カーリー 〜二十一発の祝砲とプリンセスの休日〜
高殿円
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|ラクシュミー・ヴィラス《バ ロ ー ダ 王 宮》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)今日だけ[#「今日だけ」に傍点]は、インド中がなにをしても許される。
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『――そして、
あなたは、私の体や、顔だけではなく、
心まで、真っ赤に染め上げてしまったのです』
ホーリー
三の月では一番はじめの、満月の夜。
インドが春を迎えるための、一年に一度の赤の粉かけ祭り。
その日、私は、
まるで、あの有名な戯曲ロミオとジュリエット≠フように、
王宮の石造りのバルコニーの下で、
あなたに、出会った……
[#改ページ]
〜プロローグ〜
――可愛いわしのパティ。おまえが嫁に行くときは、この金の大砲を二十一発鳴らしてやろう。
と、その昔、バローダの王女クリシュナ=パドマバディ=ガエクワッドが、まだ祖父の腕に乗れるくらい小さかったとき、彼女を目に入れても痛くないほどかわいがっていた祖父は、孫娘にそう言ったものだった。
西インドの大国、バローダ藩王国には、金の大砲がある。
砲身の長さが約四フィート、口径は四インチ。銀の砲と対にして、計四本を同時に作ったという。たいへんに豪奢《ごうしゃ》なものだ。
「昔、イギリス総督府がわれわれインドの藩王国を訪問したとき、当時のバローダ王はあまり気分をよくしなかった。なぜなら、バローダは他の国とは違う。歴史をとっても、富をとっても、インドでもっとも勝《まさ》っていたのだからね」
バローダの機嫌を損ねることを恐れたイギリスは、祝砲の数で国を区別することにした。ウダイブルは十九発、バローダは二十一発というふうに……
以来、バローダはインドの中では最高位を表す、二十一祝砲国とも呼ばれているという。
「二十一発の、祝砲、か……」
パティこと、クリシュナ=パドマバディは、小麦色に光るバローダ宮殿が朝焼けにつつまれるのを、バルコニーの上からぼんやりと眺めていた。
あの遠い日に、祖父の腕に抱かれていた幼い娘は、今年でもう十四になる。
バローダの王女という生まれにもかかわらず、パティはアメリカ大好きの変わり者の父のもとで、実に自由奔放《じ ゆうほんぽう》に暮らしていた。
普通、インドでは、高貴な女性は色とりどりのサリーを身につけ、パルダーという囲いの中に引きこもって、あまり外を出歩かないものだ。
なのに、パティときたら、なんでも思いつくまま、勝手気ままにやりたい放題。
パリで流行っているという最新のモードに身をつつみ、ヒールの靴をはき、ブランド品のバッグをかついで一人でふらふらと外を出歩くありさま。
(いつか、私もお父様のようにアメリカかイギリスに留学して、セント・レナズのような女学校に通うんだ)
と、パティは、ますます西洋の文化にあこがれていった。ああ、夢の寄宿舎生活!
先生の目を盗んで、友だちとこっそり真夜中にクッキーをかじりあったり、ゲームをしたり。
もちろんバレンタインには女の子同士でカードを贈り合うし、ときどき枕投げもしてみる。
そして、写真でしか見たことがない、ハロウィンのかぼちゃのランタンを作るの!
(そう、ハロウィン!)
父親から聞いたアメリカのお祭りハロウィンは、パティのいつかやってみたいリストの中に書いてある、重要項目の一つだった。
いつだったか、自分でもやってみようと、見よう見まねでかぼちゃを手に入れ、女官といっしょにランタンを作ってみたけれど、なぜか絵はがきやカードで見るようなオレンジ色のものはできなかったのだった。
それもそのはずだった。
なぜなら、インドのかぼちゃはオレンジではない、緑色だったのだから。
(そう、かぼちゃの色がいまいち違ったのよね!)
ぷくく、とそのときのことを思い出して、パティは今でも思い出し笑いをしてしまう。今でも写真に残っている、あの緑色のかぼちゃでランタンを作ったときの、従兄弟《いとこ》のアムリーシュの顔!
たまたまバローダを訪れていた、一つ年下のパンダリーコットの第四王子、アムリーシュ=シンは、そんな緑色のかぼちゃを見て、宮殿が割れるくらいの悲鳴をあげて気絶してしまったのだった。
あれ以来、彼は一度もハロウィンごっこにつきあってくれない。もともと無口でおとなしい感じの子だったけれど、たまに食卓にのぼるインドのパンプキンですら受けつけなくなってしまったと聞く。
(アムリーシュたら。妙なトラウマになってないといいけど……)
パティは、ふと、すでにお守り代わりのようになっている、黒光りするコンタックスを手にもった。
もともと、写真好きだった祖父王の影響もあって、パティは写真を撮ることという、この歳の女の子にしては一風かわった趣味をもっていた。
ヒマさえあれば、祖父のおさがりのコンタックスを首からぶらさげて、いやがってパルダーの中にかくれようとする祖父の妃たちや、召し使いたちを追い回す。
写真――、
その小さなフィルムが持つ強さに、パティは憧《あこが》れていた。
だれも、異論が唱えられない小さな灰色の紙切れ。その頼りなげさとは逆に、映し出されたもののもつ力強さは、いままでパルダーという幕の中に押し込められて、息を潜めて生きてきたインドの女性たちが持っていなかったものだ。
だから、写真のように生きられたら、とパティは強く思う。
頼りない一枚の紙切れでもいい。
強さがほしい。
だって、写真には、ただの一つの嘘《うそ》もないから。
「あのね。おじいさま。パティは大きくなったら、新聞記者になるの。それで、おじいさまからいただいたカメラで、インド中を撮り歩くのよ」
そう、ずっとパティは願っていた。
新聞記者になりたい。
このカメラでは、艶《あで》やかなサリーの色が出ないのは残念だけれど、インドのひたむきな信仰。生と死のはざまを流れるガンガー。モンスーンの嵐のあとに、魔法のように緑一色に染まる北の大地を、パティはぜひ、世界中の人々に知ってもらいたいと思っていたのだった。
けれど、
「あーあ、ついに私も結婚かあ」
と、バルコニーの手すりの上に頬杖《ほおづえ》をついて、彼女は海よりも深いため息をついた。
残念なことに、いままで気ままにしていた暮らしも、あともう少しで終わりを告げるようだった。
つい先日、パティは祖父サヤジ=ラオから、正式に婚約者が決まったことを伝えられたのである。
『可愛いわしのパティ。占星術《せんせいじゅつ》によっておまえの夫はハイデラバードの世継ぎに決まった。
約束通り、おまえがお嫁に行くときは、この金の大砲を二十一発鳴らしてやろう』
いつかは、と覚悟はしていたから、思ったよりショックではない。
けれど、相手が南部の大国ハイデラバードとあっては、ああ、ただ単に占星術で決めたことではないのだな、と邪推《じゃすい》してしまう。
「そりゃそうよねえ。今、インドは独立できるか否かの瀬戸際なんですもの。大昔にイギリスに乗っ取られたときみたいに、ヒンドゥとイスラムでいがみあってる場合じゃない。
大国同士の結びつきには、婚姻関係を結ぶ以上の手はないんだから……」
王族の結婚は、政治だ。それは、しかたがない。いまだって、庶民たちの間ですら、結婚式の当日まで相手の顔を知らないのがふつうなのだ。
でも……
「こうまで政治でお膳立てされると、なんだかおもしろくないのよねえ」
大好きなトーキー映画のようにはいかないことは、わかっている。
けれど、だからといってこのまま、なにもできないままハイデラバードへ嫁ぎ、顔をヴェールで隠しながら、後宮《パルダー》の奥深くでひっそり生きるなんて、パティには耐えられない。
(だいたい、ハイデラバードはれっきとしたイスラムの国じゃないの。私がいまのように顔をさらして外を歩くなんて、考えられないことにちがいないわ)
しかたがないことなのは、わかっている。
でも、せめて、思い出が欲しかった。
結婚までの最後の二年。あと二年の間に、自由奔放なパティ、としての最後の思い出が……
「となると、やっぱり宮殿は抜け出すしかないんだわよねえ」
パティはにやりと人の悪い笑みを浮かべると、用意していたポーチをたすきがけにして、えいやっとバルコニーをまたいだ。
結婚が決まってからというもの、さすがの祖父王も娘をいままでのようにはしておけなかったのか、パティの周りにはいちだんと多くの監視がつくようになった。王宮の外へ出るなどもってのほか。たかが庭で乗馬をするときにすら、十名のお付きがまわりに蠅《はえ》のようにまとわりついて、おかげで気が休まるときはない。
しかし、今日は違う。
今日は……、今日だけ[#「今日だけ」に傍点]は、インド中がなにをしても許される。
パティが、洋服を着ても、王宮を脱走しても……
だって、今日は特別な日なのだから!
「うーん。さすがにヒール靴を履いてると、着地したときに足を挫《くじ》くかしらね」
言って、パティはサンダルを脱ぐと、ぽいぽいっとバルコニーの下へ投げ捨てた。
すると、
「あいたっ!」
思わぬ声が、足下から上がったのだった。
パティは、おそるおそるバルコニーの下をのぞきやった。
なんと、そこには見知らぬ西洋人の男性が、頭をかかえてうずくまっていた。
「あらー、ごめんなさい」
アハハハハ、とパティは笑ってごまかすことにした。
「まさか、こんな時間にそんなところに人がいるとは思わなくて……」
男は、頭をさすりさすり、涙目でパティをにらみ返してきた。
「ねえ、そんなところでなにをしてるの。ところであなた誰。とっても怪しいんだけど?」
「それはこっちの台詞《せ り ふ》だ!」
彼は、まだ機嫌を直していないらしく、忌々《いまいま》しげにパティに向かって言った。
「ったく。朝焼けの宮殿の写真を撮りに来たら、なんで上からサンダルが降ってくるんだ!」
「あらー、あなた、写真家だったの。でもカメラにはぶつからなかったわよ。だから、ね? ノープロブレム!」
「あのな!」
なんでもかんでも、このノープロブレム!ですますのが、パティの流儀だ。
たしかに、男は胸に大きなカメラをぶら下げていた。歳は二十代前半、いや半ば過ぎだろうか。麻のグレーのスーツにきちんとのり付けされたシャツ……、しかし、それもここ二日ほど着たきりなのか、よれてふくらんでしまっている。
「ねえ、当ててあげましょうか。あなた、新聞記者でしょう。しかも、インドに来てまだ日が浅い……」
パティが言うと、彼は驚いた顔をした。
「ねえ、スペイン人の記者さん? あ、違うか。アメリカ人でもないわよね。じゃあイギリス人?」
「ロ、ロンドンタイムスのニューデリー特派員だ。なんでわかる?」
けらけらと、パティは笑った。
「だって、今日はホーリーだもの。なのに、のんきに王宮の写真を撮りに来るなんて、よっぽどインドを知らないにきまってる。今日にかぎっては、町中に出たほうが楽しいのに」
「ホーリー?」
男はきょとんとした。
そんな男の様子に、パティはははあ、と顎《あご》をつまんだ。この男、ホーリーを知らないとは、ほんとうにインドに来て日が浅いに違いない。
ふと、いたずら心がうずいて、パティは男に向かって言った。
「ねえ、あなた。名前は?」
「エドワード。エドワード=ソーントン」
「じゃあ、エド。いまから、私がそっちに行くから受け止めてくれる?」
「……は?」
相手の返事を待たずに、パティはふたたび大股でバルコニーをまたぐと、
「ちゃんと受け止めてよ!」
約四メートルあるバルコニーから、男に向かって大ダイブをかましたのだった。
「いっくわよおおおおっ、ダ――――イブ!」
「うわ、ちょっとまてって……、どわーっ!」
――そんなふうに、
バローダの王女パティ=ガエクワッドと、ロンドンタイムスの記者エドワード=ソーントンは出会ったのだった。
「ほら、こっちよ。新聞記者さん」
まだ出会って間もないというのに、パティはエドワードを強引に王宮の外に連れだした。
「だから、ホーリーっていったいなんなんだ!」
急に十も年下の少女に腕を引かれて、エドワードは目を白黒させてわめいた。
聞けば、彼は一昨日の夜に、船でインドに着いたばかりだという。
パティは言った。
「なにって、もちろんインドで一番楽しい日よ」
「楽しいだって?」
「そうよ、今日ばかりは王様《マハラジャ》も家来もない。インド中が無礼講《ぶ れいこう》の日。いいから私についてきて。街の様子を見れば、いっぺんでわかるから!」
怪訝《け げん》そうにあとをついてきたエドワードだったが、喧噪《けんそう》につつまれた街の様子を見るなり、目をまるくして絶句した。
「な、これは……」
そこには、異様な光景がひろがっていた。
なんと見渡す限り、人々が嬌声《きょうせい》をあげながら赤い粉をかけ合っている。
「ホーリー、おめでとう!」
「おめでとう!」
だれもが、赤い。
顔も赤い、服も赤い。牛も赤い。
見渡す限り、街も人も、赤の粉まみれなのだ。
「これが、ホーリー!?」
ホーリー。
それは、春の到来を祝い誰彼を問わず赤い粉をぶっかけ合う熱狂的な祭り。
これに出くわしたら最後、みんなが顔中に粉を塗られ、服にべったりと色がついてしまう。
「なんなんだ、これはいった……ぶっ!」
と、驚いている間にも、
言うが早いか、通り過ぎざまにだれかがエドワードの顔に、赤い粉をぶつけていく。
「うわっ、げほっげほっ……」
「アハハハハっ、ほらね、もう街では始まってるじゃない。これがホーリーよ、わかった?」
むかし。昔のこと。勇敢《ゆうかん》な悪魔のような気性を持つ父親、ヒランヤ・カシャッパは、おとなしい息子、プラハラーダーを自分のように強くさせたいと願った。そして彼は、妹のホーリーに自分の息子を抱かせ、火にくべた。
ホーリーの祭りはこの故事をもとに始まったのだと言われている。
「マトゥーラで行われるラスマール・ホーリーなんかは、とてもおもしろいのよ。あの町は、クリシュナ神の妻ラーダの出身地だといわれていて、女性達はクリシュナの生まれたナンガオンの町の男達に色水をぶっ掛けて挑発するの」
エドワードは、さらにぎょっとした顔をした。
「女が、男を襲うのか!?」
「そうよ。男達は翌日、反対に隣町のバルサナの女達に同じ色水で仕返しをするの。そのときに、きっかけが欲しくて、いいなって思った女の子にたくさんかけるんですって。ね、すてきでしょ」
言って、パティはポーチに手をつっこみ、油断しているエドワードに向かって粉を投げつける。
「ほら、こんなふうに!」
エドワードの、パティよりもずっと白い肌が、ホーリーの粉で真っ赤に染まる。
彼は、一瞬|苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔をし、
「……やったな」
おもむろにポケットの中からルピーを取り出すと、近くにあった露店に駆け込んで、ホーリー用の粉を買い占めはじめた。
「親父、そこにある粉ぜんぶくれ!」
「へ、へい。それよりお客さん。あんた、ホーリーは初めてのようだから一言忠告すると……」
立ち止まっているエドワードに、すかさず水鉄砲の水が飛んでくる。
「うわっっ」
「……そのシルクのネクタイは外したほうがいいと言おうと思ったんだが、遅かったね」
ホーリー祭りの熱狂的な粉のかけあいは、その日の午前中いっぱい続いた。
バローダの市街の中心から少し離れた丘の上で、ふたりはほっと一息つくことにした。
「あー、楽しかった!」
高価なワンピースを、全身真っ赤な粉まみれにして、パティは草の上に寝っ転がった。
「ね、どうだった。インドのホーリーは。今日はインドのどこへ行っても粉をかけられる日よ」
「とんでもない日だ」
と、エドワードは地面にひっくり返った。ややくせのある黒髪が、見事なまでに赤毛に染まっている。
「スクールのときのチョコレート戦争でも、ここまで酷《ひど》くない」
「スクール……? あなたパブリックスクール出身なの?」
「ああ、出身はリースだ」
パティは、思わず上体を起こして言った。
「じゃ、チョコレート戦争って?」
「読んで字のごとく、チョコレートを賭《か》けた試合さ」
エドワードはお手上げとばかりに両手をあげて、
「パブリックスクールってのは、とにかく食事が酷くて腹が減るんだ。だから、ときどき午後に、売店で唯一買えるミートパイとチョコレートを賭けて、賭けクリケットやラグビーが行われる」
パティは、不思議そうに首をかしげた。
「お金持ちの子息が行く学校って聞いているのに、へんなの」
「そう、イギリスではどんなに金持ちでも、生涯にただ一度は飢えを味わうようにできてるのさ。ヒップ・ヒップ・フレー!」
なにかすばらしいことがあったときに寮生がかけるかけ声を、彼は唱えた。
「ふうん。じゃあ、エドの家は、お金持ちだったの?」
「俺の家? うーんそうだな。特別そうでもないし、貧乏でもない。親父は商売人で、母は主婦だった。インドに来たのは、新聞社の部下がヘマをやらかして、その穴埋めってとこかな」
「エドはいくつなの?」
「二十四」
ふう、と彼は息をはいて、背広の内ポケットからオレンジ色の箱をひっぱりだし、タバコの先にマッチで火をつけた。チャーミナーという、インド産の比較的安い銘柄だ。
「インドは暑いな。これまでは、ずっと涼しいところにいたから、この暑さはこたえるよ」
「いままでどこにいたの?」
「フィンランド」
「まあ、ほんとうに北のほうなのね」
パティは感心した。フィンランド……。地図でしか知らない国だ。
エドワードの指先から、苦くて辛《から》いタバコの匂いがこぼれて流れていった。それが、なんだかだれかの秘密を知ってしまっているようで、パティは胸がどきどきした。
(知っている匂いなのに、知らない国のかおりがする……)
それは、エドワード自身に、パティの知らない北国の匂いが混ざっていたからだろうか。
だから、自分でも知らないうちに、誘いをかけていた。
「ねえ、エド」
「なんだ」
「いつまで、インドにいるの? 明日も、会える?」
エドワードが、驚いたようにパティを見る。
「逢いたいの」
――ロンドンタイムスの記者エドワード=ソーントンは、それからもちょくちょくバローダの王宮へ遊びに来た。
外の世界を飛び回ってきたという彼のもたらす知識は、ろくにインドの外に出たことがないパティにとって、なにもかもが新鮮で魅力にみちていた。
とくに、パティを喜ばせたのは、エドワードが青春を過ごしたという、パブリックスクールでのエピソードだった。
「言っとくが、お茶会つっても、おまえさんが想像するような優雅なものじゃないぞ」
と、乙女の夢を打ち砕くようなことを、エドワードは言った。
「あら、そうなの?」
「単に、棟ごとの監督生《プリーフェクト》同士が、最近いじめはないか、変わったことはおきていないか情報を交換するときに、茶を飲めるってだけだ。その際に、いつからか、ラグビーで点を入れたり、味方にナイスアシストしたものが、特別にここでおやつを食べさせてもらえるようになったってわけ。
ま、あとは、ファグマスターによくしてもらったりとかだな……」
「ファグって?」
「入学したての初級生がいじめられないように、最上級生が自分の被保護者を作るんだ。それをファグっていう。ファグを作った上級生は、ファグマスターって呼ばれる。ファグはマスターの靴を磨いたり茶をいれたりするかわりに、上級生に守ってもらうんだ。その関係は、上級生が卒業するまで続く。意外と自分のマスターと同じ大学に行くやつは多いんだぜ」
「まー。それって、とっても素敵!」
パティは、手をたたいてはしゃいだ声をあげる。
すると、エドワードは怪訝そうに顔をしかめた。
「素敵? ファグがか。マスターにいいようにこきつかわれるんだぞ?」
「だって、だれかのただ一人になるなんて、素敵なことじゃない。よーし、決めた。私のやりたいことリスト≠ノ、素敵なお姉様のファグになるって項目をつけくわえるぞう」
そう言って、胸元にぶらさげた大きめのロケットから、ごそごそと折りたたんだメモを取り出す。
「それは?」
その一枚のメモ用紙は、パティが女子校に入ることができたら、ぜったい叶えたいと思っている項目を書き連ねた、やりたいことリスト≠セった。
「忘れないように、スクールに入ったらやりたいことを全部メモしてあるの。ええとまず、ブロンドの友だちをつくることでしょ」
エドワードは、なんだそんなことと言わんばかりに肩をすくめる。
「そんなの、息をするより簡単にできる」
「だといいわね。次は、真夜中にクッキーをかじること。バレンタインカードを書くこと。友だちと、好きな男優について話すこと……、映画を観ること。売店でレモネードを飲むこと」
「なんだか妙なことばかりだな」
「いいのよ。それが大事なんだから。それから……、それから、ハロウィーン!」
「ハロウィン?」
エドワードは、ううんと眉をしかめて、
「残念ながら、ロンドンじゃガイ・フォークスのほうが主流だな。かぼちゃのランプを持ってお菓子を強奪しに行きたければ、もっと| 上 《アイルランド》のほうに行くか、アメリカでなきゃ」
「ロンドンには、ハロウィンはないの?」
「ないわけじゃないが、ガイ・フォークスのが盛大にやるな」
「それって、どんなことをするの?」
「ばか騒ぎっていうなら、変わらないんじゃないかな。ガイ・フォークスの人形を痛めつけて最後に火をつける」
なーんだ、とパティは肩をすくめる。
「ガイ・フォークスって、ホーリーよりも野蛮じゃない」
「かもな」
顔を見合わせた瞬間、自然とぷっと笑いが吹き出した。
「なんなら、今度ロンドンに戻ったときに、ガイ・フォークスの写真を撮ってくるよ」
彼は、カメラを片手で持ちあげながら、そう言った。
いつも、彼の首にぶらさがっている、使い込まれた感じのするカメラ……
それは、パティがエドワードを一目で気に入ってしまった理由のひとつだった。
私の、夢。
いつか新聞記者になって、世界中をとびまわりたい。――その夢を、彼は叶えた人なのだ。あこがれのパブリックスクールを出て。
「ねえ、それライツ社のVaでしょ」
パティが、すぐさまカメラの機種を言い当ててみせると、彼は驚いた顔をした。
「詳しいな」
「私も、写真を撮るのが趣味だもの。ね、フィルムは何を使ってるの?」
「コダクロームだ」
と、彼は言った。
「まるで、景色が吸い付いたように映し出される。絵に湿気を感じられるのが好きでね。以来ずっとこれだ」
その言葉から、彼がどれほど写真を撮ることを愛しているのか、自然と感じられた。
「じゃあ、あの初めて会った日も、本当に王宮を撮るつもりだったのね」
「ああ、あの小麦色の|ラクシュミー・ヴィラス《バ ロ ー ダ 王 宮》は、インド一の美女だ。満月に浮かび上がるマハラジャ・パレスなんて、最高だね」
「エドは建築が好きなのね。新聞記者だっていうから、スクープばっかり撮ってるのかと思っちゃった」
それも、もちろんある。と彼は言った。
「でも、写真を撮って食っていけるんだから、新聞記者だって悪くない。俺は大学の専攻が建築でね。――サラセン様式って知ってるかい?」
「ううん」
「つまり、イスラム風とヒンドゥ風を足して二で割ったような感じだな。それがサラセン様式。それに、あのバローダ王宮なんかは、見たところイギリス風やフランス風まで取り入れている。それでいて、妙な統一感があるだろう」
「足下は、ペルシャ絨毯《じゅうたん》なのにね」
「ようはなんでもありってことだ」
はじめて声をたててエドワードは笑った。パティより十くらいは上だというのに、笑うと弟と変わらないような気がする。
「まあ、その、恥ずかしい言い方をすると、人間もそんなふうになれないもんかとね、思ったわけだ」
「人間も……?」
「なにをかくそう、俺自身がそのサラセン」
ぐいっと自分のほうを指さして言う。
「俺の父方の祖母がペルシャ人だった。祖父はイギリス人で、母はインド生まれのポルトガル人。だから、半分はインドでできてる」
パティはまじまじとエドワードを見た。
「あなたって、インドの人だったの。ぜんぜんそんな風に見えないわ」
「混じりすぎたら、よくわからなくなるの典型だな。俺自身はイギリス生まれのロンドン育ちで、なによりホーリーを知らなかったんだから、インド人の資格はない」
そう言って、彼は、| 懐 《ふところ》から何枚もの写真をとりだして、パティに見せた。
「いま、インドは大変な時期だろう」
「ええ、……そう、そうね」
「けど、独立だとはやるのはいいが、国家のはじまりには途方もない金が必要だ。俺には、あのすばらしいマハラジャのパレスや白亜のタージマハルが、取り壊されるのはいたたまれない」
「タージマハルが、取り壊されるですって?」
そんなことは寝耳に水だった。あのインド一美しいといわれる王妃の廟《びょう》と、独立戦争がなぜ関係あるのだろう。
「イギリスのヨーロッパ戦線のツケで、インドはますます貧しくなる。独立しようってならなおさらだ。本当に貧しい人々が、タージマハルの壁から金箔《きんぱく》をはがしても、俺はしかたのないことだと思う」
だから、そうならないうちに、できるだけたくさんの建築物をカメラで撮ってしまいたいんだ、と彼は言った。
「――インドも、このバローダの王宮のようになってしまえばいいのにな」
と、彼はひとりごちるように言い、
「インドが?」
「そうさ。いっそ。みんな、サラセンになっちまえばいい。ヒンドゥとイスラムに英国が多少混ざっても、きっと、それでもたしかに美しいものはできるんだ。そう思わないか?……」
ヒンドゥとイスラムに英国が混じっても、きっと美しいものはできる――
それは、パティの心に驚きと金色の粒のようなきらめきをともなって響いた。
(この人は、英国人のくせに、なんて素敵なことを言うんだろう)
英国人なのに……、イギリスはインドを支配している目の上のこぶのような存在なのに、インドの失われゆく文化財について、エドワードがなによりも心を痛めているのが、パティにも伝わってくる。
それらを、真摯《しんし 》に守りたいと思っていることが。
(どうして)
パティは、草の上で気持ちよさそうに昼寝をはじめているエドワードの横顔を眺めた。
(どうして私は、それが、こんなにうれしいんだろう……)
「そういうのって、とても素敵ね」
パティは、意図せずにそうつぶやいていた。
「素敵だって?」
「ええ、やっぱり写真は素敵だなって、そう思ったの」
と、パティは言った。
「モダン・ガールの国からきた人にはわからないかもしれないけれど、インドの女性は、一生パルダーと呼ばれる幕の中で、人目をさけながら暮らすの。まるで腫《は》れ物《もの》みたいに扱われて、けっして人の前には出てこない。だから、写真を撮るなんてとんでもないわ」
ふうっと、長い息をはく。
「なるほど、マハラーニの写真が少ないわけだ」
「そうよ。高貴な女性ほど、写真を嫌っているものね。
私、写真に出会って、わかったことがあるの。写真は強いんだって。だって写真って、ぺらぺらの、ただの紙切れのはずなのに、そこには人の手が加えられない強さがある。
私も、こんなふうになりたい。私は、弱くない。たったひとりの、女性の立場の弱い国で生まれたただの子供だけれど、やれることがある。ぺらぺらで、うすっぺらくても、一人は決して無力ではないのだって。
私はそのことを、証明したいの。私のこの人生をかけて――」
ふつう、十四の子供がこんなことを言い出したら、男の人は驚いて顔をしかめるか、奇妙な顔をするだろう。
けれどエドワードは、そのどちらとも違っていた。
意外なことに、彼は、どこか懐かしいものを思い出すような、愛しい人に向けるような目で微笑《ほ ほ え》んだのだった。
「そうだな」
その瞬間、
どおん、と。
パティの胸の中で、あの日祖父が見せてくれた、バローダの金の大砲がたしかに大きく鳴ったのだった。
(ああ、だめだ)
パティは、目をカメラのファインダーのようにして、エドワードの顔を胸に焼き付けていた。
こんなふうに、やさしくされて。
自分の愛する国や、景色をこんなふうに愛してもらえて、
どうして、そのままなにもせずにいることができるだろう。
(――できない)
エドワードを、好きにならずにはいられなかった。
それがけっして、届かない、
けっして、叶わない想いだとわかっていても……
それから、一年が経ったころだった。
その頃エドワードは、徐々に緊迫感を増すインドの情勢を知るため、単身でインド中を飛び回っていた。
二人の秘密の文通は続いていた。パティの元には、彼の撮った写真だけが、なんのメッセージも同封されず(検閲《けんえつ》されるのを恐れたため)送り届けられた。
そうして、ごくたまに彼が休暇をもらえる日があると、バローダに行く≠ニいう意味のラクシュミー・ヴィラスの写真が送られてきた。
内部では着々と婚儀の準備が調《ととの》えられているにもかかわらず、パティは、彼に、どうしても婚約のことは言えなかった。それに、たかをくくっていたのもある。エドワードは新聞社の人間だ。パティの口から伝えなくても、だれよりも早く、自分の婚約のことを知るに違いない。
そして。
最後に逢ってから半年たったころ、エドワードは本社のあったカルカッタからボンベイに行く途中にバローダに立ち寄ってくれた。
逢うなり、彼は単刀直入に言った。
「――結婚、するのか?」
そのとき、なぜかエドワードは、かつてなく真摯な面持ちでいた。
パティは息をのんだ。ついに、彼女がハイデラバードのニザムの息子と婚約していることが、| 公 《おおやけ》になったのだ、そう感じた。
「……え、ええ」
「そうか」
するとエドワードは、彼にしては珍しく、言うか言うまいかというようにたっぷりと言葉に迷った末、パティにこう切り出した。
「来年、アメリカに行くことになったんだ。ボストンの支社に欠員が出てね」
そうして、パティに向かっておずおずと手を伸ばした。
「いままでは、一人でなんでもやってきたけれど、なんでもやれると思っていたけれど……」
と、彼は言った。
「今度の旅には、君を連れていきたい」
「え……」
「難しいことを言っているのは承知だ。でも俺は、君といっしょにいたい。君はそうじゃないのか、パティ」
心臓が、止まったかと思った。
「――愛してるんだ」
胸の中で、金の大砲が鳴っていた。
(そんなこと、できるのだろうか)
[#挿絵(img/02_033.jpg)入る]
パティは、珍しく迷っていた。
私に、できるのだろうか。
すべてを、捨てて。
この美しいラクシュミー・ヴィラスを、バローダを、クジャラートの人々を、
そして、愛する家族を捨てて。
エドワードと、行けるのか。
いま得たばかりの、たったひとつの、愛のために――
一九四〇年、一月十四日。
バローダの王女、クリシュナ=パドマバディ=ガエクワッドは、一つの決断を下す。
それは、インドがいまだ冷たいヒマラヤの息吹につつまれている、
まだ、春を待つ日のことだった……
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第二話 〜二十一発の祝砲とプリンセスの休日〜
――あの夜から、ときどき夢に出てくる人がいる。
「俺は、きみの特別製だろ」
そう言って、ブーゲンビリアの花陰で微笑《ほ ほ え》んだ少年。
アチュカンというインドの上着を身につけ、鮮やかなスパンコールのきらめく帯をたすきがけにして、バルコニーの柵に座っていた……
どうしてあなたのことばかり、何度も夢に見るんだろう。
あなたが、命の恩人だから?
それともアムリーシュ。ほんとうにあなたが、わたしの義弟《おとうと》だから……?
「おはよう、シャーロット」
アールグレイのような囁《ささや》きが耳をくすぐって、わたしはベッドの中で目を覚ます。
「いい子だから起きて、朝よ」
――いい声。
その声があまりにも耳に心地よいので、わたしは朝の光にちくちくと瞼《まぶた》を刺されていたにもかかわらず、いつも、もう一度安らかな寝息を立てそうになるのだった。
しかし、
「起きないと、今日の四階の見回りは、鬼のベリンダよ」
「ぎゃひっ!?」
思いもかけない禍言が耳に飛び込んできて、わたしはシーツをけっ飛ばすようにして起きあがった。
すぐ目の前に、ルームメイトのあいかわらずうっとりするくらい綺麗《き れい》な顔がある。
まるで、本物のオニキスのような二粒の瞳《ひとみ》。
すっきりとした輪郭に、彫りの深い鼻梁《びりょう》、そしてつややかな黒髪。そして、薄い色の唇。
ルームメイトのカーリーガード=アリソンは、花のように艶《あで》やかににっこりと笑った。
「おはよう、シャーロット。今日も、すてきな朝よ」
「す、すてきな朝はいいんだけど、カーリー、今日の見回りがハウス長ってほんとう!?」
わたしは半泣きになりながらベッドを下り、洗面台の上のボウルに、顔を洗うためのお湯を流した。わたしたちハウス生の朝は、メトロンや従僕が用意するこの身支度用のお湯を、部屋に引き入れることから始まる。
朝、先に起きたものがドアを開け、ボウルに重ねてあるお湯の入ったピッチャーを洗面台まで運ぶ。水道が各部屋にまで引かれていないので、朝の身支度はこのお湯だけでやるしかない。二人部屋ならこれでも十分だが、下級生の六人部屋では、毎朝|熾烈《し れつ》なお湯とり合戦がくりひろげられているはずだ。
薔薇《ばら》の香りがするソープで手早く顔を洗って、鏡を見る余裕もなく制服を探す。ブラウスはどこ、わたしのブラウスがない。エメラルド色をした芝生《しばふ 》とおなじの、ヴェルヴェットのワンピースもない!?
「昨晩は寝押ししたでしょう。シャーロット、忘れたの?」
「そ、そうだった」
わたしは、あわててベッドパットをひっくりかえして、アイロンをかけるかわりに寝押しをしたワンピースをひっぱりだした。
鏡をのぞきこんで、軽く血の気が引く。
「うわああん、どうしよう。髪の毛が爆発してるよう」
「シャーロット、早くブローチを着けて。ベリンダが隣の部屋まできてる」
ドアのところから顔を出して、カーリーが実況中継してくれる。わたしはろくにブラシも入れられないまま、髪にリボンを結んだ。
ピッチャーのお湯を流しに流し、ボウルごとドアの外に出して、急いでリネン類をまるめて外のバスケットにつっこんでしまう。今日の学課に使うフランス語の教科書が見つからない。ああ、朝食室から戻ったら探さないと。
わたしが、教科書を縛る革のベルトを片手に、部屋の中をうろうろしていたときだった。
「四〇一号室、ミス・アリソン。ミス・シンクレア!」
まるで、馬の胴にくれる鞭《むち》のような声がして、わたしはびびりあがった。
(出た!)
戸口にチェックノートを片手に立っている見慣れた顔を見て、わたしは定規よりもまっすぐに背筋をのばした。
ベリンダ=フランセス=シュミット=マノワ。
ここオルガ女学院の、最上級プリーフェクト。
この学院では、プリーフェクトの中でも特に優秀な学生がハウス長(寮長)を兼ねるので、彼女は、正真正銘この学院の最高権力者というわけなのだった。
「おはようございます。ミス・シュミット!」
いつもの見回りプリーフェクトにかける倍ほどの声で、わたしはあいさつをした。あのヴェロニカに噛《か》みつくことはできても、このハウス中が恐れている最上級生にたてつく勇気はない。まったくない。
「おはようこさいます」
そうクールに言って、ミス・シュミットは静かにノートにペンを走らせた。
この学院でもっとも美しいフランス語を話し、英語・ヒンディ語の三か国語を完璧にあやつる才女であるベリンダは、この、身の回りに漂う冷ややかな雰囲気から、ミス・クールとも呼ばれている。
ふと、わたしの首元に視線を走らせる。
「ミス・シンクレア。女王陛下のお顔が曇っていますよ」
「あ……」
言われて、わたしは、はたと首元のブローチに手をやった。
わたしたちの制服には、このハイネックの首元にカメオのブローチを着けるのがきまりだ。このブローチは、その昔、学院長がインドへいらしたヴィクトリア女王に教育制度についてお言葉をいただいたことに由来しているのだという。
「自分の身につけるものは、できるだけちゃんと手入れをなさい」
「わ、わかりました」
わたしは、がっくりと肩を落としてしょげかえった。昨日の晩、明日はベリンダが見回りに来るという情報をミチルからもらって、今朝のために万全の準備をした。制服の寝押しもして爪も磨いて、完璧だと思ったのに……
案の定、ベリンダはノートに「Y」と書き込んだようだった。これは、悪いこと≠ニいう意味で、これがいくつ溜まるかによって、週末に罰が告げられる。
ここオルガ女学院では、パブリックスクールと同じく毎週、日曜の礼拝のあとに、このY≠フ数がハウス長によって読み上げられることになっていた。
(ううっ、またYが増えちゃった)
日頃からこのY≠ェ溜まりまくっているわたしとしては、今日こそはチェックなしで通過したかったのだったが……
さらに、ベリンダが言った。
「ミス・アリソン。制服の裾をもっと出しなさい。背が伸びているのでしょう、そのままでは少し、短すぎます」
「は、はい。ハウス長」
わたしは、きょとんとカーリーを見上げた。
品行方正なカーリーが注意を受けているのを見たのは、転入してきてはじめてだったから。
言われてみれば、カーリーは背が伸びているかもしれない。出会ったときからわたしより少し高かったけれど、ここ半年でずいぶん縦長になってしまった気がする。
「いいでしょう。二人とも、朝食室へお行きなさい」
「ありがとうございました!」
ミス・シュミットの許しを得て、わたしたちは一階の朝食室へ向かった。朝食室の入り口に、見慣れた顔が立っていた。先年の秋から新しくわたしたちの学年のプリーフェクトになった、ミチルとヘンリエッタだ。
「おはよう、ミチル、ヘンリエッタ!」
わたしは、階段の上から彼女たちに手を振った。
――一九三九年、九月三日、イギリスがドイツに宣戦布告したのをかわきりに、ヨーロッパでは次々にナチス・ドイツによる戦火が立ち上りつつあった。
ここオルガ女学院に娘を通わせている父兄の中にも、インドが争乱に巻き込まれることを恐れ、スイスやアメリカなどに娘を避難させるものも多くいた。
そうやって学院を去っていったものも少なくなく、ミチルとヘンリエッタはその穴埋めとして、新たな学年でプリーフェクトに任命されたのだった。
プリーフェクトの仕事はたいへんだ。ジュニアクラスの面倒にはじまって、バザーの準備やその他、寮内の問題事を解決しなければならない。
なにより厳しいのは、朝の見回りのためにわたしたちより三〇分早く起きなければいけないということだった。
(いまでさえ、遅刻ぎりぎりだっていうのに、三〇分も早いなんて)
早起きが苦手なわたしなど、想像しただけでもゾっとする。
「おはよ。シャーロット。で、どうやった、ベリンダお姉様の洗礼は」
「カメオが曇ってるって言われた」
ぷうっと頬《ほお》をふくらませたわたしに、ヘンリエッタがうふふと笑いかける。あいかわらず、ふわふわのスコーンのようなかわいらしい雰囲気の女の子だ。
もっとも、同室のミチルに言わせれば、スコーンはスコーンでも、毒が入っているらしいのだが……
「それくらいで済んでよかったやん。昨日の初級生なんか、ブーツのつま先に艶《つや》がないって、朝もはよから靴磨きさせられたって」
んで、Y≠ェ三つ……、とミチルが指でYの字を作ってみせる。
わたしは、げええ、と心からその初級生に同情した。
「うわあー、初級生なんて入ったばっかりなのに、かわいそう」
「やろ? いったいあの鬼のハウス長のファグ≠ノはだれがなるんやろうなって、いまから中級プリーフェクトの間で賭《か》けがはじまってるねん。ファグになったらなったでいじめには遭わなくてすむけど、あれを一生のお姉様にするにはなあ……」
ああ、とわたしは頷《うなず》いた。
ファグ、というのは、特定の上級生につく従僕のような初級生のことだ。
学校という集団生活においては、どうしてもいじめや疎外《そ がい》といった問題が出てくる。そんな中で、必要以上にいじめられたり仲間はずれがおきたりしないように、最上級生が最下級生を守ってやるのだ。
しかし、なにかあったら自分のマスターの名前に守られるかわりに、ファグはマスターへ奉仕しなければならない。
朝は早く起きて彼女のためにお茶をいれたり、靴磨きやアイロンかけなど、まるで侍女のようにつきしたがわなければならないとされている。
ホームでは、もう廃止されつつある古いしきたりのひとつだったが、イートンのような古いパブリックスクールには、まだまだこのファグ制度というのが残っているといわれていた。
もっとも、このファグは最上級生が卒業したあとも縁がつづくことが多く、イギリスの首相が、スクール時代のファグを秘書に使っているといった例もあるとか。
人の縁というのも、さまざまである。
「おはようございまーす!」
声をかけて朝食室に入ると、すでにプリーフェクトのチェックを受けた同じミドルクラスの生徒たちが、膝《ひざ》の上にナプキンを広げて食事を待っていた。
もう春も近いとはいえ、二月も半ばに入ったばかりの北インドでは、一日中暖炉があかあかとしているくらいに寒い。
「ファグかあ、もうそろそろ、初級生は最上級生のシュミーズを縫《ぬ》わされるころね」
いなくなった席がつまって、隣同士になったヘンリエッタが、こっそりとわたしに言った。
「あら、ヘンリエッタにもマスターがいたの?」
「うん。わたしは四年生のときからここにいるから、入ったばかりのころにプリーフェクトだった人のファグになったの。なにせ十近く歳が上だから、わたしにとっては神様よりも怖かったわ。
おもしろい人でね。自分の顕微鏡を持っていて、ときどきわたしにのぞかせてくれたの……」
と、なぜかうっとりと言う。
「け、顕微鏡……って、あのお医者さんとかが持っている?」
「そう。今はソルボンヌを出てパリで画家をしてる。顕微鏡で見える世界をスケッチしたり、油絵に描いてしまうような人でね。卒業のときに、わたしに特大のエシェリキア・コライの油絵をくれたの」
「……エシェリキア・コライってなに?」
その舌を噛みそうな名前に、わたしは怪訝《け げん》に言った。フランスの女優さんかなにかの名前だろうか……
ううん、とヘンリエッタは首をふった。
「大腸菌の学名」
「だ、だいちょうきん!?」
わたしは、せっかく苦労して噛みきったパンを噴きそうになった。
とたんに、王様席に座っているヴェロニカにじろりと睨《にら》まれてしまう。
「ああ、朝から騒々しいこと。いやあね」
「うぐ」
わたしはなにか言い返そうと思いながらも、ナプキンを握りしめることでぐっとこらえた。
たしかにだいちょうきん≠ヘ、さわやかな朝の食卓の話題にふさわしくないだろう。
と、そのとき、チリリンというテーブルベルの音がした。みんなが音に惹《ひ》かれて顔をあげる。
「みなさん、いまから配送物を配ります」
今朝、わたしにY≠付けてくださったハウス長さまが、手紙の束を手にして長いテーブルの先に立っていた。
今日は、週に一度の手紙の日だ。それと同時に月一度の船便が届く日でもあるので、みな両親からの差し入れがないか、朝からそわそわしている。
(ということは、今日の談話室の差し入れは豪華だろうなー)
わたしはすっかり、人様のお菓子をいただくつもりになっていた。どうせ、継母《ままはは》のヘレンからはなにも届いていないに決まっている。
わあっという歓声があがったので、わたしは慌てて顔をあげた。テーブルの前に、たくさんの木箱が積み上げられているのが見える。みな、ボンベイの総督だというヴェロニカの両親から送られてきたものだ。
ヴェロニカは得意そうに、テーブルを見渡した。
「みなさま、よろしかったら今日の午後は、わたくしの特別室でお茶をしませんこと。わたくし、アメリカのお母様に新しいお洋服を送ってくださるよう、お願いしましたの。きっとアントニオ・マッテイのカントゥッチも入っていると思いますわ」
だれかが、やった!と手をたたく。
「イタリアのビスケットだって」
どの顔も、めずらしいものが見られる、という期待に満ちあふれていた。みんな、あの木箱の中に、特別なお菓子やシルクのドレスが詰まっていることを知っているのだ。そして、ヴェロニカにおべっかをつかっていれば、そのおこぼれにあずかることができることも。
そんな中で、ハウス長のベリンダだけは顔色も変えず、ほかの学生たちに手紙を配っていく。
「ミス・モーガン、一通届いています」
案の定、わたしの後ろは素通りされてしまった。期待をしていたわけではないけれど、なんとなくがっかりしてしまう。
(ルーシーおばさまは、そろそろ手紙をくれると思ったんだけどな)
その叔母のルーシーとも、例の客船から飛び降り事件があってからは、なんとなく疎遠になってしまっていた。それもそうだろう、わざわざ心配してロンドンから迎えにきてくれたのに、最後の最後になってそれを無下《むげ》にしてしまったのだから……
わたしはどこかしょぼんとなって、すっかり息切れしてしまっている紅茶のカップを口へ傾けた。
そのとき、
「うげえ、ダッドのやつ、まだ懲《こ》りてなかったんか!」
わたしの大切な友人、ミチル=マーマデューク=モナリが、レディにあるまじき台詞《せ り ふ》を吐いた。
「ミチル、お父様がどうかしたの?」
「いや、うちのダッドやねんけどな。あの人、ただ今インド放浪中やねん」
「放浪って、モナリ氏が!?」
わたしは、紅茶カップを皿から浮かせたまま、斜め前の席に座っているミチルを見つめた。
日本人の両親をもつミチルは、世界的に有名な服飾デザイナー、クロード=モナリ氏の養女で、この学院へは、男親では教えられないこと(モナリ氏は永遠に妻を持つことがない趣味なので)を学ぶためにきているという。
「そういえば、ミチルってどうしてわざわざインドの学校に来たの?」
わたしは、つねづね思っていた疑問を口にした。
「パパといっしょに世界中を飛びまわっていたなら、もっとほかに学校もあったでしょうに」
「それや、それ」
がっくりとミチルは肩を落とす。
「あのな、話せば長いねんけど、うちのダッドって男が好きやんか」
「ぶっ」
あまりにも単刀直入な言いように、ミチルの近くに座っていた女の子たちも、一様に顔を強ばらせる。
「そ、そうね。そんなこと、言ってたっけね」
「一年ほど前に、インド人のパートナーに振られてなあ。あきらめきれへんで、インドまで追っかけてきよってん。それで、うちもインドに来ることになったわけで。デザイナーのクロード=モナリが、恋人を追ってインドを放浪してるって、パリではもっぱらの噂《うわさ》やってんで。ああ、元気そうやわ。マイソールのパレスといっしょに映ってる。ほら」
同封されていた写真には、すっかり日焼けして色黒になったミチルの養父、クロード=モナリ氏が、のんきな|V《ブイ》サインとともに映っていた。
(へえ、これがミチルの××なパパなのね……)
彫りの深いギリシアの彫刻のような顔に、南国的な黒の髪と西洋風の青い瞳が同居している。こうしてみるとなかなかの紳士だった。
ただし、
(なに、この服)
着ている服が、ズルズルした仏教の僧侶の格好でなければ……
「ごめんな、やりたがりの変態やねん」
はずかしそうにミチルがそう謝った。
『ミチル、元気かい。パパがいなくて、さみしくないかい』
ミチルへの手紙は、愛情のにじみでた親しげな言葉で占められていた。
『愛しい僕の娘、もうすぐ君と一緒にいられるようになると思う。そうそう、今度の休暇にはきみの母国へ行こうか。そろそろカリーパンが恋しいころだろう?』
(カリーパン?)
わたしは、首をかしげた。
カレーは、インドの香辛料を混ぜて作った茶色いスープのことだと知っていたけれど、ここに書かれてあるカリーパンっていったいなんだろう。
と、そのとき、
「ねえ、みなさま。そういえばお聞きになった?」
場の注目をミチルにもっていかれておもしろくないのか、ヴェロニカがテーブルについているみんなに話題をふった。
いままで、ミチルのほうばかり見ていたクラスメイトたちが、いっせいにヴェロニカに注目する。
みんなの視線を集められて満足したのか、彼女はもったいぶった口調で、
「なんと、ハウス長であられる、我らがベリンダお姉様が、今度タタ財閥の御曹司《おんぞうし 》と結婚されることが決まったんですって」
「ええっ」
驚きのあまり、わたしは、スプーンに山盛りにしたマッシュポテトを、ぼたっとテーブルクロスの上に落としてしまった。
あわてて、まるで、なかったかのごとく自分の膝の上のナプキンに落とす。
「は、ハウス長、結婚しちゃうんだ」
「いつのまに婚約してたの」
「やっぱり、戦争がはじまったから……」
「じゃあ、学校やめるのかしら。卒業まで、あと一年なのに……」
ざわざわとひそひそが、寄せて返す波のようにテーブルの上をいったりきたりしている。わたしも興味津々で、マッシュポテトを靴に運ぶのも忘れて、聞き耳をたてていた。
「タタ財閥は、わたくしのお母様の会社とも取引がありますの。最近アメリカ資本にきりかえてから業績も好調ですしね。ベリンダ様のお家は、家柄はよろしいけれどたいした財産はお持ちでないから、とてもよいご縁だと思いますわ。この間も、フランス貴族のお母様がお持ちになっていた、インド産のダイヤモンドのネックレスを手放されていたようですし」
わたしは、まじまじとヴェロニカの顔を見た。
(そ、そんなことまで知ってるなんて!)
