レヴィローズの指輪
高遠砂夜==著
まさか、自分が、再び目覚めるとは思わなかった。
十数年ぶりに目を開けた直後、彼はそう呟《つぶや》いた。
最後に目を閉じて眠りに入った時、今度こそ、安らかに|昇天《しょうてん》してやる、と思っていたのに。
残念ながら、彼はまだこの暗い場所で、|闇《やみ》に抱かれて眠っていただけらしい。
目覚めた理由はわかっている。
周りが再び動き出したからだ。
彼はぶつぶつと心の中で呟いて、身を起こした。
「あの魔女。とうぶんおとなしくしていると思ったんだがなあ。気の毒に。今度はどこのどいつに目ぇつけやがったんだ?」
彼は、黒髪の魔女の顔を思いだして|眉《まゆ》をひそめる。
この城を支配するのは、人間離れした冷たい|瞳《ひとみ》を持った一人の魔女。
その魔女が今動き出したようだ。
何も知らずに、この城へと連れてこられる者の顔はまだわからない。だがその時がきたら忠告してやるべきだろう。
おまえがやってきたこの場所は、魔の|巣窟《そうくつ》だぞ≠ニでも。
それまではこの暗い場所で、息を|潜《ひそ》めて待っていることにしよう。
まだ見ぬ者へ。
おまえが平安を|見出《みいだ》したいのならば、この城にだけはやってくるなよ。
それがおまえの身のためだ。
第一章・ジャスティーンの新しい家族
新しい家族ができた。
|天涯《てんがい》孤独だと思っていたジャスティーンの前に、|叔母《おば》の代理人だという人が現れたのだ。
栗《くり》色の髪の素敵な紳士《おじさま》は、髪と同じ色の艶《つや》やかな髭《ひげ》を生《は》やしていて、立派な馬車から降りてきた。
外のざわめきに驚いて、何事かと|慌《あわ》てて外へと飛び出してきたジャスティーンに向かって、彼は言った。
「ジャスティーン・エイド・ダーレイン。私はケイド・ダリネード。君の叔母様の代理人だ」
夕食時に、本日のメインディッシュであるご|馳走《ちそう》のかぼちゃのスープをすすっていたところで、急に飛び出してきたので、手にはかぼちゃのスープの色もそのままの、スプーンを握りしめたままだった。
「お……ばさま?」
|青天《せいてん》の|霹靂《へきれき》とはまさにこのことをいうのかもしれない。
けれどうまい話には裏がある、というのが、これまで十六年間生きてきたジャスティーンの学んできた結論だ。|故《ゆえ》に疑い深く首を|傾《かし》げた。
「あたしに叔母様がいらっしゃるなんて、聞いたこともありません」
心の中ではめまぐるしく思考が回転していた。
(いっとくけど、あたしを|騙《だま》したって一銭の得にもなりゃしないわよ! なんたって|無一文《むいちもん》に等しいんだから!)
その日の夕食にも|事欠《ことか》く始末なのだ。とりあえず、今日は顔見知りの野菜売りのおばさんが、ジャスティーンにかぼちゃをわけてくれたので、なんとか夕食にありつけたが、そうでなければ今頃空腹のあまり腹を抱え、ベッドに転がっていたことだろう。部屋は八年前両親が一度に亡《な》くなった時、天涯孤独になったジャスティーンを不欄に思った人情に厚い|大家《おおや》さんが、そのまま貸してくれたので―――本当はジャスティーンが『ここを追い出されて|野垂《のた》れ|死《じ》にしたら、|恨《うら》んで化けて出てやる』と、手足をばたつかせて大騒ぎしたので、追い出すに追い出せなかったのだが―――なんとかなっているが、それでも台所は火の車だ。十六の小娘がたった一人で生きてゆくには、この世はあまりにも無情だった。
(あ、でもいくら無一文って言ったって、あたしにはこの立派な体があるんだわ! そうよ、こんなあたしだって|娼館《しょうかん》に売られれば、きっとそれなりの値がつくはずよ。なんたってまだ清い体なんですもの!)
そう思いついたジャスティーンは、すぐさま叔母の代理人に向かって言った、
「あの、ケイド・ダリネードさん。あたしを色町へ売ろうなんて考えは、今すぐ捨てた方がよいと思います。あたしにそういう商売は向きません。根が正直なので、|嘘《うそ》をついてお|世辞《せじ》を言う特技もありませんし、腹を立ててると手と足が同時に出る性格なんです。きっと相手に|大怪我《おおけが》をさせて、周り中に|迷惑《めいわく》をかけること間違いなしでしょう!」
叔母の代理人は一瞬、空飛ぶ|猪《いのしし》でも見つけたような表情になった。
「ジャスティーン・エイド・ダーレイン」
彼は額《ひたい》に手を当てて、呟《つぶや》いた。
「どうやら君と我々の間には大きくて深い川が流れているようだ。とりあえず、|溝《みぞ》を埋めるために、まず話をしよう。あがってもいいかね?」
ジャスティーンは|不承不承《ふしょうぶしょう》頷《うなず》いた。もしかしたら、人買いかもしれないような危険な人物を、|無防備《むぼうび》に家の中へとあげたくはないが、とりあえずいかにも金持ちらしき人物に、ここまで|下手《したて》に出られてはあまり|邪険《じゃけん》にもできない。
やがて、部屋の中でそのいかにも金持ちらしい|紳士《しんし》にかぼちゃのスープをご|馳走《ちそう》しながら、彼女は自分のこれまでの人生がひっくり返るような話を聞いたのである。
(このあたしが貴族の娘ぇ?)
目の玉が飛び出るほど驚いた。
目の前で長年の友人たちがおいおいと泣いていた。
「さよなら、ジャスティーン。体には気をつけてね」
「もう本当にこれで会えなくなるの? |寂《さび》しいよぉ」
「|侯爵《こうしゃく》様だか|伯爵《はくしゃく》様だか知らないけど、立派な|親戚《しんせき》ができて|羨《うらやま》しいよ。けど幸せになれよ、ジャスティーン」
「身分が違ってもあたしたちのこと、忘れないでね、約束だからね」
ジャスティーンと違って孤児というわけではないが、同じくらいに貧しい少年少女たちだ。
一番年長のジャスティーンは彼らの親玉として、下町の悪童《あくどう》たちの上に君臨《くんりん》していたのだ。
ジャスティーンも何がなんだかわからないまま、そのしんみりとした別れの|雰囲気《ふんいき》に涙ぐんでしまった。
「わかってる。あたしがここを忘れるわけがないじゃない。この町はあたしの庭みたいなもんだったんだから。あんたたちと過ごした毎日は、あたしにとって宝物みたいだったわ。この先、なにがあろうとも、決して忘れない」
この町が好きだった。
悪人も善人もいるこの町が好きだった。
表も裏も、愛すべきところも憎むべきところも、すべてをジャスティーンは受け入れていた。
まさか自分がこの町から離れるなんて、思いもよらなかった。
大きな都市の中でも|一際《ひときわ》貧しい人々が住まう一角。下町と呼ばれるその場所で、ジャスティーンは一生生きてゆくのだと思っていた。
「さようなら、あたしの故郷」
|感慨《かんがい》深く呟く。
見慣れた町並み。見慣れた人々―――。
こんな風にこの町を見渡すのも、これが最後だ。明日からは違う人生が待っているのだ。
大好きなみんなと別れるのは、寂しい。
けれど、ジャスティーンには、新しい家族ができた。
これからはもう一人ぼっちではない。自分の父の妹だという人―――。まだ見ぬ叔母と会えるのだ。
これから、ジャスティーンには新しい生活と未来が待ち受けている。
ジャスティーンは動き出した馬車の窓から、大きく身を乗り出して叫んだ。
「みんな、元気でね! もう二度と会えないかもしれないけど、決して忘れないわ!」
そう叫んで、ジャスティーンは大きく手を振った。
馬車が、大好きだった人たちの住んでいる揚所から離れ、|都《みやこ》の大通りを進む頃、
「ケイド・ダリネードさん」
ジャスティーンは改まったように叔母の代理人へと向き直った。
「ケイドでけっこうだよ。私は君の遠い|身内《みうち》だからね」
ジャスティーンは驚いた。
「あたしの|親戚《しんせき》なんですか?」
「遠い親戚だけどね。君の家系はとても古くていくつも枝分かれしているから、そういう意味での親戚なら山のようにいるが」
「どちらでもいいです。あたし、父さんや母さんからはそんな人いるって聞いたことがなかったんです。だから遠い親戚でもなんでもとても|嬉《うれ》しい」
叔母の代理人は|瞳《ひとみ》を|和《なご》ませた。初対面の時はジャスティーンの言動に驚かされたが、それはきっと彼女がとても素直だからなのだ、と思い当たったのだ。
だが、次のジャスティーンの質問に、彼は困った。
「ところであたしの叔母様ってどんな方なんですか?」
しばらくの|沈黙《ちんもく》のあと、ケイド・ダリネードは答えた。
「とても美しい方だよ」
「まあ! それじゃお会いするのがとても楽しみだわ! でもあたしがお聞きしたいのはお顔じゃなくて性格です。顔はあとからついてくるんです。あたし別に叔母様の顔がモンスターみたいでもちっとも気にしません。別に特別いい人ってわけじゃなくてもいいんです。人間、誰だって性格に欠点の一つや二つあるものですもの。かくゆうあたしも気が短いだとか強情だとか|守銭奴《しゅせんど》だとか、貧乏性だとかさんざん言われてますから。だけどこれから一緒に暮らしてゆく上で、どうしてもこれだけは知る必要があると思うんです。それで、叔母様ってどんな方なんですか?」
ジャスティーンの口はよくまわる。好奇心|旺盛《おうせい》なので、一度|喋《しゃべ》りだしたら止まらないのだ。だがケイド・ダリネードは、すぐには答えなかった。
(なかなか口の達者な娘だ。それに頭もいいようだ)
時々|突飛《とっぴ》な方向に思考がぶっとんだりすることもあるようだが、会話の|端々《はしばし》から、ジャスティーンがただ育ちの悪い娘というだけではないことが|窺《うかが》える。目上の者に対する言葉にしてもそうだ。彼女は彼の姿を目にしたとたんに、言葉を切り替えた。
育ちの悪さを|微塵《みじん》も感じさせない口の利《き》き方だ。
誰かに教わったというわけでもないのだろう。たぶん彼女はそうしなければならないと判断し、思考をすぐさま切り換えてみせたのだ。
彼女の運命がどうなるかは、彼女|次第《しだい》だった。
少なくともジャスティーンの新しい叔母は、ジャスティーンが求めているような人物ではないことを、彼は知っている。
しかしケイド・ダリネードは、この|率直《そっちょく》で一風変わった娘を心の中で気に入った。だから、彼女の前で|嘘《うそ》をつくことはなかった。ただ一言口にした。
「美しいが、少し、変わった人だと思うよ。自分の目で確かめてごらん。私にはそれだけしか言えない」
ジャスティーンはかすかに不安そうな表情を浮かべた。
それでも気を取り直してもう一度|尋《たず》ねてくる。
「叔母様はあたしのことを気に入って下さると思いますか?」
少し気になるように、ジャスティーンは背中に流れ落ちていた癖《くせ》のない長い髪を、指で摘《つま》んだ。
赤い髪―――、たぶんどのような場所でもとても目立つであろうくらいの色合い。
ジャスティーンの瞳はどこにでもある青い瞳だったが、その髪の色は強烈だった。
「赤毛の女の子を叔母様は好きになってくださるかしら?」
それに対し、ケイド・ダリネードは、ただあいまいに笑ってみせただけだった―――。
それはジャスティーンが生まれて初めて見る光景だった。
何日も何日も、馬車に|揺《ゆ》られ旅を続けたのち、一つの河を渡った。やがて二つの町を通り過ぎ、深い森を抜け、平原をどこまでも馬車で突き進んだあと、たどり着いたそこは古い城だった。灰色の地に|蜃気楼《しんきろう》のように浮かんでいる古城は、まるでこの世のものとは思えぬほど恐ろしく感じられた。
夜の空に浮かぶ満天の星空とは|裏腹《うらはら》に醸《かも》し出してさえいた。まるで世界から|微《かす》かに|震《ふる》えた。
(あれが―――父さんの生まれ育ったところ)
優しく|穏《おだ》やかな父のイメージとはあまりにも合わない。
(もしかして、あたしはあんなところにこれから住むわけ?)
それからジャスティーンは気を取り直した。
(でも大丈夫よ。あたしにはなんたって叔母様がついているんですもの。あたしをわざわざ探して見つけ出して引き取ってくださった方なんだから、きっと優しい人に違いないわ。少しくらい変わっててもあたしは大丈夫。きっと好きになれるわ)
「ヴィラーネ」
叔母の代理人は寒々とした大広間の中央に立ち、声をあげた。
「君の探し求めていた|姪《めい》をお連れしたよ。エリオスの|愛娘《まなむすめ》ジャスティーンだ」
君の探し求めていた姪
その言葉にジャスティーンの心臓が|跳《は》ね上がった。いざ言葉にされると、これほど胸が熱くなるとは―――。
(やっぱり叔母様は一生|懸命《けんめい》あたしのことを探していてくださったのね? |嬉《うれ》しい―――)
だが次の瞬間、ジャスティーンの胸の高まりは冷えた。
コツ、と小鳥の羽音よりも微かな足音が響いた。
「赤毛―――?」
ジャスティーンの背後で声が聞こえた。
「その娘は赤毛なのね? 母親に似たのかしら」
はっとして振り向いたジャスティーンの目に、一人の女性の姿が映った。明かりもつけず、彼女はそこに立っていた。床につきそうな黒く長い髪を|結《ゆ》うこともなく、背中に滝のように流している。暗がりでもその姿ははっきりとわかった。
その白い兜は小さく、そして美しかった。
ジャスティーンはゾクリと身を震わせた。
それから、まるで彼女の存在自体を不吉なものに思ってしまったことを恥じる。まがりなりにも実の叔母の姿を見て、不吉な予感に震え上がるなんて、なんて失礼なことか、と心を|奮《ふる》い立たせた。
彼女はゆっくりとジャスティーンのもとへと歩み寄ってくると、手を伸ばしてきた。抱きしめてもらえるのだろうか、と一瞬期待したジャスティーンだったが、どうやら違ったらしい。
|顎《あご》を指で|捕《と》らえられたかと思うと、心もち持ち上げられる。
叔母の瞳は、夜の瞳だった。
|闇《やみ》の奥から|濡《ぬ》れたように輝いている。
だが、その顔に人間味のある表情はなかった。まるでジャスティーンとは違う生き物のように見える。
「|醜《みにく》くはないわね」
叔母は小さく|呟《つぶや》いた。
「え?」
「その髪さえ赤くなければ、むしろ、美しいくらい。惜しいこと」
「―――あの」
「私はヴィラーネ。あなたの叔母」
「はい」
「あなたの父は変わった人でした。私は|苦手《にがて》でした」
「はあ」
「今日からあなたはここで暮らすことになります。ただし必要のない時に私の部屋へ来ることを禁じます。私の|傍《そば》へよることも」
「……」
「あなたの部屋へと案内しましょう。何か不自由なことがあった時は、いつでも言いにきなさい」
するりとまるで羽根のように身を|翻《ひるがえ》した叔母の背中を見て、ジャスティーンは思った。
(もしかして、あたし、叔母様に嫌われたの……?)
ショックを受けたように立ち尽くす。これまで心の中で思い|描《えが》いていた感動の対面の夢が、たった今、見事無残に打ち破られたのである。
ジャスティーンは問いかけるように振り向いた。これまで優しくしてくれた叔母の代理人に助けを求めようとしたのだ。
だが。
そこに彼はいなかった。
ただひとつの|衣擦《きぬず》れ、足音さえも響かせず、叔母の代理人の姿は消えてしまっていた。
それはまるで悪夢のように。
重々しい足音だけが暗い|廊下《ろうか》に響き渡った。ジャスティーンは叔母に案内されながら、深刻な表情を浮かべつつ、あとをついて歩いていた。
(ケイドさんったら、どこへ行ったのかしら? あたし、まだここまで連れてきてもらったお礼も言っていなかったのに。それにしても突然いなくなるなんて、変ね。よほどの急用でもあったのかしら? 叔母さまにお聞きしたらわかるのかもしれないけど……)
そう考えて、ジャスティーンはチラリと叔母の後ろ姿を|上目遣《うわめづか》いで見やる。
(とてもじゃないけど、声なんてかけられそうもないわ。お美しい方だけど、なんだか話しかけにくい方だわ)
歩きながら、盛大にため息をついた。
それからジャスティーンは|眉《まゆ》をしかめて、|辺《あた》りに視線をさまよわせた。
(それにしても、なんて不気味なお城なの?)
ジャスティーンはブルリと震えそうになるのを、必死にこらえた。暗くてよくわからないが、|得体《えたい》の知れない叔母と一緒に歩いていると、なんだか背後から恐ろしいものがわいて出そうで、落ち着かない。|陰々《いんいん》と響く自分の足音にすらビクついてしまいそうだ。
叔母は|何故《なぜ》、こんな薄気味悪い城の中を|灯《あか》りもつけないで歩きまわれるのだろう? ジャスティーンなど、今、叔母から少しでも離れてしまっては、一歩も前に進めそうもないくらいだというのに。
それでもジャスティーンは、
(ううん、きっと夜のお城なんてみんなこんなものなんだわ。なんたって、迫力が違うんだもの。気にしない気にしない。とにかく今日からここがあたしの新しい家になるんですもの。慣れなくちゃ)
と、自分に言い聞かせる。
それからハッとした。ほんの少し考え事をしている間に、いつの間にか、叔母との距離が開いていた。ジャスティーンは|慌《あわ》てふためき、暗闇の奥に消えそうになる叔母の姿を追おうと、駆け出した。
そうでもしないと、背後から黒い閣が押し寄せて、叔母に追いつけなくなりそうな、そんな予感がしたからだ。
ジャスティーンがヴィラーネに追いついたと思ったら、ふいに、目の前で、彼女が立ち止まった。
ジャスティーンもハッとして立ち止まる。いつの間にか一つの部屋の前まで来ていた。
叔母は扉を開けると、
「今日からここがあなたの部屋」
ヴィラーネは、視線だけでジャスティーンに中へ入るよう|促《うなが》した。
「あたしの、部屋?」
「以前はあなたのお父様が使っていました」
ジャスティーンは目を見開いた。
「父さんが?」
(ってことは、ここは、子供の頃の父さんの部屋?)
そう考えると、ジャスティーンはいてもたってもいられず、中に駆け込んだ。
部屋の奥に見える机の上で、まるでジャスティーンが訪れるのを待っていたように、小さなランプの灯りが|瞬《またた》いていた。ジャスティーンがその灯りを頼りに、視線をめぐらせると、とても広い部屋だとわかった。少なくとも、ジャスティーンがこれまで住んでいたところの十倍以上はありそうだ。
あちらこちらに、ジャスティーンがこれまで見たこともないような見事な調度品が、絶妙の配置でおいてあった。
(なんかよくわかんないけど、めちゃくちゃ、立派な部屋みたいだわ)
それらの家具を見たとたんに、ジャスティーンの頭の中にざっと|紙幣《しへい》が駆け巡った。どれもこれもきっと売り飛ばせば、大変な金額になるに違いない。
「お、叔母様……」
ジャスティーンの声は震えていた。
「こ、こんな立派なお部屋……」
「夜着はベッドの上に用意してあります。それをお使いなさい」
「あっ、叔母様……まって!」
ジャスティーンが止める間もなく、叔母は扉を閉めて去っていった。
冷たく感じるくらいの叔母の態度も、今度は気にならなかった。ジャスティーンの頭の中には、ただひたすら、山のような紙幣が飛び交ったままだ。
突然こんな広い部屋に取り残されてジャスティーンは|途方《とほう》にくれた。
(どっ、どうしたらいいのよっ)
ジャスティーンはしばらく硬直していた。
それから恐る恐るあちらこちらを調べ始める。
床を見ては「なんて高そうな|絨毯《じゅうたん》」と呟き、壁にかかっているタペストリーを見ては「なんて高そうな壁掛け」と呟き、クローゼットを見ては「なんて高そうな|衣装棚《いしょうだな》」と呟いた。その間中、|靴《くつ》を脱いで歩き回っているジャスティーンだった。汚れては大変だと思ったのだ。
「この部屋が自分のものになるなんて……とてもじゃないけど、今夜は眠れそうもないわ!」
父親がかつて使っていた部屋だという興奮も、この立派な部屋の前では吹き飛んでいた。
「ああ、なんて立派なベッドなの? |天井《てんじょう》みたいなものまでついてるわ。しかも、ふわふわで、埋もれて沈んでしまいそうよ。こんなところで毎日寝てたらきっと背中の骨が曲がってしまうわ!」
それでもジャスティーンは好奇心を|抑《おさ》えられなかった。
一度このようなベッドで寝てみたかったのだ。ぽんっとうつ伏せになって寝転ぶと、ふわりと顔が羽根|布団《ぶとん》に|埋《うず》もれた。
「すごいわ。こんな布団見たら、みんなびっくりするわね」
ジャスティーンは大好きだった仲間たちの顔を思い浮かべた。」きっとみんな大喜びして飛び跳ねるに違いない。
それから、ベッドの上に、服が置いてあることに気づいた。きちんとたたんである。ジャスティーンが広げると、それはひらひらとしたドレスのようなものだった。
「これが、寝巻き?」
その手|触《ざわ》りに驚く。
今着ているジャスティーンの服よりも上等なものだった。
もったいない、と思ったが、せっかくの立派なベッドに、ジャスティーンが今着ている服では入れない。汚れては大変だ。ジャスティーンは早速着替えた。その間も視線はあちらこちらへと動いている。夜見てもこれだけ驚くのだから、きっと朝見たら、もっとびっくりするだろう。
その夜、ジャスティーンはなかなか寝つけなかった。
なんだか宝の山に埋もれて眠っているような気がしたのだ。
(とにかくすべては明日からだわ……)
本当の意味で明日から、ジャスティーンの生活のすべてが、変わる。
期待と不安に、ジャスティーンはぎゅっとシーツを|握《にぎ》りしめた。
(今は眠らなくちゃ)
ジャスティーンは目を閉じると眠気を誘うように、数を数え始めた。
だから、ジャスティーンはまだ知らなかった。
この城の秘密も、叔母の秘密も。
ただ|無邪気《むじゃき》に、深い眠りに沈んでいっただけだ。
「おはよう。ジャスティーン」
ひんやりとした声が耳元でしたため、ジャスティーンは飛び起きた。
「な、なに?」
明るい部屋の中で、目をぱちくりとさせると、一人の少女がジャスティーンの顔を|覗《のぞ》き込んでいた。
「あんたは?」
突然のことに驚いているジャスティーンに、少女は声をかけてきた。
「ヴィラーネに命じられ、今日から、あなたの世話をすることになった。名前はシャトール・レイ。よろしく。シャトーと呼ばれているから、あなたもそう呼んでくれていい」
ジャスティーンはまじまじと少女の顔を見つめた。ジャスティーンよりも小柄で、ほっそりとした体つきをしている。まだ幼さの残る顔立ちを見ると、たぶんジャスティーンより一つ二つ年下だろう。美しい金髪は肩に届くくらいの長さしかない。濃い碧《あお》の瞳《ひとみ》がじっとジャスティーンの顔を覗き込んでいる。
「あんたが、あたしの世話をするの?」
「そう」
少女は小さく|頷《うなず》いた。
ジャスティーンは|戸惑《とまど》った。
(あたしの世話をしてくれるってことは……ええっと、これって世間で|俗《ぞく》に言う……あれかしら?)
使用人とかいうやつだ。ジャスティーンの人生にはとんと縁のない存在だった。
たまに金持ちの使用人をみかけたことはあったが、まさか自分の|傍《そば》にそんなものがやってくるとは思いもよらなかった。
ジャスティーンは緊張のあまりにごくっと|喉《のど》を鳴らす。
思いきって少女の|頬《ほお》に触れると、そろそろと|撫《な》でてみた。すべすべとした|肌《はだ》は|陶器《とうき》のようになめらかだった。
(夢じゃなくて、本物だわ。すごい)
それにしてもなんて美しい子なのだろう?
ジャスティーンはこんなに|綺麗《きれい》な女の子と知り合いになったことはなかった。ぜひぜひ仲良くなりたいと思い、あわててベッドの上で身を|直《ただ》すと、|挨拶《あいさつ》をした。
「はじめまして。あたしはジャスティーン」
「知っている」
「このたび|叔母《おば》様に引き取られて、ここでお世話になることになったの」
「それも知っている」
「あんたとは良いお友達になれると|嬉《うれ》しいんだけど」
「それは無理だと思う」
きっぱりと返事を返され、ジャスティーンは目を丸くした。すると少女は静かな瞳でジャスティーンを見つめた。
「私はあなたに|仕《つか》えるのであって、お友達になるのではないのだから」
感情の読めない瞳なので、何を考えているのかわからない。
「ええっと、あの……」
嫌われたのだろうかと、少なからずショックを受けた。だが、少女はそ知らぬ顔で、次の行動に移っていた。クローゼットから、一着のドレスを取り出してきたのだ。
「とりあえず、着替えはこれ」
差し出されたのは|淡《あわ》いグリーン色の|絹《きぬ》のドレスだ。
「え? ちょっとこれ本物の絹?」
そのサラサラとした手触りにジャスティーンは|度肝《どぎも》を抜かれた。このような高価な|生地《きじ》に触れたのは生まれて初めてのことだった。
「気に入らなければ、もっと別のものを用意するけれど?」
「お、お願い。別のものにして……」
ジャスティーンの声は|掠《かす》れていた。
「わかった」
シャトーは頷くと、クローゼットの中から別の衣装を出してきた。今度は赤のベルベットのドレスだ。
「ではこれは?」
ジャスティーンの声はますます掠れた。
「もっと別のものがいいんだけど」
ジャスティーンの注文に気分を害することもなく、シャトーは次々とクローゼットからドレスを取り出してきた。どれもこれもジャスティーンがこれまで見たこともないような上等なものばかりだ。
そのたびにジャスティーンの口元は引きつっていった。
「これが最後」
シャトーが最後に取り出してきたドレスを見て、ジャスティーンは頭を抱え込んだ。
「どうしたの? 気分が悪そうだけれど?」
シャトーは不思議そうにジャスティーンの顔を覗き込んできた。
「お気に|召《め》さなかったのならば、ヴィラーネにお願いして、新しく仕立ててもらえるように頼むけれど……今日はこれだけしか用意していないから、気に食わなくても着てほしい」
「気に食うとか気に食わないとかそういう問題じゃなくて」
「じゃあ、どういう問題?」
「こんな高価な服を着て、今からどこかへ出かけるの? だとしてもあたしそんな立派な服はとてもじゃないけど着れないわ。もう少し普通の服がいい。動いても汚れないようなの」
「心配しなくてもこれはあなたの普段着」
「普段着?」
ジャスティーンはぎょっとした。
「ふ、普段着って……これが普段着? お、お出かけ用じゃないの?」
「そう。だから汚れてもかまわない」
とうとうジャスティーンは|絶句《ぜっく》した。
(なんてもったいない……。この服一着売り飛ばせば、きっと二、三ヵ月は遊んで暮らせるに違いないわ)
ジャスティーンの考えていることがわかったのか、シャトーは|呟《つぶや》いた。
「……ジャスティーン。今日はお客様が来る予定なの。あなたがちゃんとしていなければ、ヴィラーネはきっと悲しむと思う」
その言葉にとうとうジャスティーンは折れた。叔母を悲しませたくはなかった。叔母とはまだ|意志《いし》の|疎通《そつう》も|図《はか》れていないが、それでもジャスティーンにとっては大切な家族なのだから。
「わかったわ。お客様にお会いするのなら、叔母様に|恥《はじ》をかかせちゃいけないもの。着替える」
「わかってくれてよかった」
シャトーはホッとしたような表情を浮かべた。
ジャスティーンが|不承不承《ふしょうぶしょう》高価な絹のドレスに着替えると、隣の部屋にいつの間にか食事の用意ができていた。
(いつの間に?)
ジャスティーンはシャトーを見た。彼女はたった今まで、ジャスティーンがドレスを着るところを、最後まで確認するために、着替えを手伝っていたはずだ。食事の用意は誰がしたのだろう?
なによりも。この|半端《はんぱ》じゃない量はなんなのだろう?
ジャスティーンはためしに|尋《たず》ねてみた。
「これ、今日一日の食料なの?」
「朝食だけど」
「もしかして食いだめするのね?」
「朝食」
「いくらあたしでも……こんなにたくさんの食いだめは……え? 朝食?」
感情の出ないシャトーの目は、それでも|微《かす》かに|苛立《いらだ》っているようだった。
「これは朝食。もちろん昼食も夕食も別に出るから、今食いだめをする必要なんてないの」
ジャスティーンは|呆《あき》れたように口をあけたままになった。
「これ全部、ただの朝ごはんなの? だって、こんな立派なごはんなんて、夕食でもあたし一度も食べたことはないのよ。こんな|賛沢《ぜいたく》なご|馳走《ちそう》が朝食だなんて、もったいなさすぎるわ」
はやくもジャスティーンの頭の中では、その材料費がどれくらいなのだろうか、ということでいっぱいになってしまった。シャトーはとうとう小さくため息をついた。
「ジャスティーン。あなたの生活は変わったのだから、昔のことは忘れたほうがいい。一刻も早く今の生活に|馴染《なじ》むべき」
(ええ。そりゃ、馴染めるもんなら馴染みたいわよっ! だけど人間には限度ってものがあるのよ!)
とてもではないが、ジャスティーンはこの急激すぎる変化についてゆけそうもなかった。生まれながらの貧乏性が邪魔をしているのだ。
それでも―――。シャトーのいうことはもっともなことだった。
ジャスティーンは新しい生活に、一歩足を踏み出したのだから。
「ジャスティーン。とりあえず早く食事をすませてもらわないと、後片付けができない」
シャトーに|促《うなが》されて、ジャスティーンは席に座るしかなかった。一口食べると、ジャスティーンはすっかり感動してしまった。
「すごく|美味《おい》しい。あたし、こんなに美味しいものを食べたのは初めて!」
「それはよかった」
「あんたも食べる?」
「いいえ」
「一口、食べてみて。とてもおいしいのよ」
「とてもおいしくても、私はいらない」
「あたしの口のつけたものが嫌なのね? なら、こっちの手をつけてないものを……」
「ジャスティーン」
「なに?」
「それはあなたの朝食。あなた一人の朝食だということを覚えておいて」
「………シャトーは? 人の食べてるの見てるとお|腹《なか》がならない?」
「ならない」
「食べたの?」
「それは答える必要のない質問だから」
まだまだ心を開かれてないのだとジャスティーンは思った。
「じゃあ、今度から一緒に食ぺましょうよ」
「それは|駄目《だめ》」
「どうしてよ」
「駄目なものは駄目」
「……せっかく一人きりで食事する生活からおさらばできると思ったのにな」
なんとかシャトーの気を変えられないものかと、ジャスティーンはわざと肩を落としてみせた。もっとも半分は本音だったりしたのだが。
家族と食卓を囲んでみたいと思っていたジャスティーンは、自分に叔母がいたと知った時、とうとう夢が|叶《かな》うと思った。なのに、叔母は必要な時以外には、話しかけることさえも禁じたのだ。だからこそ、せめてこれから身近にいてくれるであろうシャトーと、食卓を囲めたらと思ったのだ。
だがどうやらシャトーは、情に流されるようなおめでたい性格ではないらしい。
「ジャスティーンが早くこの生活に慣れることを、私も祈っている」
朝食が終わり、シャトーが後片付けをしている間に、ジャスティーンは寝室の方へと戻った。改めて、明るい部屋を見回す。
(予想していた以上に立派な部屋だわ)
|昨夜《ゆうべ》味わった以上の感動がよみがえる。
今、両足でしっかり踏みしめているのは、いかにもご立派な|毛織《けお》りの|絨毯《じゅうたん》だ。一目で高価だとわかる家具や壁掛け。どれもこれも年代物っぽく重々しく迫力がある。|手垢《てあか》がつきそうで触るのもためらってしまいそうだ。
ジャスティーンは鏡に近づくと、自分の姿を映してみた。
|先程《さきほど》は急いでいたので、じっくりと見る|暇《ひま》がなかったが、こうやって改めて見るとぎょっとする。
鏡の向こうに、|滑稽《こっけい》な姿が見えた。人形に着せるような、ごてごてと飾りのついたドレス姿の赤毛の娘が立っている。
(思った通りだわ)
ジャスティーンはがっくりと肩を落とす。
せっかく素敵なドレスを着たのに、ちっとも似合っていない。
ジャスティーンは自分の姿が|醜《みにく》いとは思っていない。ただ、その髪の色とジャスティーンの身にまとう|雰囲気《ふんいき》が、貴族の衣装とは合わないのだ。
自分には明るい太陽の下で駆けずり回れるような、そんな服の方が似合っている。そんな自覚があった。
(でも少しでも叔母様に喜んで欲しいもの。このドレスだって、そのうち似合うようになるかもしれない)
もったいないけれど、少しの|賛沢《ぜいたく》は目をつむることにしよう。シャトーの言うとおりだ。ジャスティーンの生活は変わったのだ。少しずつ、ここでの生活に慣れてゆかなければならない。でなければ、叔母ともうまくやってゆけなくなるだろう。
ため息をついてジャスティーンは鏡から離れると、今度は机に近づいた。引き出しを開けると、そこにいろいろな物が入っていた。|彫《ほ》り物をほどこしてある小さな箱や、しおりをはさんだままになっている本。紙や|羽根《はね》筆《ふで》もある。ジャスティーンはそっと本をとりあげた。黒っぽい表紙は単純に文字だけが並んでいる。
ジャスティーンは文字の読み書きだけはなんとかできるが、それでもこのような本は手に取ったこともなかった。
ふと昨夜の叔母の言葉を思い出した。
(そっか。この部屋、父さんの部屋だったって叔母様が、おっしゃっていたわ)
昨夜は興奮しすぎて、ゆっくりと考える余裕もなかったが。
(じゃ、これはもしかして、父さんが読んでたものなのかしら?)
