の河口に集めている船の数は?」
「今朝戻った間者の報告では約八艘、菊池川河口から一里ほど上流に碇泊《ていはく》しているとのことです」
「南の宇土周辺にも何艘かいるようだが、海戦に備えるなら、一緒になった方が有利ではないか?」
「はっ、宇土周辺のは川上タケルの水軍でございます、本拠地である八代《やつしろ》から球磨川を攻められることを想定し、宇土に集まっているものと推定されます、王子様がいわれたように確かに不利です、そのあたりに狗奴国の弱点が……」
尾水が口を閉じ、視線を伏せたのは、あまりいい過ぎると無礼になる、と感じたからに違いなかった。
「構わぬぞ、申したいことは遠慮せずに申せ」
尾水は、本当に構わないのでしょうか、と内彦の表情を窺《うかが》った。内彦は頷《うなず》く。内彦に負けたことにより、尾水は内彦を尊敬し、親近感を抱いていた。
「はっ、やつかれは、我らの水軍を使い、菊池川河口に集まっている敵の水軍を叩《たた》き、河口付近からも上陸し、背後からキクチヒコ軍を攻撃するのも作戦の一つではないか、と愚考しております」
尾水の眼は燃えていた。作戦の一つ、と遠慮しているが、是非採用していただきたい、と無言で訴えていた。
男具那は微笑した。
「そちは、水軍に対しては、かなり自信があるわけだな」
「はい、敵の船は我らよりも少なく、しかも、河口から半里ほど上まで入り込んでいます、奇襲をかければ河口の水軍を殲滅《せんめつ》できます、内陸部の首長は水軍にあまり重きを置いていませんが……」
尾水は唇を噛《か》んだ。
「こうして船に乗ってみると水軍の重要性はよく分るぞ、そちは金峰山の川上タケル軍をどう視る、勇猛さという点では、キクチヒコの軍よりも上だ、と聞いているが……」
「その通りでございます、故にまず菊池川流域の敵軍を海、陸とも破り、総力をあげて金峰山を攻めるべきだ、と愚考している次第です」
尾水は思い切ったようにいい、内彦や武彦の顔を見た。何もない時は眼を細め、無表情でいる猪喰には寄りつけないものがあるらしく、視線を合わせない。これは尾水だけではなく、水沼県主なども同じだ。猪喰は内彦や武彦とも無駄話はしなかった。
「なるほど、水軍に自信のある水沼の一族らしい軍略だ」
男具那は腕を組み有明海を眺めた。北の方は雨で煙り、脊振《せふり》山連山も雲に隠れて見えない。風はあまりないが流れ込む筑後川の水流のせいか、海には白波が立っている。
漕ぎ手は半数が休んでいた。揺れが弱いのは船が大きいからである。
「今日の波は?」
「潮流と海に流れ込む水流がぶつかっているせいです、今少し南に進めば穏やかになります」
「筑後川から菊池川までは?」
「約十里強、外海ではございませんので、全力で漕げば一日半で菊池川の近くに達します」
尾水は海戦により敵の水軍を思い切り叩きたいようだった。
男具那は腕を組んだまま南方の海を眺めた。青い海は銀色に変り、更に薄い灰色となり、厚い雲といったいとなった霧の中に消えている。
男具那が無言のせいか、船内には何となく緊張感が漂った。時々|波《なみ》飛沫《しぶき》があがるが、男具那たちにはほとんどかからない。舳先の波除けのせいだ。
「尾水、そちは金峰山に拠《よ》る川上タケル軍を、なぜ、水軍をもって攻撃しようとは考えないのか?」
男具那の語調は穏やかだが、その内部には尾水を刺すような針が隠されていた。
「はっ」
と尾水は本能的に上半身を正した。
「もちろん考えました、ただ金峰山の上陸地点周辺は地理不案内でございます、上陸しても手間どっていると、山からの攻撃を受け、兵たちは混乱致し、勝ち目は薄いと判断した次第です」
「それで充分じゃ、そちは武術の腕が優れているのみならず、兵法にも優れている、信頼できるぞ、これから無理をいうかもしれぬが、全力を尽して吾《われ》の信頼に応《こた》えてもらいたい」
今度の男具那の声には間違いなく熱が篭《こも》っていた。尾水は初めて、自分が男具那に信頼されたことを感じたようだ。
「王子様、光栄でございます」
「おう、今から戻り、直ちに水軍の戦闘態勢を整えよ、梅雨明けと同時に狗奴国に攻撃をかけるぞ」
船内に喚声が起こった。
翌日男具那は猪喰を三瀦《みづま》に遣わし、三、四名乗れる漁舟を、最低三十艘は集めるように水沼県主に命じた。水沼県主が動員した兵を始め、北九州の各国から集まった兵は八女《やめ》から矢部《やべ》川流域に移動しつつあった。
水沼県主が放った間者の報告によると、キクチヒコの主力軍は菊水の丘陵地帯に篭り、玉名《たまな》から菊水にかけて数十名ずつ分散し、菊池川沿いに布陣していた。
男具那にはキクチヒコの消極的とも思える待ちの作戦が、不思議に思えた。狗奴国の兵士たちは勇敢である。なぜ菊池川を渡り攻撃して来ないのだろうか。
七掬脛は、菊水の丘陵地帯に布陣している主力軍は、決して待っているのではなく、北九州軍が菊池川を渡り始めた途端、すぐ渡河地点に駆けつけるはずだ、と説いた。
「王子様、狗奴国の東北部は山岳地帯でございます、我軍はどうしても西部から攻めねばなりません、菊水の主力軍は布陣ではなく、攻撃のためのものだとお考え下さい、玉名から菊水にかけて約四里、渡河するとすればその間のどこかです、我軍がどの場所で川を渡ろうと、おそらくキクチヒコの主力軍は早ければ半刻《はんとき》(一時間)、遅くとも一刻半の間に駆けつけられます、もし川沿い数ケ所に布陣している小部隊が、夜の間に移動すれば、どこに移ったか掴《つか》めません、おそらく小部隊は、死を覚悟して、川を渡る我軍に突入して来るでしょう、川を渡り終えないうちにキクチヒコの主力軍の攻撃を受けたなら、大変なことになります」
七掬脛の状況判断は鋭かった。
男具那は直ちに尾水を呼んだ。
菊池川の北方で、兵を休めるような要害の地はないか、と訊《き》いた。
「はっ、玉名の北方に三池《みいけ》山と筒《つつ》ケ岳があります。三池山は約百三十丈(三百九十メートル)、筒ケ岳は百五十丈(四百五十メートル)を超え、山が連なり山容も深く、狗奴国軍が菊池川を越える越えないは別として、我軍が押えておかねばなりません」
尾水は布に地図を描《か》いた。
筒ケ岳は菊池川に近く三池山の数倍あった。
「戦になると最も大事な場所だ、見張りの兵は駐屯させているのか?」
「二十名足らずでございますが……」
尾水の顔から血が引いたのは、すでに敵に奪取されているかもしれない、と危惧《きぐ》の念を抱いたからであろう。
「尾水、そちは信頼のできる子弟を隊長にし、二百名の精鋭部隊で三池山を押え、もし敵が筒ケ岳に入り込んでおれば全力で攻撃、敵を殲滅する、後続部隊はすべて筒ケ岳およびその周辺にて休養を取らせ、総攻撃に備えよ、精鋭部隊は直ちに出発じゃ、行け!」
男具那の語調は戦場にあるようであった。
水沼県主が動員した兵は、水軍二百名を残し続々と南下し筒ケ岳に向う。
北九州各国の兵も南に向う。
男具那は甲冑《かつちゆう》を纏《まと》い、馬に乗り各国の兵を督励した。男具那の左右には、直属の部下たちが槍《ほこ》(矛)を持って並び、隊長が挨拶《あいさつ》する毎《ごと》に、槍を高々と上げた。
一夜のうちに厚い雲が消え、灼熱《しやくねつ》の陽光が山野を照らし、男具那の甲冑が燦然《さんぜん》と輝く。男具那は朝餉《あさげ》もそこそこに三瀦に向った。猪喰が男具那の命を伝えるべく先に走った。
内彦や武彦もなぜ、男具那が急に三瀦に移るのか知らされていない。
水沼県主は有明海沿岸の海人から徴発した漁師の小舟を五十艘近く揃《そろ》えている。
男具那が水沼県主の屋形に入った時、先遣部隊の隊長からの報告が届いた。男具那が危惧の念を抱いた通り、筒ケ岳には賊が入り込み、山を警護していた兵士たちは惨殺されていた。二百名の先遣部隊は男具那の命令通り総力をあげて山に入り、敵を掃蕩《そうとう》している、という。
水沼県主も尾水も、ただ男具那に頭を下げるのみである。
「我らの勢力範囲にあり、しかも重要な山であるにもかかわらず油断しておりました、布に描いた雑な地図だけで、敵の行動を見通されるとは、王子様は人間以上の眼力をお持ちです」
水沼県主の眼が赧《あか》いのは、自分を恥じているからであろう。尾水も同様だった。使者の報告を聴いて以来、膝《ひざ》の拳《こぶし》を慄《ふる》わせたまま声が出ない。
「王子様、やつかれの怠慢です」
と尾水が絞り出すような声でいった。
「なあに、そんなに自分を責めるな、筒ケ岳の賊兵を殲滅したなら、兵力の七、八割までを山で休める、戦闘に備えて英気を養わせるのだ、残りは偵察隊として菊池川流域の警戒に当らせる、少なくとも総攻撃は、全兵力が集まってから三日後だ、もし敵が菊池川を渡って来たなら、筒ケ岳の主力軍で迎え討つ」
「あっ……」
と尾水が低く呻いた。いや、尾水だけではなく、武彦や内彦なども同じように感嘆の吐息を洩《も》らした。
男具那は自分を納得させるように大きく頷《うなず》いた。
「そうじゃ、これで敵と対等の布陣だ、攻められても慌てることはない、尾水、敵が守りの戦に徹している、と判断するのは早計だぞ、南からの援軍を待ち、攻撃して来るかも分らぬ、何かがある、ただ、狗奴国に内通していた賊は、動かぬ」
「王子様、戦の前に敵の状況を分析するのが、どんなに大事か、初めて分りました、これまでは、分析や優れた作戦がありませんでした、尾水ややつかれの子供もただ武勇を誇るのみ」
水沼県主が唇を噛《か》む。
「いや、吾《われ》と十日近く接している間に尾水は成長した、敵を攻める作戦もなかなかのものだ」
男具那は尾水を褒めておいて、全員を連れて水沼県主の屋形を出た。
屋形の周囲には筑後川に通じる川が何本も流れている。当時では水路であり、川には到るところに小舟がつながれていた。
三丈(九メートル)程度の長さのものが多く、三、四人は充分乗れる。もちろん、一人用の小舟もあった。男具那の命で水沼県主は水軍の長《おさ》と副長を呼んでいた。
雨は降っていないが、重畳とした山々から運ばれる水流は大和《やまと》では想像できないほど多く、地をもゆるがすほどだ。
「凄《すさ》まじい水音だな」
「明日には少なくなります、山の雨もやみました」
脊振山系は陽光に灼《や》かれ、緑がぎらついて見えた。樹々の葉が異様に照り返しているのだ。
葉も突然の暑さに脂汗を流している。
「皆、吾の傍に寄るように」
男具那は淡々とした声でいったが、皆、緊張した面持ちだった。
「これは吾の決断じゃ、吾は漁師用の舟に乗り、深夜、金峰山を海側から攻める、金峰山の港に集まっている舟には火矢をかけて焼く、そのまま上陸し、南側の麓《ふもと》から山に入る、夜を利用しできるだけ登り、砦《とりで》を築く……」
「王子、お待ち下さい」
内彦が蒼白《そうはく》な顔でいった。
「話は終っておらぬ、吾が率いる兵士は、武彦の兵を含めて百数名だ、もちろん、舟子たちは、吾が上陸した後、武器を取り、港を守り、逃れようとする敵を殺す、これは危険な賭《か》けのようだが、そうでもない、さいわい月は淡く海は真暗じゃ、小舟で進んだなら、菊池川周辺の敵の水軍はまず気づかない、夜の海がどんなに暗いかを、吾は瀬戸《せと》の海で知った、敵の水軍に知られず、金峰山の港に到着さえすれば、後は問題ない」
「王子、あまりにも大胆過ぎます」
武彦が噛みつくようにいった。
猪喰と七掬脛が無言なのは、内彦と武彦に遠慮しているせいかもしれない。それとも二人と違い、男具那の決断に賛成なのか。
男具那は微笑したが、眼には決意が篭《こも》っている。
「吾の決意はゆるがぬのだ、尾水、水軍の長に訊け、夜、敵に見つからぬように金峰山まで小舟で行けるかどうかを」
尾水は、鬚《ひげ》を茫々《ぼうぼう》とはやした水軍の長に訊いた。長の顔は陽に灼け、全体に墨を塗ったように黒い。
「はっ、星さえ見えれば航行できますが」
水軍の長は直立不動の姿勢で答えた。
尾水が、梅雨が明けたばかりだし、そんなことはないと思うが、雲が空を覆っている場合や、嵐《あらし》の夜は航行不可能です、と答えた。海人たちの夜の航行に星は欠かせない。星を見て方角が分るからだ。
「もし、星の見える夜なら、金峰山まで、どのぐらいで行けるのだ、ここからではなく、水沼県主の勢力範囲のぎりぎりのところからだ」
尾水は水軍の長に、敵の水軍は、どのあたりまで探りの船を出しているか? と訊いた。二人の間にやりとりがあった後、尾水は、矢部川の南、大牟田《おおむた》の港までは大丈夫ですと告げ、水軍の長の返答を伝えた。
「大牟田の津から金峰山まで、約八里でございます、水軍の長の話では夜の短い季節故、日の落ちる前に出ても、夜明けまでに金峰山に着くのは無理だ、と申しています」
「そうか、一夜では無理か、こういう方法はどうだ、昼前に大牟田を発し、敵の眼を避け、沖に出る、つまり島原半島寄りに南下し、日が暮れるのを待って金峰山に直行する」
男具那の言葉に、水軍の長は驚愕《きようがく》したように男具那を見た。男具那の鋭い視線を浴びて、自分の返答がいかに大事かを認識したらしく、表情が強張《こわば》った。
誰も言葉を発する者はいない。水軍の長の額に汗が滲《にじ》んだ。戦以外の時は、朝鮮半島との交易に従事しており、朝鮮半島南部の言葉を話せる。南|伽耶《かや》(釜山《ブサン》近辺)に来る倭の諸国の海人たちとも話し合うので、男具那の言葉も理解できた。
男具那は水軍の長に、
「遠慮する必要はない、吾に率直な意見を述べよ」
と命じた。
長は息を呑《の》み尾水の表情を窺《うかが》った。尾水は水沼県主を見てから頷いたようだ。
水軍の長は大きく息を吸い姿勢を正した。
「波が五尺(百五十センチ)以下なら可能でございます、ただそれ以上になると転覆の恐れが生じます」
「よし、こうしよう、波が五尺以下なら決行する、ただ、外海に出られる大船を三|艘《そう》つけてもらおう、小舟が転覆した場合にそなえて、板を積み込んでおけ、さいわい梅雨が明けたばかりだ、南からの嵐が来るのは早くて十日後、海からの攻撃は今が好機だ」
「はっ、かなりの冒険ではございますが、今が好機でございます」
「よし、明日の早朝決行じゃ、早朝といっても陽が昇る二|刻《とき》前には港を出る、今日も烈日が山野を灼いている、雲はほとんどない、海は凪《な》いでいる、行けるところまで行く」
水軍の長は何かいいかけて口を閉じた。
「遠慮は無用じゃ、吾は決行する、吾の行動に役立つ意見ならいくらでも申せ、いいか、川上タケル軍さえ敗走させれば、狗奴国は崩壊する、キクチヒコが北部九州を狙《ねら》うのも、南の熊襲が協力しているからだ、南が不安なら、狗奴国は、まず自国を守らねばならない、九州島の制圧など不可能じゃ、だから吾は金峰山の賊を殲滅《せんめつ》する」
「王子様、まさにその通りです、やつかれも是非、明日の攻撃に加わりとうございます、さあ、申したいことは王子様に申せ」
尾水の顔が紅潮し、上半身だけ前に乗り出すようにして口を開いた。
水軍の長の意見は次のようなものであった。
今夜半に船溜《ふなだ》まりを出るつもりなら、小舟よりも大船の方が速いし、安全だった。百数十名の兵士なら十艘あれば充分乗せられるし、食糧も積める。島原半島の沖を南下すればキクチヒコの水軍には見つからないし、航海の不安なく金峰山の船溜まりに突入できる。その舟を焼き、男具那たちを上陸させた後、菊池川の河口に向えば、南北からキクチヒコの水軍を攻めることができるし、一つの石で二鳥を獲《と》る作戦と考えられる、と説いた。
「おう、敵の水軍に発見されないために小舟を思いついたが、大船でも大丈夫、というのなら、その方がよいぞ、尾水、全力をあげて大船を集めよ、何艘ぐらい集められる?」
と男具那は尾水に訊《き》いた。
水軍の長と相談していた尾水は、十四、五艘と答えた。
「よし、吾《われ》は八艘で構わぬ、武彦の部下には船を漕げる者もいる、一艘に二十名の兵士を乗せても、八艘なら百六十名、充分の兵力だ、尾水は残った水軍を指揮し、南北から攻めよ、まだ夜半まで七刻もある、ただちに攻撃の準備だ、水沼県主、水軍の動員に全力を尽せ、功をあげれば、水沼の名前は全国に届くぞ、そちの子孫の繁栄は疑いなしだ」
「王子様、全力を尽します」
水沼県主と尾水は同時に叫んだ。
男具那は屋形に戻り、更に打ち合わせを続けた。
外が騒がしくなった。猪喰が素速く縁から消えた。
男具那は女人の声を耳にしたような気がした。記憶に間違いなければ羽女《はねめ》の声だった。
そんな馬鹿な、と吐き出すように胸の中で呟《つぶや》いた。
猪喰が戻って来たが、何もいわない。男具那は一瞬の|※[#「目+旬」、unicode7734]《めくばせ》に猪喰のいわんとするところを悟った。すぐ席をお立ちになるようなお知らせではございませぬ、と猪喰は無言で告げていた。
だが男具那は気になってならない。幻聴ではないはずだ。男具那は耳に自信があった。
少し間を置いてから男具那は厠《かわや》に立った。猪喰が無言でついて来た。
「あの女人の声は羽女のようだな、違うか」
と男具那は低い声で訊いた。
相変らず猪喰は無言で叩頭《こうとう》した。
「そうか、どう申した?」
「王子様にお会いしたい、とのことでございます。他に二人の女人を連れ、髪は角髪《みずら》に結い、男子《おのこ》の姿です、奴《やつこ》が伝えるからと諭し、外に待たせています」
「それでよい、夕餉《ゆうげ》が終り次第参ると伝えよ、吾に従い、戦いたいのであろう、気の強い女人だ」
男具那は、猪喰よりも自分に向けていった。途端に抑えていた情に火がつき、胸が熱くなった。
現世とは思えぬ甘い炎に身を灼《や》いた一夜が思い出された。男具那は眉《まゆ》を寄せたが、猪喰と視線を合わせられない。男具那の胸中をとっくに推察している猪喰は、姿を消していた。
席に戻った男具那は、水沼県主や尾水と更に戦の作戦を練った。
尾水は残りの水軍を率いて菊池川河口に集まっている敵の水軍を攻撃する。同時に菊池川に達している兵は、闇《やみ》を利用し川舟で菊池川に渡る。
男具那たちを金峰山に送り届けた数艘は、すぐ引き返し尾水の水軍を援助する。キクチヒコの水軍は、南方からの攻撃は予想していないはずだった。それまで戦闘は互角でも、形勢は一挙に逆転する。
「尾水、吾を送った水軍が到着するまで、キクチヒコの水軍を適当にあしらい、本格的な海戦は自重せよ、水沼県主、菊池川を渡った兵の一部は菊水に進撃させるのだ、吾は必ず川上タケル軍を敗走させる、金峰山の軍が敗走すれば、背後をおびやかされた熊岳の敵は動揺し、戦意を失う、そんなに大軍は要らぬ」
「我ら一同、王子様の勇気と度胸、水も洩《も》らさぬ作戦にただ感激、感嘆しております、王子様を思い、全力を尽し、大勝するつもりです」
「おう、その覚悟じゃ、倭国が早くいったいとならねば、海の彼方《かなた》の敵が攻めて来る、民の安泰を取り戻し、国が平和になれば、外敵もうかつに攻めて来れない、朝鮮半島には中国から新しい文化が入って来ている、そういう先進文化も、国が乱れておれば入って来ない、では戦に向う、尾水、船を集め、出港の準備をせよ」
水沼県主が予想もしなかった迅速な作戦に、準備されていた女人の舞や音楽の饗宴《きようえん》は打ち切りとなった。
男具那は猪喰を連れ屋形を出た。屋形の前の広場には篝火《かがりび》が勢いよく燃えている。
篝火といっても、後世のように油を燃やすのではない。伐《き》った木を適当な高さに積み燃やすのだ。
火は大変な勢いで火の粉が飛ぶ。ただ篝火は広場の真ん中で燃やされているので、屋形や雑木林に燃え移らない。
男具那の姿を見た羽女は、走り寄ると五尺ほど手前で地に伏した。二|刻《とき》(四時間)も待っていたのだ。羽女は刀を吊《つる》し、皮甲《かわよろい》を纏《まと》っていた。男具那に従い、戦に赴くつもりで来たのだ。
「羽女、顔を上げよ」
男具那は立ったまま羽女を睨《にら》みつけた。篝火の明りに羽女の眼が光った。表情は分らないが眼は、万感の情を秘めて男具那を凝視《みつめ》ていた。
「何のために参った、甲を纏っているところを見ると、吾とともに熊襲を討つつもりで来たな、だが羽女には神夏磯《かむなつそ》媛ひめを補佐し、宇沙《うさ》国の平和を守る責任があるはずじゃ、自分の任務を放棄するような者は好かぬぞ、すぐ戻れ」
男具那は、羽女に背を向け屋形に戻ろうとした。
だが金縛りにあったように男具那の身体は動かない。実際男具那は、羽女が得体のしれない気を発し自分を縛った、と錯覚したほどだ。
男具那が自分を縛ったものが、羽女が発した気ではなく、自分の感情によるものであることを知ったのは、息を止めた時だった。
男具那は息を吐き出し、羽女にいった。
「参れ」
男具那は小川の方に歩いた。月の光は淡く、篝火の炎もほとんど届かない。
男具那は木の幹を背にして立った。
羽女が連れて来た二人は、蹲《うずくま》ったまま動かない。猪喰はどこかに隠れて見張っているらしいが、姿も気配もなかった。
羽女は男具那の一尺手前で蹲った。香料も何もつけていないが暑い夜である。汗ばんだ羽女の髪の匂《にお》いが男具那の鼻孔を刺戟《しげき》した。
男具那の血がたぎり下腹部が熱くなった。自然に男具那の息が荒くなる。
「吾をまどわしに参ったのか、そなたとの関係はもう終ったのだ」
「そうおっしゃられるのは覚悟していました、王子様、私《わ》は女人として参ったのではありません、王子様に仕える兵士として馳《は》せ参じました」
「呼んではおらぬぞ、宇沙国のことは忘れたのか」
「忘れてはおりませぬ、だが私は国を捨てました」
「国を捨てた、愚か者|奴《め》!」
「私は愚か者かもしれません、でも私は巫女《みこ》王にはなれませぬ、神夏磯媛は賊を滅ぼして以来、病の身となりました、もう巫女王が国を治める時代ではないことを悟られたのです、神夏磯媛は病の床で宣託されました、次の巫女王は、男子に負けぬ武術を身につけた私にすると……」
「何だと、そなたを巫女王に」
「はい、これからの巫女王は強さも必要じゃ、と神が告げられたとか、これまで宇沙国では、現在の巫女王が新しい巫女王を指名するのが慣わしでございます、でも、私は巫女王になるつもりはありません、私は王子様に従い、熊襲を討つ以外、生きる道はない、と決心したのです、どうかお供をさせて下さい」
羽女の言葉は男具那の胸を掻《か》き毟《むし》った。
「羽女、それは駄目だ、男子に身を変えても女人は女人、戻れ、戻るのじゃ、これ以上申すことはない」
「王子様、私は断られたなら死を覚悟して参りました、ただ王子様のお傍で死にたい、私の死を見届けて下さい」
「吾を脅すのか、吾を傷つけようというのか!」
「いいえ、私は王子様のお傍で死ぬことができたなら本望なのです、傷つけるなど、とんでもありません、喜んで死んだ、とお思い下さい」
男具那は夜空を仰いだ。流れて来た淡い雲に包まれた月光は、消え入るようである。
「吾には分らぬ、男子の姿をしても、女人は女人、情によって吾を傷つける」
「そうです、私は女人、王子様を慕う女人でございます、だから私には私の生き方があるのです、王子様、私を……」
羽女の剣の抜き方は速かった。刀身が微《かす》かに煌《きら》めき喉《のど》に突き立てた。
男具那は夜空を仰いだ時、刀の柄《つか》に手をかけていた。羽女は本当に死ぬつもりだな、と感じたからだ。
羽女の剣が喉を貫こうとした時、男具那の刀はその剣を叩《たた》いていた。
火花が散り羽女の剣が飛ぶ。
