カーリー 〜黄金の尖塔の国とあひると小公女〜
高殿円
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|小さな王国《ス テ ー シ ョ ン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もうすぐ義弟になるらしい[#「らしい」に傍点]
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今でもよく夢に見るのは、
わたしが青春をすごした場所、
英国の王冠にはめ込まれた最大の宝石≠ニ謳《うた》われた東洋の地、インド――
|小さな王国《ス テ ー シ ョ ン》と呼ばれた、英国の保護区にある女学校の、
その古くてぎしぎしいう床や、すり減った階段や人の手で磨《みが》かれたアイアンのてすりを、わたしたちはそれはそれは愛したものだった。
本国の美しい芝のような、深い色の制服。消灯後にこっそりあつまった真夜中のお茶会。ビスケットの缶の中に秘められた、女の子たちの秘密のカード。
そして、約束《プロミス》。
「カーリー、大好きよ。
わたしたち、いつまでも、いっしょにいましょうね……」
美しいオニキスの瞳をもつ、わたしのともだち、カーリーガード=アリソン。
彼女は、わたしが遠い異国の地で出会った、
わたしの運命そのものだった――
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第一話 〜黄金の尖塔の国とあひると小公女〜
――なつかしい夢を見た。
それはいつだったか、わたしが八つか九つになったころ。
わたしが、サビルロー通りの洋品店で仕立てたばかりの服を着て、父と――そのころはまだ母ではなかったけれど――義母のヘレン、それに義弟のフェビアンとともに、ロンドンにあるアルバートホールに出かけたときのことだった。
もうすぐ義弟になるらしい[#「らしい」に傍点]一つ年下のフェビアンが、突然言った。
「おい、シャーロット。おまえの母親は、おまえを捨てたんだぞ」
わたしは、びっくりして凝り固まった。
「おまえのふしだら≠ネ母親は、おまえもおじさんも捨ててインド人のほかの男のところに行ったって。だから、おまえはふしだら≠フ娘なんだぞ!」
いまだったら、彼になにを言われたって、そんなふうになったりしない。
だけれど、そのときのわたしときたら、気が弱い上にひどい泣き虫で、突然パパ・ウィリアムの宣言によって家族になることになったこの少年に、毅然《き ぜん》と立ち向かえるだけの勇気をもちあわせていなかった。
「ふにゃっ……」
わたしは、すぐに泣きべそをかきはじめた。
フェビアンはひどい。
いつも、わたしのいやがることばっかりして、わたしを困らせる。
――たしかに、わたしには、ママはいない。
ママ・ミリセントは、わたしが生まれてすぐにいなくなった。
どこへ行ったのかはわからない。生きているのかも、死んでいるのかすらわからない。口《くち》さがないパパの親戚は、ママは別に男をつくってその男と逃げたのだ(その男は身分の低い下男だったとか、外国人だったとか)と口々に言った。
けれど、わたしは知っている。
パパ・ウィリアムだって、ママがいなくなるまえから、ずっとヘレンとつきあっていたってことを。
(ううん、そうなるもっと前から、ほかのいろんな女の人と恋人同士だったって、ママの妹のルーシーおばさまが言ってたわ)
つまり、わたしのパパは、すごくプレイボーイなのだ。ふしだらなのは、ママだけじゃない。わたしのあの変な病気――男の人に触られるとくしゃみがとまらなくなることだって、パパのせいで男嫌いになってしまったからにきまっている。
なのに!
「おまえの母親は、ふしだらでおまえを捨てたんだぞ!」
こんなことを言うなんて、ゆるせない。
ところが、彼のいやがらせは、そればかりでは済まなかった。なんと彼は、わたしが男の人に触られるとくしゃみがとまらなくなるのを知っていて、急にわたしの腕をつかんだのだ。
「ふぎゃっ!」
わたしは、まるでしっぽを踏まれた猫のようにとびあがった。
そして、案の定、
「は、は、はくしゅっ!」
わたしは、周りにたくさんの人がいたのにもかかわらず、盛大にくしゃみをしてしまったのだった。
「はくしゅん、はくしゅん、はくしゅん!!」
いつのころからか、わたしは男の人に触られるとくしゃみがとまらなくなるという、妙な病気にかかってしまった。
困ったことに、相手がどんな人でも――たとえ子供でも、教会の牧師さまでも――触られただけで、しばらくの間くしゃみが止まらなくなってしまうのだ。
「あはっ、あはははっ、やっぱりくしゃみをしやがった。あははははっ!」
わたしがくしゃみを連発するのを見て、フェビアンはげらげらと笑い出した。
まわりにいた人々も、なにが起こったのかといわんばかりに、くしゃみばかりしているわたしを奇異《きい》な目で見つめてくる。
恥ずかしさとみっともなさのあまり、わたしは消えてしまいたい思いでいっぱいだった。
「フェビアンのばかっ!」
それだけ叫ぶと、わたしはオペラを観《み》にやって来た人々の馬車で混雑する入り口を、逆方向に向かって走り出した。
(ばかばか、フェビアンのばか。だいきらい!)
「はくしゅん、はくしゅん、くしゅん!」
どれくらい走っただろう。くしゃみと涙と鼻水のせいで、そのときわたしはほとんど目の前が見えていなかった。
気がつくと、わたしは知らない場所にいた。
「ここは……」
きょろきょろと辺《あた》りを見回してみても、見覚えのない風景が広がっているばかりだ。
わたしは急に不安になった。
(わ、わたし、迷子になっちゃったんだ。どうしよう……)
いつのまにかくしゃみが止まったのも忘れて、わたしはまた泣きたくなった。
「泣いちゃだめだよ。|蜂蜜色の泣き虫さん《ハ ニ ー ・ ビ ー》」
突然、頭の上から不思議な声がした。
わたしは、思わず泣いていたことも忘れて、きょろきょろと辺りを見渡した。
だれも、いない。
なのに、声は降ってきた。
「どんなときでも、目は開けていなくちゃいけない」
わたしは、空をふりあおいだ。そして、
「あっ」
驚きのあまり、大口をあけて声をあげてしまった。
わたしに声をかけてきたのは、同じ歳くらいの少年だった。彼はなんと、ヴィクトリア女王の膝《ひざ》の上に座っていたのだ。
「よかった。泣きやんだね」
彼は、ひょいっと像の上から飛び降りると、あっというまに囲いを越えてわたしの側にやってきた。
(この子、がいこくじん、だ……)
わたしは、ショウウィンドウの外側でめずらしいおもちゃに見入る子供のように、彼の顔をまじまじと見つめていた。
その当時、わたしが住んでいる英国は世界中にたくさんの植民地をもっていたので、大都会のロンドンではインド人やアラブ人は珍しくなかった。ロンドンでも一、二を争う繁華街であるチープサイドには、いつも琥珀色《こ はくいろ》の顔をした子供たちが紳士たちの荷物持ちをして、ちょこまかと動き回っていたものだ。
けれど、今目の前にいるこの男の子は、それらのわたしの知っている外国人とはどれも違っていた。
(この子の瞳《ひとみ》……。ママの宝石箱の中にあった、あの真っ黒い宝石に似てる……)
それはオニキスという石で、遠い異国の地でしかとれないのだと、ルーシーおばさまが言っていた。
(きれいな色)
わたしが、あまりにも目と口を開けてまぬけな顔をしていたのだろう、彼はぷっと吹き出して、口元にこぶしを当てて笑った。
「おっきな目」
わたしはきょとんとした。
「|東の国のお茶《グリーンティ》みたいな色だ」
一瞬なにをいわれているのかわからなくて、わたしがまごついていると、彼は、
「ねえ、きみ、迷子なんだろ。アルバートホールに、家族といっしょにオペラを見に来た。……ちがう?」
わたしは勢いよく、コクコクと頷《うなず》いた。
「じゃあ、こっちだ。連れて行ってあげるよ」
そう言って、彼はなんと、強引にわたしの手をとろうとしたのだった。
(あっ、だめ。くしゃみ!)
「だめ!」
わたしは大声をあげて、彼の手を止めようとした。けれど、そのときにはとっくにわたしの小さな手は、その手の中にしっかりと握り込まれていた。
(やだ、くしゃみが出ちゃう!)
彼の手を振り払い、わたしは慌《あわ》てて両手で口をふさいだ。
いやだ。こんなところでくしゃみなんてしたくない。せっかく親切に道案内してくれるって言ってくれたのに、ここでくしゃみが止まらなくなったら、きっと呆《あき》れて放っておかれてしまう!
「…………れ?」
けれど、わたしが危惧《きぐ》したくしゃみは、いつまでたってもやってこなかった。
心配そうに少年が、わたしの顔をのぞき込んでくる。
「どうしたの。だいじょうぶ?」
わたしは、おそるおそる手を口から外してみた。
だいじょうぶだった。くしゃみは出ていない。
「うそ、こんなのはじめて」
怪訝《け げん》そうな顔をする少年には、わたしは自分が男の子に触られると――たとえそれが自分の親でも――くしゃみがとまらなくなるのだと説明した。
彼は、しばらく不思議そうにそのことを聞いていたが、やがてふうっと大きな目を細めて、
「じゃあ、きっと俺が特別製なんだよ」
と、自慢気《じ まんげ 》に言った。
「特別製?」
「そう、きみにとって俺が特別なんだ。だって、そうだろ」
俺だけが、くしゃみをしないんだから。
そんなふうに彼は囁《ささや》き、
「じゃあ、ずうっと、俺だけがきみのそばにいられるね」
まるでパパが女の人に言うような甘い台詞《せ り ふ》を、パパのようにきざったらしくなく、実に自然に言った。
わたしは、とても不思議な感じがした。
この、ふくよかなヴィクトリア女王様の像から降ってきた男の子が、自分にとって唯一のなにかになるなんて、ほんの少し前までは想像もできなかったのだ。
「ねえ。あなたは、インドの人なの?」
「半分だけね」
(インド……)
わたしは、本でしか読んだことのない国へ、思いをはせてみた。
ママがあこがれていた、英国の王冠にはめられた宝石=c…。好んで身につけたという黒い宝石、オニキス。
ママは、宝石箱の中のオニキスになにを見ていたのだろう。こんなふうに……、いまわたしの目の前にいる男の子のように、黒い瞳のだれかを想っていたのだろうか。
アルバートホールの前までわたしをつれていくと、彼は言った。
「俺は、明日にはロンドンを発《た》つけど」
そう言って、彼はもう一度わたしの手をとった。
「きみとはもう一度会えそうな気がする。俺の予感は、当たるんだ」
「どこで?」
「インドで」
ふいに、東のほうから風が吹いた。
それに呼ばれたように、彼は風の吹いてきた方角を見上げた。
わたしは息をのんだ。すぐ側にいるにもかかわらず、彼だけがそのとき風の中にいた。
まさしく|東風の神《エウロス》のように立っていたのだ。
(あ……)
わたしは、急に不安になった。エウロスなら、また行ってしまう。きっとヴィクトリア女王の膝の上にいたのは、渡り鳥のように羽根を休めていただけで、また風の吹くままにきままに、どこか遠くへ飛んで行ってしまうのだろう。
「い、行かないで!」
我知らず、わたしは叫んでいた。彼は驚いたように振り返り、そうしてまたふっと――初めて会ったときのように、大人びた顔をして微笑んだ。
「大丈夫、また、会えるよ」
そうして、わたしの両手を自分のそれでつつみこんだ。
「だって、俺は、きみだけの特別製だろ。シャーロット[#「シャーロット」に傍点]」
「え……」
いきなり名前を呼ばれて、わたしはびっくりした。そういえば、わたしは彼の名前を知らない。わたしの名前も、言った覚えはないのに……
「ねえ、あなたの名前は? 名前をおしえて」
わたしは急いで言った。でないと、そのまま彼が消えてしまいそうで、不安だったのだ。
彼は、風の吹く方角へ向けていた瞳を、ふっとわたしに向けて、
「アムリーシュ」
風の中で彼は言った。
――その目は、たしかにあの美しいオニキスと同じ色をしていた。
§ § §
「そろそろ起きなさい、シャーロット!」
「むにゃっ!」
義母ヘレンの声に頬《ほお》をたたかれて、わたしは船屋の中にあったカウチから飛び起きた。
(あ、よだれ……)
起きてすぐ、口元が濡《ぬ》れていることに気づく。いけないいけない。いつのまにか涎《よだれ》をたらして眠ってしまっていたんだわ。
わたしはぐいっと口元をぬぐった。よく見ると、ブーツのひもをといたまま勢いよくカウチに寝そべったせいで、ペチコートがめくれて、そこから足が見えてしまっている。
(ヘレンに見られなくてよかった)
わたしはそっと胸をなでおろした。もし見られていたら、『レディなのにはしたない』とこっぴどく叱《しか》られていたに違いない。
それにしても、どうしてあんな夢を見たんだろう。あの子のことはもうほとんど、顔も覚えていないのに……
わたしは、ふと思った。
(もしかして、インドに来たからかな)
「ねえヘレン、もうすぐ着くって、それってパンダリーコットに!?」
わたしは急いで靴ひもを上までむすび、フックにかかった帽子《ほうし 》を手にすると、一等の船室を飛び出しデッキまで駆け上がった。
P&Oライン社のランチという船でロンドンを出発したのが、約一カ月前のこと。わたしと義母のヘレンは、突然、パパ・ウィリアムからの呼び出しで、彼が大使をつとめる北インドの小さな国パンダリーコット藩王国へ行くことになった。
パンダリーコットは、名目上はイギリスから独立権を得ている小さな国だ。インドには、イギリス人が治めている直轄領のほかに、マハラジャと呼ばれるインドの王様が治めている藩王国が数多くある。
そこへ行くためには、テムズのドックからボンベイ行きの船にのり、スエズからインド洋に出なければならない。さらに船はパンダリーコットの首都アーリアシティに寄港したのち、インド第二の都市大ボンベイを目指す。
「ねえヘレン、パンダリーコットはほんとうに黄金の尖塔《せんとう》の国なのかしら。昔見たママの手紙には、たくさんのミナレットが立ち並んで、千塔の国っていわれているって書いてあった――……、わっ!」
ドアを開けたとたん、風がぶつかってきた。
風の匂いが違う。
どこかむっとした、煮詰めたような濃い風が吹いている。
そして、わたしは風の吹き付けてくる中で、おそるおそる目をあけ……
「うわあっ!」
わたしは、レディであることも忘れて、はしたなく大声をあげてしまった。
『親愛なる妹、ルーシー。お元気ですか。
パンダリーコットの都には、本当に千の黄金の塔が建っているのです。
たとえるならまるで、黄昏《たそがれ》の林へ迷い込んだよう……
青々とした海はトルコのスルタン選《よ》りすぐりの宝石を溶かしだしたようで、えんえんと続く白い絶壁の上にそびえ立つ塔の街は、私が見たインドの中でももっとも美しい。
あなたにも見せてあげたいわ。ぜひ、インドへいらっしゃいな』
ママ・ミリセントが、ルーシーおばさまへの手紙に書いていたそのままの景色が、わたしの目の前いっぱいに広がっていたのだった。
(わあ……!)
わたしはしばらく息をするのも忘れて、帽子のつばをおさえたまま、船が進んでいく先のほうを見入っていた。
ほんとうよ、ルーシーおばさま。
なにもかも、ママの言っていたとおり。
おばさまといっしょに、ここへ来たかったわ。ヘレンなんかじゃなくて、おばさまといっしょなら、どんなにかよかったでしょうに。
船はゆうゆうと、鯨《くじら》の喉《のど》のような白い絶壁の横を通り過ぎて、まさにドックに入ろうとしていた。
そのとき、わたしの目は、世にも奇妙なものを見つけてしまったのだった。
中世の修道院を思わせるような――、切り立った白い崖《がけ》の上ぎりぎりに建つ古い教会。
そこから見える背の高い建物のほとんどがモスクのミナレットである中で、その十字架をかかげる教会はぽつんと異色だった。
なんとその、教会のてっぺんの十字架の上に、
女の子が、座っていたのだ。
「うそ……」
わたしは驚きのあまり、帽子のつばを押さえていたのも忘れて、もっとよく見ようと手すりから身を乗り出した。
すると、びゅっと強い風が吹いて、
「ああっ!」
レースのついたわたしのとっておきのレモンイエローの帽子をすくいあげた。
わたしの帽子はあっというまに風にとばされて、まるでサーカスの鳥の黄色い羽のようにひらひらと海の上に舞い上がった。
(ど、ど、どーしよう……!)
わたしは真っ青になった。あれほどヘレンに船の上は風が強いから気を付けなさいと言われていたのに、こんな船旅の最後になってなくしてしまうなんて!
「うそおおっ、ヤダ、戻ってきて。帰ってきてようう」
そんなわたしの悲鳴が、聞こえたはずはない。
もしくは、あんな小さなものが、あの十字架から見えていたとも思えない。
けれど、わたしには、その女の子がわたしのほうを見たような気がしたのだった。
(こっちを、見た!)
たしかにその女の子は、こっちを向いているように見えた。わたしもまた、彼女のほうをじいっと食い入るように見つめていた。
やがて、船は切り立った崖を通り過ぎ、アーリアシティの港に飲み込まれていき、彼女の姿は見えなくなった。
「シャーローット! なにをしているの。はやく自分の荷物を持ちなさい」
ヘレンのがみがみ声が聞こえて、わたしははっと我に返った。
「ねえヘレン、聞いて。教会の十字架に、天使さまが座っていたの。わたしたちをきっと歓迎してくださっているんだわ!」
義母のヘレンは、いつまでたっても生み立ての玉子のようにつるりとした顔にしわを寄せて言った。
「なにをばかなことを言っているのよ、この妄想娘!」
ぴしゃっといつものをやられて、わたしはうっとびびりあがった。
「十四にもなって、なにが天使さまなの。あなたがいつまでもそんなだから、あなたのお父様はあなたのことばかり気にかけるんじゃないの」
フェビアンという十三歳の男の子の母親でもあるヘレンは、いまいましそうにわたしを一瞥《いちべつ》した。わたしは食い下がった。
「でも、フェビアンのほんとうのお父様は、ウィリアム父さまじゃないから」
「おだまりなさい、脳天気娘」
「むにゃっ」
「そのむにゃっとかふにゃっとか言うのはおやめなさい。十四にもなってはずかしい」
「う……う……」
「ウィリアムはまだまだあなたを子供だっていうけど、私はもう子供扱いはしませんからね。いいですか、シャーロット。あなたのお父様と結婚したのだから、フェビアンはこのシンクレア家のあととりなのです。だから、多少の無理をしてでも、イートン校に入れるように勧《すす》めたのですから」
ヘレンはおおげさにため息をついてみせた。
「まったく、ルーシーが甘やかすから、その歳になって友達もいない、レディ教育もなってないなんていうみっともない娘ができあがるんだわ。いい、私はルーシーとは違います。あなたを恥ずかしくないレディに教育することが、母親たる私のつとめなんですからね。さ、わかったら、さっさと馬車に乗るのよ!」
ポーターが艀《はしけ》からどんどんと荷物を運び出している間、ヘレンは足下に絨毯《じゅうたん》が敷かれるまで根気強くその場を動こうとはしなかった。ま深に帽子をかぶり、この暑さだというのにぴっちりと一分《いちぶ 》の隙もみせぬように手袋をしている、
たしかに、そういうところが彼女が社交界で|完璧な貴婦人《パーフェクト・レディ》≠ニ呼ばれる所以《ゆ え ん》なのだろう。
でも、わたしはうんざりと思っていた。
(足場が悪いなら、避けて歩けばいいのに……)
そのとき、ヘレンの足下になにか白くておおきなかたまりが体当たりしてきた。
「ぎゃっ」
それは、黄色いくちばしのアヒルだった。お腹がすいているのか、がーがーと呻《うめ》きながらヘレンにまとわりついている。
「しっ、しっ、向こうへお行き。行かないと蹴飛《けと》ばすわよ」
言って、ヘレンは何度もアヒルを蹴ろうとする。
「ひどいわヘレン、蹴飛ばすなんて!」
わたしは、あわててアヒルをかばいに入った。
「ねえ、それにこの子、めずらしい模様をしてるわ。おしりの羽根だけ茶色いの。まるでおむつをしているみたいね。ねえヘレン……」
「おかあさまと呼びなさいと言ったでしょう!」
勢いよく扇子を閉じるときのようにぴしゃりと言われて、わたしはあわわと肩をふるわせた。
「それに、帽子はどうしたの。あの黄色い帽子は。まさか無くしたんじゃないでしょうね」
「あの、か、風にとばされて……」
「おお、なんてこと」
ヘレンはおおげさに、手袋をはめた手を額にあてて言った。
「帽子もかぶらずに院長さまに挨拶《あいさつ》をするなんて、私の教育がなってないと思われてしまうじゃない。どうしてあなたはそんなにがさつに育ってしまったの。母親がいないとこうなるのかしら……、まったく!」
ようやく、ヘレンの足下に絨毯が敷かれた。ヘレンはわたしになにも言わず、絨毯の先に待っている小さな馬車――浅黒い顔のポーターがわたしたちの荷物を積み上げている――に乗り込もうとしている。
「じゃあまたね、おむつをはいたアヒルさん」
わたしはビスケットのかたまりをアヒルのほうに投げると、あわてて馬車のほうへ走っていった。
「いいですか。今から伺《うかが》うオルガ女学院は、元カルカッタ判事夫人が創設されたレディのための学校で、年間百二十ギニーもするのですよ。あなたもそのことを頭にいれて、よく学びお友達たちとなかよくするように。くれぐれも私やフェビアンの名前に泥をぬらないでちょうだい」
百二十ギニーなんて、
と、わたしは内心毒づく。
(フェビアンの学校はその倍以上するくせに……)
なぜか、馬車の窓にはぴっちりとカーテンが閉められていて、外の様子をうかがい知ることはできなかった。わたしは、ヘレンがなにか言うのもかまわず、椅子の上に膝をのせてカーテンの向こうをのぞき見た。
「すごいわ。道ばたに牛がねているわ。どうして牛がこんなところにいるのかしら!」
わたしは興奮のあまり、頬を真っ赤にして叫んだ。
「みんな服を着ていないけれど、暑いのかしら。あっ、お茶が売ってる。カップがちいさーい。見てみてヘレン、インドじゃガチョウまで野良なのよ。ロンドンにいたら、みんなフォアグラにされちゃうわ。インドの人はフォアグラは食べないのかしら……。あっ、アヒル! あっちには野良の孔雀。うそっ、くじゃく!? はやく逃げないと、みんな帽子にされちゃうわよ。あっ、また牛!」
「うるさい。静かにしなさい!!」
ついに、ヘレンの雷が落ちた。
「じっと座っていなさい。どうしてあなたはそうなの!?」
「だ、だって、この窓にカーテンかかってて、よく見えなくて……」
「見なくてもいいものだから、そうしてあるんです」
そっけなくヘレンは言った。わたしは、おっかなびっくり反論した。
「見なくてもいいってどうして。だってわたし、いまからここに住むんでしょう。はやくパンダリーコットに慣れて、いろいろ覚えないといけないわ。だから……」
「そんな必要はありません」
「必要ないって、ど、どうして」
「こんな街中にあなたが出てくることはないからです」
「えっ」
そんなことを話している間にも、わたしたちの乗った馬はどこかの門をくぐりぬけていった。
「今通ったのが、わたしたちの王国《ステーション》の境界です。あなたはここから外に出ることはありません」
「ステーション、て……?」
「それはおいおいわかるでしょう。さあ、着きましたよ」
それは、あの門をくぐってあっという間のことだった。
御者がドアを開けたので、わたしたちは、今度は綺麗にしきつめられた石畳の上に降り立った。なるほど、ヘレンが絨毯を待たなかったはずだ、とわたしは思った。
(ここは……)
馬車を降りてまわりをぐるりと見わたしたとき、ふいに奇妙な既視感《き し かん》がわたしをおそった。
(さっき、馬車から見たのとぜんぜんちがう)
そこには、先ほど馬車から見たせわしないほどの立て看板も、路上の物売りも喧騒《けんそう》もなかった。もちろん、道に牛はいない。
石畳できちんと舗装された道、そして綺麗に区画整備されているストリート、角に貼られた英語のストリートサイン。そして赤いレンガと石造りの街並み……
どう見ても、そこはロンドンだった。
「やっぱりステーションの内はほっとするわ」
と、ヘレンが安心したように息をついた。
「ねえ、ヘレン。どうしてここは、ロンドンみたいなの?」
疑問を疑問のままにしておくことにむずかゆさを感じてしまうわたしは、すぐに思ったことをそのまま聞いてみるたちだった。
「だって、ここには牛はいないわ。道ばたでものを売っている人もいない。道は水たまりもないし、そもそも人がいない。ここはどこなの。ステーションっていったい」
すると、
「ミセス・シンクレア」
わたしたちの馬車を運転してきた男の子が、御者台から降りてヘレンを呼んだ。きれいなお仕着せを着ているところを見ると、ここで働いている使用人のようだ。
日が合うと、彼はにこっと人好きのする顔で笑った。
「こちらが玄関です。副院長先生が中でお待ちです」
ヘレンは御者の少年に向かって横柄《おうへい》にうなずくと、帽子の位置を少しととのえて中に入ろうとした。わたしは、その少年と距離をとりながら後ろにつづいた。
もし、何かの拍子に触ってしまうと例のあの病気≠ェ出てしまうからだ。
(ごめんね、あなたが嫌いなわけじゃないんだけれど……)
なんとなく、あたりの風景を見回していたそのとき、わたしはいまからわたしたちが入ろうとしている建物のすぐ近くに、あの切り立った崖の上に建っていた教会があることに気づいた。
「あっ!」
そして、わたしはその先端に、だれかが座っているのを見つけてしまったのだった。
(あのときの彼女だ!)
それは直感だった。
「シャーロット、どうしたの?」
ヘレンが、怪訝そうな顔でわたしを振り返る。しかし、いてもたってもいられなくなったわたしは、入り口に立っているヘレンをつきとばすようにして中に押し入り、
「シャーロット!?」
悲鳴のように自分を呼ぶヘレンにもおかまいなしに、学院の中の階段をかけあがった。
「シャーロット、なにをするの!?」
わたしは無我夢中で階段をのぼった。そして、めいっぱい登り切ると、きょろきょろと辺りを見渡した。少し開いている扉があった。思った通り、ここは屋根裏だ。メイドか使用人の子の部屋なのかもしれない。
天窓があった。わたしは机の上によじ登って、その天窓を力任せに思いっきり開け放った。
「あ――」
ばささっ、といくつもの羽音がした。
天窓の開いた音に驚いたのだろう、わたしの目の前を、何十羽という白いハトが飛び去っていく。
風が、渡ってくる。
わたしは、吐息《と いき》した。
すばらしい光景だった。
「波のように続く屋根の向こうに、わたしは見る――=v
十八世紀の詩人ボードレールが、人工の波のようだと言った、いくつもかさなって続く屋根。彼が屋根裏部屋からパリをたたえたそのままのフレーズを、わたしはなぜかそのとき、頭に思い浮かべていた。
すると、声がした。
「ボードレールね」
きれいななまりのないキングス・イングリッシュだった。わたしの目は、折り重なってつづく屋根の向こうの教会の尖塔をとらえた。
そこに、彼女はいた。
彼女は、不遜《ふ そん》にも十字架の上に腰掛けて、じっとわたしのほうを見つめていた。
わたしは、その目にすいこまれるように視線をあわせ……、そして、
「!?」
その一瞬、
プロメシウスのように、彼女が天から奪ってきた火≠ェ、わたしの心をつらぬいた。
わたしは、神経を火であぶられたように身動きした。
(な、なに……)
それは、一見奇妙な言いかたかもしれないが、ほんとうにほんとうのことだった。もっとわかりやすく例えるなら、いままでわたしが何重にも隠していた心にじかに触れられたような、そして視線だけで深く深くえぐりとられたような――そんな感じがしたのだった。
わたしは、寒くもないのにぶるりと震えた。ああ、ほんとうに心というのが体の中にあって、だからこんなにも震えているんだ。心が震えているから、震えるんだと思った。
「こんにちは」
彼女は、わたしにそう言って話しかけてきた。そこでわたしは、ようやく息をすることを思いだした。
よく見ると、彼女は、ウェールズの古い石造りの家壁にはえた苔《こけ》を思わせる、深い緑色のスカートをはいていた。バターを少し加えたときのミルク色のブラウスは、首もとまでをきっちり隠したハイネックで、上品なレースが縦にならび、カメオつきのヴェルヴェットリボンがついている。
しかし、なによりも目を惹くいたのは、彼女の容姿だった。
黒い瞳をしていた。
(すごい、きれいな子……)
ここからでも見える長い黒い睫毛《まつげ 》が、わたしたち西洋人がけっして持つことはない、神秘的な色をたたえた両目をくっきりとふちどっている。つやのある長い黒髪は、風に梳《す》かれるままにゆんわりと流れ、| 唇 《くちびる》はまるで、咲いたばかりのばらの花びらを一枚だけくわえているかのようだった。
神秘的、ということばがこれほど当てはまる子はほかにいないだろうと思った。
わたしは思わず、うっとりとなった。
(きっとロンドン中の劇場をさがしたって、こんなに綺麗な子はいないわ)
そう。まるで、彼女はあのママの宝石箱の中にあったオニキスのようなのだった。
(うん?)
なぜか、そのフレーズが頭の裏にひっかかった。
(わたし、どこかで、そんな人に会ったことがあったっけ……)
むくむくとわたしの妄想ぐせが起きあがってきて、思わずわたしは言った。
「あ、あなたはエウロスなの。それとも天使さま?」
彼女は、驚いた目でわたしを見た。
「ねえ、そこでなにをしてるの。そこからは、天国《エ デ ン》が見える?」
「天国《スーガ》=H」
彼女は、ちょっと笑った。それから、ゆっくりと耳の後ろに髪をかきあげながら、
「私のこと、天使に見えるの?」
わたしはすぐさま肯定《こうてい》した。
「なぜ」
「だって、とてもきれいだから」
言ってから、なぜかかあっと顔が赤くなった。同性の、しかも歳がおなじくらいの女の子に、こんなことを伝えたのは生まれてはじめてだった。
すると、彼女は十字架の上から、
「私がほんとうに天使で、いまから天国に帰るんだとしたら、……どうする?」
と、言った。わたしはびっくりした。そんなふうに切り返されるとは、思ってもいなかったからだ。
「ほんとに天国にいくの、あなたはほんとにほんとに、天使さまなの?」
「もしかしたら、そうなのかも」
口の端をちょっとだけあげて微笑む少女は、天使というより悪戯《いたずら》を思いついた小悪魔を思わせた。
わたしは、自分でも知らないうちに口をひらいていた。
「……じゃあ、ママに手紙を書くわ」
口にしたとたん、胸の中にコーヒーのような苦さが広がった。
――三年前のことだった。
わたしのママ、ミリセントが死んだ。
ほんとうに突然のことだった。インドのマドラスという街で、ママによく似た死体が河からあがったという情報が、パパのもとに寄せられたのだ。
パパはすぐさま飛行機でインドに向かい、数日後、ヘレンとわたしの母親がわりのルーシーおばさまに、その死体はママに間違いなかったという電報をよこした。
パパの親戚のおばさまがたは、ママが愛人と二人でインドへ駆け落ちして、捨てられたのだろうと勝手に結論付けてしまっていた。ヘレンはヘレンで、世間体が悪いからわたしには二度とママのことは口にしないように念を押した。
最後まで、パパはママのお葬式を出すのをいやがっていた。結局、ママのお葬式はルーシーおばさまがだんどりして出した。
(ママ、もう天国にいるの?)
わたしは、心の中でママに向かってそう語りかけた。
――ママのことは、ほとんど記憶にない。
当然だ。わたしがまだ赤ちゃんのときに、出て行ってしまったのだから。
けれど、こんなふうにあっけなく終わってしまうとは思わなかった。こんなふうに、知らない間に遠い異国の地で死んでしまうなんて。
(いつか……、いつかきっと戻ってきてくれると信じていたのに)
「ねえ、ママに手紙を書いたら届けてくれる? 勝手に死んでしまうなんてひどいって書くから、ママに渡してくれる?」
彼女を責めるつもりはなかったのに、だんだんと声が大きくなった。
「わたしのこと捨てたのに、どうして天国にいるのって怒ってくれる? そうしたらわたし、ママのこと忘れるわ。ヘレンのこと、ママって呼ぶわ」
すると、彼女はちょっと顔を曇《くも》らせて、
「ごめんなさい。天使じゃないの」
と、自分の正体をあかした。
そうして、十字架に足をかけると、鳥のようなかろやかさでふわりと学院の屋根の上に降り立った。
「ほら」
ふいに、彼女がわたしの手を握った。そのまま、ゆっくりと自分のほうへもっていく。
「触って」
「えっ」
「ちゃんと触れるから」
彼女は、どこかおごそかに言った。
「私は、カーリーガード=アリソン」
二粒の美しいオニキスが、わたしを愛《いと》おしげに見つめていた。
「私は、消えてしまったりしない」
息がとまった。
「…………っ」
それは、まったく思いもかけない衝撃《しょうげき》だった。
よく本なんかで見かける、ハートのマークにはいったひび。あんなふうに、たったいま、わたしの心に亀裂《き れつ》が走ったのだ。
「ふえっ……」
突然、わたしの喉がなさけない声をあげた。そして、それがなにかの合図であったかのように、わたしの両目には、大量の水が堰《せき》をきってあふれはじめた。
「うえっ、うえええええっ、うわあああああああん、わあああああああああん!」
はじめて会った女の子の前で、こんな泣き声をあげてしまうなんて……、そんなふうに冷静に考えていられたのもほんの少しだけだった。
(ママ、ママ!)
わたしを赤ん坊のときに捨てて、出て行ってしまった、わたしのママ。
ずっと戻ってきてくれると思ってた。信じていたの。じっと黙って我慢していたら、ヘレンや、パパや、意地悪なフェビアンや、うるさい親戚のおばさまたちから、わたしを助けにきてくれるって。
でも、そんなのは嘘《うそ》だったのね。ヘレンのいうように、わたしの勝手な妄想でしかなかったのね。
弱いわたしが、そう思いこんでいただけ。わたしがきっとこんなに辛《つら》いのは、ママがいないからだって。ママさえ戻ってきてくれたら、きっとなにもかも良くなるって。
インドに来たのだって!
ルーシーおばさまの出たむこうの有名な女子校を薦《すす》められていたのに、わざわざパンダリーコットに来たのだって、もしかしたらママに会えるかもしれないって、――本当は生きていて、わたしに会いたがっているかもしれないって、そう思ったからだった。
(でも、ママはいない)
わたしは、口の中に広がった涙の塩味とともに、その現実を飲み込んだ。
――とっくに、わかっていたのだ。
はじめから、ママなんていなかった。
ママは、わたしを捨てた。
パパもヘレンも、みんな、現実を受け止めていた。
ただ、わたしだけが気づかないふりをしていただけ。
「うわあああああん。うえええええええええん、えええええええん!」
わたしは、見知らぬ女の子の胸にすがりついて、はしたないくらいに泣きじゃくった。自分でもこれは恥ずかしいと思ったが、こみ上げてくるしゃっくりと涙と鼻水の三重奏で、どうにもこうにも止まらなくなった。
泣きながら、わたしは思った。
ヘレンのことを、ママと呼ぼうと。
「うっく、えっく、ひいっく……、うっく……」
わたしがものすごい顔を押しつけている間、彼女は微動《び どう》だにせずにわたしを抱きしめていてくれた。なぜか、あまりやわらかくないにもかかわらず、わたしにはその場所が居心地よかった。
「泣いても、いいよ」
わたしは、その目に惹《ひ》かれるように顔をあげた。
「でも、目をつぶって泣いちゃいけない。どんなときでも目を開けていて。それが、きっといつかあなたを助ける。シャーロット」
黒い――でもどこか透明感のあるオニキスの両目が、わたしをじっと見つめている。その目は、わたしがいままで見たどんなものより美しかった。
「信じて」
その瞳に、わたしは心ごと魂を吸い取られた。
思わずふにゃっと言ってしまったわたしに、彼女は微笑み、
「かわいい、シャーロット」
耳元で吐息のように言われて、わたしは震えた。
「ずっと、そばにいるから」
――それが、わたしとカーリーとの出会いだった。
§ § §
カーリーは、とても美しい少女だった。
わたしはその当時から、大きくなったらスーザン=フェリアーやキャサリン=ゴアのような小説家になりたいと思っていたので、彼女のように美しく神秘的な存在は、そこにあるだけで想像力をいたく刺激した。
彼女を見るたびに、わたしは大好きなイギリスの詩人バイロンが、黒髪のカディスの乙女を――カディスはスペインの港だが――たたえた詩を思い出した。
その娘の眼の色こそ碧《みどり》ではないが、
髪の色こそ、黄金でないが、
その想いあふれるばかりの色は、
ものうい碧眼《へきがん》などとはくらべものにもならない……
もうひとつわたしにとって喜ばしいことに、カーリーは、わたしと同じオルガ女学院に通う女学生だった。
「ここオルガ女学院は、主にインドに住むイギリス人の子女を預かっている私学校なの」
と、寄付金集めに外出しているという学院長のかわりに、ルームメイトになったばかりの彼女が、この学校についていろいろなことを教えてくれた。
(カーリーと同室なんて、すっごくラッキーだわ)
わたしは、興奮した。
これからはずっと、彼女といっしょにいられる。彼女といっしょにお風呂に入ったり、彼女といっしょに寝たり、彼女といっしょに遊んだりできるのだ。
それは、どんなにか素敵なことだろう!
「生徒の年齢はいろいろよ。九歳から、だいたい一九歳くらい。みんなあなたのように、父親が植民地政府につとめていたり、軍人だったり……。イギリス人だけじゃなくて、いろいろな国の子がいる。アメリカ人とかユダヤ人、アングロ・インディアも」
「アングロ・インディアって?」
「インド生まれのイギリス人ってこと。ここはハーフの子も多いわ」
「あの……、じゃあ、カーリーもそうなの?」
おそるおそる口にしたわたしに、彼女はちょっと笑って、
「ええ、私は父が|クジャラート《 イ ン ド》人で、母がイギリス人なの。といっても、母はすぐに亡くなったから、顔も知らないのだけれど」
「そうなの……」
(そっか……。カーリーってわたしと同じで、お母さんがいないん)
わたしは、初めて会ったときのあの魂のゆさぶられるような感覚は、自分と彼女が同じような境遇《きょうぐう》だったからかもしれないと思った。
聞けば彼女は、いままでも父親の仕事の都合で、世界中を転々としてきたのだという。この学院に転入したのは、わたしよりも半年くらい前だということだった。
「わたしだけじゃないわ。ここは主にそういう子が多いから」
カーリーはわたしよりずっと早足で学校の中を案内した。わたしが、どうしてあんな高いところ(しかも十字架の上に!)に座っているのかと開くと、彼女は、今日着くというわたしの船を待っていたと答えた。
「気にしないで。私はああいうことをよくやるから」
「ああいうことって、十字架に座ったりすること?」
「ええ、あそこからよく海を見ているの。あんまり暑い日には海に飛びこみたくなるわ」
「海に!?」
わたしはびっくりして、目を丸くした。
「じょ、じょうだんでしょ。だって、あそこものすごく高いじゃない!」
わたしの問いに、彼女はちょっと笑っただけでなにも言わなかった。
わたしたちの寄宿寮となる建物は、中庭をぐるっとかこんだ南側にあった。カーリーはいのいちばんに、このわたしの部屋になる四階にわたしを案内した。
「十三歳以下は五人部屋なの。私とあなたは二人部屋。いままで私が一人で使っていたから」
「カーリーはいくつなの?」
「十三」
(あらら、じゃあわたしのほうが一つだけおねえさんなんじゃない)
わたしは、彼女のほうを今までとは違った目で見つめた。彼女はすらりとして背が高かったので、当然わたしより年上だと思っていたのだった。
(しっかりしているように見えるけれど、きっと心細いこともたくさんあるに違いないわ。そういうときはわたしがしっかりしなくっちゃ。なんたって、今日からは家族同然なんですもの!)
「こ、こほん」
わたしはおもむろに咳払いすると、胸に手を当てて言った。
「ね、ねえ、これからは困ったことがあったら、なんでもわたしに言ってね。カーリー。わたしのほうが年上なんだし、頼りにしてくれてかまわないわよ」
彼女は、ちょっとだけ目をまるくして、
「え、ああ、うん……」
それから、急に背をむけると、しゃっくりをこらえているような動きをしていた。
「どうしたの、カーリー」
よく見ると、彼女の肩がぶるぶると震えている。
(もしかしてわたし、わ、笑われてる……??)
わたしは、ちょっとだけ傷ついた。
「ベッドメイクはみな使用人がするから、洗濯物はこの籠《かご》にいれて毎朝授業に出る前に部屋の外に置いておいて」
ひとしきり笑いを噛《か》みくだいたあと、カーリーは、てきぱきとわたしに学院生活で必要なことを説明していった。
「それから、食事は六時半からで、朝食室は一階の奥。そのまえに毎朝礼拝があるから五時起きよ」
「五時!?」
「授業は八時から」
「そうか。イギリスの学校より少し早いのね」
「ここの学校は、お隣の聖クララ修道院と関係が深いの。だから、学校の行事も修道院の生活に準じていることが多いのよ。日曜にはバザーのお手伝いもするし、炊《た》き出《だ》しに出かけたりもする」
「ふうん」
「浴室は地下ね。学年順にドアサインが回ってくるから、入る前にドアにそれをかけてから使って。腰湯《こしゆ 》はダメ。基本的にルームメイトといっしょに入るけれど、お風呂の時間になったらメイドがずっといてくれるから寒くない。あとトイレはメイドを呼べば手伝ってくれる」
「手伝う!?」
わたしはぎょっとした。
「え、だ、だって、トイレなんて自分でできるわ」
カーリーはくすっと笑って、
「だいじょうぶ。ちゃんと下の階にあるわよ」
トイレの個室があると聞いて、わたしはほっと胸をなで下ろした。たしかに少し前までは、トイレをするときは部屋でメイドに手伝ってもらうなんてこともあったらしいが、いまではほとんどの家庭で屋内にトイレが作られるようになっている。
わたしのチェイニー・ウォークの家にだって、陶器製のサイフォン式トイレがちゃあんと完備されていたのだ。
(いまどきチェインバーポットに用を足すなんて、時代錯誤もいいところだわ)
と、わたしは思ったが、このとき感じた違和感は、あとあとになって確信となってわたしを困惑させ続けることになるのだった。
「使用人は、全部で七人いるわ。今日あなたが玄関で会ったのが、一番若いジェン。なにかあったら彼を呼ぶといいと思う」
「ふんふん」
わたしは、あの人なつっこそうな笑顔のインド人の少年を思い浮かべた。歳も近そうだし、いい友達になれるといいと思いながら。
「ねえ、あの人もメイドさん?」
わたしは、そのときたまたま目の前を通りかかった、見慣れないお仕着せを着たメイドの方を見て言った。彼女は、ほかの使用人達とは違って、白人だったのだ。
すると、カーリーはなぜか意味ありげな目線を彼女にくべながら、
「そうだけど、彼女はアーヤとは違う」
「アーヤ?」
「インド人のメイドのこと。ジェイミーというのだけれど、ここのメイドではないの」
彼女の言っている意味がよくわからなくて、わたしはちょこんと首をかしげた。
「でも、メイドじゃないなら、どうしてここに」
「ジェイミーはヴェロニカのメイドなのよ。だから、ヴェロニカの世話しかしない」
「ヴェロニカって?」
「それは……」
まだカーリーの説明が続いていたというのに、彼女の声はカランカランという大きな鐘の音にかき消されてしまった。
彼女が、おもむろに上を指さして言った。
「これが終業の鐘よ。修道院の鐘と似ているからややこしいの。次は学院長先生の授業だから、いまから参加しましょう」
(授業!)
