[#表紙(表紙1.jpg)]
白鳥の王子 ヤマトタケル
大和の巻
黒岩重吾
[#改ページ]
〈主要登場人物〉
倭男具那《ヤマトノオグナ》――本名、小碓《オウス》。後のヤマトタケル。オシロワケ王と稲日大郎姫《イナビノオホイラツメ》との間に生まれた大和国《やまとのくに》の王子。武勇と優しさをあわせ持ち、人々に慕われている。
大碓《オオウス》王子――男具那とは双子の兄弟で兄にあたるが、性格や顔はあまり似ていない。
櫛角別《クシツノワケ》王子―男具那と大碓王子の同母兄。何者かに妃《きさき》とともに殺される。
オシロワケ王(景行帝)―大和の三輪《みわ》王朝の王。男具那の父。
稲日大郎姫《イナビノオホイラツメ》―オシロワケ王の皇后で、男具那の母。男具那の幼少の頃に亡くなり実家の印南《いなみ》川の傍《そば》に葬られている。
八坂入媛《ヤサカノイリビメ》――五百城入彦《イホキノイリビコ》王子の母。男具那の母の死後、皇后のようにふるまう。
両道入姫《フタジノイリヒメ》――男具那の正妃。
弟橘媛《オトタチバナヒメ》―――後年、男具那が最も愛する妃となる美少女。
誉津別《ホムツワケ》王子―男具那の伯父《おじ》にあたり、生駒《いこま》山中で仙人のように暮らしている。
和珥青魚《ワニノアオウオ》――武術に秀でた男具那の警護隊長。
葛城宮戸彦《カツラギノミヤトヒコ》‐男具那を慕い、行動をともにする巨漢の従者。
穂積内彦《ホヅミノウチヒコ》――宮戸彦らとともに男具那を守る従者の一人。弟橘媛《オトタチバナヒメ》の兄でもある。
丹波森尾《タンバノモリオ》――印色之入日子《イニシキノイリヒコ》王の警護隊長だったが、王の死後、オシロワケ王への復讐《ふくしゆう》を誓う。
大根《オオネ》王―――美濃《みのく》の国造《にのみやつこ》の祖。兄《え》ヒメ、弟《おと》ヒメの二人の娘がいる。
打山《ウチヤマ》――――稲日大郎姫(男具那の母)の警護隊長だった印南《いなみ》の武人。
[#改ページ]
一
旧暦三月上旬、大和《やまと》の山野には、さくら、かたかご、あしび、つつじ、すみれなどの花花がいっせいに咲き、木々の緑に妙《たえ》なる彩りをそえていた。
だが、今、若者が汗塗《あせまみ》れになって登っている山は、杉、檜《ひのき》、槙《まき》、樫《かし》、松などの樹木が鬱蒼《うつそう》と繁って薄暗く、樹林の下を歩くと花などほとんど咲いていなかった。
あちこちから差し込む木洩《こも》れ陽《び》は刃物のように鋭い。ところどころ無数の玉が光り輝いて戯れているようだが、木洩れ陽のいたずらである。
木の香りとともに鼻孔をつくすえたような土の匂《にお》いは、何千年の落葉が腐蝕《ふしよく》したものだった。樹林の下はほとんど灌木《かんぼく》と熊笹《くまざさ》で途《みち》らしい途はない。ただこんなところにも獣は棲《す》んでいるらしく、わずかに灌木が割れていたりする。熊や猪の途であった。
下の方から若者の名を呼ぶ声が聞えて来た。連れて来た従者の声である。
若者は立ち止まると額の汗を拭《ぬぐ》った。さすがに大きく呼吸をする。すでに百五十丈(四五〇メートル)以上は登っているだろう。
若者はこの辺りでいちばん高い山に登りたかったのだ。
三輪山《みわやま》の奥や、北東に連なる巻《まき》(纏)向山《むくやま》や龍王山《りゆうおうざん》など二百丈(六〇〇メートル)足らずの山はすでに登りつくしていた。
「無理について来る必要はない、しばらく渓流の傍《そば》で休んでおれ、だが吾《われ》は何が何でも、今日は頂上まで登る、そのために夜明け前に宮を出たのだ」
若者の声は爽《さわ》やかだが力強い。あちこちで山彦《やまびこ》となって戻って来る。
若者は腰に吊《つる》した竹筒の水を旨《うま》そうに音をたてながら飲んだ。身長は高く五尺七寸(一七〇センチ)はあるだろう。肩幅の広さなど若者のものではない。他の若者と異なるのは脚が長く腰が高いことだ。その代り胴は短い。この若者には大勢の兄弟がいるが、このような体躯《たいく》は彼一人だった。
若者の名は倭男具那《やまとのおぐな》、本名は小碓《おうす》だった。父は大和の王であり畿内《きない》やその周辺にも勢力を張っているオホタラシヒコオシロワケ(大足彦忍代別)王(景行《けいこう》帝)である。ただ、タラシヒコという名は当時にはなく、七世紀の聖徳太子《しようとくたいし》時代のものなので、本当の名はオシロワケである。
時は四世紀末に近い後半だが、まだ倭国《わこく》(古代の日本名)には大王の称号はなかった。
倭男具那は本名を嫌っていた。男具那には同母の兄に長子の櫛角別《くしつのわけ》と、双生児の大碓《おおうす》がいる。兄弟に碓がついたのは、二人が双生児であり、それを知った父王が驚いて臼《うす》に向って叫んだからだといわれている。その点男具那は少年という意味であり、自由奔放に生きたい王子の性格に合っていた。
和珥青魚《わにのあおうお》たちは、お待ち下さい、と叫んだようだが、男具那は、そちたちが遅いからだ、吾には関係がない、と微笑した。
男具那の微笑は、薄暗い樹林の下に籠《こも》っている山の悪霊《あくりよう》を彼の周囲から吹き払ったほど清冽《せいれつ》で美しかった。
その頑丈な体躯にしては顔は童子のように稚《おさな》い。顔はどんな女人《によにん》も眼を見張るほど整っていた。倭人《わじん》にしては二重《ふたえ》の眼は大きく、鼻は高い。濃い眉《まゆ》は吊《つ》り上がり、いかにも男子《おのこ》らしい凛々《りり》しさを与えていた。肌の色は北国の女人のように白い。
魅力的なのは奥深い大きな瞳《ひとみ》と、白眼の部分が、赤子のように澄んで青いことだ。微笑した時など、越《こし》の沼川《ぬなかわ》の底なる玉のように光る。沼川の青い玉は永遠の生命を秘めていると信じられていた。
女人たちはもちろん、重臣たちや部下たちが男具那に惹《ひ》かれるのは、彼の眼に沼川の玉を想像するせいかもしれなかった。
男具那が倭《やまと》の男具那と呼ばれているのは、大和国の優れた男子だからだった。その当時の倭は、三輪|山麓《さんろく》一帯および、その南部をいう。倭を「わ」と呼ぶと、範囲が広くなり九州を含め、西日本一帯のことになる。
男具那が今登っている山は三百丈(九〇〇メートル)近い音羽山《おとわやま》だった。この山頂に立つと北方の三輪山・巻向山・龍王山やその西方の大和盆地、また後に飛鳥《あすか》と呼ばれた地方や香久山《かぐやま》・畝傍山《うねびやま》、それに葛城《かつらぎ》の山々も眺められる。さらに矢田《やた》丘陵から平群谷《へぐりだに》、河内《かわち》との境に連なる生駒《いこま》連山も望観できる、といわれていた。
大和国のほとんどを眺めることができるのだ。だが山人族の中でも音羽山の頂上まで登った者はほとんどいなかった。三年ほど前に何人か登ったが戻らず、一人だけ戻ったが、その後、頭がおかしくなり、音羽山の頂上には悪い鬼神が棲《す》んでいる、など、あらぬことを口走り、死亡したという。
勇猛な武人もまだ登っていなかった。男具那はこれまで八合目ぐらいまでは登ったことがあった。悪天候で無念の涙を呑《の》んで下りたのだが、それ以来、山頂に登るのが夢だった。
男具那は背に矢筒を背負い、左右の腰に弓と刀を吊し、右手には長い樫《かし》の棒を持っていた。自分で作った木刀で横擲《よこなぐ》りに擲ると、刀よりも効力があった。
刀の利点は突きの場合だ。木刀だと刀に較べ、突きの速度が遅く、相手に与える打撃も弱かった。
男具那が刀以外に樫の棒をたずさえたのは、山頂に何者が棲んでいるか、分らないからだった。
男具那は獣途《けものみち》を覆う灌木や熊笹を木刀で叩《たた》き折った。八合目まで来た時、前と同じように霧が湧《わ》いて来た。
天候が変るのだろうか、と男具那は一休みして、また水を飲んだ。
霧は次第に濃くなり行手が見えなくなった。噂《うわさ》どおり鬼神が棲んでおり、これ以上登るな、と男具那に命令しているようだった。
男具那は勇猛な王子だが無謀ではなかった。素早く周囲を探るといちばん背の高そうな杉に登った。幼年時代から木登りは得意である。男具那の身体《からだ》は猿に化したようだ。
五丈以上はある杉の天辺《てつぺん》近くまで登ると霧の上に出た。霧が山を取り巻いているのは六合目から八合目あたりまでだった。
陽は眩《まぶ》しいほど輝き、青々とした山頂を照らしている。たぶん半刻《はんとき》(一時間)近く待てば霧は晴れるに違いなかった。
三輪山ははっきり見えるが、巻向山・龍王山には雲が垂れている。三輪山麓の宮の辺りは春霞《はるがすみ》でよく見えない。
男具那はものの気配を感じた。男具那には特別の能力があり、人が感じないものでも感じ取ることができるのだ。男具那は本能的に頂上附近を見た。十数羽の小鳥が舞い上がっている。三百丈近い山の頂になぜ小鳥がいるのか。高い山を好む鳥がいても別に不思議ではないが、何かに怯《おび》えて飛び立った感じだった。今まで一羽も姿を見せなかった小鳥たちである。いっせいに飛び立ったのがおかしい。男具那は半ば眼を閉じ、山頂に視線をこらした。山頂は厚い緑の布を巨岩で突き上げたような形だった。男具那の視線は痛いほど山頂附近に注がれている。もし男具那が眼を見開いていたなら痛みで眼は潰《つぶ》れていたかもしれない。
男具那は山頂の樹林の下に何者かがいるのを感じた。鬼神か、獣か、それは分らない。
男具那は杉の木からすべり落ちるように降りた。
男具那は足音をしのばせ、気を鎮めて登り始めた。速力は半分ぐらいに落ちたが神経が周囲に集中している。九合目あたりまで来ただろうか。男具那は獣の匂《にお》いを嗅《か》いだような気がした。男具那は刀を抜くと獣途に伏せた。陽が当らない山肌は意外に冷たい。まだ土中は凍りついていそうだ。腐蝕《ふしよく》した落葉は湿り冬の季節を残していた。
男具那は堆積《たいせき》している落葉に耳を当てた。凄《すさ》まじい速さで獣が下りて来る音を男具那は感じた。一匹ではなかった。二匹以上だが三匹なのか四匹なのかそれは分らない。
山犬のような獣を相手にする時は木刀より刀の方がずっと役に立つ。男具那は刀で獣途の傍の灌木《かんぼく》を伐《き》ると自分の前に積み重ねた。理由は分らないが今、何匹かの獣が自分を襲うべく駆け下りて来ているのが分るのだ。
灌木を五尺(一・五メートル)近い高さに積み重ね、その内側に刀を握ったまま男具那は蹲《うずくま》った。もう獣の足音がはっきり聞える。男具那は左指で軽く膝頭《ひざがしら》を叩きながら獣の速さを計る。指が速まる足音に合致し耳が音の大きさで距離を計った。男具那が両手で刀を構えた時、獣は五尺近くに迫っていた。獣が初めて咆哮《ほうこう》した。積んだ灌木を跳躍し、二匹の山犬が牙《きば》を剥《む》いて男具那に襲いかかった。男具那が突き上げた刀は山犬の喉《のど》を刺し、血が噴出する。そのまま男具那は身を翻《ひるがえ》し背を灌木に埋める。二匹目の山犬は男具那の頭を掠《かす》めながら転がった仲間の山犬に激突した。だが相手は転がらなかった。どうして踏みとどまったのか分らない。横に跳ぶと斜め下から男具那に襲いかかって来た。さすがに跳躍するだけの脚力は失われていた。男具那の刀は山犬の頭蓋骨《ずがいこつ》から下顎《したあご》まで斬《き》り裂いた。両腕に衝撃が走ったが痺《しび》れるほどのものではない。
幼少時代から木の枝を斬っては、一人武術の修業を続けて来た男具那の両肩は、猪を斬った時の衝撃にも耐えたのだ。
男具那はもう一匹の唸《うな》り声を耳にした時、地面に伏せていた。狼を思わせる牙が木製の矢筒に咬《か》みついた。男具那が刀を持ったまま一転すると、山犬も男具那の背から転がり落ちた。男具那が刀を手もとに引いたのと山犬が体勢を立てなおしたのとほぼ同じだ。
山犬が口を裂けるほど開き、真赫《まつか》な舌をはっきり見せて跳びかかって来た時、男具那は刀の切っ先を思い切り口中に突っ込んだ。直《じか》に衝撃が腕から肩に来た。喉から背骨まで貫かれながら山犬は男具那の刀を三度咬んだ。いくら山犬の歯が強靱《きようじん》でも、歯で鉄刃を咬む音は痛ましい。三度咬むと山犬は信じられないほど悲しそうな声を出した。男具那の刀が岩に刺さったように重くなった。息が絶えたのだ。男具那が刀を引き抜くと半分切れた舌が血とともに山犬の口から落ちた。
男具那にはその舌がまだ動いているように思えた。生命《いのち》が失われ縮んでいるのかもしれない。
男具那は無造作に舌に刀を突き刺して持ち上げた。男具那の眼の前で、血塗《ちまみ》れの山犬の舌はだらりと垂れ、もう動かない。その舌を睨《にら》む男具那の眼にはまだ憤《いか》りの光が宿っていた。
この三匹の山犬たちはただ山に登ろうとした男具那を、何の予告もなく、咬み殺そうと襲って来たのだ。獣であれ、男具那はそういう卑劣な敵を許すことができなかった。
生命を狙《ねら》った敵は、憎み、殺すというのが男具那の信条だった。
男具那はまだ若い。こんなところで憐《あわ》れみの気持を抱くようなら、生き残ることはできなかった。大人しい長兄の櫛角別《くしつのわけ》王子はともかく、次兄の大碓《おおうす》王子はなぜか男具那を憎み、生命を狙っている気配があった。
王族の中にも敵は多いのだ。
それにしても山犬はなぜ、吾《われ》を襲って来たのだろう、と男具那はまだ血を垂らしている舌を眺めながら考えた。
杉の木に登り頂上附近を眺めた時、小鳥たちが怯《おび》えて舞い上がった。あの時、山犬たちは男具那を襲おうとしていたに違いない。
男具那を危険な侵入者と山犬たちが視たせいか。それとも山犬たちを支配している鬼神が棲《す》んでいるのだろうか。
男具那には山犬たちが勝手に頂上から駆け下りて来たとは思えなかった。何者かの命令によって山犬たちは動いたに違いない。
そう判断した時、男具那は刀を振り犬の舌を熊笹の繁みに放った。布で汚れた刀を拭《ふ》いた。矢筒を下ろし調べて見ると狼と犬との間のような鋭い牙痕《きばあと》がつき、矢筒の端に罅《ひび》が入っている。
恐ろしいほど鋭い牙だった。もし矢筒を背負っていなかったなら、首の半分は喰《く》い千切られていたに違いなかった。
男具那は恐怖よりも憤《いか》りを覚えた。
憤りはすべての筋肉を刺戟《しげき》し、男具那の口は自然に開く。男具那は刀を振り上げ、獣のように咆哮《ほうこう》した。
「王子様、いずこにおられる?」
下の方から聞えて来たのは男具那の警護隊長和珥青魚だった。
「様など要らぬ、王子でよいのだ、警護隊の者は友人でもある、何度も申しているぞ、吾の跡は分るだろう、灌木《かんぼく》は叩《たた》き折っているからな」
「はっ、そこでお待ち下さい、山頂には我らも必ずお供つかまつります」
「ああ待っておる、大竹《おおたけ》と小竹《こたけ》は?」
「はあ、やつかれ(臣)のすぐ後ろに……」
「すぐでもあるまい、かなり離されておるだろう、まあよい、ゆっくり参れ」
男具那は哄笑《こうしよう》すると今度は熊笹を伐《き》り払い、葉を座蒲団《ざぶとん》代りにして坐《すわ》った。
青魚は現在の奈良県|天理《てんり》市近辺に勢力を張った新興豪族、和珥氏の支族の出だった。男具那より二歳上の二十一歳だが、泳ぎは男具那よりも勝り、武術も男具那に勝るとも劣らなかった。
和珥氏は海人族の血を引いており、百数十年以上も前に、邪馬台国《やまたいこく》の卑弥呼《ひみこ》が、倭《わ》連合国の女王をしていた時代、阿曇《あずみ》氏とともに水軍力で暴れたものだ。三世紀の後半、邪馬台国は東遷し、三世紀末、大和の三輪|山麓《さんろく》に宮を持った。
和珥氏も水軍力を活《い》かし、邪馬台国とともに日本海を東遷し、近江《おうみ》に勢力を張ったが、今は南下し、現在の地を勢力圏としている。
海人族だけに、各地の海人族と親しく、尾張《おわり》氏、息長《おきなが》氏の祖、安曇氏などを通して交易を行なっていた。
また大和と河内を遮る生駒山麓の河内側に勢力を張っている物部《もののべ》氏とも親しかった。
三輪山麓の王家に匹敵する勢力の持ち主だった。
大竹は葛城氏の出で十九歳、小竹は宇陀《うだ》の山人族、久米《くめ》(来目)氏の子弟で、まだ十七歳だった。本当の名前は押竹《おしたけ》だが、男具那は小竹と呼んでいる。
間もなく青魚が姿を現わした。
血の匂《にお》いと野犬の死体を見、熊笹の上に横たわっている男具那を見て走り寄った。
「王子、大丈夫ですか、お怪我《けが》は?」
青魚は男具那の衣服の血を見て蒼白《そうはく》になった。山犬に咬《か》まれた、と驚愕《きようがく》したようだった。男具那は手を横に振った。
「大丈夫だ、野犬ごときに咬まれはせぬ、ただ吾は山頂に、山犬を操っている者がいるような気がする、そうでなければ一人で先に登るのだが……」
「よくお待ち下さいました、たぶん悪い鬼神でございます、この人数で、これ以上登るのは危険、今日は宮に戻り、後日大勢の兵士を率いて山頂を征服しましょう」
「青魚、それでは吾が一人で登る、ここまで来て、山から下りられるか、さあ、行くぞ」
青魚は二歩|退《さが》ると大手を拡げた。
「お待ち下さい、分りました、やつかれも一緒に参ります、だが間もなく大竹と小竹が姿を見せます、どうかそれまでお待ち下さい」
男具那は一度決心をすると、他人の忠告には耳を貸さずに押し通す。そんな性格を知っているだけに青魚は必死の面持ちだった。
「青魚、吾は馬鹿ではない、山頂の鬼神は容易ならぬ者と視た、山犬以外にも獣を使うかもしれぬ、大竹と小竹が現われてから作戦を立てる」
男具那は青魚に、杉の木に登ってからのことを話した。話し終って男具那は、もし青魚が襲われていたなら、と思った。二匹は斬《き》り殺したかもしれないが、三匹目に首を咬み千切られていたような気がする。
男具那が備えている勘は超能力に近い。それが男具那の生命を救ったのだ。
男具那が話し終った頃、大竹と小竹が荒い息を吐きながら現われた。
申し訳ありません、と二人はその場に平伏したが、山犬の死骸《しがい》を見て跳び起きる。
「慌てるな、吾が退治した、どうやら山頂には鬼神が棲《す》んでおり、吾を襲わせたようだ、無礼な鬼神、今から吾が退治に行く」
男具那の眼から、見えるか見えないほどの青い閃光《せんこう》が走った。
「おう、参りましょう、鬼神であろうと、王子を襲わせるとは許し難い、やつかれが叩き斬ってやります」
大竹は三尺の鉄剣を叩いた。
「慌てるな、今から作戦を立てる、いいか、頂上まで灌木《かんぼく》の中を這《は》って行ったとしても一|刻《とき》(二時間)じゃ、そこで三方から登ることにした、大竹と小竹は右から登る、吾は左手から、青魚はこの獣途《けものみち》じゃ、狐であろうと、熊であろうと襲って来る奴《やつ》は突き殺せ、叫び声をあげよ、吾は居場所を告げる時が来たなら笛を吹く、吾の笛を耳にすれば、みな、吾のもとに集まれ、分ったな」
「おう、分りました」
青魚が右手を挙げると大竹と小竹も呼応した。
男具那《おぐな》は三人と別れ左手の樹林に入った。気のせいか、これまでよりもいっそう暗い気がした。木刀で灌木を払いながら進んだが獣途もない。時々身を伏せて襲撃者の気配を探ったが、聞えるのは青魚たちが進む音だけだ。
ところどころ崖《がけ》に近い急|勾配《こうばい》の岩肌に遭遇する。これでは獣も通らないのも無理はない。男具那は岩の割れ目に皮履《かわぐつ》の先を突っ込み、ところどころに生えている灌木を掴《つか》んで登った。山登りは得意中の得意だった。急勾配は三ヶ所ほどあったが、せいぜい十丈から十五丈である。最後の急勾配を登り終えた時はさすがに胸の鼓動は肺を突き破るほど激しかった。
思わず大きな息を吸い込んだ時、男具那の油断を見抜いたように、矢のような速さで獣が飛んで来た。刀を抜く暇はなかった。
男具那は顔と胸を防ぐべく木刀を垂直に立てた。
五尺ほど先から跳んで男具那を襲った山犬が、男具那の喉《のど》に咬《か》みつこうとして木刀を咬んだ。男具那は衝撃で一歩|退《しりぞ》いた。あと一歩|退《さが》れば崖に近い急勾配である。岩肌だし、転落したなら男具那の生命も危うい。
木刀に咬みついた山犬の荒々しい毛が逆立ち、男具那の顎《あご》を刺す。
男具那は愕然《がくぜん》とした。今木刀を咬み、それを砕こうと風神に似た荒い息を吐いているのは山犬ではなく間違いなく狼だった。
何を喰《く》って生きているのか狼の息は生臭く、男具那の胸中を腐らせそうだ。
あまりにも強く木刀を咬んだため、狼の牙《きば》は木刀から抜けない。だが三尺以上もある狼は後脚で地を蹴《け》り、凄《すご》い力で男具那を押す。ほとんど棒立ちに近い男具那は脚に力を入れられない。腰が坐《すわ》らずジリジリ後退する。それに臭い息を吸い込むと、一瞬|眩暈《めまい》がしそうになるのだ。珍しく男具那は恐怖心を抱いた。
崖に近い急勾配を夢中で登ったので、その上に敵が待っているとは考える余裕がなかった。
未熟、と男具那は悔いた。
もはや、後ろに倒れて狼を下に放り投げることも不可能だ。勘だが男具那と這い上がった場所との距離は二尺と離れていない。ここで巴投《ともえな》げをかければ狼と一緒に自分自身も転落する。木刀を捻《ね》じろうとしたが狼はびくともしなかった。かえって押される。
倭男具那よ、そんな獣を相手に十九歳の短い生命を終えるのか、うつけ者……と天上のどこからか声がした。厳しいが女人《によにん》に似た優しい声だ。ふとした時、男具那はその声を聞くことがある。声の主が何者なのか男具那には分らない。風邪をこじらし、身体《からだ》が火のように燃え、痰《たん》が喉を塞《ふさ》ぎ、意識を失いかけた時なども、男具那はこの世のものとも思えぬ妙《たえ》なる声を耳にした。
男具那は勇気が湧《わ》いて来た。懸命にこらえながら狼の眼を睨《にら》んだ。男具那の眼光が青く光り敵の眼を射る。だが魔神のような狼も負けてはいなかった。男具那の眼光を受けた狼の眼に血が滲《にじ》み始めた。白眼の部分が赤くなり、眼が燃えているようだ。
男具那はもう狼を見ていなかった。彼が睨んでいるのは炎である。彼の眼から青い光が水のように飛び眼の前の炎を消そうとする。
消しかけた時、男具那は自分の眼に痛みを覚えた。眼に集めた身体中の気が尽きようとしているのだ。再び炎が燃え始める。
また声が聞えた。
「男具那よ、そなたは何のために長い脚を与えられている、野見宿禰《のみのすくね》が当麻蹶速《たいまのくえはや》に勝ったのも宿禰の脚がちょっと長かったからではないか、そのことを忘れたのか……」
その声に男具那は力が尽きようとしている勝負に活路を見出《みいだ》した。
男具那は棒立ちのまま右脚を蹴上《けあ》げた。無念無想の蹴りだった。
男具那の膝頭《ひざがしら》はわずかに木刀に触れたが皮の履先《くつさき》は、後ろの両脚を踏んばり、男具那の胸の衣に爪《つめ》をたてている狼の股間《こかん》に鋭く喰い込んでいた。足の指が肉の塊を切断する異様な感覚をはっきり捉《とら》えた。
凄《すさ》まじい嘔吐《おうと》にも似た悲鳴を耳にすると同時に男具那は沈んでいた。
狼は男具那の衣を引き千切り横転した。起き上がろうと|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》く間も与えず樫《かし》の木刀が狼の頭蓋骨《ずがいこつ》を打ち砕いた。男具那は二度、三度と擲《なぐ》りつけた。狼の眼玉が飛び出て崖下へ飛んで行く。
「狼だぞ、気をつけろ!」
男具那は青魚たちを思い、大声で叫んだ。
右手の方で悲鳴が聞え、狼の咆哮《ほうこう》が聞えて来た。
「青魚か?」
「やつかれは大丈夫、王子は?」
青魚の声がすぐ近くで聞えて来た。
「巨大な狼を斃《たお》した、大竹、小竹が心配だ、行け! 吾《われ》は登る」
「王子、御注意下さい」
青魚は大竹、小竹を救助すべく右の方へ進んだ。
男具那は汗塗《あせまみ》れの顔を右腕で拭《ふ》いた。残っていた竹筒の水を飲み干した。
山頂の鬼神は獣途《けものみち》を進む青魚を攻撃しなかった。そのあたりに鬼神の作戦が計算できる。たぶん敵は、男具那たちが獣途を捨て、左右に分れて登って来ると判断したのだろう。
男具那の進路を見破ったのは見事だが、敵も考え過ぎた。
いや、そうではない、と男具那は不敵な笑みを浮かべて山頂を睨んだ。
三匹の山犬を殺された敵には、もう二匹の狼しかいなかった。もし三匹の狼がおれば、当然、青魚の進む獣途にも狼を放っているはずである。
頂上まで約二百歩の距離に迫った時、男具那は崖《がけ》に突き当った。二十丈はある完全な崖でとうてい登れなかった。
男具那は右手の方に進んだ。纏《まつわ》りつくような灌木《かんぼく》や熊笹を払い除《の》けて進まねばならない。約四半|刻《とき》(三十分)ほど行くと獣途に出た。
男具那は地に耳を当て周囲の様子を探った。頂上の方からは何の気配も感じられないが、右下の方で音がした。荒い息遣いも聞えて来るような気がする。大竹と小竹と、二人の様子を見に行った青魚のようだった。
男具那は自分の居場所を知らせることにした。だが笛などを吹けば鬼神に教えることになる。男具那は矢をつがえると放った。
真上に飛んだ矢は高い杉の小枝を貫き、引き裂き、枝と一緒に落ちて来た。落ちた場所は十歩も離れていない。
男具那は傍の杉に登り、枝に腰をかけて青魚たちを待った。獣に襲われないために高所を選んだのである。
間もなく青魚と大竹が小竹をかついで現われた。小竹の衣服は血塗れで息が絶えているようだった。
二人が杉の木の傍に来た時、男具那は口笛を鳴らし、無言で飛び降りた。
「王子、申し訳ありません」
大竹は平伏して、防ぎ得なかったことを詫《わ》びた。
大竹の説明によると狼は五尺以上も跳躍し、小竹の喉《のど》を咬《か》み切った、という。
大竹が慌てて刀を抜くと、狼は反転して大竹を襲った。太腿《ふともも》を咬まれながら大竹は狼の頸部《けいぶ》を突き刺して殺した。
咬まれた場所は布で縛っているが、ここまで歩くのがやっとのようだった。袴《はかま》は大きく裂けており、狼の襲撃がいかに凄まじかったかを物語っていた。
「大竹、普通の者には、あの狼は防ぎ切れぬ、人を殺すべく特別に訓練した人喰い狼だ、吾は必ず小竹の仇《かたき》を討つ、どんな鬼神であろうと獣に人を殺させるとは許せぬ、小竹、無念であったろう、今しばし待て、仇は討つ」
男具那は冷たくなった小竹の手を握ると、大竹に、小竹の傍にいてやれ、と命じた。
「王子、やつかれはまだ闘えます」
大竹は立とうとしたがよろけ、木に縋《すが》った。
「大竹、無理をするな、吾と王子とで鬼神は斃す、おぬしが傍にいてやらなければ小竹は淋《さび》しがるぞ、分ったな」
大竹は膝を折ると号泣した。
まなじりを決し、登ろうとする青魚を制した男具那は地に耳を当てると頂上の気配を窺《うかが》った。無気味なほど静かで、獣はもちろん、鳥の気配も感じられなかった。
「鬼神は待ち構えている、だが地の中じゃ、深い穴に潜み、息を殺しておる」
「深い穴に? では家の中に……」
と青魚は鸚鵡返《おうむがえ》しに呟《つぶや》いた。
「家か、それとも特別に掘った穴の中か、それは分らぬ」
「鬼神が地の中に潜んでいる、という話はあまり聞いたことがありません、九州島の土蜘蛛《つちぐも》などは大和の民よりも地の中に住んでいる時刻が長いとは聞いておりますが、土蜘蛛は人間、鬼神ではありません」
青魚の言葉に男具那は大きく頷《うなず》いた。
「そのとおりだ、どうも人間臭い、鬼神は主に草木の中に棲《す》む、だが、油断はするな」
と男具那は刀の柄《つか》を叩《たた》いた。
当時の王家や豪族の首長たちは、高床《たかゆか》式の家に住んでいた。穀物などを貯蔵する倉庫も高床式である。だが庶民は土地に穴を掘り藁《わら》や葦《あし》で屋根を葺《ふ》いた家に住んでいた。竪穴《たてあな》式住居である。家の周囲には溝などを掘って雨が入らないようになっている。今でいう地下室と思えばよいが、部屋には囲炉裏などがあり、冬は想像以上に暖かい。冷たい風が部屋を襲わないからである。
豪族たちの高床式の屋形は、恰好《かつこう》は良く、庶民に権威を誇示してはいるが、寒気から家を守るという点では、竪穴式の方がましであった。
敵が土中に潜んでいると男具那が推測したのは、当時の家を考えると自然である。
それに土中におれば、男具那の耳がいくら優れていても相手の気配を感じることはできない。
「王子、もし敵が土中に潜んでいるとすると、敵は我らを監視できないのではないでしょうか?」
「そのとおりだ、ただ土壁に耳を当て我らが近づくのを待っておるに違いない、敵が我らに気づくのは二十歩ほど近づいた時じゃ、いいか、それまでは獣途《けものみち》を這《は》い登り、敵の棲家《すみか》を発見したなら一気に突入する」
「敵の作戦の裏をかくわけですか、お見事です、参りましょう」
青魚は今更のように男具那の頭の良さを再認識したようであった。
男具那と青魚は半刻後、樹林を出た。頂上附近は灌木《かんぼく》と岩であった。棲家らしい家は見つからなかった。
三百丈の山頂は風が強く寒気が身にしみる。男具那と青魚はお互いの考えを探り合うように顔を見合わせた。問題は巨大な岩であった。ゆうに一丈以上はあった。そういう岩が三つほど集まっている。
「問題はあの岩下に潜んでいるかどうかだな」
「やつかれもそう思います」
「だが、狼や山犬を飼っていた、樹林の中かもしれぬぞ」
「いちおう調べましょうか?」
「いや、その必要はない」
と男具那は首を横に振った。
かりに敵が樹林の中に穴を掘り、潜んでいたとしても、頂上近くの岩場は、男具那たちにとって砦《とりで》となるのだ。
「青魚、敵は岩場に穴を掘っている、と考えた方がよい、大事なのはあそこを制圧することだ、吾は矢をつがえて進む、そちは刀で行け、行くぞ」
「はっ、気をつけて下さい」
男具那と青魚は勇んで岩場に向った。
十歩ほど進んだ時、男具那は、
「おう、獣途だ」
と指を差した。
かなり広い獣途が斜めに走っている。湾曲しながら、行く先は岩場のようだった。男具那はいつでも矢を放てるようにゆっくり進んだ。ここまで来たのだ、慌てる必要はなかった。
岩場にあと二十歩まで迫った時、空気を裂くような鋭い羽撃《はばた》きとともに、これまで見たこともない巨大な鷹《たか》が舞い上がった。空中で一回転すると石が落下して来るような速度で男具那に襲いかかって来た。男具那も、敵が鷹を使うとは予想していなかった。
狼狽《ろうばい》を鎮めるべく大きく息を吸い込むと矢を放った。だが鷹の速度は男具那が予想したよりも速い。矢は鷹の数本の羽を散らせたが空しく飛び去る。
二本目をつがえる間はなかった。刀を抜く暇もない。
「青魚、切れ!」
男具那はうつ伏せに頭を抱えながら獣途に倒れた。耳が聞えなくなるほどの羽撃きと裂帛《れつぱく》の気合いが聞えた。鷹の爪《つめ》は男具那の上衣《うわぎ》を破り肩を傷つけたが、青魚の刀に邪魔されて首まで抉《えぐ》れない。鷹は再び舞い上がる。
「王子、やつかれの後ろに……」
自分の身体《からだ》で庇《かば》おうとした青魚を男具那は右腕で払った。
「青魚、鏡で鷹の眼を潰《つぶ》す、今度は斬《き》れる」
男具那は胸に吊《つる》していた銅鏡を取り出した。鏡の縁が三角に刻まれ、道教の神と獣が彫り込まれた大きな鏡だ。
現在では三角縁神獣鏡《さんかくぶちしんじゆうきよう》と呼ばれている。
陽はちょうど真上よりやや西にあった。男具那が鏡の中に陽を捉《とら》えた時、鷹は真さかさまに降りて来た。男具那は鏡の中の日光を鷹に向けた。
鏡から放たれた光が鷹の眼を射た。
男具那の頭上十丈ほどに迫っていた巨大な鷹は眼が眩《くら》んだ。そのまま狙《ねら》いを定めたように爪を剥《む》き出し男具那の頭上を襲ったが、眼が見えないので、男具那の俊敏な動作について行けなかった。身体を横に倒した男具那の五寸ほど上を空しく飛び、爪を灌木に引っかけ羽撃きとともに一回転した。
青魚は飛び立つ余裕を鷹に与えなかった。
刀を振りかざしながら跳躍した。鋭い嘴《くちばし》で爪に引っかかった灌木の小枝を引き裂いている鷹の首を断ち斬った。首が飛んだが大鷹はまだ羽撃いている。首からは血が噴出し一瞬、男具那たちの周りを薄赤く染めた。
「出たぞ、青魚」
血の幕の彼方《かなた》に人影を認めた男具那は弓に矢をつがえると射た。
わずか二十歩の距離である。矢が人影の真ん中に吸い込まれたと思ったとたん、赤色に似た光が煌《きら》めき、男具那の矢は二つに斬られて落ちた。男具那と青魚は敵の姿をはっきりと見た。
身長は五尺五寸(一六五センチ)、年齢は五十をとっくに過ぎた老人だ。赤銅《しやくどう》色に灼《や》けた顔には深い皺《しわ》が刻み込まれ、髪はほとんど白い。だが眼光は炯々《けいけい》とし、手には剣身だけで三尺三寸(一〇〇センチ)はある磨き抜かれた銅剣を握っていた。
四世紀の前半頃まではまだ銅剣が多かったが、今は剣でも刀でも鉄である。銅剣は一時代前の武器だった。
「そちが音羽山の鬼神か、山犬や狼などの獣を使い、それでもかなわぬと見ると、鷹まで使って我らを襲わせた、卑劣な鬼神、人間の恰好《かつこう》をしておるが、見るに耐えない悪鬼であろう、さあ、この神の鏡の霊光を受けて、醜い姿を見せろ」
陽の光を受けた男具那の鏡の中から眩《まぶ》しい光が老人の眼を射た。一瞬老人は眼を閉じたが、すぐ銅剣で光を受けた。銅剣が輝き、まともに眼を開いておれない。
鏡の攻撃は相打ちだった。それに陽の光を眼に浴びたにもかかわらず、老人は相変らず人間の姿である。
「おう、そちは人間か?」
「当り前だ、吾《われ》はたった一人、おぬしは大勢の部下を率いておる、いくら吾が剣に熟達していても大勢の敵には勝てぬ、巨大な力に向うにはそれなりの味方が必要、だから吾は山犬、狼、鷹を使った、だが六尺は宙を跳ぶ狼も、そなたには敗れたようだ、倭《やまと》の男具那か、噂《うわさ》以上の王子じゃ、そなたが来るのを待っていたぞ、さあ来い、一人でも二人でも構わぬぞ」
老人は剣を構えるとゆっくり近づいて来た。太い銅剣である。だが男具那の刀は、中国の鉄《てつ》|※[#「金+廷」、unicode92cc]《てい》である。朝鮮半島を経て大和に輸入した強靱《きようじん》な鉄から作ったのだ。
何度か刀身と刀身が火花を散らせば、銅剣は鉄刀に勝てない。
男具那は前に出ようとする青魚を制した。
「吾を巻向宮《まきむくのみや》の王、オシロワケ王の王子、男具那と知っているおぬしは何者だ、名を名乗れ、名も知らぬ老人を、黄泉《よみ》の国に追いやるわけにはゆかぬ」
「男具那王子、そなたが吾の剣に貫かれ、黄泉の国に行く前に教えてやろう、さあ、二人で来い」
「生意気な爺奴《じじいめ》、許さぬ」
憤《いか》りで顔を真赫《まつか》にした青魚は老人目がけて跳んだ。剣もろとも粉砕するつもりで刀を振り下ろした。老人の動作は獣のようだった。
横に跳ぶと、勢いあまってたたらを踏んだ青魚の背に剣を浴びせようとした。そんな老人の剣に一瞬の乱れが生じたのは男具那が突きを入れたからである。老人の剣は青魚の背を掠《かす》めながら一回転し男具那の刀を払った。火花が散る。
「青魚、見ておれ、この男は吾が斃《たお》す、たとえ、腕が互角でも、鉄刀と銅剣では勝負はついておる、二度と邪魔をするな」
男具那は青魚を叱咤《しつた》した。
「申し訳ありません」
青魚が詫《わ》びたのは、先制攻撃を無造作に躱《かわ》され、無様な姿を見せたせいもあった。
青魚は、男具那が危うくなったら、いつでも攻撃できるように刀を構えた。
男具那は老人の身の軽さは自分と同程度と視た。おそらく十年以上も前から山に入り、走り廻《まわ》っていたに違いない。
身の軽さが同程度なら、相手の剣と刀を合わせ、剣を叩《たた》き折るのが一番だった。
男具那は慎重に近づいて行った。老人は男具那の速度に合わせて後ろに退《さが》る。巨大な岩の傍まで退った時、身を縮めるようにして突いて来た。刀で払う余裕はなかった。危うく身を躱したが鋭い刃《やいば》が衣服を破った。
体勢を整える間もなく剣が顔面に飛んで来た。男具那は顔を捻《ひね》って躱すと刀を撥《は》ね上げた。男具那の刀は宙を斬《き》り、老人は岩場まで退っていた。
容易ならぬ相手だった。男具那の刀は剣と打ち合うことができないのだ。
何となく首が熱い。熱い汗が首から胸に流れ落ちた。首を捻った時、相手の銅剣が首筋を掠ったのである。老人の剣の腕は男具那より優れているかもしれない。男具那は初めて恐怖心に似た寒気を感じた。
敵との距離が離れたので青魚は刀の代りに弓に矢をつがえていた。男具那の合図があればいつでも放てる気配だった。
さすがは男具那が信頼している警護隊長だけのことはあった。
男具那は勇気を奮い起こすと老人との間合を詰めた。敵は後ろに退れない。左右に動くか上に跳ぶかであった。それに敵の攻撃は突き一本だ。敵も銅剣の弱点は知っているはずだった。
男具那は、二人の気合いが間合の場で炸裂《さくれつ》する時を計りながら岩を観察した。半ばあたりがわずかに抉《えぐ》られている。もし老人が跳び上がったとしたなら足がかかるあたりだ。
男具那は老人が岩場に退った理由を知った。男具那はそれを知った時、自分が勝者となるのを感じた。
間合の気が炸裂した時、男具那は裂帛《れつぱく》の気合いとともに身を構えて突きを入れた。老人に向って突いたのではない。刀の切っ先は途中から上に向いていた。刃は老人の足首を撥ね、上から振り下ろされた剣を受けた。
剣は二つに折れ老人は低い呻《うめ》き声を放ちながら岩場から転落した。
「男具那王子、それ以上近寄るな」
右足を斬り落されているにもかかわらず、老人の声は力強かった。彼は折れた銅剣の刃を自分の首に当てていた。
足首からの出血が激しく赤銅色の顔が見る見る黝《あおぐろ》くなって行く。
「見事な読みと腕だ、いくら吾の腕が優れていても銅剣は銅剣、新しい刀には勝てぬ、これが時の流れか、王者の命運も時の流れには逆らえぬ、男具那、よく聴け、吾は前の王、イニシキノイリヒコ(印色之入日子)王の警護隊長であった丹波森尾《たんばのもりお》じゃ、王はそなたの父、オシロワケ王子と王子の援護者、和珥氏や物部氏の圧力に耐えかね、王位を譲り渡し、自殺された、吾はそれ以来山野に入り、獣や鳥とともに住み、復讐《ふくしゆう》の機会を狙《ねら》っておった、だが味方は何といっても鳥と獣、復讐の機会はなかなか訪れぬ、そんな時、オシロワケ王の勇猛な王子、男具那が次々と山を荒らしている、という噂を耳にした、そこで吾はオシロワケ王の代りに男具那王子を殺し、イニシキノイリヒコ王の霊前に報告しようと、今日の日を待っていたのだ、だが時の流れは吾の王の命運を押し流し、また吾の生命も絶った、これも天の命と思えば恨みも消える、倭《やまと》の男具那、そなたは優れた王子だ、必ず身を全うし、偉大な王になって欲しい」
「待て、丹波森尾、吾の父、オシロワケ王はイリヒコ王の弟、共に母は丹波のヒバスヒメだ、どうしてイリヒコ王から王位を奪い取ったりする、嘘《うそ》だ、おぬしは死ぬ前に嘘をつき、我らを苦しめようとしておる、そうであろう」
「男具那、おぬしはまだ若い、語ると長くなる、身体の半分の血がもう流れ出た、首を斬る力を失いそうだ、老いても前王の警護隊長、立派に死にたいのだ」
「お願いだ、父王が自分の兄王から王位を毟《むし》り取ったなど考えられぬ、もし証拠があれば教えて欲しい、丹波森尾、お願いだ、頭を下げる」
男具那は膝《ひざ》をつくとはっきり死相が現われた丹波森尾に頭を下げた。
「死ぬ前に嘘はつかぬ、一つだけいおう、三輪|山麓《さんろく》のイリ王朝は、女王を王とする九州の邪馬台国が東遷して来てから生まれた、その間にいろいろあったが、新しい王朝の王はイリを名乗っていた、初代はミマキイリビコイニヱ王(崇神《すじん》帝)、次はイクメイリビコイサチ王(垂仁《すいにん》帝)、三代目はイニシキノイリヒコ王なのだ、だがそちの父王の名はオシロワケ王、イリの名がついておらぬ、なぜだ? 不思議に思ったことがないのか?」
「イリの名は古くさい、新しい時代に即応してつけられた、と耳にした」
丹波森尾は微《かす》かな含み嗤《わら》いを洩《も》らした。だが彼の眼にはすでに男具那や青魚の姿は映っていなかった。
残っていたわずかな意識は、自分が武人として死ぬことだけを認めていた。
「そうだ、オシロワケ王は、時の流ればかりを見、王位のためには、先祖からの名を捨てるような恥知らずの人物じゃ、腹は黒い、男具那王子よ、父王だからといって油断はするな、イニシキノイリヒコ王よ、お傍に参ります」
声が終るか終らないうちに丹波森尾の銅剣は、自分の頸部《けいぶ》を半分以上も斬っていた。
[#改ページ]
二
男具那《おぐな》が青魚《あおうお》とともに、死亡した小竹《こたけ》を山麓《さんろく》に運んだ時、陽は、二上山《ふたかみやま》の上に落ちていた。
二上山は葛城《かつらぎ》山系の北端にあり、大和川《やまとがわ》をはさんで生駒《いこま》山系と向い合っている。
雄岳《おだけ》・雌岳《めだけ》の二つの峯《みね》を持ち、夕空が茜《あかね》色に染まると、神秘的な優姿を西の空に浮かび上がらせる。大和に住む人々は、二上山は黄泉《よみ》の国に通じる門と信じていた。
山麓の川の傍《そば》には馬を用意した三人の従者が男具那たちを待っていた。
馬は二十年ほど前に朝鮮半島から倭国《わこく》に入って来たばかりだ。
畿内《きない》で飼育されているのは河内《かわち》の古市《ふるいち》近辺の丘陵地帯だった。河内の有力首長たちは戦《いくさ》の場合、馬に乗っている。武器も大和より進んでおり、甲冑《かつちゆう》も優れていた。大和に入っている馬の数は少ない。
巻向宮《まきむくのみや》の北方に興った和珥《わに》氏は河内の新興勢力と手を結び、今では容易ならぬ力を保有している。
和珥氏の支族の出である青魚が男具那の警護隊長になっているのも、三輪《みわ》山麓の勢力が和珥氏と友好関係を保とうとしている表われだった。
実際に和珥氏は場合によればイリ王朝を脅かす存在になりかねなかった。
その点青魚は男具那の人柄に惹《ひ》かれ、政治の動きには関係なく、男具那に忠節を尽していた。
男具那は傷を負った大竹《おおたけ》を馬に乗せた。小竹の遺体は草で包み従者たちが担いだ。
大竹は、やつかれ(臣)は歩けます、と何度か馬から降りようとしたが、男具那は、吾《われ》の命令がきけぬか、と歩くことを許さなかった。
男具那にはそういう優しさがあった。部下が男具那を慕い、忠節を尽すのも、男具那が勇と優を備えているからである。
男具那の瞼《まぶた》には折れた銅剣で自分の首を切った丹波森尾《たんばのもりお》の壮烈な死に様が焼きついていた。
丹波森尾は前王、イニシキノイリヒコ(印色之入日子)は、和珥氏や物部氏の圧力に耐えかね、王位をオシロワケ王に譲り、自殺した、といった。森尾は復讐《ふくしゆう》を決意し山に籠《こも》った、という。
オシロワケ王の兄、イニシキノイリヒコ王子が一時王位に即《つ》いたことは男具那も知っていた。病弱のため、弟に王位を譲り間もなく死亡したといわれている。男具那が生まれる十年ほど前のことで、男具那は伯父《おじ》王を知らない。
「馬鹿な、吾の父が……」
男具那は前方を睨《にら》みながら唇を噛《か》んだ。
ただ男具那の父のオシロワケ王が王になるまで、三輪山麓の王たちにはイリの名がついていた。
新しい西方の勢力が大和に入り込んで来た、ということを示すために、イリの名がついた、と男具那は聞いていた。
女王を盟主とする邪馬台国《やまたいこく》という国だった。
九州の邪馬台国の東遷、三輪山麓におけるイリ王朝の始まりは、男具那にとっては遥《はる》か昔のことだった。
宮の語り部の話では、邪馬台国が吉備国《きびのくに》などと同盟を結びながら大和に入って来たのは百年以上も前である。
約百年前にヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)を王とする初期大和政権が三輪山麓に宮を造った。
モモソヒメは邪馬台国の女王・卑弥呼《ひみこ》の親族、台与《とよ》の妹ともいわれている。
だが古代の百年は現代の数百年に匹敵する。文字もほとんどない時代で、人々は過去のことを語り部たちによって知ることができるのだ。
本当に妹であったかどうかは確かめることはできない。史実は彼方《かなた》の霧の中に消えかかっているのだ。
ただ、三輪山麓に生まれたイリ王朝の最初の王が、女王であったことだけは間違いない。八世紀にできた『日本書紀』や『古事記』の編纂者《へんさんしや》はそのことを、すでに微かな伝承としてしか知らなかった。彼らはためらったあげく、モモソヒメと呼ばれた女王を抹殺し、イリ王朝の初代王を、ミマキイリビコイニヱ王(崇神《すじん》帝)としてしまった。
だが男具那の頃には、モモソヒメが王であったことはよく知られていた。
モモソヒメ王は卑弥呼と同じく、巫女《みこ》的な女王で、神の宣託を告げていたが、三輪山の神、大物主《おおものぬし》に呪《のろ》われ、刀子《とうす》(小刀)で、大事な女の部分を突き、死亡してしまった。
ある語り部たちによると、頭がおかしくなり、自分は大物主の妻になった、と信じ込んだらしい。
三輪山の大物主は蛇に象徴される自然の神であった。
九州の邪馬台国が東遷し、大和に入り込む前から、大和はもちろん周囲の人たちに信仰されていたのである。
大和の神、大物主にとってモモソヒメは、遠い異国から来た巫女王だった。大物主がモモソヒメを拒否したのも自然であろう。
邪馬台国というのは、いったいどういう国なのだろうか。
卑弥呼を盟主とする九州の倭《わ》連合国の実体については、男具那も漠とした知識しかなかった。
大物主を祀《まつ》っている三輪氏の長老の話では、卑弥呼は天の神々のお告げを人々に伝えていた。邪馬台国が生まれる前、紀元二世紀頃は、畿内・瀬戸内海《せとないかい》沿岸、また九州の国々は戦ばかりしていた。朝鮮半島から鉄器が伝えられ、生産力が飛躍的に向上し、武器も強力になったので、九州の国々では、お互いの領土を拡げようとして戦をしたのだ。
鉄の農具があれば、これまで開墾できなかった荒地も田畑にできる。各国の王が領土を拡げようとして戦をしたのも時代の流れが生んだ現象だった。
だが何十年と戦えば、王も兵士も戦に飽きる。なかには逃亡する兵士も出て来る。
当時の兵士のほとんどは農兵である。
逃亡の兵士たちや戦に疲れた人々が神の宣託者である卑弥呼のもとに集まったのも無理はない。
卑弥呼のもとに集まった信者は、卑弥呼の宣託や呪力《じゆりよく》の虜《とりこ》となった。時がたつうちに次第に卑弥呼の信者は増えた。老若男女、すべての信者たちは卑弥呼を崇拝し、卑弥呼のためには生命《いのち》も要らない、と思うようになった。
卑弥呼は賢い女性で、たんに神の宣託を伝えるだけではなく、中国と交易していた自分の父が伝えた、道教思想を学んでいた。
罪のある人間には天の神の罰がくだる、と説き、人間の罪についても語った。
卑弥呼の狂信者が増えたのも無理はない。いつか狂信者の数は万を数えるようになった。
卑弥呼の狂信者たちは、いつか強力な軍隊になっていた。戦ばかりしていた各国の王が気づいた時、すでに卑弥呼はたんなる巫女ではなく、狂信者軍団に取り囲まれた女王であった。それに、各国の王の中にも卑弥呼の信者は多い。
一人が、卑弥呼を倭連合国の女王に、といい出すと、その声は怒濤《どとう》のように九州各国に伝わった。
卑弥呼に従わなかったのは、まだ天の神など信じない獰猛《どうもう》な熊襲《くまそ》族だけだった。
結局、熊襲・隼人《はやと》族を除いた中部九州以北の国々の王が、卑弥呼を共立し、倭連合国の女王にしたのだ。
卑弥呼は魏《ぎ》王朝の威力を借りて、熊襲族の狗奴《くな》国と戦った。相手は勇猛でなかなか勝敗がつかない。三世紀半ば、高齢の卑弥呼は亡くなり、男王が卑弥呼の跡を継いだ。だが倭連合国の王たちは男王に従わず再び内乱が始まった。
戦に飽きていた王たちは卑弥呼の血縁者である十三歳の台与《とよ》を連合国の王にした。その結果、倭連合国は再び平和になった。だが南の狗奴国は北進を狙《ねら》っている。そんな時、魏王朝が斃《たお》れ、魏の有力者|司馬炎《しばえん》が西晋《せいしん》王朝を建てた。
卑弥呼は魏と親しく「親魏倭王」の金印を貰《もら》っていた。倭連合国は魏の力を頼りにしていたのだ。台与は西晋王朝に使者を送ったが相手にされない。
台与を女王とする倭連合国が、好《よ》き土地を求めて東に移り始めたのは三世紀の後半だった。
安芸《あき》・吉備《きび》と移り、最終的には播磨《はりま》を味方につけ、二百七、八十年頃大和に入ったのだ。
これがモモソヒメ王を初代王とするイリ王朝の始まりである。
当時の河内・大和は武器において、九州から来た倭連合国の比ではなかった。倭連合国は銅剣・鉄剣・鉄刀だが、大和・河内ではまだ石剣・石槍《いしやり》などが主な武器として使われていたのである。
大和側が新しくやって来た倭連合国に敗れたのも無理はない。
イリ王朝は先にも述べたように、モモソヒメ王が錯乱状態で死亡した後、男王が立った。初代とされている崇神帝である。二代目はオホビコ(大彦)の娘、ミマキヒメ(御間城姫)に産ませたイクメイリビコイサチ王(垂仁《すいにん》帝)で、三代目がイニシキノイリヒコ王だった。
第四代目が弟のオシロワケ王である。
二人は同母兄弟で、母は丹波《たんば》のヒバスヒメ(比婆須媛)だ。
同母兄弟なのに、王位欲しさに兄王を自殺に追い込んだりするだろうか。
男具那は暗い眼を薄暗くなった二上山に向けた。
当時は血で血を洗う政争の時代だった。
邪馬台国の東遷以来百年余、再び新しい西方の勢力が河内に入り込んで来ている。
丹波森尾の言葉が耳に残っているのは男具那だけではなかった。和珥《わに》氏の支族の出である青魚の表情も、心なしか暗い。
男具那は森尾の声を吹き飛ばすように大きな声でいった。
「青魚、小竹を親に渡してやろう、このまま屋形《やかた》に戻っても仕方がない」
「小竹の親も喜ぶでしょう」
男具那の気持が通じたのか、青魚も力強く答えた。
小竹の出である久米《くめ》(来目)氏は宇陀《うだ》の山人族だった。眼の周りを墨で隈《くま》どった勇猛な集団で、イリ王朝が大和に入って来た時は、最後まで反抗し、戦った。
初瀬(泊瀬)渓流や周辺の山々を押えていたが、本拠地である宇陀にまで追い詰められ、このまま戦えば一族が全滅することを憂え、イリ王朝に降服したのである。
目の縁を隈どっているので久米氏と名乗るようになったのだ。
男具那の一行は闇《やみ》の中を黙々と進んだ。狩りや山登りが好きで、三輪山周辺の山野を駆け廻《まわ》っている男具那は、道をよく知っている。一行は一|刻《とき》半(三時間)で小竹の両親の屋形に到着した。
一族の家の周囲は柵《さく》で囲んでいる。旧暦三月上旬の月は磨き抜いた鎌のようであった。
思い出したように狼や山犬が吠《ほ》える。とくに狼の遠吠えは無気味だ。夜鳥が羽撃《はばた》き、闇を裂くような声で啼《な》いた。
それを合図のように、何者じゃ? という声が柵門の内側から飛んで来た。
「おう、吾《われ》は男具那王子だ」
「男具那王子様、まことでございますか?」
「火を燃やせ、鬼神が放った狼に噛《か》み殺された押竹《おしたけ》の遺体を運んで来た」
稲束に魚油がかけられ火が燃えた。
屋形内から続々と人が跳び出して来た。小竹は愛称で、押竹が本名である。
女性の叫び声も聞える。
凄《すさ》まじい声で数匹の犬が吠えた。
「鎮まれ、久米族の首長|猪喰《いくい》の子、押竹がお仕えする男具那王子様がお出《いで》になったのじゃ、見苦しく慌てるな」
松明《たいまつ》を持った従者を従えた老人が現われた。眼の周辺だけではなく、頬《ほお》にも入れ墨をしているので異様な顔だ。
男具那は、青魚に、押竹の遺体を門の前に置くように命じた。
猪喰は押竹の遺体を一瞥《いちべつ》したが、柵門に立っている男具那を見ると、地上に平伏する。
松明を持った従者が蹲《うずくま》り、後方にいた久米族たちがいっせいに蹲る。
「男具那王子様にお訊《き》き致します、やつかれの子、押竹は勇敢に戦ったでしょうか、久米族の首長の子が、狼に殺されるとは……」
噴出する感情を押し殺すように猪喰は太い声を絞った。
「おう、勇敢に戦ったぞ、人を喰《く》うべく訓練された人喰い狼だった、葛城大竹《かつらぎのおおたけ》も深傷《ふかで》を負った、仇《かたき》は吾が討った、鬼神も斃《たお》した」
「おう、勇敢に戦いましたか、それに仇まで討っていただいたとは……久米猪喰《くめのいくい》、喜んでおります」
「心が安まるように葬ってやれ」
男具那は一本の矢を土に立てた。
「押竹の傍にこの矢を埋めるように、黄泉《よみ》の鬼神も近づけまい、勇敢な久米族に栄光あれ」
男具那の声は闇の山野に木霊《こだま》する。
「有難うございます」
猪喰が額を土にこすりつけた。
男具那は馬に乗った。
「さらばじゃ」
「神々よ、王子様を守らせ給《たま》え」
猪喰の言葉に庭に蹲っている一同が唱和する。
男具那は青魚とともに初瀬川に向った。
彼方《かなた》から押竹の一族の号泣する声が聞えて来た。
初瀬川に着いた男具那は馬から降り、衣服を脱ぐと禊《みそ》ぎをした。当時は死者とともに過すと清冽《せいれつ》な川で身体《からだ》を洗い、身の穢《けが》れを拭《ぬぐ》い去る習慣があった。
男具那は生前押竹を可愛《かわい》がっていた。だが死亡すると押竹には死の鬼神が棲《す》むようになる。死の鬼神はまだ押竹の身体に宿っている。悪気はないのだが、生前親しかった者に乗り移ろうとする。もし乗り移られると男具那も死ぬのだ。
今でいう友引《ともびき》に似ている。
当時は川水で身体を洗うと、死の鬼神も乗り移れない、と信じられていた。
夜になると三月上旬の渓谷の水は冬と変りがない。身体が凍りつくような冷たさだった。男具那は手を合わせ冷水に耐えた。身体が痺《しび》れそうになった時、獣のように叫び、周囲の悪霊を追い払う。岩の上に立った男具那は青魚が渡した新しい麻布で全身を摩擦する。
肌が破れ、血が噴き出すほど摩擦すると身体が暖まって来た。
狼や山犬の血で汚れた衣服は川に捨てた。こういう時のため、馬を引いている従者に用意させている厚い麻布の衣服を身に纏《まと》った。
「青魚、大竹、始めよ」
男具那の言葉を待っていた青魚はすぐ全裸になり川に入る。
傷を負っている大竹も這《は》うようにして川に入った。
大竹には手を貸してやりたいが、そうすると禊ぎの効果が薄れるのだ。布で縛った傷口に冷水が沁《し》み、大竹は思わず呻《うめ》いた。
「大竹、頑張るのだ、吾が祈るぞ」
男具那は岩の上に坐《すわ》ると天の神に、死の鬼神を追い払い給え、と祈った。いつか男具那は無念無想の境地に入っていた。
渓流の音が優しい響きに変っている。
「王子、王子」
人の声に男具那は吾に返った。
衣服を纏った青魚と大竹が呼んでいた。
「おう、もう禊ぎを終えたのか、すぐ出たのではないか?」
男具那が睨《にら》むと二人は、身体が痺れるほど川につかっていた、と告げた。
男具那は二人がいくら呼んでも手を合わせたまま動かず、まるで岩になったようだった、といった。
男具那は全身に精気が漲《みなぎ》っているのを感じた。
「最後は馬だ」
男具那は従者たちに命じ、馬に川水を浴びせた。馬の場合は川につけたりはしない。渓谷の草を切り、川にひたして、馬を叩《たた》くのだ。その間、全員で、死の鬼神よ、去れ、と唱える。
禊ぎを済ませた一行は渓谷の道に沿って磐余《いわれ》の方に戻って行った。
丹波森尾は死ぬ前に、和珥氏と物部氏の圧力でオシロワケ王は、兄王から王位を奪った、と告げた。傍にいた和珥青魚《わにのあおうお》もそのことを聴いている。男具那の傍を歩く青魚がいつになく寡黙なのはそのせいかもしれなかった。
一行が初瀬渓谷を出、磐余から巻向宮の方に向った時、男具那は、森尾の言葉はあまり気にするな、といった。
はあ、と答えたが青魚の声は低い。
「これも時の流れなのだ、先王が自殺されたのは吾も知らなかった、いや、それも事実かどうかは分らぬ、ただ吾の祖父王の時代、和珥氏との間に戦があった、何とかおさまったが新興勢力と旧勢力の完全な和解は無理じゃ、いつの日か両者は衝突する、それが運命なのだ、ただ青魚の立場は微妙になる」
「男具那王子、やつかれはどんな場合でも王子の部下です、たとえ同族と戦うことになっても仕方ありません」
自分の忠節を示すように青魚は胸を叩いた。
「青魚、嬉《うれ》しく思うぞ」
男具那は暗い夜空に眼を向けた。欠けた月も雲に隠れ、雲間には星がまたたいている。
男具那の眼は天の神々の中でも最高神といわれる天皇《てんこう》大帝が住んでいる北極星に注がれた。北極星は昔から紫宮《しきゆう》と呼ばれ、天皇大帝には大勢の仙人が仕えている、という。
西の方の巨大な国から伝わった話らしい。
和珥《わに》氏と祖父王であるイクメイリビコイサチ(活目入彦五十狭茅)王が戦ったのは今から四、五十年も前のことであった。祖父王は新興勢力の和珥氏と友好関係を結ぶために、和珥氏のサホヒメ(狭穂姫)を正妃にした。
だが戦は避けられずサホヒメは王と同族の板挟みになり、悩んだあげく火の中に跳び込んで自殺した。サホヒメの兄、和珥氏の大将軍サホヒコ(狭穂彦)は戦死し、両者は和解したのだ。
和解の大きな原因は、サホヒメが戦を悲しみ自殺したことであった。
サホヒメには口のきけない王子、ホムツワケ(誉津別)がいたが、大人になっても喋《しやべ》れなかった。心配した王はいろいろな手を打ったが治らない。そんなある夜、夢に出雲《いずも》の大神(大国主《おおくにぬし》)が現われ、王と同じような高い宮を自分のために造ったなら王子は喋れるようになるだろう、と告げた。
王はホムツワケ王子にアケタツ(曙立)王とウナカミ(菟上)王をつけ、出雲に行かせた。ホムツワケ王子は出雲の大神を拝み、帰る途中ヒナガヒメ(肥長姫)と媾合《まぐわ》った。ヒメは蛇の化身だったがその霊力で王子は喋れるようになった。
王は喜び、出雲に大きな宮を建てた。
ホムツワケ王子は、喋れるようになったが、発音は完全ではなかった。もう六十を過ぎているが生存しており、生駒山に籠り、仙人のようになって暮していた。女人も仕えさせず、一人で炊事をし世捨人になっていた。
一方、正妃サホヒメが自殺した後、王は丹波、タタスミチノウシ(多多須美智能宇斯)王の娘ヒバスヒメを正妃にした。ヒメはイニシキノイリヒコ王・オシロワケ王・ヤマトヒメ(倭姫)などを産んだのだ。
男具那は青魚に、鬼神が丹波森尾であったことは、黙っているように、といった。
男具那の父オシロワケ王は、亡くなった男具那の母以外にも大勢の妃《きさき》を持ち、大勢の王子を産ませていた。
王子たちの中には、男具那の兄の大碓《おおうす》王子のように、次の王位に執着心を燃やしている者が多い。
男具那は王位に未練がないではないが、三輪|山麓《さんろく》の王権の状態、また大和北部の和珥氏、河内の有力豪族、葛城《かつらぎ》山麓の葛城氏などの勢力の勃興《ぼつこう》を考えると、王位争いにうつつを抜かしている時ではない、と考えていた。
ことに河内の勢力には油断ならないものがあった。難波《なにわ》の海に面している関係上、九州や朝鮮半島との交易も有利だし、刀や馬、甲冑《かつちゆう》など新しい武器を持った九州の勢力と婚姻を通じて同盟関係を結び、勢力を拡大しつつあった。
その点、三輪山麓の勢力が、同盟関係を結んでいるのは丹波・播磨、また友好関係を保っているのは吉備・紀《き》などで、両者の勢力は現在のところ伯仲していた。
当然、大和北部の和珥、葛城山麓の葛城氏の動向が将来を大きく左右する。
男具那は父王に、その点を強調しているが、オシロワケ王は過去の威勢に胡座《あぐら》をかき、
「そちはまだ若い、政治を論ずるには十年早過ぎる」
と男具那の忠告に耳を貸さなかった。
若い男具那に忠告されるのが煙たいのかもしれなかった。
男具那は丹波森尾のことを父王には話さなかったが、いつか噂《うわさ》になり王の耳に入った。
久米《くめ》氏から洩《も》れ噂になったのだろう。その噂は男具那が音羽山《おとわやま》の鬼神を退治し、首を斬《き》ったら鬼神の首は空を飛び巻向宮の王の屋形に落ちた、というのであった。
青魚や大竹は絶対喋っていない。小竹の父も、すでに小竹が死んでいる以上、真相は知らない。それに小竹は丹波森尾に会うまでに狼に襲われ死亡していた。
男具那は山麓で馬を守っていた従者たちを一人一人呼び、勝手なことを想像し何か喋らなかったか? と訊《き》いたが、従者たちは、あの夜のことに関しては口を閉ざしています、と否定する。
男具那としては信じるより仕方がないが、丹波森尾が父王を恨《うら》み、復讐《ふくしゆう》の機会を窺《うかが》っていたのは間違いなかった。
男具那たちが去った後、怨念《おんねん》が首に生命を吹き込み、空中を飛んだのだろうか。事実とは思われないが、何となく恐ろしい噂だった。父王が噂を耳にしたのは数日後であった。
男具那は櫛角別《くしつのわけ》や大碓王子とともに父王の夕餉《ゆうげ》の席に呼ばれた。
父のオシロワケ王はすでに四十半ばだが、なかなかの精力家で妃も多い。当然、王子や王女も多いが、数日に一度、諸王子とともに朝餉を共にする。夕餉の席に呼ぶ時は、主に同母兄弟を呼ぶ。
酒宴の場合は王子以外に王女たちも集めるので、時には三十名を超すこともある。ただ酒宴は祭事や祝事の後なので、せいぜい月に一、二度だった。
最近、オシロワケ王が寵愛《ちようあい》しているのは、近江《おうみ》の三尾《みお》氏が後宮に献上した水歯郎媛《みずはのいらつめ》だった。まだ十七歳で、越《こし》人の血が入っているせいか、色が抜けるように白い。
男具那が父王の屋形に行くと、王は水歯郎媛を抱き抱えるようにして酒を飲んでいた。
長兄の櫛角別王子と次兄の大碓王子はすでに王と向い合い、酒の相手をしている。板床には麻布が敷かれ、下手には酒肴《しゆこう》を運ぶ女人が控えていた。
後ろから見ると大人しい櫛角別王子は肩が落ち、大碓王子は肩幅が広く張っている。
大碓王子は、男具那とあまり顔が似ていない。顎《あご》が張り、眼も男具那より細い。鼻梁《びりよう》もそんなに高くはなく鼻翼が盛り上がっていた。ただ眉《まゆ》と眼の離れ具合や額の広さなどはよく似ている。
男具那はもの心ついた頃から大碓王子によく苛《いじ》められた。その度に本当に二人は同じ母から生まれたのだろうか、と疑惑を抱いた。その疑惑は今も拭《ぬぐ》い去れない。顎が張って眼が細いところなど父王に似ている。母よりも父の血を強く受けているのかもしれないが、同母兄弟、しかも双生児とは誰が見ても見えなかった。真相を確かめたいと思いながら過して来たのだ。
母は吉備氏の血を引いた播磨の印南郡《いなみのこおり》の首長の娘である。男具那がもの心つくまでに亡くなり、印南川(加古《かこ》川)の傍に葬られている。
真相を知るには母の実家まで行き調べねばならない。
男具那がまだ調べていないのは、真相を知り、自分の疑惑が当っていたのを知った時の衝撃が恐《こわ》いからだった。
ただ男具那が武術の達人になったのは、大碓王子と絶えず喧嘩し、負けまいと腕を磨いたせいである。
大碓王子は王子の中でも最も力が強い。
力の点では今でも大碓王子に勝てないかもしれない。そういう大碓王子に対抗するため男具那が身につけた武術は、身の軽さと気である。
今では、刀で闘ったならまず負けない自信はあった。相撲の場合は、互角ではないか、と感じていた。
武術の達人になれたのも大碓王子のおかげだ、と思ったりすると、自分と向い合うと肩を張る兄がおかしくなる時もあった。
男具那が父王に叩頭《こうとう》すると、
「遅いではないか……」
と大碓王子が横眼で睨《にら》んだ。弟のくせに生意気な奴《やつ》だ、と盛り上がった鼻翼がいっている。大碓王子の鼻翼は脂で光り、うごめくのだ。
「申し訳ない、少し身体《からだ》を痛めたので」
と男具那はもの静かに答えた。
オシロワケ王は顎鬚《あごひげ》をしごくと土師器《はじき》の高杯《たかつき》を差し出す。水歯郎媛《みずはのいらつめ》が酒壺《さかつぼ》の酒を注いだ。オシロワケ王は上眼遣いに男具那を見た。探るような眼で不愉快である。
「男具那、そちは先日、音羽山に登り、鬼神を退治したと申すが、本当か?」
嘘《うそ》をついても駄目だぞ、と王の眼光が告げている。
「鬼神ではございません、山人でした、ただ山犬や狼を使い、人間を襲わせます、まるで呪術《じゆじゆつ》を得た仙人のような老人です」
「何故《なにゆえ》、人間を襲わせるのだ?」
「獣と暮すようになり、心も獣に変ったのだと思います、吾《われ》も、もう少しで斬《き》られるところでした」
「そちが斬られそうになったと……では武人だな」
さすがは前王から権力を奪い王位に即《つ》いただけのことはあった。鋭い洞察である。
まずいことをいったな、と男具那は悔いた。男具那は父王の眼を見た。
「武人とは思えません、獣相手に山を走り廻《まわ》った山人でございます、身の軽さは吾以上でした、だが刀の使い方はあまりうまくありません、武人の出で、あの身軽さなら吾は斬られていたでしょう」
「武人の出ではない、と視たのは真《まこと》だな」
「はっ、真です」
「噂《うわさ》では、首がこの宮に飛んで来たというが、妙な噂だな」
オシロワケ王は酒杯をあおると眼を光らせた。白眼を剥《む》いたような眼になり、猜疑心《さいぎしん》の強い性格がよく表われている。
「父王、吾もその噂は聞きました、いろいろと考えたのですが、もしその噂に少しでも根拠があるとすると、鷹《たか》です」
「鷹だと?」
「はい、山の頂上近くに見たこともないような大きな鷹が二羽舞っていました、たぶんその鷹が山人の首を巣に運ぼうと咥《くわ》えて飛んだものの、あまりの重さに落したのだと思います、首だけが空を飛ぶようなことはありません」
酒をあおろうとしたオシロワケ王は酒杯を戻した。少し小首を捻《ひね》ったが頷《うなず》くと櫛角別《くしつのわけ》王子に、男具那の答えをどう思うか? と訊《き》いた。
大人しい櫛角別王子は姿勢を正した。
「吾も、男具那王子が想像したとおりだ、と思います、首が飛んだとしてもせいぜい五尺、空を飛んだりはしません」
オシロワケ王は、そちの返答は分っていたぞ、といわんばかりに嗤《わら》った。
「大碓王子は?」
「はあ、吾は首など飛ばなかった、と考えています、いくら大きな鷹でも人間の首を咥えて、大空には舞い上がれません」
大碓王子は一息入れると酒を飲んだ。父王に対する返答中に酒を飲むなど大胆な行為である。確かに大碓王子には、自分の胆《きも》の太さを誇示するところがあった。
「説明は要らぬ、そちの結論じゃ」
「おそらく山人族が流した噂でございます、彼らは、男具那王子が斬った老人を崇拝しており、男具那を恨《うら》んだのではないでしょうか、だから、男具那の屋形めがけて首が飛んだなどと根も葉もない噂を流したのだと思います」
大碓王子は、いかがでございましょう、吾の判断は、といわんばかりに顔を上げた。
うまい返答だ、と男具那は舌を巻いた。たんに力が強いだけではなかった。兄は頭の回転も速いのだ。
「ほう、王の屋形ではなく、男具那の屋形に飛んだと申すのか……」
オシロワケ王は愉快そうに笑った。
「はあ、それ以外、考えられません」
「うん、理にかなっておる、斬ったのは男具那、となると、当然、山人たちは男具那を恨む、首が男具那の宮に飛んだといいふらしてもおかしくはない、大碓王子、見事な返答だ、酒を与えるぞ」
オシロワケ王は満足そうに酒を満たした酒杯を大碓王子に与えた。
「父王、光栄でございます」
大碓王子はうやうやしく両手で酒杯を受け取ると一気に飲み干した。
男具那は女人が運んだ酒を飲みながら、大碓の答えた意味を考えた。
確かに理の通った返答である。ただ男具那としてはあまり感じが良くない。「おぬしは斬った首に憎まれておる、憎悪の怨念《おんねん》は恐ろしいものだ、せいぜい気をつけることだな」と大碓にいわれているような気がする。
今、大勢の王子の中で次の王位を継ぐ資格のある者は数人である。
血統の順位でいえば、ワカタラシヒコ(稚足彦)王子、イホキノイリビコ(五百城入彦)王子、オシノワケ(忍之別)王子、それに男具那の兄の、櫛角別王子・大碓王子などであった。
前三者の母はヤサカノイリビメ(八坂入媛)だが、彼女はイリ王朝の最初の男王、崇神帝の孫娘だった。今は皇后のような存在である。
それに対し、男具那たちの母はオシロワケ王の皇后だった。播磨の首長の娘で三輪王朝と同盟関係にある吉備《きび》氏の血が流れている。
ただ、現在の倭国《わこく》は各地に有力首長が勃興《ぼつこう》し、大和の王者たらんと狙《ねら》っていた。当然、自分の氏族の血が流れている王子が、王位に即くことを望んでいた。
そういう意味からは、吉備・播磨の血を受けている男具那たち兄弟も有望だった。
ただ、王者になるには、血統だけではなく、頭の良さだとか勇気、また人望の有無なども考慮される。人望のない王子が王になっても長続きはしない。
男具那の眼では、一番の適格者はイホキノイリビコだった。賢明で武術も優れていた。当然人望もある。王子の兄のワカタラシヒコ王子はその点、病弱だった。櫛角別王子と同じく気もどこか弱い。
男具那はイホキノイリビコ王子が王になったら、王を補佐し、大和の勢力の拡張に力を尽そうと密《ひそ》かに考えていた。ところが、王位に最も執着しているのは男具那の兄の大碓王子だった。大碓は自負心が強く、勇猛で強力である。
実際、力の強さでは大碓にかなう王子はいない。それに大碓は、自分の望みを貫くためには、何でもする、という執着心を持っていた。
男具那には、そういう大碓の野望がうとましくてたまらない。浅ましく思えてならないのだ。
男具那が王位に執着心がない、といえば嘘になる。ただ他の兄王子を押し分けてまで王になろう、と思っていなかった。
王になればよし、なれなければ補佐役の将軍でよし、という気持だった。
そんな男具那をどう視ているのか、大碓は何かあると男具那に憎悪を示す。弟である男具那が武術の達人で、自分と違い女人に人気があり、重臣たちの人望を集めているのが、腹立たしくて仕方ないのかもしれなかった。
夕餉《ゆうげ》が終り、男具那は大碓とともに父王の宮を出た。狼に噛《か》まれた傷が化膿《かのう》した大竹は葛城の実家に戻っている。
男具那の警護隊は隊長の青魚と、武術を得意としていない従者だけであった。
男具那は、音羽山に登り丹波森尾を斬ったことを悔いていた。音羽山に登らなければ、前王の忠節の武人である森尾は自然に亡くなるだろう。小竹も死亡せずに済んだのだ。それを思うと男具那の胸は痛む。
大碓の警護隊長は美濃八束《みののやつか》だった。他に穂積見空《ほづみのみそら》、和珥歯咋《わにのはくい》などの武人がいた。八束は美濃の豪族の子弟で、崇神帝は、大和の勢力を拡げるため尾張《おわり》や美濃の豪族と婚姻関係を持った。美濃八束が大碓の警護隊長になったのは、政略的な意味もあった。
一行はヤマトトトビモモソヒメを葬ったという箸墓《はしはか》古墳の傍を通りそれぞれの屋形に向った。分れ道に来た時、大碓が男具那に二人だけで話がある、といった。
大碓が|薄ヶ原《すすきがはら》に馬を乗り入れたので、男具那も仕方なく一人で大碓に従った。もちろん男具那は、兄とはいえ油断していなかった。
後ろを振り返ると、青魚と同族の歯咋が立ち話をしている。暗殺の計画などないようだ。
「兄者《あにじや》、何用だ?」
男具那は数歩離れた場所で馬を止めた。大碓も馬を止める。
「少し内密の話がある、傍に参れ」
大碓は馬から降りた。男具那に対する警戒心はあまりないようだった。双生児の弟だし、自分の味方だ、と思い込んでいるようである。男具那にあまり好意を持たれていない、とうすうす感じているようだが、これほど警戒されているとは想像していないようだった。
月は満月に近く三輪山は闇《やみ》の中に半円の穴を掘ったように黒く浮き上がって見えた。箸墓古墳は黒い岩のようだ。空が明るいのは月光のせいだけではない。雲がほとんどなく満天の星がせい一杯光り輝いているからである。
男具那も身軽に跳び降りると馬の手綱を握り近づいた。
大碓は男具那に背を向けると放尿を始めた。雨が急に降り出したような勢いのよい音だった。大碓の放尿に彼の旺盛《おうせい》な体力が表われていた。ただ後ろから窺《うかが》うと隙《すき》だらけだ。今なら一刀で斃《たお》せる、と男具那は思った。とたんに大碓が放尿しながら男具那の方を向いた。
尿が飛んで来たので男具那は一歩後ろに跳んだ。
大碓は放尿を続けながら豪快に笑った。
男の一物をゆっくり袴《はかま》におさめると、
「男具那、今おぬしは、吾の後ろ姿を見て隙だらけだ、と感じたであろう」
男具那がどきりとする質問だった。
恐ろしい兄だ、と感嘆しながら男具那は素直に、
「おう、兄者の申すとおりだ、吾が敵であったなら一刀で斃せる、と感じたぞ」
「当然じゃ、武術の達人なら、そう感じなくてはおかしい、ところでな、内密の話というのは、次の王位のことだ」
闇の中で大碓の眼が光った。
「吾はあまり考えておらぬ」
「分っておる、そこがおぬしの好《よ》いところでもあり、悪いところでもある、王位を我らが継ぐのは母上の願いだった、だからこそ母上は、あまり好きでもない父王の子を産んだ、我ら三兄弟だ」
「母上の気持について勝手な想像はよしてほしい、そういう話なら応じない」
男具那の言葉を大碓はわざとらしく笑い飛ばした。
「分った、母上の話はよそう、ところで次の王位だが、父王もすでに四十半ばだ、若い女人を寵愛《ちようあい》しているが、最近、とみに肌の色艶《いろつや》が悪くなった、たぶん、寿命について考えておられる、王位を誰に譲るか、ということもだ、吾は宮の内部の者にいろいろと探りを入れておる、残念ながら我ら兄弟ではなさそうだ」
警護の武人に聞えないように低い声でいった。
「今は皇后然としているヤサカノイリビメの王子たちだろう、仕方がないではないか」
「なぜ、そう簡単に仕方がない、と諦《あきら》める、おぬしは人が好過ぎる、いいか、もしワカタラシヒコかイホキノイリビコが王位に即けば、我ら兄弟は地方に飛ばされるぞ、のんびり大和におれる、などと楽観していては大間違いだ、毛人の傍の国に行き、毛人を征伐しろ、などと命令される、あの辺りはな、冬になると放尿すれば小水が凍りつく、男の一物も凍る、春になると凍った部分が溶けて腐ってしまうのだ、好きな女人と媾合《まぐわ》うこともできなくなる、男具那、おぬしはそうなっても平気なのか?」
「そうなれば平気ではない、そんな命令を出されたなら、兄王子だろうと許さぬ」
「頭を働かせろ、兄王子ではない、王なのだ、だから命令を下せる、王に反抗はできぬ」
大碓は力強いが低い声でいうと鼻を鳴らした。男具那、おぬしは甘いぞ、と鼻の音はいっていた。
「それはそうだ、しかし、あの二王子は、そんな冷酷な人物には思えぬが」
「二王子といったな、やはりおぬしもそう思うか、だが、王子は王子、王は王、王になれば人間が変る、ではいう、イホキノイリビコは、藁《わら》人形を二体つくり、刀で斬《き》る稽古《けいこ》をしているそうだ、一つは吾の顔、今一つは男具那の顔という」
大碓は唾《つば》を吐いた。
「兄者、それは本当か、いったい、誰に訊《き》いた?」
さすがに男具那は平静心を失った。
「イリビコの部下からじゃ、吾は間者《かんじや》を放っておる、おぬしは狩りや山登りに夢中だが、いつまで続けるつもりだ、これからは王位争いが激烈になる……」
「王位争いか、兄者は王位を窺《うかが》っているわけだな、吾はあまり関心がないが」
「男具那、童子のようなことをいうな、関心がなくても近々王位争いに巻き込まれる、父王も老いた、若い妃《きさき》にうつつを抜かしておる、あれでは身体も持つまい」
大碓は腰に両手を当てると哄笑《こうしよう》した。
男具那にはイホキノイリビコが藁人形などをつくり、刀で斬る稽古をしているなど、想像できなかった。
ただ、父王が老いるとともに、王位争いが激しくなることだけは確かであった。同母の兄だが、大碓には王になってもらいたくない。
大碓には、王になって権力を握ると、何をやり出すか分らない危険性があった。
[#改ページ]
三
男具那《おぐな》の長兄|櫛角別《くしつのわけ》王子がその妃《きさき》とともに妃の屋形で殺されたのは旧暦五月の末だった。男具那の妃、フタジノイリヒメ(両道入姫)の屋形とあまり離れていない。
月のない暗闇《くらやみ》で、櫛角別は寝所から逃げる暇もなく戸口の傍《そば》で、背中から胸を刀で貫かれたのだ。
妃の方は部屋の床の上で斬《き》り殺されていた。驚愕《きようがく》のあまり身体《からだ》が竦《すく》み、逃げることができなかったのだろう。絹の寝衣を着ていた若い妃は半分裸体で、顔も白い寝衣も血塗《ちまみ》れだったという。
朝の山登りを終えた男具那が報を聞き駆けつけた時、二人の遺体は床に並べられ白い布が被《かぶ》せられていた。
警護兵の遺体は庭の筵《むしろ》の上に置かれている。兄の大碓《おおうす》王子はすでに来ていて、床を歩き廻《まわ》っていた。号泣したらしく眼が真赫《まつか》だ。男具那を見ると刀の柄《つか》を握り、
「何をしていたのか、遅いではないか!」
と怒鳴った。
大碓は兄貴風を吹かせ、人前でも大声で男具那を怒鳴る。
「今、耳にしたばかりだ」
男具那は櫛角別の顔を覆っている白布を剥《は》いだ。瞼《まぶた》を閉じていたが、死の前の恐怖心に顔が歪《ゆが》んでいた。温厚な人柄で、男具那に対しても滅多に怒った顔を見せなかった。
男具那は櫛角別に大碓には抱かない肉親の愛情を抱いていた。男具那は引き攣《つ》った兄の冷たくなった顔を撫《な》でた。
「兄者、安心して黄泉《よみ》の国に行ってくれ、仇《かたき》は吾《われ》が必ず討つ」