「分った、連れて行こう、だが男子で通すのだ、それができるか」
「王子様」
羽女は草叢《くさむら》に顔を埋め慟哭《どうこく》した。
男具那は羽女の剣を拾って渡した。
「羽女、だがそなたには、いつ死んでもらうかも分らぬぞ」
「嬉《うれ》しゅうございます」
「部屋は猪喰に探させる、猪喰」
男具那が呼ぶと、川岸の草叢から黒い影が立った。
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二十
梅雨明けの直後はまず雨が降らない。かりに降ったとしても小地域で、夕立的な雨である。当然、夜の空には星が輝く。
中国や朝鮮半島に航行する船は、星により自分の船の進路を確かめることができる。
海の航行に慣れた海人たちも、星のない夜は、幅が広くて速い潮流に乗らない限り、どの方向に進んでいるのか分らなくなる。
星は、夜の航海にとって欠かせない存在だった。
海人たちが航海の目印にするのは北極星だが、他の星座の動きも絶えず観察する。北極星が雲に覆われたなら、他の星座、また月の動きによって進路を確認せねばならないからだ。
夜になり少し風が出たが、波はそんなに強くない。男具那《おぐな》に伝えられた海の状態は良好だった。有明《ありあけ》海の波は二尺(六十センチ)程度で、海人たちにとってはなぎに近い波だった。
男具那の乗った船は全長が八丈(二十四メートル)もあり、漕《こ》ぎ手は二十数名である。水軍の長《おさ》の話によると、中国や朝鮮半島に行くような場合は、漕ぎ手は三十数名に増えるという。
有明海は何といっても内海だし、しかも波の穏やかな日が続くと睨《にら》み、漕ぎ手を減らしたのだ。
その代り男具那が乗っている船には、男具那の直参《じきさん》といってよい部下たちが全員乗った。羽女《はねめ》たちも乗せた。
久米七掬脛《くめのななつかはぎ》が、男子《おのこ》姿の羽女や彼女の部下の顔を煤《すす》で黒く塗った。
舟子たちに、羽女が女人であることを知らせたくないからだ。
ただ問題は排泄《はいせつ》の時である。男子たちは立ったまま堂々とする。男子に変装していても、女人の場合はそうはゆかない。
だが男具那は、男子のように立ったまま筒様の袴《はかま》を下ろし、放尿せよ、と命じていた。それができないようなら同行はさせぬ、といった。
羽女は即座に承諾した。どんな甘えも許されぬことを羽女は知っていた。
その代り男具那は、羽女たちが排泄する場合は、内彦《うちひこ》たちに囲ませ、舟子の眼を遮断した。
漕ぎ手たちはいずれ不審に思う。その時は舟子の長にだけ知らせるつもりだった。
子《ね》の下刻(午前零時―一時)に筑後《ちくご》川河口を出た八|艘《そう》の船は午《うま》の下刻(午後十二時―一時)に島原《しまばら》半島の島原の潟《あがた》に入った。
予想通りの順調な航海である。
羽女たちは夜明け前の暗闇《くらやみ》の船で排泄を終えていたので、まだ舟子たちに怪しまれていない。
穏やかな潟で、兵士たちや漕ぎ手たちも上陸し木蔭《こかげ》に横たわり、二|刻《とき》(四時間)ほど休養を取った。
舟子の長は、予想以上に早く着いた、と男具那の部下に伝えた。
羽女たちも上陸し、松林で排泄を終えた。
島原の潟から金峰《きんぽう》山まで、全力で漕げば四刻(八時間)ぐらいで行けるらしい。それでは夜半までに着いてしまう。
男具那は水軍の長を呼んで松林で作戦会議を開いた。
夜半に金峰山に接岸し、夜明けまで待って、敵の水軍に火矢を射、全滅させて上陸するのが予定の作戦だった。
だが航海が予想以上に順調だったので、金峰山の水軍を無視し、敵の虚を突いて白《しら》川沿岸に上陸する。
白川は金峰山の南を流れる川であった。沿岸は比較的平地で、上陸する場所はいくらでもある、という。
現在、金峰山の南麓《なんろく》を流れているのは坪井《つぼい》川である。坪井川と南の白川の間は新池と呼ばれる平野だが、その名の通りもとは池だった。 男具那の時代は海である。当然、白川の河口は現在より一里(四キロ)以上も陸に入り込んでいる。
水軍の長の話によると、白川沿岸は湿地帯が多く、上陸できる場所は当時の白川河口から更に半里はさかのぼらねばならなかった。
「川上《かわかみの》タケルが球磨《くま》川流域の兵を率い、金峰山に篭《こも》ったとすると、白川に伏兵を潜ませる余裕はほとんどないな」
「はっ、奴《やつこ》もそのように思います、川上タケルの兵はどんなに多くても五百まででございます、白川沿岸に兵を出す力はまずありません、ひょっとすると、二、三十名の監視の兵を歩かせているかもしれませんが……」
「歩かせるか、水軍の長らしい言葉だ、上陸予定の地から熊本まではどのぐらいだ?」
「一里半でございます」
「一里半もの広い川岸を、二、三十名の兵で監視させても意味がない、それこそ兵たちは休む間もなく川岸を走らなければならなくなる、この暑さじゃ、半日で泡を吹いて倒れる、だから水軍の長は歩かせる、といったに違いない」
男具那が白い歯を見せると、一同は大声で笑った。緊張感が取れ、皆、闘志を漲《みなぎ》らせながらも明るくなった。
男具那は水軍の長に、金峰山の西の海に集まっている川上タケルの水軍をどうする? と訊《き》いた。
「はい、王子様の軍が上陸するのを見届け、ゆっくり金峰山の海に進み、夜明けとともに全滅します」
水軍の長は自信あり気だった。
「ほう、我らを上陸させた後、夜明けまでに金峰山に戻れるか?」
水軍の長は手を翳《かざ》し、陽を眺めた。
「今から発《た》ちますと、陽が落ちる頃、白川の南に到着します」
水軍の長は話を続けた。
大船には二人乗りの小舟を数艘積んでいた。水軍の到着と同時に小舟は白川に入り、松明《たいまつ》をつけ、闇を待って水軍を誘導する。深夜までには上陸が終るので、川上タケルの水軍を攻撃する時間は充分あった。
男具那は大きく頷《うなず》くと刀の柄《つか》を握って立った。
「上陸地点に、敵兵はいないと思うが、何といっても金峰山に近い、ことは迅速に行ない、余裕をもって敵に対処する、これが吾《われ》の兵法じゃ、できれば今すぐにも出発したい」
男具那は漕ぎ手たちの疲労の程度を訊いた。水軍の長は、もう一刻(二時間)近く休んでおり、後四半刻(三十分)も休めば充分です、と答えた。
「では四半刻後に出発じゃ、海につかっている兵士たちは、小川に入り、海水を洗い落すようにせよ」
男具那が剣を叩《たた》くと、直参の部下たちは、獣のように吠《ほ》えた。
男具那たちの水軍は順調に進んだ。陽が傾き始めた頃、南からの風が強くなったが、航海には影響ない。舟子たちは汗《あせ》まみれになり櫂《かい》で漕ぐ。
前方の金峰山と熊岳《くまのだけ》は茜《あかね》に映えた巨大な二頭の獣が頭を持ち上げ、海を睨んでいるようである。北方の熊岳は寝そべり、金峰山は蹲《うずくま》って見えた。
海から眺めると金峰山の方が雄々しい。
両山に篭るキクチヒコ、川上タケル軍も、男具那の精鋭部隊が島原に寄り、真っ直《す》ぐ自分たちに向って来ているとは想像もしていなかった。彼らの間者たちは熊本の北部に放たれていた。
海を監視する兵も、眼は北西に注がれている。
男具那たちの船は、準構造船で全長は長いが、内海なので筵《むしろ》の帆はつけていない。自然、船は広々とした海に溶け、遠くからでは発見し難《にく》かった。
陸に近づくと、水軍の長は、船の速度を落した。敵兵に発見されないためである。薄闇を待って松明を乗せた数艘の小舟を降ろした。
小舟は二人の舟子が全力で漕ぐ。三尺(九十センチ)近くなった波が小舟の舳先《へさき》に当り水《みず》飛沫《しぶき》をあげるが、舟子たちには問題ではなかった。小舟の舟子たちは下帯一枚で、海水を浴びることに快感を覚えているようだった。
日が暮れるまで船団は海沿いをのろのろと進んだ。間もなく完全な闇になり、まさにちょっと先も見えない暗さだった。
前方の暗闇に微《かす》かな明りが点《つ》いたのを見て、男具那はほっとすると同時に、先に進んだ小舟の舟子たちの役目がいかに重大であるかを深く認識した。
男具那は久米七掬脛を呼んだ。
「金峰山の南側は調べたか?」
「やつかれの部下が調べております、夜が明ければ地形を説明させましょう」
「七掬脛、よくやったぞ、水軍では先導の小舟が大事じゃ、陸での戦では地形や敵の布陣を知ることが大切じゃ」
男具那の言葉に七掬脛は恐縮し、叩頭《こうとう》した。
「王子様、山中の賊がどこに潜んでいるかが掴《つか》めていません」
「それは仕方がない、夜明けまでに山に近づき、間者を放つ、だが深い山だ、敵は到るところに隠れておる」
「はあ……」
「攻めるのは不利だが、敵も油断しておる、発見されるまで、可能な限り山に入る、ほとんどは出合い頭の戦、ということになるだろう、ただ吾には弓の名人が三名もおる、谷の向うの敵も斃《たお》せる名人じゃ」
「心強うございます」
「問題は川上タケルがどこにいるかを、早く探り出すことだな、たぶん、熊本の平野を一望の許《もと》に眺める場所に穴でも掘り、隠れているに違いない、場所さえ分れば……」
「王子様、川上タケルは獰猛《どうもう》ですが勇気のある首長との噂《うわさ》でございます、王子様の軍が攻めて来たと知れば、隠れた場所から出、自ら王子様に挑んで来るでしょう」
「それならよいが」
男具那は思わず武者振いした。鼻垂《はなたり》や耳垂《みみたり》を相手にした時とはまったく異なる闘志が、腹の底から湧《わ》いて来るのを覚えた。
噂では、身長は六尺に近く、眼はいつも雷光のように輝き、歯は狼のようだ、という。人の口の恐ろしさだ。だがそれが噂であれ勇猛な巨漢であることに間違いなかった。
宮戸彦《みやとひこ》は、川上タケルの噂を聞き、巨漢なれば吾が斃すぞ、といきまいていた。
宮戸彦は傷が膿《う》み、まだ日田《ひた》から出られない。
宮戸彦の胸中を思うと男具那の胸は痛むのだ。
男具那たちは小舟の松明に導かれ、水流の豊かな白川を上流に進んだ。
一|刻《とき》ほど進んだだろうか。二|艘《そう》の小舟が近づいて来た。
岸は葦《あし》が生えた湿地帯だが、少し離れると田畑なので、上陸しても大丈夫だ、と告げた。
水軍の長《おさ》は男具那の承諾を得て、船を川岸につけるように命じた。綱を持った舟子が次々と川に跳び込み岸に泳ぎつく。
数本の綱が船を岸の傍まで引っ張る。あっという間の早業である。
「王子様、思い切り跳んで下さい、湿地ですが、地に降りられます」
いつの間に降りたのか、水軍の長が岸の葦の中から声をかけた。葦の群れも闇《やみ》に呑《の》まれて姿は見えない。ただ舟子たちが折る音で葦であることが分る。
男具那はこういう時のために用意していた竹竿《たけざお》を手にした。数年前、男具那の生命《いのち》を狙《ねら》った筑紫物部《つくしもののべ》を斃した時、竹竿で屋形の二階に跳び込んだ。
ただ今回は甲冑《かつちゆう》を纏《まと》っている。陽に眩《まぶ》しいほど輝く甲冑は、大和《やまと》の王者の象徴だった。馬も別な船に乗せているのだ。
威風堂々と進むことによって、兵士たちを励まさねばならない。
もし男具那が敵に斃されるようなことがあれば、内彦や武彦《たけひこ》など、直参の部下は別として兵士たちの闘志は消える。
王者は常に堂々とし、輝く存在でなければならないのだ。
「前にいる者は左右に散れ、吾は今から十五尺は跳ぶ」
男具那は甲冑姿で舷側《げんそく》に立ち、竹竿で下を突いた。土は柔らかく竹竿は一尺以上も入る。
「王子、湿地とのことでございます」
内彦が不安そうにいった。
「分っている、湿地でなければ二十尺以上は跳べる、ただここは敵地、皆、声は出すな」
男具那は高さを計算し、竹竿の上を持った。身を縮めると思い切り跳び竹竿を湿地に突き刺した。予想通り一尺以上めり込んだが、男具那の飛距離を五尺ほど延ばした。
先に降りていた舟子たちが感嘆の呻《うめ》きを洩《も》らした。敵地でなければ喚声をあげたいところであろう。
一刻足らずで、全員が船から降り、武器や食糧も降ろした。
男具那たちは、水軍の長に見送られ、闇に消えた。総勢は二百余名である。
さいわい雲の少ない夜なので、星を眺め、進行方向を決めることができる。
男具那としては闇を利用し、できるだけ金峰山に近づいておきたかった。
東の空が微かに白み始めるとともに、暗黒の巨大な塊が闇の中にそそり立ち始めた。金峰山である。男具那は兵士たちに二刻の仮眠を命じていた。
兵士たちは戦場に来たことを忘れたように眠りこけている。船でも仮眠をとらせたが、あまり眠れなかったのだろうか。
男具那は兵士たちの熟睡ぶりに安心した。戦を前にしてこれだけ眠れるのは、変に昂奮《こうふん》していないからである。いくら疲れていても、昂《たか》ぶっていては眠れない。
仮眠から眼覚めた男具那は、大勝だ、と自分に呟《つぶや》いた。
男具那が眼覚めるのを待っていたように、直参の部下たちも眠りから覚めたようだ。
「王子、黒い地が天に向って盛り上がっているようです」
内彦の声だ。
「うむ、小川で身体を洗おう、生き返るぞ」
「参りましょう」
武彦がいった。
兵士たちは仮眠をとる前に身体を洗っている。男具那たちから数歩離れて横になっていたはずの羽女たちの姿が見えない。
「羽女は?」
と男具那は呟いた。
「身体を洗っています」
十歩ほど先の草叢《くさむら》から黒い影が立った。猪喰《いぐい》である。
「もう起きていたのか、そうか羽女は先に眼覚めたのか……」
女人だな、と男具那は胸の中で呟いた。
「猪喰、おぬしは眠らなかったのか?」
と内彦がいった。
「船の中でよく眠った、安心されたい」
そういえば、男具那は船中で猪喰とは話していない。いつも見えない場所で男具那を守っているので、船でも猪喰の存在はあまり気にならなかった。
「船で眠れれば何よりだ、大急ぎで身体を洗おう、その後、朝餉《あさげ》だ」
「王子、兵士たちを起こしましょうか?」
と武彦がいった。
「うむ起こせ、朝餉を摂《と》らせよ」
武彦は葦の葉を取ると、吹き鳴らした。口笛よりもよく通る。
男具那たちは二十歩ほど離れた小川に行った。男具那たちが仮眠をとった場所は丘陵地帯である。古代には現代のような平野は少ない。熊本の平野にも丘が多いのだ。しかも到るところに小川が流れている。
羽女たちは男具那の足音を耳にしたらしく小川から出た。幻のような霧が湧き出たように見えた。
霧はあっという間に闇に消えた。
男具那は鼻孔を拡げた。羽女たちは小川につかり身体を洗ったのだ。それにもかかわらず男具那は甘酸っぱい若い女人の体臭を嗅《か》いだ気がした。
彼女たちの衣服に沁《し》みついている匂《にお》いかもしれない。
部下たちが変に黙り込んでいるような気がする。男具那は呟いた。
「女人の匂いだな」
返事がない。それは男具那の呟きを肯定していた。
「王子、戦になると男子《おのこ》も女人もありません、羽女の剣はなかなかのものです、羽女一人で何人の賊を斬《き》ったでしょうか、あまり気にされることはないと思います」
と武彦がいった。
「そうじゃ、羽女の武術は大変なものだ、強力な部下が増えたと思えばよい」
「その通りです」
と内彦がいつになく気張った声を出した。男具那の気持を楽にしようと必死なのだ。
「よし、羽女たちを女人と思うな、敵に囲まれても助けは要らぬ、おう、川じゃ、跳び込むぞ」
衣服を脱いだ男具那は勢いよく川に跳び込んだ。梅雨が明けたばかりの川水は意外に冷たかった。その冷たさに身が引き締まり気持がよい。部下たちも小川につかった。
兵士たちが焼米の朝餉を食べ終った頃、金峰山は尾根と尾根との間に闇を残し、黒い雄姿を浮かび上がらせていた。日の出までには少し時間があるが、東の空はかなり明るく、西の空も闇から薄墨色に変っている。
金峰山の巨大な尾根は怪物が伸ばした脚のようである。
男具那の命令で七掬脛は、数人の部下とともに山麓《さんろく》の調査に出掛けていた。
男具那は金峰山に連なる南端の権現《ごんげん》山の眼の前の丘陵に兵を潜めた。
敵はまだ男具那軍に気づいていない。
間もなく七掬脛が戻って来て、権現山と東の丘陵地帯の間を流れる小川では十数人の敵兵が水を汲《く》んでいる、と伝えた。
「分った、一人残らず斃す、石占横立《いしうらのよこたち》を呼べ」
猪喰が弓の名手を呼んだ。
男具那は状況を説明し、できるだけ弓で射殺すように命じた。
「遠くから射るのだ、我らの存在を知られたくない、そちたちの弓をまぬがれ、山に逃げ込んだ敵を兵が追う」
「はっ、数十歩の距離から射殺します」
「まだ闇が残っておるぞ、大丈夫か」
「この明るさなら大丈夫でございます、敵は影のように見えます、見えさえすれば的を外しません」
「頼もしいぞ、七掬脛、横立たちを現場まで案内せよ」
男具那は、武彦に命じ、兵を二手に分けさせた。
武彦は水沼県主《みぬまのあがたぬし》の兵六十名を四十名と二十名の二手に分けた。四十名の方は別働隊とした。別働隊の長は水沼県主の子弟である。
「小川に集まっている敵兵を射殺した後、武彦の軍は南に向って張り出ている丘陵の東側に入る、水沼の別働隊は西側じゃ、つまり眼の前にある権現山の先ということになる、皆、這《は》いながら進め」
兵を二手に分けることは、すでに武彦を始め内彦たちに伝えてあった。別働隊の役目は、できるだけ先に進み、敵の動静を探ることにあった。
男具那は、金峰山の南麓には、川上タケル軍はあまり潜んでいない、と睨《にら》んでいたが、水汲場《みずくみば》が南にあるとなると、作戦を練り直さねばならない。
それには、水汲場周辺の地形を見る必要があった。
男具那は纏《まと》っていた甲《よろい》を脱ぎ、皮胴の甲に替えた。何といっても鉄の短甲は重く、山での戦いには不便だ。男具那は後方で指揮を執るつもりは毛頭なかった。先頭に立ち敵と戦いたいのだ。
「王子は大将軍ですぞ、何も山に入られなくとも……」
と内彦が口篭《くちごも》ったのは、男具那がきかないことを承知しているからだろう。
「何のために、大和《やまと》の山々を登っていたのだ、この時のためだぞ、金峰山の山容は音羽《おとわ》山と似ている、尾根は生駒《いこま》山のようじゃ、馬はここに放しておく、吾《われ》が戻れば必ず駈《か》けて来る」
男具那は、すぐ戻るぞ、と愛馬の首を撫《な》でた。
男具那たちが地を這いながら進み始めた時、弓の名手たちは、権現山の山麓の丘陵地帯を水汲場に向っていた。
金峰山から流れ来る川は、現在の坪井川に合流する。小川といっても幅は三歩はあった。
十数人が桶《おけ》に水を汲み山に運んでいる。この労役に従事している兵士は三十名を超えるかもしれない。
現場から二百歩ほどの場所まで来て、久米七掬脛は舌打ちした。その人数から、川上タケルの主力軍が近くの山の上に駐屯している可能性が強い、と推測したのだ。となると石占横立たちが矢を射れば、大勢の兵士が反撃に出て来るかも分らない。また、男具那軍の攻撃を川上タケルに知らせることになる。
金峰山の北方と、キクチヒコ軍が篭る熊岳の間には、水量の豊富な河内《かわち》川が流れている。両軍とも水浴や水汲みは河内川に依存しているのではないか、と七掬脛は推測していた。
七掬脛は前に進もうとする横立たちを止めた。
「水汲場にいるのは十数人だが、山中にもその程度はいるぞ、そちたち三人で、何人の敵を射殺せる?」
「傍まで近寄ることができれば、取り逃しても一人か二人、旨《うま》く行けば全員射殺せます、ただ、それには薄闇《うすやみ》が残っているこの時刻が好機です」
七掬脛は息を呑《の》んだ。大変な自信である。七掬脛も十数名の部下を率いていた。横立たちが水汲場の敵兵を斃《たお》せば、逃げる山中の敵兵を追える。
男具那たちは間もなく現われるだろう。ただ、七掬脛が受けた命令は、水汲場の敵兵を斃すことであった。
「よし、存分に腕をふるえる場所まで行って射よ、ただ、一人か二人は捕まえねばならぬ、見つかるな」
横立たちは重い矢筒を背負い、草叢《くさむら》の中を這い始めた。
微《かす》かな口笛が二度聞えた。草叢から現われたのは猪喰だった。
男具那の命を受け、状況を観に来た猪喰は、七掬脛から説明を受けると、予想以上の成果をあげた場合は、逃げる敵の後を追って山中に入り、敵の大部隊がどこに潜んでいるか、調べるように、という男具那の命を伝えた。
「おう、山中に入るかどうかで悩んでいた、望むところじゃ、横立たちは水汲場の兵二、三名を除いて射殺す、と豪語した、この上で眺めよう」
七掬脛たちは灌木《かんぼく》や熊笹《くまざさ》を刀で伐《き》り、山に入った。猪喰は猿のように槙《まき》の木に登った。部下をその場に待たせ、七掬脛も負けじと木に登った。
弓の名手たちがどこまで近づいているかは見えない。息を呑んで眺めていると川から山に入ろうとした三人の敵兵が桶とともに転がった。水を汲んでいる兵士たちは気づかない。
山から出て来た二人の兵士が、驚いたように駈け寄ったが、つんのめるようにして転がる。
七掬脛は数呼吸もしていなかった。川の傍の何人かが、ようやく気がつき、何か叫んだ。
「どうしたのか?」
と訊《き》いたに違いなかった。叫んだ兵たちが次々と倒れ、ようやく敵兵は異変に気づいたようだ。
矢がどこから飛んで来るのか分らないので、山に向って逃げ始めた。横立たちの矢は容赦なく逃げる兵を斃す。驚いたことに山に近づいた者から順々に射るので、誰も山に入れない。七掬脛が感嘆したのは、横立たちが、一人も逃すまい、という作戦のもとに射ていることだった。げんに山から現われた新しい敵兵は絶叫とともに転がった。三、四人が南の方に逃げ出したのは、横立たちが山への入口を塞《ふさ》いでいる、と勘違いしたからだろう。
「来たぞ、傷を負わせ、生け捕りにせよ、一人も逃すな」
七掬脛は部下に命じ、太い枝から跳び降りた。猪喰も跳び降りたが、敵兵には眼もくれず、男具那に報告すべく走った。
男具那たちは敵兵の絶叫を耳にした途端、走り始めていた。
猪喰とともに現場に来てみると、弓に射られた半数は死亡し、残りは脚部を射られ、歩けずに呻《うめ》いている。七掬脛の部下の二人が、負傷した敵兵を監視していた。
七掬脛は敵の拠点を探るべく山に入った、という。
「よし、猪喰、口を割らせよ、川上タケルは何ケ所に拠点をもうけ、部下を配置しているかだ、それと、なぜこんな大がかりな水汲みが必要になったのか、それも訊き出せ」
ちょうど、陽が東の阿蘇《あそ》山系から顔を出したらしく、上空の雲が夕焼けのように赤く燃えていた。男具那たちは金峰山の東の丘に邪魔され、日の出を拝むことはできない。
猪喰は七掬脛の部下とともに敵兵に拷問を加えた。耳を覆いたくなるような悲鳴が山野に響く。大事なのは川上タケルの居場所と、敵軍の配置を知ることだ。
それを知らなければ、金峰山に入っても迷うだけだ。うかうかすれば、山に慣れている敵の餌食《えじき》になりかねない。
猪喰の拷問は、敵兵の心の弱点を抉《えぐ》り出す方法だった。比較的元気な敵兵を、他の捕虜の前で嬲《なぶ》り殺しにする。仲間の死を見せ、限界を超えた恐怖心を与える。
拷問の結果、三人の捕虜の告白を得た。だいたい一致していた。
水を汲み始めたのは今朝からであった。水沼県主の水軍が金峰山に向っている、という報を川上タケルは昨夜得たようだった。
川上タケルは、大和の王子は主力軍を、自分が篭る金峰山に廻《まわ》すに違いない、と判断し、飲み水を南の尾根の一つに蓄えさせたのだ、という。