どきん、と心臓が鳴った。
いったい、どんな娘たちがいるんだろう。教室が近づくに連れて、わたしの胸は音楽隊が打つ小太鼓のように早打ちをはじめた。
(今度こそ、今度こそ、友達を作るのよシャーロット。まずは、おとなりの子に話しかけて……、それからにっこり笑うの。あんなに練習したんだもの。できるわよね)
ロンドンにいたころ、極端な引《ひ》っ込《こ》み思案《じ あん》でろくに学校にも行けなかったわたしは、ここインドでこそ友達をつくろうと意気込んでいたのだった。
きっと、ここパンダリーコットの地は、ロンドンの堅苦しい貴族社会とは違って、なにもかもが自由に違いない。
礼儀礼儀と口うるさいヘレンや、なにかというとつっかかってくる意地悪なフェビアンも、結婚のことばかりいう親戚のおばさまがたもいない。
だって、ここはインド。なにもかもが自由な異国なのだ。
(自由=@それはなんてすてきな言葉だろう!)
わたしの胸の中は、新しいルームメイトやこれからはじまるであろう新しい生活への期待でいっぱいだった。事実わたしはそのとき、この新しい世界では、どんなことでもできる気がしていたのだった。
――そのときまでは。
「ここよ。いい?」
カーリーがドアをあけると、終業したばかりでざわついていた教室が、急にしいんとなった。
(うわっ、き、きんちょうする)
何十本という視線が、わたしの頬や体のほうにつきさすように向けられる。カーリーは、わたしを窓際の空いている席に連れていってくれた。
椅子に座って顔を上げると、教室にいたさまざまな年齢の少女達が、みな興味しんしんといった顔でわたしを見つめている……
「ねえ、あなた」
わたしははっと顔をあげた。すぐ側から、舌っ足らずな声がした。
わたしが顔を向けると、丸いフレームの眼鏡をかけたおさげの少女がこちらを向いていた。
「あなた、学院長先生がおっしゃっていた、転入生よね。お名前なんてゆうの?」
彼女はにこっと笑った。笑顔が、まるでふわふわにふくらんだスコーンのようにやわらかいのが好印象だった。
「わたしは、ヘンリエッタ=モーガン。ヘンリエッタよ」
「わ、わたし、シャーロット。シャーロット=シンクレア!」
ざわっと、教室のざわめきがいちだんと大きくなった気がした。わたしは声が大きかっただろうかと、あわてて口を手でふさいだ。
(な、なに。なんなの。わたしなにかヘンなことした?)
ざわめきがおさまらないので、わたしは、話しかけてきてくれたヘンリエッタに、ほんの少しこわばった笑顔を向けた。
「あの……、よろしくね」
「こちらこそよろしく、シャーロット」
ヘンリエッタは良い子らしかった。緊張のあまり、ゆでる前のパスタのようにかちこちになっているわたしに、いっしょうけんめい話しかけてくれた。
わたしは、お隣の子とのあいさつがうまくいったことにほっとした。
「ねえ、シャーロットは、カーリーと同室ってほんとう?」
「うん」
「うわあ、ほんとうにそうだったんだ。いいなあ」
わたしはきょとんとした。なぜそこでいいなあ≠ニいう感想がでてくるのか、いまいちぴんとこなかったからだ。
わたしがまじまじと彼女を見返すと、ヘンリエッタは急にかああっと顔を赤くして、それから顔を両手で隠しながら言った。
「ち、ちがうの。でも、カーリーはあの……、あんなふうにとっても綺麗、でしょう? だから……その……」
そこまで言って、またもやかあああっと顔を赤らめた。まるで、スコーンにまちがえてケチャップをぶちまけたみたいに。
(ああ、そうかあ)
と、わたしは、自分の席で静かに本を読んでいるカーリーの横顔をそっと盗み見た。
頬のラインに長い黒髪がかかって、長い睫毛の奥の目だけが、夜の星のような光をやどしている。
とても、きれいだった。
ああ、カーリーはなにをしていても絵になる美少女なのだった。あんなにきれいだったら、同じ年頃のヘンリエッタが密かにあこがれていても不思議じゃない。
事実、この教室の娘たちは、みなどこかカーリーのことを気にしているらしく、そろそろと遠巻きに様子をうかがっている。
「ね、じゃあ、わたしたちの部屋に遊びにいらっしゃいな」
わたしたち、というところに、わたしはなんとなく気分のよさを感じた。
「えっ、あっ、あの……、いいの?」
「だって、こういう学校って真夜中にお茶会をしたりするんでしょう。わたし、ロンドンからジャファケーキを持ってきたの。日持ちするって聞いていたけど、こんなに暑いとチョコレートが溶けそうだから、早めに食べてしまわなきゃって。ねえ、みんなで食べましょうよ」
ジャファケーキはやわらかいクッキー生地の上にオレンジゼリーがのり、その上からチョコレートでコーティングしたお菓子で、わたしがロンドンにいたころ、ものすごく流行っていたのだった。
ジャファケーキのことを知らないらしいヘンリエッタは、不思議そうに目をまるくしていたが、
「楽しそうね」
と、ようやく赤みのとれてきた顔でにっこり笑った。
「でも、そういうのは、まずヴェロニカにもっていったほうがよくないかしら?」
「ヴェロニカ?」
またヴェロニカだ、とわたしは顔をしかめた。さっきから、カーリーもよく彼女の名前を口にしていた。
「ねえ、そのヴェロニカって、だれなの?」
すると、ヘンリエッタは、まるで聞かれたくなかったことを聞かれたように、びくりと肩をふるわせた。
「それは……」
「ねえ、その人って専属のメイドがいるってほんとう? この寮《ハウス》の監督生《プリーフェクト》なの? どうしてみんな彼女のことばっかり言うのかし――」
「「それはね」」[#「「は底本では重なっている]
急にヘンリエッタでもカーリーでもない声が、わたしたちの間にわりこんできた。
わたしが顔をあげると、そこに知らない顔――それもふたつ同じものが並んでいたのだった。
彼女たちのどちらかが、ふいにわたしの肩をつかんだ。
「ふぎゃっ」
わたしはあんまりにもびっくりして、ヘレンにいいかげんやめなさいと言われた、猫がしっぽを踏まれたときのような声をあげてしまった。
「それは、ヴェロニカが」
「ここでいちばん」
「えらい」
「からよ」
と、彼女たちは交互に言った。
「ふ、双子?」
「ベアトリス=エコーと」
「サリー=エコーよ。ふふん」
どうやら一卵性の双子らしい彼女たちは、まったく同じ顔に声でそう自己紹介した。
彼女たちは、ヘンリエッタを隠すようにわたしの前にたちはだかって、
「ねえ、あなた。あなたのお父様はどういったお仕事をしていらっしゃるの?」
「えっ?」
どうしてここでパパの仕事のことを聞かれるのだろうと思いながら、わたしは言った。
「イ、インド省の仕事をしているって、言っていたけど……」
「地方の県判事なのかしら。ふふん」
「ベンガルの?」
「それとも、ビルマ? パンジャーブあたりかしら」
彼女たちの質問の意図をよくつかめないまま、わたしは何気《なにげ 》なくそれを口にした。
「パンダリーコットの、大使だって言っていたけど……」
「大使!?」
その瞬間、静かだった教室の中が急に騒がしくなった。わたしは、まわりにいた少女たちが、みんなわたしたちの会話に聞き耳を立てていたことを知った。
「あの子のパパ、大使なんだって」
「じゃあ、パンダリーコットでいちばん偉い人ってこと?」
「マハラジャの次にね」
「ばか、マハラジャだって、いまじゃ大使のほうが偉いわよ。ハイデラバードのおばさまがそう言ってたわ。しょせん藩王もホームのいいなりだって」
ホーム
わたしは、彼女たち以外にも、ヘレンやほかのインドに住んだことのある人々が、イギリス本国のことを誇らしげにホーム≠ニ呼ぶのを聞いたことがあった。
(そうか、インドでは、本国のことをホームって呼ぶのね。でもなんかへんなの)
本来は駅という意味のステーションをもっとべつの意味で使ったり、なんだか同じイギリス人なのに、インドに住んでいる人たちはどこかかわっている気がする。
いろんな言葉が教室中をとびかって、わたしはいったい何がおこったのかわからずにおたおたしているだけだった。
双子のエコー姉妹は、なにやらひそひそと言葉を交わしていたが、
「へえ……、あなたのお父様、ここの大使なの。でもヴェロニカのお父様のほうが上だわ。ふふん」
しばらくして、わたしに向かってそうきっぱりと言い放った。
「だから、授業がおわったら早く挨拶したほうがいいわよ。そういうことがステーションでは決まっているのだから。ふふん」
「ケーキをホームから持ってきたっていっていたわね。ヴェロニカは甘いものが好きだから、もっていくといいわよ、ふふん」
(また、ホーム≠ノステーション=j
わけのわからない言葉ばかり使われて、わたしはむうっと不機嫌になった。
わたしは、椅子からすっくと立ち上がり、左右対称の立ち方をしているエコー姉妹に向かって、どきっぱりと言い切った。
「さっきから、わけのわからないことばっかりいわないでちょうだい!」
――そのときのクラス中のみんなの顔ったら、あとで友達になったミチルにいわせると、すぐ目の前で象が鼻から火を噴《ふ》くのを見たときぐらい、みんなが目を丸くして固まっていたそうだ。
語尾にかなりの確率でふふん≠ェつくエコー姉妹もまた、わたしの言ったことがすぐには理解できないようだった。
「あ、あなたなに言って……」
「どうしてわたしが、会ったこともどういう人かも知らない女の子のところに挨拶にいかないといけないの。だってわたし、その子とだけ仲良くしたいわけじゃないわ。みんなと仲良くしたいと思っているのよ」
「あ、あなたばかじゃないの!」
エコー姉妹のうち、左側の(サリーだったか)が顔を真っ赤にして言った。
「ヴェロニカのお父様は、ボンベイの総督《そうとく》なのよ!」
「お母様は、アメリカの億万長者なのよ!」
「だからなによ」
わたしはいつのまにか、エコー姉妹に向かって挑戦的に腕を組んでいた。
「そのヴェロニカって人のパパがだれだろうと、そんなのわたしと関係がないわ。だって、その人だってインド政庁の人なんでしょ。そしたらわたしのパパと一緒じゃない」
いつもだったらこんなに弁が立つわけでもないのに、わたしはそのときインドに着いたばかりでずいぶんと興奮していたらしい。
そして調子にのっていたわたしは、そのときもっとも言ってはいけなかった(らしい)一言をぽろりと吐いてしまったのだった。
「あーあ、びっくりした。みんながあんまりヴェロニカヴェロニカっていうから、ここにプリンセスでもいらっしゃるのかと思っちゃったじゃない、でもちがったのね」
「なっ……!」
エコー姉妹の顔色がかわった。
「あなた、なんてことを」
「ちょっと、あなた新入りのくせに、いったいここがどこだかわかって……」
ふいに、くっ、と笑い声が聞こえた。
驚いて見ると、そこには読んでいた本の上につっぷして笑うカーリーの姿があった。
「くっくっくっ」
と、彼女は高すぎも低すぎもしない声で、まるでアラビアンナイトに出てくる魔法の呪文のようにささやいた。
「ああ、おかしい」
カーリーが笑っていることに気づいたのか、エコー姉妹は今度は彼女を咎《とが》めようと思ったらしかった。エコー姉妹のうち、右側のベアトリスが彼女に向かって声を荒らげた。
「ちょっとあなた、カーリーガード=アリソンだったわね!」
「いったいさっきから、なにを笑って……」
「およしなさい、ベス、サリー」
――その声は、教室の後ろ側から聞こえてきた。
わたしは、ゆっくりとその声のしたほうに顔を向けた。
一人の赤毛の少女が立っていた。
(ああ、この子がヴェロニカだ)
一目見ただけで、わたしは彼女が、みんなが口にするヴェロニカ=トッド=チェンバースだということがわかった。
彼女はつやのある赤毛に、少し灰色がかったブルーの瞳をした女の子だった。わたしより少し年上のようだ。
(すご……、雑誌なんかで見るロココの女王様みたい)
わたしは、内心目を丸くしていた。
彼女の容姿でなによりも目をひいたのは、彼女の肩をおおっている豊かな縦ロールの髪だった。まるで、ロールパンの生地をひっつけずにぶらさげたみたいだ、と食いしん坊のわたしは思い、あの見事なロールは毎日あのジェイミーとかいうメイドがこてで巻いているのだろうかと、どうでもいいことが気になった。
彼女は、するどい鷹のような目線でわたしをひと睨《にら》みすると、サリーとベアトリスの二人に席に戻るように言った。
「でも、ヴェロニカ」
「いいの。ほうっておきなさい。ああいう無知な子はすぐに思い知るだろうから」
わたしは、ドキンとした。
(お、思い知るって、どういうこと……?)
ヴェロニカは、わたしからふいと視線を外すと、おもむろにカーリーに話しかけた。
「誤解しないで。カーリーガード=アリソン。あなたのことを言ったのではないのよ」
カーリーはチラリとヴェロニカのほうを見ただけで、ふたたび興味がなさそうに本へ視線を落とした。
ヘンリエッタが、なぜか泣きそうな顔をしてわたしの袖をひっぱった。
「ねえ、やっぱり謝ったほうがいいわ。授業が終わったら、すぐに特別室へ行って!」
「どうして、だってわたしなにもしてないわ」
「だ、だって……」
ヘンリエッタの声は、始業をしらせる鐘の音でかきけされてしまった。
いままで固唾をのんでわたしたちのやりとりに耳をかたむけていたクラスメイト達も、あわてて自分の席へと戻っていく。
やがて、イギリス人にしては背の高い眼鏡をかけた夫人が、のけぞるくらい背をのばして教室に入ってきた。
あれが学院長先生よ、とヘンリエッタがささやいた。
この学院を経営するイザベラ=オルガ学院長は、もともとは聖職者階級の出で、このカルカッタの判事だった夫についてインドへやってきた。そして、夫がこの地で亡くなったあとも本国へ帰らず、ここにイギリス人の子女のための学校を開いたのだという。
「こんにちは、みなさん」
イザベラ学院長は、博物館で見た手びねりの灰色の土器をかぶったような頭をしていた。彼女は、ゆっくりと教壇にたつと、生徒達の中でひとりだけ私服を着ているわたしを見つけ出した。
まるで物乞いをおいはらおうとするヘレンのような声で、彼女は言った。
「ミス・シンクレア!」
わたしは、ぴんと背筋をのばした。
「お立ちなさい」
その声があまりにも迫力があったので、わたしはほぼ反射的に椅子から立ち上がった。いっせいに、クラスメイトたちの視線がわたしの顔や服に集中する。
「今日からみなさんのお友達になる、ミス・シャーロット=シンクレアです。ついさっきロンドンから着いたばかりとか。インドは初めてとうかがっているので、みなさんがいろいろ教えておあげなさい。ミス・アリソン!」
「はい、学院長先生」
おもむろに、カーリーが立ち上がる。
「このように、名前を呼ばれたらすぐに立ち上がるように。――ミス・アリソン。今日からミス・シンクレアはあなたのルームメイトになります。頼みましたよ」
「わかりました、学院長先生」
「よろしい。二人とも、お座りなさい」
まるで学院長先生がわたしを魔法であやつっているかのように、わたしは言われるままに椅子に座った。
「さて、今日はみなさんに二つほど、大事なお話があります。一つはいま、巷《ちまた》で騒ぎになっている、怪盗リリパットとかいう輩《やから》のことです」
ざわりとクラス内がざわついた。わたしは、さりげなくヘンリエッタに話しかけた。
「怪盗リリパットって?」
彼女はわたしのほうに顔をよせて言った。
「最近、お金持ちのディナーパーティに出没している怪盗のことよ。イギリス人から高価な宝石や証券なんかを盗んでいくので、イギリスに恨みをもつインド独立運動の手先なんじゃないかって、みんな噂してるわ」
「へええ、それってアルセーヌ=ルパンみたいね、かっこいい!」
わたしのはしゃいだ声が聞こえたのか、学院長先生がぎろりとこちらを睨んだ。
「さあ、静かに。背筋をのばして!」
パン、と彼女が大きく手をうつと、おもしろいくらい一斉に、クラスメイトたちの背筋がのびる。
(わ、ほんとうに魔法使いみたい)
わたしは、彼女のことを密かに|東の魔女《イースト・ウイッチ》と呼ぶことにした。
「その盗賊は、最近、インド中のステーション内を騒がせているとか。怪盗リリパット≠義賊だと言っている人もいるようですが、そのようなことを口にするのもおぞましいことです。
いいですかみなさん。近く、リンダ=キャッスルトン夫人が、この学校をご見学になります。みなさんも知ってのとおり、キャッスルトン夫人は毎年、わたくしたちの学院に多額の寄付をしてくださっています。その感謝をこめて、明日の授業では夫人のために詩を朗読してもらいます。ミス・チェンバース」
「はい」
あのにんじんロールのヴェロニカが立ちあがった。
「あなたにお願いします」
「はい、学院長先生」
ヴェロニカが、さも当然といわんばかりに微笑んだ。すると、うげー、という声がうしろからした。どうやらうしろの席のボブカットの子が発したらしい。
(なんだろ?)
わたしは懲《こ》りずに、ヘンリエッタにぼそぼそ言った。
「ねえねえ。キャッスルトンって、もしかしてあのお城のマークの……?」
「ええそうよ。リンダ=キャッスルトンってご婦人のこと。高級紅茶の輸出であっというまに大金持ちになったので、みんな紅茶夫人て呼んでいるの。このステーションにも屋敷があって、いつもこの時期になると授業参観にいらっしゃるのよ。とても子供がお好きみたい」
わたしは、頭の中にキャッスルトンの紅茶ボックスを思い描いた。
お城のマークで有名なキャッスルトン・ティーはロンドンのハロッズや高級品店でしか見かけない超高級メーカーだった。たしかその茶葉を使った紅茶クッキーが、貴婦人たちのサロンで話題になっていると、ヘレンが言っていたっけ……
「大事なお客様なのですから、くれぐれも、夫人の前で怪盗リリパットのことなどを口にして、レディの名に恥じるまねはしないように。いいですね」
ミセス・ウイッチはそう言って、わたしたちをぐるりと見回した。
「では、次にミス・シンクレアのためにこの学院のことをお話しします。一コマは約四十分です。フランス語に詩作、聖書と典礼《てんれい》、礼儀作法、図画と裁縫《さいほう》、ラテン語がほぼ毎日。舞踏と算数、それに文学と歴史は二週間に一度あります」
「歴史が二週間に一度しかないなんて!」
わたしは思わず叫んでしまった。そして、ぴしゃりと東の魔女に杖の先をつきつけられた。
「静かに! 質問があるときは、挙手なさい」
クスクス笑いが、エコーふふん℃o妹の座っているあたりから聞こえてきた。
「外出するときは、かならず副院長の許可を得てから、|タモシャンター《ベ レ ー 帽》を忘れないように。いいですね。あと、ステーションを出るなどもってのほか」
「あのう……」
いやーな予感がして、わたしは懲りずにおずおずと手を挙げた。
「なんですか、ミス・シンクレア」
「ラクロースの時間は、いつでしょうか」
そのとたん、ぷっと吹き出す声がした。振り返ると、後ろから二番目の席に座っていた女王<買Fロニカが、口元を申し訳程度に指で隠しながら笑っていた。
「そんなものはないわよ」
エコー姉妹が、次々にエコーする。
「ラクロースですって」
「あれでしょう、コルセットもせずに、だぶだぶのブルマーをはいてするスポーツ」
「はしたないわね」
「そんなの、貧乏人のすることだわ」
「なによ、そんなことないわ!」
わたしは、挙手をするのも忘れて立ちあがった。
「ルーシーおばさまは、セント・レナズ校で毎日午後からラクロースをしたっておっしゃってたわ。ファイブズもクリケットもあったって。セント・レナズは女子のイートン校だって言われているのよ。それに、おばさまは大学だって出て……」
「お座りなさい、ミス・シンクレア!」
魔女の怒号《ど ごう》に、わたしは背をまっすぐにしたまま着席した。
イザベル学院長は、青いトマトでもかじったような顔でわたしを睨みつけた。
「あなたはいままで、どちらの学校におられたの」
「あの、学校は行っていません。ずっと家でルーシーおばさまに……」
「ああ、あなたの叔母君ルーシー=シレットは、熱心な女性運動家でいらしたわね」
彼女の口調からは、決してルーシーおばさまのことをよく思っていないことがありありとうかがえた。わたしは、ちょっとむうっとなった。
綺麗で賢いルーシーおばさまは、わたしのいっとうの自慢なのに……
「あなたには、一度レディ教育というものをみっちり仕込む必要がありますね。ミス・シンクレア。ここにはあなたのいうラクロースの授業などはありません。ここにはセント・レナズのような競技場も、スコットランドの荒れ地もありません」
どっと、クラス中から笑い声があがった。わたしは、自分でもよくわからないまま赤面していた。
「あなたはまだこの国のことをよく知らないようだから、お教えしましょう。いいですか、ここは、インドであってインドではありません。|小さな王国《ス テ ー シ ョ ン》です」
「ステーション……」
「言うならば、ここはインドにおけるイギリス人居留地です。わたくしたちはここからほとんど外へ出ることはありません」
わたしは驚きのあまり、まるで水面にあがってきた魚のように口をぱくぱくさせた。
「うそ……」
「嘘ではありません。わたくしたちの学院は、あなたがたをブリティッシュ・ラージのコールデリー――、つまりインドに住むエリート高官であるあなたがたの父親からお預かりしているのです。それゆえ、わたくしは、あなた方をご家族の望まれるレディに教育する義務があります」
ゴホン、とミセス・ウイッチは咳払いをした。
「そして、あなた方のご家族は、なにもホームの先走ったハイ・スクールのように、あなたがたにラクロースをさせて無駄に日焼けさせるようなことを望まれていません」
「じゃあ、どうして」
「黙ってお聞きなさい。ここインドにおけるイギリス人社会は、決して広くありません。三億人以上といわれるインドの中で、イギリス人はたった十五万人しかいないのです。ですから、ここで働くお役人にとってなによりも困るのは、花嫁の人選です。
わたくしの言いたいことがわかりますか、ミス・シンクレア」
そこまで魔女が言ったところで、わたしはようやく、彼女がいま言わんとしていること――、ここの学校の真の本質に気づきはじめた。
(そうか。ここは、花嫁学校なんだ……)
なぜ、毎日のように礼儀作法や詩作の時間があるのか、
なぜこの学校ではイヴニングドレスの持ち込み数が規制されていなかったのか(本国の女子校では、たいてい二着までと決まっている)
そして、なぜいまさらトイレをメイドに手伝わせてするようなことをするのか。
(ぜんぶ……、ぜんぶ結婚のためなんだわ。綺麗にきかざって、パパのようなインドのお役人とお見合いをして、インド人のメイドをうまく使うため――)
それも、少し考えればわかることだったのだ。そもそもここは、あのヘレンが選んだ学校だったのだから……
蒼白《そうはく》な顔で黙りこくってしまったわたしを見て、魔女はようやくおとなしくなったと満足そうだった。
それから、いくつか彼女は禁止事項を口にしたようだったが、わたしはまったく耳にはいっていなかった。
(どうしよう……)
わたしは真っ青になった。これからパパが迎えにくるまで、わたしはずっとこの閉鎖的で堅苦しい花嫁学校で暮らしていかなければならないなんて!
ミセス・ウイッチによる授業が終わったあとも、わたしの受難は続いた。
教室を出るとき、すれちがいざまにエコー姉妹が言った。
「訪問儀礼《コ ー リ ン グ》も知らない礼儀知らず」
「きっと、名刺だってもってないんでしょうね、ふふん」
(コーリングですって!?)
わたしの額《ひたい》は、沸騰《ふっとう》したケトルのように湯気をはきそうになった。
訪問儀礼というのは、本国でおもにヴィクトリア朝に行われた習慣のひとつで、新参者がある社交的集まりに入っていこうとするときにする意思表示のことだった。
つまり、ヴェロニカははっきりとわたしよりも身分が上≠セと主張し、おまえは新参者なのだから、まずはわたしに名刺をもって挨拶にくるのが当然だといっているのだった。
わたしが、コーリングなんて、と思った理由は当然のことだった。
これらの習慣は、本国ではとっくにすたれてしまっているのである。
(いまどき、コーリングなんていちいちやってる家はないわ。電報も電話もあるんですもの。なのに、どうしてそんなことでわたしが責められないといけないの。どうしてみんなヴェロニカのいいなりになっているの)
けれど、わたしの受難はそれだけにとどまらなかった。なんと、この学校の古いしきたりは、なにもこのコーリングだけではなかったのだ。
ここでは、ディナーのある夜は、毎回正装をするのが義務づけられていた。そしてその際、トイレにいく順番も、トイレにいくことすら、場の女主人であるヴェロニカの意思だった。
「こういった場合は、つねにあなた方のお父様やこれから夫となる方の役職順に、を厳密《げんみつ》に守ることが規則です。戻ってくるときも、前の方より先に戻ってはなりません。またどんなに用をたしたくなっても、一人で席を外すことも許されません」
わたしは、目眩《め まい》がした。
(トイレにいくのにすら、順番があるなんて!)
トイレだけではない。食事の席も身分順だった。
そうとは知らないわたしは、食事のときくらいヘンリエッタの隣がいいと挙手して、またもや東の魔女に叱られた。
「だって、好きな人とお隣で食事をするのはうれしいことだわ。わたしはヘンリエッタともっと仲良くなりたいんだもの!」
「じゃあ、あなたのお父様がカシミールに行けばいいわ」
そう言って揶揄《か ら か》ったのは、当然食堂の一番いい席で、一番はじめにスープが注がれる位置にいるヴェロニカだった。
「そうしたら、あなたの大好きなヘンリエッタと並んで食事ができるわよ」
「いっしょにトイレにもいけるわよぅ、ふふん」
「ふふん」
エコー姉妹の追従に、その場にいた少女たちがクスクス笑う。
「仕方がないわ。わたしのパパは辺境にいるし……」
ヘンリエッタのお父様はカシミール州の県判事だったので、食事につくときの席や、トイレにいく順番や、お風呂の順番などは最後のほうなのだった。
わたしは、彼女があのクラスでひとりだけ影を薄くひっそりとひかえめにしている理由を知った。
「でも……、そんなのくだらないわ。わたしたちはわたしたちじゃない」
「ミス・シンクレア!」
思っていたとおり、東の魔女の怒号が飛んだ。
「あなたがいますべきことは、あなたのお父様の地位を守り、その地域における社交が円滑に行われるように援助《えんじょ》することです。むやみに壊すことではありません!」
わたしはうんざりしたが、すぐにこのような妙な順列があるのは、生徒たちの間だけではないということに気づいた。
それは、わたしがルーシーおばさまに手紙をだしてもらおうと、メイドを探していたときのことだった。
わたしは、廊下である奇妙な光景を目にした。
(あっ、あの子。わたしたちを送ってくれた御者の子だ)
わたしは、あのインド人のジェンという少年が、ヴェロニカ専属のメイドだというジェイミーに一方的にやっつけられているところを見てしまったのだった。
「シーツをこんなしわしわのまま持ってくるなんて、ちゃんとリネン水をかけてやっているの!?」
同じ使用人だというのに、ジェイミーの態度はとてつもなく横柄だった。
「ちゃんとやってます。それに靴だって手順どおりにみがいて……」
「口答えしないで!」
彼女はおもむろに手にしていた靴(たぶんヴェロニカのだろう)を投げつけると、ジェンの頬をぴしゃりとたたいた。
「わたしは侍女で、あんたはただの馬丁《ば てい》なんだから。メイドの手がたりないときは、中のことをするように言われているはずでしょ。だったら言われたとおりにすればいいのよ。さ、早くやりなおしてちょうだい!」
おなじ使用人だと思っていた二人の間にも、ヴェロニカ専属とそうでないものという差があるのだ。
名刺による訪問儀礼。身分にともなう食事の席順。トイレの順番。
もう本国ではすっかり古びてしまったしきたり。
ここではみなが、そういった決まり事を受け入れ、それに従って暮らしている。
でも毎日がこんなふうな繰り返しでは、きっとわたしは頭がおかしくなりそうになってしまうにちがいない。
『――親愛なるルーシーおばさま。
どうぞ、いますぐわたしを本国へ呼び戻してください。ここはいや。窮屈《きゅうくつ》な規則ばかりで、息が詰まって死んでしまいそうです!』
わたしは弱気のあまり、日記代わりになっていたルーシーおばさまへの手紙に、何度もそう書きそうになった。
ここはいやだ。帰りたい。
もう一日も、こんなところにいたくない……
(インドになんて、こなければよかった!)
わたしは、だれにも見られないように、頭からシーツをかぶってべそをかいた。
そう、インドになんてこなければよかったのだ。そうすれば、わたしはあのままルーシーおばさまの母校に行っていた。そっちのほうがずうっとよかった。ラクロースの授業もあったし、ここのようにわけのわからないしきたりにがんじがらめになることだってなかっただろうに……
「ロンドンへ、帰りたいよぉ……」
わたしは無性《むしょう》に海が見たくなって、屋根裏部屋へかけあがった。物置になっている部屋の天窓を開けて、あの、はじめてカーリーと話をした屋根の上に降り立つ。
煉瓦色の波のむこうに、本物の波が見えた。
「海だ……」
わたしは、たまらなくなって潮のかおりを胸いっぱいにすいこんだ。普段あおあおとしているインド洋は、太陽をその| 懐 《ふところ》にだきしめて黄金色に染まり、一面に金を流したようにきらめいている。
わたしは、海とは反対のほうを向いた。
そこからは、ステーションという名の小さなイギリスを作る、あの壁も見えた。ヘレンと馬車に乗っていたときに、隠された窓から見えた門のことだ。
「小さい……」
ステーションは、そこから全てが見渡せるくらいに狭い空間だった。
けれど、その小さな小さな世界からも、わたしは出ることができないのだ。
「小さいでしょう」
声がした。わたしは、慌てて振り返った。
そこにいたのは、カーリーだった。
彼女は初めて会ったときと同じように、風の吹く方角に向かって立っていた。
「ここは、百年前のイギリスなの」
「ひゃくねん、まえの……?」
「ここでは、時が止まったままなのよ。まるで琥珀の中の虫のように」
ひどく不吉なことを言われているにもかかわらず、わたしはその表現だけはとてもすてきだと思った。カーリーは、意外と詩人の才能があるのかもしれない。
そういえば、初めて会ったときも、ボードレールの詩をすぐにあててみせたっけ……
「ロンドンに、帰りたい?」
カーリーが控えめにそう聞いてきたので、わたしは小さく――本当に小さく頷いた。
彼女はしかたがないとばかりに横をむくと、さりげなくこう漏《も》らした。
「でも、私は、シャーロットに帰ってほしくないな」
わたしは、ぱっと顔をあげた。
そこには、カーリーのやさしい微笑みがあった。
「ね、シャーロット。知っている? インドには鋼鉄の枠という言葉があるの」
「鋼鉄の、わく?」
「決して崩れない、堅固な身分制度のことよ」
わたしは、はっとした。
「それは、いまから二百年くらい前のこと。インドを支配するためにやってきたイギリス人は、インド人の文化をとてもくだらない、幼稚《ようち 》なものだと考えたの。
そしてなるべく簡単に彼らを支配するために、自分たちの文明を誇示《こじ》することにつとめた……。それがすべてのはじまりよ」
「文明を、誇示」
わたしは、そのときの様子を想像してみることにした。
きっと、そのころにはインドには洋装なんてなかっただろう。そこへ、いまからディナーパーティにでもいくような人々がやってきたとしたら。
そして、便利な彼らの日用品や、音楽や、文化のすべてをみせつけたとしたら、ここにいた人々はどう思うだろう。
(びっくりしただろうな。それから、きっとなんとなくだけれど、恥ずかしいと思ったかもしれない。負けた、と思ったかも……)
いずれにせよ、そのときインドの人の心の中に生まれた劣等感《コンプレックス》を、イギリスはたくみに利用している、というわけだ。
「だから……、だからあんなふうに堅苦しいきまりがいっぱいあるのね。コーリングとか、手袋とか」
「そうね。だけどそれだけじゃない。あの人たちがああなってしまった理由はほかにもある」
カーリーは、浜風を全身で受け止めながら言った。
「あなたにわかるかしら。シャーロット。本国からインドに派遣されてくる役人のほとんどは、爵位《しゃくい》をもたないミドルクラスの人たちばかりでしょう。
そんなひとたちが、本国よりはるかに多い俸給《ほうきゅう》をあたえられ、多くのインド人の召使いにかしずかれ、そしてそれをことさらひけらかす生活をしていたら……」
「あっ」
わたしは、思わず大きな声をあげてしまった。
「それってもしかして、いい気になっちゃったってこと?」
「ぷっ」
カーリーは吹き出しながら頷いた。
「そうね。あなたの言うとおり、彼らはいい気になってしまったのよ。ここには国王はいない、自分たちの頭の上で、長年栄華を誇ってきた貴族やジェントリたちもいない。
それでなくてもミドルクラスの人たちは、自分たちを疎外《そ がい》し差別する貴族階級に対して、多大なコンプレックスを抱いてきたの。それが、本国とは遠く離れた地で、突然莫大な俸給とともに、ヒエラルキーの上に立つことになってしまったら……?」
わたしはごくりと唾《つば》を飲み込んだ。
彼女は、どこか聖書でも読みあげるように厳《おごそ》かに言った。
「人間は、一度手に入れた地位から下におちることを極端にいやがるものだわ。事実、ここにはなんでもあった。インドは豊かで、つねにイギリスの貯蓄であり続けた。お茶だけじゃない。麻や染料や、兵隊にいたるまで、すべてインドが本国に与えたものよ」
「だから、固執《こ しつ》しているのね」
頬に夕日のやわらかなオレンジ色を受けながら、わたしは言った。
「ここにいれば、自分たちが一番でいられるから。そして、自分たちが仲間にはいりたいと思っていて、いつも仲間はずれにされていた貴族のまねごとができるから。たくさんの召使いをやとえるから。でもそんなの……、そんなの、みんな貴族ごっこをしているだけなんじゃない!」
ばかみたい、と吐き捨てようとして、わたしはそう言い切れない自分のうすぐらい部分を見つけてしまった。
もし、自分だったらどうだろうか。
貴族のようになりたい。豊かな暮らしがしたい。人にかしずかれて生きていたい……、そんなふうに思ったことは、一度もないと言えるだろうか。
食事をとるときの自分の席が、半分より上だったことに――、パパのインドでのクラスが、地方の州知事より上のそこそこであったことに、ほっとしたりはしなかっただろうか。
(そんな、後ろめたいことがまったくないと、胸を張って言える? シャーロット。港からこのステーションに来るときまでの道を見て、このステーションがあそこと違って綺麗だったことにほんとうに安心したりしなかった?)
「あ……」
下唇をぎゅっとかみしめて黙り込んでしまったわたしに、カーリーは言った。
「私はね、シャーロット。ほかでもないその鋼鉄の枠をなくしたいと思っているの」
わたしは、顔を上げた。
そこにいるカーリーは、長い金をまぜたような黒髪を、風のふくままになびかせていた。その中になにもかも身を任せているようなのにもかかわらず、わたしはなぜか、彼女がいまここで大きな風を呼び込もうとしているように思えたのだった。
大きな風、
この古びたインドを変える新しい風を、|東風の神《エウロス》のように――
『鋼鉄の枠を、なくしたい』
その彼女の言葉は、なぜかわたしの中で預言者の言葉のように響いたのだった。
(カーリー……)
わたしは、彼女の夕日の中にすきとおった横顔を見つめた。
「もう冷えるから、中にはいりましょうか」
わたしは彼女の言うままに、天窓から屋根裏の倉庫に降り立った。
「ここにはあまりこないほうがいいわ。ヴェロニカのメイドがうろうろしているから、学院長先生にチクられる。だから私もときたまにしかこないの」
カーリーのようなレディの見本が、チクるなんていう言葉を使うのがわたしにはなんだかおかしく感じられた。
それに気づいた彼女は、恥ずかしそうに顔を赤らめて口元をおさえた。
「ご、ごめんなさい。思わず……」
(そうか、カーリーも学院長先生がきらいなんだ)
まるで、心強い同士を得た気分だった。げんきんなわたしは、いつかわたし自身が、彼女の言ったその不平等な枠を取り払えるだけの新しい風をおこす、小さな鞴《ふいご》になれればと思った。
「そうね。あんなの変よね、カーリー、わたしもそう思う」
高揚《こうよう》した気分のままに、わたしは言った。
「あんな貴族ごっこは、みっともないだけよ。鋼鉄の枠なんて、はやくなくなっちゃえばいいのに!」
――そのとき、わたしはまだまだ幼稚で。
彼女の言った鋼鉄の枠≠ニいう言葉が、もっと広い意味で――イギリスの官僚貴族だけではなく、インドの複雑な身分制度をも含んでいることに気づかなかった。
ただ、ロンドンのお屋敷で何不自由なく育てられ、世間知らずだったわたしの目には、男性のように政治を語る彼女は、いままで出会ったこともない新しい風のように見えたのだ。
「カーリーはすごいね。本当に風の神様みたい」
「え……」
「わたし、カーリーが主人公のお話を書いてみたいわ。きっと、すてきな物語が書ける気がする……」
彼女が怪訝そうに顔をしかめたので、わたしはあわてて、自分が小説家になりたいと思っていること、そして、カーリーを主人公に小説を書くことを思いついたことを彼女に告げた。
「わたしが、主人公……?」
「そう。きっと黒髪のエウロスでね、おおきな鞴で風をおこして、魔女やヴェロニカを吹き飛ばすことができるの。風の神様だもの」
言いながら、わたしは自分の妄想力がむくむくと頭をもたげてくるのを感じた。
「それとも、カーリーは綺麗だから、ラブストーリーのほうがいいかしら。ね、じゃあこんなのはどう? 天から舞い降りたカーリーは、泉で水浴びをしているところをある男の人に見られてしまうの。それで…」
「わかった。その痴漢を警察につきだして、感謝されるんでしょう?」
彼女がけろりとした顔で言うので、わたしは激しく否定した。
「ち、ちがうわよ。カーリー。どうしてそこで警察につきだすのよ!」
ごほん、と気を取り直してわたしは言った。
「それで、男の人はカーリーに天界に帰ってほしくなくて、服を返してほしくば自分の妻になれと言うの」
「そんな。脅迫《きょうはく》するなんて」
カーリーは、すうっと青ざめた。
「なんて自分勝手な男なの。シャーロット、そういう人間はやっぱり警察に……」
「そ、そうじゃないってば。愛してるからそんなふうに言っちゃうのよ。もうもう、カーリーってば、ぜんぜん女心がわかってない!」
わたしは、わたしの言うことにことごとくいちゃもんをつけてくるカーリーに、ムクれずにはいられなかった。
「だってカーリーだって、もし好きな人が遠くにいっちゃうってわかったら、行かないでって言うでしょう?」
「私?」
カーリーは、きょとんと自分のほうを指さすと、やがて挑戦的にふっと笑ってわたしのほうへ近づいた。
「そんなことない」
「え、カーリ……」
「私だったら、脅迫なんかしない。そうね、まず、ずっと側にいて、その人のことを見てるわ」
なぜかじりじりと寄ってくる彼女に、わたしは思わず後ずさりした。
「そ、それで? ……それだけ?」
「まさか」
心外だといわんばかりに、カーリーは微笑んでみせ、
「きっと、そのうちそれだけじゃすまなくなるでしょうね」
「そのうちって……。そ、それだけじゃ、すまなくなるって?」
こわごわ聞いてみたわたしに向かって、カーリーはゆっくりと手を伸ばした。
(ひゃっ)
彼女の少しつめたい手がわたしの手に触れて、わたしは電流が走ったようにびくんとした。
「たぶん、これ以上心を抑えきれなくなって」
彼女の吐息が、頬にかかった。
「言葉だけじゃ、満足できなくなって……」
わたしはまるで、魔法でもかかったように、硬直してその場を動けなかった。
「知りたい?」
わたしは、すぐ目の前にある彼女のとてつもなく綺麗な顔を見つめた。
そこには、先ほどの余裕ぶった顔ではなく、ひどく真摯《しんし 》な表情があった。
「あ、あの……」
「知りたいなら、教えてあげる」
自分たちの間に漂《ただよ》っているただならぬ雰囲気をわたしは察した。
(な、なんでわたしたちって、こんなに見つめあっちゃってるんだろう)
なにが起こっているのかよくわからないけれど、いったいなぜこんなことになっているのか、それもわからないけれど、とにかくこのまま見つめ合っているのはヘン!……なような気がする。
「シャーロット」
「えっ、あの……、あれ、ひゃっ」
彼女が顔を寄せてきて、わたしは小さく身震いした。それは、耳元で囁くために顔を寄せただけだったのだけれど、わたしはなぜか彼女にキスされるかと思ってしまったのだった。
わたしの胸は、ばくばくと音をたてて早打っていた。
(わたし、やっぱりへんだわ。女の子に囁かれて、こんなにどきどきするなんて)
すぐそばにあるカーリーの体からは、風の匂いがした。
わたしは、なんとかこの場を脱出しようと、わざと大きな声をだした。
「あ、あのねっカーリー!」
わたしの両手をつかんでいた彼女の手が、ぴくりと止まった。
「そ、そういえば、ずっと聞きたいと思ってたんだけど。カーリーっていうのは、インドの女神様の名前なんでしょうっ?」
そのとき、焦《あせ》るあまりわたしは、どこからか聞きかじった知識を口にしていた。
なんでもよかった。これ以上、彼女の言葉を聞いていたら、なんだかとんでもないことになってしまいそうだったから。
彼女は、ふと我に返ったように目をぱちくりとさせていたが、やがて、
「そうよ」
と、頷いた。
「カーリー女神は、流血の神よ。戦いと裁《さば》きをつかさどる。インド神話の中でも、もっとも恐れられている一人ね」
わたしは、両手を離してもらったことにほっとしながら、
「そ、そうなの。でもカーリーのお父さんは、自分の娘にどうしてそんな怖い神様の名前をつけたのかしら」
わたしはそういえば、彼女のお父さんはどんな職業についているのだろう、と思った。
食事のとき、カーリーは真ん中より上なものの、わたしよりは格下の場所に座っている。トイレにいく順番も、部屋から退出する順番もそうだ。
彼女はちょっと考えると、なんでもないことのように言った。
「インドには、神様の名前をもつ子供はたくさんいるわ。クリシュナという子もいっぱいいるし。それに、カーリーガードはカルカッタの古い名前なの。だからだと思う」
古い地名がファーストネームになることはイギリスでもよくあることだったから、わたしは短く頷いた。
ほんの少しだけ、それがはじめから用意されていた答えのようによどみなかったと思いながら……
「でもそんな怖い神様なら、やっぱりエウロスのほうがぴったりくるわ。ねえそう思わない?」
「どうして、私がエウロスなの?」
「そ、それは……」
じっと見つめられて、わたしはなぜかどぎまぎした。
カーリーは、ときどきとても優しい、甘い目線でわたしのほうを見てくるのだ。
「初めて会ったとき、に……、風を呼んでいるように思えたから」
「初めて、会ったとき!?」
彼女は、なぜか声を大きくした。
「覚えてるの!?」
「ええ、あの十字架の上にいたでしょう。あのとき」
すると彼女はああと息を吐《つ》いて、それから短く頷いた。なにかがっかりしたような様子だった。
「それなら、私が呼んでいたのは、あなたよ」
「えっ」
彼女の声があまりにも真剣だったので、わたしはびくりとした。
「私が呼んでいた新しい風はあなたなの。シャーロット。あなたはきっと、この小さな王国に吹く、新しい風になれる……」
わたしが驚いて顔を上げると、彼女はそっと手をのばして、指のほんの先でわたしの頬に触れた。指がゆっくりと頬の上ですべって、わたしの輪郭《りんかく》をつつみこむ。
「[#フォント変更]シャーロット。やっと、側にきてくれたね[#フォント変更終わり]」
「え……」
「[#フォント変更]ずっと、ずっときみを待ってた……[#フォント変更終わり]」
それは、わたしの聞いたことのない言葉だったので、わたしは彼女がなんと言っているのかわからなかった。けれど、抱きしめられた腕の強さと抱擁《ほうよう》のあたたかさが、彼女がわたしのことをルームメイト以上に想ってくれていることを、わたしに教えた。
そのとき、一階のほうからがらんがらんと大きなベルの音が聞こえてきた。
「あっ」
それは寮の|メトロン《寮母さん》が鳴らす、夕食の合図だった。わたしは、今日はドレスに着替えなくても良い、私服での晩餐《ばんさん》のある日だったことを思い出した。(この学校ではテーブルマナーの授業のために、よく晩餐をとった)
「晩餐の時間だわ。急いで着替えないと」
カーリーは、何事もなかったようにわたしの頬から手をはずした。
わたしは、なぜかがっかりしたような、ほっとしたような思いにとらわれていた。
(まだ、胸がどきどきしてる。カーリーに頬を触られただけなのに、変なの)
階段に向かおうとしたわたしたちの目の前で、ぱたん、とドアが開く音がした。わたしはそのときになって、五階にはヴェロニカの住む特別室があることを思い出した。
「あっ」
専属メイドのジェイミーに先導されて歩いてきたヴェロニカは、わたしとカーリーの顔を見るなりぱっと顔をほころばせた。
どうやら彼女は、わたしたちが五階にまであがってきたのは、自分に挨拶をするためだと思ったらしかった。
「あら、パンダリーコット大使のご令嬢がいらしたみたいね。ジェイミー」
彼女は、少し古い型をした過剰なまでのフリルのついた薔薇色《ば ら いろ》のジャケットに、同じ色の裾の長いどっしりとしたスカートを身につけていた。
ヴェロニカは、ジェイミーになにかをうながした。おそらく、コーリングの作法どおりわたしが彼女に名刺を差し出したら受け取れとか、そういうことを言ったらしい。
(どうしよう……)
そのとき、わたしの頭の中は、ここは彼女の誤解に乗じてあたりさわりなく挨拶してしまおうか、それともやめておこうか、やっぱり自分の心に正直にいたい――という思惑がせめぎ合っていた。
これから、この学院で暮らしていくためには、よけいな敵はつくらないほうがいい。ここにいるみんなのように、適当にヴェロニカをたて、彼女の自尊心を満足させていれば火の粉はふりかかってはこないのだ。
階段の踊り場には、いつのまにかギャラリーがひかえていた。正餐のために部屋をでてきた生徒たちが、ヴェロニカの部屋の前に立っているわたしに気づいて、見に来たようだった。
「ヴェロニカと、あの転入生よ」
「うそ!」
「ついに、挨拶するのかしら」
「しっ、聞こえるわよ」
みな、どこか緊張した面持ちで、わたしの次の行動を見守っていた。エコー姉妹ですら、おとくいのふふん≠はさまず、わたしがヴェロニカの前で礼をとるのを待っている。
わたしは、どうしようか思い切れずに側にいるカーリーを見た。
そして、ハッとなった。
『鋼鉄の枠を、なくしたい』
そう言った彼女は、何も言わず黙ってわたしのほうを見つめていた。
そうだ。彼女は、わたしを待っていたと言ってくれたのだ、とわたしは思い直した。
(カーリー。女神の名前をもつ、わたしの綺麗なエウロス……)
初めて出会ったとき、十字架の上から海を見ていた少女。
あのとき彼女がなにを見ていたのか、少し前ならわからなかった。
でもいまならわかる。
彼女はすぐ後ろに広がる小さな王国と、海の広さを比べていたのだ。そして、なんども通っていた。自分たちが住む世界が、いかにちっぽけで狭いものであるかを知るために……
『小さいでしょう』
出会ったばかりだったのに、泣きじゃくるわたしを受け止めてくれたカーリー。
さっきだって、ここから逃げ出すことばかり考えていたわたしに、きちんとその理由を説明してくれた。
そして、言った。あなたを待っていたのだと。
あなたが、ここに吹く新しい風なのだと。
それなら、わたしはその期待にこたえたい。あなたから、シャーロットは私のかけがえのない友達なのだといわれたい!
