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銃姫《じゅうひめ》(2) 〜The Lead in My heart〜
高殿円
目次
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――告白します。
神さま、告白します。ああどうぞわたしを罵ることなく、このやるせない胸のうちをお聞きくださいますように…
この気持ちは、まるで災厄のようです。
わたしには、たったひとり弟がいます。
とても愛しい弟です。
たとえば古く大きな木が木こりによって打ち倒され、なおも家具としての役目をはたすように、わたしは彼に出会えたその瞬間から、もう一度生きることをやりなおしました。
そんなことは不可能だとお思いでしょう。あなたがお与えになったいのちは、決してくりかえされたりやり直すことのできるものではないとお考えでしょう。
…でもそうなのです。事実なのです。まるでいままで固いさなぎだったものに羽根が生えるがごとく、わたしはまったく違う名、まったく違う存在意義をもって生まれ変わったのです。
それほどまでに強く、わたしは彼を愛しているのです。
――弟として。
彼はわたしをすてきな名前で呼んでくれます。古い言葉で“雨降らす翼”という意味です。大昔、日照りに苦しんでいる彼らを哀れんで天界から飛んできた雨鳥のことをいったのだそうです。
“エルウィング”
なんてすてきな名前。
それからもうひとつの、ほかのだれも呼ばない特別な呼び方でわたしを呼びます。
“ねえさん”
と――
いつの頃からか彼がわたしを呼ぶたびに、わたしの中に小さな虫が棲みついて悪さをするようになりました。
そうして彼がううんと背伸びをするしぐさや、鼻をつまみながらにんじんを飲み込んでいる姿を愛おしいと思うと同時に、胸のはじっこに虫がかじりついて胸を痛めるようになったのです。
その虫を、なんと呼べばいいのでしょう。
彼が笑うとうれしいのです。花が咲いたようにうれしいのです。
でも、その顔がわたしをねえさんと呼ぶと、たちまちのうちに心が揺らいでくるのです。ちょうど時化《しけ》のときの船のように心がぐらぐらと揺らぎ、まっすぐに立っていられないのです。
ねえさんと呼ばれればそわそわといてもたってもいられなくなり、エルと呼ばれればわたしの中の虫が小躍りする…
神さま、これもあなたがお決めになったこの世の理《ことわり》なのでしょうか。それともあなたのあずかり知らぬうちに運ばれた、とるにたらぬ種のしたことなのでしょうか。
でもそれなら、あまりにひどい。
災厄のようです。
――いいえ、まだだいじょうぶ。
お話しいたします。
最近、わたしの中の虫はとみに凶暴になりました。
原因はわかっています。彼がわたしだけを見つめていないことを、わたしの虫が快く思っていないからです。
彼のまわりにはわたしでない人間がたくさんいる。そうして彼がわたしではないほうを見るたびに、わたしはなんとかこちらを見てはくれないものかとやっきになっている自分を見つけるのです。その間もわたしの虫はどんどんと食い太って、私という人間をなくしているのです。
そのうちわたしはどんどんどんどん食べられて、身も心ももうすかすかになって、なにを考えるにつけ心の中がぽっかりと穴があいたようで、自分自身が食べられていくようで空しささえ覚えるのです。
ああ、こんなことってあるのでしょうか。
自分が自分でなくなっていくような怖さ…。内側からじわじわと違うものに作り変えられていくわたしは、彼に笑いかけるわたしでない人に対して、刃物のように視線を鋭くしているにちがいありません。
見ないで、見ないで、そんな目でわたしの弟を見ないで。そんな汚らわしい、みにくい感情をまとわりつかせて、彼を自分のものにしようとしないで。わたしの、わたしの弟なのよ。わたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしのわたしの、
わたしのものよ――、わたしのセドリックにさわらないで!!
「――いやだやめて!」
こんなのは違う。
私は耳をふさぎます。決して自分の心から耳をふさいでしまうことはできないのに。
でも、このままではきっと 虫 に なってしまう…
ああ、ですから神さま。近ごろのわたしはあの子がわたしを姉さんと呼ぶことに対してすら、息苦しいような焦りを感じるのです。
違う違う、そんなふうに見つめてほしいんじゃない。そんなふうに呼んでほしいんじゃない。わたしを特別に見るふりをして、このままではわたしだけがかやの外に置かれてしまうのじゃないか。
でもわたしはあの子をそのように愛してきたのです。いまさらわたしの居たい場所はここではないと、どうして声に出して言えるでしょう。
ご存じですか神さま、こんな気持ちを。ああ、ああ、ご存じだったのですか――
わたしの中には虫がいます。
うじうじと蠢《うごめ》くだけの、しようのない虫が。
確かにこれはわたしが育てた虫なのです。わたしの胸を食い破り、わたしの血潮をかてにして肥え太った…。
やがて蛹《さなぎ》になるでしょう。
かさかさに乾いた茶色い鎧を押し破り、背中のたての割れ目からしわくちゃにたたんだ羽をのぞかせて…
そうして、いつかは孵る。
――もしかしたらわたしは、そのときを待っているのかもしれません。
神さま。
この世の理を知るたっときおかた。
そして、わたしをおつくりになったのではないおかた。
どうぞお笑いくださいますよう。
きっと、もうすぐごらんになれる。
わたしがわたしでなくなった、わたしの孵化したあとの姿を、
明るさに惹かれてふらふらと火の中へ飛んでいく愚かなわたしを、
どうぞ、そこにいて、
ご ら ん に な っ て くださいますよう――
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第四話 世界でいちばん偉い人
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強く、強くと願ってきたんだ。
もう時計の中に隠れたくないから、強くなりたいと願ってきたんだ。
強くなりたい。心も体も鋼のように強くなりたい。
そのためにセドリックは魔法を勉強する。たくさんの本を読む。カートリッジを作る。そして戦う。
戦う。
戦う。
どうしてだろう、セドリックは人よりもずっと努力しなければ幸せになれない気がしていた。それはセドリックが孤児だったからか、それとも生まれつき人にはない力を持っていたからなのか。どちらなのか自分でもよくわからない。
でも、決して不幸せではなかったと思う。
いままでは子供だったから、セドリックはなんでも大人の言うとおりにしてきた。弱かったからたくさんの人に守られてきた。
いつだってセドリックのそばにはエルウィングがいたし、迷う前にだれかが手をさしのべてくれた。
セドリックは物わかりのいい子供だった。なにかしなさいと言われて嫌だといったことはなかった。
彼の返事はきまってこうだった。
「わかりました」
メンカナリンの修練院では、セドリックは常に見習い修練士たちの模範だった。そんな彼を見て、大人たちはセドリックを「素直」な「良い子」だと褒めてくれた。良い修練士になれるだろうと言ってくれた。それでますますセドリックは従順になった。わかりましたと言うことが好きになった。
「わかりました! わかりました! わかりました!」
(言うとおりにすれば…、便利な人間になれば、僕は人から必要としてもらえるんだ)
だれかに必要とされる。
その快感の前には、セドリックはどんな厳しい規則や労働もへっちゃらだった。他人にいいように使われているだけでもよかった。セドリックにとって、まわりから人がいなくなるということがいちばんの恐怖だったから…
目を閉じれば、あのお屋敷のいちばん古い部屋にあった時計の中を思い出す。
チッチッチッチという細かな針の音。ギリギリ軋むぜんまいとひとりしか入れない狭いスペース。だれにも見つかったことのなかったかくれんぼうの隠れ場所。
もう、ひとりだけで時計の中に隠れているのは嫌だった。まわりのだれもいなくなってしまうのは嫌だった。怖い。ひとりになるのは怖い。あんなふうにならないためなら、僕はどんなことだってするだろう。
そんなセドリックにメンカナリンの大人たちは親切だった。彼らはセドリックの進むべき道を、進むべき「正しい神の」道をいつもやさしく提示してくれた。
魔法を習いなさい。そう言われて魔法を習った。
修練士になりなさい、そう言われて素直に試験を受けた。
そこには自分からなにかを選び取る余地などなかった。あたかも目に見えない大きな力に迷うな! と強制されているかのように(それはまわりの僧侶に言わせると神さまのお導きということらしいが)、自分はいつだって人の言うとおり、まっすぐにしか歩いてこなかったのだ。
(このままでは、だめだ)
自分の声が自分のものではないくらいがらがらにしわがれる頃、セドリックは唐突にそう思い直した。
それは突然、自分の中に起きた革命だった。
セドリックはもう十五歳だ。ひとりでなんでもできるようにならなければいけない歳だと思い始めていた。
なのにひとりが怖いあまり、セドリックは知らない間に人に頼ることばかりを覚えていた。だれかに聞き、だれかに言われたとおりにすることになれすぎてしまっていたのだった。
(このままではきっと立派な大人になれない。強く、強くなるんだ。だれにも頼らなくてもいいように!)
いままではずっとだれかに手を引いてもらってきた。でももう大人の仲間入りをしたのだから、エルウィングに守ってもらうことはない。今度は僕がエルを引っ張るばんなんだ。僕がエルを守らないといけない。
だって、そうしなければ、
(そうしなければ、また大切なものを失ってしまう…)
生まれたときからいない両親。
正体不明な自分。
いつのまにか死んでしまった乳母《ばあ》や。
そして、アリルシャーのお屋敷を襲ったあの黒い集団。
もうあんなふうに強い力に振り回されるのはごめんだった。セドリックは大切な人と別れたくなかった。なにも持っていないセドリックにとって、いままでに出会えた人たちだけが離したくない大事なものだったから。
(だから強くなりたい!)
セドリックは決心する。自分の中でともすればふやけそうになるその言葉を、かたくかたく両手で握って石のようにする。
ひとりでなんでもやれるようになりたい。立派な大人になりたい。魔法はそのための手段だ。
強くなりたい。強くなるんだ、そのための強い魔法がもっともっと…
赤き羊のベリゼルよりも強い、火魔法〈業火〉を。
王女の沈むメルメットの淵よりも深い、水魔法〈深淵〉を。
雷帝ジグラの腕をも防ぐ、光魔法〈霹靂《へきれき》〉を。
風神ゼノクレートの息吹をもしのぐ、風魔法〈嵐〉を。
(そして、土魔法)
そして、百億万の母アルストロメリアの体の上。土の上。
大地の最強魔法〈境界〉。
セドリックは土属性と言われていたから、いずれその最強魔法を極めたいと思っている。
――化け物だよ。
声が聞こえる。
――おまえは、人工的にかけあわされてつくられた偽物のいのちなのだ。
「だからどうした!」
セドリックは叫ぶ。
自分が、メンカナリンの実験体だったのならそれでもかまわない。
もし僕がオリヴァントの言うとおり血統操作をされて生まれた子供なら、僕には他人にはない強大な力があるっていうことじゃないか。願ってもないことだ。あとはそれをうまくコントロールできるようになれればいいんだ。
(それが強いってことだ。強さってことだ)
もう、奪われないってことだ。
僕の心から飛び出したあの黒い太陽。満月都市《イボリット》のあのことは、これからずっと心の奥底に封印してしまおう。罪は常にやりなおせない。ようは逃げなければいいんだ、そうだろう偉い人よ。もう自分だけ時計の中に隠れているような卑怯者にならなければいいんだ。
高いところから僕らを見ている〈だれか〉。その〈だれか〉に向かって、セドリックは銃口を突きつけるように言った。
「僕は強くなる!」
化け物としてでもいい。襲いかかることごとくをなぎ倒して、僕はだれよりも強くなろう。二番目に大切な物をなげうってでも、僕は僕のいちばんに大切なものを守る。
いつかやってくるそのときのために。
(そして)
ふと、アンブローシアの顔が脳裏に浮かんだ。
そのときがきたら、たったひとりのだれかを愛せるように…
†
――そんなふうに信じていたから、正直、あの森で起こった出来事にはどうしていいかわからなかった。
「魔法が、使えない!?」
セドリックは呆然と立ちすくんだ。
現にたったいま唱えた魔法式《ゲール》は、銀製のカートリッジに吸い込まれる前に霧のように消えてしまったのだ。
これで失敗したのは十回目だった。
(また失敗したのか? じゃあもういちど初めから…)
セドリックは根気よくポケットから新しいカートリッジを取りだし、指先に軽く握った。
カートリッジに魔法を込めるためには、まず自分の体の中にある魔力を魔法式に変換しなくてはならない。そうしないと、いくら引き金を引いてカートリッジが発射されても、そのあと魔法がうまく発動しないのだ。つまり魔法式というのは魔力の通り道だと考えればいい。
一度頭の中で魔法式をおさらいしたあと、息を吸って言葉を紡ぎ始める。
「〈金吹く土。
真鉄《まがね》なるあかき土、死せるものの墓標、
あるいはひろびろとした腕《かいな》〉」
得意の土魔法〈亀裂〉の新しい魔法式だった。古い教会のレリーフの中に見つけた〈死せるものの墓標〉という言葉や、そのほか力のある古語をいくつか組み込んで改良したセドリックの自信作だ。
セドリックはなるべく声を揺らさないようにしながら、詠唱を続けた。
「〈花の臥所に眠るものよ、
むすうのいのちを抱えて横たわるまろけき体。
赤のきざはしの…〉」
(…あれ?)
セドリックは言い籠もった。
(やっぱり、魔力が湧いてこない)
いつもなら背骨を駆け上がるようにして吹きだしてくる魔力が、なぜか今日はまったく感じられない。
「〈きざはしの背骨よ、きざ…はし…の…〉」
思わず声が浮ついた。
顎の下で汗が粒になっては流れた。
「セドリック、どうしたの?」
途中で詠唱をやめたセドリックに、アンブローシアが怪訝そうに顔を寄せてきた。
アンブローシアはセドリックといっしょに旅をしているガリアン人のテロリスト少女だった。薄い萌葱色の目に綺麗な混じりっけのない金髪を三つ編みにしていて、それが金色のエビのしっぽのようにゆれている。そのはすっぱな物言いとはべつにどことなく品を感じさせる、きれいな顔立ちの子だ。
ここは、クリンゲルという街のはずれにある“銀のとばり”という名の森だった。
セドリックとアンブローシアのふたりは、街のあかりが星よりも少なくなった頃を見計らってさっそく森へやってきた。
もちろん目的は、古い森の力を借りて強いカートリッジを作るためだ。
あのリムザの事件で、彼らはすっかりカートリッジを使い果たしてしまっていた。そのままろくに補充もせずに汽車にとびのったため、実のところセドリックのカートリッジホルダーはすっからかんの状態だった。
これから向かう北部はまだきなくさく、飛び翔ける竜の国《スラファト》と暁帝国とのいさかいはいろいろなところに飛び火しているという。そのようななかを旅する以上、いつ物騒なことに巻き込まれるかわからない。
レニンストンに行く前に、ふたりはなんとしてもカートリッジを作らなければならない、そう思って彼らはわざわざ途中下車をしてこの森までやってきたのだ。
(近ごろ北部はとくに物騒だってきいている。きっと〈銃姫〉を狙っている軍関係者だってうようよしているに決まってるんだ。そんなことになる前になんとしてもオリヴァントから〈銃姫〉を取り返さないと――)
〈銃姫〉
いまはもう失われた古い時代の遺物でできた兵器。その引き金を引くものはこの世から望んだ言葉を消し去ることができるという。
夜明け前の大戦以降、二度と使うことのできないようばらばらに解体された銃姫は、メンカナリン聖教の総本山である満月都市に厳重に保管されていた。
しかし、その兵器はあろうことかキメラの異名をとる魔銃士《クロンゼーダー》オリヴァントの手によってあっけなく盗み出されてしまった。
〈銃姫〉はいまだにその実態は謎につつまれているものの、一度はこの世を滅ぼす引き金を引いたといわれている〈神々の持ち物〉のうちのひとつだ。セドリックたちは総本山の命令によってその銃姫をとりもどすべく、彼を追いかけているのである。
そうして逃げたオリヴァントを追って北部へ向かった三人だったが、セドリックとアンのカートリッジがほぼ空なこともあって、急遽カートリッジを補充するためにこのクリンゲルに立ち寄ったのだった。
クリンゲルはシルバーホーンの山間にある素朴な田舎町だ。かろうじて鉄道が敷かれてはいるものの、人々は羊の毛を使った昔ながらの織物業で日々の生計をたてている。
セドリックたちがいまいる〈銀のとばり〉の森は、そんな切り立った山のふもとにある、なんの変哲もない森だった。
〈銀のとばり〉のように人間の手が入っていない森の多くには、いまだに銀の息を吐く太古の生き物が棲んでいるといわれている。セドリックやアンブローシアなどの魔銃士は、カートリッジを作るときに精霊の助けをかりるため、このような古い森を訪れることがままあった。
セドリックは封呪に失敗したカートリッジをにぎりしめたまま、言った。
「…なんだかうまく封呪できなくて」
「封呪できない? あら、あたしなんかさっきから絶好調なのに」
と言って、アンブローシアは手のひらに作ったばかりのカートリッジを並べた。
「〈緑〉でしょ、それから〈蜷局《とぐろ》〉でしょ。こっちはなんと水魔法の〈波紋〉! すっごいでしょ。あたし波紋なんか封呪できたの初めてなんだから。きっと魔銃士レベルがあがってる証拠ね」
封呪がうまくいって興奮しているのか、アンブローシアは顔を真っ赤にした。
魔銃士とは、セドリックたちのように、魔法を使うことを生業にしている人々のことだ。
数百年前、世界を焼き尽くしたといわれる“夜明け前”の大戦以降、銃は人々にとって欠かせないアイテムになった。なぜかというと、人間は火器を用いないと魔法を発動させることができなくなってしまったからである。
かつて、太古の昔は、人間は自分で魔法を発動させる力を持っていたという。
しかし欲におぼれた人間たちは魔力を悪用し、世界は魔の起こした火の海でおおわれることになった。
やむことのない業火。くりかえされる報復とそのまた報復…
愚かな、
愚かな、
愚かな人間たち。
ついに神は人間たちの所業をお怒りになり、彼らから魔法を発動させる能力を奪っておしまいになった…、――そう、人々は子守歌で、また寝物語でかつての自分たちの所業をいましめてきたものだった。
しかし、やがてやってきた鉄の文明は、銃という武器を使うことによってふたたび人間に魔法を使役することを許した。魔法になじみやすいという銀の特性を利用して、魔法をカートリッジに込めバネと火薬の力ではじきとばす――。ここに、人間は自らの力で魔法を発動させることに成功したのである。
むろんだれにでも引き金が引けるといっても、そうした魔法銃をあつかうためには、常に魔法を込めた弾を持っていなくてはならない。
魔法銃が普及した近ごろでは、カートリッジは街の専門店などで手に入れることができるが、そうしたものにはたいてい宝石と同じくらいの値がついている。億万長者でもないかぎり、カートリッジ屋で弾を補給しつづけることはむずかしかった。
結局、魔銃士を続けていくためには、カートリッジを自分たちの手で作ることになる。
セドリックたちもヒマさえあれば新しいカートリッジを作るために、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませていた。
「朝までは頭痛が残っていたからどうなることかと思ったけど、これならどんどんいけそうだわ!」
カートリッジ作りがうまくいってはしゃいでいたアンだったが、セドリックの顔を見て急に顔を曇らせた。
「ねえ、もしかしてまだ体調悪いんじゃないの?」
と、アンブローシアは言った。
実はクリンゲルに着いてからのこの三日間、セドリックとアンブローシアはずっと体調を崩して寝込んでしまっていたのだった。
とくにセドリックは症状がひどく、なさけないことに熱まで出してしまった。ひとり元気だったエルウィングが看病してくれたおかげで、三日目からはなんとか動けるようになったが、それまでは吐き気はするは体はだるいはでとてもカートリッジを作りにいくどころではなかったのだ。
「さすがに魔力が戻ってないってわけじゃないわよねえ。あたしたち三日も寝込んでたんだから、もう戻ってるよね」
「そう…だよね」
だいたいだと、魔力は精神が回復すると同時に戻るものだ。体力とちがって、魔力は精神状態に大きく左右されるから、ストレスを感じていたりすると戻るのが遅かったりする。
けれどいまは特別そんなストレスは感じていない。セドリックの魔力はもう最大値まで戻っているはずだった。
「じゃあ、ためしにあたしがやってみようか。さっきやろうとしたのは土魔法の〈亀裂〉?」
「うん」
「じゃ、おんなじくらいのレベルのやつやってみる。水でいくね」
そっけなくそう言って、アンは銀のカートリッジを指先に握った。
アンブローシアの詠唱が始まる。
その自分より高い声での詠唱を聴きながら、セドリックは不安に駆られた。
(まさか、これでアンの封呪がうまくいくなんてことがあったら…)
「〈銀のがぎろいたる寂寞《せきばく》
みどりのこもり沼
かがみ星〉」
どこで覚えたのだろう、ところどころセドリックの知らないような単語が混じっている。
「〈青き静寂の貴婦人よ、
そのすべらかな面を上げてわれの望みをきけよ〉」
詠唱がすすむにしたがって、彼女の体の中から魔力が指先を通じてカートリッジに流れ込んでいくのがわかる。
アンがいま唱えている魔法式は〈青の貴婦人〉という回復魔法だ。〈銀のがぎろいたる寂寞〉というフレーズは初めて聞くから、彼女はまた新たに魔法式を改良したのだろう。
魔法式というのはきまっているものではない。ある程度の基本の型はあるが、古いことばや力のある言葉をくみこんだり余計なものを削ったりして、どんどんと改良を重ねていくものなのだ。高位の魔銃士ならそのへんの文法はばっちりだから、詠唱もあっというまに終わってしまう。すると当然魔法の発動も早くなる。
いかに強い言葉を知っているか、そして魔法式をいかに短くできるかが、魔力以外での魔法戦のかぎになってくる。そのために魔銃士たちは力のある言葉を求めて、古い寺院や遺跡のあとに積極的に出かけていくのだった。
セドリックはリムザであのオリヴァントと対峙したときのことを思い出した。彼の唱えた風魔法〈微塵〉はまばたきほども早かった。セドリックが作った魔法式ではとてもじゃないがああはいかない。
(僕はまだまだオリヴァントにかなわない…。一刻も早く、銃姫をとりもどさないといけないのに)
強くなりたい。いままでより強く、いままでよりもっと強く。
強く強く。
ここ最近は、ずっとその思いがセドリックの体の隅々までを支配している。
彼が顔を上げると、鈍色に光る魔法光がすうっとアンの手の中に消えていくところだった。どうやら封呪がうまくいったらしい。
彼女は困ったようにセドリックを見た。
「あたしは、できた…けど…」
セドリックの悪い予感は的中した。
「もしかして僕だけが、封呪できてない…?」
「セドリック、あんたってたしか土属性の魔銃士よね。森はとくに土の力が強いはずなのに、土魔法が入れられないなんてへんねえ」
アンブローシアが、できあがった〈青の貴婦人〉のカートリッジを見つめながら言った。
アンが風魔法がもっとも得意であるように、魔銃士をしていると自然と自分の属性がわかってくるものだ。
もちろんこの世の中のほとんどの人間はあらゆる属性のかけあわせであるから、低いレベルの魔法なら人間は六種類の属性どれでも使うことができる。しかし強い魔法を使うとなると、より濃い血が要求される。
濃い血、つまり純粋な属性であるということは、イコール大量の魔力を持つということだ。魔銃士の適性は、自分の血がいかに純血に近いものであるかということにつきる。なぜなら、ある一定以上のレベルの魔法になると、どれだけ魔法式が強力でも、その属性の血が多くなければすぐに魔力がたりなくなってカートリッジが作れないのだ。
セドリックも魔法を習いたての頃は火や光系などの属性魔法を使っていたが、いまでは自分の得意属性しか改良しないことが多かった。彼の血は純血に近いので、火や水などの属性がほとんど混じっていないのだった。
「あたしが失敗するならともかく、土が得意なあんたが土魔法を作れないなんておかしいわ。ねえ、うまくいかないのって魔法式を改良したレベルの高い魔法?」
「うん…。〈亀裂〉と〈断崖〉の二つなんだけど…」
セドリックの声が自然と尻すぼみになる。アンブローシアは腰に手を当ててふう、と息を吐いた。
「じゃあ、ためしにすっごく初歩的な魔法を入れてみたら?」
セドリックは頷いて、もっともやさしい土魔法のひとつを口ずさんだ。魔法式が短いので詠唱もあっというまに終わる。
ふいに空中に銀の爪がひっかいたような光が走って、セドリックの持っているカートリッジの中にすうっと入り込んだ。
たしかにカートリッジの中には魔法が補填されていた。それを見たアンは言った。
「ちゃんと入ってるわよね」
「そうだね…」
「つまり、魔法式を改良してむずかしくなった魔法だけが作れなくなったわけよね?」
彼女は言いにくそうに顔をしかめて、
「ねえ、セドリック。こんなこと言うのはなんだけど、もしかしてあんたの魔力そのものがたりてないんじゃないかしら」
「魔力が、たりてない?」
セドリックはぎょっと眉根を寄せた。
「魔力が回復してないじゃなくて?」
「でもここ三日ほど魔法使ってなかったんだから、魔力が回復してないってわけはないでしょ。なのにレベルアップした魔法だけが作れない。だったら…」
と、アンはセドリックがもっともききたくなかった言葉を口にした。
「つまり、新しい魔法を作るための魔力が、あんたには決定的にたりてないってことなんじゃないの」
「そんな!」
セドリックはカッとなって言い返した。
「だって〈亀裂〉レベルの魔法なんて、そりゃあ僕はまだまだ使いこなせないけど、全体的にみたらそんなにむずかしい魔法じゃないじゃないか!」
思わず激高したセドリックに、アンは、つ、と体を引いた。
「そ、そんな怒らないでよ。あたしだってわけわかんないんだから」
「も、もういいよ!」
セドリックはあわててホルダーから新しいカートリッジを抜き出して、もう一度意識を集中しようとした。
(こんなの嘘だ。なにかの間違いにきまってる。さっきまでだってたまたま失敗が続いただけだ。今度こそ…今度こそうまく意識を集中すれば…)
初めて魔法を習ったときのように、たくさんの細い糸が寄り合わされるのを頭の裏でイメージする。しかし、その細くよわよわしい流れは川になるどころか、そのまま砂の中に吸い込まれていってしまった。
(ど、どうして!)
セドリックは泣き顔になった。
手をかたく握りしめても足を踏ん張っても、体の中からもたげてくるようなものはなにも感じられない。途中から魔力が切れてしまったかのように続かないのだ。
「セドリック、おちついてよ」
アンの気遣うような声も全然耳に届いていなかった。彼は声もなく呆然とたちつくした。
(どうしてなんだ。僕はアリルシャーの…、純潔な血を持つ子供じゃなかったのか!?)
セドリックが幼い頃住んでいたアリルシャーの古いお屋敷。
そこは失われていく魔力を保存するため、いま世界中にあるとされている血の精製機関だった。そこでは、同じ属性の男女から子供を作り出し、できるだけ濃い血脈を保つ試みがさかんに行われていた。そうして生まれた子供がセドリックであるならば、彼はこの世のどんな人間よりも濃い土の属性を持つ。そしてそれは膨大な土属性の魔力を持っているということなのだ。
その僕が魔法が使えない? 魔力がたりない? いったいどうして!? アンブローシアは次々に強い魔法式を成功させているのに、
(どうして僕だけ!?)
そのとき、ふいにふたりの立っているすぐ先のあたりに嫌な気配が混ざった。
「セドリック、あそこになにかいるわ!」
ハッと顔を上げると、ふたりのすぐ目の前にあきらかにそこだけ異質なふきだまりがある。
「ピーゴーよっ!」
アンが叫んだ。
ピーゴーは太古の生き物で、水分の多い場所に生息しているという水属性の虫蟲《アブ》の一種だ。おとなしい気質の水蟲の中で、めずらしくはじめから人間に敵意を持っているといわれている。
アンは舌打ちした。
「あまり森を騒がせたくなかったけど、ピーゴーじゃしかたがないわね」
ピーゴーは青黒い外殻を一斉に逆立てて、シャーシャーとしきりにこちらを威嚇していた。もう成虫だ。大きさは最近都市でよく見かける乗合馬車くらいはある。
「ずいぶん大きいな」
セドリックは言った。ピーゴーの殻と殻のつなぎめの隙間から細かい腹腔が見えた。森に棲む生き物の体液には総じて毒があるというから、あそこから毒が飛んできたらセドリックたちはひとたまりもない。
「アン! ここは僕が――」
セドリックはアンブローシアを庇うようにして前に飛び出した。太もものホルダーからレッドジャミーを引き抜いてシリンダーを回す。
(水属には光系か。ええっと、何番に入ってたっけ)
ためらうセドリックの肩をぐいっとアンが押した。
「ばかっ、なにやってるのよ。あんたカートリッジからっぽなんでしょう」
言われてセドリックも気がついた。そうだった、セドリックは今日森に入ってからひとつもカートリッジを作れていない。
一瞬固まったセドリックをどんっと押しのけ、アンがピーゴーに向かい魔弾砲を構えた。
「さっき作ったばっかりの雷撃系をおみまいしてやるわ。水属相手ならまかせてっ!」
ぽかんとしているセドリックを尻目に、アンは力任せに魔弾砲をぶっ放した。
ズガン! 土を殴るような轟音が響いて一瞬森が揺れる。
〈青よりも秀で金よりもすべらかなる強き流れ、
大気を切り裂く金の刃。
雷神よ!〉
カートリッジに封じ込められていたアンの声だった。やはり改良したという新しい魔法式が彼女の高らかな声とともに森にこだまする。
〈横よりは縦に、
なだらかなるよりは急に、
アショーホーレの絶壁のごとく標的の体をかち割れ!!〉
光が走る。
なにもない闇の上に、アンが唱えた魔法式の魔法文字が刻まれる! 弾ける!
「ピギィィィー!!」
太い金の閃光に貫かれてピーゴーが呻いた。とたんに外殻が翼のようにひらいて、黒い腹腔からぬめぬめとした腐液がビュビュビュっと吹き出てくる!
「うわあっ」
セドリックは思わず腕で頭をかばった。しかし一瞬早く発砲したアンの土魔法〈剣山〉が、飛んできた腐液をふたりにまでとどかせない。
ズザザザザザッ
ふたりのすぐ前の土が急に盛り上がって、見たこともないような壁ができていた。
「これ!?」
セドリックは問うようにアンブローシアを見た。彼女は強気に笑った。
「リムザであたしを助けてくれたときにセドリックが使ってたでしょう。良さそうだったからまねっこしちゃった」
彼女は簡単に言っているが、あのとき一度だけ使った〈剣山〉をもうアンがマスターしているということにセドリックはたいへんな衝撃を受けた。
アンブローシアは強くなっている、しかも川辺の葦のように急激に。
セドリックはおそるおそる手を伸ばして土の壁をたたいた。コンコン、と音がする。もともとアンは土魔法が得意ではないのに、魔法で作り上げた土の壁がこれだけの強度を持っている。すごい。
「セドリック、どいて!」
アンにけっ飛ばされるようにしてセドリックはあっけなく横に転がった。彼が呆然としている間にも、彼女はピーゴーとの戦闘を続けていたのだった。
「とどめよ!」
アンが高らかに宣言すると、魔弾砲《ダンピエール》が白煙を吹いた。彼女がもっとも得意とする〈百雷〉が発動したのだ。
「はっ!」
〈雨よりも早く広くこの世にあますところなく降り注げ、銀の矢。
その一本一本が裁きの剣よりも深く土をえぐり抜く。
指令どおりにせよ!〉
詠唱が変わっている。アンは〈百雷〉の魔法式をも改造していた。なんて強い言葉だろう。聞いているだけでこちらが身震いしてくるほどだった。
なんて強い!
金色のあこがれと同時に、セドリックの心は揺れた。
(でも、その強さは君のものじゃない。僕が――、僕こそが欲しかったものだ!!)
ズガガガガガガガガン!!!
魔法式は完璧に施行された。アンが詠唱したとおり、光の精霊から放たれた百本もの銀の矢が、自分の吐き出した腐液にまみれながらのたうち回っているピーゴーの上に燦然《さんぜん》と降り注いだのだった。
「やったわ!」
アンブローシアは土の上でぷすぷすと動かなくなったピーゴーを見て、ぴょこんと片足をはね上げた。
「ねー見た見た見たぁ。あたしひとりでピーゴーを片づけちゃったのよ。苦手の土魔法もうまく作れてたし、われながらすっごいわ。ねえ…」
セドリックは土まみれになった自分の体を払うこともせずに立ち上がった。顔色が優れない彼に、アンブローシアが心配そうに顔を覗いてくる。
「…セドリックどうしたの。怪我してないよね」
セドリックはふいっと顔を背けた。いま、アンに顔を見られたくなかった。自分が情けなくていじきたなげで物欲しげな顔をしていることを気づかれたくなかった。
(なんにもできなかった!!)
強くなりたいと願っていたのに、強くなって大切なものを守りたいと思っていたのに。
(守る…?)
ばかな、守るどころかさっきの自分はなにをしていた? 凶暴なピーゴー相手にアンにばかり戦わせて、自分はその後ろをおろおろと逃げ回っていただけじゃないか。
(こんなのは違う、こんなのは僕じゃない!)
「ちょ、ちょっとセドリック!」
なにも言えないまま、セドリックはその場を逃げ出した。
こんなにも情けない自分を、どうしても認めたくなかった。
†
そして次の朝、セドリックは宿屋のベッドの上で目を覚ました。
「ああ、朝だ…」
そう呟いて、セドリックはずるずると土の中から出てくる虫さながらベッドから体を引きずり出した。
十分に眠ったつもりなのに、まだ体が重い。
(だるい…)
いつもしている銀の腕輪さえ重たく感じられる。風邪でもないのに毎日のこのだるさはいったいどういうことなのだろう。
(結局、昨日はひとつもカートリッジが作れなかったな…)
昨日の森での出来事を思い出して、セドリックは深いため息をついた。
いっそ夢だったらいいのにと窓のカーテンを開けてみたが、そこに広がっていたのは見覚えのあるクリンゲルの山の風景だった。その山の麓には、きのうアンをおいて飛び出してきた銀のとばりの森がこんもりと見えている。
やっぱり夢ではない。
「どうしよう…」
セドリックは無意識のうちに窓にかかっていたカーテンをくるくると自分の体に巻き付けた。嫌なことがあるとすぐになにかに包まれたくなるのは、セドリックの幼い頃からのくせだった。
小さい頃は、乳母やに叱られるたびによくこうやってカーテンの中に逃げ込んだりしたものだ。そうすると姉のエルウィングがチョコレートを持ってやってきて、そのぷうんと広がる甘い匂いに、セドリックは蓑《カーテン》の中でうずうずするのである。
『みのむしさん、みのむしさん。あまいあまいチョコレートはいかが?』
エルウィングが差し出した天井の梁と同じ色をしたココアはとろけるほど甘くて、それからほんのすこししょっぱかった。
セドリックが鬱々とした気分のまま窓の外を眺めていると、
「あれ…?」
彼は丘の上の大きな樫の木の下にだれかが座っているのを見つけた。
(…だれだろう。おばあさん?)
それは粗末な布で頭全体をおおった、背中の曲がった老婆だった。
(今日もいる。郵便でも待っているのかな?)
彼女がそこに座っているのを、セドリックはいままでにも何回か見たことがあった。
クリンゲルのような山間の街には、町の中心部へ下りられない人のために食糧や薪を積んだ荷馬車が四日に一度のわりあいで山道を登ってくる。そのような物売りはたいがい郵便屋をかねていて、山に住む人々に遠方からの便りを届けてくれるのだった。
老婆はずいぶんな人待ち顔で、膝の上に大きな包みを抱えてじっとしていた。
(毎日熱心だなあ)
だれか親しい人の手紙を待っているのかもしれない。セドリックはそう思い、カーテンの外に出ようとした。
そのとき、ふいに戸口に足音がしてだれかが部屋に入ってきた。
(えっ)
彼は反射的にカーテンの中に身を隠した。
(えええ、アン!?)
驚いたことに、部屋に入ってきたのはアンブローシアだった。
セドリックは驚いて息を呑んだ。いったいなんの用なのか。彼女はエルウィングといっしょにとなりの部屋で寝起きしているはずなのに――
なんとなく出て行くタイミングを失って、セドリックはカーテンにくるまったままじっと息を殺していた。するとアンブローシアは上着の裾をたくし上げたかと思うと、おもむろにそれを脱ぎ始めたのだった。
(えええっ!?)
セドリックは思わず硬直した。
彼のベッドの上に、脱ぎ散らかされたベストが勢いよくぽーんと放られる。腰に巻いたカートリッジベルトが外され、スカートがずらされる。
(わわわわわっ)
セドリックはカーテンの中で大いに焦った。
(な、な、なんでアンが僕の部屋で服を脱いでるんだ? いったいなんの用で…、うわーっ、ど、どうしよう、どうしようどうしよう!!)