そう考えると胸がドキドキした。
|懐《なつ》かしい顔が思い出される。記憶の中の優しかった父は、当然ながら大人の顔で、少年だった頃の様子は想像できない。
だけど、確かにここで暮らしていたことがあったのだ。
そう考えると、なんだか心強くなってきた。
(父さん。あたしを見守っていてね。あたし、きっと叔母様とうまくやるわ。昨夜は突然のことでうまく対応できなかったけど、今度会ったら、叔母様に自分の感謝の気持ちをちゃんと伝える。そして、あたしを探して下さったことと、引き取って下さったことのお礼をいうわ。大丈夫。きっとうまくやれるから)
ジャスティーンは祈るように心の中で呟くと、本をしまい、引き出しを閉めた。
すると、背後から声をかけられた。
「ジャスティーン」
はっとして振り返ると、シャトーが立っていた。どうやら後片付けを終えたようだ。
だが彼女は、今まで朝食の後片付けをしていたとは思えないほど、落ち着いた仕草で、その場に立って、ジャスティーンを見つめていた。そこには、ほんの少しの衣服の乱れもなかった。
シャトーのそんな姿を目にして、ジャスティーンはこっそりと心の中で呟いた。
(叔母様といいシャトーといい、このお城に住んでいる人って、みんなこんな感じなのかしら?)
人間味にかけた表情といい、|雰囲気《ふんいき》といい。
だけどそれは、この城の雰囲気ととても合っていた。
(不思議な人たち……)
ジャスティーンがそう考えていると、シャトーが声をかけてきた。
「そろそろお客様が訪れる時間なのだけれど」
「あ、そう……」
ジャスティーンは思い出した。そういえば、そう言われた覚えがある。
(お客様か。だけど、なんであたしなんかに会いにくるのかしら? あたし昨夜ここにきたばかりなのよ)
よく考えてみれば不思議でならなかった。
5[#3節の次なのに5節。底本通り。]
|螺旋状《らせんじょう》の階段を下りてゆくと、そこにヴィラーネが立っていた。ジャスティーンは目を見開く。
「|叔母《おば》様」
明るい日の下で改めて見ても、|昨夜《ゆうべ》目にした印象と変わらない。
ヴィラーネは、昨夜と同じように、黒い髪を背中に流していた。
何者をもよせつけない冷たい|雰囲気《ふんいき》。その|濡《ぬ》れたような夜の|瞳《ひとみ》に、意識が吸い込まれそうになる。
叔母と目があった時、ジャスティーンはドキリとした。
その瞳から、親愛の情の|欠片《かけら》も見つけることができなかったからだ。
(こうやって改めて見ても、怖い……)
昔から|物怖《ものお》じはしないはずのジャスティーンだったが、叔母の姿を目にした時、本能的な恐怖を感じた。
取って|喰《く》われるのではないか、とさえ思ってしまうほどだ。
その身にまとう雰囲気はあまりにも人間離れしている。
(いけない。いけない。駄目よ。ジャスティーン。この人はあたしの叔母様なのよ。これからずっと一つ屋根の下で一緒に暮らしてゆく人なのよ)
ジャスティーンは気を取り直した。
「おはようございます。叔母様」
おはようの|挨拶《あいさつ》には遅すぎる時刻だったが、ジャスティーンはそう口にして明るく笑いかけた。
初めての対面は昨夜すんでしまったが、あれはジャスティーンとしては失敗だった。ろくすっぽ挨拶もできなかったのだから。だから今が、ジャスティーンにとって初めてと同じようなものだ。
一番初めの挨拶なのだから、「おはようございます」と口にしたい。それは一日の始まりの言葉という以上に、ジャスティーンにとってはとても大切な言葉だった。
そんなジャスティーンに、ヴィラーネは答えた。
「おはよう。ジャスティーン。昨夜はよく眠れて?」
その声は昨夜耳にしたものと同じだ。冷たく響く声だった。
それでも返事が返ってきて、ジャスティーンは嬉しかった。|社交《しゃこう》辞令《じれい》のような響きであったとしても気にならなかった。叔母が、自分の挨拶に答えてくれたのだ。それだけで、これまでの|偏見《へんけん》など吹き飛んでしまいそうだった。
「ええ。叔母様。最初はドキドキしましたけど、ちゃんと眠れました。あの……それで、昨夜はあたし、突然のことで、驚いてしまって、ちゃんとしたご挨拶もできなくて申しわけありませんでした。あたし、本当は叔母様に会えて、とても嬉しかったんです。なのに、ちっともその想いを口にできなくて、あたし、あれからすごく後悔したんですよ。だから、今日はこの想いをしっかり叔母様にお伝えしようと、ずっと、心の中で準備してたんです。それで……」
「ジャスティーン」
「はい、叔母様!」
「昨夜私が言った言葉を思い出しなさい」
叔母が何を言いたいのかわかって・ジャスティーンは|一旦《いったん》口を閉ざした。それでも、すぐに口を開く。
「ごめんなさい。叔母様。確かに叔母様は、必要な時以外は話しかけてこないようにっておっしゃいました。でも、これは必要なことだと思うんです。だって、朝の挨拶って大切だと思うんです。なんといっても―――」
「ジャスティーン」
「はい! 叔母様!」
「私は今のあなたの言葉を必要なものだとは思っていません」
そっけなく言われて、ジャスティーンは今度こそ|黙《だま》るしかなかった。
世の中には、余計なお|喋《しゃべ》りが嫌いな人物がいるものだ。どうやら、ジャスティーンの叔母は、その類《たぐい》の人間らしい。
叔母に気に入られる近道は、口元を|財布《さいふ》の|紐《ひも》のように閉じていることだと悟った。
それから、(以後気をつけるわ。叔母様は無口が好き)と、叔母に対する重要事項を心に刻んだ。
馬車が城の正面に止まる音が聞こえた。
しばらくして、足音が近づいてきた。はっとして、そちらを向くと、見知らぬ少女が|供《とも》も連れずにたった一人で、入ってきた。目の前に現れた客人を見て、ジャスティーンの口元は|綻《ほころ》んだ。
自分と同じ年頃の少女だったことがとても嬉しかったのだ。
「ヴィラーネおばさま。お久しぶり」
突然現れた少女はまっすぐに叔母の|傍《かたわ》らへと歩み寄った。
くるくるとしたブルネットの巻き毛と、大きな|紫《むらさき》の瞳の少女だ。ヴィラーネは手を差し伸べると、軽く少女を抱きしめた。
「よく来たわね。ダリィ」
「エリオスおじさまの娘を見にきましたのよ」
ジャスティーンは|呆然《ぼうぜん》と二人のやり取りを見つめていた。
(叔母様が……抱きしめてる……?)
ジャスティーンはまだ一度も、叔母からそんなことをしてもらったことはないのに。
(しかもよく来たですって? あたしだって、そんな言葉かけてもらってないのよ……)
一体、何者よ。
|先程《さきほど》の|嬉《うれ》しさも吹き飛び、ジャスティーンが複雑な表情を浮かべていると、少女は振り返った。しばらくジャスティーンの顔を|品定《しなさだ》めでもするようにじろじろと|眺《なが》め、それから|不愉快《ふゆかい》そうに、|眉《まゆ》をよせた。
なんとも嫌な雰囲気が漂った。
ジャスティーンは直感的に悟った。
(駄目だわ。この子とはきっと性格が合わないわ)
向こうもジャスティーンに対してそう感じたのだろうか。少女―――ダリィはすぐに目をそらせると、ジャスティーンの存在を無視した。
ヴィラーネの方へと向き直る。
「ヴィラーネおばさま。わたくし、しばらくここに滞在しても良いかしら?」
「ええ。ダリィ。久しぶりですものね。ゆっくりしておいきなさい」
ジャスティーンは再び叔母の言葉に驚く。
叔母が彼女のことを心から歓迎しているのだとわかったからだ。
それでもジャスティーンは、少女に向かってせいいっぱい|丁寧《ていねい》にお|辞儀《じぎ》をすると、口を開いた。
「あの。はじめまして―――。わたしはジャスティーン・エイド・ダーレインと申します。このたびヴィラーネ叔母様に……」
しかし、ジャスティーンが最後まで言い終えることは出来なかった。ダリィが|遮《さえぎ》ったからだ。
「あなたが、ヴィラーネおばさまの引き取った娘ですわね」
|不躾《ぶしつけ》な視線を送られ、ジャスティーンは|戸惑《とまど》った。少女はもう一度|値踏《ねぶ》みでもするようにジャスティーンを見つめた。
それから、彼女は視線をそらせるとため息をついた。
「なんてこと? 赤毛ですのね。おまけに女の子にしては背が高すぎますわ」
ジャスティーンはムッとした。相手の口調に|侮蔑《ぶべつ》を|嗅《か》ぎ取ったのだ。それでも、言い返すことはしなかった。
(叔母様に恥をかかせちゃいけないわ。|我慢《がまん》我慢)
ジャスティーンは引きつった|微笑《ほほえ》みを浮かべて、なんとか持ちこたえた。
が、少女の言葉は止まらなかった。
「育ちの悪さが一目でわかりますわね。あまりお父上には似ていないようですし。本当にあなた、エリオスおじさまの娘ですの? ヴィラーネおばさまに取り入って、|騙《だま》そうなんて考えているのじゃなくて?」
あまりといえばあまりの言い方に、ジャスティーンは言葉を失った。
いきなり、何を言い出したのか、わからなかったのだ。
そんなジャスティーンに向かって、少女はなおも続けた。
「わたくし聞いたことありましてよ。どこかのあばずれが、他の男の子供をエリオスおじさまの子と偽《いつわ》って、産んだのかもしれないって。なんといってもエリオスおじさまは世間|慣《な》れしていなかったって、お母様たちがおっしゃっていたわ」
ジャスティーンは|拳《こぶし》を握りしめた。地に足をしっかりつけ、なんとか踏ん張った。
(ここで切れたら全てがパアよ。叔母様を幻滅《げんめつ》させるわけにはいかないんだから)
それにしても、なんて口の悪い少女だろう。上品な服装と言葉使いとは|裏腹《うらはら》に、人間としての品が欠けている、とジャスティーンは心の中で思った。
昔からジャスティーンは、こんな風に上品ぶった上流社会の人間は大嫌いだった。嫌な思い出がたくさんあるのだ。
彼らはジャスティーンのような育ちのものを、自分たちと同じ人間としては認めようとしないところがある。
(忘れてたわ。貴族って、こーゆー|輩《やから》ばっかりだったんだわ)
自分に叔母がいたという衝撃の事実の前で、すっかり忘れていた。
気がついたら、ジャスティーンは|怒鳴《どな》っていた。
「あなた! それが初対面の人間に対して言う言葉なの!?」
怒鳴られて、少女はきょとんとした。
それから眉をひそめた。
「まあ、なんて礼儀知らずな人なのかしら? いきなり大声を張り上げるなんて」
「れ、礼儀知らずはあなたの方でしょう!? あたしはちゃんとご挨拶をしようとしているのよ。それを……」
しかし、少女は耳元を押さえると、わざとらしくヨロリとよろけてみせた。
「ああ、そんなに大きな声で怒鳴らないで……。頭に響いて|眩暈《めまい》が……。これだから、育ちが|野蛮《やばん》な人は……」
少女はふらふらとヴィラーネの肩にしなだれかかった。
ヴィラーネは少女を両手で支えると、ジャスティーンを見た。
「ジャスティーン」
その叔母のとがめるような視線と出合って、ジャスティーンはひどく傷ついた。
叔母は、ダリィがジャスティーンのことをひどい言葉でののしった時は、何も言わなかった。かばおうともしなかったのだ。そのくせ、ジャスティーンがダリィに向かって怒鳴った時は、明らかに非難の色をその瞳に浮かべていた。
心の中で、ジャスティーンは大きく取り乱していた。たった一人自分の味方だと思っていた叔母が、本当はそうではなかったのだと思い知らされたような気がして。
(あたしやっぱり叔母様に嫌われてる?)
確かに、最初から叔母の反応は、ジャスティーンの期待していたものとは違っていた。
けれど、少し変わった人だと聞いていたから、もしかしてそのために、そんな反応しかしてくれないのかもしれない、と思い込もうとしていたのだ。
しかし、どうやら、そうではないらしい。
ヴィラーネは、本当に、ジャスティーンのことを好いてはいないのだ。
|何故《なぜ》ならダリィにはそれなりに優しい態度を見せている。
(これってどうゆうこと?)
そんな叔母の様子がジャスティーンには納得いかなかった。
(それならどうして、あたしのことを叔母様は引き取ったりしたの?)
どうして探し出したりしたのか。
ジャスティーンにはわけがわからなかった。
それでも、ジャスティーンはきゅっと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
(大丈夫よ。これくらいどうってことない)
ジャスティーンは思い出した。たった一人で生きてゆこうと決意した日のことを。
もう自分のことを愛してくれる家族は、いなくなったのだと悟ったあの日を。あの時の悲しみと脱力感に比べれば、こんなものはなんでもない。
大きく息を吸い込むと、ジャスティーンはダリィに向かって|微笑《ほほえ》みかけた。
「ごめんなさい。ダリィ。あたし、まだここでの生活に慣れてなくて。とても失礼なことを言ったわ。許してね」
するとダリィは驚いたような表情を浮かべた。
まさか、突然ジャスティーンが|謝《あやま》ってくるとは思ってもみなかったのだ。
「このお城に滞在なさるなんて嬉しいわ。あたしちょうどこのお城にきたばかりで、お友達なんていないの。だから、同じ年頃のお友達ができてとても嬉しいわ。仲良くしてね」
ダリィは不愉快そうな表情を浮かべた。
「まあ。わたくし|素姓《すじょう》もわからないような育ちの悪い人とお友達になる趣味はなくてよ」
しかし、ジャスティーンは一旦浮かべた笑顔を絶やそうとはしなかった。
下町で暮らしていた頃、笑顔だけは、誰にもまけずにとても綺麗だと言われたジャスティーンである。
彼女は今、驚くべき|忍耐力《にんたいりょく》で、その笑顔を顔全体に|貼《は》りつけた。
部屋に戻ったとたんに、
ドカッ
ジャスティーンは力まかせに壁を|蹴《け》った。
ゴン! と音がして、部屋の|片隅《かたすみ》で何かが倒れた音が闘こえたが、気づかないふりをする。
「赤毛のどこが悪いのよ! 素姓もわからないような育ちの悪いやつで悪かったわね!」
ジャスティーンは自分の髪を気に入っている。亡くなった母親が自分に残してくれた|唯一《ゆいいつ》の形見《かたみ》だったのだから。その髪の色を何も知らない人間に、あんな風に|侮辱《ぶじょく》されるとは。とても悔《くや》しい。
(そういえば……)
初めて叔母に出会った時のことを思い出す。あの時、叔母はジャスティーンを抱きしめてさえくれなかった。ただ一言ジャスティーン向かって、「その娘は赤毛なの?」と言ったのだ。思い出してジャスティーンは気が重くなった。
「叔母様はあたしが赤毛だから、あたしのこと、好きになって下さらなかったのかしら」
大好きだった父の妹である叔母に愛されないという事実は、ジャスティーンを打ちのめしいた。
ジャスティーンは、さよならを告げたかつて自分が住んでいた町の名前を思い出す。
お|腹《なか》は|空《す》いていたが、心は寒くなかった。
|身内《みうち》と呼べるものもおらず、孤独といえば孤独だったが、それでも決して一人ではなかった。
困った時は助け合い、心を|偽《いつわ》ることなく、語り合える友人たちがいた。
家族というものにあこがれていたジャスティーンは、自分のあこがれていたものが、ただの幻想に過ぎないことを悟った。
現実は夢ほど甘くはない。
でも、と思う。
(あたしにはもう帰るところなんてないんだわ)
あんな風に別れを告げた以上、大好きだった町にはもう二度と帰れない。
だからこそ、ジャスティーンは強く思う。
(たとえ叔母様があたしのことを愛してくれなくても、あたしは叔母様のことを愛そう)
たとえ、|拒《こば》まれても、|疎《うと》まれても。
愛されるように努力しよう。きっと叔母もそのうちわかってくれるはずだ。
ジャスティーンに叔母がいるとわかってどれだけ嬉しかったかを。
もうこの城以外には行くところなど、ないのだから―――。
第二章・お城の秘密
その日の夕食はジャスティーンにとって最悪だった。
ダリィとジャスティーンの二人だけで、大きなテーブルを囲んでいるのだ。
二人はそれぞれ細く長いテーブルの|両端《りょうはし》に座り、気まずい様子で|黙々《もくもく》と食事を続けていた。
その|沈黙《ちんもく》に耐え切れなくなったのは、もともとお|喋《しゃべ》り好きなジャスティーンの方だ。
たとえ、相性が最悪の相手であろうとも、ジャスティーンは口を開かずにはいられなかった。
「叔母《おば》様はどうなさったの?」
ダリィの座っている場所が、ジャスティーンのところからあまりにも遠いので、ジャスティーンは大きく声を張り上げねばならなかった。
「さあ。ヴィラーネおばさまはいつだって、誰ともお食事を共になさりませんもの。わたくしあの方が人前で食べ物を口に入れているところなど、見たこともございませんわ」
それを聞いて、ジャスティーンは目を丸くした。
(叔母様って本当になんだか人間離れした方なのね……)
ジャスティーンが感心していると、ダリィがちくりとジャスティーンに向かって言った。
「ところであなた、なんてお|行儀《ぎょうぎ》が悪いのかしら?」
「えっ?」
「まず、ナプキンの使い方が違いますわ。それはそんな風にするものではございませんことよ。それに、そのナイフのたどたどしい使い方。なぜ、最初からお肉を|片《かた》っ|端《ぱし》から切ってしまいますの? それにあなたの場合、それは切っているというより、ちぎっているという方が正しいですわ。ああ、そんなにギコギコ音を立てないで。あっ、スープを飲むときもです。ナイフを持った手でフォークを持ち替えないで。なんのために両手がついていると思ってますの?」
一度に言われてしまって、ジャスティーンは混乱した。それでも、せっかく教えてもらったのだから、とジャスティーンはダリィの言葉を実行する。
「こ、こう? これでいいの?」
「|駄目《だめ》です」
「じゃ、こうとか?」
「それも違います」
「じゃ、これでどうだ!」
「だからそうじゃないっていってますでしょ? ああっ、パンはそんな風に大口をあけてかじりつくものではございませんわーあっ、なぜ、そこでそれを手で|掴《つか》みますの? まあ、今お肉がどこかにはじき飛んで行きましたわよ!」
さすがのジャスティーンもとうとうやけになって、フオークをがじがじと噛んだ。
(チッ。なんて口うるさい女なのよっ)
それに、すかさず、ダリィの声がとんでくる。
「フォークは噛みつくものではございません!」
彼女はジャスティーンの食事のマナーの悪さを、|延々《えんえん》と指摘した。
「こんなに疲れた夕食ははじめてだわ」
気の合わない人間と夕食をともにすることが、こんなにも苦痛だなんて知らなかった。だいたい、食事中にずっとマナーを気にしつつ食べていても、なんだか食べた気がしない。ジャスティーンの両手には、まだナイフとフォークの感触が|生々《なまなま》しく残っている。よほど、強く|握《にぎ》りしめていたのだろう。肩がすっかりこってしまった。明日からずっとこんな思いをしなくてはならないなんて……。
(なんとか対策を考えないと、これから先がもたないわ)
力つきて歩いていたジャスティーンはふと、立ち止まった。
「あれ?」
部屋から、ヴィラーネが出てきた。
(叔母様だわ)
ジャスティーンは目を見開いた。
薄暗くなった|廊下《ろうか》を叔母は|灯《あか》りもつけずに、歩いてゆく。
(叔母様ったら、お食事もしないで、どこへ行くのかしら?)
ジャスティーンは純粋な興味を持って、叔母のあとをつけた。叔母に気づかれないように|靴《くつ》を脱ぐと、抜き足差し足、歩いてゆく。
(どこまで行く気かしら?)
あとをつけながら、ジャスティーンは|訝《いぶか》しく思った。ちょっとした散歩かと思えば、叔母は外へ出るどころか、どんどんと奥へと歩いて行ったのだ。しかし、ここまできたら|後戻《あともど》りは出来ない。ジャスティーンは用心深く、叔母のあとを追った。
やがて、ヴィラーネが立ち止まる。ジャスティーンもハッとして、壁に張りついた。叔母が立ち止まった場所は一つの部屋の前だ。叔母はその中へ入っていった。ジャスティーンは叔母が部屋の中へと姿を消したあと、そっと足音を忍ばせて、その部屋へと近づいた。
それから不思議に思って首をかしげる。
「そういえば、こんなに大きなお城で、お部屋も数えきれないくらいたくさんあるのに、どうして、人の姿が見えないのかしら?」
ジャスティーンはこれまで城に住んだことはなかったが、お城などというものは、大勢の|召使《めしつか》いがいるものだと思っていた。なのに、ジャスティーンがこの城で出会ったのは、たったの三人だ。叔母のヴィラーネと、使用人のシャトー、そして、客人のダリィだけだ。ジャスティーンをここに連れてきてくれた叔母の代理人だとかいう|紳士《しんし》を入れても、四人―――その他の人間は影も形も見当たらない。
これはよくよく考えてみれば、妙な話だった。
「確かにこのお城って不気味だけど、掃除とかはちゃんと行き届いているのよね。建物の管理もきちんとできてるわ。それに」
ジャスティーンは思い出す。
食事も素晴らしいものだ。|今朝《けさ》目覚めた時も、いつ用意されたのかはわからないが、温かい朝食が並べられていたし、昼食も同じだった。夕食の時は大食堂でいただいたが、その時もすでにテーブルに|豪華《ごうか》な料理が出来たてのような温かさで並べられていた。
しかしその|肝心《かんじん》の料理を用意する者の姿が見当たらないのだ。なにもかも初めてづくしのジャスティーンは「貴族の生活って、こんなもんなのね」と、なんとなく納得していたのだが、しかし、それにしてもおかしい。
そう考えるとジャスティーンは|我慢《がまん》できなくなった。
もしかして、この扉の向こうに誰かいるのではないかと思ったのだ。そっと|鍵穴《かぎあな》を|覗《のぞ》き込む。しかし、見えたのはごく普通の部屋らしいものだった。
それから奇妙なことに気づく。
(あら? 叔母様はどこ?)
―――そう。叔母の姿が見えないのだ。
ジャスティーンは|慌《あわ》てて、扉を開けた。
「あれ?」
部屋の中には叔母の姿は影も形もなかった。
「いったいどこへいったのかしら?」
ジャスティーンは慌てて周囲を見回した。部屋はごく普通のものだった。立派な家具があり、|暖炉《だんろ》もある。
ただ、人の気配だけがなかった。
ジャスティーンはしばらく|呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
(ううん。そんなはずないわ。叔母様は確かにこの部屋に入ったんですもの)
用心深く|辺《あた》りを調べ始めた。
やがて。
ジャスティーンは|暖炉《だんろ》に目を向けた。
「あら……この暖炉」
よく見ると、ジャスティーンの部屋のものとは違う。ジャスティーンは目を見開いた。
「こんなところに階段があるんだわ」
隠し階段みたいなものなのだろうか? と驚いた。どうやらここから別の場所に|繋《つな》がっているようだ。
ジャスティーンは、暖炉の奥にぽっかりと開いている暗い穴を覗き込んだ。
階段はずっと下まで伸びている。ジャスティーンはゴクリと|唾《つば》を飲み込んだ。どうやら、叔母は、ここを通って地下へと下りたらしい。
(いったい、叔母様ったら、何の用で、ここを通ったのかしら? いえ、それよりも、この向こうには何があるのよ?)
こんなに古くて不気味なお城なのだ。地下に何があってもおかしくはない。
だが、いったい何があるというのか……。ジャスティーンは気になって気になって仕方がなかった。
(きっと何かあるのよ。だけど、いったい何があるのかしら?)
もともと好奇心の|塊《かたまり》のようなジャスティーンだ。ここまで突き止めてしまっては、|我慢《がまん》などできるはずもない。
ジャスティーンは決意した。
(よし)
|拳《こぶし》を握りしめる。
(こうなったら確かめてみるしかないわ)
ジャスティーンは|一旦《いったん》部屋に戻ると、ランプを持ってきた。地下は予想以上に暗そうで、とても|灯《あか》りなしでは歩けそうもなかったからだ。用意が整うと、ジャスティーンは階段を下りはじめた。
(し、しまった。道に|迷《まよ》ってしまったわ)
結局、ジャスティーンは叔母に追いつけなかった。
地下がこんなに複雑な迷路を作っているとは思わなかった。まるで黒い|迷宮《めいきゅう》だ。
長い長い階段を下りたあと、歩いても歩いても曲がっても曲がっても道は続いていた。地上の城も同じように広く迷宮めいていたが、扉や広間といった人の足を止めるようなものが数多くあった。
だが、この暗い世界には、残念ながら、そういったものはない。ただ、細く長い道が、伸びて曲がって伸びて曲がって、どこまでもぐるぐると続いてゆく。時々、道が交差したような場所に出て、右へ行こうか左へ行こうか、迷った。
いったいなんのために、このようなところが作られたのか。
まるで、|最奥《さいおう》に宝を隠している|秘境《ひきょう》のようだ。
ジャスティーンの想像していたものとはかなり違った。
(お城の地下って、地下|牢《ろう》とかそういうものがあるんだと思っていたのに)
この場所は複雑に|絡《から》まって交差しつつ伸びてゆくように、ただ歩く道があるだけだ。
ここまで来ると、|既《すで》に自分がどこを歩いているのかもわからない。
ジャスティーンは青くなった。
(どーすんのよ)
これが、地上であったならば、朝がくれば大丈夫だ。しかし、こんな地下に日の光が届くわけがない。
このまま、迷いつづけては大変だ。
ジャスティーンはランプをかざし、壁を|伝《つた》い歩きながら、しみじみと後悔した。
どれだけ歩いても歩いても歩いても、このままではキリがない。
(ううん。大丈夫よ。終わりがないものって、この世の中にはないのよ。こうやって歩き続けていればきっとどこかにたどり着けるに違いないわ)
ジャスティーンが意志を|奮《ふる》い立たせようとした時、
ひやり、と冷たい感触が肩に触れた。
(―――え?)
一瞬の接触に、ジャスティーンは|肝《きも》を冷やした。
それは―――人の手だった。
その手が、ぐいっ、とジャスティーンの肩を引いた。
(な、なに?)
「おい」
声をかけられた。
「ひ―――」
突然背後から声が聞こえてきたせいで、ジャスティーンはあやうく悲鳴をあげ、|腰《こし》を抜かしかけた。しかし、背後から冷たい手が、すばやくジャスティーンの口元を|覆《おお》ったので、悲鳴が、その口から|漏《も》れることはなかった。
「待った。大声を出すなよ。あの女にばれちまったらどうする気だ」
その声がまだ少年のものだったので、ジャスティーンはかろうじて、意識を|保《たも》った。
(なんで、こんなところに男の子がいるのよ!?)
「だ、誰よ。あんた……」
と、|尋《たず》ねながら、ガタガタと|震《ふる》えそうになるのをなんとか我慢して、ジャスティーンは勢いよく振り向いた。 それから、
「あ……?」
思いもかけない人に出会ったような表情を浮かべて立ち尽くした。
声も出せないでいるジャスティーンに向かって、彼は|尋《たず》ねてきた。
「おまえ、あれだろ? あの女に新しく連れてこられたやつだろ?」
しかし、ジャスティーンは答えられないでいる。
「……おい。どうしたんだ? もしかして、目ぇ開けたまま、気ぃ失ってんのか? ああ、悪かったよ。突然驚かせてさ」
彼はジャスティーンの目の前でパタパタと手を振った。
しかし、すっかり石と化してしまったジャスティーンは反応できないでいる。
無理もなかった。
ジャスティーンは凍りついたように、少年の|瞳《ひとみ》に見入った。
(赤い、目……?)
それはまるで|煌々《こうこう》とした二つの赤い宝石。
そう。まるでルビィのような赤だ。
このような色の瞳を持った人間を、これまでジャスティーンは見たことがなかった。
髪は、叔母と同じ夜の色。|肌《はだ》は、まるで、日の光を知らぬかのように白く―――。
黒と白と赤―――。これほど、対立し合う|色彩《しきさい》はないだろう。なのにジャスティーンはその世にも|珍《めずら》しい瞳の色に心を奪われていた。
不思議と怖い、という感じはしない。ジャスティーンは目を大きく見開いて、少年の顔を覗き込んだ。
(不思議。こんなに不思議な色の瞳なのに―――、叔母様より、ずっと人間らしく見える―――)
その冷たい手は、血の|通《かよ》った人間のものというには冷たすぎたし、身にまとう|雰囲気《ふんいき》も普通とは違うのがわかる。
冷気を肌で感じるようなそんな冷たさと、深い|闇《やみ》の気配を感じた。それなのにジャスティーンは彼を恐れなかった。それはその|容貌《ようぼう》を裏切るような、これ以上はないというくらい人間らしい表情と言葉|遣《づか》いのせいかもしれない。
「驚かせて悪かったよ。だが俺だって驚かされたんだぜ。まさか、おまえの方からやってくるとは思わなかったからな」
ジャスティーンは|瞬《まばた》きをしながら、彼の顔をじっと見つめていた。
「あ、あの」
「まあ、いい。その方が|都合《つごう》はいいといやあイイからな。俺が上に行くと、あの女に気づかれてたかもしれねえしな」
いったい、この少年は何を言っているのだろう?