いい終った時、男具那は初めて涙を流した。大碓は柄の龍を彫った環頭を掌《てのひら》で撫でながら男具那を睨《にら》んだ。
「男具那、仇討ちをするのはおぬし一人ではないぞ、兄の吾をさし置いて生意気なことを申すな、仇を討つのは吾じゃ」
「兄者でも吾でも、どちらでもよい、大事なのは犯人を探し出すことだ、曲者《くせもの》を斬るよりも、それが難しい、斬るのは易しい」
「ふん、生意気なことを……」
大碓は肩を聳《そびや》かしたが、男具那の言葉に一理あるのを感じたのか、それ以上のことはいわなかった。
共に殺された若い妃の遺体は北《きた》河内《かわち》を勢力基盤とする茨田《まむだ》氏に引き取られた。
櫛角別の遺体は喪屋《もや》に安置され、半月にわたって喪の行事が行なわれた。その間、いちばん血の濃い大碓や男具那は女人と媾合《まぐわ》わず、獣肉も食べない。
喪が終るとともに、櫛角別を殺した犯人の名が、人々の口から口へと噂《うわさ》された。
オシロワケ王が、ヤサカノイリビメに産ませたワカタラシヒコ(稚足彦)・イホキノイリビコ(五百城入彦)・オシノワケ(忍之別)などの王子から、阿倍《あべ》氏の娘タカタヒメ(高田媛)を母とするタケクニコリワケ(武国凝別)、播磨《はりま》の豪族、イカワヒメ(五十河媛)が産んだイナセノイリビコ(稲背入彦)をはじめ、大碓・男具那などの名前も噂になった。
櫛角別は恨みを買うような人物ではないので、王位継承権のある王子が、有力王子である櫛角別を殺した、というのだ。
オシロワケ王は、十五歳以上の王子を巻向宮《まきむくのみや》に集め、一日も早く犯人を捕えて斬るように、と命じたが、犯人の手懸りがほとんどないので難事だった。
大碓は自分の名が噂に入っているのを知り、激怒してイホキノイリビコの部下に傷を負わせた。さいわい生命《いのち》に別状がなかったので、イホキノイリビコと戦《いくさ》にならずに済んだのだ。出雲《いずも》から来た腕のたつ部下で、イホキノイリビコは彼を可愛《かわい》がっていた。もし死亡したら大碓を殺す、と憤《いか》り兵を集めた。
大碓も兵を集めた。
オシロワケ王は両王子を呼び、戦など許さぬ、と厳命したので、両王子は兵を解いたが、険悪な状態が続いている。
櫛角別が殺されたのは間違いなく王位争いに絡んだものだが、男具那には犯人の見当はまったくつかなかった。
ただ噂の中に自分の名が出たのは悔しかった。何が何でも犯人を探し出し、仇を討たねばならない、と歯ぎしりして毎日を過した。あっという間に一ヶ月たった。
オシロワケ王の命令で王子たちは、表面的には和解した。
だがどの王子も警戒心と猜疑《さいぎ》心に眼を光らせていた。
実際、オシロワケ王の命令は矛盾している。犯人を探せ、と王子たちに命じながら一方では、兄弟は争ってはならぬ、仲良くしろ、などといっているのだ。
犯人が王子たちの中にいるのは明らかだから、仲良くなどできないのは当然であった。
ただオシロワケ王は、犯人は王子たちではなく、三輪山麓《みわさんろく》の王朝を斃《たお》そうと狙《ねら》っている新興勢力が放った刺客だ、と思っているようだった。
男具那は、そんな父王に老いを感じた。
その夜、男具那は正妃、フタジノイリヒメの屋形《やかた》にいた。
イリヒメは男具那と同じ年齢で、祖父王、イクメイリビコイサチ(垂仁《すいにん》帝)の孫娘である。
『古事記』『日本書紀』は垂仁帝の娘とするが、これでは年代が合わない。またこのような異世代婚姻は七世紀以降のものなので、本小説では孫娘とする。
男具那の妃になったイリヒメは十六歳でイナヨリワケ(稲依別)を産んだが、王子は翌年、風邪をこじらせて死亡した。
風の強い夜で、隙間《すきま》風に魚油の明りが怪しい鬼火のように揺れる。
男具那は揺れる明りを眺めていた。
男具那の脳裡《のうり》に恐怖に歪《ゆが》んだ兄王子の死に顔が浮かんだ。
幼年時代、男具那が大碓に苛《いじ》められた時、櫛角別はよく大碓を叱《しか》った。
大碓は、
「兄者など、吾の一撃で倒れる」
と喰《く》ってかかったが、櫛角別には手を出さなかった。長兄というだけではなく、大碓が手を出しかねる何かが櫛角別にはあったに違いない。
あんな弱虫では、王などにはなれない、と大碓は成長しても悪口をいっていたが、顔を合わせると眼を逸《そ》らした。
たぶん、学識のせいだろう、と男具那は視ていた。
櫛角別は、呉《ご》の国から来た渡来人の孫から文字を学んでいた。櫛角別ほど文字を読める王子はいない。
学識者が内から放つ知の光に、大碓の力も抑えられていたようである。
男具那の眼が大きく見開かれた。
兄なのに大碓は櫛角別を心の底で憎んでいた。力を誇示し、自分こそ男子《おのこ》の中の男子と自惚《うぬぼ》れているが、大碓は案外|嫉妬《しつと》深かった。
男具那は突然|湧《わ》いた疑惑を拭《ぬぐ》い去るように、違う、と口の中で呻《うめ》いた。
重傷を負いながらも生き残った警護兵の話では、曲者は暗闇《くらやみ》なのに黒布で顔を隠していたのだ。
櫛角別が知っている人物に違いなかった。
単身の襲撃だがもの凄《すご》く腕が達者で、刀を合わせた警護兵もいたが、あっという間に斬《き》られた。
「闇の中でも眼が見えたに違いありません」
と彼はいった。
重傷を負った警護兵は妃のハムロノイラツメ(葉室郎媛)の警護のために遣わされていた。
茨田《まむだ》氏の中でも、最も腕のたつ若者の一人だった。
「昼ならどの程度闘えたか?」
男具那の質問に、
「残念ながら昼でも勝てません、ただ、手傷を負わせるぐらいはできた、と思います、それと刀を合わせた時、腕が痺《しび》れました」
と弱々しく答えた。
「力が強いのだな?」
念を押すようにいった自分の言葉を男具那は忘れていなかった。
フタジノイリヒメが心配そうな顔を男具那に向けた。
「夕餉《ゆうげ》を終えてから、ずっと飲まれています、お身体《からだ》に毒では……」
「今宵《こよい》は飲み続けたい、吾は兄者を殺した曲者を絶対許さない、探し出し、必ず仇《かたき》を討ってみせる、女人も斬殺《ざんさつ》するような奴《やつ》は人間ではない、獣だ、獣にこの巻向宮を渡しはできぬ」
「本当に噂《うわさ》どおり、王位争いのせいでしょうか?」
フタジノイリヒメは怯《おび》えたような顔を向けた。イリヒメは丸顔で愛くるしい容貌《ようぼう》だった。まだ十六、七歳ぐらいに見える。一児を産んだとはとうてい思えなかった。
「それ以外、考えられないが、何故《なにゆえ》、ハムロノイラツメまで殺したのか、ひょっとしたら顔を見られたのではないだろうか、ただあの夜も今宵のように月もほとんどなく、まったくの暗闇だった、子《ね》の正刻(午前零時)の頃だというから寝所に明りはない、そのあたりが分らぬ」
「恐ろしいことです、私《わ》は身体の慄《ふる》えが止まりません、それに血が凍ったように冷たくなっています、男具那様は大丈夫なのでしょうか……」
イリヒメの身体が恐怖心で固くなっているのは、見ただけで分る。
「吾か、吾が王位に無関心なことは、王をはじめ、諸王子はよく知っている、吾の愉《たの》しみといえば、狩りと山登りだ、王位など、考えるだけでめんどくさい、十五、六歳の時は、暴れ過ぎて顰蹙《ひんしゆく》を買った、そなたのような、優雅で大人しい女人をあてがわれたのも、吾が暴れ過ぎたからじゃ」
「鹿の毛皮を剥《は》いで、宮に入られた、というのは本当ですか?」
「ああ、五尺はある大鹿だった、肉や臓腑《ぞうふ》を抉《えぐ》り出し、血だらけの皮を纏《まと》って、宮に入ったのだ、女人たちをびっくりさせてやるつもりだったが、泡を吹いて気を失った女人が数人いた、怒った父王は、吾の顔を見たくない、と一ヶ月ばかり、謹慎を命じられた、これ幸いとあちこちの山を登ったものだ、あれ以来、吾は王位には縁がなくなった、だから、狙《ねら》われる心配はない」
「でも、兄王子を殺した曲者は気が狂っております、どうか、御用心下さい」
「気が狂っている……どうかな、吾は案外、賢い奴だと視ておる、計算し尽しておる、兄王子が、ハムロノイラツメの屋形を訪れるのは、月に何度かだ、吾がそなたに会いに来る日と妙に重なるがまず日を知っている、それと、寝所も、警護兵の眠る場所も知っておらねば、暗闇の中で兄王子を殺せない、殺せたというのは、相当頭の良い奴だ、狂人ではない、何だ、また慄えておるな」
男具那はイリヒメの手を取ると引き寄せた。イリヒメは床に敷かれた麻布とともにすべるように男具那の膝許《ひざもと》に蹲《うずくま》った。
だがイリヒメは右腕に酒壺《さかつぼ》を抱えている。男具那は酒杯の酒を一息であおると無言で酒杯を差し出す。はっと吾に返ったイリヒメが両腕で壺から酒杯に酒を注ぐのを待って、腕をイリヒメの腋《わき》の下に廻《まわ》し、膝の上に抱き抱えた。
「男具那様、おたわむれはおよし下さい」
イリヒメは男具那の腕の中から逃れようとしたが、男具那の太い腕に胸の辺りを抱かれているので身動きが取れない。
「何もたわむれているのではない、そなたの身体をほぐし、暖めようとしているのだ、そなたも一杯飲め」
「お許し下さい、私は酔います」
「酔えばよいではないか、酔いは気持をほぐす、気持がほぐれれば身体もほぐれる、よし、吾が飲ませてやろう」
男具那は酒杯を左手に持ち、イリヒメの前に差し出した。イリヒメは一瞬迷ったが、諦《あきら》めて酒を注いだ。男具那は酒杯をイリヒメの口に押しつけた。イリヒメは口を閉じ飲もうとしない。
「イリヒメ、口を開かないのなら、腋の下をくすぐるぞ、そなたはよく笑う、くすぐったくなって口を開けるだろう、酒は自然にそなたの口中に入る」
「お許し下さい」
イリヒメは身をよじった。イリヒメの下半身の微妙なふるえが男具那の股間《こかん》に伝わった。酔っていた男具那の血に欲望の精気が混じり、騒ぎ始めた。
イリヒメも男具那に精気が宿ったのを感じ、いっそう身をよじる。
「さあ、くすぐるぞ」
男具那はイリヒメの、絹綿を詰めたような胸のふくらみを揉《も》んだ。お許し下さい、というイリヒメの声が、聴きとれなくなり喘《あえ》ぎ声に変る。口が乾いたのかイリヒメは唾《つば》を飲み、口を開けてしまった。
男具那が飲ます酒をイリヒメは母乳を飲む赤子のように飲んだ。酒杯の酒が半分ほどになった時、男具那は残りの半分を飲んだ。酒杯を床に置くとイリヒメを倒した。
イリヒメは男具那に押し倒されながらも、酒壺の酒はこぼさない。
「酒肴《しゆこう》をさげろ」
男具那はイリヒメを抱きながら、炊事場に続く縁に伏せている女人に命じた。
女人たちは男具那たちの傍まで来ると跪《ひざまず》き、酒壺や酒杯を持って姿を消す。
隣室との壁がなく、絹布などで部屋を仕切っている時代では、男女の媾合《まぐわ》いは淫靡《いんび》なものではなかった。人眼をあまり気にしない。
農民などは、放尿でもするように気軽に田畑で媾合う。
いつか男具那を抱いたイリヒメの腕に強い力が籠《こも》っていた。
すでに子《ね》の下刻(午前零時‐一時)は過ぎようとしていた。風は相変らず強い。男具那は屋形を襲う風に異質な音を感じ、眼を覚ました。喉《のど》の渇きもあった。
イリヒメは男具那に身を寄せて熟睡していた。
男具那はイリヒメの眠りをさまたげないように静かに起きた。
炊事場に続く板戸を開けると厠《かわや》用に掘られた溝に放尿した。風はかなり強く、屋形の屋根が唸《うな》っている。
男具那は寝所に戻ると衣服を着、刀をつけた。もう一度板戸を開けると藁履《わらぐつ》をはいた。藁履の方が皮履《かわぐつ》よりも音がしない。
男具那は屋形の下にもぐった。
風は西風だが、異質の音は東の方から聞えて来る。
イリヒメの屋形は水をたたえた濠《ほり》に取り囲まれていた。十尺近い幅で人力で跳び越えるのは無理だ。
南側には幅六尺の道が外の原野に通じていた。後世の橋にあたる道であり、外と内をつなぐ通路でもあった。槍《やり》を持った警護兵が四人、その通路を守っていた。
いつもなら不寝番の兵は二人だが、櫛角別が殺されて以来、四人に増やしていた。
だが男具那は警護兵をあてにはしていなかった。小竹《こたけ》は死亡し、傷を負った大竹《おおたけ》は、傷口が悪化し、故郷の葛城《かつらぎ》に戻っている。隊長の青魚《あおうお》には休みを取らせた。青魚にも恋人がいるのだ。青魚は今宵は休めません、と反抗したが、命令がきけないようなら警護隊長を解任するといい、無理に休ませたのだ。
櫛角別を殺害した曲者《くせもの》が、王子たちが警戒を強めている今、襲って来るとは、男具那も考えていなかったからだ。
もし闇《やみ》の中から迫って来る気配が兄を殺した者と同一人物なら、大胆不敵な曲者といわねばならない。
男具那は床下を這《は》い南の縁の下に潜んだ。階段の下なので、月光のある夜でも男具那の姿は見えない。
襲撃者にとって都合の良いことは月のない夜なので、闇の中に姿を隠せることだった。
警護兵が守っている出入口の先は百坪ほどの広場になっているが、夏草が広場を取り巻いている。
他の屋形は草原や田畑の先で、距離は三百歩ほどあった。
男具那は息を整え眼をこらした。
周濠《しゆうごう》の傍に篝火《かがりび》が焚《た》かれているが、風が強いので小さな篝火だった。警護兵の姿は今にも闇に溶け込みそうである。
耳を澄ませても風の音だけで襲撃者の気配はなかった。
襲撃者が屋形を襲う場合、まず四人の警護兵を斃《たお》さなければならない。弓を射て来るか、刀で襲いかかって来るだろうか、と男具那は考えた。
弓なら二人は斃せるが、すぐ気づかれ、襲撃者が来たことを知らせる小太鼓を鳴らされる。
屋形を守っている数人の警護兵が跳び起きる。それでは奇襲にはならない。
櫛角別が殺されたのも奇襲のせいであった。屋形を守っていた兵士たちが異変に気づき眠りから覚めた時、曲者はすでに櫛角別の寝所に侵入していたのだ。
その前に柵門《さくもん》を守っていた二人の警護兵は声をたてる間もなく斬《き》り殺されている。ただ、ここは四人だ。それにあの事件の後まだ一ヶ月なので油断していない。
いくら武術の達人でも四人を一気に斬殺《ざんさつ》はできないだろう。
そのうち男具那は不安を覚え始めた。いくら耳を澄ましても襲撃者の気配が感じられないからだ。
男具那は地に耳をあててみた。襲撃者が周濠の外にいる場合は、気配は水に遮られて役にたたない。案の定、何の気配も感じられないので身を起こそうとした時、北方の周濠の辺りに風とは異質な音がした。何者かが土を踏んだ音だ。
男具那はもう一度耳を地にあてた。間違いなく地を伝わって男具那に達する微《かす》かな響きがあった。
人の足音ではなかった。土が掘られているようだ。男具那は気を鎮め、無我に近い心境で何の響きなのか、知ろうとした。
無理だと知った男具那は躊躇《ちゆうちよ》せずに床下を這い、屋形の北側に出た。もう一度耳を地にあてた。はっきり人の足音を感じた。
襲撃者はいつの間にか周濠を越え、屋形の庭に入っているのだった。
周濠の水から浮かび上がっても、手は地上に届かない。いったいどうして周濠を越えたのだろう。しかも、警護兵のいない北側から襲って来るなど、まさに容易ならざる襲撃者だった。
男具那は耳を地にあてたまま襲撃者の動きを探った。
相手が暗闇に眼が利くとしても、この闇では横になっている男具那の存在を知ることはまず不可能だった。
男具那は屋形の縁の下で刀を抜くと、襲撃者を待った。
足音は次第に近づいて来る。男具那は心臓の鼓動が高鳴るのを覚えた。緊張感や不安感よりも、兄の仇《かたき》を討てるという期待感からだった。
襲撃者の脚が速くなった。すでに三十尺(九メートル)以内に近づいているのにまだ影も見えない。曲者は月のない夜を選んで来たのだ。
男具那は相手の歩幅を計算した。かりに四尺としても、この速度ではあっという間だ。深呼吸を五度も繰り返したなら、屋形の傍に来るだろう。
男具那は丹田《たんでん》に力を込めて深呼吸を始めた。曲者は男具那が待ち受けていることを知らないのだ。それに五尺以内に近寄れば姿も浮かび上がるだろう。
今度の奇襲者は曲者ではなく、男具那の方であった。勝利は間違いない。男具那は熱くなる身体《からだ》を押えながら深呼吸を続けた。
まるで闇が動くように曲者の姿が浮かび上がった時、男具那は自分の名を呼ぶフタジノイリヒメの声を聞いた。
「男具那様、男具那様」
イリヒメの声は大きかった。
眠っていた隣室の女人たちも眼を覚ましたようだ。
しまった、と舌打ちした時、相手は脚を止め、中腰になった。縁の下あたりを窺《うかが》っているようだ。
距離は約十尺、一気に斃すには少し離れている。だが躊躇している場合ではなかった。男具那は縁の下から跳び出すと曲者に向って走った。
四尺ほど手前から跳躍すると同時に揺れた影に向って刀を突き出した。
男具那の刀は身を躱《かわ》した曲者の頬《ほお》のあたりを掠《かす》め、肩の衣服を切ったようだ。
衣服が羽撃《はばた》いた夜鳥の羽のように拡がったのを男具那は見た。曲者が闇に溶け込み、影のようにしか見えないのは黒衣を纏《まと》っていたせいだった。
跳躍して突きを入れたのだ。身の軽い男具那も体勢を整えるため一呼吸入れねばならなかった。
曲者は退《さが》りながら刀を抜いた。男具那は前進し今一度突きを入れた。待っていたように曲者は刀で払った。男具那の腕が痺《しび》れそうになったほど強い払いだった。
だが男具那は怯《ひる》まなかった。今度は横に跳ぶと突きを入れる。曲者は払う余裕がなく一歩退る。男具那は再び前進し突きを入れる。太腿《ふともも》を狙《ねら》ったのは曲者の払う力を弱めるためだった。曲者は男具那の突きを払ったが計算したとおり力は弱かった。
男具那は好機が来たのを感じ曲者に立ち直る余裕を与えず、連続的に突きを入れた。
曲者は男具那の刀を払い、身を躱し、後退するのがせい一杯であった。
男具那が周濠の傍まで追い詰めた時、曲者は荒い息を吐いていた。おそらく全身汗塗れに違いなかった。
屋形の方では起きた警護兵や女人たちが騒いでいる。屋形を取り巻く周濠の傍で戦っていることに誰も気づかなかった。
男具那には警護兵を呼ぶ気は毛頭ない。男具那は完全に優勢に立っているのだ。
周濠に追い詰めた男具那が、体当りのつもりで突進し突きを入れると、曲者は払いながら横に跳んだ。男具那の刀身は曲者の脇腹《わきばら》あたりを掠めたらしく黒い上衣が夜鳥の羽のように拡がる。
曲者が声を洩《も》らしたところを見ると、腹部に傷を与えたのは間違いない。もう一息で斃《たお》せる、と男具那は突きの体勢に入った。
突然相手は身を翻《ひるがえ》すと周濠沿いに数歩走った。
男具那が追いすがり突きを入れようとした瞬間、曲者は巨大な夜鳥のように闇に跳んだ。あっと息を呑《の》んだ瞬間、男具那は石につまずき転倒した。
男具那が刀を放らなければ、自分の刀で身体のどこかを刺していたであろう。
倒れながら一回転したが、男具那は固いもので腰を打って呻《うめ》いた。下半身が痺れたが曲者の再襲撃に備え、地上を転がり落ちていた刀を拾った。
今、逃げた相手が攻撃して来たなら、防げるかどうか自信がなかった。
男具那はようやくの思いで立ち上がったが、曲者は闇に消え、攻撃して来る様子はなかった。いったいどこに姿を隠したのであろうか。
男具那はようやく容易ならぬ相手だ、と慄然《りつぜん》とした。
それにしても周濠《しゆうごう》の傍に石など置いてあるはずはない。何につまずいたのか、と男具那は瞳《ひとみ》をこらした。
闇に覆われた土がさらに黒く抉《えぐ》られているのを見た。男具那は驚いた。抉られているのではなく、周濠の上に長い丸太が二本かけられていたのだ。
直径五寸近く、長さは十尺以上もある丸太だった。曲者《くせもの》は警護兵のいない北側に廻《まわ》り、この原木に近い丸太を二本、周濠にかけ、楽々と敷地内に侵入したのだ。
一本を抱えてみて、男具那はその重さに驚いた。男具那の力では抱えているのがせい一杯である。
曲者はおそらく昼の間にこの丸太を草叢《くさむら》に隠し、侵入する際、周濠にかけたに違いなかった。
男具那もかけることは可能である。だがこの重さでは音をたてないようにかけることは不可能だった。よほどの力持ちに違いない。
しかも曲者は悠々と二本の丸太を歩いて侵入したのだ。逃亡する際は丸太の上を走ったのだろう。
あっという間に闇に消えた。
恐ろしい襲撃者だった。これだけの丸太を抱える力の持ち主といえば、王子では大碓《おおうす》しかいない。
男具那はいまわしい疑惑を打ち消すように首を横に振った。
この闇夜に、丸太の上を駆け抜ける身軽さは、大碓にはないはずだった。それに大碓がいくら王位に執着していても、同母兄弟の櫛角別《くしつのわけ》や男具那を暗殺しようとするだろうか。
大碓ではない、兄がそんなことをするはずがない、と男具那は自分にいい聞かせた。
腕を組んだ男具那が、自分の身体が黒々と染まってしまいそうな深い闇を眺めていると、男具那の名を呼びながら、警護兵達が近づいて来た。
フタジノイリヒメを守っている警護兵の長は、山背川竜《やましろのかわたつ》である。
川竜が最初に男具那に気づいた。
「王子様、何があったのです?」
川竜も警護兵も、襲撃者があったことに気づいていなかった。
二人は声も出さずに戦ったのだ。
いつの間にか風もやや弱まっていた。
「曲者が侵入した、一人で周濠に丸太をかけて外から入ったのだ、兄王子と妃を殺害した曲者に違いない、凄《すご》い力持ちだ、ただ吾《われ》は間違いなく衣服を裂き、腹部に傷を負わせた、曲者が何者なのか、明日、明後日にも分るであろう、見ろ、この丸太だ」
川竜をはじめ警護兵たちは二本の丸太を見て、驚きのあまりざわめいた。
男具那を呼ぶイリヒメの声が微かに聞えて来た。
男具那は山背川竜に、丸太を片付けるように命じ、屋形に戻った。
翌日、男具那はオシロワケ王と会うべく巻向宮に行った。
雲が低く垂れ三輪山を取り巻いている。雲というよりも霧かもしれない。父王は水歯郎媛《みずはのいらつめ》の屋形に泊まり、まだ宮に戻っていなかった。この頃のオシロワケ王は水歯郎媛に溺《おぼ》れていた。彼女の屋形は王の宮から百歩ほど離れた場所に建てられている。
男具那が宮の前の玉砂利に胡座《あぐら》をかいて待っていると、輿《こし》に乗ったオシロワケ王が戻って来た。
寝不足が顔に出ている。不機嫌そうな顔で男具那が叩頭《こうとう》しても頷《うなず》き返すだけだ。
輿をかついでいるのは、昔からそれを任務としている山人族の子孫である。
オシロワケ王は男具那の傍で輿から降りた。何の用だ? といわんばかりに男具那を見た。二、三年前から男具那の武術は王子たちの間では群を抜いた。その頃から王は何となく白い眼を男具那に向けるようになった。
もっと文字を学べ、というのである。いつまでも童子のように暴れているだけが能ではない、と叱《しか》ったりした。
だが男具那は、字を覚えることよりも、武術や馬術、それに山登りを好んだ。
オシロワケ王が男具那に好感を抱いていないのは、父の意向に従わない子に対する不快感のせいかもしれない。
「少し疲れておる」
オシロワケ王は呟《つぶや》くようにいうと正面の階段を上った。
「父王、少しお耳に入れたいことが……」
「重大なことか?」
「はっ、重大で、緊急のことでございます」
「じゃ、聴こう、今日は昼過ぎまで、王子たちには会わないつもりだったが」
オシロワケ王は仕方なさそうにいった。
男具那が正面の控えの間で待っていると、女人の長《おさ》が呼びに来た。
衣服を着換えたオシロワケ王は薬湯を飲んでいた。宮には渡来して来た呉《ご》人の子孫がいて病の薬をつくっている。
呉というのは中国の揚子江《ようすこう》の南の国で、二二二年から二八〇年まで続いた。
後漢《ごかん》王朝が滅びると、魏《ぎ》・蜀《しよく》・ 呉の三国が鼎立《ていりつ》し、争った。魏の曹操《そうそう》・司馬仲達《しばちゆうたつ》、蜀の劉備《りゆうび》・諸葛孔明《しよかつこうめい》、呉の孫権《そんけん》などが有名である。
呉人は三世紀の前半から海流に乗って九州や紀国《きのくに》によく渡来するようになった。
ほとんどが戦禍を逃れてやって来たのだ。渡来して来た呉人の中には九州の邪馬台国《やまたいこく》時代から王に仕えた者もいた。
文字を書いたり、薬を調合したり、また占いをよくする者であった。
二十代の女人が王の近くに坐《すわ》り、薬湯の入った壺《つぼ》を膝《ひざ》に載せている。王が手にしている器の薬湯だけでは足らないらしい。
薬湯は精力回復剤のようであった。
男具那は昨夜の襲撃者のことを述べた。
「何だと、フタジノイリヒメの屋形を襲ったと申すのか、うーむ、不屈な曲者だ、しかし逃したのは残念だな」
薬湯のせいか、驚いたせいかオシロワケ王の顔がわずかに赧《あか》らんだ。
「暗闇《くらやみ》です、一尺のそばでも見え難《にく》い夜でした。ただ間違いなく傷を負わせています、そこで、是非、お願いしたいことがございます」
男具那は両腕を床につき頭を下げた。
「願いごと? 遠慮なく申してみろ」
「父王の都合の良い日に、全王子を集め、傷の有無をお訊《き》き下さい」
「何だと、襲撃者は王子の中にいる、と申すのか……」
「それは分りません、父王は櫛角別王子を殺した犯人を探すように、と厳命されました、だが犯人は未《いま》だにあがりません、ただ全王子を集め、部下か知人に最近、傷を負った者がいないか、調べさせれば犯人が見つかる可能性が出て参ります」
「うーむ、確かに一理ある、だがなぜ、王子ないし、王子の部下と考えたのだ?」
「王位争いでございます」
「何だと、王位争いだと」
オシロワケ王は予想もしていなかった言葉を耳にし、唖然《あぜん》として男具那を見詰めた。一息ついて薬湯を飲んだが喉《のど》が渇いたらしく、なみなみと注げ、と女人に命じた。
「そうです、王には大勢の王子がおられます、王は御存知ないかもしれませんが、王位に執着している王子は大勢います、吾の兄、櫛角別は、王位を継ぐ有力王子と狙《ねら》われ、殺された、と吾は考えています」
男具那は胸を張って答えた。
オシロワケ王に向って、このような大胆不敵なことをいう王子は男具那以外にはいなかった。
大碓でさえ、父王をはばかって口にしない内容だ。
「男具那、そちは少しおかしくなったのではないか、次の王を決めるのは、吾だ、このオシロワケ王じゃ」
「当然です、だからこそ王の意中の王子を殺害したのでしょう、吾の兄、櫛角別は文字も読め、占いにも優れております、有力候補の一人でしょう」
男具那はオシロワケ王を見返した。男具那の眼は青く光り、その光は父王の胸中を貫き通したように鋭かった。
オシロワケ王は不快そうに眉《まゆ》を寄せた。薬湯の器を膝の前に置くと膝頭を叩《たた》いた。
「最も重要な王位継承問題を軽々と口にするとは、呆《あき》れた王子じゃ、櫛角別はともかく、そちが曲者に襲われたということは、そちが有力な王位継承者というわけか」
オシロワケ王は眉を寄せたまま皮肉な嗤《わら》いを浮かべた。どうだ、といわんばかりに鬚《ひげ》をしごいた。
自分に対する不快感の底に冷酷な父王の性格が表われている。
「父王、吾には王位継承者などという自惚《うぬぼ》れは毛頭ございません、はっきり申して吾は、王位に対する執着はないのです、それよりも、軍事大将軍として外敵と戦いたい、あの曲者《くせもの》が吾を襲ったのはたぶん、吾を恐れたからだと思います」
「恐れた?」
オシロワケ王は薬湯の器を手にし、飲もうとしたが空なのに気づくと、
「注がぬか!」
女人を叱咤《しつた》した。
女人は蒼白《そうはく》になり、慄《ふる》える手で壺《つぼ》の薬湯を注ごうとした。これでは薬湯がこぼれ、王の衣服を濡《ぬ》らしてしまう。王の虫の居所が悪ければ女人は首を斬《き》られる。
「父王、吾に注がせて下さい」
男具那は膝で前に進むと、女人の手から壺を取った。
男具那はオシロワケ王の器に薬湯を注いだ。女人はほっとしたらしく男具那に黙礼した。色は白くないが、眼が大きく、唇も厚い女人である。女人の長ではないが、長に準ずる地位にあった。
紀伊《きい》の南部の出身で、名は森野《もりの》という。
「父王、曲者は吾が兄王子の仇《かたき》を討つのを恐れて、吾を殺害しようとたくらんだに違いありません、自慢ではございませんが、吾の武術に優る王子は少のうございます、曲者が吾を恐れ、狙うのも当然でしょう」
男具那は胸を叩いた。
「仇を討たれることを恐れた、というわけか、自信家だのう」
オシロワケ王はしごいていた鬚を捻《ひね》った。
男具那は一膝|退《さが》ると床に手をついた。
「父王、曲者の傷が治らぬうちに、諸王子をお集め下さい、お願いです、父王」
男具那は床に額がつくぐらいに叩頭《こうとう》した。
オシロワケ王は、王子たちでも頭を下げなければ頼みをきかなかった。
王の権威を王子たちに示すためである。
「分かった、櫛角別のためだ、二、三日のうちに宮に集めよう」
とオシロワケ王は根負けしたようにいった。
王子たちに宮に集まるように、という命令が下されたのは二日後だった。
王子たちは、曲者がフタジノイリヒメの屋形を襲ったことを噂《うわさ》で知っていた。イリヒメに仕える女人たちや、警護兵の口から伝わる。
噂では暗闇の中で男具那と曲者が斬り合い、かなわぬと見た曲者は宙を飛んで逃げた、ということになっていた。
曲者は鬼神のたぐいで翼を持っていた、と噂をする者もいる。
男具那は考えるところがあり、王に会った日大碓の屋形を訪れたが留守だった。
警護兵の話では、昨日から出掛けた、という。
警護隊長の美濃八束《みののやつか》と十人ばかりの警護兵を連れて出掛けたらしい。
男具那が襲われた夜、大碓は自分の屋形にいなかったわけだ。
疑惑を抱きながら男具那は、諸王子とともに巻向宮に行った。
十五歳以上の王子はすべて集まるはずだったが、欠席したのは大碓とカムクシ(神櫛)王子の二人である。
大碓に対する男具那の疑惑はますます深くなった。
オシロワケ王が、王子たちを召集した理由を述べた。
男具那が襲われた、と告げられると、王子たちはどよめいた。なかには、男具那の顔に傷でもついていないか、と見る者もいた。本当に襲われたのだろうか、という疑いの眼もあった。
櫛角別と妃を殺害した曲者は、夜も眼が利く、超人的な人物だった。
王子たちが、男具那が襲われた話が本当なら、よく無事でおれた、と不思議がったのも無理はないかもしれない。
「男具那は王子たちの中に、曲者がおるかもしれぬ、と疑っておる、男具那の一刀は曲者の脇腹《わきばら》を傷つけたらしい、集まった王子たちは庭に出、上衣《うわぎ》を脱ぎ、吾と男具那に腹を見せよ」
王子たちのどよめきがいっそう激しくなった。男具那を睨《にら》んだ者もいた。
男具那は自分が集まった王子たちに憎まれたのをはっきり感じた。
オシロワケ王は、男具那が王子たちに憎まれるように、こんな命令を出したとしか思えない。男具那はそう感じた。
「父王、そこまでの必要はございません、あの傷では歩けるとしても、普通には歩けない、と思います」
男具那は必死の思いでいった。
「ほう、自信たっぷりだのう、だが闇夜で戦い、男具那の刀は相手の衣服を切った。肌に掠《かす》り傷を負わした程度かもしれぬ、掠り傷なら、衣服を着ておれば、普通に歩ける」
「しかし、父王」
男具那がさらに口を開こうとすると、憤然とした声でイホキノイリビコがいった。
「父王に申し上げます、吾は男具那に疑われるのは不愉快、庭で上衣を脱ぎましょう」
そういうとイホキノイリビコは部屋を出た。庭に出、オシロワケ王に一礼すると上衣を脱ぎ、肌着も脱いだ。
たくましいイホキノイリビコの上半身が、初夏の陽光に映える。イホキノイリビコは左右の脇腹を叩《たた》いた。冴《さ》えた音が宮に響き渡った。
「よろしい、次……」
オシロワケ王の声を待たずに、もう何人かの王子が庭に出ていた。
男具那は居ても立ってもおられない思いだった。鳥になりこの場から消えてしまいたかった。
男具那の心に、オシロワケ王の悪意、王子たちの憎悪が突き刺さった。
どんな敵にも竦《すく》まない男具那の身体《からだ》が固くなった。自然に息ができないほどである。
父王はなぜ、吾をこのように苦しめるのか、と男具那は無念だった。
王子たちは全員脇腹を見せたが、傷を受けた者はいなかった。
「よし、襲撃者はここに集まった王子たちの中にはいない、問題はカムクシと大碓だが、大碓は吾の命令で一昨日、美濃《みの》に行った、だから問題はない」
「美濃に?」
「ああ、吾の婚姻の件だ」
オシロワケ王は鬚《ひげ》を撫《な》でると、上眼遣《うわめづか》いに男具那の表情を探った。
「残るのはカムクシ一人になった、警護隊長の報告では、火のような熱が出ているらしい、男具那から受けた傷のせいかもしれぬぞ……」
「父王、カムクシ王子は襲撃者ではありません、絶対違います」
と男具那は、王子のために弁解した。
カムクシはその名のとおり、神事にたずさわっている王子だった。巫女《みこ》とともに豊作を祈り、国が平和であることを祈願しているのだ。
カムクシは武術の訓練などまったくしていなかった。まず、一人で周濠《しゆうごう》にかけた丸太を抱える力はない。
「確かにカムクシは武術を知らぬ、だが、熱が出たとはいえ、吾の命令に背いて来ないというのは怪しい、イホキノイリビコ、そちは今から馬を飛ばし、カムクシに会い、脇腹を探って参れ、吾の命令だ」
オシロワケ王は厳しい口調でいった。
[#改ページ]
四
イホキノイリビコ(五百城入彦)がカムクシ(神櫛)の王子の屋形から戻って来たのは一|刻《とき》(二時間)後だった。カムクシの屋形は宮からあまり離れていない。
馬から跳び降りたイホキノイリビコは階段を駆け上がると、部屋の入口でオシロワケ王に平伏する。
「ただ今戻りました」
力強い声である。
ざわめいた王子たちが一瞬黙り込んだ。鳥の囀《さえず》りがはっきり聞えた。
「おう、待っていたぞ、構わぬ、こちらに参れ」
オシロワケ王は鬚《ひげ》をしごいた。
イホキノイリビコはオシロワケ王の三歩ほど手前で胡座《あぐら》をかいて坐《すわ》った。
当時は胡座をかいて坐るのが習慣だった。
「父王に申し上げます、吾《われ》が参った時、カムクシ王子は病床にふしておりました、顔は熱のために赧《あか》く、眼も充血しています、額に手を当ててみると火のように熱うございました、大変な風邪です、本当に病なので帰ろうかと思いましたが、それでは父王の命令に背きます、男具那《おぐな》王子の剣で傷つき、熱を出したのかも分りません」
イホキノイリビコは一息入れた。
諸王子は息を呑《の》んでイホキノイリビコを見詰めていた。
「もちろんじゃ、だから身体《からだ》をあらためるように申した、調べたか?」
「はい、男具那王子と曲者《くせもの》の闘いを聴いたとおりに話し、父王の命令で身体をあらために参った、と申しました、カムクシ王子は、自分は神事を行なう王子で、武術は駄目だ、と身体に掛けていた絹布にもぐりこみました」
イホキノイリビコの説明に、その場の光景を想像したらしく、王子の誰かが笑った。
オシロワケ王が、うるさい、と睨《にら》む。部屋は再び静まり返った。
「吾は申しました、父王の命令で身体をあらために参ったのだから、寝衣を脱ぐべきです、と……絹布が動き、カムクシ王子は下帯一つの身体を吾に見せました、傷などありません」
「うん、そうか、男具那、納得したな」
オシロワケ王は、曲者は王子ではないぞ、といわんばかりの皮肉な口調でいった。
王子たちの冷たい眼がいっせいに男具那に注がれた。我らを疑ったのは、男具那、おぬしだぞ、酷《ひど》い奴《やつ》だ、と王子たちの眼はいっていた。
「父王、吾は初めからカムクシ王子とは思っていません、そのことは父王にも申し上げたはずです」
男具那は憤《いか》っていた。
父王の命令だが、何も熱で慄《ふる》えているカムクシ王子の身体をあらためなくてもよいではないか、と男具那はイホキノイリビコを怒鳴りつけたかった。
「しかし、男具那は曲者は王子たちの中にいるかもしれぬ、と申した、王位に執着する王子の誰かに違いない、とそちは考えている、父王として見逃しはできぬ、公平に調べなければならぬからな、王子たちに申すぞ、よく聴いておくのだ、次の王はこの父が決める、王位のことを考える暇があれば、倭国《わこく》をどのように治めるべきか、西や東、また北の勢力に、どう対処すべきか、を考えろ、分ったな」
オシロワケ王は胸をそらすと王子たちを睥睨《へいげい》した。王位のことなど考えるのはまだ十年早い、とその眼はいっていた。
王子たちは宮を出ると、男具那王子のために嫌な思いをした、とか、腕が立つことを自慢に思っている、など、聞えよがしに話し合った。
男具那が諸王子に反感を抱かれたのは、少年時代から勝手|気儘《きまま》な行動を取り、王子らしくなかったからだ。しかも武術の腕が抜群である。
さらに男具那の母のイナビノオホイラツメ(稲日大郎姫)は、亡くなるまでオシロワケ王の皇后だった。
オシロワケ王は皇后が亡くなって以来、大勢の妃《きさき》を持ったが皇后は定めていない。
当然、殺された櫛角別《くしつのわけ》、男具那の兄の大碓《おおうす》とともに男具那も、有力な王位継承者である。
イホキノイリビコの母のヤサカノイリビメ(八坂入媛)は、崇神《すじん》帝の孫で皇后としてふるまっているが、正式の皇后ではなかった。そんなところから、イホキノイリビコの兄弟たちは、競争者として男具那を眺めていた。
男具那が王子たちに反感を抱かれるのは、そういう点も影響している。
男具那は孤独な王子だった。同母兄の大碓も男具那を競争者として眺めているのだ。
屋形に戻った男具那の気持は落ち着かなかった。
男具那が襲われた夜、大碓はすでに美濃《みの》に出発していた、とオシロワケ王はいった。
本当だろうか、と男具那は疑ったのだ。
あの丸太を一人でかつぎ、屋形を囲む周濠《しゆうごう》にかけることのできる力持ちは、王子の中では大碓しかいない。
しかも大碓の武術は、男具那と優劣がつけ難い。
大碓は、男具那が疑ってはならない人物だった。その大碓を疑わざるを得ないのだ。大碓が美濃にさえ行っていなかったなら、父王や王子たちの前で、身の潔白を証明できる。
だが大和《やまと》にいないのだから証明できない。男具那は悩んだ。
翌日の夜は思い切り酒を飲み、フタジノイリヒメ(両道入姫)と媾合《まぐわ》い、泥のように眠ったが、一夜明けても疑いは取れなかった。
朝から酒を飲んでいると和珥青魚《わにのあおうお》が、
「王子、狩りでもなさったらいかがですか?」
といった。
青魚も、男具那が誰を疑い、悩んでいるかをよく知っていた。
実際、妃の屋形で朝から酒を飲み、悩んでいても仕方がなかった。
男具那は、青魚と二人、狩りに出掛けることにした。
馬の用意をさせて乗ったが、身体がふらついている。
フタジノイリヒメは心配して、こんな日に狩りになど出掛けない方がよい、と止めた。ヒメは、男具那の身に危険を感じていた。
五日前、屋形を襲われて以来、怯《おび》えている。苛立《いらだ》っていた男具那は、
「男子《おのこ》の悩みは、女人には分らぬ、吾は狩りに行くのだ、獲物は狼か熊だ、鹿などではないぞ」
と大声で怒鳴る。
男具那ほど酒が飲めず、あまり眠っていなかったフタジノイリヒメは、身体を固くした。顔面は蒼白《そうはく》で、眼窩《がんか》が黝《くろ》ずんでいる。
フタジノイリヒメに対する自分の態度が、優しさに欠け、暴君的になっているのを男具那はよく自覚していた。
ヒメが可哀《かわい》そうだ、と思うと、余計に気持が昂《たか》ぶり、言動が荒々しくなる。
青魚が、フタジノイリヒメの前に立ち、深々と頭を下げた。
「ヒメ、申し訳ありませぬ、やつかれ(臣)が、王子様を狩りに誘ったのです」
充血した眼のフタジノイリヒメは、青魚に謝られ、ただ唇を噛《か》むのみである。
「青魚、男子の行動は男子が決める、何も女人に謝ることはない、吾は一人で行くぞ」
男具那は馬に鞭《むち》を当てた。
「王子、お待ち下さい」
青魚は大声で叫び、警護の兵士に屋形を厳重に守るように、と命令した。
「ヒメ、御安心下さい、王子様はこの青魚が必ずお守りします、それと五日前の襲撃者は、昼は襲って参りません、闇夜《やみよ》でも黒布で顔を覆っている、顔だけは見られたくない曲者です」
青魚は男具那の行方を眼で追いながら言葉に力を込めた。
自分が男具那を誘っただけに、フタジノイリヒメに責任を感じたのだろう。
和珥青魚は、たくましい武術者だが、優しい心の持ち主でもあった。
男具那が龍王山《りゆうおうざん》の麓《ふもと》まで来た時、青魚が追いついた。両者とも汗塗《あせまみ》れである。
到るところに湿地帯があり、水草がはえている。湿地帯は馬を飛ばせない。
男具那は馬の脚を取られないような場所を選んで北の方に進んだ。
鳶《とび》が悠々と舞っている。男具那は馬に乗ったまま鳶に矢を放った。矢尻《やじり》が陽に煌《きら》めき鳶に向って飛んで行く。だが飛距離が足りない。
矢は鳶の下方に達すると彼方《かなた》の樹林に落ちて行く。
鳶は飛んで来た矢をまったく無視していた。
男具那はそんな鳶を見詰めながら小首をかしげた。青魚が慰めるようにいった。
「王子、あの鳶は五十丈(約一五〇メートル)の高さで舞っています、どんな弓の名手でも届きません」
「分っておる、だが鳶の奴《やつ》、矢が届かないのを知っているようだ、一瞥《いちべつ》だにしない、きっと矢の速さが鈍くなったのを感じ取ったのだろう、そういう本能が鳶の武術なのだ」
「そうかもしれません」
男具那は龍王山の北方|山麓《さんろく》で馬から降り、馬に水をやった。
山から小川が流れている。小川をたどり山に入ると竹之内《たけのうち》峠に出、さらに進むと長滝《ながたき》に通じる渓谷に達する。
長滝からは布留《ふる》川が流れており石上《いそのかみ》神宮に達する。
当時、石上神宮の剣と玉を祀《まつ》り、管理しているのは物部《もののべ》氏だった。
和珥《わに》氏は神宮を守っている。
男具那が馬に乗ろうとすると、青魚がいった。
「王子、いずこに行かれるおつもりですか?」
「石上神宮の方だ」
「あの辺りの狩りは禁じられています、いたずらに矢を放てば、どこからともなく、王子目がけて、矢が飛んで参ります」
「青魚、そちの一族が守っているのだろう」
「そうです、だが誰も、王子が突然参るとは思ってもいません、危険です」
「そうだのう、そちの一族の勢いは大変なものだ、父王も恐れておる」
男具那の言葉をどう取ったのか、青魚は項垂《うなだ》れた。
青魚としては返事のしようがないのだ。青魚は、男具那を主君として仕えていた。男具那のためには生命《いのち》を捨てる覚悟でいる。ただ和珥氏は、形式的にはイリ王朝に服従しているものの、河内《かわち》の新興勢力とも手を結んでいた。山背《やましろ》川(淀《よど》川)沿いの勢力や、和泉《いずみ》の勢力とも友好関係を保っていた。
ことと次第では、和珥氏は河内の勢力の軍事将軍になりかねなかった。
朝鮮半島の鉄《てつ》|※[#「金+廷」、unicode92cc]《てい》を貯《たくわ》え、いつでも鉄刀や矢尻を作る準備をしている、という噂《うわさ》もあった。男具那は、自分が青魚を苦しめていることを感じた。
「青魚、気にするな、吾はこの頃《ごろ》、血のつながった諸王子さえ、信じられなくなっている、信じられるのは、心と心が通じ合った者だけだ、吾はそちを信じておるぞ」
「王子、嬉《うれ》しゅうございます」
青魚は瞳《ひとみ》を輝かせて男具那を見た。
二人は木に馬をつなぎ、小川の岸に腰を下ろし、脚を水につけた。
川魚が磨き抜かれた刃物のような煌《きら》めきを放ちながら、群れをなして泳いでいる。
男具那が石を投げると、身の軽い男具那も及ばないような素早さで躱《かわ》す。まるで光が飛ぶような速さだった。
男具那は、イホキノイリビコが熱で伏せているカムクシ王子の身体《からだ》を調べたことを話した。
青魚は、噂で聞いていた。
「命令したのは父王だ、だが噂では、この男具那が諸王子に疑いを抱き、調べさせた、ということだ、噂などどうでもよいが、何故《なにゆえ》、吾は憎まれるのだろうか?」
「王子の腕が抜群で、童子時代より山野を駆け巡っておられたからでしょう、他の王子たちにとって、王子は荒々しく、恐ろしい王子なのです、しかも王子の母上は皇后、当然王子は有力な王位継承者、だから他の王子たちは王子を恐れるのです」
「恐れるのは分る、だが憎んでもおる」
「嫉妬《しつと》されているのでしょう、それに王子は父王に反抗なさる、王子と父王の間がしっくりしていないのを、他の王子たちは敏感に感じているはずです、はっきりいって王子は一人、浮いておられる、もし王子と父王との間がうまく行っていたなら、他の王子たちは王子を憎むことはできません、阿諛追従《あゆついしよう》して来るはずです、やつかれはそう視ています」
「吾を憎むことによって王子たちは連帯感を持ち、安心するわけか、もしそうだとしたなら、王子とはいえ、人の心は何と弱く、哀《かな》しいものだろうか、吾は、憎むなら一人で憎む、どんな権力者、父王であろうと、理不尽なれば憎む」
「王子、そういうことはお口になさらないように、今、王子の立場は微妙です、まずなすべきことは、兄王子を殺した曲者《くせもの》を探し出し、捕えることです」
「吾は斬《き》る」
男具那は刀を抜くと、川を突いた。
男具那の刀は見事に半尺(一五センチ)以上の鮒を突き刺していた。
「せっかくの獲物だ、食おう」
青魚が火打ち石で火をつけた。
男具那は刀子《とうす》(小刀)で鮒を貫き、火で焼いた。青魚が皮袋から塩を取り出し、焼いた鮒にかけた。
川魚だが、当時の川は信じられないほど清冽《せいれつ》である。塩をたっぷりかけた鮒は結構旨い。
男具那は青魚に、いったい、誰が犯人だと思うか? と訊《き》いた。
「忌憚《きたん》なく申せ、遠慮は要らぬぞ」
「王子、やつかれは王子に仕える身、想像していることもございますが、まず王子からおっしゃって下さい」
青魚は立つと、周囲を見廻《みまわ》した。
盗み聴きしている者がいないとも限らないからだ。
突然青魚は十歩ほど走ると跳んだ。刀が陽に煌《きら》めき、生い繁った夏草が宙に舞った。
草叢《くさむら》の中に竦《すく》んでいたのは十歳ばかりの童子と童女だった。農民の子供らしく古びた麻の衣服を纏《まと》っている。陽に灼《や》けているのは田畑の仕事を手伝っているからだろう。
「立て、立つのじゃ」
青魚は刀の切っ先を童子に突きつける。容赦のない眼だった。童子達が逃げれば躊躇《ちゆうちよ》せずに斬り捨てるだろう。
男具那も立って童子と童女を眺めたが、何もいわずに川岸に坐《すわ》った。
こういう場合の処置は、男具那よりも青魚の方が適任者だった。幼少時代から青魚は農民たちに接している。普通の農民か、農民でないかを青魚は容易に見分けることができた。
童子と童女は腰が抜けたように動けない。
青魚は切っ先を童子の首に当てた。
「立たぬと刺し殺す」
刀の峯《みね》で童子の顎《あご》を持ち上げた。童子の眼は引攣《ひきつ》り、放心状態だった。脛《すね》のあたりに失禁した尿が流れ落ちた。
刀への恐怖から童子はようやく立った。
「両手を前に出せ」
青魚の一喝で慄《ふる》えながら両手を差し出した。草の切り傷が掌《てのひら》から手首にかけて無数についている。かなり古いものもあった。明らかに畑仕事でついた傷だ。
青魚は刀を鞘《さや》におさめてから、村長《むらおさ》の名前を訊いた。青魚の声が優しくなっている。
童子はやっと安心したらしく、穂積虫喰《ほづみのむしくい》と告げた。
そういえばこの辺りは、物部氏の支族、穂積氏の勢力圏だった。
「よし、戻れ、我らに会ったことは黙っておるのだ、我らの話、何か聞いたか……」
童子としゃがんでいた童女が、同時に首を振った。
青魚が、今一度、帰れ、というと童女が泣き出した。腰が抜けて立てないようだ。
青魚は童女を抱き抱え、背骨の下あたりを軽く打った。
「これで立てる、行け」
童子と童女が立ち去るのを見届けてから、青魚は男具那と並んで腰を下ろした。
「青魚、村の童子まで警戒しているところを見ると、櫛角別と妃を殺害した者は、王子以外におる、と睨《にら》んでおるのだな」
と男具那は言った。
「王子たちが、他国から武術の達人を呼んだのかもしれません、またオシロワケ王の王権を弱めるため河内の勢力がこの地に寄越《よこ》した間者《かんじや》の仕業ということも考えられます、いや、我らの一族の者も警戒する必要があります」
青魚は思い切ったようにいった。唇を噛《か》み川面《かわも》を睨んでいる。
男具那は川岸に仰向《あおむ》けになった。さっきまで舞っていた鳶《とび》の姿はない。空は限りなく青く深かった。
あの空には仙人たちが住む楽園があるのだろうか。西の海の彼方《かなた》には倭国《わこく》の数十倍の広さの国があり、そこでは空の楽園のことが信じられている、という。
異国人の血の混じった宮廷の語り部の老人が、男具那にそんな話をしたことがあった。
雷の光を見れば、愉《たの》しい国があるとは思えぬが、限りなく深い蒼天《そうてん》を眺めていると、楽園があるのかもしれない、と思う。
だがその楽園にも激しい戦《いくさ》があるのだ。雷鳴や雷光、凄《すさ》まじい風雨が、戦を知らせている。
「青魚、身近な人たちを疑うのは嫌だな、なぜ、人間は嫉妬《しつと》し、疑い、相手を蹴落《けおと》そうとするのだろうか……」
「自分の身を守るためでしょう」
「そうだ、そのとおりだ、農民は水が足らぬといって争う、水がなければ米も稔《みの》らぬからな、農民の争いはまだ理解できる、だが王権の争いはあまり理解できない、なぜなら権力欲の争いだからだ、野望の争いでもある」
「王子、王子に生まれた以上、その争いを避けることはできませぬ」
「ああ分っておる、吾は王子だ、権力欲の争いは好まぬが、飛んで来る火の粉は払い除《の》けねばならぬ、まして、母を同じくする温厚な兄が殺されたのだ、自分が襲われた以上に腹が立つ、吾は必ず犯人を探し出して斬《き》る、犯人はどこに隠れておる、どこだ!」
男具那は空に向って絶叫した。
青魚は黙然として山の彼方を眺めている、いいたいことを抑えるのに必死のようだった。青魚の眼がどちらを向いているのか、男具那は感じた。
美濃なのだ。男具那は体を起こした。
「青魚、大碓王子はどの辺りまで行ったであろうか……」
「一日に七、八里、急げば十里、いつ、大和を発《た》たれたのですか?」
「吾が襲われた日の朝であろう、あれから五日たっておる」
「となると四、五十里、ただそんなに急がれる旅ではなさそうです、せいぜい四十里」
「普通なら舟で木津《きづ》川をさかのぼり、山背《やましろ》に出、さらに舟で伏見《ふしみ》まで行き、馬に乗り換え、逢坂《おうさか》山を越え、近江《おうみ》に入る、瀬田《せた》川を越えて守山《もりやま》あたりまで、約四十里、いや五十里かな、今頃は近江路を北に向っている」
「早馬の使者は?」
「いや、王は出しておらぬ、倭国に馬が入って年月が短い、早馬の乗り手がいない、美濃までなら三人は必要だ、だが一人は先月脚を折り、一人は風邪で寝込んでおる」
「大碓王子様は、御存知ないわけですね」
「そこなのだ、青魚、少し泳ごう、気持を鎮める」
男具那は下帯一つになると小川に跳び込んだ。小川といっても川幅は三丈(約九メートル)以上あった。
当時の大和盆地には到るところに川や沼がある。また湿地帯も多い。
水は冷たく気持が良い。群れをなした川魚が急転回して逃げる。大勢の兵士が刀をかざして舞っているようだった。陽光に映える無数の川魚は見事なほど美しい。
一泳ぎして男具那は川から出た。
青魚は川に浸《つか》り、汗を落した程度だった。
「青魚、こんなことは想像もしたくないが、大碓王子に対する疑惑が晴れぬのだ、吾《われ》の心が卑しいから、大碓王子を疑ったりする、吾は何度も自分を叱責《しつせき》した、だがすぐ疑惑が湧《わ》いて来る、仕方なく酒を飲み、疑いを消そうとする、ところが酒というのは妙だ、酔うとますます疑いが深くなる、酒は時には人の心を膨らませる効果があるようだ」
「そういう場合もあります」
「幼い頃から大碓王子は吾を嫌っていた、双子として生まれたからだ、ことに大碓は何年か山の中で育てられた、だがな双子にしてはあまり顔が似ていない、どうだ」
「一見似ておられませんが、似ている、と思う時もあります」
「吾は一度、生まれ故郷の印南《いなみ》に帰り、亡き母の墓に参り、我ら兄弟が生まれた時の模様を調べてみたい、と考えておる、この事件が片付いたら印南に行く」
「結構でございます」
「本当の兄弟ではなく、もし大碓がそのことを知っていたとしたなら、大碓が吾を憎むのも当然だ、それに大碓は王位に野心を抱いておる、青魚、吾はやはり、大碓王子に対する疑いを捨て去ることはできぬ」
冷えていた男具那の身体《からだ》がまた汗ばんで来た。夏の陽光のせいだけではない。男具那の体内で熱い血が荒れ狂っているのだ。
「王子、その件に関しては、やつかれ、返答はできません、ただ、気がおさまらないのなら、王のお許しを得て、大碓王子様に、王子と妃が襲われたことをお伝えすべきです」
「美濃に行け、と申すのだな」
「王子が大碓王子様に、異変を知らせるのは、当然でしょう」
「おう、当然だ」
男具那は立つと衣服を纏《まと》った。
青魚は男具那に、その時、大碓王子の身体を調べるべきです、といっているのだ。
男具那は、相手が兄王子であるため、いつもの俊敏な行動力を見えない手で縛られていたようである。
青魚の言葉がそれを解いた。
曲者《くせもの》がフタジノイリヒメと男具那を襲ったのは五日前の深夜だった。
もし曲者が大碓なら、大碓は四日前の早朝に出発していることになる。確かにあの傷は浅い。だが多少の出血はあるはずだ。布で傷口を巻かなければ出血は止まらない。
「青魚、フタジノイリヒメを襲ったのが大碓なら、屋形に戻り、すぐ出発したとしても、そんなに遠くまではいけないだろう、せいぜい、逢坂山を越えたあたりではないか」
「舟で宇治《うじ》川をさかのぼり、近江に出れば、もう近江路に達しているでしょう、だが激流で、時には舟は木の葉のように揺れます、それに我らの一族の海人でなければ速くは進めません」
「木津川から山背川をさかのぼるわけか、和珥氏の祖は近江にもいたというが、山背川の往来は慣れているのだな」
「一族が使っている腕の優れた漕《こ》ぎ手と早舟を使えば、木津川と山背川の合流地点の八幡《やわた》から近江の湖まで遅くとも一昼夜と半日で参ります」
青魚はこともなげにいった。
「えっ、一昼夜と半日……」
「はっ、大雨の後で水嵩《みずかさ》が増し、水流の激しい場合は別ですが、早舟の漕ぎ手は不眠不休で漕ぎますので、うまく行けば一昼夜と少しです、八幡から近江まで宇治川で行けば十三、四里です」
青魚は、一昼夜と半日以上かかれば早舟の漕ぎ手とはいえません、といった。
「青魚、大碓王子を追う、吾は巻向宮《まきむくのみや》に行き、王に会い、吾が襲われたことを大碓王子に伝えに行く許可を得る、そちは吾の屋形に戻り、出発の用意をしておけ」
「王子、実家に戻り、漕ぎ手を集めねばなりません、我らの一族は海人族、絶えず河内《かわち》、山背、近江と往来しておりますので、すぐに用意できるかどうか……」
青魚は、漕ぎ手を集められるかどうかが、不安だ、と男具那に告げた。
「よし、ただちに実家に戻れ、吾は王の許可を得次第、八幡に参る」
「従者は二人に、今、腕がたつ者といえば、大竹《おおたけ》の代りに葛城《かつらぎ》から参った宮戸彦《みやとひこ》と穂積内彦《ほづみのうちひこ》です、これ以上は舟が無理です」
「吾一人で、大丈夫だ」
男具那の言葉に、青魚は膝《ひざ》をついた。
「王子、危険な旅です、一人で行かれるのなら舟は出しません」
ほとばしるような声である。
「仕方がない、そちの申すとおり、二人を連れて行く、約束じゃ」
「心得ました」
青魚は眼は光らせたが白い歯を見せた。
男具那は屋形に戻ると大急ぎで着換え、巻向宮に行った。
叩頭《こうとう》する警護兵に頷《うなず》いて応《こた》え、正面の屋形に近づくと、王の警護隊長、土師土盛《はじのつちもり》が現われ、オシロワケ王はただ今睡眠中で、誰にもお会いになられません、と告げた。
「ほう、今は午《うま》の下刻(午後零時‐一時)、陽は真上だ、お身体でもお悪いのか?」
「そうではございません、この頃は朝餉《あさげ》を終えられた後、しばらく政務を執られ、一|刻《とき》ほど午睡を取られます、毎日ではございませんが」
「朝の政務よりも、夜の激務がお過ぎになるのではないか、とにかく急用じゃ、吾は故《ゆえ》あって旅に出なければならぬ、すぐ取り次ぐように」
「王子様でも、お取り次ぎはできません」
土師土盛は、男具那の前に立った。
男具那の祖父、イクメイリビコイサチ王(垂仁《すいにん》帝)の時代、葛城氏系の当麻蹶速《たいまのくえはや》が、大和一の勇者だ、と豪語し、祖父王の部下と相撲を取りたい、と申し込んで来た。
当時、祖父王の部下にはクエハヤに勝てる者はいなかった。
祖父王は友好国の出雲《いずも》から出雲一の武術者といわれている野見宿禰《のみのすくね》を呼んだ。
野見宿禰はまだ二十代半ばの青年だった。
誰もが、野見宿禰はクエハヤに殺されるだろう、と悲観的だった。
だが野見宿禰は宙を飛ぶような身軽さでクエハヤの攻撃を躱《かわ》し、反対にクエハヤを蹴殺《けころ》してしまったのである。
見物人たちは、倭人《わじん》の武術ではない、と息を呑《の》んだ。
野見氏は土師《はじ》氏と名前を変え、王や王族の巨大な墳墓を造る任務についた。
葛城氏が三輪山麓《みわさんろく》のイリ王朝と友好関係を結ぶようになったのは、それ以降である。
三輪山麓の王者には容易ならざる武術者がいる、と知ったからだ。
「吾が無理に参ると申したら」
「仕方ありません、素手でお止めします」
「ほう素手でか、なかなか忠節な武人だ、しかし、こういうこともあるぞ、王は何者かに暗殺された、それをしばらく隠すために、誰も宮に入れぬ、うーん、ないことではない」
「王子様、それはあまりのお言葉です」
「土師土盛、吾はオシロワケ王と皇后のイナビノオホイラツメとの間に生まれた王子だ、そちが素手なら、吾も素手で闘おう、参るぞ」
男具那の真剣な気迫に、土盛は一歩|退《さが》った。蹲《うずくま》って叩頭した。
「分りました、王にお取り次ぎをし、御意向を伺って参ります、しばらく屋形の前でお待ち下さい」
「待っておる」
土師土盛は身を翻《ひるがえ》すと宮に入った。
広い庭を散策している女人の嬌声《きようせい》が聞える。山鳥が木から木に飛び、もう百舌鳥《もず》が鋭い声で鳴いている。じっとしているとじっとりと汗ばんで来る。
土盛が戻って来て蹲る。
「王は、特別、お会いになるそうでございます」
「特別か、特別だけは余計だ」
「こちらでございます」
土師土盛は、男具那を小高い丘の上の小さな屋形に案内した。
吹き抜けの部屋で比較的風通しが良い。
蝉がうるさいほど鳴いていた。
薄絹をまとった二人の女人が、絹布の団扇《うちわ》で、王をあおいでいた。
オシロワケ王は、絹布をかけた石枕《いしまくら》に頭を載せ、横たわっている。
「緊急の用事だと……いったい何だ?」
眠っていたところを起こされたので、機嫌が悪かった。
「父王に申し上げます、吾はただ今より美濃に参り、大碓王子に会い、吾とフタジノイリヒメが襲われたことを告げます、櫛角別も吾も大碓王子とは同母兄弟です、ひょっとすると大碓王子も狙《ねら》われているかもしれません」
「今から、美濃に……」
団扇であおいでいる女人の額に汗が滲《にじ》んでいた。
「はい、今すぐ」
「うーむ、そうだのう、帰って来るまで黙っているわけにもゆくまい、大碓は五日前に発《た》っている、不破関《ふわのせき》の近くまで行っているのではないか、追いつくのは無理だな」
「美濃で会い、伝えるつもりでいます、父王の婚姻の件は、とどこおりなく運びましょう、大碓王子には、父王の命令を実行した後、大和に戻るように伝えます」
「ただ大碓は気が短く、性格が粗暴だ、かっとなると自分を忘れる、注意して行け」
男具那の美濃行きをオシロワケ王は、あっさり許可した。不許可の理由が見つからなかったからであろう。
男具那はオシロワケ王に礼を述べ、宮を出た。葛城宮戸彦《かつらぎのみやとひこ》と穂積内彦《ほづみのうちひこ》はすでに旅の姿で宮門の傍《そば》で待っていた。
両者とも剣の使い手だが、宮戸彦は槍が得意で内彦は弓矢が得意である。
三人が石上《いそのかみ》神宮の傍まで行くと、和珥青魚が数人の従者とともに待っていた。
従者たちは地面に平伏する。
「何だ、大勢だな」
「皆、舟の漕《こ》ぎ手です、この者たちは木津川を下り、八幡で王子をお待ちします」
「そうか、漕ぎ手か、御苦労だ、頼むぞ」
男具那は、顔を上げるようにいった。
陽に灼《や》け、海人らしく眼が鋭い。
農民に較べると海人族と山人族は精悍《せいかん》で眼が鋭い。
ただ山人族の方が海人族よりもどこかおおらかだった。海に出、長い航海になると生死は海の神にまかせねばならない。海人族には、生死の間をくぐり抜けて来た祖先の血が流れている。
「行け!」
青魚の命令で漕ぎ手は駆け脚で去って行く。驚くほど敏捷《びんしよう》だった。
男具那は、和珥氏が容易ならざる力を持っているのを感じた。
近い将来、三輪の王朝にとっては危険な相手となるだろう。
もし和珥氏と葛城氏が河内の勢力と組んだなら、三輪の王朝の存続はまず無理だった。
男具那は青魚と宮戸彦を眺めた。
二人共、男具那を主君と思って仕えている。だが一族の首長たちの胸中は分らない。
男具那は、媾合《まぐわ》いで疲れ、木蔭《こかげ》の屋形で午睡をむさぼっている父王の顔を瞼《まぶた》に浮かべた。
もし男具那が王なら、午睡などはしていない。和珥氏や葛城氏を取り込み、同盟を結び、強力な王権をつくる。
場合によっては河内《かわち》に都を遷《うつ》し、河内の水路を完全に押える。
それ以外、三輪の王朝が生き残れる道はなさそうだ。敵は何も東国や西国にいるのではない。
身近にいて、虎視眈々《こしたんたん》と、三輪の王権を窺《うかが》っているのである。
四人は乃楽《なら》山を越え、木津川沿いに北上した。木津川には荷物を積んだ舟が、威勢のよい漕ぎ手の掛け声とともに水|飛沫《しぶき》をあげながら進んでいる。
ここ十年、木津川周辺には、山背や近江から移り住んで来た農民や海人が多くなった。
「オシロワケ王は、すぐお許し下さいましたか?」
青魚が川に視線を投げた。
「あまり機嫌が良くなかった、無理もない、若い女人と激しく媾合ったのだからな、吾のことよりも、御自分の婚姻の方が大事なのか……」
青魚はすぐには答えなかった。青魚の立場としては無理もないかもしれない。
何といっても男具那の父王なのだ。
「青魚……そちは何かいいたいのではないか、遠慮なく申せ」
「王子、やつかれは、王の御気持を知りたかっただけです、他意はありません、王子、御覧下さい、あの舟はさっきの舟子が漕いでいます」
長い舟が白波をたてながら川を進む。流れに乗って漕ぐので速い。舟は二|艘《そう》だった。青魚は眼を細めた。
「後ろの舟には馬を乗せるのか」
「さようでございます、先の舟には我ら四人と王子の馬一頭、後ろの舟には三頭の馬を乗せます」
「我らは半|刻《とき》(一時間)に一里強の速度で進んでおる、それにしては、舟は速い」
「優秀な舟子です、舟を速く進めるには、舟子たちの呼吸が合わねばなりません、御覧下さい、見事に合っています」
青魚は嬉《うれ》しそうにいった。
未《ひつじ》の下刻(午後二時‐三時)に乃楽山を越えたので筒城《つつき》の辺りに来た時は、暗闇《くらやみ》である。
夕餉《ゆうげ》は馬上で摂《と》った。握り飯と竹筒の水だけだ。
青魚は、休まずに八幡まで行き、舟に乗ってから眠ればよい、と男具那に説いたのだ。
男具那も宇治川を舟でさかのぼったことはなかった。それに海人族である青魚は、木津川沿いの道に詳しかった。
三日月と星明りで迷わずに馬を進められる。
青魚が休憩を取らない理由を、男具那は彼なりに推察していた。
休んでいるところを曲者《くせもの》に襲われはしないか、と青魚は恐れているのだった。
もう秋の虫が啼《な》いていた。
「なあ青魚、舟の中では眠れるだろうか?」
と男具那は訊《き》いた。
「舟に乗る前に酒を飲み、舟に乗って横になれば、自然に眠れます」
「休みを取らないのは、闇夜の襲撃者を気にしているからだろう、だが、我らが美濃に向って旅に出たことは誰も知らない」
「はあ、分っております、だが曲者は人間以上の力を持っているようです、王子を監視しておれば……」
「旅に出たことが分る、というわけか、青魚、吾は尿意を覚えた、そちも付き合え」
男具那が馬から降りると、青魚も無言で男具那と並んだ。
男具那は宮戸彦と内彦に聞えないように、小声でいった。
「美濃行きは父王も知っておるな」
「とんでもございません、王子、父王を疑われるなど……」
青魚は押し殺した声で答えたが、その声は呻《うめ》き声に近かった。
「何も疑っているわけではない、ただ父王があまり吾を好かれていないのは明らかだ、だが吾も、父王が吾を殺そうとしているなどとは思ってもおらぬ、だがな、宮の女人は吾の美濃行きを耳にした、もし曲者が女人と通じておれば当然、曲者の耳に入る、そうであろう」
「はあ、それはないとはいえません」
「この異変は単純なものではないぞ、明らかに王位継承の争いが絡んでおる、吾の長兄、櫛角別《くしつのわけ》は、最も有力な継承者だった、次は、大碓かイホキノイリビコ、また病弱だがイリビコの兄のワカタラシヒコ王子、衆目は吾を第四番目に見ておるようだ。馬鹿馬鹿しい、吾は王になるよりも軍事将軍として賊と戦いたいのだ、妙なものだ、王子たちは、他の王子も自分と同じように王位に即《つ》きたがっている、と勝手に推測しておる、人間というものは浅ましいものだのう」
「王子になられた以上……」
「渦の中に巻き込まれるのは仕方がない、といいたいのだろう、大碓も確か同じことをいった、だが青魚……」
男具那は青魚の耳に口を寄せた。
「今度の異変は、王位継承の争いだけではないかもしれぬぞ」
「と申しますと」
「分らぬ、だから何となく無気味なのだ、吾がいいたいのは、王位継承の争いと決めつけては危険だ、ということだ、吾の判断は間違っているだろうか」
「王子、確かに異様な異変です、ただやつかれとしては、犯人を斬《き》るか捕えたい、と願っているのです、それで真相が分るからです」
「ああ、犯人が捕えられたなら……青魚、この話は誰にも洩《も》らすな」
「分っております」
二人はまた馬に乗った。
月が雲間から出ると川幅の広い木津川が闇から這《は》い出た物《もの》の怪《け》のように鈍く光る。
男具那にとって、美濃行きは重苦しい旅であった。
時々、思い出したように草叢《くさむら》をざわめかせて風が頬《ほお》を撫《な》でる。涼風だがその度に男具那の全身は緊張する。
「何者だ!」
前方を進んでいた青魚が馬を止め、大声で誰何《すいか》した。
[#改ページ]
五
青魚《あおうお》の誰何《すいか》に対して返事はなかった。
男具那《おぐな》は前方の暗闇《くらやみ》を睨《にら》み、耳を澄ました。男具那は夜でも眼が利く。
真の暗闇ではどうにもならないが、微《かす》かな月明りでも前方の気配を嗅《か》ぎ取る力を持っていた。
そういう眼力は青魚に負けない、と自負していた。
だが男具那がいくら前方を睨んでも、怪しい気配は感じられなかった。
「青魚、どの辺りだ?」
と男具那は声にならない声で訊《き》いた。
青魚が無言で指差したのは意外にも木津《きづ》川の方であった。
男具那は木津川に視線を注いだ。
物《もの》の怪《け》のように鈍く光っていた木津川は、闇に呑《の》まれて何も見えない。月が雲塊に隠れたせいである。
狼に似た犬の遠吠《とおぼ》えが闇を貫き、もう啼《な》き始めている秋の虫の声が怯《おび》えたように消えた。
「川か?」
と男具那は呻《うめ》くように呟《つぶや》いた。
眼力が青魚より劣ったのも無理はない。海人族の青魚は、遠くの川を漕《こ》ぐ舟の音を聴き分けることができる。
「王子、ここでお待ち下さい、やつかれは、内彦《うちひこ》と馬を飛ばし、調べて参ります、夜にしては舟の漕ぎ手が多い感じです、懸命に漕いでいる、宮戸彦《みやとひこ》、王子を頼むぞ」
「おう、ここで待つ」
と宮戸彦は答える。
「青魚、待て、そちが我らを運ぶために用意した舟ではないのか?」
男具那の質問に青魚は、
「違います、やつかれの舟は、もう半里以上先を進んでいるはず、王子、必ずここでお待ち下さい、すぐ戻ります」
「吾《われ》の力が必要ではないか?」
「曲者《くせもの》は王子を川へ引き寄せるつもりかも分りません、川では王子の力は半減するでしょう、しばらく、お休みを」
青魚は馬に鞭《むち》を当てた。
内彦も青魚に続く。二人の姿はあっという間に闇に消え、蹄《ひづめ》の音も遠ざかる。
「青魚|奴《め》、少し警戒し過ぎておる、しかし、海人族はやはり水の異変に敏感だ、宮戸彦、そちは何か気がついたか?」
「申し訳ありません、恥じております」
宮戸彦は大きな身体《からだ》を縮めながら叩頭《こうとう》した。
「皮肉になるぞ、そちが恥じると、吾も恥じねばならぬ、何も気づかなかったからなあ、馬から降りて、一休みするか……」
「降りるのですか?」
「そちのような巨漢を乗せて立っておれば、馬も疲れる、青魚が怪しい気配を感じたのは、前方の川だ、心配することはない」
男具那は馬から降りた。
宮戸彦も仕方なさそうに降りる。
宮戸彦は身長六尺(一八〇センチ)近くあった。これまでの男具那の警護兵の中では、一番の巨漢で力持ちだった。宮戸彦は野見宿禰《のみのすくね》に負けた当麻蹶速《たいまのくえはや》の弟の孫である。
宮戸彦は刀を抜かず、麻布を手に巻くと、無造作に、夏草や灌木《かんぼく》を引き抜き、男具那の座を作った。こういう真似は男具那にもできない。
「いや、力というものは凄《すご》い、刀で切れば草木の根が残る、だがそちは根から簡単に引き抜くのだからなあ、鍬《くわ》がなくとも未開拓地を田畑にできるであろう」
「いくら力があっても立ち木は引き抜けません、鍬がなければ無理です」
宮戸彦は照れたように汗に塗《まみ》れた顔を拭《ふ》いた。
「当り前だ、冗談だよ、そちは力はあるが、何でも真正直に受け取り過ぎる、いや、御苦労だった」
男具那は、積み重ねられた草に腰を下ろした。なかなか坐《すわ》り心地が良い。
葛城《かつらぎ》氏は古くから大和《やまと》側の葛城|山麓《さんろく》に住んでいるが、一族の中には朝鮮半島の南部から移り住んだ者もいた。
播磨《はりま》の垂水《たるみ》の豪族とも親しく、将来は巨大な勢力に発展する可能性があった。
「酒が飲みたくなったのう」
男具那が唸《うな》るようにいうと、
「危険な旅です、青魚殿の申すとおり、舟に乗るまで、我慢して下さい」
と宮戸彦は真剣な口調で答えた。
男具那は、笑いかけたが、これも忠節の表われだと思うと、笑えなかった。
宮戸彦は男具那の前に立った。身をもって男具那を守るつもりだ。男具那としては眼の前に黒い岩塊が立っているような感じだ。それにせっかくの川からの涼風が妨げられるので息が詰まるようである。
「宮戸彦、悪いが少し右に寄ってくれ、巨漢のそちに立たれると風が来ない」
「はっ、申し訳ありません」
宮戸彦は恐縮したように右に寄った。とたんに涼しい風が男具那の頬《ほお》を撫《な》でた。
今頃、兄の大碓《おおうす》はどこまで行っているだろうか。
もし大碓が男具那を襲撃した犯人ではなく、父王の命令どおり五日前の早朝、大和を発《た》っていたなら、もう美濃《みの》を眼の前にしているかもしれない。何日にどこを通ったか、ということでも、犯人か、そうでないかの見当がつく。
「遅いな、青魚たちは何をしているのだろう……」
男具那がそういったのは、青魚と内彦の身が心配になったからだ。
「青魚殿なら大丈夫です」
宮戸彦は槍《やり》の柄を地上に突いた。彼は刀よりも槍が得意であった。
木津川の流れは闇の底を這《は》い、空中に舞い上がり、四方に散って行くように聞える。明らかに流れはいつもより強い。自然、音もきつかった。
川の方を眺めていた男具那が、闇に浮き上がった人影に気がついたのは、雲から月が出たからである。
「宮戸彦、川の方に曲者だ」
男具那は叫びながら横に倒れた。矢が何本か、今まで坐っていた草の座に刺さった。川岸から路上に姿を現わしたのは三人である。
弓矢の攻撃が失敗したのを知ると、刀を抜いて襲いかかって来た。
宮戸彦は獣のような咆哮《ほうこう》をあげると、三人に向った。長い槍が唸りながら敵の一人の首を叩《たた》く。頸骨《けいこつ》でも折られたのか、熟柿柿《じゆくしがき》が地上に落ちるような音がした。悲鳴をあげる暇もなく曲者の一人は倒れた。
二人は宮戸彦には見向きもせず、刀を抜いて男具那に突っ込んで来た。
夜目にも曲者たちが黒布で顔を覆っているのが分った。
男具那は後ろに跳んで避けかけたが、思いなおして前の路上に倒れた。後ろは灌木《かんぼく》や樹々の丘陵であり、衝突したり、灌木に脚を取られる恐れがあったからだ。
男具那の行動は曲者たちの意表をついた。突っ込んで来た曲者の一人は倒れた男具那につまずき、勢いよく転倒する。今一人は、たたらを踏みながら立ち止まった。
男具那は二回転すると跳び起き、やっと刀を抜くことができた。
鼓動は、目茶苦茶に鼓を打つようで、胸が破裂しそうだった。
「王子、まだ来ますぞ」
宮戸彦は喚《わめ》くと川岸に突進した。闇を払うような宮戸彦の槍《やり》が、路上に跳び出して来た二人の曲者を跳《は》ね飛ばした。
悲鳴とともに二人は川岸の葦《あし》に転落し、水音をたてる。
不意をつかれた男具那は、いつものような敏捷《びんしよう》さに欠けていた。苛立《いらだ》ちが身軽さを抑える。身が鉄《てつ》|※[#「金+廷」、unicode92cc]《てい》を引きずっているようである。
一人は身をかがめ、刀を大上段に振り上げたまま迫って来る。
男具那は一歩、二歩と退《さが》った。
背後で宮戸彦が新たな敵と渡り合っているようだ。
たった二人の敵を持て余している自分が、男具那には苛立たしかった。
明らかに予想もしなかった敵に不意をつかれたせいである。まさに不覚の一語につきる。
新手《あらて》の敵を防いでいる宮戸彦の邪魔をしてはならない、と男具那は判断した。
もはや、退ることは許されなかった。川か山の方に跳ぶか、どちらかだ。川の方は危い、と男具那は本能的に感じた。
男具那が夏草や灌木の繁っている丘陵の方に、横に跳んだ時、その気配を察したように二人が斬《き》りかかって来た。下段に構えていた曲者の切っ先が男具那の上衣《うわぎ》を裂いた。
男具那が跳び降りた場所は、茨《いばら》の上のようだった。男具那はさらに横に跳んだ。
今度は夏草の上に降りた。
男具那の上衣を裂いた曲者は相当な使い手だった。体勢を整えると、再び下段に構え、男具那に突進して来た。今一人も彼に続く。
明らかに一番の使い手は勝ちを焦り過ぎていた。それとも男具那ほどの跳躍力がなかったのか。
曲者は茨に脚を取られてよろけた。
男具那は今度は前に跳んだ。突き出した男具那の刀は相手の顔面から後頭部まで貫いていた。
男具那は相手が倒れるよりも早く刀を戻す。今一人の刀が男具那の頭上を襲って来た。男具那は不意をつかれた焦燥から立ち直っていた。身をかがめ、腰に溜《た》めを残しながら相手の刀を受け止める。凄《すご》い火花が散った。手首に感じる曲者の刀の衝撃は相当なものだった。
男具那は舌を巻いた。男具那の鉄刀は、百済《くだら》を経て倭国《わこく》に入った中国の鉄※[#「金+廷」、unicode92cc]から作った刀である。強靱《きようじん》で粘りがあった。
もし相手の刀が倭国の砂鉄から作ったものなら、男具那が受け止めた時、折れているはずだった。
明らかに曲者《くせもの》の刀も中国の鉄※[#「金+廷」、unicode92cc]から作られている。
曲者は刀を半月形に振り廻《まわ》すと、男具那の右肩に打ち下ろした。これまでの敵の攻めから判断し、下段からの攻撃がないことを男具那は計算していた。
男具那は身を沈めながら敵の脚を払った。男具那の刀は曲者の太腿《ふともも》を間違いなく半分以上切断した。
呻《うめ》き声とともに敵の身体が揺らぐ。
男具那は返す刀で敵の胸を突き刺した。
胸骨を数本切断する鋭い音をたて、曲者は声もなくその場に倒れた。
男具那は路上に跳び出した。宮戸彦は二人の敵を相手に闘っていた。
「王子、路上の敵に、つまずかないよう」
宮戸彦が叫ぶ。
宮戸彦に殺された敵の遺体が、いくつか横たわっている。
「おう、分ったぞ、宮戸彦、吾が引き受ける、そちは一休みしろ」
男具那が宮戸彦と並ぶと、二人の敵は勝利は不可能と視、身を翻《ひるがえ》した。
宮戸彦は山野に響くような気合いとともに、闇《やみ》に消えかけた敵の一人に槍《やり》を投げた。
敵の一人は数匹の蛙が同時に踏み潰《つぶ》されたような声をあげて転倒する。
宮戸彦は刀を抜くと、今一人の曲者を追った。
曲者は川に跳び込んだらしく激しい水音が響いた。
「宮戸彦、これですべてだ、休め」
男具那は宮戸彦に叫ぶと、深呼吸をした。身体中、汗塗《あせまみ》れで男具那も川に跳び込みたかった。
男具那は倒れている曲者の顔を覆っている黒布を剥《は》いだ。
剥《む》いた眼が月光を浴びて無気味である。ただ月光だけでは曲者の顔を識別するだけの明るさはない。
宮戸彦が槍を引き抜き戻って来た。
「分らぬ、宮戸彦、火をともせ」
「はっ、今すぐ」
遠くの方から馬の蹄の音が聞えて来た。
「王子、王子、大丈夫ですか?」
青魚の声だった。
「大丈夫だ、曲者はすべてやっつけた、ゆっくり戻って来い」
