痕 ―きずあと―
高橋 龍也
1・檻の中の獣
「「夢。
夢を見ている。
暗い部屋の中で、ひとり身体を抱いて震える夢だ。
明かりのない薄暗い部屋の中、冷たいフローリングの床に膝を抱えてうずくまり、身体中に珠のような汗を浮かべ、心の中から這い出そうとする『なにか』を必死に押さえようとしている。
そんな夢だ。
はぁ、はぁ……。
荒い肉食獣のような呼吸。
全身が震え、汗が流れ続ける。
胸が苦しい。
頭が割れそうに痛い。
誰か、誰か助けてくれ。
唇は形を刻んだが、音は発せられなかった。
誰か……。
……クックックッ。
……いつまでそうしてるつもりだい?
息を殺した笑い声が、頭の中に響き渡った。
……無駄。
……無駄だ。
……無駄なんだよ。
……俺を押さえつけることなんてできやしない。
黙れ!
俺は叫んだ。
ほんの僅かでも気を抜けば、『奴』は理性という名の檻を破り、すぐにも飛び出してしまうだろう。
指の爪が抱えた膝に食い込んだ。
負けるわけにはいかない。
……ククク、確かに今夜はお前の勝ちだろう。
……だが、明日はどうだ?
……明後日は?
……例えばお前は、メシも食わず、水も飲まず、眠りもせずに、いったいどのくらい我慢できる?
……同じことだ。
……ましてや……。
黙れ!
……ククク、本当はお前だって気付いてるんだろう?
……もう限界にきてるってことを。
……もうこれ以上、我慢できないってことを。
……さあ、解き放て。
……自由にしてくれ。
……明日が今日に、明後日が今日になるだけだ。
……だったら、苦しむだけ損じゃないか?
……なあ?
駄目だ。
駄目だ、駄目だ、駄目だ!
なんとしても『奴』を自由にさせてはならない!
俺にできる、唯一の抵抗……それは、理性という名の檻に『奴』を閉じこめておくこと……。
……そう、ひびの入った、今にも壊れそうな檻に……。
黙れ!
黙れ、黙れ、黙れ!
……クックック。
……ハハハハハハ!
……アーッハッハッハッハッハッハッハッハッ!!
朝だ!
朝はまだか!
朝になれば、俺が勝つ。
『奴』は眠る。
『奴』は夜にしか目醒めない。
カーテンの隙間から朝の光が洩れ始めれば、『奴』は再び眠りにつくんだ。
……だが陽が沈めば……また目醒める。
朝だッ!
朝はまだか!
……果肉のような柔らかな肉を爪で引き裂き、温かく脈動する真っ赤な鮮血をすすり、いい匂いの女を犯して子をはらませ、そして再び俺たちの血を……。
朝が来れば『こいつ』はッ……!
……なあ、俺のことを『奴』とか『こいつ』とか呼ぶのはよせよ。
アサだあッ!
アサあッ!
朝ッ!
朝! 朝!
朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝! 朝!!
……俺は『お前自身』なのだから。
「朝はまだかあぁーッ!」
ガバッ!
俺は勢いよく布団から上半身を跳ね起こした。
「きゃっ!」
瞼を開けて最初に視界に入ったのは、びくっと身体をこわばらせて驚く、女性の姿だった。
長い黒髪が舞い、再びゆっくりと肩に降りていく。
そこは見慣れない部屋だった。
……夢の続き?
いや……、違う。ここは……。
頭の中身が徐々に目を覚まし始め、ようやく俺は、現実に舞い戻ったことを認識した。 ここは……、そう、親父の実家だ。
三日前から厄介になっているんだった。
開かれた障子戸の透き間から射す眩い光に、俺は目を細めた。
朝だ。
夢の中で待ち望んだ朝が来ていた。
それも、すがすがしい青空の広がる朝だ。
どこからともなく小鳥のさえずりが聴こえ、穏やかな日和を彩っていた。
「……も、もう、驚かさないでくださいよ、耕一さん」
目の前の女性は自分の胸もとに手を当てて、深く息を吐いた。
「まだ心臓が、どきどきしてます」
彼女はそう言って、苦笑いを浮かべた。
寝ぼけっぷりを目の当たりにされた俺も、気恥ずかしさを隠すように、照れ笑いを浮かべた。
「……お、おはようございます」
「おはようございます。今日も良いお天気ですよ」
彼女の名前は柏木千鶴。
俺の従姉に当たる人で、歳は三つ年上の二三歳。
去年の春に某国立大学を卒業したばかりという若さでありながらも、この由緒ある柏木家の御当主様である。
今は多分、俺を起こしに来てくれたのだろう。
寝ぼけた俺が、いきなり布団から跳ね起きたりしたものだから、彼女はびっくりしたようだ。
つややかな長い黒髪が朝の光を跳ねて、きらきらと輝いて見えた。
相変わらず目を見開いてしまうほどの美人だ。
とかく綺麗な顔の女性というものは、冷たい印象で受けとられがちだが、この千鶴さんという人は不思議とそんな雰囲気を微塵も感じさせない。
千鶴さんは仕種や性格も可愛らしい、とても穏和な女性なのだ。
「……そんなに慌てて跳び起きて……いったいどうしたんですか?」
千鶴さんは小首を傾げると、目を細めて、くすっと微笑んだ。
「い、いや……」
俯いた俺は、寝ぼけ眼を擦りながら、照れた返事をする。
「恐い夢でも見たんですか?」
思わず甘えたくなるような……そんな母親をイメージさせる温かな声。
彼女のイメージに相応しい、優しげな声質だ。
「……え、ええ、まあ」
俺は髪の寝癖を押さえながら顔を上げた。
「ここ、二、三日の間、何だか奇妙な夢を立て続けに見てて……」
そう、実はこの夢を見るのはこれで三度目なのだ。
昨日も、一昨日も、同じ夢を見ている。
立て続けに三度も同じ夢を見るなど、いままで一度も経験したことがない。
いや……、正確には全く同じ夢というわけではない。
状況は回を重ねるごと、日増しにシビアになってきている。
心の中の『あいつ』は、日増しに強く、はっきりとした存在に増長しているのだ。
多分、この次あたりには、意識のイニシアティブを奪われてしまうだろう。
そしてそうなったとき……夢という仮想現実でこの俺という意識が奴に飲まれてしまったとき……いったい、この俺に何が起こるのだろうか?
……なーんてね。
どうせ所詮は夢。
特にこれといって何が起こるはずもない。
夢はあくまで夢であり、現実ではないのだから。
だが、「夢は無意識の自分を映す心の鏡」……みたいなことをよく耳にする。
ということは、奴は俺の本性が具体化したもので、つまりは俺自身、心のどこかであのような欲求を……。
「耕一さん」
「わっ!」
ふと顔を上げると、目の前に千鶴さんの大きな目があった。
驚いた俺を見て、くすくすと笑っている。
「……奇妙な夢って、どんな夢なんですか?」
感慨にふけってしまった俺を気にしてか、千鶴さんが訊ねてきた。
「えっ? 内容?」
「ええ、私こう見えても心理学をかじったこともあるんですよ。耕一さんが見たその奇妙な夢の内容、私が診断してあげましょうか?」
千鶴さんは悪戯っぽく笑った。
こういう子供みたいな無邪気なところも、この人を可愛く見せるのに一役かっている……と俺は思う。
「「夢の内容か。
脳裏にあの不気味な映像がよみがえる。
なんだか不吉な夢で、決して良い意味の診断結果が得られそうはない。
欲求不満だとか、なんとか願望があるとか、きっとそんな回答が返ってくるのがオチだ。
とはいえ、どうもこの声で迫られると、否応なしに全てを語ってしまいそうな衝動にかられてしまう。
しかしながら、内容が内容だけにとても言い出せない。相手が千鶴さんならなおさらだ。
俺は内心千鶴さんに謝りつつ、嘘の告白をすることにした。
「実は千鶴さんが出てくる夢で……」
俺は俯いて布団を見つめたまま、呟いた。
「……えっ? わたしが?」
きょとんとした表情をする。
「うん、それはもう恐い夢だった」
少し間をおいてから、千鶴さんはようやくその意味を理解した。
「……耕一さん! 私の出てくる夢が、跳ね起きるほど恐い夢なんですか!?」
ギロリと睨む。
「じょ、冗談だよ」
「も、もう、ヒドイです!」
千鶴さんは口を尖らせて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
ううっ、し、しかし……!
怒った仕種も可愛いなんて……なんて卑怯な人だ!
「耕一さんって、ときどきそんな意地悪なこと言うんだから!」
「冗談だってば、千鶴さ〜ん!」
彼女は両腕を組んで、ふんっと息を洩らした。
「ごめんなさ〜い、嘘だって〜」
「いーえ、もうわかりました! 耕一さんは夢に見るほど、私のことを恐いと思ってるんですね!」
「そんな〜、だいたい千鶴さんが出てくる夢が悪い夢なわけないじゃないか」
そのとき千鶴さんは、くすっと笑ってこっちを振り返り、
「それって……どういう意味ですか?」
そう言って、目の前に顔を近づけた。
「い、いや、それは……」
照れてしどろもどろになった俺を見て、千鶴さんはくすくすと笑った。
「もう、謝るくらいなら、最初から言わなければ良いのに」
彼女は人差し指でちょこんと俺の頬を小突いた。
その瞬間、俺の胸がドキンと高鳴り、少し遅れて頬が熱っぽくなり始めた。
「ふふ、ホント、耕一さんって体の大きな子供みたいな人なんだから。あ、ここ……寝癖になってますよ」
千鶴さんの細い指が、はねた俺の髪を押さえる。
なんだか頭を撫でられる子供みたいで、むしょうに気恥ずかしくなった。
千鶴さんだって、十分に子供っぽいくせに。
俺はもごもごと口ごもった。
俺が、この従姉のお姉さんと初めて出会ったのは、まだ一一歳……小学五年生の夏休みのことだった。
千鶴さんのほうは中学二年の一四歳。
まだ二次成長期を迎える前の俺にとって、中学生の彼女はものすごくお姉さんに見えたものだ。
彼女は当時からこんな性格の持ち主で、俺のことを『耕ちゃん』と呼んで、本当の弟のように可愛がってくれた。
もちろん俺のほうも、綺麗で優しい従姉のお姉さんに、すっかりなついてしまった。
彼女が俺のことを子供っぽく扱うのは、この当時のイメージが定着してしまっているからだと思う。
いつの間にか、俺の身長は彼女を追い越し、彼女も俺のことを『耕一さん』と呼ぶようになった。
でも俺と千鶴さんの関係は、本質的に何ら変わっていない。
あの頃の……小学校六年生の夏休みのまま、今も俺は千鶴さんの前では『耕ちゃん』をやっている。
2・朝の光景
それにしても……くどいようだが、やっぱり千鶴さんは綺麗だよなあ。
4分の1とはいえ、とても俺と同じ血が流れているとは思えない。
毎朝、瞼を開けるとこんなふうに千鶴さんがいて、その優しい声が目覚ましになってくれるというなら、起きることさえ楽しみのひとつになるのに。
……などと勝手な妄想に浸りつつ、布団から出ようとしたときだった。
「!」
俺はある『重大なこと』に気が付き、あわてて布団から出るのを止めた。
そういえば今は朝だった。
朝といえば、男だったら誰でも無条件に元気が出て『あの状態』になる時間じゃないか。
そう、いまの俺はとても千鶴さんの前に出ていける『状態』ではなかったのだ。
Tシャツにトランクスだけという格好に関しては、いまさら恥ずかしがる理由もないが、その中のモノとなると、これはまた話は別だ。
もし千鶴さんが、俺のこんな『状態のモノ』を目の当たりにしたら……。
や、やべっ、意識したら、なおさら……!
しかも、おまけに尿意さえ催してきた。
くうーっ……とはいえ、こんな『元気な状態』を彼女に見せるわけにはいかないし……えーい、こうなったらもう、千鶴さんが部屋を出て行くまで布団の中にいるしかない。
「……どうしたんですか?」
千鶴さんが訊いてきた。
「なんだか辛そうな顔してますけど……」
どうやら俺は、自分でも気付かないうちに相当深刻な顔をしていたらしい。
「い、いや、その……」
「やっぱり、例の夢のことが気になるんですか?」
いや、夢の話はもういいんだけど……。
「え、あ、まあ……」
俺は適当に気のない返事をした。
「こ……耕一さん……」
そのとき、千鶴さんがぱっと瞳を大きくさせた。
「えっ!?」
な、なに、なんだ!?
まっ、まさか、気付かれたのか!?
俺は慌てて、布団のなかの股間を押さえた。
圧迫された『あいつ』は、まるで主人に逆らうかのごとく憤るように膨張した。
「あ、あの……」
わーッ、言わないでくれー!
恥ずかしさで、耳が熱くなっていく。
ところが、千鶴さんが次に口にしたのは意外な言葉だった。
「……ごめんなさい、耕一さん」
「えっ、な、なにが?」
俺はキョトンと彼女の顔を見た。
「……夢の話です。耕一さん、本当はすごく悩んでいるみたいなのに、私、ふざけた態度できいてしまって」
えっ、あ、あれ?
「いや、そういうわけじゃ……ないん……だけど……」
「私……おじさまのこと……耕一さんのお父さんのことを実の父のように思っていました。……だから耕一さんのことも、本当の弟だと思うようにしたんです」
千鶴さんは俯いたまま、小さな声でそう言った。
「それなら今までだって……」
「いえ、今まで以上になんでも話せて理解しあえる、家族のような関係になろうと思ってたんです。でも、……でもこんなじゃ……いきなり姉失格ですよね。その弟が悩んでるのに、それを茶化すような態度で……」
お、おいおい。
なんだか話が違う方向へと流れていってないか?
こっちはそろそろ小便のほうも我慢の限界にきてるってのに、千鶴さんの話はここからさらに盛り上がりそうな雰囲気だぞ。
彼女もなにやら勘違いしているみたいだし、この場は早々に切り上げてもらったほうが……。
……いや、でも俺のことを真剣に考えてくれているというのに、それは失礼か。
うーむ。
困った俺はもう少しだけガマンして、大人しく千鶴さんの話を聞くことにした。
小便のほうは我慢の限界に達し、うっすらと冷や汗すらかきそうだったが、千鶴さんが本気で俺のことを想ってくれていることがとても嬉しかった。
この幸せな時間の代償と思えば安いものだ。
ところが、そのとき。
スパーン!
半分ほど開いていた障子戸が突然横にスライドし、歯切れのよい音を立てて柱にぶつかった。
「こらあーッ! 呼びに行ったっきり何やってんの、千鶴姉!」
部屋と廊下を隔てる敷居越しに、セーラー服にエプロン姿の女の子が立っていた。
けたたましく戸を開けて登場した彼女のその顔は、口調の通りに爆発寸前といった感じだった。
その姿を見た千鶴さんは短くあっと声を上げると、
「いけないっ、忘れてたわ」
と、呟いた。
「そっ、そうそう、耕一さん、あの、朝御飯の支度ができましたので「「」
「遅ーいっ!」
ボーイッシュな雰囲気を漂わせるその少女は、屋敷中を揺るがすような歩きかたで、ドカドカと部屋の中に入って来た。
「よ、よう、梓、おはよう……」
彼女が全身から冷気のような怒気をはなっているのを感じつつ、俺はぎこちない朝の挨拶をすませた。
梓は俺の目の前で立ち止まると、腰を屈め、ぐいっと布団の端を掴んだ。
「……おはよう、じゃ、なあーーーーーーーーいッ!」
がばあッ!
「うわわっ!」
いきなり敷き布団をひっぺ返され、俺は無様に畳の上を転がった。
Tシャツにトランクス姿で尻餅をついた俺の姿は、まさに馬鹿丸出しといった感じだった。
「早く飯食ってくれなきゃ、後片づけできないだろ!暇な大学生と違ってこっちにゃ学校があるんだッ!」
火を吐くような勢いでまくしたてられる。
「あ、わ、わりぃ」
無意識に防衛本能が働いたのか、すっかりその迫力に気押された俺の口が、勝手に謝っていた。
この乱暴な口調の女の子は、梓。
柏木家の次女で、齢は俺より二つ下の一八歳。
セーラー服を着てるのは、もちろん現役の女子高生をやってるからだ。
姉の千鶴さんと同じく、柏木家に伝わる美女の血が流れており、顔のつくりやスタイルはそんじょそこらの女子高生を軽くぶっちぎるほどの美少女ぶりだ。
ところがその性格に関しては(どうやらこれは血の成せるものではないらしく)、清楚可憐な千鶴さんとは似ても似つかず、まるで正反対なのだった。
勝ち気で負けず嫌い、責任感の強いしっかり者で、曲がったことが大嫌い。まさに竹を割ったような性格の持ち主……とまあ、ここまでなら好感のもてる女の子といったところだが、こいつはそれに加えて、短気、単純、ひいては暴力的というマイナス三要素を持ち合わせているため、長所が相殺されてゼロ以下になってしまうのだ。
「味噌汁が冷めちまっても起きてくる気配はないし、起こしに行った千鶴姉すら返ってこない。どうなってんだと思って来てみりゃ、いまだ布団でごろごろと!こっちは洗いものを片づけなきゃ学校にも行けねーってのにさ!」
梓は腕を組んで、交互に俺と千鶴さんを睨んだ。
「ご、ごめんなさい、あずさ……」
しおしおと縮んだ千鶴さんがポツリと謝った。
「ホラッ! あんたもいつまでホケッとしてるんだ! とっとと顔を洗って……」
そこで不意に、梓は言葉を止めた。
顔を見上げると、アイツは表情を氷つかせて視線をある一点に集中させていた。
不思議に思ってその視線の先を追っていくと、俺の下半身に行き着いた。
そこには……。
「げッ!」
そこには、梓の乱入ですっかり忘れていた『布団の中から出られない理由』が元気に天を仰いでいた。
「なっ、なに見てんだよ!」
俺は叫びつつ脚を閉じて、慌ててトランクスの前の膨らみを手で覆った。
凍ったままの梓の頬が、ぼっ!と火が着いたように赤くなる。
「こ……耕一さん……」
千鶴さんは、ほんのり赤らめた頬に両手を当てて、じっと一点を見つめていた。
「ちっ、千鶴さーんッ!」
「……お、男の子が毎朝そうなっちゃうのは知ってましたけど、まさかこんな元気に……」
「しかたないだろ、生理現象なんだから!」
千鶴さんは「ご、ごめんなさいっ」と謝りながら、慌てて背中を向けた。
俺はムスッとした顔で立ち上がると、わざと梓に肩をぶつけて、そのまま部屋から廊下に出た。
ぶつかったとき、梓はよろけ様に赤い顔で「あ」とだけ呟いた。
くう〜ッ!
アズサの奴め〜ッ!!
少しは気を回せ、馬鹿ッ!
しかし……とほほ……よりによって千鶴さんの目の前であんな醜態をさらすことになろうとは……。
用を足し終えスッキリした俺は、Tシャツとトランクス姿(心安い親戚なので特には気にしない)のまま顔を洗い、一度部屋へ戻って服を着替えた。
廊下に出ると梓がいた。
何か言いたそうな顔で、ちらちらと俺を見ている。
丁度いい、さっきはよくも恥をかかせてくれたなぁ。
「アズサッ!」
俺は梓の両肩を掴んで後ろの壁に押し当てると、
「オマエ〜ッ! よくも千鶴さんの前で恥をかかせてくれたな!」
思いっきり睨み付けてそう言った。
梓はやや怯えた表情を見せると、
「ゴ、ゴメン、悪かったよ……」
廊下の床を見つめながら謝った。
あ、あれ?
なんだ、突然しおらしくなりやがって……。
「謝るくらいなら、最初からするんじゃねーよ」
「……だ、だって、まさかあんな……」
「あんな? あんな、なんだよ?」
梓の頬がぽっと朱色に染まっていく。
「あ、あれって、その、あれだろ? ……その……ごにょごにょ……」
ガラにもなく照れているのか、語尾は小さくなって聞き取れない。
「そうだ、朝だちだ、朝だちッ! 夕立じゃないぞ! あ、さ、だ、ち、だッ!」
梓はさらに深く俯いてしまった。
「アイドルだろうが、少女漫画のキャラクターだろうが、男だったら誰でも朝はあんなふうになるんだッ!見られたくない状態なんだ! よーく、憶えておけ!それをお前は、無神経に……」
俺は梓の肩から手を離して、深くため息をついた。
「……だ、だからさっきから悪かったって言ってるじゃないか。それに、そんなに気にしなくてもいいって」
「あん?」
「……あ、あたしは……」
梓がちらりと上目づかいに俺を見る。
「別に気にしてないし……」
「お前、なに言ってんの?」
「……だ、だから、その……」
梓は自分の指と指を絡めながら、ごにょごにょと口ごもった。
「ばーか、お前、なに勘違いしてるんだ。俺はお前に見られたことなんか全然気にしてねーの。千鶴さんのことを言ってんだよ」
「……えっ?」
「いいんだよ別に、お前は」
「…………」
「いまさら照れる仲じゃあるまいし、お前に見られたところで恥ずかしくもなんともないぜ。……なんなら、直に見せてやろうか?」
「ええっ!?」
梓は大きく目を見開いた。
ジーーーーーーーー……。
俺はズボンのジッパーを下ろした。
「……ちょ、ちょっと!」
梓の顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「ほれ」
その瞬間、梓の呼吸が停止し、顔がひきつる。
2秒間の沈黙。
……そして、
「……んきゃああああああああああああああああああああああああああッーーー!!」
顔を両手で覆った梓が、耳の鼓膜を引き裂くような悲鳴をあげた。
「えっ? お、おい、きゃあーって、お前……!」
「いッ、いやあああああああああーーッ!こッ、耕一ッ、へんたーーーーーいッ!!」
「ばッ、ばかッ、指だ、指ッ! ほら、本物じゃないって! よーく見ろッ!」
「あ……」
梓は大きな瞳をぱちくりと瞬かせて、ジッパーから突き出た俺の『中指』を見た。
俺はもう片方の手をズボンに突っ込んでその中指を出して見せたのだった。
股間に顔を近づけて、確かにそれが指であることを確認すると、ようやく梓はほっと胸を撫で下ろした。
「な、なに大声出してんだよ、こっちが驚くだろ!」
続いて俺も深く息を吐いた。
「まったく……」
だが、辺りが沈黙したのも束の間、俺は背中に凍りつくような恐怖を感じ、恐る恐る梓の顔を見た。
梓の表情が徐々に怒りのそれへと変貌していく。
俺は咄嗟に、ここはいったん逃げ出したほうが得策であるという判断を下した。
……が、しかし、時すでに遅し。
いきなり、梓のカモシカのような脚が持ち上がったかと思うと……。
「アホたれぇーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
げしッ!
「あぐあっ!」
次の瞬間、雷光のような蹴りが旋風をまとって股間を直撃した。
そのまま俺は『くの字』に身体を曲げて、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
「……〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
俺は声にならない苦痛の呻きをあげながら、股間を押さえて、その場にうずくまった。 目の前で、真っ白な星がチカチカと輝いている。
「……ア……ア……アズサ〜……」
涙目の俺の口から出た第一声がそれだった。
「……テんメ〜……」
「ばーか、死んじまえ! このセクハラ野郎ッ!」
梓は腰に手を当てたポーズで、ふんっと鼻息を洩らすと、くるりと背を向けて廊下を歩いていった。
くっ……くくっ……。
梓のヤロー、手加減ってものを知らねーのか。
俺は廊下の床にうずくまったまま、のっしのっしと去っていく梓の背中を、涙目で睨みつけた。
……万が一これが原因で、性的不能者にでもなったらどうするつもりなんだ。
まったく冗談の通じねー奴だ。
相変わらず乱暴だし。
あいつのこういうとこは、小さいときからちっとも変わってない。
梓に言われて朝食をとりに居間へ赴くと、そこには末っ子の初音ちゃんがいた。彼女は俺の姿を認めるなり、にっこりと微笑んで、
「おはよう、耕一お兄ちゃん」
少女の可憐な声でそう言った。
その瞬間、ぱっと部屋中が明るくなったような気がする。
彼女が底抜けに明るいから……というわけではない。
不純度ゼロのピュアな輝きというか、汚れない純真さが雰囲気を和ませるのだ。
俺はこれを天使の微笑みと呼んでいる。
「おはよう、初音ちゃん」
俺が応えると、テーブルについていた初音ちゃんは弾むように立ち上がった。
「耕一お兄ちゃん、座ってまっててね、いまお味噌汁あっためるから」
「お、サンキュー」
初音ちゃんは軽い足どりでキッチンへと向かう。
俺はテーブルの周りに置かれた座布団のひとつに腰を下ろした。
四女の初音ちゃんは一五歳の高校一年生。
ここから少し離れた私立の高校に通っていて、彼女がいま着ているのもそこの制服だ。 初々しい感じでとても可愛らしい。
もちろん制服だけじゃない。
その中身……初音ちゃん自身も、やはり柏木家の女性だけあって、テレビのCMタレントとしても十二分に通用するほどの抜群の美少女だ。
くりくりとした大きな眼は、どちらかといえばツリ目がちな梓より、タレ目がちな千鶴さん似。
それに応じてか、性格のほうもかなり千鶴さん寄りで、おっとり穏やか、優しく控えめ、加えてちょっと甘えん坊という、実に女の子らしい女の子である。
まさに理想の妹を絵に描いたような美少女……それが初音ちゃんである。
初めて俺と出会った頃、初音ちゃんはまだピカピカのランドセルを背負った小学校に通いたてのちっちゃな女の子だった。
当時、四姉妹の末っ子である初音ちゃんは、随分と熱心に『お兄ちゃん』を欲しがっては、今は亡き伯父さん夫婦を困らせていたらしかった。
そんな折り、たまたま偶然そこに現れたのが、従兄であるこの俺だった。
初音ちゃんは、七夕さまが叶えてくれたお兄ちゃん……どうやらそう思っていたらしい……のことがすこぶる気に入って、俺がこっちに滞在している間、四六時中べったりとくっついていたものだ。
もっとも高校生ともなった今現在は、異性としての恥じらいのほうが強まって、幼い頃のようにべったりとは甘えてこないが、それでも今もあの頃と同じように俺のことを『耕一お兄ちゃん』と呼んで慕ってくれている。
広いテーブルの上には、俺の朝食だけがポツンと残されていた。
レモンと大根おろしが添えられたシャケの切り身、ほうれん草のおひたしに、二切れのお新香。
手前には箸と、逆さに置かれた茶碗とお椀が並ぶ。
まさに素朴な和食の朝飯という感じだ。
俺はこの、『立派なお屋敷を構えてはいるが、実はアットホームで小市民的』な柏木家のノリが、非常に気に入っている。
少し遅れて梓が来た。
「あーあ、シャケも冷えてかたくなっちまってさー」
皮肉っぽく言う。
「もし明日遅れても、待たずに片づけちまうからな」
「……へいへい、わかりましたよー」
俺はおざなりな返事をした。
この家の食事の面倒は、なんと、この梓がまとめて引き受けているのだ。
一見女の子らしいこととは全く無縁のようなこいつだが、手先が器用なのか、はたまたたまたまセンスがあるのか、家事全般をそつなくこなす。
最初は俺も驚いた。
朝は早起きしてみんなの飯を作り、夕方は学校帰りに買い物を済ませ、夜はせっせと後片づけをする。
ぶつぶつ文句は言うものの、なんだかんだで姉妹中一番面倒見がいいのだ。
もしかしたら、こいつはこいつで将来はいい奥さんになるかもしれない。
……ただし、
「まったく大学生ってやつは本当にたるんでるよ。朝も昼もあったもんじゃない。ふらふらふらふらして、これでいざ社会に出て通用するのかねー」
口うるさいという特典付きで。
そこへ千鶴さんも姿を現した。
「あ、ごめんなさい、耕一さん。みんなもう、ご飯はすませちゃったらしいんですけど」 千鶴さんはそう言うと、テーブルを挟んだ俺の正面にゆっくりと腰を下ろした。
「あれ? 千鶴さんも、もう食べちゃったんですか?なんかメチャメチャ早いような……」
「い、いえ、私は……」
「ダイエットだってさー」
梓がへらっと笑って言う。
「こっ、こらっ、アズサ!」
千鶴さんはキッと梓を睨んだ。
「なに?」
「も、もう、言わなくていいのよ、そんなことは……」
「なんで? いいじゃん。どうせ、すぐにバレるんだしさー。それに耕一は家族みたいなもんだろ? 隠しごとはよくないよ」
梓は意地悪そうに、うぷぷとこらえた笑いをする。
「……で、でもね、梓」
「そうだろ、なあ? 耕一」
「お、おう、まあな」
「……もう」
千鶴さんはちらりと俺のほうを見て、恥ずかしそうに照れ笑いをした。
「ダイエットって……千鶴さん、別に太ってないと思うけど……」
俺はまじめな顔でそう言った。
別にフォローのつもりで言ったわけじゃない。
本当に全然太ってないのだ。
「いや、むしろ、やせ過ぎかなと思うけど……」
「そ、そうですか?」
千鶴さんの表情がぱっと明るくなった。
「確かに今はやせてるよ。飯を抜いてるからね。でもちょっと食べると、すぐに重くなっちゃうんだ」
「あずさッ! もう、本気で怒るわよ! だいたい、体重はあなたのほうが重いでしょ!」
「ふんっ! 当たり前だよ、陸上やってんだからさ。筋肉は重いんだ。脂肪ばっかの千鶴姉と一緒にしないでよ! そもそも、身長もバストもあたしのほうが上なんだから、重くて当然だろ!」
梓がペラペラと暴露する。
「身長が違うっていってもたった3センチでしょ!」
「胸は9センチも上だっ!」
「え? あ、あなた、いつのまにそんなに……!?」
「ふふーん。千鶴姉の頭の中はいつのデータが入ってるか知らないけど、こっちはまだまだ成長期なんだ」
「わ、私だって、ちょっとは……」
「……ちょっと二人とも、耕一お兄ちゃん、さっきから呆れて見てるよ」
両手で小鍋を持った初音ちゃんが、苦笑して言う。
「あ……」
二人は同時に俺の顔を見て、顔を赤らめた。
初音ちゃんはテーブルに小鍋を置くと、俺の横に膝をついて座った。
小さな鍋の蓋を開けると湯気が立ち上る。
初音ちゃんはお椀に味噌汁をよそってくれた。
「はい、耕一お兄ちゃん」
「サンキュー」
「……初音、あなた学校は間に合うの? あなたが一番遠いんだから……」
千鶴さんが言う。
「大丈夫、もう少し平気だよ。はい、お兄ちゃん」
俺は真っ白な湯気を上げるご飯を受け取った。
「いただきまーす」
俺は箸を取って、ずずずと味噌汁をすすった。
ふと見ると、初音ちゃんだけではなく、千鶴さんと梓までもが、俺の一挙一動を窺っている。
……非常に食べづらい。
大根となめこが入った味噌汁だった。まずまず好みの具だ。
そのとき、幸せそうな顔でじっと俺を見つめていた初音ちゃんが、
「おいしい?」
と訊いてきた。
俺はひとこと、
「うまい!」
と答えた。
「本当!?」
「うん、うまい! お世辞抜きでいい味だしてるよ」
「よかったね、梓お姉ちゃん!」
初音ちゃんが天使の微笑みを浮かべた。
「……そ、そうかな? ……ま、ただのダシ入りタケコメ味噌だけど……」
「…………」
「いやしかし、味加減や具のチョイスがポイント高いと思うな、俺は」
「そ、そう?」
梓はテーブルを見ながら、鼻の頭をかいた。
「梓お姉ちゃんって、料理の才能あると思うな。将来は絶対、立派な奥さんになるよね?」
「そ、そうだな」
もっとも、料理に関していえば……だが。
ちらりと見ると、梓は頬を赤く染めて俯いたまま、もじもじとしていた。
視線に気付くと、上目づかいに俺を見て、エヘヘと照れ笑いを浮かべた。
一方さっきから、話に外れて小さくなっている人が約一名。
千鶴さんである。
それもそのはず、話によるとこの千鶴さん、料理がとことん苦手というのだ。
手先の不器用さに加えて、味覚オンチという天性の才能を発揮するのだという。
完成する料理はまさに「真似のできない味」であるとは梓の弁だ。
性格に難アリの梓。
家事全般が苦手な千鶴さん。
まさに一長一短であり、双方ともその『短』の部分が致命的である。
良妻という点にのみ着目するならば、梓や千鶴さんより、横にいるこの初音ちゃんのほうが総合ポイントが高いのではないだろうか。
俺の視線に気付き、トポトポと急須でお茶を注いでいた初音ちゃんがこっちを見た。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「……いや、初音ちゃんだって、将来はきっといいお嫁さんになるんじゃないかなーと思ってね」
「えっ!?」
「うん、ほんと、ほんと」
初音ちゃんは口を結んで、恥ずかしそうに俯いた。
性格良し、ルックス良し、おまけに家事もほどほどにこなしてるみたいだし、この推測はほぼ間違いないだろう。
初音ちゃん、……学校でも随分とモテるんじゃないだろうか。
……いや、待てよ。
そういえば、この子もそうだが、柏木家の四姉妹は誰ひとりとして、特定の男性と付き合っているような話を聞かないな。
みんなこんなに綺麗で可愛いし、性格も……約一名を除いて……問題はないし、他の男達が放っておくはずがないと思うのだが……。
それともこの美人四姉妹……実は何かいわくみたいなものがあったりして。
……んなわけないって。
心の中で、ひとりつっこむ俺。
それにしても美人四姉妹か、なんともいい響きだ。
ん?
