タイム・リープ(TIME LEAP) あしたはきのう[下]
高畑京一郎
[#た―5―2 電撃文庫 500]
若松和彦。校内でもトップクラスの秀才。クラスメイトの鹿島翔香に起こっている不可解な記憶の混乱を分析した彼は、翔香に告げた。“タイム・リープ――今の君は、意識と体が一致した時間の流れの中にいない……”
タイム・リープ。意識だけの時間移動現象。正常な時から“剥《ば》がれて”しまった翔香の『意識時間』。その謎に和彦は迫る。だが、浮かび上がった事実は、翔香を震感させた。“そ、んな……嘘よ……”
第1回電撃ゲーム小説大賞で〈金賞〉を受賞した高畑京一郎が組み上げる時間パズル。最後のピースが嵌《はま》る時、運命の秒針が動き出す――。
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(例)[#ここから目次]
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タイム・リープ(下)
あしたはきのう
高畑京一郎
Kyoichiro Takahata
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第六章 再び月曜日へ 11
第七章 最後は土曜日 71
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第八章 そして日曜日 121
終章 おわりははじめに 151
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おまけ 173
あとがきがわりに 179
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■カバー・口絵デザイン…………………鎌部善彦 Yodhihiko Kamabe
■イラスト…………………………………衣谷 遊 Yu Kinutani
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タイム・リープ
TIME LEAP
………………………あしたはきのう………………………
高畑京一郎
Kyoichiro Takahata
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第六章 再び月曜日へ
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まばゆい光に目が眩《くら》んだ。
そして衝撃《しょうげき》。
翔香《しょうか》は撥《は》ね飛ばされ、叩《たた》き付けられた。
車? 金曜日?
だが、翔香は、車に撥ねられたわけではなかった。それより早く、なにかが翔香にぶつかり、路上から弾《はじ》き出していたのである。
急ブレーキの音が、激しく響《ひげ》く。
翔香は、土手を転がり落ちた。だが、一人ではなかった。翔香の体は、力強い腕に抱きかかえられていた。
和彦《かずひこ》だった。
約束通り、和彦が、翔香を助けてくれたのだ。
和彦と翔香は、抱き合うようにして、河原まで転げ落ちた。
「怪我《けが》はないな」
和彦《かずひこ》が、口早に囁《ささや》く。
「え、ええ……ありがと。痛っ」
悲鳴を上げたのは、和彦が翔香《しょうか》を放り捨てるように立ち上がったからだ。相変わらず、思いやりに欠ける男である。
「ちょっと、若松《わかまつ》くん!」
頬《ほお》を膨《ふく》らます翔香を顧みもせずに、和彦は土手を駆け上がった。
ぎゃるるっ。
土手の上で、タイヤが路面を噛《か》む音がした。そしてその車は、一気に加速し、走り去ってしまった。人は撥《は》ねずにすんだものの、これは面倒《めんどう》な事になると不安に思って逃げ出したのだろう。
和彦は、小さくなっていくテールランプを、じっと見詰めていた。息を呑《の》むほど、厳しい目付きだった。
「?」
翔香は首を傾《かし》げながら、和彦に並び、同じ方向を見やった。テールランプは、もう米粒ほどの大きさになっていた。そして、ふっと消える。道を変えたのだ。
「……失礼よね。怪我《けが》をしなかったからいいようなものの、降りて謝るくらいの事をしたってよさそうなものなのに」
すると、和彦は鋭く舌打ちした。
「何を呑気《のんき》な事を言ってる」
「え……?」
「あの車、ナンバープレートに覆いをしてやがった」
「……え?」
「分からないのか、鹿島《かしま》。この意味が!」
和彦は、翔香の両肩を掴《つか》み締めた。
「痛い……」
翔香は身もだえしたが、和彦は手を緩めなかった。
「わざとなんだ。最初から、君を撥ねるつもりだったんだよ、あの車は!」
「え……?」
「水曜日の植木鉢だって、そうだ。もう間違いない。君は狙《ねら》われている。命を狙われているんだよ!」
「う……そ……」
信じられなかった。
誰《だれ》かが、自分を殺そうとしている? そして、その誰かは、学校の中にまで、自由に出入りしているというのか? 学校の中に、殺人者がいるというのか?
「嘘《うそ》よ……そんなの、嘘よ……」
翔香《しょうか》は、震《ふる》える声で、何度も繰り返した。
「二日も続けてお邪魔《じゃま》してすみません」
「いいえ、それはいいんだけど……どうしたの、翔香? また、具合でも悪くなったの?」
若子《わかこ》は、青ざめた顔の翔香に、眉《まゆ》をひそめた。
「乱暴な車がいましてね。危うく轢《ひ》かれるところだったんです」
和彦《かずひこ》が説明した。
「まあ……それで、怪我《けが》はなかったの」
「うん……大丈夫……」
こんな事、前にもあったな。水曜日の事を思い返しながら、翔香は頷《うなず》いた。
部屋に入ると、翔香はベッドに腰を降ろした。なにをする気も起きなかった。口をきくのも億劫《おっくう》だった。
和彦は、ドアの脇《わき》に、荷物を置いた。鞄《かばん》と、紙袋が一つである。
それから、和彦は、小さく窓を開けて、外を見渡した。河原からここへ来るまでの間もそうだったが、再襲撃《きいしゅうげき》を警戒しているのである。
特に怪しいものは見られなかったのだろう。和彦は窓とカーテンを閉め直して、翔香を振り返った。
「少しは落ち着いたか」
その心中《しんちゅう》にどのような思いが渦巻いているにせよ、和彦の話し振りは、いつものように平静だった。
「ええ……。だけど……」翔香は、額《ひたい》を押さえた。「私を殺そうとしてる人がいるなんて……」
翔香は、ぶるっと身震《みぶる》いした。
「落ち着け」
たった一語のその言葉が、翔香の不安を和《やわ》らげてくれる。自分でも、それが不思議だった。
翔香は、顔を上げた。
「あの時……ずっと、私を尾《つ》けてたのは、やっぱり若松《わかまつ》くんだったの?」
「ああ」和彦《かずひこ》は頷《うなず》き、そして、小さく笑った。「いきなり走りだされたんで、参ったよ。お陰で息が切れた」
「……ありがとう」
「約束は守る。……それより鹿島《かしま》、君はいつから来た?」
「……木曜日からよ」
「『寄り道』はしなかったのか?」
「ええ。それから、木曜日も全部終えてきたわ。……あなたの指示に従ってね」
「そうか……なら……」和彦は、翔香《しょうか》に向けた視線を強めた。「ひとつ……やってみるかな……」
「……なにを?」
訊《たず》ねる翔香に、和彦は薄い笑みを見せた。不敵と形容するに足る、自信に満ちた笑みだった。
「それを説明する前に、まずこれを見てくれ」
和彦は、戸口から紙袋を持ってきて、机の上に置いた。
「何が入ってるの?」
ベッドから立ち上がりながら、翔香は訊ねた。
「焼却炉|脇《わき》の、危険物置き場から拾ってきた」
和彦は、ポケットから手袋を取り出して嵌《は》めた。防寒用の物ではなく、警察官が使うような、白い木綿製の手袋である。
「随分、仰々《ぎょうぎょう》しいのね?」
「証拠になるかとも思ってね」
和彦は、紙袋を開き、中の物を取り出した。
「植木鉢……」
それは、二つに割れた植木鉢だった。内側にこびりついた土は、乾燥して白っぽくなっている。
「これ……水曜日の?」
「そうだ。割れ方に見覚えがあるからな。間違いない」
「うん……だけど、これが、どんな証拠になるの? 指紋かなんか?」
「そんなところだ。もっとも、見ての通りの素焼《すや》きだし、余り期待はしてない。今の鑑識技術なら、大丈夫かもしれないが、向こうも手袋をしてなかったって保証はないからな」
「……だけど、どうして、誰《だれ》かがわざとやったって思うの? 車の事はともかく、あれは事故だって事も……」
「考えられないね」和彦《かずひご》は、きっぱりと言った。「教室の窓の外には、ちょっとした突き出しがあるだろう? ベランダというにはせこいが、人間が楽に歩ける幅のあるコンクリートの突き出しが、さ」
「うん……」
翔香《しょうか》は頷《うなず》いた。男子生徒が、時々、そこを通って隣の教室に行き来したりもしている。
「うっかり落としたんなら、必ずそこでとまる。それが地面まで落ちて来たのは、わざとだからだ。落とす気で落とさなければ、中庭まで落ちて来ない」
「……」
「遅ればせながら、そこに気付いてね。昼間、君と別れてから、教室巡りをしてみた。どこから落としたのか調べるためにね。一階じゃあない。二階でもない。あの時、一二HRの教室には、生徒がいた。下にいる君を狙《ねら》って、植木鉢を落とすような事をすれば、すぐに見咎《みとが》められる」
「……」
「すると、三階か、四階か、それとも屋上か、だ。厄介《やっかい》な事に、三階は美術室、四階は音楽室で、いつも人がいるわけじゃないから、目撃者《もくげぎしゃ》を探すのは難しい。第一、人目に付かないように注意しただろうしな」
「植木鉢の数は数えてみた?」
生徒会が配った植木鉢は、各クラスに十個ずつである。九個しかない教室があれば、少なくても、落とした教室は確定される。
「残念ながら、美術室にも音楽室にも、十個|揃《そろ》ってた。あとから補充したのか、最初から用意していたのか、ほかの教室から持ってきたのか、今となっては分からない」
和彦は、翔香が思いつくような事は、とっくに調べているのだった。
「じゃあ……結局、どこから落としたのかも、誰が落としたのかも、なぜ落としたのかも、なんにも分からないままじゃない」
「確かに、『なぜ』かは、分からない。おそらく、日曜に関係する事だとは思うがね。だが、『誰』かと、『どこから』かは、突き止められる」
和彦は、自信たっぷりに言った。
「……どうやって?」
「植木鉢を落としたのは、音楽室からか美術室からか屋上からかだ。水曜日の昼休みに、そこへ出入りした者が分かれば、犯人の見当は付けられる」
「訊《き》き込みをするって事?」
「いや、それは余り期待できない。さっきも言ったが、向こうも、見られないように注意しただろうからな。それに」和彦《かずひこ》は、いったん言葉を切った。「こっちが嗅《か》ぎ回っている事を、向こうに知られるとまずい。少なくとも、こっちに相手の特定ができるまでは、向こうを追い詰めるような事はしたくないんだ。で、なけりゃ、命が幾つあっても足りやしないからな」
「……じゃあ?」
「見張りを立てるのさ。水曜日の昼休みの、音楽室と美術室と屋上にな。向こうも、見られないように気を使うだろうが、そうする事を、こっちが知っていれば大丈夫だ。勿論《もちろん》、見張りには身を潜めてて貰《もら》うようにしなきゃならないが」
「な……にを言ってるの?」
翔香《しょうか》は、まじまじと和彦を見詰めた。水曜日は既《すで》にすませてしまっている。翔香にとっても過去だし、勿論、和彦にとっても過去である。今更《いまさら》、見張りなど立てられる筈《ばず》がない。
和彦は、翔香に向き直り、ゆっくりと、言った。
「君は月曜日の後半をまだ残している。月曜日に行った時に、友達に今の事を頼むんだ。三ヶ所必要だから、三人にな。水森《みずもり》たちにでも頼めば、ちょうど足りるだろう」
和彦は、優子《ゆうこ》、幹代《みきよ》、知佐子《ちさこ》の三人の事を言っているのだ。
それは分かったが、しかし……。
「出入りする奴《やつ》の中には、関係ない奴もいるだろう。だが、候補者が複数になっても、その中に犯人がいる事だけは分かる」
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな事をしたら、時間が再構成されちゃうじゃない。『今いるあなた』が、いなくなっちゃうわ」
果たして、和彦は、自分の言っている事が分かっているのだろうか。
だが、和彦の自信に満ちた笑みは変わらなかった。
「大丈夫。そんな事はないよ。なぜなら、俺《おれ》も君も、水曜日の昼休みには中庭にいた。校舎内で誰《だれ》がなにをしていたかを知らないからな」
「???」
翔香は首を振った。
「……なにを言っているのか、全然分からない」
「だろうな」和彦《かずひこ》は頷《うなず》いた。「俺《おれ》も、自分で、妙な事を言ってると思うよ。だけど、多分、正しいと思う。それですべて筋が通る」
「……説明して」
「勿論《もちろん》。……座ってもいいかな?」
「……ええ」
翔香《しょうか》が頷くと、和彦は椅子《いす》を引き、ベッドの翔香と向き合うようにして座った。そして、しばらく、考えをまとめるように目を閉じていたが、ややあって話し始めた。
「昨日、君が指摘した、『俺のミス』を覚えているか?」
「ええ」
翔香は頷いた。珍しく、今回は、翔香の『昨日』と和彦の昨日は一致している。
「もう一度、繰り返してみてくれ」
「だから……『木曜日に私が階段から落ちた』のが、『もともとの過去』でしょ? 若松《わかまつ》くんは、それを水曜日に知ってしまった。予備知識が加わったのよ。時間を再構成させないためには、『私は階段から落ちなければならなかった』のに、予備知識が与えられたせいで、若松くんは、私を助けてしまった。それがミス……でしょ?」
「そうだね」和彦は頷いた。「昨日の俺の説明だとそうなる。君がそう思っても無理はないし、俺も昨日はそう思った」
「……今は、そう思ってないの?」
「もっと細かく考えなけりゃならなかったんだよ」
「? どういう事?」
「君は、『階段から落ちる』と言う時に、『その結果、怪我《けが》をした』という推論を含めているだろう? だから、混乱したんだ」
「……え?」
「君は、木曜日に階段から落ちてリープした。怪我をしてからリープしたわけじゃない。『君の過去』は『落ちた、その瞬間《しゅんかん》』までだ。そして俺は、『その過去』は、変えていない。なにしろ、踊り場に水がこぼれてるのに気付いても、そのままにしてたくらいだからな」和彦は笑った。「もっとも、あの時は、そこまで深く考えてはいなかったが」
「よく……分からない……」
「こう考えてもいい。『予備知識』に基づいた行動は、時間を再構成させるおそれがある。だが、君は、『階段から落ちた結果』を知らなかった。君が知らない以上、俺も知りようがない。つまり、その件に関する『予備知識』は、俺には与えられなかったんだよ」
「……」
「『予備知識』がなかったから、俺《おれ》の行動は、『もともとの過去』と同じだった。同じ人間が、同じ状況にあって、同じ判断をし、同じ行動をしたわけだ」
「という事は……『階段から落ちたけど、若松《わかまつ》くんに助けられた』っていうのが、『もともとの過去』だったわけ?」
「そう。俺も君も、それを『知らないまま』行動し、結果として『正解』に達していたというわけさ」
「さて、そこで、この考えを発展させるとこうなる。『予備知識』がないままの行動であれば、それがどんな事であっても、時間を再構成させない」
「……ちょっと、乱暴なような気もするけど……」
「俺もそう思わないではないがね」和彦《かずひこ》は苦笑した。「理論を組み立てていくとそうなる。矛盾もない」
「そうなの……かしら?」
なにがなし、騙《だま》されているような気がしないでもない。
「従って、さっきの『見張り作戦』も可能なわけだ。俺も君も、『見張り作戦』があった事も知らないし、なかった事も知らないからな。『予備知識』がない以上、自由に行動できる」
「ちょっと、待って? じゃあ……仮に、今から私が優子《ゆうこ》に電話したら、どうなるの? そんな事頼まれなかったって言われたら?」
「勿論《もちろん》、『見張り作戦』はできなくなる。だが……そう答えるかな?」
「え?」
「これから、君には、今言った計画を実行して貰うつもりでいる。だから、多分、水森に訊けば、見張りをしていたと言うだろう。……多分な」
和彦は、自信ありげに答えた。
本当かしら……?
半信半疑な翔香《しょうか》だったが、ある事を思い出して、思わず声を上げてしまった。
「あ……」
「どうした?」
「そういえば……」
『見張り作戦』が実施される予定の『水曜日の昼休み』、優子、幹代《みきよ》、知佐子《ちさこ》の三人は、早早と昼食をすませて、席を立って行ったのだった。
あれは……これだったのね……。
パズルのピースが、また一つ、かちりと嵌《はま》った。
「遅ればせながら『予備知識』が得られたわけか」
翔香《しょうか》の説明を聞いて、和彦《かずひご》は笑った。
どうやら、和彦の理論は正しいらしい。それがよく分かった。今、和彦が言い出した計画が、過去において既《すで》に実行されていた事が分かったのだから。
「となると、今度は、どうあっても、『見張り作戦』を実行させなければならない。失敗すれば、時間が再構成されてしまう。……頼むぜ、鹿島《かしま》」
「分かったわ、やってみる。月曜日に戻った時に、優子《ゆうこ》たちに今の事を頼めばいいのね。えっと……二日後ね……二日後の昼休みに、音楽室と美術室と屋上への階段を見張っててって」
「誰《だれ》にも見付からないようにだ」
「うん」
「それに、あと二つ注文がある」
「なあに?」
「一つは、少なくとも、『今』まで、つまり『金曜日の夜』以降まで、その事を誰にも、君にもだぜ、話さないようにして貰《もら》う事。理由は分かるな?」
「なんとか……。つまり、『今』より前の私は、その計画の事を知らないから、ね?」
「そうだ。『今』より前の君が、それを知るのはまずい」
「うん……。二つ目は?」
「見張りの結果を、どうやって、俺《おれ》に持ってきて貰うかだ」
「私に、じゃなくって?」
和彦は頷《うなず》いた。
「君には知らせたくない。『予備知識』は、君の行動を束縛《そくばく》する。昨日も言ったが、俺は、この件の一切の片が付くまで、君に対して情報管制を布《し》くつもりだ」
「『予備知識』で行動を束縛されるのは、あなたも同じでしょ?」
「それはそうだが、二人とも知らないままでは、なにもできやしない。君か俺か、どちらかが知らなければならないし、束縛を覚悟しなきゃならない。君と俺のどちらかという事になれば、俺《おれ》が引き受けるしかない。こう言っちゃなんだが、危なっかしくて、とても君には任せられない」
悔しいが、これまでの経緯を考えると、翔香《しょうか》には言い返せなかった。
「……だけど、あなたに報告するようにするって言っても、やっぱり『今』よりあとじゃないとならないんじゃない? それとも……本当はもう知ってるの?」
これから『見張り作戦』の手配をする翔香のために、知っていて知らぬ振りをする事ぐらい、和彦《かずひこ》なら容易にやってのけるだろう。
疑いの眼差《まなざ》しを向ける翔香に、和彦は苦笑した。
「残念ながら、知らない。だから、君は、月曜日に行った時、水曜日の昼休みに見張りをし、その結果を、金曜日の夜以降に俺のもとに届けて貰うよう、水森たちに頼まなければならない。勿論《もらろん》、理由は話せないし、金曜日までの間に、見張りの結果を忘れられても困る」
「……そんなに色々条件をつけられちゃ無理よ」
「だろうね」和彦は頷《うなず》いた。「だから、見張りの結果は郵便で送って貰う事にする」
つまり、手紙を出して貰うという事だろう。時間を越えて情報を伝えて貰うには、確かに良い方法かもしれない。
「だけど……市内だし、二日もしないで着いちゃうんじゃないの?」
水曜日に出すとすると、金曜日か、ひょっとすると木曜日に着いてしまうだろう。宛《あ》て先を翔香の家にするにしろ、和彦の家にするにしろ、これも時間を再構成させる原因になりかねない。
翔香の懸念《けねん》などは、とうに考慮《こうりょ》のうちだったらしい。和彦は頷いた。
「その通りだ。だから、別の人間に宛てて出して貰う」
「別の……?」
「名簿を出してくれないか。生徒全員の住所を記した名簿があるだろ?」
「ええ……」
翔香は立ち上がって、本棚を探した。だが、見付からない。
「おかしいわね。確か、この辺にあった筈《はず》なんだけど……」
和彦は、部屋中を引っ繰り返し始めた翔香を、しばらく眺めていたが、これは長くかかると思ったのだろう、
「ゆっくり探しててくれ。俺は、ちょっと用足しに行ってくるから」
と、言った。
「お手洗いだったら、階段を降りて右よ」
「分かった」
和彦《かずひこ》は、部屋を出て行った。
戻ってきた和彦は、本やノートが積み上げられた床を、呆《あき》れたように見回した。
「まだ見付からないのか?」
「うん……おかしいなあ……確かにある筈《はず》なんだけど……」
「ふむ……?」和彦は少し考え込み、そして言った。「鞄《かばん》を調べてみたか?」
「鞄? そんな所にないわよ。だって入れた事ないもの」
「『今までは』だろ? いいから、調べてみろよ」
「……」
翔香は、納得いかないまま、鞄を開け、中を覗《のぞ》き込んだ。
「ほら、ない。大体、あれば、学校で鞄を開けた時に気付いた筈よ」
「滅多《めった》に使わないポケットかなんかがあるんじゃないか? ……そこのファスナー付きのポケットを開けてみな」
「……」
確かに、そういうポケットはある。しかし、滅多に使わないのは、不便だからで、そんな所に名簿なんかが入れてあるわけがない。……のだが、
「……あった」
和彦の言った通りに、そのポケットの中に、名簿が入っていたのだ。名簿のほかにも、まだ手に触れる物がある。引き出してみると、それはレターセットだった。中には、便箋《びんせん》のほかに、封筒が二つ入っている。
「……なんで、ここにあるって分かったの?」
目を丸くする翔香に、和彦は答えた。
「君が、俺《おれ》の指示通りに動いてくれるなら、当然そこにある筈だからさ。……日曜日に戻った時、そこに名簿とレターセットを入れとくのを忘れるなよ」
「『日曜日に戻った時』?」
「そうしないと、『月曜日』の学校で使えない」
「……」
ああなって、こうなって、そうなる。和彦の思考の組み立て方は明快極まりなく、言われてみれば、ああなるほど、と納得いくのだが、入り組んだ因果《いんが》の網を的確に解きほぐしていく手腕には、ただただ感心するしかない。
「さて、その名簿を貸してくれ」
和彦《かずひこ》は、翔香《しょうか》の手から名簿を受け取ると、ぱらぱらとめくり始めた。
「……ああ、ここだ。こいつの名前を覚えておいてくれ」
翔香は、和彦のそばに寄って、名簿を覗《のぞ》き込んだ。
二六HRの生徒名簿だった。翔香は、和彦が指し示す名前を読んだ。
「関《せき》……鷹志《たかし》……?」
「そうだ。こいつを受取人にしてくれ。そして、差出人の所に『連絡するまで、なにも言わずに預かっていてくれ。若松《わかまつ》』と、書いておいてくれれば、多分、誰《だれ》にもなにも言わずに、保管してくれると思う」