アンブローシアは服を脱ぐことに必死で、カーテンにくるまったまま硬直しているセドリックにまったく気づいていなかった。彼女は手早く靴ひもをほどくと、ブーツから足をひっこぬいた。いつもはブーツに隠されていて見えないアンのすらりとした足がむきだしになる。
(うっ)
彼女がベッドの上にあがると、セドリックの鼓動は倍に跳ね上がった。ドキンドキンという胸の音が、まるで金物をうちつけているように頭に響く。
(こ、これじゃ僕がアンの着替えを覗いてるみたいじゃないか…)
セドリックはごくりと音を立てないようにつばを飲み込んだ。息が上がっていた。さっきから頭に血が上りすぎてくらくらする。
アンは胸の前で結んだ包帯に手をかけ、それをていねいに回して一重一重ほどいていった。
(あ…)
セドリックは息を呑んだ。
ゆるんだ包帯の下から現れたのは古い傷跡だった。ずいぶんと黒ずんでいる。
(ひどい…)
アンの傷は、胸の間から左の脇腹にかけてざっくりとつけられていた。あちこちにひきつれたあとのようなものが見え、それがちょうど黒いムカデの足のように見えるのだ。おそらく、先のギザギザとしたシミターかなにかで斬りつけられたに違いない。あの様子では、つけられた当時はかなりの重傷だっただろう。
(あんな傷があったなんて、知らなかった)
アンブローシアは不思議な少女だった。知り合ってずいぶんたつけれども、セドリックが彼女について知っていることは少ない。飛び翔ける竜の国《スラファト》に滅ぼされた、鉄なる壁の国《ガリアンルード》の貴族の娘だったらしいということ。いまはその飛翔国に対してテロを続けるキャラバンという組織に入っていること、そのために世界を滅ぼすことができる銃“銃姫”を手に入れようとしていること――。
セドリックは、彼女についてそれ以上のことをなにも知らなかった。
(アンは、なにも話さないから…)
もうぼろぼろになった包帯を、それでもていねいにほどいていくアンブローシアは、まるで繭から脱皮しようとしている小さな虫のようだった。セドリックはその傷跡を見ようともう一度視線を上げ、ついで彼女の胸を見てしまった。
「うわっ」
(うっ)
うめき声と同時に、自分でもよく分からない衝動が下から上へ押しあがってきた。
「えっ」
アンがこっちを見た。しまった、と思ったときには、切り裂くような悲鳴が部屋中に響き渡っていた。
「きゃああああああああっ!」
「ご、ごめん見るつもりじゃ…」
悲鳴に続いて、まくらと片方だけのブーツがセドリックめがけて飛んできた。
「すけべっ、変態! なんでそんなところで覗いてるのよっ、ばかっ!!」
「ち、ちがうって。これは、その…」
そこらへんに散らばっていたものが、次々にセドリックに向かって投げつけられる。セドリックは必死に体を硬くした。これではとりつくしまもない。
「なにが違うのよ、どーしてそんなところにいるのよ! きゃーっちかんっ」
「そ、そんなこと言ったって、だいたいここは僕の部屋じゃ…
あっ」
なんとか弁解しようと口を開きかけたとたん、今度は弁解とはちがうものが鼻から吹き出た。
ぶっ
「あっ」
「えっ」
一瞬、目の前が赤く染まる。
鼻血を吹きかけられたアンは、しばらくボーゼンと自分の体を見ていたが、
「んもーう、サイッテー!!」
どかっ。
投げつけられたスツールは、落ち込んでいたセドリックの顔面に激突した。
†
時代の名を、月の時代と言った。
国はいくつかあった。以前より領土を失ったとはいえ、いまだこの大陸の多くを支配しているのは月海王国であり、そのまわりをまるで月に照らされた星のようにいくつかの小国が点在している。
鉄なる壁の国《ガリアンルード》があり、大僧正が治める聖なる教えの国《メンカナリン》がある。そして最近めざましい新進ぶりをとげているのが、竜王という名の国主がひきいる飛び翔ける竜の国だった。
「だってしかたがないだろ、あそこは僕の部屋だったんだから!」
両方の鼻の穴に詰め物をしたなさけない顔で、セドリックは文句を言った。
「じゃあ、どうして入ってきたときに声をかけないのよ」
「うっ、そっそれは…」
「それにわざわざ入ってくる前からカーテンにくるまってましたとでもいうつもり? やっらしい!」
さっきから不機嫌絶頂のアンブローシアが、凶器を突きつけるようにぴしゃりと言い放った。
「これだから、男って油断も隙もないんだから。サイアク」
「そっちこそ、勝手に入ってきて脱いだんじゃないか!」
ぎゃいぎゃい言い合うふたりを、そばでシスター見習いのエルウィングがにこにこと見守っている。
「ふたりとも、すっかり元気になったようでよかったわ」
と、彼女は言った。
ここはクリンゲルの中腹の街にある小さな民家だった。三人は旅籠《はたご》をかねているというこの家に宿を提供してもらい、この街に半月ほど滞在することにしていた。
カタカタ… パッタン…
…カタカタ…… …パッタン…
ふいに奥から聞こえていたミシンの音がやんだ。キイと扉が開いて、この家の主人である中年の女性が現れた。
「ベルさん…」
「どうしたんだい、大きな声をだして。また今日も“銀のとばりの森”に入る気かい?」
ベルはふくよかな体をゆすぶりながら、三人の着いていたテーブルへ歩いてきた。
「あんたたち魔銃士なんだってね。あんな辺鄙《へんぴ》な森に用があるなんてかわった子供たちだと思ったんだよ」
「“銀のとばり”のような古い森は、魔法のカートリッジを作るのに最適なんですよ」
と、セドリックはベルに説明した。
「最近はどこの土地も人が多くなって、手つかずの森は少なくなってしまったんです。おかげで精霊の数もずっと少なくなってしまって…、それで僕たちはいつも魔法を入れる場所を探すのに苦労しているんです」
旅は魔銃士にとって大事な修行のひとつである。いまでも多くの魔銃士たちが世界中を巡って沈黙の森を探したり、古い遺跡を掘り起こしてレリーフを解読したりしていた。なぜなら、そこで思わぬ力のある言葉を発見できるかもしれないからだ。
力のある言葉を魔法式に組み込めば、魔法式をもっと短くすることができ、また魔法をもっと早く発動させることができる。魔銃士の強さは、どれくらい強いカートリッジを作れるかということにかかってくるから、彼らが必死になるのも当然だった。
ベルは納得ともわからないともとれる表情で頷くと、
「あたしには魔法のことはよくわからないけど、たしかにあの森には昔から古い守り神がいるといわれていたよ。あたしらが子供の頃は、村でいちばんの年寄りが、あの森の神は山の神の妃だから、あの森がなくなったりしたら山の神がお怒りになるってよく脅かしたもんさ」
と言って、椅子から立ち上がった。
「体のほうはもういいんだね」
「はい、もうだいぶ」
「ケンカできるくらいだからだいじょうぶだね。どれ、昼も近いことだしチーズでも焼こうか。お腹がすいただろう」
「すみません、お仕事中だったのに」
「なあにいいよ、どうせこっちは一日じゅう機《はた》を織ってるんだ」
このくらいの時間になると、この山間の村では機の音がいっせいに聞こえてくる。
クリンゲル地方は上質の羊毛がとれるという白羊の生産地として知られている。ベルの家もここら一帯でとれた羊の毛で服を作ったり、村中のつくろいものをしたりして生計を立てていた。
「それでもわたしらの子供の頃にくらべたら、機械のおかげでずっと楽になったよ。あんまり分厚い皮は縫えないが、それでもつくろいものには大助かりさ」
快活にベルは笑った。まだまだ鉄のミシンは高価な機械で、おいそれと手にはいるものではない。彼女によると、この家のミシンはこの村から都へ出て成功した実業家が母親のためにと村に買って送ってくれたものだという。
「ナンネルばあさんのとこのジャンは頭の良い子でねえ。十六のときにこの街を出て、都の大学に入ったんだよ」
と、竈に火を入れながらベルは言った。
ここいらでいう都とは月海王国の首都エストラーダのことではなく、ここからすぐ北へあがったところにあるレニンストン市のことだ。
「この世でいちばん偉い人に会うんだって言ってねえ。母ひとり子ひとりだったから、ナンネルばあさんはずいぶんと反対したみたいだったけど」
「この世で、いちばん偉い人…ですか」
「そんときゃメンカナリンのお坊さまになって、神さまに仕えるって言ってたのさ」
セドリックがベルの背中に言った。
「じゃあ、そのジャンって人はレニンストンの修練院に…」
「そうそう、その修練院に入ってね。なんでもそこには偉い聖人さまがいらっしゃるとかで」
「トート修練院大学のことですね」
羊皮をなめすのを手伝っていたエルウィングが、なめし棒を置いて会話に加わる。
「あそこには六二七年の大焚書《ふんしょ》から六万冊の本を守ったという聖人トートの骨が奉られているんです。だから聖トートを慕って世界中から学生が集まってきます」
「ほ、骨ぇ!?」
怖い話が大嫌いなアンブローシアが、げっと顔をしかめた。
「なんでお寺に骨なんか奉ってるのよ」
「聖人の骨は銀になるんだよ」
セドリックがアンに説明した。
「この世界で偉業をなしえた人は、亡くなったとき骨が銀になって溶けないと言われているんだ。だから死後は聖人として骨が奉られるんだよ」
「ふうん。でも死んでからわかるんじゃ、本人にはちっともいいことがないじゃない」
と、アンがいかにも彼女らしい感想をのべた。
「それに死んで骨が銀になるんだったら、がめつい家族は売っちゃったりしそう」
「うん。実際火葬がすんでからでてきた骨が銀だったっていうんで、思わぬ人が列聖したこともあるんだよ。そのときは噂を聞きつけた寺院関係者が山ほど田舎にやってきて、その人の骨を取り合いしたんだって」
「骨を取り合い? なんで!?」
「うーん。やっぱり聖人の骨がある寺院は、権威が高いってことになるからじゃないかなあ…。巡礼者も増えそうだし」
アンブローシアは信じられない、と額を押さえた。
「まあ、そんなことは都の偉い人だけの問題さ。ここにはなんたって羊しかいないしねえ」
ベルは納戸から大きなチーズの塊を取りだすと、ナイフで適当にきりわけて鉄の串に刺した。これから火であぶってちょうど良い具合にとろとろになったところで、スープをかけて柔らかくしたパンといっしょに食べるのだ。
クリンゲルのような山村では、木をくりぬいたお椀や、もう都会ではめったに見かけなくなった臓物の煮物などが当たり前のように食卓に並ぶ。ミシンの音が山に響く時代になっても、山の食事はこんなふうに代わり映えしないものなのだろう。
スープが煮えるのを待っている間、セドリックはぼんやりと窓のほうを見ていた。
そこから見える山は、まるでチョコレートケーキにナイフを入れたあとのように切り立っていて、まとまった雨でも降れば一気に崩れてきそうに見える。
(こんな不便そうに見える山間にも、人間は家を建てて住んできたんだなあ…)
そう思うと、セドリックには人間の数千年に及ぶ営みが、とてもかけがえのないもののように思えてくるのだった。
彼は窓から視線を外しかけて、ふと視線をとめた。樫の木の下に、今朝見た老婆が座っているのが見えたのだ。
「あれ、あのおばあさん。まだ座ってる」
「ああ」
と、ベルはため息をついた。
「ナンネルばあさんだろう。近ごろ来なくなったと思ってたんだけど、また待ってるんだねえ」
アンが指についたイチジクのジャムをなめながら言った。
「そのおばあさんの息子って、ミシンを送ってくれたっていう実業家の? でもその人、メンカナリンの修練院に入ったのではなかったの?」
「はじめはそのつもりだったのさ。世界でいちばん偉い人のところへ行くって家を飛び出したんだからね。でも…、人は変わっちまうもんだ。ジャンはそれからちょっとして大学をやめて、レニンストンで商売を始めたらしい。船手形で儲けた金でここいらの山を買って、いまじゃ北部の鉄鋼王なんていわれてる。偉そうなもんさ」
ミシンを送ってくれた恩人に対してとは思えないほど、ベルの口調はそっけなかった。セドリックは妙な違和感を覚えた。
「その息子さんは、こっちに戻っておばあさんと暮らさないんですか?」
「ふん、そんなことするもんかね」
ふう、とベルは肩を落として窓をみやった。
「いくら偉くなっても、こんな寂しいところに年老いた母親ひとりほったらかしにしとくのはどうかと思うね。そりゃあジャンには感謝してるよ。こんな田舎町にまで鉄道を引いてくれたのも、みんなあの子が都のお大尽《だいじん》さまがたに掛け合ってくれたおかげだからね。
でもねえ、あんなふうに毎日毎日ジャンの帰りを待っているばあさんを見てると、こっちまでやりきれなくなるんだよ」
ベルの話では、ナンネルばあさんの息子のジャンは、村へ立ち寄ったことはあっても、実家へ足を運んだことは一度もないという。
「昔は月に一度か二度あった手紙には、いつもこう書いてあったよ。――母さん待っててよ、商売が軌道に乗ったらこっちへ呼んでやるよ。もうすこし待ってくれよ、ゆとりができたらきっと呼んでやるよ。
でも、いまじゃ仰々しい身なりの使用人が、半年にいっぺんほど多額の小切手の入った封筒をこそこそと届けにやってくるだけさ。なんでああなっちまったんかねえ。あんなに母親想いのいい子だったのに…」
鉄鋼組合の長になったら…、レニンストン市の役員になったら…
そんな風にジャンが夢中で上を目指しているうちに、あっというまに二十年がたってしまったのだった。
「ばあさんは、いまでも信じてるんだよ」
ベルはやりきれない、といった風に小さくかぶりを振った。
「息子がきっと自分を迎えにきてくれるってね。そのために、毎日悪い足を引きずって山からそこまで下りてきて、今日はジャンが帰ってこないか。ジャンの便りが届いてないかずっと山馬車を待っているんだ。
この前だって、ばあさんが柔らかいフェルトを欲しがるからどうしたんだって聞いたら、ジャンのやつ、いつのまにか結婚して子供ができたらしいっていうんだよ。ばあさん、孫の服を縫ってやるんだってうれしそうに言ってねえ。ジャンが結婚したなんてこの街のだれも知らなかったのに…
ずーっとあとになって、商売の取引先の娘と遅い結婚をしたって風の噂で聞いたよ。相手は北部一の名家のご令嬢で、結婚式には金貨の入った袋がまかれてずいぶん派手だったって。…ばあさんは呼ばれなかったらしいよ」
「そんな…」
ベルは苛立たしげに立ち上がると、しゅんしゅんと自己主張を始めたケトルを火から離しにいった。
部屋中にただよっていたチーズの匂いに、コーヒーの苦い薫りが混じり合う。
「聞いた話じゃ、ジャンはもうすぐ婚家の後押しを受けて北部代表の議員に立候補するってさ。でもね、母親をほったらかしで家にも帰ってこないような人間が官僚になって、いったいなにができるっていうんだい。それが本当に偉くなるってことかね。
それに最近は地質調査だのなんだのって、ジャンの会社の人間が頻繁にここいらの山に出入りし始めてる。こんな羊しかいない田舎町に、なんの用だか空色の軍服を着た軍人まであふれるようになったんだよ。おかしなことだよ」
「軍人、ですか?」
セドリックは首をひねった。空色の軍服…、ということは月海王国の軍人ではないということだ。
でも、その空色というのはどこかで見たことがあるような気がする。
(いったいどこで見たんだっただろう…?)
「まったく、そとっつらばっかり着飾って、都へ行くとみんなああなっちまうもんかねえ」
と、ベルはコーヒーをそれぞれに配りながらため息をついた。
ベルの淹れてくれたコーヒーは、なぜかずいぶんと苦く感じた。セドリックの前に腰を下ろすと、彼女はつと話題を変えた。
「それで、あんたたち今日も森へ入るのかい。その…なんといったか、魔法銃のカートリッジとやらを作るために」
「いえ」
硬いパンをちぎりながら、もっと硬い表情をしてセドリックは言った。
「急なことなんですけど、これからレニンストンに行こうと思って」
「レニンストンに!?」
エルウィングが、長い黒髪をゆらしながら言った。
「どうしたのセドリック。急にレニンストンに行きたいだなんて。しばらくはここの“銀のとばりの森”でカートリッジを作るんだって言っていたのに」
「あ、うん。そうなんだけど…」
思わず顎を引いたセドリックの横から、アンブローシアがにやにやしながら口をはさむ。
「あのね、セドリックはね、きのう森で…」
「いいっ、自分で話す!」
アンの言葉を遮って、セドリックは潔く告白した。
「僕、魔法が使えなくなっちゃったんだ」
エルウィングは思わず両手で口元をおおった。
「それは…、本当なの、セドリック」
「うん…」
セドリックは昨日銀のとばりの森で起こったことを、エルウィングにかいつまんで聞かせた。
ションボリと肩を落としたセドリックのとなりで、アンブローシアが勢いよくチーズにかじりつく。
「ホントもホント。一晩中ずっと詠唱してたんだけど、結局ひとつもカートリッジ作れなかったんだから。森だけじゃなくてもっとほかでもよ。ねえ」
アンブローシアの言ったことは嘘ではなかった。森を出てからも、さまざまな場所でさまざまな属性の魔法式を唱えたにもかかわらず、セドリックの知っている魔法式はことごとく封呪できなかったのだ。
「でも急にどうしてなのかしら。たしかに魔力の量は人によって違うものだけど」
「なんだか、心が重く感じるんだ」
セドリックの手はパンをちぎったまま、じっとしていた。
「簡単な魔法しか使えなくなってる。カートリッジに込めようとしても指先になにも集まってこない。オリヴァントと戦っているときはそんなことはなかったのに…」
彼は軽く頭を振った。
「こんなこと、生まれて初めてだ」
セドリックが初めて魔法を使ったのは、満月都市にあるメンカナリンの修練院だった。エルウィングとふたりでそこに引きとられてから、彼はごくあたりまえのように魔術を教わった。
修練院では簡単な魔法式を丸覚えすることから始まって、古い時代の歴史、神の意志によって変わってしまった地形や神話学など、およそ魔学と関連深い教養を身につけさせられた。セドリックはいつも優だった。彼は発音がむずかしいという古い言葉を、ほぼ一年でマスターした。
そんなふうになにもかもが順調だったから、自分が魔銃士に向いているかどうか、自分の魔力は多いのかどうかなど考えたこともなかった。
(だって、修練院ではだれよりもうまくできてたんだ。魔力値だって普通の人の倍は多いって言われていた。なのに)
セドリックは黙々とパンを口に運んでいるアンを盗み見た。
(僕が、アンに守ってもらったなんて)
自分ではアンより魔法値が高いと思い込んでいただけに、セドリックにとってこれはかなりショックな出来事だった。
「だからレニンストンに行くって言いだしたのね」
エルウィングの言葉に、セドリックは無言で頷いた。
「そうね、あそこには王立魔法図書館があるわ。世界一古い魔法陣が残されているっていう…。あそこなら魔術についての研究論文も豊富だし、なにか手がかりが見つかるかもしれないわね」
エルの熱心なはげましも、セドリックの心の重さを変えることはできなかった。セドリックは深くうつむいた。
もしも、このまま魔力が戻らなかったら…
もう、これ以上強くなれないとしたら…
(僕は一生、エルやアンに守られ続けて旅をするのか)
そう考えるだけで背筋がゾッとする。
そんなテーブルの上でパンを握ったまま固まっているセドリックの手を、エルウィングはぎゅっと握って言った。
「でもね、セドリック。いいじゃない」
「えっ」
「魔法が使えなくったって。それ以上強くなれなくったっていいじゃない」
セドリックはまじまじとエルウィングの整った顔を見つめた。
エルの顔は綺麗だった。大きな両目は泣きはらした瞳からこぼれた涙のように赤くて、見慣れている顔なのに、改めて見るとそれがどんなに目を引くものかわかる。
彼女は包み込むように微笑んだ。
「そんなに無理して強くならなくったって、わたしはあなたのそばにいるわ。ずっとそばにいてあなたを守ってあげる。いままでどおりに、変わることなんてなにもないのよ」
その言葉は綿のようにやわらかだったにもかかわらず、セドリックは居心地の悪さを感じた。もっとはっきり言えばそれは不満だった。
『わたしがあなたを守ってあげる』
いままで何度となくかけられた言葉なのに、なぜかひどく耳に障った。
「………でも…」
セドリックの困惑をよそに、エルウィングは熱心に口を動かし続けた。
「セドリックはずっと普通に暮らしたいって言っていたじゃない。満月都市の修練院にいたときは、大きくなったらお坊さまになるんだって、エルとふたりで不幸な人々のためにつくすんだってそう言ってたじゃない。ね、つらいならこれからそうしてもいいのよ」
エルの口調はどこか熱に浮かされたように激しかった。セドリックはエルがどうして急にそんなことを言い出すのかと奇妙に思った。
彼女はそこでなぜかチラとアンブローシアを見た。
「メンカナリンに戻るのが嫌なら、どこか遠い国でふたりで暮らしてもいいわ。ねえ、そうしましょう。いままではずっとそうだったんだもの。ずっとふたりで暮らしてきたんだもの。これからもまたふたりっきりで…」
「エル」
セドリックは急いで彼女の言葉を遮った。
エルウィングが、自分のことを心配して言ってくれているのはわかっていた。エルは優しい。いままでずっと優しかった。これからもずっと優しいだろう。
でもその優しさは、一度セドリックが大人になるために捨てなければならない蛹なのだ。
セドリックははっきりと否定の言葉を口にした。
「ありがとう。でも僕はレニンストンに行くよ」
「セドリック…」
「エル、僕はね、これ以上強くなれないなんて信じたくない。いままで僕は弱すぎた。魔力がどうとかじゃなくて、心が弱すぎたんだ。エルに守られすぎていたんだ」
セドリックは手を握っているエルの手をそっと外した。
「これからはなんでもひとりでできるようにするよ。いままでどうもありがとう。だからエルももっと自分のことに気を遣うべきだよ。僕はこの世でだれよりもエルの幸せを願ってるんだから。
――ねえさん」
「!?」
エルウィングの目がセドリックを見つめたまま凍ったように動かなくなった。セドリックは重ねて言った。
「エルはもっと、エルの好きなようにしていいんだよ。僕ももう大人…なんだから、自分のことぐらい自分でやれるよ」
しばらくの間、彼女の口は死んだ貝のように閉じられたままだった。妙に思ったセドリックが少し表情を変えると、彼女はあわててぎこちなく頷いた。
「じゃ、じゃあいまから急いで支度をしなければね。いまからだったらお昼のレニンストン行きに間に合うかも――」
「いや、いいよ。ひとりで行く」
エルウィングがまた目を大きく見開いた。
「そんな、セドリック…」
「だいじょうぶだよ。ひとりで行ける。明後日には戻ってくるから」
「でもだって、あなた、いま魔法が」
心配そうに伸ばされた手を、セドリックはぴしゃりとはねつけた。
「だいじょうぶだって言ってるだろ! 僕はもう子供じゃない!」
あ、とエルウィングが表情を凍らせた。同じく、あ、とセドリックも声を漏らした。
「ご、ごめん…」
セドリックはうつむいた。自分でもどうしてそんなに強く言ってしまったのかわからなかった。おそらく魔法が使えなくなってしまったことで心の均衡をたもつたがが外れてしまっているのだ。
エルウィングは少し目を細めてセドリックを見つめた。強く言いすぎたかとセドリックはあわてて言い繋いだ。
「エルってば、だいじょうぶだよ。ほら、エルに作ってもらったお守りもあるんだし」
セドリックは自分の手首を見せた。そこにはずっしりとした太めのブレスレットがはめられている。心配性のエルはセドリックが少しでも離れるときがあると、お手製のお守りをつけさせるのだ。
アリルシャーのお屋敷を出るときに両腕に腕輪を、満月都市を出るときには指輪を、はしばみ谷でピーゴーに襲われたときはチョーカーを。
魔法が使えないシスターの彼女は、一晩中聖歌を歌いながら銀のアクセサリーに想いを込める。
そう、歌うのだ。
正直、それを聞くのは大変つらいのだが。
「じゃあ、また新しいお守りを作って…」
「いいっていいって、だ、だいじょうぶ!! もうたくさんあるよ!! ねっ」
あわてて止めるセドリックに彼女はしぶしぶ納得するように頷いて、ふと思い出したようにアンブローシアを振り返った。
「そうだわ、セドリック。魔力が戻るまでアンにカートリッジを分けてもらったらどうかしら」
セドリックはぎょっとして顔を強ばらせた。
「えっ」
「カートリッジがないんでしょう。いくら男のあなたでも、丸腰でレニンストンに行くのは危険だわ」
「え…。で、でもいいよ」
チラリ、とアンのほうを盗み見する。
エルウィングは思い詰めた瞳で首を振った。
「レニンストンは大都会なのよ。わたしは心配だわ。万が一あなたにもしものことがあったら…」
「でも」
「無駄よ」
アンブローシアがふんと鼻を鳴らした。
「セドリックがこのあたしに頭を下げるはずないじゃない。なんたって彼はあのベリゼルさまの末裔、この世でもっとも濃い血を引く大魔法使いさまらしいし」
「アン!」
アンはセドリックにあからさまにとげとげしい口調で言った。
「だって、あたしが貸してあげるって言ってもがんとして受け取らないのよ。あーやだやだ。これだから男ってプライドばっかり高くて…。どうせ女に守られたのが恥ずかしくてたまらないんでしょ」
セドリックは反論した。
「そ、そんなんじゃないよ! 僕はただ…、他人のカートリッジを使うのはあまりよくないことだって…」
「なにいまさらなこと言ってんのよ。あんただって弾屋からカートリッジを買ったことあるじゃない」
「うっ、でもそれとこれとは…」
ガタっと音をたててアンブローシアが立ち上がった。
「そう。いいわよ。そんなふうにひとりでなんでもできると思うんだったらやってみたらいいじゃない。でも、そのレニンストンの図書館とやらに行ったとしてホントに元にもどるのかしら。無駄足にならないといいけどね、ふふん」
「なっ」
売り言葉に買い言葉でセドリックも言った。
「い、言われなくたってそうするさ!」
「あーそう。じゃあさっさと行きなさいよ。あたしはまだここにいるからね。ここはめったにない穴場だし、スランプのだれかさんよりずーっと強いカートリッジが作れそう。いくら血筋がいいっていったって、あんたの実力なんかあっというまに追い越してやるんだから!」
そうまで言われては、セドリックも黙っていられない。
「な、なんだって!」
「いい、あんたなんか魔法が使えなかったら、そこらへんにいる子供と変わりないんだから。あっというまに奴隷商人に攫われるか、物取りに襲われるのがオチよ」
「アン!」
「ふーんだ。勝手にすれば!」
「か、勝手にするさ!」
ふたりはしばらく見合ったあと、ほぼ同時にフンと顔を背けた。その間で、エルウィングがおろおろとふたりの様子を窺っている。
「ダメよふたりとも、そんな風にいがみあっては」
彼女は急に思いついたように目を輝かせた。
「そうだわ! ここはわたしがとっておきの心が落ち着く聖歌を…」
「「いらない!!」」
ふたりは同時に言うと部屋を出て行った。あとにはガーンという顔のエルウィングだけが残されたのだった。
†
「勝手にするさ!」
――そう、勢い任せに出てきたはいいものの、ここクリンゲルからレニンストンへ行くにはまず山を下りて鉄道に乗らなくてはならない。
「ここから歩いていったんじゃ日が暮れちまうよ。山馬車に乗せてもらったらいい。もうすぐ上のほうから山羊の乳を積んで下りてくるはずだよ」
そうベルに教えられ、セドリックはベルの家の裏手を少しいったところにある道へ向かっていた。
このような山には、ふだんは山で暮らしているが週末になると街へ下りてくる人たちが大勢いるという。山でとれたものを街へ売りに、週に何度か馬車で行き来しているのだった。
裏手の丘を駆け足でかけあがったセドリックは、ふと立ち止まった。
(あっ)
なんと、今朝見かけたあの老婆がまだそこに座っていたのだ。
老婆は樫の木の下に、石のようにじっとしていた。
(あのおばあさん、まだいたのか)
セドリックは老婆に向かって歩き出した。その樫の木の下にはかぎ針で編んだ黒いレースのように影ができていて、それが時間と共にゆっくりと西へ動いていっている。
見上げれば雲が見えた。青い空を走っていく白い羊の群れ。チョコレートケーキ形に急に切り立った黒い山…
まるでおとぎ話の挿し絵に出てきそうな風景だ。
「こんにちは、おばあさん」
セドリックが声をかけると、彼女はふうっと視線を上げて彼のほうを見上げた。
そのとき山のほうから一陣の風が吹いて、セドリックの首筋を撫でていった。
(うっ)
背筋がぞくっとした。春も深まったとはいえ、このような山間ではときおり冬のため息のような風が吹く。
「おや、こんにちは。ぼうや」
と、彼女はやわらかく笑った。
遠くでチーチチチチと鳥が鳴いている。
「今朝もここに座っていましたね」
セドリックは彼女のとなりに腰を下ろした。ゆったりとした風がふたりのそばの草の匂いをふくらませる。
「息子を待っているんだよ」
と、彼女は言った。
ナンネルばあさんは膝の上に小さな包みを持っていた。セドリックの視線に気づくと、皺だらけの頬をほころばせた。
「これはね、私が作った孫の上着なんだよ。息子はずっと私が作った服を着ていたんだよ。これがなかったらあの子はなかなか寝付かなくて…。息子にはこの春子供が産まれてね。すぐに送ってやりたいんだよ。子供はすぐに大きくなるからねえ」
セドリックは相づちをうちながら、ひとりごとのような彼女のつぶやきを聞いていた。
「ぼうやはこれから汽車に乗るのかい?」
「はい。レニンストンまで、今日の昼の汽車で」
「そうかい。わたしの息子もレニンストンにいるんだよ。いまじゃたくさんのお店を持って、たくさんの人間をやとっているんだよ」
そう言うナンネルばあさんの顔は本当にうれしそうで、セドリックも思わずつられてにっこりしてしまう。
「すごいですね」
「ぼうやくらいの頃は、世界でいちばん偉い人に会いに行くんだって言っていたよ。世界でいちばん偉い人に会って、弟子にしてもらうんだってね。それでいつか列聖されるような賢者さまになって、母ちゃんにたくさん自慢させてやるって。そう言って十六のときに街を出て行ったよ。
でも、いつのまにか世界でいちばん偉い人になるんだって、自分がなるんだってそう手紙に書いて寄越すようになったねえ…」
「いちばん、偉い人…ですか」
彼女はぽつりと水滴が落ちるように言った。
「なにがいちばんでなにが偉いかなんて、きっと神さまにだってわからないんじゃないかねえ」
セドリックはまじまじとナンネルを見た。
「毎月たくさんのお金を送ってくれるけれど、こんな山じゃほかに使いようがなくてね。ついつい糸や生地ばかり買っちまうんだよ」
「へえ、その中はみんな服なんですか」
「そうだよ。本当は街まで出しに行けばいいんだろうけど、あいにくとわたしゃ街へ下りたことはないんだ。街の人間はどこかおっかない。一度は出すのをあきらめたけど、どうしてもこれだけは…、これだけは渡したくてね。
でも、もう遅いのかもしれないねえ」
そう言って、ナンネルばあさんはしわくちゃの手で大事そうに包みを撫でた。
「子供にとって親なんて服のようなものかもしれないねえ。いつかはきゅうくつになって、脱いでしまいたくなるんだ」
そのときのナンネルの横顔は青白い三日月のように寂しげで、セドリックは思わず口をはさんだ。
「あのう…。よかったら、僕が届けましょうか」
ナンネルばあさんは驚いたようにセドリックを見た。
「息子さん、レニンストンに住んでいるんでしょう。だったらきっと渡せると思います。そのほうが郵便に出すよりずっと早いですよ」
「ほ、ほんとうかい」
とたんに彼女は、雲から顔を出した月のようにぱああっと顔を明るくした。
「ああ、ああ、それはありがたいよ。ありがとうよ。小さい子供の服だからなるたけ早く届けてやっておくれね。これは夏でも着られるように袖のないふうに縫ったんだよ」
ナンネルは服の入った包みをセドリックに渡した。
「わかりました。きっと、息子さんの手紙も預かってきますね」
セドリックは服を包んでいる油紙に、宛先がちゃんと書いてあるかどうか確かめた。彼女の息子の家はレニンストン市内にある有名な通りにあった。これなら迷うことなく着けそうだ。
「ああ…」
ナンネルはすがるようにセドリックを見た。
「これもきっと、なにかのおぼしめしだよ…。神さまがきっと私を哀れんでくださったに違いないよ」
「そ、そんな。おおげさですよ。僕も用事のついでなんだし」
思わずおろおろするセドリックに、彼女は手のひらを合わせて呟くと、
「ありがとうね。ありがとうね」
と、小さい体をもっと小さくして何度も何度も頭を下げたのだった。
†
それから半日かけてセドリックは汽車で旅をし、日が落ちる前になんとか目的のレニンストンに着くことができた。
北部一の都会であるレニンストン市はもうすっかりと春めいていた。
冬の間はどこかへいっていたカモメたちも、次々に戻ってきて青い空に黄色いくちばしをひらめかせている。いままで氷が張って入り込めなかったドレ河の船着き場は、石鹸工場で使う油を積んだ船がぞくぞくと入ってきていた。
彼はさっそく次の日から、王立図書館に籠もって魔力がなくなった原因を突き止めるべく奔走した。
奔走、したのだったが…
「ああ、なんか都のにおいがするなあ」
セドリックは王立図書館の前の階段に座って、ぼんやりと街のほうを見渡した。
昨日今日と二日かけて図書館に籠もったのに、結局なんのてがかりもつかめないままだった。北部でいちばん魔術にくわしいというこの図書館にさえ、セドリックのような症状について書かれた本や論文はいっさい見あたらなかったのだ。
「どうしよう…」
セドリックは頭をかかえた。
思うように魔法を使えなくなって今日で五日目になる。
クリンゲルを離れてからも、あいかわらずセドリックの不調は続いていた。ここに着いてすぐは、自分でも驚いたぐらいに気分が晴れて、ああきっとあれは山の気候とあわなかっただけなんだと思ったのに、たんに気分がよくなっただけでいっこうに魔力が戻ってくる気配がなかった。
そうこうしているうちに、以前は簡単に封呪できていた低級魔法ですら、セドリックはもうカートリッジに収められなくなっていた。魔法の封呪には精神状態が大きく作用するから、こんな状態では当分の間カートリッジは作れそうにない。
(なにがアリルシャーの後継者だ。なにが純潔な子供だ。たかがこんなレベルの魔法すら使えないなんて…)
世の中にはもっともっと上級の魔法を使える者が大勢いる。スラファトの魔銃士団などは全員が千等級以上の魔銃士だというし、メンカナリンの僧兵団の中には〈六本足の蜘蛛〉と呼ばれる高位魔銃士だけ集めた集団がある。
セドリックより強い者は、それこそ星の数ほどいるのだ。
なのに、なのに僕は…
『無駄足にならないといいけどね』
アンのからかうような眼差しが思い出されて、セドリックはかあっと顔を赤らめた。
「違う、僕は間違ってなんかない。だってあのままあそこにいてアンのカートリッジを使っていたって、いつか魔力が戻るっていう保証はないじゃないか」
いままでいっしょうけんめいにカートリッジを作ってきたセドリックだったから、スランプだからといってそう簡単にアンの弾を使いたくなかった。カートリッジ自体は街の店で買えば宝石と同じくらいの値段がついているのだし、なによりアンが苦心して考えた魔法式を横取りするようで気が進まなかったのだ。
けれど、そんなセドリックの心を見透かすようにアンブローシアは言った。
『あーやだやだ。これだからプライドばっかり高い男って…』
「そんなんじゃない。僕はべつに…」
口調だけは怒ったようにセドリックは言い、すぐに口ごもった。いくら口で否定しても相手が目の前にいないのではただのいいわけだ。
彼のうずくまっているそばを、豪奢な六頭立ての馬車が土煙をあげて通り過ぎていった。行き交う人々の雑踏はどれもいそがしげに響いて、セドリックは自分だけが川の中洲に取り残されているような気分になる。
(寂しい…)
本当はいますぐにでもクリンゲルに戻りたかった。エルウィングたちの待ってくれている場所へ帰りたかった。
でも大見栄きって飛び出してきた手前、なにもわかりませんでしたで済ますことはセドリックにはできなかった。ひとりでなんでもできるようになるのが大人になることだと教わったのに、いまの自分ときたらもう出だしから躓いてしまっている。それにアンブローシアに、ほらやっぱりだめだったじゃないとせせら笑われるのもしゃくだ。
(帰りたい)
でも帰れない。
(戻りたい)
でも、もう後戻りすることはできない。
「ああもう、僕はいったいどうすればいいんだ!」
彼は弾かれたように立ち上がると、街のほうに向かって駆け出した。
セドリックの向かった先は、レニンストンでもっとも活気があるという広場だった。広場全体に大きな魔法陣が描かれているのが特徴で、通称をアシュマリン広場といった。
アシュマリン魔法陣は世界最古の魔法陣として広く知られている。この紋章がレニンストンの徽章《きしょう》として旗の絵柄になっているほどだ。
「みなさん、世界は変わり始めているのです!」
芝居小屋の呼び込みにも似たよく通る声が、ふいにセドリックの耳に飛び込んできた。
「いまならまだ間に合うのです。月海王国が敗者とならないためにはどうすればいいか。
いいですかみなさん、たしかに戦争はいけないことだ。しかしここで武力を顧みず絵空事ばかり唱えていては、月海王国はガリアンルードのようになってしまう。彼らの虐げられようはみなさんもよくご存じのはず。いまやガリアン人はスラファトの奴隷です。わたしは愛するこのレニンストンのみなさんが、あのようになるのを黙って見ていられない!」
もう時刻は遅いというのに、その男はさっきから熱心に演説をくりかえしていた。艶のある黒いシルクハットをかぶったチョビ髭の見るからに裕福そうな男だ。彼を取り囲んでいる聴衆の中には熱心に耳を傾けるものや、仏頂面のそうでないものもいる。
どうやら近いうちにレニンストンで選挙があるらしい。
「われわれがガリアン人のような敗者にならないためにいまなにをすべきなのか、共に手を取って考えていこうではありませんか!!」
男の主調は、割れんばかりの拍手とほんの少しの不賛同をもって迎えられた。それに気をよくしたのか、彼はますます声を張り上げた。
「戦いが悪いのではない。秩序のない暴力こそ悪なのです。これらを同一視することはたいへん危険な思想です――」
(アンを連れてこなくてよかった)
セドリックは心の底からそう思った。もしいまここにアンブローシアがいたら、愛国心に燃える彼女のことだ。あの男に向かって魔弾砲をぶっぱなすくらいやるかもしれない。しばらくして、セドリックはレニンストンの中心街から少し外れた宿屋の並んだ通りを歩いていた。
日が暮れかけたせいか、そこは街の中心街とは違い、人々の足音もどこかよそよそしい。夜が裾の長いマントをひらめかせ、家路へつこうとする人々のあとを早足でおいかけてきていた。
セドリックはぼんやりと看板を見上げた。外国人が多い通りには、文字が読めない人のために宿屋の看板にはベッドが描かれている。
(そうだ、そろそろ今日泊まるところを見つけないと)
ここ数日はメンカナリンの修道院に巡礼者あつかいで泊めてもらっていたのだが、いつまでもというわけにはいかない。今日はほかに泊まりますと言ってあるのだ。
セドリックは急いできびすを返しかけた。
すると、背後から彼を呼びとめるものがあった。
「よう、そこの魔銃士のおちびさん。弾はいらねえかい」
セドリックはびくりと肩を動かした。
彼はおそるおそる振り返った。建物と建物の細いすきまにだれかが店を出しているのが見える。
男は粗末な麻布の上に鈍い色のカートリッジを並べて売っていた。
カートリッジ屋だ。
「いい弾がそろってるぜ。見ていって損はねえ」
以前は魔学を修めたものだけが使うことのできた魔法も、銃を使うようになってからは金さえあれば魔法を使うことができるようになった。それゆえに魔法入りのカートリッジは宝石よりも高く売買され、武器商人たちにあらたなマーケットを与えることになった。
それでも、市場に流れるカートリッジはたいして力のない粗雑な魔法でしかない。一流の魔銃士たちは、自分たちが苦労して作った魔法式をおいそれと売ったりしないものだ。中には生業のためだけにカートリッジを作る魔銃士もいるが、そういう輩《やから》は“弾屋”と言われて同業の魔銃士たちから卑下されていた。
セドリックは茣蓙《ござ》の上にあぐらを掻いている男をまじまじと見つめた。
歳は三十を少し過ぎたぐらいだろうか。びっしりと顎をおおう無精髭に、むき出しの肌の上に革の胸当てだけをつけた戦士のような男だった。よく鍛えられた体は火から取りだしたばかりのあかがねのようで、とくに胸筋がすごい。胸当ての下ではちきれんばかりだ。うさんくさい小路で店をやっているような男には見えなかった。
それに、こんな下町の路地裏にある店がまともなカートリッジを扱っているとは思えない。どうせろくな中身もない魔法弾を高値で売りつけられるのが落ちだ。
「い、いいです。結構」
セドリックはそれだけ言って、足早にその場を去った。
やはり都会は物騒だ。いままでは魔法があるからとどこか安心していたが、なにも力がない子供がこの時間に下町をうろつくのはかなり危険なことにちがいない。
早く宿を見つけないと…。セドリックの足は自然と速くなった。
と、そのとき、セドリックの前に知らない男が立ちはだかった。
「よう、おぼっちゃん。いまごろママのおつかいかい?」
一目でそうとわかるほど風体の悪いごろつきだった。セドリックはあわてて引き返そうとして、背後にひとり仲間がいることに気づいた。
(しまった)
まだ日も落ちきっていないのに、男たちの顔はアルコールに赤らんでいた。彼らはげひゃげひゃ笑いながらゆっくりとセドリックに近づいてきた。
「ここいらは子供の来るところじゃないって、ママに教わらなかったのか、ン?」
(この…)
セドリックは太もものホルダーに手を伸ばしかけて、中にカートリッジがひとつもないことを思い出した。
(そうだった。カートリッジがからっぽなんだ)
男たちはネズミを追いつめた猫のように、セドリックをじりじりと壁側に追い込んだ。
男がセドリックをつかもうと手を伸ばしてくる。セドリックは素早く男の手をかわして、向こうの通りへつながっている脇道へ逃げ込んだ。
「あっ」
セドリックは顔から血の気が引くのを感じた。なんとそこにも別の仲間らしき男が、薄笑いを浮かべながらセドリックを待ちかまえていたのだった。
「逃げようったって無駄だぜ」
もうあとがないことを知ってセドリックはあわてた。
『あんたなんか魔法が使えなかったら、そこらへんにいる子供と変わりないんだから。あっというまに奴隷商人に攫われるか、物取りに襲われるのがオチよ』
いまさらながらにアンに言われたことを思い出す。
と、いきなり男の拳が目の前にとんできた。
セドリックは反射的に避《よ》けた。
「うがあっ」
男は呻いた。セドリックが避けたので、彼はまともに壁をなぐることになったのだ。
彼は顔を真っ赤にしてセドリックの胸ぐらにつかみかかった。
「このガキ、いい気になってんじゃねえぞ!」
酒くさい息とつばが顔にかかった。セドリックは頭の中が真っ白になった。逃げなくちゃ。でもいったいどうやって? この男をかわしても後ろにはふたりいる。そして路地の入り口にも見張りがひとり立っている。
こんな人通りの少ない場所でだれかが助けにきてくれるわけはない。それにだれか通りかかったとしても、見なかったふりをして通り過ぎられるのがおちだ。
(ちくしょう。魔法さえ、魔法さえ使えたらこんなやつら――!)