そういや、ひとり足りないな。
四姉妹の残りひとりが、朝から姿を見せてないじゃないか。
そのひとりというのは、三女の楓ちゃんのことである。
「ところで楓ちゃんは? もう学校へ行っちゃったのかな……」
「まだ部屋に居んじゃない?」
梓がさらりと答えた。
「さっきまで、ここで一緒にご飯食べてたよ」
初音ちゃんが言う。
「耕一お兄ちゃんと入れ違いに出てったよ」
「あの子の学校は比較的ここから近いですから、朝はみんなよりもゆっくりできるんです」
と、これは千鶴さん。
「また……スレ違いか」
俺は、誰にも聞こえないよう、口の中で呟いた。
三女の楓ちゃんは高校二年生。
この辺りではちょっと名の知れた公立高校に通っている一六歳の女子高生だ。
物腰の静かな大人しい少女で、人と接するのが苦手なのか、今回ここに来てからというもの、俺とは最初の挨拶以外ほとんど口をきいてくれない。
こっちが声をかけても、一瞥をくれるだけで向こうへ行ってしまい、言葉を交わそうともしなのだ。
目の前にいる、この親しみやすい姉妹とは少し毛色の違った感じの子なのである。
いや、もしかしたら、単に何らかの理由で俺のことを嫌っているだけなのかもしれないが……。
「ごちそうさま」
俺は箸を置いて、手を合わせた。
「はい、お兄ちゃん。お茶」
「サンキュー」
初音ちゃんから受け取った湯飲みを口に当て、中のお茶をすする。
「あっ、いけないっ! もうこんな時間だ!」
そのとき、壁の時計を見た初音ちゃんが慌てた様子で立ち上がった。
「わたし、もう学校に行かなきゃ。耕一お兄ちゃん、帰ってきたら、また一緒に遊ぼうね?」
「ああ、いいよ」
「約束だよ!」
初音ちゃんは脇に寄せてあったランドセル型の鞄を取って、背中に担いだ。
「……んじゃあ、あたしもそろそろ後片づけして、学校へ行くとしましょうかねぇ」
次いで、梓もどっこいしょと立ち上がり、うーんと伸びをする。
なんか妙にオバはんくさい。
「じゃ、行ってきまーす」
初音ちゃんがくるりと背を向けた。
「車に気をつけて行くんですよ」
千鶴さんが言うと、初音ちゃんは「はーい」と素直な返事をした。
こういうところじゃ、やはり千鶴さんはしっかりとお母さんをやっているのだ。
「あ、ちょっと待った、初音ちゃん」
俺が呼び止めると、初音ちゃんは立ち止まって振り向いた。
「なに、耕一お兄ちゃん?」
「散歩がてら、その辺まで送るよ」
「え、ホント?」
「天気もいいみたいだし、食後の運動ってことで」
俺は立ち上がって初音ちゃんに近づくと、ぽんと肩を叩いた。
「うん、じゃあ一緒に行こう!」
「耕一さんも気をつけて下さいね」
千鶴さんが言う。
「……え、ええ」
そんな千鶴さんのものの言い方に曖昧な笑顔で応えながらも、俺は、一昨年死んだ母さんのことを思い出していた。
廊下に出ると、庭のししおどしがコーンと鳴った。
我が親戚の家ながら、実に風情のある立派なお屋敷である。
目の前に広がるこの庭や、一流料亭のような廊下を見るたび、俺はそのスケールの大きさにつくづく舌を巻いてしまうのだった。
「部屋を出ると、途端に落ち着かなくなるんだよな」
「えっ? どうして?」
ここで生まれ育った初音ちゃんにはごく当たり前の光景でも、あと数日で六畳一間の兎小屋に戻らねばならない俺にとってはまさに夢のお屋敷だ。
長い廊下を経て、玄関に着く。
サンダルに履きかえ、丸石が敷き詰められた三和土へ下りる。
戸を開けた。
一歩外へと出た途端、フラッシュをたかれたような眩い朝の陽射しに包まれ、俺は目を細めた。
まだまだ衰えを知らない太陽が、焦がすように斜め上から照り、屋敷の涼しさに馴染んでいた身体から汗を噴き出させた。
「熱ぃ〜」
俺は、ぱたぱたとシャツの胸もとを扇いだ。
「今日も暑くなりそうだね」
初音ちゃんは額に手を当てると、空を見上げて目を細めた。
夏の終わり。
陽射しはまだまだ暑さを忘れさせてはくれない。
いや、それでも世間一般の季節感ではもうすっかり秋なのだ。
9月に入り、高校生以下の学校では一斉に二学期の始業式が行われた。
長い夏期休暇を残し、いまだに夏気分でいるのは俺のような大学生くらいのものだろう。
Tシャツに半ズボン、つっかけサンダルというラフな格好の俺と、きちんとした制服に鞄を背負っている初音ちゃん。
その、一見奇妙な取り合わせの二人が一緒に並んで屋敷の門をくぐった。
「うーん」
俺は両腕を伸ばし、深呼吸する。
都会を離れたという気分がそう思わせるのか、深く吸い込んだ空気は、とても透き通っているような気がした。
鳥が群を成して飛んでいき、ほんのわずかに清涼感を従えた風が吹き抜けていく。
俺と初音ちゃんは並んで歩き始めた。
コンクリートの塀に沿って道を行く。
黒い影がくっきりと地面に落ちていた。
帰ってからなにをして遊ぼうかという話、昨夜見たテレビの話、梓や千鶴さんの話、そんな何気ない会話に花が咲く。
話が弾んで、ややあった頃、
「そういえば、楓ちゃんのことなんだけどさ」
俺はさり気なさを装って切り出した。
「……楓お姉ちゃん?」
「うん」
長い前フリの末、ようやく俺は聞きたかった本題に移った。
実のところ、こうやって初音ちゃんについてきたのは、楓ちゃんのことを訊こうと思ったからだ。
あの子が俺のことを避けている原因のようなものを訊き出せはしないかと思ったのだ。 千鶴さんや梓より、初音ちゃんのほうが気兼ねなく話せそうだったというのもひとつである。
「楓お姉ちゃんがどうかした?」
初音ちゃんがくりっとした大きな目を向ける。
「……じつは俺、なんだか楓ちゃんに嫌われてるみたいなんだ」
俺がそう言うと、初音ちゃんはぷっと吹き出し、
「そんなことないよ。楓お姉ちゃんも耕一お兄ちゃんのこと大好きだよ、絶対に」
そんな恥ずかしいセリフを、臆面もなくごく自然に言ってのける。
大好きだよ……か。
実に初音ちゃんらしい、素直でストレートな感情の表現法だ。
こういうものの言いかたは、この子のみに許された特権である。
「……だけど、声を掛けても無視されてさ」
そう言って、俺は笑って見せた。
無視……と言えば、多少の語弊があるかもしれない。
微妙な反応はあるが、そのまま無言で去っていってしまう……というのが正しい。
「ああ、それはね……」
初音ちゃんが苦笑気味に微笑んだ。
「楓お姉ちゃんって、もともと無口なほうだし、それに……とっても恥ずかしがり屋だから……」
もともとそうなので気にすることはないということらしい。
「……でも、楓ちゃんだって、小さい頃はよく俺と一緒に遊んだりしたんだけどな。ホラ、覚えてないかな? 俺と梓と初音ちゃんと楓ちゃんの四人でさ、裏山に登って魚釣りしたの」
「覚えてるよ! 梓お姉ちゃんが水門のところで、川に落っこちたときでしょ?」
初音ちゃんがにっこりと笑った。
「そう、そう!」
そうだ、あのとき梓は、買ったばかりの靴を川底に沈めて、わんわん泣いてたっけ。
あの泣き顔は今もよく覚えている。
「……あの頃は楓ちゃんも、ころころとよく笑う女の子だったのになあ……」
俺は苦笑した。
ジーワ、ジーワ、ジーワ、ジーワ……。
季節遅れの蝉の声が、辺り一面に響いている。
俺と初音ちゃんは、しばらく無言で歩いた。
「……耕一お兄ちゃん」
しばらくして、初音ちゃんが呟くように俺の名前を呼んだ。
「ん?」
視線を注ぐと、表情がうっすらとかげっている。
「なに?」
訊くと、初音ちゃんは重そうな口を開いた。
「楓お姉ちゃん……楓お姉ちゃんね」
「うん、楓ちゃんが?」
「……多分、叔父ちゃんのこと、……まだ、忘れられないんだよ。……きっと」
初音ちゃんは、辛そうな表情でそれだけを言い切ると、また俯いてしまった。
「親父のことを?」
「……うん」
初音ちゃんはゆっくりと頷いた。
「……あの日から、楓お姉ちゃん、まえ以上に喋らなくなっちゃったんだ」
俯いて歩きながら、小さな声でそう言う。
「そ、そうなんだ」
「うん、それにね……」
初音ちゃんは、突然立ち止まると、
「楓お姉ちゃん、ものすごく叔父ちゃんっ子だったから……」
そう言って、ぎこちない微笑みを浮かべた。
「……でも、でも、わたしだって、叔父ちゃんのこと、忘れることができたわけじゃ……ないよ」
何度か瞬きしたのち、くるりと背中を向ける。
「……だけど、だけどね、……頑張って、……忘れようとはしてる。……楓お姉ちゃんの場合、……ただ、それができないんじゃないかと……思う」
背中を向けた初音ちゃんがごしごしと両目を擦る。
俺は言葉を失った。
……そうか、……そうだよな。
親父が死んでまだ一ヶ月足らず、この子たちの心の傷は、まだ完全に癒えたわけじゃないんだ。
俺のことを気遣って、みんなが明るく振る舞ってくれるせいで、ついいつも、それを忘れてしまう。
血を分けた実の息子とはいえ、ほとんどが別居生活だった俺なんかよりも、毎日同じ屋根の下で暮らしていた彼女たちのほうが、ずっと辛いはずなのに。
必死に涙をこらえる初音ちゃんの背中を見て、俺はあの無責任な馬鹿親父にやりようのない怒りを抱くのだった。
俺の親父は、先月の頭、ちょうど今から一ヶ月前、突然の事故でこの世から去った。
泥酔して飲酒運転した挙げ句、ガードレールを突き破り、崖の頂上から転げ落ちて死ぬという、笑い話にもならない馬鹿げた死に方だった。
遺体はたくさんの外傷を残し、辛うじて原形を留めているかという程度の酷い有り様だったらしい。
崖の上から転がりながら、車の中で押しつぶされた結果だそうだ。発見当初は、遺体の回収にすらかなりの時間を要したという。
たっぷりと人に迷惑をかけた、実にあの親父らしい死に方だなと、俺は思った。
俺が初めてその知らせを受けたのは、留守番電話のメッセージでだった。
夜遅く、旅行にでも行こうと思って始めたコンビニのバイトから戻ってみると、薄暗い部屋で留守番電話のメッセージランプがピカピカと点滅していた。
部屋に上がり、暗がりのなかで再生ボタンを押してみると、安物のスピーカーから、懐かしい従姉の千鶴さんの声が聞こえてきた。
涙も枯れ果て、すっかりかすれた千鶴さんの声。
その声は、淡々と親父の死を告げていた。
あまりの急な出来事に僅かな動揺こそしたものの、連続した留守電のメッセージを聞き終える頃には、俺は自分でも気付かぬうちに、冷めた顔で面倒くさげな溜息をついていた。
……そうか、死んだのか。
俺にとっての親父の死など、その程度のものでしかなかった。
というのも、俺と親父はかれこれ八年ほど、ずっと別居生活を送っていたからだ。
親子の縁など薄れて久しかった。
別居の理由は、俺が一二歳のとき、千鶴さんたちの両親「「つまり伯父さん夫婦「「が突然の交通事故で亡くなったことに遡る。
鶴来屋グループの会長だった叔父が亡くなった為、会長代理を務めることになった親父は、単身実家の柏木家へと赴き、以後そこで暮らすことになったのだ。
月日を重ねるごとに溝が深まり、すっかり他人同然となった親父とは、俺もここ数年の間、まともな交流は殆どなかった。
そして……親父は、二度と家へ戻ることなく、あの世へと逝ってしまった。
俺が生きている親父と最後に会ったのは、一昨年……母さんが死んで、その葬儀が行われた日のことだ。
親父と別居し、ひとりきりで俺を養ってくれた未亡人同然の母は、一昨年、急な病に倒れ、そのまま呆気なく逝ってしまったのだ。
ひっそりと行われた葬儀の日、俺は実に数年ぶりに親父に会った。
久しぶりに見た親父の顔は、皺が増え、髪にも白いものが混じっていた。
俺の親父像は、その葬儀の日の映像のまま止まっている。
母の葬儀が終わったあと、親父は俺に、一緒に暮らさないかと言った。
柏木のお屋敷に住まないか、ということだった。
俺はそれを断った。
通っている大学のこともあったし、なにより八年間も遠く離れ暮らしていた他人同然の親父と、いまさら家族としてやっていく自信がなかったからだ。
親父とはそれっきり、完全に切れてしまっていた。
母と暮らしていたマンションを引き払って、新たにワンルームのマンションへと引っ越しても、転居先の住所も電話番号も親父には伝えなかった。
「「親父は、もう他人なのだ。
それが、母さんの死に際さえ見届けなかった親父に対する、俺なりの『けじめ』だった。
だが、今にして思えば、俺は心のどこかで、いつも親父からの電話を待ち望んでいたように思える。
都会でたったひとり暮らす俺の居場所を探り当て、「元気でやっているか」とひとこと声を掛けてもらいたかったのかもしれない。
だが、その後、親父からの連絡は一切なかった。
なのに、親父の死を告げる千鶴さんからの電話は、いとも容易く俺の部屋に繋がった。 千鶴さんは、親父のアドレス帳を開いてここの番号を見つけ、そして電話したのだという。
それを知ったとき、俺は、自分と親父の距離がさらに大きく開いていたことを理解した。
親父は知っていたのだ。俺の住所も、電話番号も。
知っていて、……敢えて、俺との交流を望まなかったのだ。
血を分けたという事実と、戸籍が記すだけの父。
声や顔さえはっきりと思い出せない他人同然の父。
母さんと……俺を捨てた父。
結局、俺と親父は最後の最後まで打ち解け合うことなく、他人のような関係のまま終わってしまった。
今にして思えば、俺の親父は、もう八年前に死んでいたのだ。
「「いまさら、涙など出ようはずがない。
だが、初音ちゃんたちは違う。
彼女たちにとって、親父は、ほんの先月まで一緒に暮らしていた家族なのである。
気遣いから明るさを装ってはいるが、本当は、俺の何倍も悲しみに捕らわれているはずだ。
千鶴さんも、梓も、初音ちゃんも。
……そして、楓ちゃんも。
「楓お姉ちゃんね、あれから毎日、何時間もお仏壇の前にいるの。涙は出てないけど、泣いてるのがわかるの……」
初音ちゃんはそう言って立ち止まった。
「耕一お兄ちゃん。……楓お姉ちゃんを慰めてあげて。お兄ちゃんが、ここにいるうちに」
「……う、うん」
俺は曖昧な返事をした。
「……お兄ちゃんね、やっぱり、すごく似てるんだ」
「似てる?」
誰に? ……と訊こうとして止めた。
決まってるじゃないか。
「……だから、お兄ちゃんのこと見てると、叔父ちゃんのこと、イヤでも思い出しちゃうの。……わたしは叔父ちゃんが帰って来てくれたみたいで嬉しいよ。でも、楓お姉ちゃんは……逆に、辛いんだと思う」
「…………」
気の利いた返事でもできれば良かったのだが、俺は咄嗟に何も応えられなかった。
「もうこの辺でいいよ」
ここまでの会話がなかったような明るい声で、初音ちゃんが言った。
「ここからは、ひとりで行くから」
「あ、ああ、じゃあ……」
初音ちゃんははにかむように微笑むと、くるりと俺に背を向けて、そのまま歩き出した。
「あっ、初音ちゃん!」
意味もなく呼び止めてしまっていた。
「なに?」
初音ちゃんは首だけを後ろに向けて振り向いた。
振り返る彼女を見て、俺も決心がついた。
「わかった。もう少し、楓ちゃんと話をしてみるよ」
もしも初音ちゃんの言うとおり、楓ちゃんが親父の死による傷心から立ち直っていないのならば、もっと話をするべきだ。
「うん、そうしてあげて。……楓お姉ちゃん、なんだか可哀想だから……だから……」
語尾がかすんで消えていく。
「初音ちゃん……優しいいい子だな」
俺は素直な感想を口にした。
「……そ、そんなじゃなくて、わたしは、ただ……」
初音ちゃんは恥ずかしそうに俯いた。
「……ただ、叔父ちゃんが生きてた頃みたく、みんなで笑ってご飯が食べれるようになればいいなあーって、そう思って……」
そんな初音ちゃんの健気な態度に、俺の胸は、痛いほど締めつけられた。
それはやがて心の中で、親父に対するさらなる怒りへと形を変えていった。
「……お兄ちゃんが来てくれる前はね、……わたし、ご飯食べるのすごく嫌だった。……だって、ずっとお通夜が続いてるみたいだったんだもの……」
「そう……」
「だけど今は違うよ! 以前、叔父ちゃんが座ってた席にはお兄ちゃんがいて、千鶴お姉ちゃんも、梓お姉ちゃんも楽しそうだし……」
初音ちゃんは首を傾げて微笑んだ。
「だから、あとは楓お姉ちゃんだけなの」
「……うん、わかった。……そうだよな、ご飯はおいしく食べたいものな」
「……う、うん!」
初音ちゃんは上目遣いに瞳を潤ませて頷いた。
「……うん、やっぱり初音ちゃんに相談してよかった。でなきゃ俺、楓ちゃんのこと誤解したまま、帰ってたところだった」
初音ちゃんはなにも言わず、にっこりと微笑んだ。
「じゃ、わたし、もう行くね」
初音ちゃんはそう言って、くるりと背を向けた。
「うん、気をつけてな」
俺が言う。
すると、初音ちゃんは俺に背中を向けたまま、
「……でも、お兄ちゃんがいなくなったら、また、あの席が空いちゃうんだな……」
寂しそうにそう呟いた。
「……初音ちゃん」
次の瞬間、彼女は自分の言葉の意味に気がついて、慌てて振り返った。
「あっ、あのっ、わたし……」
地面に視線を落としたまま、口ごもる。
「……ご、ごめんね。い、行ってきます」
初音ちゃんはそう言い残すと、踵を返し、駆け足で俺から離れていった。
俺はそんな彼女の後ろ姿を、見えなくなるまで無言で見送った。
帰る途中の道で、ばったり梓と会った。
「よお、暇人」
革靴に学生鞄、どこから見ても登校ルックである。
初音ちゃんに遅れること一五分、これがいつも梓が家を出る時間らしい。
「悪かったな、暇で」
俺はムスッとした顔で言った。
「こんな朝っぱらからフラフラしてるのは、犬を散歩させてる爺さんか、あんたぐらいのもんだ」
梓はケラケラと愉快そうに笑った。
相変わらず口の悪い奴だ。
「これから家へ帰ったって、どうせまた寝るだけなんだろ?」
梓が嫌味っぽい流し目で言った。
「あー、そうさ。お前がくだらない授業受けてるときも、縁側で陽に当たってごろごろ転がってんのさ」
「まったく、いい御身分だよ、大学生様はさ」
「そーだよ、羨ましいか。それに比べて大変だねぇ、受験生ちゃんはよ」
「三流大学生がよく言うよ!」
「大きなお世話だ、馬鹿女子高生!」
「…………」
「…………」
「はああ〜〜〜〜……」
次の瞬間、俺と梓は同時に溜息をついた。
「……なんだか虚しくなってきた」
「……あたしも」
「とっとと学校へ行け、遅刻すっぞ」
俺は気の抜けた声でそう言って、梓の横を通り過ぎようとした。
「……な、なんだよ、耕一。帰るのかよ?」
「あん?」
振り向くと、梓はなにか言いたげな表情でこっちを見ている。
「なんだよ」
「…………」
梓は何も言わず、ただ、すねたような顔で上目遣いに俺を見ている。
梓の奴、何が言いたいんだ?
……ん?
ははーん、わかったぞ。
どうやらこいつ、初音ちゃんと同じように途中まで送ってってほしいらしい。
素直にそうだと言えないとこが、実に意地っぱりな梓らしい。
ここは、ちょっと気を利かしてやるか。
「その辺まで一緒に行こうぜ」
俺はそう言って、さり気なく梓の横に並んだ。
「う、うん」
梓は嬉しそうに頷く。
……まったく、こういうとこだけは、初音ちゃんより子供っぽいんだからなー。
俺は梓に見られないよう、ほくそ笑んだ。
俺は今度は梓と一緒に、眩しい朝陽に染められた道を歩いた。
「……そういやさ、さっき初音ちゃんと話してるときに思い出したんだけど、お前、小さい頃に裏山に登ったときのこと覚えてるか?」
にやにやと口もとを歪めながら俺は言った。
「えっ? う、うん、まあ……」
「確かあのとき、水門のところで足を滑らせて、川に落っこちた奴がいたよなー?」
「なんだよ、遠回しに……」
俯いた梓は、ちらりと俺の目を覗いた。
「いや、懐かしいなと思ってな」
「…………」
梓は何やら複雑な表情で、足下に視線を落とした。
「あのときお前、買ったばかりの靴を川底に沈めて、ずっとわんわん泣いてたっけ」
……そう、それで、いつまでたっても泣き止まない梓を、この俺が家まで背負って帰ったのだ。
ぼんやりと曖昧な記憶のなか、印象深い映像だけが数珠繋ぎに思い浮かんでいく。
真っ赤な夕焼け空と、背中におぶったびしょ濡れの梓、……そして、グスグス泣き続けるその梓の顔。
「靴を失くしたぐらいで、あんなに泣いて、あの頃はお前も可愛かったのになあ……」
俺はそう言って、ぐりぐりと梓の髪を撫でた。
梓はそれを鬱陶しそうに払いのける。
「そんじゃまるで、今は可愛くないみたいに聞こえるじゃないか!」
「お前、もしかして自分が可愛いとか思ってんの?」
「こ、この野郎、きぃ〜〜〜〜ッ!」
梓は歯ぎしりしながら掴み掛かってきた。
「その乱暴なとこが可愛くねーっていうんだよ!」
叫びつつ俺が駆け出すと、梓も鞄を振り回しながら追ってくる。
いつもの光景。
俺がからかって、怒った梓が息を巻いて追っかけてくる。
他愛のないじゃれあい。
どちらかといえば、妹というより弟に近い梓だから許される子供の頃のままのノリ。
そして俺は、こいつとのこういう瞬間がたまらなく好きだった。
普段は、がさつだの、乱暴だの、凶暴だのと、さんざん悪口を言っているが、正直俺は、そんなところも含めて、こいつはこいつで可愛い奴だと思っている。 小さい頃から、なんだかんだいって俺にくっついてくるし、姉妹の中でも、一番気兼ねなく接することができるのも事実なのだから。
一〇〇メートルほど全力で走った辺りで、履いていたサンダルが脱げ、俺はその場に立ち止まった。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
情けないことに、すっかり息が上がってしまった。
陸上をやってる梓にはへでもないダッシュでも、俺にとってはいささかハードな運動だった。
「はっ、だらしないねぇ、もう歳かい、耕一?」
「……ば、ばーか。つっかけが脱げたから……はあ、止まったんだよ、はあ、はあ」
「その割にゃ、随分と苦しそうじゃないか」
「うるせー」
俺は片足でケンケンしながら、脱げたサンダルまで移動した。
裏返ったサンダルを足の指で表になおして履く。
「靴を失くした話なんてしてたから脱げたんだ」
俺は冗談めかして言った。
「なんだよ、さっきから、失くした、失くしたって! あのときは結局、靴は失くさなかったんだから!」
梓は腰に手を当てて言った。
「え、なんで? だって川底に靴を沈めて……」
「……なにいってんの?」
キョトンとした表情で梓が言った。
「耕一、あんた覚えてないの?」
「なにを?」
「なにを……って、あの後のことだよ」
「あのあと? ……なんかあったっけか?」
「……あったっけかって、あんた……」
梓は信じられないような顔で俺の目を覗き込んだ。
俺は、必死に記憶の糸を手繰ってみた。
「えっ……と、お前が川に落っこちて、靴を失くして、それで泣き止まないから……」
「違うよ! あたしが泣いたのは、靴を失くしたからじゃないって!」
梓が近づいてくる。
「そうだっけ? だったら……」
梓は俺のすぐ目の前にまで近づくと、いきなり膝を立てて、その場にしゃがみ込んだ。 眉根を寄せて目を細め、俺の左のふくらはぎに顔を近づける。
「お、おい」
俺が左足を引こうとすると、梓がそれを掴んだ。
「なにしてんだよ」
「ほら、これがヒント」
梓はそこにある俺のふるい傷痕を指さして言った。
小さいときに、なにかで引っ掻いた傷痕だ。
だが、なぜだろうか?
不思議と俺には、この傷を負ったときの記憶がないのだ。
「なにが? なんで、これがヒントなんだよ」
俺は上から梓を見下ろして訊いた。
「……あんた、まだ思い出せないの!?」
立ち上がりつつ、梓が言う。
「だいたい、なんでお前がこの傷のこと知ってんだ。当の本人様でさえ、いつやった怪我か覚えてないってのによ」
俺が言うと、梓は「へっ?」という表情をする。
「耕一、あんた冗談抜きで、本当に忘れちゃったの」
はて、なんかあったっけ?
覚えてないし、思い出せない。
「ああ、ぜんぜん覚えてない」
「!」
遠回しに言っても埒があかないので、俺はきっぱりと言い放った。
「……く、くぬぬぬぬぬっ!」
梓の顔が徐々に怒りの表情へと変わっていく。
「て、て、て、てめ〜〜〜〜……」
梓は「すうーっ」と大きく息を吸うと、
「馬っ鹿やろおおおおぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
「いっ!」
近所の窓という窓のガラスをことごとく破砕しそうな大声で叫んだ。
俺の耳がキーンと鳴る。
やや遅れて、周囲の住宅からガラガラと窓の開く音が聞こえ、次いで、どこかの赤ん坊の泣き声がそれに混じる。
「本っ当に忘れちまったのかよおおぉぉーーーーッ! じゃ、じゃあ、あたしの、あたしの大切な思い出は、どうなるんだあああぁぁぁーーーーーーーーーッ!」
「お、おい、もう少し押さえて……」
「ちっくしょおおおぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
叫びながら、梓は俺に背を向け、全力でその場から駆け出した。
「ま、まてよ、アズサ!」
「耕一なんか、死んじまえええええぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
梓はそのまま俺を罵りつつ、まるでサイレンを鳴らした救急車のように道を走り抜けていった。
死んじまええぇぇーーーの、ええぇぇーーーの音がこだまし、辺り一面に響き渡る。
梓が遠くに走り去るにつれ、その声も次第に小さくなっていった。
「す、すごい肺活量だ」
……などと感心してる場合じゃなかった。
さすがに周囲の家々からの視線が気になった俺は、そそくさとその場を後にした。
俺は屋敷へと戻った。
威風堂々とした白塗りの塀と門構えが、人を見下すようにどんと立ち塞がっている……、それが、この屋敷に対する一般人の第一印象だろう。
かく言う俺も、いかに身内とはいえ根は血統証付きの一般人だ。
外から戻ってくる度、本当にこの中へと立ち入っていいものかと疑ってしまう。
もちろんいいのだ、身内だから。
俺は堂々と胸を張って、門を潜った。
思わず溜息が漏れそうになる立派な庭園を横目に、カラカラと音を鳴らして玄関の戸を開け、中に入る。
目が眩しい陽射しに慣れきってしまっていたため、屋内はさながら暗闇に包まれているかのように映って見えた。
玄関でサンダルを脱ぎ、板張りの廊下に上がる。
「ただいま〜」
誰に告げるでもなく、独り言のように呟いた。
屋敷の中は、冷んやりと涼しい空気に満ちていて、さんざん陽射しを浴びて赤くなった首や肩ら辺の肌に気持ちよかった。
俺は玄関ホールで立ち止まり、そこで一息つく。
さて、これからしばらく、俺には特に目的がない。
『出来る限りお父様の側にいてあげてください』
という千鶴さんの言葉がなければ、本来は遠く旅行にでも出掛けていたはずだった。
納骨までの四十九日間、うち一週間くらいはせめて側にいてやるかとやって来たものの、日中は特にすることもなく、暇で暇でしょうがないのが現状だった。
自宅ならパンツ一丁でごろごろと寝過ごせばいいのだが、やはりここではそういうわけにもいかない。
とはいえ、バカンスを潰してやって来たのだから、ある程度、羽根は伸ばしたいところでもある。
昨日は昨日で、つまらない観光で時間を潰した。
果たして今日は、なにをして過ごせばいいものか。
……うーむ。
俺が腕を組んで、視線を庭園に移したときだった。
奥の廊下から、ひとりの少女が歩いてきた。
向こうも俺に気付き、互いの目が合った。
艶のある黒髪を肩の手前でバッサリ切った制服姿のその少女は、三女の楓ちゃんに他ならない。
手には学生鞄を持っていた。
これから学校へ行くところなのだろう。
彼女はちらりと俺を見ただけで、またすぐに視線を正面に据えてしまう。
露骨に目を背けられたようで、あまりいい気はしなかった。
楓ちゃんの履いたスリッパの音が、ぱたぱたと廊下に響いている。
「や、やあ」
俺は手をあげて、にこやかに笑った。
最上級の微笑み……のつもりだったが、ちゃんと顔が動いてくれたかどうかは自身がなかった。
呼ばれた彼女は、再びこっちを見る。
だが、なにも言わない。
ひとことも声を発しない。
……正直言って、この子は苦手だ。
本音が意識の横を過ぎる。
「今から学校かい?」
訊くと、彼女はこくんと頷くだけの返事をした。
もともと在る苦手意識に、楓ちゃんの鋭い目つきが手伝って、なんだか睨まれているような錯覚にとらわれる。
「か、楓ちゃんさ……」
沈黙に耐えれなかった俺が話しかけた。
だが、楓ちゃんは俺を見ようともせず、そのまま横を通り過ぎて行こうとする。
『楓お姉ちゃんね、あの日から、まえ以上に喋らなくなっちゃったんだ。……耕一お兄ちゃん、楓お姉ちゃんを慰めてあげて。お兄ちゃんが、ここにいるうちに』
そんな初音ちゃんの言葉が脳裏を過ぎったかと思うと、次の瞬間、俺の手は無意識に伸びて、楓ちゃんの細い手の指を握っていた。
「……あっ」
行動した俺のほうが逆に驚きの声をあげる。
楓ちゃんは、全く表情を変えないままにこっちを向くと、じっと俺の目を見つめた。
彼女の髪がさらりと舞い、スロー再生の映像のようにゆっくりと下りていく。
心臓がドクンと突発的に高鳴った。
……なにを緊張してるんだ、俺は。
……初音ちゃんと約束したじゃないか。
……とにかく、なにかを喋らなきゃ……。
たくさんの思考が一度に浮かんで溢れ、その中でも俺の意識は「なにかを喋らなきゃ」という一点に集中した。
なにを言うのかも決めず、取りあえず唇を動かしたときだった。
「……あの」
唇を開いたのは俺が早かった。
だが、声を出したのは彼女が先だった。
「……痛いです」
「あっ、ゴ、ゴメン!」
俺は慌てて手を放した。
その瞬間、俺の中にあったたくさんの思考が、様々な方向に飛び散っていった。
俺の指が解かれると、彼女は無言で視線を逸らし、そのまま廊下を去ろうとする。
「待って、楓ちゃん!」
言うと同時に、手が無意識のうちに伸び、楓ちゃんの腕を掴んでいた。
楓ちゃんは身体をぴくっと震わせて、足を止めた。
ゆっくりと、顔を向ける。
あどけなさを残す少女の顔、……その上に作られた氷のような冷たい表情、……そして、心の奥底を覗き見るような突き刺さる視線。
俺は、僅かにたじろいだ。
そして、つい先ほど、彼女が痛い、と呟いたことを思い出し、慌てて手を放した。
楓ちゃんはじっと俺の目を見つめたまま、
「……なんですか?」
とだけ、短く、呟くように訊いてきた。
相変わらずの、突き放すようなものの言いかたは、あなたのことが嫌いですという意志表示ともとれなくない。
楓ちゃんが築いた心の壁が、嫌でもお互いの距離を離れさせてしまう。
だが、いつもはそれで引き下がっていた俺も、今回は、不思議とごく自然な微笑みを返すことができた。
例えるならそれは、警戒する猫に、優しく手を差し延べるときの心境に近かった。
「もっと、話をしよう」
俺は、心からそう言った。
君と言葉を交わしたい。なんの含みもない、本当にただそれだけの意味でしかなかった。
「楓ちゃん、もっと、話をしようよ? こんなじゃ、お互いなにも解らないままだ。……少なくとも俺には、訊きたいことだって、話したいことだって、たくさんあるんだ」
「…………」
楓ちゃんはなにも言わず、ただじっと俺の目だけを見つめていた。
「……楓ちゃん、俺のこと、嫌いかい?」
俺は、唐突にそう訊いた。
楓ちゃんはぴくっと身体を硬くして、両目を大きく見開いた。
どう取っていいかは分からなかったが、その表情には、わずかな動揺の色がうかがえた。
『楓お姉ちゃんも耕一お兄ちゃんのこと大好きだよ、絶対に』
初音ちゃんはそう言っていた。
たとえ、気休めで言ってくれたのだとしても、今はその言葉にすがりたい気分だった。「俺が嫌いだから、話をするのが嫌なのかい?」
俺は、楓ちゃんの目を真っ直ぐ見つめたまま、もう一度訊いた。
嫌い……と返されても、じゃあ、しょうがないなと、笑って、明るく返すつもりだった。
……だが。
だが楓ちゃんは、目を伏せ、俯くと、ゆっくりと首を左右に振ったのだった。
おかっぱ頭の黒髪が、右へ左へ交互に舞う。
「……それって、別に俺のこと、嫌ってるわけじゃないって取ってもいいのかな?」
俺が訊くと、楓ちゃんは少しだけ間をおいてから、こくんと頷いた。
「ホント!? よかった! 俺、てっきり楓ちゃんに嫌われてるものだと思ってたから」 張りつめた糸が弛み、俺は安堵の笑みを洩らした。
……とはいえ、いきなり場がなごんだわけではない。
楓ちゃんは俯いたまま、なにも言わず、相変わらずの無表情を保っていた。
「……楓ちゃん。……君は、あの頃からなにも変わっちゃいないよな? ずっと、俺の知ってる楓ちゃんのままだよな?」
そうだよな? そうだと応えてくれ。そうすれば、俺はもっと君に近づくことができるんだ……。
わずかな沈黙があった。
俺は、床の一点を見つめて動かない楓ちゃんから、一瞬たりとも目を反らさなかった。 数秒間が過ぎたとき、彼女の唇が微かに動き、
「……耕一さん」
と、俺の名を刻んだ。
楓ちゃんが視線を上げ、お互いの視線が重なった。
そのとき俺は、ほんの少しだけ、彼女の瞳に歳相応の少女らしさを垣間見たような気がした。
楓ちゃんは、悲しげな顔を俺のほうに向けたまま、すっと、視線だけを斜め下方向にずらした。
「私は……」
彼女が初めて積極的に話し始めた……と同時だった。
「あら、楓。あなた、まだそんなところにいたの?」
廊下の角を曲がって、千鶴さんが姿を見せた。
「千鶴姉さん……」
千鶴さんの姿を確認した途端、楓ちゃんはさっと身を引いて、俺から離れた。
「二人で、なんのお話しですか?」
「い、いや、別に」
小首を傾げて訊いた千鶴さんに、俺は言葉を濁して笑いかけた。
「たわいもない世間話っていうか……」
説明の仕様もないので、俺は笑ってごまかした。
ちらりと横に視線を投げかけると、つい先ほどまでそこにいたはずの楓ちゃんが忽然と姿を消していた。
「あ、あれ?」
慌てて後ろを見ると、彼女はいつの間にやら玄関へと移動していて、靴を履いているところだった。
「行ってらっしゃい。車には気をつけるんですよ」
千鶴さんは、俺のすぐ側で立ち止まって言った。
「……行ってきます」
楓ちゃんは呟くようにそう言うと、玄関の戸に手を掛け、カラカラと横に開いた。
「楓ちゃん」
家から出ようとする彼女を俺は呼び止めた。
楓ちゃんの足がぴたりと止まる。
「……帰ったら、さっきの続き、話してくれよ」
「…………」
楓ちゃんは少しの間立ち止まっていたが、結局何も応えず、そのまま家を出て行ってしまった。
「……あの、なにか、大切なお話しでも?」
千鶴さんが訊いてくる。
「いや、そんなわけじゃないんだけど……」
俺はそう応えて、曖昧な笑みを浮かべた。
とはいうものの、あのとき楓ちゃんがなにを言おうとしたのか、俺は気になった。
千鶴さんが来たから、話づらくなってしまったのだろうか?
学校に遅れそうだったからかもしれない。
とにかく、もう少し時間があれば、この場でそれを聞き出せたのだろう。
3・刑事と親父の死
小一時間ほどゴロゴロと怠惰に過ごしたが、結局、外の突き抜ける青空に心を誘われ、外をぶらつくことにした。
もうしばらくすると、千鶴さんも仕事先に出掛けてしまう。
そのうえ俺までいなくなると、この大きなお屋敷は全くの無人になってしまう。
わざわざ作ってもらった合い鍵を借りているので、戸締まりをされても、中に入れなくなるような心配はないのだが、それでもやはり、出掛ける前にひとこと声を掛けておくべきだろう。
俺は居間へと行ってみた。
「千鶴さん、いる?」
だが居間には人影もなく、コッチ、コッチと時計の音が聞こえるだけだった。
テーブルの上も綺麗に片付けられ、人がいたような気配はない。
「千鶴さん?」
もう一度呼んでみたが、やはり返事はなかった。
今度は千鶴さんの部屋へ行ってみた。
「千鶴さん、いる?」
コンコンとドアを何度かノックしたが、なんの返事もない。
「千鶴さん?」
そっとドアを開けて中を覗いて見たが、やはり千鶴さんはいなかった。
部屋の中は綺麗に片付けられていて、清潔感が漂っていた。
インテリアや小物類も全体的にシックな物が多く、千鶴さんの知的なイメージを象徴している。
いい匂いがする。……千鶴さんの匂いだ。
その匂いに誘われるかのように、中へ入ってみたいという誘惑にも駆られたが、いくらなんでも失礼なのでそれは止めた。
俺は他の場所を捜すことにした。
俺は千鶴さんを捜して、屋敷の廊下を歩き回った。
おかしいな……、どこにいるんだろう?
出掛けたような気配もないし、屋敷のどこかにいるのは確実なのだが……。
庭にも目を向けたが、いそうな気配はない。
あと、めぼしい場所といえば、……トイレかな?
いや、まてよ、もしかしたら「「。
なんとなくピンとひらめいた俺は、仏壇の置かれた部屋へと足を運び、中を覗いてみた。
……すると。
「おっ」
俺の勘は的中し、千鶴さんはやっぱりここにいた。
仏壇の前に座布団を敷き、その上で正座している。 なんだ、親父に会っていたのか。 俺はいつもの調子で声を掛けようとした。
「ちづ「「」
だが思いとどまり、そこで言葉を止めてしまった。
呼び掛けてはいけない……、部屋の中の彼女を見て、そう思ってしまったからだ。
がっくりと落とした肩、疲弊しきった横顔、焦点の合わない視線……。
それは、俺の知ってる千鶴さんではなかった。
まるで魂の入っていない抜け殻のように見えた。
このまま動くことなく朽ち果てて、ボロボロと崩れ落ちてしまいそうな、そんなふうにさえ見えた。
どうしたんだろう?
こんな千鶴さん、今までに見たことがない。
優しくて、大らかで、ちょっぴりおっちょこちょいなところがあって、……そして、とても温かで……。
それが、俺の知ってる千鶴さんだった。
側にいてくれるだけで、なんとなく不安な気持ちが消えていく、そんな、死んだ母さんによく似た匂いのする女性だった。
だが、今の彼女は、まるで消える前のろうそくの炎のようだった。
触れただけで、声を掛けただけで、彼女という存在自体が消えて無くなりそうな気がした。
手前の廊下で戸惑っている俺に気付き、千鶴さんが視線を向けた。
「あら、耕一さん。……なにか御用ですか?」
その瞬間、ぱっと、周りの雰囲気が変わったような気がした。
千鶴さん本人は、糸の切れた操り人形に、突然魂が宿ったような感じだった。
「……え、えっと、ちょっと出掛けようかと思って」
「あっ、そうですか。私もそろそろ勤め先から迎えが来る時間ですから、一緒に出ましょうか?」
千鶴さんは膝を伸ばして立ち上がると、そう言って微笑んだ。
胸の奥がくすぐったくなる笑顔。
思わず甘えたくなるようなあたたかさ。
今、俺の目の前にいる人は、間違いなく、いつもの優しい千鶴さん本人だった。
じゃあ、ついさっきまでここにいた女性は?
生命の涸れ果てたような、魂のない抜け殻のようなあの女性は、いったい誰だったんだ?
単に、俺の錯覚だったのだろうか?