ジャスティーンにはさっぱりわからなかった。
|何故《なぜ》、このようなところにこのような少年がいるのだろうか? とか、なんのために自分に話しかけてきたのだろうか? とか、そんな基本的な疑問すら今のジャスティーンには、思い浮かべられなかった。
ただ、しばらくの放心ののちに、|我《われ》に返ったジャスティーンがやったことといえば。
「ええっと、はじめまして」
少年の手を|握手《あくしゅ》のように握りつつ|行《おこな》った、礼儀正しい|挨拶《あいさつ》だ。これはたぶん、幼いころ、両親に、「挨拶だけは、きちんとできる子になりなさい」、と|躾《しつ》けられた成果だ。たとえ、その場所が奇妙きわまりのない場所であったとしても、これだけは、きちんとクリアしなければならない。
少年は、ジャスティーンの反応に驚いた。
「あたしの名前は、ジャスティーン・エイド・ダーレイン。つい昨日、このお城にやってきたばかりなの」
「……」
今度は少年が瞬きをして、ジャスティーンを見る番だった。
「あたし知らなかったわ。このお城に、あなたみたいな人が住んでいたなんて」
「いや、住んでいるというか、なんというか……ちょっと違うような気もするんだけどな」
「ところで、あなたは何故こんなところにいるの? あたしは叔母様を追ってきたんだけど、あなたは? あなたもそうなの? あの隠し階段からここまでやってきたの?」
少年はジャスティーンにずっと手を握られたままで、|戸惑《とまど》っているようだ。
「いや、俺は別に……最初からずっとここにいたんだけど」
「まあ、ずっと? ずっとって、上から降りてきたんじゃないの?」
「俺、ずっとここにいついてんだよ。ってゆーか、おまえ人の話聞く気あるか?」
「ごめんなさい。だって、みんなあたしとちっともお話ししてくれないんだもの。このお城の人たちって無口か意地悪しかいないみたいだから。つい|嬉《うれ》しくて」
言ってから口を閉ざすと、「さあ、今度はあなたが|喋《しゃべ》って」と、瞳を輝かせて聞く体勢を整えているジャスティーンに、少年はしばらく、何を喋ろうとしていたんだっけ? と考え込んだ。すっかり気がそがれてしまったらしい。それでも、とりあえず彼は口を開いた。
「つまり―――」
それから途中で気が変わったのか、「まあいいや」と肩をすくめた。反対に、ジャスティーンに尋ねてくる。
「おまえこそ、ヴィラーネを追いかけてきたって?」
「そう。だって、部屋の中に隠し階段があったんですもの。気にならない方がおかしいじゃない。|案《あん》の|定《じょう》だったわ。ここって、なんか普通のお城の地下じゃないでしょ? だって、なにもないんですもの。あるのは、ただの道だけ。どこかに通じているようには思えない」
ジャスティーンの言葉は核心をついていた。意外にも|鋭《するど》いジャスティーンに、少年は目を細めた。
少しジャスティーンを見る目が変わったのが、わかる。
「ごめんなさい。余計なことを言って。でも、ここは、少し変」
ジャスティーンは周囲へと視線をさまよわせる。
「まるで、終わりがないみたい。この地下は、ただ、道を作ることだけを目的にしているみたいよ。こんなの聞いたこともないわ」
「へえ。少しは|賢《かしこ》いみたいだな。当たりだ」
少年はにやりと笑った。
「そうだよ。ここはまさに、そういう目的で造られたのさ」
「じゃあ、やっぱり、このまま歩いていても、|何処《どこ》へも出られないの?」
「ああ。そういう仕掛けになっているのさ。目的の場所にたどり着けるやつは、現在ただ一人だ」
「誰?」
「ヴィラーネだよ」
「叔母様……?」
それからジャスティーンはハッとした。
「ってことは、叔母様はちゃんと目的があってここにきたのね? じゃ、やっぱりここってただ道があるだけじゃないってこと?」
「いや、ただ、道があるだけなんだよ。このまま百年歩いたって、おまえじゃ、|最奥《さいおう》にはたどりつけねえよ。おまえだけじゃなく、他の誰であってもな。この城の|主《あるじ》は現在ヴィラーネだ。ヴィラーネ以外にとっては、ここはただの迷路なんだよ」
ジャスティーンはその言葉について考え込んだ。それから尋ねる。
「じゃ、あなたは?」
「俺? 俺は、ここの住人だから、別格だよ。それ以上は答えねえぜ。ここは俺のテリトリーだからな。たとえ誰であろうとも、踏み込ませるつもりはない」
ここの住人?
別格?
ジャスティーンはますますわからなくなってしまった。
すっかり考え込んでしまったジャスティーンに向かって、少年は言った。
「まあ、いい。迷ったんなら、助けてやるよ。ついてきな」
「え?」
「このままだと、おまえ、永遠にここから出られないぜ。いったろ? 一度入ってしまえば、ここには道しかないし、果てもない。ただ歩くことだけが目的の道しかないんだ。おまえにとってはな」
「あなたには出口がわかるの?」
「だから、俺は特別。いいからついてきな」
そう言って、少年がくるりと身をひるがえしてさっさと歩きだしたので、ジャスティーンは|慌《あわ》てて追いかけた。
「待って。あなたの名前は?」
「レンドリア」
「レンドリア……いい名前ね。いかにも貴族みたいだわ。あなたも枝分かれした叔母様の遠縁の|親戚《しんせき》なの?」
ジャスティーンの言葉に、少年は振り向いた。それから、苦笑したような表情を浮かべる。
「―――まあ、そんなところだな」
それっきり口を閉ざしてしまった。
それを見てジャスティーンは、彼もまた叔母やシャトーたちと同じ|類《たぐい》の人間なのだと、悟った。
余計なことを突っ込んで尋ねても、すべてを話してはくれないタイプだ。
それでも、ジャスティーンは尋ねた。好奇心に負けたのだ。
「ここには何があるの?」
たとえ、この城を造った者が誰であったとしても。
「意味もなく、こんな場所を造ったりしないわ」
ここは本当の意味での迷宮だ。そして、迷宮の向こうにはきっと、何かがあるのだ。必ず。
すると、少年は、ジャスティーンの頭をポンと|叩《たた》いた。
それは、余計なことに首を突っ込むなという合図だ。
「忠告してやるよ」
少年は、歩きながら、言う。
「悪いことは言わねえから、この城から出て行くんだ」
「―――え?」
「これはおまえのためを思って言ってんだぜ」
「どういう意味?」
「ヴィラーネはおまえが考えているような女じゃない」
「叔母様……? なぜ、ここで叔母様が出てくるのよ。叔母様はあたしを引き取って下さった方よ」
「馬鹿だな。おまえ」
少年―――レンドリアは|呆《あき》れたような表情で笑った。
「あいつが、おまえを引き取ったのには、別の意味がある」
「え?」
レンドリアはジャスティーンの瞳を覗き込んだ。
「いいか。あの女を信じるな」
そのルビィの瞳がまるで、炎のように輝いていた。
「おまえは、これまでおまえが生きてきた世界に戻るべきだ。じゃないと、後戻りできなくなる。俺はおまえのためを思って言ってんだ」
「あたしが、これまで生きてきた世界って……」
それはあの下町のことだろうか?
ジャスティーンが、生まれ育ったあの町。
好きで好きでたまらなかったあの町のことだろうか?
「それは……あたしが、このお城に住むにふさわしい人間じゃないってこと?」
「その逆だよ。おまえにとって、きっとこの城は|災《わざわ》いとなる。今なら、まだ|間《ま》に合う。とっとと帰っちまいな」
少年はいったい何が言いたいのだろう? ジャスティーンには、彼の真意がどこにあるのかわからなかった。
(逆ってどういうこと? この人なにを言ってるのかしら?)
答えを自分で見つけ出したくて、ジャスティーンは考え込んだが、すぐに|諦《あきら》めた。
わからない。
「それはできないわ」
「おまえなぁ。人がせっかく親切に……」
「だって、あたしにはもう待っていてくれる人も、帰る場所もないんですもの」
「―――」
「叔母様は、|唯一《ゆいいつ》のあたしの叔母様なのよ。あたし、父さんや母さんが死んで、もう誰もいなくなったと思っていた。だから、叔母様の存在を知ってとても嬉しかった」
レンドリアは|黙《だま》ってジャスティーンを見ていた。
「ここが、あたしの家なの。もう他に行くところなんてないのよ」
ジャスティーンの言葉に、レンドリアはふっと息をついた。
「俺は忠告した。それだけだ。あとは、おまえがどうなろうと知ったことじゃない。だがな」
言葉を切った少年は少し|苛々《いらいら》としたように、ジャスティーンに目を向けた。
「あの女を信用するな」
もう一度|繰《く》り返した。それから、彼は立ち止まる。
つられたように、はっとして、ジャスティーンも立ち止まった。
レンドリアは前方を指差した。
「ほらよ。出口にご到着だ。いきな」
「ありがとう。助かったわ」
ジャスティーンは数歩踏み出したあと、振り返りながら言った。
「ねえ、またここにきてもいい?」
だが、振り返った時、そこに少年はいなかった。
いつの間にか闇にまぎれて消えていたのだ―――。
「おはよう。ジャスティーン」
翌日、またしても、シャトーに起こされ、ジャスティーンは目覚めた。
「おはよう。シャトー。あんたって、ホントに朝が早いのね?」
「ジャスティーンが遅すぎるだけ」
今日もシャトーは相変わらずだ。
「……もうそんな時間なの?」
「そう。もうそんな時間」
確かめるように窓の外を|覗《のぞ》くと、確かに日はすっかり昇っている。
ジャスティーンは赤くなった。
「いつもは、こんなにねぼすけじゃないのよ。あたし、早起きは得意なんだから。ただ、|昨夜《ゆうべ》は気になることがあって、なかなか寝付けなかったのよ」
「気になること?」
ジャスティーンは思いきって|尋《たず》ねてみることにした。叔母のことは、この城のことをよく知っているシャトーに聞くのが一番だと思ったのだ。
「ねえ。叔母様はあたしになにか隠し事をしていない?」
「隠し事?」
「そう。なんとなく感じるの。叔母様があたしをご自分のそばに近づけたがらないのは、きっと何かを隠しているからだと思うの。だけどこんなこと、あたしが叔母様に直接訊いてもきっと答えて下さらないと思うわ。だから、あんたに訊きたいのよ。あんたは叔母様のこと、あたしよりよく知っているでしよう?」
シャトーはしばらくじっとジャスティーンの顔を見つめていた。それから尋ねてくる。
「ジャスティーン。昨夜なにかあった?」
問われて、ジャスティーンはどきりとした。
シャトーの口ぶりは何かを探るような響きがあった。
だが、ジャスティーンは|嘘《うそ》をついた。
「いいえ」
シャトーを|騙《だま》したかったわけではない。嘘も嫌いだ。だけどその時、なぜかジャスティーンは、シャトーに昨夜のことは言ってはいけない気がした。叔母にも、そして、あのダリィにも。
誰にも言ってはいけない気がしたのだ。
「ただ、なんとなくそう思ったの。ねえ、シャトー」
「なに?」
「もしかして、あんたもあたしに隠し事があるの?」
「どういうこと?」
「だって、あんたの表情はまるで叔母様にそっくりよ。何も語ろうとしないんですもの」
「私は必要なことしか|喋《しゃべ》らない。ただ自分の仕事をするだけ」
「それがここでの生活の決まりごとなの?」
「そう」
ジャスティーンはため息をついた。
「―――わかったわ。無理|強《じ》いはしない。だって、あんたのことは好きだもの。ダリィとは違う。あんたは、あたしを普通の人間として|扱《あつか》ってくれるわ。その―――あたしが叔母様の姪だから、じゃなく。あたしの言ってることわかる?」
「わかる」
「だから、あたしはあんたのことは信じる。だけど、あんたが何も言ってくれない以上、あたしも、あんたにすべてを話せないわ。信頼関係は築けないわよ?」
「かまわない。私は私の仕事をするだけだから。そのことに差し|障《さわ》りさえなければ」
これ以上は無理だった。シャトーには、これ以上踏み込めない。
|諦《あきら》めるしかなかった。本当はもう少し心を許しあって話し合えたなら、昨夜のことを|全《すべ》て話すのに。そして、シャトーにも疑問に思っていることを教えてもらうのに。
だが、今の二人の関係ではそれは無理だった。
「ジャスティーン。今日はなにを着る?」
シャトーは尋ねてきた。今日は、ジャスティーンは違う反応をした。
「なんでもいいわ。シャトーが選んでくれたのなら」
シャトーは少し驚いたようだ。昨日と態度の違うジャスティーンを最初|訝《いぶか》しげに見ていた。それからクローゼットの中からドレスを一着取り出してくると、ジャスティーンに差し出す。
黒を|主《しゅ》としたドレスだ。色もデザインもシンプルで|喪服《もふく》のようにも見えるが、少し身長のあるジャスティーンにはよく似合いそうだ。
「あなたの赤い髪には、きっととてもよく似合う」
ジャスティーンは|微笑《ほほえ》んだ。
「本当?」
「ええ。とても。着てみるといい」
信頼関係は築けないことはわかった。だが、だからといって、決して交われないわけではない。
ジャスティーンはそのドレスを受け取った。
「ジャスティーン」
シャトーが声をかけてきた。
「なに?」
「これは余計なことだし、言わなくてもいいことだと思うけれど」
シャトーはじっとジャスティーンを見つめた。人形めいた顔には相変わらずなんの表情もない。
しかし、彼女は静かに呟《つぶや》いた。
「私もあなたのことは、好きだと思う」
ジャスティーンの口元が|綻《ほころ》んだ。
聞きたいことはたくさんあった。
たとえば、あなたは料理が得意? だとか。
たとえば、誰が、この城を掃除したり、お皿を洗ったりするのか? とか。
たとえば、この城にはどうして、他の人間がいないのか? とか。
そして、―――たとえば、あなたは、この城の地下に男の子が|居《い》ることを知っているのか? とか―――。
だけど、ジャスティーンはその全てを口にすることはやめた。
それでいいような気がした。
遠く見渡すかぎり、灰色の平原が続いている。
その|寂《さび》しい光景を石造りのテラスから見下ろしながら、ジャスティーンはしみじみと考え込む。
(こんな高いところから、下を見下ろすのって初めて)
いったいいつから、この城は|此処《ここ》に建っていたのだろう?
人も訪れぬような|人里《ひとざと》離れたこの場所のすぐ近くには、森も湖もない。
それが一層この城を寂しいものに見せていた。
(最初に、こんな場所に住もうなんて考えた人はよっぽどの|偏屈者《へんくつもの》だったに違いないわ)
そう言って|唸《うな》ってしまいたくなるほど、|辺鄙《へんぴ》なところにこの城はあった。
リーヴェルレーヴ城―――。それが、この城の名だった。
シャトーがそう教えてくれたのだ。
美しい名だと思った。まるで天空にすまう神々の宮殿につけるのが|相応《ふさわ》しいような、美しい響きだ。この寂しい古城が、そのように呼ばれているとは思いもよらなかった。
ジャスティーンが物思いに|耽《ふけ》っていると、|遥《はる》か下の方で馬車の止まる音がした。
(あら、もしかして、またお客様……?)
ジャスティーンは驚いて、|手摺《てすり》から、身を乗り出させるようにして、見下ろす。
それから目を見張った。
(なに? あの人たち……)
馬車から降りてきたのは、一人の紳士と、二人の貴婦人だ。だが、驚いたのはそのようなことではない。
(なんで、あんなものつけてるのかしら……?)
紳士は銀の仮面で、貴婦人たちは|喪服《もふく》を着る時につけるような黒いベールで、顔を隠していたのだ。
それは異様な光景だった。
ジャスティーンが驚いて立ちすくんでいると、客人の一人である紳士がふと、こちらに気がついたかのように顔をあげた。まるで、ジャスティーンの視線と|気配《けはい》に気づいたように。
ジャスティーンの心臓が|跳《は》ね上がった。
(うそ。こっちに気づいた……? こんなに離れてるのに?)
仮面の下から、こちらをじっと見ているような気がした。次に貴婦人たちが顔をあげた。どちらもその表情は、ベールの下に隠れていて見えない。だが、その二人もジャスティーンを見つめているのだとわかった。
すっかり動けなくなってしまったジャスティーンは、彼らの動きをただ見守るしかなかった。
三人の客人たちはしばらく、ジャスティーンを見つめたあと、|微《かす》かな|頷《うなず》きを交わし、城の中へと入っていった。
そのとたんに、|呪縛《じゅばく》が解けたように、ジャスティーンはへたり込んだ。
(い、今のなんだったのかしら?)
ジャスティーンはさっぱりわからなかった。ただ、言えることは。
(あの人たち、確かにあたしのことを見ていたわ。それも、偶然見たって感じじゃなかった)
彼らは|紛《まぎ》れもなくジャスティーンを見に、この城へとやってきたのだ。
「ねえ。シャトー。聞いていい?」
数日後、ジャスティーンはとうとう我慢できなくなって、シャトーに声をかけた。
「なにが?」
昼食後、シャトーが部屋へと運んできたお茶をいただきながら、ジャスティーンは|尋《たず》ねた。
「あの人たちってなんなの?」
「あの人たち?」
「あの黒いベールをかぶった人や、銀の仮面で顔を隠してるあやしげな人たちのことよ!」
すると、シャトーはジャスティーンのためにデザートを切りわけていた手を止め、押し|黙《だま》った。その沈黙が|全《すべ》てを物語っている。
(やっぱり何か隠してる!)
ここ数日、ジャスティーンは気になって気になって仕方がなかった。ジャスティーンが、初めて顔を隠した客人を目撃してからのここ数日間―――。この城を訪れた客人は少なくなかった。
もちろんジャスティーンは、客人が訪れることは良いことだと思っていた。
ただそれは訪れる客人が普通の人たちであればの話だ。
この城にやってくる者たちは普通ではなかった。
みな、最初の客人と同じように顔を隠している者たちばかりだったのだ。
しかも彼らは皆同じようにただ黙ってジャスティーンの方をじっと見つめ、去ってゆくのだ。
最初はただ|訝《いぶか》しげにしていたジャスティーンだったが、そのうちどうしても我慢できなくなった。そして、最初に叔母にそのことを尋ねたのだ。しかし叔母はいつものように何も答えてはくれなかった。ただ「彼らは、この城の大切なお客様です」と答えただけだ。
それで、ジャスティーンは不本意ながら、ダリィに声をかけた。
こういう場合は、叔母のヴィラーネよりは|詳《くわ》しく話してくれるような気がしたからだ。
しかしいつもはこのような揚合、|嫌味《いやみ》の一つや二つを口にするはずのダリィが、この時ばかりは一瞬沈黙した。それから彼女は「そのようなこと、わたくしが知るわけないでしょう」と、実に不愉快そうに眉をひそめたのだ。
仕方なく、ジャスティーンは最後にシャトーに尋ねたのである。
「あの人たちってどういう人たちなの?」
「ヴィラーネの大切なお客様だけれど?」
「それはわかるわよ。そうじゃなくて……ねえ、気がつくとあの人たち、じっとあたしの顔を見てるのよ」
「それはジャスティーンの気のせいだと思う」
(|嘘《うそ》ばっかり!)
あそこまで|露骨《ろこつ》な視線を投げかけているのだ。気のせいのはずがなかった。
「じゃ、聞くけど、あの人たちどうして、いつも顔を隠しているの?」
「この辺りでは高貴な身分の方々は、素顔を人前にさらけ出したりはしないから」
「あたしの住んでいた|都《みやこ》も高貴な貴族はたくさんいたけど、みんなあんな風に顔をかくしてなんかいなかったわ」
「きっと町によって習わしが違うのだと思う」
(大嘘つきー!)
当然ジャスティーンは、シャトーの言葉を|鵜呑《うの》みにしたりはしなかった。いくら貴族の生活に|疎《うと》いからといって、それくらいのことはわかる。この城を訪れる客人はみな普通ではないのだ。ジャスティーンは深々とため息をつく。
(まったくシャトーったら。ここまできたら、ほとんど|堅物《かたぶつ》じゃない。骨のずいまで、カチンコチンなんだから!)
シャトーはこんな時まで、何も話そうとはしない。
ジャスティーンは彼女にこれ以上は何を尋ねても|無駄《むだ》だと悟った。
(絶対。何かあるんだわ。でもいったいなにがあるのかしら?)
ジャスティーンは|爪《つめ》を|噛《か》んで真剣に考え込んだ。
その夜、ジャスティーンは|大人《おとな》しくベッドに入った。
やがて皆が寝静まった頃、突然むくりと身を起こすとベッドから|滑《すべ》り降りる。
そっとランプに火を|灯《とも》し、部屋をあとにした。
たどりついた所は、数日前見つけた部屋だ。あの|暖炉《だんろ》の奥に隠し階段のある部屋だった。
ジャスティーンは周囲に人の目がないことを確かめてから、こっそりと部屋の中へと侵入した。
暖炉の奥には、この前訪れた時と同じように、確かに地下へと伸びる階段があった。ジャスティーンはしばらく、その中を|思案《しあん》するように|覗《のぞ》き込んでいたが、とうとう覚悟を決めたように、階段を下りはじめた。
地下への道は相変わらず真っ暗だった。以前と同じような地下|迷宮《めいきゅう》だ。
しかし、ジャスティーンは今度はためらわずに歩いた。今回は前回と違っていきあたりばったり動いているわけではない。ちゃんと目的は一つに決まっていた。
しばらくして、ジャスティーンはハッとして立ち止まった。
そこに人影があった。
手前にランプをかざし|嬉《うれ》しそうに笑いかけた。
「レンドリア!」
その名を口にする。
「また会えて嬉しいわ!」
赤い瞳と|闇《やみ》色の髪の少年が|不機嫌《ふきげん》そうに腕を組んで、その場に立っていた。いつからそこに立っていたのか。それすらもわからない。なのに、ジャスティーンは最初から、レンドリアがそこに立っていることを知っていたかのように笑いかけた。
しかし、レンドリアの方はジャスティーンとは正反対だ。ムッとした表情を浮かべてこちらを|睨《にら》んでいた。
「俺は忠告したはずだがな。ここはおまえの来るべきところじゃねえってな」
ジャスティーンの表情が|緩《ゆる》む。
いかにも機嫌の悪そうな声も、怒っているような|口調《くちょう》も、ジャスティーンにとってはかえって嬉しい。地上にいる人々は、皆ジャスティーンとは本当の意味では決して交わろうとはしない。
ジャスティーンが好ましく思っているシャトーですら、ジャスティーンには遠く感じられる。
だけど、この目の前の赤い瞳の少年は違う。
豊かな感情に|溢《あふ》れていた。たとえ、怒っていたとしても、そうやってぶつけられる怒りすら、今のジャスティーンには嬉しいものだった。
(よかった。こんなことなら、もっと早くここにくればよかった!)
その人間らしい|雰囲気《ふんいき》に、ホロリとしてしまう。
(やっぱり人間はこうでなくっちゃ!)
「ごめんなさい。でもあなたに会いたかったのよ。お話ししたかったの」
「やっぱり出て行く気はないわけか」
「前にも言ったでしょ? ここがあたしの家だって。ね、ここに座ってもいい? どうせ、ここって、どこに行っても、こんな道しかないんでしょ?」
ジャスティーンは足下にランプをかざして道の状態を確かめると、相手の返事を待たずに、さっさとその場に座り込んだ。それから、レンドリアに向かって「こっち、こっち」と手招きすると、自分の横に座るように|促《うなが》す。
それを見てレンドリアは最初|呆《あき》れたような表情を浮かべた。それから(ま、いっか)と肩をすくめる。|大人《おとな》しくジャスティーンの|勧《すす》めるままに、隣に腰をおろした。
「おまえ、女のくせに変わってるな。普通女はこんなところに座ったりしねえぜ。服が汚れるのを嫌うからな」
その言葉に思わずジャスティーンはクスリと笑ってしまった。
「あんたってやっぱり育ちがいいのねえ」
「何がだ?」
「あたしの生まれ育った町には、服の汚れを気にして座るような子はいなかったわ。それどころか男の子と一緒になって|駆《か》けずり回ってた」
レンドリアは素直に驚いているようだ。感心したような声をあげていた。
「へえ」
「あたしは、育ちがあまりよくないの。ずっと一人で生きてきたから」
レンドリアはジャスティーンの顔を見た。
「そういや、おまえ確か前に、両親が死んだとかなんとか言ってたな」
ジャスティーンはわざと肩を|怒《いか》らせる|真似《まね》をした。
「そうよ。ずっと小さい頃、事故で二人とも|亡《な》くしたの。あ、でも|可哀《かわい》そうだとか思わないでね。こう見えても友達は多かったんだから」
「ああ、わかった」
レンドリアは小さく|頷《うなず》いた。
それを見て、ジャスティーンは深い感動のようなものを覚えた。
(ああ、ちゃんとした会話になってる……!)
それが嬉しくてたまらない。
いつもは一方通行にしかならない会話が、レンドリア相手だと違うのだ。赤い瞳の彼は、他の人々と違って、実に自然体でジャスティーンと会話をしている。
「そっか、おまえ孤児か」
レンドリアは|呟《つぶや》いた。不思議な話だが、レンドリアがジャスティーンのことをそんな風に言っても、腹はたたなかった。その言葉には特別の意味が|含《ふく》まれていなかったからだ。
まるで、風がそこを吹き抜けてゆくのがあたり前だとでも言うように、彼はジャスティーンと言葉を交わした。
「でも今は|叔母《おば》様があたしを引き取って下さったから、一人じゃないわ」
「叔母様[#「叔母様」に傍点]ねえ」
レンドリアは妙なアクセントをつけて呟いた。
「なに?」
「いや―――本当におまえ、自分がヴィラーネの|姪《めい》だと思ってるのか?」
その言葉に、さすがのジャスティーンもムッとした表情を浮かべた。
「思ってるわ。あなたもあたしのこと疑ってるの? 母さんが父さんを|騙《だま》してたって?」
「そうじゃねえよ。ただヴィラーネは」
「父さんがどういう事情で、叔母様とこのお城を捨てて、母さんと出会ったのかは知らないけど、あたしの父さんは間違いなく父さんよ」
レンドリアはしばらく考え込んでいるようだった。それからもう一度ジャスティーンの方へと視線を戻す。
「―――おまえの父親の名前は?」
「エリオス」
その言葉にレンドリアは目を見開いた。
「エリオス―――って、あのエリオスか?」
今度はジャスティーンが驚く番だ。
「知ってるの? 父さんのこと」
「知ってるもなにも、あいつ、子供の頃はよくここに遊びにきてたぜ」
ジャスティーンはきょとんとした表情で、レンドリアを見つめた。
「子供の頃って……だって、父さんの子供の頃って、あんたまだ生まれてなかったんじゃないの?」
目の前の少年はどう見てもジャスティーンと似たような年齢に見える。百歩|譲《ゆず》って恐るべき|童顔《どうがん》だとしても―――もちろんそんなことはないと確信できるが―――年齢は合わない。レンドリアがジャスティーンの父親と出会ったことがあるとすれば、少なくとも三十はとっくに|超《こ》えているはずなのだ。なによりも、レンドリアの外見は|完璧《かんぺき》に少年のものだ。
すると、レンドリアはいたずらっ子のように、にやりと笑みを浮かべた。
「残念ながら、俺はおまえの父親よりは年上だぜ? っていうか、年取ってないっていうべきか……。あ、いっとくが、俺はジジイじゃねえからな」
ジャスティーンは自分の耳を疑ってしまった。
「なにそれ? どういうこと?」
「俺はエリオスが生まれる前から、ここに住んでたってことだよ」
ジャスティーンにはその意味がわからなかった。
(もしかしてからかわれてるのかしら?)
|露骨《ろこつ》な疑いの視線を受けて、レンドリアは苦笑した。
「あのなあ。本当だって。俺はエリオスを知っている」
「あんた何者なの?」
「言ってもいいけど、|動揺《どうよう》のあまり気ィ失ったり、叫び出したりすんじゃねえぞ」
「わかった」
|真面目《まじめ》に頷くジャスティーンに、レンドリアもまた|生《き》真面目な表情に戻った。しかし、次に彼が口にした言葉は信じがたいものだった。
「実は、俺、幽霊なんだ」
その言葉に、ジャスティーンはぽかんとした。あまりのことに開いた口がふさがらなかった。
(……今、何言ったの? この人……)
ジャスティーンの声が|震《ふる》えた。
「ゆ、幽霊……? 幽霊って……あの幽霊?」
「そう、その幽霊」
「嘘」
「こんなこと嘘ついてどーする」
「だって、あんたちゃんと体あるじゃない」
ジャスティーンはまじまじと、レンドリアの姿を上から下まで眺めまくった。足はちゃんとあった。
実体のある幽霊の話など聞いたこともなかった。第一、こんな表情豊かで人間くさい幽霊がいるはずがない。
(やっぱり、からかわれてるんだわ!)
ジャスティーンはそう思い当たって、
「あたしを騙そうったって、そうはいかないんだから」と口を|尖《とが》らせた。
確かめるようにレンドリアの|頬《ほお》に触れた。とたんにドキリとする。 その肌のあまりの冷たさに驚いたのだ。
(嘘……冷たい)
ひやりと心臓が|縮《ちぢ》み上がる。
ジャスティーンは思い出した。そういえば、初めて会った時も、彼はちょうどこんな風に冷たかった。それは確かに人の体温とは言いがたい。
「ってことは、本物の幽霊……っ」
ジャスティーンの目の前が真っ暗になりかけた。
「……おっと、約束だからな。気ぃ失うなよ」
レンドリアは、グラリと傾いたジャスティーンの腕を|掴《つか》んで体を|支《ささ》えると、正気に返らせるよう軽く頬を|叩《たた》いた。かろうじて意識を|保《たも》ったジャスティーンは、まじまじとレンドリアを見つめた。
「あんた……|昇天《しょうてん》できなかったの? なんか心残りでもあったってこと?」
するとレンドリアは、|面白《おもしろ》いものでも見つけたような表情で、ジャスティーンを見下ろした。
「なに?」
「いや。あんまり驚いてないな、と思ってさ」
「お、驚いてるわよ。一瞬目の前が真っ暗になったくらいなんだから! 第一、あんたが気を失うなって言ったんでしょ?」
「そりゃ、言ったけどな。けど、まさか、ホントにそうできるとは思わなかった。つまんねえな」
どうやら、レンドリアはジャスティーンに、本当は別のリアクションを期待していたらしい。
(なんだか、子供っぽいところもあるんだわ。レンドリアって)
時々信じられないほど、ふっと|大人《おとな》びた表情や仕草をするのに。こんな風に、驚くほど子供のようなところもある。それは子供のまま死んでしまった幽霊だからなのだろうか?
レンドリアは奇妙に大人と子供が同居しているような少年だった。
「それに、そういわれてみればって、思ったのよ。なんたってこのお城ってなんだか出そう[#「出そう」に傍点]なんだもの」
特にこのような夜には、何が現れても違和感がない。それほど、夜を迎えたこの城は|無気味《ぶきみ》だった。
「だけど、あんたって幽霊のくせに、ちっとも怖くないのね?」
「それは|誉《ほ》めてんのか? 馬鹿にしてんのか?」
「どっちでもないわよ。感心してるの」
それから、ふと、ジャスティーンは思い当たって尋ねた。
「だから、あんたの瞳はそんなに赤いの?」
「瞳? ああ、これか?」
ジャスティーンは改めて少年の不思議な色の瞳を覗き込んだ。
「幽霊だったから、そんな色をしているのね?」
ジャスティーンはようやく納得できたという表情を浮かべた。
「無気味だろ?」
そう口にしながらもレンドリアは|口《くち》の|端《はし》に小さな笑いを浮かべた。その表情は、やはりジャスティーンの反応を|面白《おもしろ》がっているように見える。
ジャスティーンは真剣に首を振った。
「いいえ、少しも。そりゃ、最初は驚いたけど」
「―――本当に、変なやつだな、おまえ」
「だって、あんたの目、好きよ。ちゃんと考えてることわかるから。怒ってる時とか面白がってる時とか、ちゃんとわかるんだもの。色なんか関係ないわ」
ジャスティーンの頭の中に、この城で出会ったいくつかの瞳の色が浮かび上がった。
黒い瞳、|紫《むらさき》の瞳、|碧《あお》の瞳―――。
そのどれよりも、今目の前にある赤いルビィの瞳は、好感が持てた。
「そりゃ、どうも。俺もおまえのことは気に入ったぜ」
「ほんと? うれしい。ここにきて、そんなこと言われたの初めてよ。あたしたち友達になれる?」
「ああ」
ジャスティーンは握手するようにレンドリアの手を取った。
もう冷たい手も気にならなかった。
「でも、ちょっぴり残念ね。あんたが幽霊だなんて……。それにしても、あんた、なんで幽霊なんかになったのよ? このお城に住み着いてるってことは、昔あんたこの城の人だったの? ヴィラーネ叔母様が生まれる前からずっと?」
ジャスティーンは首を|傾《かし》げた。レンドリアはそんなジャスティーンを|黙《だま》って見つめていた。
それから彼は呟いた。
「―――おまえ、本当に何も知らねえんだな」
その呟きに、ジャスティーンは顔を上げた。
「え?」
「本当に、ヴィラーネがおまえの叔母様[#「叔母様」に傍点]だとでも思ってんのか?」
「どういうこと?」
ジャスティーンは|訝《いぶか》しげに、レンドリアを|見遣《みや》った。すると、レンドリアはまるで小さな子供に言い聞かせようとでもするように、ジャスティーンと視線を合わせた。
「あのなあ。あのヴィラーネはおまえの叔母様[#「叔母様」に傍点]なんかじゃねえぜ」
ジャスティーンはこれ以上は無理というくらい大きく目を見開いた。
「あんたなに言ってんの?」
(ヴィラーネ叔母様があたしの叔母様じゃない?)
そんなはずはない。絶対ない。ジャスティーンは心の中で繰り返した。
やはりレンドリアはジャスティーンのことをからかっているのだ。しかし、今度のからかいはタチが悪すぎる。ジャスティーンはレンドリアを|睨《にら》みつけた。
「叔母様はあたしの叔母様よ。ダリィだって最初に会った時、そう言ってたわ。もっともダリィはあたしが父さんの本当の娘かどうかは疑ってたけど」
「そりゃ、みんな騙されてるってことだな」
「騙されてるって……」
激しく|戸惑《とまど》うジャスティーンに向かって、レンドリアははっきりと言った。
「あの女は魔女だ」
ジャスティーンはレンドリアの言葉の意味が飲み込めなくて、何度も|瞬《まばた》きを繰り返した。
レンドリアはジャスティーンの顔を覗き込みながら、言った。
「おまえの本当の叔母様[#「本当の叔母様」に傍点]はとっくにあの魔女に喰われちまったんだよ」
―――今度こそ、ジャスティーンは|絶句《ぜっく》してしまった。
第三章・叔母様の正体
ジャスティーンは全速力で走っていた。
心臓が破れそうになるくらい苦しかったが、今はそんなことすら気にとめる余裕もなかった。
(冗談じゃないわよおぉ)
心の中はパニック状態に|陥《おちい》っていた。
(あたしったら、なんてところに来てしまったのよ!)
