バルビザンデ ―暁の宝石姫―
高殿円
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)人間《ヒリス》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|暁の姫《バルビザンデ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)星持ち[#「星持ち」に傍点]
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[#挿絵(バルビザンデg1.jpg)]
[#挿絵(バルビザンデg2.jpg)]
[#挿絵(バルビザンデg3.jpg)]
|暁の姫《バルビザンデ》
ぼくの子孫がきみを愛する――
「人間《ヒリス》は ばかばっかりじゃ」
[#ここから1字下げ]
パルメニア王家を守護する|宝石の精霊《バルビザンデ》
その初めてで永遠の、恋のおはなし……
[#ここで字下げ終わり]
バルビザンデ ―暁の宝石姫―
[#地から1字上げ]著/高殿円《Madoka Takadono》
[#地から1字上げ]イラスト/椋本夏夜《Kaya Kuramoto》
[#改ページ]
昔話をしようか。
――そう、そなたが生まれる遥《はる》か昔、まだ人間《ヒリス》が神の名を忘れる前の、夢だとか希望だとかが、はかないものの代名詞のように語られる以前の話だ。
ある日、一人の人間が、死んだ。
――ごめんね。
そう、素っ気なくつぶやいて、永遠にわらわの前から去っていった。
わらわは、そのときのことを、昨日のように思い出すことができる。
ああ、忘れもしまい。あの日は朝から日は陰《かげ》り、世界は分厚い雲に閉ざされたまま、穴蔵の中の傷ついた獣《けもの》のように、じっと息をひそめていた。
――いいや、もしかしたら晴れていたかもしれぬ。淵《ふち》の水は身丈《みたけ》以上に透《す》きとおり、花の香《かお》りは風に溶け、日は土の上に燦々《さんさん》と降りそそいでいたかもしれぬ。
けれども、わらわは絶望していた。
わらわは、オリガロッドを愛していた――
人は短い生を生きるいきものだが、彼の生はその半分ほどもないものだった。
彼はばかものだった。わらわの言うことなど、ちいとも聞いてくれはしなかった。ただ黙《だま》って静かに微笑《ほほえ》むだけだった。たとえば、もし自分が死ぬのなら、花の季節がいいと笑った。
――場所だって?
妙《みょう》なことを聞く。
いまは、もうない部屋《へや》だよ。エリシオンが――彼の伴侶《はんりょ》が、誰《だれ》も踏《ふ》み入れさせぬと、扉《とびら》を塗《ぬ》り込《こ》めてしまったからね。
その部屋の、びろうどの垂れかかった寝台《しんだい》の上に、彼は上体を起こして座っていた。
わらわは泣いた。わらわはそのとき、ほんの三百歳ほどで――けれど、死だけが、人の上に平等に与《あた》えられた運命であることを知っていたから。
「ぼくが死んでいくことを、哀《かな》しまないで」
わらわがあんまり泣くからであろ、彼は顔を透きとおらせてこう言った。
「ぼくが、この短い生の中で、たったひとつだけ、大きな発見をしたのなら、それはすばらしい人生の生き方だ。ヴィヴィ。
かけがえのない約束をする。そしてそれを守ろうと努力をすることだ。
さあ、きみもぼくと、約束をして――」
「いやじゃ!」
わらわはそう言ってつっぱねた。
すばらしい人生?
そんなもの、あり得ようはずがない。
(だって、おまえがいない)
おまえが、いない――
……そう怪訝《けげん》そうな顔をするでない。むつかしい話をしようとしているわけではないのだ。簡単なことだ。たとえば、お日さまがなくなるということだ。唯一《ゆいいつ》のものを、なくすということだ。
暗闇《くらやみ》を怖《おそ》れるものたちよ。わらわもまた、そなたたちのように、迫《せま》り来る暗黒を前にうちふるえておったのだよ。
彼は、シーツの上に手をついて、じっとわらわを見つめた。
「ぼくの子孫がきみを愛する」
と、彼は言った。
わらわは呆然《ぼうぜん》と彼を見た。その顔に、濃《こ》い疲労《ひろう》が浮《う》き出ていた。
わらわには、わかっていた。オリガロッドの命は、目尻《めじり》に溜《た》まった涙《なみだ》のように、ほんのすこし瞬《まばた》きをするだけで、こぼれて消えてしまうだろう。
「ぼくの血がこの世界から尽きるまで、その最後の一滴《いってき》まで、ぼくがきみを愛する。ぼくの子が、孫が、かわらずきみを愛し、かわらぬ敬意をもってきみを抱擁《ほうよう》するだろう」
不思議なことを、彼は言った。
しかしわらわにはよくわからなかった。ただ、いつもにもまして張りつめた彼の表情が、ふっとゆるむのを期待して、頷《うなず》いた。
「約束しよう。おまえの血がこの世界から消えてなくなるまで、おまえの血に連なるものに、祝福を……」
そう言うと、彼は安心したように笑い、しばらくしてシーツの上に横顔を押《お》しつけた。
その顔も、指も、彼女を一喜一憂させた言葉も、いまではすべてが伝説になった。
『ぼくが、きみを大好きだということを、忘れないで』
そう言って笑った顔を、わらわは今でも、昨日のように思い出すことができるよ。
『ヴィヴィ』
緑なす黒髪《くろかみ》の、美しいわらわの主《アーリエ》――
彼は、うそつきだった。
二番目に
ほんとうなら、そう付け加えるべきだったのだ。
あのとき、彼の命はもうあとわずかだった。わらわは早々に、この場を譲《ゆず》りわたさなければならなかった。死にゆくものが生き続けるものに別れを告げるために、残された時間はあまりにも少なかった。
わらわはその場をそっとはなれた。
それを知ったように、一人の男が入室してきた。
その顔は、これまでにないほど絶望と悲哀《ひあい》にふちどられていた。少なくともわらわは、その男がそんなに悲しむ様子を見たことがなかった。
男はふと、足元にちらばったダイヤモンドを拾い上げた。
手のひらに転がして、わざと素っ気ない口調で言った。
「オリガロッド、
バルビザンデが、泣いていますよ――」
「なんだか、不思議ですわ」
アンナマリアという名の少女は、テーブルの上に頬杖《ほおづえ》をついて言った。
「こうやって、誰かの口から、何百年も前の、それこそ神話の中に出てくるような方々のお話を聞くなんて」
「なにも、不思議なことなどあるものか」
バルビザンデは、蝋《ろう》のような指を口元に当てて憮然《ぶぜん》とした。
「そなたが話せというから話したのじゃ。わらわの本意ではない」
「だって、退屈《たいくつ》なんですもの」
そう言って、少女は椅子《いす》の下で足をぶらぶらさせた。その椅子も、テーブルも、よく見れば、平らな傘《かさ》をした巨大《きょだい》なキノコであることがわかる。
ここは、神々の|踊り場《ティンターティータ》、世界と世界をつなぐ階《きざはし》の途中《とちゅう》にある、足やすめの場所だ。
その階段を、うっかり踏み外してしまった少女は、膝《ひざ》の上に手を置いて、何度めかのため息を吐《つ》いた。
「わたくしは、いつになったらあの世界に戻《もど》れるのかしら」
彼女がバランスを崩《くず》して後ろに倒《たお》れると、そばに生えていたプラムプロムの樹がそっと枝を伸《の》ばしてきて、背中を受け止める。
「さあのう……」