「どうかしました?」
千鶴さんがくすっと笑った。
「い、いや、その……」
俺はただ、ぎこちなく微笑み返すだけだった。
それからしばらくして、千鶴さんの仕事先から迎えの車が到着し、それにあわせて俺も一緒に屋敷を出ることにした。
「鍵は持ってます?」
俺が腰を下ろして靴の紐を結んでいると、千鶴さんが訊いてきた。
「ちゃんと、持ってますよ。……うん、ある」
俺はポケットの上から中の物を撫で、鍵の形を確認した。
「私は七時頃には戻ります。その前に、あの子たちが帰ってくると思いますけど。……耕一さんは?」
「俺は、ちょっと近所をぶらつく程度だから」
そう言って、立ち上がった。
「じゃあ帰ったら、お留守番お願いしますね」
「ええ」
「ごめんなさいね。遊びに来てくれたお客様なのに」
「何言ってるんですか、本当の家族みたいに思えって言ったのは、千鶴さんのほうでしょ? 俺は、自分を客人だなんて思ってませんよ」
「……耕一さん」
千鶴さんが俺を見て微笑み、玄関の戸に手を掛けようとしたときのことだった。
磨りガラスの向こうに人影が映ったかと思うと、戸が開き、見たこともない中年男が姿を見せた。
「ごめんくださーい……って、あら、お出かけですか」
中年男は目の前に立った千鶴さんを見て、とぼけた声でそう言った。
「あなたは……」
千鶴さんが呟いた。
「やあ、その節はどうも」
男がぺこりと頭を下げる。
弛んだネクタイ、腕まくりしたシャツ、ジャケットを肩に担ぎ、胸ポケットにはタバコと安物ライターが詰め込まれている。
見るからにだらしない感じのおっさんだった。
男の後ろにもうひとりいた。
手前の男が熟年期に達した上司だとすれば、後ろの男はバリバリの新人といった感じだった。
そのぶん服装もびしっとしていて、新人の心構えのようなものを体中から発散していた。
何かのセールスか……と思ったが、どうもそういった雰囲気でもない。
第一印象を高める努力とか、人に物を売りつけようとするときの笑顔とかが明らかに欠けているのだ。
「……何か、御用でしょうか?」
千鶴さんは訝しげに訊いた。
「いえね、もう一度詳しく、お話をうかがおうと思いまして……」
「これ以上、何もお話しすることはありません」
いつものぽーっとした感じとはうってかわったような厳しさで、千鶴さんが言った。
「それに私、これから出掛けるところなんです」
「そこをなんとか。ほんの五分ほどで結構ですから」
男は腰を低くして、満面を笑みで歪めた。
「表に迎えの者を待たせてありますから……」
千鶴さんは、なんとか早々にこの場を切り上げたい様子だった。
「お仕事のほうですか?」
「……そうです」
「これまでは名義だけの経営者であられたあなたも、いよいよ本格的に指導者となられるわけですか。いやいや、お若いのに大変ですなぁ」
「経営者とはいっても、まだまだいろいろと学ばせてもらっている身です」
「とはいえ、鶴来屋といえば、この隆山温泉を実質的に支配している大企業だ。なにかとプレッシャーもお有りでしょう?」
男のいうとおり、千鶴さんは若いながらも総従業員数五〇〇名を越す鶴来屋グループの会長という立場にある。
鶴来屋グループとは、天皇陛下も宿泊されたという実績を持つ名高い高級旅館「「鶴来屋を中核とし、同時にスポーツセンター、和食料理の仕出屋、若者向けのホテルやペンションなども運営する、この土地一番の大企業である。
この辺りでは知らぬ者はない鶴来屋グループを一代で築き上げた人物こそ、他でもない、柏木家の先々代「「つまり俺の爺さんなのだった。
そして今、それが千鶴さんに受け継がれている。
小さい頃は俺もよく母さんから、爺さん「「柏木耕平の波乱に満ちたサクセスストーリーを聞かされたものだ。
由緒正しい柏木家の一人息子として生まれた爺さんは、若い頃から冒険心に富み、ビジネスの才能に恵まれていたという。
今から五〇年前、爺さんは隆山温泉の中堅クラスに位置する温泉旅館の一軒を祖先から受け継いだ土地を売って得た金で買収、初めて鶴来屋の看板を掲げた。
もともと経営難に陥っていたその旅館を爺さんは、改築、増築に加え、当時にしては珍しいマニュアルによる徹底的な従業員教育を施し、二〇年後には、隆山旅館組合を牛耳る大きな旅館へと発展させた。
爺さんはそれを事業の基盤にし、同じ様に経営難に陥った小さな会社を破格で買収、吸収合併を繰り返しつつ、今日の鶴来屋グループを一代で築き上げた。
グループの大黒柱ともいえる鶴来屋には俺も何度か遊びに行ったことがあるが、あれは本当に開けた口を塞ぐことも忘れてしまう浮き世離れした高級旅館だ。
田舎にそぐわぬ一五階建てのビルを本館とし、周りを囲むようにして別館が5つ、巨大駐車場と、広大な庭園、中には男女それぞれ3つの大浴場と露天風呂、河の流れるフロントロビーにはレストラン、喫茶店、その他にもデパートのようにみやげ屋が入っている。 小さい頃、親父に連れられて一泊したときは、館内で迷子になり、三〇分ほどさまよった経験もある。
今でも迷わないという自信は持てない。
そして本館の上二階が鶴来屋グループのオフィスになっており、最上階にある大きな会長室が千鶴さんの仕事部屋である。
一〇年前「「それまでの本館を旧館として新たな本館が設立された年「「そこはグループ設立主である爺さんの部屋だった。
その年のうちに爺さんが死ぬと、部屋は千鶴さん達の父親「「つまり俺の叔父の部屋となった。
だが八年前、叔父夫婦が交通事故で亡くなり、部屋は社長室に名を変え、俺の親父の部屋になった。
そして今月始め、部屋は再び会長室へと名を戻し、千鶴さんのものとなった。
実に入れ替わりの激しい部屋である。
叔父夫婦が事故で亡くなったとき、経営者の名義は千鶴さんに移された。
俺の親父は社長兼会長代理に就任し、実質的な運営を行っていたが、ゆくゆくは千鶴さん……ひいてはその夫となる人物が代表となる予定だった。
だが、それは十年ほど先の話だと誰もが思っていたに違いない。
俺の親父が突然行方不明になり、翌日、無惨な死体として発見されるまでは……。
『鶴来屋グループ社長、飲酒運転で転落死』
親父の死は全国ニュースとはいかないまでも、地方紙には大きく取り上げられた。
『前会長に次いでの事故死。呪われた柏木一族!』
そんな、二流週刊誌の記事にもなった。
それだけに、これまで名前しか知られていなかったうら若き美人経営者の表舞台への登場は、ある意味で劇的だった。
先々週、ある女性週刊誌に千鶴さんのインタビューが掲載されていて、俺は近所のコンビニでその雑誌を購入した。
とはいうものの、肩書きこそ会長なれど、実際には新入社員となんら変わりのない千鶴さん。
目の前のおっさんが言うように、確かに何かと辛いこともつきまとっていることだろう。
今も、前会長の右腕だった現社長(なんでも柏木家に大恩のある人らしい)の補佐があったればこそ、下からの突き上げにも何とか耐えられるのだ。
千鶴さん自身も、グループのアイドル的な位置づけでしかない現状に疲れを感じているのだろう。
先ほどの彼女の横顔が、それを物語っているように思える。
「……そのようなインタビューをなさりたくて来られたわけではないのでしょう」
千鶴さんは相手を見ずに、そう言った。
「いや、これは失礼。ただ、社長を務めていたあなたの叔父、先月亡くなられた柏木賢治氏さえ健在なら、もう少しゆっくりと経営者としての勉強もできたのではと思いましてね。もちろん、おうかがいしたいことというのは、その柏木氏についてのことなんですが」 親父の話だって?
柏木賢治は、俺の親父のフルネームだ。
「ですから、それについては……」
「前回訊きそびれたことが二、三ありまして」
男には引く気などさらさらないらしく、千鶴さんは諦めたように深い溜息を洩らした。「……わかりました、では手短にお願いします」
「ご協力感謝します」
男が頭を下げる。
なんだ、もしかして警察なのか?
「……いやー、それが、考えれば考えるほど、疑問点が浮かび上がってきまして。どうしてもその辺のことを詳しくお訊ねしたいんですよ」
そう言った男の口もとは笑っていたが、目は冷たい輝きを放っていた。
親父の死因について言ってるのだろう。
疑問点だって?
親父の死に?
「……ところで、そちらの方は?」
男が千鶴さんの肩越しに俺のほうを見て訊いた。
「揃って朝にお出掛けとは……、お友達ですか?」
その言葉には、下世話な意味が含まれていた。
「うちの親戚です」
千鶴さんはきっぱりと言った。
「親戚? というと、死んだ柏木賢治氏とも、なにか関わりが……?」
血の繋がった息子だ、と俺は心の中で呟いた。
「すみません、本当に急ぐので……お話のほうを早く」
千鶴さんは話を逸らすべく男を急かしたが、男は俺を見たまま続けた。
「そういえば死んだ柏木氏には、現在、大学生の一人息子がいるという話でしたね。……確か、耕一くんとかいったかな。……君がそう?」
男が俺に訊いてきた。
「そういうあんたは誰なんだ」
自分の名さえ名乗らなぬうちに人の名を訊くとは、なんて礼儀知らずな奴だ。
「あ、これは失礼。こちらのお嬢様とは、先日お会いしてたので、つい……」
男は目を向けたまま軽く頭を下げ、
「申しおくれましたが、私、県警の長瀬といいます」
そう名乗って、シャツの胸ポケットを探った。
「同じく柳川です」
今まで一言も喋らなかった若いほうが、頭を下げて警察手帳を見せた。
やはり警察か。
今さらここに何の用があるというんだ。
「あれ、おかしいなあ」
「長瀬さん、上着のポケットじゃないんですか」
「お、そうだ、そうだ、うん、あった」
長瀬と名乗った私服刑事も、肩に担いでいた上着から警察手帳を取り出して見せた。 手帳の端が破れて曲がっていた。
「確かに俺は死んだ柏木賢治の息子、耕一だけど……。警察が、いったい何の用なんだ?」
俺は怪訝な顔で訊いた。
「用というのは他でもなく……」
長瀬と名乗った中年の刑事が、俺の質問に答えた。
「……実は、君のお父さん、……柏木賢治氏の事故には、いくつかの不審な点がありましてね、我々がもう一度あの事故を洗い直すことになったんですよ」
「不審な点?」
俺が言うと、刑事は頷いた。
「率直に言うとだね……」
「長瀬さん、それ以上は……」
割って入った柳川を、中年の刑事は左手で制した。
「構わんよ。遠回しに言ったところで、話が長くなるだけでしょうが」
「ですが……」
「まあ、いいからさ」
柳川はもう一度何かを言おうとしたが、喉まで出かかった言葉を呑み込み、後ろに下がった。
刑事は俺と千鶴さんを交互に見つめ、一呼吸置いてから、
「実はあの事故、我々は自殺……いやむしろ他殺の線で洗い直してるんですよ」
ゆっくりとした口調でそう言った。
「……他殺!?」
思わず俺は眉をつり上げた。
反射的に千鶴さんのほうを見ると、彼女も俺と同じように大きく目を開いた顔で刑事を見ていた。
「……他殺って、じゃあ、殺人事件ってこと?」
「詳しいことはまだ言えませんが、単なる事故にしては不自然な点がいくつか見つかったんですよ」
俺が言うと、刑事は淡々とした口調で説明した。
「例えばどんな?」
「いやー、それはちょっと、今はまだ……」
「遺族にも話せないんですか?」
「すみませんねぇ。こっちも仕事なもので……」
刑事が苦笑を浮かべる。
どこか人を食ったような態度のおっさんだ。
「といっても、まだ決まったわけじゃありませんよ。あくまでも鑑識の結果、そういう可能性もあり得るという段階なんで」
いい加減な敬語を使いつつ、刑事は続けた。
「それで色々とお話をうかがって、少しずつ疑問点を晴らしていきたいと思ってるんですが」
俺は何と応えていいのか分からず、視線を千鶴さんのほうに向けた。
千鶴さんも気付いてこっちを見たが、互いの視線が合わさると、逸らすように目を伏せてしまった。
「そんなこと、突然言われても……」
千鶴さんが呟くように言った。
親父とは、肉親の俺以上に縁の濃かった千鶴さん。
自殺とか他殺とか、いきなりそんなことを言われて動揺しないはずがない。
「だいたい自殺っていっても遺書なんてないし、他殺ったって、あの親父に限って他人から恨みをかうようなことは……」
俺は馬鹿馬鹿しいという意味の笑みを浮かべた。
だが刑事はそれを遮った。
「いやー、とはいっても鶴来屋グループの社長さんですからね。仕事上、恨みつらみなしでやってくことのほうが難しいと思いますがねぇ」
刑事が諭すように言い、俺は口をつぐんだ。
そのとき、千鶴さんが口を開いた。
「……刑事さん、先ほど他殺の疑いのほうが濃厚だと、そうおっしゃいましたけど……」「え? 私、そんなことまで言っちゃいました?」
刑事はとぼけた顔をした。
「……ええ、自殺よりも、むしろ他殺の線で洗い直していると」
「ああ、ああ、そういや言いました。いや、鋭いですねぇ、お嬢さんは」
刑事は一本取られたと言わんばかりに笑った。
間の抜けた男……確かにそう思う。
だが、どうも俺の目には、この刑事は意図的にそれを装っているように感じられるのだ。
ほつれた糸をわざと目の前でちらつかせ、こちら側から深入りさせていくように仕向けている……そんな気がしてならない。
「……この古狸が」
俺は口の中で呟いた。
「……だったら、もう隠してもしょうがないか。ええ、実はそうなんです。我々はこれは殺人事件ではないかと想定してるんです。それも事故に見せかけるように巧妙に仕組まれた計画的犯行……。いや、私もこういうセリフを口にしたのは初めてですよ。テレビとかではよく耳にするんですけどねぇ」
「警察がそう考えるのにも、何か根拠のようなものがおありなんですか?」
千鶴さんが訊いた。
「そりゃ当然ありますよ。でなきゃ、わざわざ我々がこうやって訪ねたりはしません。せいぜい保険屋さんが来るくらいでしょ」
「その根拠ってのは……」
俺が訊くと、
「だから、それはまだ言えませんって」
刑事は苦笑しながら、何度言わせりゃ気がすむんだという目を向けた。
「その辺のことはまだ一切ご説明できないんですよ。それについては、もう少し調査が進んだらということで勘弁してください。今日のところは一方的で本当に申し訳ないんですが、こちらからの質問にだけ答えていただきたいんです」
長瀬刑事はそのまま質問に突入した。
彼はまず千鶴さんに、自殺だと仮定した場合、動機に心当たりがあるかと訊いた。
「ありません」
千鶴さんは短くそう答えた。
質問は次に移った。
「亡くなられた柏木氏は、仕事から自宅へ戻る途中の道で事故を起こした。鑑識の結果、大量のアルコールが体内から発見され、当初、事故の原因は飲酒運転であろうと判断されたわけですが、……柏木氏は以前からよく、お酒を飲まれる方でしたか?」
千鶴さんはやや考えてから言った。
「……普通だと思います」
「普通というと? 週に何度くらい? 量は?」
「二、三回です。量は多くてビールを瓶で3本ほど。普段は1本だけです」
「決して愛酒家というわけでもなかったと」
「……はい」
「では、なぜ当日に限って、あれほどのお酒を飲んでらしたんでしょうかね。こちらの調べでは、仕事先を出るときは一滴も飲まれてなかったらしいんですが」
「……それは……分かりません」
千鶴さんは小さな声で言った。
「……あと、是非、これを訊きたいのですが、柏木氏は以前から睡眠薬の類を常用されてましたか?」
その質問をするとき、刑事の目に鋭い輝きが宿ったことを俺は見逃さなかった。
「……はい。眠れないときなど、ごくたまに」
「ほう。ではその睡眠薬を、柏木氏はどうやって入手していたか御存じですか?」
「……そこまでは……知りません」
「できればその辺をなんとか思い出していただきたいのですが……」
刑事は千鶴さんの目を見つめて言った。
千鶴さんは俯いて考え込み、そして、しばらくして顔を上げ、呟くように言った。
「すみません。やっぱり、記憶にありません」
「……そうですか」
そう言った刑事の眼は、一瞬、とてつもなく冷たいものに感じられたが、すぐにまた例のふざけた感じを取り戻し、
「分かりました。では、もし、思い出されましたら、署のほうまで御一報いただけますか?」
と言った。
千鶴さんはひとこと、「はい」とだけ応えた。
千鶴さんは「知らない」と言ったにもかかわらず、目の前の刑事は最後まで「思い出したら」という言葉を使った。
深い意味はないのかもしれないが、どうも俺は刑事の作為的なものを感じるのだった。「じゃあ、次は耕一くんに訊こうか」
お鉢が俺に回ってきた。
刑事は俺に、生前の親父のことや別居の理由、遺産相続の件などを質問をし、俺は、親父とは別居生活が長かったため最近のことはさっぱり分からない、別居の理由は仕事の都合だ、遺産や保険金は相続税などを差し引いて一応全てが俺に、と正直に答えた。
「柏木氏にかけられた生命保険の金額ですが、個人的な意見を言えば、あのような方にしては少し低すぎるのではないのかと思うのですが」
刑事は俺と千鶴さんの両方の顔を見た。
「それも、職務質問なのでしょうか?」
千鶴さんが静かな声で訊くと、
「いえ、あくまで個人的な質問ですが」
刑事はひょうひょうとした態度で応えた。
「……叔父は、自分に大きな保険をかける気はなかったようです」
「ほう、そりゃまたどうして?」
「……さあ、そこまでは……」
千鶴さんは首を横に振って俯いた。
「あなたは奨めたことがあるんですか?」
「ありません」
「一度も?」
「……はい」
「ふむ」
刑事は何やら考え込んだが、一呼吸ほど置いて、
「……いや、今日はどうもお急ぎのところ大変失礼いたしました。ご協力感謝します」
そう言って頭を下げた。
「では……」
刑事は背を向けて、玄関から去ろうとした。
「あの……」
千鶴さんが、それを呼び止めた。
「何か?」
刑事が振り向く。
千鶴さんは口を開いたが、そこで言葉に詰まった。
「……どうぞ、おっしゃってください」
刑事がそれを促した。
「……あ、あの、……警察がそうお疑いなら……ですけど、事件の犯人に目星などは、おありなんですか?」
若い刑事がぴくっと反応し、中年刑事の顔を見た。
中年刑事は少し間を置くと、ふうと息を吐きながら肩をすくめ、
「いや、さっぱり」
そう言って苦笑した。
「…………」
千鶴さんは、何かを言いたそうな顔で刑事を見つめ続けた。
「では、我々はこれで。柳川君、戻ろうか」
「はい」
中年刑事とともに若いほうの刑事も軽く会釈して、二人は背を向けて去っていった。
玄関には俺と千鶴さんだけが残された。
千鶴さんは黙ったまま、刑事の去った方向を見続けていた。
その横顔はショックを隠しきれない。
当然だ。
自殺したとか殺されたとか、いきなりそんなことを言われて動揺しない身内がどこにいるというのだ。
……いや、まてよ。そうとも言い切れないか。
俺は皮肉めいた微笑を浮かべた。
……約一名、ここにいるじゃないか。
俺と千鶴さんは無言のまま玄関を出て、鍵を掛け、並んで門を潜った。
門の前には迎えの車がエンジンをかけた状態のまま止まっていて、ハザードランプを点滅させていた。
車の前に立ったとき、千鶴さんは俯いたまま、深く「はあ」と溜息を洩らした。
空気が重い。
沈黙が重くのしかかってくる。
「……あの、千鶴さん」
とにかくその沈黙を破るべく、俺は声を掛けた。
「とにかく、悩んでも始まらないよ。彼らも一生懸命調査してくれてるみたいだしさ、今は大人しく結果を待とうよ」
俺が苦笑しつつ言うと、千鶴さんは俯き加減のままこっちを向いた。
「……なんか千鶴さん、いろいろ考えてるみたいだし、ショックなのは分かるけど……」「…………」
「結局、俺たちじゃ何もできないんだからさ」
「……そうですね」
俺の気持ちを汲んでくれたのか、千鶴さんはくすっと微笑みを返してくれた。
「……耕一さんのほうは、随分と落ち着いてらっしゃるんですね」
「いや、これでも動揺してるつもりだけど。十分に」
嘘だった。
「でも、やっぱ、千鶴さんほどじゃないかな。確かに俺と親父は血こそ繋がってるものの、離れてた時間が長いから、どうも他人事のように思えてしまうんだ」
俺は両手を頭の後ろに回し、空を見上げた。
「……耕一さん」
千鶴さんは、寂しげな顔で俺を見た。
「……それは、叔父さまが可哀想です。あの人はいつも耕一さんのことを想われてましたよ」
「ま、まあ、そりゃ、そうだけど……」
俺は、ただ曖昧な返事をしたが、決して素直に納得したわけではなかった。
あの親父が、いつも俺のことを考えてたって?
……馬鹿馬鹿しい。
だったらなぜ、何年間も連絡のひとつもよこさず、俺のことを放っておけるんだ?
確かに、一緒に住まないかという誘いを断ったのは俺のほうだ。
だけどそれは学校のことや、その他にも色々なことがあったからで……。
おいおい、なんで今さら、こんなことを考えなきゃいけないんだ。
俺は頭の中の思考を払った。
「……でも、もし殺人事件だったら、早く犯人が捕まるといいよね」
俺はそう言って、千鶴さんの顔を見た。
「……そうですね」
千鶴さんは遠くを見るような目でポツリと応えた。
少し間を置き、
「……あの、耕一さん?」
千鶴さんが俺の名を呼んだ。
「え?」
「さっきの刑事さんたちが言っていた話ですけど……」
「うん」
「どっちにしても、あまりいい話じゃないですから、できれば妹たちには内緒にしておきたいのですが……」
千鶴さんは、覗くように俺の目を見て言った。
「内緒に……?」
「……はい。もちろん、ずっと黙っているつもりはありませんよ。……ただ、警察の方がはっきりとした回答を訊かせてくれるまで、あの子たちには要らない心配をかけたくないんです」
言葉の語尾が、まるで空気にとけ込むように小さくなっていった。
「……梓は短気ですし、血の気も多いし、受験のこともありますし、初音は人一倍優しい子ですから、きっとすごく動揺するでしょうし、……それに、楓は……」
千鶴さんは訴えるような目で俺を見つめた。
「うん、わかった。そうしよう」
俺は頷いて応えた。
「俺もみんなには内緒にしといたほうがいいと思う。確かに要らない心配を背負い込ませるだけだもんな」
「ありがとう、耕一さん」
千鶴さんはちょっと首を傾げて微笑んだ。
「じゃあ、私は仕事のほうに出掛けますけど、あとのことはよろしくお願いしますね」
「うん」
俺は短く応えて頷いた。
千鶴さんは車の後ろのドアを開いて、シートに座ると、膝の上にハンドバックをのせて、こっちを見た。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
俺が言うと同時に、ドアが自動で閉まった。
車内の千鶴さんは微笑みながら、手を振った。
車はゆっくりと走り出し、やがて角を曲がって見えなくなった。
4・起きているのにっ!
その日、日中は外をふらふらして過ごした。
心地よい日和のなか、俺は特に当てもなく散歩し、暇を潰した。
商店街に行き、少し大きめの書店で三〇分ほど雑誌を立ち読みした。
夕方には学校帰りの学生たちで賑わうであろうその書店も、午前中はさすがに客の入りも少なく、当初は立ち読みだけで店を出るつもりだった俺も、何か一冊でも買わないことには店を出づらくなってしまった。
そこで俺は、別段欲しくもない一冊をとってレジへ持っていった。
俺が買ったのは、『雫』という短いタイトルの文庫サイズの小説だった。
繰り返す代わり映えのない日常と、それを生み出すくだらない人間たち。
そんな全てに、やり場のない怒りを抱いている高校生の主人公。
垂れ流しの白黒映画のフィルムの中にいるような、色のない学園生活のなか、彼はひとり、残酷な殺戮の妄想に浸っていた。
そんな主人公の目の前で、ある日の授業中、ひとりの女生徒が発狂した。
彼女は淫猥な言葉を叫びつつ頬を爪で掻きむしり、自らの顔に真っ赤な血の化粧をほどこした。
その事件が火をつけて、さらに深く狂気という言葉に惹かれ始めた主人公のもとに、あるとき、不思議なひとりの少女が現れる。
昨年、同じクラスだったその少女にほのかな想いを寄せていた主人公は、やがて彼女が口にする毒電波という奇妙な言葉の意味を知ることとなり、そして……。
退屈な日常に喘ぐ思春期の少年が、恐ろしい超能力と切ない恋を通じて心の成長を遂げていく、不思議な青春ストーリー。
著者入魂の長編小説。
PC-98シリーズ好評発売中!
WINDOWS95版もリリース開始!
最後の二行はよく意味が分からないが、これは結構話題になった小説だ。
噂では、近々映画の話もあるらしい。
早速、今夜寝る前にでも読むとしよう。
駅前のファーストフードで軽く昼食をすまし、時計は一二時三〇分。
はっきり言って何もすることがない。
しかし梓の言うとおり、本当に俺って暇人だな。
まぁ、休み中の大学生ってのは、バイトしてるか、旅行してるか、それ以外はこんなものだろうが……。
俺も先月はあくせく働いていたわけだし、どうせ、社会人になったらアリのように働き続けるんだから、暇人を満喫しておこう。
……よっしゃ、ここはいっちょ、パチンコ屋で貯金をおろすぜ!
今までに預けたなけなしの金、……一割でも奪回だ!
俺は目の前のパチンコ屋に駆け込んだ。
パチンコ屋でまず注目するのは、客の入りだ。
客が少ないパチンコ屋は、台の善し悪しはともかくどうしても釘をきつく絞めなければ経営できない。
客の入りが多いところは、両替時に莫大な収益が望めるぶん釘も甘くでき、客はさらにそっちへ流れる。
ここは文句なしの合格だ。球も随分積まれている。
目の前のおっさんなんか、ひいふうみい……二八箱も積んでやがる。
よし、勝負といきますか!
俺は三千円のパッキーカードを買った。
時代はもちろんCR(カード)機だ。
CR機は警察の後押しがあるぶん、ギャンブル性の高い台でも保通協(パチンコ業界を取り締まる協会)の申請も通りやすいという裏があり、今ではパチスロ以上に稼ぎ率(失う率も)がいいのだ。
ノーマルの確率変動機や時短機など、打つだけ時間の無駄だ。
二十歳を越えたらCR!(もっとも二十歳を越えなければパチンコはできないが……) 俺は店内の台を見て回った。
懐かしいものから最新機まで、様々な台が豊富に取り揃えてある。
古い名機など、セル版が黒々と汚れきっているではないか。
その中で俺は『CRF3000』というF3000レースをモチーフにした液晶デジパチの前に座った。
こいつは確率変動3回セットの上、16ラウンド、留め打ちすれば平均出玉2400は軽いし、基本確率もいい。
この店では最強の機械だ。
ワープルートへと続く釘が良ければ合格だ。
俺はカードをユニットに差し込み、五百円ぶんの球を下ろす。
レディー、ゴー!
球が流れる。
この手に伝わる振動が、球の音が、店内アナウンスが、パチンカーを落ち着かせるぜ。 ジャラジャラジャラジャラ……。
ぴろぴろぴろ……。
おお、よく回るじゃなーか。
五百円で二六回、おっ、二七回目だ。
一〇分ほど打って、二千円めの球を下ろしたときだった。
リーチ!
来たあーっ! リーチだっ! 高確率のスペシャルリーチ、しかも確変図柄の77だ! これで当たると平均七連チャン確定、金額にすれば約四万二千円の儲けだ!
隣のおっさんが当たる前から「兄ちゃんええなあ」と関西弁でいってきた。
やめれー、隣のおっさんが話し掛けたリーチは必ず外れるというのが俺のジンクスなのだ〜!
だが、今日はそのジンクスを克服してやるぜ!
ぴろん、ぴろん、ぴろん、ぴろん……、ぴろぴろぴろぴろ……、ぴろん、ぴろん、ぴろん、ぴろん……、ぴろぴろぴろぴろぴろ……。
来い、来い、来い、来い来い来い来い来い来い。
ぴろぴろ……。
こーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいっ!
ぴろん。
7!!
「来たあああああああああああーーーーーーー!!」
「兄ちゃんええなあ」
「よっしゃあーーーーーーーーーーーーーーー!!」
俺は握り拳を高く掲げた。
「おめでとうございます。192番台、高確率無制限スタートです」
「おらああああああああああああああああああ!!」
「兄ちゃんええなあ」
久々に勝ちモードに入った俺は、地道に留め打ちを続けていたが、高確率に突入したまま連チャンを繰り返すうち、鬱陶しくなって、最終的には打ちっ放しになった。
それでも最終的に一七連チャン、二箱のまれてからノーマルで一回引き当て、そこで止め。
両替して九万円ほど貯金を下ろすことができた。
俺はほくほく顔で店を後にした。
よっしゃ、次は帰ってグータラ昼寝しよ!
グータラ昼寝、……それこそ究極至高の贅沢。
労働の義務を持つこの現代社会において、グータラが許されるのは、本来、赤ん坊と老人だけだ。
眠ってグー、よだれタラー、略してグータラ。
若い男がそれをやろうものなら、白い目で見られて当然だ。……だがっ!
俺にはできるッ!
大学生という特権階級を持つ、この俺には、それが可能なのだ!
俺は早速屋敷へと戻り、誰もいない豪邸でグータラモードに突入することにした。
降り注ぐ初秋の太陽の下を歩いて戻り、屋敷の前に着いたときのことだった。
道路の四つ角から四つ角までを支配する長い柏木家の塀の前に、ひとりの若い女性の姿があった。
彼女は背伸びしたり、ジャンプしたりと、なんとか屋敷の中を覗こうとしているようだったが、塀は女性の身長より三〇センチ以上もあり、上手くいかない。
彼女は苛立ちながらも、なんとか塀に手をかけようとジャンプを繰り返していた。
俺がすぐ側まで近付いても、気付く様子はない。
三メートル手前まで近寄ったとき、彼女はようやく塀にしがみつくことに成功した。
彼女は両足をバタバタやって、一生懸命に塀をよじ登ろうとしていた。
「……あの、何やってんですか?」
「わっ!」
俺が声を掛けると、女の人は驚いて手を滑らせ、塀から落ちて尻餅をついた。
「いったぁ〜」
片目を閉じて腰をさすりながら、俺のほうを見た。
「ちょっとあんた、いきなり声掛けないでくれる!? びっくりしちゃったじゃない、もう!……イタタ」
人の家を覗こうとしてた奴にしては、随分と偉そうなものの言い方をする。
「ぼけっと見てないで、手を貸したらどう?」
尻餅をついたまま、女の人が言った。
「あ、ああ、……じゃあ、ホラ」
俺は右手を差し伸ばし、彼女はそれに掴まって地面から立ち上がった。
引っ張り起こす途中、握った手を放してやろうかと思ったが、もしも冗談の通じない相手だったら嫌なのでやめる。
彼女はジーンズの尻を叩いて、ぱんぱんと砂を払い落とした。
レイヤーのきいたボブヘアーに、ラフな服装、歳は俺より三、四歳ほど上ってところか。
「あんた、誰なんです?」
俺は訊いた。
「誰って、あなたこそ誰よ」
彼女はそのまま返してくる。
人に名を尋ねるなら先に名乗りなさいよ、と彼女の目が語っていた。
「……俺はこの家の者だけど」
「えっ!? この家って、この、柏木のお屋敷の!? うそ!?」
「柏木耕一っていうんだ」
「え、だってこの家は確か、先月、鶴来屋グループの社長さんが亡くなってから、姪の四人姉妹しか住んでないって聞いてるけど」
「それはそうなんだけど、今週は従兄弟の俺が遊びに来てるんだ」
「従兄弟? あなた従兄弟なの?」
「うん」
俺は頷いた。
「……ああ、なるほどね。従兄弟の子なのね」
彼女はひとり納得する。
「それより、あんた誰なんです? 覗き屋?」
俺が訊くと、女の人は目を瞬かせた。
「の、覗き〜ッ!? や、やめてよ、人聞きの悪い! ……私は別に、ここを覗こうとしてたわけじゃないわ。呼び鈴鳴らしても誰も出て来ないから、おかしいと思って中をうかがっただけよ」
「今はたまたま留守にしてたんだ。でも普通、訪ね先が留守だからって塀をよじ登って覗いたりするか?」
「そ、それはそうだけど……」
女がたじろいだ。
「……けど私だって、遠いところからはるばるここまで来たんだから」
「とにかく、あんたは誰なんだ」
俺が、三たび訊いた。
「えっ、私? 私は相田響子よ。月刊レディジョイのライターやってるの」
「雑誌の記者?」
「そっ、ウチの雑誌知ってる?」
相田響子と名乗った女は、腰に手を当てて言った。
「……いや、知らないけど」
「知らないの? 結構メジャーだと思うんだけど……。ま、男の子なら知らないか」
相田響子はそりゃそうねと呟いた。
「……で、その雑誌の記者さんが何の用でここに?」
俺が訊くと、彼女はくすっと笑い、
「もちろん、取材の為よ」
そう言った。
「鶴来屋グループの若き女性会長『柏木千鶴さん』のインタビューに来たの」
「千鶴さんにインタビュー?」
「そっ、先々週にライバル誌のスマイルがそれやってさ、評判だったらしいのよ。……で、ウチの編集長の鶴の一声がこの私に下ったってわけ」
相田響子は、俺が訊いていないことまでペラペラと早口に喋った。
「……んで、柏木千鶴嬢は?」
唐突に、彼女が言った。
「今日この時間にお伺いしますって、先日、前もって連絡しといたはずなのよ」
彼女は頬に手を当てて、俺を見つめた。
「OKをとったから、絶対にいるとは思うんだけど」
「いないよ、千鶴さんは」
俺は率直に言った。
「えっ、だって……」
「千鶴さんなら仕事中さ。会社に行ってる」
「か、会社!? ……そうなの?」
「当然だろ」
「……てっきり私、会長っていうくらいだから、ドンと自宅で構えているのかと思ってた」
彼女は大きく目を開いて言った。
「だって、先日電話で『お宅の住所を教えて下さい』って言ったら彼女、ここの住所を教えてくれたのよ。だから私……」
出た、千鶴さんの大ボケ。
どうやら彼女は仕事のインタビューに来る雑誌記者に自宅の住所を教えてしまったようだ。
「とにかく、千鶴さんは仕事先にいますよ」
俺は顔を上げ、こみ上げる笑いを押さえて言った。
「なーんだ、そうなんだ。……仕事先って、確か鶴来屋旅館のビルだよね」
「うん。一番上がオフィスになってるはずだけど」
「だったら丁度いいや。どうせ後からいく予定だったんだ。今回は高級旅館『鶴来屋』の取材も兼ねてて、部屋も結構いいやつ取ってあるし」
相田響子は、にこっと愛想笑いをした。
「じゃ私、早速そっちへ行くことにするわ。えっと、耕一くんだっけ? ……ゴメン、ありがと」
「うん、いや別に」
彼女は手をあげて、
「じゃね」
とウインクし、背を向けて歩き出した。
後ろ姿が遠くなっていく。
……ふうん、雑誌の記者か。
千鶴さん、また雑誌に載るのか。
よし、記事の載った雑誌が出たら買おうっと。
月刊レディジョイとか言ってたっけ、……覚えとこ。
俺はそんなことを考えつつ、門をくぐって屋敷の中へと入っていった。
自分の部屋に行く。
廊下の窓を開け、部屋の障子戸を全開にし、畳の上に寝転がる。
そのまましばらく、さきほど買った本に目を通していると、そよそよと吹き込んだ風が頬を撫で、やがて瞼が重くなり始めた。
毎晩毎晩、とんでもない悪夢を見せられ、睡眠不足がちなのは確かなのだ。
「ふああぁぁ……」
俺は大きなあくびをした。
意識が……深い谷底へと沈んでいくような感覚。
やがて間もなく、俺は深い眠りへと落ちていった。
どのくらい眠っただろうか。
耳元でくすくすと可愛い笑い声が聞こえる。
「……お兄ちゃん、そんな格好で寝てちゃ風邪ひくよ」
俺はゆっくりと瞼を開けた。
目の前に、ぼんやりと人影が見える。
焦点が定まると、それが初音ちゃんだということに気付く。
「お兄ちゃん、おはよ」
膝を折って座った初音ちゃんが笑顔で言った。
「……やあ、おかえり」
俺は両目を擦りながらそう言った。
「今、何時?」
「五時前くらい。もう夕方だよ」
俺が訊くと、彼女はくすくす笑いながら応えた。
確かに外は、夕暮れ時に差し掛かろうとしていた。
陽は大きく傾き、空も黄色く染まり始めていた。
ぐっすり眠っていたらしい。
……夢は、……例の悪夢は見なかった。
寝不足分を一気に取り戻したという感じだった。
「ふああぁぁ……」
俺は大きなあくびをして、滲んだ涙を拭った。
「……ふふ、目は覚めた?」
初音ちゃんが立ち上がって微笑んだ。
「あ、うん」
俺も微笑み返す。
「お兄ちゃん、頭、寝癖になってるよ」
「えっ、どこ?」
「ここ、ここ」
初音ちゃんは近づいて、跳ねた俺の髪を押さえた。
「なんだか、バネみたい」
初音ちゃんはくすくす笑いながら、押さえて放す、押さえて放すを繰り返す。
年下の初音ちゃんに、まるでいい子いい子されてるみたいで、俺はなんとなく気恥ずかしくなった。
「水で濡らさないと戻んないよ」
初音ちゃんは楽しそうに、押さえて放すを繰り返している。
甘い……いい匂いがする。
初音ちゃんの髪の匂い……かな?