梅雨は明けたばかりだし、いつ雨が降るか分らない、と川上タケルは水不足を心配したのだ。
水汲みに当ったのは、水汲場に一番近い尾根に陣を構える部隊で、総勢三十名だった。川上タケルは全軍を三部隊に分け、自分は二百名を擁し、一望の許に熊本平野を観察できる尾根の斜面に陣地を構築している。他の百余名は主力軍の一つ北方の尾根に潜んでいた。
ただ、川上タケルの主力軍が、尾根のどのあたりに陣地を構築しているのか、またタケル自身がどこにいるかは捕虜たちも知らなかった。
「王子様、敵の奴《やつこ》たちが知っていることは全部吐かせました、総合して判断しましたが、偽りはないようです」
猪喰の衣服に血が染みていた。
男具那は猪喰に羽女を呼ばせた。
「吾は山の入口まで行き作戦を練る、そちは矢で射られた捕虜の中から二人を選び責めよ、どんなことでもよい、川上タケルについて情報を得よ、猪喰に劣らぬように責めるのだぞ、女人の武器で責めてもよい」
男具那の声は刃物で斬られる空気の叫びのように鋭い。
猪喰は無言で男具那を凝視《みつめ》ている。その表情は凍りついているようで、何の変化もない。武彦と内彦が視線を合わせた。内彦は深呼吸をし男具那に叩頭《こうとう》した。一歩前に出た内彦の機先を制すように男具那はいった。
「助言は無用だ、さあ参るぞ」
男具那は振り返りもせず歩き始めた。
直参の部下たちには男具那の胸中がよく分る。羽女を連れては来たが、女人とはまったく思っていない、という心境を部下たちに示したのである。
男具那は空を見上げた。雲は相変らず燃えており、西の方の空も薄墨色から濃紺に変っていた。
男具那は別働隊の長《おさ》を呼んだ。金峰山の海辺の風向きは見当がつかぬか、と訊いた。
「はっ、奴も気にしていましたが、南からの風なら北方に煙を押し流します故、ここからでは北西の尾根に邪魔されて、見えません、風がなくとも、よほど高く昇らねば……」
別働隊の長は歯痒《はがゆ》そうに空を睨《にら》んだ。
男具那たちを運んだ水軍は、夜明けには川上タケルの水軍に攻撃をかけ、火矢で敵の船を燃やしているはずだった。当然、煙は空に舞い上がる。
「よし、脚力のある者を選び、西の丘に登らせよ、上からなら見えるかもしれぬ」
「ただちに走らせます」
初めから決めていたのだろう。別働隊の長は部下を選び丘に登らせた。
男具那たちは小川沿いに北に進み、森林の手前で久米七掬脛と会った。
七掬脛は、石占横立たちの矢により、小川の周辺にいた敵は斃れ、山中にいた者も数名が矢を受け、動けなくなっている、と報告した。山中にいた兵で逃げた者は二、三名に過ぎないと思われるが、男具那たちに攻められたことは敵に告げられている、という。
「仕方がない、山中は暗い、いくら弓の名手でも、全員を射るのは無理だ、すでに敵は二十数名を失った、しかもこの尾根の陣地の場所まで知ることができた、石占横立を始め、弓の名手たちの功績は大じゃ」
大勢の前で男具那に褒められ、弓の名手たちも感激し、叩頭した。
作戦会議が始まった。
傷を受けた二人の敵兵は、蔓紐《つるひも》で後ろ手に縛られ小川の傍に転がっていた。
比較的傷の浅い捕虜は、道案内人として利用しなければならない。
男具那は水を汲《く》みに敵兵が利用した途《みち》は、避けなければならない、と考えていた。
捕虜たちの告白では、尾根まで登るには四半刻《しはんとき》はかかる、という。途は曲りくねり、傾斜をなるべくゆるくしていた。水を汲むのは桶《おけ》だが運ぶ際は水甕《みずがめ》である。落せば水だけではなく甕も壊れてしまう。甕を落さないために作った途なので、山の険しさから想像するよりも歩き易かった。
男具那は、どう攻めるかについて迷っていた。敵の作った途を半ばまで利用し、途中から途を捨て、急斜面を這《は》い上るのが一方法だ。今一つは、敵の途を最初から捨て、二隊に分れて尾根の上に出る作戦だ。
両作戦とも一長一短はある。
前者は、途中まで登り易いが、敵の待ち伏せに遭う危険性があった。
後者は、山を登るのに苦労し、尾根の上に辿《たど》り着くまでに疲労|困憊《こんぱい》する。迷う危険性もあるし、どこに登ったかも分り難い。その代り敵との遭遇は避けられそうだ。
「王子、別働隊は?」
と武彦が訊《き》いた。
「これは最初の計画通り西の尾根から山頂に向わせる、飽く迄《まで》別働隊で敵の布陣状況を探らせ、敵の眼を攪乱《かくらん》する、川上タケルは西の方には兵を集めていない、時々貝を鳴らし、居場所を知らせるように命じる、別働隊の役目は重い」
「川上タケルが東方に砦《とりで》を造っていれば、背後から襲うこともできます、王子、別働隊は道が長うございます」
と内彦がいった。
内彦は男具那に、一時も早く別働隊を進撃させるべきです、と知らせている。
男具那も異存はなかった。
男具那は別働隊の長《おさ》を呼び、今すぐ、西の尾根を進撃するように命じた。
「吾《われ》は右手の山、つまり東の尾根を攻め、布陣している敵部隊を殲滅《せんめつ》する、そちは左手の尾根から本山の方に進み、敵の布陣状況を探れ、敵と出遭えば貝を吹き鳴らせ、旨く行けば我らの上に廻《まわ》れるかもしれぬ、上から我らを見つけた場合は、敵兵の退路を断ち、捕虜に川上タケルの居場所を吐かせるのだ、そして合流する、そこで改めて今後の作戦を練る、我らは負けぬ、だから退《ひ》いたりはしない、そちたちと合流できるのだ」
男具那の必勝の信念は、別働隊の長にも伝わったようだ。緊張し切っていた長の顔に闘志の艶《つや》が滲《にじ》み出た。別働隊の長や兵士たちは、弓の名手たちの腕を自分たちの眼で見た。人間業とは思えない腕に鬼神を見た思いである。
別働隊の兵士たちはただ圧倒されていたのだ。男具那に直接声をかけられ、隊長が感激し、奮い立ったのも無理はない。
久米七掬脛が、敵が作った途を利用しないのは勿体《もつたい》ない、と意見を述べた。
「王子様、やつかれが山に慣れている部下を連れ、途の周辺を探りながら先に参ります、王子様は数十歩ほど後からお登りになられてはいかがでしょうか」
「そちたちは十名あまりじゃ、おそらく待ち伏せている敵は数十名から百名、危険だぞ」
「可能な限り暴れましょう、王子様は軍を左右に散らせ、やつかれが敵を連れて逃げて来るまでお待ち下さい」
「七掬脛、敵はそちの手に乗らずに上を固めるかもしれぬぞ」
「その場合は仕方ありません、惜しいですが、敵の途は捨てましょう」
男具那は、内彦と武彦の顔を見た。
七掬脛の作戦は、自分たちの犠牲を覚悟してのものだった。男具那を始め、主力部隊の危険は少ない。内彦と武彦は、七掬脛にだけ犠牲を強いることにこだわっているようだ。
男具那は決断した。大将軍があまり考えていては士気に影響する。
「よし、武彦、十名の兵を七掬脛に与えよ、我らは七掬脛の後を進む」
男具那が命じると後は早い。七掬脛は敵の捕虜を先に歩ませ、二十余名を率いて尾根を登り始めた。
男具那は途の左右に兵を散らした。歩き易い場所を選んで途を作っているので、途から離れると岩が羊歯《しだ》類に覆われていたり、灌木《かんぼく》や熊笹《くまざさ》が繁っていて、想像以上に歩き難い。男具那はすぐ左右の兵を二十名程度に減らし、周囲を探らせることにした。主力の兵は二列になり男具那たちの後に続く。
羽女が追いついたのは、男具那たちが登り出してすぐだった。男具那は羽女を自分の傍に並ばせ、進みながら話すように命じた。羽女の髪は汗の匂《にお》いがし、衣服と皮甲《かわよろい》からは血の匂いがした。まさに獣と女人の体臭である。狭い途なので汗ばんだ羽女の身体がぶつかる。突然、男具那の血がたぎり始めた。血は地の底の火にあぶられたように熱い。音を立てて下腹部を暴れている。
皮甲と衣服を剥《は》ぎ取り、素っ裸にして草叢《くさむら》で抱き締めたい。豊満な乳房を鷲掴《わしづか》みにして腋窩《えきか》に口をつけ汗を吸い取りたかった。熱い火の棒を春草に覆われた肉の洞に突っ込むのはその後だ。
声を出そうとしたが出ない。男具那は乾いた唇を舐《な》めた。腰に吊《つる》していた竹筒の水を飲む。
「羽女、吐かせたか?」
やっと声が出た。
「はい、川上タケルは金峰山の三つの尾根に洞を掘り、眠る場所はいつも変えているとのことです、各洞には少なくとも二人以上の女人がいて、夜の伽《とぎ》の相手をしています、洞から他の洞に移る際は力持ちの男子《おのこ》十人以上に守られ、油断はしません。だが兵士たちは洞の場所も知らないようです、武術に優れた勇猛な男子というだけでなく、狡猾《こうかつ》な人物、油断はできません」
欲情の唾《つば》を呑《の》み込まねば喋《しやべ》れない男具那と違って羽女の声は澄んでいる。
むごい命令を出したので羽女は怒り、自分への気持が冷えたのだろうか。
突然、羽女が遠くに行ったような気がし、男具那は場所も忘れて抱き寄せようとした。
男具那には、女人というものがよく分っていないのだ。
上の方で激しい叫び声がしたのは、その時だった。
「散れ、横に散れ、七掬脛を追って来る敵を迎え撃つのだ、石占横立、田子稲置《たごのいなき》、乳近稲置《ちぢかのいなき》、狙《ねら》い易い場所を取れ!」
男具那の声が終らぬうちに弓の名手たちは木に跳びつき、登り始めた。後ろに続く兵たちも左右に散り、岩や灌木に身を隠した。
男具那の傍には内彦と武彦がいた。いつでも跳び出せるように刀を抜いている。
「猪喰、様子を」
男具那の命令を待っていたように猪喰は走り始めた。
矢を射る音と叫び声が続く。時々、石が落ちるような音がするのは、矢に射られた兵が斜面に転がり落ちているからに違いなかった。
怒声とともに打ち合う刀の音が聞えた。その怒声に男具那は七掬脛の声を聞いたような気がした。
男具那は全軍を率い、救援に向いたかった。だが戦の状況が分らぬ以上、それは無謀な攻撃になりかねない。
内彦も武彦も同じ思いだったのだろう。
「王子、猪喰の連絡があるまでお待ち下さい」
内彦が絞り出すような声でいった。男具那によりも、自分にいったに違いない。
「分っている、それにしても猪喰は遅い、何をしているのか」
「上まで、かなりの距離がございます」
と武彦がいった。
「そうじゃ、途《みち》は曲りくねっているし、尾根はかなり高い、ここから数百歩か……」
男具那は敵が攻め下りて来る気配がないのを感じ、今のうちに軍を二百歩ほど進める方が得策だ、と判断した。
「吾《われ》は、もう二百歩上に進む、武彦、敵との遭遇を予想しながら全軍を進ませろ」
「はっ、全軍を二百歩進ませます」
武彦は指笛で隊長たちを呼ぶと、男具那の命令を伝えた。内彦も男具那の命令に吾《わ》が意を得たり、といった表情だ。男具那に待つように、と忠告したものの軍を進めたかったのであろう。
男具那たちが二百歩近く進んだ時、猪喰と数名の兵士が駈《か》け下りて来た。矢傷を受けていない者は一人もいない。
「王子様、七掬脛殿は尾根の右手を確保すべく部下とともに敵軍に突入しました、奴《やつこ》が御案内します、この途をもう二百歩登り、右手の森林に入り登ると、尾根に出ます」
「七掬脛の馬鹿者、わずかな兵で無茶をする、犬死にのつもりか、武彦、後二百歩登り右手の森林に入る、吾に続け」
男具那は真っ先に途を登った。
山登りの男具那の脚力は人間の力を超えている。足の速い猪喰も内彦も、男具那を追うのがやっとである。しかも声を出せない。音を殺しての進撃なのだ。突然猪喰が足を速め男具那に追いついた。
「王子様、ここから森林に入ります、少しお待ち下さい、兵が追いつきません」
「遅い、七掬脛を救わねばならぬ、あの馬鹿者を」
といって男具那は荒い息を吐いた。
男具那も猪喰も汗《あせ》まみれで、雨をまともに浴びたように汗が顔からしたたり落ちている。
驚いたことに内彦に続いて来たのは羽女だった。弓の名手たちも少し遅れていた。
猪喰が叩頭《こうとう》した。
「王子様、七掬脛殿は、王子様の軍が尾根に上った際の拠点を確保するため、斬《き》り込んだのでございます、敵の主力は途より上に集まっており、下はわずかです、王子様の軍はこの尾根の敵よりも数において優《まさ》っています、尾根にさえ上り、布陣すれば敵兵を蹴散《けち》らすのは難事ではありません、七掬脛殿は、そう伝えて欲しい、と奴に申しました」
「そうであったか、さすがは阿蘇周辺の山人族出だ、よし、参ろう、七掬脛の一身を省みない勇気を無駄にしてはならぬぞ、できるだけ吾に続け、今は一瞬の時が大事じゃ、足の遅い兵士まで待てぬぞ」
「王子様、奴が案内します、奴に続いて下さい」
猪喰は木の枝を折り、また下草を伐《き》り、目印をつけていた。そういうあたりは、どんな場合でも、状況を冷静に把握する猪喰の性格がよく表われている。
間者の才とともに、猪喰には参謀的な判断力があった。
男具那たちは弓の名手たちを含む十数人が一団となり、右に左に、また上にと進んだ。後続部隊が迷わぬように木の枝や草を伐った。
後、百数十歩で尾根の上に出られそうだ。刀が火花を散らす音と同時に絶叫、悲鳴がはっきり聞えて来た。
ちょうど真上のあたりだ。
男具那は突き出た岩に立った。
「猪喰、ここから上れば、軍はほとんど損傷を受けない、七掬脛はそのために小人数で奮戦している、だが全軍を尾根に上げた後、どうなるか、尾根の上はどうなっている、すぐ敵を攻撃できるのか、それとも尾根の上で睨《にら》み合いか?」
男具那は畳みかけるようにいった。猪喰への詰問というより自問自答であった。
「辿《たど》り着いてからの状況判断によります」
猪喰の声がいつになく固いのは、男具那が感じた疑問を、猪喰も感じていたせいかもしれない。
「王子、ここは未知の山、今は七掬脛を助けましょう」
内彦と武彦が同時にいった。
二人とも、男具那が無謀な行動に出るのを恐れていた。
「もちろん助けるぞ、武彦は軍の主力を率い、猪喰とともに尾根に上り、七掬脛を援助せよ、吾は弓の名手三名と内彦および十名の兵士を率い、敵が作った途の反対側に出、尾根に上る、敵に悟られないように近づき、敵の背後から弓を射る、横立たちはあっという間に二十余名を射た、彼らの矢を受けた者は、死なないまでも、戦えなくなる、敵は大混乱に陥る」
男具那の語調には全軍を指揮する大将軍の権威があった。
「武彦、早く兵を集めよ、尾根の頂上までわずかじゃ、行け」
「おう、参ります」
武彦は控えている隊長に向い、
「兵を叱咤《しつた》せよ、遅い兵は見捨てるといえ」
と怒鳴った。
猪喰が右上を指差した。
「武彦殿、この上じゃ、吾は王子様に従う」
「おう、猪喰、頼むぞ」
武彦は男具那の兵が少ないのに危惧《きぐ》の念を抱いていた。神出鬼没の猪喰が男具那を守れば、大きな力になる。
「内彦、行くぞ」
男具那は前に跳び出していた。
内彦が慌てて兵を纏《まと》める。男具那は後を振り返りもせず山の斜面を左の方に走り出した。猪喰が男具那に続く。猪喰さえおれば弓の名手や兵たちと少し離れても連絡がつく。男具那はすぐ敵が作った途に着いた。
途に耳をつけ敵の気配を探った。周囲に敵はいない。尾根の上では戦が続いている。十名ばかりで百名近い敵の攻撃をよく防いでいる、と男具那は感嘆した。たぶん、尾根の上が狭くなっているのであろう。敵はそのせいで横に拡がることができない。だがそれも男具那の想像だ。武彦よ、早く行け、と男具那は声に出さずに叫んだ。
男具那が立つと猪喰が後方から現われた。振り返って内彦や弓の名手たちに木の枝を振っている。
内彦が遅れたのは、男具那の命令で兵を集めたからだ。大和から数人の部下を連れて来ているが、今集めた兵は吉備《きび》の兵だ。内彦が遅れたのも無理はなかった。
男具那は途を越え、薄暗いほど鬱蒼《うつそう》と繁った山林に入った。熊笹が多く歩き難い。山林の崖《がけ》らしきものが見えた。そういえば岩が多くなっている。
男具那は草の生えた岩に立った。周囲は山林なので眺望はまったくない。
男具那は猪喰に、百数十歩ほど先の崖の周辺を調べるように命じた。
あのあたりから尾根に上ったなら、敵の後部か背後に出られる、と判断したのだ。
猪喰がすぐ山林に消えた。男具那は追い着いた内彦と弓の名手たちに自分の意見を述べた。ただ小人数で敵の背後を襲うには、石占横立を始め弓の名手たちの活躍に頼らねばならない。それには彼らの意見を訊《き》く必要がある。
弓の名手たちの返答は、敵がよく見える場所であった。木の上でも岩の上でも構わない、というのである。
「よし、一時も早く尾根に上ろう」
男具那は猪喰の後を追った。
男具那の感じた通り、そこは蔓草《つるくさ》に覆われた五丈(十五メートル)ばかりの崖だった。岩の割れ目には灌木《かんぼく》や木々が生えている。崖の手前は岩肌の露出した急斜面だった。
当然、木々は少ない。
尾根に上るまでは敵に見つからないことが第一だ。
男具那は岩肌の手前の山林を上ることにした。
武彦たちと別れてから四半刻《しはんとき》近くはたっている。山林といっても、到るところに岩肌が剥《む》き出しており、上るのは大変だった。戦の場が近づいているにもかかわらずそんなに喚声が聞えないのは、弓矢の戦いが主なせいだろう。時々悲鳴が聞え、人が転がる音がする。声の割合には足音が響く。
「近いな」
と男具那は傍の内彦にいった。
「王子、この上に敵の主力がいるようです」
「吾《われ》もそう思う、武彦の軍が到着し、敵は少し後退したな」
「となると、敵の背後に出るには、もっと左手に上らねばなりません、崖の上あたりになり、木立が少のうございます」
「こっちが矢を射る前に見つかってはまずいのう」
男具那は迷った。ただこの場合は弓の名手たちの意見を尊重せねばならない。
男具那は石占横立を呼んだ。横立は二人の稲置と相談していたが崖の上の方が場所が高い、という。
「行くまでに見つかる恐れがある、見つかればせっかくの腕もふるえまい」
「奴《やつこ》がこの上まで這《は》い上り、射る場を探しとうございますが」
「吾は今、そちたち三人に頼っているのだ、そちたちが思い切り腕をふるえるようにせよ」
「有難きお言葉、感激でございます」
石占横立は矢筒を外すと身軽に崖の上の方に這って行った。斜めに生えている松の木に登り周囲を眺めていたが、すぐ戻って来た。
「王子様、あそこが敵を射るには、最も好《よ》い場所でございます、敵のほとんどは七掬脛様を攻め立て、峯《みね》の右に移動しています、岩場に残っているのは十人ばかりです、奴たちは岩場の敵を射、また、主力部隊を射て、混乱させます故、一気に攻め上がって下さい」
「おう、好い作戦だが、そちたち三人は、敵に見つからずに岩場まで行けるか、今はそちたちが頼みだぞ」
「感激でございます」
石占横立は他の二人を呼んだ。下草に入り相談していたようだが、横立だけが顔を出した。
「王子様、峯の上を御覧になっていて下さい」
と横立はいって草叢《くさむら》に入った。
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二十一
草叢から峯《みね》の上に向って一本の火矢が放たれた。火矢というよりも白い鳥に似ていた。しかも煙を吹いている。男具那《おぐな》たちは思わず眼を瞠《みは》った。矢に白い布をつけ火をつけて、射たに違いなかった。
火の鳥だ、と男具那は思った。火の鳥は信じられないほどの高さまで飛んだ。落ちようとした時、二本目の矢が射られた。同じような火の鳥である。二本目は落ちかけていた矢に命中する。燃えている布と布が絡まり矢から離れ、空中に漂う。
内彦《うちひこ》はもう少しで拍手しそうだった。自分の立場に気づき、慌てたように首を竦《すく》めた。
三本目の火矢が舞い上がった。飛ぶというよりも舞い上がる、といった感じだ。三本目も燃えている空中の布に当る。
矢だけが落ち布は絡まり炎が一層強くなる。
よほど薄い布に違いなかった。ゆっくりと空中を漂いながら下りて来る。
峯の上の怒号が鎮まった。戦っていた兵士たちも、空から舞うように下りて来る炎に眼を奪われているのだ。
矢とは気づかない兵士も多かった。真昼に幻を見た思いがしたに違いない。
「おう、見ろ」
男具那は岩場の方を指差した。
峯の上の兵士たちが、空中の炎に眼を奪われている一瞬の隙《すき》に、横立《よこたち》たちは斜面を駈《か》け上がり岩場の下に取りついていた。
弓矢に二本の矢をつがえた石占横立《いしうらのよこたち》は、さっきの松の木に登り始めている。
他の二人は岩場の後ろに達し、岩場の兵に矢を放っていた。
三人が放つ矢は超人的だった。まず弓に矢をつがえるのが早い。つがえたと思ったら射ている。
横立も松の木から岩場を射ていた。
三人が矢を敵兵に向けたのは、布が燃え切った頃だった。
それまでの怒号や喚声が悲鳴に変る。敵兵は矢がどこから飛んで来るのか分らないまま射られ、転がるのだ。
峯から転げ落ちて来る敵兵が多くなった。
男具那は横立の矢筒に注意しながら峯の上に向って這《は》った。兵士たちもそれに続く。
横立の矢筒の矢が残り少なくなっているのを見て男具那は、武彦《たけひこ》に、
「攻めろ!」
と命じた。
武彦が刀を抜き、振り返って前後に振った。隊長たちが同じように刀を振る。軍団はいっせいに峯の上に進撃した。
男具那は軍団の指揮を武彦にまかせ、岩場に行った。
「王子様、時々矢が飛んで来ます」
松の木の横立が注意した。
「ああ、分っている」
男具那は岩と岩との間に入り周囲を眺めた。矢に射られた敵兵があちこちで呻《うめ》いていた。傷だけの者も戦う力はない。
峯の上は意外に狭い。七掬脛《ななつかはぎ》たちが数倍以上の敵の攻撃にさらされながら持ち堪《こた》えたのはそのせいだ。狭いので大部隊が横に広がり一度に攻撃できない。真正面から攻撃できるのはせいぜい三、四名までである。
斜面は急傾斜で、攻めるのは難く守りは易しい。
弓の名手たちの矢を浴び混乱したところに、男具那の主力軍が攻撃をかけたのだから、敵は恐慌状態に陥った。
隊長らしい大男が、逃げるな、戦え、と槍《ほこ》(矛)を振り廻《まわ》している。
鉄の冑《かぶと》を被《かぶ》っているが甲《よろい》は板らしい。鉄の小札《こざね》を綴《と》じ合わせる代りに、固い材質の板を数枚|紐《ひも》でつなぎ、胸と背中に当てただけの簡単なものだ。
防禦《ぼうぎよ》力は鉄の短甲ほどではないが、槍や矢の攻撃をかなり防げる。それに軽いのが何よりの利点だった。平地と異なり山での戦では身軽さが第一である。
この峯の戦の勝利は間違いなかった。
男具那は北西を見た。高い尾根の彼方《かなた》の上に煙が立ち昇り拡がっているのが見えた。
男具那たちを乗せて来た水軍は、金峰《きんぽう》山の海の船寄せ場に集まっていた敵の水軍の船を焼いたのだ。
「やったぞ、あれを見よ」
男具那の声に内彦と猪喰《いぐい》が煙を眺めた。
「王子、やりました」
「おう、これで熊岳《くまのだけ》の敵軍は、自分たちが攻められるのを恐れ、金峰山に援軍を寄越さない、問題は川上《かわかみの》タケルの主力軍がどこにいるかだ」
男具那は、東北部の山々に視線を移した。
山々といっても金峰山の峯続きの尾根である。こうして眺めると、金峰山は実に山が深くて広い。音羽《おとわ》山の比ではなかった。
問題は川上タケルの主力軍が、この山のどこに布陣しているかである。
「猪喰、隊長らしい者は、殺すな、と武彦に伝えよ、できるだけ生け捕りにするのだ」