それは、今まで経験したこともないくらい強烈な望みだった。
わたしは、わたしの返事をまっているヴェロニカのもとへ一歩足を踏み出した。名刺を渡すのかと思ったメイドのジェイミーが、すっと手のひらを上にして差し出す。
その手を、わたしは払いのけた。
「なっ!」
ヴェロニカの顔色が、みるみるうちにすうっと白くなった。
わたしは、黙ったまま彼女の前を通り過ぎ、階段の手すりに手をかけた。カーリーはわたしのあとに続いた。
背中の後ろから、ヴェロニカのくぐもった声が聞こえた。
「…………シャーロット=シンクレア。あなた、後悔するわよ!」
わたしは、階段の途中でゆっくりと振り返った。
階段の上に、しっぽを踏んだ猫よりも怖い顔をしたヴェロニカが、腰に手を当てて立っていた。
「こんなことして、あなたの家族がどんな恥をかくか、思い知るがいいわ。いつかぜったいに思い知るんだから!」
「いつか、ね」
わたしは、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「それって、百年後? 二百年後かしら」
「なっっ!!」
「ねえ、あなたはいつまで女王様気分[#「女王様気分」に傍点]でいるつもり? いまはもうイギリスは国王様が治めていらっしゃるのよ、知らないの?」
「な――」
そこにいるだれも、一言も声をもらさなかった。中には息をとめているものさえいた。
「ま、待ちなさいよ。よくもこんな侮辱《ぶじょく》……」
「それにいいかげん、自分たちが時代遅れってことに気づいたほうがいいわよ。そのほうが、ずっと恥をかくことになるから」
「わたくしが、時代遅れですって!?」
わたしは言った。
「少なくとも、最近のロンドンでそんなかっこうをしている若い娘なんていないわ」
そう言うと、彼女は顔を真っ赤にして言いよどんだ。
それ以上その場にいることもないと思ったので、わたしは彼女から視線をはずした。みんなが、腫《は》れ物《もの》でも避けるようにわたしの側からはなれていく……
――その次の日から、わたしの戦いははじまった。
始業のベルと同時に教室の中に入ったわたしは、自分の席のまわりがなぜか水浸《みずびた》しになっていることに気づいた。
(これは、覚悟が必要だわ)
これからのことを予想して思わず息をついたわたしは、すぐそばにだれかの体温を感じた。
わたしが振り向くと、そこにはわたしより少し高いところから注がれる、カーリーのやさしい視線があった。
(そうだ。わたしには、カーリーがいてくれる)
わたしはがぜん勇気がわいてきた。彼女の気配は、わたしに彼女の体温以上の心のあたたかさを与えたのだった。
(負けないんだから!)
こちらを見ながらクスクス笑っているエコー姉妹を尻目に、わたしは、ぐっと腹に力を入れた。
§ § §
ヴェロニカ一派によるいやがらせは、恐ろしいことに毎日のように続いた。
ある朝など、身支度《み じ たく》を整えて朝食室へ行くと、わたしの席がヘンリエッタのとなりに作られていた。
「なっ」
驚いて立ちすくむわたしに、エコー姉妹が、語尾におとくいのふふん≠付けて言った。
「ヘンリエッタといっしょに食事をとりたいって、あんなに言ってたじゃない」
「なのに、いやなの?」
「やっぱり、口ではなにを言ったって、自分から低い地位になりたがったりはしないのよ、ふふん」
「えっらそーなことを言って、友情より地位がだいじなわけよ、ふふん」
わたしは唇を噛んで、ギリッと、まるで錐《きり》で穴をあけるように彼女らを睨みつけた。わたしは仕方なくそこへ座った。
「ヘンリエッタ。となり、いい?」
「えっ、でもシャーロット……」
ヘンリエッタはしきりに心配そうにわたしとヴェロニカを見比べていたが、わたしは気にしないことにした。女王様<買Fロニカが決めたのだから、わたしのせいではないはずだ。
すると、驚いたことに、いきなりトレイを持ってカーリーが立ち上がった。
「どうやら今日は自由席のようだから、私も移動します」
これには、ヴェロニカもびっくりしたようだった。わたしだけをいじめるつもりだったのに、カーリーまで動いてしまったのであてがはずれたらしい。慌てて言った。
「カーリーガード=アリソン。あなたまで動くことないわ。それとも、あなた同室のよしみでその子に味方するの? やめておきなさい。自分のためにならないわよ」
不思議なことに、どうやらヴェロニカはカーリーのことが気に入っているようだった。ヘンリエッタの話によると、彼女はカーリーを自分のとりまきにしたいと考えているようで、なにかというとカーリーにだけは親切にするのだという。
それを聞いたとき、わたしは、
(ああ、だから、ヴェロニカはわたしのことが嫌いなんだ)
と、納得した。カーリーが必要以上にわたしをかばうので、それでますますわたしへの風当たりが強くなっている……、ということらしい。
「プリンセス」
と、カーリーはヴェロニカのことを、そう呼んだ。それはどこか苦《にが》みのある、チョコレートのような声で、ヴェロニカだけではなく、わたしまでドキンとした。
「私は、あなたともいっしょに食事をしたいと思っているんですよ」
「えっ」
すると、ヴェロニカが、なぜかぽっと赤面した。
「あなたが、わたくし、と……?」
「ええ。だからよろしければ、あなたもこっちにいらっしゃいませんか?」
それは、すばらしく機知に富んだ言い返しだった。
カーリーは、ヴェロニカをたてつつ、わたしだけを贔屓《ひいき 》にしているわけではないことを証明してみせたのだ。
はなからヴェロニカがそんなことできないことをわかっていて、(なぜなら、ヴェロニカの座っている席がいちばんいい席だからだ)、あなたと仲良くしたいから、とまで言ってのけたのだった。
「あ……」
案の定、ヴェロニカはそれ以上何も言えなくなった。
わたしはカーリーに拍手を送りたい気分だった。こんなふうに言われては、あのヴェロニカですらひとことも言い返すことはできまい。
ふいに、ピュウ、と口笛の音がどこからかした。
わたしが目を泳がせると、テーブルの上に両肘《りょうひじ》をついている女の子が、興味しんしんという目でわたしたちを見ていた。
その女の子は、めずらしくマヌカンのように髪をショートカットにしていた。ほっそりとした体と少しほかの人とは違う肌の色が、そのボーイッシュな感じをひときわきわだたせている。
(誰だろう。スペイン系かな。それとも東洋人?)
「ミチル[#「ミチル」に傍点]=マーマデューク=モナリよ」
ヘンリエッタが言った。
「ミチル?」
「ええ。日本人なんだって。養女らしいんだけど、お父様はイギリス人の服飾デザイナー」
「もしかして、モナリって、あの有名なデザイナーのクロード=モナリ氏!?」
パリ在住のデザイナー、クロード=モナリといえば、知らないものはいないといわれるほどのオートクチュール界の重鎮《じゅうちん》だ。
たいへんなシノワズリで有名な彼が、結婚もしていないのに日本人の娘をひきとって養女にしたことは、その当時トップニュースとしてタイムズなどで話題になったという。
もちろん、わたしもそのことは聞いたことがあった。その娘を愛するあまり、彼が娘の名前で子供服のブランドをたちあげたことも。
(そうか、たしかモナリ氏ってインド生まれのイギリス人なんだっけ)
ヘンリエッタによると、ミチルは、極東の国のコウベという街から来たということだった。そのせいで、少しなまりのあるへんな英語を話すそうだ。
「話してみるとわかると思う。しゃべり方っていうか、考え方もちょっとへんなの。でもすごくいい人よ」
と、ヘンリエッタは言った。
わたしは、ヘンリエッタの隣の席から、改めてテーブルについているこの学院の生徒たちを観察した。
(いろんな国の人間がいるんだな)
たぶんカーリーはインド人とイギリス人のハーフだろうし、ヘンリエッタは半分がユダヤなのだという。
末席に近いところに座っていた生徒たちの中には、アメリカやアフリカの商人の娘なんてのもいた。
(彼女たちと仲良くなったら、そしたら行ったこともないいろんな国のことが聞けるかしら。日本や、中国や、もっと東のはてのこと……)
しかし、見たところ彼女たちは(ミチルをのぞいて)わたしにはどことなくよそよそしかった。それも仕方がない。わたしは転入初日で、ヴェロニカとあんなぶつかり方をしてしまったのだから。
そのとき、パンパンと手を叩きながら朝食室に入ってきた人物がいた。ミセス・ウイッチこと、学院長のイザベラ=オルガだ。
「みなさん、おはようございます。よい朝ですね。今日はこれから予定どおり、キャッスルトン夫人が参観にいらっしゃいます。さあ、席について!」
彼女が手をたたくと、足をぶらぶらさせていた子も、背を曲げていた子も、まるで生き返ったようにしゃっきりとなる。
ミセス・ウイッチはゆっくりとわたしたちを見渡し、そしてわたしがいつもの位置にいないことをめざとく見つけた。
「ミス・シンクレア。これはいったいどういうことです。なぜそんなところに座っているのですか」
「あのう……」
わたしが挙手して立ち上がろうとしたときだった。すばやく、別の声がわたしをさえぎった。
「ミス・シンクレアとミス・アリソンは、どうしてもミス・モーガンといっしょに食べたいっていって聞かなかったんです」
そう、取り澄まして言ったのは、プリンセス<買Fロニカだった。
わたしはぎょっとなった。
「なっ」
「なんですって!」
早くもミセス・ウイッチの顔色がかわった。
「なんてこと。あれほど言ったのにわからなかったのですか。ミス・シンクレア!」
彼女の顔には、わたしの話など聞く気はないとはっきりと書いてあった。わたしは焦って、テーブルに手をついて立ち上がった。
「ち、違います。学院長先生。今朝来たら、勝手にわたしの席がここになっていたんです!」
「うーそばっかり」
エコー姉妹が、にやにや笑いながら言う。
「パンダリーコットの大使令嬢は、どうしても学校の規則に従いたくないそうでーす」
「自分勝手に、|ホーム《ロ ン ド ン》のルールでやりたいそうでーす」
わたしは、そこではじめて自分がヴェロニカたちに一杯食わされたことに気づいた。
彼女たちのいやがらせは、席を移動したことだけではない。わたしが勝手に動いたことにして、ミセス・ウイッチに叱られることだったのだ。
「いいかげんになさい、ミス・シンクレア!」
転入数日目にして早なれっこになってしまった怒号が、わたしの上に夕立の雷のように降り注いだ。
「わがままはゆるしません。この学校には、この学校にふさわしい規則とルールがあります。それはあなたの大好きなホームのパブリックスクールでも同じです。そんなふうな態度で、集団生活が円滑におくれると思っているのですか!」
「ち、ちが……」
「答えなさい、ミス・シンクレア!」
ミセス・ウイッチが、まるで使い魔でも呼び出す合図のようにテーブルを叩いた。わたしはびくっとなった。
これ以上、きっとなにを言っても無駄だ。と、わたしは観念した。きっと聞く耳をもってもらえない。ミセス・ウイッチは、今回のことは完全にわたしのわがままだと決めてしまったのだから。
パン、と両手を合わせる音が、朝の朝食室に響き渡った。学院長先生によって、ルール違反者にどういった罰があたえられるか、裁決が下された瞬間だった。
「ミス・シンクレアとミス・アリソンは朝食室から出て行きなさい」
(えええっ)
わたしは、目の前に配られはじめた湯気のたったスープと見比べながら、ミセス・ウイッチのほうを見た。
「席を動いた罰《ばつ》として、今日の朝食を食べることは許しません。さあ、出てお行きなさい!」
彼女の指が、エデンの東の荒れ地を指すかのようにわたしたちに退出をうながす。
わたしはしぶしぶ立ち上がった。
(あーあ、これで今日はディナーまでごはん抜きかあ)
食いしん坊だったわたしにとって、待ちに待った朝食が食べられないということは、なににも勝る痛手だった。とくに、晩餐のある日はアフタヌーンティーは出ないので、日がとっぷりと落ちるまでなにも食べられないということになる。
(うっうっうっ……。こんな日にかぎって、お茶の時間がないなんて最悪だわ)
スープ鍋をかかえていた使用人のジェンが、お気の毒にといいたげな目でわたしを見送った。
その日は、キャッスルトン夫人の参観があったにもかかわらず、わたしの頭の中はフランス革命のことより、フランスパンのことでいっぱいだった。
ふらふらになったわたしは、先生が黒板に書いたフランス語ですら、おいしそうなクロワッサンに見えてくるしまつで、
「ミス・シンクレア! ナポレオンがエジプトに遠征したさい、ピラミッドを見て兵士たちを鼓舞《こぶ》した有名な台詞をこたえなさい」
という質問にも、
「あの、それ……、ええっと……」
ぐ――――っっ。
(ぎょぎょっ)
おなかが返事をしてしまって、教室内を爆笑の渦《うず》にまきこんだ。
わたしは、ほかの生徒たちに混じって、机につっぷして笑っているカーリーを恨めしそうに睨んだ。
(カーリーはおなかがすかないのかしら。それにしても、あんなに笑わなくったっていいじゃない)
その日の午後には、学院を訪問したキャッスルトン夫人のための詩の朗読会があったのだが、わたしは素行不良ということで出席を禁止されてしまった。わたしたちは、その間中庭の掃除をいいつけられ、こっそり隠しもっていたジャファケーキを食べるタイミングをことごとく逃し続けた。
「お、おなかがすいたよう」
「がんばって。シャーロット。もうすぐディナーだから」
わたしがへたり込むたびに、そう何度もヘンリエッタが励《はげ》ましてくれる。
「それに、今日はヴェロニカの主催だから、きっと前みたいにコックを特別に呼んで、おいしいものが食べられるわよ」
「えっ、ヴェロニカの主催!?」
よりによって、今日のディナーがヴェロニカの主催だと聞いて、嫌な予感がしたのはまちがいではなかった。
なんと、カーリーには来ていたのにもかかわらず、わたし宛てにディナーの招待状が届いていなかったのである。
ここにきて、わたしは、とうとう真っ青になった。
「ねえカーリー、どうしてわたしにだけ、招待状が届いていないの!?」
主催者からの招待状がきていないということは、わたしは今夜ディナーにありつけないということになるのだ。
「普通に考えて、いやがらせでしょうね」
カーリーが、自分宛のカードを唇にあてながら言った。
「きっと、はじめからぜんぶ仕組まれていたんだと思うわ。今日のディナーがヴェロニカのしきりだったってことも含めてね。朝、あんな騒ぎをおこしたのも、ようはあなたに一日何も食べさせないつもりだったのよ、たぶん……」
「ええええ〜、そんなの死んじゃうよぉぉ」
わたしはへなへなと床の上に座り込んだ。
それでなくとも、朝からなにも食べていないのである。目の前がぐるぐると回って、もう一時も立っていられなかった。なのにジャファケーキを食べている暇もないなんて。
「かわいそうに。シャーロット。だいじょうぶよ、私もいかないから」
「えっ、いかないって?」
わたしは、カーリーの顔をまじまじと見つめた。自分も朝から食べていないのにもかかわらず、そんなふうに申し出てくれたのは心底うれしかった。でも……
「でも、カーリーだって朝からなんにも食べてないのに」
彼女は、そんなこと気にすることないとでも言うように、ぽんぽんとわたしの頭をなでた。
「いいの。わたしは慣れているし、それにこんな気分の悪い食事なんてこちらから願い下げよ。ね、二人で本でも読んでいましょう。それなら我慢できそうでしょう」
彼女の口調があまりにも優しかったので、わたしはうるっときた。
「うわあああん、カーリー。ありがとう、ごめんね、ごめんね!」
わたしは、不思議だった。どうしてカーリーはわたしにこんなによくしてくれるのだろう。いくらルームメイトとはいえ、こんなに要領が悪くてみそっかすなわたしに。
「ね、ねえカーリー。カーリーはどうしてわたしに親切にしてくれるの?」
おずおずと、わたしは聞いた。
「えっ」
彼女は、なぜか聞かれたくないことを聞かれてしまったという顔をした。
わたしは、彼女の胸に顔をうずめながら、
「わたし、知ってるの。みんな、なにも言わないけれど、クラスの子はみんなカーリーのことが好きなんだわ。カーリーは綺麗で賢いから、それはすごくわかる。でも、カーリーはなんだか近寄りがたくてとってもクールだから、友達になりたくても遠巻きに見ているしかないのよ」
「私が、クール……?」
「ええ。なのに、カーリーはわたしには優しい。どうしてなんだろうって、ずっと不思議だった」
カーリーは、ふいに黙り込んだ。
「わけわからないこと言ってごめんね。でも、えっと、つまりそれは、わたしがカーリーのことをそれくらい好きだっていうことで……。あなたにふさわしくありたいっていうか、もっとしゃんとしなきゃっていうか……」
「シャーロット」
その声は、わたしが思わず言葉を失ってしまったくらい、びっくりするくらい低い声だった。わたしは、驚いて彼女の目の中を見ようとした。そこには、困惑ともどかしげな熱があった。わたしは、思わずその場に居竦《い すく》んだ。
「な、なに」
「……いいえ。なんでもない。そろそろ予習室にいきましょうか」
彼女がわたしの問いをはぐらかしてしまうのは、とても珍しいことだった。わたしは、なぜか追いかけて聞く気にはなれず、彼女のいうとおり部屋を出ようとした。
(どうしたんだろう。いつもは、ちゃんと答えてくれるのに)
そうして、わたしたち二人が(わたし一人、足取りがおぼつかなかったが)、予習室に向かうためにドアを開けたとき、
「あら」
なにか小さな紙切れのようなものが、はらりと落ちた。
拾い上げてみると、それはメモのようだった。
『がんばって。
消灯過ぎたら、ディナーから持ち帰ったパンをもっていくから。 ヘンリエッタ』
「ヘンリエッタからだ!」
わたしは、思わず自分の顔がぱああっとほころぶのを感じた。
それは、ものすごく斜めの字で書かれた短い文面だったが、へこたれたわたしを勇気づけるのに十分だった。
ふいに、わたしは良いことを思いついた。
(そうだ。ヘンリエッタにもケーキを食べさせてあげようっと。きっと気に入ってくれるにちがいないわ)
わたしは、カーリーにおもむろに顔をよせると、ひそひそと語りかけた。
「ねえ、これって真夜中のお茶会みたいね。セーラ=クルーのお話にだって、屋根裏でお茶会をしたって書いてあったわ。それみたい」
彼女は驚いたようにわたしを見た。
「これで、ネズミのメイがいたら完璧なんだけれど。ねえ、カーリーはどう思う?」
すると、彼女は綺麗な目をすっと細めて、
「じゃあ、あとで急いでお茶会の準備をしなくちゃね」
いたずらを思いついた天使の顔で、わたしに微笑みかけたのだった。
わたしは、内心手のひらを合わせてとびあがった。
(真夜中のお茶会なんて、すてき。これぞ、わたしが求めていた学生生活よ!)
懲りないわたしは、お腹がすいていることも忘れて、スキップで予習室へと向かった。
――セーラ=クルーの物語のように、最後にミンチン先生にみつかるなんていうオチがつかないことだけを祈りながら……
§ § §
真夜中にお茶会をするという思いつきで、がぜん元気になったわたしは、予習室でいつも通りルーシーおばさまへの手紙を書いてしまうと、それをお風呂に向かう途中、使用人のジェンに預けることにした。
「これ、おねがいね」
「わかりました。シャーロットさま」
わたしは、おそるおそるジェンと距離をとりながら言った。ジェンはいい人っぽいのだけれど、どんなにいい人でも相手が男というだけで、わたしは触られるとくしゃみがとまらなくなってしまうのだ。
「ジェン……、だったわね。あの、このまえぶたれたところ、だいじょうぶ?」
彼は、ヴェロニカのメイドのジェイミーに難癖《なんくせ》をつけられて、頬をぶたれていたのだった。
「おや、ごらんになってたんですか?」
彼は、カーリーとはまた違った、あたたかみのある黒い瞳をくりっとさせて笑った。
「あんなの全然平気です。それより、お嬢様こそおなかがすいてませんか」
「う……」
わたしが、思わず両手でおなかを押さえるしぐさをすると、彼は心得たといわんばかりに、
「オレ、なにかあたたかいものを持ってきます」
「ええっ」
「しーっ」
彼は茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせると、
「大丈夫。今日、オレがお風呂をお手伝いする係なんです。だから、お嬢様はそのままお風呂で受け取って、なにくわぬ顔で戻ればいい」
「ええっ、あなたがお風呂にいるの!?」
驚いたわたしに、彼は笑って首をふった。
「ノノ。お湯を運ぶのを、お手伝いするだけです。もちろん、匂いがするので食べるのは消灯後にしてくださいよ。ああ、たしかミートパイかなんかがあったかな。洗面受けに入れてもっていきますね」
ジェンは、内緒だといわんばかりに口の前で指を一本だけたててみせた。
彼のお仕着せの袖口は、あれからやり直したのだろう靴墨《くつずみ》で黒くなっていた。
それから、わたしは、親切なジェンにミートパイのあまりを分けて貰ったことを、いちはやくカーリーに知らせたくて、お風呂を済ませ急いで部屋へ戻った。
するとおどろいたことに、そこにはカーリーが、まだ少し濡《ぬ》れている髪を拭《ふ》きながら立っていたのだった。
「えっ、カーリーったら、いつの間にお風呂に入ったの?」
わたしは目をまるくした。
わたしの知る限り、カーリーはいつもものすごく早風呂だった。わたしが部屋で用意をしている間にすませてしまうので、わたしは彼女が浴室にいるところをほとんど見たことがなかった。
こんなに早いところをみると、ほとんど湯につかっていないに違いない。
「ちょっとお湯は苦手で……」
彼女はわたしに、自分の故郷では湯につかる習慣がなかったのだと言った。
「お湯をかけるのは平気なんだけれど、バスタブは苦手なの。つるつるしていてなんだか不気味で」
「ふうん、そうなの。カーリーにも苦手なものがあるんだ」
わたしはそんな彼女のことを知っても、世界にはいろんな習慣があるのだくらいしか感想をいだかなかった。たしか、イギリスでもお風呂の習慣はなかったとルーシーおばさまから聞いたことがある。
それに、男子のパブリックスクールでは、いまでもお風呂は週に二度程度で、毎朝|乾布摩擦《かんぷ ま さつ》をして襟元をきれいに保つのだといっていた。
「苦手なものくらい、あるよ」
「へえ、ほかにもあるの? なになに、なに?」
わたしが体ごとすり寄っていくと、カーリーはびっくりしたように体を強ばらせた。
彼女は、わたしが後ろから抱きついたり頬にキスしたりすると、一瞬だけびくりと体を石のようにかたくするのだ。
わたしがあまりにもしつこく言うので、カーリーはしかたがなさそうに、
「…………かぼちゃ」
と、言った。
「えっ、かぼちゃって、あのジャック・オー・ランタンに使われるふつうのかぼちゃ?」
「い、言わないで……」
カーリーは本気で、あの深緑色のでこぼことした野菜が嫌いのようだった。両手で耳をおさえて、床にへなへなとしゃがみこんだ。
「むかし、ハロウインの日に、あのかぼちゃのかぶりものをしていた友人にすごく驚かされたことがあるの。それで、嫌いになったの」
「たったそれだけで?」
「だって、あんなの気持ちわるいじゃない。かぼちゃが人のかたちをして歩いているなんて!」
かぶりものなんだからしかたがないじゃない、と思ったが、カーリーはどこまでも真剣だった。
「それに、外側が緑色なのに、中が山吹色なんて詐欺《さぎ》みたいな野菜だわ」
「詐欺……」
「だから、私は昔の男の人がはいていたショースとかだいきらいなの。みんな巨大なカボチャパンツをはいているみたいじゃない。ああ、昔に生まれないでよかった」
ほんとうのほんとうにほっとしたように彼女が息をついたので、わたしはたまらずに吹き出した。
「ぷっ、ぷぷっ。カーリーったら、おっかしい」
彼女は、心外だという顔をした。
「まあ、ひどいわシャーロット。私は本気で嫌いなのに」
「ご、ごめんね。でも、カーリーがそんなものが怖いだなんて、おかしくって……」
それにしても、とわたしは思った。
夏が終わって秋になれば、そのカーリーの嫌いなジャック・オー・ランタンが飛び交う季節なのだけれど、カーリーは大丈夫なのだろうか。
ようやく笑いがおさまったわたしが、ジェンにミートパイを貰ったのだということを報告すると、カーリーはにっこり笑った。
「ジェンはすごくかしこいのよ。いつも学校の授業のときは、窓の外をふいていたり、廊下をワックスでみがいたりしているけれど、そういうふうにしているうちに、フランス語も歴史も全部覚えてしまったんですって」
「ほんとに!?」
わたしはびっくりした。カーリーはうなずいた。
「ええ、だから、私は彼に本を貸したりしているの。とても勉強家で、将来は医者になりたいのだっていっていたわ。それにステーション内の仕事はとてもお給金がいいので、たすかってるって。外の仕事よりずっと楽だって」
わたしは、ふうんと相づちをうつことしかできなかった。ジェンがいつも大きな鉄鍋をかかえてスープを配っているところや、ヴェロニカの侍女にやつあたりされて靴をなげつけられているところしか見ていなかったから、きっと毎日重労働ばかりでたいへんだろうと思っていたのだった。
けれど、それでもジェンにとっては、ここは天国のような職場なのだ。
(ふ、ふーん。カーリーとジェンは、そんなに仲が良いんだ)
そう考えると、なぜかわたしの胸に、小さな棘のようなものがちくっとつきささった。
(将来の夢とか、そんな話までしちゃう仲なんだ。それって変なの。学生と使用人なのに!)
なんだろう。わたしったら、カーリーがジェンと仲良くしているのが、うれしくない……。これじゃまるで、嫉妬《しっと 》しているみたいじゃない。
(でも、わたしのことが大事だって言ったくせに!)
「ふーん、ふーん、ふーん。そうなの。そうなんだ。そーう、よかったわね」
私はそれ以上考えないようにして、暑かったのにもかかわらず、ベッドの上でシーツを頭からかぶった。
カーリーが怪訝そうに言った。
「シャーロット、どうしたの。なにを怒ってるの?」
わたしはぶっきらぼうに、おやすみの挨拶をした。
「お、怒ってなんかないもん。怒ってなんかないんだから、もうおやすみ!」
「シャーロット」
ふいに、カーリーの声が耳の側で聞こえた。ぎょっとしたわたしは、いつのまにかカーリーがわたしの上におおいかぶさっていることに気づいた。
(うそ)
カーリーに、シーツごしに抱きしめられている!
「どうして怒ってるの。私、なにか怒らせるようなこと、した……?」
女の子にしては低めの、さざなみのような声がわたしの耳をくすぐって、わたしはどきどきした。
(わ、わたし、へんだ!)
わたしは、まるでひっくりかえって起きあがれない虫のようにじたばたと手足を動かした。けれど、わたしの体はうしろから抱きすくめられていて、ろくに動くことすらできない。
(ど、ど、どうして、うわ、わわわわっ)
わたしと彼女が重なっているせいで、彼女の長い髪がわたしの首もとまでたれてきて、わたしの心臓はいまにもはちきれそうだった。――すると、
「シャーロット、お願いだから返事をして」
彼女の哀願《あいがん》する声が、すぐそばに聞こえた。
わたしは、恥ずかしさのあまりぼそぼそと言った。
「……お、怒ってないから」
「ほんとうに?」
「ほんとうよ。だ、だから離して……」
カーリーの体がゆっくりと離れていくのを感じながら、わたしは思っていた。
(カ、カーリーったら、カーリーったら、いつもわたしが抱きつくときは、石みたいに体を硬くしているのに、自分からするときは、だ、だいたん、なんだから!!)
わたしの体は、お風呂に入ったばかりだというのにすでに汗をかいていた。
インドの北部にあるとはいえ、パンダリーコットの夏は汗ばまないではいられない暑さだった。わたしたちは、早々にベッドの中にもぐりこんでしまうと、じっと耳をそばだてて監督生の見回りを待った。
やがて、監督生のマチルダがわたしたちの部屋へ点呼にやってきて、寮は消灯の時間を迎えた。
(ヘンリエッタはいつ来るのかしら。見つからないで来られるといいけど)
わたしはベッドの上に転がりながら、自分の心臓の音が聞こえてきそうなくらいどきどきしていた。
遠慮がちなノックの音がしたのは、消灯後三十分ほどたってからだった。
「シャーロット、カーリー……。いる?」
わたしはベッドを飛び出すと、足音をたてないようにそうっとドア口に忍び寄った。ゆっくりとドアノブを回す。
「早く入って」
ヘンリエッタは、まるですきま風のように部屋の中に滑り込んだ。
「見つからなかった?」
「大丈夫。みんなおなかいっぱいで、すぐに寝てしまったから」
彼女のベッドのある部屋は、なんと四人部屋らしい。抜け出してくるのはさぞかし勇気がいっただろう。
「きっと朝までぐっすりよ。ぜったいに目をさまさないはず」
なぜか、ヘンリエッタはそう自信たっぷりに言って、
「たいしたものはもってこれなかったんだけど……」
と、おもむろに手にしていた包みを、テーブルの上で開けた。中にはすこし硬くなったパンとバター。それにソーセージとなにかの包み揚げのようなものが入っていた。
「わ!」
わたしはなんだかうれしくなった。この料理とジェンがくれたミートパイ、それにわたしのジャファケーキがあれば、すてきな晩餐会が開けると思った。
「ありがとう、ヘンリエッタ」
「いいの。ちょっとどきどきしたけど、なんだかわくわくしたわ」
ヘンリエッタは、眼鏡の奥の大きな目をくりっとさせて笑った。
「ねえ、せっかくだからわたしのジャファケーキも食べていかない? ここでみんなで真夜中のお茶会をしましょうよ」
「真夜中の、お茶会……?」
カーリーが、どこからかくすねてきたらしい蝋燭《ろうそく》に火をつけてくれた。すると、わたしにはヘンリエッタの顔が、わたしたちと同じように期待に輝いているのがわかった。
「すてきね。それって物語の中のことみたい」
「でしょう。実は予習室にいるときから、カーリーと計画をねっていたの。わたしたちもセーラ=クルーのまねをしましょうよ。まずはこうやって、テーブルクロスをかけるの」
セーラ=クルーの物語を知らない子は、たぶんイギリス中を探したっていないだろう。それくらい、それは人気のある小説だった。
わたしは、カーテンから蝋燭のあかりがもれないように本で囲いをつくりながら、慎重にテーブルをセッティングしていった。
「ええと、セーラはたしか、アーメンガードのショールをクロスがわりにしたんだっけ」
カーリーが、心得たように刺繍《ししゅう》入りのショールをひっぱりだしてきた。それを勉強用の机に敷き、コップの上に三角に折ったハンカチをくるくるとまいて作った薔薇《ばら》をおくと、花瓶の花のかわりになる。
お皿の代わりには、ナプキンをつかった。ナイフがなかったので、わたしたちは綺麗にふいた裁縫用のものさしでジャファケーキを切り分けた。
わたしたちが、ものすごく苦労しながらケーキを切っている間、カーリーはハンカチに香水をふきかけたり、ベッドの下をのぞき込んだりと妙なことをしていた。
「どうしたの、カーリー。なにをしてるの」
「え、いいえ。なんでもないわ」
わたしたちが、目の前にならんだごちそうに胸をわくわくさせて、椅子を引いた、そのときだった。
コンコン、と、だれかが扉をノックした。
(えっ、うそ。だれか来た!)