と、バルビザンデの返事は、そっけない。
テーブルの上には、二枚貝の半分を使った浅めのカップが置かれていた。中は、いろいろな花の花びらが、泡《あわ》のようにこんもりとしている。
「そなたのように、階段から落ちるものはたまにいる。そう焦《あせ》らなくても、そのうち時が満ちるであろ」
言って、バルビザンデは、手長鳥の尾羽《おばね》でカップの中をかき混ぜた。
そうすると、不思議なことに、中の花びらが虹色《にじいろ》の液体に変わった。
少女は、上目|遣《づか》いに言った。
「ねえ、バルビザンデ…でしたかしら」
「よびすてにするでない」
まるで、しっぽを踏まれた猫《ねこ》のような反応をするので、アンナマリアはあわてて言い直した。
「じゃあ、ヴィヴィ」
「それもいやじゃ」
つん、とあごを尖《とが》らせたバルビザンデに、思わず苦笑する。
「まるで子供みたい。
とてもじゃないけどダイヤモンドの精霊には見えませんわ」
建国の英雄の守護者。
あまたの星々の長たる、暁の王。
彼女を意味する形容詞はどれもこれも仰々しい。
無言のまま、バルビザンデは胸元にかかる蜂蜜《はちみつ》色の髪をもてあそんだ。
アンナマリアは言った。
「じゃあ、もう少し昔話をしましょうよ。
どうしてオリガロッド様とそんな約束をしたの?」
「どうしてか、じゃと?」
バルビザンデは、怪訝そうに視線だけを持ち上げた。
『おまえの血がこの世界から消えてなくなるまで、おまえの血に連なるものに、祝福を……』
ほんとうは、あの約束も、オリガロッドを安心させるためにすぎなかった。
だが、それから数百年がたち、彼を知るものがこの世から消え去ったあとで、バルビザンデはふと思うのだ。
あの約束は彼のためではない。自分のためではなかったか、と……
「ねえ、オリガロッドさまは、どんな方でしたの?」
アンナマリアが、興味|津々《しんしん》といった顔でバルビザンデの目をのぞき込んだ。
「この神聖パルメニア王国の始祖陛下、建国の英雄ですもの。きっと勇ましく雄々《おお》しくあられたでしょうね」
胸元に手を組んでうっとりと息を吐いたアンナマリアに、
「とんでもない!」
たたみかけるように、バルビザンデは言った。
「勇ましいなどと、あやつのどこをひっくり返してもそんな言葉はでてこないであろな。
あやつは、まれに見る甘《あま》ったれでいくじなしで、どうしようもない泣き虫じゃった……」
「泣き虫ですって!?」
「そうとも」
得意げに、彼女は言った。
「……だって、英雄詩《リュート》には……」
疑わしげなアンナマリアに、わざとらしく咳払《せきばら》いをする。
「しかたがない、話してやろう。ここでのことは、そなたはどうせ忘れるであろ。
そもそも、あやつは、そなたたちとは存在そのものがすこぉし違う」
「違う?」
バルビザンデは、頷《うなず》いた。
「そう……
オリガロッドは、
……人間《ひと》では、なかったのだ」
今の世の中には、二種類の人間しか居ない。これがいわゆる性別というやつで、人はたいてい男性か女性のどちらかの体を持って生まれてくる。
だが、ごくたまに、性別をはっきりさせないまま生まれてくるものがある。そのようなものたちを、ヘスペリアンというのだ。
オリガロッドは、この|性別を持たないもの《ヘ ス ペ リ ア ン》だった。
バルビザンデは、視線を浮かせて、遥か遠い昔に想《おも》いを馳《は》せた。彼女が覚えている昔には、もっと違った種類の人間達がたくさんいた。額に貝を宿しているカリス族や、一つの魂《たましい》に二つの肉体を持つエーメンタール族、成体になると翼《つばさ》を産むことができるダードリアンたち…
あのころ、世界はもっと多種多様な種族にあふれ、そして今と同じように、それぞれの繁殖場を巡《めぐ》って争いが絶えなかった。
「そもそもヘスペリアンは、人の腹から生まれては来るが、人ではない」
子供に足し算を教える教師のような顔つきで、バルビザンデは言った。
「どちらかというと、我々に近い存在じゃな」
「精霊に?」
「そう、我々精霊は、なにかに宿ることによって、この不安定な世界で形を保っている。
簡単に言うと、命の核《かく》と呼ばれるものが、風や、樹や、力のあるものに宿るのじゃ。そうして、我々が生まれる。
ヘスペリアンは、その命の核が、たまたま人の腹の中に宿ったもの……」
ゆえに、ヘスペリアンは、生殖能力を持たないかわりに、さまざまな特殊《とくしゅ》能力を備えていることが多い。
「………なんとも、不思議なお話ですわ」
アンナマリアは、ぽかんと、口を鶏《にわとり》の卵の形に開いた。
「じゃ、じゃあ、オリガロッド陛下は、その……、精霊《リリアンシール》だったということ?」
「まあ、そういうことじゃな」
「信じられませんわ……」
アンナマリアは、テーブルの上に両手をついて、身を乗り出した。
「だって、だってわたくし、オリガロッド陛下の絵姿を、コッパレナ男爵夫人のサロンで見ましたわ。
右肩《みぎかた》に白い鷹《たか》の羽を付けた、それは凜凜《りり》しいお姿でいらして――」
「そんなものは、後世の画家が勝手に描《か》いたものであろ。わらわの知っているオリガロッドは、鷹の羽どころか服すら着ていないことが多かったぞ」
「な、なんですって」
アンナマリアは、頬を挟《はさ》んで雄叫《おたけ》びをあげた。
「ふ、服を着ていないって、そんな、そんないやですわ。
そーゆーのって、とっても覗《のぞ》いてみたくなる気持ちはわかりますけれど、わたくしには、やっぱりやっぱり、少し刺激《しげき》が強すぎますわ。やーんですわ」
「想像力がたくましいのう、そなた……」
彼女がなにを想像したのか、手に取るように判《わか》って、バルビザンデはちょっと引いてしまった。
「それでなくとも、肉の体は重いからの。服を着ていたくない気持ちもわかる。
我々は、触《ふ》れることによって、いろいろなものから力を取り込んでいる。服などはむしろ、じゃまでしかないのじゃ」
事実、オリガロッドも、いつまでたっても人としての生活になじめず、ことあるごとにエリシオンに怒鳴《どな》られていた。
「そうじゃ、あの日も――」
バルビザンデは、ふっと目を細めて、なにもない遠くを見つめた。
こうしていると、あれから五〇〇年もの時が過ぎたのが、嘘のように思えてくる。
――あの日も、オリガロッドは、なにか物のようにベッドに放られていた。
「ちゃんと、服を着なさい!」
起きあがったオリガロッドの上に、ばさばさと服が投げられる。
「あんたはもう精霊じゃない。人間なんだ。ちゃんと服を着て、毎日食事をするんです。
毎日!」
そう言って、エリシオンは、一方的に彼を怒鳴りつけた。
「いいですか、早くそれを着て三角旗の立っている天幕まで来るんです。日が暮れる前に陣《じん》を敷《し》いたのは、いったい何のためだったと思っているんですか。みんな貴方《あなた》が来るのを待ちくたびれているんですよ」
オリガロッドの頭の上にさんざん唾《つは》を飛ばして、エリシオンは天幕を出て行った。
「……やれやれ」
オリガロッドは、背中を丸めて床《ゆか》に座り込んだ。
たくさんの紐《ひも》やいろいろな模様の織り込んである布をつまみ上げてはため息をつく。
どうやら彼は、本気で服の着方がわからないらしい。
「また、エリィにしかられてしまった…」
バルビザンデは、柱の陰からそっとぬけだして、彼のそばに座った。