「若松くんの親友なの?」
「そんな上等なもんじゃないが、頼りになる奴《やつ》だ。ただ……女文字はやめてくれよ。いくら奴でも、妙に思うだろうからな」
「だけど……。この関くんも、手紙を受け取ったら、どういう事か、あなたに訊《き》くんじゃない? それが『今』より前だったら……」
「だから『連絡するまで』の一文が必要なんだ。そう書いておけば、奴の事だ、妙だとは思っても、言う通りにしてくれる」
「信頼してるのね?」
「まあね」
和彦は断言した。翔香としては、それを信じて行動するしかない。
「だけど……」翔香は溜息《ためいき》をついた。「こんな、わけの分からない頼みを、優子《ゆうこ》たち、聞いてくれるかしら……」
「信頼してないのか?」
「だって……」
翔香が膨れると、和彦は笑いながら頷いた。
「確かに、妙に思うだろうな。だけど……そうだな、『おまじない』って事ならどうだ?」
「え?」
「幸運を呼ぶ『おまじない』とかって事なら、女子高生は、相当妙な事でも、引き受けてくれるんじゃないか?」
「そうねえ……」
和彦は、女子高生に関して、妙な固定観念を持っているようだが、違うとも言い切れなかった。確かに、『おまじない』なら、手続きが複雑でも、それなりに納得してくれるだろう。いや、むしろ複雑な方が、効果ありげに思われるかもしれない。
「うまくいくかもしれないわね」
翔香《しょうか》は頷《うなず》いた。
「さて、と。じゃあ、君がやる事を忘れないうちに、行ってきて貰《もら》おうかな」
勿論《もちろん》、月曜日へ、という意味である。
「また、椅子《いす》に座るのね?」
先回りして言うと、和彦《かずひこ》は苦笑した。
「じゃあ、とりあえず、そうして貰おうか」
翔香は、昨日と同じように机に足を載せ、椅子を後ろに傾けて座った。
その背後に、和彦がまわる。
不意に部屋が回転し、翔香を見下ろす和彦の顔が、目に入った。
「いつから来た?」
「……『行って』ないわよ」
気まずい感じで、翔香は答えた。
「やっぱり二度は無理か」
和彦は苦笑しながら、椅子を元の位置に戻した。
「……なんでリープできないのかしら? 一度目はうまくいったのに」
「君が、俺《おれ》を信じ切ってるからだろう。『怖い事』じゃなくなっちまったのさ」
その言われように、翔香は赤面してしまった。
「じゃ……どうするの?」
「心配するな。こんな事もあろうかと、別の仕掛けも用意してある」
翔香は、目を丸くした。
「いったい、いつの間に……」
そう言い掛けて、さっき和彦が席を外した事を思い出した。おそらく、あの時に準備したのだろう。用意周到とは、まさにこの事である。
「下の階?」
「まあね」
「どんな仕掛けをしたの?」
「それを教えちゃ、リープできなくなる」
言われてみれば当然である。
『危険』の内容をあらかじめ知ってしまっては、『危険』ではなくなってしまう。
少なくとも、その度合いが著しく減少してしまうだろう。
「じゃ、行こうか。玄関の方だ」
和彦《かずひこ》に促されて、翔香《しょうか》は部屋を出た。和彦は、そのあとに続く。
階段を降りようとした時、和彦が、ぽつんと言った。
「ごめんな、鹿島《かしま》」
「え?」
振り返ろうとした時、和彦が、どんと、翔香の背中を突き飛ばした。
心構えも何もなかった。
「きゃあ?」
翔香は悲鳴を上げて、階段を転げ落ちた。
翔香は抱きとめられた。力強い腕に。
「危ないな、鹿島」
和彦の声が言った。
「あなたねえ……」
幾《いく》らなんでも乱暴過ぎる、と、文句を付けようとして、翔香は口を噤《つぐ》んだ。
和彦は体操服装だったのである。汗のにおいが、ほのかに鼻孔《びこう》をくすぐり、翔香は慌《あわ》てて、和彦から身を離した。
校舎の中だった。昇降口のすぐ近くの階段の途中である。
今は月曜日、三時間目が終了した時点なのだ。翔香は、月曜日へのリープに成功したのである。忘れていた後頭部の鈍い痛みまでが、蘇《よみがえ》っていた。
「よう、役得《やくとく》だな」
同じく体操服姿の男子生徒が、からかいながら通り過ぎていく。
和彦は、ちっと舌打ちした。馬鹿馬鹿《ばかばか》しいと言わんばかりの、不快げな仕草《しぐさ》だった。
「気を付けろよ」
和彦は、そう言い残して、階段を上がって行った。
「あ、ありがと……」
翔香は、その後ろ姿に礼を言ったが、和彦は振り返りもしなかった。
和彦の素《そ》っ気《け》なさや冷徹さに、翔香はしばしば閉口させられたものだったが、それと比べてさえ、この月曜日の和彦は更《さら》に無愛想だった。
してみると、和彦《かずひこ》も変化しているのである。それなりに、翔香《しょうか》に対して親しさを見せてくれるようになっていたのだ。
そんな事を考えていた翔香は、はたと気付いた。
「いけない。そんな場合じゃなかったわ」
教室では、体育を終えたばかりの男子生徒たちが着替えをしていた。女子生徒はいない。まだ更衣室で着替えをしている最中なのだろう。
翔香は、半裸《はんら》を晒《さら》している男子生徒の中に、こそこそと入り込んだ。自分の席から鞄《かばん》を持ち出し、急いで外に出る。
廊下に出たところで、手早く鞄の中を改める。やはりというべきか、名簿もレターセットも、ちゃんとポケットの中に入っていた。封筒の数を数えると、五つあった。
翔香は、進路相談室に行った。ここは各種大学の資料が揃《そろ》っていて、おもに三年生が利用する部屋だが、机も置いてあるので、書き物をするにはちょうどいい。昼休みも間近なこの時間には、翔香のほかには誰《だれ》もおらず、その点でも都合がよかった。
女文字は困る、との和彦の指示があったので、翔香は、癖《くせ》のない文字になるよう心掛けながら、三通の封筒の宛て名に、関《せき》鷹志《たかし》の名前と住所とを書き込んだ。差出人の所には、これも和彦の指示通りに、『連絡するまで、なにも言わずに預かっていてくれ。若松《わかまつ》』と書き入れた。
それから、各々《おのおの》の封筒に、二枚ずつ白紙の便箋《びんせん》を入れ、切手を貼《は》った。
「これで、よしと」
教室に戻ると、着替えのすんだ女子生徒たちが戻ってきていた。
「あ、どこ行ってたのよ、翔香」
机を寄せ集め、即席の食卓を作り上げていた優子《ゆうこ》たちが、声を掛けてきた。
「うん、ちょっとね」
翔香は言葉を濁《にご》しながら席に着き、弁当箱を取り出した。
いつものように、昼食をとりながらの、他愛《たわい》ないお喋《しゃべ》りが始まった。翔香は、それに相槌《あいづち》を打ちながら、間《ま》をはかった。
間断ないお喋りの中にも、切れ目というものはある。翔香は、それを捕らえ、さりげなさを装って切り出した。
「……ところで、みんなに頼みたい事があるんだけど……」
「なにを?」
優子《ゆうこ》が、微笑《ほほえ》みながら訊《き》き返した。
「ちょっとした、おまじないなんだけどね」
「おまじない? 翔香《しょうか》って、そういうの信じる方だっけ?」
知佐子《ささこ》が意外そうな表情を見せ、
「どんな?」
幹代《みきよ》が興味津々《しんしん》といった風で乗り出した。
「幸運のおまじないよ。うまくいけば、私の人生が開けるの」
よく言うと自分でも思うが、これがうまくいかなければ、翔香の『時間』はもとには戻らないのだから、その意味では大袈裟《おおげさ》でもなんでもない。
「そんなの効果あるのかしら」
知佐子が、疑わしげに言った。
「多分ね。なんたって折り紙付きだもの」
それも、衆《しゅう》に優れた分析力と洞察力を持つ和彦《かずひこ》の折り紙である。
信頼するに値するし、事実、翔香は信頼している。
「それで? 私たちに何をして欲しいの?」
優子が促した。
「それが、ちょっと複雑なんだけど……」
翔香は、こほんと一つ、空咳《からせき》をしてから説明を始めた。
水曜日、つまり、今日から二日後の昼休みに、美術室と音楽室、それから屋上へ上がる階段を見張って、そこに出入りする人間を書き留めておいて欲しい。その際、誰《だれ》にも気付かれないように、身を潜めていて欲しい。そして、この事は他言無用にして欲しい。
「なにそれ?」
「それがおまじないなの?」
知佐子と幹代が、顔を見合わせた。
「お願い。無茶な事言ってるって分かってるけど、必要な事なの。お願いだから、私を助けると思って、力を貸して」
翔香は、両手を合わせた。ここで断られたら、和彦の計画がすべて狂ってしまう。
「分かったわ、そんなに言うんだったら、手伝ってあげる」優子が頷《うなず》いてくれた。「美術室と音楽室だったわね」
「それと屋上への階段」
「そうだったわね。それじゃ、その屋上の見張りは私がしてあげる」
「じゃ、私は美術室」
「分かったわ、音楽室を見てればいいのね?」
幹代《みきよ》と知佐子《ちさこ》も、承知してくれた。
「ありがとう」翔香《しょうか》は、胸を撫《な》で下ろした。「だけど、もう一つ、注文があるの」
「なに?」
「その……見張りの結果だけど、私には教えないで」
「え? それじゃあ、誰《だれ》に教えればいいのよ?」
優子《ゆうこ》が不審な表情になった。
翔香は、三通の封筒を取り出して、優子たちに、それぞれ一通ずつ渡した。
「見張りの結果は、この中に入れて、投函《とうかん》して欲しいの。もう一度、言っておくけど、この事は誰にも言わないでね。私にもよ? もし、この件に関して話し掛けられても、私は知らんぷりするからね」
優子たちは、自分の前に置かれた封筒をしげしげ眺めていた。どの顔も怪訝《けげん》そうだ。無理もない、というより、当然である。こんな妙な事を言い出されたら、翔香だって、首を傾《かし》げるだろう。
「……まあ、おまじないに説明を求めても仕様がないけど……」知佐子が封筒を取り上げた。
「それにしても、この関《せき》鷹志《たかし》って、誰?」
「ごめん、それも訊《き》かないで」
翔香が手を合わせると、知佐子は、大きく息を吐いた。
「それよりも、私が気になるのは」優子が言った。「この『連絡するまで、なにも言わずに預かっていてくれ。若松《わかまつ》』って文章だけど……。これって、あの若松くん?」
「え?」
それは、あてずっぽうに過ぎなかったのだろう。だが、一瞬《いっしゅん》示した翔香の狼狽《ろうばい》に、優子は確信を持ったらしい。
「そうなのね?」
「え……あ……その……でも……」
幹代と知佐子は、顔を見合わせ、窓際に座る和彦に、揃《そろ》って目を向けた。
とうに食事を終えていたらしい和彦は、そんな幹代たちには気付きもせずに、いつものごとく、シャープペンシル片手にクロスワードパズルと取り組んでいた。
「これって……若松くんに教わったの?」
幹代が訊《たず》ねた。
まさしくその通りだが、『今』の和彦からではないし、そんな事を和彦に訊きに行かれては、時間が再構成されてしまう。
「違う違う、そうじゃないわ」翔香《しょうか》は、慌《あわ》てて首を振った。「全然、違うんだから、そんな事、若松《わかまつ》くんに言っちゃ駄目よ。ぶち壊《こわ》しになっちゃう!」
その見幕に、三人は驚《おどろ》いたように、翔香を見詰めた。
ややあって、
「ふうん……。そういう事」
と、いかにも納得がいったというように頷いてよこしたのは、優子《ゆうこ》だった。
「な……なによ……」
「人生が開けるとか言っちゃって、これって、縁結びのおまじないなんじゃないの?」
「そ……そんなんじゃ……」
翔香は否定しようとしたが、効果はなかった。
「なるほどね。それで、意中の人の名前を、ここに書くのね。それで、この宛《あ》て名の人が、ちゃんと保管していてくれたら、それで願いが叶《かな》うんだわ、きっと」
などと、幹代《みぎよ》は勝手に解釈を始めるし、
「それにしても、翔香が若松くんをねえ……」
知佐子《ちさこ》は知佐子で、和彦と翔香を見比べている。
「ちょっと待ってよ。ほんとにそんなんじゃ……」
「まあまあ、そんなにむきにならないで」優子が訳知り顔に言った。「そんなに慌てなくたって、大丈夫よ。冷やかしたりなんかしないから」
その言い方が、充分冷やかしになっている。
真っ赤になった翔香に、優子は笑顔を向けた。
「ま、そういう事なら、ちゃんと協力しましょ。あなたの想《おも》いが成就《じょうじゅ》するようにね」
「……」
まあ、いいか。
翔香は諦《あきら》めた。妙な方向に話が流れてしまったが、とにかく、これで、当初の目的は達せられたわけである。
10
すぐに金曜日に戻って、『見張り』の結果がどうなったのか知りたかったが、そうもいかなかった。少しでも早く『タイムリープ現象』を終わらせるためには、『スケジュール表』に空白を残してはならないからである。
翔香は、時計とにらめっこをしながら午後の授業を過ごし、放課後になるなり帰宅した。
夕食、入浴、その他もろもろ、する事をすべて済ませた翔香《しょうか》がベッドの中に潜り込んだのは、まだ八時にもならない時間だった。
なかなか眠れなかったが、当然である。普段《ふだん》の就寝時間より四時間も早いのだ。
それでも、横になっているうちには眠れるだろうと、何度も寝返りをうっていた翔香だったが、慌《あわ》てて飛び起きた。
「いけない。忘れるところだった」
日記だ。月曜日の翔香は、日記を書かなければならないのだった。
部屋の電気を点《つ》け、机の前に座り、日記帳を取り出して広げた翔香は、そこで、ぴたりと手を止めてしまった。
「……どんな文章だったっけ……」
思い出せない。いや、どんな内容かは思い出せるのだが、それをどんな言葉で著したのか、どこで改行したのかなど、細かい部分をすっかり忘れていたのである。
「まあいいか……」
肩を竦《すく》めて、翔香はシャープペンシルを手に取った。和彦《かずひこ》には怒られるかもしれないが、細かいところで少しぐらい違いがあっても、大意さえ同じなら、それほど大きな影響《えいきょう》は出ない筈《はず》である。
「えっと……確か、最初はこうよね」
翔香は書き始めた。
『あなたは今、混乱している。あなたの身になにが起こったのか、これからなにが起こるのか、それはまだ教えられない。なぜなら、今のあなたにそれを教えると、過去が変わる可能性があるから。』
と、そこまで書いて、翔香は消しゴムを取った。過去が変わる云々《うんぬん》などと書いても、火曜日の翔香を一層混乱させるだけである。
『なぜなら』以降を全部消し、翔香は続きを書いた。
『だけど、記憶喪失ではないし、気が狂ったわけでもないから、心配しないで。だけど、他人には、その事を話さないでね。あなたが相談していいのは、若松くんだけよ。』
しかし、その和彦も、最初は、けんもほろろなのである。その邪険《じゃけん》な態度で諦《あきら》めてしまわないよう、付け加えておく必要があった。
『若松くんに相談なさい。最初は冷たい人だと思うかもしれないけど、彼は頼りになる人だから。』
翔香は、シャープペンシルを置き、自分の書いた文章を見直した。
「こんなもんよね」
少なくても、大きな違いはない筈《はず》である。
翔香《しょうか》は日記をしまった。
それから、『明日』の、つまり火曜日の時間割を鞄《かばん》に揃《そろ》える。
「これで、やり残しはないわよね……」
翔香は指さし確認してから、部屋の電気を消した。
11
自分がどんな格好をしているのか分からなかった。手足が妙な風にもつれている。起き上がろうとしたが、まわりが妙にやわらかく、身動きがままならなかった。
「また落ちたの?」
スリッパの音を響《ひび》かせながら若子《わかこ》が現れ、呆《あき》れたように翔香を見下ろした。
「すみません」階段の上の方から、和彦《かずひこ》の声が聞こえた。「僕が支えればよかったんですけど、間に合わなかったんです」
自分が突き落とした癖《くせ》に、よく言う。
そんな事情を知らぬ若子は、やれやれと首を振った。
「まったく、おっちょこちょいで困っちゃうわね。よくそう何度も何度も落っこちられるもんだと思うわ」
階段を降りて来る和彦が、それを聞いて失笑した。
「ほら掴《つか》まれよ」
和彦が、翔香に手を差し出した。
文句の一つも言いたいところだったが、若子がいてはそれもままならない。
「……ありがと」
仕方なく礼まで言ってから、翔香は、和彦の腕にすがって、立ち上がった。
「翔香、そのおっちょこちょいをなんとかしないと、お嫁の貰《もら》い手がなくなるわよ。ねえ、若松《わかまつ》さん」
「え……」
さすがの和彦が、返答に詰まる。そんな和彦に、年長者の余裕を窺《うかが》わせる笑顔を向け、若子は居間に戻っていった。
翔香は、それを見送ってから、おもむろに、和彦の脇腹《わきばら》をつねった。
「よくも、やったわね」
「痛いな」
和彦《かずひこ》は顔をしかめた。
「痛かったのはこっちよ。もっとほかにやりようはなかったの?」
「あったかもしれないが、思い付かなかった。これが一番確実に思えたんだよ」
「それにしたって……」
「悪かったよ。だから、先に謝っておいたじゃないか。それに、一応、安全措置もしておいた」
和彦に言われて気付いたが、階段の曲がり角にあたる部分に、どこから集めてきたのか、座布団《ざぶとん》やらクッションやらぬいぐるみやらが積み上げられていた。さっきまで、翔香《しょうか》はその中に埋まっていたのである。
「……」
「ところで、遅ればせながら訊《き》くが、いつから来た?」
「……月曜日よ。あなたの思惑《おもわく》通りね」
「水森《みずもり》たちに頼んできたか?」
「ええ」
お陰で妙な誤解されちゃったわよ。と、心の中で付け加える。
「そうか……となると、あとは、連中の信頼性にかかってくるわけだが、さて」和彦は、左手の腕時計を見た。「この時間なら、練習も終わって、家に帰ってる頃《ころ》だな。……電話を借りていいか?」
「どうぞ。そこの、下駄箱《げたばこ》の横よ」
「分かった」
「関《せき》くんに掛けるのね?」
「その通り」
和彦は、受話器を取り上げ、ボタンを押した。向こうが出るまでの間に、翔香を振り返って訊ねる。
「月曜日は、全部すませて来たんだろうな?」
「ええ」
「そうすると、残る空白は、日曜日の夜だけか……あ、もしもし、関さんのお宅でしょうか……。若松《わかまつ》と申しますが、鷹志《たかし》くんはいらっしゃいますか? はい……。……おう、関か。お前のところに手紙が三通届いてると思うんだが……そうか」和彦は、そこでいったん送話口を掌《てのひら》で塞《ふさ》ぎ、翔香に言った。「来てるそうだ」
「……」
そうなるようにしてきたのだから当然、とは言いながら、翔香は、和彦の知的能力の凄《すさ》まじさに身震《みぶる》いが出る思いだった。
翔香《しょうか》と違い、和彦《かずひこ》は時間の流れから外れる事ができない。にもかかわらず、和彦は、過去と未来を完璧《かんぺき》に制御していた。支離滅裂《しりめつれつ》にしか思えなかっただろう翔香の言葉から法則を見付け出し、混乱した事態を終息へ向けて動かしているのだ。
「……それで、関《せき》。疲れてるところすまないが、それをこれから持って来てくれないか。場所は今から言う。本当は俺《おれ》の方から受け取りに行くべきなんだが……そうか、すまん。恩に着るよ」
和彦は、待ち合わせ場所として、翔香の家の近くの公園を指示し、受話器を置いた。
12
「ちょっと出掛けてくるわね」
そう若子《わかこ》に言い置いて、翔香は、和彦と共に公園に向かった。
「ねえ、関くんって、どんな人?」
和彦と並んで歩きながら、翔香は訊《たず》ねてみた。
「中学の時まで同級だった。高校に入ってからは、別のクラスになったし、あいつは部活で忙しくなったから、滅多《めった》に会わなくなったがな」
「部活って?」
「柔道部だ」
意外だった。和彦の親友というから、なんとなく、文化系の部に入っている人なのだろうと思っていたのである。
「口が堅いし、頭も切れる。俺は人に頼るのは嫌いだが、あいつだったら頼っても、まず間違いない」
「ふうん……」
公園に到着すると、翔香と和彦は、常夜灯に照らされる場所に立った。鷹志《たかし》が見付けやすいようにと配慮したのである。
夜の公園に二人きりというシチュエーションは翔香の胸を騒がせたが、和彦は別に気にもしていないようだった。
まったく、これでも思春期の男の子なのかしらね……。
翔香は、そっと溜息《ためいき》をついた。
頭脳明晰《ずのうめいせき》、沈着冷静、泰然自若《たいぜんじじゃく》。
頼りになるのはいいのだが、あまりに非人間的な気がする。一七才の高校生なら、異性と二人っきりでいたら、もっとこう……とるべき態度というものがあるのではないだろうか。といって、いつかの夢で見たように、いきなりキスされたりしたら、それはそれで困ってしまうのだが。
しばらくして、和彦《かずひこ》が呟《つぶや》くように言った。
「どうやら来たようだ」
自転車の車輪の音が近付き、そして、公園の入り口で停まった。
常夜灯の明かりに照らされた和彦の姿がすぐに分かったのだろう。自転車のスタンドを立てると、その人物は、まっすぐに翔香《しょうか》たちの方へやってきた。
和彦が、信頼できると言い切った関《せき》鷹志《たかし》とは、どんな男なのだろうか。翔香は、興味|津々《しんしん》、近づく人影を観察した。
やがて、鷹志の姿が、常夜灯の明かりの中に入って来た。
和彦も長身の方だが、鷹志は、その和彦より更《さら》にひとまわり大きかった。身長の事だけではなく、肩幅や胸の厚みが、全然違う。しかし、『柔道部』という言葉から、翔香が連想したような、真四角な体型では、鷹志はなかった。むしろ、スマートである。柔道部らしさを感じさせるところといえば、がっしりした骨組みと、太い首、あとは短く刈った髪《かみ》の毛ぐらいのものだった。
眉毛《まゆげ》が濃く、引き締まった口元をしている。和彦の親友だけあって、意志が強そうな感じだった。だが、眼差《まなざ》しは穏やかで、むしろ人懐《ひとなつ》っこい印象がある。
鷹志は、茶色い革のジャンパーを着ていた。しかし、下は学生ズボンのままだ。帰宅してすぐのところを呼び出されたらしい。
「疲れてるとこ、すまんな」
「なに、いいさ」鷹志は笑いながら答えた。「それより……」
不思議そうな目を向けられ、翔香は慌《あわ》てて、ぺこりとお辞儀《じぎ》した。
「若松《わかまつ》くんと同じクラスの鹿島《かしま》翔香です」
「関です。よろしく」
鷹志は挨拶《あいさつ》を返してから、物問いたげな視線を、和彦に戻した。
「……なんだよ」
和彦は、少しむくれたように言った。珍しい、というより、翔香が初めて見る、子供染みた仕草《しぐさ》だった。
「……別に」
鷹志は、口元を緩めた。説明しにくいなら、不問にしといてやるよ。そんな感じの、からかうような笑い方だった。
和彦は苦笑し、早速《さっそく》、本題に入った。
「手紙は持ってきてくれたか?」
「ああ」鷹志《たかし》は、ジャンパーを開き、内ポケットから、三通の封筒を取り出した。「この三通でいいのか?」
「世話をかけてすまん」和彦《かずひこ》は封筒を受け取り、翔香《しょうか》を振り返った。「鹿島《かしま》」
「え?」
「なに、ぼけっとしてる。この三通で間違いないか?」
翔香は、和彦の手の中にある三通の封筒を確かめた。間違いない。つい『さっき』自分が書いて優子《ゆうこ》たちに配ったものである。
翔香が頷《うなず》くと、和彦は、それをポケットにしまった。
「で、なんなんだ、そりゃ」
鷹志は、もっともな質問をした。
「すまん。世話になっておいて、勝手な事を言うと思うだろうが、今は教えられない」