さすが歩く社交図鑑。ハウス長の家の財産状況まで把握しているとは、やはりヴェロニカはただものではない。
「ねえ、カーリー。ハウス長が結婚するんだってね」
午後一時までの学課を終え、午後の自習時間に予習室でカーリーと向き合いながら、わたしはそんなことを言った。
アフタヌーンティーや、バザーの準備がないかぎり、午後は簡単なスポーツや自習の時間になる。
わたしたちミドルクラスの午後は、次のフランス語の課題を読んだり、知っておかないと恥になる古典の戯曲集に目を通したり、めいめいが自由に過ごすことが多かった。
ほかにすることがない午後の時間、わたしはカーリーにヒンディ語を教えてもらうようになっていた。
インドには、さまざまな宗教があると同時に、さまざまな言語がある。その中でもっとも庶民達に広く使われているといわれているのが、このヒンディ語だった。
「パンダリーコット国は、ちょうどラジャスタンと言われる北部と、クジャラートと言われる西部の真ん中にはさまれているの。ラジャスタンはラジプート族といわれる民族が、クジャラートはクジャラート族がいる。それぞれの氏族は、それぞれの言語を持っているのよ」
と、カーリーはわたしに説明してくれた。
「カーリーは、どこの人なの?」
「わたしは、クジャラート人。だから、クジャラーティを使う」
それでも、ヒンディ語さえできれば、ほかの言語の習得も楽になるというカーリーの助言に、わたしは一念発起して、ヒンディ語を勉強することを決意したのだった。
――わたしの書いたものを添削《てんさく》していたカーリーは、あいかわらず端正といえる顔をちょっとあげて、目を細めた。
「結婚?」
「うん。するんだってね。タタ財閥の御曹司と」
わたしは、椅子の上であーあと背伸びをした。
「学校に行っている間に婚約する子が多いって聞いてはいたけれど、こんなに身近にいるなんて、ちょっとどきっとするわよねえ。そっかあ、わたしたちも、もうそんな歳なんだ」
わたしは、まだ十五になったばっかりだけれど、今年にはもう十六になる。十六といえば、本国でも婚約してもおかしくない歳だ。
「わたしも、いつか結婚するのかな……」
わたしは、ぽつりと言った。
「でも、無理かな。わたし、男の人に触られるとくしゃみが出るし……、だれもわたしなんか好きになってくれないかも。ねえ、カーリー」
「そ、そんなことない!」
いきなり、目の前でカーリーが勢いよく立ち上がったので、わたしはびっくりした。
「どうしたのカーリー?」
「い、いえ、なんでもないの……」
彼女は、わざとらしくコホンと咳《せき》をしながら椅子に腰をおろした。
「でも……」
「ん、なに?」
「参考までに聞いておきたいわ。シャーロットは、将来どんな人と結婚したいと思ってるの?」
カーリーが、至極《し ごく》真面目な顔で聞いてきたので、わたしはううんと顔をしかめた。
どうしてだろう。
カーリーが、すごく真剣だ。
すごく。
「わたしの好みなんて聞いて、いったいなんの参考にするの?」
「いいから、あくまで参考よ」
強引にそう言われて、わたしは首をかしげた。
「ええとそうね……、歳は、あまり離れてないほうがいいかな」
「ふうん、そう」
キラリ、とカーリーの目が光った……ような気がする。
「たとえば……、ひとつ年下≠ネんか、はどう」
その目には、有無を言わさない迫力があった。
「と、年下?」
「そう、年下」
「そうねえ。ひとつくらいなら、気にしないかも」
なぜか、カーリーが小さくガッツポーズをする。
「カーリー?」
「気にしないで。じゃあ外見とかはどうなのかしら。背とか髪の毛の色とかは……」
「外見、ねえ」
わたしは、口元に指をあてて考え込んだ。
「背は、わたしより高かったらいい、くらいかな」
気のせいか、カーリーがぐっと背筋をのばす。
「……………………牛乳、小魚、たまご、かな」
「???」
顔をしかめたわたしにかまわず、カーリーはぱらりとノートをめくった。
「それで、それから?」
「髪の毛は、わたしがこんなたんぽぽみたいだから、茶色か黒がいいな。でも、あんまりこだわりはないの。やさしくて、浮気しない人なら」
「ふむふむ」
「あとは、そうね。結婚したら、そんなに大きくなくていいから、お庭のあるおうちに住みたいわ。そこでハーブを植えて、大きな犬を飼って、お天気の日には旦那《だんな 》さまとお庭でスコーンを食べるの」
「なるほど、大きな犬と、庭ね……」
彼女は、わたしの言うことをいちいちメモをとっているようだった。
「それから、お休みの日は日傘をもってピクニックに行くの。キュリー夫妻が行ったみたいに、自転車で新婚旅行なんてのも素敵ね」
「自転車、で、新婚旅行、と……」
「それに、パパ・ウィリアムみたいに遠いところに出張に行ってしまっても、手紙が書けるように、タイプライターが欲しいわ」
わたしは、カーリーの手元をのぞき込んで言った。
「ねえ、ところで、どうしてカーリー、メモとってるの」
カーリーはすっくと顔をあげると、わたしに向かってとても真剣なまなざしで言う。
「大事なことだから」
「大事なこと?」
――あ、とわたしはさらに思いついた。
「そうだ、お庭には池があるともっといいかも」
庭に池、とカーリーがノートに付け加える。
「わかった。庭に噴水がほしいのね」
「違うわよ、カーリー。池があったらお庭でナッピーが飼えるじゃない」
その瞬間、わたしの見間違いでなければ、カーリーは言葉に言い尽くせないくらい邪悪な顔をして、ちっと舌打ちしたのだった。
[#フォント変更]「やっぱり、この前のクリスマスに食っちまえば……」[#フォント変更終わり]
ヒンディ語だった。
ものすごくいやなことを言っているような気がして、わたしは顔をひきつらせた。
「……い、いまなんて言ったの、カーリー」
「なんでもないわ、シャーロット。気にしないで」
気にしないでと言われても、気になるものは気になる。
どうしてだか、あのわたしを助けてくれた勇敢《ゆうかん》なアヒルのナッピーとカーリーは、凶悪なまでに相性が悪いのだ。
しばらくして、彼女はぱたん、とノートを閉じると、
「よく、わかったわ」
カーリーは、いつものうっとりするくらい綺麗な微笑みでそう言った。彼女は、なぜかにこにこしてすこぶる機嫌がよかった。
「私、うんと努力して、庭がある家で自転車とタイプライターと大きな犬を飼えるようにするわ。シャーロット」
「う、うん?」
[#フォント変更]「あのクソアヒルは、もれなく石を抱かせて池に沈めるけど」[#フォント変更終わり]
「???」
そのとき、
「大変や、シャーロット、カーリー。たいへんや、大変やで!」
階下からだれかが荒々しくかけあがってくる音が聞こえた。
あの妙ななまりのある英語は、ミチルの声だ。
おざなりなノックに続いて、血相を変えたミチルが、そしてヘンリエッタまでもが飛び込んでくる。
「のんきに勉強してる場合やないで、大変や、一大事やで!」
「ど、どうしたの、ミチル。ヘンリエッタまで」
たしか二人は、今日の午後は、ミドルクラスの代表として教会の掃除に出かけていたはずである。
「この学院に、転入生が来たの!」
ヘンリエッタが息継ぎをしながらそう言った。それも、よほど急いでいたのか、彼女はまだ手にほうきを持ったままだ。
「転入生って、いまごろ?」
わたしは言った。
年明けのお休みが終わって、いまはもう二月の半ばである。ここインドはさまざまな事情があるとはいえ、この時期に転入生とはめずらしい。
「へえ、それでクラスはどこになるの? わたしたちといっしょのミドルクラス……?」
「いっしょはいっしょやねんけど、問題はそこやない」
ミチルは、いったん息を吸い込んで大きく深呼吸をした。
「うちらも教会の掃除をしてて見てもうたんやけど、その、転入生っていうのが只者《ただもの》やないっていうか、すごいっていうか」
「とにかく、たいへんなの。あっ、もうすぐこっちへ来るわ!」
二人に強引に手を引かれて、わたしは張りつくようにして窓の外を眺めた。
ずしん、という音が響いたのは、その直後だった。
「な、なに……」
ずしん、ずしん、という、まるで地震のような地響きが、だんだんとわたしたちのいる学校のほうへ近づいてくる。
急に、目の前に極彩色の旗がひるがえった。
「え!?」
わたしは、ぽかんとした。
いま、わたしの見間違いでなければ、わたしたちの学院の前に立っているのは、ありとあらゆる色彩で彩られた布をかぶり、金や銀の装飾品で飾られた豪奢《ごうしゃ》な輿《こし》を背負った、巨大な――
「ゾウ!?」
腰をぬかしそうになって、わたしは思わずカーリーを見た。
「ど、どうして、ゾウが学校に……。なんでサーカスが、ステーションに……」
「あれは、サーカスじゃない」
どこか呆《あき》れたような声で、カーリーが言う。
「サーカスじゃないって、じゃあ、いったい……」
続いて、ジャアアーンという耳をつんざくようなドラの音が鳴り響く。すると、何人ものインド人の召使いたちが、長く大きな布をはった棒を手にしながら走ってきた。
彼らはみな、布を結って作ったようなひし形の帽子で髪を隠し、木綿地の膝丈まであるコートのようなものを羽織っていた。アンガルキと言われるインド特有の上着だ。鮮やかな原色をした上半身とは裏腹に、はいているズボンは皆薄い色をしている。
そして、足元は先の尖ったぺったんこのサンダル……
「パルダー……」
隣で、カーリーがぽつりとつぶやく。
「ねえ、カーリー。パルダーってなに」
彼女は、少し戸惑ったような(カーリーがそんな顔をするのはとても珍しい)顔をして、
「インドの高貴な女性が人目にふれないように、まわりの目から隠す幕のこと」
「へ、へええ」
ということは、いまゾウの背の上の輿から降りてこようとしている人は、そのインドの高貴な女性≠ニいうことなのだろうか……
カーリーの言うとおり、パルダーを持った召使いたちは、次々にオルガ女学院の玄関前に立ちはだかりはじめた。
そのあまりの騒ぎっぷりに、予習室にこもっていたほかの生徒たちも、いったいなにごとかと窓辺に駆け寄ってくる。
「なに、いったいなんの騒ぎなの?」
「あっ、転入生よ!」
「学校の中に入ってきた!」
「学院長先生が応対してるわ!」
わたしたちは、慌てて窓を離れると、予習室を飛び出して階段から階下をのぞき見ようとした。
すると、どうやらあのゾウの背から降りてきたらしい、一人の少女が、ちょうどゆっくりとした足取りで階段を上ってくるところだった。
(うわ……)
その、小さなからだに纏《まと》う異様な雰囲気に、わたしは思わず息をのんだ。
彼女は、まるでそこが赤い絨毯《じゅうたん》の上であるかのように、一歩一歩優雅な足取りで歩いてくる。
(すごい。お姫様みたいだ)
彼女が歩くたびに、何十本も重なった腕輪や、耳のイヤリングがしゃらしゃらと耳触りのよい音をたてる。金と銀とがふれあうと、こんな音がするものだろうか……。どれも重たげなアクセサリーもだったが、なによりその全身をつつむ布の原色の鮮やかさと、金色の縁取りのまばゆさに、わたしは目がくらむのを感じた。
「あれって、サリーよね」
「インドの女の人が着る服……」
同じように集まってきた生徒たちが、ひそひそ言い合う。
「クジャラート人やな」
いつのまにかとなりにいたミチルが、ふむ、と顎《あご》をつまんで言う。
「どうしてわかるの」
「北インド、つまりラジャスターンの人間はサリーをつけへんし、あんなふうにひだをつくらんと着るのはクジャラート人だけやって、ダッドが言うてはった。
たしか、ずいぶん前にあれを参考にしたパーティドレスをデザインしてはったし」
「へええ」
なるほど、ミチルの言うとおり、その少女のサリーはまるで、上から大きな布を下方へずらして巻きつけるような着付けをしている。とくに、彼女のサリーの裾には金色の縁取りがしてあるので、それがよくわかるのだ。
しかし、なによりも目を引いたのは、彼女が首から、まるで報道カメラマンのように小さなカメラをぶらさげていたことだった。
(カメラを持ってる……?)
「コンタックスのカメラよ。お金持ちねえ」
ヘンリエッタが、ぼそっと囁いた。
「あれ、だれ」
「インドの金持ち娘みたい」
「すごい色のサリーを着てる……」
もはやどの階も、突然やってきた王女さまを一目みようと、押しかけた生徒達ですずなりになっている。
わたしたちの囁きが耳に届いたのか、サリーを身につけた少女は立ち止まって、まるで舞台に立つ女優のような優雅さで、わたしたちをぐるりと見回した。
そして、
「こんにちは。はじめまして」
流れるような英語で、わたしたちに挨拶をした。
ただ一言を口にしただけだったのに、生徒達は騒然となった。
「英語よ」
「英語をしゃべったわ!」
彼女は、インド式の挨拶である、ナマスカール(両手の手のひらをあわせる)のしぐさをとった。
「私は、クリシュナ=パドマバディ=ガエクワッドです。今日から、この学院の生徒になります」
と、とんでもない一言を口にした。
「ええぇええっ!?」
わたしたちは一斉に声をあげて、凝り固まった。
「おおー、いい顔!」
彼女はそんなわたしたちを満足げに見回して、おもむろにカメラをむけると、パチリとシャッターを押したのだった。
「しゃ、写真を撮ったわ!」
「なんで?」
「彼女、カメラマンなの?」
どよどよとどよめくわたしたちにお構いなく、彼女は再びゆっくりと階段を上り始める。
「ガエクワッド=Aうそやろ」
ミチルが、まるで幽霊でも見たような顔つきで後ずさった。わたしは、ミチルの袖をくいくいと引っ張って、
「ど、どうしたの。彼女、ほんもののお姫様なの?」
「ほんものもなにも……」
ひええ、と額《ひたい》に手をおいて、口ごもる。
そのインド人の少女は、騒然となるフロアをそしらぬ顔で歩ききると、五階のある部屋の前で立ち止まった。
わたしたちは、一様に怪訝な顔をした。
「あそこって、たしかヴェロニカの特別室じゃない?」
いったいなにをする気だろうと、わたしたちが息をつめて様子を見守っていた、そのときだった。
なんと、彼女は、ノックもなくいきなりヴェロニカの特別室の扉を開け放ったのである。
「げ」
わたしたちは、みな呆気《あっけ 》にとられた。
「な、なによ、あなた!」
中にいたヴェロニカが、血相を変えて部屋の前に飛び出してくる。そんなヴェロニカの非難をものともせず、彼女はまさに悠然《ゆうぜん》と、
「あなた。すぐにここから出ておいきなさいな」
と、一言きっぱりと言い放ったのだった。これには、見守っているわたしたちも度肝をぬかれた。
「な…………」
「はやく、荷物を運び出しなさい。今日からこの部屋は私のものです」
さも当然というような口ぶりだった。
あまりのことに驚いてぽかんとしていたヴェロニカの顔が、一秒おいて熱湯をかけられたエビのように、赤くなる。
「あら、真っ赤。ちょうどの南の方では、あなたのようなエビがよく揚がるそうよ。いい顔ねえ。うふっ」
そう言うと、少女はおもむろにカメラをむけ、真っ赤になっているヴェロニカの顔を写真におさめる。
ヴェロニカは、さらに| 憤 《いきどお》った。
「あ、あなた、このわたくしを誰だと思っているのよ。わたくしは……」
すると、彼女は、
「だれでもよろしいわ。あなたなんか」
なんと、いままで、だれもがそう反論したくて、それでも我が身かわいさにできなかったことを、彼女は一言で言ってのけたのである!
おおーっと、別の意味で歓声がわきおこった。
(よく言った!)
わたしもまた、心の中で密かにガッツポーズをした。いま、心からこの少女を称えたい。
「な……」
「この特別室は、学院で最も家柄と生まれの良いもののための部屋だと学院長から聞いています。だったらここは私のものであるはず……」
すると、
「ちょっと、あなた!」
そこへすかさず、ヴェロニカの親衛隊であるあのエコー姉妹が駆けつけてきた。
(出たな。ふふん姉妹!)
ヴェロニカのあるところ、いつでもどこでも現れる金魚のフン姉妹。しかし、その忠誠心はなかなかのものである。
彼女たちは、エコーの名にふさわしく、代わる代わる言った。
「あなたね。どんなにお金持ちか知らないけれど、ここではヴェロニカが一番なのよ!」
「そうよ、ヴェロニカのお父様はエジンバラの伯爵家の出なんですからね」
「そうよ、それにお母様は、あのチェンバース財閥の一人娘で……」
「――へえ?」
しかし彼女は、あのベリンダお姉様も真っ青の冷ややかな視線でヴェロニカを見やると、
「でも、たしか、私がこの国で臣下の礼をとらなければならない外国人は、英国のロイヤル・ファミリーだけのはずなんだけれど……」
と、おかしそうに言った。
その言葉に、ヴェロニカがぎょっとして目をむく。
「わ、わたくしは、ヴェロニカ=トッド=チェンバースなのよ!」
「ふううん。でも私は、クリシュナ=パドマバディ=ガエクワッドです」
その有無を言わさぬ迫力に、ヴェロニカがうっと口ごもる。
(うわ、名乗りでヴェロニカが言い負けるなんて、はじめて見た)
ふと、わたしはヴェロニカを見、彼女の手が、ぶるぶると不自然に震えているのを見つけた。
「……?」
いったい、どうしたんだろう。
あんなにヴェロニカが怯《おび》えるなんて、めずらしい……
「ガ、ガエクワッドって、まさか、あなた……」
みるみるうちに、ヴェロニカの顔から血の気がひいていく。
「ば、バローダの王女が、どうしてここに……」
見守っていた人垣の間から、ざわっと声があがる。
「バローダの王女!?」
「え、ってことは、正真正銘プリンセスってこと」
「まさか」
「ほんもの?」
生徒達は、まるで全員で内緒ばなしをするかのようにひそひそと話し合った。
「バローダって、藩王国の名前よね」
わたしは、カーリーを見上げた。
菩提樹《ぼ だいじゅ》に囲まれた≠ニいう意味を持つバローダは、ここオルガ女学院のあるパンダリーコットのすぐお隣にある、西インドでももっとも豊かだといわれる藩王国だった。
バローダは、古来より西アジアとの重要な交易地として知られており、中でも大粒のダイヤモンドが出るために、イギリスがもっとも支配に力を入れた場所でもあった。
そのダイヤは、後年アメリカの女優が身につけたことで、バローダの月≠ニしてその名を知られている。
わたしは、今度はカーリーの袖口をひっぱって言った。
「ねえ、彼女、ほんとうにバローダの王女さまなの?」
「ええ……」
どこか渋い表情で、カーリーは頷く。
「たしかにガエクワッドは、クジャラートのバローダ王家の名前よ」
「ほええ」
わたしは、ヴェロニカが言葉を失ったわけを知った。さすがに母親はアメリカの大富豪で、父親はボンベイの総督という、これまで学院で最も良い家柄の持ち主だったヴェロニカも、ほんものの王女さまにはかなうはずもない。
「さあ、はやく荷物を運び出してくださいな。ここは私の現像室にするのよ」
王女さまがパンと手を打つと、それまで彼女の後ろに控えていた召使いたちが、いっせいにヴェロニカの部屋に入り込みはじめる。
「ま、待ちなさいよ! そんないきなり……」
これにはさすがのヴェロニカも慌てて、召使いたちの侵入を防ごうとした。しかし、召使いたちは、ヴェロニカにかまわずどかどかと押しかけてきて、荷物の入ったトランクを何十個も山積みにしていく。
「ひ、ひえええ、ルイ・ヴィトンの山……」
とても高価なことで知られるルイ・ヴィトンの革製のトランクが無雑作にほうりだされるのを見て、わたしは震え上がった。
「インドの王女さまなのに、ルイ・ヴィトンなんだ」
「もともと、あのエビ≠ヘバローダのマハラジャが、狩り用のティーセットのために作らせたものらしいからなあ」
さすがに、服飾業界に詳しいらしいミチルが言った。
「えっ、そうなの?」
「そうやで。それが思いの外好評やったから、それからバローダの御用達《ご ようたし》になってんて。ほかにもカルティエとかバカラグラスのブランドとかも、バローダの庇護《ひご》をうけて成長したって言われてるんやもん」
わたしは、もはや言葉もなかった。ルイ・ヴィトンにオリジナル・ブランドを作らせるなんて、どんなお金持ちなのか想像もつかない。
「プリンセス……、プリンセス・パドマバディ!」
そのとき、階下からミセス・ウイッチこと、学院長のイザベラ・オルガの声が響いてきた。
わたしたちは、まるで操られているみたいに揃《そろ》って階下をのぞき見た。
「あら、学院長先生」
「確かにあなたさまには、特別室への入寮を認めました。ですが、これはどういうことですか!」
ミセス・ウイッチは、ちらりと王女さまの召使いたちに視線をやった。
「寮内に外の男性を入れるとは、なんたることでしょう。それに、召使いは一人までと申したはずです」
たしかに、このハウスは男子禁制で、いまのように男性がどやどやと走り回るのは異様な光景だったはずだ(みんな、バローダの王女の登場で、それどころではなかったらしい)。
それでも、パドマバディ王女は動じず、にっこりとロイヤル・スマイルを浮かべて、
「あら、それは知らなかったわ。どうしましょう。私、英語を話せる侍女をつれてきていないんです」
「が、学院長先生! これはどういうことですか」
ヴェロニカが、半ば泣きそうな顔でミセス・ウイッチに助けを求める。
しかし、
「ミス・チェンバース。残念ですが、あなたには今日付けで部屋を交代してもらいます」
しぶい顔をして、ミセス・ウイッチは言った。
「しかたがありません。まさか、バローダの王女殿下を、大部屋に入れるわけにはまいりませんし……」
「そ、そんな」
あっさりヴェロニカの期待を裏切って、ミセス・ウイッチはヴェロニカのメイドであるジェイミーに、彼女の荷物を運び出すように命令する。
王女の荷物を運びいれ終わった召使いたちは、みな彼女の言うとおり、一言も発することなしにハウスの外へ出て行った。
「ミセス・オルガ」
パドマバディ王女は、もったいぶったようにゆっくりと、わたしたちが見守る四階のフロアへと降りてきた。
彼女は階段の上から、わたしたちを見渡して、
「この特別室には、ひとりだけ侍女がつくのでしたよね」
「え、ええ、そうですが……」
王女さまは、唐突にわたしのほうへとやってきた。腕輪のしゃらしゃらする音がどんどん近づいてくる。
あの大きな耳飾りは象牙《ぞうげ 》で出来ているのかしら、などとどうでもいいことを考えていると、なんと彼女は、
「では、あの娘に私の侍女になってもらいましょう」
と、唐突に宣言したのだった。
「え、えええっ!」
わたしは、身動き一つできずに立ちすくんだ。
それは、彼女が指をさしたのはわたしでなく、わたしの隣にいたカーリーだったのだ。
「ちょ、ちょっとまってよ、冗談じゃないわ!」
わたしは、カーリーの腕をぐいっとつかんで、強引に腕をからませた。
「どうしてカーリーが、あなたの召使いにならないといけないのよ!」
わたしの抗議に、王女さまはやはり型にはまったロイヤル・スマイルで、
「パドマバディ、よ。パティでいいわ。かわいい蜂蜜さん」
その邪気のない笑顔にわたしは、一瞬声を失ってしまった。
なんだろう。
この言い方。誰かに似ている気がする……
「それにね、ミス。インド人のメイドじゃないと、いろいろと困ることも多いの。私たちは、私たちのしきたりがあるし」
「そんなの、一人でやればいいじゃない。ここにはインド人の女のメイドなんていないんだから!」
「ごめんなさい。でもね、私あいにく、だれもいない部屋で寝たことがないの」
そのあまりのわけのわからない言い分に、わたしはおおいに呆れた。
「だ、だったら、あなたもわたしたちと同じように、二人部屋で寝ればいいじゃない!」
おお、と彼女は驚いたように目を丸くした。
「私も、できればそうしたいのだけれど、そうするといろいろとみなさんに迷惑がかかると思うの。なにせ、持ち物がたくさんあるし、私は自分勝手だし」
「う……」
さきほど部屋に運び込まれたトランクとコファーの数を思い出して、わたしは思わず口ごもった。
[#挿絵(img/02_075.jpg)入る]
「じゃ、そういうことで……」
「まてまてまて!」
わたしは、わたしの傍《そば》からカーリーを連れ去ろうとする彼女を、必死で押しとどめた。
「待ってよ、いくら王女さまっていっても、そんなこと勝手に決めないで。カーリーの意思はどうなるのよ」
わたしは、まるでおもちゃを取り上げられる子供のように、必死になってカーリーの腕にしがみついた。
「ねえ、カーリー。こんなの横暴よね。カーリーはここの生徒なのに、メイドのまねごとをしろなんて……、無茶もいいところだわ。そうよね」
「シャーロット」
と、わたしが顔を上げると、カーリーはちょっと困ったように、どこか嬉しそうに笑ったのだった。
けれど、パティはそれだけでは引き下がらなかった。
「じゃあ、本人に聞いてみましょうか」
そう言って、カーリーに向かって、なにか聞き慣れない言葉で話しかける。
それは、いま私が勉強しているヒンディ語でも、もうひとつのイスラム系の言葉であるウルドゥ語でもないようだった。
カーリーはふたことみことそれに答え、ついで、ミセス・ウイッチのほうに向き直った。
「学院長先生。私は、プリンセスのお申し出をお受けしようと思います」
「え…………」
わたしは、自分の耳を疑った。
「そんな、カーリー。どうして……」
「ガエクワッド王家は、私の実家の主家にあたります。クジャラート人として、私がプリンセスのお世話をするのが道義です」
(なんですって!)
わたしは、カーリーとミセス・ウイッチの顔を交互に見比べた。
「あ、あなたがそう言うのなら、よろしいでしょう」
ミセス・ウイッチは、とまどいながらも言った。
「しかし、プリンセスとはいえ、できる限りこの学院の規則に従っていただきます。よろしいですね、ミス・ガエクワッド」
異論はないというふうに、おおようにパティは頷く。
「わかりました、ミセス・オルガ」
「ミス・アリソンには、できる限り学業を優先させてください」
「それは、もちろん」
カーリーはわたしの腕をすっと解くと、吐息が聞こえそうなくらいわたしに顔を近づけて、
「ごめんなさい、シャーロット。少しのあいだだけ我慢して」
たったそれだけを言い残すと、わたしから離れていってしまったのだった!
(そ、そんな!)
「これで、ノープロブレムね」
満足げに目をかがやかせて、パティは両手をあわせる。
「さあ、カーリー。荷物をほどくのを手伝ってちょうだいな。うふふ、こんな綺麗な子がわたしのルームメイトなんて、なかなか楽しい学園生活が送れそう」
なにが、ルームメイトよ、とわたしは内心でぶつくさ言った。
(わたしのカーリーを、メイドがわりにするつもりのくせに!)
ところが、事態はそれだけでは済まなかった。ミセス・ウイッチは、わたしからカーリーを取り上げたばかりではなく、思わぬ落とし物をしてくれたのだった。
「それではミス・チェンバース。あなたはミス・アリソンの替わりに、ミス・シンクレアの部屋に移りなさい」
「げええ!」
わたしは、二度も自分の耳を疑うあまり、レディとしてふさわしくない声をあげてしまった。
(な、なんですって。わたしが、ヴェロニカと同室!?)
たしかに、カーリーがこれから特別室で寝泊まりするというのなら、その空いたベッドに、ヴェロニカが引っ越してくるのは自然である。
自然であるの、だが……
(じょ、冗談じゃない!)
冗談じゃないと思っているのはわたしだけではないらしく、特別室の前につっ立っていたヴェロニカ、そのとりまきのエコー姉妹らからも抗議の声があがる。
「そんな、学院長先生!」
「横暴よ!」
「あんな子となんて!」
けれど、わたしとヴェロニカ双方からの抗議もむなしく、ミセス・ウイッチはそれだけ言い残して、さっさと階段を下りていってしまったのだった。
取り残されたわたしは、まるで油の切れた機械みたいにぎごちなく、ヴェロニカへと視線をやった。
「さ、さいあく…………」
――そしてこの日から、わたしの最悪の学校生活が、はじまってしまったのだった!
§  §  §
がららん、がららん!
朝、メトロンの鳴らす起床の鐘でうすぼんやりと目をあけたわたしは、いつものように優しい囁きがないことに気が付いて、のっそりと身体を起こした。
「……あれ、カーリー?」
いつもなら、もう起きているはずのカーリーの姿はない。ふと、隣のベッドをのぞき見ると、そこにはわたしの憧《あこが》れている艶やかな黒髪でなく、にんじんのような赤い髪がべろんと横たわっている。
わたしは、がっかりした。
(そうだった。カーリーは、あの小憎たらしいプリンセスに取られちゃったんだっけ)
昨日の出来事を思い出して、わたしは朝からずうんと気落ちした。
しぶしぶ自分でドアを開け、ボウルに重ねてあるお湯の入ったピッチャーを洗面台まで運ぶ。いままで、早起きのカーリーがしてくれたことも、今日からは全部自分で済ませなければならない。
こんなはずじゃなかった。
いつもだったら、やさしい朝の囁きが、わたしに朝の到来を告げたはずだった。くすぐったくなるような、少し低めの声で、『おはようシャーロット、もう朝よ』。それから、いつまでもぐずぐずと枕にしがみついているわたしの頬に、ピッチャーの水でぬらした手を押しつける……
びっくりして目をあけたわたしがその日はじめて見る顔は、いつもきまって大好きな人のとびきりに綺麗な顔だったのだ。なのに……
(さびしいな)
わたしは、ぴちょんとボウルの中に手を浸した。ただカーリーがいないだけなのに、まるで部屋中の灯りが消えてしまったような気がした。
(だって、ここにきてから、ずっといっしょだったんだもん)
思えば、九月の進級のときも、一月の休みあけも、わたしたちの学年の部屋替えはなかったから(これが、ジェニアクラスだと、まるで民族大移動のような大騒ぎになる)、わたしたちはもう一年ちかく、ずっと同じ部屋ですごしていたことになる。
いつのまにか、わたしはなんの根拠もなく安心していたのだった。これからも、わたしはカーリーといっしょにいられる……
わたしたちは、ずっとかわらないのだと。
なのに、こんなふうに離ればなれになってしまうなんて!
(ああ、やめやめ!)
わたしは、冷たい水をばしゃんと顔にぶつけて、気合いをいれた。
(なにも、一生会えなくなったわけじゃないわ、シャーロット。教室に行けば会えるんだし)
それに、ぼんやりしているひまはない。この時間なら、すぐにプリーフェクトが見回りに来るだろう。うだうだ悩んでいられるほど、朝の時間は長くないのだった。
「ほら、いつまで寝てるのよヴェロニカ! もう鐘がなったわよ」
わたしは、まだ夢の中だったヴェロニカをたたき起こして、むりやりにシーツをひきはがした。それから、寝押ししていた自分のワンピースにさっとブラシをかけ、ブラウスに袖を通すと、頭からすっぽりかぶってしまう。
「あとは、ブローチをつけて……、と。うわあっ!」
わたしは、まだ寝間着のままぼうっとつったっているヴェロニカに気づいて、ぎょっとした。
「ちょっと、ヴェロニカ!」
「え?」
ヴェロニカはまだ寝ぼけているようだった。わたしが近づくと、手を広げて寝間着を脱がせてもらおうとしたのだ。
わたしは、ばしっとその手を振り払った。
「何考えてるのよ、ここはもう特別室じゃないのよ。はやく自分で着替えてちょうだい」
なんと、この様子ではヴェロニカはいままで着替えすら、人に手伝ってもらってやっていたらしかった。
わたしは、厳しい口調で彼女をつきはなした。
「わたしは、ジェイミーじゃないんだからね」
「わ、わかってるわよっ。ちょっと寝ぼけてただけなんだから……」
耳元でせっついてやると、ようやく意識がはっきりとしたのか、ヴェロニカは慌てて寝間着を脱ぎ始めた。
わたしはハラハラしながら、ドアの外へ顔を出した。
(げっ)
ちょうど、三つほど隣の部屋に副ハウス長のプリーフェクト、リリー=フォックスが近づいてくるのが見えた。
ミス・フォックスといえば、ベリンダほど厳しくはないが、れっきとしたこのハウスのナンバー2である。
(も、もうこれ以上Yは増やせないわ。こんどもらったら、週末の罰を受けちゃう)
わたしは、慌てて首元のブローチに手をやった。
昨日ベリンダから、曇っていると注意を受けたそれは、パティの登場でどたばたしてしまったせいで、そのときのままだった。わたしは首元のブローチをはずして、ハンカチで拭《ぬぐ》った。
「これで大丈夫よね」
ヴィクトリア女王のお顔がすっかりピカピカになるのを確認してから、ほっと息をついた。ところが、わたしの準備は万端でも、ヴェロニカはそうはいかなかった。なんと彼女は、自分でコルセットをつけようとして、もたついていたのである。
「ちょっと、早くしてよヴェロニカ。コルセットなんてどうでもいいじゃない」
「いやよ。コルセットをしないと、女らしいラインがたもてないんだから!」
コルセットに執着するあまり、彼女はまだ髪の毛もとけていないような状態だった。
そのせいで、いつもはクロワッサンのように見事な縦ロールが、今日は剥《む》いたにんじんの皮のようにへろへろになっている。
「なにしてるのよ。もうそこまで見回りが来てるのよ!」
「だ、だって、だって……」
(ああ、もう)
わたしはいらいらしながらヴェロニカの後ろに回り込んで、コルセットの紐を結んでやった。
普段なら、絶対にこんな親切はしない。
でも、ヴェロニカが同室であるとなると話は別なのだ。同室の不手際は連帯責任で、わたしまで責任を取らなくてはならない。
「ヴェロニカ、さっさと髪をなんとかしてよ。もう巻いてる暇なんてないんだから。ああ、ほらブラウスはどこへやったの、ワンピースは?」
彼女はおたおたとまわりを漁《あさ》っていたが、やがて思い出したようにコファーからワンピースをとりだした。
ちゃんとかけて寝なかったせいで、スカート部分におおきくしわがよってしまっている。
わたしは、心の中で神様、とつぶやいた。
「ヴェロニカ、あなた寝押ししなかったのね!」
「だって、いつもはジェイミーがアイロンをかけているから、ジェイミーが……」
「何度言ったらわかるの、ジェイミーはもういないっていっ……」
ふいに、戸口にだれかが立った気配がした。わたしとヴェロニカは、はっと顔をあげ、
「四〇一室。この様子はいったいなにごとです?」
今日の四階のフロア担当、ミス・フォックスがこちらを見ている。
わたしは、目をつぶった。
(うわあ、万事休す!)
「――それで、それからどうなったの?」
その朝の事件から、数日たった日の午後、
談話室の部屋のすみにある、通称悪巧みのコーナー≠ノ陣取って、わたしはミチルとヘンリエッタとともにこそこそと話をしていた。
「……ミス・フォックスには、Yをつけられたんだ?」
「もちろん、身支度ができていないことでYがひとつ。リネン類を出していないことでもうひとつ」
わたしは、その中で一人だけ指に指ぬきをいっぱいはめて、繕《つくろ》いものをしていた。
これは、わたしが上級生のミス・フォックスから、じきじきにやるよう言われたものだった。本来なら、こういった繕い物は、ジュニアクラスの子たちが午後の時間にやらされるものなのだが、
「あらら、それでYが十個たまってもうたんか」
「そう」
ぶつぶつと、副ハウス長リリー=フォックスのドロワーズの裾にレースを一段増やす作業に集中する。
そう、これはYが十個たまったら発生する、このハウスの罰なのだ。
「最近ちょっと、Yがたまりすぎてたものねえ、シャーロット」
「う…………」
「それでなくても、シャーロットは学院長先生に目をつけられてるし」
わたしは言葉もなくうなだれた。
痛い言葉だった、ヘンリエッタの指摘は正しい。
「でも、うわーん。ひどいよ。ヴェロニカのせいで、わたしが苦手な裁縫《さいほう》をやらされるはめになるなんて!」
「よしよし」
「あの人、ほんっとに一人でなんにもできないんだから。手際は悪いし、寝押しのやりかたすら知らないし……、寝坊したくせに、人にコルセットの紐をしめさせようとするし!」
「かわいそうに、シャーロット」
ヘンリエッタが、頭をなでなでしてくれ、
「トロいあんさんに言われるくらいやから、よっぽどなんやろうなあ」
と、ミチルが妙な方向に感心する。
「まったく、あの王女さまが来てからさんざんよ。カーリーとはいっしょにいられなくなるし、部屋に戻ればヴェロニカがぶすっとしてるし」
わたしは、糸切り歯でぶちっと糸を噛みきると、針を針刺しに戻して言った。
「たしかに、むちゃくちゃよねえ」
「ほんまに」
ミチルとヘンリエッタも、渋い顔で頷く。
そうなのだ。
わたしの頭を悩ませていたのは、同室になったヴェロニカのことだけではない。
それは、
「あの嵐のプリンセス、パティ=ガエクワッド!」
突然、このオルガ女学院に、時季はずれのモンスーンのようにやって来たこのバローダの第一王女は、なんと転校初日から、やりたいほうだい学院をひっかきまわしてくれたのである。
まず、パティは、朝、朝食室へ入ってくるなり、いきなり、
「おお、これが学校の少なくてまずい食事ですね!」
と、叫び、スープ鍋を運んできた料理人をぎょっとさせる。
あまりの暴言にぽかーんとしている生徒たちにかまわず、彼女はものめずらしそうにパチリとカメラのシャッターをきると、
「ふむふむ。みなさん、この食事だけでは満足できないから、チョコレートを食べるのでしょう」
「あ、あの……」
「チョコレート戦争というのですよね。私知っています!」
と、大暴走。
そうして、こんなに大勢の子供といっしょに食事をとるのがめずらしいのか、きょろきょろと辺《あた》りを見回して、写真を撮りまくっている。
わたしは、斜め向かいの席のミチルに向かって声をひそめて言った。
「ねえミチル。チョコレート戦争って、なに?」
「さあ……」
さらに、点検を終えて戻ってきたハウス長のベリンダが、皆に来た手紙を配りはじめると、パティは、
「おお、あれがハウスのプリーフェクト!」
と、うっとりとした表情でベリンダを見つめ、
「ねえ、あの方のファグはだれですか。ファグとマスターになっている生徒は?」
などと、まわりに座っている生徒たちに、てあたりしだいに質問をぶつけている。それも、なんだかずーっとにこにこして、はっきりいって気持ちが悪い。
(変な人)
わたしは、できるかぎり気にしない風をよそおって、パンを口に運ぶことに集中した。
(王家の人って、みんなああなのかしら)
しかし、事件は、それだけでは済まなかった。
それは、朝食の時間も、あと一〇分というころで起きた。
この時間になると、それぞれの長テーブルの前に監督生が立って、簡単なオリエンテーションの始まりをつげる。
「みなさん、注目してください」
ハウス生の運命が記されている(ある意味、生徒達の間では成績表よりも怖い)えんま帳――罰則帳を開いて、ベリンダ=シュミットが厳《おごそ》かに言った。
「それでは、今週の罰則生を発表します」
(きた!)
わたしは、石のように体を硬くして身構えた。
ハウスでは、週末の朝食時にハウス長から、Yの数が多いもの……、つまり罰を受ける生徒の名前が発表されるのである。
(ああ、どうか、わたしが一番Yがたまってませんように)
わたしは、思いつく限りの聖人の名前を頭に浮かべて、必死にお祈りした。
ところが、
「ミス・シンクレア。十点」
(ああ……、やっぱり)
いきなり名指しされてわたしは、がっくりとうなだれた。ヴェロニカの失点のせいで、今週わたしは、ぶっちぎりで数が多かったのだ。
「………………はい」
わたしは、観念してたちあがった。
かなしいかな、わたしは罰を受けるのは、これがはじめてではない。しかし、罰則生になると、せっかくの休日を罰につぶされてしまうので、わたしをはじめ、Yの常連である生徒たちは、いつも戦々兢々とこのときを待ちかまえているのだった。
(ああ、ついてないなあ)
さあ、なにをやらされるのか。上級生全員の靴磨きか、それとも階段のてすりを全部ワックスで磨かされるのか……
わたしがヒヤヒヤしながら待っていると、妙にはしゃいだ声がした。
「まあY=B彼女が今週の罰則者なのですね。すてき」
それは、妙に目をきらきら輝かせた、パティの声だった。
「いったい彼女はなにをやらかして、罰を受けるのですか? 真夜中のお茶会ですか。それとも枕投げをしたのですか」
(なんだと!?)
あまりの濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》に、わたしは思わず腰が砕けそうになった。
ベリンダが、じろりとわたしのほうを睨む。
「そんなことまでしたのですか、ミス・シンクレア」
「ししししてません! ぜんぜんしてません、やってません!」
わたしは、めいっぱい否定した。これ以上、訳のわからないことで罰を受けたくはない。
わたしは、ぎろりとパティを睨んだ。
(な、なんてことを言うのよこの王女さまは。こんな、みんながいる場所で!)
しかし、当の本人は、なおもきらきらとなにかを期待しているような目で、じっとわたしのほうを見つめている。
「――さて」
みっちりとわたしにお小言をくらわせたあと、わたしが席に着くのを待って、ベリンダはぐるりとみんなを見回した。
「学院長先生がデリーへ行かれるので、今日からわたしがみなさんに連絡させていただきます。まずは、今日からの、食事のメニューについてです」
「食事のメニュー?」
なんだか、いやな予感がした。
「これから、当分の間食卓にお肉類がのぼらなくなります」
そうしてなんと、彼女は、学院で出されるすべてのメニューから肉をはずすことをみんなに告げたのである。
「ええっ」
「うそ!」
食べ盛りで、朝食のベーコンやポトフのソーセージを楽しみにしていたわたしとミチルは、思わず立ち上がって抗議した。
「そ、そんな。じゃあこれからは魚のフライもコンソメスープもないってことですか」
「ハムサンドも!?」
そのことへ、抗議を口にしたのはわたしたちだけではなかった。
「…………牛乳、小魚、たまごが!」
と、なぜか、カーリーまで顔を青くして立ち上がる。
ベリンダは、こちらのテーブルをじろりと見た。
「そのとおりです。コックが対応できるようになれば、それなりにメニューをわけることになりますが。……いいからお座りなさい」
ぐっさりやられて、わたしたちは力なくへろへろと椅子に座った。
パティが、申し訳なさそうにわたしをのぞき見てくる。
「ごめんなさい。でも、インドの王族はほぼベジタリアンなのです。とくにヒンドゥは、牛肉は食べられないので」
(じゃあ、帰れよ!)
と、少なくともミチルをはじめ何人かは、そう思ったに違いない。
しかし、多額の寄付金とともにやってきた王女さまに、この学院が逆らえるはずもなく……
「連絡事項はそれだけです。では、散会!」
それ以降、わたしとミチル、そして肉をこよなく愛する生徒たちは、みなわびしい食事に涙することになったのだった。
「いったい何なのよ、あの人は!」
ばん、と談話室のサイドテーブルを叩いて、わたしは立ち上がった。
「なにがチョコレート戦争よ。なにがYよ。なにがファグよ。わけがわからないわ。おまけに、あの人のせいで、これからずーっとソーセージが食べられないなんて!」
わたしは、食べ物の恨みもあいまって、にぎりこぶしをつくって吠えた。
「いい、ベーコンもハムもたまごもないのよ。いったいサンドイッチになにをはさんで食べろっていうわけ!?」
「はいはい、シャーロット、あーんして」
ヘンリエッタがわたしの口にこっそりキャンディを放り込んでくれたので、わたしはしばらく愚痴《ぐち》を言うのをやめた。
「むぐぐ、むぐ……」
まったく、まったく、あのプリンセスがオルガ女学院にやってきてから、ろくなことがない。
「それに、先生たちは、プリンセスの言いなりだし」
「たしかに」
わたしより肉なしメニューにしょげているミチルが、たいへん渋い顔で言った。
「なんか変に浮かれてんなあとは思ってたけど、まさか、コーラスの課題にまで口をはさんでくるとはなあ」
わたしたちは、そろって渋い顔で頷いてみせた。
それは、昨日の一限目、わたしたちが楽しみにしている、週に一度のコーラスの授業での出来事だった。
「おー、コーラス! そんな授業まであるなんて」
なんと、それまでにこにこと様子をうかがっていたパティが、いきなり、勢いよく手を挙げたかと思うと、
「クライン先生、遠い昔≠ヘ練習しないのですか」
と、コーラス担当のミセス・クラインに、実にぺろりとこう言ってのけたのである。
「わたし、あの曲がとっても好きなんです。学校へ来れば、この曲を歌うものだと思っていたのに」
(そ、そんな、むちゃくちゃな)
誰もがそう思った。
けれど、真の彼女のむちゃくちゃは、ここからだった。
なにを思ったのか、ミセス・クラインは驚くほどあっさりパティの要求をのんで、コーラスの課題曲を遠い昔≠ノ変えてしまったのである。
「うそーっ。そんなのありなの!?」
クラス中がどよめいたが、ミセス・クラインはそんなことはおかまいなしに、コーラスの授業を続けた。
どうやら、ミセス・ウイッチあたりに、くれぐれもパティの扱いに気を付けるよう、いい含められていたらしい。
「遠い昔≠ヒえ……、なにがそんなにいいのやら」
ミチルはそう言って、おもむろに日本語で歌を歌い出した。
ほたるのひかり まどのゆき
ふみよむつきひ、かさねつつ……
それは、聞き慣れない日本語の歌詞だったが、旋律《せんりつ》は遠い昔≠ニまったくおなじ曲だった。
わたしは、言った。
「あら、これって日本語の歌詞もあるんだ」
「そや。日本語では、蛍の光≠チていうてな。日本の学校じゃ、卒業式とかによう歌うねんで」
なんでも、この曲は、彼女の生まれ故郷である日本でもよく歌われている有名な曲らしい。もともとはAuld Lang Syne≠ニいうタイトルの、|スコットランド英語《ス コ テ ィ ッ シ ュ》で歌われるスコットランドの民謡だ。
ミチルは、あーあと背もたれに倒れ込んで、
「とにかく、これからこの学院の女王様はヴェロニカやのうて、プリンセス・パティになったんは確かやな。
バローダ藩王国ってゆうたら、ダイヤモンドは出るわ鉄工業がさかんだわでえっらい金持ちな国やもん」
「そうなんだ」
ミチルの言葉に、ヘンリエッタも相づちを打って、
「たぶん、学校はパティからめいっぱい寄付金をもらってるんでしょうね。昨年、戦争が始まってから、生徒の数がめっきり減っているから、学院長先生にとっては都合いいお客さまなんでしょうし。
それに、たしかバローダのマハラーニは、インドにおける女子教育の有名な支援者で、ここにもいくらか寄付してたはずじゃないかしら」
たしかに、学院長のミセス・ウイッチは、ボンベイだのカルカッタだのに頻繁《ひんぱん》に出かけていて、最近はほとんど学校で姿を見ない。噂では、生徒が減ったことで寄付金が減り、この学校の経営状態がおもわしくないということだった。
そんな状況では、ミセス・ウイッチがパティの言いなりになってしまうのも、しかたがないのかもしれない。
でも、とわたしはテーブルをさらに叩いた。
「そんなの卑怯《ひきょう》よ。いくらプリンセスだからって!」
わたしは、顔をくしゃくしゃにして、
「学校っていうのはさ。もっと平等でわけへだてがないものなんじゃないの。それを、こんなところまで地位と権力を振り回して!」
「とか言って、シャーロットが一番寂しいのは、プリンセスにカーリーをとられちゃったことなのよね」
「うっ」
いきなり図星をつかれて、わたしは心臓の上に手をあてた。
うふふ、と毒入りスコーンの顔で、ヘンリエッタがわたしのほっぺたをつんつんつつく。
「いままでシャーロットにべったりだったのに、いまじゃプリンセスが彼女を独占してるし」
「う……」
「そーそー。カーリーも特別室にこもりっきりで、めったに出てけえへんし」
「寂しいのよね」
「嫉妬《しっと 》ってやつやな」
「う…………う…………」
ぐさぐさと言われて、わたしのほっぺた爆弾は、ついにぷうっと破裂した。
「そ、そうよ! 嫉妬してるわよ。だってゆるせないじゃない。わたしあの人が来てから、ろくにカーリーと話せてないのよ!」
開き直りだと言いたければ、言ってもいい。
けれど、かなしいかな。彼女たちの言うことは、すべて本当のことだった。
同室じゃなくても、教室に行けばカーリーとこれまでのように話ができると思っていたのに、カーリーの傍にはいつもパティがべったりと引っ付いている。
その上、いつもだったら、午後はカーリーとヒンディ語の勉強をしているはずだったのに、
「ねえカーリー。ヒンディ語の勉強は……」
「ごめんなさい、シャーロット。午後からパティがステーションを案内して欲しいと言っているの」
なんて言って、ヒンディ語の勉強にも、ろくに付き合ってくれなくなってしまったのだ。
ヒンディ語の勉強ばかりではない。ダイニングルームの席も、パティのとなりになってしまったカーリーとは、遠くて話す機会がない。
いままでは自然といっしょにいることが多かった休み時間も、午後も、あのパティの用事があるとかで、彼女の特別室にひきこもって、なかなか出てこようとしなかった。
きっと、パティになにか用事を言いつけられているのだろう。
(く、くそう)
わたしは、ふたたびぷーと頬をふくらませた。
「だいたい、どーしてバローダの王女さまが、わざわざこんな小さな学校に転入してこなきゃならないのよ!」
ついに椅子の上に片足をかけて、わたしは吠《ほ》えた。
「たしかになあ」
ミチルが、膝の上に肘《ひじ》をついて、頬をつつむ。
「イギリスに留学してはる王女さんもたんといてはることやし、インドの金持ちが行く学校には、それこそシャーンティニケータン校とかもあるんやし……」
シャーンティニケータン校は、ノーベル賞を受賞した詩人ラビンドラナート=タゴールによって開講された学校で、カルカッタの郊外にあり、実に進歩的な教育をすることで知られていた。
本当にそうだ。えらい国の王女さまなら、そういう学校に行けばいい。
なにも、こんな小さな女学校に来なくったってよかったのに!
(パティの転校も、ヴェロニカのわがままも我慢できる。ソーセージぬきの食事もダイエットだと受けてたつわ。でも、カーリーに会えないのは、いやだ)
子供っぽい独占欲だといわれても、しかたがないかもしれない。
けれど、彼女といっしょにいるためにインドに残ったわたしには、いまのようにほとんど話すことができない状態というのは、耐えられなかったのだった。
だって、寂しい。
くやしい。
ずるい!
よくないことだとわかっていても、わたしはそう思ってしまうのを、とめられなかった。
(――だって、いままでは、わたしが彼女と一番仲がよかったのに!)
ムカムカするあまり、わたしは、ぱんと自分の膝を打った。
ふいに、わたしの上に影がかかった。
「シャーロット」
懐かしい声がかけられて、わたしは振り上げていた拳をぴたっととめた。
恐る恐る声がしたほうを振り返る。
「あ……」
そこには、いつもと変わらない笑顔を浮かべたカーリーがいた。
「カーリー!」
わたしは、椅子を蹴るようにして、めいっぱいカーリーにしがみついた。
「うわあああああん、会いたかったよおおおん!」
たった数日離れていただけなのに、わたしはなぜか、長い間彼女と会っていなかったような気分になっていた。
「元気だった。なにしてた。あのクソ王……じゃなかった、パティにひどいことされてない。ねえ、わたしを捜しにきてくれたの。ちょっとでも思い出してくれた?」
彼女はくすくす笑って、わたしの目をのぞき込んだ。
「そんなにいっぺんに言われても答えられないわ、シャーロット」
久しぶりに、カーリーを間近で見たような気がして、わたしはまじまじと彼女を見あげた。
「ひさしぶり」
すぐ近くにカーリーの顔があって、わたしは胸が高鳴った。
「シャーロットこそ、元気にしてた」
「う、うん」
「風邪をひいていない? 毛布はけっとばしてない?」
たかだか部屋がかわっただけだというのに、わたしたちはそんな大仰《おおぎょう》な会話をした。
「少し、背が高くなった、カーリー」
「そうかな」
「うん、そんな気がする」
そう言って、ぎゅっと手を握りしめる。
(大きさが、違う……)
やっぱり、心なしか、大人っぽくなった感じがする。
どこか、と言われたらはっきりとは言えないけれど、さらっとした手の感触とか、抱きしめられたときの肩のぶつかった感じとか……
以前は、もっとやわらかくわたしを包んでくれたような気がするのに、いまは、彼女の見えないなにかが、ぴんと尖っているような感じをうけるのだ。
それに、もう一つ奇妙なことと言えば……
(なんだか声がかすれてる。風邪でも引いているのかしら)
と、わたしは不思議に思った。
「まるで、ひさしぶりに会ったロミオとジュリエットみたいやな」
と、傍で見ていたらしいミチルが、わたしたちをからかった。
「なんや、見ててちょっと恥ずかしいわ」
「あ、ご、ごめん」
わたしは、慌ててカーリーから体を引き離した。
「ね、いまはパティの用事はいいの? あの人、まさかカーリーに靴磨きとかさせてないでしょうね」
「大丈夫よ。あいかわらず、なにが珍しいのか、写真を撮りまくっているけれど」
杞憂《き ゆう》だといわんばかりに、カーリーは微笑んだ。
「それより、約束していたヒンディ語の勉強をみられなくて、ずっと気にしていたの。なるべく時間をとるようにするから」
わたしは、自分の顔が笑顔全開になるのがわかった。
カーリーのほうも、わたしと会えないことを気にしてくれていたのだ。それがわかっただけで、よそうと思ってもにまにま笑ってしまう。
「ありがとう、カーリー」
「じゃあ、いまからおさらいをしましょうか。前やったところを、覚えているかどうか」
「いいの?」
じゃあ、とわたしはドアのほうをうながした。
「いまから予習室へ行こう。わたし、そこに教材を置いているの」
わたしは、ヒンディ語の勉強に使っている教材をとりに、カーリーとともに予習室のロッカーへ向かおうとした。
そのときだった。
「あら、カーリー」
なんと、ちょうど反対側のドアから入れ違いに、あのパティが、この談話室に入ってこようとしていたのである。
(げっ)
わたしは、反射的に石になったみたいに硬直した。
(い、いやな予感がする)
そして、悲しいかな、わたしの予想はあたってしまったのだった。
彼女は、ひとなつっこい顔でナマスカールのポーズをとりながら、
「ああよかった。捜していたのです。いまから、クラスのみなさんたちに、私のサリーをお見せしようと思って。みんな、サリーを着てみたいんですって。ね、手伝ってくださらない?」
それは、もはやお願いの口調をとった命令でしかなかった。
わたしは、まさかカーリーは彼女の言い分をのんだりすまいと、はらはらと二人の顔を見比べていたが、
「……わかりました」
と、カーリーは、あっさりとそれに頷いてしまったのである。
わたしは、とっさにカーリーの服の袖をつかんだ。
「うそ。だ、だってさっき、いまからいっしょに勉強しようって……」
「ごめんなさいシャーロット。かならずこの埋め合わせはするから」
彼女は申し訳なさそうに肩を落とすと、パティについて部屋から出て行ってしまった。
わたしは目の前で、パティとそのサリーを見たいといったクラスメイト達が、ぞろぞろと談話室から出て行くのを、呆然《ぼうぜん》と眺めていた。
「そ、そんな……」
萎《しお》れた花のようにしょげかえったわたしに、ミチルとヘンリエッタは気の毒そうに顔を見合わせる。
「ありゃあ、これはひどいなー」
「ひどいわねー」
(ゆ、許せない)
驚きが去った後には、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。ぶううううっと、ホウセンカの実のようにふくらんだわたしの頬に、ヘンリエッタは、
「あ、あ、シャーロット爆弾が爆発する……」
彼女の予言通り、わたしの癇癪玉《かんしゃくだま》は爆発した。
「ゆ、許せな――い、カーリーを返せ――っっ!!」
§  §  §
「へえ、バローダの王女さまが、きみの学校にねえ」
ある日の午後、わたしは与えられた罰を済ませたあと、アヒルのナッピーが住む、おとなりのエセルバード=オーキッドの家を訪れた。
わたしは、週に一度は、自分のペットであるナッピーの様子を見に、こっそりこの屋敷に行くことにしている。
もちろん、外出届のない非公式の訪問である。エセルは、密かにクラスの女の子たちには人気があるので、ぬけがけして仲良くなったことがバレたら、なにを言われるかわかったものではない。
その日、エセルは、日当たりのいいサンルームに椅子とテーブルを並べて、特製のオレンジ・パイとともにわたしを迎えてくれた。
「うふん。いらっしゃいませ」
あいかわらず、ぎょっとするほど短いスカートのメイドさんが、腰をふりふりしつつわたしに紅茶を運んできてくれる。
(すごいスカート……。あんなに短かったら、ガーターがまる見えじゃない)
わたしが、彼女のスカートを気にしていることに気づいたのか、
「ミモザが言うには、あの丈はミリタリールックといって、戦争がはじまって布を節約するためにデザインされたものらしいよ。パリのご婦人方は、そろっていまは膝が見えるか見えないかくらいのスカートを穿《は》いているんだって」
そう、いつもの品のいいおぼっちゃまスマイルで、エセルが笑う。
「……それで、そのパティ王女がどうしたって?」
話題をふられて、わたしは待ってましたとばかりに口を開いた。
「もうね、やりたいほうだいもいいところなの。コーラスの課題はむりやり変えさせるわ、チョコレートを賭けてラクロースの試合はやらせるわ。この間なんか、枕投げの写真が撮りたいって言い出して、みんなで夜にしぶしぶ特別室へでかけて、枕投げをやったのよ」
「枕投げ……」
エセルが、はあ、と首をかしげた。
「それはまた、唐突な」
「でしょう」
頬に手をあてて、わたしはため息をついた。
「あの人、ただたんにいろんな写真が撮りたいだけのような気がする。枕投げとか、チョコレート戦争とか。でも、そんなのだれかにやれって言われてやるもんじゃないじゃない?」
「たしかに」
エセルは、ナッピーにクッキーを食べさせてやりながら、頷く。
いつも思うのだが、お屋敷の二階にまであがりこんでいるなんて、我がペットながらなんてあつかましいアヒルなのだろう……
「だいたいチョコレート戦争って、なんのことを言ってるんだかさっぱり……」
「それ、たぶん、パブリックスクールの習慣のことを言っているんじゃないかな」
「そうなの?」
と、わたしは顔をあげた。
「そう。チョコレート戦争っていうのは、本国のパブリックスクールでよくやる、賭け試合のことなんだ。ポロやクリケットの試合をするとき、お金のかわりに、売店で売っているチョコレートを賭けるんだよ」
だから、チョコレート戦争っていうんだ、と、彼は言った。
「スクール生の頃なんて、みんな常に飢えてたからね。しかも全寮制で、おこづかいは限られてるだろ。だから、なにか口にしたければ、実力で手に入れるしかないわけで……」
「ふうん」
「ほかにも、試験でトップをとったり、スポーツで活躍したりなんかすると、プリーフェクトだけが集まるお茶会に呼んでもらえて、そこでミートパイやチョコレートがふるまわれるんだ。だから、みんな結構必死でね。家族から食べ物なんか差し入れられたら、あっというまに盗まれたもの」
あの朝食のオートミールのまずさは、一生忘れられないね、と彼は肩をすくめた。
わたしは、フォークで堅いパイの底を切断するのに苦労しながら言った。
「でも、ここはパブリックスクールじゃないわ。たしかに、ファグ≠ニか似ている習慣はあるけれど」
「そうだね。イートンにはそれこそ公爵の息子なんてのもいたけれど、特別室なんてものはなかったし。……そういえば、特別室にいた、あのなんとかというお金持ちの娘さんはどうなったの?」
ふいにエセルは、ヴェロニカのことに言及した。
「たしか、きみとはあまり仲がよくなかったろ」
「それよ!」
わたしは、よくぞ聞いてくれましたとばかりに、ヴェロニカが特別室を追い出されたおかげで、カーリーと入れ替わりにルームメイトになってしまったこと、彼女のせいで、Yがたまりにたまって、とうとう罰則生になってしまったことを訴えた。
「あら。そりゃあ災難だね」
「でもね……」
と、わたしは、困ったように目をぐるりとさせた。
「そのヴェロニカなんだけれど、ちょっとかわいそうでもあるの。だって、クラスのみんなはパティに夢中で、ヴェロニカのことなんて忘れたみたいになってるんですもの」
いまわたしの言ったことは、本当のことだった。
ほんもののプリンセスであり、先生さえも従わせてしまうパティの力に、クラスメイトたちはあっというまに彼女に群がったのである。
「ねえ、プリンセス。どうしてこの学校へ来たんですか?」
「バローダの王宮ってどんなところなの?」
というふうに、どこへ行くにも、彼女のまわりにはぞろぞろと人だかりがついてまわる。
そのパティといえば、いつも話しかけてくるクラスメイトたちに、ひとりひとり笑顔で、
「パティでいいわ。特別あつかいされたくないの」
「まあ」
「光栄ですわ、殿下!」
プリンセスにそんなふうに言われて、普通の子なら舞い上がってしまうのも、わからないではない。
気がつくと、これまでヴェロニカの取り巻きだった子たちは、みんなそろってパティのほうについてしまっていた。いまでは、ヴェロニカの話し相手は、あの双子の姉妹のベスとサリーだけだ。
(たしかにヴェロニカのことは、好きじゃないけど)
と、わたしは皮肉に思った。
これまで好き勝手ふるまってきた罰といえば罰かもしれないが、今回はちょっとばかりかわいそうに思う。
いままでちやほやされてきた人たちに、あんなふうに無視されてしまうなんて……
「たしかに、この壁の向こうでも、パティ王女のことは話題になってるみたいだよ」
と、エセルは新聞を開いて言った。
それは、タイムオブインディアという英字の新聞だった。
「ほら、ここ。バローダのパティ王女、パンダリーコットのオルガ女学院へご入学。英国風の教育を望まれる≠チて」
「あら、ほんとだ」
「それにほら、あれを見て。ここから、あそこに、派手派手な原色の旗がいくつも立っているのが見えるだろ」
彼に促されて、わたしは二階の窓から見える、ステーションの壁の向こうを見た。
なにか、テントの先のようなものがいくつも並んでいるのが見える。
「あれはね、その王女さま付きの王宮武官たちだ」
「王宮武官……、それって、みんなパティの召使いってこと?」
「そう。彼女になにかあったらすぐにステーションに駆けつけられるように、わざわざあの門のすぐ外にテントを張っているんだよ。おかげで、きのうは僕の祖父の車が、暴れ出したゾウに踏みつぶされそうになってね」
「ゾウ!?」
ああ、あの転入初日に彼女が乗ってきたやつか、とわたしは思い当たった。
「まったく、インドの王族のすることってすごいよ。ケタはずれで、ちょっと常識人の僕にはついていけない」
まるで、そのインドの王族に会ったことがあるような口ぶりだった。
「エセルは、インドの王様に会ったことがあるの?」
「あるよ。バローダ王家は、ダージリンに夏の別荘をもっているから、たしかそこでバローダ王にはお会いしたことがあったと思う」
「ふううん、すごいわね」
他人事《ひ と ごと》のように言うわたしに、彼は、
「すごいって。きみも、会ったことあるはずじゃないか」
思いもかけなかったことを言われて、わたしはびっくりした。
「えっ、わたし?」
「昨年の夏に、エスコートされていただろう。パンダリーコットの王太子に」
その口調は、どこか問いつめるような鋭さがあった。
「あ、そうだった。たしかに……、そうね」
わたしは、偶然に知り合った、パンダリーコットの王子のことを思い出していた。
――昨年の夏、紅茶夫人ことリンダ=キャッスルトンの開いたパーティで出会った少年……。
『オレは、きみの特別製だろ』
鮮やかなブーゲンビリアの花陰から、そう言って、わたしに親しげに話しかけてきた彼――
アムリーシュ=ハヌワント=シン。
パンダリーコット藩王国の、王太子……
「あれから、会ってないのかい。あのパンダリーコットのマハラジクマールには」
言われて、わたしは首を横にふった。
アムリーシュ。彼は、不思議な存在だった。
なぜか、あの夜はじめて会ったばかりなのに、彼は、不思議と何年も前から知っているような親しみ深さがあったのだ。
それだけではない、彼はリンダ=キャッスルトンたちの陰謀を聞いてしまい、攫《さら》われたわたしを、ナッピーとともに助けにきてくれた。
彼とは、その夜以来会っていない。
当然だ、彼はこの国の王族なのだから。
(そうして、わたしの義弟かもしれない人……)
『あなたの母親、ミリセント=シンクレアはね、英国秘密情報部のS要員なの。つまり、マタハリなのよ』
わたしが捕らわれていた船着き場にある倉庫で、リンダ=キャッスルトンは、わたしのママが英国のスパイであり、パンダリーコットのマハラジャとの間に子供をもうけていたと言った。
そうして、英国はその子を王位につけるために、パンダリーコットの内政に口出ししていること。
ううん、それだけじゃない。
『その子をマハラジャにするために、英国は、当時三人いたギルカールの王子たちを、つぎつぎに謀殺《ぼうさつ》し――』
そうして、そのために英国に反感をもつ親族から命を狙われたアムリーシュは、いままで外国に身をかくしていたというのだった。
(彼はほんとうに、わたしの義弟なんだろうか。だから、わたしを助けてくれたの……?)