このまま有り金を巻き上げられてタコ殴りにされるのか、それとも船に積まれて異国に売り飛ばされるのか、セドリックの頭の中に悪い予感ばかりが駆けめぐった。
「――捨てるぞ!」
セドリックは思わずきょとんとした。そして、間をおかずに目の前の男の頭上に汚水が降りかかった。
「ぎゃああああっ」
頭から汚れた水をかぶって男はあわてふためいた。その隙を見逃さず、セドリックは男の脇をすりぬけて路地を飛び出した。
見つからないように荷台の後ろに隠れてじっとしていると、ずぶぬれの男たちが声をあげながら走っていくのが見えた。どうやらセドリックには気づいていない。もっともあの汚水をかぶった様子では、ずっとそのままでいることはむずかしいにちがいなかった。
セドリックはほっと一息ついた。
(助かった…)
レニンストンのような大都市の下町ではまだ水道設備がととのっていないことが多く、とくに長屋の四階や屋根裏などには流しさえないことが多かった。そのような部屋では当然窓から捨てることになる。
たまたま、セドリックたちのいたところの上の部屋でだれかが水を捨てようとしていたのだろう。セドリックは運が良かった。
一刻も早く明るい場所へ出ようと、彼は足早にその場を立ち去ろうとした。
すると、
「よーう。助けてもらっといて礼もなしかい?」
セドリックはじわじわと嫌な予感が背中を駆け上がってくるのを感じた。ゆっくりと、いつもの倍ほどかけて振り向く。
「あなたは」
驚いたことに、そこにさっきのカートリッジ屋が座っていた。
男は首から髑髏《どくろ》のネックレスをぶらさげていた。むき出しのほうの腕にも同じような髑髏の入れ墨をいれている。
「た、助けてって…、まさかあなたが僕を?」
「あの上はいま俺が泊まってる部屋なんだよ。うまいぐあいにぶっかけてやっただろ」
男は、夜に売るものを取りに宿に戻っていたら、たまたま窓からセドリックが絡まれているのが見えたのだと言った。おもしろそうだから見物していようかと思ったが、セドリックが魔法銃を持っていたことを思い出して助けることにしたという。
「この時間だろ。こういった下町の路地裏じゃあ夜になると当然売るものも変える。俺も昼間には売れなかったちっとばかしヤヴァい弾を売る。
ほれ、さっきそこにいた辻占い師、あいつはいまカードの下に毒草を隠して売りさばいている流れ人だ」
ぎょっとして振り返ると、セドリックが気がつかないうちにその路地裏には人が集まり始めていた。
人々はめいめいにあかりを持ち、足音を立てずにじっと自分を必要としている客が来るのを待っていた。
「街はまるで女だ。昼と夜じゃまったく顔を変える。あそこでにんじんを売っている女のバスケットの下にあるのはトリカブトだし、ランプ屋のあかりの裏で取引されているのはたいてい阿片だ。砂糖売りが量り売りしているいちばん奥の瓶《かめ》には脱毛用のヒ素が入っているが、なぜかここでは砂糖とまぜて売られていることが多い。戦争が始まってからああいったたぐいの輩が増えたな。どこから迷い込んできたんだから知らねえが、こんな中じゃおめえみたいなスレてないガキは悪目立ちするんだよ」
男は笑った。あかがね色の顔が闇に沈んで歯だけがやけに白く見えた。
セドリックはていねいに礼を言った。
「あ、ありがとうございました。なんてお礼を言ったらいいか」
「それそれ、そういうのがここじゃ目立つんだ。ま、礼なんていい。あんたが俺の売りもんを買ってくれたらな」
彼が足元に広げたものを見下ろす。そうだ、この男はカートリッジ屋だった。
「で、でも」
「買っていかねえのかい。どうせそこにぶらさがった銃はからっぽなんだろう」
セドリックは思わずギクリと頬をひきつらせた。そんなセドリックを見て、男は黄色い歯を見せてキヒヒと笑った。
「まあ見ていきなって。掘り出しもんがあるかもしれないぜ」
男は強引にセドリックを店の前に座らせた。
「弾屋でカートリッジを買うのは初めてかい?」
「え、えっと…、そうでもないんですけど」
「で、どんな弾が欲しいんだ。なにかの縁だから特別に安くしといてやるよ」
「どんな弾って…」
「自分の属性があるだろう。どうせならそれ以外が欲しいはずだ。火か、それとも水か?」
男の問いに、セドリックは困惑した。
(自分の、属性…)
どんな人間でもこの世を構成する六つの元素《シシオート》のうちのどれかに属している。まれな例外はあるにせよ、だいたいのところそれは遺伝によって決まると言われていた。
つまり父親が火の属性で母親が水の属性だった場合、ふたりの子供は火と水のうちどちらかを優性として生まれてくる。そして子供の属性が火であっても、母親の水の因子を持っているため、その子供は水の魔法も使うことができた。
しかし人間は無数の祖先を持っており、血は網の目のように混じり合っているものだ。人間という生き物が交配を始めてからすでに何万世代とたっているいまとなっては、両親の属性だけで魔力をはかることはむずかしかった。
「ぼうず、おめえ属性は?」
「つ、土…。たぶん」
「たぶん?」
男はケッと顔をゆがませた。
「魔銃士なんだったら、当然血の系譜は持ってんだろうな」
「ううん」
「なんでえ。自分にどういう血が混じってるか調べんのは、魔銃士の基本中の基本だろうがよ」
狼狽《うろた》えるセドリックの前で、男は苛立たしげに舌を打った。
「いいかあ、新米の魔銃士さんよ。魔銃士ってのはだれにでもなれるってわけじゃねえんだ。そりゃあ引き金はだれだって引けるモンだが、問題はカートリッジだ。たとえ億万長者だって毎度毎度カートリッジを買ってばかりじゃあっというまに文無しになっちまう。
一流の魔銃士は弾は自分で作る。そこんとこはキッチリわかってんな?」
男の思わぬ口上に、セドリックは迫力負けして頷いた。
「土の属性だって思うのはなんでだ?」
「あ、えっと…。土の魔法式だと手になじむっていうか、〈逆蜻蛉《とんぼ》〉を封呪できたので」
「〈逆蜻蛉〉か…。ハン。ちょっと得意だから土属性だって思ってんならそりゃ間違いだ。血の属性は血で見るのがいちばんいい。ちょうどいい、ここに判定盤があるから見てやるよ」
「えっ」
男は腰にしいていた革袋からなにやらごそごそと取りだすと、セドリックの前にぽんと放った。
それはずいぶんと汚れた小さな皿だった。中心に六芒星の魔法陣が描いてあり、それぞれの角のところにどこかで見たようなシンボルが浮き出ている。
「うわっちゃ、磨いてねえから錆びてら」
「…これは?」
「属性判定盤だよ。見んの初めてか?」
男は手のひらでごしごしと皿の表面をこすると、
「こんなあやしげな小路で店出しててもな、日が暮れる頃になったら子供の手を引いた親が属性の判定にきたりすんだよ。もちろん、純粋に子供を魔銃士にしたいって親もいるだろう。だが、身なりのいいやつは違う」
男は無精髭のびっしり生えたあごを撫でて、ニヤリと笑った。
「そういう子供はたいがい、父親がだれかわかんねえんだ。だから夜が近づいてからこそこそこんなところにやってくる。まさか寺にゃいけねえからなあ」
「ええっ」
「おーっと、お子さまには刺激が強すぎたかな。ひゃっはっはぁ」
耳まで真っ赤になって口ごもるセドリックに、男は爆笑した。
「ま、少し錆びちゃいるがこれでも立派に古い金属《アンシエンタル》だ。この真ん中に血をたらして、そのシミの大きさとにじんでる方角でおまえさんの魔力の量と属性がわかる。六芒星の頂角がそれぞれの属性を表してるから、そっちのほうにシミが広がったらそれがお前の持ってる血の中でもっとも強い属性ってこった。ほら、ここんとこに血を垂らしてみろよ」
「で、でも…」
「だーいじょうぶだって。なにもとって食おうってわけじゃねえ」
男は強引にセドリックに皿に血をたらすよう勧めた。セドリックは少し迷ったが、胸ポケットからナイフを取りだすと、切っ先を小指に当てて引いた。ぴりっと皮が切れる感覚がして、芥子《けし》粒ほどの血が浮き上がる。
(この男、見るからにうさんくさいけど、でもこれで魔力が戻るきっかけになれば…)
男はしばらくじっと判定盤を見つめていたが、
「ふうん、まあ土の属性ってのはあながち間違っちゃいないようだな。あまりあっちこっちに広がりが見られないぶん、血が混じってないらしい」
「血が混じってないって?」
「より純血に近いってことさ」
純血という言葉に、セドリックの頬がピクリと反応した。男は笑いを漏らした。
「その顔じゃ少しはこっちの世界にも通じてるようだな。そうだ。血ってのは純血に近ければ近いほど魔力値が高くなる。世界中に血の精製機関があるのは知ってるだろ」
セドリックは黙って頷いた。
たとえば純血な火の属性10をとすると、それが純潔な水の属性10の人間と交わってできた子供は、火の属性5と水の属性5を持つことになる。しかし他属性ではなく同属性の人間を選べば、生まれた子供の血は濃いまま保たれるのだ。
結果、火が5で水が5の子供より、火が9で水が1の子供のほうがより強い魔銃士だということになる。
こうした属性の遺伝が明らかにされてからというもの、いまも世界中で血を純血にまで戻そうとする運動がさかんに行われている。セドリックが長い間自分の家だと思っていたあの〈お屋敷〉も、実はメンカナリンが出資している血の精製機関のひとつにすぎなかったのだ。
(だから、ザプチェク大僧正は〈お屋敷〉を襲った。あそこで生まれた子供の力が強すぎたために…。あそこにいた僕の仲間もきっとあのときに皆殺しにされたんだ)
そうオリヴァントに真実を聞かされてから、セドリックは自分を拾ってくれた恩人であるザプチェクを信じることができなくなってしまった。
信じられない…、いいやむしろ恨んでいるといってもいいかもしれない。けれど、オリヴァントの言うことがどこまで本当なのかもわからない。
結局、真実は自分の手でつかみとるしかないのだ。
(わからないことが多いということはこんなにも不安だ。だから僕は強くなるんだ。もっと強く、こんなささいなことで惑わなくてもいいように…)
セドリックは拳を石のように硬く握りしめた。
そんな彼の様子に気づかないのか、男は知っていることをべらべらとしゃべり続けた。
「つまり雑種になればなるほど使える魔法は増えるが、その分威力は減るってこったな」
「雑種…」
「雑種だろう。何百年のあいだ人間があとさき考えずに交配してたおかげで、あっというまに血は混じり合い魔力はうすまっちまった。このまま放っておけばいずれ人間は魔力すら失ってしまう。神さまはな、人間同士を交配させることによって、人間が弱くなるようにしむけたのさ。これは神の復讐だっていう研究者もいるぐらいだ。まあだからこそ自然なヒエラルキーが存在するわけだが」
「えっ?」
男が最後に付け加えた言葉の意味がよくわからなかった。怪訝そうにするセドリックに、男は目を細めて言った。
「この世界にあるほとんどの王家は、元々純血の民だったってことさ。純血だったってことはつまり強かったってことだ。いまからは想像もつかないほど昔に、やつらは自分たちの血が保有する強大な魔力によって国をつくった。もちろん力づくでな」
「へえ、そんな歴史があったんだ」
男が言ったことはセドリックには初耳だった。男は艶のある金属のような頬をニヤリとゆがませた。
「そんなこといまじゃだれも教えないって? そりゃそうだ。由緒ある王家の先祖が、大昔はただの魔術師だったんですなんていまさら言えるはずがない。みんな王は神だと思ってるからな。
だが、その肝心の魔力だって時を経るごとに薄まってる。それがわかってるだけに、やつらは躍起になって血族結婚をくりかえすのさ。いまじゃ単なる風習みたいになっちまってるがな。皮肉なことに貴族とか王族とかいうやつらは、平民より魔力値が高いことが多い。
だからやつらはそうでない奴らを支配できる」
男の口調には、どこか自嘲めいた笑みが見え隠れしていた。セドリックは注意深く男の顔を凝視した。
(この男いったい何者なんだろう…。ただの弾屋ではなさそうだけど)
セドリックの視線に気づいたのか、男は先ほどまでのはりつめた表情を崩してあっけらかんと笑った。
「ま、そんなことはどうでもいい。どうだ。助けてやったんだからなにか買っていく気はないか。なんなら手持ちの弾と交換でもいい」
そう言って、セドリックの前にいくつかカートリッジを並べた。
「土魔法が使えるなら土の属性は自分で封呪すればいいだろ。じゃあ、火はどうだ。これは俺の持ち分の中でもいっとういいやつだ」
彼がセドリックの前に押し出したのは、表面がすこし曇った五連発用のカートリッジだった。
「〈火輪〉だ」
「まさか!」
セドリックは急に顔を険しくした。
「そんな高位魔法が、こんな…」
「こんな妖しげな弾屋で売られてるわけがないって?」
思わず口ごもってしまったセドリックに、男はやれやれと笑った。
「そんなふうに思っていることをすぐ顔に出して、よくのうのうと旅を続けてこられたもんだな。ま、俺としちゃなるべく属性外の手数をふやしたい。これはあんたの〈逆蜻蛉〉と交換でいい」
「交換だって?」
「手数を増やしたいっていったろ。俺は火属性だが、土魔法はどうも苦手なんだ」
セドリックは戸惑った。たしかに〈逆蜻蛉〉との交換で〈火輪〉が手にはいるなら文句はない。しかしいまのセドリックは〈逆蜻蛉〉はおろか〈地鳴り〉程度の土魔法ですら封呪することはできないのだ。
「……きません」
蚊のなくような声でセドリックは言った。
「僕…、できないんです」
「あ?」
「魔法が使えなくなっちゃったんです!」
セドリックはがばっと男の前に座り込んだ。男が目を丸くしてセドリックを見た。
「あ、あの〈火輪〉を封呪できるってことは、あなたはかなりの高位魔銃士すよね。じゃあ、突然魔法が使えなくなったってことはありませんかっ」
「お、おい…」
「僕、本当にどうしていいかわからないんです。急に魔力が湧いてこなくなって。それでレニンストンの図書館に行ってみたけどやっぱりわからなくて。こんなことって…」
セドリックは声を詰まらせながらも、男にいままでのことをかいつまんで聞かせた。
魔力値は多いほうだといわれていたのに、ある一定レベル以上の魔法を封呪できなくなったこと。それまではまったく変調はなかったこと。そうこうしているうちに、レベルの低い魔法まで使えなくなってしまったこと。
「ふうん、魔力がからっぽねえ…」
男は顎の無精髭を撫でながらしばらく考え込んでいたが、
「まっ、とにかくそういうことならまず酒だ。俺はさっきのカモメ亭に宿を取ってるんだ。おめえもどうだ。一杯つきあえよ」
手慣れた様子で店をたたむと、セドリックの肩になれなれしく腕を回してきた。男の重さに思わず体がよろける。
「お、お酒なんて僕飲めません!」
「なあに硬いこと言ってんだ。おめえの歳にゃ俺は女を知ってたぜ」
その意味を理解してセドリックは顔を真っ赤にした。男はあかがね色の顔ににやにやした笑いを浮かべながら、セドリックの頭をこづいた。
「おーっ、純情」
「からかわないでくださいっ」
「まあまあ、俺はバロットだ。バロット=ヘミングスター。よろしくな」
ふたりはもつれた足取りで、夕闇の少し先にあるカモメ亭を目指した。
†
バロット=ヘミングスターと名乗ったその男は、セドリックに暁帝国から来たのだと言った。
暁帝国は、正式名称を黄金の夜明けの国という。この大陸では月海王国の次に大きな国で、この二つの国はおたがいがわれこそは太陽帝国の正統な後継者だと言い張って、何百年もの間戦争を続けていた。
「まー、んなこたぁ俺らには関係ねえしな。おーいねえちゃん、果実酒ふたつだ」
バロットは大柄な体をスツールに下ろすと、さっそく給仕の女性を呼んだ。
なによりもセドリックが驚いたのは、彼の目的だった。バロットはここ北部まではるばる自分の花嫁を探しにきたのだという。
「花嫁?…ってことは奥さんを」
「おうともよ」
バロットは運ばれてきたキニールを豪快に飲み干した。
「この歳になるとまわりが結婚しろ結婚しろってうるさくてよ。面倒くさくって逃げまわってたら無理矢理結婚させられそうになってな。まあ親が連れてきた女も悪くはなかったんだが、自分の命かける女くらい自分できめたいじゃねーか」
言うなり、山盛りライスの上にのっかっていた鶏のもも肉にかぶりつく。
「はあ…」
「やっぱ相手はとびっきり魔力の強いヤツじゃねえとな。俺ァ子供にあとを継がせる気でいるし。そんでもって俺が火だからもちろん相手も火だ。両親とそのまえくらいまで火の家系だと申し分ねえ」
とにかく相手が火の属性であれば、顔や性格はけっこうどうでもいいらしかった。食べ方も豪快だが考え方もそれにおとらないな…とセドリックは妙な感心のしかたをした。
「結婚するのに魔力値だけで決めるんですか?」
「ほかになにがいるんだ?」
「えーっと…」
「顔なんかべつにどうでもいい。俺はとくにめんくいじゃねえしな。体も子供を産める体だったら貧弱でもかまわねえ。こう、気が強くて向こう見ずなくらいがいい」
セドリックがぽかんと見ている間にも、バロットは皿の上に食べ終わった骨を山にしていく。ものすごい速さだ。
「ともかく、これから世の中物騒になる。きれいごと言ってても腹の足しにもならねえ以上、自分の身は自分で守れるようにするのが、親になるモンとしてせめてもの心遣いってもんだろ。出世しようと思ったら頭か腕っ節かしかねえんだし。オツムのほうは俺の血が混じるんじゃあ、あんまり期待できねえしな」
アルコールくさい息を吐いて、よおねーちゃんまたまたお代わりと赤ら顔でわめいた。見ているとさっきから十分ごとになにか注文している。
セドリックはおずおずと切り出した。
「あの、バロットさんは暁帝国の人らしいですけど、やっぱり帝国はスラファトと戦争をするつもりなんですか」
「さあなあ」
バロットは腕ごとテーブルにジョッキを置いた。彼の腕に刻まれた髑髏の刺青がくぼんだまなざしでセドリックを見つめてくる。
「もともと暁帝国と月海王国はひとつの国だった。それが二つに分裂してからっつーもの、この五百年間ずーっと懲りずに戦争をしてきたわけだ。平和っていうのはこの両者が戦争してない間をいう、そんなふうに言うやつもいる。まあ言いえて妙だな。
だが、新勢力のスラファトが出てきてからこのかた、大陸の勢力分布がちょっと変わってきた。簡単に言うとな。スラファトは月海王国に媚びをうった。だから帝国とは仲が悪い、とまあこういうこった。それに、暁帝国とスラファトとはいまの竜王の代になるずっと前から、ユーロサット炭鉱の件でずいぶんもめてたからな」
彼は泡の浮いたキニールを勢いよく傾けた。
「暁帝国対スラファト・月海王国連合ってわけですね」
「そういうことだ。まあ、月海王国は体面上は中立を守っているがな。だがスラファトがガリアンルードを吸収したのを見て、急に西部へ色気を出しかけている。さしずめ今度のレニンストンでの議員選挙がかなめになるだろうな」
「議員選挙が? どうして」
バロットはあたりを窺うと、セドリックのほうに顔を寄せて、
「候補者のふたりが参戦派と反対派に分かれてるだろ」
とささやいた。
「ああ…、なるほど、そうですね」
現在二院制をとる月海王国では、その二つの議会どちらもが、スラファトだけに美味しい思いをさせてたまるかと参戦を焦る好戦派と、いやそれでは財政がなりたたないとする保守派とのまっぷたつに分かれているという。
レニンストンの代表議員になれば月海王国の下院議院での投票権を持つので、このどちらに代表が決まるか国中の注目の的になっているのだった。
セドリックは短く頷いた。結局戦争なんていうものは、始まりも終わりも大きくて強い国の事情だけで決まってしまうものだ。
「ま、どちらに決まるかによって、いよいよ次の四期議会で月海王国の参戦が決定されるかもしれん。月海王国が参戦すれば暁帝国との国境線は火の海だ。ガリアンルードの残党がまた動き出している以上、西部もきなくさくなる。世の中物騒になるぜえ」
言っている内容とはうらはらに、バロットの口調はどこか楽しげだった。セドリックは思わず顔をしかめた。
「また戦争が始まるなんて…」
「なーに言ってんだ。おめえみたいな新米魔銃士にとっちゃ、ばりばり出世するいい機会じゃねえか」
「僕は戦争なんてごめんです」
「ああそうか、おまえさん魔法が使えなくなっちまったんだっけな」
「うっ」
ぴしゃっと冷や水をかけられたような気分になった。セドリックはまたもや鬱々となって黙り込んだ。
そんなセドリックに、バロットはこれ見よがしにスツールごと体を寄せてきた。
「なあ、その、まったく理由が思いあたらねえのか? たとえばだ。好きな子にショックなことを言われたとか、フラレたとか」
「はあ?」
なぜここで好きな子の話題になるのだろう。セドリックは眉根を寄せてバロットを見た。
バロットはごにょごにょと口を動かしながら、
「いやなに、男ってのはデリケートな生き物だからよ。そういうちょっとしたことで使い物にならなくなるもんよ」
「はあ…」
訳のわからないことを言われてセドリックはますます混乱した。
「たしかに…、ケンカはしたんですけど」
ハッと顔を上げる。
「で、でもこここここ恋人ってわけじゃ…。アンは…そういうのじゃないし、ええっと仲間でいっしょに旅をしてるだけで…、ええと…あの…」
と、聞かれてもいないことまでべらべらしゃべってしまう。そんな彼の様子を見てバロットは豪快に笑った。
「なーんでえ、やっぱそうなんじゃねえか。ま、アレだな。女の機嫌とるときゃプレゼントがいちばんだな」
「プレゼント、ですか…?」
「そうよ、花とかレースのハンカチとか、いまだったら手袋とかローラースケートなんかもいいかもな。都で流行ってるもんが女は好きなんだ」
「都で、流行ってるもの…」
「仲直りしたきゃワビとかいってレースものでもプレゼントしてみるんだな。たいていの女は機嫌をなおす。これは俺のお墨付きだ」
ばん、とセドリックの背中を叩いた。あまりにも乱暴だったので、セドリックは飲みかけのキニールを吹き出しそうになる。
「ま、せっかく〈逆蜻蛉〉を使える魔銃士に出会ったんだ。俺は男にはやさしくしねえ主義だがガキはべつだ。不調の原因がわかるまでつきあってやるよ」
「ええっ」
「いーっていーって遠慮すんな。俺ってやっさしいよなあ。なのになーんで女にモテねえんだろ」
といって鼻をほじり始める。
その問いにいちいち答える気になれず、セドリックはごまかすように水に口をつけた。
バロットは急に真剣な顔つきで言った。
「そうだ! おめえねーちゃんとか妹とかいねえか」
「は?」
「さっきの判定盤を見る限りおめえの家族なら純血に近いはずだろ。な、いねえのか。ねえちゃんか妹」
「あ、姉ならひとりいますけど…」
「ホントかっ」
バロットは吼えるように言うとテーブルから身を乗り出した。まわりにいた人間がぎょっとなって振り返る。
「属性はなんだ。あそうか、おめーといっしょなら土かな」
「エルの属性…?」
セドリックは首をかしげた。そういえば聞いたことがない。まあエルウィングは魔法を使うことが禁じられているシスターなので、調べる必要はないのかもしれないが。
「なあ紹介してくれよ。火じゃなかったらすっぱりあきらめるからよ」
「あ、でもシスターなんです」
「なんでえ、尼さんかよ。ま、それでもいいぜ。ようは子供を作れればいいんだ」
今度はセドリックがぎょっとなる番だった。
「な、なに言ってるんですか。メンカナリンのシスターが結婚できるはずないでしょう!」
「ま、結婚はできねえよ。でもおめえのねーちゃんならとっくに血系保存の命令書が来てるはずだろ」
バロットの言葉にセドリックは顔を曇らせた。ケッケイホゾンとは聞いたこともない言葉だ。
「なんだおめえ、まだ来てねえのかよ。優性血系因子保存計画執行命令書だよ。おめえさんだってまがりなりにも魔銃士だ。どこかの組合に属してんだろ」
「ぼ、僕はメンカナリンの修練院で…」
「なんだ、僧兵候補生だったのかよ。それじゃ寺院自体が組合の役割をしてるはずだ。たとえ聖職者でも身体的に成熟した男女は優性因子を残す義務がある。一定以上の相性確率を出せる相手と、とにかくガキを作らにゃなんねーんだ。そうしないと人間は弱くなる一方だからな」
「な――!」
セドリックは絶句した。バロットの言ったことが、頭の中で意味のある言葉にくみたてられるまで数十秒が必要だった。
彼は壊れた機械のようにぎこちなく身じろぎした。
「こ、こども…。こどもって…。ぼ、ぼ、ぼくが!?」
「世の中ガキでもガキは作れるってなあ。ギャハハハハ」
なにが可笑しいのか、バロットは背をのけぞらせて爆笑している。
「ま。おめえもよ。テキトーに相手みつくろってイイ思いしてこいよ。どうせ遅かれ早かれヤんなきゃなんねーんだ」
「ヤ、ヤるって…なにを…」
「まーたまた、わかってるくせに」
さっきから目を白黒させているセドリックの肩を、またもやなれなれしく抱きよせて言う。
「ん、それともなにか。おめえやっぱさっきの子じゃないとイヤなのか。その子の属性教えてもらったか?」
「ち、ちがいますよ。ぼ、僕はそんなんじゃ…」
セドリックは答えに詰まって食欲のない胃にスープを流し込んだ。バロットが皿をのぞき込んで言った。
「なんでえ、それだけしか食わねえのか。そんなんじゃ満足に女も抱けねーぞ」
「だからっ!」
バロットと会話しているとどこまでも下ネタが続きそうな気がする。バロットはセドリックの髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「ふん。魔法が不調だなんて言うからてっきりそのことだと思ったのに、違うのかよ」
「違いますっ」
「じゃアレだな。おめえの魔力なんてたいしてなかったんじゃねーの」
バロットの投げやりな言葉に、セドリックは弾かれたように顔を上げた。
「どういうことですか」
「どういうこともなにも、レベルが高くなったら使えなくなったんだろ。んじゃあ元から魔力なんてなかったんだ。そうに決まってる」
そう言って、バロットはすっかり冷めた鱈のフライを面倒くさそうにフォークでつつく。
「でも、いままではちゃんと…」
「使えてたってか。じゃあきっと使い切ったんだぜ。汽車の燃料みたいにな」
「そんなはずありません!」
バロットは自分のこけむしたような顎を撫でると、じろりとセドリックを見た。
「自分の属性すらあいまいなおまえが、やけに自信たっぷりじゃねえか」
「え…」
「なんでそんなに自分の魔力に自信があるんだ。え?」
セドリックは言葉に詰まった。
まさかこんな妖しい奴にあの月読みの丘のお屋敷のことを言うわけにはいかなかった。アリルシャーのお屋敷はメンカナリンの血の精製機関で、自分はそこで血統操作されて生まれた子供だということ。
(そして僕が、イボリットで十万人を殺した悪魔だということを――)
知られてはならない。
知られたく、ない。
「………それは…」
黙っている時間がいやに長く感じられた。セドリックは仕方なく当たり障りのない言葉を選んだ。
「それは…、少し前にすごい魔法を使ったことがあるんです。逆蜻蛉なんかよりもっとすごいやつです。それで…」
「それだけか?」
「はい…」
バロットはうろん気な眼差しでセドリックを眺めていたが、首を振った。
「じゃ、やっぱりお前の魔力は人よりも少ないんだな。もしお前が強い魔法を使えたとしてもそんときゃたまたまだったってこともある」
「そんな、じゃあ僕がイボリ…、じゃなかった。すごい魔法を使えたのはただのまぐれだったって言うんですか」
「そうだ」
「うそだ!」
セドリックはカッとなってバロットの考えをはねつけた。熱くなるあまり、つい秘密にしておくはずのことが口から飛び出してしまった。
「だって僕は血が濃いんだって、そういうふうに生まれついているってメンカナリンの修練長さまはおっしゃったんだ。それにお屋敷にいた子供の中で僕だけが修練所に引き取られた。僕とエルだけが…」
あっと思った。セドリックは両手で口に蓋をしたがもう遅かった。
バロットはあかがね色の目をぎらりときらめかせた。
「お屋敷…ね。やっぱりおめえ、〈精製所〉育ちか」
「!?」
セドリックは影を縫われたように椅子の上で凝り固まった。
しまった。
まんまと彼の誘導に引っかかってしまった。
バロットはそのことを探り出すためにわざとセドリックを挑発したに違いなかった。手の中が汗で湿った。しまった――お屋敷のことを知られてしまった――どうしよう、どうしたらいい?――いまからなんて言ってとりつくろえば…
「さっきの判定盤を見てまさかと思ったのさ。土の方向に血の広がりはなかったから魔力値はたいしたことねえが、市井《しせい》育ちの魔銃士にしては血が純粋すぎる。言葉遣いがやたらていねいだし、こりゃどっかの王族か貴族かもしれねえと思ったが…、なるほどね。精製所育ちだったわけだ。判定盤を知らないわけだぜ」
サッと顔を凍らせたセドリックに、バロットは大して驚きもせずに言った。
「まあ、そういう出自なんじゃ自分の魔力値に自信があるはずだな。だが、いちがいに精製所っていってもそれぞれには格ってもんがある。知ってるか?」
「格?」
「〈玉座〉を持つ精製所がいちばん格が上なのさ。精霊王が生まれる場所だ」
「精霊王…」
セドリックは鸚鵡《おうむ》のように復唱した。
「属性を最純血まで濃くすると精霊王が誕生すると言われている。この世のすべての物質を構成する六大元素、その元素を統べる王だ。噂じゃどこかの精製機関がすでに玉座を手に入れたって話だ。ほかに、とっくのむかしに精霊王は生まれてるらしいって噂もある。おめえのいた精製機関は土属系らしいが、そのお屋敷ってところに土の精霊王《マディ・アン・ニムロッド》はいたか?」
少し考えてセドリックは首を振った。お屋敷のことはほとんど覚えていないセドリックだったが、あそこにいたときにニムロッドなんて言葉を聞いたことはない。
バロットは酒臭い息を吐いた。
「ま、あんなちっぽけな土の魔力値じゃお前のわけじゃないしな。じゃあお前のいた精製機関はしょせんそのレベルだったって話だ。玉座を持っていないんじゃあな」
「…………」
それに、とバロットは言葉を繋げた。
「それにいまどき精製機関で生まれたガキどもは、みんな銃なしで魔法を撃てるっていうじゃねえか。俺がメンカナリンの坊主なら、そんな物騒なやつを野放しにしちゃおかない。お前はたしかに精製所育ちかもしれねえが、そういうやつがみんながみんな強くなれるわけじゃない。たぶん、お前は見込みがなかったんだよ」
彼は目を見開いたまま絶句した。
たしかにバロットの言うことは一理あった。セドリックは銃なしで魔法が撃てるとはいえ、素手で魔法を使ったのはあの一回きりだけだ。
(まさか、本当にそうなのか…?)
セドリックの心の中に、急に雨雲に似た不安が湧き上がった。
いままで無意識のうちに、自分があのお屋敷でもっとも強い子供だと信じていた。あきらかにオリヴァントはそういう口調だったし、あの満月都市の惨状からすれば考えられないことではなかった。むしろ当然のように思えた。
自分は傲っていただけなのか。
セドリックは愕然と立ちつくした。
(もしかして、本当は僕は強くなんかないんじゃないのか。アリルシャーの精製機関で血を純血にされた、選ばれた子供じゃないんじゃないのか。だから助かったのか。この程度の魔力なら、メンカナリンにとって脅威ではないとそう判断されて――!?)
たいしたことのない魔力値だった、みそっかすだったから助かった。
(いや、違う。そうじゃない)
セドリックは大きく首を振った。
それじゃあ、あのクレーターはなんだ?
あの一瞬で灰と化した満月都市の惨状は、いったいどういうことだ。あれは僕がやったことなら、僕はけっしてみそっかすではないはずだ。弱い生き物ではないはずだ。
セドリックは声こそ小さかったが、きっぱりと異論を口にした。
「でも、…でも僕はほんとうに強かったんです。一瞬だけだったかもしれないけど、強かったんです」
セドリックの石のような顔を見て、バロットはまいったなと頭をかいた。
「んじゃあ、そのときに魔力を使い切ったってのはどうだ」
「魔力を、使い切った…?」
彼は怪訝そうにバロットを見つめた。
「人間には生まれたときにすでに持てる魔力値が決まってしまっている。それを絶対魔力値という」
「絶対、魔力値…」
「そう、絶対魔力値だ。ま、人間が持ってる魔力槽《タンク》の大きさみたいなもんだな。すごく強ええ魔法を封呪したあとなら、これがからっぽになってる可能性がある」
そう言われて、セドリックはぱっと顔の表情を明るくした。
「じゃ、じゃあ。しばらくしたら戻る可能性があるってことですか?」
「それはわからねえな。だが、無理に火事場のバカ力を使うと、今度はこの魔力槽自体が壊れて使い物にならなくなることがあるらしいんだ」
「ええっ」
セドリックは急に言葉に力を失った。
「そうすっと、いくらもともとがでかい器でも二度と魔力は溜まらない。お前さんの場合、この魔力槽がなにかの拍子で壊れたってこともありえる。一度に急に魔力を解放したりしたことはなかったか」
「あ…」
目の前がまっ暗になった。ふいに示されたその考えは、まさかという希望に反してセドリックの中でどんどんと大きくふくらんでいく。
僕は、まさかあのときに魔力を使い切って――
(いいやちがう)
(いや、そうだ!)
だってそう考えれば、すべてのことが符合するのだ。
あのイボリットでのことがバロットのいう火事場のバカ力なのだとしたら、セドリックの魔力槽がすでに壊れてしまっているとしたら、メンカナリンの寺院が、ザプチェク大僧正が彼をこうやって野放しにしているのにもすべてに納得がいく。
(僕は、魔力を使い果たしてしまっていた!?)
きっとあのイボリットを消滅させたときに、セドリックはバロットの言う絶対魔力値を越えてしまっていたのだ。
そのせいで魔力槽は壊れてしまった。あれほどの魔力を解放したのだから、そういうこともありえないことではないのかもしれない。
そのあとはわずかに残された魔力を封呪してしのいでいた。その残量もついに使い切った、もしかしたらそういうことだったのだ。
(僕は、魔銃士でなくなってしまった…)
(もう、魔銃士じゃない)
(魔法が、使えない)
「うそだ!」
テーブルの上で、セドリックの拳が力なく握られた。崖っぷちに追いつめられていても、なんでもいい、つかめるものがあればつかみたかった。
のろのろと顔を上げてバロットを見る。
「ほんとうに…、僕の魔力槽は壊れてしまったんですか。本当に…?」
バロットは少し言いにくそうに横を向きながら、それでも決定的なことを言った。
「判定盤は嘘はつかねえよ。おめえの土の血はたしかに濃かったが、染みの広がりがほとんどなかった。昔はちゃんと使えてたっていうなら、少なくなってるってことだ。もしかしたら火とか風とかもっとほかの属性に向いてんのかもしれないが…」
セドリックは首を振った。すでに他の属性の魔法もみんな試してみていたのだった。川のそばで水魔法を詠唱したり、暖炉の前で火を封呪しようとしてみたが、ただの一度もセドリックの指先に魔力が集まってくることはなかった。
セドリックの血には、ほとんどほかの属性は混じっていない。
純血なのだ。
バロットは横を向いて言った。
「それじゃあ、もうだめだな」
「そんな…」
突然“真実”を突きつけられて、セドリックは喉元に切っ先を突きつけられたように大きく震えた。
†
結局、その日居酒屋の上に宿を取ったにもかかわらず、セドリックはほとんど眠ることができなかった。
「よう、よく眠れたか――って、そんな顔じゃねえな」
朝日とともに目の下にくっきりくまを作って現れた彼に、バロットはやれやれと首の付け根をかいた。
「ったく、うだうだ悩んだって魔力が戻るわけじゃねえだろーがよ」
ずーんと見えない重石を背負っているセドリックの背中を、彼はバンとはたいた。セドリックは思わずよろけた。
「で、どうすんだ。今日は」
「……頼まれものがあるので、それを届けに行こうと思って」
「おー、そうか。じゃ、それが終わったらねえちゃんのところに帰るんだろ」
セドリックは思わず顔をしかめてバロットを見た。
「まさか、ついて来る気ですか!?」
「あったりめえじゃん、おめえのねえちゃんなら精製所育ちだ。火の属性だったら俺の嫁に申し分ねえ」
「そんな!勝手に決めないでください」
「まあまあ、会ってみねえとわからねえだろうがよ。それに俺はこう見えてもけっこう良い家のぼっちゃんなんだぜえ」
バロットのほうがレニンストンの街に詳しいこともあって、セドリックは半ば彼に引きずられるようにして用をたしに出かけた。
ナンネルばあさんの息子であるジャンは、いまではこの街でも富豪ばかりが住むという十七地区に居を構えているらしかった。
「おう、ここだここだ。レニンストン市アブサント通り13番地」
目的地にたどりつくなり、セドリックは口をぽかんと開けてその家を眺めた。
裏手がすぐ海という立地のその屋敷は、外面にも大理石がふんだんに使われた見るからに豪奢なつくりだった。
門から少しばかり見える庭には、いま都の上流階級で流行っているという、自宅の庭で劇を上演させるためのガラス天井の四阿《あずまや》があって、その屋敷を訪れる人種がどのような階級であるかを物語っている。休日でもないのに門は大きく開け放たれて、六頭立ての馬車がひっきりなしに行き来していた。
「おいおい、ほんとにここなのか。ここはあのジャン=マカロックの家だぞ」
バロットが驚いたように言った。
「だれですって?」
「ジャン=マカロック。昨日街頭でそいつが演説しているのを見たろ。この次に北部代表の下院議院選挙に出るっていうレニンストンの主戦派候補だよ」
「ええっ!」
セドリックはまじまじと包みに書いてある宛名を見つめた。
「僕は…、おばあさんに頼まれて荷物を届けにきただけで…」
そういえばベルが、ナンネルばあさんの息子のジャンが今度選挙に出ることになったとかなんとか言っていたような気がする。
セドリックがクリンゲルであったことを手短に話すと、バロットは顎をつまんで首をひねった。
「こんなでっけえ屋敷になんの用かと思ったが、ふうん、クリンゲルなんて田舎にマカロックの母親がねえ…。おっ」
ふたりはあわてて門の前から飛び退いた。
「ほら、見ろよ。スラファトの魔銃士団だ」
彼が顎でしめした先には、空色の軍服を身にまとった一団が厳しい目つきでうろついていた。どの魔銃士も見ていると息苦しそうなほどぴっちりと首をしめた襟に、スラファト軍属を示す銅の竜徽章が輝いている。
「あの人たち、みんな魔銃士なんですか」
セドリックは小声で聞いた。バロットが目を細めてそおっと塀の内側を窺いながら言う。
「そうだ。いいかよく手首を見ろ。みんな鈍い色のブレスレットをしてるだろ。あれは魔銃士のしるしだ。貴鉛でできてるんだ」
と言って、彼は自分の胸元にある作り物の髑髏を指ではじいた。
「これもひとつは貴鉛でできている。貴鉛は知ってるか」
セドリックは頷いた。
「たしか、銀と鉛が混ざったものだと…」
「そうだ。鉛は銀とまったく反対の性質を持っていて、魔法を押さえ込む力がある。いわば魔法の絶縁体といっていい。等級が上になればなるほど、ああやって貴鉛製のブレスレットや指輪をして魔力を押さえ込んでいるのさ。とはいっても純の鉛は完全に魔法を押さえ込んでしまううえに、精神に多大な負荷を与える。だから純の鉛じゃなくて銀まじりの貴鉛を使う。俺もこうやって貴鉛を身につけている。そうしないと魔力が暴走したときに困るからな」
その言葉のはしばしから、魔力を押さえ込んでいることに対する強い自負が窺えた。
(なんだかかっこいいな)
セドリックは内心ため息せずにはいられなかった。鉛のブレスレットどころじゃない、僕なんてエルウィングが作ってくれた銀のお守りをしているくらいなのに…
「げげ、見ろよ。あいつ十六魔銃士団のギース=バシリスだぜ。あの472等級《サモン》の」
バロットがいまにも口笛を吹きそうに口をすぼめた。
等級というのはいわゆる魔銃士のレベルのことだ。世界中に数百あるといわれている全魔銃士組合に共通するもので、ありとあらゆる強さや知識を表すものだとされている。
それくらいはセドリックも知っている。
「お知り合いですか?」
「けっ、お知り合いもなにも、あいつはえぐい等級食いすることで有名だぜ。いまの竜王に拾われて魔銃士団をまかされる前は、なにかっちゃ私闘ばっかふっかけて相手の等級を食ってきたんだ。そのときについたあだ名が暴れ馬みてーだから“赤いたてがみ”っていう」
「赤いたてがみ?? 等級、を食う…?」
「おいおい、等級食いも知らねえのかよ」
バロットが呆れたようにセドリックを見た。
「魔銃士は自分の等級を上げたかったら、定期的に行われる魔銃士の〈決闘〉にエントリーしなきゃなんねえ。決闘で相手を負かすことができりゃあ相手の等級が自分のものになる。もちろん負ければ、相手の等級が自分の等級になるし、強い相手を倒せば一気に等級ははねあがる。
“等級食い《サマンダー》”つーのは、いわば道場破りみてえに私闘をふっかけまくるたちの悪い魔銃士のことをいうんだ」
「ふうううん。初めて聞きました」
「おめえ、ホントに温室育ちだったんだな。判定盤も等級食いも知らないなんて、よっぽど大事にされてたか、それともどうでもよかったのかどっちかだぜ」
心ないバロットの感想に、セドリックは少々傷ついた。
(どうせ僕はみそっかすで魔力が壊れた魔銃士ですよ…)
セドリックの黒い心など知らないバロットは、もう一度中を窺いケッと唾を吐いた。
「ま、どっちにせよ俺ァあいつは嫌いだ」
「どうしてですか?」
「んなの俺より顔がいいからにきまってんだろ。あーむかつく。ヤローみたいなやつがいるから、俺の嫁がなかなかきまらねえんだよ。俺より顔のいい野郎は死ね。俺より頭のいい野郎も死ね。みんな死ね」
「…………」
セドリックはバロットから視線を屋敷のほうに移した。
(“赤いたてがみ”か、いったいどういう人なんだろう)
好奇心につられて、彼はバロットの体の下から中の様子を窺った。
初めて見るギース=バシリスは、赤っぽいブロンズ色の髪をなでつけ神経質そうに唇を引き結んだ長身の青年だった。目が悪いのか銀のふちの眼鏡をかけていて、それが彼の印象をいっそう固いものにしている。
彼は右胸に、スラファトの将校を表す片羽をかたどった意匠をつけていた。あの歳で将校とはなみなみならぬ実力の持ち主に違いなかった。
その証拠に、彼は472等級なのだという。この広い世界の中で、彼より強い人間は471人しかいないというのはかなりの強さだった。
セドリックはバロットの首元を見た。ベストに隠れて見えないが、等級持ちの魔銃士だったら首から銀製のタグをかけているはずだ。
「やっぱりバロットさんも等級持ちなんですか」
「おう、なかなかエントリーできねえからたいした等級じゃあねえがな。そういやお前はどうなんだ」
「僕は…」
うつむいたセドリックにバロットはひっそりと笑った。
「ハン、無等級のぼんぼんか。〈決闘〉もしたことねえのにそれでよく純血だなんだといってられたもんだ」
セドリックは思わず顔を赤くした。
バロットは再び視線を塀の中へ戻した。
「しかし、さっすがスラファトの魔銃士団だぜ。どいつもこいつもギースほどではないにせよ四桁の、それも比較的等級が上の魔銃士ばかりだ。そのはえぬきばかりを護衛につれてるとなると、いよいよ月海王国の参戦も近いってとこかな」
「ええっ、そうなんですか?」
「だってよ、レニンストンの議員候補が護衛にスラファトの軍人つれてるとなったら、そりゃあそういうことだろう。あのマカロックのバックには月海王国の参戦を望むスラファトとメンカナリンがついてるってことだろう」
バロットが言った。
「つまりスラファトが暁帝国と戦うためには、なんとしても月海王国の協力が欲しい。ところがその月海王国は議院制になったおかげで参戦かそれとも中立かなかなか意見がまとまらない。そこでスラファトは月海王国内に参戦派の議員をおくりこむことにしたのさ。マカロックはその先鋒ってわけだ。
対立候補のエドモン=シュレーは清貧な人物だが、選挙なんてしょせん金がものを言う。とくにマカロックはここ最近白熱している鉄道への投資に拍車をかけた人物だ。やつはたくさん山を持っていて、採掘した鉄や銅なんかを運ぶためにさかんに鉄道を敷いた。そしてそれに人を乗せることによって莫大な富を手に入れた。レニンストンの連中はみんなこのマカロックの会社の株でずいぶん儲けさせてもらってる。マカロックが落選することはまずないだろうな」
セドリックは表情を曇らせた。
「そんなことが…」
「なにも不思議なことじゃねえさ。いまどき議員や地方の治安判事の椅子が金で売り買いされることなんて日常茶飯事だ。なにも兵力でこづき合うだけが戦争じゃねえ。もう戦争は始まっているのさ」
(戦争は、もう始まっている)
バロットの言葉がやけに胸に響いた。
ナンネルの書いてくれた住所が間違ってないなら、あのマカロックという男(たぶんセドリックが街頭で見かけた、熱心に参戦を主張していたあの男だろう)は彼女の息子だ。
マカロックは、はじめは世界でいちばん偉い人に会うんだと言って故郷を出て行ったのだという。母親想いの息子だったとベルも言っていた。
それがいまではスラファトの手先となって、議員の椅子を金と兵士たちの血であがなおうとしている。
いま、マカロックの目に見えているのは、かつて目指した神のそばではなく権力の座なのだろうか。そうだとするなら、彼の帰りを待ち続けているナンネルの願いはあまりにも哀しい。たぶんあの年老いた母親は、息子が出世してほしいなどとはかけらも思っていないのだから。
彼女はただ帰ってきてほしいだけなのだ。
『子供にとって親なんて服のようなものかもしれないねえ。いつかはきゅうくつになって、脱いでしまいたくなるんだ』
(早く、これをマカロックさんに届けないと。そうして…)
この手作りの服を見て、彼が故郷で待っている母親のことを思い直してくれればいい。セドリックはそう思わずにはいられなかった。
「…とにかく、この荷物を渡してこようと思います。彼がだれであろうと僕はおばあさんに頼まれてきただけですから」
そう他のだれでもない自分に言い聞かせるように言って、セドリックは門にぶら下がっている牛の頭のかたちをした訪問ベルを鳴らした。
やがて、お仕着せを着て髪の毛をきれいに後部にまとめたハウスメイドが、門のすぐ内側までやってきた。たいていこういった大きなお屋敷にはほうきを持った門衛がいるものだが、いないところを見るとたまたま休憩どきだったらしい。
「なにか御用ですか」
「えっと、あの…。これ」
ナンネルから預かった油紙の包みを手渡す。
「マカロックさんにお渡しするよう預かってきました。クリンゲルのナンネルさんという方から、息子さんに。僕はナンネルさんの代理のものです」
「クリンゲルからって…。ええ、うちのだんなさまに?」
メイドは戸惑ったように顔を雲らせた。セドリックは急に不安になった。
「あの、ナンネルさんってここのご主人のお母さんなんですけど」
「はあ…。お母さん。だんなさまのねえ…」
メイドは首をかしげながら包みを受け取ると、もといた屋敷の中へ戻っていった。
セドリックは思わずバロットと顔を見合わせた。
「なんか様子がへんでしたよね。大丈夫なのかな」
「なんなら忍び込むか?」
セドリックはバロットのほうを向いた。なんと彼はいつのまにか六連式用のカートリッジを手に持っていた。
「バロットさん、それ」
「しーっ、お察しのとおり水魔法の〈水鏡〉だ。これを使えば俺たちの姿は消えるから、正面から堂々と中に忍び込めるぜ」
「どうしてそんな物を」
「浮気調査によく使うから数だけは持ってんだ」
「そんなこともしてるんですか!?」
水魔法の〈水鏡〉は水面が鏡のように物を映すことを利用して作られた魔法で、まわりの情景を水鏡がうつしとって詠唱者の体を包み込む。そうすると一見そこにはだれもいないように見えるという初歩のトリック魔法だ。もちろんだれかにぶつかったりしたら一発でばれてしまうのだが。
「もし見つかったらどうするんですかっ」
「だいじょうぶだって。おめえだってあの荷物がちゃんとマカロックに渡るかどうか心配なんだろ」
言うが早いか、バロットは胸元のホルダーから銃を抜いてシリンダーにカートリッジを押し込んだ。グローブのような彼の手に相応しい、大型の見たこともない銃だ。こう見えてバロットもなかなかの使い手のようだから、彼の使いやすいようカスタマイズしてあるのかもしれない。
キィンと天をうがつ音が聞こえて、〈水鏡〉が発動した。ふたりの体はたちまちのうちに細かい水滴のようなものにおおわれていく。
「さ、行くぞ。ぼやぼやしてっと魔銃士団のやつらに見つかっちまう」
正面の門ではちょうどこの家のものらしい六頭馬車が外から戻ってきたところだった。バロットとセドリックは門が開いた隙間をねらって正面から堂々と中へ侵入した。
(ほ、本当に見えてないのかな)
セドリックは不安になって何度も自分の腕や体を見回した。これで姿が消えているのか半信半疑だったが、すぐそばを通った魔銃士団の士官がまったく気づいた様子がなかったので見えていないらしい。
「魔銃士団のやつら、ずいぶん多くいやがる。妙だな」
バロットが舌打ちをした。
「えっ」
「たかが議員候補の護衛に出てくるのに、ギースのやつは大物すぎるんだよ。あいつは階級こそまだスラファト軍の士団長だが、実のところは竜王の懐刀だといわれている男だ。そんなやつがこんな田舎で呑気にボディーガードなんかしてるわけがない。これはきっと裏があるぜえ」
バロットはいたずらを思いついた子供のようにわくわくと目を輝かせた。
「おっ、噂をすればそのマカロックとギースだ。近くに行ってみようぜ。なにかおもしろいことが聞けるかもしれねえ」
「ちょ、ちょっと。もし見つかったらどうするんですか! 相手は三桁級の高位魔銃士なんでしょう」
「いいっていいって。見つかんない見つかんない」
「バロットさん!」
バロットの強引さにずるずると引きずられるようにして、セドリックは柱の陰に隠れてふたりの話を盗み聞きすることになった。
思ったとおり、マカロックは昨日セドリックが大通りで見かけたチョビ髭の紳士だった。
深い色のフロックコートにアスコットタイをつけ、都の紳士たちが背を高く見せるために好んで身につけるという煙突状のトップハットをかぶっている。手にステッキを持っているところをみると、ついさっきまで外出していたらしい。そのステッキも黒檀に握りの部分が象牙製という貴族趣味に凝ったものだった。
「今日の街頭演説はいかがでしたか」
ギースが先にマカロックに声をかけた。意外と若い声だな、とセドリックは思った。二十代半ばだと思っていたが、もしかしたら見た目よりずっと若いのかもしれない。
「どうもこうもあるものか!」
とマカロックは苛立たしげに帽子を脱いだ。
「ちくしょうシュレーのやつ、おとくいの救護院や慈善院をまわったあとに、私に見せつけたいのかわざわざ大通りにまでやってきて…。おかげでやつの支持者が広場を陣取って、あとからきた俺に野次をとばしてきやがったんだ」
と、帽子を床にたたきつける。あわてて客間女中がそれを拾い上げ、かたちを崩さないようにして持っていった。
(シュレーって?)
