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白鳥の王子 ヤマトタケル
西戦の巻(上)
黒岩重吾
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〈主要登場人物〉
倭男具那《ヤマトノオグナ》――本名、小碓《オウス》。後のヤマトタケル。オシロワケ王と播磨稲日大郎姫《ハリマノイナビノオオイラツメ》との間に生まれた大和国の王子。武勇と優しさをあわせ持ち、人々に慕われている。
オシロワケ王(景行帝)大和の三輪王朝の王。男具那《オグナ》の父。
八坂入媛《ヤサカイイリビメ》――オシロワケ王の妃。男具那の母の死後、皇后のようにふるまう。
倭姫《ヤマトヒメ》王―――オシロワケ王の妹で男具那の叔母。巫女的女王。
弟橘媛《オトタチバナヒメ》―――男具那が最も愛する妃となる巫女的能力を持つ美少女。
葛城宮戸彦《カツラギノミヤトヒコ》―男具那を慕い、行動をともにする巨漢の部下。
穂積内彦《ホヅミノウチヒコ》――宮戸彦らとともに男具那を護る部下の一人。弟橘媛の兄。
吉備武彦《キビノタケヒコ》――男具那とともに生きることを誇りとし、熊襲征伐に同行。
久米七掬脛《クメノナナツカハギ》―祖は九州。熊襲の血も入るが、男具那に仕えて熊襲征伐に同行。
日向襲津彦《ヒムカノソツビコ》―日向出身で熊襲の血が流れているが、男具那に同母兄のような愛情を抱く。熊襲征伐副将軍。
丹波猪喰《タンバノイグイ》――丹波森尾の孫。男具那に心酔し、熊襲征伐同行を願い出る。
羽女《ハネメ》――――宇沙王族の女人剣士。兄の仇、鼻垂討伐のため男具那に同行を願い出る。
土鳴《ツチナリ》――――宇沙軍団長。羽女とともに男具那に同行を願い出る。
国前《クニサキ》王―――九州国東半島の首長。男具那より征東将軍に任じられる。
神夏磯媛《カムナツソヒメ》――豊前宇沙の女王。(巫女的女王の子孫)
鼻垂《ハナタリ》――――宇沙の賊長。鼻の大きな大男。
耳垂《ミミタリ》――――宇沙地方の賊。耳が大きい。
川上建《カワカミノタケル》―――狗奴国・熊襲の首長。勇猛な巨人。
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一
二十代の半ばになった倭男具那《やまとのおぐな》(後のヤマトタケル)の人望は、王子中随一で、王族を始め、三輪《みわ》王朝を支える有力豪族は、オシロワケ王(景行《けいこう》帝)の跡を継ぐ王子は、男具那以外にはない、と考えていた。
今では男具那の武術、学識はどの王子よりも優れているが、男具那に人望があるのは、人間の器が大きいことだった。
男具那とは童子という意味だが、男子《おのこ》らしい、男子の中の男子、という意味もある。
男具那に会った者は大抵、男具那の魅力に惹《ひ》かれる。
当時は一夫多妻制だから、王子は何人もの妃《きさき》を持つが、男具那の妃になりたい、と望む女人は多い。
正妃は垂仁《すいにん》帝の王女、フタジノイリヒメ(両道入姫)だったが、三年前に帯中津彦《たらしなかつひこ》王を産むと間もなく亡くなった。
その頃、十六歳になった弟橘媛《おとたちばなひめ》を妃とし、今は彼女を最も愛していた。弟橘媛は、美貌《びぼう》で感性が豊かで、巫女《みこ》的な能力も備えていた。
他にも何人かの妃がいるが、地方豪族との政略的な婚姻だった。
ただ血のつながっている吉備《きび》氏の女人、大吉備建比売《おおきびたけひめ》には、妹に似たような愛情を抱いていた。
残念なのは妃になって三年にもなるのに、弟橘媛が身篭《みごも》らないことである。
男具那が時々、
「そなたが産む赤子を早く見たい」
というと、弟橘媛は申し訳なさそうに叩頭《こうとう》するが、
「王子、御心配なさらないで下さい、私《わ》は産む時は産みます」
ときっぱりといい、自信有り気である。
男具那が不思議そうに、
「何故、今は産まないのか?」
と訊《き》くと、弟橘媛は羞《はじら》うように、
「今の私は、王子の愛を一身に受けたいのです、子を産めば、王子の愛は私と子とに分かれます、妃になって三年、せめて五年間は、王子の愛を女人としての私に受け、私も一人の女人として王子を愛したいのです」
と自分の気持を説明する。
妃になりながら、そのような我儘《わがまま》なことを口にする女人など、当時にはいない。
男具那のような有力な王子の妃になると、早く子を産まなければならない、という義務感が生じる。
王子が大勢の女人を妃にするのは、子を産ますことによって、女人を出した氏族との関係を強め、勢力を拡げる、という目的のためである。
様々な氏族の女人と婚姻するのはそのためだった。
弟橘媛の考え方は、当時にしては異常だったが、男具那はそういう媛に、これまでにない新しい魅力を感じるのだ。
弟橘媛は、子に頼らず、一人の女人として王子を愛し、愛されようとしている。
男具那は弟橘媛の生き方に新鮮なものを覚える。媛を出した穂積《ほづみ》氏や、兄の内彦《うちひこ》は、なぜ早く子を産まぬ、早く産め、と内心焦っているに違いない。
男具那を警護し、いつも顔を合わせている内彦などとくにそうだ。
気のせいか、男具那が弟橘媛の屋形に泊まると、申し訳なさそうな顔になる。
男具那は内彦に、媛が子を産まなくても愛しているのだ、そんな女人がいてもよいではないか、と一喝したいと思っていた。
その夜も男具那は初瀬《はつせ》川の傍《そば》の弟橘媛の屋形に泊まった。
媛と一夜を過すと、媾合《まぐわい》だけではなく、会話も愉《たの》しいのだ。つい夜を更かし、寝不足になってしまう。
男具那は一番鶏《いちばんどり》を夢の中で聞きながら、夜が明けるまで眠ってしまった。
奴婢《ぬひ》たちが竃《かまど》に火を焚《た》き、せわしく働いている音が聞える。隣の寝具に弟橘媛の姿がない。男具那は大きな欠伸《あくび》をすると起き、厠《かわや》に行った。
侍女が運んで来た壷《つぼ》の水で顔を洗ったが、屋形に媛がいる気配が感じられない。朝餉《あさげ》の仕度の指図をしておれば、勘で分る。そういう面で男具那の勘は鋭い。
男具那は侍女に、媛はどこか? と訊いた。
「はい、夜明けと同時に初瀬川に身を浄《きよ》めに参られました」
「えっ、身を浄めに……いったいどうしたのだ?」
男具那は詰問するようにいったが、侍女は理由を知らないらしく叩頭する。
「供は?」
「内彦様が御同行されました」
「そうか、内彦か、身内だと思い気易く使う」
と男具那はいったが、内彦が一緒なら安全だ、とほっとした。
男具那が弟橘媛の屋形に泊まる夜、警護の任にあたるのは主に内彦である。
内彦の方から申し出たのだが、男具那も、その方が何かにつけて便利だと判断し、承諾したのである。
「もう、戻られると思いますが」
「ああ、足音が聞える」
侍女は驚いたように耳を澄ましたが、聞えていない様子だ。だが男具那の耳は屋形に向って来る人の足音を確実に捉《とら》えていた。
男具那が衣服を纏《まと》った時、真白い上衣《うわぎ》を着、真白い裳《も》をはいた弟橘媛が戻って来た。
当時の倭国《わこく》にとって、白は最高の色で、禊《みそ》ぎを始め、神事、また喪に服す時など、男子も女人も白い衣服を纏うのだ。
弟橘媛は頭から水につかったらしく洗い髪である。旧暦三月なので川水は冷たいが、媛の顔は赧《あか》らんでいた。瞳《ひとみ》の大きい眼が活々《いきいき》と光っている。
「王子、朝餉を摂《と》る前に禊ぎをして下さい」
「禊ぎ? なぜだ、いったいどうしたのだ」
さすがに男具那は驚いた。
予知能力が強く呪術力《じゆじゆつりよく》を備えている弟橘媛は、時々突飛なことを口にする。
男具那が狩りに出ようと張り切っていると、今日の狩猟は不吉なことが起こるから止《よ》してほしい、といったりするのだ。
何をいうのか、と男具那は媛の忠告を無視したが、最初の時は大石が落下して従者が二人も死亡した。二度目の時は大猪が現われ、男具那は跳ね飛ばされ怪我《けが》をした。さいわい一命を取り留めたが、弟橘媛は男具那が怪我をした頃、生命《いのち》だけはお守り下さい、と山の神に念じていた、という。
それ以来男具那は、弟橘媛の忠告をきくようになった。それにしても、禊ぎなどを強いられたのは初めてだった。禊ぎは死者など穢《けが》れたものに触れた時、穢れを拭《ぬぐ》うために水に入るのである。
「弟橘媛、最近、吾《われ》は穢れたものに触れておらぬぞ、いったいどうしたのだ?」
「はい、倭姫《やまとひめ》王様が呼んでおられます」
弟橘媛は、早朝の夢に倭姫王が現われ、今日にでも男具那王子に会いたいから、共に来るように、と告げられた、と話した。
「倭姫王が吾《われ》に会いたい、と申すのか、分った、禊ぎをしよう」
と男具那は即座に答えた。
弟橘媛が、ここまで確信を持っていう以上、倭姫王が会いたがっているのは間違いなかった。
男具那は馬に乗ると初瀬川に向った。内彦が慌てて後を追った。下帯一つになり、川水につかるとあまりの冷たさに身体が麻痺《まひ》して来る。そのうち感覚が無くなり、魂が肉体から抜け、空中を浮遊しているような気になる。男具那は川水につかっている自分を上から眺めることができた。
「もうよろしゅうございます」
弟橘媛の声に男具那は自分を取り戻した。
岸に上がると、媛が差し出した麻布で身体を摩擦する。弟橘媛も別な麻布で背中を拭《ふ》く。女人とは思えぬほど強い力だった。間もなく全身の肌が赧くなり、体内の血がたぎり始める。こうなると寒さなどまったく感じない。
弟橘媛は、真白い絹綿の下着と、絹地の上衣を着せ、袴《はかま》を男具那にはかせた。
倭姫王に会うには穢れのない新しい衣服が必要だった。
倭姫王は三輪の王朝の初代王と考えられるヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)と同じく、巫女《みこ》的な女王である。
東遷した邪馬台国《やまたいこく》は、三輪|山麓《さんろく》に宮を持ったが、卑弥呼《ひみこ》時代の性格を引き継ぎ、祭祀《さいし》の女王が神事を掌《つかさど》り、政治は弟王が執った。祭祀の女王が、ヤマトトトビモモソヒメであり、弟王的な王が、ミマキイリヒコイニエ(御間城入彦五十瓊殖=崇神《すじん》帝)だったのである。
ただ大和《やまと》に宮を定めると、邪馬台国を盟主とする連合国の祭祀とは無関係な諸国との関係を深めねばならない。
美濃《みの》を中心とする東国、北陸、また丹波《たんば》などの有力国だ。そのためには祭祀の女王よりも政治の男王が前面に出なければならなくなる。それが新しい時代の流れである。
だから三代目の王の時代は、政治はオシロワケ王がほぼ握っていた。だが、祭祀の女王も無視するわけにはゆかない。何かあると、神にことの良し悪しを占う。
倭姫王は、巫女的な女王として、まだまだ力を持っていた。弟橘媛は童女時代に、倭姫王に仕えたことがあるのだ。
倭姫王の父母はイクメイリビコイサチ(活目入彦五十狭茅=垂仁帝)王と丹波国の王の娘ヒバス(比婆須)媛であった。オシロワケ王の妹である。男具那にとっては叔母《おば》ということになる。
倭姫王は男具那が弟橘媛を妃にして以来、男具那に親しみを持つようになった。
巫女的な女王なので屋形に男子《おのこ》を近づけないが、男具那が弟橘媛と婚姻した際、二人を呼び前途を祝した。
髪は白いが肌は艶《つや》やかで、五十歳を過ぎているはずだが四十代に見える。
『日本書紀』は、斎宮《いつきのみや》として伊勢《いせ》神宮に仕えたと記述し、『古事記』は、やはり斎宮として伊勢大神に仕えた、と述べている。
だが四世紀後半には、伊勢神宮などなく、もし存在していたとしても伊勢神社という地方社で、大和の王家との関係はない。そういう時代に倭姫王が伊勢神宮や伊勢大神=天照大神《あまてらすおおみかみ》に仕えるはずはなく、後世の創作である。
倭姫王は、三輪王朝の巫女的な女王として、巻向宮《まきむくのみや》に近い、初瀬川の上流の聖なる地に住んで、神事を行なっていたと考えられる。
朝餉を終えた後、男具那と弟橘媛は内彦たちに守られ倭姫王の斎宮に向った。
葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》など古くから男具那に仕えている武人は、それぞれ妻を持ち、交替で男具那の警護に当っている。宮戸彦など、葛城に戻れば氏族内でも重要な人物になるのは間違いないが、宮戸彦は男具那とともに生きる、といい、葛城に戻らない。
これは男具那が印|南《いなみ》を訪れた頃同行した、大伴武日《おおとものたけひ》、吉備武彦《きびのたけひこ》、美濃弟彦《みののおとひこ》、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》なども同じで、男具那に仕え、男具那とともに生きることを誇りとしていた。
男具那は初瀬川の舟着場から弟橘媛と舟に乗った。内彦は警護の兵とともに別な舟に乗る。
警護の舟は二|艘《そう》で男具那の舟を挟むようにして進む。
初瀬川は三輪山の南麓《なんろく》一帯の初瀬を流れる大和川の別名である。大和川は、三輪山から現在の都祁《つげ》村に続く山々、また音羽《おとわ》山から宇陀《うだ》に連なる山々の水を集め、長谷《はせ》(泊瀬・初瀬)渓谷を通り、大和平野から河|内《かわち》に流れ、河内湖を通じて難波《なにわ》の海に注がれる。
また長谷渓谷に沿って大和から通じる道がある。そういう意味で大和の人々にとって長谷渓谷は、大和の水を生む神聖な場所でもあり、要衝の地でもあった。
長谷渓谷の北側は、神の山として崇拝されている三輪山である。
長谷渓谷は、後、山岳信仰を生み、天武《てんむ》朝には長谷寺《はせでら》などが建立されたが、当時は、現在よりもずっと神秘的で幽玄な雰囲気に包まれていた。
天武二年(六七三)、天武天皇の皇女|大来皇女《おおくのひめみこ》は、伊勢神宮の斎王になる前、長谷渓谷の水で身を浄《きよ》めた。おそらく渓谷に入る手前の高台あたりに斎宮を建てたのだろうが、長谷渓谷が、人間の穢れを祓《はら》い去る聖なる場所であったことが理解できる。
五世紀の大王|雄略《ゆうりやく》は、長谷渓谷の山々について歌を詠んだ。
隠国《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山は 出《い》で立ちの よろしき山 走《わし》り出の よろしき山の 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗《ぐわ》し あやにうら麗し
歌意は、次のようなものである。
隠《こも》った感じのする場所にある泊瀬の山は、自分の宮から出たところにある好《い》い感じの山だ、宮から走り出たところにすぐ見える何ともいえずに美しい山だ、ああ、泊瀬の山は本当に麗しい。
有名な歌なので、古代の歌にしてはよく知られているが、三輪山の南山麓から眺める長谷渓谷の山々には、この歌の通り深さと雅趣があった。
男具那の舟は、初瀬川が長谷渓谷に入るべく湾曲した辺りで舟着場に着いた。
舟着場の辺りから北方は、三輪山に向って傾斜した野となっている。
山には到るところに山桜の花が咲き、冬をしのいだ枯れ薄《すすき》の原にも、春の花々が可憐《かれん》な彩りを添えていた。
倭姫王の斎宮は川を見下ろす高台にあった。斎宮を守っているのは女人の兵士たちである。
『日本書紀』の神武《じんむ》東征説話に、女性の兵士を布陣させた記述があるが、当時は女性も戦闘に参加する場合があったのだ。
男具那たちが坂を上り始めると、枯れ薄の中から槍《ほこ》(矛)を持った女人の兵士が現われた。
隠れていることを、男具那も気づかなかった。それだけ彼女は自分の気配を殺していたのである。
「王子様、弟橘媛様、お待ち致していました、倭姫王様がお待ちでございます」
やはり倭姫王は弟橘媛の夢を通じて、自分の意を伝えたのである。
男具那と弟橘媛は女人の兵士の後に続いた。斎宮は高床式の二階建だが、普通の屋形に較べると床が非常に高い。
草葺《くさぶき》の屋根には鰹木《かつおぎ》が飾られている。
床が高いのは少しでも天界に近づきたい、という神社的な性格のせいだった。斎宮の周囲は、草や灌木《かんぼく》が伐《き》られ平地になっていた。柵《さく》が取り巻いており、白い布がつけられている。
「王子様と弟橘媛様以外の方は、ここでお待ち下さい」
案内した女人の兵士は、きっぱりした口調で内彦にいう。
内彦も男子《おのこ》が入れないことは充分承知していた。御苦労です、と女人の兵士に叩頭《こうとう》する。
男具那と弟橘媛は斎宮の正面に行った。
梯子《はしご》が掛けられているが高さは一丈(三メートル)はあった。男具那たちの屋形の五倍はある。
「注意して上れ」
男具那は弟橘媛に念を押し、身軽に上った。かつて倭姫王に仕えたことがあるだけに、弟橘媛も、女人とは思えぬ速さで上って来た。
斎宮には、到るところに、穢《けが》れを祓うための白い布が垂れていた。
男具那も厳粛な気持になった。
部屋の中は薄暗い。白衣を纏《まと》った倭姫王は一段高い場所に坐《すわ》っている。部屋の四隅には魚油が燃えていた。
倭姫王が坐っている後ろには白い布が板壁に貼《は》られ、直径一尺(約三十センチ)はありそうな鏡が淡い明りに光っている。
裏側には八つの花弁を持った花模様が彫られていた。
今でいう内行花文鏡である。中国の鏡を模し、倍以上に大きくしたのだ。倭国人には大きな鏡を好む傾向があった。
「倭姫王様、吾《われ》をお呼びとの意を受け、参上しました、御健勝の御様子、心からお喜び申し上げます」
「男具那王子、よく参った、久し振りだが少しも変っておらぬのう、元気で何よりじゃ、遠慮することはない、もっと近くに参れ」
倭姫王は手招いた。
床に拳《こぶし》を当て前に進んだ男具那は、倭姫王に近づくと、空気が微妙な芳香を放っているような気がした。
倭姫王の髪型は庇《ひさし》を前に突き出したような形である。
倭姫王は両手を合わせると瞑目《めいもく》し、精神を統一していたが、眼を開くと、両手を前に出し、掌《てのひら》を自分に向けるように命じた。
男具那は素直な気持で、いわれる通りにした。倭姫王は男具那の方に自分の掌を向けた。間もなく男具那は自分の掌が熱くなるのを感じた。掌の熱は腕を通り体内に入る。
陽の当らない部屋で底冷えがしていたが、身体全体が火照って来た。
倭姫王は手を引くと、
「もうよい、そなたは間もなく危険に直面するが、間違いなく元気で戻って来る、安心して行くのじゃ」
といって頷《うなず》いた。
「倭姫王様、吾には何のことか、さっぱり分りませんが」
男具那が小首をかしげると倭姫王は、知らぬのも無理はない、と眼に微笑を浮かべた。
「説明しよう、ただこれから私《わ》が申すことは、そなたの胸に秘めておくのじゃ、約束できるか」
「約束いたします」
「約束を破れば、そなたの身の安全は保証できない、これは神との約束でもあるからじゃ」
「よく分っております」
「男具那王子よ、最近、西の国、九州が騒がしくなっておる、邪馬台国の卑弥呼女王が亡くなられたのは、南の狗奴《くな》国との戦《いくさ》が長引いた心労のせいじゃ、宗女|台与《とよ》が女王となったが、狗奴国の力は卑弥呼女王の時よりも強力となった、台与は中国の新王朝|西晋《せいしん》に使者を遣わし、魏《ぎ》王朝と同じように親交を結び、狗奴国を斃《たお》そうと考えたが、西晋は台与女王の邪馬台国を相手にしなかった、そこで邪馬台国は、好《よ》き土地を求めてこの地に遷《うつ》ったのじゃ、そのことは知っておるであろう」
倭姫王の声は若く鈴の音に似ていて、天から聞えて来るようである。
「聞いております」
「その後、狗奴国の勢力はますます強くなり、狗邪韓国《くやかんこく》などと親交を結び、あなどれない強国となった、邪馬台国が東遷した際、女王国に属していて残った国々の中には、狗奴国の圧迫を受け、狗奴国に服従した国も出て来ている、ことに肥国《ひのくに》、豊国《とよのくに》内の国々への圧迫は酷《ひど》い、近々、救いを求める使者がオシロワケ王の許《もと》に来るであろう」
倭姫王は神懸《かみがか》りしているようで、姫王の身体から光が放たれていた。
「誰が、そのことを……」
「人間の告げ口など不必要じゃ、私には分る、男具那王子、オシロワケ王は、そなたに狗奴国を討つように命じるであろう、大和やその周辺の豪族たちは、狗奴国の名前も忘れ、獰猛《どうもう》な熊襲《くまそ》と呼んでおる、だが熊襲は獰猛なだけではない、朝鮮半島や中国との交流を通じ、文化も進んでおる、戦の兵法も優れているであろう、男具那よ、私はそなたに、少々の傷では死なぬ力を与えた、だが注意するのじゃ、油断は禁物です、分ったか」
「はい、よく分りました」
「では、これから大事なことを告げよう、皆が熊襲と呼んでいる狗奴国には大勢の勇猛な王や王族がいる、その中でも、薩摩《さつま》の大隅《おおすみ》の厚鹿文《あつかや》王と|※[#「しんにゅう+乍」、unicode8fee]鹿文《さかや》王、球磨《くま》川の川上建《かわかみのたける》王の兄弟が最も強い、今のオシロワケ王には大軍を動員し、狗奴国を攻める力はない、男具那に与えられる兵は百名前後じゃ、だからそなたは西の国でも兵を集めねばならない、おそらく四、五百名は動員できるでしょう、だが、戦が優勢でも、薩摩の国に攻め込んではなりませぬ、もし、勢いに乗って薩摩に入れば、そなたは死ぬ、戦は負け戦じゃ、私の申すことが分りますか」
「分ります」
「では、申してみなさい」
男具那はいわれた通り、倭姫王の言葉を復唱した。
「よろしい、次に告げることは最も大事なことじゃ、さっき私が述べた四名の狗奴国王は、皆、勇敢で武術に優れている、そなたがいくら強くても、四名を斃すことは不可能じゃ、一名だけ斃せばよい、それには、そなたと二人だけで、正々堂々と渡り合う性格の王でなければならぬ、何といっても敵地じゃ、負けそうになった時、助勢を求めるような王では駄目です、男具那王子、分りますか」
「よく分ります、吾もそういう潔い王と勝負をしてみとうございます」
「そなたと腕が互角で、正々堂々とした王といえば、肥後《ひご》の球磨川に勢力を張っている川上建王です、弟の稚建《わかたける》王もいますが、兄の建王との勝負を申し込むのじゃ」
「稚建王では、駄目なのですか?」
「兄の方が正統な王です、そなたが二人切りで闘う相手は川上建王、それ以外にはない、私《わ》は、そのことを告げるために、弟橘媛を通じ、そなたを呼んだのじゃ、私は疲れた」
「倭姫王様、心から感謝いたします」
「そなたは、三輪の王権を支える力強い王子じゃ、オシロワケ王は老いた、そなたが生きている限り三輪の王権は安泰なのです、自分一人の生命ではない、これからは、そのことをよく自覚して行動するのじゃ、私が申したいことはすべて話した、もう戻りなさい」
話し終ると倭姫王は、まるで力が尽きたように項垂《うなだ》れた。途端に艶《つや》やかな顔の肌が衰え、二十歳も年齢《とし》老いたように見えた。
火照っていた男具那の体内から熱が去り、急に寒さが襲って来た。
戻りの舟に乗ったが、男具那も弟橘媛もしばし無言だった。だが、川から眺めると岸や野の花が、男具那に話しかけて来るように見えた。花たちが喋《しやべ》っている。
こんな経験は男具那には初めてだった。
花たちは男具那を祝福していた。
倭姫王に呼ばれた王子は、倭国一の王子、栄光の王子、と告げている。
男具那は弟橘媛を見た。
「妙だ、美しい花々が吾を祝福してくれている、そなたにも聞えるか、花の声が……」
弟橘媛が笑った。
「はい、私にも聞えます」
弟橘媛は嬉《うれ》しそうに答えた。男具那にはそんな媛が、大輪の花になったような気がするのだった。
「弟橘媛、倭姫王様のお告げに偽りはない、きっと、近々吾は、熊襲国征討将軍として、西の国に行くことになるだろう」
「私もお供させていただきます」
「それは駄目だ、倭姫王は、何もおっしゃらなかった」
「王子、もし倭姫王様のお許しが出たなら、お供しても、よろしゅうございますか?」
「お許しが出たなら連れて参る、ただそなたは斎宮《いつきのみや》に参りお願いしてはならぬぞ、もしお許しが出るのなら、倭姫王様は夢に現われる、現われなくても、何かのお告げがある、それまで待つのだ、お告げがなければ連れては行けぬ、分ったな」
「分りました」
弟橘媛はきっぱり答えたが、込み上げて来る激情を抑えるように、唇を噛《か》んで俯《うつむ》くのだった。
大和の王や豪族たちが熊襲といっている国は、倭姫王が男具那に述べた通り、邪馬台国東遷の大きな原因となった狗奴国のことである。
三輪王朝を始め、狗奴国の勇猛さを恐れる国々では、狗奴国を熊襲と呼ぶことで、蕃国《ばんこく》視したのだ。
熊襲の熊は肥後(熊本県)の球磨郡で、襲は薩摩(鹿児島県)の大隅半島の中部、鹿屋《かのや》地方および北部の贈於《そお》(現在の姶良《あいら》郡)地方と、鹿児島半島の北部、川内《せんだい》川沿いの一帯をも含む広大な地域だ。
ただ、阿多隼人《あたのはやと》の勢力圏は、薩摩半島の南部の加世田《かせだ》市から西部の野間《のま》半島である。となると四世紀後半の時点では、薩摩全土が襲の中に入っていたかもしれない。
だが、狗奴国の勢力圏は、肥後でいえば球磨郡だけではなかった。
現在の熊本市から菊池《きくち》川南部にまでのびていた可能性は充分にあり、邪馬台国が東遷した後は、北部九州にまで、その勢力を拡げたとしてもおかしくはない。
我々は「ヤマトタケル」の熊襲征伐と簡単にいっているが、その真相は強大な狗奴国相手の戦であったのである。
げんに『日本書紀』によると、オシロワケ王の二代後のタラシナカツヒコ(足仲彦=仲哀《ちゆうあい》帝)王は、神功《じんぐう》皇后とともに熊襲征討に向った。タラシナカツヒコ王は、皇后が止めるのもきかず戦を挑み、戦に敗れて死んでいる。一説によれば、熊襲の矢にあたり死亡した、と述べているのだ。
この記述をも、我々は強く認識する必要がある。
男具那が倭姫王に会って十日たった。
倭姫王がいった通り筑後《ちくご》の水沼君《みぬまのきみ》と、豊後《ぶんご》の速見《はやみ》国、球珠《くす》国の使者がオシロワケ王に会いに来た。『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』の巴利《はり》国は速見国となり、また躬臣《くし》国は球珠国(後の日田《ひた》郡)と名が変ったと思われる。
いずれも、かつて北九州の邪馬台国を盟主とする連合国で、邪馬台国が東遷した後も動かず、国を守っていたのだ。
そういう国々にとって熊襲と呼ばれている狗奴国は、卑弥呼時代からの宿敵だった。
三国の使者が一緒に来たのは、邪馬台国時代の同盟関係を重視し、大和の王権以外に頼る勢力がなかったからである。
水沼君は男王だが、速見国は速津媛《はやつひめ》、球珠国は久津媛《ひさづひめ》が女王だった。これらの女王国は祭政一致国である。
オシロワケ王の王子たちが、巻向宮《まきむくのみや》に呼ばれたのは、使者が到着して五日目だった。
オシロワケ王はヤサカノイリビメ(八坂入媛)と並び、その前にミズハノイラツメ(水歯郎媛)、ヒムカノカミナガオホタネ(日向髪長大田根)など四人の妃《きさき》が並んでいる。
集まったのは十五歳以上の王子で、約十名だった。
左からヤサカノイリビメが産んだ稚足彦《わかたらしひこ》王子、五百城入彦《いほきのいりびこ》王子、忍之別《おしのわけ》王子と並び、男具那はその次である。
オシロワケ王は、ここ数年で十歳も老いたようだった。髪が白くなり頬《ほお》の肉はたるみ、眼窩《がんか》も窪《くぼ》んでいる。
房事過多が王の老いを一層速めていた。それと反対にヤサカノイリビメはますます太り、顎《あご》と首が一緒になったようである。
オシロワケ王は王子たちに、熊襲の横暴ぶりを述べた。
北九州から来た使者の話では、このまま放置すると熊襲は九州全土を征服し、朝鮮半島の百済《くだら》と結び、朝鮮半島南部や新羅《しらぎ》を併呑《へいどん》する。その後、畿内《きない》に攻撃をかけ都を河内か大和に遷すつもりでいるようだ、というのだった。
居並ぶ王子たちはざわめいたが、男具那は倭姫王からだいたいのことは聴いているので、冷静である。
オシロワケ王はそんな男具那を睨《にら》むように見た。そなたは何とも思っていないのか、と王の眼はいっていた。
熊襲征討の将軍が自分になることは、もう決定しているのだ。別に驚いたふりをする必要はない。
男具那は胸を反らせた。
オシロワケ王はいまいまし気に視線を逸《そ》らし、話し続けた。
「そこで吾《われ》は熊襲を征伐することにした、大和の地に都を定めた王の力がどんなものか、蕃人に示さねばならない、ただ、今は東国も不安定で、残念ながら王の力は尾張《おわり》以東に及んでいない、だから今回は熊襲を完全に屈服させる必要はない、熊襲の有力な首長を斃《たお》し、大和の王の力を示せば良い、その上で、これからは大人しくしているように説得する、今後、勢いに乗って暴れるようなら、今度こそ大軍を派遣し、熊襲全土を制圧する、と申し渡すのだ」
オシロワケ王は声が掠《かす》れ、水の代りに酒を飲んだ。
王子たちは男具那を除いて、息が詰まったような顔をしている。
オシロワケ王は、険しい眼で男具那を見た。
「そこでだ、熊襲を征伐する将軍を決めねばならない、例によって王子たちはそれぞれ腕を競い合う、一番の勝者が将軍だ」
いつもと違って血の気のない顔をしていた五百城入彦が立った。
「吾が将軍となる、不服な者は吾と闘え」
途端にヤサカノイリビメが眼を剥《む》いた。
「それはなりませぬ、そなたは三日前より腹を痛め、病の床に伏せていました、闘える状態ではありません、王よ、お止め下さい」
オシロワケ王は酒杯の酒をあおった。半分白くなった鬚《ひげ》を撫《な》でると、眼を細めた。
オシロワケ王は後宮の若い女人に次々と手を出しており、皇后格のヤサカノイリビメには頭が上がらないのだ。
「その通りじゃ、病み上がりの身では闘えない。無念であろうが、今回は外す、他に自信のある王子はおらぬか?」
男具那は五百城入彦と闘えないのが残念だった。自分が闘いに勝ち、征討将軍になることは初めから分っている。
ただ、自分とまともに闘えるのは、王子の中では五百城入彦ぐらいだった。一度勝負をしてみたい、と前々から思っていたのだ。
五百城入彦が病床にあったことは、顔色を見ても分る。仮病ではない。
使者が到着した二日後に病の床についたのは不自然である。
ヤサカノイリビメが使者の申し出を知り、五百城入彦に、腹をこわす薬草を飲ませたのではないか。息子を征討将軍にしたくないからだ。
ヤサカノイリビメなら、それぐらいのことはやりかねなかった。
だが五百城入彦は男具那と闘いたいらしい。オシロワケ王にいわれても、まだ立ったままだ。兄の稚足彦が、もう坐《すわ》れ、と五百城入彦の袖《そで》を引いた。
稚足彦は武術は駄目だが、性格は大人しく学識がある。倭国に渡米して来た中国の呉《ご》人に漢字などを習っていた。ヤサカノイリビメは、眼の中に入れても痛くないほど稚足彦を愛している。
男具那がゆっくり立つと王子たちは、しんとなった。男具那が立った以上、もう立つ王子がいないことを王子たちは知っている。
オシロワケ王は鬚をしごこうとして引っ張り、痛そうに顔を歪《ゆが》めた。
「五百城入彦、吾の命令じゃ、坐れ、誰か男具那王子と闘える者はいないか」
オシロワケ王の声が終ると同時に立った王子がいた。今年|二十歳《はたち》になった日向襲津彦《ひむかのそつびこ》である。
母のカミナガオホタネは日向《ひむか》(宮崎県)の出身だった。日向の王女で、卑弥呼の邪馬台国に屈していた。襲津彦にはその名の通り、熊襲の血が流れている。身体は頑健で鬚も濃い。
「おう、男具那と闘うと申すのか、さすがは襲津彦だ、さあ、仕合の準備をしろ」
オシロワケ王は嬉《うれ》しそうにいった。
オシロワケ王は、男具那の強さに危惧《きぐ》の念を抱いていた。人望もある。自分が衰えたなら、男具那が実力で王位を簒奪《さんだつ》するのではないか、と恐れていた。
兄の大碓《おおうす》王子が死なずに、美濃に逃れ、生存していることを噂《うわさ》で知っていた。自分の命令に反し、男具那が逃した気配が濃厚だった。実際は問い詰めたいのだが、そうすれば男具那が反乱を起こしかねない、と思っている。だから曖昧《あいまい》にしているのだが、その分だけ男具那に不信感を抱き、憎悪するようになっていた。男具那の人望の厚さに対する嫉妬《しつと》心も湧《わ》く。ヤサカノイリビメがそれらをあおる。
「おぬしか」
男具那は微笑を浮かべた。
日向襲津彦の武術がどの程度か男具那は知らない。
ただ葛城宮戸彦同様、大変な力持ちであることは噂で聞いていた。
オシロワケ王が腰を浮かした。慌てていたのであろうか、酒杯から酒がこぼれた。指が慄《ふる》えているのかもしれない。
「木刀では駄目じゃ、鉄の棒で仕合をせよ、その代り甲冑《かつちゆう》を纏《まと》え」
王子たちはどよめいた。
鉄棒は刀を作るために鉄《てつ》|※[#「金+廷」、unicode92cc]《てい》を叩《たた》いて作った棒だが、刀の原形である。
真剣勝負とほとんど変らない。
「日向襲津彦、それで構わぬか?」
男具那は穏やかに訊《き》いた。征討将軍になりたく、自分に勝負を挑んで来た若者に、男具那は好感を抱いたのだ。
「構いません、よろしくお願いします」
二人の王子は部下に甲冑を取りにやらせた。
オシロワケ王が武器として告げた鉄棒は、巻向宮《まきむくのみや》の武器庫に百本以上もあった。
男具那の甲冑を持って来たのは宮戸彦だった。
おおらかな宮戸彦の顔が強張《こわば》っているのは、襲津彦の力を噂で聞いて、男具那の身を案じているからであろう。
「宮戸彦、どうだ、そちが襲津彦王子と力を競い合ったら……」
男具那は小声で訊いた。
宮戸彦は困惑したように頭に手をやった。
「はあ、力ではやつかれと好い勝負だと思います、ただ襲津彦王子は腕が長い、そのあたりを御用心下さい」
「うん、背が低い割合に腕が長いというわけか、となると鉄棒は意外に伸びる、と考えていた方がよい、大事なのは吾の身のこなしだ、身軽さでは襲津彦に負けぬ自信はある」
男具那は甲冑を眺めた。
当時の甲《よろい》は細長い鉄板を革紐《かわひも》で綴《と》じた短甲である。
短甲は五世紀に入ると次第に鋲留《びようどめ》になった。頑丈さを増したわけだ。
ただ短甲といっても、鉄板をつなぎ合わせているからかなり重い。
男具那は甲冑を身に纏うと、身軽に動けない、と判断した。
「宮戸彦、吾は甲は身につけない、用心のために冑《かぶと》だけ被《かぶ》る、その方が動き易い」
「しかし……」
宮戸彦は不安そうに甲を取った。
「いや、その方がよい、吾が動き廻《まわ》れば、甲冑を纏った襲津彦は、吾を捉《とら》えることはできぬ、ただ頭だけは大事だから冑で覆う、そんな顔をするな、勝はすでに吾にありだ」
男具那は指で地を差した。
何事か、と宮戸彦が俯《うつむ》いた時、男具那は軽々と宮戸彦の頭上を跳び越えていた。
男具那は襲津彦王子が甲冑姿になるのを待ち、冑だけを被った。
襲津彦王子は唖然《あぜん》としたように男具那を眺めた。王子たちがどよめいた。
襲津彦王子が蹲《うずくま》った。
「父王に申し上げます、男具那王子が冑だけなら、吾も甲を脱ぎます、鉄の棒には刀や剣と同じ威力があり、身体に当れば、骨は折れ、内の臓物も砕けるのは間違いございません、吾だけが甲冑では、卑怯《ひきよう》な王子とそしられるのは必定、吾も冑だけで腕を競い合いとうございます」
男具那はオシロワケ王が口を開かない前に一喝した。
「臆《おく》したか襲津彦、吾は勝てる自信があるから甲を脱いだのだ、吾から見れば、そちの腕は童子同然、吾はそちを殺したくはない、この倭男具那が、そちと同じ甲冑姿で闘うなど、誇りが許さぬ、父王、どうか襲津彦王子には甲を纏わせて下さい、父王の前で、弟王子を殺せません」
男具那は、わざと胸を反らし昂然《こうぜん》といった。こういう態度がオシロワケ王を怒らせることを男具那は計算に入れていた。
オシロワケ王は、男具那の罠《わな》にはまった。
「襲津彦王子、そちは甲冑を纏ったままでよい、男具那王子は冑だけじゃ、早く仕合を始めよ」
顔が赧《あか》くなったオシロワケ王は、男具那を睨《にら》みつけながら怒鳴るように叫んだ。
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二
男具那《おぐな》と襲津彦《そつびこ》は数歩の距離を置いて向い合った。
短甲と腰を覆う草摺《くさずり》、それに冑《かぶと》を被《かぶ》った襲津彦は、懸命の形相で男具那を睨《にら》んだ。男具那が甲《よろい》を纏《まと》っていないからといって、気をゆるめてはならぬ、と自分にいい聞かせているようであった。
腕はむき出しである。襲津彦の身長は五尺三寸(約百六十センチ)足らずだから、男具那よりもかなり低い。男具那には何もつけていない襲津彦の腕が異常に長く見えた。
山人族の中には、背が低く腕の長い種族がいる。大和《やまと》の人々は、そういう種族を土蜘蛛《つちぐも》と呼んでいた。
蕃人《ばんじん》に対する蔑称《べつしよう》だが、異人種に対する恐怖心も含まれている。
顔が赧くなり自分を睨んでいる襲津彦に、男具那は微笑した。
あまり真剣になるな、好《い》い加減な勝負でいい、と男具那の眼は告げている。
男具那の気持が理解できない襲津彦は、とまどい、動揺してはならぬ、と唇を噛《か》んだ。
男具那には余裕があるが、襲津彦の長い腕が気になる。油断はできない、と思う。
長い腕の利点は突きにあった。突いて来ると判断するのが常識的だが、襲津彦は大変な強力らしい。
男具那が受け止める鉄棒を粉砕すべく、擲《なぐ》りかかって来るかもしれなかった。
「何を睨み合っておるのだ」
オシロワケ王が苛立《いらだ》って叫んだ。
自分の子に鉄棒で仕合をさせるなど、まったく非情な父親である。
いつ敵に攻められるか分らない時代だから、強い王子を求める気持も理解できないではないが、父親としての愛情が感じられない。
男具那は鉄棒を持ったまま、ゆっくり前後左右に動いた。
唇を噛んだまま襲津彦は一歩、一歩と近づいて来る。男具那は襲津彦の出方を窺《うかが》うつもりだった。
甲冑《かつちゆう》をつけた襲津彦は、男具那の身軽さについて来れない。ただ用心すべきは腕の速さである。
男具那は相変らず前後左右に動きながら、襲津彦が近づくのを待った。襲津彦は二歩の距離まで近づいて身構えた。
男具那が何のために身体を動かしているか、探っている。だがその間にも襲津彦の身体が膨れ始めたのを男具那は感じた。
襲津彦の鉄棒が動いた時、男具那は一歩後ろに跳んだ。だが襲津彦は突きを止めない。身体ごと突いて来る。
甲冑など問題にしていないような身軽さだった。というよりも、腕の動きが予想していた以上に素速いのだ。
眼を剥《む》いた襲津彦の顔は嵐《あらし》の鬼神のようだった。男具那は後ろへ跳びながら襲津彦の突きを避けるのが精一杯である。
オシロワケ王も王子たちも息を呑《の》み、身体を乗り出して眺めているが、闘っている二人の眼には入らない。
ただ男具那にはまだ余裕があった。後ろに跳んでいるが、力一杯ではなく余力を残している。男具那は下がりながら襲津彦の顔に汗が滲《にじ》み出ているのを見た。
宮の前の広場の端まで、後十歩まで下がった時、男具那は力一杯、後ろに跳んだ。
おそらく四尺以上は跳んでいるだろう。こんな跳躍は誰にも真似ができない。
男具那の身体が沈む。襲津彦の突きは男具那に届かなかった。しかも襲津彦がわずかによろけたのを男具那は見逃さなかった。
男具那は初めて、裂帛《れつぱく》の気合とともに襲津彦が握った鉄棒を下から撥《は》ね上げた。
火花が散り男具那の腕が痺《しび》れた。
信じられなかった。普通なら襲津彦の鉄棒は彼の手から離れ宙を飛んでいるはずだ。だが襲津彦は鉄棒を握り締めたままたたらを踏み、立ち止まった。大変な握力である。
男具那は襲津彦が体勢を整えないうちに甲の腕に突きを入れた。
襲津彦が間一髪のところで身を躱《かわ》す。襲津彦の汗が飛び、男具那の顔に降りかかった。男具那は今一度襲津彦の鉄棒を叩《たた》く。
襲津彦の反撃はないが、鉄棒は落ちない。だが襲津彦の身体は完全に崩れていた。男具那は返す鉄棒で空いた胴を払った。
強い手応《てごた》えとともに襲津彦はよろけた。
まだ倒れぬのか、と男具那が唖然《あぜん》とした時、襲津彦は自ら崩れると叩頭《こうとう》した。
「男具那王子、参りました」
「そうか、やっと参ったか……」
男具那は自分が荒い息を吐いているのを初めて知った。男具那の顔も汗に塗《まみ》れている。
観戦していた王子たちがざわめく。
誰も拍手をしない。呆気《あつけ》に取られているのだ。オシロワケ王を始め王子たちは、襲津彦の突きに、男具那が後退し続けているのを見、勝者は襲津彦だ、と判断していた。
なぜ形勢が一挙に逆転し、襲津彦が負けたのか、納得できかねている。
二人がオシロワケ王の前に来ると、オシロワケ王が立った。猜疑《さいぎ》の眼が光っていた。
「襲津彦、そちは本当に負けたのか?」
平伏していた襲津彦が顔を上げた。意味が分りかねている様子だ。
男具那は小声でいった。
「父王は、おぬしがわざと負けたのではないか、と疑っておられるのだ」
襲津彦は憤然とした眼でオシロワケ王を見返した。
「父王に申し上げます、吾《われ》は今でも征討将軍になりたくて仕方ございません、どうしてわざと負けたり致しましょう、それなら初めから、男具那王子に仕合を申し込んだりは致しません、御覧下さい」
襲津彦は坐《すわ》りなおすと、男具那の一撃で窪《くぼ》んだ甲を見せた。
「もう少し上なら、胸の骨が折れ、心の臓も破れていたかもしれません、吾は卑劣なことは大嫌いです」
襲津彦の声は宮や広場に響き渡るようである。
「ふむ、負けたにしては威勢がよいのう、あれだけ追い詰めていたのに、なぜ負けた?」
男具那は、オシロワケ王が、再仕合を命じそうな気がした。
「叩頭せよ、吾が説明する」
男具那は襲津彦を制すと、深々と叩頭した。父王の機嫌を損じ、再仕合などさせられてはたまらない。
「父王に申し上げます、襲津彦王子の突きは猛烈で、吾は逃げるのに精一杯でした、ただ吾を追い詰めた時、襲津彦王子は力が入り過ぎ、少しよろけたのです、もちろんここからではそれは見えません、吾にはそれが救いでした、御覧になられたように吾は斜め後ろに跳び、体勢が崩れた襲津彦王子の隙《すき》をつき、甲に一撃を加えることができた次第です。襲津彦王子は大変な武術者、もし王子が望むなら、吾の片腕として、今回の熊襲《くまそ》征討に、是非同行させとうございます」
「そういう次第か、よく分った、力は互角というわけだな、襲津彦王子、そちは男具那王子とともに参りたいか」
「はい、参りとうございます、是非、男具那将軍の軍にお加え下さい」
「分った、そちの母は熊襲の血を引いている、向うのことは何かと詳しいであろう、副将軍に任じよう」
「有難うございます」
襲津彦は叩頭したが、顔の半分は男具那の方に向いていた。
夕餉《ゆうげ》の席で襲津彦は、自分の武術は到底王子に及びませぬ、と男具那に頭を下げ、男具那に同行できる喜びを語った。
襲津彦の母親の血統は、男具那や五百城入彦《いほきのいりびこ》に較べると落ちる。
襲津彦は王位争いの圏外にいた。それに襲津彦は権力欲を持っていない。純粋で正義感が強い。男具那に同母兄のような愛情を抱いた。
男具那にとっては、実に頼り甲斐《がい》のある味方である。
二日後、男具那と襲津彦は北九州の三ケ国から来た使者と会い、狗奴《くな》国の様子を直接|訊《き》いた。
大和が熊襲と蕃国《ばんこく》視している狗奴国は、北九州の中央部も押え、博多《はかた》の港を擁している旧|奴《な》国を圧迫している。
また、菊池《きくち》川、球磨《くま》川をも押えているので、筑後《ちくご》川沿いの諸国は、有明海《ありあけかい》の航行も自由にならず、朝鮮半島との交易は狗奴国の掌中にあった。
朝鮮半島では、高句麗《こうくり》が南下し、中国の楽浪《らくろう》・帯方《たいほう》郡を破り平壌《へいじよう》に勢力を張り、馬韓《ばかん》の後に生まれた百済《くだら》や、辰韓《しんかん》地域に成立した新羅《しらぎ》をも圧迫している。
朝鮮半島の中で、狗奴国が親しくしているのは百済で、同盟関係に似た親交があり、先進文化が狗奴国に入っている、といった。
北九州の三ケ国の使者の意見は、何《いず》れ狗奴国は九州中央部から博多湾を自分のものにし、九州島の王者になる、という点で一致していた。
「今のうちに叩かなければ、三輪《みわ》の王権の力だけでは押え切れなくなります、その場合は、狗奴国が東遷を開始するでしょう」
という結論で、使者たちは叩頭した。
もともと邪馬台国《やまたいこく》が東遷したのは、親しくしていた魏《ぎ》王朝が滅び、西晋《せいしん》王朝に無視されたのと、狗奴国の粘り強い力に脅威を感じたからである。
そういう点で、狗奴国の勇猛さは、伝承として知っている。
男具那は酒宴の席で使者たちを、
「近々|征《ゆ》くから、その場合に備えて、軍事の訓練は怠らないように、心配するな、我らには、狗奴国出のこの襲津彦王子がいる、また久米《くめ》氏もいる、一番の禁物は、心で負けることだ」
と励ました。
久米氏は来目で、宇陀《うだ》の山などに住んでいる。最近では高市《たけち》郡にも住むようになった。畝傍《うねび》山の傍《そば》である。祖先は九州で、邪馬台国の東遷の際、共に大和に来たのだ。日向《ひむか》と肥後《ひご》の境の山に住んでいたともいわれ、襲津彦と同じく熊襲の血も入っていた。昔は熊目《くまめ》とも呼ばれていたといわれているが、真偽はさだかではない。
久米七掬脛《くめのななつかはぎ》は、故郷が近いせいもあり、襲津彦に親近感を抱いていた。
三日後、男具那は、襲津彦を始め、部下や警護隊の面々を巻向宮《まきむくのみや》の外に建てた屋形に集めた。
弟橘媛《おとたちばなひめ》もやって来て、酒肴《しゆこう》の用意をした。
弟橘媛は、霞《かすみ》の中に咲いた花を連想させる優雅な容姿だが、実によく動く。そういうところにも男具那は魅力を感じていた。
男具那が集めたのは、襲津彦を始め、葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》、穂積内彦《ほづみのうちひこ》、大伴武日《おおとものたけひ》、吉備武彦《きびのたけひこ》、久米七掬脛、美濃弟彦《みののおとひこ》だった。
男具那の部下たちは、男具那と襲津彦の仕合を観、ことにオシロワケ王に対する襲津彦の毅然《きぜん》とした態度から、襲津彦に好感を抱いていた。
襲津彦は王子でもあるし、副将軍として熊襲征討に加わることに、誰も異存はなかった。
男具那の部下は、皆、各氏族の有力者である。一人が十名を連れて来ても、襲津彦の部下を合わすと、百名ぐらいの軍勢になる。
男具那は、現地に詳しい襲津彦や、久米七掬脛を中心に、どういう進路で、敵を攻めるかを話し合った。
九州から来た使者たちを今日は呼んでいない。そんなことは有り得ないが、もし狗奴国の間者が混じっていたなら大変だからである。
先日の話で、三人の使者は二つの攻撃路を男具那に告げた。
第一は、豊後《ぶんご》の速見《はやみ》国で軍勢を整え、日向に入り、薩摩《さつま》の贈於《そお》地方を攻める方法である。第二は、球珠《くす》国から日田《ひた》盆地に入り筑後川を下って北九州の中央部に入り、水沼君《みぬまのきみ》の勢力と合体し、球磨川沿いの敵を攻めるという進路だ。
第一は速津媛《はやつひめ》の使者の意見で、後者は、久津媛《ひさづひめ》と、水沼君の使者の意見だった。
いうまでもなく、速見国では薩摩の鹿屋《かのや》地方および贈於地方の勢力を重視していた。
それに対し、球珠国と水沼君は、肥後(熊本県)の勢力こそ、狗奴国の主力で、肥後の熊襲を斃《たお》さなければ、意味がない、と主張した。
意見が分れ、速見国の使者と、他の二国の使者とがいい争ったほどである。
男具那は集まった部下たちに、北九州から来た使者との会談の模様を詳しく説明した。
「吾の判断では、今の狗奴国は、大和、山背《やましろ》、河内《かわち》、但馬《たじま》、それに播磨《はりま》を合わせたぐらいの勢力がある、充分作戦計画を練り、ことに当らなければ勝利はおぼつかない、勝利といっても、狗奴国を征服するのは不可能だ、小競合いの後、敵の主力軍を撃破すればそれでよい、父王にも、それぐらいのことは分っている、まず吾の意見を話す、その後、襲津彦王子、王子が終れば皆、忌憚《きたん》のない意見を述べて欲しい、別に今日一日で結論を出さなくてもよい、皆が納得するまで、話し合おう」
宮戸彦が膝《ひざ》を進めた。
「王子、我々には狗奴国の地理も、その様子もよくは分りません、だからなかなか意見は纏《まと》まらないと思います、やつかれ(臣)らが、いつまでもいい合っていてはきりがありません、最終的には王子が、決断を下して下さい」
宮戸彦が、どうだ、と集まった一同を見廻《みまわ》すと、皆、賛成、と頷《うなず》くのだった。
男具那には宮戸彦の気持がよく分る。部下たちは男具那を全面的に信頼しているのだ。
ただ、進め、来い、という男具那の命令を待っている。
「分った、将軍は吾だ、最終的な決断はもちろん吾が下す、襲津彦王子、おぬしから申してみよ」
「御指名により、吾の意見を申します」
襲津彦は、男具那の部下たちに遠慮しているらしく、男具那の方を向いて丁重な口調でいった。
「まだ吾の部下を九州に行かせていないので、はっきりしたことは分りませんが、速見国の使者が、薩摩国の中央部から東方にかけての熊襲に恐怖心を抱いているのは明らかです、ただ、球珠国、水沼君の使者の話から、九州島全体を席巻しようとしているのは、肥後の狗奴国、と感じました、ただ、吾としては鹿屋や贈於の熊襲を放っておくのも、危険ではないか、と危惧《きぐ》の念を禁じ得ません、吾の母の勢力圏は日向です、これは向うに着いてから判断すべきことですが、もしそれが可能なら、吾は先に速見国と日向で兵を集め、鹿屋と贈於地方の熊襲を討ち、敵の眼をその方に向けさせ、その間に男具那王子は、主力軍を率い、肥後を攻められてはいかがでしょうか」
襲津彦の意見が終ると一座は静まり返った。