「ふむ……?」鷹志は、片眉《かたまゆ》を跳ね上げた。「どうやら、よっぽどの厄介事《やっかいごと》らしいな」
「まあ、な」
「じゃ、教えてもいい時になったら、教えてくれ」
鷹志は軽く頷《うなず》いた。さらっとしたものである。余計な事は、言いもしなければ、訊《き》きもしない。くどくど言い訳や説明をする必要が、この二人にはないのだろう。
「とにかく、ありがとう。助かったよ」
和彦は礼を言ったが、その時、鷹志が、不思議そうな表情を見せた。
「本当に、その三通を渡すだけで、用は足りるのか?」
意味ありげなその言葉に、今度は和彦が、怪訝《けげん》な表情になった。
「……なぜだ?」
「なぜって」鷹志は、もう一度、ジャンパーの内ポケットに手を入れた。「ここにもう一通、同じような手紙が来てるからさ」
「なんだと……?」
鷹志の取り出した四通目の封筒を、和彦は食い入るように見詰めた。
13
「鹿島?」
和彦が、翔香を振り返った。『心当たりは?』と訊いているのだ。
「知らない。私は三通しか書いてない」
翔香《しょうか》は、ぶるぶると首を振った。
「封筒も同じ。文字も語句も同じ。筆跡も同じ」鷹志《たかし》は、和彦《かずひこ》と翔香の様子を、興味深そうに眺めながら、その封筒を、ひらひらとさせた。「だけど、この手紙は、ほかの三通より二日早く届いた。……若松《わかまつ》、お前は随分、複雑なゲームをやっているようだな」
「……極め付けに複雑な奴《やつ》をな」和彦は呻《うめ》くように言った。「……それも、渡してくれるか?」
「勿論《もちろん》」鷹志は頷《うなず》いて、四通目を和彦に差し出した。「ただし」
「分かっている。全部終わったら、説明するよ」
「ぜひ、そうして貰《もら》いたいね」
質問疑問で頭の中は一杯だろうに、鷹志はそれ以上の追及はしないでくれた。
和彦が受け取った四通目を、翔香は横から覗《のぞ》き込んだ。
鷹志が言った通り、それは何もかも、他の三通と同じだった。封筒も、語句も、筆跡も。という事は、つまり、これも翔香が書いたのである。いや、『これから』書くのだ。唯一残された空白の時間帯、つまり日曜日の夜に。日曜日の夜に投函《とうかん》した手紙が郵便局に回収されるのは月曜日。従って、水曜日に出される他の三通より、二日早く届くという事になる。
しかし、日曜日の翔香は、なぜ『四通目』などを書いたのだろうか。なにがそこに書かれているのだろうか。
考えられる事は一つだ。日曜日に何があったのか、それを『今の和彦』に知らせるために違いない。
「すまん、ちょっと待っててくれ」
同じ事を考えたのだろう、和彦はそう言い残して、少し離れた別の街灯の下に移動して行った。
「ところで……鹿島《かしま》さん?」
置いていかれた形の翔香に、鷹志が声を掛けてきた。
「はい?」
「あいつとは、その……いつ頃《ごろ》から、付き合ってるの?」
「付き合ってるなんて、とんでもない」翔香は、慌《あわ》てて首を振った。「ちょっと、困った事があって、相談に乗って貰《もら》ってるだけなの」
「へえ……」
鷹志は、少し驚《おどろ》いたように翔香を眺め、それから、その目を、和彦の方に向けた。和彦は封筒を開いては、中の便箋《びんせん》を取り出し、熱心に目を通している。
「あいつが、女の子の相談にねえ……」
意外そうな口調だった。
「……ねえ、関《せき》くん。あなた、若松《わかまつ》くんの親友なんでしょう?」
「そんな上等なもんじゃないよ」
鷹志《たかし》は、和彦《かずひこ》と同じ事を言った。
「……なんで若松くんって、あんなに女の子に冷たいのかしら?」
「冷たいって……」鷹志は目を丸くした。「相談に乗って貰《もら》ってるんじゃなかったのかい?」
「そうだけど……だけど……」
「まあ、言いたい事は分かるけどね。確かに、ちょいと、奴《やつ》には問題があるな」
「……やっぱり、女嫌いなの?」
ひょっとすると、そういう趣味だろうか。そしてもしかすると、鷹志がその相手で……などと、不届きな妄想《もうそう》を浮かべる翔香《しょうか》に、鷹志は意外な事を言った。
「あいつは別に、女嫌いなんかじゃないよ」
「え?」
「まあ、敬遠してる事は確かだが、健康な男子高校生にふさわしいくらいには、女好きの筈《はず》だ」
「でも……」
それでは、どうして、和彦が女性に冷たいのか、『敬遠している』のはなぜなのか、それを訊《たず》ねてみたかったが、その時間はなかった。
「どうやら、読み終えたらしいな」
和彦が、封筒をポケットにしまいつつ、戻って来るところだった。
14
「待たせて悪かった」
戻って来た和彦は、短く言った。表情が、ひどく厳しい。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、顔色さえも、青ざめて見えた。
「どうしたの? なにが書いてあったの?」
「なんでもない。君は心配しなくてもいい」
不安になる翔香にそう答え、和彦は、次に鷹志の方へ向き直った。
「関、もう二つばかり頼みたい事が出来たんだが、いいか?」
鷹志も、和彦の様子に異常を感じ取ったようだが、先程と同じように、無駄な事は言わなかった。
「なんだ」
「鹿島《かしま》に、護身術を教えてやってくれないか」
「え?」
と、声を上げたのは、翔香《しょうか》である。
鷹志《たかし》は、そんな翔香を、ちらりと見てから、
「変質者に狙《ねら》われてでもいるのか」
「まあ、そんなところだ」
「……警察に通報したらどうだ。警察署に行くのが気が進まないってんなら、俺《おれ》から親父《おやじ》に伝えておいてもいいぜ」
「そういえば、お前の親父さんは刑事だったな……。だが、駄目なんだ。警察には頼めない」
「ふむ……?」鷹志は、和彦をじっと見詰めた。「なら、お前が護ってやれよ」
「できればそうしたいがね。俺は、四六時中、彼女に付き添ってやれるわけじゃない」
その言葉の意味するところは、本当には、鷹志に伝わらなかっただろう。
「……柔道ってのは、空手や合気道《あいきどう》ほど、女の子向きじゃないぜ?」
「かもしれないな。だが、受け身や体|捌《さば》きくらいなら、教えられるだろう? 別に、相手をやっつけなくてもいいんだ。襲《おそ》われた時に、無事に逃げ出す事さえできれば、それでいい」
「……いいだろう。分かった。だけど、いつ、どこでやればいい?」
「……明日も練習はあるのか?」
「竜が、休みなんかくれるわけないだろ」
鷹志は笑った。竜というのは、柔道部顧問の川中《かわなか》邦雄《くにお》の事だ。体育の教師で柔道六段の猛者《もさ》である。あだ名の由来は、背中に昇り竜の入れ墨《ずみ》があるから、などという噂《うわさ》もあるが、真偽の程は定かではない。
「何時に終わる?」
「そうだな……まあ、いつも通りなら、三時には終わると思う」
「なら、そのあとで頼めるか? それなら、道場も使えるだろうし」
「分かった」
鷹志が頷《うなず》くと、和彦は、翔香を振り返った。
「じゃあ、鹿島。そういうわけだから、明日は弁当とトレーニングウェアを用意してきてくれ」
「う、うん……いいけど……」
「それが頼みの一つとして……まだ、ほかにもあるのか?」
鷹志《たかし》が訊《たず》ねた。
「それは、鹿島《かしま》が仕上がってから言う」
「……明日になっていきなり言われても、こっちにも準備ってものがあるぜ?」
「準備は俺《おれ》の方でするさ。それに、お前なら、そう難しい事じゃない」
「さいですか。……分かった。お前を信用するよ」
不審も不満もあっただろうが、鷹志は引き受けてくれた。
「色々、面倒《めんどう》かける」
「なにいいさ。じゃ、明日な」
鷹志は、翔香《しょうか》に目で頷《うなず》き掛け、和彦《かずひこ》には、ひょいと手を振って、公園を出て行った。
15
「さて、戻るか」
鷹志を見送ってから、和彦は翔香を振り返った。
「うん……」
翔香は頷いた。三通の手紙の、そして四通目の手紙の内容が気にはなったが、翔香に対する情報管制の必要上、和彦が教えてくれるわけがなかった。
翔香は、和彦と並んで、公園をあとにした。
「それにしても……なんだって、急に護身術なんか?」
「知っていた方がいいだろう。今の君は特に」
「それって……これからも襲《おそ》われるって事なの?」
見上げる翔香を、和彦は、じっと見詰め、ややあってから答えた。
「……さあな。俺も、未来の事をすべて見通せるわけじゃないんでね」
「……でも、若松《わかまつ》くんがボディガードしてくれるんでしょ?」
「まあな。だが、俺も万能じゃない。いつも必ず君を護《まも》れるとは断言できない」
「……」
黙《だま》り込んでしまった翔香に気付いたのか、和彦は口調を和《やわ》らげた。
「まあ、そんなに心配するな。念のために、打てる手は打っておく。そういう事なんだからさ」
「うん……」
今日はこれで帰るという和彦のために、翔香は部屋から荷物を運んで来てやった。
「お邪魔《じゃま》しました。これで失礼します」
「お構いもしませんで」
若子《わかこ》が玄関先に現れる。
「じゃ、鹿島《かしま》、明日な」
「あ」
「どうした?」
「ううん、ちょっと、そこまで送るわ」
若子の目が気になったので、翔香《しょうか》は、和彦《かずひこ》と共に外に出てから、訊《たず》ねた。
「ね、私の『明日』は明日なのかしら?」
寝て起きた時に、そこが土曜日の朝という保証は、翔香にはないのである。
「ああ、その事か……。大丈夫、君の『明日』は土曜日だよ」
「なんで、言い切れるの?」
「スケジュール表に残る空白は日曜日だけだからさ。その時に何があったか分からない以上、君はまだ『そこ』へは行けない。君の無意識が『そこ』へ行く事を拒む筈《はず》だ」
「でも……明後日《あきって》とか、明々後日《しあさって》とか……」
「新しくリープするには、また別の『怖い事』が必要だ。それが起きるとしても、土曜日になってからさ。もっとも」和彦は笑った。「今夜のうちに『怖い事』があった場合は、その限りじゃない。……頼むから、階段から落ちたりなんかするなよ。話がややこしくなるからな」
翔香はむくれた。
「私だって、いつもいつも階段から落ちてるわけじゃないわよ」
「そうか?」和彦はもう一度笑い、それから真顔になった。「とにかく、それだけは気を付けてくれ。奴《やつ》も自宅にいる君までは襲《おそ》わない筈だからな。君が気を付けてくれれば、明日に来れる。そうすれば……」
「そうすれば?」
「明日ですべて終わる。終わらせてみせる」
自分に言い聞かせるような、和彦の言葉だった。
[#改ページ]
第七章 最後は土曜日
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和彦《かずひこ》の言葉通り、翔香《しょうか》の『翌日』は土曜日だった。
「さすがね……」
朝刊で日付を確認した翔香は、改めて、和彦の判断の確かさを思い知らされた。
和彦に任せておけば、万事間違いないような気がする。
和彦の知的能力は、まさに驚異《きょうい》といえた。勉強家だの秀才だの、そんな言葉で表わせるものではない。何物をも見通す洞察力に加えて、遙《はる》かな高域で稼動《かどう》する頭脳を持ち合わせているのだ。
その和彦は、昨夜、翔香に、はっきりと約束した。今日ですべてを終わらせる、と。
だが、
「ほんとに大丈夫なのかしらね」
さすがに、少し不安が残った。
和彦は、決して約束を破らない。一度約束すれば、必ずそれを果たす。それは良く分かっているのだが、この場合は、和彦を制約する要素が余りに多過ぎた。なにしろ『時間を再構成させない』という大前提のために、和彦《かずひこ》は、その行動を、ほとんどがんじがらめに拘束《こうそく》されているのである。その環境下で、なお『タイムリープ現象』を終息させる手立てが、果たして打てるものなのだろうか。
和彦の情報管制のため、和彦がなにを考え、なにをしようとしているのか、翔香《しょうか》には分かりようがない。和彦を信じて任せるほかないのだ。
とりあえず、翔香にできる事といえば、和彦の負担を増やさないため、和彦の指示を誤りなく実行する事だけだった。
「あ、そうだ」
翔香は朝刊を手にしたまま、台所へ行き、いつものごとく食事の支度《したく》をしている若子《わかこ》に言った。
「お母さん、今日もお弁当、要るんだけど」
「え? だって、土曜日よ?」
「そうだけど要るの」
「そういう事は、夜のうちに言っといてくれないと……」若子は、文句を言いながらも、調理の手を止めて、冷蔵庫を覗《のぞ》き込んだ。「ハンバーグがあるわね……あとは卵焼きでもして……」
「いいわ、自分でやるから」
若子は、まじまじと翔香を見て、それから、窓の外を見やった。
「今日は、洗濯はしないでおこうかしら」
「なによ、それ」
「雨でも降るんじゃないかと思って」
「……」
「よう、おはよう」
翔香が玄関を出ると、門柱に背をもたせかけていた和彦が、声を掛けてきた。
「おはよう。毎日、お出迎え、大変ね」
冗談口調に感謝の念を包んで言うと、和彦は、ちらりと笑った。
「まあな。俺《おれ》も早いところ、肩の荷を降ろしたいよ。……ところで、君は、金曜日から来たんだろうな?」
「ええ。あなたの予想通りに」
和彦《かずひこ》は、軽く頷《うなず》き、その顎《あご》を、ひょいとしゃくった。
「じゃ、行くか」
翔香《しょうか》は、和彦と肩を並べて、歩き始めた。
和彦の顔立ちは、いつにも増して、鋭く引き締まっていた。緊張が、そうさせているのかもしれない。いったい和彦は、なにをするつもりなのだろう。なにを決意しているのだろうか。
その和彦が、翔香に顔を向けた。
「トレーニングウェアは用意してきたな?」
「ええ。……ところで、若松《わかまつ》くん、お弁当は?」
「作ってくれなかった」
「え?」
「妹が、さ。ついでならともかく、わざわざ俺《おれ》の分だけ作る気にはならないそうだ」
和彦は、小さく笑った。
そういえば、和彦の両親は泊まりがけで出掛けていると、和彦が前に言っていた。あれはいつの事だったか……。
「仕方ないから、売店でパンでも買うよ」
「だったら……」翔香は、鞄《かばん》を持ち上げてみせた。「ここに二人分、用意してあるんだけど……食べない?」
「なんだ、俺の分も用意してくれてたのか」
和彦は、意外そうな顔をした。
「ささやかなお礼の意味で、ね。味の保証はできないけど」
「なんだか、食うのに覚悟が要りそうだな」
和彦は笑ったが、その表情は、すぐに先程の厳しいものに戻ってしまった。というより、翔香と会話する時だけ、和彦は意識して表情を和《やわ》らげているらしい。
「……なに、考えてるの?」
「……別に」
和彦は、呟《つぶや》くように言った。
「……今日で終わらせるって言ってたけど、なにをするつもりなの?」
「関に、君に稽古をつけて貰《もら》う」
「そうじゃなくて……」
「とりあえず、今はそれだけでいい。あとの事は、必要な時になったら教える」
いつもながら、和彦の情報管制は固かった。
和彦《かずひこ》の推理によれば、『敵』は、学校の中に出入りできる人物である。それを考えると、不安でならない翔香《しょうか》だった。授業を受けている翔香のすぐそばに、その『敵』はいるのかもしれないのだから。
だが、その不安を打ち消してくれる存在が、翔香にはあった。和彦である。授業の間も、休み時間でさえも、振り返ればそこに和彦がいてくれたのだ。
どうやら、この日、和彦は、徹底して、翔香から目を離さないでいるつもりらしい。事態を終息へ向けて動かそうとする今、不慮《ふりょ》の事故があってはならないと、気を張っているのだろう。
和彦の警護《けいご》のお陰か、何事もなく、土曜日の日課はすべてすんだ。
「一緒《いっしょ》に帰ろ」鞄《かばん》を手にした知佐子《ちさこ》が、翔香を誘いにきた。「幹代《みきよ》が、おいしいクレープの店、見付けたんだって」
いつもなら、二つ返事で賛成する翔香だったが、今日はそういうわけにはいかない。
「ごめん。今日はちょっと……」
「何か用があるの?」
「ちょっと、ね」
「ちょっとって?」
知佐子の追及は、なかなかに厳しい。だが、そこで、優子《ゆうこ》が口を挟んだ。
「まあまあ、そう野暮《やぼ》な事は言いなさんな」
「なによ、それ?」
怪訝《けげん》な顔をする知佐子に、優子は窓際の席を示してみせた。
クラスメートたちが、次々に帰り支度《じたく》を整えて教室を出て行く中、和彦だけが、椅子《いす》に座ったままだったのである。
「ははぁん……」
知佐子が、心得顔に頷《うなず》き、
「これは、いよいよ、やり方を詳しく教えて貰《もら》わないとね」
幹代までが、冷やかすような目を、翔香に向けた。それが、あの『縁結びのおまじない』を指している事が、今の翔香には分かっている。
「……」
「じゃ、翔香《しょうか》、うまくやるのよ」
優子《ゆうこ》が言い、知佐子《ちさこ》と幹代《みきよ》と連れ立って、教室を出て行った。
「まったく、物分かりが良すぎて、困っちゃうわね」
翔香は、小さく溜息《ためいき》をついた。
「なんだか、妙に黒っぽい弁当だな」
和彦《かずひこ》が、そう評した。ハンバーグや卵焼きに、焦げ目というには大胆過ぎる着色がされていたからである。
「……やっぱり、パンにする?」
「折角《せっかく》だから戴《いただ》くよ。まさか、死にはしないだろう」
憎まれ口を叩《たた》きながら、それでも和彦は、翔香の作った、お世辞にも上手とはいえぬ出来ばえの弁当を、綺麗《きれい》に平らげ、
「ごちそうさま」
と、両手を合わせた。子供の頃《ころ》受けた躾《しつけ》が癖《くせ》になっているのだろうか、和彦に似合わないそんな仕草《しぐさ》が、妙におかしい。
「さてと」
和彦は、教室の時計を見上げた。まだ一時を回ったところである。柔道部の練習も、やっと始まったというところだろう。
「あと二時間か……こうして待つとなると、長いな」
「ただ、待っているだけなの?」
翔香が訊《たず》ねたのは、仮にも『すべて終わらせる』と言うからには、それなりの準備が必要なのではないかと思ったからだ。
「やる事はあるんだけどね、俺《おれ》は君から目を離せないし、君がいるところではできない事なんだ」
というのは、つまり、翔香に『予備知識』を与える事になるからだろう。
「だから、今は、ただ時間を潰《つぶ》すだけさ」
和彦は鞄《かばん》を引き寄せた。
「クロスワード?」
「ご明察」
和彦が取り出したのは、以前見た文庫本タイプの物ではなく、薄っぺらい雑誌だった。クロスワードパズル専門の雑誌らしい。
「ふうん、そんなのがあるんだ」
「ああ」
和彦《かずひこ》は軽く頷《うなず》いて、筆記用具を取り出した。
「ねえ、クロスワードって、そんなに面白《おもしろ》い?」
「パズルの出来にもよるけどね。時間|潰《つぶ》しには最適だし、余禄《よろく》もある」
「ボキャブラリーが増えるって事?」
「いやいや。この雑誌はさ、パズルを解いて送ると、景品が当たるんだ」
「当たったことあるの?」
「幾《いく》つか。まあ、他愛《たわい》ないもんだけどね」
和彦は、ぱらぱらと頁《ページ》をめくった。景品は、パズルごとに決められているらしい。ぬいぐるみとか、目覚まし時計とか、確かに他愛ないものばかりだったが。
「あ、そのオルゴール、ちょっといいわね」
「じゃ、これをやってみるか。手伝えよ」
和彦は、鉛筆を一本、翔香《しょうか》に差し出した。
翔香はそれを受け取り、和彦と並んで、パズルに取り組み始めた。
「遅い」
それが、開口一番の、鷹志《たかし》の台詞《せりふ》だった。
「そっちから言い出しといて遅れるたあ、どういう料簡《りょうけん》だ」
「すまん。うっかりした」
和彦は謝ったが、翔香もクロスワードを解くのに夢中になってしまい、時計を見るのを忘れていたのだから、同罪である。
「ごめんなさい、関《せき》くん」
翔香が謝ると、鷹志は、すぐに、にやりと笑った。本気で怒っていたわけではないのだ。
「まあ、いいよ。さっきまで一年が掃除に残ってたからな。ちょうどいいと言えばちょうどいい。……とにかく、鹿島《かしま》さん、着替えておいで。そっちの、剣道部の部室が使えるから」
「はい」
「お前も、わざわざ着替えたのか?」
和彦が訊《たず》ねたのは、鷹志がトレーニングウェアを着ていたからだ。
「女の子を相手にすんのに、汗臭い道着《どうぎ》のままってわけにもいかないだろ」
そう答える鷹志《たかし》の声を後ろに聞きながら、翔香《しょうか》は剣道部室に入った。
東高の第二体育館は、二階建てになっている。二階は普通の板張りだが、一階部分は半分がピロティ、半分が格技場となっているのだ。
格技場は、アコーディオンカーテンで、柔道場と剣道場に分けられているが、その剣道場の端に、柔道部室と剣道部室はある。部室といっても、ただ壁で区分けされているだけで、天井《てんじょう》は吹き抜けだから、むしろ用具置き場とでも言った方が近いかもしれない。
剣道部室の中には、木製の棚が数多くしつらえてあって、無数の防具が並んでいた。防具は洗濯できないから仕方がないとはいえ、部室にこもった、すえたような臭《にお》いがたまらず、翔香は急いで着替えて、外に出た。
「お待たせ」
「じゃ、柔道場の方へ」
赤いトレーニングウェアに身を包んだ翔香を、鷹志は促した。
青い畳が敷き詰められた道場に入ると、鷹志は、和彦《かずひこ》を振り返った。
「護身術《ごしんじゅつ》といっても色々あるが、どういう場合を想定してるんだ?」
「そうだな」和彦は、少し考えてから答えた。「組みつかれた状態から逃げ出す方法を教えてやってくれ」
「後ろからか? 前からか?」
「ひと通り頼むよ。……どれくらいかかる?」
「どれくらいって、お前……二時間やそこいらでなんとかなると思ってんのか?」
「なんとかして欲しいと思ってる。昨日も言ったが、別にやっつけなくてもいいんだ。逃げ出せさえすればな」
「簡単に言ってくれるぜ……」鷹志は、首を振った。「まあ、いいだろ。できるだけの事はやってみるよ」
「頼む。じゃあ、俺《おれ》は、しばらく出て来るから」
「おいおい、なんだよ、そりゃ」
「俺がここにいたって仕様がないだろ? それに、少し用事もある」
さっきも言っていた、『翔香の見ているところではできない事』なのだろう。和彦は、そう言い置くと、鞄《かばん》を取り上げて、格技場を出て行った。
「勝手な奴《やつ》だ」鷹志は苦笑して、翔香に向き直った。「じゃ、始めますか」
「折角《せっかく》、柔道場にいるんだから、とりあえずは受け身からかな」
鷹志《たかし》は言った。
「受け身って、あの、くるって回転する奴《やつ》?」
「前回り受け身か? いや、あれはいいだろう。いくらなんでも、投げ飛ばされるなんて事はないだろうしね。後ろ受け身と、横受け身だけやってみてくれ」
鷹志は、まず、見本を見せてくれた。さすがは柔道部員である。掌《てのひら》で畳を叩《たた》く音が、ばんとよく響《ひび》く。
「要するに、うまく転ぶって事さ。後頭部を打ったり、背中を打ったり、関節から落ちたりしないようにね」
「……難しいのね?」
「そうでもない。赤ん坊なんかは、教えなくても自然にできてる。要するに、手足に余計な力を入れなきゃいいんだ。ただ、頭だけはそうはいかないんで、顎《あご》を引くようにしなきゃならないけどね。……やってごらん」
見様《みよう》見真似《みまね》でやってみたが、あまりうまくいかない。顎を引く事に注意していると、自然に手足にも力が入ってしまうのである。鷹志の受け身は一動作だったが、翔香《しょうか》がやると、ごてごてぼて、と、なってしまうのだった。