(さっき言っただろ。エドモン=シュレー。マカロックの選挙戦の相手さ。インテリ出身の反戦派で下層市民に絶大な人気があるんだ)
バロットに聞くと、まるで魔法の字引のようにすぐに答えが返ってくるのが不思議だった。思わず彼の顔を見直したセドリックに、バロットは片目をつむって見せた。
(だてに下街で弾売ってるわけじゃねえんだぜ。俺が売ってるのはカートリッジだけじゃねえ、こういった情報も欲しいやつには売り物になる)
まだ不満げなマカロックに、ギースは軍人らしからぬ穏やかな物言いで言った。
「まあまあ、いくら彼がレニンストン市立大学の教授だからといって、選挙は所詮金がものを言うものです。あなたはいまや北部一の銀鉱持ち、そして奥方の実家はあのメイヤーズ財閥の出身だ。シュレーにそれだけの軍資金は用意できないでしょう」
「君は、私には金だけでシュレーのような人徳はないと言うのかね」
金を強調されたのが気にいらないのか、マカロックはサッと表情を険しくした。
「そんなことはありません。お気に障ったのならご容赦を」
ギースは大仰に手を広げて頭を下げた。その爪の先まで洗練された仕草がますます軍人臭さを感じさせない。
「しかし昨日はおとなりの新月都市で遊説、明日はリンデンロードまで赴かれるとは、選挙運動とは大変なものですね」
「なに、これくらい当然のことだ。なんといっても我が由緒ある月海王国の下院議員を決める選挙なのだからな」
「クリンゲルのほうには行かれないので?」
「あそこは君、私の故郷だよ。クリンゲルには十分金をまいてあるし、なによりあそこの鉄道は私の力で引いてやったようなものだ。クリンゲルの住民が私以外のだれを支持するというんだ」
マカロックは親指ほどの太さのある葉巻にマッチで火をつけた。ギースは規律正しく立ったままだ。
「これは…、失礼致しました」
「まったく、君たちスラファトの軍人にこうも身の回りをうろうろされると私のイメージが悪くなる。あまり目立ったことは困るよ」
「心得ております」
南方産のきつい葉巻の煙がテーブルの上に靄《もや》のようにかかった。そのせいでマカロックの顔もギースの顔も煙の向こうにぼやけて見える。
ため息とも煙ともつかぬ息を吐いて、彼は安楽椅子に深々と身を沈めた。
「正直なところ、君たちスラファトの“親切”にははなはだ疑問を抱いているのだがね。私は」
マカロックは数々の修羅場をくぐり抜けてきた商人らしい、値踏みするような視線をこちらに放って寄越した。しかしギースはそれを完璧な儀礼でくるんで、たちまちのうちにあいまいなものにしてしまう。
「疑問などと。はじめにお話ししたとおり、われわれは閣下が採掘権をお持ちである鉱山のひとつをぜひ、スラファトに融資していただきたいと。ご存じのとおり鉱物資源は戦争には必要不可欠なものですので」
「ふん。もっともらしいことを言っているが、参戦を渋り続ける月海王国にさすがの竜王もしびれを切らしたというのが本音ではないのかな。私が下院議員になったあかつきには、参戦票をまとめさせ、次の四期議会で一気に開戦までもっていくつもりだろう。そうすればスラファトは北部から手を引き、兵力を南下させることができる」
「ご冗談を」
短く言って、ギースは優雅に一礼をした。マカロックは陶器製の灰皿の上に、まだいくらかも吸っていない葉巻をぎゅうっと押しつけた。
「今日のところは冗談ですませておいてやる。私の持っている山に興味があるというのもあながち嘘ではないらしいしな。先日、クリンゲルの山を任せているものから、スラファトの魔銃士官が頻繁に山へやってくると報告があった。それもどうやら銀脈を探しているふうだという」
「ご存じでしたか」
話が思わぬ方向に転じた。ギースは話を詰めようとする姿勢をみせ、マカロックの近くに腰を下ろした。
「すでに竜王陛下の親しい協力者であられる閣下にならば、われわれのプロジェクトをお話ししてもよいでしょう。実はわれわれは純銀を探しているのです」
「純銀だと?」
マカロックは器用にも片眉だけをはね上げた。
「そうです。不純物のいっさいない純正のカートリッジを作るために。それらはあの〈銃姫〉の弾になります」
(〈銃姫〉だって!?)
思わず叫び出しそうになったセドリックの口を、バロットがあっというまにふさいだ。セドリックはバロットと顔を見合わせた。
どうしてここに銃姫の話題がでてくるのだろう。もしや、スラファト軍が銃姫を手に入れたということだろうか。
(そんな、まさか、あのオリヴァントがスラファト軍に捕まったのか!?)
それにギースたちの話は、なにからなにまで初耳なことばかりだった。銃姫の弾が純銀製でなければならないなんて、銃姫を追っているセドリックでも初めて聞く話だ。いったいスラファト軍はどこからそんな情報を手に入れたのだろう。
(オリヴァントが話したのかもしれない。もしかしたらオリヴァントがスラファト軍と手を結んだのかも)
セドリックはいまにも胸から飛び出てきそうな心臓を、深く息を吐くことでなんとか宥めた。
動揺するセドリックの目の前で、ふたりの会話は続いていた。
ギースはふところから小さな銀の塊を取りだしテーブルの上に置いた。
「それは?」
「聖人の骨です」
マカロックはうっと気色ばんだ。
「な、なんだって?」
「純銀は聖人の骨に反応するのです。われわれはあの山に銀脈が眠っているのではないかと思っているのですよ。しかもきわめて純度の高い」
「見当違いだ。君、あの山は鉛鉱だぞ」
「しかし実際に赴いた部下が、確かに聖人の骨が反応すると報告書を提出してきたのです」
「するとなにか、君たちはその純銀とやらを手に入れるためだけにあの山を採掘したいというのかね。あのクリンゲルの山は別名切り立ち山と呼ばれているほど傾斜が深くて、しかも岩盤がやわらかい。ヘタに手をつければ一気に崩れてくるといわれて、いままで開発が渋られていたんだ。それをあえて掘り返すと?」
「はい」
「…正気なのか」
婉然と微笑むギースに、マカロックはどこか冷や汗を浮かべて言った。
「なるほどな。お前たちスラファト軍が古い時代の神の遺物とやらに固執して、あちこちの遺跡を嗅ぎ回っているということは聞いている。その銃姫とやらの弾丸を作るために、世界中の寺院から聖人の骨を回収してまわって、メンカナリンの坊主たちに睨まれていることもな」
「100%の純銀は人の手で精製できないレベルの純物質なのです。われわれは地中奥深く眠っている銀脈を探りあてるか、聖人の骨を探すしかない。そして純銀でないと銃姫のカートリッジにはなりえないのです」
「くっ、弾丸の素材が人間の骨だと!? まったく魔法など使うやつらは得体がしれん…」
どれほど乱暴な言葉を投げつけられても、ギースの顔色はわずかも変わらなかった。彼は椅子の上でゆっくりと足をくみなおした。
「クリンゲルに派遣した部下が倒れてしまったせいで、残念ながらまだ場所は確定できていませんが、そのきわめて強い反応からも相当な量が眠っていると推測できます。われわれはすぐにでも採掘を始めたい。
しかし少々困った事が起きました」
「困った事?」
「あなたの故郷であるクリンゲルの住民の中から反対運動が起こっているのですよ。森を切り開くことは古い神がお怒りになることだといって」
「馬鹿なことを!」
マカロックはソファに身を投げ出した。
「なにが古い神だ。だから私はああいった田舎の人間は好かんのだ。いったいどんな苦労をして私がクリンゲルまで鉄道を引いてやったと思ってるんだ。あいつらが作るちゃちな毛織物を運ぶためだとでも思っているのか」
「そう、クリンゲルに銀鉱が発見されればあの街は北部一豊かな街になるでしょう。職にあぶれるものはいなくなり、景気もずいぶんとよくなるはずだ。あなたはふるさとに恩返しをするも同然ですよ。恩知らずなのはクリンゲルの住民のほうです」
ギースの声音は誘うような響きに満ちていた。
「あなたはわれわれに銀を流す。われわれはあなたの選挙政策のいっさいを引き受ける。あなたは名実共にこの月海王国の名士になる。奥さまのご実家の力を借りないまでもね」
痛いところをつかれたらしいマカロックの顔に、サッと赤みが差す。
ギースは笑った。
「いい取引じゃありませんか。われわれがここでなにをしてようと月海王国の人間がわれわれを捕らえることはできない。条約はそういうとりきめでしたからね」
ギースはゆっくりとした動作で立ち上がった。マカロックの顔にギースの影がかかった。
マカロックはどこか警戒するようにギースを見上げた。
「閣下、あなたがこれから月海王国の政界へ進出していかれるのならば、われわれのような軍人屋とうまくつきあっておかれることだ。これからは物資を持つものがより豊かになる。あなたはとくに運が良い。銀は戦争には欠かせないものですからね」
「く、くっ…」
マカロックはどこかぎこちない動作で立ち上がると、無言で窓のほうを向いた。それはそこで会話を打ち切るという態度の現れだった。ギースもまた、完璧な礼を残してその場を去っていった。
バロットとセドリックもまた部屋を出て、召使いたちが出入りする離れの厨房まで走っていった。
外に出てもセドリックの胸の高鳴りはまだ収まらなかった。
「大変なことを聞いちまったなあ」
バロットはまいったというふうにがしがしと頭を掻いた。
「スラファトが咬んでいることで選挙のことはだいたい予測できたが、まさかあの銃姫まで出てくるとは」
「バロットさん、銃姫を知ってるの!?」
思わず大声を出してしまいそうになって、バロットはセドリックを体ごと小屋の裏手に引きずり込んだ。
「ばか、大きな声を出すんじゃねえ。スラファト士官がうろついてるんだぞ」
「ご、ごめんなさい」
「ったく…」
バロットは炭焼き小屋の壁を背にしてしゃがみこんだ。
「古い時代の遺物のことは、魔学を囓ったものならだれだって知ってるさ。銃姫ってのはアレだろ。夜明け前の大戦の引き金を引いた銃のことだろ」
セドリックは驚いて自分もバロットの前に座った。
「この世を滅ぼすことができる兵器じゃないんですか?」
「それはおめえ、古い解釈だよ。いまじゃもっと研究が進んで、〈銃姫〉は夜明け前の引き金を引いた銃らしいってことになってる。人間はそのときにある〈言葉〉を失った。どうもそれが魔力を発動させる言葉だったらしいんだな」
「魔力を発動させる、〈言葉〉…」
セドリックは息を止めた。
「まさか、それで人間は魔法が使えなくなったって…!?」
「そういうこった。なんでも偉い賢者のじいさんたちが言うには、人間はいままでに何度もその引き金を引いて、いくつか言葉を失ってきたって話だ。もっともなにを失ったのかは、いまになっては見当もつかないことだが」
「えっと…、ええーっと…」
いきなり雪崩のように流れ込んでくる情報に、セドリックはさっきから混乱しっぱなしだった。そんなセドリックのあわてっぷりを見て、バロットは苦笑した。
「まあ、こんなハードな話じゃ無理もねえか。しっかし銃姫の弾の材料が聖人の骨とはなあ。びっくりな話だぜ」
「スラファトは〈銃姫〉を手に入れたんでしょうか。それで弾のことなんか言い出して…」
「その可能性は十分あるな。モノがねえのに弾だけを作るバカはいやしねえ。もしくはすでに手に入るアテでもあんのか」
バロットはううんと首を伸ばした。
「そもそも〈銃姫〉ってのがいったいなんなのか、知っている者はほとんどいない。ここ数百年はメンカナリンが管理していたらしいが、どうもそれが盗まれたらしいって噂がある。ほら、おめえも聞いたことねえか。月海王国の満月都市が一瞬で灰になったって話…」
セドリックの頬が石のように強ばった。だが、バロットはそれを別なふうに解釈したらしかった。
「ありゃあきっとあのキメラのオリヴァントがやったに違いねえ。そう俺はふんでるんだ」
バロットの口からオリヴァントの名前が出たことに、セドリックは驚いた。
「お、オリヴァントを知っているんですか?」
「そっちこそ。さすがにギースは知らなくてもこっちは知ってるか。じゃあオリヴァントの二つ名の由来も知ってるだろうな」
「〈キメラ〉ですか? いえ…」
バロットは日に焼けた顔をニヤリとゆがませて言った。
「おもしろいこと教えてやる。あいつの等級、いくつだと思う」
セドリックは首を振った。彼はもったいぶってじゃじゃーんという前振りをつけた。
「なんとオリヴァントは11って話だぜ」
「は?」
セドリックは顔をしかめた。いま聞いた数字が聞き間違いではないかと思ったのだ。
「なんですって」
「だからよ、じゅういち」
彼は思わず両手を広げてじっと見てしまった。
「じゅういちって、じゅういちって、それってつまり等級が11…?」
「そうだ」
「たった11? 11って二桁ですよね。それも99とか50とかよりずっと少なくて…。それって」
「むしろ一桁に近いからな。つまり、やつより強いやつはこの世界に十人しかいねえってことだ」
バロットは大げさにぶるぶるっと震える仕草をした。
「ギースのヤローなんかメじゃねえ。オリヴァントは正真正銘の化け物だぜ。あいつがどうしてキメラの魔銃士って呼ばれてるか知ってっか。あいつのすげえところは、常に属性の違う魔法をかけあわせることができるってことだ。あいつはライフル型の魔法銃を二本持ってるだろ」
セドリックは最後に見たオリヴァントの姿を思い出した。確かに彼は二本の種類の違うライフルを持っていた。たしか名前をドナテーラとコティと言ったはずだ。
「たとえば片方に火属のカートリッジを入れておく。そしてもう片方には風属の弾を入れる。それを同時に発射させると、火がもう一方の風で煽られてもともとの破壊力が倍増するってしかけだ」
セドリックはこれ以上ないくらいに目を見開いた。
「そんなことができるんですか」
「ふつーはできねえな。威力とかいう問題以前に、魔法のかけあわせにはおっそろしいほどの計算能力とセンスがいるんだ。だからやつは化け物だってんだよ」
バロットはばりばりと硬い髪をかき回しながら、
「オリヴァントが最後に〈決闘〉したのはたしか十五年くらい前だって話だ。それからまともにエントリーしてねえから等級はあがってないが、もともとランクが上の魔銃士たちはおいそれと〈決闘〉しないものだから、実際のやつは等級以上に強ええだろうと思う。ま、〈決闘〉は断れねえしな」
「〈決闘〉は断れないんですか?」
「断れたら〈決闘〉っていわねえだろう。作法としては地に向かって空砲を一発撃つ。すると決闘の神でもある大地の精霊がふたりの足元に魔法陣を描く。したらもうそこから逃げられねえ。相手がギブアップする――つまりもう一度、今度は天に向かって空砲が鳴らされるまで戦い続けなけりゃなんねえのさ」
初めて聞く〈決闘〉のシステムだった。セドリックはいずれ自分も…と考えて、ふと自分のいまの状況を思い出した。
(な、なにを考えてるんだ僕は。〈決闘〉どころか、いまの僕には満足いく弾さえそろえられないっていうのに)
「ま、オリヴァントってやつはどこまでもいわくつきだってこったな。生まれもミステリアスなら、最後に食った等級までいわくつきだ。いくら俺でもありゃあ真似できねえよ」
「彼は…、なにをしたんですか?」
バロットは飄々としている彼にはめずらしく、どこか痛そうに顔をしかめた。
「やつが最後に食った等級は、やつの女のものだったってことさ」
「ええっ」
大声をあげたセドリックをバロットが頭ごと抱え込んだ。
「ばっ、大声あげんなって言っただろ」
「すみません」
バロットはきょろきょろとあたりを見回してから、ふーっと息を吐いて座った。
「あいつは自分の女を殺して等級を手に入れたんだ。その女ってのがとにかく強くて強くて強い女だった。たしか当時の〈蜜蜂の女王〉だったはずだ」
「…蜜蜂の女王?」
するとバロットはにやーっと人の悪い笑みを浮かべた。
「俺たち魔銃士がそのうちお世話になる女さ。女王に相手してもらえるかわかんねえが、ま、楽しみにしとけよ」
と、セドリックの背中を乱暴に叩いた。セドリックは一瞬呼吸ができなくなって激しく咳き込んだ。
バロットは重たげな体に似合わない軽快な動きで起きあがった。
「スラファト軍が〈銃姫〉の弾を作ってるってことは、オリヴァントがスラファトに協力してるのに間違いないだろう。ったく次から次へと騒動ばかり起こすやつだぜ。いったいやつは〈銃姫〉を盗んでなにがしたいんだろうな」
『引き金を引いたものが、望む言葉を消し去ることができる…』
「…〈銃姫〉」
セドリックは呟いた。
古い言い伝えでは、かつて人間はこの〈銃姫〉の引き金を引いたことがあるという。それがいつ、いったいだれの手によって引かれたのかは伝えられていない。
人間が永遠に失った言葉がなんであるのかという研究は、魔学を学ぶものにとって避けては通れない課題だった。バロットの言うとおり、人間から魔法を奪ったのは神ではなくこの銃姫だったという説が有力なのもたしかだ。
セドリックもまた、自分なりの答えを探し出すように修練院の導師に指導を受けた。それは世界の理《ことわり》へ近づくことであり、また途方もない力へ近づくことでもあった。明らかなのは、人間は過去に過ちを犯していて、それによって魔法を一度失ったということだった。
まちがいなく、神さまはおっしゃったのだ。
『人間よ、弱くなれ』
と――
だが、人々はまたもや己の都合の良いように銃姫を操作しようとしている。発動力を奪った神をまるで敵だといわんばかりに、文明の力によって刃向かおうとしている。
あるいは人間は、文明という新たな神を得た気でいるのだろうか…
(いったい、彼らはなにがしたいんだ)
セドリックは銃姫を追っている人々のことを思った。あれを欲しがっているということは、それぞれに消し去ってしまいたい言葉があるということだ。
オリヴァントにも消したい言葉がある。
アンブローシアにも消したい言葉がある。
スラファト軍にも消したい言葉がある。
月海王国にも、
暁帝国にも。
きっとあのマカロックやギースにも消したい言葉はあるだろう。
(僕なら…、たとえば僕が銃姫を使うなら、どんなことを望むだろうか)
セドリックは、銃姫を追う者が一度は考えるに違いないことを、そのとき初めて思いついた。
(この世から消し去ってしまいたいものなんて…)
ない。
(そうだろうか)
だって、憎んでいる人なんていない。
(どうだろうか)
セドリックの思考は、足取りと共にゆっくりと奥深いところに沈んでいく。
たとえば、と考える。自分のためでなくてもいい。みんなのためではどうだろうか…?
(悪)
セドリックの心はぐらりと傾いだ。
(そうだ。たとえば“悪”という言葉を消し去ったら、この世はいったいどうなってしまうのだろう)
悪。
でもそれは、いったいそれはなんだろう。
(わからない)
セドリックは息をつめた。
この世界にとって、もっとも必要でないもの。
では、それはなんだろう。
(人…)
人。
人人人 …人人人人人人人人 人。
人々。
(馬鹿なことを!!)
セドリックはぶんぶんと頭を振った。
だいたい、この世にあるものを永遠になくしてまうなど不自然だ。そういう無茶なことをするから、人はいつまでたっても愚かで間違い続けるのだ。考えてはいけない。なにかを消すことなぞ。
そう、銃姫を使うということは、決してなにかを得ることではないのだ。失うということなのだった。
それがはじめからあきらかになっているのに、人間は銃姫を追いもとめ、追い続け、幾度も幾度もくりかえしそれを使おうとする。
そのたびに人間は失い続ける。
失って失って失って失って、この世でもっとも失うことに臆病な生き物のはずなのに、人々はそれでも消すことで物事を解決しようとするのだった。
(それでいいのか?)
セドリックはぎゅうっと心臓の上あたりを握った。
どこまで続くんだ。こんな不自然なくりかえしは。
(それは)
たぶん、
(おそらく)
セドリックは心のずっと下のほうに、固い宝石のような確信を見つけた。
人が、
(人が)
人々が、
――〈人〉と叫んで、銃姫の引き金を引くまで。
「おい、だいじょうぶか!」
バロットの低い声がして、セドリックはわれに返った。
「あ、ああ…」
気がつくと顔中にびっしょりと汗をかいていた。さすがにバロットが心配げに顔を寄せてくる。
「どうした、気分が悪いならもう出るか」
するとそのとき、急に館の裏口があいて、お仕着せを着たまだ歳若いメイドがふたりぺちゃくちゃしゃべりながら出てきた。
「そうなの。それで子供がやってきて、これをだんなさまに渡してくれって」
そのうちのひとりが抱えている包みにセドリックは見覚えがあった。あれはナンネルから預かった服の包みだ。
「それで、お渡ししたの?」
「いちおうメイド長にね。そしたら一言、捨てろって」
「まあねぇ、メイヤーズ財閥のご子息にこんなものお着せするわけにいかないしねえ」
ふたりはクスクス笑いながら、セドリックたちがじっと息を殺している焼却場のそばまで歩いてきた。
「お母さんってあれ、親戚のおばさんかなにかでしょ。だんなさまのお母さまはとっくに亡くなってるはずだし。たしかだんなさまもそう言ってらしたわよね」
(亡くなってる!?)
セドリックは耳を疑った。
(そんな、ナンネルさんはたしかに息子だって…)
まだ彼女たちの話は続いていた。
「そうなのよ。いったいなんのつもりなのかしら」
「だんなさまは労働階級から成り上がった方だから、なんとかして仲良くなっておきたいんじゃない? それでこんなもの送ってくるんだわ」
「賄賂のつもりなのかしら」
「まっさかあ。こんなボロをぉ?」
「わかんないわよ。クリンゲルじゃ一張羅なのかもしれないじゃない」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
「ま、こんなの古着屋にも売れたもんじゃないし、いいわよね」
と言って、無造作にその包みを投げ入れると、先ほどとはまったく関係のない話をしながら館の中に戻っていった。
彼女たちの姿がみえなくなるのを見計らって、セドリックはあわててゴミの山の中から包みを拾い上げた。
「お、おい。それをどうするつもりだ」
バロットに言われてセドリックは戸惑った。
「どうするって…」
と、ふいに別の勝手口から出てきたメイドが悲鳴をあげた。
「きゃああっ、な、なにか宙に浮いてるわ」
セドリックはぎょっとなって荷物を見つめた。しまった。自分たちの姿はいま消えていることをすっかり忘れていた。
「このばかっ、だからいわんこっちゃない。こっちだ!」
バロットに手を引かれて、セドリックはマカロックの屋敷から逃げ出した。
†
マカロックの屋敷からずいぶんと走って人混みに紛れると、彼らはようやく一息ついた。
「あー、びっくりしたぜぇ。まさかあんな風に見つかっちまうなんてな」
ふたりは息を整えると並んで歩き出した。上流階級ばかりが居を構えるアブサント通りはレニンストンの中心街から近く、最近流行だという蜂の腰スタイルのご婦人方が、昼下がりの街を楽しみにやってきている。
その日はずいぶんと日差しの強い日中で、ふたりにかかった水魔法は道ばたの水たまりのようにあっというまに消えてなくなった。
セドリックは、まだ預かった荷物をかかえたままだった。
「さて、用も済んだことだし、おめえの姉ちゃんのところに帰るとすっか」
すっかりエルウィングに会うつもりでいるバロットに、セドリックは呆れて言った。
「本当についてくる気ですか? 本当に本気で?」
「おめえもしつこい野郎だな。俺ァ一度決めたら二言《にごん》はないぜ」
セドリックはうつむいてブツブツ言った。
「僕にことわりもなく勝手に決めたくせに」
「あー、細かいことをいちいち言うなよ。ハゲんぞ」
「なっ」
「それと、子供のくせにやたらていねいな言葉を使うのもやめろ。聞いてるこっちがこう、かゆくなってくるんだ」
バロットはばりばりと腕をかくふりをした。
「俺ァどーもその、です、ますってのがキライでな。嘘くさいだろ」
「そんなことバロットさんには関係ないでしょう、それにまだ用は済んでません!」
セドリックは服の包みをぎゅうっと胸の中に抱きしめた。
思わず荷物を拾ってしまったはいいものの、彼にはどうすることもできないのだった。もう一度渡しに行ったところで結果は同じだろう。ならばマカロックに直接渡すしかないが、一介の子供の自分にそんな機会がめぐってくるとも思えない。
それに、そんな機会はあったとしても本当に受け取ってもらえるかはなはだ疑問だった。
『だから私はああいった田舎の人間は好かんのだ』
あんなふうに故郷のことを口汚く言っていたということは、彼はもうクリンゲルに帰りたいとは思っていないのだ。
(母親が、待っているのに)
うつむいたまま一言もないセドリックに、バロットが言い聞かせるように話しかけた。
「しかたがねえじゃねーか。おまえのせいじゃない。おまえはちゃんと言われたとおりにここへ来て渡したんだから」
「でも…っ」
「“でも”、どうするつもりだ。なんでおめえはそこまでその荷物に執着する?」
「うっ」
セドリックは押し黙った。
つまらない意地だといわれればそうかもしれなかった。けれどセドリックの頭に、これを大事そうに抱いていつまでも郵便屋を待っていた老婆の姿がちらついて離れなかった。
濡れないように油紙に何重にも包んだ紙包み。息子にはこの服でないとだめなんだと幸せそうに語っていたナンネル…
どうにかして、どうにかしてこれをマカロックに受け取ってもらうことはできないだろうか。
そうしないと僕は気がかりで帰れない。ナンネルに、きっと手紙を預かってくると約束したのに…
(いいや、それはたてまえだ)
ふいに厳しい言葉が、セドリックのいままでの思考をせき止めた。
(僕はただ単に帰れない理由が欲しいだけなんじゃないのか。この荷物をマカロックに手渡すまでは帰れないとそう思い込んでいたいだけなんじゃないのか)
(そうさ!)
もうひとりのセドリックがやけになって言う。
(本当は帰りたいさ。帰りたい。エルの胸に泣きつきたい。泣いて、つらかったわねもうひとりじゃないのよと言って慰めてもらいたい)
たとえ魔法が使えなくなったとしても、エルウィングは変わらず自分を愛してくれるだろう。アンブローシアだって本当は心のやさしい子だ。落ち込んでいるセドリックを詰《なじ》って責めたりしないだろう。
でもだからってこのままおめおめと戻れるのか。セドリック。すべてを失って、いまさら普通の人間に戻って日常に埋没できるのか。
(できない!)
(いやだ!)
なぜいやなんだ。魔法が使えなくなることが、どうしてそんなにいやなんだ。セドリック、おまえは修道士になるつもりだったんじゃなかったのか。人々のために尽くすとそう誓っていなかったか。
平凡に生きるのが、
弱いいきものがそんなに嫌か。
(いやだ!)
セドリックは刺すように強く思った。
(だって、そんなことになったら、僕はアンを…)
そのとき、通りを歩いていたふたりの前方に急に悲鳴があがった。
「な、なんだ。いったいどうしたんだ」
バロットは広場から急に駆けだしてくる人々を見て狼狽えた。
昼下がりのアシュマリン広場では、毎日のように候補者による演説が執り行われている。その日もマカロックの対立候補であるエドモン=シュレーの演説が行われていたはずだった。
「火だ!」
「魔法が使われたぞ!」
「シュレー候補が魔法で襲われたぞ!」
人々は口々にそんなことを叫びながら、われ先に逃げ出してくる。その流れに逆らうかたちになりながら、ふたりは顔を見合わせてすぐに広場へ急いだ。
「あああっ」
セドリックは広場に足を踏み入れるなり声をあげた。そこは猛々しい炎が暴れ狂う、一面火の海だった。
「ど、どうしてこんな火が」
セドリックとバロットは、演台の上で口に手をあててむせいでいる中年の男を見つけた。あれがシュレーだ。バロットが言った。
「助けにいかないと!」
「でも、どうやって…」
バロットが素早く胸のホルダーから魔法銃を抜き取ると、
「見ろ、この炎が地面から円形に吹きだしているのがわかるか」
セドリックは頷いた。たしかに前方に吹き荒れる炎は、床に円を描いている。その中心を見て、セドリックはハッとなった。
バロットもまた頷いた。
「“アシュマリンの魔法陣”だ。だれかがあれを改造しやがったんだ」
彼は素早くホルダーから水属のカートリッジを選び、弾倉につっこみながら叫んだ。
セドリックは炎と炎の隙間から見える地面を目を凝らして見た。たしかに、世界一古い魔法陣であるアシュマリン魔法陣から赤々とした火が吹き出ている。
「で、でも、昨日まではたしかに」
「そうだ。たしかにあの魔法陣は死んでいた。魔法陣研究者の中でも、あのアシュマリン魔法陣は年月がたつうちにいろいろと抜け落ちている文字や言葉が多くて、あのままだとなんの意味もなさないはずだったんだ。それが火を噴いたということは、たぶんそれを炎の魔法陣に書き換えたやつがいるんだ」
「書き換えた!?」
セドリックの目の前でバロットは勢いよくシリンダーを回す。
「シュレーに生きててもらっちゃまずい人間がそうしたのさ。魔法陣の書き換えなんて一晩もありゃあできる。それに一般人にはアシュマリン魔法陣はばかでかすぎてどこがどう変わっているのかなんてわからないはずだ。地面をいちいち見て歩く人間もいないしな」
言って、彼は腰に何重にも巻いていたホルダーベルトを放って寄越した。
「売りもんだが好きに使え。おめえカートリッジ持ってねえんだろ」
「え、あ、あの…」
「あとで返せよ!」
そう一声叫ぶやいなや、バロットは火の中をつっこんでいった。瞬間彼の眼前に青い光が放たれ、彼の体をやわらかな水球が包み込む。
(〈水竜のたまご〉だ。なんて大きい…)
セドリックは放って寄越されたホルダーから五連式用のカートリッジを選ぶと、急いで愛用のレッドジャミーに装填させた。あの中に入ってシュレーを助けるには、まず水系のバリアを張らなければならない。
(水竜のたまごはないみたいだし。ええっと、これは〈赤の水面〉…? 聞いたことがない魔法だな)
カートリッジ屋などしているからだろうが、そこはさすがに魔法の種類をそろえているようだった。
(うわっ、これなんか〈氷柱姫の牙〉だ。初めて見た。高っいんだろうなあこれ…)
もっとしっかり見ておきたい気がしたが、目の前の状況だとそういうわけにはいかない。
セドリックはホルダーの中から見覚えのある魔法を見つけると、それを急いでいちばんに押し込んだ。
「よし!」
走りながら引き金を引く。バウンと空気がふくらんで、セドリックのまわりを細い風が、まるでスパゲティーの麺がフォークにからまるように寄り集まってくる。
この間、アンブローシアが封呪に成功したばかりの風魔法〈蜷局〉だ。
まさにとぐろを巻いた風に守られて、セドリックは炎の中を進んでいった。足元に黒こげになったアシュマリン魔法陣が見える。――いや、これはアシュマリンではない。発火する時間を組み込んだ〈炎門の番人〉というスタンダードな時限発火型の魔法陣だった。
(シュレーさんを狙った犯人は、魔法陣に詳しい人間のはずだ。まさか――!)
セドリックの脳裏に、昼間みた空色の軍服がちらついた。
(まさか、スラファトの魔銃士団が!?)
炎をかきわけるようにして進む。彼を舐めようとする炎は、みなとぐろをまく風にはじき飛ばされてちりぢりに散っていった。
と、目の前にバロットの分厚い背中が見えた。
「バロットさん!」
バロットは腕の中にシュレーらしき男性を抱えていた。彼はハッとセドリックを振り返ると、
「ばかやろう、早くこっちへこい!」
セドリックはあわてて駆け寄った。
ぶよんとした感触が頬にあたった。バロットの張った水のバリア〈水竜のたまご〉の中に入ったのだ。
すると、それとほぼ同時にしゅるると音がして風がとぐろをほどいた。
危なかった、とセドリックは息をついた。そういえばこの〈蜷局〉がどれくらいの時間もつのか聞いてなかった。あのまま炎の中にいたら、いまごろ黒こげになっていたはずだ。
「いいか、よく聞けよ。これは〈閃光〉という光魔法だ。いまからこれを上に向かって撃つ」
バロットの頬はすすけて真っ黒だった。彼の腕の中でシュレーはぐったりとしている。バロットが助けたときにはすでに酸欠状態だったのか、それとも煙を吸ったに違いなかった。
セドリックはごうごうと炎が声をじゃまするなか、大声で言った。
「光魔法を? どうして?」
「カバー魔法がそれっきゃないからだよ、見ろ!」
バロットが忌々しげに叫んだ。
セドリックは自分たちのまわりの状況を見て、炎が衰えていないことに気づいた。それどころかもうもうと力を増してきている。
自分たちはいま魔法陣のちょうど真ん中にいる。それを取り囲むように発生していた炎が、時間がたつにつれて風に煽られ、徐々に真ん中に迫ってきているのだった。
「くそ、網捕り式の罠みたいだぜ。時間がたてばたつほど中が狭まって炎に巻かれるようになってるんだ。
本来こういうタイプの魔法陣なら、土魔法で地面をぶっ壊しゃいいんだが、ここはそうはいかない。ここの魔法陣は何千年も前からあったやつで、祭祀用なんだ。きっとそう簡単に壊せないよう下から補強されてる。そして、俺はそんな強い土魔法は持ってねえんだ」
「あ…」
セドリックは、バロットが土魔法が苦手だと言っていたことを思い出した。
「ど、どうすれば…」
「そこで、この〈閃光〉だ。その名のとおりほんの一瞬しかもたねえが、光が他の属性を跳ね返してくれる。いいか、俺はいまから〈雪崩〉を撃つ」
バロットはセドリックのレッドジャミーの弾倉を開いた。そこへ〈閃光〉をねじ込んだ。
「つまり水じゃなく雪の質量で炎を消すんだ。しかし雪崩だと俺たちの上にまで雪が落ちてきやがる。そのままじゃ三人とも即死だ。だからお前がすぐあとに〈閃光〉をうて。間違えるんじゃねえぞ」
「僕が、すぐあとに?」
「この〈雪崩〉の魔法式だと発動までに三秒かかる。〈閃光〉は一秒だ。しかも一瞬しかもたねえ。だから俺が雪崩を撃ち込んだあと、魔法式はすべて走り終えるそのときに撃ち込め」
「そんな、じゃあバロットさんが連発すれば」
「あいにく閃光弾が七連式用じゃねえんだよ!」
彼の持っているサブ用の弾丸だったのだ。つまり、七連式のカートリッジより少し大きい。バロットの銃には入らない。
「時間がない。やるぞ!」
バロットはこめかみに汗をとくにませながら言った。〈水竜のたまご〉の威力がうすれてきているのか、バリア内まで熱くなってきている。
「いくぜ、構えろ!」
セドリックが撃鉄をおろし上に構えた。〈水竜のたまご〉が時間切れでぱっと霧散する。
その直後、ぶわっと熱風がふたりに襲いかかった。そのコンマ2秒早くダキューンという耳慣れぬ音がして、バロットの魔法弾が発射された。
すぐさま魔法式が走り出す。
「〈冬将軍の氷槍、軍靴に踏みしめられた雪よ。六角のかたちをした氷の華よ。つぶてとなれ、かたまりとなれ、流れとなれ、とどろきとなれ――〉」
バロットの声ではない、聞いたことのない澄んだ女の人の声だ。彼は炎の属性だと言っていたから、この水魔法はだれかと交換したのかもしれない。
セドリックは正しく魔法式が終了するのを待って、引き金を引いた。
ツキューン!
ハープの弦が一気に切れるような音だった。
「あ――」
ひさしぶりに見る光魔法〈閃光〉。光と闇の魔法は劣性遺伝するため、ほかの属性と違って優性にでてくることがめったにない。よって扱える人間はごく少ないと言われている。
セドリックが〈閃光〉を見たことがあるのは、アンが光属を得意としているからだ。
魔法式は聞きとれないほど短かった。子供の悲鳴のような声が聞こえて、それが魔法式の詠唱だとわかったときには、もう〈閃光〉は発動していた。
カッ!
一本の光の矢が天を貫く、――と同時に光の膜が細かに砕かれパアアアアッとあたりに散る。セドリックを捕らえようとしていた炎の手が、あっというまに光に押しつぶされる。
まわりに光の膜が張られたのだ。
どしゃああああん!
ズシッ
「ううっ!」
地面が一瞬浮いた。セドリックたちのまわりにわずかに張られたバリアを除いて、そのあたり一帯をまさに雪崩が押し寄せた。
「消えるぞ、もう一発撃て!」
セドリックはハッとなってまわりを見た。閃光というだけあって光のバリアは少ししかもたないのだ。
ダン!
彼はもう一度引き金を引いた。先ほどと同じようにまず光が頭上で炸裂し、ついで細かな金の雨がさわさわと降り注ぐ。
その間に、魔法陣から吹きだしていた黒い炎は完全に消しとられてしまっていた。あたりはまだぷすぷすと黒煙があがっているが、どれも踏みつぶせるほど小さなもので、これ以上民家のほうに飛び火することはないだろうと思われた。
「た、助かった……」
セドリックはへたへたと地面に座り込んだ。
シュレーを抱えていたバロットも、ほっとしたように銃を胸のホルダーになおした。
「はあああ、一時はどうなることかと思ったぜ」
セドリックもまたレッドジャミーを太ももに戻した。
「こんなこと、いったいだれが」
「決まってんじゃねえか」
バロットは煤で真っ黒になった顔で舌打ちした。
「シュレーに死んでもらって得する人間なんかひとりしかいねえだろ。しかもごていねいに魔法陣に細工までしやがって。こんなしちめんどくさいことができるのはあいつらだけだ」
あいつら。
セドリックは汗ばんだ手をぎゅっと握りしめた。
(やっぱり、スラファトの魔銃士団が!)