猪喰が飛んで行った。
「羽女《はねめ》」
男具那は呼んではっと思った。無意識のうちに羽女の名が出たのである。それに羽女は男具那の傍にいない。武彦とともに敵と戦っていた。
弓の名手たちは、矢筒の矢をすべて射尽し、敵兵の矢を集めていた。三名で百本近い矢を射ている。だが矢を集める間も交替で、一人は岩の上に立ち周囲を警戒している。
「王子、羽女を呼んで参りましょうか」
と内彦がいった。
「いや、今はよい、存分に戦わせよ」
女人を連れて来たのだ。内彦たちの手前もある。男女の情は見せられなかった。
戦は峯の上から斜面に移っていた。男具那軍に圧倒された敵兵は峯の上から山腹に移り、逃げようとしている。男具那軍の兵士たちは彼らを追い山林に入っていた。
武彦が隊長らしい巨漢を生け捕りにしようと、兵を率いて取り囲んでいる。巨漢はかなりの強力《ごうりき》らしく、長い剣を振り廻し、兵たちを寄せつけない。
「宮戸彦《みやとひこ》よりも大きいのう」
「ちょっとばかり背も高いように思われます、だが武彦なら負けますまい」
「勝てるだろう、だが生け捕りにできるかどうかだ」
これだけの兵士の隊長である。川上タケルの信頼を受けている勇猛な武人だ。
武彦は隊長の脚を狙《ねら》っている。身をかがめて跳び込み力をふるうが、巨漢の剣に払われる。空気も悲鳴をあげているのではないか、と思われるほど剣を振り廻している。
「石占横立、そちの弓で援助できぬか」
「はっ、一番狙い易いのは大きな顔ですが、あの奴《やつこ》を殺してしまう恐れがあります、次は脚ですが味方の兵が邪魔になります」
「分った、内彦、横立とともに行き、武彦に兵を退《ひ》くように命じよ」
「横立、参るぞ」
男具那の声が終らぬうちに内彦は走り出していた。戦いたくて腕が鳴っていたのであろう。横立も男具那に叩頭《こうとう》しながら内彦に続いた。
内彦に向って来る敵兵は二、三名だった。内彦は置かれた藁《わら》でも斬《き》るように無造作に斬り斃《たお》した。
武彦に向い、
「王子の命令だ、退け!」
と怒鳴った。
武彦は弓に矢をつがえて走って来る横立を見て、男具那の意を察した。無念そうに、兵に退け、と命令する。巨漢の長剣が遅れた兵の肩から胸を斜めに斬った。
血が噴出し空中に赤い幕が一瞬拡がった。兵の身体は二つに割れ木のように倒れる。横立はいつの間にか立膝《たてひざ》をつき弓弦を引き絞っていた。
巨漢が身を翻した途端、矢が放たれた。矢は巨漢の太腿《ふともも》に深々と突き刺さった。巨漢は地響きをたてて転がる。
武彦が駈け寄り巨漢の足首に刀を振り下ろす。巨漢は剣で払おうとしたが空を切る。
巨漢はその剣を自分の首に向けた。あっと叫んだ武彦が剣を撥《は》ね上げようとしたが、一瞬早く剣先は巨漢の首を貫いていた。
ほとんど声も立てずに巨漢の息は絶えた。
嵐《あらし》の鬼神のように暴れていた巨漢とは思えないほど呆気《あつけ》ない死だった。
内彦や横立とともに武彦も走って来た。
「王子、やつかれの未熟、生け捕りにできなく、申し訳ありませぬ」
武彦が荒い息を吐きながら無念そうに詫《わ》びた。
「仕方あるまい、敵ながら天晴《あつぱ》れじゃ、たんに勇猛なだけではない、この山頂に埋葬してやれ、残敵の掃蕩《そうとう》は後|半刻《はんとき》だ、深追いは絶対禁物、いつ、新たな敵が現われるかもしれぬ、半数の兵に尾根を固めさせ、七掬脛を呼び戻し、敵の負傷者を集めよ、川上タケルと主力軍の居場所を吐かせよ」
「羽女はまだ敵を追っているようです」
「なかなかの働きと見た、もう呼び戻せ」
男具那は岩場の近辺を調べた。
岩場の下に深い横穴が二つ掘られていた。
衣類、弓矢、食糧、水の入った甕《かめ》などが貯蔵されている。横穴の周辺は山肌を掘り返し、平地にしていた。端には岩を積み砦《とりで》にしている。
しかも横穴から二十歩ほどと、五十歩ほど下には一つに二、三十人は篭《こも》れる砦が、総計五つも造られていた。
川上タケルは男具那軍が、金峰山の東部、熊本平野から攻めて来るものと想定し、砦を造ったようである。
男具那が海を渡り、背後から攻撃して来るとは川上タケルも想像していなかったのであろう。
球磨《くま》川上流の狭隘《きようあい》の地を本拠地とする川上タケルには、水沼県主《みぬまのあがたぬし》の水軍の活動力が充分理解できなかったに違いない。
吾《われ》勝てり、だが驕《おご》るなかれ、と男具那は胸の中で呟《つぶや》いた。
これからは、男具那にとっては未知の山での戦になる。早くから金峰山に布陣している川上タケルは山に慣れており、普通なら戦を有利に進められる。
今回のような奇襲は無理となる。川上タケルの奇襲を受けるのは男具那の方であった。
久米七掬脛《くめのななつかはぎ》や羽女が戻って来た。七掬脛は故郷から連れて来た十数名の部下のうち半数を失っていた。
数倍の敵を相手によく峯の上を持ち堪えたといわねばならない。七掬脛自身も浅いが三ケ所に傷を負っていた。羽女について来た女人剣士のうち一人は重傷で、一人は軽傷を負った。羽女はさいわい無事だった。その代り皮甲《かわよろい》が数ケ所も損傷している。羽女が傷を受けなかったのは、腕が冴《さ》えていたせいであろう。
男具那は重傷の女人剣士を、横穴に寝かせるように命じた。
「敵が攻めて来るまでそちが看病しろ、水はいくら飲ませてもよいぞ」
男具那は重傷の女人剣士は明日まで保《も》たない、と睨《にら》んだ。
「王子様の御厚情感謝致します」
羽女は苦し気な女人剣士を背負い横穴に向った。
味方の死者は意外に少なく、七掬脛の部下を含め十名ほどである。負傷者も同程度だった。奇襲が成功した場合は、敵に較べると味方の損害は十分の一程度だ。敵は混乱し、攻めることなど忘れ、逃げることに懸命になるので、どうしても死傷者数が多くなる。刀を向けるよりも背を向けてしまうからだ。
男具那は味方の死者は埋めさせ、敵の死者は崖《がけ》から落した。
生きている敵の負傷者には、拷問も加えた呵責《かしやく》なき訊問《じんもん》が行なわれた。
隊長級と思われる負傷者に対する訊問はとくに厳しい。
男具那としては、何が何でも川上タケルの布陣場所と、タケルの居所を知らねばならない。
拷問の度に、あちこちから耳を覆いたくなるような悲鳴が聞えて来る。これが戦なのだ。男具那は感情を殺し、次々と寄せられる報告を聴いた。
報告がそれぞれ異なるのは、川上タケルが、軍事上の大事を部下に教えていないからだった。川上タケルは総大将であるが、独裁者でもあった。小隊長級でも重要なことはほとんど知らされていない。それでも、責められた者は、自分が知っている限りのことを告白する。
その結果、次のことが分った。
男具那軍に敗れた尾根の兵は百五十名で、自害した隊長は、川上タケルの縁戚《えんせき》者である。
川上タケル軍は三つの尾根に布陣しており、それぞれの軍は百五十名前後だった。
ただどの尾根かは、ここの部隊の兵士たちには知らされていなかった。もし知っている者がいたとしたなら、自害した隊長だけである。
川上タケルは、噂《うわさ》通り、毎夜居所を変えているが、その場所は誰も知らなかった。タケルの傍に女人がいるのは間違いないらしかった。
男具那が得た情報はその程度である。
勇猛さ故に九州全土に知られている川上タケルは、猜疑《さいぎ》心の強い首長のようだ。いや、謀略家といった方が正しいかもしれない。
男具那が最初に占拠した岩場は、この場所の隊長が指揮を取っていたらしく、一番の高所に岩を積み上げ、砦のようにしていた。男具那は積み上げた岩の上に立った。前方の邪魔になる木は伐《き》り倒し、眺望をよくしている。
眼下の平野の東方には阿蘇《あそ》連山が重畳として続き、巍々《ぎぎ》として聳《そび》えている阿蘇の巨大な山塊が煙を吹き上げていた。
男具那は兵を休ませ、内彦たちを呼んだ。こんなに雄々しく壮大な光景は大和《やまと》では見られない。ただ東北部は高い尾根で見えなかった。
「七掬脛、そちの故郷はどのあたりか?」
「あの山々がやつかれの故郷でございます」
男具那に答えながら七掬脛の眼は光っていた。
内彦も武彦も感嘆して山々を眺めていた。今更のように七掬脛を見直したのかもしれない。
男具那は岩の砦を自分の指揮所と決めた。早速作戦会議を始めた。
川上タケルも男具那軍の奇襲により、守備部隊が敗れたことはすでに知っているはずだ。
「当然、我軍を放っておくまい、総力をあげるかどうかは別として、相当な覚悟で奪い返しに来るだろう、ただ吾《われ》の感じだが、この周辺に敵の気配が感じられない、敵の主力はあの東北の尾根か、更に北かもしれぬ、金峰山はあまりにも山が深く大き過ぎる、これからが大変だ、皆、遠慮せずに意見を述べよ」
「王子、敵が今日攻めて来るのか、明日か、これは見当がつきませぬ、まず、要所要所の見張りと、この峯の北部に間者を放ち敵の動静を探るのが第一でございましょう」
内彦が意見を述べた。
武彦と七掬脛が頷《うなず》いた。
「それは吾も考えている、ただ問題は、敵が今日か夜か、また明朝攻めてくるかだ、それによって兵の休ませ方も違う」
一同は黙り込んだ。
この尾根の戦に勝って、皆、これからの戦が容易でないことを知ったのだ。
男具那軍のこれからの弱点は、見えない敵を求めて、うかうかと進撃できない、というところにあった。山があまりに深く広いからだ。
敵が攻めて来なければ、今日も含め三日間ぐらいは、守りに徹しなければならない、と男具那は考えていた。
いつか皆の眼が七掬脛に集まっている。山の戦は山人族の血が流れている七掬脛がよく知っているに違いない、と本能的に期待したのであろう。
男具那も期待していた。ただ最初に七掬脛に訊《き》くわけにはゆかない。内彦や武彦の立場も考慮せねばならないからだ。
「七掬脛、意見を申し上げろ」
と武彦がいった。
「遠慮は無用じゃ、最後の判断は王子がなさる」
と内彦は唇を前に突き出した。真剣に喋《しやべ》る時の内彦の癖だった。
「はっ、今夜か、明夜かは別として、敵は夜襲をかけて来そうな気がします、ここは要害の地です、それに王子様の武勇を川上タケルは思い知ったことでしょう、となると、陽が昇ってからは、まず攻めて来ますまい、夜襲で我らを攪乱《かくらん》し、出血を強いる作戦に出るものと思われます、その後、我軍の疲れを待って、夜明けから総攻撃をかけて来るでしょう」
七掬脛が叩頭した。
猪喰の姿が見えないので、男具那は、
「猪喰」
と呼んだ。
猪喰は形式的には奴《やつこ》ということになっているが、男具那の側近として、自由に話せる立場にあった。内彦や武彦も了承している。だが猪喰は、男具那が前もって命令しない限り、作戦会議に加わらない。近くに潜み警護に当ったりしている。
「猪喰を知らぬか?」
男具那は岩の砦を守っている水沼羽立《みぬまのはねたつ》に訊いた。
羽立は緊張した面持ちで答えた。
「尾根の北の方を探って来る、といわれました」
「よく動く男子《おのこ》だ、戻って来てから猪喰の意見も訊こう、ただ吾《われ》も、山を眺めているうちに、夜襲以外はない、と思った、川上タケルの軍は約四、五百名、ほとんどが球磨川流域の兵ばかりとのことだから、それ以上はない、この戦で百名近くの死傷者を出した、この暑い季節じゃ、傷は簡単には治らぬ、となると、川上タケルにとっては大打撃じゃ、まず小部隊の夜襲で掻《か》き廻《まわ》して来るに違いない」
男具那が話し終った時、猪喰が戻って来た。男具那は猪喰にも意見を訊いた。
「王子様の御考えは?」
「そちの意見を訊いているのだ、これは大事な作戦会議だぞ、考えていることを述べよ」
男具那は久し振りに怒鳴った。皆の気持を一段と引き締めねばならない。
「申し訳ありませぬ、奴にはあまりにも重い御質問でしたので、頭が混乱しました、この場所と山容を見れば、まず夜襲だと思われます、ただ夕刻あたり小部隊で窺《うかが》いに来る危険性も考えられます、この尾根は百歩ほど先の方から下りになっていますが、三百歩ほど先でまた上っています、おそらく、波を打ちながら本山の方に続いているのではないでしょうか、となると、この尾根伝いに様子を窺いに来る危険性も考えておかなければなりません」
「ふーむ、この先まで行ったのか、もちろん、昼の攻撃がない、と決めつけるわけにはゆかぬ、ただ、夜襲が主だと吾は考える、武彦、十数名、見張りの兵を置き、夕刻まで兵を眠らせよ、敵の襲撃があった場合は板を鳴らし知らせよ」
男具那は兵たちを木蔭《こかげ》で眠らせた。見張りの兵も交替で眠ることになる。
男具那は、最低三日間は移動しないことを決めていた。未知の深い山を移動すると、敵の罠《わな》にはまる恐れがあった。
それに今頃、水沼県主軍を主力とする北九州勢は菊池《きくち》川を越えているはずである。旨《うま》く行けば三日後には金峰山の北方、菊水《きくすい》の山々近辺まで攻めて来る。
熊岳のキクチヒコ軍や川上タケル軍は、男具那の軍にだけ眼を向けておれなくなる。その日こそ勝負時だ。
男具那は自分の考えを述べ、守備を強化するように命じた。
作戦会議が終った後、男具那は猪喰の案内で尾根の北方に進んだ。まさに道などないが、ところどころ、灌木《かんぼく》が折れたり下草が乱れている。
敵兵はこの尾根伝いに来て岩場に砦《とりで》を築き、布陣したに違いなかった。男具那たちは時々、耳を土につけ敵の気配を窺った。
いったん下がった尾根は、かなり傾斜の強い上がりになっている。到るところに岩肌が剥《む》き出、樹林も少ない。その代り灌木や熊笹《くまざさ》が多く、人の歩いた気配は消えていた。七掬脛も猪喰も、これ以上進むのは危険だ、と忠告した。
男具那は、忠告を受け入れ、二人に上まで上るように命じた。
時刻は巳《み》の下刻(午前十時―十一時)ぐらいだろう。真夏の烈日は汗にまみれた顔を容赦なく灼《や》く。ただ微風が吹くと山の高所だけに、思わず口を開けて吸い込みたくなるほど気持がよい。
四半刻《しはんとき》(三十分)ほど待っていると二人が戻って来た。
頂上は狭く実に歩き難《にく》く、大勢の兵士が行軍したとは到底思えない、という。ことに数十歩先は崖《がけ》に近い急斜面で、切り立ったような崖と向い合っていた。
となると川上タケルの兵たちは、右手の山林を這《は》い上り、男具那たちが占拠した岩場に達したに違いなかった。
男具那は、この周辺に見張りの兵十名を置くように武彦に命じた。
「王子様、やつかれの部下も、まだまだ頑張れます、是非、見張りに使って下さい」
と七掬脛が訴えるようにいった。
「大事なのは夜戦、傷を受けた者は充分手当をし、他の兵士たちも休ませよ」
と男具那は七掬脛の申し出を一蹴《いつしゆう》した。
男具那たちは岩清水で身体を洗い、岩に囲まれた砦で眠った。
昨夜からの疲れが一度に出、夕方近くまで熟睡した。
北の方で板を叩《たた》く激しい音がしたのは、陽が西方の峯に落ちる頃だった。
男具那は撥ね起きたが、一瞬、何の音か分からなかった。それほど男具那は熟睡していたのである。砦の北方を守っていた兵士たちはすでに起き、敵の襲撃に備えていた。
隊長の命令で兵士たちは見張り場所に向った。岩場から出ようとした男具那を内彦が止めた。
「王子は大将軍、敵の様子を知った上で、指揮をお執り下さい」
内彦の口調はこれまでになく毅然《きぜん》としていた。男具那は眼をこすり内彦を見た。
「そんなに慌てていたか?」
「はあ、よく眠っておられましたので」
「そちたちはもう起きていたのだな」
「あれから三刻は熟睡しました」
「猪喰や七掬脛は?」
「猪喰は襲撃の様子を探りに参りました、武彦と七掬脛は持ち場を固めております」
吾がいなくても大丈夫だな、と男具那は苦笑した。
武彦が戻って来て、男具那に敵襲は偵察部隊程度かもしれませぬ、と告げた。
「王子、東方の山腹に敵の気配はありません、もちろん厳重に警戒させていますが」
「本格的に攻めて来るなら夜だろう」
男具那も完全に眠りから覚め、頭が冴《さ》えている。喉《のど》が渇いた男具那は武彦の部下に冷たい水を命じた。
水沼羽立は部下を率い横穴の周辺を守っていた。
眠っている男具那を守っていたのは、武彦や内彦の部下である。
部下の一人が崖下の岩清水を土器に注ぎ、運んで来た。岩清水は氷のように冷たくどこか甘い。身体中の細胞が活《い》き返った。
「王子、羽女を傍に置かれてはいかがでしょう、こういうことは、やはり女人の方が似つかわしゅうございます」
「羽女は剣士だ、だから連れて来た、余計なことを申すな」
男具那が舌打ちした。だが内彦の気持は分らないでもない。
猪喰が戻って来て、敵襲の様子を告げた。
明らかに十人前後の偵察隊で、男具那が見張りを置いた場所に接近して来た。
木の上にいた監視兵が見つけ、敵だ、と叫んで矢を射、今一人が板を鳴らした。
敵はほとんど攻撃せず退却し、姿をくらましたという。
「様子を窺いに来たのだ、我らの守りをどう報告するか分らないが、敵は間違いなく夜襲をかけて来るだろう、夕餉《ゆうげ》を済まし次第、戦闘準備に入れ」
男具那は全軍に命令を下した。
食糧は敵の貯蔵分を得たし、武器の捕獲も多い。油断さえしなければこの要害の地を破られる恐れはなかった。
石占横立ら弓の名手たちは、夜の山林では弓の効力は激減する、という。
男具那もそのことは承知していた。山林の中では刀での戦もほとんど不可能だった。ちょっと先の敵の姿も見えないのだ。戦える場所といえば樹林の少ない岩肌が剥き出たあたりだが、月が出ていなければ、敵も味方も闇《やみ》に呑《の》まれてしまう。
男具那は、弓の名手たちの意見を入れ、岩場の周辺の木を伐り倒した。四方に薪《まき》を積み上げ夜の間燃やし続けることにした。
闇に紛れて忍んで来る敵も、弓の名手たちの矢から逃れることはできない。
敵が襲って来たのは寅《とら》の上刻(午前三時―四時)あたりだった。それは男具那が経験したこともない戦となった。
敵は姿が見えなくとも、動く気配で槍《ほこ》(矛)や剣で突いて来た。しかも意味不明の合言葉を使う。初めから味方同士が打ち合っても仕方がない、という覚悟を決めていた。
男具那軍の二段、三段の防禦《ぼうぎよ》陣地を突破し、何人かが尾根の上に突進して来た。
彼らは弓の名手たちの標的になり次々と斃《たお》れる。弓の名手たちの矢の隙《すき》を狙《ねら》い岩場に迫って来た者も、内彦や七掬脛、また猪喰の槍や刀で斬《き》られた。
男具那も岩を楯《たて》に矢を放ち何人かを射た。攻撃は半刻《はんとき》(一時間)ほど続いたが笛の音を合図に退却した。これも闇に包まれているので追えない。
夜が明けてみると、意外にも男具那軍の損害の方が敵よりも多かった。闇の中の戦で死傷した男具那軍は三十名を超えていたのだ。敵の死傷者は尾根の上に辿《たど》り着いた者が十数名で、山の中腹で動けなくなった者は数名に過ぎない。
死傷者の数に入れたのは、戦闘能力を失った者ばかりで、軽傷者を加えるともっと増えた。
男具那にとっては初めての敗戦といってよい。
例によって敵の負傷者には呵責《かしやく》のない責めが加えられ、敵の本陣、攻撃軍の内容、攻めて来た道、今後の計画などが訊《き》かれた。
生け捕りになった隊長級は一人もなかった。驚いたことに、尾根の上に辿り着き、男具那を狙おうとして弓の名手たちに射られた兵士たちのほとんどは、剣や刀で喉を突き自害している。
敵ながら天晴れな兵士たちだった。
何とか口を割らせたのは数名の兵士である。その夜の敵の襲撃部隊は、尾根の頂上からは東北に見え、その方面の視界を遮っている山に布陣していた二百名のうち半数だ、という。隊長は川上タケルの縁戚《えんせき》者で川下八海《かわしものやつうみ》といい、球磨川の河口一帯を勢力基盤としている。海人でもあるが、山にも慣れていた。
敵の負傷者は結局殺され、崖《がけ》の下に落される。
味方の負傷者は手当を受け、傷口を布で巻かれて木蔭《こかげ》に横たえられた。もちろん、当時の薬といえば、傷に効くと信じられている草の葉、木の葉の粉末と煎《せん》じ薬だった。傷口に黴菌《ばいきん》が入れば膿《う》み、それがもとで死ぬ者が多い。
「王子、これは鬼神でなければ防ぎ切れませぬ、敵はこの山に慣れているのです、我々も山に慣れましょう」
内彦や武彦は男具那を励ましたが、男具那は宇沙《うさ》の勝利、また昨日の勝利に意気軒昂《いきけんこう》だっただけに受けた衝撃は大きい。
男具那が率いて来たのは二百余名である。昨日と今日で四十名以上を失っている。
周囲の山々が牙《きば》を剥き、巨大な尾根を動かしながら自分に向って来るような気がした。
「山に慣れる、とはどういう意味だ、この山は敵の山、なかなか慣れてはくれぬわい、甘いぞ」
男具那の一喝に皆黙り込んだ。これまでの男具那には、どんな場合でもどこか部下たちに対し余裕があった。
人間的な連帯感が生む親しみの余裕である。だが今はそれがない。
「王子様、徹底的に調査し、山を知るという意味でございます」
一番端にいた猪喰の声だった。猪喰は作戦会議でも、遠慮し、男具那が問わない限り滅多に発言しない。皆、男具那の直参《じきさん》と認めているが、いつも一歩身を引いている。
そんな猪喰が童子にでも分かるような解釈を男具那にしたのだ。山に慣れる、という意味ぐらい男具那もよく分っている。いつも眼をかけてやっているので、のぼせ上がったのか、と男具那は怒鳴ろうとした。
二人の視線が合った。猪喰は這《は》いつくばっているが、顔だけ上げていた。男具那の視線を受けても猪喰の眼は微動だにしない。奴《やつこ》を斬るならお斬り下さい、と猪喰はいっているような気がした。
内彦も武彦も男具那に殺気を感じたのか、猪喰の毅然《きぜん》たる態度に驚愕《きようがく》したのか、息を呑み、身体を固くしている。
このまま睨《にら》み続けていたなら、吾《われ》は刀を抜くかもしれない、と男具那は感じた。猪喰、視線を逸《そ》らせよ、眼を伏せろ、と男具那は思わず声に出さず呟《つぶや》いた。だが猪喰は視線を逸らさない。
馬鹿|奴《め》! と思わず口中で叫んだ途端、余裕が生じた。猪喰を含め、皆|可愛《かわい》い部下なのだ、どうして斬ったりできよう。馬鹿奴といったのは自分に向けた怒声かもしれなかった。
「吾は一人になりたいのだ、皆、山を調べよ、早くせよ、夜はすぐ来るぞ」
男具那が眼を剥《む》くと、
「分りました、弓の名人、王子を頼む」
武彦たちは生き返ったように男具那の傍から離れた。
男具那は石占横立たちを連れ崖の端を下り、岩清水をすくい身体を洗った。氷のような水が男具那の気持を冷静にした。これから長い戦が始まるかもしれない。
一夜の敗戦で自分を忘れるほど錯乱していてどうなる、というのか。男具那にとってはさっきの昂奮《こうふん》は錯乱であった。
男具那には自分の甘えを許さないところがある。だがそれも度を越しては逆効果になる。
岩場に戻った男具那は、木蔭で横になった。冷静になっているつもりが、周囲の山々は明らかに男具那に敵意を示していた。山がこんなに凶悪に思えたのは男具那にとって初めてだった。
なぜだろう、と男具那は思う。衝撃で弱気になったこともあるが、それだけではないはずだ。童子時代から男具那は孤独だった。
早く母を失い、兄王子が戻って来てからは、闘いの連続である。
大和に呼ばれてからは、諸王子に負けまいと武術を磨いた。そういう男具那を支えたのは勝気さと根性だった。倭《やまと》の男具那といわれるようになってからは、その名を穢《けが》すまい、と自分を磨いた。