それでも何度か、重ねて指導されるうちに、一度だけだが、ぱあんと、綺麗《きれい》な音を立てる事ができた。
「そう、その感じだ。もう少し練習すれば、ちゃんと身に付く。……時間がないから、次へ進むよ」
鷹志は、翔香に手を貸して、立ち上がらせた。
「次は、組みつかれた場合だけど……」鷹志は、翔香の後ろに回った。「その……鹿島《かしま》さん、体に触ってもいいかな?」
「どうぞ?」
翔香が答えると、鷹志は遠慮がちに、翔香の体に手を回した。翔香は、『きをつけ』の体勢で、鷹志の腕に抱えられた。
「さあ、この状態から、どう逃げる?」
翔香は体に力を込めてみたが、鷹志の腕は、びくともしなかった。
「駄目……動けない」
「なんて、諦《あきら》めちゃいけない。少なくても、三つは攻撃《こうげき》する方法がある。一つは、足。踵《かかと》で、相手の足の甲を、思いっきり踏み付ける。ハイヒールでも履いてりゃ無敵だが、普通の靴だって、結構効く。二つ目は、頭。そのまんま頭を後ろに振れば、相手の鼻っ柱にぶつかる。まあ、身長差にもよるけどね。それから、三つ目は、言わずと知れた金的《きんてき》蹴《げ》り。……やってごらん」
翔香《しょうか》が、その三種の動きを、曲がりなりにも覚えるまで、鷹志《たかし》は根気よく指導してくれた。
「まあ、こんなもんだろ。じゃあ、次は、前から来た場合だ」
鷹志は、今度は、翔香の前に回った。
「こう来ても、大体は同じだ。踵は使えないかもしれないが、頭突《ずつ》きは有効だし、金的蹴りも膝《ひざ》が使える分強力になる」
「はい」
「問題は、体を押さえられた状態で、どれだけ有効な打撃が加えられるかだけど……少し練習してみるか」
その必要上、翔香は鷹志に抱き締められるような形になってしまったが、照れているような場合ではない。それに、鷹志は飽《あ》くまで護身術の教授に徹していたので、翔香は変に気を回さずにすんだ。
「ね……関くん、ちょっと、訊いてもいい?」
頭突きや蹴りの練習を繰り返しながら、翔香は訊《たず》ねてみた。
「なにを?」
「昨日、言ってたでしょ? 若松《わかまつ》くんの事。女嫌いじゃないって……」
女嫌いでないなら、なぜ女性を敬遠しているのか、ずっと気になっていたのだ。今なら、和彦《かずひこ》は席を外しているから、ちょうどいい。
「前に、なんか、あったの?」
「あった……というほどの事でもないんだけどね」
鷹志の曖昧《あいまい》な答え方が、却《かえ》って翔香の好奇心を煽《あお》った。
「どういう事? それ?」
鷹志は、やや探るような眼差《まなざ》しで、翔香を見た。
「それを聞いてどうするのさ」
「どうするって……わけでもないけど……その……力になれるかもしれないでしょ? ほら……若松くんには、いろいろお世話になってるし……それに……」
へどもどする翔香を眺めていた鷹志は、やがて、にこりと笑った。
「そうだな。君には話しておいてもいいかもしれない。……俺《おれ》たちが中坊《ちゅうぼう》の時だ。学校に一人の優等生がいてね……ああ、これは、別に、若松《わかまつ》の事ってわけじゃないんだから、その辺、勘違いしないように」
その言葉は、事実なのだろうか。それとも、和彦のプライバシーを守るために、わざと匿名《とくめい》にしたのだろうか。
「成績は学校でもトップクラス、運動もこなせるし、顔も結構良かったから、女子の間では人気があったみたいでね。だけど、融通《ゆうずう》が効かないというか、生真面目《きまじめ》なところがあって、特定の女の子と親しくする事はなかった」
「……」
どうも後者らしい、と、翔香《しょうか》は思った。
「でね、ここに、ある女の子が登場する。仮にA子ちゃんとしとこうか。これが美人でね。なんていうか、大人びた雰囲気を持ってる女の子だった。校内ミスコンでもやってたら、間違いなく優勝してただろうな」
「……それで?」
穏やかならぬものを感じながら、翔香は促した。
「このA子ちゃんが、その優等生に目を付けたらしくてね、猛烈なアタックを始めた。優等生は、最初は煙ったがっていたが、満更《まんざら》でもなかったらしい。で、途中を端折《はしょ》るが、デートする事になった」
「……で?」
「俺も見物に行ったわけじゃないんで、詳しい事は知らないんだけど、ま、それなりの段階を踏んで、それなりの成果があったらしい」
「……」
「その翌日の学校でね、そのA子ちゃんが友達と話してるのを、たまたま俺と若松は耳にしたんだけど……私の勝ちねって言うんだ」
「え……?」
「A子ちゃんが、友達に、さ。どうも、あの堅物《かたぶつ》を落とせるかどうか、賭《か》けをしてたみたいなんだな」
「……」
「プレイボーイがゲーム感覚で女を落とすのを楽しむってのは聞いた事もあるけど、その逆があるとは思わなかったよ。彼女は自分の魅力を知ってたんだな。で、自分の異性に対する影響力《えいきょうりょく》を試してみたかったらしい」
「……それで?」
「別にどうって事はない。そんな事で世を儚《はかな》むほど、あいつも馬鹿《ばか》じゃないしな。すぐさま交際を断って、それでちょん、だったんだが……ただね」鷹志《たかし》は肩を竦《すく》めた。「しばらく、その言葉が頭から離れなかった。『私の勝ち』ってのがさ」
「……」
「彼女は、単純に、賭《か》けに勝ったという意味で言ったんだろうが……俺《おれ》には、そして多分|若松《わかまつ》にも、そうは聞こえなかったんだよ。男なんて、いくら偉そうにしてたって、所詮《しょせん》は助平の塊《かたまり》、女がその気になれば、ひょいひょいついて来る。そんな風に聞こえた」
「……それで、女嫌いになったわけ……?」
「と、いうか……敬遠するようにね。ほうら、やっぱり負ける。そう言ってるように見えるんだよ。可愛《かわい》い顔の下でせせら笑ってるようにさ。若松は、もともと負けず嫌いだから、なおさらだ」
「でも、そんなのは、そのA子ちゃんが特別だったのよ。普通は……」
「分かってる」鷹志は頷《うなず》いた。「そんな意地の悪い女ばかりじゃないって事はね。それに、第一、そのA子ちゃんだって、悪意があったわけじゃない。ただちょっと自分の魅力が自慢だったのと、他人を思いやる気持ちに欠けてただけだ。だけどね、感情は理屈通りにはいかない。ま、ちょっとしたトラウマってとこかな」
鷹志は、もう一度、肩を竦めてみせた。
「だけど、それじゃ……」
「話はそれで終わり。さ、練習に戻ろう。蹴りは、もっと思い切ってやらなきゃ駄目だ」
「……うん」
鷹志に言われて、翔香《しょうか》は体術の稽古《けいこ》に戻ったが、どうにも身が入らなかった。
過去にそんな事があったのだとすると、和彦《かずひこ》の態度も頷ける。しかし、このままでいいのだろうか。どうすれば、そのトラウマを取り除けるのだろうか。
ふと気付いた事があり、翔香は、鷹志に訊《き》いてみた。
「じゃ、関《せき》くんにもトラウマが残ってるの? 関くんも、女嫌いなわけ?」
「俺?」鷹志は目を丸くした。「……そりゃ、全然ないわけじゃないけど、俺は、あいつほど生真面目《きまじめ》じゃないし、それに」そう言って、鷹志は、にやりと笑った。「俺は、これでも格闘家《かくとうか》の端くれだから」
翔香は首を傾げた。
「……どういう意味?」
「世の中には、負けても恥にならない相手がいるって事を、知ってる」
「どうだ、調子は」
道場に戻ってくるなり、和彦《かずひこ》は言った。
「まあまあかな」
鷹志《たかし》は、基本動作を繰り返す翔香《しょうか》に、休むよう合図した。そして、和彦からは見えない位置で、口元に人差し指を立てる。さっきの話は和彦には内緒にしておけ、という意味らしい。
そんな二人のやりとりには気付かぬ様子で、和彦は言った。
「成果を見せてくれるか?」
「いいとも。じゃあ、鹿島《かしま》さん。演武といきますか」
「ええ」
翔香は、鷹志を相手に、頭突《ずつ》きと蹴《け》りを、幾《いく》つかのパターンでやってみせた。
「こんなもんでどうだね」
「ふむ……」和彦は、真剣な顔付きでそれを見ていたが、「一つ問題があるな」
「なんだ?」
「たとえば、相手が胸元に顔を押し付けてたりしたら、どうする? 頭突きは届かないだろ?」
「蹴りがあるさ」
「金的《きんてき》か? そんなものは、足の置きようで防げるだろう」
「そりゃあ、そうだが……」鷹志は苦笑した。「随分手厳しいな」
「足の置きようで防ぐって?」
翔香が訊《たず》ねると、鷹志は教えてくれた。
「向かい合っている状態で……まあ、押し倒されてるとしようか。……その体勢で、金的蹴りを防ぐとしたら、たとえば、君の右足の外側に自分の右足を置く。そうすれば当然、股間《こかん》は蹴れなくなる」
「ええ、そうね」
頭の中にその型を思い描いてから、翔香は頷《うなず》いた。
「あるいは、その……」なぜか、鷹志は言い淀《よど》んだ。「……君の両足を開かせておいて、その間に自分の両足を置く。この場合も、金的蹴りはできない」
再び頭の中に思い描こうとして、翔香は赤面してしまった。
「細かい事を言うようだが、その場合の対処法も教えておいて欲しいな」
一人だけ冷静に、和彦《かずひこ》は言った。
「そういう体勢になる前に逃れる方法を教えたつもりだがね……そうだなあ……」鷹志《たかし》は、和彦に反論しつつも、解答を示してくれた。「その場合でも、肩が使えるな」
「肩?」
首を傾《かし》げる翔香《しょうか》に、鷹志は頷《うなず》いてみせた。
「関節ってのは、すべからく武器になる。肩も関節だからね。ほら、こうやって」と、鷹志は実演しながら、「腕を内側に捻《ひね》るようにすると、肩が前に突き出されるだろ? これで相手の頬桁《ほおげた》なり鼻っ柱なりを打つんだ」
「こう?」
翔香は、見様見真似《みようみまね》でやってみる。
「もっと思いっきり。……そう、そうだ。それで、相手が少し離れたら、今度は肘《ひじ》を突き上げる。腕の内側を上に向けて、びしっとね。……そう。で、次は、掌底《しょうてい》」
「しょうてい?」
「ここさ」鷹志は、掌《てのひら》を開いて、親指の付け根のあたりを示した。「拳骨《げんこつ》ってのは、訓練してないと、指を痛めるからね。ここを使った方がいい」
翔香は、またしばらく、鷹志の指導のもとで、型を繰り返した。
「こんなもんでいかがですか、先生」
鷹志が、和彦を振り返った。
「ああ。それなら、なんとかなりそうだな」
随分偉そうだが、鷹志は気を悪くした風もない。慣れているのだろう。
「それはどうも。……じゃ、俺《おれ》はこれでお役御免かな」
「ありがとう、関くん。変な事頼んで、御免なさいね」
和彦の分まで丁寧に、翔香は頭を下げた。
「なに、いいさ」鷹志は軽く受けて、それから少し真顔になった。「それより鹿島《かしま》さん。こんな一時間やそこらの稽古《けいこ》で、技が身に付くわけじゃない。それを忘れないようにしてくれよ」
「ええ……家でもトレーニングするわ」
すると、鷹志は苦笑しながら、首を振った。
「そういう事じゃない。いくらトレーニングしても、生兵法《なまびょうほう》は生兵法だよ。君子《くんし》危うきに近寄らず、それが一番だって事さ」
「じゃあ……」
なぜ、護身術《ごしんじゅつ》などを教える気になったのか。不思議に思う翔香に、鷹志は付け加えて言った。
「万が一という事もあるしね。僅《わず》かの時間でも、こうして稽古《けいこ》したって実績があれば、自信がつく。いざという時に、落ち着きがもてるからさ。いいかい。パニクりさえしなければ、対処の仕様は幾らでもあるんだ。たとえ、両手両足を押さえ込まれたって、助けを呼ぶ事はできる。どんな相手だって、手は二本しかないんだから、頭と肩と肘《ひじ》と足と、それに口を同時に封じるなんて事はできやしない」
「ええ」
翔香《しょうか》は頷《うなず》いたが、そこで和彦《かずびこ》が口を挟んだ。
「最初に気絶させるって手もあるがな」
「それを言っちゃ、身も蓋《ふた》もない」鷹志《たかし》は苦笑して、「だからさ、さっきも言ったように、危ない場所には近付かないのが、本当は一番いいんだ」
稽古が終わったので、翔香は剣道部室に戻って、着替えを始めた。
翔香に少し遅れて、鷹志も着替えを始めたらしい。隣の柔道部室から、物音が聞こえた。
独特の臭《にお》いがするこの剣道部室から早々に出ようと、急いで着替えを済ませた翔香だったが、鞄《かばん》を取り上げようとした手を、途中でとめた。鷹志と和彦の話し声が聞こえてきたからだ。
「……なんだって?」
鷹志の声だ。驚《おどろ》きと同時に、詰問するような感じがこもっている。
「もう一つの頼み事だ」
和彦の声である。
「しかし……どういう事だ、そりゃ」
珍しく、鷹志は追及した。それほど妙な事を、和彦は要求したらしい。
「すまん。わけは言えないんだ。全部すめば話す。だが、今はまだ駄目だ」
「……」
「頼む」
「……なぜ、話せない?」
「お前の口の堅いのは分かっている。だが、それでも不都合が生じるんだ。それに一〇〇パーセントの確証があるわけでもない」
「……分かった。なら、それは訊《き》かない。だけど……そんな危ない橋を渡らなくたって、ほかに方法があるだろ?」
「あれば、そうしてる」
「……危険だぞ」
「分かってるさ。しかし、虎穴《こけつ》に入《い》らずんば虎子《こじ》を得ず、とも言うしな」
「虎《とら》の子供が欲しいんなら、猟師《りょうし》に頼めよ。素人《しろうと》が手を出すと怪我《けが》をするぜ」
「警察に頼むには、確証を掴《つか》まなければならないからな」
「……なんだって、お前がそこまでしなきゃならない?」
「……」
「彼女のためか?」
一瞬《いっしゅん》の間があった。
翔香《しょうか》は思わず耳をそばだててしまったが、和彦《かずひこ》は苦笑交じりにこう答えただけだった。
「さあ、どうかな」
翔香は、そっと溜息《ためいき》をついたが、壁の向こうからも、鷹志《たかし》の溜息が聞こえてきた。
「……本当に、必要な事なのか?」
「あぁ」
「……全部終わったら、わけを話してくれるんだろうな?」
それが、承諾《しょうだく》になっていた。
「すまん。恩に着る」
がらっと戸が開けられる音が聞こえた。柔道部室の戸だ。和彦が外に出たのである。
「鹿島《かしま》、まだ着替え終わらないのか?」
「あ、はいはい」
翔香は、慌《あわ》てて剣道部室を出た。
和彦は、既《すで》に帰り支度《じたく》を整えていたが、鷹志の姿が見えない。まだ柔道部室の中にいるのだろうか。
「関《せき》くんは?」
「あいつには、別にやって貰《もら》いたい事がある」
「なにを?」
和彦は、苦笑した。
「教えない」
いい加減に覚えろよ、とでも言いたげである。
格技場から校門に向かいながら、和彦は言った。
「ちょっと、寄り道するぞ」
「どこに? ……お訊《たず》ねしてよろしければ」
「八幡《はちまん》神社」短く答えて、和彦《かずひこ》は腕時計を見た。「少し急ごう。遅れるとまずい」
「遅れるって、なんによ?」
和彦は、ちらりと翔香《しょうか》を見た。
「終幕《おわり》の開演《はじまり》にさ」
八幡神社に着いたのは、四時二〇分過ぎだった。太陽は西に傾きかけている。
「それで? ここで、なにがあるの?」
和彦は、鋭い目で周囲を見回していたが、翔香の問いに答えて言った。
「とりあえず、上だ」
和彦と翔香は、神社の石段を上がった。
上りきった正面に、鳥居があった。石作りのそれは根元の方が苔《こけ》むしていて、年代を感じさせる。
和彦は、鳥居をくぐり、境内《けいだい》に入ったが、すぐに足を止めて、翔香を振り返った。
「どうした?」
翔香が、鳥居の下で立ち止まっていたからだ。
「分からないけど……なんか……やな感じがするの」
和彦は、興味深げな目付きで、翔香を見た。
「なるほどね。やっぱり、どこかに記憶が残ってるんだな」
「……どういう事?」
「すぐ説明する。が、ここはまずい」和彦は、ぐるりと周囲を見渡した。「駐車場があそこだから……来るとすればあっちからか……。よし、こっちだ」
和彦は、参道の右手の方に、翔香を誘った。
神社というのは大抵《にいてい》どこもそうだが、多くの樹木が植えられている。和彦は、その中でも特に草木の密生した茂みに入り込んで行った。
「隠れんぼでもする気?」
「その通り。隠れるんだ」
和彦は、茂みの向こうにしゃがみこんだ。そうすると、暗がりに学生服というせいもあって、まったく見えなくなる。
「早く来いよ」
「……分かったわよ」
翔香《しょうか》は茂みの向こうにまわり、和彦《かずひこ》のそばにしゃがみこんだ。
「それで……誰《だれ》を待つの?」
和彦は、油断なく参道の方を窺《うかが》いながら答えた。
「犯人に決まってるだろう」
「え?」
「君を、こんな目に遭わせた張本人だよ」
「でも……なんで、ここに来るって分かるのよ?」
和彦は、無造作に答えた。
「俺《おれ》が呼び出したからだ」
「なんですって?」
翔香は息を呑《の》んだ。
その『犯人』は、これまで二度も翔香を殺そうとした人物なのである。それほど凶悪な人物を、和彦はわざわざ呼び出したというのだ。無茶である。鷹志《たかし》が危険だと言っていたのも、当然だ。
「これで決着を付ける」
和彦は、きっぱりと言った。
「だけど……誰なの? 誰だったの?」
最も重要なその点を問うと、和彦はポケットから、小さな機械を取り出した。
「なに、それ?」
「レコーダーだよ」
和彦は、翔香に向き直り、学生服の胸ポケットを指さした。見ると、小さなボタンのような物が付けられている。
「このマイクから入った音が、録音される」
「……盗聴器?」
和彦は顔をしかめた。
「人聞きの悪い事を言うなよ。小型の通信機だ。昔、趣味で作ったのが残ってたんでね。受信機側に手を加えて、録音できるようにした」
「……手先が器用なのね」
クロスワードといい、機械いじりといい、和彦《かずひこ》もなかなか多趣味である。
「ちょっと待ってろ」
和彦は、レコーダーを操作した。きゅるきゅると、テープの巻き戻る音が聞こえた。
「この辺だ」
和彦はテープを停《と》め、レコーダーにイヤホンを取り付けた。二股《ふたまた》になったその一方を自分の耳に嵌《は》め、もう一方を翔香《しょうか》に差し出す。
「……」
わけが分からないまま、翔香はそれを耳に嵌めた。
「君と関《せき》が道場にいた間に、電話で呼び出した。その記録だ」
和彦は説明しながら、再生のスイッチを押した。翔香は息を詰め、耳に神経を集中した。
『……というわけですよ』
初めの方が切れていたが、これは和彦の声だ。
『なにを言っているのか分からないね』
男の声が答えた。大人の声である。少しこもった感じがあるのは、電話の声だからだろう。どこかで聞いた事があるような声だった。
『じゃあ、もう少しはっきり言いましょうか。この間の日曜日、そして今週の水曜日と金曜日、あなたはある女子生徒に、ちょっとした事をなさった。……思い出されましたか?』
和彦の喋《しやべ》り方は、やけに丁寧だった。
『……なんの事か、さっぱり分からない』
『そう白《しら》を切るのも結構ですがね。こうして、わざわざお電話を差し上げたのは、それなりの確固とした物があるからですよ』
『……』
『そうですか。知らないとおっしゃるんなら、仕方がありません。しかるべき筋に出すとしましょう。ですが、それじゃあ、あなたがお困りでしょう?』
『……』
『こんな事を言うのも、あなたに便宜をはかって戴《いただ》きたい事があるからでしてね。ここはギヴ・アンド・テイク、お互いに欲しい物を交換するというのはいかがですか?』
翔香が思わず和彦の顔を見ると、和彦はおかしそうに笑った。
「こっちも悪《わる》に思わせた方が、乗って来やすいと思ってね。向こうも、これなら丸め込めると思うだろうし」
そして、その判断は正しかったようだ。
『……なにが望みなんだ』
『電話では言えませんね。会ってお話ししましょう。今日の夕方、四時半に、八幡《はちまん》神社の境内《けいだい》で』
『……急だな』
『いろいろ都合がありましてね』
『ところで、君はいったい誰《だれ》なんだ。声に聞き覚えがあるような気がするが』
『ふふ……さあ、誰でしょうねえ。それも、来て戴《いだだ》ければ分かりますよ』
それにしても、堂に入った悪役ぶりである。和彦には演劇の才能もあるらしい。
『……分かった。四時半に八幡神社だな』
『ええ。時間厳守で頼みますよ。時間にルーズな奴《やつ》とは組めませんからね』
『分かった。必ず行く』
『では』
和彦《かずひこ》は、レコーダーを停《と》めた。
翔香《しょうか》は、腕時計を見た。四時二八分だった。
「それで……誰なの、これ?」
「分からないのか?」
「……私の知ってる人?」
「中田《なかた》だよ。英文読解《リーダー》の」
翔香は、息を呑《の》んだ。
10
「ま、さか……」
「例の三通の一つ、美術室の見張りの結果の中に中田の名前があった」
和彦は、学生服を開いて、内ポケットから、一通の封筒を取り出した。
その中にあった便箋《びんせん》には、幹代《みきよ》の筆跡で文字が記されていた。
『報告書。美術室への人の出入りについて。
一二時二二分、二年生が三人入る。二五分、出る。
一二時四五分、中田先生が入る。五三分、出る。
一二時五五分から、一年生が入ってくる。四時間目の授業のための模様。
一二時五八分、見張り終了。教室へ戻る。
……て、こんなところでいいのかしら?」
翔香は、便箋から顔を上げた。
「……だけど、これだけじゃ……」
「ほかにも色々と、判断材料はある。中田《なかた》が呼び出しに応じた事自体が、強力な傍証《ぼうしょう》になるしな。それに第一、例の四通目に、中田の仕業《しわざ》だと、書いてあった」
和彦《かずひこ》は、初めて『四通目』の内容を口にした。『予備知識』を翔香《しょうか》に与えないようにするのが基本方針だった筈《はず》だが、さすがにこの段階に至っては、秘密にする意味がないと思ったのだろう。
「でも……でも、なんで、中田先生が、私を殺そうなんてするのよ?」
「日曜日の事だろうな。それを君に知られたからだと思う。それで、びびって、中田は、月曜日と火曜日を休んだ。だが、騒ぎがない。気の回し過ぎかと思って、水曜日に学校へ出てくると、君に会った……と、言ってた筈だな? 確か」
水曜日の昼休み、図書館に行く和彦を追いかけていた時の事だ。
そう、確かあの時、翔香は、これから図書館に行く事を、中田に告げた。それを耳にした中田が、翔香の帰りを待ち構えた、ということなら、話の筋は通る。だが……。
「だが、植木鉢落としは失敗した。中田は次の機会を狙《ねら》った。それが、金曜日の車ってわけだな」
「……だから、それはなぜよ。日曜日に、いったいなにがあったっていうの? 私がなにを見たっていうのよ!」
和彦は、じっと翔香を見詰め、そして短く答えた。
「レイプ」
「え……?」
「計画的だったのか、衝動的だったのか、それは知らん。日曜日に、中田は、レコード屋から帰る君を尾《つ》けて、この神社で、襲《おそ》った」
すうっ、と、血の気が引いて行くのが、分かった。
「う……そ……」
「それが、すべての始まりだ。君は中田に押し倒され、その拍子に後頭部をどこかにぶつけた。その衝撃《しょうげき》と、恐怖から逃れるために、君は最初のリープをしたんだ」
「そ、んな……嘘《うそ》よ……」
血の気が引いて行くのが自分でも分かる。
レイプ? 中田先生が? ……私が?