敵にとっては最も痛い作戦計画である。それに、場合によっては、襲津彦は自分を犠牲にしても構わない、といっているのだ。
襲津彦の意見は明らかに、男具那の部下たちの胸を打った。
「おう、それは良い意見ですぞ」
と七掬脛がいった。
七掬脛も襲津彦と一緒に薩摩を攻めたいのかもしれない。
男具那は、部下たちに意見を求めた。
半数は襲津彦に賛成である。賛成しない者も、現地に到着後、襲津彦の作戦計画の是非を議論すべきだ、と述べた。
吉備武彦だけが、狗奴国という強国を相手に兵を二つに割るのは、攻撃側にとっては損失になる、と反対した。
武彦の意見も尤《もつと》もで、男具那も懸念していたのである。
最後に男具那は自分の意見を述べた。
「襲津彦王子の作戦計画は、なかなか面白《おもしろ》い、一考の余地はある、だが武彦の反対論にも理がある、ここで大事なのは、現地に到着前に、敵の状態を掴《つか》んでおくことだ、それには正確な情報が必要じゃ、七掬脛、おぬしの同族は、まだ日向と肥後の境あたりに住んでいるのだな」
「はい、昨年亡くなった祖父は、そう申しておりました」
「よし、ではそちは我らより先に行き、一族を励まし、狗奴国の様子を詳しく探れ、球珠国で会おう、部下には九州から参った者もおるはずじゃ、二、三名、連れて参れ」
「分りました、すぐ出発します」
昂奮《こうふん》した七掬脛は、今にも立たんばかりの様子だった。
「西の国は遠い、充分用意して行くのだ、吾《われ》が船の準備をさせる、それと襲津彦王子、日向出身のおぬしの部下も、故郷に戻らせ、情報|蒐集《しゆうしゆう》に当れ、ただし七掬脛とは別な船で参れ」
「はっ、今年、吾のもとに二人参りました、充分、役に立ちます」
襲津彦は自信有り気だった。
たぶん、自分の意見に対する男具那の返答に納得するものがあったに違いない。
吾が想像していた通り優れた王子じゃ、と襲津彦は眼を輝かせていった。
襲津彦はまた、狗奴国の山人には弓矢が優れている者が多い、と話した。
「短躯《たんく》ですが腕が長く、腕力が強いのです」
襲津彦は、自分の腕の長さに気がつかないようである。
「おぬしぐらいの長さか?」
と男具那は笑いながらいった。
襲津彦は驚いたように自分の腕を眺め、照れたのか顔を赧《あか》らめた。
「はあ、吾よりも長いようです」
「おいおい、おぬしより長ければ、少しかがむと指が地につくぞ、まあよい、こちらも弓矢に優れた者を集めよ、というわけだな」
「はあ、とくに王子の警護には必要です、向うが射て来るより早く、矢を放たなければなりません」
「どのぐらいの距離を飛ばせたらよいのじゃ?」
「五十歩以上飛ばせ、しかも、相手に深傷《ふかで》を負わせるだけの腕が必要です」
一座にどよめきが起こる。五十歩の距離を飛ばすことは可能だが、その距離で的に当て、しかも深傷を負わせるとなると、超人的な技の持ち主でなければならない。たんに力が強いだけでは無理である。
男具那は、部下たちの中で最も弓矢に優れている美濃弟彦を見た。
「弟彦、おぬしならできる、だが他にいないだろうか、弓矢だけの一団をつくるのも面白い」
弟彦は即座に石占《いしうら》(三重県|桑名《くわな》市付近)の横立《よこたち》と、尾張《おわり》の住人、田子稲置《たごのいなき》、乳近稲置《ちぢかのいなき》の名をあげた。
美濃《みの》では、弓矢の達人として三人の名は知られている、という。
弟彦は、田子稲置とはかつて腕を較べ合ったが、勝敗はつかなかった、と告げた。
男具那は弟彦に、是非呼びたいが大和に来るだろうか? と訊《き》いた。
「尾張の勢力は、大和の王権にほぼ服従していますし、なかには、三代前に葛城から尾張に移った氏族もいます、やつかれが行って説得してみましょう、それに男具那王子の名は、尾張には、轟《とどろ》き渡っています、たぶん、男具那王子に仕えたい、と申すでしょう」
弟彦が、三人が来る、と断言しなかったのは、それぞれ地方の有力者であり、妻子もあるからである。
「何なら、吾がそちとともに行き、説得しようか……」
宮戸彦が手を挙げた。
「王子、それには及びますまい、尾張の二人の名はやつかれも聞いています、二人とも、葛城氏とは同族の出です、やつかれが参りましょう」
「宮戸彦か、そちの気持は分るが、腕を競い合って喧嘩《けんか》になどなると、弟彦が苦労する」
「大丈夫です、まかせて下さい、やつかれも二十代の後半、かつてのような暴れん坊ではありません」
「弟彦、宮戸彦を連れて行くか?」
「心強うございます」
と弟彦は叩頭《こうとう》して答えた。
弟彦は大根《おおね》王につながる美濃の有力者だが、宮戸彦のような大和の豪族には遠慮していた。態度が控え目である。
宮戸彦にもそれは分っていた。
「やあ有難い、よろしく頼む、邪魔はせぬからのう」
宮戸彦は嬉《うれ》しそうにいった。
男具那の人望が高いのは、武術に優れているだけではなく、部下たちの心の機微をよく察知し、ことを処すからである。
二日後、弟彦と宮戸彦は尾張に発《た》ち、五日後、七掬脛が九州に向った。
その日男具那は、亡くなったフタジノイリヒメ(両道入姫)が産んだ帯中津彦《たらしなかつひこ》王を養っているククマモリヒメ(玖玖麻毛理媛)の屋形に行き、王と戯れた。王も四歳になっている。フタジノイリヒメの母親の実家は山背《やましろ》で、ククマモリヒメの実家と縁戚《えんせき》関係にあった。
そのせいで、帯中津日子王を養わせたのだ。
王はのびのびと育っていた。
最近、男具那は二十歳のククマモリヒメと閨《ねや》を共にするようになった。
ククマモリヒメは性格がおおらかで、男具那の他の妃《きさき》に嫉妬《しつと》などしない。それに、帯中津日子王を自分の子のように可愛《かわい》がっている。
男具那は、そんなククマモリヒメに、弟橘媛とは違った愛情を抱いていた。
何度も述べているように当時は一夫多妻が普通だった。
有力者たちは、数え切れないほどの女人と関係を持つ。
寝入ってどのぐらいたっただろうか。
男具那は、血のような色の眼を持った獣が襲って来る夢を見た。
胸が苦しくなり、眼を覚まして夢だと知った。
全身に汗が滲《にじ》み出ていた。
ククマモリヒメは熟睡している。
男具那は枕許《まくらもと》の器に入った水を飲んだ。
尿意を覚えたのでククマモリヒメを起こさないように厠《かわや》に行った。
当時の厠は小川の上にあった。
放尿を終えた男具那は、闇《やみ》の中に光るものを見た。灌木《かんぼく》の中に潜んでいる獣の眼らしい。血のような色だ。男具那はこれまで、こんな奇妙な眼光を見たことはなかった。
男具那が自分に気づいたのが分ったらしく、獣が灌木から跳び出した。身体は闇に包まれて分らない。赤い眼光だけが闇を走る。無気味だった。
男具那は刀を身につけて来なかったのを悔いた。
獣は屋形を背に、男具那の方を向いている。見事に退路を断たれた。
眠らずに警護している兵士も、気がつかなかったのだろう。それに、ここ数年、曲者《くせもの》も現われない。警護兵の気がゆるむのも無理はなかった。
男具那としては、このまま得体の知れぬ獣と睨《にら》み合っているわけにはゆかない。無気味な獣の眼には殺気が篭《こも》っている。間違いなく男具那を狙っているのだ。
男具那は息を殺し厠に戻った。
獣の眼は男具那を追い厠の傍《そば》まで来た。獣の唸《うな》り声や足音が聞えないだけに一層無気味である。
男具那は小川に入った。深さは腰ほどまでだが、相手が山犬であるにせよ、川に入っている人間を襲っては来ない。
男具那はゆっくり浅い小川を泳ぎながら屋形を取り巻く水濠《すいごう》まで辿《たど》り着いた。
「吾《われ》だ、男具那王子だ、怪しい獣が入り込んだ、近くの警護兵、槍《ほこ》(矛)を持って来い」
男具那は山野に響き渡るような大声で叫んだ。
「王子様、何処《どこ》ですか?」
「ここだ、水濠に入る小川の手前だ」
途端に獣が小川の男具那に跳びかかって来た。男具那は本能的に小川に身を沈める。
獣は小川を跳び越え、向う側に立った。
男具那が顔を上げると、また跳びかかって来る。
男具那は水に潜らず、身を沈めながら獣の両眼の間に拳《こぶし》を叩《たた》き込んだ。拳は眼と眼の間を通り抜けた。通り抜けたというのは、空を突いたのだ。男具那を嘲笑《あざわら》うように赤い眼だけが宙を飛ぶ。恐怖のあまり男具那の身体が凍りつく。
槍を持った警護兵が、陸橋を渡り、
「王子様」
と呼びながら駆けつけて来た。
途端に赤い獣の眼が消えた。深呼吸をすると、男具那は小川から出た。
「王子様、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ、そちは怪しい獣を見なかったか?」
「はあ……」
槍を持ったまま警護兵は周囲を見廻《みまわ》した。獣の気配などまったくない。
「吾の錯覚だったようだ、厠に行ったのだが、夢を見ていたのかもしれぬ、ただ念のため、屋形の庭を調べるように、油断をするな」
男具那は警護兵に命じると、屋形に戻った。
「王子、どうなさったのです」
ククマモリヒメと侍女たちが、厠に通じる縁に立っていた。
「何でもない、半分眠っていたのだろう、小川に落ちたのだ、新しい寝衣を」
と男具那は低い声でいった。
身体を拭《ふ》き、新しい寝衣を纏《まと》い寝具に横になったが、眠れそうにない。
あんな無気味な眼光を見たのは初めてである。血が燃えている、といっても過言ではなかった。
寝呆《ねぼ》けていた、と思いたいが、男具那は自分の眼を信じた。
ひょっとすると獣の鬼神かもしれないが、間違いなく、無気味な眼を持った見えない獣がいたのだ。そうでなければ、あの眼はないはずだった。
狗奴国との戦の前である。良い徴候ではなさそうだった。得体が知れないだけに不安である。
男具那は、倭姫《やまとひめ》王に会いたくなった。
そんな男具那の異変を知ったように、三日後、弟橘媛《おとたちばなひめ》が、倭姫王が呼んでいる、と男具那に告げた。
男具那は、弟橘媛には何も話していない。
弟橘媛も倭姫王に会っていなかった。だが、弟橘媛には、遠くから呼びかける倭姫王の声が聞えるのである。
弟橘媛は、かつて巫女《みこ》として倭姫王に仕えていた。常人にない能力がある。
「明日の早朝、人眼につかぬように一人で参れ、とのおおせです」
弟橘媛の顔には血の気がない。離れた場所にいる倭姫王の意を受けるには、それなりの精神力の集中が必要であり、肉体的にも消耗する。
「一人で行かれるのは心配ですが……」
「いや、倭姫王の御意志だ、一人で参る、ただ、部下たちにどう説明したらよいか……」
「兄の内彦に私《わ》が話しましょうか」
「うるさい宮戸彦がいないのが幸いじゃ、そうだ、吾は仮病を使おう、熱を発し、寝具にもぐったまま動かないことにする、倭姫王に会いに行ったことは、おぬしの口から内彦に告げよ、仮病に協力してもらう、いや、今、内彦を呼べばよい、吾が直《じか》に告げよう、その方が内彦も納得する」
使者が出され、近くの屋形にいた内彦が跳んで来た。
男具那の部下は、男具那の屋形を取り巻くように屋形を建てている。
妻子がある者もいるし、恋人だけの部下もいた。彼らは交替で、男具那の屋形を警護しているのだ。
男具那は内彦に、事態を説明した。
内彦は眼を釣り上げて弟橘媛を睨んだ。
「確かに一人、といわれたのか?」
厳しい口調で妹を怯《おび》えさせて、前言を翻させよう、という魂胆らしかった。
だが弟橘媛も負けてはいない。
「はい、確かに申されました」
「途中まで付いて行っても構わぬであろう、夜明け前なら、人眼につかぬ、そうだな、倭姫王様の宮の三百歩ほど手前までお供し、後は男具那王子が一人で行かれる、それなら誰にも分らぬ」
内彦は、これで決まった、といわんばかりに、微《かす》かに鼻を鳴らした。鼻孔の内部が少し病んでいるらしく、気合いを込めたりすると内彦の鼻が鳴るのだ。
男具那には滑稽《こつけい》だが、女人だけに弟橘媛は、恥ずかしい、と感じる。
「兄上、倭姫王様は、お一人で、といわれました、私もお供できぬのです、倭姫王様は、王子に好意を抱いていらっしゃいます、王子を守ろうとなさっておられる、もし王子が兄上を連れて行かれたなら、倭姫王様はたぶん、落胆されるでしょう」
内彦に対する弟橘媛の声も厳しい。王子に対する愛情は兄上には負けぬ、と媛の眼はいっていた。
思い掛けぬ反撃に内彦は狼狽《ろうばい》し、憤然とした。
「途中までお供する、と申しているのだ、何も倭姫王様の宮にまで参るとは申していないぞ」
男具那は、
「もうよい、内彦、吾の申すことを聴け、それも聴けぬか?」
「とんでもございません、聴きます」
男具那が、こんないい方をすることは滅多にない。皮肉な表現は男具那の性格に合わなかった。だからたまに使うと効果がある。内彦は慌てて居住いを正した。
「倭姫王は、吾に一人で来い、とおおせられた、半里は離れているのに、倭姫王は弟橘媛に語りかけることができる、吾の行動はお見透《みとお》しなのだ、途中までおぬしを連れて行けば、吾は倭姫王に軽蔑《けいべつ》される、吾は誰に対しても卑怯《ひきよう》な男子《おのこ》になりたくはない、分ったか、ただ舟の用意だけは今日中に頼む」
「はっ、分りました、お見透しとあれば仕方ございません、明日は、早朝からやつかれが屋形の入口を守り、王子の仮病を守り通します」
「それでこそ、兄上です」
弟橘媛は嬉《うれ》しそうにいった。弟橘媛も彼女なりに兄を愛しているのである。
「一言、多い」
内彦は照れ、鬚《ひげ》を撫《な》でた。
男具那は寅《とら》の上刻(午前三時―四時)に屋形を出た。いつも男具那たちが乗る舟着場には、二|艘《そう》の舟がつないであった。見張番の小屋がすぐ傍にあるが、寝入っているらしい。
下旬の月は淡く、雲のせいで星もまばらである。男具那は艫綱《ともづな》を解き竹竿《たけざお》で舟を進めた。
先日の豪雨のせいで水嵩《みずかさ》は増し、流れも速いが、男具那は竹竿をたくみに操り、浅瀬を選んで対岸につけた。
男具那にとって初瀬《はつせ》川は、自分の庭の一部だった。
男具那は、竹竿を舟に置こうとしたが、思いなおし、竹竿を持ったまま斎宮《いつきのみや》に向った。東の空がやや白みかけていた。間もなく卯《う》の上刻(午前五時―六時)である。
斎宮は、黒い煙が立ち昇っているように見えた。すでに闇《やみ》が薄れている証拠だった。もう半刻《はんとき》もたてば宮の形もはっきりする。
男具那は松の木に竹竿を立てかけた。
草叢《くさむら》を這《は》いながら宮に向って進む。警護の女人の兵士たちも気がゆるんでいるのか、歩く足音が高い。
男具那は足音が遠ざかるのを待ち、正面の階段を一気に上った。縁に伏せ周囲の様子を窺《うかが》ったが、誰も男具那に気づいた者はいないようだった。
正面に伏せていると、板戸が僅《わず》かに開いた。
「男具那王子か、よく参った、そのままで私《わ》の申すことを聴け、そなたの出発は来月の初めになるであろう、先日会った時、そなたは勝運にめぐまれている、と感じた、ただ最近、黒い影がそなたに纏いつき始めた、数年前、そなたが斬《き》った丹波森尾《たんばのもりお》の鬼神が、そなたを狙い始めたのじゃ、何か異変があったでしょう」
微風の囁《ささや》きにも似た声だが、男具那にはよく分った。
男具那は驚きながら、得体の知れぬ獣に襲われたことを話した。倭姫王は、それじゃ、と頷《うなず》く。
丹波森尾はイニシキノイリヒコ王の警護隊長だった。オシロワケ王の兄だから、普通ならオシロワケ王の代りに王位に即《つ》いているはずである。オシロワケ王に蹴落《けおと》されたのだ。
「なぜ、吾《われ》を……」
「そなたはオシロワケ王の代理として、九州の狗奴国を討ちに行く、そなたが勝てば、オシロワケ王の権力は増し、大和の王権は強化される、丹波森尾にとっては、それが堪えられない、森尾はそなたに斬られたことよりも、オシロワケ王を憎んでいる、だからそなたに纏いつき始めたのです」
「なぜ、丹波森尾の鬼神は、黄泉《よみ》の国に行かなかったのでしょう、吾は堂々と勝負しました」
「そなたは丹波森尾を墳墓に葬らなかった、だから鬼神はこの世でさ迷っている、それとオシロワケ王に対する憎悪のせいじゃ」
男具那は肩を落した。
「そうでしたか、吾は音羽《おとわ》山の山頂こそ、丹波森尾の墳墓にふさわしい場所だ、と思いました、いや、それだけではありません、父王にいろいろと問い詰められるのが煩わしかったのです、吾が間違っていました、倭姫王様、ただ鬼神に生きている人間を殺す力はあるのでしょうか、それなら、なぜ、鬼神がこの世を支配しないのですか?」
「尤《もつと》もな質問じゃ、確かに人間の鬼神には、そなたのような勇者を直接殺す力はない、だが鬼神は、不運をもたらす、山犬とともに過した丹波森尾は先夜のように山犬に乗り移り、そなたを襲うこともできるのじゃ、また病の鬼神と一緒になり、取り憑《つ》いたりする、時には何もないのに幻となって人の眼を欺く、鬼神にできるのはその程度じゃ、だから人間を殺すことはできるが、大勢の人間を支配することはできぬのじゃ」
「分りました、倭姫王様、難を避けるには、どういうことをすればよいでしょう」
「丹波森尾の遺骨は、まだ音羽山の上に残っている、ほとんど散っているが、残っている骨もあります、そなたはその骨を集め、イニシキノイリヒコ王の墳墓に埋葬すればよい、森尾の鬼神は、黄泉の国に行き、もう戻らない」
「はい、その際、部下は置いて行くべきでしょうか?」
「傍まで連れて行ってよい、ただ、骨を拾い、埋葬するのは、そなた一人がなすべきです」
「御宣託、有難うございました、西に征《ゆ》くまでに必ず実行します」
「ああ、それで、そなたは勝って戻る、たぶんその後、また会うことになるでしょう」
倭姫王は喰《く》い入るように男具那を見ると、板戸を閉じた。
僅かな時間だったが、心なしか闇は薄れていた。男具那は警護兵の気配を窺い、裏手に廻《まわ》り縁から跳び降りた。身軽な男具那はほとんど音を立てない。
女人の警護兵が不審な音に気づき、宮裏に来た時、男具那はもう草叢《くさむら》の中に戻っていた。
男具那は竹竿を取り、舟に乗って初瀬川を渡った。すぐ音羽山に行きたかったが、いったん弟橘媛の屋形に戻り、準備を整えた方がよい、と判断した。
男具那は、自分の衝動を抑えられる年齢になっていた。
男具那は、弟橘媛と内彦に倭姫王の宣託を告げた。
「丹波森尾を野晒《のざら》しにしておいたのは、吾の罪だ、この手で遺骨を集め、イニシキノイリヒコ王の墳墓に埋葬したい、もし、明日、晴れていたなら、戦の訓練という名目で、部下を連れ、音羽山に登る、甲冑《かつちゆう》は要らぬ、ただ、槍《ほこ》、弓矢、縄を持参させる、内彦、そちから皆に伝えろ」
男具那の命令は部下たちに伝えられた。
宮戸彦は尾張に行っていないし、今の部下の中で一番古くから男具那に仕えているのは内彦である。
そういう点で、宮戸彦と内彦には警護隊長的な格があった。吉備武彦、大伴武日なども、仲間だが先輩として二人を敬っていた。
翌日も晴天だった。
一行は夜が白む前に弟橘媛の屋形に集まり、音羽山に向った。
初瀬川沿いに南下し、多武峯《たうのみね》から流れて来る後の寺《てら》川を渡ると、音羽山の山麓《さんろく》だ。
音羽山は、南の竜門岳《りゆうもんだけ》、|経ケ塚《きようがづか》山とともに三百丈(約九百メートル)前後の峻険《しゆんけん》な山である。
一行は倉梯《くらはし》を通り、北側から山に登った。男具那は矢筒とともに、骨壷《こつつぼ》も背負っていた。
あれから、七年か、八年か、男具那には遠い日のでき事のように思えるし、また、二、三年前のことのような気もする。
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三
男具那《おぐな》が音羽《おとわ》山に登ったのは、数年も前のことでただの一度だった。途中まで獣途《けものみち》を歩いたのだが、その日はなかなか獣途が見つからない。
やっと見つけて灌木《かんぼく》や熊笹《くまざさ》を伐《き》り払いながら登ったが、山は数年前とはまったく異なっていた。山を覆う、檜《ひのき》、槙《まき》、欅《けやき》、樫《かし》、また杉など、まるで千丈(三千メートル)の山に入り込んだように鬱蒼《うつそう》と繁っていた。
男具那は何度も、山を間違ったのではないか、と木に登り周囲の山々や大和《やまと》盆地などを眺めた。初瀬《はつせ》川を挟んで三輪《みわ》山と対峙《たいじ》しているような鳥見《とみ》山も見えるし、登っているのは間違いなく音羽山だった。
男具那は顔にこそ出さなかったが、何度も、山が変ったのではないか、と自分に呟《つぶや》いた。囀《さえず》っていた小鳥の声も聞えなくなり、無気味なほどの静寂だった。
弟橘媛《おとたちばなひめ》の兄の穂積内彦《ほづみのうちひこ》は男具那にぴったりと付いて来る。彼の後に吉備武彦《きびのたけひこ》、大伴武日《おおとものたけひ》などが続く。警護の兵士は数人である。竹筒の水と焼き米、干肉などを持参していた。
山の恐ろしさを男具那はよく知っている。
旧暦三月中旬で気候はよいが、いつ天候が変るかもしれない。それにこの辺りは雲が降りて来て山を包み込むように霧が湧《わ》く。
晴れた日なのでその心配は少ないが、山に迷い、山中で一夜を過せば天候の変化にも気をつけねばならない。
男具那は思い出したように何千年も堆積《たいせき》し、すえた匂いを放つ落葉に耳を当て、怪しい者や、獣の気配を探った。何の気配も耳に伝わらないのがかえって無気味だった。
兎、狐、狸などの小さな獣や、鹿、猪、それに山犬も棲《す》んでいるかもしれないのだ。
男具那が顔を上げると、内彦や武彦などが、何か聞えましたか? と男具那の表情を窺《うかが》う。彼らもあまりにも静かなので気味が悪いのかもしれない。
もう一刻《いつとき》(二時間)以上は登っている。獣途は真直《まつす》ぐではなく、曲りくねり、また斜めになっているからまだ百丈(三百メートル)も登っていなかった。
「何の気配も感じられない、獣は一匹も棲んでいないようだ、前に登った時とはまったく違う、吾《われ》が丹波森尾《たんばのもりお》殿を葬るために来たのを知り、身を潜めているのだろうか、獣たちも改めて喪に服しているのかもしれぬのう」
男具那は微笑したが内彦の顔は真剣だった。鬱蒼とした樹林の中なので顔色も暗い。
「王子、確かにあまりにも静か過ぎます、戦《いくさ》では敵が潜んでいる時は、異常なほど静寂だといいます、一層の御注意を……」
「敵は人間ではない、吾の心にある、曲者《くせもの》ならいくら身を潜めても気配で分る、内彦、その顔の色は何だ、いつもの元気はどうした、そちはもう自分に負けているぞ」
男具那の声は大きく周囲に響き渡る。内彦は頬《ほお》を叩《たた》かれたように眼を剥《む》いた。
「王子、申し訳ありません、こんなことでは、熊襲《くまそ》と戦えません、王子、お待ち下さい」
内彦は槙の木に跳びつき登り始めた。内彦の身の軽さは、部下の中でも随一だった。走る速さは男具那の方が一歩まさるが、跳ぶ飛距離は内彦が優れている。
内彦は猿のように木から木へと飛んだ。木のざわめきでそれが分る。内彦はかなり上まで行き戻って来た。さすがに息を切らしていた。
「王子、この先は二百歩ばかりで崖《がけ》に出ます、左側は崖が深く、登るにはいったん下りねばなりません、右側に参りましょう、猿もいないようです」
「そちが来たので、妙な人間だと驚いて逃げたのかもしれぬぞ」
男具那の白い歯に内彦たちは笑った。
水や食物を待った兵士たちが喘《あえ》ぎながらやって来た。息を切らし汗を流していた。
「何だこの程度で、そんなことでは戦に勝てぬぞ」
内彦が叱咤《しつた》した。
「慣れぬ山じゃ、それに我らの足が早過ぎる、一息入れろ」
男具那たちは水を飲み、放尿した。
一休みした後、男具那の一行は樹林を進んだ。獣途が左側に曲った。内彦の報告通りである。この獣途を進むと崖の下方に出るのであろう。更に下りると初瀬川に出る山に入る。おそらく小さな滝などがあるに違いなかった。
「数年前とはまったく違うところに入ったようだ、内彦、吾は獣途を外れ、崖の右側に出る、素手で登れぬ場合は綱を使う」
男具那は蔓《つる》で作った綱を用意していた。
「王子、お待ち下さい、確かに左側に進めば、いったん下りねばなりません、だが獣途が左に向っていたのは、安全だからでしょう、右の方は頂上に登るには短距離かもしれませんが、危険な気もします、我らが一応、右側を探って参りますので、王子はここでお待ち下さい」
男具那は内彦の顔を眺めていたが、分るぞ、と頷《うなず》いた。ほっとしたような内彦に、
「そちは、右方をすすめたので、今、責任感を覚え、それが不安感に変っている、そちの気持はよく分るが、吾は音羽山に塒《ねぐら》を求めに来たのではない、頂上に登り、丹波森尾殿の骨を拾うために参ったのだ、倭姫《やまとひめ》王は吾に、途中からは一人で登るようにいわれた、ここがその場所と吾は感じたぞ、そちたちはここで吾を待て」
「王子、それは無茶です」
内彦が叫ぶと、武彦、武日なども顔色を変えて男具那を取り巻く。
男具那は三人を睨《にら》みつけると刀に手をかけた。
「吾を止めるなら斬《き》る」
「お斬り下さい」
蒼白《そうはく》になった内彦は眼を剥き、両腕を拡げた。気持は嬉《うれ》しいが、今の内彦は男具那には邪魔だった。
「そうか、吾の意が分らぬのか、吾の運命を絶つつもりか、そういう部下は要らぬ」
男具那は刀を抜くと、空いている内彦の胴体に叩き込んだ。峯打《みねう》ちなので叩いた、という感じだ。
息が詰まった内彦は嘔吐《おうと》の時のような声をたて、両腕を拡げたまま崩れ落ちる。そのまま気を失ったらしく、相変らず腕を伸ばしたまま仰向《あおむ》けになった。
「吾の邪魔をする者は、前に出ろ!」
男具那が大喝すると、武彦と武日は唇を噛《か》んで項垂《うなだ》れた。男具那は刀を鞘《さや》におさめ、二人の肩を叩いた。
「一人で行かねばならぬのだ、丹波森尾殿に、卑劣な男子《おのこ》と軽蔑《けいべつ》されたくない、また丹波森尾殿は、卑劣な男子に自分の遺骨は触れさせない、とますます吾を憎む、そうなれば、遺骨を葬りたいという吾の念願は果されない、なぜ、ここまでいわせねばならないのだ、無念じゃ」
「王子……」
二人は言葉が続かない。
「峯打ちだ、間もなく内彦は気がつく、吾の気持を説明するのだ、それでも分らぬようなら部下ではない」
両手を拡げたまま仰向いて倒れていた内彦が、唸《うな》り声とともに眼を開いた。
「王子、やつかれが間違っていました、お許し下さい」
と内彦がいった。
「こいつ、横たわって聴いていたのか、呆《あき》れた男子じゃ」
男具那の爽《さわ》やかな声に、強張《こわば》っていた武彦と武日の顔がゆるんだ。内彦が跳ね起きた。
「王子、水だけは二日分ほどお持ち下さい、今はこれだけがやつかれの頼みです、おきき入れがなければ、また腕を拡げて前に立ちますぞ」
内彦が眉《まゆ》を寄せたのは、峯打ちされた場所が痛んだからであろう。
「分った、弱い峯打ちのつもりだったが、少し強過ぎたか、吾も、そちに刀を抜くのは真っ平じゃ、水は二日分以上持参する、安心しろ」
男具那の言葉に内彦は嬉しそうに、初めて打たれた場所をさするのだった。
男具那は矢筒と竹筒を背負い、弓と蔓の綱を肩にかけた。遺骨を入れる壷《つぼ》を腰に吊《つる》した。壷は割れないように布で覆っている。更に焼き米の入った袋も腰に吊す。
男具那は無事を念ずる内彦たちの視線を背に受け、岩肌が剥《む》き出た崖の下を右手に登った。
邪魔になる灌木《かんぼく》を伐り、一歩一歩注意深く進んだ。
間もなく鬱蒼《うつそう》と繁った樹林に再び入った。昼なのに夕暮れのような暗さである。木洩《こも》れ陽《び》は、磨いた槍《ほこ》や刀のように鋭い。見上げると無数の鏡の破片が輝いているようであった。
男具那の心中にあるのは、丹波森尾の遺骨を集め、イニシキノイリヒコ王の墳墓に葬りたい、という一念だった。それが成功しなければ熊襲征討も旨《うま》く行かないのだ。
倭姫王の宣託に嘘はないはずだった。血が燃えたような先夜の獣の眼は男具那の幻覚ではないからだ。
男具那が丹波森尾を斬ったのは数年前で、当時の男具那はまだ二十歳になっていない。遺体をイニシキノイリヒコ王の墳墓に葬ることまで考えなかった。
山を登り、丹波森尾に仕えていた獣に襲われたから、自らの生命《いのち》を守るために斬ったのである。
男具那にとって丹波森尾は敵だった。
後になり丹波森尾が忠節の武人であることを知ったのだ。
ただ森尾の葬礼を考えなかったのは、矢張り男具那の落度である。
死者に対する哀悼の念が欠けていた。
今の男具那はそのことに気づいている。倭姫王に教えられた、といってよい。
半刻《はんとき》(一時間)近く登っただろうか。樹林の内部は暗くなるばかりで、果して音羽山の頂上に向っているのかどうか、不安感が湧いて来た。
音羽山は北音羽山と南音羽山に分れているが、丹波森尾がいたのは北音羽山であった。
頂上から眺めた景色が知らせていた。鳥見山や三輪山も見えたし、大和平野も眺められた。
南音羽山なら、鳥見山や三輪山は北音羽山に邪魔されて見えないはずである。
だがもうそろそろ頂上近くに来てよいはずなのに、その気配がない。
南音羽山に迷い込んだのではないだろうか、と男具那は立ち止まった。
男具那は樹齢千年とも思える杉を見つけ、石をつけた綱を太い枝に投げた。綱は旨く枝を越え、落ちてきた。二本になった綱をよじり一本にすると、男具那は綱を頼りに枝のあるところまで登った。
高い杉で十丈(三十メートル)近くありそうだ。
男具那は懸命に登る。周囲の木も背高いので、見晴らしの利く場所までなかなか登れない。
上の枝に手をかけ、一息ついた時、急に身体が冷えて来た。いつの間にか雲が下りて来た。いや、凍った霧かもしれない。あまりの冷たさに腕が強張《こわば》り木から落ちそうである。男具那は急いで下り始めた。
怪しい霧は、そんな男具那を追うように迫って来る。後六尺(百八十センチ)ほどの高さまで来た時、男具那は霧に包まれた。
身体が強張り、手足の自由が利かなくなった。男具那は綱を掴《つか》んだが、握り締める力がなく落下した。
身体の柔軟性が失われているので、強い衝撃とともに転倒する。ただ堆積《たいせき》した落葉のせいで、骨は折れなかったようだ。その代り腰に吊していた壷が砕けてしまった。
男具那は呆然《ぼうぜん》と壷の破片を眺めた。
丹波森尾の鬼神がこの壷に入るのを嫌がり、壷が壊されたような気がする。
上空を眺めた男具那は眼をこすった。雲のような濃い霧が去って行く。再び木洩れ陽があちこちで輝き始めた。
いつになく男具那の気力は萎《な》えていた。自分自身が腐った落葉になったような気がする。大きな吐息をついて男具那は腰を落した。
昔はこんな時、母が現われて男具那を励ましてくれたが、今はもう母は現われてくれない。
印南《いなみ》の墳墓の中で、好《い》い年齢《とし》をして何ですか、私《わ》はそなたのような気の弱い男子《おのこ》を産んだ覚えはありません、と叱咤《しつた》しているに違いなかった。
母のことを思ったせいか、男具那の気持は少し落ち着いた。男具那は脚を投げ出して水を飲んだ。弟橘媛《おとたちばなひめ》が祈りながら汲《く》んでくれた水だ。弟橘媛の呪力《じゆりよく》がこの聖なる水に篭《こも》っているのかもしれない。水は身体の隅々にまで沁《し》み渡る。萎えていた男具那の気力が活力を得た。
男具那は両|拳《こぶし》を握ると、腕を前後左右に振った。
男具那は、壷の破片を握り締めた。
「丹波森尾殿、吾《われ》はそなたを葬るために来た、何も邪魔をする必要はないではないか、そなたはイニシキノイリヒコ王の傍《そば》に行きたくはないのか、それなら、そなたは忠節の武人ではない、一人で恰好《かつこう》をつけていただけだ、そなた自身のためにな」
男具那の掌《てのひら》の中で壷の破片が割れる。
男具那の叫び声は木魂《こだま》となって返って来る。男具那は活力がますます漲《みなぎ》るのを感じた。
吾が悪かったと自分を責め、びくびくし過ぎていた、と男具那は反省した。過去がどうであれ、今の男具那は正しいことをしている。何も自分を責める必要はないのだ。
邪魔をするなら、それが丹波森尾の鬼神であろうと斬《き》り捨てねばならない。
男具那は壷の破片をいくつか懐の中に捻《ね》じ込んだ。
男具那は再び登り始めた。あまりにも傾斜が急なところは斜めに進んだ。
風が出始め、山を覆う樹木がざわめく。再び霧が湧いて来た。この辺りでは、よく、雲が山の中腹まで下りる。
奇怪な現象ではなく、自然の雲かもしれない。ただ、山の頂上まで雲がかかっていたなら遺骨は拾い難《にく》い。雲が晴れるまで待たねばならない。
天候の異変は、男具那にとって有難くなかった。
急斜面に出た男具那は上を仰ぎ舌打ちした。斜面の上には雲が下りている。それに、斜面には落葉が堆積しているのですべる危険性があった。
また遠廻《とおまわ》りである。男具那は自分を奮い立たせ右に進んだ。男具那の右足が落葉の中に入った。何かが男具那に巻きつき両脚をすくわれた。男具那は腰から転倒した。背中の矢筒が潰《つぶ》れ、男具那は予想もしなかった急斜面を転がった。
二度、三度と身体が木に当るが、転落は止まらない。男具那の武術でもどうすることのできない速さである。男具那が本能的に頭を抱えた時、強い衝撃が腕に来た。腕で抱えたはずなのに頭も一瞬空洞になったような気がした。
男具那は転がろうとした足先に力を込め、地を蹴《け》った。懸命の力で衝突した木に縋《すが》りついた。木は槙《まき》のようである。抱えなかったなら頭は割れていたかもしれない。
上の方では、堆積した落葉が呻《うめ》き声をあげている。男具那は耳を地につけた。山肌が震動している。男具那は顔を上げた。男具那は自分の眼が信じられなかった。見たこともないような大蛇がすべり下りて来た。
男具那は、とぐろを巻いていた大蛇に足を突っ込み、巻きつかれ転倒したのである。
刀を抜く暇はなかった。男具那は腰紐《こしひも》に吊していた刀子《とうす》(小刀)を抜いた。下半身を回転させながら木を探した。右足が木を探し当てた時、大蛇が鎌首を持ち上げた。
男具那は思い切り身を縮めた。両足が木に当っているのでもうすべり落ちることはない。
火のような舌をちらつかせた大蛇の口が男具那を襲う。自由の利かない体勢だが、縮めた脚を思い切り伸ばし、腕ごと刀子を大蛇の口中に突っ込む。刀子は見事に大蛇の上顎《うわあご》を刺し貫いた。
凄《すさ》まじい木枯しのような声をあげ、大蛇は首を振った。口中から血《ち》飛沫《しぶき》が噴出し、男具那の顔面は大蛇の血で染まった。
男具那は刀子から手を離していた。もし握ったままだったなら鎌首の一振りで、男具那は跳ね飛ばされていたに違いない。
大蛇は猛然と男具那に跳びかかって来た。蛇が跳ぶのを男具那は初めて知った。
身を縮めた男具那に噛《か》みつこうとしたが、口中に刀子が刺さっているので噛めない。怒った大蛇は生臭い息とともに、血と唾《つば》が入り混じったようなねっとりとした液を吐き出す。
息が詰まるほど臭いが顔を覆う暇がない。もちろん、刀を抜く余裕などなかった。
男具那は傾斜面に自分の身を放り出した。急斜面を利用し、転がって起きようとしたが、下が落葉なので立てない。
身を縮めた男具那に大蛇がのしかかって来た。大蛇は口が駄目なので男具那を絞め殺すつもりのようだ。男具那は左|肘《ひじ》を顔面と頸部《けいぶ》に当て右腕を伸ばした。右腕だけでも自由にしておかなければ、巻かれた後、大蛇と闘えない。
大蛇の眼が燃えているのを男具那は見た。
闇夜《やみよ》に厠《かわや》に行った男具那を襲ったのは、この大蛇かもしれない。男具那は大蛇の眼に拳を突き上げた。残念ながら距離が足らず、掠《かす》った程度である。
大蛇の頭が男具那の頭を叩《たた》いた。大蛇が木枯しのように吠《ほ》える。上顎を貫いた刀子の先が更に突き出たのを男具那は見た。朦朧《もうろう》とした意識の中で、吾の武器はこれだけなのだ、と男具那は自分にいい聞かせる。
どんな相手であれ、勝つためには闘いの状況を忘れては駄目なのだ。敵の弱点を見抜くことも必要である。
突然男具那は自分の身体が宙に持ち上げられたのを感じた。次の瞬間、重いものにのしかかられ、身体が動けなくなった。
大蛇に巻きつかれたらしい。肘で頸部を覆ったのが幸いし、息だけはできる。
だが胸と胴を締めつける大蛇の力は人間の数倍はあった。胸の骨がきしみ、息をしようにも胸が動かないので空気を吸えない。
吾の生命もこれまでか、と男具那は気を失いそうになった。
遠くから声が聞える。
「鬼神は、人を殺せない、人が鬼神に負けるのは幻覚のせいです」
倭姫王の声だ。
そうか幻覚か、と男具那は右拳で鎌首を叩いた。男具那の拳はざらついた厚い皮に撥《は》ね返された。幻覚ではない、吾は大蛇に締め殺されようとしている、と男具那は絶望的になった。
胸と胴はますます締めつけられ、息はできない。空気を吸うのは首ではなく胸だった、と男具那は気がついた。同時に左首の付け根の辺りから左胸の上部を腕が覆っているのを思い出した。全部の胸が駄目というわけではないのだ。左胸の上部だけは、圧迫感が少ない。
男具那は息を止めた。落ち着け、落ち着けと自分にいい聞かせながら左の鼻と左胸だけで空気を吸った。わずかだが空気が胸中に入って来るのが分る。男具那はむさぼるように呼吸をした。汚れた空気が新しい空気に換る。失いかけていた気力が甦《よみがえ》った。男具那が空気を吸ったのを知った大蛇は、怒り狂い、男具那を巻いたまま身体をゆさぶる。
再び胸の骨がきしみ、男具那の眼から火花が散った。
今度こそ駄目だ、と気力が萎《な》えようとした時、男具那は刀子が大蛇の上顎を内側から貫いているのを思い出した。あまりの臭さと胸の苦しみに、大蛇の口を冷静に、観察する余裕を失っていたのだ。
男具那は顔を持ち上げ眼を見開いた。血に染まった大蛇の口が上にあった。口中の刀子のせいで口が完全に締まらないらしい。大蛇も苦しいらしく、凄《すさ》まじい唸《うな》り声をあげている。
男具那は右拳で大蛇の喉《のど》の辺りを突いた。大蛇は本能的に口を大きく開き歯を剥《む》き出した。男具那が予想した大蛇の反応だった。刀子が刺さっているのも忘れ、右拳に噛みつこうとした大蛇の口中に、男具那は拳を突っ込んだ。大蛇の舌が絡まったが男具那は素早く刀子の柄《つか》を掴《つか》んだ。刀子を引き抜くや、喉の奥を滅多突きにする。群れをなした山犬のような咆哮《ほうこう》とともに滝のように血が流れて来た。刀子の柄は血塗《ちまみ》れになりすべりかけたが、男具那は突きを止めなかった。
男具那を締めつけていた大蛇の力が弱った。男具那は二の腕が歯に当るほど、大蛇の口中深く刀子を突っ込んだ。
死の前の力を出した大蛇は、男具那を巻いたまま立ち上がろうとした。男具那の身体が再び宙に釣り上げられる。だが大蛇の力はそれまでだった。大蛇は男具那を巻いたまま頭から倒れた。男具那は刀子を引き抜くと、大蛇の両眼を潰し、眼と眼の間に突き刺す。
男具那は自分を巻いたまま動かなくなった大蛇から脱《ぬ》け出た。三丈(九メートル)はある大蛇のように見えたが、実体はその半分である。それでも、こんな大蛇は見たことがない。
大蛇は幻覚ではなかった。間違いなく男具那は大蛇に襲われたのである。
無性に喉が渇いた。弟橘媛の祈りのせいか、竹筒は罅《ひび》も入っていない。
男具那は一日分の水を飲み干してしまった。刀子は刃毀《はこぼ》れしてもう使えない。矢筒も矢も折れ曲っていたが、刀は鞘《さや》こそ割れていたが、刀身は無事である。
男具那は、弓矢と矢筒、それに刀子を大蛇の傍に置いた。締め殺されなかったのは、大蛇が矢筒ごと男具那に巻きついたせいかもしれない。
男具那は身体にこびりついた血と、生臭い匂いを早く取り払いたかった。
男具那は横になると落葉に耳を当てた。
初めは何も聞えなかったが、微《かす》かに水の音が、右の下の方から聞えて来る。
山水が流れているに違いない。
ここまで来て下りるのは勿体《もつたい》なかったが、清冽《せいれつ》な水で身を浄《きよ》めたかった。
男具那は落葉ですべらないように、ゆっくり下り始めた。
四半刻《しはんとき》(三十分)ほど斜めに下りた男具那は灌木《かんぼく》に取り囲まれた岩清水を見つけた。
男具那は下帯一つになると、岩肌から流れ落ちる清水で汚れた身体と衣服を洗った。生臭い匂いは髪の中まで沁《し》み込んでいる。
男具那は頭の中まで洗うつもりで髪を洗った。陽はほぼ真上にある。衣服は灌木の上で干し、熊笹や雑草を伐《き》り払って横になった。暖かい陽差しは身体が溶けるほど気持が良かった。
大蛇との死闘で、男具那は疲れ果てていた。いつか男具那は割れた鞘におさめた刀を抱くようにして眠っていた。
寒気に男具那は眼覚めた。陽はかなり西に傾いている。旧暦三月中旬だから陽を浴びている間は暖かい。だが陽が蔭《かげ》ると、山の中腹でもあり、急激に温度が変る。
衣服はほとんど乾いていた。男具那は大急ぎで衣服を着、刀を吊《つる》し、竹筒に清水を満たし背中に吊した。
見渡すと下の方で小鳥が飛んでおり、つつじやあしびの花が微妙に揺れている。妖気《ようき》が消え、山々の緑は濃く、清冽《せいれつ》な気が漲《みなぎ》っていた。
大蛇との死闘は嘘のようだが、身体の節々が痛く、まだ生臭さが完全には取れていない。
湧《わ》き出ている岩清水の先の方から登れそうなので、男具那は何度も深呼吸をし、身体を前後左右に動かし、強張《こわば》っている筋肉をほぐした。ふと下を見ると割れた壷《つぼ》の破片が落ちている。捨てて行こうとした男具那は、眼についたのも何かの縁であろうと思い直し、懐中に二つ入れた。
男具那は再び山を登り始めた。間もなく樹林に入る。心なしか木洩《こも》れ陽《び》の光が弱い。陽《ひ》があるうちに山頂に登れたとしても、帰りは夜になる。山頂で一夜を過してもよい、と男具那は思った。
古い落葉の大半は腐蝕《ふしよく》して土に同化しており、比較的歩き易い。しばらく登った男具那は、樹林の感じから頂上が近いような気がした。それに数年前の記憶が甦った。もう四半刻も行けば樹林が切れ、灌木《かんぼく》に囲まれた岩場が見えるはずだ。そこが頂上である。
だが頂上に近づくにつれ樹林の中は夕暮れのように暗くなって来た。男具那は落葉に耳を当てた。何の音も聞えない。
陽は西に傾いてはいたが、夜の短い季節である。まだ申《さる》の下刻(午後四時―五時)には入っていない。平野では戌《いぬ》の上刻(午後七時―八時)を過ぎなければ暗闇《くらやみ》にはならなかった。
上の方から冷気が流れて来て、男具那は思わず身を竦《すく》ませた。妖気が漂っている。
男具那は刀を抜いた。当時は刀は妖気をも払うと信じられていた。
男具那は檜《ひのき》らしい木の下に坐《すわ》り瞑想《めいそう》にふけった。まず無念無想の境地に入り、妖気にまどわされないことが大切である。
だが男具那は無念無想の境地になかなか入れない。陰気な笑い声があちこちから聞える。明らかに黄泉《よみ》の国のものらしく、鳥肌が立つような気味の悪い声だった。見えない小虫が体内に入って来るような気がする。
仕方なく男具那は眼を開けた。
幻覚であろうと吾《われ》の力で斬《き》る、と刀の柄《つか》を握り締め、四方を睨《にら》んだ。笑い声は相変らず続くが男具那は無視して登り始めた。
男具那は灌木に囲まれた岩場を見つけた。
間違いなく頂上である。あの岩場の上で吾は丹波森尾を斬ったのだ、と男具那は自分を励ますように声に出した。
突然周囲が暗くなった。どこに隠れていたのか夜鳥が奇怪な声で鳴き、笑い声が一段と高くなった。
男具那目掛けて無数の蝙蝠《こうもり》が襲って来た。男具那は身を縮めて刀を振った。だが刀は空を切るばかりである。
蝙蝠が身体ごと男具那にぶつかり歯を立てる。男具那は顔を襲って来た蝙蝠に、裂帛《れつぱく》の気合とともに刀を振り下ろした。間違いなく斬っているはずなのに蝙蝠は男具那の顔に歯を立て、爪《つめ》で引っ掻《か》くのだ。
男具那はうつ伏せになった。
幻覚だ、と男具那は自分にいい聞かせた。
刀を握ったまま落葉に顔を埋めた男具那は、倭姫王を脳裡《のうり》に思い浮かべる。
倭姫王は無言で男具那を見ている。
「幻覚と分っていて私《わ》を呼ぶとは、何と脆弱《ぜいじやく》な男子《おのこ》じゃ」
倭姫王の姿が消える。
男具那はうつ伏せになったまま深呼吸をした。その間も蝙蝠は襲って来る。
蝙蝠が背中の竹筒に噛《か》みついたらしく、鋭い音が耳を掻き毟《むし》った。
男具那は竹筒に水が入っているのを思い出した。岩清水の清冽な水である。
男具那はうつ伏せになったまま竹筒の紐《ひも》を解いた。腰紐に巻いた布を取り顔に当てた。
仰向《あおむ》けになると水を布に注ぐ。水は冷え切っており、冷たさは顔から頭、また体内に浸透して行く。
男具那の頭が冴《さ》えるにつれ蝙蝠の襲撃が弱まった。ようやく男具那は無念無想の境地に入ることができた。もう男具那を襲って来る蝙蝠はいない。
男具那は眼を開け周囲を眺めた。まだ青いのに無数の葉が落ちていた。男具那は手に取って眺めた。葉は若いが不思議なことに付け根の部分が朽ちている。
この葉が蝙蝠に思えたのであろう。幻覚は幻覚だが、丹波森尾の鬼神が、葉を散らしたことだけは間違いない。
「丹波森尾殿、幻覚では吾を殺せぬぞ、吾はそなたの遺骨を、そなたの主君、イニシキノイリヒコ王の墳墓に葬りに来たのだ、そなたが忠節の武人なら、黄泉の国で王に仕えるべきではないか、違うか!」
男具那は仁王《におう》立ちになると岩場に向って叫んだ。返答はない。木魂《こだま》も返って来ない。男具那は残っていた竹筒の水を飲んだ。
「参るぞ」
男具那は岩場の割れ目に手をかけ、身体を岩にたくすようにして上った。
邪魔はなく男具那は頂上にたちした。数年前の光景が鮮烈に甦った。
陽は生駒《いこま》連山に落ちようとしていた。音羽山の真上の雲が真紅の糸を垂らしている。糸というよりも、絡み合った蛇のような形だ。
男具那は岩場の向うに、銅剣を振り翳《かざ》した丹波森尾が現われそうな気がした。
男具那は両手を合わせ叩頭《こうとう》する。
「森尾殿、吾がイニシキノイリヒコ王の傍にお連れする、安心されよ」
口に出して語りかけながら、男具那は繁った雑草や灌木を刀で伐《き》り始めた。
生駒山の上の陽が、星が流れるように落ちた。途端に周囲は暗闇《くらやみ》に変った。
これも幻覚か、と思うとほとんど無気味さは感じなかった。空を仰いだが星はない。無数の星を天空に煌《きら》めかせるほどの力は、鬼神にはないのだろう。
ただ暗闇なので、遺骨を探すことができない。
「森尾殿、吾の前に現われよ、なぜ、おぬしが、葬られることを拒否するのか、吾に述べよ、そなたの言葉に理が通っていたなら、吾は戻ってもよいぞ」
男具那は、丹波森尾を騙《だま》すつもりでいったのではない。たぶん、森尾が何をいおうと、自分は納得しない、と男具那は思ったのである。
その言葉に反応するように冷たい風が男具那の頬《ほお》を撫《な》でた。
暗闇の中に青い火がつき、炎となって男具那の方に近づいて来る。
炎はやがて人の形になり、折れた剣を握った丹波森尾となった。
眼は赤く血を吹いているようである。
「男具那王子、よく来た、王子に斬られ鬼神となって以来、吾が育てたあの大蛇を斃《たお》したのはさすがじゃ、倭《やまと》一の武術者だのう」
「やはりあの大蛇には、森尾殿の鬼神が憑《つ》いていたのか、ただあの蛇は幻ではない」
「その通り、この山に棲《す》んでいる蛇じゃ」
「おぬしを葬りに来た吾を、なぜ邪魔する? おぬしは、イニシキノイリヒコ王の墳墓に葬られたくないのか……」
丹波森尾の炎が風にあおられるように激しく揺れた。
「吾は王を守り切れなかった。それ以来音羽山に住み、王の仇《かたき》を討たんと機会を狙っていたが、遂《つい》に果せなかった、吾は不忠の臣だ、何のかんばせあって、王にまみえん、王子には到底分らぬ」
「吾の父王は本当にイニシキノイリヒコ王を殺したのか、おぬしは、自害した、と吾に告げたが……」
「ああ、殺したも同然じゃ、オシロワケ王は、イニシキノイリヒコ王が寵愛《ちようあい》されていた妃《きさき》を奪い、財物で有力豪族を味方につけ、王を圧迫したのだ、王の自害はオシロワケ王のせいじゃ」
「権力争いに敗れた王は惨めじゃ、それが世の習いではないか、おぬしが父王を憎む気持はよく分る、だが、イニシキノイリヒコ王は自ら死を選んだのだ、おぬしに罪はない、忠節の武人なら、黄泉《よみ》の国で王に仕えるはずじゃ、鬼神となりこの世をさ迷っても、イニシキノイリヒコ王は喜ばれないぞ、違うか」
青い炎が再び揺れ、丹波森尾の姿がはっきり男具那の前に現われた。赤い両眼が血の涙をこぼした。
「罪は吾にある、吾は丹波の実家に戻っていた妻が病に罹《かか》ったとの報を受け、実家に戻っていたのだ、吾が宮にいたなら王は自害などされなかったはずじゃ、吾は武人でありながら、妻に惹《ひ》かれ、王を見捨てたのじゃ、だから吾は王に合わせる顔がない、分ったか王子、吾は王の墳墓に葬られる資格はない、王は怒っておられる」
岩場に落ちた血の涙は、岩をえぐり地の底に落ちて行くようである。
森尾の言葉で男具那は、すべててが理解できた。罪は自分にありという自責の念で、丹波森尾は黄泉の国にも行けず、怨念《おんねん》の鬼神となり、男具那に殺された場所に棲《す》んでいたのだ。
何という忠節の男子《おのこ》か、と男具那は胸が痛くなった。
男具那は刀を鞘《さや》におさめると、森尾の手を取ろうと両手を前に出した。
森尾は驚いたように一歩|退《さ》がる。
「森尾殿、違うぞ、おぬしに罪はない、イニシキノイリヒコ王は、おぬしを待っておられるぞ、吾は王の意向を知り、おぬしを迎えに来たのだ」
「そんなことはない、王子は嘘をついている」
「なぜ吾が嘘をつこうか、おぬしの妻が病に罹ったとの報に、すぐ丹波に戻るようにいわれたのは王ではないか……」
「おう、王子はどうしてそれを」
「吾にも王の胸中が分るからだ」
男具那は、自分が王の立場なら、戻るようにと命令していた、と頷《うなず》いた。
「吾は王の優しさに甘えてしまったのだ、吾は警護隊長、自分の任務を忘れ去った、吾はそんな自分を許すことができない」
「何をいうか、イニシキノイリヒコ王は、淋《さび》しがっておられるぞ、さあ、これを渡す、この世のことは忘れ、黄泉の国で安らかに過されよ」
男具那は懐中から骨壷《こつつぼ》の破片を取り出した。こういう時もあるだろう、と最後まで持参した小さな破片だった。