できることなら、会って真実をたしかめたかった。
けれど、わたしにはそうする術がない。インドの王族でも、ましてやエセルのように、王族のパーティに呼ばれたりすることもないんだし……
「王子は黒い目だったって、言ってたよね」
ふいにエセルは、紙のように薄いカップから口を外して言った。
「ターバンを巻いていたから、髪の色はわからないって」
「ええ」
わたしは、ずっと考えていたことを、彼に話そうと椅子から身を乗り出した。
「ねえ、エセル」
「なんだい」
「彼ともう一度会うためには、どうしたらいいのかしら」
わたしの突然の申し出に、彼は、ちょっと驚いた顔をした。
「会うって……、その、アムリーシュ王子に?」
「そう。あの人って、いまはパンダリーコットの王宮には、いないのよね」
「そうだね……」
エセルは、形のいい顎に細い指を当てた。わたしに、どこまで話すべきか言葉を選んでいるようだった。
「そもそもきみは、あの噂を知っているの? 彼が、このインドにいられない理由を」
「ええ、噂だったら」
わたしは、頷いた。そのいきさつは、はじめはミチルとヘンリエッタに、そしてリンダ=キャッスルトンに聞かされたことがある。
「王子のおかあさまが、英国人だったからって……」
「うん、そうなんだ」
あっさりと、エセルは認めた。きっとそれは、彼くらいの規模の商会を経営しているものならだれでも知っている、公然の秘密なのだろう。
エセルは、はっきりとわたしのほうに向き直った。
「じゃあ、僕の知っていることを全部話そう。今のパンダリーコットのマハラジャ、ギルカール=シンには、妃《きさき》が三人いるんだ。インドの王族は、生まれたときに占星術《せんせいじゅつ》で婚約者が決まってしまうことが多いらしいから、べつにこれは不思議なことじゃない。
第一夫人は親子ほども歳が離れたマラータの王族で、子供はいない。第二・第三夫人はどちらもジャイプールの王家出身だ」
三人の王子の母親は、この二人の夫人なのだとエセルはわたしに説明した。
「王太子はとっくに決まっていたし、ほかにも二人の王子がいたから、パンダリーコットは跡継ぎにはことかかないはずだった。
ところが、番狂わせはこのあと起こった。ギルカール王がオックスフォードに留学していたさいに、英国人の恋人ができたんだ」
(それが、わたしのママ!)
わたしは、エセルにわからないよう、ごくりと唾《つば》をのみこんだ。
英国秘密情報部屈指のマタハリといわれた、スカーレット=ミリセント。――わたしの実の母親、ミリセント=シンクレア。
「これ自体はべつによくあることだから、問題はない。問題があったのは、その恋人に子供ができたことでね。その後、次々に王子が亡くなったものだから、妙な噂が流れたんだ」
「英国が、王子たちを謀殺したっていわれているあれね」
「そのとおり」
エセルは、まるで教え子を褒《ほ》める教師のように言った。
「王子たちの死が英国のせいだと思いこんでいるマハラジャの親族たちは、アムリーシュ王子を英国の手先だと思い、殺そうとやっきになった。彼がマハラジャになれば、パンダリーコットは英国にのっとられると思ったのだろうね。
それでしかたなく王子は、数少ない王家の支援者に守られて、外国に逃亡した」
「ちょっと待って」
わたしは、ううんと顔を顰《しか》めて言った。
「じゃあ、どうしていまごろ戻ってきたの。戻ってきたら、また命を狙われるんじゃないの?」
「状況が変わったんだよ」
エセルは、広げていた新聞をめくって、一枚の写真入りの記事をゆびさした。
そこには、一人の四角い白い帽子にベストのようなものを身につけた政治家らしい男性の写真が載っていた。
「彼を知っている?」
「いいえ、だれ?」
「バンディト・ジャワーハルラール・ネルー。国民会議の一員で、インド政府の事実上のトップだ」
わたしは、さらにううんと眉をよせた。
「えーっと、待って待って、どういうこと。国民会議っていったいなに? インドは、イギリスの植民地じゃなかったの?」
「植民地さ。だが、いまは自治権はインドにある。彼らは、藩王国をのぞくほとんどの直轄地の自治をおこなうための政府なんだ」
彼は、一本一本指を折ってわたしに説明してくれた。
「よく聞いてシャーロット。インドには、四つの勢力があるんだ。ひとつは、イギリスのインド政庁」
わたしは、頷いた。
「それから、マハラジャの治める数百の藩王国」
「ええ、わかるわ」
「そうして、ネルーの率いる国民会議。けれど、この会議のほとんどは、ヒンドゥの上流階級でしめられている。それを不満に思ったイスラム教徒たちが、イスラム連盟という集団を作った。彼らは、インドが独立したあかつきには、パキスタンをイスラムの国として独立させようとしているんだ」
わたしは、彼にならって指折り数えてみた。
イギリスに、藩王国。そしてネルーの国民会議(ヒンドゥ)と、イスラム連盟。これで四つの勢力というわけである。
わたしは、しっかりと頷いた。
「わかったわ。続けて」
「このままイギリスがドイツと戦争を始めれば、本国はドイツで手いっぱいになってしまう。だからこそインドは、いまこそ独立の機会だと活動を活発にしている。これはわかるよね」
「ええ」
「で、だ。ここで、パンダリーコットの問題になってくる。いま、パンダリーコットのマハラジャには、王子は一人しかいない。アムリーシュ=シンしか」
彼は、わたしの理解が追いつくように、ゆっくりと噛み砕いて話してくれた。
「インドは、いわばイギリスの財布のようなものだ。対ドイツの戦費がかさむいっぽうのイギリスとしては、絶対にインドを手放したくはない。
それは、パンダリーコットも同じだ。彼らが恐れているのは、後継者がいないことによる藩王国のお取りつぶしだ。もし、いまお取りつぶしにあえば、あっというまにパンダリーコットの財源はイギリスに吸い上げられる。もしくは、ネルーの国民会議に。
――ここから先は、僕の推測だが……」
と、彼は前置きをしてから、言った。
「藩王国を存続させる方法は二つだ。一つは、アムリーシュを跡継ぎと認め、イギリスの支援を得ること。実際にそうやってイギリスの後押しを得て続いている藩王国はおおくある。あのマイソールやジャイプールのマハラジャは、反英的だという理由で、イギリス政府に退位させられたこともあるんだよ」
「へええ、そうなの」
ジャイプールといえば、北インドにあるピンク色の風の王宮で有名な国。マイソールは、最後までイギリスの植民地化に抵抗した勇猛な王、ティプー・スルタンでよく名が知られている。
どちらも、パンダリーコットとは比べ物にならないくらいの、大国だ。
「パンダリーコットがとるもうひとつの策は、イギリスというバックがちらつくアムリーシュではなく、ネルーら国民会議の押す別の後継者を、マハラジャの養子にとることだ。
親族達は、迷ったすえにアムリーシュを押したにちがいない。だから、彼は戻ってこられた」
「どうして、イギリスのほうを選んだの? 彼らはイギリスを憎んでたんじゃないの?」
「それが、人間のどうしようもないところなんだよ、シャーロット」
エセルは、苦虫をかみつぶしたような顔で、腕をくんだ。
「たぶん、王家の中に、ネルーらの支援を得ることに反対した勢力があったんだろう」
「それは、だれ?」
「イスラム教徒だよ」
わたしは、あっと声をあげそうになった。
そうだ。たしか、ネルーが率いる国民会議とは、ヒンドゥ教徒の集まりとエセルは言っていなかったか。
「そう、彼らはヒンドゥ教徒にとられるくらいなら、イギリスのほうがいいと結論を出したんだ。悲しいかな人間は昔から、遠くの敵よりは、近くの同族を憎むものでね。ヒンドゥとイスラムの間には、僕ら英人にははかりしれない怨恨《えんこん》があるんだろう」
「でも、だからって」
わたしは、反論した。
「それじゃあ、インドが植民地になったときと、おんなじじゃないの」
「そう、おんなじだ」
そうして、エセルは冷ややかに言った。
「だから、ダウニング街のえらい人たちは、安心してドイツばかり気にかけていられるんだろう」
それは、まるで急に季節がまきもどってしまったかのような、寒々とした目だった。
(エセル……?)
わたしは、なぜかほんの少し違和感を感じた。その視線はまるで、わたしがいままで見たこともないくらいに、暗く鋭さをもってわたしの心に突き刺さったのだった。
けれど、彼はその一瞬後には、いつもの人の好《よ》さそうな笑みを浮かべて、
「ま、ともかく。イギリス人だってアイルランド人と仲が悪いし、ロンドンじゃスコットランドの悪口ばかり言ってる。世界中どこでもあることで、インドが特別なんじゃない」
そうだろうか、とわたしは思った。
たしかに、インドに限ってのことではないかもしれないけれど、そんなふうに同族をおとしめるために他者の支配を受け入れるなんて、それも、同じことを繰り返すなんて、なんだか卑屈《ひ くつ》すぎるような気がする……
「でも、それじゃ、あまりにも歴史から学んでないってことにならない? わたしはルーシーおばさまから、間違うことは罪じゃない。間違い続けることが罪なんだって教えられたわ」
すると、エセルはおどけたように拍手をした。
「すばらしいね、きみのおばさまは。それは人生の真理のひとつだよ」
「からかわないでよ、エセル」
「からかってなんかないさ」
彼は一気にひらべったい紅茶のカップを傾け、気をとりなおしたように言った。
「それはそうと、そのおばさまから手紙は来たのかい。ずいぶん、気にしていたみたいだけど?」
「うっ」
急に、痛い話題を振られて、わたしはおもわず紅茶カップをとりおとしそうになった。
「その様子だと、来てないみたいだね」
「そ、そうなの……」
わたしは、そうっとカップを皿に戻した。
「やっぱり、怒ってるのかなあ。ルーシーおばさま」
くくくっと、彼は笑いをかみつぶすようにして、
「そりゃあ、せっかく迎えにきてくれたのに、あんなふうに嫌がって船から飛び降りたんだからねえ。僕も、君からきいたときは、とんでもないことをしでかすお嬢さんだと思ったものだよ。当分の間は、そっとしておいたほうがいいんじゃないかな」
「そうね」
いいかげん、ごめんなさい≠フ手紙を書くのも、書き飽きてきたところもあるので、わたしは彼の忠告に従って、ほとぼりがさめるまで放っておくことにした。
(ごめんなさい、おばさま。シャーロットは勝手な子です)
ほとぼりがさめたころ、おばさまの誕生日に、バースデーカードを送ろう。
わたしは、膝の上に手をのせて、ほっと息をついた。
「……じゃあ、アムリーシュは、いまはインドに戻ってきているのね」
「あくまで、僕の推測でしかないわけだけどね。
ともかく、彼は親戚の許しを得て、パンダリーコットに戻ってきたんだろう。いまだに正式な立太子がないってことは、まだ王宮の中には反対派がいるのかもしれない。
けれど、彼はこれから顔を売ることが大事だ。このまえリンダ=キャッスルトンのパーティにいたのも、戻ってきたことをアピールするためだろうし。いまごろは、親戚まわりでもしてるんじゃないかな。インドの王族は、ほとんどが親戚みたいなものだから」
「親戚まわり……?」
「そう、たしかその転校生の、パティ王女と彼は、母方のいとこ同士のはずだよ」
「ええっ」
そんなことは初耳だった。
わたしは、思わず椅子から立ち上がって、エセルに詰め寄った。
「じゃ、じゃあ、パティに聞けば、アムリーシュのことがわかるってこと?」
「かもしれないってだけだけれどね。いま、アムリーシュ王子がバローダにいる可能性はある」
「そっか。しかし、う、うーん……」
困った、とわたしは顔をしかめっつらにして腕を組んだ。
はっきりいって、わたしはパティ王女は苦手なのである。
苦手どころか、カーリーをとられてヴェロニカを押しつけられた一件で、私の中では、できれば近寄りたくない存在になりつつあったのだったのだ。
その彼女に、アムリーシュのことを聞かなければならないなんて。
「うーん、うーん、いやだ。でも……、うーん……」
「まあ、気が進まないなら、やめておきなよ」
わたしが、あまりにも百面相をしているからか、エセルがなだめるように言った。
「ところでシャーロット、さっきから気になってたんだけど」
「うん?」
エセルが、おもむろに窓の外を指さして言う。
「きみの学校のほう、なんだか騒がしくない?」
言われてわたしは、パティのことから頭を離して、ふと顔をあげた。そして、真冬のヒマラヤの風に吹き付けられたように、凍って固まった。
「な、な、なによ、あれ!?」
なんと、オルガ女学院の玄関前に、あのパティがやってきたときのように、色とりどりの幕と王宮の武官たちが整列していたのである。
そして、なんといっても目立つのは、きんきらきんに装飾された輿《こし》をかついだ、巨大なゾウ!
(ゾウが、うちの学校でなにしてるっていうの!?)
「ごめんなさい、エセル。ちょっと戻るわ!」
言うが早いか、わたしはレディにはあるまじきことに挨拶もそこそこに部屋を飛び出し、音も荒く階段をかけおりた。
「またいらっしゃーい」
メイドのミモザさんの声も、あっという間に遠ざかる。
オーキッドのお屋敷を飛び出したところで、わたしは学院の中から出てきたパティとはちあわせた。
「あら、今週のミス・Y=v
よりにもよって彼女は、輿の上からわたしのことを、たいへん屈辱的な名前で呼んでくれた。
「ちょうど、いまからパンダリーコットの市街を観てまわろうと思っていたの。ね、あなたもどう?」
わたしは、仰天した。
「出るって、市街に。まさかこのゾウで!?」
「そうよ。だって、私のロールスロイスは置いてきてしまったし」
そう、とんでもない名詞が、口から飛び出す。
(私の[#「私の」に傍点]ロールスロイスですか……)
わたしは、内心あははと笑った。
さすが、ルイ・ヴィトンにシリーズを作らせる家の娘は、言うことが違う。
「それに、ゾウの背に乗れば、ひったくりにも遭わずにすむでしょ。だいじょうぶ、警備のものはたくさんいるから、ノープロブレム!」
「ノープロブレムって……」
ということは、このゾウの輿にのって、ステーションの外に出るということなのだろうか。
すると、その輿の上に見知った顔を見つけて、わたしはさらに驚いた。
「よー、シャーロット」
「やっほう」
そこから手を振ってみせたのは、なんとわたしと同じくパティを嫌っているはずの、ミチルとヘンリエッタだった。
「な、なんで二人が乗ってるの!?」
ミチルは、少しはずかしそうに頭のうしろをかきながら、
「いや〜、ゾウの背なんて、めったに乗られへんやん」
「そうそう」
わたしは、がっくりとうなだれた。そうですか、つまり二人とも、ただのミーハーだったというわけですか。
(ううっ、やっぱりわたしも乗りたい!)
わたしは、持ち前の好奇心が、むくむくと頭をもたげてくるのをとめられなかった。
正直言ってパティの世話になるのは不本意だが、ミチルのいうように、ゾウの背に乗れる(しかも王家の輿だ)なんて、そうそうあることではない。
それに、インドに来てからずっとこのステーションから出たことのなかったわたしは、一年近くもいるというのに、この壁の外をほとんど見たことがなかった。
きっと、この機会を逃してしまったら、二度と見に行くことなどできないかもしれない。そう思ったわたしは、慌てて登り台の近くへ走り寄った。
「行く!」
「いいわ、じゃあ上ってきて」
わたしは、上からミチルに手をひっぱってもらって、おっかなびっくりゾウの上の輿に乗り込んだ。
「う、うわわ。揺れる……」
「ハジャはゾウ使いの名人だから、なにも怖くないわよ」
パティが、ゾウを操っている中年の男性をみんなに紹介した。
「彼は、わたしの叔母が嫁《とつ》いだクーチ・ビハールのゾウ使いなの。ビハールはとてもいいゾウがいることで有名で、彼の家はもう何代にもわたって、ゾウを飼育しているの。だから、ぜんぜんノープロブレム」
(そうか?)
わたしは、ひっそりと心の中で疑問をなげかけた。
ゾウを使ってどすどす街中を練り歩くのは、立派な規則違反じゃないのか……?
「あの、ところで、カーリーは?」
そう言えば、あんなにパティがべったりくっついて離さなかったカーリーが、輿に乗っていないことに、わたしは気がついていた。
「風邪気味なんやって」
ミチルが言った。
「ほら、昨日もちょっとがらがらした声してたやん。だから、ハウスに残るって」
「ああ、そうか。そうなのね」
たしかに、昨日談話室で会ったときに、少し風邪気味のような声をしていたから、外出するのは控えたほうがいいかもしれない。
ゾウ使いの「ウート!」という勇ましい声がかかって、わたしたちを乗せたゾウが、すっくと立ち上がった。そのよく訓練された様子に、まずわたしは感心した。
ずしんずしんと足音も高らかに、ゾウがステーションの石畳の上を行進しはじめる。
(インドの人は、いったいどんな生活をしているんだろう。ロンドンとはどんなふうに違うのかしら)
わたしは、これでインドを知ることに一歩近づけるかもしれないと、とても興奮した。
きっと、わたしが、初めてインドにやってきたときに見た、道端に寝転んでいた牛や、野良の孔雀もいるにちがいない。
「これで、ようやくほんとうのインドが観られるんだ!」
そうしてわたしたちは、ゾウの背中に乗ってステーションの門をくぐったのだった。
§  §  §
「わあ!」
その箱庭を出た瞬間、パンダリーコットの首都アーリアシティは、ステーションにはない喧騒《けんそう》でわたしたちを出迎えた。
アーリアシティ、という名だけあって、ここは思ったより白い肌の人が多い。もともと、インドは南下してきたアーリア系の民族が、先住民族を支配するかたちで続いてきた。あの有名なカースト制度も、そのアーリア人が先住民族を支配するためにつくったものなのだ。
「すっごい人。すごい、すごいわ!」
わたしは興奮と驚きでハイテンションぎみになりながら(象に乗ったわたしたちを見たインドの人も、相当驚いていた)、目を皿のようにして街の様子を眺めやった。
まず、目にとびこんでくるのが、英語やヒンディ語など様々な文字で書かれた板である。それが、鈴なりになって道を挟んで建てられている煉瓦造りの商店の二階にかけられている。
そして、その商店の前にさらにテントを張った露店がならび、そのさらに間には、テントの柱と柱にひもをかけて、服や雑貨が売られている。
「あっ、反物《たんもの》屋さんだ!」
道の端々にある、狭い間口のお店には、たくさんのものが所狭しと並んでいた。不思議なことに、衣料を売っている露店のすぐ隣で、山のようなニワトリの入った籠《かご》をつんでいる店もある。
中には、仕立て屋と看板を出しているのに、屋根もない道ばたに、たった一台のミシンしか出していない店もあった。
「すごい、きれい。あれはなに?」
わたしは、色とりどりの粉がこんもりと盛られた露店を指さした。
「あれは全部スパイスや。カレーにいれるねん」
「あれ全部? あんなにカラフルなのに!?」
まるで小さな子供みたいに、落ち着きなくきょろきょろとしているわたしに、笑いながらミチルが答えてくれる。
「あれはなに。まるくて白いもの」
「チャパティや。インドのパン」
「あの人は、葉っぱの上につぶつぶを置いて、何をしているの?」
「あれはタバコ屋や。キンマの葉っぱとかを使う。吸うと口の中が真っ赤になるで」
ミチルは、インド放浪中のお父様から、インドの街のことをいろいろ聞いているのか、とても物知りだった。
もっとも、ミチルも実物を見るのは初めてらしくて、最初はゾウの乗り心地に文句を言っていたのに、いつしか興味津々という様子だ。
それほどに、街は、あらゆる喧噪にみちあふれていた。
地べたの上にじかに積まれた銅製の鍋、そして、そのまわりをコッココッコと歩き回るニワトリ。
やかんをぶらさげて、なにかわからない言葉で話しかけてくる人びと、地べたにじっと座ったまま、脇においてあるザルの上の商品を売っている女性もいる。
目をまるくしているわたしたちのすぐ脇を、果物や何かを入れた籠を頭に乗せて運んでいる人たちが通り過ぎていった。
(頭が痛くないのかしら?)
わたしは疑問に思い、よく頭の上に物を乗せて落ちないものだと感心した。
ふと、わたしはパティのほうを見た。
(あれ……?)
なぜか、彼女はせわしなげに、きょろきょろとあたりを見回している。
その様子が、わたしたちのようなはしゃいだものでなかったので、わたしは少し気になった。
(なんだろ、なにかを探しているみたいだけど)
「お、あれサトウキビ売りやん!」
ふいに、ミチルが言った。
彼女は、一台の荷台を指さしていた。その上には、手動の絞り器と長い棒のようなものが山積みになっていた。
「えっ、サトウキビって、お砂糖の原料になるアレのこと?」
「そうそう! あのローラーで絞るとあまーいジュースが出てくんねん。一度ダッドと飲んだことがあるねんけど、甘かったあ」
日頃、甘いものに飢えているハウス生のわたしたちは、サトウキビのジュースと聞いて思わず目の色を変えた。
「すごいわ、ただの木の枝みたいなのに、あんなにジュースが取れるんだ」
「うわあ、のみたいー」
「食べたいー!」
口の中に、じゅるっと唾をためた彼女たちが、いっせいに輿から身を少し乗り出して、ローラーを回している人たちを見つめる。
「だめよ、シャーロット。落ちちゃうわ」
ヘンリエッタが慌ててわたしのスカートのすそを掴《つか》んでくれようとした、そのときだった。
道がステーションの中のように石畳でないことは知っていたけれど、思ったよりも、右へ左へ輿が揺れる。
そのとき、なぜかぐらり、と、輿が大きく傾《かし》いだ拍子に、わたしの肩になにかがぶっかった。
「のわっ?」
「シャーロット!!」
輿から身を乗り出していたわたしは、なんとそのまま見事に空中へと放り出されてしまったのだ!
一瞬、何が起きたのか理解できなくて、わたしは固まった。
「ぎゃああ!」
みるみるうちに地面が近づいてきて、がん! という衝撃があり何もかもが真っ暗になった。
地面に落っこちたにしてはおかしな痛さだった。なぜかというと、腕の付け根辺りが痛いからだ。
「大丈夫!? シャーロット」
心配してくれる声につられて顔を上げて、わたしはようやく自分がおかれている状況に気が付いた。
「あ……」
わたしが落っこちる寸前で、ヘンリエッタがわたしのスカートの裾を掴んでくれたのだ。そのおかげで地面にたたきつけられるということは免《まぬが》れたものの、
「お、おおお願い、おろしてヘンリエッタ!!」
わたしは、真っ赤になりながら言った。スカートが見事にめくれあがっていて、わたしはとんでもなく恥ずかしい格好になっているのだ。
(ひええ……、ベチコートが丸見え!)
「大丈夫ですか、お嬢さま」
ゾウを先導していたパティのゾウ使いが、片言の英語で話しかけてくる。彼に助けてもらって、わたしはなんとか無事に降りることができたのだった。
しかし、そうしている間にも、わたしたちの行進を興味深げに見守っていた街の人々が、なにごとかとわたしたちの周りに集まってくる。
(うわあ、な、な、なんてこと。恥ずかしい。お、お嫁にいけないっ!)
わたしが、真っ赤になった顔を、必死で両手でかくそうとしてうつむいた。
そのとき、
(…………え?)
わたしから少し離れたところで、すずやかな顔つきの男の子が、わたしを見てくすりと笑うのが見えた。
「あ!」
その黒い瞳を持った人物は、わたしが顔をあげるなり、すっと裏道に入りこんでしまった。
顔はよく見えなかった。ただ、頭にはターバンを巻いていて、ミルク色の上下に、赤茶色のベストのような服を着ていた。歳のころは自分とおなじくらいだろうか……
わたしはどきりとした。
(まさか)
「アムリーシュ!?」
消えていったその背中が、なぜかわたしには、キャッスルトン夫人のサロンで出会った不思議な男の子……、アムリーシュ=シンのように思えて、わたしはいつの間にか駆け出していた。
「シャーロット、どこへ行くの!」
「ごめんなさい、すぐに戻る!」
突然走り出したわたしに、皆が仰天したように声をかけてくる。しかしそのとがめる声も、今のわたしにはまったく届いてこなかった。
なんとしてでもアムリーシュに……、わたしの義弟かもしれない彼に、もう一度会いたい。
「待って!」
わたしは、無我夢中でその細い小路を走りきると、彼が曲がったほうに勢いよく飛び出した。
――どん!
ところが、運の悪いことに、わたしはなんと曲がった途端、道に寝そべっていた牛にぶつかってしまったのだった。
「いたたた…………。もう、どうしてそんなところで草なんて食べてるのよ!」
そんなふうに牛に文句を言ったって通じないのだが、どうしたって言いたくなる。
「ああ……、見失っちゃった」
きょろきょろと先を見渡したけれど、どこにも、彼らしい人物は見当たらない。
仕方なく、わたしは立ち上がってスカートの土をはらい、元きた道をとぼとぼと戻ろうとした。
「あれ? このあたりに、泥をくっつけたみたいな変わった色の壁があったのに」
さっき曲がったところの壁は、まるめた泥を押し付けたみたいな不思議な模様があった。ちらりと見たのを覚えていて、そこからゾウのところへ戻れると思っていたのだけれど、いつの間にかその壁がなくなってしまっている。
「う、うそでしょ!?」
わたしは、あわてて心当たりのあった路地へと飛び込んだ。
いくつも洗濯物がぶら下がっている細い道を抜けて、日当たりのいい大通りに出る。
「あれ…………」
そう思ったものの、わたしが飛び出した大通りには、すでにゾウの姿はなかった。
(ここじゃ、ない!?)
ぞぞーっと、顔から血の気が引いていくのを感じた。
わたしは、慌てて道ばたでヤシの実の皮を剥いているおじさんに、
「あの、輿を背負ったゾウがどっちにいったか知りませんか?」
と、尋ねた。
ところが、彼はわたしの言っている言葉がわからないのか、わからないという風に手振りをして、再び皮を剥き始めてしまった。
(ど、どうしよう)
わたしはますます焦った。
[#フォント変更]「あ、あの、ステーションはどっちでしょうか。ゾウを見なかった?」[#フォント変更終わり]
勇気をもって片言のヒンディ語で話しかけてみるものの、戻ってくる言葉はまったくわたしの知らない単語ばかり。
(ヒンディ語じゃないんだ!)
そういえば、カーリーはパンダリーコットでは、クジャラート語が公用語なんだと言っていたっけ。
(どうしよう、どうしたらいいの!)
わたしは、とにかくゾウの姿を捜して、闇雲にあたりを走りはじめた。
こんなところに、じっとなんかしていられない。
それまでパンダリーコットの街のことをもっと知りたいと思っていたはずなのに、いざ言葉もわからないまま、たった一人でほうりだされてしまうと、まるでここが耐え難いほど恐ろしい場所であるかのように感じてしまう。
そのとき、カタコトの英語がわたしの耳に飛び込んできた。
「大丈夫か? お嬢ちゃん」
わたしがはっとして振り返ると、そこにはひげを生やして、裾の擦り切れた服を着た中年くらいの男の人がいた。わたしが、あなたは英語が話せるの?と尋ねると、彼はにっと笑った。
その歯が赤く染まっていて、わたしは思わずぎょっと飛び上がった。
「は、歯が、あか……」
「ああ、これはパーンのせいだ。タバコみたいなもんさ。歯が赤くなっちまう」
わたしは、ひきつりながら笑ってみせた。
「そ、そうなの。変わってるのね」
男はにやにやと笑いながら、
「お嬢ちゃん、英国保護区の人間だろ? ステーションはこっちだ、案内してやるよ」
「え、あ、ちょっと」
男はそういうと、強引にわたしの手首を掴んで歩き出した。
「ひっ」
一瞬、ぞわわっと鳥肌がたつ。
(やばい!)
かと思うと、やはりアレがきた。
「は、は、はーっくしょん!」
わたしは、慌てて男の手をふりほどいた。しかし、いつもの男の人に触られるとくしゃみが出る病≠ヘ健在で、口を押さえても男と距離をとっても、この連続くしゃみは止まってくれそうになかった。
「はくしょん、はくしょん、はくしょーん!」
「お、おい……」
さすがの男も、大きく体を折ってくしゃみをするわたしを、面食らったように眺めている。
そのとき、ふいに、わたしの真後ろで声がした。
「失礼、きみ、オルガ女学院の生徒さんだよね」
それは、さっき男が話したのとはくらべものにならないくらい、綺麗なキングス・イングリッシュだった。
わたしが振り返ると、真っ白な肌をした(とはいえ、この街ではそう見えたというだけかもしれない)、二十代半ばくらいのスーツ姿の男の人の姿が目に入った。
彼は、グレーのスーツにきちんとのり付けされたシャツを着ていて、胸には大きなカメラを下げている。
「ステーションはそっちじゃないよ。その男についていったら、明日には、ほら、そこのインコみたいに、籠に入れられて売られてしまうよ」
「なんだと、てめえ」
「おっと」
拳をふりあげて殴りかかってきた男をひょいと躱《かわ》すと、彼はひげ男の足の甲を、思い切り踏んづけた。
「ぎゃっ」
素足だったひげ男は、革靴に思い切り踏まれて情けない声を上げる。
すると、そのカメラマンらしき彼はわたしに脇道のほうを指さすと、ぱっと走り出したのだった。
「ほら、走って」
すぐ後ろから、英語ではない言葉で、あの男が叫んでいる声が聞こえてくる。
(に、逃げなきゃ!)
寝そべっていた牛をまたいで、壷をかかえたヨーグルト売りの脇を通り過ぎ……、屋台とテントの隙間にとびこんで、また走り出す。
そうこうしているうちに、わたしはなんだか楽しくなって、逃げながら彼と一緒に笑い出した。
「よし、このへんでいいだろう」
彼が立ち止まったので、わたしは、大きな街路樹に手をついて、大きく息をした。
「はあっ、はあっ……、び、びっくりした」
こんなに思いっきり走ったのは、ひさしぶりのような気がする。
「ありがとう、ええと……」
「エドワード。エドワード=ソーントンだ」
かなりの距離を走ったというのに、男は額にひと粒の汗も浮かべていなかった。
わたしは、出会ったときから気になっていたカメラを指して、エドワードに尋ねた。
「あなたは、カメラマン?」
「ああ。いや、新聞記者だよ。ロンドンタイムスのニューデリー特派員だ」
「新聞記者!」
わたしは、珍しいものを見るような目で、彼をまじまじと見上げた。
エドワードは立ち上がって、わたしに後をついてくるよう促した。
「おいで、続きはちょっとチャイでも飲みながらにしよう」
「あ、は、はい……」
その意見にはわたしは大賛成だった。なにしろさっきの全力疾走で、とっても喉《のど》がかわいていたのだから。
エドワードが連れて行ってくれたのは、店先に粗い木の椅子とテーブルが置いてあるだけの、露天のチャイ屋だった。
わたしは、おっかなびっくりベンチに腰掛けた。
攫われかけた後で、ほいほいと男の人についていくのは不用心な気もしたけれど、わたしには、彼がそんなに悪い人ではないように見えた。
それに、心のどこかで彼が白人だったから、無条件に安心してしまっていたのかもしれない。
……すぐに、そんな自分に気がついて、自己嫌悪になった。
(嫌だな、わたし。そんなふうに人間を区別するなんて)
となりで四角いトルコ帽をかぶったサンダル姿の人が、チャイを皿にもどしてふうふうと冷ましながら飲んでいる。
「カップがちっちゃい」
「素焼きの器で飲むのは初めて?」
[#挿絵(img/02_145.jpg)入る]
「ええ、わ。取っ手がないのね」
わたしはどきどきしながら、差し出された素焼きの小さなカップに口をつけた。すぐに飲み干してしまえそうな量だったけれど、わたしはそのチャイの味にびっくりして、一口目で口を離してしまった。
「こ、濃い…………」
「英国式の紅茶とはちょっと味が違うからね。甘くて濃いだろ? 俺も最初は驚いた」
言いながらチャイを飲み干したエドワードは、なんと次の瞬間、その素焼きの器を地面にたたきつけたのだった!
かしゃんと音を立てて割れた器に、びっくりして固まったわたしに、エドワードはくつくつ笑って言った。
「この素焼きの器は使い捨てなんだ。使い終わったら道に捨てるんだよ。全部土で作られているから、すぐ土にかえる」
なるほど。よく見れば、机の下にはかけた器が幾つも転がっている。
わたしはここのやり方に習うことにして、チャイを飲み干すと、素焼きの器を思い切り地面に投げつけた。
かしゃんと音を立てて割れたそれを見ると、なんだかいたずらをしたときのような気持ちになる。
「な、なんだかへんな感じ」
「じきに慣れるさ」
エドワードはチャイをもう一杯ずつと、油で揚げたお菓子を注文し、こんどはゆっくりと味わった。
わたしは、両手でまだ熱いカップを包みながら、彼を見上げた。
背の高い人だった。イギリス人にはめずらしく、黒くくせのある髪と、墨を煮詰めたような目をしている。鼻はややかぎ鼻っぽく、どこかエプソムの競馬場を走っている、とてもよく訓練されたサラブレッドを思わせた。
(お、大人の人だなあ……)
同じ男の人でも、おとなりののほほんとしたエセルや、文句ばっかりいう義弟のフェビアンとは、なにかべつの生き物のような気がする。
「いやあ、それにしてもすごいくしゃみだった」
彼は、あのときのことを思い出したかのように声に出して笑った。
「どうしたの。体の調子でも悪かったのかい?」
「あ、あの、いえ、あれは男の人にさわると出る病気なんです」
「病気?」
わたしは、彼に簡単に、自分が男の人にじかに触られるとくしゃみがとまらなくなる体質だと告げた。
「服の上からとかなら大丈夫なんですけど、やっぱり握手とか、じかに触られるとダメで……」
「へえ、それは難儀なこった」
「あの、ミスタ・ソーントン。どうしてわたしが、オルガ女学院の生徒だってわかったんですか?」
すると、エドワードはいたずらっ子のようにくるくると目を動かして、わたしを指差した。
「制服」
「えっ」
「あそこには、ちょっとした知り合いがいてね、だから知ってたんだ。それに、この西インドで、首元にヴィクトリア女王をぶらさげて歩いてる人間はそういない」
わたしは、慌ててヴィクトリア女王のカメオを触った。
「君みたいな白いお嬢さんは、ここじゃあ目立つ。すぐにステーションの人間だってわかる。さっきのは質《たち》の悪い奴だ。たぶん、人攫いだろう」
「や、やっぱり!?」
わたしは、驚きのあまり思いっきり声を上げた。
(わたしったら、ゾウから降りてちょっとしかたっていないのに、そんなにすぐに攫われかけるなんて……)
継母のヘレンが言うように、やっぱりこういう街には質の悪い人間がうようよしているのだろうか。
エドワードが、足下にふたつめのカップを落として言った。
「それに、君たちのパレードはずいぶん目立っていたからね。仕方ない」
「そんなに目立ってたんだ」
「目立つどころか、大騒ぎだったさ。ゾウがイギリス人を乗せて町中を行進するなんて、めったにあることじゃない。まだホーリーには早いのにって、みんな驚いてたよ」
「ホーリー?」
耳慣れない言葉だった。
エドワードは、ついと近くの露店を指さした。
その、粗末な布を張っただけの店先には、小さな山に盛られた真っ赤な粉が並んでいた。ほかにも、黄色や青い粉や水風船などが、せまい台の上に所狭しと並べられているのが見える。
「あれは、ホーリーに使う粉だよ。ホーリーは毎年、三月の頭頃にある祭りなんだ。インドでは、春が来たことを祝って、赤い粉を掛け合う風習がある」
「粉を、かけあうですって?」
言われてみたものの、うまくその様子が想像できなくて、わたしは顔をしかめた。
「それって、あの真っ赤な粉をかけるの? そんなことして、汚れてしまったりしない?」
「もちろん、その日は一張羅《いっちょうら》なんて着られないさ。頭の上から足の先まで、真っ赤になってしまうんだからね。覚悟したほうがいい。
ホーリーはヒンドゥ教徒のお祭りで、その日ばかりは身分も関係なく、みんなが一日中騒ぐんだ」
「へええ」
わたしは、素直に驚いた。なんだか、色がついた粉があちこちで売られていると思ったら、どうやらそのホーリー祭りが近いせいらしい。
「くわしいのね、ミスター」
「エドでいい。君は?」
「シャーロットよ」
彼は、背広の内側に手を差し入れると、あっというまにオレンジ色の箱の中からタバコを一本出して、口にくわえた。
「ねえ、エドは、新聞記者なのよね」
「いちおうはね」
「じゃあ、パンダリーコットのマハラジャのこととか、そういうのにも詳しかったりする?」
彼は、ちょっと驚いた目をすると、マッチで火をつけ、ふうっと煙を吐く。
「もしかして君は、マハラジャのハレムに入りたいのかな?」
「ま、まさか!」
「はは、冗談だよ」
彼の体からは、タールのように重い香りがした。
「いったい、そんなことを聞いてどうするの。それとも、だれか王宮に知り合いでも……?」
「あの、ええと……。知り合いは知り合いなんだけれど……」
今日はじめて会ったばかりの人にどこまで話していいものやら、わたしは迷っていた。
まさか、わたしのママがイギリス外務省のスパイで、わたしの義弟がパンダリーコットの王太子かもしれないとは言えないし……
「じ、実は、友だちといっしょに行ったパーティで、パンダリーコットの王太子殿下に会ったの。いろいろ助けてもらったんだけど、お礼も言えないまま別れてしまって……、それで……」
そう、舌の上で慎重に言葉を選んで言う。
すると、何を思ったのか、エドワードはとたんににやにやして、
「ははん、なるほど」
と、くわえていたタバコを口から外す。
「俺はいま、パンダリーコットの未来のマハラーニに会ってるのかもな」
「なっ」
「つまり、君はその王子さまのことを、気に入ったんだろう」
「ち、違うったら。そんなんじゃなくて……」
けれど、詳しい事情が言えない以上、そういうことにしておいたほうが話が早いのかもしれない。
わたしが沈黙しているのを、エドワードは勝手にそういう風に受けとったようだった。彼は、おもしろそうに言った。
「俺のようなプレスってのは、どこへだって行く。マハラジャとか、インド政府の高官のことなんかは、とくにみんなが知りたがっていることだし」
わたしは、身を乗り出して言った。
「じゃあ、エドは、アムリーシュの居場所を知ってるの?」
「パンダリーコットの王子、アムリーシュ=シンか……。いや、そいつは知らない」
きっぱり首を横にふられて、わたしはがっかりした。
「なんだ、そうなの」
「がっかりするのは、まだ早いと思うけど」
彼は、くっと口の端を上げて、
「なにをかくそう、俺はいま、その王子さまの動向をおっかけている最中なんだぜ?」
わたしはなにか音を聞きつけたキリンのように、にょっきりと首をのばした。
「ほんとうに?」
「ほんとうだとも」
彼は、空になった素焼きのカップの中に、短くなったタバコを押しつけて火を消した。
「パンダリーコットの王子が、インドに戻ってきているとは聞いていてね。この国のお家騒動のことはインドでも有名だし……。そうか、君は会ったことがあるのか」
そうして、タバコが入っていたほうとは反対側の背広のポケットから、何枚か写真を取りだした。
「それは、あなたが撮ったもの?」
「風景写真はみんなそうだ。なかには、ほかの人間が撮ったものもある」
ものめずらしさに、わたしはエドワードが見てもいいという写真だけを、手にとって見せてもらった。
彼が渡してくれたもののほとんどは、なにかの建物を撮ったものだった。朽ちかけた寺院のようなものもあれば、川岸の洗濯場に集う人々、なんの変哲もない農場の夕暮れ、はては寝そべっている牛の写真まである。
中でも目をひいたのは、写真いっぱいに満面の笑みで騒ぎあっている人々の様子を写した一枚だった。
「ああ、それは一昨年のホーリーだ」
なつかしそうに、彼は言った。
「これも、新聞に使う写真?」
「いや、たんなる趣味だな。俺は、これからインドが神々に捧げるだろう生《い》け贄《にえ》を選んで撮ってる」
「生け贄ですって?」
そう、と彼は、まるで日にすかすように写真をかかげ、
「インドが豊かさとひきかえに、失うもの、といったほうがわかりやすいかな」
言われて、わたしはもう一度、その写真をのぞき込んだ。
それは、たしかにわたしの祖国イギリスでは、徐々に失われつつある光景だった。
古きよき時代の素朴な信仰のあと、汚れた川の水で懸命に服を洗う洗濯カーストたち(インドでは、洗濯を職業にしている人々は、洗濯カーストと呼ばれひとつの身分をつくっている)、手でサトウキビの収穫をする、日に焼けた顔の農夫……。
そして、ホーリー=B
かつて大英帝国とたたえられたイギリスが、豊かさの象徴ともいえる数万本の煙突とともに永遠に失ってしまった風景が、そこにあった。
「すてきね」
わたしは、意図せずにそうつぶやいた。
「素敵だって?」
「ええ、だって、古い家が崩れるのも、豊かになることで失うことも、人間一人の手では止められないけれど」
と、わたしは言った。
「一人でも、写真は撮れるでしょう。写真という媒体で残しておくことはできる。こんなふうに、一人でもできることがあったんだって、そう思ったの。……だから、一人って、決して無力ではないのね」
ふつう、女の子がこんなことを言い出したら、男の人は驚いて顔をしかめるか、奇妙な顔をするだろう。
けれどエドワードは、そのどちらとも違っていた。
意外なことに、彼は、どこか懐かしいものを思い出すような、愛しい人に向けるような目で微笑んだのだった。
「どうしたの?」
「あ、いや。きみのほかにも、そんなふうに突拍子もないことを言い出した女の子がいたなと思って」
そうして、おもむろに胸ポケットをまさぐると、
「ああ、あった。これだ」
と、手帳の中から一枚の古びた写真を取り出した。
「それは……?」
「パンダリーコットの王家の写真だ。フランス人の写真家が撮った」
その黒ずんだ小さな長方形の中には、よそよそしげな四つの小さな顔と、中央に成人した男性の姿が並んでいた。
「中央が、ギルカール王だ。それから一番大きいのが亡くなった第一王子。アムリーシュ王子はこれだ」
それは、まだ三歳くらいの幼いアムリーシュの姿だった。ゆったりとしたパンジャーブ風の服を着て、父王の膝に抱かれている。
「似ているかい?」
「……わからない」
写真の顔はあまりにも小さすぎて、わたしにはあの夜バルコニーで会った彼かどうかは、確信が持てなかった。
「残念ながら、彼を撮った写真は、これくらいしか残っていないんだ。調べたところ、アムリーシュ=シンはまったくミステリアスな王子でね。いろいろお家騒動のこともあって、ほとんどパンダリーコットには戻っていない。生まれてから三歳くらいまでは王宮で暮らしていたらしいが、それからイギリス人の母親とともに行方不明になっている」
「母親といっしょに……?」
彼は、写真をふたたび手帳に挟むと、
「そう、母親も行方不明だ。そのあたりのことは、箝口令《かんこうれい》がしかれているのか、ほとんど情報が入ってこなくてね。イギリス人の母親のことにしても、名前すらわかっていない。ギルカール王はアイーシャ≠ニ呼んでいたらしいが、これはイスラムの名前で、イギリス人としては変だ」
(アイーシャ……)
もし、ほんとうにママが……、ミリセント=シンクレアが英国情報部のスパイだったのだとしたら、名前はあてにならない。ママにとって、ギルカール王に近づくのは任務だったのだ。偽名を使っている可能性が高いだろう。
「この母親は、王子とともにインドに来たあと、忽然と姿を消している。おおかた、王族のだれかに消されたんだろう。残された王子は、父王と数少ない保護者に守られて、インド中、いや世界中を転々とした。
そうして、ようやくいまになって戻ってきた。病気がちなギルカール王の跡継ぎとして認められるためにね」
そこまでは、エセルに聞かされた内容とほぼおなじだった。わたしは頷いた。
「イギリスがドイツに宣戦布告したから、パンダリーコット王家の事情も変わったのね」
「そこらへんの事情は、よく知っているみたいだね」
あまり驚いた様子もないわたしに、エドワードは少し目を細めた。
「それできみは、パンダリーコットのシンデレラを諦めて、インドのホームズにでもなるつもりかな」
「そんな。ホームズみたいなすまし屋になるつもりはないわ。でも、そうね。写真家はいいかも」
「だろ」
エドワードは、タバコを吸い終わった手で、手持ちぶさたにカメラを持ち上げる。
「俺は、人間の最大の発明は、蒸気機関でも飛行機でもなく、この小さな箱だと思うね」
その得意げな顔が、まるで自分のおもちゃを褒められた子供のようで、わたしはなんだかおかしかった。
「子供みたい」
「変か?」
「ううん。いままで、ずっと小説を書くんだとばかり思っていたけど、最近は新聞もいいなって思っていたの。わたしも大きくなったら、そんなふうにカメラをかかえて世界中を飛びまわりたい」
彼は、ほう……とわたしを見直して、
「大変だぞ。まず大学を出なくちゃいけない。それから、最低三か国語くらいは話せないと」
「三か国語……」
わたしは、なかなか進んでいないヒンディ語の勉強のことを思い出して、うっと言葉を言い詰まらせる。
「ははあ、その様子だと語学は苦手?」
「そ、そんなことはないけど。そういえば、フランス語もあまり得意ではなかったわ」
生徒の中には、ミス・シュミットのように、先生の代役までできるものもいるというのに、わたしのフランス語ときたら、歯が抜けた老人の発音だとまで言われているのである。
(ミチルに日本語を教えてもらおうかな)
わたしが、なかなかに難の多そうな前途にうんざりしていると、
「――なあシャーロット、ものは相談だが」
「え」
「俺と取引しないか?」
彼が突然妙なことを言い出すので、わたしは思わず顔をのぞきこんだ。
「取引って、なんの?」
「もし君が望むなら、君に俺の助手をさせてあげよう。うちの新聞はいくらでも読ませてあげるし、古いものも手に入るだろう。もしヒンディ語を勉強する気があるのなら、とにかく数を読むのがいい」
「古い新聞が読めるの!?」
わたしは、まるで宝石の山を目にしたように、目を輝かせた。
ヒンディ語の勉強、そして世界の政治やさまざまな情勢を知るのには、新聞を読むのが一番なのだ。
「それだけじゃない。新聞記者になりたいのなら、いろいろとアドヴァイスできることもある。カメラの使い方とか、人とのつきあい方とかね。きみがもし、将来報道の道をめざすなら、俺みたいなコネをもっていても損はない。だろ」
(報道関係者のコネ!)