バロットはシュレーの様子を窺っていたが、呼吸がしっかりしているのを確かめるともう一度肩にかかえなおした。
「このまま救護院に運んだほうがいい。ま、このぶんじゃ騒ぎが終わったのをききつけてだれか来てくれそうだがな」
バロットの言ったとおり、しばらくすると街の役人らしい男が数名ふたりのそばへ駆けつけてきた。
彼はほっとした息を吐きながら、
「おう、待ってたぜ。このおっさんをすぐに救護院に…」
ガチャッ
物々しい音が響いて、バロットとセドリックふたりの胸に銃が突きつけられる。
「おとなしくしろ。魔法銃を捨てるんだ!」
「銃を捨てろ!」
「………神よ」
バロットが呟いた。鈍感なセドリックにはいったいなにが起こったのかわからない。
レニンストン市の警護隊らしい男たちは、セドリックに向かってこう言い捨てた。
「お前たちをシュレー候補暗殺未遂容疑で逮捕する!!」
「なんだって!?」
セドリックは凍りついた。すぐとなりでバロットがやれやれと顔を渋める。
「…まんまとハメられたぜ」
なんとふたりは、この騒動の主犯として逮捕されてしまったのだった。
†
西の空に突如として湧き起こった雨雲が、まるで芝居が終わったときのように空全体に幕を下ろした。
主役の月は舞台をおりていき、しばらくして拍手の音に似た雨が降り出した。
春の雨だった。なにかこの次を感じさせるような予感に満ちた雨だった。
しかし、セドリックたちはそのことに気づかなかった。窓どころかまともにあかりさえない場所に押し込められていたのだ。
(なんでこんなことになっちゃったんだろう…)
セドリックはボーゼンと考えた。
いま、彼の手首には無骨な鉛の枷がはめられている。それ自体はそんなに重いものではないが、重さではないもっとほかの重圧がセドリックを苦しめていた。
「うおー、だりぃ。たまんねえ」
同じように手枷をされているバロットが、床の上に大きく足を投げ出して呻いた。
「はあ…、はあ…、はあ…ぐっ」
「おめえ、だいじょうぶか。すごい汗だぞ」
セドリックはずるずると移動してどうにか体を壁にもたれさせた。この手枷をされてからというもの、ひどい倦怠感がセドリックを苛んでいた。
なにか考えようとすると、ずんとした手で思考そのものをかき乱される。わかりやすい感覚で言えば、なにか大きな失敗をしてひどく落ち込んだときのような心の重さなのだった。
「鉛のせいさ」
と、バロットは言った。
「魔力ってのは人間の精神から発生するものだと言われている。そこへ魔法の絶縁体である鉛を身につければ、当然精神状態が悪くなって人によってはひどい倦怠感に襲われるんだ。魔銃士は一般人と違って、魔法戦にそなえて常に精神を開いているからとくにこたえる。一般人の精神状態が一個のオレンジなら、魔銃士のそれはその皮をむいた状態みたいなもんだな」
バロットはそんなふうにたとえてみせた。
「だが、鉛をつけるのは初めてにしてもお前の苦しみようは尋常じゃねえな。相性が悪いとしか思えねえ。血が濃いとそうなるのかな」
「さっき…よりは、だんだんと…まし…に、なってきてる…んですけど…」
「そうさ。鉛は精神の重石みたいなもんだ。よく戦士なんかが鋼鉄の肩当てをつけて練習するだろ。そんなふうにだんだん慣らしていくんだよ。まずは俺みたいに貴鉛からな。だがさすがにチョクにつけると鉛はキッツイ。この枷は魔銃士用だから鉛率が高いだろうが、それでも混じりもんだ。純な鉛をつけるとだんだん体そのものを壊して死ぬっていわれてるほどだからな」
そうして、ああだりぃと最後に付け加えた。
セドリックは壁に背中を預けて息を整えた。バロットが言ったとおり、だんだんと楽になってきていた。相変わらず石を飲まされたみたいに腹が重いが、それでもさっきの強烈な自己嫌悪状態に比べればずいぶんましだ。
「…さ、さっきから嫌なことばっかり考えるんですけど、これも鉛のせいでしょうか」
「あー、そういう作用もあるぜ。俺もこれをつけたばっかりの頃はそうだった。俺ってなんでこんなことしてるんだろう。なんて弱っちいんだろうって自己嫌悪の塊だった。ふだんはそういうこと考えないのが俺のカッコイイところだったんで、あんまりにも自分らしくなくて驚いたけどな」
バロットは首にぶら下げている三つの髑髏を指ではじいた。
「バロットさんでもそうなんですか」
「うん? 俺がそゆこと考えるのはヘンか?」
「いえ…、さっきから僕もずっとそれなんで」
セドリックは大きく息を吐いた。からっぽになった太もものホルダーがなんとなく心許なかった。
「僕、魔法が使えなくなっちゃったじゃないですか」
「ああ、そうだったな」
「それで、どうしていいのかわからなくて」
セドリックは目を瞑った。
「なんて言って戻ればいいのかわからなくって。きっとエルは…、姉はなにも言わないと思うんです。なにも言わないで抱きしめてくれると思うんです。ここに来る前に、魔法が使えなくったってずっとそばにいるって、そう言ってくれたんです。僕、すごくうれしかった」
はあ、と重いため息が口から吐き出される。
「涙が出るかと思うくらいにうれしかった。でもうれしいと思う反面、それじゃあだめだっていう声が頭の奥から聞こえてきたんです。エルの人生はエルのものであって僕のものじゃあない。エルはとっても綺麗だから、いまは僕のことが大切だって言ってくれてるけど、きっとそのうちにだれかのお嫁さんになってシスターを辞めてしまうかもしれない。そんなときに僕はエルの足手まといになりたくない。
…いいや、いいやそうじゃない!」
セドリックは自分自身に向かって、腹の底に溜まっていた塊のようなものを吐き出していた。
「僕は嫌なんだ。弱くなるのが。弱くてつまらないいきものになるのが。
これから戦争はますますひどくなって、弱いものからどんどんと見捨てられる時代になるっていうのに、なにもできない自分になるのが嫌なんだ。
…ねえバロットさん、僕は…僕は化け物だっていわれていたんです。メンカナリンの精製機関で、たぶん僕の血を濃くするためだけに両親は交わった。僕は両親を知らない。僕は望まれて愛してもらうためにこの世に生まれ出たわけじゃない。メンカナリンの偉い人たちが、いずれ僕を前線で戦わせるために僕は作られた、
僕は――兵器だった」
セドリックはしゃべり続けた。不思議とバロットがそばにいることは頭になかった。
ああ、僕はどうしてこんなことをだらだらしゃべってしまうんだろう…。これが鉛の作用なのだろうか。心が重すぎて、中のものを吐き出したくて吐き出したくてしかたがないのだ。
「たぶん僕はそれを心のどこかでわかっていたんです。オリヴァントが、…アンが僕の元にやってくる前から。
僕は化け物なんだと言われたあと、僕は怯えました。そしてそのショックで魔力を暴走させてしまった。
悪いことをしてしまった。いけないことをしてしまった。そのときには、いまよりもっと大きい鉛が襲ってきて地の底よりも深く自分を嫌悪しました。だからとにかくその償いがしたくて、言われたとおり〈銃姫〉を探した。
…そう、僕は〈銃姫〉を探していたんです」
セドリックはゆっくりとバロットのほうに顔を上げた。彼の顔は煤で闇に溶けていたが、その眼光はするどく光っていた。
「なんのために?」
「なんのためでもよかった。ずっと僕は良い子だったんです。反抗することすら頭にない良い子だった。バロットさんが言うとおり言葉遣いがていねいすぎるのも、良い子のわくを外れたくなかったから。なんでも言われたとおりやってきたし、言われたとおり魔法も習った。行けと言われればどこへでも行った。すぐに頷くくせがついてしまっていた。
でもそれは僕がまだ子供で弱かったから。メンカナリンの庇護下で生きていくほかないことをよく知っていたからです」
「だが、お前は力を知ってしまった」
バロットの言葉に、セドリックはわずかに頷いた。
「魔法を使った…、自分がとてつもない化け物だったと知ったとき、本当は僕は心の奥底の下の下の下のほうでものすごく驚喜しました。これで僕はひとりでやっていける。こんな強大な魔力があれば、メンカナリンの庇護を受けなくても戦える。やつらからエルを守ることができる。ようやっと大人になれる。
復讐だって、できる――」
ぞわり、と目の前の闇が頭をもたげたように見えた。
セドリックは乾いた唇を舐めた。まだもう少し吐き出すことがあった。
「おかしいでしょう。殺したことを喜ぶなんて。だって僕は、十万人を殺したんだ。一瞬で子供も赤ん坊も…、僕をかわいがってくれた修練長さまもみんな灰になってしまった。なのに僕はそれを喜んでいた。大喜びしていた。驚喜していた。そんな自分が醜くて勝手でひどく汚らしいものに思えて……許せなかった!!」
セドリックは怒鳴りつけるように言った。
「自分自身を許せなかった。
僕がかろうじて人間らしくいるためには、あくまで化け物である自分に怯え続けなければならない、そう思いました。
だから大僧正さまに言われたとおり〈銃姫〉を追いかけたんです。彼らから嫌われないよう、いらないといわれないよう。僕はずっと“いいえ”と言えない子供でした。素直でいれば、彼らの言うとおりにしていれば従順で愛してもらえると思っていた浅はかな子供でした。
…でもいまになって思うんです。もっと早く“いいえ”と言えていたら、僕はもっとあの場所を愛することができたかもしれなかった。
…ああ…、僕はなにを言ってるんでしょう。なにかヘンだ。心が重くて吐き気がする…」
セドリックは額に手をあてて汗をぬぐった。気づかない間にずいぶんと汗をかいていた。
息が上がる。
心が重い。吐き出しても吐き出しても、少しも軽くならない!
「僕は、ほんとうは…、〈銃姫〉を追い かけ て … やつらを…どうにかしてしまいたかったのかもしれない。やつらに言われたとおり〈銃姫〉を追うふりをして、ほんとうは、ほんとうは…僕こそが〈銃姫〉の引き金を…」
「おい、すげえ顔色だぞ、セドリック」
「でも…、もう僕には…力がな…い…」
セドリックの体がぐらりと傾いだ。
「おい!」
自分でもしゃべっている内容が、こだまのように遠く聞こえ始めていた。なんだこれは、すごく体が重い。だるい…しんどい…いっそ死んでしまいたい…
でもこの感覚を僕はどこかで経験したことがある。どこだっただろう。ずんと心が重くなって、言葉を吐き出したくて吐き出したくて仕方がなくなるような、吐き気にも似た反復衝動。
僕はそのたびに自分を責めていたような気がする。こんなふうに、いまのように、良い子の自分は化け物を責め、
『…セドリック、あなたが心配なのよ』
エルの声がした。
(どうしてここでエルの声が聞こえるんだろう)
セドリックは覚えていた。そんなふうに自分を嫌いになるのは、決まってエルのお願いを聞いたときだった。
そして、なぜかそのたびに、僕は少しずつ少しずつ弱くなっ…て…
カツッ!
強い音――、けれど聞き慣れた音がした。セドリックの閉じかかっていた視界に、見覚えのある色のブーツの踵があった。
鉛の踵。
魔銃士たちが土系の魔法から身を守るために好んで使う踵だ。
「おやおや、さすがにこの分量の鉛は子供にはきついと見える」
声は鉄格子の向こうから牢の中に投げ入れられた。
どこか聞き覚えのある声だった。セドリックはぼんやりと視線を上げた。
「やっぱり貴様の仕業か、ギース!」
「それはこちらのセリフだよ。バロット君」
その声の主は、あのマカロックの屋敷にいたスラファトの魔銃士団長、“赤いたてがみ”ギース=バシリスだった。
(…やっぱり、知り合いだったんじゃないか)
沈没したままのセドリックの向こうで、ひとり元気なバロットが唸り声をあげた。
「ケッ、アシュマリン魔法陣に小細工して選挙戦のライバルを消そうたあ、どうしてなかなかの悪党ぶりだぜ、ギース。まさか助けに行った俺たちを犯人に仕立て上げるとは思わなかったがな」
「なにをほざく。策士は君のほうだろう。こそこそとマカロックの屋敷に侵入して間諜《スパイ》のまねごととは。きみが」
「あ、ばれてーら」
バロットは悪びれもせずに横を向いた。
「べつに俺が用があったわけじゃない。そこに転がってるガキのお守りを買って出ただけだ」
「…ほう? しかし君にしてはずいぶんと足手まといな魔銃士を相棒に選んだものだ。この程度の鉛でこんなていたらくとはね」
セドリックはぐっと下唇を噛んだ。しかし反論する言葉も気力もいまは残っていない。
ギースはもったいぶって腕を組んで言った。
「バロット、君とはほんとうに縁があるね。属性も同じだし、それに君とは昔よく〈決闘〉もしたものだ。どうだい、組合を通した正式な〈決闘〉ならここを出られたらいつでも受けて立つよ」
「チッ、ふざけやがって。んなことできるはずねーだろーがよ」
聞いているうちにセドリックにはこのふたりの関係がなんとなくわかってきた。つまり、バロットは過去に何度かギースに挑み、そのたびに返り討ちにあってきたのだ。
もしくは等級を食われたか。
バロットがニヤリと笑った。
「だが、そのおかげでおもしろいことを聞けたぜ。おめえが〈銃姫〉の弾丸を作るために奔走してるってのは初耳だった。あんなぶっそうなものがこの世に本当に実在したってのもな。てっきりジジイどものたわごとかなにかだと思ってたぜ」
「…そんなところまで聞いていたのか、君は」
ギースは少しだけ目を見開いた。
「ますますここから出したくなくなったよ」
「なに言ってやがる。とっとと出せ」
「アハハハ、身の程を知らない君が悪いんだよ。
…そう、君のおかげでわれわれも少しばかり悪い立場に追い込まれた。シュレーがあんなあからさまな襲われ方をしたせいで、レニンストン市民は皆マカロックがわたしたちにやらせたのだと思い込んでいる。そんなことをしてシュレーを亡きものにしても、こちら側としてはマイナスイメージが残るだけだというのに。ま、もっとも真犯人はそれこそが狙いだったわけで、われわれはまんまとはめられてしまったわけなのだが…」
「……ケッ、ご託はいい」
「ご託かどうかは君がいちばんよく知っているはずだ」
彼は再び踵をカッと鳴らした。
「こんなところで君と再会するとは思わなかったが、どうやら別れもすぐのようだよバロット君。わたしはもう行かねばならない。雲行きが怪しくなった選挙戦のために、ちょっとばかり策をこうじる必要があるのでね。君たちには当分の間そこにいてもらう。もちろん罪状はシュレー候補暗殺未遂だ」
「ばかな! 俺らがあのおっさんを殺してなにか得でもあんのか」
「それはこれからじっくり考えることにするよ。ほんとうは裁判なしで銃殺刑にでもしたいところだが、さすがに君相手にそれはできないからねえ」
「こンの、サディスト!」
歯ぎしりするバロットに、ギースはフフフンと高慢に笑った。
それから彼は、まるで犬でも見るような目で倒れているセドリックに視線を向けた。
が、
「君…」
ふいに視線を凍りつかせた。
セドリックはのろのろと顔を上げた。
「君、どこかで会ったことが…」
そのとき、牢の入り口が開けられる音がした。大人の男が言い争う声とともにだれかがこちらへ歩いてくるのがわかった。
掲げられたランプのあかりが、牢の鉄格子の前にいたギースとやってきた人物の顔を照らす。
(この人――)
「こ、これはこれはシュレー候補ではありませんか」
現れたのは、なんとバロットが助けたエドモン=シュレー候補当人だった。まだ傷が完全に癒えていないのか、頬には火傷の跡が残り右腕にぶあつく包帯を巻いたままだ。
まさかもう動けるようになったとは思っていなかったのだろう。ギースの顔からは明らかに動揺が見て取れた。
「お具合はいかがですか、シュレーさん」
「早くこのふたりをここから出したまえ!」
彼は厳しい声でギースに告げた。
「このふたりはわたしを助けてくれた命の恩人だ。わたしを狙ったはずがない!」
「しかしシュレーさん。このふたりは魔銃士です。それにこのふたりがあなたが炎に巻かれるのを確認してから助けるふりをしていたという目撃証言もあるのですよ」
そんなのはでたらめだ!とバロットは吐き捨てた。シュレーもまたバロットに向かって頷いた。
「そういうことはわたしではなく、表に出てみんなの前で言ってみてはどうだね。それにスラファトの軍人がレニンストンの選挙にどうして口出ししているのか、わたしも大いに疑問に思っているんだ。君の演説はみんなの歓迎するところだよ」
「…………」
その問いにはギースはなにも言わず、一瞬不愉快そうな表情を出しただけで一礼をしてその場を去った。
シュレーはすぐに役人に牢を開けさせた。
「は、はやくこの手枷をとってくれ」
バロットが情けない声をだした。
セドリックたちは鉛の手枷を外してもらうと、牢に入れられる前に取り上げられた魔法銃とカートリッジベルトを返してもらった。もちろんナンネルから預かったあの荷物もだ。
「ああ、本当だ。楽になった…」
この魔銃士用だという鉛の枷は相当キツイようで、外した瞬間にふっと心が浮いたように軽くなった。彼は少し考えて、袋の中にその手枷を放り込んだ。
セドリックは深々と頭を下げた。
「助けてくださって、どうもありがとうございました」
シュレーは笑った。
「それはわたしのセリフだよ。坊や」
それから、彼はバロットに向き直って言った。
「炎に巻かれて意識が薄らいでいたが、あなたたちが飛び込んできて魔法を唱えていたのは知っていた。あのスラファトの軍人がいうのは悪あがきですよ。市民たちはあなたたちが今回の事件を起こしたなどとは思っていません」
「それじゃ、マカロックが…?」
シュレーはわからない、といったふうに頭を振った。
「ただ、あの事件をさかいにマカロック支持者の間で支持離れが起こっているのは確かです。わたしは対立候補ですからありがたいと思わなければならないのでしょうが、清廉であるべき月海王国の議員選挙がこのようなことになってしまったのを大変遺憾に思います」
セドリックはふと、先ほどギースが言っていたことを思い出した。たしか彼はこう言っていなかっただろうか。先行きが怪しくなった選挙戦のために、ちょっとばかり策をこうじる必要がある、と…
「ギースはいったいなにをするつもりなんだろう」
セドリックはバロットと顔を見合わせた。
スラファト軍は、〈銃姫〉のカートリッジを作るためにマカロックの所有するクリンゲルの山を採掘したい。そして暁帝国と戦っているスラファトは、軍事面でもそして地理的な面でも、月海王国の後押しが喉から手が出るほど欲しい。
マカロックがスラファトの力で議員になれば、当然彼はスラファトの利となるよう月海王国を参戦させるだろう。そしてクリンゲルも採掘できる。マカロックが当選さえすれば、スラファトは欲しい物が一度に手にはいるのだ。
そのために、ギースはなにがなんでもマカロックを当選させようとするはずだ。
彼はきっとそのためならなんでもする、そういうタイプの男にセドリックには見えた。
「嫌な予感がするぜ。あのギースって野郎はおきれいな顔に似合わないくらい大胆なことをするんだ。こう、だれもそこまでやらねえってぐらいにな」
「バロットさん!」
バロットは奥歯をぎりっと噛みしめて頷いた。
「マカロックの屋敷に乗り込むぞ。ギースがだめならせめてやつだけでも止めろ。ようはマカロックにスラファトの手駒を降りさせればいいんだ」
「はい!」
そうしてセドリックとバロットは、まだ少しけだるさの残る体を引きずるようにしてマカロックの屋敷に向かった。
外は目の前さえ見えないような大降りの雨だった。
†
この屋敷から子供の声がしなくなってからずいぶんたっていた。
ジャン=マカロックはからっぽになったゆりかごを見て、メイヤーズ財閥出身である彼の妻が、騒々しい選挙戦を嫌って子供を連れ実家へ戻ってしまったことを思い出した。
高慢な女だった。マカロックと結婚したのは彼女の父の言いつけだったが、結婚してからもマカロックが地位も名誉もない、いわゆる成金でしかないことの不満を堂々と口にするような女だった。
美しかったが、それだけの女だった。どうしてこんな女と結婚してしまったのだろうと思うたびに、彼女の姓になった自分がひどくなさけなくてならなかった。
マカロックがレニンストンの議員に立候補したのは、あびるほどの富がありながらいつまでも無冠の夫をさげすむ妻を見返してやりたかったからかもしれなかった。いや、たぶんそうだっただろう。メイヤーズは彼にとって重すぎる名前だった。その一族に名を連ねることを望んで婿に入ったのに、いつしかその名は彼にとって鉛の重石になっていった。
だからスラファトの援助を受けた。
メイヤーズ財閥からも援助の申し出があったが、きっぱりと断った。安っぽい見栄だった。メイヤーズでなくても選挙に勝てるという実証が欲しかったのだ。
純銀などいくらでもスラファトにくれてやる。あのいまいましいクリンゲルの田舎が、スラファトの牙によって切り裂かれるのも見ていて心がすくだろう。
あんな田舎町など、いっそなくなってしまえばいい!
ジャン=マカロックは故郷を憎んでいた。いつまでたっても彼の才能を理解しようとはしなかったクリンゲルの人々を恨んでいた。彼らは都へ出て勉学をおさめたいと言った自分に、学問などなんの役にも立たない、それよりは親のそばにいて先祖が皆そうしてきたように羊を飼えとそう言ったのだ。
なんて愚かなものたちだ。
鉄の文明が、この地上に新たな可能性を切り開こうとしているいま、こんな山奥で羊を飼っていていったいなんになる。
外の世界はマカロックの思ったとおりだった。神に仕えるといって村を飛び出し、トート修練院大学に入ったマカロックだったが、現実は早々に彼の喉元に切っ先を突きつけた。どこもかしこも地位・名誉・金だった。メンカナリン寺院の役職ですら金で買われ、僧侶たちは寄付という名の賄賂を受け取り平然と女と寝ていた。小さい頃、母に寝物語に聞かされた世界でいちばん偉い人などどこにもいなかった。
そう、世界でいちばん偉い人などどこにもいない。いるとしてもそれは神ではない。マカロックにはわかっていた。
金だ。それは富だ!
このまま僧侶になるのと商人になるのといったいなにが変わるっていうんだ。なにも変わらない。善良さを売り物にしていないだけ、商人のほうがよほどましだ。
マカロックは大学をやめ、手当たり次第にがむしゃらに働いた。はじめはレニンストンの船着き場で荷はこびの仕事についた。それからは貯まったお金で船手形を買い、こつこつと当てていくうちにいつのまにか山ひとつ買えるほど儲かっていた。
彼は山に眠っている資源に目をつけた。これからは戦争の時代だ。戦争には魔法がつきものだから、銀や鉄といった鉱物は大量に必要とされる。軍需産業ほど儲かるものはない。
クリンゲルの山を買ったのは、あそこに資源があるとわかっていて買ったのではなかった。マカロックの密かな復讐だったのだ。あそこの土地を買い占めることで、彼は積年の恨みを果たしたような気分になった。
見ていろ、お前たちのせせこましい暮らしなど俺の気分次第で簡単に失われてしまうものなんだ。それが富ってものだ。力ってものだ、そうだろう!
金さえあればなんでも買える。地位も名誉も、妻だって金で買ったようなものだった。マカロックは時代の勝者だった。そしていま、下院議員へ立候補するといういままでになく大きな博打に出ようとしている。
すべてうまくいっていた。
それが、マカロックの予期せぬところで歯車が狂いだしたのだ。
「ああ、ひどい雨ですねえ」
言われてマカロックはギクリと振り返った。いつからそこにいたのか、スラファトの将校ギース=バシリスが立っていた。
彼の空色の短コートはぐっしょりと雨で濡れていた。マカロックは窓の外を見た。たしかに外はひどい降りだった。いつのまに降り出していたのか。
「なんてことをしてくれたんだ、バシリス飛翔長!」
マカロックはいらだたしげに言葉を吐きつけた。
「君たち軍人のやりかたは荒っぽすぎる、そう私は忠告しなかったかね。こんなことをしてくれて、見ろ!レニンストンの市民たちはみな私がシュレーを襲った犯人だと思い込んでいる。肝心のシュレーが火傷程度ですんだいまとなっては、だれも私に投票しようとはしないだろう。どうしてくれるんだ!」
それは切っ先に似た糾弾だったが、肝心のギースにはかすり傷もつけることはできなかった。
ギースは雨つぶの浮いた眼鏡を鼻に押しつけながら平然と言った。
「そう、われわれはまんまとハメられてしまったのです。魔法を使って襲ったとあっては、市民たちはまっさきにわれわれを連れているあなたの陰謀ではと疑うでしょう。実際使われた魔法陣はちゃちなもので、指南書を丸写しすればだれにでもできる程度のもの。だれもそんな妖しげな魔法陣になど近寄らない。ただ、ここにはアシュマリン魔法陣があった。ここのだれもが、あの魔法陣は過去の遺物のひとつで、もう死んでいることを知っていた。それをうまい具合に利用されたのです」
「いいわけはいい。私はこれからどうするんだと聞いているんだ!!」
雨の音がいっそう激しくなった。まだ昼過ぎだというのに分厚い雲のとばりがレニンストン上空をおおいつくして、まるで真夜中のような暗さだ。
「うっ」
突然、カッと空が光った。雷鳴だった。それはあかりのない部屋にわずかな光量をもたらした。
マカロックはそのとたん大きく目を見張った。
ギースが、笑っていたのだ。
「もちろん、閣下には月海王国の議員になっていただきます。そのためにわたしがここにいるのですから。そのためにならなんでもします。なんでもね」
ギースは婉然と微笑んだ。
マカロックは、ず、とあとずさりした。自分より二まわりも若いこの男が、なぜか非常に恐ろしく思えてならなかった。
ギース=バシリスは、武将というよりはどこか貴族の子弟を思わせる雰囲気を持っている男で、マカロックもまた彼のやわやわしい物腰とものいいにすっかり油断していた。だが、彼を外見だけの綺麗なお人形とするには、ギースの眼光はあまりにも鋭すぎた。
いまにも首筋にとびかかってきそうなほど、ぎらぎらとした眼差し。
まるで肉食獣だ。
「閣下、あなたは面倒なことをいくつもかかえている。ひとつめはこのレニンストンの市民だ。彼らはいまシュレーを卑怯な手段で葬ろうとしたあなたに非難の矢を向けている。真犯人をすぐにでも見つけ出し、ひったてようと思っていましたが、それをするとどうもやぶへびになりかねない。それよりはもっといい方法がある…」
ふたたびカッと空がかち割られた。
「いと至高なる竜王陛下は、月海王国の一日も早い参戦を期待しておられます。われわれは〈銃姫〉のためにあなたの故郷にある純銀が欲しい。しかし選挙活動は思ったようにいかず、あなたは思わぬところで窮地にたたされた。せっかく手に入れた故郷の山もクリンゲルの住民は山の開発に反対的だ。
ここであなたに向けられた非難をなくし、なおかつクリンゲルをも開発できる唯一の方法があるのです」
「そ、それは…?」
「それは」
ギースは組んでいた腕をゆっくりとほどくと、右手の手のひらを上にして差し出した。
そしてぎゅっと握った。なにかを握りつぶすように。
「クリンゲルの街をなくしてしまうのですよ」
マカロックの顔が石のように強ばった。彼は信じられないと瞬きをやめていたが、すぐに顔を真っ赤にして反論した。
「な、なにをいうか貴様」
「落ち着いてください。われわれの計画は完璧です。
いいですかジャン=マカロック閣下。あなたにもっとも欠けているのは人徳だ。これはあなた自身に人徳がないといっているのではない。ただシュレーが孤児や社会的弱者の救済を掲げている以上、あなたが同じようなことをしても意味はなかったからです。しかしこのような状況になった以上、あなたは大きな名誉になるようなこと、つまり民衆の人気取りをする必要がある。あなたが十分に人格者であり、そして慈悲にあふれた人物であることを民衆にアピールするためにはどうしたらいいか。
そこで、クリンゲルです」
ギースのエメラルドグリーンの瞳が切っ先のようにマカロックにつきつけられる。
「部下の報告によると、クリンゲルの山の街側は断崖のように切り立っているとか。岩盤も土もやわらかいのにどうして崩れてこないのか、不思議に思った私の部下が興味深い報告書をもたらしてくれました。
クリンゲルの崖のすぐ下にはずいぶんと古い森があるそうですね。たしかあなたのお母さまの家も近くのはずだ」
マカロックははっと息を呑んだ。この男は、マカロックの母親が生きていることを知っている!?
「古い森には数千年分の魔力が溜まって、ひとつの場のようなものを形成するといいます。クリンゲルの柔らかい岩盤を支えていたのは、なんとこの森のようなのですよ。ここに蓄積された数千年分の魔力とそれによって通常以上に根を伸ばした樹々が、この切り立った崖を支えていたというわけです。つまり」
と、ギースは手袋をしたままの指で自分の顎をつまんだ。
「この森さえどうにかしてやれば、崖は自然とくずれてくるというわけなのです。わたしの言いたいことがおわかりですか?」
フフフと笑ったギースに、マカロックは声も出ないといったふうに胸元を押さえた。
「ま、まさかお前は、自然災害を装ってクリンゲルの街を…」
「そのとおり。あれほどの量の土砂が一気に土砂崩れを起こせば、麓の街などひとたまりもありません。街や畑は土砂でうめつくされ、彼らは彼らの唯一の産業である毛織物を作ることができなくなる。当然羊の放牧はできなくなるわけですからね。彼らは生きていくためには、山の開発に頼らざるをえなくなる…。
と、そこへあなたの出番ですよ。あなたは故郷の災害を知って、選挙戦をほっぽり出して故郷へと急ぐのです。そして私財をなげうって彼らを助ける。クリンゲルの住民はいたく感激してあなたのやり方に賛同するでしょう。あなたは手こずっていた山の開発にようやく着手できるばかりか、名誉も手に入れることができる。一石二鳥というわけです」
「そんな…、そんなことができるはずがない。だいいち土砂崩れは自然災害にみえるかもしれないが、森を燃やすほうはどうするんだ。こんな大雨なのに――」
「雷を落とせばいいだけの話でしょう。それくらいのこと、このスラファトの魔銃士団ができないとでもお思いですか?」
マカロックはうっと言い淀んだ。ギースはますます眼光を強める。
「それにあの森はもともと魔法元素《ロクマリア》が多い。われわれが魔法で人工的な雷を作っても、そこからアシがついたりはしないでしょう」
「だめだ!!」
「なぜ」
マカロックはギースに背を向けた。彼は肩肘を張って叫んだ。
「あそこにはおふくろが…、わ、私の母親がいるんだ!!」
その声とほぼ同時に、バリバリっと空が引き裂かれる音が聞こえた。
雷が落ちるまで、ほんの少し間があった。
「…それで?」
どおん! と響く。
落ちた。
マカロックは震えた。
この男はいま、いったいなんと言ったんだ…?
「ますますいいじゃないですか。実の母親が巻き込まれたとなれば、だれも閣下の仕業とは思わないでしょう。むしろ好都合ですよ。よかった」
“よかった”
「あ……」
マカロックは今度はよろめくように後ずさりした。下がりすぎて背中が窓にぶつかった。高価な硝子《ガラス》窓が寒さのせいかガタガタ震えている。
彼も。
「よかった、だと…?」
窓に体を支えられながらも彼は反撃した。
「自分の母親を選挙のために見殺しにしろというのか。自分の…、自分の実の母親を!!」
「やれやれ、なにを言い出すかと思ったらいまさらそんなおためごかしのきれい事ですか」
「なんだと」
「ではあなたはいままでそのお母上にどれほどのことをしてきたというのです」
マカロックはふたたび凍りついた。
「裕福な暮らしを手に入れたのに、いつまでも田舎の山村にほったらかして都へ呼ぼうともしなかった。それどころかあからさまに避けていた。メイヤーズからきた妻は根っからの上流階級で、田舎者の母親とうまくやっていけるとは思えない。あなたがクリンゲル出身の田舎者だということすら嫌がっていたから、母親を呼ぶと言ったらヒステリーを起こして実家に帰ってしまいかねない。
あなたにはそれがわかっていた。だから結婚式にも呼ばず、それからも会いに行こうとすらしなかった。ついにはとっくの昔に死んだことにしてしまった。
あなたは母親を人前に出すのが恥ずかしかったのだ」
「!!」
どおん。
今度はさっきよりもっと近くに落ちた。
マカロックには、その雷が自分の心の中に落ちてきたような気がした。
ギースの声音は、別段責めるふうでも糾弾するふうでもなかった。ただたんたんと事実を述べていた。
そう、事実だった。彼はマカロックさえ開いてみないようにしている本心の帳面を、本を朗読するように読んでいったのだ。
ギースはなおも続けた。
「あなたは恥ずかしかったのだ。この北部で成功し、この上ない富を手に入れメイヤーズの縁続きになり、いよいよエストラーダへうってでようというのに自分の母親が、あのようにみすぼらしくしわくちゃで田舎の凝固まった風習しか知らない無教養な女だということを隠しておきたかった。そう、あなたはクリンゲルが憎かった。あなたの成功をいつまでたっても褒め讃えない田舎の意固地な人々がね。あの土地もあの土地に生きる人々も、山も羊もすべてが憎かった。壊してしまいたいとすら思っていたはずだ。
そんなふうに憎んできた故郷をいまさらかばいだてる必要などない。壊してあとかたもなくしてしまえばいいのです。そうして、そこにあなたの王国を築けばいいのです。クリンゲルを、あなたを讃える言葉と巨万の富を吐き出す泉に変えてしまえばいいのですよ。それこそが力だ!」
彼はきゅっと踵をならした。敬礼するために足をそろえたのだとわかった。
「そろそろわたしはクリンゲルへ行かなくてはなりません。部下が光系の魔法弾を用意して待っているはず。この雨ですからね。うまく森が焼けないこともある。そのときは私が火魔法で森を焼きますよ。そうそう、土砂崩れも起こします。それももちろん魔法でね」
ギースはゆっくりと指をそろえて敬礼した。
「それではご報告をお待ちください閣下。必ず吉報をお持ちしますよ。うまい具合に雷雲も湧いてきたようだ」
最後にそう彼はひとりごちた。
カツカツカツカツ…
ギースの軍靴の音が遠ざかっていくのを、マカロックはぼんやりと聞いていた。
(なぜ、俺はやつを止めないんだ…)
彼はよろよろと壁にもたれかかった。
まるで獣に狙われたインパラのように足がすくんで動けなかった。彼の鋭い眼光は、マカロックがひた隠しにしていた心の醜い部分まで否応なく見透かしてしまう。
彼の言ったことはすべて真実だった。
マカロックは母親を避けていた。
十六のときにクリンゲルを飛び出して以来、彼は生きるために、そして時代に勝つためになんでもやった。ときにはおおっぴらに言えないこともした。
税金をごまかし、役人に金をにぎらせ、貴族とつきあいをするためにあえて汚れ役もかってでた。自分の店の商品を売るために、わざとライバル商社の船をしずめたこともある。
そのことは悪いことだとは思っていない。運命の列車はいつも満員だ。そこはためらった人間から振り落とされていく。彼は迷わなかった。だからここまでこれた。だからこそ勝ち続けることができたのだ。
けれどマカロックの心には、クリンゲルの駅でいつまでもいつまでも手を振っていた母の姿が重石のように沈んでいた。
もう二十数年、彼はクリンゲルの実家に戻っていなかった。はじめは純粋なもうしわけなさからだった。世界でいちばん偉い人に会いにいくからと、無理矢理街を出ることを許してくれた母に、一年もしないうちに修練院をやめたとはいえなかった。せめて、それに見合うような稼ぎを得てから帰ろうと思った。
そうして港で荷運びをするうちに三年、船保険を扱うようになって五年がたち、マカロックは次第に欲を出すようになった。この程度じゃだめだ。もっともっと裕福にならなければ。おふくろは俺が僧侶になることを望んでいた。なら、やつらをもしのぐような富と栄誉を手に入れるんだ。もっと金を稼いで地位を買い占めるんだ。もっと、もっとだ…
単に帰れない理由が欲しくてそう思い込んでいただけかもしれない。とにかくマカロックは一度もクリンゲルには帰らなかった。
だが、それから少しして仕事でクリンゲルに寄る機会ができた。
それは、エメラルドの都《エストラーダ》から新しい軍務大臣がやってきたときのことだった。新しい基地を作るために北部を回っていた大臣が、クリンゲルに豊かな鉛鉱があると知ってマカロックの商会に土地の視察を打診してきたのだ。
すばらしい、またとないチャンスだった。マカロックはすぐに大臣をともなってクリンゲルへ赴いた。それはマカロックにとって実に十八年ぶりの帰郷だった。
クリンゲルの駅はまさに歓迎ムード一色でふたりを迎えた。そこにいるだれもが、黒光りするフロックコートに黒檀のステッキをもって上流階級の仲間入りをしたマカロックを賞賛と憧憬の眼差しで見つめていた。
彼は胸がすくような思いだった。どうだ見ろ。そのうすぼけた目を見開いて俺を見ろ。俺の選んだ道が正しかったことを、こうやって俺自身で証明してみせたのだ。俺は成功した。クリンゲルではなく、クリンゲルの外で成功したのだ。ざまあみろ!
ふたりが向かう道はどこも月印の国旗を振る人々であふれ、歓迎の言葉と花が投げかけられた。
その中にたったひとり、旗を振っていない人物がいた。
マカロックは怪訝そうに目を細め、そしてハッとなった。それはマカロックの母親のナンネルだった。
彼女は大臣を讃え続ける群衆のなかで、ひとりだけ必死の形相で叫んでいた。
「ジャン! ジャン! かあちゃんだよ!!」
「!?」
そのときのマカロックの気持ちを、いったいだれが理解できただろう。
彼がナンネルを見て驚いたのは、彼女が年老いていたからではなかった。自分の母親が、あまりにもみすぼらしく汚らしかったからだ。
「だれだね、あの汚い老婆は」
マカロックのとなりで大臣は不快げにそう言った。彼はそこから逃げ出したくなる衝動に必死で耐えた。
なんでここにいるんだあんたは。どうしてそんな汚らしい身なりで俺の名前を呼ぶんだ。やめろ、どこかいってくれ。消えてくれ。
殺意さえ覚えながら彼は思った。
消えてくれよ、頼むから――!!
「ジャン、かあちゃんがわからないのかい。こっちを向いておくれ。ジャン、ジャン!!」
ナンネルは群衆の海にのまれそうになりながら、それでもあきらめず小包を渡そうとしていた。マカロックはぐっと下唇を噛んで、その声が聞こえなくなるのをひたすら待った。
「ジャン!」
もう二度と、クリンゲルに戻ることはすまいと思った。
それからというもの、マカロックは母親のことを死んだとまわりに告げるようになった。クリンゲルのことは一言も口に出さず、あくまで死んだことにしてナンネルの存在を隠し通した。故郷の人間がやってきてもいっさい通すなと言いつけた。
『あなたは母親を人前に出すのが恥ずかしかったのだ』
そうだ、そのとおりだギース!
彼は両手で顔をおおった。
俺は恥ずかしかったのだ。あんな母親とあんな故郷しか持たない自分が。
だってクリンゲルはいつだって俺の足をひっぱるんだ。修練院にいたときは田舎者だとののしられ、しゃべり方がへんだと笑われた。
それなりの富を得るようになっても、都会の富貴階級の出でないということはいつだって彼のハンデになった。
ふるさとが彼の心のよすがになったことはなかった。むしろその逆で、クリンゲルの住民はいつまでたっても彼の成功を祝福しようとはしなかった。そして彼らが協力的でなかったおかげで基地の移転問題はお流れになり、マカロックはたいそう腹を立てた。
(潰してやる!)
軍務庁から送られてきた文面を握りしめながら、マカロックは誓ったのだった。
あの偏屈な田舎のやつら。ろくな知恵を持たない野蛮なやつら。古い価値観でしかものを見られない、狭く凝り固まったやつら!
やつらは新しい時代には必要ない。正義や法でさえも急速に古びていくいまの時代に、あのような黴《かび》くさいものの考え方しかできないやつらはいらないのだ。いっそ絶えてしまうがいいんだ。そうだ、あそこで俺のことを知っている人間は、その記憶ごとこの世からすべて消え去ってしまえばいい!