翔香は、思わず、自分の体を抱き締めていた。
では、自分のこの体は、レイプされた体なのか? 今まで気付かなかっただけで、自分のこの体は、既《すで》に汚《けが》されてしまっていたのか?
「嘘《うそ》よ!」
「落ち着け、鹿島《かしま》」
思わず立ち上がろうとする翔香《しょうか》の腕を、和彦《かずひこ》は掴《つか》んだ。そして、耳元に、鋭く囁《きさや》く。
「日曜日に、君が襲《おそ》われた事は確かだ。だが、その結果は『まだ』分からない。君にとっては、『これから』の事だからだ。日曜日の空白に戻った時に、それは決定される。レイプされてしまったのか、無事に逃げ果せたのか、それは、君次第だ」
「……」
「行って来い、鹿島。行って、自分の体を護《まも》り抜いて来るんだ」
だから、なのだ。だから、和彦は、翔香に護身術《ごしんじゅつ》などを習わせたのだ。
「だけど……」
「君は、一度逃げた。時を跳んで逃げた。だが、逃げ続けるわけにはいかない。怖くても、立ち向かわなければ、いつまでたっても、君の時間は元には戻らない」
「そんなの……無理よ!」
翔香は叫んでいた。
「なぜ無理だ」
和彦の言う事は分かる。その通りだとも思う。だが、日曜日の翔香は、中田に襲われているのである。その『時点』へ戻るなど、怖くて、とてもできはしない。付け焼き刃の護身術などでは、『立ち向かう』自信にはならないのだ。
「あなたは男だから、そんな事を言えるのよ。他人事《ひとごと》だから、気楽に行って来いなんて言えるんだわ!」
「他人事?」
一瞬《いっしゅん》厳しい表情を見せた和彦は、例によって、唇《くちびる》の端に薄い笑いを浮かべた。
「その通り、他人事だよ。俺《おれ》にとってはな。危険な目に遭うのも君だけなら、問題を解決できるのも君だけだ。好きにしろよ。逃げ続けると言うなら、それもいい。困るのは君であって、俺じゃあないからな」
その斬《き》り捨てるような口調に、翔香は言葉を失った。
「……」
「とにかく、俺は、今から中田と対決する。自首させるか取っ捕まえるか、いずれにしろ、これ以降、君には手出しをさせない。俺にできるのは、そこまでだ」
「……」
「もう一度言う。日曜日の俺は、君を助けられない。君が、自分で、切り抜けるしかないんだ」
それだけ言うと、和彦《かずひこ》は参道の方に目を戻した。
「……」
確かに、和彦が怒るのも無理はないかもしれない。
これまで和彦は、知恵を絞り、体を張って、翔香《しょうか》を助けてくれた。その上、犯人との直接対決という、危険極まりない事まで、敢えてしようとしている。本来なら、翔香が自分でやらなければならなかった事の、ほとんどすべてを和彦が引き受けてくれているのである。
それなのに、翔香本人が、翔香にしかできない事から逃げようとするのは、これは筋が通らない。
だが、しかし、それでも、それが分かっていても、翔香には決心が付かなかった。『日曜日』の中田《なかた》と対決する勇気が、どうしても持てなかった。
「おいでなすったぜ」
和彦が、低く言った。
夕日に赤く染まり始めた境内《けいだい》に、英語教師の中田|輝雄《てるお》が、姿を現していた。
11
「鹿島《かしま》」和彦は、レコーダーをセットし直して、翔香に持たせた。「こいつを預かっていてくれ。奴《やつ》とのやりとりの一切を録音しておきたい」
和彦は、鷹志《たかし》に、警察に頼むには証拠が足りないと言っていた。だから、なのだ。その証拠を作るために、和彦は、こうして中田との対決を画策したのだ。
「……分かったわ。だけど……大丈夫なの?」
翔香はレコーダーを受け取りながら、和彦を見詰めた。
「うまくやるさ」和彦は笑ってみせた。「じゃあ、行ってくる」
「気を付けて」
和彦は立ち上がり、参道の方へ歩いて行った。中田は、接近する人影に気付き、やや警戒するような体勢になった。
和彦は、中田に近寄っていく。翔香のいるところからは結構距離があり、話し声は直接届いては来なかったが、その点に関しては、便利な物がある。翔香は、レコーダーが動いているのを確認しながら、イヤホンを耳に嵌《は》めた。
『よく来て下さいました。中田先生』
和彦の声が、イヤホンから聞こえてきた。受信状態は良好である。
『若松《わかまつ》……? 君か?』
やや驚《おどろ》いたような中田《なかた》の声も、入ってきた。
『ふふ……意外ですか?』
和彦《かずひこ》は、例の、丁寧でありながら、妙に絡み付くような話し振りで応じた。ちょっとしたインテリやくざの観がある。意外に素養があるのかもしれない。
『……一人か?』
『勿論《もちろん》。人のいる所でできるような話なら、わざわざ呼び出したりなんかしませんよ』
『……』
『手っ取り早くいきましょう。動かぬ証拠という奴《やつ》が、こっちにはあります』
和彦は言ったが、そんな物があるようなら、こんな苦労はしなくてもいい。はったりなのだ。
『……なにが欲しい。優等生の君の事だ、成績の事じゃあるまい? 金か?』
翔香《しょうか》は唇《くちびる》を噛《か》んだ。この言いよう、とても教育者の台詞《せりふ》とは思えない。
『そんなもの、要りはしませんよ。……それにしても、分かりませんね。あなただったら、女に不自由はしないでしょう? なんでわざわざ、こんな危ない橋を渡るんです?』
『……なんの事かな?』
『ここまで来て白《しら》を切るのはやめましょうよ。時間の無駄です。勿論、レイプの事ですよ』
『……衝動という奴だよ』
むしろ淡々と、中田は答えた。
『……そういう厄介《やっかい》な衝動は、抑えるべきじゃないですか?』
『抑えられるような衝動なら苦労しない。自分でも、困った性分だと思ってるさ』
中田は、喉《のど》の奥で笑った。
『鹿島《かしま》を殺そうとしたのも衝動ですか』
『あの時は失敗した。どういうわけか、私だと知られてしまったのでね。ふふ……うちの生徒には手を出すべきじゃないな』
『それで口を塞《ふさ》ぐというわけですか。婦女暴行に加えて殺人……大した悪党ですね、先生も』
『それはお互い様だろう。その私を、君は脅迫しようというのだからな。いったい、君の要求はなんなんだ。……いや、その前に、まず、ものを見せて貰《もら》おうか』
ある意味で当然の要求を、中田はした。ありもしないものをあるように見せていた和彦は、それをどう躱《かわ》すつもりなのだろうか。
『それもそうですね』
見守る翔香の不安をよそに、和彦は、平然とその要求を受け入れた。
『ちょっとした写真なんですがね』
そう言いながら、和彦《かずひこ》は学生服のボタンを外し始めた。内ポケットにその証拠が入れてある。そういう仕草《しぐさ》である。
その、時。
薄暗い境内に、ぎらりと三つの輝きが生じた。
二つは、中田《なかた》の両眼《りょうめ》である。狂気さえこもった、明らかな殺人者の眼が、光ったのだ。
そしてもう一つは、白刃の光。どこに隠し持っていたのか、中田はナイフを引き抜き、和彦の腹に突き立てたのである。
躱《かわ》す間も、身構える間もなかった。ナイフは、和彦の|右脇腹《わぎばら》を、深々と、えぐった。
「ぐはっ!」
苦痛の叫びが、イヤホンを通さないでも、翔香《しょうか》の耳に届いた。
「若松《わかまつ》くん!」
思わず飛び出した翔香の前で、和彦の体は、参道の石畳の上に、崩れ落ちた。
和彦が、刺された……?
あの和彦が、過去も未来も、ほとんどすべてを見通し制御してきた和彦が……刺された?
さすがの和彦も、中田がここまでの暴挙に出るとは予測しなかったのだ。最後の最後で、和彦は判断を誤った。中田の前に、和彦は敗れ去ったのだ。
和彦は、動かない。身をくの字に折ったまま、ぴくりとも動かなかった。
信じられない。信じたくない。
翔香は首を振り、そして、悲鳴を上げた。
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第八章 そして日曜日
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頭が、痛い。まるで、後頭部が割れたようだった。
翔香《しょうか》は、仰向《あおむ》けに倒れていた。倒れた拍子に、地面に頭を打ち付けたらしい。
暗い。
気絶でもしていたのか、いつの間にか、あたりは真っ暗になっていた。
翔香は、体を起こそうとしたが、できなかった。手も足も、がっちりと抱え込まれていたのである。
なにか、いる。
誰《だれ》かが、翔香の上に、のしかかっていたのだ。
胸元に、おぞましい感触が走った。これは、顔だ。誰かが、顔を押し付けているのだ。
翔香は、激しく身もだえしたが、拘束《こうそく》は緩まなかった。何か平たく堅い物が手に触れたが、それを武器にしようにも、腕を持ち上げる事ができなかった。
「くくく……逃げてみろよ……」
含み笑いが聞こえた。翔香の胸元に顔を埋めている男が、翔香の奮闘《ふんとう》をあざ笑ったのである。中田《なかた》の声だった。
そうと知った時、恐怖よりも、怒りが、翔香《しょうか》の心を満たした。物分かりのいい教師の仮面の下で、忌《い》まわしい所業を繰り返す中田《なかた》。その秘密を守るためには、殺人さえ平然と犯す中田。そして、なにより、和彦《かずひこ》を刺した中田。
「中田先生! あなたって人は!」
叩き付けるような翔香の叫びに、中田は、ぎくりと顔を上げた。その顔は、プロレスラーが使うような、布製の仮面で覆われていた。
『肩が使える』
鷹志の声が蘇り、それに導かれるように、翔香は動いた。思いっきり腕を捻り、右肩を中田の顔面に打ち付けたのである。
「がっ」
弾かれるように、中田の顔が跳ね上がった。上体の拘束《こうそく》が緩み、腕が自由になった。
『肘《ひじ》だ』
再び鷹志の声に従い、翔香は肘を打ち上げた。覆面の下、鼻のあたりを狙《ねら》って。
「ぶぎゃ」
無様《ぶざま》な悲鳴を上げ、中田は、もんどり打って倒れた。
その間に、翔香は立ち上がっていた。周囲を見回す。和彦を探したのだ。だが、参道に倒れていた筈《はず》の和彦の姿はない。
その時、翔香は、自分が手にしていた物に気付いた。平たく堅い物。それは、螢光堂《けいこうどう》の袋に包まれていた。CDなのだ。
と、いうことは、今は……。
「くそ……」
苦痛の呻《うめ》きが聞こえた。中田だ。片手で鼻を押さえている。その手が赤く濡れているのは、鼻血でも出したのだろう。
中田が立ち上がるより早く、翔香は身を翻《ひるがえ》していた。そして一目散《いちもくさん》に、神社をあとにする。
今は日曜日。翔香は、また時間を遡《さかのぼ》ったのだ。
和彦は無事だ。『今』は、まだ。
「あら、お帰りなさい。CDは買えたの?」
家に帰ると、若子《わかこ》が居間から声を掛けてきた。
「……うん……」
上《うわ》の空《そら》で応じながら、翔香《しょうか》は階段を上がった。
部屋に入ると、CDを机に放り投げ、翔香はベッドに突《つ》っ伏《ぷ》した。
両手でシーツを掴《つか》み、顔を押し付ける。翔香は震《ふる》えていた。
鷹志《たかし》のお陰で、翔香は身を護《まも》る事ができた。だから、それはいい。そんな事より、問題は、和彦《かずひこ》の事だ。土曜日に、和彦は、中田《なかた》に刺される。死ぬかもしれないのだ。
どうしたらいい? 和彦を助けるためには、どうすればいいのだろうか。
今のうちに和彦に伝えるか? いや、それは駄目だ。時間を再構成させるからではない。『今』の和彦が、信じてくれる筈《はず》がないからだ。水曜日の和彦でさえ、翔香の話を信じてはくれなかった。その三日前ではなおさらである。少なくとも、木曜日以降の和彦でなければ、翔香の味方にはなってくれないのだ。翔香の味方には。
そう。和彦は、翔香の味方だった。冷たかろうが、思いやりがなかろうが、和彦は翔香の味方だった。この上なく頼りになる味方だった。それが……その和彦が、あんな事になろうとは。
和彦が刺されたのは、翔香の責任である。翔香が和彦を頼りさえしなければ、和彦があんな目に遭う事はなかったのだから。
なんとしても、和彦を助けなければならない。これまで何度となく、和彦は翔香を護《まも》ってくれた。今度は、翔香が和彦を護る番なのである。
そう、だからだ。だからこそ、翔香は、日曜日に戻れたのだ。日曜日に戻れば和彦を助けられる。だからこそ、中田の待ち受ける日曜日に、翔香は戻れたに違いない。
だが、その方法は?