もつれて転びそうになりながらも、走ることをやめないジャスティーンは、つい先刻、レンドリアと交わした言葉を思い出す。
その時レンドリアがジャスティーンに告げた言葉に、一瞬声を失ってしまった。
「く、喰われたって……、ど、どういう意味よ……」
それでも、ジャスティーンはなんとか声を|絞《しぼ》り出して|尋《たず》ねた。
それは、レンドリアに自分のことを幽霊だと告げられた時の驚きなど、比べ物にならないほどの衝撃だった。驚き、などというような|生易《なまやさ》しい表現ですらない。
(あの|叔母《おば》様があたしの本当の叔母様じゃない……?)
「あの叔母様は、本物の叔母様を食べてしまったの? そ、それって……」
想像しただけで気分が悪くなってきた。
口元を押さえて、吐き気をこらえているジャスティーンを目にして、レンドリアは言い直した。
「正確には、生命そのものをだ。ようするに人間の命だな」
「い、命……?」
だがそんなものはジャスティーンにとってなんの|慰《なぐさ》めにもならなかった。グラグラと目の前が|揺《ゆ》れている。
しかし、ここで|素朴《そぼく》な疑問が|湧《わ》いてきた。
「命って食べられるの?」
「当然だ。ああいう魔女にとっては人間の命ってのは、またとない好物なんだよ。たくさん人間の命を|屠《ほふ》れば屠るほど、力が増大するからな。あの魔女は魔女の中でも、もっとも|邪悪《じゃあく》で恐ろしい力を持っているんだ。それだけたくさんの命を、喰らってきたって証拠だ。あいつは、本物のヴィラーネの命を喰った上に、ヴィラーネに化けて、さりげなくこの城をのっとっちまったんだよ」
(魔女……力……。あの叔母様が魔女……?)
言われてみれば、確かに初対面の時から人間離れした人だったと、改めて思った。|闇《やみ》の中を|灯《あか》りもつけずに、歩きまわっている姿はまさに魔女と呼ぶに相応しい。
あの異様に長い黒髪も、夜を思わせるような|瞳《ひとみ》もだ。
「そんな……」
ジャスティーンは自分の体から力が抜けてゆくのがわかった。ガクリと肩を落とす。
「せっかく新しい家族ができたと思りたのに……。本当にあたし、叔母様と会えて|嬉《うれ》しかったのに……。ちっともあたしを見てくれなかったけど、それでも、いつかきっとわかってくれるって思ってたのに……」
(叔母様じゃなかったなんて……)
すっかり打ちひしがれてしまったジャスティーンを見て、レンドリアも少し同情したのか、優しく言う。
「だから、忠告したんだ。早く、この城から出て行きなってな」
ジャスティーンは顔を上げた。
「おまえのためを思って俺は言ってたんだぜ? おまえ本当になにも知らないみたいだからな」
「それどういう意味……?」
それから、ジャスティーンはハッとした。
(そういえば、あの人が血の紫がった叔母様じゃないってことは……。どうして、あたしを引き取ったりしたの?)
ジャスティーンはてっきり、自分が叔母の|身内《みうち》だから引き取られたのだと思っていた。しかし、あの叔母と血が|繋《つな》がっていないということは……。
混乱するジャスティーンにレンドリアは告げる。
「あの魔女は、今度はおまえの命を喰うつもりなんだ」
ジャスティーンは、張り裂けそうなほど、大きく目を見開いた。
まさに|驚愕《きょうがく》の事実だった。
「あ、あたし? あたしの命を食べるの? |何故《なぜ》よ……! どうしてあたしなのよ! あたしなんて、ついこの間までごく普通の生活をしていただけの、ごくごく普通の女の子なのよ! わざわざ探し出してまで食べる価値なんてないわよ!」
「そいつがあるんだよ。おまえはエリオスの娘だからな」
「え―――? それってどういう……?」
「とにかく、だ」
ジャスティーンが問いかけようとしたが、レンドリアは話をごまかすように、ジャスティーンの肩を|叩《たた》いた。
「わが身が可愛かったら、今すぐに、ここを出てゆくことを|勧《すす》めるぜ。それがおまえのためだ」
「でも!」
「こんなところで|無駄話《むだばなし》をしている間に、ヴィラーネの気が変わったらどうするつもりだ? あの女が今のところおまえに手を出さないのは、きっとまだ、おまえの様子を見ているからだぜ。だけど、あいつは気まぐれだからな。明日にでも、おまえの命を、自分の力として取り込んじまうかもしれねえ」
それを聞いてジャスティーンは真っ青になった。
「そそ、そんな!」
「だから、俺が忠告したんだよ。大丈夫だ。今からでも遅くはない。思い立ったら即行動だ。とっとと逃げちまいな」
そう言って、レンドリアはジャスティーンの手を取って立ち上がらせると、その手にランプを持たせた。
「でも」
「でももだってもない! ほら、行った行った」
レンドリアは、シッシッとジャスティーンを追い払うように手を振った。しかし、ジャスティーンはまだ|戸惑《とまど》っていた。急な話に頭の回転がついてゆけないのだ。
それを見て、レンドリアは少し|苛々《いらいら》とした表情で言った。
「|迷《まよ》っている場合じゃねえだろ? 早く! ヴィラーネに見つかる前に行っちまいなって!」
|急《せ》かされるように追いやられて、ジャスティーンはふらふらと歩き出す。その間も頭の中は、これ以上はないくらいに、混乱していた。
「出口なら、すぐそこにあるからな」
ジャスティーンが前方を|見遣《みや》ると、確かにそこにあるはずのない、上階へ繋がっているはずの階段が見えた。
ジャスティーンは迷うように出口に向かって足を踏み出したが、今度もまた立ち止まって振り返った。
しかし、そうやってジャスティーンが何かを求めるように振り返った時、またしてもレンドリアの姿はそこにはなかったのだ。
そして、ジャスティーンは今、全速力で|廊下《ろうか》を走っていた。
(とにかく逃げないと)
あの叔母が本物の叔母と取って代わった魔女だというのならば、彼女がジャスティーンを引き取るいわれはないのだ。それを引き取ったのだとすれば、レンドリアの言うとおり、目的はただ一つだ。
(あたし、殺されるんだわ。叔母様―――もといヴィラーネに!)
いつ、その時がくるのかわからない。逃げるなら早い方がいいのだ。
今やジャスティーンはあの|偽者《にせもの》の叔母に対してひとつの未練もなかった。家族を求める心も|綺麗《きれい》さっぱり消えていた。|全《すべ》ては命あってのモノダネだ。殺されてしまっては、元も子もない。
人生は生きているからこそ意味がある!
だから喜びも悲しみも感じることができるのだ!
(そう。あたしはなんとしてでも逃げてみせるわ。あんな人に殺されてたまるもんですか!)
ジャスティーンは改めて自分に強く言い聞かせた。
お城の玄関にあたる扉の前まできた時、ジャスティーンは信じられない思いで|呟《つぶや》いた。
「どういうこと? 扉が開かないわ!」
ジャスティーンは|呆然《ぼうぜん》とした表情を浮かべていた。
ヴィラーネの気が変わらないうちに、早くここから逃げようと決意したところまではよかったが、実際はそううまくはいかなかった。せっかく暗いうちに逃げ出そうと思っていたのに、これではどうすることもできない。
「ヴィラーネったら、戸締まりはキッチリとする人だったのね……」
それからジャスティーンは不思議そうに扉を見た。
「|鍵《かぎ》がかかっているようには見えないんだけど。どうしたのかしら? これ」
重々しい鉄の扉は、ジャスティーンが力いっぱい押しても引いても、ピクリとも動かない。
岩のようにどっしりとそこにあった。まるで、ジャスティーンがここから出て行こうとするのを、|拒《こば》むように。
(これってあたしの被害|妄想《もうそう》かしら?)
今は何を考えてもマイナス思考になっているようだ。
「とにかく、朝になるまで待たなくちゃいけないのね。それまでにヴィラーネの気が変わってなきゃいいんだけど」
ジャスティーンは「ああ、神様、どうかあたしをお守り下さい」と、|祈《いの》るように呟いた。
やがてジャスティーンは、がっくりとしながら、自分の部屋へと戻った。
翌日、ジャスティーンは何事もなかったように、朝を迎えた。
いつものようにシャトーと顔を合わせ、当たり前のように朝食をとった。
しかし、|今朝《けさ》は、寝不足のために、目が痛い。
|昨夜《ゆうべ》は恐怖のあまり一睡もできなかったのだ。
そんなジャスティーンの様子を不審に思ったのか、めずらしくシャトーの方から声をかけてきた。
「どうかしたの? ジャスティーン? 昨夜はあまり眠れなかったようだけれど」
すると、ジャスティーンの体がびくりと|跳《は》ね上がった。
「なな、なんでもないわよ!」
「だけど、目が責っ赤に|充血《じゅうけつ》している……」
「本当に、なんでもないの!」
ジャスティーンは|焦《あせ》ったように大きく手を振って言った。
(あたしが、叔母様―――じゃなかった……あのヴィラーネの正体を知ってしまっただなんて、シャトーに知られたら大変だわ)
ジャスティーンはシャトーのことは気に入っている。が、シャトーはなんといってもあのヴィラーネに仕えているのだ。へたにぺらぺらと|喋《しゃべ》るわけにはいかない。まだ味方になってくれるかもわからないのだから。
(なにがなんでも、普通にしてなくちゃ。少しでもボロを出して変なそぶりを見せてしまったら、|一巻《いっかん》の終わりよ)
こうなったら、なんとしてでも周りを|騙《だま》しきらねばならない。ジャスティーンはまだ何も知らないのだと、周囲に思わせなければならないのだ。無事にここから逃げ出すまでは。
(とにかく、無事に朝が訪れたんだもの。大丈夫よ。|隙《すき》を見て、絶対、逃げてやるわ。こんなところでヴィラーネの偽者なんかに、おめおめと殺されてたまるもんですか!)
その上魔女の力の|源《みなもと》にされてしまうなんて、まっぴらごめんだった。この上は一刻も早くここから逃げ出さねばならない。
ここで、ジャスティーンは少し考え込む。
つい先日まで深刻に悩んでいたことが、ばからしくなってきたのだ。
(なーんだ。ってことは、別に、あたしがあの人に好かれなくったって、当たり前のことじゃない)
なんといっても血が繋がっていないのだ。そう考えるとジャスティーンは気が楽になった。
ここ数日ジャスティーンは叔母とうまくいかないのは、自分に原因があるのだろうかと、気になっていた。自分の髪が赤毛だからなのだろうか? それとも育ちが悪すぎるからなのだううか? などと、|柄《がら》にもなく悩んでいたのだ。しかし、今その原因は明らかになった。
あの叔母はジャスティーンの実の叔母ではない。魔女なのだ。それどころか自分の命を魔術の源にしようと、たくらんでいるとんでもない人物なのだ。ならば、彼女がジャスティーンに愛情がなくとも納得できる。
(あの人が魔女なら、好かれなくて当然だわ)
そうとわかれば、ますますこんなところに用はない。
ジャスティーンはとっとと逃げ出すために、必死に頭をフル回転させていた。
ジャスティーンはその日の昼、城門の前でへたり込んでいた。
「|何故《なぜ》? どうして開かないのよっ」
朝になって、玄関の扉は開いたが、外の城門の扉は開かなかった―――見つからないように、裏口から城門を目指したが、迷い迷って半日もかかってしまった―――ところがせっかくここまでやってきたというのに、城壁にかこまれた城には他に出口がない。見張りの者もいず、ただ門が高く閉ざされているのだ。
「なんでよ? なぜ?」
ジャスティーンには納得できなかった。この城には多くの客人がやってきているのだ。ジャスティーンはそれをしっかりと目撃している。なのに、何故、出入り口が開かないのか?
ジャスティーンは|額《ひたい》を押さえて考え込んだ。
「思い出すのよ、ジャスティーン。あたしが最初にこのお城にやってきた時、ここはどうなっていた?」
夜、馬車の窓から不安と期待を抱え、その城門を|潜《くぐ》ったはずだ。その時門は―――ジャスティーンを受け入れるために、開いたではないか。
「そうよ。開いたのよ。馬車がここを通る時にひとりでに」
あの時は何も考えなかった。|叔母《にせもの》の代理人が一緒だったし、これからのことが気になっていて、そんなことは気にも止めなかった。第一、お城なんだから門を開けてくれる人が専属にいるのだろう、ぐらいにしか考えなかった。しかし実際にはこの城には、そのような人間は住んでいないのだ。
「そう。ひとりでに開いたんだわ。あの時」
まるで、ジャスティーンがやってくるのを待ち受けていたように。
なのに、今は|頑《かたく》なに閉ざしている。これはどういうことだろう。
ヴィラーネは魔女
ふいにその言葉が、ありありと心の中に浮かんできた。
この城門はヴィラーネの魔力によって動いているのかもしれない。
「入るのは簡単だけど、出るのは難しいってことなの?」
それよりも。門が人を選ぶのかもしれない。この門をくぐって外へと出て行った者も大勢いるのだ。ジャスティーンはそのことを知っていた。
「あたしは出られないってこと?」
ふいに、ジャスティーンはゾクリと背筋が寒くなった。
「もしかして、あたしが、あの人の秘密を知ってしまったことが、ばれてしまったのかしら? それであの人が、魔術で門を閉めてしまったのだとしたら―――」
それは恐ろしいことだった。ジャスティーンはこの城からは|逃《のが》れられないということだ。
いや、最悪な揚合、ヴィラーネはジャスティーンの様子を見守るのを、やめるかもしれない。すぐにでも殺されて、ヴィラーネの魔力の源にされてしまうかもしれないのだ―――。
「どっ、どうしたらいいのよ……っ」
ジャスティーンは頭を抱え込んだ。考えてみればヴィラーネは魔女なのだ。最初から、ジャスティーンの行動など、読まれていたのかもしれない。
最初から、ジャスティーンをこの城から出す気はなかったのだ―――。
目の前で、レンドリアが|呆《あき》れたような表情を浮かべていた。
「……おまえ、逃げたんじゃなかったのか?」
それに、ジャスティーンは勢いよく答えた。
「もちろん、逃げたわよ! 言われたとおり逃げたわよ! ええ、そりゃもう、全速力でね。だけど、逃げられなかったのよ! 城門が開かなかったの! あたしはこの城に閉じ込められたのよ!」
城門から戻った時は、すでに城内は真っ暗だった。夕食も食べ|損《そこ》ねたくらいだ。しかし、今のジャスティーンは空腹など気にもならなかった。もともとそんなものは慣れている。問題は自分が今置かれている現実だ。この城でジャスティーンが頼りにできる者といえば、レンドリアしかいない。相手が幽霊であったとしてもかまわない。レンドリアだけが今のところ、ジャスティーンの味方なのだ。だから、ジャスティーンは城に戻ってくると、まっすぐにレンドリアの住んでいる地下へと飛び込んできたのだ。
レンドリアはジャスティーンの言葉に驚いていた。
「逃げられないって……」
それから「ああ」と納得したように呟く。
「そういうことか。あらかじめおまえが逃げ出すかもしれないってことも、予想していたわけだ。あの魔女も意外に用心深いようだな」
「ここですんなり納得してる場合じゃないわよ。これからどーすればいいのよ!」
「……って言われてもなあ」
「もともと、あんたが言ったんでしょ? あたしに逃げろって。自分から言い出した以上、ちゃんと責任取ってよね」
自分の命がかかってしまったジャスティーンは、今や必死だ。|既《すで》に、かわいらしく「あたし、どうしたらいいの?」などとオロオロと悩む段階は、とっくに過ぎてしまっていた。ジャスティーンはただひたすら、ここから逃げ出すことだけを考えていた。
しかし、そんな風に人が真剣になっているというのに、この幽霊は。
「うーん。そうだなあ。いや、俺も協力してやりてえのはやまやまなんだけどな。ただ、俺、普通の幽霊だし」
ポリポリと頭を掻いて言いにくそうに呟いた。
「なに言ってんのよ。それだけで充分すごいことじゃない。幽霊のくせに実体まであるのよ。それだけすごい力を持ってるってことでしょ?」
「まあ、長い間幽霊やってたからなあ。気がついたら、こんな風になってたんだけどよ。でもそれだけだぜ。実体はあっても俺はただの幽霊。あの魔女に対抗できる力なんてありゃしねえよ」
レンドリアの言葉にジャスティーンはショックを受けた。すっかりこの幽霊少年をアテにしていたのだ。その彼が―――。
(こんなにたよりにならないとはっ)
思わなかった。
初めて会った時から、|瓢々《ひょうひょう》とした|雰囲気《ふんいき》を持っていたので、てっきり特別な力を持った幽霊だと思っていたのだ。
なんといっても、目が赤い。こんなに印象的で立派な|瞳《ひとみ》を持った幽霊が、ただの幽霊であるはずがない。ジャスティーンはすっかりそう思い込んでいた。
ところが|蓋《ふた》を開けてみれば―――。
(まったく役に立たないじゃない、この人っ)
ジャスティーンはただひたすら|茫然《ぼうぜん》としていた。
(なんてことよ。これであたしの希望がすっかり絶たれてしまったわ。これからあたしはいったい誰を頼りにすればいいの?)
すっかり|途方《とほう》に暮れていた。
それから気を取り直す。
こうなったら、もはや、頼れるのは自分だけだ。自分のことは自分で面倒を見る。それがこれまでのジャスティーンの生き方だった。もともとジャスティーンは人に頼る人生など送ってはいない。自分の人生は自分の手で切り開くものなのだ。
ジャスティーンは原点に戻ることにした。
「こうなったら自分で考えるしかないわね」
ジャスティーンは|拳《こぶし》を|握《にぎ》りしめて考え込んだ。
「邪魔したわね。また来るわ」
そう言って、ジャスティーンは|大股《おおまた》で歩きながら、勇ましくレンドリアのもとから去って行った。
ジャスティーンは窓から再び外の風景を|眺《なが》めていた。
(みんなきっと知らないんだわ)
この城を支配しているのが誰なのかということを。外にいる連中は。
みんな何も知らずに、毎日を過ごしているに違いない。
貴族の城なんてものはもともと|人里《ひとざと》離れた|辺鄙《へんぴ》な場所にあるものなのだ。そしてこの城はそれに輪をかけたような辺鄙な揚所にある。
いや、場所でいえば、湖にかこまれた場所でもないし、森の中にあるわけでもないから大したことはない。それにジャスティーンが馬車でここまでやって来た道を|辿《たど》れば、ちゃんと町にも出られる。問題はこの平原に人が訪れないことだ。そしてこの城より先には町もないし、道もない。ようするに、わざわざここまでやってくる人間など、普通に考えれば関係者以外いないということだ。森と違って誰かが迷い込んでくることもない。しかもこの平原自体がたぶん、この城に属しているのだ。こんな辺鄙な貴族の領土に、わざわざ足を踏み入れる物好きはいない。
だからこそ、この城の秘密は|永《なが》きにわたって、守られているに違いないのだ。
そう考えるとジャスティーンはなんだか腹が立ってきた。
(こんなところに人を呼び寄せるだなんて、|卑怯《ひきょう》だわ)
勝負するなら、正々堂々と≠ェモットーのジャスティーンは、ヴィラーネのやり方が気に食わなかった。そして、そんな|偽者《にせもの》の|叔母《おば》のたくらみや、これまで繰り返されてきた邪悪な行為が、誰にも知られていないことが憎たらしい。
(ここを出たら、まっさきにあの人の罪を、みんなの前で|暴《あば》き立ててやるんだから)
ジャスティーンはそう思った。
なんとかして、ここに恐ろしい魔女がいることを、外の人たちに知らせなければならない。
そのためには、やはりここから出なければならない。
しかしいったいどうやって?
レンドリアには勇ましく「自分で考えるわ」と言ったはいいが、実際その方法は思いつかない。とにかくあの門が開かなければどうすることもできないのだ。
そこまで考えると、ジャスティーンは深々とため息をつく。
すると、
「どうかしたの? ジャスティーン」
ふいにシャトーが声をかけてきた。
先ほどから、数え切れないほどのため息をつきまくっているジャスティーンの様子を、見かねたのだろうか?
ジャスティーンはその声にドキリと体を|跳《は》ね上がらせる。
「まあ、シャトーったらいつの間に」
足音も立てないで後ろに回るなんて人が悪いわ、と思った。一瞬自分の|百面相《ひゃくめんそう》を見られてしまったのかとヒヤリとする。
「このごろのジャスティーンは少し変」
「あ、あら、ちっとも変なんかじゃないわ。ただ毎日|退屈《たいくつ》だから!」
ジャスティーンは|慌《あわ》てて言いわけをした。
「|叔母《おば》様は、相変わらずだし、シャトーはちっともかまってくれないし、すっごく退屈なのよ」
「|暇《ひま》ならば、本でも読む? 何か面白そうなものを持ってくるけれど」
「あ、あたし、本は苦手なのよ。それは|遠慮《えんりょ》するわ」
「でも退屈なんでしょう?」
「ええ。だけど、大丈夫よ。こうなったらダリィにでも相手にしてもらうわ。そのう……やっぱり、せっかくだもの。仲良くなりたいから」
ジャスティーンは心にもないことを口にして、急いで部屋から出ようとした。心にやましいことがある時に向けられる、シャトーの静かな瞳は、苦手だ。心の中を|見透《みす》かされてしまいそうな|錯覚《さっかく》に|陥《おちい》るからだ。
ところが、シャトーがそんなジャスティーンに向かって|一言《ひとこと》言った。
「ジャスティーン。今日は、彼女とは遊べない」
「え?」
ジャスティーンは振り返った。
「彼女はこれから、ヴィラーネと外へと出かける予定だと言っていたから」
ジャスティーンは目を丸くした。
「出かける……? 叔母様とダリィが? 外へ……?」
「そう。そろそろ時間だから、もうジャスティーンのことをかまう時間はないと思う」
「|何故《なぜ》それをもっと早く言ってくれないのよ」
「ジャスティーンが|訊《き》かなかっただけ」
シャトーはいつものようにそっけなく答えた。しかし今は、そんなシャトーと悠長《ゆうちょう》に押し|問答《もんどう》をしている場合ではない。ジャスティーンはシャトーに、それ以上声をかけることもしなかった。|慌《あわ》てて部屋から飛び出したのだ。
(やった! こんなに早くチャンスがやって来るなんて!)
玄関の階段を降りたところで、ヴィラーネとダリィが馬車に乗り込もうとしているところだった。ジャスティーンはホッと胸を|撫《な》で下ろした。
(よかった! 間に合ったわ!)
「叔母様!」
ジャスティーンは大声を張り上げ、ヴィラーネのもとへと駆け寄った。
「待って叔母様! どちらへ行くのですか?」
ジャスティーンの姿を認め、ダリィが|迷惑《めいわく》そうに|眉《まゆ》をひそめたが、ジャスティーンは気づかないふりをした。
ヴィラーネは答えた。
「用事ができたので、でかけます」
ヴィラーネの言葉に、ジャスティーンの視線がダリィの方へとチラリと向いた。
「ダリィも一緒に?」
「ええ」
「だったら、このあたしも
「一緒に連れて行って下さい」
「それはできません」
「どうしてですか?」
「あなたを連れてゆけるようなところではないのです」
ジャスティーンがヴィラーネの正体を知る前ならば、ここでジャスティーンは引いただろう。これ以上叔母に嫌われたくなかったからだ。しかし、今は違う。嫌われてもいいのだ。
しつこがられたって平気だ。ジャスティーンは|粘《ねば》った。
「ご迷惑はかけません。どこであろうとも、あたし、借りてきた猫のように|大人《おとな》しくしているつもりです。だから、どうか一緒に連れて行ってください」
すると、ヴィラーネの|瞳《ひとみ》が冷たい光を帯びた。
「ジャスティーン」
その|咎《とが》めるような低い声には迫力があった。
「あなたは、外へ出る必要はありません」
「でも!」
ジャスティーンはしつこく食い下がろうとした。しかし、ヴィラーネは|冷《ひ》ややかに|尋《たず》ねてきた。
「それとも、どうしても外に出なければならない理由でもあるのですか?」
その言葉を聞いてジャスティーンは「うっ」と|怯《ひる》んだ。
(いけない。この人にあたしの|目論見《もくろみ》を悟られてはいけないわ)
ジャスティーンは慌てて言い訳をした。
「いいえ。そんな、理由だなんて。ただあたし、このお城にきてから、まだ一度も外へ出たことがないんです。それで退屈してしまって……。たまにはお外に出てみたいなあ、なんて……だって、ダリィだけなんてずるいじゃないですか。あたしもたまにはお外にでかけたいです」
すると、ここでダリィが口を開いた。
「あら、あなた、なにをおっしゃっているの? わたくしは、この城の客なんですのよ。あなたごときと一緒にされては迷惑ですわ。城の|主《あるじ》は客人を心から歓迎し、接待しなければなりませんのよ。わたくしと、あなたが、同じ|扱《あつか》いのわけないでしょう?」
その|嫌《いや》みったらしい|口調《くちょう》に、ジャスティーンはムッとした。しかし、ここで腹をたててしまっては元の|木阿弥《もくあみ》だ。ジャスティーンは|忍耐《にんたい》強く、|微笑《ほほえ》んでみせた。
とにかくうまくいいくるめて馬車に乗り込んでしまえば、あとはこちらのものだ。そのためならば、少しくらい嫌な思いをしたって|我慢《がまん》しなければ。
「まあ。それは知らなかったわ。だけど、あたしやっぱりあなたともちゃんとしたお友達になりたいし、ぜひご同行させていただきたいわ。一緒に行くことを許していただけないかしら?」
「いやよ」
ダリィはツンとそっぽを向いた。それから|嬉《うれ》しそうにヴィラーネの腕に自分の腕をまきつけた。ジャスティーンに、自分とヴィラーネの仲のよさを見せびらかすような仕草だ。
「ねえ、ヴィラーネおばさま」
ダリィは甘い声を出した。
「早く行きましょうよ。時間に遅れてしまいますわ」
早く早く、と|無邪気《むじゃき》さを|装《よそお》った表情で、ヴィラーネを馬車へと引っ張る。
ヴィラーネは|頷《うなず》くと、馬車に近づいた。
ジャスティーンはハッとしてその馬車を見る。今までダリィたちに気をとられて気づかなかったが、|御者《ぎょしゃ》台には、なんと人がいたのだ。
緑色の|帽子《ぼうし》を深くかぶっていて表情は見えない。年齢も顔もわからなかったが、どうやら男のようだ。ジャスティーンはこの城ではじめてシャトー以外の使用人の姿を見つけた。
(いったい、この人どこから|湧《わ》いて出たのよ?)
あまりの不意打ちな出現に、|呆気《あっけ》にとられていると、御者は二人が乗り込んだことを確認することもなく、|黙《だま》って馬を走らせはじめた。
「あっ」
御者に視線を奪われていたせいで、ジャスティーンの反応が遅れた。
たちまちのうちに遠のいてゆく馬車を、おいかける|暇《ひま》もなかった。
「まって!」
ジャスティーンは慌てて手を振ったが、一度動き出した馬車は止まらなかった。あっという間に城門に向かって遠のいてゆく。
ヴィラーネとダリィを乗せた馬車になら、城門は簡単に開くのだ。
その事実を改めてつきつけられて、ジャスティーンは茫然としていた。
「信じられないわ。なによ、あれ。血も涙もないっていうのはこのことよ」
ジャスティーンは真っ暗な地下にたどり着くと、ランプを|掲《かか》げ、大声で不平不満をぶちまけた。
|脈絡《みゃくらく》なくやってきて、意味のわからない言葉を口走っているジャスティーンの前に、レンドリアは現れた。
「また来たのかおまえ」
「あら、あたし、また来るって言ったはずよ」
「はいはい。それで、今度はなんだって?」
「ヴィラーネとダリィがひどいのよ」
ジャスティーンは|先程《さきほど》あったことをレンドリアに話した。
「あんなに一生|懸命《けんめい》頼んだのに、あの人たちあたしを置いて行ったのよ」
「そりゃ、そうだろ。おまえに出ていかれて困るのは、ヴィラーネだからな。普通止めるだろ」
レンドリアの反応が、ジャスティーンには不満だった。
「あんた、あたしに協力する気、あるの?」
「気持ちだけはあるぜ」
「気持ちだけじゃなくて、態度と行動も欲しいわよ」
「自分でなんとかするんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったわ。だけど、さっきも話したとおり無理だったのよ」
「|諦《あきら》めるのか?」
「いいえ。諦めたりはしないわ」
「だったら、|頑張《がんば》ってみな」
「ええ」
「俺はこの通り|非力《ひりき》な幽霊だから何にもしてやれねえけど、心の中では応援してるからな」
レンドリアの言葉に、ジャスティーンはまたしても思った。
(ほんとーに役立たずなんだから!)
それでもいないよりはマシなのだ。|愚痴《ぐち》を聞いてもらえるだけでも、少しは気が晴れる。ジャスティーンはそのあともしばらく偽者の叔母とダリィの悪口を言いつづけていたが、そのうち気がすんだのか、静かになった。
それから、
「また来るわ」
ジャスティーンはそういい捨てて、再びすっきりとした表情で地上へと戻った。今や地下迷路はジャスティーンの悩みごと相談室になりかけていた―――。
その日、ヴィラーネとダリィは城へは帰ってこなかった。外泊したのだ。
ジャスティーンはこの時ばかりと、堂々と城壁へと近づいた。しかし、やはり、城門は|固《かた》く閉ざされたままだ。
ヴィラーネたちを乗せた馬車は、確かにこの門を|潜《くぐ》って外へと出たはずなのに!
城門はジャスティーンの前では、相変わらずびくともしなかったのだ。
4
ここまでの経過を見てみると、どうやらヴィラーネはすぐに、ジャスティーンを殺すつもりはないらしい。まだその時は訪れていないのだ。いずれ来るべき時は確実に訪れるのだろうが、それは今すぐというわけでもないらしい。
ホッと胸を|撫《な》で下ろすジャスティーンにレンドリアは言った。
「安心するのはまだ早いぜ。そいつはたぶん時期を待ってんだよ」
「時期?」
「そ。|儀式《ぎしき》を行うために|相応《ふさわ》しい時期だ」
初めて聞く言葉に、ジャスティーンは首を|傾《かし》げた。
「儀式ってなに?」
「ああ、そうか。おまえ知らねえんだったな」
「だから、なに? それ」
「つまり、おまえの命を、自分の力の中に取り込むための儀式だ」
「そんな儀式があるの?」
「ああ。当たり前だろ。いくら魔女っていったって、すぐにおまえの中から命を取り出せるわけねえだろ?」
ジャスティーンは|尋《たず》ねた。
「それってどういうことをするの?」
「いや、それは聞かないほうがいい。おまえのためにもその方がいいと思うぜ」
「そんな言い方されたら余計気になるわ。お願い教えて。ちゃんと知っておかなくちゃ、いざという時に対処できないじゃない」
「本当に言ってもいいのか?」
「もちろんよ」
大きく|頷《うなず》くジャスティーンに向かってレンドリアは言った。
「体を火の中に投げ込むんだよ。|業火《ごうか》の中で人間の命は魔女がもっとも好む形に変化して、肉体から離れるのさ。魔女はそれを|喰《く》うんだ。あとには何も残らない。魔女の作り出した業火は、骨さえも焼き尽くすからな」
ジャスティーンは青くなっていた。
(き、聞かなきゃよかったわ……)
まさか、そんな恐ろしい儀式が待ち受けているだなんて、ジャスティーンは思ってもみなかった。
「そ、そんな恐ろしいことしなくちゃ、|駄目《だめ》なの?」
「ま、そういうことだ。なんたって相手は|邪悪《じゃあく》な魔女なんだぜ。|生《なま》ぬるいこと考えてんじゃねえよ」
(ああ、絶対逃げてやる―――)
命をとられるだけじゃなく、火の中に放り込まれるなんて……。冗談ではなかった。
「だから言ったろ。聞かねえほうがいいって」
「そんな苦しい死に方は嫌だわ」
ジャスティーンは硬直したまま、|呟《つぶや》いた。
真っ青になって震えているジャスティーンを見て、レンドリアは|慰《なぐさ》めるように言った。
「まあ、苦しみはそんなにないと思うぜ」
「え?」
「火の中に放り込まれても、痛みとか熱さとかの感覚は、そんなにはひどくない。苦しみ|悶《もだ》えて死に絶えた人間の|魂《たましい》を必要としていないからな。ただ燃えちまうだけだ」
あっさりと言うレンドリアをジャスティーンは|睨《にら》んだ。
「どうしてそんなことがわかるわけ? 実際にその火に焼かれたわけでもないのに」
すると、レンドリアは答えた。
「いや、実際に焼かれた身だから言うんだよ。あれはあんまり苦しくはなかったんだ」
ジャスティーンは驚きのあまりに、目を見開いた。
「えっ?」
(今なんていったの? この人?)