宮戸彦が火打石で竹竿《たけざお》の先に巻いた布に火を付けた。
死人の顔に見覚えはなかった。
大碓をはじめ、他の王子の主な従者の顔は、だいたい知っている。
男具那が斃《たお》した敵も含めると、六人の遺骸《いがい》である。誰一人として見覚えがない。
「いったい、何者なのか……」
男具那も人の子だ。見えない敵の無気味さに慄然《りつぜん》とした。容易ならない相手である。
宮戸彦が槍で薙《な》ぎ払い、川に落した敵と、最後に逃げた一人を加えると九人だった。
「九人で攻撃をかけて来たわけです」
宮戸彦がいった。
男具那と同じように計算したらしい。
「九人か……」
半端な数だな、と男具那は呟《つぶや》いた。
「敵はまだいる」
男具那が叫んだ時、巨大な、想像もできないような翼を持った夜鳥が川の方から襲いかかって来た。
男具那は鞘《さや》におさめた刀を抜く暇がなかった。
宮戸彦も驚愕《きようがく》の叫びを発しながら、槍を巨鳥に向けた。
男具那は跳んだ。だが跳んだ男具那は巨鳥の翼に包まれていた。宮戸彦も同じだった。
槍はむなしく宙を突き、翼に包まれ、巨体が横に倒れた。
無我夢中になって、男具那は翼の中でもがいた。そんな男具那の指が、網の目に絡んだ時、男具那は初めて、二人を捕えたのは巨鳥ではなく、闇の中を飛んで来た大きな網であることに気づいたのだった。
宮戸彦も暴れている。
「宮戸彦、暴れるな、鳥ではない、網だ、網だ、刀子《とうす》で裂け」
「王子、無念です、腕が絡まり自由が利かぬ」
宮戸彦は絞り出すような声を出した。それは男具那も同じだった。
いつの間にか網は縮まり身動きできなくなっている。男具那と宮戸彦の身体《からだ》は、まるで綱で縛られたようだ。
喚《わめ》きながら宮戸彦は渾身《こんしん》の力を込めて暴れる。巨体で網を破るつもりらしい。自慢の槍《やり》は網を貫いてはいるが、使えないから、もうただの棒にすぎない。いや棒の役も果せない。
男具那は暴れる宮戸彦の身体に押えられ、骨が折れそうだった。
二人を捕えた網は、じりじりと川の方に引き寄せられる。
このまま川に落ちたなら、溺死《できし》するのは間違いなかった。明らかに敵はそれを狙《ねら》っている。
男具那は恐怖心で息が苦しくなった。身体が網で締めつけられているためかもしれないが、恐怖心のほうが酷《ひど》い。
男具那は網の中で喘《あえ》いだ。
暴れる宮戸彦の身体に地上に押しつけられた男具那は、潰《つぶ》れそうな気がした。
ただ網がゆっくり引き寄せられるのは、宮戸彦の身体が重過ぎるせいかもしれない。一人で引っ張るのは無理だ。最低でも二人はいる。
「宮戸彦、暴れるな、暴れると身が軽くなる、身体を岩のようにせよ」
男具那は思い切り息を吸い込むと、必死の思いでいった。
「王子」
「聞えたか」
「無念です、やつかれは死んでも……」
「馬鹿者、青魚の馬が近づいて来る、それまで持ちこたえるのだ、敵は二人か三人、そちの巨体を持て余しておる、いいか、手脚が擦り切れるまで路上を押えろ、吾もそうする、分ったか」
「王子、わずかに動くのは足先だけです」
「足先だけでもよい、土にすりつけろ、相手の引っ張る力は弱くなる、早くしろ」
男具那は左の肘《ひじ》で、網ごしに路上を押えた。網で包まれてはいるが、筒袖《つつそで》が破れるのが分る。抵抗できるのは肘だけだった。
肘が直《じか》に土に接する。激痛が肘から身体中を駆け巡る。
宮戸彦も足先で路上を押え、引っ張る力に抵抗した。
引っ張られる速度が落ちた。
「もうすぐだ、青魚が戻って来るぞ」
男具那は激痛を忘れ、宮戸彦を励ます。
励ますことによって激痛が薄れるのだ。
網を引っ張っている曲者も懸命である。川岸の葦《あし》の中から荒々しい息遣いが聞えて来そうだった。
馬の蹄《ひづめ》の音がはっきり聞えて来た。
距離は二、三百歩だ。
「王子、王子」
青魚の絶叫に、
「ここだ、網の中だ」
と男具那は叫んだ。
だが男具那と宮戸彦は川沿いの薄《すすき》に引っ張られた。薄が根本から折れ、網が薄の上をすべる。肘の力もあまり役に立たない。男具那は曲者たちの息遣いをはっきりと聞いた。宮戸彦が叫んだ。
「青魚、川の傍《そば》だ!」
どこにこんな力が残っていたのか、と不思議に思うほど大きな声だった。
「おう、今、行くぞ、頑張れ」
青魚は、川に引っ張り込まれそうになっている黒い塊を見つけたようだ。
青魚は馬から跳び降りた。片手で網を掴《つか》んだ青魚は、男具那たちがどうなっているかを、はっきり知った。
抜いていた刀で網を引っ張っている綱を切断した。
大きな水音がしたのは、綱を引っ張っていた曲者《くせもの》たちが、川に転落したからである。
曲者たちは川に潜ったらしく姿は見えない。
青魚は刀で網を裂いた。
男具那も宮戸彦もすぐには起きられなかった。もう二尺ほど引っ張られたなら、川に引き落されていたところだ。
男具那は薄の上に仰向《あおむ》けになりながら、肘を押えた。肘のあたりが血に塗《まみ》れている。青魚が男具那の傍に平伏した。
「王子、申し訳ありません、やつかれは謀られたのです、王子を襲った曲者たちは、やつかれを王子から離すために、わざと怪しげな音をやつかれに聞かせたのです、間違いなく、やつかれと同じ海人族です」
青魚の声が慄《ふる》えた。
「海人族、というと……」
「我らの一族の者に違いありません」
「そうか、三輪山麓《みわさんろく》の我らを打ち斃《たお》そうというわけか……だが、何故吾《なにゆえわれ》を」
「王子、現在の王族の中で最も恐れられているのは王子です、王子は武術に優れ、頭脳も抜群です、我らの一族は、オシロワケ王をあまり問題にしておりません、いちばん恐れているのは王子が王位に即《つ》かれることです、だから、王子を襲ったのです」
青魚は平伏したままである。
男具那は夜の空を眺めながら火を吐くような青魚の言葉を聴いていた。
男具那は、童子時代から王位に即きたい、という望みをあまり抱いていなかった。その辺りは兄の大碓とまったく違う。
武術に優れるようになってからは、軍事将軍になりたい、と思うようになった。そのことは父王や、兄にも口にしている。
「吾は信じるがな、他の王子たちは信じない、かえって疑いの眼で視るようになる、そんな馬鹿げたことはあまり口にしない方がよい」
それが大碓の返答だった。
やはり大碓の視る眼は間違っていなかったのだろうか。
雲塊が月を隠すと、星の煌《きら》めきがいっそう美しく見える。
あの天界にも王や重臣たちがいて、天界の国を治めているというが、そこにも人間世界のような争いがあるのだろうか。
男具那は何となく一抹の侘《わび》しさを覚えた。
青魚が、男具那を襲ったのは自分たちの一族、つまり和珥《わに》氏の者だ、といい切ったことも影響していた。
「青魚、そちの一族は、そちに吾を殺すように、と命令していないのか?」
「そういう命令は受けていません、なぜならやつかれが、王子に仕え、いつか王子に忠節を尽すようになったのを、一族の者は知っているからです」
「それでは、そちはそちの一族を裏切っていることになるではないか」
「そう思う者もいるでしょう、だが今のやつかれの主君は、王子です、一族を裏切っても主君は裏切れません」
青魚はきっぱりといい切った。
「だから、舟や舟人の用意も、やつかれに忠実な部下にさせました、だが、誰かが一族の首長に密告したのです、王子、お許し下さい」
「許すも許さないもない、そちは吾の生命《いのち》を守ってくれた、しかし海人族は恐ろしい武術を持っているものだ、投げ網で我らを捕えるとはな、あのような武術は初めて知ったぞ、想像もできない巨大な夜鳥に思えた」
「青魚殿、王子のいわれるとおりです」
宮戸彦が唸《うな》るようにいった。
「王子、そこが不思議なのです、投げ網という武術があることは、やつかれも知りませんでした、知らないはずはないのですが……」
「転がっている死体の顔をよく調べよ、知った者もいるはずだ」
「はっ、調べます」
青魚は馬に積んであった火打の道具を取り出すと、布に火をつけ、一人一人の顔を眺めた。
最後の一人を調べ終った時、
「妙だ、未知の者たちばかりだ、こんなはずはない、狐にたぶらかされたのかもしれない」
青魚は拳《こぶし》で自分の頭を叩《たた》くと、もう一度念を入れて調べた。
やはり青魚の知った顔はなかった。
男具那はようやく起き上がった。
「吾も妙に思う、兄の櫛角別《くしつのわけ》と妃《きさき》を殺害した曲者は一人だった、また吾とフタジノイリヒメを襲って来たのも一人だ、ところが今回は総勢では十人以上になる、吾は先夜、吾を襲った曲者と手を合わせておる、彼は今日の曲者たちの中にはいない、今日の連中なら屋形《やかた》の周囲にめぐらしている濠《ほり》に丸太を渡したりせず、濠に潜り、這《は》い上がって屋形に侵入できそうだ、つまり、吾を狙《ねら》っている勢力は二組以上いることになる、なぜ、急に狙われるようになったのだろうか……」
「王子、王子が音羽山《おとわやま》の頂上に棲《す》む鬼神を斬《き》ったという噂《うわさ》は大和だけではなく、河内《かわち》や播磨《はりま》まで伝わっています、おそらく山背《やましろ》や近江《おうみ》はもちろん、越《こし》や東国にも拡がっているかもしれません、我ら、葛城族は、次の王位に即かれる者は王子以外にはない、と視ています、王子のお生命を狙う不届者《ふとどきもの》が現われ始めたのも、王子の武勇のせいです、まだ畿内《きない》の王権は固まっていません、畿内の豪族は、聡明《そうめい》にして武勇に優れた王が現われるのを恐れているのです、なぜなら、そういう王が現われると、豪族たちはその王に服従しなければならなくなります、自分たちの勢力を拡張できなくなるからです」
と宮戸彦がいった。
青魚も、宮戸彦がいったとおりだ、と大きく頷《うなず》く。
男具那の瞼《まぶた》に、古い銅剣を持った老人の顔が浮かんだ。
ふと、斬らなければよかった、とも思う。復讐《ふくしゆう》の機会を窺《うかが》っていた、といっていたが、かつての警護隊長には、すでに復讐を果すだけの力は失われていた。狼や鷹《たか》を使い、自分の身を守るのがやっとだったのだ。
だが、そうではない、という声も聞えて来る。
イニシキノイリヒコ王の老いた警護隊長は、死に場所を求めていたのかもしれない。
大和一の武勇の王子、男具那に斬られて本望だったのではないか。
「王子、戻られますか?」
青魚の言葉が、男具那の感慨を破った。
「なぜだ?」
「もう、大碓王子にお会いになる必要はなくなったのではないでしょうか……」
「たぶんな……」
大碓を疑ったのは間違いだったかもしれない、と男具那は、自分の猜疑心《さいぎしん》を恥じた。
ただ、先夜の曲者は間違いなく、今襲って来た連中ではなかった。
「青魚、宮戸彦、吾は戻らぬ、兄の大碓に会い、傷が残っていないかどうかを確かめる、疑い深い、と思うかもしれないが、吾にとって、大碓の容疑は晴れていない、死体を川に捨てろ、行くぞ」
男具那は馬に乗った。
一行は再び八幡《やわた》に向って進み始めた。
青魚は時々、川の傍に馬を寄せて、曲者が潜んでいないかどうかを、警戒した。
「王子、どう考えても妙でございます、我らの行動を知っているのは、やつかれの一族だけです、やつかれが、舟や舟人を集めたことから、王子がどこを通るかを察した、やはり、やつかれの一族が関係しているとしか思えません」
「青魚が、そう思うのも無理はない、だが、そちにはいったが、父王も知っている、父王の口から他の王子も知ったかもしれない……」
「王子……」
青魚は絶句した。
「もちろん、父王とは思っていない、ただそういうこともないではないということだ、それに宮に仕える女人たちの口から、他の王子に洩《も》れた、ということも考えられる、ここで大事なのは、今、襲って来た曲者《くせもの》は、証拠を残した、いずれ身許《みもと》は割れる」
「証拠と申しますと……」
「投げ網の術だ、青魚さえも知らない武術、畿内以外の海人族に伝わった術に違いない、徹底的に調べたなら、ああいう武術を使う集団がいることが判明する、そうであろう」
「青魚殿、王子のいわれるとおりだ、あんな奇妙な武術は、やつかれも初めてです、恐ろしい、この宮戸彦《みやとひこ》が、赤子のように身動きできないとは……」
網の中の自分を思い出したのか、宮戸彦は、いまいまし気に唸《うな》った。いつもの力強さはなく、豚の声に似ていた。
当時の倭国《わこく》に豚がいて、飼育されていたことは、弥生《やよい》時代の遺跡からも判明している。
なお、当時は豚のことを猪と一緒にしていたようである。
一行が八幡に着いたのは子《ね》の正刻(午前零時)ぐらいだった
予想外の襲撃者があったので、少し遅れたのだ。
舟人の長《おさ》が青魚の前に蹲《うずくま》った。
「案じておりました」
「山犬が襲って来たので、少し遅れたが何でもない」
男具那の命令どおり、青魚は川から襲われたことは、黙っていた。
青魚は、舟長《ふなおさ》を男具那に紹介した。
名前は川喰《かわくい》といい、二十代半ばである。なかなか勇ましい名前であった。
「川喰の竿《さお》さばきは、まさに名前のとおりです、どんな激流も川喰には勝てません」
川喰は路上に額をすりつけた。
「頼むぞ」
川喰は顔を上げると、両手の掌《てのひら》を交互に合わせ、二度|柏手《かしわで》を打った。
「王子、自分の両腕にかけて、舟を進ませます、と申しているのです」
青魚が川喰の奇妙な動作について説明した。
男具那たちは、岸につけてある舟に乗った。十人以上は楽に乗れる丸木舟である。
舟底には藁《わら》が敷かれている。胡座《あぐら》をかき舟縁《ふなべり》にもたれると、乗り心地が良い。
青魚が用意されていた竹筒を配った。太い青竹で、酒が入っている。
「王子、飲まれたならお休み下さい」
「この程度では酔わぬぞ」
「舟は揺れます、屋形で飲むのとは、酔い方が違います」
宮戸彦が小首を捻《ひね》ったのは、本当かな、と疑ったからだ。巨漢の宮戸彦は酒も強い。
男具那は宮戸彦の左腕を見て驚いた。折れた矢が刺さっているからだ。
「宮戸彦……」
男具那の声に、宮戸彦は白い歯を見せ、矢を見た。内側の方に刺さっていたので、男具那は気がつかなかったのだ。
「なぜ、放っておいた」
「酒を待っていました、そんなに深くは入っていません、内彦《うちひこ》殿、火を頼む」
唖然《あぜん》としていた内彦が布に火をつける。
宮戸彦は折れた矢を掴《つか》むと、夜気を吹っ飛ばすような気合いとともに鉄の矢尻《やじり》を引き抜いた。傷口から血が溢《あふ》れ出るのが炎で分る。血の色は無気味なほど黒かった。
宮戸彦は炎で焼いた矢尻を無造作に傷口に突っ込んだ。煙が立ち、人肉の焼ける異様な匂《にお》いが男具那の鼻をついた。宮戸彦は喉《のど》が破れそうな悲鳴を、舟縁にかけた足で抑えている。
苦痛に身体《からだ》中の筋肉が盛り上がり、吹き出す汗が舟底に落ちた。
何呼吸の間辛抱しただろうか。
宮戸彦は矢尻を引き抜いた。さすがにその時だけは、歯軋《はぎし》りをしながら呻《うめ》いた。男具那は命じた。
「青魚、新しい布はないか、酒をかけて巻いてやれ」
「はっ」
と青魚は低い声で答えた。勇猛さでは誰にも負けぬ、といつも豪語している青魚も、宮戸彦の勇猛さには舌を巻いたようである。青魚は大急ぎで新しい布を取り出し、竹筒の酒をかけると宮戸彦の二の腕に巻きつけた。
「大丈夫か、宮戸彦」
「これしきのこと、何でもありません、酒を飲み、一眠りすれば治っております、王子、おおいに飲みましょう、ここまで我慢して来たのですから……」
喋《しやべ》り終ったとたん、宮戸彦の尻のあたりで大きな音が鳴った。
「王子、失礼いたしました、悲鳴が下から出ましたわい」
宮戸彦のおどけた口調に、一同は笑った。
男具那は、良い部下を持ったものだ、と胸が熱くなるほど嬉《うれ》しかった。
どの王子も、勇猛な武術者を集めているが、男具那の部下には及ばないだろう。
四人は二人ずつ向い合って酒を飲んだ。舟子たちは竹竿《たけざお》を使い舟を進める。
山の間に入れば月明りもほとんど差し込まない。舳先《へさき》に立った舟子は松明《たいまつ》をかかげ、前方を睨《にら》んでいる。少し油断すれば、舟は断崖《だんがい》に激突してしまうのだ。
夜の航行など滅多にないが、舟子たちは、川の状況をよく覚えていた。
男具那たちの話題は、襲って来た曲者との闘いから始まる。
「いや、投げ網の術だけには驚いた、闇《やみ》が割れ、巨大な夜鳥が襲って来たような気がした、槍《やり》で突いたが手応《てごた》えがない、鬼神の術に違いない、と一瞬感じた」
身体を包み、暴れれば暴れるほど絡んで来る網は、まさに巨大な蜘蛛《くも》の巣である。
「蜘蛛の巣にかかった虫の心境がよく分る、吾も、あんな恐怖心を味わったのは初めてだ、倭国も広い、いろいろな術を使う奴《やつ》が現われる、空を飛ぶ奴も、現われるかもしれぬぞ」
男具那の言葉に、一同は真剣に頷《うなず》いた。
「王子、空を飛ぶといえば、やつかれも飛んだことがございます」
意外な発言者は内彦だった。
「まことか、どのぐらい飛んだ」
男具那の問に、内彦は頭を掻《か》いて、
「あまり飛べませんでした、実は童子の頃から、鳥になりたくて仕方がなかったのです、あの鳥のように大空を飛べたなら、どんなに気持がよいだろうか、といつも空を見たものです」
「吾も飛びたかった、吾は童子時代、播磨で、白鳥が浮いている沼によく行った、大碓《おおうす》に苛《いじ》められた時など、とくになあ、白鳥も吾に馴染《なじ》み、吾が行くと傍に来た、吾は捕えていた虫をよく与えたものだ、ある日、行ってみると、狩人《かりうど》が、矢で白鳥を射ようとしている、吾は刀を抜いて狩人に、射るな、と怒鳴ったが、矢の方が早かった、一羽の白鳥が射抜かれ、他の白鳥は舞い上がった、狩人は吾を見て逃げたが、大空の白鳥は、もう二度と沼には戻って来なかった、ただ飛び去る前に、沼に浮いている仲間を悼むように、何度も沼の上を舞い廻《まわ》った、吾はその時、なぜか白鳥たちと一緒に飛んで行きたい、と願ったものだ……」
男具那の口調はいつかしんみりしていた。
部下たちが黙り込んだので、男具那は思い切り酒をあおった。明るい声で訊《き》いた。
「くだらぬことを話したものだ、それで内彦、落ちて怪我《けが》をしなかったのか?」
「はあ、庭に一尺ぐらいの厚さの藁を敷きつめました」
「何だ、その上に飛び降りたのか、空を飛んだことにはならぬではないか……」
男具那の言葉に部下たちが、どっと笑った。
「それが、少し飛んだのです、やつかれは身体に布を巻きつけ、左右の腕に、鳥の翼のように結びました、両脚の間にも布を張ったのです、それで両手・両脚を拡げ、風の吹いている方向に、屋根の鰹木《かつおぎ》の上から飛びました、両腕の付け根が折れそうな衝撃を受けましたが、間違いなく空中で身体が浮きました、飛ぶ前は鳥のように翼を上下に動かすつもりでいましたが、風がきつくて動きません、ただそのまま藁の上に落ちましたが、十尺は飛んでいます、やつかれが思いますには、腕が倍も長く、風を通さない厚い布をうまく張ることができたなら、三十尺ぐらいは飛べます」
「絹布を張ったのか、一枚か?」
「水も通さないような高価な絹布を三枚も重ねました、父の知るところとなり、擲《なぐ》られた上、一晩中、庭に坐《すわ》らされました」
「当り前だ、そんな高価な絹を盗んだのだからな、しかし愉《たの》しかっただろう」
「はい、愉しゅうございました、できれば今一度飛んでみとうございます」
「そちは飛び降りるのが得意だが、きっと鳥の生まれ変りに違いない」
部下たちがまた笑った。
「はあ、そうかもしれません、妹もそういっています」
内彦は照れたように腕を撫《な》でた。
実際、内彦は十尺ぐらいの高さから、楽々と飛び降りる。
男具那も身は軽いが、跳躍と飛び降りは内彦にかなわなかった。
「そうそう、そちには可愛《かわい》い妹がいたな、何歳になる」
「もう十二歳でございます」
「そうか、二年ほど前、一度会ったな、狩りの帰りそちの屋形に寄った時、水を持って来てくれた、七、八歳の童女に見えたが、十二歳になったか、確か弟橘媛《おとたちばなひめ》といったな」
「覚えていただいて光栄です」
美し過ぎる、と男具那は胸の中で呟《つぶや》いた。
まるで開きかけた山百合《やまゆり》の花のようであった。
弟橘媛は、後年男具那が最も愛する妃《きさき》となったのだ。
酒を飲み、舟に揺られているとさすがに眠くなった。男具那は夜襲の曲者《くせもの》を相手に闘った。
酔いが緊張感を解き、疲労が眠気となった。
それにしても、宮戸彦がいなければ、また青魚と内彦が戻って来なければ、間違いなく吾は死亡していた、と男具那は思う。
素晴らしい部下を持てたことに男具那は嬉しさを覚えた。
「吾は眠るぞ、皆も眠れ、宮戸彦、傷は痛むだろう」
「これしきの傷、虫が這《は》っている程度です」
「虫が這うか、巨漢は巨漢らしいことを申すものだ、舟の中は安全だ、今のうちに眠っておけ」
男具那は一同に命令すると藁《わら》を敷きつめた舟底に横たわった。眼を開けて夜空を眺めていると、星が大空を舞い始めた。
小さな虫が光となって夜空を乱舞しているようである。
舟子たちの威勢のよい掛け声が遠くで聞え始めた。
男具那は一番に眠った。
部下たちは男具那が眠ったのを見届けた後、横になった。
宮戸彦は坐ったまま眠った。腕の傷が痛むのだろう。時々|歯軋《はぎし》りをし、呻《うめ》き声を洩《も》らす。
最後まで起きていたのは青魚である。
舟子の長、川喰《かわくい》を呼ぶと、周囲にも注意するように、と告げた。
「そんなことはないと思うが、渓谷の岩の間に、曲者が潜んでいるかもしれぬ、怪しいと思った時は吾を起こせ」
「充分、注意します、安心してお眠り下さい」
川喰の言葉に青魚は安心したように眼を閉じた。
どのぐらい眠っただろうか、男具那は尿意を覚えて眼を開けた。
空は明るくなっており、展望は広い。
舟はもう瀬田《せた》の近くまで来ているようだった。
欠伸《あくび》をした男具那が起き上がると、艫《とも》に坐り舟子たちを指揮していた川喰が、
「厠《かわや》でございますか?」
「ああ、舟縁《ふなべり》からするぞ」
「これになさいませ、王子様のために、用意して参りました」
川喰は放尿用の壺《つぼ》を男具那に渡した。
[#改ページ]
六
男具那《おぐな》は放尿用の壺で用を足すと、周囲の景色を眺めた。舟は湖の東側の葦《あし》の傍《そば》を進んでいる。西側の山々には雲が垂れ込み、山形ははっきりしない。
雲は霧となり湖の方まで漂っている。霧は湖と同じような鈍い銀色で、水面との境がさだかでなかった。
湖には乳白色の靄《もや》が布を拡げたように行手を遮っていた。
男具那の瞼《まぶた》が重くなった。よほど疲れていたのだろう。
「横になるぞ」
男具那は舟長《ふなおさ》に告げると藁を敷きつめた筵《むしろ》の上に横たわった。宮戸彦《みやとひこ》の豪快な鼾《いびき》が聞える。まるで鼾で波風が立ちそうだった。
男具那は微笑し、吸い込まれるように眠った。
男具那は水鳥の音で眼を覚ました。
湖の周囲は丘陵地帯である。眼の覚めるような白鳥が舟とともに進んでいる。
いったいここはどこだろう、と男具那は眼を凝らした。あまりにも景色が違い過ぎるのだ。
舟長の姿も見えない。
宮戸彦の鼾も聞えなかった。
「青魚《あおうお》!」
男具那は大声で叫び起き上がった。
「男具那、何も驚くことはありません、私《わ》はここにいますよ、そなたは私の膝《ひざ》を枕《まくら》にして眠っていたのです」
男具那は女人の甘い香料の匂《にお》いを嗅《か》いだ。男具那の肩にかかっている手は柔らかく白い。練絹《ねりぎぬ》のような艶《つや》のある肌だった。
香料の匂いに混じって乳の匂いがした。
「母上」
男具那は振り返った。
時々夢に見る母イナビノオホイラツメ(稲日大郎姫)が、男具那を見て、安心なさい、と笑っている。眉《まゆ》は薄いが黒髪は濃く、湖の照り返しに緑色に見えた。面長で鼻は高いが、左右の小鼻がふくらんでいるので、きつい感じを受けない。
母の眼はどこか青みがかっていた。
「ここはどこでしょう、近江《おうみ》の湖とは様子が違います、西側に高山がありません、山は消えたのでしょうか……」
イナビノオホイラツメは男具那の顔を両掌《りようて》で包むと、引き寄せ、男具那の額に唇をつけた。
男具那は緊張していた心が溶けて行くような気がした。身体《からだ》も柔らかくなったようである。乳の匂いは香料よりも強く感じられた。
男具那は母の胸に顔を埋めたくなり、はっとする。
吾《われ》は十九歳だ、何を甘えておる、と男具那は自分を叱咤《しつた》した。
オホイラツメが、ゆっくりと顔を横に振った。何も気を遣う必要はない、と母の優しい眼は告げていた。
「母上、吾は夢を見ているのですね」
「いいえ、夢ではない、ここは印南《いなみ》の沼ですよ、そなたは童子に戻り、母に会いに来たのです、近江の湖も地の底を通り、印南沼につながっています、国は遠く離れているが、地の底を流れる水は一緒なのです」
「そうか、印南の沼でしたか、母上、吾は母上に会いたい、と念じていました、近々、印南に戻るつもりだったのです、いろいろと知りたいことがあるのです、でも母上に会いたい、その気持が一番でした、他のことはどうでもよいのです、こうして母上の顔を見ていると、争いごとなど、どうでもよいようになりました、久しく味わったことのない不思議な気持です、蜜《みつ》に包まれたように、いや母上の乳に包まれたように甘く、穏やかです」
「男具那よ、それはそなたが少年に戻っているからです、そんな甘えたことをいっていてはなりません、大人になれば、男子《おのこ》であろうと女人であろうと、悲しみと苦しみの日々が多くなるのです、年齢《とし》とともに、幸せの日々は少なくなります、少なくなる幸せの日々を得るためにも、男具那は闘わねばならない、私のいうことが分りますか?」
「分ります、吾の周《まわ》りは敵だらけです、吾はなぜか狙《ねら》われるのです、誰を信用してよいか、吾には分らない……」
「それは男具那が人よりも優れた若者であり、誇り高き勇者だからです、私《わ》は男具那を英雄として産みました、英雄ではなく、もっと平凡な子を産んでおけばよかった、と悔いているぐらいです、だけど、私はやはり英雄を産んだことを誇りに思っています、ただ英雄は孤独です、死ぬまで孤独なのです、平凡な人たちは、英雄に憧《あこが》れ、慕いますが、自分より優れている、というだけで嫉妬《しつと》します、ことに今は激動の時代です、男具那よ、苦しみや悲しみを乗り越え、英雄として生きて下さい、倭男具那《やまとのおぐな》、そなたの名が、千年も後まで残るような英雄になれば、母はそなたをどんなに誇りに思うでしょうか、私はそなたに厳しいかもしれません、でも、私は吉備《きび》と播磨《はりま》の首長の血を引いています、英雄の娘なのです、当然、そなたには英雄の血が流れているから、厳しいことを申すのです、分りますか……」
「母上、よく分ります、母上、吾は母上に訊《き》きたいことがあります、吾は、今、兄の大碓《おおうす》王子に会うべく、美濃《みの》に参る途中です、兄は、父の跡を継いで王になりたい、と望んでいます、だが、兄なのにどうも吾を敵視しているのです、本当の兄が、母を同じくする弟を敵視する、そんなことがあるでしょうか、母上、兄は本当の兄ですか、それをお訊きしたい」
沼の周囲に漂っていた霧が、何者かに命令されたように、オホイラツメと男具那が乗っている舟に押し寄せて来た。霧は白い巨大な生物のようだった。
「男具那、もう別れの時が来ました、そなたが悩み苦しんだ時、母はそなたに会いに来ます、でもそういう質問には答えられません」
男具那は慌てて、オホイラツメの手首を掴《つか》んだ。だが男具那が掴んだのは手首ではなく刀の柄《つか》だった。
オホイラツメは艫《とも》の方に去っていた。
霧はもう三十尺(約九メートル)ほどに迫っている。霧の中に無気味な眼が光っているのを男具那は見た。
舟と一緒に進んでいた白鳥が、イナビノオホイラツメを守るように舟の左右に寄っている。いや後方の水面にもう一羽いた。
「母上、お願いです、それだけお聴かせ下さい」
「男具那、それを聴いて、どうするつもりですか……」
「分りません、でも血を分けた兄弟なのか、他人なのか、それだけは知りたい、母上、子供でも知る権利はあるでしょう、お願いです、教えて下さい」
「私は二人の子を同時に産みました、これは間違いありません、でも、これは悪い予兆とされています、一方の子供には悪い鬼神が宿っている、というのが昔からのいい伝えなのです、私《わ》はそんないい伝えは信じないが、長い慣習には勝てません、最初に産んだ大碓は、印南の宮から、神の住む山に捨てられたのです、私はそなたが四歳の時、風邪をこじらせ、黄泉《よみ》の国に行ったのです、私が亡くなる前、大碓は戻って来ました、私が産んだ大碓なのか、他人の子が大碓になったのか、それは分りません、私の子かもしれないし、違うかもしれない、そなたが本当に知りたければ、そなたが印南に来て、調べなさい、男具那、本当のことが分るまでは、大碓が、どんな非情な仕打ちをしようと、刀を抜いてはなりません、母の願いです、男具那、分りますね」
霧はもう七尺(約二メートル)の距離に迫っていた。今にも舟を呑《の》み込みそうである。男具那は霧の中に白く光るものを見た。間違いなく牙《きば》だった。
「母上、こちらへ、吾が守ります、霧は悪い鬼神です」
男具那は刀を抜いた。
霧の一部が上昇し、何かで見た龍のような形になると、牙を剥《む》いてイナビノオホイラツメに襲いかかろうとした。
男具那は艫《とも》の方に跳んだ。
それよりも早く、オホイラツメは宙に浮いていた。三羽の白鳥が水《みず》飛沫《しぶき》をあげながら舞い上がった。真ん中の眼も眩《くら》むような白い白鳥がオホイラツメを乗せた。
襲いかかった霧の牙をたくみに避けると上昇した。
男具那は呆然《ぼうぜん》と白鳥たちを眺めていた。
待っていたように雲が裂け陽が沼を照らした。白鳥を追おうとしていた霧の頭が陽に叩《たた》かれて砕けた。あっという間に霧は逃げて行く。
白鳥は光り輝きながらオホイラツメを乗せ、男具那の頭上を三度旋回し、西方の吉備の方に飛んでいった。
白鳥が白雲と化したのを男具那は見た。
「母上、母上!」
男具那は絶叫し刀を振った。
母、オホイラツメは人の子ではなく、白鳥の子のような気がした。
英雄は孤独なのです……
真実を知るまで刀を抜いてはなりません……
母の声が脳裡《のうり》に深く焼きついていた。
「王子、どうされたのですか?」
眼を開けると、不安そうな青魚の顔があった。宮戸彦や内彦《うちひこ》も眼を見張って覗《のぞ》き込んでいる。
陽はすでに西の山々の上にあった。
「青魚、どうしたのだ?」
「王子が酷《ひど》くうなされていたので、お起こししたのです、もう未《ひつじ》の上刻(午後一時‐二時)です、よくお眠りになりました」
「何だと、未の上刻、瀬田《せた》の辺りで眼を覚まし、また眠ってしまった、今、いずこじゃ?」
「野洲《やす》です、これから西の湖に入り、安土《あづち》で泊まる予定でございます、西の湖に入る頃に陽は落ちるでしょう、夕餉《ゆうげ》はまた舟の中で摂《と》ることになります、飯は握り飯ですが獲《と》ったばかりの小魚がございます、焼きたての小魚はおいしいですぞ」
青魚の言葉が終るか終らないうちに男具那の腹が鳴った。
それを合図のように一同の腹が鳴る。
遅い朝餉を摂りながら一同は、男具那があまりにも眼を覚まさないので心配した、と口々に告げた。
男具那は、これまで何度か母の顔を夢で見ているが、あんなにはっきり見たのは、初めてだった。
たんに美しいというだけではなく優雅で、どこか淋《さび》し気だった。
英雄は人よりも優れているが故に孤独なのです、というようなことを母は口にしたが、母も孤独だったのかもしれない。
母とオシロワケ王との婚姻は間違いなく政略結婚である。三輪山麓《みわさんろく》の勢力は播磨・但馬《たじま》、また吉備と結んでいる。
その点|河内《かわち》に興った新勢力は、九州方面の勢力と手を結んでいた。九州勢は次々と、河内の北部(摂津《せつつ》)や河内の西南部(和泉《いずみ》)に移り、河内在住の勢力と一体となり、大きな勢力となっている。
一部には、次の時代は河内の勢力が王となる、という者もいた。それに河内の勢力は、朝鮮半島・九州と結んでいるだけに武器に優れていた。
母がいったように、まさに激動の時代である。
「何か夢を見られていたようですが……」
と青魚が気になるのか、内容を訊《き》いた。
夢の内容は語れない。好《い》い年齢をして、そんな感傷的な夢を見ている脆弱《ぜいじやく》な王子、と思われたくなかった。
そこにも英雄の孤独があった。
「故郷の夢を見た、たぶん、舟に乗ったせいであろう、吾は播磨の印南にいた頃、舟で沼に出、魚を釣った、怪物のような魚と闘っている夢だった、それでうなされたのであろう」
「やつかれも少年の頃の夢を見ます、葛城《かつらぎ》山で猿や鹿と遊んでいた頃の夢です、猿が木の実から作った酒を飲ませてくれました、あの味は忘れません、それにあの酒を飲むと、恐怖心がなくなるのです、猿と一緒に高い木から跳び降りたりしました、ところが十五歳の時、父から猿が棲《す》む場所に行ってはならぬ、と禁じられたのです、父は葛城山の神がおられる場所だというのです、反駁《はんばく》しましたが父には勝てません、猿の酒も味わえなくなり、無念です」
と宮戸彦がいった。
内彦が、本当に猿が酒を作るのか? と疑わしそうに訊いた。宮戸彦が、嘘《うそ》などついていない、といっても内彦は、疑わしい、と信じようとしない。いい争いになったが、青魚が、
「王子を守る身がいい争うとは何事だ!」
と一喝し、二人は首を縮めて謝った。
一行は安土の村長《むらおさ》の家に泊まった。
舟人の長が、安土の海人族を通じ、高貴な方だ、と村長に伝え、一夜の宿を依頼したのだ。
男具那が渡した、土産物の絹布に村長は男具那たちに叩頭《こうとう》し、部屋を提供したのだった。
男具那が土産物として渡した絹布は、最高級のもので、村長程度では、一生手にできないものだった。
村長は、相当高貴な方だ、と推測したようである。
村長は男具那を、自分たちの寝室に泊まらせようとしたが、男具那は断った。男具那は自分を警護してくれている部下たちと一緒に寝ることを望んだ。
青魚たちは喜んだようである。男具那一人を別室に行かせることに不安感を抱いていた。
「王子、有難うございます」
と青魚は礼を述べた。
「馬鹿なことを申すな、旅に出れば皆一緒だ、もちろん、場合によっては離れて寝ることもあるが、それは特別の場合じゃ、吾もそちたちと、女人の話でもしながら眠った方が愉《たの》しい、礼など申す必要はない」
村長の家には四人分の寝具などない。
四人は一室に藁《わら》を敷き、衣服を着たまま横になった。
男具那たちが横になろうとした時、這《は》いながら村長がやって来た。彼の後ろには頭まで布で覆った女人が蹲《うずくま》っている。
どうやら男具那のために伽《とぎ》の女人を連れて来たらしい。
当時は、高貴な人が旅先で泊まると、一家の主《あるじ》は、娘たちを伽の女人として差し出すのが習慣だった。
「泊めてもらっただけで感謝しておる、だが吾に伽の女人は不必要だ、別に女人が嫌いというわけではないが、旅先で女人と媾合《まぐわ》わぬ決心をしておる……」
「それは、どういうわけでございましょう、奴《やつこ》の娘は、奴が申すのもおかしいですが、この辺りでは美貌《びぼう》で通っております、都の女人たちに較べると、御満足いただけないかもしれませんが」
「まあ待て、吾の話を聴いてくれ」
男具那は上がり框《がまち》に坐《すわ》ると話し始めた。
「かつて、吾は大和《やまと》の宇陀《うだ》に行った、宇陀の首長の屋形に泊まった時、伽の女人をあてがわれた、色が白く美しい女人だった、あまり美しいので吾は夜が明けるまで媾合った、吾は若いし女人が好きだ、疲れ果ててそのまま眠ってしまった、明るくなって眼が覚めたが傍にいた女人はいない、眼をこすって仰天した、屋形の一室に寝ていたはずなのに周囲は草原だ、部下たちも驚いてやって来た、悪い鬼神に騙《だま》されたようだ、吾は尿意を覚え、小川で用を足そうとした、ところが尿が出ない、気張れは気張るほど下腹が張り裂けるほど痛む、妙に思い股間《こかん》を見た吾は不覚にも悲鳴をあげた、それまで悲鳴などあげたことのない吾が……何と股間に白い小蛇が巻きついているではないか、吾はそのまま気を失った、気がつくと吾は巫女《みこ》の前にいた、巫女は薪《まき》を燃やし、懸命に山の神に祈っている、身体《からだ》は火のように熱く、吾の意識は朦朧《もうろう》としていた、吾は死を覚悟した」
村長は眼を剥《む》いて男具那の話を聴いている。男具那の口調は真剣である。
「巫女が吾に叫んだ、旅先で伽の女人と媾合うことはならぬ、それが守れるなら、今回だけは助けてやろう、それは恐ろしい声だった、たぶん、山の神が憑《つ》いたに違いない、吾は夢中で、守ります、約束します、と叫んだ、また気を失い、今度気がつくと、小蛇は消えていた、生命《いのち》が助かったのだ、それ以来、旅先では伽の女人を辞退することにしている、吾も辛《つら》いのだ、気を悪くしないでくれ」
「とんでもありません、恐ろしい話です、何故《なにゆえ》、そんなことが起きたのでしょう」
「後で調べてみると、我らが屋形内と思い泊まった場所は、我らの一族に滅ぼされた首長の屋形の跡ということだった、その首長の名は兄猾《えうかし》という、弟は一族に寝返った弟猾《おとうかし》だ、語り部たちは名前を知っていたぞ」
「ああ恐ろしい話でございます、よく分りました、娘も、今宵《こよい》、高貴な方にお仕えできると喜んで参りましたが、今のお話で納得できました、そうだな」
村長は娘を振り返った。
頭まで布を被《かぶ》った娘は頷《うなず》いた。
親娘《おやこ》が戻ると、宮戸彦が柄にもなく上ずった声をあげた。
「王子、いつ頃のことでございますか……」
「十五歳だったから、四年前かな」
男具那はとぼけた声で答えた。
青魚が不審そうな眼を男具那に向けた。
「やつかれは昨年から王子の警護をするようになりましたが、そんな話は聞いておりません、王子のことならたいてい存じていますが」
青魚の言葉に、
「やつかれも知らぬ」
と内彦も頷いた。
男具那は夜の怪鳥のような声を出して笑い、仰向《あおむ》けに引っ繰り返った。
腹が痛くなるほど笑った。
「今のは作り話だ、だが妙だな、話しているうちに、本当にあったように思えて来た、だから真剣な口調になったのだ」
「作り話ですか、やつかれも騙されました、王子の話が終るまで聴き入ってしまいました、王子が語り部になると、作り話ばかりになりそうですね」
「そうかもしれぬ、ただな、これで相手を傷つけずに済む、それとな、吾の旅は何者かに監視されていそうな気がする、伽の女人は危険だ、媾合《まぐわ》っている最中、刃物で刺されると防ぎ様がない、だから、今度の旅では伽《とぎ》の女人は、一切断る」
「王子、お見事です、我らも女人を近づけないことに致しましょう、宮戸彦、分ったな」
青魚がいうと宮戸彦は不服そうに答えた。
「分りました、だがなぜ、吾に念を押すのですか」
「おぬしの身体から判断して、精力も十人力と視たからじゃ」
「そのとおりだ」
内彦が手を拍《う》って笑う。
「さすがは警護隊長、よく見抜かれた、だが葛城の宮戸彦は女人がいなくても、精を抜く方法を知っている、くだらぬ心配は不要じゃ」
宮戸彦は御機嫌が斜めのようだった。
「宮戸彦、怒るな、吾だって女人が欲しい、皆、手で我慢しよう」
男具那が声をかけると宮戸彦は叩頭《こうとう》した。
「王子、お言葉を返すようですが、やつかれは、手など使いません、手を使えば身体が消耗します、やつかれは気で精を抜くのです」
「えっ、気で精を抜く、どういう方法なのだ、見たいものだ」
「王子の前では失礼にあたります」
「失礼にあたらないぞ、宮戸彦は舟縁《ふなべり》から湖に向って、勢いよく放尿していたではないか、吾《われ》は見ていたぞ」
男具那が、どうだ、と笑うと、宮戸彦は、参りました、と頭を掻《か》いた。
青魚たちも、王子がいわれる以上、遠慮することはない、と口々にいった。皆、いったいどうするつもりだろうか、と好奇心が一杯の様子だった。
男具那は、外なら気が楽だろう、と真っ先に家から出た。村人たちを起こさないために音を立てずに歩いた。
「いや、参りました、くだらないことを自慢しなければよかった」
宮戸彦は巨体を縮めている。
「この暗さだ、ほとんど見えない、遠慮することはないだろう、さあ、早く始めるのだ」
男具那は命令したが声に力が入らない。
宮戸彦の困惑した顔がはっきり分る。
宮戸彦は木の前に立った。
「王子だけは後ろにいて下さい、王子に前におられると、精神の統一が不可能です」
「気が弱いな、まあ仕方ないだろう、青魚、内彦、ちゃんと確かめるのだぞ」
「もちろんです、やつかれの眼は闇《やみ》に強いのです」
といって青魚は肩を張った。
宮戸彦は木の前に立つと何と手を合わせた。精神統一を行なっているらしい。
青魚と内彦は木の傍に立ち眼を凝らしている。
宮戸彦は深々と息を吸い込んだ。袴《はかま》の紐《ひも》を解く。青魚と内彦が、おお、と唸《うな》った。
股間《こかん》のものは夜目にもたくましく屹立《きつりつ》しているようである。
宮戸彦は三度深呼吸をした。終った瞬間、まるで刀を振り下ろしたような鋭い気合いを発した。
股間から放尿にも似た勢いで液が一間も飛び、木の幹を叩《たた》いた。
宮戸彦は悠然と袴を上げて紐《ひも》を締めた。
男具那の方を向くと叩頭した。
「王子、終りました」
男具那も青魚・内彦も声が出なかった。
男具那はこれまで、数々の優れた技を見て来た。なかには燃えた火を口の中に入れ、消す者もいた。
拳《こぶし》大に近い石を飲み込み、口から吐き出す芸も見た。また口から吸い込んだ煙を耳から出す者もいた。
だが宮戸彦のような芸は初めてだった。
青魚や内彦が、秘法を教えて欲しいと頼むと、宮戸彦は、
「おぬしらのような弱い精には無理じゃ」
と一蹴《いつしゆう》し、二人を悔しがらせた。
「手を使わないから、下帯や敷布を汚すことがない、全然疲れないし、すぐ剣を取っても、影響はまったくない」
宮戸彦は豪快に笑うと、大きな欠伸《あくび》をし、眠いぞ、といった。
翌朝、村長一家が男具那たちを見送った。
村長の娘はまだ十六、七歳だった。
小柄で丸顔だが、愛くるしい顔である。
鼻の傍の黒子《ほくろ》が色香を添えていた。
男具那は少し残念だったが、これでよいのだ、と自分にいい聞かせた。
一行は安土山《あづちやま》の麓《ふもと》を通り、伊吹山《いぶきやま》の方に向った。
安土山は後世、安土城が築かれた山で、平野にあるが、東方の丘陵地帯によって要害の地になっている。
この辺りには、湖を利用し湖西から越《こし》の国と交易している海人族がいた。
阿曇《あずみ》氏の祖で湖西の安曇《あど》川(阿曇川)周辺を押えていた。
阿曇氏は、後に息長《おきなが》氏となった伊吹|山麓《さんろく》の勢力とも親交がある。
この両氏族は、三輪山麓の王と友好関係は保っているが、服従していない。
将来の状況いかんでは、河内の新興勢力に味方をする危険性もあった。
男具那たちは蒲生野《がもうの》の丘陵地帯に入った。
そんなに高くはないが、丘陵地帯が果てしなく続いている。小平野もあるが、丘陵に取り巻かれている。丘陵が天然の要塞《ようさい》になっているが、その辺りの地理を熟知していない男具那たちには、危険この上もない地域である。
ただ湖岸の平野を行けば目立つが、丘陵地帯を進めばあまり目立たない。
昨夜の村長の話では、大碓王子一行は安土を通らなかった。
舟で湖を進み、天野《あまの》川から美濃と近江の境にある不破関《ふわのせき》(|関ヶ原《せきがはら》)の方に向ったのかもしれない。
ただ天野川一帯を押えているのは息長氏である。
息長氏の許可がなければ、王子であろうと不破関には行けなかった。
野洲あたりから丘陵地帯に入ったのかもしれない。だが交通路としては道なき道も進まねばならず、不便だった。
男具那たち一行は申《さる》の正刻(午後四時)頃、天野川の南方一里の場所に達した。現在の米原《まいばら》である。その辺りは後の坂田《さかた》郡で、五世紀の大王、允恭《いんぎよう》に王妃オオナカツヒメ(大中姫)を出した息長氏の勢力圏だった。
オオナカツヒメは、安康《あんこう》・雄略《ゆうりやく》を産んでいる。中国南朝に遣使した倭《わ》の五王中、興《こう》・武《ぶ》に比定されている大王だ。
五世紀の大王は、九州と河内の勢力が合体し、さらに三輪の勢力を取り入れ強くなったのだ。
それを考えても、オシロワケ王と、息長氏との関係が、親密でないことが窺《うかが》われる。
三輪山麓の勢力が、三輪山の神を信仰するように、息長氏は伊吹山の神を信仰していた。男具那が後にヤマトタケルと名乗り、東征の後、伊吹山の神に敗れたことの意味は重要である。
たんなる古代神話というだけではなく、その核には、息長氏に敗れたヤマトタケルの物語が反映しているような気がする。
男具那は天野川を押えている息長氏の同族、坂田氏に、美濃行きを告げるかどうか、を部下たちに相談した。
ことが重大なだけに部下たちの口は重い。
「遠慮せずに申せ、青魚、和珥《わに》氏は息長氏と親しいではないか、どう思う?」
「親しいと申しても、蒲生《がもう》あたりの息長氏です、坂田あたりになると……」
「坂田の勢力も息長氏に入るだろう、そちたちの口が重い気持もよく分る、では吾の意見を申そう、大碓王子も天野川をさかのぼり柏原《かしわばら》から不破関に入ったと考えてよい、兄は大勢の部下を連れているし、当然、オシロワケ王の命令で美濃に行く、と申し入れたに違いない、他に道はあるか?」
「不破関が東西を遮る要害の地なのも、他に道がないからです、この辺りから東行し、養老の山々に入り、北上すれば不破関に出られないこともありません、しかし、まず間違いなく道に迷い、飢え死にします」
「それでは道がないのと同じだ、尾張《おわり》から入らず、近江路を通った以上、近江の勢力を無視するわけにはゆくまい、青魚、堂々と吾の名を告げ、不破関への道の安全を保証するように、坂田氏に申し入れて参れ」
「分りました、では参ります」
「一人では危険だ、内彦を連れて行け」
「それでは王子の身が不安です」
「心配するな、吾と宮戸彦が力を合わせれば、百名の敵の相手はできる、早く行け」
男具那が一喝すると、青魚は平伏した。
「王子、ここから、絶対動かないようにして下さい、宮戸彦、頼んだぞ」
「おう、このとおりじゃ」
宮戸彦は布で巻いた矢傷の上を叩《たた》いた。もう傷は治っている、といっているのだ。男具那は部下たちの忠節が嬉《うれ》しかった。
青魚と内彦が馬を走らせると、宮戸彦は、丘の上の方が安全です、と告げた。
男具那たちがいる場所は田畑のはずれで、薄《すすき》の野であった。その東は急傾斜の丘で、高さは五丈(約一五メートル)ほどである。雑木が丘を覆っている。
葛城山を勢力圏とするだけに、宮戸彦は山に詳しい。
男具那も高所の方が安全だ、と判断した。
宮戸彦は、灌木《かんぼく》や熊笹《くまざさ》を無造作に伐《き》り払うと、木に手をかけ急斜面を登った。
「王子、好《よ》い場所があります、ここで待ちましょう、お出《いで》下さい」
「馬は?」
「馬は無理です、木に登るとよく見えるので、やつかれが見張ります」
男具那は宮戸彦が作った途《みち》を登った。
宮戸彦は崖《がけ》に近い斜面の灌木を伐っていた。あっという間に五坪近い広さの灌木が伐られた。雑草を積んで男具那の席を作る。
「王子はここに横たわられて、休んで下さい、やつかれは見張っています」
宮戸彦はあまり高くない松に登り、枝に腰を下ろした。巨漢だが猿のような身軽さである。男具那は西方の湖の景観に眼を見張った。
旧暦七月初旬の陽は、広々とした湖面をも灼《や》いているようだ。遠目にもかかわらず眩《まぶ》しいほど照り映えている。対岸は三尾《みお》あたりだが、比良《ひら》山系の高山が延々と続き、その背後に龍や巨鳥にも似た雲が天高く聳《そび》え、ところどころ深紅の炎をあげていた。
丘陵地帯と湖岸の間は田畑で稲の緑が豊かである。
比良山系の北方は越の国で、三輪王権に属さない独立的な国だった。もちろん交易はあるが、越の国は近江の勢力と親しい。
倭《わ》国には、まだまだまつろわぬ国が多いのだ。
男具那は、若い女人にうつつを抜かしているオシロワケ王を思い、こんなことで三輪の王権は大丈夫なのだろうか、と不安に思った。
北の海は大陸につながっており、越の国は大陸と交易し、新しい文化や武器を受け入れている、という。
「暑さも忘れますなあ、鳥になって湖に飛び、一泳ぎしたいものです」
木の上から宮戸彦がいった。
「そのとおりだ、だがあの荘厳な湖は我らの湖ではない、うかつに泳げば敵が放った怪魚に咬《か》まれるぞ」
「それもそうですな、さすがに王子は王子です、景色にも力を読み取られる、そこがやつかれのような凡人とは違う」
「くだらぬことを申すな、吾は一眠りするぞ、そちも吾の傍で眠れ、ここならあまり警戒する必要はない」
「王子、眠れとは酷《むご》い、眠ったりしたなら、葛城に戻れ、と青魚殿に怒鳴られます」
「青魚は口が悪いからなあ」
男具那は一眠りした。
男具那が蹄《ひづめ》の音で眼を覚ましたのは一|刻《とき》(二時間)後だった。陽はかなり西に傾いていた。
日暮は近いが、湖の中央が茜《あかね》色に煌《きら》めいていた。まるでその下の赤い玉が光りを放っているようだった。
青魚たちと一緒に来たのは馬に乗った二人の武人である。
男具那に叩頭《こうとう》した二人は、頑丈で精悍《せいかん》な容貌《ようぼう》の持ち主だった。
「我らの主君、坂田角王《さかたのつのおう》は男具那王子様のことを御存知です、屋形にお泊めするのは光栄だ、と申しております、明日は不破関の近くまでお送り致しますので、是非お泊まり下さるように、とのことでございます」
青魚が男具那に頷《うなず》いたので、
「それは有難い、では泊まらせていただこう」
と鷹揚《おうよう》に答えた。
坂田角王の屋形は天野川の支流に沿った場所で、やや高台である。屋形は柵《さく》で囲まれ、柵内には十数棟の屋形があった。
角王を守る武人の屋形もある。
角王は男具那たちのために酒宴をもよおした。角王の話では、大碓王子は数日前の昼に天野川につき、角王の部下がその日に不破関の近くまで送り届けた、という。
角王はその名前にふさわしく、六尺近い巨漢で、容貌も獰猛《どうもう》であった。
角王にはべっている若い女人は北国から来たらしく、肌は雪のような白さである。一重の眼は細いが切れ長で、角王の酒杯に酒を注ぎながら男具那に鈍い眼を向ける。
新しい女人が現われ、男具那の傍に坐《すわ》った。眼は大きいが青白い肌で、病的な感じのする女人だった。
身体《からだ》も痩《や》せている。彼女は角王をはじめ、男具那に対しても無表情である。
「王子、吾の縁戚《えんせき》の者で、水の神に仕える聖なる女人ですぞ」
角王の言葉で男具那はほっとした。
湖の神に仕える女人なら、伽《とぎ》の女人にはならないだろう、と思ったからだ。
広い庭に篝火《かがりび》が焚《た》かれ、琴の音とともに女人が舞を舞った。
「ところで王子、吾に仕える者に武術の達人がおる、あまり強いので、この辺りでは相手になる者がいない、腕を撫《な》でては無聊《ぶりよう》をかこっています、王子を警護する若者達なら、腕に自信のある者ばかりでしょう、吾の部下と技を競わせてみたいのだが……」
男具那は即答できなかった。
勝てば角王を怒らせるし、負ければ恥である。
男具那は、旅の途中なので、部下たちは疲れており、武術仕合は勘弁願いたい、と答えた。
背後にいた宮戸彦の鼻息が荒くなった。角王は女人を舌舐《したな》めずりしながら眺めるように宮戸彦を見た。
「王子の後ろの巨漢は強そうですぞ」
「おう」
と答えて立とうとした宮戸彦を一喝して坐らせた男具那は、毒蛇に咬《か》まれた右腕があまり動かないので、武術仕合は無理だ、と告げた。
「宮戸彦、腕を差し出して、見せるのだ」
男具那の命令に宮戸彦は、袖《そで》をめくり布で巻いた腕を差し出した。布には血が滲《にじ》んでいる。角王は舌打ちした。
「警護隊長は和珥《わに》氏の青魚殿か、警護隊長なら武術は抜群の筈《はず》じゃ、王子、青魚殿に相手になっていただきたい」
角王の口調は強圧的だった。
突然、後ろで澄んだ声がした。
「隊長の前に、まず吾がお相手つかまつります」
意外にも内彦だった。
空を飛ぶことに憧《あこが》れただけに、内彦の身の軽さは、青魚や宮戸彦以上である。だが武術では二人に一歩譲る。
男具那はそれなりの考えがあって内彦が名乗りをあげた、と感じた。
男具那は角王に、木刀の仕合なら、どちらかが重傷を負うか、死亡する。怨恨《えんこん》が残ってはまずいので素手で闘わせたい、と条件をつけた。
「おう、木刀であろうと、素手であろうと構いませぬぞ、空彦《そらひこ》、出て参れ」
縁を踏む音がして、現われたのは六尺(一八〇センチ)の巨漢だった。上背は宮戸彦以上だ。一瞬息を呑《の》んだ男具那を角王は、どうだ、といわんばかりに愉快そうに見た。
「失礼します」
内彦はもう庭に跳び出していた。衣服を脱ぐと下帯一つになった。内彦の身長は五尺六寸だから巨漢と四寸ほどは違う。
内彦は両腕を前に構えると、早く来い、と拳《こぶし》を動かす。剽軽《ひようきん》な動作で相手を小馬鹿にしているとしか思えない。
男具那の警護兵になる時、内彦は男具那に自分の武術を見せた。
男具那が指名した者と闘ったが、逃げ廻《まわ》っているように見えたが、いつの間にか勝っていたのだ。
内彦の真の力量を男具那はまだ知らない、といえるかもしれない。
巨漢、空彦は暗い大空に向って両腕を突き出して吠《ほ》えた。巨大な獣のような底力のある声だった。
衣服を脱いだ空彦はまるで筋肉の塊である。脂でも滲んでいるのか、篝火に腕や胸の盛り上がった肌が照り映えている。
男具那は、腕の骨折ぐらいで済めばよい、と吐息を洩《も》らした。
向い合ったとたん、内彦は退《さが》り、空彦が両腕を拡げて迫った。
男具那は内彦が闇《やみ》の中に溶けたのを見た。
空彦が闇を蹴《け》り拳を突き出した。柵が裂けて宙に飛んだ。
篝火の明りに空彦の身は黒い影のように浮いているが内彦の姿が見えない。
空彦が吠え、また柵が舞い上がる。内彦は柵の外にいるようだった。
男具那は昂奮《こうふん》し、身を乗り出し眼をこらした。
空彦も暗闇の中で闘うことの不利に気づいたようだ。二、三歩退ると、
「逃げずに、来い!」
と怒鳴った。
とたんに空彦は、酒宴の場にも響くような悲鳴をあげ、両手で顔を覆った。男具那が眼を凝らした時、内彦は柵を跳び越え、空彦の下腹部に頭から突っ込んで行った。
内彦の拳は間違いなく空彦の股間《こかん》を痛打した。空彦のくぐもった悲鳴は激痛で声が出せないためだった。
巨漢が崩れるように倒れかかる。内彦の頭突きが空彦の顎《あご》を砕かんばかりの勢いで突く。空彦は仰向《あおむ》けに地響きとともに倒れた。
内彦の拳がそんな空彦の股間に再び飛ぶ。
「それまでだ!」
男具那が絶叫するよりも早く、内彦は縁の傍に駆けて来た。凄《すさ》まじいとしかいいようのない速さだった。
角王が酒杯を置き、身を退《ひ》いたのは、内彦に襲われる、という恐怖心からだろう。
内彦は縁の傍で平伏した。
顔を上げると澄んだ声でいった。
「王子、角王、仕合は終りました」
空彦は股間を押えのたうち廻っている。
「ああ、見事であった」
男具那が大声で褒めると、
「仕合は終りじゃ、酒宴もな」
角王は荒々しい声でいった。
さすがに自分の非礼に気づいたのか、
「さすがは有名な倭男具那殿、良い部下を持っておられる、感心しましたぞ」
と渋い顔でいった。
[#改ページ]
七
男具那《おぐな》たちは、角王《つのおう》の屋形から五十歩ほど離れた屋形に案内された。
奇妙な形の屋形で、南側の正面を除いて、東西と北に出っ張った部屋がある。
宮戸彦《みやとひこ》が、驚いたような声を出した。
葛城《かつらぎ》にも、このような屋形があり、子持ちの屋形と呼ばれている、と告げた。
男具那たちを案内したのは角王の弟だった。不思議そうに、宮戸彦に訊《き》いた。
「いつ頃から、葛城に……」
「二、三十年ほど前に、大陸から渡来して来た屋形工が考案したと聞いています」
「ほう、この屋形も、渡来人が建てたものじゃ、ひょっとすると、葛城の屋形工と、我らに仕える屋形工は、血縁者かもしれぬ、倭国《わこく》は広いと思っていたが、そう考えると狭い、そうそう、葛城氏は朝鮮半島と深い関係があるようだが、我らの一族も、越《こし》を通じ、朝鮮半島と交易している、となると我らの一族と、宮戸彦殿の一族は、海の向うで、酒を酌み交わしたかもしれない、縁というものは不思議じゃ」
角王の弟の声には、これまでにない、親しみが籠《こも》った。
男具那はその声を耳にし、今宵《こよい》は安心して泊まれそうな気がした。
何といっても、角王が自慢にしている武術者を、内彦《うちひこ》が負かしたのだ。
自慢の鼻を折られた角王が、男具那に憎しみを抱いたとしてもおかしくはない。
「いや、吾《われ》もそう思ったところです」
と宮戸彦が、いかにも尤《もつと》もだ、といわんばかりに、縁は不思議ですなあ、と相槌《あいづち》を打った。
張り出した部屋には、一部屋に二人は泊まれる。
階段を上がった主部屋には、六、七人は楽々と横になれるから、この子持ちの屋形には十三、四人は泊まれることになる。
角王は、この屋形を遠くから来た賓客《ひんきやく》用に建てたらしい。
土器に注がれた魚油が鈍い明りを放っていた。隙間《すきま》風に炎が揺れ、板壁に奇怪な影がうごめいた。
張り出し部分の部屋には、青魚《あおうお》、宮戸彦、内彦の寝具が敷かれている。
麻布の寝具である。
広い主部屋は、男具那用らしく、麻布の敷布に、|※[#「糸+施のつくり」、unicode7d41]《ふとぎぬ》の布が畳まれて置かれていた。
寝具が二つ並んでいるのは、伽《とぎ》の女人が訪れることを示していた。
「ごゆっくり」
角王の弟が去ったので、男具那は部下たちを集めた。
男具那は、内彦の健闘をたたえた。
「まさか、勝つとは思わなかった、いや、何も内彦の腕を侮ったのではない。相手があまりにも強そうだったからじゃ、それにしても、あの巨漢は、闘って間もなく、悲鳴をあげ、両手で顔を覆った、あれが内彦の勝因となった、どんな手を使ったのじゃ?」
「王子、おっしゃるとおり、まともに闘えばやつかれの負けです、腕に傷のない宮戸彦と好《い》い勝負です、そこでやつかれは、策で闘いました、まず柵《さく》を跳び越え、明りの届かない闇《やみ》に姿を隠し、やつに石礫《いしつぶて》をくらわしたのです。さいわいやつの眉間《みけん》に命中、やつは眼が眩《くら》みました、その一瞬の隙をついてやつを倒したわけです」
内彦は気負った様子もなく、たんたんとした口調で話した。
「石礫だと……」
青魚が唸《うな》るような口調でいった。
「ああ、いつも下帯に用意してある」
「下帯に? いや、吾も知らなかったぞ、まだあるのか……」
男具那が訊くと、内彦は首をすぼめて頭を掻《か》いた。内彦は明らかに男具那の次の言葉を予測していた。
「あるなら、見せろ、遠慮するな」
男具那の命令に、
「王子の御命令とあれば仕方ございません、失礼いたします」
内彦は男具那に背を向けると、袴《はかま》の紐《ひも》を解き、小石を取り出し、男具那の前に置いた。直径一寸強の小石だった。
男具那が手に取ろうとすると内彦は慌てて、
「王子、これは、やつかれの下帯の内側につくった袋に入れてありますので……」
両手で小石を囲った。男具那は苦笑した。
「男子《おのこ》の珍宝と兄弟になっているわけか、構わぬぞ、これのために、空彦《そらひこ》という巨漢は眼が眩み、吾は角王に胸を張ることができたのじゃ」
男具那は上から腕を伸ばし、小石を握った。投げるにしては少し軽いが、二個も下帯にぶらさげると、明らかに重い。
「しかし、見事じゃ、あの暗闇《くらやみ》でこれを投げ、眉間に命中させるとは……ただただ感じ入ったぞ」
「お褒めいただき、感激でございます」
内彦が嬉《うれ》しそうに叩頭《こうとう》した。
男具那には内彦が、なぜ、石礫の武術などを身につけたのか、よく理解できた。内彦は体力では青魚や宮戸彦に劣る。
だが男具那を警護する任についた以上、青魚や宮戸彦に負けないだけの力を持たねばならない。
身の軽さだけでは駄目だ、と内彦は自分を叱咤《しつた》激励し、人間業とは思えない石礫の術を身につけたに違いなかった。
まさしく男具那への忠節心の表われだった。
「いや、好《い》い匂《にお》いがするぞ、何ともいえない馥郁《ふくいく》とした香りじゃ」
男具那が小石に鼻孔を寄せると、
「王子、お許し下さい」
内彦がかいた冷や汗が魚油の明りに鈍《にび》色に光って見えた。
「内彦、何をいう、吾は感激しておるのだ、こうして、まつろわぬ神がいる国々を旅している以上、何が起こるかも分らぬ、内彦は、剣だけではなく、この石で吾を守ろうとしておる、のう青魚、宮戸彦、吾にはこの石が光り輝いて見えるが、そちたちはどうじゃ?」
「もちろんですとも……内彦、誇れ、こんなことで照れていては、石が泣くぞ、王子、やつかれも握りとうございます」
小石は男具那の手から青魚の手に移った。
「下帯に隠すには、大きさ、重さ、手頃《てごろ》な石だ、内彦、吾もおぬしの術を学びたいものだ」
青魚がいうと宮戸彦が笑った。
「青魚殿、おぬしは無理じゃ、匂いがきつすぎる」
「何をいう、宮戸彦ほどではない、おぬしこそ三尺離れても匂って来るぞ」
青魚が鼻をつまんだので男具那は下腹に力を入れ、放屁《ほうひ》した。大きな音で床に響いた。部下たちは、突然なので息を呑《の》む。
「どうだ驚いたか、吾の秘術、放屁の術だ、今、吾が刀を抜いたなら、そちたちの首は飛んでいた」
「いや、おそれ入りました」
青魚の声があまりに真剣だったので、釣られたように宮戸彦も、参りました、と叩頭した。
「くだらないことで感心するな、お互い、顔を合わせ、豪快に笑って眠ろう」
「笑いましょう」
四人は顔を見合わせると、男具那の、勝利の笑いじゃ、という言葉を合図に笑い始めた。いったん笑うと、内彦の石礫《いしつぶて》を眉間《みけん》にうけてのけぞり、顔を覆った巨漢の姿などが瞼《まぶた》に浮かび、皆、腹の底から笑いが込み上げて来るのだった。
男具那が寝具にもぐった時、静かな足音が聞えて来た。木履《きぐつ》の音の間隔と数から、三人ほどの女人らしい。
男具那は無意識に引き寄せた刀から手を離した。
青魚たちも息を呑み、気配を窺《うかが》っているのが感じられた。
「伽《とぎ》の女人だ、気にせず眠れ」
男具那は低い声でいった。
戸が開き、甘い香りがした。戸には内側に留め木がないので無用心だが、これは角王の威光の表われである。
角王は、自分の屋形に泊まっていただく以上、安全は保証しましょう、といっているのだ。
入って来たのは女人一人だった。手に魚油の明りを捧《ささ》げるようにして持っている。
明りは女人の顔を照らしていた。
酒宴の席で男具那の傍《そば》に坐《すわ》った女人だった。角王の縁戚《えんせき》者で、水の神に仕える聖なる女人である。
男具那は、痩《や》せて血の気のない聖なる女人にあまり好感が持てなかった。
水の神に仕える聖なる女人が、酒宴の席にはべったり、伽《とぎ》の女人となるのがおかしい。
神に仕える女人は、異性との関係を持ってはならない。三輪山《みわやま》の神や、日の神に仕える女人も、異性関係はなかった。
それに男具那は、今回の旅では伽の女人と媾合《まぐわ》わない決心だった。
伽の女人は灯《あかり》のついた魚油の器を、自分と男具那の寝具の間に置いた。
男具那が眼を覚ましているのを知っているらしく、床に坐ると一礼した。
仕方なく男具那は身を起こした。
角王の好意は有難いが、伽の女人を断つことを神に誓い、旅を続けているので、戻って欲しい、といった。
彼女は項垂《うなだ》れ、口を閉じたままである。
男具那が何をいっても戻りそうになかった。青魚たちは二人の様子を窺っているようだ。
刀子《とうす》(小刀)でも懐にしのばせ、男具那に危害を加える危険性が皆無とはいえない。
有名な男具那王子を殺した、となれば角王の名もあがる。三輪の王権に打撃を与えることになる。
男具那を初め、部下たちは、角王を完全に信じていなかった。
「このまま戻れば、そなたは女人として、面目がたたない、というわけか、それは分らぬでもない、では吾の隣りの寝具で休まれよ、朝まで眠れば、伽の女人として、務めを果したことになる、そうすればよい」
「王子は、私《わ》を嫌っておられます」
冬を前にした秋の虫のような細い声だった。背筋に冷たいものが走り、男具那はぞくっとした。
「いや、そんなことはない、安土《あづち》でも伽の女人は断ったのだ、皆の者、知っているな」
男具那の言葉に、三人の部下たちは別室からいっせいに、知っています、と答える。
伽の女人の肩が慄《ふる》えた。
「さあ、横になれ、気兼ねなく眠れ、そんなところに坐っておられたなら吾が眠れぬ」
「私《わ》は神に仕えていた身です、普通なら伽の女人にはなりません」
「そんなことは分っておる、角王は聖なる女人と申していたが、吾は信じていない、しかしだな、まだ若い身だ、男子《おのこ》を恋し、媾合ったとしてもおかしくはない、男子の身体《からだ》には熱い血がたぎっている、それに較べると水の神は冷たそうだ、気にすることはない、横になって休め」
男具那の言葉は彼女の胸を衝《う》ったようだった。項垂《うなだ》れたまま嗚咽《おえつ》した。
両手で顔を覆う。
このままでは朝まで泣いているかもしれない。長旅の身には睡眠が第一である。
「頼む、吾は眠りたいのだ、見知らぬ土地の旅は辛《つら》い、お願いだ、吾を眠らせてくれたなら、優れた伽の女人であった、と角王に礼を申そう、女人として、そなたの面目も立つというものだ、違うかな」
「私は、生命《いのち》など惜しくありません、どうなってもよいのです、私の恋人の身さえ安全なら……」
彼女はとぎれとぎれに話した。
「そうか、そなたの恋人は、聖なる女人と媾合い、捕えられているというわけだな、しかし、そなたの話を聴いても、吾はどうすることもできぬ、聴くだけ無駄だ」
突然彼女は男具那の膝《ひざ》に縋《すが》りついた。男具那は身を退《ひ》いたが、坐っていたので動作が遅い。彼女の額が男具那の膝頭《ひざがしら》にすりつけられた。
「お願いです、聴くだけで結構です。私の話を聴いて下さい」
別室から青魚の咳払《せきばら》いが聞えた。
見知らぬ女人に情などかけずに、突き放せ、と青魚はいっていた。
警護隊長としては当然の忠告だった。
ただ男具那は、彼女の告白がどういうものか、と興味を持った。
男女の物語に、男具那は強い好奇心を抱いている。少年時代からだった。
「分った、聴くだけ聴こう、その代り横になれ、吾も横になる」
男具那が、それが条件だ、と告げると、彼女もようやく納得し、横たわった。
彼女は角王の姪《めい》であった。湖の傍で生まれたので水姫《みずひめ》と名づけられた。
童女の頃から湖の神に仕える身として育てられ、湖の傍に造られた屋形で、湖の神に獲《と》れたての魚や、深夜に炊いた米を捧げた。
朝夕、川水で身体を清める。彼女に食事を届けるのは、角王の侍女たちで、男子とは無縁の毎日だった。
十八歳になった嵐《あらし》のある夜、一人の男子が彼女に救いを求めた。息もたえだえで、全身が火のように熱い。
湖西から舟で交易の荷物を運んでいる最中に嵐に遭った。舟は数艘《すうそう》だったがすべて難破し、彼を除いて全員が死亡した。
その男子が溺死《できし》しなかったのは奇蹟《きせき》といってよかった。強いていえば、身体が頑強なのと、泳ぎが抜群だったせいかもしれない。
湖の神に仕える水姫の屋形に近づく男子はいない。
住民たちは、湖の神の怒りを心から恐れていて、彼女の屋形の近くを通る場合は、拝むのが習慣だった。
そういう状態だから、警護の兵もいない。男子が人眼につかなかったのは、そのせいである。
彼女は驚いたが、とにかく介抱した。
翌日、食事が運ばれた時も、彼女は男子のことは黙っていた。
湖の神に仕える彼女は、兄弟とも会えないのだ。
瀕死《ひんし》の重傷でも、彼女に会ったのが知れると、石をつけて湖に放り込まれ、神の生《い》け贄《にえ》となる。
男子はまる二日間、昏睡《こんすい》状態だったが、意識を取り戻した。
男子は、湖の神に仕える巫女《みこ》に助けられたのを知り、驚愕《きようがく》して、すぐにも屋形を出る、といった。
彼女は、ここにおれば誰にも見つからないから、完全に回復するまで休養を取るように、と男子を屋形に置いた。
たくましい若者に、彼女は惹《ひ》かれていたのだ。
「私《わ》はいつの間にか、その男子と媾合《まぐわ》いました、若い男子と若い女人が同じ屋根の下にいるのです、しかもお互い、惹かれているのです、自然のことだと思います」
いつの間にか水姫の声には力が籠《こも》っていた。男具那は頷《うなず》きかけたが、彼女が神に仕える身であることを思うと、そのとおりだ、ともいえない。
当時は、神に仕える女人は神の妻で、男子との関係は、最も罪深いものだった。
「結局、見つかったのだな」
「はい、二十日ばかりたった頃、夕暮れですが、望郷の念にかられ、屋形から湖の方に出たところを、通りかかった村長《むらおさ》に見られたのです、角王が直《じか》に来ました、私《わ》は彼を逃がしましたが、湖の傍で捕まり、私は近くの小屋に幽閉されたのです」
「罰は?」
「私と男子は舟に乗せられました、男子は私の前で湖に沈められたのです、一緒に死なせて欲しい、と私は叫びましたが、縄で縛られている私は身動きができません、私は一人|竹生島《ちくぶしま》に運ばれ、木に縛られたのです」
「ほう、それから?」
「食物もなく、私は飢え死にするところでした、いつか意識を喪《うしな》っていたのでしょう、気がつくと縄が解け、私は倒れていました、縄には齧《かじ》られた跡がありましたが、なぜ解けたのか、私には分りません、いいえ、私が愛した男子が、湖の底から出て、解いてくれたのでしょう、私は木の実や草を食べ、半年も生きたのです、私が戻れたのは、嵐で竹生島に打ち寄せられた舟人に救けられたからです、舟人は湖西の者たちでした、不思議なことなのですが、彼らは私が愛した男子を出した一族でした、湖の神に仕えた身が、男子と関係を持ったにもかかわらず、私が罰せられなかったのは、そのためです、私のことは間もなく角王の耳に入り、迎えの者が参りました、角王は、私が死ななかったのは、湖の神が罪を許してくれたからだろう、といい、私は普通の女人として、角王に仕えるようになったのです、私の話はこれまでです、聴いていただき、嬉《うれ》しゅうございます、胸のしこりが少し解けたような気が致します」
男具那は深い吐息をついた。
酒宴の席で会った時、水姫に病的な感じを受けたのも無理はない、と男具那は思った。
身体は生きているが、心のほとんどは死んでいたに違いない。
人間の運命とは、誰にも予測できぬものがある、と男具那は感じた。まさに神のみぞ知る、といってよいかもしれない。
それにしても、嵐に遭った時、水姫の恋人は死んでいたのだ。それが水姫によって生命を救われ、水姫との関係によって殺された。わずかの間、死亡の時が延びただけだが、彼はその間、水姫と愛し合った。
水姫に女人の悦《よろこ》びを与えた。ひょっとするとその男子は、水姫を湖の神の妻から、普通の女人に戻すために、少しの間、生き長らえたのかもしれない。
となると、彼は湖の神の使者として、水姫に会ったとも考えられる。
湖の神は、自分の妻よりも、人間の男子の妻の方がよい、と思ったのかもしれなかった。
「いろいろと考えさせられた、眠ろう、だが、そなたはなぜ、吾に告白したくなったのかな」
と男具那は暗い屋根裏に眼を向けながら訊《き》いた。
「はい、王子は体内から見えない光を放っておられました、私《わ》は、王子に告白したなら、真の意味で死から甦《よみがえ》るような気がしたのです、これまでの私は、半ば死んでいました」
「ほう、吾が見えない光を放っていたか、そういわれると、吾も新しい勇気を覚えるぞ、たぶん、そなたも明るい女人として甦るに違いない」
「そんな気が致します」
水姫の声が生きているのを男具那は感じた。男具那は、眼を閉じた。眠っている男具那の顔に和やかな微笑が浮かんでいた。
部下たちも、それは知らない。
翌日、男具那たちは角王に見送られ、不破関《ふわのせき》の方に向った。
陽の光を浴びた伊吹山《いぶきやま》の緑は、西の国から海を渡り、倭国《わこく》に運ばれた緑の石のような艶《つや》があった。三輪山などと異なり、独りで聳《そび》え、荘厳で雄大だった。
冬になれば山のほとんどは雪に覆われる。
一行は舟で天野《あまの》川をさかのぼった。
舟は角王の好意で用意されたものである。
天野川沿いの小道で行けないことはないが、舟の方が楽である。
昼過ぎ、伊吹山の麓《ふもと》に着いた。その辺りは山間《やまあい》の小盆地になっており、田畑などもあった。
「伊吹山は、遠くから眺めても、傍で仰ぎ見ても圧倒される、群を抜き、ただ独り聳え立っているからだ、東海《とうかい》に伊吹山よりもずっと高いフジ山という山があると聞く、その山もただ独りで聳えているらしい、いつか、見たいものだ」
男具那は自分にいい聞かせるように呟《つぶや》いた。独り、という点を男具那は強調した。
部下たちも、それぞれの思いを抱きながら伊吹山を仰ぎ見た。
母が早く死んだせいか、男具那には、吾《われ》は独りなり、という意識があった。
兄の大碓《おおうす》王子には苛《いじ》められ、他の王子は異母兄弟で、他人と同じだった。
十四歳になり、オシロワケ王の宮で初めて顔を合わせた王子も多い。
オシロワケ王は、大勢の妃《きさき》を持ち、それぞれに王子・王女を産ませていた。童子や童女まで加えると、何人の異母兄弟、異母姉妹がいるのか、男具那も知らない。
ただ、男具那が平凡な王子だったなら、今のような孤独感は抱かなかったであろう。
男具那の夢に現われた母、イナビノオホイラツメ(稲日大郎姫)は、英雄は孤独です、といった。英雄を産んだことを誇りに思っている、とも告げた。
耐えねばならない、独りで生きている、という淋《さび》しさを誇りに思わねばならない、と男具那は呟いた。
それにしても、男具那は信頼できる部下を持っている。淋しさは口にできないが、たいていのことは、心を打ち明けることができる。
それだけでも、幸せだと思わざるを得ない。
彼らは男具那を慕い、部下になることを志願したのだ。
和珥《わに》氏の中には何も三輪王朝の男具那王子の警護隊長にならなくてもよい、と青魚にいう者もいた。
もちろん青魚は、そんなことは口にしないが、青魚を出した和珥氏は、河内《かわち》の新興勢力と親しい。
大碓王子はかつて男具那に、
「青魚は和珥氏の間者《かんじや》だぞ、気をつけろ」
と忠告したことがあった。
和珥氏と三輪王朝は大碓がそう邪推してもおかしくない状況下にある。
もちろん、青魚は間者ではない。間者が男具那を守るために、生命を賭《と》したりはしないだろう。
舟から降りた一行はゆっくり不破関に向った。
夕暮れ前に不破関についた。
男具那が生きた四世紀後半には、不破関などという地名はない。
不破関は、後の|関ヶ原《せきがはら》で、東西を遮る要害の地である。ここに関が設けられ、不破関といわれたのは、七世紀後半であった。
不破とは、破れずという意味だから、関こそなかったが、男具那の時代も、東西を分ける大事な場所であったことは間違いない。
不破関まで送って来た角王の部下の紹介で、男具那たちは、当地の豪族の首長の屋形に泊まった。
翌日、男具那たちは美濃《みの》に入った。
豪族の首長には高価な絹布を渡している。彼の部下が不破関を出るまで送ってくれた。三輪の勢力は、威勢を誇ってはいるが、地方の豪族を完全に押えていない。
王子たちが長い旅に出る場合は、高価な絹布を馬に積み、地方の首長に渡さねばならない。
ただ、息長《おきなが》氏のように、三輪王朝に対し、独立的な勢力もあるし、また、半ば服従している勢力もある。
美濃は、どちらかといえば、三輪王朝に協力することで、自己の勢力の拡張を計っていた。
オシロワケ王と、美濃の首長の娘との婚姻も、そういうところから決められたのだ。
不破関を出ると広大な平野が拡がり、丘陵地帯を包含しながら尾張《おわり》の平野にと続く。
巨大な穀倉地帯だった。
広大な平野には、美濃の北、東、西の巍々《ぎぎ》と連なる山々から発した無数の川が流れている。有名な揖斐《いび》川、長良《ながら》川、木曾《きそ》川、庄内《しようない》川などで、尾張の海(伊勢《いせ》湾)に続く。広い平野といっても、川と川との間は湿地帯だったり、州《す》であったりする。
馬で旅をしても、今のような平野ではないので、絶えず川を渡り、湿地帯を進まねばならない。
旅の苦労は大変なものだ。
少し広い川になると、舟に乗らねば渡れない。その場合でも、舟を所有している豪族に、絹の一片を舟賃代りに与える。
なかには旅人用の舟を所有し、舟賃で生活している海人族などもいる。
そういう場合は、絹も上質のものでなくても済む。ただ何といっても川が多いので、手持ちの絹は、みるみる減って行く。渡し舟の海人に、男具那王子だ、などといっても通用しない。