はっきりいって、わたしにとってはそれは、宝の山どころではない、天からダイヤモンドの雨が降ってきたかのような、ラッキーな申し出だった。
(夢みたい、新聞記者の助手になれるなんて)
わたしは、ひどく興奮した。
「でも、わたし、いったいなにをすればいいの。カメラだってよく知らないし」
「それは、俺が徐々に教えてあげるよ。将来新聞記者になるなら、使い方を覚えておいて損はないはずだ。だろ」
わたしは、はちきれんばかりの笑顔で頷いた。
「ええ」
「そのかわり、条件がある」
エドワードは、わたしの顔の前に指を一本たてた。
「な、なにかしら」
「今、君の学校にバローダの王女が来ているだろう? 彼女の情報を、何でもいい、できるかぎりでいいから、俺に流して欲しいんだ」
「ええっ」
それは、わたしにとってまったく思いもかけない条件だった。
「パティの情報を……」
わたしの心は、まるで太陽が雲の中に入ってしまったかのように暗くなった。
いくらカメラというごちそうを前にしているとはいえ、クラスメイトのプライバシーを赤の他人に流すなんて気が進まない。
ましてや、エドワードはロンドンタイムスの新聞記者だ。わたしの言うことを、そのまま新聞の記事にしてしまうかもしれないのに……
「言っておくけれど、べつにどんな報告を受けても、それを記事にするつもりはないよ」
わたしは、ひょっこり顔をあげた。
「そうなの?」
「俺が知りたいのは、王女さまのプライバシーではなくて、もっと公的なことだ。たとえきみから、王女さまがおねしょをしてべそをかいたという情報を得ても、そんなことは新聞には載せない。写真もね」
そのユーモアあふれる言い方に、わたしは吹き出しそうになりながら、
「じゃあ、あなたはどうして、そんなにパティのことが知りたいの? 新聞記事にするつもりがないなら、いったいどうして……」
すると彼は、なぜかわたしから視線をずらして、ざわめくパンダリーコットの街に目をやった。
「……もうすぐ、ホーリー祭りなんだ」
ゆっくりと西に傾いた太陽が、アーリアシティの街を黄昏色《たそがれいろ》に染めあげていく。家路を急ぐ人々の足下に長い影ができ、それはまるで彼らが引きずっている過去の深さのように見えた。
「たぶん、そのあとにバローダの金の大砲が、二十一発鳴らされる」
「金の、大砲?」
「そう、金の大砲だ」
それから、彼はふと真面目な顔つきになって、わたしのほうを見た。
「実は、バローダのパティ=ガエクワッド王女は、内々にハイデラバードのニザムの王子と婚約している」
「へ」
わたしは、思わずチャイの入っていたカップを取り落としそうになった。
こんやく……
婚約といえば、意味するところはたったひとつしかない。
「婚約って、婚約って……、あのパティが?」
「そう」
「どっかの王子さまと?」
「ハイデラバードの藩王の息子だ」
ハイデラバード、といえば、たしかミチルが、南インドにあるインド一のお金持ちの国だと教えてくれたところではなかっただろうか。
(そうそう。インドを牛の顔にたとえたら、両方の角と鼻のあたりがイスラム教徒の国だとも言っていたっけ。ハイデラバードは、たしかその鼻の部分だったはず)
わたしは、慌てて言った。
「じゃあ、パティは近いうちに、ハイデラバードへ行っちゃうってこと?」
「婚約は、一昨年のうちに決まっていたことなんだ。しかし、もう婚礼も間もないというのに、王女はバローダにはいない。
俺が知りたいのは、なぜその王女が、婚礼を控えた今になって、こんなところで女学生をしているのかってことでね」
たしかに、彼女はバローダという大国の王女さまなのだから、そういうことがあっても不思議ではないのかもしれない。
「で、でも……」
けれど、わたしにはにわかには信じられなかった。
なぜなら、彼女はそんな素振りはまったく見せず、我がオルガ女学院でチョコレート戦争だのお茶会だのゾウだのと、能天気にやりたいほうだいだったからだ。
「そんな、じゃあなんだって、わざわざうちに転校してきたのよ……」
わたしは、パティの顔を思い浮かべて困惑した。
まったく、王家の人間のすることは、わたしのような庶民にとって、どこまでもはかりしれないことばかりなのかもしれなかった。
§  §  §
結局わたしは、絶対に記事にはしないという約束を取り付けて、エドワードとの取引に応じた。
彼がわたしにくれるという過去の新聞は、この狭い王国に閉じこめられたわたしにとって、とても惹かれるものだったし、この世界のあらゆる情報に通じているという彼は魅力的な存在だった。
そうして、夕暮れに気づいたわたしは、エドワードに連れられてステーションへと戻った。
見慣れた石畳を踏んで、わたしは自分がほっとしていることに気づいた。
(しっくりくる……)
ほんの少しステーションの外に出ていただけなのに、心から安心しているような気のゆるみを感じる。
不思議だった。
ここを出る前は、あれほど外の世界を見てみたいと思っていたのに、今となっては一人でここを出て行く勇気がでない。
(インドのことを知りたい気持ちは、決してうそじゃないのに……)
うすっぺらい正義感。
そう思わざるを得なかった。所詮、インドを知りたいなどと偉そうなことを言ったところで、自分だって心の中にこの壁と同じものを作っていたのだ。
インドの人は入ってきてほしくない。身なりの悪い、人相の悪い人間は近寄ってほしくない。
経済的に豊かで綺麗な世界にしか住みたくない。
そのためには、この壁を作らなければならない。外の世界にも、そして、自分の中にも……
わたしは、予想外にこの小さな英国から決して出ようとしない人たちや、インドにいるイギリス人たちがホームと呼ぶ意味を、身をもって体感してしまったような心地だった。
――ハウスに戻ったわたしは、案の定学院長先生にはみっちりしぼられ、その後、わたしを心配して待ってくれていたミチルとヘンリエッタに、思いっきり首に飛びつかれてしまった。
「よかった。無事でほんまよかったわ!」
彼女たちははぐれてしまったわたしを心配するあまり、あれからゾウにのったまま市警察へ行ったのだという。
「あんたの無茶は今に始まったことやないけど、それだけ心配やってんで。制服着てたら目立つし、余計にあぶないもん」
「そうよ、シャーロット」
「ごめんごめん」
そのとき、パシャという音と共に、眩しい光がわたしの目を焼いた。
ぼんやりした視界の先には、カメラを構えてにっこりと笑っているパティがいた。
「感動の再会ってやつね。いい表情」
「あ、あの……」
わたしは、そんなパティを見て、ついさっきエドワードから聞いた話を思い出した。
(結婚……、するのよね?)
パティの婚約相手は、大国ハイデラバードの跡継ぎだという。つまりは、恋愛結婚ではなく、政治的なもののはずだ。
(なのに、なんであんなに平然としていられるんだろう)
結婚はぜったい好きな人としたい主義なわたしにしてみれば、今のパティの行動は、まったくもって理解不能だった。
(それとも王族の結婚観って独特なのかしら。実はハイデラバードの王子さまが好きだとか……?)
そのとき、
「ミス・ガエクワッド」
ふいに、ぴしりとむち打つような声が響いて、談話室がしんと静まりかえった。
わたしたちは、そろって声がしたほうを見た。パティを一喝したのは、なんとあのハウス長でもある監督生のベリンダ=シュミットだった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、パティに歩み寄った。その目には、鋭い光がある。(うわ、ミス・クールが怒ってる!)
わたしたちは、びびりまくった。
あんなふうにベリンダにじわじわと迫り寄られたら、わたしだったらたちまちすくみ上がって身動きできなくなるだろう。
けれど、パティだけは例外だった。
彼女は、初対面のときと同じように、うっとりとした目線でベリンダを見つめていたのだった。
(な、なんで!?)
まるで、恋をしているようなきらきらした顔で、パティはベリンダに答えた。
「はい、何でしょうか。ミス・シュミット」
「所かまわず、写真を撮るのはおやめなさい」
聞いているこちらまでもが背筋を正したくなるような硬い声音だった。
その場にいただれもが、ベリンダの歯に衣をきせない言いように胸をうたれた。(さ、さすがベリンダお姉様。ハウス一のミス・クールにかかれば、王女さまもお金持ちも関係なしか)
「はい、ごめんなさい」
意外にもあっさりと、パティはミス・シュミットに謝ってみせた。
しかし、ごめんなさいというわりには、顔が全開で笑っている。
「プリンセスといえど、あなたがここのハウス生である限りわたしは特別扱いしません」
「はい、もちろんわかっています。むしろ私もそう願っております」
ハウス長は、パンと手を叩いた。
「よろしい。ではミス・ガエクワッド。あなたには罰を与えます。以後、寮内で勝手に写真を撮るのを禁止します」
それまで気味の悪いくらい笑顔だったパティの表情に、すこし翳《かげ》りが見えた。
「でもハウス長、どうして写真を撮ることがいけないのですか?」
「写真を悪く言っているのではありません。――撮られる側のことも考えなさい。好ましくないと思う者もいるでしょう」
「では、本人に了承を得れば構いませんか?」
ベリンダはしばし沈黙した。ぎゅっとカメラを握りしめているパティの手を見つめ、そして頷いた。
「いいでしょう、ですが違反があれば即座にY≠与えます。よろしいですね」
ベリンダからのお許しを得たパティは、みるみるうちに目をきらめかせた。
「わかりました」
やれやれ、これで一件落着かと、わたしたちは内心ほっと胸をなでおろした。
このハウス一の暴れん坊と、ミス・クールの異名をとるハウス長などという組み合わせは、あまり長い時間見ていたくはないものだ。
ところが、その日最大の事件はここからだった。
なにがそんなにうれしいのか、終始にこにことゴキゲンだったパティは、ベリンダに向かってとんでもないことを申し出たのである。
「しかし、ミス・シュミット。ご存じのように、私は今までこんなに大勢と集団で生活をしたこともないし、みなさんの常識と大いにちがっています。外が危ないならゾウに乗ればいいじゃないと思いますし、お腹が空いたら作らせればいいじゃない。お金がなければ、ボタンの一つを与えればいいじゃない――とまあ、こんな具合にです」
まさに、自分をよくわかっている発言だった。
わたしたちは、そろって頷いた。
(でも、それは威張っていうことじゃないんじゃ!)
ベリンダは言った。
「それが何か」
「なので、こんな私を野放しにしていては、またゾウに乗って出かけたり、なにか常識はずれのことをしでかしてしまうに違いありません」
パティはさらりとそう言ったが、側で聞いているわたしたちは石のように固まっていた。
(ベ、ベリンダを脅迫してる!?)
ハウス長の眉間のしわがさらに深くなったような気がした。
「だから、どうせよと言うのですか、ミス・ガエクワッド」
「ええ、ですから」
と、彼女は手のひらをあわせて、それがとても妙案であるかのように、言い放ったのだった。
「私を、あなたのファグ生にしてください」
(告ったー!?)
それは、その場のだれもが予想だにしなかった発言だった。
わたしは、パティの言っている意味が、すぐには理解できなかった。
(ふあ、ファグ……、って、誰と誰が!?)
聞き間違いかと思って隣を見れば、ミチルたちも見事に固まってしまっている。
こほん、とベリンダが咳払いをした。
「ミス・ガエクワッド。あなたはなにか勘違いをしています。ファグ生というのは、ハウス生活のことがわかっていない初級生を、最上級生が監督するためのものです」
「ええ、知っています」
「しかし、あなたは初級生ではないでしょう」
「あら、でも頭の中身はそうかわりませんわ。ハウス長」
しれっと、彼女は言った。
当のベリンダはと言えば、しばらくは彼女にしては大変めずらしい、困ったような呆れたような顔をしていたが、
「…………どうやらあなたには、本当に初級生と同じく監督するものが必要なようですね」
「ええ、ええ、そうなんです!」
「喜ぶことではありません。普通ファグは初級生と組みますが……」
しばらく考え込んだ末、ハウス長はきっぱりと決断を下した。
「この際仕方がありません。あなたをわたしのファグにしましょう」
(な、なんだってー!?)
わたしは、顎がはずれるかと思うぐらいに口を開けた。
「今日から、あなたはわたしが監督します。パティ=ガエクワッド」
すると、パティはナマスカールのしぐさをとって、ぱっと破顔した。
「まあ、素敵! 本当ですか? では、あなたが私のファグマスターなんですね。私を監督してくださるのですね」
わたしは、声もなく二人を見守り続けた。
(な、なんでこんなことになってるの……?)
呆然としているのはわたしだけではなかった。この場で身動きできているのは、その当事者である二人だけで、談話室に陣取っていただれもが、この予想外の成り行きに凍り付いてしまっている。
「ではミス・ガエクワッド」
「いやですわ。マスター。パティとお呼びくださいな」
しかたがない、とばかりにベリンダは息をつき、
「……では、パティ。さっそく、今日の罰として明日いつもより三〇分早く起きてわたしにお茶を入れなさい。わたしのために」
いつもの、ぴしりとした口調だった。
「それから、三日に一度はわたしの革靴を磨くように。週に一度はわたしのためにサッシュを作り、わたしのためにスコーンを焼きなさい。いつもわたしの部屋のピッチャーに水がなみなみとなっているかどうか気にすること。制服にブラシをかけ、日に二度髪をときなさい。それから、わたしのために毎日エリュアールの詩を読むこと。いいですね」
それは、まるでベリンダの専属メイドになれといわんばかりの要求だった。しかし、パティはごほうびを貰った子供のように微笑み、
「はい、マスター!」
「では、あとでわたしの部屋に来なさい。この学院ならではのサッシュの作り方を教えます」
――マイ・ファグ、と。
そのときからベリンダは、パティをそう特別に呼びはじめたのだった。
§  §  §
「ありえないわ。パティって、いったい何を考えてるのかしら」
その前代未聞の珍事件が起こったあと、わたしたちは、よるときわるとその凸凹《でこぼこ》コンビについて話し合った。
ファグとは特定の上級生につく従僕のような初級生のことで、年少生へのいじめや疎外というものから守るためのシステムなのである。
――普通は。
しかし、普通でないのがあのパティという人間なので、どうしようもない。
「ただもんやないと思ってたけど、ここまでただものやないとはな……」
と、さすがのミチルも、驚きを隠せないという風に言った。
「しかも、相手があのベリンダおねーさまやで。泣く子も黙るミス・クール。このハウス生のだれもがはよ卒業してくれと心から願ってる相手を、まさかファグマスターに選ぶとは」
「すごいMよね」
さりげなくもっとすごいことを、ヘンリエッタがつぶやいた。
「彼女、本当はそういう趣味でもあるんじゃないかしら。いじめられると快感を覚えるっていう……」
きっとそうよ!と、彼女は手を打った。
「だって、王宮にいたらだれもいじめてくれないから……、だからいじめがありそうな女子校にわざわざ転校してきたのかも。わあ、私ってあったまいい!」
「ヘンリエッタ……。世界はあんさんの同類だけで構成されてるわけやあらへんで」
とても正しいことを、ミチルが言ってのける。
「でもまあ、パティがファグになってから、平和になったのも事実だから」
と、わたしは宥《なだ》めた。
たしかに、彼女が鬼のベリンダのファグ生におさまってからというもの、学院内ではつかのまの平穏が保たれている。
当のパティはといえば、毎朝特別室から最上級監督生の部屋へ通い、ベリンダに言われるままに服にブラシをかけたり、ハンカチに刺繍《ししゅう》をしたり、ときには袖口を真っ黒にしながら彼女のブーツと格闘したりしていた。
とても、バローダの王女さまのするようなことではない。
「ま、気の毒なこととはいえ自分で言い出したことだし。学院のためにも、これでよかったのかも」
わたしが談話室の机の上に突っ伏してそう言うと、ミチルがにやにや笑いながら、わたしのほっぺたを突っついてきた。
「そーんなこといって、ほんまはごっつ嬉しいんやろ。シャーロット」
「えっ、な、なんでよ」
わたしは、内心のぎくりを見破られないために、わざとしかめっつらを作った。
「えー、だってそうやん。パティがベリンダの世話ばっかしてるおかげで、カーリーと一緒におれるようになったし」
「え? そ、そんなことないもん。…………うふ、うふふふ」
「カオ、笑ってるで」
「え、そ、そう?」
ミチルにつつかれたところから空気が抜けたみたいになって、わたしはだらしなく表情を崩した。
そう、まったくミチルの言うとおり、パティがミス・シュミットにとっつかまったのは、喜ばしい限りだった。
おかげで、わたしとカーリーは、いままでのように何度もいっしょに午後を過ごすことができるようになったのである。
「そう。今日これからも、いっしょにお勉強するの。ヒンディ語の。久しぶりなの〜」
わたしは、たまらないというふうに腕を胸にやって体をくねくねさせた。そんなわたしを、ミチルとヘンリエッタが気持ち悪いものを見ているような目つきで、
「勉強が楽しいなんて、あんさんも変わってるなあ」
「シャーロットって、ドMよね」
「なによ、そんなことないったらー」
ふと、ミチルが思い出したように言った。
「そういえば、そのカーリーやけど、まだ調子悪いみたいやな」
え、とわたしは身動きをやめた。
「調子が悪いって、風邪のこと?」
「風邪にしたってちょっと長すぎやろ」
「そうだっけ……」
と、わたしは口元に指をあてて考え込んだ。
カーリーが喉の調子が悪いと言い出したのは、確かパティとゾウに乗ってアーリアシティへ出かける前のことである。
「そういえばそうかも。でも、風邪の後に喉のがらつきだけ長く引きずることってたまにあるでしょう」
「それやったらええねんけど。……カーリーには、ちょっとほかにも気になることがあるねん」
ヘンリエッタが小首をかしげる。
「気になること?」
「うん。あんな。パティがはじめてこのガッコにきよったとき、カーリーに向かってなんやわけわからん言葉で言いよったやろ?」
わたしとヘンリエッタは、ううんとそのときのことを思い出そうと顔をしかめた。
「そんなことも、あったよーな」
「なかったよーな」
「あったわい。で、な。あれってうちのヒアリング間違いでなければマラータ語やねんけど」
「へえ、そんな言葉があるんだ」
マラータ語といわれても、どこの言葉かさっぱり見当がつかないわたしである。
「で、そのマラータ語がなんなの?」
「おかしいねん」
と、ミチルはしぶい顔をした。
「なにが?」
「だって、バローダの人間は、たいていクジャラート語を話すねん」
ミチルがなにを言いたいのか、わたしにはよくわからなかった。
「よく、わかんないけど……?」
「ああ、うちの説明不足やったな。つまり、たいていの藩王国では公用語が決まってるもんやねん。公用語は、大きく分けてふたつある。ひとつは庶民が話す言葉、そしてもう一つは王宮の内部だけで使われる言葉。
たしかバローダでマラータ語ってのは、王宮の内部だけで使われる特殊な言葉やねんよ」
まだ頭がこんがらがっているわたしより、先に混乱の海から脱出したヘンリエッタが言った。
「つまり、カーリーはバローダの王宮に住んでたことがあるってこと?」
「そうとはかぎらへん……。マラータの人間なんかもしれへんし」
「で、でもわたしには、自分はクジャラート人なんだって言ってたわよ」
三人は思わず顔を見合わせた。だれも、すぐに言葉のでてくるものはなく、しーんとなる。
「それって……」
わたしは、かわるがわるミチルとヘンリエッタを見た。
「もしかして」
「まさか」
それは、日頃おしゃべりのとまらないわたしたちにしては、奇妙な間だったのだろう。談話室にいたほかのハウス生たちが、奇妙な目でわたしたちを見ていた。
ミチルは何かを呟き、一人で否定した。
「た、たしかに、綺麗な人やとは思ってた、けど……」
「物腰とかも、わたしたちとは違ってたし、ね……」
「そんな!」
結論づけられようとしていることをにわかには信じられなくて、わたしは大声を出した。
「そんなこと、ただの推測じゃない。カーリーが、カーリーがそんな……」
「私がどうしたの?」
それは、まったくの不意打ちだった。
「カーリー!?」
わたしたちは、めいめい彼女の名前を口にしながら、ソファの上で飛び上がった。
カーリーは、その綺麗な顔をちょっと曇らせて、
「どうかしたの。みんな、おそろいで」
「な、なんでもないの。違うの。べべべべつに、カーリーの悪口言ってたわけじゃないのよっ!」
焦《あせ》るあまり、わたしはやぶへびに近いことを口走ってしまった。
すると、カーリーはめっと言わんばかりに、目を見開いて、
「そう……、私の悪口を言っていたの」
わたしは、さらに焦った。
「ち、ちがうもん。悪口なんて、パティやヴェロニカのことは言っても、カーリーの悪口なんて……」
そう力一杯否定すると、彼女は満足そうに目を細めてふわっと微笑んだ。
「冗談だよ」
わたしは、ほっとした。
すると、そんなわたしたちのやりとりを見ていたミチルとヘンリエッタが、
「うー、オホン。げふんごほん」
わざとらしい咳払いをしながら、やれやれとソファから立ち上がった。
「わたしたちはハナから無視みたいだから、部屋もどりましょっか、ミチル」
「そやな」
「そ、そんな……」
そんな露骨に二人だけの世界になっていたわけでもないのに、ミチルとヘンリエッタはそそくさと離れていき……
「貸しひとつやで、シャーロット」
「差し入れの日、教えてね」
ちゃっかり、わたしからお菓子をふんだくる約束まで取り付けて、談話室を出て行ったのだった。
久しぶりにカーリーとのまとまった時間を持てるわたしに、ミチルなりに気を遣ってくれているらしい。
「なんか、追い出したみたいになっちゃって……。悪かったかな」
「いいじゃない。私はシャーロットと二人きりになれてうれしい」
わたしは、まじまじとカーリーを見つめた。ここしばらくのあいだ、届きそうで届かないところにあった美しいオニキスの黒い瞳――。その宝石には、今わたしの顔が映り込んでいる。
「カーリー、わたしも。ずっと二人だけでお話ししたり、……とにかくいっしょにいたかったの!」
嬉しさのあまり、声がうわずってしまってるのが自分でもわかった。
わたしはいそいそと、ノートとヒンディ語で書かれた新聞を取り出してカーリーを見つめた。
「あのね、それにね、会えなかったときも、自分で勉強していたの。まだミミズ字はよく読めないけど、いくつか単語も覚えたのよ」
「へえ……」
カーリーがいない間の、自習の成果を披露《ひ ろう》すると、彼女はいたずらを思いついた子供のような顔をして、
「ほんとうに?」
「ほ、ほんとうだもん」
「じゃあ、テストをしましょうか」
テストと聞いて、小心者のわたしは全身で身構えた。
「テスト!?」
そんなわたしを見ていたカーリーが、ふっと笑って、そして彼女は、ヒンディ語でゆっくりと何事かを呟いた。
[#フォント変更]「もう、あなたなしでは生きていけません」[#フォント変更終わり]
わたしは、首をふった。
「わからない」
「あらあら。勉強したんじゃなかったの」
カーリーは、ふっと目を細めて、
「じゃあ、発音の勉強をしないとね。いまから私の言うとおり繰り返してくれる?」
[#フォント変更]――もう、あなたなしでは生きていけません[#フォント変更終わり]
リピート、という言葉を合図にわたしはカーリーが紡いだばかりの文を、そのまま口でなぞった。
[#フォント変更]「も、もう、あなたなし、では、生きて、いけません……?」[#フォント変更終わり]
しかし、自分ではどういう意味なのか、さっぱり見当がつかない。
その途端、急にカーリーがうっとりしたような顔つきになった。そうして、びしっとわたしを指さし、
「いい!」
「カ、カーリー?」
「とっても、いい。さ、次!」
カーリーは、人が変わったように興奮していた。つぎつぎに新しい文章を、わたしにリピートさせていく。
「発音が難しかったら、私の唇をよく見て。とゆーか私を見て言って。ここが大事だから」
「う、うん。よくわからないけど、わかった」
なんだか迫力に負けて、わたしは言われた通りに、じっとカーリーを見つめて、ゆっくりと言った。
「あなたを、だれよりも愛しています」
その瞬間、カーリーはがばっと机に突っ伏した。
「カーリー、どうしたの!?」
わたしは、慌ててカーリーをゆっさゆっさとゆさぶった。
「ねえ、カーリーったら」
[#フォント変更]「たまらん……」[#フォント変更終わり]
「え、なになに?」
「なんでもない」
うっすらと赤い顔のまま、カーリーはわざとらしく咳払いした。
「すごく……、すごくいいです。シャーロット。その調子その調子」
「ならいいけど、ねえカーリー。さっきからわたし、なんて言ってるの?」
そのとたん、カーリーはいままでのまごつきようがどこかへ行ってしまったかのように、人の悪い顔でにやっと笑った。
「内緒」
「うそー、そんなのずるーい!」
「ふふん。悔しかったら。自分で調べなさい。それが勉強ですよ、ミス・シンクレア」
「それはそうだけど……」
ぷうっと、まるでふくらし粉を入れすぎたスコーンのようになったわたしの顔を見て、カーリーが吹き出しながら言う。
「大丈夫。たくさん聞いていれば、そのうちなんとなく意味がわかるようになるものよ。言葉は言葉だけじゃ伝わらない。表情や仕草や、雰囲気で伝わるものだから」
「そうかなあ」
「そうよ」
カーリーはそう言って、おもむろにテーブルの上に頬杖をつくと、わたしの目をじっとのぞき込んだ。
[#フォント変更]「きみを愛してる」[#フォント変更終わり]
「え……?」
わたしはぽかんとした。それはとても短い言葉だったのにもかかわらず、わたしにはまったく聞き取れなかったのだ。
続けて、カーリーは言った。
[#フォント変更]「ずっと昔から。あのヴィクトリア女王の噴水の側で、はじめて会ったときから」[#フォント変更終わり]
わたしは、いっしょうけんめい彼女の言っていることを聞き取ろうと、ますます顔を険《けわ》しくした。
「昔……? 昔がどうしたの?」
なんとか昔≠ニいう単語だけが聞き取れたので、わたしはそう言った。
カーリーはかまわず、もっと長い言葉でしゃべりだした。
[#フォント変更]「きみはあのときのことを覚えていないだろうけど、俺は一度も忘れたことなんてなかった。俺は本当は、あのとき、きみにいじわるをするつもりだった。逃亡先のパリからロンドンに着いたとき、この街に母さんを独占している一つ年上の姉がいることを知った。自分の寂しさや孤独はみんなきみのせいなんだって思うと、いてもたってもいられなくなった。
出会うまで、きみは、きっと幸せそのものなんだと思っていた。俺がひとりぼっちで寂しいぶん、きみは両親に囲まれて大事に大事にされているんだって……
でもきみは、泣いていた――」[#フォント変更終わり]
カーリーの手が、わたしの鉛筆を持った手をそっとつかんだ。彼女はその手を、ゆっくりと自分の頬のほうへ持っていった。
わたしは、首を振った。
「カーリー、わからないわ。わたし、そんなに早口で言われたら……」
「いいから、聞いて」
その声は、熱っぽさと、それ以上のなにかでかすれていた。
[#フォント変更]「そのときから、俺の中にずっとあったきみへの嫉妬も憎しみも、みんな愛へ変わってしまった。そしてこうも思った。きみなら、俺をわかってくれるだろう。同じように母親に捨てられ、だれからもいらないと言われていたきみなら――」[#フォント変更終わり]
なぜか、カーリーの声はどんどんとかすれていって、低くひきつったようなものになっていった。
わたしは、あわてて手を振り払っていった。
「カーリー。あなた、ひょっとしてまだ具合が悪いんじゃない?」
ハッと息を呑《の》んだ彼女にかまわず、その額に自分の手を押し当てる。
思った通り、少し熱っぽかった。やっぱりミチルの言うとおり、調子が悪かったのだ。
「やっぱりそうじゃない。まだ風邪が治ってなかったのね。声だって、そんなにがらがらで……!」
そう言ったとたん、
がたん!
目の前で、カーリーが急に立ち上がった。
「カ、カーリー……?」
驚いて彼女を見上げると、彼女は顔を真っ赤にしていた。それも、熱で赤いというのではなく、どちらかというとなにかに恥ずかしがっているような、そんな表情で――
「…………ご、ごめん……」
彼女は、腕を顔の前にやって、顔を隠しながら、
「部屋に、戻るから……。勉強は、また……」
「う、うん」
そう言うが早いか、まるでなにかから逃げているかのように、足早に談話室をでていってしまったのだった。
わたしは、呆気にとられて彼女の背中を見送った。
§  §  §
「あら、もう戻ってきたの」
特別室のドアを閉めるのももどかしく、飛び込んできたカーリーを見て、この部屋の主であるパティは、ちょっと驚いたように目をあけた。
「今日は、待ちに待った蜂蜜ちゃんとのデートじゃなかったの?」
「………………」
カーリーはパティに対してなにも答えずに、洗面所のほうへ向かう。この学院にひとつだけある特別室は、ベッドルームと応接間が分けられているだけではなく、専用のバスルームとトイレが備え付けられているのだった。
贅沢な部屋だと思う。
もっとも、いまこの部屋で暮らしている人間にふさわしいレベルかといえば、そうでもないのだが。
「どうかなさいましたか、殿下《でんか 》」
その血相をかえた様子に、部屋でベッドメイクをしていた従僕のジェンが、心配そうにカーリーを見に来る。
「なんでもない」
「ですが……」
青い上薬のかかった彩色タイルが敷きつめられた洗面所で、カーリーは浮かない顔で鏡をのぞき込んでいた。
その顔が青く見えるのは、なにもタイルのせいばかりではないだろう。
「なにかあったの? 今日は、あなたの最愛の蜂蜜ちゃんと、なかよくお勉強をするんだって、朝からあんなに有頂天だったのに」
「………………」
「毎日、ここへ戻ってきては、吐くほど牛乳飲んじゃって」
「……………………」
「さては、男らしく背丈でも伸ばすつもりなのかなあ、アムリーシュ?」
「……………………」
「まあ、そんな声変わり寸前のがらがら声じゃ、ろくに話なんてできないわよねえ」
「うるさい」
にやにや笑ってからんでくるパティに向かって、カーリーはそうぶっきらぼうに言い放った。
パティは、ベッドの上に腰掛けて、ひそひそとジェンに言う。
「おお怖《こわ》。ねえジェン、あなたのご主人さまって、いつもこんな愛想がないの?」
ジェンは笑って、バスケットに汚れたシーツを押しこみながら、
「ずいぶん、変わられましたよ。最近はよくお笑いになられますし」
「ジェン、黙れ」
まるで、アイスピックのように鋭い視線に、パティはジェンをかばって、
「そんな言い方することないじゃない。ジェンはえらいわ。パンダリーコットで代々大臣をつとめるイーサ家の長男が、従僕のまねごとなんて。あなた、少しは感謝なさいよ」
「いいんですよ、パティ様。父からはよく言い含められていますし、父も昔はギルカール様の侍従として、ハーロウ校までご一緒したそうです。なにごとも経験ですから」
くったくなく、ジェンは笑った。
「まったく、ご主人に、従僕の万分の一でもかわいげがあればいいのに、ねえ」
と、胸にぶらさげっぱなしの黒のコンタックスを取り出して、おもむろにカーリーのほうへ向ける。
「ふくれっつら記念に、一枚撮っちゃおうか」
「パティ、よせ」
カーリーは、長い黒髪をぐいっと後ろに押しやって、ひとつにまとめた。たったそうするだけで、いままでの神秘的な淑女のイメージからは、まったく遠ざかる。
そこにいるのは、少年だった。
すらりとしたナイフの抜き身のような、どこか危うさを同居させている、一人の少年……
カーリーは、パティの特別室にいるときは、常にこうして男っぽく振るまっていた。
「きみこそ、いったいなにしに来た。婚約している身で、学校なんて」
パティは、つまらなそうに手の中のカメラをもてあそんだ。
「言ったじゃない。私って、こういう英国風の学校にいくのが夢だったの。うふ」
「それだけ?」
彼女の返事にも、カーリーの目は先ほどの鋭さを失ってはいなかった。
「バローダのマハラーニ様は女子教育の有名な支援者だ。バローダにだって女学校はいくつかあったはずだろ」
「……だって、あなたに会いたかったんですもの」
わざとらしいにこにこ顔で、パティが言う。
「ね、アムリーシュ。あなただって、こうやって特別室にいられるおかげで、びくびくしなくってもいいんじゃない。ジェンに聞いたわよ。いままでは、ろくにお風呂もゆっくりできなかったって」
「パティ」
「それに、女っぽい言葉遣いも、ここだとしなくてもいいし。私の前ならいろいろ偽らなくてもよくて楽でしょう。なんたって、あなたと私は一度婚約しかけた仲なんだし」
「違う」
カーリーは、仕方がないなという風にため息をつく。
「きみとの婚約の話が出ていたのは、俺の兄君のほうだろ。あの、イギリス風を嫌うきみの祖父母が、イギリスの血が入っている俺なんかにきみを嫁がせるはずがない」
「でも、私の相手は、パンダリーコットの王子ということだったわ。だから、きっとあのまま行けば、あなたになったはず」
「そうじゃない、パティ」
すうっと、カーリーの顔から表情という表情が消えた。
「――そうじゃないだろ、俺は[#「俺は」に傍点]」
パティは、はっと我に返ったように身じろぎし、どこか恐る恐るといったふうにカーリーを見つめた。
「そうね。あなたは、違う。私たちとはなにもかも」
そうして、家庭教師にしかられた子供のように、しゅんと首をひっこめた。
「悪かったわよ。こんなところまで押しかけて」
そうして彼女は、ゆっくりとバルコニーに面した大きな窓のほうへ歩み寄った。
その海に面した窓からは、黄金の尖塔《せんとう》の国といわれるたくさんのミナレットと、インド洋を横切っていく小さな模型のような船が見える。
彼女は、そっとガラス窓に手のひらを這わせた。
「ずっと、こんなふうな全寮制の学校へ行きたかったの。それは本当よ」
くるり、と体を| 翻 《ひるがえ》して、カーリーとジェンのほうをみやる。
「でも、一番の目的はね、ここでどうしても、手に入れたいものがあった」
「手に入れたいもの?」
カーリーは、いつもの冷ややかなポーカーフェイスに、ほんの少し迷いを混ぜた。
「それは、きみがいつか送ってきてくれた、あの写真に関係があるのか」
「まあ、さすがはご明察よ、あーちゃん」
彼女は、ピュウと口笛をふいた。
彼女は、小さなドレッサーの上に置いてあった綴じ紐のついた日記帳の中から、一枚の写真をとりだした。
カーリーが、写真を受け取る。
それは、いくつもの影を引いたミナレットが印象的な、街の風景だった。塔と塔の間から、太陽がいくつもの光の矢を放ちながら顔をみせている。
夕焼けは、これほどまで濃い影をつくらない。これは、朝だ。
ここ、パンダリーコットの朝焼けの顔。
「去年のいまごろよ。彼から手紙が来たの。中にはそれ一枚しか入ってなかった」
「彼=c…?」
「この写真を撮った人よ。手紙で知らせたでしょう。エドワード=ソーントンっていうロンドンタイムスの記者」
ああ、とカーリーは軽く頭を振った。
「きみが調べてくれと言ってきた、イギリス人のことか」
彼女は、くったくなく笑った。
「そ。だって、万が一ホワイトホールの軍人とかだったらいやじゃない。でも、あなたが調べてくれて安心したわ。リース校の卒業名簿には、ちゃんと名前があったし」
「もしかして、あれから、ずっと文通してたとか?」
「そ」
そうして、彼女は唐突に、しかしそれを口にすることはとても自然なことのように、カーリーに言ってのけた。
「――彼を、愛してるの」
それを言われたものは、ある程度その答えを予測していたようだった。
ゆっくりと息をはくと、カーリーは写真を日に透かすようにして頭の上に掲げた。
「それで……?」
「それで、じゃないわよ。あいかわらず冷たいのね、あーちゃん」
「まさか、駆け落ちでもしようってわけじゃないだろ。イギリス人の、それもたいした財産もない新聞記者と」
「あら、悪い?」
「無謀だよ」
カーリーは、写真をジェンが新しくメイクしなおしたシーツの上にそっと置いた。
「いくらきみでも、クーチ・ビハールの王子と駆け落ちしてロンドンで式をあげたきみの叔母上のやりかたに倣《なら》うことはないんじゃないか」
「あら、べつにわたしはインディラおばさまのマネをしてるわけじゃないわ」
「パティ」
ため息混じりに強く言われて、パティは一瞬すねたようにぷうっと頬をふくらませたが、やがて、
「だって、ホーリーのときに、真っ赤に染まってしまったのよ」
「真っ赤に……?」
「そうよ」
心が[#「心が」に傍点]。
――と、いままでとはうってかわったように、パティは真摯《しんし 》な顔つきで言った。
「エドワードとはね、あれからバローダで何度も会ったの。彼は仕事でインド中をとびまわっていて、どんなに忙しいときでもそうやって毎月写真を送ってくれた。手紙もなにもない、写真だけ入った封書だったけれど、私にはそれで十分だったわ」
困ったようなカーリーの顔を見て、パティはけらけらと笑う。
「そんな顔しないで、大丈夫よ。そんなに頻繁には会わなかったもの。だから、ほかのだれも私たちのことは知らないと思う。|ファテ=シン《お と う と》も、お付きの者も気づいていないくらいだし」
「頻繁には会わなくて、それでも愛だと?」
「愛よ」
「ほんとうに?」
「あら、言うわね」
意外だと言わんばかりに、パティは言う。
「あなただって、あのとき、私と同じような情熱にかられて、あの子を追いかけたくせに」
その瞬間、なにか電流が背骨をはしりぬけたように、カーリーは身じろぎした。
ぎり、と冷ややかな目線で、パティを睨む。
パティは、笑ってその視線をかわした。
「ほら、そんな目をしてもムダよ。目は口よりもものを言うものだから。そういうのはね、いくら言葉で説明しようとしてもできるものでもない。だから、血のせいにすればいいわ。私とあなたに共通するクジャラートの血の――」
日の光の中に、腕の静脈をすかすようにして、パティは腕をかかげた。
「私はエドを愛してる。あなたは、あの子を愛してる。それでいいじゃない?」
「パティ、だけど……」
「それとも、あなたがおじいさまに密告する、アムリーシュ?」
カーリーがさっと顔色を変えたのを見て、パティは挑戦的に笑った。
「できないわよね。――わかってる。あなたはそんなことをしない。昔から、あなたはそういう人だった。だから、私もこうしてあなたにだけは話すことができるの。あなたの予想どおり、私はバローダを出るためにここへきた。ここなら、祖父や両親の目も届かないから」
「何故、わざわざパンダリーコットなんだ」
「それは、あの人が写真をくれたから。いままで、たくさんの写真をくれたけれど、サラセン様式の建物以外のものははじめてだった。だから、すぐにわかった。あの人は、私にここへ来てほしいのだって」
「サラセン?」
パティは、どこか誇らしげにカーリーに向かって言う。
「あの人、インドの地が、サラセン様式のようにうまく混ざり合って美しくあればいいと、そう言ったのよ。そんなイギリス人は、はじめてだった。
――だから、好きになったの」
それは、きっとパティがエドワードという男に、完全に心を許した瞬間だったのだろう。
それから、ホーリーの赤い日に出会ってからずっと、二人はそうやって写真で連絡をとりあっていたのだ。
なぜなら、筆跡をのこせば、これはいったいだれなのかと疑われる。カーリーの知るかぎり、現バローダ王は、娘が親のきめた婚約者を嫌って、無理矢理ロンドンで想い人と式を挙げたことで、ことさらパティを過保護に育てたふしがある。男の筆跡でメッセージ付きの手紙が届けば、それだけで大騒ぎになってしまっただろう。
「あの人、私を新しい国へ連れて行ってくれるって、そう言ったのよ、アムリーシュ。インドという国の歴史がわたしを苦しめるなら、歴史のない国へ連れて行くって」
「歴史のない……? きみたちは、新大陸へ行くつもりなのか」
「ええ、アメリカよ!」
とたんに、パティの顔が新大陸に憧れる一人の少女のものになる。アメリカという名前を聞いて、たいていの子供がそんな顔をするような……
「ねえ、アムリーシュ。あなたも知ってのとおり、私が嫁がされるハイデラバードは、イスラムの国よ。あそこに行けば、女性はパルダーより厳重な囲いの中に押しこめられて、生きているか死んでいるかわからないような生活を強いられる。好きな服も着られず、好きなたべものも食べられず……。
私の夫になるという王の息子は、偏屈《へんくつ》なかわりもので、政治にも軍事にも興味がなく、ただ質素でお金を使わないでいることに命をかけるような、そんな人らしいの。
そんな人を、どうして愛することができる? 私の心には、とっくの昔にもっと別の情熱が住んでいるというのに!」
彼女は、いままでカーリーが見てきた中で、一番激しい顔をして言った。
「国中の人間から、勝手な王女よと笑われてもいい。アムリーシュ、わたしはあの人からその写真が届いたときに、なにもかも決めたの。
――もう、決めたのよ」
その言葉は、インドのもっとも富豪の国の王女にふさわしい、威厳と誇りを以《もっ》て発せられた。
しばらくの間、カーリーはなにも言わなかった。
窓辺に立つパティの姿を、黄昏色のパンダリーコットの夕日が、まるでセピア色に撮られた写真のように染めていく。
「きみの決心については、わかった」
やがて、カーリーは静かに口を開いた。
「きみがなにをしようと、俺は邪魔をするつもりはない。でも」
カーリーの目が、ふたたびアイスピックのように鋭く研ぎ澄まされる。
「もし、きみが、いやきみたちがシャーロットを利用しようとしたら、そのときは決して許さない」
「……アムリーシュ」
パティは、困ったような顔でほうっと深い息を吐いた。
そうして、今度は別の真摯さを加えた顔で言う。
「じゃあ、あなたは、いつまでカーリー≠ナいるつもりなの」
「…………っっ」
ふいをつかれたカーリーが、まるで手の中にいばらを握っているような顔をした。
パティは言った。
「あの子を守りたい気持ちはわかるけど、それももう長くはできない。わかるでしょ。あなたは、王子に戻らなきゃならない。あなたは、パンダリーコットの王太子として、王の代理を務めなければならない。そのためには、一刻も早く、正式に王子として認められる必要がある。
[#挿絵(img/02_201.jpg)入る]
パンダリーコットの王宮内では、あなたを跡継ぎとして認める風潮が高まってきている。もう、これ以上この学校にいる必要はない。そうでしょう、ジェン」
話をふられて、はじめてジェンが言葉を挟んだ。
「そのとおりです、パティ様。いままで、わが王子がこの学校に身を潜ませていたのは、マハラジャがいつお亡くなりになるかわからないような容態だと聞かされていたからです。
マハラジャ崩御《ほうぎょ》の際外国にいたのでは、五日後の即位に間に合わない。王宮はまだ反発を覚える者も多く、われわれの手だけでは王子をお守りできなかったのです。しかし、この居留地ならば、訪問者はいちいちチェックされ、なによりインド人は目立ちます。身を隠すのに、これ以上の場所はなかった――」
しかし、それもタイムリミットだ、と彼は続けた。
「パティ様のおっしゃられる通りです、殿下。一刻も早く、王宮へお戻りください。ギルカール様のご容態がよくなられたとはいえ、まだまだ予断を許さない状態であることにはかわりはありません。
王太子の宣誓を受け、バローダに王のご名代としてたたれてこそ、万人にパンダリーコットの跡継ぎであると認められたことになるのですから」
「できない」
カーリーの返事は、短く簡素なものだった。
「どうして!」
「――シャーロットが、MI6に狙われている」
パティは、両手を広げて、まさかというジェスチャーをした。
「そんな。どうしてMIの外国班が、あんなお嬢さんを狙うのよ」
「怪盗リリパットが、彼女に接触していたんだ」
「怪盗、リリパット……?」
彼女は窓辺を離れると、急いでカーリーの座っている隣に腰を下ろした。
「怪盗リリパットって、たしかインドの独立派による、イギリスへのいやがらせでしょう。イギリス人の金持ちの家にばかり盗みに入るっていう――」
「釣りだよ」
カーリーは、一段と声を落として言った。
「なに、フィッシングが、どうしたの?」
「釣りといわれている、大がかりなスパイ行為のことだ。
英国の秘密情報部は、単独行動が多い他国のエージェントと違って、ものすごい大規模な仕掛けをすることで知られている。MIの創設者であるカミング大佐は、もともとそういった情報収集の名人だった。スワン・レイク・グループを知ってるだろ」
それは、イギリスでも有名なホテルグループのひとつだった。リゾート地近くの湖の中の島にホテルを建てて、世俗から切り離した空間を提供すると評判になり、あっというまに一流ホテルに名を連ねるようになった企業だ。
「ええ」
「あそこの経営陣は、みな英国情報部の人間だよ」
「ええっ」
思いもかけないことを言われて、パティは顔を強ばらせた。
「まさか!」
「必要があれば、ひとつの企業ごとまるまる作ってしまう、それだけの経済力が、かつてのイギリスにはあったんだ。たしかにチェーン展開しているホテルを押さえれば、世界各国の要人の動きは押さえやすくなる。
このスワングループ以外にも、いくつか情報部が作ったニセの企業があるはずなんだ」
無意識なのか、カーリーがきゅ、と指の節を噛む。
「……情報を得るために、情報部がホテル経営までしてるっていうの?」
「徹底しているのは、これらはハリボテではなく、本当に経営しているということだ、パティ。だから、なかなかしっぽが掴めない……」
それでもパティは、まだ納得がいかないという風に顔を曇らせた。
「あの怪盗リリパットが、英国情報部の釣り作戦のひとつだなんて信じられない。だって、あんなに派手に荒らし回っていたじゃない。それも、イギリス人の屋敷にばかり」
「なるべく派手にやらないと、独立運動に資金を流しているやつらの目にとまらない。おそらく、情報部は、日本に亡命したR・B=ボースや、S・C=ボースたちをあぶり出したいんだ。そのために、彼らがリリパットに接触するのを待ってる」
R・B=ボースは、インド総督ハーディング卿に爆弾を投じて、インド中に指名手配された。彼はその後日本に亡命、英国政府はボースの首に一万二千ルピーの懸賞金を賭けている。
S・C=ボースは、彼の親戚ではないが、同じくインドの独立を勝ち取るために活動している、インド人の革命家だ。
「そのために、怪盗のまねごとまでするの?」
「それくらい、彼らの資金源について、イギリスが情報を得られていないということだろう。いくら革命だと意気込んでも、金の出所さえ絶ってしまえば、活動は行えない。おそらくイギリスは、クリムゾン・グローリー≠ノついて、ほとんど知らないんだ」
「クリムゾン・グローリー……」
パティは、まるでなにかの禍々《まがまが》しい呪文のようにつぶやく。
「薔薇の名前、か」
カーリーは、短く頷いた。
「シャーロットの母親は、MI6だ。その子供を手の中に引き入れるのは、やつらの常套手段《じょうとうしゅだん》だ。あの様子じゃ、いつまた彼女に接触してくるかわからない」
「シャーロットの母親[#「シャーロットの母親」に傍点]、なんて……」
パティが、少し咎《とが》めるように言う。
「アムリーシュ。あなたの母親でもあるでしょう」
ぴくり、とカーリーの肩が動いた。彼は、頬を目の下にきゅっと寄せて、なんともいえない顔をした。
まるで、傷ついたとでもいう風に。
「わかってほしい。俺は、ずっとあの子の傍にいて、シャーロットを守りたい」
そうやってシーツを握りしめた手。でも、いま自分が握りしめたいのは、シーツじゃない。
しかし、
「できないわ。アムリーシュ、諦めたほうがいい。残念だけれど」
パティは、いたわるように彼の手に自分の手を重ねた。
同じクジャラート人というには白い、そして自分よりはもう大きな手のひらに。
「パティ……」
「もし、あなたが私のように、彼女を攫ってアメリカへ行くというなら、いいわ。でもあなたは、もうできないはず。そうよね」
だから、諦めたほうがいいのよ、と彼女は言った。
なぜなら、カーリーには薔薇の花心≠ニして、そしてカーリーとしての使命があるのだから……
「……そうよね?」
パティの問いかけに、とうとうカーリーはなにも答えなかった。
§  §  §
バローダの王女、クリシュナ=パドマバディ=ガエクワッドが、まるで押し売りのようにオルガ女学院に押しかけてきてから、すでに、ひと月がたとうとしていた。
二月も終わって三月になり、アラビア海から吹き付けていた厳しい風も弱まってくると、ここパンダリーコットのある西インドも、ようやく春めいた雰囲気につつまれるようになる。
「ふうん、インドの王様って、ほんとうにたくさんいるのねえ」
その日、わたしは、談話室から戻ってきて消灯までのわずかな時間を、部屋で新聞を読んですごしていた。
もちろんそれは、あのロンドンタイムスの記者エドワード=ソーントンが用意してくれた古い新聞で、一九一一年のデリー・ダルハールのことが一面を飾った記事だった。
ダルハールとはインドの祭典のこと。この年に、インドは古都カルカッタから首都をデリーに移したのである。
そして、その新聞には祝典のために、インド中のマハラジャがジョージ五世に忠誠を誓うためデリーにやってきた、と書いてあった。
「ええと、これ全部藩王国の名前なのよね。マイソールにハイデラバード、ジャイプール、これなんて読むんだろ、しゃむ……シャナ……」
「ジャムナガルでしょ」
いいかげん耐えかねるといった風情で、同室のヴェロニカがこっちに向き直る。
「よく知ってるね、ヴェロニカ」
「ふふん、あたりまえでしょ。わたしはインドのプリンセスになりたいんですもの。藩王国の名前くらい全部覚えていて当然じゃない」
「ぜ、ぜんぶ……」
たしか、インドの藩王国は、大小あわせると五百以上あったはずである。
しかし、ヴェロニカはすらすらと、まるで立て板に水をながすように、言ってみせた。
「ジャムナガルはパンダリーコットと同じクジャラート地方にあるわ。ここよりもっと西の国よ。たしか、パンダリーコットのマハラジャのおばあさまがそこの出身のはず……。彼のママはバローダ王の弟の娘だから、そこらへんはみんな親戚みたいなものよ」
「へええええ!」
すご……、とわたしは片手で口を押さえた。
さすがに歩く社交界図鑑。インドのことはよく知らなくても、インドのブルジョアのことなら、すべて頭に入ってるらしい。
わたしは、ふと興味をそそられて、めずらしくヴェロニカと会話を続けた。
「ふうん、ヴェロニカってインドのプリンセスになりたいんだ。でもどうしてなの。ヴェロニカの家って、お父さんは貴族だし十分お金持ちじゃない」
「ばっかじゃないの!」
彼女は脱いだ制服の袖にラベンダーのサッシュを差しこみながら言った。
「半分貴族なんかより、プリンセスのほうが上に決まってるじゃないの」
「へ、へえ……」
「だって、わたくしってば美人だし、頭もいいし、こうなるとあとはプリンセスになるだけって感じじゃない」
「そ、そりゃあ、そうかもしれないけど……」
あまりの迫力にすこし気圧《けお》されながら、わたしは言った。
たしかにヴェロニカは美人で成績もそこそこよいけれど、この自信はいったいどこからくるのだろう……
うらやましい。
「でも、インドの人ってみんな同じ階級同士でしか結婚できないんでしょ。ほら、この新聞にもそう書いてあるよ」
わたしは、どの新聞にも大きく枠をとってある、結婚相手募集の広告を指さした。
そこには、「当方ブラハチャラナムの男性。誕生星とともに返事をこう」と書いてあった。
このようにインドでは、新聞で結婚相手を募集することがよくあるのだ。
ヴェロニカは、ふふんと意味ありげな笑みでこたえ、
「まあ、庶民はそうだと思うけどね、王室はそうでもないのよ。いまはかなりリベラルになってきているもの。イギリス人女優と駆け落ちした王子なんてのもいるし、たしかインド人の妻を持たずにイギリス人の内縁の妻を持っているマハラジャだっていたし……」
そう言って、もったいぶるようなしぐさで髪をすいた。
「なんたって、インドには藩王国がわんさかあるんですものね。だから、パーティにさえ出ていれば、きっといつかどこかのマハラジャが、わたくしを見初《みそ》めてくれるはずだわ。
だいたい、わたくしがわざわざインドにきたのだって、プリンセスになるためなのよ。じゃなかったら、なんでこんな暑いだけの田舎になんか……」
なるほど、つまりイギリスに王家はひとつしかないが、インドには五百いくらもの藩王家がある。王家の人間と結婚して本物のプリンセスになるためには、インドへ来たほうが確率が高い……、と、そういうことなのだろう。
(たしかに、高いのは高いだろうけど……)
「でも、そんな風に無理に王様と結婚しても、しんどいだけだと思うけどなあ」
と、わたしは、何気なしに口にした。
「どうしてよ」
「だって、王家のしきたりとかって、とてもめんどくさそうじゃない。わたしは、マハラジャ・パレスに住めなくてもいいから、好きなときに好きな人と好きなふうにいたいわ」
ヴェロニカは、なにを言っているんだかと言わんばかりに、
「ふん、あなたみたいな人間はそうかもしれないけれど、わたくしたちの階級ではそんな結婚はしないものよ。なによ、そんな子供みたいなこといって」
「そんなことないわ」
わたしは、つい先日読んだ、エドワード八世が離婚経験のあるアメリカ人と結婚するために退位したときの記事を思いうかべながら、うっとりと言った。
「ヴェロニカはそう言うけど、イギリスの前の国王様だって、王位より愛をお選びになったじゃないの。やっぱり結婚は好きな人とするものだと思うわ。いまはもう、格式だとかそういうことにこだわる時代じゃないと思う」
「なっ」
彼女は、さっと顔色を変えた。
「あなた、わたくしの生き方が古いって、そう言いたいの!」
「えっ」
なにか気に障ることを言ってしまった、と口を押さえたときにはもう遅かった。
案の定、ヴェロニカは目をキッと三角にしたかと思うと、まるでフォークの先のような言葉を投げつけてきたのだった。
「このわたくしが、時代遅れだっていうの!?」
「あの……、べつにそういう意味じゃ……」
「ばかばかしい! 爵位《しゃくい》も持たないあなたなんかにわかるもんですか」
と、彼女はまるで、手袋をたたきつけるように言った。
「いい。この世は地位と名誉とお金がすべてなの。わたくしの家はあなたみたいな無名な家と違って、名誉もお金もありあまるほどあるのよ。だから、あとは地位だけなの。あなたみたいに、ろくに辿れもしない家系といっしょにしないでちょうだい!」
急に沸騰したケトルのように怒り始めたヴェロニカに、わたしはたじたじで、
「そ、そんな言い方しなくたって……。それに、少なくともわたしは結婚するなら、べつにお金持ちじゃなくったっていいと思ってるんだもの。好きな人だったら、どんな人だって」
「嘘《うそ》ね」
きっぱりと彼女は言った。
「好きな人だったら、だれでもいいなんて嘘よ。お金がなかったら人はケンカをするし、お金があっても地位がなければ交友も結べない。友だちにだってなれやしないの!」
「そんな……」
「じゃあ、あなたはテムズで荷運びしている労働者と結婚してもいいっていうの。そんな相手を、あなたのお父様は認めると思っていて」
うっ、と痛いところをつかれて口ごもったわたしに、ヴェロニカはますます勢いづいて、
「ほーら、なんにも言えないんじゃない。そんなきれい事で、偉そうにわたくしにものを言わないでほしいわ。
――ああ、そうか。あなたのお家って、そういう口達者な家よねえ」
急にヴェロニカの口調が変わったので、わたしはぎくりとした。
「なっ、なによ」
ヴェロニカは、口元に手をあてて、にやりと笑ってみせ、
「わたくし、知ってるのよ。あなたのお父様のお家……、シンクレア家はジャージーに土地をもつ地主の出身で、いまでこそ外交官をつとめるお家柄だけれど、お母様はそうではないって。
たしか、かのカミング卿がインド旅行の帰りに連れて帰ってきた、捨て子だったんですってね」
「え!?」
はじめて聞く話に、わたしは指の先まで凍り付いたような気がした。
(ママが、捨て子……)
わたしは、憤然《ふんぜん》と反論した。
「そ、そんなはずないわ。ママの実家は、外務大臣にまでなったアーサー=カミングの親戚の家なんだから。ルーシーおばさまだって、もともとは貴族の家だったって」
「だから、養女なのよ」
ヴェロニカは、まるで花の首を切りおとすように、すっぱりと言い切った。
「あなたのお母様って、とびきりの美人だったんですってね。それを見込まれて、カミング卿の養女になったとかで、ほんとうのところは養女だか内縁の妻だかわからないって噂よ。だから、あなたのお父様は、あなたのお母様と結婚するとき、親戚からものすごい反対にあったんですって。ふふん、当然よねえ。そんな、どこの馬の骨ともわからない娘となんて、ねえ……」
わたしは、ぶるぶるする指を握りしめて、震えに耐えながら言った。
「マ、ママがインド人なわけ、ないわ。だって、写真のママは肌がとっても白くて、髪も綺麗なブロンドだったんだから!」
「ふーん、でも」
ヴェロニカは、二本の指で口元を押さえながら、
「インドが英国の植民地になってもう長いんですもの。インド生まれのブロンドのイギリス人がいたって、おかしくないわよ。それに、インドには金髪のペルシャ人だっているしね」
「そんな……」
まさか、そんなはずはないと思いながらも、わたしは一方で、パパ・ウィリアムの親戚が、ママのことをあんなにあしざまに言う理由がわかったような気がしていた。
(ママが、インド生まれの捨て子だった……。それをカミング卿に拾われていたなんて。ママはずっと、貴族の生まれだと聞いていたのに――)
ヴェロニカは、陶器の壷のように青ざめたわたしをおもしろそうに見ていたが、やがてわざとらしく声をあげ、
「ああ、そう。だからあなたも、結婚相手の身分にこだわらないんだわ。なにせ、卑《いや》しい捨て子の子供ですもの。そんなことにこだわっていられる場合じゃないわよね」
「う…………」
「そんなわけのわからない生まれだから、あなたのお母様ってあんなふうだったのかしら。社交界では名うてのプレイガールで、ついにはインド人の下男と駆け落ちまでして……」
「う、うるさい!」
わたしは、とうとういままで堪《こら》えていた堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒が切れ、彼女に面と向かってどなりつけた。
「それ以上、わたしの家族のことを笑いものにしたら、許さないんだから!」
いままでのわたしだったら、こんなふうにママの悪口を言われても、まるでなにも聞こえなかったかのように、ぐっと涙を堪えてガマンしたに違いない。
けれど、わたしはインドへきて、変わった。
このオルガ女学院へ入学して、まだ一年もたっていなかったけれど、ロンドンや親しい人たちと別れての生活は……、そして、なにもかもを自分の手で切り開いていく(それは友だちや身の回りのことも)毎日は、確実にわたしを強くしなやかに変えていっていたのだった。
「あんたみたいに、自分のことを守るために人を責めることを卑怯っていうのよ、ヴェロニカ!」
「なっ……」
まさか、わたしに言い返されるとは思っていなかったのだろう。ヴェロニカはぎょっとしたように目を見開くと、みるみるうちに真っ赤になった。
「な、何が卑怯よ、全部ほんとうのことじゃないの!」
「そんなのただの噂話でしょ。それに、そんなことを信じて言いふらすほうが、よっぽど性根《しょうね》が浅ましいっていうか、卑しいのよ。ばっかみたい」
ばっかみたい≠ことさら強調して、わたしは言った。
「あんたみたいに身分ばっかり鼻にかけていたって、それはあんた自身が自分の力で手にいれたものじゃないじゃないの。くやしかったら、自分の力を実力を誇ってみなさいよ。乞食《こ じき》みたいになにもしないで恵んでもらったものじゃなくて」
「な、なんですって」
彼女はとうとう、手にしていた象牙製の櫛《くし》を床になげつけた。
わたしは、つい、とそれを簡単に避けてみせる。
「あなた、このわたくしを、乞食呼ばわりするつもり!?」
「乞食のほうが、変に鼻にかけないだけましよ。あんたなんか、それ以下だわ」
「よくも、この……」
するとヴェロニカは、いまにも角を出さんばかりの勢いで、わたしにとびかかってきたのだった。
「訂正しなさいよ、この爵位なしが!」
「爵位がないのがなによ! あんただって半分はアメリカ人じゃないの」
「なっ」
アメリカ人[#「アメリカ人」に傍点]。
どうもそのことは、ヴェロニカにとって一番のウイークポイントだったようだった。
「許さない……」
彼女はサッと表情をかえると、わたしの首を締めようと上におおいかぶさった。
「よくも……、よくもわたくしのお母様を、悪く言ったわね!」
「え……、ちょっ……」
とっさに、ヴェロニカがなんのことを言っているかわからなくて、わたしは戸惑った。
しかし、彼女は、とても人の言葉に耳を貸すような状態ではなく、
「――あんたのことは、はじめっから気にくわなかったのよ」
まるで悪魔が乗りうつったかのような、ものすごい顔をして言った。
「カ、カーリーは、わたくしが仲良くしたいと思っていたのに……。あんたが来て、それからずっと彼女はあんたにべったりだし。こ、このまえのパーティだって、せっかく王子様と知り合えるチャンスだったのに、あんたが邪魔をして……!」
「王子様……?」
どうやら、あの夏の終わりにあった紅茶夫人のパーティのことを言っているらしい。
(べつに、邪魔をしたわけじゃないんだけれど……)
わたしが、どうにかして上からヴェロニカをどかせようともがいていた、そのときだった。
なんと、彼女は大きく腕をふりあげると、
「あんたなんか、あんたなんか、邪魔なのよっ」
――バチン、とまるでバネがはねかえるような音がした。
「あ…………」
それは、ヴェロニカが、わたしの頬をぶった音だった。
音がしてからずいぶんたってから、じんわりと熱さのような痛みが浮かびあがってくる、
(ヴェロニカが、わたしをぶった)
その瞬間、わたしの頭の中でもう一本、なにかがぶちっと切れた。
わたしは、すぐさま右手を振り上げて、彼女のぶっとい縦ロールごと、体を張り倒した。
「よくもやったわね!」
「ぎゃっ」
力まかせにぶったたかれて、ヴェロニカは簡単にわたしの上から転がり落ちた。彼女が床にあおむけになったのをいいことに、わたしはその上に飛びかかった。
「痛いじゃないの!」
「なによ。あんたなんか、これくらいされて当然なのよ!」
わたしは、彼女の上に馬乗りになろうとしたが、うまくいかなかった。ヴェロニカが、わたしの下でめちゃくちゃに腕をふりまわしたからだ。
「あ、あんたなんか、どっか行け!」
「あんたこそ、どっか行け!」
「うるさい。それはわたくしが先に言ったのよ!」
「そんなの関係ないでしょ!」
わたしが力まかせに彼女の縦ロールをひっぱると、彼女はヒステリーな猫のようにうめいて、わたしの頬をひっかいた。
「あいたーっ!」
思わず頬をかばうと、彼女がおかえしとばかりにわたしの髪をひっぱりあげる。
「なにすんのよ!」
思わず、足が出た。わたしは、思いっきりヴェロニカの顔を足でけっとばした。ほげっ!とうめいて、彼女がいきおいよく後方へ倒れる。
「うぐぐぐぐ……」
起きあがった彼女の頬には、くっきりと足形がついていた。
彼女は、頬を押さえながら吠えた。
「よくもやったわねええっ!」
「それは、こっちの台詞よ!」
「この、くそチビが!」
「なによ、ちんちくりんのにんじん!」
「鼻ぺちゃ!」
「そばかす!」
こうなってくると、最後はおたがいのボキャブラリが尽きるまでの、低レベルな罵《ののし》りあいになってくる。
その後、わたしたちが、部屋の床をごろごろ転がり回って、おたがいの髪をひっぱりあったり、歯形がつくほど相手の腕を噛んだりしていた、
そのときだった。
ピーッ!