すると、レンドリアは言った。
「だから、俺は経験者だって。あの魔女の|犠牲者《ぎせいしゃ》第一号の息子だったんだよ」
まだ話をよく飲み込めないでいるジャスティーンに向かって、レンドリアは今度はわかりやすく説明した。
「俺は、あの魔女に殺されたんだよ」
あんまりあっさりと言われたので、思わず聞き|逃《のが》してしまいそうになるが、内容はとんでもないものだった。
「あ、あんた、あのヴィラーネに焼き殺されたの?」
「そ。ずいぶんと昔の話だけどな」
「そ、……って、あんたなにそんなに涼しい顔してんのよ。それって大変なことじゃない!」
「そりゃ、最初はな、腹たったし、|悔《くや》しかったし、大変だったけどな。今は忘れちまったんだよな」
「忘れるんじゃないわよ。そんな大事なこと!……あれ? ってことは」
ジャスティーンは思いついて声をあげた。
「ちょっと待って。あんたも命を食べられたの?」
「なにアホなこと言ってんだよ。んなことあるわけねえだろ? だったら、こんなところに俺がいるわけねえだろうが」
「だって、火に焼かれたんでしょ?」
「ああ。けど、俺は逃げたからな」
「に……」
「逃げたんだよ。肉体から魂が離れた時にな。ま、当然、魔女は追いかけてきたけどな。しかし、残念ながら俺が逃げ出すのが早かったってわけだ」
「なに|手柄《てがら》立てた役人みたいな顔して自慢してるのよ。|所詮《しょせん》死んじゃったってことでしょ? それは大変なことよ。あんたはもっと怒るべきだわ。その権利があるんだから」
ジャスティーンは言った。
それからふと、不思議そうにレンドリアを見た。
「ねえ。ところで犠牲者第一号の息子ってなに?」
レンドリアは少し首を|傾《かし》げて考え込むと、答えた。
「んーと、ようするにだな。遠い昔、最初にこの城に住んでいたのは、俺たち家族だったんだ。もともとは、この城は俺のものだったってことさ」
初めて聞いた事実に、ジャスティーンはただただ目を見開くばかりだ。
レンドリアは思い出すように呟いた。
「その時もあの魔女は俺の母を殺し、取って代わったんだよ。そして、何も知らなかった俺の家族や使用人たちを母の姿で|欺《あざむ》き、次々と殺していったんだ。今と同じように、この城から人の姿が消えるまでな」
レンドリアはまるでなんでもないことのように、淡々と話した。ジャスティーンは驚いてレンドリアの顔を眺める。
(どうして、そんな|残酷《ざんこく》な経験を、そんな風に平気な顔で話せるの?)
きっと思い出すのも|辛《つら》い事件だったに違いないのに。
そう考えると、ジャスティーンは胸が痛んだ。
「どうして、そんな風になるまでみんな気づかなかったの? このお城にはたくさんの人たちがいたんでしょう? 普通はみんな変に思うじゃない? そういう時って。だったら……前もって防げなかったの?」
「魔術を使ったのさ。誰もおかしいと思わないようにな。そのへんぬかりはないぜ。あの魔女はよ」
「それで、あんたは無事に逃げられたけど、他の人たちはみんな逃げられなかったのね?」
「ああ。みんな駄目だった。その次の家族もな」
「その次の家族って?」
「この城に新しくやってきた家族だよ。魔女が力を使って別の貴族を呼び寄せたのさ。そいつらも俺たちと同じ|末路《まつろ》を|辿《たど》ったけどな。その次も同じだった。その次もな。あいつは何十年も何百年も時間をかけてゆっくりと|獲物《えもの》を料理していった」
ここで、ジャスティーンはようやく納得できたような気分になった。この城にどうして、使用人がほとんどいないのか。
(ようするに、そういうことだったのね?)
この城の人々の命は、すべて魔女の力の|源《みなもと》となって消えてしまったのだ。
「それじゃ、本物の叔母様たちも……?」
「そ。どういう理由でおまえの父親の家族が選ばれたのかはわからねえけどな」
ここで、ジャスティーンはふと気づいた。
「ってことは……やっぱり、あたしは、このお城の娘なの? あたしの父さんは、本当にここで育ったの?」
「ああ。言ったろ? 俺はエリオスを知ってるってな。俺がエリオスをここから逃がした。あいつをあんなやつに殺させたくなかったからな。俺はエリオスとは親友だったんだ」
レンドリアは|懐《なつ》かしいものでも見るように、ジャスティーンを見た。
「まさか、おまえが、あいつの娘だなんて思わなかった。あんまり似てねえからな」
ジャスティーンもしんみりとした口調で呟いた。
「あたしは、母さん似だったから……」
「でも、言われてみれば、少し|面影《おもかげ》とかあるぜ。あいつの髪は俺と同じで黒かったけどな」
大切なものに触れるように、レンドリアはジャスティーンの|頬《ほお》に触れた。
「ああ、そうだ。すぐに気づけばよかった。おまえは、本当に、エリオスの娘だ」
その表情が照れたような|嬉《うれ》しそうなものに変わった。そんな風に触れられて、ジャスティーンの心臓が|跳《は》ね上がった。相手がもはやこの世のものではない幽霊であったとしても、ちゃんと触れられる体があるのだ。急に意識してしまって、ジャスティーンはなんだか恥ずかしくなった。
(はっ。何考えてんのよ。あたしったら。相手は幽霊よ、幽霊。落ち着きなさいよ。体はあっても幽霊には違いないんだから!)
そんな現実が少しだけ|哀《かな》しく思えた。
ジャスティーンは言った。
「あんたが、父さんを助けてくれたのね……。だったら、あたしあんたにお礼言わなくちゃいけないのね? ありがとう。あんたのおかげで父さんは幸せになれたんだわ」
父親が生き延びたからこそ、今ジャスティーンはここにいるのだ。
ジャスティーンの言葉にレンドリアはハッとしたようだった。じっとジャスティーンを見つめる。
「エリオスは最後まで幸せだったのか?」
「ええ。貧乏だったけど、幸せだったわ。事故で死ぬ直前まで。最後に出かける前に、笑って出ていったもの。いい子にしているんだよって、優しく|微笑《ほほえ》んであたしの頭を|撫《な》でくれた。今でもそれだけははっきりと覚えているわ」
「そうか。そうなのか……」
小さく呟くレンドリアは、今一体、何を考えているのか―――。その|瞳《ひとみ》が、ほんの少し切なそうに揺れていた。
その意味をジャスティーンは問いかけたかったが、思い直した。|永《なが》くこの城にとどまり、魔女の|悪行《あくぎょう》の前で何もできずに、ただ見守ることしかできなかったレンドリアが、ただ一人救うことのできたジャスティーンの父。ジャスティーンにはその想いを|推《お》し|量《はか》ることはできなかったし、問いかける権利もない。
ジャスティーンはしばらく考え込んだ。それから、レンドリアの手を取った。
「ねえ。あんたもあたしと一緒に逃げましょうよ」
|唐突《とうとつ》に、ジャスティーンからそういわれて、レンドリアは驚いた。
「は?」
「あたし、この間から自分のことばかり考えてたけど、あんたの話を聞いて少し反省したわ。大変だったのはあたしだけじゃなかったのね。あんたが命を食べられなかったのは不幸中の幸いだったわ。だけどいつまでも、こんな所で|彷徨《さまよ》ってちゃいけないわ。じゃないと、この先何十年も何百年もあんたはこの孤独に耐えなくちゃいけないのよ。そう考えたら、あたし、あんたをおいてはいけないわ」
「いや、俺の心配はしてもらわなくてもいいぜ。なんたって、もう死んでるしな」
「だけど、魂はしっかりここに残ってるじゃない! もし、ヴィラーネにそのことがばれてしまったら、あんたかなりやばいんじゃない?」
「見つからなけりゃいいだけだろ?」
「なに言ってんのよ。人生なんてどこに落とし穴が用意してあるかわかんないのよ。用心するにこしたことはないわ」
「でも俺の人生はすでに終わってるしな」
「とにかく、あたしはあんたも連れて、この城から逃げるわ。まっててね。必ずあんたをここから助け出してあげるから」
「おい」
「そうと決まればこうしちゃいられないわ。こうなったらこれまで以上に気合入れないと」
ジャスティーンはすくっと立ち上がると改めて決意した。そして、レンドリアに向かって|励《はげ》ましの言葉を口にした。
「もう少しの|辛抱《しんぼう》よ。あんたを必ずこの城から解放してあげる。二人で一緒に逃げましょうね」
レンドリアは返事に困ったような表情で、ジャスティーンを見つめた。
第四章・魔女の儀式
(今夜は徹夜よ)
ジャスティーンはそう心の中で覚悟していた。
(あたしは気が動転していて、すっかり忘れていたのよ。魔女っていうものがいったいどういう生き物なのかを)
そう、すっかり忘れてしまっていたのだ。
(魔女っていうのは、夜行動するもんよ)
ジャスティーンはしみじみと思いだした。昔、母親が生きていた頃―――。夜寝る前に聞かせてくれた話の中に、魔女が出てくるものがいくつかあった。
黒いマントと|尖《とが》った|帽子《ぼうし》を身につけている魔女もいれば、不吉な黒猫をペットとして飼っている魔女もいた。異様にでかくて尖った|醜《みにく》い鼻を持った魔女もいれば、優しい精霊のような白い魔女もいた。
どの話の魔女も、確か行動するのは夜だった。集会に向かうのも夜だった。星のまたたく黒い空を、仲間と楽しそうに踊りまくるのも、当然夜だ。
この城に|君臨《くんりん》する|邪悪《じゃあく》な魔女は、かつて母が話してくれた魔女のどれにも当てはまらなかった。ただひとつだけ当てはまることがあるとすれば。
(ヴィラーネは魔女なのよ。ということは本格的に行動するのはきっと夜よ)
もちろん、昼間だって行動はする。先日のように、外へだって出て行く。
しかし、ジャスティーンにとってあれは、人の目をごまかすためのカモフラージュのように思えてならなかった。
なんといっても魔女の真の活動時間は、真夜中に違いないのだから。
ヴィラーネはきっと夜になれば必ず何か動きを見せるに違いない。外にだって出てゆくかもしれない。
(それに、夜なら、あの人が外へと出てゆこうとした時、こっそりとあとをつけることができるわ。そしたら城門が開いたどさくさに|紛《まぎ》れて、外へと出られるわ)
|一旦《いったん》外へと出てしまえばこちらのものだ。
あとはただひたすら、逃げるのみ。近くの町に駆け込んで助けを求めるのだ。
そして、かならずや、レンドリアも助けてみせる。とにかく、今はジャスティーンが先に行動しなければならない。
(早く出てこないかしら? ヴィラーネったら)
わくわくとさえしてしまう。今度こそ、大丈夫よ。あたしはチャンスは|逃《のが》さない。ジャスティーンは一晩中起きていた。ヴィラーネの部屋から少し離れた揚所で。しかし、ジャスティーンの期待をよそに、その夜、ヴィラーネの部屋の扉は開かなかった。その次の夜も、またその次の夜もだ。
そして四日後の深夜―――。
(まったくもう。ヴィラーネったら、魔女のくせになんて|怠《なま》け者なの? このあたしが寝ないでこうして待っているっていうのに)
念のために日中多少の昼寝はしていたが、それでも、ジャスティーンにとって徹夜は|辛《つら》いものだった。そんな辛い思いをしてまで、見張っているのだ。しかし、ヴィラーネはちっとも動き出そうとはしなかった。
(真夜中に、ぐっすり寝ている魔女の話なんて聞いたことがないわ。ヴィラーネは邪悪な魔女としては超一流かもしれないけど、まっとうな魔女としては、三流よ)
ジャスティーンは|悔《くや》しくて、きゅっと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめながらそう思っていた。
「ごめんなさい」
ジャスティーンの切り出し方はいつも|唐突《とうとつ》だった。いつだってこんな風に突然始まるのだ。
「は?」
今日もそんなジャスティーンに驚かされていたレンドリアは、「今度はいったい、何を言い出す気だ?」という表情を浮かべていた。
「なんとか、あんたを助けようと思って|頑張《がんば》ってるんだけど、いまだに結果は思わしくないの」
「いや、俺はあんまし気にしてねえよ」
ってゆーか、まったく気にしてねえけど、と付け加える。
「でもまだ|諦《あきら》めたわけじゃないわ。必ず逃げてみせるし、あんたも助けるわ」
まだまだ諦めていないジャスティーンの顔をレンドリアはじっと観察した。
見るからに気の強そうなキリリとした表情。美しく|聡明《そうめい》そうに見えて、実はかなり|大人気《おとなげ》なくどこか抜けている少女の顔―――。
ジャスティーンはレンドリアがどうしてこんな風に、まじまじと自分の顔を|眺《なが》めているのかわからなかった。
「どうかしたの?」
「―――いや。おまえ最初に思ってたよりずっとたいした性格しているな、と思って」
「?」
「ほんと、たいしたもんだ。普通なら、泣き|喚《わめ》いているところだぜ。おまえよっぽど強いんだな。女でおまえみたいなやつはじめて見た」
感心したようなレンドリアの言葉の意味は、ジャスティーンにはよくわからない。だが|誉《ほ》められたことだけはわかるので、ジャスティーンはにっこりと|微笑《ほほえ》んだ。
「ありがと」
ジャスティーンはレンドリアの言葉に|慰《なぐさ》められて、また気力が|蘇《よみがえ》ってくるのを感じた。
「あんたにそう言ってもらえただけで、なんだか元気がでてきたわ。また頑張れそうな気がしてきた。よし、まだ諦めたりしないわ」
そうだ。後ろ向きになっている場合ではない。人生は|常《つね》に前向きに生きてゆかなければならない。何も持っていない自分の大きな財産はこういうところだ。
「じゃ、あたし、もう行くわね。最近シャトーが|怪《あや》しみはじめてんのよ。あたしがどこに出かけてんのか、不思議がってるみたい。ま、あの子の場合、それ以上踏み込んでこないから助かってんだけど、やっぱり、あんまり疑いをもたれるのは避けたいものね」
ジャスティーンはレンドリアに手を振ると、ランプをかざし、再び地上へ戻ろうと身を|翻《ひるがえ》した。
―――すると、その時、
「おい」
ふいにレンドリアが、ジャスティーンに声をかけてきた。
「ん?」
振り向くジャスティーンに、レンドリアは何か―――|微《かす》かにキラリと光るものを投げてきた。|慌《あわ》ててジャスティーンは片手を伸ばすと、パシリとそれを受け取った。
「それ、おまえに、やるよ」
「なに? これ?」
「何かあったら、それを使え。もしかしたら役に立つかもしれねえし」
それは指輪だった。
ジャスティーンは目を見開いた。
「これ……?」
顔をあげると例によって例のごとく、レンドリアの姿はそこにはなかった。
ジャスティーンは改めてその指輪を眺める。
「ルビィ……?」
―――それは見事な、赤い、宝石。
まるで、彼の|瞳《ひとみ》と同じ色―――。
なんて|綺麗《きれい》なのだろう。思わず|見惚《みほ》れてしまった。
ジャスティーンはこのような指輪を手にしたのは初めてだ。しかし宝石のことなど何もわからないジャスティーンにも、その指輪がとても高価なものであることは理解できた。
見事な赤い宝石をはめ込まれた美しい指輪。
ジャスティーンはしばらく|躊躇《ためら》うように指輪を眺めていたが、それから思いきって自分の左の中指にはめてみた。
するとするりと指輪は、ジャスティーンの指にはまった。まるでジャスティーンのためにあつらえたようにぴったりだったのだ。
「きれい」
しばらくその指輪の見事さに感動していたジャスティーンだったが、それからハッと|我《われ》に返った。
「ちょっとまってよ。何かあったら、これを使えって……使い方聞いてないわよ!」
叫んだが、一度|闇《やみ》の中に消えた幽霊少年は戻ってこなかった。
(まったくもう。|肝心《かんじん》なときにこれなんだから)
レンドリアはいつも|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》なのだ。少しも役に立たない。
(だいいち、これ本当になんかの役に立つのかしら?)
態度ばかりが|偉《えら》そうで、あまり役に立ちそうもない幽霊からもらったものだ。いまいち|胡散《うさん》臭《くさ》い。そもそも、そんな役に立ちそうなものならば、もっと早くに出してくれてもいいはずなのだ。いったいどこに隠し持っていたというのか……。
それからジャスティーンは肩をすくめる。
(ま、いっか)
それでも気持ちはありがたかった。
レンドリアは、ジャスティーンのことを心配してくれるのだ。味方もいない、この|陰鬱《いんうつ》な城の中で。それだけでも、ジャスティーンにはありがたかった。
ジャスティーンの指の上で、赤い宝石がランプの光を受けてキラリと輝いた。
その日の夜、ジャスティーンは|欠伸《あくび》を|噛《か》みしめ久しぶりに寝床へと潜り込んだ。
(今夜もヴィラーネに動きはなさそうだわ。今日はもう寝よう)
そろそろ徹夜もつらくなってきたし、こんなことで倒れてしまっては本末転倒だ。ここは一つ、いざという時のために体力を温存するべきだと思考を切り替え、|潔《いさぎよ》く眠りについた。
だがほどなく、ジャスティーンの意識が再び覚めた。
次の瞬間、ジャスティーンは心の中でギョッとした。
(か、体が動かない……なに? これって|金縛《かなしば》り……?)
目を開けることもできないのだ。まるで凍りついたように動けない。
そのくせ誰かの視線を感じた。強い視線だ。それが自分の体を鋭く|貫《つらぬ》いていた。
(これは夢?)
ジャスティーンはうっすらとした意識の中でそう考えた。でなければ、目を閉じている自分に、人の気配がわかるなんて。こんなに強い視線を感じることができるなんて。あり得ない。
(―――誰か、あたしを|睨《にら》んでいる?)
そう、その視線はジャスティーンを睨んでいた。
憎しみのようなものを感じて、ジャスティーンは|戸惑《とまど》った。
(誰よ。一体、誰があたしを、睨んでいるの?)
殺意すら、感じたのだ。身の危険を感じて、ジャスティーンは|焦《あせ》った。なんとか指の一本でも動かそうと指先に意識を集中する。だが。
(|駄目《だめ》、動かない)
明らかに忍び寄ってくる殺意。激しい感情。目が見えないからこそ、|募《つの》る恐怖―――。
ジャスティーンが息を詰めていると、ふっとその呪縛から解き放たれた。
全身から力が抜け、ジャスティーンは|慌《あわ》てて目を開けた。
(夢じゃない……?)
動けるということが、さらにジャスティーンの恐怖を|煽《あお》った。
あれは夢だとごまかすことができなくなったからだ。
ジャスティーンが視線を動かすと、そこにヴィラーネが立っていた。ジャスティーンは身をすくませた。|灯《あか》りのない部屋で、ヴィラーネがジャスティーンを見下ろしていたのだ。
「|叔母《おば》様……いつから、そこに……?」
ジャスティーンの声は震えていた。
(今、あたしを見ていたのは、ヴィラーネなの?)
だが、今のヴィラーネから、|先程《さきほど》の強い感情は感じられなかった。いつものように冷たい目をしていただけだ。ジャスティーンは周囲に視線を走らせた。しかし、ヴィラーネの他にこの部屋には誰もいなかった。
「起きなさい」
「……え?……」
突然命じられてジャスティーンは驚いた。
「すぐに着替えなさい」
「でも……まだ真夜中です。叔母様」
|戸惑《とまど》うジャスティーンに向かってヴィラーネは言った。
「これから大切な用があります」
「大切な用、ですか?」
ジャスティーンの全身が緊張していた。|嫌《いや》な予感がしたのだ。
「どこかへ出かけるのですか? 外へでも?」
「いいえ。外へ出る必要はありません―――。広間へきなさい。そこに大切なお客様たちがあなたを待っているのです?」
「大切なお客様たち……? こんな真夜中にですか?」
ジャスティーンの体は|強張《こわば》っていた。暗闇の中、相手に悟られることはなかっただろうが、ジャスティーンは|蒼白《そうはく》になっていた。
(お客様なんて知らない)
ここ数日、城内に客人が足を踏み入れたことはなかったはずだ。
城の中にいたのは、自分とシャトーとダリィと、そして、このヴィラーネだけだった。
いや、それよりもジャスティーンの心を|乱《みだ》したのは、そのようなことではない。
(あたしを待っている?)
客人が、ジャスティーンを待っている? それも一人や二人ではないらしい。その意味がわからなかった。
ジャスティーンの心は本能的に|怯《おび》えていた。
「叔母様……。あたし今、気分が悪いんです。|風邪《かぜ》を引いてしまったのかもしれません。今日はこのまま寝ていることをお許しください」
とっさに、ジャスティーンはそういいわけをした。
するとヴィラーネはジャスティーンの|額《ひたい》に手を当てた。ひやりとした冷たい手に、ジャスティーンの体がますますすくみあがる。
「熱はないようですね」
「でも、吐き気がするんです。頭もズキズキするし、お|腹《なか》も痛くて……」
ジャスティーンは思いつく限りの言葉を口にした。
しかし、叔母は|黙《だま》ってジャスティーンを見た。
「ジャスティーン。あなたは|嘘《うそ》をついています」
「う、嘘じゃありません」
「いいえ。私にはわかります」
それから、その目が鋭くなった。
「私は嘘をつく子供は嫌いです」
「う……」
その視線を受けてジャスティーンは身を|縮《ちぢ》めた。
ヴィラーネ相手に、ごまかしはきかなかった。
「早くお着替えなさい。長くお客様を待たせては失礼です。この私に恥をかかせるつもりですか?」
「いいえ。叔母様」
ジャスティーンの声は|震《ふる》えていた。ヴィラーネもそれを感じ取っているはずだ。しかし、彼女は|容赦《ようしゃ》なくジャスティーンに言う。
「早くなさい」
仕方なく、ジャスティーンはベッドから降りるとクローゼットの中をさぐり、着替え始めた。その間も頭の中はめまぐるしく回転している。
(どうしよう。どうしたらいいの?)
魔女は夜、行動する―――。ジャスティーンの勘は当たっていた。しかし、それがこんな形でわかるとは思いもよらなかった。
(もしかして、今から例の|儀式《ぎしき》が始まるっていうんじゃないでしょうね?)
考えただけで、体がガタガタと震えた。
それ以外は考えられなかった。このような夜中に、大広間に客人を呼び集めて他にいったい何をするというのか?
それはまさしく魔女の集会のようだった。
(|馬鹿《ばか》だわ、あたし。これまでヴィラーネがあたしに何かする気配なんてなかったから、すっかり安心していたわ)
だが、気を|緩《ゆる》めてはいけなかったのだ。魔女はただ|爪《つめ》を|研《と》いで|来《きた》るべき時期を待っていただけなのだ。
ジャスティーンはわざとノロノロと服を着替えた。服を選ぶ余裕もなく、ただ無意識に手にとったドレスを、時間をかけて身にまとう。少しでも遅くなるように、とジャスティーンは動いていたが、それでも着替えは終わってしまった。
ヴィラーネはそれを確認すると、先に立ち、ジャスティーンに向かって言った。
「ついてきなさい」
(どうしよう。今駆け出して逃げたら、この人追いかけてくるかしら?)
ヴィラーネのあとをついて歩きながら、ジャスティーンは真剣に考えていた。
今ヴィラーネはジャスティーンに背を向けている。
頭を|殴《なぐ》って気絶させた|隙《すき》に逃げるのはどうだろう?
それから、その案は|駄目《だめ》だと首を振る。
どこへ逃げても|無駄《むだ》だ。この城は閉ざされた空間なのだ。たとえ|一時《いちじ》凌《しの》ぎに逃げたとしても逃げ切れない。かえってヴィラーネを怒らせるだけだろう。そうなれば、ジャスティーンが想像するよりはるかに恐ろしい目にあわせられるかもしれない。
ジャスティーンは左手の中指にはめられている指輪に触れた。
何かあったら、これを使え
もしかしたら役に立つかもしれない―――。そう言って渡された指輪。
だが、いったい、このようなものが何の役に立つというのか。
(ああ、もう。使い方くらい聞いておくんだった)
ジャスティーンは後悔していた。
そうこうする間に、ジャスティーンはヴィラーネの行き先がおかしいことに気づきはじめた。
(あら……?)
いったい、ヴィラーネは|何処《どこ》に向かっているのだろう?
たった今、大広間は通り過ぎてしまった。
「あの、叔母様……どちらへゆくのです?」
ヴィラーネは答えなかった。ただ黙ってついてこいと、視線だけで強制してくる。
(どういうこと? 大広間ってあそこのことじゃないの?)
戸惑っていると、ヴィラーネは一つの部屋の前で立ち止まった。ジャスティーンは目を見開いた。
(ここって……)
そこは、今やすっかりジャスティーンに|馴染《なじ》みのある場所だ。地下|迷宮《めいきゅう》へと|繋《つな》がる階段のある場所。毎日のようにジャスティーンが訪れている場所だった。
「あの叔母様……その向こうには何もありません。あるのは、ただの道だけで」
それからジャスティーンはしまった、と口元を|慌《あわ》てて押さえる。
しかし、ヴィラーネはジャスティーンに|一瞥《いちべつ》を与えただけだ。
「今日は特別です」
「特別?」
ジャスティーンには、ヴィラーネが何を言っているのかわからない。ヴィラーネは扉の|脇《わき》に立つと、ジャスティーンに先に入るように|促《うなが》した。
「中のことは知っているはずです」
ジャスティーンは目を見開いた。
ヴィラーネは知っていたのだ。ジャスティーンが毎日、この部屋へとやってきていたことを。
ジャスティーンは先に立って階段を下りていた。
(ああ、どうしよう。ここにはレンドリアがいるのよ)
ヴィラーネに見つかってしまっては大変だ。助けてほしい気もするが、たぶんそれは無理だろう。あの幽霊少年は役に立ちそうもない。その証拠に、ジャスティーンがこの階段を下りていることに気づいているだろうに、姿をあらわさない。
階段を下りきった時、ジャスティーンは驚いた。
そこはいつもの地下|迷宮《めいきゅう》ではなかった。―――なんと広々とした空間が開けていたのだ。
ジャスティーンは信じられない思いで周囲を見回した。
「どうして……?」
どうして、ここにこのようなものがあるのか。
「今日は特別です。あなたのために」
|戸惑《とまど》うジャスティーンに向かって、ヴィラーネは言った。
本来迷路があるべき場所に、それらはなかった。代わりに広がっていたのは、地上で見たものと同じような広間。貴族たちが|戯《たわむ》れ集まるに|相応《ふさわ》しい大広間が、そこに存在していた。真夜中それも地下だというのに、やけに明るいのはなぜだろう? ジャスティーンはヴィラーネに|導《みちび》かれるように、広間の中央に足を進めながら驚いていた。
(なに? この人たち……)
そこには、いったいいつの間にこんな大勢の人物が、というほどの人間たちがいた。
彼らはみな、|華《はな》やかな衣装をまとって待ち受けていた。どの人物も銀の仮面や黒いベールで顔を隠している。―――その光景をジャスティーンは知っていた。
(あの人たちだわ)
そう。彼らだ。
つい先日まで、ジャスティーンの様子を入れ替わり立ち替わり見にきていた人々。
だが、あの時はそれぞれ別々にやってきた。一番多いときでも、せいぜい三、四人だった。
今、彼らの|全《すべ》てがこの場に立っていた。
それが無気味でジャスティーンは震え上がった。
彼らは、ジャスティーンが入ってくるとざわめいた。だが、そのざわめきから正確な言葉の一つ一つを拾うことはできなかった。それはただの一つの音のようなものであって、言葉ではない。
ジャスティーンがヴィラーネに|脅《おど》されるように前に進み出ると、人々はジャスティーンのために、その場を|空《あ》けた。ゆっくりと波のように|人垣《ひとがき》が下がってゆく。
ジャスティーンが広間の中央に立つと、
「ジャスティーン」
ヴィラーネが声をあげた。
「私は、この日のために、あなたをずっと探していました」
それから、周囲を見回す。ジャスティーンとヴィラーネを取り囲んでいる人々は、息をひそめて次に起こることを待ち受けていた。ヴィラーネはそれを確認するように視線をめぐらせていた。
やがて、視線をジャスティーンのもとに戻すと言った。
「今から一つの儀式をはじめます」
(やっぱりー!)
ジャスティーンは|怯《おび》えたようにヴィラーネを見た。
次の瞬間、ポッと音がした。
ジャスティーンがぎくりとしてそちらに目を向けると、ヴィラーネの目の前に炎が生まれていた。その大きさはまるで天井を|焦《こ》がすような勢いだ。あんな炎に包まれてしまっては、|瞬《またた》く間に全てが燃えてしまうだろう。
(―――これがレンドリアの話していた炎なの?)
目の前で大きく踊り|狂《くる》う炎は、まるで舌なめずりしているように見える。
ジャスティーンを取り囲んでいた人々が、一層あとずさってゆく。まるで少しでもその炎から遠ざかろうとでもしているように。
足が恐怖で震えた。
とうとうジャスティーンは|我慢《がまん》できなくなった。
バッと身を|翻《ひるがえ》して逃げ出そうとしたのだ。だが―――。
「な、なにすんのよ! は、離してっ」
気がつくと、複数の男たちに捕まえられていた。
もうこうなっては逃げられない。ジャスティーンは負けてしまったのだ。
それでもジャスティーンは|往生際《おうじょうぎわ》悪く暴れまくった。
「離しなさいって言ってんのよ! あたしを殺したら、化けて出てやるからね! |大人《おとな》しく死んじゃうつもりはないんだから!」
(こんなことなら、やっぱりあの時、ヴィラーネを殴り倒してでも逃げてやるんだったわ!)
まだたった十六年しか生きていないのに、このような死を迎えるなんてまっぴらごめんだった。
ジャスティーンは声のかぎりに叫んだ。
「助けてよ! レンドリア!」
決して呼ぶつもりのなかった名を口にする。
しかし、それすらもなんの役にも立たなかった。
「きゃあああああああああああ!」
とうとうジャスティーンはけたたましい悲鳴をあげた。
そのまま炎の中に放り込まれてしまったのだ。
たちまちのうちに、ジャスティーンの体は炎に包まれる。
(ああ―――誰か、助けてよ。父さん、母さん、レンドリア! こんな死に方はいや―――っ)
ジャスティーンの悲鳴は誰にも届かなかった。
(レンドリアの馬鹿! 指輪なんてなんの役にも立たなかったじゃないの!)
ジャスティーンは|悔《くや》しがった。大声をあげ、悲鳴をあげつつ、心の中で思いつく限りの|悪態《あくたい》をつきまくった。ヴィラーネを|呪《のろ》い、自分の運の悪さを呪い、期待させておいて役に立たない指輪を持たせたレンドリアを呪った。
が―――。その悪態は長くは続かなかった。
妙なことに気がついたのだ。
(あれ?)
必死に暴れていたジャスティーンの体の動きがぴたりと止まった。ジャスティーンは信じがたいものでも見るように、自分の手を見る。
(あたしの体、燃えてないわ)
炎に包まれているジャスティーンの体は、熱さを感じていない。
だが、問題はそのようなことではない。炎に焼かれることは決して苦しいことではないと、確か、レンドリアも言っていたのだから。
そのようなことよりも。
炎が自分の体に触れていないのだ。ジャスティーンを包み込んでいながら、炎はその体には触れていなかった。
(なによ、これ……どういうことよ?)
戸惑いながら、ジャスティーンは顔をあげる。
ヴィラーネが真正面に立っていた。鋭く、ジャスティーンの様子を見ている。
それは、冷静に目の前にあることを、見極めようとでもしているかのような表情だった。
やがて、天井を焦がすほど、踊り狂っていた炎は消えた。
今なお、ジャスティーンは生きていた。
しんと|辺《あた》りが水を打ったように静まりかえっていた。もはやざわめきも聞こえない。ジャスティーンが顔を隠した人々を見回すと、彼らは|互《たが》いに視線を交わしあい|頷《うなず》いていた。
彼らは、ジャスティーンが炎に焼かれなかったことに驚いてすらいない。
「どういうこと……?」
ジャスティーンは自分の手をもう一度、見る。|火傷《やけど》一つしていない。戸惑っていると。コツリと、ヴィラーネが一歩前に出た。
「どうやら、ようやく|主《あるじ》を決めたらしいわね。その指輪は」
ヴィラーネが言う。
「指輪っ?」
いや、それよりも。ようやく主を決めた……? 目を見開いたジャスティーンは、反射的に自分の指輪を見る。
(なにを言ってんの? この指輪がなんなのよ?)