だから彼はギースを止めなかった。運命の列車はいつも満員だ。ためらった人間から振り落とされていく。そこの一等席に常に座っているためには、多少の犠牲は必要なのだ。たとえそれが実の母親であっても――
なのに、なぜこんなにも心が重い。
心が重いんだ。
鉛のように。
「追わないのですか」
知らない声がした。
まだ完全に声変わりをしていない子供の声だった。
マカロックの目は空耳かとあたりを見渡して、ある一点でとまった。ドアの前に見知らぬ少年が立っていた。
使用人の子供ではない。チョコレート色の深い色の髪に上品な深緑の瞳をしていた。「だ、だれだ。お前は…」
マカロックは壁から体を離して言った。
「いつのまにここに入った。も、物取りか!」
「どうして追わないのですか。このままでは、あなたの故郷がなくなってしまうんですよ」
少年はマカロックの問いには答えず、ただ静かにそう言った。
言葉とおなじに眼差しも静かだった。決してマカロックを責めるものではなかった。
なのに、マカロックはいたたまれなくなった。
彼は必死に言った。
「で、出て行け。出て行かないと人を呼ぶぞ!」
「ええ、言われなくても僕は行きます。僕を待っている人のもとへ」
「!?」
彼はゆっくりと部屋の中に入ってきた。マカロックは後ずさった。
「お、お前はだれだ。なぜここに…」
「僕はただの配達人です」
彼は手の中に、なにか包みのようなものを持っていた。
「これはあなたのお母さんからあなたへの言付け物です。ずっと会いたくても会いにいけなかったとおっしゃってました。それから、あなたのことをとても心配していました。あなたを愛していました」
少年は哀しそうに顔を曇らせた。
「なのに、どうしてあなたはお母さんが死んだなんて…」
「お、おまえなんかになにがわかる!」
痛いところをつかれて、マカロックは声を荒げた。彼は、自分でも思いもかけないことを言った。
「俺はいっしょうけんめいやってきたんだ。働いて働いて、働いて働いて働いて、死ぬほど働いて、人がしないような汚いことにも手を染めてやっとここまで来たんだ。それをあんなもののためにいまさら捨てられるものか!」
彼は歯ぎしりをした。口調は強かったが、体は後ずさりしていた。
「おふくろだってわかってるはずだ。俺のオヤジは軍人に殺された。なんの教養もない、野心もない、ただの羊飼いの男だったのに、たまたまクリンゲルにやって来た軍人たちのうっぷんばらしにされて殴り殺された。俺は、もうあんなふうに力づくで奪われるのはいやなんだ。そのためには金がいる。力だ。金は力なんだ。
――そうだ。金こそが力なんだ。金さえあればああやってスラファトの軍人さえも俺に媚びてくる。金さえあれば戦争が始まったって、安全な場所を見つけられる。金さえあれば武器を買える。金さえあれば地位も名誉も手に入れられる。女も…、魔法だって!」
彼は猛然と言葉をまくし立てた。それはなにかを吐き出そうとする衝動にとてもよく似ていた。
自分はいったいなにを吐き出したがっているのだろう。でもこの心の重さをすこしでも軽くするためにはそうするしかない。
早く楽になりたかった。
彼はしゃべり続けた。
「なのに、クリンゲルのやつらはなにもわかってない。戦争が始まるってのに、人間はもっと生きるためにあくせくしなけりゃならないのに、いつまでもカビの生えたような言い伝えや進歩のない生活の中で生きてる。あくせく生きてる俺たちを馬鹿にしてるんだ。こんなに俺はよくしてやってるのに、恩知らずなやつらだ。あんなやつらは新しい時代にはいらない。あんなやつらは…、あんなやつらは全員スラファト人に殺されてしまえばいいんだ!」
マカロックは哄笑《こしょう》した。だが、その笑い声も長くは続かずどんどんとしぼんでいった。
不思議だった。いろいろと言葉をぶちまけたはずなのに、心は一ペリルほども軽くなっていなかった。
「ほんとうにそれでいいんですか?」
少年の言葉に、マカロックはびくりと震えた。
「嘘をいくら言っても吐露したことにはならないんです。ほんとうのことを言わないと心は軽くならないですよ」
「う、うるさい!」
マカロックは少年に背を向けた。少年の目が深さがあるのにどこまでも澄んでいる淵の水のようで、心をみすかされるかと思ったのだ。
「…これでいい。俺はこれでいいんだ。俺にはこれからも金が必要だ。スラファトはいいお得先だ。これからも仲良くしておいて損はない。戦争が始まるなら物資をプールしておかなきゃならない。人付き合いもいろいろと物いりだ…」
ぶつぶつと彼は言った。
「い、いまさらあともどりなんかできない。そうだ、あともどりはできないんだ。少なくともここにいれば俺はうまくやっていける。もうあんな田舎は俺には必要ないんだ。こっちのほうがずっと合っていたんだ。いらない、クリンゲルもおふくろもいらないんだっ!」
サアアア…
いつのまにか雨の音が小さくなっていた。雲が晴れてもそこに明るさはなく、もうとっくに夜のとばりがおりていた。
マカロックはしばらくなにも言わず黙っていた。少年もなにも言わなかった。あかりのない部屋の中には、湿気以上の息苦しさが充満していた。
ふいに少年が言った。
「…僕、あなたの言うことが少しわかる気がします」
マカロックは弾かれたように顔を上げた。
「僕も戻れなかったんです。僕を待っている人のもとへ帰る気になれなかったんです。それはなぜって、たぶんいまのなさけない自分を認めたくないから…」
マカロックは少年をそのとき初めてはっきりと見た。彼はまだ幼かったが、立ち振る舞いはずいぶん大人びて見えた。
なにか苦い物でも噛みしめているように、彼は言った。
「だって、僕が思い描いていた大人の自分はこんなじゃなかった。もっと強くてもっと立派な人間のはずだった。こんなはずじゃなかった。
自分でもせいいっぱいやれるだけのことはしているんだ。がんばってがんばって、すごくがんばっているはずなのに、僕はちっとも思うように成長していない。こんなんじゃだめだ。こんなんじゃ認めてもらえない。
だって、僕が認めてもらいたい人たちにはごまかしはきかない。僕をよく知っているぶん、僕のとりつくろったところまであの人たちは見抜いてしまうだろう。つまらない意地だってわかっているけれど、へんに慰められるのは嫌だ。かといって馬鹿にされたくもない。だからいつまでも帰らない。帰れない…」
マカロックは息をつめて少年を見ていた。
彼はなぜか目の前にいる初対面の少年が、小さい自分のように思えてきた。
いやちがう。彼と自分が同じなんじゃない。
「きみは…」
マカロックは顔をおおってしまいたい衝動に駆られた。
似ているんじゃない。彼と自分が似ているんじゃない。
きっとだれにでもあるものなのだ。こんなふうに、愛しさと憎しみが同じところに混ざり合うのは…
「レニンストンに来てから、僕はずっと僕はこんな程度じゃない。もっと僕はやれるんだと思い込んでいました。愛している人たちに認められたい、だからなんでもひとりでやれるようにならなくちゃって思っていました。
でも大人になるってことは決して目に見えるものではないから、僕はどうやって強くなったらいいのかわからずに、途方に暮れるばかりだった。大人にならなければ、強くならなければだれからも必要とされないんじゃないかって焦ってばっかりで、そのくせどうやったら強くなれるのかわからずに堂々巡りだった。僕はいつのまにか、自分が作り出した重石のせいで潰れてしまいそうになっていたんです。
でも、ようやくそうじゃないことがわかった」
「え…」
少年は驚き戸惑うマカロックに、手に持っていた油紙の巻かれた包みを手渡した。軽い包みだった。やわらかい…、布かなにかだろうか。
渡された物に戸惑うマカロックに、少年は言った。
「マカロックさん、あなたにはもう新しい家族がある。たくさんの使用人もいる。上流階級のおつきあいもある。広い家も仕事もある。みんなみんな、それぞれの立場があってあなたを必要としているんでしょう。でも…」
彼はマカロックに慈雨のように微笑みかけた。
「あなたを本当に必要としている人は、あなたになにかしてほしいと思って必要としているわけではないんです」
マカロックは惚けたように言葉を失った。
おもしろいぐらいに肩の力が抜けた。マカロックはふらふらとその場に膝をついた。
「そして、僕のことを必要としてくれている人も、僕になにかしてほしいと思っているわけではない。そのことがようやくわかったから、僕は戻ることができます」
強い断定の口調で、彼は言った。
「僕は還ります。僕を待っていてくれる人がいるから。だから、どうかあなたが一刻も早くその心の重石の正体に気づいてくれますように、あなたとナンネルさんのためにお祈りしています」
それだけ言って、彼は雨雲のように去った。
「……心の重石の、正体……」
マカロックは、いつのまにか体中から強ばりがぬけていることに気づいた。
不思議な邂逅《かいこう》だった。彼がいったいどこのだれなのか、そんなことは気にならなかった。マカロックにとってそれがかけがえのないものになったのは、彼がもたらした思いがけない一言だった。
『あなたを本当に必要としている人は、あなたになにかしてほしいと思って必要としているわけではないんです』
「俺を必要としている人は、俺になにかしてほしいわけではない…」
マカロックは、彼の残していった包みに触った。ぎこちない手つきで包みをといた。そして中からやわらかい毛でできた服を発見した。
「あ…」
中から出てきたのは見覚えのある服だった。木のボタンをていねいに布でくるんだそれは、もう何十年も前にマカロックが着ていた上着に手を入れたものだ。
こんな昔のものをナンネルはとっておいたのか。もう着れなくなったからとっくに捨てていると思っていたのに…。いったいなんのために。
そのとき、たとえようもない熱い情感が、満潮の潮のようにマカロックの胸にこみ上げてきた。
彼の母親は、彼が帰ってくると信じていたのだ。
だから、こんなふうに昔の服までとっておいたのだ。自分の息子の子供にもう一度着せてやれる機会がめぐってくることを、彼女は一寸たりとも疑っていなかった。
彼女には、金も名誉も必要なかった。マカロックがレニンストンで手に入れたどんなものも必要なかった。
マカロックに会いたい。ただそれだけのために、もうずっとずっと長い間、あのクリンゲルの山奥で待っていたのだ。
ひとりぼっちで。
「う………」
息が詰まった。そして海の水と似たようなしょっぱさが、目尻の下からあふれでていた。マカロックはしばらくの間そうやって床の上に座り込んでいた。
雲が流れたあとの夜には、月が出ていた。
あの雨雲はどこへいったのだろう。南へ流れていった、ということはクリンゲルのほうに雨を運んでいったのだ。
彼はハッと顔を上げた。
「だれか、だれかいるか!」
彼は執務机の上にあったブザーを何度も押した。ジリリリンという音が金管を通ってメイド室まで届けられる。
現れたメイド長に向かって彼は急いで言った。
「クリンゲルに戻る。すぐに支度をしろ」
歳のいったメイド長はえっと顔を曇らせた。
「し、しかしだんなさま。いまからでは列車は…」
「じゃあ馬車でもなんでもいい。いますぐに手配しろ、一刻も早くだ!」
主人のせっぱつまった口調に、メイドは顔色を変えながら部屋を出て行った。
マカロックは窓の外を見た。
そこからは、洗いざらしのきれいな月が見えた。
†
雨がまたひどくなった。
昼過ぎにレニンストンのほうから押し寄せてきた雨雲は、あっというまにクリンゲルの山をおおってしまった。
それから間をおかず雨が降り出した。まるで水瓶の底がぬけたようなひどいどしゃぶりだった。
(セドリック、いまごろどうしてるかな…)
ぴちゃぴちゃと軒から落ちる水音を聞きながら、アンブローシアは銃の金具を磨くのをやめてため息をついた。
彼女が座っている場所からは、ときおり山の向こうで雷神が金色の鉈を振り下ろすのが見える。
セドリックが宿を飛び出して、もう十日ばかりが過ぎていた。
アンはからっぽのカートリッジばかりがならんだ、自分のホルダーベルトを見つめた。わざわざカートリッジを作るためにクリンゲルまでやってきたというのに、肝心のカートリッジ作りはいっこうに進んでいない。今日も封呪に失敗してカートリッジ一個を無駄にしてしまった。
こんなふうに不調になったのも、みんなクリンゲルに来てからだ。
ここに来てすぐに引いた風邪(?)はもうずいぶんよくなっていたが、ちょっとしたことで気が重くなったりイライラしたりするのはあいかわらずだった。
先日も、アンはセドリックとケンカをした。急に魔法が使えなくなってピリピリしているセドリックに、ついイラっときてきつい言葉をかけてしまったのだった。
『いくら血筋がいいっていったって、あんたの実力なんかあっというまに追い越してやるんだから!』
後になってから、アンはそのことを猛烈に後悔した。
(わたしのばかばか。どうしてあんなことを言っちゃったんだろう。どうして…)
自分が慰められるのがきらいだから、ああいう時はヘタな慰めよりははっぱをかけたほうが良いと思っていた。それに前の晩、セドリックがアンを森の中に残したまま戻ってこなかったことに、アンは少なからず腹を立てていたのだ。
(女の子をあんな夜中に森に放っておくなんて!)
だが、アンがセドリックにきつい態度をとってしまったのには、もっとほかのわけがあった。
その日、アンは部屋をまちがえてセドリックのところに入り、彼に気づかないまま着替えを見られていたのである。
(セドリックに傷を見られた!)
アンブローシアは無意識のうちにぎゅっと胸をだきしめた。
マドレーヌくらいしかふくらみのない胸を見られたのも恥ずかしかったが、それ以上にショックだったのは胸の傷を見られたことだった。
アンの胸には、おととし死にかけたときの傷がある。スラファトの竜王を暗殺しようとして逆に捕らえられ、あの男に魔法で斬りつけられたのだ。
アンはそのときのことを、まるで昨日のことのように覚えていた。
『小娘が。わざわざ生かしてやったのに、なぜそう生き急ぐ』
スラファトの竜王アスコリド・ミト。死肉のようだというその顔は常に仮面で隠されていて、だれも彼の素顔は知らないという。だからそのときも、彼がどんな表情をしていたのかは最後までわからなかった。
驚くべきことに、彼は王女であるアンが生きていることなどとっくに承知していた。それにもかまわず放っておいたのだった。滅んだ国の王女など興味がないとでも言いたげに。
『その傷では生き延びたとしても客はとれまい。おまえの王女としての誇りを守ってやったのだ。私に感謝するがいい』
自らもかなりの魔銃士《つかいて》であるという竜王ミトは、どんな術を使ったのか自分の右手を炎の剣に代え、舌を噛みきろうとしたアンを一瞬早く斬りつけたのだった。
それから、二ヶ月の間アンは死の境をさまよった。傷が癒えて初めて湯を使ったとき、アンは巨大なムカデのようにひきつれた自分の胸を見てひっそりと泣いた。
憎い敵につけられた傷。
そしてそんな男に傷をつけられ、乞食のように命を恵まれて生きていかなければならないのはアンには耐えがたい屈辱だった。
その傷を、セドリックに見られた。
(ああもう最悪!)
アンは死んでしまいたい気分になった。
(きっとびっくりしたに決まってるわ。それから、どうしてあんな傷を負ったのかって思ってる。胸に傷があるなんてヘンだもの。それに、傷跡だってこんなに汚くなってしまって…)
竜王の言ったとおり、アンの胸の傷は醜くひびわれたままだった。人が見たらぎょっとするに違いない。
(やっぱりこんな傷のある女の子は、セドリックは好きじゃないよね。怖いよね。普通は嫌だって思うよね…)
いちばん見られたくなかった人物に見られてしまった。心の準備のないまま、あんなふうに知られてしまうなんて…
「どうしよう…」
アンは鉛のように重いため息をついた。
ふと顔を上げると、部屋の窓辺に椅子を置いてエルウィングが座っているのが見えた。心ここにあらずといったふうで、窓の外を眺めながらぼうっとしている。ベルに頼まれたジャガイモの皮むきもあまりはかどっていない様子だった。それもそのはず、彼女はセドリックがレニンストンに行ってしまってからずっとあの調子なのだ。
まったく、あそこの姉弟の仲のよさはちょっと度を超していると思う。
(コーヒーでも淹れようかな)
アンはため息をつき、火にかけていたケトルを外しにストーブのそばへ立った。
ブリキ缶の中から砂のようになるまで挽いたコーヒーを取りだし、網に湯を注ぎ入れる。すぐに香ばしいにおいが湯気とともにたちのぼって、アンはその中に鼻をつっこんだ。
「いい匂い」
匂いが良いのは混ざりものが少ない証拠だ。都会のいたるところではカフェーが流行り始めていたが、チコリや枯れ葉などが混じったコーヒーが平然と出されていることが多い。
次に、アンは棒のようになっている茶色い砂糖の塊をいくつか削り取った。角砂糖はまだまだ都会でしか手に入らない。このような田舎では、砂糖は砂糖屋に行って棒状のものを量り売りしてもらうのが普通だった。そして料理で使うためには、いちいち使うぶんだけをすり鉢ですらなければならないのだ。
「ねえエル。ちょっと手伝ってよ」
アンはエルウィングに声をかけた。
返事がないので、仕方なく二つのカップを持ってダイニングへ行く。
「ねえ、エルったら…」
「えっ」
彼女はそこで初めて気づいたというふうに、びくりと手を震わせた。
「お茶」
アンは短く言った。エルウィングがいそいそと椅子を持ってテーブルのほうへ歩いてくる。
「あ、ありがとう」
「あんまり刃物持ったままぼーっとしないほうがいいんじゃないの。さっきからひとつも皮剥けてないじゃない」
エルウィングはあたふたと言った。
「ご、ご、めんなさい。つい…、セドリックが心配で…」
朝から何度これと同じ事を聞いただろう。アンブローシアはうんざりと肩を落とした。
「べつに心配するのはいいんだけどさ、ちょっと気にしすぎじゃないの。セドリックだってもう子供じゃないんだし、ちゃんとひとりでやれてるわよ」
「でも…」
エルウィングは両手でカップを包みながら、ぽつりと漏らした。
「こんなにも長いあいだ離れているのは初めてで…」
「長いったって、まだ十日もたってないじゃないの」
「もう十日よ!」
思いがけない激しい口調にアンは面食らった。
エルウィングは頬を押さえながら言った。
「あの子、いまでもよく夜中に魘《うな》されたりするのよ。だれにも言わないけどわたしにはわかる。ひとりぼっちで知ってる人のいない都会でいまごろ寂しい思いをしてるわ。それに優しい子だからきっと簡単に騙されたり、ひどいものを売りつけられたりしているかもしれない。大きくなったように見えるけど、ひとりではまだ弱いの。まだ、わたしがいないと…」
(また始まったわ。エルの“わたしがいないと”が…)
と、アンブローシアは額を押さえた。
おかしなことだった。彼女と話していると、どうしてこんなにイライラがひどくなるのだろう…
「そんなに気にしたって、弟なんだからいつかは離れてしまうじゃない」
アンはそっけなく言った。
エルが、口に運びかけていたカップを止めた。怪訝そうに、なにをいっているのかわからないといった顔つきでアンを見返してくる。
「どういうこと…?」
「だからー、いまはいっしょにいるけれど、ずっとそうってわけにいかないでしょ。エルはちょっとセドリックにかまけすぎよ。セドリックのためにもエルのためにも、もう少しお互い離れたほうがいいと思うな」
なんだかあたしがふたりが仲がいいのを妬いてるみたいにきこえないかしら、アンはそんなふうに心配したが、ふと顔を上げてみてぎょっとした。
エルウィングがカップを握ったまま、カタカタと小刻みに震えていたのだ。
「エ、エル、どうかし…」
「…ど うして、そんなことを 言 う の ……」
彼女はカップを握り潰せそうなほど力を込めていた。アンブローシアは体がこわばるのを感じた。
「どうして離れなきゃならないの…。あの子は――、わたしの弟なのよ」
「お、弟だからよ」
アンは気圧《けお》されながらもようやくそれだけ言った。
すると、テーブルをはさんで座っていたエルウィングが、ゆっくりと顔を上げてアンブローシアを見つめた。
アンは言葉が出てこなかった。
彼女は、ものすごい表情をしていた。
(ひっ…)
漏れ出そうになる悲鳴を、アンはすんでのところで飲み込んだ。それくらいエルウィングは凄まじい顔をしていたのだった。
凄まじく、――表情がなかった。
「セドリックは、わたしのものよ」
彼女はまばたきもせずに、じいいっとアンに見入っていた。いや、見入っているというよりは惚けているといったほうが近いかもしれない。
「勝手に、さわらないで」
アンブローシアは呻いた。
「エル、あんたヘンよ…」
まるで、この部屋の空気が、シュウウウウと音をたてながら彼女に向かって急速に集まってきているようだった。
彼女はそのおかしな空気をなんとかしようと、わざと大きな声で言った。
「弟なのに、ヘンよ! そんなふうに想うなんておかしいわ。そんなの、まるで愛してるみたいじゃない」
「!?」
エルウィングが大きく震えた。
ピキッと亀裂音がした。
それは小さな音だったが、たしかになにかにひびが入った音が聞こえた。
アンはごくりと唾を飲み込んだ。
エルウィングはまだ小刻みに動いていた。
いいや、蠢いていた。
そして、アンを見ていた。なにも見えていないようなぽっかりとした表情なのに、アンはなぜか自分が一分の隙も見逃さないよう観察されているような気分になった。
見ていないようで、いくつもの視線に凝視されている…
こんな眼をアンはどこかで見たことがあった。
(…蜻蛉だ)
アンはたとえようもない寒気が、背筋を早足で駆け上がってくるのを感じた。
そうだ、蜻蛉だ。あの表情はまるでないのに千はあるという眼でじっと見つめられている、いまのエルの表情はあれに似ているのだ。
あれは蜻蛉の顔だ。
アンは息を詰めてエルを見やった。
エルウィングはアンの表情が変わるのを見逃さない。アンのついた嘘を、アンが取り繕った言葉を、にじみ出てくる汗を見逃さないようじっと見つめている。土の下にいたいきもののように、じっと微動だにせずに死んだように動かないでいる。しかし、死んだように見えても実はちゃんと中で生きているのだ。生きて育っている。固い茶色い鎧が割れるのを、いまかいまかと胸をわくわくさせながら待ち続けている。
ぶううううううん。
羽音が聞こえた気がした。アンは目の前に座っているのがだれだかわからなくなった。
だれ、
いまあたしの目の前に座っているのはいったいだれ。
こんなのエルウィングじゃない。
人間じゃない。
(――まるで)
蟲だ。
「よお、ここにエルウィングさんとアンブローシアさんってのはいるかい」
ガタっと椅子を鳴らしてアンは立ち上がった。離れの入り口に、見覚えのない男が立っていた。
男はずぶぬれだった。雨がっぱもつけずにここまできたのか、短くした髪からぽたぽたと雨しずくを床に垂らしている。
アンはまじまじと男を見つめた。男はずいぶんな大柄で、めずらしい新品の銅貨の色の肌をしていた。あきらかにここらへんの人間ではない。もっと南のほうの人間だ。
男はこころなしか顔色が悪いようだった。
「な、なんの御用ですか」
自然と手がそばに立てかけてあった魔弾砲をつかんでいた。それを見た男は脂汗の浮かんだ顔で言った。
「あんたらがエルウィングとアンブローシアか?」
アンはムッとなった。
「い、いきなりやって来てなによ。こっちに尋ねる前に自分から名乗ったらどうなの」
アンのつっけんどんな言いぐさに、男は一瞬面食らった顔をしたが、
「…ああ、そらそうか。俺はバロットってぇんだ。こんな美人ふたりを前にたっぷり自己紹介をしてぇところだが、残念なことにあんまりゆっくりもしてられない。すぐにここから出るんだ。セドリックのやつからそう言付かってある」
「セドリックから!?」
エルウィングがそのバロットという男に駆け寄った。その様子からは、さっきまでの異様な雰囲気は感じられなかった。
(なんだ、気のせいか…)
アンはどことなくほっとした気分になった。
どうかしてる、エルをあんなふうに――人でないように思うなんて…
「セドリックはクリンゲルに戻ってきてるんですか?」
「ああ、やつはちょっと…用があって、先に行ってるんだ」
バロットは言葉を濁した。
「先って、どこに」
「森のほうだよ。それよりここは危ない。早く出ろ。山が崩れてくるかもしれねえぞ」
「山が崩れてくるですって?」
今度はアンがバロットにつかみかからんばかりの勢いでつめよった。
「いったいどういうことなのよ。セドリックはレニンストンでなにをしてたの。どうしてセドリックが自分で呼びに来ないの。あんたとどういう関係があるのよ。あんたまさか人買いじゃないでしょうね!」
バロットはチッと舌打ちをして、それから大きな手でがしがしと髪をかきまぜた。
「ちっくしょうこの時間のねえときに。いいか、一度しか言わねえからな。セドリックのやつはスラファトの魔銃士団がこのクリンゲルをぶっつぶそうとしているのを止めに行った。俺はちょっとした物売りで、あいつとはレニンストンで知り合ったんだ。なにせ俺は弾屋だからな」
「弾屋…」
アンは納得した。おそらくセドリックはなにか身の危険を感じて、カートリッジ屋で魔法を買おうとしたのだろう。
「でもスラファトっていったいどういうこと。セドリックはどうしてそんなことに巻き込まれたの」
「そっから先は話すと長くなる。あー、手短に言うと、この街出身の議員候補がスラファト軍とつるんでいて、この土地に対していろいろ思うところがあるらしいんだ。ジャン=マカロックって奴なんだが」
「マカロックだって!?」
開けっ放しだったドアに、いつのまにか母屋で騒ぎを聞きつけたらしいベルが立っていた。バロットはベルに向き直った。
「あんたがここの女主人かい」
「そうだけど…、あんたはいったい」
「なら、頼みがある。クリンゲルの住民をできるだけ遠くに非難させてくれ。この雨で土砂崩れが起こるんだ」
ベルは思わず口を両手でおおった。
「ど、土砂崩れ…」
「あれだけの崖が崩れてきたら、街全体が土砂にうまっちまう。できるだけ早く逃げたほうがいい。おい、おまえさんたちも協力をして街を回っ…うおっ」
バロットがそう言うが早いか、エルはコマネズミのような素早さでバロットのそばを通り抜け、ドアを出て行った。アンもすかさず魔弾砲をつかんで、エルのあとを追って灰色のカーテンのかかった外へ飛び出す。
「おい!」
雨はますますひどくなっている。エルの後ろ姿はすぐに消えてなくなった。足元のぬかるみに足を取られそうになりながらもアンは走った。
「お、おいおまえら、俺の言うこと聞いてんのかよ!」
バロットのわめき声だけが背中に聞こえた。
†
銀のとばりの森は、無言でセドリックを迎え入れた。
古い森はひそやかに呼吸をしていた。さまざまな言い伝えのとおり、そこに息づく古いものたちが、まるでそれが彼らの会話であるかのように銀の呼吸をしていたのだった。
雨はすこし小降りになっていた。うっそうと生い茂る葉が傘のようになって、セドリックにかかる雨の量はまだ少ない。
セドリックは自分の銃の弾倉を開けて、中身を確認した。
そこにはバロットから譲ってもらったカートリッジがいくつか入っていた。
火魔法〈火輪〉や、水魔法の〈津波〉…。列車の中で簡単に説明をうけたが、やはり自分で封呪したものでなければうまく使いこなせる自信がない。
とくにセドリックは火の魔法が苦手で、自分でもめったに使ったことはなかった。アンの得意にしている雷撃系や風系にもなじみが薄い。このところずっと土魔法ばかり作ってきたのだ。
「まあ、上級者になればなるほど専門的になっちまうもんだからな。そりゃ仕方がねえだろ、おまえだけじゃない」
そう言ってバロットは慰めてくれたのだったが、彼がその土魔法をほとんど持っていないというのも痛手だった。
月光がすけて見えそうな水のあいだを進んでいく。空気は銀をふくんで重く、粉のようにきらきらとあたりにただよっていた。岩肌には銀色の苔が生え、妖精の傘という名のきのこやへびかり草など古い名を持つ植物のすがたが見える。それだけで、この森がどれくらい濃い魔力をたたえているかがわかろうというものだ。
こんなことで、はたしてギースを止められるのだろうか。
セドリックはごくりと喉を鳴らした。
彼はこの森の後背に広がるシルバーホーンの山のことを思い浮かべた。
土が黒く山頂に雪がのこっているせいで、まるで粉砂糖をまぶしたチョコレートケーキのように見える。クリンゲルの街はその山にナイフを入れたあとのような急な崖の下に広がっていた。
あの切り立った崖がいままで崩れてこなかったのは、クリンゲルのとある特殊な土地事情のせいだった。
セドリックの推測が正しければ、あの山には目には見えない強力な魔法の壁ができている。その魔力の源はこの銀のとばりの森だ。ここで発生した魔力が、山にあるとある反発する力とぶつかることで結界を作り、それが結果的に柔らかい岩盤をささえているのだった。
その、とある反発する力とはいったいなにか。
それは、
(鉛だ)
セドリックは、金をつかんだような手応えを感じていた。
気づいたきっかけは、あの魔法陣騒ぎでバロットとふたりで牢屋に入れられたときだった。
あのとき、魔銃士用の鉛の手錠をはめられたセドリックは、鉛のせいで牢の中でまともに動くことすらできなかった。
(あの鉛をつけていたときの重い感じ…。まちがいない。僕が初めてクリンゲルに来たときと同じだ)
まず、全身から脂汗が出て、体がだるくなる。
つぎに、まるで心に重石をのせられているかのように気が重くなって落ち込む。
そして強烈な吐き気が襲ってきて、自分でも無意識のうちに意図せぬ言葉を吐いている。
はじめは旅疲れかと思っていた。山の気候に合わなくて体調を崩したのかもとも。急に魔法が使えなくなったのも、イライラしてアンにきつい言葉をかけてしまったのも体調を崩したせいだと思っていた。
しかしそれも、すべて鉛のせいだったとしたら…?
バロットは魔銃士はふだんから精神を解放しているぶん、一般の人間とくらべて鉛の影響をうけやすいのだと言っていた。ならば、ここに来て自分とアンブローシアだけが具合が悪くなったのもうなずける。あのときも結局、アンブローシアと二日間ほど寝込んでしまったのだから。
おそらくシルバーホーンの山は…、クリンゲルは鉛の山なのだ。
だから、ここを訪れたものは(それも一般人ではなく魔銃士は)鉛の影響を受けて具合が悪くなる。ギースとマカロックの話を盗み聞きしていたときにたしかに彼は言っていたではないか。「見当違いだ。きみ、あの山は鉛鉱だぞ」と…
あれは高山病などではなかったのだ。
鉛だ。
(なぜもっと早く気がつかなかったんだろう…)
セドリックは歯がみした。
(きっと、あの森で発生した魔力が山に眠っている鉛に反発して壁ができたんだ。なら、この森さえなくなってしまえば、壁はなくなって支えられていた岩盤はもろくなる。それにこの雨だ。スラファト軍はそれに気づいて、いとも自然にあの崖を切り崩そうとしている。そんなことはさせるもんか、絶対に止めないと――)
クリンゲルへと戻る列車の二等席でセドリックがギースをとめる計画をうちあけたとき、バロットは無茶だと言った。ギースは等級も持たないヒヨッコの魔銃士が食ってかかれる相手じゃないと。
そんなことはセドリックだってわかっている。ギース=バシリスはあのスラファトの魔銃士団を束ねる士団長だ。等級も三ケタだと聞いている。まともに正面からぶつかってどうにかなる相手ではないだろう。
それに、気になることはほかにもある。
セドリックが鉛のせいで魔法が使えなくなったのなら、それはアンブローシアも同じはずだ。だが、彼女はあのとき次々と封呪を成功させていた。まだ頭痛は少しすると言っていたが、それでもセドリックのように魔法が使えなくなったということはなかったのだ。
その証拠に、クリンゲルを離れてもセドリックの魔力は元に戻らなかった。
もしかしたら、バロットの言うように自分の絶対魔法量が壊れてしまったのかもしれない。あのイボリットを灰にしてしまったときに、セドリックは魔銃士としては終わってしまっていたのかもしれない。もう魔法は使えないのかもしれない。
でも、かといってこれを見過ごすのか。
力がないから、どうせやったって無駄だからといって、スラファト軍がさも自然災害を装ってクリンゲルの街を潰そうとしているのを、ほうっておくのか。
(…できない)
セドリックはシリンダーをもとにもどして、ストックをぎゅっとにぎりしめた。
彼を倒してどうにかしようとか、名を上げようとか、悪を倒すとか、そんな大それた事をしているつもりはなかった。最悪、街の人々が逃げおおせる時間だけでもギースを足止めできればそれでいいと思っていた。
だが、それすらもいまの自分にはできるかどうか――、ギースと向かい合うだけで命がけになることは必至だ。
なぜなら、バロットにもらった弾もあまり多くない。
いつもの慣れた弾がないぶん、自分が得意にしているシミュレーションが使えない。
魔力も戻っていない。
ずっと鉛にさらされていたからか、牢屋でのような重苦しさはもうなかったが、それでも山のほうからの迫ってくるような重圧は感じている。
こんな中で、どれだけのことをやれるのかセドリックには自信がなかった。
(でも、だれかがやらなくては。万に一つしか成功しないとしても、だれかが…)
なぜよりにもよって僕がこんなことをしなければならないんだ。
僕じゃなくてもいいはずだ。
もっと強い強い人間がやればいいはずだ。
そういった思いがまったくないと言えば嘘になる。
けれど、どんなに無茶だとわかっていても、そのだれかというひとくくりのなかから、自分だけを排除するようなことはセドリックにはできなかった。
なぜ。
(それは、僕が出会ったからだ…)
彼の瞼裏に、いままでに彼が出会ったさまざまな人々のことが思い浮かんだ。
いままで、彼はさまざまな人間に出会ってきた。
憎しみという武器だけで、弾丸を作り出してしまったペチカ。
失われた祖国へ帰りたいために、銃を握ったガリアンルードの人たち。
こんな時代にも神を信じてやまないメンカナリンの尼僧。
こんな時代だからこそ、金の亡者になってしまったジャン=マカロック。
彼らはいったいなんなのだろう。それぞれに近くに触れてみれば、彼らが決して純粋な悪意だけをもってそうなったのではないということがわかる。
ペチカはまっすぐだった。だが間違っていた。
ガリアンルード人はテロリストだ。だが彼らは哀れだ。
メンカナリンの聖職者たちは正しい。だが、その正しさはあくまで強制的でもある。
そして、たしかに金銭は人を容易に幸福にするだろう。だが、決して金銭で買えないものがこの世にはある。(たいていそれはかたちのないものだ)
劣等感。
罪悪感。
憎しみ。
それから愛情。
心に溜まった重い感情はいつしか行き場を失って暴発してしまう。そして思わぬところで、それが弾にも火薬にもなる。心に溜まって、さらに上から溜まって押しつぶされ固く固く凝縮された感情は、それがもとはなんであっても鉛になってしまうのだ。武器になってしまうのだ。
人が銃に鉛弾を込めるように、人が心に装填するのもまた鉛なのだ。あの重くどんよりとした心の鉛…
(だから、僕はけっして無謀という名の銃は持たないでいよう)
セドリックはそう決意した。
葉をかき分けて落ちてきたしずくが、顔にかかる。
セドリックは叫んだ。
「ギース=バシリス!」
視線の先にいる男が、ゆっくりと振り返った。
彼は、スラファト軍の軍服らしい、空色の上下に焦げ茶色のコートを身にまとっていた。フードをしていないせいで、髪も肩もぐっしょりと濡れている。
「おや、君でしたか」
ギースは笑った。
その顔は心なしか曇っているように見えた。
おそらく、彼もまたこの山の鉛の影響を受けているのだろう。彼が初めてここへ来たのなら、この鉛が精神にかかる重さは相当のはずだ。
(もしかしたらうまく足止めできるかもしれない)
セドリックはポケットの中身を布の上からまさぐった。
彼は雨で落ちてきた前髪を指ですくった。
「バロットが来るのだろうとばかり思っていたら、やつめ怖じ気づいたと見える。このようなヒヨッコ魔銃士をこっちに寄越すとは」
ギースは手に魔法銃を持っていた。この雨と遠目でははっきりしないが、セドリックのレッドジャミーより一回り大きい口径のスラリク752かと思われる。
セドリックは首を振った、銃はいい。問題は薬室の中に収まっている弾のほうだ。
『いいか、ギースのヤローは俺と同じ火使いだ。レベルはだいたい〈火輪〉から〈赤の鉄血〉くらいだ』
ギースとなんどかやりあったことのあるらしいバロットは、彼のレベルをそんなふうに評価していた。
(奴はオリヴァントみたいに魔法をまぜるなんて小細工はしない。真っ正面から力勝負でくるだろう。だからおめえも好きなだけカートリッジをぶっぱなせ)
本当はバロットがこちらにくるはずだったのだが、彼はやはりシルバーホーンの鉛の影響を受けてしまっていた。いくら貴鉛で体を慣れさせているとはいえ、ここの土地は歩くだけでもかなり体力を削られるらしい。
一方セドリックのほうは、体が慣れてきたのかそこまでの負担は感じなかった。時間がないこともあって、バロットが街へ行って住民を避難させ、その間セドリックが時間を稼ぐということになったのだった。
「それで、君はどうしようというのです? 本当に君のようなレベルでこの私を止められるとでも思っているのですか」
ギースは雨つぶの浮いた眼鏡を中指でぐっと鼻筋におしつけた。
「あの男になにを言われたのか知りませんが、私をとめても英雄にはなれませんよ。君の安っぽい正義感はけっこうですが、それを馬鹿正直に満たそうとするのは危険だ」
「そんなことじゃない」
セドリックは一発目に装填されている弾をさりげなく確認すると、引き金に指をかけた。
「あなたを殺せるとは思っていません」
「でも、わたしたちの邪魔をしようとしている」
「はい」
「どうして?」
彼は興味深げにセドリックを見ていた。からかっているのでも馬鹿にしているのでもない、本当に答えを知りたがっているように見えた。
「自分だけが正しいと思っているのですか? でもたいていはみなさんそう思ってますよ」
「知ってます」
「なら、なぜ」
セドリックは黙って舌の上で言葉を選んだ。
「君はみたところ礼儀正しい少年だ。言葉遣いもていねいで、魔銃士なんてやっているわりには育ちも悪くないらしい。そんな君でも、いままで堅固だと信じていた砦があっさりと崩れるのを見たことがあるはずだ。いま君が正しいと思っているものが、明日もそうであるとはかぎらないんですよ」
ギースは決めつけるように言った。
「君のやっていることはちっとも正しくなんかない」
セドリックは顔を上げた。
そして首を振った。
たぶん、見て見ぬふりをするのは簡単なことだ。
他人がいっしょうけんめいやっていることを、みっともないと鼻で笑っているのも簡単なことだ。
けれど、セドリックが出会った人間は、どれもそういうたぐいの人たちではなかった。
ペチカもエステラもジャン=マカロックも正しいことをしようとした。それがあとから無理矢理肯定されることであっても、彼らは彼らなりに正しいことをしようとしていた。
でも、彼らは哀れだった。彼らが勇気だと思ったそれは、正しいと思ったそれはただの無謀や暴力になりはててしまった。
どうしてだろう。
彼らが正しいこと、よかれと思ってやった好意や善意は、どのような化学反応を経て、あるいはどのような理由があってあのように変わってしまうのか。
「正しいことをしているつもりはありません」
ためらったすえが、そんな陳腐な答えだった。それでもいまのセドリックには、せいいっぱい背伸びをした答えだった。
ギースは言った。
「では、ただの無謀だ。若者はとかくそれを勇気と勘違いしがちだがね」
「そうかもしれません」
セドリックは頷いていた。
「でも、それらを区別する線は、あなたに引かれたくない」
ギースは驚いた顔をした。
“無謀と勇気”その間に引く境界線はいつだってあいまいで心許ない。まだまだ片手三本の指ほどの年数を生きただけでは、この世の真理に触れることすらできていない。
けれどセドリックがいままで、泣いて苦しんで悲しんではいつくばって、それでも立って旅をつづけてきた時間は、彼にかけらほどの本当のことを教えてくれたのだ。
大切なことは自分で決める。
だれかが決めた線ではない、――他のだれでもない、いつだってその線は自分自身の手で引き分けなければならないのだということを。
それこそが、力だ。
ギースはちょっと眉を寄せた。
「ではなにをしている。君はいまそこで、いったいなにをしているんだ」
「生きています」
ギースは目を細めた。
「迷って、悩んで、落ち込んで、それからほんのちょっと喜んで、温かくなって、それからまた迷い始めます。そんなふうに心の中にある感情をひとつひとつあげていけばきりがない。だから僕は単に生きているとしか言えないんです。たぶん、これからも」
「正しく?」
「いいえ、正しくはなく」
言いながらもセドリックは思うのだ。正しいことをするのに、いったいどれだけの価値があるのだろうと。
だって正しいことをしていると思っていた彼女たちは、正しいことをしているのにどれも幸せそうじゃなかった。
いつだって苦しそうだった。
正しいことをしているのに、苦しそうだった。
「人は、正しいことでは幸福にはなれないと思います。正しさと幸福は同意ではない」
「しかし正しさは強要される。いつの時代も、まるでお仕着せを着せようとするかのように」
「ずっと同じ服を着ている人はいない」
「そうだ。しかし同じ服を着て足並みをそろえれば力になるのだ。われわれ軍隊のように!」
セドリックはぎょっとして顎を引いた。
ギースは笑ってスラリク752の銃口をセドリックへと向けた。
「少しおしゃべりがすぎたようだ。君らの思惑が住民の避難のための時間稼ぎなのだとしても、これ以上君らの思うとおりにするわけにはいかないのだよ。多少の犠牲も出てもらわなくてはマカロックも寄付のしがいがない」
セドリックの手がわなわなと震えた。
「それが、…それがスラファトの正義ですか。同じ服を着せて同じものを幸福だというのが、あなたたちスラファトのやりかたですか。それこそがお仕着せじゃないか!」
「スラファト人が求めたのが強さだったからさ。貧しさと劣等感に苛まれていたスラファト人は皆好んでこの軍服を着たんだ、見たまえ!」
ギースは森の木々に向かって一発銃弾を撃ち込んだ。〈疾風〉という風魔法だ。彼が風魔法を使うとは思っていなかったセドリックは、いきなり頭上に現れたうずまきに度肝をぬかれた。
「うわあっ」
透明な風の鞭が、森に覆い被さっていた木々の枝を荒々しく引き裂いた。するとちょうとセドリックの右側がまるで天井があいたようになって、そこから外の空が見えた。雨はほとんどやみかけていた。
その幾分薄っぺらくなった雨雲の下に、不気味な青白い光が見えた。
「あれは…」
セドリックは思わず言葉を失った。
その光の正体は、明らかに雷撃系の魔法だった。あまり光魔法に詳しくないセドリックにも、それが〈雷帝〉並みの大きさだということがわかる。
「まさか、あんな大きな光魔法があるだなんて…」
思わず漏らしたセドリックに、ギースは満足げに言った。
「さすがにひとりではあれだけの魔力は作れまい。あれはひとつの光に見えるがじつは何十人という魔銃士が作った光の束にすぎない。ま、もっとも自然の落雷に見えればそれでよいのだがね」
あれが落ちてくれば、いったいこの森はどうなってしまうのか。それが容易に想像できて、セドリックはぞっとした。
あれだけの光量だ。火事が起こるのは必至だろう。それに今日は雨とはいえ運の悪いことに風雨だ。風にあおられた火が次々に引火すれば、この程度の森はひとたまりもない。かろうじて生き残っていた古い生き物も銀色の植物たちも、すべて焼かれてしまうだろう。
そして森がなくなってしまえば、当然岩盤をささえていた壁も消え失せる。この雨でやわらかくなった土砂は、あっというまに街のほうへおしよせてくるだろう。
そうなれば、クリンゲルの街は壊滅だ。
(彼を行かせてはならない)
セドリックは固い物を握るように思った。あとはギースの命令ひとつで、あの人工の雷は森に落ちてくる。それだけはなんとしても避けなくてはならない。
なんとしても、なんとしてもここで足止めしなければ――
「さて、君はどんな魔法をみせてくれるのかな」
彼は舌なめずりする蛇のように目を見開いて笑った。セドリックは無意識に歯を食いしばった。
「この私を足止めできるような魔法をバロットにでももらったかい。しかし彼は私より等級が下だ。それで私を倒せるとは思えないがね」
と言って彼は銃口をセドリックへ向けた。セドリックもまたゆっくりと銃を持った腕をあげる。
ふたりは無言で見つめ合った。ギースはまだ笑っている。セドリックが撃ってくる弾を予測しているような顔だった。
けれど、これは読めまい。
「なにっ」
セドリックは銃を地面にむけて引き金を引いた。
「〈百億万の母アルストロメリア、万物のゆりかご、そして墓標となる御方に申し上げる〉」
なんと、レッドジャミーから発射されたのは空砲だった。薬莢が地面に跳ね返ってセドリックの足元に転がった。
「〈アトンの貴婦人よ、あなたの騎士に地中深く沈む炎で鍛えた二ふりの剣をお与えください〉」
「〈決闘〉かっ!」
すると、地中からエメラルドグリーンの光がしみ出してきて、セドリックとギースの足元をからめとった。
「ああっ」
まるで砂の下から古代のレリーフが浮かび上がるように地面に文字が現れた。その蛍光色の光は、あっというまに土の魔法陣を描いていく。
レニンストンで見たアシュマリン魔法陣とはまったく図柄が違う、そこに使われている言葉は大地系に関することばかりだった。これは、固い契約を意味するのに岩や石といった言葉が力になるからである。
これで、どちらかが天に向かって空砲を撃つまで、ふたりはここから出ることはできない。
(よし…)
詠唱を終えてセドリックはほっと息をついた。バロットに教えてもらった即席の魔法式だったが、なんとかうまくいったらしい。
「…なるほど、決闘は避けることができない。申し込まれたら受けなければならない。それを足止めに利用しようとしたのか」
ギースの目が眼鏡の奥でいっそう細められた。
「こざかしい」
セドリックはかまわず言った。
「ギース=バシリス。あなたに決闘を申し込む。アルストロメリアにすべての審判をゆだねられよ」
「ゆだねよう。百億万の母よ。だがそれはそう長い時間ではない。時間の神《アリオネー》に誓って!」
彼は手袋をした指でゆっくりとシリンダーを回した。
「いいか少年、私はいつでもここから出て行くことができるのだ。ようは決闘を早く終わらせればいいだけなのだからな」
セドリックの喉がごくりと鳴った。彼が仕掛けてくる。それが空気でわかった。
「君のそれがただの無謀でないことを、自らをもって証明してみせるといい!」
スギューン!
なにか胸でもえぐったような痛々しい音が響き渡った。ギースのスラリクが火をふいた。そして瞬時にその両側を魔法文字の帯がかけぬけていく。木の葉のドームの内に響き渡る。ギースの声だ。
「〈魔の山の溶火をランプにうつしかえ、
それをもて灯せ火を狩るものの足元を――〉」
初めて聞く詠唱だった。火魔法らしいことはところどころ聞き取れる単語でわかったが、それがいったいどれくらいの強さを表すのかセドリックには皆目わからない。
間髪入れずセドリックもとき放ったものがあった。それは彼のレッドジャミーをすりぬけて眼前で破裂した。
バロットの声で詠唱が響き渡る。
「〈刃をうみだす金色の炉のごとく、我が声によりて力となせ。天からの火矢、月につがえられたこの世で最初の火よ!〉」
「水ではなく火だと!?」
ギースの目にさらに凶暴さが増す。
「くっ」
セドリックの撃ったものより若干早くギースの詠唱が終わった。彼の魔法式は完成した。「〈火の窯〉!」
魔の山の麓にあるといわれている火の窯は、罪人の魂を溶かしてしまうという溶岩の池だ。その溶岩の流れにもにた衝撃がセドリックに襲いかかる。肉体ではなく直接魂を灼こうとする火だ。彼の体はあっというまに黒い炎に包まれる!
「うわああっ」
と、数瞬おくれてセドリックの魔法式が完成した。迷い子のために月の女神が自らの身体を弓にして地上へ送ったといわれる銀の矢が、まるで流星のごとく黒い炎の上に降り注いでいく。
炎と炎がぶつかりあってそこに空洞ができるように、魔の火には聖なる火で対抗できる。おそらくギースは水系でくると思っていただろうから、〈火の窯〉の魔法式には水に強い言葉が織り込んであったはずだ。セドリックが水系を撃っていれば、もしかしたら撃ちまけていたかもしれない。
「なるほど、古語をよく知っているらしいな」
ギースはセドリックが詠唱の出だし〈魔の山〉を聞き分けて、瞬時にこの作戦を思いついたことに素直に感心しているようだった。
だが、彼がシリンダーに指をかけている間にも、セドリックは次の魔法を撃っていた。
「〈雨粒よこの世に降り注ぎ、やがて川となせ、すべらかに流れ下り急流となせ、地にしみわたることなく淵となることなく、縒《よ》りてふとき綱のようになれ、行け。海神の統べる青の庭へ――〉」
驚いたことに、その水魔法はバロットの声だった。彼は水魔法も使えたのだ。
「やはりバロットのものか。だがその魔法式は知っているぞ!〈津波〉だ!」
直後、ギースがシリンダーをブロックした。彼は土に向かって銃を発射させた。
「〈氷の槍のそびえたつ嶺、冬の君。いまこそ透明な矛先を敵にむかんとし、天より降り来たれ、冬王の氷の御座は決して揺らがず〉」
まわりに充満していた湿気が急速にギースの前に集まっていく。それはやがて白い粒となり、つぎつぎに固まってあっというまにそこに氷の壁を作り上げた。
(しまった、詠唱が早く…)
それはセドリックのものよりもレベルの低い水魔法だったが、そのせいで詠唱が早く終わってしまった。津波を作り上げるよりも早く、できあがった氷の壁がギースを守ってしまったのだ。魔法というのは魔法が強ければいいというものではない、できるだけ魔法式を短くしないと、実戦でこういうことになってしまう。
ようやくセドリックの魔法式が完成した。だが、ギースに向かっておしよせる津波はことごとく氷の壁によって跳ね返されてしまう。ついには強くぶつかって、セドリックのほうに逆流してきた。
「うわああああっ!」
ザッバアアアアアッ!