「! 手紙……」
翔香は顔を上げた。
時間をおいて情報を伝えるために、和彦は手紙を使った。それと同じ事をすればいいのである。四通目の手紙を、鷹志に出せばいいのである。
「四通目……」
翔香は呟《つぶや》いた。
それが、あれだったのだろうか。金曜日の夜、鷹志が見せた四通目の手紙は、今から翔香が書こうとする手紙だったのだろうか。
いや、違う。そんな筈はない。もしそうだとすれば、あの和彦が、なんの対応策も取らない筈がない。中田にされるままになっていた筈がないのだ。
とすると、やはり、あの手紙は、和彦が言っていたように、犯人が中田だと、和彦に確信させるためのものだったのだろう。
だが、翔香《しょうか》が今から書こうとしている『四通目』は違う。土曜日に和彦《かずひこ》が刺される事を、教えなければならないのだ。
それを書けば、時間が再構成される事は確実だった。
和彦と翔香が、必死になって避けていた時間の再構成。それを、今、翔香は自らやろうとしていた。
時間を再構成させねばならない。和彦が刺された『過去』など、存在させてはならない。
翔香が『四通目』を書けば、時間は再構成される。土曜日以降ではない。『和彦が刺された土曜日』があるからこそ、翔香は今こうして『日曜日』にいる。土曜日が変われば、ここにこうしている『日曜日の翔香』も変わるだろう。日曜日以降が、和彦と過ごした一週間が、すべて再構成されてしまうのだ。
だが、それでもいい。
翔香は堅く決意していた。
再構成されたあとの時間では、和彦は翔香の味方にはなってくれないかもしれない。それでもいい。和彦が助かってくれさえすれば。
翔香は起き上がり、鞄《かばん》を手に取った。レターセットと生徒名簿を取り出そうとしたのだ。だが、それは、そこにはなかった。
『日曜日に戻った時、そこに入れとくのを忘れるなよ』
和彦の言葉が思い出された。
名簿は本棚の中にあった。レターセットは机の引き出しの中だ。レターセットの中には、封筒が六つ残っていた。
翔香は、そのうちの一つを取り出して、宛《あ》て名に鷹志《たかし》の名前と住所を書き込み、差出人の所には、前に書いた三通と同じように『連絡するまで、なにも言わずに預かっていてくれ。若松《わかまつ》』と書き記した。
封筒に切手を貼《は》ると、翔香は便箋《びんせん》を何枚か残し、残りのレターセットと名簿を、鞄のポケットの中に収めた。
それから、翔香は机に座り直した。
さて、どう書いたものか。
少し考えてから、翔香《しょうか》は、まず、日曜日の事について書き記した。中田《なかた》が自分を襲《おそ》おうとした事、それがタイムリープの発端《ほったん》だった事、月曜日に頭が痛かったのは、押し倒された時に地面に打ち付けたからだった事、そして、鷹志《たかし》との稽古《けいこ》のお陰で、無事に逃れられた事……。
それから、翔香は深呼吸して、土曜日の事に筆を移した。
和彦《かずひこ》が八幡《はちまん》神社に中田を呼び出す事。そして、和彦が内ポケットに手を入れた時、中田がナイフで和彦の腹を刺した事。
『……中田先生は、あなたが考えているより、ずっと恐ろしい人よ。お願いだから、直接対決しようなんて考えないで。私の事なら大丈夫だから。時間が再構成されてしまっても、自分でなんとかしてみせるから。だから、逃げて。あなたを死なせたくないの。』
翔香は筆を置いた。便箋《びんせん》を折り畳み、封筒に入れて封をする。
それから、近くのポストに投函《とうかん》するために、家を出た。
既《すで》に夜中である。この手紙が郵便局に回収されるのは月曜日になるだろう。それから、鷹志の家に届き、鷹志の手を経由して、金曜日の夜に和彦の手に渡る筈《はず》である。
翔香は『四通目』を書いた。それは時間を再構成させる筈である。だが、いつ、どんな風にして、それは起きるのだろうか。
『四通目』を書き終えても、別に変化はなかった。それをポストに入れても、同じだった。それとも、変化が起こるのは、『四通目』が和彦の手に渡ってからなのだろうか。金曜日まで待たなくてはならないのだろうか。
しかし、『金曜日』も『土曜日』も、今のこの『日曜日』に収斂《しゅうれん》する筈である。とすれば、やはり、再構成は『日曜日』から始まる筈だ。ひょっとすると、既に再構成は始まっているのだろうか。ただ、翔香が気付かないだけなのだろうか。
翔香には分からなかった。あるいは、また、どこかに見落としがあるのかもしれない。
和彦がいれば訊《たず》ねる事もできた。そして和彦は、これまでのように、理路整然と、明解な答えを与えてくれた事だろう。だが、もう和彦はいない。『翔香の相談に乗ってくれる和彦』は。
帰宅した翔香は、すぐに風呂《ふろ》に入った。体に中田の手の感触が残っているような気がしてたまらなかったからだ。
翔香は、時間を掛けて、念入りに体を洗った。お陰で、体はさっぱりしたが、体が温められたためか、後頭部の痛みが一層激しくなった。
おそるおそる手を触れてみると、熱を持っていた。ぶよぶよと、妙にやわらかい感じさえする。鷹志《たかし》の指導を受けたあとの翔香《しょうか》なら受け身をとる事もできたのだが、押し倒された時の翔香は、まだ受け身のうの字も知らなかったのである。
だが、その衝撃《しょうげぎ》がなければ、翔香のタイムリープはなかったかもしれないのだ。
もし、そうだとするなら、頭をぶつけたのは、むしろ幸運だったのだろう。タイムリープがなければ、翔香は中田を撃退する術《すべ》を知らぬままだったのだから。そして、なにより、和彦《かずひこ》との時間を過ごす事もできなかったのだから。
とはいうものの、耐え難い痛みだった。ただでさえ、気が高ぶっているというのに、こんな痛みを抱えていては、眠る事などできはしない。
だが、眠らない限り、翔香はタイムリープできない。理屈で考えれば、眠らなくても、月曜の朝になる前にリープできる筈《はず》だが、そんな長い時間を、この痛みを抱えたまま悶《もんもん》々としてはいられなかった。
睡眠薬でもあればいいのだが、そんな、医師の処方箋《しょほうせん》が必要な薬は、急場には間に合わない。そこで、翔香は、英介《えいすけ》に頼む事にした。
「お父さん。お酒、少し貰《もら》ってもいい?」
「なに言い出すの、この子は」
脇《わき》で聞いていた若子《わかこ》は呆《あき》れたが、英介は、
「翔香も、そんな歳《とし》になったかね」
と、なにやら嬉《うれ》しそうな顔をして、戸棚からブランデーとグラスを取り出してきた。
「そんな歳って、まだ十七ですよ? それに、明日は学校だってあるのに……」
眉《まゆ》をひそめる若子に、翔香は手を合わせた。
「ちょっとだけ。なんか、寝付けなくて」
「まあ、堅いこと言うな。俺《おれ》も、娘と酒を飲むってのを、一度やってみたかったんだ」
英介の方は、氷まで自分で用意してきて、すっかりその気である。
「飲み過ぎて二日酔いになったって知りませんからね」
若子は警告するように言ったが、
「じゃあ、なにかおつまみを持ってくるわ」
と、台所に向かったところを見ると、英介と同じような気持ちもあったようである。
気が高ぶっているせいか、酔いはなかなか回ってこなかった。むしろ、血行が良くなったためか、頭の痛みが増したような気もする。
それでも、飲み続けるうちに、心地よい疲れのようなものが体を満たし、瞼《まぶた》が重くなってきた。
「翔香《しょうか》、眠るなら、ベッドに入ってからにしなさい」
「うん……」
若子《わかこ》の言葉に、翔香は、けだるく応じた。
これで、眠れる。目が覚めれば明日だ。
明日……。翔香の『明日』は、果たして『いつ』なのだろうか。
時間が再構成されるとは、具体的には、どういう事なのだろうか。月曜日、火曜日、水曜日と、これまで過ごした日々を、もう一度、今度は順を追って、新たに過ごしていくのだろうか。それとも、『再構成されたあとの土曜日』に、直接リープするのだろうか。
翔香には分からない。また、そんな事はどちらでもいい。和彦《かずひこ》が刺されずにすめば、それでいいのだ。
どうか、若松《わかまつ》くんが無事でありますように……。
そう願いながら、翔香は目を閉じた。
空が赤い。夕陽《ゆうひ》に染まっているのだ。
それを漫然《まんぜん》と眺めていた翔香は、はっと気付いて、辺りを見回した。
黒々とした木々。そして、鳥居、参道。ここは八幡《はちまん》神社だった。
『今』は、月曜日の朝ではなかった。土曜日の夕方だった。翔香は、また、時間をリープしたのである。
だが。
なにもかもが、同じだった。翔香の目に映るものは、なにもかもが、リープする前と同じだった。
参道には、和彦が倒れていた。そして、その前には、ナイフを手にした中田《なかた》がいた。
「そんな……」
呆然《ほうぜん》と、翔香は呟《つぶや》いた。
警告の手紙を、翔香は確かに出した。なのに、なぜ。
手紙が届かなかったのだろうか。それとも、やはり『自然の復元力』なるものが存在して、時間の再構成を妨げたのだろうか。和彦は、どうあっても刺される運命だったのだろうか。
「嘘《うそ》よ……そんな筈《はず》ない……」
翔香は、首を振った。そうだ、これは夢だ。土曜日ではない。夢を見ているのだ。ブランデーなど飲んだから、悪い夢を見ているのだ。
「……鹿島《かしま》?」
中田《なかた》が、ちょっとした驚《おどろ》きの表情を見せた。そしてそれが変わる。残忍で、禍々《まがまが》しい殺人者の顔に。
「ちょうどいい。両方|一遍《いっぺん》に片付くわけだ」
中田は含み笑いをした。
「夢よ……夢だわ……これは、夢よ……」
翔香《しょうか》は首を振る。
「君には、なにかと、てこずらされた」
中田が、ナイフを握り直した。そして、ゆっくり近付いてくる。
早く……早く……醒《さ》めてよ……。
翔香は、じりじりと後ずさった。
「だが、君の騎士《ナイト》はもういない」中田の両眼《りょうめ》が、かっと見開かれた。「これで最後だ!」
あ……また……跳ぶ……。
そう思った瞬間《しゅんかん》。
「そうかな?」
黒い影《かげ》が、翔香と中田の間に、滑り込んできた。
がっしりした骨組み。広い背中。関《せき》鷹志《たかし》である。格技場に残っていた筈《はず》の鷹志が、まさにこの瞬間に現れたのだ。
「関くん?」
驚く翔香を背に庇《かば》いながら、学生服姿の鷹志は、中田に言った。
「殺人未遂の現行犯だ。……こういう場合は、一般人にも逮捕権があるって事、先生はご存じですかね?」
「ち」
舌打ちした中田は、問答無用とばかりに、鷹志に襲《おそ》いかかる。だが、相手が悪かった。
「往生際《おうじょうぎわ》が悪いぜ、先生」
振り回されるナイフを余裕を持って躱《かわ》した鷹志は、左手で、中田の右腕を、がっちりと掴《つか》んだ。そして、鷹志の右手が、中田の襟首を掴んだと見えた次の瞬間、中田の体は宙に舞っていた。
強烈な投げ技だった。背中から地面に叩きつけられた中田は、
「ぐふっ」
と、ひと声上げただけで、ぐったりと動かなくなった。気を失ったのである。
「喧嘩《けんか》を売るなら、相手を見てからにしなきゃな、先生」中田《なかた》を見下ろした鷹志《たかし》は、翔香《しょうか》を振り返った。「……怪我《けが》はないね?」
「ええ……。だけど……どうして、関《せき》くんがここに?」
「若松《わかまつ》に蔭供《かげとも》をおおせつかったのさ。きっとこうなるから、君を護《まも》ってくれってね」
だが、その言葉を、翔香は最後まで聞いてはいなかった。『若松』という言葉を聞いただけで、反射的に駆け出していたのである。
「若松くん、若松くん!」
翔香は、和彦《かずひご》のそばに座り込み、ぴくりとも動こうとしないその体を揺さぶった。
「しっかりして! 目を開けてよ! 死なないで! 死んじゃいやよ!」
「心配しないでいいよ、鹿島《かしま》さん。気絶してるだけだからさ」
落ち着いた口調で、鷹志は言った。
「気絶してるだけって……だって、おなかを刺されたのよ?」
「腹だから、大丈夫なんだ」
妙な事を鷹志は言い、ハンカチにくるんだナイフを、翔香に見せた。中田から取り上げたナイフである。
「ほら、血なんか付いてないだろう?」
確かにその通りだった。慌《あわ》てて和彦の腹のあたりを調べたが、そこにも血の跡は見られなかった。
「ちょっと待ってな。今、活《かつ》を入れる」
鷹志はナイフを置き、和彦の上体を起こした。背中に膝《ひざ》をあてがい、ぐっと、胸を開くようにする。
「うっ……」
和彦の唇《くらびろ》から、呻《うめ》き声が漏れた。
生きている。和彦は、生きているのだ。
和彦の目が、ゆっくりと開いた。
「……どうやら……うまくいったようだな……」
あたりを見回した和彦は、うっすらと笑った。いつも通りの、どこか皮肉めいた、からかうような笑みだった。
「若松くん……」
翔香は、安堵《あんど》の余り、その場にへたり込んでしまった。
「な。だから、心配する事ないって言ったろ?」
鷹志が、翔香に笑顔を向ける。
「だけど……なんで? なんで大丈夫だったの?」
中田《なかた》のナイフは、確かに和彦《かずひこ》の腹をえぐったのだ。まるで、魔法《まほう》でも見せられているかのようだった。
「腹に来る事は分かってたからね」
和彦は言いながら、学生服を開き、ワイシャツを捲《まく》り上げた。和彦の腹は、真っ白なさらしで、ぎちぎちに固められていた。それだけではない。その透き間には、空き罐《かん》を潰《つぶ》したものが、幾つも挟み込んであったのである。
「『車に乗る奴《やつ》』も観《み》たって言ったろ?」
和彦は、翔香《しょうか》に向かって、片目をつぶってみせた。
『四通目』は、ちゃんと和彦に届いていたのだ。和彦は、腹を刺される事も知っていたのだ。知っていながら中田と対決し、敢《あ》えて刺されてみせたのだ。
あの時、柔道部室で、和彦と鷹志《たかし》が話し合っていたのもこと事だったのだ。単に中田と対決するという事だけでなく、和彦は、わざと刺されてみせる事まで、鷹志に教えていたのだ。だから、鷹志は、危険だと言ったのだ。翔香が考えていたより、一段上の次元で、和彦と鷹志の相談はなされていたのだ。
唖然《あぜん》とした翔香だったが、そのうち、むらむらと腹が立ってきた。
「だったら……なんだって、そう言っといてくれなかったのよ! 私がどれだけ心配したか……どんな思いだったのか……それを……この、馬鹿《ばか》!」
翔香は、和彦に掴《つか》み掛かった。
「教えるわけにはいかなかったんだよ。その理由は分かるだろう?」
翔香の手から逃れようとしながら、和彦は言い訳するように言った。
「いつもいつもそうやって、自分だけで……もう、知らないから!」
ぽかぽかと和彦を殴りつける翔香の目に、涙が溢れてきた。
「おい、やめろよ、やめろって」
そんな翔香を、持て余すようにしていた和彦だったが、やがて、抵抗をやめ、されるままになった。
涙が止まらなかった。翔香は、和彦の胸に顔を押し当て、泣きじゃくった。
「……心配かけて、すまなかった」
和彦が、そっと言った。
「ううん……良かった……生きててくれて……」
翔香は、和彦の胸の中で、何度も何度も首を振った。
「ごほん」
わざとらしい空咳《からせき》が聞こえた。
「仲が良いのは結構ですがね。ここにも一人いる事を、忘れちゃいませんか?」
慌《あわ》てて和彦《かずひこ》から離れると、鷹志《たかし》が、にやにやと笑っていた。
翔香《しょうか》は真っ赤になった。
「とにかく、涙を拭《ふ》きなよ。可愛《かわい》い顔がだいなしだぜ」
「ん……」
翔香がハンカチを取り出すと、鷹志は和彦に言った。
「立てるか?」
「ああ」
和彦は頷《うなず》いたが、立ち上がろうとして、顔を歪《ゆが》めた。右手で脇腹《わきばら》を押さえている。刺されはしなかったものの、やはりなにがしかのダメージはあったのだ。
「若松《わかまつ》くん!」
「大丈夫だ」
慌てて支えようとする翔香に、和彦は頷いてみせたが、その表情は苦しげだった。
鷹志は、鋭い目付きで、和彦の様子を観察していたが、別に大した事はないと判断したのだろう。表情を緩めた。
「あんなんで気絶するたあ、ちと、だらしないぜ。もう少し、腹筋を鍛《きた》えとけ」
「そうするよ」和彦は苦笑した。「気絶といえば……あれも気絶してんのか?」
中田《なかた》の事である。
「ああ、もうしばらく、あのままにしといた方がいいだろう。……しかし、まさかなあ……今でも信じられないぜ」
鷹志は、首を振った。
「信じられなくても、信じたくなくても、信じざるを得ないという事はあるさ」
和彦は答えた。その言葉は、中田の事だけを指しているわけではなさそうだった。
「それで……このあと……どうするの?」
翔香は、中田の方を見ないようにしながら、鷹志と和彦の双方に訊《たず》ねた。
答えたのは鷹志だった。
「とりあえず、親父《おやじ》に電話するよ。すぐ来てくれるだろう」
そういえば、鷹志《たかし》の父親は刑事だと、和彦《かずひこ》が言っていた。
「そうしてくれるか?」
「最初からそのつもりだった癖《くせ》に、よく言うぜ。まあ、根掘り葉掘り訊《き》かれるだろうが、なんとかなるだろ。野放しにしてはおけないからな。それにしても……」鷹志は笑いながら翔香《しょうか》を見た。
「折角《せっかく》の護身術《ごしんじゅつ》も、使う暇《ひま》がなかったね」
翔香は首を振った。
「そんな事ない。ありがとう、関《せき》くん」
鷹志は妙な顔をしたが、すぐに表情を改めて、和彦に言った。
「とにかく、俺《おれ》は今から、親父《おやじ》に電話してくる。その間、中田《なかた》を見ててくれ。すぐそこの公衆電話だから、目を覚ますようだったら、大声で俺を呼べよ」
「分かった」
和彦が頷《うなず》くと、鷹志は小走りに神社を出て行った。
「ほんとに、体、大丈夫?」
翔香は、和彦を見上げた。
「ああ」
和彦は答えたが、苦痛を堪《こら》えているのは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。
「私の肩、使って」
「いいよ」
「意地張らないで」
「本当に大丈夫だ。そんな事より、君に預けたレコーダーはどうした?」
「あ、いけない。置いてきちゃった」
慌《あわ》てて飛び出した時に、取り落としたままだったのである。
「おいおい……」
「ごめん。すぐ持ってくる」
翔香は急いで茂みの方に戻り、レコーダーを拾い上げた。まだ、録音を続けていたので、スイッチを切ってから、和彦に渡す。
和彦はポケットからケースを取り出し、録音ずみのテープを、その中に収めた。
「ところで、鹿島《かしま》。関がいないうちに確認しておきたいんだが、ちゃんと、日曜日は全部すませて来たんだろうな?」
「ええ」
「なら、これでゲームセットだな。君の冒険も、これで終わりだ」
「本当に?」
「ああ。そもそもの原因をこうして叩《たた》き潰《つぶ》したんだ。空白も全部埋まったし、もう跳ぶべき『時間』はない。あとは、普通通りに、時間を過ごせる筈《ばず》だ」
「……そう……」
「お陰で俺《おれ》も、やっと厄介事《やっかいごと》から解放されるわけだ」
翔香《しょうか》は、和彦《かずひこ》を見詰めた。
これで、終わりなのだろうか。『タイムリープ現象』が解決してしまえば、こうして和彦と過ごす時間も終わってしまうのだろうか。
しばらくして、鷹志《たかし》が戻ってきた。
「どうだった?」
「怒られたよ。無茶な事するなってな。だけど、とにかく来てくれるそうだ」
「そうか。じゃあ、早いとこ退散しないとな」
「おいおい、当事者がいなくなってどうする」
「頼むよ。警察ってのは苦手でね」
「俺だって、得意なわけじゃない」
「だから頼んでるんじゃないか」和彦は、左手で拝むような仕草《しぐさ》をした。「お前から、うまく言っといてくれよ。できれば、俺や鹿島《かしま》の名前も出して欲しくないんだが……それは無理かな?」
「あれを」鷹志は、中田《なかた》をちらりと見た。「ぶち込むつもりならな」
「だろうな」和彦は肩を竦《すく》めた。「まあ、それは我慢《がまん》するが、今日は勘弁してくれ。俺も鹿島も、今は気が高ぶっててな。事情聴取なんか受けられる状態じゃない」
その台詞《せりふ》を、いつも通りの平静さで、和彦は口にした。
「説得力がねえよ、若松《わかまつ》」鷹志は笑った。「しかし、まあ、確かに、鹿島さんの方はそうだな……。分かった。面倒《めんどう》事は全部俺が引き受けりゃいいんだろ?」
「すまん。……ああ、それから」和彦は、例のテープを、鷹志に差し出した。「これを渡しとく。中田を呼び出した時のやりとりと、ここでの一部始終を録音してある。録音テープなんてものに証拠能力がない事は知ってるが、親父《おやじ》さんの信用を得るくらいの役には立つだろう」
「分かった。預かるよ」鷹志は、テープをポケットに収めた。「それじゃあ、鹿島さん。その色男の面倒《めんどう》を見てやってくれ。まあ大丈夫だとは思うけど、一応、腹の手当もね。こいつの家は、すぐ近くだからさ」
「ええ」
翔香《しょうか》が頷《うなず》くと、和彦《かずひご》は首を振った。
「要らん。子供じゃないんだ。自分の事ぐらい自分でできる」
「ほおう……そうかい」
しげしげと和彦を眺めた鷹志《たかし》は、いきなり、ぽんと、和彦の腹を殴《なぐ》り付けた。ごく軽い打撃《だげぎ》だったが、今の和彦には、たまったものではない。
「ぐっ」
和彦は、息を詰まらせ、身を折った。
「ちょっと、関《せき》くん!」
翔香は慌《あわ》てて、崩れそうになる和彦の体を支えた。
「やっぱり、こいつには、君の助けが要るらしいよ」
鷹志は、翔香にむけて、片目をつぶってみせた。
「なんて……こと……しやがる」
右手で脇腹《わぎばら》を押さえ、和彦は呻《うめ》いた。
「じゃあ、鹿島《かしま》さん。あとはよろしく。この馬鹿《ばか》の言う事は聞かなくていいからね。聞き分けのない事言いやがったら、腹のひとつも撫《な》でてやんな。そうすりゃ、おとなしくなるからさ」
「せ……き……手前ぇ……覚えてろよ……」
和彦は鷹志を睨《にら》みつけたが、鷹志はどこ吹く風である。
「ほらほら、ぐずぐずしてると、逃げられなくなるぜ。なにしろ、日本警察のレスポンスタイムは世界一だからな」
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終章 おわりははじめに
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「ふうん……ここが若松《わかまつ》くんの家なのね……」
翔香《しょうか》は、しげしげと、その家を眺めた。
二階建の、こぢんまりした建て売り住宅だった。台所があると思われる窓からは、明かりが漏れている。
空はもう暗くなっていた。八幡《はちまん》神社から和彦《かずひこ》の家までは、確かに近かったが、和彦の足取りが、余りにゆるやかだったため、思ったより時間が掛かったのである。
やはり、脇腹《わきばら》が痛むらしい。しかし、翔香が肩を貸そうとしても、和彦は、決して首を縦には振らなかった。
「ほんとに、強情《ごうじょう》なんだから……」
その和彦は、玄関の前に立つと、大きく深呼吸し、前屈《まえかが》みになっていた姿勢を、気合とともに正した。
「どうしたの?」
「妹にばれるとうるさい」
和彦《かずひこ》は苦痛の表情を押し隠して、ドアを開けた。
「ただいま」
「お帰りぃ」
弾《はず》むような声が返って来て、ぱたぱたと、スリッパの音が近付いてきた。現れたのはショートカットの可愛《かわい》らしい女の子だった。エプロンをつけているところを見ると、料理でもしていたらしい。
「あれ?」翔香《しょうか》を見て、目を丸くする。「めーずらし。お兄ちゃんが、女の人を連れて来るなんて」
「やかましい」
和彦は、邪険《じゃけん》に答えて、靴を脱いだ。廊下にあがりかけて、一瞬《いっしゅん》、動きをとめる。痛みが走ったに違いないが、和彦は、それを面《おもて》には出さなかった。
「あの……、私、妹の美幸《みゆき》です」
和彦の妹は、ぺこりとお辞儀《じぎ》をした。
「あ、鹿島《かしま》翔香です。お兄さんには、いつもお世話になってます」
翔香が挨拶《あいさつ》を返すと、和彦は小さく笑った。
「まったくだ」
この一週間の事を振り返ればまさしくその通りだが、いかにも和彦らしい台詞《せりふ》である。翔香は、肩を竦《すく》めた。見ると、美幸も同じように肩を竦めている。
翔香と美幸は、お互いの動作を認めて、ともに顔をほころばせた。
「お兄ちゃん、いつもこの調子だから、困っちゃうの」
「大きなお世話だ」
和彦は憮然《ぶぜん》と答え、階段に向かった。
「お邪魔《じゃま》します」
翔香は、美幸に軽く会釈《えしゃく》して、靴を脱いだ。
二階への階段は、かなり急だった。今の和彦には、上るのはつらいだろう。
「大丈夫?」
美幸を気にしながら囁《ささや》くと、和彦はからかうように言った。
「そっちこそな」
「なんの話?」
怪訝《けげん》な顔をする美幸を、和彦は振り返った。
「鹿島には、階段を見ると、落ちたくなる癖《くせ》があるのさ」
「え?」
「そうじゃなくて」翔香《しょうか》は、慌《あわ》てて手を振った。「ちょっと、おっちょこちょいなだけ」
「ふうん……」美幸《みゆき》は、おかしそうに笑った。「それじゃ、落ちてもいいように、クッションでも用意しとこうか?」
やはり、今の和彦《かずひこ》には、この階段は相当つらいようだった。ほとんど一段上がるごとに、苦痛に身を震《ふる》わせている。
「肩を貸すわ」
「いい。それより、美幸が来たら教えてくれ」
どこまでも強情《ごうじょう》な和彦だった。
脇腹《わきばら》を押さえながら、やっとの事で二階まで上がると、和彦は壁に背をもたせ掛けて、しばらく肩で息をついた。
二階には、階段からまっすぐに短い廊下が伸びていて、右手と正面に、ドアが一つずつあった。正面にあるのは、美幸の部屋のようだ。ドアに掛けられた『KNOCK PLEASE』という札が可愛《かわい》らしい。
あれ?