わけがわからず、ジャスティーンは誰かに助けを求めるように視線をめぐらせた。
もちろん、ここにジャスティーンの知る顔などあるはずがない。ましてや助けてくれる人もいない。……はずだった。
なのに。ふと、ジャスティーンはめぐらせていた視線をある一点で止めた。
そこに信じられない姿を見つけたのだ。
ヴィラーネの隣に赤い|瞳《ひとみ》の少年が立っていた。
ジャスティーンは驚きのあまりに目を|剥《む》いた。
(なんで、レンドリアがここにいるのよ!)
不思議な色を持った瞳が面白がっているように、ジャスティーンを見ていた。
「あんた……」
戸惑うジャスティーンに、ヴィラーネは言った。
「この指輪の候補者は三人」
「候補者……?」
……三人? 三人って……指輪の?
なおもヴィラーネは言葉を続けようとしたが、ジャスティーンの様子を見て、口を閉ざした。
ジャスティーンはもう一度、自分の指を見た。左手の中指に収まっている美しい見事な|装飾《そうしょく》品。
それは赤い宝石―――。指輪。
ヴィラーネが、ジャスティーンに向かって近づいてきた。
ジャスティーンは問いかけるように、レンドリアに目を向けた。
ジャスティーンの視線の先に気づいたのか、ヴィラーネも立ち止まって、レンドリアに視線を向けると言った。
「彼はレヴィローズ―――」
「……レヴィローズ?」
「レヴィローズは、赤い王子と呼ばれている炎の指輪そのもの―――」
「ゆび、わ?」
もう一度|呟《つぶや》いて、ジャスティーンは自分の指輪のはまっている方の手首を、反対の手で無意識に|掴《つか》んだ。
最初は突然のことで、ヴィラーネの言葉の意味が飲み込めなかった。
しかし、それはほんの一瞬だ。次の瞬間、ジャスティーンはその言葉の意味がわかってしまった。
ジャスティーンの体が、恐怖とは別の感情をともない震えはじめた。
「それじゃ……」
ジャスティーンはここ数日の間にすっかり|馴染《なじ》んでしまった少年の顔を眺めた。
それでは、彼は幽霊ではないのか?
そう―――かつて人であったことすらない存在なのだ。ジャスティーンの心の中に言い知れぬ絶望のようなものが広がっていった。
(|騙《だま》されたんだわ。あたし)
この城の中で誰よりも人間らしいと思っていたのに―――。
誰よりもジャスティーンに近い者だと思っていたのに。
違った。
冷たい手だったけれど、血の通った生きている人間ではないと思ったけれど。でも確かにジャスティーンは彼の体に触れることができたというのに。
騙されていたのだ。唇を|噛《か》みしめたジャスティーンに向かって、ヴィラーネは言った。
「そして、私は、指輪の番人」
ジャスティーンはヴィラーネと視線を合わせた。
「私はずっと、レヴィローズが主と認める者を探していました」
「―――」
言葉もなく、ジャスティーンは叔母を|凝視《ぎょうし》していた。
「|気位《きぐらい》の高い炎の指輪―――。だけど、その気位と同じほどの力を備えているのよ。そのレヴィローズはね。誰もが手に入れたがっているけれど、誰の手にも渡らない。なぜならば、彼は誰も主と認めないから。|唯一《ゆいいつ》の例外が、私の兄エリオスだった」
(父さん―――?)
「なのに、兄は、|拒《こば》んだわ。私がどれほど望んでも手に入れられなかったというのに。その権利を簡単に|放棄《ほうき》した」
ジャスティーンの声は|掠《かす》れていた。
「叔母様……あなたは、本当にあたしの叔母様なんですか? 血の|繋《つな》がったあたしの本当の叔母様なんですか?」
「ええ。|紛《まぎ》れもなく―――」
ジャスティーンはレンドリアを|睨《にら》みつけた。その瞳が今度こそ怒りに燃えた。
「全部|嘘《うそ》だったのね? あんた全部嘘ついたのね? あんたの家族が殺されたっていうのも、全部嘘だったのね?」
ヴィラーネはジャスティーンの怒りを|宥《なだ》めるように言った。
「怒らないであげなさい。レヴィローズは、気まぐれ者。悪意はないのだから。ただ長く生きているせいで、いつもとても|退屈《たいくつ》しているだけ」
退屈しているだけ……。
(それだけのために、あたしは騙されたの?)
信じられなかった。
「あんたの言葉の中には、ただ一つの真実さえもなかったのね?」
全部が嘘だった。
彼の語った言葉には、|欠片《かけら》さえも、真実などなかった。その全てが、ジャスティーンを|欺《あざむ》くためのものだった。
ジャスティーンは遊ばれていたのだ。
この指輪の精に。
「叔母様は……あたしと会いたかったわけじゃないんですか? 血の繋がった|姪《めい》を探して下さったんじゃないんですか?」
「血の繋がりなど問題ではありません―――私は自分の役目を早く終えたかっただけ」
指輪の主を見つければ、その役目が終わる、ただそれだけのこと。
「では、叔母様には、あたしは必要ないんですか?」
「必要―――? レヴィローズが、あなたを主と認めた以上、あなたは必要です」
「そうじゃない……そうじゃありません。そんな意味じゃない。あたしは、指輪なんて知らない。そんなものはいらない」
この城には本物なんて何一つないのだ。
人の心や想いや言葉ですら、本物ではないのだ。
血が繋がった叔母であろうとなかろうと、ヴィラーネはずいぶんと遠い存在に感じられた。
今、ジャスティーンはこの城にたった一人でとり残されているような気がした。
これほど多くの人間に囲まれていながら。
その時、ヴィラーネの声だけが、遠くからジャスティーンの耳に届いた。
「いいえ。あなたが私の姪だからこそ、私はあなたを探しました」
ジャスティーンはその言葉にはっとして|我《われ》に返った。
「……え?」
ジャスティーンは|瞬《まばた》きを何度も繰り返した。叔母の今の言葉を心の中で何度も|反芻《はんすう》する。
では、まだほんの少しは希望を持ってもいいのだろうか? ジャスティーンは食い入るように叔母を見つめた。|祈《いの》るように。
だが、ヴィラーネは静かに呟くだけだ。
「レヴィローズは、兄以外を主とは認めませんでした。だから、兄の娘であるあなたを探したのです」
ジャスティーンには叔母が何を言いたいのかわかった。
「そして、叔母様の|目論見《もくろみ》は当たったのですね?」
指輪の王子レヴィローズは、エリオスの娘を認めたのだ。
(ヴィラーネはただ、指輪の主を探していただけ……指輪の主となるべきだった父さんの娘であるあたしを)
長い間、誰も認めなかったレヴィローズ。
認めたのは、ただ一人。
そして、彼がいなくなった今、その娘であるジャスティーンになら、それを引き継げると考えたのだ―――。だから、ジャスティーンを探し出し、引き取った。
そして、レヴィローズ―――レンドリアは、そのとおり、ジャスティーンだけを選んだ。他の誰にも目もくれず。ただジャスティーンだけを。エリオスの娘であるジャスティーンを。
ふいに、ジャスティーンの口から、声が|漏《も》れた。
「だけど」
ジャステイーンはレンドリアを|睨《にら》んだ。
「あんたは、あたしを選んだわけじゃない。父さんの娘を選んだだけよ」
この|悔《くや》しさと怒りをどう表現したらよいのだろう?
誰にぶつけたらいいのだろう?
信じていた分だけ、裏切られたと感じた時の失望と怒りは大きかった。
「叔母様も、あんたも、あたしのことなんてまるっきり無視してる」
ジャスティーンは鋭い口調でレンドリアに告げた。
「あたしは、指輪なんて引き継がない―――必要ないから」
ジャスティーンの言葉に周囲がどよめいた。「馬鹿な」と初めて感情を|含《ふく》んだ声が聞こえてきた。誰も彼もがジャスティーンが指輪の所有権の|放棄《ほうき》を宣言したことが信じられないのだ。全員が、ジャスティーンのそんな行為に驚きざわめいていた。
ジャスティーンはそんな周囲の取り乱した反応に満足し、指輪を引き抜こうとした。
―――が。
(抜けない―――?)
ジャスティーンは驚いて自分の指を見た。指輪はまるで、すいつくように、ジャスティーンの指に収まっていた。
「俺の話を聞け、ジャスティーン」
「あたしに話しかけないで」
しらじらと夜が明けてゆく中、ジャスティーンは|憤《いきどお》った様子で歩いていた。まっすぐに城門に向かっているのだ。
そのあとをレンドリアはついてきた。空が除々に明るくなるにつれ、レンドリアの容貌が鮮やかに太陽の光に照らされてゆく。彼は明るい朝の|陽《ひ》にあたっても平気なようだった。当然だ。幽霊ではなかったのだから。彼はジャスティーンを|騙《だま》し、|嘘《うそ》をついていただけなのだから。
「悪かったって。最初は、おまえをこの城から追い出そうと思っていたんだよ」
レンドリアは言う。
「ヴィラーネのやつが次から次へと候補者を俺の前に連れてきては、選ばせようとして、|面倒《めんどう》くさいから地下で眠っていたんだ。けっこう長く生きてきたし、|退屈《たいくつ》だったし、そろそろ|昇天《しょうてん》してもいいかなって感じでな。まさか、ヴィラーネがエリオスの娘を探し出してくるとは思ってもみなかったんだよ」
ジャスティーンは答えなかった。ただただずんずんと道を歩き続けていた。
「俺はなあ、ジャスティーン。エリオスにふられた[#「ふられた」に傍点]んだぜ。せっかくこの俺が選んでやったのに、だ」
「きっと父さんはあんたのことをちゃんとわかっていたのね。嘘つきでいいかげんで不誠実だってことを」
「あいつは友達だった」
「どうだか! どうせ、それも嘘なんでしょ?」
「本当だって。向こうがなついてきたんだよ。赤ん坊の頃から、|面白《おもしろ》がって俺のあとをついてきたんだ。それで、俺がわざわざ|妥協《だきょう》してやったってのに、あの野郎突然逃げやがった」
ジャスティーンはレンドリアを|睨《にら》みつけた。
「あたし、父さんからあんたの話なんて聞いたことなかったわ。本当に父さんと友達だったんなら、一度くらい聞いてるはずなのに!」
「わかんねえ女だな」
レンドリアの言葉に、それまで怒りを込めて歩いていたジャスティーンの足が止まった。勢いよく振り返る。
「わかんないのは、あんたの方でしょ? あたしは指輪なんていらないって言ってんのよ。あんたとももうおさらばよ。ここから出て行くんだからっ」
「行くところなんてなかったんじゃないのか?」
「こんなところにいるくらいなら、どこへだって行けるわよ」
ジャスティーンとレンドリアは睨み合った。どちらも引くつもりはない。
「二度も指輪の|主《あるじ》に逃げられるなんざ、いい笑いもんだ。冗談じゃねえ。それも親子で、なんてな。|諦《あきら》めて俺を受け入れろ」
「そんなこと、あたしの知ったこっちゃないわよ」
「ききわけのねえやつだなあ」
レンドリアは|呆《あき》れたように呟く。
「あんたにそんなこと言われたくないわよ」
だいたいどの|面《つら》さげて、そのような言葉がいえるのか。
(指輪の候補者だかなんだか知らないけど、あたしのこと認める気がなかったから、あんな嘘八百を並べたてて、あたしがこのお城から逃げ出すように仕向けたくせに)
それがどういうわけか、途中で気を変えた。
ここでジャスティーンが「はい、そうですか」とでも言うと思っているのだろうか?
だとしたら、あまりにも人を馬鹿にしすぎている。
レンドリアがジャスティーンについた嘘は、決して笑って許せるものではなかった。実の|叔母《おば》を憎むように仕向けるようなものだったのだ。そこまでして、ジャスティーンをこの城から追い出そうとしておきながら、今さらだ。
ジャスティーンはレンドリアの存在を無視して再び歩き出そうとした。
「おい」
レンドリアが呼び止めたが、今度は反応しなかった。もう無視することに決めた。口を開ければ怒りの言葉しか出てこないのだ。
その時、ガラガラと音がして、城の方向から馬車がやってきた。
ジャスティーンはその音に気づいていたが、それすらも無視して歩き続けた。
すると馬車はどんどんと近づいてきて、ついにはジャスティーンの前で止まった。
中から一人の|紳士《しんし》が顔を出した。
その顔を見て、ジャスティーンもとうとう立ち止まる。
「ケイドさん」
それは、|栗《くり》色の髪と|髭《ひげ》の紳士―――叔母の代理人として、ジャスティーンをここまで連れてきた人だ。
もうすっかり忘れていた存在が突然目の前に現れて、ジャスティーンは心の中で驚いていた。だが、怒りに包まれていたジャスティーンは、その驚きを表面には出さなかった。
そんなジャスティーンに向かって彼は声をかけてきた。
「乗りなさい」
ケイド・ダリネードは、馬車のドアを内側から開けると言った。しかし、ジャスティーンは即座に反応しなかった。
「でも」
「まさか、歩いて行くつもりじゃないだろうね? 町までどれだけあると思っているんだね?」
ジャスティーンはグッと言葉に詰まった。|悔《くや》しいがそのとおりだ。
冷静に考えれば徒歩で平原を渡るには無理があった。その先にある森も越えられないだうう。充分な旅の|支度《したく》すらもしていないのだ。今のジャスティーンの姿では、一番近い町にだって無事にたどり着けないかもしれない。
ケイド・ダリネードが、なぜジャスティーンを町まで送っていってくれる気になったのかはわからなかったが、ジャスティーンは馬車に乗り込んだ。相変わらず表情だけは|頑《かたく》ななものを浮かべながら。
それから、窓から顔を出し、レンドリアに向かって言った。
「あんたはついてこないで」
「おまえなあ」
レンドリアは他にも何か言いたそうだったが、ジャスティーンはそれを無視した。
ケイド・ダリネードに向かって言う。
「行って下さい」
「だけど、彼はまだ何かいいたそうだよ」
「聞きたくありません。どうせ全部嘘に決まってるんだから」
紳士は同情するように、レンドリアを見たが、それから緑色の帽子をかぶった|御者《ぎょしゃ》に、馬車を出すように命じた。
「ばいばい。レンドリア。もう二度と会いたくなんてないわ」
そういい捨てて、ジャスティーンは窓から顔を引っ込めた。馬車は動き出した。レンドリアは追ってこなかった。
「あんな言い方をしなくっても。たぶん傷ついてるよ、彼」
「あたしはもっと傷つきました。好きだったんです。彼のこと」
だからよけい許せなかった。
どうでもいい人間だったら、あんな風に怒ったりはしない。
紳士はジャスティーンの指を見つめた。
「指輪―――はまだしているようだね」
「ええ。|外《はず》れないんです。本当はこんなもの投げ捨ててやりたいんですけど」
言いながら、ジャスティーンは指輪を抜こうとする。しかし、ジャスティーンの言葉どおり指輪は抜けなかった。
「そのうち、抜けたらちゃんと叔母様にお返しします」
「抜けたら、ね」
ジャスティーンは紳士を睨んだ。
「今までどこへ行ってたんですか? あなたが消えてから、あたしはとても|嫌《いや》な思いをたくさんしました。あなたもあたしを騙してたんですか?」
「私は一度も嘘をついてはいないよ」
ジャスティーンは考え込んだ。確かに、彼はジャスティーンに嘘はついていなかった。
「だけど、本当のこともおっしゃってはくださらなかったわ」
「そうだね。だが余計なことは口止めされていたのでね。ヴィラーネは君が指輪の持ち主になれるか、ずっと見守っていた」
ケイド・ダリネードのそんな言葉は、ジャスティーンには何の|慰《なぐさ》めにもならなかった。
しばらく、硬い表情のジャスティーンの様子を眺めていたケイド・ダリネードは、ふっと小さく息を|吐《は》いた。それから言う。
「私たちは血統を|誇《ほこ》りとする、魔術を有する古い一族でね。その指輪は私たち一族の力の|象徴《しょうちょう》だった」
「―――」
「だけど、あの通り、彼はブライドが高いだけじゃなく、とても気まぐれでね。長い間どうしても主を決めようとはしなかった。|唯一《ゆいいつ》選んだのが―――」
「父さんでしょ?」
「うん。エリオスと私は|幼馴染《おさななじ》みでね。よく知っているよ」
ジャスティーンは目を丸くした。
「父さんと幼馴染み―――?」
「だから、彼がエリオスと友人だったことは本当のことだと私が保証する。私もまたエリオスをとおして、彼のことは知っていた」
「―――」
「彼はすねていたんだよ。せっかく自分の|相棒《あいぼう》を、エリオスに決めたのに、彼は城から出ていってしまったから」
|宥《なだ》めるように言うケイド・ダリネードの言葉も、|一旦《いったん》頑なになってしまったジャスティーンの心を種らげることはなかった。それでも彼は続けた。
「だけど、それは別に、レンドリアが気にいらなかったわけじゃない。彼は、あの指輪の王子をとても気にいっていた。彼が|嫌《きら》っていたのは、一族そのものだ。彼は魔術そのものが嫌いだった。普通の人間の生活をしたかったんだよ。だけど、指輪を引き継いでしまえば、それが|叶《かな》わなくなる―――。指輪を手に入れるということは、一族の頂点に立つということだからね」
「一族の頂点に?」
「それだけの価値がその指輪にはあるんだよ」
「でも、あたしには必要のないものです」
ジャスティーンは呟いた。
「レンドリアはあたしを主に決めたわけじゃないんだわ。せっかく自分が父さんを選んだのに、父さんはレンドリアを選ばなかったから意地になっているだけよ。子供みたいに」
だから、ジャスティーンも彼など選ばない。
叔母が、ジャスティーンを探し出したのは、ジャスティーンがエリオスの娘だったからだ。
誰も受け入れない指輪の王子。だから、ジャスティーンを探し出したのだ。
エリオスの子供ならば、レヴィローズは主として受け入れるだろうと、思っていた。ジャスティーンと会いたかったわけではない。
(レンドリアだってきっと同じよ)
最初レンドリアはジャスティーンをあの城から追い出そうとしていた。
(なのに途中で気が変わったのは、たぶんあたしが父さんの娘だからって、考えなおしたからに違いないんだわ)
ジャスティーンはそう強く思いこんでいた。
誰も本当の意味でジャスティーンを求めているわけではない。そう思った。
ジャスティーンは|忌々《いまいま》しげに自分の指に収まっている赤い宝石を見下ろした。
「どうして、指輪はあたしの指からはずれないのかしら?」
ケイド・ダリネードは、じっとジャスティーンを見つめた。それから一言だけ答えた。
「レヴィローズが、君を|諦《あきら》めていないからだ」
「|迷惑《めいわく》だわ」
ジャスティーンは吐き捨てるように呟いた。
数日後。馬車は以前通った道を正確にたどり、ジャスティーンの住んでいた|都《みやこ》へと戻ってきた。都についてほどなく馬車はジャスティーンが生まれた下町へとたどり着いた。
ジャスティーンは窓から目を細めてその光景を見つめた。
古ぼけた石の建物や、黒ずんだ木の建物―――煙突から立ち昇る黒い煙―――、崩れ落ちた|漆喰《しっくい》や|柵《さく》―――。すえた|臭《にお》いのするごみ捨て場―――。
|粗末《そまつ》な前掛けをし、洗濯物を抱えた女たち。柵に腰掛け、石を地面に投げながら遊んでいる幼い子供たち―――。荷馬車に荷物を積むのを手伝っている十歳前後の子供―――。
それほど月日が流れたわけでもないのに、そんな光景がとても|懐《なつ》かしい。
この町を去る時、もう二度と帰ってくることはないだろうと思っていたのに。結局戻ってきてしまった。
(みんな|呆《あき》れるだろうな)
あんなに|嬉《うれ》しそうにこの町を去っていったジャスティーンが、あっさりと戻ってきてしまったのだ。ちらりと頭の中で、ジャスティーンと再会したこの町の友達の反応を想像して、気まずい思いにとらわれた。 それでも、もうあの城には戻りたくなかった。少しくらい恥ずかしい思いをしてもかまわない。
みんなに「ただいま」と言うのだ。きっと大丈夫だ。彼らも「お帰り」といってくれる。
今度こそ、ジャスティーンはこの町に骨を埋めるのだ。
ジャスティーンを乗せた馬車が、かつてジャスティーンの住んでいた場所の前にとまった時、誰かが驚いたように窓から顔を出し大声をあげた。
「ジャスティーンだ」
その声に答えるように、別の声が聞こえた。
「本当だ。ジャスティーンだっ」
すると、|漣《さざなみ》のように、あちらこちらで声が聞こえて、ばらばらと|懐《なつ》かしい姿が四方八方から現れた。ジャスティーンも嬉しくなって、馬車から急いで降りる。
「ジャスティーンが帰ってきたぞぉっ」
「ジャスティーン!」
「ジャスティーンどうしたの?」
突然戻ってきたジャスティーンの姿に驚いて、かつての友達が駆け寄ってきた。
ずいぶんと懐かしい気がした。
一人の少女が心配そうに、ジャスティーンの顔を|覗《のぞ》き込んだ。
「どうしたの? なにかヘマでもやって叔母さんに追い出されてしまったの?」
ジャスティーンは首を振った。
「違うわ。こっちから出てきたのよ。やっぱりあたしには、貴族の生活なんて無理だったのよ。やっぱり、あたしにはこの町が一番だった」
それからいいにくそうに、続けた。
「もう一度あたしをこの町の仲間に入れてくれる?」
|躊躇《ためら》うようなジャスティーンとは|裏腹《うらはら》に、町の子供たちは歓迎するような声をあげた。
「当たり前じゃない。戻ってきて|嬉《うれ》しいわ、ジャスティーン」
「ちょっと予想より早かったけどな」
からかいの声も飛んだが、それすらも温かい響きだった。
「あんたがいなくなって、とっても|寂《さび》しかったのよ」
肩や背中に触れる懐かしい手。それはあの広くて寂しい城とはえらい違いだった。
「安心して。あんたの部屋もまだあのまんまよ。あたしたち、|大家《おおや》さんに掛け合ってあげる」
町は一度出ていったジャスティーンを受け入れてくれた。
それがこんなに嬉しいなんて。血の|繋《つな》がりだとか、本当の家だとか、そんなものは最初から関係なかったのだ。
(やっぱり、この町があたしの居場所なんだわ)
第五章・指輪の候補者たち
「ああ、今日は、なんて良い日なのかしら?」
その日ダリィは|上機嫌《じょうきげん》で|廊下《ろうか》を歩いていた。
ジャスティーン・エイド・ダーレインが、この城からいなくなったからである。
朝の紅茶も|美味《おい》しくいただけたし、自慢の髪型もなかなかいい感じに決まっている。
目覚めてから今まで、彼女は|邪魔者《じゃまもの》がいなくなった解放感を、たっぷりと味わっていた。
やがてこの城の|主《あるじ》であるヴィラーネの部屋までやってくると、ダリィは幸せな気分のまま、扉をノックした。しばらくして「お入りなさい」という声が聞こえてから、部屋へと入る。
「ごきげんよう。ヴィラーネおばさま」
明るい笑顔をまき散らし、ダリィはヴィラーネに朝の|挨拶《あいさつ》をした。
「ごきげんよう。ダリィ。今日はどうしたのです?」
「まあ、いやですわ。ヴィラーネおばさまったら。お忘れですの? ジャスティーンが今朝、このお城を出て行きましたのよ。指輪の|主《あるじ》となることを一族の前で|放棄《ほうき》したのですわ」
「そうでしたね」
「まあ、おばさまったら、何を浮かない顔をなさっているのです? まさかわたくしとのお約束をお忘れになったなんておっしゃったりはなさいませんわよね?」
ヴィラーネはダリィに目を向けた。
「もし、ジャスティーンが指輪の主として|相応《ふさわ》しくない……あるいは、レヴィローズが、ジャスティーンを認めなかったりした場合は、指輪を所有する権利はわたくしたちのもとへと戻ってくると」
そう口にするだけでダリィは胸がときめいた。
指輪を所有する権利
(なんて素晴らしい響きなのかしら)と思う。幼い頃から、そのことだけを夢見てきたダリィだった。レヴィローズに相応しいのは自分だと思っていたし、一族の半分はそう思ってくれていたはずだ。それが突然|素性《すじょう》もわからぬ、赤毛の小娘の出現で一気に|無《む》に帰りそうになった。
その時の、ダリィの怒りには|凄《すさ》まじいものがあった。
(わたくし、あなたのことをぜったい許さなくてよ。ジャスティーン)
実際、ジャスティーンの指にレヴィローズが|嵌《はま》っているのを見た時には、一瞬本気で殺してやろうと思ったくらいだ。もし、あの時[#「あの時」に傍点]、―――あの儀式が始まる直前に、ヴィラーネがジャスティーンの寝室へとやってこなければ。
「それで、おばさま。レヴィローズはどこです? ジャスティーンが候補者から除外された時、わたくしたちと正式に引き合わせてくださるとお約束して下さいましたでしょう? わたくし|昨夜《ゆうべ》は楽しみで楽しみで眠れませんでしたわ」
すると、ヴィラーネが少し困ったような表情を浮かべた。そのような表情を彼女が人前で浮かべるのは大変|珍《めずら》しいことなので、ダリィは|訝《いぶか》しく思った。
「どうなさったのです? ヴィラーネおばさま」
ヴィラーネは小さなため息を一つ|漏《も》らし、口を開いた。
「ダリィ。残念ですが、それはできません」
予想もしていなかった言葉に、ダリィは目を見開いた。ダリィにとってその言葉はまさに天地がひっくり返るような衝撃だった。
「お、おばさま……、今なんて……?」
「誤解しないように。今の言葉は、あなたが考えているような理由からではありません。レヴィローズ……指輪は今この城にはないのです」
「―――え?」
一瞬、ダリィにはヴィラーネの言葉の意味がわからずに、きょとんとした。
そんなダリィにヴィラーネは|一言《ひとこと》呟《つぶや》いた。
「ジャスティーンが持っていってしまいました」
ダリィはあまりのショックに|絶句《ぜっく》した。
バン! とけたたましい音をたてて、ダリィがいつになく乱暴な仕草で、シャトーの部屋をぶち開けた。その顔はたとえようもない怒りの|形相《ぎょうそう》になっていた。
「いったいどういうことなの? シャトール・レイ!」
彼女は、ジャスティーンの世話係をしていた少女を、|睨《にら》みつけた。
「あの小娘は、指輪の所有者となる権利を放棄したはずですのよ! それなのになぜ指輪をまだ所有しているのです? それどころか勝手にこの城から持ち出すなんて!」
するとシャトーは、彼女特有の淡々とした表情で答えた。
「レヴィローズがジャスティーンのことを、気に入ったようだから―――」
「なぜ、止めなかったのです? いいえ、出て行くことを、ではございませんのよ! 指輪を持ってゆくことをです!」
「レヴィローズが、ジャスティーンを選んだ以上、私が口出しすることではないと思ったから」
さらりとまるでなんでもないことのように言ったシャトーに、ダリィは|呆《あき》れたような声をあげた。
「なにを|他人事《ひとごと》のようにおっしゃってますの? レヴィローズがジャスティーンのものになって困るのは、あなたも同じはず。一族の半分は、あなたが指輪の正式な所有者となることを望んでいたのですわよ」
ダリィは自分の|好敵手《こうてきしゅ》を睨みつけた。
ジャスティーンは|邪魔者《じゃまもの》であり、ただのめざわりな小娘だったが、シャトーはダリィにとって、相手に不足はない立派なライバルだった。生まれながらに、炎の指輪を受け継ぐに相応しい能力を身につけていた二人。まさか途中からよけいな|伏兵《ふくへい》が出現するなどとは思いもよらず、あらゆる面で競い合ってきたというのに。
ダリィの言葉にシャトーは答えた。
「それは、ジャスティーンが現れる以前の話。それからは違う。あなたも私も」
「けれど、あの小娘は、一族の前で指輪の所有権を放棄しましたわ」
「でも、レヴィローズはそれを認めていない。いまだにジャスティーンだけを見ている」
シャトーの言葉に、ダリィは|悔《くや》しそうに|歯軋《はぎし》りをした。
腹が立って腹が立って仕方がなかった。指輪の所有権を|自《みずか》ら放棄しておきながら、ずうずうしく持っていってしまったジャスティーンにも、それを止めず静かに受け入れてしまっているシャトーにも。
とうとうダリィは|我慢《がまん》できない、という表情で、シャトーを指差した。
「こののっぴきならない状況で、なにをそんなにしれっとしてますの? これはゆゆしき事態なのですわよ! あなたは、わかってらっしゃらないの? シャトール・レイ」
しかし、ダリィの怒りを正面から受けても、シャトーが動じたようには見えない。|黙《だま》って、ダリィの怒りが|和《やわ》らぐのを待っている。その態度がますますダリィの怒りに火をつけた。
「そもそもこうなってしまったのは、あなたがジャスティーンを、さっさと城から追い出さなかったからではありませんこと? とっととレヴィローズが、あの小娘を気に入る前に、行動に移すべきでしたのよ。あなたがどうしても|召使《めしつか》いの方をやるっておっしゃるから、わたくし泣く泣く|譲《ゆず》ってさしあげて、客人の立場に甘んじましたのに! |何故《なぜ》ちゃんと打ち合わせどおり、あの小娘をいびり倒して追い出さなかったのです! 約束と違うでしょう! こんなことならば、わたくしがあなたの役をやるべきでしたわ。わたくしになら|完璧《かんぺき》にやりとげられましたのに!」
するとシャトーは|呟《つぶや》いた。
「それは無理。ダリィには召使いの役はできない。人には向き不向きがあるから」
「あなただって充分向いてませんわ。こんなにえらそうな態度の召使いがどこにいますの?」
「少なくともあなたよりは向いている」
……だんだん|論点《ろんてん》がずれてきた。今はどちらが使用人の|真似事《まねごと》に向いているか、という話をしているのではないのだ。事はもっと重大なのだ。自分たちの一生を左右するほどに。
|不毛《ふもう》な押し|問答《もんどう》を終えるために、ダリィは話題を変えた。
「ああ、もうこんな|無駄《むだ》な会話をしている場合ではございませんわ。ケイドおじさまはどちらにいらっしゃるの? あの方がジャスティーンをここまで連れてきたのですわ。こうなったらあの方に責任を取っていただくしかありませんわ」
「ケイド・ダリネードならば、今はいない」
「いない?」
「ジャスティーンを送り届けに行っている最中だから」
「では、わたくしたちもさっそく出発しなくては。それでケイドおじさまが向かった場所は?」
「知らない」
「え?」
「ジャスティーンの住んでいた場所を正確に知っているのは、直接ジャスティーンを迎えに行ったケイド・ダリネードだけ。だから、私にも彼がどこへ向かったのかはわからない」
とうとうダリィは言葉を失ってしまった。
それからギリリと|憎々《にくにく》しげに|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
(ジャスティーン。このままですむと思ったら大間違いですわよ。かならず見つけ出して指輪は返してもらいますわ。最後に笑うのはこのわたくしなのだから)
「シャトール・レイ」
ダリィは|宣戦《せんせん》布告《ふこく》のようにシャトーに向かって言った。
「レヴィローズをわたくしたちの手で見事取り返すのです。あなたとの決着をつけるのはそのあとですわ」
町に戻ったジャスティーンは、さっそく|大家《おおや》さんにかけあって、以前住んでいた部屋にもう一度住めるようにと頼み込んだ。|家主《やぬし》は突然戻ってきたジャスティーンを見て最初は驚いていたが、それからジャスティーンの身なりの立派さに感心して、一も二も無く部屋を貸してくれた。どうやら、彼はジャスティーンがすっかり貴族の娘になってしまったのだと思いこんだらしい。ジャスティーンは真実がばれるまで当分このまま黙っていようと|密《ひそ》かに思った。
部屋に|居座《いすわ》ってしまえばこっちのものなのだ。
「よかったわね。ジャスティーン」
「また一緒にいられるわね」
ジャスティーンの友人たちが口々に|嬉《うれ》しそうにそう口にした。 ジャスティーンもほっとして仲間に向かって、感謝の気持ちを|瞳《ひとみ》に浮かべ、大きく|頷《うなず》いた。
「ええ。それもこれもあんたたちも一緒に頼んでくれたおかげよ。だけど、これだけで安心してられないわ。あたし、部屋代も持ってないんですもの。すぐにもまた働かなくっちゃ」
ジャスティーンは自分が身につけていた目のさめるような青いドレスの|裾《すそ》をつまむ。
「とりあえず、|当座《とうざ》の生活費として、このドレスを売るわ。古着屋さんで売ったらたいそうな値になると思うのよ。できるだけ高く売りつけてやるわ。だけど、念のために仕事は早めに見つけたいのよ。なんといってもあたし、人生どうなるかわからないっていう経験をつい先日したばかりだものね」
せっかちなジャスティーンに町の少女たちが|呆《あき》れる。
「やあね。ジャスティーンったら。せっかく帰ってきたばかりなのに、すぐにそんな|野暮《やぼ》なこと言わなくっても」
「そうよ。野菜くらいなら、母さんの目を盗んで持ってきてあげるわよ」
「ねえ。それより今日はお祝いしましょうよ。ジャスティーンが再びこの町に戻ってきたお祝い!」
「それは、いいわ。よし、じゃ、あたしみんなを集めるわね」
「一人一品なにか食べ物|持参《じさん》でジャスティーンの部屋に集まるように伝えて」
「いいでしょ? ジャスティーン」
小鳥のさえずりのように、せわしなく交わされる言葉に、ジャスティーンもすっかり感動して頷いた。
(ああ、この充実した会話! ひさしぶりだわ!)
