銃姫《じゅうひめ》(3)〜Two and is One〜
高殿円
目次
プロローグ
第五話 まっすぐに歩いていく 前編
あとがき:よいこは先に読んじゃいけません(ネタバレあり)
[#改ページ]
プロローグ
――あたしの中には、二人のあたしがいる。
ひとりは今のあたし。銀の弾丸に魔法を込めて、それで人を殺すことを平気でいとわない冷酷無比な戦士のあたし。
戦士のあたしは名字を名乗らない。ただアンとだけ呼ばれている。
アンという名前は特別な意味を持たない。重要なことは、アンの撃《う》った弾がひとりでも多くのスラファト人を殺したかどうかであって、あたし自身の名前や幸福なんてものにはなんの価値もないのだ。
だから、あたしはこの体から贅肉《ぜいにく》や保身をそぎ取って、懸命に鋭くなるようにしていた。その視線が、気が、そして攻撃が、どんなときでも振り上げられたナイフでいられるように。
そう――まさに、あたしはナイフだった。
あたし自身が兵器だった。
もうひとりは王女のあたし。アンブローシア=ドミ=ガリアンルード=エドナ=イライザ=エンプローシャ。
王女アンブローシア《ドミ・ガリアンルード》。ガリアンルード王家の正統な王位継承者。あの小さいけれど、まろぶ風と溢《あふ》れんばかりのイモアの水源に祝福された土を、血によって正しく受け継いだもの。
王女とナイフ。
水と油のように混ざり合わないふたり…
なのに、あたしたちはいた。同じ場所に、これ以上ないというほど溶け合わさっていた。
あたしたちは、なにも生まれたときから背中合わせの双子だったわけではない。少なくとも兵器のアンが生まれたのは、王女アンブローシアが誕生したときよりずっとあとのことだった。
彼女が産声をあげたのは、あのスラファト軍が協定を破って突如《とつじょ》としてガリアンルードへの侵攻を開始した――今からちょうど五年前の冬の日…
首を斬《き》られても死にきれずに口から血泡を吐《は》き出してもがく母親と、首がないまま玉座に座っている父親…。その胴体を離れた首が自分の前にころころと転がって、それをボールだと思って拾い上げたまさにそのとき、その場にいた人間を切り裂《さ》くような絶叫がかわいそうなアンの産声となったのだ。
両親の血と屈辱にまみれながら、彼女は叫んだ。
『お前たちを、全員殺してやるわ《センレクラチア、ドフーマラ》!!』
あれからずいぶん経《た》って、アンは思い直す。
きっとあんな凶暴じみた自分は、もっともっと昔からあったのだ。ただなりをひそめていただけ。王女というきらきらしい肩書きと、あの息苦しいコルセットとバスルに締め付けられてひっそりと息を殺していただけ…
それが、ガリアンルードが滅びるという衝撃に、せまく押し込められた産道から一気に押し出されるようにして姿を現したのだ。
――すべてを踏みにじられた王女の狂気として。
あれ以来、あたしたちは親友のように、この世界でただひとつのよりどころのように身を寄せ合って生き延びてきた。王女の誇りを守るために、アンが武器を手にして戦った。戦士のアンは王女アンブローシアの忠実なナイトだった。あたしたちはふたつでひとつ。ばらばらに散っていった同胞の旗印として王女には戦うすべが必要だったし、戦士アンは人を殺しても正常でいられるための理由を欲していた。
あたしたちがスラファト人を殺す理由…
(もちろん、それは祖国のため!)
スラファト人は、他国へ野心も持たなかった山間の小さな国に、なんの理由もなしに(後付けされたそれはすべてでっちあげにすぎなかった)攻め込んだのだ。
みんなが疑問に思っていた。
なぜ、どうして?
あたしたちはなんにも悪いことはしていない。
あたしたちはスラファト人に、なにも悪いことをしていない。
あたしたちは何代前の先祖が建てたかわからない古い石造りの家で、風車のまわす石臼《うす》で小麦をひき、雪解け水で水車をまわし、家族と同じ数の家畜と一冬ねかせた土のはぐくむ実りを口にしていただけ。
そんな素朴な人々の暮らしを、国で一番高い場所につくられた風の王の金の風車を、スラファト人は一瞬にしてあとかたもなく焼き尽くしたのだ。
『あんたたちはだれだ。どうしてこんなことをするんだ!?』
そう言ったある父親は、おもむろに喉《のど》を剣で突かれた。
『この子だけは助けて!』
そう言った母親はふくらんだ下腹部を軍靴で蹴《け》り飛ばされ、奥へ引きずって行かれた。
(なぜ!?)
(どうしてみんな死んでいるの)
(どうしてみんな死んでいくの)
――今でもあたしたちはよく夢に見る。
それは、あたしたちが最後に祖国を離れた日のことだった。
あの日もその黒く細い黒煙が、あたしの行こうとする山の峠から、まるで黒い綱が空から垂らされているように幾本も見えた。あたしはその綱の正体を知っていた。それらはすべて、ガリアンルード人の死体を焼く煙だった。
その光景の中を、ガリアンルードの都からスラファトへと続く、男女別の長い長い行進があった。
北へ連行され、その半数がたどりつけぬまま海へと投げ捨てられる男たちの列と、スラファトへ連れて行かれ、蒸気と汚水がたちこめる紡績工場にぶちこまれ、あるいは赤い髪の将校たちの慰みものになる女たちの列…
その捕囚たちによって作られた道は、その後だれからともなく“従順の道”と呼ばれるようになったのだ。
(憎《にく》らしい)
虐げられるガリアン人を見ながら、いつまでもとぎれない黒煙の筋を遠目にしながら、あたしたちは何度顔を覆《おお》ったかしれない。
このままではだめだ。黙っていれば黙っているぶんだけ殺される。ガリアン人の体を流れる血の最後のたった一滴まで、今のままではスラファトに搾取されてしまう。大切な人が、家族が、仲間がみるみるうちに殺されていく。大地が赤く染まっていく。あたしたちがあんなに愛した土が、金の実りをはぐくんできた土が…
(なんとかしないと!)
(あたしたちが、なんとかしないと!!)
でも、どうやって…。どうやってやつらを止めたらいい…?
「殺 す しかない」
あのとぎれることのない“従順の道”を見たとき、あたしたちはついに精神のどこか大切な部分が焼き切れてしまった気がしたのだ。
そのとき、あたしは言った。王女も言った。
多くの人があたしたちに同調した。
「もう、殺 し た っていいわよね」
もう、我慢しなくていいわよね。
だって、あんたたちだってやってきたじゃない?
だって、こうしないと、あたしたちがいつまで経《た》っても負けなんじゃない。
だって、どうしてあたしたちだけこんなにも虐げられなければならないのか、不当じゃない。
やられたら、やり返す。
やられたら、もっとやり返す。
殺《や》られたら、殺り返す。犯されたら犯《や》り返す。奪われたら奪い返す。もっともっともっと…もっともっともっと――
倍にして倍にして倍にして倍にしてもちろんあたしたちがそうだったようにスラファト人に女子供でないやつらは鬼だ悪魔なんだから倍にして倍にして倍にして倍にして惑わされるなひとり残らず殺して殺して殺して殺し尽くして倍にして倍にして倍にして倍にして返すあたしたちの恨みも哀《かな》しみも倍にして倍にして倍にして倍にして子供の頭を割られた親は同じように割り返すがいい流れ出る脳漿《のうしょう》が我が子と同じなんて気づかないでいい、倍にして返すんだ倍にして倍にして倍にしてすべてぶちまけろさあ――
「報復を《ギャーリー・ホー》!」
(そうだ報復を!)
あたしたちはたった一度だけ、仲間を前に演説したことがある。
“勇気という名のたいまつを掲げ”それはアンの父親だった国王クレセンシオ十二世の口癖だった。
「同胞たちよ、目を開けて、目の前にある暗闇《くらやみ》に勇気という名のたいまつを掲げよう――」
そして、拳《こぶし》を握り、
膝《ひざ》に力をいれ、
ぐっと立ち上がり、
背をこれ以上ないほど伸ばして、
顔を上げ、
目をこじ開けて、
深く深く息を吸って、
叫ぶことがあるはずだ。やるべきことがあるはずだ。
あたしたちの歴史、あたしたちの土、その手にかつてあったものをとり返す、これは正当な行為だ。
ガリアンルードの同胞たちよ、わかるはずだ、感じるはずだ、なぜならばあたしたちの体には同じものが流れているんだ、
――目覚めるんだ!
「報復を《ギャーリー・ホー》!」
そうだ体に刻まれた屈辱と、
民族の悲哀と、
踏みにじられた国旗と、
失われた母国語と歌、
もう咲かなくなった花を持って、
(復讐《ふくしゅう》を!)
「報復を《ギャーリー・ホー》!」
(残虐をつくせ!)
「やつらに報復を《ギャーリー・ホー》! 俺たちと同じ目にあわせてやる!!」
『だめだよ!』
突然、そこに異質な声が混ざり込んで、あたしたちははっと息を呑《の》んだ。
『だめだよ。そんなことをしちゃ。それじゃあ人が今まで言葉をつくしてきた意味がない』
戦士のアンに、そう言ってのけたひとりの少年がいた。
あたしたちと同じ銃を握る少年、セドリック。
はじめて出会ったときも、彼は銃を握ろうとしたあたしたちに向かってこう言ったのだ。
たしか、あたしはせせら笑った。
『殺すわよ』
そう言って、迷わず彼の額に銃口を押しつけた。すでにあたしたちの手は、スラファト人以外の人間を手にかけることもいとわなかったから。
『言葉になんか、惑わされないわ』
言葉になんか、なんの力もないわ。あたしたちを止める力もなければ、やつらを正気に戻す力もない。だってあたしたちが泣き叫びながら、苦しみあえぎながら、地を這《は》いもだえながら訴えてきたわずかなことすら、やつらはげらげらと笑いながら聞き飛ばしてきたではないか!
――助けて!
助けて。助けて。助けて。
お願い、助けて!助けて助けて助けて助けて助けてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけけてててたすすすけけけけてててててて――たすけ…
ぷちっ!
なのにどうしてだろう、彼の言葉はアンの心の奥にまでよく届くのだ。
『僕が聞くよ』
セドリックは今どき珍しい、自分をかざらない少年だった。アンと同じ人殺しの道具を握っている手なのに、その手はいつもなにかをすることに惑っている。
だが彼は話してくる。心にぽんと浮かんだままの剥《む》き出しの、けっして耳障りのよくない言葉を、ためらい、たどたどしく詰まらせながらもぶつけてくる。
『今までだれもきみの話を聞こうとしなかったのなら、僕が聞くよ。僕がちゃんときみの目を見ながら聞くよ。それじゃあだめかい。そこからなにも始められないかい』
『――っっ』
そのとき、あたしはたしかに戸惑っていた。今まで彼のような人間に会ったことがなかったから…
殺せなかった。
自分の話を聞いてくれるという彼を、あたしは殺すことができなかった。
『だめよ信用しては。あんな子供に耳を貸してはだめ』
揺さぶられるあたしに、あたしの中の王女が必死に語りかけてくる。
『他人は裏切るわ。あなたは裏切られるわ、アン』
そう、今まであたしは王女しか信用していなかった。
あたしたちは、ずっとずっとお互いを愛してきた。アンは王女が好きだった。もうひとりのあたし、誇り高い血と鉄のような決意でできているガリアンルードの生きた象徴…
王女アンブローシア。
あたしと王女はふたりでひとつ。見てくれはずいぶん違ってしまったけれど、彼女とあたしは同じものでできていて同じものを痛いと思っている。そこには息を吸うのと同じくらいたやすい共感がある。
(あたしには、王女さえいればいい)
兵器のアンはずっとそんなふうに思っていた。
だれも信じることなく、だれも愛することなくただ前進する! だって王女は戦士であるアンに生きる意味と方法を与えてくれる。そして、あたしは彼女を信じることができる。他人と違って彼女は裏切らない。嘘《うそ》をついたり、おためごかしを言ったり、安い鉄のようにちょっとした圧力で意志を曲げたりしない。
あたしは、王女さえ信じていればよかった。
(でも、王女。あんたは違う。…あんたは、セドリックとは違うわ)
いつのころからか、あたしはそう思うようになっていた。
たしかに王女はあたしを愛してくれる。
王女はあたしを慰めてくれる。
王女はあたしを叱咤《しった》してくれる。
王女は、だれよりもあたしを理解してくれる。
でもたったひとつだけ、王女、あんたにできないことがある。
(それは、触れ合うこと)
限りなく近い場所にいてひとつでいることはできるのに、彼女はわたしに触れることはできない。
なぜなら、彼女はあたしの中にしか存在しないから。
あたしの中にしかいない彼女は、けっして寄り添ってくれることはない。ただ中にいて共感するだけ。そうねよくわかるわって頷《うなず》くだけ…
(そんなのは寂しい)
揺れるあたしに、王女は言う。
『アン、彼は他人よ。きっとあなたのことを非難するわ。血も涙もないテロリストだって』
「でも、王女。セドリックはちゃんとあたしの話を聞いてくれるもの。きっと、あたしはセドリックを信じ始めてる。あれほどいらないと思った言葉を、あたしはまた欲しいと思い始めてる…」
セドリックは弱い。
彼はあたしたちの前でことあるごとに自分に自信がないようなことを口にする。実際、彼は魔学の知識に関してはまだまだだ。人を殺すことにも慣れていない。いざというときに、自分の身と相手のことを同じはかりにかけてしまう。
でも、びっくりするぐらい潔いところがある。どこか底知れぬ魔力を感じるときがある。この世のすべてが、彼の味方をしているのではないかと思えるときがある。なのにアンにとってみればどうでもいいようなところでひどく迷う。
不安定で心のもろい少年、まだまだだれかを守るなんて余裕があるわけがない。
それでも、彼は言う。
いっしょに行こう。きみにかけるどんな言葉も僕はためらわない。わかってもらえるまで言葉をつくすよ。自分をもっと大事にしてほしい。僕はきみが大事だから、
大事だから…
(どうしよう…)
王女ではない、兵器のアンがとまどっていた。
(どうしよう…)
苦しい。
(どうしよう!)
でも、嬉《うれ》しい。こんなにも嬉しい。どれくらい嬉しいかって、今にも大通りに飛び出していってみんなの前で大声で叫びたい。
あたしだってあんたが好き。
大好き!
あたしはあんたを大事に思ってるし、あんたが大事に思っているものを守りたい。
あんたがいつもなにげなく話してくれるように、同じ目線に立って、まっすぐに見つめ合って、ときには背中を預け合って、お互いを守り合って、寂しいときには手をつなぎ合って、そうよ、いろんなことができる。人が二人いればたくさんのことができる。人が二人いればできることが無制限に増える。きっと今よりすてきなことが増える…
この世の中に人間はたくさんいる。けど、おかしなことにだれでもいいってわけじゃない。世界はこんなにも人で溢《あふ》れているのに、だれでもいいってわけじゃない。
あたしは、あんたがいい。
だれでもよくないから、あんたがいい。
あたしはこんなふうに正直でないし、自分のこともうまく話せない。やさしくもないし女らしくもない。手先が器用なわけじゃない、詩が書けるわけでもない、銃を持っているけれど魔力がずば抜けているわけでもない。
あたしがあんたのためにしてあげられることなんて、なんにもないかもしれない。
でも、いつだったか星のようにきらきらしたものがあたしの上に降ってきて、あたしの中に巣くっていた闇を一瞬だけ吹き飛ばしたわ。
そのとき、わかった。
話を聞くことはだれにだってできることだって。だから、この世の中のだれにでも人のためにできることはあるんだって、そんな簡単なことが大事なことなんだって、あたし急に――本当に急に、星を掴《つか》んだみたいにわかったの!
ねえセドリック、あたしね。あんたのために、いつでも話を聞いてあげられたらって思ってるわ。あんたがいつでも話したいときに話せるように、側にいたいと思ってる。
だれでもよくないくらいに、
あんたがいいぐらいに、
あんたじゃないとだめなくらいに、
あんたが、好きだから――
『無理よ』
王女が言う。
『アン、あたしたちは王女なのよ。たったひとつのガリアンルードの旗印なのよ』
別の声がする。
「あなたは反乱軍を率いなければならない」
反抗勢力のトップである、エカード=シーバリーたちも言う。
「あなたはキャラバンを導かねばならない」
導師タリマインが叫ぶ。
「王女さま、竜王のお妃《きさき》におなりください!」
他の導師たちが口々においうちをかける。
「あなたさまがガリアンルードの総督におなりになれば、わたしたちは国へ帰れます」
老いてひびわれた声が、無念に果てようとしている声が、満たされない赤ん坊の泣き声が、次々に重なりあって津波のようにあたしに襲《おそ》いかかる。
「ガリアンルードで死にたい!」
「ふるさとへ還《かえ》りたい!」
「もう、こんなつらいのはいやだ」
「もうたくさんだ」
「もうたくさんだ!」
――やめて!
あたしは耳をふさいで、その場にしゃがみこむ。
やめて、わかってるわ。あたしだけ勝手なことができないってわかってるわ。
でも、嬉《うれ》しかったんだもの。大事に思ってるって言われて、本当は飛び上がりたいほど嬉しかったんだもの。ずっとこのままでいられたらって思ったんだもの。思っただけよ。ほんの少し思うくらいいいじゃない!
そのとき、雲間からこぼれ出るひとすじの光のように、声がしたのだった。
『いいえ、ずっといっしょにいられる方法があるわ、アン』
あたしは驚いて顔を上げた。
一番はじめにあたしに同調してくれたのは、やっぱり王女だった。
あたしは心の底からほっと息を吐《は》いた。ああ王女、あんただけはきっとあたしをわかってくれると思ってたわ…
『そんなに好きなら、いっしょにいたらいいのよ。離れることなんてないわ』
王女はあたしをやさしく言葉で抱擁《ほうよう》しながら言った。
『セドリックにお願いするのよ。あたしを助けてって』
「えっ」
『いっしょに祖国のために戦ってほしいって、彼にお願いしてごらんなさい。きっと彼はわかってくれるわ。だって、彼もあなたのことが好きなんだもの』
そうかしら…
『そうよ! あなただって見たでしょう。あのクリンゲルの“銀のとばりの森”で、セドリックが百万の闇をしたがえて金のかぎ爪《づめ》を研ぐところを』
あの夜。
(あの夜…、クリンゲルでセドリックがスラファトの将校ギース=バシリスと戦った――)
あたしは王女に言われてはじめて、あの夜にあったできことを思い出した。
あの身も毛もよだつような漆黒《しっこく》の闇の中で、グリザリエルが仲立ちした魔法陣をたてに、ギースのもくろみを止めるためにたったひとり銃を手に決闘をいどんだセドリック…
その途中、思わぬことがおこった。ギースの放った一撃のせいでセドリックの腕輪の一つに亀裂《きれつ》が走った。彼はそのとき、なにを思ったのか自分で腕輪を外した。
そして、突然闇が膨張した。
空気がびりびりと悲鳴をあげているのを、アンの頬《ほほ》が、腕の皮膚が感じていた。それはそこにあった空気が、まるで大きな手によって真横に引き裂《さ》かれていくような感じだった。なのに辺りはこれ以上ないくらい黒さを増し、風は彼に敬意をはらうように凪《な》いで、じっとセドリックの動向を見守っていた。
あれを見たとき、あたしは魔法式の一篇を思い出さずにはいられなかった。夜よ、すべてのものが沈黙するとき! 色を盛った花も、高さを誇った嶺《みね》も空も、すべてが無意味にひれ伏す黒きとばり――
“すべての夜を集めても、あの漆黒の闇にはかなわないだろう”そう古歌にもうたわれている死の王の衣が、あのときのセドリックのまわりにはあったのだ。
膨大な魔力だった。
あまりにも、絶大な力だった。
『セドリックだったらきっと助けてくれるわ』
王女はささやいた。
『彼は、やさしいもの』
(そうだわ、セドリックなら、あたしのためにあの力を使ってくれるに違いない)
あたしはそんなふうに確信めいたものさえ感じた。
なぜならあたしは、セドリックが自分の力をひどく恐れていることを知っていたから。
はじめ、ギースとの決闘を終えた彼は、自分が無意識のうちに森の火事を消し去ってしまったことを知るとひどく怯《おび》えた。
ところがあたしがいいことをしたのだと強調すると、途端にホッとしたように表情を崩《くず》した。自分の力を使ってすばらしいことができたんだと、僕がみんなの役に立てたんだと無邪気に喜んでいたのだ。
『セドリックは自分の力を恐れているわ』
やさしげな王女の言葉に、あたしは頷《うなず》いた。
『だからこそ、彼に力の使い道を提示してあげるのよ。彼の力をただの暴力にしないためにも、それが彼にとって最善の方法なの』
そうかもしれない。
あたしは王女の言葉に深く感じ入っていた。
『彼が力を貸してくれれば、きっとあたしたちは祖国へ帰れる。あなたはセドリックとずっといっしょにいられるわ。あの憎《にく》い竜王の妃《きさき》なんかにならなくてもすむ。セドリックの力さえあればガリアンルードを取り戻せるのよ』
「ガリアンルードへ帰れる!」
そうなったら、どんなにいいだろう!
それは、強烈な誘惑だった。あたしは迷ったときによくそうするように、服の上から胸を掴《つか》む仕草《しぐさ》をした。
そこには竜王につけられた傷がある。貶《おとし》められはずかしめられた醜《みにく》いムカデのような傷跡だった。
もう、痛みはしない。でも――
(セドリックは気にしないっていったわ。こんなことで嫌いになるはずがないって…)
その強みは、あたしにわずかな自信を取り戻させた。
『アン、セドリックを説得するのよ。セドリックはやさしい。彼が荒れ果てたガリアンルードを見ればきっと力を貸してくれるはずよ。あの銃姫なんか手に入れるまでもない、セドリックさえあたしたちの味方をしてくれればすべてうまくいく。彼を中心に抵抗軍を組織すれば、今はばらばらになっているタリマイン導師たち保守派とエカードが率いる強硬派も、セドリックを中心にひとつになる…』
「ひとつになる」
みんなみんなひとつになる。
ばらばらになってしまった民族、いつのまにか離れてしまっていた人々の心、それがもう一度彼の強さというよりどころを得て、ひとつに集結することができる。
(そんなことが、本当に…)
ぐらついたあたしの心の隙間《すきま》に、王女の囁《ささや》きは水のようにどんどんと流れ込んでくる。
『セドリックをたててスラファトに勝利をすれば、祖国であきらめかけている人々ももう一度希望を取り戻すでしょう。セドリックはたいまつになるのです。あたしたちが掲げるべき勇気という名の赤きたいまつに。そしてそれを彼も望むはず。
彼は英雄になるの!』
セドリックが、英雄になる!?
あたしは驚いて息を吸うのも忘れた。
そうだ、セドリックは英雄になるだろう。ガリアンルードのために戦い、ガリアン人のために力を惜しみなく使う。彼は感謝される。そして崇拝される。
いいやそれだけではない。英雄となった彼を、ガリアンルードの人々は温かく迎え入れるだろう。そして、ガリアンルードを救った英雄が王女の伴侶《はんりょ》となることを望むだろう。
そうなれば、アンとセドリックは国中のみんなに祝福されていっしょになることができる。あたしは彼に帰る場所を与えてあげることができるし、なによりもずっと彼の側にいることができる。
(ずっとセドリックの側に…)
あたしは、心のどこかでそれを望んでいたのではなかったか。
「セドリックと、ガリアンルードへ還《かえ》る!」
それはすばらしい思いつきだった。あたしは王女と久しぶりに心をひとつにした感じがした。
すぐにでも彼に話さなければ、あたしは強くそう思った。
早くしないと、レニンストンで別れたタリマイン導師らがアンを迎えにやってくる。そのときまでに、あたしはセドリックに決断させなければならない。あたしといっしょにいくか、ここで永遠に別れるか。あたしがガリアンルードの王女で、このままでは国のためにスラファトに嫁がなければならないということを…
そのためのきっかけがほしい、彼に自分がガリアンルードの王女だと明かす、きっかけが!
あたしは、ふと黒い影のようなものが胸をよぎるのを感じた。
「でも、王女。ひとつだけ心配なことがあるの」
『あら、なあに?』
セドリックをガリアンルードに連れて行くことに、きっと反対する人間がいる。
王女は笑った。
『そんなのセドリック自身が決めることよ。決断した人間をだれがとめられるというのよ』
そう…。そうよね、あたしたちもう子供じゃないんだもの。自分の決めたことは、大きな社会の枠組みに背くことでなければある程度尊重されるべきだとあたしも思う。
でも、できない気がするの。
『ええ、どうして?』
そんなことをしたら、あたし、食べられてしまいそうな気がするの…
ぱきぱき、
ぐちょ、べきばきっ
ぱくっ
ぺろり
「うふふふ、ごちそうさま」
――そんなふうに、 蟲《むし》 に食べられてしまいそうな気がするの…
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第五話 まっすぐに歩いていく 前編
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考えちゃいけない、そう頭ではわかっていても心のほうがずっと正直なことがある。
「僕の両親はいったいどんな人だったんだろう」
とくに夢は正直だ。不安があるときやなにかの拍子に、セドリックはついそのことを夢に見てしまいがちだった。
そんなことを考えても無駄《むだ》だってことは、自分でもよくわかっていた。彼はレニンストンで偶然であったバロットというカートリッジ屋に、とあることを教えてもらっていたからだ。
“優良血系因子保存計画”
なんでも、メンカナリン聖教を信仰する国々には、体の成熟した男女はかならず血の濃い子孫を残さなければならないという法律が存在するらしい。
『人間よ、弱くなれ』
かつてこの世を焼いた人間の所業を神さまはお怒りになり、人間から魔法を発動させる能力を奪っておしまいになった。
それから数百年、科学によって魔力が遺伝することが解明されるまで、人間はそのことを知らないまま奔放に交わり続けた。結果、人間の持つ魔力はどんどんとうすくなり、それと共に強い魔法、強い言葉はこの世から失われた。
そう――。神さまがおっしゃったとおり、人という種は以前とはくらべものにならないくらい弱くなってしまったのだ。ようやく危機感を抱いた世界のあらゆる機関が、ふたたび優良な魔法因子を取り戻そうとやっきになったのはいうまでもない。彼らは国を挙げて同じ属性同士の結婚、および交配を推奨しだした。そのためにできた法律が、この優良血系因子保存計画案というわけである。
(もしこの法律ができてから僕が生まれたのだったら、僕の両親はやっぱり…、愛し合ってなかったんだろうか)
自分がどうやらその“血の精製機関”で生まれたらしいこと、父親と母親は血を濃くし効率よく魔力の高い子供をつくるためだけに関係を持ったことに、セドリックはうすうす気づき始めていた。
法律によって関係を持つ男女が増えたということは、セドリックの両親はお互いのことをろくに知らない可能性もある。そこにはセドリックの期待するようなドラマやいきさつはないのかもしれない。もっと言えば、彼らが自分たちの息子の存在を知っていることすら疑わしい。
なのに、気が付くと僕はこんなふうに両親のことばかり考えている。ねえエル、やっぱり、僕の母さんは僕と同じ髪の色をしていたの。それとも、エルみたいに濡《ぬ》れた鴉《からす》の羽根のように綺麗《きれい》だったの? 小さい頃はそう言って両親のことを話してとせがんでばかりいた。それはエルにとってもつらい記憶だっただろうに…
『ごめんなさいセドリック。わたしもあなたと同じ、あのころの記憶はあいまいなの。話してあげられずごめんなさいね。わたしがあなたの母親の代わりになるから許してね…』
(ああ、もう。エルが哀《かな》しむからもう考えないってあれほど誓ったのに、なんで僕はいまだにこんな夢を見てしまうんだ。くそっ、こんな夢見るくらいならもう起きてやる!)
いつまでもぐじぐじと未練がましい自分がいやだった。セドリックはまとわりついてくる睡魔をふりきると、寝袋の中から体を引っ張り出した。
「うっ、寒…」
セドリックはぶるりと身を震わせた。外気にふれた途端、体中の血管がきんちゃくの口のようにきゅっと収縮するのがわかる。
ここはレニンストンの街から六十シバほど離れた“霜降り山脈”の山の中だった。
霜降りという名のとおり、まさに赤っぽい火山灰の土の上に白みつをたらしたような山々が見える。
セドリック、エルウィング、アンブローシアの三人のいたレニンストンからエリンギウムを目指すには、リンデンロードの港から内海を下ってくるのが一番早い。だが、残念なことにリンデンロードからスラファトへ行く航路が月海王国の参戦によって封鎖されてしまったため、セドリックたちは自力で大陸の西側へ移動するか、クラップストーンまで戻ってそこから内海を渡るかどちらかを選択しなくてはならなくなった。
長い船旅に慣れていない三人は、先に西側へ渡って陸路をとることにした。リンデンロードから短距離船にのって、巨人の足跡という名のついたアカンサスの港町まで移動する。ここからはスラファト、そしてアンブローシアの故郷であるガリアンルードのある大陸の西側だ。あとはこの猛獣の牙《きば》のように連なる霜降り山脈を越えさえすれば、そこはもうスラファトに併呑《へいどん》された旧クリステル星団《きらめく星ぼしの連合国》の国々が広がる。セドリックたちが目指す大いなる教えの宮《エリンギウム》はそこから目と鼻の先だった。
「今から山越えか。ちょっとキツイわね」
古着屋で買った分厚いコートに袖《そで》を通しながら、アンブローシアが言った。
アクラホンの牙と呼ばれる一帯に入る手前の宿場町であつめた情報によると、郵便馬車はもう運行をやめているけれど、雪さえ降らなければまだ十分山を越えられるということらしい。
「どうする?」
「でも、ここで冬を越すにはあと四月もあるわ。今はちょっと無理をしても早めに山越えをしてはどうかしら」
三人は悩んだ末、春をまたずに山を越えることを選んだ。ここで春まで足止めをくらうには中途半端な時期だったし、セドリックには真実を早く知りたいという焦燥が、そしてエルウィングには教えの総本山に詣でたいという願いが決断をはやまらせた。
アンブローシアはとくに反対しなかった。
そうして山に入って三日目の夜。
セドリックたちは、夏場に馬丁たちの休憩所に使われるらしい小屋を麓《ふもと》で教えてもらい、宿に使わせてもらうことにした。この時期はめったに雪は降らないということだったが、アクラホンの牙を越えて吹いてくる風は刻みつけるように強く、実際の気温よりもずっと寒く感じられる。
「あんまりよく眠れなかったな…」
セドリックは頭をかいた。
考えごとをしながら眠ってしまったせいか、それとも勝手に想像した両親のことを夢に見たからか、今朝の寝起きは最悪だった。彼はそばでエルウィングとアンブローシアが寝息をたてているのを確認すると、そっと小屋を抜け出した。早く顔を洗って気分をしゃっきりさせたかった。
セドリックは小屋の雨樋《あまどい》の下に、馬に飲ませるための貯水樽《だる》に水がたまっているのを見つけ、赤い灰を顔にこすりつけてごしごし洗った。これは天日に干した羊歯《しだ》を燃やして作った炭酸カリで、貧しい人々のための簡易用の石鹸《せっけん》だ。石鹸の原料であるソーダには特別税がかかっているため、セドリックたち旅人が携帯しているのは、常にこの赤茶けた羊歯の灰だった。これでも十分汚れは落ちる。
「ん、ん、まだなんとなく声が変だな…」
セドリックは何度も喉《のど》をならした。
これから山を越えないといけないというのに、おととい辺りからどうも喉の調子がおかしい。
おかしいといえば喉以外にもあった。ここ半月ばかり体のあちこちがひっぱられるように痛いのだ。セドリックは仕方なく、歩くたびにぎしぎしいう体を叱咤《しった》しながらこの山道を登ってきた。
「おっかしいなあ。熱はないのに」
風邪ならそのうちなおるだろうと思っていたのに、三日経《た》っても十日経ってもさっぱりよくならないので、セドリックは内心苛立《いらだ》ちを隠せなかった。どうにも変だった。しかも喉のがらがらは日をおってひどくなるばかりである。
「まさか、また鉛の山ってわけじゃないよね」
クリンゲルのことを思い出して、セドリックはどっと肩をおとした。あそこが鉛の山であることをしらなかったために、ずいぶんえらい目にあった彼らだった。
痛いくらいに冷えた水を何度も顔に叩《たた》きつけると、一瞬で眠気も吹き飛んだ。綺麗《きれい》にすすぎおえたあとで、ふとセドリックは顎《あご》の辺りがざらついていることに気づいた。
(ああ、泡を落とす前に剃《そ》ればよかった。ばかだな僕…)
セドリックは腰からナイフを取り出そうとポケットに手をかけた。
すると、
「セドリック、早いね」
「うひゃっ」
突然アンの声がして、セドリックはナイフを足の上に落としそうになった。
「あ、アン!?」
「だっ、だめ、そのまま振り返らないで!」
そう言って、彼女はセドリックの背中を押した。
「なにすっ…」
「お願いそのままで聞いて。あのね、あたし…、セドリックに話さなきゃいけないことがあるの」
後ろを向いたままなので彼女の表情はわからなかったが、その声が固く強《こわ》ばっているのがわかった。
振り向くなと言われて、セドリックはそわそわと落ち着かなかった。
「あ、あの…、いったいどうしたの?」
「ごめんね。でもどうしても…、エルのいないところで聞いてほしくて」
「えっ」
セドリックはびっくりして思わず振り向きそうになった。
「う、動いちゃダメ! 顔を見ると勇気がなくなっちゃいそうだから」
エルのいないところで、とわざわざいうのなら、これはエルウィングに聞かれたくない話なのだろうか。
アンがエルに聞かれたくない話って、いったい…
「セドリックはさ…。あたしが、ガリアンルード人だってことは、もう知ってるよね」
「あ、うん。それはもちろん」
「抵抗勢力のキャラバンに入ってることも」
「うん」
「いい家の娘だったってことも…」
セドリックは頷《うなず》いた。
アンブローシアが上流階級の出身であることは少しつきあってみれば見当がつく。物言いこそはすっぱなところがあるが、ちょっとした仕草《しぐさ》や大陸共通語を話すときのなまりのなさなどがどこか人と違っているのだ。外見も旅をしているせいか髪は編みっぱなしで粗末な服を着ているものの、どことなく育ちのよさをうかがわせている。たぶん高い教育としつけを受けたのだろうと思われた。
「そのことで、セドリックに話さなきゃいけないことがあるの」
「話さなきゃいけないこと?」
「セドリック、あのね…、あの…。レニンストンでのこと覚えてる?」
アンの声は、こころなしかうわずっているように思えた。
「レニンストン? …あっ」
アンがいきなり飛びついてきたときのことを思い出して、セドリックはドキンと心臓が跳《は》ね上がるのを感じた。
「あたしのこと、大事だっていってくれたよね。それから、あたし、セドリックにあの…あんなこと…」
アンのためにアイスクリームを買いにいって戻ってきた直後、急にアンの吐息が頬《ほほ》にかかったかと思うと、柔らかい唇《くちびる》がセドリックの同じところに重なりあったのだ。
つまり、アンからむりやりキスされた。
セドリックは寒気もふっとぶほど体が熱くなっているのを感じた。
「…覚えてないの?」
「あ、ああっうううんっ。覚えてるっ、すごく覚えてるっ、ものすごく覚えてるよ!」
なにがものすごくなんだか自分でもよくわからないまま、セドリックは勢いで頷《うなず》いた。
背中ごしに、アンが息を吸う音が聞こえた。なにか重大なことを言おうとしているらしいことは、雰囲気でなんとなく伝わった。
ふいに、彼女が思い詰めた声を出した。
「セドリック、あのね。あの…あのときにあたしがああいうことをしたのは、つまり…」
――まずい。
セドリックは急に焦《あせ》りを覚えた。
アンがいったいなにを言おうとしているのか、セドリックには手に取るようにわかった。そしてそれが、あのとき自分が言えなくてもどかしい思いをした言葉であることも、本来ならば自分から言わなければいけないことだということも… つまりこういうことだ。
『きみのことが、好きなんだ』
なのに、このままではアンブローシアに先に言われてしまう。
いいのか、セドリック。
女の子のほうから告白されるなんて、それでも男か!
(そ、そうだ。こんなのは男らしくない!)
こういうことは自分から言わないとダメなんだ。ちゃんと言えなかったのは僕がいくじがなかったからなんだから、こんなふうに、後ろを向いたままアンに言わせちゃいけない。
「ちょっとまった―――――っっ!!」
セドリックは勢いよくアンのほうを振り返った。
「アン、それ以上は僕が――」
途端に、なにかを言いかけていたアンブローシアが口を開けたまま固まった。
「えっ…」
「……?」
アンは急に顔をくしゃくしゃにすると、ずりずりずりっとセドリックから後ずさった。
「なっ、なによそれ。やだああ、やあああああ!」
セドリックはきょとんとした。
「やだって、いったいなにが…?」
「セドリックの、か、か、顔に…」
「顔?」
彼はちょっと赤くなりながら顎《あご》の辺りをざりざりとなで上げた。
「ああ、髭《ひげ》のこと?」
「ひ、ひ、髭って。ど、どうして…」
セドリックはふいっと横を向いてむくれた。
「…わかってるよ、似合わないって言いたいんだろ。でも、そんなの仕方ないじゃないかこれは」
「ちょ、寄らないでよっ」
セドリックが言い寄ろうとすると、アンが更に後ずさった。なぜかアンブローシアまで照れたように顔を赤くしている。
「そっ、それに声もガラガラで…、そんなの、そんなのあたしの知ってるセドリックじゃない!」
乱暴なアンの言葉に、セドリックはむっとして声を大きくした。
「いったい何なんだよ、急に怒り出して。僕に話があるっていってたんじゃなかったのか」
なんとなくなりゆきで、セドリックはアンを小屋の外壁まで追いつめた形になってしまった。不審なものを見るような目で見上げてくる彼女を睨《にら》みながら、セドリックはふと、あれアンってこんなに背が低かったっけ…、と思っていた。
(ヘンだな。このところずっと体が痛かったのって、まさか…)
「ねえアン、さっきの話だけど…」
セドリックは壁に手をついて、アンのほうへぐぐっと顔を寄せた。
「エルに聞かれたくないって言ってたのって、…あれ、なんか顔が赤いよ。あ、まさかアンも風邪をひいたんじゃ――」
びく、とアンブローシアの肩が震える。
「熱はないの?」
額を触ろうと手を伸ばしたところで、アンが急に耳元で叫んだ。
「さ、触らないで!!」
ばちーん!