他の王子に較べると接した女人も少ない。それも自分を律するためだった。
音羽山でイニシキノイリビコ王の警護隊長|丹波森尾《たんばのもりお》を斃して以来、倭の男具那の名は畿内《きない》のみならず全国に拡がった。
九州各国の王も、男具那の名を知っている。倭の男具那は、倭《わ》国一の武勇の王子として知られたのだ。
男具那が来たことによって、北九州の国々は奮い立った。皆、男具那に従い賊を滅ぼした。水沼県主らが熊襲《くまそ》と同盟を結んだ狗奴《くな》国と戦をする勇気を得たのも、男具那の名声のおかげだ。彼らにとって男具那はどんな勇猛な敵にも負けない武の鬼神ともいうべき王子だった。
男具那はそういう期待を一身に集めているのである。
誰にも負けない王子か、と男具那は声に出して呟いた。だが男具那は人間である。武術に自信はあるが、誰にも負けない、とはいい切れない。例えば男具那の直参の部下たちが男具那を裏切り、いっせいに向って来たなら、まず勝てなかった。また弓の名手たちが三人、いっせいに矢を放ったら、男具那は防ぎ切れない。避けられたとしてもせいぜい一本である。
男具那は誰にも負けない王子ではなかった。自分より相手が強ければ勝てないのだ。
だいいち、この世に誰にも負けない王子などいない。
男具那は、さっき自信を見失った理由を知った。たぶん男具那は、自分に寄せられた非現実的な期待感の上に無意識のうちに胡座《あぐら》をかいていたのかもしれない。それとも心のどこかでそういう期待感に重圧を感じていたのかもしれなかった。
どちらかは男具那にも分らない。或《ある》いは両者が混合ということも考えられなくはなかった。
理由が分った途端、身体を締めつけていたような緊張感がほぐれた。男具那は吸い込まれるように眠りに入った。
男具那は三|刻《とき》(六時間)ばかり熟睡した。山の調査に駆け廻《まわ》っていた七掬脛らが戻って来たのは酉《とり》の上刻(午後五時―六時)だった。陽はすでに西の山の彼方《かなた》に落ち谷間は暗くなっている。
岩場の周囲には火が燃やされ、兵たちは見張りに余念がない。
七掬脛、内彦、武彦は昨夜、敵が攻めて来た尾根の東部から北方を調べ、猪喰は一人で、西方の崖下から北部を調べた。別働隊が入った尾根につながる谷間だった。
猪喰の報告では、崖が多く、傾斜がきつく、山に慣れた敵といえども、夜の進撃は無理である。ただ別働隊は西方の山に入ったにもかかわらず、無数の尾根に迷ったのか、気配が感じられなかった。
東部から北方を調べた七掬脛たちも別働隊の動きは分らない、という。
男具那としては、西方の峯《みね》伝いに進み、男具那たちが布陣している尾根の北方の山あたりに辿り着いていてもらいたかった。
昨日の早朝から今まで、まったく連絡がない、というのは気になる。
ただ今日の調査で唯一の収穫は、敵兵は尾根の下からではなく、中腹を進撃して来たことが分ったことだ。
「逃げる最中に出血で死亡した敵兵を見つけました」
七掬脛が眼を光らせていった。
七掬脛はその周囲を徹底的に調べ、東北の山に通じる獣途《けものみち》を見つけた、という。
「おう、それは見事な成果じゃ、場所はどのぐらい離れているか?」
「ここから、約半里足らずでございましょうか」
男具那の口調がいつもに戻っているのを知って、七掬脛は嬉《うれ》し気にいった。武彦や内彦の顔も明るくなる。
「半里か、かなりの距離だのう、我軍をそのあたりに待ち伏せさせ、こちらも合言葉で迎え撃つのはどうだ?」
山の夜戦なので、男具那は山人族の血を引く七掬脛の意見を重視したくなる。武彦も内彦も同じだった。そんなことで嫉妬《しつと》するような武人ではない。
「王子様、敵が同じ途を通るとは限りませぬ、それよりも、我らが敵の主力部隊に通じる獣途を見つけたことは、敵に絶対知られてはなりませぬ」
「それはそうだ、吾もいつまでもここにいるわけには参らぬ、このままだと連日、敵の夜襲を受け、身動きが取れぬ」
「その通りでございます、ただこちらが攻撃の際、我らが見つけた獣途は、強い武器に変りましょう」
七掬脛の言葉に、武彦と内彦が強く頷《うなず》いた。
部下たちも攻撃を考えているのだ。男具那は闘志が身体中に満ち溢《あふ》れて来るのを感じた。
男具那は、今宵《こよい》の防禦《ぼうぎよ》について意見を求めた。
いろいろな意見が出されたが、暗闇《くらやみ》の山中では敵が有利なので、木を伐採した と砦《りで》近辺まで敵をおびき寄せ、いっせいに攻撃をかけるという作戦を男具那は採用した。
ただ横穴に貯蔵された食糧や武器は守らねばならない。
七掬脛は横穴の周辺に蔓《つる》の紐《ひも》を木から木に張り巡らし、敵が触れたなら木の板が鳴るような仕掛けを提案した。
「蔓紐を張った場所は兵士たちに教え、次々と矢を放つのです、さいわい横穴の前は敵が斜面を削り、砦のようにしています、兵を三隊に分け、一隊、二隊、三隊と敵に息をつかせる間もなく矢を射たなら、敵は大きな打撃を受けます。たとえ砦に辿《たど》り着いても、横穴の奪取は不可能でしょう」
「よし、それで行こう、敵が逃げた場合は深追いは禁物じゃ、問題は岩場周辺の戦だ、あちこちで火を燃やせば弓と刀で戦える、石占横立たちが腕をふるえるだろう」
「王子がいわれる通り、敵の襲撃目標は王子です、必ず相当の兵を岩場に向けて来ます、敵も必死です」
「おう、闘い甲斐《かい》があるぞ」
男具那の言葉に、内彦と武彦が目を合わせた。どうやら口にし難いことがあるらしい。
「何を口篭《くちごも》っている、いいたいことは遠慮なく申せ、受け入れるかどうかは、吾が判断する」
男具那が力を込めたのは、二人の表情から難題を持ちかけられそうな気がしたからだ。
途端に、内彦、武彦、七掬脛、それに離れていた猪喰まで土下座した。
男具那の勘は当っていた。内彦たちは、敵の主力が岩場に攻めて来た場合、男具那に隠れていていただきたい、というのだった。
「何だと、尻尾《しつぽ》を巻いて逃げておれと申すのか! 吾《われ》は大将軍だぞ」
「逃げるのではありませぬ、これは作戦でございます、王子は作戦がお得意、大事な作戦としてお考え下さい、敵は岩場の王子を求め、攻めて来るでしょう、我らは最も戦い易くなります、それこそ、弓の名手たちも大活躍ができるでしょう、夜襲の場合、未知の山林に逃げ込まれたら、どうしようもありません、昨夜の戦で、我々はそれを痛感しました」
内彦が一息つくと武彦が発言した。男具那が岩場にいない方が、ずっと戦い易いというのだ。岩場に辿り着いた敵に対して安心して矢を放てるからである。
「そちたちは吾の身を案じているわけだな、だから隠れよ、と申す、狗奴国征討大将軍であるこの吾が敵を恐れて……」
「作戦でございます」
一同は額を土につけた。
男具那はもう少しで、吾の名を辱めるつもりか、と一喝しようとした。
だが土下座し、額を土につけている直参の部下たちの姿を見ると、怒声が詰まった。部下だが、これまで生死を共にして来た仲間でもあった。
抑えた怒声が唸《うな》り声となって男具那の口から洩《も》れた。
「王子」
内彦がいつもの彼らしくなく大声を出した。宮戸彦の声にどこか似ている。
「何だ」
「やつかれも王子と一緒に隠れます、宮戸彦がおれば、彼もふるいたい腕を折り、王子の傍に伏せているでしょう、この作戦は王子が隠れるという前提の上で成り立っているのです、七掬脛、そうだな」
「王子様、内彦殿の申す通りです、岩場に王子様の影武者を置き、敵を引きつけます」
「吾の影武者か、誰がなる?」
「まだ決めておりませんが、武彦殿かやつかれが……」
「吾の影武者である以上、当然吾の甲冑《かつちゆう》を纏《まと》わねばならぬ、吾は鉄の甲《よろい》を山麓《さんろく》で脱ぎ、馬とともに尾根の下に置いて来た、その甲が是非必要だ、そうじゃ、影武者は羽女にせよ、羽女は剣も弓も並の男子《おのこ》以上だ、この尾根の下で木を燃やしても明りは弱い、甲冑を纏えば夜では、吾と区別がつくまい、よし決めた、羽女を呼べ」
七掬脛と武彦は一瞬顔を見合わせたが、二人は頷き合った。
羽女は男具那の前に蹲《うずくま》った。その顔には艶《つや》が滲《にじ》んでいた。
「羽女、今夜か明夜、敵はまた夜襲をかけて来る、作戦会議の結果、そちを吾の影武者として岩場に置き、敵を引きつけることになった、そちは吾の甲冑を纏い、十数人の部下とともに岩場を守る、時には顔を出し矢を敵に射なければならぬ、我軍は敵の主力部隊を、できるだけ尾根の上に引き寄せ、いっせいに攻撃する、これなら勝利は疑いない、大役だぞ」
「王子様の甲冑を本当に私《わ》が纏うのですか……」
「もちろんじゃ、今から甲を取りに行かせる」
「嬉しゅうございます、私にとっては望外の幸せ、私は喜んで力の限り戦います」
男具那に向けた羽女の眼は燃えていた。自分が愛した男具那の甲冑を纏い身代りとなる。これほどの幸せがあるだろうか、と羽女が恍惚《こうこつ》となるほどの悦《よろこ》びを味わったのも無理はなかった。
それは忠誠心というよりも女人の情炎に羽女の眼は燃えていたのだ。
それに気づいて男具那は狼狽《ろうばい》した。
今更、羽女を他の男子に代えるわけにはゆかない。もし代えようとすれば、羽女は従軍を願い出た時のように死を選ぶに違いなかった。
「羽女、勘違いをしてはならぬぞ、そちの役目は敵を引きつけるところにある、戦に力を注いではならない、時々甲冑を見せ、吾は健在だ、と敵に思わせるのだ、戦い過ぎて、敵の矢にでも当れば、影武者の役目は果せぬぞ」
羽女の情炎の熱気に負けまい、と男具那も声に力を込めた。
「羽女殿、死んではならぬ、最後まで生きてこそ、大事な任を果たせるのじゃ」
と武彦がいった。羽女に殿をつけて呼んだのは自然の気持からだった。
「そうじゃ、羽女殿は、朝まで元気でおらねばならぬ」
と七掬脛も殿をつけた。
七掬脛の部下が男具那の甲を取りに行った。
その間羽女は岩清水で髪と身体を洗った。男具那は自ら自分の冑《かぶと》を羽女の頭に乗せた。冑が大き過ぎるので羽女は頭に布を巻き、冑を被った。更に羽女は胸の膨らみを布で締めて甲を着た。
羽女は眩《まぶ》しいほど凛々《りり》しい武人に変った。
敵を待つ夜は長い。
男具那は内彦とともに岩場から二百歩ほど離れた木の上で、敵の襲撃を待った。
火は五ケ所で燃やされたが、男具那と内彦が登った木にまで明りは届かない。
「今夜は来そうにないな」
と男具那がいったのは寅の正刻(午前四時)頃だった。
心なしか東方の闇《やみ》に青みが混じっているように思える。もう四半刻《しはんとき》もすれば東の空が白み始めるだろう。
「王子、昨夜は敵も打撃を受けましたから、一休みしているのかもしれません」
と内彦が答えた。
「一休みか、待て、我々に一休みと思わせる時が危いぞ」
男具那が眼をこすった時、蔓の紐につけた板が鳴った。
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二十二
凄《すさ》まじい激戦だった。
尾根の上に辿《たど》り着いた敵兵は数十名はいた。待ち伏せていた男具那《おぐな》軍の雨、霰《あられ》のような矢を受け次々と斃《たお》れるが闘志は凄まじい。
這《は》ってでも岩場に辿り着こうとする。弓矢の攻撃だけでは防ぎ切れないと判断した武彦《たけひこ》は、岩場の周囲に伏せていた兵士たちに突撃を命じた。
兵士たちは、燃える炎に槍《ほこ》(矛)や刀を煌《きら》めかせながら襲いかかって来る敵を迎え撃つ。
男具那は何度も矢筒の矢に手を伸ばしかけた。その度に内彦《うちひこ》が、
「王子、駄目ですぞ」
と制止する。
二人とも木の上にいた。数十歩先に草叢《くさむら》を這い、岩場に向おうとする敵の影が見える。男具那の腕なら二本に一本は当てられる。
「無念じゃ、斃せる敵をみすみす」
と男具那は歯軋《はぎし》りした。
「王子、羽女《はねめ》殿のためにも我慢して下さい、やつかれも、鳴る腕を抑えているのです」
「うむ、羽女は顔を出しているのではないか」
男具那は遠くの岩場の方を眺めた。男具那の場所から二百数十歩はある。あちこちで燃えている炎の明りも弱く、羽女の姿が見えない。
ただ気のせいか、男具那の冑《かぶと》が時々煌めくような気がする。
「羽女殿は王子の身代りです、危いことはしないでしょう」
「いや、分らぬぞ、吾《われ》が首を突こうとした羽女の剣を叩《たた》き落さなければ、羽女はあの時死んでいた、死ぬ決心で従軍したのだ」
あの日の光景が男具那の脳裡《のうり》に鮮明に甦《よみがえ》った。羽女にとって、男具那のために死ぬことが至福なのだ。
そういう女人の情は男具那にも分る。だが女人はなにゆえ、そういう情を燃やすことができるのか。それは男具那にも分らなかった。
男子《おのこ》は名誉のためには死ねるのだ。そう思うと子を産む女人と男子は、根本的な面で違っているような気がする。
「おう、岩場の周辺で戦っているぞ」
と男具那は唸《うな》った。
男具那軍の防禦《ぼうぎよ》網を突破した敵の一部が、岩場に辿り着いたらしい。
「敵はわずかです、捕虜を残し、殲滅《せんめつ》されるでしょう」
内彦は張り裂けるほど眼を瞠《みは》っていた。
突然、貝が吹かれた。尾根の上のみならず岩場の敵も、いっせいに逃げ始めた。
明りの届かないところに、と懸命に走っている。
「内彦、何かがあった、もう大丈夫だ、射よ、一人でも二人でも斃せ、これは命令だ」
男具那は矢筒の矢を取ると弓につがえて放つ。見えるといっても影が動いている程度だが、矢が当ると影が消え、その後ろから悲鳴があがる。
内彦も木の上から矢を放っていたが、
「王子、やつかれは下から……」
といい、弓を持ったまま軽々と跳び降りた。男具那も内彦に続いた。着地した時によろけたのは暗さのせいだった。
内彦は闇《やみ》に眼の利く獣のように走り、尾根の上から山林の暗闇に逃げ込んでいる敵兵を射始めた。
さすがに男具那も内彦の身の軽さに舌を巻いた。
敵が尾根の上から消えたのはあっという間だった。木から跳び降りた男具那が射たのは一人だけである。
影が走って来た。
「奴《やつこ》です」
弓を向けた男具那に影が叫んだ。
猪喰《いぐい》の声である。
「おう、ここじゃ、勝ったか?」
「敵の死傷者は我軍の三倍、大勝利でございます」
猪喰は蹲《うずくま》った。
「そうか、羽女はよくやったのう、作戦の勝利ともいえる」
「はっ、王子様、敵がいっせいに退去したのは、岩場の王子様が、影武者だと気づいたからでございます、羽女殿は敵が岩場に接近すると、矢を放ち、岩場に取りついた敵兵は、自ら剣を抜いて斬《き》りました、気合いの声は男子のものではありません、敵はそれで王子様ではないと……」
「敵は岩場まで来たのか、羽女が剣を抜いても仕方あるまい、抜かなければ身が危い、それに、夜も東の方は白み始めている、ちょうど、退《ひ》く時刻であったのであろう、羽女はよくやった」
「王子様、羽女殿は敵の剣を太腿《ふともも》に受け、傷を負いました」
「何だと、羽女が負傷したのか、なぜそれを……」
先に申さぬ、といいかけて男具那は言葉を呑《の》んだ。猪喰の立場としては戦況を報告するのが第一なのだ。
男具那は岩場に走った。
砦《とりで》の中で羽女は横になっていた。甲《よろい》には折れた矢が二本も刺さっていた。羽女の部下の女人剣士が筒様の袴《はかま》の上から布を巻いていた。かなり出血が酷《ひど》いらしく袴は血で黝《くろ》ずんでいる。
「羽女、吾だ、よくやったぞ」
「王子様、未熟にも傷を受け、申し訳ありません」
懸命に声を出しているのだろうが、羽女の口調は弱々しい。ただ薄暗い闇の中なのにもかかわらず羽女の眼が異様に光って見えた。羽女の生命力がすべて眼に集まったようである。
「何をいう、大勝利だ、吾の身代りになり奮戦したそちの功績でもあるぞ、よし、吾が岩清水の傍まで運び、傷の手当をしよう、なあに、腿の傷ぐらいたいしたことではない、綺麗《きれい》な水で洗い薬草を貼《は》り、布できつく巻いておけば数日で治る、これからの戦には参加できぬかも分らぬが、今日の奮闘で充分だ、さあ、甲を解こう」
身を起こそうとした羽女を、
「じっとしているのだ」
と男具那は抱え上げ、膝《ひざ》に乗せた。短甲はかなり重い。男具那は背中の皮紐《かわひも》を解き、短甲を脱がせた。押し潰《つぶ》されていた羽女の胸の膨らみが薄い肌衣《はだぎ》を突き破らんばかりに盛り上がった。
男具那は本能的に眼を逸《そ》らした。
羽女の腕が男具那の首に絡みついた。まだこんな力が残っていたのか、と驚いたほどの力である。無心な童女のように羽女は首を横に振っている。羽女の胸から眼を逸らせたことを恨んでいるようでもある。
「馬鹿、暴れるな、血が出るぞ」
男具那は首を持ち上げ、羽女の腕を解こうとした。だが羽女は腕の力をゆるめない。羽女の上半身が持ち上がった。
羽女の乳首が男具那の上衣《うわぎ》に触れた。
「そうか、岩清水の傍まで吾に抱かれていたいのだな……」
「はい」
掠《かす》れた声だが羽女ははっきり答えた。
「おう、抱いて行こう、傷の手当も吾がする、安心して吾にまかせよ」
男具那は、羽女について来た女人剣士に、薬草と新しい布を用意するように命じた。
男具那が抱き抱えると羽女の腕の力がゆるんだ。羽女の顔色は、東の空に浮いた雲と雲との間の白みかけた空の色に似て青い。透き通っているようだ。
「羽女、しっかりしろ」
男具那は抱え直すと羽女の冷たい頬《ほお》に自分の頬を押しつけた。
羽女は眼を微《かす》かに開いた。懸命に腕に力を入れようとする。
「傷は太腿だ、たいしたことはないぞ、二、三日もすれば治る」
「はい」
男具那は注意しながら山を降り、崖《がけ》の割れ目から流れている岩清水の傍に羽女を運んだ。その間にも、袴も巻いた布も傷口の血を吸い、絞れば血がしたたり落ちそうである。
よほど太い血管が切れたに違いなかった。脚の傷でも血が出過ぎると死亡することがあるのだ。
羽女の腕が首に巻きついているので、男具那は羽女の袴を脱がすことができない。男具那は羽女の上半身を膝に乗せると、羽女の部下に巻いた布を解くように命じた。案の定、布から血の滴《しずく》が落ちる。部下が袴を脱がせようとすると、羽女は激しく首を横に振った。男具那に脱がせてもらいたいのだ。
「羽女、袴は吾《われ》が脱がせる、だが吾の首に巻いている腕が邪魔になる、少しの間だ、腕を離せ」
途端に男具那は首筋に火を押しつけられたような熱さを覚えた。羽女の腕が燃えているようだ。男具那は低く唸《うな》り眼を閉じた羽女を見た。崖の傍は木が少ない。薄明りに眉《まゆ》を寄せた羽女の表情が窺《うかが》えた。苦しんでいるように見えたが、恍惚《こうこつ》の表情なのかもしれない。ただ羽女は男具那の首に巻いた腕を、死んでも離しそうになかった。
「分った、このままでよい、吾が何とかして脱がせよう」
男具那の命令で羽女の部下が藁履《わらぐつ》を脱がせた。男具那は羽女の上半身を膝の上に乗せたまま袴の紐を解いた。右腕は羽女の上半身を支えているので左手だけで脱がさねばならない。
だが思ったよりも容易であった。太腿は血《ち》まみれである。股間《こかん》の翳《かげ》りも血を吸っていた。
男具那は袴を膝の下までずらした。太腿の刺し傷は二ケ所だが、明らかに一ケ所は深い。まだ血が溢《あふ》れ出る。
男具那は袴を脱がすと、岩清水の傍に坐《すわ》った。布を岩清水に浸し、血を拭《ふ》いた。拭いても拭いても傷口から血がでる。男具那は長い布を太腿の付け根に強く巻き、縛った。渾身《こんしん》の力を込めた。どうやら出血は止まったようだが、羽女の肌は男具那の首に当てた腕の部分を残し、すでに冷たい。
男具那が呼ぶと羽女は微かに眼を開ける。その度に腕が微かに動く。離すまいと必死になっているのだろう。
「大丈夫だぞ、そちは倭《わ》国一の女人剣士だ、これしきの傷に負けてはならぬ」
「はい、私《わ》は王子様に抱かれています」
「おう抱いているぞ」
「あの日以来、こうなるのが私の夢でした」
羽女は微笑《ほほえ》んだ。
羽女は自分に死の時が来たのを知っているようだ。男具那は狼狽《ろうばい》した。返答の言葉が浮かばず、ただ冷たい羽女の身体を抱き締めた。
「王子様、周囲が暗くなって参りました、私は鳥になり王子様から飛び立ちそうです、私は飛びたくない、王子様、私をつなぎ止めて下さい、私は離れたくない」
「大丈夫じゃ、腕に力を込めよ、吾も力一杯抱いておるぞ、離したりはしない」
「駄目です、腕に力が……」
入らない、と羽女は声にならない声で呟《つぶや》いた。
熱かった羽女の腕も、今は熱を失っている。寧《むし》ろ男具那の熱を吸収しようと必死のようだ。
「王子様、私の身体に入り、つなぎ止めて下さい、風が私を吹き飛ばしそうです、意地悪な嗤《わら》い声を立てて……」
「何だと、吾が羽女の身体に入り、つなぎ止める、と申すのか」
「はい、早く、もう遠くに行きそうです」
男具那は、膝に乗せている羽女の腰が微かに動いたような気がした。
羽女は男具那と媾合《まぐわ》うことにより、消えて行く意識を呼び戻そうと願っているのだ。
男具那から離れないためには、それだけが唯一の方法だと望んでいる。
男子《おのこ》にはよく理解できないが、黄泉《よみ》の世界にまで恋しい男子を連れて行こうとする女人の情念かもしれなかった。
男具那は慌てた。
媾合って欲しい、と死の間際に望まれても、男具那はこの瞬間まで羽女を生かそうと懸命だった。
羽女がいくらいとしい女人でも、男具那の情は、媾合に伴う欲情とは異なっていた。
「羽女、大丈夫だ、そちは消えないぞ」
男具那は絶望的な顔でいった。
羽女の部下の女人剣士は歯を喰《く》い縛り俯《うつむ》いていた。
「王子様、私《わ》の身体に……もう私の肌は何も感じません、ただ感じる場所は身体の奥です」
羽女が吐いた息に熱がないのを知って男具那は愕然《がくぜん》とした。
羽女の息は晩秋の風の冷たさに似ていた。
男具那はどうすることもできない。男具那の股間《こかん》のものは萎縮《いしゆく》したままである。こんな時に奮い立つような男子ではなかった。
男具那の指が無意識のうちに羽女の陰《ほと》に当てられた。羽女の陰は待ち焦がれたように濡《ぬ》れていた。
羽女が感じる場所が奥しかない、といったのは嘘《うそ》ではなかった。陰は熱く、男具那を離しはしまい、と締めつけて来た。
羽女が何か呟いた。二度三度と呟いたが言葉の意味は分らない。
突然、男具那の首から羽女の腕が離れ、膝の上の上半身が重くなった。
羽女の陰の奥は悦楽の絶頂のように痙攣《けいれん》すると、男具那の指を締めつけていた肉が溶けて消えた。
この瞬間、羽女は鳥になり黄泉の国に飛び立ったようだ。
岩清水と鳥の囀《さえず》る声がこれまでになくはっきりと聞えた。
羽女の部下は嗚咽《おえつ》を噛《か》み殺していた。
「新しい袴《はかま》を持って参れ、吾がはかせる」
男具那の眼は澄んでおり涙はない。だが声は掠れてまるで老人のようだった。
羽女の遺体を抱き、男具那は岩場に戻った。
陽が昇りかけていた。
叩頭《こうとう》した武彦に男具那は敵の死傷者の数を訊《き》いた。
「六十余名でございます、敵は約百五十名で攻撃をかけて参りました、約半数近くに損害を与えたことになります」