ジャスティーンにとってこの|騒々《そうぞう》しさはまるで楽園だ。
おまけに、皆、ちゃんと自分を受け入れてくれる。一人だけ貴族の娘として抜けがけして、この町を捨てて出ていったジャスティーンだったのに、「みんな、なんて心が広いのかしら?」とジャスティーンはジーンと|感慨《かんがい》に|耽《ふけ》っていた。
(もう嫌なことは忘れよう。あたしはこの町に帰ってきた。それで充分よ)
改めてジャスティーンはそう思ったのだった。
忘れよう。
早く忘れるのだ。
―――思い出してはいけない。あの場所は決して|居心地《いごこち》の良いところではなかったのだから。
言葉を投げかけてもまともに返してくれる人は少なく、|唯一《ゆいいつ》ジャスティーンの言葉に応えてくれた少年は、ジャスティーンを|騙《だま》していた。
だから忘れなくてはいけないのだ。
ジャスティーンはそう自分に言い聞かせていた。
「リンゴ一個下さいな」
ふいに声をかけられ、顔をあげるとそこに、ジャスティーンと特に親しくしている町の少女が一人立っていた。
「どうしたの? ジャスティーン。あんまり売れてない?」
ずらり並んでいる市揚の一角に、|果物《くだもの》ばかりが並べられた店が出ていた。そこでジャスティーンは店番をしていた。お金はあまりたくさんもらえないが、それでも頼み込んで|雇《やと》ってもらったのだ。けれど、周囲には似たような店がたくさんあったので、このようなありふれた果物はそんなに売れない。いつもならここで、ジャスティーンは呼び込みの一つもはりきってするのだが、今日は沈んだ様子でただ座っていただけだった。
「さっきからずっと見てたの。あんたずっと沈み込んでるんだもの」
少女は心配そうに、ジャスティーンの顔を|覗《のぞ》き込んできた。
「そんなに|哀《かな》しいことがあったの?」
「え?」
ふいに問われてジャスティーンは思わず声をあげてしまう。
「あのね、ジャスティーン」
少女は、果物の並べられている箱をよけて、奥まで入ってくると、長い木の|椅子《いす》に座っているジャスティーンの隣に|腰掲《こしか》けた。
「あたしたち、あんたが貴族の娘だってわかって、この町を出てゆくってわかった時、とても|羨《うらやま》しかった。あんたの幸運をあたしたちは自分のことのように喜んだけど、でも本当はとても羨ましかったの。あたしたちには一生縁のないことだったから」
少女は、くすんだみすぼらしい服を指で|時折《ときおり》つまみながら、|呟《つぶや》く。
「あたしはどうひっくり返ったってそんなことないもの。父さんも母さんも生きてて、ついでに大ばあちゃんの代まで貧乏だってわかりきってる。生まれてこのかた、古着屋の服しか|袖《そで》を通したことがなかったし、お嫁に行けるところも限られてる。一生、この町で、父さんや母さんのように|皸《ひび》だらけの手をして生きてゆくんだって思ってた」
少女は自分の荒れた手を|眺《なが》めた。その手は、これまで必死に生きてきたジャスティーンと同じ手をしていた。
「だけど、それが本当に嫌だって感じなかったのは、あんたがいたから。ジャスティーン、あんたはすごく強い。たった一人きりなのに、あたしはあんたが一度も泣いたところを見たことがない。この町で生きてゆく覚悟をしっかりしていたあんたを見て、あたしもそれでいいんだと思ってた。みんなあんたが好きで、あんたのことを立ててきたのは、あんたが、いろいろな相談に乗ってくれたり、仲間の争いごとの|仲裁《ちゅうさい》に入ったりして、みんなを|纏《まと》め上げてきたからじゃないのよ。あんたは、常に前向きだった。嫌なことがあっても、絶対それを顔に出したりはしなかった。どんなに傷ついても自分より弱いものや年下の子の前で、平然と笑ってみせた」
町の仲間は知っている。
親のないジャスティーンがそのことで、自分たちよりずっと嫌な思いをしてきたことがあることを。
この町には優しい人だけが暮らしているわけではなかったし、こんな風に貧しい人たちの中にも、それなりの階級はあった。そんな中でいつもまっすぐに顔をあげ、ジャスティーンは歩いていた。自分を|軽《かろ》んじようとする人の前で、堂々と。それは|虚勢《きょせい》などではなく、ジャスティーンの内側から生まれるものだった。
「どんな服を着たってなにをしたって、あんたはいつも|綺麗《きれい》だった。輝いていた」
少女はまぶしいものでも見るようにジャスティーンを見つめた。それからその瞳が|曇《くも》る。
「だけど、この町に戻ってきた時のあんたは、違った。あんなに綺麗な服を着ていたのに……ボロを着ていたあんたの方がずっと綺麗だった」
その言葉に、ジャスティーンはハッとしたような表情を浮かべた。
「よほど嫌なことがあったのね? これまでどんな嫌なことがあっても、けっして表には出さなかったあんたが、そんな風になるくらいに」
ジャスティーンは少女のかけてくれた言葉が嬉しかった。どんな|慰《なぐさ》めの言葉よりも|嬉《うれ》しかった。だから口元に|笑《え》みを作った。
「あたしが、強く見えたのは、失うものがなにもなかったからよ。あたしは何も持ってなかっったから、誰もあたしから何も奪えなかった。だから、何があっても平気だった。だけど、自分に血の|繋《つな》がった|叔母《おば》様がいるとわかった時、あたしは弱くなった。失うことを……恐れるようになったからよ」
両親が死んでから、初めて、希望を持った。そして、大きな期待と恐れを。
もう一人ではない。これからは幸せになれる、なりたい、そう思った。とても強く。
だから、ジャスティーンは自分を押し殺した。これまで生きてきた自分とは違う自分になろうとした。どうしても叔母に好かれたかったのだ。
「だけど、叔母様のところに行って、わかったの。あたしはこの町にちゃんと失いたくないものがあったって」
ジャスティーンはにっこりと少女に笑いかけた。
「あたしには何もなかったけど、本当の友達がいた。それがどれだけ大きなものなのか、あの時は気づかなかった」
少女はジャスティーンの笑顔をじっと見つめた。それから|尋《たず》ねてきた。
「だけど、それなら、どうしてそんな風に沈み込んでいるの? みんな心配してる。ジャスティーンのこと、すごく。立派な叔母さんがいるのに、こんな町に戻ってくるなんて―――そんなに嫌なことがあったのかって……そんなに傷ついたのかって……」
「そんなに嫌なことはなかったわ。傷つくほどひどい思いもしなかった。それより嫌な思いはこの町でとっくに経験済みだもの」
「じゃあ、どうして……」
「言ったでしょ? あたしは失うものができて弱くなったって。でも大丈夫。そんな弱さは全部あのお城に捨ててきたから。もうすぐいつものあたしに戻れるわ。今はちょっと落ち込んでいるように見えても、それはお城にいた時の弱かったあたしの|名残《なごり》だから」
ジャスティーンはすくっと立ち上がった。
「今あたしには、叔母様とは別の、失いたくないものができたけど、そのことに関してはきっと恐れなくてもいい。たぶんそれはどんなことがあっても、失うことがないってわかったから」
本物の友達はなくさない。それが今わかった。
血の繋がりよりも、もっと大切なもの。それがいつの間にか自分の手の中にあった。
ジャスティーンは明るく少女に笑いかけると、それから通りを歩いている人々に向かって手を|叩《たた》きながら、元気な声で呼び込みをはじめた。
そんなジャスティーンを見て、町の少女は少しだけホッとしたような表情を浮かべた。
友達のそんな様子を視界の端に|捉《とら》え、ジャスティーンは強く思った。
大丈夫。
あたしは一人でも生きていける。
こんな風に自分のことを見守ってくれる人たちがいるから。
自分が本当になくしたくないもの―――。
それは、この町の仲間たちだ。
どう頑張っても、左手の中指にはめられている指輪が視界にうつる。目をそらしても|無駄《むだ》だ。だけど、もう気にしない。
指輪はきっといつか|外《はず》れる。
ジャスティーンはその日、花屋で働いていた。日によって自分のもとに飛び込んでくる仕事は違った。必要な時だけ声がかかる。とりあえず入ってくるお金は少ないが、こんな仕事は楽でいい。ジャスティーンは、昼間、一生|懸命《けんめい》に花の世話をしたり、客に|愛敬《あいきょう》をふりまいたりしていた。
やがて日も沈んだ頃、店の仕事も終わってジャスティーンは|日当《にっとう》のお金で、ライ麦パンと一緒に、少しだけ小麦と卵を買った。久しぶりに自分でパンケーキを焼こうと思ったのだ。
(たまにはいいわよねえ)
ちょっとした|賛沢《ぜいたく》だ。
お城にいた時に驚くほど贅沢な食事をしてきたが、それでも、ジャスティーンにとって今の方がたぶん贅沢だ。ちょっとだけ嬉しい賛沢。それから大家さんに砂糖とミルクをわけてもらおう。大家さんはごうつくばりに見えて、実は人の|好《よ》いところがあるから、きっとわけてくれるだろう。
ジャスティーンは明るい表情を浮かべ、道を歩いていた。
しかし、自分の家の前までやってくると、その表情が固まった。
そこに一台の馬車が|停《と》まっていたのだ。
その馬車の形には見覚えがあった。ジャスティーンの知っているものだ。
「ケイドさん―――?」
ジャスティーンをこの町に降ろして去って行ったあの|紳士《しんし》が、またやってきたのだろうか? と思った。
(まさかあたしを連れ戻しにきたんじゃないでしょうね?)
ジャスティーンは|眉《まゆ》をひそめた。ケイド・ダリネードのことは、そんなに嫌いではなかった。叔母やレンドリアの話が|絡《から》んでさえいなければ、個人的には好きな人だ。父と|幼馴染《おさななじ》みだという紳士は、人のよさそうな|雰囲気《ふんいき》を持っていた。
だけど、ジャスティーンは今はあまり会いたくなかった。
(もしそうだとしたら、今度こそきっぱり言わなくっちゃ)
ジャスティーンは固くそう決意すると、二階の自分の部屋へと駆け上がった。
やがて、部屋に飛び込んだ時―――。
ジャスティーンの表情が、|強張《こわば》った。
そこに予想もしていなかった客人たちが立っていたのだ。
そこに二人の少女が立っていた。
一人はブルネットの巻き毛の少女で、一人は肩までの金の髪の少女だ。
最初、ジャスティーンは固まったまま反応できずにいた。思考も体もあまりの驚きに止まったままだった。
それからジャスティーンは、ようやく言葉を|紡《つむ》ぎ出した。
「ダリィ……? それとシャトー?」
(どうして、ここに二人が……)
それは決してあり得ないことのように思えた。それほど彼女たちはこの場所には似つかわしくないように見えた。
すっかり下町の娘に戻ってしまったジャスティーンには、ダリィとシャトーの姿が見慣れないものに見える。美しいドレスで着飾った貴族の娘。今のジャスティーンとは違いすぎる。
「シヤトー……ダリィ……? どうしてあんたたちがここにいるのよ?」
ジャスティーンはダリィの後ろにいるシャトーに目を向けた。
彼女の身にまとうドレスが、これまでジャスティーンが目にしたことのない|類《たぐい》ものだと悟ったからだ。常に美しく着飾っていたダリィのことはよく知っていたが、シャトーのこのような姿は初めて見た。ダリィの鮮やかな|紫《むらさき》のドレスとは反対の、シックな若草色のドレス―――。その服はこれまでジャスティーンが|馴《な》れ親しんできた使用人のものとは違った。
ジャスティーンは|呟《つぶや》く。
「シャトー……あんたその格好どうしたの?」
そのドレスはシャトーのほっそりとした体に、とてもよく似合っていた。
驚いているジャスティーンに向かって口を開いたのは、ダリィだった。
「何を|勘違《かんちが》いしているのかは知りませけれど、シャトール・レイはあなたが考えているような生まれの者ではございませんのよ。高貴な|我《わ》が一族の出です」
その言葉に、ジャスティーンは心の底から驚いた。
「え……?」
ジャスティーンは一瞬わけがわからなかった。
(我が一族の出ってことは……? シャトーって、ダリィの|親戚《しんせき》なの?)
頭の回転が突然のことについてゆかない。
「どうして、ダリィの親戚があたしの世話係なんてしてたの?」
すると、シャトーは答えた。
「ヴィラーネに頼んだの。あなたが城に訪れるのならば、そうしたいと」
ジャスティーンにはわけがわからなかった。シャトーが何を言っているのかも。
ダリィの親戚だということは、シャトーも貴族の姫だということだ。そのシャトーがどうして、ヴィラーネに頼み込んで、ジャスティーンに|仕《つか》えていたというのか。
「なんで、そんなことしたのよ?」
ジャスティーンの問いにシャトーは答えた。まだ覚えている静かな視線をこちらに向けて。
「それは、私が、あなたと同じ指輪の候補者だったから」
ジャスティーンはまたしても驚いた。
「指輪の候補者って……この指輪の?」
「そう。もし、ジャスティーンがいなければ、私かダリィがその指輪を手に入れていた」
ジャスティーンは今度はダリィに目を向けた。
「あんたもなの? ダリィ?」
ダリィは口元に意地の悪い冷たい笑みを浮かべた。
「そうですわ。―――わたくしたちは指輪を受け継ぐ候補者として、生まれた時から、互いにそう育てられてきたのです。炎を|扱《あつか》う能力がヴィラーネおばさまやエリオスおじさまに並ぶほど高かったのですわ」
「炎を扱う能力……?」
「わたしたち一族は魔術を有します。けれど、生まれながらに力を秘めている者はとても少ないのですわ。普通は、長い訓練によってその力を身につけますの。もちろんそれさえもできぬ者もたくさんおります。けれど、わたくしたちのように、生まれながらに、それももっとも|気《き》難《むずか》しい炎を扱う力を持っている者は|稀《まれ》なんですのよ」
ダリィは誇らしげにそう言った。それから|口調《くちょう》を変え、尋ねてくる。
「ときにあなた。あなたも指輪の候補者として選ばれたからには、わたくしたちと同じ能力がおありだったのでしょうね?」
ジャスティーンは|即答《そくとう》した。
「まさか。あたしは普通の女の子よ。そんなものあるわけがないでしょ?」
ダリィは信じられないという表情を浮かべた。
「なんということ。ヴィラーネおばさまたちはいったいなにを考えていらっしゃったのかしら? いくらレヴィローズが気難しいからといって、こんなズブの|素人《しろうと》にレヴィローズをたくそうと考えたなんて。ではあなたは、ほんの少しも炎を|操《あゆつ》る力はございませんのね?」
「ないわよ。だけど、それがいったいなんだって言うの? あんた何を言いたいの?」
ジャスティーンにはよくわからない。ダリィが何を言いたいのか。炎を操ることができないということのどこが悪いのか。あいにくジャスティーンにとっては、自分の方が普通だという感覚がある。|怪《あや》しげな魔術を平気で使いこなす人間の方が変わっているように思えるのだ。
すると、ダリィは言った。
「レヴィローズは、もっとも|気高《けだか》い炎の指輪。その力は圧倒的なものです。けれど、それでも扱う者によって、少しその能力に差が出ますのよ。つまりへたな使い手の手に渡っても、レヴィローズの|真価《しんか》は|発揮《はっき》できないのです。いわゆる宝の持ち|腐《くさ》れ状態ですわ。ですから、誰でも良いというわけではございませんのに……」
ダリィはまじまじと探るようにジャスティーンを観察した。
「特に隠された能力があるようにも見えませんわ。エリオスおじさまはヴィラーネおばさまよりも、高い能力者だったとお聞きしておりましたけれど……、あなたは平凡そのもの。あなたにはそもそも資格そのものがないですわ」
(悪かったわね。資格そのものがなくって)
ジャスティーンはムッとする。だがそんな資格は欲しいとも思わなかった。
「だからあんた何が言いたいわけ?」
ジャスティーンの問いに、ダリィは答えた。
「あなたにその指輪は似合いませんわ。つまりあなたにレヴィローズは|相応《ふさわ》しくないということです」
ジャスティーンはようやく、二人がここまでやってきた理由がわかった。
「指輪の|主《あるじ》としての立場を|放棄《ほうき》しておきながら、|何故《なぜ》、それを持って来たりしましたの? 指輪を返しなさいな。レヴィローズはわたくしたちのものですのよ」
ジャスティーンは急いで答えた。
「返せるものなら、とっくに返してるわよ。でも抜けないのよ。指から」
「|嘘《うそ》おっしゃい。そんなはずはないですわ。あなたはその指輪をこっそりと自分のものにしようとしているのですわ」
「違うわよ。本当に抜けないのよ」
「あくまで、違うと言い張る気ですのね? この嘘つき。そんなにしてまで、その指輪を手放すのが惜しいんですの? なんて人なの。恥を知りなさい」
「だから、違うって言ってんでしょ。話の通じない人ね」
すると、ダリィは|忌々《いまいま》しいものでも見るように、ジャスティーンを|睨《にら》みつけてきた。まだジャスティーンの言葉を信じてはいないのだ。こういうタイプはきっとどれだけ話しても|無駄《むだ》だ。
|案《あん》の|定《じょう》。
「だったら」
ダリィはニッと嫌な笑いを浮かべた。
「指を切り落とせばいいんですわ」
ジャスティーンは|呆気《あっけ》に取られた。
グラリと目の前が真っ暗になりかけた。まさに起きたまま悪夢を見ているような気分だ。
(前々からかなり性格が悪い子だとは思っていたけど、まさかこれほどとは思わなかったわ)
ジャスティーンは自分の指を守るように、必死の表情で背中に隠した。勢いよくあとずさる。
「なに言ってんのよ、あんた」
ダリィはいつの間にかナイフを取り出していた。美しい形をしているナイフの|刃《は》をいとおしそうに|撫《な》でる。
「大丈夫。痛くないようにして差し上げます」
「じじじ冗談じゃないわよーっ」
「あら。ちゃんと指輪を取り返したらまたちゃんとくっつけてあげますわよ。すべて元どおり」
「……そんなこと本当にあんたにできるの?」
ジャスティーンは恐る恐る尋ねた。|大人《おとな》しく指を切り落とされるつもりはさらさらなかったが、聞いてみるだけ聞いてみたくなったのだ。
(魔術って、そんな便利なものなのかしら?)
と少しばかり興味があったのである。
しかし、ダリィはあっさりと答えた。
「冗談でしょう? わたくしにできる術はただ一つだけ。|治癒系《ちゆけい》の術はわたくしの得意とするところではありませんもの」
(この貴族娘、絶対普通じゃないわ)
普段ならば絶対|関《かか》わりたくないような人物だった。
「そんなに|怯《おび》えなくてもよろしくてよ。大丈夫ですわ。わたくしには無理でもシャトール・レイがいますもの」
(え? シャトー?)
驚いたジャスティーンは、改めてシャトーの方を見る。ダリィは|無邪気《むじゃき》に|微笑《ほほえ》んだ。
「シャトール・レイは、こう見えても治癒系の術は得意中の得意ですのよ。わたくしが切り落とした指だって、ちゃんとくっつけて下さると、わたくし信じておりますもの」
(信じておりますもの、……って。そんないいかげんな気持ちでそーゆー恐ろしいこと言わないでよ)
もし、ためしにやってみてくっつかなかったら、どうするつもりだというのか。
ジャスティーンの怯えた表情を見て、ダリィは「やれやれ」という表情になった。それから、隣の少女に目を向けた。
「大丈夫ですわよね? シャトール・レイ?」
ダリィの言葉を受けて、それまで黙っていたシャト1は静かに呟いた。
「―――できないことはないと思う。ただし成功率は半々」
「もう、シャトール・レイったら、このような時は、はったりくらいかますものでしてよ」
「でも、私は、嘘は苦手」
こんな時までシャトーは口調を変えなかった。ひっそりと呟く。
ジャスティーンは|恨《うら》めしげにシャトーを見た。
「あたし、あんたのことは信じていたのよ。なのにひどいじゃない。ダリィなんかと手を結ぶなんて。あんたは、あたしのことを好き、って言ってくれたわ。あれは嘘だったの?」
「ええ。言った。それは本心。だけど、それとこれとは別」
「別?」
「ジャスティーンは、レヴィローズの本当の価値をわかっていない―――」
「わかんないわよ。こんな嘘つきな指輪!」
だけどもっと、わからないのはシャトーの方だ。
「じゃあ、あんたがあたしに近づいたのは、あたしに、指輪を継がせないためだったの?」
ジャスティーンはそう口にしながらも、シャトーが自分の言葉を否定してくれることを心の底で願っていた。しかしシャトーは「そう」と小さく頷いた。
それを見て、ジャスティーンの心の底に苦い思いが込みあげてきた。
(また騙されたんだわ。あたし)
ジャスティーンを騙していたのは、レンドリアだけではなかったというわけだ。
(みんな嘘つきだわ。叔母様も、レンドリアも、シャトーも、みんな嘘つき)
ジャスティーンは泣きたくなってきた。とてもではないが、立ち直れそうもない。
ついこの間、せっかく昔の強い自分に戻ろうと決意したばかりだというのに。このままではそれも無理そうだ。
ジャスティーンはギリと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
「悪いけど、この指輪はあんたたちには渡さない」
ジャスティーンははっきりと言った。それを聞いたダリィが驚いた。
「なんですって? 指輪の|所有権《しょゆうけん》を放棄したのはあなたじゃありませんか?」
「もちろん、指輪の所有権なんていらないわ。だけど、少し気が変わったの。あんたたちにだけは、指輪は渡さないわ。そんなことするくらいなら、犬にでもやった方がまし」
「い、犬ですって……? 気高い炎の王子を犬にやるですって……? 言っていいことと悪いことがありますわ」
「でも、それが本当の気持ちだもの。あんたたちにはあげないわ。死んだってね!」
ジャスティーンは大声で言い放った。
今度ギリリと唇を噛んだのはダリィの方だ。
その紫の目に、|剣呑《けんのん》な光が生まれた。しかしすぐにダリィは、怒りの表情を別のものに変えた。
「まあ、そこまでの覚悟がおあり? でしたら、あなたの望みどおりにしてあげてもよろしくてよ」
ダリィはニタリと笑った。嫌な笑いだった。ジャスティーンはその笑いに、身の危険を感じてあとずさる。
「なにをする気?」
「ですからあなたが、お望みのことをしてさしあげるのです。死んだほうがましなのでしょう? ならば、そうなさい。あなたが焼け死ねば指輪はわたくしたちのもとに戻ってきますもの。骨まであとかたもなく焼き|尽《つ》くしてさしあげます」
その言葉にジャスティーンはますますあとずさった。
しかしダリィはそれ以上ジャスティーンがこの揚から離れることを許さなかった。
「全部燃えてなくなりなさいな」
ゆらりと片手を持ち上げると、優雅な仕草でジャスティーンに向かって指をつきつけた。次の瞬間、ジャスティーンの体が発火した。
ボッ! と音を立てて、燃え始める。
「きゃああああああああ!」
だが、それはほんの一瞬のことだ。炎はジャスティーンの体から、水が撥《は》ねるように飛び散った。かわりに、ボボッ! と音を立てて汚れたカーテンや|椅子《いす》に燃え移る。ジャスティーンは|無傷《むきず》だった。|火傷《やけど》ひとつ負ってはいなかったのだ。
「な―――?」
ダリィは驚いた。
「どういうことですの? 何故……燃えませんの? わたくしの術が通じないなんて」
すると、シャトーがダリィに向かって言った。
「ジャスティーンは指輪を手にしている。レヴィローズに守られているということ」
その言葉に、ダリィは悔しそうな表情をした。
「そんな……! ずるいですわ、そんなの!」
ジャスティーンはそんな二人にかまっていられなかった。|慌《あわ》てて燃え移った火を消そうと、カーテンを引きずり落とす。何度も|床《ゆか》に|叩《たた》きつけた。なんとか消そうとしたのだ。しかし、それはかえって逆効果だった。腕を振るたびに炎がジャスティーンの体に飛び移り、そのたびに油が水をはじくように炎が飛び散って、あちらこちらへと燃え広がった。
(これは、普通の火じゃない……っ!)
魔術で作り上げられた炎なのだ。ジャスティーンの身を完全に焼き|滅《ほろ》ぼすための。それは圧倒的な勢いをつけて、たちまちのうちに周囲へとめらめらと音を立てて広がってゆく。
しかし、ジャスティーンはその炎に熱さを感じなかった。指輪が、自分を守っているのだとわかった。
ジャスティーンは手当たり|次第《しだい》その炎を消そうと椅子を床に叩きつけ、机を手で|掌《てのひら》の|皮膚《ひふ》が破れそうになるほど|擦《こす》った。だがそうした行為も、ただ火を飛び散らせるだけで、なんの効果もない。
とうとうジャスティーンは部屋を飛び出した。
「おまちなさい! ジャスティーン!」
背後でダリィが怒りの声をあげていたが、無視して走った。
「火事よ! みんな逃げて!」
ジャスティーンは大声をあげて、階下の人や他の部屋の人たちに声をかけた。その時、ジャスティーンの部屋は完全に炎に支配されていた。すでに、その火は|業火《ごうか》のごとく激しく燃え上がっていたのだ。まるですべてを焼き|尽《つ》くそうとでもするように。
「火事よ! みんな逃げて! 早く! じゃないと死んじゃう!」
ジャスティーンは必死の思いで叫んだ。外に出て叫びだしたジャスティーンの大声に反応して、あちらこちらの民家から声があがる。
「火事だ!」
「本当だ! 火事だぞ!」
ジャスティーンは叫びつづけた。
「早く出てー 早く逃げて!」
ジャスティーンは家から飛び出してきた町の人たちに言う。
「あの火は普通じゃないわ! たぶんもっと燃え広がる! だから他の人にも知らせて! あの火が燃え広がる前に、早くこの揚所から離れて!」
「どういうことだ? ジャスティーン?」
町の住人の一人が尋ねてきた。ジャスティーンはすばやく答える。
「炎が意志を持って燃え上がっているのよ!」
目的だったジャスティーンを燃やし尽くせない炎は、代わりの|獲物《えもの》を求めて暴れまわり始めた。
ジャスティーンは|焦《あせ》っていた。火の回りが速すぎた。もうジャスティーンの部屋だけではない。建物全体が炎に包まれていた。
ジャスティーンは恐怖で胸がいっぱいになった。あの生きた炎が自分に襲いかかってくるということではない。あの炎の中で、ジャスティーンの言葉に反応しきれず、逃げ遅れた者がいるかもしれないと思うと、張り裂けそうなほど胸が痛んだ。
(あたしのせいだわ。あたしが、ダリィを|挑発《ちょうはつ》したから……怒らせたりしたから)
あんなことぐらいで腹をたてなければよかった。だけど、あの時は感情が先に立っていて、気がついたら、そう口走っていたのだ。それでも今のジャスティーンには後悔して立ちすくんでいる|暇《ひま》はなかった。ジャスティーンは続けて周りの人々に指示を出す。
「見て、もう隣の家に火が燃え移ったわ。これからもっと広がってゆく。まだ向こうの方の人は気づいてないの。早くしないと、間に合わない。みんなに知らせて」
その言葉を受けて、町の人たちはそれぞれの方向に走り出した。
|瞬《またた》く間にあちらこちらで声があがる。 火事を知らせる声と、それを受けて驚いたような悲鳴―――。
それがあちらこちらで交差して響き渡った。平和な夜の静けさがあっという間に破られた。
ジャスティーンはなおも駆け出して、この火事をみんなに知らせようとした。
それを見て、外までジャスティーンを追いかけてきたダリィが|怒鳴《どな》った。
「ちょっとお待ちなさい! 逃げる気ですの?」
ジャスティーンはダリィを睨みつけた。
「こんなやり方、あたし絶対、許さない―――もし誰か一人でも死んだりしたら、あたし、この指切り落としてでも、こんな指輪、粉々に砕いてやるわ!」
その言葉に、ダリィはさっと青ざめた。
「なにを言い出すんですの? 恐ろしい―――」
「恐ろしいのはあんたよ! あんたたちは魔術を使えるのね? だけど、こんな風に使ったのは初めてなんだわ。使い方も知らない|愚《おろ》か者!」
「なんですって? あなた失礼だわ」
|図星《ずほし》を指されて、ダリィは怒った。
「だから、そんな風に平然としていられるのよ。その先の結果なんて考えてもいない」
「結果ですって?」
ジャスティーンは言い捨てて駆け出した。
「へたしたら、大勢の人間が死ぬってことよ!」
ダリィは悔しそうに唇を噛みしめた。それから、シャトーに向かって言う。
「なんとか言ってちょうだいな。ジャスティーンなんかにあのようなこと言わせていいんですの?」
「でも、彼女の言葉は正しい」
「シャトール・レイったら」
シャトーは燃え上がる炎を見つめた。
「もうこの町は|駄目《だめ》。全部燃える。消すことはできない―――」
「そんなこと―――わたくしにはできますわ。わたくしはヴィラーネおばさまと同じ、もっとも|優《すぐ》れた炎使いですもの。炎を生み出すのも消滅させるのも|自在《じざい》ですわ」
「あなたはヴィラーネとは違う。まだまだ|修行《しゅぎょう》が|足《た》りない。このような大きな技を使うには経験が足りない。力を放つことができても、それを収めることは無理」
「そんなことないですわ。これまでだってちゃんとコントロールできましたもの」
「でもそれはこれよりずっと小さなもの」
「大きさなんて関係ありませんわ。ようはわたくしの才能―――」
ダリィは|忌々《いまいま》しげに言うと、見せつけるように手をあげて、燃え上がる炎の一部を消してみせようとした。
だが。
ダリィの思い通りにはならなかった。炎はダリィの意志を無視するように、好き勝手に燃え広がり、暴れていた。
「|何故《なぜ》……」
「あなたが生み出した炎だけならば、あなたはたぶんいつものように簡単に消せたはず」
シャトーは|眉《まゆ》をひそめた。
「けれど、あの炎はあなたの手を離れて大きく成長してしまった。これほどまでに、成長して広がった炎をあなたは消したことはない」
町中が悲鳴をあげていた。人も、家も、悲鳴を上げていた。
人々は皆いっせいに、井戸から|汲《く》んできた|桶《おけ》の水をかけていたが、そのようなものでは間に合わなかった。
「ジャスティーン!」
ジャスティーンの|幼馴染《おさななじ》みたちが、|空《から》になった桶を片手に|煤《すす》だらけの体で|駆《か》けつけてきた。
「ああ、あんたたち無事だったのね!? 火傷は?」
それを見て、ジャスティーンも急いで彼らに駆け寄った。
「大丈夫。だけどどうしたの? これどういうこと? ジャスティーン」
「なにが起こってるの?」
問われて、ジャスティーンは|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
とてもではないが、本当のことは言えなかった。
(この火事は全部、あたしのせい―――)
その事実をジャスティーンは誰にも言えないでいた。どうして言えるだろう。優しくジャスティーンを抱きしめて受け入れてくれたこの町の人々に、そのようなことを。
ただ、ジャスティーンは|震《ふる》える声をあげた。
「みんな……みんな無事なの……? 逃げ遅れた人……いる……?」
それに、少女の一人が答えた。
「あたしたちの知っている人では、今のところ、いないみたい。火のまわりは予想以上に早いんだけど、みんなうまく逃げ出してきたみたいで……だけど」
少女は、自分の家に目を向けた。
「全部燃えちゃう……」
ジャスティーンは|拳《こぶし》を|握《にぎ》りしめた。
(あたしのせいだわ。あたしがこの町に戻ってきたから―――)
いや、それよりもこのような指輪を、レンドリアから受け取ってしまったからだ。
(どうしよう)
どうすればよかったのか?
あの時ダリィの言われるままに従っていれば、事態はこれほどひどくはならなかっただろうか? 指を切り落としてでも、渡せばよかったのだろうか?