いきなり洗い立ての頬《ほほ》に張り手を食らわされて、セドリックは勢いよくひっくり返った。
「うわっ」
転げまいとしてバランスを崩《くず》した彼は、更に顔面から地面につっこむことになった。
「がふっ」
鼻柱が曲がったような激痛が走った。ついで、たり、と鼻から赤いものが足元にこぼれ落ちていくのが感触でわかる。
「あっ…」
「うわっ」
自分の真っ赤に染まった手のひらを見て、気が遠くなる。
アンブローシアが叫んだ。
「なによ、セドリックが悪いんだからね!!」
脱兎《だっと》のごとく走っていったアンの後ろ姿を見ながら、セドリックはボーゼンとした。
「な、なんで僕が…」
そういうわけで、せっかく灰で洗ったばかりのセドリックは、またもや顔を洗うはめになったのだった。
時代の名を、月の時代といった。
国はいくつかあった。以前より領土を失ったとはいえ、いまだこの大陸の多くを支配しているのは月海王国であり、そのまわりをまるで月に照らされた星のようにいくつかの小国が点在している。
鉄なる壁の国《ガリアンルード》があり、大僧正が治める聖なる教えの国《メンカナリン》がある。そして最近めざましい新進ぶりをとげているのが、竜王という名の国主が率いる飛び翔ける竜の国《スラファト》だった。
「だって仕方がないだろ、髭《ひげ》なんてふつうに生えてくるものなんだから!」
両方の鼻の穴に詰め物をしたなさけない顔で、セドリックは文句を言った。
「じゃあ、どうして今まで言わなかったのよ!」
「うっ、そっそんなこといちいち言う必要もないだろ」
さっきから挙動不審のアンブローシアが、どこかいつもの精彩を欠いて言った。
「そ、それに、そんなへんな低い声出して。ずっと前にだって声変わりしたことあるっていってたじゃない」
セドリックが返答に詰まっているのに力を得たのか、彼女は次々に言った。
「だから声変わりだって思わなかったのよ。なによ、体が痛かったのだって背が伸びてるせいなら早くそういいなさいよ。病気かと思って心配しちゃったじゃない」
「な、なんだよ。僕だってビックリしてたんだから仕方ないだろ!」
朝っぱらからぎゃいぎゃい言い合う二人を、側でシスター見習いのエルウィングがにこにこと見守っている。
「とにかく、セドリックが悪い病気でなくてよかったわ」
と、彼女は言った。
セドリック、エルウィング、アンブローシアの三人は、メンカナリン聖教国の中心エリンギウムを目指してレニンストンから東下を続けていた。
“大いなる教えの宮”とも呼ばれるエリンギウムは、メンカナリン聖教の総本山である絶対信仰中枢《トグラハバト》を中心とする学問の都である。この聖教は世界中に千以上の教区を持つ最大宗教で、その総主である大僧正ザプチェクは“盾なる教え”をもって、この世の調和と平安を説いていた。この大陸では、暁帝国を除くほとんどの国々で国教に指定されている。
セドリックたちは、その教区のひとつである満月都市から盗み出された〈銃姫〉という名の遺物を追って、大陸中を旅してまわっているのだった。
〈銃姫〉とは、今はもう失われた古い時代の遺物でできた兵器のことだ。その引き金を引くものは、この世から望んだ言葉を消し去ることができるという言い伝えがあった。
かつて、夜明け前と呼ばれた大戦があった。
そのときにあやまって発射された〈銃姫〉は人々からある〈言葉〉を奪い、そしてこの世の半分を灰になるまで焼き尽くした。
失われたのはひとつの言葉だけではなかった。欲におぼれた人間たちは魔力を悪用し、奪われたものは更に魔法によって復讐《ふくしゅう》を重ねていった。そしてまたひとつ、またひとつと言葉は失われていった。
いつまでもやむことのない業火《ごうか》。繰り返される報復とそのまた報復…
愚かな、
愚かな、
愚かな人間たち。
ついに神は人間たちの所業をお怒りになり、彼らから魔法を発動させる能力を奪っておしまいになった、多くの伝承によってそれらは書き留められている。
それ以降、二度と使うことのできないようばらばらに解体された〈銃姫〉は、メンカナリン聖教の二つ目の総本山がある満月都市に厳重に保管されていた。
しかし、その兵器はあろうことかキメラの異名をとる魔銃士オリヴァントの手によってあっけなく盗み出されてしまった。
幼い頃の記憶を持たない孤児であり、この満月都市で修練生として魔学を修めていたセドリックは、大僧正じきじきの命を受けてこの〈銃姫〉を探しているのだった。
「風が出てきたわね」
エルウィングが白い息をのぞかせながら、コートのフードを深くかぶった。
「“漂白の魔女”が来ないといいけど」
「漂白の魔女って?」
「この地方独特の雪嵐のことよ。ある日突然やってきて、すべてのものを白く染め上げてしまうんですって」
まるで昔見たことのあるような口ぶりでエルウィングは言った。
「こんなふうに急に気温の下がった日は、よく魔女が現れるそうよ」
「そんなの大丈夫よ。だってまだ雪が降る季節じゃないって、麓《ふもと》の宿場でも言ってたじゃない」
三人の一番先頭を歩いていたアンが、急にくるりとこっちを振り返った。
この霜降り山脈は、標高三千カートンもの山々が獣の下歯のように連なっているが、途中アクラホンの峡谷と呼ばれるところで一旦《いったん》とぎれている。この谷を行けばわざわざ山を越えなくてもすませられるため、南側に行こうとするものはたいていここアクラホンの牙《きば》を抜けていくことが多かった。
三人は吐《は》く息を白くしながら山道を急いだ。山の中はしんとして行き交うものはほとんどいない。山の獣たちもほとんどが眠りに入っているようで、ただ谷の間を抜けていく風がときおり強くセドリックの髪をなぶった。
すると、
「…えーっと〈青の泡玉〉、〈とぎれを知らぬ清きせせらぎ〉」
「………?」
セドリックは、自分たちの少し前を行くアンブローシアがさっきから古語を唱えていることに気づいた。
「あー、ちょっと先にあるっぽいかな。仕方がない、ここですませるしかないか」
「アン、なにブツブツ言ってるの?」
途端に彼女はぱっと顔を赤くした。
「な、なによ。なんだっていいでしょ。そんな声で話しかけないでったら、ヘンな声!」
「なんだよ、僕の声が低くなったってべつにアンには関係ないじゃないか」
「か、関係あるわよ!」
怪訝《けげん》そうに顔をしかめたセドリックに、アンブローシアはぷいっと顔を背かせてつぶやいた。
「は、恥ずかしい、じゃないの…」
「はあ? なんでアンが恥ずかしがるのさ」
「ど、どうだっていいじゃない。あたし、ちょっと行ってくるから待っててよ。すぐにすむから。すぐなんだからね!」
怒鳴るように言うと、アンはふいに道の脇の茂みの中に入っていった。
(なんだ、用足しか…)
さっきアンが水に関係する古語をぶつぶつ唱えていたのは、どうやら近くに川を探していたかららしい。
手持ちぶさたに、セドリックはぐるりと辺りを見渡した。アクラホンの山々はすっかり冬の装いをしていて、ほとんど色らしい色を残していない。かろうじて残っているのが、針のような葉を持つ木々の緑色だけで、ほかはほとんど葉をおとしてしまっている。みなこれから来るであろう長い冬を越すため鎧《よろい》姿に身を固めているのだ。
「寒くない?」
セドリックは白い息を繰り返すエルウィングに向かってそう話しかけた。
「いいえ。セドリックは大丈夫?」
「僕は平気だよ。この声も風邪なんかじゃなかったもの」
そう強がってみせると、エルウィングはなにか頬《ほほ》柔らかいものを含んでいるように笑った。姉がそんなふうに笑うと、セドリックはいつもつられて笑ってしまう。
「いつのまにか、あなたのほうが背が高くなってしまったわね」
「あっ、やっぱりそうなの?」
セドリックははしゃいだ声をあげた。
「さっきアンを見ていて、そうかもしれないって気づいたんだ。ねえ、ここ最近ずっと体が痛いって言ってたでしょう。エルにも心配かけていたけど、あれって背が伸びるときに骨がきしむっていう、あれなんじゃないかな」
彼はエルウィングのすぐ側に立つと、得意げにほらやっぱりと言った。セドリックの言ったとおり彼のほうがもう人差し指の半分ぐらい高かったのだ。
「なんだか、エルが小さくなっちゃったみたい」
「もっと大きくなるわ。あなたは男の子なんだから」
「そ、そうかな」
セドリックは照れたように目元を赤らませる。
「でもそうなるといいな。僕はこれからもずっとア…、エルを守らないといけないから」
彼はそう言って、ふと思いついたように袖口《そでぐち》をめくった。
手首のところに、三連になっている銀の腕輪がある。一見、聖職者たちが身につけている銀のお守りのように見えるのだが、
「これ…、本当に鉛なんだよね」
今セドリックがしている腕輪は銀製のように見えるものの、実は表面にメッキがされているだけで中は鉛でできている。
セドリックは、この鉛の腕輪を自らの魔力を押さえ込むために身につけていた。
魔力というものが精神の島――心を体の中に浮かんでいる島にたとえて、そう呼ぶ――から発せられるものである以上、魔銃士は常に自分の精神をオープンにしていなければならない。
そのため多くの魔銃士は一般人と比べて感受性が強くなり、ちょっとしたことで驚いたりショックを受けたりする。感応力が大きくなったせいで芸術方面に才能をみせるものもいれば、日々鬱々《うつうつ》としてまともな生活ができなくなっていくものもいる。
魔力とは諸刃《もろは》の剣なのだ。
そして、魔力というものは自然界に存在するさまざまなものと呼応している。
なかでも、最も忌避《きひ》されるべき物質、それが鉛だ。
鉛は、魔力を安定させる性質を持つ銀とは正反対の性質を持つ。つまり魔力を否定し跳《は》ね返し反発するのだ。このような性質の鉛を、常に精神を開け放った状態で魔銃士が身につければ、たちまちのうちに精神の島から発せられる魔力と反発して精神に強い負荷を与える。
魔力は血液中にある鉄分やわずかな銀の中にも含まれ、それにのって全身をめぐっている。たとえ皮膚の上からでも鉛をつければ、すぐ下の血管に作用してたちまちのうちに精神の島にまでとどく。
「エルは、僕の魔力が安定してないことをわかってたんだね。だからこれを身につけさせてくれていたんだ」
セドリックはおそるおそる腕輪に触れた。指先にじんわりと重さを感じるように思えるが、しばらくするとその重さもどこかへいってしまう。
エルウィングは言った。
「ちゃんと説明しなくてごめんなさい。でも、鉛だって言ったらあなたがまた自分の魔力のことを気にすると思って」
「いや、いいんだ。エルが心配するのももっともだと思う。なんていったって僕のことを一番わかってるのはエルなんだから」
彼は慌《あわ》てて腕をおろした。エルウィングは心配そうにセドリックを見上げた。
「ずいぶん苦しかったでしょう。鉛はしんどいものね」
「だいじょうぶだよ。バロットさんだって、魔銃士は鉛にある程度慣れていたほうがいいって言っていたし」
実際バロット(本名はバルバリアス=ネオというらしいが)は、鉛を身につけることによって魔力を隠したり耐性を付けたりすることが大事だと言っていた。とはいえ、その練習用には銀を混ぜた貴鉛というものを使うらしいのだが。
「もうだいぶ慣れてきたから、あまり負荷は感じてないよ。僕ももうギースと戦ったときみたいになったらいやだし、エルは正しかったんだよ」
姉を安心させようとして、セドリックはことさら語尾に力を込めた。
普通の人間でも、あまり長時間身につけていると発狂するものもいるという。つまり鉛は、魔銃士にとって最も忌むべき物質だということなのだった。
しかし発想を逆転させれば、これほど魔銃士を捕らえておくのにふさわしいものはない。
これをうまく利用しているのが、メンカナリン聖教国の鉄槌人である。
彼らは、精神島に傷を負ったり、コントロールができなくなって暴走した魔銃士をこの鉛の手錠によって捕らえる役目をになっていた。
メンカナリンの鉄槌人は絶対信仰中枢《トグラハバト》に所属する僧兵たちとは違い、独立して犯罪人を捕らえる仕事をしている。彼らだけはどこの関所もフリーパスで通ることができたし、いざとなれば一国の国王にじかに対面できる資格を持っていた。満月都市から〈銃姫〉を盗み出したオリヴァントも、このメンカナリンの鉄槌人に追われている罪人なのだ。
その特権を持つ彼らが唯一入国できない場所――それが、黄金の夜明けの国、通称暁帝国であった。
レニンストンでのあの開戦宣言以来、月海王国で暁帝国人の赤い肌を見ることはなくなった。帝国人に対して強制退去命令が出たためだ。あれからバロットにも会えずじまいだったが、おそらく彼も今回のことで急遽帰国せざるをえなくなったのだろう。
「エルが心配しなくても、これは絶対外したりしないから。僕も前みたいに記憶がなくなったりするのは困るしね。エルがそうしたほうがいいっていうならそうする」
「お願いね。これから危ないことがあると思うけれど、わたしのいないところで絶対はずさないでね」
エルウィングはいやに念を押した。
「だいじょうぶ。約束するよ」
「ありがとう」
とろけるような笑顔を見せたエルウィングだったが、ふいにセドリックに思い詰めた顔を向けた。
「…ねえ、セドリック。これから、あなたどうするの?」
「え、どうするって」
セドリックは姉の顔をよく見ようと、フードの中をのぞき込んだ。
「そりゃあもちろん、エリンギウムに行くつもりだよ。絶対信仰中枢に僕の僧兵候補生の登録が残されているはずだから」
と、静かな口調で彼は告《つ》げた。
僧兵候補生――、メンカナリンの修練院にひきとられた孤児は、男子であればほぼこの僧兵になるのがきまりだ。
「ねえ、エル。昔のことを覚えてる?」
「え…」
もう記憶にないくらい遠い昔のこと、セドリックはあの“月読みの丘”のお屋敷にエルウィングといっしょに住んでいた。
彼の姉のエルウィングが赤ん坊だったセドリックを連れてエリンギウムからやって来た、という話だった。なぜなら、それまではいったいどうしていたのか、自分の両親がどこのだれでどうやって生まれたのかは、結局だれにも聞かされないままだったからだ。
そのことを聞くとエルウィングは哀《かな》しそうに首を振るだけだし、お屋敷にいた人たちはいつもていよくセドリックを追い払ってしまった。
そのうちに、これは聞いてはいけないことなんだ、とセドリックは認識するようになっていた。
(みんなが話してくれないなら、僕は聞かないでおこう。だって僕は人から嫌われたくないもの)
セドリックは過去を封印した。そして出生についてのことと同じようにメンカナリンの僧兵になることになんの疑いも持っていなかった。
けれど、
「このごろ、僕は僕の両親のことを考えるようになったんだ」
と、彼は言った。
実際、メンカナリンの囲いを離れて旅をするうちに、セドリックはだんだんと自分の出自が知りたくなっていた。
いったいあのお屋敷はメンカナリンの組織の中でどういった機能を果たしていたのか。あそこに集められていた子供たちはいったい何だったのか。そしてなぜ、ザプチェク大僧正はあの屋敷を襲《おそ》ったのか。僕以外の子供を皆殺しにしたのか…
あのオリヴァントが彼に語った真実…。セドリックがまわりから聞かされている――、いや知っていると思っている事柄はどれもこれも曖昧《あいまい》だった。だから混乱する。なにが本当で、なにがまちがっているのかわからない。だれが嘘《うそ》をついていて、だれが正直者なのか。なにが事実で、なにが真実なのか。
「でも、今ならちゃんと受け止められる気がするんだ」
セドリックは、今の自分ならきっと冷静に事実を受け止められるだろうという自信があった。
もう、イボリットのときのようなぶざまなことにはならないはずだ。だから知りたい。僕の生まれる前にはいったいなにがあったのか。そして、僕という人間がいったいどういった意図のもとに構築されて、だれからなにを望まれているのか。僕はどうやって今の僕になったのか。
僕はいったい、だれなのか――
「僕がこれからどう生きるかを決めるためにも、このエリンギウム行きは大切なことなんだ。だから、ことと次第によっては僧兵候補生の身分を削ってもらうことになると思う」
と、彼は自分自身に言い聞かせるように言った。
エルウィングの表情がサッと翳《かげ》った。
「ことと次第によっては、ってどういうこと…? あなた、まさか」
「うん。僕は僧兵にはならないかもしれない。盾なるお方《メンカナリン》を信じていないわけじゃないけれど、ザプチェク大僧正がスラファトと組んで、聖なる鉄槌軍をいいように動かしているって噂《うわさ》はよく聞くだろう。中には寺院組織そのものを利用して軍事産業に関わっているってひどい噂もある。実際、リムザの修道院ではそんなこともあったわけだし…」
半年前に立ち寄ったリムザ市の孤児院で、孤児たちに魔法弾を作らせていた事件を思い出して、セドリックの声はいっそう小さくなった。
「そんな組織に入って、メンカナリンのように盾となって戦えっていわれても僕にはできない。純粋な信仰のためじゃなくて、ザプチェク個人の私益のために使われるなんて絶対にいやだ」
「セドリック!」
「聞いて、エル。僕はイボリットの修練院で、メンカナリンの鉄槌軍は大陸各国に対する抑止力のために存在するんだと聞かされてきた。そのバランサーともいうべき僧兵が、ある特定の国家のためだけに使われてもいいものだろうか。僕にはとてもそうは思えない」
敬虔《けいけん》なメンカナリン教徒であるエルウィングには、セドリックの言葉は背信に聞こえるのだろう。ますます表情を険しくした。
「それは…、信仰を捨てるということ?」
「そうじゃない。神さまを信じてないわけじゃない。すべてのことの盾となる生き方――メンカナリンの教えはすばらしいと今でも思ってるよ」
でも、と彼はつなげた。
「僕は正直迷ってるんだ。エルのように、そしてリムザのエステラ修道院長のように清貧で奉仕にささげるすばらしい生き方だってある。それらは一生をかけるにふさわしいすてきなことだと思うんだ。
信仰はたしかに必要なんだ。この世界では、貧しい人たちでも聖職に入れば医学だって学問だって修められるようになっている。それは寺院が富める人々から寄付をつのって、それを教育という形で人々に還元しているからだ。国にそういうことをする力がない以上、聖教に優秀な人材があつまったり、人々が聖教をよりどころにするのも当然だと思うし、それ自体まちがっているとはいいがたい。でも…」
セドリックは心臓の上を服の上からぎゅっと掴《つか》むそぶりをした。
「僕に少しでも銃を扱う能力がある以上、僕はメンカナリンの盾なる兵にさせられる。僕はまだ、信仰のためにすべてを捨てられるほど強くはないんだ。きっと…」
エルウィングは、胸を掴んだセドリックの手の上から自分の手をそっと重ねた。
「迷うのは当然だわ。それは悪いことではないわ。セドリック、早急すぎるよりずっといいことよ」
セドリックは小さく頭を振った。
「いったいなんのために戦っているのか、自分でも理由が曖昧《あいまい》なまま人殺しにはなりたくないんだ。だってメンカナリンがスラファトを援助している以上、きっと僕はいつか暁帝国と戦うことになる。
ねえエル、バロットさんは異教徒だけど、とてもザプチェクの言うような邪教に心を汚された悪魔だとは思えなかった。彼は人間だったよ。ごく普通の…。手だってずっと温かかった」
セドリックは、さりげなくエルウィングの手を離した。アンが戻ってきたら、と思うと少し気が焦《あせ》った。
「僕は自分を取り戻したいんだ。エリンギウムに行って僕が僕になった理由を知る。なにもかもそこから始まる気がする。ねえエル。僕は自分を知って、もう一度生まれ直すんだよ」
「…わたしはどうなるの!」
セドリックは驚いて顔を上げた。
「えっ、エル…」
「あなたが僧兵になるのをやめてしまったら、わたしはどうなるの…?」
エルウィングの尖《とが》った肩が小刻みに揺れていた。
「わたし、セドリックの側を離れてなんて生きていけないわ」
「お、おおげさだなあ、エルは」
セドリックはわざと茶化したような物言いをした。
「なにもエルと離れるなんて言ってないじゃないか。エルは僕の大事な家族なんだから、離れることなんて絶対にないよ」
本当に、とでも言いたげに、エルウィングの目が熱っぽく見上げてきた。そのどこか惚《ほう》けたような表情に、セドリックはほんの少し面食らう。
「信じてもいいのね」
「う、うん」
「ずっとずっと、いっしょよね? わたしを置いてどこか遠くに行ってしまったりしないわよね」
「えっ」
急にエルウィングの柔らかい体が押しつけられたかと思うと、彼女はセドリックの首筋にしがみついてきた。
「エル…」
彼女の体温が…、自分とはまったく違った弾力を持つ体が、ぶつかるようにしてセドリックに伝わってくる。
「こうしていてないと、だれかに連れて行れそうで怖いの。だれかのせいで、セドリックがわたしの側から離れてしまいそうで…」
「離れたりなんかしないよ。エルは本当に昔から心配性なんだから」
握り拳《こぶし》ひとつぶん低い位置にある姉の頭を、セドリックは大切そうに抱きしめた。
「エルは僕の姉さんだろ」
びく、
と、腕の中でエルウィングが動いた。
それが、こんなことを思うのは自分でも不思議なのだが、なにか別の生き物が身動きしたような生々しさで、セドリックは思わず腕の中を見た。
エルウィングの黒い頭が見える。
綺麗《きれい》な髪だった。いつでも濡《ぬ》れた鴉《からす》の羽根のような、つややかな光沢を持った髪…
「ねえセドリック」
「うん?」
急に体を硬くしたエルウィングに、セドリックは顔をのぞき込もうとし――
「…もし、わたしがあなたの家族じゃないとしたら、どうするの」
セドリックは一瞬言われたことが理解できなくて、思わず聞き返した。
「えっ、何って?」
「わたしが…あなたにそういうふうに見てほしいわけじゃないって言ったら、どうするの」
「そういうふうにって…」
エルウィングの顔はいつになく真剣そのものった。
「わたしを捨てる? わたしなんかいらなくなる? わたしを置いてどこかへ行ってしまう?」
「エル、どうしたんだよ。さっきからなにか変だよ」
「変じゃないわ!」
ぐいっと、セドリックの首に回されていた彼女の腕に力がこもった。
「変じゃないわ。…いいえ、いいえ変だわ。そうね、このごろずっとわたしは変だった。どうしてこんなに不安なのかわからないの。でもたったひとつだけ心に決めていることがある…」
エルウィングは、珍しいうす桃色の瞳をきょろりと動かしてセドリックを見上げた。
「わたし、これからもずっとずっとセドリックの側にいるわ。どんなことをしても」
「エル…」
「だから、セドリックもこのままでいてね。裏切ったりしないでね、約束よ」
「う、裏切るって」
もう一度、エルウィングは言い直した。
「約束よ、ねえセドリック」
「う、うん…」
セドリックは、なんとなく迫力に負けて頷《うなず》いた。
彼は緊張していた。
エルウィングの顔がほんの目の前にある。いつものエルの顔だ。綺麗《きれい》な顔だと思うけれど、自分にとってはべつだん珍しいものでもなんでもない。
なのに、
(なんだか、この距離は変だ)
と、セドリックはいぶかしげに思った。今までとはなにかが違う。エルが自分を見てくる視線も、彼女がセドリックを呼ぶ声も、ねっとりとした話し方も、からみついてくるようなその抱きしめ方も――
「っっ」
体を離そうとして、セドリックはぎょっと体を固くした。
動けない。いつのまにかエルウィングの腕がセドリックの胸に回されていて、身動きができないのだ。エルウィングは右の手を彼の頭のうしろに、もう片方の手を背中にそわせて顔を胸に埋めていた。まるで体ごとぶつかってきているような抱きしめ方だ。…いいやこれは抱きしめているのではない。
捕らわれている。
「エ、エル、離し…」
少し強く言おうとした、そのときだった。
「〈百億万の母アルストロメリア、万物のゆりかご、そして墓標となる御方に申し上げるっ〉」
有名な〈決闘〉の詠唱《ゲール》が、突然セドリックたちの立っていた辺りに響き渡った。
「えっ…」
セドリックは驚いて振り返った。
いつからそこにいたのか、セドリックと同じくらいの歳の少年が、銃を携えて立っていた。
「セドリック=アリルシャー。この超高位魔銃士ティモシー=ボイドがオマエに決闘を申し込む。今すぐアルストロメリアにすべての審判をゆだねよ。そしてオレと戦え!」
「な――」
すると、地中からエメラルドグリーンの光がしみ出してきて、セドリックの足元をからめとろうとした。
「エル、だめだどいていてっ!」
とっさのことに、セドリックはエルウィングを魔法陣の外に突き飛ばした。
まるで砂の下から古代のレリーフが浮かび上がるように、地面の上に文字が現れた。その蛍光色の光は、あっというまに土の魔法陣を描いていく。
「グリザリエルの魔法陣…」
契約《フイラメント》を司る地霊であり、地母神アルストロメリアの眷属《けんぞく》であるグリザリエルが仲立ちをした五角形の魔法陣、それがこのグリザリエル魔法陣だった。五角の錬成陣は安定性もよく、魔銃士同士の決闘に使われることが多いので、魔法陣の中では最もポピュラーだといわれている。
シュウン…と魔法陣が描き終わると、円の中央にグリザリエルの文字が刻み込まれる。
「閉じられた…!?」
セドリックは嘆息した。これで、どちらかが天に向かって空砲を撃《う》つまでは、二人はここから出ることはできない。
少年が撃った空砲の薬莢《やっきょう》が、セドリックの足元にまでころころと転がってきた。あまりの強引さに、さすがのセドリックも険しい顔つきで相手を睨《にら》みつけた。
「だれだよおまえは、こんなことしていったい僕になんの用があるんだ!?」
少年が胸を張って言った。
「決まってるだろう。オマエが分不相応に手にしたその等級タグをもらいにきたんだ」
と、自信たっぷりに言い放つ。
(こいつ…!)
手にしている銃をチラリと盗み見る。
(こいつも昔のギースみたいに、決闘をふっかけにきたのか!)
驚いたことに、セドリックにいきなり決闘を申し込んだのは、彼とそう歳の変わらない少年だった。くすんだくせのある金髪にキャラメル色の瞳はあまり珍しい取り合わせではなかったが、鼻がしらの辺りにそばかすがあって、体も全体的にすこしずっくりとしている。
要するに太っているのだ。
「まさかセドリック=アリルシャーがこんなガキだったなんて驚いたよ。あの“赤いたてがみ”のギース=バシリスから等級を食ったっていうから、どんないかつい魔銃士かと思っていたのに」
わざとらしく肩をすくめて、少年は言った。
「ハハハッ、本当にまぐれで勝ったんだな。でなければ、オマエなんかがギースを倒せるわけがない。オマエみたいなガキが472等級なんてふさわしくない!」
「なんだと。お、おまえだってガキじゃないか!」
言い返しながら、セドリックは内心この少年が、自分とギースとの対戦を知っていることに驚いていた。
(なんで知ってるんだ。僕がギースと戦ってなりゆきで勝ってしまったことは、あの場にいた四人しか知らないことなのに)
彼は、以前レニンストンで別れる前にバロットがカフェで言っていたことを思い出した。
『これから大変だぞ。これでおまえの名前は世界各地にある等級塔に刻まれてしまった。世界中からおまえを倒そうとすご腕の魔銃士たちがやってくるだろう。せいぜいがんばるこったな』
「まさか」
セドリックは首から下げたギースの等級タグを服の上から握った。
「ふふん、そのまさかさ」
ティモシー=ボイドと名乗った少年は、挑発的にそう答えた。
「今まで全然マークされてなかった、それも無等級新人があのギースを倒したっていうんで、どこの決闘城でもこの噂《うわさ》で持ちきりだった。このセドリックってやつはいったい何者なんだってな」
「どうしてそんなことがわかる!?」
「おかしなことを言うな。世界樹を見たにきまってるだろ」
ティモシーは、なにをそんなことをと言いたげに目を細めた。
世界樹は、この世界の中心に――海の真ん中だといわれている――立っているという銀色の巨大な魔木のことだった。
不思議なことにこの世界樹はすべて銀色をしていて、世界中に分散する世界樹はすべて同じ根っこでつながっているという。つまり、この木は世界中にたくさんあるように見えて、実は見えている部分は枝にすぎないのだ。
そして、実はアルストロメリアの分身であるといわれているこの木の葉が、魔銃士たちの等級タグになる。そこに刻まれる文字もすべて地霊たちによるもので、けっして人間の手で書き換えることはできない。
「世界樹に触れれば、どこのどいつがいつだれと戦ったがぐらいすぐわかる。しかも、あのギースが倒されたとなればなおさらさ。だが、その等級もすぐにオレのものになる!」
ティモシーは手にした銀色の銃を持ち上げると、ニヤリと小馬鹿にしたように笑った。
「ふん、怖いんなら今すぐここで降参したっていいんだぜ」
「怖いだって、ふざけるな!!」
ふいに道路脇の茂みががさがさと揺れ始めた。
「ちょっと、いったいこれはどういうことよ!」
「アン!?」
枯れ藪《やぶ》の中から現れたのは、用足しを終えたらしいアンブローシアだった。道のど真ん中に敷かれた魔法陣を見て目を丸くしている。
「違うんだアン、これはこいつが勝手にふっかけてきたんだ。僕はなにも…」
アンブローシアは腰に手を当てて二人を睨《にら》みつけた。
「あんたたち、こんなところで決闘なんてじょーだんじゃないわよ。下から荷馬車でもあがって来たらどうするつもりなの」
と言っているそばから、タイミング悪く坂の下のほうからガラガラと車輪が土を巻き上げる音が聞こえてくる。
「馬車だ!?」
セドリックは青くなった。
「ど、どうしよう。決闘はやめられないし。かといって僕らがやめなかったら馬車が道を通れない」
狼狽《うろた》えている間にも、セドリックたちの魔法陣に向かってずんずんと馬車は近づいてくる。
「あれは…」
なぜかティモシーが舌打ちをした。
驚いたことに、坂を登ってきたのは豪奢《ごうしゃ》な二頭立て馬車だった。そこらへんを走っているような郵便馬車とは違い、全面がつやのある黒塗りの箱形で下部にはスプリングがきいている。
「黒塗りの馬車だわ。こんな山の中にいったいどうして…」
アンが目を丸くしてぽつりと言った。
三人が眉《まゆ》を寄せて馬車に注目していると、馬車はセドリックたちが突っ立っているすぐ前にまでやってきて、止まった。
御者席に座っていた御者が手綱を放して降りてくる。
「…?」
開口一番に、御者は言った。
「お待たせいたしました。ティモシーおぼっちゃま」
「おぼっちゃまあああ!?」
派手なリアクションで応えるセドリックたちを尻目《しりめ》に、ティモシーは円の内側から憮然《ぶぜん》として言った。
「チャーリー、ここまで来なくていいといっただろう」
チャーリーという名前らしいその御者は、おもむろに筒型のハットと二段になっている外套《がいとう》を脱いだ。
「嘘《うそ》っ」
アンブローシアが驚きに声をあげる。
彼は外套の下に皺《しわ》一つないテールコートを着ていた。その中も襟《えり》のつまったシャツに、これまた息苦しそうなくらいかっちりと結んだ蝶《ちょう》ネクタイ。どこか気むずかしげに見えるのは、左目の片眼鏡のせいだろう。頭にも口元の髭《ひげ》にも白いものがまじっているので、男性使用人というよりはどこかの執事といった印象がある。
はっきり言って、旅をするのにふさわしい格好ではない。
「しかし、この時間はお茶をお入れするきまりでして」
ティモシーは噛《か》みついた。
「茶なんかどうでもいい。いいかチャーリー、今オレは決闘してるんだぞ、わかってるのか!」
ふむ、とジャケットの内ポケットから銀の懐中時計を取り出した彼は、片手で器用に蓋《ふた》を開けて時間を確認し、
「では、今からご用意いたしますので」
と、胸元にしまった。
「……………」
あぜん、とセドリックたちは彼の一連の行動に見入っていた。
どこに積んであったのか、チャーリーは馬車から重たげなトランクをはこんでくると、いそいそと火の準備を始めた。ケースの中はどうやら茶道具一式らしい。ぴかぴかに磨かれた銀のポットや、真鍮《しんちゅう》の蛇口の付いた湯沸かし、スタンドまである。
「ああそうそう遅れまして。わたくし、ボイド家の執事をしておりますチャーリー=ケチャップと申します」
あろうことか、チャーリーはアンブローシアやエルに名刺まで配り始めた。
「ご丁寧にどうも。でも、執事さんがお屋敷をほったらかしでもいいの?」
「我がボイド家には家令がおりますので」
「で、名前が赤いトマトソース《ケチャップ》さん?」
「好きでして」
チャーリーは少し恥ずかしそうに言った。
(いったいなんなんだ)
決闘をする二人をよそに、円の外側ではチャーリーによって着々とお茶の用意がすすめられていく。そのうちに高価な茶器を珍しがったアンブローシアやエルウィングまでが手伝いだして、わきあいあいとした雰囲気になり始めた。
「まあ、これさくらんぼの赤ワイン漬けだわ。甘くておいしい!」
「ジャムの代わりにお茶に入れますので」
「すごいわ。この銀、燃えるのね。はじめて見ました」
「最近では簡単な魔法を入れた銀などが売り出されておりますので」
(なんでそこで仲良くなるんだよ!?)
すっかり無視されているセドリックが、抗議の声をあげた。
「アン、ちょっと。呑気《のんき》にお茶なんか飲んでる場合じゃないだろ」
「だって仕方ないじゃない。決闘なんでしょ」
アンがチューリップ型のカップを片手に肩をすくめてみせた。
「なるべく早く決着つけてね。それまであたしたちここでケチャップさんとお茶飲んでるから」
「ええええっ」
「セドリック、がんばって」
ジャムをたっぷり入れたお茶をすすりながら言うエルも、どこか適当だ。
セドリックは猛烈に腹が立ってきた。
「い、いったいなんなんだよあのおじいさんは。おまえは僕を捜して旅をしてきたんじゃなかったのか」
いきなり呼び止められたかと思うと一方的に決闘を押しつけられて、セドリックは彼にしては珍しいほど声を荒げた。
ティモシーは悪びれずに言った。
「チャーリーは我がボイド家の執事だ。ボイド家の当主であるオレについてくるのは当然だろう」
「ああそう、じゃあおまえは決闘するたびに自家用馬車で行くのか。ふうん、本当におぼっちゃまだったんだな」
「なんだとっ、オマエっ、オレを侮辱するつもりかっ!」
ティモシーはかっとなって鼻に皺《しわ》をよせると、決闘の詠唱《ゲール》を最後まで言い切った。
「〈アトンの貴婦人よ、あなたの騎士に地中深く沈む炎で鍛えた二ふりの剣をお与えください!〉」
黄緑色の閃光《せんこう》が地中からわき出してくる。セドリックは思わず後ずさった。
「うわあっ」
「つべこべいうなら実力でわからせてやる! オレの力を思い知るがいいぞセドリック=アリルシャー」
決闘が開始される。セドリックは慌《あわ》てて腰からレッドジャミーを引き抜いた。
「遅い! 先はオレがもらったぜ」
セドリックが銃の中身を確認しているひまもなく、ティモシーの銃から一発の魔法弾が発射される。
その銃の独特な外形に、セドリックは目を見張った。
(あれはロデリックスの新型!)
ロデリックスは、サニーサイド社やドナンボーン社などと並ぶ銃器の老舗メーカーだ。ギースの使っていたスラリク752やセドリック自身の持つレッドジャミー525などのリボルバー式を主に供給している。
ドナンボーン社はアンブローシアの使っているダンピエールなどの大型の銃を主流にしているし、サニーサイド社はもともとは魔法銃ではない鉛弾のほうをメインにしていて、魔法銃市場に参入しだしたのはごく最近のことだといわれている。
(あんな扱いがむずかしい銃を使っているなんて、このティモシーってやつはいったい…)
そのロデリックスのボディを見て、セドリックは仰天した。
「いっ!?」
あの、噂《うわさ》に聞く髑髏《どくろ》のマークは…
「スコルニック!?」
「スコルニックですって!?」
カップを口元からはずして、アンが身を乗り出した。
「世界に三つしかないっていわれている超高級銃じゃないの!」
セドリックがアンの言葉に一瞬気をとられているうちに、ティモシーが唸《うな》った。
「いっけえええ!!」
彼の放った弾丸が破裂して、中から網の目のような魔法式が飛び出す。
「〈大地にはりめぐらされる青き静脈、
その牙《きば》にこそ貫かれほふられることを誇りに思いたまえ。
海神の三つ又の槍《やり》よりも鋭く、
渺々《びょうびょう》として、そのすきとおる御身!〉」
朗々とうたいあげるような女性の声だった。ということは、この魔法弾はティモシー自身が封呪《ふうじゅ》したものではないということだ。
(こいつの声じゃない!?)
セドリックはすばやく考えをめぐらせた。
(始めから手の内は見せてこないつもりか。それとも、本当に水系が不得手なのか、…わからない。とりあえずこれを防ぎきらなくては!)