「よし、これだけ明るくなれば敵の逃げ道も辿《たど》れるであろう、草が踏み躙《にじ》られ、血もついている、逃げる途中で斃《たお》れた者もいるはずだ、今回は敵の居場所を突き止められるかもしれぬぞ、五十名の兵で敵の逃走路を調べよ」
武彦が兵を集めている間に、男具那は羽女の遺体を埋める穴を岩場の傍に掘らせた。
同時に、傷を受け捕虜となった敵兵を徹底的に責め、可能な限り新しい情報を引き出すように、と猪喰に命じた。
羽女を埋めようとした場所は岩が多く、なかなか掘り難《にく》い。男具那は羽女の遺体が隠れるぐらい掘らせ、無数の木の葉を敷き、羽女を横たえた。周囲に小岩を並べ、大きな石を運ばせ天井石とした。
男具那は自ら天井石の一つになる重い石を武彦や内彦らと運んだ。
更に男具那は羽女の剣を遺体の傍に鞘《さや》から抜いて置いた。剣は先が欠けている。
棺がないので男具那は、木の葉や花で羽女の遺体を覆った。
名もない山の花だが、遺体に置くと不思議なほど甘い匂《にお》いを放った。
羽女は戦から解放され、即製の石室に横たわることによって、自分が女人であることを花の匂いで示したのかもしれない。
男具那は、誄《しのびごと》をする前に羽女が黄泉の国で安らかに生きることを死の鬼神に祈った。
考えてみればあまりにも儚《はかな》い関係である。
羽女は男具那の傍で死ぬことを願って従軍したのだ。そういう意味では、羽女は目的を達したのかもしれない。
ただ羽女は男具那との接触を、少しでも長く保とうと懸命だった。それを思うと戦に勝つまで生かしてやりたかった。
それこそ、大和《やまと》に戻るまで、男具那は羽女を抱くことができたのだ。
男具那は一同の眼が自分に注がれているような気がした。いつまでも感傷に浸っているわけにはゆかない。
「誄を始める」
と男具那は大きな声でいった。
倭国には、死者の前で生前の功績を褒め称《たた》える風習があった。誄という。
男具那は胸を反らせ思い切り息を吸った。山々に響き渡るような声で、女人の身でありながら男具那の身代りになり、砦《とりで》を守った羽女の勇気と闘志は、兵士たちの闘志を一層燃え上がらせ、我軍を勝利に導くであろう、と述べた。
更に川上タケルを斃し、仇《かたき》を討つことを約束した。
男具那の誄が、全軍の士気を高めたのは間違いない。
誄が終った後、男具那は刀を抜き、全軍に鬨《とき》の声をあげさせた。兵士たちの声は熱していた。鳥が舞い山林も風を呼んで揺れたほどである。
敵の退路を探っていた兵士たちが戻って来た。偵察の隊長たちの話では、敵はかなりの打撃を受けたらしく、東北の峯《みね》の近くまで、動けなくなった兵士が呻《うめ》き、木の枝が折れ、下草が踏み躙られていた。
男具那は全軍の出発を命じた。これまで陣地を守ろうとしたのは、敵軍がどこにいるか分らなかったからだ。
敵は夢中で逃げ、陣地への道を教えてくれたのである。
更に拷問の結果、主力軍の居場所がだいたい推定された。敵の主力は金峰《きんぽう》山の頂上ではなく、中腹に陣を構えていた。現在の通越《みちごえ》の西方である。
主力軍は約二百名だった。主力軍の北には熊岳《くまのだけ》の狗奴《くな》国軍と連絡を取るための小部隊が高所に布陣し、南には男具那軍を攻めて来た百数十名の軍がいたが、今日の敗戦により、二度と攻撃できないほどの打撃を受けたことは間違いなかった。
男具那が全軍に出発を命じたのは、逃げた部隊が軍を編制しなおす前に壊滅しなければならない、と判断したからだ。それに別働隊のことも気になる。道に迷ったのかもしれないが、逃げる敵を目撃し、本隊と合流すべく、山に潜んでいることも考えられる。
男具那は偵察隊の隊長に久米七掬脛《くめのななつかはぎ》を任じ、三十名の部下を与え、先行させた。
直線距離は半里(二キロ)足らずだが、未知の山であり、斜面を上ったり下りたりしなければならないので、這《は》うようにして進んだ。
七掬脛は比較的傷の浅い敵の捕虜を三名連行している。
陣地まで案内したなら、生命《いのち》は助けるという約束だ。拷問によって、仲間がいかに苦しんで死んだかを眼の前で見ているので、捕虜たちは何とか生きよう、と藁《わら》に縋《すが》るような思いだった。
捕虜たちが、七掬脛を騙《だま》すことはまず考えられないが、用心深い七掬脛は捕虜を前と後ろに分けた。
少しでもいうことが違えば棒で擲《なぐ》った。情け心が生命取りになりかねないことを七掬脛はよく承知していた。
一行が陣地の近くに到着したのは三|刻《とき》(六時間)後だった。
男具那たちが停止した場所から四、五百歩ほど先である。
男具那は七掬脛や内彦を連れて上に登った。武彦は万一の場合に備えて軍を纏《まと》めねばならない。
百歩ほど登ると峯の上に出た。
尾根というよりも山といってよい巨大な峯が熊本平野の方に突き出ている。峯はいくつもの小山によって連山のように見える。
金峰山は峯の根本に屹立《きつりつ》している。いくつもの尾根や峯を含めた山全体が金峰山である。
七掬脛に連れて来られた捕虜の一人が、蹲《うずくま》り説明した。太腿《ふともも》と腕に矢が刺さっているが軽傷のうちだ。
彼の説明では、眼の前の尾根が盛り上がり山となった先に、向い合って見える山塊は熊岳に続いていた。川上《かわかみの》タケルの主力軍は峯続きの山の西側から頂上に布陣していた。
男具那軍を攻めたのはその山の南側に布陣していた部隊であった。
七掬脛はすぐ樫《かし》らしい高い木に登った。
「王子様、間違いはございませぬ、敵兵が蠢《うごめ》いているのが見えます」
と七掬脛は汗を拭《ぬぐ》いながらいった。
「よし、吾《われ》も登るぞ」
男具那も登った。
七掬脛がいったように敵兵の姿が見える。ただ主力部隊は見えない。
西の方を眺めた男具那は眼を凝らした。金峰山の頂上から三、四百歩ほど下の山林に人の気配が感じられた。木洩《こも》れ陽《び》に刀や槍《ほこ》が煌《きら》めいている。
別働隊が入った尾根を北に進めば、あのあたりに達するのだ。
男具那は木から降りるとそのことを七掬脛に告げた。
「申し訳ありません、気がつきませんでした」
七掬脛が再び木に跳びつく。内彦も後に続いた。
木から降りて来た二人は、間違いなく山林に兵がいる、と告げた。
味方の兵か敵兵なのか分らない。
男具那は弓の名手たちを呼んだ。男具那軍の存在を知らせる時は、赤い布を巻いた矢を放つことになっていた。
男具那は七掬脛に、石占横立《いしうらのよこたち》たちの矢が届く場所まで弓の名手たちを案内するように命じた。もし別働隊なら男具那にとって大きな力が加わることになる。
四半刻《しはんとき》(三十分)ぐらい待った頃、七掬脛と弓の名手たちが戻って来た。
「間違いありませぬ、別働隊です、赤い布の矢を射返して来ました」
「よし、七掬脛、脚の達者な部下を二人、使者として行かせよ、隊長を連れて参るのだ、あの場所はここからよりも、東に延びている峯がよく見える、場合によっては全軍を、別働隊の場所まで移動させよう、ここは、敵兵が逃げた道の近くじゃ、布陣するのは危険だ」
「やつかれもそう思っていました」
と内彦が頷《うなず》いた。
男具那は頂上から下り、武彦に別働隊の発見を告げた。武彦の顔が輝いた。
「天まさに王子に味方す、です、これで戦力も充実しました、明日の早朝、一気に攻撃をかけましょう」
「王子様、奴《やつこ》もほっとしました、何をしているのか、と気の休まる時がございませんでした」
と水沼羽立《みぬまのはねたつ》が嬉《うれ》しそうにいった。
「未知の山だ、別働隊も、我らに合流すべく懸命に歩いたに違いない、責めてはおらぬぞ、見張りを残し、兵士たちに仮眠を取らせよ、何といっても、昨夜以来一睡もしておらぬのだ」
間もなくあちこちから兵士たちの鼾《いびき》が聞えて来た。
別働隊の隊長|水沼犬猪《みぬまのいぬい》が来たのは陽が西に傾きかけた頃である。
男具那の間に、犬猪は逃げ戻る敵兵を見たものの、攻撃をかけてよいかどうか、迷った次第を説明した。なぜなら攻撃することによって別働隊の存在が敵に知られるからである。
別働隊の任務は敵の兵力や布陣状態を調べることにあった。
男具那は犬猪の説明を聴き、全軍を別働隊のいる場所に移すことにした。
陽が落ちれば行軍は無理だ。
眠ったばかりの兵は叩《たた》き起こされた。何が何やら分らず眼だけ開けて坐《すわ》り込んだ兵の頬《ほお》に、隊長たちは木の枝を叩きつける。
「犬猪、川上タケルの主力軍は東北の山の西側に布陣しているらしいが、場所が分らぬ。刀や槍《ほこ》の煌めきがない、本当に布陣していると思うか?」
と男具那は犬猪に訊《き》いた。
「王子様、主力軍らしい部隊は東の方に移動致しました、昼過ぎでございます、奴の判断では、北九州軍が熊岳に近づいて来たせいではないか、と思われます」
「おう、それに違いない、もう来るはずだと吾も思っていた、となると当然、川上タケルも北九州軍に備え、主力軍とともに東方に移ったに違いない、自分だけ洞に篭《こも》り、女人とたわむれるわけにはゆくまい、吾も一眠りしてから作戦を練る、行くぞ」
一行は別働隊の布陣場所まで這うようにして進んだ。
夕餉《ゆうげ》を摂《と》った男具那は、寅《とら》の下刻(午前四―五時)まで熟睡した。
起きると、すぐ朝餉《あさげ》を摂った。
男具那の直参の部下だけではなく、水沼羽立、犬猪も加え作戦会議を開いた。
男具那の意向はほぼ決まっていた。
昨日の早朝、男具那軍を攻撃し、敗れて逃げた敵は疲労|困憊《こんぱい》している。だが時を与えると軍を整える。
今から敵の陣地にできるだけ近づき、日の出頃には攻撃し、敵を殲滅《せんめつ》する、というのであった。
「ただ敵も我軍の襲撃を警戒している、あちこちに蔓紐《つるひも》を張り巡らし、鳴り板を吊《つる》しているだろう、そこで吾は攻める方法を考えた、敵が最も警戒しているのは当然、陣地の南と西じゃ、北部は主力部隊と連絡を取り合っているであろう、それに敵は我軍がここで別働隊と合流したことは知るまい、ここからなら敵の陣地の北部に出るのはさほど難事ではない、水沼犬猪、そちは敵兵が陣地に戻ったのを見ている、我らの中では敵の陣地に最も詳しいはずだ、まず陣地について知ることを述べよ」
男具那の語調は厳しかった。敵の退去を単に傍観していたのではあるまいな、と言葉にこそ出さないが、その語調が告げている。
「はっ、山に慣れている数人の兵に、陣地周辺を調べさせました、北側に出るには、いったん山を下りねばなりません、ただその後は山の斜面沿いに進むと、敵陣の下に達します」
「なぜ、そのことを昨日いわぬ?」
「申し訳ありません、余計な口出しになるのではないか、と控えておりました」
「別働隊は敵の情報を探るのが第一の任務だ、遠慮は要らぬぞ、げんに偵察隊を出し、敵陣の周辺を調べたことで任務を果しておるではないか、調べたことはまず第一に報告せよ」
「これからはそう致します、お許し下さい」
水沼犬猪は両手を地につき叩頭《こうとう》した。
「よし、そちが出した偵察隊と敵の捕虜に先導させ、敵陣地に向けて進む、暗い山林の中だ、とにかく山を下りた場所で夜明けを待とう、夜の山を進むのは危険だ、一度迷えばとんでもないところに出る、敵の陣地を探し出すまでに疲れ、闘志を失う」
「王子、もし敵が陣地の周辺に火を燃やしている場合は?」
と武彦が訊いた。
「おう、その場合は迷う心配は少ない、夜の山でも進むぞ、だが吾は、敵は火を燃やさぬ、と視ておる、燃やすのならもう火をつけているはずだし、ここから見えるはずだ、だが何も見えぬ、敵が火を燃やさないのは我らの奇襲を堂々と迎え撃つ力がないからじゃ、皆、泥のように眠っているか、傷の痛みに呻《うめ》いておるぞ」
男具那の言葉は一同を勇気づけた。
一行が山を下り、一休みしていると東の空が白み始めた。
水沼犬猪の偵察隊が、山の斜面に入った時目印に巻いた布を見つけたのは、それから四半刻後だった。
一行は一刻後に敵の陣地の下に辿《たど》り着いた。
男具那は七掬脛を偵察隊の隊長とし、敵の陣地周辺の調査を命じた。
「一番の問題は鳴り板に引っ掛からないことじゃ、ここまで来た以上、そんなに焦って攻撃する必要はない、大事なのは奇襲の成功だ、こっちにも敵は鳴り板を吊《つる》しているかもしれぬぞ、用心しろ」
七掬脛は十数名の兵士に、鳴り板の危険性を叩き込んだ。
七掬脛が戻って来たのは半刻《はんとき》(一時間)後だった。
男具那が案じた通り、三ケ所に鳴り板が仕掛けられていた、という。
「敵にはかなりの負傷者がいます、あちこちから呻き声が聞えて来ます、敵は頂上より少し下に砦《とりで》を造り篭っているようです、たぶん峯《みね》の上は狭く大勢の兵を布陣させられないのでしょう、ただ、意外にも敵兵の大半は峯の東側、熊本の平野に向いた方にいます」
「それは当然だろう、もともと敵は我軍が北東から攻めて来るものと思い込み、それに備えて東側に布陣したのじゃ、我らが海から金峰山の背後に廻《まわ》り込むなど考えてもいなかった、敵が我らに対し必死の攻撃をかけて来たのも、背後を安泰にした後、平野を進撃して来る北九州軍も邀撃《ようげき》するためであろう、川上タケルは勇猛かもしれぬが、作戦の上で吾に負けた、だから山での戦にも負けている、焦っているからだ」
男具那の言葉は、兵士たちに伝えられ、彼らの士気を鼓舞する。
男具那は弓の名手たちを呼び、まずこの上の砦の兵士たちを射殺するように告げた。
「それには砦よりも上に行かねばならぬ、適当な木があれば登れ、なければ頂上にでも登って射よ、その間に我らは東側の敵を攻撃する」
男具那たち一行は三列縦隊で山を登った。道案内は七掬脛である。砦まで二、三十歩の距離に近づいた時、男具那は弓の名手たちに、適当な場所を見つけて矢を射るようにと命じた。
兵士たちは山林の下草や灌木《かんぼく》に身を潜ませ、息を殺していた。
弓の名手たちは這《は》いながら左手に登った。砦の右側から東の砦には道が造られているらしく、兵士たちが時々往来した。
砦の見張りの兵は三名だった。男具那たちが眼下の山林に潜んでいるのも知らず私語を交わしている。
一人が筒様の袴《はかま》を下ろし放尿した。男具那たちのところまでは届かない。
一人が始めると、釣られたように他の二人も袴を下ろした。
男具那は武彦に囁《ささや》いた。
「何も気づいていない、だから放尿などできる、いいか、吾《われ》が手を挙げたなら砦の右手に突っ込み、東側の砦に通じる道を通り、攻撃するのだ、この砦の兵士など相手にするな、水沼羽立と犬猪に伝えよ」
「分りました」
武彦は二、三歩下りると男具那の命令を二人に伝える。
兵士たちは隊長たちに続いて攻撃するように訓練されていた。
男具那は甲《よろい》を撫《な》でた。羽女の魂が乗り移っている甲だ。
羽女、吾は勝つぞ、川上タケルを斃し、そちの仇《かたき》を討つ、と男具那は呟《つぶや》いた。指にこすられ鉄の小札《こざね》が微《かす》かに鳴った。男具那の気持が通じ、羽女が嬉しゅうございます、と答えたのかもしれない。
どこからか花が散り、呼び寄せられたように男具那の腕に落ちた。甘い香りは一片の花というよりも、羽女の体臭かもしれなかった。
男具那は花を口に入れて噛《か》んだ。
空気を裂く鋭い矢音とともに見張りの兵士たちの首筋を矢が貫いた。何が起こったのか分らないまま兵士たちは倒れた。そのうちの一人は股間《こかん》に手を置いたまま砦から転落した。
砦が騒がしくなったのは十呼吸も後であろうか。男具那が手を挙げた。内彦と猪喰が男具那の前に跳び出した。二人は男具那を守るために先に進んだのだ。
待て、と男具那は叫びたかった。もう少しで手を伸ばし内彦に掴《つか》みかかるところだった。
男具那が声にならない声だけで自分を抑えたのは、二人が楯《たて》になろうと前に出たのを知っているからだ。
男具那の脚が心持ち遅くなった。
内彦と猪喰が峯の草叢《くさむら》に跳び込んだ。男具那も刀を抜いて駈《か》け上がった。
そんな男具那の眼の前に、矢に射られた二人の兵士が転がり落ちて来た。弓の名手たちは男具那に攻撃をかけようとした敵兵を射始めていた。
男具那に続き、武彦や兵士たちがいっせいに峯の上に辿り着く。
男具那軍は三隊に分けられていた。武彦の率いる百余名は東側の砦に雪崩《なだれ》のように突進した。
水沼勢は峯の南部に向った。七掬脛の部隊は男具那の周辺を守る。
不意を衝《つ》かれた敵は大混乱に陥り、反撃できない。ことに東側の砦の敵兵は上からの攻撃に対して無防備だった。それに昨日の戦による負傷者が多い。
敵兵は砦から山林に逃げ込み、思い思いに抵抗するのが精一杯である。男具那軍は軽傷者しか連れて来ていない。犬猪の別働隊も戦意が溢《あふ》れている。
「王子様、峯の頂上を占拠します、ひょっとすると見張りの兵がいるかもしれません」
と七掬脛がいった。
「おう、行け、油断はするな」
七掬脛は半数の兵を内彦に男具那の警護兵として託した。十数名を率いて山の頂上に向った。
「追え、追え、一人も逃すな」
下の山林から武彦の声が聞えて来た。喚声は峯の上から下の方に移っている。
追われた敵兵の大半は、川上タケル軍の主力部隊の方に逃げる。武彦もそのあたりは心得ている。
七掬脛の推測通り山の頂上には十数名の見張りの兵がいたようだ。逃げるに逃げられず隠れていたが、七掬脛が攻めて来るのを知り、半数は転がり落ちるようにして逃げ、残りが捨て身の攻撃をかけて来た。もちろん、七掬脛の敵ではない。ほとんどが矢に射られ、三、四名は七掬脛に斬《き》られた。
戦況を眺めていた男具那は傍の内彦にいった。
「内彦、吾は命令を下すだけで全然腕がふるえない、吾は倭国一の武術の王子といわれている倭《やまと》の男具那だ、早く、川上タケルと闘いたい、タケルも九州に鳴り響いた勇者、逃げたりはすまい」
「王子は狗奴国征討大将軍でございます、全軍の指揮を執られるのが第一の任務、実戦は我らにおまかせ下さい」
珍しく内彦は深々と叩頭《こうとう》した。男具那が刀をふるい敵と戦うことに危惧《きぐ》の念を抱いていた。
「何を申すか、川上タケルの首を刎《は》ねるのは吾だ、吾がタケルと刀を交え、斃《たお》すのだ、その日のために吾はここまで来た」
男具那も内彦を叱咤《しつた》するようにいった。
何が何でも川上タケルと刀を交えるという強い決意を示しておかなければ、直参の部下たちは、楯となるべく先に進んだように、男具那を守りかねない。
「分ったか内彦、吾はそのためにここに来たのだ」
返事をしない内彦に男具那は大声を出した。
「はあ……」
内彦は叩頭したまま低い声で答えた。
内彦の胸中は手に取るように分る。王子は熊襲《くまそ》と同盟を結び、九州全土を制圧しようとしている狗奴国の野望を粉砕するため、九州に来られたのではないですか、たった一人の川上タケルを斃すためではありませんぞ、といいたいのである。
宮戸彦《みやとひこ》が来なくてよかった、と男具那は思わず呟きそうになり、苦笑した。
宮戸彦も内彦に負けずに、大将軍は指揮を執るのが第一です、と説教するのに違いない。
もし男具那と川上タケルが一対一で闘ったとしても、男具那が少しでも不利になれば、力を貸そうとするだろう。
うるさい部下たちだ、吾の胸中が分っていない、と男具那は舌打ちしたが、自分を思う部下たちの気持は痛いほど分る。
男具那は嗚咽《おえつ》の声を聞いたような気がした。羽女《はねめ》に仕えていた女人剣士のサチが声を噛《か》み殺している。
羽女を葬った後、男具那はサチを警護兵にしたが、彼女としては仕える主君を失い、これからどう生きてよいのか、分らないのかもしれない。
「サチ、戦はもうすぐ終る、勝利の暁にはそちの功績にふさわしい地位につけ、宇沙《うさ》に戻す、辛《つら》いだろうが今少しの間我慢しろ」
「王子様のお心を乱し、申し訳ありません、涙を捨てることを羽女様に約束したにもかかわらず、見苦しい姿をお見せしてしまいました」
「羽女が生きていたなら、その約束は守られたであろう、だが羽女はもういないのだ、涙が出てもおかしくはないぞ、吾はとがめたりはしない」
七掬脛が駈け下りて来た。
頂上からは更に景色がよく見えるが、川や池と違った煌《きら》めきが遠くに見える旨を男具那に告げた。
男具那は頂上に向って走った。
川上タケルの主力軍が布陣している小山が眼の前に見える。と同時に眺望の拡がりは最初に布陣した尾根の比ではない。熊本平野の遥《はる》か北方まで眺められる。
真昼の烈日は容赦なく山野を灼《や》いている。緑の山林も眩《まぶ》しいほど照り返して光り、蔭《かげ》になった裏側は緑が一段と濃い。
男具那は七掬脛が手で差した方を見た。池や沼、それに川なども白い銀のように輝いている。しかも生きているようにまたたいて見えた。
男具那は霞《かす》んだ平野の彼方《かなた》に見えるか見えない煌めきを認めた。池や沼にしては煌めきは小さく数が多い。
「刀や槍《ほこ》の煌めきだ、北九州軍と視た、菊水《きくすい》の山々の敵を破り、熊本平野に向って進撃しているに違いない」
男具那の昂奮《こうふん》した声に応《こた》えるように、内彦も間違いありませぬ、と同調した。
男具那は貝を鳴らし、兵を呼び戻すように命じた。
七掬脛は不満そうな顔で、今こそ敗走する敵を追い、川上タケルの本陣近くに布陣すべきです、と意見を述べた。
男具那は大きく頷《うなず》いた。
「そちの意見はよく分るぞ、普通なら吾もそうしている、だがあれを見よ」
男具那は熊本平野の北西に煌めく無数の光を指差した。
「水沼君《みぬまのきみ》たちの北九州軍は狗奴国軍と激戦の末、遂に敵を破り今、熊岳の狗奴国軍と金峰山の川上タケル軍を攻撃すべく進撃して来ているのだ、刀や槍の煌めきの凄《すさ》まじさがそれを証明している、川上タケルは熊岳の狗奴国軍に呼応し、北九州軍を迎え撃たねばならぬ、そのため金峰山に篭《こも》っていた、だが川上タケルは、想像外の事態に直面した、吾が海路から金峰山の南に廻《まわ》り、タケルの二軍団を破ったからじゃ、川上タケルが闘う相手は北九州軍か、それとも狗奴国征討大将軍である吾に率いられたこの男具那軍か、ということになる、タケルには自軍を二手に分ける余裕はない、しかもタケルは大事な二軍団を吾に蹴散《けち》らされ、歯軋《はぎし》りしておる、そちたちはどう考える」
男具那の言葉に内彦と七掬脛は唸《うな》った。
「厳しい御質問です、王子、やつかれがタケルなら倭国に鳴り響いた王子と戦いとうございます、武人の名誉のためにも」
と内彦がいった。
「そうじゃ、川上タケルは、勇猛だけではなく誇りを重んじる首長の一人と聞いておる、タケルにとって吾を斃すことは、最大の名誉であろう、タケルは間違いなく吾を斃そうとやって来る。もう陣地を出ているかもしれぬぞ」
内彦と七掬脛は同時に、
「王子、分りました、ここで待ちましょう」
と刀の鞘《さや》を叩《たた》いた。
貝がゆっくり三度吹かれた。続いて笛が吹かれ、また貝が鳴った。引き揚げよ、という合図だ。敵を追っていた兵士たちが続々と戻って来る。
男具那は敵が造った砦《とりで》の奥に腰を下ろした。坐《すわ》り易い石が二個置かれている。軍団の長《おさ》が坐っていたに違いない。
兵士たちは峯《みね》の頂上から砦の下まで要所に布陣した。男具那の傍にいるのは、内彦、武彦、猪喰、サチの四名で、七掬脛は狭い峯の頂上を守り、敵の動静を探っていた。
七掬脛の部下が砦に駆けつけたのは、半刻(一時間)ほど後である。