わたしは慌てて、テーブルの上の物を隠そうとした。
「あー、わたしわたし。ミチルやねんけど、入っていい?」
わたしたちは、思わず三人で顔を見合わせた。ミチル、ということは、あのクロード=モナリの養女だというミチル、なのだろうか……
まごついているわたしをかばうように、カーリーがドアをあけた。そこに立っていたのは、本当にミチル=マーマデューク=モナリだった。
「これこれ、差し入れもってきてん。腹へってるやろ。おふたりさん」
彼女は、右手にもっていたビスケットの絵のティン缶をかかげてみせた。そして、椅子に座っているヘンリエッタを見てきょとんとし、
「え、なんや。ヘンリエッタまでおったんや。みんな考えることはいっしょやなあ」
わたしはびっくり半分、うれしさ半分だった。なんとミチルは、ヘンリエッタと同じく、朝食もディナーも食べられなかったわたしを心配して、自分のおやつのビスケットをもってきてくれたのだ。
「ねえ、よかったら、ミチルもいっしょにお茶会をしない? ケーキがあるの」
そう言うと、彼女はひまわりのような笑顔で、ぱかっと笑った。
「え、まぜてもらってもええの? じゃあ、遠慮なく」
思わぬ来客に、わたしたちはいっそう胸がわくわくするのを止められなかった。
わたしたちは、二人ぶんの席を確保するために、ベッドのほうに机を寄せることにした。一人がベッドにすわり、カーリーが衣装箱を椅子代わりにした。
「お茶がないのがざんねんだね」
「じゃあ、水で」
「良い考えや」
夏の暑い季節だったから、わたしの部屋には二人分の水をいれたピッチャーが置いてあった。わたしたちはうがい用のコップをならべて、それからお互いの顔を見回した。
一本きりの蝋燭に、思いがけず集まった四人の顔がほんのりと浮かび上がる。
「ふふっ」
「うふ」
「あはははっ」
なんだか、こうして改めて見るとおたがい照れくさかった。
「うちな、こんなふうに一度、みんなと話したかってん」
と、少しなまりのある英語でミチルが言った。
おなかがすいていたわたしは、ジェンが持ってきてくれたミートパイを口に押し込みながら、
「ふぉんふぉに(ほんとに)?」
「ホンマホンマ。ホンマやって。やけど、教室でも部屋《ラ ン ク》が違うとめったに話なんてできへん雰囲気やろ。あの赤毛のプリンセスのおかげで」
コクコク、とヘンリエッタが頷いた。
「はじめにシャーロットが入ってきたとき、ああおもろそうな子が来たなあと思ってん。そんで案の定、ヴェロニカとドンパチはじめたから、こらいっちょ加勢せなあかんと思て」
「私も、はじめはびっくりしたけど、でもいまはシャーロットを応援してる」
ヘンリエッタが、ちょっと恥ずかしそうに言った。
「たぶん、ほんとうはみんなシャーロットと同じことを言いたいんだと思うわ。でも、この国は少し難しいから……」
「そうやよなあ。あーあ、なんでこないな古くさいしきたりばっかりなんやろうなあ。インドは」
と、ミチルは椅子の上で背伸びをした。
「だいたい、パンダリーコットは藩王国やろ? 藩王国ってことは、ほかの直轄領とちごて、マハラジャさんが治めてはるはずやん。だのに、なんでこないにイギリス人が住み着いてもーたんかなあ」
「ここパンダリーコットは、ちょっと特殊なのよ」
控えめに言葉をすべらせたのは、いままで黙ってビスケットを口に運んでいたカーリーだった。
「特殊って?」
「ほかの藩王国とくらべて、王様の権威が弱い、と言えばいいのかな」
「王様がいないの?」
「いいえ、王様《マハラジャ》はいらっしゃるわ。パンダリーコットにもちゃんと法律があって、王様はそれにそって国を治めていらっしゃる。けれど、跡継ぎが決まっていなくて……」
「あー、知ってる。それ!」
ミチルが、ジャファケーキの上のオレンジゼリーを飲み込んで、口を挟んだ。
「たしか姫はいるのに王子がいなくて、外人のおくさんが生んだ子しかおらへんのやよねえ!」
カーリーは静かに頷いた。
「なんでもその外人のおくさんってのが、イギリス人だったらしいで。ああ、だからパンダリーコットにはイギリス人が多いんや。」
「ふううん。でもそれが、ここのステーションとなんの関係があるの?」
「あったまわるいなあ、シャーロット」
「ぶっ」
いきなりミチルが、ケーキのスポンジがつまったわたしのほっぺをつついたので、わたしは中身をはき出しそうになった。
「だからさー、イギリスは、その子をマハラジャにしたいんよ。
はじめはさ、マハラジャにも三人くらい王子がおりはったんよ。けど、なんでか次々に亡くなってね。国内じゃ、イギリスが、パンダリーコット欲しさにほかの王子を暗殺したんやないかってずいぶん噂《うわさ》になって、今度はそのイギリス人とのハーフの王子まで狙われるようになってもーて。そんで、マハラジャはその王子を国外に留学させてしまった、そういう噂やね……」
「まあ、それはお気の毒ね」
わたしはテーブルの上にほおづえをついて、その気の毒な王子さまについて思いをはせていた。
だって、その話がほんとうなら、その亡くなった王子さまたちも、ハーフの王子さまも、どっちも悪いわけではないのだ。
悪いことをしているのは、むしろ……
「でも、跡継ぎにそのハーフの王子しかいないのは事実なのよ。それで、イギリスが保護者ぶって、パンダリーコットにのりこんできたというわけなの」
「ふううん」
「ほかのイギリス人には、ここのマハラジャの王子はイギリス人ですよーって宣伝して、どんどん|入 植《にゅうしょく》させたらしいのよ。だから、藩王国には特別にステーションがあって、イギリス人も多いんですって」
「でも、どうしてそんなにイギリスはパンダリーコットがほしいのかしら。だって、インドはイギリス領じゃなかったの?」
わたしの幼稚な頭では、プラッシーの戦いでフランス軍をインドから追い出してから、ずっとインドはイギリスの植民地だった。もちろん、藩王国という独立国がたくさんあるのは知っていたけれど、それでも、インドにおけるイギリスの影響力の強さというのは半端《はんぱ 》ではなかったはずだ。
もぐもぐと口を動かしていたカーリーが、ぼそりと言った。
「パンダリーコットは小さいけれど、地理がいいのよ。イスラムの国とヒンドゥの国にはさまれているから」
「イスラム……? ヒンドゥって???」
そのときのわたしは、よほどハテナマークをいっぱい顔にはりつけていたらしい。ヘンリエッタが言った。
「あのね、シャーロット。インドのかたちを覚えてる? ちょうどおおきな角のある牛が正面をむいた顔だと思えばいいわ」
「角のある、牛……」
言われたとおり、わたしは頭の中に角のある牛の顔を思い浮かべた。
「インドには、イスラム教徒とヒンドゥ教徒がいるって知ってるわよね?」
「うん。それくらいはさすがに」
「ほかにもいろんな宗教があるんだけど、大部分の人はどちらかに属しているって言われているわ。そしてね、ムスリム(イスラム教徒)は牛の両方の角と、鼻のあたり。そのほかはほとんどがヒンドゥ、っていうのが基本なの」
「へええ」
牛の顔にたとえて言ってもらえると、ずいぶんわかりやすかった。
つまり、両方の角にあたる、パラメチア(現パキスタン)やカシミール、それにベンガル(現バングラデシュ)が、イスラム教徒の多い国ということになるらしい。
「それで、鼻っていうのは?」
「ハイデラバード藩王国ね」
「ハイデラバードもなの!」
と、わたしは驚いて言った。
ハイデラバードは、ちょうど牛の鼻のあたりにあたるインドでいちばん大きな藩王国だ。歴史や伝統があり、とてもお金持ちの国だといわれている。
「むかし、インドのマハラジャの軍がイギリスに負けたんは、イギリスが両方の教徒をわざとケンカさせて、イスラムとヒンドゥの対立を利用したからやって、ダッドがいうてはった」
のんびりとした口調で、ミチルが言う。
「ダッドって、デザイナーのお父様?」
「そそ。ダッドはなんやかんやで世界中をとびまわっとるから、そういうことにはものごっつくわしいねん。いま、インドでは独立運動がさかんになってきてるやろ。おおかた、イギリスはまた同じことをして、インドを分裂させるつもりなんやろなあ」
「でも、今度はそうならないように、ガンジーが、インドはひとつだって唱えているんじゃなくて?」
ヘンリエッタが言い返す。ミチルはあっさり首をふった。
「そのガンジーやって、しょせんヒンドゥの金持ちの出身やん。貧乏人が多い北部のムスリムが、どこまでガンジーについていくかなあ。もし、うちがムスリムやったら、そんな金持ちの理想論なんて、鼻くそほどの役にもたたへんわ、ってゆーとるやろうな」
わたしは、ビスケットを口に運ぶのも忘れて、ミチルやヘンリエッタやカーリーが話すインドのことに聞き入っていた。
(みんな、かしこいなあ……)
わたしは密かに感心した。
彼女たちは、わたしにもよくわかるようにかみ砕いて説明してくれる。……ということは、本当はもっと深いところで理解しているのだろう。
(この歳ごろの女の子だったら、みんなヴェロニカたちみたいに、いつ社交界にデビューできるのとか、次に服を新調するのはいつだとか、そんなことばっかり考えているものなのに……)
ちょっと本をたくさん読んでいるからって、賢いつもりでいた自分がすごく幼稚だったように思えてきて、わたしはいたたまれなくなった。
すると、そんなわたしの様子に気づいたらしいヘンリエッタが、慌てて言った。
「シャーロットはインドに来たばかりだから、詳しくなくてもしかたないわ。それに、私以外にそんなことを考えている人がいるなんて、私も今日初めて知ったのよ」
「そそ、気にせんでええって」
ミチルも言った。
「いまごろなんか、みーんなあのヴェロニカが、今度紅茶夫人のサロンで社交界デビューするらしいってことに興味しんしんで、インドの独立のことなんてだあーれも気にしてへんし」
「えっ、紅茶夫人って、今日きてた人?」
「そそ。見てびっくりしたわ。けっこう若かったなあ。あれで億万長者やで」
わたしはがっくりと顔をテーブルの上にふせた。
「わたし、お腹がすいて結局ろくに見てなかった……」
「シャーロットとカーリーは朗読会にはいなかったのよね。その詩の朗読会のときに、紅茶夫人がヴェロニカに、今度のパーティにぜひいらしてって誘ったのよ」
「ふ、ふうーん」
「もうすぐ、夏休みやからな。この時期になったら、インド中からイギリス人が避暑に北部へやってくるねん。インドでは夏は社交の季節やし」
ミチルが、ふうと息をはいた。
「よお考えたら、もうすぐこの学年もおわりやし。シャーロットも中途半端な時期に入ってきたなあ」
「あ、それはパパの仕事のせいなの」
わたしは、べとついた手をハンカチーフで拭くと、水差しから水をくんで口に含んだ。
「なんだかものすごく急にインドにいかないといけなくなって……。わたしもヘレンといっしょにいるくらいなら、学校のほうがましだって思ってたし」
「ヘレン?」
「えっとね。わたしの義母なの。ずっと、パパの恋人だったひと」
わたしは、ケーキについていたシロップが唇をすべらかにしていたのに乗じて、自分の家族のことをかいつまんで話してきかせた。
ヘンリエッタが控えめに言った。
「じゃあ、シャーロットは、本当のお母さまには会ったことがないの?」
「うん。写真も見たことないの。パパ・ウィリアムが全部捨ててしまったって。ママはもともとあんまり写真が好きじゃなかったみたいで、写真は結婚式のときのものしかなくて……」
「へええ。みんな、聞いたらいろいろフクザツなんやなあ」
ミチルが椅子の上でううんと背伸びをした。
「ま、うちは養女やゆうても、ダッドとはうまいこといっとるし、ダッドもみんなが言うほど偏屈《へんくつ》でもないねんけど」
「あの……、ミチルの日本のご両親は?」
「うちの本物のおとんとおかんは、うちが小さいときにいんでもうたんや。もう顔も覚えてへんなあ。ダッドは独身やから、新しいママンはできへんかった」
「そういえば、ミスタ・モナリはまだ独身なのね」
それはなにげない言葉だったが、戻ってきた返事は強烈だった。
「そらそうや。だって、ダッドはゲイやもん」
いきなりの告白に、わたしは飲んでいた水を吹きそうになった。
「えっ」
「ほんとうに?」
ミチルは、なんでもないことのように笑って手を振った。
「こんなこと、社交界の連中はみんな知っとることやし、隠してもしゃーない。もともとここのガッコに来たんも、男親だけではおまえの教育にさしさわりがあるゆうて、ダッドがたのむから二年だけ、おとなしゅうすることを学校で覚えてこい。そうせんと、いろいろ恥かくのはおまえやで、ゆうから入ったんやもん」
「そ、そ、そうなの……」
芸術家という人種の中には、同性しか愛せない人がいるというのは聞いたことがあったが、こうもおおっぴらに聞いたことはなかったので、わたしはかあっと顔が赤くなるのを感じた。
ところが、ミチルはこのとき、わたしに向かって思いもかけないことを言ったのだった。
「こういうことは、恥ずかしがったら負けやで、シャーロット。逆に自分が恥ずかしないと思ったら、なんでもないことのようにしてたほうがええねん。やないと、それが意外な弱点になりよる」
「えっ」
「うちが入学してきたときも、あのヴェロニカのお嬢さんが、うちが養女やいうことをつついてきよってん」
と、ミチルは話し出した。
「けど、うちは堂々としてた。養女やろうが、実の娘だろうが、うちがクロード=モナリの娘やゆうことは事実や。なあんも恥ずかしいことなんかない。うちのことを、ダッドの東洋趣味の延長やとか、幼妻やとかいう口汚いやつらがおったけど、そういうやつらはへんにこっちがオドオドしたら、それが弱点やとおもてすぐにそこばっかし攻撃してくるもんや。
案の定、あのお嬢さん、うちとダッドがどういう関係なのかっていじわるーい顔して聞いてきよったわ。やから、『あいにくうちのダッドは男が好きなゲイやから、あんたが思ってるようなことはないねん』って堂々と宣言したら、あのお嬢さん、顔を真っ赤にしてなーんも言えへんかった。ありゃ、ごっつ見物やったでえ、あはは」
ミチルがあんまりにもあっけらかんとしているので、わたしはものすごいことを聞いてしまったわりには、静かにそのことをうけとめることができていた。
(でも、ミチルの言うことは正しい)
変に隠さず、堂々としていれば、弱点も弱点でなくなるというミチルの言葉は、たしかに正論のように思えた。
あのヴェロニカのことだ。いずれわたしの家族のことを調べ上げ、クラスメイトの前で暴露《ばくろ 》するつもりなのだろう。わたしをおとしめたい彼女にとって、わたしのママのことはいいゴシップにちがいない。
(でも、そのときはミチルのように、堂々としていよう)
そうすれば、相手も攻撃する矛先《ほこさき》を失う。
一度心がきまると、いままでの深刻さがうそのように心が軽くなった。
「ミチル、ありがとう」
わたしは、たったいま友達になったばかりの東洋人の少女に、心から感謝をのべた。彼女は、わたしの話をきいて、ヴェロニカたちにいいようにからかわれるのを心配して言ってくれたに違いなかった。
「どういたしまして」
「だいじょうぶよ、シャーロット。寄宿制の学校に来る子の中には、家族とうまくいっていない子が多いから、そんなに気にしなくてもみんな変に思ったりしないわ」
そう、ヘンリエッタがうまくフォローした。
わたしは、少しの気恥ずかしさと、自分の心の底にしまっていたママのことを話せたうれしさとで、胸が熱くなる思いだった。
(二人ともなんていい子たちなんだろう)
彼女たちと友達になれてよかった。わたしは深くそう思った。友達ができただけでもうれしいのに、それがこんなにもすてきな人たちだなんて、わたしは本当にインドへ来てよかったのかもしれない。
ジャファケーキやさまざまな差し入れのおかげで、わたしはお腹がいっぱいになって少し眠くなりかけていた。
と、そのとき、
「それにしても、シャーロットのママンの話はすごいなあ。なんか陰謀《いんぼう》の匂いを感じるわ」
思いがけないことを、ミチルが言った。
「え、ど、どうして?」
「気悪くしたらごめんな。でもなーんかなあ。話聞いてたら、うちにはシャーロットのママンはまだ生きてるような気がしてならへんねん」
「もうミチルったら、推理小説とは違うのよ」
小声でヘンリエッタがミチルをたしなめる。どうやら、ミチルは推理小説のファンらしい。
そういえば、よく授業中も教科書を読むフリをしてクリスティを読んでいたっけ……
「だって、シャーロットが生まれてすぐに失踪《しっそう》して、その後何年も行方をくらませたままやったのに、パパは離婚せんかったんやろ? その、ヘレンとかいう恋人にせっつかれとったのに」
ミチルは、物わかりの悪いワトソンに解説してきかせるホームズのように、
「そんで、急に見つかったからゆうて、そないにすぐに本人やってわかるもんかなあ。だって、十年やろ。ついでに、|土左衛門《す い し た い》やったんやろ? それがまず怪《あや》しいわ」
「どうして?」
「ヒンドゥ教では、河に遺体を流すのはあたりまえやねん。金持ちしか焼いてもらえへんからな。やから、土左衛門がぷかぷか浮いてたからって、そないにすぐ騒ぎになるはずない。それに、シャーロット・パパが知らせを受けて飛行機でインドに行ったかて、ロンドンからじゃ何日もかかるやろ。当然死体も腐るはずや。その上水死体ときてる。うちとしては、なんでその死体が、シャーロットのママやってわかったんか、そのことのほうが不思議やわぁ」
名探偵ミチルの推理は、意外と理にかなっているように思えた。
ヘンリエッタが、ミチルの脇を肘でつついて言った。
「ミチルったら、言い過ぎよ。シャーロットのお母様のことなのよ」
「やから、気ィ悪うしたらかんにんって、はじめにゆうたやん」
「いいの」
わたしは、ほうっておくとケンカになりそうな二人の間に割って入った。
「いいのよ、ヘンリエッタ。わたしもなんとなくそんな気がしてたから……」
「そんな気って?」
「ママは、ほんとうは生きてるんじゃないかって」
二人が同時にすうっと息を呑んだので、わたしはあわてて両手を振った。
「え、えっとね。ミチルみたいな推理をしてたわけじゃないのよ。ただ、ママって、一度も会ったことがないから、死んだって聞かされてもいまいち実感がないっていうか」
わたしはさらに言った。
「それに、こうも思ったの。ママは、インドがとても綺麗で好きだって手紙に書いていたけれど、もしかしたら、ママが好きだったのはインドじゃないかもしれないって」
「えっ、どういうこと」
「あのね、これは内緒なんだけど、わたし、ママの宝石箱を一度だけ勝手にのぞいたことがあるの。中には、オニキスっていう黒い宝石が入っていて」
「オニキス……、ってあの黒水晶みたいなやつか」
ミチルが顎《あご》をつまんで、推理のポーズをとる。
「うん。それで、ママはインドから戻ってからずっとそれを身につけていたんだって、ママの妹のおばさまが言ってた」
「それって……」
ヘンリエッタが興奮したように、両手で口を覆って言った。
「秘密の恋人からのプレゼント、とか……?」
「うわあ。ドラマチックやなー!」
ミチルもまた、声をあげた。
「たしかに、ブラックオニキスはパンダリーコットの名産品でもあるしな。つまり、シャーロットは、ママンが好きやったんはインドやのうて、インド人の恋人やないかって思っとるわけや」
わたしは頷いた。ミチルがわかった、とでもいうようにぽんと手を打つ。
「もし、シャーロットのママンが恋人を追ってインドに行ったんなら、ママンはこのインドで生きているかもしれへんな!」
彼女の言葉に、わたしはびっくりして息を大きく吸い込んだ。
「ママが、生きてる……?」
「そうや」
ミチルは、わたしの肩に手を置いて、
「いまごろ、その宝石を贈った相手と結婚しとるかもしれん。案外探したら、すぐ見つかるかもしれへんで」
「で、でも、そんなことって、あるのかしら」
急な展開すぎて、わたしは思わず両手で頬をはさんだ。
「ほんとうにママが生きていて、このインドにいるなんて」
「そうよ、ミチル。それにインドは広いわ。私たちはめったにステーションから出られないのに、いったいどうやって探すのよ」
「だからあ、もしかしたらってゆうてるやん」
「あ、でも……」
わたしは、ふと思いついて口をはさんだ。
「ママは、ルーシーおばさまへの手紙に、パンダリーコットはインドで一番美しいって書いていたの。だから、昔パンダリーコットに来たことがあったんだと思う」
「えっ、じゃあ、その恋人って、パンダリーコットの人……?」
テーブルを囲んでいる面子《めんつ 》が、それぞれ顔を見合わせてごくりと唾を飲み下すのがわかった。
「なんか……、すごいことになってきたね……」
「まだ、そうと決まったわけではないわ」
「でも、その可能性はじゅうぶんにあるやん!」
すでにその場は、なにがなんでもわたしのママを探し出そうというふうにもりあがっていた。
ミチルが言った。
「ママに宝石を贈るくらいやから、きっと相手は貧乏人やないよなあ。そやったら、ママは意外と金持ちのお人と結婚しはったんかもしれへん」
「お金持ち……」
わたしは、だんだんと胸がどきどきし始めているのに気づいていた。
ママが生きているかもしれない。
そして、インドの人とドラマチックな恋愛をして、いまここの近くにいるかもしれない。
一度も会ったことがない相手だからだろうか、わたしはいまいち、自分の母親が不倫《ふ りん》をしたあげくに自分を捨てたことに関して、悪いイメージをもっていなかった。
というか、あのパパのプレイボーイぶりを見てきたわたしには、もしもママがパパを捨てて出て行ってしまったとしても、なんとなくうなずけてしまうのだ。
(だって、パパはわたしが生まれる前からプレイボーイだったって、ルーシーおばさまが言っていたもん。ママが、自分だけを見てくれる人と逃げちゃったんだとしても、ママは悪くないと思う……)
ここで自分を捨てた母親に同情してしまうあたり、まったく、女とは不思議な生き物なのだった。
「そういえば、さっき話題にでたキャッスルトン夫人やけど、いま思い出したけど、えっらいホーム嫌いで知られててな」
ミチルが、思い出し思い出し話す。
「ホーム嫌い?」
「うん。なんでも、むかし、若い頃にインド人と駆け落ちしたんやて。それで実家から勘当されてて、ホームに戻られへんねやないかって、噂やった」
そこまで言って、彼女は、どこか神妙なおももちでわたしのほうをみた。
「なあ、これって、シャーロットのママンの話と似てへんか」
「あっ」
わたしは、口もとに拳をあてて黙り込んでしまった。
たしかに、わたしが親戚のおばさまがたに聞かされた話に似ているような気がする。彼女たちが話すママのゴシップの内容も、ママがインド人の恋人と駆け落ちして、インドへ逃げたというものだった。
(でも……、でも、そんなことって)
わたしは困ってしまって、思わずとなりのカーリーを見た。
こんなに急に、ママが見つかることなんてあるのだろうか。
いままで十四年間、探す手がかりすら見つからなかったのに……?
ところが、カーリーは何も言わず、ふいっと視線を避けてしまった。どこへ目を向けていいのかわからなくなって、わたしは再びミチルを見た。
「たしか、紅茶夫人は三十半ばくらいか四十そこらやったはずや。そやったら歳も合う。インドに来たのはいつごろかわからへんけど、キャッスルトンのブランドが出回り始めたのは、ここ十年くらいやから、話もそないにくいちがってないはず」
問題は、どうやって確かめるかやな……、と、名探偵のポーズをくずさないまま、ミチルが言った。
「どっかのパーティとかに出るのが、いちばん手っ取り早いねんけどなあ」
「ミチルったら。そんなのわたしたちが出られるわけないじゃない」
「そんなことあらへんで。うちだって、ダッドがおったらそろそろ正式に社交界デビューせなあかんって歳や。その証拠に、あのにんじん娘は、こんどその紅茶夫人のサロンでお披露目《ひろめ》するねんやろ?」
(にんじん娘……)
ヴェロニカの赤毛のことを指して言っているのだと思うと、わたしは思わず吹き出しそうになった。
「いっそのこと、その紅茶夫人のパーティにもぐりこんだらどやろ」
「そんなのとっても無理よ。だいいち、わたしたちには着ていくドレスも、エスコートもないじゃない」
たしかにそうかも、とわたしは思った。それに、わたしが持っているディナー用の礼服はずいぶん前にハロッズで作ったもので、少し流行遅れだった。
紅茶夫人のサロンというからには、インド中から避暑に集まってきたインド高官の夫人たちが出席するのだろう。とても、そんな華やかな場に着ていける服とは思えない。
(あーあ、ヘレンといっしょに買い物にいくのがいやで、お古のドレスをもってきたのが失敗だった。ちゃんと買いに行っていたら、こんなことにはならなかったのに)
わたしは、内心自分のものぐさを呪う思いだった。
すると、ミチルはなんでもないことのように肩をすくめて、
「あのなあ。うちのダッドをだれやと思てんねん。世界のクロード=モナリやで」
と言った。
わたしは、あっと顔をあげた。
「だれも見たことがない最新のドレスぐらい、うちがもってるって。もー、毎月のようにダッドが服を送ってくるから、こっちは置く場所に困ってるくらいやねん」
ヘンリエッタが、ため息と共に両手をあわせる。
「すごい! すごいわ、ミチル」
「それよりも、問題はエスコートのほうやろう。なにせ女子校やし、男がおらへん」
むむむ、とミチルは考え込んだ。
「ダッドがおったら、こういういたずらには喜んで手ェかしてくれるんやけどなあ……」
「ねえ、私、いまとってもいいことを思いついたんだけれど……」
と、両手を花にとまった蝶《ちょう》のようにすりあわせながら言ったのは、ヘンリエッタだった。
「なに?」
「カーリーが、男装するっていうのはどうかしら」
「ぶっ」
そのとたんに、いままではしゃぐわたしたちを静かに見守っていたカーリーが、水を吹いた。
「わ、私が、なにって……?」
「だから、カーリーがシャーロットをエスコートすればいいのよ!」
ヘンリエッタは、チョコレート色の目をキラキラさせながら言った。
「だって、私ずうっと、カーリーが男の子だったらさぞかしかっこいいのにって思っていたの。背が高いしすらっとしていて」
そうして、思わぬ問題発言をした。
「おまけに胸もないもの」
「ぶっ」
カーリーはまたまた吹き出した。
「ぶっ、ごほっ……、ごほっ!」
「ちょっとカーリー、だいじょうぶ?」
なぜか激しくむせ込んでいる彼女の背をさすりながら、わたしは言った。彼女は鼻の頭を真っ赤にしたまま、こくこくと頷く。
「ま、まあたしかにそうだけど、でもどうしてヘンリエッタがそのことを知ってるの?」
「えっ、だ、だって……」
ヘンリエッタは、かあっと赤くなった頬を両手でおさえながら、
「わたし、ずっとカーリーのファンだったんですもの……」
と、ぼそぼそとつぶやいた。
(そうだった)
わたしは、彼女が熱烈なカーリーのファンだったことを思い出した。
「まあ、カーリーが男になるてのは悪ない案やな」
すっかりホームズ気取りでいるミチルが、あごに指をあてて言う。
「んー、でもカーリーが着るくらいのイヴニングって、どうやって調達したらええんやろ。いまからダッドに電話して、すぐに送ってくれるかなあ」
「それは、大丈夫。用意できる、と、思う……」
ようやく咳《せき》のおさまったらしいカーリーが、片手をあげながら言った。
「えっ、ホンマに?」
「……うん」
「でも、どうやって……」
そのときだった。
「しっ!」
カーリーが、ふいに険《けわ》しい顔をして唇の前に指をたてた。
「足音がする」
「えっ」
「だれか来たらしい」
わたしは、いままでの浮かれた気分も忘れて、ザザザーと顔中から血が引いていくのを感じていた。
この時間に、だれかが来るなんて考えられない。来るとしたら……、それは――
(もしかして、ミセス・ウイッチに見つかった!?)
「シャーロットはベッドへ戻って!」
いそいでテーブルの上の皿をリネン用の籠に放り込んでしまいながら、カーリーが言った。
「それから、ふたりはベッドの下に隠れて!」
「で、でもカーリーは……」
「はやく!」
言われて、二人は猫に追われたネズミのように、わたしとカーリーのベッドの下にすべりこんだ。わたしもまた、ベッドに飛び込んで頭からシーツをかぶった。
心臓が、ロンドン王宮の衛兵の小太鼓のように、ダダダダダっという音をたてていた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!!)
わたしは、これからどうなるのか、はらはらしながらじっと耳をそばだてていた。というのも、カーリーはベッドに戻らず、わたしたちの食べかすを隠したあとも、堂々と灯りをつけたまま椅子に座っていたからだ。
(いったいどうするつもりなの、カーリー!)
わたしは、シーツの中で必死で寝たふりをしながら、足音が近づいてくるのを待った。
がちゃっ。
ノックもなしに、ドアは開いた。
「まあ、ミス・アリソン!」
声の主は、思った通りミセス・ウイッチ――つまり学院長先生だった。
「ミス・チェンバースから、下の階からなにか物音がすると言われて来てみれば、こんな時間にいったいなにをしているのですか、ミス・アリソン」
言われてはじめて、わたしは、自分たちの部屋の真上がヴェロニカの特別室であることを知った。わたしは、シーツの隙間から天井をにらみつけた。
(あの地獄耳、あんたこそなんでこんな時間まで起きてるのよっ!)
「お腹が空いて眠れないので、本を読んでいたのです。院長先生」
カーリーの声は、至極《し ごく》落ち着いていた。
ミセス・ウイッチは、ふんふんと犬のように鼻をならした。
「それにしては、なんだか甘い匂いがするように思えますね。ここでなにか食べていたのではなくて?」
「まさか」
彼女がゆっくりと立ち上がるのが、椅子をひいた音でわかった。
「匂いがするというのなら、それは私の香水の匂いでしょう。汗くさいのは嫌なので、ハンカチや部屋にふりまくことがあるのです。たしか先生も、レディのたしなみだとおっしゃっておられましたね」
わたしは、もう少しのところであっと声をあげそうになった。
お茶会が始まる前、カーリーがベッドの下をのぞき込んだり、ハンカチに香水をしみこませたりしていたのは、このことを予測してのことだったのだ。
(カーリーって、なんて頭がいいの!)
ふと、向かいのベッドの下を見ると、そこにはそのことに気づいたらしいミチルが、うんうんと頷いていた。
「し、しかし、そんなことはどこかいいわけのようで……」
「たしかに、消灯時間を破って予習をしていたのは、私に非があります。お腹が空いて眠れなかったのと、あさっての日曜の礼拝で聖書を朗読するお役目があったので、予習をしていたのです。生徒代表の私がそこで少しでもつまったりすれば、学院長先生の恥になりますから」
「うう……」
さすがのミセス・ウイッチも、カーリーには逆に沈黙の魔法をかけられてしまったようだった。
そこで言いくるめられてはこけんにかかわると思ったのか、ミセス・ウイッチは、
「し、しかし、それは消灯の規則を破ったいいわけにはなりませんよ」
「わかっています。罰は受けます」
「では、明日の午後からずっと、休みの間は教会前の掃除をなさい。日曜にはたくさんの方がいらっしゃいますから、綺麗に掃《は》き清《きよ》めるのです」
「はい、マダム」
「罰は、ルームメイトも同様です。ミス・シンクレアもいっしょにするのですよ」
「はい、朝になったらそう伝えます」
カーリーの完璧ないいわけに、わたしは拍手をおくりたい気分だった。教会前の掃除なんて、いくらだってしてもいい。
「よろしい」
そこで、ようやくミセス・ウイッチお得意のパチンが出た。
「では、すぐにベッドに入りなさい」
「わかりました。おやすみなさい」
カーリーが蝋燭を消してベッドに入ったのを確かめてから、ミセス・ウイッチは部屋を出て行った。
わたしは、いまにもカーリに抱きつきたい思いでいっぱいだった。
(ああ、カーリー、カーリー、だいすき!)
ミセス・ウイッチの足音が完全に聞こえなくなったのをみはからって、ベッドの下から、二人が亀の頭のようににゅっと顔を出す。
「やった!」
「ざまあみろやで、あの婆。出し抜いてやった!」
「うふふ」
わたしたちは、顔を見合わせてにっと笑いあった。
「ああ、カーリー、あなたって最高よ!」
わたしは出来るかぎりおとなしめに、彼女の首筋にとびついた。
あのヴェロニカのいじわるだけではなく、学院長先生まで出し抜くなんて、わたしたちの友達はなんてかしこくて、機転がきくんだろう!
§ § §
次の日、わたしとカーリーの二人は、消灯の時間を守らなかった罰として、玄関脇の道の掃き掃除をすることになった。
ここ、パンダリーコットはインドの避暑地としても有名で、遠くパラマチアの高地から吹く涼しい風が海へととおりぬけるため、海側にしては比較的過ごしやすい。
この時期になると、いままで閑散《かんさん》としていたステーション内も、人の影がちらほら増えてくる。みな暑いインドの夏を避けて、海辺に避暑に来ているイギリス人たちだ。
彼らは、毎晩のようにステーション内で開かれるディナーパーティに出かけていく。
インドでは、夏休みの間が社交シーズンと言われていた。
カーリーが、道を掃きながら聞いたこともない外国の歌をうたってくれるので、わたしも対抗してマザー・グースを謳《うた》った。
「ベアトリス、サリー、ふふんが口癖。ヴェロニカさまのこしぎんちゃく。ベアトリス、サリー……」
もちろんこれは、エルシー、マーリー≠フ替え歌である。
「ピーターピーター、かぼちゃがだいすき。かぼちゃをくりぬいて、家たてた……」
「その歌はやめて」
かぼちゃが大嫌いなカーリーからクレームが入ったので、わたしは慌てて歌うのをやめた。
わたしは、ふと箒《ほうき》を動かすのをやめて道の真ん中を見やった。
「見てカーリー、あそこにアヒルがいるわ!」
なんと、そこには一羽のアヒルが道の真ん中にでんと座っていたのである。
わたしは、まじまじとそのふてぶてしい態度のアヒルをながめやった。
「まああなた、もしかして、あの港にいたアヒルさんじゃない?」
それはわたしがパンダリーコットに着いた日に、ビスケットをあげて別れたあのアヒルにちがいなかった。おしりのほうに茶色い羽根がまじっていて、遠目に見るとおむつを穿《は》いているようである。
「やっぱりそうね。ねえ、あのときはヘレンがごめんなさいね」
と、わたしは言った。
「まだ子アヒルね」
カーリーが、まじまじとアヒルを見て言った。わたしは驚いて振り返った。
「えっ、でももうずいぶん大きいわよ」
「このへんのアヒルは、もっと大きくなるわよ。そうね、孔雀くらいにはなるかしら」
こーんなくらい、とカーリーは両手をひろげて説明した。
わたしは、あの道ばたにごろごろ座っていた牛や孔雀やアヒルの大群を思い出した。
たしかにあの巨大な牛に対抗するためには、それなりに大きくならなければ生き残れないのかもしれない。
「どうしてここに入ってきたのかしら。ねえアヒルさん。もしかして、あなたはあのときのお礼を言いにきてくれたの?」
「あのときのお礼?」
わたしが、このアヒルがヘレンにけっ飛ばされそうになるのを助けたことを話すと、カーリーはかたちのいい眉を上げて、ふうんと言った。
「ねえカーリー。これって、この前ミチルに聞いた、日本の国の昔話みたいね!」
わたしは、ミチルが話してくれた、助けた鳥が、男のもとに妻の姿をとってやってきたという話を思い出していた。
「ええと、サギの恩返し」
「鶴よ」
「細かい話はいいじゃない。ねえ、そしたらこの子、いつか王子さまになってわたしの前に現れるかもしれないわ!」
それは他愛もない冗談だったのだが、そのとたん、カーリーはなぜかぎょっとした顔になり、
「気にくわないわ」
と、おもむろに座っているアヒルごと、箒で掃こうとした。
「ぐ、グエエエエッ」
「なにをするのよカーリー!」
わたしは慌てて、アヒルとカーリーの間に割って入った。
「なにって、ライバルは早めに始末するのよ」
「わけがわからないわ、カーリー!」
わたしが懇願《こんがん》したので、カーリーはアヒルをステーション外に掃き出そうとするのを諦《あきら》めてくれたようだった。
「ええと、この子の名前なんにしよう。プリンスってどうかしら。いっそ、ヒンディ語で、ええと王子さまってなんていうんだっけ、マハラジクマール=H」
「名前ですって?」
カーリーは、その黒々とした目に一瞬不穏な光を宿らせて、
「そんなのフォアグラで十分だわ」
「それはガチョウよ、カーリー!」
これ以上不吉な名前を提案されてはたまらない、と、わたしは急いで名前を考えた。
「そ、それならナッピーって名前はどうかしら。だってこの子、おむつをしているみたいじゃない?」
「|ナッピー《お む つ》?」
カーリーは、しばらく無表情で座っているアヒルを見下ろしていたが、
「そうね。マハラジクマールよりはずっといいと思う」
「じゃあ、飼ってもいいと思う?」
「ええ。クリスマスのころには、きっと食べごろよ」
と、ひどいことを言った。わたしは、カーリーが意外と大食漢なことを思い出した。
(そうなのよね。けっこう食べるし、力持ちなのよ。カーリーって)
ロンドンでもずっとペットを飼いたいと思っていたわたしは、ナッピーがわたしの新たなお友達になってくれればいうことはなかった。なんでもあのヘンリエッタも、同室のみんなにかくれてある小動物≠飼っているという。
(でも、みんなに隠れて飼えるペットってなんなんだろう。セーラ=クルーみたいに、ネズミでも飼ってるんだろうか)
仲良くなったとはいえ、ヘンリエッタはまだまだ謎の人だった。
わたしは、しばらくナッピーのおしりをつついたり、彼(たぶん彼だろう)と会話をしたりして遊んでいた。すると、ナッピーは、
「ガアっ」
と、一声鳴いたかと思うと、おもむろに首をぐるんと半回転させ、
「あ、こら!」
太っていることをみじんも感じさせない動きで、あっというまに側の垣根《かきね 》の中にもぐりこんでしまったのだった。
「だ、だめよナッピー、そっちにいっちゃ。そっちはべつのおうちなんだから!」
わたしは、慌ててナッピーのあとを追いかけた。
そこはオルガ女学院の左隣のおうちで、噂話の大好きなヴェロニカたちが、持ち主がたまにしか戻ってこないと噂しているのをきいたことがあった。
なんでも、噂の紅茶夫人とおなじく、もともとインドの| 麻 《ジュート》かなにかで大金持ちになったイギリス人商人の持ち家らしい。
「ナッピー、どこにいるの。戻ってきなさいナッピー!」
すっかり空き家だと思って油断していたわたしは、ナッピーのあとを追って垣根のほころびの中に体をつっこんだ。
ナッピーの大きなおしりが通った穴は、わたしの体をすんなり通してくれた。
わたしは、土を払いながら立ち上がった。
「うわ……」
顔を上げたとたん、見事なまでのエメラルド色が視界をふさいだ。
それはきちんと刈られ、何度もローラーをかけることでしか作れないすばらしい芝生《しばふ 》だった。ロンドンでよく言われる、まるで上等な天鷲絨《びろうど》を張ったビリヤード台の上のよう≠ニいう表現がまさにふさわしい。
ここが空き家なんて嘘だ、とわたしは一目見てわかった。こんなふうにすばらしい芝生は、きちんと専門の庭師がいて、毎日毎日ローラーをかけないと作りだせないからだ。
わたしがあまりに美しい庭に見とれていると、ふいに声がした。
「ねえ、きみ」
わたしは振り返った。
「あっ」
視線の先に、ナッピーを腕にかかえた男の人が立っていた。
「このアヒルくんは、きみの?」
なんとナッピーは、彼のアフタヌーンティーのおやつだったらしい、クルミ入りのスコーンをもらって、ばくばくと食べていた。
わたしは呆れた。
「まあ、ナッピー。お行儀がわるい子ね」
アヒルはまったく悪びれた様子がないようで、があと一言鳴いた。きっと、このスコーンの匂いをかぎつけて、あんなに慌てていたにちがいない。
「あの……、ごめんなさい。勝手に入ったりして」
「かまわないよ」
青年は、さらりとした風通しのよさそうな麻の上下に、ちらりとだけ生地がみえるチェックのベストを着ていた。
この暑さなのにベストを着ているということは、それだけきちんとした家で育てられた人なのだろう。着方によっては通りいっぺんに見えてしまうチェックも、上着の合わせの下にちらりとしか見えないことで、この仕立てがオーダーメイドであること、そして彼がなかなかのおしゃれであることが窺《うかが》える。
つまり、彼はかなりのお金持ちなのだった。
「くくっ、|ナッピー《お む つ》、ね……」
彼は心底おかしそうに拳を口元にあてて笑った。眼鏡をかけているせいか、そんなふうに笑うと、初めて見たときよりも一、二歳若く見える。
学生だろうか、とわたしは思った。
もっとも、歳からしてパブリックスクールは出ているような感じだけれど……
彼は、さらさらと指通りのよさそうなアッシュブロンドの頭をゆすぶって言った。
「たしかにおむつを穿いてるみたいだものね。いい名前だ」
「があっ」
「ほら、本人も気に入ったって言ってる」
「うふふっ」
わたしは、つられて笑ってしまった。それくらい、この男の人の笑顔には警戒心を解かせるなにかがあったのだ。
(綺麗な目)
と、わたしは思った。――まるで、このパンダリーコットの海の色のようだ。
「きみは、お隣の女学生さん?」
「ええ。シャーロット=シンクレアです」
彼は舌打ちした。
「レディを先に名乗らせるなんて、僕もなってないな。僕はエセルバード=オーキッドです。よろしく、ミス・シンクレア」
「オーキッド! ……って、もしかして、あの白粉《おしろい》とかが有名な?」
わたしは、思わず口を両手で覆って叫んでしまった。
オーキッド商会といえば、ロンドンでも有名な高級化粧品のメーカーである。
もともとはインドの外交官だった先々代当主が、中国や南洋の薬草入り化粧品を社交界に紹介したことで、爆発的な人気を得た。そのパッケージや瓶なども陶器をつかうという凝りっぷりで、特に蘭《らん》のマークの入ったパウダーは、貴婦人ならひとつはもっていたいアイテムのひとつなのだ。
「やっぱり女性は、いくつの方でもこういうことにはおくわしいですね」
と、彼は苦笑した。
「よければ、いっしょにお茶でもいかがですか。ミス・シンクレア。いまちょうどデザートが焼けたところです」
ふいに良い匂いが鼻先をくすぐって、わたしは顔を上げた。向こうのほうから、銀のお盆を片手もちしたメイドさんが、ふんふんと腰をゆらしながらこちらへやってくるのが見える。
「あのう、お誘いはうれしいのですけれど、友達が待っているので……」
デザートのおいしそうな匂いに惹かれながらも、わたしはそう言った。すると、
「でも、きみのペットのアヒル君は、まだ食べたりないみたいだけど?」
ばくばくとスコーンをほおばっているアヒルを見て、わたしは顔をしかめた。
「まあ、ナッピー。これ以上はだめよ。さ、わたしといっしょに帰りましょう」
ところが、わたしが無理矢理ナッピーを抱き上げようとしても、食い意地の張ったナッピーは暴れててこでも動こうとしない。
「じゃあ、彼が満足するまでここでお茶を飲むのはどう? それくらいならいいんじゃない」
ナッピーにまったく動く気配がないので、わたしはしぶしぶ頷いた。
「ええ、じゃあちょっとだけ……」
「では、僕のことはエセルと呼んでください。僕があなたをシャーロットと呼んでも?」
「もちろん」
わたしはエセルにすすめられるまま、椅子に腰をおろした。
わたしの目の前で、金髪のメイドさんがイチゴがたっぷりのった焼きたてのタルトを切り分けてくれる。
目が合うと、彼女はうすく紫がかった目を細めてうふっとウインクした。まさにそのタルトの上のイチゴのように瑞々《みずみず》しい、つやつやした唇が印象的だった。
そして、膝までむきだしな短いスカートも。
(せ、せくしーなメイドさんだなあ)
これもエセルの趣味なのだろうかと、わたしは、彼をうろんげな目で見てしまった。
「ああ、やっぱりインドの夏は暑い。アーリアシティまできてもこうだもの。ねえ、シャーロット。この暑さでは甘いものが欲しくなってしまうよね」
と、彼はどっかと椅子に身を投げ出すと、メイドがついだばかりの紅茶に口をつけた。
そして、言った。
「うん。やっぱりレモネードも欲しいかな。ねえミモザ、レモネードもお願い」
「かしこまりましたわ。ぼっちゃま。うふん」
そのメイドさん(ミモザさんというらしい)は、礼のかわりに色っぽいウインクをとばして、来たときとおなじように腰を振りながら館の中に入っていった。
わたしは、彼女のスカートの下に見え隠れするガーターベルトにどぎまぎした。
(あ、あんな短いスカートって……、どうなのかしら)
きっとミセス・ウイッチが見たら、レディにあるまじき服だと憤死《ふんし 》してしまうにちがいない。
ヴェルヴェットを敷き詰めたような庭の木陰で飲む熱い紅茶は、この暑い陽気にもかかわらず喉に心地よかった。
「あの、ここにはいつも避暑に来ていらっしゃるの?」
「僕?」
「ええ」
「いや、今年はたまたま」
彼は、ミモザの持ってきた氷入りのレモネードをとてもうまそうに飲み干した。