「!?」
聞き慣れたプリーフェクトの銀のホイッスルが鳴って、わたしたちははたと我に返った。
「なにをしているのですか!」
恐る恐る顔をあげれば、そこには超涼しげな表情をした、ハウス長ミス・シュミットが腰に手をあてて立っていた。
「あ…………」
「ミス・チェンバース。ミス・シンクレア。お立ちなさい!」
まるで、糸で手足をひっぱりあげられるマリオネットのように、わたしとヴェロニカはその場に直立した。
「あ、あの……」
「消灯前にとっくみあいのケンカとは、ジュニアクラスのお手本となるべきミドルクラスの長の学年がすることではありませんね」
彼女は、ヒマラヤから吹く風もここまで冷たくはないだろうと思うくらいクールな声で言った。
「そ、それは、ミス・シンクレアがわたくしを中傷するようなことを言ったからで……」
「どっちがよ!」
「どちらにせよ、理由は問題ではありません」
彼女はゆっくりとしたしぐさで、バイブル帳と呼ばれる、代々ハウス長に受け継がれる革製のバインダーを開き、
「二人に、Yを四つ付けます。異論はありませんね」
「げええー!」
思わず踏みつぶされたカエルのような声をあげてしまったわたしに、ミス・シュミットは異論を許さない声で念を押した。
「ありませんね」
「…………はい」
「わかりました、ミス・シュミット」
わたしは、素直に罰則を受け止めた。この人には、どんないいわけも同情も効かないことを、いままでYを付けられた過程で身にしみていたので。
「では、二人は明日の午後、ハウスの階段を全部紅茶拭き≠ネさい」
わたしはぎょっとした。
(げげ、紅茶拭き……)
それは、色を出したあとの紅茶のでがらしを床にまいて、ゴミや汚れといっしょに拭き取る掃除のやりかたで、生徒たちの間でも、手間がかかるととくにいやがられていた罰だった。
わたしは、うんざりする顔をどうにか堪えてうつむいた。チラリと横目で様子をうかがうと、案の定ヴェロニカもぶすっとした顔を隠せないでいる。
「ミス・チェンバースは今週はYが多いですよ。気をつけなさい。二人とも、Yが七つあるので、週末までにおとなりの教会の庭掃除をするように。では、騒がずに消灯なさい」
おやすみ、を最後に言い添えて、ミス・シュミットはばたんと扉を閉めた。
「……………………」
「……………………………………」
わたしたちは、居心地の悪い空気を感じながら、そそくさと寝るしたくをはじめた。頭のリボンも制服もしわくちゃになってしまったので、わたしはいつものように寝押しをすることにした。
ベッドパットをまきあげ、しわをできるだけきれいに手でのばしてゆく。ブラウスのボタンが割れないようにそこだけハンカチでつつみ、スカートは、大きめのスカーフを全体にかぶせて準備をすませる。頭のリボンはこれでは綺麗にのばせないので、分厚い本に挟んで、その上に重しがわりの教科書をいくつか積んでできあがりだ。
(うん?)
ふと視線を感じて見ると、ヴェロニカがわたしと同じように制服の寝押しをしようとして、戸惑っているのがわかった。きっと、いままではメイドのジェイミーがリネン室でアイロンをかけていたから、寝押しなんてしたこともないのだろう。
わたしは、しかたなく彼女のベッドのところへ行って、スカートをとりあげた。
「……かして」
「え」
「やったげるから」
ヴェロニカは、信じられないというふうにわたしを見つめた。
「あ…………」
「言っとくけど、次からは自分でやってよね」
そう、ぶっきらぼうな口調で言うと、わたしは自分とおなじように寝押しの準備をすませ、さっさと自分のスペースに戻った。
べつに、親切心でやったわけではない。
ルームメイトとして、いつまでもなにもできないお嬢さま気分のままでは困るし、ずぐずされると、いつまでたっても灯りを消してもらえないからだ。
けれど、しばらくたって、意外な返事が返ってきた。
「……りが…………、……と…………」
「え」
まさか、礼を言われるとは思っていなかったので、わたしはびっくりして枕から顔を離した。
消灯の時間が過ぎていたので、部屋に人工の灯りはなく、そのときヴェロニカがどんな顔をしていたのかはわからなかった。
ただ、その声からはひどくとまどったような……、彼女らしからぬ精いっぱいさは、感じられた。
「………………」
「………………………………」
しばらく、しいんとした空気が部屋中を支配していた。やがて、コツコツと見回りのプリーフェクトがやってきて、わたしたちの部屋の前をとおりすぎ、ゆっくりとした足取りで階段を下りていく。
ふいに、ヴェロニカが言った。
「悪かったわ。あなたのお母様のことを言って……」
わたしは、二重に驚いた。思わず上体をおこして、右隣のベッドで眠っているヴェロニカを見ようとする。彼女は、顔半分をシーツの中に隠したまま、ぼそぼそ続けた。
「え……」
「むかし、わたくしのお父様も、お母様のことを乞食だって言ったの。だから……、思わずカッとなって」
「あなたのパパが?」
わたしは、怪訝に思った。
わたしが知るかぎり、彼女のママはアメリカでも有数の富豪の出身のはずだ。
「言っておくけど、わたくしのお母様はすばらしい方よ。乞食なんかじゃないわ」
ヴェロニカが思わぬことを話しだしたので、わたしは彼女の聞き役にまわることにした。
ちょうど、その夜は満月が近くて、カーテンを閉め切っても窓からは月の輪郭がはっきりとわかるくらい明るかった。
だから、なんとなく寝る雰囲気になれなかったのかもしれない。
わたしたちは、月がわたしたちの部屋を横切るまでの間、はじめてお互いの話をした。
「わたくしは、小さいときから、人間は支配するほうか、されるほうかどちらかしかないって教えられてきたの」
[#挿絵(img/02_227.jpg)入る]
わたしは、黙って聞いていた。こんなふうに、ヴェロニカが自分のことを話すのを見るのは、はじめてだった。
「人は、決して対等にはなれないから」
「どうして……」
「そういうふうにできてるせいよ。どんな社会にだって上下はある。家族の中にだってあるでしょう。母親より父親のほうが偉いし、兄弟は先に生まれたほうが権限が大きいわよね。
所詮、人間は自分より上か下かでしか、人をはかれないのよ」
そう言われて、たしかにそうかもしれないとわたしは思った。
世の中には、対等な関係より上下のほうが多い。
数えれば、きりがないほど……
「生まれより、一段でも多く上に行きなさいというのが、お母様の口ぐせだった」
「一段上に?」
「上っていっても、そこから見下すためじゃないわ。人間はね、どうしても許せないようなことでも、上の立場にあがってしまえば許せるって、お母様がおっしゃったの。だから、自分があがって、人を許しなさいって」
ヴェロニカは、そう言ってぽつぽつと話しだした。
まるで、なにかの懺悔《ざんげ 》のように。
「わたくしのお父様は、たしかにエジンバラの伯爵家の出だけど、伯爵家はもうとっくの昔におちぶれてつぶれかけだったの。だから、伯爵家はお金が欲しくて、お母様の実家にお父様を婿《むこ》に出したのよ」
つまり、お父様はお金でお母様の家に買われたってわけ、と彼女は言った。
「お金で、買われた……」
「お母様の実家は、アメリカでは有数の富豪一族よ。もともと南部の大地主で、その元手でいくつかの油田を開発して、まえの世界大戦の好景気でずいぶんと儲けたらしいって。そのお母様の援助のおかげで、お父様の実家、エジンバラ伯爵家は社交界でなんとか体裁《ていさい》をたもっていけるようになったの」
たしかにトッド・チェンバースといえば、イギリスでも知らないものはいないと言われるほど急成長した、アメリカの新興財閥だった。
いまや石油だけではなく、鉄鋼、金融関連など、ありとあらゆる分野に進出し、その身内から二人の議員を出している。
そのチェンバースが、肩書きコレクションにイギリスの爵位を手に入れた、と社交界で言われているのは事実だった。
そして、それが、イギリスの経済界は、アメリカの慈善事業だとさえ言われているきっかけになったことも。
「世界中から植民地を失いつつあるイギリスにとって、アメリカはなんとか仲良くしておきたい相手だから、イギリスの経済界はチェンバースにすり寄ったし、そのためにお父様の一族を重用したりしたわ。
お父様が、ボンベイの総督の地位につけたのも、そのおかげなのよ。
でも、お父様は卑屈な人間でね。次男で爵位を継げなかったせいもあって、ことあるごとにお母様を責めた――」
ぎゅっと、彼女が枕のはじを掴んだのがわかった。
「お父様は、自分の地位も面子も、すべてお母様のおかげだということが気に入らないの。あろうことか、お酒がはいるといつもお母様に向かって、成り上がりの乞食だと言ったわ。わたくしも言われたわ。エジンバラ伯爵家の家系に、赤毛はいないって。だから……」
はりつめたヴェロニカの声がした。
「だから、わたくしはプリンセスになって、みんなを見返してやるのよ。だってインドのプリンセスになったら、お父様より上にたてる。お母様だって、お父様にびくびくしなくても生きていけるわ。わたくしはどんな手段を使っても、一段上にあがってみせる。わたくしたちの名前に殿下≠つけて呼ばせて――そしたら」
彼女は、最後だけ漏らすように言った。
「いつの日かお父様を、許せる気がするから……」
そう言って、今度はぷっつりと黙り込んだ。
わたしは、その嵐のような彼女の叫びに、圧倒されたようになにも言えなかった。
(ああ、そうか。ヴェロニカは、ママを救いたいんだ)
上へ上へとあがろうとするヴェロニカにとって、自分以外のすべての人間は、自分以下でなければならないのだ。そうして、自分がプリンセスになることで、父親におとしめられた自分の母親と自身に、正当性を見いだそうとしている。
『よくもわたくしのお母様をばかにしたわね!』
『ぜんぶ、お父様のせいよ』
わたしは、プリンセスになりたいという彼女の上昇志向は、そこから来ているのかと納得した。
そうして、彼女がこの小さな箱庭で、自分自身の地位にこだわるわけも……
(そっか)
わたしはほんの少しだけ、ヴェロニカという人間が見えた気がした。
(いままで高慢ちきだとばかり思っていたヴェロニカだけど、彼女は彼女なりに、ちゃんと自分の意思をもっているんだ……)
そうして、やっぱり少し寂しいと思った。
たしかに、人間は自分が相手よりひとつ上の立場にあがれば、いままでもっていたわだかまりも忘れられるものだ。哀れみは、自分より目下の人間にかけるほうがたやすい。
けれど、そうやって自分の上か下かという基準しかないのは、とても寂しいものではないだろうか。
(だって、自分の隣にはだれもいないってことじゃない)
ただ、それを口に出すことは、さすがのわたしにもはばかられた。
ヴェロニカはヴェロニカなりの信念でそうしているのだ。いま、事情を知ったばかりのわたしが言っても、それこそ、大きなお世話だだろう。
「ヴェロニカは、ママが好きなのね」
言ってみてから、ほんの少しだけ彼女がうらやましく思えた。ヴェロニカには、そんなふうに大事に思えるママがいるのだ。
「そ、そうよ。好きよ」
「いいな」
彼女は、はっとしたように息をのむ。
「わたしは、ママのことはよく知らないんだ……」
「そ、そんなの、知らなくてもいい相手だって世の中にはいるじゃない」
慌てたように、ヴェロニカは言った。
「へ……?」
「べつに、知らないからいいとか悪いとかじゃないと思うわ。そうなってしまったことを、とやかく言ったってしかたないじゃない。あんたがそう思うなら、次はあんたがそうならないように上を向くだけよ」
それが、気位の高いヴェロニカなりの気遣いだと知って、わたしは吹き出しそうになった。
あのヴェロニカが、わたしに気を遣っているというのが、なんともおかしい。
「ありがと、ヴェロニカ」
「な、べつに、お礼を言われるようなことなんて、ないわよ」
「いいの。なんだか気がまぎれたから」
そう言って、わたしはなんとなく、いままでのことを話しだした。
物心ついたときには、ママはもういなかったこと。パパ・ウィリアムはプレイボーイで、いつもいろいろな女の人に囲まれていたこと。
わたしを嫌っているパパの親戚たち、そしてそれをいつもかばってくれたのは、ママの妹のルーシーおばさまだけだったこと……
不思議なことに、相手はあんなに嫌いだったヴェロニカだというのに、話すごとに心にあった堅いしこりがなくなっていくようだった。
わたしは、深く深く思った。ああ、誰かに話すことは、神様の前で懺悔することにも似ていると、だれが言ったのだっけ……
その夜、わたしとヴェロニカは、枕元に物憂《ものう 》げな睡魔が訪れるまでえんえんと話し合った。
思えば、そこまで深い話は、あのカーリーや、ミチルやヘンリエッタに話したことはなかったかもしれない。
そうして、すっかり夜がふけたころ、月が西へ傾くころに、わたしたちは眠りについた。
「おやすみ」
ヴェロニカが同室になってはじめて、わたしは彼女におやすみの挨拶をした。
「………………おやすみ」
ヴェロニカは、ちょっととまどったように身じろぎしたあと、むこうを向いたまま、小さくおやすみと返してくれた。
§  §  §
その日から、わたしとヴェロニカは、急激に親交を深めていった。
仲良くなったと言っても、べつにミチルやヘンリエッタたちと同じように、休み時間や午後をいっしょに過ごすようになったというわけではない。
けれど、ヴェロニカのわたしに対する態度からは、まったく棘々しさが失われていたし、わたしも以前のように彼女を嫌ってはいなかった。
いままでは、なにかにつけて高慢な態度をみせるヴェロニカに、いちいち反感を持ったものだったが、彼女がそうする理由(それが共感できるものではないにせよ)を知ってしまうと、それはそれで受け入れることができる。
急に仲良くなったわたしとヴェロニカに、まわりのクラスメイトたちは、いったいなにが起こったのだろうと、ヒソヒソと噂し合った。
「あの二人、何があったのかしら?」
「爆弾娘シャーロットと、あのヴェロニカが仲良くなるなんて」
とくにこの学院で暮らす少女たちは、そういう関係の変化にいちばん敏感な年ごろなのだ。
「共闘戦線でもはったんかと思ったわ」
と言ったのは、わたしたち二人の変化に一番びっくりしていた、ミチルとヘンリエッタだった。
「共闘って?」
「つまりいま、あんさんとヴェロニカは利害が一致するやろ。あんさんはあのプリンセスからカーリーを取り戻したい。ヴェロニカは、特別室を取り戻したい。ほらな」
「だから、あのプリンセスに対抗するために、一時的に手を組んだんじゃないかって、もっぱらの噂なのよ」
わたしは、噂というのは実にいいかげんなものだと感心した。
このわたしが、カーリーを取り戻すために、ヴェロニカと一時休戦したなんて、ものすごいこじつけようだ。
「べつに、そういうわけじゃ、ないんだけど……」
「だったら、どういう心境の変化?」
「うーん」
わたしは、いったいどういったら一番ふさわしいたとえになるか悩みながら言った。
「たまたま偶然突風がふいて窓が開いたから、ついでに泥棒に入ったって感じかなあ」
二人は、怪訝そうな顔をした。
「全然わかんない」
「同じく」
わたしは苦笑いした。彼女とのことは、わたしですら、まったく意図せぬことだったのだ。二人がそう思ってもしかたがない。
――その日の午後、わたしは、とっくみあいの喧嘩をやらかした罰として、ヴェロニカとともに学院内の廊下を、すべて紅茶拭きすることになった。
これは、紅茶のでがらしを撒いて汚れをとるやりかたで、これをするとワックスがわりにもなって、いい香りがすると言われている。
「どうしてわたくしが、こんなメイドがやるようなことをやらなければいけないのよ!」
と、ヴェロニカは終始不機嫌だったが、わたしが文句も言わずにひたすらやっているのを見て、しぶしぶ同じように床に這《は》いつくばっていた。
どうせ、いくら文句を言ったところで、あの鬼のようなミス・クールに立ち向かう勇気などない。
(ああ、腰がいたい)
わたしは、へろへろと手すりにもたれかかった。紅茶拭きは、見るからに重労働だ。十分もすると、とたんに腰がだるくなってくる。
ふいに、コツ、コツ、となにかがガラス窓をたたく音がした。
わたしは、ふと手を休めて、階段の踊り場の明かり取りの窓をみあげた。
すると、
「まあ、ナッピー!」
そこには、あのお尻だけが茶色いアヒル、わたしがナッピーと名付けた彼が顔をのぞかせていたのだった。
「ちょっと、あなたどこにいくのよ!」
「ごめん、はばかり!」
ヴェロニカにトイレの用であることを告げると、わたしは手に雑巾を持ったまま、学院の外へ飛び出した。
夏の社交シーズンを終えたステーション内は、すっかり人もまばらだ。暑いインドの夏を避けて海辺に避暑に来ていたイギリス人たちも、今はめいめい自分のうちに帰っている。
「ナッピー、いま、フォートの外にエドが来てるの?」
したり顔で、ナッピーがグアッと鳴く。
「よーし、わかった!」
わたしはナッピーを抱きかかえると、学院のおとなりに建っている、古い石作りの教会へと足を向けた。
あれから、わたしとエドワードは、なにか用のあるときは、このフォートのすぐ外で会うようにしていた。
ステーションから外へ出ようとすれば、ステーションのたったひとつの入り口である門をくぐるしかない。けれど、誰が見たって学生だとわかるわたしを(危険だからという理由で)、通してくれる門番なんていやしないだろう。
しかし、ひとつだけ抜け道があった。実は、教会の裏のすぐ傍には、わたしの身長の二倍くらいはある、うんと高い壁がそびえ立っている。これは、このステーション≠ニパンダリーコットの街を隔てる分厚い壁だった。
つまり、この教会の中から壁を越えれば、人目につかずに、フォートを越えることができるのだ。
もちろん、フォートの壁はわたしの身の丈よりはるかに高いので、外側にだれか受けとめてくれる人がいた場合の話ではあるが。
そして、その連絡役をかってでてくれているのが、この賢いアヒルのナッピーだった。
「エド、いる?」
わたしよりたやすく壁の上に飛び乗ったナッピーが、グアッと返事をした。どうやら、いるらしい。
「ナッピー、あとでビスケットをあげるからね」
わたしは、人目を盗んでさりげなく教会の中に駆け込むと、中の鐘楼《しょうろう》を目指してはしごをよじ登った。
よし、だれもいない。――目標物のエドの頭発見。見晴らしよし!
「えいやっ!」
わたしは周りをうかがって人がいないことを確認すると、かけ声ひとつとともに飛び教会の屋根の上に降りたった。
まるで泥棒にでもなったような気分で、わたしはそのまま屋根の上を伝い歩き、ステーションと外を隔てている壁の上めがけてジャンプする!
「エド、おまたせ!」
ついで見知った顔を発見すると、わたしは壁の上から彼を目がけて思い切りダイブした。
「おい、ち、ちょっとま……」
エドワードは一瞬うろたえたが、すぐに体勢をつくって見事にわたしを受けとめようとした。
しかし、
「うわっ」
「きゃっ!」
それでも勢いは殺せず、わたしたちは見事にステーション外の地面にどすんとしりもちをついてしまう。
「ご、ごめん、エド」
「こら、シャーロット。俺が良いって言ってから飛び降りてこいって、このまえも言ったろ」
エドワードが額に青筋をうかべながら、首から提げていたカメラの無事を確認する。
「ああ、よかった。カメラはなんともない」
それから、なぜかエドワードは懐かしそうに目を細めた。
「まったく、その年ごろの子ってのは、みんなそんな風に強引なのか」
「えっ」
わたしが聞き返すと、エドワードは、なぜかはっとしてわたしから手を離し、尻についた土を払って立ち上がった。
「なになに、それって、エドの恋人の話?」
「ばっ……」
彼は、うろたえるように鼻の上をほんのすこし赤くした。
「子供のくせに、大人をからかうんじゃない」
「いいじゃない。教えてよ、その人、エドの恋人?」
「さあ……」
そう言って彼は、首から提げたカメラに手を触れた。
「そうだと、いいけれど」
まるで彼のタバコの煙のように苦い顔で笑ったエドワードからは、なんとなくその恋がうまくいっていないことがうかがえた。
彼にこんな顔をさせるなんて、どんな人なんだろうとわたしは思った。
わたしのようなという言い方をするからして、もしかしてわたしと歳が近い……?
「それで、彼女の様子はどうだい?」
わたしがぼんやりとそんなことを考えている隙に、エドワードはいつもの表情を取り戻していた。
「彼女って?」
「だから、バローダの王女さ。クリシュナ=パドマバディ」
「あ、ああ……」
別のことを考えていたわたしは、ばつが悪くなってそっぽをむいた。
「とくに変わりはないわ。いつもみたいにわがまま言って、やりたいほうだいよ。相変わらず、カーリーをこき使ってるみたいだし」
「そのカーリーって、きみの友だちだっけ」
「親友よ」
と、わたしはさりげなくそこを強調した。
「けど、ハウス長のベリンダ=シュミットのファグになってから、前みたいな無茶なことは言わなくなったみたい。あいかわらず、写真ばっかり撮っているけれど」
「そうか」
エドワードは、そのことをしっかりと記憶に刻むように頷いた。
「そのベリンダって、どんな人だい」
「ハウス長? そうね、おっかない人よ。でも、なぜかパティはすっごく彼女のことが好きみたいで、初級生がするような靴磨きやお茶くみも、すすんでやってる。だいたいヘンな人よね、パティって」
わたしは、ううんと腕を組んで言った。
「いきなりコーラスの課題曲を変えてしまったり、急に枕投げをやりたいって言い出したり……。かと思えば、鬼よりこわいミス・クールのファグになりたいなんて言い出すし」
ふうう、とわたしは長い息をはいた。
「でも、結婚するなんて聞いたら、なんだか憎めなくて」
わたしの憤慨《ふんがい》をひとしきり聞いたエドワードは、くすくす笑った。
「いい子だね、きみは」
「まったく、自分でもそう思うわ」
と、わたしは自分を肯定《こうてい》した。
我ながら、カーリーをとられてあんなに悔しい思いをしたのに、単純だと思う。
するとエドワードはかたちのいい眉を動かして、まるで愛しいものでも見るようにして、そうか、と言った。
「単純かもしれないけれど、きみのそういうところで救われている人は、きっといるんじゃないかな」
「そうかしら。でもたぶん、ただ単に、自分がそういうことになったら嫌だなって思っただけなのよ。昔は結婚なんて家同士が決めたって聞いているけれど、いまどき、二十世紀にもなって政略結婚なんて……」
「完全にはなくならないさ。この世に上下がある限りね」
と、彼は言った。
その、どこか仕方がないという言い方は、わたしにあの夜のヴェロニカを思い出させた。
「仕方がない、のかなあ」
「全てがそうじゃないけれど、仕方がない部分もあるってことさ。彼女が嫁ぐ先のハイデラバードは、イスラム教徒の国だっていうことは、知っているだろ」
わたしは、ヘンリエッタに教えてもらった牛の顔を思い出しながら、頷いた。
「ええ、南インドにある、唯一といっていいほどの大きなイスラムの国なのよね」
「そう、イスラム連盟に加わっているほとんどの国は、パキスタンとカシミール、それにベンガルといった北インド側に集中している。
ハイデラバードは特殊なんだ。
問題は、そのイスラム連盟が、インドが独立したあかつきには、イスラム教徒だけの国家をつくらせろと言っていることでね」
わたしは、ちょっと顔を曇らせた。
パキスタン地方が、インドから独立したがっているという話は、聞いたことがある。
けれど、そうなるとひとまとまりになっているパキスタンはいいとして、南部にぽつんとあるハイデラバードは、いったいどうなるのだろう。
「ってことは、ハイデラバードはどうなるの?」
「もちろん、イスラムの国としてイスラム側に加わるだろう。けれど、もしヒンドゥとイスラムの戦いが起こったときに、ハイデラバードだけがイスラムの国だと、いろいろとまずいんだよ」
わたしは、ハイデラバードの地理的な位置を思い出して、ああと納得した。
「そうか、ハイデラバードが、ヒンドゥの国のど真ん中にあるから……」
「そう、そんなところに敵の陣地があればどれだけまずいか、素人《しろうと》だってわかるだろ。みすみす、懐に抜き身のナイフを入れるようなもんだ。
ネルーの率いる国民会議は、なんとしてもイスラム連盟を独立させたくない。
そのために、バローダの力を借りることにしたんだよ」
そうして、わたしは、ややこしい政治の話が、ようやくパティのこととつながったことに気づいた。
「だから、パティはハイデラバードへ行くの?」
「そのとおり、バローダはヒンドゥの国でも、もっとも豊かで歴史ある大国だ。その国と、イスラム大国ハイデラバードが結びつくことで、なんとかインドは、イスラム側の離反を防ぎたいんだ」
インドがひとつになるために、とエドワードは繰り返した。
それはまるで、熱心なインド革命家のような口ぶりだった。
(まさか、エドって……)
わたしは、ひとつだけ、いままで漠然としていたものが、心の中で確信にかわるのを感じていた。
けれど、相手は大人で、しかも海千山千の新聞記者だ。まともに質問しても、そうすんなりと答えてくれるはずがない。
そのために、わたしは一つ賭けに出ることにした。
「ねえ、さっきの話だけど、エドって恋人はいるの?」
ふいうちのような質問に、彼は面食らったように目をぱちくりとさせた。
「な、なんだい。急に」
「ううん。ただ、そんなに世界中を飛び回っていたら、恋人にもろくに会えないんじゃないかなと思って。わたしのパパも、めったにロンドンには戻ってこないし」
「ああ、そういうこと……」
彼は、背広の内ポケットからオレンジ色の紙箱を取り出すと、中から一本タバコを抜き去った。いつも彼が口にくわえているタバコだ。箱の表には英語じゃない文字でなにか書かれていて、重くて渋い匂いがする……。インドの銘柄だろうか。
「恋人ねえ……。まあ、いるにはいるかな」
「まあ、やっぱりいるんだ!」
わたしは、わざとはしゃいだ声をあげた。
「ねえ、どうやって出会ったの。どこの人? 結婚するの?」
「……女の子ってのは、どうしてそんなに矢継ぎ早にいろいろ質問するんだろうな」
エドワードは、口からタバコを外《はず》すと、それを挟んだ指で上を指した。
「だから、さっき言ったろ。上から降ってきたんだ。ちょうどきみのように」
「降ってきた?」
「そう、ずいぶんなおてんばでね。バルコニーから飛び降りたんだ。おかげで後頭部をしこたま打った。きみといい、もしかしたら俺は、そんなじゃじゃ馬を受け止める運命にあるのかもしれない」
彼は、そう冗談めかして、少しずつ話題をそらそうとする。
いまだ、とわたしは思った。
「そのじゃじゃ馬って、パティのこと?」
再びタバコを口に持っていこうとしていた指が、ピクリと止まった。
「な……」
彼は、何も言いたくないというふうに急いでタバコを口にくわえた。
そうして、深く息をすって、煙を吐き出してから、さっきよりいくぶん余裕のある顔をわたしのほうに向ける。
「なんだい、きみはさっきからやぶからぼうに」
「やぶからぼうじゃないわ」
ここが肝心とばかりに、わたしはぐいとエドワードに詰め寄った。
「だって、そうなんでしょう。さっき自分でそう言ってたじゃない」
「俺が? ……まさか」
「わたしが、さっきその人は恋人なのって聞いたとき、そうだといいと言ったことを覚えている? そのあと、あなたこう言ったのよ。『それで、彼女[#「彼女」に傍点]の様子は?』って」
それまでは、エドワードの恋人かもしれない女性のことを話していた。それから、王女パティの話題に移るとき、もし二人が同一人物でないなら、『彼女』という言い方をするとは思えない。
「…………まいった」
彼は、心底驚いたというふうに両手をあげた。
「きみは、新聞記者なんかならずに、ベイカー街に居を構えたほうがいいんじゃないのか」
「はぐらかさないで答えて。ねえ、その恋人ってパティのことなんでしょ。だから、彼女のことを知りたかったんでしょ」
彼は、言いにくそうにタバコをくわえて下を向いた。
「シャーロット、たのむからそれ以上は……」
「記事にしないって言ってたから、ずっとひっかかっていたの。どうして記事にもしないのに、パティに興味があるのかしらって。あなたは、バローダの王女に用があったんじゃない。彼女個人のことを心配していたのよ。それは、あなたがパティの……」
すると、エドワードは、おもむろにわたしの口元に、そっと人差し指を当てたのだった。
「あ…………」
たったそれだけで、わたしにはわかってしまった。
彼は、なにも言わなかったのに。
――たった、それだけで。
(エドワード……)
彼はしばらく、言葉を忘れたように黙ったまま、フォートの石造りの壁にもたれて目をつぶっていた。
そうして、彼は言った。
口の端に、どこか苦い笑みを刷《は》きながら。
「――自分でも、子供みたいだなって思ってるよ」
と、まだ残っているタバコを壁に押しつけて、火を消した。
「相手は、ただの女の子じゃない。一国の王女さまだ。それも、ふさわしい婚約者のある……。俺なんかがどうこうできる相手じゃない」
「エド……」
「そう、頭ではわかっているのに、どうしてもできなかったんだ」
「何が?」
彼は、うすく笑った。
「諦めることが[#「諦めることが」に傍点]」
そうして、壁に背をむけて天をあおいだ。
「つまらない話になるよ?」
「いいわ」
「じゃ、話そう。
――俺の親父は投資家でね。親父には心から愛した女性がいたけれど、身分があわなかったので、没落貴族の娘だったお袋と結婚した。だが、親父はそれでもその愛人と手を切らなかった。ほとんどロンドンの本宅には戻らずに、愛人の家にいりびたりだった。俺にはどうやら兄弟が七人もいるらしい。上に三人、下に四人」
だが、会ったことはない、と、彼は低い声で言った。
「二人はいいさ、愛し合っているんだから。けれど、おふくろは不幸だった。情の深い人だったのに、一度も親父に顧《かえり》みられることはなかった」
「お母様、亡くなったの?」
エドワードは、頷いた。
「俺が八歳のときにね。俺は厄介払いをされるように、リース校に入れられた」
彼は、ポケットから新しいタバコを取り出そうとして、それがないことに気づいた。
ちっと、彼は舌打ちをした。
「試験がおわって休暇になっても、俺には帰る場所がない。クリスマスも夏も、ずっと寮暮らしだった。
一度だけ、クリスマスにどうしても親父に会いたくなって、俺の世話をしてくれていたメイドにせがんで、親父の愛人の家まで行ったことがある。日が暮れるまで家の外で待っていると、やがて中からいい匂いがした。兄弟たちの声が聞こえてきた。ねえおかあさん、おとうさんはいつ帰ってくるの……?
親父は、山のようなプレゼントを抱えて戻ってきた。リボンのかかった大きな箱が七つ。寮の俺のレターボックスには、カードさえ届いていなかったのに」
ぎゅっと、それが父親そのものであるかのように、彼はタバコの紙箱を握りつぶした。
「愛しているなら、身分なんか気にせずに結婚すればよかったんだ」
「エドワード……」
「そうすれば、おふくろは不幸にならずにすんだ」
「で、でも……」
わたしは、急いで彼の手をとろうとし、例の発作のことを思い出してひっこめた。そのまま握りしめていれば、やがて彼自身の手の骨が砕けてしまうかと思ったからだ。
「あなたが言いたいこともわかるけれど、でも、そうしたら、あなたは生まれなかったじゃない。パティに会うこともなかったはず。そうでしょ」
「シャーロット」
エドワードは、できるかぎりやさしい顔をして、わたしを見つめた。
「俺が、この世で一番憎んでいるのは、誰だかわかるかい」
妙に諭すような顔で言われて、わたしはぞっとした。
「い、いいえ」
「父でもない、もちろんかわいそうな母でも、兄弟たちでもない」
彼は、笑顔のまま言った。
「俺自身だ」
わたしは、顔を強ばらせた。
「どうして……」
「シャーロット、俺はね。クリスマスプレゼントをうれしそうに開ける兄弟たちを見て、心の底から、父のその愛人から生まれたかったと思ったんだよ。――あんなに愛していた母ではなく」
(エドワード)
わたしは、彼の人なつっこい笑顔の下に、もう一つ別の血が流れているのを知った。
『愛しているなら、結婚すればよかったんだ』
その言葉には、身分や家同士で決める結婚に対する、彼の潔癖《けっぺき》なまでの嫌悪感がつまっていた。
(ああ。だから、彼はパティの結婚に反対なんだ)
子供っぽい考え方といえば、そうかもしれない。けれど、こういうことはだれにだってあるものだ、そうわたしは思った。外《ほか》でもないこのわたしだって、プレイボーイなパパを見て育ったから、こんなふうに頑《かたく》なな男性恐怖症になってしまったのだから。
人間は、だれだって子供だったころがある。だからこそ、そのころにできた性格やコンプレックスからは、容易に逃れられないのだろう。
エドワードは、いままでの複雑な表情をすっかり洗い流して、わたしのほうに向き直った。
「こうなったら、なにもかも話すよ。だから、きみにも協力してほしい」
「きょ、協力って……」
わたしは、なにかの予感がした。なにかとんでもないことが起こりそうな、それに巻き込まれそうな、そんな嵐の予感……
「きみの予想通り、パティがあの学校へ転校してきたのは、動きやすくするためだ。バローダの王宮にいては、いざというときに足止めをくらう可能性がある」
「いざというとき?」
「そう、いざというときだ。俺は、これから彼女をインドの外へ連れて行くために、彼女に偽名で旅券をとる。それを用意している間、きみは彼女がこのステーションを抜け出せるように、手はずを整えてほしいんだ」
わたしはぼけっとした顔でエドワードを見つめていた。
「え。ステーションを、脱出……って……」
わたしは身体の奥底から、何か熱いものが湧き上がってくるのを感じていた。
パティをインドの外へ連れて行く……?
彼女に、偽名で旅券をとる?
そして、ステーションを脱出する?
(それって、まさか……!)
そんなわたしの目に、彼の瞳がぶつかって今までにないようなきらめきを見せた。
「We love each other.」
そんな、惚けた顔のわたしに、エドワードはひどく真剣に、そうしていままでになく想いのあふれた表情で言ったのだった。
「俺は、パティと、駆け落ちをしようと思っている」
§  §  §
わたしは、複雑な思いをかかえたままエドワードと別れ、オルガ女学院のハウスへと戻った。
掃除の途中でいなくなったわたしに、ヴェロニカはたいそうおかんむりだったけれど、わたしはそんなことはまったく頭に入らなかった。
(パティと、エドワードが、駆け落ちする……)
それは、言葉でいうほど簡単なことではないことは、わかっていた。パティはバローダ国の王女で、エドワードはイギリス人の新聞記者だ。
しかも、いまインドはイギリスから独立しようとやっきになっているさなかである。たかが一介のイギリス人とバローダの王女が、そう簡単にインドを抜け出せるとは思えない……
(いくらエドワードがしっかりしてるからって、無茶だ……)
「でも、話さなきゃ」
わたしは、パティと直接話をつけようと、ハウス内にいるはずの彼女の姿をもとめて、談話室や刺繍室を捜し回った。
いくつか思い当たるところを回ったあと、わたしはもうひとつ捜していない場所を思い出して、五階へ足をむける。
もし、彼女が写真を撮るのが趣味なら、あの風景をおさめたいと思うはず、そうわたしは確信していた。
それは、わたしとカーリーが、はじめて出会った場所。
(やっぱり、いた)
屋根裏へ上がって天窓を開けると、はたして彼女はそこにいた。
パティは、折り重なって続く屋根の上に腰をおろして、ぼうっと眼下に広がるステーションを眺めていた。
お得意の黒のコンタックスは、首からぶらさげたままだ。
「パティ」
わたしの声に彼女は振り返り、驚いて目を見張った。
「あらー、シャーロット」
今までの憂いの表情が嘘のように、パティはぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「ここね、カーリーに教えてもらったの。私も時々ここへくるのよ。……綺麗ねえ。まさに写真を撮るのにふさわしいわ」
そう言って、わざとらしくコンタックスを持ち上げる。
(カメラなんか、向けてなかったくせに)
わたしは天窓から抜け出して屋根の上に出ると、パティの傍へ近寄った。
「めずらしいのね、一人きりだなんて」
「え……? ああ、ちょっと一人になりたかったの。私って、もともと大勢の人に囲まれるの好きじゃないし」
「王女さまなのに?」
彼女は、困ったように首をすくめた。
「やっぱり王族ってだけで、そんなふうに見えるのかなあ。でも、いまじゃなんにも特別なことなんかないのよ。私の叔母様も父もイギリスの学校を出たし、私だって、ずっとそのつもりだったし……」
つもりだった、と彼女は過去形で言ったことに、わたしは気づいていた。
パティは風に流れた髪を後ろへはらって、海へと視線をずらした。
「まあ、それもこれからは無理っぽいけどね」
「……結婚するから?」
できるだけさりげなく切り出したつもりだったが、やはり少し声が強ばっていたように思う。
「あら、もう知ってるの?」
意外だといわんばかりに、パティは目をみはった。
「もしかして、もう新聞の記事にでちゃった? まいったなあ。こりゃ、早く帰ってこいって言われちゃうかも」
そうじゃないの、と言おうとしたわたしより早く、
「あなたには、悪いことをしちゃったね」
いつもの人なつっこい顔で、パティが言った。
「パティ……」
「私ね、イギリスに留学して、パブリックスクールに行くのが夢だったの。いつだったか、祖父のお古のカメラをもらったのがきっかけで、写真に夢中になってしまってね。女だてらにも、いつかカメラマンになるんだって、そんなふうに思ってた」
彼女は、首からぶら下げたコンタックスを両手で握りしめた。
「だから、いまはここが天国みたい。あこがれのファグ生にもなれたし……。ここはパブリックスクールじゃないけど、似たような規則がいっぱいあってわくわくしたわ。これで、ハロウィンと王様のパイが食べられたら最高」
「残念だけど、ハロウィンはないわ。といっても、うちのガイ・フォークスには、とんでもないゲームがあるけど」
おー、と、彼女は手のひらを合わせて顔をきらめかせた。
「やっぱり、学校によって独自のゲームや風習があったりするものなのね。すてきねえ!」
「パティ……」
「……ガイ・フォークスまでいたかったな」
と、彼女はつぶやいた。
それは、ほんの小さな声だったので、あっというまに屋根の上の風に攫われて、海の方へ流されていってしまう。
「結婚っていったってね。べつに、不思議なことじゃないのよ。インドじゃ、王族じゃなくったって、占星術で相手を決めるのがふつうだし。結婚式まで顔を見たこともないなんてざらなの。だから、変に不幸ぶるつもりはない。
でも、結婚してしまう前に、急いで思い出が作りたかった。ハイデラバードに行ったら、もう後宮から出てこられないから。
……ふつうの、友だちが欲しかったの」
まるで全てを諦めきっているかのようなパティの微笑みに、わたしは胸がきゅうっと締め付けられる思いがした。
そんな、大人みたいな笑い方は、まだ似合わない歳なのに……
「だから、いろいろ強引にやっちゃって、反省してるわ。急に枕投げをしたいって言ったり、コーラスの曲を変えさせたりね。知り合いから、パブリックスクールじゃ、あれをよく歌うって聞いていたから……、だから……」
「その知り合いって、エドワードのことだよね」
すると、急にパティは顔から笑みを消して、すうっと真顔になった。
「――どうして、彼を知ってるの?」
見るからに警戒されてしまったようだったので、わたしは、ごく簡単に彼に会った経緯、そして二人のことを知ったいきさつについて話してきかせた。
「ああ、あのゾウから落ちて、迷子になったときのことか」
パティがうまく納得してくれたので、わたしはほっとした。
「そう、あのときに、彼に会ったの」
「そうなの。それで、彼が古い新聞を読ませてくれるって。それで……」
「ねえ、あの人。どんなふうに私のことを話してた?」
「えっ」
ふいに、彼女はわたしの顔をのぞき込んで言った。
「どんな子だって言ってた? おてんばって言ってた?」
わたしは、少し面食らいながらも、
「えっと……。そうね、強引でじゃじゃ馬だって、言ってたかな」
「それから……?」
いつのまにかパティの顔が、同じ年頃のきらきらした女の子のものに戻っている。
「それから? ほかになんて……?」
「――諦められなかったって」
パティが、一瞬ぴくりと固まった。
わたしは、驚いて彼女を見返した。すると、パティはみるみるうちに笑みをうかべ、いままでに見たこともないような顔で、幸福そうにはうっと息を吐いたのだった。
「そう、そう言ったの……」
それは、恋というものが全ての女性にそうさせるような、そして恋でなくてはできないような、うっとりとした表情だった。
「うれしい」
わたしは、その顔をとても綺麗だと思った。
それから、ほんの少しだけ、うらやましいとも……
パティは、ぺろっと舌を出してみせた。
「はじめてエドワードに会ったのは、二年前のホーリーの日よ」
わたしは頷いた。
たしかエドワードも、同じことを言っていた。
「祭りを楽しむつもりで赤い粉をかけあっていたら、いつのまにか、すっかり心が赤く染まっていたの。それから毎日、あの人のことを考えていた。
そうしたら、王宮に写真が届いた。マイソールの、サラセン様式の王宮の写真。あの人が、私と同じ気持ちを持ってくれているんだって改めてわかって、いてもたってもいられなくなるくらいうれしかった……」
パティは、わたしにサラセン様式の説明をしてくれた。それは、インド独特のミックス式の建築様式で、建築の世界なら、インドもイスラムもヒンドゥもうまく混ざりあうことができるということも。
まっすぐに顔をあげて、彼女は言った。
「それから、あの人がバローダに乗るたびに、私たちは王宮の外で会うことにした。でもわたしの結婚の話が進むにつれて、だんだん会うことも難しくなっていったの。
――最後の日に、彼はこう言ったわ『今度は君を、俺の旅に連れて行きたい……。いいだろうか……』って」
パティの黄昏色に染まった横顔が、いっそう誇らしげに輝いた。
「うれしかった。もう迷いはないと思ったわ。
そのときまでは、いつかこの恋は手ばなさなければいけないものだと、半分諦めていたの。それに、インドのために軽率なことができないこともわかっていた。インドが独立を勝ちとるために、私の恋は、カーリー女神に捧げなければいけないのだって」
それに吸いこまれるように、彼女は太陽に目を向けた。
(パティ…………)
わたしの心の呟きが届いたのか、彼女はわたしを振り返り、そうしてわたしが初めて見る――ずっと大人びた顔をして微笑んだ。
わたしは言った。
「……駆け落ちするの、エドと?」
「したいわ。彼の旅に、どこまでもついていきたい。あの人、どこにも居場所がない人なの。子供の頃にお母様を失って、ずっと学校で過ごしたんですって。だから、私に新しい国へ行かないかって言ったの。この国の歴史がきみを苦しめるなら、歴史のない国へ行こうって」
アメリカ!
と、彼女は、まるで神の名を呼ぶように唱えた。
「でも、ここまで来ても、私には迷いがあった」
パティは、両手で心臓の上をぎゅっと押さえるしぐさをした。
「もう迷いはないと思ったのに、いつだって迷いは、心の隙間から黒い色をしてしみ出してくる。ほんとうにいいんだろうか、ほんとうにこれで間違ってないんだろうかって。みんなの反対を押し切ってパンダリーコットに来ても、迷いは消えなかった。このまま、なにもかも国に押しつけて、一人だけ逃げてもいいんだろうか。いま、インドはとても大事なときなのに……?」
彼女の不安が手に取るようにわかって、わたしはすぐにはなにも言えなかった。
パティはエドワードを愛している、その愛を続けるためには、祖国を捨てなければならない。
なにもかもを両親や国に押しつけて、卑怯者にならなければならない。
おそらくパティは、まだ完全にその決心をつけられないでいるのだ。
でもそれは、国を愛しているのとは違うのではないか、とわたしは感じていた。
(パティを縛っているのは、責任感だ)
そう、わたしは直感した。
王女としての責任、婚約をした立場としての責任から、彼女はインドを離れがたく思っている。
「もし……、もしそのままハイデラバードへ行ったら、インドはどうなるの。インドは独立できる?」
わたしの陳腐《ちんぷ 》な質問に、彼女は笑って言った。
「そうね。できるかもしれないし、できないかもしれない。いくら私が行ったからっていって、すぐにどうこうできるわけじゃない。ただ、いまは藩王国同士の結束が必要だから、国のためにできるだけのことを尽くすということ」
わたしは、自分の顔からすうっと血の気がひくのを感じていた。
(国のため!)
その時わたしの脳裏には、あの紅茶夫人の事件で明らかになったママ・ミリセントのことが、まざまざとよみがえっていたのだった。
国の命令で、ママはわたしを捨てて、インドの王様の恋人になった。そして、国の命令で王様の子供を産んだ。
けれどその子供までも産み捨てた。
――すべては、イギリスという国のために。
(いやだ!)
それは、たぶんエドワードが抱いていたのと同じ、幼稚で自分勝手な潔癖感なのだろう。
けれど、どうしてそれに従うことがいけないことだろう。
どうして、それが諦めなければならないものなのだろう。
人の心という名の国は、けっして他人からは支配されないものなのに――
「いいじゃない。逃げても」
突然そう漏らしたわたしに、パティがびくっとして振り返った。
「逃げたと思わなければいいのよ。別の道を選んだって、そう思えばいいと思う」
「シャーロット」
「だって、新聞で読んだけれど、最近じゃあイギリス人の妻を持ったり、政略で結ばれた婚約を破棄してイギリスで結婚式をあげた王族だっているんでしょう」
パティは、ぎごちなく頷いてみせる。
「そうね。それは私の叔母のことよ。インディラ叔母様は、輿入れの日まで決まっていたグワリオールのマハラジャを嫌って、叔父とロンドンで式を挙げたの」
「だったら……」
わたしは、パティの黒い目を見た。
その肩にのしかかったバローダの重みと、そして諦め。それから、わずかな希望。そして、ただ恋をする女の子の――その全てが閉じ込められたパティの瞳。
その瞳が、曇るのを見たくはない。
決して。
だから、
「わたし、できるかぎり協力する」
決断するよりもはやく、わたしの口はそんな言葉を紡《つむ》いでいた。
「どうして……」
パティは、わたしの顔をくいいるように見つめた。
「どうしてなの。シャーロット。私、あんなにあなたにひどいことをしたわ。カーリーをとってしまったし、ヴェロニカのことだって」
「そ、そりゃ、あのときはさすがに頭にきたけど、でも……」
パティがまだせめて、自分のために嫁ぐのだと言ってくれればよかった。そうすれば、わたしはこんなにもママや自分……、それからアムリーシュに重ねたりなんてしなかっただろう。
でも、そうじゃない。
パティの心は、少しも、ハイデラバードへ向いていないのだ。ほんの少しも。
「わからない。うまく言えないけど、少し時期尚早だけどこう言ってもいいなら、友だちだから=v
わたしの言葉に、パティは、ほんの少し目をみはった。
「友だち…………」
なんだか急に照れくさくなって、わたしはぶんぶん手を振り回しながら言った。
「そ、それに、よく考えたら、いまどき政略結婚なんて流行らないわよね。ほら、イギリスの国王陛下ですら、アメリカ人と結婚するために王冠を捨てて退位したんじゃない。こんなのふつうよ」
わたしが声高に言うと、それにつられるようにしてパティが立ち上がった。
「そうよね」
パティの顔に、みるみるうちに、年相応の表情が広がる。
「いまどき、私だけじゃないよねえ!」
「そーよ。それに結婚は好きな人とするものでしょ。ハイデラバードがなによ。王子がなによ!」
「そーだそーだ。王子がなんだー!」
わたしたちは、屋根の上で並んで、海に向かって拳をふりあげた。
そうして、肺の中をからっぽにするくらい、大声で叫ぶ。
「やるぞー!」
「やっちゃうぞー!」
真向かう風が、このときばかりは気持ちよかった。
わたしたちは、どちらからともなく深呼吸した。深く深く息を吸い込むと、心の中にたまったよどんだ気持ちも、どこかへいってしまったような気がした。
「あなたが私に協力してくれるなら、私、何でもできそうな気がする。シャーロット」
はじめて会ったときのようにきらきらした目で、パティが言った。
「え、どうして?」
「アムリーシュが、そう言っていたから」
彼女の口から、思いもかけない名前が飛び出す。
わたしは、急いで彼女に向き直った。
「あ、アムリーシュって、あ、あの……」
「知り合いなんでしょ。アムリーシュ=シン。パンダリーコットの第四王子。彼は私の母方のいとこなの」
わたしは、パティなら彼の居場所を知っているかもしれないというエセルの言葉を思い出した。
「彼も、あなたにとても会いたがっているわ」
「ほ、本当に?」
「ええ、そして全てを話してしまいたいと思っている。あなたにはなにも秘密を持ちたくない、真正直に向き合いたいって。けれど、そうすることであなたに嫌われやしないかって、ひどく恐れてもいるの」
「嫌われるって……」
いったいそれはどうしてだろうかと、わたしは疑問に思った。
もしかして、彼とわたしの母親がいっしょだから……? かたち的には、わたしのママ・ミリセントを彼が奪ったことになるからだろうか……
(それとも、もっと別の理由の――)
[#挿絵(img/02_269.jpg)入る]
「わたしも、聞きたいことがいっぱいあるの。それに、お礼も言えてなくて。ずいぶん前に助けてもらったのに、居場所がわからなくって、それで……」
「彼は、いまパンダリーコットにいる」
パティはきっぱりとそう言い切った。「この街に?」
「ええ、ある事情があって、戻ってきているの」
ふと、パティはその長い睫毛《まつげ 》をふせて、物憂げな表情をつくった。
わたしは言った。
「パティ?」
「大丈夫よ。もうすぐ会えるわ。でも……」
ふいに、パティが呟いた。
「でも?」
「――でも、それは別れにもなる。きっと……」
けれど、その呟きは速すぎて、わたしの耳には、とうとう届くことはなかったのだった。
§  §  §
For auld lang syne,my dear.