「洗面所でなおしてくるよ」
そう言って、俺は立ち上がった。
初音ちゃんは腰の辺りで両手を組んで、一歩後ろに下がると、
「お兄ちゃん。約束、覚えてるよね」
悪戯っぽく俺の目を見つめた。
「え? 約束?」
「うん。帰ったら、遊んでくれるって……」
「ああ、うん、覚えてるよ。なにして遊ぼうか?」
「……ふふ、とにかく先にその寝癖なおしてからだよ」
「……そうだな」
俺は頭の寝癖を押さえて、放した。
自分では見えないが、ぴょんと立ったはずだ。
初音ちゃんはそれを見て、にっこりと微笑んだ。
それから俺と初音ちゃんは、俺の部屋でトランプをして遊ぶことにした。
「何をしようか?」
カードを切りながら俺が訊いた。
「うーん、そうねぇ……」
「ポーカーは?」
「ポーカー? ワンペアとかツーペアとかの?」
「そう。それ、それ」
「うーん、あんまり分かんない」
初音ちゃんは申し訳なさそうな顔をする。
「ルールは単純さ。誰にでもできるよ」
「教えてくれるんなら……」
「えーとねぇ……、まずお互い手札を……」
そこまで口にして、俺は思い直した。
まてよ、ポーカーってやつは、結局何かを賭けないと盛り上がらない。
物欲に溺れた血走った眼で、博打を打つか打たぬかという駆け引きをするのが面白いのであって、ゲームのルール自体は極めてシンプルな内容なのだ。
このゲームの楽しみを解らせるには、賭事の楽しみを教えることになる。
「やっぱりポーカーはよそう」
「えっ、どうして?」
「初音ちゃんもよく知ってるやつがいいよ。戦う条件が互角じゃないと、勝負は面白くない」
「……ふうん。うん、確かにそうだね」
俺のどうってことのない発言に、初音ちゃんは妙に感心して頷いた。
「初音ちゃんは、どんなの知ってる?」
「……んーとねぇ」
初音ちゃんは天井を見上げて親指を口元に寄せた。
「ババ抜きと、大富豪と、七並べと、ダウトと……」
「どれも二人じゃ盛り上がらないなぁ」
「……うん」
「二人じゃ、できるゲームも限られてくるからなぁ。……カブとか、ブラックジャックとか、セブンブリッジとかは知らない?」
「ごめんなさい」
初音ちゃんは首を左右に振った。
「「ってよく考えりゃ、今言ったのは全部賭けの類のゲームじゃないか。
いかんなぁ。
周りの仲間の影響で、覚えてるゲームは全部この手のものばかりだ。
「他になんかあったかなぁ」
「耕一お兄ちゃん、スピードは?」
「なにそれ、映画?」
「違うよ。トランプの」
「……ごめん。今度は俺のほうが知らないや。でも初音ちゃんが教えてくれるんなら、それやろうか」
「駄目だよ。それじゃ、条件が互角じゃないもの」
「あ、そうか」
なんだか知らないが、初音ちゃんはさっき俺が何気なく言ったことを大袈裟に受けとめてしまっている。
フェアな戦いがポリシーの女賭博師、初音!
将来に影響を及ぼしたら嫌だなぁ。
「じゃあね、戦争は!?」
「……知らない」
「ブタのしっぽ!」
なんだ、いきなり聞いたこともないマイナーなのが続々と……。
「……ごめん」
「神経衰弱!」
「あっ、それいいな! それなら二人でも、そこそこ盛り上がるか」
「うん、じゃあ、やろう」
初音ちゃんはにっこりと微笑んだ。
「よっしゃ! んじゃ、二人でいっちょ、神経を衰弱させっとすっか!」
「…………」
初音ちゃんは、なんだか複雑な顔をした。
俺と初音ちゃんは、その後しばらくトランプゲームに熱中した。
畳の上に並べられたカードをめくっていく。
最初のゲームは、初音ちゃんの勝ちだった。
開始後しばらくは互角だったのだが、最後の辺りでたたみかけるような逆転を喫してしまった。
二回目、なんと、これも初音ちゃんの勝ち。
ゲーム展開は似たような感じだった。
始めのうちは余裕しゃくしゃくでカードをめくっていた俺も、三連敗、四連敗と負け続けるうち、徐々に真剣になっていった。
しかし、何度やっても初音ちゃんが勝ってしまう。
そのうち俺は、この神経衰弱というゲームが、ある意味、ゲームらしくないことに気が付き始めた。
勝負時の駆け引きという要素はゼロ。
運も多少影響するものの、やはり最終的には記憶力が勝敗を決してしまう。
要は単純な記憶力の比べ合いなのだ。
もともと注意力が散漫な俺に比べて、初音ちゃんはすごい集中力と記憶力で勝ち続けた。
「……あれっ、これだと思ったのに」
また、俺が外した。
「違うよ。これはこれ。で、これとこれ」
一回前のゲームとすら混同してしまう俺とは違い、初音ちゃんは正確な記憶力でどんどんカードを取っていく。
自分がめくったカード、俺がめくったカードを問わず、全てを洩らさず頭に記憶している。
そしてついに俺は、八連敗というなんとも不名誉な記録を残してしまった。
「強いな、初音ちゃんは」
ゲームの名前通り神経をすり減らした俺は、それと同時にギプアップ宣言をした。
「すごい記憶力だなー」
「えへへ……」
初音ちゃんは照れながら後ろ頭を掻いた。
「根本的に頭がいいのかな」
「そんなことないよー。……だって、テストの答とかはちっとも覚えられないもの。わたしね、昔から文章の意味とか内容とはすぐに忘れちゃうんだけど、物の色とか形とかは、結構簡単に覚えちゃうんだ」
「へぇ、変わってるっていうか……」
「うん、たとえばね、一度会ったことのある人なら、絶対に顔を覚えてるの。でも、名前は思い出せない、そんなのばっかり」
「変な頭だなぁ」
俺が言うと、初音ちゃんは顔をほころばせ、ふふふと笑った。
「だからね、イラストとかの間違い探しは、すっごく早いよ。わたしの特技なんだ」
「……ほう、そりゃま、ひとつの才能だわな」
俺は感心したふうに言った。
「でも基本の頭が良くないから、あんまり長い時間は覚えてられないけど」
初音ちゃんは微笑みながら、ぺろっと舌を出した。
その仕種がとても可愛かった。
「……とにかく、神経衰弱は俺の完敗だよ。もう勝てる気がしないや」
「じゃ、別のことしようよ」
「別のトランプゲーム?」
「ううん、もっと違うこと」
初音ちゃんは目を輝かせて言った。
かれこれ三〇分はトランプで遊んだが、初音ちゃんはまだまだこれからといった感じだ。
まあ、なついてくれるのは嬉しいし、別にすることもなくて暇なんだからいいか。
……と思ったときのことだった。
「ただいま」
玄関からそんな声が聞こえた。
「あっ、梓お姉ちゃんだ」
初音ちゃんが玄関のほうを向いて言った。
梓の声は間違えなかったが、俺が気になったのは、遅れて聞こえた別の声だった。
「おじゃましまーす!」
聞き覚えのない明るい少女の声。
「お友達かな」
初音ちゃんが呟いた。
俺と初音ちゃんは顔を見合わせ同時に頷くと、立ち上がって廊下に出た。
部屋を出て少し行くと、角の手前で梓と会った。
「よう、おかえり」
いつもの調子で俺は声を掛けた。
すると梓は、
「……ただいま」
と、なにやら疲れた顔で応えた。
抑揚のない、溜息混じりの声だった。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
あからさまにくたびれた様子の梓に、初音ちゃんが気遣いの表情を見せる。
「……別にぃ」
梓が複雑な表情をして、後ろを向いたときだった。
「こんにちはーっ! おじゃましてまーすっ!」
飛び抜けて明るい声が廊下中を走り抜け、梓の後ろにいたカールヘアーの女の子が姿を見せた。
短くシャギーカットされた前髪が、溢れ出る明るさによく似合っていた。
梓と同じ制服を着ている。
「……えっとね、こいつは……」
「初めまして、わたし、日吉といいます」
梓の言葉を遮って、少女は自己紹介した。
「梓先輩の後輩です……って、アハッ、先輩の後輩ってのも、なんだかおかしいですよねー?」
少女はそう言って、ケラケラと笑った。
梓は気まずそうな顔でこっちを見て説明した。
「……あっ、えっと、この子ね、ウチの学校で陸上部のマネージャーやってる子なんだ。今日はどうしても家に来るって言ってきかなくてさ、それでつい……」
「そりゃそうですよ!」
後輩が割って入った。
「お部屋を見せてくれるって約束したのは今年の始めですよ! なのに梓先輩ったら、いっつも忙しいとか体の調子が悪いとか言って逃げるんだもん! だからわたし、今日を逃したら後がないと思ったんです!」
随分と大袈裟にものを言う子である。
「……いや、あれは別に逃げてたわけじゃ……」
「いーえ、先輩、絶対にあたしのこと避けてました!こそこそと隠れたことだってあったんだから!」
「そ、それは、たまたま……」
そのとき、女の子の目が突然じわりと涙ぐんだかと思うと……、
「……先輩、あたしのこと……嫌いなんですかぁ?」
後輩の子はそう言って、鼻をすすった。
「だあーッ! そんなこと、ひとことも言ってないでしょうが。嫌いだったら家に呼んだりしないって!」
「……ううっ、本当ですかぁ、先輩?」
女の子はうるうると潤んだ瞳を向けて言った。
「ほ、本当だって」
梓は、何やら気持ち悪い微笑みを浮かべて返した。
女の子の目がきらきらと輝く。
「わ、わかってくれた?」
「う、嬉しいです、先輩!」
そんな梓と後輩のやり取りの前、俺と初音ちゃんは点になった目をぱちぱちと瞬かせていた。
「かおり。あんた、先にあたしの部屋に行っといて。つきあたりの奥から二番目がそうだから」
「はーい! エヘヘ、やった! ついに本邦初公開! 梓先輩の秘密の花園が見れるのね〜!」
「……やめてよ、その言い方」
梓は聞こえないくらいの声でボソッと呟いた。
「じゃ、先におじゃましてまーす!」
後輩の子は軽い足どりでスキップしながら、廊下を歩いて行った。
ぽつんと残された俺たち三人の側を、冷たい北風がヒューと通り過ぎたような気がした。
遠くの方で、後輩の子が部屋のドアを閉めるパタンという音がした。
一呼吸ほど置いて、
「耕一〜っ!」
懇願するような顔で、梓が俺の腕にすがってきた。
「あんたも一緒に部屋に来て〜」
梓は情けない顔をして言った。
「はあ? なんで女の子同士の間に俺が入るんだよ」
「……あたし、あの子、苦手なのよ〜。ねぇ、お願い。いつものスケベヅラであの子にセクハラみたいなことしてさ、とっとと追い返しちゃってよ〜」
「アホか! なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだ!? それに俺のどこがスケベヅラだ!」
「そのものじゃないの。ねぇ、初音?」
「……さ、さぁ、わたしはそうは思わないけど……」
突然振られた初音ちゃんは、ぎこちなく苦笑した。
「何をそんなに嫌がってるんだ。いい子じゃないか。明るいし、素直そうだし、……まぁ、俺はちょっと苦手なタイプだけど、何よりお前を慕ってるみたいだし」
「そこなのよ〜ッ!」
突然、梓が情けない声を出した。
「あの子、あたしのこと気に入ってるみたいなの〜。それが問題なのよ〜」
「いいじゃないか。仲良くしてやれよ。あの子のこと嫌いなのか?」
「……き、嫌いじゃないけど……」
「だったら、いいじゃないか」
「ちっともよくなあぁーーーーいッ!」
梓は、突然大きな声で叫ぶと、はっと我に返って、またすぐ声を落とし、俺たちに近付いた。
そして、ヒソヒソ声で……、
「……あの子、ズーレだって噂なのよ〜〜〜〜〜〜!」
蒼い顔でそう言った。
「ずーれ……ってなに?」
初音ちゃんがキョトンとした顔で訊いた。
「ズーレだよ、ズーレ。レズ。女の子が好きな女の子のこと!」
梓がヒソヒソ声で言った。
「ええ〜ッ! あのお姉ちゃん、同性愛……モガッ!」
驚いて大声をあげた初音ちゃんの口を、咄嗟に梓が押さえた。
「馬鹿ーッ! 聞こえたら、どうすんのおッ!」
梓は目を剥いて(ヒソヒソ声で)怒鳴った。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
そのあまりの形相に、初音ちゃんはヒッと泣きそうな顔になって謝った。
「あたし、なんだか知らないけど、あの子に気に入られちゃったみたいなのよ〜。このままじゃ、あたし、きっとあの子に襲われちゃうわ! だから、お願い! 助けて耕一!」 梓は、泣きそうな顔で俺の目を見つめた。
「……アホくさ。んなわけあるか。だったら襲われたら助けを呼べよ。そんときゃ行ってやるから」
「耕一ぃ〜……、そりゃないよ、助けてよ〜」
梓は再び俺の腕にすがってくる。
「やなこった。こともあろうに、嫌がらせて追い返せだって? はん、テメーでなんとかしろ!」
俺はその場から離れようとしたが、しがみついた梓は、ズルズルと廊下を引きずられながらも手を放そうとしない。
「そこをなんとか〜! あの子が帰るまで一緒にいてくれるだけでもいいからさ〜!」
承諾しないと、梓の奴はいつまでたってもこの手を放しそうにない。
「わかったよ……」
俺は嫌々ながらに頷いた。
「ホント? 恩に着るよ!」
梓はようやく放した手を顔の前で重ねると、片目をつむってそう言った。
「あくまで、一緒にいてやるだけだからな。嫌がらせなんかしないぜ」
一応、念を押しておく。
「うん、うん、わかった、それでもいいからさ!」
溺れそうな梓はワラをも掴もうとしていた。
俺は初音ちゃんのほうを見た。
「ごめん。そういうわけだから、続きはまた今度ってことにしてくれる?」
俺は初音ちゃんの頭にポンと手を置いて言った。
「うん、しょうがないよ。お姉ちゃん、困ってるし」
初音ちゃんは首を傾げて、にこっと微笑んだ。
本当に人のいい子なんだからなー、初音ちゃんは。
そういえば俺は、この子がわがままを言ってるのを見たことがない。
やはり早いうちに両親を亡くしたことが、しっかりした自立心を確立される結果に結びついたのかな。
「じゃあ、ついてきてよ」
梓はそう言って歩き出した。
仕方なく、俺も後についていく。
「お姉ちゃん。お茶……持っていこうか?」
初音ちゃんが訊くと、梓は振り返って、
「いらない、長くなるから」
声を落として、そう言った。
自分の部屋の戸を開けた途端、梓は目の前の光景を見て両目を点にした。
無理もない。
先に部屋へ行かせた後輩の彼女……かおりちゃんが、ベッドの上で寝転がり、布団と枕を抱いて、なにやら恍惚とした表情を浮かべていたのだ。
「あ〜ん、梓先輩の匂いがするぅ〜」
かおりちゃんは枕に頬をスリ寄せて身悶えていた。
俺と梓は数秒間、石のように硬直した。
凍りついた沈黙の中、あ〜んと悶えるかおりちゃんの色っぽい声だけが繰り返される。 やがて、はっと我に返った梓が慌てて走り寄ると、
「ちょっと、やめてよ! 気持ち悪いっ!」
布団と枕を引き剥がした。
「あんっ」
かおりちゃんがピンク色の声を洩らす。
「変態オヤジかッ、あんたは!」
「えっ!?」
かおりちゃんが面を上げた。
「あ、あずさ先輩!? ……って、やだっ、うそっ!? 見てたんですか、今のっ!?」「見てたんですか、じゃないよ! あんた、人の部屋来てなにやってんのよ!」
「……い、いや、その、ちょっと、フカフカのベッドがあんまり気持ちよさそーだったから、つい……」
「だからって、匂いまでかぐなっ!」
「だって、いい匂いなんだもん」
梓はどうしていいか分からずに、頭を押さえて深い溜息をついた。
「……ほ、ほんまもんや」
俺は思わず関西弁で呟いた。
「……それはそうと、先輩のお部屋って、スゴく素敵!もっと散らかってるかと思ったけれど、綺麗に片付いてるし……」
「ま、まあ、マメに掃除してるから……」
「小物のセンスもいいし、可愛いし、それにとってもいい匂いがする!」
「……あ、ありがと」
かおりちゃんはキョロキョロと部屋中を見渡して、あれがあるこれがあると、細かくチェックし始めた。
「あんまりジロジロ見ないでよー」
自分の部屋を物色されてる当の梓は、恥ずかしそうに言った。
「この部屋を見てると、先輩の女らしい部分がよーく分かるような気がします。学校じゃみんな、よく先輩のこと、ガサツとか、女らしさのカケラもないとか、そんなことばかり言ってますけど……」
「……大きなお世話だよ」
ボソリと梓が呟いた。
「でもわたしは、先輩が本当はとっても女らしいコトに気づいてるんだ!」
かおりちゃんは屈託のない笑顔で言った。
……おお、人を見る目はなかなかあるじゃないか。
「いつものお弁当だって、早起きして自分で作ってるんですよね? すごいなあ、尊敬しちゃうなあ!」
「ま、まあ……」
かおりちゃんはその後も、梓のこんなとこがスゴイとか、あんなとこがスゴイとか、とにかく褒め言葉を続けてまくし立てた。
そのうち梓も、次第に悪い気がしなくなってきたのか、かおりちゃんに対する口調が優しくなり、距離も徐々に狭まっていった。
この、かおりちゃんという女の子、決して悪い子ではないのだが、確かにちょっとくせ者っぽい。
「このぬいぐるみ、クレーンゲームの景品ですよね? すっごく可愛い〜!」
「うん、それ取るの苦労したんだよ〜。こいつのこの首のあたりに、こんな感じで引っかけてさ……」
そんな話をする頃には、二人は肩を並べてベッドに腰掛け合っていた。
何気ないトークがもたらす急接近。
いやあ、すごい話術だ。
このまま和やかに時が過ぎていけば、不意をついて「えいっ」と押し倒しても、冗談半分の空気に乗じていっきに最後まで行ってしまいかねない。
これが彼女のテクなのだろうか。
和気あいあいな先輩後輩の会話の中、不意にかおりちゃんが、部屋の隅に座った俺に目を向けて、
「……ところで、あの人さっきからあそこで、いったいなにやってるんですか?」
オクターブの低い声で言った。
「さあ? 暇人のやることは……」
そこまで言って、梓ははっと言葉を飲んだ。
ひきつった俺の眉を見て、すっかり彼女のペースに飲まれている自分に気がついたようだ。
梓は慌てて立ち上がり、俺の側へと駆け寄った。
「あ、紹介がまだだっけ。こいつ、耕一っていうの。あたしの従兄なんだ」
「ふう〜ん、従兄なんですか」
かおりちゃんは薄く目を閉じて、訝しげな顔で俺を睨んだ。
「よ、よろしく〜」
俺は口の端のひきつった笑みを浮かべた。
「……で、その従兄さんが、なんで今この部屋にいるんですか?」
冷たいツッコミ。
俺が返答に困っていると、梓がフォローを入れる。
「あ、いや、折角だからこの機会にお友達になったらどうかなーって思ってさ、あたしが呼んだんだ」
「……そんなとこで、じーっとしてられると、すっごく目障りなんですけど」
め、目障りぃ〜!?
俺は愛想笑いしながらも、ぴくぴくと口の端をひきつらせた。
梓が苦笑しながら、まぁまぁとたしなめる。
「とにかく、なんか共通の話をしようよ。耕一だってあたしたちと似たような歳だしさ、きっと話も合うと思うし……」
「…………」
「…………」
俺はかおりちゃんに微笑みかけたが、彼女はふんっとそっぽを向いてしまう。
話をする余地もない。
耐えかねた梓が、重苦しい沈黙に逆らい、無理からに話題を振ろうと試みた。
「あっ、じゃあさ、最近見て面白かった映画の話でもしよっか? 耕一は?」
「……えーと、そうだな、俺は……」
「わたし、映画見ませんから」
「…………」
「…………」
その言葉はまるで冷たい刃物のようだった。
「……あ、そ、そうなの」
梓のぎこちない笑顔がより一層空気を重くさせた。
「んじゃさ……」
梓はそれでもくじけることなく、いくつかの話題を振ったが、ことごとくかおりちゃんに弾き飛ばされてしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
何度目かの、重苦しい沈黙が訪れた。
一刻も早く部屋から出て行けと、俺に無言の圧力をかけるかおりちゃん。
なんとか場の寒さを取り繕おうと一生懸命な梓。
どうしてここにいるのか、よく分からない俺。
三人とも、誰ひとりとして言いたいことを言わず、無意味な沈黙だけが過ぎ去っていく。
こんな状態じゃ、いつまで経っても埒があかない。
「ねぇ、かおりちゃん。……あのさ」
業を煮やした俺は、このアブナイ少女にはっきりと言ってやることにした。
かおりちゃんがムスッとした顔をこっちに向ける。
「さっき梓が言ってたけど、君って本当に……」
レズなの?
……と訊こうとしたのだが、すかさず横にいた梓が口を押さえたお陰で、俺はモガモガという音しか発することができなかった。
「耕一、あんたっ!」
「なんですか……いったい?」
かおりちゃんが不審な目を向ける。
梓は俺の口を押さえたまま、うろたえた。
「こ、耕一、ちょっと来て!」
梓は俺の手を引き、ドアを開けて廊下に出た。
「あんたっ! 一体なにを言おうとしたの!」
梓は、俺のシャツの胸もとを掴み上げた。
「……なにって、もちろんあの子が本当にレズなのか、それに、お前に気があるのかどうかを……」
「はあ!?」
梓は信じられないといった表情をする。
「あんた正気なの!? そんなこと訊いて、一体誰がはい、そうですって答えるっていうのよ!?」
「いや、行動に釘をさすっていう意味でもな……」
「あたしは、明日からもずっと学校であの子に会うんだよ!? 気まずくなったらどうすんの!」
「……ハハーン? もしかしてお前、あの子とのそんな関係が、実は満更じゃないんじゃないのかー?」
「えっ!?」
「結構、言い寄られて嬉しいとかさー」
「なっ、なっ、なななななななにいってんのよっ!」
俺のひと言に、梓は意外なほど動揺を見せた。
「バーカ、なに赤くなってんだよ。冗談だよ、冗談」
「…………」
「あれっ!? えっ、なんだ? もしかしてホントにそうなのか!?」
「……んなわけ、あるかーッ!」
「ぐはっ!」
梓は俺の首を思いっきり絞めつけた。
「くっ、苦し……い……」
梓はぐいぐい力を込める。
こ、殺されるのか!?
「とにかく、耕一。……あんたには、もうちょっとだけつきあってもらうからね〜」
梓は顔を近づけて、残酷に口もとを歪めた。
「耕一、あんたは適当に時間を見計らって、あたしに腹減ったから飯つくれって言うんだ」
「……なっ、なぜ?」
「あたしはそれを口実にしてあの子に帰ってもらう。回りくどいようだけど、そうでもしなきゃ、かおりの奴、いつまで経っても帰りそうにないからねぇ」
「……そ……それって……結局……この俺に場を濁せってことっすか……?」
「そうだ。嫌ならあんたは、ここで死ぬことになる」
「……し、死にたくない……」
掠れ声で俺が言うと、梓はニヤリと笑ってゆっくり手を放した。
「……ゲホゲホ」
「ほらほら、咳込んでる暇はないよ」
「「鬼だ、こいつは本物の鬼だ。
しかし、やっぱり最後はこうなるんだな。
まったく、嫌な意味では期待を裏切らない奴だ。
「あんた、ちゃんと話を理解したんでしょうね!?」
「腹減った、飯作れって言えばいいんだろ?」
「さり気なく言うんだよ、いいね!?」
俺は渋々と、梓について部屋に戻った。
再び部屋に戻った俺を、かおりちゃんは冷たい視線で迎えた。
彼女にとって、俺はお邪魔虫以外の何者でもない。
「……なんだ。てっきり、気をきかせて出てってくれたのかと思ったのに」
その視線には、もはや憎悪の炎と呼んでも過言ではないものさえ混じり始めている。
「か、かおりぃ〜」
梓は困った顔で苦笑した。
その後もかおりちゃんは、三人共通の話題は徹底的に受け流し、梓が自分個人に振ってくれた話題だけに笑顔で応えた。
この俺とは、何がなんでも会話したくないようだ。
仕方なくこっちが退いて大人しくしていると、次第に二人の会話に花が咲き始めた。
友達の話、部活動の話、好きなアーティストの話、脈絡もなく次々と、様々な話題が飛び交った。
いかにも女子高生らしいかしましい空気に押され、俺は徐々に部屋の隅へと押しやられてしまう。
歳はたった二つしか変わらないが、現役女子高生のパワーには、とても太刀打ちできやしない。
悲しいことに、俺が道端の石ころと化したおかげで部屋の空気はすっかりなごんでしまっていた。
しかし、梓もあんなことを言っていた割には、案外楽しそうにしてるじゃないか。
さっきの言葉と、この笑顔、いったいどっちが梓の本心なのだろう。
このままこっそり抜け出したいところだが、俺にはまだやることがある。
タイミングを見計らい、梓に「腹が減ったから飯を作れ」と言わなきゃならないのだ。 梓はそれを口実にして、この場をおひらきにする。
和気あいあいな空気に強引にピリオドを打つのだ。
かおりちゃんから、さらなる恨みをかいそうだが、これも約束だから仕方がない。
まあ、それに、どうせこの子とは二度と会うこともないだろうし……。
……それにしても梓の奴、普段はズケズケとはっきりものを言うくせに、今回に限っては、なんだか随分と気を使うじゃないか。
もしかして、本当にこの子に気があったりして。
それから少し経って、そろそろいいタイミングかと思ったときのことだった。
……エモノ、ミツケタ。
えっ!?
いきなり耳元でそんな声が聞こえ、俺は慌てて周囲を見回した。
だが、周りには誰もいない。
目の前で、梓とかおりちゃんが、楽しげにお喋りに興じているだけだ。
「なに、どうしたの、耕一?」
キョロキョロ部屋中を見渡す俺が気になったのか、梓が訊いてきた。
「いや、いま、誰か……」
いま、確かに、誰かの声が聞こえた。
エモノ、ミツケタ。
……そんな声だった。
エモノ、ミツケタ。
えもの、みつけた。
獲物、見つけた。
……獲物って何のことだ? 見つけたって?
しきりに辺りを見回す俺を、梓とかおりちゃんは、怪訝そうな顔で見つめていた。
その時だった。
……ドクンッ!
突然、俺の心臓が激しく高鳴った。
ドクン! ドクン! ドクン! ドクン!
な、なんだ、いったい……。
心臓が……、血液を送る胸のポンプが、激しく激しく暴れ始めた。
血液の流れとともに身体の芯が熱くなっていく。
心臓の鼓動に合わせ、手足がびくっ、びくっと振動する。
か、身体がおかしい……。
目に涙が滲み、視界が白く閉ざされていく。
ドクン!
……こ、これはまさか。
ドクン、ドクン!
……いつも夢で見る、あの状態じゃないのか!?
ドクン、ドクン、ドクン!
……なんで、なんでこんなときに!?
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン!
……いま、俺は目を覚ましている状態なんだぞ!?
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン!
……なのに、どうしてッ!?
ドクンッ!!
「……どうしたの耕一、なんか顔色が……」
そんな梓の声は、まるで耳栓越しに聞く音のようにくぐもって聞こえた。
「どうしたの? 気分でも悪「「」
梓が何かを喋ってるのは分かったが、キーンという耳鳴りに遮断されて、良く聞き取れなかった。
なんなんだ、いったい?
なにがどうなってるんだ?
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン!
意識ははっきりとしている。
それもかなり冷静だ。
だが、身体がおかしい。
明らかに異常な状態だった。
「耕一っ!? ねぇ、耕一ってば! しっかり……」
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン!
視界が閉ざされ、耳も聞こえなくなっていく。
おい、梓、そこにいるんだろ!?
助けてくれよ、なあ……!?
外界からの情報を遮断された俺は、自分だけが孤立してしまったという不安感を抱いた。
そのうち、まるで即効性の睡眠薬を飲まされたような強烈な眠気が押し寄せた。
つい先ほどの瞬間まで、はっきりとしていた意識が急速に遠のき、俺はまどろみの海へと引きずり込まれていった。
背筋の凍るような恐怖に駆られた。
まさか、このまま死ぬのではないか。
なにか突発性の発作がおこり、今にも死にかかっているのではないのだろうか。
眠ってはいけない!
眠ってはいけない!!
アズサ、俺を起こしてくれ!
俺の躰を揺すってくれ!
このままじゃ……眠ってしまいそうだ!
眠っちゃ……いけない!
眠っちゃ……駄目……なんだ……。
もう……二度と……戻って……来れなく……。
だが、そんな必死の抵抗も虚しく、眠気は巨大な津波となって俺の意識を包むように覆い隠していった。
どのくらい時間が過ぎ去ったのだろう。
五分?
一〇分?
一時間?
いや、数時間が過ぎ去ったのかもしれない。
俺は、意識だけ目覚めていた。
だが身体は、いまだ深い眠りに落ちている。
……つまり、夢を見ているのだ。
見ながらにして、自らこれを夢だと自覚できる夢を『明晰夢』というらしいが、今見ている夢は、まさにその明晰夢に他ならなかった。
だが、珍しくもなんともない。
最近はいつもこうだ。
そして、見る夢は、決まってあの悪夢だった。
闇の中に、聞き憶えのある肉食獣のような呼吸音が響いている。
憶えがあって当然だ。
それは、『俺自身』が発する呼吸音なのだから。
そう、やはりこれは、いつものあの夢だ。
昨日も、一昨日も、その前の日も見た奇妙な夢。
なぜにかは分からないが、俺は、突然意識を失い、いつもの、あの悪夢を見ているのだ。
朝を待つ夢。
朝が来れば、太陽さえ登れば……。
呪文のように、延々とそれを繰り返し呟く夢。
暗い闇の悪夢。
だが不思議と今回は、いつものような辛さや苦しさは感じられなかった。
いや、それよりもむしろ……。
……ココチヨイ。
えっ!?
そのとき、誰かがそう言った。
……ココチヨイ。
肌に当たる風が、鼻腔をくすぐる匂いが、ほのかな月の明かりが、全てが心地よかった。
だが今、なによりも強く、なによりも大きく、俺の心を満たしているもの、それは……。
……開放感。
躰を拘束する鎖と枷、深く冷たい闇の中に俺を閉じこめる檻、そんな、束縛する全てのしがらみから解放され、俺は今、完全なる自由を手に入れた。
自由!?
いったい、なにが自由だというんだ?
束縛する全てのしがらみから……解放?
なにを言ってるんだ?
この俺が、今まで何に縛られてたっていうんだ!?
……いや、まてよ。
もし、今見ているこれが、いつものあの夢の続きだというのなら……。
……俺は、ついに、理性という『檻』から抜け出し、『形』の定められた世界へ訪れた。
……『こちら側』の住人になったのだ。
……ここには獲物がいる。
……柔らかな肉と脈動する血を持つ『獲物たち』が、たくさん、たくさん、ひしめいている。
獲物!?
獲物ってなんだ!?
たくさんひしめく?
……俺は、いつも見ていた。
……羨ましく、見ていた。
……冷たく、暗い、闇の世界から。
見ていた!?
羨ましい!?
なんだ、なんのことだ!?
……あの世界には、獲物がいない。
……あるのは無限の昏黒。
……それは、お前の作りあげた『檻』だった。
……お前は、自分の心を閉ざすことで、この俺を闇に閉じこめようとした。
俺はお前なんか知らない!
閉じ込めた憶えもない!
……お前の周りには、獲物がたくさんいた。
……手を伸ばせば触れることができる距離に、獲物はたくさんいた。
……たくさん、たくさん、たくさん、たくさんだ。
……そこは、見渡す限りの狩猟場だった。
……俺は羨ましかった、たまらなかった。
……当然だろう? だって俺は……。
……狩猟者なのだから。
しゅ、狩猟……者?
……そして、今、俺は『檻』を抜けだし、逆にお前を支配した。
……いや、……それは違うな。
……俺とお前はひとつになり、本来あるべきもとの姿に戻ったというべきか。
本来……あるべき姿?
……狩猟者の姿に。
俺は指先を唇に寄せ、爪を濡らす赤い液体をぬるりと舌で拭った。
液体はいまだ生温かさを保っており、散華した生命の残り香を感じさせた。
液体は口の中の唾液と混ざり、どろりとぬめる。
俺はそれを、ゆっくりと、音を立てて飲み込んだ。
液体は、素直に胃へと流れず、絡みつくように喉の奥に残留した。
これこそ『血』の味だと、俺は思った。
躰が熱い。
全身が、燃えるように熱い。
俺は興奮していた。
柔らかな肉が破れ、たっぷり詰まった綺麗な臓器がはみ出し、熱い液体が……真っ赤な鮮血が指を濡らす。
恍惚となる瞬間。
脈動していた生命を奪うという快感。
それも、全ての快楽を凌駕する至高の快楽だ。
ペニスが石のように硬くなり、そそり立っていた。
俺は興奮のあまり、いまにも射精しそうだった。
……俺は惨劇のあまり、いまにも嘔吐しそうだった。
……目の前には、人が倒れている。
……歳は三十前後、上下のスーツを着た体格のいい、サラリーマン風の男だった。
……男は微動だにせず、路上にある真っ赤な水たまりの中央で、不自然な格好で横たわっていた。
……男は死んでいた。
……真っ赤な液体は、肉の間から流れ出す大量の血液だった。
……死体は、右肩から左の腰の辺りにかけてを大きく斜めに引き裂かれていた。
……アスファルトの路面には、飛び散った鮮血の跡が傷口から斜め一線にペイントされていた。
……血に混じって、臓器の破片が散らばっている。
……その淡いピンク色の物体を見て、俺はスーパーで売られているパックの白子を思い出した。
……死体の傷口からも、臓器がはみ出していた。
……その臓器の隙間から、小さな泡ぶくの浮いた血が今もなお、ゆっくりと溢れ続けていた。
……胃液が、喉を駆け上がってくる。
……俺は必死に吐き気を押さえた。
……男は殺された。
……殺したのは、この俺だった。
……凶器はない。
……強いて挙げるなら、指先にある爪が凶器だった。
……爪だけではない。
……俺の身体全てが、凶器そのものなのだ。
……いつもに比べ、手脚が鉛のように重かった。
……だが、俺はみなぎる筋肉によって、その重い手脚を軽々と自在に操ることができた。
……そう。
……夢の中の俺は、武器もなしに四肢を振り回すだけで人間を殺すこともできる怪物だった。
……いや、単純に、獣といったほうがいい。
……ライオンや、虎や、熊のような、人間をひと撫でで殺すことのできる、力のある獣だ。
……俺は今、そんな恐ろしい力を持った、血に飢えた一匹の獣だった。
……そんな恐ろしい獣が人の住む町を徘徊し、無防備な人間たちを襲う。
……恐怖に駆られた人間を襲う。
……夢は、現実さながらのリアリティで、おぞましい殺戮の映像を俺に見せつけた。
……背後で悲鳴があがった。
……野太い男の悲鳴だった。
……振り向くと、薄暗い月明かりのなか、ビニール袋を手に下げた若い男の姿があった。
……男は明らかに怯えていた。
……無理もない。
……目の前には、引き裂かれた死体が横たわり、大量の血と臓器の破片が飛び散り、そしてその傍らには、凶暴な獣と化したこの俺の姿があるのだから。
……男の目には、この俺は、いったいどんな姿で映ったのだろうか。
……男は振り向くと、一目散に逃げ出した。
……俺は脚の筋肉を弾ませ、地面を蹴った。
……視界がびゅんと縦に流れた。
……遊園地の過激な乗りものにでも乗っているような気分だった。
……次の瞬間、目の前に男の姿があった。
……走っても数秒かかる距離を、俺は一瞬にして跳躍していた。
……男は息をのみ、両腕で頭を抱えてうずくまった。
……缶ビールの詰まったビニール袋で頭を隠す。
……駄目だ、逃げるんだ!
……俺は叫んだ。
……身体を丸めた程度じゃ駄目なんだ!
……だが、言葉は声にならなかった。
……叫んだと同時に、俺の腕が振り下ろされた。
……ぐしゃり、と嫌な音を立てて、缶ビールと両腕と男の頭蓋骨が一度に砕かれた。
……硬い卵の殻を割ったような感触だった。
……返り血を浴びるかと思ったが、振り下ろした腕があまりにも勢いがよかったため、血はビシャッと真下に飛び散って路面に張りついて、こっちにはほとんど飛んでこなかった。
……ただ、見ると、両腕だけが、ねっとりとした赤い血で濡れていた。
……男はアスファルトの上に崩れていた。
……潰れた頭からドクドクと血が流れだし、ゆっくりと路面に広がっている。
……俺は自分自身がやっていることにもかかわらず、ぶるぶると震えながら泣いていた。
俺は悦楽の中にいた。
生きている生命を、この手で摘み取っていく。
それは最高の快楽だった。
生命は消える瞬間、ぱっと明るく炎を散らす。
それはとても、とても美しい。
俺は生命こそ、この世で最も美しいものだと思っている。
生きるということ、命ということ、それは、とても儚く、神秘的で、だからこそ美しい。
俺の生命に対する価値観は、敬愛を超え、既に崇拝の域へ達している。
そして、その崇拝する生命をこの手でもぎ取る行為こそ、至高の快楽と呼ぶに相応しい。
崇拝するもの、……つまり、自らの神を、犯すのだ。
狩猟。
それは至高の快楽。
……そして、それを味わえる者は、俺のような狩猟者だけなのだ。
俺は死体を踏みつけた。
それはグシャリと潰れ、路面に血の花を咲かせた。
……俺はそんな自分のおぞましい意識に戦慄した。
……これが俺の夢なのか?