「ボンベイの奥様方のリーダーが、今年の避暑はここがいいというものだから、みんなこぞってついてきたんだよ。インドの夏は、いわば社交シーズンでね。僕ら商人にとってはパーティは接待のようなものだ。少しでもコネクションを広げようと、彼女たちの行くところ行くところについて回るってわけ」
「へええ」
初めて聞く話に、わたしの、日頃なんでもメモしたがる好奇心がむくむくとこみ上げてきた。
「ってことは、エセルは大学生じゃないの?」
「僕は少し早く大学を出たんだ。だから、もう祖父の会社で働いてる。両親は早くに亡くなったしね。ほら、あそこでぐうぐう寝てるのが、僕の祖父のダッドリー=オーキッド」
彼が促した先に目をむけると、なるほど、烏籠のかたちをしたあずまやに、顔の半分を髭《ひげ》に覆われた老紳士が、気持ちよさそうに昼寝をしているのが見える。
「もう半分引退したようなものだからいい気なものさ。パーティにもめったに出てこないしね」
「ふううん。エセルもパーティとかに出るんだ」
「それが僕らの仕事だからね。仕方がない。……って、きみも出るのかい?」
「えっ」
カップをもったままぼうっとしていたわたしは、ふいに話をふられてびくっとなった。
「な、なに?」
「なにって、パーティさ。今日はたしか、ボンベイ総督のディナーパーティだったかな」
わたしはあわてて両手をふってみせた。
「う、ううん。そうじゃないの」
「そうなのかい。そういえば、もうすぐ夏休みだろうけど、きみは休暇はどうするの? 家族は……」
わたしは、膝の上のスカートをぎゅっと握りしめた。
「えっと、パパはパンダリーコットの大使なの」
「へえ、そうか。じゃあご両親もこのステーションに?」
「ううん」
わたしは内心なさけない気分になりながら、首を振った。わたしは、つい先日、ヘレンから、
『……というわけで、私はフェビアンのお友達のお母様がたとのおつきあいがありますので、一足お先にロンドンに戻ります。あなたはなおいっそう、そこで勉学にはげまれますように』
という、味もそっけもない手紙を受け取っていたのだった。
(そういえば、わたし、もう一年以上もパパに会ってないな……)
「ヘレンは……、義理の母親になった人は、イートンに行ってる義弟を迎えにロンドンに戻ったわ。インドは暑いから、そのまま実家ですごすみたい。わたしは……、いっしょにいってもどうしようもないから」
「そうか」
わたしのその短い説明だけで、カンのいいエセルは大方の事情を察したようだった。
そのとき、さっきのセクシーなメイドさんが、腰をふりふりやってきた。
「エセルおぼっちゃま。カーリーさんとおっしゃる、お隣のオルガ女学院の学生さんがいらしてますけれど。うふん」
わたしは、慌ててテーブルに手をついてたちあがった。
「ああ、いけない。カーリーのこと、放ったらかしだった!」
「カーリーって、学校のお友達かい?」
エセルは品良く立ち上がりながら、わたしを玄関のほうへ案内し、
「今度はぜひ、お友達といっしょにどうぞ。お嬢さんがた。アヒル君はまだうちにいたいようだから、預かっておくね」
わたしは、エセルとメイドさんに何度もお礼を言って、そのオーキッド家のお屋敷をあとにした。
帰るすがら、わたしはおそるおそるカーリーのほうをのぞき見た。
「ごめんねカーリー、放っておいて。ナッピーがなかなか動いてくれなかったから……」
「……………………」
思った通り、カーリーはかなりのおかんむりで、途中の角を曲がるまでずうっとだまったままだった。わたしは、これ以上ないくらい勢いよく頭を下げた。
「ごめん、ごめんなさいっ。でも一度は断ったのよ。でも喉がかわいててレモネードが飲みたかったし、ナッピーも動かなかったから……、だから……」
「…………若い男だった」
「へ?」
カーリーは、綺麗な目を糸のように細めて、かるくわたしを睨んだ。
「学校の敷地外で、勝手に若い男と二人きりになるなんて」
思わぬところから非難されて、わたしはぽかんとなった。
「え、でも、二人きりっていっても、メイドさんもいたし」
「でも、しゃべったんでしょう」
「……う、うん」
「シャーロットは、私といるよりあの眼鏡といたほうが楽しいのよね」
ツン、と横を向いてむくれているカーリーは、いつもの大人びた雰囲気がうそのようだった。わたしは彼女がそんな顔をしているのがめずらしく、ついおかしさがこみ上げてきて、とうとう吹き出してしまった。
「ねえ、ねえカーリー、それって、もしかしてやきもち?」
「や、やきもちなんかじゃ……」
「ばかねえカーリー。そんなわけないじゃない!」
わたしはたまらなくなって、後ろから彼女に抱きついた。
びくん、と彼女が体中をこわばらせたのがわかった。
「シャ、シャーロット……」
「あのね、カーリー。わたし、あなたのことだいすきなの」
不思議なことに、カーリーの体に触れているところから彼女の温かさが伝わってきて、わたしのハートにまで届いている気がした。だからだろうか、普段なかなか口に出せないことまで、わたしはしゃべっていた。
「わたしね。いままで政治のこととか戦争のこととか、なんにも興味なかった。わたしが生まれる前に大きな戦争は終わっていて、いまも国同士がぴりぴりしているのは知っていても、それは自分にはなんにも関係ないものだと思ってた。肌の色や目の色が違う人々と、どうして戦争をしなければならないのかなんて、考えたこともなかった。知ろうとも思わなかったの。でもね……」
彼女が黙って聞いていてくれるので、わたしはそのまま続けた。
「でも、それじゃあだめね。カーリーやミチルやヘンリエッタに会って、それがようやくわかったの。戦争は、わたしの家族だけじゃなくて、大好きな人たちを不幸にするかもしれない。もしかしたら、わたしたちが二度と会えないようなことになってしまうかもしれない。インドにきて、そのことを肌で感じるっていうのかな……、少しずつわかってきた気がするの。
わたしはカーリーのことが好きで、みんなのことが好き。なら、一つでも多くのことを知らなくちゃ。みんながどんな国で、どんなところで育ってきて、どうしてわたしたちは仲がいいのに、国同士が仲良くできないのか、知って、考えなくちゃ。わたしにできることから始めなくちゃ。……そう思ったの」
カーリーはしばらく、石になったようにしてわたしの言葉を聞いていた。やがて、彼女はわたしのほうに向きなおり、先ほどまでの怒った顔とは違った、ひどく愛《いと》おしげな表情でわたしをみつめた。
「あ、あの。うまく話せなくてごめんね。でもね、いままですごく無知だったことや、考えなしだったことが、カーリーに出会ったことでわかったっていうか。だから、好きになってよかったなっていうか。好きになれたことが、うれしいっていうか……」
カーリーがなにも言わないので、わたしはどんどんと緊張してきて、あらぬことを口走り始めた。
「わ、わたし、いままで友達ができなくて……、みんな会った人がママのことでわたしを責めるんじゃないかって思うと、人とうまく話せなくて、ずっと家の中にいたの。だから、カーリーは、はじめての友達だから……」
恥ずかしさのあまり、わたしは両手で顔を覆った。
「ありがとう」
わたしが顔を覆っていた手を、カーリーがそっとはずしてしまった。わたしは真っ赤な顔のまま、おずおずと彼女を見上げた。
「約束する。私はいつまでも、なにがあってもあなたの側にいる」
「約束《プロミス》……?」
「I love you so,|Charlotte《シャーロット》.」
わたしは、まるで魔法にでもかけられたかのように、ぼけっとした顔でカーリーの言葉を聞いていた。それは単純で、よく聞く言葉であったにもかかわらず、彼女の唇から発せられると、魔法の呪文のようになぞめいて聞こえるのが不思議だった。
わたしは、さっき少し言い合いをしたことなどすっかり忘れて、もう一度彼女にとびついた。
「わ、わたしも約束≠キる!」
わたしの勝手を許してくれたカーリー。わたしのことが好きだといったカーリー。
ああ、人と一緒にいることの心地よさを、わたしは彼女に全うまで、ずいぶんと長い間忘れていたような気がする……
「I,too,like you,|Kali《カーリー》. Please keep a friendship between us for ever and ever!」
「Yes.」
わたしたちは、こうして約束≠交わした。
わたしの言った大好き≠ニ、彼女のそれの意味が違っていたことも、それがガラスのようにはかなくもろいものであったことも、知る由《よし》もなく。
ただ、わたしはこのとき、驚くほど素直に、この絆《きずな》が一生つづくものだと信じていたのだった。
§ § §
――そこは、使用人が寝起きするための屋根裏の一室だった。
傾いた屋根は昼間照りつける太陽の熱をこもらせていて、夜になっても部屋のなかはむっとする暑さがある。
窓は小さく、人工の灯りはなかった。そこから滑り込んでくる涼しげな浜風のおかげで、ここの住民は毎夜、暑さのために不眠を強いられずにすんでいるのだ。
「ずいぶんと、あの方がお気に入りなんですね」
声がした。発したのは、椅子の足下にうずくまっていた少年だった。この学院でジェン、と呼ばれている使用人の少年だ。
少年というには、彼はすでに背が高くなりすぎていた。一見少年ふうに見えるのは、そのひとなつっこそうな笑顔のせいであるだろう。
「あんなふうに笑っておられる殿下《でんか 》を拝見したのは、ひさしぶりです」
ジェンという名の少年は、盥《たらい》にくまれた水でだれかの足を洗っていた。なぜか、水音のしないように慎重に布を肌の上にすべらせながら、スツールに座っている人物の足をぬぐっていく。
その粗末なスツールには、一人の少女が座っていた。
美しい少女だった。長い黒髪は夜の色よりも黒く、すべてに勝るようでいて不思議と細やかな艶《つや》をはらんでいる。
「あの方が、殿下のおっしゃっておられた、『|vayu《新しい風》』ですか」
「…………」
返事はなかった。
沈黙は、窓辺からすべりこんでくる月の光のように、やわやわと部屋の中にこもった。
しばらくして、少女はべつのことを切り出した。
「リッベントロップが、モスクワへ出発する準備をしているというのは本当なのか」
それは、普段彼女が学友たちとしゃべっているときよりも、ずっとずっと低い声だった。およそ、その可憐《か れん》な姿ににつかわしくない。
「事実です」
と、少年は答える。
ヨアヒム=フォン=リッベントロップは、ナチ政権下におけるドイツの外相をつとめている。
彼は、軍人といってももともとは、平民から妻の実家のシャンパン工場をあたらせて成り上がった男である。それが、強い上昇志向と外交の手腕で、ヒトラーの信頼をかちえることに成功した。いまでは、ヒトラーの側近のひとりにかぞえられている。
少女は言った。
「目的は、ソ連と条約をむすぶことらしいが」
「いよいよナチスがポーランドに手を出す時がきたということでしょう。去年オーストリアを併合して、ヒトラーの野心はすでにそちらに向いていたはずです」
少女は、洗い上がった足を椅子の上にたてて、膝にひじをついた。どう考えても、レディがする態度ではなかった。
「ふうん。ドイツは後顧《こうこ 》の憂《うれ》いを絶つためか……。スターリンのほうはもちろん――」
「軍備再建のための時間稼ぎでしょうね。準備がととのえば、どうどうと分割に手をだしてくるはずです」
「あのお互いを嫌い抜いているヒトラーとスターリンが、よくも手を結んだものだな」
少女は言った。ぞんざいな口調が、可憐なその顔立ちにはふつりあいだった。
少女は、ジェンが体を拭こうとするのをはばんで、その手からタオルをとりあげた。
「いい、あとは自分でできる」
この体のことをひた隠しにしているせいで、ふだんは学院の風呂に長居することはできない。あまり長くいると、ルームメイトや湯をつぎ足そうとするメイドが入ってくるからだ。
不便は不便だが、しかたのないことだった。だがこうして、たまに屋根裏にあるジェンの部屋で湯を使わせてもらえれば不自由はない。
「すべては時間の問題になってきます。ソ連との条約にこぎつけたドイツは、喜々《きき》としてポーランドにおそいかかるでしょう。すでにリッベントロップがモスクワに訪問を打診したことをかぎつけたフランスが、ポーランドに相互援助条約をもちかけるよう、|ハリファックス卿《イ ギ リ ス 外 相》に働きかけているそうです」
「宣戦布告は時間の問題か……」
彼はあっというまにタオルで体の汚れをぬぐいきると、洗い立ての素足をブーツの中につっこんだ。そのすばやさは、まるでパブリックスクールの学生が毎朝おこなう、乾布摩擦のようだった。
ジェンは、もう一度足下にひざまずいて靴ひもを結び始めた。
「どうぞ、ご安心なさってください」
「ジェン……」
「王宮内のものによれば、お父君のご容体はきわめて安定しているそうです。これで、あなたさまのご帰国が明らかになれば、マハラジャはどんなにかお喜びになるでしょう」
「俺は[#「俺は」に傍点]、姿をみせるのは、早いほうがいいと思う。ジェン」
少女の声は、嵐の予感のようなものを孕《はら》んでいた。
「もしイギリスがドイツに宣戦布告すれば、このインドも巻き込まれる。そうなれば、インド中の藩王国が滅亡の危機においこまれる……。このままパンダリーコットを野ざらしにしておくわけにはいかない」
事実、いま現在インドは、るつぼという言葉にふさわしい混乱を呈していた。
もし、戦争が始まれば、ネルー率いる国民会議派内閣は、イギリスを支持するかわりに、かならず戦後のインドの独立をもぎとろうとするだろう。インドからの補給なしでは戦えないイギリスは、それを呑まざるをえなくなる。
そうなればどうなる? インドは一気にイギリスの手をはなれ、すぐにあらたな問題にぶちあたる。
国民会議派内閣がおさめる元英国領と、いまだマハラジャをいただく藩王国との問題が表面化してくるのだ。インドはひとつを合い言葉にかかげる彼ら国民会議は、当然藩王国の解散と吸収を要求するだろう。
そんな事態にでもなれば、まだ跡継ぎもきまっていない小国のパンダリーコットなど、あっというまに戦禍《せんか 》に巻き込まれて、つぶされてしまうにちがいない――
「そう。こうなれば早いほうがいいかもしれない」
ジェンは静かにくりかえした。
「できるだけ、あなたさまが生きてこのインドにおられることを公表したほうがいい。このままでは、新政府によってパンダリーコットはおとりつぶしにあう危険性がある」
「しかし、いったいどうやって」
少女は爪をかんだ。
「まさかこんなに早く、事態が動くなんて……」
「戦争は予想できたことです。むしろあの犬猿の仲といわれたスターリンとヒトラーが手を結んだ。いったいだれが、どのような目的でその仲をとりもったのか、われわれにとってはそのほうが重要です」
「そうだな」
おそらく、クリムゾン・グローリー≠ェ動いたのだと、僕は考えます」
「そうだな」
しばらく、二人の間には言葉がなかった。
ただ、遠くかすかに波が崖に打ち付ける音だけがひびき、二人はだまってそれを聞いていた。
カーテンのない小さな天窓に照らしだされたふたりの姿は、映画館で上映される影絵のアニメのように見えた。
やがて、少女がつぶやいた。
「クリムゾン・グローリー。栄光なる、赤か……」
「クリムゾン・グローリー≠ヘ、いわば英国に支配されつづけてきた民族の怨念《おんねん》の集合体です。それが、数世紀かけてじっくりと円熟し、莫大な資金をもち、そしていままさに帝国に牙をむこうとしている。言い換えれば、それくらいしなければ、あの強大な国を倒すことはできないということです」
「……わかってる」
「ユダヤ人も堂々とやってきたことです。彼らは英国とアメリカからアラブを買った。その手段がなにもアラブに対してのみ有効ではないことを教えてやるんですよ。そのためには、あなたさまの存在は必要不可欠なのです。アムリーシュ[#「アムリーシュ」に傍点]殿下」
ふいに名前を呼ばれて、少女の肩がぴくりと動いた。
ジェンは続けた。
「ここパンダリーコット近くに、|セクション6《 M I 6 》がうろついているという情報も入ってきています。どうやら彼らは、連日インド内ステーションを騒がせている怪盗リリパット≠ノ興味をもったらしい。
彼らの目的は、あくまでアムリーシュ、あなたです。イギリスはあなたを手中にすることで、この混乱したインドに確固たる足場を築き直すつもりでいる。
国民会議派の集中する南部とは違い、北部にはイスラム教徒や藩王国も多い。イギリスは藩王国の中でも古い歴史をもつパンダリーコットを仲介にたてれば、まだまだインドを手放さずにすむと考えているのです」
「ジェン、わかってる……」
ジェンは、ゆっくりと少女の――いや、アムリーシュと呼ばれた人物の前にたちふさがった。彼はかみしめるように言った。
「いいですか、殿下。我々にとって、イギリスは敵です」
「…………そうだ」
「であるならば、あのシャーロット=シンクレアも、我々の敵になります」
「!?」
アムリーシェの顔色が変わった。
いきなりジェンの胸元につかみかかり、ねじるようにして襟元を締めあげる。
しかし、ジェンはまったくひるんだ様子を見せなかった。彼は厳しい顔で言った。
「彼女の父親は、パンダリーコットのお家事情につけこんで、藩王家を籠絡《ろうらく》しようとしている急先鋒ですよ。いずれ、始末するべき人間です」
「ジェン……、違う」
「|MI《情 報 部》が乗り込んできているのです。もうむこうも切り札を隠しておこうとはしないはずだ。シンクレア家はまぎれもなく、|チェンバレン《イギリス首相》が送り込んだ対パンダリーコットのためのジョーカーです。あなただってそんなことは、とっくにご存じだったはずでしょう」
「ジェン……!」
苦しげに息を吐いたのは、アムリーシュのほうだった。彼は、糸を切られたマリオネットのように、力無くジェンを締めあげていた手をゆるめた。
ジェンは乱れた胸元を整えることなく、うやうやしくアムリーシュにおじぎをした。
「例の紅茶夫人のパーティが、近日行われることになっています。あなたがパンダリーコットの跡継ぎとして帰国していることを知らしめるのには、いい機会だ。ぜひ、そこであなたがお元気であることを、そして王位を継ぐためにもどっていらっしゃったことを、イギリスの要人たちにみせつけるのです」
「…………ああ」
「我々にすべておまかせください。|世継ぎの君《マハラジクマール》。あなたはどうぞ、心やすらかに」
返事はなかった。
少女はなにも言わないまま部屋をでていこうとして、ふと呼びとめられた。
「殿下。あなたのお気持ちは尊重いたしたいところですが、こればかりは見過ごせないことです。決して、シンクレア家のものに心をお許しにならぬように」
「……………」
「でないと、あなたが辛いだけですよ。カーリー[#「カーリー」に傍点]」
今度こそ、返事をせずに少女は部屋を出て行った。
傾いた屋根の下には、もともとこの部屋に住んでいるひとりの少年だけが残された。
§ § §
それからしばらくたって、わたしたちの学院は正式な夏休みに入った。
夏休みと言えば、ふだんは寮にすむ学生たちも、親元に戻ってバカンスをすごすものだったが、インドにつとめる親をもつわたしたちは例外で、休みに入ってすぐ親元に戻った子供はごく少数だった。
たいていの子は、両親が迎えにくるまでの間は、この寮《ハウス》で本当のバカンスを待つことになる。
わたしたち四人は、休みで人が少なくなったのをいいことに、たびたび夜中に集まって例のお茶会をひらくようになった。
「キャッスルトンのお茶って、いろいろあっていいわね」
「アップルに、アプリコットに、ハーブ味かあ。な、キャッスルトン紅茶って、なんでも、はじめは創設者のキャッスルトン夫人が、イギリスの学校に行っている息子のために、差し入れに送ったのがはじまりらしいで」
「へええ」
娯楽が少ないわたしたちにとって、親が送ってくれたお菓子を交換したり、他愛もない日々のおしゃべりをするのももちろん楽しかったが、それ以上にわたしは、ミチルのパパやヘンリエッタの家族の手紙がもたらすこの小さな王国の外のニュースや、インドの政情のことが聞けるのがうれしかった。
あのとき、黄昏の中でカーリーが言っていた、インドにある鋼鉄の枠=B
そして、それを突き崩す新しい風=B
それがいったいどういうものなのか、どうやってなくせばいいのか。
わたしは、とてもそれが知りたかった。
わたしの猛勉強は、とにかくここからはじまった。手に入る新聞は古いものでも片っ端から読み、カーリーがもうストップと言い出すまで、なんどもなんども質問攻撃をくらわせたのだった。
それらの情報によると、世界はいまものすごい危機に直面しているらしい。
「ねえ、ドイツとイギリスって、どうして仲が悪いの?」
わたしの、こういった単純な質問にも、カーリーは根気よく答えてくれた。
「先の戦争で、ドイツが負けたのは知っているわよね?」
「うん」
「ドイツは、戦敗国として莫大なお金をイギリスやフランスに払わなければいけなくなったの。おかげでドイツの国内はものすごく不景気になって、ドイツはかつてないほどめちゃくちゃになってしまった」
「だから、ヒトラーは戦争ばかりしているの? それってへんだわ。戦争に負けてボロボロになってしまったのに、どうしてまた戦争をするのかしら……」
そんなとき、カーリーはどこか遠いところを見るような目をして言ったものだった。
「人は、心の底から疲れてしまったとき、だれかに代わってもらいたいって思うものじゃないかしら」
「えっ」
わたしは首を伸ばして、新聞の向こう側にいるカーリーを見ようとした。
「疲れて押しつぶされてもう一歩も身動きできなくなったとき、少々乱暴であっても、人は時代を動かせる大きな力を望むものではないかしら」
カーリーは、人の心はバネのようなもので、大きな力で押さえつければ、それ以上の反動で返ってくるものだと言った。
(そうか、ドイツ人はイギリスにお金を払うために、働いて働いて、疲れてしまったんだ。だから、ヒトラーに頼りたくなってしまったのね)
そして、ヒトラーはその莫大な借金によって窮乏したドイツのために、オーストリアや東欧を併合《へいごう》しようとしている。
(いったい、だれが悪いんだろう)
わたしは何度もあたまの中を総動員させて、この戦争の犯人をみつけだそうとした。
けれど、それはなかなかうまくいかなかった。誰も悪くない気がする。でも、だれもかれも悪い気がする。
そして、そのうちに、わたしはひとつのことに気がついた。それは、いままで起こった多くの戦争は、原因と結果でつながっているということだった。
(前の戦争の借金がなければ、ドイツ人はヒトラーを首相に選ばなかったかもしれない。そうすれば、今度の戦争はなかったかもしれない)
戦争と戦争はつながっている。いいかえれば、戦争が、戦争をよびよせるのだ。わたしはいままで戦争はむかしのことだと思っていたけれど、決してそれだけじゃない。たとえば、このインドにだって起こるかもしれない。イギリスからアメリカが独立したときのように、このインドで独立戦争が……!
わたしは、ふと考えた。
もし、インドとイギリスが戦争になったら。
(そうしたら、わたしとカーリーも離ればなれになってしまうのだろうか……)
ユダヤ人のヘンリエッタや、日本人のミチルたちとも、敵同士になってしまうことになるのだろうか……
考えれば考えるほど、思考の深みにはまっていく。なのに、なかなかそこから答えになるようなものを見いだせない。
わたしは、大きな思考の流れの中にたちすくんでいる思いだった。
(ああ、でもそれでも、考えなくちゃ!)
わたしは、再びぎっしりとアルファベットが詰まった新聞に目をもどした。
わたしがいままでインドのことを何も知らなかったように、世界には、まだまだわたしの知らないことがたくさんある。
わたしに、なにができるわけでもない。こんなちっぽけで無知なわたしが、戦争を止められるわけでもない。――けれど、なにかしなくては!
わたしは、できるかぎりの時間をさいて、その当時の世界情勢についての知識を得ようとした。それが、つたないながらも、今の自分にできる最大の努力だと信じていたのだった。
§ § §
八月に入ると、まだ寮に残っていた生徒たちの親が、ばらばらと彼女たちをひきとりにやってきた。
あのプリンセス<買Fロニカなどは、今度紅茶夫人こと、キャッスルトン夫人がひらくディナーパーティで正式にお披露目されるとかで、ずっと早くからパーティに着ていくドレスをとりよせて、みんなを特別室まで呼んでみせびらかしていた。
「あーら。パンダリーコットの大使ご令嬢は、お呼ばれになっていないのかしら。おかしいわね。あなたのお父様はここの大使でいらっしゃるのに。変ねええ」
「ほーんと、変だこと。ふふん」
「まるで、見捨てられた捨て子みたい、ふふん」
わたしはむっとするのをなるべく顔に出さないようにして、彼女(ととりまきのエコー姉妹)の嫌み攻撃に耐えていた。
「ほんま、やなやつ!」
「気分悪いわ」
と、ミチルとヘンリエッタが、仲良く同じように特別室のドアに向かって舌をだす。
「ヴェロニカのお披露目なんて、あの怪盗リリパットが現れて、だいなしになってまえばいいんや!」
「そうよそうよ」
わたしは、二人がそう悪態をついているのをそばでぼうっと聞いていた。
「そっか、ヴェロニカは、そのパーティで誕生日をお祝いしてもらえるんだ」
実のところをいえば、べつにわたしはヴェロニカのように、社交界デビューをしたいわけではなかった。
むしろわたしにとっては、社交界にデビューできることよりも、彼女が両親にそろって誕生日を祝ってもらえることのほうが羨《うらや》ましかったのだ。
(いいな。お誕生日を祝ってもらえて)
ロンドンにいたときは、どんなにお仕事が忙しくても、ルーシーおばさまが手作りのケーキを焼いてもってきてくれていたのに……
(わたしにだって、ルーシーおばさまがいれば……)
しばらくして、ヘンリエッタとミチルが実家へ戻っていった。ヘンリエッタのパパの勤務先であるカシミールは、いろいろと政情的にややこしい地域で、バカンスだというのにそこを離れられないという。
「カーリーの男装がこの目で見られないのが残念だわ」
まるでミュージックスターのコンサートに行きそびれた女の子のように、残念そうにヘンリエッタは言った。
「あとで、どんな様子だったか聞かせてね。きっと、その日社交界デビューした女の子たちは、みんなカーリーのファンになっちゃうわ。ああ、どうしよう。きっとすごくかっこいいんだわ……」
「ヘ、ヘンリエッタったら。まだパーティにもぐりこむって決まったわけじゃないのよ」
わたしは言った。
残念ながら、ミチルのパパがミチルのために送ってきたドレスは、どれもわたしの背丈にあわなかったのだった。すらっとスタイルのいいミチルのドレスをわたしが着ると、かなしいほどにちんちくりんになってしまう。
おかげで、わたしたちの、キャッスルトン夫人のパーティにもぐりこむ計画は、見事に頓挫《とんざ 》してしまっていたのだった。
「ああ、そうだ。二人に渡しておくものがあったの」
そう言って、彼女はずらずらとわたしたちの目の前に、茶色い小瓶を並べ始めた。
「なにこれ」
「何って、クロロホルムよ」
わたしは仰天《ぎょうてん》した。
「な、なんでこんなもの」
「だって、もし行くことになったとして、カーリーの正体がばれそうになったら、危ないでしょう」
いつものふわふわのスコーンのような笑顔で、ヘンリエッタは言った。
「あと、こっちがアニスの気付け薬を五倍に濃縮《のうしゅく》したもの。相手の鼻の下にあてると一瞬気が遠くなって記憶がとぶからとってもべんりよ。それと、こっちはカモミールと阿片をブレンドさせた、私特製の眠りぐすり。めんどうだったら、学院長先生の飲み物にまぜてしまえばいいわ。あとは――」
「あ、あの、ヘンリエッタ」
「そうそう、いよいよまずいことになったら、これがいちばん」
ヘンリエッタが、とっておきだといわんばかりに平べったいシャーレを置いた。
そこには、半透明でぶよっとした肉のかたまりのようなものが数個、横たわっていた。
わたしは首をかしげた。
「……これは?」
「わたしが部屋で育てたヒルよ」
「ぎゃ……」
叫び出しそうになったわたしの口を、カーリーが心得たように手のひらで蓋をする。それでも、わたしの驚愕《きょうがく》は収まらなかった。
「ヒ、ヒ、ヒルって、へ、部屋で育ててたって……、ヘンリエッタ!」
彼女はけろりとして、
「だって、これを嫌いなやつの首元になげこんでしまえば、気分がすっとするでしょう」
「……………」
わたしは、いままでふわふわのスコーンだと思っていた友人が、実は毒入りスコーンでほんものの魔女だったことを知った。
「げろ」
側で、ヘンリエッタと同じように馬車を待っているミチルが、呆れたように言う。
「ヘンリエッタ、あんさん、よぉこんなんだれにも気づかれずに飼っとったな……」
「あらミチル。べつにヒルくらいどうとでもなるわ。それに、犬や猫とちがってうるさくないし。あなたも一匹育ててみる? とってもかわいいわよ」
「いや、遠慮する……」
どうやら、彼女のペットというのはヒルだったらしい。
「ああ、もう迎えの馬車がきてるわ。じゃあ私いくね。シャーロット、カーリー」
「じゃあ、また新学期に」
二人は、「手紙を書くから!」とばたばたと慌ただしく馬車に乗り込んで、ステーションを出て行った。
彼女らの姿が門のむこうに見えなくなると、わたしはほうっと息をついた。
(みんな、帰っちゃうんだな)
友人たちがつぎつぎに親元へ帰っていくなかで、唯一わたしをなぐさめたのは、同室のカーリーが、休暇の間はずっとこの寮に残るということだった。
「えっ、カーリーもおうちへ帰らないの?」
「ええ」
カーリーは、家の事情でここにとどまることになったのだと、端的にわたしに説明した。わたしは、ほっとした。
「よかった。カーリーと一緒なら、わたしヘレンが呼びに来たってここにいるわ」
彼女は、なぜか複雑そうな目でわたしを見ていたが、しばらくして、
「ねえ、シャーロット。あなた、まだロンドンに戻りたいと思ってる?」
と、ふいに、押し殺したような声で言った。
わたしは、窓を開けようとしていた手を止めて、カーリーを振り返った。
「えっ」
「いまでも、ロンドンのおばさまの元に帰りたいと思ってる……?」
彼女がなにを言おうとしているのかさっぱり見当がつかなかったわたしは、ぽけっとした顔のまま言った。
「な、なに。いきなりどうしたの、カーリー」
わたしは、立ち上がった。そして、どこか心細げな彼女をはげますように、
「大丈夫よ。わたし、ロンドンへは帰らないわ。だって、ここにはヘンリエッタやミチルや、なによりカーリーがいるもの」
カーリーはハッと顔をあげた。その顔には、なにかガラスのかけらを踏んだときのような痛みと、ほんの少しの喜びがあった。
なぜそんな顔をするのかわからなくて、わたしは無理矢理に笑顔をつくった。
「わたし、カーリーの側を離れたりしないわ。だって、約束したでしょう。ずうっといっしょにいましょうって」
「シャーロット……」
彼女は、しばらくなにか言いかけようとしてはやめるを繰り返していたが、ふいに意を決したように、
「あなたは、ロンドンへ帰ったほうがいいかもしれない」
と、言った。
「へっ?」
わたしは、あまりに突然のことにぽかんとなった。
「ロンドンへ戻って、どこか、田舎へ身を隠したほうがいいかもしれない」
「な、なんで……」
「ねえ、向こうには仲良くしているおばさまがいるのでしょう。だったら、このお休み中に戻ったほうがいい。一刻もはやくインドを出て――」
「ちょ、ちょっと待ってよ、カーリー」
わたしは、彼女の言うことを途中で押しとどめた。
「どうしたの? 急になんでそんなことを言うの? だって、カーリーは言ったじゃない。わたしに、ロンドンへ帰ってほしくないって。わたしをずっと待ってたって」
「……………」
彼女がなにも言わないので、わたしは彼女の二の腕をつかんで、彼女をゆさゆさとゆすぶった。
「ねえカーリー。そりゃあ、わたしはもの知らずだわ。インドのことなんてなにもわかってなくて、ミチルたちとの話にもついていけないかもしれない。いままで世間知らずで、ばかだったわ。だから、これからいっしょうけんめい勉強する。インドが難しいなら、難しいぶんだけ頭をつかうわ。だって、だってここは――」
カーリーの、生まれた国だから……
大好きなカーリーの体にインドの血が流れているのだったら、わたしはそれごと好きになりたい。
それは、これからずっと長い間彼女を好きでいるために必要なことだ、――わたしはいつのまにか、インドのことをそんなふうに考えていたのだった。
けれど、カーリーはゆっくりと首をふった。
「無理よ」
はっきりと、否定の言葉を彼女は口にした。
「もう、あなたがどうこうできる問題じゃない。いまはただ、災難のふりかからない場所に身を隠すしか……」
「どうして!?」
わたしは声を荒らげた。
「どうしてそんなことを言うの。だって、まだわたし、なにもしていないわ!」
自分でもびっくりするくらい大きな声とともに、じわじわと体の奥底から熱いものがこみあげてくる。
それは、驚いたことに怒りだった。
そのときわたしは、カーリーに対して本気で怒っていた。
「まだこのステーションの外にだって出てないわ。なんにも知らない赤ん坊と同じよ。なのに、どうして歩き出す前にやめさせようとするの。わたしの可能性までとりあげてしまうの」
「シャーロット……」
カーリーは、駄々っ子をあやそうとする若い母親のような顔をして言った。
「ごめんなさい。でも私はあなたが大切なの。だから傷ついてほしくないの、私は――」
「うそよ!」
わたしは、両手でどんっと彼女をつきとばそうとした。けれど、カーリーは少しよろけただけで、あいかわらずわたしを困った目で見つめてくる。
(あ…………)
その目を、わたしはよく知っていた。
『大人』が、『子供』を見るときの目だ。
(おとな[#「おとな」に傍点])
わたしは、ゾッとした。
大人なんて、大嫌いだ。みんなこちらがなにもわかっていないと思って、ぶしつけで無遠慮な視線をなげつけてくる。
いいかい、おまえの母親はね――、あらいけませんわ、子供の前でそんな話をしては――相手はインド人なんですって――たいそうな美貌でしたもの――男はみんな、まるで阿片中毒のようにおまえのママに夢中になったんだ、ほかでもない、このわたしも――あなたの母親になりたいわけじゃないのよ、シャーロット――欲しいのは、あなたのパパだけ――うふふ、子供のあなたに言ってもわからないわね……――
わからないわよね。
わからないだろう。
子供に言ったって、
――子供だから……!
「そんなの、思いやりじゃないわ!」
わたしは大きく叫んで、その場を駆け去った。
「シャーロット!」
後ろからカーリーの呼ぶ声が聞こえたが、わたしは戻らなかった。
(ばか、ばか! カーリーのばか、わからずや!)
心の中で思いつく限りカーリーへの悪態をつきながら、わたしはいそいで寮の階段を下り、学院の建物を飛び出した。
(カーリーがあんなこというなんて。わたしを、ロンドンに帰らせようとするなんて!)
わたしは、石畳の上をがむしゃらに走った。すると、走っているうちに、だんだんと涙で視界がぼやけてきた。あんまりにもとまらなくなったので、わたしはブロックを曲がったところで立ち止まり、ぐいっと涙をおしやった。
なのに、あとからあとから――まるで傷からしみだしてくる樹液のように、あふれてとまらなかった。
「っく、ひぃっく、うっく……、ふえぇ……」
彼女は、わたしを追ってこなかった。
わたしはしばらく、涙が乾くまで風に吹かれていようとその場につったっていた。
すると、ふいに足下で、妙な声がしたのだった。
「があっ!」
「まあ、ナッピー!」
それは、わたしがおむつ≠ニ名付けた、あのおしりの茶色い大きなアヒルだった。
どうやらわたしの後をついてきたらしいアヒルのナッピーは、じっと立ち止まったまま動かないわたしの靴下をつんつんつっつく。
「こ、こら、ナッピー!」
わたしは、彼をけっ飛ばすフリをした。
「ちょっとぐらい泣かせてよ。と、ともだちと、ケンカしちゃったんだから!」
口にしたとたん、またどっと涙があふれてきて、わたしはおいおいと泣き始めた。
そうだ、わたしはカーリーとケンカしてしまったのだった。いままであんなふうなケンカなんて、一度もしたこともなかったのに!
「あれ、そこにいるのは、もしかしてこのまえのお嬢さんかな」
(ぎょぎょっ)
わたしが驚いて身じろぎすると、なんと鉄の門扉《もんぴ 》のむこうに、サスペンダー姿のエセルの姿があった。わたしはどうやら、お隣の門の前で泣いていたらしい。
「ああ、やっぱりシャーロットだね。どうしたの、そんなに大声で泣いて」
わたしは泣いている顔を見られまいと、あわてて目尻を拭いた。
「こ、こんにちは」
「良かったら、またお茶でもいかが。いまさっき梨《なし》のタルトが焼けたところだから」
またもやアフタヌーンティーの時間にはちあわせてしまったらしかった。わたしはふと学院のほうを振り返り、カーリーのことを思った。
(でも、いま戻っても、どんな顔をしていいのかわからないし……)
わたしが小さく頷くと、彼は門を開けてわたしを中にいれてくれた。わたしよりも先に、ナッピーが大きなおしりをささっと隙間に滑り込ませた。
「もう、学院は夏休みなんだよね」
わたしがこの前と同じ場所に出されていた椅子に腰掛けると、あのすごく丈の短いスカートのメイドさんが、わたしのぶんのレモネードを運んできてくれた。あいかわらず、スカートの下からイチゴ色のガーターベルトのレースがチラテラ見えている。
彼女にうふんとウインクされて、わたしは目をぱちくりさせた。
「ところで、人の家の前で大声で泣いていたわけをきいてもいいものかな?」
「うっ……」
わたしは、からからだった喉を氷入りのレモネードで潤すと、話せるところからぽつりぽつり話しだした。
わたしの話を聞き終わったエセルは、そうか、と息を吐きながら椅子の背にもたれかかった。
「たしかに、いまの情勢はよくないからねえ。インドで戦争が起こるかもしれないって噂はよく聞くよ」
「でも、だ、だからって……、いますぐロンドンへ帰れ、なんて……」
「まあまあ、そのお友達は、心からきみのことを心配して言ったんだろう。いまごろ、きっときみを傷つけてしまったことを悔《く》やんでいると思うよ」
「う……ん……」
わたしは歯切れ悪く頷いた。このまま離れているばかりじゃ、どんどんと気まずくなっていってしまうことは、自分でもなんとなくわかっていた。
けれど、だからといって、どうすればいいのかわからない。
(いまカーリーに会ったって、きっと頭が真っ白になって、何も言えないに決まってる。どんなふうに切り出せばいいのか。どんなふうに仲直りすればいいのか、わからない。ぜんぜんわからないんだもの!)
まるで、頭の中が泡立て器でかき混ぜられたようになっていたわたしに、
「これは、僕がある人から教わったことなんだけど」
と、エセルは口の前に指をたてて言った。
「ケンカをして、でもなかなかごめんが言えないときは、耳元で囁くといいらしいよ」
あまりにも突拍子《とっぴょうし》もない方法に、わたしは思わず目をぱちくりさせた。
「ささやく、の?」
「そう。人間とは悲しい生き物で、はっきりと声に出して言うことはなかなかできないものなんだ。とくに、ごめんなさいというのはね。それを口にすることは、自分のプライドを傷つけることになるだろう。今回なんかのように、自分のほうは悪くないと思っているときなんかは最悪だ。どうして自分から折れなきゃいけないのって、そうなるからだ」
たしかに、とわたしは頷いた。カーリーとは普通にしゃべりたいと思っているけれど、こっちから謝らなければいけないとなると、口も重くなる。
(だいたい、カーリーもカーリーよ。あんなに側にいるって、約束したくせに!)
わたしは、だんだんと腹がたってきた。
「そんなとき、このやりかたがいちばんいいそうだ。なぜなら、相手に接近して言わなければならないことで、囁かれた相手は自分をぐっと近くに感じるだろ。相手にしか聞こえないやり方にすることで、自分は特別だって思わせる。囁くにはそういう効果があるんだってさ」
「ふんふん」
「近づいて、さっきはごめんねって囁いて、あとはだーって逃げれば、そんなに恥ずかしくない。今度は相手のほうからやってきてくれるはずだよ」
「へええ」
仲直りの方法にもいろいろあるものだと、わたしは素直に感心した。
「でも、考えてみれば、愛の言葉も相手に囁いたりするものね。ふううん、そうかあ。囁くのかあ」
わたしは、できるかぎり想像力を駆使して、自分でもやれるかどうかをシミュレートしてみた。
いますぐ部屋に戻って、カーリーの耳元に「ごめんね」って囁いて、逃げる……
「うーん……」
「どうだい、無理そう?」
もう少し頭が冷えたらやってみる価値はありそうだが、はたして今の状態で戻って――それこそカーリーがぷんぷんに怒っていたら、側に近寄るどころではなくなるのじゃないだろうか。
「ごめんなさい。いますぐは、ちょっと無理そう」
あっさりわたしが降参すると、エセルはさもありなんと微笑んだ。
「だろうね。こういうのは頭で考えることじゃないし……」
ふいに、彼は髪とちがって混じりけのない青い目をもちあげて、わたしに言った。
「じゃあさ、こういうのはどうだろう。きみは今日これから、僕とパーティに出るっていうのは」
「ええっ」
エセルが突然妙なことを言いだすので、わたしは思わずテーブルの上のレモネードをこぼしそうになった。
「ぱ、ぱーてぃに、でるって……、わた、わたしが!?」
「そう」
テーブルの上に優雅《ゆうが 》に肘をついて、彼は言った。
「いいじゃない。僕ちょうど同伴相手がいなくてどうしようか困ってたんだ。ね、どう? きみみたいな年頃のお嬢さんなら、ああいうパーティとか好きでしょう。ここで鬱々《うつうつ》とお茶を飲んでいるより、いい気分転換にもなると思うし」
「む、無理よ! いえ、無理です!」
わたしは、だんっとテーブルに手をついて立ち上がった。
「だってわたし、まだ社交界にデビューもしていないし、ああいうところの作法もよくわからないのよ」
「作法なんて、ただ単に出されたものを食べて、しばらく女同士で談笑していたらいいだけだよ。なんにも硬くなることなんてない。国王陛下がいらっしゃるわけでなし、ホームと違ってまわりも貴族なんていない」
「でも、ここのイギリス人はみんな貴族以上じゃないの!」
「…………ほ」
わたしの言いたかったことが通じたのか、エセルは目をほそめて薄くほほえんだ。さっきまでとは少し違った、――潮の引いたときの海の色だった。
彼は、口元に人差し指をあてて言った。どうやらそうするのが、彼の癖のようだった。
「そう。そういうことにことさらうるさい連中だよね。でも、いずれきみもああいうところに出て行かざるを得なくなる。だろ。じゃあ、今日はその予行演習みたいなものだと思えばいいじゃないか」
「でも、着ていくドレスだって……」
「そーんなの、きっとミモザがいくらでももってるよ。だいじょうぶ」
わたしは、怪訝そうに顔をしかめた。
「ミモザって、さっきのメイドさんが?」
「あっ、ヤバ」
どうしてメイドさんが、わたしのような子供の服をもっているのだろうと不思議に思ったが、それについては、エセルは舌を噛んだような顔をするだけだった。
「と、とにかく、ドレスも靴もこっちですぐ用意させるし、きみは黙ってお姫様のように僕にエスコートされていればいい。それとも……」
と言ったエセルは、少々意地悪だった。
「やっぱり、学校の寮できまずい食事をとるほうがいい?」
「あ……」
わたしは、ついさっき自分がカーリーとケンカをして飛び出してきたばかりなことを思い出した。
(いやだ。いまはまだ、カーリーに会いたくない……)
わたしは、もやもやとした思いで胸がいっぱいになった。
自分でも不思議だった。カーリーのことは好きなのに、――カーリーが好きなことにはかわりがないのに、今は会いたくない。だって、会えばどんな顔をしたらいいのかわからない。
なにを話せばいいのか……、それとも、なにも言わない方が良いのか……
それが少しでも先延ばしにできるのなら、エセルのいうように彼とパーティに出るのも悪くない。わたしはそう思った。
(そうよ。シャーロット。もともとキャッスルトン夫人のディナーパーティには、ママを探しにいこうっていっていたじゃない!)
招待状とドレスとエスコートの問題が解決できなくて、うやむやのままになっていたけれど、このまま寮に戻らなくてもよくて、エセルがエスコートしてくれるなら、(そして手袋をつけてくれるなら)こんな渡りに船はないはずだ。
そうだ。ママを、探しにいこう。
本当に生きているなら、ママに一目会いたい。もちろん、会っただけでわかることはないだろうけれど、ルーシーおばさまに似ているはずだということはわかる。ママとルーシーおばさまは、とても似ている姉妹だと評判だったのだから……
(よし、行く!)