ちりばめられた“青”の魔法語に、これが水系の魔法式であることは感づいたものの、セドリックは次の手を考えあぐねていた。
これがティモシー自身の声だったら、彼は少なくとも水の属性を持つているということになり、その反対属である火はあまり得意ではないはずだ。となれば、セドリックは火系に近い言葉をかき集めた攻撃にでればよかった。しかし、これが彼自身の詠唱《ゲール》ではないとすると、ティモシーが火に強いことは十分にあり得る。
『弾屋とかってバカにすんなよ。なんでも自分でやればいいってもんじゃねえ。ようは使いようなんだ』
バロットの何気なく言っていた言葉が、今こんなときになって腑《ふ》に落ちた。
(そうか。こんなときのために、他人の弾の数をそろえる必要があるんだ。実戦経験が少ないということはこういうことなんだ。ああ、僕は本当にまだまだだ!)
セドリックはすばやくシリンダーを回して、こちらもすばやく引き金を引いた。
「〈踊れ口の中の赤きひれよ、
世にひとの盈虚《えいきょ》を告《つ》げるもの。
生きるものの内に秘めた色、
天網、鮮やかなりし血のくれない――〉」
今回はじめて組んだばかりの〈赤光〉の詠唱《ゲール》が、自分でもどこかなめらかさの欠ける魔法語にのって熱をはぐくんでいく。
(“赤光”の赤を中心にして、それらしい古語をあつめて組んでみたけど、果たしてどれくらい水に対抗できるだろう…。見当付けがまちがってないといいけど)
先に放たれていたティモシーの詠唱が終わりにかかった。
「〈百万の牙《きば》、天宮におわす姫君の命により、
その上に慈悲深さと対極にある切っ先が降り注ぐ。
落ちよ氷柱、
死に向かって落ちよ!!〉」
「氷柱姫の牙――!」
ティモシーの撃《う》った魔法が判明する。セドリックは一瞬で、自分の放った〈赤光〉がこの〈氷柱姫の牙〉を少なくとも相殺できるかどうかを計算していた。
(だいじょうぶだ、〈氷柱姫〉にしては使われている言葉が弱い。勝てる!)
ティモシーの魔法式が完成すると同時に、セドリックの頭上にいくつもの氷の牙ができあがっていく。ガラスのような透度を持つこれが氷柱姫の牙の正体だ。
シャアアアアアッ!
かんなも研ぎ石も使わずにとんがった切っ先が、今やセドリックの体をつらぬかんと落下する。
その一呼吸置いた後に、今度はセドリックの魔法式が完成した。
「〈金の洗浄を受けてうまれる赤のみつかい、
夜明けに果てを走る馬よ。
その青ざめたかんばせをあかつきの色に染め直せ!〉」
バアアアアッ
突然足元から噴出した赤い光が、セドリックに向かって降り注ぐ氷柱を押しもどすようにして溶かしていく。そしてそれはティモシーの作り出した青のつららを粉々に砕いただけでなく、今度は金色の光となって、スコルニックを構えるティモシーのほうへ押し寄せていった。
「火じゃない!?」
ティモシーの声が驚きに揺れた。
セドリックが撃った〈赤光〉は赤という言葉を連発するが、実は火魔法ではない。〈夜明けに果てを走る馬〉などは夜明けを指す隠語で、赤光というのも朝一番に夜を割る光のことをいった古い言葉だ。
ティモシーが水魔法を撃《う》ってきたことはうまい手だった。この時期の外気では、自然と氷を作り出す魔法には氷自体に強度が出る。(つまり、反対に夏の氷魔法は威力がそがれると言うことだ)ここが霧深い山中であることを考えると、地魔法と同じくらい水魔法には適している。当然、その威力も増す。
それに対抗しようとすると今度は火魔法となるのだが、この火の気のない自然の場所では火魔法は増幅されない。よほど強い高度な魔法式をもってこなければならなくなる。
(ティモシーはそこまで読んで、あえて風魔法で対抗できる地魔法ではなく、ここでは火を作りにくい水魔法できたんだ)
だから、問題は彼の〈氷柱姫〉がセドリックの〈赤光〉によってうまく帳消しになっているかどうかだった。
「ちくしょう、こんなまがいものの魔法式を作りやがって!」
ティモシーは急いでシリンダーを回し、魔法弾を撃ちはなった。詠唱《ゲール》が短い。おそらく、目の前にまで迫ってきた光の攻撃に対処するために、短いものを選んだに違いなかった。
「〈とく土を穿《うが》ち、
地をくしけずり、
大王の大いなる口よりわき起こらん。
いざよ旋風、阻むものをなぎたおしとく平らかにせよ!〉」
〈太刀風〉の少し補強をしてあるバージョンだった。驚いたことに、これもまたティモシーの声ではない。
「くそっ、あくまで手の内を見せないつもりか」
〈氷柱姫の牙《きば》〉に競り勝った〈赤光〉の残りが、ティモシーに覆《おお》い被さるようにして襲《おそ》いかかる。しかし、すぐに発動した〈太刀風〉が、文字通り透明な剣となって光の壁を切り裂《さ》いた。
〈氷柱姫〉である程度威力を相殺されていた〈赤光〉は、あっさりと〈太刀風〉にばらばらにされて消えてなくなった。
ティモシーが目をくわっと見開く。
「このやろう、このオレに無駄《むだ》弾撃たせやがって。今度は一発で決着をつけてやる!」
「それはこっちのセリフだ!」
二人はほぼ同時に腰のホルダーから魔法弾を抜き取り、シリンダーに装填《そうてん》した。
「くらええっ」
ティモシーが吼《ほ》えた。セドリックもまた引き金の指に力を込める。
バアアンと暴発音がして魔弾が発射された。大気にふくまれるロクマリアにふれて光がうかびあがる。魔法文字――それ自体が大きな熱量と作用効果を持つという古代文字ゲルマリックだ。
「〈あまたの屍《しかばね》をさらし、
骨の砂に埋まる大地につきたてられん、その黒剣〉」
セドリックの弾の詠唱《ゲール》が空気をすべる。呼吸が荒くなる。彼が生まれて初めて、自分で魔法式を組んだ黒の魔法――
「あれって闇魔法じゃない、セドリックったらいつのまに!?」
すかさず“黒”の魔法語を聞き取ったらしいアンブローシアが、ぎょっとしたように息を呑《の》んだ。
ティモシーの顔がにやりとゆがんだ。
「よし、勝った! オマエの“剣”じゃオレのこいつには勝てない」
「……っ……」
セドリックは顔を引き締めただけで、じっとティモシーの詠唱に耳をかたむけている。
(探すんだ。いったいなんの魔法できたのか。その手がかりとなるゲルマリックを、一秒でも早く!)
「〈金色の蛇が作る輪のかたち。
あけてはならぬ罪の箱をのせて、
命脈にもにた轍《わだち》のあとを残し、
走れ、走れ馬車よ…〉」
「!!」
どくっと胸の奥で心臓が動くのがわかった。
禍々《まがまが》しい言葉が、自分の中の黒い一点を直接ひねりあげるようだった。
セドリックはつぶやいた。
「“闇”だ」
「まさか、こいつも闇魔法の使い手なの!?」
アンブローシアがカップを置いて身を乗り出した。
「ふふん、言ったろう。これで終わりだと」
ティモシーが勝ち誇ったように顔をゆがめた。
「オマエの魔法式は構築に使っている言葉が弱すぎるよ。それに剣だと。剣は火で鍛えるもの。火魔法以外で使うのは得策じゃない。そんなこと素人だって知ってる」
「なんとでもいったらいいだろ!」
詠唱の声は高い高い女の声だった。セドリックは口の中でチッと舌打ちした。
(また自分の弾じゃない。どこまで手の内を隠すつもりだ!?)
「〈蛇よ、その体を道のようにくねらせる蛇よ。
死の静謐《せいひつ》をはこぶ 黄金の車輪となって、
はるか万風の彼方《かなた》よりきたり、
とく去れ!〉」
セドリックの表情が弾《はじ》けた。
(わかった、〈運命の車輪〉だ!)
人の一生分の幸福と不幸を荷にした馬車、それらを運ぶ車輪は、はるか神の目の島に棲《す》む金色の蛇が尾にかじりついた姿だという。
運命という名の車輪――、すべてをひきつぶすという重さを感じさせる単語として、車輪の構築に使う言葉としてこれほど優れているものはないだろう。
(ほぼ、同時にくる)
セドリックは確信していた。
(同属性が真っ向からぶつかるなら、レベルの高いほうが勝つ。〈運命の車輪〉に打ち勝てるかどうかは、今回構築のさいに中心にしたあの言葉にかかっている――)
ティモシーの撃《う》った〈運命の車輪〉の詠唱《ゲール》が終わる。セドリックのほうも、ほとんど差のないまま魔法の完成をむかえ…
「〈冥王の剣持ちよ、
今こそその腰から鋭きものを抜き取れ、
幸いの島をもそのひとふりで地獄と化すだろう、かかげよ――〉」
そして、
「〈運命の車輪〉!」
「〈ヘクラの黒剣〉!!」
エルウィングが叫んだ。
「ヘクラの黒剣…、冥界の門番ヘクラの武器のことだわ」
すんでの差で先に完成したティモシーの闇魔法が、山の中とはいえまだ明るい昼間のうちから、火事のような煙を生み出し始める。
「そんな…、まだ明るいのに闇ができるなんて」
エルウィングが胸元をぎゅっと握りしめた。
二人の決闘は、思いもかけない総力戦になっていた。
まるで生き物のごとく寄り合い太くなった煙の帯が、くるりと円を描いたかと思うと、たった今磨かれたばかりのようなくろがねの車輪になった。
轍《わだち》の音がきこえてくる。ガラガラと騒々しく鉄をきしませて、ここではないどこからかやって来て、セドリックの体をひきつぶそうと襲《おそ》いかかる!
(間に合うか!)
ギシャアアッ
セドリックは自分の放った闇の魔法が正しく完成し、そして発動するのをしっかりと確認した。
縦に黒い閃光《せんこう》が走ったかと思うと、ぱっくりと裂《さ》けた中から虫の群集のように闇が溢《あふ》れだした。その大きなシミはまたたく間に地面にひたひたとひろがっていく。
「な、なんなのこれは」
その真っ黒い裂け目から、突如《とつじょ》として鎌のようにおおきく反り返ったふたふりの剣が飛び出してきた。
剣はセドリックのすぐ目の前で交差した――とそこへ、ティモシーの作り上げたくろがねの車輪が、ものすごいスピードでつっこんでくる!
「剣と車輪なら、車輪のほうが強い! オレの勝ちだ!!」
ティモシーが狂喜した。
(大きい!)
それ自体が人二人分ほどの大きさのある車輪だった。運命が人間をおしつぶすときはまさにこんなふうに容赦のないものに違いない、セドリックはなぜかそんなことを感じていた。
(激突する!)
ガキーン!
重い金属と金属がぶつかり合ったような、そんな音が山の中に何度も篭《こ》もって響いた。
そのあまりの衝撃に、セドリックの作り上げた剣は、一瞬霧のように拡散してくだけちったかと思われた。
だが、それはティモシーの車輪のほうも同じで、なくなりこそしなかったものの初めの勢いはもうなかった。
車輪は、剣によって弾《はじ》かれたのだ。
「やったああ!!」
魔法陣の外で、アンブローシアが飛び上がった。
「車輪が…、そんな…。剣になにかを弾く力なんてあるわけないのに…」
ティモシーが弱々しげな声を漏《も》らした。
「なんとか、回避した」
あのとてつもなく重い〈車輪〉を防ぎきれたことを知って、セドリックはほっと肩で息をした。
〈ヘクラの黒剣〉は剣という名ではあるものの、そのもともと性質に攻撃性はない。
なぜならヘクラとヌーは冥界の門を守る門番であり、黒い剣をもって冥界から現世にもどろうとする魂を追い返す役目をしている。
だから、その言葉の一番強く意味するところは「拒絶」。彼らの名は、力づくで押し破ろうとする荒々しいものに対してのみその攻撃性を発揮するのだ。
そして、ティモシーの作り上げた〈車輪〉こそ、その門を突破しようとする無礼な輩《やから》そのものだった。普段はもくもくと門を守るだけのヘクラも、その強引なまでの突撃に黒い剣を振り上げざるを得なくなった。
(やれやれ、うまくひっかかってくれた)
もし、ティモシーにゲルマリックを聞きとる能力があれば、彼はきっとこの剣という言葉に惑わされて、この魔法を攻撃魔法だと思いこむはずだ。そうセドリックはふんでいた。
セドリックの予想通り、ティモシーは剣という単語を正確に聞きわけていた。そして、「勝った!」と慢心した。たしかにあれがただの攻撃魔法だったなら、セドリックはティモシーの撃《う》った〈運命の車輪〉に競り負けていただろう。
しかし、ヘクラの大きくクロスされた二つの剣は、この世のなにをも弾《はじ》き返してしまうほどの威力を持っている。
その絶対的な防御をまえにしては、ついに〈運命の車輪〉をもってしても、突き破ることはできなかったのだ。
セドリックの読み勝ちだった。
「ち、ちくしょう、オレのとっておきの闇魔法を!! ちくしょうちくしょうちくしょう!」
地団駄をふんで悔しがるティモシーに向かって、セドリックは冷静に言った。
「降参するなら今のうちだよ」
ティモシーが顔をかっと赤くしてセドリックを睨《にら》んだ。
「ふざけるなっ、だれが降参なんか…」
「それでまた、自分が作ったんじゃない魔法を撃つつもりか。決闘というなら自分の力で勝負しろよ」
「なんだと、えらそうに。このオレをだれだと」
「それともできないのか」
「――っっ」
ティモシーの顔色が変わった。熟れすぎたトマトのようだった顔が、みるみるうちに固く強《こわ》ばっていく。
「…い、いいさ。そんなに言うんならお望み通り撃ってやる。後悔するなよ」
彼は胸の位置のホルダーからひとつの弾丸を取り出すと、スコルニックのシリンダーを開けて中に押し込んだ。
「オマエは絶対に後悔するんだからな!」
「いけません!」
声が挟まった。セドリックとティモシーはほぼ同時に魔法陣の外を見た。ボイド家の執事であるチャーリーが厳しい表情で頭を振った。
「これ以上はなりません、おぼっちゃま。今すぐ決闘を中断してください」
彼の片眼鏡の奥がいやに鋭いことに、ティモシーも気づいたようだった。
「チャーリー…?」
「嵐が来るようです」
その場にいた全員が、弾《はじ》かれたようにハッと顔を上げた。
「嵐だって!?」
チャーリーの指し示した方角を見ると、驚いたことにそこから見える山のほとんどが白く染まっている。
「山が…」
「さっきまで、普通の色だったはずなのに」
ついさっきまで木の葉が落ちて黒い岩肌をさらしていた山の北側は、いつのまにか真っ白い雪で覆《おお》われていた。かろうじて青い部分が残っているのはセドリックたちのいる上空だけで、白い嶺《みね》の辺りには分厚い雪雲がたれこめ、雨のように降りつける雪があっというまに山肌を白く染め上げていく。
「漂白の魔女!?」
エルウィングが口元を覆って言った。
「いけない、早くどこかに避難しなければ。あの雪雲は速度が異様に早いことで知られています!」
チャーリーが魔法陣のすぐ外にまで駆《か》け寄ってきた。
「ぼっちゃま、今すぐこの決闘を中止してください。今からでは馬車で麓《ふもと》までいくのも間に合いません。どこかに山小屋を探さないと」
「い、いやだ。まだ決着はついていない!」
ティモシーがキッとセドリックを睨《にら》んだ。
「オレはまだやれる。まだ負けたわけじゃないんだ。オレはこいつより強い!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
漂白の魔女を前にしてつまらないことを言い出すティモシーを、セドリックは思わず怒鳴りつけた。
チャーリーが叫んだ。
「双方の意志をもって中断すればいいんです。そちらのぼっちゃまとごいっしょに天に向かってお撃《う》ちください」
「チャーリー!?」
「ケチャップさんのいうとおりにしよう。ティモシー、早く弾を抜けよ」
「オレに命令するな、孤児のくせに」
「っっ」
頭を殴られたような衝撃をセドリックは感じた。
それでもティモシーはそれしかないと観念したのか唇《くちびる》をとがらせながらシリンダーを中から弾を抜いた。
「い、いいか、本当に同時だからな。ずらしたりふりだけしたら承知しないぞ」
「いいから早く!」
「セドリック、急いで。もうそこまできてるわ!」
エルウィングの声に、セドリックは引き金にかける指にぐっと力を入れた。ティモシーもまた銃を握り直した。弾を抜いた銃の銃口を天に向けて、ティモシーと同じタイミングで空砲を撃《う》ちはなつ!
「〈双方の合意により契約を解除する!〉」
「〈グリザエルの解放を〉」
ツキューン、とハープが切れたような音が響いて、二人の銃から空砲が鳴らされる。
するとそれを合図に、二人の足元を覆《おお》っていた黄緑色の光や魔法陣を構成する文字などが、土の中にしみこみ始めた。
「よし、解除された。行こう!」
セドリックはいち早く駆《か》けだした。
アンブローシアが、麓《ふもと》の宿場で手に入れておいた地図を広げる。
「あいにくこの近くには山小屋はないわ。今日あたしたちが泊まった小屋まで引き返すか、このまま先へすすむか…」
三人は代わる代わる顔を見合わせた。
「どうしよう」
「こういうときは戻ったほうが賢明ね。途中で避難できる場所を探しつつ、とにかく引き返すのよ!」
行きかけたセドリックは、呆然《ぼうぜん》とその場につったっているティモシーを見て声をかけようか一瞬ためらった。
ぶるぶるっと頭を振る。
(ああ、もう!)
「来いよ」
「…えっ」
彼が心細げにセドリックを見た。
セドリックはティモシーの手を強引に引いた。
「いいから来いって」
「で、でも…オレ」
「こんなときに意地はったって仕方がないだろ!」
叱《しか》りつけるように言うと、彼はぎゅっと歯を噛《か》みしめて、それから黙って頷《うなず》いた。
ここから東へ向かう下りは馬車が入れないため、チャーリーは馬を放したあと馬車を捨てた。朝からのぼってきた山道を、セドリック、エルウィング、アンブローシア、そしてティモシーとチャーリーが続いた。漂白の魔女が近づいてきたのか、風がだんだんときつくなっている。ほんの数分前まではまだましだったのに、今は横から殴りつけられるように痛い。
「くそっ、なんて風だ!」
フードを何度もかぶり直しながら、ティモシーが毒づいた。
やがて、頬《ほほ》をぶつ風に雪つぶてがまじり始め、辺りはあっという間に小麦粉をまぶしたように白くなった。
(雪で前が見えない…。これが、漂白の魔女か)
セドリックは何度も顔に張り付く雪を手で払い落とした。指先の感覚もとっくになくなっている。それに、足元を覆《おお》い尽くしていく雪のせいで、どこまでが道だったのかわからなくなっていた。目の前を歩いているアンの足跡さえ、またたくまになくなってしまうのだ。これではもといた山小屋にちゃんとたどり着けるかさえおぼつかない。
「ティモシー!?」
エルウィングの声にふりかえると、ティモシーたちとの間が思ったより開いていた。セドリックは慌《あわ》てて彼らのもとへ駆《か》け寄った。
「ばか、離れるな。少しでも離れたら見えなくなるんだ!」
チャーリーに励まされたティモシーはふたたび足を動かし始めたが、顔に前のような精彩がない。急に気温が下がったせいで、みな著しく体力を奪われてしまっている。
とうとう足元に雪がつもり始めた。
セドリックは下唇《くちびる》噛んだ。まずい、このままではだれかが行き倒れになってしまう…。山小屋まで戻るのも、ティモシーたちの体力的にもむずかしいようだから、どこかに雪をやり過ごせる場所を探さなくてはならない。
アンブローシアが雪まみれの顔で振り向いた。
「どうしようセドリック、どっちだったかわからないの」
セドリックは曇り顔の彼女を安心させようとむりやり笑った。
「大丈夫だよ。方向はまちがってないんだから」
それからすぐになにかを思いついてぱっと表情を明るくする。
「そうだ、魔法を撃《う》とう」
言うが早いか、彼はかじかむ手でホルダーの中から光魔法を取り出した。
「できるだけみんな寄ってくれ。今から〈天幕〉を張る」
光魔法の〈天幕〉は、文字通りドーム状の光で保護者を包み込む結界魔法だ。防御一偏になる結界魔法はあまり魔銃士としてはやりがいがなく、セドリックもどうしても攻撃魔法の弾作りにばかり熱心になってしまいがちだった。
「あまり改良ができてないから長くはもたないけど、このまま凍死するよりはいい」
彼はいそいで〈天幕〉の弾を選び出し、シリンダーを空けて中に弾を入れようとした。
「うっ」
セドリックが唸《うな》ったのを聞いて、アンブローシアが手元をのぞき込んできた。
「セドリック、どうしたの?」
「た、弾が入らない」
なんと、横殴りの雪のせいで雪の水分がシリンダーの中に入り込み、一瞬で凍《こお》り付いたためカートリッジが入らなくなってしまったのだ。
「こ、こんなことって」
セドリックは慌《あわ》てて中をかきだそうとしたが、冷えてこびりついた氷は指で触っただけではなかなか溶けてくれない。
「じゃああたしがやる!」
アンブローシアはすでに魔弾砲に装填《そうてん》されていたらしい〈炎柱〉を、彼らが行こうとしていた先へ向かってぶっ放した。
〈天を穿《うが》て炎の柱よ。
赤き目の王の心臓を貫いた大槍《やり》よ。
反逆ののろしは血噴によってたちのぼり、
ヤヌシュ・シビリは誇らかに尖塔の冠をいただけり――!〉
短く濃縮されたゲルマリックが、右から左に流れていく雪を切り裂《さ》いて光り、魔法式を構築していく。
まもなくアンの炎柱は完成した。まさに天を穿つがごとく、赤の王をしとめた反逆者ヤヌシュ神の槍が突きだされる。雪は一瞬で水蒸気となり、そこにあったはずの木々も焼きとばされ灰すらその場に残らなかった。
「やった!」
思わぬ熱量に歓声をあげたアンブローシアだったが、できた道のあとを進もうとしてしばらくもしないうちにすうっと表情を硬くした。
「そ、そんな…」
アンが苦労して作った道も、ふたたび吹き付けてきた吹雪によってみるみるうちに白く閉ざされてしまう。
「こんなの、いくらカートリッジがあったって足りないわ」
アンブローシアが途方に暮れたようにセドリックを見た。エルウィングもまた、思い詰めた顔をして黙ったままだ。ティモシーにいたっては濃い疲労のせいでしゃべる気力もないといった風情だった。
(どうしたらいい!?)
セドリックの心はおおきく揺さぶられた。決断をしようにもその選択肢すら見当たらないのだ。
ならばせめて雪を避けようと、近くに横穴がないかどうか目を凝らしてみたが、足元も辺りも白い色で塗りつぶされほとんど視界がきかないありさまだった。
(魔法が、役に立たない)
魔法は万能だ、いつのまにかそんなふうに思いこんでいた。けれど、強大な自然をまえにしては人間が苦労して編み出した方法などちっぽけでしかない。セドリックたちは今まさに、そのことを命と引き替えに思い知らされようとしているのだった。
このままここにいても体力を奪われていくだけだ。それなら、なんとかして火をおこしてセドリックの銃を溶かしてみるか、それともアンの弾を使えるだけ使いながら行けるところまで進むか…
(そうだ、ティモシー!)
セドリックはものすごい勢いでティモシーを振り返った。
「ティモシー。何か使えそうな弾を持っていないか。僕の銃が使えなくてもきみのなら…」
――次の瞬間、セドリックたちの目の前が大きく光った。
「うわっ」
その場にいた全員が、あまりのまぶしさに目の前に腕をやって顔を背けた。
(これは…)
セドリックたちは、思いがけず出現した巨大な光の球体につつまれていた。
視界がきかない中で、肌が粟《あわ》立っていた。頬《ほほ》の皮膚の上でなにか粒のようなものがぱちぱちと弾《はじ》けていくのがわかる。
溶けているのだ。
(温かい)
セドリックはどこか恍惚《こうこつ》とした。氷のようだった鼻柱や髪が、光のあたたかさに触れて溶解していく。皮膚の上に血の流れが戻ってくるのがわかる…
「〈なんじ、柔らかなるものよ!〉」
光の玉がしゃべった――いや、そうじゃない。しゃべったのはべつのだれかだ。玉の外側にだれかがいる!
(これは、まさか光魔法…?)
セドリックは、光の中から現れた人物を見て息を呑《の》んだ。
少女だった。
彼女は白い小さな傘をさしていた。都の貴婦人たちがさしている柄《え》の部分だけが雨傘よりずっと長いレースの日傘だ。
少女の身につけているものは、どれもあまり見ないものばかりだった。まるで羽根でできているかのようなひらひらとした襟《えり》。シャーリングの寄った胸元のすぐしたで切り換えがあり、そこから腰の辺りまで、コルセットのような編み上げがしてあって少女の細いウエストを演出している。そこからは花びらの多い花をひっくり返したようなふわりとしたスカート。これも今都ではやっているバスルや骨組みでふくらませるのではなく、ペチコートを何枚も重ねてボリュームを出すタイプだ。
(光の精霊みたいだ)
セドリックは一瞬我を忘れた。
少女は光と同質なもののように思えた。細いくびすじも赤みのない頬《ほほ》もなにもかもが光に透けて見え、その病的なほど白い顔の中でかすかに動いた赤い唇《くちびる》だけが、唯一生命力を感じさせる。
ふいに、その唇から幼い子供のようなつぶやきが漏《も》れ出た。
「セ…ド…?」
「えっ」
セドリックは視線を持ち上げた。彼女はくいいるように彼を見ていた。ふわふわと綿毛のように軽い髪が頬のラインをふちどっていて、そこから見える透明な目と唇だけが光に塗りつぶされることもなく、まっすぐにセドリックただひとりを凝視している。
と、その唇がまた開いた。
「セド、リック!」
突然、思いがけなく自分の名を呼ばれてセドリックは面食らった。
少女は手にしていた日傘を放り出すと、さっきまでは色のなかった頬を真っ赤にして喜々として叫んだ。
「セドリック、セド、リック、で、しょ、う…!」
「どうして僕の名前を」
彼女の放した日傘が、強風に煽《あお》られて飛んでいく。そんなことにもおかまいなしで少女は続けた。
「わたし、よ」
彼女はなぜか息も切れ切れ、といったふうに言った。
「キトリ、よ…。おぼ、えて、ない、の…?」
「キトリ…?」
「つきよみ、の、おか、の、おやしき、で、いっしょ、だった…」
「!?」
セドリックは肩に電撃を受けたように身震いした。
「月読みの丘のお屋敷って…」
月読みの丘のお屋敷――、クラップストーンの北部にある、セドリックが幼少期をすごしたというあのアリルシャーの研究基地のことだ。
(まさか、この子もあのお屋敷にいたのか。でもあのときたしかに僕以外の子供は全員助からなかったはず…!)
「あっ」
キトリという名の少女は、セドリックのもとに走り寄ろうとして大きく前につんのめった。
「あぶない!」
とっさに飛び出して彼女を受け止める。
キトリを抱き留めたセドリックは、その人形のようなか細さにぎょっとなった。軽い。まるで、羽根かなにかを受け止めたような感触しかない。
セドリックに抱きしめられることになったキトリは、彼の顔を見てふわりと笑った。
「ほら、やっぱ、り、そう、だ…た…。キトリ、やかたの、なか、から、みてた。セドリ…ク、さむそう、に、してた。もう、あったか、ね…?」
「館《やかた》?」
「あっち、キトリ、たち、みんな…、すん、でる」
「セドリック、あそこに家があるわ!」
今の今まで凍《こお》ったように見つめていたアンブローシアが、光の玉が近づいてきた方角を指さした。
たしかにもみの林に囲まれた先に、どっしりとした重厚なかまえをもつ石造りの邸宅が建っていた。見るからに古い建物だ。それに、雪の中とはいえこの地方独特の尖塔のように尖《とが》った屋根は遠目でもかなり目立つ。
なのに、ついさっきまではこんなものはなかった。いや、見えていなかった。
ほんの、すぐ目の前なのに――
(いったいなにがどうなってるんだ!?)
キトリはまるで足に力がはいっていないらしく、セドリックに全面的によりかかっていた。歩けないのだろうか。そのたどたどしい物言いといい、どうやら彼女は体がよくないらしい。
「ねえ、きみはいったい…。それにあの屋敷は…」
不審に思ったセドリックが問いかけようとしたそのとき、鋭い声が彼の言葉を遮った。
「キトリ!」
セドリックの腕の中でキトリが反射的に声をあげる。
「キサ、ラ…」
館《やかた》から、黒い弾丸のようなものが飛び出してきた。そしてそれは勢いよくセドリックにぶつかると、腕の中からキトリを奪い返した。あまりのことに、セドリックは思わず雪の中に尻餅《しりもち》をついた。
「うわっ」
「だめじゃない、こんな漂白の魔女が来ているってときに外へでちゃ!」
彼女は言うなり、自分の着ていた黒いコートを脱いでキトリに着せようとかぶせた。倒れているセドリックのことなどまるで見えていないらしい。
黒いファーのコートにくるまれたキトリは、ファーの感触がくすぐったいのかくすくすと笑った。
「だい、じょうぶ、よ、かさ、だって、さしてた、し…」
「大雪なのよ。それにあれは日傘でしょ。なんの役にも立たないじゃないの!」
「だっ、て…。キサラ、うえから、なにか、ふってき、たら、かさ、さすって…」
「だから、そういうときはふつうの雨傘を使うの。ばか!」
キトリは何を怒っているのかわからないといったように、コクリと首を傾《かし》げる。
「あの、ね…。まどから、セドリ、ク、みえた。さむそう、から、まほう、も、つかった、だ、から、かさ、こわれ、て…」
「セドリック…?」
そのときはじめて彼女はセドリックたちのほうを向いた。
そして、
(ふ、双子!?)
セドリックは息を呑《の》むほど驚いた。新たに現れたキサラという少女は、キトリとまったく同じ顔をしていたのだ。
驚いているのは相手も同じだった。だが、視線の先でキサラというらしい少女の顔は、みるみるうちに警戒心に染まっていく。
彼女が言った。
「…アナタたち、だれなの」
非難めいた視線を突きつけられて、セドリックたちは一瞬寒さを忘れて立ちすくんだ。
「僕は…」
なぜかそのとき、不思議と助かったとは思わなかった。
「うわ、すごい」
一歩中に足を踏み入れた途端、それはセドリックの口から自然と漏《も》れた。
その館《やかた》は、山小屋と呼ぶにはあまりにも洗練された空間だった。
どっしりとした石造りの外壁は、この日のような積雪にも耐えられるようになのだろう、たくみに雪避けがほどこされ屋根の角度もまるでなにかの角のように急である。
ところが、その重厚な外観とは違って、館の内部は外の世界とはうってかわった温かさを強調した内装になっていた。じっくりと煮詰めた砂糖のカラメルのようなつやのあるはり。天井と壁はアザミをパターン化した臙脂《えんじ》色の壁紙で統一されており、床の細かいはめ木細工の上にはぜいたくに毛皮がしきつめられている。
あかあかと火の入れられた暖炉には、薪《まき》と同時によい香りがたちのぼるようラベンダーが燃され、そのふちを彩るのは年代物の彩色テラコッタ。神話の一部を絵付けした彫りタイルは、煤《すす》で汚れてしまうのがもったいないほどの細工だ。
(こんな山奥に、こんな豪華なお屋敷があったなんて)
セドリックはメイドに中へとすすめられても、思わず足を止めずにはいられなかった。ぐるりと中を見渡した彼は、部屋中のそこここにあるマークに気が付いた。
「蜂《はち》のマークだ」
よく見ると手をかけた真鍮のドアノブも蜂がとまっているようだし、更にチェストの取っ手にも蜂が、そして壁に装飾されたタイルにも蜂がデザインされている。
何よりも目を引くのが、奥の部屋に続くホールの床に描かれた、巨大な蜂の魔法陣だ。
それは見たこともない魔法陣だった。円の中に八角形の魔法陣が敷いてあり、そこにちょうど蜂が閉じ込められているようなかたちでモザイクが敷きつめられている。そして、その中心からは無数の線が放射線状に延びていて、それはセドリックにいつだったか遺跡で見た古い時代の日時計を思わせた。
(なんに使う魔法陣なんだろう。ここはなにか魔法に関係のある建物なのかな?)
セドリックは困惑した。
それに、戸口にはよく使っているらしい靴墨やステッキたて、コートの塵《ちり》をとるブラシが用意されていた。こんな馬車も入れないような山奥にもかかわらず人の出入りが頻繁《ひんぱん》にある様子なのが、この館の不思議さをいっそうかもしだしている。
セドリックは無意識のうちに、さっき自分たちを助けてくれたキトリという女の子を探していた。
(あのキトリっていう子…。もうひとりの女の子がすっごく怖い顔をして連れて行ってしまったけれど、本当にアリルシャーのお屋敷にいたんだろうか。だとしたら…)
セドリックは胸の中に今までに思いもしなかった火がともるのを感じた。
(僕の、記憶にないことを知っているかもしれない!?)
たしかにキトリはセドリックたちを寒さから救おうとして魔法を使っていた。銃もなしにどうやって撃《う》ったのかはわからないが、あの光を表す古い言葉はあきらかなゲルマリックだ。
ならば、キトリがアリルシャーのお屋敷にいたことがあっても不思議ではない。彼女がセドリックと同じようになんとかしてあの惨事を逃れていたのだったら――
(そうだったらどんなにいいだろう!)