……これが、俺の潜在的欲求なのか!?
……生命を弄び、ただ、でたらめな殺戮を行い、自己の欲望を満たしていく。
……それが、俺なのか!?
……俺自身の姿なのか!?
欲望は生物を動かす単純な動機だ。
しかし、単純だが、極めて真理に近い事実だ。
肉食動物は、食料を求めて歩き、水を飲み、獲物を狩って肉を食い、空腹を満たし、そして眠る。
全ては欲望に従っている。
欲望に忠実であるということは、生物が生物らしくあるということだ。
……だが、人間は違う!
……他の生物とは、違う!
そうだ、だが、人間は違う。
人間は特殊な生物だ。
珍しい生物なのだ。
爪もなく、牙もなく、自分の身を守るちからもないどころか、裸では生きていくことすらできない不完全な生物だ。
弱く、脆く、すぐ病気になるその不完全な生物が、今は繁栄し、増殖し、完全な生物たちを滅ぼし、自然を喰い潰している。
この星は不完全な生物が支配者となっている。
だが、俺は人間が好きだ。
生命だからだ。
人間は不完全な生物だが、生命を持っている。
弱く、脆いが、美しい生命を持っている。
人間が生命の終わりとともに散らす炎は、地球上のどんな生物よりも美しい。
だから……。
獲物には、うってつけの生命なのだ。
……そのとき、背後で「ひっ」と息をのむ小さな声が聞こえた。
……俺は、ゆっくりと振り向いた。
……そこには、学生服を着た女子高生の姿があった。
……その子を見たとき、俺は、全身が凍りつくような気持ちになった。
……その子は、俺の知っている女の子だった。
そう。
もともと俺は、この女の匂いを追ってきた。
ほんの少し先回りをして、待っていたのだ。
この女が、今夜の狩りの標的だった。
女は声にならない悲鳴をあげ、慌てて振り向くと、全力でその場から逃げ出した。
俺は女を追った。
息をひとつする間もなく、俺は女に追いついた。
気配を察したのか、女が首を後ろに向けた。
すぐ目の前に俺がいた。
女は顔をひきつらせ、再び甲高い悲鳴をあげた。
恐怖で膝が笑い、つまづいて、冷たいアスファルトの上に倒れた。
その悲鳴に気付き、近くにいた二人連れの男たちが振り返った。
男たちは、俺を見て目を大きくした。
俺がそちらに身体を向けると、男の一人はヒイッと短く悲鳴をあげて背中を向け、走って逃げ出した。
取り残されたもう一人も慌てて振り向くと、全力でその場から逃げ出した。
俺は、ひとまず女は放っておいて、男たちの背中を疾走した。
……恐ろしい速さだった。
……車やバイク以上の、尋常ではない速さだった。
……目にゴミが入らぬよう、俺は眼を細めた。
……加速によるものすごい重力を全身に感じた。
……俺は、一瞬で男たちに追いついていた。
……俺は逃げる二人の男のうち、片方の頭を背後から鷲掴みにし、身体を持ち上げた。 ……掴まった男が悲鳴をあげると、もうひとりの男も恐怖にひきつった顔で振り返った。
……俺は、もうひとりの男が見ている前で、掴まえた男を地面に叩きつけ、その顔面を潰した。
……見ていたほうの男が、ろれつのまわらない舌で、友人の名を叫んだ。
……骨の砕ける音が、血の吹き出す様が、においが、現実としか思えないリアリティを帯びていた。
……俺は、泣いていた。
今、またひとつ、生命が明るく炎を燃え上がらせ、そして華々しく散っていった。
残されたもう一人の男は、恐怖のあまりに錯乱し、何やら訳の分からぬ奇声を発していた。
恐怖に怯える生物……その生命。
俺は真上から腕を振り下ろし、その男の頭部を叩き潰した。
至高の快楽。
俺は絶頂感を味わっていた。
俺は、生命を失い肉と化したふたつの死体を両肩に担ぎ、女のもとへ戻った。
……時間にして、ほんの数秒間に過ぎなかった。
……彼女はいまだ、地面に座り込んでいた。
……恐怖のせいで、四肢に力が入らないのだ。
……駄目だ、逃げて、逃げるんだ!
……俺は必死にそう叫んだ。
……だが声は、彼女、……ついさっきまで俺の目の前にいた彼女……かおりちゃんには届かなかった。
……かおりちゃんは恐怖におののいていた。
……膝の力を失い、地面に尻をついたまま、ずるずると腕の力だけで後ろに這っていく。
……かおりちゃんは金網に行き当たった。
……だが、それに背をつけてもなお、かおりちゃんは後退を止めようとしなかった。
……弱々しく首を左右に振っていた。
……かおりちゃんは、明らかに、恐怖のため思考力が低下していた。
俺は担いでいたふたつの死体を投げつけた。
死体は派手な音をさせて女のすぐ側の金網にぶち当たり、ひとつは地面に落ちて転がり、もうひとつは女の身体に覆い被さった。
「ひいーッ!」
女は恐怖で顔をひきつらせ、縮みあがった。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
やがて女は泣き出すと、同時に失禁した。
狩猟は極度の性的興奮をもたらす。
ゆえに狩猟後は、女を抱きたいという激しい衝動に駆られる。
この性的興奮が冷めやらぬうちに、俺は、この女を激しく犯すことにした。
この女からは、俺と同じ、狩猟者の匂いがする。
この世に残された、数少ない同族の匂いだ。
恐怖で震え、尿で下半身を濡らした女に、俺はゆっくりと手を伸ばした。
俺の指が身体に触れると、女は糸が切れたように、カクンと失神した。
5・現実の夢
薄暗い部屋の中で、俺は目を覚ました。
布団の上だった。
身体中に珠のような汗を浮かべていた。
俺は上体を起きあがらせると同時に、手で口もとを押さえ、廊下へ飛び出した。
廊下の戸を開け、頭を庭に出し、そこで吐いた。
何度も、何度も、吐き続けた。
胃の中のもの全てを吐き出し、胃液すら出なくなると、俺は身体を抱えて小さくうずくまった。
身体から震えが消え去るまで、うずくまっていた。
やがて、ようやく落ち着きを取り戻した俺は、部屋に戻って、布団の上に寝転がり、しばらく放心状態で天井を見つめていた。
時計の針は午後十時を回っていた。
梓の部屋にいたのが六時頃だったから、たっぷりと四時間ほど、俺は意識を失っていたらしい。
……意識を失う。
そうだ、俺は突然気分が悪くなり、そのまま意識を失ったんだった。
なんだったんだろう、あれは。
癲癇の一種みたいなものだろうか。
こんなふうになったのは生まれて初めてだ。
いや、生まれてからの二〇年間、意識を失ったことも今回が初めてだ。
長風呂して、気分が悪くなったときに似ていた。
もっとも、その何倍も気分が悪かったが……。
どこか体に悪いところでもあるんだろうか。
だから、あんな気味の悪い夢を見たんだろうか。
そういえば、昨夜も、その前の日も、さらにその前の日も、同じような悪夢を見ている。
もしかして、身体の異常が悪夢となって現れているのかもしれない。
向こうへ帰ったら、一度、病院へ行ってみようか。 精密検査を受けたほうがいいかもしれない。
それにしても、なんて夢を見たものだ。
内容自体は、記憶の片隅にあるホラー映画かなにかの映像と、最近の記憶が混ざり合ったものだろうが、まさか夢の中で、殺人を疑似体験させられるとは思いもよらなかった。 最初から意識的にこれは夢だと割り切っていたからまだしも、そうでなければ……。
再び脳裏に、夢の映像が過ぎる。
獣、狩猟者、爪、獲物、血、肉、死体……。
「うっ!」
胃が縮み、酸っぱい胃液がこみ上げてくる。
俺は必死に吐き気をこらえた。
とてつもなくリアルな夢だった。
見る、聞く、におう、それに触る感覚まで、現実としか思えないリアリティを帯びていた。
あんなはっきりとした夢を見たのは初めてだ。
統計では、夢の大半は見るだけの夢がほとんどで、ときどきそれに聞く夢が混じったりもするらしいが、においや触覚が伴う夢というのはごく希なケースなのだという。
そう考えると、あれは夢の域をこえた夢だった。
脳は、覚醒状態に近い働きをしていたことだろう。
というものの、つい先ほど会ったばかりのあの子、かおりちゃんが登場する節操のなさはまさに夢らしいところだ。
まあ、それほどにあの子の印象が強烈だったということなのだろうが……。
そういえば、かおりちゃんはどうしたんだろうか。
もう十時を回ってるし、きっととっくの昔に帰ったに違いない。
他のみんなはどうしてるんだろう。
こんな時間じゃ、夕食は終わっちまっただろうな。
千鶴さんは帰ってきただろうか?
楓ちゃんは?
俺は、深く息を吐いてから立ち上がった。
「「千鶴さんに会おう。
今の奇妙な夢についての相談もしたかったし、それとは別に彼女に言っておきたいこともあった。
昼間の警察の一件のことだ。
親父の事故が、実は誰かが仕組んだ計画的犯行かもしれないだなんて、そんないきなり降って涌いたような話をあまり深刻に考えないよう忠告したいのだ。
警察の前では冷静な素振りを見せていたが、気弱な千鶴さんのことだ、本当はかなりのショックを受けたに違いない。
あのときも、表情は動揺を隠しきれていなかった。
実の息子であるこの俺の口から言うのもおかしな話だが、ほんの少しでも千鶴さんの心の負担を軽くしてあげられればいいと思った。
部屋を出た俺は、取りあえず居間へ行ってみた。
だが、そこには誰も居なかった。
テーブルに、茶碗にお椀、それに箸がひと揃えずつ置いてある。
俺の為に残しておいてくれてあるのだろう。
だけど今はあの夢のせいで、まだ食欲がなかった。
俺は居間を出て、千鶴さんの部屋へ行ってみることにした。
彼女たち姉妹の部屋は四部屋とも同じ廊下にあり、庭と向かって横一列に並んでいる。 覚えやすいことに手前から初音ちゃん、楓ちゃん、梓、千鶴さんと、歳の若い順になっている。
千鶴さんの部屋は、一番奥のつきあたりがそうだ。
だから彼女の部屋へ行くためには、妹三人の部屋の前を通ることになる。
初音ちゃんの部屋の前を通り、楓ちゃんの部屋の前を通ろうとしたときのことだった。「……今日ね」
楓ちゃんの部屋からそんな声が聞こえ、俺はそこで立ち止まった。
声は千鶴さんのものだった。
なんだ千鶴さん、楓ちゃんの部屋にいたのか。
ノックしようと、握った手を持ち上げる。
だが「「。
「今日、刑事さんが来たわ」
そんな千鶴さんの声を聞き、俺は思わず、その手を止めてしまった。
いけないことだと承知の上で、聞き耳を立てる。
「叔父さまの事故を、自殺か、もしくは他殺の疑いで再調査してるっておっしゃってたわ。鑑識の結果ね、そんな疑いが、いくつか浮き出てきたらしいの」
いったい誰と話してるんだ。
そんなことを疑問に思い、すぐに俺は自分の間抜けさに対し苦笑した。
「「楓ちゃんに決まっているじゃないか、ここは彼女の部屋なんだから。
「……お酒は飲む方だったかとか、睡眠薬のこととか、色々と質問されたわ」
淡々とした抑揚のない口調だった。
それにしても千鶴さん、あのとき俺に『妹たちにはまだ話さないで下さい』とかなんとか言ったくせに、自分からペラペラと喋っちゃってるじゃないか。
とくに楓ちゃんには言わないで欲しいような口振りだったくせに……。
俺はそのことも含めて言ってやろうと思い、握った手でノックを……。
「……多分、警察は、私のことを疑ってるんだと思う。はっきりとは言わなかったけど、刑事さんの目がね、『あなたがやったんじゃないんですか?』って、そう言ってたの」
感情のこもっていない話し方だった。
意外な言葉を聞き、結局俺はドアをノックすることができなかった。
握った手を持ち上げたまま、止まってしまった。
「……私は、そんなこと言われても全然平気。だって、今までだって、さんざん同じようなこと言われてきたもの。会社の重役の人たちも、社員の人たちだって、みんな言ってるわ。今回の事件で、この私だけが得をしたって。もちろん、直接私に言うような人はいないけど、それでもやっぱり……聞こえてくるの」
千鶴さんはそこで、くすっと笑った。
「……可笑しいよね。あんな会社、私たちにとっては、叔父さんの100分の1ほどの価値もないのにね……」
「「千鶴さん。
「……でもね、みんながそう思うのも当然だと思うの。他人の目から見ると、今回の私の社長就任、あまりに都合よく見えるものね。一連のことがまるで最初から仕組まれてたみたいに。そうでなくても、全然仕事の知識もない私がいきなり代表になったんだもの、これまでずっと一生懸命働いてきた人なら、そんな悪口も言いたくなると思うわ」
語尾は明るさを装っていたが、俺はそんな千鶴さんが随分と無理をしているように思えてならなかった。
「そんな噂も囁かれているんだもの、警察が真っ先に私を疑うのは当然のような気がする。だからなんとも思わなかったの。でもね、ただひとつだけつらかったのは「「」
千鶴さんは声を落とした。
「……たまたま、そのときそこに、耕一さんがいたことなの。できれば耕一さんには、この事は知って欲しくなかった……」
えっ!?
「……耕一さん、あのとおりの優しい人だから、きっと今まで以上に、私たちに気を遣ってくれると思うの。彼、自分では気付いていないようだけど、随分と精神的ストレスを溜めてるみたい。ここ最近ずっと悪い夢を見るって言ってたし、今回、突然倒れたのもそれが原因のような気がするの。……疲れてるのよ」
ストレス!?
俺が!?
例の悪夢やさっきの昏倒は、全て精神的ストレスが原因だっていうのか?
そんなはずはない。
ストレスを溜めるほど彼女たちを気遣ってるつもりはないし、親父の事故でそれほどのショックを受けた憶えもない。
自分では気付いていないようだけど……だって?
そんなはずは……。
「もしかしたら、全く別の原因があるのかもしれないけど……」
千鶴さんは、そこでしばらく無言になった。
「……でも、この一週間だけは、そんなこと気にせず、心からリラックスしてもらいたい。その為にみんなで彼をもてなしたいの。……せめて、せめて、この一週間だけは「「」 俺は深く静かに息を吐きながら、持ち上げていた手を下ろした。
とても今は、部屋の中に入る気にはなれなかった。
そのまま、息を三つするほどの沈黙があった。
「……それでね、楓。あなたにお願いがあるの」
千鶴さんは言った。
「もっと自然な感じで、耕一さんに接して欲しいの。耕一さん、特にあなたに一番気を遣っているわ」
「……千鶴姉さん、私……」
そのとき初めて、楓ちゃんが口を挟んだ。
だが千鶴さんは、小さく聞き取りにくいそんな彼女の声を遮って続けた。
「……分かってるわ。……あのことを話したのは、あなただけなんだから。……あなた素直だし、隠しごとをするのはつらいでしょうけど、だからって彼を避けるのはやめて欲しいの……」
「…………」
なんの話をしてるんだ?
どうやら俺のことらしいけど。
隠しごとって、いったい……?
「とにかく耕一さんが、あなたのこと気にしてるのは間違いないわ。……梓や初音みたいに笑えないというのなら、無理して笑わなくたっていい。……でもせめて、せめてもう少し、耕一さんの側にいる時間を多くして欲しいの」
「…………」
「……耕一さんね、あなたに嫌われてると思っているみたいなの。……本当はそんなことないんでしょう?」
わずかな空白の後、千鶴さんは言った。
「……そうよね、だったら、姉さんの言うとおりにしてくれるわよね? ……うん、いい子ね、楓」
俺は、聞いてはいけない話を聞いてしまったような気がした。
そしてこれ以上この話を聞かないよう、一刻も早くこの場を離れようと思った。
二人の会話にはいくつかの疑問点もあったが、それも含めて、全てを忘れなければならないと、俺は自分に言い聞かせた。
居間に行き、テーブルに並べられた食器の前に座って、あれこれと色々なことを考えていると、それからしばらくして、千鶴さんがやって来た。
「耕一さん、ここに居たんですか」
千鶴さんがホッとしたような声で言った。
「ええ、さっき目が覚めて。どうかしたんですか?」
俺は何食わぬ顔でそう言った。
「お部屋を見に行ったら、もぬけの殻だったから……。お身体の具合、どうです?」
千鶴さんは優しい声でそう言うと、膝を曲げて俺の横に座った。
「いや、もうすっかり。寝不足で気分が悪かったんだけど、ぐっすり寝たおかげで治ったみたい。……これも変な夢のせいなんだよなぁ……」
俺はそんな適当なことを言った。
「耕一さんが倒れたって聞いて、私、慌てて会社から戻ってきたんです」
「えっ!?」
「お医者さんに診てもらおうと思ったんですけど……」
「いっ、いいですよ、そんな大袈裟な」
俺は慌てて言った。
「……すみません。なんだか大騒ぎさせちゃったみたいで。でも、すっかり元気になりましたから。今だってもう、腹が減っちゃって……」
それは嘘だった。本当は全然食欲がない。
「あっ、じゃあ、今すぐご飯の支度しますね」
千鶴さんはそう言うと、慌てて立ち上がった。
「ええ〜っ!? 千鶴さんが!?」
「……そうですよ。どうかしました?」
「い、いや、別に……」
そのとき、
「耕一お兄ちゃん、身体の方はもういいの!?」
やって来たのは初音ちゃんだった。
「うん、もうすっかり良くなったよ」
俺は少し大袈裟な笑顔で応えた。
「あっ、丁度いいわ。初音、悪いけど、梓に耕一さんのご飯の用意をしてって言ってきて」
千鶴さんが言う。
「うん、わかった!」
初音ちゃんは大きく頷くと、やや駆け足気味に部屋を出て行った。
俺は千鶴さんの料理を食べずにすんだことに密かに胸を撫で下ろした。
「……とにかく、耕一さんが元気になって良かった」
それを知る由もなく、千鶴さんは目を細め、優しく俺に微笑みかけた。
あたたかい眼差し。
……千鶴さんが俺に隠してることって、いったい……。 ふと、そんなことを思いだし、俺は慌ててその思考を追い払った。
少しして、廊下の向こうから足音が近付いてきた。
「耕一ッ!? 大丈夫なの!?」
騒がしいのは、もちろん梓だ。
その後ろには初音ちゃんと、それに楓ちゃんの姿もあった。
楓ちゃんは相変わらず無表情で、目線も伏せたままだったが、それでも積極的にこの場に来てくれたことを俺は嬉しく思った。
少しは互いの距離が縮まったかもしれない。
「あのとき、あんたが突然倒れたときは、あたし本当にびっくりしたんだから〜。……あのあとすぐ、かおりに帰ってもらって、それから電話で千鶴姉呼んでさ、もう初音と二人で焦っちゃって……」
「わりぃ、わりぃ。でも、もう全然大丈夫だからさ」
俺はそう言いながら笑顔を作った。
その後、俺は梓が作ってくれた夕飯を食べた。
食欲のなさを料理の味が上回り、俺は出されたものを残さず綺麗にたいらげた。
食事をする間、千鶴さんも、梓も、初音ちゃんも、それに楓ちゃんも、ずっと付き合ってくれた。
母さんが死んでからこれまで、ずっと一人暮らしを続けていた俺は、照れくさい話だが、家族の温かさに対し、ちょっとした感動を覚えていた。
食事が終わると千鶴さんは、俺が大丈夫だと言っているにもかかわらず、今日はいつもより早く休むようにと、すすめてきた。
俺は素直にその言葉に従い、風呂に入ってさっぱりしてから、寝所についた。
またあの夢を見るのではないかと不安になったが、身体が疲れていたのか、意外にも、俺は布団に入ってすぐに深い眠りに落ち、そのまま朝まで、ぐっすりと眠った。
その夜は、例の夢は見ずにすんだ。
朝。
その日も前日に引き続き、心地よい澄み渡った空が広がっていた。
だが、こんなすがすがしい快晴の日和とは裏腹に、この市内では、日本全国を賑わせる大事件が発生していた。
俺が最初にそのことを知ったのは、テレビで流れる民放のニュース番組でだった。
その日の朝は、身体を気遣ってゆっくりと眠らせてくれたのか、「明日はもう起こさない」と言った梓が宣告通りにそれを実行したのか、誰も俺を起こしには来なかった。
それでも、昨日までの騒がしい朝がすっかり習慣化しているらしく、俺はいつもの時間にごく自然に目を覚ました。
着替えてから部屋を出て、トイレで用を足し、洗顔を終え、居間へと赴いた。
そこで、俺はそのニュースを見たのだ。
梓と初音ちゃんが向き合うようにテーブルを囲んで座り、朝食を取っていた。
二人は黙々と手と口を動かしながら、食い入るようにテレビのニュース番組を見ていた。
千鶴さんと楓ちゃんの姿はない。
「なんだ、二人とも。行儀が悪いなあ」
俺が言うと、二人は同時にこっちを見た。
「あ、耕一お兄ちゃん、おはよう」
初音ちゃんは微笑んでそう言った。
「ねぇ、スゴイよ、大事件だよ」
初音ちゃんはそう言うと、再びテレビのほうに視線を移した。
テレビでは、見覚えのある顔の女性リポーターが、中継先から何やら興奮した声で喋っている。
「大事件って?」
訊きながら、俺は座布団の上に腰を下ろした。
「人が死んだんだってさ、ここのすぐ近くで。それもたくさん」
「四人もだよ」
梓が言い、初音ちゃんが口を挟んだ。
「すぐ近くって……」
「隣駅だよ。電車で三分くらいのとこ」
梓が言う。
「そんな近くでか。事故か何かか?」
初音ちゃんが首を振った。
「ううん、動物が暴れてるんだって」
「動物?」
「うん、動物が町に紛れ込んで、人を襲ったの」
「だから、それはまだはっきりとは分かってないってさ。とにかく殺人だよ、殺人。人間が殺されたんだ。殺人事件だよ」
今度は梓が口を挟んだ。
「殺人事件?」
「そうさ、それも無差別殺人だよ。通り魔みたいな」
梓は頷いて応えた。
「でも人間の力じゃこんなスゴイことできないって、熊や虎くらいの力がなきゃ無理だっていってるし……」
初音ちゃんがちょっと頬を膨らませて言った。
「でも、だからって、こんなとこに熊や虎がいるわけがないだろ?」
「ううん、わかんないよ。どっかから逃げ出して来たのかもしれないし……」
「動物のものらしい足跡は残ってないって、テレビでも言ってるじゃないか」
梓と初音ちゃんは勝手な論争で盛り上がっていく。
よく話が見えない俺は、とにかく事件の内容を把握しようと、テレビ画面に集中した。 カメラのフレームは、遠巻きに、あわただしい現場の光景をとらえていた。
その映像を見た瞬間、俺は全身の神経が逆立つほどの衝撃を覚えた。
映っている景色に見覚えがあったからだ。
同時に俺の脳裏におぞましい殺戮の映像が蘇った。
そうだ、この景色は……。
それは昨夜、俺が化け物になって大暴れした、あの悪夢で見た町の景色に他ならなかった。
「被害現場から、中継でお伝えします。無惨な状態で発見された四人の被害者の遺体ですが、警察側の発表によりますと、そのうち三名は、頭をものすごい力によって強打され『頭蓋骨陥没』、別の一名は大きな爪のようなもので胸から腰にかけてを、……こういうふうに、斜めに引き裂かれ、地面にうつ伏すような遺体で発見されたということです。さらに路面には、被害者のものと思われる血痕が二〇メートルほど離れた地点で発見されており……」
俺は瞬きさえ忘れて、画面を見入っていた。
自分でも気付かぬ間に身体が小刻みに震えていた。
歯と歯が当たって、ガチガチと鳴っていた。
……ゆ、夢じゃなかった?
……あれは、あれは夢じゃなかったのか?
……あれは現実だったのか!?
「……警察側は以上のことから判断し、今回の事件は、凶暴な大型動物の仕業ではないかと想定し、その動物が、まだこの近くを徘徊している恐れもあるとして、周囲の住人に注意を促すと同時に、目下全力をあげての捜索を行っています。しかし一方では、現場からは動物のものとおぼしき足跡は一切発見されておらず、凶悪な殺人犯が、特殊な凶器を使用して行った犯行であるという見方もできるとして……」
心臓が早鐘のように激しく鳴り、全身に汗が浮かび始めた。
喉の奥が乾き、全身に寒気が走る反面、手足の先が火照るように熱くなる。
……この俺がやったのか?
……この俺が犯人だっていうのか?
……俺が、俺が殺したのか?
……だ、だったら、だったら俺は、かおりちゃんまでをも……。
「やだなあ、恐いなあ。どっちにしても危険なことにかわりはないしなあ……」
梓が言った。
「あっ! そういえば、かおりの奴、確かこの辺りに住んでるんだっけ。……あいつ、大丈夫かなー?」
梓が冗談っぽく言って笑った。
だが、それはすぐに冗談ではすまされなくなった。
「……続報です! ただいま新しい情報が入りました。どうやら昨夜、現場からは、亡くなった四人の被害者とは全く別に、学生のものと思われる鞄が発見されていたとのことです。内容物から確認したところ、その鞄は、付近に住む女子高校生、日吉かおりさん一七歳のものと特定され……」
「えっ!?」
「……あっ、梓お姉ちゃんっ!」
梓と初音ちゃんは、同時に、テレビ画面に釘付けになった。
「……日吉かおりさんは昨夜、学校から自宅に戻らず、両親は、警察に対し捜索願を出していました。警察は彼女がこの事件の第五の被害者である可能性も強いと見て、現在全力で彼女の捜索に……」
「ちょ、ちょっと、ちょっと。これって、同姓同名? それとも……?」
まるで、テレビ画面にからかわれているかのような表情で、ただ、ぎこちなく笑う梓。「……あ、梓お姉ちゃん」
動揺し、視線の定まらない初音ちゃん。
「それとも、まさか、本当に……」
梓が瞬きを繰り返した。
それ以上、二人の顔を見たくはなかった。
俺は、テレビに集中する二人が何らかの反応を示すより早く席を立ち、飛び出すように居間を出た。
「こ、耕一お兄ちゃん……」
初音ちゃんが俺を呼んだが、その声はキーンという耳鳴りに重なってよく聞き取れなかった。
震える膝で廊下を走った。
とにかく遠くへ行きたかった。
あんな二人の反応をすぐ脇で見て、耐えられるわけがなかった。
なぜなら「「。
視界が滲んで、よく見えなくなった。
……あれは、すべて俺がやったことなのかもしれないからだ。
屋敷を飛び出した俺は、そのまま例の殺人現場への道を急いでいた。
是非とも、この目で現場を見ておかねばならないと思ったからだ。
自分の中にある様々な謎と疑問を少しでも解決できれば……、そのことだけが俺をつき動かしていた。
昨夜見た悪夢。
見ず知らずの男を無惨に殺したところから始まったその夢の中で、俺はさらに通りすがりの男三人を惨殺し、そして、恐怖で震えおののくかおりちゃんを壁の端にまで追い詰めた。
血にまみれた手をゆっくりと伸ばすと、彼女は意識を失って地面に崩れ「「、夢はそこで終わった。
だが、それは全て実際の出来事だった。
夢じゃなかったのだ。
現実に、四人の男は遺体となって発見され、かおりちゃんは行方不明になっているのだ。
そして俺は、事件の一部始終を知っている。
予知夢?
テレパシー?
それとも、いまもまだ、夢の続きを見ているのか?
現実を逃避すれば、様々な発想が浮かぶ。
単なる偶然。
そう言ってしまえば、それで全てが解決する。
だが、そんな簡単にすまされる問題ではない。
もしも、もしも現実に俺がやったのだとしたら?
眠った俺が、夢遊病者のように夜の町に繰り出し、そこで犯行を行ったのだとしたら? 俺の中に潜むもう一人の俺が、この俺という主格の意識を押さえ込んで表の世界に現れたのだとしたら?
二重人格。
夜毎夢見る殺戮の衝動。
夢は、無意識の自分を映す心の鏡だという。
ならば、確かに俺の心の奥底には、人を殺したいという欲望が存在していたことになる。
あれこそ、抑圧された精神の裏側に潜む真実の俺の姿なのだ、と説明できなくもない。 だとしたら、たとえこの『俺』が眠っていたとしても『そいつ』が目を覚ましていた可能性もあるのだ。
心臓が、ドクドクと激しく動いていた。
俺は意識を振り払うかのように頭を振った。
とにかく、今は確認しなければならない。
もっといろいろ、この目で確認したい。
テレビ画面に映っていた場所が、本当に夢で見たあの場所と同じ場所なのか。
被害者の遺体があった位置は、夢と同じかどうか。
俺はとにかく、現場への道を急いだ。
電車でひと駅、といっても都会の路線とは違い、結構な距離がある。
俺は長い待ち時間にイライラしながらも、ようやく来た電車に乗り、わずか三分ほど揺られた。
目的の場所は、駅を離れ、少し歩いたところにある公園の付近だった。
回転するたくさんの赤色灯が、遠くからでもよく目立ち、すぐにそこがそうだと分かった。
俺はさらに近付いた。
数台の白黒のパトカーは、人混みに埋もれるように停車しており、それに混じり、覆面パトカーと思える車が二台と鑑識のワゴンも止まっていた。
テレビの中継車もあり、現場は慌ただしかった。
人垣の向こうで、時折カメラのフラッシュが眩しく輝いている。
俺は辺りを見渡した。
そこは、やはり夢で見た光景に間違いなかった。
大きな公園の沿いの道。
普段は人通りも少ないが、今はたくさんの野次馬でごった返している。
記憶の糸を手繰って街灯の位置を思い出し、そこに目を向けてみる。
記憶は確かで、やはりそこには街灯があった。
夢じゃない。
やっぱり、夢じゃないんだ。
再び、俺の心臓の鼓動が早くなっていく。
俺は人混みをかき分けて前へ出た。
現場には、大きく二〇メートル四方ほどに渡ってロープが張り巡らされており、その一角ではいまだ現場検証が行われていた。
様々な角度から現場写真を撮る鑑識員のカメラと、マスコミ取材陣のカメラが、せわしなくフラッシュを瞬かせている。
遺体は昨夜のうちに回収され、今はその位置を記るす人型の絵が、アスファルトの路上にチョークで描かれていた。
手前にひとつ、離れてひとつ、さらに大きく離れてふたつ。
それぞれアルファベットが入ったプラスチック版が点々と置かれていた。
どれも、俺が夢で殺した場所に間違いなかった。
ロープの周りには、テレビカメラやマイクを持ったリポーターたちの群がいくつかあり、そのひとつは、今まさにオンエアの真っ最中だった。
Tシャツにジーパンといったラフな格好のスタッフに囲まれ、華やかなスーツを着た女性リポーターが、テレビカメラに向かってなにかを喋っている。
野次馬たちの視線は、そこに集中していたが、俺はそんなことには関心を示さず、ただ、ロープの内側にだけ集中した。
そこには、ふたつの見知った顔があった。
昨日、屋敷を訪れた刑事たちだ。
彼らは鑑識から少し離れた場所にいて、なにやらと話をしている。
年長の「「確か長瀬という名前「「の刑事が、若いほう「「こっちは確か柳川という名前だった「「に、なにかの指示を出すと、柳川刑事は頷いて鑑識の現場の方へと走っていった。
残った長瀬は、まわりにいた制服警官を呼び寄せ、別の指示を出していた。
そこへ、さらに二人の私服刑事が現れた。
彼らは緊張した表情で長瀬に敬礼した。
少なくともその二人の私服刑事よりは、長瀬の方が目上といった感じだ。
とぼけた感じのおっさんだが、長瀬は刑事より階級が上の、警部補か、警部なのかもしれない。
俺は目の前の光景と夢の記憶を重ね合わせていた。
うろ覚えで曖昧だった夢の記憶は、視覚的イメージを伴って、さらにリアリティを増していた。
なま暖かい夜の風。
両手に残る骨を砕く感触。
肺にこびりつくような血のにおい。
全てが、鮮やかに蘇ってくる。
殺人の記憶。
緊張で横隔膜が震え、うまく呼吸できない。
俺は自分の五感すべてが、見えない壁に閉ざされていくような錯覚を覚えていた。
そのときだった。
「はーい! どいて、どいてっ!」
カメラを手にしたマスコミ関係者らしい女が、強引に俺の身体をかき分けて前に出てきた。
人形のように突っ立ったまま、ぼうっとしていた俺は、女に弾かれ、体勢を崩してよろめいた。
「うわっ!」
思わず俺は、その女の身体に掴まったが、もつれた脚はもはや修正がきかず、結局二人まとめて、絡まるように地面に倒れる結果となった。
女は尻餅をつき、俺はそれに被さって倒れた。
「痛ッ!」
女が呻いた。
俺は慌てて起き上がろうとしたが、さらに後ろから誰かが押して、再び女の上に身体を落とした。
「ちょ、ちょっと、あんた! 早くどきなさいよ!」
女は、自分のせいでこうなったという自覚がまるでないのか、膝で俺の腹を蹴った。
「ぐッ!」
それはきれいに鳩尾に入り、俺は短く呻いた。
「……くくっ……いってぇ〜」
俺は、蹴りの入ったあたりを手で押さえつつ、
「そっちが悪いんだろッ!」
と喘ぐような声で怒鳴った。
だが、女はやはり自覚がないらしく、
「なに言ってんのよ! なんで私が悪いのよ!」
そう言い返してくる。
「いいから、早く立ちなさいよ! 重いんだから!」
女はそう言って、自分の上に覆い被さった俺の身体を強引に振り払った。
立ち上がった俺が、ひとこと文句を言おうと、女を睨み付けたときだった。
「……あ、あんた」
俺はその顔に見覚えがあり、言葉を飲んだ。
「……あッ!」
向こうも俺の顔を見て驚いた。
「……あんた、昨日ウチに来た雑誌社の……」
「……そういうあなたは、柏木さんの……」
見覚えのあるレイヤーボブにラフなファッション、猫のようなつり目。
俺より三つ、四つほど年上の、そのお姉さんの名前は、確か『相田響子』とかいったはずだ。
「……響子さん、だっけ?」
「……耕一くん、で合ってるわよね?」
俺たちは同時に名前を確認し合い、同時に頷いた。
響子さんは、手に持っていたカメラに傷がないかを気にしつつ立ち上がると、パンパンとお尻についた砂を払って微笑んだ。
「それにしても偶然だよねぇ。たまたま道連れにして転んだのが私だなんて、すごい確率ね」
「……だから、それは、そっちが悪いんだって!」
俺は頑として強固に言い張った。
「まあ、それはともかく、耕一くん、しかしあんたも野次馬だねえ。こんな朝も早くから、わざわざ見物に来るなんて」
響子さんはそう言って笑った。
「野次馬なんかじゃないよ。俺にはちゃんとした理由があって……」
思わずむきになった俺は、要らないことまで喋ってしまいそうになり、慌てて口をつぐんだ。
「ちゃんとした理由って?」
「……い、いや、それは」
俺は言葉をはぐらかした。
「あっ、そうだ、そういえば、響子さんも一応は記者の端くれなんだから、この事件に関してもある程度の情報くらいは得てるはずだよね?」
そのつもりはなかったが、露骨に話を逸らしたように思われたかもしれない。
響子さんは顔をしかめたが、特にそれ以上の深入りはしてこなかった。
「端くれとは聞き捨てならない発言ねぇ。まあ、別にいいけど。……うん、確かに君たちの知らないことも、いっぱい知ってるわ」
響子さんは得意気に微笑んだ。
「やった。じゃあ、知ってる範囲でいいからさ、是非とも教えて欲しい話がいくつかあるんだ」
人混みのなか、俺は響子さんに一歩近づいた。
「というのも、新しく発見された鞄の……」
「ちょっと待ってよ、駄目よ!」
勝手に話を進める俺を響子さんが制した。
「そんな簡単に教えらんないわ。こっちだってやたらめったら、ペラペラと一般人に喋ったりするわけにはいかないのよ。報道規制されてる部分もあるし……」
響子さんは苦い顔になった。
「そこを頼むよ」
俺はしつこく食いついたが、
「お願いされても、駄目なものは駄目よ」
対する響子さんは、駄々っ子には付き合いきれないとでも言いたそうな顔でそう言った。
「……俺、決して、野次馬根性からこんなこと訊いてるわけじゃないんだ」
「さっき言いかけた、ちゃんとした理由っていうのがあるわけ?」
「……う、うん」
「でも、それは言えないんでしょ?」
響子さんはやれやれと息を吐いた。
仕方がない。
少しだけでも話しておくとするか。
俺は少し間をおいてから、ゆっくりと語りだした。
「……例の五人目の被害者じゃないかって言われている高校生の子、実は俺の知ってる子なんだ」
「ええっ、そ、そうなの!?」
響子さんは驚きの表情を見せた。
「それも、昨日会ったばかりなんだ。彼女は家に遊びに来てたんだ」
「そ、それホント!?」
響子さんは、猫のような目を大きく見開いた。
「本当だよ。彼女は行方不明になるほんの直前まで、従妹の部屋にいたんだ。家を出て、その帰り道、彼女は事件に巻き込まれたんだ」
そして彼女を襲ったのは、他ならぬこの俺なんだ。
思わずそれが口から出そうになり、俺は慌てて言葉を飲んだ。
「ちょ、ちょっと、それって結構ナイスな情報よ!」
響子さんは妙な気迫で、俺に詰め寄った。
「行方不明の彼女のこと、どこもこぞって情報収集に走り回ってるところなのよ! 特に彼女が昨日学校を出た以降の足どりはポイントが高いわ!」
どうやら、彼女の記者魂を刺激することに成功したらしい。
「警察より先に知り合いの新聞社に情報提供すれば、うちの編集部としても恩が売れるわ! ねえ、ねえ、もっと詳しくそのこと訊かせて!」
「分かった、教える。でも、響子さんのほうも色々と俺に教えて欲しい。情報交換だ」
俺はそんなふうに交渉した。
「……ずるいなあ、人の足もとを見るなんて」
彼女はそう言って苦笑したが、返事はもう決定しているようだった。
「でも、私がリークしたってことは絶対内緒だよ?」
彼女は念を押すように言った。
「うん、わかってるって」
俺は強く頷いた。
「じゃあ、人混みから出てゆっくりと……」
そう言いながら俺が歩きだそうとすると、響子さんは「ちょっと待った」と俺の手を掴んだ。
「ちょっとだけ、ここの現場写真だけ撮らせて」
彼女はカメラを構え、パシャパシャとシャッターを切った。
眩しいフラッシュが瞬く。
5枚ほど撮り終えて、彼女はカメラを下ろした。
「うん、もういいよ」
俺たちは人間の合間を縫うように移動して、人混みから脱した。
響子さんは俺から昨日のことを訊き出すと、早速、携帯電話を使って東京の編集部に連絡した。
「……ええ、はい、そうです。絶対に間違いないです。確かな情報なんです。詳しい話は、彼女の部活の先輩の……その……」
響子さんが目で、なんだっけ、と訊いてきたので、俺は『柏木梓』だよと応えた。
「その、カシワギアズサという生徒が知っているとのことです。はい、アズサです。カシワギアズサ。苗字がカシワギで、名前がアズサです」
響子さんが電話口で梓の名前を連呼するので、俺は否応なしにあいつの顔を連想してしまった。
「「梓の奴、ちゃんと学校へ行っただろうか。
ふと、そんなことを考えた。
短絡思考の梓は、思い立ったら即行動のアクティブ派だ。
そのくせ人一倍責任感が強く、色々と後悔したり、すぐに自責の念に捕らわれたりもする。
言葉でいえば、悩めるお調子者といったところだ。
そういったところが災いし、ときとしてあいつは、自分のテリトリーを越えたお節介とも思える厄介ごとを、ひとり背負い込んでしまうことがある。
今回もそんなあいつの性格が裏目に出て、妙な方向に突っ走ったりしなければいいが。 自分一人でかおりちゃんを捜そうとか、そんな子供染みた発想で行動を起こしたりしそうで恐い。
しばらくして、響子さんは電話を切った。
「本来ウチの雑誌は、こんな事件そのものにはあまり関わらないんだけどね。今回、たまたま私が例の取材でこっちに来ちゃってたから応援する形になってさ。昨夜からあっちこっち走り回って、もうクタクタよ」
彼女は苦笑して、溜息をひとつついた。
「じゃ、次はそっちの質問だね。知ってる範囲のことしか話せないけど……。あ、そこの木陰で話そうか」
俺は彼女と二人で街路樹の木陰まで移動し、その下に腰をおろした。
相変わらず騒がしい人の群を見やりつつ、俺は響子さんから話を訊き出した。
最初に俺が訊いたたのは、もちろん、かおりちゃんに関することだった。
彼女が知っていたのは、以下のようなことだった。
現在、警察は、行方不明の彼女をこの事件における第五の被害者と見立てての捜索を続けているが、いまだに発見された様子はない。
実際のところ、現時点では、彼女が行方不明であるという事実と、現場付近から彼女の鞄が発見されたという二点だけが明らかになっているに過ぎず、本当に彼女がこの事件の被害者であるのかどうかということさえも、決定的な根拠を欠いている。
だが俺は、間違いなく、彼女がこの事件の被害者であることを知っている。
もちろんあの夢が、ただの夢でなければの話だが。
昨夜見た夢は、俺がかおりちゃんにゆっくりと手を伸ばし、その身体に触れたところで終わっている。
その後、彼女をどうしたのか、それは俺にも分からない。
その場で殺したか、……もしくは、連れ去ったかだ。
「「あのとき、夢の中の俺は、極度な性的興奮状態の中にあり、それを満たす相手として、かおりちゃんを選んでいた。
ならば、彼女はどこかへ連れ去られたという可能性が強いのではないだろうか。
四人の被害者と一緒に殺されたなんて、考えたくはなかった。
響子さんは俺の目を見て続けた。
「安心して……って言うと、少し変かもしれないけど、一応、今のところ、現場からは彼女のものとおぼしき血跡は確認されていないらしいわ」
「そうなんですか」
俺はその話と夢の記憶を繋げてみて、取りあえず、最悪の結果には至らなかったと判断し、ほっと胸を撫で下ろした。
次に俺は、殺された四人の被害者について、さらに詳しい情報を訊ねた。
響子さんはメモ帳を開いて言う。
「確か、スーツを着た三二歳のサラリーマンでしょ、コンビニ帰りの一九歳の大学生、それで最後は二六歳と二七歳の二人組。いずれも男ばかり。二人組の奴ら同士以外は特に関係もない連中よ」
間違いない。
夢の中で俺が殺した四人に相違なかった。
……そうだ、やはり俺がこの手で彼らを殺し、そしてかおりちゃんを連れ去ったに違いない。
だったら、かおりちゃんは今どこにいるのだろう?