「王子、吾は受け取らぬぞ」
だが血の涙が消え、赤い両眼が閉じられた。森尾の表情に安らぎが表われたのを男具那は見た。
男具那は消えようとしている森尾の手に、骨壷の破片を渡した。破片は岩場に落ち、灌木《かんぼく》の中に転がり落ちる。
しまった、と唇を噛《か》んだ男具那は、蛍のような淡い光が闇《やみ》の底に明滅しているのを見た。何という神々しく優しい光だろうか。
男具那は灌木を掻《か》き分け、青白く光っている軽い石を掌《てのひら》に乗せた。その軽さから考えて、丹波森尾の遺骨に違いなかった。遺骨は、男具那に発見されたのを喜んでいるかのごとく、明るく輝いた。
掌の光に向って叩頭《こうとう》した男具那は、目が眩《くら》んだ。
いつの間にか闇が消えている。
信じられない思いで男具那は眼をこすった。陽が東の山々の上に昇っている。
闇になる前、陽は生駒山の彼方《かなた》に沈もうとしていた。暗闇になってから四半刻《しはんとき》もたっていない。
「王子、王子」
岩場の下の方から、男具那を呼ぶ内彦たちの声が聞えて来た。
男具那は握り締めていた掌を開いた。風雨に晒《さら》され、ところどころ穴の開いた小さな骨片が掌に乗っている。
男具那は腰紐《こしひも》に結んでいた布を出し、丹波森尾の遺骨を包んだ。
「おう、吾《われ》はここだ」
男具那の声に、喜びの喚声が湧《わ》いた。
男具那は丹波森尾の鬼神が立っていた岩場を拝んだ。
「来なくてもよい、吾が下りる」
男具那が岩場から下りると、内彦が崩れるように蹲《うずくま》った。部下たちも平伏する。
「王子、御無事でしたか……」
眼を見開いた内彦は、男具那の顔を穴が開くほど凝視《みつめ》ている。
生きている男具那かどうか、確かめているようだった。男具那は胸を叩《たた》いた。
「内彦、心配するな、吾は鬼神ではない、鬼神は陽とともに現われたりはしないぞ」
「いくらお待ちしてもお戻りにならないので、岩場の下まで来ました、日が暮れたので、何度か頂上に登ろうと思ったのですが、王子の御命令通り登らず、ここでお待ちしたわけです」
内彦の声が掠《かす》れているのは、絶えず男具那を呼んだからであろう。
「嬉《うれ》しく思うぞ、よく吾の命令に従ってくれた、もし頂上に来たなら、丹波森尾殿の遺骨はたぶん得られなかったであろう、丹波森尾殿は忠節の武人じゃ、またイニシキノイリヒコ王も、心優しき王であった、あまりにも心が優し過ぎ、父王との権力争いに敗れたに違いない」
男具那は、最後の部分だけは口の中で呟《つぶや》く。部下たちには聞かせたくない言葉だ。
冷酷とも思えるオシロワケ王の顔が、男具那の脳裡《のうり》をよぎる。
男具那は、オシロワケ王から、父親らしい愛情を示されたことがなかった。男具那だけではなく、他の王子も同じ思いでいるかもしれない。
だからこそ、オシロワケ王は権力を握り続けているのであろう。
男具那は、布で包んだ丹波森尾の遺骨を懐中におさめた。
「内彦、ゆっくり歩こう、一瞬も一夜なら、一夜が百夜に思える時もある、不思議だ」
「王子、やつかれは、昨夜は百夜にも思えました、しかし、今は夢のようです」
「人の世は幻のようなものだ、先のことを思い煩っても仕方がない」
と男具那は頂上を振り返った。
[#改ページ]
四
男具那《おぐな》は、丹波森尾《たんばのもりお》の遺骨を、イニシキノイリヒコ王の墳墓に葬ることを、オシロワケ王に申し出た。
今頃|何故《なにゆえ》そんな余計なことをする、と父王は機嫌が悪い。
男具那は、自分の気が済まない、と返答した。
「遺骨などあまり動かさない方がよい、鬼神が、せっかく眠っているのに起こされた、と怒るぞ」
丹波森尾はオシロワケ王を恨んでいた。そういう面でオシロワケ王は、男具那の行為を迷惑がっていた。余計なことはしなくてもよいのだ、といった気持が顔に出ている。
男具那は父王に、熊襲《くまそ》征討の日も迫っており、丹波森尾を葬らなければ、気力が盛り上がらない、と反駁《はんばく》した。
父王と論争しても、ここ二、三年の男具那は、自分を抑えるようになっていた。いったんいい出したら他人の意見には耳を傾けない父王の性格を男具那はよく知っていた。
それに父王は、今、皇后面をしているヤサカノイリビメに産ませた王子たちを可愛《かわい》がっている。
武勇の男具那を危険視していた。男具那が大碓《おおうす》王子を助けたことも、今は感づいているようだ。そのくせ、男具那を問い詰めないのは、どこかで男具那を恐れているからだった。
男具那には、大勢の有力豪族の子弟がついていた。葛城《かつらぎ》、大伴《おおとも》、穂積《ほづみ》などである。それらの有力豪族が、オシロワケ王に反抗したなら、間違いなく三輪《みわ》の王朝は滅びる。
オシロワケ王が、男具那を徹底的に追及しないのは、男具那の背後にあるそれらの力を恐れているからだった。
ただ男具那は、父王と争うのは好まなかった。オシロワケ王は、血のつながった父であり、王でもある。できる限り父の力になりたいと願っていた。
自然、論争しても折れてしまうのだ。
だがその日は違った。得体の知れない鬼神が乗り移ったようで、自分の気持を抑える力が薄れていた。
「父王に申し上げます、吾《われ》は、この葬儀を終えなければ、九州には参りません、すでに、丹波森尾殿の鬼神に、戦《いくさ》の勝利を念じています」
「何だと、なぜ丹波森尾に……」
「吾が斬《き》ったからです」
男具那は、自分が坐《すわ》っている床が宙に浮いたような気がした。男具那の眼はオシロワケ王を見下ろしていた。
オシロワケ王は蒼白《そうはく》になった。男具那の声や態度に、これまでの男具那にはない圧迫感を覚えたらしい。
「実際余計なことをしたものじゃ、済んだことはよい、これからじゃ、丹波森尾の葬儀など許さぬぞ」
オシロワケ王の眼が白くなり、腐った魚のように濁った。男具那は平然と見下ろしている。眼光は鋭い刃《やいば》となりオシロワケ王の眼を貫く。王は呼吸を早めた。
「父王、それでは戦には参りません」
「何だと、そちは吾の子、父王の命令がきけぬ、と申すのか」
「はい、葬儀が済まないうちは……」
「吾に刃向うのか」
「仕方ありません」
いってしまって男具那は、こんな言葉を一体誰が吐かせたのだろうか、と不思議だった。いつもの吾ではない、と男具那は自分に呟《つぶや》く。
オシロワケ王は腕を振り上げた。だが濁った眼には力がなく、恐怖心が浮いている。
「父王、年齢《とし》をお考え下さい、暴れられるのは身体に悪い」
皮肉な言葉が、男具那の口から次から次へと跳び出した。
オシロワケ王は、怒りと恐怖心に平常心を失った。立とうとしてオシロワケ王はよろけ、胸を押えた。身体を蝦《えび》のように曲げて呻《うめ》き始めた。
男具那が吾に返ったのはこの時だった。
控えていた侍女たちが跳んで来た。
「水だ、横にして水じゃ」
男具那の叱咤《しつた》に侍女たちは、慌ててオシロワケ王を横たえた。王は苦し気に眉《まゆ》を寄せ、息遣いが荒い。
オシロワケ王に反駁したのは覚えているが、何をいったのかは、男具那の記憶になかった。
侍女が水の入った高坏《たかつき》を王の口許《くちもと》にかたむけた。
男具那は眼を閉じると、父王の生命《いのち》が無事でありますように、と祈った。
水を飲んだオシロワケ王の息は次第に落ち着く。鼾《いびき》とともにオシロワケ王は眠り始めた。四半刻《しはんとき》(三十分)足らず、眠っただろうか。
五百城入彦《いほきのいりびこ》王子が顔色を変えて入って来た。
「父王はどうされたのだ?」
男具那を睨《にら》む眼は、異母兄弟とはいえ、血のつながった者の眼ではない。
「話し合いの最中、突然倒れられたのだ」
「何かお言葉はなかったか?」
「それはどういう意味かな……遺言はなかったか、と聞えたぞ、父王は眠られているだけだ」
五百城入彦の胸中が見え透いているだけに、男具那は唖然《あぜん》とした。
「いや、そんな意味ではない、ただ、どこが痛むとか、おっしゃらなかったか、と訊《き》いたまでじゃ、遺言などとは縁起でもないぞ」
「おぬしの心の中をいい当てたまでだ」
「何だと……」
五百城入彦が膝《ひざ》を立てた。腰紐《こしひも》にはさんだ刀子《とうす》に手がかかっている。
「声が大きい、休まれている父王の前だぞ、慎しめ!」
低いが男具那の一喝には底力があった。
オシロワケ王が唸《うな》り、眼を開けた。
「父王、お気を確かに、吾がいます」
オシロワケ王は不思議そうに二人の顔を眺めた。ゆっくり上半身を持ち上げると、納得がいかないのか、小首をかしげた。
「二人だけか、倭姫《やまとひめ》王がいたはずだが」
「二人だけです」
「そうか、思い出した、丹波森尾の葬儀の件は倭姫王の神託で決めよう、男具那王子、それでよいな」
「はい、吾にも異存はございません」
男具那は、倭姫王が二人を支配していたような気がした。丹波森尾の遺骨を葬るように告げたのは倭姫王だった。
オシロワケ王も、倭姫王の宣託にはさからえない。
翌日オシロワケ王は、初瀬《はつせ》川の渓谷に行き、倭姫王の宣託を聴いた。
倭姫王は、丹波森尾の遺骨は、イニシキノイリヒコ王の墳墓の前方部に葬るように、と告げた。ただ大王家の葬儀とはせず、あくまで男具那が行なう私的な葬儀にすべきである、というのであった。
男具那とオシロワケ王の両者が納得できる宣託だった。
男具那が三輪|山麓《さんろく》に造られたイニシキノイリヒコ王の墳墓に、丹波森尾の遺骨を葬ったのは、三月の下旬だった。
朝から空は曇っていたが、遺骨とともに銅剣の破片を副葬品として納めた石棺を土中に埋めた時、小雨が降り始めた。雨というよりも霧のような雨で三輪山一帯が霧で隠れた。
霧は墳墓からも湧《わ》き、草木や男具那たちを濡《ぬ》らした。
葬儀の参列者は、男具那の妃《きさき》や、内彦《うちひこ》、吉備武彦《きびのたけひこ》などの部下たちだった。
男具那が眼を閉じ、丹波森尾の冥福《めいふく》を祈っていると、濡れたために冷えていた身体が暖かくなった。
眼を開けた男具那は、一瞬、自分の眼を疑った。鮮やかな虹《にじ》が、イニシキノイリヒコ王を葬っている後円部から立ち昇り、北方の雲の中に消えている。
虹の光が熱を帯び、男具那を暖めているのだ。
虹というのはだいたい、空にかかるものである。時々、山間《やまあい》から立ち昇ったりするが、こんなに眼の前で、七色の光が墳墓の下から昇っているのを見たのは初めてだった。
この虹は間違いなく、丹波森尾を迎えたイニシキノイリヒコ王の喜びの表われに違いなかった。
『日本書紀』では王の名を、五十瓊敷入彦《いにしきのいりひこ》と書き、『古事記』は、印色之入日子《いにしきのいりひこ》と記す。瓊は光る玉の意味だから、数え切れないほどの光る玉の王という意味だ。『古事記』の方も同じである。
イニシキノイリヒコ王は、虹のように光々しい名前の持ち主なのだ。ひょっとすると、この虹こそ、王自身かもしれない、と男具那は感じた。感動で胸が一杯になった。
振り返ると、弟橘媛《おとたちばなひめ》を始め、男具那の妃たちも虹に映え、神仙郷に住む仙女のようだった。男具那は、体内に力が漲《みなぎ》るのを覚えた。
吾は勝つ、川上建《かわかみのたける》王がどんなに強くても、吾は勝つ、と男具那は自分に呟《つぶや》いた。
男具那が再び叩頭《こうとう》して顔を上げると、虹は薄れている。
男具那は葬儀が無事終ったのを感じた。
男具那たちが墳墓のある高台から曲りくねった坂道を下りると、雨に打たれ土塵《つちぼこり》を浴び、鼠色《ねずみいろ》に変色した衣服を纏《まと》った男子《おのこ》が蹲《うずくま》っていた。
先頭を行く内彦が、邪魔だから姿を隠すように、と命じたが動かない。
内彦が兵に、草叢《くさむら》に追いやるように命じたのを見た男具那は、手を振って制した。
「我らは今聖なる光を浴びた、その者に怪我《けが》などさせるな、それより、なぜ、姿を隠さないのか訊《き》いてみろ」
男具那の言葉に、内彦は訊いたが、男子は、男具那に叩頭するだけで答えない。
当時、庶民は貴人に会うと、草叢に入ったりして姿を隠すのが習慣だった。間に合わない場合でも道から外れる。
男具那はぼろを纏った男子の眼光が炯々《けいけい》としているのを見た。両手は土に突かれており、武器類は持っていない。
男子の眼は、男具那王子に直接返答する、と告げていた。
男具那は、男子の傍《そば》に寄った。
だいたい王子は、道端に蹲る庶民と直接言葉を交わしたりはしない。
だが男具那は、気が向けば言葉を交わす。その方が世の中の様子も知れるし、また時には気晴らしになる。
男具那は一般の民、百姓にも人望があるが、それは男具那の気さくさも一因だった。男子は嗚咽《おえつ》を噛《か》み殺した。
「どうしたのだ?」
男具那は不思議に思い、慄《ふる》えている男子を見た。
「男具那王子様、やつかれは丹波森尾の縁者でございます、丹波《たんば》にいましたが、先日、今日の葬儀を聞き、一言お礼を申し上げたく、馳《は》せ参じました、有難うございます、王子様の徳は、きっと倭国《わこく》の隅々にまで行き渡るでしょう、やつかれも、それを念じています」
「ほう、丹波森尾の縁者か、しかし、今日の葬儀のことが、よく丹波まで伝わったのう」
「はっ、丹波と申しても、山背《やましろ》の北部と接しています、やつかれが知ったのは五日前、それ以来、走りに走り、大和《やまと》に着いたのは今朝の日の出前でございます、墳墓に参り、イニシキノイリヒコ王様と、丹波森尾の冥福《めいふく》を祈ろうとここまで来ました、遠くからお姿を拝し、男具那王子様とお見受け致し、一言御礼を申し上げたく、汚れた姿を晒《さら》した次第でございます」
「そうか、分った、名は?」
「丹波猪喰《たんばのいぐい》と申します」
「ほう、猪喰とは勇ましい名じゃ、森尾の縁者と申したが、森尾との関係は?」
「はっ……」
「申し難《にく》いなら、申さずともよいぞ」
「丹波森尾は、やつかれの祖父です」
「何だ、森尾の孫か、墓参を済ませたなら吾《われ》の屋形に参れ、その恰好《かつこう》では丹波まで戻れまい」
無言で叩頭する猪喰に頷《うなず》き、男具那は屋形に戻った。
翌日、美濃弟彦《みののおとひこ》と葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》が、弓の熟たち者である石占横立《いしうらのよこたち》、田子稲置《たごのいなき》、乳近稲置《ちぢかのいなき》を連れて戻って来た。
三名は、男具那の屋形に呼ばれ、それぞれの腕を披露することになった。
横立は二十代の後半で、男具那と同年輩である。横立の腕は矢を遠くに飛ばすことにあった。実際横立は、数十歩離れた五寸四方の的のほぼ真ん中を射貫いた。
田子稲置は三十代前半で、彼の腕は飛ぶ鳥を射落すことにあった。
捕えていた雀を放すと、田子稲置は見事に射落した。
最後に乳近稲置が自分の腕を披露することになった。彼は三十代の半ばで、三人の中では最も年長者である。
乳近稲置は十歩ほど離れた場所に置いた厚さ二寸の板を貫いた。
一寸ぐらいなら男具那も貫けるが、二寸となると超人的である。力では誰にも負けない宮戸彦でも駄目だ。
三人が弓矢のたち人として、名を轟《とどろ》かせたのも当然である。それに三人が、同じ弓矢でも、それぞれ独自の技を身につけているのは頼もしかった。
石占横立は遠くの敵を斃《たお》せるし、田子稲置は動いている敵を斃すことができる。
また乳近稲置なら、どんなに厚い甲冑《かつちゆう》の武将でも、矢で射殺すことができるのだ。
その夜は宮戸彦と弟彦の帰国と、弓の名手三名を歓迎する祝宴が張られた。
男具那は弟橘媛を始め、他の妃も呼んだが、弟橘媛だけは、気分が悪く来れなかった。
そういえば、弟橘媛はここ数日、蒼《あお》い顔で食欲がなく、嘔吐《おうと》したりしている。ひょっとすると身篭《みごも》ったのではないか、と期待感とともに、質《たち》の悪い病の恐れもあり、男具那は複雑な思いだった。
弟橘媛には、是非、自分の子を産んでもらいたい、と男具那は望んでいた。
一夫多妻制の場合、男具那が平等主義者であっても、何人かの女人に、同じ愛情を注ぐことはできない。それぞれの妃は、一人一人、愛すべき存在だが、愛情の性質が異なる。
妃にしたばかりの若い女人には、新鮮な若い肉体に惹《ひ》かれる。
弟橘媛は、女人の色香を備えていると同時に、時には男具那が甘えたくなるような魅力があった。感性が鋭く、相談相手にもなる。
そういう意味で、男具那が最も深く愛しているのはやはり弟橘媛だった。
宴が始まる前、男具那は内彦に命じ、使者を弟橘媛の屋形に走らせた。
使者の話では、弟橘媛は宴に出ようと、気を引き締めるために水を浴びたが、気が遠くなり、横になっている、という。
男具那は愕然《がくぜん》とした。
宴に呼びたいという男具那の気持が、弟橘媛に伝わり、無理をさせたのかもしれない。
こういう宴では、一番愛している女人を呼びたいのは男子《おのこ》の気持である。
そういう点で、男具那は、女人に関しては普通の男子でもあった。
男具那は内彦を呼び耳打ちした。
「宴が終り次第、媛《ひめ》の屋形に行く、それまで動いたりせず、横になっているように、そちの口から伝えよ、水を浴びたことを聞き、吾が心配し、怒っていたとな、熊襲《くまそ》征討に出陣する前に、媛にもしものことがあれば、吾の気持は萎《な》える、吾を心配させるな、と叱責《しつせき》せよ」
「そう申します、水を浴びるなど、まったく不届きな妹です」
兄の内彦は、妹に対する男具那の気持を痛いほど知り、感激に眼を潤ませた。
「何も不届きではない、吾の傍に来たいからだ、余計なことは申すな」
と男具那は舌打ちした。
水を浴びたことを怒っておきながら、内彦にいわれると、弟橘媛を弁護したくなる。男具那ともあろう男子が、そんな矛盾に気がついていない。
「申し訳ありません」
内彦が首を竦《すく》めたので、男具那も矛盾に気づき、苦笑した。
庭のあちこちに松明《たいまつ》が燃やされ、陽の沈まないうちから酒宴が始まった。
侍女が琴を弾き、鏡や玉を持った女人が舞う。戦勝を祈願しての舞であった。
こういう舞は弟橘媛が上手《うま》い。
弟橘媛の話では、倭姫王に仕えていた頃、姫王の宣託の前に、琴の音で舞った、という。男具那の侍女には、あちこちの国から来ている者が多い。
男具那は縁の奥に、一段高い座を設けて眺めた。縁先には宮戸彦を始め、男具那に忠節を誓っている部下が並んでいた。
男具那と同行するはずの日向襲津彦《ひむかのそつびこ》王子の姿がまだ見えない。
男具那を慕い、征討に参加したいと申し出たのだ。
弟橘媛のことで頭が一杯だった男具那は急に襲津彦が気になり出した。
男具那の部下たちの中には、まだ襲津彦を信用していない者もいた。
襲津彦には熊襲の血が混じっている。向うで男具那を罠《わな》にかけるのではないか、と危惧《きぐ》の念を抱いているのだ。
内彦や宮戸彦など、古くから男具那に仕えている者に、それは多かった。
男具那が襲津彦の屋形に、なぜ来ないのか、という使者を出さなかったのは、無理に同行させたくなかったからである。
襲津彦が同行したいのは、彼の言動から窺《うかが》われる。演技をしても騙《だま》されるような男具那ではなかった。
ただオシロワケ王は、最近、あまりにも男具那に心酔している襲津彦の同行に危惧の念を抱いている節が感じられた。
男具那と襲津彦が征討先で組み、反旗を翻すのを恐れている。もし男具那が、狗奴《くな》国に圧勝し、襲津彦とともに九州で挙兵すれば、三輪の王権は崩壊しかねなかった。
男具那には、吉備《きび》の血が入っているし、吉備武彦《きびのたけひこ》は男具那に心酔している。吉備が男具那に味方すれば、オシロワケ王の勝目は薄い。
男具那の意が伝わったように宮戸彦が振り向いた。眼光が尋常ではない。
「王子、襲津彦王子が遅うございます」
「放《ほう》っておけ、来る者は来る、それでよいのだ、余計なことは考えるな、舞を観よ」
「はっ」
何もかも分っている、といった男具那の態度に、宮戸彦は小首をかしげながら舞を見た。
舞が終ろうとした時、蹄《ひづめ》の音が聞えた。
「吾《われ》は襲津彦王子、ただ今参りました」
男具那は手を挙げ、警護兵に、通すように、と伝えた。
襲津彦は立ったまま庭で叩頭《こうとう》した。
「戦勝を念じる舞じゃ、今少し続けろ」
男具那の声に、再び琴が鳴り始める。
男具那は襲津彦を自分の隣りに坐らせた。襲津彦の体内から血腥《ちなまぐさ》い熱気が男具那に伝わって来た。
事件の匂いを嗅《か》いだ男具那は襲津彦の肩を叩《たた》いた。
「何かあったようじゃ、舞が終ってから話せ」
男具那は酒壷《さかつぼ》を侍女から取ると、襲津彦の器に溢《あふ》れるほど注《つ》いだ。襲津彦は喉《のど》を鳴らして飲んだ。後は侍女が注ぐ。
間もなく戦勝を祈願する舞は終り、新しい舞が始まった。
琴に小太鼓と笛が加わる。
肌の透けた絹衣を纏《まと》った女人たちが、腰を振り淫《みだ》らな声を発して舞う。
かつて日の神(後の天照大神《あまてらすおおみかみ》)が岩穴に隠れた際、天鈿女命《あまのうずめのみこと》が舞ったという卑猥《ひわい》な踊りである。透けた裳《も》を股間《こかん》の近くまで下げたりするので、秘所の翳《かげ》りが見える。男子《おのこ》たちは手を拍《う》ち、大声で笑う。
男具那は何もなかったように手を拍ち、掛け声を発した。
「宮戸彦、そちも踊れ」
男具那の声に、宮戸彦は待っていたように女人たちの中に入って行った。宮戸彦は身体が大きく腕力は強いが、実に明るい。
宮戸彦が舞に加わったことによって、宴は一層盛り上がった。
宮戸彦が舞っている女人の股間を撫《な》でると、彼女は嬌声《きようせい》をあげる。吉備武彦と大伴武日《おおとものたけひ》も踊りに加わった。
男具那は、襲津彦の肩を叩き、部屋に連れ込んだ。
「どうした、何があったのだ?」
「はあ、今宵《こよい》、曲者《くせもの》が吾の屋形を窺《うかが》っておりましたので、斬《き》り殺しました。狗奴国の者に違いありません、吾に似て短躯《たんく》ですし、顔も彫りが深い、たぶん、間者でしょう、いや、驚きました、狗奴国が大和に間者を放ったとは……もう王子の征討を知ったのでしょうか、あまりにも早過ぎる」
「そうとも限るまい、何年も前から放っていた間者が、おぬしが副将軍になったのを知り、おぬしの暗殺を計画したと視《み》るのが自然じゃ、狗奴国の連中、ことに隼人《はやと》族は山中の生活に慣れている、たぶん、大和近辺の山に住み、我らの動静を窺っていたのであろう、何人ほどだった?」
「五、六名だったと思います、斬り殺したのは二人、一人は傷を負わせ、捕えています、ただ、残念ながら後は逃しました」
「よし、明日、吾が行って口を割らせる、今宵は酒宴じゃ、曲者が狗奴国の者だったことは誰にも話すな」
男具那は襲津彦と席に戻った。
舞う女人の数は先刻よりも増えていた。女人も男子も半裸で踊っている。
弟橘媛の屋形から内彦が戻って来た。男具那は内彦に馬の用意を命じた。
「吾はここを抜け出し、媛の屋形に行く、美濃弟彦と弓矢の三人を連れて参る、宮戸彦や武日は、あとしばらく踊らせておけ、しばらくは大和ともお別れだ」
「そうします」
男具那は再び襲津彦を呼んだ。
「襲津彦王子、おぬしに頼みがある、今から弟橘媛に会いに行くのだが、ククマモリヒメや他の妃に、弟橘媛に会いに行くなどといえない、吾はおぬしを襲った曲者の件で、しばらく席を外す、妃たちにはそう伝えるから、後一刻ほどしたなら、宴を終らせて欲しい、さいわい宮戸彦らは、女人に夢中だ、今のうちに姿を隠す、宮戸彦に見つかると追い掛けて来るから酔いが醒《さ》める、頼むぞ」
「はあ、何とか……」
こういうことに慣れていない若い襲津彦は、もう脂汗を浮かべている。
「いいか、おぬしは副将軍だ、刀を振り廻《まわ》すだけでは、副将軍の大任は果せぬ、いろいろと、策略が必要なのだ」
自分の勝手さに呆《あき》れながら、男具那は力強く襲津彦の背中を叩いた。ククマモリヒメの傍に行き、ちょっとした事件が起きたので、しばらく席を外す、と告げた。
「宴の終りは襲津彦に伝えてある、後一刻ほどだ、襲津彦が合図したなら、そっと消えるのだ、警護兵の顔はちゃんと確認しろ、暗闇《くらやみ》じゃ、曲者が混じっている恐れもあるからのう、分ったか」
こういう場合は、自然強い語調になる。
「分りました、どんな事件なのです?」
「襲津彦王子が曲者に襲われた、三名は斬ったが、残りは逃亡した、ひょっとすると吾を狙《ねら》うかもしれぬ、捕えた曲者の口を割らせる」
「せっかく愉《たの》しい宴ですのに」
ククマモリヒメは残念そうである。
「仕方がない、だがこの宴は戦《いくさ》の宴じゃ、襲津彦王子は、もう戦ってこの宴に来た」
「はあ、その通りです」
襲津彦は刀の柄《つか》を叩いた。ククマモリヒメや他の妃は不安そうに男具那を見た。
「王子、お気をつけて下さい」
「大丈夫だ、案じるな」
弟橘媛の名が出なかったことに、男具那はほっとした。
男具那は何気ない様子で部屋に入ると、裏口から出て馬小屋に行った。
男具那の気配を知って、栗毛の愛馬がいななく。
男具那が馬に乗ろうとした時、宮戸彦たちが駈《か》けて来た。
宮戸彦は走りながら叫んだ。
「王子、やつかれたちを置いて、どこに行かれます、あまりにも水臭い、お供致しますぞ」
宮戸彦は、女人の裳を破り取ったらしい絹の切れ地を握っていた。
さすがに男具那は唖然《あぜん》とした。宮戸彦の気持は嬉《うれ》しいが、この場合は余計である。
「宮戸彦、今宵は戦勝を祈願した酒宴じゃ、また出陣の宴でもある、お互い、大和への未練を捨て去る、せっかく、美しい女人を抱き抱えて踊っていたのに、一体どうしたのだ、裳を破ったりして、まったく野暮な男子《おのこ》じゃ」
「やっ、これは申し訳ありません」
宮戸彦は破った切れ地を捨てた。
「ふん、どうして破ったのだ?」
「王子、お許し下さい」
「理由を申せば許す」
宮戸彦は腰をかがめ、頭を掻《か》いた。
男具那の姿が消えたのを知り、後を追おうと裳から手を抜き出した時、勢いが強く破ってしまった、という。
「本当に呆れた男子だ、裳まで破って捨ておくのは、吾が許さん、舞っていた女人のところに戻れ」
「王子、お言葉を返すようですが、やつかれは、王子を警護するために葛城から参っているのです、女人にたわけるためではありません……」
宮戸彦は胸を反らし、鬚《ひげ》をしごく。大伴武日が叩頭した。
「武日も同じでございます」
男具那は舌打ちした。
「野暮な男子たちだ、吾は弟橘媛の屋形に行く、やっとの思いで妃たちの眼を誤魔化《ごまか》して出て来たところだ、それなら新しい命令を出す、宮戸彦と武日には、吾の妃たちの警護を命じる、無事、屋形に送るように、分ったか」
男具那は馬に跳び乗ると横腹を蹴《け》った。
馬は二人を撥《は》ね跳ばすような勢いで走り出した。
内彦が男具那の来訪を伝えていたせいか、弟橘媛は寝衣ではなく上衣《うわぎ》と裳をはき、洗い髪を後ろで結び、男具那を迎えた。
「媛、無理をせずに横になれ、そなたの具合がどうか、気になって参っただけじゃ」
魚油の明りは薄暗く、部屋の隅には闇《やみ》が篭《こも》っているようだが、男具那の気のせいか、弟橘媛の顔が明るく輝いているように見えた。
「王子、戦勝を念じる宴に出られず、申し訳ありませんでした、でも、私《わ》は王子の子を身篭りました、この半月ほど月のものがなく、そうではないか、と思っていたのですが、確信が持てず、申せませんでした、でも今度は間違いありません」
弟橘媛は体内の子をいとおしむように、手を下腹部に当てた。
男具那は喜びのあまり、両腕を高々と挙げた。戦の勝利を宣言しているような顔だ。
「おう、よくやったぞ、もう思い残すことはない、持てるすべての力で敵を斃《たお》す」
男具那は弟橘媛の手の上に自分の掌《てのひら》を重ねた。
一年ほど前にも、弟橘媛の月のものが遅れたことがあった。弟橘媛からそれを聞いた男具那は、
「それを待っていた、吾の子を無事に産むよう、沼川《ぬなかわ》の玉を与えよう」
と翡翠《ひすい》の勾玉《まがたま》を与えた。母から貰《もら》った玉である。だが、弟橘媛が身につけた途端、遅れていた月のものが始まったのだ。
弟橘媛は、この玉は、王子の母上が、王子の身を守るために与えた玉です、王子は身から離してはなりません、と男具那に返した。
弟橘媛は更に左手を男具那の手に重ねた。
男具那の眼を覗《のぞ》き込み、
「王子様、私《わ》の頼みをきいていただきたいのです、私が王子様の子を無事に産むために……」
「そなたの願い、何でもきくぞ、ただ吾《われ》が身につけている勾玉は駄目じゃ、母上が怒られる」
「もちろんです、王子様、今宵《こよい》の王子様には血の匂いがします、戦勝を祈願した宴のせいでしょうか、ただ私は、それだけではないような気がしてならない、今宵、王子様の傍に、血をつけた男子《おのこ》が坐《すわ》りました、その血が王子様に染《うつ》っています」
「そなたは、この場で起こらないことでも知る能力を備えている、不思議な力じゃ、実は襲津彦王子が曲者《くせもの》を斬《き》った、一人は傷を負い、捕まえられている、吾は夜が明けたなら襲津彦とともに、その曲者の口を開かせるつもりだ」
「曲者が口を開かなければ、王子様はその曲者を斬るおつもりですね」
「斬るかも分らぬ」
「朝といえば、まだ今日のうち、どうか王子様の手を曲者の手で汚さないでいただきたいのです」
男具那は弟橘媛と重ね合っている手が熱くなるのを感じた。熱さは痛みとなった。その辺りは薄暗いが男具那は自分の手の甲に、血が滲《にじ》み出て来るような気がした。
男具那は本能的に手を引いた。さいわい手には血などついていない。
「おう、分ったぞ、訊問《じんもん》はするが斬らぬ、襲津彦にも斬らせぬ、吾の子とそなたのために約束しよう」
「嬉《うれ》しゅうございます、王子様」
弟媛橘は男具那の前で衣服を脱いだ。
寝具に坐ると、眼を閉じ手を合わせ、何事か呟《つぶや》いている。媛の肌は魚油の明りに映え、新しい光が生まれたようである。
「王子様、戻られるのは半年先か、それとも一年先か、どうか私を……」
弟橘媛は消え入るように呟《つぶや》くと、寝具に横たわった。
「身篭った子は大丈夫か?」
「はい、大丈夫です、私はそう感じました」
男具那は閨《ねや》をともにするため、弟橘媛の屋形に来たのである。媛が身篭ったことを知り、喜びのため一時忘れていた欲望が、火種に油を注いだように燃え上がった。
男具那は侍女を呼ばず、自分で衣服を脱ぎ、寝具に入ると媛を抱き締めた。
日の出と同時に朝餉《あさげ》を済ませた王子は、美濃弟彦《みののおとひこ》や、弓矢のたち人を連れ、襲津彦の屋形に馬を跳ばした。
男具那の危惧《きぐ》の念は当っていた。
襲津彦は曲者の口を割らすため、血塗《ちまみ》れで横たわっている裸の男子《おのこ》を太い木の枝で叩《たた》いていた。叩かれるたびに男子は身をよじるが、這《は》う力もない。
「襲津彦、やめよ、吾にまかせよ」
馬上の男具那は大声で叫んだ。
襲津彦が手にしている太い枝は、小枝を切った跡が無数にある。切り跡の一つ一つが棘《とげ》のようになっており、曲者の肌を裂いていた。曲者の苦痛は棒で擲《なぐ》られるよりもずっと強い。
「強情な奴《やつこ》です、口を割ろうとせぬ」
「我らが熊襲と呼んでいる狗奴国人には、誇り高い武人が多い、この男子も、選ばれておぬしを斃《たお》しに来た武人じゃ、どんなに身体を痛めても口は割るまい」
襲津彦は荒い息を鎮め、不思議そうに男具那を見た。
熊襲と呼び、蕃人《ばんじん》視している曲者を、誇り高い武人、と褒めた男具那の真意を計りかねていた。
ただ襲津彦にも曲者と同じ血が少しは流れている。血の一部が男具那の言葉に感激していた。
男具那は襲津彦の部下に水を持って来させた。水甕《みずがめ》を抱き抱えると、血塗れの曲者に水を浴びせた。
呻《うめ》いた曲者が、喉《のど》が裂けるような声で、
「殺せ、殺せ」
と叫んだ。
曲者の肌は蒼黝《あおぐろ》く、また紫色に脹《は》れ上がり、肉がはみ出た傷は数え切れない。冷えた水を浴びた傷の裂け目は、まるで貝の身のようだった。だがすぐ血が滲み出る。
男具那は残りの水を浴びせた。
曲者は苦痛の叫び声を放ち、拳《こぶし》で這おうとする。
「傷口に薬草を貼《は》り、筵《むしろ》の上に横たえるのじゃ、その前に水を飲ませてやれ」
曲者は無意識のうちに肌についた水を舌で舐《な》めていた。喉が渇き切っているのだ。
殺せ、と叫んだ曲者の声には、まだ力強さが残っている。
「王子、この曲者をどうするおつもりです?」
「こういう武人は、責めるより、理を説き、話を聴き出す方が効果がある」
「もし話さなければ」
「山にでも放してやれ、曲者にはもうおぬしを襲う力はない、この傷だ、治るまでには十日以上はかかる、その時、もう我らは西に向っている」
襲津彦は呆然《ぼうぜん》と口を開けた。
征討の軍がいつ発《た》つかは、軍事上の秘密である。それを男具那は、間者に違いない曲者に話している。
曲者が低く呻いた。驚きと苦痛が一緒になり、声が出たのだ。
「王子と申したな……」
曲者が喘《あえ》ぎながら男具那を見た。顔面も脹れ、鼻孔からは血が流れている。ただ、眼だけは獲物を狙う獣のようだった。
「ああ、吾は倭男具那王子、西の国からよくぞ参った、傷を負い、襲津彦王子に捕まえられたのは無念であろうが、もうそちの使命は終った、我らは水軍で狗奴国と隼人の国を攻める、おぬしがどうあがこうと、我らの方が先に着く、それに襲津彦王子はこの通り健在、傷が治り次第、吉野《よしの》の山に連れて行き、放免しよう、静かに暮せ」
曲者は獣のような声をあげ顔を振る。身体は自由にならないようだ。
突然曲者は顔を地に埋めるようにして号泣した。
「殺せ、殺してくれ」
「吾は勇敢な武人を殺したりはせぬ、襲津彦、小屋に寝かせ、傷の手当をしてやるのだ、武人らしく扱え」
襲津彦もようやく男具那の胸中を悟ったらしい。立っている部下に、曲者を小屋に運ぶように命じた。
部下たちは、殺せ、と喚《わめ》いている曲者を二人がかりで抱え、小屋に運んだ。
「男具那王子、出陣の時を知らせたのは、奴の行為が無力であることを告げるためですか……」
襲津彦が低い声で男具那に訊《き》いた。
「その通りだ、奴は吾の言葉で、無力感にさいなまれる、傷の痛みも、捕えられた恥辱も薄れる、二、三日たち身体が回復すれば、ひょっとすると諦《あきら》めの境地から、すべてを告白するかも分らぬ、あのような男子は、責めれば責めるほど口を閉じる、襲津彦、おぬしならどうだ?」
男具那は穏やかな声で訊いた。
襲津彦は腕を組み、天を睨《にら》んだ。溜息《ためいき》をつくと腕を解き、歯を噛《か》み締めた。
「男具那王子、吾ならいくら責められても口は開きません」
「そうであろう、奴も同じだ、口を開かせるには責めるのも必要だが、諦めの境地に追い込むことも大切じゃ」
「吾はまだ未熟です」
「何を申す、やはりまず責める、それが第一じゃ、吾が参ったのは、責めの限界の時じゃ、それにおぬしには、いくら口を割らせるためとはいえ、出陣の時を知らせる権限はない、気にするな、まあ様子を見よう、問題は、奴が絶望感から自害しないか、ということじゃ、くれぐれも注意を怠るな」
男具那は馬に跳び乗った。
「襲津彦王子、おぬしの武術には感じ入ったぞ、おぬしが副将軍なら吾は千人力じゃ」
男具那は白い歯を見せると、
「行くぞ」
部下に声をかけた。
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五
男具那《おぐな》たちを乗せる船は、住吉《すみのえ》の津に停泊《ていはく》していた。十|艘《そう》である。
男具那は、まず吉備《きび》に寄り百名ばかりの兵を集めるつもりでいた。吉備武彦《きびのたけひこ》は千名は集めます、と意気込んだが、それでは吉備軍団になる、と男具那は止め、百名にした。
もし吉備武彦が千名もの兵を集めて男具那に従ったら、最も警戒するのは、熊襲《くまそ》と呼ばれている狗奴《くな》国ではなく、オシロワケ王に違いなかった。
九州で寝返り、大|和《やまと》に攻め込んで来るのではないか、と疑い、男具那を暗殺すべく、間者を送り込んで来るかもしれない。
オシロワケ王は、あまりにも人望の高い男具那を恐れていた。
男具那は、オシロワケ王の子だが、王はヤサカノイリビメが産んだ王子たちを愛していた。
ことに大人しい稚足彦《わかたらしひこ》や、武術に優れてはいるが男具那ほどの人望がない五百城入彦《いほきのいりびこ》などを可愛《かわい》がっていた。
オシロワケ王が、大勢の妃《きさき》に産ませた子供は、男子《おのこ》、女人を合わせると五十人に近い。こんなに大勢の子供を持つと、愛情の差が大きくなり、自分のいうことをきかない子供や、肌の合わない者は、憎んでしまうのだ。子供ではなく、自分を脅《おび》やかす敵のような気持になる。ただ、自分の血が流れているだけに、敵だ、とはっきり断言はできない。どうしても陰湿な憎悪になってしまう。
できの悪い王子なら無視することで済ませる。
男具那のように、飛び抜けた人望を得ると、嫉妬《しつと》も加わるから、絶えず苛立《いらだ》ち、憎悪を刺戟《しげき》する。
男具那は、そういう父の気持を見抜いていた。
男具那は、オシロワケ王については、一言もぐちを洩《も》らさなかった。だから吉備武彦は、男具那の胸中を深くは理解していないが、少しは分ったようだ。
「王子、百名なら腕自慢の兵ばかりを集めますぞ」
御安心下さい、と拳《こぶし》で胸を叩《たた》いた。
宮戸彦《みやとひこ》や内彦《うちひこ》なども氏族の部下を十名ずつ連れて行くことにした。
ただ出発の二日前、オシロワケ王は、大伴武日《おおとものたけひ》と、美濃弟彦《みののおとひこ》は、大和に置いておくように、と男具那に命じた。
オシロワケ王の命令を伝えに来たのは、稚足彦王子である。
「二人は、三輪《みわ》の王権を守るためにも大切です、大和に残さねばならない、と申されています、これは父王の厳命ですぞ」
稚足彦王子は三十歳である。丸顔で色が白く、贅肉《ぜいにく》が顎《あご》の辺りについている。
自分より若い男具那に敬語を遣っているのは、男具那の人望と武勇に圧迫感を受けているせいであろう。
男具那は、二人の心中を思い、顔が赧《あか》くなるほど憤ったが、稚足彦王子を相手にいい合っても仕方がない。
父王に会ったとしても、いったん下した命令を変えたりはしないだろう。そんな弱い父ではない。
「分った、二人は残す、吾《われ》が了承した、と父王に伝えて下さい」
男具那も丁重な言葉で伝えた。稚足彦は安心のあまり、安堵《あんど》の息をつき、吸い込む時に咳《せ》き込んだ。喉《のど》が弱いのか咳《せき》が止まらない。
男具那は侍女を呼び水を与えた。
稚足彦が帰ると、男具那が使者を出すよりも早く、大伴武日が馬を飛ばして来た。
大伴武日は、父からオシロワケ王の命令を告げられたらしい。
「王子、やつかれが王子に仕える時、父は了承しています、今更、大伴氏はオシロワケ王を守るのが本来の任務だ、などといわれてもやつかれは納得できません、やつかれは王子の部下です、王子のために生命《いのち》を捨てる決心をし、王子に仕えたのです」
武日は床に額をつけ、今から巻向宮《まきむくのみや》に行き、オシロワケ王にお会い下さい、と声を詰まらせた。
馬鹿者、吾を苦しめるのか、と男具那は一喝したかった。だが胸が熱くなり男具那は声が出ない。
男具那は、来い、と告げ庭に出た。
空は曇っているが雨は降っていない。樹々の緑は濃く、葉に触れれば手が染まりそうである。灌木《かんぼく》の間にすみれの花が咲いていた。
「武日、吾と向い合って立つのだ」
男具那は向い合った武日を睨《にら》むと、刀の柄《つか》を叩いた。男具那の屋形に入る時はずしたので、武日は刀を吊《つる》していない。
武日の顔が蒼白《そうはく》になったのは、男具那に斬《き》られる、と感じたせいだろう。
「そちは、吾のために生命を捨てる、と申したな、嘘ではあるまいな」
「嘘ではありません」
緊張感のせいで武日の声は掠《かす》れていた。
「生命を捨てることができるのなら、吾のためには何でもできるな」
男具那はもう一度刀の柄を叩いた。弓弦《ゆづる》を放した時のような音が庭に響く。武日の身体からだが一瞬固くなった。
「できます」
「よし、それなら父王と吾との対決を止めてくれ、止めるのだ」
「はっ、対決を止めるとは……」
「辛《つら》いだろうが、そちは大和に留《とど》まる、そちが吾について来れば、吾は父王と対決せねばならなくなる、分ったなら、何もいわずに屋形に帰るのだ」
男具那は武日を庭に置いたまま部屋に戻った。
武日が庭で号泣し始めた時、王子、と叫びながら美濃弟彦が駆けつけた。庭に廻《まわ》った弟彦は顔を地に擦《こす》りつけ泥だらけにして泣いている武日を呆然《ぼうぜん》と見た。
庭に蹲《うずくま》り、男具那と武日を見較べる。
「父王の命令を受けたか?」
「はっ、尾張舟彦《おわりのふなひこ》が参り、大和に残るように、とのオシロワケ王の命令を」
弟彦は唇を噛《か》んだ。無念な思いを抑えたのであろう。
「よし、その命令に従うように」
「王子、しかしやつかれは……」
「そちは弓のたち人を連れて戻った、それだけでも大きな功績じゃ、そちが残る理由は大友武日が詳しく話す、ともに戻るのだ」
「武日殿が……」
弟彦は驚いて号泣している武日を見た。何か自分は悪いことをしたのではないか、と弟彦は不安そうである。
武日は泥だらけの顔を上げ、腕で涙を拭《ふ》いた。涙と泥で武日の顔は見られたものではない。眼頭の熱くなった男具那は自分を励ますように武日にいった。
「武日、吾の命令だ、美濃弟彦と連れ立って戻り、大和になぜ残らねばならないのか、詳しく説明してやれ、泣いたということは、分ったからであろう」
「王子、戻ります」
「それでよい、屋形を出たなら小川で顔を洗え、凛々《りり》しい武人は、いつも凛々しくあらねばならぬぞ、行け、武彦もだ」
男具那は床を蹴《け》るようにして立った。
襲津彦《そつびこ》王子が馬を跳ばして来た。馬から降りた襲津彦は、
「男具那王子、川の畔《ほとり》で、大伴武日と美濃弟彦が童子のように泣いていましたが……」
不思議そうに訊《き》いた。
「理由は後で話す、おぬしが参ったのは、狗奴国の間者が吾に告白したい、と申し出たからではないか」
男具那の質問は当っていた。
「その通りです、あの曲者《くせもの》も、王子の器の大きさに惹《ひ》かれたようです」
「別に器が大きいわけではない、痛めつけても、口を割らない者は割らぬ、だから残った方法として、優しくしただけじゃ」
男具那は襲津彦とともに馬に跳び乗った。器が大きい、などといわれると照れてしまう。
男具那は馬を走らせながら、自分の頭を指差して振り返った。
襲津彦には、男具那の動作が何を示しているのか分らない。男具那と同じように頭を指で差し、小首をかしげた。
「器ではないぞ、頭の問題だ、戦《いくさ》も同じ、腕力だけを自慢していても役には立たぬ、大事なのは頭じゃ」
「申し訳ありません」
おぬしは頭が良くない、といわれたような気がしたのだろう。襲津彦は頭を叩いた。
その様子がどこか山猿に似ていたので、男具那は哄笑《こうしよう》した。異母弟だが、同母弟に似た愛情が湧《わ》いた。
「それ!」
男具那は思い切り馬に鞭《むち》を当てた。当時の馬は今の馬よりも一廻《ひとまわ》り小さい。短い首を伸ばすようにして懸命に走る。襲津彦が遅れた。男具那に追い着こうとした襲津彦が悲鳴をあげた。
振り返った男具那は宙に跳んでいる襲津彦を見た。馬は狭い道を曲り切れず川に転落した。
襲津彦も馬の後を追うようにして川に落ちた。
男具那が馬を止めて戻ると、襲津彦が河岸に這《は》い上がって来た。馬も少し流されたが川岸に泳ぎついた。
「王子、醜い姿を見せ、申し訳ありません」
「なあに、吾も馬から落ちたことはある、おぬしの馬、脚を折っていなければよいが」
男具那は、襲津彦と二人で馬を引き揚げた。さいわい馬体に異常はないようだった。
馬とともに水の雫《しずく》を落としながら襲津彦は渋面を作っている。
襲津彦が馬の訓練を始めたのは、男具那よりもずっと遅い。
「襲津彦、狗奴国の連中はあまり馬に乗らぬな」
「はあ、ほとんど乗りません、軍団の将でも馬で山野を駆け巡ったりはしない、と思います。狗奴国の奴《やつこ》に訊かなければ分りませんが」
「我らが攻めたなら、敵は山で待ち伏せし、戦うに違いない、おそらく丘にも兵を伏せている、案内人がいるとはいえ、未知の地じゃ、あまり馬に頼るのは危いぞ、威厳を示すためには馬も必要だが、実戦では不必要かもしれない、狗奴国は大和とは異なる」
男具那は呟《つぶや》くようにいった。
男具那の頭はすでに未知の狗奴国に飛んでいた。
襲津彦の屋形の小屋で治療を受けていた曲者は、狗奴国の間者だった。
もはや、故郷に戻っても生き恥を曝《さら》すばかりだ、と感じた間者は、襲津彦を襲った理由を男具那に告白した。
狗奴国は邪馬台《やまたい》国の東遷の後、九州各地で勢力を拡張し、筑後《ちくご》川以南から、筑紫《つくし》平野の南部を押え、更にかつて奴《な》国があった博多《はかた》湾周辺を自国の傘下に入れようと狙っていた。
もし旧奴国の地を押えれば、ほぼ九州島を掌握したことになる。
九州島だけではなく、狗奴国の眼は朝鮮半島に向けられていた。
かつての馬韓《ばかん》は百済《くだら》国に、辰韓《しんかん》は新羅《しらぎ》国に統一され、朝鮮半島南部は十国を超える部族国家に分れてしまった。
狗奴国は有明《ありあけ》海、島原《しまばら》湾、八代《やつしろ》海にある天然の良港を利用し、朝鮮半島との交易を行ない、百済と親交を深めるようになった。
輯安《しゆうあん》(鴨緑江《おうりよつこう》の北で中国|吉林省《きつりんしよう》にある)から朝鮮半島の平壌《へいじよう》に勢力を南下させた騎馬民族の雄、高句麗《こうくり》は、百済と新羅を支配下に置こうと、虎視眈々《こしたんたん》と狙っていた。
百済は、九州島で勢力を得ている狗奴国と同盟的な関係を結び、高句麗が百済に圧力をかけたり、国境を侵したような場合は、兵を送り、百済に協力して高句麗と戦う約束を取りかわした。
その代り、朝鮮半島南部の狗邪韓国《くやかんこく》(釜山《ふざん》附近)の支配権を認めるという密約も得ている。
狗奴国が百済に兵を送った場合、最も気になるのは、大和の三輪の王権である。
両者は邪馬台国以来の宿敵なのだ。
狗奴国の兵力が手薄になった隙《すき》に攻めて来る可能性は強い。
狗奴国の川上建《かわかみたける》王は、三年前に十名の間者を送った。目的は三輪王朝の情勢を探るとともに、もしオシロワケ王が、狗奴国征討に乗り出す場合は、日向髪長大田根《ひむかのかみながおおたね》が産んだ襲津彦王子を殺すことだった。
九州で狗奴国に従わず、三輪王朝に味方している国々の中で、最も強力なのは、襲《そ》の国と境を接している日向《ひむか》国であった。
襲津彦王子が母の国である日向に戻り、将軍となり指揮を執ったなら、日向の兵は奮い立つ。狗奴国にとってはそれが一番不安だった。
間者の告白を聴き、男具那も襲津彦も、狗奴国の間者が襲津彦を襲ったのも当然だ、と納得した。
それにしても納得できかねるのは、狗奴国征討を男具那に命じたオシロワケ王が、襲津彦を無視したことである。
襲津彦が申し出、男具那との武術仕合まで行ない、オシロワケ王は仕方なく副将軍に襲津彦を任じたのである。
普通なら、最初から襲津彦を参加させねばならないのだ。
告白し終り、男具那と襲津彦に叩頭《こうとう》した間者に、三年もの間、どこに住んでいたのだ? と男具那は訊いた。
「金剛山《こんごうざん》から、紀伊《きい》、それに吉野《よしの》の山々までいろいろでございます」
「深い山々だ、よく冬の雪に耐えたものじゃ、よし、そちは、回復した後、久米《くめ》の一族に預ける、久米にも狗奴国の血が混じっておる、いずれ久米の武人になるであろう」
男具那は狗奴国が、どの程度団結しているのか、と訊いた。
間者が語るところによれば、狗奴国といっても、狗奴国連合国で、隼人《はやと》同士でも、阿多隼人《あたのはやと》と大隅隼人《おおすみのはやと》では、意見の喰《く》い違いがある。阿多隼人の中には狗奴国よりも三輪の王権に味方した方が得だ、と考えている者がいる。肥後《ひご》の狗奴国と隼人は違う部族であり、現在は勢いがよいので問題は起こらないが、勢力が弱まれば、分裂の恐れも生じる、というのであった。
男具那にとっては、おおいに参考になる話だった。
住吉の津に向けて出発する前日、男具那は弟橘媛《おとたちばなひめ》の屋形を訪れた。
男具那に従う者は、襲津彦王子を含め、武術に優れた信頼のできる武人である。
げんに内彦は、男具那が、実家の人たちや、妻と別れを告げるように、と命じたにもかかわらず、
「今日はやつかれが警護に当る日です、王子の命令とはいえ、任務を放棄し、情に溺《おぼ》れていては、宮戸彦らに会わせる顔がありません、王子、やつかれの胸中をお察し下さい」
といっていつものように兵士を率い、警護の任についている。
宮戸彦など、仲間に会わせる顔がない、といわれれば、それ以上強いこともいえなかった。
男具那には、必ず勝ち、狗奴国王の服従の言葉を得て戻れる、という自信があった。ただ男具那の部下たちがいくら強い、といっても、狗奴国は邪馬台国およびその連合国家に危惧《きぐ》の念を抱かせたほどの強敵である。
邪馬台国が九州の地から大和に東遷したのは、魏《ぎ》に代わった西晋《せいしん》王朝から、邪馬台国が冷たくあしらわれたせいもあるが、やはり狗奴国が背後から圧迫して来たことも、大きな原因である。
それに今や、九州全土を支配しようとしている。
邪馬台国がいなくなった後も、惰眠をむさぼらず、闘志を剥《む》き出し、勢力を拡張しているのだ。
男具那は全力で狗奴国と戦わねばならない。
勝てる自信はあるが、勝って帰れる保証はないのだ。
一昨日あたりから厚い雲が空を覆い、雨は絶え間なく降っている。梅雨に入るには、まだまだ早い。
弟橘媛は嬉《うれ》しそうである。出陣の前夜に男具那が来てくれたことを心から喜んでいた。
もちろん明日は早朝からの出陣なので媛《ひめ》の屋形には泊まれない。だが夕餉《ゆうげ》をともにしてくれるのは男具那の愛情の証《あかし》である。