当時、通貨として最も値打ちがあるのは、米と絹であった。
男具那の一行は、ようやく揖斐川に辿《たど》り着いた。
オシロワケ王が婚姻する相手は、後の美濃の国造《くにのみやつこ》の祖で大根《おおね》王の娘だった。
兄《え》ヒメと弟《おと》ヒメの二人で、オシロワケ王は二人共、巻向宮《まきむくのみや》に呼んだのである。
姉と妹の二人を同時に妃にするつもりではなく、顔を見て、気に入った方を後宮に入れる意向だった。
大根王が了承しなければ、兄ヒメだけを連れて戻れ、と大碓に命じていた。
大根王は、揖斐川と長良川にはさまれた要害の地に住んでいた。
揖斐川の渡し守は大根王の部下だった。男具那が用件を述べ、大根王のもとに来ている大碓に会いに来た、と告げると、渡し賃を取らずに、揖斐川を渡してくれた。
揖斐川と長良川の間は一里足らずだが無数の川が流れており、川に守られた要害の地だった。
大根王の屋形は、揖斐川の支流、大榑《おおぐれ》川の近くの小高い場所にあった。
男具那の一行が着くと、大根王の部下が屋形の前で迎えた。
男具那が来たという情報は、男具那が着く前に大根王に伝えられていたのだ。
大根王は四十代半ばで、小柄だが肩幅が広く頑丈だった。
体形はどこか大碓に似ていた。
屋形から無数の川が眺められた。陽を浴びたそれらの川は、まるで長い刀の刃《やいば》のように見えた。
どの川にも舟が浮いている。
まさに大根王は海人族である。考えてみれば、陸路よりも、水路の方が長い旅だった。
男具那は大根王に、急用で兄の大碓王子に会いに来た、と告げた。
「大碓王子は、吾の娘、兄ヒメと弟ヒメを連れ、安八磨《あはちま》で休養を取っておられます」
大根王は濃い眉《まゆ》を寄せ、吐き出すような口調だった。
「安八磨で休養、どういう意味ですか?」
「大碓王子が申されるには、オシロワケ王は、兄ヒメと弟ヒメの二人のうち、どちらかを妃になさりたい、とのことでしたが……」
大根王は口を閉じ、窺《うかが》うように男具那を見た。
「そのとおりですが……」
「どちらを妃にされるか、それは大碓王子が決める、とのことなので、吾の休養の地、安八磨の屋形に案内したわけです」
「ほう、兄が決める、と申したのですか?」
「オシロワケ王は、各国の首長の娘を妃になさっておられる、妃として不適当な女人を、巻向宮まで連れて行っても仕方がない、と大碓王子が申されたので……」
大根王は憮然《ぶぜん》として腕を組んだ。
男具那には、大碓の魂胆が手に取るように分った。
どちらを妃にするかを決めるのは、オシロワケ王であって大碓ではない。
だが大碓は、選択の権限を与えられている、と大根王にいったようだった。
大根王は釈然としなかったが、オシロワケ王ほどにもなれば、王子に自分の妃を選ばせるのか、と思い直し、二人の娘を預けたらしかった。
「兄王子は、父王から選択の権限を与えられたのかもしれません、吾は別な用件で兄に会いに来たのです」
男具那が大碓を庇《かば》ったのは、将来、オシロワケ王の跡を継ぐかもしれない兄を傷つけたくなかったからである。
それは、三輪王朝の権威にも関わることだからだ。
たぶん、大碓に較べ、男具那は穏やかで、丁重だったのだろう。
大根王は男具那に好感を抱いたようだった。大根王は、一泊することをすすめた。
それもよい、と男具那は考えた。部下たちも疲れている。宮戸彦の腕の傷も治っていない。それに男具那は、大根王を騙《だま》し、二人の娘を連れ去った大碓の卑劣さを憎んでいた。たんに、好色な王子だ、と軽蔑《けいべつ》するだけでは済まされないことだった。
男具那は、好意に甘え、一泊させていただくが、伽《とぎ》の女人は要らない、と告げた。
理由を説明するのが煩わしいので、願い事があり、女人を断っている、と簡単にいった。
大根王はそんな男具那が、ますます気に入ったようだ。
酒宴は高台の屋形でもよおされた。男具那の部下たちも酒宴に加わった。
酒が入り、気が楽になったのか、大根王は畿内《きない》の状況を訊《き》いた。
「これからは、難しい時代に入ります、だが我らは、但馬《たじま》や播磨《はりま》、吉備《きび》などと結んでいます、父王が、美濃国との関係を深めようとされ、大根王の王女との婚姻を結ばれたのも、畿内だけではなく、東国を重視したからです、今のままでは、倭国《わこく》は駄目です、王権を強化しなければ、二百年前に戻るでしょう、大乱の時代です、そうなると各国は戦《いくさ》によって勢力を保持しようとします、苦しむのは民です」
大根王は、男具那の意見は尤《もつと》もだ、と頷《うなず》いた。
オシロワケ王との婚姻について、反対する首長たちもいた。何も大和《やまと》の王に娘を差し出し、服従しなくてもよい、というわけだ。それよりも美濃の首長が団結し、尾張と結び、畿内の勢力を圧迫したなら、三輪の王朝は滅びるに違いない、と反対者は考えていた。
だが大根王は、武力による対決には反対だった。
「彼らの気持も分らなくはありません、うまくゆけば、そうなるかもしれない、いや、怒らないで下さい、海の彼方《かなた》の国の影響を受けた河内の勢力は日増しに強くなっています、海人族である吾には、そういう情報は海から伝えられるのです、はっきりいって、三輪王権の威力は薄れつつあります、だから、美濃が団結し、尾張と同盟を結び、オシロワケ王と対決できたなら、強硬派のいうとおり三輪の王朝は滅びるかもしれません、だが、ここで重要なのは、どういう事態が起きても、我らが倭国の王者にはなれない、ということです、結局、新しく樹立された畿内の王権に従わざるを得ません、それなら、何も民を苦しめる必要はない、平和裡《へいわり》にことを運ぶべきでしょう、だから吾は二人の娘を差し出したのです」
「よく分ります、ただ三輪の力は、大根王が視ているよりは強力ですよ」
男具那は胸を叩《たた》いたが、内心、遠く離れた美濃の首長の情報|蒐集《しゆうしゆう》力に舌を巻いた。
大根王の屋形に一泊した男具那たちは、翌日、王の別荘に向った。
大根王の勢力は後の安八磨郡《あはちまのこおり》である。安八磨郡はかなり広く、美濃平野の中央部から北方にかけて拡がっていた。もちろん、郡名は八世紀になってつけられたので、当時はどう呼ばれていたかは分らない。
別荘は揖斐《いび》川の上流で北方に連なる山の近くにあった。
舟で川をさかのぼったのだが、別荘まで五里以上もあり、着いたのは夕暮れ近くだった。
女人たちの嬌声《きようせい》と琴の音や歌が聞えて来た。男具那が来たことを告げに行こうとした大根王の部下を男具那は制した。
「それは必要ない、ただ、別荘の警護兵が騒ぐと具合が悪いので、彼らに静かにしているよう、伝えて欲しい」
「分りました、王子の来訪を、大碓王子に伝える必要はない、ということですね」
男具那たちを別荘まで案内した大根王の部下は、鬚《ひげ》をしごきながら念を押した。彼は大碓に好意を抱いていないようだった。
別荘の東西には川が流れている。南側は濠《ほり》が掘られ川水が引かれていた。濠の両側は水が溢《あふ》れないように三尺近い土が積まれていた。
南正面の陸橋だけが別荘に出入りできる通路だった。
おそらく北側にも濠が掘られているに違いない。
大根王の部下は、槍《やり》を持って陸橋を守っている警護兵の傍に行った。
警護兵たちが深々と叩頭《こうとう》したところをみると、彼はかなりの有力者であろう。
大根王の一族かもしれなかった。
「どうぞ、お通り下さい、やつかれが案内します」
戻って来た男は、腰をかがめて男具那に告げる。
大碓はこの屋形に兄ヒメと弟ヒメを連れ込んで、二人の女人を自由にしているのだ。
大根王の部下が、そういう大碓に、どういう感情を抱いているか、ほぼ見当がつく。
「そなたは、大根王の血縁者か?」
と男具那は訊いた。
「兄ヒメ、弟ヒメの母はやつかれの叔母《おば》にあたります」
その声は感情を押し殺していた。
男具那は返答のしようがなかった。仕方なく名前を訊いた。
「ヌナ彦と申します」
「ヌナ彦か、越の名前に似ているようだが……」
「美濃は越に近うございます」
「そのとおりだな、好《よ》い名じゃ」
ヌナ彦は黙って叩頭した。
越後《えちご》に、翡翠《ひすい》の出る川があり、沼《ぬな》川と呼ばれている。沼川の底なる玉は不老長寿を意味し、大和の王族にもヌナの名がつく王子が多い。
ヌナ彦は男具那の先に立ち、陸橋を渡った。陸橋といっても現代の陸橋とは異なる。
陸橋の部分だけ濠を掘らずに土のまま置いており、人が歩けるようになっているのだ。
陸橋を渡るとゆるい傾斜の道で、屋形の前の広場に通じる。
広場の中央には板が円形に敷かれ、琴の音に合わせて、女人たちが舞っていた。
女人たちの絹衣は薄く、肌が透けて見える。
大碓は広場に向って張り出した縁に坐《すわ》り、女人たちに囲まれ、酒杯を傾けている。
大碓の警護兵は筵《むしろ》に坐り、酒を飲みながら、好色な眼を舞っている女人たちに向けていた。
ヌナ彦が縁に向って一礼したが、大碓に対してではなく、兄ヒメと弟ヒメに挨拶《あいさつ》したのだろう。
大碓の両側に坐っている女人は、兄ヒメと弟ヒメのようだった。絹衣が上質で胸に飾った勾玉《まがたま》も大きい。
突然現われた男具那を見て、大碓も驚いたらしく、上げかけた酒杯を前に突き出した。
「男具那ではないか、いったいどうしたというのだ!」
大きな声で叫んだ。
舞っていた女人が驚いたように立ち竦《すく》み、大碓の警護兵たちも沈黙して男具那を見た。
「父王の命令で、吾も大根王の王女を連れに来た、兄者、いったいこんなところで何をしている?」
男具那も負けずに大声で答えた。
大碓は怒って酒杯を投げた。地に当った酒杯は砕け、酒が飛び散る。
女人たちの中には悲鳴をあげた者もいた。
大碓は激情家で、抑えが利かない性格である。
「何をしているとは何だ、兄王子に向って無礼だろう、吾は兄ヒメと弟ヒメのうち、どちらが父王の妃《さきさ》として適しているかを、ここで選んでいるのだ、父王の妃を連れて戻るのは吾だ、おぬしではないぞ、おぬしは、父王に入れ知恵したのではないか、王位を狙《ねら》ってな……」
今まで音楽や、華やかな嬌声《きようせい》で酒宴の席が盛り上がっていただけに、大碓が怒鳴り終った後の沈黙は無気味だった。
王位を狙ってな、という大碓の言葉は、男具那の憤《いか》りの血を沸騰させた。
男具那は、前から、王位などに執着していないことを大碓に告げていた。
男具那はゆっくり大碓に近づいて行った。
殺気を感じたのか大碓は傍に置いていた刀に手をかけた。
こういう席でも、刀を傍から離さないのはさすがに大碓だった。
「兄者、ここは兄者の屋形でもない、美濃の大根王の屋形、王位など口にすべきではない」
男具那は諭すような口調でいった。
「おぬしの顔がただならぬからだ」
大碓もさすがに自分の激情を恥じたらしく、刀から手を離した。
[#改ページ]
八
男具那《おぐな》は、今ここで大碓《おおうす》と争っても仕方がない、と自分を抑えた。
何といっても二人は同母兄弟だし、三輪《みわ》の首長の王子だった。
二人が刀を抜いて争えば、ヌナ彦《ひこ》をはじめ、大根《おおね》王の部下たちはオシロワケ王の権威を疑う。それだけならよいが、兄《え》ヒメと弟《おと》ヒメを渡す必要がない、といい出しかねない。
部下から知らせを受けた大根王が、婚姻はしばらく待とう、と変心する恐れは充分あった。
「兄者、少し話したいことがある、今宵《こよい》でなくとも構わない、明日の朝でよい」
「ああ構わぬぞ、吾《われ》とおぬしは兄弟だ、話し合おう、それはそうと、長い旅を終えて吾に会ったばかりじゃ、共に酒を酌み交わそうではないか、おぬしの部下たちも、吾の部下と同席すればよい、さあ、この場に」
大碓は右側に男具那のために席をつくった。いうまでもなく、左の方が右よりも上席である。
男具那の席は弟ヒメが坐《すわ》っていた場所だった。
男具那は、青魚《あおうお》に、大碓の警護兵と同席するように、と命じた。
大碓の警護兵も、地方豪族の子弟である。身分的には、男具那の部下と変らない。
ただ男具那の部下は、男具那の魅力に惹《ひ》かれ、自ら志願して警護兵となった。それだけに男具那に対する忠節心が強く、武術の腕も立つ。
大碓の部下は、自ら志願したのではない。地方豪族の首長の命令で、その子弟たちが渋々、大碓に仕えたのである。
忠節心が違う。もし大碓が襲われたなら、大碓の身を守るために闘うが、それは保身のためだった。
守っている王子が殺されたなら、禍《わざわ》いが、自分たちの身に及びかねない。その恐怖心から闘う。忠節心がないから、一命が危うくなれば逃亡することも考えられる。
確かに皆、武術者だが、男具那の部下たちと闘えば、勝敗は明らかだった。
自分の部下が圧勝することを男具那は知っていた。
兄ヒメは華やかな容貌《ようぼう》である。色白で眉《まゆ》は濃く長く、鼻筋は通り、黒い瞳《ひとみ》の勝った眼は大きい。身体《からだ》も女人にしては大きい方だった。弟ヒメは色白だが華奢《きやしや》である。姉のような華やかさはないが、人気のない山の谷間で、一人で咲いている百合《ゆり》のような美しさがあった。
男具那は兄ヒメよりも弟ヒメの方が好みだ。大碓の好みは兄ヒメにあった。
昔から大碓は、遠くからでも美貌《びぼう》と分る、華やかな女人が好みである。
「男子《おのこ》はな、どういう女人を妃にするかで、その価値が判断される、だから女人は華やかで美貌でなければならないのだ、翳《かげ》りのある、まあ、しおれかけた花のような女人を好む男子も多いが、そういう女人はつまみ食いで充分だぞ」
かつて大碓は男具那に自分の女人観をよく話したものだ。
男具那は大碓の女人観を思い出し、苦笑した。
男具那の前に土器の酒杯が置かれ、弟ヒメの前にも同じ土器の酒壺《さかつぼ》が運ばれた。華奢な身体に似つかわしい細い手で酒壺を持った弟ヒメが、掠《かす》れた声でいった。
「王子様、私《わ》が酒を注ぎます」
「おう、弟ヒメか、吾は倭男具那《やまとのおぐな》だ、そなたに注がれた酒はさぞかし旨《うま》いであろう」
「身に余るお言葉、腕が慄《ふる》えます」
実際、酒壺を持った弟ヒメの手は慄えていた。
酒壺が重すぎるからに違いない、と男具那は思った。
琴が弾かれ、笛が鳴り、再び舞が始まった。女人たちは領巾《ひれ》をなびかせ、木の葉を振りながら舞う。袖《そで》がめくれ、二の腕が剥《む》き出しになると、眺めている男子たちは唾《つば》を呑《の》む。激しく舞うと裳《も》の裾《すそ》が翻《ひるがえ》り、脛《すね》が見える。舞姫たちの衣服は薄い絹衣である。舞い方一つで絹衣は身体に貼《は》りつくようになり、まるで肌があらわれたように見える。
男具那は舞を観ながら悠然と酒杯を傾けた。
大碓が男具那に敵意を抱いていたとしても、今宵は男具那を襲ったりはしないだろう。
「あの舞は、古くから伝わる舞か?」
舞姫たちが、妖《あや》しく腰をくねらし始めたのを見て、男具那は弟ヒメに訊《き》いた。
「はい、古くからの舞でございます」
「ほう、大和《やまと》には、あのような舞はない、腰はくねらすが、この舞の方が情が濃いぞ」
「あの舞には意味がございます」
「どういう意味だ、話して欲しい、意味を知れば、面白さが一段と増す」
「二人の乙女が川の傍《そば》を歩いていて川に落ちたのです、乙女は川の神の屋形に連れて行かれました、川の神は機嫌が悪いと舟を沈め、荷物を奪い、舟子たちは殺し、美しい女人は食べてしまうのです、乙女が川に落ちたのは、川の神が、乙女を食べたくなったからです、川の神は、どちらの乙女から食べようか、と考えました、そこで乙女に舞を命じました、自分を驚かせるほど上手に舞った者は、助けてやる、といったのです、二人の乙女は助かりたいために懸命に舞いました、一人は舞に関してはもう一人の乙女より劣っていたのです、このままでは負けると不安になりました、そこで川の神を驚かす必要があると考え、淫《みだ》らな舞を舞ったのです、二人が舞い終ると川の神はいいました、どちらの舞が上手か下手かは自分には分らない、ただ淫らな舞で吾を昂奮《こうふん》させた女人よ、そちの舞を観ているうちに吾はそちを食いたくなった、だからそちは残るのだ、と……あの舞はそういう物語をもとにしてつくられたもの、といわれています」
「そうか、それで納得がいった、それにしてもなかなか面白い話だ、そんな話を聴き、舞を観ると、一段と興が深い」
男具那は海や川の神は美しい女人を求める、ということを知っていた。
恐しい形をした龍のような男神に違いない。
酒宴もそろそろ終りかけた頃、男具那は弟ヒメに訊いた。
「大碓王子はオシロワケ王の妃《きさき》を求めて、美濃《みの》に参った、王子は、そなたたち姉妹のうち、いずれがオシロワケ王の妃としての資格があるか、試して選んでいるようだが、王子はもう、そなたと夜を共にしたのか……」
弟ヒメは俯《うつむ》いて微《かす》かに首を横に振った。表情が強張《こわば》ったところをみると、大碓を恐れているような気がする。
兄ヒメも弟ヒメも二十歳前である。見た感じでは兄ヒメは十八歳、弟ヒメは十六歳ぐらいであろう。
婚姻の相手がオシロワケ王でも、二人にとってこの婚姻は人身御供《ひとみごくう》である。
「そうか、では兄ヒメは床を共にしたのだな……」
弟ヒメは頷《うなず》いた。
どうやら大碓は兄ヒメを気に入り、弟ヒメにはまだ手をつけていないようだ。男具那は大碓から弟ヒメを守ってやろう、と思った。
谷間にそっと咲いている百合の花のような弟ヒメは男具那好みの女人だった。
「弟ヒメ、そなたはあまり大碓王子に好意を抱いていないような気がする、遠慮しなくてもよい、本当のことを申すのだ、申してみろ」
弟ヒメは返事をしない。
身体を固くしているのは、どう返事をしてよいのか、分らないからである。
若い男具那は、煮え切らない弟ヒメの態度に苛立《いらだ》った。
「いや、返事をしたくないのなら、しなくてもよい、吾はそなたを大碓から守ってやろう、と思ったのだ、それだけだ」
男具那が突き放したようにいうと、弟ヒメは身体を慄《ふる》わせ、激しく首を横に振った。
「お守り下さるのですか」
「そう申しただろう」
弟ヒメは顔を上げ、縋《すが》るように男具那を見た。見開いた眼が充血している。
「王子様、私《わ》には好きな男子がいるのです」
「好きな男子か、ヌナ彦か?」
「どうしてお分りなのですか?」
「今度の婚姻にヌナ彦は憤《いか》りを抑えていた、だが氏族の勢力を守るためには、こういう婚姻も必要なのだ、ヌナ彦はそれを知っているから我慢している、ヌナ彦の気持は、吾には痛いほど分る、安心せよ、吾にまかすのだ」
「王子様、王子様のような方が大和におられるとは、思ってもいませんでした、男具那王子様の名が高いのも、普通の男子にはない優しさをお持ちだからです」
「そういうわけではない、吾はあまり優しい男子ではないぞ」
大碓に勝手な真似をさせたくないだけだ、と男具那は自分に呟《つぶや》き、苦笑した。
男具那は弟ヒメにいった。
「侍女を呼び、吾の部下、青魚にここに来るようにと伝えてもらいたい」
「はい、すぐ伝えさせます」
弟ヒメは酒肴《しゆこう》を運んでいる侍女の一人を呼んだ。
侍女が去ると間もなく青魚がやって来た。
縁の前に蹲《うずくま》り、男具那に叩頭《こうとう》する。
「酒宴が終れば、吾はヌナ彦と会う、門の外で待つように伝えろ、大事な話だ」
大碓が、いったい何をこそこそと話をしているのだ、といわんばかりの眼を男具那に向けた。
「兄者、最後に吾が舞う、それで酒宴は終りにしよう」
男具那は内彦《うちひこ》に小太鼓を打つようにいった。内彦は小太鼓がうまいが、まだ男具那の舞で打ったことがない。
「心配するな、吾は刀を振り廻《まわ》すだけだ、打っているうちに合う」
男具那の言葉に、内彦は唖然《あぜん》としたようだ。こんな好《い》い加減な伴奏はない。ただ男具那の命令には、内彦を安心させるものがあった。
男具那は刀を掴《つか》むと庭に跳び降りた。
内彦は小太鼓を借り神妙な顔で胡座《あぐら》をかいた。小太鼓を太腿《ふともも》ではさんで桴《ばち》を構えた。
男具那は刀を抜いて舞い始めた。篝火《かがりび》に刀が煌《きら》めく。
最初は刀を振り廻しているだけだったが、次第に小太鼓に合って来た。内彦の小太鼓の音にうまく乗せられたのかもしれない。
小太鼓の音が速くなると、男具那は刀を速く廻した。息が切れそうになると小太鼓の音が遅くなる。こうなると舞の主導権は内彦に握られている。
伴奏というものがいかに大事かを男具那は知った。
小太鼓の音が遅くなったので男具那の刀はゆるく舞う。
数歩のところに大碓が、兄ヒメを抱き寄せながら酒を飲んでいた。
兄ヒメの華やかな顔も、気のせいか暗い。
大碓は男具那の舞を見ていない。兄ヒメの頬《ほお》に自分の頬を押しつけ、無理に酒を飲ませようとしている。
男具那は大碓に敵意に似たものを感じた。
この距離なら間違いなく、三度跳べば大碓の首を刎《は》ねることができる。
男具那はゆっくり近づいた。刀は男具那の頭上で円を描いている。
突然、小太鼓が乱打された。しかも凄《すさ》まじい音である。男具那は慌てて前後左右に刀を振り廻す。
小太鼓の音に、大碓は吾に返り兄ヒメを離すと男具那を見た。
男具那が眼の前で刀を振り廻しているのを知り、身構えた。
まるでそれを待っていたように小太鼓の音はやんだ。
舞は終った。
拍手に包まれ、男具那は大きな息をつきながら刀を鞘《さや》に戻した。
かりにも大碓は実兄である。なぜ、理由もなく首を刎ねたくなったのか、男具那は自分の内部に自分でも分らない悪の鬼神が棲《す》んでいるような気がした。
もし大碓を殺すなら、あの夜の襲撃者が兄であることを確認してからでなければならない。それをしないで殺すことは許されない。
「王子、身体を洗われては……」
内彦の言葉に男具那は肩を竦《すく》めた。
「内彦、吾の舞に妙なところがあったか?」
「いえ、素晴らしい剣舞でございました」
「嘘《うそ》を申せ、何か気づいただろう、そちの小太鼓にうまく踊らされた感じだ」
「王子、小太鼓にそれほどの力はございません、ただ、王子は舞われているうちに刀の鬼神に取り憑《つ》かれたようです」
「ということは殺気か?」
「はい、次第に殺気が漲《みなぎ》って来ました」
「そうか、皆、気づいただろうか」
「気づいていません、やつかれだけです」
「分った、そのことは胸に秘めろ」
「もちろんでございます」
男具那は門の外で待っているヌナ彦を呼んだ。
内彦とともに身体を洗う水場に案内させた。
「ヌナ彦、弟ヒメについて話がある、弟ヒメとおぬしはお互いに心が通じ合っているようだ、さいわい、大碓王子はまだ弟ヒメと媾合《まぐわ》っていない、そこでだ、そちが弟ヒメと一緒になるつもりなら吾が力を貸そう、その前に、屋形の女人に命じて、新しい布と、身体を拭《ふ》く布を頼む、汗だらけになった、内彦の分もだぞ」
「王子……」
ヌナ彦は声が出ない。蹲《うずくま》ると男具那に手を合わせた。
「おいおい、布を早く頼む、風邪を引いてしまうぞ」
「はい、すぐ用意させます」
ヌナ彦が闇《やみ》に消えた。
「王子、そんなことをして、大丈夫なのですか?」
内彦が心配そうに訊《き》いた。
何といっても、今度の婚姻は三輪の勢力と美濃の勢力との友好の証《あかし》である。
男具那が勝手なことをして、弟ヒメを逃がしたことがオシロワケ王に伝われば、男具那の身はただではすまない。
「なあに心配するな、吾が大碓王子を口説いて、協力させる、だいたい大碓王子には兄ヒメ、弟ヒメに夜の伽《とぎ》をさせる権限は与えられていない、兄だがまったく厚かましい王子だ、まさか吾が追って来るとは夢にも思わず勝手なことをしていたのだ、内心はうろたえておる、今頃《いまごろ》は、吾をどうするか、考えておるだろう、方法は二つだ」
「と申しますと」
「吾を殺して口を封じるか、弟ヒメを吾に与え、女犯《によぼん》を共にするか、そのいずれかに違いない」
男具那は裸になると水を浴びた。
「王子、青魚殿にも伝え、王子の警護を厳重にしましょう」
内彦が走りかけたので、男具那は、
「阿呆《あほう》、戻れ!」
と一喝した。
内彦は石になったように立ち止まった。
「裸の吾を置いてどこに行く、今、吾が襲われたらどうなる」
「そうでした、申し訳ありません」
「そちの忠節心は買うが、もっとどっしりと構えて行動せよ、庶民は、そちのような性格を、おっちょこちょい、と申す」
「そのようです、青魚殿にも、空を飛んだことなど自慢にならぬ、軽はずみな行為だ、といわれました」
「いや、空を飛んだのは立派だが、場合によっては一命を落していたかもしれぬのう、布はまだかな」
男具那がいった時、内彦が闇に向って、誰だ? と誰何《すいか》した。
男具那は川に飛び込んだ。こういう場合の男具那の行動は素早い。
一気に向う岸まで泳ぐと川岸に生えている灌木《かんぼく》に縋《すが》った。
矢が男具那のいた洗い場に飛んで来た。二、三本である。一本は川面《かわも》に落ちた。
「逃がしたぞ、これまでだ」
そんな言葉とともに襲撃者たちは引き返そうとする。
「曲者《くせもの》だ、曲者だ」
内彦が襲撃者の後を追った。
「待て、吾はヌナ彦、何者だ?」
屋形の傍の声に応じ、内彦が、
「王子を襲った曲者だ」
と叫ぶ。
「おう、逃さぬ」
ヌナ彦の叫びとともに闇の中で、刀と刀が火花を散らす。
男具那はまた川に飛び込み、洗い場に戻った。裸のまま刀を取った。無様な恰好《かつこう》だが、こんな場合衣服を着るのは危険である。
姿を見せぬ襲撃者が闇の中に潜んでいるかもしれないからだ。
だが、斬《き》り合いはあっという間に終った。絶叫とともに曲者の一人が地響きをたてて倒れると同時に、今一人が、夜鳥のような奇怪な声をあげた。木にぶつかり崩れ落ちたようだ。
残りの一人は逃げ出した。
「待て、吾が斬る!」
ヌナ彦が追い掛けたらしい。
内彦が斬られた曲者の片腕を掴《つか》み引っ張って来た。衣服の胸が裂け血塗《ちまみ》れである。
異変に気付き、青魚と宮戸彦《みやとひこ》がやって来た。斬られた曲者は瀕死《ひんし》の重傷らしく虫の息である。
「王子、何者です?」
青魚は刀の柄《つか》に手をかけ、眼を剥《む》いているようだった。
「慌てるな、間もなくヌナ彦が戻って来る、それはそうと身体《からだ》を拭きたい、布をもっていないか?」
「はあ、ただ二度ほど汗を拭きました」
「かまわぬ、ヌナ彦は新しい布を取りに行って、逃げる曲者と出会った、一人を追って行ったから、すぐには戻るまい、そちの布を貸せ」
「汗臭そうございます」
青魚は恐縮しながら布を差し出した。
男具那は身体を拭き衣服を着た。胸を斬られた曲者の喉《のど》が鳴った。断末魔の痙攣《けいれん》とともに曲者は死んだ。
ヌナ彦が戻って来た。
「申し訳ありません、一人は逃しました、暗闇《くらやみ》でなかったなら、逃さなかったのですが、残念です」
「何者か、分るか?」
男具那の問にヌナ彦はしゃがみ、雲から月が出るのを待って曲者の顔を眺めた。ヌナ彦が息を呑《の》んだのが、はっきりと感じられた。
「何者だ?」
「信じられません、兄ヒメ様の警護兵です、どうして王子を襲ったのでしょうか……」
ヌナ彦はまだ信じられないらしく死骸《しがい》を見下ろした。
「その件は吾にまかせるのだ、曲者の死骸は、今一人とともに川に放り込め、それと、このことは絶対口外するな、分ったな」
「はっ、絶対口外しません」
「よし、ヌナ彦は今宵《こよい》、屋形の傍で待っておれ、それと、そちの部下を南門の警護兵として配置しておけ、吾は弟ヒメをそちに渡す、そちは弟ヒメとともに大根王のもとに戻るのだ、王にはオシロワケ王の婚姻の相手として兄ヒメが選ばれた、と報告せよ、王に訊かれたなら、吾が決めた、と伝えればよい」
「王子、感謝の言葉もございません」
よほど嬉《うれ》しかったのか、ヌナ彦は男具那の足許《あしもと》に平伏すると、頭を土にすりつけるのだった。
男具那は衣服をただすと、何|喰《く》わぬ顔で屋形に入った。
ヌナ彦が屋形を管理している女人を呼び、男具那を部屋に案内するように、と命じた。
女人はヌナ彦に叩頭《こうとう》した。
「この屋形は、大碓王子様と兄ヒメ様、弟ヒメ様が泊まられているので、余った部屋は小部屋しかございません、男具那様には、別な屋形に泊まっていただこうと思っていたのですが……」
女人は恐縮し切っていた。身体を縮めて、男具那にも叩頭する。
「それはおかしい、この屋形は大根王が泊まられるいちばん大きい屋形ではないか、他の屋形は小さい、ここに男具那王子を泊められぬはずはないぞ」
ヌナ彦は眼を吊《つ》り上げた。
いつ、大碓が弟ヒメに夜の伽《とぎ》をさせるかも分らない。ヌナ彦は不安でたまらないのだ。彼の胸中は、男具那には痛いほど分った。
男具那はヌナ彦を制し、女人に、それは大碓の意向ではないか、と訊いた。
「はい、そうです」
身を縮めていた女人が顔を上げた。その眼が大碓に対する反感に光っているのを、男具那は、闇を通して感じた。
「弟ヒメはどこに寝るのか?」
「兄ヒメ様の隣りの部屋でございます」
「よし、吾《われ》が兄者に交渉しよう、吾は今宵、弟ヒメの部屋に泊まる」
「はあ……」
女人は意外な返答に驚き、窺《うかが》うようにヌナ彦を見た。
「王子が申されるとおりにするのだ」
ヌナ彦の力強い返事に女人は安心したように頷《うなず》いた。
男具那は女人に案内され大碓の部屋に行った。
大碓はまだ飲み足りないのか、麻布の敷布に胡座《あぐら》をかき、兄ヒメを傍に坐《すわ》らせ、共に酒を飲んでいた。魚油の明りは四ヶ所に備えつけられている。大碓の顔は酒と油で光っていた。
入って来た男具那を見ても、大碓にも兄ヒメにも、そんなに驚いた様子はない。
兄ヒメは大碓にいわれ、間違いなく警護兵を貸したのである。
なぜ驚かないのか、とさすがに男具那は不思議だった。
「兄者、今宵はこの屋形に吾も泊まる、構わぬだろう、広い屋形だ」
男具那がわざとらしく周囲を見廻《みまわ》すと、大碓は顎《あご》を撫《な》でた。
「それは構わぬが……吾は兄ヒメとここで寝る、この部屋はいちばん広いが、吾は兄王子だからな、おぬしに譲るわけにはゆかぬ」
大碓は肩を張った。
父王であるオシロワケ王の婚姻の相手を連れるべく、大碓は美濃に来たのだ。それにもかかわらず図々《ずうずう》しく、吾が選ぶ、といい出し、兄ヒメと床を共にした。
今は、兄ヒメも大碓に情を移しているらしい。それにしても大碓も大胆である。もし、こんなことがオシロワケ王の耳に入れば、大碓の首が飛ぶかもしれない。
大碓の野望は、オシロワケ王の跡を継ぎ、自分が王位に即《つ》くことだった。その野望も飛んでしまう。それにもかかわらず、欲情に負け、父王の婚姻相手に手をつけてしまったのだ。男具那の姿を見て、大碓は内心|驚愕《きようがく》したに違いなかった。
男具那に、兄ヒメとの関係を父王に告げられたなら、大碓の運命もそれまでだ。
兄ヒメの警護兵を借り、男具那を殺そうとした気持も、理解できないことはない。
だが、この虚勢はいかにも大碓らしかった。
裏返すと、そういうところが、大碓の弱さかもしれない。
「兄者、あまり強がりをいっている場合ではないぞ、吾の出方次第では、兄者はとんでもない目に遭う」
「ほう、それはどういう意味だ?」
大碓は肩を張ろうとした。男具那を見たとたん、肩を張っているので、これ以上張りようがない。大碓は威嚇するように肩をゆすった。男具那には、肩が凝ったので、動かしたようにしか見えない。
「兄者、それをいわすな、吾も兄者の同母弟だ、兄者が素直に接してくれれば、兄者を陥れるような真似はしない」
「ほう、さすがは吾の弟、その言葉嬉しく耳にした、そういわれると、部屋はないでもない、どうだ、弟ヒメの部屋に泊まらぬか、弟ヒメは兄ヒメに較べると、骨ばっていて、女人の魅力にとぼしいが、ああいう女人には、それなりの魅力がある、か細い身体なので、骨も折れよ、と抱き締めて、呻《うめ》かすこともできる……」
大碓はそういう場面を想像したらしく、厚い唇を舌なめずりした。兄ヒメが大碓に肩を寄せ、大碓の太腿《ふともも》を突いた。
あなたは弟ヒメに興味を抱いているのですか? とその眼は告げている。
大碓と兄ヒメが情を交わしてから、数日もたっていない。それなのに兄ヒメは大碓の言葉に嫉妬《しつと》を示した。それとも演技の媚《こび》だろうか。
男具那には、女人の情というものが、まだよく分らなかった。
「弟ヒメの部屋か……」
「よいではないか、おぬし好みの女人に入るだろう、兄ヒメ、男具那はな、そなたのような肉づきのよい、豊満な女人はあまり好きではないのだ」
「まあ、私は消えましょうか」
兄ヒメはすねたように身体を離し、大碓に流し眼を送る。大碓は慌てて抱き寄せた。
「何も消える必要はない、女人に対する兄弟の好みが同じなら大変だ、毎日のようにいがみ合っていなければならない、女人の好みが異なるから、このように笑って話せるのだ」
そうであろう、と大碓は男具那に同意を求めた。
男具那は仕方なく頷いた。
「男具那、吾の酒杯を受けて、弟ヒメと会え、しかしおぬしも運の良い男子《おのこ》だ、吾はまだ弟ヒメと床を共にしていない」
「そういうことは、私《わ》が許しません」
身体を離そうとする兄ヒメの動作を大碓は予期していた。
「駄目だぞ、吾から逃げられぬ」
大碓はもがく兄ヒメをさらに抱き寄せるのだった。
大碓は男具那が見ているにもかかわらず兄ヒメの胸の襟を拡げた。白い胸の膨らみがはっきり見えた。淫《みだ》らな光景である。若い男具那の口中には自然に唾《つば》が溜《た》まる。
「暴れるな、男具那に酒を注げ」
兄ヒメを離すと大碓は男具那に酒杯を差し出した。
兄ヒメは胸の乱れをなおし、酒壺《さかつぼ》を取ると身体をくねらせながら酒を注いだ。
大碓は兄ヒメが酒を注ぐと、また抱き寄せ、頬《ほお》ずりをし、胸に手を入れ、男具那に見せつけるために淫らな行為に出ているようだ。
男具那は一息に酒をあおった。どうやら大碓は男具那の欲情をかきたて、弟ヒメと媾合《まぐわ》わせたいらしい。
男具那が弟ヒメと夜を共にすれば、父王を裏切ったことになり、大碓と兄ヒメとの関係を報告できなくなる。
大碓はそれを狙《ねら》っているのかもしれない。
男具那は、弟ヒメとヌナ彦を結ばせるために、弟ヒメの部屋に泊まることに決めていた。
大碓と同じ立場に立つのなら、弟ヒメと媾合っても構わないのではないか、と血潮がたぎる。その後、弟ヒメをヌナ彦に渡せばよいのだ。
大碓に弄《もてあそ》ばれることを思えば、ヌナ彦は納得するのではないか。
「兄者、吾は弟ヒメの部屋で泊まろう」
「おう、それでよいのだ、弟ヒメのような童女を、もう老人といってよい父王に渡す必要はない、それに父王の傍には、いくらでも若い女人がいるのだ」
大碓は眼を細めた。安堵《あんど》の吐息をつきかけ、慌てて抑えたのが感じられた。
虚勢は張っているが、内心は不安でたまらないのである。
「兄者、明日、川に泳ぎに行こう、いろいろと話がある」
「この辺りの川は凄《すさ》まじいぞ、大和の川など問題にならぬ」
「知っている、何なら兄者と泳ぎの仕合でもしてみたい」
「泳ぎか、泳ぎは得意ではないが、まあ明日になってのことだ」
男具那は刀を掴《つか》んで立った。
弟ヒメの部屋は南西の庭に面している。
男具那は仕切られている麻布をかいくぐり、中に入った。
当時は屋形の内部に板戸などなかった。部屋と部屋との間は板壁か、絹布や麻布で仕切られている。
弟ヒメは驚いたように起きて麻布の上に坐った。
部屋の隅の魚油の明りが、弟ヒメの白い寝衣をぼんやり闇《やみ》の中に浮き上がらせていた。
黒髪は闇に溶け込み、弟ヒメは白い霧のようだった。
男具那は香料の匂《にお》いを嗅《か》ぎ、鼻を鳴らした。
襟からこぼれ出そうになった兄ヒメの胸の膨らみが、男具那の眼に焼きついている。
数日間、女人と接しなければ、精の汁を自然に放出してしまうほど男具那は若いのだ。
「弟ヒメ、吾はそなたと床を共にする、吾はそう決めた、その後、そなたを逃がそう」
白い霧のように見えた弟ヒメの身体《からだ》が、石のように固くなった。
「お許し下さい」
「許すも許さぬもないだろう、もともとそなたは大碓と床を共にするはずだった、大碓が、この男具那に代ったに過ぎない、それに吾はそなたを逃がそう、といっているのだ、その後はヌナ彦と添いとげられるではないか、大碓は、そうはせぬぞ、たぶん、都に連れて行き、オシロワケ王に差し出す、それを思えば、吾と媾合うぐらい、何でもないではないか」
「お許し下さい」
弟ヒメは蚊の鳴くような声を出し、両腕で胸を抱き、身を折った。
男具那の欲情の火は体内で煮えたぎり、今にも爆発しそうであった。
男具那は荒々しく衣服を脱いだ。
身を折り固くなっている弟ヒメに襲いかかった。欲情の虜《とりこ》になった男具那は、自分が何をしているのか分らなかった。
弟ヒメは悲しそうな声で、お許しを、とうつ伏す。
必死になっているせいか、その肌は火のように熱い。
男具那は胸を抑えている弟ヒメの両手首を掴んで開こうとした。華奢《きやしや》だが渾身《こんしん》の力を込めているらしく簡単には開かない。仕方なく男具那も力を入れた。
「分らぬのか、吾よりも大碓の方がよいのか、よし、それなら大碓に引き渡す」
弟ヒメを仰向《あおむ》けにし、乗りかかった男具那が大声を出すと、弟ヒメの身体から力が抜けた。
「それでよい、そなたは吾の好みの女人なのだ、手荒にはせぬぞ」
男具那は弟ヒメの寝衣の紐《ひも》に手をかけ結び目を解こうとした。暗闇《くらやみ》だし、解き難い。男具那の身体は汗で濡《ぬ》れていた。
窓の外で夜鳥が奇怪な叫び声をあげた。闇を斬《き》り裂くような声である。
男具那は眉《まゆ》を寄せ指に力を込めたが、結び目はますます固くなる。焦った男具那は紐を解くのを諦《あきら》めた。
弟ヒメの寝衣をめくろうと裾《すそ》に手をかけた。
夜鳥の叫びが一段と大きくなり、羽音も聞えた。羽が明り取りの窓にぶつかり部屋中に響く。
男具那は無意識のうちに弟ヒメから離れていた。
刀に手をかけ、窓を睨《にら》んだ。奇妙に明るい月光が黒い夜鳥を青く染めている。
夜鳥に悪の鬼神を見た男具那が刀を抜こうとした時、夜鳥は体内から白い光を放った。磨きあげた刀身のような光が室内に差し込み男具那の眼を射た。
眩《まぶ》しさに男具那は眼を閉じた。光が去ったので眼を開いた男具那は息を呑《の》んだ。
窓に止まっているのは夜鳥ではなく淡い光に包まれた白鳥だった。光は透明な薄い青みを帯びている。
男具那の眼と白鳥の眼が合った。白鳥の眼は夢に見た母の眼に似ており、悲哀に満ちていた。
男具那は刀から手を離すと正座した。
青い光が男具那の胸を貫いた。煮えたぎっていた欲情の炎が清冽《せいれつ》な水を浴びたように消える。とたんに白鳥の眼は慈愛に満ちて輝いた。
「そなたは倭の男具那、その誇りを忘れてはなりません」
「母上……」
男具那は窓に寄ろうとしたが、金縛りにあったように動かない。
白鳥が止まっている窓が遠くなり始めた。
「母上、今しばらく、今しばらく」
だが男具那の言葉は声にならなかった。あっという間に白鳥は白い点になり闇に消えた。男具那は瞼《まぶた》をこすった。
明り取りの窓には夜鳥も白鳥も止まっていない。
「弟ヒメ」
寝衣の乱れをなおし、項垂《うなだ》れて麻布の敷布に坐《すわ》っていた弟ヒメは顔を上げた。
「そなたは不思議な白鳥を見たであろう」
「白鳥、白い鳥のことでございますか……」
「そうだ、穢《けが》れのない白い鳥だ、今、窓に止まっていた」
「どの窓にですか?」
「この窓だ、ここしかない」
「申し訳ありません、私《わ》は見ていません」
「見ていない?」
鸚鵡返《おうむがえ》しに呟《つぶや》きながら男具那は、たぶん、見たのは自分だけだろう、と感じた。
あの白鳥は母の化身に違いなかった。
「弟ヒメ、許せ、吾は醜いことをしようとした」
「男具那王子様、お謝りにならないで下さい、私こそ、さからって申し訳ないことをした、と思っています」
「何を申すのだ、吾はそなたに約束した、ヌナ彦とともに逃がしてやると……」
「はい、ただ……」
「何だ、どうしたのだ」
再び項垂れた弟ヒメに、男具那は不思議そうな声をかけた。
「申し訳ありません、私はさからっているうちに、なぜか王子様に抱かれたくなったのです、だから私は力を抜きました」
「その時だ、吾が夜鳥を見たのは……夜鳥は白鳥に変じた、いや、弟ヒメ、吾を傷つけまいと、優しいことをいってくれた、吾はそなたの優しさを忘れぬぞ、間もなくヌナ彦が参る頃だ、石礫《いしつぶて》の音を合図にそなたは部屋を出ろ」
弟ヒメの口から嗚咽《おえつ》が洩《も》れた。男具那には、まだまだ女人の微妙な気持が分らなかった。
弟ヒメが泣きやむのを待って、男具那は、洗い場で兄ヒメの警護兵に襲われたことを告げた。
「逃げる一人をヌナ彦が斬った、吾を襲う計画について何か知らないか?」
弟ヒメは恐ろしそうに首を横に振った。
「そうか、ただ大碓王子と兄ヒメの関係を見ていると、兄ヒメは大碓王子を愛しているように思える、吾の眼が狂っているのだろうか……」
「いいえ、そのとおりです、姉は大碓王子様に惹《ひ》かれています」
「そうか、そなたは大碓王子をどう思う?」
弟ヒメは俯《うつむ》いた。返事がし難いようであった。
「遠慮しなくてもよい、兄の王子だが吾は気が合わぬ、そなたの率直な意見が聴きたい」
「では申します、そんなに腹の底の黒い王子様ではありませんが、私《わ》は惹かれません、恐いのです」
「そなたが恐れるのは分る、そうか、そなたは腹の底が黒くない、と感じたか……」
弟ヒメ、そなたは大碓をよく知らないからだ、と男具那はいいたかった。
「はい、恐ろしいお方ですが、そんなに悪い方とは思えません、だから姉は愛したのでしょう、姉は情熱家ですが、卑劣な男子《おのこ》に惹かれたりはしません、私は信じます」
「では、吾を襲わせたのは大碓王子ではない、と申すのか?」
「そこまでは分りません、ただ大碓王子様は、美濃に来て以来、堂々とされています」
「ほう、堂々と……」
「はい、堂々と威張られています」
弟ヒメの言葉は大碓の一面を捉《とら》えていた。大碓は確かに威張りたがりやで、時々、他の王子たちの顰蹙《ひんしゆく》を買うことがある。
「面白い感じ方だ、では吾を襲わせたのは大碓ではない、と申すのか?」
「それは、私には分りません」
低い声だが芯《しん》が強く、弟ヒメの気持がはっきり感じ取れた。
石礫が窓の下あたりに当り、意外に大きな音をたてた。
「ヌナ彦だ、弟ヒメ、幸せになるのだぞ」
「有難うございます、男具那王子様も」
男具那は弟ヒメを屋形の正面の広い縁まで連れて出た。
[#改ページ]
九
朝餉《あさげ》を終えた男具那《おぐな》と大碓《おおうす》は、屋形の東方を流れる長良《ながら》川に向った。
当時の長良川は今よりも川幅が広く、四分の一里(一キロ)近くもあった。
川水は悠々と流れ、無数の舟が荷を運んでいる。
二人きりで話したいことがある、といっておいたので、部下も男具那が一人、大碓が二人だった。男具那の方は青魚《あおうお》である。
湿地帯が多く、田畑はあまりない。十年に一度は大洪水が起こるので、灌漑《かんがい》技術の発達していない当時では、耕作は無理だった。二人は葦《あし》の生い繁った原野を進んだ。
道案内人は屋形の近くの村長《むらおさ》である。
男具那は大碓に、大和《やまと》を発《た》つ前、何者かに襲われたことを告げた。
「何者だ?」
「それは分らぬ、大きな丸太ん棒を濠《ほり》に渡して侵入したところを見ると、怪力の持ち主に違いない、刀を合わせたが武術もなかなかの腕前だった、吾《われ》は兄王子と妃《きさき》を殺した曲者《くせもの》と視た」
「その曲者が、なぜおぬしを狙《ねら》った?」
大碓の言葉に、男具那は不審を抱いた。
櫛角別《くしつのわけ》王子が斬殺《ざんさつ》された後、大碓は男具那に、王位問題が絡んでいる、という意見を述べた。
櫛角別は男具那の同母兄である。
大碓は当然、王位を狙う奴《やつ》だな、と思うはずである。そう考えなければおかしい。
「妙な問いになったな、兄者の返答は……」
「いや、まさかおぬしまで狙うとは予想していなかったからだ、それにこの地に来て、兄《え》ヒメの魅力に少し溺《おぼ》れていた、美濃《みの》は都から遠いし、王位争いへの関心が薄れていたのかもしれない、確かに吾らしくない」
大碓は弁解するようにいい、額を軽く手で叩《たた》いた。そんな大碓は、男具那が知っている兄ではない。
兄ヒメに溺れ本当に腑抜《ふぬ》けになったのだろうか。それとも、男具那に対する演技か。
男具那は、曲者に傷を負わせたことや、巻向宮《まきむくのみや》で、他の王子たちが傷を負っていないかどうか調べたことを話さなかった。
男具那は長良川で泳ぐつもりだった。大碓にも、共に泳ぐように、と誘う。もし大碓が拒否すれば話せばよい。
その後のことは成り行き次第である。
「ああ、兄者らしくないな」
男具那は吐き出すようにいったが、大碓はちょっと、肩を竦《すく》めただけである。
大碓は前方の雲を眺めていた。遥《はる》か彼方《かなた》に、青い空の色を少し濃くしたような山々があった。雲はその連山から涌《わ》き上がっているようである。
遠くを眺めている大碓の眼からは、いつもの鋭さや威圧感が消えていた。春の霞《かすみ》がかかっているように見えた。
今の大碓は間違いなく腑抜けだ、と男具那は本当に唾《つば》を吐きたくなった。
そんな男具那の胸中を察したのか、
「男具那、弟《おと》ヒメの姿が見えなかったが……」
と大碓は詮索《せんさく》するような口調でいった。
「弟ヒメか、ヒメはヌナ彦《ひこ》を愛していた、それを知ったので、ヌナ彦に渡した」
「何だと、父王にはどう弁解するつもりだ、吾は知らんぞ」
大碓は憤然とした口調になったが、明らかに演技である。
これで、吾とおぬしは同罪だぞ、と眼の底がほくそ笑んでいた。
「兄者、分っている、だから兄者と兄ヒメの関係は口を拭《ぬぐ》っておこう」
「いや、父王は、兄ヒメと弟ヒメの両姫を妃に、と欲の深いことを申されていたぞ」
「弟ヒメには好きな男子《おのこ》がいて、共に山に逃げた、とでも報告する、兄者もそうだった、と口裏を合わせてくれればよい」
「虫のよい要求だな、では兄ヒメを父王に渡せ、と申すのか……」
「それ以外あるまい」
大碓の眼から霞が消えた、狡滑《こうかつ》な光が宿っている。大碓は馬を寄せると声を潜めた。
「男具那、吾は兄ヒメに惚《ほ》れた、兄ヒメを父王に渡すぐらいなら、大和に戻らなくてもよい、と昨夜思った、これは兄ヒメも同じ思いじゃ、吾とともに、あの遠い山に逃げてもよい、と申している、山々の北には、兄ヒメを産んだ母の実家があるらしい、吾は女人に対して、いとしい、という気持を初めて知った」
「兄者らしくないな、王位を狙っているのに」
「王位と兄ヒメか……、どちらが大切か、と悩んでおる、はっきりいおう、おぬしは弟ヒメを逃した、吾がその事実を父王に報告すれば、父王は憤《いか》り、おぬしの首を刎《は》ねる、それは王としての権威を守るためにも父王がなさねばならないことだ、おぬしに分るか?」
「だが兄者も、事実は報告できない、吾も、兄者と兄ヒメの深い関係を告げるからな」
「おう、分っておる、我らは同罪、それに同母兄弟、ここはお互い助け合おうではないか、どうだ」
「どういう方法を考えていた?」
「吾は大根《おおね》王に、王の血縁者である女人を、今一人たまわりたい、と申す、兄ヒメとの関係をすべて話す、兄ヒメも、父を説得する、と申しているのだ」
どうだ、良い案であろう、と大碓は男具那の眼を覗《のぞ》き込んだ。さっきまでの狡猾さが消え、古い沼の底から昇る毒気を含んだ瘴気《しようき》にも似た鈍《にび》色の光が宿っていた。
大碓は真剣だった。その情熱は狂気に近いかもしれないが、男具那を打つものがあった。
朝餉《あさげ》の時、男具那は大碓と顔を合わせ、おやっと感じた。男具那を襲った兄ヒメの警護兵たちは二人|斬《き》られている。男具那を抹殺すべく、兵たちに命令した者は、男具那と顔を合わせたなら、なんらかの動揺が表われるはずだった。
大碓にそういう動揺はなかった。ただ兄ヒメはなぜか男具那の視線を避けていた。
ひょっとすると、兄ヒメが独断で警護兵に男具那を殺すように、と命じたのかもしれない。
もしそうだとすると、兄ヒメは大碓がいうように、本心から彼を愛していそうだった。
愛情の表わし方は歪《ゆが》んでいるが、許せないこともない。
「兄と弟ではないか、考えることもあるまい」
男具那の返事が得られないので、大碓はかなり苛立《いらだ》っていた。
「一泳ぎして答えよう、少し考えてみたい」
と男具那は答えたが、大碓の策に乗るより仕方ない、と決心していた。大碓がいうように男具那も大碓と同罪なのだ。
舟着場の傍《そば》は土が盛られ、石が積まれ、少々|水嵩《みずかさ》が増しても耐えられるようになっていた。
舟着場は川岸の土を抉《えぐ》り取った場所にある。水流はそこだけ静止していた。
村長が大碓と男具那の身分を告げたらしく、渡し守はその場に蹲《うずくま》り叩頭《こうとう》する。
「兄者、この程度の水流なら悠々と泳げるぞ、泳ごうではないか」
男具那は衣服を脱ぐと青魚に刀を預けた。青魚は川に木を放り、流れの速さを見た。
「王子、岸からあまり離れないように……」
青魚は流れて行く木を指差した。
「ああ、分っている」
男具那は躊躇《ちゆうちよ》している大碓にいった。
「兄者、この程度の川水で、泳ぎを共にできないようでは、共にことを謀れないぞ」
顔を歪めた大碓に白い歯を見せると川に跳び込んだ。
男具那は泳ぎが好きで、大和川の上流の初瀬《はつせ》川でよく泳いでいた。
泳ぎに関しては、大碓よりも男具那の方が上だった。
夏は終ろうとしているが残暑は厳しい。川水は冷たいが身が引き締まるようで気持が良かった。
男具那は川岸沿いに上流に向って泳いだ。最初、下流に向って泳ぐと、戻りが苦しくなる。
川沿いの葦《あし》の周辺で泳いでいる小魚が驚いて逃げる。川面《かわも》で跳ねたり、男具那に当ったりする。川岸の水はかなり澄んでいた。大きな鮒は悠々と泳いでいて男具那に驚かない。掴《つか》んでやろうと潜ると、嘲《あざけ》るように身を翻《ひるがえ》す。
男具那はむきになって何度も潜ったが、指は鮒の尾鰭《おびれ》にも触れなかった。
顔を水面に出し大きく息を吸い込んだ時、大碓の声がした。振り返ると大碓がゆっくり男具那の方に泳いで来る。
男具那は水中で一回転すると大碓の方に泳いだ。流れに乗れるのであっという間に大碓の傍まで進んだ。
「兄者、もう一つ大事な話がある」
「何のことだ?」
大碓は息をはずませながら葦を掴んだ。この水流では立ち泳ぎは無理なようである。
「岸の方に行こう」
男具那は葦の群れを割って進み、岸にたどり着いた。
岸の灌木《かんぼく》や草を掴みながら這《は》い上がった。大碓も男具那に並んだ。
男具那は、大碓の腰のあたりを見た。何の傷もついていない。
考えてみれば、男具那が曲者《くせもの》に与えた傷はそんなに浅くはない。掠《かす》り傷ではなく、脇腹《わきばら》の肌を抉っているはずだ。
もし大碓がそれだけの傷を受けたなら、こんな長旅には出られない。
大碓を疑ったのは間違いだった、と男具那は自分を責めた。
ただ大碓が、男具那を蹴落《けおと》し、王位に即《つ》きたがっているのは間違いなかった。
男具那は、襲撃者に傷を負わせたことや、イホキノイリビコ(五百城入彦)王子をはじめ、大勢の王子を巻向宮に集め、身体《からだ》を調べたことなどを話した。
大碓は驚いて眼を剥《む》いた。
「おぬしがなあ、よくやった、それで手負いの王子は見つからなかったのか……」
「ああ、見つからなかった、大勢の王子は吾を憎んでいる」
「そんなことでびくびくするな、王位争いは血みどろのものだ」
「びくびくはしていない、ただ吾は王になるつもりなど毛頭ない、父王をはじめ諸王子には、吾の胸中が分っていない、それを思うと侘《わび》しくなる」
「相変らずだな、皆、自分たちが望むことは相手も望んでいる、と考えるのだ、それが人間だ、王子も人間だからな、ことに権力の傍にいるだけに余計に猜疑《さいぎ》心が強くなる、吾も同じだがなあ」
大碓は肩をゆすって笑った。
こういう大碓もいつもとは違う。大碓は他人は攻撃するが、自己反省のほとんどない男子だった。
兄ヒメとの恋が大碓を変えたのかもしれない。
「兄者、櫛角別《くしつのわけ》王子と妃を斬殺《ざんさつ》し、フタジノイリヒメの屋形にいる吾を襲った曲者は何者だろう、それだけではない、美濃に出発したとたん、木津《きづ》川でも襲われた、投げ網で搦《から》め取られ、危うく一命を落すところだった、何者かな?」
「投げ網」
大碓は眼を光らせて、どういう網だ? と訊《き》いた。
網は蔓《つる》で作られたものらしく、川魚や湖の魚を獲《と》る時に使う投げ網に似ていたことを説明した。
「空中で鳥のように拡がった、あれは新しい武器じゃ、それにたんなる海人ならあれだけの武術は持っていない」
大碓は唸《うな》り、腕を組んだ。
投げ網の襲撃者と出遭った後、男具那は、一連の曲者と大碓は、関係がないような気がしたものだ。
大碓が男具那に内密で、あのような武術者を集めるのは不可能である。
まるで男具那の胸中を読んだように大碓が力強くいった。
「海人族だな、倭国《わこく》は広い海に取り囲まれている、おぬしがいったような奇妙な投げ網を使う氏族がいても不思議ではない、ただ、大和の近くの海人族ではないぞ、もっと遠い国の者だ」
男具那は頷《うなず》いた。
「そのとおりだと思う、だが、なぜ吾が大和を離れるのを知っていたのか、また木津川の地に詳しいのか……」
「海人とすれば、やはり和珥《わに》だな、和珥は三輪《みわ》の王朝にまだ服従していない、機会があれば、河内《かわち》の勢力と手を結び、我らを斃《たお》そうとしている、男具那、そう怒るな、確かに青魚はおぬしに忠誠心を抱いているかもしれぬ、だが、和珥の首長はどうかな……和珥なら越《こし》あたりの海人族を密《ひそ》かに呼び寄せることができるぞ」
「青魚は吾を救った、青魚がいなければ吾は間違いなく死んでいたのだ」
「青魚を疑っているのではない、青魚のせいでおぬしは、眼が曇っておる」
大碓は、せせら笑うと顎《あご》をしゃくった。こういうところに兄貴風を少年時代から吹かせて来た大碓の傲慢《ごうまん》な性格が表われている。そうでなければ、二人はもっと親密な兄弟になっていたはずだった。
「いや、曇っていない、吾も和珥を疑った、ただ一族の中にそういう者がおれば、青魚の眼を誤魔化《ごまか》すことはできない」
「それはそうかもしれぬ、だから青魚が板挟みになって苦しんでいる、と考えたことはないか、おぬしを襲った者なら、いずれ吾をも襲って来る、青魚と二人きりで話し合ってみてはどうだ、和珥氏の情報を探らすために、一度、青魚を帰らすのも手だ……」
腹は立つが、大碓の意見には一理あった。
和珥氏は河内の新興勢力と親しい。
イクメイリビコイサチ王(垂仁《すいにん》帝)時代、和珥氏は三輪の王朝と戦った。その当時は和珥氏単独だったので、苦戦をしいられ、和睦《わぼく》した。
今度、戦いが起これば、河内の勢力と手を結ぶのは間違いない。
男具那も、そんなに遠くない将来、三輪の勢力と和珥氏との戦《いくさ》は不可避だ、と視ていた。男具那は陽に映えている川面を眺めた。
漕《こ》ぎ手が十人ばかりの舟が川上から進んで来た。前部に波除《なみよ》け板をつけている。
舳先《へさき》に立って前方を眺めているのは舟長《ふなおさ》である。
舟は尾張《おわり》を通り、海に出、伊勢《いせ》あたりに行くのかもしれない。
三輪の王朝が勢力を強めるためには、東海《とうかい》、東山《とうざん》、北陸《ほくりく》などの豪族と友好関係を持たねばならない、と男具那は思う。
かつて西からやって来た当時の三輪王朝の祭祀《さいし》的な権威はすでに失われていた。
祭祀の代りに力を持ち始めたのは武力だった。
優れた鉄《てつ》|※[#「金+廷」、unicode92cc]《てい》によって作られた刀や槍《やり》、それに騎馬の武人集団の恐るべき力だ。
三輪の王朝には稀薄《きはく》なそれらの力を河内の新興勢力は有していた。
「王都は、国内の国々、また朝鮮半島とも交易ができる河内に遷《うつ》すべきだな、このまま手をこまぬいていては三輪の王朝は滅びるぞ」
男具那は呟《つぶや》くようにいった。
大碓は驚いて眼を剥いた。
「おぬしの口からそんな言葉を耳にしようとは思わなかったな、だが、父王では駄目だ、父王は三輪の王権を過信している、和珥《わに》や葛城《かつらぎ》など大和の豪族は、自分に従っている、と信じ込んでいるのだ、だから美濃をはじめ、東国の諸国を従属させれば、三輪の王権はますます強化される、という考え方だ、だが最も恐ろしいのは河内の勢力だ、ところが父王は河内から眼を逸《そ》らしている、おぬしにもそれは分るだろう」
「ああ、ひょっとすると父王は河内の勢力を恐れているから河内から眼を逸らしているのかもしれない」
「そうかもしれぬ、吾はな、大和に戻れば、父王に今のうちに河内の勢力を叩《たた》くべきだ、と進言するつもりだ、都はともかく、おぬしがいうように河内にも我らの勢力を進出させねばならない、今なら、葛城と協力して河内を叩き、服従させることも可能だ、葛城は河内側にも勢力を伸ばしているからな」
「父王はどういうかな……」
「吾にも分らぬ、ただ王朝を保つつもりなら、河内を服従させる以外、手はないだろう」
「そのとおりだな」
「吾は確かに美濃の大根王の娘を父王から盗んだ、吾がそういう気になったのは何も兄ヒメに溺《おぼ》れたからだけではない、大事なのは美濃よりも、河内だからだ」
大碓の言葉は、意見というよりも弁解だった。だが男具那も大碓の奇妙な論旨に一理があるのを認めざるを得なかった。
大碓や男具那を呼ぶ警護兵たちの声が聞えて来た。
兄ヒメの警護兵の件は、ここで訊かなくてもよい、と男具那は判断した。
「兄者、戻ろう、まだ話がある」
男具那が川に跳び込むと、川面に向って大碓が叫んだ。
「吾は歩いて戻るぞ、川下に向って泳いでも、泳いだとはいえまい」
大碓は何が楽しいのか大声で笑うと、警護の兵を呼んだ。
一|刻《とき》(二時間)後、男具那は屋形で大碓と兄ヒメに会った。
兄ヒメの顔は気のせいか強張《こわば》っている。男具那は大碓に、兄ヒメに訊きたいことがあるので同席して欲しい、と頼んだのだ。
屋形にいても、あちこちの川の音が聞えて来る。
男具那は大碓に向って、酒宴の後、洗い場で曲者《くせもの》に襲われたことを告げた。
「曲者、どんな奴《やつ》だ、また投げ網でも使ったのか?」
眼を剥《む》いた大碓を見て、男具那は曲者と大碓とが関係がないのを感じた。
大碓はよく演技をするが、激情家なので、怒らすと本心を表わしてしまう。そういう意味で大碓は嘘《うそ》を隠し通せないところがあった。
「いや、曲者は暗闇《くらやみ》を利用して襲ったが、腕は未熟だった、一人は逃したが、二人は殺し、川に叩き込んだ」
兄ヒメの身体が激しく揺れた。
兄ヒメは顔を覆うと、お許し下さい、と泣き伏した。大碓が驚いたように兄ヒメを眺め、どうしたのだ、と呟いた。
大碓らしくない低い声である。大碓もどうやら曲者の正体が分って来たらしい。
「兄者、ごらんのとおりだ,吾を襲ったのは兄ヒメの警護兵だ、兄者はまったく知らなかったのか……」
「ああ知らなかった、兄ヒメ、男具那の話は本当か?」
「お許し下さい、私《わ》が浅はかでした、男具那王子様さえ殺せば、オシロワケ王の妃《きさき》にならないで済む、大碓王子様の妃になれる、と思い込んだのです」
「馬鹿者!」
大碓は兄ヒメの頬《ほお》を叩いた。相当な力で、頬を打たれた兄ヒメは絶叫とともにその場に崩れた。そのまま身体が動かないのは気を失ったからだろう。
大確の顔が一斗の酒を飲んだように赤くなり、膨らんだ。
大碓の身体が慄《ふる》え始めた。大碓の眼が気絶している兄ヒメと傍の刀との間を行ったり来たりした。もちろん、男具那でなければ分らないほどの微妙な動きである。
男具那は深呼吸をしながら、いつでも動けるように身体を整えた。
大碓の刀が今にも男具那を襲って来そうだった。
と同時に、倒れている兄ヒメを斬《き》りそうな気もした。大碓は、兄ヒメの告白に、自分でもどうしてよいのか分らないほど頭が混乱していた。
兄ヒメが低く呻《うめ》き身体を動かしたとたん、大碓は刀に手をかけた。男具那は大碓の眼を見詰めながら刀を自分の前に立てた。
「男具那、外に出よう、話がある」
男具那と大碓は刀を持ったまま同時に立った。少しでも遅れたなら、刀を身に浴びかねなかった。
二人は並び身体を合わせたまま正面の階段を下り、広場に出た。
男具那と大碓の警護兵が、二人の姿を見て小屋から跳び出した。
「要らぬ!」
大喝して手を振ったのは男具那だった。
大碓も、寄るな、と叫ぶ。
二人は川沿いの洗い場に行った。
大根王の奴婢《ぬひ》が数人、土地の歌を歌いながら洗濯している。裳《も》を捲《まく》り上げた奴婢たちの白い太腿《ふともも》が陽の光に映え、はっとするほど美しかった。
二人は川沿いの草叢《くさむら》に入った。
この問題を解決するのは二人だけだ、という意識が、男具那にも大碓にもあった。
最初に大碓が立ち止まり、男具那も続いた。
二人はゆっくり向い合う。その距離は二尺と離れていない。それでも背高い草が二人を遮っている。夏草はむれて生臭い匂《にお》いを放っていた。
「男具那、吾《われ》はまったく知らなかった、だからといって兄ヒメに罪を被《かぶ》せるつもりはないぞ、なぜなら吾にはおぬしが邪魔だったからだ、大根王の屋形で兄ヒメを一眼見て、吾は兄ヒメに惚《ほ》れた、兄ヒメも同じ思いだったらしい、お互いに一眼見て惚れ合ったのだ、もう理屈など要らぬ、吾は父王の憤《いか》りなど問題にしなかった、だから兄ヒメと媾合《まぐわ》ったのだ、だが床を同じくするとますます兄ヒメがいとしい、吾の妃にしたいと思うようになったのだ、兄ヒメも吾の妃になりたいと申す、こうなれば策を考えねばならぬ、そこで弟ヒメだけを大根王の娘ということにして大和に連れて戻ることにした、兄ヒメは大根王の親族の娘ということにして、後日、大和に呼ぶ、という計画だ、おぬしさえ現われなかったなら、この計画は成功するはずだった、ところがおぬしが突然現われた、吾と兄ヒメにとっておぬしは邪魔な存在となった、だからといっておぬしを暗殺するなど毛頭考えなかった、吾はおぬしと弟ヒメを媾合わせ、吾と同罪にする以外ない、と思ったのだ、ところが兄ヒメは、吾の胸中も知らず、おぬしさえ殺せば……と警護兵に襲わせたらしい、女人は恐ろしい、だがいとしい、本来なら兄ヒメを斬らねばならぬところだが、今の吾にその気はない、だがおぬしは兄ヒメも吾も許さないだろう、だから仕方がない、今は剣で結着をつける以外、方法はないようじゃ、昔から、吾は、いつの日か、おぬしと剣を合わせる日が来るような気がしてならなかった、ただ、こんなに早く来るとは思ってもいなかったがな……」
大碓は、彼らしくない自嘲《じちよう》的な含み笑いを洩《も》らした。
羽音をたてながら虫が飛び廻《まわ》る。
男具那は、大碓にこれまで知らなかった男子《おのこ》の姿を見た思いがした。
大碓は次の王位に執念を燃やしていた。そのためには強引にことを運び、他の王子を次々と暗殺しかねない人間だった。
一人の女人に惚れ、王位継承者の資格を失うかもしれない危険を冒すような男子ではなかったはずだ。
だが眼の前の大碓には、兄ヒメのためなら、もう王位などどうでもよい、といったひたむきな恋情が感じられた。
男具那にはこれまで、それほど愛した女人はいなかった。妃はフタジノイリヒメ(両道入姫)で、イクメイリビコイサチ王の孫娘である。女人らしく大人しい性格で、婚姻前から彼女には好感を抱いていた。ただ何も要らない、と思うほどの恋情はなかった。
男具那は不思議な人間を見るような思いで大碓を眺めた。
「兄者、こういうことはいつかは洩れる、父王を騙《だま》し通せるものではない」
「分っておる、その時は、その時のことじゃ」
「あれほど王位に執着していたのに……」
「ああ、王位への望みを捨てたわけではない、だが今は兄ヒメが大切なのだ」
男具那は深い吐息をついた。
「分った、兄者が吾を襲わせたのなら、闘わねばならない、だが兄ヒメが襲わせたのだとすると、兄者と闘う必要もない、といって、恋に狂った女人を斬るわけにもいくまい、曲者の件は眼を閉じよう」
男具那の言葉に大碓は低く唸《うな》った。
「男具那、おぬしに借りができたな、この借りは必ず返すぞ」
大碓は拳《こぶし》で瞼《まぶた》を拭《ぬぐ》った。
大碓の行動は荒々しいが、それは激情家のせいである。
激情家には陰険な策謀家にはない純な面があるのだ。
「兄者、嬉《うれ》しい言葉を初めて聞いた、櫛角別《くしつのわけ》王子が殺された今、兄者と吾は二人だけの同母兄弟、互いに力を合わせて行こう、吾は先に大和に戻り、父王におぬしの無事と婚姻の件がとどこおりなく運ばれている旨報告しておく、それと大根王には丁重に応対した方がよい、父王の妃となるべき新しい女人を与えてもらわなければならないからな」
「分っておる、今度は立場が変ったからな」
大碓は顔を歪《ゆが》めたが、どこか照れているようだった。
男具那は大和に戻ると、オシロワケ王に会い、大碓が無事なことと、婚姻の件はとどこおりなく運んでおり、大碓が間もなく新しい妃を連れて戻って来ることを伝えた。
オシロワケ王は、兄ヒメと弟ヒメのことを知っており、大碓には二人を連れて来るように、と告げていた。
男具那は、弟ヒメは風邪が長引き、胸を患っているようなので、たぶん兄ヒメだけになる旨を話した。
「病なれば仕方がない、宮に来てすぐ亡くなると大根王に恨まれる、どうだ、兄ヒメは美しいか……」
オシロワケ王は好色な眼を光らせて顎鬚《あごひげ》を撫《な》でた。
「はあ、美濃には美濃の美しさがございます、とにかく美人です」
兄ヒメの代りになる女人を見ていないので、男具那としては、そういうより仕方なかった。
オシロワケ王は、なおも、自分に仕えている女人の中では誰に似ている? などと訊《き》いたが、男具那は、
「何も知らずにお会いになった方が、愉《たの》しみも増すものです」
と誤魔化《ごまか》した。
翌日の夕方、男具那はフタジノイリヒメの屋形を訪れた。
襲われて以来、屋形の警護は厳重になり、槍《やり》や弓矢を携えた武人が十人以上も警護していた。
フタジノイリヒメは嬉しげに男具那を迎えた。何といっても、襲われてすぐ男具那が美濃に発《た》ったので不安でならなかったらしい。
フタジノイリヒメは二人だけになると男具那に取り縋《すが》った。内気なヒメとしては珍しいことだった。
しばらく女人に接していなかった男具那はイリヒメの髪に顔を埋《うず》め、彼女の匂《にお》いを嗅《か》いだ。欲望が身体《からだ》中を駆け巡りイリヒメを押し倒した。
めくるめく悦楽の半|刻《とき》が過ぎた。
フタジノイリヒメが、男具那の子を身籠《みごも》ったことを告げたのは、汗だらけになった男具那が、水を浴び身体を拭《ふ》いた後であった。
「ほう、身籠ったか、なぜ先に話さぬ」
「でも……」
イリヒメは顔を染めると俯《うつむ》いた。その含羞《はじらい》の表情は、話したなら、抱いて下さらないでしょう、と告げているようだ。
男具那には、そんなイリヒメが可愛《かわい》らしく思えた。
イリヒメは十六歳の時、最初の子を産んだが風邪で亡くなった。
今度は風邪ぐらいでは負けない健康な子を産み、無事に育てたいという気持が、男具那にもイリヒメにも強かった。
当時の婚姻は、王家や豪族では一夫多妻制だった。
王や王子などは十人ぐらいの妃《きさき》を持ってもおかしくない。
妃が身籠れば、夫は媾合《まぐわ》いを避け、新しい女人を求める。それが風習だから、女人は夫が新しい女人を妻にしても、嫉妬《しつと》も生理的な欲望も抑えねばならなかった。
「男具那様、申し訳ありません」
フタジノイリヒメは正座すると手を両膝《りようひざ》に置き、深々と叩頭《こうとう》した。
「何も謝らなくてもよい、吾も身籠ったことに気がつかなかった、まだ身体にさわりはないだろう」
「まだ食べ物に好き嫌いは出ていません、ただ月のものが十日あまりありませんから、身籠って、一ヶ月ばかりです」
「そうか、それなら大丈夫だ、あまり気にするな、それはそうと何か変ったことはなかったか?」
「一つだけありました、男具那様が美濃に発たれてから数日後です、杖《つえ》をついた老人が現われ、櫛角別王子や、私たちを襲った曲者《くせもの》が誰かを知りたければ、ホムツワケ王子に会われたらよい、と警護隊長に告げて去りました」
「何だと、ホムツワケ王子に……いったいその老人は何者なのだ?」
「警護隊長が名前を訊いたのですが、名乗っても意味がない、と首を振り、老人とは思えぬ速さで立ち去ったとのことです」
「ホムツワケ王子か……」
男具那は縁に立ち、河内《かわち》との境の生駒《いこま》山の方を眺めた。陽は山々の西方に落ちたばかりで、生駒山は、その手前の矢田《やた》丘陵とともに夕空に向って吠《ほ》えているように見えた。
夏の陽は生駒山の北方に落ち、冬の陽は南方に連なる葛城山系に落ちる。
残光に映える生駒山はまだ紫を残しているが、葛城山はすでに黒い。
侍女が魚油の明りを運んで来た。
男具那は腕を組み、ホムツワケ(誉津別)王子は、生駒山のどこに住んでいるのだろう、と思いを老いた王子にはせた。
ホムツワケ王子はフタジノイリヒメの祖父、イクメイリビコイサチ王と和珥氏系のサホヒメ(狭穂姫)の間に生まれた王子だが、憐《あわ》れにも口がきけなかった。
生まれた場所が燃えさかる稲城《いなき》の中だったので、衝撃で口がきけなくなったのかもしれない。
一時、空を飛ぶ白鳥を見て声を出したので、父王は部下に白鳥を追わせ、越の国で捕えたが効果はなかった。
そのうち父王は夢で神を見た。神は、
「自分の宮を、王の宮のように立派に造ったなら、王子は喋《しやべ》るようになるだろう」
と告げた。
父王は鹿の肩骨を焼いて、何の神かと占ったところ出雲《いずも》の神と分った。
父王はさらに占い、アケタツ(曙立)王とウナカミ(菟上)王をつけて、ホムツワケ王子を出雲に行かせ大神を拝ませた。その結果、ホムツワケ王子は喋れるようになったが、やはり寡黙で、政治を嫌い生駒山に籠《こも》り、仙人のように暮すようになった。
今はもう六十歳を超えている。生駒山に狩りをした山人たちは、時たまホムツワケ王子に会うらしく、白い鬚《ひげ》は膝の下まで垂れ下がっている、と伝えた。
オシロワケ王は、三度ほど使者を遣わし、都に戻らないか、と訊かせたが、戻る意志はなく、使者は無用だ、という返答に、ここ十年は使者を出していない。
ただ噂《うわさ》では、ホムツワケ王子は冬でも生駒の滝に打たれていて、呪力《じゆりよく》を得ている、ということだった。
その呪術がどんなものか知らないが、狼、猪、山犬などがいつも王子を守っており、王子の傍には誰も近づけないらしい。
フタジノイリヒメに呼ばれ、男具那は部屋に戻った。
夕餉《ゆうげ》の食物が整えられていた。
主食は米だが蒸し飯《いい》で、おかずは山の木の実、焼いた川魚、海の干魚、それに鳥の焼肉などである。
イリヒメの侍女が酒の入った壺《つぼ》を運んで来た。イリヒメは壺を受け取ると男具那が持った土器の酒杯に酒を注いだ。
「そなたの母方の実家は山背《やましろ》の大国《おおくに》だったな」
「はい」
大国は現在の京都市|東山《ひがしやま》区|山科《やましな》あたりとされている。
「なぜ、その老人がホムツワケ王子に訊け、とそなたに告げに来たのであろう」
男具那は酒を一息で飲むとイリヒメを見た。イリヒメの返答に期待したわけではない。ただイリヒメを通し自問自答しているのである。
イリヒメは首を振り、分りませぬ、と呟《つぶや》いた。
ホムツワケ王子の母サホヒメは和珥《わに》氏系だが、実家の祖先は山科に近く、宇治《うじ》川を押えていた、といわれている。
だがそんなことはあまり関係ないかもしれない。
くよくよ詮索《せんさく》するよりも、ホムツワケ王子に会うことが一番だった。
男具那の気持を感じたらしく、イリヒメは不安そうな眼を向けた。
「吾はホムツワケ王子に会う、心配するな、そなたに知らせに来た老人は、ホムツワケ王子と親しいか、また王子の意を酌《く》んで来たに違いない、どう考えても、ホムツワケ王子に敵意を抱く者が伝えに来たとは思えない、となると王子も吾に危害を加えたりはしないだろう」
「しかし、狼や山犬を自由に使うとか……」
「だから問題は心だ、名を名乗り、敵意はない、と大声で叫びながら行く、青魚や宮戸彦《みやとひこ》、内彦《うちひこ》も連れて行くが、王子の居場所を探し当てたなら、吾一人で会う、心配するな、吾の気持は必ずホムツワケ王子に伝わる、王子は滝に打たれ、鬼神の力を得ている、という、吾の気持を見抜くぐらい何でもない」
いったんいい出したなら、途中で変更したりはしない男具那の性格をイリヒメはよく知っていた。
「分りました、御無事をお祈りしています、生まれて来る子のためにも……」
「分っている、我々は狙《ねら》われているのだ、吾がホムツワケ王子に会いに行くのは、その危険から身を守るためでもある」
男具那はふと、自分が音羽《おとわ》山の山頂で斃《たお》した丹波森尾《たんばのもりお》を思った。森尾はイニシキノイリヒコ(印色之入日子)王の警護隊長で、オシロワケ王と男具那を恨《うら》んでいた。
イニシキノイリヒコ王は三輪の王朝の正統な王だったが、和珥氏や物部氏と組んだオシロワケ王の圧力に耐えかね、王位を譲り渡し、自殺したらしい。
もちろん、ことの真相は知らない。
丹波森尾は嘘《うそ》をつくような人間には思えなかった。
忠節な武人である。だからこそただ一人山に籠《こも》り、もう今の時代では古くなった銅剣を磨き、復讐《ふくしゆう》の機会を狙っていたのだ。最後は自ら自分の首を刎《は》ねた。
ただイニシキノイリヒコ王とオシロワケ王は同母兄弟だった。
あの時、男具那が衝撃を受けたのは、父王であるオシロワケ王が、同母兄から王位を毟《むし》り取った、という丹波森尾の言葉だった。
男具那は、そのことに関する真相も、ホムツワケ王子が知っているような気がした。
数日たっても大碓は美濃から戻って来なかった。
男具那はオシロワケ王に、美濃までの道中が大変なので、遅れているのかもしれないが、妃《きさき》となるべき女人は間違いなく大碓が連れて来るので、今しばらくお待ち下さい、と美濃の川がいかに多いかを説明した。
山背川(淀《よど》川)のような川が幾つもあり、大雨が降ると川水が溢《あふ》れ、水路の交通も不通になり、洪水《こうずい》の凄《すご》さは大和の比ではない、と懸命に話し、オシロワケ王を納得させた。
男具那が、青魚・宮戸彦・内彦を連れて生駒山に向ったのは半月後だった。
前日は雨で土地はぬかるんでいた。男具那の従者たちはみな馬に乗っている。
当時はまだ馬は珍しく、乗っている者は貴人だった。
田畑の農民たちは蹲《うずくま》り、上眼遣いに不思議そうに馬を見る。
生駒山には霧のような雲がかかっていた。
百舌鳥《もず》がけたたましい声とともに飛んで行く。
もう秋である。男具那は薄《すすき》の上に舞っている赤トンボを眼で追った。
[#改ページ]
十
旧暦九月下旬の山野には秋の気配が濃厚に漂っていた。
山々の樹々の中には、すでに黄色や紅色に変っているものもあった。
野原では薄《すすき》の穂が群れをなしている。古代の人々は薄の穂を花と見た。
『万葉集』に出て来る尾花は薄の穂のことである。
淡紅色のなでしこの花や、黄色いおみなえしも秋の山野を彩っている。
男具那《おぐな》たち一行は初瀬《はつせ》川沿いの道を西に向った。
初瀬渓谷から大和《やまと》平野に向った初瀬川は大和川になって、生駒《いこま》山系と葛城《かつらぎ》山系の境を通り河内《かわち》に向う。また初瀬川・大和川には大和平野の北方、南方から多くの川が合流している。
大和川は、大和の水の大半を集め河内に運ぶのだ。当時の河内には、河内湖と呼ぶ大きな湖があった。
現在の大阪城の北方あたりから四天王寺《してんのうじ》まで、上町《うえまち》台地という岬《みさき》状の高台になっており、その東西は湖と海である。
海は難波《なにわ》の海で湖は河内湖だった。
河内湖は上町台地の西方から生駒|山麓《さんろく》まで拡がっている。
『日本書紀』の神武《じんむ》東征説話では、神武の軍は生駒山麓の草香邑《くさかのむら》の白肩之津《しらかたのつ》に到着し、孔舎衛坂《くさえのさか》で大和のナガスネビコ(長髄彦)の軍と激戦となり、神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)が負傷した。
草香邑も孔舎衛坂も、現在の枚岡《ひらおか》市|日下《くさか》附近とされている。
神武東征説話は確かに後の作り話だが、ところどころに何らかの伝承があった、と考えられる部分がある。
草香(日下)の戦《いくさ》なども西の方から東遷して来た勢力と、地元勢との争いが、いい伝えとなり、神武東征説話に組み入れられた可能性は強い。
また、神武東征説話では、神武より先に、天磐船《あまのいわぶね》に乗って大和に飛び降りた者がいる、と述べられているが、その人物こそ、生駒山を最初に制圧したニギハヤヒノミコト(饒速日命)である。
後の物部《もののべ》氏の始祖王的な人物で、彼は、神武と戦ったナガスネビコの妹と結婚した。
このニギハヤヒの子孫は、河内湖から中河内に勢力を張り、生駒山の東方、富雄《とみお》川の北方から、大和川一帯を押えるようになった。
その一部は東方に移り、石上《いそのかみ》神宮の管理権まで掌握したのである。