For auld lang syne,
We'll tak a cup o'kindness yet,…
お隣の敷地にあるオルガ女学院の一室から、ソプラノとアルトが混じりあった綺麗なハーモニーが聞こえてくる。
「ああ、これは遠い昔≠セ、懐かしいなあ」
エセルバード=オーキッドは、ふといままでしていた作業の手をとめて、聞こえてくる歌声にうっとりと聞き入っていた。
寮つきの学校であるお隣は、十代のほとんどをパブリックスクールで過ごしたエセルにとって、なにもかもが懐かしい空間だ。
(ああ、僕もあのころに戻れたら……)
しかし、そのだれしもが胸にかかえている望郷の思いも、雷のようながみがみ声によって、かき消されてしまう。
「へっぴり腰! ぐずぐずしてないで、もっと腰をいれてコークスを入れるのよ!」
と、猫足の長椅子に長い足をさらしながら、この家のメイドにして大英帝国外務省所属の将校、メイドのミモザこと、ミッチェル=クロウ少佐は言った。
この屋敷は、もともとインド麻で富を得た貿易商人の持ちものだったが、その後何回か主を替え、今では東洋の香料をヨーロッパ社交界に紹介したことで一流メーカーにのしあがった、オーキッド商会の名義になっている。
なっているのだが……
「なーにが遠い昔≠諱Bほらほら、どうした。もっとたくさん入れないと、インドだからってまだ二月は冬よぅ!」
「くっ……」
なぜか、今暖炉の前でシャベル片手に孤軍奮闘しているのは、オーキッド商会の跡取りである、エセルバードなのだった。
「こ、こんなこと、どうして僕にやらせるんです。本物のメイドにやらせればいいじゃないですか!」
やってられないとばかりにシャベルをバケツに突き刺して、彼は嘆いた。
「いくらここが秘密厳守の隠れ家だからって、そもそもメイドがふんぞり返って当主の息子を働かせてるほうが、よっぽど疑われますよ!」
「ふーん」
偽物のメイドであるところのミモザは、その言葉にまったく感銘を受けた様子もなく、
「獲物を逃《のが》したヘボ釣り針が、ずいぶんえらそうな口をたたくこと」
「うっ……」
彼女は、ふううっと、爪先に息をふきかけながら言った。
「今度ヘマをしたら、ビルマ・ルートの奥地で死ぬまで泥まみれの戦車《タ ン ク》担がせてやるって言わなかったっけ、エセル=J」
「ううっ……」
エセルは、言いよどんだ。
「それを、このお優しいメイドのミモザさまが、汚名返上の機会をあたえてやろうって、インドに引き留めてやってんじゃない。なのに、たかがコークス運びごときでぶつくさ言うなんて」
「ううううっ」
ミモザの言うことに嘘はない。
昨年の秋、エセルは、情報部のエージェントとしてしてはならない失態を演じてしまった。法廷にひきずりだすために、わざわざ何か月もかけて罠をしかけていた紅茶夫人こと、リンダ=キャッスルトンに、あろうことか目の前で自殺されてしまったのである。
彼女は、クリムゾン・グローリー≠ニいう名の反英国組織に金を流していた、重要な資金源のひとりだった。
クリムゾン・グローリーは、名はあれどなかなか実態を掴ませない秘密組織であり、その煙のような存在感のなさから、エセルたちエージェントは情報を集めるために苦労していた。
追いつめても追いつめても、関係者たちはまるではじめからいなかったかのように消え失せ、正体をかくしてしまう。あまりの手応えのなさに、エージェントたちの間では、この組織は亡霊≠ニ呼ばれていたほどなのだ。
そうして、ついに情報部はロシア人のある商人から、イギリス人で紅茶で莫大な富を築いたリンダ=キャッスルトンが、その組織の有力な資金源であることをつきとめた。
情報部は、慎重に彼女を泳がせていた。そうして、いよいよ彼女を法廷に引きずり出してクリムゾン・グローリーがたしかに、反英国的な組織であることを証明させるために動き出した。
インドが独立に向かって大きく動き始めている中で、このような不気味な組織に動き回られてはたまらない。
それに、リンダ=キャッスルトンをたたけば、彼女にかかわった多くの関係者が正体をあらわすに違いない。
彼女を生きたまま捕らえるための仕掛けがなされていった。ドイツの情報がほしいヨーロッパの資本家たちに接触させ、それもわざとイギリス本国がヨーロッパに足止めされている時期を選び……
「なのに、モヤシなあんたのせいで全部パア」
と、ミモザはエセルにむかって、爪研ぎ棒をなげつける。
がっくりと、エセルはうなだれた。
まったく、返す言葉もないとはこのことだ。ミモザの怒りもしかたのないことだった。エセルにまかされていたのは、それほどの大捕物だったのだから……
「せっかくあの蜂蜜色のお嬢ちゃんをたらし込んで、うまく接触させたっていうのに、みすみす自殺させるなんて」
「………………う」
「ったく、二十二にもなって女もひっかけられないなんて、あのスタンレーの爪の垢《あか》でも食わせてもらいなよ」
ふと、ミモザの口から別のエージェントの名が出たことに気づいて、エセルは彼女に問う。
「そういえば、スタンレー中尉って、もうインドに着いたんでしたっけ。今回はずいぶんかかってますね」
デイビット=スタンレー中尉は、今度正式にインド出張所に赴任してくることになった、情報部きってのエリートだった。
彼は、通常デイビット=Tと呼ばれている。Tとはもちろん、それぞれの得意とする役目を表す隠語である。
Tの名が示すとおり、デイビット=スタンレーは、女性エージェントのSと同様の役割をする、男版の色事師《いろごとし 》なのだった。
「今度やっこさんの前のお役場が、ロンドンへ引っ越してくるらしいからね。それまで、こっちとあっちを行ったり来たりしてたらしい。そういえば、去年インドに来たときにずいぶん日焼けしちまって、女みたいにおしろい塗りながら夜会に出てたってさ」
ヒッヒッヒとミモザは笑った。
「まあ、でも今回の任務は、あんたにゃ無理な話だしねえ。あんたと違って、あいつは文句なしのT=Bローレンス=オリビエも真っ青の色男だし。あんた程度の顔じゃ、コークス運びがせいぜいってところよ、エセル」
「どうせ僕はモヤシの釣り針です…………」
ふてくされたように言うエセルに、ミモザはふと顔つきを変えて、辛い口調で言った。
「わかってんなら、とっととアムリーシュ=シンの割り出しを急ぎなさい。この間の紅茶夫人の夜会に彼が現れてから、何か月経ってると思ってるの!」
「そう。そのこと、なんですが……」
と、エセルはシャベルを置くと、ボウルの中に水を注ぎ入れてコークスで真っ黒になった手を洗った。
「それが、どうもおかしいんです」
「へえ、おかしいって何が。王子はこのステーション内にいるかもしれないって言い出したのはアンタだろう」
ホルダーから葉巻を取り出し、マッチで火をつけながらミモザは言う。
「こんな狭い中を洗うなんて、なんてことないだろうが」
「それは、まあそうなんですが」
懐から、シガレットケースくらいの大きさのオペラグラスを取り出し、隣のオルガ女学院の敷地内を注意深くながめる。
「あのくらいの歳の少年なら、ふつうはスクールに通っているはずなんです。だから、もしかしたら使用人としてかくまわれているのかもしれない。そう思ったんですが、なかなかそれらしいインド人は見あたりません。となると、あとは女の子に化けて、お隣に潜り込んでいるというセンしかないんです」
「ちょっと待ってよ。じゃ、なに。マハラジャの王子が、女装して女学校に潜り込んでるって、そう言いたいのあんたは」
ミモザが、にわかには信じがたいという声をあげた。
「あくまで、この敷地にいるのなら、という予想ですがね」
彼は、目からオペラグラスを外した。
「とにかく、アムリーシュはインドへ戻ってきた。それは確かだ」
「ふ……ん」
キャビネットから分厚いファイルを取り出すと、それをソファに横たわっているミモザの前に放ってよこす。
「だとしたら、帰国したのは、ここ一、二年のはずです。いま、この二年分のボンベイにつく乗船名簿を洗っている最中なのですが、思わしくありません。少なくとも、彼は彼自身の名前では帰国していない」
「イギリス人として入国した可能性は? アムリーシュは半分は白人だろう」
「それも考えました。しかし、それだと今度は膨大な数です。きりがない」
「けど、もし彼が女装でもして、女子校の寮で暮らしているなら、もっと話がはやいはずだ」
葉巻を艶めいた口から外して、ミモザはにやりと笑う。
「そうだろ。もと名子役のマーガレットちゃん」
「少佐……」
エセルはげんなりと肩をおとした。
「あんたはその女装の名人でもあるじゃないか、エセル。いくらうまく女装したとしても、あんたの目はごまかせない。我々はプロだ。そうじゃないのか」
「まあ、そうなんですが……。だから、ここ数か月お隣を張って、それこそ生徒全員をチェックしてたんです。まるで、変態みたいでとても気が引ける行為でしたよ」
と、肩をすくめてみせる。
「で、それらしい子はいたの?」
「いいえ、いません」
「いないって、あんた紅茶夫人のディナーパーティで、王子の顔は見たんだろう」
「そりゃ見ましたけど、さすがにじろじろとは見られなかったんです。それにあちらははるか上座で、さっさとキャッスルトン夫人が奥にひっぱりこんでしまいましたからね」
まさか来るとは思っていなかったから、カメラも用意できなかったし、と彼は残念そうに言った。
「ただ、似ている雰囲気の子ならいます。ミチル=マーマデューク=モナリなんかは限りなくグレーだ。なにせ、父親が有名デザイナーで、本人は日本人とある。モナリ氏はよくインドに出入りしているし、カルティエにもかかわっているから王族とのつきあいがあってもおかしくない」
そして、とエセルはメガネを中指でぐいっと押した。
「カーリーガード=アリソン。彼女も似ている」
「カーリーガード、流血と殺戮《さつりく》の女神ね……。意味深な名前だな」
ミモザは長く細い煙を吐いた。
「たしか、ベンガル分割の騒ぎのときに、反対派のシンボルになったのがそのカーリー女神だったっけ。あのときは町中でカーリー女神のポスターを見たよ」
言われて、エセルはそのカーリー女神の姿を頭に思い描いた。
カーリー。その首には、生首をつなげたネックレスをかけ、青い皮膚に、真っ赤な舌を出してシヴァ神をふみつけにする殺戮の女神。
その、インドでは親しまれていた図が、独立を煽《あお》るポスターに選ばれたわけを、エセルは容易に想像することができる。イギリスを踏みつけにし、自分たちを不当に支配するイギリス人たちを殺しまくりたいという、彼らの……インド人の願望と合致したのだ。
つまり、いまではカーリー女神は、イギリスを潰す象徴として受け止められているのである。
その女神の名前をもつ、一人の女生徒。
美しい、カーリーガード。
「ベンガルでは、昔からカーリー神への信仰が篤いですからね」
「悪趣味だよ」
彼女はうえっと舌を出した。
「あんたも一度、カルカッタへ行ってみたらいいよ、エセル。町中どこもかしこも血の臭いでむせかえっていて、偵察どころじゃない。
あたしゃフランコが来る前のバルセロナにも出向いたけど、はっきりいって同士討ちしてるあそこよりひどかった。町中に血の匂いがこびりついてるっていうのかな。ここかしこから、一千年分の血の臭いがするんだ。戦場とはまたちがう、もっと生々しく怨念めいていて……、まるで、内臓の中にいるような感じだったよ」
おや、とエセルは眉をあげた。あの気丈なミモザが弱音のようなものを吐くのを、はじめて聞いたような気がしたからだ。
チッと、ミモザは爪をかんだ。
「……あの破壊の女神に、我らが聖ジョージが勝てるかな」
「勝つんですよ。そうしないと、今度こそ大英帝国は崩壊する。いまのイギリスは、内臓を外に持っているようなものです。胃袋と心臓を失って生きてはいけない」
エセルは、もう一度視線を窓の外へやった。
「とにかく、いまは藩王国側に連合などとよけいなことをさせないことです。昔から結束が強いラジャスタンがまとまるのはいたしかたないとして、そこにクジャラート族やハイデラバードなどの南部が加わるとまずい。
藩王国三、インド政府二、イスラムが一が本国が望んでいる勢力比です。これが変にまとまっても、バランスが違っても困る……」
残りの五がだれのものであるかは、エセルもミモザもあえて言及しなかった。
「インドは、独立させない」
あくまで、英国は、インドを手放すつもりはない。
しかし、いま兵力をインドへは割《さ》けない。フィンランドに攻め込んだソ連を横目で見ているドイツが気になるところだし、フィンランドでなくとも、ヒットラーの目が北へ向いていることは確実だろう。
その目が、いつブリテン島へ向けられるかわからない以上、英国はインドにかかりきりになることはできないのだ。
「そのために、インドはその間内部分裂していてもらう」
エセルは言った。ミモザが灰皿の上に芋虫でもつぶすようなしぐさで、葉巻を押しつける。
「あいかわらず、安易な手だ」
「そして、限りなく有効です」
「そうだな。インドにとってはいつも不幸なことに」
二百年前、イギリスがインドを植民地にしたときに使った手――ヒンドゥとイスラムを対立させるという図式は、もう使えない。ガンジーやネルーたちは、同じ轍《てつ》を踏むまいと最大限に気をつかっている。
しかし、今度はヒンドゥとイスラムだけではない、藩王国という第三勢力をあやつって、インドをさらに混乱に| 陥 《おとしい》れる。いままでどおり、インドはイギリスの苗床でいてもらわなければない。
そのために、藩王国同士の絆《きずな》がこれ以上深まるようなことがあってはならないのだ。
絶対に。
エセルがよこしたファイルをめくっていたミモザが言った。
「女学校か……。こういうときに、手の内に子供がいないのは不便ね」
と、彼女は肉厚な唇を指ではじいた。
「そうそう、そう言えばあのスカーレット=ミリの娘。彼女、シャーロットとかいったっけ。やっぱり、あの子こっちに引き込めないかな」
「少佐!」
エセルは、手にもったファイルを放り出しかねない形相で顔をあげた。
「おや、なんちゅう顔よ、エセル」
「やめてください。これ以上シンクレア家にかかわるのは。それに、あの子から得られる情報は引き出しています。それで十分のはずでしょう」
「そうかしらねえ」
ミモザは、すうっと何かをたくらんでいる目つきをした。
「あのミリの娘よ。仕込めばきっといいSになるわ。だってそうじゃない。あの雲隠れをしていたパンダリーコットの王太子ですら、あの子は見事にたらしこんでたんでしょ。上にあげる報告書にはいちおう書いておいたんだけれど、上も興味津々みたいよ。いつだって、女の手駒は欲しいものだからね。とくに、こういうご時世には」
「まさか、本気じゃないでしょうね……」
顔色がかわったエセルに、ミモザはからかい口調で、
「ふふっ、それじゃあまるで、喜劇役者が悲劇を演じてるみたいよ、エセルバード。妙な同情はやめなさい。あんたがどれだけミリセント=シンクレアに思うところがあっても、彼女はミリセントじゃない」
「…………っ」
「それに、あたしだってただの思いつきで言ってるんじゃないのよ」
「それは、どういう意味です?」
「あの子は、いずれこっちの世界に来る。そういう匂いをもってる。あの子が自らこっちに飛び込んでくるというのなら、あたしはナチスのパレードなみに、諸手を広げてあの子を歓迎してあげるわ」
「……そうならないことを、祈ります」
強ばった顔のまま、エセルはぐいっとメガネを鼻におしつけた。
「ま、それはともかくとしても。ふうん、きれいな子じゃない。このカーリーガードって娘」
彼女は、エセルが揃えたオルガ女学院に通う生徒のリストを眺めていた。
「あの恐ろしげな女神ってよりは、むしろパールヴァティって感じよ」
「ご存じないんですか、少佐」
エセルは、口元にふっと皮肉な笑みを浮かべていった。
「なにがよ」
「そのパールヴァティが怒りくるった別形態が、女神カーリーなんですよ」
カーリー。
その名前が、英国にとって、不吉なキーワードのような気がするのは、エセルの気のせいだろうか……
「カーリーは、ただ破壊をつかさどるだけじゃない。
無知を破壊して、知識を得ようと努力する人達を祝福する¢n造的かつ破壊的な力の象徴なのですから――」
エセルは思わざるをえないのだった。それはまるで、いまのインドそのものなのではないか、と……
§  §  §
とにかく、わたしは途方にくれていた。
――パティとエドワードの駆け落ちを手伝う。
とは言ったものの、わたし一人でできることは限られているし、正直なところなにをしたらいいのかもよくわからない。
「だって、駆け落ちなのよ? 家出とはワケが違うのよ?」
いいかげん思案も尽きたわたしは、パティの許可を得て、友人のミチルやヘンリエッタから知恵を借りることにしたのだった。
いつもの談話室のはじっこにある悪巧みスペースに陣取って、わたしとミチルとヘンリエッタ、それに当事者のパティの四人が、ひそひそと頭を寄せ合っていた。
「ええっ、駆け落ち!?」
「って、パティが!?」
わたしは、あわてて口の前に指を一本立てる。
「しーっしーっ、声が大きい。これは絶対内緒なんだから」
「いやあ……」
ミチルは、まいったとでもいうように、黒いさらさらした髪を片手でかきあげた。
「バローダのお姫さんが、何でこんな所に来たんかって不思議やったけど、まさかそないな理由があったとはなあ」
「ごめんなさい」
パティは頬に手をあてて、本当に申し訳なさそうに言った。
「騒ぎを起こすつもりはなかったんだけど、私からエドに連絡はできないから、パンダリーコットに行く時期を前もって伝えられなかったの。それで……」
「それで、わざとゾウの行列を引き連れて、やってきた、と……」
ヘンリエッタが、謎を解こうとする名探偵の口調で言った。
「もしかして、むりやりゾウに乗って外へ出ようなんて言い出したのも、そのせい?」
パティは、悪びれない顔でうふと笑った。
「ご明察。あんなふうに騒ぎを起こしたら、ぜったい記事になると思ったの。そうしたらエドにも伝わるでしょ。なんたって彼は新聞記者だし」
なんと、あの転校初日のさわぎも、わたしが街で迷子になったときの見学ツアーも、すべてパティの仕組んだことだったというのである。
「じゃあ、うちらの食事からハムが消えたのも、いきなり遠い昔≠歌おうなんて言い出したのも全部……」
「もーちろん、ぜーんぶわざとです。バローダのパティ王女、寄宿学校で大暴れ。パーディがしたいとわがままぶりを発揮!≠ネんて記事になってくれれば言うことなかったんだけど」
ぽかん、とわたしは口を開いてあっけにとられていた。
つまるところ、わたしが腹を立てていた全ての騒動は、パティがエドワードに見つけてもらいたいばかりに起こしていた確信犯的行動ということなのだった。
「家族や護衛の目を逃れるためには、寄宿舎生活をしたいって言うしかなかったの。パパや祖父は私にはうんと甘いから、嫁ぐ前の最後のわがままだと言えば、反対はしなかったわ」
と、パティは目を細くして言った。
きっと、オルガ女学院へ行きたいと申し出たパティの胸には、今回の一連の計画はとっくにあったのだろう。
騒ぎを起こし、エドワードに見つけてもらい、そしてバローダより監視の目がすくないここで、彼が外から自分に連絡をとってくるのを待っていたのだ。
もちろん、エドワードと駆け落ちするために。
「たしかに、アーリアシティの港からはアメリカ行きの船が出ているし、パティの目のつけどころは悪くないわね」
「へえ、で、これがパティの恋人の新聞記者さんか」
ミチルとヘンリエッタが、回ってきたエドワードの写真を見ながら声をあげる。
「なんで横向いてるん?」
「それは、エドって写真を撮るのは好きでも、撮られるのははずかしいんだって言って、なかなか撮らせてくれなかったの。だから、隠し撮り」
「ふうん」
ふと、写真を受け取ったヘンリエッタが、彼を見た途端すうっと真顔になった。
「どうしたの、ヘンリエッタ」
「え、ううん、なんでもない」
ヘンリエッタは、慌てたようにわざとらしく笑顔をつくって、
「それにしても、なにもかも捨てて好きな人とアメリカ……かあ。素敵ね。まるでほんもののロミオとジュリエットみたい。うふ」
今度は、いつものほわわんとした笑顔を浮かべる。そうしていると、とてもベッドの下に正体不明生物を飼っている人物には見えない。
しかし、そんな彼女の正体を一番よく知っている(被害を被《こうむ》っているともいう)ミチルは、もう少し慎重に意見した。
「せやけど、駆け落ちってゆってもそう簡単にはいかへんで。なにせ、パティは普通の人間やないんやし」
ミチルはわたしの目の前で、チチチと指を振った。
そうなのだ。
いくら楽天的で考えなしなわたしですら、この駆け落ちが、口でいうほど簡単なことではないことはわかる。
なんといっても、パティは正真正銘のバローダの王女さまなのだから。
(しかも、ハイデラバードに婚約者までいる……、ヘタをすれば、大きな問題になってしまうかもしれない)
パティも、そのことは十分に承知しているのだろう。
それでも、あえて祖国を捨てることを選んだのだ。おそらくは、悩み悩んだすえに。
「アメリカに行くんやったら、まず二人分の船代がいるやろ。それから当面の生活費とかも。
その相手のエドワードって人は、新聞記者なんよなあ?」
パティが頷くのを待って、ミチルは続けた。
「そんなら、十分なお金を持ってるとは言い難いやろうし。まあ貯金とかはしてるかもしれへんけど、でも、いざっつーときに握らせるには、コレはいくらあってもたらん」
「あら、でもパティは王女さまでしょう。しばらく、せめてエドワードがアメリカで新しい仕事を見つけるまで、普通の生活をしていくぶんには困らないくらいのお金はもっているんじゃないの?」
その当然とも言える疑問に、パティは思ったより表情をかたくした。
「それは、ムリかも」
「ええっ!」
「なんで?」
わたしたちは、内緒話というのも忘れて、思わず声を上げてしまった。
「実は……、私いままで現金というものを持たされたことがないの。ルピーなら持っているけれど、それもお小遣い程度よ。でも、外国へ行くならドルやポンドがいるわよね」
「外貨か」
思わぬ問題に、わたしたちは頭をかかえこんだ。
「シャーロット、いまいくらもってる……?」
「え、わ、わたし」
いきなり所持金を聞かれて、わたしはひいふうと指を折って数えた。
「このまえ外で買い物しちゃったから、ほとんど残ってないかも」
「私も……、蝶の標本をつくるのに、いろいろと物いりで」
ヘンリエッタが、さりげなく物騒なことを言う。
「うちもや。ハム食えないストレスで買い食いしてたら、つぎのお小遣い日まですかんぴん」
まったく役にたたないわたしたちは、お互いを情けない顔で見合った。
なんとか、外貨を手に入れる方法はないものだろうか。
わたしたちは頭を寄せあって考えた。たとえば、ここオルガ女学院は、ステーション内で買い物ができるので、生徒達はほとんどルピーではなく、ポンドをもっていることが多い。
その生徒達から、お小遣いをかきあつめられたら……
「そ、そうだ」
わたしは、なにか妙案でも思いついたかのように、がばっと顔を上げた。
「ちょっと乱暴だけど、もうこうなったら奥の手しかない……ような気がする」
「奥の手!?」
「って、どんな方法?」
みんなが、なにごとだと言わんばかりにわたしの顔を凝視する。
「うん。あのね。自分でもちょっと乱暴だとは思うんだけど」
わたしは、いま思いついたことを、できるだけ簡単にみんなに話してきかせた。もちろん、そのことで一番危険な立場に立たされるパティの反応をうかがいながら。
「ふんふん」
「なるほどね」
「わたしたちにできることっていったら、これしかないと思う。でも、もしそこから秘密がばれてしまったら……」
「――そうなったら、そうなったときよ」
太っ腹なバローダの王女さまは、きらきらと目をかがやかせながら言った。
「パティ……」
「大丈夫。やるわ。私はその案に賛成。私のことは、このさい気にかけてくれなくてもいい。最悪バレて実家に戻らされても、はじめに戻るだけだもの。なにも怖くないわ」
ミチルが、ごくりと喉をならして唾を飲み込む。
「よし、こうなったら善は急げや。すぐにでもはじめるか」
「うん!」
「了解」
わたしたちは、まるで今からラクロースの試合をするかのように、テーブルの上に手をさしだし、それを重ねた。
なにか大きなことをしようとするときの高揚感と、ほんの少しの罪悪感を小さな胸の中に感じながら……
――今思えば、それは十五、六歳の少女達のたくらみとしては、本当に途方もないことで。
わたしたちは、自分たちが今からしようとしていることの意味を、すべてわかっていたとは言えなかった。
ただ、わたしたちは子供であるわたしたちを顧みずに、全てを決めてしまう大人の世界に対して、なにか真摯に抵抗してみせたかっただけなのかもしれない。
自分たちにも、力はあるのだと、自分たちにも意見はあるのだと、知らしめたかった。わかってもらいたかった。
ただ、それだけ……
けれど、
いずれ、何年か経って、長い長い道のりを歩いてきたわたしたちは、気づかざるをえないのだ。
あのころ、あんなにも憎み、恐れていた大人の世界に、いま自分たちが立っていること。
大人に、なってしまったことに――
§  §  §
わたしたちが、ここだけの話作戦≠ニ命名したこの方法は、実に単純なものだった。
まず、ミチルやヘンリエッタが、確実にお小遣いを多く持っていそうな生徒をリストアップし、彼女たちにそっとこう打ち明ける。
「ねえ、こんどパティの部屋でお茶会をやるらしいんだけど、あなたも来ない?」
ミチルとヘンリエッタは、つねにハウス生たちの動向に気を配っている監督生という立場なので、それぞれの部屋に出入りしていてもあまり目立たない。
それを、最大限に利用することにしたのである。
「お茶会に誘って来るということは、ある程度パティに興味を持っているか、好意を抱いているかどちらかよ。秘密を漏らしそうな人間は、ここでふるい落とすことができると配う」
そうして、いくらかの人間が部屋に集まったら、今度はパティの出番だった。
「まあ、クラリス、来てくださってありがとう。私、あなたとゆっくりお話ししたいと思っていたんですよ!」
その日、パティの特別室に招かれたのは、シャーロットの後ろの席に座っているクラリスという名の目立たない女の子だった。
「ああ見えて、クラリス=ウェーバーはめっちゃため込んでるで」
いったいどこからそんな情報を聞きつけたのか、ミチルはさらりとそう言った。
「クラリスの母親は、うちのダッドの顧客やねん。ずいぶん見栄っ張りのあきんどで、貴族の子もいるほかのハウス生に負けないように、軍資金にたんまり札束を渡してるはずや」
「そうそう。あの手のタイプって、もので人を釣ろうとするのよね。かえって高くつくのに」
あくまでヘンリエッタは、クールに言ってのける。
あこがれの王女さまのお茶会に呼ばれたクラリスは、目の前にずらりとならべられた宝石や服、装身具のかずかずに、思わずグレーの目を丸くした。
「う、うわ、すご……い」
その際、パティはさりげなく、この部屋にあるもので欲しいものはないかと聞く。
「ね、欲しいものがあったら、言ってちょうだい。お友達になれた記念にさしあげるから」
プリンセスにこんなふうに言われたら、たいていの人間は、
「え、で、でもほんものの宝石のついた髪飾りなんて、高くて……」
と、こんなふうにリアクションするだろう。
しかし、ここからがミチルとヘンリエッタの女優ぶりの見せどころなのである。
「そうや、パティ。どうせやったら、クラリスに買い取ってもらったらええやん」
「……え、か、買い取るって」
「あっ」
わざとらしく目を覆ったミチルに、ヘンリエッタが叱《しか》るように、
「だめじゃない、ミチル。あのことは内緒なんだから」
「で、でも、クラリスやったら、味方になってくれると思って……」
案の定、クラリスは怪訝そうな顔で問うてきた。
「どうしたの。なにか困っていることでもあるの……?」
そこで、三人は打ち合わせどおり顔を見合わせ、クラリスだったら言ってもいいかという演技をさんざんしたすえに、ここだけの話≠打ち明けるのである。
「実はね、クラリス。これは、あなただから言うんだけど……」
あくまでここのポイントは、あなただから=B
実はパティには、イギリス人の恋人がいること。しかし、両親は彼女に顔もあわせたことのないような(インドではごくごく普通のことなのだが)相手との結婚を決めてしまい、それがいやでバローダを逃げ出してきたこと。
そして、その恋人と駆け落ちしようと思っていることを、あくまであなただけに≠ニいうそぶりをしながら打ち明けるのだ。
「こんな話を聞かされて喜ばない女の子は、ぜったいいないと思う」
と、わたしは断言した。
だてに、作家をめざしていたわけではない。いままでありとあらゆるロマンス小説を読んできたわたしに言わせれば、身分違いの恋と駆け落ちは、まるでクリームのケーキといちごのように、いつの時代も女の子の胸をいっぱいにさせる組み合わせなのである。
そして、わたしの睨んだとおりに、クラリスは反応した。
「まあ、顔も知らない相手と結婚なんて、なんてかわいそうに!」
自分の中で勝手に妄想をたくましくしたらしい彼女は、慌てて部屋まで現ナマを取りにもどると、いま手持ちのポンドとドルをすべてパティに渡してくれたのだった。
「も、もちろん、こんなはした金で、プリンセスのものが買えるなんて思ってないんだけれど」
(はした金……)
思ったことは同じだったのか、わたしとミチルとヘンリエッタの三人は、目の前に積み上げられた札束を見て顔を凍らせた。
(わたしの数え間違いでないなら、それこそあのヴィトンのスーツケースがひとつ買える額なんだけど……)
ヴェロニカの金持ちっぷりに目が眩《くら》んで気にしていなかったが、本来インドに来ているイギリス人は、インド成金といってもいいくらいなのである。
パティが、もうしわけなさそうに肩をすくめて言う。
「でも、ほんとうにいいのクラリス? こんなに協力してもらって……」
パティに手をとってお願いされたクラリスは、それこそホームのエリザベス王女に見つめられたかのように感激して言った。
「いいんですパティ。わたし、パティが好きな人といっしょになれることを祈っています。それまで、なんでも協力します!」
しかし、ここだけの話という前ふりで始まった話が、言葉通りそこだけでおさまった例はほとんど、ない。
――それから、数日がたったのち。
女の子の情報網というのは恐ろしいもので、それこそあっという間に、パティのもとには協力の手が集まった。
その間クラリスの信用のおける友人≠ェ何人も特別室を訪れ、ここだけの話≠ノ感激してありったけのカンパをおいていく。
それこそ一週間もたつと、学院内でこの話を知らない者はだれひとりいないと言っていいほどになっていた。
「やはり、ここだけの話≠ヘここだけの話ではすまんかったか……。うひひ、いい傾向や」
と、まるで、どこかの悪徳商人のようにポンド札を数えながら、ミチルがしみじみとつぶやいた。
パティのアクセサリーや、転校初日に山と積み上げられたあのヴィトンのトランクは、馬鹿みたいに安い値段で生徒たちに買い取られていった。
しばらくすると、パティのいる特別室には、それとはべつのカンパを手にしたハウス生たちが、こっそりと訪れるようになっていた。ある生徒は朝食中にミチルに渡してきたり、父親が汽船会社に勤めていると言ってきてくれたもの、中には、アメリカでの滞在先を心配してくれるものもいた。
なにもかもが、うまくいっているように思える。
たったひとつ、気になることをのぞけば。
(カーリー……)
わたしは、パティの特別室で、まるで他人事《ひ と ごと》のように本を読んでいるカーリーのほうを盗み見た。
みなが、まるでお祭り騒ぎのようにはしゃいでいる中、彼女だけはひどく冷静で、なぜかほとんどと言っていいほどこの件に関わろうとしなかったのである。
(カーリー、どうして……?)
わたしは、ほんの少しだけ、心に不安がもたげてくるのを感じていた。
これだけの騒ぎになっているのだ。同室の彼女が、パティが駆け落ちすることを知っていないはずがない。
それでもこうまで頑なだということは、もしかして彼女は、パティが駆け落ちすることに反対なのだろうか……
「ま、たぶんそうなんやろな」
ミチルが重くなったカンを片手に、満足そうに頷いた。
中には、パティの駆け落ちのためのカンパが、ずっしりとつまっている。
「あの冷静沈着なカーリーのことや。いくらなんでも駆け落ちは無茶やと思ってるんやろ。それに、パティの家と関わりがあるみたいやから、進んで協力なんかできへんのやろうし」
わたしは、そうかもしれないと頷いた。
パティのメイドをかってでるくらいなのだ。カーリーのパパは、きっとバローダの王家に仕える家臣のひとりかなにかなのかもしれない。
「とにかく、ここだけの話″戦がうまくいっているのは、ほっとしたわ。あとは――」
ヘンリエッタが、窓の外をうかがいながら言う。
「あとは、決行の日を待つだけ」
ここのところエドワードは、この荷物の手配と偽名で旅券をとるために、パンダリーコット中を奔走《ほんそう》しているようだった。
さすがに、パティは本名では旅券をとることができないからだ。
そのこと以外は、たしかに、うまくいっている。
いまのところは……
「そうね。ほっとした。あとは、駆け落ち自体がうまくいくことを祈るだけね」
わたしがふうっと息をつくと、ミチルがからかうように言った。
「でも、シャーロットは急にパティに親身になったんやな」
「えっ」
こっそりミチルに告げられて、わたしはドキリとした。
「だって、今までカーリーを取られたって、プリンセスのことさんざんあしざまにゆうとったのに、急に駆け落ちの手伝いしたるなんてなあ」
「それは……、そうなんだけど」
わたしは屋上でのパティとの会話を思い出しながら、ぽつぽつと語った。
「でも、何か嫌だったの」
「なにが?」
「パティが、……そんなふうに、心のない結婚をするのが」
彼女の立場を考えれば、そんな風に思うこと自体が大きな思い違いなのだということもわかっている。
ただ、わたしは頭の中で、ずっと紅茶夫人から聞いたママ・ミリセントのことを考えずにはいられなかった。
国のために、わたしやパパを捨てるくらいなら。
命令で、人に近づいたり子供を産んだりできるのなら……
ママ。
どうして、わたしを産んだの……?
――と。
「まあ、そうやな。偉い人には、うちらにはわからんよーな事情があるのもわかるけど」
とミチルは、ぽつりと漏らした。
「ただ。……パティが王女さまなんてものやなかったら、もっとよかったのにな」
「そうだね」
その言葉に、わたしは神妙に頷いた。
一国の王女の肩にのし掛かる責任の重さなんてものは、わたしには想像もつかない。けれど、パティがこの婚約を守るか否かで、インドの情勢が変わってしまうかもしれないということは理解できる。
それでも、あえてエドワードといっしょに逃げることを選ぶまで、パティはいったいどれだけ一人で苦しんだのだろう。
「それにしても、嬉しそうやなあ」
黙りこくってしまったわたしの肩を、ミチルがぽんと叩いた。
「なにが?」
「なにがって、パティや。これからが大変やのに、みんなに囲まれて、あんなにはしゃいで」
見ると、特別室の広い応接間で、いつのまにかカンパに集まってくれた生徒たちが、パティの周りにひとだかりをつくっていた。
「がんばってね!」
「駆け落ちだなんて、まるで恋物語みたい」
「ぜひ協力させて」
みんなに質問攻めにされ、励ましの言葉をかけられているパティは、ちょっと戸惑うような、それでいてどこか嬉しそうなはにかみを浮かべていた。
「もっと長いこと、仲間でいられたらよかったな」
ミチルの言葉に、ヘンリエッタが小さく頷く。
ほんとうに、そうだった。
パティのことをもっとよく知ることができる時間があれば、どんなによかっただろう。
けれど、パティはそんな風には思っていないようだった。
「もう十分だわ」
――ひととおり集まった駆け落ちカンパや、さまざまな援助の手を知って、彼女はそうありがたそうに言った。
「でも、これじゃ、まだ十分な駆け落ち資金とは……」
「いいの、こんなふうにみんなが協力してくれるなんて、思ってもみなかったから」
パティは、コインの詰まったブリキのビスケット缶を、まるで宝石箱のように大事そうに抱きしめた。
「毎日、こうしてみんなが集まってくれて、ほんと夢みたいだった。たくさん友だちができたみたいで……。私なんて、まだ学校に来てひと月しかたっていないのに、みんなが心配してくれて。
――学校ってすてきね」
くすぐったそうに首をすくめて、パティは言う。
夢みたいだと、そう何度も繰り返して……
「ここへ来て、いろんな夢が叶ったわ。もしかしたら、神様が叶えてくださったのかもしれない。王宮にいたときからずっと、学校へいったらやりたいことを紙に書いて、はなさず持っていたから」
と、彼女は首からさげたロケットの中から、小さく折りたたんだ紙をとりだした。
「……それは?」
「私のやりたいことリスト=v
何度も開いてみたのだろう、すっかりくしゃくしゃになってしまったその紙には、パティが学校へ入れたらやりたいと思っていたことが、たくさん、たくさん書いてあった。
チョコレート戦争、みんなで歌う遠い昔=B真夜中のお茶会に、先生の目をぬすんで枕を投げ合うこと……
それから、ブロンドの友だちを作ること。
「みんな、エドワードが話してくれたことなの」
パティは言った。
「学校生活に憧れる私に、自分のパブリックスクール時代の思い出を話してくれた。だから、アメリカに行く前に、急いで叶えたかった。チョコレート戦争が、リース校独特のものなんて知らなくて……。よく考えたら、学校ごとに習慣が違っていても不思議じゃないのにね。
みんなには、悪かったと思ってる。強引にいろいろさせたりして」
「ううん」
わたしは納得した。
きっと、あんなにもばしゃばしゃと写真を撮っていたのも、この学校にいられるのがそう長くないことを、パティ自身が覚悟していたからなのだ。
そう思うと、ますますパティをエドワードとアメリカへ逃がしてあげたい気持ちになった。
(だって、なにもかも捨てて行くんだもの。思い出くらい持っていったっていいはずだよね)
「そうだ」
わたしは、カウチに集まっている三人に向かって、急いで言った。
「ね、せっかくだから、いまいるみんなで写真を撮らない?」
「わ、いいわね!」
わたしの思いつきに、パティは大賛成だといわんばかりに声をあげる。
「そうよ。私、まだシャーロットたちと写真を撮ってないわ。隠し撮りならたくさんしたけれど」
「か、隠し撮り!?」
「うふふ。そうよ。だって、わたし日本人の友だちも、秀才の友だちもブロンドの友だちもはじめてなんだもの」
もちろん、一番多いのはマスター・ベリンダの隠し撮りよ、とパティは自慢げに言った。
「ええっ、ハウス長まで隠し撮りしてたの?」
「ええ。だって、あんなに美人でクールで、まさに物語に出てくる寮長ってかんじじゃない? 私、王宮をでてくるときに、絶対にだれかのファグになるって決めていたから。その点、マスターは私の理想そのもの。うっとり」
「……………」
前から思っていたことだが、ヘンリエッタの言うとおり、やっぱりパティは少しMの気があるのかもしれない。
「じゃあ、みんなカウチのところに並んで。いまなら光量もありそうだから、日が沈む前に撮ってしまいたいわ」
わたしたちは、パティに言われるまま、カウチの側に集まった。すると、
「パティも入ったらいい」
いままで、同じ部屋にいながら、空気のように気配を感じさせなかったカーリーが言った。
「カーリー……?」
「貸して。カメラの使い方はわかるから。撮ってあげる」
パティは一瞬きょとんと彼女を見上げたが、それがカーリーの親切な申し出であることがわかると、パッと破顔した。
「あ、ありがとう、カーリー!」
礼を言われたカーリーは、とくになにも言わず、照れたようにそっぽを向いてわたしたちのほうを見ようとはしなかった。
それでも、わたしはくすぐったい気持ちを抑えられなかった。駆け落ちに反対していたカーリーが、少しでもわたしたちのほうに心を寄せてきてくれているのだと思った。
「ねえ、これで入る?」
「もそっと寄ったほうがええんちゃうか」
わたしたちは、カウチの真ん中にパティを座らせると、彼女をサンドイッチするようにぎゅうっと横に寄った。
「きゃあ、重いってミチル!」
「あ、ごめんやっしゃ」
「ほら、もっとこっちに寄って。じゃないと顔がきれちゃうんじゃない?」
「よおし、いっせーのーでで笑うよ」
「日をつぶっちゃだめよ。――せえの!」
カシャ、カシャと機械音がして、カーリーのもつカメラが、わたしたちのはちきれんばかりの笑顔を小刻みにフィルムに吸い取っていく。
「さっき、わたし変な顔しちゃった!」
「うちも!」
「カーリー、もう一枚、もう一枚!」
はじめこそ、みんなすましたようにカメラのほうを向いていたけれど、そのうちわけがわからなくなって、椅子の上で変なポーズをとりはじめた。パティのほっぺたをつまんだり、逆に頬をくっつけたり、ヘンリエッタの眼鏡をミチルがかけたりと、やりたいほうだい。
と、そのとき、ふいにわたしたちのいる特別室に、ノックの音がひびいた。
「だれ?」
シャッターを切ろうとしていたカーリーが、つかつかと歩み寄って扉をあける。
なんと、そこに現れたのは、まったく意外な人物だった。
「ヴェ、ヴェロニカ!?」
「うそ!?」
思わぬ人物の登場に、わたしたちは次々にソファから飛び上がった。
「ミス・パドマバディ、ちょっとお話がありますの」
ヴェロニカは、かつて自分が住んでいた部屋をじろじろと眺めまわしながら、中へはいってきた。
もちろん、いつものとりまきのエコー姉妹もいっしょだ。
「あなた、ハイデラバードの王子との婚約を破って、駆け落ちするんですって?」
彼女は赤毛を翻して、まるで問いつめるような口調で言った。
わたしは、ちっと舌打ちした。
(もう、いったいどこのだれが、ヴェロニカの耳にいれたのよ!)
「まさか、プリンセスの地位を捨てるなんて、浅はかなのもいいところね」
「ヴェロニカ!」
わたしはその一言で、ヴェロニカがつむじを曲げている理由に思い当たった。
(そうか。プリンセスの地位を欲しがっている彼女にしてみれば、それを捨ててまで恋に走ろうとすることが許せないに違いない)
ヴェロニカは、そんなわたしに一瞬目を見張って、それから鼻でふんと息を鳴らした。
「勘違いしないでちょうだい。べつに、あなたがどこへ行こうとわたくしの知ったことではないわ。わたくしが用があるといったのは、そんなことじゃない」
彼女は、ぐいと胸をはってパティに向き直った。
「イギリス人と駆け落ちしてアメリカへ行くなら、あなたはもうサリーは着られないでしょう。だったらわたくしが買ってあげるわ。
あなた、プリンセスのサリーをわたくしに譲りなさい」
ぽかん。
その部屋にいた、ヴェロニカ以外のだれもが、そんな茫然《ぼうぜん》とした表情で彼女を見つめた。
パティですら、意外そうな顔を隠さなかった。
「あ、あなたが、私のサリーを……?」
「ええそうよ。買ってあげてもいいわ。だって、わたくしはそのうち、ほんもののインドのプリンセスになるんですもの。いまから用意しておいてもいいはずでしょ」
いったいどこにそんな根拠があるのか、ヴェロニカは自信たっぷりに言い放った。
「……い、いやならいいのよ。これから貧乏人になるんだったら、少しでも現金があったほうがいいかと思って、わざわざこのわたくしから申し出てあげたんだから」
「ヴェロニカ……」
「無位無冠の男と駆け落ちなんて気が知れないわ。まったく、どこまでも世間知らずの考えそうなことね。そうそう、それよりも、売るの? 売らないの?」
すると、パティは怒るでもなく、なんと、にこにことうれしそうにヴェロニカの手を取ったのだった。
「あなたも協力してくれるのね。ヴェロニカ!」
「なっ……!?」
うろたえたのは、ヴェロニカのほうだった。
「わざわざ心配して来てくれたのね。うれしいわ。私、あなたのこと誤解してたみたい」
「わ、わたくしが、あなたの心配ですって!?」
まるで、水面の魚のように口をぱくぱくさせているヴェロニカの様子がおかしくて、わたしたちは顔を見合わせて、思わず吹き出した。
一見キツイことばかり言っているように聞こえるが、その独特の照れ隠しを知ってしまえば、ヴェロニカは実にかわいい女の子なのだ。
「もう、ヴェロニカったら、素直じゃないなあ」
わたしは、ニマーと笑って言った。
「そないに照れんでもええやん」
「ほんと」
「な……な…………」
みるみるうちに、ヴェロニカの顔が興奮で赤くなっていく。
「ねえ、ちょうどいいから、ヴェロニカもいっしょに写真を撮ろうよ」
わたしの提案に、パティが同調する。
「それはいい考えだわ!」
「写真ですって!?」
わたしたちは、なにがなんだかわからないという風なヴェロニカを強引にカウチまで引っ張ってくると、彼女をぐるりと取り囲んだ。
「ほらほら、ヴェロニカも笑って!」
「わ、笑う……?」
「そんな顔のままだと、ブスな顔で写真に残っちゃうわよ」
まだ、どこかぽかんとした顔のままのヴェロニカを前に、カーリーがすかさずシャッターを切る。
カーリーが言った。
「ベスは右にきて、サリーはもっとミチルのほうに寄って」
金魚のフンのエコー姉妹も、言われるままに両脇にまわった。
「もう一枚撮るよ」
一枚は、普通のおすまし写真。
二枚目からは、みんながヴェロニカにだきついたり、キスしようとしたり、ご自慢の縦ロールに指をからめたり、サリーをかぶったり……
このとき、わたしたちは夢にも思わなかったのだ。
これが、この学院でみんなと撮った、最後の写真になるということを。
「まったく、あんたたちといると、頭がおかしくなりそうだわ!」
写真を撮り終わると、ヴェロニカは逃げるようにそそくさと扉の方へ歩みより、
「そ、そんなわけだから、あなたのサリーをわたくしの部屋へ届けさせなさい。言い値で買ってあげるから!」
まるで、捨て台詞のようにそう言って、部屋から飛び出していったのだった。
「早く持ってきなさいよ!」
「すぐだからね!」
いつまでも忠実なエコー姉妹が、同じように捨て台詞を残してついて行く(それにしても、まったく忠誠心の高い双子だ)。
ぱたん、とドアがしまったとたん、わたしたちはどっと笑い転げた。
「おっかしー!」
「ヴェロニカ、最高!」
まったく、彼女らしいといえば彼女らしい。
ヴェロニカをよく知らないままなら、気づかなかっただろうが、実はあれがヴェロニカなりの協力の申し出なのだろう。
「いったい、あの女王様はどれくらいのポンドで買い取ってくれるやろうな」
と、ミチルが興味津々で言う。
「だよねえ」
「楽しみ!」
パティは、笑みを堪えながらカーリーに言った。
「じゃあ、悪いけどそこにあるサリーを、ぜんぶヴェロニカに持っていってあげて、カーリー」
「わかった」
カーリーが、持てるだけのサリーをかかえて、部屋を出て行こうとする。
そうして、ドアをあけたとたん、大きく息をすって立ちすくんだ。
「ひっ」
わたしたちもまた、思わず顔が凍り付くかと思った。
「ミス・ガエクワッドはいますか?」
ドアを開けたその場に、なんと最上級プリーフェクトのハウス長こと、ベリンダ=シュミットの姿があったのである。
「ハ、ハウス長!」
彼女の姿を目にした瞬間、わたしたちは凍り付いたように固まった。
(まさか、バレた!?)
しかし、幸いにも、ベリンダはわたしたちをちらりと一瞥《いちべつ》しただけで、すぐにパティになにかを渡すと、サリーをかかえたカーリーとともに特別室から出て行ってしまった。
(ハウス長が、パティに何の用だったの?)
わたしたちが、いったいなにごとかと固まっている間にも、パティは渡された紙に目をすべらせ、やがて、
「ああ…………」
と、力なくソファの端に腰を下ろした。
ソファのスプリングが、ぎしりと音をたてる。
「パティ?」
「どうした、そこになにが書いてあったんや?」
わたしたちは、代わる代わるその手の中をのぞきこみ、
「これは……?」
そこには、短い文が書かれていた。
わたしが知る限り、英語でもない、ヒンディ語でもない。わたしがなんとなくいやな予感を感じていると、パティが弱々しく微笑んだ。
「ベリンダお姉様が届けてくださったの。パパからの電報よ。
…………帰ってこいって」
「ええっ」
「そのための迎えもよこすですって。一週間以内にここを発《た》つようにって」
それまで浮かれていたのが嘘みたいに、わたしたちはうろたえた。
「どうしよう。計画は失敗だわ」
震えた声で、パティが言った。
「ねえ、外を見て!」
さらに焦りに拍車をかけるように、ヘンリエッタがうながす。わたしたちは窓にへばりつき、そして思わず声を失った。
「う、うそ……」
そこには、とんでもない光景が広がっていた。
ステーションの門のところに、一目見ただけでそれとわかる服を着込んだ、浅黒い肌の兵隊が並んでいたのだ。
皆、まるで要人警護にあたっているかのように、難しい顔をし、周囲に目を光らせている。
「バローダの宮廷武官よ。それも、おじいさまの親衛隊」
それではっとしたわたしがパティを振り返ると、彼女は苦い顔をして呟いた。
「おじいさまって、バローダのマハラジャの……」
わたしは、改めて窓の外を見つめた。
彼らは皆サフラン色の派手な衣装を纏っていた。首もとまでぴったりとした、膝丈のコートに金色の腰帯を締め、白いズボンをはいていた。それに皆、飾り気のない揃いのターバンを頭に巻いている。
そして、同じように手にしているのは、銀色の三日月をのばしたようなサーベル。
「本気なんだわ。本気で帰ってこいって言ってる」
「だれかに密告されたんや……」
ミチルが、額に手をあてて呻《うめ》いた。
「これじゃあ、とてもじゃないけど抜け出せないわ。ステーションの門までずらって並んでるみたい」
バルコニーに出ていたヘンリエッタが、青い顔をして戻ってきた。
「そんな……」
「いったい、だれが……」
わたしたちは、しばらくの間言葉もなく、その場にうつむいていた。
誰が告げ口したにしろ、ヘンリエッタの言う通りだった。彼らはステーションの門のところと学校の出入り口をそれぞれ固めてしまって、通る人を逐一チェックしているようだった。
相手は、警備のプロだ。その彼らの目をぬすんで、パティとエドワードをステーションの壁を越え、アメリカ行きの船にのせることができるだろうか。
(できっこない!)
わたしたちは、揃ってへなへなと窓の下にしゃがみこんだ。
「これは、厳しいな」
「こんなにちらちら見られたんじゃあ、屋根伝いに外へ出るのも難しいものね」
「どうする? このままやったら、なにもできんまま強制連行やで」
ミチルが逮捕された人の真似をして、両手を前にやるしぐさをしてみせる。
わたしはふと、こんなふうに王宮で警備をされていながら、どうやってエドワードと仲良くなったのだろうと疑問に思った。
(……そういえば、パティとエドワードが出会ったのは……、二年前のいまごろって言ってたっけ)
「――あ」
わたしは、ぱんと手をたたいて、立ち上がった。
ほかの三人が、怪訝そうな顔でわたしを見上げてくる。
「どうした、シャーロット」
「なにかいい方法でもみつかったの!?」
わたしは、彼女たちにかまわず、バルコニーに飛び出して空を見上げた。
空はすっかり黄昏色を通り越して、まるで徐々に紺色を混ぜていくパレットのように、明るさを失いつつある。
そして、その夜の準備をし始めた空に、わたしは見つけた。
「――あった!」
海も街も闇に塗りつぶされるこれからの半日にあって、ただひとつ、夜空に大きく明るく光り輝いていられるもの……
わたしは慌てて部屋へ駆け戻った。
「ねえ、パティ。いまからわたしが言うとおりの日に、アメリカ行きの船のチケットを買い直すことができる?」
言われて、パティはますます顔をしかめて、
「シャーロット……?」
「もし、できるのなら、たったひとつだけ、うまくいく方法があるかもしれない」
確信に満ちたわたしの声に、ミチルやヘンリエッタも、興味津々とばかりに顔を寄せてくる。
「それで?」
「いったいいつにするつもりなんや、シャーロット」
「満月の日よ!」
わたしは、窓から東の空にぽっかりと浮かんでいる、ギニー金貨のような月を指さした。
「満月?」
「そう、あきらめるのはまだ早いわ。まだやれる。あの宮廷武官たちを蹴散らして、ステーションの外に出られる方法が……」
「ど、どうやるんや?」
「ホーリーよ!」
わたしは、パティの肩をがしっと掴んで言った。
「三月の一番はじめの満月の日、ホーリーのお祭りにまぎれて、駆け落ちを決行すればいいんだわ!」
§  §  §
すっかり駆け落ちの準備を済ませてしまうと、わたしたちは、決行の日までそれらしい集まりをするのをやめた。
学校の周りを取り囲んでいる宮廷武官たちに勘づかれる恐れもあったし、何より駆け落ちに反対だというカーリーに、日取りがばれてしまうかもしれない恐れがあったのだ。
そうして、ついに決行の日がやってきた。
(いよいよ、今日だわ!)