白い上衣《うわぎ》に赤い裳《も》の弟橘媛は、男具那と並んで坐《すわ》った。侍女が運ぶ酒壷《さかつぼ》を取ると、自分の手で男具那の酒杯に注《つ》いだ。男具那は媛がいとしくてならない。どんなに早くても、戻るのは冬になる。戦が長引けば来年の春になるかもしれないのだ。それに、再び会えるという保証はない。場合によっては永遠の別離になるかもしれないのだ。
男具那は弟橘媛を抱き寄せると、媛の下腹部に掌《てのひら》を当てた。裳をはくと分らないが、掌で撫《な》でると微《かす》かに膨らんでいるのが感じられる。ここに自分の分身が宿っていると思うと、喜びと勇気が湧《わ》いて来る。
これまで味わったことのない神秘的な感動だった。その感動は男具那の指先から弟橘媛の下腹部に伝わり、媛の全身に拡がって行く。男具那にはそれがよく分るのだ。
弟橘媛の愛情が体内に伝わり男具那の感動を包む。弟橘媛の肌から見えない光が放たれ、上衣や裳を貫き、部屋に満ちて行く。
男具那は、自分と媛の愛情が一体となり、光になったような気がした。
亡くなったフタジノイリヒメ(両道入姫)は男具那の子を産んでいる。
フタジノイリヒメは、男具那の正妃であり、男具那が初めて知った女人である。彼女が身篭《みごも》った時、男具那は自分の子供ができるのか、と不思議な気がしたが、このような底深く神秘的な感動は味わわなかった。
男具那の年齢のせいもあった。当時の男具那はまだ十六歳である。だが年齢のせいだけではない。二人の妃《きさき》に対する愛情の質の違いが大きな原因である。
フタジノイリヒメの場合は、男具那が大人になったので、父王の命令で貰《もら》った妃である。いってみれば慣習としての婚姻だった。フタジノイリヒメは優雅で美しく、誰が見ても男具那の妃としてふさわしい。男具那も嫌いではなかった。いや、フタジノイリヒメの魅力に惹《ひ》かれた、といってよい。
ただ、山野を駆け巡り、狩りに夢中になっている時、男具那はフタジノイリヒメのことを忘れていた。
だが弟橘媛の場合は違うのだ。山登りに夢中になっている時は忘れているが、頂上に辿《たど》り着き、漂う雲を下に眺め、天上界に自分があるような感激に身をゆだねると、傍《そば》に弟橘媛がいたなら、と思ったりする。
弟橘媛を妃にして以来、媛の存在は男具那の胸中にこびりついていた。
媛が傍にいなくても、時にはその存在感が男具那の胸を轟《とどろ》かせるのだ。
女人に対する男子《おのこ》の愛情とはこういうものだな、と男具那は感じるようになった。
今、弟橘媛が宿している子供に対する感動も、男具那が、どの女人よりも媛を愛しているからである。
男具那が媛の下腹部を撫でていると、突然、媛の身体が熱くなり柔肌《やわはだ》が慄《ふる》えた。
弟橘媛は熱い吐息をつくと、男具那の手首を握った。女人とは思えぬほど力強い。
「王子、どうか私《わ》から離れて下さい、私は閨《ねや》をともにしたくなります」
弟橘媛の声は露を含んだように濡《ぬ》れていた。
「構わぬではないか、これから一年もそなたと会えぬのだ」
「王子、私《わ》を苦しめないで下さい、私は王子の子を身篭っているのです、王子が凱旋《がいせん》された時、私は赤子を抱いて、王子をお迎えしたい、お分り下さい」
弟橘媛の歯が、戸を叩《たた》く俄雨《にわかあめ》のように鳴った。
「吾《われ》と媾合《まぐわ》えば、子袋が破れると申すのか、それが不安なのか」
弟橘媛は顔を伏せた。相変らず歯が鳴っている。情熱が媛の体内を駆け巡り、自分の意志で抑制が利かなくなっているのだ。
男具那の情熱も炸裂《さくれつ》しそうである。
今媾合えば、二人はお互いの身体をむさぼり合うだろう。
子を宿している媛の子袋を破ってしまうかもしれない。
「王子、舞って下さい、私が琴を弾きます」
と弟橘媛がやっとの思いで口を開いた。
男具那は唸《うな》った。
子供はまたつくれる、だがこの一瞬は二度と来ない、と息をはずませた。ふと二度と会えないかもしれない、という思いが脳裡《のうり》を掠《かす》める。男具那の情炎がすべてを灼《や》いた。
「今は琴など要らぬ、吾が欲しいのはそなたじゃ」
男具那は弟橘媛をその場に抱き伏せた。媛は抵抗しない。媛もこの一瞬にすべてを焼き尽したいのである。
男具那の手が媛の襟から胸に入り、弾力のあるまろやかな膨らみに触れた。男具那の体内に虹《にじ》の柱が貫き、媛を抱いていないのに、男具那は絶頂感に呻《うめ》き声をあげた。
突然弟橘媛の身体が瘧《おこり》に罹《かか》ったように慄えた。
「どうした?」
弟橘媛のたわわな乳房に触れた男具那は、冷水を浴びたような気がし手を引いた。
慄えている弟橘媛の全身が石のように固くなっている。男具那は思わず自分の指を見た。悪い夢を見たような気がした。
見開いているが弟橘媛の眼には焦点がない。明らかに弟橘媛は鬼神に憑《つ》かれている。
「媛、大丈夫か、しっかりするのだ、吾が悪かった、媛」
男具那は弟橘媛の眼を覗《のぞ》き込み、懸命に叫んだ。
琴が勝手に鳴り出したのは、その時である。当時の琴は、たんなる楽器というより、神を呼ぶためのものである。
空《うつろ》に見開かれていた弟橘媛の眼に光が宿った。媛が瞬《まばたき》をした。
「おう媛、気がついたか、驚いたぞ」
弟橘媛は男具那を見ると顔を赧《あか》らめ、起きると乱れた襟をなおした。
「吾がそなたを抱こうとすると、そなたの身体が石のようになった、胸の膨らみも川原の石のようだった、吾は悪い夢を見たのであろうか」
「いいえ」
弟橘媛は首を振ると項垂《うなだ》れた。
「申し訳ありません、王子は私に触れてはならないのです、私は天の神に、王子の戦勝と凱旋を祈願しました、王子が戻られるまで、私は神に仕える巫女《みこ》なのです、それを忘れ、私は王子の情を受け入れようとしました、いいえ、私の方こそ王子を求めたのです、私は何という愚かな女人でしょう、もし今、王子と一体になっていたなら、私の祈願はすべて無駄になっていたところです、たぶん、倭姫《やまとひめ》王様が……」
「斎宮《いつきのみや》の倭姫王が何か……」
「私に警告されたのです、あの琴の音は間違いなく倭姫王様が弾かれたもの」
いつの間にか琴は鳴りやんでいた。
「そうか、そなたは巫女として祈ってくれたのか、吾はそれを知らなかったのだ、不思議だ、今の吾はそなたと媾合った後のようにすっきりしている、そなたの琴を聴き、酒杯を傾けよう」
「はい、王子のために弾きます」
弟橘媛は琴を取ると弾き始めた。集まっていた雀の囀《さえず》りさえも消えた。たぶん媛の琴に聴き入っているに違いなかった。
媛が琴を弾き終った時、内彦が男具那を呼んだ。
もう陽は生駒《いこま》山系の彼方《かなた》に落ち、夕闇《ゆうやみ》が雑木林や屋形に深く篭《こも》っている。
縁に立った男具那の数歩前に内彦は立っているが、彼の顔はさだかではない。
「王子、丹波森尾《たんばのもりお》殿の孫という猪喰《いぐい》が、是非王子にお会いしたい、と参っておりますが、この度の征討軍に参加したい様子、駄目だ、と申したのですが、王子にお会いするまでは動かない、と蹲《うずくま》っております」
内彦は困ったような様子だった。
男具那は、ぼろ布を纏《まと》った男子《おのこ》の顔を思い浮かべた。
丹波森尾の葬儀は済ませたが、男具那には、森尾に対して負い目があった。
男具那が斬《き》らなくても、音羽《おとわ》山の頂上で死亡する運命にあった。山の獣を手足のように使ったが、山から降りて戦うだけの力は森尾にはなかったのだ。
知らなかったとはいえ、あの老人を斬り殺したことに対する負い目は、一生消えることがないだろう。
森尾の葬儀に、丹波猪喰が眼を赤くして感謝してくれたことで、男具那はどんなに救われたことか。
「内彦、追い返さなくてよかった、会おう」
と男具那は答えた。
丹波猪喰は屋形の傍にある雑木林で待っていた。松明《たいまつ》をかかげた内彦が男具那を案内した。
丹波猪喰は腰の刀を灌木の上に置き、男具那に対して、危害を加える意志のないことを示していた。
男具那を見ると叩頭《こうとう》し、是非征討軍に参加させて欲しい、といった。衣服も先日のぼろ布ではない。闇《やみ》が濃いので分らないが、麻のようであった。
男具那は、なぜ丹波《たんば》に戻らぬ、と訊《き》いた。
「王子様の部下になり、御恩を返したく、今日の夜を待っておりました」
御恩などといわれると男具那は狼狽《ろうばい》する。
当然のことだ、と男具那は告げたが、猪喰は、丹波森尾は殺されて当然です、ときっぱり答えた。
「森尾は三輪の王を恨んでいました。その心根がどうであれ、三輪の王からは危険な人物です、それにたんに山に登られた王子様を襲いました、やつかれの祖父ですが、殺される運命にあったのです。王子様のような立派な方に斬られ、本望でしょう、しかも仕えていたイニシキノイリヒコ王様の傍で、眠りにつくことができたのです、これも王子様のお蔭《かげ》です、森尾の孫としては、王子様のために働く以外、御恩は返せません」
「恩などと思うな、心が重くなるのだ」
「やつかれは夢を見ました、丹波森尾が現われ、忠節の武人と称《たた》えられ、王様の傍に葬られた喜びを王子様に伝えることができぬのが残念だ、と申しました、やつかれに、自分の気持を伝え、御恩を返せ、と何度も申したのです、どうか、祖父とやつかれの意を酌み、奴《やつこ》の一人としてお使い下さい、この通りでございます」
猪喰は懐から磨かれた鏡を出した。松明の光を見事に映し出した。
「やつかれの家に伝わる鏡、忠節の証《あかし》として、この鏡をお渡しします」
「渡す、といわれても、吾は受け取れぬ、それに吾に従う者は、父王がすべて知っておるのだ、丹波森尾殿の孫を連れて行ったことが知れれば、吾は王に疑われる」
猪喰の情熱に負けそうになった男具那は、慌てて手を振った。猪喰はそんな男具那の返答を予期していたようだった。
「それを避けるため、昼過ぎより雑木林に潜み、暮れてからお会いしようとお待ちしていました、先程も少し申し上げましたが、丹波猪喰ではなく、名のない奴としてお仕えしとうございます、それなら王様に疑われることはありますまい」
「名のない奴としてか……」
男具那は低く唸《うな》った。
豪族にとって、名を捨てるというのは身を捨てるのと同じだ。
それまで黙念と猪喰の言葉を聴いていた内彦も、溜息《ためいき》をついた。猪喰の悲愴《ひそう》ともいえる気持に動かされたのかもしれない。
「王子様、お願いでございます」
猪喰が深々と叩頭する。
「参ったのう、そちの気持は分るが……丹波国の有力者を奴として使うのは、吾も気が重い、いずれにしても諦《あきら》めろ、国に戻れ、妻や子もいるだろう」
「はっ、妻子には二度と戻らぬ、と申してあります、吾もその覚悟です」
「何だと、二度と戻らぬと、そちは吾の立場になって考えたことがあるか、吾にとって迷惑だと……」
「王子様、考えました、御迷惑がかからぬような奴になります、もし万が一、王子様が凱旋される際、やつかれが生きていたなら、その時は丹波に戻ります、やつかれは舟子となり、舟を漕《こ》ぎ、荷も背負いましょう、そうすればやつかれの身分はばれません」
猪喰の言葉に男具那よりも内彦が打たれたようだった。内彦は無意識にいった。
「王子、確かにそれならばれませぬ」
余計なことを申すな、と男具那は舌打ちしたくなった。松明が揺れたところを見ると、内彦は男具那に怒鳴られるのを予想し、首を竦《すく》めたらしい。
「仕方がないのう、ただ吾には武術のたち人が大勢いる、そちの熱意は買うが、武術の腕が未熟なら、吾の重荷になるだけだ、これ以上は申さぬ、内彦、戻るぞ」
男具那の意志が固いのを知り、内彦も仕方なさそうに松明を持って歩き始めた。
猪喰はその場を動かない。落胆のあまり動けなかったのかもしれなかった。
男具那と内彦が雑木林から出た時、数羽の夜鳥が飛び立ったように林がざわめいた。
男具那と内彦が思わず立ち止まると、黒い影が草原に下りた。
内彦は、居場所を隠すため松明を投げようとした。
「その必要はない、猪喰だ」
と男具那は呟《つぶや》いた。
猪喰は最後の男具那の言葉に縋《すが》り、自分の武術を見せようとしたのかもしれない。
「生意気な、王子、やつかれが相手をし、真の武術の恐ろしさを知らせてやります」
内彦は、武術の熟たち者が持っている強者に対する闘争心をあおられたようであった。
「待て、猪喰はかなりの腕だ、内彦が負けることはあるまいが、闘えば猪喰を連れて行かねばならなくなる」
「王子、猪喰は忠節の武人です、もしやつかれが舌を巻くような腕なら、奴《やつこ》として連れて行っても重荷にはなりますまい」
「仕方ない、では猪喰の腕を試してみるか」
小声で話し合ったのだが、猪喰は聴き取っていた。
「有難うございます」
猪喰の声が数歩離れた草叢《くさむら》から聞えて来た。男具那と内彦が顔を見合わせた時、猪喰は姿を現わし、男具那の傍に来て蹲《うずくま》る。
刀を吊《つる》していないところを見ると、雑木林に置いて来たのだろう。
男具那は内彦に、どういう方法がよいか、と訊いた。
「ただし武器は持つな、お互い素手で闘う、それでよいな」
「結構です、ただ暗闇《くらやみ》の雑木林や野を走り廻《まわ》らねばなりません、四半刻《しはんとき》ほどの時をいただきとうございます」
内彦も身軽だが、木を伝い雑木林から出て来た猪喰の身軽さは猿に似ている。男具那も眼を瞠《みは》るものがあった。ひょっとすると間者として使えるかもしれない、と男具那は思った。
「猪喰、聴いたであろう、内彦と素手で闘う、内彦は優れた武術者だ、内彦がそちの腕を認めたなら、奴として連れて行く、だが、戦《いくさ》が終れば、そちは丹波に戻る、それでよいな」
「有難き幸せ、感謝の言葉もございません、内彦様、未熟者ですが、よろしくお願い申し上げます」
「おう、ただ遠慮はせぬぞ、おぬしも遠慮は無用だ、今、刀をはずす」
内彦は吊っていた刀を腰の革帯からはずした。
「預っておく」
と男具那は内彦の刀を受け取った。
男具那の命令で二人は向い合った。男具那は松明を消した。
「始めよ」
男具那の言葉を待っていた二人が絡み合った。月明りはまだ弱い。二人は二つの影にしか見えない。絡み合うと、どの影が誰かまったく見分けがつかなかった。
草叢から飛び出した影が雑木林に入る。今一つの影が後を追う。雑木林は風に鳴るような音を立てた。
闇だが内彦はこの辺りの地理を熟知していた。闘いは内彦に有利である。だが猪喰の身軽さには驚くべきものがあった。
内彦は猪喰と十歩は離れ、猪喰の隙《すき》を見て襲いかかる作戦に出た。だが木から木に飛び、猪喰を離そうとしたが、猪喰は離れない。
内彦は雑木林を出ると、川に向った。川面は月明りに微《かす》かに映えていた。川に飛び込むと川底をゆっくり泳いだ。距離にして十歩以上進んだろうか。川岸に縋りつき顔を出した。
もし猪喰が眼の前におれば、
「吾の負けだ」
とあっさりいうつもりだった。
いつか昼の勝負を挑もう、と思った。
猪喰の姿はなかった。この暗闇では、内彦がどこに顔を出すか見当がつかないのは当然である。それが分れば人間とはいえない。
内彦は身体を動かさずに猪喰の気配を探った。猪喰は草叢か雑木林に隠れているらしく、まったく気配は感じられない。
内彦は再び川に潜ると今度は十数歩ほど泳いだ。再び顔を出し猪喰の気配がないのを確かめてから川岸に這《は》い上がった。
たぶん、内彦の気配を猪喰は掴《つか》んでいるだろう。
川を潜ったので内彦は疲労していた。猪喰との距離を開けようとしたのが間違いだった。猪喰は内彦が想像していた以上に脚が速い。俊敏でもある。
ただ内彦の気配を掴んでいるのなら襲いかかって来るはずだ。それがないのは内彦が潜んでいる場所が分らないのかもしれない。川に飛び込んだ場所からかなり離れている。
雑木林の方で音がした。猪喰は雑木林に潜んでいるらしい。
もしそうだとしたなら、猪喰は王子に仕える資格がない、と内彦は思った。
猪喰の方が懇願して内彦と闘うことになったのだ。それならいつまでも隠れていないで、跳び出して来て、内彦と闘うべきだ。
潜んで待つのも武術だが、この場合は卑劣である。
内彦は立ち上がると叫んだ。
「出て来て吾と闘え、いつまでも潜んでおればおぬしは失格だ」
「潜んではいません、ここにいます」
後ろで猪喰の声がした。
内彦が驚いて振り返った。黒い影が川岸に立っている。濡《ぬ》れ鼠になっているらしく雫《しずく》のたれる音がする。
猪喰は内彦の後を追い、川を潜ったのだ。内彦はまったく気づいていなかった。
「いや驚いた、おぬしの勝ちじゃ、間者になれば最高の間者になれる、吾から王子に申し上げる」
「有難うございます、だが吾は勝っていません、川底を泳いだので疲れ切っています、今、闘えば吾の負けです」
「いや、おぬしにつけられていることを知らなかったのは吾が未熟だからだ、いずれ腕を競い合う時があるかもしれぬ、さあ参ろう、安心されよ、突然襲ったりはせぬ」
歩きながら内彦は、川を潜る術をどこで得たのか、と訊《き》いた。
猪喰の故郷は丹波の出石《いずし》である。猪喰は幼年時代から出石川で泳いだり潜ったりした、という。
武術仕合の経過を内彦から聴いた男具那は、猪喰を奴として連れて行くことを承諾した。
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六
男具那《おぐな》たちは、住吉《すみのえ》の津から船に乗った。
男具那の船には、古くから男具那に仕えている宮戸彦《みやとひこ》と内彦《うちひこ》が乗っている。漕《こ》ぎ手は椎根津彦《しいねつひこ》を祖先に持つ倭《やまと》氏の舟子だった。
丹波猪喰《たんばのいぐい》は、男具那の奴《やつこ》として同じ船に乗った。男具那の甲冑《かつちゆう》や矢筒などを運ぶのが戦までの任務である。
宮戸彦や内彦は甲冑を身に纏《まと》っているが、男具那は平服だった。
吉備武彦《きびのたけひこ》は男具那の後ろの船に乗っていた。漕ぎ手などの舟子は、吉備《きび》の海人族である。日向襲津彦《ひむかのそつびこ》は先頭の船に乗っている。日向《ひむか》の海人族が船を漕ぐ。
船の全長は五丈(十五メートル)に近かった。船首には波除《なみよ》けがついている。
海が荒れなければ、船は半刻《はんとき》(一時間)で一里(四キロ)は進む。波が高くなければ速力は半減する。また大波の場合は、波がおさまるまで、潟《かた》に入り休まねばならない。
夜は潟《かた》の津で碇泊《ていはく》する。
波が穏やかだと一日に十里は進めるが、潮の流れもあり、予定通りの航行は不可能である。
波の穏やかな日と荒れる日を半々と予測していても、大波で航行ができない日が続いたり、海の航行は予想以上に困難である。
ただ当時の陸路は、到るところに川や沼があり、湿地帯が拡がり、海以上に障害が多い。荷物が多い場合は、海の航行の方が便利だ。
男具那は十|艘《そう》の船を用意したが、馬や武器、食糧を満載している。
早朝に住吉の津を出航した船は、三角波の立つ難波《なにわ》の海を通り、予定通り夕刻には明石《あかし》海峡を過ぎ、日暮れ時に明石に着いた。
男具那の使者が前もって知らせてあったので、当地の豪族が津まで出迎えた。男具那は礼として上質の絹布を渡す。
男具那たちは豪族の屋形で一泊し、早朝に明石の津を出航した。
翌日は西風が吹き、舟は進まず夕刻、印南《いなみ》川(加古《かこ》川)にたちし川口で碇泊した。
翌朝男具那は印南の地に眠る母に手を合わせた。男具那が自分の出生に疑惑を抱き、印南の地を訪ねて以来、数年たっている。
歳月の流れは早い。雪が舞う母の墓に手を合わせた日が、昨日のことのように思える。男具那が手を合わせたので、宮戸彦と内彦も手を合わせた。
兄《え》ヒメとともに美濃《みの》国に逃げた兄の大碓《おおうす》王子は、今頃どうしているだろうか、と男具那は思った。もの心ついて以来、よく争った兄だが、双子の宿命かもしれない。
たぶん、母の体内にいた頃から足で蹴《け》り合いをしていたのであろう。喧嘩《けんか》をしているという意識もなく争っていた、と思うと、微笑が湧《わ》いて来る。
「王子、母上の励ましを得られたのでしょう、お顔が晴れやかになられましたぞ」
宮戸彦が鬚《ひげ》をしごきながら柄になく、高い声でいった。
「宮戸彦、そちは時々的のはずれたことを、真面目《まじめ》な顔でいう、そこがそちの魅力だが、今回は的はずれもよいところだ」
「ほう、そんなにはずれていましたか……」
宮戸彦は残念そうに小首をかしげた。
「ああ、はずれている、吾《われ》は大碓王子のことを思い出していたのだ、女人好きの兄者だ、今頃は美濃の山奥で女人と戯れているかもしれぬのう」
「なるほど、それでにやっとなされましたな、ただ残念ながら、この船に、女人は乗っておりませぬ」
「またくだらぬことを申す、吾は心を浄《きよ》めることによって女人を断つことができるのだ、そちの欠点は、女人に甘いところだ、昨夜はどうであった、伽《とぎ》の女人を要求したのではないか……」
男具那がからかうと、宮戸彦は眼を剥《む》いた。身体を乗り出そうとし、海水の飛沫《しぶき》を眼に浴びた。宮戸彦は喚《わめ》きながら太い腕で眼をこすった。
そんな宮戸彦を見て内彦が哄笑《こうしよう》した。
「王子、宮戸彦は、子《ね》の刻《こく》頃、女人と間違え、やつかれに抱きついて来ました、怒ったやつかれが股間《こかん》を蹴ると、悲鳴をあげて眼を覚まし、曲者《くせもの》じゃと喚いて刀を抜こうとしたのです、やつかれが、馬鹿者、と一喝すると、やっと自分の醜態に気づき、慌てて、厠《かわや》じゃ、などといって外に出た次第です」
「内彦、許さぬぞ、作り話のたち者な男子《おのこ》だ、王子、内彦の口は腐っております、まさか王子が信じられるとは思いませんが、くそ、ここが船でなかったなら……」
「ほう、力仕合か、望むところだ、何だその顔は、海の鬼神も、おぬしの顔には呆《あき》れて、手出しはすまい」
「うぬ、いわせておけば」
宮戸彦が拳《こぶし》を固めたのを見て、男具那は、
「戦《いくさ》はまだだぞ!」
と一喝した。
二人は冗談をよくいい合うが、それが口争いになり、喧嘩になる。内彦の口に乗せられて最初に拳を振りあげるのは、いつも宮戸彦である。
男具那がとがめると、
「王子、武術を鍛えています」
二人とも、けろりとしている。
喧嘩はするが、二人は親友だった。
丹波猪喰はおかしさを抑え、俯《うつむ》いている。男具那に一喝された二人は、お互い顔を見合い、にやりと笑う。二人の顔は、これでいささか、気合いが入った、と告げているようだった。
突然、武彦の船が近づいて来た。
「何だ武彦、用件をいえ」
と宮戸彦が怒鳴る。
武彦は白い歯を見せると男具那にいった。
「王子、これからは吉備の海です、我が家に来たつもりでくつろいで下さい」
武彦の船は彼の笑顔を残して離れて行く。
「ちぇっ、吉備の海だと、厚かましい男子《おのこ》じゃ、それでは戦の訓練だと怒鳴り、矢を射て驚かしてやろうか」
宮戸彦は肩をいからし、武彦の船を睨《にら》んだ。葛城山麓《かつらぎさんろく》を勢力圏とする葛城氏は、港を持っていない。半世紀ほど前は播磨《はりま》の垂水《たるみ》に支族がいたが、その辺りの勢力は衰えている。宮戸彦が憤る気持も、分らなくはなかった。
内彦は男具那を見、首を振った。
「確かに生意気だが、王子に対する忠節心から出た言葉だ、あまり気にするな、それに武彦|奴《め》、百名を超える軍を待たせているらしい、王子には力強い戦力じゃ、残念ながら吾にはそこまではできぬ」
「そういわれると、それもそうだ、ということになる、吾はこの身一人ぐらいじゃ、多少威張っても我慢するか」
宮戸彦は拳で短甲を叩《たた》いた。
「宮戸彦、吾への忠節は人数ではない、そち一人で充分だ、そちはあまり海に出ていない、感情が昂《たか》ぶるのは海に酔ったせいではないか、胸が苦しくなれば遠慮せずに吐け」
「王子、申し訳ありません、船は狭いので、乗っていると締めつけられた気がし、つい絡みたくなります」
男具那は舟子の長《おさ》に命じ、釣り道具を出させた。船を走らせながら釣れるか? と訊《き》くと、流し釣りなら、釣れないこともありません、と答えた。
釣り糸には一寸(三センチ)以上の釣り針が三本ついている。舟子の長は釣り針に鳥の羽根を結びつけた。錘《おもり》もついているが、流し釣りだと擬似餌《ぎじえ》の釣り針が浮くので、ほとんど役に立たない、という。
「宮戸彦、魚釣りでも愉《たの》しめ、気が楽になる」
「王子、やつかれも釣りとうございます」
内彦が舟子の長に手を差し出した。
「釣れた、釣れない、などと喧嘩はするな、二人とも、分ったな」
二人は照れたように顔を見合わせ、男具那に叩頭《こうとう》した。二人が釣り道具を持ち艫《とも》に行ったので、男具那は丹波猪喰に声をかけた。
「船に酔わないか」
「大丈夫でございます」
と猪喰は答えたが顔は青い。猪喰は海の船に乗るのは、二度目です、と答えた。
武術のたち人も船酔いには勝てないようである。男具那は何度も海を蛇行したが船酔いの経験はなかった。
男具那は船首に立って前方を眺めた。左手前方に島が見える。現在の家島《いえしま》諸島である。船が島に近づいた頃、魚が宮戸彦と内彦の擬似餌に喰《く》いついた。次々と釣れるらしく、二人とも大騒ぎである。
「あまり沢山釣っても食べられぬぞ、海に逃がしてやれ」
「面白うございます、王子も釣られませんか?」
と内彦が誘った。
「別な日にする、もう好《い》い加減にしろ」
船底の板で魚が跳ねている。だがあっという間に動かなくなる。海面を流す餌《えさ》に喰いつくのはまず鯖《さば》である。鯖は死ぬと鮮度があっという間に落ちる。
「これが最後です」
と宮戸彦が答えた時、二人の糸が絡まったらしく、「おぬしが悪い」「いやおぬしじゃ」と二人がいい争いを始めた。
釣り糸が絡まったなら、漁師でなければ解《ほど》けない。
男具那は舟子の長に、二人の釣り糸を解くように命じた。
宮戸彦と内彦は照れたような顔で、釣ったばかりの鯖を数匹抱えて来た。
「息の絶えた鯖は海に投げろ、この三匹は食べられる」
自分が釣った魚は、簡単には捨てられない。二人が顔を見合わせているので、男具那は三匹以外は海に捨てた。息が絶えた鯖は白い腹を見せ、海に浮いていたがすぐ波間に消えた。
男具那の指示で、二人は壷《つぼ》に海水を入れた。男具那は刀子《とうす》で鯖の背を裂き、身を切ると突き刺し、壷の海水につけ口に放り込む。結構美味である。
宮戸彦も内彦も、男具那の真似をし、旨《うま》い、旨い、と舌鼓を打ちながら食べ始めた。
内彦は猪喰にも食べないか、といったが、猪喰はそれどころではない。嘔吐《おうと》を懸命にこらえていた。
「猪喰、艫に行って吐け、そこで吐かれたら鯖がまずくなるぞ」
内彦が忠告すると、猪喰は、失礼します、と艫に走り、上半身を海面に乗り出し、吐き始めた。
宮戸彦は、内彦から猪喰の武術を聴いているが、酔った様子を見て、
「おい内彦、あの奴《やつこ》、そんなに強いのか、信じられんのう」
と眉《まゆ》を寄せ、口を動かしている。猪喰の嘔吐の声は、内臓も吐き出しているような凄《すさ》まじさだ。吐いた後も苦痛で動けない。
「海に慣れていない、仕方がないだろう」
猪喰の武術の腕を認めたのは内彦である。自然、内彦は猪喰を弁護した。
鯖の切り身に堪能《たんのう》した男具那は、竹筒の水を飲んだ。
「王子、あれでは邪魔になるだけです、丹波に帰らせたらいかがですか?」
「宮戸彦、そちは猪喰を海に放り込めるか?」
と男具那は笑いながらいった。宮戸彦は自分の耳を疑ったらしく、叩頭した。
「申し訳ありません、王子は今、何とおっしゃいました?」
「猪喰を海に放り込めるか、と申したのだ」
宮戸彦は海面に上半身を乗り出し、肩で息をしている猪喰を見た。
「あれでは赤子を扱うようなものです、船酔いもおさまった後、土の上で腕を競い合いとうございます」
「では大丈夫か? と抱き抱え、一瞬のうちに海に放り込んでみろ」
「王子、やつかれが悪うございました、どうかお許し下さい」
宮戸彦は船底の板に手をつくと、叩頭した。猪喰を丹波に帰すように忠告したので、男具那の機嫌が悪くなった、と錯覚したようだ。男具那は、駄目だ、と首を横に振った。内彦も男具那の胸中が分らないらしく、口を開こうとするが、その隙《すき》がない。
「吾《われ》の命令だ、宮戸彦行け、今、簡単に海に放り込まれるようなら、戦の場に連れて行く値打ちはない、内彦、そうであろう」
男具那の鋭い語調に、内彦は思わず、はあ、と呟《つぶや》いてしまった。
仕方なさそうに宮戸彦は立った。揺れる船の中を、宮戸彦はゆっくり歩く。力は抜群だが身の動きは軽くない。内彦がよく宮戸彦をからかうのはそのせいだった。
猪喰は宮戸彦の足音を聴き、乗り出していた上半身を引いた。
宮戸彦は時々、うさん臭そうに猪喰を見る。旨く男具那に取り入った、と不快に思っている。猪喰と仕合をしていない宮戸彦は彼の武術を知らない。内彦から説明を受けているが、相手の武術の腕を知るには、実際に闘ってみるのが一番である。
「申し訳ございません、見苦しい姿をお見せしました……」
猪喰は口を拭《ぬぐ》い上半身を起こした。
「吾の腕に縋《すが》れ、連れて行ってやる」
宮戸彦は太い腕を突き出した。猪喰が縋りついたなら、片腕で猪喰を宙に吊《つる》し、海に放り込むつもりだった。
「勿体《もつたい》のうございます」
「介抱せよ、という王子の御命令じゃ、気にするな」
宮戸彦は怒鳴るようにいった。嘔吐した後なので異様な匂いがする。猪喰は窺《うかが》うように宮戸彦を見るが縋ろうとはしない。
めんどう臭くなった宮戸彦は、猪喰の麻衣の襟を鷲掴《わしづか》みにすると引き寄せ、宙に吊《つ》り上げようとした。
「宮戸彦様、何をなさるのですか?」
さすがに猪喰は驚いたようである。
宮戸彦はあまりの臭さに顔を歪《ゆが》め、
「何もしない、臭いから海で身体を洗え、といっているのだ、そら」
宮戸彦は全身の力を腕に込めたが、宮戸彦の手に残ったのは破れた麻衣の布であった。
猪喰は両足の爪先《つまさき》を、艫にある台の出張った場所に当て、宙吊りにされるのを止めたのだ。
猪喰は台上に立っていた。猪喰の両横には舵《かじ》取りの舟子が艪《ろ》を握っている。
宮戸彦は相手の武術に感嘆するよりも、頭に血が昇った。
「宮戸彦様、気が狂われたのですか?」
猪喰の言葉に宮戸彦は前後の見境がつかなくなった。
「無礼者!」
大喝した宮戸彦は、台上の猪喰に身体ごとぶつかった。だが宮戸彦は台で脛《すね》を打ち見苦しく転倒した。猪喰が跳んだのを見て足首を掴《つか》もうと腕を伸ばしたが届かず、わずかに指先が掠《かす》った。船が揺れたせいである。
「御無体な、宮戸彦様とて容赦はしませんぞ」
後ろに立った猪喰が両腕を構えた。
「おお来い、そちの武術がどの程度か、吾が確かめに来た、遠慮せずかかって来い」
宮戸彦も身構えた。猪喰の武術が並のものではないことも、宮戸彦は感じていた。脛の痛みがそれを告げている。
舟子たちは櫂《かい》を漕ぎながら二人を眺めている。宮戸彦としては、絶対に負けるわけにはゆかなかった。
力では断然、宮戸彦が勝る。腕、脚、何でもかまわない。猪喰の身体の一部でも掴まえればこっちのものだ、と宮戸彦は指の骨を鳴らした。
猪喰もそのことは分っているらしく、なかなか仕掛けて来ない。
うかつに跳びつけば、旨く躱《かわ》され、船底に這《は》うことになる。宮戸彦も動けなかった。
波が高くなり、船の揺れが大きくなった。あれほど船酔いで苦しんでいた猪喰が、揺れ具合に身体を合わせている。巨体の宮戸彦は猪喰のようにはゆかない。猪喰は待ちの姿勢だが、大きなことをいった以上、宮戸彦はいつまでも待っておれない。
宮戸彦は左右の舷側《げんそく》に眼を走らせ、どちらに猪喰が跳んでも掴まえられるように、両腕を思い切り拡げ、ゆっくり近づいた。
猪喰は一歩、二歩と後退する。大波に船が左に揺れた。宮戸彦の眼は右に走る。身軽な猪喰は、揺れとは反対の方向に跳ぶ、と判断したのだ。だが宮戸彦の勘は間違っていた。
揺れに乗ったように猪喰は左に跳んだのだ。しまったと腕を出したが遅かった。舷側の上に立った猪喰は更に艫の台に跳ぶと、振り返った宮戸彦の顔面に蹴《け》りを入れて来た。
本能的に身をかがめたが、猪喰の爪先が宮戸彦の顎《あご》に刺さる。
「お許し下さい」
猪喰の声を聞きながら宮戸彦は呆気《あつけ》なく尻餅《しりもち》をついていた。猪喰の詫《わ》びの言葉に宮戸彦は激怒した。まともに侮辱された思いである。
宮戸彦は起き上がると、身体をかがめて突進した。両腕を鳥の翼ように拡げている。
どちらに逃げようと、必ず掴まえてやる、と手負いの猪のような勢いだった。
今度は猪喰も跳べなかった。凄まじい蹴りが宮戸彦の顔面に来た。両腕を拡げている宮戸彦は、腕で撥《は》ね除《の》けることができない。当然宮戸彦は猪喰の蹴りを予想していたのだ。眼が蹴りを捉《とら》えた瞬間、宮戸彦は顔を台にぶつけるつもりで頭を下げた。
猪喰の蹴りは狙いが外れ、石頭を自負している宮戸彦の頭頂部を蹴っていた。
宮戸彦の衝撃は少ない。宮戸彦の右腕が猪喰の左|腿《もも》を痛打した。猪喰は低く呻《うめ》き、錨《いかり》代りの鉄《てつ》|※[#「金+廷」、unicode92cc]《てい》を結んだ綱の上に尻餅をつく。
宮戸彦は両腕で猪喰の右の足首を掴んだ。しめたと引っ張ろうとした時、左足の蹴りが宮戸彦の顔面で炸裂《さくれつ》する。息が詰まり眼の前がぼやけたが、腕の力だけが勝手に働き、猪喰の脚を手許《てもと》に引き込んだ。
宮戸彦は猪喰の脇腹《わきばら》に右腕を振り下ろした。猪喰の腹部が意外に固いのは、腹筋に力を込めたのだろう。猪喰が呻き、身体が更に固くなる。続いて二発目の拳《こぶし》を叩《たた》き込んだ時、猪喰はまた吐いた。
汚物を浴びた宮戸彦は思わず顔を振った。一瞬、集中力がゆるんだに違いない。宮戸彦がのしかかるようにして左手で掴んでいた猪喰の左脚が撥ねた。膝《ひざ》が宮戸彦の股間《こかん》の急所を突き上げる。あまりの激痛に宮戸彦の息が止まる。
宮戸彦の左右の腕の力が抜けた。
猪喰の身体が蛇のようにくねり、宮戸彦の腕から逃れ、艫の船板にもたれるように立った。後ろは海である。
さすがに猪喰は立っているのがやっとのようだった。
宮戸彦も汚物の匂いと股間の激痛ですぐには動けない。今更のように最初、舐《な》めてかかったことが悔まれる。内彦の称賛は嘘ではなかったのだ。
「宮戸彦様、何故奴《なにゆえやつこ》を……」
猪喰が掠れた声でいった。
「いっただろう、そちの腕を知りたかった、それだけじゃ、今は感心しておる」
「嬉《うれ》しく聴きました、まだ試されるわけですか……」
「もうよい、といいたいところだが、勝負をつけたくなった、それにこんなに汚物をつけられては、王子のもとには戻れぬ」
「海に跳び込まれてはいかがですか、海神が綺麗《きれい》に洗ってくれます」
苦しそうに息を吐きながらも、猪喰は宮戸彦をけしかける。
「何を、いわしておけば、これからじゃ」
逃げ場がないのを見届けた宮戸彦は、猪喰の蹴りだけを用心して体当りといってよい頭突きに出た。
猪喰は宮戸彦の頭突きは躱したが、腕の突きは躱《かわ》し切れなかった。
今度こそは、と宮戸彦が猪喰を抱え上げた時、猪喰の方が抱きついて来た。宮戸彦は懸命に突き放した。
「臭い、海で洗え」
と喚《わめ》きながら宮戸彦が猪喰を放り投げた。いや投げたつもりだった。
宮戸彦に抱きつきながら猪喰は、艫の船板を蹴っていた。
宮戸彦と猪喰は、抱き合う恰好《かつこう》で海へ転落していた。
波は荒い。
二人の闘いを眺めていた男具那は、たぶんこういう結末を迎えるだろうと思い、救助板を用意していた。
内彦が救助板を持ち、艫に走る。
二人は大波と闘うのに懸命である。内彦は船から三十尺(九メートル)は離れている二人に、救助板を放った。救助板は、二人から一尺と離れない場所に落ちた。
男具那の命を受けた舟子の長《おさ》が、船を後ろに走らせた。
二人は舟子が垂らした綱に縋り、船によじ上った。二人とも髪が頬《ほお》にへばりつき、青い顔である。
「王子、やつかれが間違っていました、丹波猪喰殿は大変な武術者です」
宮戸彦が、猪喰を疑ったことを男具那に詫び、内彦にも、すまぬ、と謝る。
「宮戸彦、猪喰は奴《やつこ》として仕えている、殿などは要らぬ、吾《われ》が猪喰を連れていることを父王が知れば、吾は謀反をたくらんでいるのではないか、と疑われる、分ったな、これからは猪喰とは呼ばずに、丹波の奴、と呼べ、これは厳命じゃ」
「よく分りました、胸に叩き込んでおきます、丹波の奴か、感心したぞ」
宮戸彦に声をかけられた猪喰は嬉しそうに叩頭した。内彦は、どうだ、といわんばかりに鬚《ひげ》を撫《な》でている。
男具那の船が止まったので、吉備武彦の船が近づいて来た。
男具那は舟子の長に、何でもない、と合図をさせた。武彦の船がすぐ戻ったのは、合図が通じたからである。手を振っているだけだが、舟子には舟子に通じる合図があるのだ。
猪喰が、自分が無理に同行したために、船を遅らせ、申し訳ありません、と男具那に眼で詫びた。
男具那は頷《うなず》くと内彦に、
「内彦、ぼんやりしていないで、新しい衣服を猪喰に渡してやれ、風邪でも引かれたら大変じゃ、吾の荷も持てぬようになれば、故郷に帰さねばならぬからのう」
「これはうかつ……」
内彦は早速、船底から麻の衣服を取り出し、猪喰に渡した。
男具那たちの一行が、吉備の水軍が碇泊《ていはく》する児島《こじま》湾に到着したのは、四日目の夕刻だった。
児島と邑久《おく》の地により瀬戸内海の波を遮られた児島湾は天然の良港といっていい。
東の吉井《よしい》川、西の旭《あさひ》川が湾に注ぎ、内陸部との交通も舟で行なわれるので、交易も盛んだ。
六世紀に入り、大臣《おおおみ》・蘇我稲目《そがのいなめ》は児島を大和朝廷の屯倉《みやけ》とした。児島は、軍事的にも経済的にも、瀬戸内海航路の要地であった。
男具那たちは吉備の地で二泊し、吉備の水軍十|艘《そう》を加え、再び西に向った。
男具那の許可を得、伽《とぎ》の女人たちと遊んだ宮戸彦や内彦は、自分たちの精力を誇示し、自慢話に時を忘れた。
男具那が、武彦が寄越した伽の女人と閨《ねや》をともにしなかったのは、身篭《みごも》っている弟橘媛《おとたちばなひめ》のことを思い出したせいかもしれない。男具那は、自分の子を媛に産ませたかった。
熊襲《くまそ》を討つように命じられて以来、男具那は何となく、自分の生命《いのち》が絶えず危険に晒《さら》されるに違いない、と考えるようになった。
現代のような医薬品のまったくない当時は、病は死との闘いである。風邪をこじらせてしまうと、半数以上は死亡する。人間の寿命は四十五歳から五十歳といったところだろうか。
男具那の場合は、それに戦《いくさ》が加わる。童子時代から、軍事将軍になりたい、と望んでいた男具那は、今の自分に満足している。ただ、どんな戦にせよ、戦は死の鬼神と行動をともにしているのだ。何かの拍子に、死の鬼神が自分に牙《きば》を剥《む》けば、男具那は死ぬ。死は恐くはないが、弟橘媛の子袋に宿る赤子は殺したくなかった。
男具那が、伽の女人を帰したのは、出航の前夜、媾合《まぐわい》を拒否した弟橘媛の気持を思い遣《や》ったせいかもしれない。
当時は現代よりも、男女の媾合はおおらかである。
出陣の将軍が、伽の女人と寝るのは、英気を養うこととされていた。
そういう点、男具那の性格は、一般の古代人と少し違っていたようだ。
昨日荒れたせいか、今日の海は穏やかである。実際海は感情の起伏が激しく、海人も、海は恐い、とよく口にする。
八日目は笠岡《かさおか》で一泊し、九日目は海が穏やかだったので因島《いんのしま》で一夜を過した。
因島に着いたのは予定よりも一刻《いつとき》(二時間)以上も早く、日は明るい。横立《よこたち》など三名の弓の名手はその力を発揮し、鹿を獲物にした。
宮戸彦や内彦などは鳥を射、また武彦たちは魚を釣った。
夕餉《ゆうげ》はまさに山海の珍味で、皆は酒も入り、戦を忘れて踊り歌い、英気を養った。十一日目は安藝《あき》の呉《くれ》で泊まり、十二日目に周防《すおう》に入ったが海が荒れたので大島で二泊し、波がおさまるのを待った。
男具那たちの一行が周防の娑麼《さば》(山口県|防府《ほうふ》市か?)の沖まで来ると、舳先《へさき》に白旗をかかげた船が南の方からやって来た。
先頭の襲津彦《そつびこ》の船が白旗の船を停め、話し合っていたが、襲津彦の船だけがやって来た。襲津彦が男具那の船と並ぶ。
「男具那王子に申し上げます。豊前宇沙《ぶぜんうさ》の女王と称する神夏磯媛《かむなつそひめ》なる者が、豊前地方の状況を知らせるべく迎えに参った、とのことです、王子に刃向う者でない証《あかし》として白旗をかかげ、賢木《さかき》の枝に剣と鏡、それに玉を吊《つる》していますが……」
「速津媛《はやつひめ》の使者の者から神夏磯媛のことは聴いておる、国が乱れて大変なようじゃ、吾は三、四日のうちに宇沙に参る、戻って宇沙で迎えるように、と伝えよ、海の上で話し合っても仕方がない」
襲津彦は戻ると、男具那の意を伝えた。九州にあった邪馬台《やまたい》国の女王は卑弥呼《ひみこ》だが、卑弥呼に服従している国の中には、邪馬台国にならい、巫女《みこ》を女王にした国が多い。
神夏磯媛も、そういう巫女的な女王の子孫だった。だが約百余年前邪馬台国が大和に東遷すると、九州に残った連合国の統制は乱れ、女王の権威はなくなった。
男具那は舳先に立つと去り行く神夏磯媛の船を眺めた。従う船は一艘だった。
遠く霞《かす》んだ海の彼方《かなた》に、黒い波のように見えるのは九州島だ。豊後《ぶんご》あたりであろうか、左手の方には国東《くにさき》(埼)半島が突き出ている。半島の先端に小さい点のような島が見えるが、姫島《ひめしま》である。
姫島と名づけられたのは、次のような挿話からだった。
男具那が曾祖父《そうそふ》王|崇神《すじん》帝の時代に、大加羅《おおから》国の王子|都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》が越《こし》に来た。一説によると王子ではないらしいが、彼が故国にいた時、牛の背中に農具を積み地方に行った。牛がいなくなったので探していると、一人の老人が現われ彼に教えた。
「あなたの牛は、郡の長らが食べてしまった、だから牛はいないので郡の長は、あなたに、代りに何が欲しいか、と訊《き》く、その時あなたは宝を要求しないで、郡内で祀《まつ》っている神を得たい、と告げなさい」
彼は郡の長に会った時、老人の言われた通り答えると、白い石を渡された。彼は家に持って帰り寝室に置いた。すると石は美しい乙女《おとめ》に変った。彼は喜んでその女人と閨をともにしようと望んだ。ところが乙女は、彼が部屋を出た隙《すき》に消えてしまった。
彼が妻に、「乙女はどこだ?」と訊くと、妻は「東の方に行きました」と答えた。
彼は乙女を追い求め、海を渡り倭《わ》国に来たのである。一方乙女は、難波と、国東半島の比売語曾《ひめこそ》社の神となっていた。姫島は乙女が神となった島で、姫島と名づけられた、といのである。
この挿話は、地理的に見て、渡来人の伝承が生んだものであろう。
現在の関門《かんもん》海峡を北から南に抜けると、彼方に国東半島が南下するのを遮るように海に横たわっている。
古い時代に朝鮮半島から渡来して来た人々は、進路を西に向けるか、国東半島周辺に上陸するか迷ったであろう。
西に向った人々は難波に突き当る。南下した人々は国東半島に上陸するか、迂廻《うかい》して、日向や伊予《いよ》方面に向う。
このように見ると、比売語曾社の女神は、渡来して来た集団の神ということになる。
伊予の西部には長い佐田岬《さだみさき》半島が、豊後に向って延びているが、男具那たちがいる場所からは、半島は霞んで見えなかった。
男具那たちは周防の大海湾に入り、三日ほど休養することになった。
吉備武彦の率いる水軍が十艘も加わったので、総勢は二百名を超える。舟子たちは陸では兵士となる。船を漕《こ》いでいるので皆力は強い。
男具那は、狗奴《くな》国の勢力圏のすべてを征討するつもりはなかった。もしそれをするなら、少なくとも畿内《きない》と吉備を合わせ、三千名の兵を動員せねばならない。
だがオシロワケ王は、大々的な動員を許さなかった。
三輪《みわ》の王朝に救いを求めて来た豊後や筑後《ちくご》で、兵士を動員すればよい、と男具那に命令した。畿内の兵をできるだけ動かしたくないのである。
邪馬台国が東遷した頃に較べると、三輪王朝の勢力圏は拡がったが、その代り団結力が稀薄《きはく》になった。河内《かわち》には、邪馬台国と関係のない新興勢力が勃興《ぼつこう》している。渡来系と合体した九州勢が多い。
オシロワケ王としては、大々的に軍を動員できる状況ではなかった。
オシロワケ王が、狗奴国征討を命じたのは、王朝の面子《メンツ》を守るためだった。
男具那王子なら、わずかな兵で、何とか恰好《かつそう》をつけてくれるだろう、とオシロワケ王は計算したのだ。
もちろん、男具那は、そんな父王の胸中を見抜いていた。だが、父は父であり、王なのだ。まかされた以上、父王が期待する以上の成果をあげたい、と男具那は戦に闘志を燃やしていた。
男具那は、運命にはあまり抵抗しないが、精一杯自分を燃やして生きたい、と予々《かねがね》思っている。
それが男具那の爽《さわ》やかさにつながっていた。人望の集まる所以《ゆえん》でもある。
その日男具那は、襲津彦と海辺を歩いた。
宮戸彦や内彦も従っているが、襲津彦に遠慮し、離れていた。
湾内なので波は比較的静かである。
男具那は西に傾きかけた陽を浴びながら砂浜に横たわった。
「襲津彦王子、久米七掬脛《くめのななつかはぎ》は、おそらく隼人《はやと》の情報を探り出して来るだろう、もし隼人が、予想以上に強力なら、無理をして隼人を攻めることはあるまい、吾と一緒に菊池《きくち》川以南の狗奴国を攻めてはどうだ、隼人がいくら強くても、勢力圏は九州島の南部に限られている、放っておいても、いずれ畿内の王権に屈伏する、今、無理をすることはあるまい」
襲津彦は、砂地に尻《しり》をつき、膝《ひざ》を抱えて坐《すわ》っていた。精悍《せいかん》な面構えにどこか翳《かげ》りがある。気持がゆるんだ時、翳りが漂うのだ。
「男具那王子、王子の気持は嬉《うれ》しゅうございます、ただ、吾《われ》の母がオシロワケ王の妃《きさき》になったのは、日向《ひむか》の地を狗奴国から守るためです、吾《われ》はそのために生まれました、王子なら分っていただけると思うが、これが吾の運命です、吾は与えられた運命から逃れるつもりはない」
襲津彦は顎《あご》を突き出し、眼を細めて陽に映える海を眺めながら、淡々とした口調でいった。
「そうか、日向国を守るために、隼人と戦うというわけか、おぬしが今度の戦に志願した気持はよく分る、そのことは前にも聞いたと思うが、こうして、海の彼方の九州島を眺めていると、実感として理解できる」
「王子にそういってもらえると何よりです、王子は、吾のことは気にせず、戦って下さい」
「日向国の兵は、どのぐらい動員できる?」
「母の使者がすでに日向に向っているので、五百名近くは集められるでしょう、王子、どうか吾のことに気を遣わないで下さい」
襲津彦は白い歯を見せると、砂浜の青い貝殻を拾った。布で拭《ふ》くと妖《あや》しいほど美しく光った。
「何の貝かな」
と男具那はいった。
「いや、吾にも分りません、王子、似合いますか?」
襲津彦は貝殻を上衣《うわぎ》の胸にあてた。
「ああ、よく似合うぞ」
「穴を開けて飾り物にしましょう」
襲津彦は愉《たの》しそうに布でくるんだ。そんな襲津彦は天真爛漫《てんしんらんまん》な童子のようである。
男具那はそんな襲津彦を眺めながら、ひょっとしたなら襲津彦は、死を覚悟しているのではないか、と感じた。
男具那は不吉な思いを振り切るように、上半身を起こすと、衣服を脱いだ。
全裸になった男具那は砂浜を走ると、海に跳び込んだ。両手で海水を掻《か》き分け、沖へ沖へと泳ぐ。
浜の傍の海水は暖かい。
宮戸彦と内彦が慌てて衣服を脱ぎ海に跳び込んだ。男具那に仕えた頃、宮戸彦はほとんど泳げなかったが、川で泳ぐ訓練をしたので、今はよく泳ぐ。
男具那は思い切り息を吸い込むと潜った。眼を閉じ海面から一丈ほどの海底をゆっくり泳いでいると、泳いで来る宮戸彦たちの音が聞えて来た。
海中でも男具那の耳は敏感である。二人が真上まで来た時、急上昇した。
宮戸彦か内彦の下帯を掴《つか》み、思い切り引っ張ると、悲鳴とともに下帯がゆるんだ。
男具那は勢いよく海面に顔を出した。
海に沈んだ顔をやっとの思いで上げた宮戸彦は、勢いよく海水を吐き出した。
傍で内彦が笑っている。
男具那に下帯を引っ張られた際、宮戸彦は海水を呑《の》み込んだらしい。
「宮戸彦、武術の訓練が足りぬ、武術は海の中でも必要じゃ」
下帯一つの襲津彦が波打ち際に立っていた。男具那に万一のことがあれば、海に跳び込むつもりらしい。
男具那が浜辺に戻ると襲津彦がいった。
「王子、下帯を外し、知らぬ海で泳ぐのは危険ですぞ、王子らしくない」
襲津彦が初めて男具那に苦言を呈した。
「分った、これから注意する、気がついたことは遠慮せずにいってくれ」
襲津彦の顔が心なしか赧《あか》くなった。男具那の返答に感動したのかもしれない。
「王子、下帯を引っ張るとは、酷《ひど》いです、大事な部分を海蛇に咬《か》まれたら、泣くに泣けません」
宮戸彦が浜辺の方に泳ぎながらいった。
「そちは少し使い過ぎじゃ、咬まれてちょうどよい」
男具那が哄笑《こうしよう》すると宮戸彦は、
「実際王子は口が悪い、負けました」
といって立った。
男具那と襲津彦は宮戸彦を見て息を呑んだ。ゆるんだ宮戸彦の下帯の間から一物がはみ出、二尺以上の海蛇が咬みついていた。
「宮戸彦、大変じゃ、海蛇が……」
男具那が叫ぶと、宮戸彦は男具那に負けずに哄笑した。
海蛇を手に巻きつけて引っ張る。
「王子、見事に騙《だま》されましたな、海藻を巻いたのです、海蛇と海藻を見間違えるようでは、王子の眼も曇りましたぞ」
宮戸彦は、嬉しそうに海藻を首に巻いた。
「こら、吾を騙したな」
男具那は手を振り上げたが、顔は笑っている。
「王子、宮戸彦はたぶん、藻の毒で大事な部分が腐り、一生、女人とは縁がなくなるでしょう、気の毒です」
内彦が真面目な顔でいった。
「内彦、それは哀れじゃ、仲間だろう、洗ってやれ」
「王子、それだけはお許し下さい」