セドリックの心は逸《はや》った。すぐにでも彼女に会いたい。会って昔のことが聞きたい。あいにくと僕は彼女のことをまったく覚えていないけど、彼女は僕のことを知っているふうだった。ほんの小さなことでいいんだ。もし、彼女が僕のことを話してくれたら…
もし、そこでなんらかの情報を得ることができれば、失われた自分の過去が、そして自分の両親のことがわかるかもしれないのだ。
思わぬところで得ることになった期待に、セドリックの胸ははちきれんばかりだった。
すると、目の前に人の気配がした。
「これはようこそ。外から来たお方」
セドリックは顔を上げた。
玄関を入ったホールで彼らを出迎えたのは、ビロードの深緑色のドレスに片方の肩だけに銀狐の毛皮をまとった女性だった。歳のころは三十といったところだろうか。ところどころ黒い房が混じったような金髪に、ことさら濃く引いたルージュが印象的だ。
「わたくしはジャンヌ=コッダと申します。その玄関を使って来られる方はあなたがたで二組目ですわ」
「は、はじめまして。助けていただいてありがとうございます」
五人はそれぞれめいめいに彼女に挨拶《あいさつ》をした。
「突然の嵐であやういところを、こちらのお嬢さんに助けていただいて」
「ああそういえば、今外に漂白の魔女が来ていましたわね。…そう、それでキトリがお助けしたと、そういうわけなの」
ジャンヌは口元にかるく指をやりながら、セドリックとティモシー、それから彼の執事であるチャーリー=ケチャップを交互に見比べた。なぜかアンブローシアやエルウィングにはまったく視線を向けなかった。まるで、興味がないとでもいうように…
おそるおそる、セドリックは切り出した。
「あのう、ここはどういったお屋敷なんでしょう。僕たちを助けてくださったキトリという娘さんは、あなたのお嬢さんですか?」
「まあ、オホホホホ」
婦人が笑うと、肩に垂れ下がっていた銀狐の目がじろりとセドリックを睨《にら》んだ気がした。
「わたくしはここの監督係というところかしら。さっきあなたがたをお助けしたのはわたくしの娘なんかじゃありませんわ。あの娘は蜜蜂《みつばち》です」
「蜂?」
「そしてここは〈蜜蜂《みつばち》の館《やかた》〉」
「蜜蜂の…、館」
セドリックは思わず婦人の足元を見た。彼女は例の巨大なモザイク画の蜂を踏みつけていた。
「キトリを見ましたわね。あの子は例によって体が少し不自由でしてね。ああでもそのほかのことは働き蜂がいたしますから、相性さえあえば遠慮なくあの子をご指名いただいて結構ですのよ」
ジャンヌは銀狐の毛皮を、まるで自分のペットにそうするように撫《な》でた。
「指名って、なんの…」
「あら、魔銃士でいらっしゃるのに蜜蜂の館のことをご存じでないなんて」
「!? 魔銃士ってどうして」
セドリックはサッと顔を曇らせた。どうしてそんなことがわかるのだろう。自分が魔銃士だなんてひとことも話していないのに。
彼はとっさに腰にぶら下げていたレッドジャミーに手をやった。ジャンヌはまったく気にしたふうもなく、匂うように扇の内側で笑い声をたてた。
「まあ、それはおいおいお話するとして、さあだんなさまがた、そんなところにいてはお寒いでしょう。どうぞ中へ。火のそばへどうぞ」
婦人はセドリックに、中に入るようにすすめた。セドリックは遠慮なく暖炉の側へ近寄ろうとし――
「あなたはだめ!」
セドリックはびくっとなって思わず顎《あご》を引いた。
止められたのは彼ではなかった。彼に続いて中に入ろうとしたアンブローシアの喉《のど》元に、ジャンヌの扇がつきつけられていた。
「な、ん…」
「あなたには用はありません。出てお行きなさい」
「なんだって!?」
セドリックは慌《あわ》てて二人の間に割り込み、アンを彼女からかばうようにした。
「ど、どうして彼女はだめなんですか!」
「ここは蜜蜂の館だといったでしょう。かわいらしいだんなさまがた」
そのあからさまに見下すような視線に、セドリックは思わず鼻白んだ。気圧《けお》されそうになるのを彼はどうにか喉でこらえ、言い返した。
「じゃ、じゃあ蜜蜂の館っていったいどういうところなんですか。どうして僕やティモシーはよくて…」
「端的に言うと、ここは娼館《しょうかん》なのです」
そのジャンヌの言葉の意味を完全に理解するのに、セドリックはまばたきを五回はしなければならなかった。
「しょ、娼館…?」
「セドリック!」
アンブローシアが彼の手をぎゅっと握った。どこか諫《いさ》めるような、訴えかけるような目でセドリックを見つめてくる。
自分の考えがまちがいではないことを、セドリックはアンの表情から悟った。ついで、真っ赤な蒸気のようなものが体の奥からわき出してくる。
セドリックは狼狽《うろた》えた。
「あ、あの、それって、ここの女の人たちはみんな、その…、ええっと…」
混乱してうまく言葉がでてこない。まるで、頭の中が暴走するメリーゴーランドにでもなったかのようだ。
「いったいどういうことよっ!」
入室を拒否されたアンブローシアが、今にも食ってかかりそうな目でジャンヌを睨《にら》みあげる。
「娼館なんて嘘《うそ》、ここが公営娼館ならその証章をかかげているはずよ。こんな蜂のマークなんて見たことも聞いたこともないわ」
ジャンヌは怯《ひる》まなかった。
「わたくしたちは蜜蜂《みつばち》だといったでしょう。おじょうちゃんも蜜蜂がどういうものかご存じよね。そう、体の中に蜜を作るの。それを欲しい方々に提供もするし、むりやり奪おうとするものには鋭い毒針も持っている…。女はたいてい持っているものだけれどね」
「なっ」
ジャンヌの物言いは、アンブローシアの問いをけむにまくようなものだった。はぐらかされたと思ったのか、アンはカッと顔を険しくした。
「じゃあ、無許可に営業してるのよ。違法だわ!」
「こまったお嬢ちゃんね。娼館《しょうかん》はたとえだと言ったでしょう。ここはれっきとした研究機関なのです。メンカナリン聖教のね」
「なんですって」
ジャンヌは手にした扇をぱちり、と鳴らした。
「いい、お嬢ちゃんおぼっちゃん方。わたくしたちはね、ただ男と寝るわけではないの。男と寝て子供をつくるのがお仕事なのよ」
「え…」
セドリックは顔をぽかんとさせた。
すると、
「そうか、聞いたことがあるぞ。メンカナリンの〈生命の泉〉庁が世界各地に産所をもうけているって」
突然、今まで黙っていたティモシーがジャンヌとの会話に割り込んできた。
「ティモシー…」
「ここがそうなんだな。始めから計画的にいい属性同士の人間をかけあわせて、魔力の強い子供をつくる」
しゃべり続けるティモシーの顔には強い好奇心が浮かび始めていた。
「新月都市の決闘城で聞いたことがあったんだ。魔銃士だけが泊まってもいい宿泊施設が世界各国にあるって。そうか、そういうことだったんだな。魔銃士は蜜蜂たちのいる館《やかた》にタダで宿泊することができる。そして、そこで相性の良い女の相手をして種を落としていく。蜜蜂の館で生まれた子供は、すべてメンカナリンという組織をささえるための兵隊になる。男は僧兵に、女は蜜蜂に。そうだろ!」
「ここにいる人間が、すべて〈館〉生まれというわけではないのよ」
ジャンヌがぴしゃりと、今度は扇を閉じないで言った。
「わたくしはあいにくとガリアンルードの出だし、さっきのキトリなんかもそう。ここからイモアは近いから逆に月海王国の人間なんかはほとんどいないわ。それにね、魔銃士だったらだれでもいい思いができるわけではないの。ここはあくまで純血に近い魔力を作り出す機関、劣等種はいらないのよ」
劣等と言われてティモシーがぐっと歯を噛《か》みしめるのがわかった。だが、彼はすかさず反論した。
「無礼な女め、オレの等級をなんだと思ってる。オレは三桁なんだぞ。759だ!」
「759!?」
セドリックは思わずティモシーの顔をまじまじと見返ってしまった。それくらい、彼にとってその言葉は衝撃的だったのだ。
(やっぱりそうだったんだ。あのスコルニックといい、ずいぶんと多い手持ちといい、僕よりもずっと決闘慣れしてる感じがしたもの。僕と歳も変わらなさそうなのに、ティモシーは実力で等級を手に入れていたんだ。僕みたいなまぐれじゃなくって――)
きりり、と胃がなにか鋭いものでつつかれているように痛んだ。
はっきりと自分の実力を誇れるティモシーが羨《うらや》ましかった。
(僕にはとても言えないや。自分がこの等級を持っています、なんて。だってこれは、僕が実力で手に入れたランクじゃないんだもの)
羨ましい!
セドリックは無意識のうちに、ティモシーを今までとは違った羨望《せんぼう》の目で見ていた。
(そのためにはもっともっと決闘をしていかないといけない。戦うんだ。強くなるために)
ところが、高らかにそう宣言したティモシーを、ジャンヌはまるで皿を突きだしてくる物乞いを追い払うように言ったのだった。
「ふふふ、等級ですって。今の時代にそんなものいったいなんになるっていうの」
「なんだって!」
「血よ」
彼女はドレスの袖《そで》から腕をめくりあげ、そして血管の透けてみえる手首を五人に見せつけた。
「すべては血が証明するわ。その人間の魔力も、属性も、そして価値もね。男だったらだれでも蜜《みつ》をなめられるわけじゃないのよ。ここで、自分の価値を証明してもらわなければ」
「どうやって」
「この床の絵をよおくごらんなさい。これはただのモザイクじゃないの。判定盤になっている。ここに血をたらして属性と魔力を見るのよ」
「判定盤!」
セドリックは、レニンストンの街で出会ったカートリッジ屋のバロットが持っていた判定盤のことを思い出した。
いわく『いつかは、おれたち魔銃士がお世話になるところさ』
「…バロットさんは、ここのことを言っていたのか」
あのバロットという名のカートリッジ屋は、セドリックにさまざまな魔法の知識をもたらしてくれた。等級のこと、決闘のこと、魔力の属性やその特異な遺伝性のこと…。たしか蜜蜂の館という名称を初めて聞いたのも彼からだったような気がする。
少々強引でぶっきらぼうなところはあったが、セドリックはバロットを好いていた。できることならもう少し長くいっしょにいて、カートリッジを売りながら世界中を旅してまわったという彼の話を聞いていたかった。
だが、その彼と再会することはむずかしいに違いない。レニンストン市を含む月海王国は、つい数ヶ月前に彼の故郷である暁帝国に対して宣戦布告をした。月海王国にいたすべての帝国人が強制的に国外へ退去させられ、あるいは追放されることになったのだ。
それにバロットの本名は、バルバリアス=ネオ。暁帝国の皇帝ベルトリーゼ二十五世の同母の兄。いわばこの戦争の矢面に立っている人間だ。そんな雲の上の人物と、そう簡単に再会できるはずはない。
あのときにもっと詳しいことを聞いておけば良かった、とセドリックは後悔した。
(そういえば、あのあとギースはいったいどうなったんだろう。クリンゲルの山を崩《くず》すことには失敗したけれど、事態はスラファトの望んだとおりの展開になっているわけだし、今ごろ兵を率いて暁帝国と戦っているんだろうか)
何気なく辺りを見渡したセドリックは、その次の瞬間にうっと喉《のど》を詰まらせた。
いつのまに集まってきていたのやら、ジャンヌの背後にある二階へと続く中央の階段の両脇に、数十名の少女たちが一段一段並んで立っていた。まるでご主人さまを迎えるメイドのようにきちんと縦に並んで整列している。
少女たちはクスクスと笑っていた。
「あれが今日のだんなさま…?」
「どっちもずいぶんとかわいいじゃない。ちゃんと通ってるの?」
「やだ、…ったら、もう少しほかに言いようがあるでしょ」
どの娘たちも、最初に出会った少女――キトリと同じような真っ白なレースの多い服を着て、品定めをするようにセドリックたちを見つめていた。全員が蜂をデザインした手もちの仮面で目元を隠しているので、彼女たちひとりひとりの顔はよくわからない。
あれはみな、この館の蜜蜂たちなのだろう。
ふいに頭の中に、さっき出会ったばかりの少女の顔が浮かび上がる。
(たしかあの子、キトリって名前だっけ)
抱き留めた瞬間の、彼女の手応えのない羽根のような体が思い出された。
(もしここが本当に子供をつくる場所だっていうのならあの子もそうなんだろうか…。でも、あの子は僕らと歳も変わらない、子供なのに…)
セドリックは急いでキトリを探した。しかし、どこにも彼女の姿はない。
(み、見られてる)
無数の視線を感じて、セドリックは思わず彼女たちから目をそらした。
見られている…。そう、蜜蜂《みつばち》たちは文字通り値踏みしているのだ。セドリックが彼女たちの蜜を得るにふさわしい男であるかどうかを…
「ジャンヌさま」
あるひとりの少女が、皿をごたいそうに掲げながらジャンヌの側まで歩いてきた。その少女は、なぜか蜜蜂たちとはまったく違う、黒いレースの喪服のようなドレスを身にまとっていた。
少女の顔をみて、セドリックはほんのすこしだけ頬《ほほ》を引きつらせた。
「きみ、さっきの…」
キトリを追いかけて館《やかた》を飛び出してきた、キサラという名の少女だった。
キサラは、皿の上にのっていた銀のナイフをうやうやしく差し出した。ジャンヌはそれを今からパンを食べるかのようにつまみあげると、セドリックたちに見せびらかした。
「さ、これで血を判定盤にたらして魔力の証明をしてちょうだい。そうしたら、あとは判定盤が自動的にこの館にいる蜜蜂たちのうち、最も相性のいい蜂を選んでくれる。あとのことはなんにも心配はいらないわ。漂白の魔女が去るまでなんていわずに、ゆっくり種付けをしてくださればいいのよ」
「じょ、冗談じゃない!」
セドリックは一歩後ずさった。
「何で僕がそんなことをしなくちゃならないんだ! ぼ、僕は、ぼくは、そ、そんなことは、遊びでそんなこと…!」
焦《あせ》るあまりうまく言葉がつながってくれない。すると彼の動揺を見てとったのか、階段にいる蜜蜂たちがセドリックを見てクスクスと笑い始めた。
「う…、と、ともかく僕はそんなことはしない。絶対に!」
顔をくしゃくしゃにして彼は叫んだ。叫んだ瞬間に、無意識のうちにずっと握りっぱなしだったアンの手を強く握っていた。
手の甲で口元をぬぐうセドリックを、ジャンヌはなにかおもしろいものを見るような目つきで見下ろし、
「じゃあ、あなたも出てお行きなさいな」
室内の温度が、すうっと下がるような声だった。
ジャンヌは微笑《ほほえ》んでいた。
「え…」
「ここは種付け場よ。その気がない人間を迎え入れる義務はないの。さあ出て行って」
「で、でも外は」
セドリックは戸口の外を見やった。無理だ。あの雪嵐の中に出て行けばあっというまに凍死するのは目に見えている。
「外がどうだろうと知ったことじゃないわよ。だいたい“外”から来るお客なんてあの変わり者以外ひとりもいやしないのに」
それはどういう意味かと問う余裕はセドリックにはなかった。ジャンヌは手首を切る用の銀のナイフを五人に向かって突きつけた。
「ここで血の証明をして温かいベッドと蜜蜂の奉仕を受けるか。それとも嵐の中に放り出されるか好きになさい。わたくしの仕事は、ここでより純血に近い子供をつくり、絶対信仰中枢《トグラハバト》へ送り届けること。もしあなたたちの中でひとりでも種馬にふさわしい男がいたら、他の人間には離れを使わせてあげる。ね、悪くない条件でしょう」
ごくり、とセドリックは唾《つば》を飲み込もうとした。
だが、口の中が渇いていて喉《のど》が震えただけだった。
「セドリック…」
アンブローシアがどちらともつかぬ顔でセドリックを見上げてくる。セドリックはティモシーを見やった。だが、彼もうっすらと顔を赤くしたままなにも言おうともしない。当然だろう。そもそもあの行為は他人から強制されてするようなものではない。
彼から視線を外そうとしたセドリックは、四人から少し離れた場所に無表情で立っているエルウィングを見つけた。
(エル…?)
今の今まで、セドリックはエルウィングがこの場にいることを忘れていた。それくらい彼女は死んだように気配がなく、ただ黙って事のなりゆきを眺《なが》めているだけだった。
その目には、驚きや嫌悪などといった色はまったくなかった。
ただくぼんだ目で見ているだけ…
不審に感じたセドリックだったが、目の端にジャンヌのナイフが映ると、途端に突きつけられた選択を思い出した。
「うっ」
ナイフの切っ先は、突きつけられた要求の鋭さそのものだった。
「さあ、どうするの!」
(この五人の中で魔力を持っている男はティモシーと僕しかいない。どちらかが血の証明をすれば、この嵐の中を放り出されずにすむんだ。でも、そうなれば僕の情報を多くの人の前にさらすことになる…
いいや、そんなことはどうでもいいんだ。僕の魔力なんてどうだっていい。でもこんなのはいやだ。僕はそんな不誠実なことは――)
セドリックの迷いを増長させるかのように、アンブローシアが無言で手を握ってくる。
ジャンヌが焦《じ》れたように言った。
「さあ選んで。血の証明をするか、それとも出て行くか!」
「あいかわらずだなあ、ここは」
ふいに、場にそぐわないのんびりとした声が混ざり込んだ。
ジャンヌの顔色が変わった。彼女は急いで振り返り、すぐに声の主を見つけて見とがめた。
「プルートさま!」
「“生命の泉”というよりは狩猟小屋だね。おお、おっかない」
いつからそこにいたのか、小柄な男性が背を丸くしながら階段を下りてきた。
愛嬌《あいきょう》のある丸眼鏡に、奥にある目を糸のように細くしてニコニコ笑っている。分厚い羊毛のコートを羽織り、手袋をした両手には紐《ひも》でまとめた古い本を山ほど持っていて、まるでどこかの学者といった風情だ。
だが――
(いや、見かけに騙《だま》されてはだめだ。さっきジャンヌさんは魔力の高い男しかここの客にはなり得ないといっていた。なら、彼も魔銃士に違いない)
セドリックは注意深く彼を観察した。
プルートという名らしいその青年は、ふところからなにやら時計のようなものを取り出して、指でピンと蓋《ふた》を弾《はじ》いた。
「そんなぶっそうなものは早くしまってくださいよ、ジャンヌさん。魔力を見るならわざわざ判定盤なんか使うまでもない。このボクの天才的発明にかかれば、相手の魔力などちょちょいのちょい! です」
おおいにふんぞり返った彼は、おもむろにその時計らしきものをセドリックのほうへ向けた。セドリックは怪訝《けげん》そうな顔をした。
「それは…、魔法コンパス?」
魔法方位針《コンパス》は魔法が使われている方角を測定するもので、大気中に含まれているロクマリアが、ある一定の方式に組み込まれ唱えられたときの魔力に反応する。けっして安価なものではないが、裕福な旅人や隊商などはこれを常に身につけ、魔法による戦闘や騒動から逃れられるようにしていると聞いたことがあった。
「おお! 魔法方位針を知っているんだ。あれはこのボクが発明したものだよ。ずいぶん若い頃の秀作だけどねっ」
青年が顔をぱっとほころばせた。その表情が親に褒《ほ》められた子供のようにくったくないので、セドリックは面食らった。
「これは、いわばあれの改良型といってもいい、アーチナム水銀を利用した魔力測定器だ。こうして針を向けているだけで相手の魔力値がわかる」
「相手の魔力値がわかるだって!?」
「ちょっと待って、ほら、すぐにでるよ」
セドリックを何も持っていないほうの手で押しとどめると、彼はしげしげと時計の中をのぞき込んだ。
「ほおおお〜う。キミはたいそう珍しい“闇”属性の持ち主なんだねえ」
「!?」
セドリックの頬《ほほ》がひどく冷たいものに触れたときのようにびくっとなった。
(ばれた!? 僕の属性が…。まだなにもしていないのに――!)
そのとき、ふいに視線を感じてセドリックはそちらをみた。先程ナイフを持ってきたあのキサラという子が、まるで焼け付くような険しい顔をしてセドリックを睨《にら》んでいた。
(どうしてあんな顔…)
硬直するセドリックのことなどおかまいなしで、プルートはぺらぺらとしゃべった。
「しかも魔力値がすばらしい。針が三回転もしたのなんて、ボクはじめて見ましたよ。さて、そのおとなりのぼっちゃんは、と――」
測定器を向けられたティモシーが、ぎくりと頬を強《こわ》ばらせた。先程の威勢の良さはどこへいったのか、今にも後ずさりしそうに腰を引いている。
その様子を見たプルートは、なぜか微笑《ほほえ》みに近い笑みを浮かべ、
「…まあ、ひとりで十分でしょ。やめておきましょう」
と言って、測定器の蓋《ふた》を閉めてしまった。
セドリックは、彼の手の中にある小さなものから目が離せなかった。
(ど、どうしてばれたんだ。今の今までずっと隠し続けていたことだったのに。それも決闘や魔法弾の撃《う》ちあいをしたのならともかく、今会ってまもない人間に触られもせずに知られてしまうなんて…)
魔法戦において、相手の属性を知ることは有利な攻撃をする上で最も重要なことだ。
いわば、属性を知られることは切り札を半分持っていかれることと同じなのである。なぜなら、属性には必ず対極性がある。火は水に弱いが風には強い。反対に風は火には弱いが土をくしけずることができるのもまた風だ。
このように、相手の属性を知ることによってそこから攻撃の突破口がうまれ、また相手の手を読むことができるようになる。だからこそ魔銃士たちは自分の属性をなるべく隠そうとし、そして相手の属性をさぐろうとする。
そうならないために、魔銃士たちは普段はあまり得意としていない魔法をカートリッジ屋や交換などで手に入れ、持ち弾にかたよりがないように気を遣う。
先刻〈決闘〉をしたティモシーも、おそらくそうしていたのだろう。おかげでセドリックはなかなか彼の属性にあたりをつけることができなかった。
なのに、
(あの機械を向けられただけで、僕の属性があばかれてしまった。ただ向けられただけなのに。なんて恐ろしい機械なんだろう。鉄の文明は、本当に魔法にとってかわるのかもしれない。――そして)
彼はプルートに向ける視線をますます険しくした。
(こんな機械を作ってのけるなんて、いったい彼は何者なんだ!?)
セドリックの思惑を知ってかしらずか、プルートはのほほんとした口調で言った。
「ジャンヌさん、このおぼっちゃんはたいへんな掘り出し物です。すぐさま蜜蜂《みつばち》を選びましょう」
すると、階段上の蜜蜂たちの間からわっと歓声があがった。ジャンヌのほうも仕方がないとでもいうようにナイフを皿の上に戻す。
「まったく、突然いらしたと思ったら勝手なこと。まあ他でもない、あなたがおっしゃることでしたらそうなのでしょう。よろしい。その坊やが蜜蜂を選ぶことを承知するなら、他の者が館《やかた》へ逗留《とうりゅう》することも認めましょう」
「な…」
思わず反論しかかるセドリックに、プルートはいきなり顔を近づけると、
「だいじょうぶ。ボクにいい案がある」
なんと、片眼をつぶってみせた。男のウインクをまともに受けたセドリックは狼狽《うろた》えた。
「なにを…」
「キミはキミのために選ばれた蜜蜂《みつばち》と部屋にいって、…うーんそうだなあ風呂《ふろ》にくらいは入れてもらって、ベッドの上にただ寝っ転がればいい。そうして寝てしまえばいいんだ。そして朝になってとある呪文《じゅもん》を唱える」
「とある呪文?」
「そう、これさえ唱えればみななにも言わずに納得してくれる。なにもしなくてもだ」
セドリックはまだどこか半信半疑の顔でヒソヒソと聞き返した。
「そんなに簡単でいいんですか? あの、本当にこ、子供をつくるようなことをしなくても…」
「心配しなくてもいい。これは古代よりめんめんと受け継がれてきた、男にだけ通じる、そして男にしか使えないすばらしい理由だ。これを唱えられれば、さすがのジャンヌさんもたちうちできず、キミの言い分をみとめるだろう」
「そ、そんなに強力な呪文が!」
「そうとも」
プルートはまじめくさった顔で耳打ちした。
「つまり、こう言えばいいんだ。――“できませんでした”」
「は?」
セドリックは一瞬自分が古代語を聞きまちがえたのかと思って聞き返した。
「できない?」
聞き返したセドリックに、プルートは胸に手を交差させてぶるぶるっと震えた。
「そう、これは強烈な言葉だ。たいていの男はこの言葉を聞いただけでそれが我が身を襲《おそ》ったときのことを思い浮かべ、蒼白《そうはく》になって震え上がる」
「…???」
いったいなにがどういう理屈だろう。なんだか釈然としないまま、セドリックは曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
「…よくわからないですけど、それだけで済むならそうします」
「やあ、そうか! いや、そうだよね。キミの仲間をこの猛吹雪の中に放り出すのは実にしのびない! よかったよかった。キミの勇気は称えられるだろう、そう、キミはまさに勇者だ。並大抵の男にはその言葉を口にする勇気はない」
プルートは我がことのようにおおげさに喜んだ。そうしてにこにことジャンヌに向き直った。
「ジャンヌさん、彼は言い分を聞いてくれるそうだよ」
「ちょ、ちょっとまってください。僕はまだ…」
「まだ疑うのかい。じゃあここに宣誓してもいいよ。〈誓って、キミはなにもしなくてもいい〉」
完璧なゲルマリックで彼は言った。親指をたてて握った右手を心臓の上にあてて宣誓したのだ。これで、彼の言葉に嘘《うそ》偽りはないということになる。
目を丸くしているセドリックに、彼は胸から手を外して言った。
「驚いたかい。でも、この館《やかた》の敷地内はメンカナリンの管轄、つまり治外法権だ。ここでは月海王国の人間もスラファト人も暁帝国人も武器をおかなければならない。ジャンヌさんはガリアンルード人だが、蜜蜂《みつばち》の中にはスラファトから来た娘もいる。しかしここでは争ってはならない。そんなことをしたら誓いのせいで心臓が破裂するよ」
そこまで言われて、ようやくセドリックはほっと肩をおろした。彼の言っていることはどうやら信頼がおけることらしい。
だが、納得していないものがひとりだけいた。今まで黙っていたアンブローシアが猛然と抗議の声をあげた。
「ちょっとセドリック、それってどういうことよ!」
「アン、ち、違うんだ」
アンブローシアの非難がましい視線を受けて、セドリックはささやいた。
「なんにもしなくても済む方法をあの人が教えてくれたんだ。それに、どのみち僕がそうしないとここから出されてしまうんじゃないか。あの嵐の中にいたんじゃどうなるかぐらい、アンにだってわかるだろ」
「で、でもっ」
今度はアンブローシアは泣きそうな顔をした。
ふと、セドリックはエルウィングを見た。
「……………」
彼女はまたなにも言わなかった。
セドリックは、ふいに寒気のような不安が背筋をかけのぼるのを感じた。
(エル、いったいどうしたんだろう。さっきから様子がヘンだ…)
ジャンヌが手を叩《たた》いた。
「そうと決まればお部屋の用意を!」
すると、喪服のような黒い服を着た少女たちがせわしなく行き来をし始めた。ナイフを載せた盆を下げ、大きな陶器の水差しと盥《たらい》を運んでくる。どうやらセドリックの足を洗うつもりらしい。
「うわっ。い、いいです、そんなこと」
ひとりの娘がおもむろに足元にひざまずいて雪と泥がこびりついたセドリックの靴をぬぐい始めた。ついであっというまにコートが剥《は》ぎ取られ、あきらかにコートよりも高そうな細工のブラシで丁寧に汚れが払われる。
革の手袋や腰に巻いていたベルト、それにぶら下がっていたホルダーから銃が抜き取られた。予備用のカートリッジホルダーもすべて取り外されて、セドリックは自分が丸裸にされたような気分になった。
(だいじょうぶ。だいじょうぶだ。プルートさんはなにもしなくてもだいじょうぶだって宣誓してくれたんだし)
セドリックが呆然《ぼうぜん》としていると、暖炉にはなにかいい匂いのするものが放り込まれた。ラベンダーだろうか、部屋の中に漂っていた香りが更にきつくなったようだ。
(これから、いったいどうなるんだろう…)
彼は落ち着かない様子で辺りを見渡した。すると、階段の上で期待を込めた眼差《まなざ》しを向けている蜜蜂《みつばち》の娘たちと目があった。
奇妙なことだった。白いドレスを着ている少女たちはただ並んで立っているだけなのに、黒いドレスを着た娘たちはまるで使いっ走りのようにくるくると動き回っている。
「彼女たちは“働き蜂”だ。“蜜蜂”じゃない」
セドリックの表情から察したのか、プルートが耳打ちした。
「彼女たちには血を残す使命も資格もない。魔力の低い、ただの召使いだよ。キミの相手には選ばれない」
それとも、と彼は言った。
「働き蜂の中で気に入った娘が…?」
プルートの言葉に、踊り場を占拠していた蜜蜂たちがざわっとなった。セドリックは慌《あわ》てて首を振った。
「そ、そんなんじゃないです。ただ、さっき会った子が…」
言いながら、セドリックは自分の視界がぐらりと横に揺れるのを感じていた。
「あの…子に、もう…一度、会って、話を…したく…て…」
息が切れる。長く走ったときのように息があがって、うまくしゃべられない。
「あ…れ…? …ぼ…く…」
喉《のど》を手で覆《おお》ってよろめいたセドリックを、なぜかふわりとしたものが受け止める。
プルートの腕だった。セドリックは驚いて顔を上げた。
「…な…」
「ああ、これはね。アケノツムギバチという蜂の一種を乾燥させて燃やしたもので、一種の催淫剤だよ。ちょっと体が動かなくなる薬も混ざっているけど」
セドリックは言葉もなくプルートを見つめ続けた。黙っていたわけではない、体が震えて声がでてこなかったのだ。
「リラックスしないと、できるものもできないからね」
「は…ち…、さっ…き、暖炉に…いれ…て…」
「おや、よく気が付いたね。なんといってもここは女性だけしか住んでいないからね。無法者が現れたときの対策はしっかりしてあるんだ」
彼は自分が謀《はか》られたことを知って目を見開いた。
「う…そ…、だって宣誓…」
「たしかになにもしないで寝ていればいいとはいったが、蜜蜂《みつばち》たちがなにもしないとはかぎらないだろう。たとえばそう、上に乗って」
セドリックは残っている最後の力をふりしぼってプルートの胸ぐらを掴《つか》んだ。しかし彼にできた抗議もそこまでだった。ずるずると体が床に沈んでいく。
プルートの細い目が、更に笑ったように見えた。
「心配しなくてもとって食いはしないよ。キミは大事な種馬候補だ。ボクもキミには大いに興味がある。そうそう、自己紹介するのを忘れたね。ボクの名はプルート=バシリスという。兄からキミの名は聞いているよ。セドリック=アリルシャー」
「!?」
霧の中を歩いているようだった。視界に白い靄《もや》がたちこめ頭の中が朦朧《もうろう》とする。手足にまったく力が入らない。なにかおぞましいものを見たように体の震えがとまらない…!
(プルート=バシリス!?)
とうとうセドリックの足が立っていることを放棄した。彼は瞼《まぶた》を閉じた。箱の中に入れられてむりやり蓋《ふた》をされるように、どっと閉塞感と暗闇《くらやみ》が襲《おそ》ってくる。
「…この少年の魔力が闇と土の混ざりものならキトリがいいでしょう。キサラ、キトリを呼びなさい。すぐに湯浴《ゆあ》みをするように言うのです」
そんなジャンヌの声も遠くに聞こえた。
(…体が、うごかな…、――アン!)
セドリックはついに意識を手ばなした。
「セドリック、嫌だ!!」
アンの切り裂《さ》くような悲鳴が、彼の耳の中にいつまでも残っていた。
チッチッチと、時計の秒針が回る音が聞こえてくる。
その間隔はひどくゆっくりして、実際の秒針よりずっとずっと遅い。
まるでやるべきことを終え、庭のひだまりでやってくるときを待つ老人のそれのように、時間は急《せ》くことを忘れてとろとろと流れ落ちていった。
セドリックはその音を、小鳥のついばみに似ていると思った。
「古代の時計だよ」
だれかが言った。
セドリックは振り向いた。そして、その瞬間二つのことに心を奪われた。
たしかにそこにいたのは、一年ほど前の自分だった。引きずるほど長い黒いローブに臙脂《えんじ》色のベレー帽をかぶっている。黒はつつしみの色、そして深い臙脂は血を表す、メンカナリン聖教の修道僧の色だ。
これを身につけていたのは、セドリックが修練士として月海王国第二の都市である満月都市の修練院にいた、ほんの一年ほどだった。
セドリックはその上を飛ぶ鳥のような目線で、かつての自分を見下ろしていた。いったいどうして昔の格好をしているのだろう。今自分は、あのころの夢でも見ているのだろうか。
もう一つ驚いたこととは、そこに立っていた人物のことだ。
その青年は、セドリックと同じ修練士の服装をしていた。違うのはベレー帽に修練士以上の位を表す房がついていることと、胸に学績優秀を表す金の月桂樹の葉がついていることだ。
くすんだ茶色の髪に、若葉色をしたやさしい眼差《まなざ》しが自分を見つめている。
キメラのオリヴァント――はじめて出会ったとき、彼はルーカ=スロベック修練僧と名乗っていた。
ああ、これは夢なんだ、とセドリックは思った。そして、これらは夢だけれど本当にあったことだ。一年前の満月都市で、なにも知らなかったセドリックが、現実という名の舞台にひっぱりあげられ神さまの書いた台本を…
いや、あの男の作ったシナリオ通りにやらされた。――まさに、芝居だった。
「時計、ですか」
このときセドリックは、年上の修練僧に話しかけられたことにひどく驚いていた。普段、この修練院に暮らす修練士たちはめったなことでしゃべったりしない。なぜなら、神につかえる者に課せられた修行の中には、私語をつつしむということも入っていたから。
ルーカは髪を長く伸ばしていた。そのことから、セドリックはこの男が僧籍に入って長いことを知った。世俗においては、男性はめったなことでは髪を伸ばさない。それは婦人のすることだ。そして、男性にかぎっていえばそれはメンカナリン聖教の僧以外にはないことだった
『これは時計だ』
そう言われて夢の中のセドリックは時計塔を見上げた。
この街で一番高い建物である修練院の時計塔は、今午後五時をさしている。だが、この日時計の針は朝からほとんど動いていない。
セドリックは言った。
「時間が違っているようですけど」
「そうだね。これはこの世を表す時間ではないのだから」
彼の目は緑と茶のいりまじった、季節の変わりめの色をしていた。その目を遠くに見やって、彼は言った。
「これも神代の遺物の一つなんだよ。この時計には針が五本あって、これだけ見ればめいめいが好き勝手に数字を指しているように見える。しかし、これはたしかに正確な時間をさしているのだ。我々が知っている世界ではないどこかの、正確なとき間を…」
「どこか」
男は顔を上げた。自分とよく似た焦げ茶色の髪がフードからこぼれ落ちた。
「きみは、いったい何の時間だと思うかい?」
男は微笑《ほほえ》んだ。
――思えばそれが、あの男…キメラのオリヴァントとの出会いだった。
ちょうど、この満月都市にきたばかりのころだった。
ものごころついたころには、セドリックは小さな田舎《いなか》の修練院で学僧になるための勉学に励んでいた。それ以前の記憶はなく、アリルシャーのお屋敷にいたということも人づてに聞いたことだった。それが急に満月都市にやってきたのは、姉であるエルウィングが正式に学位を授与されたのがきっかけだった。
鏡 谷《グロッター》の修練院は規模も小さくて、セドリックはいつもエルウィングと同じ部屋で寝起きしていた。しかしここ満月都市ではそうはいかなかった。人数の多い満月都市の修練院では、男女の生活する場所はべつべつに分かれていたのである。
成績優秀だったエルウィングは、すぐに将来有望なシスター候補生として女子修練院の寮に入ることになった。今までなにをするにもエルウィングまかせだったセドリックだったが、ここに来てはじめてエルウィングと別れてひとりの生活を余儀なくされた。
セドリックがエルウィングに会えるのは、暦がさだめる休安息の日だけ、十日に一度がせいぜい。
さみしくないわけがなかった。
セドリックはひとりぼっちになったのだ。幼いながらも魔学にたけていたセドリックは、ほかの修練僧からも一目置かれる存在だったが、そのせいでまわりは彼よりも年上の学生ばかりだった。
古文書のたばに埋もれながらゲルマリックを解読し、ローブの裾を引きずって歩くセドリックを、まわりの修練僧はどこか敬遠する目で見ていた。ほら、あれが大僧正さまのお声がかりだっていう孤児だよ。おおかた蜂《はち》の子に違いない――。そんな声さえ聞こえてきた。
オリヴァントに会ったのは、寂しさを勉学に熱中することでまぎらわせていた、そんなころだったのだ。
「あの時計の針が重なるには、どれくらいかかると思う?」
はじめて会ったとき、そう彼は言った。
セドリックは素直にその古代の遺物だという時計に目をやった。いったいどういう動力で動いているのか、この汽車が走る時代の科学によってもわかっていないという。セドリックは答えた。
「わかりません。でも、なんだかおいかけっこをしているみたいに見えます」
それから、つまらないことを言ってしまったという風に赤面した。
「す、すみません…」
オリヴァントは少し意外そうな顔をして、それからまた笑った。なにか、好ましいものを得たように。
「そう…、そういうふうにも見えるかな。たしかに人の人生は時計の針だ。重なっている部分は一瞬で、あとはすれ違いばかり――」
彼の言葉を、どうしてこんなにもはっきりと覚えているのだろう。
セドリックは夢うつつで歯がゆく思った。
オリヴァントの夢なんか見たくはなかった。見れば思いだすことになる。自分が彼にだけは心をひらいて、それを手ひどく裏切られたことを――
それからも、セドリックはルーカと会い続けた。遠く第126遺跡群の発掘にかかわったという彼は、解読したゲルマリックについてセドリックにこっそり講義してくれるようになった。
セドリックは、乾いた土のように彼の知識を吸収した。
ルーカが好きだった。セドリックの所属する古文書寮は年老いた研究僧ばかりで、子供はひとりもいなかった。セドリックにとってルーカは最も歳の近い友人だった。
それに、彼の語る言葉はどれも哲学的で、宝石のようなきらめきがひそんでいるように思えた。彼から話を聞くだけで、自分の知らない南方の平原や、世界の果てにあるという白き灰の島のことが、彼の目を通して見えてくるような気がするのが不思議だった。
(ルーカのような人が僕のお父さんだったら、どんなによかっただろう)
セドリックは何度も真剣にそう思った。
いや、さすがに父親はいきすぎだろう。はっきりと聞いたわけではないが、ルーカはまだ三十を越えるか越えないかというくらいの歳だ。
けれど、わかっていてそう思わずにはいられなかった。父親じゃなくてもいい、彼が兄だったら…、もっともっと近しい間柄だったら、僕はこんなにも正体不明の自分に怯《おび》えずにすんだはずなのに――
(ああ、どうして僕には小さいときの記憶がないんだろう。もしあの蜜蜂《みつばち》の子…、キトリが知っているというのなら、なにがなんでも聞き出したい。ほんの少しでいいんだ。だれかが僕がちゃんとそこにいたことを証明してくれれば…)
そういえば、僕はなぜこんな夢をみているのだろう…
そうした疑問も、かき混ぜたミルクの上に浮いたクリームのようにすくい取られていく。
夢は続いていた。
セドリックとルーカは、会うごとに親しくなっていった。
「僧籍に入ってずっと、遺跡を発掘しているんですか」
「いや」
ルーカは不思議な男だった。毎日ほこりだらけになって石版の解読をしているだけの男かと思えば、実は若い頃は僧兵隊に入っていたのだと言った。セドリックが生まれる前のことになるが、第77部隊の僧兵として西部ユーロサットの動乱に派兵されたことがあるらしい。
その証拠に、ローブの下に隠されていた彼の体は傷だらけだった。まるで太い針で縫いつながれたキルトのように、どこもかしこもつなぎ目でいっぱいだったのだ。
「私も、きみくらいのころは自分のことを信じていた。信じすぎて傲慢《ごうまん》だったというべきかな…」
だから、知らないうちにただの人殺しになってしまったのだと彼は自嘲《じちょう》した。およそ学者然としている今の彼からは想像できないほど、その過去は荒々しく血のにおいに満ちていたという。
「それで、最後に殺してはならない人を殺した」
「それは…?」
「聖女」
その会話をしたときのことを、今でもはっきりと覚えている。
一日が、西の空でその日最後の燃料を使い果たそうとしていた。学舎の時計塔がオレンジに染まって、もとの石の色がまったくわからなくなる。
セドリックは顔を上げた。彼の目に、溶けかけのバターの塊《かたまり》のような色をした太陽が飛び込んできた。土も木もすべてが黄金色に染まる。古代の時計も、セドリックも、その男のどこか寂しげな横顔も…
「ふふ、こんなことは盾なるお方の前でも告白したことがないよ」
なぜ、彼がそんなことを言ったのかは今でもわからない。
ルーカが好きだった。
言わなかったけれど、心のどこかで師のように思っていた。
言わなかったけれど、心のどこかでいない父親のかわりのように思っていた。
なのに。
「セドリック、さっきの修道僧はだれかね」
いつだったか――、夕べ近くだった。いつものように時計塔の前で彼と別れたあと、たまたま出くわした古文書寮の修練長さまにそう聞かれた。
「ルーカ=スロベック修道僧です。遺跡発掘班の」
セドリックはどこか誇らしげに言った。
「ルーカ…?」
もう老齢の域に入っている修練長は、近ごろ見えにくくなったという目を細めてなにごとかを思い出そうとしているふうだった。
そして、唐突にその白くにごった目を見開いた。
「ルーカ=スロベック…、ルーカ…、まさか!」
彼は日頃の穏やかさをかなぐりすててセドリックの肩を掴《つか》んだ。
「あ、あの男はほかになにか言っていなかったかね!? なにかを探しているとか、見つけたとか」
「い、いいえ」
いきなり慌《あわ》てだした修練長を不審に思いながら、セドリックは首を振った。
「でも、あれだけ髪が長いのでしたら、彼は僧籍に入って長いのでしょう。だって、若い頃ユーロサットの鎮圧に参加したことがあるって言ってましたよ。体中、ものすごい傷だらけで。いくつか軍功もたてたって」
「おおお…」
修練長は見てはならないものをみてしまったかのように、手のひらで口を覆《おお》った。
「そ、そやつはスロベックなどではない。かつて絶対信仰中枢《トグラハバト》の聖教庁警察に所属していたルーカ=アスラシオンじゃ。背中に棘《とげ》十字を背負った“最も悪しき子”!」
「“最 悪”《オリヴァント》――?」
彼は、ものすごい勢いでセドリックの手を引いた。
「こちらにきなさいセドリック。そしてもう彼に会ってはいけない」
「なぜですか」
セドリックは当然反抗した。修練長ははためからもそうとわかるほど、はっきりと青ざめて言った。
「これは私の独断では決められぬこと…。総長さまのご判断をあおがねばならぬ。あのオリヴァントがこの満月都市に現れたとは。それも古巣に身を潜めていたとは、おおお、なんということだ!」
「修練長さま」
セドリックは、息を切らしながら言った。彼の早足についていくのでせいいっぱいだった。
「よいか。私が戻るまで、けっして宿房を出るでないぞ」
きつく言い含められてセドリックは顔を上げた。もうすぐ聖務修めの鐘がなる。急いで礼拝堂へ行かねばならない。
「夕べの礼拝は…」
修練長は首を振った。
「そんなことはどうでもよい。よいか、私がいいというまで宿房に入っていよ。よい――」
――カラーン、カラーン。
そのとき、五時の鐘が、静謐《せいひつ》さでふちどられた修練院の敷地内に響き渡った。
先程まで大通りの読売のように早口でまくしたてていた修練長が、急におしだまった。セドリックは不審に思い、
「修練長さま…?」
そして、見た。
彼の首が、ゆっくりと真横にずれていくのを。
「ひっ」
ボ――タッ。
肉のひしゃげる音がした。セドリックの足元に、驚いた表情のままの修練長の生首がころころと転がってきた。
セドリックは瞬《まばた》きも忘れてたちつくした。
なくなった修練長の頭があったところに、べつの顔が見えた。
「ル…」
(…家族も同然に思っていた)
セドリックは凍《こお》り付いた。
(友人のように)
(兄のように)
言わなかったけれど。
(…父親のように)
言わなかった、――けれど!