部下の報告によると川上タケル軍は熊本の方に下りずに、こちらに向っている、という。
「王子のおっしゃる通りだ」
内彦が眼を剥《む》き、腕を叩いた。
猪喰が音もなく姿を消した。川上タケル軍に接触し、その進路を監視するためである。
男具那は、猪喰だけは自由に行動させていた。時には間者にもなるし、警護兵にもなる。
猪喰は臨機応変の才に優れていた。そういう人物は自由にさせておく方がよい、持てる能力を思う存分に発揮できるからだ。
男具那は武彦に、川上タケルの攻撃を全軍に告げ、臨戦態勢を取るように、と命じた。
弓の名手たちは砦の傍の木に登っていた。
男具那は、弓の名手たちに川上タケルとは刀で戦いたいので、タケルではなく警護兵たちを射殺するよう命じていた。
更に四半刻《しはんとき》たった。
さすがに男具那は緊張感に喉《のど》が渇いた。
「サチ、水だ」
サチは男具那の竹筒を受け取ると、岩清水を満たすべく砦を出た。
砦には敵の壷《つぼ》や器が散乱していたが、男具那は捨てさせた。敵が捨てた器で食事を摂る気にはなれない。
男具那が水を飲んでいると猪喰が現われた。
川上タケル軍は約二百名で、間もなく砦の真下あたりに到着する、と告げた。
「どうじゃ、兵士たちと川上タケルは判別できたか?」
「川上タケル、と思われる武将は一人だけです、甲《よろい》を纏《まと》い、冑《かぶと》を被《かぶ》り、棒が太くて長い槍《ほこ》を持っています、身長は約六尺(百八十センチ)、大変な巨漢で、太腿《ふともも》には皮甲をつけ、身を守っている様子、どうか御油断なさいませぬよう……」
「うむ、 噂《うわさ》通りの巨漢だのう、だが巨漢はタケル一人か?」
「五尺八寸ほどの巨漢は二、三名いますが、警護兵がおりませぬ、タケルとおぼしき人物には数名の警護兵がついています」
猪喰はきっぱりといい切った。
猪喰は再び消えようとしたので、どこに行くのだ? と男具那は訊《き》いた。
「川上タケルは間違いなく王子様お一人を狙《ねら》って来るでしょう、タケルの動きを監視せねばなりませぬ」
猪喰と入れ違いに七掬脛の部下が、タケル軍が砦の下に迫っていることを告げた。
男具那は武彦を通じ、敵兵を見つけた場合は、慌てずに充分引き寄せ、矢を射るよう命じた。
大勢の兵士が、要所要所の木に登り待ち構えている。
戦闘が開始されたのは約半刻後だった。
猪喰と同じく敵の様子を探っていた七掬脛の部下が、敵の後軍は今のところ発見されていない旨を告げた。
「敵はほとんどの兵士をこの砦と、尾根の峯の攻撃に向けたようでございます、ただ首長らしい人物の姿が見えませぬ、ひょっとすると別働隊と行動を共にしたことも考えられます」
「分った、七掬脛の許《もと》に戻り、その旨報告せよ」
男具那は猪喰の帰りが待たれた。
猪喰は川上タケルを確認している。タケルの軍よりもタケルを監視しているはずだ。猪喰ならタケルがどこに消えたのか、報告できると思われたからだ。
猪喰が砦に現われたのは戦の喚声が砦のある峯全体に拡がった頃だった。
険しい山を上り下りしている猪喰は汗みどろである。髪も乱れ吐く息は荒い。こんな猪喰は珍しかった。
「猪喰、水はどうじゃ?」
「はっ、いただきます」
猪喰がさげている竹筒は空になっている。
男具那はサチに自分の竹筒を渡し、猪喰の竹筒に水を入れるよう命じた。
「勿体《もつたい》のうございます」
「遠慮するな、ところで七掬脛の部下の報告では、川上タケルの姿が見えぬそうだが、消えたのか?」
喉を鳴らして水を飲んだ猪喰は、叩頭《こうとう》し、地に向って息をついた。
「王子様、川上タケルは警護兵とともに、七掬脛殿が守っている峯の真下の岩間に消えました、真下は崖《がけ》で、東西とも岩肌が露出した崖に近い急傾斜面、普通の人間なら到底登れませぬ」
「うむ、よく監視していたぞ、猪喰はどう推測する?」
「はっ、たぶん最も困難な急斜面を登り、砦を直撃せずに峯の最頂部に出るつもりと判断致しました、ただ途中から砦の方を狙う危険性も無視できません」
「よし、七掬脛を呼べ、大急ぎだ」
飛んで来た七掬脛に、男具那は川上タケルが主力軍と離れ、峯の真下の岩場に入った旨を伝えた。
「警戒を厳重にせよ、タケルには屈強な部下が数人ついておる、吾は弓の名手たちにも申しているが、タケルには手を出すな、タケルの首は吾《われ》の刀で刎《は》ねる、分ったな」
「はっ、しかしタケルは山に慣れております」
「吾も慣れておる、これは厳命じゃ、タケルが現われたなら、板を十度鳴らせ、行け」
七掬脛は内彦と顔を見合わせ、渋い顔で去った。
皆、男具那の身を案じているのだ。
それは分るが、男具那としては、自分に戦いを挑んで来た川上タケルとは、一対一で戦いたい。タケルも同じ気持に違いなかった。
男具那は槍《ほこ》を持つと砦の岩に立った。
激しい戦は続き、雄叫《おたけ》びの中には砦から数十歩に迫ったものもあった。
男具那は深々と息を吸い、槍を操った時、峯の最頂部の板が激しく鳴った。
「やはり、上か……」
と男具那は呟《つぶや》いた。
「王子様、警護隊かもしれませぬぞ」
と前の灌木《かんぼく》に潜んでいた猪喰が告げた。
刀を合わす音と同時に絶叫が聞えた。
鋭い弓弦の音とともに悲鳴がした。弓の名手たちが矢を放ったのだ。
「タケルを射るな」
男具那は大声で命じるとともに、
「川上タケルよ、吾は倭《やまと》の男具那、おぬしと刀を合わすべく待っている、参れ」
全山に響き渡るような声で叫んだ。
「おう、吾は熊襲の長、川上タケルだ、行くぞ」
男具那は信じられない思いで崖の方を見た。這《は》い上がるのがやっとという急斜面の岩場を、巨漢が跳びながら近づいて来た。岩場の割れ目には様々な木が生えている。川上タケルは木の根っこ伝いに跳んでいた。弓弦の音とともに矢が放たれ、タケルの警護兵が呻《うめ》きながら転がり落ちる。
弓の名手たちもタケルを識別しており、狙うのは警護兵だけだ。
部下たちが矢を受ける度にタケルは獣のように吠《ほ》えた。山林の葉を散らすような声だ。
巨漢は力は強いがあまり身軽ではない。宮戸彦は好《よ》い例だ。
だが川上タケルは宮戸彦を上廻《うわまわ》る巨漢なのに、その身軽さは鬼神のようだった。
男具那さえも、タケルと同じように崖に生えている木や灌木を蹴《け》り、こんな速さで走れるかどうか疑問だった。
男具那は珍しく胸の鼓動が高鳴るのを覚えた。
内彦は槍を構え、武彦は力を抜いた。
絶叫とともに砦の上から敵兵が転がり落ちて来た。
「馬鹿者、吾を騙《だま》せると思うか」
七掬脛の声がした。
タケルの警護兵の一人が切り立った崖を登って来たに違いない。
タケルと男具那の距離は十数歩だった。更に胸が高鳴り、身体が固くなったような気がした男具那は、砦《とりで》から峯《みね》の上に通じる道に走り込んだ。いつものように自由に動ける身体にしておかねば、金縛りになりそうな気がした。
槍の柄を利用して思い切り跳んだ。思ったほど跳べない。
「卑怯《ひきよう》な、逃げるのか」
背後でタケルの声がする。男具那の厳命を受けている内彦と武彦は懸命に自分を抑えた。
二人はタケルに続いて来た最後の警護兵を斃《たお》した。
タケルはただ一人になったわけである。無事に戻れる可能性はほとんどない。それがタケルの闘志を倍増させていた。
男具那は峯の上に跳んだ。男具那の顔から汗がしたたり落ちる。
七掬脛が駈《か》け寄った。
「十数呼吸の間、防げ」
男具那は冑《かぶと》をかなぐり捨てると、そのまま山林に入った。二、三十歩下では戦いが続いていた。上で守っているだけに男具那軍は有利である。それに兵力においてもタケル軍に優る。タケル軍は今一歩のところで峯の上まで攻められない。
「王子様、いかがなされました」
水沼君の隊長が部下とともに駈け寄って来た。
「タケルが来たなら、吾《われ》が甲《よろい》を脱ぐまで防げ、数呼吸の間だ、後ろの皮紐《かわひも》を解け」
二人の兵士が男具那の短甲の紐を解いた。男具那は甲を脱ぎ捨てた。
身体が勝手に跳びそうなほど軽くなった。途端に不思議なほど闘志が溢《あふ》れて来た。武術の鬼神が胸や腕に入り込んだような気がした。
七掬脛は槍を合わせているが、防ぐのがやっとである。男具那の命令もあり、タケルを斃す技はかけられない。これでは片腕だけで戦っているようなものだ。
男具那は槍を高々と上げた。
「吾はここじゃ、来い」
男具那は大声で叫んだ。
タケルの槍を転がって避けた七掬脛は、甲冑《かつちゆう》を脱ぎ捨てた男具那の姿を見て、
「王子様、危い!」
と叫んだ。
「なあに、この方が身軽だ、行くぞ」
男具那は槍を構えて突進した。
川上タケルは槍を振り廻した。凄《すご》い力で風が唸《うな》っているようだ。
「おぬしは阿呆《あほう》だ、疲れるばかりではないか、それ、もっと振り廻せ、阿呆|奴《め》」
男具那の侮蔑《ぶべつ》の言葉が通じたのか、タケルは張り裂けるほど眼を剥《む》き、咆哮《ほうこう》した。濃いタケルの鬚《ひげ》が下からの風にあおられたように逆立った。眼は雷光を放ったように閃《ひらめ》き、男具那を金縛りにしようとする。
男具那は間合を取り左に跳んだ。
タケルの槍は予期していたように男具那の背に向けられた。男具那は木の後ろに入り込んで避ける。木の樹皮が飛び、タケルは槍を手許《てもと》にたぐると男具那に迫る。
あれだけ振り廻していたのに、一瞬のうちに構えなおした槍|捌《さば》きには、ちょっとの狂いもなかった。ただタケルは汗《あせ》まみれだった。砦を襲って以来、呼吸を休める間がない。
タケルは木を楯《たて》にしている男具那と睨《にら》み合った時、荒い息を吐き肩をゆすった。
余力があるが疲れている、と男具那は視た。男具那は五尺(百五十センチ)ほど後ろに跳んだ。
タケルも跳び槍を突き出す。タケルの跳躍力は砦を襲った時より、心持ち衰えていた。それを計算に入れていた男具那は木のない右に跳ぶとタケルの胸めがけて槍を放った。
同時に刀を抜き、跳び込みざま男具那の槍を払ったタケルの槍を切断した。
今度はタケルの巨体が後ろに跳ぶ。だが甲冑を脱いでいる男具那の出足は速かった。それに甲冑を纏っているタケルの後ろへの跳びは彼が思ったほど距離が出ない。
男具那の返す刀がタケルの左の太腿に深々と突き刺さる。山をゆるがす絶叫とともに、タケルは右足に重心を移して剣を抜く。刀を戻した男具那はタケルの左側に跳んだ。男具那の鋭い突きがタケルの頸部《けいぶ》を狙《ねら》った。タケルは渾身《こんしん》の力を込めて男具那の刀を払ったが、右足に重心をかけていたため、剣の勢いが弱かった。
男具那の切っ先が顎《あご》の下を抉《えぐ》った。血を噴き出したままタケルは棒立ちになった。
「ヤマトの王子、お見事じゃ、この川上タケルを負かすとは、吾《われ》より強い男子《おのこ》がおられたのか……」
タケルの顔がみるみる蒼白《そうはく》になって行く。
「川上タケル、そちの武術は吾とは互角だ、吾が勝ったのは武術に知を加えたからじゃ、そちが弓矢を捨て、槍と剣で勝負を挑んで来たのを知り、吾は更に身軽になるため、甲冑を脱いだ、その分だけ吾は身の動きが速くなった、吾が勝てたのはそのためじゃ、そちが甲冑を捨てていたなら、日が暮れるまで勝負はつくまい、大変な腕じゃ」
「おう、ヤマトの王子様、黄泉《よみ》の国に参る吾にとっては、何よりの励ましのお言葉じゃ、礼を申しますぞ、吾はもう倒れる、この世を去る前にただ一つお願いがございます」
タケルはよろけ、剣で身体を支えた。
「吾が叶《かな》えられるものなら、叶えよう、申してみよ」
「降服の印として、タケルの名を王子様に捧《ささ》げたい、これから、ヤマトタケルと名乗っていただければ、吾は喜んで黄泉の国に参れます」
タケルは焦点の定まらない眼で男具那を見た。雷《いかずち》のような光はすでになく、力のない眼には縋《すが》るような思いが篭《こも》っていた。
「おう、川上タケル、そちの願い、間違いなく受けたぞ、これからの吾の名はヤマトタケルじゃ」
「王子様」
何かいいかけたままタケルの巨体は、地雷とともに地に転がった。
息を呑《の》んでいた部下たちは彼方《かなた》の阿蘇《あそ》山にまで響けと喚声をあげた。
男具那はサチを呼んだ。
川上タケルの巨体は微《かす》かに慄《ふる》えている。
「サチ、止《とど》めを刺せ」
サチは天と地に向って叫んだ。
「羽女様、川上タケルは負けました。私《わ》が止めを刺します」
サチは剣でタケルの首を貫く。タケルの周囲には血溜《ちだま》りができていた。身体中の血のほとんどが無くなっている。
だがサチが剣で貫くと、隠されていた血が噴き出した。凄《すさ》まじい生命力である。
男具那はタケルの首を刎《は》ねると、槍で貫き、峯の上に立った。
「川上タケルの部下に告げる、タケルは吾の手にかかり死亡した。死ぬ前に吾に降服し、タケルの名を吾に与えた、皆、武器を捨て降服せよ、殺しはしないぞ」
男具那の言葉は、峯の頂上近くで戦っていた敵兵の耳に聞えた。槍に刺されたタケルの首を見た敵兵はいっせいに武器を捨てた。
それはすぐ下の方の敵兵にも伝わり、半ば降服し、半ば死亡した。
男具那は、北九州軍が熊岳に攻撃を加え始めたのを見た。
男具那は槍に刺されたタケルの顔を見た。
「タケルよ、吾は大和に戻ったなら必ず、ヤマトタケルと名乗る、嘘《うそ》はつかぬ、ヒコやワケよりもずっと気に入っているぞ」
戦が終ったのを知ったのか、どこかに潜んでいた蝶が舞い、タケルの髪に止まった。その蝶が男具那の言葉を伝えたのかもしれない。タケルが微笑《ほほえ》んだのを男具那は感じた。
古代では、尊敬する人物と名前を交換したり、与えたりしたものだ。
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二十三
熊襲《くまそ》の長《おさ》、川上《かわかみの》タケルが男具那《おぐな》に殺されたことによって、同盟のキクチヒコ軍は総崩れになり、キクチヒコは男具那に服従した。
男具那は、勝利をオシロワケ王に知らせるため、使者として穂積内彦《ほづみのうちひこ》を大和《やまと》に遣わすことにした。
内彦は男具那の傍にいたがったが、男具那の命令なので従わざるを得ない。
男具那は内彦にオシロワケ王に伝える内容を詳しく説明した。
「オシロワケ王は吾《われ》の父だが猜疑《さいぎ》心が強い、故に宇沙《うさ》の賊を滅ぼした経過などから詳しく伝えるのだ、日向襲津彦《ひむかのそつびこ》は厚鹿文《あつかや》王を攻めているはずだが、襲津彦の一族は大隅《おおすみ》の厚鹿文王と縁戚《えんせき》関係を持っている、川上タケルが滅ぼされた以上、あまり反抗せずにオシロワケ王に服従するであろう、その程度の見通しは申し上げた方がよい、それと吾は川上タケルが死の前に申し出た土産を受け取ることにした、これからは小碓《おうす》も男具那もやめ、ヤマトタルケと名乗る、そのことも父王に申しておくように……」
内彦は分りましたと叩頭《こうとう》したが、上げた顔には困惑の表情が浮いていた。
男具那には内彦の胸中が手に取るように分る。男具那は澄ました顔を上に向けた。
「遠慮するな、いいたいことは申せ、今のうちだぞ、出発すればいえぬぞ」
男具那の声に内彦が咳払《せきばら》いをした。
「王子の正式の名は小碓で、通称は男具那王子でございます、ことに小碓王子の方はオシロワケ王が神託を得られてつけられた名前と聞いております、これを勝手にお変えになるのは、いかがかと案じる次第です」
「父王の機嫌が悪くなる、というわけか、タケルとは武勇の名前じゃ、それに対して小碓は穀物の神事に関する名前、吾は神事よりも武勇の方が好きだのう、まあ父王としては、蕃夷《ばんい》の首長の名をもらうとは何事か、と不快に思われるであろう、また勝手に名前を変えたことに腹を立てられる、そのことは吾にも分っておる、だが吾は軍事の将軍として西の果ての国に来た、生命《いのち》を賭《か》けてじゃ、吾は功績など望んでおらぬが、名前ぐらいは吾の好む名前に変えたい、ヤマトタケル、後の世まで残る名前だ、父王とは大和に戻って話し合う、そちは、大和に戻るまでに寄った国で、ヤマトタケルの名前を拡めよ、分ったか」
「王子、よく分りました、ヤマトタケル、まさに武勇の大将軍の名にふさわしゅうございます」
王子がそこまで考えて決断された以上、申し上げることはございませぬ、と内彦は熱い眼で男具那を見た。
「そうじゃ、ヤマトタケルじゃ、弟橘媛《おとたちばなひめ》にも申し伝えよ、媛《ひめ》も吾の身を案じているであろう」
と男具那は東の山々に眼を向けた。阿蘇《あそ》の噴煙は凄《すさ》まじく山々の空に拡がっている。
大和やその近辺では見られない山である。その噴煙はたんに勇ましいだけでなく、巨大な山が胸の思いを吐き出しているようで男具那は感動を覚えるのだ。
弟橘媛は内彦の妹である。
「表面は気が強うございますが、もろい面を持ち合せている女人です」
「その通りじゃ、吾の妃《きさき》にふさわしい女人だ、そう伝えよ、そちの口から聞けば喜ぶであろう」
「王子のお気遣い、吾からも御礼申し上げます」
「内彦、行く前にヤマトタケルと呼べ」
「はっ、ヤマトタケル王子、やつかれはこれから大和に参ります」
といって内彦は頬《ほお》を紅潮させた。
男具那は倭建《やまとたける》と名乗るようになった。
このことはタケルの部下のみならず、戦に参加した水沼県主《みぬまのあがたぬし》を始め北九州の首長に伝えられた。
タケルだけなら違和感を抱いたかもしれないが、倭建となると印象が変った。
北九州の首長や兵たちは、勇猛さで恐れられた熊襲のタケルを殺したヤマトのタケルと改めて畏敬《いけい》の念を抱いたようだ。
人々はヤマトのタケルが熊襲のタケルを殺した場面を実際に見たように話した。人々の口から口へと伝わる度に話は大きくなる。
襲って来た川上タケルの身体に一丈(約三メートル)の翼が生え、宙に浮いた。川上タケルの口に獰猛《どうもう》な獣にも似た牙《きば》が剥《む》き出ており真上から大和の王子を攻撃した。途端に王子の身体から眩《まぶ》しい光が放たれ、川上タケルは眼が眩《くら》んで地に落ちた。すかさず王子は刀を抜き川上タケルを八つに斬《き》った。
川上タケルの首が飛んで来て王子の前に転がり、自分の名を差し上げるといい、息が絶えた、という。
これは一例である。別な噂《うわさ》では、川上タケルが十丈の蛇に変身し、大和の王子を襲ったにもかかわらず王子は金色の鳥になって空に飛び、舞い降りると大蛇の両眼を刀で突いた。大蛇は苦しみながら川上タケルに変り、刀を振り廻《まわ》したが眼が見えないので空ばかりを切る。
王子が刀を振り上げると、川上タケルは地に這《は》いつくばり、
「斬られる前に吾の名を大和の王子に差し上げたい」
と申し出て斬られたという。
話す者も、最初は作られたものだろうと想像しているが、ひょっとすると本当のことかもしれない、という思いもあった。古代はそういう時代であり、ひょっとすると、という部分に熱が入る。
いつの間にか噂は真実のでき事として北九州に拡がった。
倭建は水沼県主の屋形で十日以上滞在し戦の疲れをいやした。
伽《とぎ》の女人と夜を共にしながら戦死した羽女の面影をしのんだ。
ほとんど身体の回復した葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》も倭建と再会した。宮戸彦は倭建と会うと地に伏し、男泣きして王子の勝利と無事を喜び、自分の不始末を詫《わ》びた。
「誰でも失敗することはある、あまり自分を責めるな、女人に騙《だま》され、生命を落しかけるなど宮戸彦らしいではないか」
と倭建は哄笑《こうしよう》した。
実際宮戸彦の顔を見ると、おかしさが先に立ち、責める気になれないのだ。
倭建を始め部下たちは充分休養を取った後、船で筑後《ちくご》川をさかのぼり現在の久留米《くるめ》あたりから夜須《やす》に出た。
夜須で二泊した後、山を越えて遠賀《おんが》川の上流に出た。現在の飯塚《いいづか》市である。
一行が豊前《ぶぜん》の小倉《こくら》に着いたのは、水沼県主の屋形を出てから六日目だった。急げば三日間の距離だ。当地の首長は勝碕県主《かつざきのあがたぬし》だった。
倭建は行く先々で、その地の首長の歓迎を受け、のんびりと旅を愉《たの》しみながら進んだのである。
馬に乗っているのは倭建一人だった。
ただ夜須に泊まった時、その地の首長が馬を持っているのを知った。首長は、馬のことを隠していたのだが、倭建の馬を見て、自分も馬を持っていると告白したのだ。
首長の話では、朝鮮半島南部の伽耶《かや》国には騎馬の集団があるようだった。
「伽耶国と交流のある北九州の首長の中にも、馬を持っている者がかなりいます」
「そうか、これからは馬の時代になる、馬は重要じゃ、そちは伽耶国に行ったのか?」
「やつかれは行っておりませぬ、この馬はやつかれの部下が交易で求めましたものでございます」
倭建はそれ以上のことを訊《き》かなかったが、騎馬の集団については、もっと知りたい、と思った。
倭建が小倉に到着したのを知り、遠賀川流域の首長たちが勝利の呪いを述べるために集まった。
五人中、三人の首長が馬を持っていた。さいわい直方《のうがた》の首長は五年前に伽耶国に行っていた。
伽耶国は武術の国で鉄刀が多く、馬を飼い、武人の隊長は馬に乗っている、と話した。
「王子様も御存知のように、遠い昔から我々の祖先は伽耶国に渡り交易していました、なかには伽耶国の女人を妻にし、そのまま彼《か》の地に住んだ者もかなりいます、故に我々の言葉も通じるし、友好的です」
「夜須の首長は騎馬の集団もいるらしいと話していたが……」
「そういう噂はやつかれも聞きましたが、この眼では見ておりませぬ、しかし、飼っている馬も含めると、百頭前後、またそれ以上の馬がいることは間違いございません」
「馬に乗った者同士の戦いともなれば刀より槍《ほこ》の方が役に立つのう」
「はあ、その点はどうも」
直方の首長は困惑したように眼を伏せた。
倭建は、乗馬に熟達し、武術に優れた者はいないか、と訊いたが、集まった首長たちは小首をかしげるだけだった。
別に隠している様子はない。
今のところ首長たちは、馬は権威、権力の象徴で、戦とはあまり関係がない、と思っているようだ。
戦での馬の威力が認識されていないのは、やはり山での戦いに役立たない、と考えられているせいであろう。
だが兵が山に篭《こも》っている間に、騎馬の集団は田畑を荒らし、倉庫の穀物を奪ってしまう。山に篭るのは飽く迄《まで》平野や低い丘陵地帯を進撃して来る敵を待ち伏せて撃つためである。篭るだけなら敵は山を攻めたりはしない。穀倉地帯を占領した後、引き返すか、そのまま居座り歳月をかけて退治しようとする。
倭建はそれを口にしなかった。今、そういうことをいえば、大和の王子は、馬を恐れている、本当に川上タケルを殺したのだろうか、と疑われてしまう。
そのことは充分承知していた。
小倉には数日滞在することになった。吉備《きび》の兵を乗せる船も調達しなければならないからだ。
季節は旧暦七月下旬、もう夏は終ろうとしている。
倭建の一行は海で泳いだ。一番の泳ぎ手は吉備武彦《きびのたけひこ》である。武彦は童子時代吉備の海でよく泳いだらしい。宮戸彦や久米七掬脛《くめのななつかはぎ》も泳げるが得意ではない。石占横立《いしうらのよこたち》を始め弓の名手たちは海につかるぐらいである。