大きく反り返った波が、セドリックをいま飲み込もうとしていた。やがてセドリックの姿は自らの撃ち放った波の中に消えうせた。
だれかが見ていたら、セドリックは自分が撃った魔法によって自滅したと思ったろう。
しかしそうではなかった。
「なにっ!?」
ギースは目の前に突進してくるセドリックを、信じられない顔で眺めた。
彼はバロットのことをよく知っていた。そして彼が土魔法が不得手であることも。だから、水魔法に強い土魔法の壁をもって、あの津波を退けることは不可能だと思っていた。
しかし、セドリックの頭はさらに柔軟だったのだ。
彼は襲いかかってくる津波に、土ではなくさらに水をもって対抗した。とっさにギースの詠唱を聞いて氷の壁を四方に作り、津波にすくわれるのを防いだのだった。
そして彼はさらに次の攻撃を開始していた。氷の壁によって津波に穴をあけたセドリックは、そのままギースに向かって突進してきた。
完全にふいをつかれたギースは、体当たりをしてきたセドリックをよけきれず、そのまま彼に押し倒されるかたちで地面に転がった。
「うおっ!」
セドリックは素早く彼の腰に巻いてあったカートリッジホルダーをとると、魔法陣の外へほうりなげた。
「こっの…、ガキが!」
セドリックはギースに腹を蹴られ、後方へふっとんだ。だが、見えない壁によってふたたび魔法陣の内側に跳ね返ってしまう。
「ぐっ」
セドリックは空き瓶のようにころころと転がっていた。蹴られた衝撃で唇を噛んだらしく、口の中に血の味が広がった。
「どこまでもこざかしいまねを!」
セドリックは血の混じった唾を吐きながら起きあがった。
彼の狙いは、はじめからギースのカートリッジホルダーだった。カートリッジさえなければいかに等級が高い魔銃士といえど魔法を撃つことはできない。
このような危険があるからこそ、魔銃士は常に内ポケットや足に直接巻いたりして弾を分散させるようにしていた。
だからギースがまったく魔法を撃てなくなったというわけではないだろう。だが、ギースは思うようにカートリッジを選べない。それはセドリックにとってずいぶんなハンデになるに違いなかった。
しかし、セドリックの淡い期待は、ギースの顔を見たとたん霧散した。
一瞬は激高したギースだったが、すでに彼は落ち着いていた。その顔からはまだ余裕さえ窺えた。
「こんなことで、私の手を封じたと思っているのですか」
彼はいたずらを思いついたように人差し指をたてると、おもむろに内ポケットからカートリッジを取りだした。
「おもしろいものを見せてあげましょう」
彼は左手にカートリッジを握りこむと、右手に握った銃の引き金を引いた。パン!と軽い音がしてカートリッジは破裂する。
あらかじめ、銃に装填されていたカートリッジだ。これはしかたがない。
「〈めらめらと猛ける尾びれに囂々《ごうごう》ととどろく足音に、鋸歯《のこぎりば》のような牙に、彼の食い尽くした屍と骨が川原の石のように転がる、その山のごとき竜〉!」
なめらかな魔法式だった。どこにも文節の切れ間がない、まさに詩のような魔法式だった。ただ強い言葉をつなぎ合わせることでせいいっぱいなセドリックの魔法式とは比べ物にもならない。
セドリックがそれに対抗する魔法を選んでいたとき、ふいに彼が左腕を前にかかげた。
「〈網のようよりは切っ先のように、からまるのではなく研ぎ澄まされよ。かの風神ゼノクレートの息吹はかくも凄まじ〉」
(ええっ)
なんと彼はその場で封呪を始めたのだった。しかも、風魔法を!
この場所はうっそうと生い茂る木々の葉につつみこまれていて、風はおろか雨さえもろくに入ってこない閉じられた場所だ。
セドリックはこの場所に土の精霊と水の精霊の力をとくに強く感じていた。その両方はまるで網のように複雑に絡み合ってどっしりとこの土地に根を下ろしている。
だが、ギースが唱え始めたのはそのどちらでもない。
(まさか、戦いながらカートリッジを作れるなんて!)
あっというまに封呪は終わった。セドリックの逡巡の間にもカートリッジは補填されていたのだ。
ギースは素早くそれをシリンダーにつっこむと、
「これくらいのことは訳もないんだよ」
と、笑って引き金を引いた。
ズガン!
その発射音を聞く前に、セドリックの目の前には炎の背びれをした竜が横たわっていた。
「くっ」
彼はとっさにめくらましの〈霧〉を発射させたが、それも火竜の吐きつけるバーナーによってあっというまに蒸発してしまう。
「ぐああっ!」
セドリックは炎の舌に舐められて、背中から地面に落ちた。その彼の上を、ギースが作ったばかりの風魔法〈鎌鼬〉が襲いかかる。
新月に近い夜の月よりもさらに鋭く曲がった風が、その鋭さを保ちながらセドリックに向かって突き進んでくる。その先は火竜の背びれをもすくいとり、まさに火のついたナイフのようにセドリックの体中を切り裂いた。
「うっ、ぁあああああっ!!」
セドリックは痛みに転げ回った。
彼の頭の上で、とぼけた声がした。
「ふうむ、どうもうまくいかないなあ。調子がよくない。これはいったいどうしたことだ」
ギースは左手を開いたり閉じたりしていた。あれだけ器用にこなせていても、山の鉛のせいで本来の彼のようにはいってないらしい。
(どう、すれば、いいんだ…)
目をうごかすと、二の腕や横腹に大きな切り傷があるのがわかった。セドリックは横腹を庇いながらなんとか立ち上がろうとした。だが、ギースに肩をぐいっと踏みつけられる。
「いっ」
「…バロットからもらった弾はそれだけですか」
彼を蹴った。
「ぐああああっ!」
「彼の手のうちを、もうすこし見ておきたかったのですがね」
その言葉に、セドリックはギースがなんのためにセドリックの相手をしたのかを知った。
彼はバロットの持ち弾を知りたかったのだ。だからこそ、わざとセドリックに先に弾を撃たせたのだろう。
セドリックは、完全に遊ばれていたのだ。
(強い…)
彼は、目の前がまっ暗になった。
ギースは強かった。魔法式の短さも文のなめらかさも、そしてその場でカートリッジを作り出してしまえる柔軟さも、彼はいまのセドリックには及びもつかないほど優れていた。
セドリックは、彼のカートリッジホルダーを外せばいくらか楽に戦えるのではないかと思っていた自分の浅はかさを呪った。あんなにも易々とカートリッジを作られたのでは、――右手で銃を撃ちながら左手で弾を作り出せるという彼には、まったく無駄なことだったのだ。
(かなわない…)
さすがにここまで力の差を見せつけられては、セドリックにはなすすべもなかった。
もう自分にできることはないのだろうか。このまま空砲を天に向かって撃ち彼に降伏すべきだろうか。しかしそんなことをしたら彼はすぐにこの森を燃やしてしまうだろう。
このまま、彼に殺されるのを待つか。
それとも、潔く降伏するか。
セドリックに残された道は、それしかないのか。
(…いや、あとひとつだけ、ひとつだけ残っている…)
セドリックは土に押しつけられた顔をほんの少しだけ上げた。
「君の顔を、どこかで見たことあると思っていたんですよ…」
ギースがセドリックの上体をひっくりかえして仰向けにさせた。
そして、彼の顔をまじまじとのぞき込んだ。
「おそらく君自身ではない、…もっと昔のことですからね。もし君が〈蜜蜂の館〉生まれなら、もしかしたら君のお母さんかもしれませんね」
もっともあそこ生まれなら、父親はだれかはわからないわけですが、と彼は付け加えた。
「さあ、そろそろいいでしょう。もうこんな茶番は終わりにしましょう。君だってまだ死にたくはないはずだ。僕はほんとうは争いごとは嫌いなんですよ。だからここで君がギブアップさえしてくれれば、わざわざ君の命を取ろうとは思わない…」
すぐ目の前にギースの足首が見えた。
(いまだ!)
セドリックはすかさずポケットからあるものを取りだすと、ギースの足首にそれをはめ込んだ。
「なにをす――、ぐあっ…」
ギースはすっころんだ。
彼は自分の足首にはめられたものを見て、ぎょっと顔をすくませた。なんとそれは魔銃士用に作られた鉛の手錠だったのだ。
セドリックがレニンストンの市牢にいれられたときのものだった。彼はそれをじかに触らないようにしてうまくここまで運んできた。バロットが言っていたように、徐々に鉛に体を慣らしていこうと思っていたのだった。
それをギースにつけたのは、とっさの思いつきだった。
「う、うううううう…」
さしものギースもこの鉛にはこたえているようで、顔からはいままでになかった苦渋の表情が浮かび出ていた。
「どこまでも…、どこまでもこざかしい小僧めェエ!!」
彼は見事な赤毛を、めらめらと燃える炎のように振り乱した。その姿はまさに赤い馬がたてがみを怒らせながら暴れているようだった。
セドリックは土に尻をつけたまま後ずさりした。
「…望みどおり終わらせてやろう。決闘は相手が死んでもかまわないものだからな!」
ギースは荒い息をくりかえしながら、ゆっくりと銃口をセドリックに向けた。
セドリックはヒッと息を詰めた。ギースが一発で終わらせようとするような魔法に、はたして打ち勝てるようなカートリッジがあっただろうか。
(火輪を使うべきだろうか。でも同じ火使いの彼には詠唱の時点でわかってしまうだろう。バロットはあまりコンパクトではないといっていたから、ギースがそれを防御する魔法を撃てる時間は十分にあるはずだ。
…ちくしょう、こんなときに土魔法が使えれば。アンブローシアと最初にここを訪れたときに、いくらかカートリッジが作れていれば、もうすこし持ちこたえることができたのに。どうして僕は魔法が使えないんだ!!)
そのとき、彼の頭上で雷光が走った。
セドリックとギースはほぼ同時に光ったほうを見た。
「ああっ!」
光の正体は、ギースの部下たちが作り上げた人工の雷だった。セドリックたちが見ている前で、その光の弾は金色の優美な蛇のようにまっすぐ地上へ降りてきた。
直後、カッと大地が光った。
セドリックは呆然と立ちつくした。
「一足遅かったようだ。私の部下が先に森を焼いてしまったよ」
ギースは額に汗を浮かべながら満足そうに微笑んだ。
空をかち割った雷神の斧は、地上に激突するやいなやぶわっと横に広がって、あっというまに火トカゲの大群に変わった。火トカゲたちは舌をちろちろとみせつけながら、雨の中をもろともせずに木々に飛び火していく。
木々や草のくすぶる音が、あちこちで聞こえた。
ギースの高笑いがそれに混じった。
「これで、君のなけなしの勇気も無駄になったわけだ」
セドリックはああと嘆息した。
一度火事を起こした森がなかなか鎮火できないことを、セドリックはよく知っていた。間の悪いことに雨はもうあがりかけている。この分ではあっというまに森全体に燃え広がるだろう。
そして、魔力の源を失ったことで鉛と反発していた壁は消え、土砂は雪崩のごとく押し寄せてくるだろう。それまでどれくらい時間があくかはわからないが、ここ数日のうちに起こるにちがいない。
これで、クリンゲルの街は確実に土砂で埋まる。
(なんで…、なんでだよ)
悔しさと、それ以上の悲しさがセドリックの体を熱くした。彼は泣いていた。顔中を涙まみれにして、地面に顔を押しつけていた。
「うっ…っ…ぐ……っ…」
この世にはどう抗っても抗いきれない大きな力が存在する。その力はセドリックのような弱い人間がこつこつ積み上げたものを、あっというまに覆してしまうのだ。
正しいことの定義も、
国境も、
人がどう生きて、どう死ぬかということも、
明日のパンの値段。大人になって就く職業や、結婚。
時間という名の足の速い馬。
――それから、
心さえ。
(どうして)
(どうして)
(どうして)
セドリックは顔をゆがめた。傷が痛んだのではなかった。たしかに存在して、けれどだれにも居場所がわからない心という器官が痛んだのだった。
彼は目の前の土を固く握りしめて唸った。
「どうして人間は、こんなに勝手なんだ!」
どすぐろい靄が夕立の雲のようにセドリックの心の中に湧き起こった。
彼は血を流した手首を押さえて、せめて立ち上がろうとした。
そのとき、腕からぼろりと落ちたものがあった。
(えっ…)
それは、音をたてて土の上に転がった。腕輪だった。エルウィングがお守りにとつけてくれた、太い蛇をかたどった銀の腕輪――
ドクン。
心臓が大きな音をたてた。
セドリックは顎をのけぞらせた。
ドクン。ドクン。
今度は体中が脈打った。心臓に呼応するかのように足や手に張り巡らされた赤い網が脈うちを始める。
いったいなにが起こったのかわからなかった。さっき吹き飛ばされた衝撃で、もろい銀の腕輪が砕けただけのように思われた。しかし、セドリックは無意識のうちに薬指の指輪もはずしていた。なにが彼をそうさせたのかわからない。ただ、外した。
その瞬間に、血が泡立つ。
「ああああ!!」
――そして、だれもが恐れる奈落がやってきた。
†
バロットは急いでいた。
彼は村人を麓の川向こうにまで避難させると、あとをベルたちにまかせて再び山道を登り始めた。ギースを止めに行ったセドリックのことが心配だったし、彼を追って飛び出していったふたりの少女のことも気になった。
一日中降り続いた雨で土はすっかりやわらかく粘土のようになっていて、ともすれば足をとられそうになる。
「こんな雨の中で、くそっ」
ここで悪態をついてもしかたがない。
雨はすでに小雨になり、まるで水晶で作られたカーテンのようにぽたぽたと落ちてくるばかりだった。バロットはもくもくと足を動かし始めた。
セドリックが向かった“銀のとばり”の森はすぐそこだ。しかも最悪の事態はもう起こってしまっていた。
バロットが見上げたとき、森はすでに火の手に包まれていたのだった。
「ちっくしょう、無事でいろよ!」
バロットはその中をかき分けるようにして森の中に飛び込んだ。まだこちらまで火は届いていないが、麓からもかがり火のように見えていたくらいだ。ここもすぐ火に取り囲まれるだろう。その前になんとしてもセドリックをつれて麓に下りなくてはならない。
なぜならもうすぐそこまで煙がきている。たとえ火がこなくても、あの煙にまかれたらいっかんの終わりだ。
バロットは角笛のかたちをしたキノコをけっとばして草の間へ押し入った。足元の羊歯が悪い予感のようにからみついたが、バロットはかまわなかった。彼は奥へ奥へと進んだ。こんな事態でもなければ、彼はそれらの銀色のいきものたちをおおいに珍しがったにちがいなかった。
四ギームほどいったところで、彼はようやくたたずんでいる少女たちを見つけた。ふたりとも雨に濡れていたが怪我をしている様子もない、どうやら無事のようだ。
「おい、おまえら、ここは危ねえぞ!」
煙に巻かれる前に早く逃げろ、そう言いかけて、
「おま――」
バロットはぎょっと口ごもった。
少女たちの視線の先には、だれかがいた。バロットにはすぐにそれがセドリックとギースだということがわかった。
ふたりの足元には半径六レニングほどの魔法陣が描かれていた。グリザリエルの魔法陣、または〈決闘の魔法陣〉と呼ばれる、大地母神アルストロメリアが仲立ちを務める結界だ。
まだ決闘は続いていたことにバロットは驚いた。決闘なんてしている場合ではない、このまま続けていれば、ふたりとも煙に巻かれて焼け死んでしまうだろう。
なのに、バロットはそこから動けなかった。
「な…」
黒い巨大ないきものが、バロットの目の前に立っていた。
(違う)
いや、それはセドリックだった。
セドリックは、肩から湯気のように黒いものを立ち上らせながら、無表情でギースを見つめていた。どうしてどんなことになったのか、ギースは尻を地面につけたまま、じりじりと後ずさっていた。バロットは、ギースがあんなふうに恐怖を表に出すのをいままで見たことがなかった。
(いったいどうなってやがるんだ。てっきりセドリックのやつがギースにやられて、森に火がついたんだと思ったのに…)
それに、この魔力はどうだ。
バロットはごくりと唾を飲み込んだ。
いま、セドリックをとりまいている魔力の量は尋常ではなかった。まるでそこだけ世界が違っているかのように、セドリックのまわりは異質だった。
(ありえない)
バロットは首を振った。
(奴は魔法が使えなくなったって言ってたじゃないか。それが急にどうしてこうなるんだ。判定盤でみても、奴の土の魔力はほどんどなかった。だから俺はあいつに魔力がなくなったんじゃないかって、そう言って…)
バロットはそこでなにごとかを思いつくと、おもむろに懐から銀色の皿を取りだした。
それは、いつかの銀の判定盤だった。
彼はそれを見たとたん、ふたたび目を凍らせた。
セドリックの血をたらしたまま、ほったらかしにしてあったその銀の皿には…
「こんなことが…」
驚くべきことに、六芒星が描かれた基本の魔法陣は真っ黒に塗りつぶされていたのだった。
彼は、なにかつめたいものが胃の内側をしたたり落ちるのを感じた。
「ギース!」
バロットはギースに向かって叫んだ。
「早く降参しろ。天に向かって空砲を撃つんだ。殺されるぞ!」
バロットは冷静になろうと深呼吸をした。だがいくら気を沈めようとしても、体中の神経のすみずみまでが尖った針のようになっていて、そう簡単にはおちついてくれない。
真っ黒に塗りつぶされた魔法陣、これが本当ならセドリックの属性は土なんかではない。
闇だ。
この世のだれもが足元に持つ、闇の血だ。
うかつだった。六つの属性のうち、光と闇の属は劣性因子といえるもので、このような簡易判別盤ではそう簡単に見つけることはできないのだ。
バロットは、初めてセドリックに出会ったとき、彼がレベルの高い土魔法が使えなくなったと言っていたことを思い出した。
『土の魔力が湧いてこなくなったんです』
闇の属性を持つ人間自体めったにおめにかかれないから(少しでもほかの因子がまじると、それらのほうが優性に出てしまうからだ)、彼は、セドリックが土の属性であることを信じて疑わなかった。
そして、判定盤を見る限りその量がわずかなものだったので、先天的に魔法量が少ないのではないかと彼に説明した。
たしかに彼の土の魔法量は少なかったのだ。それは当然だ。彼は土属性ではなかったのだから。
逆に言えば、彼のほぼ純血に近い血の中の、唯一の混ざりものがその土属性だったというわけだ。
しかも彼はそのわずかな血だけで、〈逆蜻蛉〉を封呪していたという。
(いったいやつの魔法量はどれくらいあるんだ…)
彼は恐れずにはいられなかった。ほぼ純血に近いという彼の血の中の、唯一の混ざりものである土属性があれだけあるのなら、その全体の量は想像するだけで途方もない量になる。
ふいにバロットの脳裏に、彼がレニンストンの牢屋で鉛に魘されながら口走ったことが思い起こされた。
『僕は望まれて愛してもらうためにこの世に生まれ出たわけじゃない。メンカナリンの偉い人たちが、いずれ僕を前線で戦わせるために僕は作られた、
僕は――兵器だった』
『それは…、少し前にすごい魔法を使ったことがあるんです。逆蜻蛉なんかよりもっとすごいやつです…』
『おかしいでしょう。殺したことを喜ぶなんて。だって僕は、十万人を殺したんだ。一瞬で子供も赤ん坊も…』
「うそだろ…」
イボリットで十万人を殺したと譫言《たわごと》のように言った、あれは本当のことだったのだ。
バロットはただの妄想だと思っていた。普通なら信じないだろう。こんな二十歳にも満たない子供が、一瞬であの大都市を吹き飛ばしたなんて。
「こいつぁ、たまらんぜ」
バロットは思わず足元に震えがくるのを笑った。これが震えずにはいられるものか。決して明日がくるとわかっていて人がいつまでも夜の闇を恐れるように、セドリックを恐れずにはいられるものか。
セドリックは、正真正銘の化け物なのだから――!
バロットはもう一度叫んだ。
「ギース、降伏しろ! お前のかなう相手じゃない。死にたいのか!」
そのとき、セドリックが身動きした。
彼は銃を持っている手を離した。彼のレッドジャミーは、まるで首切り役人の落とした首のようにぽとりと力なく地面に落ちた。なにをするんだ、言いかけるひまもなかった。
セドリックが詠唱を始めたのだ。
いや、それは詠唱と呼べるものではなかった。
「“金のかぎ爪《トロローピア》”」
暗闇の中に一閃が光った。かと思うと、次の瞬間にはギースが悲鳴をあげていた。
「ぎゃああああっ!」
ぬかるんだ泥の上で彼はのたうち回った。
今度はセドリックは徐に天を指さした。いつのまにあがっていたのか、そこには雨の気配はなく、夢を持った子供の瞳のように星がきらきらとまたたいていた。
彼はすいっと指をギースへ向けた。
「“死のような星の子《ゲレル・メリア・ミナ》”」
その指先に導かれるように(信じられないことだが)天から星が落ちた。それは、突如としてギースの目の前に現れると、ぎりぎりと彼の心臓の上に音をたてながらめりこんでいく。
「ぎぃあああああああ!!」
あまりの妖しさにバロットさえも目を疑うほどだった。
「じゅ、銃を、使っていない…」
いま、たしかにセドリックは銃を使ってはいなかった。それどころか詠唱らしい詠唱さえ唱えてはいなかった。
彼はぽつりと漏らしただけだった。その言葉も、バロットがいままで聞いたこともないような古い、そして力のある言葉だった。失われたはずの言葉だった。
ただその言葉を吐いただけで、そこにあるすべてが彼に従おうとしている。いまや風もないのに楡の木は枝をおじぎさせ、岩肌はようやく現れた月に照り映えて、彼の一挙一動を見守っている。あのギースさえも、彼の前では濡れた毛糸のように縮み上がっているではないか。
バロットの目の前で、セドリックはゆっくりと顔を上げほんのすぐそばまでせまっていた煙を一瞥した。彼は、手をすっとそちらに伸ばした。
やはり、たったそれだけだった。
たったそれだけで、あたりに漂っていた湿っぽい空気はぎゅっと濃縮され、炎ごとかききえた。まるで透明な大きな黒い手で握りつぶされたかのように、火はなくなっていた。
夜に押しつぶされたといったほうがいいかもしれない。
「こんな、こんなばかな…」
バロットはこれ以上ないくらい目をこらした。彼は頭から流れていこうとしている情報を、必至で押しとどめようとした。
いったいなにがどうなっている。なぜセドリックがこんなにも強い。
彼はたしかに魔法が使えていなかった。バロットと会ったとき、カートリッジをひとつも持っていなかった。
なのに、いまはいきなり銃もなしに魔法を撃っている。
それにセドリックがいままわりに従えている空気。あれこそは、すべての夜を集めても、あの漆黒の闇にはかなわないだろう――そんなふうに古い歌に歌われている、死の王の衣ではないのか。
彼の身にいったいなにが起こったのか、どうして彼は自分の血に…、力に気づいたのか。
いったいどうやって!?
と、そのとき火に煽られた風が木々をかきわけて彼らに襲いかかった。
「うわっぷ!」
土煙に目をとられたバロットは、思わずその場に転んでしまった。
なにかが吹き飛ばされてきて、バロットの足元にあたった。それはよく見ると、セドリックがしていた銀の腕輪だった。
バロットはそれをひろおうとして、指先が触れた瞬間にうっとなって放り出した。
「な、なんだ…」
折れた腕輪の断面はずいぶんと黒ずんでいた。そこで初めて、バロットはその腕輪が銀製ではないことに気づいた。表面を銀でメッキしてあるだけだ。
中身は、鉛だった。
しかも純粋な。
「…………ありえねぇ…」
あれだけの鉛はバロットには触れることもできない。練習用につけるようなものでもない。もしセドリックがなにも知らずあれをつけていたのなら、それはとんでもないことだ。
「そうか、鉛か…」
バロットは呟いた。
もし、彼がなにも知らされないまま鉛を身につけさせられていたとしたら、彼が自分の血に気づかないのも当然だ。鉛はまっさきに人の黒い心に作用する。セドリックが闇の力を持っているのだったら、彼の力の大部分は鉛によって押さえ込められていたのだ。
それならば、彼が手錠用の鉛をつけただけであのようにひどく苦しんだのも、彼だけが〈銀のとばりの森〉でうまくカートリッジを作れなかったのも、納得がいく。
そして、彼にその鉛の腕輪をつけさせていたのは、おそらく――
「セドリック、やめて!!」
悲痛に満ちた叫び声が、木の葉のドーム内に響き渡った。
それは、彼の姉だというエルウィングだった。彼女は魔法陣のすぐ外から、必至で彼に向かって語りかけていた。
「セドリック、もう腕輪をはずさないで。お願い!」
しかし姉の声を聞いてもセドリックは顔色ひとつ変えない。いま、彼は闇の力を使うために自分の中の憎しみに身をゆだねている。ギースを殺すことしか頭にないはずだ。
「セドリック!!」
「う、ああああああああああああ!!」
ギースの絶叫がエルウィングの声をかき消した。彼は憑かれたように銃を天に向けると、ぐっと引き金を引き絞った。
キューン!
彼の撃ち放った空砲が、いつのまにか空の上に昇りつめていた満月を穿った。
「ううっ」
そのとたん、音とも振動ともとれぬ衝撃があたりをゆすぶって、グリザリエルの魔法陣が解除された。まるで土の上から水がしみていくように、魔法陣は土の中に沈んでいく。
決闘が、終了したのだった。
バロットはほっと息を吐いた。
「セドリック!」
糸の切れたマリオネットのように崩れたセドリックのもとへ、エルウィングとあの気の強そうな少女が駆け寄った。バロットもまた魔法陣のあった場所へ行った。
「あ、れ…、僕…」
セドリックはきょとんとしていた。が、すぐにまわりの惨状を見て顔を曇らせた。
「決闘は…、火事は!?」
さまよっていたセドリックの視線がギースの顔の上でとまると、彼は黙ってその場を逃げ出した。
ふたりの顔を見て、セドリックは顔を惚けさせた。
「え、どうして。エル…、アンも」
アンブローシアという名の金髪の少女が言った。
「みんな麓のほうまで避難したわ。だからあんたも急ぐのよ」
「山の火はいったい…、スラファト軍はどこに…」
「あんたが消したのよ、セドリック」
「僕が……?」
セドリックの顔が、徐々に青く固くなっていく。彼はおそらくイボリットのことを思い出しているに違いなかった。
「まさか僕は、また…」
「いいえ」
頑なになっていくセドリックの肩を両手でしっかりと持って、アンブローシアは言った。
「あんたはいいことをしたのよ」
バロットはゆっくりと息を呑んだ。
セドリックはびくんと震えた。
「…いい、こと……?」
「そうよ、あんたは偉いわ。魔法の力を使って森の火を消してしまった。これでもしかしたらクリンゲルは壊滅せずにすむかもしれない。セドリック、あんたの力は忌むべきものじゃないわ。あんたはすばらしいことをしたのよ」
彼女はくりかえした。
「これでクリンゲルの人たちも、きっといままでどおりに暮らせるわ。森だってまたもとどおりになる。みんなあんたのおかげよ。あんたは感謝されるわ、たくさんの人々に」
「感謝…、僕が…、ほんとうに?」
アンブローシアは深く頷いた。セドリックの強ばっていた頬が、熱いものにふれた氷のように溶けていく。
セドリックは心の底から安堵したふうに、肩の力を抜いた。
「僕……、いいことをしたんだ。…よかった」
その様子を、バロットは注意深く眺めながら思った。
(いいや、それは結果論だ)
たしかに、セドリックはいいことをしたのだろう。彼は自分の正義感からギースを止めに行った。そして追いつめられ、力を解放した。
そうして彼はギースを決闘で倒すことでスラファト軍の思いどおりにはならず、森の火災は最小限の被害でくいとめることができた。村人たちの避難も間に合った。計画もなにもない、行き当たりばったりだったにしては上々の結果だろう。
だが、それは今回だけの話だ。
(この子供は、とてつもなく危険だ)
バロットは自分の考えを噛みしめた。
セドリックは孤児だったという。両親の記憶もなく精製所育ちなうえ、幼い頃にふるさとを失って強制的に神の道に入れられた。そんな彼は、いままで生きてきたなかで寂しさが身にしみている。まるで皮をむいたホオヅキの実のように、寂しさを感じ取る部分だけがむき出しになってしまっているのだ。
だからこそ、彼は他人とのかかわりあいを好む。他の人間ならば見過ごしてしまいそうなほんの少しの接触でも、彼は宝石のように大事にする。
セドリックは、出会った人間を大切にしすぎるのだ。
それは彼があのマカロックになんとしても届け物をしようとしたことにも、会ってまもないバロットについてきたことにも如実に表れている。
おそらく彼は自分が寂しくないためにはどんなことでもするだろう。自分の好きな人間に対して、そして自分に好意を持ってくれる他人に対して自分の力を与えることをためらわないはずだ。
しかしそれは、どんなに危険なことだろうか。
言い換えれば、セドリックがだれに手なずけられるかによって、いや彼がだれを愛するかによって、この世界の地図がまったく違うふうに書き換えられるかもしれないのだ。
彼の胸の内に、ある衝動がめばえた。
(このままこの子を放っておいてもいいのか。本国に連れて帰るべきでは…)
「ミーツケタ。ミーツケタ。ゴクロウサン、ゴクロウサン」
ふいに、この場にそぐわないのんびりとした声が四人の頭の上から降ってきた。
「イイコト、シマシタネエ。イイコ、イイコ!」
「ミス・グレイシス!?」
すると、突然セドリックの顔色が変わった。彼はあわててあたりをきょろきょろと見渡していたが、やがてどこかをじいっと凝視した。
彼の見上げた先には一羽の鸚鵡がいた。まわりの緑にまじってよく見えないものの、金色の足輪をしていてあきらかにこの森に棲む生物ではないふうだった。
ばさっと大きな羽音があたりに響き渡る。それは何十枚もの書類を放り出す音に似ていた。
「セドリック、イイコ、イイコ! イイコトシマシタ。キャハハハハハ、キャハハ!!」
「ま、待て。やつは…、オリヴァントはいったいどこにいるんだ!」
「オリヴァントだって!?」
彼の口から飛び出した意外な名前に、バロットは仰天した。
セドリックはエルウィングが止めるのも聞かず、鸚鵡のあとを追って走っていった。バロットも、そしてほかのふたりもすぐにあとを追った。
事態は収拾する様子もなく、さらに別の方向にむかって転がり始めた。
†
東の空に輝いていた赤い星が、熟した果実のように空から流れて落ちた。
セドリックはふと立ち止まって、月のいる方角を見上げた。
いつのまにか、夜が訪れていた。雨雲はまだいくらかクリンゲルの上空に残ってはいたが、もうひとしずくの雨を降らすことなく山のほうへ押しやられていた。
灰色のとばりが取り払われたあとには、星が輝いていた。遠くから見る夜の街のあかりのように、情熱と静けさを込めてゆらゆらとゆらめいていた。
(ミス・グレイシスはいったいどこへ行ったんだろう…)
セドリックはあがった息をととのえるために深く息を吸い込んだ。
あの鸚鵡がいるということは、オリヴァントがここクリンゲルに来ているということだ。
そしてオリヴァントがクリンゲルにある用事を、セドリックはいまとなってはただ一つしか思いつかない。
それは、
「純銀…」
マカロックの屋敷でギースとの会話を立ち聞きしたとき、ギースはたしかに純銀は〈銃姫〉の弾になるのだと言っていた。
『われわれは地中奥深く眠っている銀脈を探りあてるか、聖人の骨を探すしかない。そして純銀でないと銃姫のカートリッジにはなりえないのです』
たしかにギースは、クリンゲルから純銀の反応があったのだとマカロックに告げた。しかしこの山は、そのあとでマカロックが言ったように鉛の山だ。はたして、彼の部下が持っていた聖人の骨に反応した純なる銀は、ほんとうにここにあったのだろうか。
(いや、あるからこそ、オリヴァントが来ているに違いない。彼に渡してはならないんだ。弾さえあれば引き金が引けてしまうんだから!)
セドリックはこの暗闇のどこかに鸚鵡の羽根がまじっていないかと目を凝らした。
すると、鸚鵡ではないものが彼の目にとまった。麓のほうからだれかが山道をあがってくるのが見えた。
その人物の顔が満月によってはっきりと照らし出され、セドリックは驚いて声をあげた。
「マカロックさん!」
驚いたことに、それはレニンストンにいるはずのジャン=マカロックだった。
彼は一瞬頬を強ばらせたが、セドリックを認めるとすぐにそばまで駆け寄ってきた。
「た、大変なんだ。私の母が…、母のナンネルが下まで避難していない」
セドリックはサッと顔を曇らせた。
「そんな…、どうして。だれも彼女を呼びに行かなかったんですか!?」
「それが、山男がいうには何度扉をたたいても返事がないから先に行ったんだと思ったらしい。でも、母は足を悪くしているんだ。だれかの手がないと山道を降りられない。お願いだ。いますぐ呼びに行って…手を…、手を貸してくれ!」
すがりついてくるマカロックを落ち着かせようと、セドリックは何度も頷いた。
「わかりました。さ、急ぎましょう!」
ふたりはできるかぎり急ぎ足で急勾配の坂道をあがり始めた。あかりは持っていなかったが、幸いなことにその夜は満月であかりがなくとも十分に足元を見渡す。
空は藍を煮詰めたような黒一色で、それでも不思議と丸みを感じさせた。ふたりは言葉もなく歩いた。走ることができないのをこんなにももどかしく思ったことはなかった。
やがて、楡の木の行儀良く生えそろった林のそばに、セドリックは一軒の山小屋を見つけることができた。小屋のすぐうしろには小さな水の流れがあって、それが小屋のそばのくぼみで一休みし、優美な蛇のしっぽのように林の中に消えていっている。
そのちろちろと水が音をたてるなかを、ふたりは小屋に近づいた。小屋はずいぶんと荒れていた。窓など、ここしばらく開けられたことがないのではと思うぐらい蝶番《ちょうつがい》にサビが浮いていた。
「お母さん、お母さん!!」
と言って、マカロックは扉を乱暴にたたいた。
「お母さん、ここを開けてください。ジャンです。僕がもどって来たんです。早くここから逃げないと。ここはあぶないんです。土砂がくるんです!」
中から扉を開けようとする気配はなかった。
マカロックは一心に扉をたたき続けた。
「お母さん、開けてください。あとであやまります。長い間戻ってこなくてすいませんでした。それもあとで言います。謝ります。だから、僕のことを許してもらえなくてもいいですからとにかくここを開けてください。せめて、この少年といっしょに山を下りてください!」
彼は両手で扉にすがりついた。
「お願いです、お母さん!」
(おかしいな…)
帰ってこなかった息子に門前払いをくらわすほどナンネルは怒っているのだろうか。セドリックは妙な違和感を覚えた。
最後にナンネルに会ったとき、彼はマカロックのことをちっとも憤ってなんかいなかった。口をついて出たのは自分の息子がいかに親孝行で、レニンストンですばらしい富を手に入れたか。どんなに優れた人間になったかという自慢ばかりだった。
『ぼうやくらいの頃は、世界でいちばん偉い人に会いに行くんだって言っていたよ。それでいつか列聖されるような賢者さまになって、母ちゃんにたくさん自慢させてやるって…』
その様子から、セドリックは彼女がどんなに自分の息子のことを誇らしく思っているか、どんなに息子を愛しているかが手に取るようにわかったのだった。
「うっ」
そのとき一陣の風がふいて、セドリックの背中を氷の手がなであげていった。
なんだろう…、背筋がぞくぞくする。それもなにかの期待ではない、それとは正反対の嫌な予感だ。
「どうしよう、もう寝てしまっているのかも…。こうなったら無理矢理に破るしかない」
そう言って、マカロックは体ごとドアにぶつかっていった。
扉は二度ぶつかっただけであっけなく開いた。はじけ飛んだ蝶番がセドリックの足元に転がる。
パタパタ、カットン…
それは小さな小さな、ネズミが身じろぎしたくらいのかすかな音だったが、マカロックはハッと反応した。
「奥だ、この奥に機《はた》織りがあるんだ。おふくろはいつもそこにいる」
彼は大股で部屋を横切ると、いちばん奥の部屋へ急いだ。セドリックもあとをついていった。
マカロックは入り口にかかっていたタペストリーをたくしあげた。
「お母さ――…」
月が。
セドリックは息を呑んだ。
屋根のなかばにとり付けられた天窓から、たったいま研磨を終えたばかりのダイヤモンドのような月が顔を覗かせていた。
透明できらきらと光を跳ね返すその月は、磨かれれば磨かれるほど光を増していき、そのやすりから月をけずったあとのくずが星くずとなって、部屋の中にやわらかに降り注いでいる。
セドリックはふいにこんな古い話を思い出した。――月は純粋な銀でできている。だからこそ月の光を浴びるとみな魔力が増す。
とくに、こんな照り返しの多い満月の夜は、不思議なことが起こりやすいのだと…
ナンネルの仕事部屋は、まさにそんな魔の力であふれていた。天窓からこぼれ落ちた月の光が、細い細い銀色の糸になって機織り機にハープの弦のようにからみつき、その間を色のない杼がいったりきたりをくりかえしている。ぱたんぱたん、と横木が横糸をそろえる。そして杼が横糸を通していく。
それはどこの農家の部屋にもみられる高機の風景だった。
ただひとつ、だれもその前にいないことを除けば。
セドリックは信じられない思いでその部屋を眺めていた。
部屋にはだれもいない。ただ高機だけが、まるでぜんまいじかけのようにひとりでに動き続けている。
彼と同じく呆然となったマカロックだったが、すぐにきょろきょろとあたりを見回した。
「お母さん…?」
やはり返事はなかった。帰ってくるのはぱたんぱたん、という音とふたりが床を踏みしめるギイっという音だけだ。
マカロックはそうっと寝台に近づいた。そこにはふくらみがなかったので、ナンネルは寝ていないように思われた。
だが…
「あ…」
彼はまるでその透明な糸にからまれたように立ちすくんだ。
そこには、彼の母親はいなかった。
ただ、銀色の塊が転がっていた。棒のような銀や、石ころのような銀。そして皿のようにひらぺったい銀もあった。
それだけなら、セドリックもただの銀の塊がおいてあったのだと思っただろう。だがもっと大きなものがあった。
それは、半分砂になって崩れた銀色の頭蓋骨だったのだ。
「お…、お…、お…」
セドリックも思わず呼吸を忘れた。
(銀の骨だ、聖人の…骨!)
「お――」
マカロックはよろよろとふらつきながら寝台に駆け寄った。その途端、ぶわっと銀色の埃がまいあがった。マカロックはそれを一粒ものがさないとばかりに必至に手を動かしてかき集め始めた。
「う、ひ…、ひ…、ひ…」
彼は骨になってしまった自分の母親をかき集め、その中に顔をつっこんだ。
「おか…ちゃ…な、な、…」
マカロックは唸り声をあげた。
「お、おかあ、ちゃ…おか…」
もう一度彼は言った。
「おかあちゃん!!」
彼は泣いていた。
埃と銀の砂が横たわっているシーツの上で、マカロックは声をあげてすすり泣いた。
彼の慟哭はだんだんと大きくなっていき、やがてうわああああああという叫び声に変わった。その瞼からは、どんな海よりも深い後悔と悲痛が絞り出されていた。
セドリックは、山間の小さな村で起こった物語の結末を、くいいるように見つめていた。
『ぼうやくらいの頃は、世界でいちばん偉い人に会いに行くんだって言っていたよ』
都会へ行きたいばかりに、老いた母をおいて家を出たマカロック。
ナンネルは家で息子を待ち続けた。きっと昼間は羊毛を織りながら、そして夜はこうして明るい色をした思い出のタペストリーを織りながら。
『でも、いつのまにか世界でいちばん偉い人になるんだって、自分がなるんだってそう手紙に書いて寄越すようになったねえ…』
はじめは大学をやめてしまった罪悪感から、そしてそのつぎにみんなに認められたいという出世欲から、彼は商売を始めた。マカロックは金持ちになった。
それでもナンネルは家で待っていた。着てくれるかどうかもわからない、帰ってくるかもわからない息子の服を作りながら…
どこですれ違ってしまったんだろう。
セドリックはぎゅっと拳を握りしめた。
マカロックが探しに出た、世界でいちばん偉い人は彼のすぐそばにいたのに。
『なにがいちばんでなにが偉いかなんて、きっと神さまにだってわからないんじゃないかねえ』
なにがいちばんで、なにが偉いか…。その問いに答えられる人は大勢いるだろう。人間は皆それぞれの答えを持っている。
そしてその問いに答えられる人はひとりもいないだろう。人間は皆それぞれ自分の答えに確信を持っていない。
人間だから。
セドリックは銀色に染まった寝台を見つめた。
部屋には乱れたようすもなく、ベッドの上は平穏そのものだった。それがナンネルの死の安らかさを教えて、それがいくらかの慰めになればいいのにと思った。
ここで息子を待ちながら、ナンネルは夢の中で静かに息を引き取ったにちがいない。
そうあってほしい。
「うううっ、うううううう…うううううううう」
彼はしばらくそうやって細かい嗚咽をくりかえしていた。
後悔しても後悔しても、そうやって銀になってしまった母親の骨をかき集めても、彼を待ち続けた母親は、もうこの世のどこにもいないのだ。
しばらくして、マカロックの背中にやわらかな光のベールが降りてきた。
パアアアアアア…
まるでうたた寝の子に母が毛布をかけるように、それはふわりと彼を包み込んだ。
セドリックにはそれが、ナンネルの手のように思えたのだった。
中から、光のような声が聞こえた。
――ジャン。
「かあちゃん!?」
マカロックは涙と洟《はなみず》まみれた顔を上げた。
彼は部屋をうろうろした。
「かあちゃん、かあちゃんだろ!」
言いながら、いたたまれないといったように両手で顔をおおった。
「ごめん、かんにんしてくれ。かあちゃんほったらかしにしておいたおらをかんにんしてくれ。ま、まにあわないなんて思わなかったんだ、かんにんしてくれ。かんにんして…」
――おかえり、ジャン。
月はただただ明るかった。罪を認めて蹲る彼の上にも、同じように降ってきた。
セドリックは、月の光がまるで金色の帯のようにマカロックにまとわりつくのを見た。
――おかえり、おかえり、ジャン。おかえり…
もし光に感情があるのなら、それは無邪気なほどにはしゃいでいるように見えた。
(おかえり)
ナンネルの腕のような光は、不思議なほどにおかえりとしか言わなかった。きっと彼女が最後まで息子にかけたかった言葉がそうなのだろうとセドリックは思った。
夜の妖精が編み上げた金色のレースが、マカロックを包み込む。セドリックの見ている前で、たしかに親子は抱き合っていた。
そうしてしばらくするとマカロックからほどけて、すうっと天窓に吸い込まれていった。
マカロックは、あ…と天窓に向かって手をのばした。
そこは月の世界だった。
人の手の届かない別の世界。彼の母親はもうそこの住人になってしまったのだった。
「ああ…」
不思議な時間はあっけなく終わりを告げた。そこにはただ主人をなくした機織りの杼が、だれかの命のようにころんと力なく転がっていた。
セドリックは目を凝らした。最後に、その機の前に座っているナンネルの姿が見えたような気がしたのは、気のせいだったか…
彼は首を振った。
いいや、たしかにいたような気がする。そしてこの先も、ナンネルは息子とずっと一緒にいるのだ。
もう離れることはない。
『おかえり、ジャン。よかったねぇ…』
転がった杼を握りしめて、もう一度マカロックはすすり泣いた。
これからは、彼が思い出の機を織る番だった。
†
金色に染まったマカロックの背中を部屋に置いて、セドリックはナンネルの棲んでいた小屋を出た。
しっとりと濡れた土のあいだにあちこち水たまりができて、そこにいくつもの月が映っている。
水に映る月はどれひとつ同じではない。人の心もそうかもしれない、とセドリックは思った。決して手が届かず、手に入れられず、こうしてなにかに映った姿しか見られない…
「人が生きている間には、不思議なことがいくつも起こるものだ」
上のほうから声がした。
セドリックは見上げた。その男はまるで月に腰掛けていたように上から降ってきた。
「とくに、こんな満月の夜はね」
「オリヴァント!」
彼は前に見たときと同じ、黒いアルパカのコートに肩を覆う金モール、そして愛用のドナテーラとコティという魔法用のライフルを背負っていた。
セドリックは、じり、と彼に近づいた。
「オリヴァント、おまえ、〈銃姫〉を…」
「待った!」
セドリックの言いかけた言葉を強くさえぎって、彼は腰に手を置いた。
「まったくいつもいつも返せ返せとそればかり。たまには君の口から別の言葉が聞きたいものだよ。ねえセドリック」
セドリックは胸をつかまれたように身を竦ませた。彼がセドリックの名を呼んだのは、あれ以来だったからだ。
彼をほんとうの兄のように慕っていた、満月都市の修練院のころの…
オリヴァントに名前を呼ばれて動揺していることに、セドリックは無性に腹が立った。
(彼は僕を裏切ったんだ。なのに…、なのに名前を呼ばれてうれしいなんて、そんなことあるわけがない!)