父親のように!
「ルーカ、どうして…」
彼は、セドリックを見て首を振りながら笑った。
「“オリヴァント”《最悪の子》だ――」
「うわあああああああっ」
バネが跳《は》ね上がるような動きで、セドリックは上体を飛び起こした。
「はあっ、はあっ、はあっ…」
長い間息をとめていたかのような荒い息を繰り返す。
セドリックは浅瀬の魚にでもなったみたいに口をぱくぱくさせた。吸っても吸っても息が苦しい。うまく呼吸ができない。いつもより空気の粒が大きいような、そんなつっかえ感が喉《のど》の奥にある。
いや、おかしいのは呼吸だけじゃない。セドリックは急いで目をこすった。さっきから目もよく見えていない。これ以上ないくらい見開いているのに、目の前に漂っているのは白くぼやけたものばかりなのだ。
ただ、ちゃぷちゃぷという水の音だけがしきりに下のほうから聞こえてきて…
「水音!?」
そこでようやく、セドリックは自分のおかれている状況を把握した。
「ええっ」
セドリックはまじまじとへりを見つめた。彼がいたのは、なんと足のついた浴槽の中だった。彼の胸の辺りにまでひと肌より少し熱い程度の湯が張られ、そこからもうもうと湯気がたっている。
つまり、辺りに漂っているむっとするような空気は湯気だったのだ、とセドリックは思った。なぜ自分がこんなところにいるのかはわからないが、とにかくここから出ようと、彼は急いで浴槽から身を起こした。
そうして、今度は自分が素っ裸にされていることに気づいた。
「うわああああっ」
「騒がないで。バスタブで頭を打っても知らないわよ」
声がした。
セドリックが見上げると、そこに大きな金盥《かなだらい》をかかえた少女が立っていた。
あの黒いドレスを着ていた“働き蜂《ばち》”のほう――キトリが『キサラ』と呼んでいた少女だ。彼女はあの黒いドレスではなく、薄いローブのようなものを身につけていた。
「あ、あの…」
状況がよく飲み込めなくてぽかんとしたセドリックだったが、
「あ、うわ、うわあああっ」
ふいに、今自分がどんな格好でいるのかを思い出して慌《あわ》てふためいた。
「声を出さないでっていったでしょ。もう体は洗ってしまったんだから流すだけよ」
「か、体…、洗ったって…」
セドリックは真っ赤になって、すぐに青ざめた。
必死でバスタブの中に体を押し込もうとする。バスタブにはってある湯にたっぷりと泡が立っていたことがせめてもの救いだった。
(は、裸を、おん…おんなのこに!!)
まるで襲《おそ》われる乙女のように体を抱きしめながら、セドリックはこころもち後ずさった(とはいえそこはバスタブの中だったが)。
「あ、洗ったって、もっ、もしや、いやもしかしなくても、き、きみが…」
「あたりまえでしょう。他のだれがいるっていうのよ」
「………うそ…」
(死んじゃいたい…)
泡の中に顔をつっこんでしまいたい気持ちをこらえるのに、セドリックはなけなしの自制心を使い果たした。
キサラは、べつだん気にした様子もないようだった。手慣れた様子で泡まみれになっているセドリックの上半身を洗い流しながら、
「べつにいつもしてることだから恥ずかしくもなんともないわ。それよりじっとしてて。今はちょっとふらふらするでしょうけど、アケノツムギバチの粉はそのうち抜けるから」
そう言って、勢いよくバスタブの栓を抜いてしまった。
(ギャーー!!)
なんと、このバスタブは移動式のものではなく、配水管ごとここに設置されているものだったのだ。
みるみるうちに浴槽の中の水かさが減ってくる。泡が下がって見える部分が多くなってくると、セドリックはますます取り乱した。
「や、やめて。いい、自分でします。だから出ていって!」
「なにを言っているの、アナタ。これはワタシの仕事だって言ってるでしょう」
キサラが怪訝《けげん》そうに見返してくる。
「で、でも」
ゴゴゴゴゴゴ…
シャボンの泡ごと、排水口がものすごい音をたててお湯を吸い込んでいく。
彼は濡《ぬ》れた手のままでキサラにすがりついた。
「ギャー、見ないで、お願いだから。頼む。頼みます!」
「いったいどうしたのよ。静かにして」
「だって!」
すでにセドリックは惑乱の域に達していた。両手で足の間をおさえ、キサラに向かって必死で懇願する。
しかし彼の願いも空しくお湯はどんどんと排水口へと吸い込まれている。そして、ついにはなけなしの泡までも流れていってしまった。
「さあ、下半身を流すからこっちを向いて」
バスタブに不自然に前のめりになったセドリックに、盥《たらい》を持つたキサラが言った。セドリックはもう言葉もないといった様子でぶんぶん頭を振った。
(こんなのって、こんなのって―――っ!)
そのとき、
ぶっ。
頭を振った拍子に、一瞬だけ視界が赤く染まった。
「あ…」
目の前に迫っていたキサラの顔に、赤い斑点が付け加えられる。
セドリックは前を隠すのも忘れて呆然《ぼうぜん》とした。
「あ、ごめ…」
体中から血の気が引いていく。
(よりにもよって、よりにもよって自分を洗ってくれた女の子の顔面に鼻血をぶっかけ…た…)
「なによ、これ…。どうしてワタシがアナタに鼻血ぶっかけられなきゃならないのよ…」
キサラが声を震わせながら言う。
「ご、ごめんなさい…。…………。…、…、…」
セドリックは、自分が湯中《あた》り以上にのぼせてしまったことを知った。
「…なんでワタシが、よりにもよってアナタなんかの鼻血の後始末をしてるんでしょうね」
「ず、ずびばぜん…」
「っていうか、どうして鼻血なんか吹くの? せっかく体を洗ってあげたのに」
「ごべんなざい…」
「ったく、たいていのお客はこうしてあげたら喜ぶのに、アナタどっかおかしいんじゃないの」
セドリックはこれ以上ないくらいに小さくなりながら、ひたすらキサラに向かってあやまりたおした。
風呂《ふろ》場になっているタイル張りの部屋のとなりは、寝室との中継ぎの部屋だった。セドリックはそこで用意された寝間着を着た。
もちろん、片手で鼻をおさえながらのぎこちない動作で。
寝間着に袖《そで》を通した途端、セドリックはため息のような声をあげた。
「うわ…」
そのすべらかな触り心地に、これが絹でできていることを知る。セドリックは絹の服なんて着るのははじめてだった。
ここでの待遇は破格だ。靴の泥をひざまずいてはらわれるのに始まって、かいがいしい背中流しなど、まるで自分が王侯貴族になったような気分になる。
なぜ、こうまでして魔力の強い子供をつくらなければならないのだろう。セドリックはふとそのことを疑問に思った。
「そりゃそうよ。ここは蜜蜂《みつばち》の館《やかた》ですもの」
なにをいってるんだとばかりにキサラが言った。
「あまり大きな声を立てないでね。もう向こうの部屋にはキトリがいるから」
「えっ、どうして彼女がここにいるの?」
口にしてから、セドリックはそれがいかに間抜けな問いであったのかを悟った。
キサラは呆《あき》れたように言った。
「アナタと寝るために決まってるでしょう」
セドリックは一瞬呼吸を止めた。
「う…あ…」
しどろもどろになりながら、不器用な手つきで腰帯を結ぶ。
「あの…、それについては、僕はちょっと…」
「命拾いしたわね。あのまま今夜の伽《とぎ》を断ってたら、今ごろアナタたち外で冷凍肉になっていたわよ」
ほら手を出して、と有無を言わさず腕をとられる。キサラはそこに何かいい匂いのする香油を塗り始めた。体が冷えないようにするための保護クリームらしい。
冷凍肉、という言葉がやたらと具体的で、セドリックはちょっと背筋が寒くなった。
「ジャンヌさまはここの総括だから、あの人に意見できるのなんて常連の客くらいのものだし…。アナタものほほんとしてないで、少しはプルートさまに感謝したら?」
「あの人は、どういう人なの」
手にクリームを塗り終わると、キサラはセドリックの襟元《えりもと》を正しだんごになっている腰帯を結び直した。
「スラファトの技術将校よ。知らない? バシリス三兄弟って言えばけっこうこっちじゃ有名らしいけど」
「三人もいるの!?」
「そうよ。一番上が強面《こわもて》のヨシュア。真ん中が男前のギース。で、一番下が愛嬌《あいきょう》のプルート」
「愛嬌の…?」
「いっつも目がないくらいににこにこしてるでしょ。こーんな感じ」
彼女がプルートのマネをして目をひっぱったので、セドリックは思わず吹き出しそうになった。
キサラは、今度はセドリックの足に分厚めの靴下をはかせにかかった。
「ま、ワタシはあんたが冷凍肉になったほうがよかったけどね。プルートさまに余計なことされて頭にきたわ」
急に口調が冷たくなったので、セドリックはホールでのことを思い出した。たしか彼女はセドリックが闇の属性だとわかった途端、険しい顔をして睨《にら》みつけてきたのだった。
「きみ、ホールで僕を睨んでたよね。でも、僕にはきみに嫌われる理由がわからないんだけど」
「アナタが闇の属性だったからよ」
キッと見上げてきた眼差《まなざ》しは、軒先のつららのように鋭くひえびえとしていた。その激しさに、セドリックは思わずたじろいだ。
「“闇”なのが、どうして」
「あの子…、キトリはね。ワタシの双子の姉さんなんだけど、この館《やかた》の蜜蜂《みつばち》の中で唯一濃い闇の血を持っているの。あの子自身はあんなに無垢で天使みたいなのに、持っている血がそんななんてなんだか不思議よね…」
キサラは何気なくとなりの部屋のほうを見やって、ふっと微笑《ほほえ》んだ。
「あの子はあのとおり体が悪くて、三歩も歩ければいいほうなの。足はかざりものみたいにただついているだけで、手だってほとんど握力はない。毎日ワタシといっしょに訓練をしているけれど、それでも食事しているときによくスプーンを落とすわ。それに、ワタシたちが生まれたときにお医者さまがこういったんですって。『こちらの子は五体満足に産まれたが、この子はずっと子供のままだろう』って…」
「子供のまま…、それってどういうこと?」
彼女は苦笑した。
「気づかなかった? キトリは今年で十六になるけれど、中身は七歳くらいの子供なの。今までも、これからもずっと…」
それがどういう意味なのか、セドリックにはすぐには理解できなかった。
きょとんとしているセドリックに、キサラは笑いを散らしてくるりと背を向けた。
「いいものを見せてあげましょうか」
「いいもの?」
さっきからオウムのように聞き返してばかりのセドリックに、キサラはおもむろに自身がはおっていたケープをとって袖《そで》から肩をぬいた。
セドリックはぎょっとして目を瞑《つむ》りかけた。
「な、なにす――」
「いいから、見て」
セドリックは息を呑《の》んだ。剥《む》き出しになった彼女の白い背中には、全体に大きな茶色の痣《あざ》があった。
「蝙蝠《こうもり》の羽根みたいでしょう」
キサラは手早く服を着直した。
「これと同じ痣がキトリの背中にもあるの。ね、どういうことかわかる?」
「ううん…」
「ワタシたちは背中合わせで生まれたのよ。背中の皮がひっついたままでね」
あまりにも生々しい告白に、セドリックは両手で心臓の上を押さえた。彼女はどこか誇らしげに言った。
「文字通り、ワタシたちは二人でひとつなのよ。生まれたときですらつながっていたんだもの。キトリの動かない足のかわりに、ワタシがずっと側にいて車を押してきたし、キトリに食べ物を食べさせていたのもワタシよ。あの子のことはなんでも知ってるの。あの子は他人じゃない、ワタシの一部なんだもの。この痣がなによりの証拠」
セドリックは頷《うなず》きながらも、なぜキサラがいきなりこんなことを言い出したのか、彼女の意図をよめずにいた。
それに、彼女が体の不自由なかたわれのためにずっとついていることはわかったが、同じ双子なのに彼女だけが“働き蜂《ばち》”として奉仕させられているのも不自然だ。
彼はあまりキサラを刺激しないようにしながら、ずっと聞いてみたかったことを切り出すことにした。
「ねえ、きみとあの子は双子なんだろ。ってことは、きみも月読みの丘のお屋敷にいたことがあるの?」
「月読みのお屋敷…?」
「クラップストーンの…、たぶん僕の生まれ故郷なんだけど」
ああ、と思い当たった顔をしたキサラは、次にゆっくりと首を振った。
「いいえ、ワタシはあそこには行かなかった。あそこは魔力の強い子供たちをあつめて教育するところでしょ。行ったのはキトリだけよ。ワタシは知らない」
「でも、きみは…」
「ワタシには魔力がないの」
きっぱりと彼女は言い切った。
セドリックは瞬《まばた》きをした。
「え…、でも双子なんじゃ」
「よくわからないけど、ワタシたちは偏って生まれてきたんですって。いつだったか、ワタシたちの血を調べた研究者が教えてくれたわ。ワタシはこのとおり五体満足に生まれて、なにをするにも不自由はないけど魔力はまったくなし。キトリはその反対なの。手足が不自由で虚弱体質だけど、持っている血はかけがえのないほど濃い。プルートさまは、まるでキトリ本人が魔力槽みたいなんだって言ってたわ。まあスプーンも持てないようじゃ、一生銃を持つこともないでしょうけど」
キサラはキャビネットの引き出しをあけて、そこからブラシを取り出した。
「でも、僕を助けてくれたとき、彼女は魔法を使ってたろ」
「あれはプルートさまがキトリのために作ってくれた仕込み傘よ。手元のボタンを押したら傘の柄に仕込んだ魔法弾が飛び出すの。ようは銃と同じ。なぜって、キトリの握力じゃとても引き金を引けないからね。
…キトリはアナタのことがとても気になったようね。アナタたちがきてからずっと、口を開けばセドリック、セドリックってそればっかりだわ」
ふいに彼女は何を思ったのか、セドリックの手をとった。
「な…」
「教えてあげる。ワタシたちはいつもこうやって魔法弾を作るの」
キサラの手がセドリックの手に重なりあった。ばくん、と心臓がバネのように跳《は》ね上がる。
「キトリの手のひらに空のカートリッジをおく。ワタシが彼女の手の上から手を重ねて、彼女にカートリッジを握らせる…」
「あ、あの」
セドリックは耳まで真っ赤になって、必死に体を引こうとした。
「あの子には長い詠唱《ゲール》なんて覚えられないから、全部ワタシが覚えてひとつひとつ唱えるの。あの子はそれをまねて言うだけよ。それだけでもすごい弾ができる…」
「キサ…、は、離して…」
「ねえ。キトリはこれからもずっと子供だし、死ぬまで子供だと思う。それに体が弱くできすぎて出産に耐えられないだろうって。だから、初潮がはじまって男の相手ができるようになっても、ジャンヌさまはキトリの相手を慎重に選んでいらっしゃったわ。闇の血はめったに表に現れることがない。だからここに来る客の中にだって、今まで闇の属性の魔銃士はいなかった。蜜蜂《みつばち》でもキトリはずっと清らかなままいられたの。なのに――!」
ぎゅう、と手を握られた。抗議をあげようとしたセドリックは、すぐ目の前にあるキサラの顔を見て喉《のど》まででかかっていた悲鳴を飲み込んだ。
「ワタシ、アナタが憎《にく》いわ」
彼女は、憤怒とも笑みともつかないすさまじい表情でセドリックを睨《にら》んでいた。
セドリックにはわけがわからなかった。
なぜ、今日会ったばかりの彼女にここまで憎まれなければならないのだろう。
「もし、キトリがあんたと寝て妊娠してお腹を裂《さ》くことにでもなったら、ワタシはアナタを許さないわ」
「腹を裂くだって!?」
セドリックはぎょっとして、思わず大きな声をあげてしまうところだった。すんでのところで口を覆《おお》ったキサラは、キトリに聞こえるでしょう、と口元に指を立てた。
「妊婦の体力がもたないときはそうやって生まれることもあるのよ。キトリには子供ができても産む力はないもの」
「ああ…」
セドリックは、キサラがなぜ自分を睨《にら》んでいたのか、ようやくわかった気がした。
つまり、キサラはキトリをなんとしても妊娠させたくないのだ。もしそんなことになったら、子供を産む力のないキトリは確実に死んでしまうだろう。
それは、彼女はこの世でたったひとりの肉親を永遠に失うことと同じだ。背中の傷を分かち合う、かけがえのない自分の半身を――
おもむろに、キサラはセドリックの足元にひざまずいた。
「キサラ、なにす…」
「ここから先は働き蜂《ばち》は行けないの。だからアナタに頼むしかない。
お願い。あの子を抱かないで」
先程とはうってかわった弱々しい表情で、彼女はセドリックに懇願した。
「キトリは本当に子供で、ジャンヌさまに嘘《うそ》をつけない。だから、アナタがあの子を拒むしかないの。放っておいたらあの子は、上の人たちに教えられたとおりにやるわ。だから、その前にアナタからできないって言って」
「でっ、でも…、あの…」
「アナタがそう言っても、アナタの仲間が追い出されることはないわ。漂白の魔女は十日の間はこの山にいるだろうし、ジャンヌさまはその間にゆっくりと進めればいいって思ってるもの。キトリはあのとおり子供だから、多少はうまくいかなくても不自然じゃない。
それに、ジャンヌさまは三日前から居続けの客の相手をされているから、いつもみたいに口やかましくこっちに降りてくることはないの。ねえ、アナタさえうんっていってくれれば悪いようにはしない。アナタの彼女にだってワタシが連絡をつけてあげるわ。だから!」
一度にたくさんの情報をつめこまれたようで、セドリックの頭の中は混乱状態だった。
だが、キトリの体がどうこううんぬんはとにかく、キサラの心配通りにはならないことだけは確かだ。
「…みんなのこと、きみに頼んでもいいの?」
「いいわ。こっちの母屋は蜂以外の女はいてはいけないことになっているから直接は会えないけど、手紙ならわたしてあげるわ」
ふと、頭の中にアンブローシアの顔がよぎった。
(そうだ。僕は、アンに対して顔向けできなくなるようなことは絶対にしない!)
セドリックはキサラを安心させるように、むりやり笑顔を作った。
「わかった、約束する」
あまり余裕がないからか、自分でもうまく笑えなかった。
キサラの表情が、ふっとゆるんだ。
「あの子を拒んでくれるの?」
「うん。あの…、好きな子以外に、…できそうにないし…」
「本当に…?」
「本当だよ。それに、僕、そーゆーことしたことないし。ど、どうしていいのかもよくわからないんだ、だから…」
たいへん正直な感想だったのが、セドリックは口にしてから自分がとてつもなく恥ずかしいことを言ってしまったことに気づいた。
(ぼ、ぼ、僕、今言わなくてもいいことまで言っちゃったんじゃ…!?)
それでも、その情けない告白はキサラを十分に安心させたらしかった。彼女は小さく頷《うなず》くと、キトリのいる寝室へと続く扉の鍵をあけた。
カチャリ。
施錠が解ける音が夜陰に響く。
「お願いね」
薄暗い部屋の真ん中に、なにか質量感のあるものがぼんやりと浮かび上がった。セドリックはそこに大きな天蓋《てんがい》があることに気づいた。
「っっ」
ふいに、バタンと音がして背後の扉が閉じられた。やけに重々しく聞こえたのは、まるで退路を断たれたように感じたからかもしれない。
ベッドの天蓋の中に人の気配を感じて、セドリックはごくりと唾《つば》を飲み込んだ。
「あ、あの…」
少し待ってみたが、中でキトリが動く気配はない。
どうしようかたっぷりと迷った末に、セドリックはベッドに近寄ることなくいっきにまくしたてた。
「ごめんなさい!」
とりあえず謝ってみた。
「キ、キトリには悪いけど、僕にはもうすっ、好きな子がいて…。そ、それでその子はこういうことしたら絶対に許してくれないような子で…。…あっ、もももももちろん僕もこういうことは苦手で…
苦手!? 違った。できない、そうできないんだ。こういうことの経験なんてないから、やろうと思っても、きっとちゃんとうまくやれないだろうから…。あ、でもこういうことは勢いだっていうから、がんばればなんとかなるのかな… ――って、そういうことじゃない! 違うんだ!」
セドリックは焦《あせ》った。だれも見ていないのは明白なのに、大きく身振り手振りで言っていることを取り繕おうとする。
「ち、違うんだ。僕が言いたいのはしないってことであって…。そう、しないんだ。僕はしない!」
と、突然宣言した。
「…………」
残念ながら返事はなかった。
「あの…、怒ってる…よね…」
更に混乱した彼は、今度はもじもじと人差し指の先っぽをつつき合った。
「あのね、つまり、僕は結婚したらしようと思っているけれど、それまではそんなふうなことはしたくないんだ。ね、わかるだろ。そういうことをするのは、ちゃんと神さまの前で誓った人がいいんだ。っていうかむしろそうじゃないとだめなんだ。
それで、僕はもちろんアンがいいと思ってて、でもこういうことは僕たちにはちょっと早すぎるかなって思うんだけど…。あっ、でもアンがいいっていうなら、僕はもう結婚してもいいかなって、そういうこともちゃんと考えてて…」
なんだか話の方向がずれてきたようだが、焦《あせ》りすぎたセドリックは気が付かない。
「やっぱり最初は都会に住んだほうがいいかな、とか、結婚証明書はどこの寺院でもらおう、とか。子供は三人くらいかな、とか…。僕はけっこうどっちでもいいんだけど、アンに似た女の子だったらいいなあとか…、や、べつにアンが欲しいなら男の子でもかまわないんだけど、ひとりくらいはって。そうそう、それに犬も飼いたいし、家には庭があったほうがいいし。アンがケーキを焼いてくれるだろうから、新品のレンジがあったほうがいいし。もちろんテーブルなんかは僕でも作れるけど、今まであんまりそういうことしてこなかったから当分の間は既製品で…。それで日曜は礼拝のあとには家族でピクニックをして、バスケットの中にはアンの作った鱈《たら》のサンドイッチが入ってて…
――って、あれ、僕なんの話をしてたんだっけ?」
セドリックは途中で話の意図を完全に見失ってしまっていた。
「キトリ…、聞いてる?」
彼は恐る恐る天蓋《てんがい》の中の様子をうかがった。だが、中からキトリがなにか返事を返した様子はない。
「もしもし?」
セドリックは足音を気にしながらベッドに近づくと、律儀にも「失礼しまーす」と小声で言いながらカーテンを持ち上げた。
そして、
「……なんだ」
そこには、白い羽毛布団の中ですやすやと寝息をたてているキトリの姿があった。
セドリックは急に体中の力が抜けたようにベッドの横にへたりこんだ。
「…はっ、はあああ…、なんだか気負って損した感じ」
肺がからっぽになるくらい、深い深いため息を吐《は》く。
「ふあ…」
緊張の糸がきれると、途端にセドリックにも眠気が襲《おそ》ってきた。
無理もない。朝っぱらからいろいろなことがありすぎて、セドリックは身も心もくたくただった。突然ティモシーに〈決闘〉を申し込まれたかと思えば、今度は季節はずれにやってきた漂白の魔女なんてものにまきこまれる。挙げ句の果てに命を救われたのが真っ白い天使で、でも彼女は蜜蜂《みつばち》で、娼婦《しょうふ》で――
心地よい疲労感と睡魔が合わさって、今日あったできごとがシチューの具のように白い中にかき混ぜられていく。
キトリ、僕の過去を知っているかもしれない少女。
その彼女と同じ顔を持つ働き蜂のキサラ、彼女には魔力がない。双子の背中にある蝙蝠《こうもり》の羽根…
偶然行き会ったスラファトの将校、ギースの弟…、魔法のコンパス。
たくさんの蜜蜂たち。ここは子供をつくるための蜜蜂の巣…
(そういえばティモシーはどうしたんだろう。アンは…)
彼がなにかを考えられたのもそこまでだった。
セドリックは毛布を一枚体に巻き付けると、うとうとと泥のような眠りの中に落ちていった…
――そして次の朝、
セドリックはプルートに教えられたとおり、様子を見にきたジャンヌに館《やかた》中に響く大きな声で“とっておきの”呪文《じゅもん》を唱えるはめになったのだった。
「すみません、できませんでした!」
一瞬置いて、扉の向こうでは聞き耳を立てていた蜜蜂《みつばち》たちの爆笑がわき起こった。
「だーから、この呪文を言えば一発だって言ったでしょ。アハハハハ!」
同じ朝(といってももう昼近くだったが)、この館で一番大きな暖炉のある応接間で、スラファトの技術将校プルート=バシリスは目がなくなるくらいに笑った。
広間のシャンデリアには、昼間だというのにあかあかと蝋燭《ろうそく》がともされていた。セドリックが彼を見つけたとき、彼はその下でクロワッサンをかじりながら、なにやら書き物をしていたようだった。
セドリックがソファに座ると、働き蜂のひとりが同じものを運んできた。セドリックはなんとなくキサラを探したが、彼女はこの部屋の近くにはいないようだった。
「“蜜蜂”たちは昼すぎにならないと降りてこないよ。なにか用があるなら働き蜂に言えばいい」
そうプルートは口をもぐもぐいわせながら言った。
「昨日はあんなことになってびっくりしたろうけど、ま、結果オーライだからかんべんしてよ。ね」
「僕はてっきり、あなたにハメられたんだと思ってましたけど…」
じと、と恨みの篭《こ》もった目で見つめ返されて、彼は居心地悪そうに椅子を引いた。
「だぁーって、ボクがああでも言わなきゃキミたちは館の外に放り出されていたじゃない。いくらキミが優秀な魔銃士でも、漂白の魔女が来た中を野宿できるはずがない。だろ?」
セドリックは頷《うなず》いた。
「そのことは納得してます。キサラさんに聞きましたから」
彼は、それならよかった、と大げさに胸をなでおろす仕草《しぐさ》をした。なにかに驚いたときといい笑い方といい、このプルートという男はいちいちオーバーリアクションすぎる。
(あの“赤いたてがみ”のギース=バシリスの弟だって言ってたけど、全然似てないんだもんな)
セドリックはさりげなくプルートの頭に目をやった。そうなのだ、なにか違和感があると思っていたのがやっとわかった。スラファト人であのギースの弟だというのに、プルートは赤毛ではないのだ。
プルートがふとセドリックを見た。
「もしかして、兄さんに似てないなあ、なーんて思ってる?」
「うっ」
今度はセドリックが胸をおさえる番だった。プルートは糸のような目をますます細めて笑った。
「兄さんが言ってたよ。クリンゲルで無等級のガキンチョに等級を食われたってね。まっそれも、今までさんざん悪食を繰り返してきた報いだろうねえ」
「あの…、お兄さんとは仲いいんですか」
聞いてから、しまったとセドリックは青くなった。よく考えれば相手がまともに答えそうにないことぐらいわかりきったことなのに、いったい何を言ってるんだ。
それも、スラファトの将校なんかに…
プルートはほとんどない目を一瞬だけ丸くしたようだったが、すぐにいつものニコニコした顔に戻った。
「仲が良い…。そう仲いいのかなあ? ま、ボクは兄貴たちとは違って魔力がからっきしないできそこないだから、エリートばかりが揃《そろ》ってる情報部には行きづらいものがあるんだけど」
「魔力がないって、あなたも?」
彼はくっと笑った。
「あなたもということは、キサラとそういう話をしたんだ。へえぇ、ずいぶん短期間のうちに仲良くなったんだね」
言いながら、プルートはさらさらとノートの上にペンを動かしていた。
彼は今、「多糖質の逆反応を利用した甘ったるいエンジン」なるものの開発にたずさわっているらしく、さっきからしきりにノートに数式を書きちらしている。そのエンジンなるものについての解説はひととおり受けたのだが、セドリックにはなんのことやらさっぱりわからない。
「我々の鉄の文明は、まさにこの科学によって成り立っている。旧時代から引きついだ遺産である魔法もこの鉄なしでは使えなかっただろう? 科学こそすべての可能性だよ」
と、プルートは指をたててチッチッと振り子のように振ってみせた。
彼のそばには、見慣れない骨組みのようなものがあった。すべて鉄でできているらしいそれは、馬車にかわる新しい移動手段として開発が期待されている“飛行機”の模型だ。
「でもこれ、どうやって動かすんですか?」
「それだ! そこでこの甘ったるいエンジンの出番なんだよ!」
プルートの目が獲物を見つけた狼《おおかみ》ようにギラッと輝いた。セドリックは思わずたじろいだ。怖い。
「いいかい、今は鉄道があれだけもてはやされているがね。そのうち個人個人で移動手段を持つ時代がやってくる。山深い地方や湖沼地帯になかなか敷けない線路のかわりに、人々の足になるようなやつがね。ボクが研究しているのはその動力源なんだ。まさか列車のように何千テロンも石炭を積んででかけるわけにはいかないだろ」
「そ、そうですね」
「ボクはさ、そりゃもうすごいド田舎《いなか》で育ったわけ。街に出るには何日も荷馬車で旅をしなければならないくらい山奥でね。小さいころは山を飛んでいけたらなあって、ずっとそんなことばっかり思ってたよ」
「はい」
「そこで、この飛行機ですよ!」
そんなふうに、プルートはセドリックに向かってとうとうとエンジンの重要性について語り始めた。
彼のおおざっぱな説明によると、飛行機や自動で動く車などの開発には、まずなによりも安価で軽量なエネルギーが必要だという。
「この世の物質はすべてなにかのまざり物でできている。これはまちがいない真理だ。だからこそ、それを人の手で合成したり、あるいは分離したりすることが可能になる。ボクはこのなかの比較的単純にくっついている物質同士をむりやり引き離すことによって、軽量なエネルギーを得る研究をすすめているんだ」
いわく、目の前にあるコーヒーに添えられた砂糖も、そしてこのコーヒーもなにかとなにかが合わさったものであり、それはこの世にあるどんなに小さい物質、粒子であろうとも変わりはないというのだった。
「むりやり引き離す??」
あいかわらず、セドリックにはさっぱりついていけない。
しかし、プルートは自らの研究について聞いてくれる相手を見つけたことがよほど嬉《うれ》しかったらしい。怒涛《どとう》のようにしゃべり続けた。
「じゃあ、この砂糖一粒とか、空気とかも混ざり合ってできているんですか?」
「そうだよ。この世には数十種類の原始物質《ドグラ》が存在するが、まだその全部は解明できていない。しかしこれらの組み合わせによって物質がなりたっているということはわかっている。その接着剤の役割をするのが魔法元素《ロクマリア》だということもね」
「ロクマリアが!?」
それは興味深い話だった。話題が一気に魔学よりになったことで、セドリックはプルートの説明をようやく聞く気になった。
プルートはこんな田舎《いなか》には珍しい角砂糖をひとつつまみあげると、そろそろ息切れをおこしているコーヒーカップの中へほうりこんだ。
「たとえばこのコーヒーの中に砂糖を溶かし込んで“甘ったるいコーヒー”を作るとする。ボクらはただたんに砂糖をカップの中に入れただけだが、コーヒーと砂糖が触れあった瞬間にもロクマリアは働いているんだ。
つまり、この砂糖の塊《かたまり》空気に触れているから、空気中にあるというロクマリアがすでに付着している。コーヒーの表面もしかりだ。そして、双方にくっついてるロクマリアが糊《のり》のような役割を果たして、コーヒーは砂糖と混ざり、そして甘ったるくなる」
「それは、この世の中のものには、すべてロクマリアを通してひっついているということですか?」
「そのとおり」
セドリックは首をひねった。
「じゃあ、どうしてロクマリアだらけのはずの僕の手とカップはひっついてしまわないの?」
「いい質問だ」
プルートは、学校の教師のような口調で指を鳴らした。よほどセドリックと化学の話ができるのが嬉《うれ》しいらしい。
いったいこの人はここになにをしにやって来てるんだろう。喜び勇んで説明し始めるプルートを見ながら、セドリックは内心肩をすくめていた。
(だいたい魔力がないのにここの客でいられるのか? でもジャンヌさんは丁重にもてなしていたみたいだし…。しょっちゅうここへ来ている風だし)
プルートはさっき砂糖を入れたばかりのカップに、更にたっぷりとクリームをくわえると、
「それは、ロクマリアが生きているからさ」
と、のたもうた。
セドリックはクロワッサンにのばしかけていた手をとめてプルートを見なおった。
「生きている?」
「そう、生物なんだよ。おそらくこの世で最小の命のはずだ。この世界に露出しているぶんはね。だからロクマリアは考える」
「で、でもロクマリアは元素でもあるんでしょう。空気の粒と粒をくっつけるものなのに生きてるなんて」
「うーんとね、たぶん説明してもわからないと思うけれど、ロクマリアは時間層にそれぞれ同一のものを存在させることができるんだ。だから、生命としての質量をたもっていられるんだよ」
「???」
わからないよね、とプルートは苦笑した。
「まあいい。ここで時間層とはなにかをキミと議論しても無駄《むだ》なことだ。それよりはもっと有益なことにさくべきだ。話を少しもどそうか。
…まあつまりね、ボクとギース兄のことを言うと、たとえ双子でもああまで魔力の差が出てしまうように、ボクたちの間にも天と地ほどの差があるってわけ。彼は持って生まれた魔力の才覚であそこまでのしあがったけれど、あいにくボクにはそんな才能はなかった。ボクにできることは、こうして」
彼の指が、バラバラにされているバネの部品を弾《はじ》いた。
「少しでも人間の役に立つよう、鉄をいじくりまわすことだけなのさ。もっとも、ボクはそれを心から楽しむことができているけれどね」
「はい」
セドリックは頷《うなず》いた。
話がずいぶん巻き戻ったものだ。だが、セドリックはこのプルートとの会話で、彼に対して持っていた不信感をだいぶ払拭《ふっしょく》することができていた。
もともとスラファトを目の敵にしているアンブローシアや、スラファトの宿敵である暁帝国人ならともかく、お国意識の薄いセドリックはスラファトに対して反発心を持っていない。だからだろうか、こうして話せば話すほど相手に対して警戒心が薄れていった。はじめはあのギースの弟ということと罠《わな》に嵌《は》めたということで、プルートに対して露骨な警戒心を抱いていたセドリックだったが、こんなふうにやたら親しげに話されると(単になれなれしいとも言う)なんとなく毒気を抜かれてしまうのだ。
(この人は、本当に発明が好きなんだな)
ノートに書き散らかされた数式と、精巧な鉄の模型を見比べながらセドリックは思った。テーブルの上には飛行機だけではない、自動車や空を飛ぶ船の模型まである。
セドリックはなんとはなしに自動車の模型を手に取った。後輪の上のふくらんだ部分に、プルートのいうエンジン…なるものが載ることになるのだろう。
しかし、まさか鉄道のように石炭を補給しながら運転するわけにはいかない。プルートはまさにその点で悩んでいるのだった。
(しかし、本当になにしにここへ来てるんだろう…)
セドリックは飛行機の模型をもてあそびながら、プルートの横顔を盗み見た。
(あんなすごい魔力測定器を作ってしまえる人が、ただ単に遊んでいるとは思えないけど…)
「ん、なに?」
「…あ、いや。この車輪部分を魔法で動かすことはできないのかなあと思って」
セドリックは適当なことを口にした。
それはまったくの思いつきでしかなかったが、問われたプルートは書き物をやめてセドリックのほうを見やった。
「ええ?」
セドリックはまさか聞き返されるとは思わなかったので、車輪を指さして更に適当なことを言い重ねた。
「た、たとえばなんですけど、この車輪を銀で作ってみるとするでしょう。そうして銃のように発火のエネルギーによって魔法式を始動させれば、そして魔法式を〈まっすぐに走る〉みたいに組めば、前にすすむんじゃないでしょうか」
プルートは、今までに見たこともないくらい真剣な顔つきでセドリックを見た。
「魔法で、車輪を動かす?」
「だ、だめでしょうか。ははっ、す、すいません。やっぱり無理ですよね」
セドリックはごまかすようにして笑ったが、プルートは笑わなかった。
「…そうだ。そういう手もあるんだった」
彼はものすごい勢いでセドリックの手から自動車の模型をひったくった。
「そうか、魔法だ! 石炭やガスだけじゃない、魔力というエネルギー源がこの世には存在するんだった。そうかそうか。そうだよ。ロクマリアがあるんだから、魔法だってあって当然だ!」
プルートはそう叫んだあと、今度はおもちゃを買ってもらった子供のようにセドリックの手をとって躍り上がった。
「まさに、ボクに必要だったのは発想の転換だったわけだ。セドリック=アリルシャー、キミはサイコーだ。この魔法式自動車が完成してボクが特許をとったら、プルート=バシリス株式会社の株の10%をキミにゆずってもいいよ!」
と言って、らったらったとステップを踏み始める。思いっきり振り回されて、セドリックは目が回った。
「この理論さえ完成させれば軍をやめられる。発明王プルート=バシリスの名が世界中に知れわたる。当然ボクは大金持ち! フンフンフン…」
「えっ、軍をやめるんですか?」
「あったりまえだろう。いつまでもあんな狂信じみた集団の中になんかいられないね! ボクの夢は軍属のうちに特許をとって、とっとと軍をやめることなんだから」
と、プルートはスラファトの軍人が聞いたら顔を真っ赤にして怒りそうなことを平気で口にした。
「ボクはね、ガキのころからちょっとばかし手先が器用だったんで、メンカナリンが孤児たちのために経営している技術学校に放り込まれたんだ。でも、そこは主に労働者になるための職業訓練をやるところで、こういった高等技術を学べるところじゃなかった。となると、ボクが行くところは軍しかなかった。いつの世も、こういう気の長いことに金を出してくれるのは戦争屋しかいないしねえ。まあしょうがないっちゃあしょうがないけど」
そう言って彼は、ふいに回るのをやめたかと思うと、
「となると、問題は重量だな。銀で車輪を作るとなるとそれなりに強度が求められるし…。うーん、それに詠唱《ゲール》がずっと聞こえているとなると、それはそれで落ち着かないドライブになりそうな…?」
まるでなにかに取り憑《つ》かれたように、勢いよくペンを走らせ始めた。
「あの…」
「…………」
話しかけても、今度はうんともすんともいわなくなってしまった。
「……えーっと、が、がんばって」
セドリックは彼をそっとしておくことにした。
音をたてないように抜き足で応接間を離れる。ふと、窓の向こうに建っている離れが見えた。
(アンブローシア、今ごろどうしてるだろう)
セドリックは、アンブローシアたちがいるというその離れに行きたくなった。
(どうしようかな…。ジャンヌさんに言ったって会わせてはもらえなさそうだし、…でもきっと僕のことを心配してる)
キサラが言うには、アンブローシアとエルウィング、それにティモシーの付き人のチャーリ=ケチャップは、本館からは200カートンほど離れた使用人たちの離れにいるという。なんでもチャーリーは使用人である自分がティモシーと同じ場所で寝起きはできないと、自分から離れを希望したらしい。
そんなことを考えていたからか、セドリックは部屋をでたところで階段から下りてきたティモシーとはちあわせた。
「ティモシー!」
「ふーん、これはこれは闇の大魔法使いさまじゃないか」
あいかわらず棘《とげ》だらけの口調で、ティモシー=ボイドは朝の挨拶《あいさつ》をした。
彼は、窓のほうを見てすぐにセドリックの考えていることがわかったらしく、