ジャスティーンの心の中に|迷《まよ》いにも似た後悔が生まれた。
震えながら一人の少年がジャスティーンの隣で|呟《つぶや》いた。
「どうしよう。このままだと|都《みやこ》中が炎の海になっちまうよ」
その通りだ。あの恐ろしい炎は、住み慣れた下町だけではあきたらず、もっと燃え広がるかもしれない。そして、今もジャスティーンの知らぬところで、誰かが炎に巻き込まれて命を落としているかもしれない。もっと被害が大きくなるかもしれない―――。
ジャスティーンは指輪を見つめた。
「こんなもののために―――」
ジャスティーンは呟く。
「レンドリア」
呟く。指輪を見つめながら。
その時―――。
「ジャスティーン」
自分の名を呼ぶ声に顔をあげた。遠くから、見知っている姿が駆け寄ってきた。
ジャスティーンはその名を呼んだ。
「ケイドさん」
「いったい、これはいったいどうしたというんだね……?」
「ケイドさんこそ、どうしてこんなところに……? いいえ。そんなことはどうでもいいわ。これはダリィがやったの。あたしから指輪を取り戻すために―――。だけど、あたしどうすればいいのかわからなくて。なんとか火を消そうとしたけど、|駄目《だめ》だったの。どうしても駄目だったの!」
ケイド・ダリネードの顔を見たからだろうか? 決して|安堵《あんど》したわけではないが、張り詰めていた糸が|緩《ゆる》んで、ジャスティーンの瞳から涙が|溢《あふ》れてきた。
決して泣かなかったジャスティーンが、今涙が止まらないでいる。
「ケイドさん。お願い、教えて。あなたは|叔母《おば》様の|親戚《しんせき》の方なんでしょう? 魔術を使えるんでしょう? だったら、あの炎を消して。助けて」
助けて。みんなを。
ジャスティーンの好きなこの町をこれ以上燃やさないで。
「あたしにはどうすることもできないの」
ジャスティーンは必死になってケイド・ダリネードの腕を|掴《つか》み|揺《ゆ》すった。
すると、ケイド・ダリネードはジャスティーンの両肩に手を乗せた。
「落ち着きなさい。ジャスティーン」
「だって」
落ち着いてなんかいられない―――! 町が燃えてるのよ!! ジャスティーンはそう叫んだ。
だが、そんな風に激しい感情を吐き出しているジャスティーンに向かって、ケイド・ダリネードは優しい声で言った。
「大丈夫だ。君にはその指輪がある」
その言葉に、ジャスティーンは一瞬息を止めた。
「指輪?」
しかし、ジャスティーンには彼の言葉の意味がわからなかった。ケイド・ダリネードはそんなジャスティーンに向かって|繰《く》り返した。
「忘れたのかい? それは炎を支配する指輪だ」
まだ|茫然《ぼうぜん》としているジャスティーンに向かって、ケイド・ダリネードは続ける。
「レヴィローズになら、この炎は消せる」
ジャスティーンは目を見開いた―――。
「―――その指輪の価値を君は少しもわかっていないんだね」
ジャスティーンは力なく首を振った。
「でも、レンドリアはここにはいないわ。あたし、お城においてきちゃったもの。ついてこないでって言っておいてきちゃったのよ」
ケイド・ダリネードは苦笑していた。
「ジャスティーン。レヴィローズは人間じゃないんだよ」
その言葉にハッとする。ケイド・ダリネードはゆっくりと小さな子供に言い聞かせるように言った。
「指輪は君の手にある」
レヴィローズは指輪そのもの
ようやくそのことを思い出した。
ジャスティーンはギュッと指輪のはまっている自分の中指を押さえた。
それからジャスティーンは頭の中をすばやく切り替えた。
「どうすればいいんですか? ケイドさん。あたしはこの指輪の|扱《あうか》い方を知らないんです」
「簡単なことだよ。レヴィローズと|契約《けいやく》を交わすんだ」
「契約? どんなに風に?」
「ただ、君が口に出して言えばいい。君が言った言葉が、そのまま|誓約《せいやく》となる。レヴィローズにとって指輪の|主《あるじ》の発する言葉そのものが、|誓《ちか》いであり、契約なのだよ」
ジャスティーンは何度も|瞬《まばた》きをして、その言葉を聞いていた。
(言葉そのものが誓いであり契約……?)
あの|嘘《うそ》つきで、気まぐれな炎の王子が。
「君が、レヴィローズを心の底から受け入れ、その名を口にすればいい」
それはとても皮肉な話だった。彼はジャスティーンに嘘をつくのに、ジャスティーンは彼に嘘|偽《いつわ》りのない心を、そして真実の言葉を明け渡さなければならないのだ。
それでも。
(迷ってる場合じゃないわ)
そう迷っている場合ではない。この火事はジャスティーンが原因だった。
自分のしたことには自分で責任を取らなくてはならない。たとえそれがどれだけ不本意なことだとしても―――。いや、不本意だと考えることすら許されない。
契約は誓いの言葉。だけど、心の底から、レヴィローズの存在を受け入れなければならないのだ。それは、今のジャスティーンにとってひどく難しいことだ。
それでもやらなければならない。
「レンドリア―――」
ジャスティーンは指輪に向かって言った。
「あんたと契約を交わすわ」
余計なことは言わなくてもいい。ただ、必要な言葉だけを|紡《つむ》ぎ出すのだ。炎の王子ならば自由に炎を操れるはず。
「だからこの火を消して。あんたになら、どうにかできるんでしょう?」
その言葉に|応《こた》えるように、目の前の屋根の上で燃え上がる炎の中から、人影が現れた。
「別に、いいけどよ!」
この|緊急《きんきゅう》の事態にやけに|緊迫感《きんぱくかん》のない様子で、赤い瞳の少年がこちらを見つめていた。
彼は屋根の上から、猫のように身軽な仕草で地に飛び降りてきた。
しかしそれ以上、ジャスティーンの|傍《そば》によろうとはしなかった。一定の距離を|保《たも》ちながら、レンドリアはジャスティーンに向かって人差し指を突きたてた。
「俺がおまえの言葉に従ったら、契約は本当になるぜ。あとからなに言ったって、取り消せねえからな」
その言葉に。
ジャスティーンは一度だけ、目を閉じた。
自分の体の中から必死に怒りの感情を追い出すために。
それから再び目を開けると、大きく息をついた。
「わかったわ。あんたと契約する。だからこの火を消して。レヴィローズ」
すると、レンドリアは待ってましたとばかりににやりと笑った。
「あいよ。まかしときな」
ジャスティーンとレヴィローズが契約を交わした―――。
その証拠に、町の炎がみるみる間に消えてゆく。
あれほど、町の人たちが苦心|惨憺《さんたん》して、火を消そうと|桶《おけ》を持って駆けずりまわっていても、どうすることもできなかった火が、そう時間を|経《へ》ずに、次々と消えていった。
やがて長い一夜が過ぎ、人々が夜明けを迎えた時―――。
朝日の中から現れた黒々とした建物はどれも見るも無残なものだった。
―――下町は|半焼《はんしょう》していた。
それでも奇跡的というべきか、その焼け跡からは死亡者は現れず、なお不思議なことに|怪我《けが》人《にん》もいなかった
ただこの下町の|全《すべ》ての人々が|煤《すす》だらけのまま、茫然とへたり込んで―――あるいは立ちすくんでいただけだ。
これほど大掛かりな火事でこれは信じられないことで、町の人たちは喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないでいた。
最終章・指輪の主
最後の炎が消えた時が、|契約《けいやく》が完全に交わされた|証《あかし》だった。
―――そのすべてが終わった時。
それまで町の混乱した様子を|眺《なが》めていたシャトーは、ふっと息を|吐《は》いた。
「どうやら、ここまでのよう。私たちの負け」
その言葉にすぐさま、事態の|行方《ゆくえ》を見ながら青ざめていたダリィが反応した。
「冗談じゃありませんわよ! 今さら―――! ここまできて|諦《あきら》める気ですの!?」
「ダリィ。人間は引き|際《ぎわ》が|肝心《かんじん》」
この騒ぎを引き起こした|張本人《ちょうほんにん》は、自分のしたことをわかっていないのか、|悔《くや》しそうな表情を浮かべた。
「あっさりと認めるんじゃありませんわよ。シャトール・レイ」
「炎の指輪が、ジャスティーンのものとなった以上、他にどうしろと?」
「だって、指輪の所有者は、あの城も引き継ぐことになるんですのよ。あの城を引き継ぐということは、わたくしたちの上に立つということ。認めますの? あんな|素性《すじょう》もしれぬ小娘を!」
だが、それにはシャトーは答えなかった。ただじっとジャスティーンに目を向け、それから静かに|呟《つぶや》いた。
「ジャスティーン」
その名を呼ぶ。あの城でジャスティーンを呼んでいたように、なんの感情もこもらない声で。
ジャスティーンはその声を|哀《かな》しい思いで聞いていた。
もう彼女とは|相容《あいい》れないのかもしれない。
(あたし、シャトーのこの静かな声が好きだった)
だけど彼女は町をこんな風にしてしまったダリィの仲間なのだ。
「レヴィローズはあなたのもの」
哀しそうな表情を浮かべているジャスティーンに向かって、シャトーは呟いた。
「シャトール・レイ! まさか、あなた本気で認める気ですの?」
ダリィが信じられないという表情でシャトーに食ってかかったが、シャトーは|宥《なだ》めるような目を向けただたけだ。それから彼女はジャスティーンに視線を戻して言う。
「ジャスティーン、覚えておいて」
「―――」
「レヴィローズは私たちにとって特別なもの。たとえ気まぐれでわがままで、|扱《あつか》いづらかったとしても、私たち一族にとってはかえがたいなによりの宝。大切にしてほしい」
ジャスティーンは|黙《だま》ってその言葉を聞いていた。あいかわらず彼女は、何を考えているのかわからない。けれど、その言葉は、シャトーの本当の気持ちなのだろう。 ジャスティーンは確かめるように|尋《たず》ねた。
「―――本当にいいの? シャトー?」
「ジャスティーンがレヴィローズを心から受け入れるのならば、それでいい」
ジャスティーンはシャトーの|碧《あお》の|瞳《ひとみ》の中から、何か一つでも感情のようなものを探そうと、|覗《のぞ》き込んだ。だが、それは|叶《かな》わなかった。
その碧の瞳の中にはなにもない。ただ言葉だけが、その形の良い口から|紡《つむ》ぎだされる。
「私が|譲《ゆず》れなかったのは、レヴィローズを指に|嵌《は》めたまま、レヴィローズを|拒《こば》みつづけるあなた。それではあまりにもレヴィローズがかわいそう」
ジャスティーンにはもうシャトーのことはよくわからない。だけど、一つだけわかることがあった。
彼女は指輪の候補者の一人―――。
けれど、彼女は決してダリィのように、ただ指輪を手に入れたかったわけではない。
彼女の考えていたことは最初からただ一つ。
たとえ、その指輪がジャスティーンの|意志《いし》ではどうにもならないものであったとしても。
なにものにもかえがたいレヴィローズを|活《い》かすこともできず、そのくせ今も所有しているという事実を。
見|逃《のが》すことはできなかったのだ。
指輪の候補者である金の髪の少女には。
「本当は」
ジャスティーンは呟く。
「レヴィローズに本当に|相応《ふさわ》しいのは、あんたなのかもしれないわね」
たぶん彼女の紡ぎだす言葉こそが、レヴィローズにとって本当に相応しい|誓約《せいやく》の言葉だろう。
シャトーがレヴィローズに向ける言葉は、本物だったに違いない。
ジャスティーンが、レンドリアと|契約《けいやく》を交わしたのは、ただ町を守りたかっただけだ。
大切な故郷を友人を仲間を、守りたかっただけにすぎない。
ただそれだけだった。
それは心の底からの誓約とはいえない。あの時は本気でそう口にしたけれど、すべてが終わった今も、レヴィローズを受け入れているかといえば、そうではないのだから。
生まれた時から、レヴィローズの|主《あるじ》となるために生きてきた少女は、ダリィとは違った意味で、レヴィローズのことだけを考えてきた。
シャトーの表情はジャスティーンの言葉にも動かなかった。ただ小さく呟く。
「そうだったら、どんなによかっただろうかと、私も思う。けれどそれは違ったから」
違ったから。レヴィローズはシャトーを選ばなかったから。
そして、それが、レヴィローズの意志ならば。
「―――私は別にかまわない。肝心なのは、レヴィローズが何を望んでいるかということ。ジャスティーンが、そのレヴィローズの意志を受け入れられる|器《うつわ》であるかどうかということ」
その時、ダリィが大声をあげた。
「冗談じゃないですわ。シャトール・レイ。わたくしは|諦《あきら》めませんわ。帰るならば、一人でお帰りなさいな。わたくしはまだこのようなこと認めてませんもの」
|往生際《おうじょうぎわ》の悪さはジャスティーンに|匹敵《ひってき》するくらいだ。
自分のしたことによって、かえってジャスティーンとレヴィローズを契約させてしまったことを、いまだに認められないでいるようだった。ダリィは悪あがきをやめなかった。
「シャトール・レイが認めてもわたくしは認めません。絶対に。ええ! 絶対に!」
するとシャトーは|残酷《ざんこく》な指摘をした。
「ダリィは火に油を|注《そそ》いだだけ」
|焼失《しょうしつ》してしまった建物に目をやり、|淡々《たんたん》と呟いている。
「不用意に火なんかつけるから。レヴィローズが炎の王子だってことを忘れていたの?」
かえって火など持ち出しては逆効果だったのだ。レヴィローズ相手に炎の術を出すことは|愚《おろ》か以外のなにものでもない。
ダリィは|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させた。
「|煩《うるさ》い。ですわね。わたくし、術は炎しかあつかえませんのよ! そのくらいのことはあなたも知っているでしょう? なんといってもわたくし、レヴィローズの主となるための|修行《しゅぎょう》しかしてませんもの。他の術なんて必要ございませんもの。それより、あなたこそ、こうなることを最初からわかっていたなんていうんじゃないでしょうね?」
シャトーは首を|傾《かし》げた。それから呟く。
「いいえ。わかっていたのは、私じゃない」
「え?」
「すべては、レヴィローズの意志」
「は?」
シャトーはちらりと赤い瞳の少年と、その隣に立つ|紳士《しんし》に目を向けた。そして肩をすくめる。
「ダリィはまだまだ修行がたりない」
そう言って彼女はダリィの手を取ると、身を|翻《ひるがえ》した。
「ちょっとシャトー? それはどういう意味ですの?」
「レヴィローズはあなたの手には|負《お》えないという意味。災難なのは、ジャスティーンの方」
そういい残して、シャトーはダリィを引きずって去って行った。
残されたジャスティーンはぽかんとした。
「災難なのはあたしの方……?」
わかっていたのは、シャトーじゃない?
すべてはレヴィローズの意志?
(……まさか……っ)
次の瞬間、怒りのあまりにみるみる間に、真っ赤になった。
「レンドリア……あんた、まさか……」
レンドリアはそ知らぬ顔をして、さりげなくジャスティーンから目をそらした。
その隣で、ケイド。ダリネードが感心したように|顎《あご》に手を当て、シャトーの消えた方向を眺めつつ呟いた。
「ものごとを正確に見極める目に関しては、あの子が一番だな。たいした子だ」
ジャスティーンはぶるぶると|震《ふる》える|拳《こぶし》を|握《にぎ》りしめた。
「ケイド・ダリネードさん。まさか、あなたまで……っ」
信じられないという表情で|唸《うな》った。
(そういえば、ケイドさんったらなんであの時、あのタイミングであたしの前に現れたのよ?)
それはまさに|絶妙《ぜつみょう》なタイミングとしか言いようがなかった。
ジャスティーンはたちまちのうちに真相を悟っていった。
「あんたたちグルだったのね!」
ジャスティーンは叫んだ。
彼らの|悪行《あくぎょう》はたった今、シャトーの一言によって|白日《はくじつ》のもとにさらけ出された。
「|邪悪《じゃあく》なのは|叔母《おば》様より、あんたたちの方じゃないっ!!」
すべてはケイド・ダリネードとレンドリアが|結託《けったく》しておこなったことだったのだ。
おかしいとは思っていたのだ。
叔母の代理人としてジャスティーンをわざわざ迎えにきたケイド・ダリネードが、|何故《なぜ》あんなにあっさりとジャスティーンをこの町まで送り届けたのか。
そして、ジャスティーンが火を消そうとした時―――やけに炎が周囲にはじけとんだと思ったら……。
(なんだか変だと思ったのよ。あんなに|派手《はで》に|弾《はじ》けて燃え移っちゃうなんて!)
ジャスティーンの体はレヴィローズに守られていた。それは裏を返せば、ジャスティーンを守るために、火そのものを消すほうが楽だったはずなのだ。
そのあと、炎が広がっていったのは、レンドリアの責任ではない。最初に火をつけたのも、直接レンドリアの|仕業《しわざ》だったわけではない。
しかし。
レンドリアは困ったような表情で、髪の毛を|掻《か》いた。
「いやあ。まさか。あんなことになるなんて俺も思わなかったぜ」
「あんただったのね。ダリィをたきつけたのはっ」
「俺はなにもしてねえよ。あいつが勝手に動いただけだぜ。まあ、やると思ったけどな。ジャスティーンが指輪を持ってっちまったら。絶対」
「最初からわかっていて止めなかったっていうのは同罪よっ! いいえっ、許されざる|大罪《たいざい》よ!」
この調子だと、レンドリアはダリィが炎の魔術しかつかえないことも、最初から知っていたに違いない。
「あんたたちそんなことのために、あたしの大切な町をこんな風にしたの?」
「そう怒るなよ。|悪気《わるぎ》はなかったんだ」
「なんでもかんでも悪気がなかったですませられると思ったら大間違いよっ」
ケイド・ダリネードがジャスティーンを|宥《なだ》めすかした。
「まあまあ、ジャスティーン。少し落ち着いて」
「いいえ、これが落ち着いてられますか? 運よく|怪我《けが》人《にん》も出なかったからいいようなものの、|下手《へた》をしたら山のような死人が出てたかもしれないのよ!」
しかし、ジャスティーンの怒りの言葉に、レンドリアはあっさりと答えた。
「ああ、それなら最初からまったく心配なかったぜ」
このような状況の中で、あまりにも軽いレンドリアの言葉に、ジャスティーンはますます|憤《いきどお》りを覚えた。
「大丈夫? なにが大丈夫なのよ?」
「シャトール・レイが、ついてたからな。あいつの|火の玉娘《ダリィ》の|手綱《たづな》さばきは、超一流だぜ」
ジャスティーンは目を丸くした。そんなジャスティーンの様子を見て、レンドリアは言う。
「なんだ。おまえ、気づかなかったのか?」
「気づかなかったって、何を?」
「火の玉娘が|放《はな》った火が、人に燃え移らないように|頑張《がんば》ってたのは、あの金髪頭だ」
ジャスティーンは驚いた。
(人に燃え移らないように頑張ってた……?)
「だってシャトーは……」
ダリィの仲間として、指輪をジャスティーンから奪うために、ここまでやってきたのではなかったのか? ジャスティーンが首をかしげていると、レンドリアはやれやれという風に肩をすくめた。
「おまえ、けっこうおめでたい性格してるよな」
「え?」
「あれだけひでえ火事で、死人どころか怪我人まで一人もでなかったのが、偶然だとでも思ってんのか?」
ジャスティーンの表情が固まった。
「つまり、シャトール・レイは、あの火の玉娘の炎を直接消すことはできなくても、その火が人間に|襲《おそ》いかからないように、コントロールするくらいは、できたわけだ」
レンドリアはなんでもないことのように言った。
「あいつらが、候補者に選ばれたのは、つまりそういうことだよ。……あいつらが、俺を所有すれば、恐ろしい使い手になっただろうな」
ジャスティーは|茫然《ぼうぜん》とした表情で、レンドリアの言葉を聞いていた。ここで、レンドリアはにっと笑った。
「だが、エリオスはもっとすごかったぜ」
ジャスティーンはもはや声をあげる気力もなかった。ただぐったりとレンドリアの言葉を聞いているだけだ。
レンドリアはジャスティーンに向かって言った。
「その点、おまえは、何もできない。俺の力を所有していても宝の持ち|腐《ぐさ》れだ」
「―――」
「それでも俺はおまえがいい。それだけじゃ|駄目《だめ》か?」
レンドリアはジャスティーンの顔を|覗《のぞ》き込んだ。天にも届くほど|気位《きぐらい》の高い炎の王子が、無能な|主《あるじ》を選んだ。それは本来決してありえないこと。
それだけでは駄目なのか?
レンドリアはじっとジャスティーンを見つめた。
ジャスティーンはレンドリアから目をそらせた。
(そんな目をしてみせても駄目よ)
そんな風に真剣に、ジャスティーンを求めているような瞳をしてみせても、駄目だ。
「冗談じゃないわ。あたしをまた|騙《だま》したくせに。契約は|破棄《はき》よ。あんた自分のしでかしたことの大きさをわかってないの? 見なさいよ、この現状!」
ジャスティーンは焼け落ちた下町を腹立たしげに指差した。
「いくら、シャトーのおかげで、|怪我人《けがにん》が出なかったっていっても、あんたのやったことは許されないことなのよ」
「俺はなにもやってねえよ。ただおまえにくっついてただけじゃねえか。やったのはあの火の玉娘だろ?」
「目に見えない形で|挑発《ちょうはつ》したのはあんたじゃない。だいたいこうなるってわかってて止めなかったってのは、もっと罪が重いのよ」
「―――ケイド・ダリネードは?」
「なに言ってんのよ! 悪いのは全部あんたよ! 話をすりかえてごまかそうたってそうはいかないんだから!!」
ジャスティーンの怒りようを見て、レンドリアは素直に|謝《あやま》った。
「―――悪かったよ」
「謝ってすむ問題じゃないでしょ? みんな住む家がなくなっちゃったのよ……」
ジャスティーンの言葉はだんだん力のないものになっていった。
|先程《さきほど》からジャスティーンが怒っているのは、つまりそういうことなのだ。
本当は、ジャスティーンはこのレヴィローズが口で言うほど嫌いではない。
火のように怒ってはいたが、どうしても憎めないのだ。
この気まぐれでわがままな炎の王子を。
だけど、今ジャスティーンが彼を許してしまっては、町の人たちに申し開きができない。
一度は出ていったジャスティーンを、優しく受け入れてくれた大好きな人たちの家が、自分のせいで失われてしまった。
(本当にこれから、どうやって|償《つぐな》ってゆけばいいの?)
そう考えただけでも、ジャスティーンは胸が痛んだ。本当に甲しわけない気持ちでいっぱいだった。
なのに。
ジャスティーンが、これほど悩んでいるのに、レンドリアはあっさりと言った。
「ああ―――。それは大丈夫だと思うぜ」
「え?」
レンドリアはケイド・ダリネードの背中を|叩《たた》いた。
「こいつが、きっとなんとかしてくれる」
言われて、ケイド・ダリネードは「え?」という表情になった。
レンドリアはさわやかに言い放った。
「こいつはこう見えてもすげえ金持ちだからな。一族きっての大金持ちってやつだ。だから|遠慮《えんりょ》なく|湯水《ゆみず》のように金を使いまくってもまったく大丈夫だ。せっかくだから、おもいっきり|豪勢《ごうせい》に建て替えてもらいな。俺が悪いってのなら、こいつだって、同罪だぜ。なんせ、最初から一枚かんでたんだからな。|後始末《あとしまつ》は全部こいつにしてもらおうぜ」
それを聞いてケイド・ダリネードはため息をついた。
「言うと思ったよ」
小さく苦笑する。
しかしジャスティーンはそんなことにはかまっていられなかった。
「最初から?」
ジャスティーンはまじまじとケイド・ダリネードの顔を改めて見つめた。
「そ。ヴィラーネから話が出た時、まっさきにおまえを迎えに行くって言い出したらしいぜ。ヴィラーネの使いっぱしりを自ら買ってでやがって。普通そういうことは|下《した》っ|端《ぱ》にさせるもんだろうにな」
するとケイド・ダリネードはジャスティーンに向かってすまなさそうな表情を浮かべた。
「エリオスの娘がどういう子か、最初に自分の目で見てみたかったんだよ」
「というわけだ。責められるべきは俺じゃねえ。俺だって本当は巻き込まれた方なんだぜ。一族の|思惑《おもわく》にな。ようするに被害者なんだよ。だから責任取るのは一族を代表してこいつに決定だ」
ぽんぽんとレンドリアはケイド・ダリネードの肩を叩きつづける。
ケイド・ダリネードはますます苦笑した。
それでも彼はレンドリアの無理難題を受け入れたようだ。その口からは拒絶の言葉は出てこない。
レンドリアに勝手に役割を決められてしまった彼は、さっそくあちらこちらで|放心《ほうしん》している町の人たちに声をかけに行ってしまった。
全てを失い|落胆《らくたん》している町の人々に、希望を|蘇《よみがえ》らせるための特別の言葉を用意して。
あとに残されたのは、ジャスティーンとレンドリアだけだ。
しかしジャスティーンはレンドリアから目をそらせる。
「けっきょく、あんたは人間相手に遊んでるのよ」
ジャスティーンは呟く。
町を半焼させたダリィも。
そのダリィをフォローするように、人々を炎から守ったシャトーも。
そして、やっかいな後片付けを全部押し付けられてしまったケイド・ダリネードも。
結局は、このレヴィローズ―――レンドリアのてのひらの上で踊らされているように見える。
レンドリアは何もしていない。だけど、こうなることを最初から知っていた。
ダリィが火を放ち、シャトーがジャスティーンの大切な人々を守り、ケイド・ダリネードがレンドリアのわがままを受け入れること―――。それを彼は全てわかっていたのだ。
そして、彼は自分の願いどおり、ジャスティーンを手に入れようとしている。望んだ|玩具《おもちゃ》を手に入れようとしているのだ。
|退屈《たいくつ》な退屈な彼の長い生涯の中でほんの一瞬だけ楽しめる小さなゲーム。
自分と目を合わせようとしないジャスティーンを見て。
レンドリアはそっとジャスティーンの名を呼んだ。
「ジャスティーン」
その声はやけに優しく響いた。
「なによ」
ジャスティーンは目をそらしたまま答える。
「俺はおまえが欲しかったんだ」
その言葉に、ジャスティーンの頬はカッと赤くなった。慣れないことを言われ、うろたえた。
「また、そうやって……。なんでも自分の思い通りにしようとたくらむつもりね。もう騙されないわよ」
ジャスティーンは自分が、最後の|砦《とりで》だと思った。
(あたしだけはもうあんたのてのひらの上で踊らない)
自分だけは、この炎の王子の思い通りには動かない。絶対。
だけど―――。
「|嘘《うそ》じゃない。本当だ」
レンドリアはじっと真剣な表情でジャスティーンを見つめる。まっすぐにそらさない。
「俺はおまえを手放す気はない。俺はおまえのことを気に入った。だから契約は破棄しない。そしておまえは俺を受け入れた。だから、もうおまえは俺のものだ」
言い切ったレヴィローズの言葉にジャスティーンは|絶句《ぜっく》した。
(なんてわがままなやつなの?)
でも、だからこそ、これまで誰の手にも|負《お》えなかったのだ。
このレヴィローズは。
案外エリオスが逃げたのは、このレヴィローズをうまく|操《あやつ》る自信がなかったからかもしれない。
そして、ジャスティーンにも、当然そんな自信などない。
この炎の王子をうまく所有できる人間など、この世には存在しない。これまでも、そして、これからも。
だけど。
ジャスティーンはとうとう大きくため息をついた。それからようやくレンドリアの目を真正面から見た。
ゆっくりと尋ねる。
「もう二度と、あたしを騙さないって約束する?」
「ああ」
「二度と裏切らないって、誓う?」
「誓う」
「本当に?」
「本当だ」
「でも、言葉だけじゃ、駄目。足りない。|証《あかし》をちょうだい」
レンドリアはしばらく考え込んだあと、ジャスティーンの前にひざまずいてみせた。そして、ジャスティーンの手を取ると、口づけた。
しかしその赤い目はいたずらっぽく輝いている。
「俺が、ここまでやったのは、おまえがはじめてだ。俺は人に頭をさげるのも、|敬《うやま》うのも大嫌いだからな。これが誓いだ」
だが、口元に浮かんでいるのは、新しい玩具を手に入れた|会心《かいしん》の笑み―――。
「これで俺はおまえのもの」
声に出さないもう一つの言葉。
そして、おまえは俺のものだ
ジャスティーンは|諦《あきら》めたように、肩をすくめてみせた。
それから自分の指に収まっている指輪とレンドリアを見比べる。
結果はたぶん最初から決まっていたのかもしれない。
ジャスティーンがどれだけ抵抗してあがいても。
レヴィローズが、ジャスティーンを自分の主と定めたその時から―――。
「わかったわ。この指輪はもうあたしのもの」
ジャスティーンは自分のこれからの未来に|一抹《いちまつ》の不安を感じながら、そう答えた。
――おわり――
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あとがき
さて、あとがきです
|懐《なつ》かしい懐かしいあとがきです
なんと半年ぶりのあとがきです。よよよ(←泣いている)。
こんなに間が開くとは、さすがの私も思っておりませんでした。
日々、「ああ、早く本を出したいなあ」と切実に思っていたのですが、やはり思っているだけでは、本は出なかったようです(←ばか)。
ちょっとしたお休みをいただいたつもりが、そのままずるずると……ああ、ずるずると。
今年はもう少し本が出るといいなあ、と思ってます。はい。
えー、今回のお話はまたまた新しいものです(なんか三冊連続で違うものを書いてしまった……読みきりっぽい話も実は好きだからなあ。この作者)。
でもこの話はもしかしたら続き出るかもしれません。
それにしても、またまた女の子ばっかり(それも約一名極悪)の作品を書いてしまいました。
担当さまに「やはり近頃の読者さんっていうものは、カッコイイ男の子がたくさん出る話が読みたいですよねえ?」と言いつつ、女の子ばかりを出してしまう作者……(すでに|諦《あきら》めの心境)。
やっぱりなんだかんだいって女の子を書くのが好きなのでしょうか? この作者。
街を歩いていても、「あっ、今のコすごくかわいかった」と振り返って|見惚《みと》れるのは、九十九・九%女の子だしなあ。ううーん(←どっか間違ってる)。
ま、いいじゃないですか。たくさんの作家さんの中に一人だけこんなものかきがいたって。てへ(と、話をごまかしてみる)。
ところで今回またしても締め切り前の真っ青事件がおきました。
途中で文字が打ち込めなくなったのです。例によって例のごとく|高遠《たかとお》さんったら、お顔が青くなったことはいうまでもありません。けっきょくワープロソフトの設定がいつの間にか変更されていたために、ソフトが開かなくなってしまったということが判明いたしまして、直った時にはホッと一安心(でもデータの一部はふっとんだ)。
そのあと、どうやったら消えた文章が戻るのよう、と徹夜で悪戦苦闘していた私。
よく考えれば、そんなことしてる|暇《ひま》があったら、もっと早く原稿書き直せばよかったという(これだから|不精者《ぶしょうもの》は)。
まあ、無事に本が出たんだから、|所詮《しょせん》これも笑い話さ、はっはっは(←反省の色ナシ)。
それにしても、ああ、また作品以外でいらぬ労力を使い切ってしまった……。この作者、人生の半分は無駄に過ごしているのです(いえ、それもまた一つの個性よ。くすん)。
それしても、しばらく普通の主婦のような生活をしていて思ったこと。
私はすでに世間のテンポについていってない、ということが判明いたしました。
いえ、テンポは昔からずれてることはずれてるんですが、近頃輪をかけて何かがズレているということがわかったのです。
「あ、また|傘《かさ》忘れてるよ」
「あ、それ今飲んじゃ|駄目《だめ》」
「ああ、よかった。一人足りないと思ったらあなただったのねえ?」
「ああ、待って。一体、|何処《どこ》行くのよ。そこは違うでしょうー。戻っておいで」
どうも小説なんてものを書いていると、夢の世界で生きているようにうすらぼんやりとしてしまうようで、周囲からたびたび注意されます。
家事能力とか必要なことは人並みなんですが、あとのことがどうもふわふわとしているようで駄目です(でもこれでも一生|懸命《けんめい》生きているのよう)。人の五倍は注意して行動しないと、一人だけ抜けてるんですよねえ。
いえ、これは小説を書いているからというより、もって生まれたものなのかもしれない(ってことは一生直らない? ←それはいやだなあ。トホ)。
まあ、気をつけて、生きてゆこう。うん。
しかし、久しぶりのあとがきだというのに、この駄目っぷりはどういうことでしょう。
よく「あとがきくらい|見栄《みえ》を張ったら?」といわれるのですが、これでもこの作者精一杯見栄を張っているつもりなのです。
ではでは、今回も本を手にとって下さった方々、ありがとうございます。
またお会いできると|嬉《うれ》しいです。
十二月下旬 熱い紅茶をいただきつつ、キーボードを|叩《たた》いているとある日   高遠|砂夜《さや》
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底本:「レヴィローズの指輪」コバルト文庫
2001(平成13)年2月10日初版発行
2002(平成14)年11月20日第11刷発行
入力:suk
校正:suk
2006年03月08日作成
青空文庫ファイル:
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