宮戸彦と内彦が同時に叫んだ。
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七
男具那《おぐな》の到着を聞き、国東《くにさき》半島の首長|国前《くにさき》王が、豊前《ぶぜん》・豊後《ぶんご》を合わせた豊《とよの》国の状態を知らせに周防《すおう》にやって来た。
男具那は急造の高台に坐《すわ》り、国前王と会った。
国前王は身長五尺三寸(百六十センチ)ほどで、色は浅黒いが温厚そうな人物だった。
だいたい男具那は、高御座《たかみくら》など坐り慣れていないし、そういう場所で謁見するのは好きではない。
だが、襲津彦《そつびこ》を始め、男具那の側近の部下たちは、男具那に権威の必要性を説いた。
「王子、九州島を征服しようとしている狗奴《くな》国を叩《たた》くために来られたのです、王子は、かつて九州にあった邪馬台《やまたい》国の王者として乗り込んで来られた、ここで威厳を示しておかなければ、北九州の諸王は、王子に従いません、となると狗奴国を叩くという大事も成り難い、また、王子に従う我らも戦い難《にく》くなります、どうか、大和《やまと》の王権の権威をお示し下さい」
襲津彦は、切々と忠告した。襲津彦には、何でも感じたことは述べろ、と告げている。
男具那は、宮戸彦《みやとひこ》、内彦《うちひこ》、武彦《たけひこ》などに意見を求めたが、皆、襲津彦の忠告は尤《もつと》もだ、という。
見知らぬ土地で、あれが狗奴国征討軍の王か、と軽視されるのが一番恐ろしい、と皆考えていた。
「分った、ではこれから威張るぞ」
と男具那は、高御座を造るよう命じたのだ。
国前王の説明によると、宇沙《うさ》地方には神夏磯媛《かむなつそひめ》、速見《はやみ》地方には速津媛《はやつひめ》という巫女《みこ》的な女王がいて国を治めていたが、百数十年前より、邪馬台国の女王|卑弥呼《ひみこ》に反抗していた狗奴国が勢力を北上させるにつれ、服従していた部下に離反する者が続出した。宇沙・速見両地方だけでも、王と称する者が何人も現われ、国が乱れている、というのである。
男具那は聴いていて、新しい時の流れかもしれない、と思った。三輪《みわ》の王権でも、倭姫《やまとひめ》王は神の宣託を下すが、倭迹迹日百襲姫《やまとととびももそひめ》時代のような権威はなかった。
政治を執るのはオシロワケ王であり、倭姫王の神託はあまり重要視されない。参考にされる程度である。
大和の人々が熊襲《くまそ》と呼ぶ狗奴国征討に対し、オシロワケ王は倭姫王を無視し、神託を求めなかった。
オシロワケ王は、倭姫王が男具那に好意を抱いているのを知っており、征討は不可なりという神託が出るのを恐れたからに違いないからだが、神託を必要としない権力も無視できない。
それは、神の意よりも王の権力が優先されるという時代の流れを物語っている。
「よく分った、吾《われ》は宇沙地方に到着し次第、神夏磯媛に会い、王と称する賊共を征伐する、そちは兵を差し出すように、分ったか!」
「はあ、男具那王子様の御命令に従います」
国前王は、毅然《きぜん》とした男具那王子の体内から光が放たれたような気がした。
男具那は国前王を従え、国東半島の北方の根っ子を流れる桂《かつら》川と寄藻《よりも》川の合流地点から宇沙の地に上陸した。
宇沙の地は南方が山々で北方が海である。平野を守るように山々の前面にそそり立っているのは約二百十五丈(六百四十七メートル)の御許《おもと》山である。宇沙の人々の信仰を集めた山で、後、御許山の山麓《さんろく》に宇沙神宮が造営された。
宇沙の巫女王、神夏磯媛が会いに来たのは男具那の一行が御許山の山麓に駐屯した翌朝だった。
神夏磯媛の使者は、男具那を和気《わけ》の地に迎え、媛との間の連絡に当っていた。
媛は現在四十半ばだが、かつてその神託は豊国でも一番だったらしい。
四十半ばと知り、宮戸彦は、お婆さんの巫女では役に立たない、とがっかりし、男具那にたしなめられた。
男具那は自分よりも少し低い台座を造り、自分の正面に置いた。神夏磯媛が坐る席である。
何といっても相手は巫女王だし、それなりの敬意を表わさねばならない、と考えたのだ。
襲津彦は、巫女王であろうと、男具那王子に助けを求めている以上遠慮は無用と忠告したが、
「女人を相手に威張っても仕方があるまい、だいいち、吾は疲れる」
と答えた。
男具那はまだ夜が明けないうちに起きると、川水で身を浄《きよ》め新しい衣服を纏《まと》った。
男具那の高御座の周囲には、襲津彦が台座に、また男具那に仕える面々が筵《むしろ》に坐っている。その外側には槍《ほこ》(矛)を持った兵士たちが警護にあたった。
男具那は日の出を拝んだ。
陽は国東半島の中央部に聳《そび》える山々の北西の山麓あたりから昇る。冬になると陽は更に南に移るから山の頂上から昇る日もあるだろう。
男具那は三輪の頂上から昇る日の出の美しさを連想した。
神夏磯媛は女人に担がれた輿《こし》に乗って現われた。輿を担いでいる女人は白衣姿だが、皆若く美貌《びぼう》だった。驚いたことに短剣を吊《つ》っている。
宮戸彦だけではなく内彦も、びっくりして口を開けている。
男具那の傍まで来ると担いでいた白衣の女人たちが輿を下ろした。
神夏磯媛は春風に乗るような優雅な動作で輿から下りた。
大きな玉を連ねた首飾りをしている。中央の勾玉《まがたま》は硬玉で、沼《ぬな》川(新潟県|糸魚《いとい》川市姫川)産の翡翠《ひすい》である。
顔には白粉《おしろい》を厚めに塗り、唇の紅は濃い。眼光は弱く半分眠りかけているような気がした。こういう巫女王に、部下たちも農民たちも、神秘な魅力は感じないだろう、と男具那は思った。
異国の巫女王と会うので、男具那は緊張していたが、神夏磯媛を見て気がほぐれた。
もう巫女王の時代ではない、という気がする。
男具那は立つと、向いの台座を差した。
「どうかお坐り下さい」
襲津彦が苦い顔をしたのは、王子が先に口を開くべきではない、と忠告したかったからであろう。
神夏磯媛は男具那に会釈もせずに、向いの席に坐った。あまり白粉が濃いので、かえって小皺《こじわ》が透けて見える気がする。
男具那も襲津彦の忠告に従うべきだ、と反省した。相手は男具那に服従しているのである。それなりの礼儀を男具那に示すべきであろう。
男具那は胸を反らせた。
腹式呼吸をしながら神夏磯媛を睨《にら》みつけるように見た。
「吾《われ》は倭《やまと》のオシロワケ王の子、男具那王子じゃ、そなたが船の舳先《へさき》に剣、鏡、玉を吊《つる》し、服従の意を表したことは、しかと見届けたぞ、国前王の話によれば、あちこちに賊がいて、日を追って勢力を増し、今や宇沙の地は、賊によって蹂躙《じゆうりん》されようとしているとのことじゃ、神夏磯媛に訊《き》く、吾の力が必要なのか、それとも不要なのか、はっきり答えていただきたい、不要なれば、援助を求めて来た速津媛の許《もと》に行く、明日にでもな」
男具那は、輿を担いで来た女人や、蹲《うずくま》っている十数人の兵士を眺めた。
男具那の声は御許山にも響き渡ったようである。短剣を吊した女人の一人が立ち、神夏磯媛に叩頭《こうとう》した。
「媛王様、倭の王子様にお力をお借り下さい、この国の状態はすでに王子様の耳に入っています、隠し通せるものではありません」
眉《まゆ》の濃い、切れ長の眼が鋭い二十歳《はたち》前後の女人である。
神夏磯媛は、手を合わせると天を仰いだ。眼を閉じ天に向って何かを訴えているようである。顔が次第に真上を向く。男具那の目に入るのは顎《あご》と喉《のど》であった。太っているのに喉のあたりが筋ばって見えるのは、年齢《とし》のせいであろう。四十半ばと聞いていたが、肌の衰えから見ると、五十歳を過ぎているのかもしれない。
神夏磯媛は天を仰いだまま叫んだ。両手も高々と挙げられている。天神に訴えているのか。それとも神の意を聴こうとしているのだろうか。
男具那には、神夏磯媛の動作が空《むな》しく見えた。こんな虚仮威《こけおど》しは、すでに百数十年前の卑弥呼時代に終っている。
倭姫王も、ほとんど身体を動かさない。
天を仰いでいた神夏磯媛は絶叫すると、頭を垂れた。結った髷《まげ》が崩れ、髪が乱れた。
ただ神夏磯媛が真剣なのは理解できる。肩で息をし、顔から汗がしたたり落ち、せっかくの白粉を剥《は》がしていた。見られた顔ではない。
周囲の人々は寂《せき》として声がない。
宮戸彦や内彦も呆気《あつけ》にとられている。
だが若い女人の剣士や媛に従って来た兵たちは固唾《かたず》を呑《の》み、神夏磯媛のお告げを待っているようだった。
「神は、倭の王子を、宇沙国を始め豊国の荒ぶる賊を滅ぼすためにお遣わしになられた、私《わ》は神のお告げをはっきり聴いた、倭の王子は、この周辺の賊のみならず、遠い昔、我らの女王、卑弥呼様に抗した狗奴国の奴《やつこ》たちを討ち滅ぼされると……」
初めは女人の声だったが、最後の方は嗄《しわが》れて、老婆のようである。
突然、神夏磯媛の身体が瘧《おこり》にかかったように慄《ふる》え始めた。
輿を担いでいた女人の剣士たちは、ほっとしたような表情で手を合わせている。
どうやら彼女たちは、初めから予定されていた神夏磯媛のこの神託を待っていたようだ。
男具那が心配して眺めていると慄えていた神夏磯媛は、泡を吹いて昏倒《こんとう》した。
「早く介抱せよ」
男具那が驚いて叫ぶと、女人の剣士たちが抱き抱え、輿に横たえて連れ去った。
男具那には、何が何やら訳が分らない。
神夏磯媛は、服従の儀式を行ない、その後、賊を滅ぼすことを願うため、男具那に会いに来たのである。
だが、神夏磯媛は、神託を告げただけで去ってしまった。
男具那としては、昏倒した媛に、まだ儀式は終っていないぞ、とはいえない。
男具那が肩を竦《すく》めて高御座から降りると、襲津彦が苦笑を混じえながらいった。
「男具那王子、旨《うま》く逃げられましたな、神夏磯媛は巫女王としての権威を損なわずに、王子への服従の儀式を終えたことになります、しかし、あれでよいと思います、無理に巫女王の権威を傷つけることもありますまい、大勢の賊が跋扈《ばつこ》し、ますます勢いが盛んな現状を見れば、すでに巫女王の権威が過去のものであることははっきりしています」
「そうだのう、しかし、神託で、賊をやっつけてくれといわれても、賊の勢力がどの程度で、どこにいるのか、吾《われ》には分らない、これでは、やっつけようがない」
「いや、吾の推測では、間もなく神夏磯媛の使者が参ります、弱ってはいますが、媛を守る軍団はまだ存在しているはずです」
「まさか、女人軍団ではあるまいな」
「そのあたりは、吾にはどうも……」
襲津彦は頭を掻《か》いた。
賊が跋扈しているのは、巫女王の権威が弱まったことも一因だが、狗奴国の勢力の北上が大きな原因である。
そういう意味で、賊と狗奴国は関係があるのだ。
男具那としては、賊を放っておくわけにはゆかなかった。
男具那は風雨を防ぐ急造の小屋を造らせることにした。男具那の一行は、軍団の長《おさ》、土鳴《つちなり》の屋形に泊まることになったが、兵士たちの寝所が必要だった。
神夏磯媛の屋形は巫女王に仕える女人ばかりなので、男具那も泊まるわけにはゆかない。男具那は自力で小屋を建てる必要があった。
役に立ったのは、吉備武彦《きびのたけひこ》が連れて来た百名の兵士だ。武彦の命令で団結して働く。
男具那が、土鳴の屋形で今後の作戦について会議を開いていると、襲津彦が予想したように神夏磯媛の使者がやって来た。
眉の濃い女人の剣士と、土鳴だった。女人の剣士は羽女《はねめ》という。
羽女と土鳴とでは、羽女の位の方が上らしく、土鳴は羽女に対して敬語を遣っていた。
羽女は神懸りになると巫女王は意識を失う旨説明し、非礼を詫《わ》びた。
男具那は、羽女の身分を訊《き》いた。軍団の長を従え、神夏磯媛の代理として男具那に会いに来ている以上、宇沙の王族だろう、と推測した。
「はい、私《わ》は神夏磯媛様の神託に添い、ことを運んでいます、いうまでもなく巫女王は実際の政治は執られません、そういう意味では、私は神夏磯媛様の代理格です、私は男具那王子様が、狗奴国の征討のため豊国に来られるのを知り、神夏磯媛様に進言し、神託を得、狗奴国の威を借りて暴れている無道の賊を討つべく、王子様のお力を是非お借りしたい、とお願いに参った次第です」
羽女は白粉《おしろい》も口紅もつけていない。首から垂らしているのは大きな勾玉《まがたま》だけである。その勾玉は、神夏磯媛が身につけていたものに優るとも劣らない立派なものだった。
羽女の声は力強く、部屋中に響き渡るようである。
宮戸彦も内彦も感嘆したように眺めている。男具那は不思議そうに羽女を見返した。
「吾が聞き間違えたのだろうか、そちは賊の討伐に吾の力を借りたい、と申したが、そちも戦に加わるように受け取ったぞ」
「はい、もちろんでございます、私は軍団の長、土鳴とともに、賊の討伐に加わります」
「ふーむ、女人の身でのう……」
「この地方では、女人も男子《おのこ》とともに戦《いくさ》に加わります、邪馬台国の女王、卑弥呼様が九州におられた頃は、神聖な女王に生命《いのち》を捧《ささ》げることを無上の喜びとする女人の軍団が各地にいました、ただ、邪馬台国の巫女王が大和に去られてからすでに百年以上過ぎ、女人の勇気は薄れ、女人の軍団は崩壊しました、かろうじて巫女王を守る警護兵に女人が加わっている程度です、私は、嘆かわしく無念に思っています」
大和の王朝には女人の軍団はいないし、美濃《みの》・尾張《おわり》などの東国にもいない。
男具那は、羽女の気迫に圧倒された。香料もつけていないが、羽女の熱気が伝わって来る。その熱気には女人の体臭が感じられる。
大和を出て以来、女人の肌に触れていない男具那は湧《わ》いて来る生唾《なまつば》を呑《の》んだ。
「そうか、女人の勇気か、いや感心したぞ、そちはどうして神夏磯媛の代理格になったのだ、代々血統がよいのか?」
「はい、神夏磯媛様の祖は、宇沙国を造りました宇沙津彦《うさつひこ》様、宇沙津媛《うさつひめ》様といわれておりますが、私も子孫の一人でございます、代々、巫女王を補佐し、政治面でも活躍して参りました」
「なるほど、神夏磯媛の宗族の女人というわけか、そちが宇沙の賊を憎み、女人の勇気を誇りたい気持は分るが、何も自ら戦に加わり、賊と戦う必要はあるまい、ともに参っておる軍団の長、土鳴にまかした方がよいのではないか、兵士を鼓舞する意味で戦に加わるのなら構わないが……」
女人の軍団としてではなく、巫女的な女人が男子《おのこ》の軍団に加わる風習は、大和やその周辺の国々にもあった。
羽女は、髪が羽撃《はばた》いたように激しく首を横に振った。
「いいえ、私《わ》は剣を抜き、賊と戦います、そのためにも、毎日武術に励んでいるのです、王子様、私の兄、宇沙鳥雄《うさのとりお》は、宇沙を守る軍の長でしたが、賊の首長、鼻垂《はなたり》の罠《わな》にかかり、殺されました、私は自分の剣で、兄の仇《かたき》を討ちとうございます」
羽女は床に両腕をついた。顔を上げた羽女の眼は赧《あか》く、激情を抑えるべく、唇を強く噛《か》み締めている。
「何か事情があると思っていたが、鼻垂と申す賊の罠にかかったのか、それにしても軍事の長ともあろう者が、何故《なにゆえ》罠などにかかった、油断していたのだな」
「はい、申し訳ありません、鼻垂が神夏磯媛様に恭順の意を表したいというので、会談のためにわずかな兵を連れ、敵地に参り、殺されたのでございます、私がまだ十歳の時でした」
羽女は嗚咽《おえつ》を洩《も》らしかけたが、拳《こぶし》で膝《ひざ》を叩《たた》いた。石で擲《なぐ》りつけたような音がしたのは、思い切り力を込めたのであろう。
女人の体臭が消え、鼻垂への憎悪の念が男具那の胸を貫いた。男具那の身体中の筋肉が羽女の怨念《おんねん》に反応する。
「そうか、よく分った、そちの意の通りにすればよい、ここにいるのは、吾の弟の襲津彦王子と、吾が最も信頼している武将たちだ、賊の勢力とどこにいるかを詳しく説明せよ」
男具那はかしこまって坐《すわ》っていた部下を呼んだ。
羽女は巻いていた布を拡げた。布には簡単だが、絵図が描かれている。
羽女が軍団の長に、状況を説明するように、と命じた。
羽女の言葉は比較的聴き取りやすいが、土鳴の場合は方言が多く、通訳なしでは無理である。
「王子、吾が意を伝えましょう」
襲津彦が男具那と土鳴の間に坐った。
襲津彦は十三歳まで日向《ひむか》国にいたのだ。宇沙地方とは方言が少し違うが、隣国だけに理解できるようである。
宇沙地方は東から現在の桂川、寄藻川、駅館《やつかん》川、山国《やまくに》川が流れている。駅館川と山国川は南方の三百丈(九百メートル)級の山々に源を発しているが、それらの重畳と連なる山々は更に南に伸び、阿蘇《あそ》・九重《くじゆう》連山となる。
現在の耶馬日田英彦《やばひたひこ》山国定公園と、阿蘇くじゅう国立公園で、福岡、大分、熊本の三県にまたがる大山塊である。
賊は宇沙地方のみならず、それらの山々の要所に拠点を持ち、遠くは筑前《ちくぜん》にまで侵攻し、財宝、人民を掠《かす》め取る、という。
男具那は土鳴の説明を聴き、畿内《きない》では想像もできないほど、九州地方が乱れているのを知った。これでは狗奴国が猛威をふるうのも無理はなかった。
それらの賊の中には大和の王権に反抗し、自ら熊襲と名乗り、周囲をおびやかしている賊もいるらしい。彼らは大和の連中が熊襲、また蕃夷《ばんい》の賊と呼んでいるのは、恐怖心のせいだ、と見抜いていた。
「吾は肥後《ひご》の菊池《きくち》川南部の熊襲を征伐すべく参った、肥後でかなりの兵を集めるが、現時点では兵力は少ない、各地で蜂起《ほうき》している賊を殲滅《せんめつ》するのは無理だ、国前王は吾に服従を誓い兵を出すが、せいぜい百人だろう、宇沙国は何人出せる?」
男具那の質問に、土鳴は羽女と相談していたが、二百人と答えた。
「となると、吾《われ》が率いて来た二百人と合わせても五百人だ、何手にも分散できる兵力ではない、今、神夏磯媛、つまりそちたちが一番恐れている宇沙地方の賊を叩くのだ、地理上から、ここの賊が一番危険ではないか、何という賊だ?」
男具那は御許《おもと》山の南方に勢力を張る賊を、布の絵図を眺めながら指で差した。
「王子様、その賊こそ鼻垂《はなたり》でございます」
羽女が口を出した。
「なるほど、だが場所的に見ると、鼻垂は、宇沙地方の中央部を自分の勢力下に置こうと、虎視眈々《こしたんたん》と狙っていると考えて間違いない、それと、ここの賊は?」
男具那が次に指差したのは、後の世に耶馬渓《やばけい》といわれた場所から山国川上流に勢力を張っている賊である。
「首長の名は耳垂《みみたり》でございます」
と土鳴が答えた。
「鼻垂は鼻の大きな男子《おのこ》、耳垂は耳が大きいところからそういう名がついたのだな」
襲津彦の通訳に、
「その通りでございます」
他にも遠賀《おんが》川の上流や、現在の関門《かんもん》海峡に注ぐ紫《むらさき》川の上流に蟠踞《ばんきよ》する麻剥《あさはぎ》、土折猪折《つちおりいおり》などがいたが、地理的にも遠く、討伐に向う暇がない。
男具那は、鼻垂が勢力をふるっているという場所を力強く押した。現在の安心院《あじむ》地方である。
「吾の判断では、鼻垂は、賊というより、この地域の首長として君臨し、民を支配している、いわば王と同じだ、鼻垂は、兵力さえ整えば神夏磯媛がおさめている宇沙地方に攻めて来るに違いない、違うか!」
男具那は羽女と土鳴を睨《にら》むように見た。羽女の頬《ほお》が昂奮《こうふん》で染まった。
「王子様、その通りでございます、私《わ》も、鼻垂の勢力さえ殲滅すれば、耳垂は警戒して、更に山の奥に入り、勢力も次第に弱まると視《み》ております、ただ、鼻垂の力はなかなかのもので、私がいくら主張しても、皆、復讐《ふくしゆう》を恐れ、討伐軍を出すのをためらっています、私の兄が鼻垂の罠にはまり殺されましたのも、本格的な戦を避け、平和を得ようと、弱腰だったからです」
羽女は唇を噛んで視線を伏せた。
自分の兄を非難したことへの悔いか。それとも兄を殺された憤りが胸にたぎったのか。
男具那は自分が観察した以上に賢明な女人かもしれぬ、と感じた。
「よく分った、鼻垂や耳垂らの賊が、残虐な行為に出、気勢をあげているのも、狗奴国の力が強く、後ろで糸を引いているせいだ、となると賊を、とくに宇沙中心部の近くの賊を叩くことは、狗奴国および、狗奴国に味方をしている大勢の賊たちをひるませることになる、吾は全力をあげて鼻垂およびその一党を殲滅する、それにより山国川上流の耳垂は降服するだろうが、しなければ、耳垂も叩く、どうじゃ」
男具那は襲津彦を始め、連れて来た部下たちを眺めた。
「吾に異存はありませぬ」
真っ先に襲津彦が膝を叩いた。
宮戸彦を始め、男具那の部下たちは海の旅にうんざりしている。戦いたくて仕方がないのだ。声にならない彼らの喚声が聞えて来るようだ。
男具那は土鳴に、安心院地域にいる鼻垂の屋形の場所や、賊の布陣の状況を調査し、明後日中に知らせるように命じた。
神夏磯媛が支配している宇沙の地域と、鼻垂の安心院とは山をはさんで接している。御許山の西方には百八十丈(五百四十メートル)を超える大蔵《おおくら》山があり、西に伸びた尾根は約百十丈(三百三十メートル)の和尚《かしよう》山となり駅館川に向って突き出ている。
大蔵山の山麓《さんろく》沿いに安心院盆地を宇沙に向って流れている駅館川は、和尚山のせいで蛇行し、西方に湾曲しているが、川をはさみ、和尚山を睨《にら》むように聳《そび》えているのが、約百五十丈(四百五十メートル)の妙見《みようけん》山である。
土鳴は、布の絵図を差しながら、男具那の一行が到着するまでの布陣状況を説明した。和尚山は神夏磯媛の兵が守り、妙見山は鼻垂の兵が押えていた。
「妙見山より南は賊の勢力圏だな」
男具那の問いに、土鳴は苦し気に答えた。
「さようでございます」
「となると、和尚山と駅館川の東側を破られたなら、賊は一挙に宇沙の中心部になだれ込むぞ、妙見山を賊に取られたのはまずかったな」
と男具那はいまいまし気にいった。
川をはさんで向い合う山は、その川の下流地域の住民にとっては大事な要害の山となる。まして川上に賊がいる場合は尚更《なおさら》だ。
「王子様、申し訳ありません」
突然、羽女が床に額がつくほど叩頭《こうとう》した。
「羽女殿、もう済んだことじゃ」
と土鳴がいたわるようにいった。
「いいえ、兄のせいです」
羽女は乱れた髪を手で払い、顔を上げて男具那を凝視《みつめ》た。
「そうか、そちの兄が鼻垂に譲ったのか」
と男具那は、それなら羽女が兄を批判するのも無理はない、と思った。
「違います、争いが長く続き、本格的な戦になろうとした時、鼻垂が妙見山から兵を退《ひ》く、と使者を寄越したのです、和平会議を申し入れて来ました、その場所は妙見山の南でした、副軍団長だった土鳴殿も反対したのですが、兄は参りました」
「そうか、その結果殺されたというのが真相だったのか、だがそういう場合は、神夏磯媛の神託が出るはずだ、どう出たのだ」
「はい、神託の最中に昏倒《こんとう》され、出ませんでした」
男具那の瞼《まぶた》に、失神した神夏磯媛の顔が浮かんだ。剥《は》げ落ちた白粉《おしろい》が小皺《こじわ》にへばりついていた。肌は病人のようで色艶《いろつや》がない。
神夏磯媛は、その頃から神託の能力を失っていたのである。
「分った、これ以上は問うまい、ところで土鳴、大蔵山はどうなっておる?」
「山が高く、鼻垂も兵は出していません、もし大蔵山を占領するとなると、大変な兵力が必要です。妙見山やその一帯の守りがおろそかになりましょう、鼻垂が動かせる兵は五百人が精一杯でございます、ただ山の狩人《かりびと》も多く、戦となると勇猛ぶりを発揮します。我々が本格的な戦を避けているのも、賊の荒々しさに弱腰の兵がいるからです、だが王子様の力が加わるのなら勇気百倍、賊を圧倒するでしょう」
「鼻垂は吾の到着を知り、かなり慌てているに違いない、どう布陣するかが愉《たの》しみだ、間者を放ち、詳しく調べよ」
「はい、すでに三人の間者を放っていますが、更に二人、差し向けます」
羽女と土鳴が屋形を出た。
土鳴とその一族の屋形は水濠《すいごう》で囲まれ、中央部が広場になっている。祭祀《さいし》や会議を行なうのもこの広場だ。
土鳴は、自分の屋形を男具那のその部下に貸したので、自分は縁戚《えんせき》者の屋形に泊まることにしていた。
男具那は縁に立ち羽女を呼び止めた。
「羽女、女人の剣士は今の大和にはおらぬ、そちが戦に加わりたい気持は実によく分る、だが戦は殺し合うことだ。戦の最中に情などまったく入る余地はない、そちが捕まっても助け出したりはせぬ、また賊に追われていても見過さねばならぬ」
羽女は膝をついた。
「王子様、よく分っております、私《わ》や女人の剣士は、巫女《みこ》王を守る警護の兵士、武人としての心構えは男子《おのこ》に劣りません」
羽女の声は広場中によく通る。響くというよりも屋形を貫くような力強さがあった。戦場の雄叫《おたけ》びでも男子には負けないだろう。
男具那は微笑しかけたが、表情を引き締めた。
「心構えは承知しておる、ただ吾が懸念するのは、そちたちがいるため、邪魔になることだ、敵がそちを捕まえ、そちに刀を突きつけて逃げようとする、そちがいなければ一刀のもとに敵を斬《き》り斃《たお》すが、そちのせいで躊躇《ちゆうちよ》する、ほんの一瞬だ、だがその一瞬が我らの生命取りにもなる場合がないとはいえぬ、となると、そちが戦の場に出るのは邪魔なのだ」
「王子様、お言葉を返すようですが、躊躇なさるのは、おかしゅうございます、女人を弱い者、媾合《まぐわい》の道具として御覧になっているから躊躇なさるのです、私には、そういう男子の憐《あわ》れみは煩しい、私が捕えられたなら、私とともに敵を斬り斃すのが戦というものです」
「羽女殿、王子様に対して……」
土鳴が羽女をたしなめたが、羽女は、黙りなさい、と土鳴を制した。
「私はがっかり致しました、宇沙の国まで名を轟《とどろ》かされた倭男具那王子ともあろうお方が、戦の場で、女人に情をかけられるとは思いませんでした」
羽女の眼は射るように男具那に注がれている。
宮戸彦が咳払《せきばら》いした。その眼は、羽女に代り、無礼をお許し下さい、と告げているようだ。
襲津彦はこれからどうなるか、と興味深げに眺めていた。
「なかなか申すのう、吾は美しい女人にはどうしても情をかけたくなる、そちがどういおうと男子とはそういうもの、土鳴、ここでは、羽女のような女人の剣士が戦に出て刀をふるうのか」
と男具那は蹲《うずくま》っている土鳴に訊《き》いた。
「羽女殿は、神夏磯媛様を守る武術者でございます、敵が媛様に危害を加えようとすれば剣を抜きます、これまで、曲者《くせもの》を三人も斬っております」
「なるほど、だが戦に出たことはないであろう、警護と戦は大違いじゃ」
「王子様、私の腕をお試し下さい、王子様が駄目だ、と思われたなら、私は今度の討伐には出ません、でも見込みがある、と思われたなら、どうか、兵の一人にお加え下さい」
男具那は部下たちを見た。
宮戸彦と内彦が視線を逸《そ》らせたのは、女人とは武術仕合はしたくない、という気持の表われであろう。
「武彦、羽女の腕を試してみよ」
「はあ、やつかれが、女人と武術を競うのですか、王子、やつかれはまだ女人とは闘ったことはございません」
武彦が困ったように頭を掻《か》くと、指名をまぬがれた宮戸彦が安心してからかった。
「武彦、誤魔化すな、おぬしにはぴったりの女人じゃ」
「何だと、ぴったりとはどういう意味じゃ、吾は女人と刀を合わせたことがない」
「おぬしの刀で、貝を斬っているではないか、海には慣れている男子《おのこ》だからな」
「貝……」
鸚鵡《おうむ》返しに呟《つぶや》き、武彦はようやく宮戸彦にからかわれているのを知った。
武彦の頬《ほお》が赧《あか》く染まった。
「宮戸彦、貝斬りなら、おぬしには及ばぬ、王子、何とぞ、腕試しは宮戸彦にお命じ下さい」
「馬鹿をいえ、王子が最初に指名されたのはおぬしだ、おぬしは王子の御命令を受けられぬ、と申すのか」
宮戸彦は肩をいからせたが、顔は笑っている。
男具那は手にしていた銅製の筒を宮戸彦に向けた。男具那の顔は無表情で言葉はない。宮戸彦の顔から笑いが消え、大きな身体が縮む。
「ことは戦に関しているのだ、冗談を言っている場合ではない、それでは、そちが腕試しをするか」
「申し訳ありません、やつかれは美しい女人と向い合うと目が眩《くら》みます、どうか、最初の指名通り、武彦にお命じ下さい」
宮戸彦の顔から汗が滲《にじ》み出たのを見て、男具那は苦笑した。
「武彦、宮戸彦は汗を流して怯《おび》えておる、そちが羽女の腕を試せ、そうだな、武器は二尺ほどの棒がよいだろう、羽女、それで構わぬか」
男具那は一応羽女の意向を訊いた。何といっても相手は女人である。羽女に不利な武器で闘わせたくなかった。
男具那は、丹波猪喰《たんばのいぐい》を呼び、木刀を二本作るように命じた。男具那の奴《やつこ》となっている猪喰は、男具那の甲冑《かつちゆう》や槍《ほこ》を運んだり、水を浴びた男具那の背中を流したりする。狗奴国の征討に出て以来、男具那はあまり女人を近づけなかった。
自然猪喰は、女人の代りに男具那の身の廻《まわ》りを世話するようになっていた。
猪喰は雑木林に入ると、あっという間に二尺の棒を二本作った。
猪喰から棒を受け取った武彦は、好きな方を選べ、と二本の棒を渡した。
羽女は一本ずつ振り、その後空に放り上げた。棒は空中で回転し、無造作に伸ばした羽女の手におさまる。
息を呑《の》んだのは武彦だけではない。
男具那も並の腕ではない、と視た。
ゆるんでいた宮戸彦の顔が引き締まり、声にならない呻《うめ》き声を洩《も》らす。
羽女は腰に吊《つる》していた剣を外すと土鳴に渡し、棒を持ったまま男具那に叩頭《こうとう》した。
「そちの腕は分った、武彦、戻れ」
と男具那はいいそうになった。それを抑えたのは、女人の剣士が、どれほどの腕を持っているか、知りたかったからである。
「いいか、吾がそれまでだ、といえば二人とも離れろ、羽女、分ったな」
「はい、分っております」
羽女の鋭い声が飛んで来た。
羽女と向い合った武彦は、棒を構えたまま動かなかった。右足にやや体重を乗せ、羽女の攻撃に備えた。棒を空中で回転させた技から、羽女の武術は武器の変幻にある、と見抜いた。
こういう相手には、攻撃よりも防禦《ぼうぎよ》である。うかつに攻撃すれば敵の術中にはまり、身に隙《すき》をつくってしまう。
武彦は羽女が女人であることは忘れていた。闘う相手は容易ならぬ武術の持ち主なのだ。羽女は身軽に左右に動きながら棒先を自由自在に動かす。
武彦が動かない、と視るとゆっくり廻り始めた。その間にも武彦に向けられた棒先は、鳥が狂って飛び廻るように動く。
羽女も用心して攻撃をかけて来ない。このまま睨み合っていると、疲れるのは羽女よりも武彦の方だった。
身体が疲労するというよりも、集中力が薄れそうな気がする。
いつの間にか武彦は、後ろの左足に体重を移していた。
羽女の棒先が鳥から蝶のように見えて来た。武彦を馬鹿にするようにゆっくりと舞っている。
武彦は見開いていた瞼《まぶた》をほとんど閉じた。全神経を棒先だけに集中する。
間もなく蝶の動きが捉《とら》えられそうな気がした。身勝手に舞っているのではなく、羽女の意に操られて動いているのである。
上に舞った蝶が消え、下から現われることは絶対ない。斜めに舞い、上に昇るがその際垂直に昇ることは不可能だ。必ず湾曲して昇る。ただ昇っている蝶が左右に身を翻す時は、棒先が眼には見えないほどの早さで小円を描く。
相手は鬼神ではない。人間の武術者なのだ。そう感じた時武彦は初めて余裕を得た。
その余裕が隙を生んだのかもしれない。耳を貫くような気合とともに、棒先が石礫《いしつぶて》のように武彦の顔面に飛んで来た。
武彦は身を躱《かわ》しながら羽女の棒を撥《は》ね上げた。
手が痺《しび》れ、握っていた棒が落ちそうになった。武彦の顔面を狙った羽女の棒先は、いつの間にか腹部あたりに向いていたのだ。そのため武彦は握り部分、刀でいえば柄《つか》のすぐ上で羽女の棒を撥ねていたのだ。もうちょっと下だったら武彦の指は砕けていたに違いない。
気がついた時、武彦は自分の棒を落し、左手で羽女の棒を掴《つか》んでいた。力一杯引っ張ると、羽女はあっさり棒を離し、後ろに跳んだ。
武彦は羽女の棒を奪い取ったが、自分の棒は落している。
「そこまでじゃ、勝負はあった、羽女、素手で棒を持った武彦と闘うことはできぬ」
「闘えます」
両腕を構えたまま羽女が叫んだ。
「戦なら代りの武器を持っているであろう、だがこの場は無理じゃ、勝負は武彦の勝ちだが、女人の身で武彦の棒を落したのは見事じゃ、賊の征伐に参加せよ、兄の無念を晴らすのじゃ」
羽女は男具那の方を向くと地に伏した。
「有難うございます、征伐に加わる以上、武の鬼神となり、必ず王子様の御期待に応《こた》えます」
「頼もしい言葉じゃ、明日は日の出前に男子《おのこ》に身を変えここに参れ、土鳴は地理に詳しい十人の部下を連れ、羽女と同行せよ、征伐の前に地形と賊の様子を調べておかねばならない、鼻垂は逃さぬ」
男具那の気迫に、羽女と土鳴は感激し、叩頭した。
「王子、無様な仕合、申し訳ございませぬ」
と武彦は男具那に詫《わ》びると唇を噛《か》んだ。
「そちの勝ちだ、詫びることはない、ただ羽女は想像以上の武術者、吾も舌を巻いた」
男具那の言葉に宮戸彦も頷《うなず》いた。
「いや、本当だ、おぬしの顔面を狙った棒先が、矢のような速さでおぬしの腹部に向った時は、やられた、と悲鳴が出かかったぞ、よく棒を奪い取れたのう」
「武彦、羽女はあの時、おぬしの手を狙ったのではないか、もし棒を握った手に当っていたなら、おぬしの指は潰《つぶ》れていた、恐ろしい技じゃ」
内彦も大きく息をついた。
さすがに武術者|揃《ぞろ》いである。視るべきところは視ている。
「吾にも分らぬ、いつどうして羽女の棒を握っていたのかも……まだまだ未熟じゃ」
武彦は自分に憤り、歯軋《はぎし》りした。
「武彦、そちは勝ったのだ、棒を奪い取れたのは、日頃の訓練の成果じゃ、何も自分を責めることはないぞ、女人があれほど腕が立つとは誰も想像していなかった、吾もな……」
男具那は、武彦に白い歯を見せた。
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八
男具那《おぐな》は土鳴《つちなり》に、間者が戻り次第、時を問わず自分に報告するように、と命じた。
「それとだな、今から夜までに、この辺りを実際に歩いて地形を調べたい、誰か案内人はおらぬか、山に詳しい者なら結構だ」
「今すぐですか?」
土鳴は男具那の行動力に驚いたようである。男具那は舌打ちした。
「当り前だ、吾《われ》にはぼんやりしている暇などない、それに鼻垂《はなたり》は時がたてばたつほど、守りを固くし、要所を押える、鼻垂にその暇を与えるのは、敵を利することになる、そちは軍事の長《おさ》ではないか!」
男具那の一喝に土鳴は、申し訳ありませぬ、と叩頭《こうとう》した。
「土鳴殿、王子様の申される通りじゃ、兄に仕えていた山音尾《やまのおとお》が適任者だ、私《わ》が連れて来る、男具那王子様が来られたのを知り、私に、鼻垂征伐軍に加わりたい、と申して来た、山に詳しいといえば、山音尾に優《まさ》る者はそういない」
羽女《はねめ》の顔が紅潮したのは、男具那の行動力に感動したからであろう。男具那を見る眼には、明らかに尊敬の光が宿っていた。
「おう、山音尾とは頼もしい名前じゃ、早速連れて参れ、羽女、そちはかなり大和《やまと》の言葉が話せるのう」
「はい、少しは……」
と羽女の眼が、同行できるのではないか、という期待に輝いた。
「よし、男子《おのこ》の衣服に着換え音尾と同行せよ、ただ暑い季節だが、あまり肌の見える衣服は駄目だぞ」
「有難うございます、早速、音尾を連れて参ります、半刻《はんとき》(一時間)はかかりますまい」
「土鳴の方は、少なくとも明日の午後までに兵を纏《まと》め、動かせるようにせよ、行け」
二人が去ると男具那はすぐ、襲津彦《そつびこ》を始め、部下たちを集めた。
男具那は、土鳴や国前《くにさき》王の軍勢と別行動を取るつもりだった。その方が自由に動ける。
吉備武彦《きびのたけひこ》が率いている百人の部下を除いても、襲津彦は二十数人、内彦《うちひこ》や宮戸彦《みやとひこ》も十人の奴《やつこ》を連れている。奴といってもなみの男子ではない。武術を身につけた者ばかりだ。
男具那は布の絵図を拡げた。
「土鳴は、和尚《かしよう》山を重視している、確かに駅館《やつかん》川をはさむ要害の地であることは間違いがないだろう、だが山という観点からは、御許《おもと》山、その傍の|雲ケ岳《くもがたけ》、更に西方の大蔵《おおくら》山が問題になる、神夏磯媛《かむなつそひめ》が支配する宇沙《うさ》地方を、鼻垂の安心院《あじむ》盆地から守っているのは、この三山だ、それにこの絵図を見ると、狭くはあるが山間《やまあい》の平野が雲ケ岳と大蔵山との間に割り込んでいる、寄藻《よりも》川の支流も、両山の間から宇沙の平野に流れているのだ、大蔵山は山が深く高いので、賊は押え切れない、と土鳴は説明していた、これは鼻垂側だけではなく神夏磯媛側にもいえることだ、つまりだな、大蔵山は両者にとって手が届かないので、暗黙のうちに侵してはいけない山、ということで了解し合っているのであろう、もしも、大蔵山の占領合戦を始めたなら、農民のすべてを動員しなければ無理だ、それも何年もかかる、皆、食べる物がなくなり、戦《いくさ》は嫌だ、ということになる、だから鼻垂も大蔵山には手をつけぬというわけだ」
「王子のおっしゃる通りです」葛城《かつらぎ》氏が葛城山を信仰し、その山麓《さんろく》を勢力基盤にしているからである。
「もちろん、我らが少人数で大蔵山を押えても意味はない、ただ、この絵図を見ると、この山間の平野は、かなり大蔵山と、御許山、それに連なる雲ケ岳の間に入り込んでいる、どこまで入っているかは、山音尾が来れば分るだろうが、ひょっとすると、安心院盆地に通じる獣途《けものみち》があるかもしれぬ、山人が通っていればしめたものだ、もちろん、鼻垂も眼をつけているかも分らぬが……」
「王子、我らは獣途をたどり、安心院盆地に入り、背後から妙見《みようけん》山の敵を撃つというわけですか」
内彦も身体を乗り出した。
「その時が問題だ、土鳴と国前王の軍が、妙見山の賊と戦っている最中がよい、そこを襲えば、間違いなく敵は崩れる、妙見山を守るためには、賊は駅館川西岸に兵を出しているはずだ、まず、その兵を叩《たた》くのだ」
男具那は拳《こぶし》で絵図を叩いた。床が響き板壁が揺れた。
男具那の体内で、これまで味わったことがないような熱気が漲《みなぎ》っていた。男具那はこれまでに櫛角別《くしつのわけ》王子とその妃《きさき》を殺した筑紫物部《つくしもののべ》の一党に夜襲をかけ、殲滅《せんめつ》している。
また大碓《おおうす》王子を警護しながら、ヤサカノイリビメの間者であった、倭海雄《やまとのうみお》やその部下と刃《やいば》を交じえ、斬《き》り殺した。だがいずれも少人数同士の斬り合いで、戦とはいえない。
だが今回は違う。熊襲《くまそ》と呼ばれている狗奴《くな》国に同調し、気勢をあげている賊なのだ。ただの賊ではない。数百人の兵力を擁している強力な勢力である。狗奴国の軍団といってよい。
賊を征伐するといえば恰好《かつこう》がよいが、本質は戦である。両者合わせて千人近い兵が戦うのだ。
狗奴国征討将軍となった男具那にとっては初めての戦いだった。
男具那は、緊張し切った眼を自分に向けている部下たちに気づいた。巨漢の宮戸彦にもいつもの余裕がなくなっている。これはまずい、と男具那は反省した。
まだ戦は始まっていない。地形を探ろうとしているだけなのだ。
作戦は地形を探り、賊の布陣を知ってからでよい。今から作戦を立てるのは、見えぬ賊に怯《おび》えている、と錯覚され易い。
「武彦、そちは黙っているが、意見は遠慮なく申せ、そちの部下が最も多いのだ、いいたいことがあるだろう、宮戸彦も内彦も聴け、これは作戦会議ではないぞ、一つの想定だ、我らは安心院盆地の地形を知らぬ、この絵図は大事な丘が抜けている、たぶんな……」
男具那は表情を和らげた。
「王子、その通りです、これまでの説明では、こちらの和尚山、賊の妙見山が主戦場になりそうですが、賊が全兵力を妙見山周辺に集めるとは限りません、盆地に入るまでに、戦に適した丘、また要害の尾根があれば、そこに隠れた兵を伏せるかも分りませぬ、どうしても地形を知りとうございます」
と武彦はいい、絵図の空白部分を指差した。武彦は、この辺りが平坦《へいたん》な地とは到底考えられない、というのである。
宮戸彦が膝《ひざ》を叩いた。
「おう、吾もそう思うぞ、王子、大蔵山は音羽《おとわ》山より少し低いような感じを受けますが、どのぐらい違うでしょう?」
「明らかに五十丈は違う」
「王子、王子は山が好きで、大和《やまと》周辺の山々はほとんど踏破されました、これは一案ですが大蔵山に登り、賊の地形を知った方が得策ではございませんか……」
と内彦がいった。
印南《いなみ》にいた頃はもちろん、大和に来てからも男具那が山に登り続けたことを部下たちは知っていた。
山の知識について、部下たちは男具那に絶対的な信頼を置いていた。
男具那は、襲津彦を見た。
「王子、吾《われ》も賛成です、ただ山音尾がどう申すか……」
「羽女は、山に関する限り山音尾に優る者はいない、と申した、その言を信じようではないか、ただ、我らの考えに小首をかしげるようなら、羽女も音尾も信頼できぬぞ、連れては行かぬ」
すでに男具那は今日中に大蔵山に入ることを決めていた。信頼している部下たちとの意見が一致した以上、それ以外の意見に耳を傾ける必要はない、というのが男具那の考え方である。
もちろん、男具那たちが知らない危険を告げられた場合は、考え直せばよいのだ。
部下たちが男具那を信頼し、男具那のためには一命を捨ててもよい、と燃えているのは、男具那のそういう人間観にあった。
「羽女は信頼できますぞ、王子、ただ山歩きがどこまでできるか……」
と宮戸彦が顎《あご》を撫《な》でた。
「それほど信頼しているのなら、そちが背負って歩け、ただ我らに遅れても捨てておくぞ」
男具那が苦笑しながらいうと、内彦がとんでもない、といったように首を振った。
「王子、それは危のうございます、宮戸彦はこれ幸いと股間《こかん》の剣を抜きかねません」
「内彦、許さぬぞ、王子のお供をしている時は、吾は絶対せぬ」
宮戸彦はかなり激怒したようである。内彦はけろりとしていた。
「おぬしぐらいの力持ちになれば、女人を片手で抱いて、走れるではないか、むきになるのがおかしい」
「内彦、いわせておけば……」
床がきしんだのは、宮戸彦が立ち上がりかけて、王子の前だ、と自分を抑えたからである。宮戸彦の膝と踵《かかと》の力に床が悲鳴をあげたのだ。
「二人とも静かにしろ、喧嘩《けんか》がしたければ屋形の前の広場でしろ、ただし、衣服も下帯も取り、全裸で闘うのだ、間もなく羽女が来る、彼女は大和での喧嘩は全裸でするものか、とびっくりし、好奇の眼で眺めるだろう、さあ、早く裸になれ」
男具那は自分の言葉に、おかしさを堪《こら》え切れなかった。思わず噴き出した時、羽女が山音尾を連れてやって来た。
内彦と宮戸彦は穴があったなら入りそうに身を縮めた。
男具那は二人を部屋に上げた。
羽女は髪を角髪《みずら》に結い、眼の縁や、手脚に墨を塗っている。麻の衣服で腰のあたりを荒縄で結んでいた。どこから見てもいかつい男子《おのこ》だった。
山音尾は身長は五尺(百五十センチ)そこそこだが、驚くほど肩幅が広い。首は太く胸は厚い。眼窩《がんか》は窪《くぼ》んでいるが眼は大きい。
部屋の外で平伏し、男具那にうながされて這《は》うようにして入って来た。
絵図を囲んで話さなければならないので、身分の違いにこだわっておれない。男具那は自分の意を羽女に伝えた。
羽女が説明すると音尾は男具那に叩頭《こうとう》し、懐から小さな壷《つぼ》を出した。
拡げられた絵図を眺めると、吐き出すような音で舌打ちし、細い棒を壷に入れた。布の染料でも入っているらしく、絵図に荒々しく棒を引いた。早口で羽女に喋《しやべ》る。
絵図に描《か》き加えられたのは、和尚山と妙見山の南方の盆地の真ん中だった。細い線が描かれていたが太く塗り潰《つぶ》した。
羽女が山音尾に代って説明する。
今、音尾が塗った場所は安心院盆地の西方を守る丘陵地帯で、大蔵山の尾根といってもよい。賊はここに主力の兵を潜ませ、妙見山を抜き、勢いに乗じて追って来る宇沙国の軍団を背後から攻撃するに違いない、というのである。
「王子様、音尾が申すには、鼻垂はなかなかの作戦家なので、場合によっては、妙見山とその附近を捨て、王子様と宇沙の軍をこの丘陵地帯と大蔵山との間の狭隘《きようあい》地で挟撃し、全滅させる計画を立てているかもしれないので、御注意下さいとのことです」
「おう、よくぞ申した、土鳴の説明では和尚山と妙見山が主戦場とのことだった、確かに駅館川をはさむ要害の地、吾《われ》もそう考えたが、地形をより詳しく知るのが大事だ、と考え直していたのだ、鼻垂が強大な勢力を得たのは、力だけではない、頭のよい軍略家だからこそ、兵も集まる……」
男具那はふと、妙見山の敵を背後から攻撃すべきだ、と絵図を叩いた時、部下たちがいつになく緊張したのを思い出した。ひょっとすると、男具那の異様な昂《たか》ぶりに宮戸彦や内彦が危惧《きぐ》の念を抱いたのかもしれない。
たまには激情もよい、だが、たんなる昂ぶりは無意味だし、信頼する部下を混乱させる、と男具那は反省した。
征討将軍として、大勢の部下、ことに異国の兵士たちの信頼を得るには、より一層大きく広い視野を持たねばならないのだ。
「ところで大蔵山だが……」
男具那は羽女に、安心院地方の地形を知るためには、是非大蔵山に登る必要がある、と告げた。
「この絵図でははっきり描かれていぬが、大蔵山と御許山の間は狭いが平坦な地のようだ、寄藻川に注ぐ川が山間から流れている、ここは神夏磯媛の支配地域であろう」
「はい、そうです」
男具那は山音尾の鋭い眼光が射るように自分に注がれているのを感じた。男具那の指の動きで男具那が何を話しているかが、理解できたに違いない。それに多少は男具那の言葉も分るようである。
「この山間から安心院盆地まで、どのぐらいだ、間道か獣途《けものみち》があるはずじゃ」
男具那の言葉が終るか終らない間に、音尾は獣のように吠《ほ》えた。内彦と宮戸彦が刀を握り身構える。音尾は両拳を握って挙げ、男具那に何度も叩頭した。
「王子様、山音尾は喜んでいるのです、喜びがあまりにも激しいために、そこのお二人を驚かせました、お許し下さい」
「驚いてはいないぞ」
宮戸彦は憮然《ぶぜん》とした顔で答えた。
「羽女、気にするな、二人とも、何かあれば吾を守らねばならない、と身体が勝手に動くのだ、何故《なにゆえ》山音尾が喜んだのか、説明して欲しい」
男具那の問に羽女と山音尾は早口で言葉を交わしていたが、音尾は叩頭し唸《うな》るような声でいった。
「王子様がいわれた間道は、和尚山に劣らず重要なのです」
音尾は嗄《しわが》れた声で説明した。
羽女の兄の宇沙鳥雄《うさのとりお》が軍団の長《おさ》の任についている時、山音尾は何度か長に、早いうちに鼻垂を叩くよう要請した。だが羽女の兄はあまり戦《いくさ》を好まず音尾の意見を斥《しりぞ》けた。
鳥雄が死に土鳴が軍団の長になった後、音尾は、職を賭《と》して鼻垂征伐を進言したが、やはり撥《は》ねられた。
山音尾は、妙見山には百名ほどの兵を向け、三百名ほどで男具那がいった間道を通り、安心院盆地に攻め込み、一挙に鼻垂を斃《たお》すべきだ、という作戦を立てていたのだ。
音尾が感激したのは、男具那が、間道の重要性に着眼したからである。
山音尾は手を合わせて男具那を拝んだ。
「拝むのは止《よ》すように、と告げよ」
「こんなに音尾が感激したのを初めて見ました、宇沙国の軍団の長に受け入れられなかったのに、遠い大和の国から来られた王子様が、絵図を見られただけで、勝敗がどこにあるかを悟られました、畏敬《いけい》し、感激するのは当り前です」
羽女は墨を塗った手で自分の太腿《ふともも》を掴《つか》んでいた。兄の仇《かたき》を討てる日がいよいよ来たのを知り、自分を抑え切れないほど血が燃えているに違いなかった。
陽はまだ真上に来ていない。午《うま》の正刻(午後十二時)まで、あと半刻《はんとき》はある。間道の入口といってよい地吉《じよし》まで一里半(六キロ)で、山の間道は一里強らしい。
問題は人一人がやっと歩ける獣途に近いという間道だが、音尾は平坦《へいたん》な地を半刻に一里半歩ける者なら、一刻はかからない、と断言した。
男具那は、襲津彦に残るように告げた。
顔色を変えた襲津彦に、
「おぬしは副将軍だ、吾がいない時は、おぬしが全軍の指揮を執る、それができないようでは副将軍の値打ちはないぞ」
と一喝した。
男具那の眼は、本当は連れて行きたいんだ、吾の気持を理解せよ、と告げている。
「王子、心を煩わせて申し訳ない、許されよ」
男具那の気持が通じたらしく、襲津彦は、吾はまだまだ未熟者だ、と唇を噛《か》んだ。
襲津彦は、自分の部下のうち、半数は連れて行って欲しい、と頼んだ。
「まったく未知の地じゃ、どんなことが起こるかもしれない、これは吾の願いです」
襲津彦の言葉が終るやいなや、内彦と宮戸彦が同時に叫んだ。
「王子、そうして下さい」
いつもなら、足手纏《あしでまと》いになる、邪魔ですといいそうなところだ。それだけ二人とも、未知の地、未知の賊を警戒している。男具那に仕えている間に二人とも、一方《ひとかた》の武将としての重みをつけて来ていた。
男具那は、武彦を呼び、腕の立つ者を三十名ばかり選び、自分たちが通った後、間道を拡げるように命じた。
蹲《うずくま》っていた山音尾が、何かいいたそうにしたが、羽女に眼で止められて頷《うなず》く。男具那はそんな二人の気配を見逃さなかった。
道案内は山音尾である。男具那に遠慮しているようでは全力を発揮できない。男具那は羽女を呼んだ。
「音尾は何をいおうとしているのだ、遠慮は無用、申せ」
「分りました」
羽女にいわれ、音尾は、有難うございます、と礼を述べた。