わたしは、意を決して顔をあげた。
すると、
「もちろん、行くよね」
そこには、当然わたしがパーティに行くものだと確信している、おだやかな青い目があったのだった。
§ § §
「このクソバカ。あれほど言葉には気ィつけなさいって言った、でしょおっ!」
「がーっ、あいたっ!」
怒号とともに頭の上にガッとゲンコが降ってきて、エセルバード=オーキッドは目から火が飛び出すのを感じた。
思わず椅子をとびおり、両の手をあわせて拝《おが》み倒《たお》す。
「すみませんっ、少佐っ。思わず!」
「だぁほっ、だれが聞いてっかわからねえのに階級で呼ぶんじゃないよ。このクソがきゃ!」
そこは、オルガ女学院の左隣に建つ、こぢんまりとした石造りの邸宅のなかの一室だった。もとは、イギリス人の高官が避暑のために建てたもので、いまでは、オーキッドという名のイギリス人商人宅――ということに表向きはなっている。
もちろん、この家の主人は、オーキッド家の当主であるダッドリー=オーキッドとその孫息子だ。
……のはずだったのだが、
「まったく、うちにJ≠ニして配属になって何年経ってると思ってるのさ。さっきだって、あのお嬢ちゃんがまったく気づいてなかったからよかったものの、初歩的ミスにもほどがあるわよ」
「申し訳ありません。しょ……、じゃない。レディ・ミモザ」
はずだったのが、なぜか、その当主の書斎ともいうべき小部屋では、オーキッド家の若当主が一介のメイドに足蹴《あしげ 》にされるという光景が展開されていたのだった。
壁に、紙のようにピンととんがった立襟に白い蝶ネクタイ、燕尾服《えんび ふく》という完璧な夜会スタイルの男が立っている。この男、よく見ると先ほどまで庭先で給仕をしていた男と同一人物だ。
「まだまだだな。エセルバード。いや、J=Bそれともあの子があんまりかわいいので、クラっときたのか」
「まさか、そんなんじゃありませんよ」
そう、ここはイギリス人商人の避暑地とは仮の姿。――実のところは、イギリス情報局秘密情報部、通称MIセクション6、内部ではインド方面司令部の出張所として知られている場所だった。
多くの出向セクションをもつ外務省の情報部の中でも、セクション6は主に外国でのスパイ活動を専門とする機関に当たる(セクションが国内を担当)。
彼らも表向きは、有名化粧品メーカーの創業者とその孫息子、そして気の置けないメイドと給仕という姿をとっているが、一皮むけば持ち主も住んでいる人間もすべて偽装《ぎ そう》という、とんでもない家なのだった。
もちろん、そこにある関係がすべて嘘なのだから、上下関係も家族構成もすべて偽物である。
だから、一見するとこの出向部の責任者に見える、老紳士*も、ここの責任者ではない。
「そいつを甘やかさないでよ、ネイサン。あのお嬢ちゃんがいなけりゃ、今度の作戦は成り立たないんだから。それを、ただ釣るのにこんなに時間がかかって!」
女が言った。
そう。ついさっき、眼鏡の青年にパンチをかましていたこのセクシーなメイド、彼女こそが、この出向部の責任者ミッチェル=クロウ少佐なのである。
「ったく、これだからボンボン育ちは困るのよ。なんだって|SIS本部《ラ ン ベ ス》はこんなガキを工作員にひっぱってきたのかしら。近頃のイートンにゃこんなモヤシしかいないわけえ」
言いながら彼女は、ガーターベルトの内側に仕込んでいたルガーPO8式を引っ張り出すと、音も立てずにエセルのこめかみに当てる。
チャキっと、金属のこすれる音が耳元に響いた。
「うーん、ひさしぶりだといまいちキまんないかなあ」
「…………人のこめかみをターゲットにしないでくださいよ」
「だーって、ようやく生産再開かと思ったら、あのヒトラーのくそヒゲのお声掛かりでよ。超縁起悪いわヨー」
メイドのミモザこと、ミッチェル=クロウ少佐は、つまらなさそうな猫の目をして、銃口をふっと吹いた。
彼女の愛用していたこのルガーPO8式短銃は、先の第一次世界大戦でドイツが敗戦したことにより武器製造制限を受け、一時製造が中止されていた銃だった。だがつい先日になってアドルフ=ヒトラーの政権獲得と、それに伴う再軍備によってPO8も生産を再開したのだった。
イギリス人情報局員としては、うれしいやらかなしいやらフクザツなところである。
「あんたね。かりにJ#z属なんだったら、もすこし釣りうまくなんなさい。あんな普通の子一人釣れなくてどうするの。国家エージェントが!」
「はい……」
まるで、ミセス・ウイッチに叱られているシャーロットのような顔でエセルは首をすくめた。
「少佐に比べれば、僕なんかの釣りはまだまだです」
「アラ、あたしはあんたと違ってJ要員じゃないわよぅ。見ての通り箱入りのF≠諱Bなにせ長物のほうじゃオリンピック候補だったんだから」
J≠セのF≠セの言うとややこしく聞こえるかもしれないが、外務省のMIには、伝統的に役割をアルファベットで呼ぶならわしがある。|英国秘密情報部《S I S》の前長官が、書簡や会議において、そ=i発足当時長官がCummingだったことから)と略して呼ばれることに由来するという。
J≠ニは、つまり工作員の中でも詮索《せんさく》――主に釣りと呼ばれる工程を担当する者の総称だった。こちらは頭文字からではない。アルファベットのかたちが釣り針に似ているため、そう呼ばれるらしい。
それとは違って、F≠ヘ、銃を意味する。同じ銃でもP≠ヘ銃のエキスパートを指すが、F≠ヘライフル銃……、つまり、暗殺班に属するもののことだ。
それらの実行班とはまた別に、S≠竍T≠ニ呼ばれるものたちがいる。S≠ヘ女性の体の曲線を表していることから、とくに色仕掛けで作戦をすすめる女性の工作班員のことを言うものだった。
「そういえば、あの子の、シャーロットの母親なんですよね。スカーレット=ミリって」
かたちのいい眼鏡をぐっと奥におしこみながら、エセルバードは言った。ミモザがまとめていた髪からピンを抜いて、手ぐしで長い髪をすきながらソファに横たわる。
「あー、そうそう。あんたあの|スカーレット《真 っ 赤 な》=ミリと組んだことあったんだっけ」
「クラレット作戦≠フときに四年間組んでましたよ。そのときの関係は母子でした。こう見えても僕は子役歴が長いんで、うちでは古株なほうなんですけどね」
「いつからやってんだっけ」
「二歳のときからです」
「あー、情報局員《ロ ビ ン》の子供は安易に使われてたいへんねえ」
ミモザは、なにためらいなくスカートの下のペチコートを巻き上げると、ストッキングの中に押し込んでいた葉巻を一本取り出し、マッチで火を付けた。
ダンヒル杜の葉巻ロミオ・アンド・ジュリエット≠ヘ、サー・ウインストン=チャーチルが愛用していることでも知られている。
慣れているのか、彼女の足がむきだしになっても、部屋にいる男性陣は顔色一つ変えなかった。
「クラレット作戦かあ。あれって作戦名GJ25‐L7470でしょ。|クラレット《ボルドー産赤ワイン》って、あの作戦であんまりにも大量に血が流れたんで、あとから言われるようになったのよね。へー、あんたあれにいたんだァ」
ミモザは妙にうれしそうだった。
「ってことは、あのシャーロットお嬢ちゃんのかわりに、あんたがミリセント・ママのお膝を奪ってたわけね。かわいそうに。あの子、なーんにも知らないで放ったらかしにされてたのねえ」
「別に、僕がとったわけじゃ……。それに、彼女ミリセントは……」
思わず口ごもったエセルをチラリと眺めやると、ミモザはフーッと長い煙を吐いて、
「まあねえ、ミリセント=シンクレアは、ランベス屈指のS@v員だからねえ」
ウフフフ、と、肉厚な唇を三日月のかたちにして笑った。
エセルは微妙な顔をした。
「まさか、あの子だって、自分のいなくなった母親がマタハリの再来と呼ばれてるなんて思わないでしょうよ。世の中にゃ知らないほうがいいことだってあるからね。でもまー、あの子ったら、やっかいなところに引っ越してきたもんねー。よりによってうちのま隣なんて」
「……今回のことで、ウィリアム=シンクレア氏がパンダリーコットの大使になりましたから」
ネイサンが言う。ミモザは意味深に笑った。
「国家のために妻を差し出した夫と、情夫の対決かあ。あいかわらず、|ランベス《S I S 本 部》はえげつないことするわ。それにしても」
と、ミモザがなにか言いかけたところで、奥の部屋からチリンチリンと呼び鈴が鳴った。どうやら、あのシャーロットの支度が終わったらしい。
「あら、シンデレラの魔法がかけおわったそうよ」
促されて、エセルがはいはいと立ち上がる。
「J=v
ミモザが、彼を呼び止めた。
「はい」
「言っとくけど、今回のことでは|ホワイトホール《外 務 省》も|ナンバー10《首 相 官 邸》もたいそうなご立腹なのよ。あのクソ女[#「クソ女」に傍点]がよけいなことしたおかげで、今度こそうちは宣戦布告しなけりゃならなくなった。ったく、いったいなんのためのミュンヘン協定だったわけよ。ねえ。
この人手も余裕もない時期に、予想外にチョビヒゲ野郎を相手にしなけりゃならなくなったせいで、うちはインドを手放さなきゃならなくなったんだからさ。
近いうちにチェンバレン内閣は総辞職に追い込まれるのは必至。ま、次に十番地に乗り込んでくるのはやる気マンマンの|ファット・マン《チ ャ ー チ ル》でしょーけど、このことでよけいな後始末をおしつけられることになる彼は、決して彼女≠許さないでしょうよ」
彼女が、紅茶カップの受け皿に、まだいくらもすっていない葉巻をぎゅっと押しつける。
ロミオ・アンド・ジュリエット≠紅茶カップのソーサーに押しつけるその行為は、今回の作戦の内容のままだった。
つまり、この葉巻を愛用する人物は、紅茶の愛称で親しまれるとある貴婦人をつぶし、火をもみ消せとそう言っているのである。
「おおせのままに」
エセルもまた、薄く微笑んだ。それがわからないくらい、|MI要員《ロ ビ ン》としての経験が浅いわけではない。事実、今回の作戦では、インドに潜伏《せんぷく》している仲間との連絡に、それとおなじ仕草が使われるはずなのである。
「|紅茶=sマダム・ティ》は、手強い相手よ。いままでも、決して日の当たる場所にはでてこなかった。なぜなら、あくまで藩王国という砦の内側にこもっていれば、われわれには手がだせない。藩王国の司法権は、あくまで藩王国側にあるのだからね。それをいいことに、あの女は英国の手の届かない場所で、我々英国に対して利敵行為をくりかえしている。
このままじゃ埒《らち》があかないわ。かといって不用意に消すことはできない。彼女には、クリムゾン・グローリー≠ェわれわれにとって敵であることを、はっきりと法廷で証言してもらわなくちゃならないんだから。
彼女を我々の逮捕権のある場所にまで引っ張り、生きたままとらえる――、それが、今回のあなたの仕事よ。J=v
ミモザは笑った。
「二度目はないわよ」
「承知です」
さて、とエセルは上着をすくって、ドアのほうを振り返った。
「そろそろ、魔法がかかったシンデレラの様子を見にいくとしますか」
彼はドアを押し開け、ロミオ・アンド・ジュリエット≠フ匂いとその独特の雰囲気のこもる部屋をあとにした。
このあと、彼には敵≠フ本拠地に乗り込み、大物を釣りあげるという重大任務が待っている。
もっとも、そのためには、いままさに魔法にかけられているシンデレラの協力が必要になってくるわけだが……
(シャーロット=シンクレア、か……)
このとき、エセルは珍しく自分が祈っていることに気づいた。
壁にかかっている大きな鏡の中の自分の顔を見て、
(らしくないですね)
と、苦笑する。
それでも、こうなってくると、自分にはただ祈るしかできないのだった。
いまだ自分の心の中に住んでいる人の娘とここで会ったことが、作戦もランベスの意思もなにもない、ただの偶然であることを……
§ § §
わたしたちは、六時になる少し前に、エセルの家の馬車にのって紅茶夫人の邸宅のある海側のストリートへでかけた。
やがて、少しもいかないうちにブーゲンビリアの垣根のむこうに、瀟洒《しょうしゃ》な邸宅が見えてきた。今夜ディナーパーティが行われる、リンダ=キャッスルトン夫人の屋敷だった。
エセルは、今夜はインド中のイギリス人富豪がここにあつまるにちがいない、と言った。
「やあ、それにしてもよく似合ってるよ、シャーロット、とってもかわいい」
まるで、魔法をかけられたようなわたしを見て、彼は手を叩いて言った。
身長が低めのわたしには、このころ流行りつつあった細身のSラインスタイルは似合わないと思ったのか、このドレスは腰のあたりに切り替えがあり、すそがイレギュラーな長さで、まるでアイリスの花びらのように広がっていた。
わたしは一目見て気に入ってしまったのだったが、この花を着ているようなドレスが、バレンシアガのものだとわかったときは、さすがに腰をぬかしそうになった。
「あ、あ、あの、これって、汚しちゃったりとか、したら……」
バレンシアガといえば、シャネルやバツゥ・ルロンなどと並んで、当時ものすごく流行していた店のひとつである。小市民のわたしにとって、いったいいくらするのか想像するだけで、ぞっとする感じだった。
「ああ、そんなこと気にしないで」
「だ、だって……。もしシャンパンとかこぼしたら……」
「いいのいいの。そんなの」
だって支給品だから……、と言いかけてなぜかエセルは口ごもり、その後はずっとかぼちゃの馬車の中で無口だった。
夏の間にパーティが行われることの多いインドでは、ダイニングでディナーをとったあとは、客間に戻って男女にわかれたりせず、広い庭でめいめい談笑をするタイプの晩餐会が多い。わたしがついたときには、すでに数十名の男女が、シャンパンを片手に庭やベランダに出ておしゃべりを楽しんでいた。
「さすが、紅茶夫人≠フパーティですこと。今日はロシア式のディナーだそうで」
「まあ、ロシア式はひさしぶりですわ。なにせ、召使いの数がドイツ式の倍ほどいりますもの」
「なんでも今日は夫人が、ロシア帰りでいらっしゃるらしい」
「ほう、では、|お 城《キャッスルトン》のマークの紅茶がロシア中で見られるようになるのも時間の問題ですな」
庭で夕べの涼しさをたのしんでいるお客の間から、そんな会話が漏れ聞こえてくる。
すると、さすがにブルジョアの紳士らしく、正式な正餐のスタイルに身を包んだエセルバードが言った。
「ごめん、シャーロット。ちょっと知り合いがいたから、ここで待っていてくれる?」
「え、待つって、ええっ……」
わたしがまごついている間に、エセルは人で混み合い始めていた入り口のほうへ歩いていってしまった。
(ど、どうしよう。とりあえず、エセルを待っていなくちゃ)
次々に招待状を手にやってくる紳士淑女を横目で見送りながら、わたしは平然とした顔をしているので気がいっぱいいっぱいだった。
ところが、そんなふうに手の内側を汗だらけにして待っているわたしをあざわらうかのように、刻一刻と時間がすぎてゆく……
やってくる人もまばらになり、私が立っている玄関前にはほとんど人がいなくなってしまった。
わたしは不安になって、きょろきょろと周りを見渡した。しかし、エセルが戻ってくる様子はない。
(ど、どうしよう、どうしたらいいの)
すでに、訪問客の多くがディナー開始の合図を前に、二階のバルコニーで飲み物を飲んでいる。
わたしが半泣きになっているのを見つけた、紅茶夫人宅のポーターらしい男が、わたしにやさしく言った。
「失礼ですが、お客様。お連れ様はどうなされましたか」
彼は、わたしがパートナーとはぐれてしまったと思ったらしかった。わたしは急いで言った。
「わ、わたしのパートナーは、エセルバード=オーキッドさんです」
「オーキッド様、でいらっしゃいますね。少々おまちくださいませ」
招待客のリストを確かめにいった彼は、怪訝そうな表情を顔にはりつけて戻ってきた。
「申し訳ございません。オーキッド様は、今日はいらっしゃらないというお返事をいただいていたのですが」
「ええっ」
わたしは仰天するあまり、舌を噛んでしまいそうになった。
「だ、だ、だって、さっきいっしょにここまで来たんです。いっしょに、あそこのお屋敷から馬車にのって。エセルさんだって、ついさっきまでここにいて……」
思いつくままにわたしはしゃべって納得させようとしたが、彼は困った顔で首をふるだけだった。
「大変申し訳ないのですが、招待状のない方を、中にお通しするわけには……」
そのとき、わたしがいまこの世でもっとも会いたくない人物の声が聞こえてきた。
「あら、だれかと思ったら、パンダリーコット大使令嬢のシャーロット=シンクレアじゃないの!」
(げ)
わたしは、強ばった顔のまま振り返った。
「フフン」
タイミングの悪いことに、わたしのすぐ目の前に、レモン色も目に鮮やかなドレスを身にまとったヴェロニカ=トッド=チェンバースが、頭にいつものにんじんロールをいくつもぶらさげて立っていた。
わたしは、思わずエチケットを忘れて叫びそうになった。
(ああ、よりによってヴェロニカに見つかってしまうなんて、さいあく!)
「こんなところであなたと会うなんて偶然ねええ。ところで、パートナーの姿が見えないようだけれど、今夜ご招待を受けていないはずのあなたは、いったいだれの付き添いでいらっしゃったのかしらぁ」
わたしは、胃の袋をぎゅっとだれかに掴まれたような気分になった。
(ど、どうしてエセルが戻ってこないの。わけがわからない。いったいどうして、どうしてよ!)
「それとも、パートナーもなしに乗り込んできたとか。おお、あなたって毎日学校でなにをお勉強してらしたの」
ヴェロニカは言った。手のポーチを揺らしながら、わざとらしくきょろきょろと周りを見渡してみせるのが、なんとも憎らしい。
思わずなぐりつけたくなるのをぐっとこらえて、わたしはぷるぷるとその場に立っていた。
すると、ブーゲンビリアの垣根のむこうにいた人々が、なにごとかとこちらに注目しはじめた。
わたしは、あまりの恥ずかしさと悔《くや》しさに、思わず目から涙がにじみ出るのを止めることができなかった。
(こんなのってひどい……。こんなのは、ひどいわ!)
ここで泣いてしまう前に、走って寮へ帰ろうか……。そんなことを真剣に思っていた、そのときだった。
ふわり、と、わたしの側を、一片の風が通りぬけていった。
わたしは、顔をあげた。
そして、どきりとした。
「失礼、ミス。そのレディは僕の|連れ《パートナー》です」
低くて、とても耳にここちいい声がした。それは、まるで古い木で作られたヴァイオリンの音を思わせる声だった。
わたしは、おそるおそるその声の主を凝視した。
(カーリー!?)
驚きのあまり、わたしは思わず口を両手でおおってしまいそうになった。
(いいえ、違う。声が違うもの。でも、似てる……)
わたしを恥ずかしさの淵《ふち》から救いだしてくれたその少年は、ほんのりと琥珀に色づいた肌をしていた。残念ながら光沢のあるうすい紫のターバンで髪をあげていて、髪の色はわからない。
けれど、印象的な瞳をしていた。
わたしは、うっとりとその目に見入っていた。
(ママが好きだと言っていた、オニキスの瞳だ……)
「失礼ですが、お客様は……」
そのポーターの言葉を待っていたように、少年は上品な銀の名刺入れから一枚の名刺をとりだした。それはまるで、その名刺そのものが銀でできているかのように思えるようなしぐさだった。
名刺を見た若いポーターの顔色が変わった。
「これは……!」
「夫人に、よしなにお伝えを」
彼はなんども、少年と名刺に書かれているらしい名前を見比べていたが、
「しょ、少々お待ちを! いえ、どうぞ中へ。いま奥様にお知らせいたします!」
と、先ほどまでの落ち着きをかなぐりすてたように、中へとんでいった。
わたしはぽかんとなった。あの慌てぶりはただごとではない。
(いったいどうしたのかしら……)
怪訝に思ったのはわたしだけではなかった。その少年に気づいた招待客の間から、ひそひそと声が漏れ始めていた。
それほど、彼の存在はその場で異彩を放っていた。
なにより、彼はその場にいたどの男性とも違うかっこうをしていたのだった。
スタンド襟の白い上着に、同じ地で作られたズボン。あきらかにインドの盛装《せいそう》だとわかるそれらは、よく見るとただの白ではなく、とても光沢のある絹で文様が織られているのがわかる。
首からかけられたネックレスは、なめらかな真珠の三連で、それとおなじ色の真珠のかざりが、額の上からななめ上にかけてターバンにつけられていた。そして、白地によく映える、斜めにたすきがけされた飾りは鮮やかな朱色と金……
なんという服なのか、わたしはその名前を知らなかった。
けれど、見たことはある。
(インドのマハラジャが着ていた服だ!)
「さあ、レディ。お手をどうぞ」
思わず差し出された手をとりそうになって、わたしはあわてて手をふった。
「あの、ごめんなさい。だめなんです。わたし……」
いろいろなことがありすぎてすっかり失念していたが、わたしは男の人に触られるとくしゃみが止まらなくなってしまう。いくら、助けてくれた恩人とはいえ、こんなところで手を握ってしまっては、かえって迷惑をかけてしまうだろう。
「ほんとうにごめんなさい。でもわたし、男の人に触られるとくしゃみが……」
「ふふ」
なにがおかしいのか、彼はちょっと笑って、
「あいかわらず、泣き虫さんだね。|蜂蜜色の泣き虫さん《ハ ニ ー ・ ビ ー》」
おもむろに手袋を持っていない方の手で、わたしの目尻ににじんでいたわたしの悔し涙をすくってみせた。
「ひゃっ」
わたしは、思わず両手で口をおおってその場にしゃがみこんだ。
(だめ、くしゃみが出る!)
こんなところで、くしゃみの百連発なんてしたくない。ヴェロニカに見られれば、きっとフェビアンみたいに、一生わたしをからかう道具にされるんだわ!
わたしは、なんとかくしゃみをかみ殺そうと、ひっしで息をとめてその場にうずくまっていた。
けれど、
「――――あれれ?」
わたしは怪訝に思った。なぜかいつまでたってもくしゃみの嵐はやってこなかった。
「だいじょうぶ」
彼は、堂々とわたしの手をとって、わたしを立ち上がらせ、
「あ、あの……」
「だって、俺[#「俺」に傍点]だけが、きみの特別製だろ」
ぐいっと自分のほうに抱き寄せて、耳元で囁いた。
「わ――」
側に近寄ると、彼からは風の匂いがした。
わたしは、なぜかその言葉に強烈な既視感を感じて、その場にたちすくんだ。
(わたしは、どこかで同じことを聞いたことがある……?)
わたしが思い詰めた顔をしているのを見て、彼は言った。
「俺を、覚えている?」
「えっ」
「俺と、はじめて会ったときのことを」
「あなたと、はじめて会ったとき……?」
彼が、少し高いところからわたしに囁くように言う。それがあんまりにもまろやかな低い声で、心地が良いので、わたしは魔法でもかけられたようにうっとりとなった。
ふいに、わたしの心地よさを打ち消す、大きな声が響いた。
「まあ、これはこれは。まさか、ほんとうにいらっしゃるとは!」
わたしは、夢からめざめたようにびくんとなって顔をあげた。
頬をふるわせながら中から出てきたのは、大きくあいた胸に、ほんとうに目が覚めるようなヴェルヴェット・ローズの生花を挿した美しい女性だった。
「はじめまして、わたくしが、リンダ=キャッスルトンでございます」
と、彼女は名乗った。
「お目にかかれて光栄でございますわ、| 殿 下 《ユア・ロイヤル・ハイネス》。さあさあ、どうぞ中へいらっしゃってくださいな。さあ、そちらのブーゲンビリアのようなお嬢様も」
まるで魚のひれのような後ろかざりのついたジグザグライン≠フドレスを着た彼女は、その場にいた女性の中では[#「女性の中では」に傍点]、だれよりも美しく目立っている。
(この人が、キャッスルトン夫人……)
わたしは、現れた夫人の顔をじいっと凝視した。
ミチルやヘンリエッタが言っていたように、キャッスルトン夫人リンダは、とても美しい女性だった。
年の頃は三十半ばを少し過ぎたころだろうか。多くのものを見てきたのだろうその目は、美しさとともに、女手一つで事業を成功させた自信にあふれていた。
(たしかに、とってもきれいだけれど)
わたしは、だんだんと期待が萎《しお》れていくのを感じた。
(でも、やっぱり、わたしのママじゃないような気がする……)
「それで、こちらのお嬢様は?」
大きな目でじいっと見つめられて、わたしはあたふたと赤面した。わたしは、出来る限り優雅に挨拶しようと、丁寧に自分の名前を言った。
「あの、シャーロット=シンクレアです」
「シンクレア……」
なぜか、夫人の顔色がすうっと刃物のように研ぎ澄まされた。わたしは、その切っ先をあてられたかのようにどきりとした。
「あ、あの……、なにか」
「いいえ、なんでもありませんわ。さあ、どうぞ中にいらして」
彼女は、なにごともなかったかのように、わたしたちをそのままダイニング近くへ案内しようとした。
しかし、そのときちょうど戻ってきたエセルが、わたしに後ろから声をかけた。
「ごめんごめんシャーロット! 遅くなってしまって……」
息せき切って戻ってきたエセルは、わたしが見知らぬ少年と並んで立っているのを見て、すうっと黙りこんだ。
「え、あの……、こちらは……」
「あなたがあんまりにも遅いから、この人に中に入れてもらったの」
わたしは、わざと少し怒ったそぶりで言った。
「ああ」
しばらくして、エセルは時がもどったかのように表情をとりもどし、
「それは……、僕のパートナーがご迷惑をおかけしました」
「いえ」
エセルは、それからも少年から視線を外さなかった。それは、初対面の人に対してぶしつけなほどだった。
思いもかけないことを、彼は言った。
「失礼ですが、以前、どこかでお目にかかったことが……?」
少年は、エセルの言葉をそっけなく否定した。
「いいえ」
そのまま、彼はキャッスルトン夫人に連れられて、中の主賓《しゅひん》とごくごく親しい人々があつまる部屋へ消えていった。
わたしは、エセルをなじりたい思いでいっぱいだったが、彼が余り思い詰めた顔をしているのを見て怪訝に思った。
「エセル、どうしたの?」
彼ははっと胸を上下させると、ぎこちない笑みをうかべ、
「……すごい、こんどこそ大物だ」
「えっ?」
わたしが驚いた顔をしたので、彼はあわてて首をふった。
「いいや、なんでもない。……そうそう、さっきはほんとうにごめんね。友人と、今度行くフィッシングはどのあたりにしようかって、ついつい話し込んじゃって」
いきなり釣りの話をされて、わたしは拍子抜けする思いだった。
(大物って、なあんだ。そんなことだったの)
わたしは、できるだけわたしの思いを簡潔に伝えようと、めいっぱい頬に空気をいれてぷいっとそっぽをむいた。
「いいけど……、すっごく心細かったんだから!」
「ごめんごめん。ところで、きみ、さっきキャッスルトン夫人に挨拶はしたの?」
わたしはむくれた顔のまま言った。
「したわよ。だれかさんが紹介してくれなかったから」
すると、エセルは意味深に目を細め、
「あ、そう。それは手間が省《はぶ》けてよかった……」
そのとき、奥のほうから晩餐の準備がととのったというベルの音が聞こえてきたので、わたしたちは並んでダイニングのほうへ向かった。(もちろん、彼がちゃんと手袋をしているかどうか確かめてから、手をとった)
わたしをなだめようと、エセルは熱心に言った。
「ごめんごめんね。そうそう、さっききいたところによると、今日のデザートはフランス産の梨とレモンのシャーベットだそうだよ」
「それがなによ」
「なにって、これはまったく大事だよ!」
彼はおおげさに手を広げてみせると、眼鏡の奥のスカイブルーを曇らせて笑った。
「料理は、ロシア風とドイツ風のミックス[#「ロシア風とドイツ風のミックス」に傍点]なんだそうだ。まったく、趣旨《しゅし 》がわかりやすくていいね!」
§ § §
そうして、このパンダリーコットのステーションで、この夏もっとも豪勢だろうと言われたディナーパーティが、ついにはじまったのだった。
ダイニングには、延々と続くかと思われるほどの長いテーブルがセッティングされ、さまざまな顔ぶれが席についていた。中には、わたしがイギリスで見たことのある、パパ・ウィリアムの友人の汽船会社の人までいた。
「みなさま。わたくしが、イギリスにいる息子の仕送りとして送った紅茶がはじまりの、このキャッスルトン・ブランドも、いまでは世界十六ヵ国に輸出するメーカーにまで成長いたしました。ひとえにみなさまのご尽力のたまものでございます。あつくお礼もうしあげます」
と、はじめに女主人であるリンダが、軽やかな羽根を思わせる口調で挨拶をする。
エセルが、わたしの耳にそっと顔を寄せた。
「あそこにいるのが、ボンベイ総督夫妻だよ」
「へええ」
「その隣は州知事。アッサム鉄道の幹部。インド参事会のお歴々までいる。まったく、夫人の顔の広さがうかがえるね」
と、さすがに商人らしい顔の広さを見せつける。
(そうか、この晩餐が、インドの縮図なんだ……)
わたしは、この広いインドを動かしている一握りの人々と同じテーブルについていることを、不思議に思った。
夫人の挨拶には、その場に集まった人々から惜しみない拍手がおくられ、彼女はそのひとつひとつに微笑みで返していた。
「さて」
彼女は、その場にいた人々をぐるりと見渡して、
「昨今巷では、怪盗リリパットなる輩が、わたくしたちイギリス人を狙って騒ぎをおこしているそうですけれど、本日はそんな小悪魔にならって、おもしろい趣向をご用意いたしました」
(趣向……?)
リンダが手で合図をすると、髪をきれいになでつけた給仕たちが、手にしていた皿から蓋をとった。
おおーっと声があがる。
なんと皿に盛られていたのは、大小さまざまな宝石のついたネックレスの数々だったのだ。
「こちらの宝石を、わたくしは一時間ごとにつけかえます。しかし、この中で本物はたったひとつしかございません。もしリリパットご本人がここにいらっしゃるのでしたら、それこそ目を皿のようにして、わたくしの胸元をごらんくださいませ」
茶目っ気ともいえるリンダの口上に、どっと笑いがわきおこった。
「うふふ」
私も、思わず笑ってしまった。
(これじゃあ、ほんとうにこの中にリリパットがいても、盗むのはたいへんだわ)
執事の合図で、ディナーがはじまった。
テーブルの上には、実にさまざまな料理がはこびこまれた。日頃、オルガ女学院でいやというほどエチケットの授業をうけていたわたしは、召使いが皿をはこんでくるドイツ式と、部屋の中で執事がすべてを切り分けるロシア式の区別もついていたので、よけいな恥をかかずにすんだ。
(ふう、ミセス・ウイッチの授業をこんなにありがたく思ったのははじめてだわ)
なんでも知っておくことに損はないのだ、とわたしはちょっとだけ、ミセス・ウイッチに感謝した。
わたしに嫌みのかずかずをふっかけてきたあのヴェロニカといえば、ディナーの間も、なぜかわたしとエセルとを見比べては、どこか悔しげな顔つきで頬をふくらませていた。
その顔には、あからさまに、「なんであんたが新品のドレスを着て、ボーイフレンドにエスコートされているのよ!」と書いてあった。
どうやら、自分のパートナーがそばかす顔のいとこであったことが気に入らないらしい。
しかし、彼女がもっとも熱心に視線をそそいでいたのは、そのテーブルでいちばん上座にすわっている、あのインド人の少年だった。
彼に見入っていたのは、ヴェロニカだけではなかった。その場にいただれもが、この異国風の盛装をした上品な少年に注目していた。
(いったい、あの人はどこのだれなんだろう)
「ねえ、エセル。あの変わった服を着た男のひとは、いったいだれなのかしらね」
わたしは食事中の礼儀に反しない程度の声で、エセルに話しかけた。
エセルは言った。
「アムリーシュ=ハヌワント=シンさ」
「アムリーシュ? って名前なの? どういう人? インドの偉い人の息子さん?」
わたしの質問攻撃に、エセルは閉口したような顔で、
「さあ、あんまりここでは口にできないんだけれど……。そう、ここにいるたいていの人はわかっていると思うよ」
「ええっ、でもわたしにはまるでわからないわ」
「……まあ、そうだろうね」
彼がなんだか奥歯にもののはさまった言い方をするので、わたしは気になるあまり、せっかくの梨のヴァローヴァンや、ヤマウズラの冷パイなどの味をじゅうぶんに味わうことができなかった。
二度目のデザートがはけてディナーが終わると、わたしはエセルをおいて席をたった。こういう場では、昔から女性だけが先に退出し、男性が気兼ねなくお酒を飲める時間を作るのが伝統的だった。
入り口でヴェロニカといっしょになると、彼女がわたしに話しかけてきた。
「ねえ、あの眼鏡のひとはだれなの」
わたしは、まじまじと彼女の顔を見返した。
「それに、あのインドの王子様はいったいだれ。あなた、さっきあそこで話していたでしょう」
わたしだって知らないわよ――、そう言おうと思って、わたしはふといたずらを思いついた。
わたしは、できるだけ顔がうわつかないように頬に力を込めながら、
「ふたりとも、わたしの大切な友人よ」
(嘘だけど)
ヴェロニカの顔色がさっと変わるのを見て、わたしは内心べろっと舌をだした。
(どっちも会ったばっかりの人なんだけど、これくらいの意地悪はいいわよね)
「な……、わたくしにも紹介しなさいよ。ちょ、ちょっとあなた!」
すっかり復讐をとげて気持ちよくなったわたしは、棘のようなヴェロニカの視線にもおかまいなしに、涼しげな風のふくオープンガーデンのほうへ足を向けた。
そこには、先に退出した女性達があつまって、飲み物を片手にめいめいおしゃべりをしていた。
「うわ、すご……」
少し前に流行ったギャルソンヌ・スタイルや、フラッパー、ルーズウエストなどのさまざなタイプのイヴニングドレスが集まったさまは、まるでパリのコレクション会場を思わせた。
「そちらのイヴニングは、テイラーでお仕立てになったの?」
「うふふ、そうですわ。ホワイロウェイ・アンド・レイトロもよいですけれど、やはりテイラーにはなんでもありますから」
「まあ、カルカッタのお方はうらやましいわ。南部などにいると、着ていくものにも困るありさまで」
「ああ、インド人の女中はなってなくて、すぐに洗濯でダメにしますしねえ」
などと、彼女たちは、まるで庭先のブーゲンビリアと張り合うようにして、自分たちの着ているものを誇っている。
なんだか目がちかちかして、わたしは、人気のないバルコニーのほうへ歩いていった。
(いまごろ、カーリーはどうしてるかな……)
紺色の闇にぽつんと浮かんでいる三日月に、本を読んでいるときのカーリーの尖った横顔がかさなって見えた。
(わたしを待っているだろうか。ううん、エセルがミセス・ウイッチに外出許可をとってくれたはずだもの。いまごろはきっと本でも読んで、お風呂にはいって……)
こんなふうに、ふと空を見上げてわたしのことを思い出してくれているかもしれない。わたしが想っているように、わたしと仲直りしたいと思ってくれているだろうか……
「会いたいな」
思えば、オルガ女学院に転入して、カーリーとこれだけ長い時間離れているのははじめてだった。
「だれに会いたいの?」
ふいに、身近なところから男の声がして、わたしはびくりと肩を強ばらせた。
あの、インドの盛装をした少年が、わたしがいるベランダの柵に座ってこちらを見ていた。
「あ、あなたは……」
言いながら、わたしは月明かりに照らされた彼の端整な顔にじいっと見入っていた。見れば見るほど、彼はカーリーによく似ている。そのオニキスのような黒い目も、すっと伸びた鼻梁《びりょう》も、そしてやさしいまなざしも……
「あの、わたしの友達です。でもケンカをしてしまって……」
思わず、わたしは言ってしまっていた。
「あなたに、よく似てます」
「俺に?」
彼は、意外そうに目をみはって言った。
「その人、どんな人?」
「どんな人って、……そうね。とても綺麗な人です」
「それから?」
「それから、すごく賢くて……」
わたしは、次々に言った。カーリーのことを話すのに、躊躇《た め ら》いなど感じなかった。
「美人だけど、女らしいってわけじゃないんです。ほら、宝石って硬くて冷たいでしょう。あんなふうな美しさを持っている人です。凛《りん》としているんです。なにものにも曲げられないようなまっすぐさと、美しい硬度をもっている――」
「詩人だね」
思いもかけない褒《ほ》められかたをして、わたしは少し赤くなった。
「どうしてケンカしたの?」
「それは……、彼女がいきなり、インドは危ないからロンドンへ帰ったほうがいいって言い出したんです。ずっといっしょにいようって、約束したのに」
「たしかに、イギリスがドイツとぎくしゃくしていることで、インドで独立戦争がはじまるかもしれない、そんな噂はあるね」
彼は、エセルと同じことを言った。わたしはムキになって反論した。
「でも、なにもわからないまま帰れなんて、そんなのはひどいと思います。わたしが子供だからかもしれないけど、でも……」
言いながら、子供のころから言われ続けた屈辱がよみがえってきて、わたしはぶるぶると震えだした。
「どうしてみんな、子供だからってわからないと思うの……」
「シャーロット?」
「子供にだって考える頭はあるし、言われたら傷つくことだってあるわ。なのに、肝心《かんじん》なところで鈍感《どんかん》なふりをして、わたしたちに言葉のナイフをつきつけるの。そんなのひどい。だって、わたしはずっとわかってた。パパがママじゃない女の人とカーテンの陰でキスしてたときだって、親戚の人たちがママを淫売《いんばい》だって悪口を言っているときだって……!」
言ううちに、だんだんとわたしの頭の中に、幼いころ心ない大人たちに浴びせられた言葉が、ぐるぐると渦をまきはじめた。
パパの周りにいるたくさんの女のひとたち。
ママのことを責める人々。
わたしにかけられるそのほとんどが、汚い、心ない言葉ばかりで、わたしはいつしか、言葉を使うのが怖くなった。
とても友達なんて、できなかった。
言葉をつかって、心を伝えるのが、怖かったから。
「カーリーは、はじめての友達なの……」
彼を責めるのはまったくの筋違いだったにもかかわらず、わたしは止まらなかった。もしかしたら、彼がカーリーにとてもよく似ていたからかもしれない。
「友達になれて、とてもうれしかった。だから、あんなふうに言われたくなかったの。たしかにわたしは、戦争のことなんてわからないし、政治がどういうしくみで動いているのかだってわからない。でも、知らないことが恥ずかしいことだって気づいてからは、自分なりにいっしようけんめい知ろうとした。だって、カーリーが好きだから。カーリーの国のことを、もっともっと知りたいと思ったから。カーリーの――」
そばに、いたかったから。
「あ…………」
口に出してみて、初めて気がついた。
わたしの努力も、約束もなにもかも、すべてカーリーから生まれたことだったのだ。わたしはいつのまにか、それくらい彼女に惹かれていた。彼女なしでは、もう、自分のことを考えられなくなるくらいに……
「好きなの」
ぽろん、と丸くてやわらかなものが、わたしの頬をすべって落ちた。
「大好きなの。だから、離れたくないの……」
わたしの心をとりまいていたいばらをすべて取り去ったあと、残ったのはそんな言葉だった。
そのとき、ふわり、と風の音がした。気がつくと、わたしは彼の胸の中に抱きしめられていた。
(あっ……)
アムリーシュの胸は、なぜか身に覚えのある居心地の良さがあった。
「きっと、その人もいまごろ、きみに会いたいと思ってるよ」
彼は、囁きに似た声で言った。
「ほ、ほんとうに……」
「間違いない。それで、どうやって謝ったらいいか悩んでいると思う。きみを傷つけてしまって、とても後悔していると思う……」
「ううん、わたしも……。わたしも悪かったの!」
わたしは急いで涙をふいて、顔をあげた。
「あんな風に言うつもりじゃなかったのに、なんだか昔のことを思い出してしまって、きつく言ってしまった。だから、半分は八つ当たりだったの。カーリーは悪くない」
「そう?」
彼が微笑むと、胸の中にあったもやもやが、霧散《む さん》してしまったかのようにすっきりとした気分になったのが不思議だった。
いまなら、彼女に会える。そう思った。会って、あの綺麗な顔の横で耳元にそっと囁くの。カーリー。あんなふうに飛び出したりして、心配かけて、ごめんね……
相手に囁くことで、自分が特別だとわからせる効果があるのだと、そうエセルは言っていた。なら、きっと伝わるはずだ。わたしが、カーリーを特別に思っていることが伝わるはずだ。
(言えるわ)
わたしが迷いをふっきったことは、顔にでていたようだった。アムリーシュは優しく微笑むと、わたしを胸から解放して言った。
「俺は、もう行かなきゃならないけど」
そう言って、彼はもう一度わたしの手をとった。
「きみとはまたすぐに会えそうな気がする。俺の予感は、当たるんだ」
わたしは、ふと妙な既視感を感じた。遠い昔、おなじようなシチュエーションで、同じことを言われたような気がしたのだった。
ふいに、東のほうから風が吹いた。
それに呼ばれたように、彼は風の吹いてきた方角を見上げた。
(あ……)
わたしが顔をゆがめたからか、彼は驚いたように振り返り、そうしてまたふっと――初めて会ったときのように、大人びた顔をして微笑んだ。
「大丈夫、また、会えるよ」
そうして、わたしの両手を自分のそれでつつみこんで、おもむろにそこに口づけた。
「だって、俺は、きみだけの特別製だろ。シャーロット[#「シャーロット」に傍点]」
「えっ……」
瞬《まばた》きをしたときには、もう彼は目の前にはいなかった。
(えっ、うそ。どうして!?)
マジシャンの帽子の中にしまわれたハトのように、アムリーシュの姿はあっというまに消えてなくなってしまっていた。
「ええ、だって、そんな……」
わたしは、きょろきょろと辺りを見回して、彼の姿を探した。
すると――
「あら、さきほどのお嬢さん」
わたしは振り返って、驚きのあまり息を呑んだ。ある美しい貴婦人が、飲み物を手にこちらのバルコニーのほうへ歩いてくる。
(あっ、あの人!)
それは、このパーティの主催者である、リンダ=キャッスルトンだった。
わたしは、あわてて彼女に挨拶した。
「は、はじめまして。あのう、さきほどはどうも」
ヴェロニカが、ものすごい顔をして睨んでいるのに気づきながら(わたしは彼女よりもはやく、夫人に声をかけてもらったのだった)、わたしは言った。
「さきほどは、ご挨拶が中途半端になってしまってごめんなさいね」
「い、いいえ……」
インド社交界の女王と言われる人の存在感を前に、わたしはたちまちのうちにかちんこちんになった。
「たしか、シャーロット=シンクレアさん、だったかしら」
「はい、そうです。父は、パンダリーコットの大使をしています」
パパ・ウィリアムのことを言い添えると、彼女は少し驚いた顔をした。
「まあ、では、やはりあなたはシンクレア大使のお嬢さんでいらしたの。じゃあ、こちらにいらっしゃるのは……」
「いまは、ステーションにある女学校に通っていて」
「ああ、それで……、そうね」
しばらく彼女は、そのヘイゼルの視線をアイスピックのようにしてわたしを見つめていたが、
「では、あなたのお母様は、ミリセント=シンクレアでいらっしゃるのかしら」
と、不意打ちのように言った。
わたしは、思わず心臓の上に手をあててしまった。ここで彼女の口からママ・ミリセントの名前がでてくるとはまったく思いも寄らなかった。
「ママのことを、ご存じなんですか!」
「ご存じも何も」
と、彼女はやさしくわたしに微笑みかけた。
「ミリセントとわたくしは、古い友人なの」
「えっ」
「彼女とはもう長いつきあいだわ。わたくしたち境遇が似ていてね、とても仲がいいのよ[#「仲がいいのよ」に傍点]」
わたしは、そのときになってやっと、彼女が「友人だった」ではなく「友人だ」、「仲が良かった」ではなく「仲が良い」など、現在形で話していることに気づいた。
わたしは、はっと顔をあげた。
わたしの表情の意味がわかったのか、リンダは少し声をおとして、まるで内緒話でもするようにわたしに話しかけた。
「ねえ、あなたのお父様……、シンクレア氏は、あなたにお母様は亡くなったと伝えたかもしれないけれど、ほんとうはそうでないことぐらい気づいているんでしょう」
「あ、あの……」
「わたくしには、あなたのお母様について、お話しできることがあるわ」
驚きのあまり、わたしは彼女の顔をじっと見つめる以上のことができなかった。
いま、なんといったのだろう、彼女は……。ママが生きている、ママが本当に生きていると、たしかにそう言った――
「そのかわり、わたくしのほうからもあなたに少し聞きたいことがあるの」
「わたしに、聞きたいこと……?」
そのとき、紅茶夫人の背後から彼女に耳打ちするものがあった。つや光りする黒のお仕着せをきたその男は、この屋敷の執事だった。
「ごめんなさい。またあとで。ああ、このことは誰にも内緒にしていてね。わたくしとあなただけの秘密よ」
彼女はそう言って、奥のほうへ歩いていった。
わたしはがっかりするのと同時に、心臓がどんどんと大砲のような音を鳴らし続けているのを感じていた。
(ママのことを知っているひとがいた!)