四世紀後半には、まだ物部という氏族名はないが、本小説では便宜上、ニギハヤヒの子孫を物部氏と呼ぶことにする。
なお、男具那の従者、内彦《うちひこ》は穂積《ほづみ》氏の出だが、穂積氏の祖はニギハヤヒだから、物部氏と同族ということになる。
物部氏が押えている生駒山を訪れることになり、いちばん張り切っているのは内彦だった。
「どんな荒い鬼神が出ようと、生駒山は物部氏の庭のようなものだ、山人も農民も物部氏、我らに刃向う者はいない」
内彦の言葉に反撥《はんぱつ》したのは葛城山を勢力圏とする宮戸彦《みやとひこ》である。
「内彦、おぬしの祖先のニギハヤヒが天磐船に乗って生駒山に降りたという話は吾《われ》も知っている、だがあれは百年以上も前のことだ、それ以来、おぬしの一族は、あちこちに散った、今では一枚岩のように団結してるとは思えぬな、ことにおぬしの穂積氏は分家の子孫ではないか、本家と分家とでは、時には利害が対立する、おぬしは生駒山を自分の山のように思っているが、そうはいかぬぞ、だいたい、生駒山の狩人《かりうど》は物部氏に縁がある、その狩人が山の鬼神に連れ去られたり、喰《く》い殺されたりするのはどういうわけだ、山の鬼神は物部氏ではないのか……」
「狩人が消えるのは、山の鬼神のせいではない、獣に喰《く》い殺されるのだ、葛城山の狩人だって、獣に喰われるではないか」
内彦が負けずにいい返した。
「くだらぬことでいい争うな、いいか、これだけは忘れるな、我らは男具那王子に仕えておる、今の我らにとって、穂積も葛城も和珥《わに》もない、我らは王子のために生命《いのち》を捧《ささ》げる、内彦、もしおぬしの一族が王子を襲って来たらどうする?」
と青魚《あおうお》が詰問した。
内彦は馬上で反り返り吊《つる》していた刀を叩《たた》いた。
「青魚殿、もちろん、王子を守るために一族と闘う」
「よし、宮戸彦は?」
「いうまでもない、王子を守るためなら親でも斬《き》るぞ」
宮戸彦は大声で叫んだ。宮戸彦の声は山野にこだまし、農民たちは驚いて仕事の手を休めて男具那の一行を見た。犬が吠《ほ》え、雑木林からは小鳥が飛び立った。
「もうやめろ、そちたちはまるで十歳にもならない童子のようだ」
男具那は一喝したが白い歯がこぼれ、眼は笑っていた。
当時の武人は、一族のために戦う。
オシロワケ王が和珥氏の首長に軍を動かせ、と命令しても、兵士たちは首長の命令がなければ動かない。
三輪《みわ》王朝の王は、後世の大王のような専制王者ではなかった。有力氏族の連合の上に乗っかっているに過ぎない。
そういう氏族意識の強い時代なのに、男具那の部下たちは、出身氏族を超越していた。
自分たちの主君は男具那であり、それ以外の何者でもない、と考えてくれている。
男具那にはそれが嬉《うれ》しかった。
宮戸彦が馬上の巨体を竦めた。美濃《みの》に行く際の傷は完全に治り、元気そのものだった。
「なあ青魚、吾が不思議に思うのは、フタジノイリヒメに告げた老人は何者か、ということだ、その老人はなぜ、ホムツワケ王子を知っているのだろう、いや、これについては何度も話し合ったな、ようするにホムツワケ王子の側近者だろう、ということは王子に会わなければ、何も分らない……」
「はあ、やつかれもそう思います、ただ、ホムツワケ王子は語ってくれるでしょうか、俗世間を捨てられた王子です」
「ああ、吾もそれが気になっている、それともう一つ、イニシキノイリヒコ王は、関係ないだろうか、王はもう亡くなっているが、警護隊長の丹波森尾《たんばのもりお》はオシロワケ王を恨んでいた、王の子である吾をも憎んでいた、一人の部下も持たず獣に囲まれ、音羽《おとわ》山の山頂で一人|復讐《ふくしゆう》の機会を狙《ねら》っていたのだ、丹波森尾の復讐心は尋常のものではないぞ」
「そのとおりです、しかし、イニシキノイリヒコ王の無念は、オシロワケ王に王位を奪われたことにあります、王子を恨むのは筋違いでしょう」
青魚は男具那を見詰めていった。ただ何となく声は低い。青魚の眼の底には死を前にして告げた丹波森尾の顔が刻印されていたのかもしれない。
「王はそなたの父、オシロワケ王と王の援護者和珥氏や物部氏の圧力に耐えかね、王位を譲り渡し、自殺された」
丹波森尾ははっきりそういった。
オシロワケ王が和珥氏などと組んだのも時の流れだった。
和珥氏は朝鮮半島と交易し、新しい鉄《てつ》|※[#「金+廷」、unicode92cc]《てい》を次々と手に入れているのだ。
新しい鉄※[#「金+廷」、unicode92cc]は、これまでの鉄にはない強靱《きようじん》な力を持っていた。優れた刀や農具も、そういう鉄※[#「金+廷」、unicode92cc]から生まれる。
三輪王朝の王族たちも、オシロワケ王の外交方針に賛成だった。
後で調べたところでは、イニシキノイリヒコ(印色之入日子)王に同情している王族の中にも、あの時の王はあまりにも視野が狭過ぎた、といっている者も多い。
「なあ青魚、人間というのはな、栄光から見放されると、誰彼《だれかれ》なく恨み憎む、吾は若いが、なぜかそういう人間の気持がよく分るのだ、丹波森尾は忠節の武人だ、曲ったことの嫌いな好《よ》い男子《おのこ》だろう、だが彼もイニシキノイリヒコ王に連座し、栄光から見放されたとたん、時の流れが見えなくなった、イニシキノイリヒコ王だけが正しく、他は悪者になってしまったのだ、いや、ひょっとすると吾を悪者とは思っていないかもしれない、ただ生き残った丹波森尾は復讐の念に燃えていた、少しでも主君の恨みを晴らせたならそれでよかった、主君の霊前に捧げるには、吾の首で充分だったのだろう、逆恨みではないぞ」
「そうかもしれません」
青魚は、男具那の気持を理解したようだった。
自分が丹波森尾の立場に立ったなら、と青魚は考えたのかもしれない。
「王子、もうすぐ富雄《とみお》川ですぞ」
と内彦が威勢よくいった。
矢田《やた》丘陵が眼前に横たわっている。矢田丘陵の西方に連なる山々は生駒山系である。生駒山系は、大和平野の東部に連なる三輪の山々に較べると、尾根が深く険しい。
いかにも様々な鬼神が棲《す》んでいそうな山々であった。
内彦は縁戚《えんせき》者からこの辺りの地理を詳しく聴いていた。
穂積氏には、物部氏の女人と婚姻した者が多いのだ。そういう女人の中には、大和側の生駒山麓に住んでいる物部氏出身の者もいた。
男具那や青魚、それに宮戸彦なども生駒山麓には足を踏み入れたことがない。
他氏族の勢力圏内には、うかつに入って行けない時代だった。
そういう意味で今日は、物部氏と同族の内彦が頼りである。
「王子、北方に出て矢田丘陵を越えるより、丘陵の南側から平群《へぐり》谷に入り、竜田《たつた》川の水路で北上した方が楽なようです」
「そちにまかす」
男具那の返答に、宮戸彦が、
「勝手に行かずに地元《じもと》の住人に訊《き》けよ、妙な場所で日が暮れたら大変だからな」
と注意した。
今日の主役は内彦なので、いまいましいのかもしれない。
「分っている、吾にまかせておけ」
余計な口出しは要らぬ、と内彦は胸を叩《たた》く。自信たっぷりな仕草は、宮戸彦の胸中を推察し、からかっているようだ。
「ちえっ」
宮戸彦は大きな舌打ちとともに葛城山の方を見た。
これから行くところが葛城山なら、吾が案内するのだが、と無念そうである。
一行は大和川沿いに竜田川に出た。竜田川が大和川に合流する辺りは度々の洪水《こうずい》で、沼か土地か分らないほどの湿地帯である。
うかうか葦《あし》の中に入って行けば、泥に馬の脚を取られ、身動きできなくなる。
当時は、現在の地形からは考えられないほど沼や湿地帯が多い。
川には堤防工事などなく、大雨でも降るとすぐ川水が溢《あふ》れるからである。
大がかりな堤防工事が始められたのは五世紀になってからだ。山背《やましろ》川(淀《よど》川)の茨田《まむだ》の堤などが有名である。
一行は富雄川に達した。
その辺りは物部氏の一族で、ニギハヤヒを祖とする阿刀《あと》氏が住んでいる。
渡し守たちは王子の一行を待ちかねていた。
男具那は、ホムツワケ(誉津別)王子に会いに行くことはフタジノイリヒメ(両道入姫)以外誰にも知らせていない。
内彦も慌てて、
「王子が来られることを誰に訊いた?」
と渡し守の長《おさ》に訊いた。
近くの小屋から出て来たのは、阿刀氏の首長の弟だった。
「内彦殿が鳥見《とみ》から生駒山に入られる道を訊かれていることを知り、近々来られるだろう、と三日前からお待ちしていました」
首長の弟は地上に平伏して答えた。
内彦は呆然《ぼうぜん》と突っ立っている。予想もしなかった事態に返答もできない様子だった。
男具那は悠然と馬から降りた。
「いや、御苦労、三日も大変であった、内彦、上等な絹布を……」
男具那の命令に、内彦は慌てて馬に積んであった絹布を渡した。長さは六尺、幅も四尺はあり、一人前の衣服はつくれる。
首長の弟は叩頭《こうとう》し、絹布を捧《ささ》げ持って礼を述べた。
「鳥見から生駒山に入るには、竜田川の水路をさかのぼる方が便利ということだが」
男具那が訊くと、首長の弟はその方がずっと便利だ、と答えた。
「竜田川の川渡しにも、王子様達が来られたことは伝えました、鳥見辺りの地理は、着かれてから訊かれた方が確かだと思います」
首長の弟の返答には男具那も驚いた。
「ほう、我らは今ここに着いたばかりだ、いつ、竜田川の川渡しに我らのことを伝えた?」
「はっ、矢田の高台の見張りの者が、王子様たちの御一行が来られるのを見、その旨の報告がありましたので、すぐに舟を出し、部下を竜田川に走らせました」
四半|刻《とき》(三十分)ほど前だ、という。
「そういうわけか、御苦労であった」
男具那は何か口をはさもうとする内彦を、黙っていろ、と眼で制した。
一行は馬も舟に乗せ、富雄川を渡った。
阿刀氏の首長の弟は、男具那たちが川を渡り切るまで見送っていた。
驚いたことに、舟から岸に上がると、竜田川の川渡しが迎えに来ていた。
青魚と宮戸彦は憮然《ぶぜん》とした顔で、内彦は今にも泣き出しそうな表情だった。
「王子、本当に申し訳ございません、ただ鳥見から生駒山に入るには、どう行ったらよいか、と訊いただけです、それだけなのに……」
内彦は馬に乗ろうとする男具那の傍《そば》に来ると、竜田川の川渡しに聞えないように、低い声でいった。
「内彦、気にするな、我らにとっては良い経験だ、どうやら吾は、吾が想像する以上に、大和、河内の諸氏族の関心を集めているらしい、だから吾の行動に関する情報は、雷光のように速く、あちこちに伝わるのだ、ひょっとしたらホムツワケ王子にも伝わっているかもしれぬのう、いや、突然訪問するより、前もって伝わっていた方がよいかもしれぬ、内彦、何だその顔は、泣きべそをかいた童子のような顔だぞ、吾はそんな顔の部下を持ちたくない、さあ行くぞ」
男具那は威勢よく馬に跳び乗った。
富雄川から竜田川まで半里強である。
日の出前に巻向宮《まきむくのみや》を出て、すでに五里近い道を馬で歩いている。馬なので二刻(四時間)少ししかかかっていないが、徒歩なら道なき道なので倍はかかっているだろう。
ただ秋の陽はすでに南方の空の半ば近くまで達していた。この季節は陽が落ちるのが早い。
男具那はゆっくり馬を進めながら生駒山系に視線を遊ばせていた。
だが秋の山の彩りも小川のせせらぎの音も、男具那の脳裡《のうり》にはなかった。
今男具那は、自分の行動にあちこちの氏族が関心を抱いているのを知った。
内彦にいったように、男具那の存在は、男具那が想像する以上に大きいのかもしれない。それはある意味で、男具那を危険視している者が多いことを意味している。
いったい吾はなぜ、そんなに監視され、危険視されねばならないのか、と視線を上空に向けた。
生駒山の西方には陽に映えた白絹の帯にも似た雲が幾重にも連なっていた。
あの雲の下には母の故郷がある。
夢に現われた母は男具那に、
「英雄は孤独なのです」
といった。
英雄か、と男具那は呟《つぶや》く。播磨《はりま》から巻向宮に移り住むようになっても、男具那は兄の大碓《おおうす》のように王位に執着しなかった。
ただ軍事将軍となり、各国のまつろわぬ首長を征服したい、という望みだけは強かった。その思いは今も熾烈《しれつ》である。
もし男具那が王位に即《つ》いたなら、巻向宮で政治を摂《と》っているよりも、自ら甲冑《かつちゆう》を纏《まと》い、軍の先頭に立って戦うだろう。
だが祭祀《さいし》を重要視している当時の王に、男具那のような勇猛な性格の王はいなかった。男具那があまり王位に執着を持たないのも、王になっても面白くないからである。
いつだったか、王について大碓と話し合った時、大碓はいった。
「吾も戦は好きじゃ、戦の場合は巫女《みこ》王よりも、王の意向を優先させればよいではないか、王はそれぐらいの権力を持つべきだ、ただおぬしのように戦の先頭に立つのも真っ平だがな」
と、大碓は眼を光らせた。
大碓も、神託を重んじる現在のやり方に不服だった。
神を信じていないわけではないがあまり敬ってはいない。
今の巫女王的な王は、オシロワケ王の妹、ヤマトヒメ(倭姫)だった。
ヤマトヒメはオシロワケ王の同母妹といわれているが、同母ではなく異母妹という噂《うわさ》も流れている。
王は数え切れないほどの妃《きさき》を持つので、本当の母が分らなくなる場合もあるのだ。ことに赤子は母の実家で育てられたり、乳母が育てたりする。
皇后が女子を産まない場合など、他の妃が産んだ美貌《びぼう》の女子を、皇后の子供にしてしまうこともあるのだ。
竜田川の川渡しの使者は、男具那たちの馬の前を大股《おおまた》で歩く。馬の並脚《なみあし》に負けない速さだった。
古代人は現代人には想像もできないほど健脚である。
迎えの使者は、歩きながら両掌《りようて》を口に当てて、ホーと叫んだ。
先が広くなった大きな巻貝を吹いたような音に似ている。
薄《すすき》の原の向うから同じような声が近づいて来た。
男具那たちは竜田川に到着した。
竜田川は山に囲まれた平群《へぐり》谷をさかのぼるが、後に平群氏が勢力を張った地域である。
男具那の時代には、まだわずかな農民と山人族がいるだけで、強い勢力はなかった。
北上すると間もなく矢田丘陵と生駒山が迫って来る。山間の狭隘《きようあい》の地で、農作物はあまり穫《と》れない。
それでも時々荷物を積んだ舟が往来する。
舟子たちは下りの舟と行き遭うと声をかけ合う。
男具那は周囲の景色を眺めながら、生駒山を占有した物部氏が、生駒山系西方の平野と河内湖を押えたのも当然だろう、と思った。当然、物部氏はこれからも大きな勢力を得る。
もし物部氏が河内西南部、和泉《いずみ》方面の新興勢力と手を結べば、三輪王朝にとっては脅威の存在となる。
オシロワケ王をはじめ王族たちは、物部氏をどう見ているのだろう。
男具那にはそれが気になった。
ただ男具那は、オシロワケ王の政策に対してとやかくいう立場にはいない。
吾《われ》は軍事将軍でよいのだ、王の命令に従い、戦の場におもむいて敵を斃《たお》す、それが吾の運命なのだ、と男具那は自分にいい聞かせるように呟いた。
舟は三里近くもさかのぼっただろうか。
いかにも川舟のために造られた感じの小さな舟着場に着いた。
もう鳥見《とみ》であった。その辺りは、生駒山と丘陵にはさまれた狭い平地が南北に伸びている。山間の平地といってよい。
だが鳥見は、神武と戦ったナガスネビコ(長髄彦)の本拠地である。
鳥見から生駒山の暗峠《くらがりとうげ》を越え、西側に出ると、西から来た神武の軍勢が苦戦した草香《くさか》に出る。地理的に見ても、昔からの伝承説話には無視できないものがあった。
それにしてもわずかな軍勢で、神武の大軍を相手によく戦ったものだ、と男具那は感心した。
伝承では、物部氏の祖のニギハヤヒは、結局、ナガスネビコを裏切り、神武に降服したのである。
男具那を迎えに来た鳥見の使者は、勇猛な祖先の血を引いているらしく、精悍《せいかん》な顔をしていた。
住民たちの家はすべて竪穴《たてあな》式で、高床《たかゆか》式は首長の家だけだった。首長の家を取り巻いているのは、首長の一族だろうが、それも竪穴式である。
住人の大半は山人で獣を獲《と》って生活しているようだった。
狩猟用の弓矢を持った山人たちは、皮の履《くつ》をはき、皮の脛当《すねあて》を巻いている。
伝承によるナガスネビコの名は、この臑当のせいかもしれない、と男具那は思った。
鳥見の首長は五十代の半ばだろうか、髪にも鬚《ひげ》にも白いものが混じっている。眉《まゆ》は濃く眼光は炯々《けいけい》としていた。
首長の顔を見たとたん、男具那は百年以上前にあった、と伝えられている西からの侵入者との戦は事実だろう、と感じた。
首長の顔にはまだ遠い昔の戦の血《ち》飛沫《しぶき》が染みついているようである。
男具那は二人分の絹布を手土産として渡した。
「有難《ありがと》うございます、早速米に交換致します」
首長は床に両手をついて礼を述べた。
米に交換するという言葉は耳に痛かった。あまり農作物が穫れないので、人々は貧しい生活を送っているのだろう。
ただ当時の絹布は現代の通貨である。何にでも交換できる。首長は心から礼を述べていた。
早速濁り酒が運ばれた。肴《さかな》は山で獲《と》った焼鳥や焼肉、それに山菜である。
男具那は、これまで誰にも話していないが、といって、ホムツワケ王子に会いに来た、と告げた。この首長には隠しだては必要がない、と感じたからである。
首長は濁り酒をあおると男具那を見た。
眼光は炯々としているが、意外に眼は澄んでいた。
「三輪の王子、やつかれは残念ながら会っていません、ただこの地の者で生駒山に入り、獣や鳥を獲り、生活している者は、王子がどの辺りにいるか、知っていると思います、何なら、その者たちを呼びましょうか」
「そう願いたい」
首長は手を叩《たた》き部下を呼んだ。
女人が姿を見せないのは、酒席に女人がはべる習慣がないのだろう。
半|刻《とき》の間に三人が集まった。山人らしく三人共、鹿の皮を纏《まと》っていた。
首長に命じられ、三人は口々にホムツワケ王子について話した。
ホムツワケ王子が生駒山に住むようになったのは、二十年以上も前のようだった。
山に入った時は数人の部下がいたが、皆、死んだらしく、今は王子一人のようである。三人の山人たちの中で王子を見た者はいないが、王子の住居に近づくと、何者かに監視されている感じがする。
王子が何を食べているのかは分らないが、王子の住居に近づくと、鳥たちが騒ぎ出し、王子に怪しい者が近づいた、と知らせる。
そのまま戻ればよいが、好奇心にかられ王子の顔でも見ようと進むと、岩が落ちて来たり、鷹《たか》などの攻撃を受け、酷《ひど》い目に遭う。
げんに落石により死亡したり、鷹の攻撃から逃げようとして谷に落ち、死亡した者も何人かいた。
今では、ホムツワケ王子の住居に近づこうとする者など一人もいない、という。
三人は、こちらが王子の住居地に入らなければ、危害を加えられることはない、と強調した。
「奴《やつこ》らは、王子様を山の守り神と信じております」
三人は王子が、ホムツワケ王子に危害を加えるのではないか、と心配しているようだった。
「そちたちの首長にも話した、故あって、話を聴きに参るのだ、ホムツワケ王子は吾の伯父《おじ》にあたる、危害を加える意向など毛頭ない」
男具那の言葉に三人は、頭の上で手を合わせ、喜びと感謝を表わした。
三人は木の板に焼いた木の枝で略図を書いた。
それによると河内《かわち》に通じる暗峠《くらがりとうげ》に向って山道を登る。途中で獣途《けものみち》を左に折れしばらく行くと渓谷《けいこく》に出る。その渓谷を越え尾根に登り、尾根伝いに頂上の方に登ると岩に囲まれた場所がある。
岩で造られた城のようで、ホムツワケ王子はそこに住んでいるらしい。
「らしいと申しますのは、家を見た者がいないからです、ただその岩場から南の渓谷に向って降りて行く人影を見た者は何人かおります、ホムツワケ王子様に違いない、と皆申しております」
「渓谷に出る獣途は分るだろうか?」
男具那の問に、鳥見《とみ》の首長は、そこまで男具那たちを案内するように、と命じた。
「ただ、今からでは無理だ、明日も雨が降らぬ、男具那様の一行は今宵《こよい》はここで一泊していただき、早朝、山に入る、おぬしが御案内しろ」
鳥見の首長は、三人の中でも一番の年輩者に道案内を命じた。
翌朝、男具那たちは、道案内人とともに生駒山に入った。
男具那たちは、山人の皮の衣を纏った。
鳥見の首長が貸してくれたのである。生駒山系は三輪山がその周辺の山々と異なり、尾根が深く、切り立っていて山が険しい。岩壁も多く、あちこちに滝がある。
滝の音は、大きさにより様々で、まるで山が喋《しやべ》り合ったり、また憤《いか》って唸《うな》っているような感じである。
風雨の強い日は凄《すさ》まじい音をたてるに違いなかった。
ただ男具那は山が好きで、かなりの山々の頂上をきわめている。生駒山もそんなに苦にはならなかった。
峠道だから、河内に通じる本道だが、人一人がやっと通れるぐらいの狭い道で、灌木《かんぼく》や熊笹《くまざさ》の繁みを掻《か》き分けて進まねばならなかった。
半刻ばかり登った時、自然とは異なる音を耳にした。獣が灌木を掻き分けているような音だ。
男具那は先頭に立って進む道案内人にいった。
「待て、上の方に猪か、熊がいるようだぞ」
案内人は立ち止まって振り返ると、腰をかがめた。
「お耳が早ようございます、河内から大和に荷を運ぶ一行です、声をかけてみましょう」
案内人は、両掌を口に当て、大きな声を出した。同じような声がすぐ返って来た。
「やはりそうです、怪しい者共ではありません」
さすがは山人だな、と男具那は感心した。音によって危険な者かどうかを判断しているのだ。男具那にはそこまでの能力はない。
間もなく旅人が近づいて来た。
鳥見の案内人が、待て、と旅人に声をかけて小走りに先に進んだ。
男具那のために、道を開けさせたようだ。
当時は、貴人と会うと、庶民は蹲《うずくま》ったり、草叢《くさむら》に入り身を隠す風習があった。道の傍の草叢に蹲っている旅人は五人いた。三人は太い棒を持ち大きな荷物を背負っている。他の二人は刀を吊《つ》っているようだ。
鳥見の案内人の説明によると、暗峠を越える商売人たちは、必ず警護の者を傭《やと》うようだった。
冬近くになるとよく盗賊が現われ、旅人たちの荷物を奪うからだ。
「そうか、盗賊は何人ぐらいだ?」
「はっ、数人から十人ぐらいです、鳥見の山人たちは、旅人の安全を守る役目も与えられています、昨年は盗賊と戦い十人あまりが死にました」
「大変だな、しかし旅人を守るのは大切な任務だ……」
「はっ」
と答え、鳥見の案内人は何かいいかけたが口を閉じた。
おそらく道を守る代りに、それなりの品物を貰《もら》っているのだろう。川渡しの舟子も同じことだ。
山を登り始めて一|刻《とき》半(三時間)近くたった。陽は鬱蒼《うつそう》と繁った樹々に遮られ、道は薄暗い。木洩《こも》れ陽《び》が光の矢となって交叉《こうさ》している。
「ここでございます」
案内人が押し潰《つぶ》された灌木を指さした。獣途《けものみち》が渓谷《けいこく》に向って尾根を下っている。腰をかがめた案内人に男具那は頷《うなず》いた。
「御苦労だった」
「王子様の脚の強さには感じ入りました、鋭い耳も奴《やつこ》ら以上です、部下の方々も頑健です、これだけお揃《そろ》いなら、獣たちの襲撃も牙《きば》が立ちません、ただ、ホムツワケ王子様は、鳥を使われます、鳥の鬼神を自由に操られます、奴らはホムツワケ王子様を山の神として畏怖《いふ》しているのです」
案内人は訴えるような口調だった。
ホムツワケ王子と争わないで欲しい、といっているのだ。
「大丈夫だ、吾は教えを受けに行く、争いに行くのではないぞ」
案内人は嬉《うれ》しそうに眼を細めて叩頭《こうとう》した。
急な傾斜の下りは登るよりも困難である。狩猟用の皮の尻当《しりあて》が役に立った。腰を下ろしたまますべり落ちなければならない場所もある。皮の尻当がなかったなら、麻を重ねて織った厚い袴《はかま》も破れそうである。
滝の音が強くなった。
「すぐ傍だな、となると滝の下から小川が渓谷まで落ちている」
と宮戸彦が独り言のように呟《つぶや》いた。
「どんな滝か見たい」
「下りてから見ましょう」
宮戸彦は葛城山に登っているだけに、山には詳しい。
男具那たちはゆっくり進んだ。獣途が突然切れた。そこから下は二丈近い岩壁で、蔓草《つるくさ》が纏《まと》いつき、草も生えている。岩壁の下も突き出た岩場である。滝は岩壁の右側を落ちていた。
宮戸彦は左右の灌木を掻き分けて獣途を探した。
「王子、右側は滝の上に出ます、獣たちの水飲み場です、猪や熊は、この岩壁を降りられないでしょう、となると、ここに来る途中に、右手に入る獣途があるはずです、ここでお待ち下さい、探して参ります」
「吾も行こうか?」
内彦が声をかけると、
「いや、おぬしは王子の傍にいてくれ、すぐ戻る」
汗塗《あせまみ》れの宮戸彦は巨体を揺すり戻り始めた。海人族の青魚は、山に入ると宮戸彦のように勘が冴《さ》えないらしい。憮然《ぶぜん》とした面持ちで腕を組んだ。
突然、頭上で樹々がざわめいた。
「猿だ、青魚、刀など抜かなくてもよい」
十匹あまりの猿たちが奇声を発しながら男具那たちを眺めている。危険な人間かどうか観察し、喋《しやべ》り合っているようである。
宮戸彦が、
「見つけました」
とはずんだ顔で戻って来ると、猿たちはいっせいに黙り込んだ。この男は何者だ? といった感じである。
宮戸彦は猿を見上げると、
「大和の王者、男具那様だ、あまり騒ぐな……」
と一喝し、肩をゆすって豪快に笑った。
まるで宮戸彦の言葉を理解したように一匹の大猿が木の上から跳び降りた。
宮戸彦の傍に来ると手を突き出す。
大猿の掌《てのひら》には椎《しい》の実があった。
「おう、王子への貢物か、貰っておくぞ」
宮戸彦は椎の実を掴《つか》むと男具那に渡す。
「吾にくれるのか、礼を申す、宮戸彦、何か渡してやれ」
「猿にですか?」
宮戸彦は男具那が冗談を言ったと思ったらしい。だが男具那は椎の実を見ていった。
「宮戸彦、贈り物を貰った以上、何かを返すのは当然ではないか、人間であろうと、猿であろうと変りはないぞ」
「それもそうです、何に致しましょう」
「そうだな、酒を少しやれ、猿の首長に酒はふさわしいぞ」
「えっ、酒ですか、やつかれの分を……」
酒好きの宮戸彦は、自分の酒が減ることを心配し、泣きそうな顔である。
「情けない顔をするな、そちの酒が惜しければ、吾の酒をやってもよいぞ」
「いやいや、やつかれの酒を渡します、少しでよいでしょう」
「あまりけちな真似はするな、身体《からだ》が大きいくせに、心の小さいけちな男だと嗤《わら》われるぞ……」
男具那がからかうと、宮戸彦は頭をかき、面白そうに眺めている青魚と内彦に、
「吾の酒がなくなれば、おぬしたちのをいただくからな、今のうちにせいぜい面白がっておくんだな」
と眼を剥《む》いていった。
宮戸彦は木の葉を毟《むし》り取ると何枚も重ねて器を作った。器用なものである。
木の葉で作った器に竹筒の酒を注いだが、一滴もこぼすまいと真剣そのものだった。
男具那にはそんな宮戸彦がおかしくて仕方がない。笑いをこらえていると、椎の実を贈った大猿が、ケェケェ、ケェと笑った。まるで男具那の代りに笑ったようである。
宮戸彦は、男具那の命令なので怒るに怒れない。
酒を盛った木の葉の器を大猿の前に差し出した。
「旨《うま》い酒だぞ」
大猿は首を伸ばすとまず匂《にお》いを嗅《か》いだ。鼻孔が拡がり、何ともいえない滑稽《こつけい》な顔になった。他の猿も木の上や、枝にぶら下がり酒を眺めている。
「おいおい、受け取らぬのか」
木の葉の器を持ち、両腕を差し出したまま、宮戸彦はいまいましそうな声をあげた。大猿が、そんな宮戸彦を見てまた笑う。他の猿たちも叫び始めた。
大猿は鼻孔を拡げたりすぼめたりしていたが、歯を剥くと舌で酒を舐《な》めた。天を仰ぎ酒の味を試しているようである。
これはいける、と思ったのだろう。今度は口を器につけると音を立てながら酒を飲み始めた。飲み干すと舌を出し葉についている酒の雫《しずく》まで吸い取った。
まるで人間のように一呼吸をつき、何度も頷《うなず》く。
「参った、大酒飲みの面《つら》だ」
宮戸彦が吐き出すようにいうと、大猿は舌を鳴らした。木の葉の器を宮戸彦の手から取る。しげしげと眺めていたが、重ねていた葉をばらばらにした。
大猿が奇妙な声をあげると、他の猿も叫ぶ。猿同士の言葉があるらしい。
大猿は男具那の傍に来た。驚いたことに男具那に頭を下げた。部下たちが男具那に叩頭《こうとう》していたのを見ていたようである。
「満足そうだな、椎の実の礼だ」
大猿は顎《あご》を撫《な》でると傍の木に跳び乗った。
猿の群れたちは鳥のように木から木へと跳び間もなく姿を消した。
「いや驚きました、葛城山には何度も登りましたが、猿があんなに旨《うま》そうに酒を飲んだのは初めてです」
宮戸彦は呆《あき》れたような顔である。
「吾も初めてだ、だが人間であろうと猿であろうと、心には変りがない、きっと喜んでいるに違いない、さあ行くぞ」
男具那たちは獣途《けものみち》をゆっくり下りた。
先を進んでいた宮戸彦が、
「お待ち下さい、罠《わな》が仕掛けられています」
と大声で叫んだ。
獣途に穴を掘り、灌木《かんぼく》や草で覆っている。猪や鹿が通れば穴に落ちる仕掛けだ。
「危いなあ、山というやつは、山人族の罠だな」
内彦が穴を覗《のぞ》き込んでいった。
「この獣途は危険です、樹林の中を行きましょう、王子、その方が安全です」
と宮戸彦が男具那にいった。
「ああ、吾もそう思う」
と男具那は答えた。
[#改ページ]
十
男具那《おぐな》の一行は、獣途《けものみち》から山を覆う樹林に入った。樹々は鬱蒼《うつそう》と繁り、周囲は薄暗く夕暮に近い。
木洩《こも》れ陽《び》は光の矢のようにも見えたし、また磨き上げた剣にも似ていた。
見上げると無数の樹葉の隙間《すきま》が、陽を浴びた鏡のように光っていた。
時々鳥が鳴く以外、何のもの音も聞えない。内彦《うちひこ》が先頭に立ち、下へ下へと進んで行く。落葉に尻《しり》をつき、すべり落ちなければ進めない傾斜面が多い。
灌木《かんぼく》や下草が繁って行手を遮っている場合は、刀で切り、蔓草《つるくさ》や灌木を握って進まねばならない。
どのぐらいたっただろうか。一行は崖《がけ》の上に出た。崖は三丈(約九メートル)ほどあり、割れ目に灌木などが生えているが懸崖《けんがい》で、とうてい下りられない。
「まあ、休め、見事な景観だ」
男具那はその場に腰を下ろした。竹筒の水を喉《のど》を鳴らして飲んだ。水が身体《からだ》の隅々にまで沁《し》み渡るのが分る。
絹布を緑に染めて敷きつめたような尾根が、一行の前方に拡がっている。
男具那は前方の尾根の頂上附近を指差した。
「あの辺りだな、ホムツワケ王子のおられるところは、下の渓谷を越え、尾根を登り、尾根伝いに頂上の方に行く、鳥見《とみ》の山人はそういった」
「そうです、岩に囲まれた城に住んでおられると……」
青魚《あおうお》が汗を拭《ぬぐ》いながら答えた。
「皆、今のうちに水を飲め、渓流まで行けば幾らでも飲める、ここからなら、あと半|刻《とき》(一時間)ぐらいのものだろう」
男具那の言葉に、三人は安心したように竹筒の水を飲んだ。
耳を澄ますと渓流の音も聞えて来るようだ。それにしても気味が悪いほど静かである。巨大な獣が潜んでいる時は、鳥も囀《さえず》らず、他の獣たちも息をひそめている。
絶えず山に入り、狩りをした男具那には、この静かさが尋常のものと思えなかった。
「静か過ぎる、そう思わぬか……」
「確かに静かですが……ただ獣の気配は感じられません」
と内彦は鼻孔を拡げた。
「用心した方がよい、下の方で待ち受けているかもしれぬ」
と宮戸彦《みやとひこ》が渓谷の手前の樹林を見詰めた。青魚が頷《うなず》いた。
「待ち受けているとすると渓流の傍《そば》だな、王子が生駒《いこま》山に入られることは、すでに知れ渡っている」
「面白いな、今度こそ吾《われ》を狙《ねら》う者の正体を暴いてやる、ただ、あまり警戒し過ぎると余裕がなくなる、我々は見えない敵に怯《おび》えているのかもしれない、吾は怯えるのは嫌いだ、用心は大切だが悠々と進もう」
「王子がおっしゃるとおりだ、ひとつ敵を驚かせてやろう」
宮戸彦は口に両掌《りようて》をそえると、大声を出した。その声は人間離れがしていて、数十羽の鳥が飛び立った。宮戸彦の声は山の奥の奥まで響き、こだまが返って来た。
こだまに驚き、猪や鹿が下の方で走り出したようだ。
「宮戸彦もうよい、待ち伏せている者がいたとしても、そちの声に腰を抜かしたに違いない、渓流に小水を洩らした者がいるかもしれぬぞ」
男具那が笑いながらいうと、顔を真赫《まつか》にした宮戸彦は、
「うーむ、許せぬ」
と唸《うな》るのだった。
そんな宮戸彦の顔が面白く、一行は哄笑《こうしよう》した。その声がまたこだまする。
男具那は、どんな曲者《くせもの》が待っていても、吾を斃《たお》すことはできないだろう、と確信した。今の男具那には、誰も手をつけられない力の鬼神がついている。
男具那たちは、崖の右から下りるか、左からかで話し合った。もし待ち伏せている者がいたとしても、渓流の傍である。男具那がどの方向から渓流まで下りて来るか、分らないからだ。
最後に男具那は、崖の右手から下りる、と決定を下した。
崖の右手の方が左手に較べて傾斜がきつかった。下りるのに苦労する。しかし川の上流に出る。闘うにしても、上流と下流なら、上流の方が何かと得である。
「おそらく曲者は、我らを認めておる、当然、傾斜のゆるい、楽な方を選んで下りて来る、と予想し、左方、つまり下流に主力を集める、もし敵が待ち伏せているならば、の話だが……」
「王子の申されるとおりです、さあ行きましょう」
青魚は警護隊長らしく、行くぞ、と内彦、宮戸彦にいった。
右側の傾斜がきついのは土砂の流失量が左側よりも多いせいだった。到るところで岩肌が露出し、脚と手と尻を使って下りなければならない。それでも真直《まつす》ぐ下りるのはとうてい無理で、斜めに進まねばならなかった。
一行は予定の半刻を少し過ぎて渓流に達した。水は澄み底の岩肌が緑や茶色に透いて見えた。小魚が光りながら泳いでいる。
内彦と宮戸彦は対岸の木に登って、周囲の様子を窺《うかが》った。
渓流の傍なので山鳥が鳴き、囀《さえず》り、陽は明るく穏やかだった。
男具那は山肌に耳をつけ、気配を窺ったが、待ち伏せている者はいないようだった。
青魚は樹林に身を隠し、男具那を見守っていた。内彦が小鳥の声に似た指笛を一度吹いた。異常なし、という合図である。宮戸彦もそれに応じ指笛を吹く。
一行は一人ずつ水を飲み、身体の汗を拭《ぬぐ》い、竹筒に水を満たした。
時刻は巳《み》の下刻(午前十時‐十一時)あたりである。陽が昇る前に出発したのだから、かなりの時刻を費やしている。
何としても、夕暮までにはホムツワケ(誉津別)王子に会いたかった。
「さあ行くぞ、この山を登り、尾根の上に立てば目的地は近い」
男具那の言葉に青魚がいった。
「やつかれは、間を置いて参ります」
青魚はまだ襲撃者を用心していた。
男具那は、この渓流の穏やかな光景と気配に、待ち伏せの者などいない、と判断していた。
部下たちが警戒を強めたのは、男具那が、崖の上で、あまりにも静か過ぎる、と呟《つぶや》いたからだった。
「まだ警戒しておるのか、待ち伏せているような気配はないぞ」
「だから油断できません」
青魚の眼は真剣で、これだけは一歩も譲れない、という決意が眼に表われていた。
内彦と宮戸彦は顔を見合わせた。さすがは警護隊長になるだけの値打ちはある、といっているようだ。
「それは構わぬが、美濃《みの》に向った時、我らを襲った人数は十人以上いた、我らは彼らを斃《たお》したのだ、とくに投げ網などを使う武術者も川に逃げた、どの氏族が吾を襲わせたのか分らぬが、奴《やつ》らは、我らの強さをいやというほど知ったはずだ、違うか?」
「王子のおっしゃるとおりです」
青魚の声に力が籠《こも》っていた。
「となると、今度は二十人ぐらいは出さねばならぬ、それだけの人数になると気配で分る、吾にはそれほどの曲者が潜んでいるようには思えぬ、どうだ、宮戸彦に内彦……」
男具那の問に、宮戸彦は困ったように鬚《ひげ》を撫《な》でた。内彦は耳を掻《か》く。
「はあ、やつかれも王子のお言葉に同感ですが、ただ、青魚殿は警護隊長、責任がございます」
宮戸彦は男具那に答えると、困ったように樹の上を見た。
「青魚、警護隊長としての責任感なら分るぞ、ただ、おぬしにはおぬしの考えがあるかもしれぬ、あれば遠慮せずに申せ」
青魚に注がれる男具那の眼は鋭いなかにもどこか優しかった。
「申し上げます、確かに大勢での待ち伏せなら、気配で分ります、ただ、少人数なら見逃してしまうこともあります」
「少人数?」
男具那は思いがけない返答に眉《まゆ》を寄せた。
美濃に行く時、あれだけの優れた武術者たちを斃したのだ、少人数で男具那を襲っても無駄なことは敵側も分っているはずである。
「そう、少人数です、やつかれは、待ち伏せの曲者がいるとしても、せいぜい三、四人と視ております、しかし、いるとすれば、これまでの曲者よりも、腕のたつ者でしょう、念のためです、背後を守らせて下さい」
青魚の言葉に、男具那は盲点をつかれたような気がした。
兄の櫛角別《くしつのわけ》王子やその妃《きさき》を惨殺し、フタジノイリヒメ(両道入姫)の屋形にいる男具那を襲ったのは、一人だった。
その曲者に傷を負わせたが、彼はまだ生きているのだ。傷を受けたが故に、男具那に対して復讐《ふくしゆう》の炎を燃やしているかもしれない。あの曲者なら、一人で男具那を狙《ねら》いかねなかった。
「分った、吾を襲うのは大勢だ、と吾は油断していた、一人なら待ち伏せていても気配を隠せる、よくぞ申した、青魚は背後を守れ」
「王子、気をつけて下さい、曲者はこの尾根で待っているかもしれません、宮戸彦、内彦、頼むぞ」
青魚の言葉に、宮戸彦と内彦は、おうと答えた。
男具那は内彦と宮戸彦にはさまれて山を登った。青魚は百歩ほどの背後を守りながら進んだ。
尾根の稜線《りようせん》まで二百歩ばかりのところまで来た時、樹林をかいくぐるようにして数羽の鳥が飛んで来た。
嘴《くちばし》は鋭く百舌鳥《もず》に似ているが、百舌鳥よりも一廻《ひとまわ》り大きい。
男具那がこれまでに見たことのない鳥である。鳥たちはいっせいに鳴き始めた。その声のけたたましさは見えない虫が耳の中に飛び込み、暴れているような不快感だった。
明らかに鳥たちは男具那の一行を意識して鳴いている。
これ以上は登るな、と叫んでいるような気もする。
「王子、頭が痛くなります、どうしましょう」
「ホムツワケ王子は、山の鬼神とも噂《うわさ》されている、我慢して登れ」
男具那の命令に、宮戸彦と内彦は顔をしかめながら進んだ。鳥たちは一行の前方の枝から枝へと飛び移り、鳴き叫ぶ。男具那も頭が痛くなり吐気をもよおした。
「あっ、痛い、くそ!」
宮戸彦が腕で頬《ほお》に噛《か》みついた鳥を追い払った。嘴で肌を裂かれた宮戸彦の頬から血が流れ始めた。
今度は内彦がやられた。
「王子、御用心下さい、奴らは本気ですぞ」
と宮戸彦が腕を振り廻し、襲いかかって来る鳥を追い払いながら叫んだ。
宮戸彦に追われた鳥が、今度は男具那に向って来た。
男具那は俯《うつむ》けに倒れ、自分の顔を守った。
「王子、危険です、放っておいたなら、鳥の嘴で、頭や衣服も喰《く》い千切られます、ホムツワケ王子には悪いが、鳥を斬《き》り、身を守らねばなりません、王子、斬らして下さい」
宮戸彦は刀の柄《つか》に手をかけていた。
「待て、今しばらく待て」
男具那は頭を腕で覆いながら、土に向って叫んだ。
「ホムツワケ王子、吾は倭男具那《やまとのおぐな》、ある老人の教えにより、願いごとがあって会いに参りました、王子に危害を加えるつもりは毛頭ございません、もし、この鳥を王子が遣わしたのなら、どうか呼び戻して下さい、二十呼吸の間お待ちします、それでも鳥が我らに危害を加えるのなら、ホムツワケ王子とは無関係と判断し、斬ります」
男具那は眼を閉じゆっくり呼吸した。
五つまで呼吸した時、凄《すさ》まじい突風のような音がした。山のすべての樹々がざわめき始めた。内彦と宮戸彦が男具那の傍に跳んで来た。
「王子、逃げましょう、何千、何万という鳥の大群です、嵐《あらし》のように迫って来る、襲われたらひとたまりもありません」
内彦と宮戸彦の声が入り混じり、悲鳴に近かった。
だが男具那は微動だにしなかった。
男具那はホムツワケ王子に二十呼吸の間、待つと呼びかけたのだ。いったん呼びかけた以上、たとえ鳥に喰い殺されても約束は守らねばならない。それは、一見、自分に対する約束だが、男具那にとってはホムツワケ王子との約束でもあった。
首、頭、腕、それに背中などを鳥の鋭い嘴《くちばし》で刺されながらも、男具那は、七つ、八つと等間隔で呼吸を続けた。
山全体を揺り動かすような鳥たちの羽撃《はばた》きや叫び声が、突風とともに男具那を襲った。
うつ伏していた男具那の身体が持ち上げられ、下の方に転がされた。それでも男具那は、十一、十二、と数えながら呼吸した。それはまさに人間にのみ許された自己抑制力だった。獣はどんな獣でも、相手の攻撃に反応する。
男具那の抑制力は、死と接した精神力の限界で発揮されている。これこそ、人間のみがなし得ることであった。
十九、と呟《つぶや》いた時、岩に叩《たた》きつけられたような衝撃を受けた。意識が薄れる中で、男具那は二十、と呟いていた。
脳裡《のうり》で光が炸裂《さくれつ》した。男具那は自分の身体が飛び散り山の上空に放り上げられた感じがして意識を取り戻した。
男具那は、最初の場所に伏せていた。
山をゆるがすような鳥の声が消えた。最初に男具那が耳にしたのは、二人の部下の呻《うめ》き声だった。
内彦も宮戸彦も、酔いの醒《さ》めたような顔で坐《すわ》っている。
男具那が起きると二人は跳び上がり、刀の柄を握り周囲を睨《にら》む。
最初、男具那たちを襲った百舌鳥《もず》に似た鳥が数羽、木の枝に止まり、男具那たちを見守っている。だが鳥たちはその鋭い嘴に似ず穏やかで、声も立てない。
「慌てるな、ホムツワケ王子は吾の願いを受け入れてくれたのだ、もう邪魔をするものはない」
「あの鳥の大群には驚きました、あの時はもう駄目かと覚悟しましたが、しかし、いつ消えたのでしょう……」
内彦は未《いま》だに信じられぬ表情である。
「あれは幻だ、いや、ホムツワケ王子の気が鳥と化し、吾を試したのだ、鳥見の山人たちが申したとおり、ホムツワケ王子は、生駒山の鬼神になっている、人間を超えた呪力《じゆりよく》を持っておられる」
「しかし、あの鳥が幻影とは……」
宮戸彦はまだ信じられないらしく腰をかがめ周囲を窺《うかが》った。
突然、木の枝の鳥がけたたましい声をあげると宮戸彦の頭上を襲った。
「何だこいつ……」
顔を上げた宮戸彦の頭に白い粒が数個飛んで来た。宮戸彦は本能的に顔を振ったが、粒の一つは宮戸彦の額にあたり、そのままへばりついた。
宮戸彦は鳥に糞《ふん》を引っかけられたのだ。手で額を拭《ぬぐ》った宮戸彦は糞だと知って、
「この野郎、許さぬ」
と喚《わめ》いたが鳥は嘲《あざけ》るように宮戸彦の頭上で舞っている、他の鳥がいっせいに鳴いたが、明らかに宮戸彦を嗤《わら》っていた。
「宮戸彦、そちが悪い、吾の申すことを信じぬから、鳥たちに馬鹿にされた、鳥は人間の魂を運ぶ、聖なる生物なのだ、普通の獣とは異なる、そちたちの葛城《かつらぎ》にも、鴨をあがめる鴨族がいるではないか……」
「はあ……」
宮戸彦は頭をかいたが、糞を引っかけられたのが、よほどいまいましいらしく舌打ちして布を出した。
青魚があえぎながらやって来た。
「王子、何か……」
「いや、いや、ホムツワケ王子が鳥を遣わし、吾と会うことを了承してくれた、宮戸彦はまだ信じられぬようだが」
「いや、そんなことはありません、しかし」
とこれまでの状況を青魚に説明し始めた。
「王子、やつかれも、樹々が吹っ飛ばされるような凄まじい音を耳にし、急いで来たのです、しかし、あの音がホムツワケ王子の念力の表われだとすると、王子にかなう者はいないでしょう」
「吾もそう思う、もう安心だ、ところで、我らを待ち伏せていた者はいなかったか」
「申し訳ありません、やつかれの思い過しでした」
青魚は、大事な時に、王子の傍を離れていて申し訳ありません、と深々と叩頭《こうとう》した。男具那は青魚の肩を叩いた。
「そんなことはない、そちの判断は正しい、ひょっとすると、我らが帰るのを待ち受けているかもしれぬ、そうなのだ、櫛角別王子や吾を襲ったのは一人なのだ、それを忘れてはならぬ、さあ、進もう」
いつの間にか百舌鳥《もず》に似た鳥は飛び去っていた。
男具那の一行は再び這《は》うようにして登り、尾根の稜線《りようせん》にたどり着いた。竹筒の水を飲み一息入れていると、男具那が酒をやった大猿が現われた。その現われ方は巨木から跳び降りた、といった感じである。乾分《こぶん》の猿たちは樹々の枝に坐っている。大猿は歯を剥《む》き、猿の言葉で話しかけて来たが、男具那には分らない。
大猿は長い腕で男具那を差し、次に山の頂上の方を差した。
「そうか、ホムツワケ王子の居場所を教えてくれているのだな」
男具那が微笑すると、猿は頷《うなず》き赤い尻を向け、自分の尻を手で叩いた。馬鹿にしているようだが、この大猿が男具那を馬鹿にするはずはなかった。男具那の酒を飲んだ段階で、男具那と猿は通じ合ったのだ。
「ほう、どうしろというのだ?」
大猿はそれには答えず尾根の稜線上を登ると、歯を剥いて振り返り、また尻を叩いた。
「王子、後に続けといっているのです」
宮戸彦が頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「そのようだな、では行こう」
ほぼ予想がついていた男具那は莞爾《かんじ》と笑うと腰を上げた。
男具那たちの一行は猿の後ろから山を登った。稜線上を真直ぐ歩いても、とうてい頂上にはつかない。猿は頂上に達する道を知っているらしく、時には稜線上から下りたり、また上ったりした。切り立った眼の眩《くら》むような懸崖《けんがい》の上に灌木《かんぼく》を踏みならした小道が隠れていたりする。
半|刻《とき》以上かかって、ようやく山頂に達した。山頂には薄《すすき》が生い繁っていて河内《かわち》の方は見えない。男具那たちは猿の真似をして手頃《てごろ》な木に登った。
男具那も生駒連山から河内を眺めるのは初めてだった。
濃淡様々な尾根が河内に向って下りていた。尾根は陽を浴び、緑に輝いたり、海の紺色に見えたりもした。また遠くの尾根は薄い紫である。眼下の河内湖は広く、西は河内の岬《みさき》(上町《うえまち》台地)によって遮られ、北は現在の千里《せんり》丘陵まで拡がっている。岬の先は難波《なにわ》の海である。その名のとおり、潮風の加減で絶えず三角波がたっている。白蛇がのたうっているようだ。
難波の海の北方は播磨《はりま》(兵庫県)に接し、男具那の母が育ち死亡した印南《いなみ》の地も播磨の山々の西にあった。
男具那の眼は海を越え、印南の地の方に注がれていた。
三人の部下は飽かずに海を眺めている。三人を出した氏族には海人族の血が流れているのだ。倭国《わこく》は今、朝鮮半島の影響を受け、大きく変ろうとしている。
中国の東北地区(旧|満洲《まんしゆう》)を本拠地としていた高句麗《こうくり》は鴨緑江《おうりよつこう》を越えて南下し平壌《へいじよう》を都と定めている。高句麗の南西にあり部族連合国家だった馬韓《ばかん》は、統一国家の百済《くだら》になり、東南の辰韓《しんかん》は、新羅《しらぎ》となった。朝鮮半島南部の伽耶《かや》諸国も、いつまでも部族国家ではおれないのは明らかである。
伽耶諸国の中の南伽耶(釜山《ふざん》附近)には、かなりの倭人《わじん》が住んでいるらしい。九州をはじめ畿内《きない》諸国、また、山陰や北陸の諸国とも交易が行なわれている。
勇猛な騎馬民族である高句麗の南下政策とともに、朝鮮半島の情勢は緊迫していた。
倭国も海をへだてているとはいえ、朝鮮半島の情勢は無視できない。
倭国も近々、よりいっそう強い統一化の道をたどるに違いなかった。それは王の権力の強化につながる。
水面下で王位争いが熾烈《しれつ》になって来ているのも、そういう時の流れの一環として捉《とら》えることができるかもしれない。
男具那は鳥の声を耳にして吾《われ》に返った。
男具那たちの行動を、仕方ないわい、とばかり見守っていた大猿が歯を剥いて、叫んだ。
「さあ、進みましょう、お休みはそれまで」
と大猿はいったようだ。
木に登っていた連中も慌てて木から下りた。
男具那たちは山の頂上の稜線を三百歩ほど進み、間もなく急斜面の樹林に入った。
首領の大猿は地上を、乾分《こぶん》たちは木から木へと跳んで進む。間もなく男具那は水の音を聞いた。どうやら滝の音のようだった。
大猿は滝の方に進み始めた。恐ろしいほどの熊笹《くまざさ》の群れが行手を遮り、猿はともかく人間では進めそうにない。
跳びながら進む大猿との距離が離れた。
「おーい、待て、熊笹が邪魔だ、伐《き》るぞ」
男具那が叫ぶと、大猿は振り返り両手を拡げて閉じ合わせるように振る。
青魚が刀を抜こうとしている宮戸彦を制した。
「待て、まだ王子の御命令が出ておらぬ」
宮戸彦は舌打ちして刀を戻した。
大猿が叫びながら跳んで来た。宮戸彦に向って歯を剥くと、男具那の刀を押すように叩く。
熊笹を伐ってはならぬ、といっているようだ。ホムツワケ王子を守るための熊笹かもしれない。
「分った、どうすれば進めるのだ?」
男具那が問いかけるようにいうと、大猿は口に手を当てて叫んだ。木の枝の猿たちがいっせいに跳び降り、大猿のもとに集まる。
大猿が手を振ると驚いたことに猿たちはつながりながら熊笹の上に横たわった。
大猿は前の猿の足首を握っている。前の猿はまた先の猿の足首を握る。猿の道だが、熊笹はつなぎ合った猿の腕や脚の間から突き出ていた。
「おぬしたちの上を歩いても構わぬのか?」
と男具那は足許《あしもと》の大猿に訊《き》いた。
大猿は男具那を見て、鼻孔を拡げたり閉じたりして見せた。しかも顔が笑っている。構わぬ、といっているようだ。
その決心がなければ、猿の道をつくったりはしないだろう。
「済まぬ、一気に行くからな」
男具那が大猿の尻に足を載せると次は背中を踏んだ。猿の尻と背中には意外なほど筋肉の弾力があった。邪魔している熊笹は掻《か》き分け次の猿を渡る。あっという間だった。
「吾が渡ったとおりに渡れ、内彦からだ」
身軽な内彦は胸を叩くと、身をかがめ、小走りに猿の道を渡った。
巨漢の宮戸彦の場合は、痛いだろうと猿の身を案じたが、どの猿も呻《うめ》き声一つたてなかった。
熊笹の群れは崖《がけ》の上まで続いていた。崖の下は渓流である。高さは五丈(約一五メートル)はあった。
大猿の命令で猿たちは熊笹の中に入り込んで何かを探している様子だったが、長い蔦《つた》の蔓《つる》を引っ張り出した。何本もの蔓を巻き合わせた太綱で、その端は数本の熊笹の根元に結ばれていた。一匹の猿が慣れた手つきで蔓の太綱を崖に垂らす。長さは三丈はあった。
その猿は大猿に歯を剥《む》いて一礼すると器用に蔓を伝って下りた。ちょうど、岩の出っ張ったところまで蔓が達している。
大猿は男具那に向って顎《あご》をしゃくる。同じように下りろ、といっているのだ。
この程度のことなら猿に負けない自信があった。男具那は、御注意を、という青魚の声に笑顔で応《こた》えると、蔓を握り崖に足をかけてゆっくり下りた。蔓の綱は頑丈で、二人や三人ぐらいなら切れそうになかった。張り出した岩場は岩の裂け目のところまで続いている。
「青魚、大丈夫だ、下りて来い」
男具那は上を見上げていった。三丈の崖は高く思える。青魚の身体《からだ》が子供のようである。大猿が歯を剥いて笑った。なかなか面白い大猿だ。青魚が下り、次に内彦、最後に宮戸彦が下りて来た。
宮戸彦が下り始めると、まだ岩場につかない間に大猿が蔓に跳び、片手で蔓を掴《つか》んだ。
宮戸彦が驚いて見上げると、大猿は脚で崖を突き、蔓を揺さぶる。明らかに宮戸彦をからかっている。
「何をする、この猿|奴《め》!」
宮戸彦が怒鳴ったが、大猿はそ知らぬ顔だ。どうやら宮戸彦は、鳥や猿がからかいたくなるような人間らしい。
「心配するな、切れはせぬ」
男具那は、相手になるな、と手を振った。
宮戸彦は緊張した表情で下りて来た。
「そちはからかわれているのだ、怒るな、この蔓なら人が五、六人ぶら下がっても切れぬ」
「はあ、そうは思いますが、猿のくせにやつかれをからかうなんて……」
宮戸彦はまだ憤然としている。
「それが良くない、猿のくせに、という軽蔑《けいべつ》の心が相手に伝わる、吾は、ホムツワケ王子のところに案内してくれる大事な猿だ、と感謝している、そちは巨漢だ、もう少し悠然としておれ」
「申し訳ありません」
宮戸彦が叩頭《こうとう》すると、大猿が下りて来た。大猿は顎を突き出すような恰好《かつこう》で宮戸彦に向って頷《うなず》いた。
「宮戸彦、猿の首領は、からかって悪かった、とそちに謝っておるのだ、何か答えてやれ」
宮戸彦は頭を掻《か》いて考えていたが、
「軽蔑して悪かった、許せ」
と生真面目《きまじめ》に答えた。
大猿は嬉《うれ》しそうに岩場で跳んだ。宮戸彦の腕を取ると、踊らないか、といわんばかりに跳ね廻《まわ》る。崖の下まで二丈以上はある。宮戸彦が固くなっていると大猿は宮戸彦の手を舐《な》めた。
どんな舐め方なのか、宮戸彦は悲鳴をあげた。悲鳴などめったにあげるような男ではない。男具那が、
「どうした?」
と訊くと宮戸彦は悲しそうな顔で、
「巨大なヒルに舐められたような気がしたものですから、だらしなく悲鳴などあげて、申し訳ありません」
真剣に謝る。
男具那たち一同は、そんな宮戸彦の表情が面白く、哄笑《こうしよう》するのだった。
大猿は四人を岩の裂け目に案内した。中は人一人が通れるぐらいで、岩壁からは水が垂れている。冷気が身にしみ、突然真冬の季節に変ったようだ。前方が明るいところをみると崖の中を突き抜けているらしい。大地震でできた裂け目かもしれない。数十歩で外に出た。
男具那は眼を見張った。右側は小さな滝で、出口の前は渓流である。奇岩、奇石が川床から顔を出し、美しい水《みず》飛沫《しぶき》がたっていた。
対岸も崖だが、洞窟《どうくつ》になっている。洞窟の上の樹々には二羽の鷹《たか》が男具那たちを睨《にら》んでいた。
洞窟の前の岩場には筵《むしろ》が敷かれ、一人の老人が胡座《あぐら》をかいていた。骨格がたくましく、白い鬚《ひげ》は膝《ひざ》まで達している。男具那たちが現われたことなど、まったく気にする様子もない。
老人の眼は川面《かわも》に注がれていた。
洞窟の中から微《かす》かな煙が流れ出ているところを見ると、炊事でもしているのかもしれない。
男具那は声をかけるのをためらった。老人は無心の境地にいるようである。その境地が見えない壁となって老人を包んでいた。
突然、老人の指が動いた。どこにいたのか水色に光る一羽の鳥が川面に舞い下りた。舞い上がった鳥の嘴《くちばし》には銀色の小魚が咥《くわ》えられている。また老人が指を動かすと別な鳥が川面に舞い下りる。鳥たちは小魚を咥え洞窟の中に入っては飛び出して来る。
魚が焼ける匂《にお》いが男具那たちの腹にしみた。
猛運動のせいで腹は空《す》き切っていた。
老人は傍の長い竹竿《たけざお》を取った。まるで軽い棒のようにあつかい洞窟の中に入れる。出した竹竿の先には焼かれた小魚がはさまっていた。竹の先が二つに割れ、物をはさむようになっているのだ。
それにしても鮮やかな手練である。
老人は焼けた小魚を取ると初めて、眼を男具那たちの方に向けた。老人は手首を撥《は》ねた。焼けた小魚は一直線に大猿のところに飛んで来た。大猿は両手で受け止めると、奇声を発して老人に叩頭した。旨《うま》そうに食べる。
あっという間に三匹の小魚を食べた大猿は、もう自分の用は終った、といわんばかりに、出て来た裂け目に姿を隠した。
青魚たちは申し合わせたように腹で呼吸をしている。
老人の手練の業を見、容易ならぬ武術者と感じたようだ。
「ホムツワケ王子とお見受けしました、吾はオシロワケ王の王子、倭男具那でございます、是非、お教えいただきたいことがあり、参上つかまつりました、お心を乱し、申し訳ありませんが、何とぞ、吾の話をお聴きいただきとうございます」
老人は男具那の方を見た。穏やかな眼で、まるで自然の風景を愉《たの》しんでいるようだった。この老人にとって、男具那たちはもの珍しい草木と同じなのかもしれない。
男具那は自分の願いを眼に込め、気持が通じますように、と祈りながら視線を老人の眼から離さなかった。
どのぐらい時がたったろうか、老人は微風に誘われたように微かに頷《うなず》いた。
男具那は思わず叩頭していた。
「有難うございます、渓流を渡ってお傍に参ります」
男具那は青魚たちに、ここで待つように、と命じ、岩から岩へと跳んで老人の傍の岩に立った。もう一跳びすれば老人が坐《すわ》っている岩場に達する。
「お傍に参ります」
男具那がもう一度いったのは、ホムツワケ王子に対する礼節からだった。
ホムツワケ王子は俗世を嫌い、深山に隠遁《いんとん》し、自然と一体となって生きている。そんな王子に、俗世の匂いを持ち込むのは礼に反する。
もちろん、その当時は中国の五常、仁・義・礼・智・信は入っていない。だが畏敬《いけい》する人物を敬い、自分の行動を節するのは自然のものである。
三世紀の邪馬台国《やまたいこく》時代の倭国《わこく》を描いた『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』にも、身分の低い者が貴人と会えば、へりくだって道をゆずり草に入る、などと貴人を敬う場面が描写されている。
まさに礼は、人間が獣ではないことを示す証《あかし》の一つである。
もちろん、当時は、粗暴で礼を解さない首長はかなりいたようだが、人心を得ることができなかったのは当然である。
ホムツワケ王子は、今度は、はっきり頷くと、自分が坐っている前を指差した。ここに坐れ、と命じているのである。
男具那は川面を見た。立っている岩から対岸まで約五尺(一・五メートル)だから、男具那なら軽く跳ぶことができる。だが男具那はホムツワケ王子の前に跳び降りることにためらいを感じた。
川面から川床まで約二尺、流れは速いが、流されることはない、と男具那は判断した。
男具那は躊躇《ちゆうちよ》することなく川に入った。水の冷たさが身にしみた。男具那はすべらないように気をつけ、川底を踏みしめながら川を渡った。
這《は》い上がるとホムツワケ王子の前に坐った。衣服が濡《ぬ》れているので、下半身は凍るようである。
王子の口が微かに動いた。
大人になるまで喋《しやべ》れなかったホムツワケ王子は、出雲《いずも》の大神に参り、喋れるようになったが、早口や大きな声は無理である。自然、王子は寡黙《かもく》になった。声が低いのも当然である。
「はっ、何といわれましたか?」
男具那が訊《き》き返したのは、衣服を脱げ、といわれたような気がしたからだ。
「衣服を脱ぐのじゃ」
今度は間違いなかった。声は低いがはっきり聞えた。このままでも我慢できないことはないが、今は、ホムツワケ王子の意に従おう、と決心した。
上衣《うわぎ》はほとんど濡れていないので、毛皮の脛当《すねあて》、皮の履《くつ》、それに袴《はかま》を脱いだ。下帯も濡れていて気持悪いので思い切って解いた。
ホムツワケ王子は手を二つ叩《たた》いた。洞窟の中から二匹の猿が現われた。二匹とも小猿で、さっきの猿たちとは顔も違う。二匹の猿は男具那の脱いだものを器用に抱え洞窟に戻った。
次に現われた時は五匹で、白い布、袴、筵《むしろ》などを抱えている。一匹が男具那の前に筵を敷き、一匹が布を渡した。絹布でも麻布でもない。厚く柔らかい布であった。ホムツワケ王子は、相変らず穏やかな表情をしている。
「身体を拭《ふ》き、新しい袴をはくのじゃ」
男具那は柔らかい布で下半身を拭いた。
一匹の猿が袴の中から下帯を取り出し、男具那の前で振って傍に置いた。
猿たちはホムツワケ王子の顔を見ては洞窟に戻って行く。男具那には分らないが、王子の心の中を読み取れるようだった。
男具那は筵に坐るといった。
「ホムツワケ王子にここに参った理由を申し上げます」
ホムツワケ王子の眼が閉じられた。とたんに瞑想《めいそう》にふけっているような顔になった。
男具那が実兄の櫛角別王子とその妃《きさき》が殺され、自分も襲われたことまで話すと、ホムツワケ王子は口の中で何か呟《つぶや》いた。
男具那は喋るのをやめ、ホムツワケ王子の鬚《ひげ》を見た。いつの間に飛んで来たのか、赤トンボがホムツワケ王子の鬚にとまっている。白銀《しろがね》のような鬚にとまった赤トンボは装飾品のように美しかった。
ホムツワケ王子は眼を開けると、これまでにない厳しい表情になった。
「噂《うわさ》で聞いている、深山に一人で住んでいても、何となく耳に入る、そなたが吾に会いに来たのは、襲撃者が誰か、吾の口から聴きたいからだな」
やはりホムツワケ王子の声は、渓流の音に消されそうなほど低い。
「はい、先日、吾の留守に一人の老人が現われ、吾の妃に、ホムツワケ王子様に会うようにと告げました、それで参ったのでございます」
「それも分っておる、男具那王子が山に入って以来、吾はそなたを試した、若いが、やはり評判以上の王子だった、その年齢《とし》にしては信じられぬほどの抑制力、ことにあたっての優れた判断力、それに教えを請う者に対しての礼節、どれ一つを取ってみても噂以上の王子だ、そなたは軍事将軍になることを望んでいるようだが、持って生まれた器は、軍事将軍ではない、まさに偉大な王たるべき器である、そなたが三輪《みわ》の王者になれば、倭国のまつろわぬ首長たちも、そなたに服従し、倭国はおさまる、今、王位を狙《ねら》っている王子たちや、河内《かわち》の新興勢力もそなたの前に平伏せざるを得なくなる、そなたは英雄中の英雄、だから狙われるのだ」
「ホムツワケ王子、吾はそんな英雄でも、優れた王子でもありません、ただ暴れたい、戦《いくさ》の場で自分の武力をふるいたい、美しい女人が現われれば恋もしたい、そんなことばかりを望んでいる若い男子《おのこ》です、吾には分りません」
「真の英雄は、自分が英雄であるとは夢にも思わぬ、自分が英雄であると自惚《うぬぼ》れている者に真の英雄はおらぬ、倭男具那か、そなたはまだまだ狙われる、それがそなたの運命なのだ」
「ホムツワケ王子、吾は、殺されるほど悪いことは致しておりません、そんな吾を殺そうとする者は許せない、どんな曲者《くせもの》でも吾は斬《き》ります、どうか兄上や、吾を襲った者をお教え下さい」
ホムツワケ王子は自分の指を鬚《ひげ》の前に近づけた。赤トンボが王子の指に止まった。
ホムツワケ王子の眼が和やかになった。
「のうトンボよ、自然は素晴らしい、その代り厳しい、冬になればトンボは死ぬ、考えれば人間界も同じかもしれない、では申そう、そなたを襲ったのは、三輪の王朝に敵意を抱く、河内の物部《もののべ》氏の武術者だ、筑紫《つくし》の物部から呼ばれて河内に来た、強いぞ」
ホムツワケ王子は、頷《うなず》きながら赤トンボを放った。
[#改ページ]
十二
ホムツワケ(誉津別)王子の言葉に男具那《おぐな》は深い衝撃を受けた。
ホムツワケ王子は、河内の物部氏が九州から呼んだ筑紫物部氏の者だ、と告げた。
王子はその理由を述べたが、男具那はすぐには信じられなかった。
男具那は、自分が物部氏に狙《ねら》われるほどの英雄とは思ってもいない。
物部氏が男具那を狙ったのは、もし男具那が三輪《みわ》王朝の王になれば、三輪王朝の力は磐石《ばんじやく》のものとなり、河内やその他の新興勢力がいくらあがいても、倭国《わこく》の王権を乗っ取ることは不可能になるからだ、というのである。
男具那が、そんな馬鹿な、と疑ったとしてもおかしくはない。
何度もいっているように、男具那は王位に即《つ》くよりも、軍事将軍として活躍したかった。そのことは絶えず口にしているし、他の王子も当然耳にしているはずだ。
ただ、王位を狙っている他の王子は、自分たちを欺くために好《い》い加減なことを口にしていると、男具那に疑いの眼を向けているかもしれない。
同母兄の大碓《おおうす》なども疑っているのだ。
往々にして人間は、自分が抱いている欲は、他人も抱いていると思い込み勝ちである。
人間の欲の浅ましさだ。
ホムツワケ王子は、男具那が受けた衝撃を見抜いたらしく、ゆっくりと頷く。
「男具那よ、そなたはまだ吾《われ》の申すことが分らぬようだのう、自分の力も知らないし、他の者が、そなたをどのように視ているかも分らない、だからこそ、器の大きい英雄なのかもしれぬのう、男具那よ、そなたは、自分がどんな存在なのか、知りたくはないか、なぜ、何もしないのに狙われるのか、その理由を自分の眼で見たい、とは思わぬか?」
「見とうございます、知りとうございます」
男具那は身を乗り出した。
「では見せてやろう、立つのじゃ、天を仰ぎ、無念無想の境地に入る、あらゆる雑念を絶つ、そなたが雑念を絶てたなら、吾が気合いをかける、そなたは雲も裂けんばかりに絶叫する、分ったか……」
「ただ絶叫するだけですか、ホムツワケ王子、吾はそんなに声が大きくありません、兄の大碓王子の方が、ずっと声が大きい」
「そんなことは関係ない、それとも、自分がどんな存在であるか、見たくはないのか!」
ホムツワケ王子の眼が初めて雷光のように光った。男具那を叱咤《しつた》した声は腹中の臓物を掴《つか》まれたように凄《すさ》まじかった。
「立て」
男具那は飛び跳ねるように立っていた。
ホムツワケ王子の眼は、もう穏やかである。慈愛に満ちており男具那の心を暖かく包んだ。男具那は眼を閉じた。考えることは何もなかった。渓流や風の音だけが聞えて来る。
眼を閉じているといつか、渓流や風の囁《ささや》きも遠ざかり、万里の彼方《かなた》から聞えて来るようである。
男具那は、自分がどこで何をしているかなど考えなかった。無念無想の境地に入っていた男具那は鋭い痛みを眉間《みけん》に感じた。本能的に眼を見開いた。周囲は薄暗いが、幾つもの光る眼が男具那を睨《にら》んでいる。
赤、青、黄と見たこともないような鬼神の眼だった。巨大な牙《きば》を剥《む》いた口が耳の下の方まで裂けている。獣の鬼神に違いなかった。それも獰猛《どうもう》で醜悪な獣である。
獣の鬼神は嘔吐《おうと》をもよおす不快な息を吐きかけながら男具那に近づいて来た。
眼光が輝き鬼神の喉《のど》の奥が見えるほど開かれた。
襲われる、と感じた瞬間、男具那は絶叫していた。いや絶叫というよりも男具那の全身、全霊が一体となった咆哮《ほうこう》だった。
地震のように山が揺れ、台風のさ中のように樹林が咆哮した。
男具那は吾に返った。
男具那の頭上には、数百羽の鳥が舞い、男具那の周囲には数え切れないほどの獣が牙を剥いていた。熊、猪、狼など獰猛な獣ばかりだった。
男具那は刀に手をかけようとしたが、腕が動かない。
「王子、大丈夫ですか、すぐ参ります」
青魚《あおうお》たちの声を男具那は、はっきり聞いた。
眼の前に鬚《ひげ》が膝《ひざ》まで伸びた痩《や》せた老人が坐《すわ》っている。
その老人が、ホムツワケ王子であることに気づいた時、男具那は坐っていた。
「ホムツワケ王子、これはどうしたことですか?」
「これが現実なのだ、よく見ろ、鳥や獣たちが去って行く、この吾に危害を加える気持がないことを察知したからだ」
男具那は呆然《ぼうぜん》と去って行く鳥や獣を眺めた。幻影ではなかった。鳥の羽撃《はばた》きは突風のように強く、落ち葉が舞い散った。引き揚げる獣が山を踏み鳴らす響きはまさに地震に似ていた。
「ホムツワケ王子、吾の存在とは……」
「そなたの力が、この山のほとんどの鳥や獣を呼び集めたのだ、いいか、男具那よ、そなたは怪し気な鬼神を見、身を守るために絶叫しただけだ、だが吾を守る鳥や獣は、そうは思わなかった。そなたが吾に危害を加えようとしているのだ、と錯覚し、吾を守るために集まった、いや、そなたを斃《たお》すために集まったのじゃ、鳥や獣はその嗅覚《きゆうかく》で、そなたが吾にとって安全な人物であることを知り、あのように引き揚げたのじゃ、分るか……」
「はあ、何となく」
「だが人間は、鳥や獣のように単純ではない、ずる賢く執念深い、また欲の塊だ、今のそなたが危険な人物ではない、と知っても、将来を考える、その際、倭男具那《やまとのおぐな》の存在は、三輪王朝を斃そうとする者にとっては最も危険なものとなる、だから、そなたは狙《ねら》われるのじゃ、真の英雄の悲劇はそこにある」
青魚たちが駆けつけた時は、すでに鳥や獣の姿はなかった。
「王子、何があったのです?」
青魚がいった。
「何もない、吾は大丈夫だ」
男具那はホムツワケ王子に、三人を紹介した。
「信頼できる部下じゃ」
とホムツワケ王子は呟《つぶや》いた。男具那にとっては何よりの言葉だった。
男具那はホムツワケ王子に、もし大碓が、自分のように叫んだとしたら、どのぐらい鳥や獣が集まるだろうか、と訊《き》いた。
ホムツワケ王子は眼を閉じ顔を空に向けた。何事か念じているようである。
「大碓王子の場合は、二羽の鷹《たか》が頭上を舞い、二匹の狼が跳び出すだろう、それもまず吾を眺め、吾の命令を待つ、そなたのようにすべての鳥や獣が集まったりはしない、そこが、そなたと大碓王子の力の違いなのだ」
「ホムツワケ王子、それならなぜ、吾が愛していた櫛角別《くしつのわけ》とその妃《きさき》が惨殺されたのでしょう、兄は温厚で武術もそんなに優れてはおりませぬ、河内の物部が危険を感じるほどの力はありません」
ホムツワケ王子は眼を開くと吐息とも分らぬ吐息をついた。その理由は吾にも分らぬ、といっているようでもあり、今は告げられぬ、と自分にいい聞かせたようでもあった。
ホムツワケ王子は岩場の割れ目に生えている名も知れぬ草を抜いた。意外に根が長い。王子はその根の匂《にお》いを嗅《か》いだ。王子が腕を振ると引き抜かれた草は宙を飛び渓流に落ちた。
「男具那、そなたのような英雄は、存在しているだけで、そなたに敵意を抱く者たちを怯《おび》えさせる、いずれそなたは兄を殺した筑紫物部の勇者と対決せねばならぬ、彼がなぜ、そなたの兄夫婦を殺したか、その時、詰問すればよい、彼はきっとその理由を述べるに違いない」
「ホムツワケ王子、今一つ質問がございます、我らが美濃《みの》に行く時、木津《きづ》川で我らを襲った曲者《くせもの》たちがいました、それも、河内の物部氏が呼んだ筑紫物部の曲者でしょうか……」
「いや、それは物部ではない」
「では何者なのです?」
「推測はできるが、口には出せぬ」
「お願いでございます」
男具那は岩場に両手をついた。
「吾は推測だけでは口にはせぬ」
ホムツワケ王子の眼が、深く暗い沼に見えた。人間の悲しみに、じっと耐えている眼であった。
張り詰めていた男具那の気持が萎《な》えた。
「分りました、これ以上は口にはしませぬ、今日は本当に有難うございました、また静かな時を破り、お心を煩わしたことを深くお詫《わ》び申し上げます」
「礼はいいが、詫びは不必要、なぜなら吾がそなたを呼んだのだ」
「えっ、ではフタジノイリヒメが告げた老人は?」
「吾に仕えていた者じゃ、もう七十近いが、絶えず河内や大和《やまと》を往来し、時々、吾に会いに来て、俗世界の話をしてくれる、今の吾とは無縁の世界だが、俗世界の話もまた愉《たの》しい、それに吾も間もなくこの世から去る」
「ホムツワケ王子、気の弱いことを口にしないで下さい、王子は百歳まで生きられます」
「人間には定められた寿命がある、吾にはそれがよく分る、今の吾は、生きるもよし、また死もよし、という心境じゃ、生に執着するのもよいが、死に際してあがいてはならぬ、まして英雄はのう……」
洞窟《どうくつ》から小猿が出て来て、木の葉に盛った木の実を差し出した。
「昼寝の時が来たようだ、筑紫物部の勇者は、生駒《いこま》山の山麓《さんろく》、河内の石切《いしきり》に住んでおる、これだけは申しておこう、吾は俗世界から離れたが、三輪王朝の王族じゃ、吾が生きている間に、三輪王朝の滅亡を見るのは悲しい、物部は河内の和泉《いずみ》に来た新興勢力と手を結び、三輪王朝を斃《たお》そうと狙っておる、山背《やましろ》から大和に入って来た和珥《わに》にも働きかけているようだ、そこなる青魚、そちは和珥の出だな」
「はっ、やつかれは和珥です、だが、男具那王子に対する忠節は、誰にも負けません、王子に、火に入れ、と命じられれば即座に入ります、喜んで」
「青魚、吾はそちの忠節を疑ってはいない、ただ氏族にも、いろいろと将来を考える者もいる、三輪の王朝も、そろそろ命運がつきた、と感じている者もいるに違いない、どうかな」
青魚を眺めるホムツワケ王子の表情は暖かい。その声はまるでむずかる幼児をあやしているようでもあった。
「いると思います、たまにやつかれが和珥に戻っても、他所者《よそもの》を眺めるような眼で見られ、腹立たしく情けない思いに、二度と実家には戻るまい、と憤《いか》りを覚えます」
「青魚、そちは忠節な武人だ、はっきりいおう、今、和珥の首長の眼は、河内の新興勢力や、物部に向いている、三輪王朝は祭政一致の王朝じゃ、だが、河内の新興勢力や物部は違う、これからは、祭祀《さいし》より武力の時代だ、と考えている、広い倭国《わこく》のまつろわぬ国々の首長を服従させるには、祭祀の権威よりも、武力が必要なのだ、大陸から最近入って来た馬は、まさに新しい時の流れを示している」
ホムツワケ王子はたんたんとした口調でいった。その声は傍《そば》の渓流の流れに似ていた。
ホムツワケ王子は青魚をはじめ、宮戸彦《みやとひこ》、内彦《うちひこ》に眼をやった。
一同は俯《うつむ》いたまま唇を噛《か》んだ。俗世界を離れ、仙人のように生きているホムツワケ王子の方が、オシロワケ王よりも時の流れを深く洞察していた。
「ホムツワケ王子、吾もそう考えております、だから馬で山野を駆け巡っているのです、ただ父王は、祭祀の権威にしがみついていて、武力の強化におろそかです、吾は忠告するのですが、煙たがられます」
「そうだろうな、吾も武力は好きではない、祭祀だけの力で国が治まるのなら、これにこしたことはない、だがそういう時代は過ぎたようだ、吾が俗世界を捨てた一因はそこにある、のう青魚、そちが男具那王子に惹《ひ》かれた理由は?」
「はっ……」
青魚は困惑したように男具那を見た。
「青魚、遠慮せずに申せ、吾を殺そうとした曲者の正体を教えて下さったのだ、何も遠慮することはない」
男具那の言葉に、青魚は姿勢を正した。
「申し上げます、やつかれは山野を馬で駆け巡る男具那王子に憧《あこが》れていました、あの王子に仕えれば、共に山野を駆け巡ることができると……だから父の反対を押し切り、王子に仕えたのです」
ホムツワケ王子は、そのとおりだといわんばかりに頷《うなず》き、宮戸彦や内彦に同じ質問をした。二人の返答も、自分の意志で男具那に仕えたという点では同じだった。ことに内彦は、物部と同族の穂積《ほづみ》の出だけにその声は燃えていた。
ホムツワケ王子の瞼《まぶた》が垂れた。
「もう眠る時じゃ、吾が話したいことはすべて話した、男具那よ、そなたが狙《ねら》われるのは運命じゃ、この吾は燃える稲城《いなき》の中で生まれ、大人になるまで喋《しやべ》れなかった、これも運命じゃ、喋れないことで吾は一時神を恨《うら》んだ、だが今は、このように自然と一体で生きられる老後を与えてくれた神に感謝しておる、そなたの父のオシロワケ王は、何かに怯《おび》え、女人に耽溺《たんでき》することで不安感から逃れようとしている、吾にはそういうオシロワケ王が憐《あわ》れでならない……おう、久し振りに話したせいか、今日は口が自然に動くわい……」
猿が歯を剥《む》いて何事かを告げた。
「眠れ、というのか、心配するな……」
ホムツワケ王子は欠伸《あくび》をした。
立ち上がりかけると思い出したようにいった。
「男具那王子、このことは大碓王子には話してはならぬ、そなた一人で仇《かたき》を討つのじゃ」
「櫛角別は大碓にとっても同母兄です、大碓も仇を討たねばなりません」
「その理由はそなたが敵と向き合った時、分るであろう、分ったな」
男具那は反駁《はんばく》できない力を感じた。
「分りました」
「それでよい、優れた英雄は、味方と同時に敵を持つ、それが英雄の悲劇じゃ」
ホムツワケ王子はゆっくり立つと猿を従え、洞窟に入って行った。
男具那は一人でホムツワケ王子を追った。
「ホムツワケ王子、最後に今一つお訊きしたいことがございます」
「何じゃ?」
とホムツワケ王子は振り返った。
男具那は丹波森尾《たんばのもりお》と剣を交じえたことを告げ、オシロワケ王がイニシキノイリヒコ(印色之入日子)王から王位を奪い取ったのは事実でしょうか、と訊いた。
「もう済んだことじゃ、だが気になるのなら話そう、イニシキノイリヒコ王子は、王位を継ぐことになっていた、だが、物部、和珥、葛城《かつらぎ》などの氏族がオシロワケ王を推した、イニシキノイリヒコ王子が祭祀を重要視し過ぎたせいじゃ、それが有力豪族には気に入らなかったのじゃ、だから即位の直前、武力を政治の中心とするオシロワケ王が王位に即《つ》き、イニシキノイリヒコ王子は敗れ自殺した、丹波森尾が恨んだのも無理はない、だがイニシキノイリヒコ王子は王位には即いていない、話すことはそれだけじゃ」