「あんなやつのことなど、放っておけばよいのじゃ」
サーコウトをかぶって、頭が出ずにばたばたしている彼を尻目に、彼女はエリシオンへの苛立《いらだ》ちをぶちまけた。
「そなたが、わざわざあやつのために働くいわれはない。そなたは、人ではないのだから」
「けど、エリィは人間だっていうよ」
水からあがったときのように、ぷはっと息をしながら頭を抜《ぬ》く。
「だから、この王国を作るために、ぼくに矢面《やおもて》に立てって」
「ばかな!」
バルビザンデは、きょとんとしているオリガロッドの頬を両手で挟んだ。
「ばかなオリガ。自分が人間かそうでないかぐらい、自分自身で判断がつくであろ。
そなたがこうして服を着るのを嫌《いや》がるのはなぜじゃ。いつまでたっても、肉が食べられないのはなぜじゃ」
「エリィも、肉はあまり好きではないって…」
「それは、あやつが元神官だからじゃ。そなたのように、根本的に体が受け付けないのとは訳が違う」
エリシオンは、オリガロッドが不可思議な行動をとるのを嫌《きら》った。彼が花を食べるのを嫌がり、芝《しば》の上で寝《ね》ているのを見つけると、引きずってでも連れていって寝台で寝かせた。
「そなた、もう何日も花を食べていないではないか」
やせ細った主の手首を手のひらで包んで、バルビザンデはほろほろと泣いた。
精霊は、花《フロリアン》を食べる。たいていの花が開くとき、香りとともにロクマリアという成分が大気中《エリステル》に放出される。これはふつう目には見えないが、精霊達にとっては大事な糧《かて》である。
花の香りを楽しむこと、それが精霊達の食事だ。オリガロッドに肉を食べさせることは、苦痛にしかならない。
服もだ。
ただでさえ重い肉の体に、あのように布をかぶせてしまっては、さぞかしオリガロッドは動きにくいだろう。
(何も分かってはいないくせに)
バルビザンデはキュッと下唇を噛《か》んだ。
あの愚《おろ》かな人間め、自分のしていることが彼を弱らせるだけだということが、なぜわからない。
「そなたは利用されておるのだ」
エリシオンの元へ向かおうとする彼に、バルビザンデは急いで取りすがった。
彼女は、エリシオンが、これから大きな戦《いくさ》を仕掛《しか》けようとしていることを知っていた。
「あやつは、この戦に勝つことしか考えておらぬ。そなたの読心術を、いいように利用しようとしているだけじゃ」
「知ってる」
静かな表情で、オリガロッドは笑った。
「オリガ…」
「エリィがぼくを利用しようとしていることも、そのためだけにぼくをこの国の王にしようとしていることも、知ってるよ」
「なら、どうして…」
「どうしてかなあ…」
オリガロッドは、不器用な手つきで靴《くつ》ひもを結ぶと、
「不思議と、出会ったときからそうだったんだ。ぼくは、なにひとつエリィに逆らえない。彼の考えていることだけが、ぼくには読めないんだ。
こんなことは、はじめてだったから、ぼくはエリィだけ、口に出して言ってもらうことがすべてだと思うようになった」
彼が戸口の布をめくりあげると、やわやわとした夕日が天幕の中に差し込んできた。憂《うれ》い顔の横顔が、鈍色《にびいろ》の光の中に溶けて、バルビザンデは、そのまま彼が消えてしまうかと思った。
「エリィだけなんだ」
と、彼は言った。
エリシオンの元へ向かおうとする背中と、そして自分からためらいもなく離れていこうとする背中と、バルビザンデは二つの背中を同時に見送った。
「……ばかものめが」
彼女は、独語した。
あるはずのない胸の奥が、苦しかった。
バルビザンデがオリガロッドを探して歩いていると、ちょうどこの間、クフララ(聖なる獣《けもの》、巨大なネズミに似ている)に押しつぶされて大変な目に遭っていたアルマナル=セリーが、幕屋から出てくるところだった。
バルビザンデは、会議が終わったのだろうと思い、そろそろと幕屋の中に入った。
中は不気味に静まりかえっていた。
「なんとなーく、いやな雰囲気じゃな」
そう、ひとりごちる。
案の定、そこには悪鬼のような形相のエリシオンと、半泣きのオリガロッドが、いつもと同じような会話を繰り返していた。
「甘ったれるのもいいかげんになさい」
オリガロッドを叱るときの常套句《じょうとうく》を、エリシオンは早々に持ち出してきた。
「あなたは、この戦がいったいどういう意味をもつのか、まだわかっていないんですか。
今は、エオンの民が、あのタルヘミタ民族の奴隷《どれい》に成り下がるか否《いな》かの瀬戸際《せとぎわ》なんですよ」
オリガロッドは、首をつつかれた亀《かめ》のようにひっこめて、黙ってうつむくだけだ。
エリシオンはさらに言った。
「この戦で負ければ、遠からずヒルステンの民は捕《と》らえられ、奴隷として天空城《ファヒタンスーフ》に送られるでしょう。貴方は彼らを、見殺しにするつもりですか」
「見殺しになんか、しない!」
「いいえ、するも同然です」
エリシオンの漆黒《しっこく》の瞳が、一点も曇りもなく彼を見つめた。
「貴方にはそれだけの力がある。このバラバラになったエオンの民をまとめ上げ、ひとつの強大な国としてたちあげる、それだけの力が。
それを今出し惜《お》しみするのは、見殺しにするのと何ら変わりはない。あなたが殺したも同然です」
「………っっ」
エリシオンは、逃げようとするオリガロッドの手首を掴《つか》みあげた。
「エリィっ!?」
「さあ、さっきわたしが言ったとおり、皇王の意識を読みなさい。彼に意識を同調させて、彼がいつ進軍を開始するつもりか、四万もの兵をどう動かすつもりなのか、わかることはすべてわたしに教えるんです」
「そんなことはできないよ!」
オリガロッドは、悲鳴のような声を上げた。
彼は、両方の腕で顔を必死に隠《かく》そうとした。
「だって、彼はぼくを憎んでる。心の中は、ぼくへの憎悪《ぞうお》で溢《あふ》れかえっている!」
「あたりまえでしょう」
冷や水にしては、冷たすぎる言葉を、エリシオンは吐いた。
「あなたは、先の戦いで二〇万の市民を救ったかもしれないが、いいかえればそれは、タルヘミタ軍三万の兵士の命を奪ったということです。彼が、あなたを憎むのは、タルヘミタの王として当然のことだ」
「ち…が……」
「あなたのことは、エシェロンでは悪魔《あくま》のように言われ、戦いで死んだ何万もの兵士の母親が、毎日のようにあなたの死を神に祈《いの》っていることでしょう。
エシェロンの民はカリスの末裔《まつえい》だ。額に聖なる貝をもたないわれわれは、彼らより下賤《げせん》で支配されるべき下等な人種だそうですからね」
オリガロッドは、ゆっくりと首を振った。
「そんな……、
ぼくは、彼らを憎んだことなんか…ないよ……」
瞬きを忘れて乾ききった目から、じわりと熱いものがにじんだ。
「だれも、憎んだことなんかっ」
「オリガ!」
「エリィにはわからないよ! 自分を憎んでいる人間と、意識を同調させることが、どんなに辛《つら》いか」
オリガロッドは、声を尖らせて泣き喚《わめ》いた。
「リンドラの森にいたころは、こんなことはなかった。だれもぼくを恨んでいなかったし、憎んでもいなかった。みんな、ぼくを愛してくれた。だから、……だからぼくは…」
「いい加減になさい!」
びくり、と肩が打ち震えた。
エリシオンは、苛立ちと、それとどこか悲しみを混ぜ合わせたような表情で、オリガロッドを見た。
「みんながあなたを愛してた?