興奮のあまり寝付けなかったわたしは、どこか重い体をむりやりベッドからひきずり出した。
おそるおそる寮のカーテンをうすく開けて外をのぞくと、
「うわ、やっぱりいる……」
まだ朝も早いにもかかわらず、周囲を警戒する宮廷武宮たちの姿がしっかりと目に入ってくる。
「あんな作戦で、この警備をどうにかできると本当に思っているのかしら」
すっかり自分で身支度するのにも慣れたヴェロニカが、自慢の縦ロールにコテをあてながら言った。彼女は、あくまでこの髪型を維持するために、わたしより二時間も早く起きているのだ。
彼女は、チラリとカーテンの向こう側を見て、
「だって、相手は王宮の兵隊なのよ?」
「やってみなければわからないわ。ね、あなたも協力してくれるんでしょう、ヴェロニカ」
ヴェロニカは、とくになにも返事をせず、その後ももくもくと縦ロールを量産し続けた。
その日の当番であるプリーフェクトのチェックを終えると、わたしはいつもと変わりなく朝食室へ向かった。
朝食室の入り口には、ミドルクラスのプリーフェクトであるミチルとヘンリエッタの二人がいた。
わたしは、二人にそっと視線を流した。それを受けて、ミチルは浅く頷き、ヘンリエッタはにこーっと笑う。
(準備、OK)
(こっちも)
二人の態度に、今のところ問題がないことを確信して、わたしはいつもの席に着いた。
カーリー以外のクラスメイトたちにも、アレを渡してしっかりと根回しはしてある。
そのせいか、誰もがそわそわして、まったく落ち着きがなかった。
しかたがないこととはいえ、その張りつめたような空気にこちらまで緊張が酷《ひど》くなってくる。
すでに席についていたパティを窺うと、彼女もやや強ばった顔つきで、給仕の運ぶスープをじっと見つめていた。
(パティ、大丈夫かしら)
わたしは、にわかに不安になった。
(わたしといっしょで、あんまり眠れなかったみたいだし……)
「おはよう、シャーロット」
「うわっ」
ふいに、パティの隣にいたカーリーから、いつものようにわたしに朝の挨拶がかけられる。
「どうかしたの。気分でも悪いの?」
わたしの心配をしているというよりは、何をたくらんでいるの、とでも言いたげな言い方だった。
「う、ううん。なんでもない。なんでもないの」
わたしは、カーリーからふいっと顔を逸らして、それから暫《しばら》くのあいだは朝食を片づけるのに専念することにした。
そうしないと、なんだか心の中を見透かされそうな気がしたのだ、
(だって、よく考えたらカーリーに隠し事なんて、したことなかったんだもの)
わたしたちが、ひととおり朝食にだされたパンや野菜スープを胃に流し込み終えたころ、
「おはようございます。皆さん、今日の予定を伝えます」
この間までボンベイへ寄付金集めに回っていたミセス・ウイッチこと、学院長のイザベラ・オルガが、わたしたちの前に現れた。
わたしは、どきっとした。
週末の恒例行事である、Yの数と罰が読み挙げられるとき。
これを決行のきっかけにしようと、わたしたちは前々から決めていたのだった。
(来た!)
わたしは、自分の心臓が小太鼓のように早鳴っているのを感じた。
とうとう、決行の瞬間がやってきたのだ。
失敗したら、もう後がない。
けれど、やるしかない。今日をのがしてしまえば、もう二度と決行できるチャンスはめぐってこないに違いないのだから。
ダダダダダダというわたしの鼓動が、最高潮に達した――そのとき、だった。
「学院長先生。残念ですが、今日は、罰を命じられる生徒はひとりもいません」
とうとう、パティが立ち上がった。
わたしたちは、一斉に顔をあげた。
パティの言葉に、学院長は、眼鏡の奥の目をまるくした。
「は? どういうことですか、プリンセス」
(いまだ!)
がたん、と音を立ててわたしは立ち上がった。
そしてミチル、ヘンリエッタと主犯格のわたしたちが順々に席を立つ。
すると、まるで見えない糸に引っ張られたように、他のクラスメイトたちも立ち上がりはじめたのだった。
「な、何を…………」
わたしたちの行動に、ミセス・ウイッチがますますうろたえる。
その隙をのがきず、わたしは、たたみかけるように言った。
「今日は、インドではホーリーです。学院長先生!」
「ほ、ホーリー?」
パティが言った。
「ええ。春の到来を祝うお祭りで、インドではとても大切な日です。今日は一日、インド中が仕事をやめて、お祭り騒ぎに酔いしれるんです。
だから……」
言うが早いか、さっと隠し持っていたポーチの中に手を入れ、赤い粉を掴む。
そして、
「ホーリーおめでとう!」
バサッ!!と、それはそれは思い切りよく、ミセス・ウイッチに向かって真っ赤な粉を振りかけたのだった。
「ぎゃっ!」
レディにはあるまじき悲鳴をあげて、ミセス・ウイッチは床に座り込んだ。
「な、やめなさい。いったいなにをするんですか!」
「なにって、ホーリーですよ!」
「ホーリーおめでとう」
「おめでとう!!」
つぎつぎに席を立った生徒たちが、めいめい忍ばせておいた赤い粉を我先にとミセス・ウイッチにかけ始める。
「や、やめなさい。みなさん、おやめなさい!」
そうして、学校中で、前代未聞の粉かけ祭りが始まったのだった!
「な、な、なんですか、これは!!」
寮母さんの叫びを皮切りに、わたしたちは、それっとばかりに学校の外へと飛び出した。
真っ赤になって学舎を飛び出してきたわたしたちに、学校を取り囲んでいた宮廷武官たちが、みなぎょっとした顔をする。
「みんな、今日はホーリーなのよ!」
わたしは叫ぶと、すれ違いざまに武官のひとりに、おもむろに赤い粉をぶっかけた。
「うわわっ」
綺麗なサフラン色のコートが、あっというまに赤く染まる。
わたしたちは、階段の下に隠しておいたホーリーの粉の入った巾着《きんちゃく》を、学校の外へと運び出し、
「さあ、あなたたちも楽しみましょうよ!」
「ホーリーおめでとう!」
彼らに、粉の詰まった巾着袋を渡していく。
こうなると、彼らもようやく今日がホーリーだということを思い出したらしい。次第にそわそわとしだしたけれど、さすがにすぐには釣られてくれないようだ。
「ヴェロニカ、お願い!」
すかさずわたしたちは、第二作戦を実行した。
真っ赤になったハウス生たちの集団から、縦ロールも麗《うるわ》しいヴェロニカが歩み出てくる。
「あ、あなたねえ、わたくしに命令しないでちょうだい!」
彼女は散々悪態をつきながらも、粉の詰まった水風船を次々と彼らに向かって投げつけた。
パン! と風船の割れる音と重なって赤い粉が舞う。
「げほっ、ごほっ」
その様子を見て、ヴェロニカは彼女にまったくふさわしい高笑いを響かせた。
「ふふん、宮廷武官といっても、たいしたことないわね。わたくしたちみたいな女学生に粉をかけられて、そんなていたらくなんだから!」
「……く、くそっ」
一人の宮廷武官は、まともに顔に粉を浴びてむせていた。
「こっちよ!」
「インドの武官なんて、たいしたことないわね!」
エコー姉妹が、息のあった様子で両側から攻撃をくらわせる。
するとさすがに引き下がれなくなったのか、その中の一人が巾着に手を突っ込んで持ち場を飛び出した。
「このガキどもめ、おかえしだあっ!」
一人が動き始めると、あとはもうなすがままだった。ヴェロニカをリーダーとしたハウス生たちと一緒になって、宮廷武官たちが、つぎつぎと粉をかけあいはじめる。
「くらええっ」
「きゃああああっ、やったなああーっ!」
綺麗に揃えられた石畳は、みるみるうちに赤く塗り込められ、まるで赤い天鵞絨《ビ ロ ー ド》の絨毯のようになった。
「ぶっ、げほっ」
思わず赤い粉を吸い込んでしまって、わたしは咳き込んだ。
すると、微《かす》かに見えるステーションの門に向かって、一人の生徒がカバンをかかえて走っていくのが見える。
パティだ。
「待って! 一人じゃ危ないわ」
わたしは、慌ててパティの後を追おうとした。
そんなわたしと一緒に、黒い髪を乱れさせた誰かが彼女のあとを追いかけてくる。
(あっ)
「カーリー!」
それはまぎれもなく、あのカーリーだった。
(まずい、パティを止める気だわ)
わたしは、あわてて彼女の傍にかけ寄った。
「だめ、カーリー。お願いだから見逃して」
「シャーロット!」
彼女は、わたしのほうを見て、ぎょっとしたように、
「きみは、来ちゃだめだ!」
「え」
ぶっきらぼうに(まるで男の子のような声で)そう言い放つと、わたしが行こうとするのを阻もうとした。
「パティを追っちゃだめだ。きみは、ステーションを出てはいけない!」
(やっぱり、行かせてくれない気なんだ!?)
わたしは、大いに焦った。このまま、彼女と門の前で言い合っていてもらちがあかない。
(ごめん、カーリー。でも、あなたに邪魔されるわけにはいかないの!)
カーリーが密告した犯人かもしれない。だから、いざとなったらパティの逃亡の邪魔をするかも――。
そう予想していたわたしは、カーリーを阻止するために、パティからある秘策を授けられていたのだった。
『カーリーの嫌いなものを投げる?』
『そう、これを見れば、彼女はしばらくは動けないはずよ』
と、自信たっぷりにパティがわたしに手渡した、そのあるものとは……
わたしは、巾着の中にかくしていたあるものを、むんずと掴み、
「えいやああっ!」
なぜかカーリーが死ぬほど嫌いだという、ハロウィンのかぼちゃのランタンを、こちらに走ってくる彼女に向かって思いっきり投げつけたのだった。
すると、効果はてきめんだった。
「か、かぼちゃ!」
なんとかぼちゃは、ごろりと生首のようにカーリーの足下に転がった。その目や口の部分から、真っ赤なホーリーの粉がぼふんと零《こぼ》れ出《だ》す(ロウソクの代わりに、粉を詰めておいたのだ)。
[#挿絵(img/02_331.jpg)入る]
それはさながら、流血かぼちゃ。
(ぎょわ)
それは別にかぼちゃが嫌いではないわたしでも、ちょっと怖いと思ってしまう出来映えだった。
すると、
「〇%×△*#!?」
カーリーは今までわたしが聞いたこともない叫び声を上げ、そのままばたりと倒れてしまったのだった。
(ご、ごめんね、カーリー)
心の中で謝りつつ、わたしは踵《きびす》をかえしてステーションの門へと急いだ。
「シャーロット! 行くで」
ちょうどそこへ、パティの逃亡に気づいたミチルたちも駆けつけてくる。
「行こう!」
わたしは、彼女たちと一緒に、笑いながら真っ赤になってしまっている門衛の横をすり抜けて街へと飛び出したのだった!
§  §  §
ステーションの外の世界は、中とは比べ物にならないくらいの喧噪に満ちあふれていた。
街のあちこちから、はしゃいだ声や、ぱあんぱあんと風船の割れる音が響いてくる。
「ホーリー、おめでとう!」
「おめでとう!」
だれもが、赤い。
それも、人だけではなかった。地面も、そしてヒンドゥでは神聖な動物とされている牛までも、体中を真っ赤にして座り込んでいる。
さすがに、今日は商売にならないと思っているのか、ホーリーの粉を扱っているお店以外はほとんど店を閉じてしまっていた。だが街は、はじめてゾウの上から見た時以上の活気に包まれている。
そのせいか、すぐ後を追ったというのに、パティの姿はどこにも見あたらなかった。
「もう、とっくに車捕まえて、港へ向かったんちゃうやろか」
ミチルが言った。
「車って?」
ふいにミチルが、店先に止まっているタイヤの大きな荷車のようなものを指さした。
「リクシャや、人力車」
「人力車!」
ミチルはその人の傍に寄っていくと、「リクシャワーラー!」と呼びかけ、同じようにしゃがみ込んで聞いた。
「なあ、おっちゃん。うちらとおんなじ格好の女の子見いひんかった?」
彼は少し黙り込んで、それからカタコトの英語で、見ていないと答えてくれた。
「しゃーない。そしたら、うちらは港に急ごう」
「そ、そうだね」
「ということで、おっちゃん! うちらを港まで連れて行って」
わたしたちは、道ばたに座り込んでいるリクシャワーラーをのぞきこんだ。けれど、
「今日はホーリーだぞ。仕事はしたくない」
彼はけだるそうに、そう言い張る。
「そ、そんな」
すると、ずいっとミチルが進み出て、彼の手に何かを握らせた。
「それでどうや。むこうについたら、もう倍払うで」
彼は、握らされた中身を確認した後、粉で真っ赤に染まった顔をにっとさせた。
「いいだろう! 港までだな」
彼は、あっというまに態度を急変させてリクシャを道の真ん中へと引っ張り出してきた。どうやら、通常料金より多めの額を握らせたらしい。
「しっかり捕まっていろよ!」
そしてわたしたちを乗せた粉まみれのリクシャは、祭りに騒ぐパンダリーコットの街を走り出した。
「げええ、な、なんでこんなに揺れるの?」
「リクシャの車輪には、クッションはついてないからなあ。しゃーない」
そのせいで、わたしたちはまるで、座席の上で飛び跳ねるようになりながら乗っていなければならなかった。
しばらく、朝食で食べたものが逆流してこないかひやひやしながら乗っていると、やがて赤い煙にまじって、むっとした潮の匂いが前から流れてくる。
「港よ!」
遠く、沖合に泊まっている船を指さして、ヘンリエッタが叫ぶ。
ホーリー返上で仕事をしてくれたおじさんに、もう半金わたして別れた後、わたしたちは急いで沖に泊まっているアメリカ行きの船を探し始めた。
「アメリカ行きの船って、いったいどれなんだろう?」
ここインドでは、テムズ川の近代的なドックではなく、まだまだ古い形の港が多く残されている。そのため、大きな船は港のすぐ傍まで来ることができない。
だから、ここではたくさんの艀《はしけ》が、沖に泊まっている船まで乗客や荷物を運んでいく。
かつて、わたしがこのインドへやってきたときも、ルーシーおばさまとともにインドを離れようとしたときも、港には同じような風景が広がっていた。
あれからまだ半年ばかり……、その方法も光景も、なんら変わっていないように思えた。
しかし、
「た、たいへんや!」
船員に話を聞きに行っていたミチルが、血相を変えて戻ってきた。
「どうしたの、ミチル」
「ここから出るアメリカ行きの船は、なくなってもうてんて!」
「ええっ」
思わぬことに、わたしたちは埠《ふ》頭《とう》の真ん中で大声をあげてしまった。
「なくなったって、いったいどういうこと?」
「そうよ、わたし、少し前にたしかにここから、ランチっていう船に乗ったわよ。あの船は、最終的にはボストンに着くはずだったんだから!」
「その、ランチや……」
ほとほと困ったというふうに、ミチルはその場にへたりこんだ。
「P&O社のランチは、兵員輸送船に改装されたらしいわ。去年いっぱいで、客船じゃなくたってもうたんやて」
「う、うそおっ!」
戦争がはじまったせいで、英国の定期船の多くが、軍用として灰色に塗り替えられていることは、わたしも新聞などで聞き及んでいた。その多くは、兵員輸送船や武装巡洋艦、小型航空母艦や洋上修理工場、病院船などになっているらしい。
つい半年前、わたしが乗って帰る予定だったあのランチもまた、戦争のせいで徴集されてしまったのだ。
「じゃあ、ボンベイから……」
「それが、戦争のせいで船の数も減っていて、ここ一週間アメリカ行きの船は出ないはずだって」
「そんな……」
いきなり手詰まりになってしまって、思わずミチルがぼやいた。
「じゃあ、いったい、パティはどこへ……」
わたしも、お手上げの状態だった。たしかに、エドワードから船のチケットがとれたと連絡がきたから、てっきりここだと思ったのに……
「列車じゃないかしら」
そのとき、ヘンリエッタが首をかしげながら言った。
「ヘンリエッタ?」
それは、態度とは裏腹に、どこか確信を持っているような声音だった。
「きっと列車でボンベイまで行って、そこからアメリカではない、もっとほかの場所をめざすんじゃないかしら。わたしはそう思うんだけど……」
「アメリカじゃない……?」
二人が列車を使うことを予想していたかのような言い回しにわたしは、頭を捻《ひね》った。
「二人は、アメリカに行くんじゃないの?」
「確信は持てないけれど、きっと違うような気がする」
「どうして……」
「――たしか、歴史のない新しい国へ連れていくって、エドワードって人はそう言ったのよね?」
わたしが頷くと、ヘンリエッタはどこか確信に満ちたまなざしで、
「それなら、きっと紅海《こうかい》だわ。イギリスやアメリカ行きの船じゃない」
「ヘンリエッタ……」
「なんで、そないなことわかるん?」
ヘンリエッタは、ちょっと困ったように首をすくめると、小さな声で言った。
「たぶん、あのエドワードって人、わたしと同じだから」
ミチルが、黒い眉毛をきゅっと眉間に寄せる。
「ヘンリエッタと、同じ?」
それ以上は、ヘンリエッタもなにも言わなかったので、わたしたちは、ボンベイ行きの列車が出るアーリアシティのターミナル、ケシュミナリの駅へ向かうことにした。
念のため船のポーターに、顔を真っ赤にした、わたしたちくらいの年頃の女の子が乗り込んでこなかったかと尋ねたが、その答えはNOだった。やはり、ここには寄っていなかったらしい。
「じゃあ、すぐに駅に向かいましょう」
パティが、いなければ船着場にいたってしょうがない。わたしたちはもと来た道を引き返し、駅へと急ぐことにした。
ちょうどその時、下船する人々を乗せた艀が次々に岸につき、まわりの人の数がどっと増えてきたようだった。
「じゃあ、さっきみたいにリクシャで向かいましょうよ。ここから駅は、そう遠くはないし」
大きな荷物と人の流れに振り回されながら、わたしは、必死でリクシャがいないか、あたりを見回しはじめた。
しかし、今日がホーリーだからか、いつもは乗客を待ってずらりと並んでいる馬車の姿も、あまり見かけない。
……と、そのとき、
「あれ、シャーロットじゃないか?」
わたしのすぐ後ろから、聞いたことのある声が聞こえた。わたしはすぐに振り返り、その見覚えのある細いふちの眼鏡と、品の良い立ち姿にあっと声をあげた。
「まあ、エセル!」
なんと、そこにはオルガ女学院のお隣さん、オーキッド商会という有名な貿易会社の跡取りである、エセルバード=オーキッドが立っていた。
「エセルって、ああ、お隣のあの……」
「眼鏡の人!」
ミチルとヘンリエッタが、思わぬ出会いに目を丸くして彼を見る。
「どうしたの。こんなところで会うなんて、きみも見送りかなにか……?」
と、のほほんと彼は言った。さらさらのアッシュブロンドが、アラビア海から吹き付けてくる風に揺れている。
「いいところで会ったわ、エセル!」
わたしは、彼がきっちりと着込んでいるベストの裾をがしっとひっ掴んだ。
「シャーロット、なにす……」
「ねえ、エセル。あなたにお願いがあるの。あなた、馬車があるのでしょう? わたしたちを駅に連れて行ってほしいの!」
「……へ?」
彼は、シルクの帽子をかぶりなおしながら、
「駅って、ケシュミナリのターミナルまで? いいけど、いったいどうして……」
「どうしても!」
言うが早いか、驚いて立ちすくんでいる彼の背をぐいぐい押しだす。
「ごめん、事情はあとで話すから。だから、一生のお願い!」
「わ、わかったよ」
わたしたち三人に拝み倒されたエセルは、目を丸くしたまま、手を上げて馬車を呼んだ。
わたしたちが中に乗り込んだのを見届けると、彼は御者席の見える中の小窓を、手袋をした手で叩いた。
「バージル、悪いが急いでケシュミナリまで行ってくれ。
――もちろん、いつもの道でね[#「いつもの道でね」に傍点]」
§  §  §
ケシュミナリ≠ニいう駅の名前は、この土地の古い言葉で、川の終着点という意味をもつ。
昔、このアーリアシティを流れる川の上流からは、毎日のように船が走っていた。だから、英語名はリバーズエンドというのだと、パティは、いとこであるこの国の王子から聞かされたことがあったことを思い出していた。
(川の、終着点)
パティは、そっと心の中でつぶやいた。
いまとなっては、まさに、流れ流されてきた自分の心にふさわしい場所、そんなふうに彼女には思えてならなかった。
――私はいったいいつから、こんなにも彼が好きになったのだろう。
ホームから流れてくる人の波をかきわけて進みながら、パティはぼんやりとそんなことを思っていた。
エドワード=ソーントン。
インドへはじめてやってきた、黒い髪黒い目の少しアジア風の顔をしたイギリスの報道員。
たしかに、はじめて出会ったときから、なにか予感めいたものはあった。
建築が好きで、世界中を撮ってまわりたかったというエドワードは、あの狭い王宮に押し込められて世界を知らなかったパティにとって、急にやってきた新しい風のようだった。
それから、彼と文通の約束をした。
文通といっても、彼から写真が送られてくるだけの一方的なものだったが、彼がインド中をまわるたびに送られてくる、写真の中の古いインドは、パティにとってはメッセージ以上のものだった。
インド人である彼女でも知らなかった、遠い南部の国。
そして、東の果て、アジアに近いベンガル。
なにげない農村の風景や、秋には雪が降っているかのように風に舞いあがる綿花、お茶を摘む農婦のまるい背中――
その、小さな四角に区切られた世界には、どれも撮り手がその風景に愛着を持っていることが感じられて、パティはこの上もなくうれしかった。
(エドワードは、インドを好きになってくれている。じゃないと、こんな写真は撮れないもの……)
そうして知り合ってから、しばしば、エドワードはバローダに立ち寄るようになった。
それでも、会うたびに彼には、
「やあ、前よりずっとレディになったね。ミス・ホームズ」
なんて、頭をなでられてばかりいたから、とても、こんな大人の男の人が自分を相手にしてくれるとは思わなかった。
それが、いつのまにか彼の目が、そしてなにげなくとってくれる手が、自分を一人のレディとして扱ってくれていることに気づいた。
――パティを撮るとき、エドワードはいつも言う。
「もっと普通にしてて」
と……
でも、普通になんてできなかった。だって、ひさしぶりに会えたんだもの。普通になんてできるはずがない。きっと笑って笑って、なにをしていても笑顔が零れてしまう……
「普通になんて、できないよ」
「どうして?」
(だって、好きだから)
いままであたりまえのようにじゃれあっていた手が、つなぐことすらできなくなり、会うたびに言葉が出なくなり……、
そして、とうとう、何度目かの久しぶりの逢瀬《おうせ 》のときに、エドワードは言ったのだった。
「きみを、愛してる。だから、今度は、きみも俺の旅に連れていきたいんだ」
いつものように、バローダの王宮で待つのではなく。
ただ、彼の足跡を送られてくる封書の消印から想像するのではなく。
この私、クリシュナ=パドマバディを、永遠に、彼の旅のみちづれにしたいと――
(あのときが、きっと私の人生で、最高に幸せなときだったんだろう)
パティは、赤い粉がかかってしまったトランクを引きずるようにして、そのケシュミナリのターミナルへ足を進めた。
駅の構内もまた、ホーリーの喧噪にのまれていた。
ホームのあちこちで、粉をかけられて赤くなっている人たちがいる。ただ、その興奮も徐々に落ち着いてきているのか、それ以外はいつもと変わりなかった。
(早く、エドワードを捜さないと)
午後になって、粉のかけあいが終われば宮廷武官たちは、パティがいなくなったことに気づくだろう。
そうすれば、みんなはきっと大慌てで自分を捜すに違いない。彼らは護衛のプロだ。軍人でもある。それこそ、あっというまに捕まえられ、エドワードは尋問を受けるだろう。
そんなことがあってはならない。
決して。
「エド、どこ? どこなの?」
喧噪と人いきれのたちこめる南行きのプラットホームを、足早に通り過ぎようとしたそのときだった。
「パティ!」
聞き覚えのある声に、パティは振り返った。
「…………エ、ドワード……」
そこにいたのは、久しぶりに見る、カメラを首から提《さ》げた懐かしい顔の男だった。
ここへくるまでに、誰かにかけられたのだろう。エドワードは、パティと同じようにホーリーの粉でところどころを赤く染めていた。
「エド!」
パティが名前を呼ぶと、エドワードは微笑を浮かべてその絵の中から、ゆっくりと歩み寄ってきた。
祖父はイギリス人で、母はインド生まれのポルトガル人。だから、半分はインドでできてるといった彼だが、顔立ちはまったくインドの人間のようには見えない。
けれどそうしていると、彼はインドの風景とひとつとなって、見事に溶け込んでいるようだった。
まるで、赤い絵の具で描かれた、一枚の絵のように……
「エド、会いたかった!」
パティは、走った。
一目散に、真っ赤に染まった彼の胸をめがけて。
エドワードの手がゆっくりとパティのほうに伸ばされる。かと思うと、信じられないくらいの激しさで、パティはぐいと彼の胸に押し付けられた。
二人の首から下がっていたカメラが触れ合って、かしゃんと音を立てる。
(ああ)
エドワードの厚い胸に抱かれながら、パティは、自分がいま、酷く強暴なことを思っていることに気づいていた。
(このまま、全部なくなってしまえばいい……!)
――そうだ。いっそ、なくなってしまえばいいのだ。
イギリスも、インドも。
私と、エドワードの間にあるもの。
ありとあらゆる身分の差異や、皮膚や、
この世界から、なにものかを隔てる線は、すべて。
なくなってしまえ!
消え去ってしまえ!
(そうすれば、私はこのあと彼に、血を吐くような言葉を言わずに済む――!)
「久しぶりね」
そう言うと、彼は少しパティの体を離した。
「ああ、久しぶりだ」
と、エドワードは声をたてずに笑った。
「来て、くれたんだな」
どこか感慨深げに、彼は言った。
「もしかしたら、来てくれないかもと思っていた」
「どうして?」
そう問いかけると、彼はちょっと困ったような顔をした。
「きみが、迷っていると思ったから」
パティは笑った。小さくかぶりをふりながら、自分より頭一つ高いところにある彼の顔を見上げる。
「馬鹿ねえ。エド。そんなはずないじゃない。あのときから私は一度も、この決心を変えようと思ったことはなかったわ」
その瞳に、固い決心のようなものを感じたのだろう。エドワードは、黙って頷いた。
「それならいいんだ。さあ、急ごう。詳しい話は列車の中でしたらいい」
「どこへ行くつもりなの?」
「列車でボンベイに行って、そこから今日最後の船に乗る予定だ。ああ、あそこに停まってる。コンパートメントの切符を買ってあるから……」
「そう……」
ゆっくりと、首からさげたカメラを構え、目の前の光景をフィルムに焼き付ける。
瞬きのようにカメラのシャッターが下りたことを確認すると、パティはカメラを下ろした。
不思議だった。
様々な身なりがすれ違う人の川。石をふむ雑踏とラジオのノイズのようなざわめき。それこそ、どこにでもある、普通の駅の風景なのに。
――なのになぜ、こんなものを撮りとめておきたいと思ったのか。
「おい、パティ?」
エドワードが眉をしかめて呼びかける。
ようやく我に返ったパティは、エドワードに視線を戻して深く息を吸った。
「なにをしてるんだ」
「なんでもないわ。ちょっと、駅を撮っていただけ」
エドワードは、目の中をくるっと動かした。
そうして、低い声で言った。
「もしかして、まだ、迷ってるのか」
「いいえ」
パティはエドワードに向き直ると、カメラを掲げた。
「言ったじゃない。決心をひるがえしたりはしないって。はじめから、ずっと決めていた――」
「パテイ……」
「あなたに、ついて行かないっていう、決心を――」
フラッシュの眩しきに、エドワードが目を眇《すが》める。
それと同時に、カメラを掲げたままパティは笑った。
「この写真のように、私たち、ここで時を止めましょう。エドワード」
パティの言葉に、エドワードはゆっくりと目を見開いた。
ふふ……、とパティは笑った。
――少し、驚いた顔の、あなた。
私の、一番好きな顔。
きっと、この写真はいつまでも私の手元に残るわ。
だれも、この写真の中のあなただけは、私から取り上げることはできない。
もう二度と会えなくても、どんなパルダーの中に押し込められても、私はあなたを手に入れられる。
私の手の中にあるあなたは、いつも優しい顔のままなのだ。
ずっと……
「……………………」
エドワードは、なにも言わなかった。
ただ、彼の体を取り巻く空気という空気が研ぎ澄まされ、すうっと凍り付いていったのだった。
それは、たしかに素[#「素」に傍点]の彼の顔だった。
パティは満足した。
ああ、これはたしかに、本物の[#「本物の」に傍点]エドワードの顔だと。
「どういうこと、だ…………?」
エドワードが、微笑に困惑を混ぜたような顔で言った。
「俺と、行かないつもりなのか、パティ」
「行かないわ」
パティは、微笑んで言った。その顔にさらに困惑したのか、エドワードは首をかしげて、瞼《まぶた》を震わせた。
彼は、知らないのだ。
インドでは、首をかしげるしぐさはイエスという意味だということ……
「なぜ」
「だって、あなた、私をアメリカに連れて行ってくれないじゃない」
彼は、パティの言葉を笑い飛ばそうとした。
「おい、パティ。いったい何を言って……」
だが、それを彼女は許さなかった。
「ごめんなさいね。でも、世間知らずの王女さまでも、船の便を調べることくらいできるの。今日、ボンベイからアメリカ行きの船は出ない。出るのは、紅海を経てロンドンへ向かうP&Oの船だけ」
エドワードの声を遮って、パティは喘ぐように言った。
「エドワード、あなた、私をロンドンへ連れて行くつもりだったんでしょう。なのに、ずっと私には嘘をついてた。新しい国へ行こうって。歴史もなにもない、私を煩《わずら》わせることのない場所へ、連れて行ってくれるって、あなたはそう言ったね」
彼は、めずらしくうろたえていた。パティの手を掴もうとして、振り払われる。彼は言った。
「違う。そうは言ったが、俺は、きみに嘘をついちゃいない」
「そんなはずないわ、だって……!」
強く、できるかぎり強い口調でパティは否定した。
「だって、あなた、イギリスの諜報部員のくせに!」
瞬間、エドワードの表情が動かなくなった。
ほんの一瞬だけの、殺意のような、
……けれど、見逃すはずはない。
パティはずっと、その一瞬だけを見極めようと、今日という日を計画してきたのだから。
「おい……」
エドワードは、いつものようにパティに笑いかけようとした。けれど、それはもう遅かった。
「……ばかね。そういう時はすぐに否定して、優しく笑いかけなきゃだめよ、エドワード」
パティは、微笑みさえ浮かべて言った。
「それとも、もうなにも言うつもりはないの? 私に、たくさんの嘘をついたように」
「パティ……」
「覚えてる、エド? 私たちがはじめて会ったときのこと」
パティは、できるだけ表情がぶれないように顔に力をこめて、エドワードを見上げた。
「あの日、あなたは、ホーリーを知らないと言っていた。インドに来たばかりだと。でも、その日が満月の夜だって、知ってた」
『満月に浮かび上がるマハラジャ・パレスなんて、最高だね』
たしかに、彼はそう言っていた。
そのときパティは一言も、ホーリーが満月の日だとは言わなかったのに。
「インドについたばかりの人が、月の満ち欠けをまっさきに気にする? ホーリーのことも目に入らなかった人が……?」
パティはクスリと笑う。
けれど、その挑発するような笑みにも、エドワードはなにも言わなかった。時を止めた人形のように、まっすぐに立っている。
そして、言った。
「パティ、たのむよ」
そこには、動揺も焦りも見えなかった。
彼はなんでもないことのように笑った。笑って……、彼女を宥めようと手を伸ばし、
「たしかに言ったかもしれないが、覚えてない。それとも、俺はそんな身に覚えのないことで、きみにスパイあつかいされないといけないのか」
「エドワード」
瞬きもせず、パティはエドワードを見上げる。
「エドワード、エドワード。もういいの」
揺らぎようもない、まっすぐな視線で。
「それだけじゃない。私が確信を持ったのは、あなたの吸っていたタバコだった。オレンジ色の箱のチャーミナーは、インドの安い銘柄よ。
昨日今日、インドに着いた人が、それもはじめてインドに来た人が、店頭でまっさきにそれを買うかしら。いいえ、買わない。あなたほどのスモーカーなら、ある程度の買い置きはしてくるはず。
あなたがチャーミナーを吸っていた理由はふたつ。ひとつは、もうずっと前からあなたはインドにいた。もうひとつは……」
息をすってから、パティは彼にとどめの一言を吐いた。
「チャーミナーは、インド駐留のイギリス軍の配給品、でしょう」
それが、いったいどういう意味なのか、パティはこれ以上説明する気もなかった。
ああ、私はいったいなにをしているんだろう。こんなところで、愛した人の正体を暴こうとしている。こんなの、まさに、ホームズのまねごとだわ……!
「だから、あなたはエドワードじゃない」
パティは、手の中のカメラをぎゅっと握りしめた。
いままで撮ってきた、たくさんのエドワードの写真。
けれど、それが全部偽物だということに、パティは気づいていた。
彼は、エドワードじゃない。
ロンドンタイムスのニューデリー特派員じゃない。建築が好きで、世界中をとびまわりたくて新聞社に入った、夢追い人じゃない。
「あなたは、あなたじゃない」
パティの声が、まるで切れたパールネックレスの粒のように、ぱらぱらと震えて落ちた。
「あなたは、誰?」
「パティ……」
震えていたのは、声ばかりじゃなかった。
瞼の下からこみあげてくる、熱いもの……
そのせいで、目の中がぐらぐらする。
涙だ。
「私が恋をしたのは、いったい誰なの?」
つきつめるように言っても、彼は微動だにしない。それが、パティには悔しかった。
たった一瞬。パティがエドワードの素顔を見られたのは、あの一瞬だけなのか。
もうこれ以上、凄腕のスパイである彼の本心は、見られることはないのか……
(そんなの、許さない!)
それでも、彼の心に揺さぶりをかけたくて、パティは、次々に質問をかぶせた。
「何も言わないってことは、やっぱりそうなの? あなた、MIのエージェントでしょう」
「……………………」
「全部計算尽くで私に近づいたの? ばかな世間知らずを手玉にとるのは、さぞかし簡単だったでしょうね」
「……………………」
「あなたの役目は、インドの中に不和の種をまくこと。これ以上の藩王国同士の結びつきを恐れた英国は、私をハイデラバードの跡継ぎのところへいかせないために、わざと私に恋をしかけた。
なぜなら、ヒンドゥの大国であるバローダと、イスラムの大国であるハイデラバードが結べば、それは王国同士の結びつきだけにとどまらない。インド中のヒンドゥとイスラムがそれに呼応する――」
彼の一瞬の表情の変化も見逃すまいと、パティはエドワードを凝視しつづけた。
「それを壊すためにはどうしたらいいか……
まず英国は、この婚約を潰すことを考えた。ただなくしてしまうだけではなく、国同士の間にしこりが残るように。
――ハイデラバードの王子と婚約が決まっていたバローダの王女が、その婚姻をいやがって、イギリス人の新聞記者と手に手をとって駆け落ちする。当然、インド中は大騒ぎになるわ。バローダとハイデラバードの間には、不穏な空気が残る。そして、もちろん二つの宗教の間にも……
この私たちの駆け落ち騒動で、英国はいくつものメリットを得るのよ」
近代化したとはいえ、インドの諸藩国、とくに王家には、まだまだ古い考え方が残っている。なにより、家名と誇りを大事にする風潮のある彼らは、国名に泥を塗ってイギリス人と駆け落ちした娘を、バローダ藩王国を決して許すまい。
そして、たかが駆け落ちのせいで、バローダとハイデラバードの決裂は決定的になる。それは、インドがまっぷたつに割れることと同じことだ。
「あなたは、私を愛してなんかいないわ。ただそれが任務だっただけ!」
叫びとともに、血の味のようなものが口の中に広がった。
言ってしまった。
とうとう、言ってしまった。
気づいていて、うすうすと知ったものが、確信にかわって、もうゆるぎのない事実だと動かしがたくなってしまっても、これだけは口にしたくなかったこと。
『彼は、私を愛していない』
ただ任務だったから、エドワードはそうしたのだ。
はじめから、計算尽くで。
国のために、そうしたのだ。
――彼の祖国である、イギリスを守るために。
「最初から…………、知っていたんだな」
ようやく、彼が口をひらいた。
気のせいだろうか。声がかすれている気がした。
「ええ、知ってた。最初から、ぜんぶ……」
「だったら、どうしてここへ来た、パティ?」
その口調に、責めるような感じはなかった。ただ、事実をたしかめたがっているだけの、エージェントとしての言葉。
それが、悲しくてパティの肩が揺れた。
思い知らされた気がした。
ああ、どこまでも、彼はイギリス情報部の人間なのだ。
なのに、……自分にはなにひとつ本当のことを言ってくれなかった男に、なぜ自分は本音ばかりをぶつけてしまうのか。
「――嬉しかったからよ!」
パティは叫んだ。
「私、ずっと学校に行きたかった。同じ年頃の友だちをつくって、みんなで勉強をして、思いっきり笑い合いたかった。
寄宿舎にあこがれていた。はじめてあなたに会ったとき、言ったでしょう。チョコレート戦争や、ファグや、罰則。真夜中のお茶会や、カードの交換、枕なげ――」
パティは、つ、と目尻にたまった涙を、指ですくいあげた。
零すものか。
この男の前でなんか、ぜったいに泣くものか。
なのに。
堪えていた涙が、とうとう頬を伝って流れた。
「だって、心地よかったんだもの! みんなが私のことを心配してくれている……、みんなが私のことを想ってくれている。それは私が王女さまだからじゃない。純粋な、おんなじ女の子として、私の気持ちを尊重してくれたからだわ。
嬉しくて嬉しくて、涙が出そうだった。みんなが、私の為にいっしょうけんめいになってくれているのを見るのが嬉しくて、それに参加できるのが、楽しかった。たくさん友だちができたみたいで、夢みたいだった。
だから、やめられなかった。乱暴なわがままだってわかってたけれど、もう少しだけ……」
すぐに言うべき言葉を見つけられず、パティは片手で顔を覆った。
「もう、……少しだけ、このままで……。
あと、もう少し――」
あと少しだけ、
もう、少しだけ……
ほんの少ない時間だけだから、私のわがままを許してほしい。そんな気持ちが心の中にあったことはたしかだった。
いずれ、私は、あのハイデラバードの石の街へ嫁ぎ、イスラムの十重二十重《とえはたえ》のパルダーの中へ消えていく。いままで多くの女性たちがそうだったように、やがて、そこにいたことも忘れられ、ものも言えずひっそりと生きていくのだろう。
だから、私を忘れないでほしい。
気ままでわがままな、バローダの王女がいたことを。
むりやり特別室に陣取って、課題曲をパブリックスクール風に変えさせ、ところかまわず写真を撮りまくる。寮の規則もなんのその、ゾウで街を練り歩き、あろうことか寮の食事のメニューを変えさせる。
なんて、わがままな王女。
なんて、とんでもないじゃじゃ馬。
――十年たち、二十年たって、あの娘たちがみんな幸せな結婚をして家庭を築いたとき、パティはそんなふうに自分のことを思い出してほしかったのだ。
そんな、すばらしかった昔のことを。
かつて自分たちが過ごした学舎に、そんなカメラを持ったプリンセスがいたことを……
「ああ、覚えてる」
パティは顔をあげた。思いがけなく、エドワードが微笑んだのだ。
「あの小さなメモ書き。きみが見せてくれたやりたいことリスト、だろ」
「そ、そうよ」
「ああ、そうか」
エドワードが、今度ははっきりとパティに笑いかける。
「きみは、ホーリーがしたかったんだな」
「え……」
パティは、目をぱちくりさせた。
「あの、寄宿舎の子たちと、ホーリーがしたかったんだ。そうだろ」
思ってもみなかった言葉に、パティの胸にズキンとした痛みが走った。
ホーリー。
三月の一番はじめの満月の日に行われる、春の到来を祝う祭り。
それと同時に、ホーリーにはもう一つの意味がある。
――それは、友だちと、友情を確認し合うこと。
ホーリーの粉をかけあったあと、人々が笑っておたがいを抱き合うのには、そういう意味があるのだった。
「きみが本当に手に入れたかったのは、俺じゃなくて、ホーリーだった。だから、知っていて計画にのった。知っていて、知らないふりをしていた。そのために、わざわざバローダを離れて……
じゃあ、君の夢は叶ったのか」
なぜか、彼はとてもやさしい顔をしていた。
「良かったな」
その顔は、なぜか、つくりものではないように思えた。
パティは言った。
かたく、かたく頷いた。
「そうよ。この駆け落ち計画は、わたしの最後の休日だったわ。でも、それももうおしまい」
パティは、無理矢理に笑った。
ホーリー=B
あの学院で過ごした日々は、たしかにパティにとっての最初で最後のホーリー≠セった。
「楽しかった!」
言ったとたん、どっと感慨が胸からあふれ出した。
――そう。夢は、叶った。
少し早回しだったけれど、やりたいことはすべてやった。私のやりたいことリストは、すべてやり終えた。本気で駆け落ちすると信じて、今回の計画につきあってくれたシャーロットや、ほかのハウス生のみんなには、ほんとうに悪いことをしたと思うけれど。
(あとは、ひとつだけ)
パティは、大きく長い息を吐いた。
「でも、もうひとつだけ、やるべきことが残っている」
そして、言った。
「あなたは、誰なの?」
もうひとつだけ、パティにするべきことがあるとしたら、それはいま目の前にいる人物がいったいだれなのか、それを知ることだけだった。
おそらく、彼の名前は、エドワード=ソーントンではない。
彼は、イギリス情報局のエージェントなのだ、いままでにいくつも偽名を使ってきているのだろう。きっと、リース校出身だということも、捨てられた親の話もでっちあげなのだろうと、パティは確信していた。
最後に、別れてしまうまでに、この男からたったひとつでいい、真実を引き出したい。
もし、その願いが叶うのなら、わたしは喜んでこの恋を、インドの独立のためにカーリー女神にささげよう。
カーリー、女神に。
「たしかに、俺はエドワードじゃない」
言われて、パティはどこかほっとして、息をついた。
「じゃあ、本当の名前は?」
「………………」
「あはっ、そうだった。あなた情報部のエージェントだもの。さすがにそれは言えないか」
まだ涙で濡れている目を急いで動かしながら、パティはアーケードの天井を見上げた。
「じゃあ、私はどんなふうにあなたを思い出せばいいんだろう。自分の初恋の人の名前も知らなかったなんて、まぬけだね」
「……っ」
ケシュミナリの駅の構内に、がらんがらんと発車のベルが鳴り響く。
しばらくの間、二人は何も言わずに、じっとプラットホームで向き合っていた。
自分たちのすぐとなりを、二人が乗るはずだったボンベイ行きの列車が、ゆっくりとホームを離れていく……
人々の夢や希望をのせて、交差する人々の未来をのせて、列車はいく。
けれど、パティはその列車に乗れなかった。
自分たちの夢や未来は、永遠にここですれ違うのだ。
そしてもう、交じり合うことはない。
(永遠に)
やがて、エドワードはスーツのあわせに手を入れて、なにかを取り出した。
それは、二枚の船のチケットだった。
「たしかに、俺はエドワードじゃない。きみに話したことに嘘が多いのも、否定しない。ただ……」
パティは、彼が差し出したチケットのうち一枚をうけとった。
「ただ?」
「君を連れて行きたいといったのは、ほんとうだ。俺のルーツへ。
これから、生まれるはずの国へ」
「え……」
彼女は、急いでチケットに印字されている文字に目を走らせた。たしかに、アメリカ行きの切符ではない。船はボンベイを離れたあと、インド洋を横切って紅海へ、トルコに着く。
そして、その先は……
「…………ここは……」
「きみに言ったとおり、ここは歴史のない国。まだない、けれど、もうすぐ建国されるはずの、俺たちのシオンの国」
「シオン……?」
「俺は、ユダヤ人だ」
そのときパティは、エドワードが……、いや、エドワードと名乗っていた男が、自分をどこへ連れて行こうとしていたかを知った。
「エルサレム――」
それは、ヨーロッパにおける、故郷を再建しようとするユダヤ人の、あるいはルネサンスのちからによって、主としてユダヤ人の手で「シオンの地」(パレスチナ)に建設されようとしている国のことだ。
まだ、ない国。
けれど、もうすぐ作られるはずのユダヤ人の国家。
たしかに、彼は言っていたのだった。
君を、歴史のない新しい場所へ、連れて行きたいと――
(ああ)
そのとき、自分の中のなにかが、温かい液体で満たされたかのように思えて、パティは満足した。
(ああ、十分だ)
パティは、ユダヤ人のことを多く知らない。
けれど、彼らの外見的特徴や、イギリスに多くいるというシオニスト(ユダヤ人国家を建設しようという運動家たちのこと)のことは聞いたことがあった。
きっと、エドワードが情報部にいることと、多くの血が混じっていること、その経歴は密接に関係しているのだろう。
けれど、それはパティが聞いても無駄なことだった。
これからも、彼は情報部のエージェントとして生きていくのだろうから……
それでいい。
ならば、私はインドの王女として、一生を生きよう。
「ありがとう」
その言葉は、自然と口から零れ出ていた。
「あなたは、これからもイギリスのために生きるといい。私も、これからはインドのために生きるから」
「パティ……」
「あなた、私に嘘ばかりついていたといったけれど、それも嘘ね。だって写真は嘘はつかないもの。あなたの撮った写真は、とてもすてきだった。あなたはたしかに、エドワード=ソーントンじゃないかもしれないけれど、きっとサラセン様式が好きで、写真が好きね」
それだけでも嘘じゃないとわかって、パティはほっとしたのだった。
パティが好きだった、エドワードは偽物じゃない。
私は、ちゃんと血の通った人間を愛したのだ。
「パティ……、俺は……」
「インドは、写真のように止まったままではいてくれない。だから、私にしかできないことをするわ。ハイデラバードへ行ったら、古い王宮や文化財が独立戦争のためにこわされないように守ってみせる。私の結婚相手のニザムの息子は、政治にまったく興味がないような人らしいけど、できることからやるわ」
思えば、すべてはあの言葉から始まった。
インド独立の軍資金のために、さまざまな文化遺産がとりこわされるのはいたたまれないと言ってくれたエドワードの言葉。
ヒンドゥとイスラムに英国が混じっても、きっと美しいものはできると言ったその一言で、それまで国のために仕方なく他国へ嫁いで、一生を死んでるみたいに暮らすしかないと思っていたパティの中に、何かが芽生えたのだ。
それが、私の恋のはじまり。
そして、ここが、その流れの終わりだ。
「私は、これからずっとインドのために……」
「いいや、それは違う、パティ」
思いがけなく、パティの言葉は阻まれた。
「エドワード」
「パティ。きみは、国のために嫁ぐんじゃない。インドの独立のためなんかでもない」
エドワードの目が、見たこともないくらい赤く見開かれていた。
「いいか、よく聞いて。俺のなにも信じられなくてもいい。これだけは信じてくれ。きみは、これからハイデラバードへ行く。それは政治のために行くんじゃない。きみは幸せになりに行くんだ」
「え……」
パティは茫然として、彼の激しい顔にのまれるように聞いていた。
「君は、きっとハイデラバードで幸せになれる。時代は変わって、パルダーは取り外されて、きみはもう籠の小鳥ではなくなる。インドが独立するころには、きみはハイデラバードで新しい幸せを見つけて、笑っているだろう。
俺と、はじめて会った頃のように」
そうして、彼はもう一度繰り返した。
「きみは幸せになりにいくんだ。パティ。だから、顔をあげろ」
真っ赤に腫《は》らした目の下。
それから、頬と目と、ホーリーの粉に濡れた服。
彼の手が、自分を抱きしめようと衝動的に動いたのが、パティにはわかった。
けれど、その手が自分の肩に届くことはなく、彼の指先はぎゅっと手のひらに振り込まれる。
まるで、それが終わりの合図のように感じられて、パティは言った。
「さようなら、エドワード[#「エドワード」に傍点]」
踏みしめるように、彼の前で体を反転させた。
そうして、歩き始める。
一歩、一歩。
(顔を、あげて)
振り返らず、
嗚咽《お えつ》が飛び出ないよう、きりりと口を引き結んで……
そうして、私は、信じよう。
こうすれば、幸せになれると。彼を失っても幸せになれると、ほかでもないエドワードがそう言ったのだから。
やがて、パティは、一人で駅のアーケードの下を出て、来た道をそのまま出口へ戻っていった。
「…………っ、……うくっ……」
涙が止まらなかった。
パティは、声を上げずに泣いていた。
あのまま、なにも気づいていないふりをして、彼の国へ行けたらどんなによかっただろう。
けれど、彼の手をとらなかったのは自分。
別れを切り出したのは、ほかならぬ自分だ。
なにもかも、自分が決めたことだった。
なのに……、最初から決めていたはずなのに、次から次へとあふれ出てとまらない。視界のすべてが、ぐちゃぐちゃに歪んでまともに目の前が見えない。
だから、その人が目の前に立っていたことに、パティは長い間気づかなかった。
「パティ=ガエクワッド」
聞き覚えのある声が、ふいに自分の名前を呼んだ。
エドワードのものとは違う、高く、そしてどこか強張った女の声だった。
「…………マスター……」
パティが急いで涙を拭うと、なんと駅の出口に彼女のファグマスターであるベリンダが立っていた。
「ど、どうしてここに……」
混乱するパティに、ベリンダは無言のまま歩み寄ってきた。
「顔をお拭きなさい」
差し出されたハンカチからは、彼女の愛用しているコロンのいい匂いがした。
レモンの匂いだ。たしか、なんとかというフランスのメーカー品だった。ハンカチも、パリのものだ。ベリンダが、ほぼフランス製のものを身につけていることに、パティは気づいていた。
フランス貴族の末裔《まつえい》を母にもつ、気むずかしいハウス長。
あの学院でもっとも美しいフランス語を話す、ベリンダ=シュミット。
イギリス人=B
「あ、ありがとうございました……」
ありがたく受け取って涙を拭き取ると、いつものベリンダの美しく整った、どこかヒマラヤの白い嶺を思わせる顔がよく見えた。
「ど、どうしてマスターがここにいらっしゃるのですか」
パティはうろたえて言った。
いつものようにクールな表情をたたえたベリンダは、しかしその頬や髪や制服は乱れ、街中でかけられたのだろう、服に真っ赤なホーリーの粉がついてしまっている。
普段からは、全く想像できない彼女の乱れた姿を見て、パティは思わず口元が緩《ゆる》むのをとめられなかった。
とても不思議だった。
あんなことがあったあとなのに涙があふれてとまらないのに、私は、まだ笑えるのだ。
ベリンダは、ハンカチをポーチの中にしまうと、はっきりとパティを見据えて言った。
「あなたのお祖父上、バローダ王に駆け落ちを密告したのは、ミス・アリソンではありません。わたしです」
と、彼女はとんでもないことを口にした。
あまりに驚いて、パティの涙はほぼひっこんでしまった。
「え、マスターが……」
「あなたには、軽はずみなことをして欲しくありませんでした。……ですが、どうやら杞憂だったようですね。あなたは、もう十分にあなた自身のことを知っていた。わたしのしたことのほうが、軽はずみでした。
ごめんなさい」
パティは、まだ少し涙の残る目で、自分よりほんの少しだけ背の高いベリンダを見上げた。
「それだけを言うために、ここにいらっしゃったのですか……?」
そうして、首を振った。
「いいえ、違いますね。マスター。あなたははじめから私が戻ってくることをご存じでした」
「何故」
「だって、あなたは私のファグマスターじゃないですか」
一瞬だけ、ベリンダの目がきょとんと見開かれた。
敬愛するマスターのそんな顔を見ることができて、パティはさっき泣いていたことも忘れて、ぷっと吹き出す。
すると、ベリンダのほうも、
「そうでした」
めずらしく、さざなみのような笑みが浮かんだ。
とても、綺麗だった。
ああ、一目見て、この人のことを好きになりたいと思った私は正しかったのだ、とパティは思った。
しばらくの間、そうやって二人は、黙ったまま雑踏の中にたたずんでいた。
しかし、ほんわかとした雰囲気は長く続かなかった。ベリンダは、次の瞬間には表情をがらりと変え、いつもの厳しい視線でパティを見つめた。
「――けれど、パティ=ガエクワッド。無断で学校を抜け出すなんて、レディのすることではありませんよ」
と、すっかり、いつもの口調に戻っている。
パティは、素直に頷いた。
「はい。申し訳ありません」
「よろしい。あなたにはステーションを無断で抜け出した罰として、Y≠三つつけます。ですから明日は三〇分早く起きて、わたしのためにお茶をいれなさい」
「ええっ、三つ!?」
パティは、思いっきり顔を曇らせた。実は早起きはあまり得意ではないのだ。
[#挿絵(img/02_377.jpg)入る]
「口答えはしない。それから、もちろんこの制服の赤い染みは、アーヤではなくあなたが落とすのです、パティ」
わたしのために、とベリンダは言った。
「わかりました。あなたのために。
マイ・マスター」
パティは、笑った。
私は、笑えるから。
エドワードを失っても、まだ笑えるから。
だから明日は、マスターの言うとおり、三〇分早起きして香りの良いお茶を入れよう。
それから、午後の空き時間には、裾の解《ほつ》れてしまった下着の繕いものと、靴磨きをしよう。
あの学院で、いろいろなファグとマスターによって繰り返されてきたことを、私もやろう。
私があの学校を離れる、青春の最後の日まで――
[#改ページ]
〜エピローグ〜
そうして、約二か月の間オルガ女学院を騒がせていた、バローダの王女、クリシュナ=パドマバディ=ガエクワッドは去っていった。
パティはここへ来た日のように、金で縁取りされたはっきりと色の濃いサリーを身に着け、金のブレスレットをじゃらじゃらと鳴らして、まるでそこに赤い絨毯がしかれているかのように、ゆっくりと寮の階段を下っていった。
そうして、多くの召使いたちにかしずかれている姿を見ると、制服を脱ぎ捨てた瞬間に、ただの女の子のパティはいなくなってしまったようで、わたしはどこか寂しかった。
「さよなら!」
「さようなら、王女《プリンセス》パティ!」
ハウス生たちは、みな窓辺に鈴なりになって、去りゆく、ほんの短い間ハウスの仲間だったプリンセスを惜しんでいた。
ハウス長を含めたわたしたち四人をのぞく(わたしたちだけは、パティに詳しい事情を聞かされた)ほかのみんなは、パティの駆け落ちが失敗して、国に戻されるのだと思っていたのだった。
パティは、輿《こし》にのる前に、一度だけ寮のほうを振り返った。
わたしは、どきんとした。
彼女の頭上に煌《きら》めいている、あの赤いパルダーの中に入ってしまえば、もう二度とパティは人前に出てくることはなくなるのだ。
「For auld lang syne,my dear!」
その歌は、ほんとうに唐突に、わたしたちがかぶりつく窓の上のほうから聞こえてきた。
「For auld lang syne,
We'll tak a cup o'kindness yet.」
(この曲は……!)
それが、いまもっともこの場にふさわしいことを認めて、わたしもまた、そんな短い間わたしたちの仲間だったプリンセスに向けて遠い昔≠歌い始めていた。
For auld lang syne,my dear.