俺は彼女をどこへ連れていったのだろう?
そんな肝心な映像だけは、例の夢からもすっぽりと抜け落ちている。
まるで都合の悪い映像を誰かが意図的にカットしているかのようだ。
俺の中で、もうひとりの俺が意識があざ笑っているような気がした。
とにかく、殺人鬼にしろ、怪物にしろ、警察では奴を捕まえることはできないだろう。 奴は完璧な隠れ家を用意しているのだ。
俺の心の奥底という、何人も入って来れない完璧な隠れ家だ。
その隠れ家を見つける者がいるとすれば、それは、この俺だけなのかもしれない。
「……それでね」
彼女は続けた。
「どの程度のことをテレビで発表してるかは知らないけど、この事件、犯人像がメチャクチャなのよね」
「テレビでは野生動物かもしれないっていってましたけど……」
俺は、そんなとぼけたことを言う自分に唾を吐きかけたくなった。
犯人は獣でもなく、殺人鬼でもない。
本当の犯人は……。
「響子さん、俺なんだ」
「えっ!? なにが?」
「どうやら、俺が犯人みたいなんだ」
「なに、どういうことよ?」
「……この俺が、いや、俺の中に潜むもう一人の俺が、見知らぬ男を四人も殺し、あまつさえ従妹の後輩さえも襲ったに違いないんだ!」
「こ、耕一くん?」
「よく聞いてくれ! この、俺が、犯人、なんだ!」
そう言ってしまえば、どれ程気が楽になるだろう。
俺は警察へ出頭し、取り調べを受け、鑑識課に回され、皮膚や爪や髪を調べられ、そして最後は精神科医にかけられて、くだらないテストを繰り返されることだろう。
そして、留置所から刑務所へ、もしくは精神病院へと送られ、そこで一生拘束されることになるだろう。
死刑の宣告を受けたほうがまだマシかもしれない。
「……でね、動物の爪や牙には大量の雑菌が混じってるらしくて、被害者の傷を調べればすぐに分かるらしいんだけどね……」
響子さんは、話を続けている。
「被害者の傷痕からは、それは発見されなかったらしいのよ」
「じゃあ、動物の仕業ではないんだ」
「足跡とかも発見されていないしね。……でも、遺体の肉の飛び散り方といい、男の人二人を抱えて一〇メートルも跳んだことといい、とても人間業とは思えないって、鑑識員も言ってたわ」
「……動物でもなく、人間でもない。だったら、犯人はいったい何なんだろう? 響子さんは何だと思う?」
俺が問うと、響子さんは、そうねぇと呟いて、空を見上げた。
人間でもなく、動物でもない、そんな奴は、そんなこの俺は、いったい何者なんだ?
「化け物なんじゃない?」
彼女はそう言って笑った。
「たとえば、雨月山の鬼とか」
「……うづきやまのおに? ……なに、それ?」
「あら、この辺じゃ結構有名な御伽話よ。観光者用のパンフレットにも載ってるくらいだから」
響子さんは立ち上がると、
「もしそうなら、『アトランティス』の編集部の奴らの仕事だわ」
怪奇現象ばかりを扱うカルト雑誌の名前を口にして微笑んだ。
「私が知ってるのはこんなとこよ。犯人の目星とか、そういう重要なことは、まだ分からないの」
彼女はジーンズについた芝生を払い落とした。
「じゃあ、私は忙しいから行くけど、耕一くん、君はどうするの?」
「もうちょっと、ここにいるつもりだけど……」
俺は少し考えてから応えた。
「ふーん、でもいくらここにいてもその子が見つかるわけでもなし、家のテレビで続報を待った方がいいと思うよ」
彼女はさりげなく俺を気遣ってくれた。
「その子、早く無事に見つかるといいね」
響子さんはそう言って、最後に、その他にもできることがあれば協力するよ、と、名刺の裏に携帯電話の番号を書いて渡してくれた。
俺は、ありがとう、と感謝の言葉をのべて、それを受け取った。
「じゃあね」
響子さんは片手をあげて去っていった。
彼女と別れ、ひとりっきりになると、途端に心細くなってきた。
この惨劇を生み出した張本人である殺人鬼が、俺のすぐ側にいるかもしれないのだ。
すぐ側……俺の心の中に。
奴は眠っているだけで、やがてまた目を覚ますかもしれない。
そうなると、俺はまた、第二第三のこのような光景を作り出してしまうのだろうか。
俺は左右に頭を振った。
いや、まだ決めつけるのは早い。
俺が犯人だと決まったわけではないんだ。
あの悪夢は予知夢やテレパシーの類のものなのかもしれないし、もしかしたら、ただ単に前後の記憶が混乱して、起こったことを夢で見たのだと錯覚しているに過ぎないのかもしれない。
ジキルとハイドのように、俺の中に別人格がいて、そいつが殺人鬼だというのは、可能性のひとつでしかないのだ。
できれば、それをはっきりさせたい。
俺はひとつの方法として、自分の記憶を確認してみることにした。
もし俺が二重人格者で、この事件の張本人なのだとすれば、少なくとも実際にここへ足を運んでいたことになる。
だったら、この場所にたどり着く道中にも見覚えがあって良さそうなものだ。
俺にはその記憶はないが、それは俺の中の別人格が主導権を握っていたからということになる。
二重人格症においては、主格と副格というふたつの人格が発生すると、以前本で読んだことがある。
副格は主格の行動を覚えていないが、主格は副格の記憶を共有しているのだという。
ならば、この俺という人格が副格で、そして、あの化け物が主格……、つまり俺の本性ということになる。
背筋に寒気が走り、俺はぶるっと身体を震わせた。
なんとしても、その可能性だけは否定したい。
断じて俺は、二重人格症などではないと信じたい。
俺は人集りの中へと戻り、再び現場の景色をじっくりと見渡した。
目の前には、昼と夜の違いこそあれ、夢と同じ景色が広がっている。
確かにここだ。間違いはない。
もし昨日、本当に俺がここに訪れていたのならば、夢で見た以外の場所にも、少しぐらいは見覚えがあるはずだ。
人格は二つでも、記憶をつかさどる脳はひとつだ。
現実にその景色を目の前にすれば、なにかを思い出しそうなものだ。
俺は記憶の扉をノックしながら、じっくりと周りの光景を見回し続けた。
警察は、今もなお慌ただしく働いている。
野次馬たちのざわめき、テレビ中継するリポーターの声、無線機に向かって喋る警官の声。
やがて、そんな周囲の喧騒が徐々に消え始め、俺の頭の中に、夢の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
かおりちゃんは恐怖におののいていた。
膝の力を失い、地面に尻をついたまま、ずるずると腕の力だけで後ろに這っていく。
かおりちゃんは金網に行き当たった。
だが、それに背をつけてもなお、かおりちゃんは後退を止めようとしなかった。
弱々しく首を左右に振っていた。
かおりちゃんは明らかに、恐怖のため思考力が低下していた。
俺は担いでいたふたつの死体を投げつけた。
死体は派手な音をさせて、かおりちゃんのすぐ側の金網にぶち当たり、ひとつは地面に落ちて転がり、もうひとつは彼女の身体に覆い被さった。
「ひいーッ!」
彼女は恐怖で顔をひきつらせ、縮みあがった。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
やがて、かおりちゃんは泣き出すと、それと同時に失禁した。
俺は極度の性的興奮を覚えていた。
女を抱きたいという激しい衝動に駆られていた。
そして、その興奮が冷めやらぬうちに、彼女を犯すことに決めた。
なぜか彼女からは、俺とよく似た匂いがした。
懐かしい匂いだ。
恐怖に震え、カタカタと歯を鳴らす彼女のもとへ、俺はゆっくりと手を伸ばした。
俺の指が身体に触れると、かおりちゃんは糸が切れた人形のように、カクンと失神した「「。
夢はそこで終わる。
俺は再び現実に舞い戻った。
手を伸ばし、身体に触れ、彼女が気を失い……。
だが、その後が重要なのだ。
その後で、かおりちゃんがどうなったのか、それが重要なのだ。
俺は何度も何度も、その映像を繰り返し思い描き、記憶を掘り起こしてみた。
だが、駄目だった。
何度となくそれを繰り返してはみたが、どうしても続きの映像を思い出すことはできなかった。
俺は前後に続く道を見た。
もしも本当に俺が犯人で、ここからかおりちゃんを連れ去ったのだとしたら、その後どっちの方向へ移動したのだろうか。
記憶の片隅くらいには、見覚えのあるものが残っていても良さそうなものだ。
だが、何も思い出せない。
近所を歩き回ってみてはどうだろう?
ふと、そう思った。
もっと印象に残るような具体的な物体でも見れば、それがきっかけとなって、夢の続きを思い出せるかもしれない。
俺は野次馬集団から抜け出し、人気のないところで一息ついてから、この周辺を歩き回ってしてみることにした。
俺は付近の路地を歩き回った。
景色の全景から、電柱や標識といった公共物の配置まで、見覚えのあるものはないかと探し回った。
目を皿のようにして歩いたが、これだというものは何ひとつ見つけられないまま、あっという間に午前中が過ぎ去った。
そろそろ家に戻ろうか。
そんな考えが、浮かび上がった。
だが、誰もいないあの広い屋敷に戻るのかと考えると気が滅入った。
腹は減っていたが食欲がなく、疲れていたがじっとしているのは嫌だった。
もう少し、歩き回ってみたかった。
もしかしたら、なにかを思い出せるかもしれないという淡い期待があった。
とはいったものの、テレビでの情報も気になるし、このまま同じことを繰り返しても埒があかないような気もする。
ここは素直に帰った方がいいかもしれない。
半ば逃げるような形で屋敷を飛び出して来たから、千鶴さんあたりが心配してるかもしれないし……。
だが簡単に諦めのつくことではない。俺はもう少し歩き回ってみることにした。
もし仮に、俺が本当に二重人格症の持ち主であり、また犯人であるというのなら、必ず記憶の中にヒントが残されているはずだ。
今は何も思い出せないが、それは俺が心のどこかで「憶えているはずがない」と疑っているからなのかもしれない。
何らかのきっかけさえあれば、ふとしたことで全てのことを思い出せるような気がするのだ。
それでもやっぱり何も思い出せないというのなら、そのときは「俺と犯人は全くの別人だ」という結論を出すことができる。
そうあって欲しいと強く願ったが、すぐに、いや、そういう考えこそが思い出す妨げになっているのだと気付き、俺は左右に頭を振った。
今はとにかく、記憶を思い出すことに集中しよう。
そうすれば、行方不明のかおりちゃんの所在だって明らかになるはずだ。
もう一人の自分であるかもしれない殺人鬼。
奴の記憶を探るために、俺は奴になりきろうと努力した。
疑惑通り、俺が、心の中に奴という怪物を住まわす二重人格者だとすれば、奴になりきり、見覚えのあるなにかを目にすれば、きっと芋づる式に全てを思い出せるはずだ。
そんな気がした。
俺は自分に暗示をかけるように、ぶつぶつと独り言を呟きはじめた。
……憶えている、憶えている。
……憶えている、憶えている……。
……夢で見た光景、あれは他の誰でもない、俺自身の行動なのだ。
……憶えている、憶えている。
……憶えている、憶えている……。
……つい昨日のことだから、少し考えればきっと思い出せるはずだ。
……憶えている、憶えている。
……憶えている、憶えている……。
……自分自身のことなのだから思い出せるはずだ。
俺は、何度も何度も自分にそう言い聞かせながら、現場付近の道を歩き回った。
公園の中に入り、遊歩道を歩く。
見覚えのあるものはないか。
注意深く周囲に目を配る。
……憶えている、憶えている。
……憶えている、憶えている……。
太陽が、上空からじりじりと俺を照りつけた。
……憶えている、憶えている。
……憶えている、憶えている……。
汗が浮かび、肌を伝って流れた。
街の雑踏が次第に無機質なものに感じられ、まるで夢の中にいるような気分になってきた。
……そうだ、俺は昨日、ここで人を殺し……。
そこで、ふと、わずかな違和感が生じた。
人を殺す?
そんなこと、奴は……いや俺は考えていただろうか?
……違う。
……そうじゃなかったはずだ。
昨日の『俺』は、人を殺すなんていう考えは、持ち合わせていなかったじゃないか。
……狩る。
……そう、狩るだ!
夢の中の俺は、獲物を狩ると言っていたのだ。
そうだ、俺は昨日ここで四匹の獲物を狩り、そして女を連れ去ったのだ。
……あれは俺だ。
……俺自身なんだ。
……俺は……狩猟者なんだ。
何度も自分にそう言いきかせるうち、俺は身体中が熱っぽくなっていくのを感じていた。
……俺は、狩猟者なんだ。
……憶えている、憶えている、憶えている。
……憶えている、憶えている、憶えている。
俺はぶつぶつと独り言を繰り返しながら、現場付近の道を歩き続けた。
照りつける陽射しと喉の渇きのせいで、何度も意識が途切れそうになったが、それでも俺は歩き続けた。
見覚えのあるものはないか。
俺は昨日、ここに来ていたはずなんだ。
だが、それから数時間、俺は色々な場所を徹底的に見回ってみたが、結局、なにひとつ見覚えのあるものは発見できなかった。
夢で現れた場所や物以外は、なにを見ても見覚えがなかった。
やはり、俺はここへは訪れていないのだろうか。
ただ思い出せないだけなのだろうか。
太陽が大きく西へ傾きかけた頃、俺はついに諦めて家に帰ることにした。
俺は屋敷へと戻った。
柏木家には人がいる気配はなかった。
玄関の戸には鍵が掛かっており、俺は千鶴さんから預かっている合い鍵を取り出して開け、中に入った。
屋敷の中は静まり返っていた。
仕事や学校に行ったきり、まだ誰も帰ってきていないのだろう。
俺は居間へ赴くと、テレビをつけ、例の事件のことをやっているチャンネルがないかを捜した。
だが時間帯が悪いようで、どの放送局もニュースの類の番組はやっていなかった。
俺はなんてことはないバラエティー番組を瞳に映しながら、膝を抱えてうずくまり、例の夢のことを考えだした。
……どうしてあんな夢を見るのだろう?
……この状況を誰に相談すればいいのだろう?
……俺はこのあと何をすればいいのだろう?
様々な意識が頭の中をひしめき合い、そして俺は、ひとつの考えに行き当たった。
……今夜もあの夢を見るのだろうか?
それからしばらくして、玄関の方でただいまという可愛い声がし、初音ちゃんが帰ってきた。
テレビの音に気付いて居間を覗いた初音ちゃんは、俺の姿を見つけるなり、ほっと安堵の息を洩らした。
「よかった、耕一お兄ちゃん、家に帰ってたんだ」
「やあ、おかえり」
俺はいつもの調子で彼女を迎えた。
「今朝のお兄ちゃん、なんだかすごく思い詰めた顔で家を飛び出して行っちゃったから、いったいどうしたのかなって、心配してたんだよ」
初音ちゃんはそう言って、上目遣いに俺を見ると、
「朝は……どこへ?」
と訊いてきた。
「隣駅だよ。例の事件の現場に行ったんだ」
俺は曖昧な笑みを浮かべて応えた。
「……あ、やっぱりそうなんだ。きっと、そうだろうなって思ったんだけど、何も言わず出てっちゃったし、ちょっと様子が変だったから、気になって……」
初音ちゃんは苦笑気味に微笑んだ。
全てを打ち明けてしまいたかったが、そんな考えもその微笑みを見た瞬間に砕け散った。
この子には要らぬ心配をかけたくない、かわって、そんな気持ちが強く表に出た。
「……ごめん、心配かけちゃったね」
俺が言うと、初音ちゃんは床に視線を落とし、少し黙ってから、
「……梓お姉ちゃんのともだち、……まだ、見つかってないんでしょ?」
ゆっくりと口を開いた。
「……うん、俺が知ってる限りじゃ、まだ」
俺は頷いて応えた。
テレビは今も画像を映し続けているが、それらしいニュースは放送していなかった。
その後、短い沈黙があった。
「……早く、無事に見つかるといいのにな」
初音ちゃんはそう言って目を伏せると、
「なんだか、昨日会ったことが嘘みたい」
ささやくように呟いた。
俺も初音ちゃんも、どうして昨日あの子と出会ってしまったのだろう。
かおりちゃんのことを知らぬままにいられたなら、胸の痛みもほんの微かなもので済んだろうに。
いや、それよりも、俺が彼女を知らなければ、この事件は起こらなかったかもしれない。
夢の中、俺は彼女の『匂い』を追っていた。
明らかに最初からかおりちゃんを狙っていたのだ。
あの夢が事件の真実だというのなら、昨夜の事件は彼女を追う過程で発生した、いわば『とばっちり』に過ぎないかもしれないのだ。
プルルルル、プルルルル……。
そのとき、電話が鳴った。
初音ちゃんが近づき、受話器を取る。
「はい、柏木です。……あっ、梓お姉ちゃん?」
初音ちゃんがぱっと顔をほころばせ、ちらりと俺の方を見た。
どうやら電話は、梓かららしい。
「どこから掛けてるの? ……えっ?」
初音ちゃんは逆の耳を押さえた。
俺はテレビのボリュームを落とした。
「……うん、うん」
初音ちゃんは頷きながら相づちを打つ。
「……うん、わかった。帰るのは何時くらい? うん、千鶴お姉ちゃんにも伝えとくから。うん、じゃあ……。あっ、ちょっと待って」
初音ちゃんは受話器の口もとを押さえると、俺の方を見て言った。
「梓お姉ちゃんからだけど、かわろうか?」
少しためらったが、結局俺は受話器を受け取った。
「……もしもし?」
「耕一?」
受話器の耳もとから、梓の声が聞こえる。
「いま、どこから掛けてるんだ?」
俺が訊いた。
「……かおりの家の近くの公衆電話から」
掠れた声で梓が言った。
「かおりちゃんの家?」
「……うん。彼女の友達とか、部の連中とか、みんなで集まってる。だから今日は遅くなるんだ……」
そんな梓の声からは、いつもの覇気は感じられず、かわりにぐったりとした疲れがうかがえた。
口調から察するに、どうやらかおりちゃんの捜索は何の進展もないようだ。
ほんの昨日までは、何事もなく、みんなと同じ平穏な時間を過ごしていたかおりちゃん。
そんな彼女が、突然行方不明となり、現在も捜索は続けられている。
友達や部活動の仲間たちは、特に何をするわけでもないが、いても立ってもいられずに、彼女の自宅へと集まった。
俺には、梓を含むそんな彼女たち全員の気持ちが、痛いほどよく伝わった。
「今日の夕飯は、初音に頼んどいたから」
電話の残り時間を知らせるプーという音が鳴る。
「……あ、カードがもうないや」
梓が独り言のようにぽそりと呟いた。
なんだか梓が梓じゃないように思えた。
頼りなくて、弱々しくて、今にも消えてしまいそうな、そんな感じだった。
俺は、そんな梓を励ますことができる、気の利いた言葉を必死に捜した。
「梓、心配するなよ。きっとすぐに警察が……」
犯人を捕まえて……と、続くはずだった。
だが俺には、それ以上の言葉は言えなかった。
胸がぐっと苦しくなる。
今、梓をこんなふうに苦しめている全ての原因は、この俺にあるかもしれないのだ。
梓、犯人は電話越しのすぐそこにいる、こいつなのかもしれないんだ。
俺は心の中で語りかけた。
そしてそいつは、既にもうどこかの場所で、かおりちゃんを……。
「……耕一?」
すぐ耳もとで梓の声が聞こえ、俺の心臓がドクンと鳴った。
それと同時に、俺の口が勝手に動いていた。
「……梓、もし、犯人が目の前にいたとしたら、お前、どうする?」
その瞬間、俺ははっと我に返り、慌てて自分の口もとを押さえた。
電話の向こうで、梓が呼吸を止める。
……な、なにを訊いてるんだ俺は!?
二人の間に、短い沈黙があった。
「そ、そんなこと、あるわけないけど……」
俺が、冗談っぽく濁そうとしたとき、
「……もちろん、殺してやる」
俺の言葉を遮って、梓がボソッと言った。
「!」
ぷつッ。
唐突に電話が切れた。
カードの残り度数が0になったのだろう。
梓の言葉を最後に、受話器からはツー、ツーという音しか聞こえてこなくなった。
……殺してやる。
俺は受話器を耳を当てたまま、しばらく無言で立ち尽くしていた。
初音ちゃんが何か言ったが、聞き取れなかった。
ツーツーツーツーツーツーツーツー……。
ぼやけた視界。
単調な音。
……殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺し……。
そんななか、俺の頭の中で、ただその言葉だけが、何度も何度も繰り返し響いていた。 その後、しばらくして、初音ちゃんは、夕食の買い出しに出掛けた。
千鶴さんも楓ちゃんもまだ帰らず、俺はまた、この広い屋敷にひとりきりになった。
六時になると、どのテレビ局も一斉にニュース番組の時間帯になる。
もちろん、どのチャンネルでも、例の事件がトップニュースとして扱われていた。
近年稀にみる無差別殺人事件として特集が組まれ、被害現場からの中継や警察の公式発表、被害者の遺族の映像などが映し出された。
警察の発表はいまだ曖昧で、マスコミ側はこぞってその不甲斐なさを辛口に指摘していた。
捜査はとくに進展した様子はなく、もちろんかおりちゃんの発見もまだだった。
まさにお涙ちょうだいとばかりに編集された被害者の遺族がインタビューされ、その中にはかおりちゃんの両親の姿もあった。
かおりちゃんの両親は、テレビカメラに向かって、
「お願いです、娘を返して下さい」
と、顔もわからぬ犯人に、涙ながらに訴えていた。
その映像がくどいほど何度も画面に映り、胸の痛みに耐えかねた俺は、テレビを消して、軽くシャワーを浴びて汗を流してから、自分の部屋へと戻った。
今、家には誰もいない。
それは俺にとって都合が良かった。
俺は先ほどからずっと、あるひとつの可能性を試してみようかと考えていたのだ。
それは他でもない、もう一度眠ってみるということだ。
もう一度眠り、悪夢の続きを見ることができれば、かおりちゃん捜索の大きな手がかりを発見できるかもしれない。
もちろん、もうひとりの俺が、再びあの惨劇を巻き起こすのではないかという不安はあった。
だが今眠らずとも、やがていつかは嫌でも眠るときがやってくるのだ。
ならば一刻も早く手がかりを見つけたい。
それに万が一、奴が再び暴れ出したとしても、夜が更けてからよりはマシだろう。
俺は床を敷いて、寝転がった。
眠るとき、誰か側についてもらったほうがいいのではとも考えた。
見張ってもらって、本当に俺が二重人格者なのか、確かめてもらうのだ。
当初は、初音ちゃんにそれを頼もうかと考えた。
だが、もし全てが事実だったとした場合、あの子が最初の犠牲者になるのではと考え、とても頼む気にはなれなかった。
できれば、身近に誰もいないときに試したい。
そして、今がその絶好のチャンスだった。
深く息を吐き、瞼を閉じた途端、いろいろなことが頭の中を駆けめぐった。
気が張りつめているのだろう。
このままではとても眠れそうにないなと思っていたところ、朝から歩き回っていたせいで少なからず疲れが溜まっていたのか、やがて意識は白い霧に包まれ、徐々に眠りの淵へと沈んでいった。
……心を強く持とう。
……俺という意識を失わないようにしよう。
俺は、繰り返し何度も自分にそう言い聞かせた。
……これ以上、奴の自由にさせるものか。
そして、俺は、深い眠りに落ちていった。
6・闘いの夢
白く輝く眩しい炎の中に、どろどろにとろけた鉛のような俺がいる。
気分は悪くなかった。
白い世界の中で、俺は不定形に歪み、形を定めず、空間を漂った。
無秩序な、ビジュアルだけの世界。
炎はやがて水になり、世界は海になった。
白い光の海をたっぷりと泳ぎ、俺はそろそろ自分の覚醒が近いことを知った。
思考はまだ、どろどろにとろけたままだ。
そして、俺は光を突き抜けた。
……瞼を開いた。
……目の前に、ゆっくりと映像が浮かびあがる。
……朦朧とした意識の中、俺は自分が眠りから目覚めたのか、まだ夢を見ているのか、どっちなんだろうかと考えた。
……視界がはっきりしてくるにつれ、鈍っていた思考も加速度的に研ぎ澄まされていく。
……目の前には、見慣れない景色が広がっていた。
……薄暗い照明、深い緑の葉をつけた木々、足もとに広がる石畳の遊歩道。
……樹の葉の合間から、遠くの町の明かりが見える。
……どこかの公園だろうか。
……そのとき、聞き憶えのある動物のような荒い呼吸音が耳に届いた。
……『奴』だ。
……瞬間的に俺は察した。
……間違いない。
……これは『奴』の呼吸音だ。
……いつもの明晰夢、例の悪夢だ。
……やはり俺は、あの夢を見ているのだ……。
夜の風。
虫の音。
黄色い月光。
そして、血の匂い。
俺は片手を口もとに寄せ、爪の先についた真っ赤な鮮血を舌で拭った。
金属をなめたような味がし、軽く舌先がしびれた。
魂が高ぶっていく。
俺は、強くそれを感じていた。
……俺は手に付着した鮮血を見て悲鳴を上げたが、声は出なかった。
……苦い血の味が口の中に広がり、俺は必死に吐き気をこらえた。
……振り向くと、そこには制服姿の警察官がふたり、折り重なって倒れていた。
……ひとりは地面に俯せ、もうひとりはその身体の上に仰向けになって倒れていた。
……二人ともピクリとも動かない。
……明らかに、死んでいた。
……上になった警官は、目と口を大きく開いて、空を仰ぐように倒れていた。
……喉から胸にかけての肉が、その部分の制服ごと、削り取ったようにえぐられている。
……ぱっくりと開いた傷口からは、今もなお大量の血が溢れ出していた。
……血は黄色い月の光と混ざって、錆びた鉄のような色になって見えた。
……俺は泣いた。
……泣いたが、涙は一滴も出なかった。
……あくまで、意識下で泣いたに過ぎないからだ。
……意識だけが、俺なのだ。
……だが、これは夢じゃない、現実なんだ。
……俺は今、現実にこの場所にいるんだ。
……昨夜のように殺人鬼となって、警官ふたりを殺したんだ。
……目を覚ませば、世間はまた、大騒ぎになっているに違いない。
……二度目の無差別殺人の発生に、警察もマスコミも慌ただしく現場を走り回り、被害者の遺族は悲しみの涙を流すに違いない。
……そして俺はまた、自らの中に潜む殺人鬼に怯え、身体を震わせるのだ。
……誰にも説明できない、いや、しようのない、この夢と現実の狭間を漂いながら……。
……こんなこと、もう、もうたくさんだ!
パシャッ!
……そのとき、前方で眩い光が閃いた。
パシャッ、パシャッ、パシャッ!
……光が連続して瞬く。
……俺はその光が、カメラのフラッシュであることに気が付いた。
……俺は目を細め、その方向を覗き込んだ。
……光の向こう側には、細い女の身体があった。
……俺の身体が女の方に向いたとき、
「動かないで!」
……彼女は手にしたカメラを下ろしてそう叫んだ。
……俺の足が止まる。
「一歩でも動くと、大声で助けを呼ぶわよ!」
……女はそう言って、わずかに後退した。
……眼に焼きついた閃光が消えてなくなると、暗がりのなかに、女の顔が浮かび上がった。
……その顔を認識したとき、俺は愕然となった。
……その顔は、俺の知っている顔だったのだ。
……今日の午前中にも会って話をしている。
……響子さんだ。
……間違いない。
……その人は、相田響子さんに他ならなかった。
……な、なぜ、彼女がここに!?
「あ、あんたがやったのね!」
……響子さんは、折り重なったふたりの警官の死体を見て言った。
「ど、どうやら、あ、あんたが、例の無差別殺人事件の犯人のようね!?」
……彼女はひきつった笑みを浮かべ、言った。
……ち、違う! 違うんだ、響子さん!
……俺じゃない、俺がやったんじゃないんだ!
……だがそれは、声にはならなかった。
「こ、こんな非常警戒体制の中に現れるなんて、なかなか度胸がすわってるじゃない!?」
……強気を装っていたが、膝がガクガク震えていた。
「で、でも、もう駄目よ。あなたは捕まるわ! 私が証拠写真を撮ったんだから!」
……唐突に訪れた殺人現場を目の前にして、逃げ出すことより先にカメラのシャッターをきってしまう。
……専門分野ではないにしろ、響子さんは間違いなくプロのジャーナリストだった。
……しかし、今はそれが仇になろうとしている。
……この遭遇は、いわば、死との遭遇なのだ。
……駄目だ、響子さん! 逃げるんだ!
……早く逃げるんだッ!
……俺はちからの限り叫んだ。
……だが、いくら意識下でそう叫んでも、決して現実の声になることはなかった。
……声を含め、今の俺には、瞬きひとつさえ、自分の身体を操ることができないのだ。 ……響子さん、逃げて! 逃げてくれ!
……それでも俺は、必死に叫び続けた。
「いい!? 動かないでね!? すぐそこに、大勢の警官がいるんだから! あんたが動いた途端、大声で助けを呼ぶからね!」
……響子さんは、一歩、また一歩と、ゆっくり後ろへ下がって行く。
……俺は、いや、もうひとりの俺は、躊躇したのか、今は身動きひとつしない。
……さすがに、助けを呼ばれるのはまずいのだろう。
……いいぞ、そうだ、そのまま逃げてくれ!
……俺は神に願うように心の中で呟いた。
……だが、そのとき俺は、自分が、いや、もうひとりの自分が、不気味に笑っていることに気が付いた。
……こいつの意識が伝わり、その嘲笑の意味を知ったとき、俺は、愕然となると同時に、黒い絶望感が胸に広がっていくのを感じていた。
……なんてことだ。
……こいつは、嘘をついて必死に逃れようとする響子さんの姿を笑っていたのだ。
……周りには、警官はおろか、人など居やしない。
……こいつは匂いで、それを感知できるのだ。
……すぐ近くに大勢の警官がいるというのは、彼女のハッタリなのだ。
……こいつは最初からそれを知っていた。
……なぜならこいつは、もともと人けのない場所へと彼女を『追い込んでいた』からだ。
……彼女が、響子さんが、今回のこいつの狩りの本当の目的なのだった。
……こいつは暗がりに紛れながら、ずっと彼女の後をつけつつ、人けのない狩場を選んで先回りし、そこで待っていたのだ。
……ここは、こいつの選んだ狩場なのだ。
……こいつは楽しんでいる。
……彼女が死体を見て動揺し、必死に逃れようとするその様を楽しんでいるのだ。
……やめろ!
……やめろ、やめろ、やめろッ!
……俺は必死に身体の自由を取り戻そうと努力した。
……だが駄目だった。
……これが自分の身体であるという感覚ははっきりと存在するのだが、自分の意志では指一本たりとも操ることができないのだ。
……やめろ!
……やめろ、やめろ、やめろッ!
……もう、やめろおぉぉぉーッ!
……俺はただ、心の中で叫ぶことしかできなかった。
意識の底で、もうひとりの俺がうるさく騒ぎ立てている。
人間社会で植え付けられた、欺瞞とエゴに満ちた理性とやらが、まだ拭いされていないのだ。
獲物を狩るたび、俺の爪が柔らかな肉を引き裂き、熱い血が全身にふりかかるたび、奴は頭の中で悲鳴をあげる。
うっとうしい限りだ。
強者が弱者を支配し、君臨するのは、極めて自然な光景なのだ。
喉が渇けば水を飲み、眠くなれば眠る。
欲望に従って行動し、それを成し遂げたとき、動物は快楽を味わう。
動物は快楽を味わうために生きる。
快楽を得れない動物は狂い死ぬのだ。
欲望は、快楽を得よという脳からの指令だ。
動物を動かすシンプルな原動力なのだ。
そして、俺は狩猟者だ。
生命を狩ること、それが俺の欲望だ。
俺が生き続ける限り、その欲望は発生する。
動物は、欲望に逆らって生きることなどできない。
いずれ、もうひとりの俺も欲望に屈するだろう。
理性という社会から受けた洗脳を克服するだろう。
そのとき俺は、ようやくもうひとつの自分を取り戻し、より完璧な狩猟者として君臨するのだ……。
……その馬鹿げた思想に俺は、笑いがこみ上げると同時に、背筋の凍るような戦慄を覚えた。
……欲望は動物の原動力だ!?