――そうでしょうね、わたしがあなたをこの世に引っ張り出すまでは、たしかにあなたは人間ではなかった。人と交わらず、花を食べ昨日を忘れて、ありとあらゆる苦悩《くのう》から遠ざかって生きていた。
まるで、精霊のように」
オリガロッドの肩が、びくりと鳴った。
「あれが、幸せだというのなら、いくら探してもこの世に幸せなどありはしないでしょう。あんなものは、幸せでもなんでもない。ただの拒絶《きょぜつ》です。
人はいつまでも無垢《むく》な赤《あか》ん坊《ぼう》ではいられない。人の世の汚《きたな》さも醜《みにく》さも、すべて人との交わりによって知ることです。
たとえ、人との交わりが汚れることであっても、それこそが人の持つ強さだと、わたしは信じています」
わたしのいっていることが、わかりますか、とエリシオンは言った。
オリガロッドは、まだ荒い息をしながら、頷いた。
「なら、他人から寄せられる感情を、そんなふうに拒絶するのはおやめなさい。人に憎まれることを怖れて、どうやって生きていこうというのですか……
あなたは、もう人間なんだ。人から憎まれることも、恨《うら》まれることも……」
彼は、つい、と視線を外し、
「…愛されることだって、あるはずだ…」
そう、つぶやいた。
「それが、あたりまえなんです。
そうやって生きて行くんです。わたしも、あなたも……」
エリシオンは、ゆっくりと掴んでいた腕を放すと、その手首の細さに一瞬顔をしかめた。
だが、その顔もすぐに、いつもの無機質さを取り戻してしまう。
彼は、オリガロッドの肩の上に手をのせて言った。
「さあ、落ち着いて。息を楽にして、わたしのほうを見ていてください。
あなたを一人にはしない。ずっと、そばにいます」
ずっと肩で息をしていたオリガロッドが、ほんとうに? と視線だけで問うた。
エリシオンは、微笑《びしょう》を思わせる表情で頷いた。
「大丈夫です。
さあ、はじめてください。急がなければ、夜が明けてしまう」
二人は、手のひらを合わせて、ゆっくりと指を絡《から》ませた。
……やがて、オリガロッドの額に脂汗《あぶらあせ》が浮かび、つないでいる手の甲《こう》にいくつもの筋が走る。
「……あっ…」
尖ったあごをのけぞらせ、そうちいさく息を漏らした。
エリシオンは、いつもの無表情で彼を見つめている。
「こわ…い……」
「オリガ……」
「…怖い……こわいよう……
……どうして……」
目を見開いたまま、瞬きもせずに、
「……ぼくを、うらまないで」
薄い緑色の瞳に、赤い亀裂《きれつ》が広がる。
涙がどっとあふれてくる。
「……いやだ…、痛い……」
エリシオンの指の付け根に、オリガロッドの爪が深々と食い込んだ。
エリシオンは、表情をわずかにも変えなかった。
「うっ…ぁ…ぁぁぁ……」
苦しげに吐き出した息が、エリシオンの顔にかかる。
「……ひっ、あ――――」
悲鳴を上げようとしたオリガロッドの口を大きくふさいで、エリシオンは、彼の頭を自分の胸の中に抱き込んだ。
オリガロッドの背が、ばねのようにびくびくとしなる。
そのまま、オリガロッドが失神するまで、エリシオンは微動だにしなかった。
バルビザンデは、幕屋を後にした。
見ているのも辛《つら》い光景だった。
話の途中でむっつり黙り込んでしまったバルビザンデに、アンナマリアはおずおずと声をかけた。
「…それで?」
「えっ」
「お話は、途中だったでしょう?」
「ああ…」
バルビザンデは、長いまつげで縁《ふち》取られた目をぱちくりさせた。
「悪かったの…、
つい、懐《なつ》かしくて…」
アンナマリアは、黙って微笑んだ。
「それで、いったいどこまで話したかの?」
アンナマリアは、いつまでも冷めないお茶を不思議に思いながら、
「オリガロッドさまと交《か》わされたという、約束の話ですわ」
「約束…」
バルビザンデは、まだ夢見心地で言った。
「…そうじゃ、わらわは約束をした。あれが…オリガが、死ぬ前に」
ふいに、ぽつり、と金色の滴《しずく》がまぶたの下からこぼれ出た。
「ヴィ、ヴィヴィ…?」
驚いたアンナマリアが、彼女の顔をのぞき込んだ。
「最期《さいご》じゃったから、あやつの言うことは、なんでも叶《かな》えてやりたかった……
わらわは、もうずいぶんと前から、ヒルデグリムの扉が閉まれば、オリガロッドは生きてはいられないことを知っていた」
彼女は、恥《は》ずかしさを知らぬ子供のように、涙をどうどうと垂れ流した。
「…いっしょに、行こうといったのだ。わらわたちの眷属《けんぞく》は、みなこの世界を捨てて扉の向こう側へ旅立っていった。
百万の精霊が、彼を扉向こうへ誘《さそ》った。
けれど――」
オリガロッドは、承知しなかった。
「何故《なぜ》――」
「約束をしたからだ」
バルビザンデは、両手で口元を覆った。
「あやつは言ったのだ。生きていくことは、人と交わること。
約束は、その中でもっとも、尊いものだと――」
その日、バルビザンデは、いつものようにオリガロッドを探してふらふらと城の中を彷徨《さまよ》っていた。
ローレンシア地方南部から大陸の大緑海までにかけて、広大な面積を誇《ほこ》る王国が誕生してから、十年近くが経過していた。
都がローランドに置かれ、その発展とともに、街はレマンニャの川向こうにまで広がり、ローランドはまたたくまに内陸最大の都市となった。
一方、人口の増加に伴い、土地を切り開くものが増え、精霊たちのすみかである森が、次々に大陸から姿を消していった。川は汚水《おすい》によってよどみ、花は実を付けず、花の香りを運んでくるはずの風には、常に土を焼いた煙《けむり》が混じっている。
大気は濁り、精霊たちがロクマリアを感じることは少なくなった。花が開かねば、精霊たちは生きていくことが出来ない。
ここに来て、ついに、土を離れるものが現れた。
バルビザンデは、この世に千あるといわれている門が、つぎつぎに開け放たれていく気配を感じていた。
精霊たちが異界へ去ろうとしているのだ。
風は門の中に向かって吹《ふ》き、世界中のあちこちで、奇妙な風が吹いた。花はいっせいに散った。水の精霊たちは雨の日を待って、風雨となって門の中に転がり込んだ。
この世から、急速に魔法《ゲルマリオ》が失われようとしていた。
(わらわも、去らねばならぬのか)
バルビザンデは、花びらが風に飛んで萼《がく》だけになってしまった花を、そっと見つめた。
(ならば、オリガロッドもいっしょだ。あやつは半分精霊なのだから。