ホムツワケ王子の姿が消えた。
男具那は深い吐息をついた。何となく心が晴れたような思いだった。
男具那たちは黙々と山を下った。
渓流の傍まで来た時、耐えかねたように内彦が叫んだ。
「王子、申し訳ありません、まさか、やつかれの同族、物部の者とは思ってもいませんでした、やつかれが探し出し、必ずこの手で斬《き》ります」
「馬鹿者!」
と男具那は一喝した。
「ホムツワケ王子がおっしゃったことを聴いていなかったのか、そちたちは自分の意志で吾《われ》に仕えた、つまり、ホムツワケ王子は、今の三輪王朝にとっては、物部も和珥も、そして宮戸彦の葛城も心から信頼できる勢力ではなくなっている、と申されたのだ、吾もそうだ、吾にとって信頼できるのは、自分の意志で吾に仕えてくれたそちたちだけだ、はっきりいおう、吾は父であるオシロワケ王さえ信頼していない、いつ、父王の死の使者が、吾の屋形にやって来るかもしれぬ、と覚悟を決めておる、まして、穂積は物部の同族とはいえ、物部本宗家と分れて百年近くたつではないか、曲者《くせもの》が物部だからといって、そちが吾に罪の意識を感じることは毛頭ないのだ、吾は兄を殺された、その仇は吾が討たねばならぬ、吾の手でだ、分ったか!」
男具那がこんなに真剣に怒ったのは久し振りだった。
蹲《うずくま》って男具那の言葉を聴いていた内彦は、渓流の巨石に顔を伏せると号泣した。
内彦は剽軽《ひようきん》だが感受性が強い若者である。年齢も、三人の中ではいちばん若い。
内彦が号泣したのはもろもろの感情が爆発したからである。もちろんその核は男具那への忠節心だった。
「内彦、泣くな」
男具那が怒鳴ると青魚が叩頭《こうとう》した。
王子、このまま泣かせてやって下さい、と青魚はいっているようである。
内彦がなぜ号泣したかを強く理解しているのはやはり部下たちであった。
ホムツワケ王子が仄《ほの》めかしたとおり、いつ、男具那を襲う曲者が和珥から出ないとも限らないのだ。
それは宮戸彦の場合だって同じである。宮戸彦も歯を噛み締めている。
陽が雲間に入ったらしく渓谷が翳《かげ》った。すでに時刻は申《さる》の上刻(午後三時‐四時)に入っているようだ。渓流の小魚が跳ね、青みを帯びた川鳥が矢のように飛んで来て小魚を咥《くわ》える。
「休むか」
男具那が石に腰を下ろすと、泣きやんだ内彦が跳び起きた。
腕で涙を拭《ふ》くと白い歯を見せた。
「王子、もう大丈夫です、曲者が石切のどこに住んでいるか、何をしているのか、それだけでもやつかれに調べさせて下さい」
「それは構わぬぞ、だが決して油断するな、内彦が調べていることを知れば、曲者は用心する、居場所を変えるかもしれぬからなあ」
「分っております、慎重にやります」
「よし、調査の件は内彦にまかせる、皆の者、分ったな」
「分りました」
青魚と宮戸彦は嬉《うれ》しそうに答えた。内彦の気持を思いやったからであろう。
その夜遅く、男具那の一行は巻向宮《まきむくのみや》に戻った。
十月、美濃から大和に戻った大碓は、大根《おおね》王の縁戚《えんせき》の女人をオシロワケ王に、大根王の娘と偽って渡した。
図々《ずうずう》しい大碓が、兄《え》ヒメを乃楽《なら》山を越えた木津川沿いに住まわせたのは、オシロワケ王の疑いの眼を逸《そ》らすためだった。屋形の女人にも大根王の娘であることを隠した。
オシロワケ王は猜疑《さいぎ》心が強い。それに好色で数え切れない女人を妃にしている。
大根王の娘兄ヒメは、大碓がオシロワケ王に渡した女人よりも明らかに容姿が優れていた。
もしオシロワケ王が兄ヒメを見たなら、疑いを抱くに違いない。
大碓もそれを恐れて、オシロワケ王の眼の届かない木津川沿いに彼女の屋形を造ったのだ。
あっという間に新しい年がやって来た。
大碓は、三日に一度は兄ヒメのもとに通った。それにしても、大碓の大胆な行動は、これまで分らなかった大碓の一面を表わしていた。
大碓は王位に執着している。こういうことはいつまでも隠し通せるものではない。オシロワケ王の耳に入ったなら王位に即く望みは断ち切られる。それだけではなく大碓の生命《いのち》も危うい。
男具那はそれを心配した。櫛角別王子とその妃を惨殺し、自分を襲った曲者が大碓でないことを知ってから、男具那の大碓への気持は変っていた。
幼年時代に苛《いじ》められたにせよ、二人きりの兄弟ではないか、という思いが強くなる。ただ、双子といわれているが、父母を同じくする兄弟なのか、という疑惑は拭《ぬぐ》いさることはできなかった。
性格があまりにも違い過ぎるし、顔もあまり似ていない。母に仕えていた女人の長《おさ》は、男具那が印南《いなみ》から大和に向う時、大碓は父親似で、男具那は母親に似ている、と喰《く》い入るように男具那を見詰めた。
自分の脳裡《のうり》に男具那の顔を刻み込もうとでもするような女人の長の、深い思いを込めた眼を男具那は忘れていなかった。
その日、宮を出た男具那は、青魚と宮戸彦の二人だけを連れて兄ヒメの屋形に馬を走らせた。
今日の朝餉《あさげ》の席で、オシロワケ王が男具那に、大碓が木津川に女人を囲っている、という噂《うわさ》を耳にしたが本当か? と訊《き》いたのだ。
大碓は昨夜から兄ヒメの屋形に行き、今日は宮に現われなかった。
おそらく寝過し、そのまま兄ヒメの屋形でのんびりしているに違いない。
男具那は、そういう噂は自分も耳にしたが、まだ女人を見ていないので、本当かどうかは返答できかねます、と答えた。
ただこの件は大碓に知らせておかねばならない、と男具那は思った。
オシロワケ王が、どの程度の噂を耳にしたのかは分らないが、放ってはおけない。
猜疑心の強い性格だから、納得できなければ調べ出すかもしれなかった。
男具那の今一つの心配は、大根王の縁戚《えんせき》の女人が、真実を告白することだった。
早いうちに子を身籠《みごも》ったなら、王子を産めるかもしれないし、大根王の娘になりすますだろう。
だが身籠らなかったなら、故郷に帰りたくなる恐れがあった。オシロワケ王は、美濃から来た新しい女人に、あまり惹《ひ》かれていなかった。酒宴の席での態度でも分る。
場合によっては、彼女は、自分は大根王の娘ではない、と告白する可能性もあった。
当然、大碓は死罪を覚悟せねばならない。乃楽山を越え、少し行くと木津川に出る。伊賀《いが》の山中に源を発した木津川は乃楽山の北方で湾曲し、そのまま北上、山背川(淀川)に合流しているのだ。
兄ヒメの屋形は、木津川の支流沿いにあった。東を除き周囲は丘陵で、要害の地である。大碓は兄ヒメのために十名の警護兵を置いていた。
男具那たちを見た警護兵の長が慌てて屋形に知らせに走る。
屋形を守る長は警護の副隊長である。倭海雄《やまとのうみお》であった。
倭氏は阿波《あわ》(徳島県)の海人族で、三輪王朝の始祖王が筑紫から大和に東遷して来た時、水先案内人となり、その功で大和の有力豪族となった。
旧暦三月の末だが、異常に蒸し暑い日だった。空には厚い雲が覆い、今にも大雨が降りそうだった。
大碓は大きな木の葉で身体《からだ》をあおぎながら袴《はかま》に肌着という姿で男具那を迎えた。
大碓の身体にはまだ兄ヒメの匂《にお》いがこびりついている。
男の身体から匂う香料の香りに男具那は苦笑した。
いかにも大碓らしいな、と思う。
「よく来た、父王が何かいったのか?」
大碓は肩を張ると、勢いよく身体をあおぐ。兄ヒメが薄い絹衣を纏《まと》い、男具那に挨拶《あいさつ》した。
「まあそういうところだ、兄者、二人きりで話をしたいのだが」
「いや、兄ヒメには隠すことは何もない、まあ上がれ」
男具那は仕方なく履《くつ》を脱いだ。いったん口にしたなら意地になる性格だった。死ぬぞ、と口にすれば実際死にかねない大碓である。
兄ヒメに仕える女人が、冷たい水を器に入れて運んで来た。井戸の水のようである。兄ヒメが男具那に器を渡した。
「酒にするか?」
器の水を一息で飲んだ男具那に大碓が訊いた。
「ああ、いただこう、兄者、いい難《にく》いことだから早くいうが、今朝《けさ》は、父王と朝餉を共にする日だ、なぜ宮に参らぬ」
「寝過した、侍女が起こしに来たらしいが、いったん起きて、そのまま眠ってしまったようだ、仕方ないだろう」
いつもの癖で大碓は頭ごなしにいった。文句があるのか、といわんばかりの口調である。男具那がもの心ついて以来、大碓は、俺《おれ》は兄でおぬしは弟だ、という威圧的な態度を取り続けて来た。
ただこの頃は、そんな大碓の気持が何となく分るような気がする。大和に来てから、男具那は人望を得たが、大碓は男具那の人望にややもすると自分の存在が薄れた。
せめて、威圧的な言動で、自分が兄だ、というところを示したかったのだろう。弟に対する劣等感の裏返しである。
「仕方ないことはないぞ、父王は女人を囲い、女人に溺《おぼ》れ、参朝を怠る兄者を、憎む、嫌悪する」
「おい、早く酒だ、急ぐようにいえ」
大碓は兄ヒメに怒鳴ると、木の葉で胸を叩《たた》いた。
「はい」
兄ヒメは席を立つと調理場の方に行く。
微風もない蒸し暑い部屋の中で、強い香料の香りだけが鼻孔と頭を刺戟《しげき》する。男具那は頭痛を覚えた。
「父王に憎まれることは分っておる、だが今の吾は兄ヒメがいとしい、泊まると離れられなくなる、吾自身も悩んでいるのだ、分ってくれ、今しばらくだ」
大碓の声が低くなった。さっきまでの口調とは全然違う。むしろ男具那に頭を下げている。兄ヒメがいなくなったせいだ。大碓にはそういう憎めないところがあった。
「兄者、兄者は王位に執着していたではないか、今のままでは、父王は、兄者をうとんじる、王位には即《つ》けないぞ」
「ああ、分っておる、なあ男具那、吾も吾なりに父王を観察して来た、王位に関して、父王は気持が狭い、いつ、自分の子供たちに王位を奪われないか、と不安でたまらないのだ、分るか、おぬしに……」
大碓は声は低いが訴えるような口調でいった。
「ああ、父王にはそういう弱いところがある」
男具那の返答に、大碓は得たりとばかりに、木の葉で胸を叩く。
兄ヒメが酒肴《しゆこう》を運んで来た。
「兄ヒメ、ちょっとこの部屋をはずせ、男具那と重大な話がある、ほんの少しだ」
「私《わ》の耳に入っては、具合の悪いことですか?」
「父王の話だ、分るだろう、な」
大碓は兄ヒメの憤《いか》りを恐れ、懸命になだめている。
「お話がすみましたならお呼び下さい」
それでも兄ヒメは男具那に会釈して席を立った。
大碓は具合悪そうに短い顎鬚《あごひげ》を撫《な》でた。
「なあ男具那、父王が次の後継者に選ぶのは、気の弱い、まあ一見大人しい王子じゃ、武術の優れた荒々しい王子は王になる資格がない、と父王は決めている、これは間違いない、吾の警護隊の副隊長倭海雄の妹が、宮に仕えている、女人たちは我々よりも王の意向を正確に知る、間者としては最適なのだ、このことは吾が美濃に行く前から分っていたが、美濃から戻って来て、いよいよはっきりした、父王が次の王と決めているのは、能なしのワカタラシヒコ、それに温厚をよそおっているイホキノイリビコじゃ、二人共、ヤサカノイリビメの王子だし、父王にへつらい、我らのように忠告したり、さからったりはしない、阿諛追従《あゆついしよう》ばかりしている王子じゃ、父王はそういう王子が好きなのだ」
大碓は呻《うめ》くようにいった。
男具那も、次の王位継承者は大碓がいった二人ではないか、と推測していたので、別に衝撃はない、確かにワカタラシヒコ(稚足彦)は大人しく好人物の王子だった。父王の機嫌を取るというよりも、素直に接している。これは持って生まれた性格である。
ただワカタラシヒコが王位に即けば、三輪王朝の権威、勢力は間違いなく衰弱しそうだ。
一方のイホキノイリビコ(五百城入彦)は、ワカタラシヒコよりも頭脳、武術とも優れている。大陸からの渡来人を師として文字なども習っているようだ。父王にはワカタラシヒコのように丁重に接しているが、その接し方には作為が感じられる。何を考えているか腹の中の分らない王子だった。
ある意味で、それだけ政治的な才能が優れているのかも分らない。もしイホキノイリビコが王になれば、男具那や大碓など、皇后の王子は追放されるのは間違いなかった。
大碓はこれまで、父王に好かれているのはイホキノイリビコだ、と何度も口にしている。だが、今日のように父王が決意した、といったことはない。
「兄者は、もう王位を諦《あきら》めたのか?」
男具那の問に大碓は顔を歪《ゆが》めた。
「とんでもない、諦めていない」
「しかし、父王は兄者に不信感を抱いておる、いずれ、兄ヒメの正体も分る、兄者が王位に即ける可能性は、はっきりいって少ない」
「うん、なあ男具那、吾とおぬしは同母兄弟だ、櫛角別が殺された今、心から頼れるのはおぬしだけだ、はっきりいおう、吾は、イホキノイリビコとワカタラシヒコの二人を、狩りにでも誘い、斃《たお》すつもりでいる、あの二人がいなくなれば、王子の中で吾の地位は一番じゃ、二人共、今の吾を、女人にうつつを抜かし、腑抜《ふぬ》けになった王子、と視ているだろう、つまり油断しているわけだ、だから誘いに乗って来る」
大碓は彼らしくない薄嗤《うすわら》いを浮かべた。人を斬《き》った刀から血が滲《にじ》み出たような殺気の籠《こも》った嗤いだった。
大碓はまだ腑抜けになどなっていない。彼は彼なりに自分の立場を考え、どうすれば王位争いに際して先頭を切れるか、計画を練っているのだ。
「男具那、吾が心の中を洩《も》らした以上、おぬしは吾を裏切れぬぞ、分っておるな」
大碓は突き刺すような眼で男具那を見た。
「それは、分っておる」
「では、吾に力を貸すか……」
「その件は吾は今しばらく考えたい、だが兄者の心の中は誰にも喋《しやべ》らぬ」
「いいか、よく考えるのだ、このままでは二人共、追放されるか、殺されるかどちらかじゃ、男具那、父王はおぬしは何をするか分らぬ王子だ、とおぬしを恐れておるのだ、父王だと甘えていると、酷《ひど》い目に遭《あ》うぞ」
「甘えてはいない、父王が吾を恐れていることはうすうす、感じている」
「男具那、でははっきりいおう、吾はな、おぬしを狙《ねら》った曲者《くせもの》は、父王が和珥に命じて越《こし》あたりから呼んだ海人族の集団だ、と睨《にら》んでおる、父王とイホキノイリビコが組んだのかもしれない、父王にはそういう冷酷さがある、またあれだけの武術者を集められるのは父王以外にはない、違うか」
「まさか、父王が……もし父王が吾を恐れ、殺そうと狙ったとしてもだな、温厚な兄王子を殺す理由はない、吾を狙ったのは……」
男具那はもう少しで、河内《かわち》の物部が呼んだ筑紫物部の武術者だ、と口にしそうになった。だが男具那はホムツワケ王子との約束を守り、喉《のど》まで出た言葉を呑《の》んだ。
「ほう、誰だ、隠さずに申せ」
「吾は母方、つまり吉備《きび》に恨みを抱く者だと睨んでいる」
「吉備に恨み? いったい誰だ?」
「これでもいろいろと考えておる、いずれ話す」
「母上を憎んだのは、母上が亡くなった後、皇后面をしているヤサカノイリビメだぞ、ヤサカノイリビメは母上が亡くなると自分が皇后になれると思っていたらしい、当然、イリビメの子、イホキノイリビコなど、我らを敵視しておる」
「もちろん、イホキノイリビコの背後も探っておる、ただな、父王がいくら冷酷でも……」
大碓が、甘い、と唸《うな》った。
「温厚な兄王子を殺すわけがない、というのだろう、そのあたりに父王の冷酷さが表われている、皆、そう考える、吾は、吾やおぬしの眼を誤魔化《ごまか》すために、まず櫛角別夫婦を惨殺した、と睨んでおる、この裏には、もっと深い、隠された何かがある、ひょっとすると、母上に関係しているのかもしれぬ」
「母上? 兄者、軽々しく母上のことを口にするな」
男具那は初めて大碓を睨んだ。
「凄《すご》い眼だな、おぬしに睨まれると、この吾でも、本能的に刀の柄《つか》に手がかかりそうだ、もちろんこれは、後宮の女人たちの噂《うわさ》話の一つだ、どこまでが真実かは分らぬ、だがな、兄や我ら兄弟を産む前、母上には好きな男子《おのこ》がいたようだ、吉備の者か、三輪の王族か、今となってはそれは分らぬ、ただ、後宮の女人たちが語り伝えた話では、父王はそれを知って激怒し、母上を播磨《はりま》の印南に戻したということだ、だから父王は、母上の子である我らをも憎んでいる」
「そんな馬鹿な、皇后でも子供を産む場合は故郷に戻る」
「声が大きいぞ、吾は後宮の女人たちの語り伝えている話をおぬしに告げたまでだ、もちろん、この話は、極秘じゃ、女人たちの中でも知っている者は長《おさ》程度だ、吾は、作り話だといって簡単に無視できない、と思っておる、もちろん、どれが真実か、とほじくり返すようなめんど臭いことはせぬ、確かに我らに対する父王の眼は冷たいぞ、どうだ、吾が話したことをいろいろな角度から考えてみろ、兄王子の死に父王が関係していない、とはいい切れぬぞ」
大碓は勝ち誇ったような口調でいった。
男具那は視線を伏せた。
櫛角別を殺し、男具那をも殺そうと狙ったのは、ホムツワケ王子が教えたように、筑紫物部の武術者だろう。大碓の解釈は間違っている。
だが男具那は、大碓の話の母の部分に、感動に似た衝撃を受けた。
母に恋人がいた、という件だった。それを知って男具那は狼狽《ろうばい》した。
男具那は、その狼狽から逃げるように、本能的に立っていた。
「吾は戻る、それに宮の女人の話など、吾は信じぬ、とにかく兄者、父王は疑り深い、兄ヒメの身許《みもと》を調べ始めるに違いない、自分の妃《きさき》が、大根王の王女ではない、と知った時の父王の怒りが想像できる、兄者、今のうちに兄ヒメを美濃に戻せ」
男具那は隣りの部屋に兄ヒメがいるのも忘れていた。熱風が男具那を襲い、蒸し暑さとともに頭にも熱い血が昇ったようだ。
兄ヒメが跳んで来た。
膝《ひざ》をつくと、髪を振り乱すように顔を上げて男具那を睨んだ。
「男具那様、私は美濃には戻りません、戻るぐらいなら死にます」
こういう女人の眼に男具那は弱い。
男具那は肩を竦《すく》めると出入口の縁まで出た。
「待て、この大碓と約束をして戻れ、約束をせねば、吾はおぬしを斬《き》る」
男具那は背後に殺気を感じた。
大碓はたぶん、刀の柄に手をかけているに違いなかった。
男具那は階段の上まで跳ぶと振り返った。部屋の中の大碓は刀は持っていたが、まだ柄には手をかけていない。
「何の約束だ、できる約束とできぬ約束がある」
「入れ、そこではいえぬ」
大碓は自分の殺気を受け止め、新しい殺気で応じている男具那を知ると、手にしていた刀を床に放った。大碓から殺気が消えた。
男具那はゆっくり室内に戻った。
大碓は胡座《あぐら》をかいている。刀を拾い、抜くにはいちばん不便な坐《すわ》り方である。
男具那はいつでも立てるように、入口で正座した。
兄ヒメが大碓に抱きつくように寄り添った。眼が潤み、大碓を失う不安に怯《おび》えていた。
男具那を睨んだ兄ヒメと同一人物とはとうてい思えなかった。可憐《かれん》な女人に変身している。
男具那は、大碓と兄ヒメの恋情に、ふと羨《うらや》ましさを感じた。男具那はこれまで、自分の運命を変えてよいと思うほどの恋に、身を灼《や》いたことがなかった。
フタジノイリヒメ以外、何人かの女人と媾合《まぐわ》ったが、女人に溺《おぼ》れたことがない。
媾合った女人が、毎日でも会いたい、と身をすり寄せて来ると、馬で山野を駆け巡りたくなるのだ。
大碓と兄ヒメを結びつけている恋情とはいったいどんなものだろう、身を滅ぼす危険性をものともせぬほど素晴らしいものなのか、と男具那は感じたのだった。
「男具那、神への約束だぞ」
大碓は落ち着いた声でいった。
「どういう内容だ?」
「簡単だが大事なことだ、今日、吾が話したことをおぬしは他人に洩《も》らしてはならぬ、それだけだ」
「それなら約束する」
「よし、兄ヒメ、琴を弾け、神を呼び約束するのだ」
兄ヒメが琴を前に置き、弾き始めた。部屋の中が浄《きよ》められたような冴《さ》えた音色である。
「男具那、神の前で約束するか!」
大碓の声が荘重な響きを帯びた。
「ああ、約束する、誰にも喋《しやべ》らぬ、兄者もだぞ」
「もちろんじゃ、吾も喋らぬ、もし洩らせば、洩らした者はもちろん、その子孫も途絶えるだろう」
男具那は大碓と同じ内容を口にした。
琴の音が止んだ。
男具那は兄ヒメの屋形を出ると木津川に出た。
数日来の雨で水嵩《みずかさ》は増し、川水は溢《あふ》れんばかりである。流れは速く、白波が立っていた。
男具那は一刻も早く櫛角別王子とその妃を惨殺した曲者を斬りたくなった。
[#改ページ]
十三
男具那《おぐな》に仕える内彦《うちひこ》は穂積《ほづみ》氏の出である。
穂積氏の祖は、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)で物部《もののべ》氏と祖を同じくする。
穂積氏は物部氏と同族だった。
物部氏は九州の筑紫《つくし》から畿内《きない》に入って来た。三輪《みわ》の王朝の祖が筑紫から大和《やまと》に入る前に河内《かわち》に入り、勢力を大和まで拡げていた、という伝承があるが、遠い昔のことなので真偽はさだかではない。
物部氏の勢力範囲は広く、同族の穂積氏の中にも、河内の物部氏の有力者を知らぬ者もいた。
同族といっても穂積氏のすべてが物部氏と密着しているわけではない。大和の穂積氏の中には、河内の新興勢力と親しくしている物部氏に批判的な有力者もいたのである。
内彦の父の忍山《おしやま》などもその一人だった。
忍山が、子の内彦が男具那に仕えることを許したのも、河内の物部氏に好感を抱いていなかったからである。
忍山は、河内の物部氏が男具那を殺すために、筑紫から物部氏の武術者を呼んだことなどまったく知らなかった。
知っておれば、忍山は内彦を通じて男具那に知らせていたであろう。
たぶん、物部氏の中でも知らなかった者は多いに違いなかった。それほど、男具那暗殺の計画は秘密裡《ひみつり》に運ばれたのである。
責任を感じることなどない、と男具那はいったが、内彦は、あの曲者《くせもの》が同族の物部氏の者だと知り、悩み苦しんだ。
内彦は、男具那の許可を得て、曲者が住んでいる屋形の場所と地形を調べ始めた。
男具那が許可を与えたのは、内彦の悩みを和らげるためだった。
もし許可を与えなかったなら、内彦は、男具那に信用されなくなった、と悲観し、自殺する恐れがあったのだ。
内彦は信用できる縁故関係から、曲者の所在地を調べていた。
旧暦六月中旬、夏の陽が山野の樹々や花を燃やし始めた頃、内彦はついに曲者の屋形を突き止めた。
内彦の顔は陽に灼《やし》け赤銅《やくどう》色になっていた。巻向宮《まきむくのみや》内にある男具那の屋形にやって来た内彦は、男具那の前に手をついたまま身動き一つしない。
「内彦、そう緊張するな、外に出よう、青魚《あおうお》や宮戸彦《みやとひこ》も共にな」
会話が女人に聞えたなら、どういうところから物部氏に伝わるかもしれない。
男具那に仕えている女人は、いちおう信用できるが、用心にこしたことはなかった。
久し振りに、男具那と警護隊の三人は馬に乗り、野に出た。
青魚と宮戸彦も、内彦が曲者を探り出したのを知り、
「顔が黒くなっただけの値打ちはあるぞ、大手柄だぞ」
と口々に褒めたが、内彦はかつてのように白い歯を見せなかった。
一行は初瀬《はつせ》川沿いに馬を進め、男具那と内彦は草原に入った。
青魚と宮戸彦は川岸の高い場所に立ち、周囲を見張った。
男具那と内彦は馬から降りた。
男具那は刀を抜き草を伐《き》り坐《すわ》れる場所をつくった。
「まあ坐れ、ゆっくり話を聴こう」
男具那は伐った草を集め椅子《いす》代りにして腰を下ろした。
「楽にしろ、楽に、吾《われ》に固くなっているような者とは話したくないのだ」
「有難きお言葉、胸が詰まります」
内彦は拳《こぶし》を握ると眼を閉じた。涙が溢《あふ》れそうになったに違いなかった。
「内彦、いつもの剽軽《ひようきん》な内彦はどこに行った、吾の前にいるのは見知らぬ男子《おのこ》じゃ、吾は去るぞ」
男具那が腰を浮かすと、
「王子、お待ち下さい、昔に戻ろうとしているのです、だがやつかれの心は見えない縄で縛られています」
内彦は絞り出すような声でいった。
「分った、では吾が刀でその縄を切ろう、それで心ものびのびとする、眼を開けて吾を見よ」
「はっ」
内彦は背を伸ばすと眼を大きく開けて男具那を見た。開けているというよりも剥《む》いているようだった。
男具那は立つと刀を抜いた。ゆっくり振り廻《まわ》す。切られた野の草が空中に舞う。
「内彦、そちを斬《き》るかも分らぬ」
「覚悟しております」
「よし、胸を拡げよ」
内彦は大きく息を吸い込むと上衣《うわぎ》の襟を拡げた。内彦の真剣な気迫に男具那も冗談ごとでは済まされなくなった。
男具那も呼吸を整え、刀を大上段に振りかぶると裂帛《れつぱく》の気合いとともに振り下ろした。
切っ先は内彦の胸の肌をわずかに掠《かす》め、帯紐《おびひも》を切った。
男具那も内彦も大きく息を吐いた。両者とも汗塗《あせまみ》れである。
青魚と宮戸彦が跳んで来た。
「王子、どうなさったのです?」
青魚も緊張した表情で二人を眺めた。
男具那が事情を説明すると、青魚は、
「いや驚きました、山野に響き渡るような気合いでした、内彦、好《い》い加減にしろ、女人のようにすねるのは止《よ》せ」
と内彦にいった。内彦は憤然と睨《にら》んだ。
「すねているのではないぞ」
「それなら、好い恰好《かつこう》ぶっているのか、おぬしは愉《たの》しくて面白いから、我々も気が楽なのだ、威張りくさったおぬしには、何の魅力もない」
「何だと、吾がいつ威張った?」
内彦は顔を真赫《まつか》にして青魚を睨んだ。
「戻って来てから、吾や、宮戸彦にも口をきかない」
「無念じゃ、おぬしには吾の気持が分らぬのか……」
「分っておるわい、いいか内彦、吾の氏族の中にも、三輪の王朝に敵意を抱いている者がいるのだ、本心を述べると、曲者は和珥《わに》の一族の者かもしれぬ、と考えていた、これは宮戸彦も同じだ、だがな、我々は氏族の意向などあまり問題にせず、自分の意志で王子に仕えたのだ、違うか、内彦」
「そのとおりじゃ」
「それでよろしい、おぬしに責任などない、王子のいわれるとおり、明るい内彦に戻ってくれ、頼む、それが王子に対する忠誠じゃ、おぬしに気を遣っていては、我らも力を出し切れぬ、分るか」
青魚の言葉に歯を噛《か》み拳《こぶし》を握り締めていた内彦は、嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。
「青魚殿、有難く聴いた」
内彦は腕で瞼《まぶた》を拭《ぬぐ》った。
「阿呆《あほう》、また女人になったな」
「これが最後じゃ」
「内彦、それではおぬしの白い歯を見せろ、それなら納得する」
青魚の声は力強いが、その優しさは春の微風のように内彦の胸の中を通り過ぎたようだ。
「よし、笑うぞ」
内彦は大声を出すと口を開けた。
「内彦、顔が駄目じゃ、猿のような顔をしろ、得意ではないか」
と男具那もいった。
「猿ですか?」
「そうじゃ、だいたい、猿に似ておるからなあ」
「王子、それは酷《ひど》うございます」
「いやいや、王子のおっしゃるとおりだ、おぬしは猿面じゃ」
宮戸彦も口を合わせる。
「酷いぞ、宮戸彦」
と怒ったふりをしながら、内彦の気持は男具那や青魚たちの心の暖かさに次第にほぐれて来るのだった。
青魚たちが警備に戻り、内彦は調査した内容を話した。
曲者は筑紫物部のマグヒコ(莫具彦)という者だった。身長は五尺六寸(一七〇センチ)ほどだが、何と肩幅は二尺近くあった。
物部氏の武術者の中でも、力の強さではマグヒコにかなう者はいなかった。ことにマグヒコは筑紫の山に入り、刀の技を修業したらしく、力だけではなく武技も優れている、という。
マグヒコを呼んだのは、河内の物部氏の有力者だが、それが誰かは探り出すことはできなかった。内彦は叩頭《こうとう》した。
「申し訳ございません」
「いや、よく調べたぞ、屋形はどこだ?」
「はっ、ホムツワケ王子は、生駒山麓《いこまさんろく》の石切《いしきり》の近くだ、とおっしゃっていましたが、最近は、大和川の傍《そば》の高安《たかやす》に移りました、王子、マグヒコがこれまで大人しくしていたのは、どうやら王子に負わされた傷が意外に深く、傷が治らず、治療に専念していたからだ、と判明いたしました、この春あたりから傷もいえ、再び武術の稽古《けいこ》に励んでいるようです、おそらく再び王子を狙《ねら》うでしょう、恐ろしい奴《やつ》です」
内彦の報告に男具那は昂奮《こうふん》した。闘志が腹の底から突き上げて来た。
「内彦、そちの苦心の調査、厚く礼を申す、いや、何もいうな、吾は心から喜んでおる、そちの報告から推察すると、マグヒコは早い時機に吾を狙うだろう、ひょっとすると、明日かもしれぬ、明後日かもしれぬ、吾も負けてはおれぬぞ、早速マグヒコの屋形に向う、夜でも屋形まで案内できるか?」
「はい、できます」
内彦が微《かす》かに顔を赧《あか》らめたのは、喜びのせいだった。自分の調査で仇《かたき》が討てるのだ。内彦の眼も闘志に輝いていた。男具那は、青魚と宮戸彦に内彦の調査内容を告げ、明日の早朝、夜の明けぬうちに河内に向って出発する、と決意を述べた。
青魚や宮戸彦は低い喚声をあげ、それぞれ内彦と抱き合い、内彦の労をねぎらうのだった。
もちろん、マグヒコは一人で住んでいるのではない。屈強な部下が数人マグヒコの屋形を守っている。マグヒコが傷の治療にかかっている間、警護の任に当っていた連中だった。
河内の物部氏の武術者である。
男具那はマグヒコと闘った時の有様は脳裡《のうり》に叩《たた》き込んでいた。
あの時は曲者《くせもの》の侵入を感じた男具那は床下に隠れ、奇襲攻撃をかけたのだった。
不意をつかれたのは曲者で、男具那の方ではなかった。それだけ曲者の方が不利である。
男具那は息もつかせず突きを入れ、曲者は男具那の突きを払いのけるのがやっとだった。男具那がマグヒコの腹部に傷を負わしたのは、周濠《しゆうごう》に追い詰めた時である。
暗闇《くらやみ》での奇襲が功を奏したのだ。
昼間、まともに闘えば、男具那よりもマグヒコの武術の方が優れているかもしれない。
ただ、マグヒコが傷の治療に専念している間に、男具那の武術はさらに上達していた。
今なら昼でも勝てる、と男具那は自分にいい聞かせたが、マグヒコを甘く見ることはできない。
あの夜の勝負だけでは、マグヒコの真の武術が分らないからだ。
男具那たちは大和川を舟で下った。大和川は大和から河内《かわち》に入る際、亀の瀬といわれる岩の突き出た難所を通らねばならない。
人間だけなら舟で行けるが、馬は無理である。
男具那たちは、平群《へぐり》で大和川から出、陸地をたどった。後に竜田《たつた》道といわれるようになった道を通り、夕刻河内に出た。
内彦がかねてから連絡をつけておいた村長《むらおさ》の屋形に一泊した。
もちろん、内彦は男具那王子の身分を隠し、畝傍《うねび》山附近の有力首長で、吉備《きび》まで行く、と話していた。
当時の大和川は生駒山系の南端と、葛城《かつらぎ》山系の北端の間を通り河内に注ぐが、現在の大和川とは水系がまったく違った。
河内に入ると同時に幾つにも分れて西北に向い、難波《なにわ》の高台から生駒山麓にまで達している河内湖に注ぐ。
川の主なものは、玉串《たまくし》川、長瀬《ながせ》川、平野《ひらの》川などである。
現在、大阪市と堺《さかい》市の境を流れる大和川は江戸時代に作られた人工の川なのだ。
マグヒコの屋形は玉串川の傍にあった。
場所は高安で、男具那たちが泊まっているところから二里弱だった。
男具那は夜明けに攻撃をかけるつもりでいた。マグヒコは何が何でも自分の手で斃《たお》さねばならない。兄の仇なのだ。
マグヒコには河内の物部氏の武術者がついている。警護役の武術者である。彼らは青魚たちにまかせることにした。
男具那は、もう少し攻撃の人数を増やそうか、と考えたが、あまり大勢だと敵に気づかれる。それに青魚たち三人は呼吸が合っており、自由に闘える。三人で六人分の働きができるのだ。
それに、マグヒコを攻撃したことは、オシロワケ王にも、河内の物部氏にも内緒にせねばならない。
櫛角別《くしつのわけ》王子を殺したのが、河内の物部氏が呼んだ筑紫物部であることがオシロワケ王や、三輪王朝の王族に知れれば、大変なことになる。
物部氏は、河内の和泉《いずみ》で勢力を拡げつつある新興勢力と親しくしているが、いちおう三輪王朝にも協力している。服従の姿勢を見せているのだ。
大和を中心に河内や山背《やましろ》がいちおう平穏なのは、やはり物部氏が形の上でもオシロワケ王に服従しているからである。
オシロワケ王が、櫛角別王子を殺害し、男具那を襲った物部氏を、三輪王朝に対する敵対行動と判断すれば、王は当然、物部氏を攻めるだろう。
河内の新興勢力は物部氏に味方するに違いない。その場合は和珥氏と葛城氏が物部氏につくか、三輪王朝側につくかによって、勝敗が決まる。大変な戦《いくさ》になる。
場合によっては、三輪王朝は崩壊するかもしれない。
このことは大碓《おおうす》王子にも話すな、といったホムツワケ王子の胸の中も、何となく分るような気がした。
男具那は、マグヒコを殺しても、絶対、他言はするな、と青魚たちに厳命していた。それも他の部下たちを連れて来なかった理由の一つであった。
男具那たちは一番|鶏《どり》が鳴く前に起きた。
泊めて貰《もら》った礼に絹布を置き、村長の家を出た。男具那の手には長い竹竿《たけざお》が握られている。男具那の新しい武器だった。
西に傾いた半月の光は弱いが、月光があるとないとでは大違いだった。
松明《たいまつ》の明りで馬の脚下を照らしながら内彦は玉串川沿いに進んだ。獣途《けものみち》のような道しかない。交易や旅などは水路が使われる。陸地に道が造られないのは、そのせいだった。
道なき道や湿地帯をゆっくり進むのである。ことに夜だから馬に乗っていても、一里(四キロ)を行くのに半|刻《とき》(一時間)以上はかかる。
内彦の調査ではマグヒコの屋形まで、一刻半(三時間)はかかった。
内彦は何度も自分の脚で調べているのだ。
男具那は内彦に全面的な信頼を寄せていた。内彦がいったとおり、マグヒコの屋形の傍まで来た時、東の空が心なしか白み始めた。
海抜二百十四丈(六四二メートル)の生駒山系も、まだ闇に溶けて見えない。
内彦は松明を消した。
一行は馬につけた皮袋から木を焼いて砕いた黒い粉を取り出して顔に塗った。
襲撃者の身許《みもと》を隠すためである。眼だけが淡い月光に光り、誰の顔か区別がつかない。
「王子、馬はこの辺りの雑木林につないでおきましょう、後は徒歩です」
内彦が低い声でいった。
「よし、皆、馬をつなげ」
男具那たちは近くの雑木林の中に馬をつなぐと、内彦に続いてマグヒコの屋形に向った。
雑木林から約三百歩の距離である。
雑草を掻《か》き分けてしばらく行くと田畑に出る。ようやく生駒山系が薄闇の中に黝々《くろぐろ》とした姿を現わし始めた。
男具那たちは雑草を伐《き》り払って蹲《うずくま》った。
「王子、田畑の前方に黒い塊が三つほど見えます、真ん中がマグヒコの屋形です、両側は、奴婢《ぬひ》や女人たちが住んでいるようです、濠《ほり》はありませんが、柵《さく》でかこまれています、また屋形の前と後ろに玉串川に注ぐ川が流れています、屋形の前の川は幅が十尺ほどあるようです、跳び越えるのは無理です、水深は案外深く胸の近くまで達します」
「舟は?」
「マグヒコ側の岸につけてありますが、上流の農家の舟は、こちら側の岸につないでいます」
「そこまでは?」
「はっ、五百歩はあります」
「よし、農家の舟で川を渡る、衣服が濡《ぬ》れると斬《き》り合う場合、身体《からだ》が重くなる、行くぞ」
男具那は一気に川の上流に向って走った。田畑はあるが、今日はそんなことは問題にならなかった。
四人の中で脚が速いのは男具那と内彦だった。ただ畔《あぜ》や溝があるので注意して走らねばならない。
男具那は内彦の後に続いた。
舟の傍まで行くと朝の早い農民が二人、鎌を持って歩いて来た。二人の農民が男具那たちに気づいて叫び声をあげようとした時、内彦は左右の両拳《りようこぶし》を前に突き出す。拳は並んでいた二人の胃の上部にめり込み、農民は呻《うめ》きながら転がった。ここで農民たちに叫ばれては奇襲が奇襲でなくなる。
内彦は悶《もだ》えている二人にいった。
「しばらく声をだすな、頼むぞ」
一行は舟に乗った。宮戸彦がもやい綱を切る。
男具那は持っていた竹竿《たけざお》で川底を突いた。
最初、男具那の竹竿を見た時、青魚たちは、何に使うのですか? と訊《き》いたが、男具那はいざとなれば分る、とだけ答えていた。
「王子、さすがは王子です、よく気がつかれました」
青魚が頭を掻《か》いたのは、海人族の血を引く和珥氏に生まれながら、小舟を操る竹竿を用意することに気がつかなかったからであろう。
「いつもは、舟にあったのですが……」
内彦も自分のうかつさに憤《いか》り、拳で頭を叩《たた》いた。男具那は無言で力一杯川底を突く。
「吾《われ》も舟は漕《こ》げる」
小舟はあっという間に対岸に着いた。
「舟から出よ」
男具那は竹竿で舟を固定しながらいった。
青魚たちは次々と岸に跳び、草叢《くさむら》の中に這《は》いつくばる。微《かす》かに東の空が白み、闇の衣を着たような生駒山系が姿を現わし始めた。
屋形はまだ闇に包まれている。男具那は竹竿を突き出しながらゆっくり歩いた。竹竿は十尺(三メートル)以上の長さがあった。竹竿の先が小さな音を立てた。
「柵まで八尺だ、這って進め」
男具那は屋形の中に入るまでは、敵に見つかりたくなかった。
男具那が物部マグヒコを撃退できたのも、マグヒコの侵入に気づき、待ち伏せることができたからである。この日のために訓練に訓練を重ねていた一行は音もなく柵の傍まで進んだ。今度は柵に沿って柵門の方に這う。
先を進むのは内彦だった。
男具那は時々内彦の尻《しり》を竹竿で叩き停止を命じた。地に耳を当て柵内の音を聴いた。
人の動く音がするが、どうやら炊事場のようである。明りのようなのが見えるのは米を炊いているのだろう。そのおかげで闇に溶け込んでいる大きな屋形が、気のせいか一段と黒く浮き上がって見える。闇が少し薄れているのかもしれなかった。
奇襲には絶好の時刻である。
内彦が止まったので男具那は並んだ。内彦は男具那の耳に口を寄せ、門まで数歩です、と告げた。
一行は二、三歩の距離まで近づいた。闇が巻きついたような黒い柱が見える。
「誰もいないようです」
「門扉は?」
「柵です」
男具那は頷《うなず》くと門の傍まで近寄り竹竿で柵扉をゆっくりと押してみた。動かないところをみると突っ支《か》い棒か、差木で閉めているのだ。男具那は今一度門の附近に人の気配がないのを確かめると門の前の狭い広場まで進んだ。内彦を呼び、この竹を利用して跳び越えるから、必ず竹を受け止めるように、と命じた。広場の端まで後退すると、竹竿を構えて暗闇を走る。門扉の高さは六尺ぐらいだから竹竿を利用すれば軽々と跳び越えられる。
青魚たちは巨大な夜鳥が飛んだような気がした。男具那にこんな武術があるとは青魚たちは知らなかった。
今でいう棒高跳びだが、男具那は母の故郷の印南《いなみ》にいた頃、竹竿を利用して跳ぶのがいちばん愉《たの》しかった。五、六歳から始め、巻向宮に行くまで、平野だけではなく、山中でも跳んだ。
大和に来てみると、そういう遊びをしている者はいない。それでもしばらくは続けた。
他の王子たちが好奇の眼で眺めるのでやめたが、時々、人に隠れて跳んだのだ。
青魚たちの前の警護兵の頃だった。男具那の身の軽さは少年時代の竹高跳びのせいかもしれない。
男具那が跳び越える際に離した竹竿は、内彦が音もなく受け止めた。
男具那は門扉の柵を閉めていた差木を外し柵を開ける。
「好《よ》いか、さいわい誰も気づいていないようだ、物部マグヒコが寝ているのは炊事場の傍の高い屋形だ、二階建の屋形だから吾はこの竹で二階まで跳び上がる、さいわい闇も少し薄れて来た、マグヒコの姿はこの眼に焼きついている、兄の仇《かたき》じゃ、マグヒコは吾が殺す、そちたちはマグヒコを警護している物部の武術者を斃《たお》せ、分ったな」
「王子、一人で二階に行かれるのは……」
と青魚が不安そうにいった。
「心配するな、二階の明り取りの窓まで跳び、一挙に中に入る、この季節じゃ、戸を閉めていても薄い板じゃ、軽く蹴破《けやぶ》れる、物部の武術者は一階に二、三人寝ておる、他は別な屋形だ、宮戸彦、そちは他の屋形を見張れ、青魚と内彦は吾の後に続き一階に入り、斬《き》る、行くぞ」
男具那は竹竿《たけざお》を持って走った。
もうマグヒコたちは気づいているかもしれない。だが待ち伏せる余裕はないはずだった。
必死に走りながらも男具那の気持は不思議なほど冷静である。ただ身体だけが燃えている。握り締めた竹竿の感触が男具那を冷静にさせているのかもしれない。間違いなく男具那は竹竿と一緒になっていた。眼の前に黒い岩が迫った。
マグヒコの屋形である。男具那は跳んだ。窓のある場所は屋形を包んでいる闇の色が微妙に異なる。男具那の身体は空中で横になり、足先から窓板に突っ込んだ。
薄い窓板を突き破り、男具那は放り投げられたように部屋に転がった。
香料の香りが鼻をつき、女人が喉《のど》も裂けんばかりの悲鳴をあげた。
悲鳴の傍から黒煙に似たものが立ち昇った。突風に流されたように黒煙は部屋の隅の暗黒に消える。転がっていた男具那は柔らかい女人にぶつかった。女人が再び悲鳴をあげる。
階下からも女人の悲鳴が聞えた。
男具那は女人を無視し蹲《うずくま》った。音を立てないために背中に結びつけていた刀を抜いた。
部屋の隅は外の微光も届かず、一寸先も見えない。だが間違いなくマグヒコが隠れている。
「マグヒコ、出ろ、さもないとこの女人を殺す」
だが相手は微動だにしない。闇に隠れていることだけは気配で分った。
女人は気が狂ったように叫ぶと壁の方に逃げようとした。男具那は女人の足首を左手で掴《つか》んだ。太腿《ふともも》のあたりを刀の切っ先で突いた。
女人の悲鳴はしわがれた夜鳥のような声に変った。大きな音をたてて壁にぶつかる。刀に刺した肉の伸縮がはっきり伝わった。部屋の隅の闇が動いた。男具那は刀の切っ先を撥《は》ね上げると前に跳びながら突きを入れた。
逃げることのできない一撃だが、相手はよほど敏捷《びんしよう》らしく、男具那の刀は空を突いた。黒煙が床を這った。
男具那は刀を引かずに斬り下ろした。今度は間違いなく肉を切った手応《てごた》えがあった。初めて相手は呻《うめ》き声を洩《も》らした。
「筑紫のマグヒコだな、名を名乗れ」
男具那の声が相手に間一髪ともいえる隙《すき》を与えてしまった。
勘で壁際に置いてあった刀を掴んだ相手は、再び振り下ろした男具那の刀を鞘《さや》ごと受け止めた。鞘を断ち割った刀身に相手の刀身が重く反応した。
敵の反撃の始まりである。
黒煙が床を這うと同時に、相手は男具那の脚を狙《ねら》って横擲《よこなぐ》りに斬りつけて来た。ただ体勢が整っていないので刀に勢いがない。
男具那は跳び上がると、相手を床ごと裂く勢いで斬りつけた。黒煙は横に這って避ける。ようやく室内の闇《やみ》に慣れた男具那の眼に、黒煙は人影のように見えて来た。
男具那の脳裡には、襲撃された夜の闘いが刻み込まれている。男具那は床上の影に向って連続的に突きを入れた。
相手は身を躱《かわ》すのがやっとだった。
窓下の壁まで追い詰めた時、相手にどういう余力が残っていたのか、身体ごと窓に向って跳んだ。
男具那の突きは臑《すね》を掠《かす》ったが、骨に達していない。下で地響きがした。
男具那は壊れた窓から下を覗《のぞ》いた。相手は地上で蠢《うごめ》いている。
東の空の白みが増し、生駒山系は地に横たわった巨大な獣のようだった。
階下での激闘も庭に移っていた。
室内の闇に慣れ切った眼には、屋外は薄闇といってよい。朧《おぼ》ろだが敵の動作は充分眼に入る。
男具那は呻きながら蹲っている女人を見た。顔が仄白《ほのじろ》く闇の中で揺れている。太腿の傷はかなり深い。
一瞬男具那は斬り殺そうと進みかけたが、自分がまだ名前を告げていないのに気づき、自嘲《じちよう》気味に呟《つぶや》いた。
「許せ、傷が癒《い》えるように」
男具那は再び窓の板壁に手をかけた。
自分の身許《みもと》が知られていないのに、女人を斬り殺す必要はないのだ。
男具那の自嘲は平静心を失っている自分へのいましめだった。
予想していたよりもずっと手強《てごわ》い相手である。それが男具那の気持を乱していたのだ。
相手はマグヒコに間違いなかった。
男具那の突きに対し、転がりながら避けた身のこなしは、男具那を襲った曲者《くせもの》のものであった。
負傷しながら頭から地上に転落したのにマグヒコは窓の下に蹲っている。
刀もちゃんと握っていた。男具那が跳び降りたなら一撃で斬ろうと待ち構えているのだ。粘っこい殺気が夜気を貫き男具那に伝わる。
血の匂《にお》いもする。悽愴《せいそう》な闘いは庭で繰り拡げられている。走り廻《まわ》りながら斬り合っている者もあれば、動かず睨《にら》み合っている者もいた。気合いというよりも喚《わめ》き声に近い声が響き、影が動くと刀と刀が火花を散らす。骨と肉を斬り裂く響きは血の噴出とともに死への絶叫となる。
生駒山頂の空の白さが驚くほど澄んで見えた。
「来い、一人は吾じゃ」
一人を斃《たお》したのは宮戸彦だった。
青魚に向っている二人の背後に走り寄る。
走り廻りながら斬り合っているのは内彦だった。相変らず内彦らしい闘い方だ。
庭に斃れているのは全部で三人である。物部の武術者だった。
青魚たちは、窓の男具那に気づいている。だが、王子、と呼ぶ者はいない。
身許を知られないために、男具那は王子と呼ぶことを厳禁していた。
突然、誰かが叫んだ。
「おう、竹竿《たけざお》に触るな、それは我らのものだぞ」
黒い木炭の粉で顔は分らぬが、その声は青魚である。
その声で男具那はマグヒコが竹竿の端を握っているのに気づいた。とたんに唸《うな》りをたてて竹竿が飛んで来た。端を握っただけで地上に転がっている竹竿を飛ばすとは、凄《すご》い力だった。人間業とはとうてい思えない。
男具那は身を沈めると竹竿を斬った。斬り口の鋭い二尺ばかりの竹棒が男具那の手に握られていた。
青魚、済まん、と胸の中で叫びながら男具那はマグヒコを狙って竹棒を投げ、左方に跳んだ。マグヒコが飛んで来た竹棒を刀で斬り払った間に男具那は地上に降りていた。マグヒコが転がり体勢を立て直す間も与えず、男具那はマグヒコの傍まで跳んだ。
マグヒコは横たわったまま刀を構えた。顔が歪《ゆが》んでいるのが見えた。吐く息は男具那よりもずっと荒い。
勝てる、と男具那は確信した。マグヒコが屋形の二階で受けた傷は太腿のようである。転がるのは素早いが、容易《たやす》く立てないのだ。
上衣《うわぎ》も破れ肌が露出していた。
男具那は刀を構えながら、部下たちが敵を斃すのを待った。
今名乗れば、物部の武術者たちは、襲撃者が男具那であることを知る。
巨漢が山野に響くような声で青魚に斬りかかった。なかなかの武術者らしく青魚も攻撃を躱《かわ》すのに懸命だった。自分たちの倍はいた武術者たちと闘って来たのだ。
青魚も疲労していた。男具那はマグヒコが走れないのを見定めてから、落ちていた竹棒を拾った。
慎重にマグヒコとの距離を置いて青魚の相手に近づいた。
「さっきの礼だ」
男具那は刀を振り青魚に迫っている敵に竹棒を突き出した。片手なのでそんなに鋭くはないが、身体にくらったなら骨に罅《ひび》が入るぐらいの威力はある。
敵は竹棒を刀で払った。一瞬のことだが青魚は好機を見逃さなかった。
身体ごとぶつかるように迫ると斬り込んだ。青魚の刀は竹棒を払ったばかりの敵の手首を切断していた。
刀を握ったまま相手の拳《こぶし》が血《ち》飛沫《しぶき》とともに飛んだ。
獣が吠《ほ》えるような悲鳴がその後に続く。青魚は返り血を浴びながら相手の胸に刀を突き刺した。今度は踏み潰《つぶ》された蛙のような声とともにその場に崩れる。青魚は胸から刀を引き抜き男具那に一礼した。
男具那が戻るのを待っていたようにマグヒコが立った。信じられない体力である。
右手に持った刀を開き加減に、脚を引きずりながら一歩一歩と近づいて来る。
男具那は正眼に構えた。
なぜ、刀を片腕で持っているのだろう、とマグヒコの攻撃を分析した。長い竹竿の端を片手で握り、屋形の二階にいる男具那に放った力は常人のものではない。
力というより力と業の一致である。
おそらく死を決し横擲《よこなぐ》りに斬りつけて来るに違いなかった。自分の力業に自信を持っているからに違いない。
「筑紫から大和まで死にに来たか、マグヒコ」
男具那は呼吸を整えた。
「何奴《なにやつ》だ?」
マグヒコは眼を爛々《らんらん》と光らせ呻《うめ》くようにいった。
「分らぬか、吾は倭男具那《やまとのおぐな》、兄王子の仇《かたき》を討ちに参った、吾に斬《き》られて死ぬとは、幸せな奴だ」
「倭男具那、そなたが男具那王子……」
腸と胃を絞り出すような声だった。
信じられぬ、というより、やはりそうだったか、という驚愕《きようがく》と安心感が入り混じった声である。もし安心感が湧《わ》いたとすれば、これほど優れた武術者は男具那以外にはなかったのだ、という自分への納得のせいであろう。
「マグヒコ、なぜ吾を斬らずに、兄王子を斬った、黄泉《よみ》の国に行く前に告げるのだ」
「黄泉の国に行くのは王子かも知れぬぞ、いずれにしろ、伝えておかねば後味が悪い、吾は筑紫から来て、一ヶ月とたっていなかった、二度下見をしたが、あの夜は月もほとんどなく、暗黒の夜だった、いや、弁解は止そう、屋形を間違えたのだ」
「何だと、間違えたと……」
「そうだ、屋形に侵入する前に松明《たいまつ》をつけたが、王子の妃《きさき》の屋形と同じように見えた、それに二つの屋形の場所はあまり離れていない」
「なぜ、兄王子の妃まで斬った」
「屋形に入った以上、動く者は誰でも斬る、王子も今、吾と床を共にしていた女人を斬ったであろう」
「いや、吾は斬らなかった、切っ先で太腿《ふともも》を突いただけだ、見も知らぬ女人を斬るような刀は持たぬ」
相変らず刀を右手に持ったまま、マグヒコは哄笑《こうしよう》した。もうかなり明るくなった夜明けの光に歯が気味悪い形に光った。残る敵を斃《たお》した男具那の部下が二人の周囲を離れて取り巻いた。
離れたのは男具那の行動を邪魔しないためであった。
「何がおかしい?」
「憐《あわ》れな王子じゃ、武術は強いが情に弱い、そんなことでは王にはなれぬ」
「吾は王になどなりたくない」
「それでは王子でいる必要はない」
「軍事将軍になり、まつろわぬ敵を斃す、そのための王子じゃ」
「くだらぬ、せっかくの武術も短く終るのう、王子はその情によって死ぬ!」
とたんに男具那が予想したとおり、マグヒコが横擲りに刀を叩《たた》きつけて来た。斬るというより全身の力をこの一刀に込め、これまでの武術のすべてを凝縮したような一閃《いつせん》だった。空気が硬い音をたてて裂けた。
傷を受けているとはいえ、マグヒコの執念の一刀をまともに受けたなら、男具那の刀は折れてしまう恐れがあった。
男具那は思い切り後ろに跳んだ。マグヒコの刀は空を斬り、口笛にも似た音を残した。
体勢を立て直そうとするマグヒコの首のあたりを狙《ねら》い男具那は皮帯にはさんでいた刀子《とうす》を投げた。マグヒコにとっては予期していなかった攻撃だった。男具那の刀子は音も立てずにマグヒコの首の下部あたりに吸い込まれた。
マグヒコは彼に似ない掠《かす》れた声を吐いた。刺さった刀子を引き抜こうとし、首に手を当てたまま三歩、四歩とよろけるように歩く。
男具那は刀を構えたままゆっくり近づいた。マグヒコが刀子を引き抜いた時、男具那は跳んだ。マグヒコの厚い胸に刀を突き出す。
まるで熊を突いた時のような重い圧迫と震動が男具那の手首に伝わった。あえぐような断末魔の心臓の鼓動を男具那ははっきり手に感じた。
マグヒコが胸に刺さった男具那の刀を握った。指が切れ血が吹き出す。
眼を剥《む》いたマグヒコは何か告げようとして男具那を見たが声にならない。刀が重くなったので男具那は引き抜いた。厚い肉がすでに刀に巻きついており、かなりの力を出さねばならなかった。
男具那が刀を引き抜いたとたん、マグヒコは口から多量の血を吐いた。吐いたというより飛ばした、といった方がよいかもしれない。血の飛沫《しぶき》が男具那の顔にかかり、男具那は青みを帯びた夜明けの光に映えた赤い血の色をはっきり見た。
部下たちがいっせいに深い吐息をついた。
「凄《すご》い武術者だ」
と男具那は呟《つぶや》くようにいった。
「王子、お怪我《けが》は?」
と青魚が訊《き》いた。
「大丈夫だ、それより浴びている血は全部返り血か?」
「掠《かす》り傷です、たいしたことはありません」
青魚は胸のあたりを押えて笑おうとした。黒い顔が苦痛に歪《ゆが》む。
「馬の傍まで戻る、そこで身体を洗い傷の手当てをする、身許を知られてはまずい、辛《つら》いだろうが急ぎ脚だ、青魚、吾の肩に腕を載せろ」
男具那が青魚の傍によると、
「王子、大丈夫です」
青魚は脚をひきずるように歩き始めた。
男具那は宮戸彦に肩を貸すようにいった。
内彦も歩き方がおかしい。脚に傷を受けている。男具那は胸の中で叫んだ。
「屋形を間違ったと……馬鹿者」
無事に仇を討ったにもかかわらず男具那の気持は晴れなかった。
男具那は、兄上、済まぬ、と心で手を合わせた。
もうすでに鳥が鳴き、農民たちは田畑に出ている。東の空の青さは薄れて拡がり、生駒山系は日の出を待つように赤く燃えていた。
[#改ページ]
十四
部下たちの中では、青魚《あおうお》の傷がいちばん深かった。胸と脚を斬《き》られていた。宮戸彦《みやとひこ》と内彦《うちひこ》も負傷しているが、深くはない。
男具那《おぐな》たちは青魚の身体《からだ》を小川で洗い、傷口に、馬に積んでいた酒を掛けた。
傷を治療する強い酒である。
酒を掛けられる度に青魚は歯を噛《か》み締めて唸《うな》った。眼を剥きあまりの痛さに身体が痙攣《けいれん》したが、悲鳴はあげなかった。傷口は新しい麻布で何重にも巻いた。
男具那たちは青魚を馬に乗せ、宮戸彦と内彦が馬上の青魚を支えて徒歩で進んだ。
凄《すさ》まじい闘いだった。仇《かたき》を討てたのは、奇襲攻撃が功を奏したからである。
勝利の美酒に酔いたいところだが、青魚の傷が気になり、一行の脚は重い。
竜田《たつた》道を越えたところで、小丘の繁みに入り休息した。
青魚は、この程度の傷は四、五日で治る、といっているが、熱が出ているらしく身体が熱い。いちばん恐《こわ》いのは傷口が化膿《かのう》し高熱を出すことだった。
当時は、化膿を抑える薬などない。傷口を酒で消毒し、傷に効くといわれている木の葉や草を貼《は》りつけるぐらいの治療法しかなかった。
問題なのは、青魚をどうするかであった。
マグヒコ(莫具彦)や物部《もののべ》氏の武術者を殺したのが、男具那たちだと分ると、河内《かわち》の物部氏と三輪《みわ》の王朝との関係が悪化する。なぜなら、物部氏が筑紫《つくし》からマグヒコを呼び、櫛角別《くしつのわけ》王子や男具那を襲わせたことがばれたとなると、オシロワケ王も王の権威にかけて黙ってはおれない。
物部氏にしても、敵対行為が公になった以上、自分たちを守るために、河内の新興勢力と手を結ぶ。
畿内《きない》は一挙に険悪な状態になる。場合によっては、戦《いくさ》が起こりかねない。
男具那は、そうなることを望まなかった。だからこそ、今回の襲撃を秘密にしておきたかったのだ。
だが青魚が深傷《ふかで》を負ったことが知れると、いったい、何をしたのだ、ということになる。
当然、物部氏は、襲撃者は仇を討った男具那だと悟るだろう。それでは、せっかく隠密の行動を取って来た意味がなくなる。
男具那は青魚に水を飲ませると、実家に戻って手当てをした方がよいのではないか、といった。
額に汗を滲《にじ》ませた青魚は、首を横に振った。
「王子、実家には戻れません、この傷は誰が見ても刀傷です、山に登り落ちたという弁解は通じないでしょう、といって巻向宮《まきむくのみや》の王子の屋形に戻るのもまずい、こういう時は女人に限ります」
青魚は豪快に笑おうとしたが、顔は引き攣《つ》り、声が出ない。
「そうだ、女人がよい、青魚はこんな面をしながら二人も恋人を持っているのです」
と宮戸彦がわざとおどけていった。
「おいおい、こんな面とは何だ、宮戸彦よりも、ずっと好《よ》い男子《おのこ》だぞ」
「そう思っておれば気が楽だな、傷もすぐ治るぞ」
「何を、こいつ、傷が治ったら許さぬ」
と青魚は怒ってみせたが、宮戸彦の友情が嬉《うれ》しそうだった。
男具那も一人は知っていた。倭《やまと》氏関係の女人で、宮に仕えていたが今は龍王山《りゆうおうざん》の麓《ふもと》に住んでいる。
「そうか、二人でも三人でも構わぬが、いちばん信頼できるのは誰じゃ」
「はっ、初瀬《はつせ》川の支流の近くに住む村長《むらおさ》の娘です、父親は舟を数|艘《そう》持ち、川の交通に関係していますが、政治にはあまり関係がありません、今は政治に無関心な人物が一番でしょう、娘も賊と闘って負傷した、といえば信用します、王子を守っていて怪我《けが》をしたなど、吾《われ》の恥だから、誰にも喋《しやべ》るな、といえば、死んでも喋りません」
「よし、その女人が一番じゃ、今日の夜にでも、その女人の屋形に連れて行く」
男具那の言葉に青魚は眼を細めた。
「申し訳ありません、傷など負って」
「何を申すか、物部の武術者は七人はいただろう、吾はマグヒコ一人と闘ったから、傷を負わなかったのだ、大変な功績じゃ、詫《わ》びなど申すな」
と男具那は笑顔でいった。
初瀬川は三輪の南を流れ、大和《やまと》盆地に入ると西北に向い大和川になる。
そういう意味で支流とはいえ、初瀬川水路の一部の交通にかかわっている村長は、庶民の間ではかなりの力と財産を持っている。青魚の話によると、村長の娘が住んでいるのは、小屋のように狭いが一戸建であった。
「それは何よりじゃ、とにかくそこでしばらく養生しろ、他の者には身体の具合が優れぬので実家に戻った、といっておく」
「王子、申し訳ありません」
「また謝る、少ししつこいぞ、兄王子の仇を討てたのも、そちたちがいたからだ、さあ、出発じゃ」
男具那は勢いよくいった。
男具那一行は陽が落ちてから青魚の恋人、カワハタの家に青魚を運んだ。家が水路に関係している仕事なので、カワハタと名づけられたのだろう。
宮戸彦や内彦に抱き抱えられた青魚が呼ぶとカワハタは戸を開けた。抱き抱えられている青魚を知り、悲鳴をあげようとした。
「声を出すな」
青魚が鋭い声で叱責《しつせき》すると手で口を覆った。もうほとんど闇《やみ》なので顔もさだかではないが気丈な女人だった。
青魚がいったとおり信頼のできる女人だ、と男具那は安心した。
「中に入り、明りをつけろ、だが明りを外に洩《も》らしてはならぬ」
青魚の命令は毅然《きぜん》としており、重傷者のようではなかった。
宮戸彦と内彦が青魚を板床に横たえると、青魚は、
「済まぬ」
と二人に礼を述べた。
「しばらくのんびり養生するのだ、時々顔を見に参る、ちょっと元気になったからといって、傷口も固まらぬうちに、媾合《まぐわ》っては駄目だぞ」
宮戸彦の言葉に青魚は、馬鹿な奴《やつ》と苦笑した。外に出ようとする二人に青魚はいった。
「王子の警護頼むぞ、油断するな」
青魚はこんな状態なのに男具那の身を案じていた。
男具那たちが立ち去ろうとすると、青魚の恋人のカワハタが現われた。
男具那の馬の傍《そば》に走り寄ると蹲《うずくま》った。
男具那は馬上から瞳《ひとみ》を凝らして見たが、あまりの暗さに、顔ははっきりしない。手を合わせ、叩頭《こうとう》しているのは分った。
青魚に、王子に挨拶《あいさつ》して来い、といわれたのかもしれない。
「見送りは要らぬ、青魚が信頼した女人、看病を頼む」
「はい、私《わ》の生命《いのち》に代えても看病します、あの、舟着場まで御案内します」
「そうだな、頼むか」
男具那は内心ほっとした。この闇夜に馬で川を渡るのは大変だった。元気そうに見せてはいるが、宮戸彦と内彦の怪我《けが》の程度もはっきりしない。宮の近くまで、舟で戻るのが一番だった。
一行はカワハタに案内され、二百歩ほど歩き、舟着場に着いた。舟には竹竿《たけざお》や櫂《かい》もついていた。宮戸彦と内彦の馬はカワハタの家の傍の雑木林につないでいる。
夜が明ければ部下をやり、取りに行かせればよい。だが男具那は馬に乗って戻らなければならなかった。
男具那は宮戸彦に馬の手綱《たづな》を放すように命じた。
「馬を舟に乗せるには漕《こ》ぎ手が足らない、この黒馬は吾の愛馬じゃ、必ず舟の後をついて来る、心配するな、まあ見ておれ」
男具那は宮戸彦と内彦を舟に乗せると竹竿を握った。
「王子、舟はやつかれが進ませます」
二人が同時にいった。
「残念ながらそれは駄目だ、さいわいそちたちの奮闘のおかげで吾は無傷じゃ、だが二人は浅手だが傷を受けている、身体を動かすと傷口が拡がり、すぐ治る傷も長引く恐れがある、吾は、早く傷を治してもらいたいのだ、分るな」
男具那の言葉は筋が通っており情を含んでいる。
二人は、はっと答える以外に方法はなかった。
カワハタはもやい綱を解くと舟を押した。男具那はたくみに竹竿を操る。舟は川岸に沿って進んだ。男具那の愛馬は自分の存在を誇示するようにいななくと舟の進行に添うように川岸を歩き始めた。
間違いなく馬は男具那の気持を理解していた。流れはそんなに速くない。夜が明けぬうちに戻ればよいのだから男具那は力を込めずに、流れに乗りながら竹竿を操った。東の空に半月が現われた。
男具那の脳裡《のうり》に、死ぬ前のマグヒコがついた悪態がこびりついている。
「強い武術も弱い情のために短い」
マグヒコがついた悪態は死ぬ前の捨て台詞《ぜりふ》かもしれない。だが妙に気になる。
「吾は弱い情など持っておらぬぞ、だからそちは負けたのだ、吾の部下がなぜ、生命を懸けて吾を守ってくれるのか、皆、義務ではなく心から吾を慕ってくれているのだ、それで充分ではないか……」
男具那は自分の胸の中で呟《つぶや》く。
マグヒコとともに寝ていた女人を斬《き》り殺さなかったのが弱い情なのか、と男具那は吐息をつき空を見上げた。星たちが自分たちの時が来たとばかりに到るところで話し合っている。何だか自分のことを噂《うわさ》しているような気がした。
馬がいなないた。愛馬は男具那の舟の方を見ている。間もなく初瀬川に合流しようとしていた。
「よし、クロ、来い」
男具那が愛馬に向って手を振った。
馬は待っていたように川に跳び込んだ。悠々と男具那の舟に近づいて来る。馬が男具那を慕うのも情なのだ。
「マグヒコ、あの時、そちが吾を王子だと感づいていたなら、吾は女人を斬っていた、だがそちは身を守るのに懸命で、襲撃者が吾であることに気づかなかった、だから、傷を負わせたが殺さなかったのだ、弱い情ではない、強い情じゃ」
男具那は自分に向って呟くと、マグヒコの悪態を払い落すように愛馬にいった。
「おいクロ、この速さで構わないか」
クロは答えなかったが、月の光に微《かす》かに映えた眼が、結構です、と頷《うなず》いたような気がした。
一行は初瀬川を渡り、夜の明けぬうちに巻向宮内にある男具那の屋形に戻った。
内彦は二ヶ所、宮戸彦は三ヶ所も傷を受けていたが、さいわい深い傷はなかった。
男具那は三日間、絶対安静を命じた。
男具那はこの春、志願して自分の警護兵になった大伴武日《おおとものたけひ》に命じて、ある限りの薬をカワハタの家に運ばせた。
薬といっても、傷に効くといわれている木の葉、草、また人参《にんじん》などだった。
武日はまだ十五歳、身体も五尺二寸(一五六センチ)で成長し切っていない。だが剣の武術にはなみなみならぬ素質があった。
武日を出した大伴氏は、昔から三輪の王家に仕えて来た有力豪族である。武の氏族で、オシロワケ王の権威も大伴氏によって支えられている面が多い。
当然、オシロワケ王の親衛軍の主流は大伴氏である。ただ今年まで大伴氏は王子たちに警護兵を出していない。
オシロワケ王は、大伴氏が王子たちと親密になるのを恐れていた。
武日が男具那に仕えたのは、武日の強硬な意志による。
武日は男具那に憬《あこが》れ、十歳頃から、仕えるのなら男具那王子以外にない、といっていたらしい。まだ十五歳だし、仇《かたき》討ちには連れていかなかったが、青魚たちと同様信頼できる部下だった。
ただ男具那は、武日にもマグヒコを討ったことは話していなかった。
狩猟で生駒《いこま》山に入り、大猪に襲われ谷に転落した、とだけいっていた。
「誰が何を訊《き》いても、吾が申したとおりを告げるのだ、それ以外のことは話してはならぬ」
男具那の厳しい言葉に、武日はまだ青さが残っている涼しい眼をせい一杯見開き、男具那の命令を復唱するのだった。
武日の報告では、青魚は熱が高く、身体は火のようでほとんど意識がない、という。ただ、食物だけは、カワハタが口移しに食べさせていた。カワハタは飯を自分の口で噛《か》み、粥《かゆ》のようにして食べさせているらしい。
男具那は、ここ数日が勝負だな、と思う。
毎日男具那は夜の明けないうちに起き、三輪山の神に、青魚の回復を祈った。
ただ不思議だったのは、マグヒコをはじめ物部氏の武術者たちが殺された事件が一向に噂にならないことである。
物部氏が必死になって事件のことを隠しているからだ。
だがよく考えると不思議でも何でもないかもしれない。物部氏が選び抜いた武術者が、全員殺されたことが公になると、物部氏の軍事力に疑いの目を向けられる。
強力な軍事力を有している、と物部氏は自慢しているが、口ほどではない、と噂されるのは明らかだ。
物部氏にとってそれはいちばん避けたい噂だった。
武力に優れた氏族として他の有力豪族に、いつまでも畏怖《いふ》の念を抱かせておくことは、物部氏にとって最も大事であった。
男具那は五日目になって、宮戸彦と内彦に軽い運動を許した。
暴れたい衝動を抑えるのに懸命だった二人は大喜びである。
オシロワケ王は数日に一度、王子たちと朝餉《あさげ》を共にする。
倭国《わこく》の王権や政治について語るが、眼は東や西の服従しない国々に向いていた。大和近辺の豪族たちが自分に服従していないことに気づいていない。というより気づくのを恐れていた。
遠い国の夷狄《いてき》を征服したなら、反抗気味の豪族も自然に服従する、というのがオシロワケ王の政策だった。だが、今のオシロワケ王には、強力な軍団を東国、西国に派遣する力はなかった。
兄《え》ヒメに溺《おぼ》れている大碓《おおうす》王子は、王の朝餉に出たり出なかったりした。
欠席の時は、風邪気味なので染《うつ》す恐れがある、と弁解する。実際、当時は風邪がいちばん恐れられていた。
風邪を染され、こじれたなら生命は危うい。風邪の場合は会食に欠席するのは当然だが、毎回、風邪では通用しない。偽りをいっている、と疑われても仕方がなかった。
大碓もそのあたりは心得ていて、時には、頭痛だとか、下痢気味など様々な口実を使うが、オシロワケ王は信用していなかった。
マグヒコを斃《たお》して一月ほどたった。
その日の朝餉には男具那以外にイホキノイリビコ(五百城入彦)など有力な王位継承者が出席した。
オシロワケ王は朝から酒を飲んだ。睡眠不足らしく眼が充血し、顔は脹《は》れぼったい。明らかに苛々《いらいら》しており眼に落着きがなかった。黙り込み、王子たちを睨《にら》みつけているかと思うと、突然、吾は倭国の王者だ、と胸を叩《たた》いたりする。
王子たちは自然寡黙になった。
実際、オシロワケ王は怒り出すと、自分の憤《いか》りに酔い、ますます昂奮《こうふん》する。こういう場合は放っておかなければ仕方がなかった。
朝餉が終りかけた頃、突然王は男具那を睨んだ。自分の膝《ひざ》を激しく叩いた。その拍子に飯粒が口から出た。
王らしくない。こんなところを有力豪族に見られたなら王の権威にかかわる。
「大碓王子はどうした、今日も姿を見せぬな」
「はあ、吾はあまり会っていませんので」
男具那は無駄な弁解はしなかった。
「知らぬというか、まあよい、朝餉が終っても男具那だけ残っておれ、訊きたいことがある、おい酒だ、酒がないぞ」
オシロワケ王の傍についていた若い女人は慌てて、土師器《はじき》の酒壺《さかつぼ》を持ち西側の控えの間に入る。女人は十五、六歳で新しい顔だった。最近後宮に入れたのだろうが、痛々しい感じがした。
間もなく朝餉が終り、イホキノイリビコたちは救われた表情で戻る。王は相変らず酒を飲んでいる。
「この頃、青魚の姿を見ないが、実家に戻ったのか」
「はっ、狩りのために生駒山に入り、谷に落ちました、ただ今、養生をしております」
「生駒山に入ったのか、あそこの山々は、物部が狩猟権を握っておる、物部にはどういったのだ」
「内彦を通し、狩りのために入る、とだけ伝えてあります、それに河内側には入っていません」
「傷の具合は?」
「生命に別状はありませんが、骨を折りましたので、回復するまで、あと二十日はかかりましょう、実家に戻すかどうかは、その後の健康状態を見てから決めます」
「そちはな、王子だぞ、狩猟好きも結構だが、いつまでも山で暴れていても成長せぬ、その点、イホキノイリビコ王子は、難しい文字を勉強しておる、これからの王には学が必要だ、武術だけでは役に立たぬ」
王は吐き出すようにいった。
男具那よりも、イホキノイリビコの方が、王として適格じゃ、といっている。
男具那は返答しなかった。もともと王になどなるつもりはない。王は神事のことも掌《つかさど》らなければならないから、あまり狩猟などはできないのだ。政治を執るにしても、巫女《みこ》王を通し、神に伺いを立てたり、亀の甲で占ったりする。
その点男具那は、自分の意志で行動したかった。神の意見も無視できないが、人間の判断や行動力の方が重要ではないか、と考えていた。そういう意味で異端児だった。
オシロワケ王が、男具那にあまり好意を抱いていない理由の一つは、そのあたりにあった。
ある意味では、神聖な王権に対する反逆にもなる。もちろん男具那はそんなことは口にしないが、王も男具那の行動からそれを感じ取っているのであろう。
朝餉を終えるとオシロワケ王は男具那を庭に連れ出した。真東に三輪山が聳《そび》えていた。三輪山には薄い雲が頂上を覆い、神秘的な感じだった。
数人の女人たちが王に従っているが、気のせいか何となく顔が硬直しているように見えた。王は、庭に取り入れた散策用の雑木林の途《みち》に入った。
雑木林のあちこちに人の気配がする。王の警護兵だった。
オシロワケ王は、大柄な身体《からだ》やどこか間延びのした容貌《ようぼう》に似ず、猜疑心《さいぎしん》が強く、身辺の警護もなかなか厳重だった。男具那は小川の音に混じってすすり泣く女人の声を聞いた。
庭には三輪山から発する小川が流れている。神聖な水とされ、米などはこの川の水で炊《た》く。衣服を洗う水は初瀬川の水を汲むのだ。女人の声は次第にはっきり聞えて来た。王に従う女人たちの脚が重くなる。
太い樫《かし》の幹に上衣《うわぎ》をもぎ取られた女人が縛られていた。女人の身体には鞭《むち》打たれたあとが蚯蚓脹《みみずば》れになっている。肌の色が白いだけに余計に凄惨《せいさん》で残酷な光景だった。髪を束ねた紐《ひも》は切られ、長い髪は腹部のあたりまで垂れ下がっている。蚯蚓張れはふくよかな乳房にも及んでいた。
男具那はその光景を見ただけで、縛られている女人が何者か分った。
大碓がオシロワケ王に、大根《おおね》王の娘だと偽り、差し出した女人なのだ。
「アマネ、顔を上げろ」
オシロワケ王は怒鳴った。王は足許《あしもと》がふらつくほど酔っている。アマネは大根王の縁戚《えんせき》の娘の名前だった。顔は涙に濡《ぬ》れ血も滲《にじ》んでいる。血は真白い布に咲いた赤い花弁のようだった。
「お許し下さい」
アマネの声は、蚊が泣くようであった。
「許すも許さぬもない、大根王の娘などと吾《われ》を偽った罪は王に対する冒涜《ぼうとく》じゃ、今から斬《き》り捨てる」
悲鳴を上げたのはオシロワケ王に従って来た女人たちだった。慄《ふる》えているのが男具那に感じられた。王は刀の柄《つか》に手をかけている。
「お許し下さい」
アマネは斬られまいと首を振る。胸、胴、それに脚も幹に結ばれているのでどうしようもなかった。動くのは頭だけだ。助かりたい一心で無茶苦茶に振るので幹に当り異様な音を立てる。木の葉がアマネの怯《おび》えと悲しみを訴えるようにざわめいた。
「父王、お待ち下さい」
男具那は、王が柄に手をかけたのは威嚇だと視たが、二人の間に入った。
「退《の》け、そちも同罪だぞ、アマネが大根王の娘でないと知りながら、今まで黙っていた、場合によってはそちも斬る」
「父王、気をお鎮め下さい、アマネは大根王の弟王の娘です、美濃《みの》では有名な美人、大根王は自分の娘のように可愛《かわい》がっておりました、大根王は今、病に罹《かか》っています、もし大根王が亡くなれば弟王が王になります、間違いありません、今、アマネを斬れば、美濃は尾張《おわり》、近江《おうみ》、場合によっては越《こし》と結び、戦をいどむかもしれませんぞ、大和の王権はまだ安定していません、東国を相手に戦をすれば大変なことになります、これほど折檻《せつかん》すればもう充分、どうか刀の柄から手をお離し下さい」
「うーむ」
とオシロワケ王は唸《うな》った。刀の柄から手は離さぬが、身体は男具那の方を向いていた。ただ身体が揺れているので刀を抜いてもどこを斬るか分らない。
「いつの間に、弁が立つようになった、だが弟王は、現在王ではない、それに、アマネが弟王の娘なら、そういうべきではないか、男具那、そちは大碓と共謀して、吾を騙《だま》した」
「別に共謀したわけではありません、では真実を申し上げます、大碓王子は最初美濃に行き、兄ヒメ、弟《おと》ヒメを連れて帰ろうとしました、ところが二人共大根王の宮にいないのです、調べると二人共恋人がおり、恋人が匿《かく》まったことが分ったのです、大根王は弟ヒメに恋人がいたことは知っていたのですが、兄ヒメにもいたのを知らなかったのです、大根王はオシロワケ王に、どう謝ってよいかと悩んでいました、さいわい弟王にアマネがいたのです、弟王が厳しく育てたので、まだ恋人はいませんでした、未通女《おとめ》です、大根王は弟王と相談し、アマネではどうだろうか、と大碓に訊《き》いたのです、吾はその時、美濃に着いたのです」
「口の旨《うま》い奴《やつ》だ、だが吾を騙したことに変りはないぞ」
「お待ち下さい、別に大碓に罪を被《かぶ》せるわけではありませんが、大碓は承諾していました、父王、大根王の娘を受け取りに行ったのは大碓です、吾ではありません、そこのところはお間違いないようにして下さい」
「分っているわい、よし、広い心を持って、弟王の娘、アマネを吾に差し出したいきさつは我慢するとしよう、だが、アマネの話では、大碓は大根王の娘、兄ヒメを連れて戻った、というではないか、南山背《みなみやましろ》に住まわせている大碓の新しい恋人は、兄ヒメじゃ、そのことをどう弁解する」
男具那としてはこの際、知らぬ、で押し通す以外にない、と判断した。
男具那が美濃に到着した際、大碓は大根王の離宮に、兄ヒメと弟ヒメを連れ込み、酒宴をもよおしていたのだ。大碓は兄ヒメと媾合《まぐわ》い、次は弟ヒメの番だと舌なめずりしていた。
男具那は弟ヒメを恋人とともに逃がしてやった。大碓は兄ヒメに夢中になり、男具那の忠告もきかずに兄ヒメを自分の恋人として連れて帰ったのだ。
大碓と同罪にされてはたまらない、と男具那が思ったのも当然であろう。
大碓のために、可能な限り弁解したのだ。これが限度だ、と男具那は自分を納得させた。
ことが暴露すれば大罪である。大碓は当然死は覚悟しているはずだった。
男具那は項垂《うなだ》れた。父王の手を観察した。慄えており、とうてい、人を斬れる状態ではなかった。弱味を見せてはならない、と男具那は自分にいい聞かせた。
「父王に申し上げます、吾は早く大和に戻ったのです、そのことは父王も御存知でしょう、南山背の女人が、兄ヒメとは知りませんでした、それは確かなのですか?」
男具那は顔を上げると落ち着いた声で訊いた。男具那の澄んだ眼とオシロワケ王の濁った眼がぶつかり火花を散らす。
視線を逸《そ》らしたのはオシロワケ王の方だった。王はアマネに顔を向けた。
本当か? と訊いている。だがアマネにはそんな眼も自分に危害を加える残虐な光にしか見えない。王に見られただけでアマネは掠《かす》れた声で、お許し下さい、というのみだ。
「父王、まずアマネ妃の縄を解き、上衣を着せ、それから訊かれたらいかがですか、今のアマネ妃には何も喋《しやべ》れません」
「何だと、吾に命令するのか!」
だが刀の柄に掛けた手は動かなかった。
「命令ではありません、吾は真実を申しているのです、アマネ妃、大事な時だ、本当のことを話して欲しい、吾は美濃でもそなたと顔を合わさなかった、そうだろう」
男具那は心配するな、吾が何とかする、と眼で告げた。恐怖心で錯乱しかけていたアマネも、男具那が敵ではないのを感じたようだ。
アマネは何度も頷《うなず》く。
「父王、アマネ妃も申しています、吾は兄王子が兄ヒメを連れて帰り、南山背に住まわせているなど、少しも知りませんでした、美濃から恋人を連れて来たのは知っています、だがそれが兄ヒメとは……」
男具那はいかにも大碓に腹を立てているといった風に唸って見せた。
オシロワケ王も、男具那にあまり罪はない、と感じたようだ。
「それは認めよう、だがそちもアマネが大根王の娘でないことは知っていた、罪がないとはいえぬ、そうであろう」