「離れにいこうとしても無駄《むだ》だぜ。この館《やかた》には結界が張られてる。外から部外者が迷い込んでこないためにね」
と、クギをさしてきた。
この上から降りてきたところを見ると、ティモシーも昨晩はこの本館のほうに泊まったらしい。セドリックはふと、彼も自分と同じような目にあったのかどうか聞いてみたくなった。
「ティモシーは…、その、蜜蜂《みつばち》たちがいる部屋へ行ったの?」
途端に、彼の顔はかあああっと音をたてて真っ赤になった。
「ば、ばかいうな。オレはそんなことはしてない!」
それから、何が気にくわなかったのか慌《あわ》ててこう付け加えた。
「い、いいか。このオレさまの魔力からいえばオマエよりオレのほうが選ばれて当然だったんだ。ちゃんとあそこで判定盤を使っていればすぐにわかったはずなんだ。たまたまオマエがさきにバレただけだ」
「…はあ」
セドリックは生返事を返した。なんだか微妙に答えをはぐらかされたような気がする。
ティモシーはおもむろにセドリックに向かって人差し指をびしっとつきつけた。
「あの〈決闘〉はまだ終わってないんだからな。漂白の魔女がとおりすぎたら、すぐにでも再開するんだぞ」
「わかってるよ」
「絶対だぞ。逃げたら許さないからな」
えらそうにそう言ってのけたあと、ティモシーはふと窓の外を見て舌打ちした。
「ちえっ。まだずいぶん吹雪《ふぶ》いてやがる。これじゃあ山の向こうも雪が降っているだろうな…。ちくしょう、せっかくはるばる西大陸までやって来たのに、この調子じゃボスローの戦闘に参加するのは来年になるじゃないか」
「ボスローって…、ティモシー、まさかきみは志願兵なのかい!?」
セドリックは驚いて言った。
今セドリックたちのいる霜降り山脈を越えて西へいくと、北部自治山岳地帯というどの国家にも属していない地域がある。ここの中心にあるボスローは、今までに何度となく戦闘が行われてきた危険地帯だった。
ここは険しい山地がつらなり気候も厳しいため、人口がほとんど増えない土地だった。
しかし、今から百年ほど前に、ボスローがまざりもののない大変良質な石炭の宝庫であったことが判明すると、この燃える石を求めてさまざまな国がこの一帯に手を伸ばし始めた。とくに近年は、蒸気機関によって鉄道が走り、また船で長距離走行するための燃料として石炭が用いられるようになり、ボスローをめぐる争いは目に見えて激化した。
もともとこの土地は住みにくく、少数の遊牧民族だけ暮らしていたため近代になっても政府というものが存在しなかった。そのことがかえってこの土地を狙《ねら》う先進諸国のつけいるすきになったのだ。この土地の自治をめぐっては、暁帝国派、月海王国派、スラファト派、それに完全独立派のそれぞれ息がかかった政府が立っては倒れを繰り返し、そのたびに戦争が起こった。
ボスローでとれた石炭はすべて国外に運び出された。
この百年の間に、ボスローで起こった戦闘は大規模なものだけでも実に六十回を超える。そのたびに何百万人という兵士が大陸中からボスローに送り込まれ、そして故郷からは遠く離れた異国の地で死んでいった。ボスローに行った者は二度と帰ってこられないとまで言われたのである。
同じような理由で戦場となり、その結果、草も生えぬ不毛の地となってしまったところがある。スラファトと暁帝国の国境近くにあるユーロサット炭坑だ。
そして、そのユーロサットの閉鎖から十年経《た》った今になっても、このボスローの地は豊富な石炭を吐《は》き出し続けている。先の月海王国の参戦は、昨年に樹立された新政府が暁帝国のあとおしを受けたものだったため、それに異を唱えるスラファトが月海王国を巻き込んで宣戦布告したのだった。
セドリックは窓から見える北部の山々を眺《なが》めた。この山の向こうでは、今もまだ戦闘が続いているはずだった。
「本当に本気なのかい? 僕らみたいな子供があのボスローに行くなんて、死ぬみたいなもんじゃないか」
顔を曇らせたセドリックに、ティモシーはきっぱりと言い放った。
「もちろん本気さ。国を守るためにはオレのような若い力が必要なんだ」
彼はどこか憮然《ぶぜん》とした表情で言った。
「それにオレが子供だからってべつにおかしなことじゃない。スラファト軍の兵役は十二歳からだっていうじゃないか」
「で、でも」
「オマエに〈決闘〉を申し込んだのは、等級が高い魔銃士は部隊長以上の待遇で迎えられると聞いたからだ。ここに来る前にも三人ほどの魔銃士とやりあってきた。もちろん、このオレの敵じゃなかったがな」
思わぬティモシーの決心に、セドリックは驚きを隠せなかった。
ティモシーはどう見ても自分と同じくらいの年代だ。その彼が――裕福な家で育ったのだろう、まったく金銭に困ったことのないような彼が、セドリックのように生きるために生業《なりわい》として魔法を扱っているのではなく、国のために戦いに行くという。
「で、でもさ、きみの親御《おやご》さんはどうおっしゃってるの。それにきみの家は裕福なんだろうから、お金を払えば兵役は免れるはずだって…」
「そんな卑怯《ひきょう》な真似《まね》ができるか!!」
ティモシーが突然激高した。
セドリックはびくっとなった。
「そんなことするやつは人間の恥だ。金でなんでもできると思いやがって。オマエだって孤児だったんならそう思うだろ!」
「そ、そう…かなあ」
ティモシーの激しい反応に驚きつつも、セドリックは言った。
「ご両親がそれだけきみのことを大切に思ってるってことだろ。僕にはうらやましいような気がするけど」
「だまれよ!」
ティモシーが火を噴いた。セドリックは火に手をつっこんでしまったかのように、慌《あわ》てて身をすくめた。
「みんな国のために戦っているってのに、労働階級の人間が命をかけて戦場に行ってるっていうのに、金さえ払ってれば高みの見物なのか!? じゃあ、その戦争に行くって法律はだれが決めたんだ。いったいだれのために戦争をやってるっていうんだよ!」
彼はバンと窓を叩《たた》いた。二重に入っているからか、叩《たた》かれても窓のガラスはびくともしない。
「みんな、金を持ってるやつらが勝手に決めたことじゃないか。なのに、自分たちの家族だけは金で免除されて、金がないやつはそれを命で払えなんていう。まったくばかげてる! あいつらはゴミだ。この鉄の文明のサビだ!!」
ティモシーは吐《は》き捨てるように言うと、からっぽの腰のホルダーに手をやった。そこに収まっていたはずの彼の銃『スコルニック』は、ジャンヌにとりあげられて今はささっていない。セドリックのレッドジャミーも同様だった。
「ティモシー…」
「…オレは、サテュロスのようになるんだ」
セドリックはティモシーの顔をまじまじと見た。ここで、有名な“ボスローの英雄”の名前を聞くとは思わなかったからだ。
「サテュロスって、あのサテュロス=シーモアのことだろ。血まみれの爪《つめ》っていわれた魔銃士で、第四次ボスロー戦争の英雄だった…」
ティモシーは頷《うなず》いた。
「そうさ。サテュロスは一兵卒からなりあがって将校にまでなったのに、なんの勲章も年金も受け取らずに失踪した…。彼はオレの憧《あこが》れなんだ」
彼は右手の指を銃の形にして、引き金を引くフリをした。
「現役時代だって、サテュロスは六十回も褒賞されたのに、一度たりとも栄誉も金も受け取らなかった。兵隊として得た給料ですら、現地の農民に分け与えていたらしいっていう。彼は純粋に国のために戦っていたんだ。彼こそが真の愛国者、英雄なんだ!」
熱っぽく語ったティモシーは、サテュロスへの憧憬《どうけい》を隠そうともしなかった。
(ああ、それで“スコルニック”なのか)
セドリックは、なぜティモシーがスコルニックなどという大人の銃を持っていたのかなんとなく納得できた。あの骸骨《がいこつ》モデルは、サテュロス=シーモアが持っていたものと同じだからだ(もっともティモシーが持っていたものは五連発式の、反動が弱いタイプだったけれど)
セドリックは、かつて自分にも同じように憧《あこが》れた人間がいたことを思い出した。
『人の人生は時計の針だ。重なっている部分は一瞬で、あとはすれ違いばかり…』
古代の遺跡の前で、ここではない時間の流れについて語っていた彼――
(でも、彼は僕を裏切った。あのときに、僕の憧れはひとつ残らず憎悪にすりかわったんだ)
うつむいたセドリックの目の前で、ティモシーは吐《は》き捨てるように言い切った。
「オレは、…オレだけはあいつらのようにはならない。親父の力になんてたよらない。そのために強くなるんだ。戦争へ行ってうんと出世をして、親父の手の届かない場所で英雄になってやる。そのために〈決闘〉するんだ。絶対にオマエを倒して等級を上げてやる。そう決めてるんだ…!」
(親父…?)
セドリックは、ティモシーが親父という言葉をいうたびに、そこに他にはない熱がこもっていることを感じ取っていた。
『親父の手の届かない場所で英雄になってやる』
(ああ、そうか。ティモシーきみは…)
彼は、知らず知らずのうちに自分がティモシーの逆鱗《げきりん》にふれてしまったことを知った。
突然セドリックたち一行の前に現れて、自分に〈決闘〉を申し込んできた少年…
ティモシーは、きっと彼なりに国の行く末を案じているのだろう。また裕福な家庭で育ったゆえの子供らしい潔癖さから、ボスローへ行って志願することを決めたのだろう。
けれど、それが果たして正しいことなのかどうかセドリックには確証が持てなかった。
たしかにティモシーが言っていることは一理ある。貧しい家庭に育った子供たちは、父親が免除金を払えずに出兵しなければならないのに、出兵を決定した議員の子供たちは兵役を免除され、国の金で作った紳士教育学校で週末のパーティのためにダンスを習っているのはおかしいと思う。
けれど、それとティモシーの志願とをすぐに結びつけるのは、なんだか安易なような気がしてしまうのだった。
(彼の言っていることは正論だと思うけれど…、どちらかというと理想論に近いような)
ティモシーの場合、彼の抱いていた英雄志向となんでも金で片づけようとする(これは彼の言をかりてだが)父親への反発が、たまたま志願という方向にはたらいてしまっただけのような感じを受けるのだ。セドリックがひっかかっていたのはまさにそこだった。
つまりまるっきり順番が逆なのである。ティモシーは英雄になりたいという願望と、父親から逃れたいという衝動を、戦争という箱の中に綺麗《きれい》に収めてしまったにすぎない。
(でも、それが絶対にだめなことかといえば、そうでない気もするんだよなあ…)
セドリックは思案するように頬《ほほ》を撫《な》でた。
セドリックは、傭兵《ようへい》という職業を知っている。魔銃士の中にも、金で雇われて戦争に行く人間は多いし、レニンストンで会ったバロットのように、金もうけのためだけに魔学に携わるものもいる。
人間がなにかをなしえる理由に善悪なんてない。それがずっとあとになって、もしくは成文化された法によって否定されることはあっても、それはあくまで結果に対してであって理由やこころざしまでを罰することはできないはずだ。
だから、ティモシーはまちがっているわけではない。
セドリックは、ふと応接間でエンジンの開発に没頭しているプルートのことを思った。
彼だってそうだ。軍隊なんてきらいだ。早く会社をおこしてやめたいといいつつ、結局は開発費を出してくれる軍で研究をするしかなかった。そう言っていた。
『僕が行くところは軍しかなかった。いつの世も、こういう気の長いことに金を出してくれるのは戦争屋しかいない…』
セドリックは無意識のうちに手で胸を押さえていた。
なんだか体の奥のほうがもやもやした。
(わかってる。僕はうらやましいんだ。なにかに没頭できるティモシーやプルートさんが)
もやもやの正体は、いまだに居場所を見つけられない自分に対するいらだちでもあった。
ずっと、むずかしい魔法を使えるようにならなきゃ、セドリックはそう思っていた。それは自分のためではなく、目の前にそういうレールが敷かれていたからだ。
だが、いざそのレールからはずれてみると、どっちへ行っていいのか途方に暮れている自分がいるのだった。
自由になった。
セドリックはそれだけの力を得た。だから、これからはなにをしてもいいはずだ。
けれど、魔法以外のことをやっている自分が想像つかない。ここまでやって来て、今更魔学を捨てる気にはなれないというのももちろんある。
しかし、なによりもセドリックは魔法式を組み立てたり、遺跡や文書の中からゲルマリックをひろいあげていく作業が好きだった。古いレリーフの汚れをていねいに刷毛《はけ》ではらい、その下から強いゲルマリックを見つけたときの心の震え――。今までノートに書き留めていた言葉ひとつひとつが、思わぬところで合致し美しい文章になるのは、セドリックにとって代え難い喜びになっていた。
それに、魔法があればだれかを守ることができる。
(アンブローシア)
もはやわざわざ思い出そうとしなくても、すぐに彼女の小さな顔が思い起こされた。
彼女を守りたいと思っている。それは確かだ。
セドリックにとってためらわれる要因があったとれすば、それは、アンブローシアが祖国のためにテロ活動をしようとしている、ということだった。
彼女の祖国ガリアンルードは、スラファトによって滅ぼされた。民族はちりぢりばらばらにされ、反乱をおこさぬよう男はすべて国外に連れ出され、残った女子供たちは手がまわらずに荒れ果てていく田畑と重税にあえいでいるという。
彼女が、そんな祖国の窮状を見るに見かねてスラファトを攻撃したいという気持ちも、正直わからないではない。
けれど、そこでセドリックは、先程ティモシーに対して抱いたのと同じような矛盾を感じずにはいられなかった。
アンブローシアの言い分は理解できる。けれど、それは理解であって信念ではないのだ。たとえば同じところに根をはったとしても、信念は幹そのものであって理解は枝のようなもの。同じであって、同じではない。理解はさまざまな方向に広がっていくが、信念はまっすぐに上を目指すだけだ。似ているが違うようにも見え、しかしつながっていて二つとも木というものを構成している…
正直、セドリックはアンブローシアを助けたいとは思っていても、彼女の祖国を取り戻したいわけではない。
そのために自分が魔法を駆使してスラファト軍と戦わなければならないのなら、自分がいったいどこまでやれるか自信がなかった。
どこまれやれるか。
それは、どこまで人を殺せるかということだ。
(そうだ、怖いんだ僕は…)
セドリックは自分の手のひらをじっと見た。
(人を殺すのが怖い。アンを守っているうちに、自分の中の知らない力が暴走してしまうのが怖いんだ。戦うのはいやだ。ましてやどの国の人間であれ、自分から人を殺しにいくのは…)
しかし、アンを守るということが、イコール人を殺すということになったら、そのときに自分はどうすればいいのか…
(そして何よりも怖いのは、アンにその決断をせまられることだ!)
セドリックは、知らず知らずのうちに自分の足のつま先を見ていた。
自分の優柔不断さがはがゆかった。人殺しはいやだと思っているのに――、物心ついてからずっといた組織を抜けてまで僧兵になることを拒否しようとしているのに、なさけないことに自分にはその魔法しか能がないのだ。
(僕が魔法を捨てられないことは、クリンゲルで魔法が使えなくなったときに身にしみてわかったはずだ。なのに、僕はまた今ごろになって魔法を使って人を殺すのがいやだなんてだだをこねるんだ。ばかばかしい。セドリック、おまえはなんて傲慢《ごうまん》なんだ。おまえはギースから等級を奪って喜んだんじゃないのか。闇の力を手に入れて、だれよりも強くなったと狂喜したんじゃないのか!)
ティモシーの決意や、プルートの手段を笑う資格なんてなかった。自分にはなにができて、なにをすべきか。なにをしたいのかすらセドリックにはわかっていなかったのだ。ほかのだれでもない自分自身のことなのに…!
「くそっ」
握りしめた拳《こぶし》をふりあげて、セドリックは壁を叩《たた》いた。
(一番綺麗《きれい》ごとを言っているのは僕だ!)
ふと顔を上げると、もうそこにティモシーはいなかった。
セドリックは、あいかわらず代わり映えのしない外を眺《なが》め続けた。霜降り山脈一帯を真っ白な雪原に変えてしまった漂白の魔女は、蜜蜂《みつばち》の館《やかた》の一階部分を完全に雪で埋め尽くしてしまった。
それでも、セドリックはそこに立っていた。何時間でも、何らかの答えが出るまで立っていようと思った。
ふたたび彼が窓の外を見たとき、外は相変わらず埃《ほこり》色の雲に閉ざされていた。
(なんだか、僕の心の中にも漂白の魔女がいるみたいだ…)
どれくらい経《た》ったころだろうか。まわりがすっかり薄暗くなり、今まではあまり姿を見せなかった働き蜂たちが、シャンデリアや廊下の灯《あか》りとりに火をいれ始めた。
それは不思議な光景だった。ぽつんぽつんと等間隔に灯りがならび、ガス灯にはない炎そのものの柔らかい明るさが、綺麗にパターン化された壁紙の模様をうかびあがらせている。
その灯りの一つが、セドリックに向かって近づいてくるのが見えた。
笠のついた蝋燭《ろうそく》を持っていたのはキサラだった。
「セドリック。キトリがアナタに謝りたがっているの」
「えっ」
キサラはじいっと食い入るようにセドリックを見つめていた。彼は思わずドキリと心臓が鳴るのを感じた。
「きのう寝てしまったことをアナタに謝らせてしまったって。それで、よかったらあの子の部屋でいっしょに食事をとってやってほしいの」
「あ、ああ…。うん、わかった」
セドリックは頷《うなず》いた。なぜだか、キサラに見つめられると焦《あせ》ってしまって居心地が悪くなる。彼女がどことなくアンブローシアに似ているからだろうか。
昨日は夜が更けてからだったのでよくわからなかったが、キトリの部屋の内部は暖色系の家具でまとめられていた。キサラによるとこの部屋は、館《やかた》の中で最も日当たりが良く広い部屋なのだという。
「セド、リック…!」
セドリックの顔をみた途端、キトリははじめてあったときのようにぱっと顔をほころばせて笑った。
「きて、…くれ、て、あり、がと…」
キトリは、先にテーブルについて彼を待っていた。そこは昨日の寝室でも風呂《ふろ》でもなく、普段彼女が本を読んだり、食事をとったりしているプライベートスペースだった。
このほかにも彼女専用のクローゼットやトイレなどが、この奥に特別に備え付けられてあるという。たったひとりの少女のために、ずいぶんな広さが用意されているものだとセドリックは感心した。
「すべて、キトリの魔力が高いせいよ。キトリは蜜蜂《みつばち》は蜜蜂でも“姫”だから」
と、彼女のためにナプキンを結んでやりながら、キサラが言った。
「姫って?」
「蜜蜂にもランクがあるのよ。より純血に近いかどうかで決まるの。一番上は蜜蜂の女王」
「蜜蜂の、女王…」
セドリックはふいに軽い既視感に襲《おそ》われた。どこかで聞いたことのある気がする。だが、いったいどこで聞いた言葉だっただろう…?
よく磨かれた銀のスプーンを、キサラがキトリの手に握らせてやる。彼女がスープ鍋の保湿ふたをもちあげると、煙のような蒸気がたちのぼってスープの熱さを伝えた。彼女はそれをていねいに皿に分けていった。食事の給仕のいっさいはキサラがするらしかった。
湯気のあがったスープに食欲をそそられていると、キトリがおずおずと話しかけてきた。
「あ、の…、セドリック、ごめ、なさ…い…」
「えっ、どうして?」
彼女は、愛らしい顔をくしゃくしゃにして半べそをかいていた。
「っく…、あの…、あのね、キトリ、ねる、なかった…。でもね、まるいワタ、みたいな、キトリ、ふわふわだきしめ、て、キトリ、ねて、しまた……」
本当よ…、と、まるで捨てられた子犬のような目で見上げてくる。
セドリックは思わず吹き出しそうになりながら、慌《あわ》てて手を振った。
「セド…リック、おこって…る…? キトリ、さきに、ねた…」
「怒ってない。怒ってなんかないよ。だいじょうぶ」
キトリは安心したように、ふわりと微笑《ほほえ》んだ。
「よかっ…た…。セド、リック…。おこって、ない」
「キトリ、よかったわね」
キトリは力いっぱい頷《うなず》くと、キサラが手を添えたスプーンに向かって口をあけた。彼女はあまり長い時間ものを持てないのだという。きっと彼女がスプーンを口に運ぶのにまかせていたら、食事がすっかり冷めてしまうのだろう。
「おいしい、ね…」
口からはみ出したソースを、これまた母親のようにキサラがナプキンでぬぐってやっていた。こうやって見ていると、彼女たちは姉妹というよりは親子のようだった。
「ごめ…ね。キトリ、こんな、だけど、セド…リック…、いっぱい、たべて、ね…」
セドリックの視線に気づいたらしい、キトリがそんなふうに声をかけてきた。セドリックは気にしてないと首を振って、会話を続けた。
「ねえ、きみたちは生まれはどこなの?」
「金の風車の街《ミミックリー》、よ…」
「ミミックリー?」
「ガリアンルード西部にある街よ。国の中で一番高い丘が街になっていて、そう呼ばれていたの。今はもうなにもないけど」
口を動かすのに忙しいキトリのかわりに、魚をよりわけていたキサラが答えた。
「きみたちはガリアンルード人だったのか!」
セドリックは、この双子のなめらかな金髪や柔らかい若草色の瞳を見た。道理でなんとなく彼女たちを見ているとアンブローシアを思いおこさせるはずである。
セドリックは、舌で唇《くちびる》をなめた。
「えっと、これは聞いていいのかわからないけど、きみたちのご両親は…?」
「ママ…は、あっちに、いっちゃった。パパはあっち」
と、キトリがいっしょうけんめい別々の方向を指さして言う。怪訝《けげん》そうに顔をしかめるセドリックに、またもやキサラが解説した。
「まだワタシたちが十歳くらいのときに、ミミックリーの街はスラファトの侵攻にあったの。女たちはみんな紡績工場にいかされる左の道をいったわ。ワタシたちのママもそう。パパは右の道を、なんどもワタシたちのほうを振り返っては棒で殴られて…、そのうち見えなくなった。たぶん二人とも、もう生きてはいないでしょうね」
「“従順の道”か、本当にあったんだ…」
セドリックはため息をついた。
スラファトがまだ若いガリアンルード人たちを男女別に連行し、その長い長い列が従順の道と呼ばれるようになったということはセドリックも伝え聞いていた。
すぐ目の前ではキトリがゼリーをすくおうとして、先に肉を食べなさいとキサラに叱《しか》られている。
次にセドリックは、キトリが自分を見たというアリルシャーのお屋敷のことを聞くことにした。
「それからきみたちはどうなったの。僕らみたいに修練院に入ったわけじゃないんだよね。どうしてアリルシャーのお屋敷にいくことに…?」
「キトリ、いいこ、だって、いわ、れ、た…!」
「えっ」
目をらんらんと輝かせてキトリが言う。
「たくさん、まほう、ちから、ある。いいこ!」
どこまでも無邪気なキトリの答えに、キサラは苦笑いをかみつぶしながら、
「キトリがすごい魔力を持っていることがわかって、それでどこか遠い国の研究所につれていかれたの。ワタシには魔力なんてないけど、このとおりキトリは自分ではなんにもできないから、どうにかワタシも殺されずにすんだってわけ。
それからはずっといっしょにいるわ。離れたのは、キトリが闇の属性を持っていることがわかって、闇ばかりの血をあつめている専門機関に一時的に預けられたときだけよ。そこだけはワタシはついていけなかったの。トップシークレットだからって」
「じゃ、じゃあそのときの僕はどんな様子だった? キトリ、きみとどんな話をしたの?」
キサラがちょっと顔をしかめた。
「セドリック、アナタそのときのこと覚えてないの?」
「うん、そうなんだ。僕は昔の記憶がほとんどない。だから、キトリがあのアリルシャーのお屋敷にいたことがあるって聞いて、すごく嬉《うれ》しかったんだ。もしかしたら、そこからなにかを思い出せるかもしれないだろ」
当のキトリは、ふんふんと頷《うなず》きながら口を動かしている。キサラが運んでくれる食事がおいしいらしい。
実際、皿の上に盛られた料理は、こんな山の中ででるものにしては格段にぜいたくなものばかりだった。さすがに保存のきくハムや瓶詰めの野菜が多かったが、それでもクリームソースの池に横たわった鮭《さけ》や、ライチョウを使ったピューレなどは都会でもめったに口にできるものではない。
「セドリック、とけい、いたよ」
「時計…?」
スプーンを重そうにそばに置いて、キトリが頷いた。
「なか、に、いた。かくれて、た。セド…、しゃべらな、かった。える、には、しーって」
内緒ごとを言うように、人差し指を口元にたてる。
「エル…? じゃあそのとき僕はエルと隠れんぼをしてたんだ。たしかに、時計の中によく隠れてた記憶はある」
灰色の埃《ほこり》をかぶっていた思い出に、急に風が吹いて絵画に色がもどったようだった。セドリックはうきうきした。こんなふうにキトリと話していけば、ずいぶんいろんなことが思い出せるに違いないと思った。
「そうだ。そのエルもいっしょにここへ来てるんだよ。今は離れにいるけど。言ったらキトリのことを覚えているかもしれないね」
「エルって、あのシスターの人のこと?」
もはやスプーンを持てなくなってしまったキトリのために、パンをちぎって食べさせてやりながらキサラがそう聞いてきた。セドリックは頷《うなず》いた。
「うん。エルは僕の姉でメンカナリンのシスターなんだ」
「そうなの。彼女いい人ね。今日、井戸で洗濯をするのを手伝ってくれたの。雪を溶かして使うから冷たいからいいですっていったのに、これもご奉仕ですって」
言いながら、キサラはめずらしく少し笑った。
「ここは蜜蜂《みつばち》の館《やかた》だっていうのに、わかってるのかしら。洗濯ものをほしながら、聞いたこともない聖歌を歌ってたわ。あのもうひとりの連れの子が怒鳴り込んできてやめさせていたけど」
「あちゃー」
その光景が目に見えるようで、セドリックは軽く額を押さえた。
「う、うちの姉がおさわがせしてしまって、すいません」
「かまわないわ。ずいぶん長い間礼拝にも行ってなかったから、彼女に血骨の書の十二条を説教してもらったの。ありがたかったわ。ここには礼拝堂もないから…。もしあったら、毎日キトリのために祈ってあげられるのに」
ふっと、キサラが物憂げな顔をした。その長いまつげに朝露のようなしずくが浮かんでくると、瞬《まばた》きをした途端に頬《ほほ》を濡《ぬ》らした。
ポタっと、小さな小さな音がした、
「キサラ…?」
キトリがパンを食べるのをやめて、心配そうにキサラの顔をのぞき込んだ。
「キサラ、ないちゃ、だめ。キトリ、しぬ、こわくないよ…?」
「死ぬなんていわないで!」
キサラが大きな声をあげた。
キサラは気丈にもそれ以上涙を流すまいと、上を向いて鼻をすすった。その彼女の頬を、キトリがしきりにぺたぺたと触っている。
「かわいそう…、キサラ、かわいそう…。キトリ、さきに、いなくなっちゃう」
セドリックは眉《まゆ》を寄せた。
「死ぬなんて、どうしてそんな…」
「ワタシたちが生まれたときに言われたの。ワタシたちを切り離してしまったら、どちらかは長く生きられないだろうって」
そう言われて、セドリックは彼女たちが背中合わせで生まれてきたことを思い出した。
キサラの背中にあった、蝙蝠《こうもり》の羽根のような茶色いあと…。あれはこの姉妹が生まれてくるまでひとつだった証拠なのだ。
「ワタシたちの街では産婆は呪《まじな》い師もやっていたから、たんなる迷信のたぐいかもしれないけど、でも」
キサラは頬を触っていたキトリの手をとって、いとおしそうに自分の頬に押しつけた。
「こんな自分で食事もできない、杖《つえ》がなかったら十歩も歩けないような子が、いついなくなったって不思議じゃない。自分ひとりではなんにもできないのよ。毎日こうやってスプーンで食べる練習をしたり、杖で歩けるようにってやっているけれど、こんなこといくらしたって無駄《むだ》だってわかってる。だってキトリは一生大人になれないもの。ずっとこのままなんだもの…」
歯を食いしばりながら懸命に泣くことに耐えているキサラを、キトリがいいこいいこと髪を撫《な》でている光景が、セドリックにはなんだか哀《かな》しかった。
二つに離れてしまったからこそ、長くは生きられないようになってしまった双子のかたわれ。キサラは、ずっとキトリが死んでしまうかもしれないと怯《おび》えながら暮らしてきたのだろう。自分のせいでキトリの短命が確定してしまったことを、彼女は自分自身の罪のように思っているのだ。
キトリが、そっとキサラの頬《ほほ》から手を離した。
「だいじょう、ぶ…。キトリ、いわれた、とおり、する…」
何を思ったのか、キトリはセドリックを真剣な顔つきで見返してきた。
「キトリ、なんにも、でき、ない、けど。こんや、がんばる。ちゃんと、する」
「えっ」
彼女はセドリックを見て、ニコっと笑った。
「おし…、おしえてもら…た。キトリ、なんにもできない。ごはん、ひとりでたべられない。あるく、できない。じょうずな、おしゃべり、でき、ない。みんな、キトリのすること。うれしい、ない…」
でも、と彼女は言った。
「でも、キトリできること、ある。おとこのひと、よろこばせ、られる…」
「え…」
セドリックは一瞬自分の耳を疑った。まるで花びらのように可憐《かれん》なキトリの口から、そんな言葉が飛び出すとは予想がつかなかった。
「なん…」
「おとこ、の、ひと。よろこぶ、キトリ、できる。だいじょうぶ。キトリ、あばれない。いいこ、に、してる――」
しゃべっているキトリは、真剣そのものだった。
「キトリ、できること、あった。うれしい。とても、うれ、しい」
「キトリ…」
「あかちゃん、うむ。うれしい。もう、キトリ、できる。うれ、しい。やくにたつ、よ…。じゃんぬ、よろこぶ。キトリも、うれ、しい…。キサラ、もうひとりぼっち、ない…」
「何を言うの!」
キサラが慌《あわ》ててキトリに向かって首を振った。
「ワタシはキトリの赤ん坊なんてほしくないわ。なんにもいらないわ。キトリじゃないといや!」
彼女はキトリの手を掴《つか》むと、自分のほうに顔を向けさせた。
「いい、このセドリックはね、もうキトリのほかに好きな人がいるんですって」
「キ、キサラ!」
いきなり核心をつかれて、セドリックは顔を真っ赤にした。
「だから、キトリと寝ることはないんですって。だから、そんな考えはもう捨ててちょうだい。ワタシはそんなこと望んでないんだから!」
大きな声で怒鳴られたキトリは、一瞬なぜ怒られているのかわからないと顔をきょとんとさせた。
それから、また頬《ほほ》を崩《くず》してニコっと微笑《ほほえ》んだ。
「キトリ、なんに、も、やく、たたない。いや…」
「キトリ…!」
「あるけ、ない。いや。なんにも、できない、いや…。できること、する…」
「キトリ、しんで、ない…よ…?」
セドリックは、心臓を鋭くつかれたように息を呑《の》んだ。
キトリの顔は、こういう表現が許されるのなら透き通っているように見えた。それは、まるで不純物のいっさいない宝石が持つ美しさのように、彼女の固い意志を表していた。
キサラは、どこか惚《ほう》けたようにキトリを見つめていた。
(僕は…)
セドリックは、急に自分が恥ずかしくなった。
彼女をなにもできないかわいそうな子だと思っていた自分がなさけなかった。自分は知らないうちに彼女の人生や生き方を否定していたのだ。たとえそれがどんなことであれ、キトリはこんなにも懸命に生きようとしているのに――
握りっぱなしだったスプーンをわきに置いて、セドリックは食事を終わらせた。キトリともっと話そうと思った。今度は自分の過去を知るためじゃなく、彼女のことをもっと知るためにそうしたいと思った。
「ごめんね…。キトリ。きみを見くびってたわけじゃないんだ。でもそうだね。できることをするのが生きるってことだよね」
セドリックは頭を下げて謝った。
「キトリ、僕はね。前に話したとおり小さい頃の記憶がないんだ。だから、キトリと会ったときのことも正直覚えてなかった」
彼女はまっすぐに頷《うなず》いた。
「そんなふうだったから、僕は本当に自分がそこで育ったかどうかすら自信が持てなくて、ずっと悩んでた。でも僕がここでキトリに会えたことで、かすかに残った自分の記憶が思い込まされたりねつ造されたりしたものじゃなかったって知ることができた。自分があぶくから生まれたんじゃないって安心することができたんだ。それだけでも僕にとってはすごいことだ。僕はもうとっくにキトリにすごいことをしてもらったんだよ」
キトリはきょとんと目を丸くして、それから表情をきらきらさせて言った。
「セド…リック、うれしい?」
「うん。そうだ。僕はすごく嬉《うれ》しい。だから、キトリががんばらなくてもいいんだよ。それよりはキトリのことをもっと話してほしい。僕はキトリともっと仲良くしたいから…」
キサラがはっと顔を上げた。キトリはコクリと頷《うなず》いた。
「キトリ、セド、リック、よろこぶ…、する…」
「じゃあ、あっちの長椅子で話そうか。暖炉にも近いし」
セドリックはキトリを支えるキサラが重くないように、ひとりで彼女を運んでやることにした。キトリの体はやっぱりわたのように軽かった。
「ん…。だい、じょうぶ。あるく。キトリ、れんしゅう、してる」
体を動かすたびにどこかが痛むのか、彼女のこめかみには小さな汗の粒が浮いていた。
「無理しなくていいよ。僕が抱いていてあげるから」
「まっすぐ、いく。あるく。キトリ、あるきたい。まっすぐ、まっす、ぐ…」
キトリは、まるで生まれて初めて歩く赤ん坊のように、手をふらふらと前に突きだして歩き始めた。
「ああ!」
けれど十歩も歩かないうちによろめいて、セドリックの腕の中に抱き留められてしまう。
キトリは残念そうに親指の爪《つめ》を囓《かじ》った。
「…きょ、は、だいじょ、ぶ、だと、おもった、のに、なあ…」
それが心底がっかりした様子だったので、セドリックはキトリの願いを叶《かな》えてあげたくなった。
(なんとかしてキトリを歩かせてあげたいな)
けれど、すぐに首を振った。
(でも、そんなのとうてい無理だ。僕は医者じゃないし、いったいどうやって…)
セドリックの視界を、キサラが食事に使った皿をのせたワゴンを押して横切っていく。なんとなくそれを見やった彼は、ワゴンの足についた小さな車輪を見てハッと息を呑《の》んだ。
「そうだ!」
さっきプルートさんが言っていた方法…、あれを…
暖炉の前にしつらえてある長椅子は、背もたれやクッションまで十分温かくなっていた。そこにキトリを座らせると、セドリックはさっき思いついた方法について真剣に考え始めた。
(たとえば、魔法でキトリの足を動かしてあげることはできないのだろうか。…ああでもだめだ。手と手がロクマリアによってくっつかないように、ロクマリアは人間の肉体にはあまり作用しない。治癒魔法がまったくといっていいほど数が増えないのも、元はと言えばロクマリアと肉体との相性が悪いせいなんだ。だから、いくら僕が“キトリの足が動く”と魔法式を組んだところでキトリの足が動くようなことはない。そもそもキトリ本人を表す魔法語が存在しないのだから)
それにその触媒にはかならず銀が必要なのだ。この世界で魔法式を常に安定させておくためには銀を使わなければならないし、その魔法式を発動させるためのエネルギーに、人間は失われた能力のかわりに火力をもちいていた。これは、人が夜明け前の大戦以前に火の精霊とより多くの契約を結んだからこそできたことだというのが定説だった。
言うならば、魔法式をしみこませた銀に直接火をつけないと(しかもそのときある一定の大きさの圧力が必要だと言われている。そのために魔法弾は発射しなければならないのだ)、魔法は発動しないのだ。
セドリックは、いつのまにか深い思案の淵《ふち》に身を投げ入れていた。なんとかしてこの仕組みを変えることなく、キトリの足を動かせるようにすることはできないものだろうか…
急に押し黙ってしまったセドリックのかたわらで、キトリは気ままな猫のようにペチコートのレースをつまんだり、肩のショールに腕をとおしてレースの模様を透かしたりして遊んでいる。
そのときだった。キトリがなにげなく腕を振ったとき、セドリックの視界がきらっと光った。
「うん?」
それは、キトリの振り回していたレースのショールが灯《あか》りを反射したのだった。
「キトリ…、ちょっとそれを見せて」
ほとんど奪い取るといった速さで、セドリックはキトリのショールを手にとった。目に光ったものの正体はショールの刺繍《ししゅう》だった。
銀だ。
「これ…、まさか銀でできているの?」
テーブルの上のものを下げ終えてもどってきたキサラが、セドリックの問いになんなく答えた。
「そうよ。銀糸は高価なものだから、この館《やかた》で身につけているのはジャンヌさまとキトリくらいなの」
「そうじゃなくて、本物の銀でできているの? じゃあ、ショールじゃないものもこの糸で作れる?」
キサラはセドリックの意図を読めないでいるようだった。怪訝《けげん》そうに顔をしかめながら言った。
「銀糸を使って洋服が作れないかってこと? もちろん作れるわよ。昔から刺繍によく使われていたし、最近じゃ銀のストッキングなんてあるんだから」
「ストッキング!?」
セドリックは長椅子から勢いよく立ちあがった。あまりにも急だったので、キトリがそばでひっくりかえっていた。
「そんなものまで作れるなんて…。じゃあ、長靴なんてものじゃない、足の付け根から動かすことだってできるかもしれないんじゃないのか!!」
セドリックは急いでキサラに紙とペンを用意してもらうと、足を動かすことに必要そうなゲルマリックを思いつくままかたっぱしから書き並べていった。
「〈持ち上げる〉〈膝《ひざ》〉〈曲げる〉〈伸ばす〉〈ふんばる〉…
ああ違う、いきなりこんなむずかしい魔法式をやらなくったっていい。まずは糸に封呪《ふうじゅ》できるか調べるんだ。そのためにもっと簡単な魔法式を…」
それから、彼は魔法式を組み立て始めた。
まるで人が変わったようにブツブツ言い続けるセドリックを、双子がビックリしたような面持ちで見つめている。
「できた!」
セドリックは早足でキトリの座っている長椅子に戻ると、そのショールを譲ってもらえないか頼んだ。
「キトリ、それを僕にくれない。ちょっと試してみたいことがあるんだ」
高価なものだろうからと内心ドキドキしていたが、キトリはあっさりショールを手放した。セドリックはそのショールを手に巻き付けると、いつもするようにおでこの辺りに意識を集中させ、先程思いついたばかりの短い魔法式を封呪し始めた。
「〈マーカ・キャリニティ・ドゼ・ホーゼ!〉」
封呪が終わると、彼はおもむろにそのショールを手から抜き取り、あかあかと燃える暖炉の中に投げ入れた。
「セドリック、なにをするの!」
キサラの抗議の声と、暖炉の中から小さくしぶきがあがって、それからセドリックの声が聞こえてくるのがほぼ同時だった。
「〈火よ。花のように、散れ《マーカ・キャリニティ・ドゼ・ホーゼ》〉」
瞬間、キトリのショールが生きているように持ち上がったかと思うと、音を立てて千々に切り裂《さ》かれ、ぱっと散った。