花気《ロクマリア》がなくなっては、われら同様、この世界で生きていけるはずはない)
「バルビザンデ」
ふいに名を呼ばれて、バルビザンデは振り返った。
「そなたは……」
いつからそこに居たのやら、エリシオンが焦りをにじませた顔で立っていた。
彼女の姿を見ることが出来るのは、同じように精霊の守護を得ている人間だけだ。
彼は、オリガロッドと同じ星持ち[#「星持ち」に傍点]だった。ミゼリコルドという、サファイアの精霊の主なのである。
「何用じゃ」
バルビザンデは、憮然とした。
「気安く話しかけないでもらおうかの」
「オリガロッドは、どこです」
彼女に負けないそっけなさで、エリシオンは言った。
「急ぎの用があるのです」
「知っていても、教えるものか」
日ごろのうらみかついつい、つっけんどんに返してしまう。
王宮の後背に広がる森が、オリガロッドの秘密の隠れ家になっていることを、バルビザンデは知っていた。
あの森には、多くの花や樹木が茂《しげ》っている。当然ロクマリアも多いだろう。こんな冷たいだけの石の城より、あちらのほうが過ごしやすいにきまっている。
おそらく、オリガロッドはあの森にいる。バルビザンデはそう直感していた。
「オリガロッドは、食事をしに行ったのだ。しばらく放っておいてやったらどうじゃ」
そう言うと、エリシオンは尖った眉をわずかに眉間に寄せた。
「食事は、ちゃんとこちらで用意しています」
「あんなものが、食事なものか」
彼女は、食いつくように言った。
「あれに肉や果肉を食べさせているようだが、無駄《むだ》なことじゃ。そんなことをしても、ヘスペリアンが人間になるわけがない。
あれは、お前達よりわれわれに近いもの。いずれこの世界を去る者ぞ」
エリシオンの顔が、急にこわばった。
それに力を得て、バルビザンデは一気にまくしたてた。
「あれを都合よく王にしたてあげ、自分自身も英雄気取りか。エリシオンよ」
いままで押し殺してきた怒《いか》りが、毛穴という毛穴から一気に吹き出てくるようだった。
バルビザンデは、怒りにまかせて、力をふるった。窓にかけられているタペストリーがめくれあがり、装飾《そうしょく》に使われていた陶製《とうせい》のタイルが吹き飛ぶ。
「ヘスペリアンの能力は、決して無限ではない。使えば使うほどその命は削《けず》られていくというのに、そなたはいつもあれに力を使うことを強要していたな。
あれ一人を犠牲《ぎせい》にして、お前の王国を作り上げた感想はどうじゃ!」
エリシオンの前髪が、右に左になぶられる。
なおも、彼は黙ったままだった。
「あれが、いまのようになったのは、そなたのせいじゃ。
そなたが――」
「そうだ、利用した!」
エリシオンが、ようやく口を開いた。
「……なに……?」
「あの人を利用した。あなたの言うように、あの人の力を利用し尽くした。
長年のタルヘミタの支配によって、パルメニアは土地も民も疲弊《ひへい》している。
…犠牲になるのは、あの人一人でいい」
「なんじゃと――」
「力のあるものが、犠牲になればいいのだ。力のないものが犠牲になるより、よっぽどましだ」
「エリシオン!!」
「たったひとりの犠牲で、国ひとつまとまるなら、安いものだ。
我々の国はこれからなのだ。土地を切り開き、子を育て、後の世に伝えねばならぬことがある。
我々は、お前たちのように、昨日を忘れないからだ!」
「この、おおばかものめ!」
バルビザンデがそう叫《さけ》んだとたん、足下の石畳《いしだたみ》に亀裂が走った。
「ふつうの人間にはわからぬであろ。だが、わらわにはわかる。
あれの命はもう長くはない。このロクマリアの薄まった大気の中で、いままでのように生きていくことは出来ぬ。
そなたは、あれの力を利用して、まんまとこの国を作り上げた。
もうよいであろ!!」
バルビザンデは、エリシオンとの距離《きょり》を一歩|詰《つ》めた。
「もうよいであろ。オリガロッドは、われらと異界へゆく。そのほうが、あやつのためじゃ」
「オリガロッドはパルメニアの王だ」
と、エリシオンは言った。
「王は玉座に居なければならない」
「そんなこと、わらわの知ったことか」
「人は、自分より優《すぐ》れたものにしか従わない。王は人より優れていなくてはならない。
そして、王という存在の元に、すべての民が従わなくては、国は存在し得ないのだ」
「ならば、お前が王になればよいではないか」
エリシオンはすっと目を細めた。
「わたしはそんな器《うつわ》じゃない」
「だからといって、オリガロッドがふさわしいというわけではなかろ。
あやつがそなたの言う王にふさわしくないことぐらい、お前が一番よく知っているはずじゃ」
エリシオンは、表情を凍《こお》らせたまま押し黙った。
バルビザンデは、さらに口調を厳しくした。
「もうすぐ、ヒルデグリムの扉が閉まる。角あるものも精霊も魔法も、みなこの世から消え去るだろう。
あとは人間達の好きにするがよい。この土の上に見えない線を引いて、聖なる王国とやらを作るがいい。
オリガロッドは、われらと行く。
お前が、あやつを本当に愛しているのなら、止めるな」
言い置いて、バルビザンデはふっと姿を消した。
エリシオンは、しばらく、その場に長い影を残して立ちすくんでいた。
やがて、よろよろと――まるで影と切り離されたように、力無く歩き出した。
その後ろ姿を、バルビザンデは風の中からじっと見つめていた。
エリシオンは、城を出て、森の中へ人っていった。
狩《かり》小屋の側《そば》にわき出ている小さな泉のそばに、大きなペンギンがいた。聖なる獣の一種で、オウムのようにねじれたくちばしを持つキップリンだ。
エリシオンは、キップリンにそっと近づいた。
「あの人を捜《さが》しているんだ。あの人を叱るつもりはないから、居場所を教えてくれないか」
キップリンは首を傾げて考えるそぶりを見せていたが、やがてずりずりと後ずさった。
キップリンの足の間に、オリガロッドが眠っていた。
エリシオンは跪《ひざまず》くと、オリガロッドの耳たぶをそっと撫でた。
「オリガロッド」
そんな声はずるい、とバルビザンデは彼を睨みつけた。
(いつもはそんなふうに呼ばないくせに……)
「オリガロッド、ねえ、あなた、起きて下さい」
叱りませんから。
やがて、その言葉を待っていたように、オリガロッドが目をうっすらと開ける。
「ああ、エリィ……?」
のろのろと上体を起こして、
「見つかっちゃった?」
「見つかっちゃった、じゃないでしょう、
わたしに黙って、どこへもいかないでください」
(!?)