山音尾の意見によると、今日は少人数で偵察し、できるだけ敵に悟られないようにしたい、という。間道を拡げる後続部隊は不必要、と考えていた。
男具那は大きく頷き、ゆっくり音尾にいった。
「そちの説明では、大蔵山と御許山との間の道は一里強とのことだ、しかも、間道を出れば、安心院盆地の中心部を窺《うかが》える、鼻垂は賊だが、なかなかの軍略家という、我らが間道を重要視している以上、鼻垂も放ってはおくまい、もう兵を安心院盆地の間道の入口に、というよりも間道の両側の山に集めているかもしれぬ、また我らを待ち構えているかもしれぬぞ、それを考慮し、少人数では危険だ、と判断した、どうだ?」
音尾は理解できない言葉は羽女に訊《き》いた。男具那の意見を完全に理解したらしく、今度は男具那に向って手を拍《う》った。
深い溜息《ためいき》を吐き三度|叩頭《こうとう》した。
「おいおい、吾《われ》は天の鬼神ではない、人間じゃ」
男具那がこれまでにない渋面をつくり、顎《あご》を撫《な》でたので部下たちが笑う。歩いたなら別人になるだろうが、音尾の動作はのんびりしていた。
音尾が男具那と同じように、ゆっくりと話し始めた。男具那が小首をかしげると羽女が訳す。
音尾は男具那の洞察力は宇沙の誰よりも優れており、男具那がもっと早く来ていたなら、この周辺の賊は、神夏磯媛に服従していたに違いない、と述べた。
男具那が指摘したごとく、地吉から安心院の米神《こめかみ》山に到る間道は、戦略的には間道というよりも本道と同じだ、と音尾は見ていた。道は険阻だが越えさえすればお互いに、相手の中心部を攻撃できるのだ。そういう意味では、主戦場になってもおかしくない要害の地であり、鼻垂が、かなりの兵を集めるに違いない。ただ問題は、鼻垂が、妙見山およびその南方の丘陵地帯を主戦場と見るか、間道を主戦場にするかである。それを知ることによって、王子および宇沙の軍の投入方法も異なって来る。今から我々はそれを調べに行くので、敵に気づかれないようにせねばならない、と山音尾は述べた。
いわれてみればその通りである。
武彦が低く唸り、内彦や宮戸彦も感嘆したように鼻をふくらませた。
男具那は襲津彦に言った。
「吾は音尾の意見は尤《もつと》もだと思う、襲津彦はどうじゃ?」
「理にかなっています、ただ安心院側の間道に鼻垂が兵を集めておれば、間者も出ているはず、果して、音尾が申したように、隠密《おんみつ》にことを運べるだろうか……」
といって襲津彦は腕を組んだ。
当然の疑問なので男具那は、返答は? と音尾を見た。
音尾が初めて自信あり気な笑みを口許《くちもと》に浮かべた。
「王子様、いつの日か、こういう日が来るに違いない、と信じ、間道の上の山中に、間道を窺う途《みち》を作っております、まさに獣途《けものみち》のような途ですが、偵察には役立ちます」
「見事じゃ」
男具那が手を拍《う》つと、釣られたように部下たちも手を拍った。山音尾の顔が真赫《まつか》になり、怯《おび》えたように慄《ふる》え始めた。まるで敵に囲まれ、槍《ほこ》(矛)を突きつけられたようである。
ただ眼だけは感激に濡《ぬ》れている。
男具那は、同行者を十七名に減らした。襲津彦の部下の三名、宮戸彦、内彦とその奴《やつこ》を合わせ六名、武彦とその部下五名、それに奴として仕えている丹波猪喰《たんばのいぐい》、羽女、山音尾である。
襲津彦や武彦の部下は、主君に劣らない武術者だ。
男具那たちは麻の衣服に着換えた。甲冑《かつちゆう》など偵察には不必要だが、音尾の懇願により、短甲だけは身に纏った。
履《くつ》は山歩き用の藁履《わらぐつ》である。男具那の矢筒は猪喰が背負った。歩き始めると山音尾の足は実に速い。動作や喋《しやべ》り方がどこかのんびりしていたので、こんなに健脚とは想像もしていなかった。
田畑では農民が働いているが、一行は麻布の衣服を纏っているので、短甲の男具那を大和の王子とは気づかない。
それでも、鍬《くわ》や鎌の手を休め、それとなく腰をかがめるのは、貴人に対する農民の本能である。
羽女も女人とは思えぬ速さだった。音尾に寄り添い一歩も遅れない。
男具那は宮戸彦や内彦と一緒だが、宮戸彦は暑さと速さは苦手らしい。大粒の汗をかきながら息を切らしている。
気のせいか大和の陽よりも暑く、緑の山々が汗を吹いて光っているように見える。
宮戸彦が弱音を吐かないのは、音尾や羽女に軽蔑《けいべつ》されたくないからだろう。
半刻《はんとき》で一里半を歩く、といったが、山音尾は二里は歩きそうだった。彼方《かなた》に聳《そび》えていた右手の大蔵山、左手の御許山があっという間に迫っている。寄藻川の支流は川幅が狭く、水は川底の小石の間を泳ぐ小魚の数が分るほど澄んでいた。川沿いに少し進むと、道幅は狭くなり、斜面は粟《あわ》や稗《ひえ》の田畑である。
行手は鬱蒼《うつそう》とした樹林で、道はその中に消えていた。
山音尾が、しばらくは水を飲めないので、ここで水を飲み、竹筒の水は一杯にしておくようにと羽女に告げる。音尾は道案内人だし、一行は音尾に頼る以外ない。
羽女から音尾の意を受けた男具那は、部下たちにそれを告げる。
一行は喉《のど》を鳴らして竹筒の水を飲み、川水を竹筒に注ぐ。川底には落葉が沈んでいるが、今落ちたように色は鮮やかだった。
音尾が羽女にこれからの道について説明している。
間道を通らず、ここから山の傾斜面を登り、音尾が作った小途《こみち》を行くことになった。途といっても獣途のようなもので、一人がやっと進める程度である。進む場合は一列になるが、遅れると迷うので、前後を確認し合いながら進むことになった。
道案内人としても音尾は優れていた。これほどの人物が軍団の隊長にもなっていないのは、土鳴に大きな器がないせいかもしれない。
たぶん、音尾は、自分の意見が入れられない土鳴の下で働きたくないのであろう。
音尾が先頭を行き羽女が続く。羽女は神夏磯媛の輿《こし》を担いでいるだけに脚腰は鍛えているようだ。
隠された小途だけに、地肌は何とか歩けるが、灌木《かんぼく》やシダ類を含む下草が途を覆い隠している。進むと灌木の小枝が脚腰に絡みつく。厄介なのは急傾斜を這い登る時だ。小枝や下草が髪に絡みつき顔を撫でる。
音羽山に登った時よりも傾斜が激しい場所に途を作っていた。迂廻《うかい》すればこんな目に遭わないで済むが、音尾はそれなりの計算があって斜面を選んだのだろう。
「王子、大変な山登りになりました」
後ろから内彦が喘《あえ》ぎながらいった。
「喋《しやべ》るな、これは山登りではない」
男具那は発した言葉を自分にもいい聞かせた。普通の山登りなら、難所は迂廻し歩き易い場所を選ぶ。
山音尾が難所を避けなかったのは、間道の様子を絶えず見張るためであろう。
山登りではなく、これは戦《いくさ》なのだ、と男具那は頷《うなず》く。
「王子様、これを頭から顔にお被《かぶ》り下さい」
猪喰が腰につけた袋から麻布を取り出した。被るにはちょうどの大きさである。しかも顎で結べるように紐《ひも》がついている。
「おう、これは便利だ、そちのものではないか……」
「奴《やつこ》は丹波の山で育ちました、慣れています」
猪喰は灌木の小枝を払い除《の》けながら白い歯を見せた。
突然、猿らしい叫び声が聞え、そこだけ風に吹かれたような音をたて、樹林の枝が揺れた。猿の大群である。数十匹はいるのではないか。
羽女が、一休みするまで、後|四半刻《しはんとき》(三十分)です、と男具那に告げた。
男具那が内彦に伝え、次々と下に伝わって行く。急傾斜面を登ると、今度はゆるい下りである。間違いなく間道沿いに進んでいる。よくこんな隠れ途を作ったものだ、と男具那は舌を巻いた。一人で黙々と作ったに違いないが大変な忍耐心である。
自分の意見が受け入れられる可能性がほとんどないにもかかわらず、自分の信念を貫いている山音尾こそ、まさに真の武人であろう。
音尾や羽女が立って歩いたので、男具那も立った。羽女もいつの間にか麻布で顔を覆っている。
男具那の顔を見た武彦が何かいいかけたが、戦だと気づき口を抑えた。
内彦も宮戸彦も羨《うらや》ましそうに眺めた。
男具那は猪喰を指差した。
意外にも内彦を始め部下たちがいっせいに感謝の眼を猪喰に向けた。
自分たちが気づかないのに、よく気を配ってくれた、と礼を述べている。
男具那には、そういう部下たちの広い気持が嬉《うれ》しい。これで古くからの部下たちも、猪喰を自分たちの仲間として考えるに違いなかった。
男具那は、オシロワケ王の猜疑《さいぎ》心から身を守るために、奴として猪喰を使っているのである。猪喰は丹波の武人であり、名家の生まれだ。イニシキノイリヒコ王子が王になっていたなら、猪喰は大和に来て、胸を張って歩けたのだ。これも運命である。
山の樹林は杉、檜《ひのき》、槙《まき》、欅《けやき》、楓《かえで》など大和の山々と変りがないが、シダ類が多いような気がしないでもない。
それに樹林の間から眺める海の広々とした青さが、眼に染み、異国の山だとの思いを深める。
男具那一行は下りから再び上りにかかった。
「ここを登れば少し休んでいただきます」
と羽女が男具那に告げる。
襲津彦や武彦の部下たちは、男具那たちと二十歩ほど離れていた。
驚いたことに猿の一群が、男具那たちを監視しながら付いて来ている。これも二十歩ほど離れた木から木にと跳んでいるが、さっきのような大群ではなく、せいぜい数匹である。
猿も人間と同じように、一族を守るために警戒しているのだな、と男具那は何となく猿に共感を抱いた。
先刻ほどではなかったが、何ケ所か這い、また立って歩き、羽女のいう休憩の場所にたちした。
山に入ってから半刻近くたっているような気がする。真上にあった陽はすでに西方に移っていた。
山音尾は、男具那に、後続部隊は現在地で休んでいただきます、と告げた。
「分った、武彦、兵士たちにその場で止まり、休むように命じよ、水を飲んでもよいぞ」
武彦は一段と高い場所に立ち、刀を抜くと横に振った。動いていた列が先頭の方から停止する。竹筒を差し上げ飲む真似をした。兵士たちはほっとしたようにその場に坐《すわ》り水を飲み出した。
男具那たちは樹林の間から眼下の宇沙平野と青く輝いている海を眺めた。水平線上に浮いたように見える地は、長門《ながと》と周防《すおう》の境のあたりだ。宇沙の海岸には真っ白い糸が現われては消え、また現われる。打ち寄せる波だが絹糸が戯れているようである。
頬《ほお》を撫《な》で、襟から入り胸をくすぐる微風は、声を出したいほど気持いい。
羽女も男具那たちの傍に立った。汗のために顔や手脚に塗った墨が少し崩れているが、羽女は鏡を出し、崩れた部分を布で拭《ふ》いた。顔は墨だらけでいかつい男子《おのこ》だが、汗の匂いは若い女人のものである。
山音尾が男具那の傍で蹲《うずくま》った。
羽女が音尾の説明を伝える。
「王子様、我々は今、雲ケ岳の中腹あたりにいます、向いは大蔵山です、間道は樹林の海に覆われて見えませんが、約十丈ほど下を安心院の地に向っています、王子様が来られてから、間道を通り、賊の地に行く者はいなくなりました、ただ商いをする者は、どんな危険な地にでも、荷を背負って参ります」
「その通りじゃ、ただ、商いの者と間者との区別はつくであろう」
「はい、間道をもう少し進めば、ほぼ宇沙と安心院の中間点に出ます、鼻垂もまだそこまで間者を出しているとは思えませんが、一応調べて参ります」
「もし間者に見つかればどうする?」
「木の上から窺《うかが》いますので見つかるとは思いませんが、万一見つかれば弓で射るか、斬《き》り殺します」
「どうだ、吾《われ》は邪魔か……」
男具那は宮戸彦や内彦の口を封じるため、手を振った。音尾は穏やかな眼を男具那に向けている。短い会話なら羽女が通訳しなくても二人共理解できるようになっていた。
「皆様の中で一番汗が少ないのは王子様です、こんなに山に慣れておられるとは想像外でした、でも部下の方たちが許されないでしょう」
部下たちは、咳払《せきばら》いで、許さぬぞ、と告げた。
男具那は迷った。身の軽さには自信があるし、是非間道の様子は知っておきたい。
だが三人の部下を置いて行けば、彼らは身の置きどころがないほど、男具那の身を案じるに違いない。
「吾は征討将軍だ、戦の責任は吾にある、この間道が場合によっては主戦場になるかもしれぬのだ、軍の長《おさ》として吾は戦場を知っておかねばならない、吾は山音尾とともに戦場の様子を調べに参る、征討将軍とはそういうものだ」
男具那は宮戸彦たちの方を向いていった。
「はあ」
男具那の鋭い視線を受けた宮戸彦や内彦、それに武彦は、負けませぬぞと見返すが、その眼は明らかに王子に押されていた。
「ただそちたちは、吾の警護を志願して吾に仕えた、それを思うと吾もそちたち全員を置いて行くわけにはゆかぬ、だがそちたちも知っている通り、鼻垂の間者が間道の様子を探っているかもしれぬ、我らの存在を賊の間者に知られるのは一番まずい、そのためには、身が軽く、忍びながら歩ける者を一人連れて行く、三人で相談しろ、今すぐだ」
宮戸彦の顔が赧《あか》くなり膨らんだ。口から大きな壷《つぼ》に入るぐらいの息を吐き出した。
「王子、戦なら王子の傍に立ち、賊共を薙《な》ぎ倒しますが、忍んで歩くのはやつかれには無理です、残念ですが、この任は内彦か武彦にお命じ下さい」
といって宮戸彦は残っていた息を鼻から吐き出し、残念そうに鳴らした。
宮戸彦に同調したように武彦が肩を竦《すく》め、舌を鳴らした。
「女人のように音を立てずに忍んで歩けるのは、やはり内彦です、王子、内彦をお連れ下さい」
「よくいった、吾も内彦が適任だと思う、内彦、行くぞ」
と男具那はいい、もう下り始めている音尾と羽女の後を追う。男具那の矢筒を背負い、弓を持っている猪喰も続いた。
「おぬしたち、留守役は大事だぞ」
内彦は二人に向い、嬉し気に頷くと、男具那を追った。
確かに間道は獣途《けものみち》のように狭いが、よく人が通るらしく、土は踏みならされていた。
音尾は地に耳を当て音を探っている。男具那も負けずに耳を当てた。この辺りはゆるやかな峠らしく、少し先から下り坂になっているらしい。
人の気配はしないが、三十歩ほど先に小さな獣か鳥がいるようだ。商い人が背負っていた荷から米か干魚が落ちたのかもしれない。男具那が顔を上げると音尾が待っていたように訊《き》いた。
「王子様、何か感じましたか?」
「二、三十歩先だ、人間ではないが微《かす》かな音がする、小猿かもしれぬ、また山鳥が落ちた米粒でも突っ突いているのだろうか、音尾は何と感じた?」
「恐れ入りました、奴《やつこ》も小猿か小さな獣が食物をあさっていると感じています」
「ということは、賊の間者たちはまだこの辺りまで、来ていないのではないだろうか、のんびりと食物をあさっている」
「そう判断して間違いありません、それにしても王子様が、これほど山に慣れておられるとは思ってもいませんでした、奴の申すことも所詮《しよせん》、経験による推測です、これからもいろいろと王子様の御意見をいただきとうございます」
音尾の顔には、男具那に対する畏敬《いけい》の念が表われていた。宇沙国で認められず、自分一人で黙々と隠れ途《みち》を作って来た音尾が、初めて偉大な味方を得た思いで、喜びを噛《か》み締めたのも当然であろう。
「山には慣れているが、一つ一つの山はそれぞれ違った味を持っている、女人のようにな、この辺りの山は、そちが詳しい、あまり吾に遠慮するな」
と男具那は白い歯を見せた。
「はっ」
音尾は感激で声が出ない。
「音尾、これからどうする、この間道を進むか、それとも隠れ途に戻るか?」
「はい、安心院側の米神山まであと半里余りでございます、もし王子様にここでお待ちいただけるなら、奴は四、五百歩先まで調べ、すぐ戻ってまいりますが……」
「この辺りは宇沙地域と安心院を結ぶ間道の半ばあたりだな、下の川は安心院盆地の方に流れているのか?」
間道沿いの川だが、南に流れているので、寄藻川の支流ではない。それが男具那には気になっていた。
「はい、これまで申し上げています安心院盆地の北東の要害、米神山と、丘陵との間を通り西方に曲り、盆地の北部を流れ、多くの川と合体して津房《つぶさ》川となります、駅館川の上流に注ぐ支流の一つです」
「ほう、となるとこの川もあの駅館川の上流の一つか、驚いたのう、山間を南に流れている狭い渓流が、多くの仲間を得、いつの間にか北に向い、気がつけば大河となっている、まさに人の世の流れ、政治の流れに似ている、もし鼻垂がこの宇沙に通じる道を、たんに守る程度なら、賊の力も、鼻垂の器も並のものだ、だが優れた首長なら、当然、この間道を通り、宇沙に攻め込む作戦を立てるであろう、山音尾は鼻垂の軍勢は、どの程度と判断しておる」
「はっ、王子様が率いられている軍のことは、鼻垂の耳に入っています、鼻垂だけなら、五、六百名が限度でしょうが、王子様の軍も加わるとなると、鼻垂も必死です、耳垂《みみたり》から二、三百名の応援を得る可能性もあります」
「なるほど、となると千名近いな、耳垂は山国《やまくに》川の上流周辺が本拠地らしい、明日、援軍の話が纏《まと》まったとすると、明後日には安心院盆地に来る、どうかな?」
「早くて明後日の午後でございましょう、軍を備え、宇沙に攻め込むのは、三日後の早朝ということになります」
「面白くなったぞ、吾は鼻垂が優れた首長であることを望むぞ」
「王子様、鼻垂は抜け目のない賊でございます」
「すぐ分ることだ、音尾、道の先を調べて参れ、油断はするな、見張りぐらいは出しておるかもしれぬ、行け!」
音尾は叩頭《こうとう》すると歩き始めた。間違いなく歩いているのだが、小走りといってもいいぐらいに速い。それに足音がしない。
男具那は道に耳を当てた。早足の足音は小さな獣が歩くように微かだった。
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九
一行は間道に入ってから一刻《いつとき》半(三時間)の後、米神《こめかみ》山を見渡す高台に達した。|雲ケ岳《くもがたけ》の南麓《なんろく》に伸びる尾根の中腹である。
大蔵《おおくら》山が南方に伸びた恰好《かつこう》の小山の一つだが、その辺りはもはや、間道ではない。山間《やまあい》の狭隘《きようあい》の地だが、田畑もある。
また米神山と西方の丘陵地帯の間は更に広く、狭い野と田畑だった。もし宇沙《うさ》地方から間道を通り米神山方面に進撃したなら、敵が待ち伏せるには絶好の場所である。
おそらく申《さる》の正刻(午後四時)頃だろう。陽はかなり西に傾いているが、日没までには一刻はある。
男具那《おぐな》は何度も唸《うな》りながら地形を眺め、脳裡《のうり》に刻み込んだ。
野や田畑にはあまり人はいないが、米神山の西方の丘陵地帯の緑樹の間から、陽に映えた水《みず》飛沫《しぶき》に似た光が点々と明滅する。
内彦《うちひこ》や宮戸彦《みやとひこ》も眼を凝らしていた。
男具那は山音尾《やまのおとお》を探した。羽女《はねめ》と下に向った音尾の姿はすでにない。
「気のせいではないな、鏡ででも合図をしているのだろうか?」
男具那は傍の武彦《たけひこ》にいった。
「はあ、やつかれも、鏡の合図かと思いましたが、槍《ほこ》(矛)の穂先が西陽に光っているのかもしれません」
「おう、吾《われ》もそう思う、あれは槍だ」
宮戸彦が武彦にいった。
「いや、槍だけではない、鏡の合図もある、どうやら賊は、あの丘陵地帯に兵を集めている、山音尾の推測は当っていた、王子、間違いありません、賊ですぞ、おう、やっと宇沙に来た甲斐《かい》があった、うーむ、腕が鳴るぞ」
まるで若い女人を前にした時のように宮戸彦は唾《つば》を呑《の》み込み、刀の柄《つか》を叩《たた》いた。
「武装した賊共だな、だがまだ少ない、今から明日にかけてもっと兵を集めるだろう、鼻垂《はなたり》は侮れぬ首長だ、ただ我らがもうここまで来て眺めていることには気づいていない、吾が音尾を重用したとは、鼻垂も想像していないであろう、内彦、高い木に登り、鏡がどこに合図をしているか探ってみよ、どうも槍の穂先だけではなさそうだ」
「王子、しばらくお待ち下さい」
内彦は灌木《かんぼく》や熊笹《くまざさ》を掻《か》き分けながら急斜面を登り始めた。斜面の上は山林である。
「実際、猿のような男子《おのこ》だ、吾も、もっと木登りの訓練をしておけばよかった、ただ待つのは最も辛《つら》い、武彦、腕が鳴って仕方がない」
宮戸彦は指の骨を鳴らし、左右の手で二の腕を叩いた。
「宮戸彦、吾も同じだ、だが耐えるのも戦《いくさ》、王子はいつもそうおっしゃっておられる」
武彦は両肩を上に下にと動かす。まるで肩が別の生物のように動き、今にも空に飛びそうである。
男具那は笑った。
「宮戸彦、人にはそれぞれの武術がある、そちが木に登れば木は泣き、怒るだろう、となると訓練は旨《うま》く行かない、武術は自分にぴったりと息が合ったものが一番なのだ、吾は前から気になっていたのだが、長い鉄棒を何故《なにゆえ》持たぬ、思い切り振り廻《まわ》せば、賊の刀など役に立たぬぞ」
「王子、それは気がつきませんでした、ただ刀より長い鉄棒となると特別に作らねばなりません、早く作っておけばよかった、残念です」
「熊襲《くまそ》と戦う前に鉄《てつ》|※[#「金+廷」、unicode92cc]《てい》で作らせよう、まあ一度使ってみるがよい、たぶん、賊共はおののき慄《ふる》えるぞ」
「王子のおっしゃる通りだ、顔は嵐《あらし》の鬼神のようだしな」
武彦がからかった。だがいつものように宮戸彦は怒らない。鉄棒で暴れる自分の勇姿を想像し、武者振るいをしているようだ。
素晴らしい部下たちだ、と男具那は大声で叫びそうになった。
男具那は武彦に、後続部隊の様子を見て来るように命じた。
「水を飲み、放尿するのは自由だが、勝手に動いては絶対ならぬ、と厳重に注意せよ、油断は禁物だ、皆、下草や熊笹に身を潜め、賊の間者に発見されぬように隠れておるのだ、間者に発見されれば、ここまで来た甲斐がない、戦にも影響するのだ、そのことを兵士たちに徹底させよ」
「王子、分りました」
武彦は戦の顔になると後続部隊に向ったがすぐ戻った。
内彦も間もなく戻って来た。やはり鏡で合図しているらしく、大蔵山側の山腹で鏡らしい光が明滅する、という。
「ここから数百歩という距離でしょうか、下の山間の地が狭くなり間道に入るあたりだと見ました、ただ、鏡は一個のようです」
「賊の間者だな、宇沙から攻めて来ないか、と見張っているのだ、それにしても音尾と羽女は遅いな」
男具那は西に傾く陽に眼をやった。今から戻っても日は暮れてしまう。賊に発見されるのを恐れて松明《たいまつ》の用意もしていない。
男具那は石礫《いしつぶて》を下に放った。鳥の声に似た口笛の音が聞えた。ほとんど草の音もさせずに音尾と羽女が戻って来た。
「王子様、賊が間道を通り、宇沙に攻め込むかどうかははっきりしませんが、米神山から西方の丘にかけて、約二百名近い兵がすでに集まっているようです、おそらく明日中には倍になりましょう、奴《やつこ》は、鼻垂は耳垂《みみたり》に援軍を求めたものと考えています、やはり王子様の軍を恐れているのです、その後の鼻垂の作戦ですが、耳垂の援軍は、鼻垂の根拠地に近い妙見《みようけん》山方面に配するものと思われます、宇沙軍の主力が、妙見山を攻撃し、駅館《やつかん》川沿いに盆地の中心部に進撃して来る、と視《み》ているのでしょう、鼻垂は土鳴《つちなり》殿の性格をよく知っています、たぶん奴《やつこ》の作戦が入れられず、放逐されたことも間者の情報で知っているはずです」
「おう分った、妙見山周辺は防戦にあたり、鼻垂の主力軍を手薄な間道に投入、一気に宇沙に突入させるという作戦に出る、とそちは推察したというのだな」
山音尾は両手を山肌に置き叩頭《こうとう》した。
「さようでございます、軍団に関係のない奴の戯言《ざれごと》をお聴き下され、奴は……」
音尾は後の言葉が出ないようだった。確かに道案内人といってよい音尾が、敵の作戦を述べるなど、普通なら僭越《せんえつ》である。
「音尾、気にすることはない、そちは野にあるが忠節の武人じゃ、安心院《あじむ》盆地に通じる間道の上に、一人で途《みち》を作ったのは、大変な功績、よってそちを、吾の偵察隊の隊長に任じる」
「有難き幸せでございます」
音尾は鼻をすすると腕で拭《ぬぐ》った。麻布の袖《そで》に鼻汁がついたが、誰も嗤《わら》う者はいない。
「遠慮することはないぞ、どしどし意見を申せ、そちの意見により、吾の作戦計画は水を得て活々《いきいき》として来た、吾は今から戻り、作戦を考える、そちも戻るか?」
「王子様、でき得ればここに残り、明日の賊の動きを探りとうございます」
「おう、それがよい、吾は明後日の朝、攻撃を開始する、鼻垂が耳垂の援軍を借りるとすれば、賊も、明日中に攻撃をかけては来れまい、早くて明後日、どうかな」
「はっ、ただ、明後日の夜明け前ということも考えられます」
「分った、そちがここに残るとすると連絡係も要るな」
「はい、必要でございます、実はそのために奴の部下を来させてあります、お目通り願えれば幸甚ですが」
「手際がいい、どこにおる?」
音尾は木の葉を取り口に当てた。百舌|鳥《もず》の声に似た音がした。下の方から木々の下草を掻き分ける音がして、麻布に藁履《わらぐつ》の男子《おのこ》が現われた。年齢は二十代の半ばであろうか。眉《まゆ》も髭《ひげ》も濃い。
「太尾《ふとお》、王子様じゃ」
音尾の声に、太尾と呼ばれた男子は下草に這《は》いつくばった。部下といったが、容貌《ようぼう》が音尾に似ており、名前からも血縁者であることが分る。
「吾《われや》は倭男具那《まとのおぐな》王子じゃ、吾の偵察隊長、山音尾との連絡係を命じる」
羽女が通訳した。
音尾は驚くほど勘がよく、羽女の通訳で話しているうちに、男具那の言葉を理解するようになっていた。
「光栄でございます」
と太尾が答える。男具那にもその程度の言葉は分る。
男具那は音尾に兵を残しておこうか、と訊《き》いた。明後日に攻撃するとなると、連れ戻しても意味がない。
「そう致していただければ、と思っていました、この辺りの灌木《かんぼく》を伐《き》り、ちょっとした砦《とりで》を今夜中に造りとうございます、熊笹や灌木を伐るだけで、山での動きは十倍になります」
「吾は山が好きだ、山がどんなものかよく分っておるぞ、ここに十名残し、砦を造らせる、武彦、兵を連れて参れ、山音尾は偵察隊長でもあり、砦造りの隊長でもある、兵士たちにはっきり伝えるのだ、音尾の命令に従わない者は武彦が斬《き》る、分ったな」
「分りました、十名を連れて参ります」
武彦はすぐ十名の兵を連れて来た。山音尾が砦造りの隊長であり、男具那軍の偵察隊長でもあることも告げる。
「音尾殿の命令に従わない者は、吾が斬る」
武彦は刀の柄を叩き鋭い眼で部下たちを睨《にら》んだ。宮戸彦や内彦と冗談をいい合っている武彦からは想像もできない刃物のような眼だ。兵士たちは叩頭した。
男具那は、向いの大蔵山に、鏡で合図をしている賊の間者らしき者がいることを音尾に告げた。
「奴も気づいていました、あの鏡の使い様は少しのんびりし過ぎています、我らがここで潜んでいることに気づいていません、放っておきましょう」
音尾に対する男具那の信頼感は更に深まった。土鳴が音尾を退けたのは、軍略家としての音尾に嫉妬《しつと》したせいではないだろうか。
男具那たちは帰ることにした。驚いたことに音尾はこの傍に食糧を蓄えていた。十人が一ケ月くらい暮せる食糧である。
帰りは太尾が案内することになった。
羽女の説明で、太尾が音尾の子であることが分った。太尾はまだ十九歳だったのだ。
屋形に着いた時は完全に日が暮れていた。屋形の周囲には篝火《かがりび》が燃え、槍《ほこ》を持った兵士たちが警備にあたっている。火明りに槍の穂先が赤く煌《きら》めいたりする。屋形を守っているのは、武彦や内彦、また宮戸彦の部下たちである。
男具那は武彦や宮戸彦らと遅い夕餉《ゆうげ》を食べた。活《い》きた鯛《たい》や蛸《たこ》をぶつ切りにした海の珍味が運ばれる。大きな鮑《あわび》は生きており、刀子《とうす》で切って器に盛って食べるのだ。鳥や獣よりも海の魚介類が旨《うま》い。これだけ素晴らしい海の幸は、王子である男具那もめったに口に入らない。
男具那は屋形に控えている土鳴の部下に、明日の早朝に作戦会議を開く、と伝えさせた。
夕餉を終えた男具那は馬に乗り、武彦、内彦、宮戸彦を連れて駅館川の傍に行った。もちろん、男具那が連れて来た十数名の兵士が警護の任についている。
駅館川に着くと潮の匂いがした。
宇沙の浜辺は、現在に較べるとかなり山々に近い。男具那は宮戸彦にいった。
「明後日の戦に馬は不用だ」
「はあ、山途《やまみち》では馬は邪魔です、賊どもは徒歩のようです、それに馬が百頭もおれば別ですが、二、三頭だと矢で射られ、槍で突かれる危険性が多うございます」
「そちの申す通りだ、しかし百頭を超える騎馬集団で戦ってみたいのう、残念ながら馬が倭《わ》国に入って、まだ十年か二十年、遠い先の話だ」
「そうですなあ、そういう時代になれば、それこそ馬上で鉄棒を振り廻《まわ》し、徒歩の兵を纏《まと》めて撥《は》ね飛ばしてやります」
男具那はそんな光景を想像し、愉快そうに笑った。ふと、徒歩で、それができないだろうか、と思った。ただ口に出すと、宮戸彦は待っていた、とばかりに乗って来るので、男具那は笑いで誤魔化した。一行の足は自然に海の方に向く。潮の匂いが強くなり波の音も聞えて来た。
月の淡い夜で、薄い雲が夜空のかなりを覆っていた。
月を眺めると大和《やまと》を思い出す。弟橘媛《おとたちばなひめ》の情熱的な眼が男具那の血潮を熱くする。男具那は馬から降り、馬を警護兵に預けた。宮戸彦たちも馬から降りた。
一行は松林を通り砂浜に出た。打ち寄せる波は規則的である。淡い月明りに砂浜の方が波を受けて動いているような気がする。これも暗闇《くらやみ》のせいであろう。
男具那は腰を下ろし脚を伸ばした。この暗い海が大和まで続いているのか、と思うと不思議な気がする。倭国は島だが果てしなく広いのだ。
宮戸彦が月を眺めている。葛城《かつらぎ》山の月を思い出しているに違いない。
男具那は叱咤《しつた》するように、作戦会議だ、と叫んだ。感傷的になった自分への自戒が叱咤となったのだ。
三人は砂を蹴散《けち》らして集まった。
男具那は、率いて来た二百名の兵で、間道から安心院盆地に突入する、と告げた。
「宇沙の兵は和尚《かしよう》山、妙見山に廻す、おそらく三百名は超えるだろう、和尚山およびその近辺には百名近い守備兵がいるから四百名近くになる、妙見山への攻撃は明後日早朝だ、吾《われ》は明日の午後、今日の道を進み、日が暮れるまでに山音尾が作った途に布陣する、間道を進撃して来る敵に備え、峠近辺に武彦とその部下が待ち伏せる、賊の兵力にもよるが、吾は、賊共が間道に入り切るまで攻撃をしかけない、つまり武彦と吾との軍が賊を前後から挟み、殲滅《せんめつ》するのだ、武彦は兵士たちに、矢筒を二つ背負わせろ、間道の両側から矢により攻撃し、矢は使い果すまで射よ、何か質問は?」
「王子は二百名のすべてを間道の賊に向けられるのですか?」
と内彦が訊《き》いた。
「いや、すべてかどうかは、音尾の情報を聴いてからだ、米神山と丘陵地帯に、なおかなりの賊が潜んでいる場合は、その方面に備える兵も要る」
「王子、音尾が申していましたが、耳垂の援軍が加わると、賊は七、八百名の軍勢になります、何も恐れるのではありませんが、宇沙の軍勢は、国前《くにさき》王の軍を合わせても三百名、今少し増やす必要があるのでは……」
と宮戸彦がいった。
明らかに宮戸彦は、土鳴や国前王に対して憤っていた。男具那たちは狗奴《くな》国に本拠を置く熊襲を征討すべく九州まで来た。賊共は、狗奴国に服従し、熊襲の威勢を借りて邪馬台《やまたい》国当時の正統な国を崩壊させようとしている。
男具那が賊を討とうとしているのもそのためだが、ことは国の存亡に関《かかわ》っているのだ。
もし賊が勝てば、神夏磯媛を巫女《みこ》王とする宇沙国は滅び、鼻垂と耳垂のものとなる。土鳴や国前王には、そういった危機感が薄い。
国前王は、百名しか兵を出せない、といっている。
自分の勇猛を自負している宮戸彦が、兵力の少ないことに危惧《きぐ》の念を示したのだ。宮戸彦が一段と軍事将軍らしく成長したのを感じ、男具那は大きく頷《うなず》いた。
吉備《きび》から百名もの兵を連れて来た武彦は、そういう立場上、宇沙国の兵力については口を出し難《にく》い。また内彦は、よく冗談はいうが意外に繊細な面がある。心の中で思っていても、男具那の立場を考えてしまう。
男具那は浜の小石を掴《つか》むと海に投げた。小石は闇《やみ》に消え、かなり遠くで落ちたようだ。
「宮戸彦、今日、安心院を偵察し、吾も危惧の念を抱いた、国前王や土鳴は山国《やまくに》川の耳垂が、鼻垂に援軍を送るなど、考えてもいない、少し呑気《のんき》過ぎる、鼻垂がやられたなら、次は自分の番だと耳垂が警戒するのは自然だろう、二人の命運は同じなのだ、耳垂はそのことを知っている、かなりの援軍を出す、よし、吾は国前王に最低二百名の兵士を出すよう、要求する、羽女から神夏磯媛に宇沙国の危機を告げさせる、少なくとも四、五百名は動員させねばならぬ、皆の者、異論があれば遠慮なく申せ」
「ございませぬ」
三名は同時に答えた。
「猪喰《いぐい》、矢筒を持て」
浜辺の闇が揺れ、影が走るように猪喰が走って来た。男具那は三本の矢を受け取ると二本を咥《くわ》えた。
一本を弓につがえると、御許《おもと》山の方に向けた。
山の神々よ、吾の矢に威力を与え給《たま》え、吾は宇沙国を賊の手から守るために戦うのです、と男具那は胸の中で呟《つぶや》きながら矢を放つ。空気が悲鳴をあげ、三本の矢は夜空に飛ぶ。男具那は三本の矢を射終るまでに三呼吸はかからなかった。
翌朝、国前王や土鳴が兵を率いて集まった。総勢は約三百名である。
まだ日の出前なので薄暗く、御許山と大蔵山は闇が固まり合っているようだ。山々の稜線《りようせん》がはっきりしているのは、大空の闇が薄くなっているからだろう。
男具那を始め武彦、内彦は甲冑《かつちゆう》を纏っていた。宮戸彦は短甲だけである。汗かきの宮戸彦は、冑《かぶと》を好まない。この季節だと汗が眼に入り暴れ難《にく》い、という。男具那は好きなようにさせた。
男具那はすでに土鳴の間者たちからも安心院盆地の様子を聴いていた。
彼らの報告では、鼻垂は大々的に兵を動員し、妙見山から南東の丘陵地帯、また盆地を流れる駅館川沿いの地に兵を布陣させていた。
それに山間《やまあい》を通り耶馬渓《やばけい》に通じる安心院盆地南西部に、兵の姿が見受けられるが、ひょっとすると耳垂の援軍かもしれない、という。ただ土鳴の間者たちは妙見山近辺はあまり探っていない。それでも、数十名の兵が東部に移動しており、間道からの攻撃に備えたものと推測できる、と述べている。
男具那は高い座に立った。一歩前に襲津彦《そつびこ》が立つ。男具那は土鳴の間者の報告を伝え、鼻垂は耳垂の援軍を得て我らに備えている、と山野に響き渡るような声を出した。呼ばれた羽女が男具那の傍に立った。襲津彦の代りに羽女が通訳した。その方が効果的だ。
耳垂の援軍があると知り、兵士たちはざわめいた。
一呼吸おいた男具那は、ざわめきがおさまるのを待つ。
「羽女、そちが昨日の偵察結果を告げるように、吾も音尾とともに行ったこともな」
と男具那が命令すると、羽女は朗々とした声で話し始めた。
男具那が間道を抜け、米神山まで偵察に行ったと知り、声に出さずに兵士たちはどよめいた。
男具那は羽女を制し、再び口を開いた。
「宇沙国が賊の手に渡るも、賊の首が吊《つる》されるのも、明日の戦次第だ、もちろん吾は、自ら剣を抜きそちたちとともに、戦う、すでに賊の情勢は把握している、そちたちは、田畑、それに妻子を賊の手から守るために全力を尽して賊を叩《たた》き潰《つぶ》すのだ」
羽女が男具那の言葉を伝えると、兵士たちに立つように命じた。男具那が刀を抜き、
「勝鬨《かちどき》じゃ」
と叫び喚声をあげると、兵士たちも呼応した。
勝鬨という言葉は分らなくても、男具那が放つ武の鬼神にも似た気迫を、兵士たちは心で感じるのだ。
兵士たちを休ませた男具那は国前王と土鳴を呼んだ。襲津彦が傍に控え、羽女にも同席させた。
「吾が申した通り、鼻垂は耳垂の援軍を得ている、賊たちも吾の出現で決戦を覚悟したようだ、賊とはいえ吾が眺めたところでは兵の行動は訓練されており、統制がとれている、今日中に賊の兵力は七、八百名にたちする、国前王はやはり百名か?」
国前王は羽女が通訳しなくても、男具那の言葉をほぼ理解できたらしい。
熱気が溢《あふ》れ、鬼神が宿ったような眼光を見れば、とがめられていることを肌で悟る。
「はっ、百名でございます」
「鼻垂と耳垂が同盟した以上、賊は宇沙から国東《くにさき》半島をも支配下に置くつもりだ、国前王、王にはそれが分っているのか?」
男具那の声は厳しい。内彦や宮戸彦が腕を組み、睨《にら》むように見る。国前王は叩頭《こうとう》し返答もできない。
「分っていないようだな、王が百名と申した時、何を考えているのか、と唖然《あぜん》としたぞ、凶悪な賊が大軍を擁し攻め込んで来るのだぞ、王は国を滅ぼしても構わぬのか」
「申し訳ありません、こんな大きな戦になるとは思ってもいませんでした」
「大和から父王の代理として男具那王子が兵を率いて参ったのだ、賊を脅かすための戦ではない、殲滅《せんめつ》するための戦じゃ、王は今から戻り夕刻までに最低二百名の兵を動員せよ、海人にもヤスの代りに槍《ほこ》を持たすのだ、分ったか、すぐ行くのじゃ」
男具那は土鳴に視線を移した。
「そちは軍団長、ことの重大さは把握したはずだ、三百名以上集めよ、武器が足らなければ鍬《くわ》、鋤《すき》、鎌、何でもよい、吾は明日、鼻垂、耳垂の両賊を殲滅する」
土鳴も男具那の気迫に押され、身を縮めて出た。
男具那は羽女を呼んだ。
「羽女、そちは神夏磯媛に神託を告げるよう、進言して欲しい、宇沙国存亡の大事じゃ、元気な男子《おのこ》は全員、賊の征伐に参加するように、とのお告げが欲しい、女人の剣士たちにも吾《われ》の意を伝えよ、神託は早い方がよいぞ」
「分りました、すぐ参ります」
羽女は男具那を始め、座の全員に叩頭すると屋形を出た。
宮戸彦が、好《よ》い女人じゃ、と呟く。
「女人と思うな、怒られるぞ、武人だ」
男具那は苦笑しながら注意した。若い声がした。
「吾も宮戸彦と同じ思いだのう」
一座の者は一瞬自分の耳を疑い襲津彦の顔を見た。襲津彦が女人について語ったのは初めてである。
襲津彦は濃い鬚《ひげ》を掴《つか》み、おかしいか、といわんばかりに宮戸彦らを見返した。
「おかしい、気持は分らぬでもないが、何だか妙だな」
男具那の言葉に襲津彦は、失礼します、といい屋形の縁に立った。獣の咆哮《ほうこう》に似た声が聞えて来た。その声には欲情というよりも哀切な響きが感じられた。
男具那は笑う気になれなかった。
襲津彦は大和に妃《きさき》を残している。男具那と同じく伽《とぎ》の女人を拒否して来たのだ。
「男子とは、厄介なものだのう」
男具那の呟《つぶや》きは実感だった。
昼前に山音尾が現われた。間者というより数人の偵察隊が間道に入り峠あたりにいる、という。
「捕まえ、口を割らそうかと思いましたが、放った偵察隊がいなくなれば、捕まえられた、と用心するでしょう、今は放ってあります」
音尾の報告では米神山周辺にはすでに二百名以上の兵が集まっていた。
おそらく夕刻までには三百名近くになる、と音尾は推測している。
「そうか、問題は賊共がもし間道を通り攻めて来るとすれば、それはいつか、ということだな、それとも賊共は米神山周辺に布陣し、我らの攻撃を迎え撃つつもりか……」
男具那は音尾に、調べた結果を詳しく報告し、遠慮せずに意見を述べよ、と命じている。
「王子様、守るつもりなら三百名も集めますまい、それに今集まっている兵は、鼻垂直属の兵が多うございます、賊は妙見山から和尚山に攻撃をかけるふりをしながら、間道から主力軍を宇沙に進入させる作戦と奴《やつこ》は考えております、となると、賊の攻撃は明朝ということになりましょう、夜の間に間道の峠あたりまで兵を進めるに違いありません」
「夜が明けるのを待ち、一挙に宇沙に突入して来る、というわけだな、妙見山に対する土鳴軍の攻撃がもたついておれば、土鳴軍は、予想もしなかった賊の主力軍に背後を衝《つ》かれることになる、もし賊共の思う通りに戦わせたなら、勝敗は明らかだ、賊の勝利じゃ」
「奴もそう思います」
「吾は、そちの想像は大体当っていると考えている、ただその場合、賊共が深夜に間道を進むのを防がねばならない、夜の戦、ことにあの間道では、誰が敵か味方か、さっぱり分らない、当然弓も射れない、槍《ほこ》も使えないとなると戦にならないのではないか、その辺りをどう考える?」
「はっ、奴もいろいろと考えています、もし賊共が明朝あたり、兵を整えて間道に入って来れば、奴が作りました隠れ途《みち》に潜んだ王子様の兵が、側面から攻撃をかけ、賊の兵を分断し、安心院盆地に逃げた賊は山際に潜ませている王子様の軍が殲滅します、錯乱してこちらに逃げて来る兵は、国前王の兵の一部を借り捕えるか殺します、ただ問題は、鼻垂が、今夜にでも兵を間道に進ませた場合です、鼻垂も間道での勝利が、戦の勝利につながると考えているでしょう、奴が恐れるのは賊がいつ兵を進ませるか、ということでございます」
「そちは今夜にでも、鼻垂が兵を進ませる可能性がある、と危惧《きぐ》の念を抱いているのだな、吾も明朝の攻撃を考えている、鼻垂は軍略家と聞く、とすると鼻垂が明朝の攻撃を計画している、と判断しておかしくないぞ、そのためには、鼻垂は夜の間に兵を間道に進ませねばならない、これをどうして阻止する?」
「はっ、王子様がさっきおおせられたように、夜の戦は不可能です、鼻垂がどんなに急いでも、攻撃をかけて来るのは明日の早朝でございます、それまで、賊の兵は、間道の出口あたりで、夜明けを待つでしょう、その間、賊を油断させるために、こちらからの攻撃は致しません」
音尾は、顔を男具那に向け、続けて話してよいかどうかを窺《うかが》うように見た。
男具那はさっき、賊が深夜に間道を進むのを防がねばならない、といった。だが音尾は、進ませても構わない、といっているようである。
音尾が男具那の表情を窺ったのは、自分が反対の意見を述べているからだ。
「構わぬぞ、結論は吾が下す、続けて申せ」
「有難きお言葉をいただき、感激でございます」
音尾は気を鎮めるため一呼吸置いた。
音尾の作戦は次のようなものだった。
男具那の軍勢は、音尾が作った山途に潜み、賊共を通過させる。賊共は宇沙平野の入口に無事到着したので、安心し、夜明けまで仮眠をとる。起きていたとしても気はゆるんでいる。
夜明け前に男具那勢の半分が間道に入り、夜明けと同時に山林や木に登り、弓矢での攻撃を始める。当然賊は驚き、狼狽《ろうばい》しながら応戦する。その賊を残りの男具那の兵と国前王の兵が攻撃する、というものである。
「吾の兵だけでは足らぬ、というわけだな」
「王子様の兵の気、勇猛さは賊を上廻《うわまわ》っていますが、たぶん、賊は倍の兵力を擁していると思います、王子様の軍の犠牲者を少なくするためにも、国前王の兵は必要ではないか、と存じます」
音尾は汗を拭《ふ》いた。
「よし、そちの意はよく分った、吾は、国前王、土鳴、また羽女に倍の兵を集めるように命じた、間もなく正確な兵力が分るであろう、その際、吾はそちを間道方面軍の隊長に任じ、土鳴の軍団から数十名をさき、そちに与えるつもりだ、思う存分戦え、国前王の兵を借りる必要はない、これは征討将軍である吾の決定だ」
「はっ」
音尾は両腕を拡げ蛙のような恰好《かつこう》で叩頭《こうとう》した。何かいいたいらしいが、感動で胸が詰まり声が出ない様子だ。
「もちろん、羽女もそちの軍に入れるぞ」
「王子様」
顔を上げた音尾の額と鼻頭に土がついていた。
「音尾、土を払え、それと、我軍の様子を窺う賊の兵士が間道に忍び込んでいると申したが、まだ日暮には間がある、そちは賊の攻撃を明日の早朝と推測した、そうかもしれぬ、だがそうでないかもしれぬ、それを知るためには、間道に潜む賊の兵士を捕まえ、口を割らせるのだ、逃げる者は斬《き》れ、だが二名以上は生きたまま連れて参れ、少しは敵の動向が分る、このような戦には俊敏な行動が必要じゃ、そちは少し慎重になり過ぎている」
「はっ」
音尾は愕然《がくぜん》としたように男具那を見た。
「一人や二人、逃しても仕方がない、気にするな、その場合は、明朝、吾が米神山周辺の賊を攻める、もちろんそちが作った途《みち》は無駄にはせぬ、吾に考えがある」
男具那は莞爾《かんじ》と笑った。男具那の口から白い歯がこぼれ、音尾の眼に畏敬《いけい》の念が宿った。
男具那は内彦を見た。
「内彦、そちは音尾とともに行き、米神山を見張っている兵士たちに、音尾とともに賊を捕えるようにという吾の命令を伝えよ、ただ、そちはすぐ戻って参れ」
「はあ、しかし」
案の定内彦は不服そうである。音尾とともに賊を捕えたいのだ。
「内彦、賊の間者を捕えるのは、音尾と兵たちにまかせ、そちはすぐ戻れ、と申しているのだ」
「はっ、分りました、すぐ参ります、音尾殿行こう」
内彦は跳ね起きた。音尾も立つ。
「内彦様、よろしくお願い申し上げます」
宮戸彦が顎《あご》を撫《な》でながらいった。
「おい内彦、賊の姿を見ても手出しは無用だぞ、王子の命令だ、分っているだろうな」
「うるさい、分っておるわい」
内彦はいまいまし気に宮戸彦を睨《にら》んだ。
男具那は行け、と手を振った。二人は走り始めた。
男具那は襲津彦に、賊に対しては、待って戦わず、出て行って征伐する、と決意を告げた。
「王子、その方がよい、音尾は王子が申した通り慎重になり過ぎています、しかし間道の上に途を作ったのは大変な功績ですぞ」
「その通り、吾は先に進むが、賊もそのつもりで来るかも分らぬ、その場合は、待ち伏せ作戦に変更しよう、戦には柔軟性が必要じゃ」
男具那の言葉に襲津彦を始め、武彦、宮戸彦が頷《うなず》く。部下たちは男具那を全面的に信頼していた
屋形の周囲には篝火《かがりび》が燃え、国前王や土鳴が兵を率いて集まった。
国前王は百三十名を率いていたが、夜半までに七十名以上動員が可能です、と告げた。
土鳴も二百名を率い、一刻後には百名が動員され、計三百名になる旨を告げた。羽女は五名の女人を連れていた。いずれも神夏磯媛の警護兵である。
男具那は国前王と土鳴に作戦計画を伝えた。
賊に対する攻撃は明日の早朝に行なう。宇沙国の軍団長の土鳴は三百名を率い、和尚山の兵とともに妙見山の賊を粉砕する。日暮までには安心院盆地の中心部にたちし、間道から米神山を攻撃し、賊を破った男具那軍と合流する。
「土鳴軍団長に申す、大事なのは妙見山の兵をどう視《み》るかだぞ、賊が少なく、早く落ちるようなら、賊は盆地の中心部に通じる丘陵地帯に兵を伏せている、妙見山の賊を破ったからといって油断は禁物だぞ、主戦場は丘陵地帯と思って、兵を三軍団に分けて進撃するのだ、国前王は吾と行動をともにしてもらいたい、土鳴の間者や、吾が放った偵察隊の報告では、賊は米神山周辺に、すでに二百名を超す兵を集めている、耳垂の援軍が加わっている、明日までに四百名に達するであろう、だが恐れることは毛頭ない、安心院盆地の賊を征伐することにより、耳垂をも降服させる機会だからだ、これこそ絶好の機会じゃ、明日の勝利を祝い、酒杯を空けよう」
土鳴の屋形に残っていた女人たちが酒と肴《さかな》を運んで来た。
国前王も土鳴も、賊の作戦を見事に見破った男具那に強い信頼感を抱いたようだ。
「音尾殿の姿が見えませぬが……」
と土鳴が気にしたようにいった。
土鳴は、自分と意見を異にし、野に下った音尾に複雑な気持を抱いているようだった。
「吾の兵を率い、米神山周辺に布陣している、夜が明けると同時に、真っ先に進撃するであろう、音尾はなかなかの戦略家だ、野にありながらも賊の様子を探り続けていたのじゃ」
「ほう、あの音尾が……」
驚いたように国前王が呟《つぶや》き、とがめるように土鳴を見た。
土鳴は国前王の視線を避けるように男具那に眼を向けた。
「王子様、戦の準備もあります、やつかれは兵を率い、和尚山に向いたいと思いますが」
「おう、その意気じゃ、妙見山の方には耳垂の援軍が集まるかもしれぬ、地理的に見ても耳垂の本拠地に近い、もう一度申す、妙見山の敵が早く崩れたなら、深追いを避け、軍団を三つに分けて進撃するのじゃ、主戦場は丘陵地帯になる」
「心得ました」
「明日の戦は大事だ、大勝すれば、耳垂だけではなく、この辺りの賊が降服して来る、宇沙国は安泰じゃ、また北進しようとしている狗奴国にも打撃を与えることになる、金官伽耶《きんかんかや》国の渡来人たちの噂《うわさ》によれば、朝鮮半島北部の高句麗《こうくり》は、百済《くだら》、新羅《しらぎ》をも制圧し、倭国に圧力をかけて来そうじゃ、九州島の乱れは、高句麗の野望に手を貸すことになる、明日の戦は、宇沙一国だけのものではない、九州島全地域の平和に寄与する」
男具那は金銅の柄のついた刀子《とうす》(小刀)を土鳴に渡した。
「吾はオシロワケ王の代理として、この刀子をそちに授け、そちを宇沙国の征北将軍に任じる、明日は全力をあげよ」
音尾との確執で、男具那に白い眼で見られているのではないか、と不安感を抱いていた土鳴は、思わず刀子を捧《ささ》げ持ち、
「御期待に添います」
と深々と男具那に叩頭した。土鳴の声にはこれまでにない決意が篭《こも》っていた。
襲津彦が、さすがは男具那王子、人望が集まるのは当然だ、といわんばかりに頷く。
更に男具那は、国前王を、宇沙国の征東将軍に任命した。宇沙国の東部は国東半島と海である。国前王も満足したようだ。
男具那は酒宴を早めに終えた。万全の策を講じたつもりだが、どこかに穴があるような気がしてならない。
両軍を合わせると千名を超す戦は、男具那にとって初めてのものだ。しかも、この戦に大勝するかどうかによって、狗奴国との戦にも大きな影響が生じる。
男具那は、襲津彦、宮戸彦、武彦を呼んだ。せめて二刻《ふたとき》(四時間)ぐらいは眠らなければならないと思うが、珍しく神経が冴《さ》えて眠れそうにない。
「襲津彦、この作戦で万全か、いや、戦に万全な作戦というものはない、思ったことは何なりと申せ、遠慮することはないぞ、採用するかどうかは吾が決める」