丹波猪喰《たんばのいぐい》は波の荒い丹後《たんご》の海で泳いだこともあるし、かなり泳げる。ただ仲間たちとあまり喋《しやべ》らない猪喰は四半刻《しはんとき》(三十分)も泳ぐと衣服を纏《まと》い砂浜に横たわってしまった。
宮戸彦や武彦が海から、
「おい、共に泳ごう、眼の前に長門《ながと》の山を眺めながら豊《とよの》国で泳ぐなど、もう二度とないぞ、一生の思い出ではないか」
と声をかけるが猪喰は叩頭《こうとう》するだけである。困り切ったような叩頭に猪喰の気持が表われている。
倭建はかつて、三輪《みわ》の王朝に一矢むくいんと音羽《おとわ》山に篭っていた丹波森尾《たんばのもりお》を斃《たお》した。彼はオシロワケ王との勢力争いに敗れたイニシキノイリヒコ王の警護隊長だった。猪喰は森尾の孫である。
倭建の武術やその人間的な魅力に惹《ひ》かれ、奴《やつこ》として仕えるようになったが、倭建の部下としては最も新参者であり、異質な存在だった。
葛城宮戸彦や吉備武彦は、信頼できる倭建の部下であると同時に、三輪王朝に匹敵する有力氏族の出身である。
宮戸彦や武彦がいくらおおらかに手を差し伸べても、素直には入れないものが猪喰にはあった。いってみればそれが自然なのである。だが豪快な性格の宮戸彦などは、自然に生きている猪喰に屈折したものを感じ、何とか自分たちの仲間に入れようとする。
たぶん、猪喰にとっては有難迷惑に違いなかった。
倭建には両者の気持がよく分る。
ただ猪喰は志願して倭建の部下になった。部下になった以上は、努力して宮戸彦たちに溶け込んでもらいたい、という気持はあった。
「戦に勝ち、倭建となられた王子の部下にしては、影を引いている男子《おのこ》ですなあ、ことに陽に映える波が金、銀のように煌《きら》めいているという日なのに」
と宮戸彦が砂浜の猪喰に眼をやった。
潜っていた武彦が海面に顔を出した。手にした貝を宮戸彦の下帯に入れた。
宮戸彦は倭建が初めて耳にしたような悲鳴をあげると、下帯に手を突っ込み貝を取り出した。その悲鳴は獣に襲われた時の女人の絶叫に似ていた。
「武彦、許さぬ」
顔を真赫《まつか》にした宮戸彦は、恐ろしいもののように貝を投げ捨てると武彦に襲いかかった。武彦は海に潜った。宮戸彦の手は空《むな》しく武彦の背を掻《か》いてしまった。
「どこに行った、顔を出せ」
宮戸彦は大声で喚《わめ》きながら周囲を見廻《みまわ》す。武彦は十歩以上も離れた沖に顔を出した。
「宮戸彦、ここじゃ」
からかうように腕を振った。
これでは到底手に負えないのだが、負けん気の強い宮戸彦は、
「武彦、逃げるなよ」
と怒鳴り沖に向って泳ぎ始めた。
倭建は苦笑しながら二人を眺めた。
武彦は唖然《あぜん》とした顔で近づいて来る宮戸彦を眺めていたが、舌を出し海中に消えた。
宮戸彦はいたずらに喚《わめ》くだけである。
武彦は海では宮戸彦を翻弄《ほんろう》した。
いつの間にか猪喰は波打ち際に立ち、海を眺めていた。
宮戸彦と武彦の争いに似た戯れを見物しているにしては猪喰の眼は鋭過ぎた。
武彦が倭建の傍まで潜って来た。
「王子、宮戸彦は疲れ果ててしまいます、海での疲労は危険です、宮戸彦はそのことを知りません」
と武彦は荒い息を吐きながらいった。
「そちもいたずらが過ぎるぞ」
「申し訳ありませぬ、あそこまで頭に血が昇るとは考えてもいませんでした」
宮戸彦が泳いで来た。
「武彦、卑怯《ひきよう》だぞ、王子に哀願したな」
「おぬしが溺《おぼ》れぬよう、忠告していただこうと思ったのじゃ」
「何だと、許さぬ!」
喚いた途端に宮戸彦は海水を呑《の》み込み激しくむせた。
「宮戸彦、大丈夫か……」
武彦が不安そうに近づいた。
宮戸彦は何か喚こうとし、また海水を呑み込んだ。
武彦は真剣な表情で腕を差し出した。
「宮戸彦、吾《われ》の腕を掴《つか》め、吾が悪かった」
宮戸彦は武彦の腕を無視し、口を閉じると飛沫《しぶき》をあげながら背の立つところまで泳いだ。久米七掬脛も心配してやって来た。
倭建は泳ぎながら、海を馬鹿にしてはならない、と感じた。そういえば朝は鏡のようだった海はいつの間にか蠢《うごめ》き始めていた。波が出、浜辺にゆっくりと打ち寄せている。
倭建は背の立つところまで戻ると二人を呼んだ。
「海での戯れは注意しなければならぬ、武彦も戯れが過ぎたが、宮戸彦も吾を忘れた、遊びの場なのに、吾に不安を抱かした罪は深い」
倭建の口調は激しいが眼は笑っている。
「王子、申し訳ありませぬ」
二人は同時に叩頭した。
「二人とも、浜辺で少し休め、吾はまだ海から離れ難い」
「王子をお一人にするわけには参りませぬ」
と二人は叫ぶ。
「何を申すか、吾を忘れて戯れておったくせに、勝手なことを申す罰じゃ、四半刻《しはんとき》、休め」
二人は叩頭したまま動かない。
「好《い》い年齢《とし》をして童子のようだな、仕方がない、背の立つ場所でゆっくり泳ぐか、そちたちは童子のように戯れておれ」
「もう戯れませぬ」
二人は救われたような声を出した。
倭建は猪喰の眼が気になった。猪喰は相変らず海を睨《にら》んでいる。視線の先に漁師の小舟があった。そういえば潮に流されているのか、かなり岸に近づいていた。
倭建たちが海に入った頃はもっと沖にいた。だから気にならなかった。それに陽が真上に昇り、ほとんどの舟が戻っているのにその舟だけが残っている。
「漁師が乗っていないようだな」
と倭建が呟《つぶや》いた。
「乗っていないようです、もし乗っているとすれば舟底に伏せています」
「舟底に……」
と宮戸彦が鸚鵡《おうむ》返しに呻《うめ》いた。
顔の海水と汗を腕で拭《ぬぐ》うと炯々《けいけい》とした眼で猪喰を睨んだ。口には出さぬが、何をいおうとしているのだ? といわんばかりである。倭建は手で宮戸彦を制した。
「伏せているとすれば、怪しい者ということになる、もし空舟となると……」
「二つの理由が考えられます、一つは遠くから流れてきたということです、今一つは舟の艫《とも》に掴まり身を隠しているか、綱で身と舟を結び流れて来ている、と推察できます」
猪喰の口調は淡々としているが、自分の意をはっきり述べていた。遠くから流れて来た空舟なら問題はないが、そうでない場合は一見空舟であっても用心せねばならない、といっているのだ。
「よし、石占横立《いしうらのよこたち》を呼べ」
と倭建は武彦に命じた。
少し離れた場所で見守っていた横立はすでに歩き始めていた。
「石占横立、そちは他の二人とともに矢の届くところまであの舟が流れて来たなら、矢を放て、たぶん、空舟とは思うが警戒心は必要じゃ」
倭建の命令に、弓の名手たちは弓矢を取りに砂浜を走った。
倭建たちは衣服を纏《まと》った。
潮の流れは速く、四半刻《しはんとき》もたたぬうちに小舟は近づいて来た。弓の名手たちは次々と矢を射た。十数本の矢が小舟に刺さる。数本は小舟の中に吸い込まれるように落ちた。舟底に伏せている者がいたとしても、降って来るような矢を避けることはできない。
「誰もいないようだが、浜の傍に来るまで近寄るな」
と倭建は命じた。
矢の刺さった小舟は間もなく浜辺の傍まで流れて来た。空舟だが艫の舵《かじ》はついたままだ。それに櫂《かい》が二本舟底に横たわっている。倭建は武彦に櫂を調べさせた。二本共、たっぷり海水を吸い込んでいた。波《なみ》飛沫《しぶき》で濡《ぬ》れたものではない。
「間違いなく人が二人乗っていました」
と武彦は顔を歪《ゆが》め、怪しい者を探す眼で海を睨んだ。
「ではどこに消えたのだ、海に潜ったままということはあるまい」
と宮戸彦が腹立たし気に叫んだ。
倭建は右手の岩場に眼を注いだ。百数十歩ほど先に岩床が海に突き出ている。松が岩場の傍まで生えている。左手の方も砂浜は松林で遮断されているが三百歩ほど先だ。
もし怪しい者が倭建たちの警戒に気づき、舟を捨てたとしたなら、辿《たど》り着くのは右手の岩場である。
「王子、参ります」
宮戸彦は倭建が頷《うなず》くのを見ると走り始めた。武彦も後に続いた。二人は海で戯れている間に、沖の小舟が近づいて来ていることを見逃した。二人ともそれを恥じており、何が何でも自分たちが怪しい者を捕えたい、と念じていた。
倭建は石占横立にも、二人を追うように命じた。
倭建の傍に残ったのは七掬脛と猪喰だった。
倭建も人が乗っていたに違いない空舟を見て、自分を狙《ねら》っている者がいることを強く認識した。
水沼県主らと勝利を祝い、豊前の港に来るまで、倭建は北九州の首長に歓待され続けて来た。
皆、大和の王子の武勇を褒め称《たた》え、これ以後、大和の王朝に服従し協力する、と誓った。もともと北九州の諸国は、卑弥呼《ひみこ》の宗族である台与《とよ》が大和に遷《うつ》る前は邪馬台《やまたい》国に服従していたのだ。
台与王が大和に遷ってから、服従度が曖昧《あいまい》になったが、倭建の勇猛さに、改めて連合国家内における服従を再認識したのである。
倭建は歓迎の宴に酔っていたといってよい。
吾は大和にいた時よりも自分を忘れていたな、と倭建は反省した。
考えてみれば、敗れたキクチヒコが暗殺者を差し向けるのは当然のことではないか。川上タケルの忠臣が暗殺者になったかもしれない。
ただ川上タケルは、自分の名前を大和の王子に捧《ささ》げた。それは川上タケルが、心から王子を畏敬《いけい》し、服従したからである。
川上タケルの部下はそれを知っている。王子を討つことは、主君である川上タケルを裏切ることになる。
やはりキクチヒコが派遣した暗殺者と考えた方が妥当である。
宮戸彦が駈《か》けて来た。
「王子残念です、岩場に這《は》い上がった一人は、刀子《とうす》で喉《のど》を突き、自ら生命を断ちました、今一人は現われませぬ」
「うむ、岩場に泳ぎ着くまでに力がつきたのかもしれぬのう、ほとんど潜っていたのじゃ、普通に泳ぐよりも疲労は酷《ひど》い」
倭建は岩場に行った。
岩場の傍の浜に男子《おのこ》は倒れていた。下帯一枚という姿だった。顔を始め全身に入れ墨をしている。全身の入れ墨は海人に多い。七掬脛は顔だけである。
台与王が大和に遷った際、九州各国の武人も台与王に従った。ほとんどが入れ墨をしていた。ことに水軍の海人族の入れ墨は全身であった。それ以後、入れ墨の風習は大和周辺にも伝わったが、もとは九州を始め黒潮の流れに面した場所の海人がしていたのだ。彼らは中国の江南《こうなん》および東南アジアから黒潮に乗り、倭《わ》列島に着いた人々である。
喉を突いた刀子は下帯にはさんでいたのであろう。事が成らずに死ななければならない男子は、無念の形相だった。
「この地の首長に身許《みもと》を調べさせよ、その後は土に葬るように、武勇の士だ」
倭建は何となく首を横に振った。
宮戸彦と武彦が猪喰の傍に寄り、
「よくぞ見破ったのう、立派じゃ、我らは少し浮かれ過ぎていた」
と頭を掻《か》いた。
「とんでもございませぬ、吾《われ》も戯れたいのが本心です、ただ寒い国で育ったせいか、祭りでも騒げませぬ、自然、性格が暗くなり警戒心ばかりが先に立ちます、褒められたりすると、穴があれば入りたい心境になる、どうか吾のことは忘れられよ、今日はたまたま浜で海を眺めていたせいです」
実際猪喰は困惑したように身を縮めていた。倭建は手を振った。
「もうやめよ、吾が気をゆるめていたせいじゃ、交替で海を見張らせることを忘れていたのだ、済んだことは口にするな」
倭建は一喝した。
屋形に戻る途中、騒ぎを耳にした勝碕県主が部下を率い、血相を変えてやって来た。倭建に万が一のことがあれば、責任を負わねばならない。倭建は簡単に状況を説明し、できる範囲で身許を調べるように命じた。
その夜は伽の女人も断り、倭建は一人で寝ることにした。隣の部屋には部下たちが交替で警護に当っている。
珍しく倭建は寝苦しかった。
やはり昼の事件で神経が冴《さ》えていたからであろう。それは恐怖というよりも、浮かれていた自分への憤りが主だった。
たぶん倭建は、これからも生命を狙われるに違いない。それは他の王子と異なり、軍事将軍として敵を斃《たお》し続けねばならない倭建の運命だった。倭建が武勇の将軍であればあるほど、倭建を狙う敵が増えるのだ。
倭建は大和にいた時から生命を狙われた。狙ったのは筑紫物部《つくしもののべ》だった。
倭建は河内《かわち》に来ている筑紫物部の屋形を襲い、彼らを殺した。
それ以来、河内の物部も三輪の王朝に服従している。もともと河内の物部は、イクメイリビコイサチ王(垂仁《すんじん》)の長子であるイニシキノイリヒコ王とオシロワケ王の王位争いに際し、オシロワケ王に味方した。
イニシキノイリヒコ王の母は丹波《たんば》のヒバス(比婆須)媛《ひめ》だが、オシロワケ王の母がヒバス媛かどうかははっきりしない。
一応ヒバス媛ということにはなっているが、真相は薮《やぶ》の中に入ったようで分らない。イクメイリビコイサチ王の後宮には数え切れない女人がいて王の子を産んだ。
また一部に、ヒバス媛が産んだ王子は、後宮の女人が産んだ王子と分らぬようにすり換えられた、という噂《うわさ》もあったようだ。それがオシロワケ王というのである。
兎《と》に角《かく》、オシロワケ王は王位争いに勝ち、王となった。その結果、反オシロワケ王派は、殺されるか追放される。
今は、オシロワケ王の出自について口にする者はいない。
倭建は、オシロワケ王の自分を見る眼が冷たいので、自分の父は本当にオシロワケ王なのか、と何度も悩み疑った。母の故郷である播磨《はりま》の印南《いなみ》を訪れ調べたことがあった。母には好きだった武人がいたようだ。
だがその武人が、倭建の父だという証拠はない。
ただ今でも倭建は、父王に対し、本当の父という親愛の情は湧《わ》いていない。
寝つけないまま輾転《てんてん》としていた倭建は、厠《かわや》で用を足した。武彦の部下たちが屋形を守っている。
倭建は一人で夜の浜に出たかった。浜に打ち寄せる波の音に倭建の血が騒いだ。昔なら警護の眼を誤魔化し外に出ている。そういう行為に快感を覚えたものだ。
だが今はそれができない。倭建が抜け出たことを知った時の部下の気持を思いやるからだ。
倭建は窓から外を眺めた。月は淡く樹木さえもはっきりしない。
倭建は垂れている麻布を捲《まく》った。宮戸彦が眼を剥《む》いて坐《すわ》っている。
「王子、何か?」
「そちが警護か、吾は外に出る、武彦も七掬脛も起こすな、静かについて来るのじゃ」
「はあ、しかし……」
「嫌なら走り出すぞ、この暗闇《くらやみ》じゃ、まず見失うぞ」
倭建は素早く衣服を纏《まと》い、刀を吊《つる》した。部屋も暗闇だが、衣服は着る順番に寝具の傍に畳んで置かれている。火打石で灯などつける必要はない。
低い階段の上に立つと無造作に跳び降りた。着地した際もほとんど音は立てなかった。
倭建たちが泊まっているのは勝碕県主の別荘といってよい屋形だが、周囲はやはり壕《ほり》で囲まれている。外に通じる陸橋的な道には警護の兵がいた。倭建の部下もいれば勝碕県主の部下もいた。
倭建の部下が松明《たいまつ》の明りで確認し、驚いて叩頭《こうとう》する。
「少しの間だ、心配は要らぬ」
倭建は兵たちの労をねぎらい、松林を通り浜辺に出た。後から付いて来る宮戸彦に、十歩ほど離れるように告げた。
晴れた夜で、見事なほど星が煌《きら》めいていた。後ろだけではなく、左右にも人の気配がした。
皆、倭建の身を案じているのだが、これでは何のために暗闇の浜に出て来たのか分らない。倭建は一人で砂浜に横たわり星空を眺め、心身を休めたかったのだ。部下たちが警護していると思うと無心の境地にはなれない。
だが考えてみれば、これは倭建の運命かもしれなかった。オシロワケ王の王子としてこの世に生を得た以上、警護され、見守られるという運命から逃れることはできないのだ。
問題はその運命の中で、どのように自分を活《い》かして行くか、である。
夕方強まっていた風はおさまり、浜辺に打ち寄せる波の音も穏やかだった。
倭建を狙った曲者《くせもの》が何人かは分らないが、舟には二人いた。二人だとして、一人は自害したが一人は逃れた。仲間を殺された曲者が、倭建の暗殺を諦《あきら》めるとは思えなかった。
今も、浜辺のどこかで倭建を見張っているかもしれないのだ。
倭建は無性に曲者を捕えたかった。曲者が何者か、正体を知りたかったのである。
そのためには、隙《すき》を作らねばならない。
「戻るぞ」
と倭建は見えない部下たちにいった。
翌日、勝碕県主が屋形を訪れ、この周辺に曲者を知っている者はいない旨を伝えた。
ただ海人の話によると、曲者の入れ墨は北部九州のものではない、という。海人の一人は、東方の海人のような気がする、といったが確信はないらしい。豊前の海人がいう東方は瀬戸内海《せとないかい》である。
倭建は吉備武彦を呼び、海人の部下たちに遺体の入れ墨を見せるように、と命じた。
一|刻《とき》(二時間)後、武彦は緊張した面持ちで戻って来た。
吉備の水軍に属している海人のうち二人が、伊予《いよ》の海人の入れ墨に似ている、と告げたらしい。もちろん、断言はしていないが、二人のうちの一人は舟長《ふなおさ》だった。
伊予はいうまでもなく四国の西部で瀬戸内海に面した地方である。
倭建は腕を組んだ。勝碕県主の部下の返答とを考え合わすと、ほぼ間違いないような気がする。だが、なにゆえ、伊予の海人が倭建を襲ったのか。
考えられるのは、キクチヒコと何らかのつながりがあった、ということぐらいだ。ただその場合は豊後《ぶんご》(大分県南部)と通じなければならない。そういえば、豊後は三輪の王朝に対しあまり服従していない。どちらかといえば独立的である。それなら豊後の海人がキクチヒコの依頼で倭建を襲うべきで、伊予の海人というのは奇妙だった。
倭建は今一度曲者に自分を狙《ねら》わせるには、隙が必要だと思っている。
倭建は部下たちを集め、自分の考えを述べた。そのためにも倭建は一人で釣り舟に乗らねばならない。
「そちたちも漁師の姿で舟に乗れ、吾の舟にあまり近づくな、これは命令だ!」
と倭建は語調を強めた。
命令だといわれた以上、宮戸彦たちも服従せざるを得ない。
倭建は勝碕県主に、明朝早く釣りをするので、釣り舟を数|艙《そう》用意するように命じた。
勝碕県主は、倭建に対して敵意は抱いていないようだが、その周辺に倭建を狙う人物が潜り込んでいる可能性は強い。倭建たちが海で遊ぶ日も前日から分っていたからだ。
勝碕県主は危惧《きぐ》の念を表明し、今、二、三日の自重を申し出たが、倭建は、一人や二人に狙われようと蚊に刺されたほどの痛みもない、と破顔一笑した。
「舟には魚を釣る道具や餌《えさ》を積んでおいてもらいたい、愉《たの》しみじゃ、どこがよく釣れる?」
倭建の表情や声には、魚釣りに対する愉しみが溢《あふ》れていた。
勝碕県主は、岩場の沖は、海底に岩が多く、鯛《たい》などが釣れる旨、答えた。
翌朝、ようやく東の空が微《かす》かに白み始めた頃、倭建は部下とともに数艘の舟に乗り岩場の沖に向った。
倭建の舟を漕《こ》ぐのは武彦の部下の海人だった。艫《とも》の櫓《ろ》を左右に動かしゆっくり舟を進める。間もなく岩場の沖に到着した。
「釣るぞ、一番の大物を釣った者には吾《われ》が褒賞を出す」
と倭建ははずんだ声でいった。
宮戸彦たちは苦々しい顔である。太い鉄の釣り針にマムシと呼ばれている虫餌《むしえ》をつける。
当時の釣り針は、現代のものよりもずっと太いが、魚は信じられないぐらい豊富で、警戒心がない。天候と潮さえよければよく釣れるのだ。
糸を海底に下ろした途端、釣り針にかかった魚の震動が心地好く伝わって来た。引き上げる途中も何度も踊るように引く。色の鮮やかな八寸(二十四センチ)ぐらいのカサゴだった。ガシラともいう。
四半刻《しはんとき》の間に、カサゴを数匹、小鯛を三匹、他にベラやキスなども釣った。
舟を漕いでいる海人が、
「王子様はお上手です」
と褒める。
お世辞は大嫌いだが、海人のはお世辞ではない。
倭建は、曲者に狙われていることなどほとんど忘れていた。舟子は潮の流れに従って舟を漕ぐ。ある距離まで来るとまた岩場の沖に舟を戻す。
指にかけていた釣り糸が、信じられないほど強い力で引っ張られた。倭建は、海中に潜んでいた曲者が引っ張ったような錯覚に、思わず糸を離した。糸を巻いている竹筒が宙に飛んだ。倭建は海に落ちる寸前で竹筒を掴《つか》む。糸がゆるんでいた。切られたのかと舌打ちしてたぐると、再び手が痺《しび》れるほどの力で引いた。大魚に違いない。
「王子様、大物でございます」
と海人がいった。
頷《うなず》きながら倭建は懸命に、釣り針を喰《く》いちぎろうとする魚と闘った。相手が引いている時にこちらがたぐれば糸が切れるのは間違いない。相手を弱らせるためには、相手が気を抜いた時素早くたぐらねばならない。相手が暴れたなら糸をゆるめてやる。大魚と格闘しながら、これは武術仕合と同じだな、と倭建は思った。
やっとの思いで釣り上げたのは、三尺(九十センチ)に近い真鯛だった。
海に顔を出したばかりの朝陽に、真鯛の鱗《うろこ》の一枚一枚が煌めく。
倭建は感動した。喉《のど》の渇きに竹筒の水を一気に飲んだ。口には出せない爽快《そうかい》感に叫びたくなった。
間もなく倭建は部下たちに命令し、浜辺に戻った。
身体を海に沈め、岩場にへばりつくようにして隠れていた二人の曲者が潜って倭建に近づいて来た。呼吸をすべく顔を上げたのを武彦が見つけた。
「王子、曲者ですぞ」
武彦の言葉が終らないうちに倭建は刀を抜いて身構えた。二人は人相も分らないほど顔を墨で塗っていた。
「殺すな、捕えよ!」
と倭建は叫んだ。
倭建には余裕があった。曲者が手にしているのは刀子《とうす》である。それでは倭建を斃《たお》すのは無理だ。数歩まで迫って来た曲者の一人が跳んだ。倭建は動かなかった。宙を飛んで来る曲者の頭部を刀の峯《みね》で叩《たた》いた。鈍く重い手応《てごた》えがした。峯打ちが強過ぎ、砂浜に落ちた曲者は頭部を割られて息絶えていた。伸ばした曲者の刀子は、倭建の上衣《うわぎ》をわずかに裂き足許《あしもと》に転がった。今一人は宮戸彦の峯打ちを肩に受け、横転した時、刀子で自分の喉を突いた。初めから死ぬ覚悟の刺客だった。
無念がる宮戸彦に倭建はいった。
「宮戸彦、これからは何度か、こういう曲者に襲われるに違いない、その時、生きたまま捕えればよいのだ、もう気にするな、久米七掬脛」
倭建に大声で呼ばれ、七掬脛が蹲《うずくま》った。
「吾《われ》は三尺の鯛を釣ったぞ、そちの最高の腕を見せよ、腹が鳴って仕方がない、もちろん皆に分けるぞ」
「心得ました、刺身に煮つけ、おう、それに鯛飯も……唾《つば》が出ますわい」
七掬脛は倭建が釣った三尺の鯛を頭上に差し上げた。あまりの素晴らしさに部下たちは喚声をあげた。
これでよいのだ、と倭建は自分に頷いた。たぶん倭建の人生は緊張と感動の連続であろう。のんびりと生を味わう日などあまりないような気がする。
吾は神が与えた人生を精一杯享受する、と倭建は胸を張った。だが倭建が唇を噛《か》み締めたのは、それが悲壮な生き方につながりかねないことを漠然と予感したからだった。
本書は、平成六年五月刊の小社単行本『白鳥の王子 ヤマトタケル―西戦の巻(下)―』を文庫化したものです。
角川文庫『白鳥の王子 ヤマトタケル―西戦の巻(下)―』平成13年11月25日初版発行