そのとき突然、バルビザンデは、彫像《ちょうぞう》のように風の中に立ちつくした。
オリガロッドはくすくす笑いながら、
「うん、どこにもいかない。
約束する」
と、言った。
エリシオンは、ほっと表情を崩した。
『どこへも、いかないでください』
そう、確かに彼は言った。
エリシオンは恐《おそ》れているのだ。オリガロッドが自分を残して、異界へ旅立ってしまうことを――
たったひとり、残されるのを――
オリガロッドは上体をエリシオンに預けると、
「…やっぱりちょっと眠い。も、すこし……
エリィ、そこに、いて……」
そう言って、ずるずると崩れ落ちた。
「ちょっと、オリガ!」
寝息を立て始めたオリガロッドに膝枕《ひざまくら》をしてやりながら、エリシオンは言った。
「なんで私が……」
それから、指先で、額にかかる前髪をかき分け、髪を撫でてやりながら、ぽつりと漏らした。
そこに、いて――
「あなたこそ」
瞼《まぶた》の上に、そっと唇を落とした。
「……わたしを、置いていかないでください」
『うん、どこにもいかない。
約束する』
その約束が、オリガロッドを死なせたのだ。
あの日、
最期に彼が望んだように、花の中で――
たとえ、彼に海の水をすべてダイヤモンドに変えて見せろと言われても、バルビザンデはそうするつもりだった。
けれど、彼が望んだことは、そんなことではなかった。
「――愛していると、言ったのだ」
アンナマリアは、椅子から浮かしかけた腰をそろそろと下ろした。
「え――」
「最期に、この世の人間すべてを、怖れずに愛することができたと、あやつはそう言ったのだ。
けれど、自分と交わったひとたちは、特にいとおしいと思うから……」
あなたが、これからも寂《さび》しくないように、どうすればいいかを考えているよ。
そう笑って、細い指先で、バルビザンデの涙をぬぐった。
ならば、死なないでくれ。
バルビザンデは、泣きじゃくりながら、その手にすがりついた。
本当は、声に出してそう言いたかった。ずっと、側にいさせてくれ。いままでのように、ぼんやりと、日だまりの中から笑いかけて欲しい。
――エリシオンの次でもいいから。
彼女の涙をぬぐった手が、死んだ蝉のようにぱったりとシーツの上にひっくりかえったとき、バルビザンデは妙な確信を覚えたのだった。
ああ、これが絶望というものなのだ。何も見えない、何も聞こえない。おおよそ人間の五感に近いものを持ち合わせているというのに、バルビザンデはなにも感じなかった。涙さえ出なかった。それもそうだ。もう、ぬぐってくれる手はないのだから、流す必要もない。
オリガロッドがいなくなっても、なお、彼女の前には厖大《ぼうだい》な未来が広がっていた。はじめは悲しみに暮れていた人々も、やがて自分たちの明日に目を向け始める。遅々とした歩みであったが、人々は生きることを始めていた。子を産み、子を育て、自分たちが守り続けたものを、愛する者たちへ分け与えようとしていた。あのエリシオンでさえ――
オリガロッドの死を悼《いた》む鐘が次に鳴ったのは、それから半世紀近くが経ってのことだった。自らの愛した子らに見守られて、エリシオンが逝った。あんなにも憎んだこともあったのに、バルビザンデは彼を逝かせたくなかった。
臨終の三日ほど前から、エリシオンは夢を見ていた。夢の中に、オリガロッドがいた。弟のシングレオと、花の中で笑っていた。臨終の日、天窓が開いて、天使の羽が光のかけらとともにこぼれ出た。彼は必死で手を伸ばした。叫んでいた。オリガロッド、シングレオ、そこに、いますか――
『わらわも、つれていってくれ!』
バルビザンデは、夢中で追いかけた。
『わらわも、一緒につれていってくれ。お願いだ!』
けれど、その日だまりはだんだんと遠ざかるばかりだった。光の中で、萎《な》えて枯れた葦草《あし》のようになっていたエリシオンが、かつての若々しい姿で立っていた。オリガロッドとシングレオが、交互に抱きしめると、彼はまるで小さな子供のように泣き出した。もう、いいですよね、そこへ行っても……
――そして扉は、閉まった。
バルビザンデは、気が狂いそうだった。エリシオンが、死んでしまった。もうだれも、自分を知らない。叫んでも、だれにも聞こえない。だれも、わらわに触れることはない。生きることは、人と交わることだとオリガロッドは言った。ならば、もうわらわは死んだも同然なのだ。だれも、わらわに言葉をかけてはくれぬ。だれも、わらわを愛してはくれぬ――
『おじいさまが、亡くなったんだ』
闇《やみ》の中から、幼い声が聞こえた。バルビザンデはおそるおそる立ち上がり、自分の本体へと意識を飛ばした。
誰かが自分に――王冠に語りかけていた。小さな男の子だった。星をまぶしたようにきらきらと輝く髪をしていた。
子供は玉座に座り、王冠を膝にのせてべそをかいていた。
「ちょっとおっかなかったけど、ぼく、おじいさまのことが好きだったよ。いろんな昔話をしてくれたし、オリガロッドさまのお話もしてくれた。ねえ、おまえはぼくのものになるんだろう。バルビザンデ」
なんのためらいもなく、子供はバルビザンデの名を口にした。
「最後にお会いしたとき、おじいさまがおっしゃったんだ。これからは、お前に昔話をしてやることができないけれど、かわりに、光の精霊が話してくれる。彼女は、お前の将来を照らす光そのものだって」
子供は、えぐえぐと喉を鳴らしながら、バルビザンデに熱心に語りかけた。
「おまえが、おじいさまの代わりに、ぼくのそばにいてくれるの?」
バルビザンデは、子供の顔をじっと見つめた。
目尻に涙をいっぱいためた泣き顔が、昔、エリィはひどいと顔をくしゃくしゃにしていたオリガロッドによく似ていた。
バルビザンデは、名を呼ばれたことに恍惚《こうこつ》となっていた。
もう、四〇年も前、オリガロッドに、自分はたしかにこう言ったのだった。