「ちゃんと発動した…」
セドリックは呆然《ぼうぜん》と暖炉の中を見つめ続けた。側ではキトリがセドリックの顔をうかがっている。
「どう、した、の…?」
「う、動いた。動いた。動いたんだ。すごい、すごいよ!!」
彼は嬉《うれ》しさのあまり、心配そうにのぞき込んでくるキトリに体当たりで抱きついた。
キトリがひゅっと息を呑《の》むのがわかった。
「キトリ、君は歩けるかもしれない。銀のくつしたに魔法をしこんで、歩くんだ!!」
セドリックがはしゃいでいる理由を知らないキトリは、ただ不思議そうに顔を見つめ返してくるだけだ。
それでもよかった。セドリックは、たった今自分が発見した魔法の可能性が、自分の目の前に巨大な扇を開くように広がっていくのを感じた。
「セド…?」
喜び勇んだ彼は、こう言わずにはいられなかった。
「僕が必ず、きみを歩けるようにしてあげる!」
二人の背後で、キトリの杖《つえ》を持ったままのキサラが、複雑そうな表情をかみつぶして見つめていた…
興奮するあまり、セドリックはその夜なかなか寝付けなかった。傍らでキトリが眠ってしまったあとも、彼は手元に灯《あか》りをひきよせて、キトリの足を動かすための魔法式の構築に頭を悩ませていた。
もしこの方法が有効だということになれば、キトリだけではない世界中の手足の不自由な人々のために貢献できるということになるのだ。近年、キトリのように体が十分成長しきらないまま生まれてくる子供が増加していると、セドリックは旅先で訪れる修道院や救護院でよく耳にしていた。そんな人たちのために、少しでも自分の魔力が役に立つのならこんなにも嬉しいことはないとセドリックは思った。
次の日はほとんど徹夜だったが、不思議と疲れより高揚感のほうがまさっていた。早くプルートにこのことを話して彼の協力を仰ぎたかった。
「銀のくつしたで足を動かすだってぇ!?」
目の下にくっきりクマを作ったセドリックに降りてきた早々つかまったプルートは、彼から一連の説明を受けて、めずらしく目の中が見えるほど仰天した。
「いやはや、とんでもないことを思いついたもんだ。いったいそんなことって可能なのかい?」
「理屈の上では可能なハズなんです。見ててください」
セドリックは昨日、キトリのショールでやった実験をそのままプルートの前で再現してみせた。すると、働き蜂《ばち》たちによって研磨剤で磨かれたぴかぴかの暖炉の中で、銀の糸に封呪《ふうじゅ》されたセドリックの火魔法は小さな花を咲かせたのだった。
「こいつは…、たしかに使えるかもしれないな…」
プルートの目がすうっと音を立てて思案に入っていくのを、セドリックは期待に満ちた眼差《まなざ》しで眺《なが》めていた。
それからは、セドリックはプルートと二人で毎日館《やかた》中の古書を読みまくった。まったく力の入らない(言い換えるなら人形のような)キトリの足を動かすためには、それ相応の力のあるゲルマリックが入り用だ。更に、それを人間の体のようになめらかに動かすには、普段自分たちがなにげなくしている動きをかみ砕いて、それを魔法式に翻訳させることが必要だった。セドリックとプルートは手分けして本を読み、ああでもないこうでもないと人間の動きを解析していった。
セドリックが思ったより、人間の肉体の動きというのは複雑でバリエーションにとんでいた。すべての動きを魔法式で補うには魔法式が長くなりすぎたため、二人はとりあえずまっすぐに歩くことだけを目標にした。キトリが「まっすぐに歩きたい」と言っていたことを思い出したからだった。
「プルートさん、このタイミングで膝《ひざ》が曲がるのと、つま先がこの位置まで降りてくるのとどっちが先だと思いますか?」
「ちょっとまってくれ。ボクが作った模型でシミュレーションしてみよう。まず第一歩目からだ」
プルートはさすがにスラファト軍の技術将校というだけあって、キトリをモデルにしたマネキンをありものの材料で作ってしまった。それを使ったり、実際に自分でゆっくりと関節の動きを確かめたりしながら、セドリックは人間の動きそのものについての知識を深めていった。
すると、不思議なことに今まで考えたことのないような複雑な人体の仕組みが浮かび上がってきたのだった。人間というものを作ったひとは、なんて器用で頭のいい人だったのだろう、セドリックはそう驚嘆した。
そうして、どうにか考え得る限りでは破綻《はたん》のない魔法式が組み終わると、二人はマネキンの前に腕を組んで立ちつくした。
「あとは、魔法を込めるカートリッジ、つまり靴下が必要なんだよね」
「そ、そうですね。その問題があるんだった。どうしよう…。今から銀のストッキングなんて買いにいけないし」
「仕方がない。久しぶりにかぎ針を持ってみるか」
セドリックはビックリしてプルートを見直した。
「ええっ」
手先の器用なプルートはなんと編み物にも長《た》けていて、この館《やかた》の働き蜂《ばち》から譲り受けた銀の糸で、あっというまに銀の靴下まで用意してしまった。
「ボクの生まれ育った村は男もみんなレース編みをしたんだ。花嫁のベールは花婿が編む習慣でね」
「へえええ」
「ボクなんかよりギース兄のほうがずーっとうまいんだよ」
「え」
セドリックは、あのギースが編み物をしている様子を思い浮かべて複雑な気分になった。
漂白の魔女は、まだこの霜降り山脈の上にどっかと居座っているようだった。毎朝コートとシャベルで武装した働き蜂たちが懸命になって雪をかいていたが、夜になればまた横殴りの風雪が鎧戸《よろいど》を痛めつける。
あっというまに三日ばかりが過ぎていった。
その間、セドリックはほとんどこの魔法式の構築に時間を費やしていた。ふと、キトリを見るたびにアンブローシアのことを考えるときもあったが、それ以外はセドリックはせっせとこの作業に没頭した。
セドリックは、内心わきあがる喜びで胸いっぱいだった。ようやく、自分が夢中になれるなにかを見つけ出せた気がしていた。
「ねえプルートさん。僕ね、最近一生こういう研究をしていきたいって思うようになったんです」
指を舐《な》めながら付箋《ふせん》だらけの古い文書をめくっていたプルートは、セドリックの告白を真摯《しんし》に受け止めてくれた。
「ナルホド。つまりキミは人間専門の魔法技術屋になりたいと…」
「そうなんです。僕はずっと自分になにができるんだろうって考えていました。魔力はたくさんあるらしいけれど、僕はそれを戦争のために使いたくなかった。メンカナリンの僧兵になるのはいやだったんです。でも、僕には魔法しか能がないっていうのもわかっていた…」
「そいじゃ、キミはようやく自分のしたいことと適性が一致する職業を見つけたってわけだ。それはとても幸福なことだ。すばらしいことだよ」
プルートがそう言ってくれるのが、セドリックにはなによりも励みになった。
貧しさや戦争で体を壊してしまった人々のために、僕の魔法が少しでも役に立てばいい。魔法といえば戦争に使われることばかりが取りざたされるが、逆に人々を救うために使われることがあってもいいはずではないか。
(僕が魔法をこういうふうに役立てたいと言えば、きっとエルやアンも賛成してくれるに違いない。そのためにも、今はキトリがまっすぐに歩けるようになるように魔法式を組み立て直さないと)
セドリックは頷《うなず》いて、それから乾いてしまったペン先をインクの中に沈めた。
そのとき階段の踊り場から、キサラがどこか冥《くら》い眼差《まなざ》しで見つめていることに、セドリックはまったく気づいていなかった。
部屋の中に戻ると、ふいにガタンと大きな音がした。キサラは驚いて仕上がってきた洗濯物を手に持ったまま、キトリが寝ているはずの寝室に飛び込んだ。
「キトリ!」
その音は、キトリがソファのへりに杖《つえ》をぶつけた音だった。キサラは慌《あわ》ててキトリを肩にかかえあげた。キトリはばつの悪そうな顔をしてぺろっと舌を出した。ひとりのときは絶対にしてはならないと言ったのに、また隠れて歩く練習をしていたのだ。
「寝ていなさいっていったのに、どうしてまた歩こうとするの」
少し厳しい口調でキサラは言った。
叱《しか》られたキトリは、気まずそうに頭をひっこめながらも、
「セド…、キトリ、あるける、いった…」
と、めずらしくキサラに向かって口答えしてきた。
「そう、セドリックがね…」
キサラははあ、と大きくため息をついた。
最近はずっとこうなのだ。セドリックがこの館《やかた》に逗留《とうりゅう》するようになってから、キトリは彼に好かれようとめっきり努力家になった。
今まではキサラに甘えて食事も食べさせてもらってばかりだったのに、セドリックの前でそうされるのがいやなのか、持てなくなっても意地でもスプーンを離そうとしない。昨日の晩もセドリックが食事に訪れるころになると、やっぱり靴下はレースがついているやつじゃないといやだの、顔色が悪いからほお紅をしてほしいだの今までとはうってかわったこだわりようでキサラを困らせた。キサラはテーブルのセッティングのほかに、キトリの余計な身支度まで調えなければならなくなり、一日中キトリにふりまわされっぱなしだった。
その上少しでも目を離すと、今度はこうしてひとりで歩く練習を始める。角にでも頭をぶつけたらどうするのかと言い聞かせてもいっこうにやめない。セドリックに褒《ほ》めてもらいたいからだ。
あきらかにキトリは、セドリックに対して特別な好意を抱いているようだった。
まるで子供に言い聞かすように、キサラは念をおした。
「いいから夜まではじっとしてなさい。客とは昼間には会っちゃいけない規則なんだから」
「ねえ、セド…リック、うさぎ、すき…?」
「はあ?」
キトリはおもむろに頭の上に手で耳をつくった。
「うさぎ、かみ…。それとも、じゃんぬ、みた…いに…、あげ、あげ…る…?」
どうやら髪型のことを言っているらしい。ウサギのように二つに分けるか、それともジャンヌのようにアップにしてまとめてしまうかどちらがいいかと聞いているのだ。
キサラは呆《あき》れて適当に答えた。
「…さあね。そんなことワタシにはわからないわ」
「セド…、におい、は…? ばら、みんと、におい…」
「セドリックとは食事をするんでしょう。食事のときにきつい香水をつけるのはマナー違反よ、キトリ」
「そ、う…」
シュン、とあからさまに落胆した表情をしてみせる。
「それより、ちゃんといいつけを守ってちょうだい。ワタシにはほかの仕事もあるのよ」
ベッドの上で丸くなったキトリの手足をゆっくりと伸ばしてやりながら、キサラは自分がなぜか苛立《いらだ》っているのを感じていた。
ふいになにを思ったのか、キトリはぱっと表情を明るくした。
「だい、じょ、ぶ。キトリ、ある、ける…、なる。も、すぐ…」
「…セドリックの言うことが本当だったらね」
「まっ、すぐ…、そ、したら、ひとり、で、できる!」
頬《ほほ》をふくらませて、キトリは自信を持って言い切った。
「ひとり、できる。なん、でも…。きがえ、ごはん…、かみ…」
「立派な心がけだけどね、キトリ。なんでもひとりでするのは無理よ」
キサラは笑おうとしたが、なぜか心にひっかかるものがあってうまく笑えなかった。
キトリは真剣な顔で首を振った。
「ううん、でき、る…。なん、でも。キトリ、たた、かう! まほう、たくさん」
と言って銃を撃《う》つ仕草《しぐさ》をしてみせた。
「まほう、ある。キトリ、てつだう、できる。セド、リック…、まほう、たま、あげ、る…。キトリ、まほう、ある、たくさん…」
「いやだ、キトリが戦うつもり? それこそ無理よ、いくら魔力がたくさんあったってキトリが魔銃士なんて…」
「キサラ、して、もらわな、くて…いい」
キトリの髪をブラシで梳《す》いていた彼女の手が、ピタリと止まった。
「え…」
「いな、くて、いい…。まほう、ない…」
キサラは、それを聞いた瞬間に自分の頭の中が真っ赤になったような気がした。
自分がキトリに対して腹を立てているのだ、とわかったときには、すでにその言葉を口にしていた。
「そう、じゃあ早くそうなってもらいたいものね…!」
いつもより乱暴にキトリに毛布をかぶせると、彼女の顔を見ないでベッドに背を向けた。キトリのおどおどした声が追いかけてくる。
「キサラ、お、おこ…ってる、の…」
「怒ってなんかないわ。怒ってなんかないわよ。ええ、そうなったらいいなって思ってるわよ。いらない手間が省けて!」
キトリがあきらかに傷ついた顔をした。キサラは胸にチクリと痛みが走ったのにもかかわらず、言いかけた言葉を止めることができなかった。
(どうしてそんな顔をするのよ。まるで、ワタシがアンタをいじめたみたいじゃない!)
いくらかの後味の悪さを感じて、キサラはつい口をすべらせた。
「でもあんまり期待しないほうがいいわよ。だってとうてい無理よ、キトリの足を魔法で動かそうなんて、アンタなんてずっとワタシのお荷物だったのに!」
心のどこかで、しまった、とだれかが叫んだ気がした。
キトリの顔がすうっと水のように透き通って、すぐに凍《こお》り付いた。
キサラはその顔を見ていることができなかった。怖かった。キトリの血色が悪い顔は見慣れているのに、あんなふうに凄みのある冷たさを見るのははじめてだったのだ。
「――っっ」
洗い上がったばかりのペチコートやリボンを放ったまま、キサラは寝室から飛び出した。バタンと重々しい音が部屋の外まで響いた。
キサラは扉の前にへたへたとしゃがみ込んだ。
「ううっ…」
両手で口を覆《おお》って、彼女は嗚咽《おえつ》した。
自分で自分が今なにを言ったのか信じられなかった。今さっきなんて言ったワタシ…?お荷物だって、あの子のことをお荷物だって、そう言った――
(どうして…、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう…)
最低だ。最低だワタシ。体の不自由な子に向かっていってはいけないことを言った。あらゆる意味で最悪な言葉をなげつけた。
それも、たったひとりの姉妹に…
でもキサラは密《ひそ》かに気づいてもいた。あの言葉はずっと昔からキサラの胸の中にあったものだった。けっして言ってはいけないと隠してきた。それが、キトリの思わぬ言葉に怒るあまり閉じ込めていた箱の蓋《ふた》があいてしまったのだ。
そして、ついに言ってしまった。
『お荷物のくせに!』
「違う! そんなこと言いたかったわけじゃない!」
後悔しても後悔しても、どす黒い罪悪感が荒波のように打ち寄せてくる。キサラはその後悔だけで胸を突かれて死んでしまいそうだった。そして悔しくてたまらなかった。たった一言…、そのたった一言がどうしても取り戻せない。一度吐《は》いた言葉は死んだ人と同じで二度と戻ってはこないのだ。
いきなり、勢いよく首を振った。
「いいえ、ワタシのせいだけじゃないわ」
(…キトリもキトリよ、あんなことを言う子じゃなかった。あの子は強情になった。わがままばっかり言って、ワタシのことなんかどうでもいいみたいで…、ああ、でも…!)
突然歯車が噛《か》み合わなくなった自分たちの関係に、なによりも自分自身がわからなくてキサラはまた涙をこぼした。こんなはずじゃなかった。今まではうまくいっていた。ワタシはキトリが好きだったし、キトリもワタシがいないとだめだった。ワタシのいうことはなんでもよく聞いた。ワタシたちは正真正銘、ふたつでひとつだったのに――
(どこで、食い違ってしまったのか)
発作的に溢《あふ》れ出した涙がようやく収まりかけたころ、キサラはふと膝《ひざ》の間に埋めていた顔をあげた。
「…なにか原因があったはずだわ」
ぽつりと彼女は漏《も》らした。
(だってつい最近までワタシたちはとても仲が良かったんだもの)
キサラは自分のやり場のない想いが、だんだんと日の当たらないじめじめとした隙間《すきま》に向かっていくことをとめることができなかった。
そして彼女の罪悪感ははけ口を求めるあまり、キトリにかかわったひとりの人間に原因を押しつけることにしたのだった。
(アイツだ。セドリック=アリルシャー。アイツさえここへ来なかったら――!)
彼女はちぎれるほど強く下唇《くちびる》を噛んだ。
キサラは、キトリとセドリックのやりとりを克明に思いおこしてみた。セドリックは、キトリにこう約束していた。魔法の力で、きみをかならず歩けるようにしてあげると…。その一言は、なによりも歩けることを切望していたキトリを法外に喜ばせたのだった。
「魔法なんて…」
キサラは自分の顔からすうっと血の気が引いていくのを感じた。
彼女は、魔銃士というたぐいの連中をまったく信用していなかった。魔法が使えるかなんだか知らないが、あいつらだって暴力を振るう人間だ。魔法という暴力――、そう。魔法はまぎれもなく暴力なのだ。それもそのはず、この世にある最強の武器であるという〈銃姫〉はなにかを消すことしかできないというではないか。それが最悪の暴力でなくてなんだというのか!
(軽々しくなにかをしてあげる、なんていう人間は信用できない。見返りを求めない人間なんていないわ。きっとあいつだってキトリが欲しいんだ。ああやってできもしないことを言って、キトリを手懐《てなず》けようとしているんだ)
今までいろいろな男がキトリのことを欲しがった。彼女の魔力に興味を持つものも、彼女のような特殊な体に興味をそそられるものもいた。キトリと話すだけで心が和むんだとそう言った男もいた。
「彼女はまるで救いの天使のようだ」
そう、彼女は天使だ。ずっと天使だった。そしてこれからも… キトリはこれからも永遠に醜《みにく》い暴力を振るう大人にはならない。世の女のように、平気で男を裏切り選別するような知恵を持たない。いつもミルクの泡が弾《はじ》けるように笑いかけ、なにものにも染まらない無垢な心を持ち続ける。男にとってまったくに都合のよい人形であり続けるのだ。
都合のよい人形のままで――
(アイツだって同じだ。男はみんな同じだわ)
キサラは今までこの蜜蜂《みつばち》の館《やかた》に来るさまざまな男たちを見てきた。だからわかる。あの男もプルートと同じ、適当なことを言ってキトリを喜ばせておいて、彼女を魔法の実験にでも使うつもりなのだ。プルートはなんだかんだとキサラたちの世話をやいてくれるが、あれもただの好奇心からのことにすぎない。彼の本当の興味はキトリの体の中にたくわえられている膨大な魔力の使い道にある。魔力がない者同士仲良くしようよ、なんていう彼の言葉をキサラは一度も信じたことはなかった。
みんながみんな、他人を利用しようとしている。寂しさの埋め合わせにするもの。自分の営利のために踏み台にするもの。なかでもキサラが反吐《へど》が吐《は》くほど嫌いなのは、自分の中の良心というやつに自分ではなく他人を奉《たてまつ》る人間だ。そいつほどたちの悪い人間はいない。いつもいつも良いことをしようと思っている人間ほど、自分の中の正義感が実は悪魔が皮をかぶっているだけだということに気づかないのだから。
(そうはさせないわ。けっして!)
セドリックが来るまえは、ワタシたちはとてもうまくいっていたのだ。背中合わせで生まれたときから、ワタシたちはふたつでひとつだった。それは、「どちらかが死ぬだろう」という不吉な予言をされたことも関係なかった。
なによりもずっとずっと、キトリはワタシのものだったのだ。ワタシだけの――
「取り返さないと」
キサラの渇いた唇《くちびる》から、つぶやきがもれた。
キトリを取り戻す。そして自由も。そうだ。そのために密《ひそ》かに考えていた計画を、今こそ実行するときではないのか。
そのためには…
(ふたつの歯車の間にはさまった石ころ。それを取り除けば、きっともとどおりうまく噛《か》み合うようになるわ)
それはキサラの恐怖心が、ナイフのような鋭さを持った瞬間だった。
キトリの足をまっすぐに歩かせるための魔法式は、実にノート一冊分にまでおよんだ。
そのノートにぎっしりと詰め込まれたゲルマリックを見せられて、キトリはほうっと息を吐《は》いた。
「まほうご、たくさん…」
「そう、たくさんすぎるんだよキトリ。これからなんとかこれを短く強く簡潔にしないと、せっかく朝に銀の靴下をはいても、いざ歩けるのは日暮れってことになっちゃうんだ。それじゃ意味がないだろ」
彼女はわかっているのかわかっていないのか、セドリックの顔を見るたびに笑った。
キトリと眠る夜は続いていた。食事をとったあとはいっしょにベッドの上で、キサラの心配にはまったく及ばない、新しく構築した魔法式とこれからの試みを説明する。
そのキサラといえば、いつものようにキトリの世話をしている彼女がずっと黙ったままだったのが気にかかった。一度はうちとけてくれたみたいだったのに、とは思ったが、その原因を探ろうとまでは思わなかった。セドリックはキトリのための魔法式のほうに気をとられすぎていたのだ。
「今日はここの部分を改良してみた。これで自動的にバランスを保ちながら前へ上体を流せるはずだ」
彼は、毎日夜に今日一日ですすんだぶんをキトリに報告するのを楽しみにしていた。キトリのほうも、セドリックが自分のために骨をおってくれていることに素直に喜び、そして感謝の意を表してきた。
「キトリ、しってる。まほうご、あんまり、たにんにおしえちゃ、だめ。もったい、ない…?」
「ああ、いいんだよそんなことは」
彼女は一人前の魔法の使い手らしく、セドリックが自分の切り札とも言えるゲルマリックを惜しげもなく魔法式に組み込んでいくのを心配しているらしかった。
セドリックはキトリに言ってきかせた。
「あのね。一度手に入れたものは、それがなにであってもけっして惜しんじゃいけないんだ」
「それ、が、なにで、あって、も…?」
キトリは真面目な顔で聞き返した。
「そう。そうでないと、今度はそれ以上のものが回ってこなくなるんだって。だから、僕はけっして出し惜しみとかしたくないんだ。その場その場で精いっぱいやっていきたいんだよ。そうすれば、失ったもの以上のものが手の中に残るはずだから」
それは、幼い頃にだれかに言って聞かされた言葉だった。セドリックはそれを律儀にもずっと覚えていたのだ。
もっとも、だれが言っていた言葉なのかは残念ながら忘れてしまったのだが…
夜はたいていはキトリのほうが先に寝てしまい、セドリックはノートをしっかりと胸に抱いて暖炉ちかくの長椅子で寝た。
そうして次の日にはまた、プルートとああでもないこうでもないとやり合って時間が過ぎる。
ようやく「ただまっすぐに歩くだけ」の魔法式が完成したのは、手を付け始めてから丸五日経《た》ってからのことだった。
「まあ、これなら長さ的に長すぎるというほどでもない。あとは止まりたいときにどうやって止まるかということと、火傷《やけど》をせずに魔法式を発動させるためのもっとスマートな仕組みが必要かなァ」
まっすぐに進みすぎて壁に激突し、ついで発火装置が燃え移ってしまって真っ黒になったマネキンを静かに眺《なが》めながら、プルートがそうコメントした。たしかに今のままでは銀を発火させるための装置が体に近すぎて大やけどをおってしまうし、魔法式を発動させるための推進力を出すためにはどうしても銃に似た構造を足に着けるしかなくなる。
「でもとにかく、これで一つは前進できましたよね!」
「そうとも! ボクたちは天才だ。天才プルート&セドリック株式会社への第一歩だ!」
二人は呑気《のんき》にもらったらったと手に手を取って踊った。側で暖炉の中の燃えかすをかき出していた働き蜂《ばち》たちが、おどり狂う二人をうろん気な目つきで眺めている。
気が済むまではしゃいだあと、二人は一息ついてソファに仰向《あおむ》けに身を投げ出した。
ふいに、階の上のほうからギャアギャアという声が聞こえてきた。
「この館《やかた》に、今僕たちのほかに客はいるんですか?」
「ひとりだけじゃないかな」
すっかり冷めてしまったコーヒーをまずそうにすすりながらプルートが言った。
「ジャンヌさんがつきっきりだから、一番奥の部屋にいるんだろう。珍しいこともあるもんだ」
彼はセドリックに向かってこう聞いてきた。
「そういえば、キミのお友達はどうしてる?」
「え!?」
「ティモシーとかいったっけ。彼といっしょに旅をしてる…わけではなさそうだったけど」
セドリックは憮然《ぶぜん》と答えた。
「彼とはこの少し行った街道ぞいではじめて会ったんです。いきなり決闘をふっかけてきてびっくりしました。結局その〈決闘〉も嵐のせいで中断したままなんですけど、なんでも彼は志願兵になるとかで、〈決闘〉をしてとにかく等級を上げて、隊長クラスで配属されたかったって言ってました」
「ふうん、〈決闘〉ねえ…。そんなことしても無駄《むだ》だと思うけどねえ…」
「無駄?」
プルートは懐からひらべったい缶を取り出すとぱかっと蓋《ふた》をひらいた。都でも有名なメーカーのキャンディー缶だったが、中から出てきたのは煙草《たばこ》だった。
「いろいろな科学のシステムが解明されていなかった百年前とは違って、これからはなんでも大量生産の時代になる。本・食べ物・自転車、それから衣類…、今まで職人芸だったものが、なんでも機械にとってかわられる。今まで魔銃士だけの特権だった魔法も例に漏《も》れずね」
彼はものぐさにもマッチをすらず、一本つまんで暖炉のそばにしゃがみこんだ。なんと直接火をつけるつもりらしい。
「ようは、だれにでも魔法が撃《う》てる時代がやってくるってことだ。そうなると、魔法式だのなんだのというのは個人の仕事じゃなくなってしまって、軍かどこかの研究所が専門に“戦闘に有利な魔法式”をあつかい始める。つまり魔法弾さえ作れれば、あとは引き金を引くための兵士と有能な作戦があればいい。もう魔銃士は必要なくなるんだ」
「魔銃士は、必要なくなる…!?」
その言葉に、セドリックはまるで自分自身の存在を否定されているような力を感じた。
「そ、そんなことって、本当にあり得るんですか?」
「今世界で起こっている戦闘が、まだ昔のように一対一同士でやりあっているとでも思っていたのかい?〈決闘〉なんてものはもう格式を表すだけにすぎない。戦闘は、大量の人兵と大量の銃と大量の魔法を投入した集団戦の時代に入ってるんだ。実際、この山のすぐ向こうではそういった衝突が頻繁《ひんぱん》に起こっている。これから必要なのは技術と、それを支えるだけの資源、それから組織だ。
勇気や誇りなんかがなくても人間は戦える。欲さえあれば」
彼はぼんやりとした目で煙を吐《は》いた。
「『人間の新しい足』だとかなんだとか言って、政府は必死に人民のためをアピールしてるけど、実際列車の半分は軍事資源を積んだ貨物だ。そのうち今の鉄道だって戦場に一番最初にレールが敷かれることになるんだろうねえ。ああ、いやだいやだ。ボクの田舎《いなか》になんか一生まわってこないだろうなァ…」
プルートは、新たなマネキンの材料を探しにふらりとどこかへいってしまった。プルートが気ままな行動をとるのには慣れていたので、セドリックは応接間の後かたづけをすることにした。
(〈決闘〉は時代遅れ…)
さっきのプルートの言葉が耳にこびりついて離れなかった。
(本当にそんな時代がやってきているんだろうか。じゃあ、僕たちが今までやってきたことは何の意味にもならないってことなんじゃないのか)
大量生産、大量の人間、そして武器。鉄の文明は、一見たくさんのものを人間に与えているように見える。でも本当にそれは進歩してるってことなのだろうか、とセドリックは考えずにはいられなかった。本当に世の中はいい方向に向かっているのか。世界中のだれもが銃を持つ時代がくるなんて――
ふいに声がして、セドリックの思案は中断させられた。
「なんだなんだいったい。魔法式のカスタマイズでもしてるのかと思ったら、なんてくだらない!」
「え!?」
セドリックは急いで顔を上げた。いつのまに来ていたのやら、ティモシーが苦いものをかじったような仏頂面でそこに立っていた。
「ティモシー」
書き散らかされた紙の束を見た彼は、いつものポーズよろしくセドリックをビシッと指した。
「いいか、オマエはオレのライバルなんだぞ。これが終わったらすぐにオレと〈決闘〉するんだ。わかってるんだろうな!」
ティモシーはまだあのとき中断された〈決闘〉にこだわっていた。セドリックは呆《あき》れた。
「そんなことまだ言ってるのかい。でも悪いけど、僕はもう〈決闘〉なんてしないんじゃないかな」
「な、なんだって!?」
「僕は僧兵にはならないことにしたから」
ティモシーは言葉もないといった顔だった。顔を怒りで真っ赤にして、彼はセドリックに向かって怒鳴りつけた。
「そ、そんなことあるか。オマエはオレのライバルなんだぞ。勝ち逃げは許さないぞ!」
「…それより見てくれよティモシー、さっきようやくうまいこと足の魔法式が動いて…」
「そんなことどうだっていい!」
彼はセドリックの拾った紙の束をひったくると、後ろへ放り投げた。
「くだらない! いいか、魔銃士たるもの〈決闘〉して等級を上げるのが使命なんだ。そうやって自分の強さを証明するんだ。それが戦いだ。強さってもんだ!」
「それはきみの価値観だろ」
セドリックは少しむっとしながら、また根気よく紙を拾い続けた。
「さっきプルートさんが言ってたよ。〈決闘〉なんて時代遅れだって。今はもう戦争は集団戦闘の時代だから、なんでも大量生産、大量供給だって。なんでも魔法銃は素人にでも引き金が引けるから、これからは魔法はもっとオープンになるんだって。魔法はもう限られた魔銃士だけのものじゃなくなるって」
「ば、ばかな! あんな魔力もないスラファト軍のオチこぼれのいうことなんか真に受けるな」
「たしかにスラファト人だけど、プルートさんはいい人だよ」
セドリックはティモシーが放り投げた紙をテーブルの上でそろえた。
「それに、きみが月海王国人ならスラファトは同盟国だろ。いっしょに戦ってる相手をそんなふうに言うなよ」
「フン、スラファトなんてしょせん成り上がりさ。月海王国とは歴史も格も違う。ガリアンルードを併呑《へいどん》していい気になってるだけだ」
「しっ」
セドリックはティモシーに声を落とすようたしなめた。
「もうちょっと考えて言いなよ。ここにはガリアンルード人が多いんだから」
この蜜蜂《みつばち》の館《やかた》の監督であるジャンヌも、そしてキサラとキトリもガリアンルードから逃げてきたのだと言っていた。
(そして、アンブローシアも…)
セドリックにたしなめられておもしろくないのか、ティモシーは話題を変えた。
「なあ、それより知ってるか。この館がどうしてこんな山の中に建っているか…」
彼は得意げに鼻の下をこすって言った。
「なんと遺跡があるんだよ。この地下に」
「ええっ!?」
ティモシーが慌《あわ》ててセドリックの首を掴《つか》んで顔を寄せた。
「ばか、オマエこそでかい声を出すなよ。このオレさまがあちこち歩き回ってやっと見つけた重大発見なんだから」
ここ数日ティモシーをあまり見かけないと思ったら、なんと彼はそんなことをしていたというのだ。セドリックは眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「なあ、今から見にいかないか」
「ええっ」
「オレ見たんだ。あのプルートってやつが地下に頻繁《ひんぱん》に出入りしているところを」
「プルートさんが…」
セドリックとティモシーは人目を避けて、テーブルの下に仲良く潜り込んだ。
「絶対そうにきまってるんだ。メンカナリンの寺院や建物は、古代の遺跡の上に建てられることが多いって聞いたことがあったから、すぐにそうじゃないかって思った。メンカナリンのやつらは、遺跡の保存とかなんとかぬかして、知識や効力を独占するためによくそうするらしい」
「そうだね。僕のいた満月都市の修練院にも、たしかに古代の遺跡群があった。それを解読するために多くの修練僧が出入りしていたよ」
あのころは、昔の遺跡を発掘し解読することを、ただの歴史の保存としか考えていなかった。けれどそれは、よく考えてみればメンカナリンがゲルマリックを始めとする古代の知識を独占するためにしたことだとしか考えられない。
たったひとつのゲルマリック、たったひとつの文脈の発見が、これ以降の戦力に大きく関わってくることだってあり得るのだから…
「なあ、見るだけでもいいから見にいこうぜ。魔法陣を書き写すだけでもおもしろいゲルマリックを拾えるかもしれないじゃん」
「で、でも…」
正直なところ、セドリックもその遺跡には興味があった。どんな古代文字が使われているんだろう。どんなふうに言葉をつなぎ合わせて、どういう仕組みで動き続けているんだろう。もしかしたら、あの満月都市のこの世界以外の時間を刻み続ける時計のように、僕たちの知らない知識が潜んでいるかもしれない。そう思うと、好奇心が自制心を振り払って勝手に足を動かしそうになる。
(本当は見ちゃいけないんだろうけど…、別に見ちゃいけないって言われてるわけじゃないし、いいか)
彼はそんなふうに自分を納得させて、ティモシーの提案にのることにした。
「ようし、じゃあ行こうぜ。こっちだ!」
ティモシーが先導になって、二人はまず食料庫があるという地下に降りることにした。あまり頻繁に人が行き来するふうでもないのに、なぜか廊下には上と同じ柄の絨毯《じゅうたん》が敷いてある。
歩くにつれて、足音がやけに響くようになった。ティモシーは同じように並んだ樫《かし》材の扉のなかから、獅子《しし》のノックのついた扉のノブに手をかけた。
扉はあっさりと開いた。
彼は、あらかじめ持ってきていた蝋燭《ろうそく》にマッチで火をつけた。
そこは、一見なにもないがらんとした空間だった。だが、ティモシーの掲げた灯《あか》りの下には、あきらかに魔法文字を表す黄緑色の光が浮かび上がっている。
円を描いていた。
「〈門の魔法陣〉だ…」
ティモシーが感嘆を込めてつぶやいた。
「えええっ、まさか」
「見ろよ! ほら、まちがいない。それも動く」
ダブロペインの魔法陣――通称〈門の魔法陣〉と呼ばれるそれは、門という言葉が表すとおり、一瞬で魔法陣と魔法陣の間の距離を移動することができる。現代に残るさまざまな遺跡の中でもとくに重要性が高いものだと言われて、研究がすすめられてきた。
しかし、残念なことに魔法陣のたぐいは、現在の人間の手で新たに作ったり設置したりすることはできないと言われていた。古代から残されているそのままを利用することはできるのだが、なぜそれがそこに必要なのか。どういった仕組みで動いているのか、くわしく解明されてはいないからだ。
つまり、まだ生きている魔法陣をまったくべつのところにそっくりそのまま書き写しても、門としては働かない。土が悪いのか、それとももっとほかの適性が必要なのか、古代人たちは自分たちの文明の残りものを我々に使うことは許しても、その知識を盗まれることは許さなかったようだった。
「まだ生きてるの…?」
「そうさ。ああ、そうか。わかったぞ! ここが本当の入り口なんだ!」
なにかわかったらしいティモシーが、あたまをくしゃくしゃっとかき混ぜながら言った。
「オマエ、ここに最初に来たとき、あのジャンヌっておばはんがオレたちのことなんて言ってたか覚えてるか?」
そう問われて、セドリックは素直に首をふった。
「外から来たお方って言ってたんだ。たしかにこんな雪嵐の日にやってくる客がいるのは珍しい。でもあのプルートって男はオレたちのあとから来たのに、もう中にいたんだぜ」
「あっ」
セドリックはコクコクと頷《うなず》いた。たしかにそうだった。セドリックたちが中に入れずに問答していたとき、プルートは奥の階段から現れた。
あきらかに今着いたばかりですといった雰囲気だったのに――
「じゃあ、あいつはどこから入ってきたんだ? あんな雪の日だったのにコートも濡《ぬ》れてなかった…。だからオレは、絶対他の入り口があるんじゃないかって疑ってた。やっぱりここがそうだったんだ!」
セドリックはまじまじとティモシーを見直した。彼が、意外と細かいところまで観察していたことに感心したからだった。
しかし、まだ利用可能な〈門〉があったとは驚きだった。メンカナリンは世界中にいくつものこのような遺跡を隠し持っているのかもしれないと、セドリックは内心猜疑《さいぎ》心を強めた。
それに、こういう仕組みなら、蜜蜂《みつばち》の館《やかた》にやってくるものは自然とこの魔法陣の噂《うわさ》をききつけた魔銃士だけということになる。世界中にちらばっているという蜜蜂の館が、すべてこの〈門〉でつながっているとは思えないが、似たような遺跡の保護を兼ねていることは想像に難くなかった。
「今となっては、世界中にある魔法陣のほとんどは、ゲルマリックが抜け落ちていたり角が消えていたりしてほとんど使い物にならない。死んでしまってるんだ。でもここに、生きていて、今も利用できる門の魔法陣がある。これはすごいことなんだぜ」
ティモシーは興奮して鼻をふくらませた。セドリックも頷《うなず》いた。あのレニンストンにあったアシュマリン魔法陣のように、今世界に残っている魔法陣の多くは使い物にはならないのだ。
こんなところで、まだ生きている魔法陣に出会うなんて…。セドリックは興奮で血が泡立つのを感じた。
「あれが、〈門の魔法陣〉…」
セドリックは、ちょっと目を細めた。床に描かれていた魔法陣はあきらかに二つあったのだ。
「二つある…?」
ティモシーが、困ったというふうに鼻から息を吐《は》いた。
「どっちが〈門の魔法陣〉なんだろうな。あるいはどちらもそうかもしれないが、あいつが使ってるほうがそもそもどっちなのかもわからない…」
突然、ティモシーがセドリックに誘うように言った。
「なあ、その魔法陣ってどこにつながってるんだろうな」
「なんだって?」
「オレたちで門を使ってみるんだよ。あのプルートだってここから来たんだろ? じゃあきっとスラファトの研究室かどっかにつながってるに違いないんだ」
「まさか!」
セドリックは首を振って否定した。
「ここはメンカナリンの建物だろ。つながっているとしてもメンカナリンの施設にきまってる」
「じゃあ、絶対信仰中枢につながってるのかもな」
「絶対信仰中枢《トグラハバト》!?」
今すぐ飛んでいきたいと思っていたメンカナリンの聖地とつながっているかも知れないといわれて、セドリックの心はほんのわずか傾《かし》いだ。
「たくさんゲルマリックが使われてる。見たこともない言葉ばかりだ」
二人は蝋燭《ろうそく》をかかげながら、じりじりと魔法陣に近づいた。円の外側ギリギリにまで近寄って、中に使われているゲルマリックを読み取ろうとする。
「〈流れ来る〉〈刺草《いらくさ》〉〈しとね〉…?」
「流れ来る…ってことは、水属性か」
「違う、この〈流れ来る〉はあっちの〈時〉にかかるんだ。だから水とは限らない…」
立派な革張りの手帳に拾い上げた古語をメモしながら、ティモシーは満足そうに鼻をならした。
「ここで発掘した言葉を使って、オレの魔法式をもっと強く改良してやるぞ。フン、〈決闘〉が時代遅れなんて、きっと魔力のないやつの負け惜しみさ。魔銃士たちはずっとそうやって強さを競ってきたんだ。等級の高いヤツが強いんだ。オレは絶対にそうやって強くなって――」
どんっ
ふいに、強く背中を押された。
「うわああっ」
セドリックとティモシーは、とっさのことでその得体の知れない魔法陣の中に足を踏み入れてしまった。
「しまっ…」
一閃《いっせん》が走った!