どこかで見た事がある。翔香は思った。どこかでこんな光景を、確かに見た。これが既視感《デジャ・ヴ》というものだろうか。
「こっちだ」
和彦は右手のドアを開けて、中に入った。
落ち着いた感じの部屋だった。窓際の机、壁にずらりと並んだ本棚。そしてベッド。いずれも、あるじの性格を反映しているかのように、整然と片付けられていた。家具の色は、どれも、黒かグレイだった。カーテンや絨毯《じゅうたん》まで、モノトーンで統一されている。
「……」
「どうした?」
立ち尽くす翔香に、和彦が怪訝《けげん》な顔を向けた。
「う、ううん……なんでもない」
翔香は首を振った。
和彦は鞄《かばん》を机の上に置くと、ベッドに座り込んだ。そして、苦しげに息を吐く。
「……おなか診《み》せて」
「手当なら自分でやるよ」
「診《み》せて」
「いいって」
「診・せ・な・さ・い。さもないと……」
翔香《しょうか》が、拳《こぶし》を固めてみせると、和彦《かずひこ》は溜息《ためいき》をついた。
「……ったく、あの野郎、ろくでもない事を教えやがって……」
学生服を脱ぎ、ワイシャツを捲《まく》り上げる。それから、和彦は、ぎっちりと巻き付けたさらしを、ほどき始めた。
締め付ける力が緩んだからだろう。さらしが解かれるにつれて、和彦の顔に苦痛の色が濃くなっていく。
「手伝うわ」
見かねて、翔香は、ベッドの脇《わき》に膝《ひざ》を突いた。
くるくると、手早くさらしを巻き取ると、その間から潰《つぶ》した空き罐《かん》が転げ落ちた。一個、二個、三個、四個……。どれも新しく、桃や蜜柑《みかん》やパイナップルが描かれている。そのうちの蜜柑に、大きくはないが、深いへこみが出来ていた。ナイフの跡だ。
それと同じ形の痣《あざ》が、和彦の脇腹に浮かび上がっている。凝縮《ぎょうしゅく》されたような色合いの、青黒い痣だった。
「ひどい……」
そっと指先で触れてみる。
「うぐっ」
途端《とたん》に、和彦が身を硬直させた。
「ごめんなさい」
「もう少し、優しくしてくれよ」文句を付けながら、和彦は自分でも点検する。「色はひどいが……大した事はなさそうだな」
「少し、熱を持ってるみたいよ。冷やした方がいいかしら……」
「場所は悪いが、要するに打撲《だぼく》だしな。……さっきの湿布薬《しっぷやく》を出してくれよ」
「うん……」
翔香は、途中の薬局で買い込んできた、匂《にお》いのしない湿布薬と包帯を、鞄《かばん》から出した。
湿布薬を、ぺたりと和彦の脇腹に張る。
「じゃ、ちょっと、ワイシャツを持ち上げててね。剥《は》がれないように、包帯を巻いておくから」
「……分かった」
和彦の腹に包帯を巻き付けながら、翔香は訊《き》いてみた。
「それにしても……どうして逃げなかったの?」
「時間を再構成させて、それでもなお君を助けられると思うほど、俺《おれ》は自分の能力に自信がなかったんでね」
『和彦《かずひこ》が刺される過去』、それがあったから、和彦は『刺されなければならなかった』のだ。和彦がそれを回避すれば、時間は再構成されてしまった筈《はず》である。だから和彦は、刺される事を前提とし、その上で自分の身を護《まも》る方策を練ったのだ。
「それにしたって……」
腹を刺される事が分かっていたにしても、さらしと空き罐《かん》がそれを食い止めてくれるという保証はなかった筈だ。現に、和彦は、こうしてかなりのダメージを受けてしまっている。
「さすがに、少し覚悟が要ったけどな。だけど、君に逃げるなと言ったのに、自分だけ逃げるわけにはいかないじゃないか」
「……」
なんと言っていいか分からなかった。
あの時……翔香《しょうか》が『他人事《ひとごと》だと思って』と言った時も、和彦は自分が刺される事を知っていたのだ。腹に来る事が分かっていたとは言うが、未来も過去も不変ではない。本当に刺されてしまう可能性も絶無ではなかったのに、それなのに、和彦は逃げなかったのだ。
時間を再構成させないために。翔香を助けるために。なにも分からずに、和彦を非難さえした翔香のために。
とんとんとん。軽快に階段を上がってくる音が聞こえた。
「美幸《みゆき》だ」
和彦は、急いでワイシャツを直し、さらしと空き罐を学生服の下に隠した。
「お邪魔《じゃま》しまあす」
美幸は、手にしたお盆を掲げるようにして、入って来た。
「ほら、お兄ちゃん。テーブル出してよ」
「あ、私が」
和彦を動かせたくなかったので、翔香は立ち上がり、隅にあった小テーブルを、部屋の中央に運んだ。
「あ、すいません」
そう言いながら、美幸は、小テーブルの上に、運んできたものを載せた。
「なんだ、こりゃ」
和彦《かずひこ》が呆《あき》れたのは、それが、大きなガラスのボウルに盛り上げられた、果物の山だったからである。
「なんだじゃないわよ。片っ端から罐詰《かんづめ》開けちゃってさ。早く食べないと駄目になっちゃうから、責任持って片付けてよね」
「分かったよ」
和彦が苦笑を浮かべた時。
とぅるるるる……。階下でベルが鳴った。
「あ、電話だ」
美幸《みゆき》は立ち上がり、階段を駆け降りていった。くるくると、本当によく動く。
「可愛《かわい》らしい妹さんね」
「兄を兄とも思わない奴《やつ》だけどね」
「お兄ちゃんによ」階下から、美幸が声を張り上げるのが聞こえた。「関《せき》さんから」
翔香《しょうか》と和彦は、顔を見合わせた。
「もう。少しは自分で動きなさいよね」
そう文句を言いながらも、美幸はコードレスホンの子機を運んできてくれた。
「ご苦労。下がっていいぞ」
「偉そうに」
美幸が部屋を出ていくのを待って、和彦は子機を耳にあてた。
「俺《おれ》だ。今どこにいる? ……そうか」和彦は、いったん送話口を塞《ふさ》ぎ、翔香に伝えてくれた。
「警察署にいるそうだ」
「……それで、どうなったのかしら?」
「それを、今から教えてくれるらしい」
「私にも聞かせて」
いちいち中継して貰《もら》うのもまどろっこしいので、翔香は、和彦の横に座って、受話口の裏側に耳を当てた。その体勢に、和彦はやや困惑《こんわく》の色を浮かべたが、結局なにも言わず、鷹志《たかし》との会話に戻った。
「……それで、どうなったって?」
『中田《なかた》は取調室だよ』
やや遠いが、ちゃんと鷹志《たかし》の声が聞こえた。
「じゃあ、警察は、お前の言う事を、額面通りに受け取ってくれたのか?」
『まあな。少なくても、殺人未遂は明らかだ。指紋のついたナイフもあるしな』
「もう一つの方は?」
『それなんだけどな。ほら、最近新聞にも載ってただろ? 連続婦女暴行事件ってのがさ。どうも、それが中田の仕業《しわざ》らしい』
「……ほう」
和彦《かずひこ》は、さして驚《おどろ》いた風もなく相槌《あいづち》を打った。中田の話し振りからしても、これまでにも何人も犠牲者《ぎせいしゃ》がいたらしい事は分かっていたのだ。
『でな、これは、捜査上の機密とかで、親父《おやじ》もはっきりとは教えてくれなかったんだが、どうも、警察の方でも、中田には目を付けてたらしいぜ』
「本当か?」
『少なくとも、何十人だか何百人だかの候補の中にはあったそうだ。まあ、親父も、税金泥棒と言われないだけの仕事はしてたわけだ。……そういうわけで、まず間違いなく、中田は取っ捕まるだろう』
「そいつはひと安心だな」
『それで、親父が言うには、一度、お前と鹿島《かしま》さんにも事情を訊《き》かせて欲しいってんだが、構わないだろうな? 親父の方から出向くそうだし、勿論《もちろん》、新聞にも学校にも、知らせないようにするそうだから』
ちらりとこちらを見た和彦に、翔香《しょうか》は頷《うなず》いてみせた。
「分かった」
『そうか。じゃ、せいぜい分かりやすいように、事の推移を順序よくまとめておいてくれ』
「順序よく……か、そいつは、ちょっと難しいな」
和彦は笑った。
『それから、俺《おれ》への説明も忘れるなよ。なんで刺されるのが腹だって分かったのか、不思議で仕様がない』
「分かってるよ。親父さんには順序よく説明するし、お前には全部教える。……信用できるかどうかまでは、保証しないがな」
『意味深《いみしん》な事を言うぜ。まあ、楽しみにしてる。じゃあ、鹿島さん』
「はいっ」
いきなり呼ばれて、翔香《しょうか》は、飛び上がってしまった。鷹志《たかし》は、この電話を翔香が一緒《いっしょ》に聞いている事に、気付いていたらしい。
『その馬鹿《ばか》の事を、よろしく頼むよ。それから若松《わかまつ》』
「なんだ」
『突っ張るのもいいが、たまには負けろ。その方が、人間が大きくなるぜ』
それで、電話は切れた。
つーっ、つーっ、という電子音を奏でる受話口を、和彦《かずひこ》は、しばらく見詰めていたが、ややあって、苦笑を漏らした。
「利いた風な事言いやがって……」
それから、子機のスイッチを切り、翔香に向かって両手を広げてみせた。
「これで、本当に片が付いた。ザッツオールフィニッシュってわけだ」
「……そうね」
翔香は、曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
そうではないのだ。和彦に分からないのは当然だが、まだ、もう一幕残っているのである。だが、それは……。
用ずみになった電話だが、そう度々、美幸《みゆき》を煩《わずら》わせるわけにもいかない。翔香は子機を戻しに、階段を降りた。
「これ、どこに置けばいいのかしら?」
台所の美幸に訊《たず》ねると、
「もう、お兄ちゃんたら、お客さんにこんな事させて」
そう言いながら、美幸は子機を受け取り、台所の隅の親機に載せた。
「今、お茶いれようと思ってたんだけど、鹿島《かしま》さん、コーヒーと紅茶とどっちがいい?」
「あ、ごめんなさい。私がやるわ」
「お客さんにそんな事させるわけにはいかないもの」
そんな押し問答の末、結局二人で協力する事になった。
電動ミルで豆を挽《ひ》き、コーヒーメーカーをセットする。
やがて、コーヒーメーカーは、こぽこぽとさえずりだし、台所にいい香りが広がった。
「お兄ちゃん、ブラックが好きなのよ」
カップにコーヒーを注ぎながら、美幸《みゆき》は言った。
「そうみたいね」
翔香《しょうか》が答えると、美幸は窺《うかが》うような目付きになった。
「ね、鹿島《かしま》さん」
「なあに?」
「お兄ちゃんと……いつ頃《ごろ》から付き合ってるの?」
ややためらって、翔香は答えた。
「……一週間くらいかしら」
「お兄ちゃんってさ、いつもあんなだけど、見捨てないでやってね。あれでも、いいところもあるんだから」
「……ええ」
翔香は頷《うなず》いた。
二つのカップをお盆に載せる。それを運ぼうとして立ち止まり、翔香は美幸に頼んだ。
「クッションとか、座布団《ざぶとん》とか、あったら貸してくれるかしら」
「あれ? お兄ちゃんの部屋になかった?」
「あったけど、ちょっと別の事に使いたくて」
「別の事?」美幸は首を傾げたが、先程のやり取りを思い出したのか、ちらりと笑った。「やっぱり、階段の下にでも置いとくの?」
「ええ」
からかうつもりの台詞《せりふ》に真面目《まじめ》に頷かれて、美幸は目を丸くしていた。
和彦《かずひこ》は、机の前に腰掛けていた。机の上には、例のスケジュール表が広げられている。
「なにしてるの?」
机の端にコーヒーカップを置きながら、翔香は訊《たず》ねてみた。
「順序よく説明するにはどうしたらいいのかと思ってね……ああ、ありがとう」和彦はカップを取り上げて、ひと口すすった。「……なかなか、厄介《やっかい》だよ」
「でしょうね」
翔香は、心の底から同意した。
「やっぱり、植木鉢からかな。それで車……変だと思って調べ始めたら、中田《なかた》の事に気付いて……どうやって気付いた事にするかな……」
翔香《しょうか》は、コーヒーをひと口飲んだ。それから、そっと、深呼吸する。
「ね、若松《わかまつ》くん」
「うん?」
「今度の事は、これで終わったかもしれないけど……。また、なにか怖い事が起こったら、再発するんじゃないかしら」
「その時は、また言いに来いよ。助けてやるさ」
「起こってからじゃ、手遅れかもしれないじゃないの」
「それじゃ、なにか? 俺《おれ》は、これからもずっと君のそばについてなきゃいけないのか?」
和彦《かずひこ》は椅子《いす》を回し、からかうように、翔香の顔を見上げた。
「駄目?」
翔香は、じっと、和彦の目を見詰めた。
「……鹿島《かしま》?」
和彦は、驚《おどろ》いたように、翔香を見返した。翔香は目を逸らさない。和彦の視線が、ちょうど『思考時間』に入った時のように鋭くなったが、それでもまだ目を逸らさなかった。
ややあって、和彦の表情が緩んだ。
「危なっかしくて、とても放っとけないな」
肩の力が抜けたような、どこか晴れ晴れとした笑顔だった。
「ほんと?」
「嘘《うそ》はつかない」
「じゃ……」翔香は、頬《ほお》が火照《ほて》るのを感じながら、言った。「態度で示して」
「? 指きりでもしろってのか?」
翔香は首を振り、目を、閉じた。
心持ち唇《くちびる》を上向ける。
「鹿島……?」
和彦の驚いたような声が聞こえたが、翔香は動かなかった。ただ、じっと待った。
頬が熱い。体が熱い。羞恥《しゅうち》に心と体を震《ふる》わせながら、翔香は待った。
和彦の立ち上がる気配がした。
どこまでも際限なく高まっていく胸の鼓動《こどう》を感じながら、翔香は、その時を、待った。
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おまけ
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翔香《しょうか》は転げ落ちた。
どたたたたっ、と、お尻《しり》で弾《はず》みながら階段を降り、最後にクッションの上に着地する。
「いたたた……」
「ど、どうしたの?」
飛んできた美幸《みゆき》が、スカートの上からお尻をさすっている翔香を見て、目を真ん丸に見開いた。まさか本当に落ちてくるとは思わなかったのだろう。
「鹿島《かしま》さん……いったい、なにやってるの?」
そう問われても、ちょっと説明のしようがない。
「えっと……」
返答に困っていると、
「だから言ったろ。それが鹿島の趣味なんだよ」
階段の上から、和彦《かずひこ》の声が聞こえてきた。
右手で脇腹《わきばら》を押さえた和彦が、一段一段を踏み締めるように、階段を降りてくる。
「あ」
慌《あわ》てて立ち上がろうとする翔香を、和彦は笑顔《えがお》で抑えた。苦痛があるに違いないが、それを美幸に悟らせたくないのだろう。
「……趣味?」
「ああ、そうさ」
訝《いぶか》しげな美幸《みゆき》にからかうような調子で答えた和彦《かずひこ》は、立ち上がるタイミングを逸した翔香《しょうか》に、目を戻した。
「どうやら、怪我《けが》はなさそうだな」
翔香の下にあるクッションに気付いたのだろう、和彦は、ちらりと笑い、それから、翔香に左手を差し出した。
「お帰り、鹿島《かしま》」
「……ただいま」
翔香は、和彦の手を取り、そして微笑《ほほえ》んだ。
これで、本当に全部終わった。
タイムリープ現象は完結し、翔香の時間は元に戻ったのである。
これから自分と和彦がどうなっていくのか、翔香は知らない。
だが、だからこそ、翔香は自由なのだ。過去にも未来にも拘束《こうそく》される事なく、自由に生きていけるのである。
そんな翔香と和彦を交互に見ながら、美幸はしきりに首を捻《ひね》っていた。
「なにがなんだか、全然分かんない」
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あとがきがわりに
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T
殺風景な部屋だった。
白い壁、白い天井《てんじょう》。調度品といえば、ベッドと小さな机くらいしかない。そして窓には、目立たぬ形ではあるが、鉄格子が嵌《は》められてた。
その机に、一人の男が向かっていた。左手に握《にぎ》ったペンを、広げたノートの上に走らせている。そのノートには、記号や数式が、既《すで》にびっしりと書き連ねられていた。
こんこん。
ドアがノックされた。
だが、男は振り返らない。一心に書き物を続けている。
こんこん。
再びドアがノックされたが、やはり男は振り返らない。
「江崎《えさき》さん。お客さんが見えてますよ。江崎さん」焦《じ》れたような声が、ドア越しに聞こえた。「お客さんですってば。江崎さん。江崎博士!」
だが、江崎と呼ばれた男は、それでも反応しなかった。
「……ったく、仕様がないな、あの人は……」
溜息《ためいき》まじりの声が聞こえ、三〇前後と見える男が、ドアの鍵を開けて入って来た。
つかつかと江崎《えさき》の後ろへ歩み寄り、
「聞こえないんですか、江崎さん」
と、その肩を叩《たた》く。
途端《とたん》に、ぴくんと、江崎の背筋が伸びた。首を巡らし、驚《おどろ》いたような目を、男へと向ける。
「なんだ、梅沢《うめぎわ》さんですか……。いきなり入って来ないで下さいよ。吃驚《びっくり》するじゃありませんか」
「なに言ってんですか。何度もノックしましたし、声も掛けました」
江崎は、きょとんとした表情で、梅沢を見返す。
「本当ですか? ……全然気付かなかった」
「……これだよ……」
梅沢は、やれやれと首を振った。
「ところで、何のご用ですか?」
「ですから、お客さんです」
「お客さん? ……私に、ですか?」
「はい」
「……誰《だれ》でしょう?」
江崎が首を傾《かし》げた時、
「俺《おれ》だよ」
一人の男が、戸口に姿を現した。三〇代半ばと見える細身の男である。口元に薄い笑みを浮かべ、からかうような眼差《まなざ》しを江崎に向けていた。
「久しぶりだな、江崎」
「……若松《わかまつ》さん?」
江崎の目が、大きく見開かれた。
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「なにか飲み物でも持って来させましょうか」
江崎|新一《しんいち》は言った。
「気を使わなくてもいい」
若松|和彦《かずひこ》は答える。
「いえ、それほどの事じゃありませんから……。それに、この『ホテル』のルームサービスは結構いいんですよ。ねえ、梅沢《うめぎわ》さん?」
「そうおっしゃって戴《いただ》けるとは、光栄ですね」
新一《しんいら》の軽口《かるくち》に、梅沢は苦笑しながら応《こた》えた。
「私には紅茶を、若松《わかまつ》さんは……コーヒーの方が好みでしたね」
「ああ」
和彦《かずひこ》は軽く頷《うなず》いた。
「承知致しました。では、少々お待ち下さい」
梅沢は、大仰《おぬぎょう》な会釈《えしゃく》をしてから、部屋を出て行った。
「それにしても……本当に、何もない部屋だな」ぐるりと部屋を見渡しながら、和彦は言った。「こんなところじゃ、退屈だろう」
「慣れればそうでもありませんよ。《た》溜まっていた論文も片付きますしね」
新一の言葉に、和彦は、ちらりと机の上を見やった。
「手書きでやってるのか?」
「ええ。ワープロでもあれば楽なんですが……ここのルームサービスも、そこまでは用意してくれません。どうも、コンピューターと名の付くものは一切、僕から遠ざけておくつもりのようでしてね」
和彦を前にして、いつしか、新一の一人称は、『私』から『僕』へと変わっていた。
「なるほどね……まあ、それも無理はないだろうな」
和彦は薄く笑った。
「……それにしても、若松さんがいらして下さるなんて思ってもいませんでしたよ。嬉《うれ》しいです……。あっ、そうだ、美幸《みゆき》さんや奥様は、お元気ですか?」
「ああ、元気でやってる。……二人とも、お前の事、心配してたぞ」
「恐縮です……。じゃあ、お二人に、僕がよろしく言っていたと、お伝えして下さいますか?」
「ああ、そうしよう」
と、その時、くすりと新一が笑った。
「……ん?」
「あ、いえ、ちょっと、思い出した事が……。ほら、若松さんの結婚式の時……」
「ああ、あれか」
和彦は苦笑を浮かべた。
この若松和彦という男は、一度した約束は決して破らない。そういう男である。守れそうもない約束、守れないかもしれない約束は、最初からしない。
そういう和彦《かずひこ》だから、『永遠に変わらぬ愛を誓いますか』と訊《き》かれた時、一瞬《いっしゅん》詰まったのだった。そして、考えた末に出た言葉が、
「『前向きに善処します』には参りましたよ。いやあ、あの時は、会場中大爆笑でした」
「お陰で、喧嘩《けんか》すると、未《いま》だにそいつを持ち出される」
「あ、そうなんですか?」
「相当、根に持ってるらしくてな」
和彦の言葉に、新一《しんいら》は声を上げて笑ったが、そこで、ふと寂しげな表情を浮かべた。
「でも……やっぱり、あの席には、関《せき》さんにもいて欲しかった……。そう思いますよ」
すると和彦は、強い視線を、新一に当てた。
「奴《やつ》の事は言うな」
「そうでしたね……すいません」
新一が謝罪した時、
「はい、ルームサービスですよ」
梅沢《うめざわ》が、コーヒーと紅茶を運んで来た。
V
「では、ごゆっくり」
梅沢は部屋を出て行った。
「若松《わかまつ》さんは、そちらへどうぞ」
紅茶のカップを受け皿ごと手に取った新一は、一脚しかない椅子《いす》を和彦に譲《ゆず》り、自分はベッドへ腰掛けた。
「すまんな。じゃ、遠慮《えんりょ》なく戴《いただ》くよ」
和彦は椅子に座り、コーヒーを手前へ引き寄せた。
「いえいえ。今を時めくドクター若松に、こんなおもてなししかできなくて恐縮です」
「なあに、お前の名声には敵《かな》わないさ、ドクター江崎。……いや、今はルシファー江崎と呼ぶんだったかな」
「? なんです、それ?」
紅茶に砂糖とミルクを注ぎながら、新一は上目《うわめ》遣《づか》いに訊《たず》ねた。
「最近付いた、お前のあだ名さ。これまでにも増して、今のお前は有名だからな。どこの研究室でも、お前の話題で持ち切りだよ」
和彦《かずひこ》は、こちらは砂糖もミルクも抜きのまま、コーヒーをひと口飲んだ。