『約束しよう。おまえの血がこの世界から消えてなくなるまで、おまえの血に連なるものに、祝福を……』
(ああ、そうか…)
バルビザンデは、ほっと息を吐いた。
(約束は、このためにあったのだ)
オリガロッドはおそらく、自分がいずれ絶望することを知っていたのだろう。
だから、あんな約束をさせた。
自分の子孫を、見守って欲しい。その約束は、彼女がこれからたったひとりですごすであろう、途方もない時間を埋めるのに十分だった。
「…そうとも、わがあるじどの」
バルビザンデは、ふわりと風の中から降り立った。
少年は、目の前に突然現れた女性に驚いたようだった。
玉座の上で、大きく身じろぎした。
「おまえが、バルビザンデ、なの?」
「そうじゃ、我が名はバルビザンデ。ダイヤモンドの精霊。星石の長、王たるそなたを守護するものぞ」
「ずっと、側にいてくれるの? おじいさまのように、突然いなくなったりはしない?」
「しないとも」
少年は、彼女を見上げながら、少し顔を赤らめていた。
「そなたの名は、なんという?」
「ミ、ミルドレッド…」
「ならば、そなたの名にかけて誓おう。生涯、そなたの側にいる。たとえ、そなたが非道とののしられ、すべての人がそなたから去っても」
「そんなことができるの?」
「できるとも。わらわは人ではないからな」
すごい、と少年は頬をふくらませた。
バルビザンデは、少年の膝から王冠を持ち上げると、小さな頭にそれを載せた。
「わが王に、永遠の忠誠を、お誓い申し上げる」
王冠は、彼の頭には大きすぎて、彼の顔半分を隠してしまった。
バルビザンデは笑った。
ミルドレッドも笑った……
『――ぼくが、この短い生の中で、たったひとつだけ、大きな発見をしたのなら、それはすばらしい人生の生き方だ。
かけがえのない約束をする。そしてそれを守ろうと努力をすることだ』
彼女が愛した主はもういない。自分のために流される血の量におびえながら、生きていくことは罪深いと、彼女の膝にすがりついて泣いた――あの、甘ったれで泣き虫の王は、もういないのだ。
たとえ、だれから愛されることがなくても、彼女は幸せだった。
守りたい約束がある。
彼女には生きる理由があった。
そしてそんな人生こそ、すばらしいものだと、オリガロッドは言ったのだ。
そのアンナマリアという少女と過ごす時間は、存外退屈なものでもなかった。
彼女は、現在バルビザンデの主であるアルフォンスに恋をしていて、思わぬ恋敵《こいがたき》の出現に頭を悩ませていたのである。
話題は、いつのまにか、彼女の悩み相談に流れていた。
「……というわけで、わたくしは明日にも失恋決定なのですわ!」
と、かつての自分のように、彼女が憤懣《ふんまん》やるかたなくそう叫んだので、
「まったく、その気持ち、ようわかるぞえ」
同情の気持ちもあらわに、思わずそうつぶやいてしまった。
恋は、突然破れることもある。そして、その恋敵が思いも寄らぬ相手であることもままあるものだ。オリガロッドとエリシオンのケンカを数多く見てきた彼女には、あのふたりがくっつくことなど思いも寄らぬことだった。
失恋が決定的になった夜、バルビザンデはキップリンの足の間に潜《もぐ》り込んで、声を挙げておいおい泣いた。それ以外に、あのこそばゆくももどかしい時間をやり過ごす術《すべ》を持たなかったのだ。
それでもじっと袖口《そでぐち》を噛んで耐《た》えたのは、エリシオンの腕の中で、オリガロッドがこの上もなく幸せそうだったからだった。
人間という生き物は、たいした力も知恵《ちえ》ももたぬくせに、オリガロッドを幸福にすることができるのはあのエリシオンだけなのだ。
それが不可解だった。
不愉快《ふゆかい》だった。
どう考えても、自分があのエリシオンより劣っていたとは思えない。
「オリガロッドは、趣味《しゅみ》が悪かったのじゃな」
いまとなってはそういって自分を納得させるしかなかった。
「で、そなたの恋敵はあれか、あの青い目の侯爵《こうしゃく》のことじゃな」
「そうですわ」
憮然とアンナマリアは言った。
「恋を仕掛けるのが遅すぎたんですわ。こ、このわたくしとしたことが迂闊《うかつ》でしたわ。
もっと早く陛下にわたくしがツバをつけていれば!!」
お嬢様《じょうさま》は大興奮だ。
ぼそりと、バルビザンデは口を挟んだ。
「もっと早くもなにも、あのマウリシオとかいう男はアルフォンスのおしめも替《か》えていたぞ」
「な、なんですって!!」
アンナマリアは額に手をかざしてよろめきかけた。
「陛下の裸《はだか》を見ましたのね!! そんなおしめをかえるふりをして、なななななんんて破廉恥《はれんち》な! 年端《としは》もいかない陛下になんてことを!!」
相手は赤ん坊だ。年端がいかないのもほどがあるだろう。
「わたくしだって、陛下のおしめくらい替えられますわ。ええ喜んで!」
アンナマリアの手がわきわきしている。
バルビザンデはさらに言った。
「そなた、たしかわが主どのより年下だったのではないかえ。まだ生まれてもいないそなたが、どうやっておしめを替えるのだ」
「うっ」
アンナマリアは再び口ごもった。
そして、目の下がぴくぴくしたかと思うと、
「うわーん」
突然、声を挙げて泣き出した。
バルビザンデは凍《こお》り付いた。
なんなのだ、この反応は。
「酷いですわよ。あんまりですわよ。そんなの勝ち目がなくて当然ですわ。わたくしだって好きだったのに。
わたくしだって、好きだったのに!!」
バルビザンデは、椅子の側にへたれ込んだアンナマリアの頭を抱えて、よしよしと撫でてやった。
ああ…、身に覚えがあるのう、このやるせなさ……
キップリンの足の間に潜り込んで一晩泣き明かした夜を思い出す。
「まったく、ミゼリコルドも意地が悪い……」
涙を頬になすりつけるようにして、アンナマリアは顔を上げた。
「ミゼリコルド?