「それは悪うございました、しかし父王、すでに男子《おのこ》を知っている兄ヒメと弟ヒメを王の妃《きさき》とすることはできません、父王の権威にかかわります、ことに弟ヒメは身籠《みごも》っていたとのことでした」
「大根王が嘘《うそ》をついたのか……」
「大根王も御存知なかったのです、誰も知らない間に男女は結びつきます、大根王が知らなくても不思議はありません、父王……」
男具那は蹲《うずくま》って王を見上げた。
「アマネ妃を死に到らせるようなことがあれば、戦ですぞ、東国は連合します、アマネ妃は弟王の娘でまだ未通女《おとめ》だったのです、父王の妃《きさき》として恥ずかしくありません」
「分ったわい、吾が怒っているのは真実を告白せず、吾を騙したからだ、よし、アマネの縄を解き、介抱してやれ」
どうなることかと慄《ふる》えていた女人たちは急いでアマネの傍に行き、懐の刀子《とうす》で縄を切る。当時、王に仕える女人たちは皆刀子を持っていた。
オシロワケ王は踵《きびす》を返すと男具那に、来るのだ、と命令した。
王は刀の柄《つか》から手を離しているものの、まだ憤《いか》りは解けない。大碓が自分を騙し、どんな理由があるにせよ王妃となるべき女人を自分の恋人にしたのは間違いないからだ。
「大碓は許せない」
王は途《みち》の土を蹴《け》った。小石が飛び楓《かえで》の幹に当って撥《は》ね返った。
警護の兵たちは、雑木林の中を二人を囲むように歩いている。男具那が刀を抜かないか、と心配しているのかもしれない。男具那は内心肩を竦《すく》めて笑った。
今、父王を斬ろう、と思えば簡単だった。十数年、武術の稽古《けいこ》を放棄している王を斬るのは、男具那にとっては丸太ん棒を斬るようなものだった。
「男具那王子、そちにも真実を告白しなかったという罪はある、大碓の大罪は死罪以外にはない、そちに命じる、大碓を斬れ、間違いなく斬るのだ、首は塩につけて持ってまいれ、それによって、そちの罪は許そう、これは王の命令だ」
「はっ、分りました」
「今から部下を率い、大碓の屋形を囲め、だが二人は同母兄弟、ひょっとすると兄王子に情をかけかねない、検査役としてオシノワケ王子を同行させる、半|刻《とき》(一時間)後に宮の前に集合じゃ、早く行け」
オシノワケ(忍之別)王子は、ワカタラシヒコ(稚足彦)王子、イホキノイリビコ王子の弟で、十七歳だった。三王子の母は、崇神帝の孫のヤサカノイリビメ(八坂入媛)だから、王位継承者としては大碓や男具那に劣らず有力だった。
オシロワケ王が検査役としてオシノワケ王子を選んだことに、王の憤りのほどが窺《うかが》われた。
男具那は屋形に戻ると、宮戸彦、内彦、それに大伴武日を呼び、オシロワケ王の命令を伝えた。
「内彦、そちは大碓の屋形に行き、すぐ美濃に逃げるように伝えろ、大碓は朝餉《あさげ》に出なかったから、たぶん南山背の兄ヒメの屋形だと思う、巻向の屋形にいなかったら兄ヒメの屋形に向え、そうだな、美濃に行く前、宇治《うじ》で吾を待つように伝えるのだ、吾は兄王子と死を賭《か》けて争うつもりはない、ただ、少し話し合いたいことがある、今生の別れになるだろう、吾の気持を伝えるのだ、大碓は頭に血が昇り易い、兄王子を思う吾の気持を充分伝えるのだ」
「わかりました、参ります」
内彦は馬小屋に行くと、馬を引いて宮の北門に向った。
大碓の巻向の屋形は、宮の外にあった。宮域内は窮屈だと外に建てたのだ。
これで大碓は命拾いをしたかもしれない。身勝手な行動も時には役立つ。
青魚はようやく元気になったが、まだ散策するのがやっとだった。それに左脚の筋を切断されたらしく、左脚は引きずらねばならない状態である。
元気になっても、男具那の警護隊長の任は無理であろう。
男具那は青魚の代りに十五歳の武日を連れて行くことにした。武日は大喜びで跳び上がっている。
男具那は、宮戸彦と武日にいった。
「検査役としてオシノワケ王子が来る、同行させてはまずい、我ら三人は南山背まで全力で馬を走らせる、オシノワケを置き去りにするぐらい容易《たやす》いことだ、オシノワケの警護兵は徒歩だ、王子は一人では馬を飛ばせない、我らに同行できない以上、検査役の資格はない、分るな」
「オシノワケ王子が検査役とは、いや、恐れ入りました、我らと一緒について来れるのはよくて一里でしょう、まあ半里というところですか、おい武日、大丈夫だな」
「宮戸彦殿、吾は大伴武日じゃ、何なら吾と競走するか」
武日は宮戸彦を睨《にら》み胸を張った。巨漢の宮戸彦を少しも恐れていない。
「大口を叩《たた》きおって、泣き面を見せるな、遅れそうになったなら、その青臭い顔を鞭《むち》で叩くぞ」
武日が唇を噛《か》み締めたのを見て、宮戸彦は肩をゆすった。
「二人共、口争いの時ではない、兄王子の生命がかかっておる、宮戸彦も油断するな、武日は身が軽い、そちの馬は大きいが、そちの重さにいつもあえいでおるぞ」
男具那が笑うと宮戸彦は頭を掻《か》いた。
「参りましたな、予備も連れて行きます」
宮戸彦は、馬を乗り潰《つぶ》した場合を考慮し、乗り換えの馬を連れて行く、というのである。
武日が笑いを噛み殺して俯《うつむ》いた。
「力持ちも、時には損だな、二頭でも三頭でもあるだけ連れて行け、大事な場合だ」
と男具那はいった。
一行が巻向宮の前に行くと、オシノワケ王子が十人ばかりの警護兵を連れてやって来た。
男具那の供が二人なので驚き、
「男具那王子、それで足りるか?」
オシノワケはせい一杯胸を張った。
男具那が刀の柄《つか》を叩き、
「一人でも大丈夫だ、腕には自信がある」
どうだ、吾と腕を競ってみるか、といわんばかりに睨むと、オシノワケは勢いに呑《の》まれたように身体を固くした。離れていても気配で分るのだ。
男具那は宮戸彦と武日に、馬に乗るように命じた。
「オシノワケ王子、参るぞ、逃げられては何にもならないので全力で疾走する、行け!」
男具那は鞭《むち》を使わず皮履《かわぐつ》で愛馬の腹を蹴った。
オシノワケは慌てて、馬に乗った。初瀬川では舟に乗らず馬のまま川に入った。何度も訓練しているので馬は悠々と泳ぐ。オシノワケたちは、初瀬川を渡るのに手間取った。
「待て、待て!」
と呼ぶオシノワケの声を聞き流しながら男具那は馬を飛ばした。宮戸彦の馬はさすがに大きい。それでも宮戸彦は新しい馬を自分の馬につないでいた。
龍王山の山麓《さんろく》を過ぎ、石上《いそのかみ》神宮に達した頃には、もうオシノワケ一行の姿は見えなかった。武日は身軽なだけに男具那が予想していた以上に速かった。男具那の真後ろについて離れない。宮戸彦は懸命だが半丁(約五〇メートル)近く遅れていた。
男具那は乃楽《なら》山で一息入れた。二丁ほど遅れてやって来た宮戸彦の馬は泡を吹いている。宮戸彦は愛馬に水を飲ませ雑木林につなぎ、新しい馬と乗り換えた。
「馬術が上手《うま》いのではない、身体が枯れ葉のように軽いからだ」
宮戸彦が武日に口惜《くや》しそうにいった。
「その通りです」
武日は澄ました顔で答える。これには宮戸彦も二の句がつげない。
「宮戸彦、この場合はおぬしの負けだな、それはそうと、オシノワケ王子をどのぐらい離している、一里ぐらいだろう」
男具那は道に耳を当て追って来る馬の蹄《ひづめ》の音を探ろうとした。何の音も聞えない。半里以上は離していた。
「よし、出発だ、一里以上は離せ、兄ヒメの屋形を焼かねばならぬ」
男具那は馬に跳び乗った。
兄ヒメの屋形の傍まで来た時、男具那は凄《すさ》まじい乱闘の叫びを聞いた。刀と刀がぶつかり合う音、気合い、叫び、それに悲鳴などが聞える。
「兄者は狂った、内彦一人が闘っておる、馬鹿な兄者じゃ、武日、宮戸彦、馬を乗り潰すつもりで走れ」
男具那たちは木津《きづ》川沿いの道を懸命に走った。兄ヒメの屋形に通じる小道を曲った男具那は、眼を見張った。刀を抜き闘っている者は十人もいた。屋形の周りに十を超える人間が転がっている。半ば以上は死んでいるらしく動かない。
男具那は喚《わめ》きながら刀を振り廻《まわ》している大碓を見た。
「王子、ここです」
小丘の中腹で二人を相手に闘っていた内彦が嬉《うれ》しそうに叫んだ。
「王子、内彦の相手は副警護隊長・倭海雄《やまとのうみお》の部下ですぞ、やつかれにまかせて下さい」
馬から跳び降りた宮戸彦は抜刀すると丘に駆け上がる。
「武日、そちの腕の見せどころじゃ、少なくとも二人は斬《き》れ」
男具那は大碓と刀を合わせている海雄に向った。大碓は顔も衣服も、傷を受けたのか全身|血塗《ちまみ》れである。
「おう、男具那か、こいつが裏切った、いや、副隊長として吾に仕えていたが父王の間者として吾を監視していたのじゃ、不意をつかれ背中を斬られた、動きが鈍いのはそのためじゃ、残念」
やはり血塗れの海雄が振り向いた。暗い刃物のような眼が男具那を吸い込むように光った。飢えた山犬のような眼だった。
[#改ページ]
十五
「兄者、屋形に火をつけろ、吾《われ》は兄者を殺したと父王に報告する、その際の首級は、この倭海雄《やまとのうみお》じゃ、それが裏切り者の運命だ」
男具那《おぐな》の声は淡々としていたが氷の刃《やいば》のように冷やかであった。
海雄は眼を細めると、吾は間者《かんじや》ではない、と呟《つぶや》き、口笛に似た気合いとともに男具那の首筋に斬《き》りつけて来た。絶叫に似た気合いがなかっただけに不意打ちに似ていた。突然背後から斬られた大碓《おおうす》が背中に傷を受けたのも無理はなかった。
男具那は刀を抜く間もなく後ろに跳んだが、倒れていた兵士につまずき転倒した。
海雄はこの時とばかりに、刀を空中で一回転させると突きを入れて来た。
素早かったが一回転させた分、男具那に刀を避ける余裕を与えた。男具那なら一回転させずに突きを入れるところだ。
再び海雄が突きを入れようとした時、男具那の危機と見た大碓が海雄の背後から突きを入れる。海雄が避けたのと男具那が跳び上がったのと同時だった。
「兄者、早く火をつけろ、父王の検査役が来る」
男具那は叫びざま身を捻《ひね》り、海雄の右の足許《あしもと》を狙《ねら》った。左に躱《かわ》されるのを計算に入れていた男具那は、捻った身体《からだ》を利用し海雄の胸許《むなもと》を狙った。海雄は避けるのがせい一杯だった。
男具那の得意の連続突きが始まった。正面、右、左と相手に息をつかせない。丘の麓《ふもと》まで追い詰めると、海雄は懸命に身をかがめ男具那の脚を払って来た。
男具那は待っていたように跳び上がりざま、海雄の頭部に突きを入れた。空中なのでいくら男具那でも、振り下ろしていては威力が鈍る。その点突きなら切っ先で抉《えぐ》ることができるのだ。
男具那の突きは海雄の頭部に二寸(約六センチ)ばかり入った。
熟柿柿《じゆくしがき》が地に落ちたような音とともに、男具那は骨を砕いた衝撃を感じた。
海雄が刀を捨て両手で男具那の刀を握った。闘いに勝とうとする本能的な行為である。もうほとんど意識はない。男具那が跳び下りながら刀を抜くと、数本の指が血《ち》飛沫《しぶき》とともに飛び散った。
海雄との激闘で、男具那が初めて見た血の噴出である。それが海雄の最期だった。海雄はまるで刀に引っ張られるように斜め横に倒れた。なぜか片方の眼だけが白眼になり男具那を睨《にら》んだ。
男具那は凄《すさ》まじい海雄の執念に身体を氷が貫いたような恐怖を一瞬覚えた。生命《いのち》を懸けての斬り合いは、終った瞬間に恐怖が一度に押し寄せて来る。
海雄の白眼の部分にみるみる血が滲《にじ》み真赫《まつか》になった。まさに死の鬼神の形相である。
男具那は海雄の喉《のど》に突きを入れ、止《とど》めを刺した。
兄《え》ヒメの屋形に火がついた。
「兄者、でかい図体《ずうたい》の死体を三、四人放り込もう、焼け焦げた奴《やつ》の首を斬り、兄者の首だと父王に渡す」
男具那の言葉に、大碓は汗と血を拭《ぬぐ》いながら驚いたようにいった。
「男具那、おぬしにそういうことができるとは思ってもいなかった」
「何をいっている、裏切り者は死ぬのだ、死んだ者は焼かれようと、熱さも痛みも感じない、おっ、もうそろそろオシノワケの一行が来るぞ、おぬしの姿を見られては具合悪い、兄ヒメは?」
「警護隊長|美濃八束《みののやつか》に三名の兵をつけ川に逃した、こんな時もあると思い、舟を用意してある、仕えている女人が二人、屋形で斬られた」
「分った、後で話を聴こう、兄者は大急ぎで逃げろ、宇治《うじ》で待て、明日か明後日には行く」
「宇治は遠過ぎる、木津《きづ》川を渡った椿井《つばい》で待つ、吾は美濃に行くつもりだが、その前に是非話したいことがある」
「ああ、早く行け」
泣くような悲鳴が背後で聞えた。
振り返った男具那は、宮戸彦《みやとひこ》が敵兵の腕を斬り落したのを見た。いや、斬り落したというより斬り飛ばした、といった方が適切である。腕は宙を舞い五尺(約一・五メートル)は飛んで落ちた。崩れて行く兵の肩口から陽を浴びて眩《まぶ》しいような血が噴出する。
「それ、これで悲鳴もあげられまい」
宮戸彦は崩れ落ちる寸前の兵の首を叩《たた》き斬った。普通なら首は三尺以上は飛ぶのに、肩の傷で血を失ったせいか一尺ほど飛んだだけだ。
今度は熟柿柿が数個、同時に落ちたような音がした。
「宮戸彦、大きな奴を燃えている屋形に放り込め、早くしろ、兄者、去るのだ」
男具那は大碓に体当りすると、背中を叩いた。大碓は充血した眼をしばたいた。
「待っているぞ、必ずな」
抜いた刀を鞘《さや》に入れず、丘の雑木林に走り込む。宮戸彦は二体を同時に屋形に放り込んだ。男具那はまた海雄の部下の止めを刺した。もし回復し、喋《しやべ》られては身の破滅である。
逃げようとして背を向けた敵兵の背に刀を突き立てた武日《たけひ》は、相手が倒れても狂ったように突き刺す。初めての斬り合いに十五歳の武日は昂奮《こうふん》のあまり、相手を冷静に見れない。武日が突き刺す度に、泥田を歩くような音がする。
「武日、やめろ、もうとっくに死んでいるぞ、馬鹿が」
宮戸彦の一喝に武日はびっくりしたように後ろに跳んだ。
武日も全身|血塗《ちまみ》れである。
武日は吾に返ると男具那の傍《そば》に跳んで来て蹲《うずくま》った。
「王子、やつかれは二人斬りました」
肩で大きく息をしながら武日が告げる。
「おお、見事じゃ、宮戸彦と武日、念のために、転がっている倭海雄の部下を今一度刺せ、おう、よく燃えて来たぞ」
北風が吹き、茅葺《かやぶ》きの屋形はあっという間に炎に包まれた。紅蓮《ぐれん》の炎は、大空に向って荒れ狂い吠《ほ》えた。まさに生きた巨大な火の獣だった。
オシノワケ(忍之別)王子の一行がやって来たのは屋形が崩れ落ちた時である。
オシノワケも警護兵も汗塗れで、茫然《ぼうぜん》と地上に転がった兵たちを眺めた。
火の粉が飛び散り、オシノワケの馬がいななく。恐怖のあまり棒立ちになり、乗っていたオシノワケを振り落した。
地響きを立てて落ちたオシノワケは頭でも打ったのか、呻《うめ》き声をあげながら動かない。
警護隊長が慌てたように馬から降り、介抱する。
男具那はオシノワケが、馬の訓練をしているところをあまり見たことがなかった。馬が倭国《わこく》に入って来てから、まだ二十年もたっていない。
だいたい馬は王族や有力豪族の首長級が乗るもので、普通は警護兵は馬など持てない。
男具那の警護兵の何人かが馬にたくみなのは、男具那の方針だった。
男具那は惜し気もなく王子用の上質な絹布や硬玉を馬に換えた。また男具那の警護兵は有力豪族の子弟で、自分の意志により男具那に仕えている。彼らは馬に乗るのが好きで、実家では馬に乗っていた。なかには馬を持参して男具那に仕えた者もいる。
やっと立ったオシノワケは火の粉を恐れるように、顔を腕で覆いながら男具那の傍にやって来た。
途中で、歯を剥《む》き舌を出している遺骸《いがい》につまずき、悲鳴をあげてしまった。慌てて口を押えたが洩《も》れた悲鳴を隠すことはできない。
「男具那王子、これはどうしたことだ、大碓王子は?」
オシノワケは慄《ふる》えていた。声ももつれ聞き取り難《にく》い。
「どうした? 吾は父王から大碓王子の首を持て、といわれた、大碓王子や部下が吾に抵抗するのは当然ではないか、だから部下とともに斬ったのじゃ、見ろ、吾の部下は一人で何人も斬ったぞ、血塗れじゃ」
オシノワケは宮戸彦たちを見たが、射るような鋭い眼光を浴びて怯《おび》えたように声を潜めた。
「大碓王子は?」
「かなわぬと見て、屋形に火を放ち兄ヒメとともに自決した、間もなく屋形は燃えつき、火もおさまる、黒焦げになっているだろうが、吾の同母兄じゃ、おぬしには分らなくても吾には分る、首を斬り、父王に持参する、おぬしは検査役じゃ、最後まで見ておれ」
雑木林で呻《うめ》き声がした。
傷を負い隠れていた海雄の部下が木に縋《すが》って立った。
「おう、おう」
泣くような声でオシノワケを呼んだ。
オシノワケは、襲われるものと慄え、刀の柄《つか》に手を掛けたが動けない。刀を抜いた宮戸彦が素早く跳んで行った。
「くたばれ!」
大喝すると縋っていた枝ごと警護兵の胴を輪切りにした。血が幹を赤く染め、腹部を半分|斬《き》られた兵は縋っていた枝に噛《か》みついた。
枝は嫌な音を立てながら折れ、噛みついて離れない兵とともに倒れた。だが息は絶えているのに兵は枝から離れない。重みで斜面をすべり地響きを立てながら道端に転がる。
枝に噛みついていた歯が折れ、兵の顔は枝から離れ、真赫な口を開けたまま恨めし気にオシノワケを睨《にら》んだ。
オシノワケは口を押えるとしゃがみ、嘔吐《おうと》した。胃液とともに黄色い濁り汁が多量に出、上衣《うわぎ》を汚した。
あまりにも凄《すさ》まじい光景に、オシノワケの警護隊長は夢遊病者のように歩き、オシノワケの傍にしゃがみ込んだ。オシノワケの背中をさするのがせい一杯である。
宮戸彦は哄笑《こうしよう》すると、大きな音をたてて刀を鞘《さや》におさめた。
燃えつきた屋形は崩れ落ち、風にあおられた残り火が思い出したように炎をあげる。
「桶《おけ》も燃えたのう、農家から桶を借り、残り火を消すか、オシノワケ王子、部下に命じて桶を取りに行かせるのじゃ」
「わ、吾は検査役じゃ」
オシノワケは胃を押えながら苦し気にいった。
「検査役か、楽だのう、我らもこの激闘でいささか疲れた、自然に火が消えるまで待つとするか、皆、横になれ」
男具那が横になると、宮戸彦たちも草叢《くさむら》に横たわる。
しばらくして、オシノワケの警護隊長が、
「おっ、これは倭海雄」
と見てはならないものを見たように叫んだ。やっと海雄の遺骸に気づいたらしい。
「海雄の首級も持ち帰るか……」
と男具那は独り言のように呟《つぶや》いた。
陽は南西の生駒《いこま》山に落ちようとしていた。茜《あかね》色の雲は眼を見張るほど鮮やかで、上部は紫、下部は深紅の雲が人の顔そっくりな形で夕陽の傍に浮いている。
「オシノワケ王子、あの雲を見よ、大碓王子の顔に似ていないか……」
オシノワケは身体を固くして答えない。これからどうしてよいか、迷っているようである。
「もうそろそろ日が暮れる、農民に命じて残り火に水をかけ、首を斬るのが一番だと思うが、吾は大碓王子の遺体さえ見ればよい、焼け死んだのは間違いないのだからな、いや、遺体を見る必要もないだろう、人が焼かれた匂《にお》いは胸に悪い、そうだ吾は先に戻り、父王に報告する」
オシノワケは一時も早くこの場所を去りたいようだった。
「戻るなら戻れ、だがこの調子では首を斬るのは明日の早朝になるかもしれぬぞ」
「仕方ないだろう、吾は大碓王子の死を確認した、それで検査の役は終った」
男具那は立つと宮戸彦に、竹を伐《き》って来るように命じた。
「しかし、屋形で自決した兄王子の遺体ぐらいは見て行け、自分の眼で確かめてこそ、検査は終ったことになる」
オシノワケが、どうすれば良い、と警護隊長を見ると、隊長も、
「男具那王子様のおっしゃるとおりです」
と頷《うなず》くのだった。
ヤサカノイリビメ(八坂入媛)が産んだ三兄弟のうち、いちばん優れているのはやはりイホキノイリビコ(五百城入彦)である。長兄のワカタラシヒコ(稚足彦)も、オシノワケも武術は駄目だし度胸もなかった。
男具那はくだらぬ王子だ、とオシノワケを軽蔑《けいべつ》した。
二羽の百舌鳥《もず》がけたたましい叫びをあげて飛び、人肉の焼ける匂いを嗅《か》ぎつけたのか、烏が集まり始めていた。
宮戸彦が近くの竹藪《たけやぶ》に行き竹竿《たけざお》を持って来た。男具那の部下でいちばん元気なのはやはり体力の旺盛《おうせい》な宮戸彦だった。
「オシノワケ、よく見ろ」
男具那は燃え落ち黒くなった柱や板壁を竹竿で掻《か》き分けた。
まだ埋れ火は少し残っているが炎をあげるほどの勢いはなかった。
オシノワケは恐ろしそうに身を退《ひ》き、顔を背《そむ》けて男具那の竹竿の方を眺めている。
「検査役だろう、ここに来るのだ」
男具那の声には闘いの殺気が残っていた。部下に対するような命令口調だが、オシノワケは糸に操られたように男具那の真後ろに来た。
度胸のない王子である。
男具那が前に出て黒くなった坂壁を叩《たた》くと、砕けて下の方から残り火が蛇の舌のような炎をあげた。
焦げた人間の異様な匂いが鼻を突いた。オシノワケは呻《うめ》いて手で口を覆う。
男具那の竹竿は黒焦げになった人間の脚を探り当てた。男子《おのこ》か女人なのか見分けもつかない。黒い丸太ん棒そっくりだ。
「オシノワケ王子、これが焼けた人間だ、よく見ろ」
男具那が竹竿で突くと焦げた表皮が剥《む》け、紫がかった人肉が現われた。
「分った、よく分った、大碓王子は屋形で焼け死んだのだ」
「違うぞ、火を放って自殺したのだ、たぶん、兄ヒメも一緒だ」
「見た見た、ちゃんと父王に報告する」
「吾が申したとおり告げるのだ、嘘《うそ》の報告をしたなら、王子であろうと吾が許さぬぞ」
男具那が刀の柄を叩くと、オシノワケは慄《ふる》えた。
「嘘などつかない、火を放ち自殺した」
「反抗して来た海雄や、美濃八束の部下は、吾と吾の部下が斬った」
「男具那王子と、王子の部下が斬った」
とオシノワケは擦《かす》れた声で答えた。
「そのとおりだ、行け!」
男具那が一喝するとオシノワケは走りかけたが遺骸につまずき転がる。その拍子に眼を剥いた死人の顔でもぶつかったのか、まるで女人が獣に遭った時のような声をあげた。
オシノワケが去ってから、男具那は草の中から窺《うかが》っていた農民たちに声をかけた。
農民たちは這《は》いつくばって動かない。
「吾は巻向宮《まきむくのみやや》の倭男具那《まとのおぐな》王子だ、村長《むらおさ》を呼べ、早くしろ」
こういう時の男具那の声は山野に響き渡るほど大きい。間もなく村長が這いながら近づいて来た。
四十半ばだが深い皺《しわ》が刻まれている。
男具那は村長に、燃えつきたように見えるが、念のために水を掛けるように命じた。
陽は生駒山の彼方《かなた》に落ちようとしている。
「急ぐのだ、分ったな」
「はい、ただ今すぐに」
村長は這いながら草叢《くさむら》に消えると走り始めた。間もなく農民たちが集まり、黒い木炭の塊に変った屋形に水を掛けた。
生駒山系に陽が落ちると急に夕闇《ゆうやみ》が濃くなる。男具那は首級をあげるのは翌朝に決めた。
大碓のことが気になってならない。
男具那は内彦《うちひこ》に、宿泊の農家を決めておくように命じ、宮戸彦一人を連れて木津川に向った。木津川につくとすでに闇だった。
男具那と宮戸彦が舟を探していると、
「男具那王子様……」
闇の中から声がした。
「大碓王子様の警護隊長、美濃八束でございます、大碓王子様の命令を受け、川岸でお待ちしていました」
黒い煙が籠《こも》ったような川岸の葦《あし》の中から人影が現われた。男具那の傍に来て蹲《うずくま》る。
「おう、八束か、兄者は元気か、傷は?」
「傷の手当ては致しました、深い傷ではありませんので御生命に別状はございません」
「そうか、それはよかった、早く会いたい」
二人は気の合わない兄弟だった。
双生児は縁起が悪いというので兄の大碓は生まれるとすぐ、巫女《みこ》の占でどこかに連れ去られたという。大碓が印南《いなみ》に戻って来たのは四歳ぐらいだった。
身体の頑丈な大碓は母の愛情のすべてを受け、ぬくぬくと育っている男具那を苛《いじ》めた。
負けん気の強い男具那は、大碓との喧嘩《けんか》に勝つために喧嘩の技を覚えた。
力に対抗するためには身軽さしかない。
男具那は山を駆け巡り、木から木へと跳び、木の棒で武術の訓練に励んだ。竹竿の術を会得したのもその頃だった。
大碓も負けてはいなかった。十歳になった時の二人の喧嘩は、武術者同士の闘いよりも凄《すさ》まじかった、といわれている。
男具那が、畿内《きない》一といわれるほどの武術者になれたのは、大碓がいたからである。
十四歳になると二人は巻向宮に戻ったが、二人は気が合わなかった。よくいい争い喧嘩をし、時には一ヶ月も二ヶ月も口をきかなかった。相手に負けまいと武術に励んだ。
だが、今になってみると、二人は同じ血によって結ばれており、その絆《きずな》は、どんな刀でも切ることができないほど固かったのが痛感される。
たとえ死罪になろうと、男具那は大碓を斬《き》ることはできない。
二人は母の子袋の中で、抱き合うようにして大きくなり、母の胎内から生まれたのだ。どうしてこの運命と血を断ち切ることができるだろうか。
このところあまり雨が降らないので木津川の水量は落ちているが、まだまだ川底は深かった。餌《えさ》でも争っているのか数羽の山鳥が鳴き、呼応するように山犬が吠えた。
男具那の耳に川面《かわも》に跳ねる小魚の音が、絶え間なく聞え始めた。心にゆとりが生じたせいかもしれない。
二人は八束が用意していた舟に乗った。手綱に結びつけた綱を引っ張ると二頭の馬は木津川に跳び込み、悠々と泳ぐ。人を乗せていないので泳ぎ方は安定していた。
間もなく対岸に着き、八束は山麓《さんろく》の山小屋に案内した。八束が口笛を三度鳴らすと大碓が現われた。
大碓の警護兵に宮戸彦も混じり、小屋の周囲を警護する。八束が土器の魚油に火を点《つ》けた。
「俯《うつむ》くぞ」
背中に受けた傷で大碓は仰向《あおむ》けになれない。男具那は痛々し気に大碓を見た。
「兄者、どうなったのだ、初めから話してくれ、倭海雄は吾《われ》に、父王の間者ではない、とうそぶいた、嘘をついたとは思えぬ、いったい、海雄はなぜ兄者を裏切ったのだ?」
「そのことだ、吾も訳が分らなかった、ここに籠って以来、ずっと考えていた、ようやく一つの結論を得た、まず、内彦が到着したときの模様から話そう」
兄ヒメの屋形に到着した内彦は、男具那王子の使者だ、と叫びながら転げ込むように土間に入った。八束は部下を督励して冬の暖房のための木を伐《き》っていた。
屋形の外にいたのは、海雄とその部下だった。
海雄が裏切るとは思ってもいなかった内彦は、兄ヒメが大根《おおね》王の娘であることがばれたので、すぐ美濃に逃げるように、という男具那の意向を伝えた。
兄ヒメは南山背《みなみやましろ》に住むようになってから、オリメと名を変えていた。兄ヒメが大根王の娘であることを知っていたのは美濃八束だけであった。秘密は厳重に守られており、海雄もオリメが大根王の娘であることを知らなかった。
大碓は事態を察し、男具那の意向に従うことにした。
兄ヒメや侍女に、美濃に脱出するから手荷物だけ持つように、と命じた。
八束をはじめ、東国出身の警護兵は連れて行ける。だが海雄とその部下は大和《やまと》の出身なので、置いて行かねばならない。
大碓は屋形に入り、女人たちとともに美濃行きの準備を始めた。その時、海雄とその部下が刀を抜いて乱入して来た。
オリメが、大根王の娘と知った以上、美濃には行かせない、というのである。
入口を固め、大碓たちを外に出さない、と叫んだ。
もう内彦は刀を抜いており、大碓に裏戸から逃げるように、といった。
大碓は内彦に、兄ヒメを木津川の舟着場まで連れて行くように、と頼んだ。
内彦は大碓の命令に従い、兄ヒメの手を引くようにして裏戸から出た。八束に大声で、海雄の裏切りを告げた。
海雄たちは斬りかかり逃げ遅れた女人たちも斬った。
内彦は駆けつけた八束に、簡単に事情を告げ、兄ヒメを逃がすように、といった。
八束は大碓を守ろうか、兄ヒメを逃がそうか、と迷った。内彦は苛立《いらだ》ち、追手が来る、早く兄ヒメを逃がすようにと叱咤《しつた》した。
八束は三人の警護兵を連れ木津川に向ったのだ。いつ、このような事態が起こるかも分らないので、脱出用の舟は準備してあった。
舟着場の渡し守にも絹布を与えている。八束は木津川をさかのぼると加茂《かも》で舟から下り、三人の部下に兄ヒメを守らせ、戻って来たのだ。
すでに男具那たちが海雄を斬った後だった。
大碓は男具那と会うため、この小屋で待っていたのである。
「兄者、一つの結論を得た、といったが、いったいどんな結論じゃ」
「長兄、櫛角別《くしつのわけ》王子を惨殺した犯人のことだ」
「兄者、それは筑紫物部《つくしもののべ》じゃ、吾は先日|河内《かわち》に行き、筑紫物部のマグヒコと河内の物部数人を殺し、兄王子の仇《かたき》を討った、間違いない、マグヒコもフタジノイリヒメの屋形と間違い、兄王子の屋形を襲い兄者とその妃《きさき》を殺したことを告白した」
男具那はホムツワケ王子に会いに行ってからのことを詳しく話した。
「兄者に告げなかったのは、ことを隠密に運びたかったからだ、許せ」
「そうだったのか、許すも許さぬもない、そうか、兄者を殺したのは筑紫物部か……」
大碓は唸《うな》ると床を叩《たた》いた。大碓の身体《からだ》が膨らんだように思えた。力持ちの大碓の体形はマグヒコ(莫具彦)に似ている。
「間違いない」
と男具那は告げた。
「男具那が美濃に発《た》った時、おぬしを襲った投げ網の曲者《くせもの》も、筑紫物部なのか………」
大碓は首を振り、納得できぬ、という口調だった。
「兄者、それだ、それが分らぬ、ホムツワケ王子も、投げ網の曲者は何者か分らぬ、と口を濁した、筑紫物部ではない」
「何だと、早くそれをいえ」
大碓が顔を捻《ね》じ曲げて男具那を見、悔しそうに床を叩いた。
「兄者、おぬしの結論とは……」
「結論が当っているかどうかは分らぬ、ただ、海雄が吾に斬りかかって来た時、吾は海雄に、父王の廻《まわ》し者だったか、と怒鳴った、ところが海雄は首を横に振り不敵な笑みを浮かべた、もし、父王の密命を受けて吾を密《ひそ》かに監視していたなら、海雄は首を横に振らない、頷《うなず》くか、そうだと洩《も》らすだろう、それにおぬしが、父王の間者だったのか、と訊《き》いた時、海雄ははっきり違うといった、そうだな」
「そうだ、間者ではない、と答えた、あの状況で嘘をつく必要はないだろう、倭海雄は父王の廻し者ではない、と思った、しかし、海雄は父王の命令で兄者を警護するようになったのではないか……」
「ああ、父王の命令だった、いや命令というより、父王は倭海雄が吾の警護の任にあたりたい、と申している、と告げたのだ、警護をしながら、吾に武術を教わりたい、と願ったそうだ、どうだ男具那の推測は」
「うーむ、父王の廻し者ではないが、誰かの意向を受けて兄者の警護の副隊長になった、というわけか、それ以外には兄者に刀を向ける理由はない」
「そのとおり、問題は、海雄が誰の意向を受けたか、ということだ、その黒幕が分れば、おぬしを襲った投げ網の連中の正体も分る、吾はそう視たぞ」
闇の中で大碓の眼は爛々《らんらん》と輝いた。眼の中に映えた灯明りが光ったような気がした。海雄は駆けつけた男具那にも向って来た。
前からの敵のようだった。男具那を斬ることに躊躇《ちゆうちよ》などまったくなかった。
「兄者、海雄は兄者と同じように吾も斬りたかったのだ、ということは、海雄の黒幕は我らを敵視している者だ、だんだん分って来たぞ」
今度は男具那の眼が雨の日の墳墓《ふんぼ》で燃える青い火のように無気味な光を発した。大碓が口を開いた。
「吾の結論を申そうか……」
「待て、王子ではないな」
「王子ではない、あの連中には倭海雄の黒幕になれる器などない」
「そうだ、それに父王でもない、となると王位継承者としての我らを憎んでおり、海雄にも命令できる者といえば」
「そのとおり、皇后面をしているヤサカノイリビメしかない、まさかとは思うが」
闇《やみ》の中だが、男具那には大碓が顔を歪《ゆが》めたのがはっきり分った。
「そのまさか、が吾の結論じゃ、美濃に行くおぬしの行動を知り得る者といえば、父王と、おぬしの部下じゃ、だが部下たちのおぬしへの忠誠心には疑いを挟む余地はない、となると父王ということになるが、父王がおぬしに好意を抱いていないとしても、刺客を差し向け、暗殺したりはしない、そこまでおぬしを恐れ、また憎んではいないだろう、ところが、皇后面をしているヤサカノイリビメは、自分の子、ワカタラシヒコ、イホキノイリビコ、それにオシノワケのいずれかを王にしたい、当然、吾とおぬしが邪魔者になる、ことにおぬしは人望がある、いや、吾の申すことを聴け、おぬしの人望はこの吾も妬《ねた》むほどだ、大和のみならず、河内、播磨《はりま》、山背、吉備《きび》、丹波《たんば》などにおぬしの名は行き渡っている、物部がおぬしを殺そうとしたのも当然だ、そう考えて行くと、ヤサカノイリビメが自分の子のためにおぬしを憎むのは当り前ではないか、それにヤサカノイリビメなら、おぬしの美濃行きを父王から聴くことは難しいことではない、ことにヤサカノイリビメは海人族の血を引いており、親しい者も多い、どこかの海人族、おそらく、吾の副警護隊長になっていた倭海雄あたりに頼み、淡路《あわじ》か阿波《あわ》あたりから、海人族の武術者を呼び、おぬしを襲わせたに違いない、海雄が吾を殺そうとしたのが、何よりの証拠だ、そうではないか」
「そうだな、認めざるを得ない」
男具那は父王以上に太り、白粉《おしろい》を塗りたくっているヤサカノイリビメの顔を瞼《まぶた》に浮かべた。もう四十を過ぎているが、後宮に対する権力は絶大だった。
何といっても有力な王位継承者の三王子の母である。オシロワケ王も、若い女人を寵愛《ちようあい》している引け目から、ヤサカノイリビメに遠慮している。
ことにヤサカノイリビメは、父王の祖父、ミマキイリビコイニヱ王(崇神《すじん》帝)の孫娘である。王は海人族であるオワリオオシアマヒメ(尾張大海媛)にヤサカノイリビコを産ませたが、彼の娘がヤサカノイリビメである。
血統的にも優れており、男具那たちの母が亡くなった今、ヤサカノイリビメが皇后面をするのも当然だった。
「男具那、吾は兄ヒメとともに美濃に行く、もう王位など真っ平だ、これからの短い人生、好きなように生きる、だがおぬしは違う、母上も、吾よりおぬしを愛しておられた、いや返答は無用、吾は本当のことをいっているのだ、何も母上を恨《うら》んではいない、吾は牛に似た体形だし、顔もいかつい、だがおぬしの顔は、時には女人と思えるほど整っている、頭も良い、それに母上の傍で育ったおぬしが憎く、吾はおぬしを苛《いじ》めた、また双子として生まれたが、兄面をして威張った、吾はおぬしに憎まれている、と思っていた、まさかおぬしが救いに来るとは想像してもいなかったぞ、嬉《うれ》しい」
大雄の声が彼らしくなく湿った。二人は申し合わせたようにお互いの手を握り合っていた。大碓の手は厚く力強い。男具那も胸が一杯になった。大きな川魚が跳ねた。秋を前に虫の声も勢いがよい。
「兄者、吾も嬉しい、初めて同じ血が流れているのだなあ、と感じたぞ、吾も、王位争いは真っ平だ」
「分っている、おぬしは前からそういっていた、だがおぬしには、おぬしに与えられた運命がある、大和にいて生きるのだ、ヤサカノイリビメの王子たちに負けるな、それと、木津川でおぬしを襲った連中は、おぬしに、手傷を負わせることができなかった、もう済んだことだ、奴《やつ》らを探そうとはするな、たぶん、ヤサカノイリビメも今度で懲《こ》りて、二度とおぬしを殺そうとはしないだろう、済んだことを穿《ほじく》り出すと、蜘蛛《くも》の巣に掛かってしまう、分っているな」
「ああ、分っている、吾のことは大丈夫だ、ただ兄者、一つだけ気になることがある、いつだったか、母上に恋人がいた、と吾に言ったが、本当か?」
「語り部の女人から聞いた、母上が父王を愛していたとは思えぬ、政略結婚だからな、なぜそんなことを気にする」
「いや、兄王子の仇《かたき》も討ったし、一度、播磨に行き、母上の墓に参りたくなったのだ」
「そうか、吾も美濃から手を合わせ、不孝を詫《わ》びよう」
笛の音に似た音がした。
闇の中に黒い影が動き、舟に乗る時が来た旨、八束が知らせた。
大碓が手に力を込めた。骨が砕けそうな力である。男具那も負けずに握り返す。
「おう、吾も負けそうじゃ、男具那、行くぞ」
「兄者、達者でなあ、兄ヒメは素晴らしい女人だ、兄者は幸せな男子《おのこ》だ」
「おう、吾もそう思う、あれだけの女人に惚《ほ》れられたのは初めてだからのう」
「兄者ののろけを初めて聞いたぞ」
男具那が嬉しげに笑うと、大碓は空いている左手で自分の胸を叩《たた》き、咳《せ》き込んだ。
「別れにのろけぐらい、いわせてくれ、う……」
大碓は万感が込み上げ、言葉にならない唸《うな》り声を出した。
近くの村長の家で一泊した男具那は、早朝焼け跡の中から炭のようになった遺体の首を二つ斬《き》り取った。一つは男子で、一つは女人のものだった。二つの首級は完全に焼け爛《ただ》れ、生前の顔は判別できない。
男具那は巻向宮に内彦を走らせ、オシロワケ王の警護隊長に、大碓と兄ヒメの首級を持参する旨を伝えさせた。
布にくるんだ首級を鞍《くら》に吊《つ》りさげた男具那は悠々と馬を進めた。
夜を徹して舟を進めた大碓と兄ヒメは、もう近江《おうみ》の国に入っているだろう。
今頃は湖の舟の上で仮眠を取っているかもしれない。
時には本当の兄弟だろうか、と何度も疑い、その度に嫌悪を抱いた大碓だが、今は同じ血が流れているのをひしひしと感じる。
男具那が大碓に親愛感を抱いたのは、父王に渡さなければならない兄ヒメを横取りし、南山背の木津川に住まわせてからであった。兄ヒメとの関係は大碓の一方的なものだけではなかった。兄ヒメも大碓を愛したのだ。
男具那はそれを知り大碓の父王に対する裏切りを黙認した。と同時に、大碓が王位だけに執着している腹黒い計算家でないのを強く感じ、これまでになく大碓に親愛感を抱いたのである。
大碓の行為は、まさに生命がけであった。
父王が大碓の裏切りを知れば、間違いなく暗殺者を差し向けることを、大碓自身よく知っていた。それでいて兄ヒメとの愛を選んだのだ。
そんな生き方が吾にできるだろうか、と男具那は思い、軽い吐息を吐《つ》いた。
生命を懸けてもよい、と燃えるほどの女人に出会わなかったせいかもしれないが、男具那にはできそうになかった。大碓との性格の違いもあるのだろう。
大碓は、兄ヒメほどの女人に惚れられたのは初めてだ、と男具那にいった。あの大碓の言葉は、男具那の胸を強く打った。
ある意味であの言葉は、有力な王位継承者である王子のものではない。普通の男子の言葉であった。そこに男具那はこれまで知らなかった大碓の一面を見つけ、感動を覚えたのである。
今男具那は、大碓とは同じ血が流れる兄弟であるという感じを強くしている。
大碓が兄ヒメと愛し合って以来の彼の言動のせいだった。
兄者、幸せに生きろよ、と男具那は東北の山々を見た。三輪《みわ》山系の上に昇った陽は山々や、大和の平野を灼くように照らし始めていた。
男具那は馬から降りると小川で顔を洗った。宮戸彦と武日も待ちかねていたように顔を洗う。
「気持が良いのう」
男具那の言葉に二人は、よろしゅうございます、と同時に答えた。
オシロワケ王は大勢の警護兵に囲まれ、巻向宮の外で諸王子と男具那を待っていた。王は伐《き》った木を積み上げ、絹布で巻いた腰掛にヤサカノイリビメと並んで坐《すわ》っている。
赤い絹衣を纏《まと》ったヤサカノイリビメを見た時、男具那は倭海雄がヤサカノイリビメに通じていたことを確信した。
馬から降りた男具那は布にくるんだ二個の首級をさげ、オシロワケ王に向って一歩一歩、自分の足音を確かめながら歩いた。
王子たちはオシロワケ王の少し前に坐っていた。
ワカタラシヒコ、イホキノイリビコをはじめ、十人ばかりの王子がいた。
オシロワケ王は、自分の命令に背いたなら、王子でも容赦はせぬ、というところを示したいのであろう。
十歩ほど手前で止まった男具那は、オシロワケ王に叩頭《こうとう》した。さすがに緊張した面持ちの王は顎《あご》を引きながら頷《うなず》き返す。膝《ひざ》の上の拳《こぶし》は強く握られていた。
男具那は傲然《ごうぜん》と両脚を開いて突っ立っているが、王にはとがめる余裕はないようだった。
男具那は視線をヤサカノイリビメに移した。男具那の眼は大きく見開かれ、磨き抜いた刀身に似た冷たい光がヤサカノイリビメの眼を射た。絹衣がふくらんで見えるほど太ったヒメは、口許《くちもと》に女人らしからぬふてぶてしい笑みを浮かべ、男具那を見返したが、あまりにも鋭い男具那の眼光に怯《おび》えたように眼を伏せる。
男具那は諸王子、とくにヤサカノイリビメの王子たちを睨《にら》みつけた。彼らが母と倭海雄の関係を知っていたかどうかは、男具那にも推測がつきかねた。
だが同母兄を殺さねばならなかった男具那の胸中は、王子たちも理解していた。
誰一人として男具那の視線をまともに受ける者はいなかった。
男具那は五歩ほど進み、首級を置くと布を解いた。声にはならない異様などよめきが、男具那の耳にはっきり聞えた。
布にくるんだ時、鼻の恰好《かつこう》をしていた黒い突起物は運んでいる最中に落ち、大きな穴が開いていた。紫とも土色ともいえない無気味な色の液体が穴からこぼれ出て布を染める。顔のほとんどは黒いが、頬《ほお》のあたりに白い骨と、焼けた肉とが露出していた。
二個の首級が何者かはまったく識別できない。
「父王に申し上げます、大碓王子は斬り合いの最中、隙《すき》を見つけ、兄ヒメの屋形に入り、兄ヒメを刺し殺し屋形に火を放ち、自分も喉《のど》を貫き、自殺しました、警護の兵が多く、すぐには屋形に入れず、十数人の警護兵を斬り殺した時は、屋形は凄まじい炎に包まれていました、吾と宮戸彦、内彦、武日の四人は、美濃八束をはじめ、警護の副隊長、倭海雄を斬り、深傷《ふかで》を負わせましたが、両名とも自殺しました、大碓王子と兄ヒメは、このように焼け爛《ただ》れ、今は誰が誰やら分らぬ人相になっていますが、吾が首を斬った時は、まだ微《かす》かに判別ができました、間違いなく大碓王子と兄ヒメの両人の首級、父王の命令により、この男具那が持参しました、よく御覧下さい」
男具那は三輪山にも響き渡るような大声で叫ぶと、蒼白《そうはく》になり口を押えているヤサカノイリビメを睨みつけた。
諸王子や警護兵は、息をするのも忘れたように動かない。
蛙が踏み潰《つぶ》されるような音とともに、ヤサカノイリビメが身体を折って吐き始めた。
[#改ページ]
十六
男具那《おぐな》がオシロワケ王の命令で、同母兄の大碓《おおうす》王子を斬《き》り、その首級を巻向宮《まきむくのみや》に持ち帰ったという噂《うわさ》は、大和《やまと》のみならずあっという間に畿内《きない》に拡がった。
大碓王子は十人力とも二十人力ともいわれるほどの力持ちで、武術にも秀でている。男具那はわずか三人の部下とともに大碓王子のいる兄《え》ヒメの屋形を襲い、十数人の部下と戦い、美濃八束《みののやつか》、倭海雄《やまとのうみお》などの勇猛な武人を斃《たお》し、一人残らず斬り殺したことになっている。各地の豪族たちは、今更のように男具那の武勇をたたえ、武術の鬼神さえ、男具那王子を避けるだろう、と噂し合った。
男具那に仕えたいという若者が急に増えた。
大和の有力豪族の子弟は競って、男具那の部下になりたがった。
王位継承の望みのない王子の中にも、男具那に仕えたい、という志願者が現われた。
ただ、男具那一人が大勢の部下を抱えるわけにはゆかない。
オシロワケ王やヤサカノイリビメ(八坂入媛)の猜疑《さいぎ》の眼が光る。それと同時にあまり大勢だと、父王の間者《かんじや》が入り込む恐れがあった。
男具那は宮戸彦《みやとひこ》や内彦《うちひこ》に、志願者の腕を試させた。と同時に、部下志願の若者と直接会い、自分は王位に即《つ》く野心はまったくないから、自分に仕えても出世はできない、と断念させた。
それでも男具那に仕えたい、という者と何度も会い、久米《くめ》氏の七掬脛《ななつかはぎ》、母の遠い縁者にあたる吉備武彦《きびのたけひこ》、美濃弟彦《みののおとひこ》などを新たに警護兵とした。
警護隊長だった青魚《あおうお》はいちおう傷は治ったが、後遺症のせいで、今までのように自由に動くことができなくなった。
青魚は眼に涙を浮かべながら、看病してくれた恋人とともに、和珥《わに》氏の実家に戻ったのである。
男具那は青魚のために盛大な別離の宴を張った。青魚は不自由な身体《からだ》にもかかわらず剣の舞を舞い、新しく男具那の部下になった者たちに、
「男具那王子に仕える者は、武術を生命《いのち》にせよ、武術の訓練を怠る者は、王子に仕える資格がない、即座に国に戻れ!」
と大喝した。
男具那たち一行は初瀬《はつせ》(泊瀬)川沿いに去る青魚の姿が見えなくなるまで見送った。
男具那は、宮戸彦と内彦の二人を警護隊長とし、副隊長はつくらなかった。
もちろん、他にも隼人《はやと》の部下がかなりおり、屋形を守ったり、荷物を運んだりする。
男具那が母のイナビノオホイラツメ(稲日大郎姫)の墓参のため、播磨《はりま》の印南《いなみ》に行く許可をオシロワケ王から得たのは、新嘗《にいなめ》祭が終ってからだった。
古代の印南は加古《かこ》川の西部の旧印南郡と、東部の加古郡を合わせた広い地域で、『延喜式《えんぎしき》』で吉備津彦《きびつひこ》を祀《まつ》る日岡《ひおか》神社が、加古川に沿った東の日岡山に存在するところから推測しても、当時は吉備氏の勢力範囲にあった、と考えてよい。
なお、イナビノオホイラツメを葬ったとされる墳墓も日岡山にあり、三輪《みわ》の王権と吉備氏との密接な関係が窺《うかが》われる。
男具那が吉備武彦を新たに部下として採用したのも、自分に流れる吉備氏の血を考慮したからであった。
朝餉《あさげ》の後、男具那はオシロワケ王に墓参の件を話した。
父王は、墓参は年が明けてからでもよいではないか、と渋ったが、男具那は是非とも今年中に行きたい、といい張った。
男具那が大碓の首級を持ち帰って以来、父王は何となく男具那に遠慮するようになっていた。
時にはそういう自分に腹を立て、高飛車に出るが、男具那が意志を通そうとすると、最後には、勝手にしろ、と男具那のいい分を通してしまう。
男具那は、そんな態度を取り続けておれば、父王に嫌われるばかりだ、と反省するが、男具那に大碓を殺させようとした父王の非情さを思うと、父王に対する憤《いか》りを、我を通すことによってぶつけてしまうのだ。
「今年はいつになく寒い、大雪になるぞ」
父王は口をへの字に曲げた。
「分っております、ただ吾《われ》にとって、去年、今年と大変な年でした、二人の同母兄が亡くなったのです、今年中に母上の墓に参り、そのことを報告し、母上の霊を慰めねばなりません、年をこすのはよくないと思います」
「それは理屈だが……」
父王は男具那に、櫛角別《くしつのわけ》を殺した犯人を捕えていないではないか、という。
一瞬男具那が返答に詰まると、父王は、
「仇《かたき》を討ってこそ、母の霊を慰められるのではないか」
といどむようにいった。
「申し訳ありません、あれから懸命に調べましたが、どうも畿外《きがい》の曲者《くせもの》のようです、おそらく、遠くからやって来たのでしょう、吾の判断では、吾か大碓王子を斬ろうと思い、誤って大人しい兄王子を斬ったのです」
「なぜ、そう考える?」
「大和およびその周辺の者が犯人なら、どこからか噂が洩《も》れるはずです、だがいくら調べても分りません、遠国の曲者だと判断せざるを得ないのです」
「なぜ、曲者の狙《ねら》いは、そちと大碓にあった、と考えたのだ?」
と父王は眼を細めた。こういう表情の父王は、相手の真意を探ると同時に、どこか相手をいたぶるようなところがあった。
「それは兄王子と吾の武術が噂になったせいでしょう、我らに敵意を抱いている国の王の中には、武勇の王子を斃《たお》すことによって、三輪の王の権威を傷つけたい、と望む馬鹿者も現われるでしょう、遠国の曲者でなければ、とっくに見つけています」
仇を討った、という自信のせいで男具那は昂然《こうぜん》と胸を張った。
「そちと大碓が、王子の中では最も武勇に優れた王子で、それは噂となり遠い国まで拡《ひろ》まっていた、と申すのか、自信たっぷりだな、少し自惚《うぬぼ》れ過ぎてはいないか」
父王は、自分の権威を傷つけられたように男具那を睨《にら》んだ。男具那は視線を逸《そ》らさなかった。
大碓は確かに王の命令に背いた。だが何も同母弟の自分に兄を殺させることはなかったのだ、と男具那は父王に不信感を抱いていた。憤《いか》りといってよいかもしれない。その不信感はおそらく一生消えることがないに違いなかった。
二人は視線を合わせていたが先に逸らしたのは父王の方だった。父王は舌打ちすると、不快そうに鼻を鳴らした。
そなたは王たる吾を憎んでいるな、と父王の顔はいっていた。
男具那はそんな父王の機嫌など取るつもりはまったくなかった。
「自惚れと受け取られると思います、それが自然でしょう、ただこの度、我の部下になりたい、と大勢の若者が申し込んで来ました、そういう連中の中には、吉備より西の国々、また出雲《いずも》、越《こし》の者もいたのです、吾は彼らが吾に申した言葉をそのままお伝えしました、お気にさわられたらお許し下さい」
「まあよい、確かにそなたの武術は王子の中では群を抜いている、だからといって王位に即けるとは限らないぞ、王に必要なのは武術ではなく政治力だ、そちは少し政治力に欠けるようだな」
吾を怒らしているのがその証拠だ、といわんばかりに父王は肩を聳《そび》やかした。
「申し訳ありません」
男具那は軽く叩頭《こうとう》した。
王位になど即きたくはない、軍事将軍になりたいのです、などといえば父王の機嫌を損ねるばかりである。
「心から反省しているかどうか分らないがまあよい、ところで、そちは河内《かわち》の物部《もののべ》について、妙な噂《うわさ》を聞かないか」
「河内の物部ですか、油断はできません、九州から和泉《いずみ》に東遷して来た河内の新興勢力と親しくしているようです、いちおう、父王に服従していますが、河内の物部は、なかなか一筋縄では捉《とら》えられない厄介な存在だと吾は考えています」
「そのぐらいのことは分っている、吾が耳にした妙な噂というのは、河内の物部の勇猛な武術者、隊長級だが、その何人かが行方不明になった、というのだ、斬られたという噂もある、間者からの報告だ、ただ、真相は分らぬ、全然知らないか」
「はあ、もしそのようなことがあれば、内彦の耳に入るはずですが、海に釣りにでも出て、舟が沈んだのではないでしょうか」
男具那はとぼけた。
男具那としては、自分が仇討ちの張本人であることを知られたくなかった。
河内の物部の耳に入れば戦《いくさ》になりかねない。
それに、今、父王が知れば、なぜ隠していたのか? と怒るだろう。父王は男具那の胸中に疑いを抱き、自分に対して何かたくらんでいるのではないか、だから隠していた、と考えるに違いなかった。
父王の性格から判断すると、そう推測する以外ない。
深い猜疑《さいぎ》を抱いてしまうと父王は、男具那を王子というよりも敵とみなす恐れがあった。
オシロワケ王は、そういう性格だった。
「海で溺《おぼ》れたというわけか、それならそういう噂が立つであろう、吾はそちなら知っていると思っていたが」
父王の眼がまた細くなった。薄雲で霞《かす》んだ新月のような怪し気な光が細い眼の奥に宿っていた。
父王はやはり、物部の武術者を殺したのは男具那ではないか、と疑っているのである。
「父王、これから吾も、情報の蒐集《しゆうしゆう》に力を入れます、申し訳ありません」
と男具那は皮肉を込めて謝った。
父王がいくら疑っても証拠がない。青魚をはじめ男具那の部下たちは、男具那のためなら、実家の氏族、またオシロワケ王とも戦う忠節の武人だった。
死んでも秘密は洩《も》らさないのだ。
男具那は、半ば強引に父王の許可を得て、母の故郷である印南を訪れることにした。
すでに男具那は、新しく部下になった吉備武彦を印南に行かせ、自分が訪れることを印南の有力豪族に伝えさせていた。
武彦が戻って来たのは十二月の初旬だった。父王がいったように寒気が強く、大和にも雪が降っていたが、武彦の報告によると、印南地方は大雪で、雪が二尺(約六〇センチ)ほど積もっており、馬で行くのは困難だ、という。
男具那は舟で行くことにした。
男具那の一行は、宮戸彦、内彦、武日《たけひ》、それに新しく部下になった七掬脛《ななつかはぎ》や武彦などである。
青魚の姿がないのが何となく歯の抜けた思いだが、あの傷で一命を取り留めたのは、幸運と思わざるを得ない。もし青魚が死亡していたなら男具那の気持はもっと暗いものになっていただろう。
男具那たち一行は刀を吊《つる》し、矢筒を背負い、強弓を肩に、不意の曲者が現われてもすぐ対応できるように万全の準備を整えた。
信頼できる数人の隼人《はやと》が、荷物を担いだ。
男具那はフタジノイリヒメ(両道入姫)と夕餉《ゆうげ》を共にし、しばしの別れを告げた。フタジノイリヒメは流産した後、身体の調子が良くなかった。男具那は、明日は早いから見送りに来なくてもよい、と厳命した。
フタジノイリヒメは女人らしく優しく美しいが、頭の回転は普通で、難しい話はできない。そういう意味でややもの足りないが、男具那は正妃はそれでよい、と思っていた。
当時は一夫多妻制だから、男具那はいずれ何人かの妃《きさき》を持たねばならない。
ただ今のところ男具那の胸をときめかすような女人は現われていなかった。
男具那一行が巻向宮を出、初瀬川の舟着場の近くに来た時、数人の従者に警護された弟橘媛《おとたちばなひめ》が現われた。冬なのに首と襟を赤絹で縁どりしただけの白絹の上衣姿の媛は、まだ童女だが雪の精ではないかと、男具那が眼を見張ったほど臈《ろう》たけて美しかった。
再会するのは三年ぶりぐらいだが、その気品のある美には、清冽《せいれつ》でいて、どこか大人の女人になろうとしている馥郁《ふくいく》としたものがあった。
弟橘媛は男具那たちの手前、十数歩のところで馬から降りると数歩手前まで歩いて来て蹲《うずくま》った。
舌打ちした内彦が、微笑をたたえながら弟橘媛を眺めている男具那に言った。
「申し訳ありません、見送りになど来るな、と申したのですが……ただ、まだ男子《おのこ》を知らぬ童女、どうか勝手な行動をお許しいただきたく願い上げます」
「兄上、私《わ》は兄上を見送りに参ったのではありません、男具那王子様の旅の御無事を念じて参ったのです」
何の穢《けが》れも感じさせない媛の澄んだ声が、男具那には快く響いた。長い眉《まゆ》は雪に溶けてしまいそうな白い顔に似合わず両端が吊《つ》り上がり、強い意志を表わしている。
整った鼻は鼻翼がやや張り気味で、唇も引き締まっているが、その色は紅梅に似ていた。
「何だと、王子のお許しも得ていないのに」
内彦は狼狽《ろうばい》し、今にも妹の傍《そば》に駆け寄り、帰れ、と一喝しそうだった。
「内彦、怒るな、吾《われ》は喜んでおる、弟橘媛、ここに参れ」
「はい」
弟橘媛は二歩ほど手前に来て蹲って叩頭《こうとう》した。
「吾の無事を念じて来てくれたのか、媛は何歳になる」
「年が明ければ十四歳でございます、あと一月もございません」
「そうか、十四歳か……そなたは今、綻《ほころ》び始めた梅のような童女だ」
当時は、女人は十五歳になれば婚姻するのが普通だった。なかには十四歳で婚姻する者もいた。
「はい、来年は綻び、綺麗《きれい》な花を咲かせたく思っています」
何を申しているのだ、この馬鹿が、という内彦の声が聞こえて来そうだった。
弟橘媛は内彦をはじめ、他の部下たちに遠慮せずに、自分の気持を素直に出している。男具那にはそれが素晴らしいことに思えた。
「ほう、十四歳で綻びたいか、そなたには慕っている男子がいるのか」
「はい、心に決めた方がいます、でも……」
弟橘媛の白い顔にみるみる血が昇り、淡紅色に染まった。黒い瞳《ひとみ》も潤み、雪に映えて煌《きら》めいた。
男具那は熱い血が胸の中で力強い音を立て始めたのを感じた。
「こら、こんなところで!」
たまりかねて内彦が叱咤《しつた》した。
白い肌を染めた血が引いたが、さっきまでは見られなかった艶《つや》が顔に滲《にじ》み出ている。
「内彦、そちは舟に乗れ、おう、弟橘媛、そなたが手にしている白いものは何だ?」
男具那に訊《き》かれた弟橘媛はびっくりしたように、握っていた布を膝《ひざ》の上で拡げた。そこには白い木で作られた鳥があった。白鳥である。
「おう、それは白鳥ではないか……」
「はい、王子様の御健康を祈って私が作りました、あまり上手《うま》くはありませんが、私《わ》の祈りが籠《こも》っています、今度の旅にお持ちいただければ嬉《うれ》しゅうございます」
「おう、白鳥は人の霊を運ぶともいわれている、弟橘媛、喜んで貰《もら》うぞ」
弟橘媛の顔が陽を浴びたように輝いた。雪に溶け込みそうな顔が、雪を撥《は》ね返すように活々《いきいき》とした。弟橘媛は豊かな感性を備えた女人のようだった。
男具那は童子時代からよく夢に見た白鳥のことはあまり口にしていない。
男具那が白鳥をどんなに大切に思っているかを知る者はいなかった。
それだけに男具那は、弟橘媛が、旅のお守りとして自分で作った白鳥を差し出したことが嬉しかった。と同時に男具那は、自分と弟橘媛が眼に見えない強い絆《きずな》で結ばれているのを感じたのである。
男具那は布でくるんだ白鳥を腰紐《こしひも》に結んだ。
男具那たち一行を乗せた舟は水嵩《みずかさ》の増した初瀬川を、いつもより速い速力で進んだ。空には厚い雪雲が垂れ込め、粉雪が舞い散っている。
男具那たちは絹の衣服の上から鹿皮を纏《まと》っているが、寒気は肌を刺す。
ただ古代人は現代人が想像する以上に、自然の厳しさに耐える力を持っている。
初瀬川が後の石川《いしかわ》と合流し、川名を大和川と変える頃、舟子たちが櫂《かい》を漕《こ》ぎながら川旅の歌を歌った。
男具那たちは身体を暖めるため酒を飲んだ。河内で男具那たちは大雪に襲われ、住吉《すみよし》にある武日の縁者の屋形に泊まった。
大伴《おおとも》氏は河内の住吉にも勢力を伸ばしていた。
河内の新興勢力が、オシロワケ王を攻撃できないのは、大伴氏などの有力豪族が河内にも勢力を伸ばしているからである。
大伴氏は物部と異なり、比較的オシロワケ王に忠実だった。
雪は二日降り続いたが、やんだ後は、見事な青空になった。
野も山も雪に覆われ、人々は朝から屋根に積もった雪を落し、鍬《くわ》で家の前の雪を掘った。
何年かぶりの大雪である。
男具那たち一行は、眩《まぶ》しいほどの雪景色に眼を細めながら住吉の津から船に乗った。
冬の海は魚も海底で身を縮めているので、なかなか餌《えさ》を喰《く》わない。それでも何|艘《そう》かの舟が磯《いそ》の近くで魚を釣っていた。
住吉の津から印南を流れる川(加古川)まで十数里だった。
男具那たちは二艘の船で海を進んだが、大きな丸木船で漕《こ》ぎ手は十人である。
朝鮮半島にも行ける船で、一日に十里(約四〇キロ)は進める。
空は晴れ、海の青さは眼に痛いほどだが寒気は鋭く、海に慣れない一行は酒を飲んでは暖を取らねばならなかった。
河内から播磨に続く六甲《ろつこう》山系も白銀の雪に覆われ、尾根は巨大な白蛇のように見えた。
冬にしては珍しく風のない日だが、難波《なにわ》の海は潮流の関係で三角波が立つ。白い波頭は幾千、幾万の人々が鉢巻をして踊っているようだった。
男具那たちは酒に酔い、海に酔った。
海の上はいくら酔っても曲者《くせもの》や獣が現われたりしない。昼過ぎから一行は眠り、気がつくと明石《あかし》の舟着場だった。
吉備武彦の手配により、在地の豪族が迎えに来ている。
男具那を眺める豪族たちの眼には畏敬《いけい》の色が浮かんでいた。
ホムツワケ王子がいったように男具那の武勇は鳴り響いていたのだ。
その夜は酒宴に酔い、男具那は熟睡した。ただ部下たちの半分は徹夜で男具那を警護している。そうでなければ安心して眠れない。早朝、男具那たちは明石から出発したが、徹夜組は船の中で眠った。
一行が印南の河口に着いたのは昼過ぎだった。
河口には印南の豪族が舟で出迎えた。
首長は吉備の血を引く尾鳴《おなる》であった。
男具那の母の遠い縁者でもある。
平野は巨大な印南の川の東西に拡がっていて、豊沃《ほうよく》の地であった。男具那にとっては故郷といってよい。
男具那は何度も舟に立ち、雪に覆われた故郷の山野に見入った。
西方から印南の野に迫っている山々は吉備に続いている。東方は野と丘陵地帯で、雪の丘は、兎や犬、また白い鹿が蹲《うずくま》っているように見えた。丘陵地帯の遥《はる》か東方に見える山々は六甲山系に連なっているのだ。
北方に向っている川は間もなく東北に進路を変える。
男具那は彼方《かなた》の右手に白い亀にどこか似ている丘を見た。母の墳墓のある日岡の丘陵だ。薄い帯状の雲から出た陽が、ひときわまぶしく雪の丘を照らした。気のせいか男具那はかげろうにも似た淡い光が墳墓のあたりから立ち昇っているような気がした。
はるばる大和の国からやって来た子供を迎えている母の喜びの表われかもしれない。
無意識のうちに男具那は手を合わせていた。そんな男具那に気づき、部下たちがいっせいに立とうとした。
舟が大きく揺れ、舟長《ふなおさ》が思わず大声で、
「お静かに」
と叫んだ。
男具那もよろけ、舟の舷側《げんそく》に手をつく。宮戸彦が反対側に転がったので舟は危ういところで転覆をまぬがれた。
「落ち着け、皆|坐《すわ》れ」
男具那の声に部下たちはそれぞれの場所に腰を下ろした。舟は安定し再び進み始めた。
白い布で覆われたような川岸の木から雪が音もなく落ちた。
「我らの代りに雪が落ちてくれた、しかしなあ、もし水中から曲者が現われたら、舟は間違いなくひっくり返っていただろう、まあ、そんなことはないが、慌てないことが一番だ、墓参の際はそちたちを連れて行くから、今はその場で手を合わせるだけでよい」
男具那の言葉に部下たちは、無言で叩頭《こうとう》し、前方に手を合わせた。
「王子様、この辺りには、冬でも水に潜る海人《あま》がおります、この船を襲ったりはしませんが……」
と舟長が言った。
「この氷のような水に潜るのか……」
「海の方ですが、身体《からだ》に布を巻き潜って貝を獲《と》ります、また魚を突く海人もおります、冬の魚は動きません、だから突き易いのです」
「海人は凄《すご》い、しかし海の中で魚を突くなど大変な武術といわねばならない、それはそうと繊維や蔓などで大きな網を作り、投げて魚を獲る方法があるそうだが」
「この辺りではありませんが、四国の阿波《あわ》に行った海人の話では、そういう方法で川魚を獲っているようでございます」
「阿波か……」
男具那の脳裡《のうり》に、大碓の副警護隊長をしていた倭海雄が浮かんだ。海雄は倭《やまと》氏の出だが、倭氏の祖先は阿波出身の海人族だった。
百年以上も前、九州の邪馬台国《やまたいこく》が東遷した時、瀬戸内海《せとないかい》の明石海峡の西方で東遷の一行を迎え、航路を案内したのは、阿波出身のシイネツヒコ(椎根津彦)といわれている。彼は阿波の海人族の首長で、倭氏の祖であった。
男具那の絞り出すような声に、舟長は身を縮めた。慣れ慣れしく喋《しやべ》り過ぎた、と後悔したのかもしれない。
男具那は他の王子のように威張らないので、声をかけられた者は、つい口がなめらかになってしまうのだ。
「何でもない」
といって男具那は腕を組んだ。
男具那は、自分に向けられた宮戸彦と内彦の顔に、間違いない、阿波の海人族の武術者だ、と頷《うなず》き返した。
ヤサカノイリビメならオシロワケ王から男具那の行動を探り出すことが可能だった。
ヤサカノイリビメは、自分が産んだ王子たちを王位に即《つ》けるべく、男具那と大碓を暗殺しようと投げ網を使う阿波の武術者を、倭氏を通じて大和に呼んでいたのに違いない。男具那が仇《かたき》を討った筑紫《つくし》物部のマグヒコ(莫具彦)とはやはり無関係だった。
偶然、時期が重なったので、同一人物が指令を出した、と思い込んだのも無理はない。
宮戸彦も内彦も炯々《けいけい》とした眼光で、もう刀の柄《つか》を掴《つか》んでいた。
男具那は二人の殺気を和らげるように微笑とともに首を横に振った。
放っておけ、二度と来るまい、と男具那の眼は告げていた。
あのとき奇襲を受けた男具那は、危うく一命を落すところだったが、結局、襲撃者の大半を斬《き》り殺したのだ。
襲撃者たちは今更のように男具那たちの武術に恐れを抱き、阿波に戻ったであろう。
もし彼らの一人でも捉《とら》えられ、口を割ったなら、黒幕がヤサカノイリビメであることが分る。
ヤサカノイリビメは慌てて、生き残った二、三人を阿波に戻したに違いなかった。
舟着場は墳墓のすぐ傍だった。川は上流で北西に湾曲している。その左方に印南の沼があった。
先に舟から降りた印南の尾鳴は、部下を従え雪の中に蹲《うずくま》り、改めて舟から降りる男具那たちを出迎えた。
男具那たちは墳墓の南方にある尾鳴の屋形に寄り、大和から墓参用に持って来た衣服に着換えた。
尾鳴の屋形から母の墳墓までは雪が除かれ、雪の道が造られていた。男具那は雪山用の皮履《かわぐつ》をはき墳墓に向った。
母の墳墓は大きな円墳だが、墳墓を覆った葺石《ふきいし》も雪に埋もれている。雪道は丘を斜めに這《は》い墳墓の傍まで達していた。
大勢の農民が労力を提供したに違いなかった。
男具那は尾鳴に礼を述べた。
男具那は墳墓の十歩ほど手前で部下たちを止め、一人で墓の傍に行った。
真白い雪の墳墓はまろやかで穢《けが》れ一つない。崇高なまでの美しさだった。
男具那は手を合わせ、母の霊が幸せであるようにと祈った。眼を開けて眺めていると、墳墓の中に吸い込まれそうな気がした。
男具那の記憶にある母の臈《ろう》たけた美貌《びぼう》が甦《よみがえ》る。
「男具那、よく来てくれた、そなたのことはいつも見守っています」
母は口許《くちもと》に和《やわ》らかい微笑を浮かべていた。
「母上、吾はいろいろと知りたいことがあって参ったのです」
男具那が胸の中で呟《つぶや》くと脳裡に刻み込まれているはずの母の顔が消えた。思い出そうとしても思い出せない。いったいどうしたのだろうと男具那は焦った。
優雅な形の墳墓が冷たく輝き始めた。
「男具那、そなたはまだ母を頼っているのですか、そなたの名前は、西の国々にも、東の国々にもとどろき渡っている、好《い》い年齢《とし》なのに童子のように私を頼る脆弱《ぜいじやく》な男子《おのこ》を母は産んだ覚えはない」
男具那は母の声を耳にした。
男具那は慌てて墳墓を見廻《みまわ》したが、母の顔は見えない。だがあの声は間違いなく童子時代、耳に焼きついた母のものだった。
「母上、吾は何も母上を頼ってはいません、吾は倭男具那《やまとのおぐな》です、吾は自分の力で兄上の仇を討ち、大碓王子を美濃《みの》に逃しました、母上に怒られるような脆弱な王子ではありません、なぜ、そんな風におっしゃるのですか?」
男具那はいつか憤然としてものいわぬ墳墓に話しかけていた。
脚は冷え下半身はしびれているが上半身は熱い。
まるで男具那の言葉に答えるように一陣の風が吹き、木々の枝に積もっていた雪を散らした。風は男具那の頬《ほお》を抉《えぐ》るように吹いた。
男具那は自分を取り戻した。
何が母を怒らせたのか、と男具那は反省した。
最初男具那が耳にした母の言葉を、男具那は思い出した。母は、よく来てくれた、と男具那に礼を述べ、男具那のことをいつも見守っている、といった。
そうだったのか、と男具那は自分の胸を叩《たた》いた。さっきの風が粉雪を男具那の衣服に運んで来ていたらしく、男具那の衣服から粉雪が散った。
母が怒ったのは、男具那が耳にしたと錯覚した言葉にあったのだ。見守っている、といったのは母ではなく、今でも母に甘えている男具那の潜在意識がいわせた言葉であった。
母が怒るのも当然である。
男具那は今一度雪の墳墓に手を合わせた。
「分りました、吾は甘えていました、あれは母上ではなく童子のような吾が勝手に生んだ言葉でした、お許し下さい、倭男具那は脆弱な男子ではありません、武術だけではなく、心も強靱《きようじん》な男子として生きてゆきます」
黄泉《よみ》の国にとどけとばかりに力強く呟いた。
再び風が吹いて来て、男具那の上半身を刺し貫いた。
男具那は思い出せなかった母の顔をはっきりと思い出した。
思い出したことによって男具那は、自分の気持が母に通じたのを感じた。
その夜は尾鳴の屋形でささやかな酒宴がもよおされた。
猪の焼肉、焼いた川魚、木の実などである。酒は大和のものよりも強く、こういう季節には旨《うま》い。口で飲むよりも身体で飲む、といった酒である。
今年で五十歳になった尾鳴は、母の縁戚《えんせき》者でもあった。
印南の有力豪族の一人娘が、西から印南に進出して来た吉備の稚武彦《わかたけひこ》と婚姻、産んだのが男具那たちの母だった。
稚武彦は有名な四道将軍の一人、吉備津彦とは異母兄弟である。別名、ワカタケキビツヒコともいい、吉備津彦の甥《おい》ともいわれているが、吉備の有力首長の一人で、初期の三輪王権の協力者である。
オシロワケ王が男具那たちの母と婚姻したのは、母の美貌《びぼう》に惹《ひ》かれたからでもあるが、吉備との同盟的な協力関係を保つためだった。だからこそ母は皇后として迎えられたのである。
印南の尾鳴は鬢《びん》に白いものが目立っている。印南の首長らしく頑丈な体躯《たいく》と倭国人《わこくじん》には珍しく彫りの深い容貌の持ち主だった。
男具那に対しては、母の血縁者にもかかわらず、そういうところを全然見せない。実に丁重である。
ただ性格なのか寡黙で、男具那の問いには答えるが、自分から積極的に話しかけたりはしなかった。
尾鳴の一族も気のせいか口数が少ない。女人たちも緊張しているせいか無口で酒宴はどうしても盛り上がらない。
男具那は新しく部下にした吉備武彦を呼び、できるだけ座を明るくするように、と囁《ささや》いた。
見ていると尾鳴やその一族は武彦にだけは歯を見せて笑ったりしていた。おそらく武彦に同族意識を抱き、気を許しているようである。武彦が男具那にいった。
「王子、この辺りで女人たちの舞を所望いたしとうございますが」
「そうだな、女人の舞は男子の気持を和らげる、頼もうか」
武彦は尾鳴に男具那の意向を伝えていたが、戻って来ると叩頭《こうとう》した。
「雪のせいで、庭での舞は少し無理のようです、ただこの部屋でなら舞えるとのことですが」
「構わぬぞ」
「女人の裳裾《もすそ》などが王子に触れては申し訳ない、と遠慮していたようです」
「いや、構わぬぞ、その方がよい」
男具那の言葉を耳にしたらしく宮戸彦が眼を剥《む》いて内彦に何事か耳打ちした。
「王子、御無礼の段どうかご容赦下さい、舞の女人たちは、すでに用意させてあります」
尾鳴は床に手をついた。
尾鳴の言葉に男具那は彼の誠実さを見た思いがした。
女人たちが、何枚もの獣の皮を壁際に敷いた。鹿皮もあれば、猪、山犬、狐など様々な皮が並べられた。男具那たちは敷かれた獣の皮の上に腰を下ろし、板壁にもたれた。
楽器は笛と琴と小太鼓である。
舞う女人たちは驚くほど色が白かった。それになぜか背が低い。五尺に達しないものばかりである。
「王子、舞手は父の代に出雲の方から来た者ばかりでございます、かつて吉備の国が出雲に進出した際、連れて来た俳人《わざびと》たちで、この印南では春秋の祭事や、婚姻の祝いに舞います、そのため舞手の女人たちは男子を知りません」
そういえば女人たちは皆、童女の面影を残していた。楽器を奏でる者も女人たちだった。まず小太鼓とともに長い裳の女人たちが踊り始める。舞手は小柄なので身が軽く、飛んだり跳ねたりする。舞というよりも踊りだった。男具那が想像していたよりも激しい舞である。しかも明るく陽気だった。
男具那が舞に合わせて手を拍《う》つと、待っていたように宮戸彦が手を拍ち、見物人と舞手が一体となった。宮戸彦など今にも踊り出しそうである。
最後は、猿と犬の面を被《かぶ》った二人の絡みの舞になった。木彫りの面で単純な彫り方だが、猿と犬の特徴をよく出している。
猿が雄で犬が雌になり、両者は媾合《まぐわ》おうとするのだが、どうしてもうまく行かない。その微妙なずれが実に面白く、男具那たちは笑いに笑った。実に愉《たの》しい舞である。
尾鳴は男具那たちが、こんなに喜ぶとは思っていなかったらしく、感激していた。
舞が終ると尾鳴が男具那の傍に来た。
「王子、少しお話し申し上げたいことがあるのですが」
「おう、この場で聴こう」
男具那は部下たちに、退《さが》っているようにと手で命令した。
「はっ、申し難《にく》いことですが、お休みの際は警備を厳重に致していただきたいのでございます、もちろん、吾の部下も警備にあたりますが……」
尾鳴の声がと切れた。
気持を抑えているのだろう、床に手をついた尾鳴は歯を噛《か》み締めている。
「ほう、吾を憎んでいる者がいる、と申すのだな」
「はい、イナビノオホイラツメ様は大和で身籠《みごも》られ、この印南の地に戻られて、王子と大碓王子を産まれました、双子だったので、最初に生まれた大碓王子は四年間、印南の山で養育され、オホイラツメ様が病に罹《かか》られたので実家に戻ったのです、それから間もなくオホイラツメ様は風邪がもとで亡くなられました、王子と大碓王子は兄弟として十四歳までここにおられ、オシロワケ王の宮に参られたのです」
尾鳴は一息ついた。
「ああ、吾はよく覚えておる、兄王子を養育したのは何者か?」
「イナビノオホイラツメ様に仕えていた打山《うちやま》と申す当地の豪族です、ここより三里ほど北方に住んでいますが、何といっても、自分が養育した大碓王子には親愛の情を今でも抱いています」
「それは当然であろう、大碓王子は暴れん坊で威張った王子に見えるが、根は正直者だ、打山は、そういう大碓を知っておればこそ、大碓への情が消えないのだ、そうか、吾は父王の命令で大碓を斬《き》った、致し方なかった、父王の命令に背くわけにはゆかぬ」
「はっ、王子のお立場としては仕方がないことだと思います、オシロワケ王の御命令に背けば、王子は罰せられます」
「ああ、死を賜わるだろう、だが打山は大碓を斬った吾を恨んでいる」
「そのとおりです、たぶん、王子がこの地に滞在されている間、王子を狙《ねら》うでしょう」
「分った、よくいってくれた、用心しよう、ところで、母上や、母上の出産当時のことをいちばんよく知っている者は誰だ、いろいろと訊《き》きたいことがある」
尾鳴は口を開きかけたが、自分を抑え、なかなか答えない。
「いい難いのか、それなら吾がいおう、打山と申す者だな」
答える代りに尾鳴は床に額をすりつけた。
[#改ページ]
十七
尾鳴《おなる》の話によると打山《うちやま》は、男具那《おぐな》たちの母、イナビノオホイラツメ(稲日大郎姫)がオシロワケ王の皇后になると同時に、巻向宮《まきむくのみや》に行き、皇后に仕えた。
当時打山は二十歳を少し過ぎたばかりの若武者だった。
皇后が身籠《みごも》り、故郷に帰ると、皇后を警護して戻り、そのまま印南《いなみ》で仕えたのである。
皇后に最も信頼された部下だった。
皇后の出産と同時に、打山は先に生まれた大碓《おおうす》を山の巫女《みこ》に渡すべく抱えて出たが、そのまま故郷に連れて行き、自分で養育したのである。
打山は男具那が、母のもとで養育され、何不自由なく育ったことに複雑な気持を抱いた。どうしても、自分が育てている大碓王子と比較してしまう。
ことに男具那は大碓と異なり、たいていの女人が思慕せずにはおれない魅力的な容貌《ようぼう》だった。
子供のない打山は、大碓を自分の子供のように寵愛《ちようあい》したが、次第に男具那を憎むようになった。
男具那と大碓が成人し、巻向宮に行ってからは、実家でひっそりと暮していたが、大碓が男具那に殺されたと聞き、不忠の臣の汚名を受けようと、男具那を殺す、と尾鳴にいった。
男具那が印南の地に来るまで、尾鳴は何度も打山に忠告したが、打山は諾《き》かなかった。
イナビノオホイラツメに仕えた打山が、男具那を迎えに来ないのは、そのような理由からであった。
男具那は、尾鳴の話を聴き、大碓が男具那に、
「母上には恋人がいたようじゃ」
といった言葉を思い出した。
母の恋人というのは、打山ではないか、とふと感じたのだ。
男具那は尾鳴に、打山に会いに行きたい、といった。
打山にだけは、大碓を兄《え》ヒメとともに美濃《みの》に逃がしてやったことを話したいと思った。
自分のためだけではなく、大碓や打山のためにも真実を話したかった。
だが尾鳴は、それはなりませぬ、と首を横に振った。
男具那に危害を加える者の家を教えるわけにはゆかない、という。
「それこそ、吾《われ》は、イナビノオホイラツメ様の墳墓の前で自決せねばなりません」
尾鳴が嘘《うそ》をついていないことは、悲痛な光を宿した彼の眼《め》を見ても明らかだった。
男具那は即座に、
「分った、打山に会うのは止《よ》そう」
と頷《うなず》いた。
「母の縁者である尾鳴を殺すわけにはゆかぬからのう」
男具那の明るい言葉と爽《さわ》やかな眼に、尾鳴は自分の気持が受け入れられた、と安堵《あんど》の吐息を洩《も》らした。
その夜、男具那は、宮戸彦《みやとひこ》と内彦《うちひこ》、武日《たけひ》を呼び、尾鳴から聴いた話を伝えた.