自分でもそうとわかるくらい、頬が上気していた。
(ママは、やっぱり生きていた。インドで暮らしていたんだ!)
ふいに、すぐそばから声がかかった。
「いったい何を話してたの」
わたしは、なにか後ろめたいことでもあるかのように、びくりと反応した。
いつのまにか、ダイニングから出てきたらしいエセルバードが、わたしの側に立っていた。
「さっき話してたの、キャッスルトン夫人だろう」
「そ、そうよ」
『わたくしとあなただけの秘密よ』
内緒にしておいて、と言われたことが、とっさに頭の中をよこぎった。
「……あ、あのインドの王子さまとはどういう関係なのって聞かれたのよ。ほ、ほら、あなたがいなかったとき、助けてもらったから……」
わたしのややいい加減な説明にも、エセルは納得したようだった。
「ふうん。そうなの。まあ、目立っていたよね。いつのまにか、いらっしゃらなくなったようだけど」
「そ、それより、ねえエセル。怪盗リリパットって今日はこないのかしら。インドの独立運動支援者じゃないかって、学校でもすごく噂になっていたのよ」
ちょっと強引だったかな、と思われた話題のふりようだったが、エセルはべつだん妙な顔をしなかった。
彼は、眼鏡のレンズの向こうでまばたきをすると、青い目をひらめかせて、
「ふふ。それにしても、怪盗リリパットが、インドの独立運動支援者、か……」
「あら、だってそうでしょ。イギリス人ばっかり狙っているんだから」
「じゃあ、なんのためにそんなことをしているのかな」
わたしは、唇をとがらせて言った。
「そりゃあきっと、宝石や証券を売って、独立運動の費用のたしにしているのよ。だって、戦争するのって、すっごくお金かかるんでしょう」
そのわたしの考えは、エセルにとってひどく幼稚な想像だったにちがいなかった。彼はおかしそうに笑うと、
「まったく、きみの言うことは真理だよ、シャーロット」
まるで、模範解答をした生徒を褒めるように、彼は言った。
「フランス人にも、言ってあげるといい。彼らは、もはや多くのディナーパーティでフランス式が流行《はや》らなくなったことに気づいてないんだから」
「え……」
わたしがなにか言うより早く、彼の視線がべつのほうを向いた。
「あ、ちょっと知り合いと話してくるよ。きみはここでおとなしくしてるんだよ」
エセルは向こうの喫煙室に知り合いを見つけたらしく、親指ほどの太さの葉巻を手にもっている男性のほうへ近づいていった。
その男性は、なぜかエセルのほうを見るなり、手にしていたまだいくらも吸っていない葉巻を、紅茶カップの皿にぎゅっとおしつけた。
(まあ)
と、わたしは呆れた。
(エセルのお友達って、お行儀が悪いのね)
その後、わたしはママの話の続きを聞きたいばかりに、目を皿のようにしてキャッスルトン夫人が客間に戻ってくるのを待った。
しかし、
(いない……)
いくら壁の花をして待っていても、夫人が戻ってくる気配はない。
おそらく、ここでエセルの言うとおりおとなしく待っていれば、あんなことには巻き込まれなかったのだろう。
けれど、わたしは正直待ちくたびれてしまっていた。それに、食前に飲んだシェリー酒と、待っている間にすすめられたなんとかという甘いお酒のせいで、気分がふわふわと浮わついていたのだった。
(夫人はどこにいるのかしら。たしか、この奥の部屋だったと思うけど……)
わたしは、トイレを探すふりをして階段をあがり、夫人の姿の見える部屋をさがした。どの部屋も、人々が談笑をするのに使用されていたが、それも奥にいけばいくほど少なくなっていき、人の声もまばらになった。
やがて、人気のない一角にまでやってくると、わたしは急に不安になった。
(さすがに、こんなところにはいないわよね……)
戻る前に少し休んでいこうと、わたしは衝立《ついたて》のそばにあった椅子の上に腰を下ろした。なにしろ食事が終わってからはずっと立っていたので、足がむくんでまるで石のようだったのだ。
「ふう、疲れた」
その部屋に灯りはなかったが、窓から滑り込んでくる月の明かりが、椅子の銀の装飾にあたってきらきらと光を跳ね返していた。
しばらくして、さらに奥の部屋から人が近づいてくる気配がした。
(だれか、来る!?)
わたしは息をひそめて、体全体を石のようにしてじっとしていた。
「しかし、今日のディナーは傑作《けっさく》でしたな」
ドアが開いて、野太い男の声がした。
「ロシア式とドイツ式とのミックスとはねえ。あれを、スターリンとヒトラーの協約だと理解した人間が、あの場にはたしてどれだけいたやら」
「ちまたでは、おもしろいことが言われているそうで」
べつの男が言った。
「ムッソリーニ、ヒトラー、チェンバレン、ダラディエのうち、勝つのは誰か? まったくだれが考えたのか、これを縦にならべ、左から三文字目を縦読みすれば、スターリンとなるのだそうだ」
「なるほど」
「いえますな!」
どっと笑い声が重なる。
「しかし、先の大戦で唯一|疲弊《ひ へい》していないのはソ連ですからな。その読みもあながち間違ってはいませんぞ」
数名の足音はだんだんと近づいてきて、やがて、わたしのいる部屋の中でぴたりととまった。
(あわわわ、入ってきちゃった)
わたしはぎゅっと身を固くした。別に悪いことをしているつもりはなかったのだが、もしかして、これは盗み聞きをしていることになるのだろうか……
「しかし、あのヒトラーとスターリンが手を結ぶとは、思いも寄らなかったことだ」
「さよう」
「こうなってくると、平和主義のチェンバレンの出方がみものですぞ」
「ヒトラーのことを、子犬だと言いおった御仁ですからな。まったく、ミュンヘンで手玉にとられたのはどちらだか」
(ヒトラー?)
わたしは首をかしげた。
(なんなの。みんな、いったいなんの話をしているの……?)
わたしは、頭の中で筋がとおるよう、なんども単語を積み上げてはきりくずし、積み上げなおすことをくりかえしていた。
(ええと、ヒトラーって、たしかいまのドイツの首相よね。スターリンはロシアの首相。でも、この二人ってすっごく仲が悪いはずじゃなかったの。どうしてこの人達は、この二人が手を組んだって言ってるの? そんなこと、新聞でもラジオでも言ってなかったのに……)
それに、わたしに間違いがなければ、チェンバレンというのは、イギリスの今の首相のことである。
たしかに戦争回避のために尽力すると、よく演説で口にしているのを、わたしは何度かラジオで聞いたことがあった。
わたしは、奇妙に思った。
どうして、彼らはチェンバレン首相のことを悪く言っているのだろう。
同じ、イギリス人なのに……
「しかし、なによりもすばらしいのはわれらがマダム・ティだ。おかげで、だれよりも早くドイツの動きを察することができる」
「さよう。われわれ商売人にとって、戦争は諸刃《もろは 》の剣ですからな」
「そうそう。この情報がなければ、ポーランドにある支店の引き上げも、間に合わなかったところだ」
すると、ようやく知っている声が響いた。
「晩餐形式を、ロシアとドイツにしたのには、もうひとつ意味がありましたのよ」
わたしはどきりとした。それは、まぎれもなく紅茶夫人、リンダ=キャッスルトンの声だった。
「ほう、もうひとつの意味とは」
「フランス式[#「フランス式」に傍点]の追放ですわ」
リンダはおかしそうに言った。
「もちろん、『ミックス』の意味にお気づきになった方は、ポーランドを手に入れ、なおかつ後背《こうはい》の憂いをたったヒトラーの目がつぎにどこに向くかくらい、すぐにおわかりになるでしょうけれど」
「なるほど、フランスか!」
だれかが、ポンと手をうった音が響いた。
「たしかに、フランス頼みのマジノ要塞は穴だらけのうえ、ダラディエに権力はないときている。金のないやつがまっ先に脱落するのは、カジノも戦争も同じだ」
「あそこは、いまだに旧式のルノーR35なぞを使っておるそうだからな。武器がまったく足りていない。やたらとナイフが並ぶフランス式ディナーとは大違いだ」
「まだ、そのナイフを持って突撃するほうがましかもしれんぞ」
「違いない!」
男たちの笑い声は、ぐふぐふと低く陰鬱《いんうつ》な響きをはらんでいた。
(き、きもちわるい……。カエルが鳴いてるみたい)
彼らの姿が見られないわたしは、どんよりと濁った沼のほとりで、金ぴかの服を着たガマガエル三匹が、顔を寄せ合って相談している光景を頭に思い描いた。
(それにしても、ぜんぜん話が見えてこないわ)
ほっと、声が出ないように一息つく。
この人たちは、フランスがドイツに負けるって予想しているけれど、それとイギリスがどんな関係があるのか、わたしにはさっぱり見当がつかなかった。それに、あの強いフランスがそんなにすぐに負けるとは思えない。
だいたい、こんなところでこそこそそんなことを話していたって、なんの意味があるんだろう。
(まるで、映画の悪者みたいに)
わたしの思案は、だがしかし確実に真相に近づいていたのだった。
三人の声の中で、もっとも低い声が言った。
「いや、そこまでの情報を得ておられるマダム。さすが、あのヒトラーとスターリンの仲立ちをしただけのことはありますな。あなたさまのご厚情には感謝いたしまするぞ」
「しかし、生粋《きっすい》のイギリス人であるあなたが、なぜあの二人の仲人に?」
彼らの声には、純粋な興味がにじんでいた。
「なにも、わたくし自身があの二人を引き合わせたわけではありませんわ」
紅茶夫人は、ふふっと含み笑いをした。
「ただ、わたくしは|栄光なる薔薇《クリムゾン・グローリー》≠フために」
「おお!」
ガマ紳士たちの間から、感嘆ともため息ともつかぬ声がもれる。
「われわれも微少ながら、クリムゾン・グローリーのお役にたてると思いますぞ」
「さよう。フランスに金がないとわかれば、かの国はもはやわれわれの商売相手ではない。早急に、いっさいの資金をフランスから引き揚げなければ……」
「今の時代、先の大戦でほぼ無傷のアメリカ資本なしに戦争は勝てませんからな」
「まったくだ。金をもっているのは、なにもユダヤ人だけではない」
紳士たちは、つぎつぎにグラスをかかげて唱和した。
「われらが栄光に!」
「われらの栄光なる薔薇のために!」
その中の主犯格である、リンダ=キャッスルトンが誇らしげに宣言した。
「そして、|帝 国《ブリティッシュ・ラージ》の終焉《しゅうえん》に!」
(に、逃げなきゃ!)
ここにはいられない、ここにいちゃいけない……。わたしの頭の中でそのとき一番冷静だった部分が、わたしの体の隅々にそう命令していた。
(これはきっと、聞いたりしたらまずいことに違いないわ)
わたしは、反射的にその場から逃げようと椅子からたちあがろうとし……
「しかし、まさかパンダリーコットの王太子《マハラジクマール》までいらしていたとは、いささか驚きました」
男の中の一人が言ったことばに、耳が釘付《くぎづ 》けになった。
「さよう。あれはアムリーシュ=シン王子ではありませんか」
「藩王家のいざこざを逃れて外国に留学されていたと聞いておりましたが、やはり戻られていたということは、マハラジャは……」
(アムリーシュ)
聞き覚えがある名前に、わたしは逃げることも忘れてその場にうずくまっていた。
(この人たちが話してるのって、あのわたしを助けてくれたインドの王子様のことよね。あの、カーリーによく似てる……)
それは、不思議な感覚だった。たとえるなら、初めて袖を通す服なのに、すっかり着なじんだ心地のよさのようなものをはらんでいたのだ。
彼らの話は続いていた。
「彼こそが、次期の薔薇の花心≠ナあると、もっぱらの評判ですからな」
「そうそう。パンダリーコットの藩王家はクジャラート族の中でももっとも古い家柄。イスラムとヒンドゥの掛け合わせという意味では、彼がもっともふさわしい」
「そういえば、殿下はどなたか女性をお連れと伺いましたが、あの少女はどなたか、夫人はご存じありませんかな」
(えっ、わたし)
急に、彼らの話題がわたしのほうに振られて、わたしはますますその場から動けなくなった。
「見たところ、イギリス人のようにも見えたが」
「それが、彼女は殿下が連れていらしたのではないようなのですわ」
ああ、とか、そうなのか、という落胆《らくたん》まじりの返事が聞こえる。ところが、紅茶夫人はわたしについて、もっと別のことに触れた。
「あの少女は、どうやらあのスカーレット=ミリ≠フ娘のようですわね」
「スカーレット=ミリ?」
「ミリというと、まさか、ランベス屈指のS@v員の……」
(スカーレット=ミリ……?)
聞き慣れない言葉に、わたしは眉をよせた。
(それって、もしかしてママ・ミリセントのこと?)
「何者なのですか、その少女は」
「まさか、その少女もSISの工作員などということは……」
「ふふ」
男たちの問いかけに、紅茶夫人はいかにも含みありげに言ってみせた。
「工作員《ロビン》の子供は工作員になることが多いとききますわ。とくに、年少者を巻き込む作戦の場合、おのずとそうやってそろえざるを得ませんものね。あのシャーロット=シンクレアの父親もまた外務省の役人。あの娘が工作員の一人であることは、わたくしもほぼ疑っていませんわ」
「なんと」
「おそらくあの娘こそが、昨今社交界をにぎわせている怪盗リリパットなのではないか……と」
わたしは、愕然《がくぜん》とした。
(わたしが、怪盗リリパットですって!?)
あまりのぬれぎぬに、わたしは怒りと驚きで体が石のように硬くなっているのを感じた。
(ちょ、ちょっと待ってよ。どうしてそんなことになるの。ロビンって、いったいなんのこと。それに、ママはほんとうに生きているの!?)
次から次へと情報が押し寄せてきて、わたしの頭の中はいまにもパンクしそうな勢いだった。
(た、大変なことを聞いてしまったわ)
まるで、わたしのまわりだけ、真冬に戻ってしまったような感じがした。
わたしはぶるぶると震えのとまらない膝をなんとかなだめすかして、その場から立ち去ろうとした。
そのとき、
(あっ!?)
ガタッ、と大きな物音がした。なんと、わたしは慌てて立ち上がるあまり、いつものように椅子を後ろに引いてしまっていたのだ。
「にゃっ」
思わず、声が漏れた。
「誰だ!」
「だれかいるぞ!」
男たちの声が、あきらかに殺気をはらんでわたしの胸につきささった。
(ど、どうしよう、逃げなきゃ!)
見つかったら殺される、と、わたしはとっさに悟《さと》っていた。
「待て!」
わたしは入ってきた次の部屋につながるドアに体当たりすると、隣の部屋からうすぐらい廊下へ飛び出した。だれかが追いかけてくるのがわかったが、ふりむいている余裕もなかった。
(どうしよう、どうしよう、だれか助けて!)
階段をおりるのももどかしく、手すりにお腹をのせて下の階まですべりおりた。どうしていいのかわからなかった。とにかく、エセルのいる客間に戻ろうと、そればかりを考えていた。
目の前に客間の灯りが見えたとき、わたしは心の底から|安堵《あんど 》した。
(ああよかった。あの人混みの中に紛れてしまえば、もうわたしだってわからないはずだわ)
わたしはさりげなく人の波をぬいながら、できるだけ人の多いところへ行こうと、人だまりを探した。
ところが、いくら辺りを見回しても、エセルの姿が見えない。
わたしは、ずっとここにいた振りをするために、給仕から飲み物をうけとると、ヴェロニカに話しかけた。
「ねえ、ヴェロニカ。あの眼鏡のわたしの連れを見なかっ……」
ふっと、照明が、落ちた。
(えっ)
わたしはとっさに、すぐそばにいたはずのヴェロニカに向かって言った。
「ヴェロニカ、ねえ、どこ!?」
辺りは騒然となった。ざわめきの間をぬって、婦人たちの悲鳴が、暗闇を切り裂こうとするナイフのようにするどく聞こえてくる。
わたしもまた、きょろきょろと辺りを見回した。
だれかが、怪盗リリパットだ! と叫んだ。
(怪盗リリパット!?)
続いて、ガシャーンと大きな物音がして、さらにするどい悲鳴が重なった。わたしはとっさによろめいた。
シャンデリアが、落下したのだ。
「怪盗リリパットだ」
「怪盗リリパットの仕業だぞ!」
召使いたちがすかさず蝋燭の明かりを持ってきたが、この広い客間にそれだけではどうしようもなかった。わたしは、とにかく知っている顔が見えるところに移動しようと、膝を払ってたちあがろうとした。
「ううっ!」
わたしは呻いた。だれかが、わたしを背後から羽交い締めにしてきたのだ。
(だ、誰!?)
振り返って顔を見ようとしたが、ものすごい力に押さえつけられて、まったく身動きができない。その上、わたしの鼻と口にはなにか強烈な匂いのする布が押しつけられていたのだった。
「うーっ、うーっ、う――っ!」
わたしは、できるかぎり声をあげて気づいて貰おうとしたが、無駄だった。まわりに灯りがまったくない暗闇の状態では、だれもわたしがそんなふうに誰かに襲われているなんて思わないのだろう。
(誰か助けて! だれか気づいて! ああだめ……――)
薬品のにおいが、鼻の奥を針のように刺した。やがて、そのにおいが頭蓋骨《ず がいこつ》の内側に充満していき、わたしの意識はだんだんと靄《もや》のようにうすれていった。
(わたし、殺されるんだ……)
もう、なにもかもが夢のように思える。
わたしは観念して、瞼《まぶた》を閉じた。
「シャーロット!!」
どうしてだか、意識がとぎれる前に、カーリーの声を聞いたような気がした。
§ § §
遠くで、船の汽笛を聞いた気がした。
「んん……」
わたしが、まだまどろみの中から身をぬけだせないでいると、もう一度、ホオオーっと音がした。
(神様のオカリナだ……)
それは、テムズから船が出るのを見ながら、ルーシーおばさまが言った言葉だった。
たしかに、汽笛の音は、大きなオカリナを吹いているような音をしている。
(ああ、なつかしいな)
わたしは、うっすらと目をあけた。そしてふと疑問に思った。ふだん、学校のベッドで寝ているときは、めったに汽笛なんか聞こえてこない。学校から港まではずいぶんあるし、船が出るのはたいてい昼間だからだ。
なのになぜ、そんなものが、いまわたしの耳に聞こえてくるのだろう……
と、突然そこへ、ぐあっという声が響いた。
「えっ、ぐあっ=H」
わたしは、まだぼやけた視界のまま、手をついて上半身を起こした。そうして、すぐに自分が、なにかちくちくするものの上に寝かされていることに気づいた。
なぜか、わたしが寝かされていたのは、木製の大きなコンテナ台の上だった。そして、その上に、どでんとふんぞり返って座っていたのは……
「まあ、ナッピー!」
なんと、わたしがおむつと名付けた、あの茶色いおしりのアヒルだったのだ。
慌てておきあがろ――うとして、わたしは、大きく前につんのめった。わたしの足は、ロープのようなもので縛《しば》られてしまっていた。
「静かに」
だれかの声がした。
「だ、誰!?」
「いまロープを切るから、動かないで」
月が雲の陰からあらわになって、少年の顔を隠していた闇をくっきりと洗い流す。その見覚えのある顔に、わたしはあっと声をあげた。
「あなたは!」
あのうす紫色のターバンをしたインドの盛装の少年。アムリーシュと呼ばれていた彼がそこにいた。
彼はすばやくわたしの側までやってくると、わたしの足の縛《いまし》めにナイフをいれた。ぶつっと音がして、わたしの足がようやく自由をとりもどす。
それから、わたしのほうをちらっとみて、白いブーゲンビリアの花のように笑った。
「ごめん、遅れて。怖かったろ」
「ど、どうして、ここがわかったの。どうしてわたしを助けに……」
「このアヒルが、きみの後をつけていた。すごく勇敢《ゆうかん》なアヒルだ。おかげできみの居場所がわかった」
「まあ、じゃあ、ナッピーが助けてくれたの」
わたしが言うと、ナッピーは得意げに、茶色いおしりをふるるんとさせた。
わたしは、アムリーシュに言った。
「でも、どうしてわたし、こんなことになってるの。ここはどこ。いったいだれが、わたしをこんなところに連れてきたの――」
「それは……」
「それは、あなたが、聞かれてはまずいことを聞いてしまったからよ」
ふいに声がして、わたしは顔を上げた。そして、ハッと息を呑んだ。
「あなたは――」
「魔法が解ける時間は、とっくに過ぎてしまっていてよ、シンデレラ」
そこには、広いつばのある帽子を目深にかぶり、細身のドレスを身にまとった、紅茶夫人――リンダ=キャッスルトンの姿があった。
月を背にしていた彼女の姿は、ほとんどが陰にぬりつぶされていたので、そのつばの広い帽子もあいまって、魔界からやってきた黒衣の魔女めいてみえた。
自分に銃口を向けられているのがわかって、わたしはごくりと唾を飲み込んだ。どう考えても、わたしは薬を嗅《か》がされてここへ連れてこられたのだ。もちろん、あのとき盗み聞きしていたのがわたしだと、ばれてしまったからに違いない。
「まさか、王太子殿下までいらっしゃるなんて、計算違いもいいところですわ」
フフフ、と彼女は、口の中に何かを隠しているかのように意味深に笑った。
「あの、聞かれてまずいことって、なんですか。あなたが、ドイツとソ連が仲良くなるように手助けしたってこと……?」
「そのとおりよ」
彼女は、もはやしゃべり方も声も取《と》り繕《つくろ》ってはいなかった。わたしに向かって、強い調子で言った。
(信じられない。どうしてこの人がそんなことをするの……。どうしてイギリスを裏切るようなことを……)
ナチスという労働者党を率いるヒットラーが、政権をとったとたん、まるで狂犬のようにヨーロッパの国々を侵略しはじめていることは、わたしも知っていた。
まず、ヒットラーはオーストリアを併合し、次にチェコを解体した。次にポーランドといきたいところだったが、ポーランドはソ連も狙っていた。だから、その二つの国はもともと仲が悪かったのだ。
そしてドイツは、ソ連と仲直りするために、ポーランドを半分こすることにした。なぜなら、ドイツにはもっと戦争をふっかけたい国があったから。
ソ連と条約を結んだドイツは、これで後ろから攻められる心配がなくなる。
ポーランドは、紙切れ一枚でもはやドイツとソ連のものになったも同然だ。
――次は、どうする!?
「ドイツは、フランスを攻める」
わたしをかばうように立ちながら、アムリーシュが言った。
「ディナーの、ドイツ式とロシア式の融合は、あなたのお膳立てで会談がうまくいったことをしめし、フランスが負けることを意味している。違いますか」
「そのとおりですわ。殿下」
銃口をあくまでこちらに向けながら、彼女は笑った。
「あの男たちは、その情報ほしさに、わたしに群がってくるハイエナども。でもこのインドの将来を動かす、大切な駒《こま》でもある」
わたしは、自分の顔からさーっと血の気が引いていくのを感じた。
(あの、ウシガエルみたいなおじさんたちは……!)
あの衝立のむこうにいるのは、戦争という悲惨な行為を、まるでゲームをするかのように語り、動かすひとにぎりの人々だった。
つまり、資本家だ。
もし彼らが、ドイツとソ連が手を結んだことを知れば、いったいどうなるだろう。
「フランスに先がないとわかった彼らは、フランスにいっさいの資金提供をしなくなる。お金がなくなれば、戦争には負ける。そして、フランスが負ければ、イギリスが動く。……」
「そうだわ」
アムリーシュの言葉に、わたしは頷いた。
「むしろ、フランスが早く負ければ負けるほど、イギリスは手をこまねいてはいられなくなる。ポーランドと条約をむすんでいるイギリスは、かならずドイツに向かって宣戦布告をするだろう。
そして、フランスが戦場になっている以上、イギリスはヨーロッパにかかりっきりになる。もちろんイギリス本国の軍隊や、人々の関心はつねにそちらに向く。それがあなたがたクリムゾン・グローリーの狙いだった。そうですね、夫人」
「クリムゾン・グローリーですって!?」
わたしは声を上げた。
それは、あの盗み聞きの最中にも何度も出てきた言葉だった。深紅の薔薇の名前。しかし、それ以上のまがまがしさをもって人々の口から語られる名前……
「ええ、そのとおりよ」
夫人は嗤《わら》った。わたしは夢中でアムリーシュを仰ぎ見た。
「そんな……、そんなことになったら……、イギリスがヨーロッパで戦争をしていたらどうなるの。いったいなんでそんなことをするの、どうして!」
わたしは、一生懸命に頭を動かして考えた。考えろ、考えるんだ。もしイギリスがヨーロッパで足止めされた結果、なにが起こる……? もしそんなことになったら……
「目が届かなくなったインドで、独立派が決起する。インドが、独立するんだ」
「インドが、独立!?」
わたしは、ぞくりと悪寒《お かん》が走るのを感じた。
「クリムゾン・グローリーはそれを支援している秘密結社だ。世界中のさまざまな少数民族の怨念《おんねん》がつきまとっている。リンダ=キャッスルトンは、中でもインドの独立派を支援する、いわば国家反逆者《う ら ぎ り も の》なんだ」
「うらぎりもの……」
いま、はっきりと紅茶夫人の思惑が見えたような気がした。
(そうか。彼女は、インドの独立支援者だったんだ。ばかばか、どうして気づかなかったのシャーロット。イギリス人だからと思って油断していたけれど、そういえば彼女はホーム嫌いだって、ミチルだっていっていたじゃないの!)
そうして、できるだけ本国をヨーロッパに足止めさせ、インドが労せずに独立できるように、ドイツやソ連をも動かしているのだ。あのヒットラーや、スターリンでさえ!
それが、たったひとりの女性にできることじゃない、ということは、わたしにでも容易に想像がついた。
リンダ=キャッスルトンの背後には、だれかがいる。
おそらくは、本国の崩壊とインドの独立をもくろむ、巨大な組織が……
それが、|栄光なる薔薇《クリムゾン・グローリー》、
深紅の、薔薇の名前!!
「あなた。シャーロット、とかいったかしら」
彼女は一歩一歩わたしたちのほうに近づいてきた。
「ねえ、あなたがランベスの工作員《ロ ビ ン》だってことは、もうわかってしまっているのよ」
「あ、あの、あなたがどういう人かはわかりましたけど……」
おそるおそるわたしは言った。
「わたしは、そのロビンとかいうのじゃありません。それに、あなたにはママのことを聞きたくって、それで……」
「あら、あんな場所で、偶然立ち聞きしたとでもいうつもりなの? わざわざ衝立の奥に体をひそめて?」
うっとわたしは言い詰まった。あのときはちょっとお酒がはいって浮き浮きして、それで人様のおうちだというのに、ずんずん奥に入ってしまったのだ――、ということは、
(いいわけにしかならないわね、やっぱり)
もし、自分の家に泥棒が入ってきてそんないいわけをしても、わたしだって信じないだろう……
夫人は呆れたように言った。
「まあその歳にしては、あんたはロビンとしてよく働いているわ。パーティにアムリーシュ殿下がいると知るや、パートナーを見失ったそぶりをして彼に近づくなんて、しかもそんなふうに助けてもらうなんて、まったく、ママのお仕込みがいいこと。さすがスカーレット=ミリの娘だわ」
「スカーレット=ミリ……?」
やはりそれは、ママのことなんだ。と、わたしは事実として飲み込んだ。
わたしは、言った。
「やっぱり、ママは生きているのね。そして、あなたの敵なのね。イギリスが戦争に負けるために画策《かくさく》している、あなたと、あなたを雇《やと》っている背後の人たちの――」
わたしは、銃口を向けられているのもかまわず、彼女にくってかかった。
「いったいわたしのママは誰なの。どうしてみんなママが生きていることを知っているの。パパは知ってるの? ランベスっていったい何。ロビンっていったいなんなの!」
(ママ!)
わたしは、一度心の中で決別した母親のことを、もう一度呼んだ。
(ママ、どこにいるの。いったいいま、どこでなにをしているのよ! ママのせいで、わたし、すごく悪いひとたちに捕まっちゃったじゃない!)
「ほんとうに、なにも知らないようね」
わたしとはまったく正反対の口調で、リンダ=キャッスルトンは言った。
「ロビンとは、MI要員のことよ」
「MI……、要員……?」
「英国秘密情報部、つまりランベスのエージェントのこと。わたしはてっきり、あなたがロビンでアムリーシュ王子との連絡要員なのかと考えていたのよ。だってそうでしょう。あなたとその方は……」
「やめてください。夫人」
アムリーシュは、わたしを体全体でかばうようにして立っていた。低い、音楽的な声がわたしの側から聞こえた。
「彼女を巻き込むことは許さない。ここは引いてください。彼女は藩王国にも、SISにも関係がない、ただの民間人です」
「そんなこと信じられるはずがない!」
アムリーシュの言葉を、リンダは強く否定した。
「なぜ、あなたさまがその少女をかばわれるのですか、|殿 下《ユア・ロイヤル・ハイネス》」
心外だといわんばかりに、リンダは言った。
「その娘は、あなたを捨てた女の娘ですよ。あの英国エージェント、スカーレット=ミリの!」
「違う!」
わたしは、リンダとアムリーシュの顔を交互に見比べた。
「どういうことなの。どうしてわたしのママが、あなたのことに関係があるの?」
アムリーシュは、ぎゅっと唇を噛んだままなにも言わなかった。わたしが思わずリンダを見ると、彼女は笑って言った。
「教えてあげましょうか。あなたのママが、このインドでなにをしたかを」
「夫人!」
アムリーシュの非難を避けるように、リンダは強い調子で話しだした。
「あなたの母親、ミリセント=シンクレアはね、英国秘密情報部のS@v員なの。つまり、マタハリなのよ」
「なん……」
わたしは、彼女に石化の魔法をかけられたかのように固まった。
(ママが……、わたしのママが、マタハリ、ですって?)
口ごもったわたしの様子がおかしかったのか、リンダはさらに言った。
「いまから十四年ほど前、ミリはランベスの密命をうけて、当時オックスフォードに留学中だったパンダリーコットの王太子ギルカール=ザイ=シンに色仕掛けで近づいたの。まんまと彼の子供を身籠《み ごも》った彼女は、子供だけを産み捨てて彼の前から姿を消した――。あとはどうなったかわかるでしょう。その子をマハラジャにするために、英国は、当時三人いたギルカールの王子たちを、つぎつぎに謀殺《ぼうさつ》していったのよ。パンダリーコットを、いずれ起こるであろう、インドを二分するヒンドゥとイスラムの戦いの際の、便利なあしがかりとするためにね」
魔女がかけた石化の魔法は、まだ解けなかった。それどころかますますひどくなり、わたしは体の表面だけではなく、心までも石のように冷たくなっていくのを感じた。
(ママが、マタハリ……? ママが、子供を産み捨てた。十四年前に……)
わたしの頭の中で、ゆっくりと時計の針が逆回転をはじめた。
ほんとうに紅茶夫人のいうように、ママが英国のマタハリで、国の命令でマハラジャの子供を産んだんだとしたら……
そして、その子を捨てていったんだとしたら……
『おまえのママは、ふしだらなんだぞ! インド人のこいびととかけおちして、おまえを捨てたんだ!』
義弟のフェビアンに雨のように言われていた言葉が、わたしの脳裏《のうり 》にまざまざとよみがえった。
(ママ、だからわたしを捨てたの……?)
すべての疑問が、パズルのピースのようにかちりとはまって、わたしはがたがたと震えだした。
ママは、わたしを捨てた。
そんなことは、とっくにわかってた。
でも、それはママの恋人のためなんかじゃなかった。もっと大きなこと――国の命令のためだった。
そして、イギリスがインドで有利に戦争をするため……
(そのために、わたしを捨てたの? わたしを捨てて、インドの王様の恋人になったの? それで、子供まで産んで……)
命令のために子供を産んで、そして、その子までも産み捨てたのだ。
国の命令のために。
子供を捨てたのだ。
(わたしと、同じように!)
石になっていた体が、少しずつ少しずつ熱をとりもどしていった。それは、魔法がとけたのでも、気持ちが安らいだからでもなかった。
怒りだった。
わたしの、まだ見ぬ母親へのとてつもない怒りが、恐怖という呪縛《じゅばく》をむりやり溶かしていったのだった。
「あらあら、本当に知らなかったようね。かわいそうに」
真っ赤になったわたしの目を見てなにかを悟ったのか、リンダは幾分かの同情をこめて言った。
その声音には、たしかにほんものの同情が混じっていた。
「ねえシャーロット、わたしにはわかるわ。ランベスはそういうところよ。英国は常に二枚舌を使う。インドとアフリカがないと戦争ひとつも起こせないくせに、いつまでも|産業革命の栄光《パ ッ ク ス ・ ブ リ タ ニ カ》がつづくと思いこんでいる。世界のリーダーをきどっているの。自分がほんとうは裸の王様なのだとは知らずにね」
それももう終わりよ、と彼女は力強く言った。
「ブリティッシュ・ラージは終わりを告げる。インドは独立し、イギリスは手足を失う。カイロにも火はついている。やがて、アフリカからも撤退せざるをえなくなるでしょう。ここ二百年で着込んだ一張羅《いっちょうら》をいちまいいちまいはがしていくのよ。英国は、すでに風邪《かぜ》をひいている。ふふ、いい気味」
「どうして……」
わたしは、彼女がイギリスへ向ける怨念の深さに面食らいながら言った。
「どうして、そんなことをわたしに話すんですか。それに、なぜあなたはそんなにイギリスを憎んでいるの」
同じイギリス人なのに、というわたしの言葉は、口から出る前に彼女につたわっていたようだった。
「同じイギリス人なのに、ということでしょう。ふふ……」
彼女はステッキで足下をつついた。
「わたしには息子がいたのよ」
「息子……?」
「父親はインド人で、当時インド高等文官の試験を受けにきていたバラモン階級の青年だった。家柄もよくてね、よく小説にあるような、身分違いの恋なんかじゃなかったわ」
そう、わたしが思ってもいなかったことを、紅茶夫人は話しだした。
わたしの見間違いでなければ、そのとき彼女は一瞬だけ、少女のような顔をした。
「わたしたちは幸せだった。わたしは彼が研修を終えたあと、子供とともにインドに向かうことに決めていた。
けれど、あるとき幸せだったわたしの家に、悪魔がやってきた。彼はG≠ニ名乗り、わたしに彼の実家のことを内偵しろといってきた」
「ど、どうして」
「わたしの夫の実家はね、あのガンジーと縁続きだったの。| 麻 《ジュート》の貿易で莫大な資産を得ていた彼の実家は、ガンジーの独立運動の資金援助者だった。英国は、そこに目をつけたのよ」
「ガンジー……」
その名前が、インドの偉大な独立運動のリーダーのものだということは、わたしも十分に承知していた。
彼女は、わたしを見つめて、いままでになかった少しやさしい顔をした。
「わたしに断るすべはなかったわ。子供はイギリスにおいていくように命令された。表向きは、イギリスの教育をうけさせるため、と夫を説得してね。
――でもね、あるとき、急に死んだの」
「死んだ……。どうして……」
「なぜ死んだのか、わからなかったわ。息子は水死体で発見されたのよ。でも自殺だろうということになった。日記に死を予感させる記述がみつかったから」
「自殺!?」
「日記にはこう書いてあったのよ。『ママ、僕が死んだら、ママとおなじイギリス人の天国に行けますか。ママは、パパと同じ天国へいけますか』」
わたしは、思わず両手で口をおおった。
その記述が、なにを意味しているか、あらためて口にするまでもなかった。
「息子は、わたしがしていることにうすうす気づいていたんでしょうね。その目に、非難を感じていなかったといえば嘘になるわ。
息子は、わたしと夫とどちらも愛してくれていた。だから、自分の母親が父を裏切っていることに耐えられなかった。そう、エディルを殺したのはわたしなの。夫をスパイし、その情報を英国に売り渡していたのはわたし、まぎれもない、このわたしよ! ――でも、わたしはほんとうに夫を愛していた!」
血を吐くような叫びで、彼女は言った。
「だからこそ、夫と息子を守りたかった。わたしにとって、ガンジーの情報を英国に渡すのは、夫への愛そのものだった。そうしないと、英国が二人になにをするかわからなかった。はじめからわたしに選択肢なんてなかったわ。なかったのに……!」
彼女は、ふうっと一瞬だけ遠い目をした。
「わたしはいまでも、自分がどこでなにを間違ったのか、よくわからないの。
なにが間違いだったのか。
夫を愛したことが、そもそもの間違いだったのか。そんなのはおかしいわ。だって、わたしは、エディルとシヴァラージに出会えて、とても幸せだったのに……。神さまは幸せになるために、人との出会いをくださるのだと、小さい頃におそわったのに」
――だから、わたしを救ってくださらなかった神など、捨てたのよ。
彼女は、そうぽつりと言った。
(神を、捨てた)
それは、まったく関わり合いのない他人の話であったのにもかかわらず、なじみのある水のようにわたしの体のなかにすっと浸透《しんとう》した。
(そうか。だから彼女は、英国を憎んでいるんだ!)
わたしは、彼女が英国を憎んでいるわけ……、そしてなぜかママに向けられていた激しい侮蔑《ぶ べつ》の意味を知った。
彼女は、かつて自分がしてきたこと……。英国のいうままに家族を犠牲にしてスパイ行為をすることを嫌悪している。自分のスパイ行為によって子供を死なせてしまった彼女には、なおさらわたしのママは、許すことができない存在なのだ。
それこそ、全身全霊をかけて。
「あなたのことは気の毒に思うわ。シャーロット。よく考えれば、あなたはミリや英国の犠牲者ともいえるのですものね」
ゆっくりと、ふたたび彼女が近づいてきた。その声音には、先ほどのような冷たさも堅さもなかった。どちらかというと、やさしい響きを孕んでいた。
それは、わたしが長い間知らなかった、母親の匂いだった。
わたしは、ぎゅっとアムリーシュの手を握った。
「どんな理由があっても、親が子供のそばをはなれるべきでないわ。そう……、わたしが息子に最後に会ったのもちょうどあなたと同じくらいのころだった」
「あの……」
「あなたには、怒る権利があるのよ」
彼女は、真っ黒になったわたしの手をとると、ゆっくり立ちあがらせた。
「あなたがわたしの手助けをしてくれるというのなら、わたしはあなたを殺さずにすむわ。アムリーシュ王子ともずっといっしょにいられる。ミリがすぐにインドへ戻れない以上、あなたが王子と仲良くなることを、英国も望んでいるはずだしね」
リンダのいい匂いのする手が、そっと壊れ物にでも触るようにわたしの頬をつつんだ。
「わたしを、助けてくれないかしら、ねえシャーロット。あなたが望むなら、あなたとわたしは家族になれるはずよ」
「家族……?」
わたしは、彼女の目を見ざるをえなかった。
逸《そ》らすことは不可能だった。
「わたしは、愛したいの」
リンダは、絞《しぼ》るような声で目をほそめた。
「生きるために、だれかを愛したいのよ!」
「それは、愛とは違います」
わたしの頬に触れていた夫人の指が、びくりと震えた。
「使い勝手があるものを側におくことを、愛とは言いませんよ。それは利用だ」
(えっ)
いったいなんだろうと、わたしが顔をあげたとたん、
ガシャーン!
背後のガラスの割れる大きな音がして、わたしの側にまでガラスの破片がとびちった。
「シャーロット!」
アムリーシュが、わたしの名を呼んでわたしを守るようにして上におおいかぶさった。
(いったい誰が!?)
そのとき、いままでわたしの足下でじっとしていたアヒルのナッピーが、弾丸のような速さでリンダに飛びかかった。
「グアアアアッ。ガアアッ!」
「きゃあっ、い、いったいなんなの……!?」
ナッピーに飛びかかられたリンダは、目に見えて動揺《どうよう》した。その人影は、その一瞬を見逃さなかった。あっというまに夫人の手から拳銃をたたきおとすと、彼女の首に銃口をぴたりとあてた。
それが、驚くほどあっという間に起きたことだということは、彼≠ェかぶっていたらしい黒いシルクハットが、今ごろ床におちたことによってもわかった。
その男性は、黒いタキシードに、一昔まえ風の膝丈ほどもあるマントを身につけていた。そして、ご丁寧に目には仮面を――、それもまた、まさに怪盗を思わせるバタフライタイプの仮面をつけていたのだった。
(まさか!)
その普通でない格好から、わたしはすぐに彼がなにものかピンときた。
(怪盗リリパットだ! ほんとうに……、ほんとうにいたんだわ!)