オリヴァントがすっと夜に向かって腕をのばした。そこへ向かってまっしぐらにミス・グレイシスが降りてきた。鸚鵡はへたくそな絵描きのパレットのような羽根をたたんで、オリヴァントの広い肩にとまった。
急に出てきた風に、オリヴァントの長いコートがはためいた。
彼は言った。
「そんなことより、やっぱり、銃がなくても魔法を撃てたじゃないか」
「!?」
オリヴァントは月を背にして立っていた。
セドリックはずり、と後ずさりした。
あいからわず、その全身からにじみ出る魔の力は夜のようだった。
「いったい、なにしにここへ来たんだ…。まさか、本当に純銀を手に入れるために…」
「ご明察」
彼は親指と人差し指でつまむようにして、なにかを持っていた。それがナンネルの小指の骨だとわかると、セドリックは血相を変えた。
「な、なんてことを!」
「スラファト軍がこんな鉛山を探ってるって聞いたときは、そんなばかなと思ったものだがまさか聖人の骨だとはね。ま、もっとも彼らも山にあると思っていたようだけどねえ」
「か、返せ!」
セドリックは飛びかかった。が、実にあっさりと手をつかみ上げられてしまう。
「ぐうう…」
オリヴァントはセドリックの耳に優しくささやきかけた。
「私はあの出世欲にまみれたスラファトの坊やほどあつかましくはないつもりだよ。それに、はるばるこんな田舎まできて、小指の骨だけで満足してやろうというんだ。感謝してほしいぐらいだね」
「な、なにを…ぐっ」
ぎり、とセドリックの右腕をひねり上げる。彼は苦痛の声を漏らした。
「もう少し物事の本質を見ようとしなさい。この世には意味のあるものには必ず名前がある。かたちがないものにさえあるくらいだ。その名前を知るだけで、人はソフィアの知恵を手に入れたも同然なのだよ」
彼はどんっとセドリックを地面に突き飛ばした。セドリックは水たまりの上にしりもちをついた。
水に映っていた月もへしゃげた。
「〈銃姫〉がなぜ〈銃姫〉なのか、魔法がなぜ魔法なのか、それを知ろうとあくせくすることが君には必要だ。なぜなら私は助言というものの本質が、きわめて暴力的なのではないかと思っているクチでね。だから君にはなにもいわない。ただ忠告するだけだ」
彼はナンネルの小指を懐にしまうと、その深い色あいの目をセドリックに向けた。凶暴な犯罪者であるにもかかわらず、セドリックにはそれが知恵をたたえた泉のように見えた。
「この世を滅ぼすといわれた兵器の敬称が女性詞であることにそろそろ気づきたまえ。そうして銃というものの誕生した過程を、…いや、この世にとってなにがいちばんの災いであるのかを自分にたぐりよせてみることだ。スラファトは君よりもずっと手が長い。せいぜい大事なものを絡め取られないようにすることだね」
ああ、それから、と彼は繋げた。
「六本足の蜘蛛に、気をつけて…」
そのとたん、水脈《みお》のように流れていた雲が月を覆い隠した。あたりから急に明るさが消え、セドリックが尻に敷いていた満月も消えてなくなる。
「あっ」
暗闇に目をとられているすきに、オリヴァントはいなくなっていた。
セドリックは濡れそぼった体のまま、夜半の風にあたっていた。
「〈銃姫〉…」
捕まえたと思ったら手をすり抜けていく。オリヴァントこそ水の上の月だと彼は思った。
[#改ページ]
エピローグ
[#改ページ]
クリンゲルの土砂災害はついに起こらなかった。
森の火災が最小限に食い止められたこと、鉛質の土が水にとけにくいため逆に動きにくかったことなどが考えられたが、街の人々は不思議な力がクリンゲルを守ってくれたにちがいないと言い合った。不思議なことに、その夜、麓の避難所から、山のほうで光の玉のようなものが空に昇っていくのが見えたという。
ナンネルの骨が銀になったことは、街の人々には知らされなかった。彼女の息子のジャン=マカロックはその骨を砂にすると、小屋のそばに流れていた山の支流に流してしまった。スラファト軍に骨を悪用されないためもあったし、また自分の母親がそう望んでいたことを彼は確信していたのだった。
この土地を愛したナンネルは、川の流れとなってクリンゲルの山にゆっくりとしみ込み、失われた森のぶんも街を守ってくれるだろう。
彼女はようやく想いはれて、この地で永い眠りについたのだ。
「じゃあ、セドリックが見たナンネルさんって、ゆ、幽霊だったってこと!?」
レニンストンのいちばん大きな通りにある客間茶屋《タムタム》で、アンブローシアは大声をあげた。
客間茶屋とは文字どおり客間のようなカフェーという意味で、キニールハウスとは違いお茶やお菓子を出すところだ。
アンの大声に、まわりの通行人がぎょっとした顔でふりかえっていく。彼女はあわてて口に手を当てた。セドリックも口元に人差し指を立てる。
「しー、静かに。たぶんそうかもしれないって話だよ。なにしろ一月やそこらであそこまで骨だけになってしまうことはないんだから」
「うええええ、あたし見なくてよかった。見てたらぜったいいまごろ正気じゃいられないわ」
アンは腕を交差させて二の腕をつかんだ。本当に怖いものは嫌いらしい。
「ナンネルさんの幽霊は、僕だけじゃなくて街のいろんな人が見たことがあるらしいよ。だから街の人たちも彼女がまさか亡くなってるなんて思わなかったんだって。もともと彼女は山にひとりで棲んでいて、足を悪くしてからはめったに街のほうへ降りてこなかったらしいし」
「でも、よくその…臭ったりしなかったわね。山は寒いからかしら」
エルウィングが妙な感心の仕方をした。それはそうかな、とセドリックは思う。それとも臭いなんてなくなってしまうほど前に亡くなっていたとしたら、それはちょっと哀しいことだけれど…
「あーもう怖い話はやめましょ。ほら終わり、終わり!」
アンブローシアが皿の上の寒天牛乳《ミルク》のプティングをつつきながら言った。ここのタムタムはバロットおすすめの店で、なんでも出てくる茶が出がらしでないのがいいのだという。
「でがらしじゃないって?」
「たいていこういう店で出されるお茶は、裕福な家で一度だけ飲まれた茶葉を厨房女中から買ってるのよ。コーヒーにはたいていチコリが混じってるし、ミルクは半分は水だし」
口が肥えているらしいアンブローシアが肩をすくめて言う。
「でもここの寒天牛乳のプティングは本当においしいわ」
「そいつぁよかった」
バロットが鼻を鳴らして言った。お茶を飲むために入ったというのに、さっそく鱈のフライと山盛りのポテトにがっついている。
いまは選挙期間中とあって、このような労働者たちの立ち寄るパブは選挙の話題でもちきりだった。日雇いの仕事を終えてきた人々の口からは、ジャン=マカロックが下院選挙から身を引いたこと、メイヤーズ出身の奥方と離婚協議中なことなどがさかんに聞こえてくる。
いつもならこういった下町のパブと、金持ちが集まるレースハウス(木馬競馬が行われるためこの名がついた)では話題がまったく違うものだが、最近ではどちらの店でもマカロックの話題が噂に上っているようだった。
「これでシュレーさんが当選するのは確実だし、戦争にはならないんだよね。よかった」
ほっと胸をなで下ろしたセドリックだったが、バロットが横から異論を唱えた。
「そりゃどうかな。この鉄道熱が嫌な方向へふくらんじまわないといいがね」
「え、どうして鉄道…?」
「おまえさんたちもリムザから鉄道で来たんだろう。汽車は便利だからみんな線路を引くのを歓迎してる。一攫千金を夢見て女子供まで鉄道会社に投資するありさまだ。だが、みてのとおり線路はレニンストンまでしかない。ここから先はスラファトだ。そうだろ」
セドリックたちはみないちように頷いた。
「彼らはもっと線路を延ばしたいと考えている。いまは景気がいいからこの波にのってもっともっと儲けたいと考えている。こういうときはみんな欲張りになってるもんだ。走り出した汽車はすぐにはとめられない。俺はこの熱狂ぶりが続いているのがむしろ怖いね」
そう言って豪快に鱈にかぶりついたバロットに、セドリックは答える言葉を持たなかった。
「そりゃそうと、おまえさんたちこれからどこへいくつもりなんだ」
「いちおうここからは鉄道もないので、郵便馬車でリンデンロードへ向かおうと思ってるんですけど」
「リンデンロード…? あの野郎がそこへ行くって言ったのか?」
彼はわざとオリヴァントの名前を口にださなかった。彼の名前は魔銃士たちの間だけではなく、一般市民にまで広く知れ渡っているからだ。
セドリックは首を振った。
「いえ、そこからメンカナリンへ向かおうと思います。大いなる教えの宮エリンギウムへ」
大いなる教えの宮《エリンギウム》――
彼のすべてが始まったメンカナリンの中心部。セドリックはそこで、もう一度自分を見つめ直そうと思っていた。かなうことならザプチェク大僧正に拝謁し、彼の口から語られることがはたして真実であるかどうかを自分で見極めたいと思っていた。
アンブローシアはあまりいい顔をしなかったが、聖なる教えの都《エリンギウム》へ行きたいと言うとエルウィングは喜んだ。あそこは彼女のふるさとでもあったからだ。彼女の言うことには、セドリックもずっとむかしにはエリンギウムで暮らしていたことがあったということだった。
彼はとなりで静かにカップに口をつけていたエルウィングを盗み見た。
闇の中でだんだんと目が慣れていくように、セドリックはいままでずっとそばにいたエルウィングの不思議さと不可思議さを感じ取っていた。
彼女がセドリックにお守りだと偽って身につけさせていた銀の腕輪。あれは本当は鉛の腕輪だった。イボリットで力を暴走させてしまったセドリックのために、エルウィングが苦肉の策でああして身につけさせていたのだ。(と彼女は言った)
ギースとの戦闘のさなかあれがひとつ壊れたせいで、いままでの魔力は戻ってきたようだった。しかしあのとき初めて自覚した闇の魔力は自分にはまだまだなじんでいない。
〈銃姫〉の本当の正体。
オリヴァントとメンカナリンの関係。
アリルシャーのお屋敷のこと、バロットの言っていた〈玉座〉のこと。
セドリックの闇の力。
(そして、僕の両親のことも)
エルさえいてくれればいいんだといい聞かせるすぐそばで、親のことが知りたいというだだっ子の自分が叫んでいる。セドリックは、最近とくにその両方の心をもてあましぎみだった。そしてそんな風にいつまでも迷っている自分を、とてもなさけないもののように感じていた。
セドリックは内心首を振った。いつまでも知らんふりじゃだめだ。いまだから知らなくてはならないんだ、本当のことを。
「エリンギウムへ、行きます」
きっぱりとそう言いきった彼に、バロットはどこか残念そうに言った。
「そうか…。いや、な。このまま行くあてがないってーなら、いっそのこと俺ん家《ち》にこねえかと思って」
「バロットさんの家に?」
彼はフォークを口に入れたまま頷いた。
「言わなかったっけ。これでも俺ん家けっこう地元の名士ってやつでさ。家なんかもやたら敷地だけはでかいのよ。暁帝国は温暖でいいところだし、足をのばしてみてもいいんじゃねえかと…」
「へえ、バロットさんってお金持ちだったんですね」
「そうでもないぞ。最近はけっこう質素な暮らしをしてる。なにせかさむモンがかさむからなあ」
彼はなにやらごそごそと胸元に手をつっこんでいたが、徐になにかをひっぱりだすとテーブルの上に銀色の小さなものを置いた。
それは、魔銃士の等級を表す等級タグだった。
「これ…」
「ギースのヤローの等級タグだ」
そのクラシカルな模様の入った銀のプレートには、472等級を表す魔法文字が刻まれていた。そのすぐ下にセドリックの名前が書き込んである。決闘の仲立ちをした土の精霊が証明するもので、人の手で書き換えることはできないのだ。
「ギースを倒したんだからおめえのもんだ。受け取れや」
「え、で、でも。僕…」
セドリックはためらったが、バロットは無理矢理その手の中に握り込ませた。
「いいから受け取れって。これから大変だぞ。これでお前の名前は世界各地にある等級塔に刻まれてしまった。世界中からお前を倒そうとすご腕の魔銃士たちがやってくるだろう。せいぜんがんばるこったな」
バン、といつものように背中を叩かれる。セドリックは真っ青になった。
「そんな…。だ、だって僕、ほとんど覚えてないのに」
「まあまあ、人間頭に血がのぼったときのことはたいてい覚えてないもんだ。それにお前がギースを倒したことはアルストロメリアも証明してる。なんも問題ねえよ」
言って、バロットはキニールのジョッキを高々とかかげてみせた。さっきから彼はずいぶんと上機嫌だった。
「いやー、爽快だぜ。なんせあのギースのヤローがおめえみたいなガキに倒されたってぇんだからな。しかもおめえが等級ナシだったぶん、あいつはいまじゃ魔銃士の中でも最下位だ。あの“赤いたてがみ”ギース=バシリスがだ。ひゃっほう、こんな胸のすくことはないぜ!!」
言って水のようにキニールを一気に飲み干した。アルコールくさい息がかかって、アンブローシアが露骨に顔をしかめる。
それに気づいたバロットが、となりに座っていたアンに絡み始めた。
「それよりあんた。アンブローシアっつったっけ」
アンが萌葱色の瞳をひときわ鋭くする。
「な、なによ。そうよ。それがなにか…」
「あんた、俺の嫁になんねえか」
いきなりのプロポーズにセドリックは盛大にコーヒーを吹いた。
「ば、バロットさん!!」
「なに言ってるのよ、この赤サイが、あたまおかしいんじゃないの!」
思いっきり椅子を引いて逃げるアンに、バロットは至極真摯に言い寄った。
「気ぃつええな。うん、やっぱいい女だぜ。俺はそんなとんがった女が一等すきなんだ」
「あんたの好みなんか聞いてないわよ。ぎゃーなによ、寄らないでよっ!」
それでもバロットはめげることなく、酔っぱらっているんだかいないんだかわからないような目で、
「なあ、俺がちゃんとした属性調べてやるよ。そいでもし火属性なら俺の嫁さんになってくれよ。幸せにすっからさ。金もうんと稼ぐからさ」
そう言って、さらに懐から取りだしたあの判定盤をアンに押しつけようとする。アンの手が魔弾砲に伸びるのを見て、セドリックがあわてて止めた。
「殺すわよ!」
「アン、それはやばい。ここではやばいって…」
魔弾砲を突きつけられてもバロットは怯まなかった。彼はうっとりして言った。
「やっぱイイなあ。俺、なんなら三年くらいは待つぜ。俺はけっこう気がなげえたちなんだ。オールオッケイだぜ。いまは婚約だけでも…」
その続きは、ふいに彼の真後ろに立った女性によって遮られてしまった。
「バルバリアス殿下!」
聞き慣れない名前が、帝国語の、しかもかたくるしい敬称付きで店内に響き渡った。セドリックたち三人はきょとんとその人物を見上げた。
緋色の軍服で身を包んだ女性が、怒りの形相でバロットの首根っこを押さえていた。黒髪を男のように短くしているが、あきらかに盛り上がった胸が彼女が女であることを教えている。
バロットはおそるおそる振り返って赤い顔を凍りつかせた。
「ヘ、ヘミングスター火将長…」
「また人の名前を勝手に使いましたねええ。バロット」
本物のヘミングスターさんであるらしいその帝国人の女将校は、まさに筋骨隆々といった感じの腕で、バロットの体躯をつり上げた。
「!?」
「戻ってもらいますからね。もちろん女王陛下に対しても言い訳をしていただきますよ。我が236火兵師団のせいにされてはたまったものではありませんから」
彼はあわてた。
「ま、待ってくれシエラ。まだあいつからカートリッジ代取り立ててねえ。すげえ一杯貸してやったんだぞ。俺のだぞ!」
バロットよりも更に背が高いシエラ=ヘミングスター火将長は、その黒々とした目でバロットを一瞥した。そしてふっと笑った。
「カートリッジくらいたっぷり作る時間はありますよ。謹慎中にね。今度という今度は覚悟なさい。いくら女王陛下の兄君とはいえ営倉入りはまぬがれませんよ」
「シエラ!」
セドリックはぽかんと口を大きくあけたまま、ことの成り行きを見守っていた。
黄金の夜明けの国は、代々女王制であるという。王家に生まれた男子は王位を継ぐことはなく自分の妹か姉である女王に忠誠をささげ、女王陛下の忠実な兵隊となる。
セドリックはバロットの首元にぶら下がっている髑髏のチョーカーを見た。
どうして気づかなかったんだろう、暁帝国一の将バルバリアス=ネオといえばセドリックでも聞いたことがあった。世界一という帝国の火兵軍団を率いて屍の山に君臨するという暁将、“髑髏王バロット”!
「う、い、いやだ! まだ結婚の約束をしてねえ。あいつだ。あいつが俺の嫁さん候補なんだ。やっと見つけたんだ」
シエラはアンを見た。アンが違う違うと手を振ってみせる。
「まだあなたはそんなこと言ってるんですか。女王陛下からも早く結婚させなさいとお言葉をいただいています。帝都に戻ったらお見合い相手のお姫さまたちが首を長くしておまちですよ。それに、われわれがここにいることはできないんです。本国から強制退去命令が出ることになっていますから。さあ、急いで!」
「ぐ、ぐおっ、おま、馬鹿力なんだからあまりつかむのはよせっ。おい聞いてんのか!」
「ああ、それにしてもちょっと目を離した隙にこのみすぼらしい格好! 汚い! くさい! なさけない! これはとっとと帰って風呂ですね。さあっ、いきますよ!」
シエラはバロットの首根っこを片手でつかむと、まるでぼろぼろの旅行鞄のようにバロットを店の外へ引きずっていった。
「んぎゃーはなせ、コラッ。上官の言うことが聞けねえのかあぁぁ」
三人はまだわめいているバロットにむかって手を振った。やがて、そのわめき声も聞こえなくなる。
嵐は去った。
セドリックはすっかり冷め切ったコーヒーをすすった。アンもまたプティングをつついた。思わぬ騒ぎに手を止めていた人々も、何事もなかったかのようにカウンターに向かい始める。
「帝国人って、女の人も力持ちなのね」
エルウィングだけが、また的はずれなところで感心していた。
†
夜の妖精がオレンジ色の衣をまとって街へ降りてきた。
レニンストンの街は黄金色のタイルを敷きつめ、夜の王がコートを裏返すのをいまかいまかと待っている。椅子の背をなおしませんか、という家具職人の呼び込みも聞こえなくなり、手押し車に煉瓦のクズをやまと積んだ煉瓦クズ売りがいなくなると、通りはいっそう閑散とするようになった。
夕刻の鐘が鳴る前の半時は、聖職者たちにとって一日の最後のおつとめになる。礼拝に出かけたエルウィングと別れたふたりは、アシュマリン広場へと続く長い通りを歩いていた。
バロットの意外な出自がわかったことで、セドリックには見えてきたことがあった。
あのアシュマリン魔法陣の事件は、マカロックから支持者を離すために帝国軍が画策したことではないだろうか。
言葉だけを信じることはできないものの、あのときたしかにギースは自分たちではないと言っていた。あそこでわざわざ彼が嘘をつく理由は見つからないし、それにあのギースがそんなに簡単に足のつくようなことをするとも疑わしい。
やはりあれはレニンストンに潜伏していた帝国軍の工作員がしたことだったのだ。そうセドリックは結論づけた。今度の下院選挙はスラファト軍が気を配っていたぐらいなのだから、それに対してなんとしても月海王国の参戦を阻止したい帝国側が黙っているはずはないのだ。
しかし、あのヘミングスター火将長が言っていた、帝国人の強制退去命令とはいったいどういうことだろう。セドリックは妙なところが気になった。
セドリックのとなりで、アンが顔を上げた。
「あ、焼きたてのパンを窯にのせて売ってる。きっとほかほかだわ」
「ほんとうだ。やっぱり都会は違うね」
会話は、そこでとぎれてしまった。
「えっと……」
アンとはさっきから他愛のないことを言い合いながら歩いている。だが、ふたりともどこかぎこちないものを感じているようで、なかなか会話が続かなかった。
(あのときのことを、謝らないといけない)
セドリックは何度もすって吐いての深呼吸をくりかえした。ずっとアンブローシアに謝るタイミングをはかっていたのだったが、そのたびに彼女がなにか言うので言い出せないでいたのだった。
意を決した彼は、いきなり足を止めてアンのほうを見ると、
「ごめんなさい!」
と、頭を下げた。
アンはびっくりしたようだったが、そのままなにも言わなかった。
「あの、僕…、あのときずっとイライラしてて、カートリッジもうまく作れないし、それでアンにやつあたりしたりして…」
アンは小さく笑った。
「そんなのいいよ。アレは鉛のせいだったってわかったし、セドリックは悪くな…」
「違うんだ、そうじゃないんだ」
セドリックは強く頭を振った。
「たしかに鉛のせいでイライラしてたのはあると思う。急に魔法が使えなくなって焦ってたのもあると思う。でも僕は…、僕はなによりも、アンに負けたのが嫌だったんだ」
彼女の顔がさっと強ばった。セドリックはうつむき加減から思い切って顔を上げた。
アンブローシアの目を見て言いたいと思った。
「つまらない意地だったけど、他のだれでもないアンだけには負けたくなかった。なぜって、アンは…、アンは僕が守りたかったんだ」
セドリックが見ている前で、今度は彼女は大きく息を吸い込んだ。
「アンを守りたかったのに、守るどころかアンに守られたことが悔しかったんだ。僕は早く大人になりたいってずっと思ってた。だれにも頼らなくても生きていけるほど強くなりたいって、ひとりでなんでもやれるようになりたいってずっとずっと思ってた。なのに、僕はアンやエルに守られるばっかりで、自分がちっとも成長できてない。
情けなかったんだ。絶対に認めたくなかった。どうしてもイヤだったんだ、君より弱いいきものになるのが」
まるで、大きな鉛の塊を胸から吐き出したようだった。すうっとした。本当のことがようやく言えた気がした。
やがて、アンブローシアが口を開いた。
「あんた、間違ってるわ」
セドリックはびくりと肩を震わせた。
「違うわ、セドリック。ひとりでなんでもやれるのが、大人になるってことじゃないわ。大人になったら、人間は自然に親から離れないといけない。でも、大人になっても頼れる人がそばにいることが、本当に頼らなくていいってことじゃないかしら。大きくなったってことじゃないかしら」
彼女はぎゅっと固く握りしめられたセドリックの手をとった。そして、一本一本指をはがしていって、最後に自分の手をすべりこませた。
彼女の手のあたたかさが、セドリックの胸まで届くようだった。
「ねえ、ひとりでなんでもできることより、ふたりでいっしょになにかをやることのほうが、ずっとむずかしくてずっと大切なのよ」
セドリックはアンの目をじっと見つめた。彼女は誇りかに言い放った。
「あたしに、あんたを守らせなさいよ」
セドリックは、自分の胸の中に最後までのこっていた意固地な部分が、ついに溶けて流れたのを感じていた。
ふたりでなにかをすることのほうがずっとむずかしい。本当に、そのとおりだと思った。大切なことを見過ごしてしまうところだった。ほんの少しのつまらない意地のせいで。
気がついてよかった。気づかせてくれるだれかがいてくれてよかった…
「ごめんね…」
セドリックは泣きべそをかいた。ここで涙が出てしまう自分がやっぱり情けなかった。
「本当に、ごめんなさい」
「いいよ」
手から流れ込んでくるぬくもりが心地よかった。セドリックはこの手を離したくないと思っている自分に気がついた。これから僕は、アンといっしょになにかをやれるだろうか。だとしたら、いま繋いでいる手をいったいいつまで離さないでいられるだろうか。
このまま、離したくない!
涙を浮かべたままのなさけない顔を上げると、彼女がふわりと微笑むのが見えた。オレンジ色の照り返しの中で笑ったアンはとても綺麗だった。
頬が熱かった。セドリックはまるで魔法をかけられたようにふわふわした気分の中にたたずんでいた。
(どうしよう…)
胸が高鳴った。
(僕は、アンが…、アンのことが好きなんだ)
セドリックはおそるおそるきり出した。
「あの…、僕がいないあいだ、げ、元気だった…?」
「元気だったよ。カートリッジは作れなかったけど、フツーにしてた。あんたのことなんかちっとも思い出さなかったわ」
彼は顔を強ばらせた。すると、アンがぺろっと舌を出した。
「うそ。本当は心配だった。あたしがいやなこと言ったからセドリックが出て行っちゃったのかと思って、ずっと後悔してた。それに、嫌われただろうって思った」
「どうして!?」
セドリックは大声をあげた。
「僕がアンを嫌いになるわけ、ないじゃないか!」
すると、アンはびっくりしたように顔を上げた。その驚いた顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「あ、あの…、あの日の朝、セドリックに、あたしの胸見られたじゃない…」
「あ、う、うん…」
セドリックもつられて赤くなった。
「胸に傷があるし…、それで…、そんな傷のある子なんて嫌かなって思って…」
「傷なんて関係ないよ! 僕は気にしない。そんなの普通にしてれば見えないんだし、見えるときだって…、あの…」
「見えるときって…、ええ…っと…」
アンが胸を隠す仕草をしたので、彼はあわてて言葉を取り繕った。
「あ、ち、ちがうんだ。そうじゃなくて僕はバロットさんの言うことなんて気にしてなくって、血系保存とかじゃなくても僕は属性なんか気にしないし、アンと子供を作りたいなんてまだ思ってないし、それに…」
「子供!?」
「あ、じゃない。ち、違うんだ。それはバロットさんが言ってただけで。アンが大切だけど、それは子供を作りたいとかじゃなくって、い、いや。いつかそういうことになればいいなって思うけど、いますぐじゃなくって…」
自分でも支離滅裂なことを口走っているのがわかって、セドリックはますます混乱した。
(僕はいったいなにを言ってるんだ!?)
胸の傷とか子供とかそうじゃない。もっと肝心なことがあるだろう。アンに伝えなければいけない大切なことがあるじゃないか!
大切なこと、それはつまり…
「アン…、あ、あの…、僕…」
そのときセドリックはまさに、一世一代の弾丸を込めた銃の引き金に、指をかけたも同然だった。
彼は、こめかみに大変な汗をかきながら言った。
「ぼ、僕は、君が――」
出てこない、肝心な言葉がなかなか込み上げてこない。あともうちょっとだというのに最後の最後で薬莢《ゆうき》に火がつかない。
(言うんだ。言え、セドリック! 好きだって。君のことが、好きだって…)
土を踏みしめて、まっすぐに立って、はっきりと顔を上げて正々堂々と、僕の言葉がまちがいなく彼女の胸を射抜くように!
「君のことを…」
セドリックは思いっきり息を吸って、それから吐いた。
「…大切な仲間だと…思ってる…から……」
言えなかった。
セドリックはがっくりと肩を落とした。
(ああっ、なんで言えないんだ、僕のばか、いくじなし!)
あまりの情けなさに涙が出そうになる。
喉のすぐそこまで言葉は出かかっていたのだ。けれど、それを越えてあふれ出してくる気持ちを言葉にしようとするには、セドリックにはまだまだ覚悟が足りなかった。
それでも、アンブローシアは微笑んだようだった。
「ありがとう」
彼がいくじのない自分を心の中で激しく罵倒しているうちに、アンが別のことを言った。
「ねえ、あれ、アイスクリーム屋だよ」
アンブローシアがふいに手押し車を指さした。それはたしかに、まだ都会でもあまり多くはないという冷蔵可能なアイスボックスだった。あれには内側に亜鉛がぬってあって、外側は断熱のためにフェルトが張られているのである。
「買ってこようか」
「えっ」
「あの…、せめてものお詫びに。ほ、本当は女の子はレースのハンカチとか、そういうほうがいいんだろうけれど…」
女はみんなレースや花が好きだ、そうバロットが言っていたことを思い出したのだったが、アンは首を振った。
「レースなんていらないよ。アイスクリームがいい。あれおいしいの。もうずいぶん食べてないけど…」
「じゃあ、買ってくるよ!」
セドリックはまだ五銅貨《ドラ》ほどポケットにあったことを思い出して言った。
「ちょっと行ってくるから、ここで待ってて」
アンもまたうれしそうに頷いた。
セドリックは大通りのほうへいってしまったアイスクリーム屋を追って走り始めた。石畳を蹴る靴音が、まるでタップを踏んでいるように快く聞こえた。
†
セドリックの背中と影が夕焼けの中に溶けていくと、アンは通りに目を戻した。
彼を見送ったときの笑顔はもう顔にはなかった。
きつく厳しい顔をして彼女は言った。
「だれ、そこにいるのはだれなの。出てきなさい」
つけられていることに気づいたのは、通りの途中で煉瓦くずを売る少年を見かけたときだった。あきらかにそんなものを必要としない風の中年の男たちがそれを買っていた。煉瓦のくずはナイフなどを磨くのに使われるため、お屋敷で働くナイフボーイの少年が買いにくることが多いのだ。
あれは、アンの目をごまかすためだろう。
つなぎ長屋と長屋の間にある人ひとりがやっと通れるくらいの路地から、フードつきのマントをつけた男が三人姿を現した。彼らがフードをとると、アンは信じられないというように目を見開いた。
「まさか師…、タリマイン導師ではありませんか!」
アンは驚いて駆け寄った。
彼らはおもむろにアンの前に跪いた。
「無礼は重々承知しております。が、どうか心をメルメットの水のように穏やかにしてお聞きください。殿下、われわれは殿下にお願いがあってまいったのです」
「お願い、ですって…?」
導師たちの中でいちばん年老いたベルナヒム師が、アンを見上げて言った。
「われわれは長らく祖国を離れ、憎きスラファトに一矢報いるために活動を続けてまいりました。われわれの同士たち、また勇敢なるエカード=シーバリーたちの活躍によって、月海王国もスラファトもわれわれのことを無視できなくなりつつあります。
しかし、長きにわたるガリアン人の北方への連行、ガリアン人というだけでの重い徴税によって人々は疲れ、運良く国を離れてわれわれに力を貸してくれていた同士たちもだんだんと少なくなってきているのです」
「少なくなってきている? それは、スラファトに寝返ったということですか?」
「いいえ殿下。みな病んで先に御国へ旅立ってしまったのです」
アンブローシアは息を呑んだ。そんなアンの前に、今度はタリマインが進み出た。
「アン殿下、われわれ導師一派は先頃より、各地に急襲を続けるエカードたち過激派とはたもとを分かち、竜王アスコリド・ミトと密かに交渉を続けてまいりました」
アンは驚いて後ずさった。
「なんですって!」
「竜王は和睦にひとつの可能性をわれわれに提示しました。アンブローシア=ドミ=ガリアンルード=エドナ=イライザ=エンプローシャ殿下。あなたさまをぜひスラファト竜王の妃にお迎えできないか、ということです」
「な……」
思いもしないことを言い掛けられて、アンは絶句した。
「ふ、ふざけないで。どうしてわたくしが! …それに、そのようにスラファトに服従するがごとき態度は、わが祖国で堪え忍ぶ人々への裏切りではありませんか!」
「いいえ、いいえ王女殿下」
タリマインの右側に跪いていた導師マクシャリーが言った。
「スラファトに抵抗することに疲れ果て、故郷に戻りたいと願う人々の数は決して少なくはないのです。みな祖国の土になりたいと考えておるのです。もちろん、ここにいるわれわれも…」
アンは無茶苦茶に首を振った。
「そんな…。そのためにわたくしに、あの竜王の元へ嫁げというのですか。お父さまの首をかききり、母に自死さえ許さずに辱めたあの憎き敵のなぐさみものになれというのですか!!」
アンは無意識のうちに胸をおさえていた。息が苦しかったわけではない、竜王につけられた胸の傷が開いたかと思われるくらい痛かった。
彼女の悲痛な声に、タリマインは深々と頭を下げて、それでもこう述べた。
「北の戦線は拡大の予感をみせ始め、スラファトはわれわれのような存在にかまかけてはいられなくなったのです。それは、いまスラファトが譲歩をちらつかせていることにも窺えます。竜王はあなたさまを正妃に迎えることができれば、あなたさまをもってガリアンルードの総督に任命すると約束してくれました。それは、あなたさまがガリアンルードにいまよりも豊かな生活をもたらすひとつの方法でもあるのです。そうして、ほかのだれでもない、あなたさまにしかできぬこと」
「わたくしが、ガリアンルードの総督に…?」
「そうです。あなたさまが祖国をいまひとたび率いてくだされば、祖国で苦しみに耐える者たちにとってどれほどの灯火になるでしょう」
「殿下」
「殿下、どうか!」
彼女は改めて目の前にいる三人の老人を眺めた。
三人の導師は、最後に見かけたときよりみなずいぶんと老いて、ともすれば物乞いにみられかねないようなみすぼらしい格好をしていた。
アンは怒りよりも哀れみが、そして寂しさよりもいままで祖国を支えてきてくれたタリマインのような者たちをこんな敵国のかたすみで死なせてしまう自分への腹立たしさが胸に湧き起こってくるのを感じた。
彼らの想いは当然だろう。彼らはガリアンルードで生まれ、ガリアンルードのために生きた。その彼らがガリアンルードの土になれないのは、すべて王族であるアンの責任だ。ふがいのない自分の責任だ。
そして、アンはすでに自分がやらねばらなぬことを知っていたのだった。
「少し…、時間をくれませんか。頭が混乱して…。きっとそう長くはかかりませんから」
アンが額をおさえてそう言うと、タリマインたちは立ち上がった。
彼らはアンに向かって最敬礼をとった。
「王女殿下の英明なご決断をお待ち申し上げております。祖国の土と風の祝福を」
ほかの導師たちも同じように祝福を、と唱えて、夜が追いかけてきた方角へ薄闇に紛れて消えていった。
いつのまにかその石畳の上は閑散として、すこし冷たい風が通りを猫のようなすばしっこさで駆け抜けていく。
アンはしばらく自分の影をじっと見つめていた。
すると、後ろから声がかかった。
「アン」
アンブローシアは振り返った。
セドリックが、両手にアイスクリームを持って立っていた。いま都で流行っているというオレンジの皮にアイスをつめたもので、少し食べにくいのが難点だとだれかが言っていた…
「お待たせ、もうお店がしまりかけで、これひとつしか残ってなくて…」
そのセドリックの顔があんまりまぶしくて、アンは彼のそばへ駆け寄った。
「だから、これはアンがぜんぶ食べてもいい…、うわっ!」
そばに行くだけのつもりだったのに、間近に顔を見てしまうともうだめだった。アンは無意識のうちにセドリックに抱きついていた。
彼の手の中からアイスクリームがこぼれて、でこぼこと浮いた石畳の上に転がった。
アンはセドリックの顔をすぐそばで見つめた。それから驚いた表情をした彼の顔に顔を近づけた。
唇が――、そっと触れあって、離れた。
「ごめんね…」
目の前にいるはずのセドリックの顔が、どうしてだかぼやけて見えた。
「あたしばっかり、いっしょうけんめいで、ごめん…」
アンが身を離すと、セドリックはさらに驚いた顔をした。だが、彼の口が新たな言葉を紡ぎ出す前に、アンは逆の方向に向かって走り出していた。
「アン!」
セドリックが自分を呼ぶ声が聞こえる。
「アン、待ってよ!!」
彼が追いかけてくる足音が聞こえた。アンは必至で彼から逃れようと、レニンストンの大通りの終着点でもあるアシュマリン広場に飛び出した。
そのとき、アンの頭上に紙吹雪が舞った。
「号外号外! わが月海王国最高議会が、ついに戦争への参戦を決議したよ。号外!!」
それは、レニンストンの地方新聞が、月海王国が暁帝国とスラファトの戦争に介入したことを告げる号外だった。
人々は血相を変えて新聞を買い求め、新聞売りの前掛けはあっというまに一銅貨でいっぱいになっていく。
(月海王国が、参戦する――)
これだ、とアンは思った。
スラファトは月海王国参入を機に、本格的に戦線を拡大させるつもりでいる。だからこそ、ガリアンルードの残党たちにゲリラ活動をされることを、また彼らがむやみに帝国側について動き回られることを恐れたのだ。
そのために、アンを人質としてとっておくことにした――
彼女はくっと笑った。
「あたしは、またバスルを着るんだわ」
もう二度と着ないと誓ったのに…。
ぎゅうぎゅうに身を締め付けて、息もできないような生活がまた始まる。
あのコルセットはセドリックへの想いまで閉じ込めてくれるのかしら…。そうだといい。
アンはそう思った。
『君は僕が守りたかったんだ。ほかのだれでもない僕が』
「ねえ、あたしを追ってきてくれる、セドリック…?」
アンブローシアはそっと唇に指で触れた。
唇の上に、大粒でしょっぱいものがしたたり落ちた。
アンは顔を覆い隠して、その場にしゃがみ込んだ。
「うっ…、うえっ…、えっえっ……っ…」
アンは泣いた。
自分はこんなにもセドリックのことが好きだったのだと思い知らされたようで、アンは広場の片隅でひっそりと涙を流し続けた。
「開戦だ!!」
「開戦だ!!」
「いまこそ、この月海王国が太陽帝国の真の継承者であることを証明するときだ!」
人々は口々にさけぶ。戦争が彼らに新たな富をもたらすことを信じて。
「鉄道を敷け!」
「レールを延ばせ!」
「帝国中に王国製のレールを敷き詰めろ!」
開戦の報はレニンストンの人々の投資熱に火をつけた。気の早いものは、その足で鉄道株を買いに行くものもいる。彼らは異口同音に叫び続ける。石炭を運べ、兵隊を運べ。レールを延ばせ。戦場へと届くように!
人々は、まるでお祭り騒ぎのようにみな急にもたらされたニュースのことで沸いている。その中に、小さな小さな泣き声が混じっていたとしても、だれも気づかなかっただろう。
そしてアンブローシアの姿は、いつしか狂乱する人混みの中に紛れて見えなくなった。
セドリックがアンの覚悟を知るのは、これから少しあとのことになる――
FIN
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こんにちは。高殿です。銃姫でお会いできましたね。にこにこ。銃なんでね。乳じゃありませんので。そこんとこすごくすごく大事なんで。売れなくなったらブラジャーのワイヤーで敵をやっつけるJカップのお嬢さんズの話『爆乳戦隊ブラジャー5』を書こうと思っていますが、今回はあくまで銃でお願いします。
「やっぱ乳の話なんじゃん!?」
…まあそれはさておき、『銃姫』も無事二巻を出すことができました。だいたいのお話の長さは伝えてあるものの、売れなくなったら即行打ち切りのこの世の中、やはり二巻を出すのもそう簡単ではありませんです。一巻を買ってくださった皆さまありがとうございます。
あんまりにもうれしかったので、わたくし編集長さまと担当さまに「次は眼鏡っこと爆乳ヘソ出しっこも出しますよ!」と宣言いたしました。やはりサービス精神というものは大事です。それに、わたくしこれでも義理堅い昭和生まれの人間でございます。
今回、ちゃんと約束どおり新キャラをふたり出しましたです。
M編集長さまは新キャラの眼鏡っこをそれはそれは楽しみにしておられました。できあがってきた拙作を、きっと大好物のケーキなどを口に運ばれながらお読みになられたのでございましょう。
ところが! 拙作をお読みになったM編集長さまは思わず「騙されたぽ!」と叫ばれました。(綴じ込みカラー口絵裏参照)
(右から爆乳ヘソ出し・オウムだけが友達・眼鏡っこ)
「眼鏡っ娘ちゃうやん!」
…編集長さまのお怒りを聞いて、わたくし呆然といたしました。わたくし、ちゃあんと「眼鏡っこ」と申し上げたはずでございます。「眼鏡っ娘」などとは一度も申し上げてはおりませんです。つーか、オールバック軍服眼鏡は基本ですがわたしが燃えるんですよ男の眼鏡はロマンなんじゃなんか文句あんのかコラ!!(ごめんなさい言い過ぎました)
ヘソ出し爆乳も同様の理由でございます。…が、あまりにもM編集長さまがうちひしがれておられるので、次…次こそは必ず!(親指を立てながら)
まあそんなことはさておき、今回もたくさんの方にお世話になりました。とくにエナミさんは、毎度のことながら「ぼばんと爆乳で」「眼鏡は銀ぶち以外はありえない」などと訳のわからない指定を入れられて大変気の毒です。…すみません。
この次こそは本物の眼鏡っ娘(←懲りてない)でお会いいたしましょう。
最近は太ももも好き 高殿円
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