…それは、サファイアの精霊のことですわよね?」
バルビザンデは頷いた。
「わらわのすぐ下の妹じゃ。もう何百年も会ってはおらぬが…
近頃は、人間《ヒリス》の瞳に居ついておると聞いた。まったく、あれは昔からああなのだ」
「それは侯爵の青い瞳のことをおっしゃっているの?」
「むろん」
ふう、と気だるげにため息をつく。それに同調するように、アンナマリアも肩を落とした。
「正直、これからどんな顔をして侯爵に会えばいいかわかりませんの。ほんとうは陛下に会うのもつらい。こんなふうに胸が熱くやるせなく思うことが、もう一度やってくるなんて考えられませんわ」
ただ一度の恋とはうつくしいけれど、と彼女は言った。
「ほんとうに一度きりだとしたら、わたくしはもう、人を愛することはできないのではないかしら」
と、あまりに深刻な顔をするので、バルビザンデは吹き出した。
「そのようなばかなことがあるものか」
自分の記憶の泉に手を突っ込みながら、彼女はいった。
「そのように悲観的にならずともよい。ばかどもにしてやられたことは、よい経験になったとそのうちわりきることじゃ。
ひとは選べないものがふたつある。ひとつは親、もうひとつは恋する相手じゃ。
そなたは思いもかけぬものを愛し、その愛にいずれ満足するであろ」
予言のように力強く言いきって、バルビザンデはアンナマリアを見つめた。
「これはある者からのうけうりじゃが、愛することがすばらしいのは、ぜろたすぜろ、が1以上になるからなんじゃと」
「0たす0……?」
こくりと頷く。
「その意味あいは、下界でじっくり考えよ。幸い、そなたにはまだたくさんの時が残されておる」
その言葉は、アンナマリアがここで過ごす時間が終わったことを意味していた。
「そなたはすこし長居をしすぎたな。すこしばかり時を戻さねばならぬ。ま、夢をみたと思って忘れるがよかろ」
バルビザンデは笑った。忘れるにも忘れられないような、あでやかな笑顔だった。
宝石の王というにふさわしく、ゆったりとした動作で立ち上がる。
「たまにはわらわもお守りから解放されたいものじゃ。わが身二千年ほどこの世にあって、まだ知らぬことも多くある。この世は広く、まだまだめずらしい。美しきものはそうではないものに数劣るとはいえ」
オリガロッドとの約束を守ることは、彼女にとってそう苦痛ではなかったが、ほんのすこしだけやるせなく思うことがあった。
彼女のいまの主《アーリエ》が――名をアルフォンス、といったか――恋人にやさしく触れられ、うっとりと目をつぶるとき、彼女はもう自分をあんなふうにだきしめてくれる人間《ヒリス》が、この世にいないことに気づかざるを得なかった。そして、これからもいないのだということを。
オリガロッド、オリガ……あの泣き虫で甘ったれのわが主どのよ。そなたはたしかにわらわに生きる理由を与えてくれたやもしれぬ。しかしながら、人は――いや、たとい人でなくとも、そんな何百年も前の約束にすがって生きていくことはできぬものじゃ。げんにわらわはいま、とても寂しい……
「あ……」
そうじゃ、と声を弾《はず》ませたのはその直後だった。
「わらわもミゼルと同じように、ひとの腹から生まれればよいのじゃ」
口にした瞬間、なにか光の玉のようなものがバルビザンデの胸の中に生まれ、あっというまに胸の中をあたたかく満たした。
「ああ、なぜもっとはように、そのことに気づかなんだか……」
唖然《あぜん》としているアンナマリアのあごを、クイともちあげ、
「そなた、わらわを産んでくれるな?」
「えっ?」
とつぶやいたときには、アンナマリアの唇に、大きな石があてがわれていた。
金色の液体が、どろりとアンナマリアの口腔《こうこう》を満たす。
アンナマリアは大きく身震いして、いま自分が飲み込んだものの正体に慄然《りつぜん》とした。
「……なん……だったの…いったい……」
『できるだけはよう、わらわを産んでくりゃれ』
石は最後にそうつぶやいたように聞こえた。
時はあくせくながれていった。
赤子はやがて二本足で歩き、恋を知る若者になり、やがて人生に疲れたとばかりに杖《つえ》をついて死んでゆく。
ひょんなことから知り合った娘の腹に居着いてから、バルビザンデはこの世に生まれでる日をいまかいまかと待ち望んでいた。それはほんのわずかな時間であったにもかかわらず、奇妙に長くじれったいものに思われた。
これほど長い間、腹の中で待たされるとは意外だった。あの娘は存外奥手だったのかもしれぬ。あのとき、もっとはっぱをかけてやればよかったと後悔《こうかい》した。
女の腹の中で、彼女はいくつもの夢をみた。
「ひとを愛するということは、いいことなんだろうか」
もうずいぶんと昔、彼女の主《アーリエ》が夫に(この二人の場合、夫というより伴侶といったほうがしっくりくるのかもしれないが)ぼんやりとそう問いかけたとき、バルビザンデは意地の悪い笑みをかくすことができなかった。頭の中は0か1しかないといわれているエリシオンが、このような哲学的な問いにどう答えるのか、たいへん興味があったからだ。
「いいことなんじゃないでしょうか」
と、わり算のあまりを切り捨てるような口調で、彼はいった。
「なんで?」
「愛情というもののすばらしさは、0足す0が1になるということです。つまり……」
すこし考えて、読みかけの本に栞《しおり》をさした。
「なにもないところから、なにかが生まれ出るということ。これは世の物理的な法則に反していますので。まったく、奇異であるとしかいいようがない」
「……じゃあ、なに?
エリィはこの世では起こるはずがないことが、人の心の中では発生するという点だけにおいて、すばらしいと、そういっているの?」
そう、落胆《らくたん》したようにオリガロッドが言ったので。
「ばかじゃないですか」
吐き捨てるように、エリシオンはいった。
彼はそそくさとたちあがり、
「あなたのように、ばかでどうしようもない人間でも愛せてしまうことが、すばらしいと、そういっているんです」
目の下をほんのり赤らめて、そう言った。
オリガロッドをばかよばわりすることに関しては、彼女は彼と同意見だった。そんな彼を伴侶に選んだエリシオンは、やっぱりばかものなのだろう。
やっぱり、ばかばっかりじゃ、と彼女はつぶやき、やがて大きなまどろみに飲み込まれてねむりについた。
(わらわは、ひとの腹から生まれでるのじゃ)
彼女はわくわくする気持ちを腕いっぱいに抱え込んで、ずいぶん長い間寝付けずにいた。
やがて、やわらかい毛布のようなものにくるまれると、だれかがやさしくおねむりなさいというのが聞こえた。
波の音に似ているのじゃな。
そんなふうにいらぬことを考えながら、だんだんと海の底に沈《しず》んでいく感覚に身をゆだねた。
どうして人間《ヒリス》は、生まれるということが、こんなにもすばらしい奇跡《きせき》であることを知らないのだろう。触れるということが、万の言葉に勝るよろこびだと、気づかないのだろう。
まったく人間《ヒリス》はばかだ、と彼女は憤慨した。愛する者を抱きしめる腕をもちながら、なぜ抱きしめることをためらうのか。その愛を告げる言葉をもちながら、なぜ執拗《しつよう》に選ぶのか。
わらわならためらわないぞ、とバルビザンデは強く思う。この世に生まれいで、その身体を持ったら、まっさきに言うのだ。愛するものを探す時間はたっぷりある。そして探す楽しみもおおいにあるだろう。(しかしその相手にばかものを選んでしまう可能性もおおいにある。なんといっても人間《ヒリス》は恋する相手を選べないのだから)
愚かで愛《いと》しい人間たちに、ためらうことの無意味さを教えよう。
ああ、だから失わないうちに、たくさん触れて、くりかえし飽《あ》きるほど告げるのだ。
お母さんお母さん、あなたを愛している。
この世に生まれて、こんなにうれしいことはない、と――
[#地付き]END
[#改ページ]
底本
The Sneaker 12月号増刊
The Beans [ザ・ビーンズ] VOL.1 2002.12
発 行 二〇〇二年一二月一日 発行
発行者 井上伸一郎
発行所 株式会社角川書店
[#地付き]校正M 2007.11.07