「王子、確かにそうだ、万全な作戦などない、つまりあれでよいわけだ、いつもの王子らしくない、もう少し落ち着かれよ」
襲津彦は腕を組んだ。
「そうか、では一眠りするか……」
男具那の言葉に、宮戸彦が首を横に振った。
「王子、一晩ぐらい眠らない方が、思い切り戦えますぞ、ただこれを作戦と呼べるかどうか分りませぬが、鼻垂|奴《め》を見つけ斃《たお》す隊も必要でしょう」
「もちろんじゃ、宮戸彦、鼻垂を見つけたなら、そちは十数名を率い、鼻垂を狙え、ただ我らには、誰が鼻垂か分らぬ、音尾と行動を共にせよ」
「くそ、吾が申そうとしていたのに」
武彦がいまいましそうに舌打ちした。
「こういう場合は、早い者勝ちだ」
と宮戸彦は肩をゆすって笑った。
内彦が戻って来たのは、それから二刻後だった。
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十
男具那《おぐな》は国前《くにさき》王も呼んだ。
内彦《うちひこ》の報告によると、松明《たいまつ》の様子から判断して、賊の本隊は米神《こめかみ》山周辺に集まっており、まだ間道には入っていなかった。
間道に入っているのは、賊の偵察隊ぐらいである。
内彦の命を受けた兵士たちは、山音尾《やまのおとお》に従い、賊の偵察隊を捕虜にすべく行動を開始した。
「王子、音尾殿は、明日の早朝の攻撃を確実なものにするために、丑《うし》の刻までに軍を、間道の入口、地吉《じよし》近辺に集結させていただきたい、とのことです。どうやら賊の攻撃は明日の昼になるようです、鼻垂《はなたり》は、王子がこんなに早く軍を集め、攻撃して来る、とは予想していないようです」
「おう、吾《われ》も軍をいつ動かすかについて、考えていたところじゃ、よし、ただちに全軍を地吉に移動させよう、内彦、道は分るな」
男具那の問いに内彦は頭を掻《か》き、王子の許《もと》に報告に来れたのも、道案内人があったからです、と告げた。彼は間道を見張っていた音尾の奴《やつこ》であった。音尾は間道周辺の山に詳しい奴を数名も使っていたのだ。
男具那は国前王と羽女《はねめ》に軍の移動を告げた。羽女たちは、竹を編んだ短甲を胸に纏《まと》っていた。槍《ほこ》(矛)や刀にはあまり効果がないが、矢には強かった。それに男具那がつけている鉄の小札を革紐《かわひも》でつないだ短甲よりもずっと軽い。女人向きの短甲だった。
厚い雲が月光を遮った暗闇《くらやみ》だが、賊の間者を警戒し、松明は三個だけにした。
一行は音尾の奴の松明に従い、御許《おもと》山の麓《ふもと》から駅館《やつかん》川の支流に出、川沿いの道を南に進む。
夜の山野には様々な虫が啼《な》いていた。遠くから聞える笛のような音、また鈴にも似た音が一行の周辺に溢《あふ》れている。驚いたことに大和《やまと》の虫たちよりも肝が太いのか、一行の足音もあまり気にしない。さすがに行軍の傍の虫だけは啼き止むが、十歩も離れると、平然と啼いている。
夏が短いことを知り、精一杯、生命を謳歌《おうか》しているのかもしれなかった。
「虫の海か……」
と男具那は自分に呟《つぶや》いた。
「はっ、丹波《たんば》の虫よりも勇ましゅうございます」
男具那の弓矢を背にし、槍《やり》を持った猪喰《いぐい》が響きに応じるように答えた。
「というと丹波の虫は……」
「奴の気のせいか、どことなく寂しい感じが致します」
「そうだな、虫の声にも風土があるのかもしれぬ」
二人の会話を聴いていた宮戸彦《みやとひこ》が、葛城《かつらぎ》山で猿の鼾《いびき》を聴いたことがある、といった。
「王子、本当でございます、まだ十五、六の頃でした、葛城山で狩りをし一夜を明かしました、猿が寄って来たので、腰に吊《つ》っていた竹筒の酒を飲ませたのです、五尺(百五十センチ)に近い猿でしたから長《おさ》でしょう、調子に乗って竹筒を空にしたのです、夜、やつかれが横になっていると滝のような音がしました、妙だなと思いその方に近づくと、何とさっきの大猿が岩の上で大鼾をかいて眠っていました、普通、人間が近づくと、猿や獣はすぐ眼を覚ますのですが、酒に酔った猿は眠りこけて眼を覚ましません、いや、あの時の猿の鼾は凄《すご》かったです、狩人《かりびと》も驚いていました」
「宮戸彦、猿の長が酒に酔い、鼾をかいて眠るようでは、長の資格がないではないか」
「王子、そこです、猿の世界も長争いは大変です、翌日、昨夜の長の醜態を見て、長たらんとする新しい猿が闘いを挑んだのです、大猿は昨夜の酔いが残っていたので、苦戦でしたが、一刻《いつとき》ほどで酔いが覚め、反撃を開始しました、やつかれは、狩猟も忘れ眺めていたのですが、遂に血塗《ちまみ》れになった挑戦者を渓谷に蹴落《けおと》しました、今度は岩の上に立ち、勝利の咆哮《ほうこう》です、猿があんな声を出すとは思ってもいませんでした、猿の鼾と猿の勝鬨《かちどき》、狩人も生まれて初めて聞いた、とやつかれに礼を申した程です」
「宮戸彦、面白い話だ、作り話としてもな」
と武彦《たけひこ》が笑いながらいった。
「何を申す、本当の話だ、その狩人はまだ生きておる、疑うなら大和に凱旋《がいせん》した暁に狩人を呼んでもよい」
内彦が口をはさんだ。
「武彦、狩人を呼んでも無駄だ、どうもその猿というのは宮戸彦自身のことらしい、酒に酔い、大鼾をかいて一人で吠《ほ》える、いつもの宮戸彦そっくりだ」
「こいつ、許さぬぞ」
宮戸彦が闇《やみ》の中で手を挙げた。
「声が大きい、賊の間者が潜んでいるかもしれぬ、もう戦《いくさ》は始まっているのだぞ」
男具那の一喝に三人は首を竦《すく》める。
男具那にも宮戸彦たちの気持はよく理解できた。このような冗談をいい合い、昂《たか》ぶる気持を鎮めているのだ。戦の場で思い切り働くには、心身を解放しておかねばならない。
間もなく男具那たちの軍は地吉に到着し、一休みした。
山音尾が捕えた賊を二人連れ、現われたのは一刻《いつとき》(二時間)ほど後だった。
松明に照らし出された音尾は血塗れで、二人の賊もかなりの傷を負っていた。
「よく捕えた、坐《すわ》らせて、賊の顔を見せよ」
賊も髪を角髪《みずら》に結っているが、一人は頭を斬《き》られ、ざんばら髪だった。明りに照らし出された眼は異様に光り、恐怖よりも大和の王子への憎悪が漲《みなぎ》っているようだ。
二人の賊は後ろ手に縛られていた。
「坐れ!」
音尾が賊の足を蹴《け》り坐らせた。音尾の息が荒いのは、賊との闘いのせいであろう。
音尾の奴が、後ろ手に縛った縄を握り、暴れぬように首にも縄を巻き、後ろ手の縄と結ぶ。
暴れると首が締まるので賊はほとんど身動きできない。手傷を負った獣のように唸《うな》る。
「賊は何名ほどいた?」
「十名は超えていました、ほとんど斬りましたが、残念ながら一名か二名は逃したようです、申し訳ありません」
音尾は蹲《うずくま》り叩頭《こうとう》する。
「よくやったぞ、この暗闇で全員を斬るのは無理だ、それによく二名を捕えた」
「はっ、この二名は太尾《ふとお》が間道の出口で待ち構え、逃げて来たのを捕えました、王子様の兵士たちが大半を斬ったので、奴も動き易くなったのです、今のところ、安心院《あじむ》盆地に通じる道には、賊はおりませぬ」
音尾の声がはずんだのは、これで先手を取れる、と確信したからであろう。
「よし、地吉の兵を峠あたりまで進めよう、ところで、その二人は鼻垂の作戦を吐いたのか」
「まだ吐きませぬ、本当に知らないのか、また死を覚悟しているのか、なかなかしぶとい賊でございます」
「どんな方法を取っても構わぬから吐かせよ、旅人の財や女人、子供を奪う賊は、獣以下だ、音尾、傍に寄れ」
男具那は膝《ひざ》で進み寄った音尾に、まず一人を死ぬまで責めよ、と命じた。
「吐かねば最後に、衣服に火をつける、仲間が焼かれて悶《もだ》え苦しみながら死ぬのを見れば、生き残った一人は怯《おび》える、必ず吐く」
「は、王子様の御決意を知り、勇気百倍でございます」
「賊に対しては、いささかの容赦もせぬ、雷の鬼神以上に荒々しいぞ」
音尾は、男具那が持つ優しさに危惧《きぐ》の念を抱いていたのだろうか、眼を輝かした。
音尾は一人の賊の前に立つと、松明の炎を顔に近づけた。髪と肌が焦げる匂いがし、賊は蝦《えび》のように跳ねて呻《うめ》いた。悲鳴をあげたのだろうが縄が首に締まり、声がくぐもる。
「どうじゃ、鼻垂は攻めて来るのか、守るのか、まずそれを吐け」
賊は眼を閉じ首を横に振る。音尾は松明を無造作に顔に押しつける。賊は転がり呻きながら火を避けた。何か言葉らしきものが洩《も》れたがはっきり聞えない。髪の焦げる匂いが男具那の鼻を衝《つ》く。
男具那は羽女を見た。
羽女は刀を握り唇を噛《か》み締め、賊を睨《にら》みつけていた。嫌悪感も恐怖感もない。まるで埴輪《はにわ》のような顔だった。
音尾は松明を奴《やつこ》に渡すと賊に耳を近づけた。賊は何かいっている。
「王子様、間道を見張れ、と命じられただけで、後のことは知らぬ、と申しております、だが奴は知らぬはずはない、と思います、嘘をついて誤魔化そうと愚かなことを考えているのでしょう」
「もっと責めろ、米神山に集まった兵力も訊《き》き出せ」
「分りました」
奴から松明を受け取った音尾は、奴に賊の足を持ち上げさせた。音尾は藁履《わらぐつ》をはいた足裏を履《くつ》ごと燃やした。賊は手で土を掻《か》き毟《むし》り逃れようとしたが、縛られているし、藁履に火がついているので逃れられない。
間もなく肉の焦げる異臭が鼻を衝き始めた。縄で首を締められているにもかかわらず、蛙を踏み潰《つぶ》したような声が賊の口から洩れる。
突然音尾は燃えている藁履の火を自分の足で踏みつけ、消し始めた。賊は脚をばたつかせるが、賊の腰に馬乗りになった奴が、火の粉を浴びながら脚を押えているので、音尾の思うままだ。
凄《すさ》まじい拷問である。
音尾が火を消す度に、賊の焼かれた脚は踏み潰されるのだ。
賊の腰に乗っている奴の身体が、走る馬に乗っているように揺れるのは、苦痛のあまり賊が腰をはねているからだ。
藁履の火を消し終った音尾は、水を持って来るように、と奴に命じた。
賊は気絶していた。
奴は壷《つぼ》を借りて小川から水を汲《く》んで来た。
音尾が賊の頭に水をかけた。痰《たん》がからまったような息の音がして賊は気がついた。
今一人の賊は身体を石のようにして俯《うつむ》いている。音尾はその賊の顎《あご》を蹴り上げた。仰向《あおむ》けに引っ繰り返る賊の髪を鷲掴《わしづか》みにした音尾は賊の顔を焼け爛《ただ》れた賊の顔に近づけた。
「よく見ておくのじゃ」
そういうと音尾はその賊の顔を火|傷《やけど》の顔に押しつける。
両者が悲鳴をあげた。
音尾の顔に微《かす》かな笑みが浮かんだようだ。
音尾はまだ責めていない賊を今一度蹴倒すと、火傷の賊の傍に腰をかがめた。
「今一度訊くぞ、鼻垂はいつ攻撃に出る?」
吐息のような声で賊が何かいった。
「明日か、明後日、それでは分らぬ、はっきりせよ、何だと、耳垂《みみたり》の援軍次第だと……そうか、耳垂の援軍は妙見《みようけん》山か、それとも米神山か、なるほど妙見山か、正直な答えだ、そう、そのように正直に答えれば痛い目に遭わずに済むのだ、そこで、米神山の軍勢はどのぐらいだ? 知らねばそちの推定でよい、なに、大体三、四百名、鼻垂直属の兵士だな、最後に大事なことを訊く、そちたちの攻撃の時じゃ、そちは知らぬかもしれぬ、だが推測はできるだろう、明日の昼過ぎか、それとも明後日か、ふん、そうか、明日の昼過ぎだと思う、というのだな……」
頷《うなず》いた音尾が男具那を見た。松明で自分の顔を照らした。
これ以上は無理です、焼きましょうか? と音尾の眼が訊いている。
責められた賊はかなり喋《しやべ》っている。それなのに更に焼けば、もう一人の賊は何を喋っても焼き殺される、と考えるだろう。それよりも、正直に喋れば、生命《いのち》が助かる、と思わせた方がよい。
「かなり喋った、水をかけ木に縛っておけ、焼き殺すこともあるまい、次の賊の口を割らせよ」
「分りました」
音尾が奴に、呻いている賊を連れて行け、と命じた。
羽女が溜《た》めていた息を吐いた。ほっとしたのか、それとも焼き殺さなかったことが悔しいのか、無表情なので、男具那にもよく分らない。
国前王が何かいいたげに男具那を見た。
「国前王、何か申したいことがあるのか、間道からの攻撃には王の兵士も加わる、遠慮なく申せ、賊に対して、我らは仲間なのだ、何も遠慮することはない、意見は多い方がよい、ただ判断は吾《われ》が下す」
「今一人の賊の告白を聴いてから申し上げます」
あまりにも凄惨《せいさん》な光景を見たせいか、国前王の声は掠《かす》れていた。
「音尾、顔を焼け」
男具那は力強く命じた。
音尾が松明の火を賊の顔に近づけると、賊は泡を吹きながら喚《わめ》いた。
男具那には意味がよく分らない。
羽女が彼女らしくない太い声でいった。
「王子様、賊の奴は、知っていることはすべて告白する、焼かないで欲しい、と申しています」
男具那の視線に、音尾は松明を賊の顔に近づけたまま、その通りです、と頷く。賊は前の賊よりも年齢上《としうえ》のようだ。
「何もかも、正直に吐くのじゃ」
と音尾は賊の顔の前で松明をゆっくりと廻《まわ》した。
火で責められるにせよ、最初に責められるのと、焼かれた仲間を眼の前で見た後とでは、恐怖感がまったく違う。人の肉が焦げる匂いと苦痛の絶叫に、残った者は石のような固い心にも罅《ひび》が入ってしまうのだ。
罅が入れば割れるのは簡単である。
残った賊は俯《うつむ》きながら告白し始めた。
さいわいにもその賊は偵察隊の副隊長だった。
鼻垂は男具那の一行が宇沙《うさ》の地に着いたのを知り、攻撃されると悟り、耳垂に援軍を求めた。自分への攻撃は耳垂への攻撃である、というわけだ。耳垂も危機感を抱き、二、三日中に三、四百名の援軍を送る、と約束した。げんに今までに百名ほど到着している。
鼻垂は宇沙国の軍を指揮しているのは、土鳴《つちなり》であることを知っていた。
当然、決戦場は和尚《かしよう》山の宇沙軍、妙見山の鼻垂軍ということになるが、宇沙軍の虚を突き、鼻垂の精鋭部隊を間道に投入、一挙に宇沙地方に入り、和尚山に直行させ、背後から主戦場の宇沙軍を攻めさせる作戦のようである、と述べた。
攻撃の時は明日の朝で、兵力は二百名ぐらいと思われる、という。
前の賊との違いは、鼻垂軍の攻撃の時と兵力だった。
火で焼かれた賊は、間道への攻撃を明日の午後といい、兵力は三、四百名といった。
この違いは大きい。
副隊長の告白では、間道は奇襲作戦の道で、主戦場は和尚山、妙見山周辺ということになる。
山音尾は、間道にもっと兵を投入する、と視《み》ていた。
間道の上に途《みち》を作った音尾としては当然である。
音尾に好意を抱いてはいるが、男具那としては冷静に判断せねばならなかった。
「責められた賊は、三、四百名といっていたぞ、それに間道に突入する時は明日の午後じゃ、どちらが本当か?」
男具那は音尾に訊《き》かせた。
音尾は松明を廻しながら訊く。
「王子様、この奴《やつこ》が申すには、鼻垂の精鋭部隊は、せいぜい百五十名から二百名ということです、奇襲作戦の時ですが、明日の午後では奇襲の意味がなくなる、と申しています、それに責められた奴は、士気を鼓舞するため、耳垂の援軍を誇大に吹聴《ふいちよう》している鼻垂の言葉を真に受けている、自分の方が正しい、と自信あり気です」
音尾は苦々し気にいった。
「よし、では何故《なにゆえ》、無防備と鼻垂が判断した間道に、もっと兵を集めないのか、それを訊くように」
音尾は松明を止め、賊の顔を照らした。嘘をついても、誤魔化されぬぞ、といった口調で音尾は訊いた。
賊は懸命に喋っている。
羽女が頷いているのは、賊の説明に納得したからに違いなかった。
「王子様、奴が申すには、鼻垂は単独で、王子様の軍と、宇沙軍、国前王の軍を相手にしては勝目はない、と耳垂軍に頼りました、その場合、耳垂にとっても大事な場所となる妙見山、和尚山に主力軍を投入することになったらしい、と喋りました、つまり耳垂は、間道を押える米神山まで、兵は出せない、と申したらしいのです、その結果鼻垂は、直属の精鋭部隊を間道に投入し、奇襲を決行する作戦に出た、というわけです」
「理は通っているな」
男具那の言葉に音尾は唇を噛《か》んだが、すぐ顔を上げると、
「確かに奴の申すことに理は通っています、耳垂も主力軍を貸す以上、鼻垂のいうままには動きません、どうも決戦場は、和尚山、妙見山、それに南の丘陵地帯になりそうです」
「うむ、しかし大事なのは間道に入って来る鼻垂の精鋭軍だ、これを殲滅《せんめつ》すれば、勝ったも同然、ただ、賊の奴が嘘をついている、という点も考えておかねばならない、今まで述べて来たことが本当かどうか、今一度訊け、縄で身体を巻き連れて行く、本当なら一命を助ける、嘘なら焼き殺す」
音尾が告げると、賊は喚くように何かいった。
「嘘はついていないが、鼻垂の偵察隊が何人か逃げ戻っておれば、鼻垂は作戦を変えるかも分らない、と申しております」
「それはそうだ、兎《と》に角《かく》その賊は連れて行く、戦《いくさ》の場で吾が判断する」
まだ役に立つかもしれない、と男具那は思ったのだ。
男具那は両腕を伸ばすと、三度深呼吸をした。
何か忘れていることはないか、と男具那は一瞬のうちにこれまでのことを思い返した。
ちょっとした見逃しが、重大な結果を生む場合があることを男具那は知っていた。
男具那は土鳴をとがめるように見た国前王の視線を忘れていなかった。
国前王は音尾が野に下った理由を知っており、土鳴に好感を抱いていないようだった。
男具那は、国前王を呼び、音尾と数歩離れた。
「王は音尾の件で土鳴を非難しているように見えた、その理由を訊きたい、和尚山の主戦場には、宇沙の主力軍が向っている、軍の長は土鳴じゃ、土鳴は果して部下の信望を得ているのだろうか、吾《われ》は王の口から率直な意見を聴きたいのじゃ」
「音尾の件に関しては羽女の方が……」
「羽女が話すと私情が入る、だから王に意見を求めている」
「はっ、分りました、羽女の兄、鳥雄《とりお》は当時副軍団長であった土鳴と親しかったようです、両者はどちらかというと神夏磯媛《かむなつそひめ》に忠実で、平和主義者です、平和主義者というと少し語弊がありますが、ようするに、いたずらに山の賊を攻め、兵力を浪費するよりも、防備を固くし、国力を充実させ、鼻垂のような賊を服従させる、という方針を取っていたようです、それに対して音尾は、そういう方法で鼻垂や耳垂を服従させることはできない、兵を出して叩《たた》くべきだ、という強攻策を進言していたようです、吾には何とも申せませんが、神夏磯媛は戦を好まないし、あの時点では、鳥雄や土鳴の方針を責められないでしょう、ただ、軍団長の鳥雄が鼻垂の罠《わな》にはまり殺された後、土鳴は軍団長になりました、その際、当然土鳴としては、鳥雄の仇《かたき》を討つためにも、鼻垂を征伐すべきだったと思われます、音尾は副軍団長に内定していたようですが、自分の出世など問題にせず、鼻垂征伐を迫ったようです、吾がその間の事情を知っているのは、音尾が吾に軍の派遣と、土鳴の説得を要請しに来たからです、征伐するのはたんに鳥雄の仇討ちだけではない、鼻垂をこのまま放っておけば、とんでもないことになるからだ、と音尾は申していました、音尾の気持はよく分るのですが、宇沙国の王は神夏磯媛です、巫女《みこ》王は兵を出すのは凶という神託を受けています、吾が口を出すわけにはゆきません、音尾は結局、絶望し野に下ったのですが、この度、ずっと国を憂え、鼻垂の動向を探っていたことを知り、忠節の武人とはまさに音尾だ、と胸が熱くなりました、自然、土鳴軍団長は何をしていたのか、と非難の眼を向けたのだ、と思います、王子様の眼にとまり、恐縮している次第でございます」
「いや、よく分った、神夏磯媛が吾に降服し、賊の征伐を願ったのはなぜか……」
「はっ、豊前《ぶぜん》、豊後《ぶんご》の賊が狗奴《くな》国に味方し、このままでは宇沙国は滅亡する情勢になりました、土鳴もそれを感じたようです、巫女王の警護にあたっている羽女も、この機会を逃しては、賊共を叩《たた》けないと判断し、結局神夏磯媛が、王子様に従え、という神託を下しました、もちろん、吾も王子様に従うよう、土鳴に忠告したわけです」
「おう、よく話してくれた、国前王、和尚山方面で敗れると、吾が間道から安心院盆地に入っても、ことがめんどうになる、王は百五十名の部下を率い、土鳴軍と合同して戦うのじゃ、吾の方には信頼できる隊長と五十名を与えよ、疑うわけではないが、土鳴の動きから眼を離すな」
男具那は丹波猪喰を呼んだ。
「国前王、この者は吾の奴《やつこ》ということになっているが、人眼を欺くためのもの、丹波王族の血を引く、猪喰じゃ、間者の長というところか、今から猪喰を土鳴と吾との連絡係にする、土鳴に吾の意を伝えよ」
丹波国の王族の血を引いていると知り、国前王は態度を改めた。
「猪喰殿、よろしく」
「こちらこそ、よろしく」
猪喰の態度も堂々としていた。
男具那は猪喰に、土鳴の傍に絶えずついているように命じた。
「もし、土鳴が裏切るようなことがあれば即座に斬れ」
「はっ、躊躇《ちゆうちよ》致しません」
猪喰は淡々とした声で答えた。
山間《やまあい》の夜が明けるのは平野よりも遅い。日の出の海に面した宇沙地方よりも四半刻《しはんとき》(三十分)近く遅いのではないか。
一番鶏《いちばんどり》の声が聞え、小鳥が囀《さえず》り始めているにもかかわらず、夜明けの光は山に遮られ、薄い闇が狭隘《きようあい》の地に篭《こも》っていた。
宮戸彦らは、猪喰の姿が見えないことに対して、何も質問しない。
重要な任務が与えられたことを知っているからだろう。
音尾は子の太尾や数人の奴《やつこ》たちを率い、米神山の方に偵察に出かけていた。
男具那は音尾が作った間道の上の途《みち》に、百名の兵とともに布陣していた。武彦は間道の出口の少し手前に百名を超える兵を率いて潜んでいる。
男具那の傍には襲津彦や内彦、宮戸彦がいた。宮戸彦は刀を吊《つる》し、五尺はある太い木の棒を持っている。
もう和尚山と妙見山近辺では戦が始まっているはずである。
捕虜にした賊の奴は、この時刻には鼻垂の精鋭部隊が間道に入る、と告白したが、その気配はなかった。
やはり間道方面の偵察隊のほとんどがやられたのを知り、鼻垂は用心し、待ち伏せ作戦に変更したのかもしれない。
羽女は国前王の部下とともに、前方を窺《うかが》っていた。
草が擦れ合う音がした。羽女が鳥の声に似た口笛を吹いた。同じ音が返って来た。
音尾が偵察から戻って来たのだ。
「王子様、賊共は米神山に篭り、我々が攻めて来るのを待っている様子です、どうやら、間道への攻撃を諦《あきら》めたようでございます」
「そんな感じもしないではない、となると、ここで無駄な時を過しては勿体《もつたい》ない、攻撃をかけよう、捕えた賊を連れて来い」
縄で縛られた賊が連れて来られた。恐怖に顔が引き攣《つ》っている。
男具那の訊問《じんもん》を音尾が通訳した。
男具那は、鼻垂は待ち伏せ作戦に出たようだが、陣地は米神山か、と訊いた。昨夜の告白とは状況が違ったので、殺されるに違いない、と慄《ふる》えていた賊は、一安心したのか、身体を蝦《えび》のように曲げて叩頭《こうとう》した。
賊は、待ち伏せ作戦に変更したとしたなら、米神山は、その西方の山の両方に兵を潜ませているに違いない、という。
それが自然である。男具那軍は東西の山から挟み撃ちになるからだ。西の山は大蔵《おおくら》山に連なる山だった。
「音尾、米神山はまさに要害の地だ、だが鼻垂は軍略家じゃ、主力は西方の山に潜ませているかもしれぬ、いずれにせよ、我々は安心院盆地に足を踏み入れようとしている、それだけでも、戦は有利だ、内彦、武彦に伝えよ、三列になり、米神山と西の山との間を駆け抜けよ、左右の二列は盾で矢を防ぐ、おそらく賊は東西から矢を射て来る、盾で防がれるのを見て攻撃をかけて来る、間違うな、賊は東西の山で待ちかまえておるのだ」
「王子、我々は?」
宮戸彦が唸《うな》るようにいった。戦いたくて腕が鳴っているのだ。
「落ち着け、内彦、次が大事じゃ、東西の敵が攻撃をかけて来たなら盾の兵士たちはすぐ間道に退却する、真ん中の隊の者はそのまま安心院盆地に突進する、敵がどう出るかを見て、我々は行動を起こす、内彦、そちも三十名を率い、武彦の軍に合流せよ、ただししんがりじゃ、音尾は三列縦隊の真ん中の隊に加わり、盆地に突進するのだ、そちは地形に詳しい、適当な場所で反撃せよ」
「私《わ》も行かせて下さい」
羽女が叩頭した。
「いや、羽女は吾の傍にいよ、最初の戦、後の戦、どちらも大事な戦だ、武彦は音尾とともに中央突破じゃ、二人は離れるな、それと戦は進むも大事、退くも大事、必要なのは混乱せぬことじゃ、退くのも作戦、それを進撃の前に兵に徹底させよ、徹底すれば混乱はない」
男具那は小太鼓を運ばせた。
「内彦は分っていると思うが、小太鼓は進撃の場合も賊とぶつかった場合も鳴らし続ける、退却の場合は小太鼓を打つな、何とか賊を間道に誘い込め、敵の追撃が鈍ければ間道の手前まででも構わぬ、吾は絶えず戦況を眺めており、好機を逃さず側面から賊を攻撃する、吾が攻撃を始めたなら退却から進撃に転じる、このことを兵士たちに徹底させろ、分ったか!」
「王子、分りました」
「内彦、小太鼓はしんがりのそちが鳴らせ、頼むぞ、音尾、我軍の大半は吉備《きび》の兵、武彦に仕え、よく補佐して昼までに勝つのじゃ」
泉が湧《わ》いて来るように、戦の状況が次々と浮かぶ。いうことはいくらでもありそうだった。だが戦の前にあまりいえば武彦も内彦も混乱する。
男具那は言葉を抑え、行け! と手を振った。
小太鼓の音が聞えた時、男具那は更に前進し、米神山のすぐ傍の山林に兵を伏せさせた。米神山は二百歩ほど先にあった。
音尾の作った間道の上の途から、男具那たちは二百歩ほど前進していた。
賊が潜んでいるのがよく分る。だが賊は武彦たちの軍に気を取られ、男具那たちに気づいていない。それだけでも音尾の努力は無駄ではなかった。
小太鼓の冴《さ》えた音が山間に響き、武彦軍は、米神山の山麓《さんろく》と、大蔵山が南方に伸びた尾根との間を安心院盆地に向けて進撃した。狭隘の地だが約三百歩近くある。
三列縦隊の軍が米神山の山麓を半ば過ぎても、賊は攻撃して来ない。
男具那は不安感に襲われた。
鼻垂は待ち伏せ作戦ではなく、捨て身の攻撃作戦に変えたのかもしれない。
男具那たちの軍勢を無視し、安心院盆地に侵入させ、その代り鼻垂の精鋭も間道を通り抜け、宇沙国に進撃し、和尚山、妙見山の戦に加わる、という作戦である。
自分たちの本拠地である安心院盆地を、男具那軍に蹂躙《じゆうりん》されることを覚悟した上でのことだ。
まさに相討ちだが、山人族出の鼻垂には、本拠地を転々とする、昔の習癖が残っていたのかもしれない。
しまった、と男具那は襲津彦を見た。
「王子、賊は間道に入って来る」
と襲津彦は前方を睨《にら》んだ。
「裏をかかれたな、いや、鼻垂は吾《われ》が待ち伏せしていることを知らない、裏をかかれたのではない、吾の眼が甘かったのだ、襲津彦、音尾が作った間道の上の砦《とりで》まで戻ろう、矢を射るには最適の場所だ」
「王子、砦にはすぐ戻れる、今少し様子を」
「おう、十度呼吸をする間じゃ」
男具那は木に登りたいが、ここではできなかった。登れば米神山の賊に見つかる危険性が強い。
賊が捨て身の攻撃に出た場合の唯一の弱みは、男具那たちの存在を知らないことだった。
宮戸彦が持っていた木刀を握りなおして唸った。唸るというよりも、息遣いが戦う前の獣のように荒くなった。男具那は、一、二と数えながら息をした。
小太鼓は鳴り続けており、すでに山麓の端の方まで先頭は進んでいる。
米神山の賊が姿を現わした。男具那たちに近い方の伏兵である。伏兵というより、間道を攻撃するために潜んでいた攻撃部隊だった。
男具那は、隊長として任じた者たちに、兵を間道の上の砦まで戻すように命じた。
「賊に気づかれるな、這《は》って行け、だが急げ、這え、急げ」
男具那たちも這った。賊が砦の下を通過するまでに戻らねばならない。
一行が砦に戻った時、賊の先頭部隊は砦の下にまで進んでいた。
「まだ賊は知らぬ、面白いほど賊を射殺せるぞ、襲津彦、宮戸彦、それに羽女、一緒に射よう、まず四人が射る、それを合図に射よ、幅広く射るのだ、二矢で一人を斃《たお》すような勿体《もつたい》ないことはするな」
男具那は熊笹《くまざさ》から上半身を出し、矢をつがえた弓弦《ゆづる》を引き絞った。
「襲津彦、一矢一人だ、吾は前を射る、おぬしは次、羽女が正面、宮戸彦は羽女の後ろだ」
男具那の囁《ささや》きは三人に伝わった。
男具那は一矢一人の模範を示すことによって、部下の兵士たちを落ち着かせようとしたのだ。
先頭の数人はすでに、砦の下を走り過ぎていた。
男具那は幅広い背中を向けた賊の一人の頭部を狙った。甲冑《かつちゆう》は纏《まと》っていない。邪魔なのは背中の矢筒だけだ。男具那が放つと同時に他の三人も放った。あっという間に四人の賊が倒れ、続いていた賊が足を取られて倒れる。あまりの見事さに数十人の兵士たちは喚声をあげて矢を放った。距離は十数歩だ。ほとんどの矢が当る。かりに急所を外れても、太腿《ふともも》、手脚など戦闘能力を奪うだけの傷を与えた。
男具那は二本、三本と矢を放った。
「後ろだ、後ろから廻《まわ》って攻めよ!」
隊長らしい者の叫び声が聞えて来る。砦の下を通り抜けようとする賊はもういなかった。ただ、賊の主力は間道に入っている。
武彦や内彦たちの反撃に備えている賊は、死を覚悟しているに違いない。
賊たちは間道の南から傾斜面を這い上り、男具那たちに向って来た。
男具那は国前王の隊長に、五十名の部下とともに間道に下り、死守するように、命じた。
「内彦軍はすぐ戻って来る、喚声が聞えるぞ」
男具那の命令を受けた隊長は、すぐ自分の部下に、下りるように、と命じた。手を振りながら自分が真っ先に下りて行く。
男具那たちは更に数歩這い上がった。
男具那たちめがけて攻め上がって来ているのは数十名である。
「矢のある限り射よ、後は刀と槍じゃ」
男具那たちは賊の攻撃をほとんど受けていなかった。奇蹟《きせき》といってよい。
上の岩場から懸命に上って来る賊に矢を射る。賊も矢を射て来るが、男具那たちの居場所が掴《つか》めないらしく、身体を掠《かす》った矢さえ一本もない。
男具那は身軽に槙《まき》の木に登った。二丈(六メートル)ほどの高さにある太枝に立つと、這い上がって来る賊がよく見える。賊の主力は再び間道を進み、国前王の兵士たちと戦い始めていた。この辺りになると間道は狭いので、横に拡がって進めない。先頭はせいぜい二人だ。ただ賊はなかなか勇猛で、十数人は間道から生い繁る山林に入り、廻り込んで攻撃をかけていた。
男具那たちがここでもたついていると、国前王の兵士たちは賊に押され、総崩れになる危険性があった。
男具那は矢筒の矢を全部抜いた。数本しか残っていない。
一矢で一人を斃すぞ、と男具那は自分にいい聞かせ、太い幹にもたれて弓弦を引き絞った。
すでに十名ばかりの賊が砦の下まで来ていた。賊は這い上がっているので動作がのろい。男具那にとっては大きな動かぬ的を射るようなものだ。
第一矢を放つと賊の頭に刺さり、声もなく転がり落ちる。第二矢は隣の賊の顔面を射た。絶叫とともに矢を握り転がった。第三矢は後ろに続いた賊の胸に深々と刺さった。刺さった矢を握った賊は眼を剥《む》き、信じられないことが起きたような顔で倒れた。
革帯にはさんだ矢を弓につがえると、羽音とともに賊の矢が飛んで来た。男具那は幹に顔を隠した。矢は枝に刺さった。
男具那は左手を見た。いつの間にか砦の南側に賊が上っていた。
「襲津彦、宮戸彦、南じゃ」
男具那の声を聞いた二人は、草叢《くさむら》に跳び込んだ。
男具那は、中腰になって矢をつがえている賊に、矢を射た。急いだせいか男具那の矢は急所を外れ賊の肩を射た。賊は喚《わめ》き、弓を落して引っ繰り返った。
宮戸彦が駈《か》け寄りその賊に木刀を振り下ろした。頭が割れ血とともに米汁のような脳味噌《のうみそ》がはみ出した。
襲津彦が槍で二、三人を薙《な》ぎ倒した。
砦の隅から這い上がった賊が、懸命に矢を放っている羽女に襲いかかろうとしている。
「羽女、左じゃ」
男具那の声に、羽女は腰を落して半回転し、迫った賊に矢を放った。矢は深々と賊の腹部に刺さった。だが賊は猪のような勢いで刀ごと羽女に襲いかかった。
男具那は思わず声をたてた。
羽女は一瞬の間に弓を捨て横に転がった。立つと同時に剣を抜き、たたらを踏んだ賊の背に貫いた。切っ先が胸に出たのを男具那ははっきり見た。
「よくやったぞ」
男具那が褒めると羽女は白い歯を見せ、返り血を浴びながら剣を抜いた。
もう砦の正面から這い上がって来る賊はいない。
南側では襲津彦や宮戸彦が暴れている。
斃した敵は三十名を軽く超えていた。
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十一
砦《とりで》に対する賊の攻撃はやんだ。
間道の賊は、国前《くにさき》王の軍を破ろうと懸命である。賊の隊長が大声をあげ、部下を叱咤《しつた》している。
言葉の意味は、はっきりとは分らないが、
「敵は少ない、一挙に押し潰《つぶ》せ」
と励ましているようだ。
羽女《はねめ》が木から降りた男具那《おぐな》に走り寄った。返り血を浴びた羽女は、血の鬼神のようである。髪から血が流れ落ちる。血がついていないのは瞳《ひとみ》の大きい眼だけであった。
「おう、総攻撃をかけよ、と申すのであろう、分っている、その前に捕虜を斬《き》る」
縄でくくられ、転がっていた賊の捕虜は足だけで跳ね起きた。縄先が木に結ばれていることも気づかず、逃げようとし、また倒れる。
男具那はそんな賊の胸に足を乗せた。
「穢《きたな》い賊の奴《やつこ》、この吾《われ》に嘘をついたな、攻撃の前の血祭にしてやる」
賊は早口に呟《つぶや》いた。何をいっているのかさっぱり分らない。
「王子様、自分は鼻垂《はなたり》に騙《だま》された、と申しています、だが、殺されるのを逃れるための嘘です」
また賊が喚《わめ》く。羽女の眼光が雷のように光った。嘘ではないな、と念を押した。
「王子様、本当に鼻垂に騙されたので、鼻垂の隠れ家を教える、と申しています、戦《いくさ》に敗れたなら鼻垂は、そこに逃げ込むに違いない、と申していますが」
「よし、もし鼻垂を逃がし、その隠れ家で見つけたなら、奴の生|命《いのち》だけは許す、と伝えてやれ、それまでは生かしておく」
男具那は刀を抜くと、無造作に振り下ろした。賊の右の手首が飛んで転がる。賊は夜鳥のような声を放ち、失神した。
手首のない腕から血が溢《あふ》れ出る。
「これで逃げられまい、羽女、賊の腕を布で縛り出血を止めよ、殺してはまずい」
男具那は刀を高々と上げた。
「賊共は待ち伏せを受け狼狽《ろうばい》しておる、この機を逃さず総攻撃じゃ、間道で蛆虫《うじむし》のように這《は》っておる賊を一人残らず殺せ、行け!」
男具那が刀を振り下ろすと、待っていたように宮戸彦《みやとひこ》が、丸太ん棒に近い木刀を振り廻《まわ》し、行くぞ! と叫んで跳び出した。
宮戸彦に続こうとする襲津彦《そつびこ》を男具那は呼び止めた。
「おぬしは吾とともに指揮を執《と》れ、今、蛆虫を斬っても刀が穢《けが》れるだけじゃ、内彦《うちひこ》や武彦《たけひこ》の軍がどうなっているかを、吾は知らねばならぬ、羽女もともに参れ」
賊の捕虜の腕を布で縛り、血を止めた羽女は、立つと剣を叩《たた》いた。
「王子様、私《わ》は戦いとうございます」
「今は駄目じゃ、そちは鼻垂を斬り、兄の仇《かたき》を討たねばならぬ、鼻垂を斬りとうないのか!」
「私は斬りたい、私に斬らせていただけるのですか」
「そうじゃ、そのため、賊の捕虜の生命を助けた、この戦は勝つ、だが鼻垂を逃しては、勝った意味が半減する、鼻垂を捕えたなら、そちが斬った方がよい、所詮《しよせん》、吾にとっては異国の賊、刀が勿体《もつたい》ないわ」
「王子様」
羽女は駈《か》け寄ると男具那の前に跪《ひざまず》いた。男具那の両脚を抱き抱え、男具那の革履《かわぐつ》に唇を押しつけた。この身体のどこに潜んでいるのだろうか。羽女の腕の力は強く両脚が獣獲《けものと》りの罠《わな》にかかったように締めつけられた。だが、羽女の腕の圧迫感は、男具那には心地よかった。
羽女の唇も革履を通して足先に暖かく感じられる。
羽女の熱が足先から太腿《ふともも》に伝わり、男具那の股間《こかん》を直撃した。下半身の血が、忘れていては困るぞ、といわんばかりに騒いだ。
「羽女、分った、もう止《よ》せ、そちは戦が終るまで、吾の警護隊に加える、返答をしろ」
男具那は両脚を突っ張って胸を張った。場所も忘れ羽女を抱き締めそうな衝動が、男具那の股間から胸を衝《つ》き上げて来る。
「返答はないのか!」
斬るぞ、と男具那は刀の柄《つか》に手をかけた。男具那にとって、この衝動は魔の鬼神である。刀に触れることで、抑える以外方法はなかった。
羽女がようやく顔を上げた。いや羽女ではない。血塗《ちまみ》れの幽鬼であった。眼も赤く光っている。唇にも血がつき、まるで人を喰《く》った後のようだった。
「そちは……」
刀を抜こうとした男具那の手首を、襲津彦が強い力で握った。
「王子、どうされた、眼の色が違うぞ」
襲津彦の声に男具那は吾に返った。
賊の返り血がこびりついてはいるが、
「私は王子様の警護兵です」
と叩頭《こうとう》した羽女は、いつもの羽女である。
「いや、何でもない、顔の血を拭《ふ》いておけ、さあ参るぞ」
三人は砦から南に出、米神《こめかみ》山の見える場所に走った。男具那は急斜面の上に生えている樫《かし》の木に登った。一丈半(約四・五メートル)ほど登ると、視界が拡がり米神山の麓《ふもと》の狭隘《きようあい》の地での戦の模様がはっきりと見えた。
男具那の命令通り、武彦と音尾《おとお》の率いる兵士たちは、大蔵《おおくら》山に連なる小山の南麓《なんろく》まで達している。三列縦隊のうち、中央の兵士たちだけだから三、四十名である。
内彦は二列の兵と三十名の兵を合わせた百五十名を率い、賊の守備軍を攻撃していた。間道に入らせまいと、賊は死を恐れず戦っている。数は三、四十名だが、横に拡がり、退く者は一人もいない。内彦は槍(矛)をふるい、同じく槍を持った賊の一人と戦っているようだ。甲冑《かつちゆう》を纏《まと》っているところをみると隊長らしい。
内彦に対して、一歩も譲らない大変な武術の持ち主である。
鼻垂の作戦を見抜けなかった男具那は、武彦と音尾の軍を南に進撃させ過ぎてしまった。それが悔まれる。
男具那は木から跳び降りると、襲津彦に戦闘の状況を説明した。
「こんなところで指揮など執っておれぬ、山を駆け下り、あの賊を斃《たお》す」
「王子様、鼻垂かもしれませぬ」
羽女も木に登った。猿のような身軽さである。
「王子様、鼻垂の弟、口垂《くちたり》です、力も強く、槍の腕は鼻垂を凌《しの》ぐと噂《うわさ》されています」
「そうか、行くぞ襲津彦」
男具那は急斜面を下りた。
童子時代から山を走り廻《まわ》り、山で武術を磨いただけに、男具那は山には慣れている。未知の山だが男具那は跳ぶ場合も躊躇《ちゆうちよ》しない。
襲津彦と羽女も懸命に下りたが、男具那より二、三十歩は遅れた。
矢を使い果したので、刀で突入する以外なかった。
男具那は間道に続く道に辿《たど》り着くと、襲津彦と羽女を待った。一人で突入するよりも三人が固まった方がよい、と判断したのだ。
待つ間も足踏みをし、腹で息をして完全には休まない。
襲津彦と羽女はほぼ同時にやって来た。
「王子、突入なさるおつもりか、王子は指揮を執らねばならぬ大事な身、内彦の相手は吾にまかせていただきたい」
「よく分っている、だが内彦はこれまで生命を賭《か》けて吾に仕えて来た、内彦に力を貸す者は吾以外にない、それにあの賊が斃れれば、賊共は総崩れじゃ、指揮者としても、吾は突入せねばならぬ」
喚声とともに、槍や刀の打ち合う音が山野に響く。刺されたり斬られたりして兵士たちが転がる。その音が土を響かすのだ。生きようとする執念が土を叩くせいかもしれない。
「行くぞ!」
男具那は走った。襲津彦と羽女が続く。
男具那を見た内彦が愕然《がくぜん》として跳び退《さ》がった。
「王子、やつかれ一人で充分です」
賊は得たりと追って突いたが、王子と叫んだ内彦の声に、はっとし、後方に気が散ったようだ。その分踏み込みが足らず、槍の穂先に力が入らない。内彦に槍を払われ、賊は横に跳んだ。真後ろに退がらなかったのは、男具那を警戒したのである。
男具那に襲いかかって来る賊は一人もいなかった。数の上で少ない賊は隊長の奮闘に力を得、押し寄せる内彦軍を支えるのに懸命だった。
男具那は羽女にいった。
「あの賊は口垂と申したな、そちが名乗りをあげるのじゃ」
羽女は、鳥のような速さで男具那の前に出た。剣を抜くと高らかに上げた。
「口垂、私《わ》は宇沙鳥雄《うさのとりお》の妹、宇沙羽女じゃ、兄の仇を討ちに参った、勝負せよ」
羽女の声は間違いなく女人のものだが、朗々としており戦《いくさ》の響きを突き破る。
口垂は獣のように吠《ほ》え、内彦に槍を振り廻《まわ》しながら羽女を一瞥《いちべつ》した。
内彦はその隙《すき》を見逃さなかった。内彦は穂先を横擲《よこなぐ》りに口垂の顔面に叩き込んだ。口垂は慌てて受けたが、羽女に視線を投げたために、反撃の余裕がない。
受けるのが精一杯だ。内彦は立ち直る間を与えず突きまくる。口垂は右に左に跳び、また後ろに退がって内彦の攻撃を躱《かわ》す。だが、後退につぐ後退であっという間に小川まで追い詰められた。
小川の幅は十歩はあった。
小川に跳び込むか、相討ちのつもりで攻撃をかけて来るかどちらかである。
口垂の奮闘に頼っていた賊の兵たちは、口垂と離され、崩れかけている。
「王子、指揮を……」
襲津彦は、追いたてられ退がって来た兵を背中から突き刺した。男具那は高台に駈《か》け上がった。
「おう、崩せ、一挙に崩せ、今だ」
絶叫しながら刀を振り廻す。
男具那の勇姿に内彦軍の勇気は倍増する。鈍っていた槍や刀の動きが速くなる。賊兵はみるみる倒れた。
「無念じゃ」
口垂は相討ちに出た。突いて来る内彦の槍先を、身体を捻《ひね》るようにして躱し、内彦の胸を突いて来た。
川に逃れるよりも、口垂が相討ち覚悟で反撃に出て来ることを内彦は予想していた。
賊ながらこれまでの奮闘ぶりは見事という他はない。内彦は余裕をもって後ろに跳んで避けると、口垂の顔面目がけて槍を投げた。
口垂の槍は伸び切っており払う余裕がない。身をかがめて避ける。
内彦は前に跳びざま刀を抜き、槍の柄を中段から斬《き》った。槍の穂は熟した柿が落ちるような音をたて草叢《くさむら》に消える。
「うぬ」
口垂は手許《てもと》に残された槍の柄を投げた。内彦は身体を動かさずに、飛んで来た槍の柄を刀で撥《は》ね飛ばした。口垂が刀を抜くのと内彦が踏み込んで刀を振り下ろしたのとほとんど同時だった。
刀と刀が激突して火花が散った。内彦の切っ先が冑《かぶと》を割り、口垂の顔を一寸ほど斬り裂いた。肉と骨が割れ、額の下に新しい口がざくろのように開いた。衝撃に口垂の意識が薄れ眼が空《うつろ》になる。棒立ちの口垂の首筋に内彦の刀が叩《たた》き込まれた。
口垂は蟆蟇《がまがえる》のように濁った声を放った。血が斜めに噴き出し、口垂は地響きとともに転がる。眼を剥《む》いた口垂の顔は、首筋の皮一枚でつながっていた。
内彦は草でも刈るように首の皮を斬ると、落ちていた槍で首を貫き、高々と掲げた。
「口垂は死んだぞ、賊共を蹴散《けち》らし、間道の賊を攻めよ」
そうでなくても崩れていた賊は、間道には向わず左右の森林に逃げ込もうとした。
「ここは放っておけ、賊の主力は間道じゃ、突入して一挙に粉砕せよ」
男具那が刀を振ると兵士たちは喚声をあげて間道に向った。首を貫いた槍を持ったまま、間道に向おうとする内彦を、男具那は呼び止めた。
「内彦、間道は大丈夫だ、大勝利は間違いない、ただ問題は、鼻垂が間道にいるかどうかじゃ、武彦の軍を彼|方《かなた》で遊ばせておいても意味がない、武彦も、待ち伏せの兵がいないのを知り、進むべきか、戻るべきか、迷っているであろう、吾は武彦の軍を呼び寄せ、敗走して来る敵を殲滅《せんめつ》すべきだ、と思う、襲津彦、どうじゃ」
「あの間道の左右の山林は逃げ込み難《にく》い、ただ鼻垂も間道についてはよく知っていると視《み》ておいた方がよい、真っ先に逃亡を企てそうな気がする」
と襲津彦は口垂の首を眺めた。口垂という名がついただけに、大きな口だった。しかも血塗《ちまみ》れなので、余計に凄《すさ》まじい。口からはまだ血が、一滴、二滴としたたり落ちている。眼を剥いたままなので、今、人を喰《く》い終ったという形相だった。
「吾もそう思う、鼻垂は口垂よりもずるそうだ、内彦、武彦軍をここに呼び戻せ、口垂の首はもう要らぬ、必要なのは鼻垂の方じゃ」
「捨てるのは残念です、だが、口垂の首は以外に重うございます、これを持っては走り難い、惜しいが捨てます」
内彦が槍を振り廻し、気合いをかけて引き抜くと、首は空中に舞い、まるで生命を得たように唸《うな》りながら飛び、音をたてて雑木林に落ちた。
「王子様、音尾が参ります」
羽女が南の方を指差した。口垂の首に気を取られていた男具那は、視線を羽女の指先に移した。確かに人間が走って来る。だが男具那には音尾かどうか分らなかった。
「羽女、本当に音尾か?」
「はい、眼だけではなく、感じるのです」
「よし、内彦、そちも走り、兵をここまで戻すように音尾に伝えよ、ここでぼんやり待っていては時間が勿体《もつたい》ない」
「分りました、おい、羽女殿、戻るまで吾の槍を……」
羽女に槍を渡した内彦は走り出した。足の速さにかけては、武彦や宮戸彦も内彦には及ばない。脱兎《だつと》のごとく、というより獲物に襲いかかる狼のような速さだった。
間道に突進する男具那軍の喚声が聞えて来た。かなり時がたったような気がするが、半刻《はんとき》(一時間)ぐらいであろうか。
武彦が兵を連れて戻って来た時、間道に連なる山麓《さんろく》から賊が現われた。
「見よ、山に逃げ込んだ賊の蛆虫《うじむし》共が現われたぞ、武彦、腕が鳴っていたであろう、思い切り斬れ!」
男具那の命令に武彦は槍を持ったまま跳び上がった。切歯扼腕《せつしやくわん》しながら戦況を眺めていたので、武彦は戦いたくて身体中が唸っていた。
「一人も逃すな」
武彦が走ると兵たちが喚声をあげて続いた。
「王子、間道は大勝利、妙見《みようけん》山、和尚《かしよう》山方面の戦が気になる」
襲津彦が西方を睨《にら》んだ。
あまりここで時を費やさず、西の戦場に兵を廻そう、と襲津彦は考えていた。
「分っている、だがここには鼻垂がいる、もし鼻垂を逃せば、禍根を残すことになる、そうじゃ、襲津彦、賊の捕虜を連れて参れ、もし、見つからなければ、鼻垂の隠れ家に案内させよう」
襲津彦が走り出すのを見て男具那は内彦に、逃げ出して来る賊も二、三人捕えて来い、と命じた。
間道方面の喚声が低くなっていた。賊の大半は殺され、残った者は、最後の抵抗を試み、また逃げ出している。
手首を斬り落された賊の捕虜は気息奄々《きそくえんえん》、歩く力もなく、襲津彦と彼の部下に引きずられて来た。
男具那は羽女に命じ、水を飲ませた。
「本当に隠れ家を知っておるのだな?」
男具那の問に捕虜は渇いた眼で頷《うなず》く。
「襲津彦、横たえておけ、吾《われ》の勘だが鼻垂は山に逃げ込み、山中に潜んでいるに違いない、夜になってから山を出るつもりだ、あまりぐずぐずしておれぬな」
「吾もそう思う」
「明日までは、この賊を生かしておかねばならぬ、羽女、鼻垂の隠れ家を知るためだ、干米《ほしまい》を噛《か》み砕き、水とともに流し込んでやれ」
「はい」
返事をしたが、羽女はぐったりしている捕虜を睨んだ。羽女の眼光にはいささかの憐《あわ》れみもなかった。
繁みの間から這《は》うようにして姿を現わした賊は、あっという間に武彦の兵たちに斬られる。何とか走り出した者も、弓で射られ、斬り殺された。
まさに鼻垂の主力軍は全滅である。
内彦は武彦の傍に行き、男具那の命令を伝えた。
そういう点内彦は筋を通す。自分勝手に賊を捕えたりはしない。
「おう内彦、逃げ出して来た賊共に戦意はない、鹿狩りよりも易しいぞ、見よ、あそこに現われた」
武彦は駈《か》けようとした兵を止めた。内彦は百数十歩の距離を一気に走った。賊は肩に傷を負い、太腿《ふともも》も血塗れである。
刀は折れており、内彦を見て蹲《うずくま》った。蹲り叩頭《こうとう》したのは生|命乞《いのちご》いであろう。内彦は縄で縛った。
武彦が内彦を呼んだ。武彦は俯《うつぶ》せになった賊の背に足を乗せ、刀を首筋に当てていた。内彦が捕虜を連れて行くと武彦は慨嘆した。
「内彦、これが恐れられている鼻垂の部下かと思うと力が抜けるわい」
「所詮《しよせん》賊の奴《やつこ》、それも敗者、勝てば勇気が倍加するが、負けると女人よりも臆病者《おくびようもの》になる、それが賊じゃ、我々とは違うのう」
「その通りじゃ、吾《われ》は王子のためなら生命など要らぬ、最後まで戦い抜く、こら立て!」
武彦は賊の脇腹《わきばら》を蹴《け》った。賊は顔に似合わない黄色い声をあげたが立たない。
「武彦、おぬしが刀を首に当てているので立てないのだ」
「そうだったか、立て」
武彦は刀を引くと今一度蹴った。賊は呻《うめ》きながら転がり、腹を押えながら立った。鬚《ひげ》が濃く、巨漢だが戦意はまったくない。驚いたことに股間《こかん》に折れた矢が刺さっている。
「誰だ、こんなところに矢を射た男子《おのこ》は、これじゃ一生使いものにならないぞ」
「王子かもしれぬ、砦《とりで》から射たからのう、それにしても、よく山に逃げ込んだ、おう、刀身はないが刀の鞘《さや》は漆塗《うるしぬ》りで立派じゃ、隊長級かも分らぬぞ」
「そうか、おい、王子に射られたのなら、使いものにならなくても喜べ、名誉じゃ」
武彦の言葉に、内彦も哄笑《こうしよう》した。
内彦は二人の捕虜を男具那の許《もと》に連れて行った。巨漢を隊長と睨んだ男具那は、先の捕虜に会わせた。二人は視線を逸《そ》らした。
お互い、捕虜になった姿を見られたくないに違いなかった。
男具那は刀を抜くと、切っ先を先の捕虜の傷口に向けた。それだけで先の捕虜は、こんな声が残っていたのか、と不思議に思うほどの悲鳴をあげた。腕の傷口を突かれる、と怯《おび》えたに違いない。