目が眩《くら》んで顔をかばった二人のまわりを、緑色の光がパアアアアッと音をたてて包み込んだ。
「うっ!?」
セドリックとティモシーは息を呑《の》んだ。自分たちがいったいどのような状況に陥ってしまったのかを瞬時に悟ったからだった。
「うわああっ、も、門が発動する――!?」
ティモシーが悲鳴を上げた。
「〈底しれぬ悪逆の宝庫を開け、
十三番目の王の棺を開け、
今こそ天の螺鈿《らでん》に冠をかかげよう。アッスザンスフィークル!〉」
男とも女とも知らない声が、舞い踊る光の破片とともに二人のまわりをぐるぐると巡り始める。詠唱《ゲール》が始まったのだ。
セドリックはその光の壁の向こう側に、自分たちを突き飛ばした人物が立っていることに気づいた。
「まさか…、あなたは!?」
がくん、と体が揺れた。
その瞬間、まるで急に石畳の底が抜けたように、セドリックの体は宙に浮いた。それから足が、手が中に投げ出される。ものすごい勢いで落下していく――
「うあああああああああああっ」
セドリックは叫んだ。
彼の叫び声は、奈落へと吸い込まれていく体のあとを追っていった…
朝、アンブローシアはめずらしく日の光で目を覚ました。
いつのまにか漂白の魔女は新しい居座り場所を見つけたようで、嵐の目は霜降り山脈を通り過ぎてしまっていた。
雪はまだちらついていた。だが、山の向こうには何日ぶりかの日の光が見えている。上空に残った魔女のしっぽさえ通り抜ければ、山にはまた天気がもどってくるだろう。
「ああよかった。これで旅を続けられるわ」
アンはほっとして胸をなで下ろした。
正直、この蜜蜂《みつばち》の館《やかた》に逗留《とうりゅう》ることになってからというもの、アンはセドリックのことが気になって一日中落ち着かなかった。離ればなれになっているだけでも不安なのに、よりにもよってここは女たちが男に媚《こび》を売る娼館《しょうかん》のような場所だという。たしかに見たところ若い娘が多かった。みんな綺麗《きれい》にお化粧をして、つるつるとした絹の手袋をつけていた(ついでにみんな胸も大きかった)。
「ああっ、もうなんだってこんなことになったのよ!」
苛立《いらだ》ち紛れにアンブローシアは枕《まくら》をベッドになげつけ、それから思い直してぎゅうっと抱きしめた。
(なによなによなによ! あんなふうに着飾ったらあたしだってそれなりに綺麗に見えるはずなんだから。あのセドリックに抱きついてきたキトリとかいう子だって、そりゃ儚《はかな》げでかわいい子だったけど、む、胸だってあたしよりずっとあったけど〈そういえばあたしより胸があったのにあたしより細かったわどうして!?〉、たしかに男の人はわたしみたいなおてんばより、ああいう清楚《せいそ》でお人形みたいな子のほうが好きかもしれないけどっ)
アンは悶々《もんもん》としながら枕に顔を押しつけた。
(はっ、セドリックもそうなのかしら。やっぱりおしとやかな女の子のほうがいいのかしら。あたしみたいに筋肉の付いちゃってる腕とか足とかはイヤなのかしら。ううんそんなことないわ。ちゃんとあたしのことが大事だって言ってくれたもの。で、で、でもちゃんと好きって言われてない…。それにあのミョーにお人好しなところがある彼のことだから、強引に押し迫られたらイヤとはいえかも。そ、そうしたらいったいどうなるの!? あんな綺麗な娘たちに好きにしてと言われて、理性がとばない男がいるなんて思えないし。ううん、セドリックを信じてるもん。絶対に絶対にそんなことって…。っていうか)
「言っとくけど、あたしが先に好きになったんだから!!」
アンは枕をベッドに投げつけると、そう吼《ほ》えあげた。
まったく、ここはとんでもないところだ。ただの娼館ならいざしらず、わざわざ魔力の高い男と交わり、兵隊にするための子供を作る場所だというのだから――!
「天気になったのなら、こんなところさっさとオサラバするにかぎるわ!」
アンブローシアは勢いよく毛布をけっ飛ばしてベッドをおりた。
素早く服を着替え、いつもやっているように銃器の手入れをしようと、ベッドにたてかけてある魔弾砲に手をかける。ふと、部屋の中がすでに温かいことに気が付いた。
「暖炉に火が入ってる…」
使用人用の離れとはいえ、暖炉に使われている石も彫刻が施された立派なものだった。ここの中の煤《すす》をかき出したりポリッシュで磨いたりしに、一日に一回だけ働き蜂《ばち》たちがやってきた。それを手伝っているうちにエルウィングが娘と仲良くなったようで、このごろは火をいれたり納屋に薪《まき》を取りに行ったりするのも自分でしている。
部屋の中に彼女の姿はなかった。外は日が差しているので、また洗濯を手伝いに行ったのかもしれなかった。
(エルウィング…)
アンは自分の中で彼女の存在が、今までとは大きく違ってきていることを感じ始めていた。
初めは、セドリックとべたべたしているようで彼女が嫌いだった。女らしさも慎ましさも、自分にないものをすべて持っている彼女は見ていて苛々《いらいら》した。なにかにつけてつっかかった。そして、そんな自分のことを笑ってかわしてしまう彼女の大人なところも鼻についた。つまりなにもかもが気に入らなかった。
なのに、最近はそうは思わなくなった。嫌いだという感情よりもさきに、ある感覚を覚えるようになってしまったのだ。
(怖い)
それは、セドリックがレニンストンに単独で旅をして、二人で彼の帰りを待っていたときに明らかになった。
今までセドリックがエルウィングにひっついていると思っていたが、そうじゃない、エルウィング自身がセドリックに強く執着していること。そして、セドリックを何物にも代え難く思っていること…
『セドリックはわたしのものよ。勝手に触らないで』
エルウィングの、あの惚《ほう》けたような蜻蛉《とんぼ》の顔が忘れられない。あのときのことを思い出すたびに、アンブローシアは背筋が凍ったようになるのだった。
いったい彼女はどういう人間なんだろうと、アンブローシアは密《ひそ》かに考えたことがあった。セドリックの姉であり、メンカナリンのシスターであること。メンカナリンの教義によって魔法を使わないこと。破壊的なオンチであること。そのくせ妙に歌いたがりなこと。
けれど、改めて考えてみると、それはたいして彼女のことを知っていることにはならないのではないか、とアンは思う。
今まではセドリックのお荷物としてしか認識していなかったから、アンは彼女のことをあえて知ろうとは思わなかった。けれど、それが巧妙な隠《かく》れ蓑《みの》だとしたらどうだろう。アンはセドリックがエルウィングのことをよく知っているから、大丈夫だと思っていた。でもその根拠はどこからきたのだろうか。彼女が彼の姉だから…?
本当に…?
自分が投げ入れた一投の疑問が、思考の淵《ふち》に何重もの波紋をうみだすのを、アンブローシアはたしかに感じた。
セドリックとエルウィングは本当に血のつながった姉弟なのだろうか。
セドリックが血の精製機関で生まれたことだけは確かだ。ならば、彼女は? セドリックの血のつながった姉である彼女が、どうしてわざわざ魔法を使えないメンカナリンのシスターになったのだろう。メンカナリンの鉄槌軍には、ごくまれにではあるが〈聖女〉と呼ばれる女性の僧兵も存在する。もしセドリックが蜜蜂《みつばち》の子供なら、エルウィングだってそうなのかもしれない。そうである可能性は高い。
だとしたらなぜメンカナリンの聖職者たちは彼女を僧兵にしなかったのだろう。あれだけの魔力を持つセドリックの姉に魔力がないとは考えられないが、そういう例がないわけでもないから、だからシスターになったのだろうか、それとも。
もしかしたら、魔法が使えないとあたしが思いこんでいるだけじゃないだろうか…
アンは目の前が急に灰色になったような錯覚を覚えた。
今までは、ずっとエルウィングはセドリックのあとをついてきているだけだと思っていた。けれど、そうじゃないのかもしれない。エルウィングこそがセドリックを誘導しているのかもしれない。弟を心配する甘い姉のふりをしながら、ただのお荷物のふりをしながら、真実はすべて彼女が思い描いたとおりの行路をとっていたのだとしたら――
「セドリックに、会わなくちゃ…」
アンはいても立ってもいられなくなった。
今すぐセドリックに会いたかった。会って、本当のことをすべてぶちまけてしまいたかった。今までずっと言えないできたことがある。自分がガリアンルードの王女だったこと。だから、今はちりぢりになってしまったガリアン人らを率いていかなければならない立場にあること。
それから、彼がとても好きだということ。
(これからあたしは、大きな決断しなければならないんだわ)
それによっては、今持っているなけなしのものまで失ってしまうかもしれない。けれど、アンブローシアの心はすでに決断に向かって突き進み始めていた。
王女であるあたしは、セドリックを協力させたいと言っている。そしてアンであるあたしは、ただ彼といっしょにいたいと言っている。
あたしとセドリックはべつべつの人間だ。王女とあたしではない。二つの器にはいってしまったものは、もうけっして同じものにはなれない。
でもほんの少しでいい。ばらばらの意志を――、体ではない心を、今だけでも二つをひとつにすることはできないだろうか。たとえば、こういういい方は陳腐かもしれないけれど愛情によって。
「アン」
びくっと肩が震えた。
部屋の入り口に、泥炭を積んだバケツを持ったエルウィングが立っていた。
アンはこめかみに冷たい汗が流れるのを感じた。
「ああ、もう起きたのね。ちょうどよかったわ。キサラさんがいらしてるの。あなたに会いたいって」
「あたしに?」
エルウィングに続いて入り口に現れたのは、いつも暖炉の掃除をしにきてくれる働き蜂《ばち》の娘だった。彼女は小さく会釈すると、バスケットの中から焼きたてのパンを取り出した。どうやら朝食を持ってきてくれたらしい。
「あたしに会いたいって?」
「ええ、でもちょっと長い話になるから座ってもいいかしら」
アンは頷《うなず》いて椅子に座った。エルウィングが暖炉の自在鉤《かぎ》を引き寄せて、そこに鉄のやかんをつるして火にかけた。それから、手持ちの木の茶壺から紅茶の葉を取り出した。
「単刀直入に言うわ。アナタ、ガリアンルード人でしょう」
いきなりそう言われて、アンはびっくりして大きく息を吸った。
「…え、ええ、そうだけど」
「じゃあ、キャラバンを知ってるわね」
アンはますます驚いて、キサラの顔をじいっと見直してしまった。その行為を肯定と受け取ったのか、キサラは続けた。
「ワタシ、キャラバンのために働きたいの。いいえ、ワタシたちふたりともよ」
「ふたりともって、まさかあの白い子も…?」
キサラは頷いた。
「どうして」
「ワタシたちは、ふたりともガリアンルード人よ。両親とはあの動乱で別れたわ。それから、キトリの魔力が人並み外れて高かったから、魔法の使い方を教わったわ。こうして銃も持ってるの」
キサラはおもむろにスカートをめくりあげると、ペチコートの下からなんと魔法銃を取り出した。それをテーブルの上に置いた。
ゴトリ、と重い音がした。
「これは…、サニーサイド社のリトルウィッチ」
「そうよ。さすがによく知ってるわね」
女性には少し大きいかと思われるその銃は、弾がライフルのように細長いことでも知られる六連発式で、中もよく手入れがしてあった。服にひっかからないように撃鉄が丸く削り取られ、シリンダーがなめらかに動くよう使い込まれている様子から、このキサラという娘がそこそこの使い手であることがうかがえた。
「ワタシはずっと祖国のために働きたいと思っていたわ。でもあの子の体じゃ二人だけじゃ生きていけない。ワタシには魔力がないから、キトリなしじゃ魔法弾を作れない。でもあの子ひとりじゃ銃を持って戦えない。もし、キャラバンがワタシたちを保護してくれるというなら、ワタシたちに異論はないわ」
アンが黙っていたので、キサラは更に続けた。
「それにキトリの魔力は尋常な量じゃないもの。このままじゃあの子の魔力はメンカナリンのいいようにされてしまう。メンカナリンのために働く魔力の強い子供をつくるためだけの道具にされてしまう。祖国のためにもそんなことは…、
――いいえ、違うわ。ワタシはキトリを失うのが怖いのよ!」
「キサラさん…」
突然言葉を詰まらせたキサラにかわって、ワイヤー製の茶こしに沸いたお湯を注ぎいれながらエルウィングが言った。
「キサラさんのお姉さんは、もうあまり長くはないって言われているんですって。だから…亡くなる前にここの…、ジャンヌさんといったかしら…、監督さんがキトリさんに子供を産んでもらおうとしているらしいの。どうせ死ぬのなら、その魔力の受け継ぎ先を残したいって…」
と、彼女は言いにくそうに言葉を濁した。
「ひどいわ。そんなのまともな人間のすることじゃないわ。わたしにはわかるの。だって、わたしとセドリックもふたつでひとつなんですもの」
「!?」
アンブローシアの目が大きく見開かれた。そんな彼女の動作に気づいていないのか、エルウィングは熱心に話し続けた。
「わたし、キサラさんにそのことを聞かされて、とっても同情してしまったの。わたしなら耐えられないわ。セドリックをそんなふうに扱われるなんて絶対に許せない。なにをしてでも大事な人を守らないとって思うわ。そしてね、キサラさんもそう思ったからこそ、もうここにはいられないって考えたそうなの」
ごくふつうの声音だったにもかかわらず、アンブローシアはぞっとした。エルウィングの言葉の裏に、なにか言葉面よりもっと恐ろしい意味が潜んでいるような気がしたからだ。
キサラは、すがるような射殺すような目でアンブローシアを見つめた。
「お願い。ここを出て行くときにワタシたちもいっしょに連れて行って。そして、ワタシたちをキャラバンに入れてほしいの。アナタも祖国のために戦っているんでしょう。ワタシたちは同胞よね?」
「…………」
アンがなにも答えられないでいると、それをためらっていると捉《とら》えたのかキサラはますます語調を強くした。
「ワタシもキトリも命がけで祖国のために働くわ。こんな場所で、命を道具のようにもてあそばれたままあの子を死なせたくないの。たとえ死ぬことになっても、あの子の望むようにしてあげたいの」
命をかけて。
その言葉を、アンはどこか懐かしく思った。いつからだろう、口癖のようだったそれをいっさい言うことをやめてしまったのは…
アンは顔を上げた。
「本当にいいの? そうなる道を選んだ以上は、あなたに従順の道は残されていないわよ」
言葉をうまく選ぼうとしながら彼女は続けた。
「スラファトの言うとおりしていれば、得られる平穏さえ失ってしまうかもしれない」
「それがなんだっていうの。右の道も左の道も、地獄にしか続いていなかったのに!!」
キサラの言葉には、まるでアン自身を責めているかのような鋭さがあった。
アンは、最後にもう一度確かめることにした。
「…最後に聞くけど、あなたのお姉さんもそのことを望んでいるのよね?」
「もちろんよ」
固い決意の表情でキサラは言った。
「ワタシたちはふたつでひとつですもの」
ふたつで、ひとつ…
その言葉が、アンの頭の中でぐるぐると回転木馬のように回りくるった。
頭の中で、アンの王女がささやいている。
『彼女たちがそうしたいと言っているのなら、なにを迷うことがあるの。祖国のために働きたいという崇高な願いじゃないの』
少し前のアンだったら、一も二もなく頷《うなず》いただろう。でも、今のアンブローシアは、命がけで戦うという彼女たちの考えにすぐには同調できないでいた。
どうしてだろう…
「…わかったわ。でもわたしたちはいいけれどあなたたちはどうやって脱出するの? 見つかったら連れ戻されるでしょう」
キサラはしたり顔で頷いた。
「実は、アナタに見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
「それを使えば一瞬でこの一帯から離れられる。行く先にアテができれば、ワタシたちはすぐにでもそれを使って脱出するつもりだったの。口で説明するより見てもらったほうが早いと思うから、今から母屋のほうに来てくれる?」
アンはチラっとエルウィングを見た。母屋のほうに行くのなら、彼女も行きたいと言いだすかもしれないと思ったからだ。
しかし、エルウィングは椅子に座ったままいつもの顔で微笑《ほほえ》んだ。
「見つかったら困るんでしょう。なら、わたしはいいわ。ここで待っているから」
「…………」
複雑な思いを感じたものの、アンは早くここから出たいという想いが先にあったので、とりたててなにも言わなかった。
「じゃあ急いで。こっちよ」
キサラに言われるまま、アンは部屋をあとにした。
キサラとアンブローシアの二人は、昼間だというのに蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りに頼って歩いていた。それもそのはず、二人が歩いているのはなんと母屋の地下だったのだ。
「こんなところになにがあるの?」
アンの問いに、キサラは静かに、というジェスチャーで答えた。
「ここは、外から来る人間が主に使っている道なの。ワタシはここの存在を知ってからずっとキトリと脱出することを考えてきたわ。けれど、あの子をかかえてあてもなくさまようわけにはいかない。だから、ずっとキャラバンに接触できる日を待っていたの」
こんなに早く会えるなんて、と彼女はささやいた。
地下はひんやりとして、石壁からにじみ出る冷気が頬《ほほ》をつっぱらせるようだった。アンは息を吐《は》いて指先を温めた。
その廊下には内装がほどこされていず、石壁が剥《む》き出しになっている。それでもあまり使われていない風なのに、なぜかところどころに灯《あか》りがともされているのが不思議だった。
やがて、キサラは一枚の扉の前で立ち止まった。
「ここよ。アナタなら一目みればそれがなんだかわかると思う」
彼女は、ノブに手をかけぐいっと押した。
「どうぞ」
中に入った途端、アンブローシアはそこに多くのロクマリアがあることに気が付いた。魔法を使った形跡がある。それも、ずいぶんと重々しい感触だ。
なによりもアンは、床にぽうっと発光しながら浮かびあがっている円に目を奪われた。真ん中に設置されている古代の門のレリーフに、まさかという想いが頭をよぎる。なぜなら、彼女はその図柄を書物の中でしかみたことがなかったのだから。
「これは、まさか〈門の魔法陣〉…?」
「そのまさかですよ」
ふいに男の声がした。
アンブローシアは声が響いたほうを向いて、あっと声をあげそうだった。
「あなた、あのときの――」
火屋《ほや》のついたランプを手に立っていたのは、スラファトの技術将校だというプルート=バシリスだった。
アンブローシアはキサラを振り返った。
「どういうことなの、これは!?」
「ああ、彼女を責めないでやってください。彼女はなにも知らなかったのですから」
事実、キサラは今にも灯《あか》りをとりおとしそうになるくらい青ざめてぶるぶると震えている。
「わ、ワタシはここを見に来ただけで、逃げようなんて――」
「わかってますよ。キミはかしこい子だ。ここから人が出入りしていることに気づいても、確実に逃げ切れる算段がつくまではむやみに動いたりしない。ましてやあのキトリをつれてはね」
言って、彼は大げさに手をふりあげたかと思うと、アンブローシアに向かって優雅におじぎしてみせた。
「それより、こんなむさくるしいところまでおこしいただいて恐縮です。王女殿下」
「!?」
アンブローシアは、とうとう自分の心臓が凍り付いてしまったかと思った。体中の温かい血が、一気に足下に向かって流れ落ちていく。アンはかろうじて強気に言った。
「…おまえはだれなの。そしてここはいったい何!?」
「ご存じのとおり、わたくしはスラファトの陸軍第1083技術部隊情報科所属、プルート=バシリス少尉と申します。本日は、ガリアンルード国の元王女、アンブローシア殿下をお迎えに、竜王陛下よりじきじきに命をおおせつかってまいりました」
「アン王女殿下!?」
キサラが強《こわ》ばった顔でアンを振り返る。
アンは、それを見ていなかった。
「すでにおわかりかと思いますが、この二つの魔法陣はどちらも門の魔法陣です。これだけのものがいまだに生きて残っていることはたいへん珍しい。我々1083技術部隊情報科の専門はこの魔法陣の解読でしてね。わたくしなども常日頃からここを訪れて研究に専念しているわけなのですが…」
プルートは、人好きのする笑顔のまま言った。
「いやはや、まさかこんなところに指名手配されている王女さまがいらっしゃるとは」
「通報したの!?」
「密告は国民の義務ですよ。殿下。あいにくとボクには今とっても欲しいものがあったんです」
スミマセンネエ…と、申し訳なさそうに首をひっこめる。
「…にしても、今日は門の通行人が多い日だ。さっきも男の子二人がここを通って向こうに行ったんですよ。今ごろは初めての向こう側ダイブ体験中でしょう。ボクもはじめてのときはかなり刺激的だったなァ」
うそぶくプルートに、キサラが気丈にもくってかかった。
「男の子二人って、まさか!」
「大丈夫ですよ。そっちの魔法陣もちゃんと生きていますので、出口がないままさまよってメルメットの大河に飲み込まれることはない。ただ、行き先がちょっとばかり危ないですねー。たしかあそこはボスローの戦闘地域に入っていたはずですから」
「ボスロー!!」
キサラが口元を覆《おお》って息を呑《の》む。その拍子に、彼女の持っていた灯《あか》りがカシャーンと音をたてて床に落ちた。
蝋燭《ろうそく》の火は消えずにコロコロと転がって、今度は鑞《ろう》を床の上に垂らし始める。
「魔法銃も持たずにあんなところに子供ふたりがほうりこまれたら、まあ今ごろは蜂《はち》の巣になってても文句はいえないですねェ」
と、おもむろにプルートが蝋燭の火を踏みつぶした。
「!?」
まっ暗な中に、蜜蝋《みつろう》の甘い匂いと煙だけがほのかにただよっている。
黙ったまま下唇《くちびる》を噛《か》んでたえていたアンに、プルートはうす目を開けて笑った。
「ああ、そうそう。それでもって、こちらの門は我々の都、いと高きかな至高なる都市ジノクライアにつながっています。
あなたのご到着を竜王陛下は今や遅しとお待ちですよ、王女さま」
(あたしと王女は、ふたつでひとつ…)
――アンの目の前が、闇よりも深い絶望に染まった。
夢から目覚めると、女が自分の髪の中に指をさしいれて中をまさぐっていた。
それは愛撫《あいぶ》するというよりは、母親が子供になにかを言いきかせるときの仕草《しぐさ》のようで、男はもうしばらくの間、目を覚ましたことを気づかれたくないと思った。
「寝たふりはダメよ、坊や。夢はもうおわったわ」
クスクス笑いがすこしずつ遠くなる。男は仕方なく目を開けた。すぐ目の前に、世界で最も由緒ある王立劇場の、シャンデリアの灯《あか》りが一番届く場所で踊っていたころからはすこし老けた女の顔があった。
老けたとはいっても彼女はまだ十分美しい。雪に研磨された肌は透き通るように白く、髪は黒いにもかかわらず黒曜石のような細かな金を孕《はら》んでいる。
そして唇《くちびる》は蛭《ひる》のように赤かった。
無理もない、と男はかぶりを振った。彼女にはじめて出会ったのは、自分がまだ十五、六のころだ。あのころはみんなが若かった。彼女はダンサーを目指して名門バレエ団のテストにパスしたばかりだったし、たったひとりの親友につきまとう小鴨《こがも》のような自分をうさんくさい目で見ていたものだ。
あれから、ずいぶんといろいろあった。彼女は空爆で足を失い、オペラ座の舞台には二度と立てなくなった。
彼女の親友は死んだ。
唯一信じていたはずの男に殺された。
「なあに、そんなふうにじろじろ見て。人の顔に皺《しわ》なんか探しているんじゃないでしょうね」
女が顔に飼っている蛭が、男のくちびるに噛《か》みついた。男は蛭に吸い付かれながら笑った。
「歳はお互いさまだ。ジャンヌ。君はかわってない」
「あなたは変わったわ。あの子が死んで死体のようだったのに、いつのまにそんな情熱的な男になったの」
「情熱的?」
女がぺろりと唇を舐《な》めた。
「たったひとりを追いかけ求めるような」
ジャンヌが男の体の上に乗った。薄いナイトガウンごしに女の細い腰がおしつけられる。昨夜の情事のなごりを楽しむような間柄ではなかったが、男の顔に不満はなかった。
女の手のひらが男の頬《ほほ》をはさみこんだ。
「ねえ、悪い夢でも見たの? 魘《うな》されていたわよ」
「まさか、阿片チンキでもかがされたみたいによく眠れた」
「嘘《うそ》。名前を呼んでた。なんどもなんども、恋人を呼ぶみたいに!」
「ペットの名前さ」
グレイシス! と男が呼ぶと、今の今まで椅子のへりをガリガリとつついていたオウムが大きな羽音をたてて飛んできた。
二人の折り重なった上に、いろいろな色の混じった羽根がベッドの上に落ちてくる。
彼女は声をあげて笑った。
「いやあね、グレイシスのことじゃないわよ。あなたが呼んでいたの」
「なに」
「セドリック、って――」
男の顔に、ようやく感情らしいものが芽生えた。それに満足したのか、ジャンヌはますますそのことについて言及した。
「あの子をはじめて見たときびっくりしたわ。グレイシスがはじめてオペラ座につれてきたときのあんたにそっくりだった」
「…あんたはたしか、籠の中の小鳥の役だったな」
「そうよ。死んでしか外に出られないの。かわいそうな小鳥」
ジャンヌは男の体の上に大きくまたがるようにして、男を見下ろした。彼女の長い髪が男の胸に生き物のように垂れ下がる。
「あんまり似てたから、ちょっとイジワルしちゃった。女の子連れだったのにカワイソウなことしちゃったわ」
「そうか」
「あの子、下に連れて行かれたわよ。どうするの?」
「どうにも」
男は興味なさそうに寝返りをうつ。側で、オウムがかまってほしそうにいったりきたりしている。
女はじっと男の背中を見た。広い背中だった。まるで強固な鉄の壁のようなそれには、全面に棘《いばら》でできた十字が彫り込まれている。入れ墨ではない。死刑よりも重い罪をせおった囚人に与えられる、メンカナリンの焼きごてだった。
彼女はそれに触れようとして、ふっと思いとどまった。起きあがって分厚いガウンを羽織った。腰にまきつけすばやく紐《ひも》をむすぶ。
「ルーカ」
ジャンヌが男の名を呼んだ。
「…もう、過ぎたことよ」
「…………」
男がなにも言わないことに諦《あきら》めたのか、ジャンヌは肩をすくめドアのほうに歩いていった。
一度だけ振り返って、声をかけた。
「あんたがなにをしようと、あたしはあんたを咎《とが》めはしないわ。グレイシスもそうだったと思うから。…それに、本当によく似てるわあんたたち。あのころは、あんたもあんなふうにグレイシスを見ていたのよ」
パタン、とドアが乾いた音をたてて閉まった。しばらく男は死んだようにじっとしていたが、やがて小刻みに体を震わせ始めた。
彼は笑っていた。
「本当によく似てるわ、か――」
彼の声を聞きつけたのか、オウムがベッドの上で騒ぎ出した。
男は起きあがった。そのむきだしの肩に、まってましたとばかりにオウムが爪《つめ》をたててとまった。それでも男はまったく表情を変えない。
「似ているもんか。セドリックはあいつのほうにそっくりだ。強情で高慢で人のいうことなんかちっとも聞きやしない…」
俺が犯して殺した最高の聖女。
グレイシス=ゲゼル。
もう、とっくにこの世にいない女――
「一度手に入れたものはもう惜しんだりしない。それがなにであっても」
彼が声を押し殺して笑っていると、すぐ側でオウムが羽根をばさばささせながら騒ぎ立てた。
「ニテイルモンカ! ニテイルモンカ!」
「ああ、おまえはいい子だ。グレイシス」
ミス・グレイシスが低く鳴いて甘えるように頭をよせてきた。その鋭い爪《つめ》が肉にくいこむのを感じながら、オリヴァントはやさしく言った。
「そうだ、おまえたちはいつだって」
まるで、愛《いとお》しい恋人にささやくように。
「いつだって、俺のいうとおりにしていればいいんだ――」
〔以下続刊〕
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あとがき:よいこは先に読んじゃいけません(ネタバレあり)
こんにちは。世間様はクリスマスな今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。ご近所に愛とメガネをお届けするさりげにメガネ満載ファンタジー『銃姫』も、なんと3巻までやってまいりました。えっ、乳はやめたのかって? いやねアナタ(誰だ)、今回本当にページがなくてくわしく言及できなかったんですよ。たいへん残念です。両手を地面につけてうなだれたいほど残念です。本当はキトリにベビードールを着せるはずだったのに! 己の構成力のなさが憎い…。そんなわけで、
『今週の特選メガネ→プルートさんの丸メガネ』
で、お送りいたしました『銃姫』3巻です。えっなにそんなことはどうでもいい?
ここが大事なんですよ!
前回軍服メガネを出そうと思ったとき、わたくしはたいへん悩みました。メガネは銀縁にするかそれとも丸にするか、それともサングラスにするか。
メガネといえば銀縁。銀縁といえばオールバック。オールバックといえば詰め襟《えり》軍服。というわけであっさり決定したのですが、メガネを愛する私にはどうしても丸メガネとサングラスは捨て切れませんでした。これはセーラー服の下はキャミソールかタンクトップか、それともダイレクトにスポーツブラかぐらいの大問題なんです。なに問題じゃない? よーし貴様表へでろ。
そして、悩んだ末、私はある結論に達したわけです。つまり…
「わたしが神なんだから全部出せばいいんじゃん?」
そんなわけでバシリスさんちは三兄弟になったのでした。長男がグラサン、次男は銀縁、三男は丸メガネ――というわけで、まあつまりおまえら早く眼科へいけという…
次の野望は三兄弟で「メガネがない、メガネメガネ…」をやることです。なに、銃姫っていったい何かはやく説明しろって? あ、書くの忘れてたヨ。メガネに胸がいっぱいで。
ま、それは冗談なのですが、ストーリーを先に進めたいばっかりに量を書きすぎて、この章は前後編になってしまいました。前半はシークエンスが多かった分、後半はのっけからいろんな暴露話が続きます。今回鳴りをひそめていたお姉ちゃんもついに正体を現す!…かもしんない。がんばって書きます。メガネも(←それはいい)。
ゴスロリ描かせてごめんなさいなエナミさん、今回死ぬほど働かさせた担当K田一さん、次もよろしくおねがいいたします。
またお会いしましょう〜
次の野望は三つ編み 高殿円 拝
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※本作品(電子書籍版)にイラストは収録されておりません。ご了承ください。
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書名:銃姫(3)
著者名:高殿円
初版発行:2004年12月31日
発行所:株式会社メディアファクトリー
住所:東京都中央区銀座8-4-17
電話:(03)5469-3460(編集)
制作日:2006年8月31日
制作所:株式会社パピレス
住所:東京都豊島区東池袋3-23-14 ダイハツ・ニッセイ池袋ビル2F
電話:(03)3590-9460
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