新しく部下になった七掬脛《ななつかはぎ》・吉備武彦《きびのたけひこ》・美濃弟彦《みののおとひこ》には、大碓王子や兄ヒメを逃がしたことを伝えていない。新しい部下を信用しないわけではないが、そういうことは、いつか自然に伝わるだろう、と男具那は考えていた。
その時、オシロワケ王が、自分に対し、どういう態度に出るかは、今は想像したくなかった。その時は、その時のことだ、と男具那は腹を据えていたのだ。
「吾はどうしても打山に会い、真実を伝えねばならぬ、兄のためでもあり、打山のためでもある」
三人は、黙って叩頭《こうとう》したが、その眼は当然でしょう、と答えていた。
三人共、男具那に仕えているうちに、男具那の気持を、自分の気持として受け止めるようになっていた。
翌日、男具那は釣りをしたい、と尾鳴に申し出、二|艘《そう》の舟を借りた。
尾鳴は部下をつけようとしたが、男具那は自分たちだけでのんびりしたい、と柔らかく断った。
男具那は、宮戸彦と内彦、それに雪に強い美濃弟彦を自分の舟に乗せ、舟子も断った。
不安がる尾鳴に、長い竹竿《たけざお》で舟を進めて見せた。男具那の竹竿のさばきは舟子たちが驚愕《きようがく》したほど見事だった。魚が泳ぐように進むのだ。
舟から眺める周囲の山々は相変らず雪に覆われ、陽が昇り始めると黝《くろ》ずんだ衣を落し、白い肌を惜し気もなく露出する。その肌は陽に映えて眩《まぶ》しいほど光り輝く。
男具那が断ったにもかかわらず、尾鳴の部下の舟が二艘、三百尺(約九〇メートル)ほど後方からついて来る。
打山の奇襲を恐れた尾鳴は、男具那の身を案じていた。
舟は川岸の葺《あし》の群れに沿って進んだ。
印南川(加古《かこ》川)は二里(約八キロ)ほどさかのぼると、東と西の丘陵の間に入るが、そこから北西に湾曲している。現在の市場のあたりが、古代からの交易の場でもあった。
冬なのでそんなに多くはないが、冬期を過ぎると舟の往来が激しくなる。
男具那は丘に挟まれ湾曲した川を通り過ぎると、新しい部下たちが乗っている舟を呼び寄せた。その舟の舟子は尾鳴の部下である。
男具那は大声で新しい部下たちにいった。
「いいか、吾は大事な用のため、小野《おの》の方に行く、そちたちは尾鳴殿が手配した舟が、吾を追うのを阻止せよ、そちたちは、吾に初めて忠節を尽す時が参ったのじゃ、分ったか!」
あまりにも突然のことに七掬脛と武彦は呆気《あつけ》に取られ、男具那の真意を疑うように瞬きをしたり、顎《あご》を突き出し、口を開けたりしている。
「おぬしたち、王子の命令が聞えぬのか……」
宮戸彦が川面《かわも》も割れんばかりの声を出した。男具那は頷くと声を張り上げた。
「今一度だけ申す、舟子が吾の意に背くなら川に叩《たた》き込め、そちたちの任務は二艘の舟の進行を阻止することにある、戦《いくさ》だと思え、もし吾の命令がきけぬのなら、吾の部下ではない、裏切り者として処分する、分ったか、分ったら返事をしろ」
男具那の声は部下たちの耳を貫き、雪に覆われた丘陵にこだまする。
「分りました」
部下たちがいっせいに答えた。
「よし、行くぞ、戻るのは明日の夕、それまで探索せぬよう、尾鳴殿に申せ」
男具那は竹竿をもちなおすと川底を突いた。
新しい部下たちの舟を操っていた舟子は櫂《かい》を取りあげられ、舟に蹲《うずくま》っている。
男具那は舟底に置かれていた櫂も使え、と宮戸彦にいった。この三人の中では宮戸彦が一番の力持ちだ。
男具那の竹竿と宮戸彦の櫂で舟の速度は力を増した。上流に向って漕《こ》ぐのだ。しかも全力で進まねばならない。
間もなく男具那も宮戸彦も汗だらけになった。
どのように阻止したのか、尾鳴が手配した舟は、追って来るのを諦《あきら》めたらしい。風は頬《ほお》を斬《き》るように冷たいが、身体《からだ》が燃えているので寒さは感じない。
しばらく行くと小さな舟着場があったので、男具那は舟をつけ上陸した。
前方は丘陵地帯で彼方《かなた》に雪に覆われた山々が、陽を浴びて燦然《さんぜん》と輝いていた。
三百歩ほど進むと、小丘の麓《ふもと》の高台に集落があった。
農民たちが草葺《くさぶ》きの屋根に積もった雪を落し、家の前や広場の除雪に懸命である。
家は竪穴《たてあな》式だ。土地を掘り、掘った土で水が入らないように家の周囲を囲む。掘った上に草で屋根を葺くのだが、冬は高床《たかゆか》式の家よりも暖かい。
農民たちは男具那の一行を怪訝《けげん》そうに見たが、一人が何か叫んで蹲ると、皆いっせいに蹲った。
男具那が吊《つる》している金銅の柄《つか》の刀を見て、高貴な人物と判断したのであろう。
男具那は、農民の一人に、打山の屋形はどこか? と訊《き》いた。
農民は叩頭するのみで答えない。うかつに返事をして、打山に迷惑がかかるのを恐れたのかもしれなかった。
「長《おさ》は誰じゃ、吾は倭男具那《やまとのおぐな》王子じゃ、用があって打山殿に会いに来た」
集落は、雪も凍りついたように静寂になった。
「早く出ろ、許さぬぞ」
宮戸彦が草葺きの屋根が慄《ふる》えるほど大声で怒鳴った。皮履《かわぐつ》で雪を蹴《け》り上げる。雪塊が宙で砕け粉雪のように舞った。
男具那が宮戸彦を手で制すと、祭祀場《さいしじよう》らしい広場の傍《そば》の家から毛皮にくるまった老人が現われた。腰をかがめながらゆっくり男具那の方に歩いて来た。
待ちかねた男具那は無造作に近寄った。
「危い!」
と叫んだのは内彦だった。
その声と同時に老人は、毛皮の下に隠していた一尺(三〇センチ)たらずの刀子《とうす》を握って跳んだ。老人に対して何の警戒もしていなかった男具那は避ける暇もない。男具那は本能的に皮履で雪を蹴りながら真後ろに倒れた。
老人の刀子は空《くう》を突いたが、男具那の腹部に老人の蹴りが入った。
一瞬呼吸が止まった男具那は無我夢中で腕を振った。
雪の上を転がり老人の第二の攻撃を避けた。男具那の腹部に蹴りを入れた老人は、そのまま雪上に跳び下りた。
そんな老人に内彦が刀子を放った。閃光《せんこう》のように飛んで来た刀子を老人の刀子が払った。火花が発し、内彦の刀子は空に飛ぶ。
そのわずかな隙《すき》に男具那は立ち上がると刀を抜いていた。
三人の部下が跳んで来て老人を囲む。
「斬るな、話せば分るのだ」
男具那は部下を制すと、老人に打山殿に話すことがあって来たのだ、といった。
「打山殿は好《よ》い部下を持っている、好い部下を持つ長は、その人物が優れているからじゃ、そちは信じないだろうが、吾は大碓王子を殺してはいない、落ち着いて話を聴け」
男具那は老人の刀子を警戒しながらゆっくりと話した。
最初は老人と思ったが、よく見るとその肌は黒く皺《しわ》も深いが、頑丈な身体に衰えはなく、年齢は四十過ぎだった。背を丸めて近づいたのは男具那を油断させるための演技である。
だが老人と思われた男の殺気はますます鋭い。男具那の説得などまったく耳にしていない。ただ彼も男具那の部下たちに囲まれ、男具那を斃《たお》す可能性はほとんどない、と自覚しているはずだ。それにしても殺気は鋭い。
男具那には男を殺す気持はなかった。
そんな男具那の胸中を見抜いたのか、男は詰め寄って来る。
男具那は部下たちに、
「刀の峯《みね》で打って、捕えよ」
と叫んだ。
その声を待っていたように刀子とともに男が跳んで来た。男具那は身をかがめながら刀の峯で男の身体を払った。男は刀子で受けたが、細い刀子は男具那の強刀に耐えられず折れ、男の手から落ちた。
「くそ」
男は呻《うめ》きながら雪の上を転がる。
跳躍した内彦が男の脚に刀を振り下ろした。鍬《くわ》で固い土を叩いたような音がした。膝《ひざ》あたりの骨が砕けたようである。
「無念」
男は男具那を睨《にら》むと、折れた刀子を拾い首を突いた。抉《えぐ》り取られた傷口から血《ち》飛沫《しぶき》が飛び散り雪を鮮血で染める。染まった雪はみるみる溶けて行く。
男は口からも血を吐いた。断末魔の痙攣《けいれん》とともに、泥沼から瘴気《しようき》が吹き上げるような音がして、喉《のど》から血が流れ出る。
「忠節の武人だが、聴く耳を持たぬ者は愚者だ、打山も愚者の長か」
男具那は悲し気な声で呟《つぶや》くと、村長《むらおさ》を探し出し、連れて来るように命じた。
村人たちは石のように蹲ったままだ.
間もなく宮戸彦が痩《や》せた老人の手を掴《つか》んでやって来た。
年齢は五十前後、間違いなく村長である。
村長は慄《ふる》えながら男の遺体に手を合わせた。男具那は、印南の方言を混じえながら、打山殿に会いに来たが、決して打山殿を殺すつもりはない、と告げた。
「この男は、吾の申すことに耳を貸さず、吾に斬りかかって来た、それでも吾は殺すつもりはなかったが、男はかなわぬ、と知り、自分の刀子で首を突き、死をとげたのだ、自決じゃ、ここの農民たちは皆、見ておるぞ」
男具那の言葉に髪の白くなった村長は、本当か? と農民たちに顔を向けた。
石のように動かなかった農民たちが初めて頷《うなず》く。鬼神の呪縛《じゆばく》が解けたように精気が甦《よみがえ》った。
「皆の者、雪を掻《か》き、穴を掘り、弓彦《ゆみひこ》様を葬るのじゃ」
村長の言葉に農民たちはいっせいに動き始めた。男の遺体を近くの丘陵の麓に運び、埋葬を始めるのだった。
「村長、吾の申すことが嘘《うそ》ではない、と知ってくれたか、吾は本当に大碓王子を殺していない、信じるか信じないかは別として、吾は自分の手で大碓王子は殺せない、大和《やまと》に行くまで、印南の山野で共に過したのだ、確かに仲は良くなかったが、同じ血が流れる兄じゃ、どうしてこの手で殺せよう、それに、美濃に行ってからは、心が通じ合うようになった、そのことを兄王子を育ててくれた打山殿に知らせねばならぬ、打山殿はどこにいる、また自決した弓彦とは何者じゃ?」
男具那の語調は凄惨《せいさん》な決闘など忘れたように穏やかだった。
「弓彦様は、打山様の甥《おい》で、警護隊長をなさっていました、打山様は王子様が来られるとの噂《うわさ》を耳にされ、屋形を焼き、山に隠れられ、王子様を狙《ねら》っておられます」
「何だと、自分の屋形を焼いたと……」
男具那はなみなみならぬ決意を感じた。大碓王子の強さも、打山の訓練のせいかもしれない。
それにしても、打山はなぜ、山になど籠《こも》ったのだろうか。男具那が自分を斬りに来る、と信じ込んでいるのか。
だが普通なら、母の墓に参った後、そのまま大和に帰ると判断するはずである。
山に籠れば、男具那から逃げた、と同じことになるではないか。
男具那は自分の疑問を思わず口にした。
村長が、何かいおうとして言葉を呑《の》み、叩頭《こうとう》した。
「どうした、いいたいことがあればいってくれ、本当に、吾は打山殿と話し合いたいのだ、兄の大碓王子もそれを望んでいる」
「は、はい、自決された弓彦様のお話では、打山様が籠られた中山《なかやま》は、打山様が大碓王子様を匿《かくま》い、育てられた場所です、男具那王子様はそれを知り、必ず来られる、と打山様は信じておられるそうです、それに打山様の間者《かんじや》は、男具那王子様を見張り、もし王子様が中山に来られず、大和に戻られるようだと、印南川の河口あたりで、王子様を襲う手筈《てはず》になっているとのことでした、奴《やつこ》は、王子様が部下の方たちに、弓彦様を斬るな、と御命令されたのをはっきり聴きました、それで知っていることを申し上げる気になったのです」
「礼を申すぞ、少し気になるのは、打山殿は兄王子を匿った、というが、兄王子を狙う者がいたのか……」
「はい、双子《ふたご》の場合、一人は神に呪《のろ》われている、とこの辺りでは考えられています、とくにこの地方では、最初に生まれた赤子に、呪いがかかっていると」
「そうか、それで打山殿が兄王子の生命《いのち》を守った、というわけか、忠節の武人だのう、それで討手は尾鳴殿の一族か?」
「イナビノオホイラツメ様の父方、吉備《きび》の首長の一族とのことです、それも噂ですので、どこまでが真実かは、分りません」
村長だけに説明の内容には筋が通っていた。男具那は大きく頷《うなず》いた。
「立派な長じゃ、そちのような長がいる村は栄えるぞ、美濃弟彦、絹布を」
織り目の細かい上質の絹布は、当時は宝物であった。弟彦は背負っていた絹布を渡した。
男具那たち一行は、再び舟に乗ると川をさかのぼり中山に向った。
中山は現在の加古川市と加西《かさい》市との境にある山で、附近には池や沼が多い。
男具那は川岸の水草の間に舟を入れ、松の木に舟をつないだ。
その辺りは原野で到るところに雑木林がある。雪原には人の足跡はもちろん、獣の足跡もなかった。
男具那は、打山の間者に見張られていることを望んだ。その方が打山の居所を突き止め易いからである。
男具那は雑木林の傍の雪原の雪を掘らせ、深い穴をつくった。雑木林の枝を採り、火を焚《た》いて暖を取る。男具那としては夕方までに中山の近くに辿《たど》り着きたかった。
この周囲には高山はない。丘を高くしたような山々が連なっている。
火を焚かせたのは暖を取る、というよりも自分の居所を打山に知らせたかったからである。
男具那は内彦に、一|刻《とき》(二時間)ばかり、周囲を探るように命じた。弟彦が何かいおうとしたのを男具那は見逃さなかった。
「弟彦、いいたいことがあれば遠慮なく申せ、我らの間で遠慮は禁物じゃ、最終の判断は吾がする」
「分りました、この辺りの積雪の具合は、なぜか美濃の積雪に似ております、やつかれは幼年時代から、雪の野や丘を歩き慣れていますので……」
「ここでの探索は、そちが適任というわけか、よし、向うの雑木林の手前に墳墓に似た盛り上がった場所がある、距離にして百数十歩だな、ここからあそこまで行き、戻って参れ、勝った方を探索に出す、内彦、それでよいな」
「王子、納得でございます」
身が軽く、脚が速いという点では、内彦にかなう者はいない。ただ、脛《すね》まで入る雪の野となると、また別である。
男具那が手を拍《う》つと二人はいっせいに走り始めた。走るといっても足が雪にめり込むので、平地を走るようにはゆかない。二人は跳ぶようにして走った。内彦も懸命に走ったが弟彦はそれ以上に速い。確かに雪に慣れている。弟彦は雪をあまり蹴散《けち》らさないで走った。それだけ雪の抵抗が少ない。内彦は弟彦に十数歩遅れた。
戻って来た弟彦はあまり息を切らしていないが、内彦は音をたてて呼吸していた。
「いや参った、雪がなければおぬしには負けぬぞ」
内彦は悔しそうにいって雪を掴《つか》み、口に放り込んだ。
「弟彦、すぐ参れ、一刻ほどじゃ」
「はっ、参ります」
男具那の命令が終らぬうちに弟彦は走っていた。雪の野に弟彦の足跡が点々とついて行くが、どの足跡も崩れていない。
「呆《あき》れた奴《やつ》じゃ、雪の野に棲《す》む獣のような走り方だ、人にはそれぞれ特技があるのう」
と宮戸彦が感嘆したようにいった。
「うーむ、弟彦|奴《め》、雪の上に乗って走っている、あれでは勝てぬ」
内彦も弟彦の特技を認めた。
「ああ、吾《われ》も勝てぬであろう、この地方にこんな積雪は滅多にない、打山の配下も弟彦の脚にはかなわぬ、吾は一つ学んだ、弟彦が速いのは雪を味方にして走っているからだ、何も雪の場合だけではない、一見障害になる場合も、できるだけ障害物を味方にする、人生においても、それは大切なことなのだ」
男具那は腕を組みながら雑木林の彼方《かなた》に消えようとしている弟彦を眺めた。
宮戸彦が頭を掻きながら、
「雪を味方にして走るとは、どういうことでしょうか」
と訊《き》いた。
男具那は弟彦がつけた足跡を指差した。
「よく見ろ、足の爪先《つまさき》から雪に入り、足裏で積雪を押しつけ、その反動で跳んでいる、跳んだ時の爪先は垂直に近いぐらい下を向いているに違いない、だから跳んだ時も雪を蹴散らさないのだ、その分だけ脚は軽い」
「いやあ、恐れ入りました、さすがは王子は王子ですなあ」
と宮戸彦は眼を剥《む》き、鬚《ひげ》をしごいた。
男具那たちは焚き火で身体を暖め弟彦が戻るのを待った。
弟彦が戻って来たのは一刻を少し過ぎた頃である。
弟彦の報告によると、この周辺に人の気配はないが、印南の川に注ぐ小川沿いに人の足跡があり、中山の方に向っていた。しかもその足跡は一人ではなく三人ぐらいのようだった。
「山から小川に出、舟で川に向ったものと思われます、その周辺は丘陵地帯で、農家の集落はございません」
「よく見つけた、打山の手の者と視たか?」
「足跡だけなので断定はできませんが、やつかれの勘では、打山の配下ではないかと、ただ獣を獲《と》りに山に入った者たちの可能性もございます」
「それでもよい、今は弟彦が見つけた足跡に賭《か》ける以外あるまい、参ろう」
こういう場合の男具那の決断は早かった。
男具那の一行は弟彦の案内で小川に向った。
雑木林や幾つもの小丘を越え、男具那たちが辿《たど》り着くまで一刻近い時が過ぎた。
弟彦の脚なればこそ、足跡を発見できたのである。足跡は丘の雑木林に消えている。連なる丘は、播磨《はりま》の北方に延びている低い山々に向っていた。
小川の傍に何本もの丸太が打ち込まれていた。丸太の切り口は新しい。
「打山の手の者と見て間違いない、舟をつなぐために杭《くい》を立てたのだ、行くぞ、周囲を警戒しながら進め」
いちばん危険なのは、雪を被《かぶ》った松の枝に隠れ、矢を射られることだった。
いわなくても男具那の部下たちはそれをよく知っている。
足跡は時には丘を越え、雑木林を突っ切り、最短距離で山の方に向っていた。この辺りの地理に詳しい者たちである。
時々、山鳥が飛び木の枝の粉雪が散る。
すでに未《ひつじ》の下刻(午後二時‐三時)を過ぎようとしていた。冬の陽は光が弱く、吉備の方に傾いている。
小丘を下りようとして男具那は一行を止めた。丘の麓《ふもと》には幅五尺ほどの小川が流れ、灌木《かんぼく》や熊笹《くまざさ》が雪に覆われている。
「待ち伏せるには絶好の場所だな、川向うに隠れていて矢を射る、川向うだけではなくこちら側の灌木にも隠れているかもしれぬ」
男具那は丘の斜面の木立を左方に下りた。これまで辿って来た足跡は灌木の中に消えていた。
男具那たちが下りたところにも灌木や熊笹が繁っている。足跡が消えたあたりから五、六十歩離れていた。
「隠れていそうな場所に矢を射てみるか、ここには打山はいないだろう」
男具那は打山を殺したくはなかった。自分が大碓の生命を救ったことを知ってもらいたい。弓彦の死を見ても、打山は傷ついたなら躊躇《ちゆうちよ》せずに自決するだろう。
「ここからでは無理です、もう少し近づかないと」
と宮戸彦が答えた。
強力の宮戸彦は矢を遠くに飛ばす。矢の飛距離では宮戸彦にかなう者はいなかった。
「宮戸彦、致命傷を与えたくないのだ」
分ってくれ、と男具那は宮戸彦を見た。
「王子、ただ当りどころが悪ければ……」
「それは分っておる、それに自分の身を守るためには容赦はするな」
宮戸彦は一礼すると、弓を手にして二十歩ばかり走った。雑木林の下なので積雪量は少ない。
斜面に立った宮戸彦は、強弓を力一杯引き絞ると矢を放った。矢は空気を裂きながら飛び、灌木の中に消える。凄《すご》い飛距離だ。二本、三本と放たれたが反応はなかった。宮戸彦は十数歩下りた。今度は川向うの灌木に向って射た。矢は小川を楽々と越えて飛んだ。男具那は刀の柄《つか》を握り締めながら息を呑《の》んで見守った。反応はないが打山の部下が潜んでいる、という確信はますます強くなった。
宮戸彦が十本ばかり射た時、雪を被った灌木が揺れ、低い呻《うめ》きが聞えた。
「弓じゃ、宮戸彦を守れ」
男具那は内彦と弟彦に命じた。二人は矢筒から矢を抜き弓につがえる。
宮戸彦を守るためには、打山に対する憐《あわ》れみは捨てねばならない。
川向うの雪が舞い、三人の男子《おのこ》が弓矢をつがえて立った。毛皮を纏《まと》っているが一人の男子の胸部に宮戸彦の矢が刺さっている。
遠距離なので深くはないらしく、男子は咆哮《ほうこう》しながら矢を引き抜いた。
「宮戸彦、何をしている、身を伏せるのだ!」
男具那が叫んだが、宮戸彦はにやっと笑うと胸を叩《たた》いた。
さあ来い、といわんばかりに手を振る。
川向うの男子たちがいっせいに矢を放った。だがどの矢も叩頭《こうとう》するように宮戸彦の五尺(一・五メートル)ほど手前で落ちる。
「まだ弓矢をいじる年齢ではなさそうだな、ほら、頑張れ」
宮戸彦は大声で男子たちを揶揄《やゆ》した。
いずれも忠節心に溢《あふ》れた武人である。宮戸彦の言葉は彼らにとっては深い屈辱だった。
三人は弓矢を持ち小川に飛び込んだ。
腰まで水につかりなから矢を放った。数歩前に出ただけに矢は宮戸彦に届く。だが矢に勢いはない。宮戸彦は抜いた刀で無造作に矢を切り落した。軽く手を拍《う》ったような音がして矢は飛び散る。
明らかに男子たちの武術は宮戸彦よりもかなり劣っていた。
「そこの者たちに申す、それ以上近づくな、川を越えたら宮戸彦は本気で矢を放つ、間違いなく三人共射抜かれて死ぬ、そういうのを犬死にと申すのだ、戻って打山殿に伝えろ、吾は打山殿の誤解を解きに来た、話せば打山殿も納得してくれる」
男具那の凛《りん》とした声に男子たちの動作が鈍った。
突然、川向うの灌木の後ろに人が立った。長身で長い剣を吊《つる》している。剣の柄が陽に煌《きら》めいたところをみると金銅の柄のようだった。
「退《の》け、吾が王子様と闘う、あの大碓王子様を斃《たお》した男具那王子様、逃げ隠れはなさるまい、やつかれは吉備の血を引く打山です、できれば二人だけで刀を合わせとうございます」
打山はゆっくりと小川を渡った。川を渡ると渡らぬとでは闘う際、大変な違いである。防寒用の衣服も毛皮も川水をたっぷりと吸い込むので動きが鈍くなる。冷たさで身体が麻痺《まひ》する。
死ぬつもりで川を渡って来たな、と男具那は視た。
それにしても、その口調といい態度といい、男具那が想像していた以上の立派な武人だった。
母の警護隊長だっただけのことはある。
小川を渡ると左右に体を振り、纏っていた毛皮を脱ぎ捨てた。
男具那は二人の部下に、打山の部下に矢を向けておけ、と命じて小丘を下りた。
打山の部下たちも川を渡って来たが、寒さのせいで顔色が悪い。彼らも水を吸い込んだ毛皮を捨てた。
男具那が近づくと、打山は蹲《うずくま》り叩頭した。顔を上げて男具那を見詰めた眼は、男具那がはっとしたほど澄んでいた。それにもう五十前後だろうが、打山の容貌《ようぼう》は倭人《わじん》とは思えないほど整っていた。色は黒いが鼻梁《びりよう》は高く眼窩《がんか》のあたりが窪《くぼ》み、彫りが深い。
彫りの深さは男具那とどこか似ていた。
宮戸彦をはじめ、内彦と弟彦も何に驚いたのか、息を呑んで打山を眺めている。
「打山殿、そなたは母上の警護隊長だったと聞いているが、吾と会うのは初めてだな」
年齢に似ず澄んだ打山の眼に複雑な思いが宿って消えた。憎悪よりも懐しむ思いの方が強いように見えた。
吾の思い過しだろうか、と男具那は打山を見詰めた。
「はい、大碓王子様がお生まれになり、やつかれは王子様を養うべく実家に帰り、そのまま宮には戻りませんでした、いや、大碓王子様が四歳になられ、皇后様のもとにお連れした際、小碓《おうす》王子様を遠くからお見かけしました、だが、王子様は御存知ありません」
小碓王子と、本名を告げられ男具那は、
「そうか、遠くから吾を見た、と申すのか、吉備の血を引いている、と申したが……」
「吉備稚武彦《きびのわかたけひこ》様の遠い縁者にあたります、その関係で、皇后、イナビノオホイラツメ様の警護隊長になりました、ただ、大碓王子様を養うため、この地に住みましたので、吉備の名は捨て、打山だけで通しております」
「しかし、吉備氏は名族、何も名を捨てる必要はあるまい」
「大碓王子様と小碓王子様は双子です、本来なら先に生まれた王子様は、山に捨てられるか、山の巫女《みこ》に預けられるのが掟《おきて》です、やつかれはその掟を破り、この地で育てました、当然、警護隊長の任は捨てねばなりません、任を捨てた以上、吉備の名を名乗る必要はございません、ある意味でやつかれは掟を破った罪人なのです、ただの打山が似合っております、やつかれは大碓王子様を吾子《わがこ》のように育て、また主君として仕えました、その王子様が、オシロワケ王様の御命令とはいえ、同じ血を分け合った小碓王子様に殺されたのです、やつかれは大碓王子様の仇《かたき》を討たねばなりません」
「待て、吾は大碓王子を殺してはいない、話せば長くなるが、兄ヒメとともに美濃に逃がした、こんなことはいつまでも隠してはおけぬ、いずれ父王の耳に入るだろう、兄を逃がしたことはここにいる部下たちも知っている、のう、宮戸彦、内彦」
男具那の言葉に、二人は、
「本当です、やつかれたちもお救けしたのです」
と同時に叫んだ。
打山は拳《こぶし》を振り歯を噛《か》み締めた。騙《だま》されはしないぞ、と首を横に振った。
「噂《うわさ》を耳にして以来、やつかれは小碓王子様が印南の地に来られるのを待っていました、王子様を斬《き》り大碓王子様の仇を討つためです、願わくば王子様と刀を合わせたい、それが駄目なら、やつかれ一人で、王子様とそこにいる部下たちを斬る!」
打山は血を絞るような声でいうとゆっくり立った。体内をかけめぐる血は打山の眼をも赤く染めていた。
「打山殿も分らぬ男子だのう、吾は殺していない、と申しているのだ、それに打山殿は吾を斬ることはできぬ、宮戸彦の武術の腕はすでに見たはず、他の二人も宮戸彦に劣らぬ優れた武術者だ、村長に化けて吾を討とうとしたそなたの甥《おい》は、かなわぬと見て、吾がとめる間もなく自決した、吾はこれ以上、無益な血は見たくない」
「御言葉は無用です、参りますぞ」
打山が鉄剣を抜いた。
男具那が本能的に一歩後ろに跳んだほど速い。
男具那は打山が攻撃をしかけて来る前に刀を抜いていた。
だが男具邪にはいつもほどの闘志は湧《わ》かない。男具那はさらに二歩ほど後ろに跳んだ。足が意外に深く積雪の中に入り、ほんのわずかだが体勢が崩れた。
鋭い弓鳴りがした。
弟彦が放った矢が男具那めがけて跳ぼうとした打山の足許《あしもと》に深々と刺さっていた。
「王子、油断は禁物ですぞ」
内彦が叫ぶと、宮戸彦が木の枝を彩った雪が散らんばかりの声で怒鳴った。
「打山殿は本気です、何をされておられる、いつもの王子らしくない」
男具那は二人の部下に気合いを入れられ、刀を構えた。男具那が危うくなれば、手出しをするな、と命じても、部下たちは打山に矢を射るに違いなかった。部下たちは男具那の生命を守るために警護の任についているのである。
「分った、吾が斬る、放っておけ」
男具那は何度も深呼吸をすると、刀を構えながら上半身を動かした。こんな積雪ではいつものように身軽に跳べない。
ただ男具那と同じように、打山も積雪上での闘いには慣れていない。
近づいて来るが足が雪に入るので歩き方が、どこかぎこちなかった。
こういう場合は腕が互角なら、待っている方が明らかに有利である。
二人の間が六尺ばかりに縮まった。男具那の部下たちは弓に矢をつがえ、打山の部下たちは剣の柄《つか》に手をかけている。皆、息を呑《の》み、雪の上の空気は緊迫感に凍りついているように見えた。
雪の照り返しに打山の剣が時々異様に煌《きら》めく。虹《にじ》に以た光を放つ。男具那にはそれが邪魔だった。
ただ打山の武器が鉄剣である以上、ほぼ攻撃は突きが主だ。鉄剣は銅剣よりも強靱《きようじん》だが、持ち主の武術を突きに頼らせてしまう。それに鉄刀よりももろい。
男具那は瞼《まぶた》をほとんど閉じ鉄剣の煌めきを消し、打山を影として捉《とら》えた。
近づいて来た打山の影が微妙に膨らんだ。
打山は咆哮《ほうこう》すると、身体《からだ》を倒すようにして突いて来た。
打山の突きを予想していた男具那は、打山の影が膨らんだ時、足の爪先《つまさき》で覆っている雪を蹴《け》るようにして仰向《あおむ》けに倒れていた。
同時に構えていた刀を撥《は》ね上げる。
空を突いた打山の剣は、男具那の刀の峯《みね》で強打され二つに折れた。折れた部分が宙を飛ぶ。
立ち止まろうとした打山の脚を男具那の刀が襲った。峯打ちだが刀身は打山の脛《すね》を打った。鶏卵を叩《たた》き付けたような音がして、打山は呻《うめ》きながら俯《うつむ》けに倒れた。
男具那は跳ね起きると刀を捨て、転がろうとした打山の背に跳びついた。
馬乗りになると、折れた剣をまだ握っている打山の腕を捻《ね》じあげた。
苦痛に耐えられず打山の手から剣が落ちる。打山は身体を慄《ふる》わせながら嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。打山の背に乗っている男具那は、打山の身体が断末魔のように痙攣《けいれん》しているのを感じた。
「おう!」
いっせいに叫んだのは打山の部下たちだった。彼らは剣の柄から手を離し、その場に蹲《うずくま》り、男具那に叩頭《こうとう》した。
主君の助命を懇願しているのかもしれない。男具那は左手で打山の帯を探り、刀子を取ると丘の方に役げた。
打山が自決するのを防ごうとしたのだ。
「打山殿、吾にはそなたを殺せない、なぜなら兄、大碓王子を育ててくれたからだ、兄と吾は双子、何故《なにゆえ》吾が兄を殺す、そなたも武術だけの蕃人《ばんじん》ではないはずじゃ、いいか、大碓王子は王位への執着を捨て、兄ヒメとの恋に生きた、兄との間にはいろいろあったが、吾はそんな兄が好きになった、兄の副警護隊長だった倭海雄《やまとのうみお》は、母上の後、皇后のように振る舞っているヤサカノイリビメの手の者だった、吾と吾の部下は倭海雄を斬り、その部下を家とともに焼いて、焼け爛《ただ》れた部下の首を、大碓王子の首級と偽り、オシロワケ王に見せたのじゃ、吾が大碓王子を殺しておれば、吾はそなたを殺す、だが兄を殺していないから、そなたも殺さない、吉備打山《きびのうちやま》、吾の気持が分ってくれたな」
打山は雪の中に顔を突っ込むと号泣した。打山の身体が波を打つ。
男具那はゆっくり立つと刀を拾い鞘《さや》におさめた。
男具那は叩頭している打山の部下たちにいった。
「そちたちも忠節の武人だ、兄、大碓王子に代って礼を述べる、打山殿を連れて戻り、治療せよ、脛《すね》の骨が折れているかもしれぬ」
男具那の傍に部下たちがかけつけた。
王子、お見事でした、と部下たちの眼は告げている。
号泣していた打山が顔を上げた。
「お待ち下さい、小碓王子様、やつかれを斬って下さい、それでこそ、本物の王子ですぞ」
「何故だ?」
「やつかれは王子様を殺そうとしました、その動機がどうであれ、王子様に剣を向けたやつかれを斬らないようでは、王子の資格がありません、王子なればやつかれを斬殺《ざんさつ》すべきです」
打山の眼は血がほとばしっているように赤かった。
男具那は空を仰いだ。真上の空は限りなく青く、吉備の空には淡紅色に染まった雲が浮いている。
男具那は莞爾《かんじ》と笑った。
「残念だが吾はそなたを斬らぬ、王子の資格がなくてもよいのだ、吾は吾の思うように生きる、ただ最後に、一つだけ答えてくれないか?」
「何でございましょう」
「大碓王子と吾は本当に双子か」
「間違いございません、だからこそ、やつかれは捨てられる掟《おきて》の、大碓王子様をお育てしたのです」
「安心した、父王の命令に背き、兄を救って本当によかった、打山殿、傷を治し、悠々と暮らせ、もしそういう時があれは、美濃にでも行くがよい、大碓王子と会えるかもしれぬぞ、さらばじゃ」
男具那は部下たちとともに丘を登り始めた。
「王子様」
打山が絶叫した。
振り返ると打山は部下たちに抱えられていた。男具那は手を挙げた。
「御立派に成長されました、黄泉国《よみのくに》の御母上も喜ばれているでしょう」
「嬉《うれ》しく、その言葉を耳にしたぞ」
今、打山は男具那が優れた王子となったことも喜んでいるのだ。
打山は大碓を育てた。だが一方で、男具那の身も案じていたようだ。
不思議な男子《おのこ》じゃ、と男具那は胸の中で呟《つぶや》いた。
[#改ページ]
十八
男具那《おぐな》の話を尾鳴《おなる》は俯《うつむ》いて聴いた。その身体《からだ》が石のように固くなっているのが分る。
尾鳴はほとんど口を開かない。男具那は尾鳴に仕える女人が土師器《はじき》の酒杯に注いだ酒をあおった。
身体も心も火照っていた。
「印南《いなみ》の尾鳴、おぬしは母上の血縁者だ、母上と打山《うちやま》殿との関係は、よく知っているであろう、これは吾《われ》の想像だが、母上と打山殿との関係は、主君の娘と、警護隊長というだけではないだろう」
男具那の強い口調に尾鳴はゆっくりと顔を上げた。一文字に結んだ口に固い意志が表われていた。
「それは、どういう意味でしょう」
滅多なことをおっしゃるものではありませんぞ、と尾鳴の底光りのする眼は告げていた。男具那は酒杯を空けると荒々しく女人に差し出す。
「尾鳴殿、おぬしの胸に訊《き》くのじゃ」
「王子のおっしゃる意味が分りません、打山殿は、忠節の武人です、皇后様の警護隊長として大和《やまと》の巻向宮《まきむくのみや》に参り、身籠《みごも》った皇后様が印南に戻られたので、共に戻って参りました、ただ、あの打山殿が当地の掟《おきて》に背き、大碓《おおうす》王子を匿《かくま》い、育てたのは、我らにも意外でした、しかし、大碓王子は立派に育ち、勇猛な王子になられました、打山殿は掟に背きましたが、結果的には忠節な武人であったわけです」
「吾は、そんな表面的なことを訊いているのではない、尾鳴殿、母上は早く亡くなられたので、吾は母上のことはあまり知らないのだ、ここを去れば、知る機会は二度と来ないだろう、尾鳴殿、頼む」
酒をあおった男具那は、尾鳴に頭を下げた。
「王子、頭をお上げ下さい、何を訊かれても、話すことはありません」
尾鳴の声は喉《のど》に詰まり、重病人のように掠《かす》れた。尾鳴が苦しんでいることはよく分る。
「吾は何を知っても驚かぬ、吾の本当の父親がオシロワケ王ではなく、吉備《きび》の打山であったとしてもだ」
尾鳴の身体が驚きのあまり跳び上がったように見えた。
だが尾鳴は正座している。たぶん、驚愕《きようがく》が気となり、尾鳴の身体を突き抜けて飛び出たのかもしれない。
「何をおっしゃるのです、何を根拠に?」
尾鳴は気持を鎮めようと両拳《りようこぶし》を丹田《たんでん》に当てた。
男具那は、今の衝撃で尾鳴の固い防備が破れたのを感じた。
「まず打山殿だが、どこか吾に似ている、だいたい大碓王子と吾は双子《ふたご》なのにあまり似ていない、吾も大碓も口にこそしなかったが、そのことをずっと意識していた、二人の仲があまり好《よ》くなかったのもそのせいだ、吾は、本当の兄弟だろうか、と疑ったこともある、大碓も同じ疑惑に苛《さいな》まれて眠れぬ夜もあったであろう、ただ、大碓が兄《え》ヒメを愛し、父王にさからい、南山背《みなみやましろ》に兄ヒメを住まわせてから、吾は大碓に惹《ひ》かれた、兄弟としての親愛の情を覚えた、大碓も口とは反対に吾と同じように、王位になどあまり執着していないことを知ったからだ、だが、打山殿が吾に似ているのを見て、吾は驚いた、吾の本当の父は、オシロワケ王ではなく、打山殿ではないか、と疑った、その疑惑は吾の胸の中で破裂しそうなほど膨れている、ことに、大碓の言葉が忘れられないのだ」
「大碓王子が何とおっしゃったのです?」
「大碓は、母上が皇后として巻向宮にいた頃、母上には恋人がいたようだ、と吾に洩《も》らしたことがある、詳しいことは知らぬ、と大碓は逃げたが、大碓は噂《うわさ》になった恋人の名を知っていたに違いない、吾が印南に戻って来たのは墓参だけではない、母上について隠されていること、つまり吾の出生の秘密を知りたいからなのだ、打山殿を見た時、吾は知った、母上の恋人は警護隊長の打山であることを……」
「違います、それは違う」
突然尾鳴は這《は》い寄ると男具那の膝《ひざ》を掴《つか》み、押し、また揺すった。
「王子、違います、王子の父親は間違いなく、オシロワケ王です」
尾鳴の力は強く男具那の上半身も揺れた。
尾鳴の顔面には汗が滲《にじ》み、男具那を見上げる眼は充血していた。
「ではなぜ、吾の顔が打山殿と似ている」
「男具那王子の母上には、吉備の血が入っています、打山殿も吉備の出身、遠い血縁関係にありました」
「大碓は似ていないぞ」
「同じ兄弟でも、あまり似ていない顔はよくあります、大碓王子には父王の血が濃く出たのでしょう」
「あやふやな説明だな、では訊く、大碓は、母上には恋人がいた、と申した、その恋人とは誰だ?」
尾鳴は声を詰まらせた。
尾鳴が否定できないのは、恋人の存在を知っているからである。
「尾鳴殿、吾は真実を知るためには、何日でもここに留《とど》まる、何ヶ月でもだ、父王の命令には従わない、尾鳴殿が真相を話さなければ、今一度、打山殿に会う、明日にでも舟を出す」
尾鳴は男具那の膝から手を離すと、自分の席に戻った。
尾鳴は腕で眼を拭《ぬぐ》うと、両手を床についた。嗚咽《おえつ》が洩れた。
「王子、明日、吾も共に打山殿に会いましょう、そのことを話せるのは、打山殿だけです、なぜなら打山殿だけが真実を知っているからです、吾の口からは、これ以上、申せません、お許し下さい」
絞り出すような尾鳴の声に男具那は大きく頷《うなず》いた。尾鳴に近づくと床についた手を握った。男具那は全身の力を込めてその手を、自分の膝に載せた。
「分っているぞ、男子《おのこ》が守らなければならない秘密は、どうあっても守らねばならないのだ、尾鳴殿は立派だ、吾の血縁者だけのことはある、一族の一人として、吾は尾鳴殿を誇りに思うぞ」
「王子、お分り下さいましたか」
「分っているとも、さあ、共に飲もうではないか、吾も部下たちを呼ぶ、尾鳴殿も呼ぶがよい、共に飲もう」
「おう、飲みましょう」
尾鳴は屋根が突き抜けるような声で叫ぶと、何度も手を拍《う》った。
翌日、男具那と尾鳴は打山に会うべく、印南の川を舟で進んだ。
空は厚い雪雲で覆われ、今にも雪が降りそうである。野や山も雪が積もったままだが、陽の光を受けていないせいか、昨日ほどの白さがない。
男具那は、昨日は同伴しなかった大伴武日《おおとものたけひ》・久米七掬脛《くめのななつかはぎ》・吉備武彦《きびのたけひこ》を連れて行った。
武彦は吉備の首長の血を引いているが、男具那や打山とあまり似ていない。鼻はごつく、小鼻が張りどこか大碓の鼻に似ている。眼は細く顎《あご》が張り、どちらかといえば醜男《ぶおとこ》の類《たぐ》いに入る。ただ笑うと十四、五歳の童顔になり憎めない。
男具那は、武彦の顔をつくづく眺め、吉備氏にもいろいろな顔があるものだ、と思いを新たにした。
大碓と男具那は、双生児にしては確かに似ていないが、大碓も倭人《わじん》にしては彫りが深い。
彫りの深さという点では、まさしく同じ血が流れている。眉《まゆ》の形などもよく似ている。
違う点といえば鼻が低く、小鼻が武彦のように張っている点だ。
男具那の顔を槌《つち》で叩《たた》いたなら大碓の顔になりそうだった。
男具那が思わず苦笑すると武彦が叩頭《こうとう》した。
「王子、やつかれの顔に何か……」
ついているのでしょうか、と頬《ほお》を撫《な》でる。
男具那は白い歯を出して笑った。
「いや、兄の大碓王子のことを考えていた、そちは、どこか大碓に似ておるな……」
「やつかれが大碓王子様に、それは光栄でございます」
武彦は慌てたように頬から手を引いた。その表情は、光栄です、といった割には喜んでいない。
「王位よりも女人を選んだ兄上は立派じゃ、美濃《みの》の奥地にはここと同じように雪が積もっているだろう、そうだ、兄上には兄ヒメがついている、山野が雪に覆われようと、心は暖かいに違いない、あの美しい女人に、あそこまで惚《ほ》れられた大碓王子は幸せ者だ」
男具那は東の空を見上げていった。
暗い雲は果てしなく東の方に続いている。
大碓も今、同じように雲を仰いでいるだろうか。
男具那は眼を閉じた。遊びよりも喧嘩《けんか》ばかりしていた童子時代が懐しく思い出される。
尾鳴の部下が二本の棒を叩き始めた。一二三、一二三、と叩くが音は微妙に変っている。ただ棒にしては澄んだ音で、遠くまで響く。
そろそろ打山の勢力圏だ。
尾鳴は、自分が来たことを打山に知らせているのかもしれない。
上流から一|艘《そう》の舟がやって来た。
一人が櫂《かい》で漕《こ》ぎ、一人が睨《にら》みつけるように前方を眺めている。
毛皮を纏《まと》った男子の手には二本の棒が握られていた。男子が棒を鳴らし始めた。
尾鳴の部下が鳴らしていた棒を置く。
「王子、迎えが参りました」
尾鳴が口に手を当てて叫んだ。
迎えに来た舟は反転すると男具那たちを先導した。間もなく川岸の葦《あし》の間に入る。除雪した舟着場があった。
棒を鳴らした男子の顔に見覚えがあった。打山とともに男具那を待ち受けていた一人である。
二人の男子は先に舟から降り、男具那や尾鳴に叩頭した。
尾鳴が離れた場所に彼を呼び、男具那が来た理由を告げた。
男子は叩頭すると雪の中に消えた。
「打山殿にお会いしたい、という王子の意向を伝えました、しばらくここで待ちましょう」
舟着場の傍《そば》は雑木林の小丘で、数戸の家があった。草で屋根を葺《ふ》いた竪穴《たてあな》式の家である。今一人の男子が火を焚《た》いた。
男具那に、お暖まり下さい、という。
「王子、最高のもてなしです、暖を取りましょう」
男具那と尾鳴は焚き火の傍に立った。
部下たちは身体をぶつけあって寒気から身を守っている。
半|刻《とき》(一時間)ほど待っただろうか、さっきの男子が戻って来た。
「打山様は、横たわっておられますが、それでよければお会いしたい、と申されています」
男具那の峯《みね》打ちで、脚の骨は折れなかったとしても罅《ひび》が入っている。立ちも坐《すわ》りもできないのは当然だった。
男具那たち一行は小丘に沿って打山の屋形に向った。屋形は高床《たかゆか》式で、周囲は土塁で囲まれているが壕《ほり》はない。
屋形の中に入ったのは男具那と尾鳴の二人である。
打山は何枚もの毛皮を重ねた上に横たわっていた。男具那に向って疲れた顔を向け、手を合わせて挨拶《あいさつ》した。
尾鳴が傷の具合を訊《き》いた。打山は一瞬|嬉《うれ》しそうに眼を細めた。
「王子様の武術は大変なものじゃ、脚の骨が折れたらしく腫《は》れて火のように熱い、よくここまで上達したものじゃ」
打山は心の底から感嘆していた。骨を打ち砕かれた屈辱よりも、男具那の上達を喜んでいるようである。
男具那の疑惑に火がついた。やはり吾の父は打山ではないか、と胸が騒ぐ。ただ大碓と男具那が双生児である以上、男具那の父なら大碓の父も打山ということになる。
男具那が思わず身体を乗り出そうとすると尾鳴が、王子様と声で制した。
男具那が焦って訊き出そうとしたなら、打山の口が重くなる、と案じたのかもしれない、尾鳴はゆっくり膝《ひざ》を進めた。
「打山殿、王子が参られたのはほかでもない、王子は打山殿と顔を合わせ、御自分の父ではないか、と思われたのだ、それで悩まれ、真実を知るべく、来られたわけじゃ、隠さず、本当のことを話されたい、疑惑のままだと王子の胸は一生晴れることがない、吾は外に出る、女人たちも出させよう」
「やつかれが……」
打山はくぐもった声を放つと、上半身を持ち上げようとし、苦痛に呻《うめ》きながら倒れるように横たわった。荒い息を吐きながら尾鳴に、この場にいて欲しい、と告げた。
打山は眼を閉じ溢《あふ》れる思いを抑えるように胸に手を置く。蒼白《そうはく》な顔に微《かす》かに血の気が映えた。
男具那は息を呑《の》み打山の告白を待った。
打山の瞼《まぶた》が慄《ふる》えている。打山は長い間眼を開かなかった。
やっと眼を開いた打山は屋根裏に視線を向け、歌うような声でいった。
「王子様、何をおっしゃいます、王子様の父上は、巻向宮におわすオシロワケ王様です、やつかれを父だなどと……悪い鬼神に取り憑《つ》かれ、気がおかしくなられたのではありませんか」
「吾は正気じゃ、大碓は、母には恋人がいた、と吾に洩《も》らしたことがある、その恋人とは打山殿、そなたのことではないか」
「やつかれは王子様が印南に来られると知り、お生命《いのち》を狙《ねら》ったのです、もし父なら、そういうことは致しません、そうではありませんか」
「打山殿、吾の方を見て話して欲しい、さっきの、母の恋人ではなかったのか、という吾の質問に答えていない、まずそれを知りたい」
打山はそれには答えなかった。
胸の上の手を三つ鳴らした。
隣室から三十半ばの女人が現われた。髪を髷《まげ》風に結った色白の女人だった。
女人は這《は》いつくばって男具那と尾鳴に叩頭《こうとう》した。
「やつかれの妻のサイノイラツメです、王子様と大事な話がある、家にいる者は吾が呼ぶまで、外に出ているように、今すぐだ」
「はい、分りました」
サイノイラツメが伝えたらしく、何人かが屋形から出た。
打山は手を胸の上で組むと眼を閉じた。瞼は窪《くぼ》んでいるが、その表情は活々《いきいき》としているように見えた。気のせいだろうか、打山の顔の周辺の空気が、揺れて動いているようである。色のない炎のようなものが、打山の顔から立ち昇っている。
男具那には信じられないような現象だった。男具那は眼をこすり後ろの尾鳴を見た。眼を剥《む》いて打山を見ていた尾鳴は口を開きかけたが、口は半ば開いたまま動かない。
尾鳴も、空気がかげろうのように揺れ動いているのを見ているのだ。
男具那は声をかけようとしたが、意に反して口が開かない。
男具那は息を呑み打山を見なおした。相変らず打山の顔からは見えない炎が立ち昇っている。
打山の生命が去っているのではないか、と男具那は思った。
突然、打山が口を開いた。
「あれは、吾が二十歳頃のことでした」
と打山はいった。
驚いたことに打山の声は青年のように若い。三十年は若返っている。
どうした? と男具那は声をかけようとしたが、相変らず口は開かなかった。身体も金縛りに遭ったようである。たぶん、尾鳴も同じ状態だろう。振り返ろうとしたが、自分の身体なのに微動だにしなかった。
「吾は、吉備稚武彦《きびのわかたけひこ》様に命じられ、イナビノオホイラツメ様を警護するために、吉備から印南に参りました、吾はオホイラツメ様を見た時、あまりの美しさに眼が眩《くら》みそうになりました、雪も恥じらい、花も花弁も垂れる、と噂《うわさ》された美しさは想像以上だった、吾は一眼《ひとめ》見て恋の虜《とりこ》になりました、オホイラツメ様も吾に好感を抱いて下さったようです、言葉には出さないが、吾を見る艶《つや》やかな瞳《ひとみ》に、オホイラツメ様のお気持が感じられました、だが、オホイラツメ様は翌年、大和のイクメイリビコイサチ王の王子の正妃になられることが、すでに決まっていたのです、オホイラツメ様は吉備氏の血を引いておられます、いうまでもなく、大和の王子とオホイラツメ様の婚姻は、吉備の勢力を強化するために、絶対必要な婚姻です、大和としても、吉備氏との関係の強化は、勢力拡張のために必要でした、だが、オホイラツメ様が、大和のどの王子と婚姻されるか、は決まっていなかったのです、当時、イクメイリビコイサチ王の王位を継ぐ王子としては、イニシキノイリヒコ王子と、次子のオシロワケ王子が有力でした、二王子の母は丹波《たんば》のヒバスヒメですから、本当ならイニシキノイリヒコ王子が王になるはずです、ところが、オシロワケ王子はなかなかの策謀家で、王位に即《つ》くために和珥《わに》氏や河内《かわち》の物部《もののべ》氏に接近したのです、もちろん、祭祀《さいし》を重視するか、武力を重視するか、という政策上の違いもあり、約二年間の争いがありました、結局、イニシキノイリヒコ王子は、王位争いから自殺しました、もちろん、印南の地にも吉備から情報が入って参ります、それにしても、婚姻の相手が、たんに王子というだけで、誰かも分らず、二年間も待たされたオホイラツメ様はお気の毒です、政略結婚とは何と残酷なものでしょう、吾はオホイラツメ様の警護隊長となり、いつもお供しました、川での舟遊び、野での花摘み、また時には海辺で遊ばれる時、吾はオホイラツメ様のお傍にいたのです、舟にお乗せしたり、舟からお降りになられる時、吾はオホイラツメ様を支えるため、強く手を握りました、二人の汗は混じり合い、オホイラツメ様はよく頬《ほお》を染められたものです、吾の胸も破れるほど躍りました、あの二年間の充実感、これは軽々しく口ではいい表わすことができません、二人は床こそ共にしませんでしたが、心は結ばれていました、そうです、結ばれていたのです」
打山は相変らず眼を閉じたままである。ただ、打山の顔から立ち昇っていた色のない炎が、打山が口を閉じた瞬間、淡紅色に染まったのを男具那は見た。はっとして見直したが、もう色は消えていた。
打山は荒々しい息を吐いた。横たわった打山に被《かぶ》せられた毛皮が、獣が生きているように上下する。打山は低く唸《うな》った。
打山殿、大丈夫か? と男具那はいおうとしたが相変らず口は痺《しび》れていた。
「オシロワケ王子が王位継承者になり、オホイラツメ様が大和に発《た》つ前夜、吾《われ》はオホイラツメ様に呼ばれ、屋形の外で、二人だけで話し合いました、オホイラツメ様は、自分を連れて吉備に逃げて欲しい、といわれた、吾と一緒に暮したい、といわれるのじゃ、吾は身体中の血が沸騰したような思いで、思わずオホイラツメ様をその場で抱いてしまった、お互い、唇をむさぼり合った、吾は、逃げよう、と思ったが絶望し、崩れ落ちそうになった、吾には逃げる場所がない、吉備に戻れば、吾は吉備の裏切り者として処罰される、印南の山中に逃げても、吉備と印南の兵に裏切り者として捜索される、二人が山中で過せるのはせいぜい十日だ、見つかって吾が殺されるのは構わぬ、だが、オホイラツメ様はどうなる? もう大和には行けぬ、おそらく殺されるか、瀬戸内海《せとないかい》の島に流されることになるのだ、オホイラツメ様をそんな目に遭わせるわけにはゆかぬ、だから吾は肌を破り血《ち》飛沫《しぶき》をあげそうな恋情を抑えたのだ、吾は、それはできませぬ、とオホイラツメ様を説得した、オホイラツメ様はいわれた、十日間だけ共に過すことができたなら、共に死んでよい、とな……」
地から水が湧《わ》き出るように涙が打山の眼窩《がんか》に溜《た》まった。川を水が流れるように、涙は打山の深い皺《しわ》を伝い|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に、頬にと流れ落ちた。
打山は喉《のど》を絞るような声で何度も嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。
男具那の脳裡《のうり》に、若き日の母と打山が抱き合っている姿が浮かんだ。二人の姿はおぼろであったが、男具那はその姿を自分に刻み込んだ。
打山は激しく首を振った。
「吾には、それはできぬ、できませぬ、オホイラツメ様、お許し下さい」
今、打山は三十年前の自分に戻っている。
おそらくオホイラツメの手を掴《つか》んでいるに違いなかった。打山の手は掛けられた毛皮を握り締めていた。
男具那は息を呑《の》んだ。
驚いたことに打山は、脚を動かさず硬直した上半身だけ起こし、深々と頭を下げた。
「お許し下さい、吾の愛情は、この身を焦がすほどです、だが、オホイラツメ様を連れて逃げることはできません」
それだけ叫ぶと、打山はまた上半身を倒して仰向《あおむ》けになった。得体の知れない鬼神がついたようである。
打山は鼾《いびき》をかいて眠り始めた。鼾の音は深く、地の底にまで伝わるようであった。
打山の顔から立ち昇っていた色のない炎はもう止まっている。
この寒さなのに打山の顔は汗塗《あせまみ》れである。汗が滲《にじ》み出る度に生気が失われてゆく。
鼾がやむと打山は眼を見開いた。打山は夢でも見ていたような眼で、男具那を見た。
「男具那王子様、不思議です、やつかれは三十年もの昔に戻っていました、夢を見ていたのだろうか、いや、そんなことはない、オホイラツメ様の香《かぐわ》しい薫《かお》りは、今も鼻孔に残っている、不思議です」
男具那は見えない縄で縛られ、身動きできなかった身体が自由になったのを感じた。
「打山殿は、母上との関係を語っていた、母上が共に逃げよう、と打山殿に願ったが、そなたは拒否した、吾には分る、警護隊長として当然じゃ、武人は恋情のために一族を裏切ることはできぬ」
打山は土気色になった顔で頷《うなず》いた。
「やつかれが見た夢は現実のものだったのです、だから口から出てしまいました、そうです、やつかれはオホイラツメ様のお供をし、大和に参り、皇后となられたオホイラツメ様の警護の任にあたりました、間もなくオホイラツメ様は巻向宮で櫛角別《くしつのわけ》王子をお産みになり、数年後、再び身籠《みごも》られて印南の実家に戻られました、その頃、オシロワケ王の愛情は新しい妃《きさき》のヤサカノイリビメ様に移っておられたし、印南の故郷《ふるさと》で御出産され、しばらく静養なさりたかったのです、王子様、やつかれにとってオホイラツメ様は、一生消えることのない心の恋人です、だからこそ、オホイラツメ様とやつかれとの間は、童子と童女との間のような無垢《むく》なものでした、大碓王子様、男具那王子様の父上は間違いなくオシロワケ王様です、やつかれが父などとは、とんでもありません、王子様の胸に、疑心が一片でも残っておれば、やつかれは、死んでも死にきれません、やつかれは潔白です」
「いや分った、ただ、打山殿が潔白だとか、潔白でないとかは、吾にはどうでもよいのだ、母には母の生き方があり、吾には吾の生き方がある、だが、どうやら母上と打山殿は潔白であり過ぎた、いや、打山殿が頑固だったのだろう、吾としては打山殿の言葉を信じる以外、方法はない、ただ、どうして大碓王子を連れて逃げたのじゃ?」
「これは尾鳴殿も説明されたと思いますが、双子の一人は呪《のろ》われている、と信じられています、呪われた子は先に生まれる、だから山に捨てるか、巫女《みこ》が育てる掟《おきて》になっています、ただ、巫女が育てるといっても形式的なことです、巫女は、母親と今一人の子に取り憑《つ》いている悪い鬼神を追い払うため、自分が浄《きよ》めた岩場に捨てます、だから、どちらにしろ生命はありません、やつかれは、オホイラツメ様の心情を察し、兄王子を連れ去り、育てたのです、たぶん、オホイラツメ様は、やつかれが連れ去ったのを知り、安心されたことと思います」
打山の視線が尾鳴に注がれた。
大きく頷いた尾鳴は励ますように打山にいった。
「そうじゃ、オホイラツメ様は喜んでおられたぞ、感謝されていた、おぬしはよくやった、だから追手の兵も、おぬしを徹底的に捜さなかった、皆、オホイラツメ様のお気持を知っていたからのう」
尾鳴の言葉に打山はかっと眼を見開いた。
「オホイラツメ様の血縁者のおぬしから、その言葉を聴き、吾は思い残すことなく黄泉《よみ》の国に行ける」
「打山殿、何をいうか、おぬしは脚に傷を受けただけじゃ、すぐ治るぞ」
「吾は武人、動けない脚を持ち、どうして生きて行けよう、それに吾は、よく調べもせず、男具那王子様を恨み、殺そうとした、この罪は死をもって償う以外はない、さいわい、男具那王子様の手によって黄泉の国に送られることになった、こんな幸せがあろうか」
打山の声が掠《かす》れて来た。
打山の手が何かを求めるように男具那の方に投げ出された。
男具那は骨の太い打山の冷たい手を握った。打山は最後の力を振り絞って握り返す。
「王子様、王子様の血を感じます、やつかれにとって、育てた大碓王子様は、自分の子供と同じでした、お分り下さい」
「よく分る、当然のことじゃ」
「やつかれは、大碓王子様は、男具那王子様の手にかかり亡くなったとばかり思っていました、どんな理由があるにせよ、オホイラツメ様がお産みになった兄弟が殺し合う、それは許せない、と思いました、しかも大碓王子様が殺されたとなると、悪の鬼神は、男具那王子様の方に憑《つ》いていたに違いない、と勝手に信じ込んだのです、ただ……」
「ただ……どうした、おい、気を強く持て」
男具那の手を握っている打山の手から、急速に力が失われて行く。男具那は懸命に力を込めた。
「王子、王子にお会いでき、嬉《うれ》しゅうございました、王子はなぜ、やつかれに似ておられるのか……」
打山の眼に白い霧が掛かっている。もはや、男具那の顔は見えないだろう。だが打山は懸命に男具那を見ていた。
「吾も不思議だった、だから父ではないか、と……」
打山の口が動いたがその声は男具那の耳には届かなかった。力が抜けた打山の指先が男具那の掌《てのひら》を引っ掻《か》いた。
傍に寄って欲しい、と告げている。
男具那は打山の口の傍に自分の耳を寄せた。声にならない声が呟《つぶや》いた。
「王子、オホイラツメ様はたぶん、やつかれのことを……」
「そうだ、それに違いない、母は皇后になってもそなたに思いを寄せていた、その思いがそなたに似た子を産ませたのだ、そういう意味では、吾はそなたの子でもある」
どんな生命力が甦《よみがえ》ったのだろうか。
打山の眼を覆っていた白い霧が消えた。若々しい黒い瞳《ひとみ》が男具那の眼の前で輝いた。
「打山殿!」
男具那の叫び声に応《こた》えるように打山の瞳が微笑し、瞼《まぶた》が閉じられた。死が訪れたのである。
男具那は打山の身体《からだ》を揺すった。何とか今一度生き返らそうと、乾き罅割《ひびわ》れた打山の唇に自分の唇を押しつけ、息を吹き込んだ。
「王子、打山殿は満足して死にました、王子に看取《みと》られ、幸せだったと思います、打山殿を安らかに眠らせましょう」
尾鳴が男具那の後ろでいった。溢《あふ》れる思いを抑えたのだろう。尾鳴の声はくぐもっていた。
打山は生前から、自分の遺体を入れる木棺を用意していた。
打山の妻や部下たちが遺体の前で慟哭《どうこく》する。打山の遺体は木棺に入れられ、剣や鏡などが副葬された。
打山の死を悼むように雪が降り始めた。
男具那は打山に別れを告げると、尾鳴の屋形に戻った。
男具那が、そなたの子でもある、といった時、もう半ば死んでいた打山の生命が最後に燃えた。あの黒い瞳の若々しさはまさに青年のものだった。
川面《かわも》にも雪は降り続けている。無数の白い絹の糸が天から垂れ、川面で消えている。雪は川の底まで降っているように感じられた。
オシロワケ王の皇后となった母は、打山を思い続けていたのだ。身籠《みごも》ってから、何かにつけ打山の顔を思い浮かべ、胸の中で暖めていたのであろう。
母のそんな情念が、母体内の子袋の奥で大きくなった男具那に伝わったに違いなかった。
打山が必死に訴えたように、母と打山は床を共にしなかったに違いない。打山は筋を通して生き抜くことのできる武人である。
男女が実際に媾合《まぐわ》わなくても、二人の情念は身籠った胎児に伝わったのだ。
そういえば、愛している男子《おのこ》の子を宿したいと願っている女人は、実際に身籠っていないのに腹が脹《ふく》れ、身籠ったのと同じ状態になる、といわれている。
人間の情念は、想像以上の強い作用を人間の身体に与えるようだ。
印南を発《た》つ日、男具那は母の墳墓に参った。
相変らず雪は降り続いていたが、男具那が雪の上に正座し叩頭《こうとう》すると、不思議に雪はやんだ。
降る雪に隠れていた母の墳墓が、真白い姿を現わした。
陽がないので雪の墳墓は眩《まぶ》しくはなかった。柔らかく優しく、清らかだった。
男具那は手を合わせ、打山の最後を告げた。男具那が告げ終ると、まるで待っていたように雪が降り始めた。
立とうとした男具那は信じられないものを見た。
墳墓の上に降っている雪が、何かの意志に操られたように集まった。白い煙のように風に吹かれ、男具那が坐《すわ》っている参道に近づいて来た。白煙に似た雪は間違いなく女人の形をしていた。
「母上、母上ではありませんか、吾は倭男具那《やまとのおぐな》、お別れに参りました」
女人のような雪は六尺(約一八〇センチ)ほどの手前で止まった。風のせいでゆっくり揺れているが、顔の部分が男具那を眺めている。
「母上!」
男具那が手を挙げて立とうとすると、雪の女人は、それ以上近寄ってはなりません、といった風に首を振った。
だがその顔は、慈愛に満ち笑っていた。
「男具那、よく来てくれました、今のそなたは吉備の打山とそっくりじゃ、そなたは誇り高き英雄です、前にもいったが、英雄は孤独で常人よりも辛《つら》いことが多い、耐えねばなりません、せい一杯生きるのです、それと男具那、大碓をよく助けてくれた、礼を申します」
「母上、礼など要りません、もっと顔を見せて下さい」
雪の煙が薄くなり、風に吹かれて墳墓上に戻って行く。
「男具那、また甘えている、そんな女々しい男具那は見たくもない」
「母上、許して下さい、吾の心得違いでした、母上!」
男具那の声に母は頷《うなず》いたように思えたが、そのまま雪の女人は、墳墓の真上で消えた。
雪は花弁のように大きくなり、一尺先も見えないほどである。
「王子、大丈夫ですか?」
大きな声は宮戸彦《みやとひこ》だった。
男具那は吾に返った。
「大丈夫だ、ただ雪が激しくて何も見えぬ、今は動かない方がよい」
「そこにいて下さい、我ら一同、縄を身体に巻きつけて参ります、時々、声をかけますから、御返事を……」
「おおげさな、間もなく雪はやむ、そちたちは深山で迷った吾を探しているのか、そこにおれ、吾が行く、吾は倭男具那だ、そちたちが探しに来るまで待っておれるか」
男具那は部下たちの制止の声を無視し、雪が積もった墳墓の参道をゆっくりすべり下りた。
「王子」
眼の前から降って湧《わ》いたような声に、
「ここだ」
と男具那は雪を薙《な》ぎ払うような声を出した。男具那と部下の身体がぶつかり、雪の傾斜道を転がった。
尾鳴の忠告で、一|刻《とき》(二時間)ほど船に乗るのを遅らせ、雪がやむのを待って男具那たちは海路、河内へと向った。
明石《あかし》の近くに来た頃雪雲が途切れ、陽が差し始めた。
母の墳墓の上に立った雪の女人は、本当に母だったのだろうか。
母は男具那に、そなたは打山とそっくりじゃ、といったが、あれは男具那の心がいわせたものではないか。男具那は、ずっとそのことを考え続けていたのである。
部下たちが口々に何か叫んでいるのを耳にした男具那は、
「どうしたのだ?」
と振り返った。
部下たちの手がいっせいに前を差した。前方の海面が妖《あや》しく輝いていた。時には銀色に、また紅に、そして淡紅色に光る。夜明けの明りのような青みのかかった光を放つこともあった。
「海に美の鬼神がいるのかもしれない、何であろう、だが、あまりにも深い雪の中にいたので、我々は幻を見ているのかもしれぬぞ、幻といえば……」
男具那は腕を組み、西方の印南の空を見た。雪雲が山や海まで幕のように垂れていた。まだ雪が降っているようである。
男具那は思い切って、母上の墳墓の上に雪の女人を見たが、そちたちは見なかったか、と訊《き》いた。
部下たちは不思議そうに顔を見合わせたが、一言も答えない。
「そうか、見なかったのだな」
「はあ」
と内彦《うちひこ》が部下たちを代表して答えた。
「吾は墳墓と話していたであろう」
「母上に、お別れを申されておられました」
と宮戸彦がいった。
「そうだな、そのとおりだ、そのために母上の墳墓に参ったのだ、あまりにも激しい雪だったので、雪の女人に見えたのであろう、そういえば、早く女人に会いたいものじゃ」
「そうです、会いとうございます」
部下たちがいっせいに叫んだ。身体に力を込めたのだろう。船が揺れ水《みず》飛沫《しぶき》が男具那の顔を濡《ぬ》らした。顔が凍りついた。
雪の女人は、やはり男具那の幻想の産物だったのかもしれない。
だが母の霊が、男具那にだけ見えるように、雪の女人となって現われなかったとはいい切れない。
たとえ、あれが幻想であろうと、男具那が、母と会ったのは間違いなかったのだ。
そう結論づけると男具那は気持が晴々として来た。
「王子様、あれは鯛《たい》ですぞ、鯛の群れです、奴《やつこ》も初めて見ました」
舟長《ふなおさ》が大声で叫んだ。
海面が妖《あや》しく光り輝いていたのは、数え切れない鯛のせいである。腹を見せて浮いている鯛もあれば、泳いでいるものもいる。
「おう、美しい鯛じゃ、鯛は海の底を泳ぐという、その鯛がどうして?」
男具那の問に舟長が昂奮《こうふん》して叫んだ。
「王子様、海の底があまりにも冷たく、泳いでおれなくなり、浮き上がって来たのです、腹を横にしている鯛は、麻痺《まひ》してるのです、海底の冷たさが、限界を超えると、鯛も泳げなくなります、数十匹の鯛が浮き上がったのは、これまで何度か見ました、だが、だが、こんな大群を見たのは初めてです」
部下たちも船から乗り出すようにして、七色の光を放つ海を眺めていたが、手掴《てづか》みで獲り始めた。
「皆様、お静かに……船が転覆します、ここに網がありますので、お獲り下さい」
舟長は船底から、竹竿《たけざお》につけた網を取り出した。
部下たちは童子のように網を奪い合おうとする。
男具那は舳先《へさき》に立つと一喝した。
「落ち着け、見苦しいぞ、船が転覆すれば大和には戻れぬ、家族や恋人にも会えないのだ、失心した鯛共は、この海に棲《す》んでいるのだ、海の水がたとえどんなに冷え込もうと泳がねばならない、身が痺《しび》れ、浮き上がって来るような鯛は、魚の王者の値打ちがない、舟長、網を渡せ」
男具那は網で鯛をすくうとそのまま放り上げた。鯛は空中で回転し妖しく煌《きら》めく。
男具那は落ちて来た鯛を、裂帛《れつぱく》の気合いとともに両断した。ほとんど音も立てずに二つに割れた鯛は海に落ちた。
仲間が斬《き》られたのに、浮いている鯛には逃げる気力もない。
「皆の者、吾はこんな鯛は食べぬぞ、獲った鯛は、活々《いきいき》と跳ねているから旨《うま》いのだ、食べたい奴《やつ》は、いくらでも食べろ」
男具那は網を放ったが、部下たちは恐縮したように叩頭《こうとう》し、網に手を掛けない。
男具那は鞘《さや》におさめた刀の柄《つか》を叩《たた》いた。
「皆の者、吾に仕えるのは辛《つら》いぞ、分っているのか!」
「おう、だから愉《たの》しい、やつかれたちは、王子に仕えたいから仕えたのです、皆、王子について行きます」
七掬脛《ななつかはぎ》が胸を叩いた。
男具那も自分の胸を叩き返した。
「よくぞ申した、七掬脛、そちは料理が旨い、浮いている鯛の中に、腹を見せずに、何とか泳いでいる奴がおる、それを獲《と》れ、今宵《こよい》は明石に泊まり、鯛のぶつ切りを肴《さかな》に、酒を飲もう」
男具那の言葉に、部下たちは、うおう、と歓声をあげるのだった。
[#地付き](大和の巻 了)
本書は、平成二年十一月に小社より刊行された単行本を文庫化したものです。
角川文庫『白鳥の王子 ヤマトタケル』平成12年8月25日初版発行