「へぇ……。それはまた、随分と素敵《すてき》な名前を戴《いただ》いたもんですね。名前負けしなきゃいいですけど」
新一《しんいち》は、くすりと笑って、カップを口元へと運んだ。
そんな新一の姿を、和彦は、じっと見つめている。そして、静かに口を開いた。
「作り物の世界に君臨するのは楽しかったか? 江崎《えさき》」
すっと、新一の目が細まる。だが、それは一瞬《いっしゅん》の事で、新一はすぐに穏やかな表情へと戻った。ゆっくりと紅茶を味わい、それからおもむろに和彦へと向き直る。
「お言葉ですが、若松《わかまつ》さん。あれは『作り物の世界』なんかじゃありませんよ」
「ほう……そうか?」
「少なくとも、あの時、あの世界は、現実でした。この世とは別の、もう一つの現実……無限の可能性を秘めた新しい世界……。僕は、そこへつながる道を、切り拓《ひら》いて見せたんです」
「そして、その代償がこれか」
和彦は、新一の住む、狭く閉ざされた空間を示した。
「……僕にしかできなかった事、僕が見せてやらなければならなかった事です。後悔はしてません」
新一は、きっぱりと言った。
「なるほどね。お前がそう言うんなら、きっとそうなんだろう」
いいとも悪いとも言わない。だが、皮肉な笑みを、和彦は浮かべた。
「その笑い方、変わりませんね」
そう言って、新一は、またひと口、紅茶を飲んだ。
W
「……ところで、そろそろ、若松さんがここにいらした目的を教えて戴けませんか? ただの見舞いにわざわざやって来れるほど、今の若松さんは暇《ひま》じゃない筈《はず》だ。なんでも、世界中の物理学者たちを敵に回してるって話じゃないですか」
新一の言葉に、和彦はやや意外そうな表情を見せた。
「俺《おれ》が今、何をやっているのか、知っているのか?」
「ええ。新聞で読みましたよ。『超時空理論』、かなりセンセーショナルな扱いでした」
「正式名称は違うんだがな。どうも最近、そっちの方が通りがいいようだ」
「ああ、そうでした」新一《しんいち》は頷《うなず》いた。「確か……『時間と空間の連続性、およびその跳躍の可能性についての考察』でしたか」
「よく覚えている」
「なにしろ、若松《わかまつ》さんの論文でしたからね。興味|津々《しんしん》、読ませて戴《いただ》きましたよ。梅沢《うめざわ》さんに無理言って、写しを取り寄せて貰《もら》ったんです。……正直、全部は理解できませんでしたけど」
「まあ、そうだろうな。一回読んだくらいで理解されたら、俺《おれ》も驚《おどろ》くよ」
「学者さんの解説によると、相対性理論の拡大強化版だという事らしいですけど?」
少し考えてから、和彦《かずひこ》は頷いた。
「まあ、そう言っても差し支えはないだろう。少なくても、方向は合ってるし、一般人に説明するには、それで充分だ」
「じゃあ、やっぱり、まっとうな論文なんですね?」
「まっとうな、とは、また随分な言い種《ぐさ》だな」
和彦は苦笑した。
新一は肩を竦《すく》めて、
「だって、結構、いい加減な記事がありましたからね。超光速航法の確立か、とか、人類が星の世界へ飛び立つ日は近い、とか……。あれじゃ、読んだ人は、眉唾《まゆつば》ものとしか思わないんじゃないかな」
「なるほど」頷いた和彦は、そこで悪戯《いたずら》っぽい笑みを新一に向けた。「しかし、江崎《えさき》。どうして、それが眉唾ものなんだ?」
「どうしてって……どうしてです?」
新一は、怪訝《けげん》な表情で、和彦を見た。
「その記事は別に、間違った事は書いちゃいないからさ」
新一は、目を見開いた。
「じゃあ……じゃあ、まさか……本当に……?」
「ああ」和彦は、にやりと笑った。「だからこそ、今、俺は、学会で問題児扱いされているわけなんだよ」
X
新一は、まじまじと和彦を見詰めた。
「だけど……本当なんですか? 本当に、超光速航行が可能なんですか? 人間が星の世界に飛び立つ事が、本当に可能なんですか?」
「ああ」
「……本当に?」
和彦《かずひこ》は苦笑した。
「俺《おれ》が、お前に嘘《うそ》を吐《つ》いた事があるか?」
「それはないですけど……でも、いくらなんだって……」
「江崎《えきき》」和彦は、心持ち声に力を込めて、言った。「宇宙船の超光速航行は可能だ。少なくとも、理論上はな」
「じゃあ、本当なんですね。本当に、本当なんですね?」
「ああ」
和彦は、はっきりと頷《うなず》いて見せる。
「凄《すご》い……凄すぎますよ、若松《わかまつ》さん。さすがは若松さんだ。僕なんかとは、スケールが違います」
感動も露《あらわ》に、新一《しんいち》は、和彦を称賛した。
「ありがとう。……だが、あれはただの基礎理論に過ぎない。先はまだまだ遠いよ。第一、まだ、他《ほか》の学者連中に認められてもいないんだからな」
「そうか……。まずはそこから始めなければならないんですね」
「ああ。皆、目を皿のようにして、俺の論文の間違いを見付けようとしてるよ」
「大変ですね」
「まあな。しかし、それは当然そうあるべきなんだよ。俺も、もし本当に間違いがあるなら、知りたいしね。ただ……中には、自分の計算間違いに気付かないで、論文の撤回《てっかい》を要求してくる連中もいてね。さすがに、そういう手合いの相手は疲れる」
「お察ししますよ。……ところで、どうなんです? 僕らが現物を見られるまで、何年くらい掛かりそうですか? 試算はしてみたんでしょう?」
「ざっと五〇年」
「五〇年?」
「うちの研究員に計算させたら、そういう結果が出た」
「五〇年ですか……。ちょっと、長すぎるような気もしますね」さすがにその長さには、新一も興奮《こうふん》を削《そ》がれたようだった。「……でも、やっぱり、それくらいは仕方がないのかな。基礎研究も必要でしょうし、そんな艦《ふね》なら地上から打ち上げるわけにもいかないでしょうから、宇宙に建造ステーションを造るところから始めなければならないでしょうしね」
「おまけに、搭載予定の装置の中には、まだ開発に手をつけてもいないものが、幾つもあるときてる」
「と、すると、僕らがその艦《ふね》に乗るのは、ちょっとできそうもないですね……。でも、僕らの世代には無理でも、次の世代の人類は、星の世界に飛び出せるんだから、やっぱり凄《すご》い事ですよ」
「ところがな、江崎《えざき》」と、そこで和彦《かずひこ》が口を開いた。
「俺《おれ》は、そんなに気が長くないんだよ。それに、自分の研究の成果を、他《ほか》の連中にだけ味わわせてやるほど、気前も良くない」
「……どういう意味です?」
「五〇年は長すぎる。とてもじゃないが、そんなには待てない。だから俺は、その期間を短縮するために全力を尽くす。それこそ、あらゆる手段を使ってな」
Y
「……具体的には?」
新一は訊ねた。
「跳躍航行艦《リープシップ》……超光速航行をする艦の事を、うちの研究所ではそう呼んでいるんだが、その建造に必要なのは、なんと言っても、まず金だ。それも莫大《ばくだい》な額のな」
「でしょうね」新一は頷《うなず》いた。「僕もそれには苦労しました」
「ああ、そうだったな」和彦は小さく笑って、あとを続けた。「だが、それに関しては、実はもう手を打ってある。……龍崎公平《りゅうざきこうへい》氏を知ってるか?」
「ええ。財界の大物ですね。政治力もかなりあると聞いています」
「あの人は、夢を見れる人だ。その龍崎さんが力を貸してくれる。資金面は勿論《もちろん》、計画が進めばいずれ問題になってくるだろう、政治的な問題にも、な」
「しかし、いくら龍崎さんが富豪でも、個人の力では限界があるでしょう」
「だから、彼を通して、政財界に広く協力を求める。最終的には国家的なプロジェクトにまで持ち上げるつもりだ。お前が一度やったようにな」
「……なるほど。では、資金面はそれで一応いいとして……あと問題なのは?」
「技術面だな。細かいものを上げていけばきりがないが、どうしても揃《そろ》えなければならないものが三つある。一つは動力装置、もう一つは観測機器。どちらも、今あるものでは話にならない」
新一は首を傾《かし》げた。
「動力は分かりますけど、観測機器というのは……?」
「跳躍航行《リープドライブ》に入る前に、あらかじめ出現ポイントの空間データをかなり精密に取得する必要があるからだ」
「もし、そのデータが間違っていたら?」
「おそらく、その艦《ふね》はもう戻って来る事はできない」
「……なるほど」
「もっとも、この二つに関しては、俺《おれ》たちが直接どうこうできるわけでもない。より優れた物を開発して貰《もら》うために、充分な資金を提供する事くらいだ」
「じゃあ、それも龍崎《りゅうざき》さんの領分って事になりますね。……あとの一つは?」
「コンピューターさ。かなり複雑な計算をこなして貰う事になりそうなんでね。それを処理できるコンピューターが欲しい」
和彦《かずひこ》の言葉に、新一《しんいち》は、にこりとした。
「ようやく、僕の得意分野が出てきましたね。分かりました。ぜひ『ギガント』を使ってやって下さい。こんな壮大なプロジェクトの役に立てるなら、あいつも喜ぶでしょう」
だが、和彦は首を振った。
「ところが、あれじゃあ、役に立たないんだよ、江崎《えさき》」
「……なぜです?」
「性能が低すぎる。まったく『ギガント』とは良く名付けたもんだ。図体《ずうたい》ばっかりでかくて、能無しだよ、あれは」
「ひどいな……」新一は、顔をしかめた。「そりゃあ、かさ張るのは認めますよ。でも、能無しはないでしょう。あれは掛け値なしに、世界最高のマシンなんですよ。あれ以上の物は、この世にはありません」
「だが、現に役に立たないんだから、仕様がない」
「あいつの処理が追いつかないなんて……一体、どんな計算をやらせるつもりなんです?」
「主に、空間データの把握《はあく》だ」
「……それは、観測機器の領分じゃないんですか?」
首を傾《かし》げる新一に、和彦は説明した。
「観測機器で一〇〇光年先の空間データを取得するとする。だが、どんなに優秀な観測機器を使ったとしても、そこから得られるデータは一〇〇年前のものだ」
「それはそうでしょうね」
「ところが、跳躍航行《リープドライブ》に必要なのは、『今』のデータなんだよ」
新一は、長々と和彦を見詰めた。
「……ちょっと、待って下さい。まさか、観測データから一〇〇年後を予測しろっておっしゃるんじゃないでしょうね?」
「そう言ってる」
無造作に、和彦《かずひこ》は答えた。
「……その空間データとやらの項目と、誤差の許容範囲を教えて戴《いただ》けますか?」
新一《しんいち》の求めに応じて、和彦は内ポケットから二つ折にした紙の束を取り出した。
そこに印刷された細かな文字と記号に目を通していた新一は、やがて、呆《あき》れた眼差《まなざ》しを、和彦へと向けた。
「これを……この精度で予測しろと、そうおっしゃるんですか?」
「ああ」
「冗談はよして下さいよ、若松《わかまつ》さん。こんな計算、できるわけないじゃありませんか」
「なぜ、できない?」
「項目数はともかく、要求精度が高すぎます。これじゃ、ほんの僅《わず》かなイレギュラーだって許されない」
「なら、そのイレギュラーの発生も計算に入れろ」
「若松さん……まさか本気で言ってるわけじゃないでしょう? 予測できないからこそのイレギュラーじゃないですか。そりゃあ、発生確率を計算する事はできますよ。ですが、いつ、どこで、どんなイレギュラーが発生するか、それを予測する事なんかできやしません。第一、若松さん自身が以前、おっしゃってたんじゃないですか。未来は不確定だって、一〇〇パーセントの予測は誰《だれ》にもできないって」
「一〇〇パーセントは俺《おれ》も望まない。九割……いや、八割でもいい。それだけの勝率があれば、賭《か》けられる」
「そんな乱暴な……」
「賭けると言っても、最初の一回だけだ。跳躍航行《リープドライブ》に成功すれば、出現ポイントの空間データを直接取得できるし、帰りの跳躍航行《リープドライブ》に必要なデータは、出発前に取得しておけばいいんだからな」
「それはそうかもしれませんが……。しかし、八割でいいと言われても……」
なおも反論しようとする新一を、その時、和彦が遮《さえぎ》った。
「江崎《えさき》。俺には必要なんだ。それができるコンピューターが、俺には必要なんだよ」
「……」
「お前にならできる筈《はず》だ。『ギガント』を時代遅れにできるコンピューターを、お前になら作れる筈だ」
「……」
「跳躍航行艦《リープシップ》の実用化まで五〇年。だが、龍崎《りゅうざき》さんが一〇年早めてくれる。俺《おれ》がもう一〇年を早めて見せる。だから江崎《えきき》、お前があと一〇年を早めてくれ」
「……若松《わかまつ》さん……」
「俺にはお前が必要だ。お前の力を俺に貸せ。江崎!」
Z
「若松さん……。そこまで言って下さって、本当に嬉《うれ》しいです。僕も、できる事ならやってみたい。……ですが、やっぱり無理ですよ」
新一《しんいち》は視線を落として、寂しげに首を振った。
「なぜだ?」
和彦《かずひこ》は、新一から目を離さない。
「なぜって……そんな事、訊《き》かないで下さいよ。分かるでしょう? ……後悔はしないつもりでしたが、さすがに、こうなると少し残念です」
「お前は、この『ホテル』の事を言ってるのか?」
「……ええ」
「なら、問題はない。俺が、お前を、ここから出してやる」
新一は目を見開いた。
「若松さんが、ですか?」
「正確には、龍崎さんの政治力を使って、という事になるがな」
「いえ、そうじゃなくて……若松さんは、僕のした事を許すんですか?」
すると和彦は、からかうような目を、新一に向けた。
「なんだ、お前、俺に許して貰《もら》いたかったのか?」
「いえ、そうじゃありませんが……」
「許すも許さないもない。期間短縮のためには、あらゆる手段を使う。そう言った筈《はず》だ。俺にはお前が必要だ。だから、手に入れる。それだけさ」
「なるほど……分かりやすいご説明です」
「ただ、一つ付け加えるなら、お前は無罪放免というわけじゃない。コンピューターの開発のために、少しだけ行動の自由が許されるに過ぎない。俺の監視の下でな」
「という事は、僕のせいで、若松さんのお仕事が増えてしまうわけですね?」
「そんな事は気にしなくてもいいさ。……それより、返事を聞かせて貰おうか。どうなんだ? 江崎」
「お受けします。ぜひやらせて下さい」
新一《しんいち》は即答した。
「お前なら、きっと、そう言ってくれると思った」和彦《かずひこ》は満足そうに頷《うなず》くと、おもむろに立ち上がった。「じゃあ、江崎《えきき》、これからよろしく頼む。明日にも迎えを寄越すから、荷物をまとめておけよ」
「はい。……と言っても、それほどの荷物があるわけじゃありませんけどね」
「それもそうか」
和彦は笑いながら、戸口へと向かう。
その背中へ、ふと思いついたように、新一は声を掛けた。
「……ねえ、若松《わかまつ》さん」
「ん?」
和彦は振り返った。
「跳躍航行艦《リープシップ》を少しでも早く完成させるために、あらゆる手段を使う……そうおっしゃいましたね?」
「……ああ」
和彦は、訝《いぶか》しげな目を新一に向けた。
「僕も、ぜひ星の世界を見てみたい。若松さんのその夢を、少しでも早く実現させたい。そう思います。そこで、一つ提案があるんですが……検討してみて戴《いただ》けますか?」
「……どんな提案だ?」
新一は、穏やかな、あるかなきかの微笑《ほほえ》みを浮かべつつ、まるで世間話でもするかのように切り出した。
「今の世の中には、コンピューターが浸透しています。コンピューターがなければ何もできないと言ってもいいでしょうね。そして僕は、コンピューターというものを良く知っている。ハードもソフトも、ネットワークも、全《すべ》てね」
和彦は、僅《わず》かに眉《まゆ》を寄せた。
「……何が言いたい」
「政治、経済、軍事……それらに介入する事が、僕にはできると言う事ですよ。これまでは、そんな事に興味もありませんでしたが、若松さんの夢の実現のためとあれば、やってみてもいい」
「……」
「どうですか、若松さん。世界征服という企画は。なかなか面白《おもしろ》いとは思いませんか? 成功すれば、資金も資材も人材も、好きなだけ集められますよ。跳躍航行艦《リープシップ》の完成までの期間も大幅に短縮できるでしょう」
「……そんな事が、本当に可能だと思っているのか?」
「確かに、簡単な事ではありません。ですが、充分な準備をして、タイミングを見計らえば、勝算はかなりあると思います」
和彦《かずひこ》は、ゆっくりと首を振った。
「確かに、面白《おもしろ》い企画ではあるがな。採用はできないよ」
「なぜです?」
「効率が悪いからだ」
「効率が悪い?」
「そんな事をすれば、世界中の人間が俺《おれ》たちに敵対心を持つだろう。それを押さえ込む事は難しいし、仮に押さえ込めたとしても、多くの金と時間を費やす事になる。結果的に、跳躍航行艦《リープシップ》の完成も遅れる事になるだろうさ」
「そうでしょうか。やり方次第だと思いますが?」
なおも諦《あきら》めきれない様子の新一《しんいち》に、和彦は言った。
「まあ、どうしてもと言うなら、やってみるがいいさ。だがな、江崎《えさき》。その時、俺がお前の味方をするとは思うなよ。立場上、俺は、お前を止めなければならないんだからな」
「敵に回るというわけですか。それはちょっと困りますね……ですが」新一は穏やかな笑みを浮かべたまま、和彦を見詰めた。「もし、そうなった時、若松《わかまつ》さんに僕を止める事が、果たしてできますかね?」
その新一の問い掛けに、和彦は別の問いを以《もっ》て応《こた》えた。
「俺にできないと思うか?」
「……」
新一は答えない。無言のまま、和彦を見詰めた。
和彦もまた、何も言わずに、その新一の目を見詰め返す。
ややあって、くすりと、新一が笑った。
「やめておきましょう。僕は、若松さんを敵に回すほど、馬鹿《ばか》じゃない」
「そうしてくれると、俺も助かるよ」和彦は小さく笑い、それから、何事もなかったかのように、新一に別れを告げた。「じゃあ、江崎。俺はこれで失礼する。今度会う時は研究所だ。思いっきりこき使ってやるから、今から覚悟しとけ」
「はい」
笑顔のまま、新一は頷《うなず》いた。
「じゃあな」
「あ……若松《わかまつ》さん」
部屋を出ようとする和彦《かずひこ》を、新一《しんいち》はもう一度呼び止めた。
「なんだ?」
「素晴《すば》らしい夢を、どうもありがとうございます」
「……そうか」
和彦は軽く頷《うなず》くと、そのまま部屋を出て行った。
……そして時が過ぎ、二人の夢見た跳躍航行艦《リープシップ》は、ついに完成の時を迎える。
だが、まさにその時、何者かが、軌道上の建設ステーションに襲撃《しゅうげき》を掛けてきたのだった。跳躍航行技術《リープドライブ》の奪取が、その目的である。
武器らしい武器も持たないまま、若松和彦、江崎《えさき》新一の両名は、これに対抗する事を余儀なくされるのだが……。
それはまた別の物語である。
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……って、こら高畑。あんた一体、どこまで本気なんだ。(編集鈴木)
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この作品は1995年6月に小社より単行本として刊行されました。
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◎高畑京一郎 著作リスト
「クリス・クロス混沌の魔王」 (単行本メディアワークス刊)
「タイム・リ−プあしたはきのう」 (同)
「タイム・リープあしたはきのう[上]」 (電撃文庫)
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本書に対するご意見、ご感想をお寄せください。
あて先
〒101東京都千代田区神田駿河台1−8東京YWCA会館
メディアワークス書籍編集部気付
「高畑京一郎先生」係
「衣谷 遊先生」係
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発 行 一九九七年一月二十五日 初版発行
発行者   佐藤辰男
発拝顔   株式会社メディアワークス
〒一〇一東京都千代田区神田駿河台丁八
東京YWCA会館
電話〇三−五二八一−五二〇七(編集)
発売元   株式会社主婦の友社
〒一〇一東京都千代田区神田駿河台台二−九
電話〇三−五二八〇−七五五〇(営業)
装丁者   荻窪裕司(META+MANIERA)
印刷・製本 加藤製版印刷株式会社
落丁・乱丁本はお取り替えいたします。
定価はカバーに表示してあります。
□本書の全部または一部を無断で複写(コピー)することは、著作権法上での例外を除き、禁じられています。
本書からの複写を希望される場合は、日本複写権センター(рO3−3401−2382)にご連絡ください。
◎1996 KYOICHIRO YAKAHATA
Printed in Japan
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高畑《たかはた》京一郎《きょういちろう》
1967年生まれ。静岡県出身。第1回電撃ゲーム小説大賞〈金賞〉受賞作『クリス・クロス』(単行本・メディアワークス刊)で作家デビュー。本作『タイム・リープ』が文庫初登場となる。最近、バイクを購入したが、新作の執筆に追われ眺めるだけの日々が続いているという。
【電撃文庫作品】
タイム・リープあしたはきのう[上][下]
イラスト:衣谷《きぬたに》 遊《ゆう》
1962年生まれ。愛媛県出身。代表作に『エンジェルアーム』(電撃コミックスEX)がある。超多忙の人気作家で良きパパで大酒呑み。“酒は浴びるが溺れない”ところがスゴイ。
9784073055969
1910193005005
ISBN4-07-305596-8
c0193 P500E
発行●メディアワークス
発売●主婦の友社
定価500円(本体485円)