我が友よ 遠いあの日のために
For auld lang syne,
遠いあの日のために
We'll tak a cup o'kindness yet.
変わらぬ友情に、杯をかかげよう……
そうするうちに、わたしにあわせて次々と、声が重なり合っていった。
いつのまにか、それはステーション中に響き渡るかのような大きな音の渦となって、バローダへ、
そしてもっと長い旅路を行こうとする彼女の耳に届けといわんばかりに……!
わたしは、あらんかぎりの声を張りあげた。
そうして、思った。
――いつか、もう一度会いましょう、パティ。
戦争が終わって、
この世から、イギリス領インドという国がなくなって、
ヒンドゥの人も、イスラム教徒も、みんなテーブルに食べられるものだけを並べて、同じ食卓に着ける日に。
それはきっとすぐに、やってくる。
そのときは、もうあなたとわたしを隔てるパルダーもないでしょう。
「さよなら!」
そんなわたしの祈りが届いたのか、彼女は両手をあわせてナマスカールのしぐさをした。
「さようなら!」
「また、――会おうね!」
そうして、わたしたちはパティの乗った輿が、ステーションの壁を越えて見えなくなるまで、遠い昔≠歌い続けたのだった。
And there's a hand,my trusty fere!
我が誠実な友よ この手をとり
And gie's a hand o'thine!
そして 君の手を私に
And we'll tak a right gude-willie waught,
心ゆくまで 友情の杯を重ねよう
For auld lang syne.
遠い、あの日のために……
For auld lang syne.
遠い、あの日のために……
――わたしたち、オルガ女学院のハウス生たちが、再び彼女の姿を目にしたのは、その数日後だった。
いつものように、わたしがヒンドゥ語の勉強のために、院長室からかっぱらった新聞を読んでいると、そこの一面に大きく、パティの結婚記者会見が開かれたという記事が載っていたのだ。
写真の中の彼女は、わたしがあの日に見たブーゲンビリアのような鮮やかな笑顔を浮かべていた。
そこには、バローダの王女とハイデラバードの王子が結婚という大きな見出しの横にこんな一言が書かれていた。
『前代未聞、プリンセス・パティが、出立前の結婚記者会見!』
なんと、王家の姫君が、自分の結婚に際して顔を出して記者会見を聞くのは、インドではいままでに例のなかったことだという。
なかでも、わたしは政略結婚≠強く否定するパティの言葉が、胸に残った。
『みなさんも覚えていてください。
私はインドのためにではなく、幸せになるためにハイデラバードへ行くのです』
「おめでとう、パティ」
わたしは、彼女が最後にくれた、一枚の写真をじっと見つめた。
紙いっぱいに並んだ少女たちの顔。同じ制服に、同じリボンを胸元につけた、ホーリーの仲間。
それは、パティがこの学校にいた証《あかし》。わたしたちの仲間だった証だった。
たぶん今頃、バローダでは二十一発の金の祝砲が鳴り響いているのだろう。
このパンダリーコットの地までは、その音は届くはずもない。
けれど、
「聞こえるわ」
そのとき、わたしの耳には確かに、どおん!という勇ましい祝砲が、どこからか聞こえてくるような気がしたのだった……
[#改ページ]
〜そして、エピローグのプロローグ〜
そんなふうにして、お騒がせ王女がオルガ女学院を去り、
彼女の加わった花嫁行列が、南のハイデラバードを目指しているころ、
「――ああ、なんだかいろいろあったなあ……」
わたしはぼんやりと、パティが最後にわたしに言い残したことについて考えていた。
「まさか、あの駆け落ちが失敗するなんて……」
あの日、偶然港に居合わせたエセルに送ってもらったわたしとミチル、それにヘンリエッタの三人は、ずいぶん遅れてケシュミナリの駅に到着した。
そうして、わたしたちはすぐにパティを見つけることができた。
なんと、彼女は、エドといっしょではなかった。
彼の代わりに、大きな旅行カバンを持ったパティとともに、現れたのは――
「ハウス長……」
ホーリーの赤い煙の向こうから、彼女がベリンダに連れられてくるのを見たとき、わたしたちは駆け落ち計画が失敗に終わったことを知った。
「ああ、やっぱりだめやったんか」
ミチルなどは、心底がっかりした様子で、パティに悪いことをしたと落胆していた。
しかし、本当は少し事情が違っていた。
「はじめから、彼と行くつもりはなかったの」
と、パティはわたしの手をとって、真剣なまなざしで言った。
パティは、学院を去る最後の夜にわたしだけを特別室に呼んで、駆け落ち計画の全貌《ぜんぼう》を話してくれたのだった。
それは、あのエドワード=ソーントンという男のこと。
「彼は、MIのエージェントだったのよ」
パティの駆け落ち相手であり、ロンドンタイムスの新聞記者だと名乗っていたあの男は、実は英国情報部の人間だったというのである。
そのことをパティからうちあけられたとき、わたしは自分の心臓がつぶれるかと思うくらいショックを受けた。
「え、じゃあエドワードは、本物のエドワードじゃないってこと?」
英国秘密情報部。
イギリス外務省、通称ホワイトホールに属するイギリス屈指の情報機関。その海外部隊であるMI6――ランベス≠フ出先機関が、パティの推測では、このパンダリーコットのステーション内にあるのではないか、とパティは言った。
「だったら、エドは、嘘をついてパティに駆け落ちしようって言っていたの? 彼は……」
――彼は、パティを愛していなかったの?
さすがに、それだけは直接聞く勇気がでなくて、わたしは思わず言い籠もった。
けれど、わたしが何を言いたいのか、パティは顔から察したようだった。
「ねえ、シャーロット。たぶん、人はものを食べるのとおなじくらい、本当は嘘をつかずにはいられない生き物なのだと思うわ」
と、彼女は言った。わたしは聞き返した。
「ものを食べるのと、同じくらい?」
「そうよ。嘘はあまりいいものじゃないと言われているけれど、でも人が嘘をつくときは、決まってなにかを守りたいときよ。それが、自分か他人という違いはあってもね」
だから、私はあの人の嘘を責めるまい。
パティは強い目をして、わたしをじっと見つめた。
「なぜなら、私自身があの人を守りたいから。
人が嘘をつくときは、なにかに必死なときなの。だから、もしあなたの大切な人があなたに嘘をついていたのだとしても、ただ責めるのではなく、どうしてそんなことをせざるをえなかったのかを考えてあげて」
わたしは、なぜいまになって彼女がそんなことを言い出すのかわからなかった。ただわかったことは、それでもパティはエドワードを――、いいや、エドワードと名乗ったあの男のことを愛しているということだった。
愛しているから、許したのだ。
きっと、あの夜ヴェロニカがわたしに語ったように、ひとつ上の心境にあがって、そこから彼を許したのだ。
自分を、おとしめることなく。
「あなたは、気を付けて、シャーロット」
唐突にそう言われて、わたしは首をふった。
「どうしてわたしが? だって、わたし、そんなに偉い人じゃないわ。パティのような王女さまでもない」
「ね、シャーロット。よく考えて。エドワードがMI6の人間なら、私と連絡をとるのにわざわざあなたを介する必要はないわ。そうでしょ」
言われて、それはたしかにそうだとわたしは頷《うなず》いた。
「なのに、彼ははじめからあなたをパイプ役にするように言ってきた。お人よしで同情しやすく、こういうことに首をつっこみやすいというのはわかるけど、今にして思えば少し強引だったわ……」
そして、エドワードの言うとおり、パイプ役をわたしと見定めたパティは、わたしをゾウにのせてわざとパンダリーコットの街を練り歩いた。そうして、ゾウから突き落としたところで、アムリーシュによく似た子を使い、わたしにあとを追わせる。
そのあと、偶然を装ってエドワードがわたしを助けるという寸法だったのだ。
すべて、二人の計画だったことを知って、わたしは怒るよりもその手際のよさに感心してしまった。
あれをぜんぶ計画していたなんて、パティこそ、情報部のエージェントになれるんじゃないだろうか。
「おそらく、彼は何らかの方法であなたにかかわりたかったのよ」
と、パティは言った。
「なぜ、わたしに?」
「それはわからない。けれど、情報部の人間が一番苦労するのは、子供のエージェント選びだって聞いたことがある。それには、この裏世界にかかわっても裏のにおいを出さない、天性のものをもった人間が必要なんだって」
ここにいてはだめ、と彼女は強い口調でわたしに言った。
「できれば、あなたは早くロンドンに帰ったほうがいい」
それは、ずっと前にカーリーに真剣に言われたことと同じだった。
わたしは首をふった。パティがわたしを心配してくれているのがわかっていても、どうしても納得ができなかった。
「どうして、ここにいちゃいけないの?」
すると、パティは、どこか大人びた顔で、遠くを見据えるように目を細めた。
「私がはじめてエドワードに会ったとき、彼はフィンランド帰りだって言ってたわ。あの肌の色は、ほんとうにそれまで雪の中にいたんでしょうね。
そのことが本当なら、おそらく彼はフィンランドに攻め込んだソ連に対するなんらかの作戦にかかわっていたんだと思う」
「フィンランドの、作戦……」
「でも。結局この一連のことで、チェンバレンは外交能力を問われることになった。この失敗によって、今度こそ彼は首相の座を追われるでしょうね。次にダウニング街に陣取るのはチャーチルよ。彼は、平和主義のチェンバレンと違って、インドを決して手放しはしない。ありとあらゆる手を使って、インドをひっかきまわそうとすると思う」
そんな大きなことに、なぜ自分が関係あるのか、と思っていた矢先だった。
パティは決定的なことを、わたしに告げたのだった。
「だからこそ、あなたは狙われているのよ、シャーロット」
「え……」
これが自分にできる最後のことだ、と彼女は言い、
「イギリスは、いま兵をインドに割けないの。でもチャーチルはインドをまだ叩けばビスケットの増えるポケットだと思っている。そんな彼が、インドを手にしておくためにどんな作戦を使うと思う? それは謀略戦しかないのよ。あくまで地下で、少数をつかってインドに手綱《た づな》をつけておく。
もともとチャーチルは、インド省と深いかかわりを持っているの。パンダリーコットの王太子とつながりをもつあなたを、見過ごすはずはない。かならず、自分の手のうちに引き込もうとするわ」
薔薇《ばら》をさがして。
と、彼女は声を潜めて言った。
「薔薇…? って、あの花の薔薇?」
「そうよ。薔薇をさがして。カーリー女神の薔薇を。それこそが、あなたを真実の港へ導いてくれる」
そうして、くれぐれも身の回りに気を付けることを言い置いて、パティはわたしの前から去っていったのだった。
(わたしが、狙われている……?)
わたしは、ぼんやりと自分の部屋の窓辺で、そこから見えるせまいステーションの景色をながめていた。
いつもだったら午後もミセス・ウイッチの見回りにびくびくするところだったが、最近はしょっちゅう外出しているので(みんなはパティがいなくなって、寄付金集めにさらにせいをだしていると言っていた)、わたしは、こうして院長室からこっそり新聞を盗み出すこともできる。
(チェンバレン、チャーチル、そして、インド……)
わたしは、新聞の見出しに大きく躍っている、それらの文字を見つめた。
(パティは気を付けろっていうけど)
そのどれもが、わたしにとってはあまりにも遠すぎて、わたしは自分のようなちっぽけな子供が、政治などという大事に関わっているとはとうてい思えなかった。
たしかに、わたしのママは情報部のエージェントだったかもしれない。
けれど、それはわたしのママがそれなりに才能があったからだ。ああいう仕事は特殊な訓練とかそういう難しいことをこなしていなければいけない気がする。
(そうよ。だいたい学校の勉強すらついていくのに必死なわたしが、エージェントなんかになれるはずないわ。ねえ……)
わたしは、パティの心配を杞憂《き ゆう》だと思いこみ、新聞を置いて窓の外を見た。
すると、見覚えのある茶色いおしりをしたアヒルが、だれかのあとをとことこついていくのが見えた。
「あら、ナッピーだわ」
そう言えば、最近ナッピーにエサをあげていなかったような気がする……。
わたしはポケットにビスケットを入れ、部屋を出て彼のあとを追いかけた。きっと、エセルの家に居着いてしまっている彼のことだ、外へ散歩にも連れていってもらっているのだろう。
(でも、エセルにしては、ずいぶんと背が高かったようだけれど……?)
わたしは、いつものように学院長室の前を抜き足で通り過ぎ、ドアチャイムが鳴らないように気を付けながら、こっそり外に出た。
きょろきょろとあたりを見回すと、ちょうどガアッという耳慣れた鳴き声がする。
「ナッピー!」
わたしは、声を出して彼を呼んだ。
すると、ちょうどエセルの家に、だれかがナッピーを連れて入って行くところだった。
その見覚えのある高いシルエットに、わたしは。目が釘付けになった。
あの顔……。男っぽい彫りの深い横顔、高い鷲鼻《わしばな》とややくせのある黒髪……!
(ど、どうして、エドワードがここにいるの!?)
まちがいない、それはあのパティの駆け落ち相手だった、――英国諜報員のエドワード=ソーントンだった。
(エセルの家に入っていく……、どうして?)
まだスコーンをもらえると思っているらしいナッピーが、ガアガアとゴキゲンでおしりをふりながら、彼のあとについて中へ入っていく。
わたしは、急いであとを追いかけた。
(どうして英国エージェントのエドワードが、エセルの家に入っていくの? 二人はどういう関係なの。
――まさか!)
『私の予想では、おそらくMI6の出先機関が、このパンダリーコットのステーション内にあると思うの』
パティが、気を付けるようにと言っていたことを思い出して、わたしはあるひとつの可能性を思いついた。
「まさか……」
よく考える間もなく、体が動いていた。走ってエセルの家の門の前までくる。しかし、いつもそこに立っている門番はいない。鍵もかかっていなかった。わたしはそっとアイアンの格子戸を押して、ポーチへと続く前庭へ足を踏み入れた。
「これは……?」
どこか、違和感のようなものを感じていた。
いままで何度となく訪れたオーキッド邸。六頭立ての馬車がゆうゆうと通れるくらいの大きな門。そして池のある庭……
「手入れが、されていない……?」
違和感の正体がわかって、わたしは息を詰めた。
よく見ないとわからないが、ところどころに雑草が生えている。緑地のヴェルヴェットのようだった芝生《しばふ 》は光沢を失い、噴水は水が枯れている。
ようするに庭が手入れされていないのだ。
「このまえ来たときは、こんなじゃなかったのに」
それも、たった半月ほど前のことだ。その半月の間に、いったい何がおこったというのだろう。
わたしは、恐る恐る玄関のドアを開けた。
「こ、こんにちわ」
いつもなら、品のいい執事さんが出迎えてくれるはずの玄関ホールは、だれもいなかった。
それだけではない。
「これは……、どういうこと?」
わたしは、あまりのことに声も出ずに、茫然《ぼうぜん》とその場に立ちつくした。
なにも、なかった。
正面にある階段の脇に飾られた代々当主の肖像画も、踊り場のヴィーナスの石像も、わたしの背たけほどもあった青磁の壷も、鹿の剥製《はくせい》も……
玄関を飾っていたありとあらゆるものが、魔法が解けたあとのように、忽然《こつぜん》と消え去ってしまっていたのだ。
「まるで、嵐のあとみたいだわ」
わたしは、ゆっくりと階段をあがっていった。不思議と恐怖感はなかった。ただ、この魔法の原因をつきとめたいという心が、わたしの足を進ませていた。
なにもない家というのは、ここまで空気が冷たかっただろうか。
もともと、使用人の少ない家(わたしは、ミモザさんとエセルとお父さんと執事さんにしか会ったことはなかった)だったのにもかかわらず、ただ家具がないというだけでこの温度の低さほどういうことだろう。
二階についたわたしは、迷わずエセルとよく会っていた応接間をめざした。
辺《あた》りに、あのエドワードの姿はなかった。たしかにここに入ったと思ったのに、ナッピーと彼ほどこへ行ってしまったのだろう。
「やあ、これはまたかわいい泥棒だな。シャーロット」
ふいに、上から声が降ってきて、わたしは心臓が飛び出るかと思った。
「それとも、また探偵ごっこの続きかい? つくづく好奇心の強いお嬢さんだ」
「エドワード!」
階段を上がったすぐの廊下に、午後の光を背に受けて、長身のあのエドワード=ソーントンが立っていた。
「あ、あの……、エドワード、どうしてここに……?」
わたしは、まるでもぬけの殻になってしまった屋敷のことを聞こうとした。
「どうしたの、これ。もしかしてエセルって引っ越ししたの? この前会ったときは、なんにも言ってなかったのに……」
「……………………」
彼が何も言わないので、わたしはどんどん言った。
「あの、この前に、ここのオーキッドって人に、この前駅まで送ってもらって。ホーリーのお祭りのせいで、ずいぶん時間がかかったけれど、結局、パティには会えたし」
「……………………」
「せ、せっかく、お祭りにまきこまれないようにって、回り道をしてくれたけど、捕まっちゃったのよね。あのときはせっぱつまってて、お礼も言い損ねちゃったんだけど、そのお礼を言おうと思って。まさか、引っ越ししちゃってるとは思わなくて。
でも、どうしてあなたがここにいるの。だって、あなたは英国の――」
そこまで言って、わたしは言いごもった。
パティを裏切っていた、英国のスパイ。
MI6のエージェント。
その男が、オーキッド商会の屋敷に堂々と出入りしているなんて、おかしい。
「くっ……」
わたしは、顔をあげた。
なにがおかしいのか、エドワードがくくっと喉《のど》を鳴らして笑ったのだ。
「いったいそのお人好しはだれに似たんだい、シャーロット」
「エド……」
「俺の知っているスカーレット=ミリセント=Sは、少なくともきみとは正反対の人間だったよ」
わたしは、心臓だけを冷凍されたような感覚に、目を見開いた。
「な、に……」
「もう、見当はついてるんだろう。俺たちの正体を。そして、ここが何だったのか」
エドワードは、わたしがいままで見たこともないような顔で笑った。
「ここは、こまどりの巣だよ」
「エ、エドワード……」
「エドワード[#「エドワード」に傍点]、ね。残念ながら、その名前はもう役目を終えたんだ。これからは本名で呼んでくれ」
彼は、まるで夜会で貴婦人にあいさつをするかのように、気取っておじぎをした。
「デイビットだ。デイビット=スタンレー。階級は中尉だ。よろしく」
そのまったく悪びれない様子に、わたしは心の底から腹が立って、後先考えずに彼にくってかかった。
「じゃあ、あなたは本当に、任務でパティに偽《にせ》の恋をしかけたの? みんな、みんな嘘《うそ》だったの? 学校のことも、お父さんのことも――」
「やれやれ。またそんなに一気に質問かい? せっかちだな」
デイビットと名乗り直したその男は、くせのある黒髪をぐいっとかきあげながら言った。
「親父のことは、本当さ」
「ほんとうに……?」
「ああ、リース校のこともね。ああいうのは、真実も混ぜながら言わないと、嘘を嗅ぎつけられる。とくに女は」
カッと音をたてて、わたしの顔が赤くなった。
パティのことを、彼が引っかけてきた様々な女たちと同列に言うのがゆるせなかったわたしは、自分でも意外なくらいに大声で怒鳴った。
「あ、あなたって、最低!」
「そう、エージェントなんて最低の人間さ。本当のことはだれにも言えない。たとえ恋人でも、仲間にさえも」
「くっ」
わたしは、臍《ほぞ》をかむ思いだった。
自分たちが、彼らMI6の手のひらで踊らされていたことはいい。けれど、あのパティのひたむきな想いや、協力してくれたハウス生たちの純粋な想いまでも利用されていたのかと思うと、わたしはやりきれなかった。
わたしは、思いのままに叫んでいた。
「……で、でも、そんなふうに手の込んだ計画をたてていたくせに、あなた達、失敗したんじゃない」
「なに?」
「だってそうでしょ。パティは結局ハイデラバードへ行ったんだから!」
彼が、ちょっと言いごもったことに力を得て、わたしはさらに言った。
「あなたたちは失敗したんだわ。インドを仲違《なかたが》いさせることにも、王子アムリーシュをおびき出すことにも。この前は、キャッスルトン夫人を捕らえることだってできなかった。そんな失敗続きでなにがスパイよ。なにがホワイトホールよ。あなたたちなんて、ドブネズミ以下だわ。人の心をもてあそんだ人間は、報いを得ることを覚えておきなさいよ!」
いまになって思えば、情報部のエージェントに向かってよくもそんな口がきけたものだと思う。
けれど、わたしはそのとき、大人たちが振りかざす重く大きななにかに向かって、その小さな口でしか対抗する術を持たなかったのだ。
「――そう、たしかにデザートは食べそこねた」
デイビットは、まるで傷ついてもいない様子で言った。
「デザート?」
「食後に紅茶[#「紅茶」に傍点]も飲み損ねたかな。ま、メインディッシュのサーモンはいただけたようだから、文句はないだろう。――うちのリーダーも」
エドワードがなんのことを言っているのかわからなくて、わたしは額《ひたい》に眉をよせた。
「……サーモンって、なんのこと?」
彼は、笑った。
「この作戦はね、シャーロット、内々では、カーリー作戦≠ニ言われていたんだ」
「カーリー……、ですって」
それは、インドの女神の名前だった。
殺戮と犠牲を| 司 《つかさど》る神。カーリー信仰の篤《あつ》いベンガル地方では、人々は、毎日のように彼女に生きたまま山羊《やぎ》の首をはねてささげるという。
よく口にする親しい名前であったにもかかわらず、わたしは聞いただけで、ぶるりと身震いを感じた。
なんて不吉な、コードネーム……
「俺たちロビンはね、一度に一人がひとつの作戦にかかりっきりになったりしない。いくつもの作戦に同時にかかわるんだ。なぜって、そのほうが効率がいいからさ」
デイビットが、わたしの目の前で、その長い指をひとつずつ折っていく。
「たとえば、ソ連がフィンランドを占領して、そのフィンランド支援に英国が失敗したこと」
わたしは、黙ってその指が折られていくのを眺めていた。
「たとえば、その同盟国であるドイツが、インドの革命グループを陰で支援していたこと。
たとえば、怪盗リリパットなるコソドロが、イギリス人ばかり狙って反英活動をくりかえしていたこと」
「リリパットですって!?」
「まだある。たとえば、平和主義のチェンバレンが、インドは独立させてもいいんじゃないかと思っていて、しかし対抗馬のチャーチルはそうは思っていないこと」
指が折られていくにつれて、わたしは自分の心臓がばくばくと高鳴ってくるのを感じていた。
「これらぜんぶが、カーリー作戦だった。ひとつじゃない」
「ひとつじゃ、ない……」
「ここで一気に種明かしをするとね、シャーロット。作戦のはじまりは、あの怪盗リリパットだった」
と、あっさり白状するように彼は言った。
「君も知ってるだろう。港の倉庫で一度会ったはずだ。彼は、MIのエージェントだ。彼の任務は、ああして反英活動を繰り返すことによって、ほかの反英運動家と接触し、その資金源を洗い出すこと。
そうして、リリパットはある活動家に接触した。それがS・C=ボースという活動家だ」
わたしは、知らず知らずのうちに頷いていた。
過激な独立活動家であるS・C=ボースの名は、新聞で何度も読んだことがあった。
「そうして、S・C=ボースに資金を流していた相手こそ、ナチス・ドイツだった。我々は、それを材料にフィンランド作戦との取引を申し出た。カーリー作戦のメインディッシュはそれだ」
彼は、静かに笑った。
「取引の内容はこうだ。イギリスは、フィンランド支援に失敗する。それによってドイツはデンマーク・ノルウェーを得る。なぜならソ連にはフィンランドを、ドイツはデンマーク、ノルウェーをというのは、先の両国間の同盟ですでに決められていたことだからだ。
そのかわり、ドイツはS・C=ボースへの支援をやめる。イギリスは、彼らの財源を潰し、その活動を完全に把握する」
ドイツは、インドとのパイプを犠牲にするかわりに、北を得る。
イギリスは、フィンランドを犠牲にするかわりに、ドイツのインドへの干渉を防ぐことができる。
犠牲。
「つまり、カーリー女神に捧げたんだ。私益のために、おたがいが、おたがいの国をね」
「国を……!?」
「きみは、俺たちがインド人と戦っていると思っていた?」
言って、彼ははっきりと笑った。
「そうだろうな。まあ、かわいいもんだ」
わたしは、何も言えなかった。
目の前にいる人間が、なにか自分の知っている人間ではないように思えた。
なんだろう。
この、威圧感のような異様な空気は。
「俺たち外務省の人間としてはね、ノーベル平和賞なんかをもらったせいで、馬鹿の一つ覚えみたいに平和平和と繰り返す首相一家に、これ以上外交を軽んじてもらっては困るんだよ。……となると、チェンバレン首相には、早々にダウニング街を退去してもらわなくちゃならないだろう?
これは、必要な謀略だったんだ。軍にとっても、俺たちにとってもね」
デイビットはそう言って、懐からオレンジ色の小さな箱を取り出した。インド産の銘柄チャーミナー≠セ。
彼は器用にマッチで火をつけると、火を指でつぶして消した。
ふううっと、長い息とともに濃い煙が吐き出される。
わたしは、頭の中でばらばらだったピースが、ひとつひとつはまっていくのを感じていた。
つまり、こうだ。
チャーチルはチェンバレンを追い落とし、インド強硬論に持っていくために、チェンバレンにフィンランド支援失敗の責任をなすりつけるだろう。そして、それを後押ししたのは、海相に首相になってもらって権威をとりもどしたい外務省とMI。つまり――
英国情報部。
これは、イギリス対ドイツ、イギリス対インドという簡単な図式ではないのだ。もっともっと目に見えない、光の届かない人の心の闇と闇が戦っている――!
「……じゃ、じゃあ、あなたたちは勝ったってわけなの? 兵隊を使わずに、あなたたちの謀略《ぼうりゃく》だけで!」
「それが情報部の仕事だ。実際きみたちはたいしたものだよ。われわれの作戦の中で、取りこぼしたのは、常にきみ、シャーロット=シンクレアのかかわっているものばかりだ。もっとも、デザートだったり紅茶だったりで、大きな取りこぼしではなかったにせよね」
言って、彼はその廊下の一番奥の部屋へつながる扉の方へわたしをうながした。
「さあ、この先へ行くといい。きみにはその資格がある。シャーロット」
「先……?」
「そう。うちのリーダーが、きみが知りたいと思っていることすべてを教えてくれるよ」
わたしは、そっと真鍮《しんちゅう》製のドアノブに手をかけると、それを回して押した。
鍵はかかっていなかった。
わたしは、あまり深く考えず、そのドアを開けてしまった。
そして。
――もうずっとあとになって、
わたしは、何度もこのときのことを思い返す。
あのとき、あのドアを開けていなかったら、
もし、なにも知らないまま、インドを離れていたら、
わたしと、彼[#「彼」に傍点]と彼[#「彼」に傍点]の人生は、いったいどうなっていただろうか、と……
「椅子……?」
まるで、なにかの舞台のように、
なにもないがらんとした部屋の中に、たったひとつだけ、ぽつんと安楽椅子があった。
ギッギッ、と小さな軋《きし》みをたてながらゆれている。
見覚えのある椅子だ、とわたしは思った。ああ、あれはたしかエセルのおじいさまがよく昼寝に使っていらっしゃった……
「ようこそ」
ふいに声がひびいて、椅子からだれかが立ち上がった。
わたしは、大きく息を吸った。
「エセル……」
この家の住人である、エセルバード=オーキッドが、ゆっくりとこちらを振り返った。
「来てくれると思ってましたよ」
言われて、わたしは彼が、わたしを待っていたことを知った。
「やっぱり、あなたもなの、エセル……」
わたしは、彼につめよろうと一歩前に踏み出した。
「あなたも、ママと同じ……、イギリスのスパイなの!?」
「イギリスの、なんて言わないで欲しいな。シャーロット、きみの祖国なのに」
言われて、わたしははっとうろたえた。
「そう、きみのママと同じだ。僕は、きみのママといっしょの作戦に参加したこともある」
「ママと……?」
「僕の両親は貴族の生まれのくせに、ふたりともエージェントでね。もうとっくに死んだけれど、物心つくころには僕もこの道に入ってた。だから、少しきみがうらやましいですよシャーロット。いまのいままで、なにも知らずにぬくぬくと生きてこられたことが」
その声には、なにかわたしの知らない感情が交じり合っていた。
たとえるなら、悪意のようなもの……
わたしは、ふいにすうっと寒気を覚えた。
目の前にいるのはもう、わたしがよく知っているオーキッド商会のあととり=A裕福な家の二代目、の顔ではなかった。
相手によって、いくつもの顔を使い分ける、国家エージェントの顔……
「英国、秘密情報部……」
わたしのママと同じ、そしてあのデイビット=スタンレーと名乗った男と同じ、イギリス外務省のエージェント。
MIと呼ばれる諜報員。
通称、ロビン=B
「僕たちといっしょに行きませんか、シャーロット」
ふいに、思いがけないことを、彼は口にした。
「え……」
「きみには才能がある。僕の上司がずいぶんきみのことを見込んでいましてね。きみを、僕らロビンの仲間に加えたいと、そう望んでいるんです」
わたしは、とっさになにを言われたのかわからず、目をきょとんとさせてしまった。
「わたしを、情報部の人間に?」
「ええ」
「まさか!」
「まさかじゃない。本気です。どうですか、これは取引なんです。もしきみがこの申し出を受けてくれるなら、きみは真実を知ることができる」
真実という言葉に、わたしは強く想いを揺さぶられた。
「真実、ですって?」
「そう、きみの知りたいことはすべて、僕は知っている。きみのママがいったいどういう人間なのか。イギリスはインドをどうしようとしているのか。きみのパパがきみを避けるわけ。
そして、きみが小さいころ、アルバートホールの近くで会った少年のこともね」
わたしは驚いて、エセルの顔をくいいるように凝視した。
「なん、ですって……」
とっさに、彼のもとに駆け寄りそうになる。
「あなたは、あの子のことを知ってるの!?」
「ええ。シャーロット。
その少年は、実はインドの王家の生まれだったんです。けれど、不幸なことに母親はイギリス人でね。小さい頃に母親から引き離されて、王宮で一人で育った。
彼が三歳になったころ、彼の兄が王宮で次々に変死した。それがイギリスの仕業《し わざ》だと疑った兄の母、そしてその親戚たちは、これ以上その王家がイギリスに浸食されないよう、その王子を謀殺しようとした――」
まるで、教科書をそのまま読み上げているかのように、エセルは続けた。
「バローダの王宮に預けられていた彼は、そこでも何度も命を狙われた。そして、ある日忽然と姿を消した。
彼は、刺客の手からのがれるために、世界中を転々としたんです。あるときはパリに、あるときは日本に……。そうしてジプシーのような生活が続いたあるとき、彼はたまたまロンドンに滞在することになった」
「ロンドンに……」
まるで壮大な物語の語り部のように、エセルは続けた。
「大きくなっていた彼は、そこに自分の父違いの姉が住んでいることを知っていた。自分はこんな流浪《る ろう》の生活を送っているというのに、その一つ上の姉はなにも知らないまま、幸せに暮らしている……、彼はいったいどう思っただろう。もしかしたら、その姉を憎んだかもしれない。自分の手に入れられなかった幸せをことごとく持っていると思ったかもしれない。とにかく、彼は彼女に会いに行った、そして……」
にこっとエセルは笑った。
「そのあとのことは、ほかでもない、あなたがよく知っているでしょう。シャーロット」
わたしは、口の中がからからに乾いてしまっていることを知った。
そのあとに出た声が、かすれてしまっていたから。
「あの子が、アムリーシュ王子だって、あなたはそう言うの?」
「そうです」
「わたしの、義弟《おとうと》だと」
「そうです」
「ママとイギリスのせいで、世界中を旅してまわっている、居場所のない不幸な王子だと」
「そうです」
――俺は、明日にはロンドンを発つけど。
そう言って、わたしの手をとった彼。
そのとき、あの子は確かに言ったのだ。
――きみとはもう一度会えそうな気がする。俺の予感は、当たるんだ。
――どこで?
――インドで[#「インドで」に傍点]。
どくん、どくん、と心臓がべつもののように激しい音をたてていた。息が苦しい。あまりにも強く心臓が脈打つせいだ。
けれど、わたしは問わずにはいられなかった。
「……どこにいるの」
声を喉から絞り出すようにして、わたしは言った。
「アムリーシュは、どこにいるの。あのとき、ヴィクトリア女王の像の前でわたしと会ってから、いままでなにをしていたの。
エセル。以前あなたは、パンダリーコットのマハラジャが、病気で長くないと言っていたわよね。彼はそのあとを継ぐために戻ってきていると」
「ええ」
「――いま、どこにいるの」
エセルが思わず喉をならして息を呑《の》むのを、わたしはじっと見つめていた。
わたしはたまらず言った。
「アムリーシュ王子は、いまどこに潜伏しているの。パンダリーコットの王宮からそう遠くない、いつでも自分が王位継承者だと乗り込んでいける場所、そして、刺客からうまく目をそらせる場所……。そこに彼はいるはずよね。どこにいるの。彼は――」
わたしは、言おうか一瞬迷ったあと、エセルに聞いた。
「もしかして、いま、わたしのそばに、いる……?」
エセルバードが、はっきりと輪郭がわかるほど大きく目を見開いた。
そうして、どこかうれしそうな、そして痛々しそうな顔をして頷いた。
「ええ、います」
「ずっと、去年の夏前に会ってからも、ずっと……?」
「ええ、ずっと」
「かたときも?」
「そうです。かたときも離れずに、あなたのそばに、ずっと」
やさしい目をして、
出会ったときと同じ、オニキスのような瞳《ひとみ》をして……
わたしは、大きく息をすった。なぜか、唐突にわたしのママが大事にしていたというあのオニキスのことが思い出された。
(あの、ママの宝石箱の中に入っていたオニキス!)
あれを、ママが家に置いて出て行ったのは、ほんとうに、ただの偶然なのだろうか。
もしかして、ママは予見していたのではないのか。
自分の子どもたちが、いつか巡り会うことを。
わたしが、彼女の愛した黄金の尖塔《せんとう》の国へ行き、あのオニキスと同じ瞳を持った人間に会うことを。
『カーリー、大好きよ。
わたしたち、いつまでも、いっしょにいましょうね……』
美しいオニキスの瞳をもつ、わたしの友だち。
わたしが遠い異国の地で出会った、わたしの運命そのもの。
パンダリーコットの王太子、アムリーシュ=シン。
――いいえ。
カーリーガード=アリソン!
「そのとおり」
エセルは、まるで欲しかったなにかを手に入れたかのように、満足げに笑った。
そしてすっと、わたしに向かって手をのばす。
「さあ、これ以上知りたければ、きみは僕らとともに行かねばならない。シャーロット」
「あなたと、ともに?」
「ええ、そうです。僕らとともに旅をしましょう、きみが知りたい世界へ、僕がつれていってあげます。この世の裏の裏の世界。きみがほんとうは惹《ひ》かれている、日の当たらない真実の国へ、僕がその道案内をつとめましょう」
わたしは、ずり、と後ずさった。
「裏の世界ですって……。あなたさっきから何を言っているの。わたしは、ただ……」
「いまさら怯《おび》えないで」
彼のレンズ越しのまなざしが、わたしの心に穴をあけようとする。
「なぜ、あんなにデイビットがカーリー作戦についてぺらぺら喋ったと思っているんですか。あなたのような、ただの民間人に」
「!?」
わたしは、いままで気づかなかったところに、悪魔が潜んでいたことを知った。
そうだ。思えばあのとき、どうしてあんなにもデイビット=スタンレーは口が軽かったんだろう。
彼はあのパティ相手にすら、とうとう自分の本名を明かさなかったのに……!
「エセル……」
「ねえ、シャーロット。この裏の世界の人間は、わかりやすくいうなら吸血鬼と一緒でして」
と、どこかもったいつけたように、エセルは言った。
「きゅ、吸血鬼……?」
「一度血を吸われた人間の末路は、二つしかないんです。一つは同類になってしまうこと。そしてもうひとつは」
にっこりと笑う。
「言葉にせずとも、おわかりですね」
わたしは、身震いのために歯ががたがたと軋むのを感じた。
逆らえば、殺される!
ここから生きて戻るには、エセルの言うとおり、彼らの仲間になるしかないのだろうか!?
彼らの仲間に――、
わたしのママ、ミリセントのように……!
「やめろ!」
バタン、と荒々しくドアが押し開けられる音が、わたしとエセルの対峙《たいじ 》している応接間に響き渡った。
わたしは、ゆっくりと振り返った。
そうして、そこに見つけた。
いつも、わたしを見守ってくれている、二粒の美しいオニキスを――!
「シャーロット!!」
カーリーはわたしを狂おしく呼ぶと、急いでわたしの元へ駆け寄った。
彼女はわたしをかばうように、わたしの前に立ちはだかった。
「………………シャーロット、下がって」
まるで別人のような声で、カーリーは言った。
いいえ、別人じゃない。何度も聞いたことがある声だ。
『俺は、きみだけの特別製だろ』
ブーゲンビリアの花陰に、あの月明かりの倉庫に響いていた、少年の声。
(やっぱり、あなたなの……?)
わたしは、急いで彼女を仰《あお》ぎ見た。
あなたが、わたしの義弟のアムリーシュなの、カーリー!?
「おや。やはりあなたで正解なのか。カーリーガード=アリソン。いや、アムリーシュ=シン王子」
エセルは、なぜかほっとしたように肩を下ろした。
「よかった。最後の最後までしくじるわけにはいきませんでしたからね。うまく釣れてくれて感謝しますよ、|殿   下《ユア・ロイヤル・ハイネス》」
「どういう、こと……?」
わたしは、かわるがわるカーリーとエセルの顔を見比べて言った。
「エセル、あなた、まさかカーリーを……」
「ああ、失敬。シャーロット。きみはたいへん優秀な釣り餌でした。こうして、彼をおびき出すには、やはりきみを使うのがいちばんいい」
そう言われて、わたしははっと心臓の上を掴《つか》んだ。
去年の夏の、紅茶夫人事件。
あのとき、わざわざ自分にドレスをあてがってまで、パーティに誘い出したのは……
そうして、いま、あのデイビットやナッピーを使って、わたしをこの屋敷に誘い込んだのは……
「わかったわ。エセル……、あなたが、怪盗リリパットだったのね!」
わたしの言葉に、彼は別段感銘を受けたふうもなく、
「ご名答。ただし、少し気づくのが遅いですよ、シャーロット」
と、言った。
わたしは、いままで彼に向けていたものとはまったく違う目で、彼を見つめた。
思い直せ、シャーロット。
彼は、もうわたしの敵だ!
「では、あらためて自己紹介しましょうか。僕の名前は、エセルバード=ヘンリー=ハーバート」
「ハーバート……。じゃあ、オーキッドというのは……」
やはり、オーキッドというのは偽名だったらしい。では、あの蘭のマークのオーキッドブランドは、いったいなんなのだろう。
「こまどりの、巣だ」
カーリーが言った。
「こまどりの、巣って……?」
「まあ、それはおいおい説明しますよ。シャーロット」
なぜか、感心するようにエセルが言った。
「それにしても、あなたも我々のことをよくご存じのようだ。アムリーシュ殿下。実際、あなたはたいしたエージェントですよ。あなたに会ったことがある僕ですら、それでもあなたの正体を見抜けなかった」
「………………」
「それに、こうしていても、あなたからは性別を偽っているという作った雰囲気が感じられない。いったいどんな特殊な訓練を受けたら、そこまで自分を変えられるのか。僕の方が教えていただきたいくらいです。――それとも」
と、エセルは片手で眼鏡をぐいっと鼻に押しつけ、
「それとも、なにも変わってはいないのか」
「…………っ」
「どちらですか、殿下」
カーリーがなにも言わないのを見て、エセルは首を振った。
「ま、いまここで問いたださなくてもいいか。せっかく苦労して釣り上げたんだ。時間はまだたっぷりある」
そうして、エセルはすっと腕をあげ、その部屋の南向きの一番大きな窓のほうをうながした。
「いいですか。あの窓の向こうの尖塔に、われわれの仲間がいます。仲間はいまシャーロット、その子の頭を間違いなく狙っている」
「え……」
エセルの声が聞こえるはずがないのに、その次の瞬間に、塔の窓部分がキラリと反射した。
「スコープ……!」
カーリーが険《けわ》しい声でつぶやく。
あそこから狙っているということは、狙撃手は十中八九ライフルを使っているはずだ。そこにいることをわたしたちに知らせるために、スコープをわざと反射させたのだろう。
わたしは、全身が凍り付くのを感じた。
脅《おど》しじゃない。彼らはわざとわたしにナッピーを尾《つ》けさせ、この屋敷におびきよせたのだ。人目につかないところで、極秘裏にカーリーと接触するために。
(何故?)
答えは簡単だ。彼本人を脅かすことはできない、英国はあくまで、パンダリーコットの王子であるアムリーシュに協力≠オてもらいたいのだから。
だからこそ、その餌に自分が使われたのだ。わたしを脅す分には、表向きにもカーリー自身に害を加えることにはならない。
(本気なんだ)
息をするのも忘れたかのように、わたしはエセルの顔を凝視し続けた。
本気でエセルは……、いや、英国情報部は、わたしをたてにしてカーリーを捕らえようとしているのだ。
彼の祖国、そしてわたしの祖国であるホーム。
イギリスのために――!
「さあ、殿下。いかがなさいますか。今、我々に従ってくださりさえすれば、あなたのシャーロットにはいっさい危害を加えません」
「……………………」
目の前で、ゆっくりとわたしをかばっていた腕が下ろされる。
カーリーは、どこか観念したように顔をうつむかせ、
「――シャーロットには、手をだすな」
強くそれだけ言い置くと、じっと動かなくなった。
まるで、なにもかも諦めたような、そんなしぐさだった。
「カーリー!」
わたしは、思わず言いかけていた。
「本当に、あなたが、アムリーシュ、なの……」
石のようだった背中が、わずかに身動きした。
「あなたが、パンダリーコットの王子なの? あのアルバートホールの前まで送ってくれた、あのときのインドの少年?」
「……………………」
カーリーがなにも言わないのを見て、わたしはたまらずに言葉をつなげた。
なんでもいい、なにか言わないと、カーリーがもっともっと遠くへ行ってしまいそうで。
「ほんとうに、ほんとうにそうなの? あなたが、わたしの義弟? そうなんだったら、じゃああなたはわたしを、ずっと――」
なにか言わないとと焦《あせ》る余り、わたしは本意とは関係なく、衝動的に言ってしまった。
「ずっと、騙《だま》してた、の……?」
その瞬間、彼女はものすごい勢いでわたしのほうを振り返った。
「ちが……」
わたしは、息を詰めた。
見たこともないような、カーリーの表情。
それは、大きくはらんだ目が、張りつめて、想いつめて、こもった想いが破裂しそうなくらいに熱い――
「……きみは、……なんかじゃ……」
「聞こえない!」
わたしは、ライフルで狙われているのも忘れて、思わず彼女のもとに駆けよろうとした。
と、そのとき、
「!?」
白いボールのようなものが窓にぶつかって、南の窓が大きな音をたてて割れ落ちる!
「何!?」
すると、一瞬で視界がサッと暗くなった。
「グワ――っ」
聞き覚えのあるアヒルのがなり声に、わたしはいま窓に飛び込んできたのが、わたしのペットのナッピーだったことを知った。
「伏せて!」
だれかが、わたしに体当たりしてくる。
「きゃっ」
わたしは、わたしをかばおうと飛び込んできたカーリーに抱き込まれて、床の上に転がった。
その腕の中の感触に、わたしは去年の夏に、港の倉庫で紅茶夫人と対峙したときのことを思い出していた。
(あ…………)
わたしは、顔をあげてわたしを抱きしめている人物の顔を見た。
(カーリー!)
ああ、どうしていままで気づかなかったんだろう。
あのとき、わたしを助けてくれた王子アムリーシュ。
あのときの感触とまったく、
――同じだ!
ふと見ると、目の前が暗かった。
急いであたりを見まわす。すると、なんとスナイパーが狙っているほうの窓に、分厚いカーテンがかけられていた。
だれかがまとめを解いたのだ。
「もう、終幕です。アムリーシュ殿下」
うすく灰色がかった視界に、妙に聞き覚えのある声がひびいた。
わたしは急いでたちあがって、わたしをかばうカーリーのむこうに、見た。
「ジェン……」
オルガ女学院の従僕であるジェンが、短銃をかまえてわたしたちの側に立っていた。
彼のピストルは、正確にエセルの頭を狙っていた。
「少しばかり遅かったな、イギリス産のロビン」
エセルは黙っていた。
「アムリーシュ王子は、すでに立太子の宣《せん》をお受けになった。もはやおまえたちが同じ高さから口を利《き》けるお相手ではない!」
銃口を向けられても、エセルに慌てた様子はなかった。
彼は、衝撃でずれたらしい眼鏡を奥におしやると、眼を細めて笑った。
「やれやれ、ここでタイミングよくインドこまどりのご登場とは。この前のことといい、僕はどこまでも運が悪いらしい」
そう言って、軽くジェンのほうを睨むと、彼はおもむろに手をあげてパチンと指をならした。
「さようなら、シャーロット。またお会いしましょう。どこかで」
「えっ……」
「薔薇をさがしなさい」
一瞬だけ、エセルの青い青い、アラビアの海のような瞳と目があった気がした。
「カーリーの薔薇こそが、きみを真実の港へたどりつかせる」
瞬きをするひまもなかった。わたしが息を吸って吐く間もなく、それはわたしたちの目の前に落下してきた。
「ジェン!」
シャンデリアだった。ちょうどその真下に立っていたジェンに向かって、カーリーが叫ぶ。
「くっ!」
シャンデリアの落下に気づいたジェンが、とっさに横にころがる。
ガシャーン、
と、再び部屋中に、シャンデリアのガラスの砕け散る音が響き渡った!
(きゃあああっ)
だれかの腕に、強引に体ごと押しつけられる。
恐る恐る目をあけたわたしは、目の前にいたはずのエセルが、煙のように消え去っているのを確認した。
「いない!?」
そうして、わたしはゆっくりと目線を動かし、わたしをかばって盾になっていたカーリーと目をあわせた。
「あ…………」
彼女も、わたしを見た。
――わたしを、騙してたの……?
そんな、意図せずにこぼれた非難が、彼女を苦しめているのがわかった。
『人が嘘をつくときは、なにかに必死なときなの。だから、もしあなたの大切な人があなたに嘘をついていたのだとしても、ただ責めるのではなく、どうしてそんなことをせざるをえなかったのかを考えてあげて』
わたしは、自分を激しく叱咤《しった 》した。
ああ、わたしのばか、ばか!
どうして、あのときパティがわたしにだけあんなことを言ったのか、浅はかなわたしはなにもわかっていなかったのだ!
(謝らなきゃ!)
「カーリー、わたし……」
わたしは、急いで彼女に謝ろうとした。
いま謝らなければ、きっと後悔する。そんなこと思ってもいなかったって、つい口を出てしまっただけだって、そう言わなきゃ……
(言わなきゃ)
けれど、わたしの口は役立たずにも、なにひとつ肝心の言葉を紡《つむ》ぎ出せなかった。
動かない。
肝心なところで、ごめんなさいという言葉がかけらも出てこない。
(どうして!?)
そんなわたしに向かって、彼女は苦しげに息を吐き、
「シャーロット、違う」
(え……)
わたしを見て、そしてそのまま驚くわたしに、
唇を、
強く、押し当てたのだった。
(……な…………)
触れあったのは、ほんの一瞬の間だけ。
わたしが文字通り固まっている隙《すき》に、彼女の手はわたしのすぐ横の壁を離れた。
「あっ」
そうして、それこそまさに脱兎《だっと 》のごとく、部屋の外へ走り去ってしまう。
「カーリー!」
わたしは、慌ててあとを追いかけた。
いま、ここで捕まえなければ、もう二度と会えないような気がしていた。
「カーリー、待って!」
わたしは、あらんかぎりの気力を振り絞って、何度も叫んだ。
「待って、謝りたいの。カーリー!」
けれど、
「お願い!」
なにもないがらんどうの玄関ポーチを抜け、オーキッドのお屋敷を飛び出したところで、わたしは完全にカーリーを見失ったことに気づいた。
(ああ、どうしよう!)
わたしは、いないとは思いつつもハウスのほうへ走った。
すると、中のほうから思いもかけない人間が飛び出してきた。
[#挿絵(img/02_433.jpg)入る]
「シャーロット、たいへんやで!」
それは、わたしに負けないくらい血相を変えていた、ミチルだった。わたしは、彼女が顔色を変えているわけも聞かずに、
「ミチル、カーリーを見なかっ……」
「それどころやないって。大変なんや!」
ミチルは、わたしの肩をがしっと掴むと、いつになく真剣な表情で言った。
「このオルガ女学院が、閉鎖になるって!」
「え…………」
――わたしは、信じられない思いで友人の顔を見た。
それからずいぶんあとになって、わたしたちはミセス・ウイッチが、この学校が続けられるようにインド政府や藩王国にかけあっていたことを知った。
しかし、奔走《ほんそう》するもその願いは叶わず、またインドにおける反イギリスの風潮が強くなったこと、欧州での戦争の影響もあって、やむをえず学校を閉鎖せざるをえなくなったのだった。
何も知らずにいたわたしたちのもとにも、戦争の足音は、ひたひたと、だが確実に忍び寄っていたのである。
その後、わたしたちの学校であるオルガ女学院は閉鎖になり、わたしたちはみんなちりぢりばらばらになった。
わたしは今度こそルーシー叔母様のすすめに従って、スイスの寄宿学校に入学した。その年の秋から、ナチスによるロンドン空襲がはじまったせいだった。
その後、わたしは何度もミチルやヘンリエッタたちと連絡をとったが、カーリーの行方は杳《よう》として知れなかった。
「薔薇…」
わたしは、あのエセルが最後に言い残した言葉と、パティが言った言葉がおなじことに気づいていた。
『カーリーの薔薇こそが、きみを真実の港へたどりつかせる』
『薔薇をさがして。カーリー女神の薔薇を。それこそが、あなたを真実の港へ導いてくれる』
「真実へ――!」
薔薇をさがそう、とわたしは決心した。
そのことこそが、わたしを真実へ、そしてカーリーへとたどりつかせる予感がしていたから。
その間にも、戦争という名の怪物は、手当たり次第に国と人とをとりこんで、消化しつづけた。
一九四〇年三月一二日 ソ連・フィンランド戦争終結。
ドイツ軍、デンマーク・ノルウェー侵攻開始。
ドイツ軍、デンマークのコペンハーゲン占領。
デンマーク、対独休戦。
五月一〇日 チェンバレン内閣、ノルウェー作戦失敗の責任をとって総辞職。
海相チャーチル、首相就任。
五月一五日 オランダ、対独降伏。
六月    ナチス・ドイツ、パリを占領。
――世界は、動きつづける。
[#改ページ]
――わたしが、カーリーとふたたび出会うのは、これから四年後のことになる。
[#地付き]end
[#改ページ]
あとがき
我ながらよくもまあこんな分厚い本を出したものだと思いますが、それを待っていてくださった読者さんと、出すことを許してくださった編集部の方々に、まずは感謝をしたいと思います。ありがとうございます。
どうもこんにちわ。ホーリーというと真っ先にゲームの最強白魔法を思い浮かべてしまうダメな高殿です。
さてさて、カーリーもめでたく二巻目。物語の半分までやってきました。これでシャーロットの幼年期編は終了です。
いっそ分冊するという手もあったんですが、やはりこの手の話は一気に読んだほうがいいだろうということで、こんな分厚い本に…。すいません。
んじゃあこの次はどうかというと、シャーロット大学生編をできるかどうかは、やはり売り上げ次第なんです。もちろん、半分まできたからには最後まで書ききりたいなあと思っています(…まあ、ライトノベルで近代世界史ものなんて高すぎるハードルなのはわかっていましたが)(いいんだい)。
いや、しかし、女子校はいいですよね。
やっぱ小公女セーラときたら、次はローマの休日じゃないとだめなんですよ。
古今東西、王女様ときたら、脱走しないとだめなんですよ!
転校生ときたら、騒動の元でないとだめなんですよ!!
そして、やっぱり寄宿舎といえば、これ。
部屋替え!!(すいません)
いやー、なんというか己の趣味突っ走りなのはわかっていたのですが、最近世間様が私に優しくて、眼鏡眼鏡と唱えていたら眼鏡喫茶ができ、執事執事と唱えていたら執事喫茶ができたので、ここはいっそ声高に寄宿舎女子校ラブ! ヒストリカル物ラブ!と叫んでいたら、そのうちブームが来るかな…とか…(こないって)
ごめんなさい。
でも、楽しかったです。とっても。
このカーリーというお話は、これを読んでいるときに皆様が、シャーロットのような気分になって、あまり物語の舞台にはならないインドという国を旅してもらえたらなあと思って書きました。
どうでしょう。少しは近代史で点がとれそうでしょうか。
わたしはよく混沌と表されるこのインドが(中国に次いで)好きなのですが、シリーズ開始時には、あまりにも資料が少ないので泣きそうになりました。
洋書しかないことは覚悟していたものの、さすがに英語以外のものは解読不可能。調べれば調べるほど奥の深いサリー。しかもラジャスターン地方のアレはサリーじゃないし。地方によって着付けが違うとか言われた日にゃ、「知るか!」と本気で本を投げましたとも。
まあ、でも世にも珍しいライトノベル版インドの物語なので、ここから近代のアジア史やインドやイギリスに興味を持ってもらえたらいいなと思ってます。
思えばわたしも中国史を好きになったのは、某国営放送の人形劇からだった…。いまだにエンディングテーマを歌えるなんて、幼児期の刷り込みってすごい。
あ、そうだ。
シャーロットたちの寄宿舎での物語は、今回で終わりなのですが、もっと寄宿舎のことを知りたい、学園ものが読みたいというご要望をたくさんいただいたので、特別にファミ通文庫さんの公式サイトに、書き下ろし小説を掲載させていただきました。
「カーリー 〜恋と寄宿舎とガイ・フォークス・デイ〜」
ということで、日本人の女学生ミチルを主人公に、オルガ女学院での生活とハウスの仲間たち、ちょっとしたお祭りの様子を書き下ろしています。ベリンダお姉様の初出もこっちです。
よろしければ、こちらもご覧くださいな。
今回も、イラストレーター様、超超超有能校正さん、デザイナーさん、編集墨樽川崎さん(ただいまチビチョコボ育成中)には大変お世話になりました。
また、同じお話でお会いできますように。
高殿円 でした。
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底本:「カーリー 〜二十一発の祝砲とプリンセスの休日〜」エンターブレイン、ファミ通文庫
2006(平成18)年10月12日第01刷発行
入力:TJMO
校正:TJMO
2007年12月30日作成