「リンダ=キャッスルトン。あなたを逮補します」
と、怪盗リリパットが静かに宣言した。
「逮捕、ですって……」
夫人は、くっと悔しげに顔をゆがませた。もみあったときに落ちたのか、いつのまにか彼女のかぶっていた帽子は床に落ち、きれいに結われていた髪は少し乱れていた。
「いったい英国になんの権限があって!? フフ、ここをどこだと思ってるの!」
彼女は、急に水を得た魚のように勢いづいた。
「ここは藩王国よ。しかも反英国の風が強い西部パンダリーコットよ。イギリスの法は通用しないわ、ここはイギリスじゃないもの!」
目を見開き、死ぬ前のけものを思わせる表情で彼女は叫んだ。
「ここでわたしを逮捕できるのは、マハラジャだけよ。あなたたちがやったことで、イギリスを憎んでいるギルカール=ザイ=シン二世だけよ。ウフフフ、できないでしょう。そんなこと、あなたたち英国がどの面さげてマハラジャに頼めるのよ。アハハハハハ!!」
彼女は髪を振り乱し、心臓の上に手をあてて笑った。
「おまえたちSISがどんなに追いかけてきたって、わたしは藩王国から一歩も外には出ない。英国の支配領域には一歩だって踏み入れない。だから、おまえたちはわたしを一生捕まえることはできないのよ。インドの藩王が、インドの政府が、わたしと英国どっちを選ぶか、考えてみるまでもないのだから。ざまあみろ!」
「ご高説はわかりましたが……、キャッスルトン夫人」
リリパットは、ちょっと口の端を持ち上げて笑った。その笑い方を、わたしはどこかで見たことがあるような気がした。
「残念ながら、ここは、旧フォート内です」
リンダはまだ笑っていた。
「なん、ですって……」
リリパットは、丁寧に(まるで上流のホテルの受付のような口調で)、
「ご存じかと思われますが、むかし、このインドの港には| 砦 《フォート》と呼ばれた囲いがあり、その中にはいくつもの|商 館《ファクトリー》があって、品物を取引していました。で、われわれが調べたところ、ここパンダリーコットのファクトリーの持ち主は一八六九年から英国インド省になっておりまして」
と、すらすらと手帳を読み上げるように言った。
「貿易の際、英国に有利な取引が得られるよう、その内部にのみ治外法権が認められていたことは、商人であるあなたもよくご存じかと思いますので、これ以上の説明は不要でしょう。事実、ボンベイなどの多くのファクトリーが、フォートの消滅によってなかったことになりましたが、ここパンダリーコットのフォートは、残念ながらいまだに藩王国に譲渡されておりません。あなたは、ここパンダリーコットのステーションがごく例外的に英国領でなかったことに安心しておられたのかもしれませんが……」
そして、銃口をつきつけるのにも似た言い方をした。
「ここは[#「ここは」に傍点]、まぎれもなく英国なのですよ。紅茶夫人」
「な――」
すうっと、リンダの顔色が青磁のように青ざめた。
「やれやれ、あなたをここまで釣ってくるのにはたいへん手間がかかりました。何日も一八六九年当時の土地の権利書にまみれたりしてね。この餌《えさ》ならば食いつくだろうと思ってはいましたが、ふう、これでようやく僕らも一息つけるってもんです」
「そんな……、そんな馬鹿なことが!」
「異論があるならば、ロンドンのセッションハウスへどうぞ。あなたがヒンドゥを主張するならば、ヒンドゥ教徒の弁護士がつけられるでしょう。はあ、まったく、あなたを死なせるわけにはいかないばっかりに、ここまでややこしい手続きを踏んだんですからね。ちゃあんと証言してもらわなくては困りますよ」
そして、彼は今度ははっきりと嗤った。
「あなたの属する、組織[#「組織」に傍点]のことについてもね」
そのとたん、リンダ=キャッスルトンがカッと目をみひらいた。
彼女は手にしていたステッキからナイフを引き抜くと(驚いたことに、そのステッキには刃がしこまれていた!)――自分の心臓にあてて突き刺そうとした。
「ああっ!」
キューン、とハープの弦《げん》を切断したような音がしたのは、その瞬間だった。わたしは、わたしのすぐ目の前で、彼女の肩になにかが撃ち込まれるのを見た。
麻酔弾《ま すいだん》だ、とアムリーシュがつぶやいた。
(まさか!)
わたしは、だれが撃ったのだろうと弾がとんできた方向を見たが、だれもなにも見えなかった。ただ、倉庫の入り口の向こうの、そのまた海をはさんだその先に白い寂しげな灯台が見えただけだった。
(まさか、あそこから撃ってきたの。だって、ここから二百ヤードは離れているのに!)
リンダ=キャッスルトンは、まるで花びらがばらばらになって散るときのように、床に倒れ伏した。自殺をおそれたリリパットの仲間が、あらかじめ麻酔弾でしとめる準備をしていたにちがいなかった。
床に倒れた紅茶夫人は、まだ意識があった。ただ、薬がまわって体が動かないのか、脂汗《あぶらあせ》をうかべた顔でわたしをじいっと見ていた。
ふいに、彼女が言った。
「――て、天国に行っても、息子は……いない……」
「えっ……」
そこで、彼女はだれもが思っていなかった行動をとった。どこにそんな力が残っていたのか、拳をふりあげ、そして――
「だから、英国が、わたしたちを受け入れないのなら……、インド人の地獄へいくわ」
つぶやいたかと思うと、ふいにガッと目を血走らせた。
「あっ!」
「まずい、破片を握ってる!」
リリパットが、彼女の握っているガラスの破片を払いのけようと手をのばした、その一瞬の隙を縫って、リンダはそれを行動にうつした。
「カーリー女神よ、ご慈悲を!」
リンダ=キャッスルトンは叫んで、拳を首に向かって振り下ろした。
あとは、想像の通りだった。
「きゃあああああっっ!」
まるで間歇泉《かんけつせん》のように、リンダの首もとから血がふきだした。それは、昼間みたブーゲンビリアよりも赤く濃く、わたしの目の前にばっと咲いて、散った。
「ああ…………」
わたしは、自分の張りつめた緊張の糸が、とうとうここにきて切れてしまったことを知った。
「シャーロット!」
どちらが叫んだのかわからない、あるいは二人ともだったかもしれない。
けれど、私にはこれ以上は限界だった。
(もうだめ……)
わたしはわたしの名前を、どこか遠くに聞きながら、わたしの側にあったぬくもりと手と意識を手放した。
もしかして、あのインドの王子様はわたしの異父弟になるんじゃないだろうか……、そんなことを、頭の片隅で考えながら……
§ § §
――静かな闇とともに波がうちよせる音だけが、その寂れた倉庫の中を満たしていた。
「ここでお会いできると思っていました。パンダリーコットの王太子殿下《マハラジクマール》」
そう、夫人を死なせてしまったにもかかわらず、おちつき払った様子で怪盗リリパットが言った。
怪盗リリパット――いや、その正体は英国秘密情報部のエージェントだろう。
彼らに名前は必要ない。偽名を使うことはあっても、それでお互いを呼び合ったりしない。
彼らの今回の任務は、紅茶夫人を生け捕りにすることだった。そのために、わざわざ彼女を、この狭い英国領であるファクトリー内へおびきだしたのだ。
おそらくは、このシャーロットを餌に使って。夫人はシャーロットを懐柔《かいじゅう》できなかったときは、転落死にみせかけて海へでもほうりこむつもりだったのだろう。
J@v員だ、とアムリーシュは直感で思った。J≠ニ呼ばれるエージェントは、MIがあらかじめ仕掛けた罠へ誘導する役目をになっているという。
(彼が怪盗リリパット……、ということは、ランベスの目的はインド側の撹乱《かくらん》か)
リリパットが自分のことをユア・ロイヤル・ハイネスではなく、マハラジクマールと呼んだことに、アムリーシュは気づいていた。
「このご夫人の言ったことは正しい。彼女の息子は自殺した。天国に行っても、彼女は自分の息子に会えないでしょうからね」
「……………」
「それで、英国を拒否し、インドをも拒否して、あなたはどこの天国に行かれるつもりですか」
「!?」
アムリーシュの頬に、裂け目のような緊張が走った。リリパットの視線は、その傷を見逃さないとでもいうように、さらにえぐり続ける。
「あなたは、もう逃げられない。そのお覚悟があって、こうして身をさらされたんでしょう」
「……英国は、俺を捕らえないのか」
リリパットは、意外そうに笑ってみせた。
「それこそ、なんの権限があって、です。わたしたちはあなたの味方のつもりなのですよ。わたしたちは、あなたのお母君と同類の人種なのだから」
「俺に、母親などいない」
「ああ、だから、あの子に同情しているのですか。おなじ境遇をもつ、シャーロット=シンクレアに……」
「!?」
アムリーシュは、じっと目の前に闇と同化してたたずむ怪盗の姿を睨《ね》め付けた。
「あの子をどんなに愛しても、あなたは、あの子と同じ天国には行けませんよ。マハラジクマール。なぜならあの子は……」
そう言って、彼はゆっくりとした動作でシルクハットを拾い上げると、汚れをはらいのけた。
「いいえ、そんなことはとっくにご存じですよね。では野暮《やぼ》なことはいわないでおきましょう。それでは、殿下。またこの地上でお会いしましょう。今度は覆面《ふくめん》のないときに。おたがいに、同じ天国には行けない身ですから」
「同じ、天国《ス ー ガ》に?」
「ええ、同じ天国《エ デ ン》に」
リリパットは、身をひるがえした。あたかもそれが、本当にアムリーシュを捕まえるつもりはないことを証明するかのように。
彼は、ふっと、蝋燭の火が消えるように姿を消した。
ただひとり、沈黙と光をふみしめて、アムリーシュは独語した。
「同じ、天国《ヘ ヴ ン》……」
そして、この夜からしばらくたった。九月三日。遠く海をへだてたヨーロッパの地で、世界を震撼させる出来事が起こったのである。
イギリス、フランスは、一日にナチス・ドイツがポーランドへ攻め込んだのを受けて、ポーランドとの相互援助条約に基づき、ナチス・ドイツに宣戦布告した。
――世に言う、第二次世界大戦のはじまりである。
[#改ページ]
〜エピローグ〜
紅茶夫人こと、リンダ=キャッスルトン夫人が、商館内《ファクトリー》にある倉庫で自殺をしていたことは、次の日またたくまにステーション内を駆けめぐった。
その理由については、人々の間でさまざまな憶測《おくそく》が飛び交っていた。
警察が調べたところによると、リンダは、一人息子のエディルを失ったのを境に、だんだんと精神に破綻をきたしはじめていたという。
彼女は、まわりの勧めもあって、救いをもとめるために、夫と同じヒンドゥ教に改宗をした。
しかし、不幸は重なった。彼女の夫がイギリス軍に横領《おうりょう》の罪をきせられ、独房内で自殺(どう見ても遺体は拷問《ごうもん》による死亡にしか見えなかったそうだ)をはかったのだ。
これを機に、リンダは本格的に事業にのりだし、十年でインド社交界の女王と呼ばれるまでにのしあがった。
その後、キャッスルトン紅茶は、重役たちによって事業が引き継がれ、彼女の財産も処分されることになったという。彼女は、紅茶でなした財の多くを、学校に寄付していたこともあって、わたしの通うオルガ女学院にも、沢山の遺産が寄付された。
パブリックスクールへ通う愛する息子のために、母親がインドからロンドンへ最高級の茶葉を送った、それがキャッスルトン紅茶のはじまりです。
あなたの食卓に、最高の薫りと彩り、そして何よりも家族のあたたかみを添えるでしょう……
キャッスルトンのマークの入った紅茶の木箱には、こんな言葉がきざまれていた。
彼女がたったひとりで、女手一つでたちあげたお城のマーク≠ヘ、そのまま彼女の身内にひきつがれ、今後もわたしたちの食卓に色を添え続けることになるのだろう……
わたしは、長い間彼女が最後に言った、「息子と同じ地獄へいく」という言葉を忘れることができなかった。
キリスト教の教えでは、自殺者の魂は天国へいくことなく、地獄へ堕ちることになっている。リンダは、生きながらえて裁判にかけられるより、息子と同じ死に方をすることを選んだのだった。
宗教の問題はむずかしい。国と国が争うのは、多くはお金か利権か宗教が原因になっている。
(せめて、同じ天国で、家族三人は会えますように……)
わたしは、そんなふうにしか祈ることしかできない自分を、生まれてはじめてはがゆく思った。
「シャーロット」
ふいに名前を呼ばれて、わたしは顔をあげた。
「カーリー」
わたしたちの部屋の戸口に、わたしのルームメイトが立っているのが見えた。
彼女は、いつものようにわたしをやさしく見つめながら言った。
「私に話があるって」
「ええ」
わたしは、カーリーに向かって言った。
「わたし、カーリーに、話さなければいけないことがあるの」
――あのディナーパーティのあった夜、わたしは、気がつくと学院の自分のベッドに寝かされていた。
とても不思議なことだったが、同室のカーリーによると、見知らぬインドの少年が、わたしを馬車でつれてきたという。
「こんな、こんな状況だというのに、あなたときたら、酔っぱらってお屋敷で眠りこけていたなんて。レディの恥、学院の恥です!」
外出許可をとっていたにもかかわらず、わたしはミセス・ウイッチにこってりとしぼられたのだった。
あの恐ろしいパーティの日から、まだ一月もたっていなかった。九月に入り、夏の暑い日差しは日々やわらいでいったが、そのときわたしたちの小さな英国にも、混乱の足取りは近づいていた。
というのも、ついにこの九月三日に、英国がドイツに対して宣戦布告をしたからである。
時のインド総督は、インドは英国に全面的に協力することを宣言し、インド国内の独立運動派の反感をおおいに買っていた。いまや、インドは明日にも独立戦争をはじめそうな勢いで、ぴりぴりした空気がただよっていたのだった。
その事態は、わたしたちの小さな生活空間にも飛び火していた。まだ夏期休暇中だったにもかかわらず、イギリスが戦争に突入したということで、急に帰国を余儀なくされた生徒たちがいたからだった。
世界は、ふたたび二分される。ドイツ・ソ連・イタリアと、イギリス・フランス・アメリカとに……。このオルガ女学院にだって、イギリスの敵側の国の親をもつ子もいるにちがいない。
(もうヘンリエッタやミチルたちは帰ってこないんだろうか……)
そう考えると、わたしの心は複雑だった。
そうして、驚くようなニュースはさらに続いた。なんとわたしの叔母のルーシーが、わたしをロンドンから迎えにくるというのである。
「ええっ、ルーシーおばさまがインドへ来る!?」
心配性のルーシーおばさまは、なんと外務省の飛行機に相乗りして(彼女は女性運動家ということで広く知られていた)、文字通りここインドへと飛んでやってきたのだった。
あいかわらず若くてきれいなルーシーおばさまは、ママにそっくりだという綺麗な青い目をして言った。
「だって、おまえをこんな危ないところへ置いてはおけないわ。ね、シャーロット、スイスにいい寄宿制の女学校があるの。あそこなら戦争の心配もないし、とてもいい環境で勉強ができるわ。もちろん、ラクロースだって。手紙に書いていたでしょう?」
「あ、だって、あれは……」
タイミングの悪いことに、わたしがかつて帰りたいと愚痴った手紙が、ふた月たってようやくルーシーおばさまの手元に届いたというのである。
そこへ、この戦争である。
ルーシーおばさまは、わたしをなにがなんでもロンドンへ連れて帰るつもりでいた。
「ね、シャーロット。おまえもロンドンに帰りたいと手紙で書いていたじゃないの。スイスへいきましょう。義兄さんの仕事があるとはいえ、ここは子供にはあまりにも危ないわ」
イギリスが宣戦布告をすれば、インドはイスラムとヒンドゥにまっぷたつに割れ、どこよりも激しい戦地になることを、彼女はよく承知しているようだった。
――わたしは、カーリーに言った。
「わたし、ロンドンへ帰れっていわれているの」
そのことは、カーリーはもうとっくに承知している様子だった。彼女は小さく頷いて言った。
「そうみたいね。あなたの自慢のおばさまにもお会いしたわ。あの方が、よくシャーロットが言っていたルーシーおばさま≠ヒ」
わたしは、コクリと頷いた。
「ロンドンへ、帰るのね」
今度はわたしは、頷きも首を振りもしないままだった。
わたしは、まだ迷っていた。もし、カーリーが行かないでと言ってくれたら、わたしはルーシーおばさまを説得してでも、ロンドンへは戻らないつもりでいた。
わたしは、とにかく早く彼女と仲直りがしたかった。あのときは――エセルとパーティへ行った夜は、わたしのコンプレックスもあいまって、感情的な言い合いになってしまったけれど、わたしはずっと、あのディナーパーティの最中だって、彼女に謝りたくてしょうがなかったのだから。
(彼女の側にいって囁《ささや》きたい。ごめんねって言いたい……)
あの日、何度も思い描いたことだったのに、彼女の側に駆け寄って、いつもしていたように耳に手をあてて、
ごめんなさい、カーリー。わたしが言い過ぎたわ。だからゆるしてね。
そんなふうに、切り出せたのなら。
けれど、
「それは、よかったわ」
カーリーはわたしの望んでいた言葉を言ってはくれなかった。
彼女はどこか安心したように、わたしに向かって、「そのほうがいい」と言った。
「そんな、よかったって……」
「スイスの寄宿制女学校に入るのね。あなたのおばさまに聞いたわ。スイスはいいところだから、きっとあなたも気に入ると思う。あそこは、インドと違って戦争もないし」
彼女が心底喜んでいるふうだったので、わたしはかちんと来た。
「カーリー。わたし、帰っちゃうのよ……?」
わたしは、怒ったように言った。
「シャーロット……」
「帰っちゃうのよ。もう二度と会えないかもしれないのよ。ねえカーリー!」
カーリーはなにも言わなかった。なにかをこらえているような、体の中にとてつもなく大きなものを隠しているような顔で、わたしにただ微笑んだ。わたしは、自分の顔色が急に曇《くも》るのを感じた。
「ねえ、カーリーは平気なの。わたしに、二度と会えなくても……」
「……小説を、書くんでしょう」
「えっ」
「小説家になるんだって、初めて会ったころに、そう言ってたわよね」
彼女は、テーブルの上に出しっぱなしだった本を手に取った。それは、ローレンス=オリビエとマール=オベロンによって映画になったという、ブロンテの嵐が丘≠セった。
「いつだったか、私のことを書いてくれるって、書きたいってそう言ってたわ。エウロスの物語だって」
「ええ、言ったわ。でも……」
「それを楽しみに待っているわ。本になれば、いつでもあなたに会える気がするから」
わたしは、そのまま会話が終わってしまうのがいやで、彼女の言葉尻になんとかしてくらいつこうとした。
「でもカーリー……、わたし、わたしは……、わたしはやっぱり」
「手紙を書くわ」
それは、わたしが言おうとしていた言葉すべてを打ち消す、とても酷《ひど》い言いようだった。
わたしは思わずカッとして、彼女のそばに駆け寄った。
「カーリーの、ばか! どうしてそんななの。そうして、一人でなにもかもわかったような顔をしてすましてるのよ!」
「……シャーロット」
彼女は困ったようにわたしを見つめ、
「あなたは、帰る場所があるのよ。そこがまだ温かい場所のうちに帰ったほうがいい。そこで幸せに暮らしたほうがいい」
「幸せって、なに」
わたしは噛《か》みついた。そんな言い方をすれば、仲直りなんてだんだん遠く不可能になることもわかっていて、止められなかった。
「わたしは、ロンドンに帰ったってちっとも幸せじゃないわ。あなたがいないもの。ヘンリエッタだって、ミチルだっていないもの!」
「このままインドにいたら、あなたの立場があいまいになる」
カーリーの黒い瞳が、わたしを一途に見つめていた。ああ、オニキスの目だ、とわたしは思った。わたしがあんなにも、綺麗だと焦《こ》がれた目だ……
なのにいまは、どうしてこんなにも寂しげに映るのだろう。
「イギリス人でもインド人でもいられなくなれば、よすがにするものがなくなる。それはとても不幸なことよ。シャーロット、あなたはイギリスに住めばいい。そこで、幸せでいてくれれば私は――」
あまりの胸の苦しさに、わたしは彼女の言葉を遮《さえぎ》ってさけんだ。
「イギリスもインドもいらないわ。そんなところに住みたくない。どうしてわかってくれないの」
「シャーロ……」
「わたしが住みたいのは、ずっとずっと、カーリーの心の中よ!」
わたしはそう一言叫んで、寄宿部屋を飛び出した。
目の中に涙がにじんで、ともすれば階段をころげ落ちそうだった。
ばか、ばか、カーリーのばか。どうして気持ちが伝わらないの。あんなに簡単に思ったことが、いまできないのはどうして。
体をくっつけていれば、体温とおなじように気持ちが伝わるんだと思っていたのに、ただ目があっただけで気持ちが伝わったと思うときもあったのに、こんなにもこんなにもカーリーガード――、あなたのことが好きなのに!
わたしはしばらく嗚咽《お えつ》をこらえるために、階段の裏で体中をぎゅっと硬くして口をつぐんでいた。様子を見に来たルーシーおばさまが心配そうにしていたけれど、それは友達との別れが寂しいからだと誤解したようだった。
結局、わたしたちはそれからも、はっきりと仲直りできないまま、居心地の悪い時間をすごした。
そうして、ついにその日はやってきた。
わたしは、カーリーと仲直りできないまま、とうとうロンドンへ戻る日を迎えてしまったのだった!
§ § §
「シャーロット、支度《し たく》はできたの?」
階段の下から、ルーシーおばさまがわたしを急《せ》かす声が聞こえてきた。
わたしは、急いでいろんなものをカバンに詰め込みながら、上体だけひねってそれに答えた。
「は、はーい。おばさま、ちょっと待って」
出発まであと一時間もないというのに、わたしはまだ持ってかえるものの選別ができていない状態だった。
たった数カ月しかここで生活しなかったにもかかわらず、わたしの身の回りのものは来たときよりずいぶんと増えていた。
(こんな……、こんなふうに戻ることになるなんて、思わなかったな……)
わたしは、思い出深い品をひとつひとつ手にとって一息ついた。持ってきたものでなくなったものの多くはお菓子だった。ジャファケーキに、キャンディやビスケットの箱。中身は、夜な夜な開かれるお茶会のたびに、わたしやヘンリエッタたちの胃袋におさまった。
なのに、詰め切れないものがたくさんある。そのほとんどが、ヘンリエッタやミチルたちに貰ったものばかりだ。
(これも、記念にもらってかえろうかな)
少し考えた末、わたしはヘンリエッタにもらった怪《あや》しい薬の瓶は、おみやげに貰って帰ることにした。さんざん悩んだあげく、カーリーがベッドの下に置いていたあのペットのヒルも、おっかなびっくりカバンの中につめこんだ。
もうすぐ、学院の夏休みは終わる。ヘンリエッタやミチルはどうするのだろう。もうこのまま、学校には戻ってこないつもりだろうか。それとも戻ってきたとして、わたしがロンドンへ帰ったと聞いたら、みんなどう思うだろうか。
(さよならくらい、言いたかったのに……)
わたしは、立ち上がった。
さよならを言わなければならない人が、わたしにはもう一人いたのだった。
「ルーシーおばさま、ちょっと待ってて!」
階段で階下に向かってそう叫ぶと、わたしは一目散に屋根裏部屋に向かった。わたしが別れを言おうとしている人は、天気がいいときは屋根の上にすわって海をみていることが多いのだ。
「カーリー!」
わたしが天窓をあけると、彼女がふりかえった。
そのときも、ここからでも見える長い睫毛《まつげ 》の下に、ものうげなまなざしが見え隠れしていた。彼女の長い黒髪が風をはらんで、ゆんわりと流れている。
あれから、わたしはカーリーとはあまり口をきいていなかった。わたしは彼女をじっと見た。
「シャーロット……」
わたしにとってはすでに耳に心地がいい、すこしかすれたアルトの声で彼女は言った。わたしはその声が、いつも耳元で囁かれているようで、とても好きだった。
ずっとずっと、側で聞いていたいと思っていた。
だけど――
「わたし、おひるの船でロンドンへ帰る、から……」
わたしは、最後の最後まで、彼女がわたしを引き留めてくれることを切望していた。だから、わたしがいざ旅装をしてカバンを手にもち、出て行く段階になったら、もしかしたらカーリーはわたしを引き留めてくれるかもしれない、と思った。
なのに、彼女はそうはしなかった。
初めて会った時と同じように、綺麗なオニキスの瞳を細めて、わたしにふわりとほほえみかけた。
「……元気で」
カーリーは、短くそれだけ言い添えた。
それ以上はなにも言わなかった。わたしは、待った。彼女がいまこらえているなにかを外して、そうしてわたしに激しくぶつけてくれるのを切々と待っていた。
(カーリー……!)
そのまま、
止めた息が、苦しさの余り我慢できなくなって、思わず息を吸ってしまうまで、わたしは待った。
しばらく、待って、
彼女が、それ以上なにも言おうとしないことがわかるまで、待って。
そうして、わたしはついにその言葉を口にしたのだった。
「さようなら、カーリー」
それは、決定的な別れの言葉だった。
わたしは、そのまま階段を下りて、カバンをひきずるようにして学院を出た。
綺麗な水色の帽子をかぶったルーシーおばさまは、もうすでにわたしを馬車の前で待っていた。
「お別れはすんだの? シャーロット」
わたしは、今なにか言ったら泣いてしまいそうで、目も鼻も口もすべての穴をふさいでいた。
わたしたち二人がパンダリーコットの港へつくと、ボンベイを経由した横浜発のP&O社のランチという名の船が、沖に停泊してわたしたちを待ちかまえていた。インドの港はドックといっても名ばかりで、みな船と陸とを艀《はしけ》でつないでいる場合がほとんどだ。
(ああ、ほんとうに、わたしはインドを去るんだ……)
わたしとルーシーおばさまは、手にもてるだけの荷物を艀の|曳き船《ボート》に積み込むと、ゆっくりとインドの地をあとにした。ドーム状の屋根のついたボートは、おだやかな波の間をすべるようにして蒸気船に近づいていく。
ランチの中層あたりの扉がひらいて、わたしは艀ごしに大きな船体へと移動した。あっというまにわたしとルーシーおばさまは、大きな船体にのみこまれ、あとは艀に積まれた食料や水などが、中にどんどん積み込まれていくのがわかった。
(ああ、船が、動く!)
荷物をかかえたポーターが何人も行き来する間を、わたしは、去りゆくインドの姿を最後までみとどけようと、急いで甲板まで駆け上がった。
そして、
「あ――」
ドアを開けたとたん、風がぶつかってきた。
風のにおいがする。
どこかむっとした、煮詰めたようなインドの濃い風が吹いている。
わたしは浜の風の吹き付けてくる中で、おそるおそる目をあけ……
(ああっ!)
そのとき、わたしの目は、やはり見つけてしまったのだった。
中世の修道院を思わせるような――、切り立った白い崖《がけ》の上ぎりぎりに建つ古い教会。
その、教会のてっぺんの十字架の上に座っている、オニキス色をした天使の姿を……!
「カーリー!」
積み込みを終えた船は、ゆうゆうと鯨《くじら》の喉《のど》のような白い絶壁の横を通り過ぎて、まさに大海へこぎだそうとしていた。
わたしは叫んだ。
そうして、わかった。
ねえ、カーリー。
もしも、この先世界が変わって、
インドが英国でなくなり、
あるいは、英国とインドが敵同士になってしまっても、
わたしたちは、けっしてそうはならないでいましょう。
これからどんなに辛《つら》いことが起こっても、たとえ人が戦争をおこして、その土地から人を追い出しても、人間の居場所はなくなったりしない。
なぜなら、人は最後まで人の心の中に住んでいられる。
心とは、人が血を流さずに手に入れられる、たったひとつの領土なのだから。
(だから、尊《とうと》いんだ!)
わたしが彼女という国に住み、彼女がわたしの心の中に住みつづけるためには、側にいなければいけないのだ。触れあえるくらい、つねに言葉を伝えあえるくらいずっと近くに。
「ルーシーおばさま!」
わたしは、急いでデッキから船の中へ戻り、人のごったがえすロビーでルーシーおばさまのかぶっていた水色の帽子を探した。
ほどなく、その姿は見つかった。
「シャーロット、どうしたの、そんな顔をして」
「おばさま、わたし、やっぱりインドに残るわ」
わたしは言った。
その胸のたかぶりが、わたしの体を浮わつかせるほどだった。
「え…………」
ルーシーおばさまの綺麗な青い目が、驚愕《きょうがく》のかたちに見開かれた。彼女は笑顔を強《こわ》ばらせたままで、軽く首を振った。
「な……、いきなりなにを言い出すかと思ったら、シャーロット。わたしたちは今からロンドンへ帰るのよ」
わたしが抜き身のナイフのような表情をしていたからか、彼女は宥《なだ》めるように言った。
「いい、何度も説明したわよね。これからのインドは危ないわ。イギリスがドイツに宣戦布告したのだから、いつ独立戦争がはじまるかわからない。特にパンダリーコットは北と南をイスラムとヒンドゥの地域に挟まれているのよ。これがどういうことか、あなたもわかっているでしょう?」
「おばさま」
わたしは、いったいどうやったら、この胸のうちを彼女にあますことなく伝えることができるか悩んでいた。
言葉はむずかしい。
言葉は、怖い。
けれど、それを使うのを躊躇っていては、なにも得ることはできないのだ。愛情も、信頼も、そしてかけがえのない友達……、
友情も――!
(ああカーリー、どうかわたしに力を貸して!)
わたしは、思い切って顔をあげ、ルーシーおばさまを半ば睨《にら》むようにしながら、
「おばさま。わたしはいままで、さんざんおばさまに甘やかされてきたわ」
そんなふうに、わたしは切り出した。
「パパもママもいないも同然だったけど、わたしはそれでもなに不自由なく生きてきた。食べるものも服も、愛情だって、親がいないかわいそうな子だからって、おばさまがたくさん与えてくれたわ。そうでしょう」
わたしが言うと、ルーシーおばさまは困ったように目を伏せた。
「インドに来るまで、わたしは政治のこともなにもわからなかった。すれ違う人と明らかに肌の色が違っても、それがどうしてなのか、どうして違う国の人々がイギリスに住んでいるのかなんて、ちらっとも考えたこともなかった。知らないことが恥ずかしいことだとは思わなかった。わたしは、無知だったわ。そして、それだけじゃない、自分が無知なことすら知らなかったの。とても、愚《おろ》かだった……」
わたしは、いつのまにかルーシーおばさまの袖口をつかんで、すがりついていた。
「ここに来て、それがわかったの。ほかでもない、学校や、それをとりまく小さな王国や、いろいろな世界から来た友達がわたしを変えてくれた。
ねえルーシーおばさま。それは、ロンドンの家で何十冊の本を読んでもわからなかったことだったわ。だれかに教えてもらうようなことじゃなかった。肌で感じることだった。わたしはここに来て、人が好きでたくさん泣いたし笑ったの。こんなこと、生まれてはじめてだった!」
わたしは、強く心臓の上を押した。そうすることで、わたしの心が少しでも多くルーシーおばさまに伝わるように。
「たしかにおばさまがいうとおり、インドは危なくなるかもしれない。スイスの寄宿学校に入ったほうが、ずっとずっと安全でいられるかもしれない。でもおばさま、その学校に入ってもわたしはきっと子供のままだわ。ううん、いまより少しは賢くなれるかもしれない。でも、それだけよ」
「シャーロット、おまえ……」
「それだけよ。そんなのは、わたしはいやだわ。わたしは、もっともっとたくさんの世界を知りたい。そしてわたしの知りたい世界は、スイスにはないの。ねえわかって、おばさま。わたしは、インドに残りたい……!」
ルーシーおばさまは、少し考えるように眉《まゆ》を寄せていたが、やがてはっきりと否定の言葉を口にした。
「いいえ、だめよ」
「おばさま!」
「だめよ、シャーロット。勉強はどこででもできるわ。それに、スイスにだって新しい世界はあります。それを知ることも、おまえのためになることよ。ここは、聞き分けてちょうだい。わたしといっしょにロンドンへ戻りましょう。ね、シャーロット」
「いや……」
わたしがどんなに体をゆさぶっても、ルーシーおばさまの意志は鉄壁のように硬かった。
わたしは、どうやったらこの鋼のような決心を変えられるだろうと思いながら、夢中で首をふった。
「わかってよ、ルーシー!」
わたしは、無我夢中で髪をゆわえていたリボンをほどいた。
「シャーロット、なにをするの!?」
「ねえ、わたしがいま着ている服も、リボンも、なにひとつ本当はわたしのものじゃないでしょう。みんな、パパやおばさまが、わたしにくれたものよね」
なにを言い出すんだとばかりに、ルーシーが目をみはった。
「おまえ……」
「いままでも、住むところだって、眠る場所だって、みんなパパやおばさまが決めてくれた。そのカバンに入っている櫛《くし》や鏡やブローチだって、みんなみんなおばさまから貰ったものだった。わたしは与えられたものだけしか持っていなかったわ。
――でも、友達は違う!」
わたしは、人目も気にせずに訴え続けた。
「わたしが、生まれて初めて自分の手で手に入れたものよ。あの引《ひ》っ込《こ》み思案《じ あん》だったわたしが、自分からこの人が好きだからいっしょにいたいと選んだのよ。それを、どうして大事にせずにいられる? どうして簡単に手放したりできる……?」
「シャーロット……」
「わたしは、もうそれしかもっていなかった。いいえ、ここに来るまでは、それすらももっていなかった。そのなんにも持っていなかった、からっぽだった手が、奇跡みたいに幸福のしっぽをつかまえたの。わたしと手をつないでくれる人がいたの。
ここにいるのよ。――だから、離れるなんてできない」
わたしは、きっぱりと言い切ることで、ルーシーおばさまへの罪悪感を断ち切った。
「Because she is an only property which I got by myself!」
言うなり、わたしはルーシーの言葉も待たずに、カバンをもったままデッキへと駆け上がった。
「ま、待ちなさい、シャーロット!」
もうルーシーがなにを言っても、わたしは止まらなかった。早鐘を打つ心が、ともすれば体を飛び出していきそうで、わたしはできるかぎり速く走って、風の中へ戻ろうとした。
(カーリー、待ってて。わたし、やっぱりあなたといっしょにいる。いやだっていっても、絶対そばにいるんだから!)
わたしは、船が進んでいく方向とは逆に、船の最後尾まで走っていった。けれど、わたしたちが入ったのは船の腹にある入り口で、そこはもう水に沈んでしまっている。
(どうしよう……。どうやったら岸まで戻れる!?)
わたしが思い悩んでいる間にも、船はどんどんと勢いを増して岸から離れていく……
バササッと、すぐ近くで羽音がした。わたしは驚いて、その白くて丸いものをまじまじと見つめた。
「まあ、ナッピー。どうやってここまできたの!?」
「グエ」
茶色いおしりのナッピーはそう一声鳴くと、おもむろにその体を海のほうへ躍《おど》らせた。小さい波がたって、ナッピーの体はゆらゆらと波間に浮かんで流れてゆく。
ああ、わたしにもナッピーのような羽根があれば、とわたしは切実に思った。
そのとき、わたしの視界に、わたしたちが乗ってきた艀が、まだ船が離れた場所に浮かんでいるのを見つけた。次の船がすぐそこまでやってきているので、曳き船ともどもそのまま待機しているのだろう。
(そうだ。浜までは無理だけど、あそこまでだったら泳げるわ!)
「ナッピー、待ってて!」
わたしは、急いで手にしていたカバンの中から荷物を全部外に出してしまうと、それをかかえて海に飛び込もうとした。物知りなルーシーおばさまから、皮のカバンは軽いから海に浮くと聞いていたからだ。
ところが、わたしが手すりをまたいでいるのを目ざとく見つけた船員が、慌ててわたしをとり押さえようと飛びかかってきた。「こ、こら。いったいなにをするつもりだ。そんなことをして、危ないだろう!」「ちょっ、離してよ、はなしてったら!」
カシャン!
もみ合っているうちに、カバンの中から(まだなにか残っていたらしい)ひらべったいキャンディの缶が飛び出した。それは、船員の顔にあたるとぽろっと蓋がとれて、中から思いもかけなかったものがこぼれ出たのだ。
それは、ヘンリエッタが護身用にとくれた、彼女のペットのヒルだった。
(あっ)
缶からこぼれたヒルは、なんと、船員の襟《えり》くびの中にするりと入ってしまった。なにが降ってきたのだろうと怪訝《け げん》そうに首にさわった彼は、自分の首にはりついているのが吸血性のヒルだということを知って、大声で悲鳴をあげた。
「ぎゃあああああ、な、なんでこんなものがーっ!」
その隙をついて、わたしはせえの、で甲板から大きく身をなげた。
「あああっ!」
強い壁のような風がわたしの頬に体当たりしてくる。わたしは、海に投げ出される前に、大きく息を吸ってとめた。
(し、死ぬもんか――――っ!)
バシャン、ともバチンともつかない音が、あたりに響いた。
大量の海水が、わたしの体の穴という穴をふさぎにかかってくる。ヘレンにぶたれたときよりも何十倍の衝撃《しょうげき》が、わたしの体中に張り手をくらわせた。海に落ちた衝撃でカバンを離しそうになったわたしは、海面に出るとまっさきにそのカバンにしがみついた。
「は、はあっ、はあっ、しょっぱ……」
口の中に入った海水をはき出していると、目の前に見知ったアヒルの顔があった。ナッピーが必死でそのくちばしで、わたしの服をひっぱりあげていた。
「あら、ありがとナッピー。ねえ、ものは相談なんだけど、おまるのようにあなたに乗っかるっていうのは無理かしら」
「グエッ!?」
ようやく一息ついたわたしは、鯨の喉のような白い崖をみあげて、あの十字架の上に彼女が座っていないことに、ぎょっとなった。
(えっ、カーリーがいない!?)
そのとき、近くでザバアアンと、鯨が潮をふいたような白いしぶきが立ち上がった。
「きゃっ」
があ、とナッピーが鳴いた。わたしは、しぶきの上がったほうをおそるおそる振り返って、いままでの人生でいちばん深い驚きと出会った。
「まさか、うそ、カーリー……!」
わたしとナッピーが浮いているところから少し離れたところに、なんとカーリーがぼこっと顔をだしたのだ。
驚愕のあまり、わたしは何度も崖の上の十字架と、自分たちが浮いている海とを見比べた。
「え、え、まさか、あそこから飛び込んだの。ほんとうに!?」
こちらに泳いでくる彼女の手が、わたしのほうに向かってのばされる。わたしは夢中で彼女のほうに手をのばした。
わたしは、胸がしめつけられる思いがした。
一心に、求められている気がしたのだった。
「……シャーロット、このばか!」
彼女は、めずらしく荒々しい口調でわたしを叱咤した。
「どうして、あんな無茶をしたの!」
「え、だって、だって……、わたし……」
驚きと喜びと、それ以上の深い感動で、わたしの心の中は魔女のかきまわす鍋の中のようにぐちゃぐちゃになっていた。わたしはその中から、なんとかまともな言葉になっているかけらをすくい上げて、口にした。
「……あなたが、好きだから」
カーリーの視線が、びくんと揺れた。
「カーリーが好きだから、離れちゃいけないと思ったから。だからわたし、ここにいようと思ったのよ。約束したでしょう。ずっと、いっしょにいましょうねって」
――カーリー。大好きよ。
わたしたち、ずうっといっしょにいましょうね。
それは、わたしにとっては他愛もない挨拶のようなもので、
その言葉に込められた深くてするどい意味を、いままでわたしは真摯《しんし 》に考えたこともなかった。
でも……
「好きだから」
言葉が――、相手に伝えるための言葉が、自然とこぼれ出ていた。
わたしは、彼女にしがみついて、耳元に唇をよせてそっと囁いた。
「側にいさせて。|お願い《プ リ ー ズ》」
そうして、これ以上は無理というくらい、彼女のほうに必死に身をよせた。わたしの体を打つ心音や体温や心が、布ごしでも少しでも多く伝わるように……
やがて、彼女がおそるおそるわたしの背に手をまわした。
「[#フォント変更]――きみといっしょの天国に、いけなくても、いい[#フォント変更終わり]」
ヒンディ語だった。
それは、言葉というよりは呻《うめ》きに似ていた。
彼女は言った。
「[#フォント変更]たったいまを、いっしょにいられるなら――[#フォント変更終わり]」
『きみの心に住まわせてくれないか』
と、後年、カーリーは、わたしによく言ったものだった。
人は住む場所を失っても、だれかの心の中に住んでいられる……
人の心に隙間があるのは、だれかを迎え入れるためなんだと。
だから、人はいつも寂しさを感じてしまうのだと、
あなたは、笑ってそう言ったね。
カーリーガード……
「|Without you!《あなたがいないなんて、考えられない!》」
その言葉は、どちらからともなく自然にこぼれ出た。
わたしたちは、しばらくの間おたがいにおたがいの額《ひたい》をかさねて、祈るようにじっとそうしていた。
小さな波がいくつもいくつも寄せては返して、わたしたちから体のぬくもりを奪っていった。わたしが彼女の胸の中で小さくくしゃみをすると、カーリーはほらごらんというかのように、その黒く美しい目をまるくしてわたしに目配せした。
「おおーい、大丈夫か。まったく、無茶をする子供らだ!」
わたしたちの近くにとまっていた艀の曳き船が、こちらに向かってきていた。どうやらわたしたちのことに気づいて、慌てて迎えにきてくれたらしい。
「助かった……」
どちらからともなくこぼれたつぶやきに、わたしとカーリーは思わず顔を見合わせて笑い合った。
ふと、わたしは、彼女にしがみついたまま、岸のほうを振り返った。
そうして、目を見張った。
たとえるならまるで、黄昏《たそがれ》の林へ迷い込んだよう……
青々とした海はトルコのスルタン選《え》りすぐりの宝石を溶かしだしたようで、
えんえんと続く白い絶壁の上にそびえ立つ塔の街は、私が見たインドの中でももっとも美しい……
「見て、カーリー!」
わたしは、いままさに金色の太陽を| 懐 《ふところ》にいだこうとしている、青い大海原を指さした。
「きれいね。パンダリーコットは、世界でいちばん美しい国だわ!」
そこは、東洋にひらめく黄金の尖塔の国、
アヒルとわたしのすてきな友人がいる、インド西部の藩王国パンダリーコット。
「帰ろう、わたしたちの居場所へ」
――わたしは、この美しい東洋の国で、これ以上にないすばらしい青春を過ごした。
[#地付き]end
[#改ページ]
あとがきと書いていいわけと読む
その心は、「カレーの話でなくてすいません」
インドが舞台で『カーリー』なんてタイトルなら、そりゃカレーの話に違いないと思われるでしょうが、ごめんなさいカレーは出てきません(たぶん)。
そんなわけで、ファミ通文庫さんからこんにちは。現在執事評論家として密かに活動中の高殿 円です。
かれこれ二年ほど前にファミ通の担当さんに偶然お会いしてから、(そして無理矢理モデルガンのムックを奪い取ってから)、ようやくこのお話を形にできたなあ、とちょっぴり感動であります。
やっぱね、女子寄宿舎ものはいいんですよ。
ライバルのいじめっ子は、縦ロールがデフォなわけですよ。
真夜中のお茶会はやらんといかんのですよ。
お隣に引っ越してきた人は、怪しくないといかんのですよ。
そして、極めつけはインドの○○○!
ファミ通文庫さんが無駄に心が広いのをいいことに、わたしは決心したのです。ヴィクトリアンラブストーリーの名に恥じない、ものすんごい初恋ラブ(言葉へんです)を書いてやろうと。そしてやるからには、ちょっと読んでいて思わず赤面してしまいそうな、昔なつかしセピア色の胸きゅんラブを極めようと!
やるよ、俺は。ラブ道を極めるよ。きわ・めろ・道!
えーっと、これは物語中のことになるのですが、ステーションにはもともと駐留地という意味がありますが、ここでは日本人の感覚を優先させました。また、1935年から、インド省はインド=ビルマ省に命名を変更していますが、ここはややこしくなるのでインド省で統一しています。それ以外にも、いろいろと設定をいじったりしています。それはもう、全てはラブのために(本当かよ)。
最期になりましたが、ヴィクトリアンを描かせたちライトノヘル随一の名手、フリルマスター椋本夏夜さま。担当墨…川崎さん。ものすごく細かく枚正してくださった超有能校正さん、ムシカゴグラフィクスのデザイナー様。
そしてなによりも、お買いあげいただいたすべてのみなさまに感謝です!
次の巻では、はや「彼女」の正体がシャーロットに――!? という展開になることでしょう。合言葉はビバ胸きゅんラブ! ということで、できることなら次の巻でもお会いできますように。
Let's meet by the following volume.!
心は永遠の十八歳(なんだなんか文句あんのか)高殿円 拝
この物語は史実を元に、架空の国と人物を描いた作品です。実在する人物、地名、団体とは一切関係ありません。
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底本:「カーリー 〜黄金の尖塔の国とあひると小公女〜」エンターブレイン、ファミ通文庫
2006(平成18)年04月11日第01刷発行
入力:TJMO
校正:TJMO
2007年07月25日作成