男具那は羽女に、巨漢の身分や名、鼻垂の行方を訊《き》き出すように命じた。
「王子様、この奴を責めてもよろしゅうございますか?」
「もちろんじゃ、遠慮は要らぬ」
羽女は刀子《とうす》を抜くと巨漢の喉《のど》に当て、身分と名を訊いた。
相手が女人なので舐《な》めたのか、巨漢は睨み返した。
羽女は巨漢の顔に唾《つば》を吐きかけると、股間に刺さっている折れた矢を掴《つか》み、内部の肉を抉《えぐ》るように廻《まわ》した。男具那が驚いたほどの素早さだった。巨漢は山野に響き渡るような絶叫を発し、縛られた腕を突き出すようにして羽女に体当りしようとした。
羽女は巨漢の抵抗を予想していたらしく、身体を開き、足を巨漢の脚にかけた。
巨漢は草に向って吠《ほ》えながら俯《うつぶ》せに倒れる。下腹部の矢先が更に内部の臓物を抉ったらしく、身体を蝦《えび》のように曲げて泣いた。泣いたとしかいいようのない悲鳴である。
羽女は巨漢の首を踏んだ。どういう踏み方なのか、巨漢は身体を慄《ふる》わすのみで動けない。
「名前を申すのだ、今一度矢で抉られたいか」
「名は山堀《やまほり》、隊長じゃ」
巨漢は喘《あえ》ぎながら答えた。
「鼻垂はどこに逃げた?」
「知らぬ、本当じゃ」
羽女は巨漢の盛り上がった尻《しり》を蹴った。鞭《むち》で叩《たた》いたような音がし、股間の矢が再び折れた。
「殺せ、殺してくれ」
巨漢は掠《かす》れた声で懇願した。
「まだ殺さぬ、どこへ逃げた、隠れ家か?」
羽女の声は鋭いが冷静そのものである。
「吾は……」
羽女の視線が、手首のない捕虜に向いた。
「山堀も隠れ家を知っているのか?」
「知っているはずです、山堀は鼻垂の腹心の部下じゃ」
「羽女、もうよい、助からぬと思うが、矢なので出血は少ない、二人は農家に縛ったまま寝かせておこう、襲津彦、そちの部下を二人、賊の奴の見張りにつけてくれ、おう宮戸彦が現われたぞ」
宮戸彦は大勢の兵の先頭に立ち、逃げる賊を丸太ん棒でなぎ倒していた。武彦の兵が、逃げて来る兵を迎え討つ。
間道での戦いは、まさに一方的な勝利だった。味方の死者は十人足らずで、負傷者も十数人である。
敵の死者、負傷者は百名以上で、捕虜も数十名に達した。
男具那は農家から大きな器を集めさせ、干米と芋の粥《かゆ》を炊いて兵士たちに食べさせた。
男具那の周囲には、大|和《やまと》からともに来た部下と、音尾、羽女、それに国前王の軍団の隊長などがいた。粥といっても干米はまだ固い。だが勝利の後の芋粥は美味である。昂《たか》ぶりが芋粥に微妙な味をつくっている。
戦が始まってまだ一刻《いつとき》(二時間)もたっていない。
「問題はこれからじゃ、おそらく和尚山、妙見山方面では一進一退の激戦が続いているだろう、もし耳垂《みみたり》の軍勢が多ければ苦戦しているかもしれぬ、あまり長く兵士たちを休ませると気が抜ける、音尾、ここから和尚山まで二里足らずだな、小走りに駈《か》けると、どのぐらいで行ける?」
「はっ、一刻半もあれば」
「一刻半か、よし直ちに進撃じゃ、襲津彦、おぬしが総指揮を執れ、武彦は副将軍として吉備《きび》の全軍を率いて行くのじゃ、ただ、音尾はこの辺りの地理に詳しい、充分、音尾の意見を聴くように、出発じゃ、吾は羽女とともに鼻垂を探す」
「王子、吾は……」
宮戸彦と内彦が同時にいった。
「二人とも、吾とともに残れ、何としても鼻垂の首を取る、遠くの賊たちを降服させるためにも、鼻垂の首は必要だ」
「もう一暴れしたかったのですが」
宮戸彦が残念そうに血塗《ちまみ》れの木刀で地を叩いた。木刀の先端が地にめり込む。宮戸彦の木刀にはおびただしい肉片がこびりついていた。
「宮戸彦、木刀を洗え、暴れるだけが戦《いくさ》ではないぞ、襲津彦、行け!」
男具那は刀を抜いて振った。
休んでいた兵士たちの全員が立ち上がる。
「王子、十人程の兵士を警護に残したい」
といって襲津彦も刀を抜いた。
「要らぬ、宮戸彦、内彦、羽女だけで充分じゃ、それに宮戸彦や内彦にも仕える奴がいる、奴といっても、武術に優れている、行け!」
男具那は今一度刀を振った。刀が煌《きら》めき、空気が鳴る。
襲津彦は頷《うなず》くと刀を掲げた。
「進め!」
腹から絞り出した襲津彦の声は山野に響き渡った。音尾が走り襲津彦が追った。
武彦も男具那に一礼し、
「王子を頼むぞ」
内彦と宮戸彦に叫んだ。
「心配するな、思う存分戦え、我らの分もだ」
二人が答えると、武彦は白い歯を見せ、刀を抜き、兵士たちを励ました。兵士たちの姿は、あっという間に丘陵の彼方に消えた。小鳥が囀《さえず》り虫の声も聞え始めた。ここから眺めると安心院《あじむ》盆地の風景は優雅そのものだった。だが優雅な場所も戦場になると凶悪になり牙《きば》を秘める。敵と地形が一体となるからである。敵地そのものなのだ。
人間の心の眼は、その環境によってこんなにも違うものか、と男具那は爽《さわ》やかな空気を吸いながら感慨を覚えた。山から昇った陽の光に空気も輝いているようである。
無惨な姿の捕虜に会うのが一瞬うとましくなった。
男具那はそんな自分に気づき愕然《がくぜん》とした。戦はまだ終っていない。自然の美を愉《たの》しむにはまだ時が早過ぎる。
男具那は疾走した。草叢《くさむら》を跳び越え、楓《かえで》らしい木の幹を大喝して切った。幹の太さは掌《てのひら》を拡げたぐらいもある。腕と肩が痺《しび》れたが刀は樹皮を残して切断した。木が揺れ、無数の葉がざわめき、風を起こしながら楓は倒れた。
「王子、賊ですか」
男具那を追った内彦は血相を変え、倒れた楓の周辺を睨《にら》んだ。
男具那は刀を鞘《さや》におさめた。
「何でもない、刀を試しただけじゃ」
宮戸彦が木刀を振り廻《まわ》しながら怒鳴った。
「吾は城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》、賊の蛆虫《うじむし》共は吾が相手じゃ、姿を現わせ」
「宮戸彦、王子は刀を試されただけじゃ、冷静になれ」
と内彦がいった。
「ああ、まことじゃ、少し驚かせたかのう」
羽女がゆっくり近づいた。涼し気な眼で男具那を眺めた。満足されましたか、と羽女はいっているようである。
「羽女殿、なぜ走って来ぬ、おぬしは女人だが警護隊に抜擢《ばつてき》された、そんなにのろのろしているようでは、警護の役は務まらぬぞ」
照れ隠しに宮戸彦は怒鳴った。
羽女は男具那に視線を向けると宮戸彦にいった。
「申し訳ありません。王子様が走られた時、私《わ》は、たぶん王子様は木を切られるだろう、と思いました。雑木林には賊の気配も、獣の気配もありませんでしたから……」
羽女が男具那に叩頭《こうとう》したのは、余計なことをいって申し訳ありません、と許しを乞《こ》うたのだ。実際、羽女の涼し気な眼には一抹の悔いの色が宿っていた。
「うぬ、申したな、どうして分る?」
羽女がまた理由を述べても構わないか、と男具那を見た。
男具那は羽女がどう説明するか興味を持った。
男具那が頷くと、羽女は腰をかがめて、荒々しい息を吐いている宮戸彦にいった。
「私は巫女《みこ》でした、神夏磯媛《かむなつそひめ》様の傍に仕え、いつも心を無にして、山や野、また川の鬼神と話を交わしていたのです、川水が溢《あふ》れている時は、お気持をお鎮め下さい、と念じ、野の草花には、あなたたちと同じような安らぎを与えて下さい、と願うのです、山には、今年も木の実を沢山お与え下さい、と祈ります、いつしか何となく、山野の気配が分るようになりました、もちろん、近くの山野ですけど……」
宮戸彦は返答に詰まり、ただ唸《うな》るのみだ。男具那は微笑した。
「よく分るぞ、吾《われ》の叔母《おば》、倭姫《やまとひめ》王も巫女王じゃ、巫女王は、吾が訪れると、いつも吾の来訪を知っておられた、これは、神に仕える巫女独得の予知能力といえよう、宮戸彦、神の領域に対して、これ以上疑うな」
「分りました、羽女殿、つい気負いたってしまった、許されたい」
「お許しをいただいて嬉《うれ》しゅうございます、でも戦の最中は気が乱れ、無心にはなれません、だから賊が潜んでいても見逃します、戦の最中の気は、宮戸彦様の足許《あしもと》にも及びません」
羽女は微笑を湛《たた》え、腰をかがめる。賢明な女人だ、と男具那は感心した。
案の定宮戸彦は、今までの怒りも忘れ、
「いや、それほどでもない、まあ、戦の場は男子《おのこ》のものだからのう」
と悦に入り、左手で鬚《ひげ》をしごいた。内彦は単純な男子だ、とおかしさをこらえ、鬚を撫《な》でた。
「皆、仲間同士、意見のいい合いは構わぬが、喧嘩《けんか》はならぬぞ、宮戸彦、羽女の手を握ってやれ」
「王子、やつかれが羽女殿の手を……」
宮戸彦は自分の手を眺め、次に羽女の手を一瞥《いちべつ》し、汚れている掌《てのひら》を布で拭《ふ》いた。
「よろしくお願いします」
と羽女は、この掌にどんな力があるのだろうか、と思わせる華奢《きやしや》な手を出す。宮戸彦は仕方なさそうに羽女の手を握り、
「羽女殿、吾こそよろしく、これから、不便なことがあれば、何なりと相談されよ」
いつもの彼らしくない声でいい、何かに驚いたように手を離した。
「それでよい」
男具那は、からかうべく口を開けそうになった内彦を、やめろ、と眼で制した。
宮戸彦は体力があまり、大変な女人好きだが、芯《しん》は純な男子であった。
一行は捕虜たちを置いていた農家へ着いた。
守っていた兵士の一人が、矢で股間《こかん》を射られた巨漢が死んだ旨を告げた。
「えっ、あのでかいのが……死ぬのなら最初の奴《やつこ》かと思ったが」
内彦は眼を剥《む》いた。
男具那も同じ思いだった。
土間の筵《むしろ》に横たわった巨漢は、白眼を剥いて死んでいた。拳《こぶし》は握り締めている。何かに襲われたような表情である。
股間は朱に染まっているが、突き刺さった矢が見えない。
男具那は、見張りの兵士を呼び、矢に触れたか? と訊《き》いた。二人とも、身体を慄《ふる》わせ首を横に振る。嘘をついているようには見えなかった。
一人の兵士が蹲《うずくま》っていった。
「王子様、矢には触れませんでしたが、奴は刺さっていた矢が、腹の中に引っ張られてゆくのを見ました」
「何だと、腹の中に?」
宮戸彦が疑わしそうに兵士を見た。
「はい、この巨漢が唸る度に、矢がぴくぴくと動き、短くなるのです、奴にも信じられませんが、腹の中の臓物に手が生え、引っ張ったに違いありません」
「分った、矢尻《やじり》は人間の身体に入ると、動き廻ることがある、という、たぶんそれであろう、この巨漢の奴は、体内で暴れた折れた矢によって臓物が引き裂かれ死んだに違いない、今一人は?」
「熱を出していますが、生きています」
実際、手首を斬《き》られた賊は顔を真赫《まつか》にし、唸っているが、まだ死にそうになかった。
「どうじゃ、生きたいか、それとも苦しみを消すために死にたいか?」
と男具那は見下ろしていった。
「い、生きたい」
殺されると思ったのか、奴は身体を起こそうとした。
「よし、生かしてやる、鼻垂の隠れ家を教えたらな」
「嘘はつきません、案内します」
男具那は奴に命じ、巨漢の遺体を小川に捨てさせた。手首を斬られた賊は、自分で歩く力がないので、宮戸彦や内彦の部下が運ぶ。板の上で、賊は行く方向を教えた。宮戸彦が男具那の傍に来た。
「王子、内彦とも話していたのですが、王子が主戦場を放っておかれると、全軍の士気に影響しないとも限りませぬ、この賊の奴は、一日や二日は死にそうにありません、今から主戦場に行かれるべきです」
「分っている、吾は考えた挙句、襲津彦に指揮を執らせた、襲津彦はこの戦を終えると、日向《ひむか》から熊襲《くまそ》を攻めねばならぬ、そのための訓練じゃ、そちと内彦は和尚山、妙見山を主戦場と視《み》ているが、主戦場は我らが勝った間道じゃ、なぜなら鼻垂の精鋭軍はほとんどが間道に向った、和尚山の方は、耳垂の軍がいるので、兵力は多いが、寄せ集めの軍、おそらく襲津彦の軍が背後から攻めれば総崩れになる、耳垂も、自分の兵力を温存しようとするから、退却を命じる、吾の判断はまず間違いない、吾は、鼻垂の首級を取るのは、和尚山方面で指揮を執ることよりも重大と考えている」
「王子、よく分りました、浅はかな意見を申し上げたことをお詫《わ》びします」
「いや、別に浅はかとは思っていない、思ったことは遠慮なく申せ」
大きな身体を縮めている宮戸彦に、男具那は爽《さわ》やかな笑みを投げた。
安心院盆地の中心部よりやや西南に海抜約百丈(三百メートル)ほどの龍王《りゆうおう》山がある。龍王山の南方には三百丈から四百丈級の巍々《ぎぎ》とした山々が連なり、東から由布院《ゆふいん》盆地、球珠《くす》盆地、日田《ひた》盆地に達する。そういう意味で龍王山の背後の山々の狭隘《きようあい》の地には、まだまだ鼻垂に協力しかねない山人族が大勢いた。
男具那は、音尾や羽女の話から、生き延びた鼻垂が、彼らを集め、勢力を盛り返すのを恐れたのだった。
そういう点男具那は、将軍というより王者の器の持ち主といえるかもしれない。
龍王山を眼の前に見る丘に登った男具那は、板の上の賊を立たせた。奴《やつこ》たちが賊を担ぐようにして龍王山に向けた。男具那が訊《き》いた。
「あの山なのか、鼻垂の隠れ家は?」
「あれは龍王山、鼻垂の砦《とりで》があります」
「そうだろうな、戦に敗れ、逃げた兵は、あの山の砦に集まる、敗残兵を集めて、最後の戦いを挑むには恰好《かつこう》の山じゃ、だが、鼻垂の隠れ家はあそこではない、龍王山の背後の山の中であろう、どうだ?」
「王子様、その通りです、王子様はまるで神のような眼を持っておられます。いくら我らの長《おさ》、鼻垂が勇猛でも、王子様には勝てません」
「よし、ここで待つ、吾《われ》の考えでは、鼻垂は陽が落ちるのを待ち、龍王山に入り、敗残兵を纏《まと》める、その後、隠れ家に身を潜め、指揮を執るに違いない、慌てずゆっくりしよう」
男具那は水を飲み、賊の捕虜にも飲ませた。明日一杯、生命を保ってくれればいうことはないが、発熱と出血による衰弱で、明日まで持つかどうかも疑問だった。
男具那は内彦、宮戸彦、羽女の三人を呼んだ。雑草や灌木《かんぼく》を伐《き》り、しとねを作った。
「吾は横になり、一刻ばかり眠る、そちたちも交替で休め、ただし、二人は必ず周囲を見張るのじゃ、おそらく和尚山の戦で敗れた鼻垂軍の敗残兵は、龍王山に隠れるべくやって来る、武彦と音尾の軍勢は追ってこっちに来る、耳垂の敗残兵は川上に逃げる、土鳴《つちなり》と国前王は耳垂軍を追い、夕刻までには引き返し、一部はこちらに来る、それを待ち、鼻垂の隠れ家と、龍王山の敗残兵を殲滅《せんめつ》する、もう戦は掃討《そうとう》の段階に入っておる、気を楽にせよ、だが油断なく見張れ」
男具那は草のしとねに横たわった。男具那はすぐ鼾《いびき》をかいた、狸寝入りだが、部下たちを落ち着かせるためである。吾の判断に誤りはないであろうか、と鼾をかきながら男具那は自問自答した。
少しははずれているかもしれないが、大筋においては間違いない。そう確信した時、男具那は本当に眠っていた。
顔を見合わせていた宮戸彦と内彦の顔に、感嘆の色が浮いた。
二人は今更のように自分の若き主君の洞察力の鋭さと、胆《きも》の太さに舌を巻いたのであった。
「宮戸彦、吾は木に登るぞ、おぬしはここで王子と周囲を見張ってくれ」
内彦は宮戸彦の返事を聞かずに、丘の頂上に駈《か》けて行った。
「宮戸彦様、私《わ》はこの周辺を探って参ります」
と羽女が宮戸彦にいった。
「一人でか?」
「私は地形に詳しゅうございます、御安心下さい」
羽女は毅然《きぜん》とした声でいい、刀の柄《つか》を叩《たた》いた。
奴を連れて行け、と宮戸彦が声をかける間もなく、羽女の姿は灌木の先の窪地《くぼち》に消えた。
空には悠々と鳶《とび》が舞っている。
平和だな、と宮戸彦が呟《つぶや》いた時、血の匂いがした。だがそれは宮戸彦の木刀に沁《し》みついた血である。小川で洗っても取れそうにない。宮戸彦は眠っている男具那の傍に坐《すわ》ると、刀子《とうす》で木刀の血を削り始めた。
[#改ページ]
十二
男具那《おぐな》は兵たちを龍王《りゆうおう》山の麓《ふもと》に潜ませた。
間道での戦いに敗れた賊が、一人、二人と戻って来るのを次々と捕えた。敗残の賊にはすでに戦う力がない。
猪喰《いぐい》が和尚《かしよう》山方面の戦況を報告すべく現われたのは、申《さる》の正刻(午後四時)頃だった。
男具那が予想していた通り、耳垂《みみたり》の賊は意外に多く、三百名以上を超え、戦は一進一退だったが、武彦《たけひこ》の軍勢が背後から攻撃をかけると、賊は混乱し、総崩れとなった。
宇沙《うさ》の軍団長|土鳴《つちなり》と国前《くにさき》王の軍が、邪馬渓《やばけい》方面に逃走する賊を追い、武彦の軍は、要所要所で小規模の抵抗を試みている鼻垂《はなたり》の賊を掃討していた。
「掃討が終れば、武彦殿は賊の捕虜を連れ、王子様のもとに戻られるでしょう、武彦殿は、夕闇《ゆうやみ》までには戻るつもりだが、遅れた場合は、十以上の松明《たいまつ》をともし、分り易いようにして来られるとのことです」
男具那は、和尚山、妙見《みようけん》山方面も大勝利に終ったことを告げた。大勝利の報は兵士たちにも伝わり、潜んでいるのを忘れ、喚声をあげる者もいる。
男具那は、龍王山の砦《とりで》に、賊兵が集まり、最後の一戦を挑んで来るだけの気力はない、と判断した。
隊長たちを集めた男具那は、敗残兵に注意しながら、小川で身体を洗うよう、命じた。
兵たちは草叢《くさむら》や灌木《かんぼく》の間から跳び出し、踊ったり、刀を振りながら舞ったりした。
男具那は戦勝の報に浮かれておれなかった。夜までに鼻垂を捕えなければならないのだ。
「猪喰、土鳴のことについては、後でゆっくり聴く、今は鼻垂を捕えるのが先決だ」
男具那は、猪喰を連絡係の奴《やつこ》に戻した。猪喰は、男具那の命を受け、山音尾《やまのおとお》や子の太尾《ふとお》を連れて来た。もちろん、襲津彦《そつびこ》、宮戸彦《みやとひこ》、内彦《うちひこ》も男具那を取り巻いた。
「吾《われ》は音尾、太尾、羽女《はねめ》とともに鼻垂の隠れ家を探し、捕える、鼻垂の首級をあげなければ、この戦は大勝したとはいえぬ、襲津彦、それに宮戸彦も、兵たちとともにここに残り、武彦とその軍を迎えるように、頼むぞ」
男具那と行動をともにしたい宮戸彦は、丸太ん棒といってよい木刀で地を叩《たた》いた。
「宮戸彦、鼻垂は息を潜めて隠れておるのだ、そちは戦では勇者だが、隠密《おんみつ》の行動には少し不向きじゃ、今の一撃で、百歩四方の賊は慄《ふる》え上がったが、その反面、そちの場所を賊に知らせたことになる、鼻垂探しは、音を殺して行かねばならぬ、まあ我慢しろ」
男具那が宮戸彦を慰めた時、内彦が、
「宮戸彦、矢じゃ、かがめ!」
大喝すると宮戸彦の背に飛んで来た矢を二つに斬《き》った。
内彦は、数十歩も離れている雑木林に向って走った。まるで跳ぶような走り方だ。
「待て、吾が斬る」
宮戸彦の顔は、賊への憤りで真赫《まつか》だ。男具那は宮戸彦を、内彦にまかせよ、と止めた。
「そちが地響きを立てなければ、射られることはなかったのじゃ、そちの武勇は抜群じゃ、だが隠密の行動には内彦の方がよい、分ったか」
「王子、よく分りました」
宮戸彦は、木刀で、地を叩こうとし、慌てて宙に振った。
大勢の部下には、技倆《ぎりよう》に特色があり、性格が異なる。部下の心をいつも掴《つか》むには、男具那なりに気を遣う。のんびりとしていては名将にはなれない。
そういう意味で勇気と繊細さを兼ね備えた男具那は、まさに名将だった。男具那が、部下から慕われる所以《ゆえん》でもある。
内彦は走りながら弓に矢をつがえた。こういう器用な真似は、男具那にもできない。
隠れていた賊は姿を現わした。駈《か》け寄って来る内彦めがけて再び矢を放った。
内彦は身を沈めた。賊の矢は内彦の頭上に飛んで行く。内彦が立った時、矢は頭上を通り過ぎたばかりだった。
男具那も、ひやっとした程だ。
それも内彦の作戦だった。賊は次の矢をつがえる暇がない。内彦は身を沈めている間に引き絞った弓弦《ゆづる》を離した。
矢は唸《うな》りを立てて飛び、身を沈めようとした賊の額に深々と刺さった。脳を砕かれた賊は、痛みを感じる暇もない。声も立てずに額に角を生やしたまま崩れた。
「おう、やったわい」
真っ先に拍手したのは宮戸彦だ。宮戸彦は、感心すれば後に根を持つような男子《おのこ》ではなかった。
内彦の腕に心から感心している。
「吾《われ》は好《よ》い部下を持っている」
と男具那は白い歯をほころばせた。
「内彦、行くぞ、すぐ戻れ、襲津彦王子、後は頼むぞ、宮戸彦、降服して来た賊は、殺さずに捕えておくのだぞ」
「王子、手足でもへし折って転がしておきましょうか、いや、冗談です、縄をかけ、生かしておきます」
と宮戸彦は、首を竦《すく》めるのだった。
男具那は数人の兵士に板を担がせた。板には手首のない賊の捕虜が横たわっている。ぐったりして、時々唸るがまだかなり持ちそうだった。腕を思い切り布で縛り、出血を止めたのと、酒で傷口を消毒したのが、有効だったのだろう。
音尾は、賊が言葉になっていないような声を発するだけで、行手を間違いなく把握した。賊が嘘をついていないのは明らかだった。生命《いのち》に対する執着心のせいである。
嘘をつけば殺されることを賊は知っていた。
間もなく尾根と尾根との間の畑地に入った。稲は無理らしく、粟《あわ》や稗《ひえ》を植えている。
畑地と山とに沿った小道を三百歩ほど上った。
竹林の傍まで来た時、賊の捕虜が音尾に何かいった。音尾は耳を捕虜の口に寄せた。
「王子様、この竹林には到るところに縄が張られ、触れると音が鳴ったり、また縄に脚を取られ、吊《つ》り上げられるような仕掛けがあるようです」
「竹林の中は暗いのう、仕掛けを見つけるのは難しい、竹林の外からは行けぬのか?」
実際、竹林は密生しており、奥の方は闇《やみ》であった。
捕虜は、鼻垂の隠れ家は、三方がこの竹林に囲まれており、竹林を通らなければいけない、と告げた。
ただ一つ、大廻《おおまわ》りして隠れ家の上に出る方法があるが、隠れ家の後ろは岩壁で、下りるのは無理だ、という。
「要塞《ようさい》だのう、なかなかの賊だ、だからこそ逃してはならぬのだ」
男具那が腕組みをすると、羽女が前に出た。
「王子様、縄の仕掛けは、私《わ》が見破ります、どうか、私を先に行かせて下さい」
羽女は射るような眼で男具那を見た。羽女の気持は分るが、その自信には信じられないところがある。兄の仇《かたき》を討ちたいという、気だけがはやっているようにも感じられた。
「竹林の中は暗い、どうして見破る?」
「私は竹と一体となり、竹の気持を察します、たぶん、曲げられている竹もあるでしょう、そういう竹は、声にならぬ声で痛みを訴えているはずです、私にはそれを感じる力があります」
「うーむ」
と男具那が唸ると、音尾が蹲《うずくま》り手を合わせた。羽女のいうことを信じて欲しい、と音尾は叩頭《こうとう》した。
男具那もよく山に登り、山の気配を感じ取った。見えない獣の存在も気で見抜いたこともある。だがこれまで植物の気を嗅《か》ぎ取ったことはなかった。
男具那が躊躇《ちゆうちよ》したのは、羽女がいったような能力が信じられなかったからである。
だが、これまでの羽女は、口にしたことは実行して来た。嘘をついたり、自分の力を誇大に告げたりはしない。
男具那は羽女を信じることにした。
「分った、そちにまかせよう、ただ無理をするな」
「はい、心得ています」
と羽女は嬉《うれ》しそうに答えた。
男具那は猪喰に命じ、捕虜を小川の傍に横たえた。もう連れて行く必要はなかった。捕虜の生死は運命が決める。
男具那たち一行は羽女を先頭に鬱蒼《うつそう》と生い茂る竹林に入った。猪喰が、殿《しんがり》となり後方を守らせて欲しい、と頼んだので男具那は許した。
羽女は数歩先を進んだ。二、三歩毎に剣で落葉を引っ掻《か》き、印をつける。男具那たちは印をつけられた場所を歩いた。
木洩《こも》れ陽《び》は、まるで針のように細いが、無数に煌《きら》めいている。樹林の木洩れ陽とは明らかに異なっていた。
男具那は羽女が蹲ったのを見て、内彦たちに止まるように命じた。羽女は身体を蝦《えび》のように曲げ、落葉に額をつけていた。
音羽《おとわ》山に登った時のことを思い出し、男具那も落葉に耳をつけた。湿った感触とともに、腐蝕《ふしよく》した落葉の匂《にお》いがする。周囲は静寂そのものだ。
男具那の耳は、背後に続く内彦や音尾たちの息を捉《とら》えた。だが竹の気など分りそうにない。
羽女が顔を上げたのが感じられた。
羽女の剣が無数の木洩れ陽に妖《あや》しく光った。何かが落ちるような音がした。
「どうした、何か仕掛けでもあったのか?」
と近寄った男具那は訊《き》いた。
「はい、細い紐《ひも》が仕掛けられていました、もし脚を引っかけたなら、板が鳴るようになっていたのだと思います、紐は切りましたので、仕掛けた板は落ちたようです」
羽女は淡々とした口調で語った。
「いや驚いた、そちの予知能力は吾以上じゃ、この調子では何が仕掛けられているか分らぬ、頼むぞ」
「私《わ》は、兄の仇を討つためにも全力を尽します」
羽女はまた進む。奥に行くほど竹が密生しており暗くなる。男具那たちは羽女との間隔を詰めた。羽女が立ち止まった。
蹲ったが額を落葉につけずに手を合わせた。だがはっきり分らないらしく、落葉に顔を伏せた。男具那は自分の予知能力を試そうと耳を落葉に当てたが、何も聞えないし、感じるものがない。
羽女が顔を上げた。
「何か分ったか?」
「御注意下さい、この先に穴があります、穴に薄い板を乗せ、落葉で覆っているので見えません、穴を避けて進みます」
「待て、どこに穴がある? 吾には分らぬ、教えてくれ、それに罠《わな》を放っておいたなら、危いではないか」
「先を急ぎ過ぎました、板を取っておきましょう」
羽女は、剣で落葉を突きながら三歩ほど進んだ。剣先が何かに当る音がした。羽女は剣で落葉を払った。驚いたことに落葉の下から板が現われた。羽女が板を引っ張ろうとしたので、男具那は音尾を呼んだ。
「羽女、力仕事じゃ、音尾にまかせよ」
「分りました、音尾殿、ここが板の端です」
音尾は頷《うなず》くと、落葉に膝《ひざ》をつき、板を持ち上げた。何と板は幅が一尺(三十センチ)、長さは二丈(六メートル)以上はあった。
横に長い穴が現われた。中は暗いが、覗《のぞ》いてみると深さは五尺以上はあるようだった。
「横穴の先には、鋭くとがった竹が埋められています、穴の底も同じでしょう、落ちても越えても、竹が貫くような仕掛けでございます」
男具那は低く唸った。羽女が、穴がある、といった時、男具那は疑心暗鬼だった。
勘のよい男具那が何も感じなかったのだ。羽女の錯覚ではないか、と男具那が疑ったのも自然である。
「羽女、今度何かあったなら、そちと同じように吾も感じ取ってみよう、予知能力も武術の一つだ、身に備えておいた方がよい」
「はい」
と羽女は低い声で答えた。反駁《はんばく》はしなかったものの、王子様には無理です、と羽女は告げている。それぐらいは男具那にも分る。
羽女が無理だ、というのも当然だった。
羽女は巫女《みこ》王を守る女人の剣士として武術に励むと同時に、滝にでも打たれ、いつも身を浄《きよ》めていたに違いなかった。おそらく男子《おのこ》と肌を合わせたこともないであろう。
羽女の予知能力は、そういう生活から自然に身に備わったのである。同じ修行をしても、予知能力の素質がなければ、羽女ほどにはなれない。
羽女はたぶん、そのことが分っているのであろう。
「羽女、吾《われ》は王子だが俗人だ、そちほどの能力を備えるのは無理かもしれぬ、だが武術になる以上、少しでもよいから、身につけたいのだ」
男具那の熱意が通じたのか、羽女は、低いが力強く、はい、と答えた。
一行は穴を避け更に奥に進んだ。行くにつれて傾斜になり、下草や灌木《かんぼく》が脚に纏《まと》わりつく。
「そろそろ要注意だな」
男具那は羽女に声をかけた。
羽女は答えない。歩きながら精神のすべてで、周囲の異変を探っているのだ。
男具那は、羽女よ、邪魔をした、と胸の中で呟《つぶや》いた。
薄暗さは相変らずだが、先の方に明りが見えた。竹藪《たけやぶ》といってよい竹林も終りそうである。おそらく崖下《がけした》の高台で、鼻垂の隠れ家があるに違いない。獰猛《どうもう》なくせに慎重な首長だ。だからこそ、逃してはならないのである。
不意に羽女が立ち止まった。男具那は後方に手を振り、停止を命じた。羽女は蹲り、下草に顔をつけ、懸命に探っているが、どこに何が仕掛けられているのか分らないようである。
間もなく羽女は、膝で進み、いとしいもののように竹を抱き、頬《ほお》をすりつけた。
長い時刻に思えたが、気のせいで、三十歩ほど歩くぐらいの時であろう。
男具那は、自分の眼を瞠《みは》った。羽女の顔が半分、竹に入っているような気がしたのだ。間違いなく羽女は竹と同化していた。
羽女は竹から離れたが下草に足を取られ、よろけた。
斜面なので、そのまま崩れそうになった。男具那は羽女を抱き留め、半ば失神状態にある羽女の首の辺りに軽い手刀で気合いを入れた。
男具那に抱かれていることに気づいた羽女は、慌てたように離れた。
「はしたないところをお見せました、申し訳ありません」
「そんなことはどうでもよい、仕掛けは分ったか、そちは竹と一体となっていた」
「はい、長い間、曲げられたままなので、竹は泣いていました」
「竹が泣いている、いったいどういう意味だ?」
「ここの竹林にはいくつもの仕掛けがございます、竹を縄で引っ張って曲げ、槍《ほこ》(矛)や矢などを仕掛けています、だから、ここを進むのは無理です、左手に行き、少し傾斜はきつうございますが、灌木や熊笹《くまざさ》の繁った岩場の坂を登った方が安全です」
「それは竹が教えてくれたのか?」
「はい、任務が終ったなら、曲げられている仲間たちを解放して欲しい、と泣いて囁《ささや》きました、竹にとって曲げられたままでいるのは、一番|辛《つら》いとのことです、寧《むし》ろ切られた方が楽だとも申していました」
羽女の声は何かに憑《つ》かれたようだった。内彦も音尾も呆然《ぼうぜん》と眺めていた。
「そうか、竹が語ってくれたわけか……」
「はい、間違いなく」
羽女が毅然《きぜん》とした声で答えたのは、気がついた時の自分の慌て方を意識していたからだろう。微妙な女人の感情である。
男具那は羽女と同じように竹を抱いて頬をつけた。竹の肌はひんやりしていて気持がよい。男具那は眼を閉じ同化しようとしたが、意識の一部が冴《さ》えていて無理である。
こんな時に、羽女の能力を身につけようとしても駄目だ、と男具那は思いなおした。
たぶん、竹が囁いたというよりも、竹と同化することによって精神を統一し、眼の前の竹林に満ちている邪気を知ったに違いない。自己暗示の一種かもしれない、と男具那は推測した。
だがそれが羽女の自己暗示にせよ、男具那としては羽女のお告げを信じる以外、方法はなかった。いや、信じたといってよいかもしれない。
内彦も音尾も羽女の言葉を信じ切っていた。
「羽女、吾はそちの後を行く」
と男具那はいった。
羽女がいったように竹林の左手は岩肌の多い丘である。どうやら鼻垂の隠れ家の背後の崖に続いているようだった。
男具那たちは這《は》うようにして斜面を進んだ。
山の陰なので周囲にはすでに夕闇《ゆうやみ》の気配があった。竹林が下に見える。男具那は岩に掴《つか》まりながら崖の方を見た。崖は十五丈(四十五メートル)ほどで、蔦《つた》や灌木が纏《まと》いつくように生えていた。
隠れ家は竹林と崖下との間にあった。
十人ぐらいは住める竪穴《たてあな》式の家が二つ並んでいる。家の前では女人が器を洗っていた。どうやら夕餉《ゆうげ》を終えたらしい。鼻垂が隠れ家の中にいるかどうかは分らないが、今はいる方に賭《か》けねばならなかった。
見張りの兵がいないのは、隠れ家を特別な部下にしか教えていないせいだろう。
間道の戦《いくさ》で討ち死にし、隠れ家まで戻れなかった兵も多いに違いない。
岩と岩との間の狭い場所に薄《すすき》の群れがあった。男具那は一行をそこに集めた。
「この中で鼻垂の顔を知っている者は、羽女と音尾、それに太尾だけだ、斃《たお》す相手は鼻垂一人じゃ、羽目と吾、それに内彦は手前の家を襲う、音尾と太尾は右手を襲え、それぞれ三人の兵を連れて行く、絶対に逃すな、もう四半刻《しはんとき》もすれば、夕闇で、鼻垂の顔が見えなくなる、行くぞ」
「おう……」
一行は声に出さない喚声をあげた。
尻《しり》を岩肌につけながら一行は、すべるようにして下りた。小石が転がり落ち、女人が驚いたように顔を上げた。
内彦が宙を跳んだ。出っ張った岩に下りると再び跳ぶ。恐るべき跳躍力である。
女人が悲鳴をあげたのは、内彦が着地した後であった。男具那は二歩ほど下りてから跳んだ。男具那が着地した時、内彦は隠れ家に跳び込んでいた。
怒声とともに隣の家から賊が跳び出して来た。男具那は刀を抜いたまま走った。賊が慌てて構えた時、男具那の突きはがら空きの下腹部を深々と貫いた。
賊の絶叫とともに男具那の刀が震動する。刀を引き抜くと血は赤い尿のように流れ出た。
「王子様、ここは奴《やつこ》が……」
音尾は刀を前に向けて、隠れ家の一つに跳び込んだ。
内彦の後に続こうとした羽女を、男具那は刀で止めた。
「家の中は狭くて暗い、鼻垂は必ず跳び出して来る、ここで待て」
男具那の口調は、竹林の中とは別人のように厳しい。羽女の胸には男具那の刀の切っ先が突きつけられている。
「王子様……」
「吾の命令じゃ、他の者は家に突入せよ」
男具那は隠れ家に殺到した兵士たちに怒鳴った。さいわい隠れ家の前は、狭いが平地である。竹林に向って柵《さく》が立っているのは、敵の攻撃は正面からのものと予想しているせいである。さすがの鼻垂も、この隠れ家を奇襲攻撃する者はいない、と安心していたのだろう。
家の中から刀の打ち合う音がし、煙が出入口から這うように出て来た。
囲炉裡《いろり》の火が散乱したのであろう。真っ先に跳び出して来たのは内彦だった。
「王子、この煙では刀はふるえませぬ、鼻垂|奴《め》がおれば跳び出して来るでしょう」
「おう、兵士にも外に出るように、告げよ」
内彦が叫び終らぬうちに、二人の賊と兵士たちが跳び出して来た。内彦は再び賊の左手に跳んだ。煙で賊は咳《せ》き込んでいる、内彦を見て賊の一人が刀を振り上げたが、その腕は刀を持ったまま飛んだ。もう一人の賊は仲間の血を浴び、悲鳴をあげて柵の方に走った。近くにいた羽女の剣が賊の脚を斬《き》った。喚《わめ》いて転がった賊の背中に剣を突き立てる。女人とは思えぬ素早さだった。羽女が剣を抜くと待っていたように血が真上に噴き出した。
音尾も出て来た。
「王子様、姿が見えません、そっちは……」
無念さで音尾の声は慄《ふる》えていた。
「鼻垂らしい賊はいなかった、ことにこの煙じゃ、おれば隠れてはおれぬ」
と内彦は出入口を睨《にら》んだ。
「いないはずはありません、私《わ》は感じる、獣のような鼻垂の匂いを」
羽女は叫ぶと家に入ろうと走った。
男具那は刀の鞘《さや》を羽女の足許《あしもと》に投げた。脛《すね》を強打された羽女は剣を握ったまま転倒した。
「羽女、ここにおれ、と申したのは命令じゃ、背く者は容赦せずに斬る」
「王子様、裏手からも煙が……」
音尾の声が終らぬうちに、内彦は裏側の崖下に廻《まわ》っていた。
「ここにも出入口があります、だが誰も出た様子はありません」
男具那は血走った眼で周囲を見廻した。
羽女を叱咤《しつた》したものの、羽女の勘を信じたい気持が強かった。
男具那の眼は、器の傍に坐《すわ》り込み、慄えている女人を捉《とら》えた。迫り来る夕闇にさからっているように色は白い。
男具那が近寄ると怯《おび》えたような眼を見開いた。
「鼻垂はどちらだ?」
だが女人には男具那の言葉が分らないらしく、後ずさりして首を横に振る。羽女が跳んで来て、早口に訊《き》いた。
羽女の質問が分ったらしく、女人は腕を伸ばした。内彦が跳び込んだ家の方である。羽女が剣を握りなおした。
「王子様、鼻垂はあの隠れ家にいるそうです」
「妙だな、あれだけの煙だ、息が詰まって呼吸ができない、ひょっとすると抜け穴があるのかもしれない」
男具那の言葉を受けて、羽女がまた質問した。女人も羽女に安心したらしく、しきりに訴えている。
「王子様、抜け穴があるそうですが、どこに出られるのかは知らない、といっています、この女人は球珠《くす》国の王族の娘で、賊である土折猪折《つちおりいおり》に攫《さら》われ、鼻垂に渡された、と申しています」
「賊同士がつながっているのだ、鼻垂は逃してはならぬ、猪喰、猪喰はどこじゃ?」
と男具那は呼んだ。
後方を守らせたせいで、男具那はほとんど猪喰の顔を見ていなかった。
「王子様、ここでございます」
右手の雑木林から猪喰の声がした。猪喰は木から木へと跳び、顔を出した。気のせいか猿に似ている。
「何をしているのだ?」
「鼻垂が逃げないように見張っているのです、木の上からだと、よく見えます」
「抜け穴があるらしい、どこに抜けているのか分らぬ、家の中は火、鼻垂は間違いなく抜け穴にいる」
猪喰が木の下を指差し跳び下りた。男具那が走る羽女と内彦が続く。
猪喰は男具那に向って指を口に当てた。抜け穴の出口を見つけたようである。
男具那は猪喰の傍に立った。羽女や内彦も息を呑《の》み、猪喰の視線を追った。
雑木林を少し入ったあたりは、木が伐《き》られ、土が盛られていた。一見墳墓のようである。驚いたことに土饅頭《どまんじゆう》から微《かす》かに湯気が立っている。
「うむ、これが出口だ、実際、狡猾《こうかつ》な賊だ、自分の女にも、出口を知らせていないとは……よし、皆、静かに取り巻け、音を立てるな、猪喰、よく見つけたぞ、音尾も呼べ」
男具那の命令に一行は土饅頭を取り巻いた。隠れ家を見張っていた音尾も、猪喰の手招きで駆けつけた。
土饅頭が煙を吐いてはじけた。布で鼻口を覆った大男が跳び出して来た。
「鼻垂!」
と羽女が叫んだ。
身長は五尺八寸(百七十四センチ)はゆうに超えていた。煙に巻かれ、涙で眼が霞《かす》んでいたらしく、鼻垂は羽女の声に眼を拭《ふ》いた。自分が取り巻かれているのを知り、鼻口を覆っていた布を外した。
鼻垂と渾名《あだな》で呼ばれるようになったのも無理はない。実に巨大な鼻で、鼻頭だけで大人の親指ほどあった。ただ上向きではなく下を向いているので鼻の肉が垂れ下がって見える。鼻翼は張っていた。
「くそ、はかったな」
鼻垂は喚《わめ》くと腰の長刀を抜いた。刀身だけで三尺に近い。
「はかったのはそちじゃ、私《わ》はそちに騙《だま》し討ちにあって殺された宇沙の軍団長、鳥雄《とりお》の妹、羽女じゃ、兄の仇《かたき》を討つ」
「ほざくな小娘、二つに裂いて山犬の餌《えさ》にしてやるぞ」
「そちこそほざくな、この顔に見覚えがあるはず、吾は山音尾じゃ、そちの穢《きたな》い首を刎《は》ね、海まで飛ばしてやろう」
「馬鹿な男子《おのこ》じゃ、軍団から追い出されたのに、まだ宇沙に忠節を尽しているのか、阿呆面《あほうづら》が、ますます阿呆に見えるわい」
泡のような唾《つば》を飛ばし音尾をののしっていた鼻垂の刀が、突然、唸《うな》りながら羽女に振り下ろされた。不意をつかれた羽女は後ろに跳んだが雑草に足を取られ、仰向《あおむ》けに倒れた。
やられた、と男具那が息を呑《の》んだ時、猪喰が羽女の上に倒れた。猪喰の刀が鼻垂の刀を受け、火花が散った。
だが猪喰の刀は真ん中から折れて飛び、猪喰は肩に鼻垂の刀を受けた。
「許さぬ」
音尾は体当りをするような勢いで鼻垂に刀を突き出す。鼻垂は身を反らせて避ける。
その間に羽女と猪喰は転がって起きる。
まったく油断のできぬ相手である。猪喰の左肩は鮮血に塗《まみ》れていた。
「猪喰よくやった、退《さ》がれ、後は羽女と音尾にまかせよ、内彦、鼻垂の退路を遮断せよ」
内彦は鼻垂の後ろに廻った。
男具那は横手から刀を突きつけた。男具那としては可能な限り、羽女の手で鼻垂を斃《たお》したかった。だが鼻垂の武術は明らかに羽女を上廻《うわまわ》る。何よりも、宮戸彦に優るとも劣らない強力《ごうりき》だ。それに山人族らしく身が軽い。
音尾の息子の太尾が、穴の開いた土盛りの上に立った。優れた作戦だ。鼻垂が逃れる道は、土盛りの方だけだったからだ。
鼻垂は異国に棲《す》むという虎のように吠《ほ》え、刀を廻した。廻っている刀の中に鼻垂の巨体があった。
だが羽女は恐れなかった。刀が廻っている下に身を倒すと剣を突き上げる。鼻垂の足が羽女の剣を蹴《け》った。羽女は剣を握ったまま転がった。今度は音尾も油断していなかった。鼻垂の刀が羽女を襲うよりも早く、音尾は廻っている刀の中に跳び込むようにして、鼻垂に刀を叩《たた》きつけた。音尾は、自分の身を犠牲にする覚悟らしい。刀が火花を散らし、鉄の焦げる匂いがした。二人の刀は咬《か》み合ったまま動かない。
「羽女、今だ」
と男具那は叫んだ。
羽女は再び跳び込んだ。鼻垂が剣を蹴上げようとした時、羽女の剣は鼻垂の脛《すね》を斬《き》っていた。
音尾と刀を咬み合わせていた鼻垂の身体が、がくんと落ちた。音尾が、この時とばかり猛然と攻勢に出た。脚に傷を受けた鼻垂は、自慢の強力をふるえない。音尾の攻撃を防ぐのが精一杯だ。羽女は起きると背後に廻った。気配を感じた鼻垂は棒立ちになると、音尾の刀を力一杯受けた。あまりの衝撃の強さに音尾は手が痺《しび》れた。鼻垂は一本足で身体を翻し、山野に響き渡る声とともに、羽女の頭上に渾身《こんしん》の一撃を振り下ろした。だがその前に羽女のすぐ傍にいた内彦が危険を感じ、刀子《とうす》(小刀)を飛ばしていた。
刀子は鼻垂の胸部に刺さり、羽女への一撃は狂った。
羽女は跳び込んだ。羽女の剣が鼻垂の腹部を貫くのと、音尾の刀が鼻垂の背を割るのとほぼ同時だった。
鼻垂は地響きをたて倒れた。
鼻垂は遠い海鳴りに似た絶望的な唸《うな》り声を発した。
眼玉が飛び出すほど眼を剥《む》くと抜こうとした羽女の剣を握った。剣は両刃である。鼻垂の太い指が四本も切断され、落ちて芋虫のように蠢《うごめ》く。
羽女は剣を抜くと、鼻垂の頸部《けいぶ》に剣を刺した。鼻垂が右腕で首をかばったので、羽女の剣は鼻垂の太い腕に刺さり骨にぶつかって止まった。
信じられないほどの生命力である。
鼻垂は左腕で羽女の腕を掴《つか》んだ。
「そちが鳥雄の妹か、兄は頭の悪い臆病《おくびよう》な男子《おのこ》だった、そうじゃ、字とやらを勉強していたな、軍団長になどならずに、使者になっておればよかった」
「戯言《ざれごと》は許さぬ」
羽女は剣を抜こうとしなかった。腕を貫くつもりか両腕に力を込めた。さすがの鼻垂も払い除《の》ける力はなかった。
男具那は、羽女が自分の手で止《とど》めを刺すことを望んだ。他の者にも手出しは無用だ、と命じた。
突然、鼻垂の視線が男具那に向けられた。
「大|和《やまと》の王子か?」
鼻垂は血を吐きながら訊《き》いた。
「おう、吾《われ》は男具那王子じゃ、吾の眼の前で、羽女の手で殺される、本望だろう、鼻垂」
「吾の名は岩蹴《いわけり》じゃ、鼻垂ではない、死を前に岩蹴と呼んでくれ」
鼻垂の顔は吐いた血で染まっている。鼻からも血が噴き出始めた。
たんなる鼻血ではない。山から火が噴き出すように勢いよく空中を飛ぶ。その形相は魔の鬼神で、人間とは到底思えない。
男具那は恐怖と慈悲の心を抑え、ゆっくりと首を横に振った。
「そちは女人や子供を攫《さら》い、民の財宝を奪い、大勢の人々を苦しめた賊だ、名前など呼べぬ、鼻垂じゃ、詫《わ》びの鼻汁でも垂らして死ね」
男具那の力強く鋭い声は岩壁で撥《は》ね返り、広場中に何度も拡がった。
「無念」
鼻垂は顔を上げようとした。吐き出した血は、巨大な火矢のように男具那に飛んで来た。
男具那は土を蹴り、宙に跳んで血を避けた。
重い石が地を叩《たた》いたような音がして、鼻垂の頭が落ちた。羽女の剣は腕に刺さったままである。
羽女は剣を引き抜くと、改めて鼻垂の頸部を貫いた。羽女は女人には考えられないほどの気力の持ち主だった。
だが羽女が尻餅《しりもち》をついたのは、さすがに精根を使い果したせいであろう。
「よし、それでよい、音尾、そちが首級をあげよ、鼻垂の首級は竹槍《たけほこ》に刺し、高々と上げるのじゃ、こんなに早く賊を滅ぼせたのは、黙々と間道の上に途《みち》を作ったそちと、羽女の執念の結果だ、もし鼻垂の精鋭軍が、宇沙に突入して来ていたなら、宇沙は大混乱におちいる、我らがいる以上、戦には勝てたが、かなり苦労していたはずじゃ」
男具那はまた、太尾にも、よく父に力を貸し、黙々と働いた、と功績を称《たた》えた。
太尾は嬉《うれ》しそうに叩頭《こうとう》し頭に手をやった。身体は一人前だが、まだ稚《おさな》さが残っている。好感の持てる男子《おのこ》だった。
鼻垂が死んだ途端、夕闇《ゆうやみ》が濃くなった。
一行は勝鬨《かちどき》をあげ、松明をかかげた。
男具那が来た方向に行こうとすると、羽女が竹林に戻りたい、と申し出た。
「竹は曲げられたままです、それに仕掛けられた矢や槍は前方に飛ぶようになっているので、危険はありません、暗闇でも仕掛けは分ります」
羽女は、竹が泣いていた、と男具那に告げた。男具那は羽女の言葉を信じる気になった。羽女を先頭に男具那たちは竹林に入った。
羽女がいった通り、隠れ家の方から入ると、竹の仕掛けは松明の明りで比較的たやすく発見できた。仕掛けを作るために下草などが踏み荒らされている。羽女は次々と剣で仕掛けの縄を切った。なかには、身体を宙に吊《つ》り上げるような仕掛けもあった。
竹林を出た時羽女は、
「王子様、有難うございます、これで竹も喜んでいることでしょう」
と叩頭した。
鼻垂に向った時の羽女には、魔の鬼神も避けるほどの凄《すさ》まじい気迫と執念があった。
だが男具那に叩頭した羽女は含羞《はにかみ》のある優しい女人だった。男具那は血が燃えるのを感じた。
男具那は、いくら美しい女人でも、高慢な気持や、澄ました心が表われていると、相手に何も感じない。だが夕闇ではっきりしないが、何となく頬《ほお》を染めた羽女のような含羞を感じると体内の血が騒ぐのだ。男具那は長い間女人の肌に触れていない。
男具那は星が煌《きら》めき始めている空に向って大きく深呼吸をした。内彦も顔を上げて口を開いていた。男具那と同じように血が燃えたのだろう。
一行は龍王山の傍まで戻った。
松明の明りは彼方《かなた》まで延々と続いている。列が乱れていないところをみると、大勝したのであろう。
龍王山の賊も、降服すれば生命を助けるという男具那の意に、続々と投降した。
男具那は、武彦の部下を安心院《あじむ》盆地に泊めることにした。
鼻垂軍が殲滅《せんめつ》され、鼻垂が殺されたという報に、喜んで踊り狂う農民が多い。
賊たちが捕えていた大勢の女人が解放された。
男具那は、武彦が吉備《きび》から率いて来た兵士たちに伽《とぎ》の女人を与えてやろう、と思った。
女人の肌に触れることなく、ここまで来たのである。
男具那が音尾に意を告げる。
「賊に攫《さら》われた女人だけで数十人はいるでしょう、皆、王子様に感謝し、喜んで兵士たちを慰めるでしょう」
と頷《うなず》いた。
何も女人を掠奪《りやくだつ》するわけではない。女人たちは解放され、喜んで踊っている。彼女たちも男子《おのこ》を求めているのだ。
当時は、祭りの日などに、見知らぬ若者と女人が、顔を合わせただけで媾合《まぐわ》う。
農民たちの性は、今では想像できぬほどおおらかだった。
男具那は、あちこちに篝火《かがりび》をたかせた。
音尾がそのことを触れ廻《まわ》ると、兵士たちも女人たちも喚声をあげた。女人たちは賊の家から酒を持ち出した。
縛られている賊の捕虜は、呻《うめ》きながら眺めたり、明日は打ち首ではないか、と慄《ふる》えていた。これまで散々悪いことをしたのだ。文句のいいようがない。
宮戸彦たちも男具那の傍に集まった。
兵士や女人は篝火を囲み、身体を振り、歌いながら踊っている。
夜の歌垣《うたがき》に似ていた。
国前王の兵も吉備の兵と一緒に踊った。ともに賊と戦い勝利を得たことで仲間意識が生じていた。
男具那は、前に小川、後ろは丘という好い場所にある賊の家を仮りの宿にすることにした。隊長の一人らしく竪穴《たてあな》式の家だが、その周辺の家に較べると、かなり大きい。
数人は楽に眠れそうだ。
三十代と二十代の女人が二人いたので、知り合いの仲間の女人を誘い、踊るように、と音尾が告げると、何度も男具那に叩頭し、踊りの群れに跳んで行った。
「宮戸彦、内彦、それに武彦、おぬしたちも愉《たの》しんで来い」
男具那が笑うと三人共、「いや、やつかれは王子をお守りします」と肩を張った。女人が欲しいのだが、自分の立場を思うと、兵士たちと同じような解放感にひたれないのだ。
音尾がいった。
「宮戸彦様、村長《むらおさ》の一族に何人か女人がいます、戦が始まり、家族とともに山に隠れていた村長が、王子様に、村が解放された礼に来ています、もし王子様がお許しなら、村長一族の家にお越し下さい」
「おう、村長一族の女人か……」
宮戸彦は一歩乗り出したが、喉《のど》に唾《つば》が詰まり濁った。
いつもなら宮戸彦をからかう内彦も、女人と媾合えると知り、唾を呑《の》んだ。宮戸彦をからかう余裕などない。
武彦も眼を伏せながら篝火に照らされた男具那を見ている。男具那も下半身が疼《うず》き始めていた。
「音尾、村長に間違いないな、それに、村長の方から伽の女人を差し出す、と申しているのだな」
「もちろんでございます」
音尾が声をかけると闇が動き、黒い影が男子《おのこ》になった。五十前後で、篝火の明りが黒髪よりも白髪を鮮明に照らした。男具那の前で蹲《うずくま》り、手を合わせた。
善良そうな男子である。
「分った、申し出を受け入れるぞ」
この時男具那は、見えない光が鋭い針となり、自分に注がれた方を見た。
賊か、と刀の柄《つか》に手をかけた。闇の中で男具那を睨《にら》んでいるのは、羽女だった。
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本書は、平成六年五月刊の小社単行本『白鳥の王子 ヤマトタケル―西戦の巻(上)―』を文庫化したものです。
角川文庫『白鳥の王子 ヤマトタケル―西戦の巻(上)―』平成13年11月25日初版発行