……欲望を満たすために動物は生きる!?
……それがどうした!
……俺は人間だ!
……人間は動物とは違う! 人間は人間だ!
……人間は人間らしく生き、そして幸せを得るんだ!
……人間らしく生きるなかで得た幸せこそが、人間としての快楽なんだ!
……人間は……。
俺は、人間ではない。
……!
人間など、遥かに超えた生物だ。
俺は、血にまみれた両手をゆっくりと持ち上げた。
女が、ひっと息をのむ。
俺は口もとを歪めながら、一歩足を踏み出した。
「こ、来ないでって、言ってるでしょう!?」
一歩、また一歩と、俺は女に近づいて行く。
「警官を呼ぶわよ! 大声を出すわよ!?」
暗がりから出た俺の身体が、ほのかな水銀灯の明かりに照らされた。
俺の姿をはっきりと目にした瞬間、女は恐怖で顔をひきつらせた。
「ヒッ! なっ、なに、あんたッ!?」
俺は止まらない。
歩調を変えず、女に近づいて行く。
「いっ、いやっ、来ないで……」
女は恐怖で全身を震わせた。
強気を装った仮面がひび割れ、音を立てて崩れ落ちていく。
膝がガクガクと揺れ、肩が小刻みに上下する。
動揺する女を見て、俺は愉快極まりなかった。
「……こ、こないでよ……、このッ、化け物おーッ!」
……化け物!?
……響子さんのそのひとことは、鋭利な刃物のように俺の胸をえぐった。
……ば、化け物だって!?
……やはり俺は化け物の姿をしているのか!?
……人間でもなく、獣でもない、そんな化け物の姿をしているのか!?
……じゃあ、俺は!?
……俺はいったい……!?
「い、いやあぁぁぁーッ!」
ついに女は背を向けて逃げ出した。
「助けてぇぇぇーッ! 誰かぁぁぁーッ!」
女は全力で走り去りながら、そう叫んだ。
俺は地面を蹴り、跳躍した。
夜風を裂いて宙を舞い、女のすぐ後ろに着地した。
気配を察知し、女が恐怖でひきつった顔を向けた。
同時に俺は女の腕を掴んだ。
「い、いやあーッ!」
女は必死に俺の腕を振り解こうとしてもがいたが、歴然とした力の差があった。
女が肩に担いだ箱を振り回す。
俺はそれを片手で受けとめた。
そして、笑った。
女はひっと息を飲み、眼に涙を浮かべ、次の瞬間、カメラを護るようにして身体を丸めた。
「だ、誰か、たすけ……」
女がか細い声で泣いた。
大丈夫だ。
殺しはしない。
少しの間、眠るだけだ。
殺さず、ゆっくりと弄ぶ。
昨夜の女のように、ゆっくりと玩具のように……。
……化け物になった俺が大きく腕を振り上げた。
……人間の身体を容易く引き裂く、獣の腕だ。
……この腕を響子さんに振り下ろすつもりだ。
……殺すつもりはなく、ただ意識を失わせようとしているようだが、この化け物に、力の加減ができるとは到底思えない。
……昨夜の、人間を骨ごとグシャリと叩き潰す感触が手に蘇り、俺は背筋が凍りついた。
……腕が、勢いよく振り下ろされる。
……だが、俺にはどうすることもできなかった。
……情けないが、この怪物がうまく手加減してくれることを祈るしかなかった。
ブンッ……、ドンッ!
……振り下ろされた腕が、カメラを抱えた響子さんの背中を打ちつけた。
……彼女はうっと小さく呻き、そのまま、あっけなく途切れた。
……響子さんがゆっくりと地面に崩れていく。
……俺はその身体を受け止めた。
……彼女の手の中にあったカメラだけが地面に落ちて転がった。
……俺は彼女の身体を引き寄せ、心臓に耳を当てた。
……トクリ、トクリ、という音が聞こえる。
……よかった、どうやら意識を失っただけのようだ。
……その鼓動を確認すると、怪物と化した俺は満足気に笑い、気絶した響子さんの身体を肩に担いだ。
……どこかへ運び去るつもりのようだ。
……そのとき、ふっと意識が途切れかけた。
……深い眠りに落ちるような感覚だ。
……ま、まだだ!
……俺は叫んだ。
……ここで終わらないでくれ!
……もう少し夢を見続けるんだ。
……昨夜のかおりちゃんのときも、俺はここで記憶を失った。
……この後、連れ去った彼女をどうするのか、それを確認しなければ、昨夜の二の舞になってしまう。
……ここで意識を失うわけにはいかない。
……俺は慌てて精神を集中した。
……吸い込まれそうな眠気と必死で戦った。
……心と身体の結びつきを強めるため、視覚や聴覚を研ぎ澄ませる。
……肩に担いだ響子さんの温もりや、吹き抜ける風の冷たさに意識を集中する。
……これは夢じゃない、俺はいま実際に、この場所に居合わせているんだ。
……俺は強く自分にそう言い聞かせた。
……それが効を奏したのか、とにかく薄れかけていた意識は徐々に回復し始めた。
……どうやら波を乗り切ったようだ。
……そうだ、もう少し続いてくれ。
……せめて、連れ去られた彼女がどこに運ばれるかを確認できるまでは。
……怪物となった俺がしゃがみ、地面に落ちたカメラを拾い上げた。
……証拠となるような物は残さないつもりらしい。
……我ながら、抜け目のない奴だ。
……怪物は、左手の肩に響子さんを、右手にカメラを持ち、その場から立ち去ろうとした。
……その時だった。
「待ちなさい」
……少し肌寒い夜風が吹き抜けたかと思うと、そんな澄んだ声が後ろから俺を呼び止めた。
……怪物と化した俺が、ゆっくりと振り返った。
……そこには……。
……そこには、長い髪を夜風になびかせる、ひとりの女性の姿があった。
……暗がりの中から現れたその女性は、俺の姿やこの現状を目にしても、わずかな動揺すら見せなかった。
……歩み寄る女性が街灯の明かりに差し掛かり、その顔が浮かび上がった。
……それを見たとき、怪物の意識下で、俺は大きく目を見開いていた。
……その女性が、またもや俺のよく知った顔だったからだ。
……まさか、まさかそんな。
……いや、間違いない。
……彼女は……。
柏木千鶴。
それが女の名だ。
もうひとりの俺が、よく知っている女だ。
人間の姿をした俺とは、何度となく顔を見合わせているが、この姿になった俺とは初対面だった。
女は十歩ほど手前で立ち止まると、凍てつくような瞳で俺を見据えた。
その冷たい眼に睨まれたとき、信じ難いことだが、俺は恐怖を感じた。
女は全身から激しい感情のシグナルを発していて、それが俺に伝わったからだ。
女の放つそれは、明らかに敵意だった。
それも、俺を畏怖させるほどの強大な敵意だ。
俺は総毛立った。
この女はただの人間ではない。
姿こそ人間の若い女なれど、これほどまでの威圧感を持つ者がただの人間であろうはずがない。
人の姿をし、獣を超えたちからを持つ生物。
そうだ、こいつは……。
俺の全身に震えが起こった。
同族だ。
俺と同じ血を宿した同族以外にあり得ない。
どうやら、この辺りの土地には、同族の血を有する者が数多く存在しているようだ。
この土地に訪れて以来、俺はごく頻繁に同族の匂いを感じるようになった。
団地や学校、駅や商店街といった、人が多く集まる場所の中に、時折、微弱ながら同族の匂いを漂わせる者たちが混じっているのだ。
この土地には、同族が数多く存在する何らかの理由があるのかもしれない。
同族の匂いを感じたとき、俺は、たとえもうひとりの自分に入れ替わっていたとしても、その瞬間に意識の眠りから目覚めてしまうのだ。
しかし、確かにそのような者が頻繁に存在するのは事実だが、いずれも同族の血をわずかに宿しているといった程度の者たちに過ぎず、俺ほどのちからを有する者との遭遇は、これまで経験したことがなかった。
獲物の群に混じって生活するうち、狩猟者としての高潔な魂を失ってしまった者たち。 俺のように覚醒するきっかけさえ掴めず、宿した力の使い方も、真の姿に戻るすべも知らない哀れな同族たち。
その程度の者しか、いないと思っていた。
だが今、すぐ目の前に、俺と同じく、自らの秘めた力を解放できる同族が存在する。
それも仲間としてではなく、牙を剥いた敵として。
しかし、クク、まさかこのような形で対峙することになろうとは……。
それにしてもこの女、もうひとりの俺と会っていたときには、わずかな匂いすらも感じさせなかった。
どうやら俺と同じく完璧な擬態の能力を有しているらしい。
ならば、少なくとも俺と同じか、それ以上の能力に目覚めているということになる。
クックック、だとすれば、狩猟者としての本能にも同じように目覚めているのかもしれない。
身を潜めるすべを持っているのは、狩猟者であるがゆえだ。
女の放つ敵意はさらに高まっていった。
今ここで逃げなければ、間違いなく殺し合いに発展するだろう。
これまでのような一方的な殺戮とは異なる、互角な条件での『戦い』が始まるのだ。
それも、俺か女、どちらか一方は確実に生命を失うことになるだろう。
狩猟者同士の戦い、この世に取り残された数少ない同族同士の殺し合い。
ようやく出会えた同族だ。
種の保存という本能に従うなら、この女と戦うべきではないのだろう。
共存を保ち、交わって子を産ませ、種を増やすべきなのだ。
本能は、それを命じていた。
事実、俺の肉体はこの女を欲していた。
この女を犯したいという欲求に駆られていた。
だが……。
だが同時に、これは、この世でもっとも美しい獲物を狩ることのできる、またとない機会でもあった。
自らと同じ血を有する生命、その生命はどのような炎を燃やし、散っていくのだろうか。
それを思うと、俺はこの上ない性的興奮を覚えた。
心拍数が上がり、ペニスが膨張する。
俺は肩に担いでいた女を下ろし、カメラを捨てた。
俺は恍惚の笑みを浮かべ、そして敵意を放った。
……怪物化した自分の意識が次から次へと流れ込み、俺の頭はすっかり混乱しきっていた。
……なにがどうなっているのか、これは夢なのか現実なのか、それさえも分からなくなっていた。
……同族!?
……千鶴さんが!?
……俺と同じ怪物だっていうのか?
……そ、そんな、……そんな馬鹿な。
……いや……、だが説得力がないわけでもない。
……俺と彼女は従姉弟なのだ。
……4分の1とはいえ、確かに血は繋がっている。
……俺の怪物化が血の成せる業なら、千鶴さんもそれを受け継いでいたとしても不思議ではない。
……しかし、それにしてもこんな突飛な話が……。
……そのとき。
……千鶴さんは俺に向かって、冷たくひとこと、こう言った。
「……耕一さん、……あなたを、殺します」
刹那、竜巻が生じ、血しぶきが渦を巻いた。
鋼のかぎ爪のようになった女の指が、旋風を伴い、俺の胸の皮膚を引き裂いたのだ。
打ち上げ花火の残り火のように、飛び散った朱色の鮮血が尾を引いて地面に落ちる。
……避けなければ心臓をえぐられていた。
地に着いた女はくるりと身をひるがえしてこちらに向き直り、手についた血のりを払った。
上着は返り血を浴び、赤い斑点を残していた。
……どうして!?
……どうして俺を殺そうとするんだ!?
……こんな化け物の姿になってしまったから!?
……無差別に人を襲う怪物だから!?
……でも、千鶴さん!
……俺だって、俺だって好きでやってるわけじゃないんだよ!
……俺は……、俺は……。
俺の胸から、ポタポタと二、三の血が滴った。
ぎらついた女の眼は、俺を捕らえて放さない。
「ふーっ、ふーっ……」
女は肩を上下させ、野生動物のように唸りながら、大きく息を吐いていた。
その身体は激しい熱気を帯び、周囲の空気が陽炎のように揺れていた。
風が草葉を鳴らして吹き抜けた。
死体から、血生臭いにおいが漂ってくる。
月が不気味に輝いていた。
女の姿は人間だったときのままで、肉体にはこれといった変化は現れなかった。
もしも女が、肉体を変化させる能力を有していないのだとすれば、時間が経てば経つほどこちらが有利になる。
人間の姿は狩猟向きではない。
このような動きを続ければ、全身に負担がかかり、やがては自滅するだろう。
もっとも、だからこそ女も一刻も早い決着を望んでいるようだ。
「シャアァァーッ!」
女が唸り、同時に地面を蹴った。
風の鳴る音がそれに重なる。
黒い影が疾風とともに走り、俺の喉もとを襲った。
女の手だ。
俺は紙一重でそれを交わすと、迎え撃つように女の胸めがけて腕を突き上げた。
女は飛び退いて俺の腕を交わすと、砂煙を舞わせて地に降り立った。
それは両者共に、極めて危険な戦いだった。
互いの攻撃が、それぞれに致命傷を与えるに十分な威力を兼ね備えていた。
狩るか、狩られるか、それが常に背中合わせに存在し、くるくると裏返り続けているのだ。
いま、地上で最も美しい二つの生命が、最も美しい二つの炎を燃え上がらせているのだ。
俺は興奮のあまり、絶頂を迎えそうだった。
女が仕掛け、俺は迎え撃った。
両者の腕が交差する。
空気を引き裂き、砂煙が舞った。
戦いは長引きはしないだろう。
どちらかの生命が、もうすぐ燃え尽きる。
真っ赤な鮮血とともに……。
そのときだった。
「!」
「!」
俺と女は、同時に、複数の人間の接近に気がつき、瞬間的に互いの間合いを離した。
声、足音、懐中電灯の明かり。
二人組の警察官がこちらへ歩いてくる。
俺は怒りを露にした。
なんということだ。
この美しい戦いを人間ごときに汚されるとは!
女の顔が蒼白になった。
全身から放出していた殺気が、別のものに変わる。
女は地面を蹴り、旋風とともに空を舞うと、大きく離れた場所に着地し、そのまま走り去った。
……逃げ出したのだ。
何故だ!
邪魔者なら片付ければよいだろう!
あの程度の血を見たくらいで、貴様の狩猟者としての血はおさまりがつくのか!
だが、そのときすでに、女の姿は俺の視界から消え失せていた。
かわって、複数の警察官の姿が近付いてくる。
「気を付けろ、何かいるぞ!」
警官たちは、異様な雰囲気を察したのか、腰の拳銃を引き抜いた。
「あれは……なんだ?」
警官のひとりが、死体の方に明かりを向けた。
「ひいッ!」
仲間の死体を見て、警官たちが息を飲んだ。
「お、おい、まさか……死んで……」
そのとき、闇の中から飛び出した俺が、警官たちに襲いかかった。
この薄暗がりのなか、疾風と化した俺の姿は到底、人間の目では捕らえれるはずがなかった。
旋風が巻き起こり、同時にひとりの警官の首が胴体を離れて飛んだ。
首は朱色の尾を引いて、石畳の上を転がった。
首を失った胴体は真っ赤な鮮血を吹き上げ、血煙の中で崩れ落ちた。
「うわあぁぁぁ〜ッ!」
警官の片割れが、デタラメに発砲した。
ぱん、ぱんと続けて二発、乾いた音がこだました。
警官の指が三発目の引き金に力を加えたとき、俺の腕がその警官の頭を叩き割った。
ごきゅりと音を立て、頭蓋骨が砕けた。
硝煙のにおいが辺りに漂うころ、警官は銃を握ったまま、地面に倒れた。
砕かれた頭部からは大量の鮮血が噴き出し、それは石畳の上に広がっていった。
俺の心は怒りに満ちていた。
こんな雑魚同然の生命を狩ったところで、高まった興奮はおさまりがつかない。
あの女だ。
あの女を狩らねば、俺は決して満たされはしない。
俺は何としてもあの女を見つけ、そして狩ることに決めた。
その為にも……。
俺は、石畳の上に転がっている気絶した女とカメラを拾い上げ、その場を去った。
取りあえず今は、この興奮を少しでも満たさなくてはならない。
欲望を満たせば、再び冷静さを取り戻せるだろう。
狩りには冷静な判断力が必要だ。
特に、あの女を狩るためには……。
あの女に負わされた胸の傷が、ズキリと痛んだ。
……怪物となった俺は、響子さんを肩に担いで、夜風を切って駆け抜けた。
……俺の意識は、そこで急速に遠のいていった。
……胸が痛い。
……先ほど、千鶴さんに負わされた傷が痛む。
……ズキズキと、熱くうずく。
……その痛みで、俺は目覚めた。
……ここは……!?
……確かめるように、辺りを見回そうとした。
……だが首は、自分の思い通りには動かなかった。
……俺は理解した。
……これはまだ、あの夢の続きなのだ。
……俺ではない俺が見ている光景なのだ。
……しかし、なんということだ。
……突然、意識がなくなったかと思うと、次に目覚めたときは、全く別の場所になっているなんて。
……目の前の光景は公園から一変して、どこかの部屋の中に移り変わってしまっている。
……フローリングの床、狭いつくりの部屋だ。
……どこなんだ、ここは。
……もっとも知りたい部分だけを意図的に編集されたような気分だった。
……いや、もしかしたら、本当に都合の悪いシーンはカットされているのでは?
……とくに根拠もなく、そう思ったときだった。
……まてよ。
……脳裏にふと何かが閃き、俺は注意深くこの部屋の光景を見やった。
……この部屋には見覚えがあるぞ。
……そうだ、俺はこの部屋を知っている。
……いったいどこで見たんだ?
……俺は記憶の糸を手繰った。
……ここは、確か。
……その答が導き出されたとき、俺は思わず自分の目を疑った。
……まさか、まさかそんな……。
……いや、だが間違いはなかった。
……ここは、夢で見たあの部屋に相違なかった。
……心の中から這い出そうとする、もうひとりの自分を必死に押さえようとする、あの悪夢。
……その夢で見る部屋だ。
……夢!?
……まさかここは、本当の俺の『夢の中』なのか!?
……俺は不安になった。
……意識こそはっきりとはしているものの、果たしてこれが夢なのか、現実なのか、それを確かめる方法は何ひとつとしてないのだ。
……これは本当に、さっきの夢の続きなのか?
……先ほど意識が途切れたところから、いつもの夢に移ってしまったのではないのか? ……いや、もしかしたら、先ほどの映像が夢だったのかもしれない。
……正体不明の化け物となり、あの優しい千鶴さんと戦うなんて……。
……そういえば。
……俺は自分が人間の姿を取り戻していることに気がついた。
……手は怪物のときのようなごつい手ではなく、普通の人間の手に戻っていた。
……怪物のときのような荒い呼吸音も聞こえない。
……取りあえずはホッとした。
……相変わらず、不思議な夢を見ているような状態は続いていたが、床に映し出された影がちゃんと人間の形をしているだけでも救いだった。
……だが、注意深く影や手を見ているうちに、どうもそれが、俺の身体ではないように思え始めた。
……まず、手首まで袖のあるシャツを着ていた。
……俺はTシャツを着ていたはずだ。こんなちゃんとしたシャツを着た憶えはない。
……ズボンや靴下も俺が履いていたものとは違う。
……それより何より、これは俺の手の形じゃない。
……二〇年間見慣れた手だ。自分のものとそうでないものの区別ぐらいはつく。
……これは俺じゃないような気がする。
……全くの別人かもしれない。
……そのとき俺は、自分の手が、なにやら黒光りする金属の鎖を握っていることに気が付いた。
……目が、俺の意志とは関係なく、ゆっくりと部屋の中央へと向けられていく。
……そこに広がる光景を目にしたとき、俺はぎょっとして言葉を失った。
……そこには、白い裸体を露にし、両手を拘束された響子さんの姿があった。
……彼女は黒い皮の首輪をはめられていて、そこから繋がった冷たい金属の鎖の先を俺が……、いや、俺ではないもうひとりの俺の手が握っていた。
……その黒光りする鎖は、彼女の胸の谷間を通って、股間に食い込んでいた。
……下着は太股の辺りまで下ろされている。
……俺がその鎖をじゃらりと引くと、鎖は響子さんの恥ずかしい部分とお尻を食い込むように圧迫し、彼女は苦痛の呻き声を漏らした。
……張りのある乳房が上下に揺れている。
……薄暗がりのなか、じゃらじゃらという金属音と、彼女のむせび泣く声だけが響いていた。
……いったい何がどうなっているんだ?
……自分が何をしているかさえ分からない俺は、ただその光景を見続けることしかできなかった。
「ひっ、もう許して。お願い、乱暴しないで……」
身動きのとれない女は、小さく震えながら俺に許しを乞うた。
許す?
クックック……、いったい何を許すというんだ。
俺は、女の乳房を乱暴に掴んで揉んだ。
「うっ、い、痛い……」
女は涙をこぼしながら、苦しそうに呻いた。
俺は指先で転がすように、乳首を愛撫した。
女の乳首が次第に固くなっていく。
充血し、ツンと突き出るように立ち上がった。
「こんなにさせて、許しても何もないものだ」
桜色の突起を親指と人差し指の間に挟み、キュッと摘んでやる。
「あっ、あうッ!」
女は腰から上を仰け反らせた。
首輪に引っ張られた鎖が、じゃらりと音をさせて、性器に食い込んだ。
「あッ!」
女はびくんっと身体を震わせ、膝を丸めた。
「ククク、随分と敏感になっているじゃないか」
俺は笑いを殺しながら言った。
……その声を聞いたとき、俺は確信した。
……違う、これは俺じゃない。
……俺の声ではない。
……これは明らかに、俺ではない別人の声だ。
……じゃあ、これはいったい……?
……いま見ている、この映像は何なんだ?
俺は勃起した乳首を二本の指の間に挟んで、転がすような愛撫を続けた。
「ふっ、あっ、ああん……」
指の間で、乳首はカチカチに固くなっていった。
心では拒否しても、身体は外部からの刺激を素直に受け止め、反応してしまう。
「ふふふ、なんだこれは?」
俺の指が、尖った女の乳首を弾いた。
「ふあッ!」
勃起した乳首はピンッと跳ね、さらに固さを増して上を向いた。
甘美な快楽は、やがて心をも蝕むだろう。
人間も肉体に支配される動物であるがゆえだ。
俺の手から離れた鎖が、じゃらりと音をたてて床に落ちた。
空いた手が、女の股間に伸びる。
「ひあッ、い、いやッ!」
女は両脚を閉じて、俺の手の進入を拒もうとする。
俺は強引に太股の隙間へと手を滑り込ませた。
「あっ、駄目!」
俺の人差し指と中指が、熱く潤った性器に触れた。
「あっ、ああっ……」
性器からは、ぬるっとした愛液がしみ出していた。
俺は液体に指を浸しながら、膣口をなぞった。
ぴちゅり、ぴちゅりと音をたてながら、指を割れ目に沈めていく。
「クックック、よく濡れてるじゃないか」
俺は冷笑を交えて言った。
「うっ、ううっ……」
女の目には涙が浮かんでいた。
「……さ、さっき、私に飲ませた薬は何なの?」
女が鼻声で訊いた。
「天国にいける薬さ」
俺は笑いながらそう応えた。
「ま、まさか、それって……」
女の顔が恐怖でひきつる。
「フフ、安心しろ、中毒性はない」
言うと同時に、俺は人差し指を膣に突き刺した。
「ひああああああぁぁぁッ!」
ずぶずぶと指を膣に埋めていくと、隙間からちゅるちゅると溢れるように愛液が吹き出した。
「あッ、あッ、あッ!」
全身を突き抜ける、いまだかつて感じたことのない快感に女は打ち震えた。
「どうだ、これほどの快感を感じたことがあるか?」
俺は指をねじって、膣壁をこねくり回した。
「ひぐうぅぅぅッ!」
女は首を左右に振って、身をよじった。
俺のもう片方の手の指が、ヒクヒクと痙攣する女のクリトリスに触れる。
「あッ!」
女は目と口を大きく開いて、ビクンッと身体を弾ませた。
俺は、膣から指を乱暴にズルリと引き抜いた。
「ふあッ!」
いちいち反応する女を見て笑いながら、指を濡らすヌルヌルの愛液をクリトリスに塗りたくった。
たっぷりと潤滑油を与えられた陰核は、被っていた包皮を脱ぎ捨て、敏感な部分をさらけ出した。
熱く充血したクリトリスはカチカチに固く勃起し、ヒクヒクと震えていた。
俺は、それを摘んだ。
「ひぐッ!」
陸に上げられた魚のように、女の身体がビクンッと跳ね上がり、じゃらりと鎖が動いた。
だが、指の間に挟んだ突起は放さない。
「動くな!」
俺は叱咤するように、クリトリスを強く摘んだ。
「ふあッ!」
女の目からは、ぼろぼろと涙がこぼれた。
俺は再び、膣に指を射し込んだ。
今度は人差し指に中指を加えた二本だ。
「ああっ、い、いやあ……」
膣の中で射し込んだ二本の指を暴れさせ、逆の手の指でクリトリスをコロコロと転がす。
「ふああっ! ひうあああッ!」
さらに女の胸に口を寄せ、乳首に噛みついたとき、
「ふあああああああぁぁぁッ!」
女は最初の絶頂を迎えた。
身体をぎゅっと縮め、足の指先がピンと伸びる。
膣壁がきゅっと収縮し、俺の指を締めつけた。
俺はさらに愛撫を加熱される。
陰核をいじる指先を早く、膣の中の指を激しく出し入れする。
「……ああ、あああ、ああああ!」
女はビクビクと身体を痙攣させた。
短く激しい呼吸とともに乳房が上下する。
女は全身を貫く絶頂感に、いつまでも身体を震わせ続けていた。
俺はさらに激しく濃厚な愛撫を施した。
「ああっ、ああっ、ああああああッ!」
女はビクビクと身体を弾ませる。
登りつめた快感がいつまでも持続し、ようやく女は自分の身体の異変に気が付いた。
困惑の表情を俺に向ける。
「フフ、絶頂感がおさまらないのだろう?」
口元を歪ませて俺が言うと、女の顔は次第に恐怖でひきつっていった。
「……な……なんで、ふあッ! ……こ……こんな……」
全身を痙攣させつつ、女が言った。
「……わ、わたしの……からだ……どうなってるの……」
「今のお前は正常じゃないのさ。絶頂感がいつまでも持続しているだろう? おかしくなっているのさ」
俺は口元を歪めて言った。
「さ、さっきの……薬?」
涙声で訊く。
「フフ、味わったことのない快楽に溺れさせてやる。動物に戻してやるよ。人間も所詮は動物だってことを十分に理解させてやる」
そう言って、俺はクリトリスをぎゅっと摘んだ。
今のこいつの肉体は、苦痛も全て快感に変わる。
「あぐあああぁぁぁッ!」
女はビクンッと身体を弾ませた。
「あ、あぐうッ! お……お願い……も、もう……やめて……お……おかしく……なる……」
「おかしく? 違うな。正常な動物に戻るんだ」
俺はさらに指先に力を加えた。
「ああッ、あああああッ! ああああああぁぁッ!」
女は目を開けたまま、ガクガクと全身を揺すった。
俺は膣の中から二本の指をぷちゅりと引き抜くと、愛液に濡れたそれを女の口に突っ込んだ。
「舐めろ」
「んっ、んぐ」
口の中で、女の舌が、指から逃れようとする。
俺は、そんな必死に小さな抵抗を繰り返す女が滑稽に思えてならなかった。
「たっぷりと抵抗するがいい。その理性をお前自身の快楽で叩き潰してやる。そして……」
俺は女の頭を掴んで、強引に横に向けた。
「お前もすぐにああいうふうになる。理性を失くした動物になるんだ」
「ひっ!」
……響子さんが息を飲むと同時に、俺は心の中で目を大きく見開いた。
……そこには。
……そこには、ドロドロの液体に身体中を汚された、あられもない姿のかおりちゃんがいた。
……手と足を鎖で繋がれ、拘束されていた。
……小さくゆったりと呼吸し、胸を上下させている。
……彼女は、時折、薄く瞼を開け、うつろな瞳で虚空を見つめていた。
……すっかり放心状態で、意識は宙を漂っているかのようだった。
……なんてことだ。
……やはりこの子も、こいつに捕らわれていたんだ。
……それも、こんなにもボロボロに汚されて。
……俺の中で、哀しみと怒りの入り交じった不安定な感情が沸き起こった。
……もしも今、この部屋への介入が許されるのなら、たとえ何があっても、この二人を助け出すところだ。
……だが、この悪夢のような光景を目の前にしても、俺にはどうすることもできなかった。
……俺は、指一本自分の思い通りに動かすことすらもできない無力な存在なのだ!
……映画館の観客と同じ、完全な傍観者に過ぎないのだ!
……そのどうしようもない事実への怒りに、俺は気が狂いそうになった。
……本当にこれは現実なのか!?
……俺が見ている夢じゃないのか!?
……今までのこと全てが夢であればいい!
……いや、そうだ、そうに違いない!
……こんなこと、信じられるものか!
……こんな……こんなこと……。
……いや、落ちつけ。
……思わず熱くなった自分に対し、俺は客観的にそう言い聞かせた。
……落ちつけ。
……今はそんなこと言ってる場合じゃない。
……こうなった以上、彼女たちを救えるのは、俺しかいないんだ。
……俺は意識の下で、深呼吸をした。
……これが夢なのか現実なのかは、目が覚めてから、ゆっくりと考えればいい。
……今はそんなこと、どっちだっていい。
……それよりも、ここがどこなのか、それをなんとかして探るんだ。
……それが分かりさえすれば、目覚めた後でも、手の打ちようがある。
……ここの場所を探るんだ。
……俺は心を落ちつけるよう努力した。
……どこなんだ、ここは!?
……確かに夢の中では何度となく見たことのある光景だが、この場所がどこにあるのかは見当もつかない。
……彼女たちを拘束する小道具類も特殊な物だ。ごく普通に用意できるものではない。 ……ここは、どこか特殊な場所に違いない。
……彼女たちを監禁するために設けられた、あの怪物の隠れ家なのだ。
……なにか手掛かりを見つけるんだ。
……彼女たちを救えるのは、俺しかいないんだ。
……俺はその言葉を何度も繰り返し呟いた。
女はようやく、一度目の絶頂から解放された。
がっくりと床に身体を落とし、はっ、はっ、はっと獣のような荒い呼吸をしている。
「今度は俺が快楽を味わう番だ」
俺はそう言ってズボンのチャックを下ろし、中から固くそそり立ったペニスを引き出した。
俺のペニスは、先ほどの同族の女との戦いの後からずっと勃起したままだ。
早く射精したい。
快楽を味わいたい。
女の柔らかな膣の中に、思いきり射精したい。
「ひっ!」
熱り立った俺の『もの』を見た女は、芋虫のように床を這って逃げようとした。
俺は女の身体を掴み、両手で乳房を鷲掴みにした。
「あっ、ああっ!」
固くなった二つの乳首を摘んで左右の乳房を開き、その中央に熱いペニスを突き立て腰を下ろした。
「い、いやあーッ!」
女は泣きながら首を振った。
じゃらじゃらと鎖が動く。
俺は掴んだ乳房を閉じて、ペニスを圧迫した。
前後に腰を動かす。
絹のような女の肌の感触が心地よい。
「くわえろ」
ペニスを口元に突き出し、俺は命じた。
「い、嫌ッ! 嫌よッ!」
女は顔を背け、拒否した。
「拒める立場か?」
俺は女の乳首をきつく摘んだ。
乳首を摘んだ二本の指を擦るように交互に動かす。
「あっ、いっ、痛ッ!」
女は苦痛に顔を歪めた。
「乳首を噛み切ってやってもいいんだぞ」
「……!」
「ヴァギナに別の物を突き刺してやることもできる。苦痛の中で目覚める快楽を教えてやろうか?」
「ひッ!」
女の顔が恐怖にひきつった。
「だが、ともに甘美な快楽を味わうこともできる」
今度は優しく女の胸を揉んだ。
「あっ……」
「優しく快楽に導いてやってもいい」
ゆっくりと両手で胸を揉みしだきながら言った。
「あっ、ああんっ……」
「どっちが好みだ?」
胸を揉んでいた手を止め、俺が訊ねた。
「……ううッ」
女は懇願するような涙目を向けた。
「もう一度言う。……くわえろ」
俺は腰を突き出し、ペニスを女の唇に当てた。
今度は、女も顔を背けなかった。
柔らかな唇が、ペニスの先端に触れる。
ペニスに対する口づけのようにも見えた。
「いい子だ」
俺はさらに腰を前に突き出した。
「んっ、んんんっ!」
俺のペニスが、女の唇を割って中に入り込む。
女の口の中は、ねっとりとした唾液で満ちていた。
「舌を使え。舐めろ」
俺は命じた。
女は俺のペニスをくわえたまま、涙を浮かべた目でコクリと頷いた。
ざらついた女の舌が、俺のペニスを舐め回した。
ちゅぷ、ちゅぷという音がし、女の舌の感覚が俺を震わせた。
「ふうっ、ふうっ……」
涙で鼻が通らない女は、俺のペニスで口を塞がれて苦しそうだった。
「よし……」
俺はゆっくりと腰を後ろに引いた。
「ぷはあ……」
女の口内から引き抜いたペニスは、ヌラヌラとした唾液に濡れていて、それは輝く糸となって女の舌へと続いていた。
ペニスに付いた唾液を胸の谷間に擦りつけるように塗りたくり、左右から乳房で挟んだ。
「はあっ、はあっ……」
女は不安そうな顔で、それを見つめている。
俺は腰を前後に動かした。
唾液に滑り、ちゅるちゅるとペニスが動く。
心地よかった。
俺は何度も何度も腰を前後させた。
乾いてくると、ペニスを女の口に入れて舐めさせ、唾液で潤わせた。
何度かそれを繰り返すうち、ついに押さえきれないほどの射精感がこみ上げた。
俺はペニスを女の唇に突き立てた。
「くわえろ!」
厳しく命じた。
女は怯えながら従った。
「舐めろ!」
女の舌が、ちろちろと俺のペニスを舐める。
「もっと強く! 早くだ!」
女の舌は、俺の言うがままに動いた。
気の荒ぶった俺に、女はすっかり怯えていた。
目を閉じ、泣きながら、一生懸命に舌を動かした。
俺は頂点に達しそうだった。
腰を浮かし、ペニスを口の奥へと射し込んだ。
喉に着きそうなくらいに深くだ。
「んうっ」
女が呻いた。
それと同時に、俺は射精した。
びゅ、びゅ、びゅ。
熱いマグマがペニスの先からほとばしる。
「んぐふっ!」
熱い液体が喉の奥へと流れ込み、女は驚いて大きく目を見開いた。
女は精液を吐き戻しそうになった。
「全て飲め! 吐き出すな!」
俺は女の頭を上から押さえつけて命じた。
俺は女の口から、ずるりとペニスを引き抜いた。
「飲め、全てだ!」
俺が睨むと、女は少しためらったが、やがてコクリと喉を鳴らし、精液を胃へと流し込んだ。
女は苦しそうに咳込んだ。
「フフフ、素直になってきたじゃないか」
俺はそう言って、ペニスに付着した白濁の液を女の唇に塗りたくった。
……奴の感じた射精感は、俺にも伝わっていた。
……響子さんの唇の温かさや、唾液の滑りも同様だ。
……俺は実際に奴となって、響子さんを犯していた。
……俺は次第に本来の目的を忘れ、その淫らな快楽に身を投じていった。
俺はふたたび女の性器に手を伸ばした。
「ふっ! ああッ!」
触っていたわけでもないのに、女の性器はしとどに濡れていた。
膣の中から、ヌラヌラと輝く愛液が溢れている。
俺は溢れ出る愛液に指を浸し、固く勃起したままのクリトリスに指を這わせた。
「ふあんッ!」
女の腰がビクッと跳ねる。
俺はころころと転がすようにそれを愛撫した。
「あっ、あっ、あっ……」
女は身をよじって悶えた。
俺は女の膣に中指を突き刺した。
「ひぐっ……」
女が身体を固くした。
俺は指を出し入れしながら、顔を女のすぐ前にまで近づけた。
「どうだ? 随分とよくなってきたのではないか?」
俺が訊いた。
くちゅ、くちゅ、くちゅと指がヴァギナの中を往復する。
「……うっ」
女は赤らんだ顔を背けた。
「お前が望むなら、俺のペニスを入れてやってもいいんだぞ。お前が……望むならな」
俺は耳元で囁いた。
だが、本当は女の応えがどうであれ、ペニスを挿入するつもりだった。
くちゅ、くちゅ、くちゅ……。
淫らな花弁は熱く潤い、密を溢れさせ続けた。
親指でクリトリスをいじる。
「ああっ、ああああっ!」
女は両脚を閉じたり開いたりして身悶えた。
「……どうなんだ?」
冷たく笑いながら俺が訊くと、女の唇が小さく形を刻んだ。
「…………」
「声を出して言え」
「……て、……して……」
女は目から涙をこぼしながら唇を動かした。
「もっとはっきり言え!」
「して! 入れて! 入れて下さい!」
「ふふふ、素直な女は可愛いものだ」
俺は口元を歪めた。
俺は女の股間にペニスをあてがった。
亀頭部分がくちゅりと膣に埋まる。
女陰は燃えるように熱く火照っていた。
「……お、おねがい、早く……」
女は泣きながら懇願した。
俺は楽しげに笑った。
「ハハハ、いいだろう。くれてやる! 俺のペニスでお前を貫いてやるぞ!」
俺はペニスを女のヴァギナに突き刺した。
ずぶずぶと俺のものが、女の股間に埋もれていく。
「あっ、ああっ、あああっ……」
俺のペニスは力強く勃起したままだった。
一度や二度の射精では萎えることはない。
女を貫くには十分過ぎるほどの固さがあった。
ペニスが根元まで埋まり、先端が奥に当たる。
「あっ、お、奥に……」
女が震える唇で呟いた。
俺は前後に大きく腰を動かした。
張りの良い大きな乳房を掴んで揉む。
指先で、固くなった乳首をいじる。
「ひぐうっ、ひいーっ!」
女は今にも狂わんばかりに身悶えた。
「あああああああぁぁぁッ!」
女は、快楽の虜となっていた。
ククク。
もはや動物だ。
肉欲に屈することは決して悪いことではない。
快楽を求めて生き、それを満たして悦びを得ることは、動物に与えられた正しい生き様なのだ。
人間も動物だ。
快楽に従い、野生を取り戻すのだ。
俺は腰の動きを早めた。
俺は乳首をいじっていた手を股間に移した。
包皮から顔を覗かせるクリトリスを摘む。
激しくペニスを出し入れながら、指でクリトリスを転がした。
「ひっ、ひいいっ!」
女の胸が、たぷたぷと上下に揺れる。
「あんっ、ああんっ!」
女は髪を振り乱しながら、左右に頭を振った。
「ハハハッ、ハハハハハッ!」
俺はさらに激しく腰を動かした。
もともと人類は狩猟民族だった。
獲物を追い、狩り、動物の血肉を得て生きていた。
それが本来の人間の姿なのだ。
だが、狩猟を忘れ、人類はプライドを失った。
生物としてのランクを下げたのだ。
自らの欲望を満たすこともできない、哀れな動物に成り下がったのだ。
もっと、もっと快楽に溺れろ。
野生を取り戻せ。
そうすれば、お前も狩猟者として目覚め、プライドを取り戻せるかもしれない。
「あっ、あっ、あっ、あっ、ああっ!」
膣壁の収縮ぐあいから、俺は女の絶頂が近いことを知った。
「いきそうなのか? どうなんだ!」
叫ぶように俺が訊ねた。
「うっ……」
「どうなんだ!?」
女はコクコクと首を縦に振った。
「だったら、いかせてやる! 肉体に与えられた本当の快楽、そのひとつを教えてやる!」
「ああっ! はあんッ! も、もう駄目えーッ!」
ヴァギナがギュッと閉まり、熱い愛液が溢れた。
「ああああああああああああああああぁぁぁーッ!」
女が絶頂を迎えると同時に、俺も頂点に達した。
俺は前に倒れ込み、両腕で女を力強く抱いた。
きゅっ、きゅっと、膣壁が締まる。
それに圧迫され、俺も女の膣内に射精した。
びゅく、びゅく、びゅく……。
射精しながら、俺は女の乳首に噛みついた。
「ひっ、ひあっ、ひあああああああああああっ……」
薬の影響で、女のオルガスムスは果てしなく続く。
横隔膜が震え、そのたびに膣内が締まる。
それに呼応するするかのように俺も射精し続けた。
びゅく、びゅく、びゅく……。
放出できるありったけの精液を、何度も何度も女の子宮に注ぎ込む。
女の匂いを感じ、肌の柔らかさを感じ、膣の温かさを感じ、全ての精液を放出し、俺は自分の中の欲望がじっくりと満たされていくのを感じていた。
快楽を覚え、欲望を満たし、俺は同族の女と戦って以降見失っていた、冷静さを取り戻していった。
冷静さは、狩猟には欠かせない。
狩りのときは常に冷静でなければならない。
熱くなると、重要な判断を見失うからだ。
だが、これで、俺はいつもの冷徹な狩りができる。
同族である、あの女を……。
「「柏木千鶴を、狩ることができるのだ。
俺は口元を歪めると、腕の中で快楽に打ち震える女の頬を舐めあげた。
さらに腰を前後に動かすと、女は苦しそうな喘ぎ声をあげて、俺にしがみついてくる。 だが、俺の心はすでに遠い場所にあり、目の前の女には何の関心も示せなかった。
俺の目は、女ではなく、炎を見ていた。
生命が散華するときに燃え上がらせる、あの美しい炎だ。
柏木千鶴。
お前の『炎』はどのような色で燃え上がるのだ。
俺のペニスが、再び固く膨張していく。
「ああッ! あぐッ! ひぐうッ!」
女が喘ぐ。
無理もない。
充血し膨張したペニスは、これまでとは比べものにならないほどに、固く、太くなっていたからだ。
だが、意識は冷静なままだ。
肉体は興奮で高まり、意識は冷静さを保つ。
狩りには、最高の状態だった。
ククク……。
柏木千鶴。
お前を……。
狩る!
7・真実と、愛と
遠のいていた意識が戻ってくる。
頭の中の薄もやが消えてゆき、俺はゆっくりと瞼を開いた。
そこは仮眠を取ったときと同じ、柏木家の俺の部屋の中だった。
俺は身体を起こし、頭を左右に振った。
全身が、じっとりと汗ばんでいた。
なんて夢だ。
とんでもない内容だった。
夢の中で、俺は、またあの怪物になっていた。
今度は響子さんを襲い、さらには四人の警察官をも殺した。
そして何処とも知れぬ場所へ響子さんを連れ去り、そこで犯した。
そこには、昨夜から行方不明のままのかおりちゃんもいた。
だが、それより何より、もっとも突飛がないと思えたのは、あの千鶴さんまでもが、同じように人間以上のちからを持った化け物だということだった。
彼女は何も言わず、ただ、ひとこと、俺を「殺す」と言った。
本気だった。
事実、彼女は俺を殺そうとしたのだ。
そして俺と千鶴さんは、夢の中で、言葉通りの死闘を演じたのだ。
警察の介入がなければ、きっとどちらか一方は命を失っていただろう。
……なんてことだ。
俺は深く息を吐いた。
今回見たものは、果たしてどこからどこが現実で、どこからどこが夢だったのだろうか?
見た全てが現実?
それとも前半の化け物の部分が夢で、後半は現実?
もしくはその逆もあり得る。
いや、実は全てがただの夢だったのかもしれない。
今はまだ、はっきりとした答えは出せない。
全てはこれから明らかにしていくしかないのだ。
だが、今は全てが現実に起こったことだったと仮定してものを考えよう。
その場合、夢はある重大なことを告げていた。
それは、俺が犯人ではなかったということだ。
犯人は、声も、手の形も、住んでいる場所も、全てが俺とは異なるまったくの別人だった。
だとしたら、怪物化したのも俺ではなく、その別人だったのかもしれない。
原因は分からないが、この俺はなぜか、その犯人の意識とどこかで結びついているようだ。
カルト雑誌『アトランティス』の記事ではないが、シンクロなんたらとかいうやつの一種だろうか。
俺は夢を通じて、その犯人の見ているものや考えていることを感じることができるのかもしれない。
それはともかく、この俺が犯人じゃないというのが分かっただけでも大きな収穫だ。
時計を見た。
午前一時を一〇分ほど過ぎたところだ。
ということは、俺は六時間近くも眠っていたことになる。
身体には相変わらず気だるい疲れがたまっていて、とてもそんな長時間眠ったような気がしなかった。
取りあえず、さっき見た夢が、現実に起こったことなのかどうかを確かめたい。
本当に警官が殺されたなら、ニュースでも持ち切りになっていることだろう。
居間のテレビを見てみるか。
いや、こんな遅い時間じゃ、もうニュースはやっていないかもしれない。
だったら、響子さんの携帯電話をコールしてみてもいいだろう。
昼間もらった名刺の裏に番号が書いてあるはずだ。
もしも、あの夢が現実だったならば、彼女はとても電話に出られる状態ではないはずだ。
とにかく、居間へ行こう。
そして、確認するんだ。
俺は立ち上がった。
いや、その前に洗面所に寄る用事があった。
先ほど脱いだトランクスを見て思った。
ホントに俺って奴は……。
情けなさに、思わず苦笑する。
床のトランクスを拾って、振り返ったときだった。
部屋と廊下を隔てる白い障子に、スッと黒い人影が映った。
蒼い月光に照らされたその人影は、部屋の前で立ち止まると、中へ入ってくるわけでもなく、声をかけるわけでもなく、ただ、その場にたたずんでいた。
髪の長い女の人の影。
千鶴さんだった。
月明かりの下、無言で廊下に立ち尽くす千鶴さんの影は、なんだかとても哀しげに見えた。
「……ち、千鶴さん?」
俺は訊きつつ、トランクスを背中に隠した。
影はぴくりと反応した。
「……千鶴さんだろ?」
再び障子越しに訊ねると、影は小さく頷いた。
「なにか用?」
俺が訊くと、千鶴さんは少し間を置いてから、囁くような声で、
「……あなたは……耕一さん……なんですか?」
突然そんなことを言った。
「は?」
その意味がすぐに理解できず、俺は間の抜けた声で訊き返した。
「……あなたは……私の知っている耕一さんなのですか?それとも……」
「千鶴さん……」
俺はようやく、その言葉の意味を理解した。
千鶴さんは、今のこの俺が、いつもの耕一なのか、それとも別の耕一なのかと訊いているのだ。
言葉的には不条理な質問だが、彼女の言ってる意味はよく分かった。
そして、その質問を浴びせられたことにより、俺は先ほどの夢での一件が、実際に起こった出来事なのだということをはっきりと認識した。
「……俺は耕一だよ。千鶴さんのよく知ってる、いつもの耕一だよ」
俺は明るさを装った優しい声で言った。
「…………」
千鶴さんの影は何も応えなかった。
声を発せず、ぴくりとも動かず、ただ俯いて、その場にたたずんでいた。
月光に照らされた彼女の影は、なんだか声を殺して泣いているようにも見えた。
「「「俺になにか用があるんでしょ?」
俺が訊くと、影はこくりと頷いた。
「だったら、そんなとこにいないで、中に入ってよ」
言ってしまったあとで、しまったと思った。
この手に持ったトランクスをどうすりゃいいんだ。
俺は慌てて、汚れたトランクスを丸め、布団の中に突っ込んだ。
そんなくだらないことにあたふたする自分が、つくづく情けなかった。
障子戸がすっと開いて、千鶴さんが姿を見せた。
蒼い月の光を浴びた千鶴さんは、素肌の上から白いバスローブを羽織っただけという、なんとも無防備な格好をしていた。
わずかに開いた胸もとから、なめらかな肌が覗き、思わず俺は顔を赤らめた。
「……ふ、風呂上がりなんだ」
俺が言うと、千鶴さんは気まずそうに目を伏せた。
しっとりと濡れた艶やかな黒髪が、月の光を跳ねて輝いて見えた。
千鶴さんはおもむろに部屋の中に入ると、後ろ手で障子戸を閉めた。
伏せていた目を俺に向ける。
「……さっきも一度、来たんですけど、そのときはまだ眠ってらしたみたいだったから……」
千鶴さんは、掠れ声で言った。
「えっ? ああ、そうなんだ。やだなあ、気にせず、叩き起こしてくれればよかったのに」
俺は苦笑を浮かべて言った。
そして、ひと呼吸置いて、話を切り出した。
「それで、用事ってのは?」
俺が訊くと、千鶴さんはすっと俯いて、小さく唇を動かした。
「……大切なお話があるんです」
聞き取りにくい、蚊の鳴くような声だった。
「大切な……話って?」
本当は、話の内容にはなかば見当が付いていたが、俺は敢えて知らぬ振りをした。
「……あなたに……すべてを……お話します」
千鶴さんは俯いたままそう言うと、
「……叔父さま……いえ、あなたのお父さまから預かった遺言も含めて……」
そんな意味深な言葉を付け加えた。
「親父からの……遺言?」
俺が繰り返すと、彼女はただ、無言で頷いた。
重い沈黙が訪れる。
目の前の千鶴さんからは、なぜか、いつもの優しさや温かさのようなものは感じられなかった。
かといって、夢の中に出てきたときのような冷酷な殺意に満ちた感じでもなかった。
強いていえば、そう、昨日仏間でチラリと見たときの彼女に似ていた。
弱々しく、空虚で、退廃的で「「。
なんだか今この瞬間にも崩れ落ちてしまいそうな、そんな感じだった。
「……耕一さん」
千鶴さんがポツリと俺の名を呼んだ。
彼女に呼ばれ、俺が顔を上げたとき「「。
「……ち、千鶴さん……」
彼女は羽織っていた白いバスローブをはらりと脱ぎ捨て、その白い裸体を俺の前にさらしたのだった。
背中まで届く濡れた黒髪、汚れのない新雪のような白い肌、折れそうなほどに細い肩、なだらかな曲面を描く乳房……。
蒼い月光に照らされた千鶴さんの裸は、神秘的で、エロチックで、そして、なによりも、美しかった。
「千鶴さん、なにを……」
目の前の光景に、俺はすっかり戸惑っていた。
静かな夜だった。
庭で鳴く虫たちの声も、木の葉を揺らす風の音も、不思議と、いつもより遠く聴こえる。
素肌をさらした千鶴さんは、薄く閉じた目をこちらに向け、俺を見つめた。
俺もまた、引きつけられるように、千鶴さんの瞳を見つめ返した。
彼女の瞳を覗いたとき、俺はようやく気がついた。
目の前にいる千鶴さんには、心が宿っていないのだということに……。
彼女の目は冷たかった。
ひどく無機質な感じがし、とても血の通った人間の目とは思えなかった。
目には、確かに俺が映っていたが、それはただ物としての俺を映しているに過ぎなかった。
瞳の奥は暗い闇に覆われ、一片の感情すら覗き見ることはできなかった。
まるで氷細工の人形だ、と俺は思った。
「……耕一さん」
心を持たない人形が、俺の名を呼んだ。
呼ばれた俺が目を向けると、人形は、感情のない声で言った。
「……私……綺麗ですか?」
その言葉は、まるで物を見定めてくれと言っているかのようで、羞恥心のかけらさえ感じられなかった。
背筋に悪寒めいたものが走った。
心なしか、空気が冷えてきたようにも思えた。
「私の裸……綺麗ですか?」
千鶴さんは、繰り返し訊ねた。
「……綺麗だよ」
俺は素直に応えた。
「……すごく綺麗だ。さっきからずっと心臓がドキドキ鳴りっぱなしだ」
俺は自分の胸に手を当てて言った。
言葉通り、心臓は早鐘のように高鳴っていた。
「でも「「」
そこで俺は言葉を止めた。
「……今の千鶴さん……なんだか……すごく可哀想だ」
「……え?」
俺が言うと、千鶴さんは微かに驚いた顔をした。
その瞬間、ほんの少しだけ、彼女が失っていた心を取り戻したような気がした。
「……かわい……そう?」
千鶴さんは、俺の言葉を繰り返して口にした。
「……そうさ。俺の目には、今の千鶴さんは、泣いてる子供のように見える」
俺は千鶴さんの目を見つめた。
「……泣いてる……子供?」
千鶴さんの唇が、小さくそう刻んだ。
凍りついた顔、抑揚のない声、暗闇に覆われた瞳。
だが、それらは全て、悲しみを覆い隠すための仮面のように見えた。
「……なんだかすごく無理してるように見えるよ。涙を必死にこらえてるみたいだ……」 今まで何を言っても無反応だった千鶴さんの顔に、わずかな動揺の色がうかがえた。
「……泣いてる?」
ぽつり、と呟いた。
「……泣いてる……ですって? ……私が?」
そのとき俺は、千鶴さんの表情に少しずつ感情と呼べるものが戻ってきたことに気が付いた。
「……私が……泣いて……」
千鶴さんがゆっくりと顔を伏せた。
白い裸体をさらした彼女は、そのまま何も言わず、蒼い月明かりの中、静かにたたずんでいた。
「……千鶴さん」
俺は呟くように彼女の名前を呼んだ。
「千鶴さんが泣いてるのは、俺のせい……なんだろ?」
俺は笑顔を作って訊いた。
しばらく反応を待ったが、千鶴さんは俯いたまま、何も応えなかった。
「大切な話っていうのも、そのことなんだろ?」
思い当たるふしはあった。
夢の中での奇妙な出来事。
あのとき、千鶴さんは「俺を殺す」と言った。
それが、今も俺の耳に焼きついて離れない。
「……もしも」
俺は続けた。
「……もしも俺のせいで、そんなふうに思い詰めているのなら、はっきりとその理由を言って欲しい。……俺、今の千鶴さんを見てると胸が痛いよ。ちからになってあげたい。……その原因が、俺自信にあるんだったら、俺、自分でも何とかするからさ」
再び沈黙が訪れた。
りーり、りーり……。
庭の方から、鈴虫の声が聴こえてくる。
そのとき、俯いた千鶴さんが、ふふっと、乾いた声で笑いだした。
「……ふふっ……ふふふ……」
「千鶴さん?」
「……ふふふ……ふふふふふ……」
彼女の口から漏れる笑い声は、薄暗がりの部屋中に広がっていく。
そして、千鶴さんは囁くように言った。
「……似ているわ」
「えっ?」
「……本当に似ている。……あなたと叔父さま。実の親子ですもの、当然よね」
蒼い月光が、雪のように白い千鶴さんの裸体を淡いベールのように覆っている。
その姿は妖しく、魅惑的だった。
だがそんな彼女は、確かに泣き続ける子供の姿をも連想させるのだ。
「叔父さまもそうだった。いくら私が心を偽っても、すぐにそれを見抜いてしまう。そして、『お前は嘘が下手だな』って顔で笑うのよ……」
千鶴さんは顔を伏せたまま、そう言った。
俺は何も言えず、そんな彼女の姿を、ただ、じっと見つめ続けていた。
ひと呼吸置いてから、彼女がぽつりと言った。
「……嫌なのよ」
「えっ?」
「嫌なのよ、それが。そんな、あなたたち親子が」
「千鶴さん」
「……あなたたち親子は、いつだってそう。……私が拒む拒まないにかかわらず、ズケズケと勝手に心のなかに入ってきて……」
彼女は俺に目を向け、
「「「そして、いつも……」
ゆっくりと顔を上げた。
「……いつも私を……あたたかく包み込んでしまう……」
そのとき、千鶴さんの頬に涙が伝った。
魂をも凍てつかせる妖艶さを宿していた瞳が、熱く潤み、濡れていく。
彼女の表情には心が戻っていた。
温かい血の通った人間の心が戻っていた。
他人からの温もりを求めて止まない、寂しがり屋の人間の心が……。
素肌をさらし、裸になった千鶴さん。
そして今、彼女は氷の仮面を外し、心も裸になったような気がした。
千鶴さんはこぼれる涙を拭おうともせず、そのままゆっくりと語り始めた。
「……私が中学生の頃……父と母が死んだわ。……交通事故だといわれてるけど、本当は違った。……自殺だった。父が母を巻き込んで自殺したの」
千鶴さんの目からはポロポロと涙がこぼれ続ける。
細い肩が震え、声は時折、嗚咽を交えた。
「……両親が死んですぐ、まだ中学生だった私の前に、書類を持った弁護士が訪れたわ。鶴来屋を他人に譲渡しないかっていう話を持ちかけてきたの。まとまったお金も入るし、確かにそれで生活もできたのだけど、私たちは、祖父から受け継いだ鶴来屋を手放したくはなかった。……だから、その話を断り続けた……」
彼女は、ふぅと、小さく吐息をつくと、目を細め、遠くを見つめた。
「……その結果、私たちは、人間の醜い部分を嫌というほど見せられることになったわ」 千鶴さんは、ぎこちなく笑った。
「……叔父さまがこの家に来てくれなければ、私たちは四人とも、両親の後を追っていたかもしれなかった。……それほどに辛い日々だったわ。……私たちは、そんな毎日に疲れきっていたの……」
その瞬間だけ、ふっと、先ほどの感情のない彼女に戻ったような気がした。
弱々しくて、空虚で、退廃的で……、強く触れれば、崩れ落ちてしまいそうに見えた。「……でも」
千鶴さんは目を細めて微笑んだ。
「……そんな傷ついた私たちの心を、叔父さまは癒してくれたわ。……あのあたたかく大きな手が、私たちを心ごと包み込んでくれた……」
優しい微笑みだった。
彼女の親父に対する想いが溢れた微笑みだった。
「……ほかに頼る人もなかった私たちにとって、あの人は、唯一の心のよりどころになっていったの……」
彼女は俺を見ていたが、その瞳には、俺ではなく、親父の姿が映っているような気がした。
「……だから」
その瞬間、千鶴さんの目から、たくさんの大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……だから、叔父さまが死んでしまったとき、……私も一緒に死のうと思った。……あの大きな手が二度と私の頬を撫でてくれないのだと知ったとき、……シャツに染み着いた煙草のにおいを二度と嗅げないのだと知ったとき、……私も死んでしまいたいと思った。……叔父さまのいない世界で……生きていく自信がなかった……」
胸が締め付けられるように痛んだ。
嗚咽する千鶴さんが、とても愛しく思えた。
「……もう、あんな想いはいや。……あんな想いは二度としたくない……」
千鶴さんの唇が震えていた。
「……でも、耕一さん。……あなたを見ていると、私は心の安らぎを感じてしまう。……胸が温かくなって、幸せな気持ちになる。最初は、それはあなたが叔父さまに似ているからだと思った。叔父さまに似ているから、彼が帰ってきたような錯覚を覚えるのだと思った……」
千鶴さんは顔を伏せると、
「……でも、それは違った」
足もとを見つめて呟くように言った。
「……確かに、最初のうちは、あなたに叔父さまの影を照らし合わて見ていた。……でも、そのうち、あなたに対する想いが、叔父さまに抱いていた想いとは異なるものだということに気付いた……」
千鶴さんはゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた瞳で俺を見つめた。
「……耕一さん、私は……あなたを……あなたとして愛してしまった。……だから……だから……」
彼女は涙をこらえようと、固く瞼を閉じた。
だが、涙は隙間から、ポロポロとこぼれ続けた。
「……だからこそ苦しい……私は……あなたを……」
次の瞬間、俺は千鶴さんを抱きしめていた。
……強く、強く、細い肩を折ってしまうほどに、強く抱きしめた。
心も、身体も、背負った不幸も、全部まとめて包み込んでしまいたかった。
「……こ、耕一さん……」
千鶴さんが囁くように俺の名を呼んだ。
俺は、さらに強く彼女の身体を抱きしめた。
「……耕一さん……耕一さぁん!」
千鶴さんも細い両腕で、ぎゅっと俺を抱き返す。
「……わたし……わたし……」
俺は泣き続ける千鶴さんの頬に親指を当て、溢れる涙を拭った。
「耕一さん……」
千鶴さんは涙目を瞬かせて俺を見た。
「もう泣かないで、千鶴さん。……千鶴さんが、そんなだと、俺まで悲しくなるよ」
俺は出来る限りの優しい声で言った。
「だから、もう泣かないで……」
「……うっ」
だが、それは逆効果となった。
千鶴さんの目からは、さらに大粒の涙がポロポロとこぼれ始めた。
仕方なく、俺は嗚咽で震える細い肩を抱きしめた。
「……うっ、ごめんなさい。……わたし……わたし……」
千鶴さんは、溢れる涙を両手で擦り続けた。
「わかった。……じゃあ、涙が止まるまで、ずっとこうしててあげるよ」
「……耕一さん」
千鶴さんがグスッと鼻をすする。
なんだか、本当に子供みたいだ。
俺はそんな彼女が、とても愛おしく思えた。
彼女が泣きやんだのは、それからしばらく経ってのことだった。
嗚咽で震えていた肩も、今はようやく落ち着いて、俺の腕の中でゆっくりと上下している。
そろそろ空気も冷えはじめ、肌寒さを感じるようになっていた。
昼間はまだまだ残暑が厳しいが、それでもやはり、夜は多少なりとも冷え込むのだ。
長い時間、素肌をさらしていたせいで、千鶴さんの身体はひんやりと冷えてしまっていた。
「千鶴さん、いつまでもこんな格好じゃ風邪ひくよ」
俺は千鶴さんの身体をそっと抱き寄せ、冷えた肩を掌でさすった。
「とにかく服を……」
そう言ったときだった。
千鶴さんは俺の胸に顔を埋めると、
「……耕一さんの身体……とても温かい……」
頬ずりしながら、そう呟いた。
「千鶴さん……」
彼女のそんな突然の行動に、俺は驚き、戸惑った。
温かい……というよりは、熱くなってるといったほうが正確だった。
当然だ。
なぜなら俺は今、憧れの(しかも裸の)千鶴さんをこの手で抱きしめているのだ。
こんな状態で、興奮しないわけがない。
俺のこの高鳴る心臓の鼓動は、胸に顔を押し当てた千鶴さんにも、伝わってるだろう。 千鶴さんの髪からいい香りがする。
お腹の辺に押し当てられた、柔らかな二つの膨らみが気持ちいい。
そのとき、千鶴さんは消え入るような声で囁いた。
「……耕一さん……もっと……私を温めてください……」
彼女は頬をほんのりと桜色に染めて言った。
「えっ、温める?」
「……はい」
彼女は小さく頷くと、
「……身も……心も……もっと……熱くさせてください……」
囁くような声でそう言った。
「……耕一さんに、愛してもらいたいんです……」
み、身も心も愛してくれって!?
それってまさか……。
そんな千鶴さんからの誘惑に、俺はわずかな戸惑いを感じたが、しばらく悩んだ後に、「……うん、分かった」
頷いて、そう応えた。
俺が千鶴さんを好きなのは、紛れもない事実だ。
そして今、彼女も俺を求めている。
……俺からの愛を受けたがっているのだ。
「俺も千鶴さんのことが好きだから、千鶴さんの全てを愛してあげたい」
「……ありがとう……耕一さん……」
千鶴さんは潤んだ目で見つめて、そう言った。
「千鶴さん……」
俺がゆっくりと唇を寄せると、千鶴さんは軽く瞼を閉じて、俺を受けとめてくれた。
俺の唇が、千鶴さんの柔らかな唇に重なる。
そして、ふたりは、蒼い月光に照らされてながら、長い長いキスをした。
甘い唇、髪の芳香、熱い吐息、身体の温もり……。
初めて会った日からずっと憧れ続け、女神にも近いイメージを抱いていた千鶴さん。
そんな彼女が今、俺の腕の中で、血の通った肉体を感じさせている。柔らかくて、温かい、女性の肉体を感じさせている。
俺は陶酔していた。
……かおりちゃんや響子さんのこと、……あの不思議な夢のこと、……その夢で見た千鶴さんとの戦いのこと。
気になっていたそれら全てが、今は、どうでもよく思えてくる。
「……ぷはぁ……」
唇を離したとき、ふたりの唾液が銀色の糸になって垂れ落ちていった。
俺が親指で、千鶴さんの口もとを拭ってあげると、彼女は顔を赤らめて俯いた。
痺れて思考が低下した頭の中で、千鶴さんに対する愛おしさと、淫らな欲望が急速に膨れ上がっていく。
彼女とひとつになりたい。もっと深く彼女と交わりたい。
欲望が肉体をつき動かし、俺は千鶴さんを布団の上に押し倒した。
目の前にある慎ましげな乳房に手を当てて、それをもみほぐした。
「……あっ」
千鶴さんが切ない吐息を漏らす。
すっぽりと手に収まる大きさの形の良い乳房。
その二つの膨らみはとても柔らかで、俺が手に力を加えるままに、ふにふにと形を歪めた。
「……耕一さん」
両手で胸を揉まれながら、千鶴さんがか細く不安げな声をあげた。
彼女のそんな様が、俺には、とても可愛く思えた。
膨らみの頂点にたたずむ桜色の乳首。
俺は指先で、ふたつ同時にそれを摘んだ。
「……あっ!」
千鶴さんは、ピクンと身体を仰け反らせた。
きゅっきゅっと刺激を与えるうち、千鶴さんの乳首が、次第に固く尖ってくるのが分かる。
勃起しているのだ。
「千鶴さんの乳首……固くなってる……」
熱い息を漏らしながら俺が言うと、千鶴さんの頬がかあっと赤くなった。
千鶴さんが感じている。
その事実に興奮し、俺は思わず、震える指にきゅっと力を加えてしまった。
「あぅっ! いっ、痛いです、耕一さん」
「ご、ごめん!」
俺は慌てて指を放した。
千鶴さんは、はあはあと肩を上下させながら、熱く潤んだ瞳で俺を見つめた。
「……も、もう少し、優しくして……」
「う、うん、ごめん」
俺はぎこちない手つきで、ふたたび乳房に触れた。
緊張していたのだ。
頭の中は真っ白だし、身体の方は神経が通っているのかどうかも怪しいくらいだった。 ただでさえ、女性には馴れていないのに、いきなり憧れの千鶴さんを相手にして、正常でいられるわけがなかった。
情けないことに、それは俺の下半身にも悪い影響を及ぼしていた。
アレはずっと萎えたままで、とても彼女と交われる状態ではなかった。
どうしたんだ、大きくなれ、なってくれ!
焦れば焦るほど、胸の鼓動と反比例して、下半身はさらに萎縮してしまう。
「……どうしたんですか?」
そんな俺の表情を汲み取って、千鶴さんが心配そうな顔を向けた。
「……い、いや、別に」
俺は笑ってごまかしたが、そのせいでさらに緊張感が高まってしまった。
その後しばらく、千鶴さんの乳房に触れながら、何とか頑張ってはみたものの、やはり駄目で、俺はついに観念し、そのことを正直に彼女に打ち明けた。
「……ご、ごめん、千鶴さん。……俺、あんまり、こんなことには馴れてなくて。……だから、すごく緊張して、……そ、その……」
千鶴さんは熱っぽく潤んだ瞳を向けている。
「……た、立たないんだ」
その言葉を口にした瞬間、俺は情けなさのあまり、死んでしまいたくなった。
目の前にいる最愛の女性に対し、満足させるどころか、その想いを遂げることすらできないなんて。
そんな俺に、千鶴さんはくすっと優しく微笑むと、ゆっくりと招くように両腕を開いた。
「えっ?」
戸惑う俺の頭を、彼女は両腕で優しく抱きかかえ、そっと自分の胸もとへと導いた。
その結果、俺は千鶴さんの胸の谷間に、頬を埋める形になった。
「ち、千鶴さん?」
動揺した俺が慌てて起き上がろうとしたとき、彼女の手が優しく俺の髪を撫で始めた。「……耕一さん。……そんなに焦らないで。……私も初めてだから、緊張してるのは同じです。……私の心臓の音、高鳴ってるのが分かるでしょう?」
俺は耳を澄ました。
トクン、トクン、トクン、トクン、トクン……。
千鶴さんの心臓の鼓動。
確かにそれは俺と同じくらいに早く高鳴っていた。
「……うん、聴こえる。千鶴さんの胸のドキドキが……」
俺が言うと、彼女は恥ずかしそうに微笑んで、俺の髪を撫で続けた。
その手はとても温かで、そして優しかった。
トクン、トクン、トクン……。
千鶴さんの心臓の音がする。
その音に耳を傾けていると、不思議と気持ちが落ち着いていくのを感じる。
まるで、母に抱かれているような気分だった。
「……千鶴さん、これじゃ立場が逆だよ」
照れた俺が、顔を赤らめてそう言った。
だが、恥ずかしいのは事実だが、心が温かくなり、いつまでもこうしていたいという気持ちになったのもまた事実だった。
千鶴さんは静かに語りだした。
「……耕一さん、あなたがまだ小学生だった頃、……私、あなたのこと『耕ちゃん』って呼んでいたのを覚えてますか……?」
千鶴さんは、唐突にそんなことを訊いてきた。
「……う、うん」
俺は頷いて応えた。
小さい頃、確かに彼女は、俺のことを『耕ちゃん』と呼んでいた。
だが、高校に入って、二人の身長が逆転してしまうと、千鶴さんは俺のことを今のように『耕一さん』と呼ぶようになったのだ。
いつまでも『耕ちゃん』のままでは格好がつかないだろうと、俺に気を遣ってくれたのだろう。
「憶えてるけど、それがどうしたの?」
「……あの頃の耕一さん、私がこうして頭を撫でると、とっても嫌そうな顔をしました……」
千鶴さんはそう言うと、遠い目をして微笑んだ。
「……四人姉妹の長女である私は、当時、弟が欲しくてたまらなかったんです。……だから、従弟の耕ちゃんが家に訪ねてきたとき、それはそれは可愛くてしょうがなかったんです……」
千鶴さんは俺の頭をぎゅっと抱きしめた。
俺は、なんとなく気恥ずかしくなった。
「……でも、耕ちゃんは、こんなふうに頭を撫でると、いつもすごく嫌そうな顔をしたんです。……だから私、耕ちゃんには嫌われてるのかなって思ってました」
千鶴さんが苦笑気味に微笑んだ。
「それは……違うよ」
胸に頬を埋めたまま、俺は言った。
確かに俺は、小さい頃から何かと人に触られるのが嫌いな子供だった。
でも、千鶴さんに頭を撫でられたときは、そういう鬱陶しさとは違った、別の嫌な気持ちになったのだ。
「……俺、その頃からずっと、千鶴さんのことが大好きだった。とても憧れていたんだ。……だから、千鶴さんに弟扱いされるのが、たまらなく嫌だった」
「……本当に?」
千鶴さんは目を細め、優しく微笑んだ。
「……本当だよ。……だってその証拠に、今だってすごく気持ちがいいんだ」
俺は両手を顔の横に持ってくると、千鶴さんの乳房をそっと掴んだ。
「千鶴さん……」
俺は頬をすり寄せて、彼女に甘えた。
高鳴っていたふたりの胸の鼓動が、少しずつ穏やかになっていく。
身体を重ねて抱き合ううち、俺の緊張感はいつしか和らいでいたのだ。
「……だいぶ、落ち着きました?」
千鶴さんが囁くように訊いた。
「うん、なんとか……」
「……どうです? ……できそうですか?」
「う、うん。もうちょっとで……」
俺がそう応えると、千鶴さんはぎゅっと俺の身体を抱きしめてから、言った。
「……耕一さん……横に……なってください……」
「え?」
「……お手伝い……させてください……」
千鶴さんは、恥ずかしそうにそう言った。
「て、手伝うって……?」
俺は疑問を口にしながらも、身体を横に転がして、仰向けに寝そべった。
千鶴さんは布団の上から起きあがると、四つん這いの格好で、俺の腰の辺りへと移動した。
「千鶴さん?」
千鶴さんの手が、ぎこちなく、優しく、俺の股間へと伸びる。
「……私に……大きくさせて……ください……」
千鶴さんのしなやかな指先が、俺のモノを掴んで、トランクスの中から外へと導き出した。
「ち、千鶴さん!?」
思わず俺は、両脚を閉じて、それを隠そうとした。
「……は……恥ずかしがらないで……耕一さん……」
そうは言うものの、千鶴さんの頬も恥ずかしそうに真っ赤に染まっていた。
「……う」
俺は抵抗を止めて、上体を布団に沈めた。
首だけを向けて、千鶴さんを見た。
「……耕一さん……気持ちを楽にして……私を……感じて……」
千鶴さんの指が、俺のペニスの先端部分に触れた。
俺はビクッと身体を震わせた。
「ごっ、ごめんなさいっ! い、痛かったですか?」
千鶴さんは慌ててペニスから手を放すと、おろおろしながら謝った。
「う、ううん、そうじゃなくて……」
気持ちがよかったのだ。
快感が、ビリッと電流のように駆け抜けたのだ。
触れられただけで、こんなに敏感に感じるなんて。
そういえば、俺は先ほど夢精した。
そのせいで、ペニスの感覚が鋭敏になっているのかもしれない。
「き、気持ちよかっただけだから」
俺が言うと、千鶴さんは潤んだ瞳でコクリと頷き、ふたたび指でペニスに触れた。
ビクッ!
俺の身体が弾む。
千鶴さんがまた躊躇したが、俺は続きを促した。
「……か、構わず……続けて」
千鶴さんは不安げに俺を見つめながら、ぎこちない指をペニスに這わせた。
「……うっ、うう……」
頭のてっぺんがじんじんする。
そのとき、千鶴さんはペニスに顔を近づけて、その柔らかな唇で、ちゅっと口づけをした。
「ち、千鶴さん!?」
驚いた俺が慌てて起き上がろうとすると、千鶴さんは「あっ」と呟き、手を伸ばして、それを制した。
「……耕一さん……じっと……してて……」
「で、でも」
「……お願いです……私に……させてください……」
「でも、汚いよ……」
俺が言うと、千鶴さんは優しく微笑んだ。
「……いいえ、大好きな耕一さんのですもの。ちっとも汚くなんてありません……」
唇の間からのびた千鶴さんの舌が、ツツツとペニスを這いあがった。
「……あっ!」
痺れるような快感が走った。
千鶴さんの小さな舌が、ペニスの根元から先端までをゆっくりと往復する。
そのうち舌が乾いてくると、彼女はペニスそのものを口に含み、くわえながら舌を動かした。
「……あっ、ち、千鶴さん!」
俺はビクビクと身体を震わせた。
快感が、かつて味わったことのない周期で身体中を駆け抜ける。
打ち震える俺が手を握りしめると、彼女もぎゅっと握り返してくれた。
千鶴さんの口の動きは、弱々しくてぎこちなかったが、その行為自体に俺は興奮し、酔いしれていった。
気がつけば、ペニスは千鶴さんの口の中でムクムクと大きくなり始め、やがてそれは、かつてないほどに固く、大きく、そそり立った。
完全に勃起した俺のペニスは、千鶴さんの口一杯に膨張していた。
千鶴さんは息苦しそうにしながらも、それでも一生懸命に舌を動かし続けていた。
そんな彼女の姿を見て、俺は愛おしさでいっぱいになり、胸がきゅんと切なくなった。 いちど勃起してしまったら、快感は留まるところを知らずに駆け登っていった。
千鶴さんの口の中……柔らかな粘膜に包まれながら、俺は頂点への階段を登り詰めようとしていた。
俺はぶるぶると射精感を催した。
「……千鶴さん、俺、もう駄目だ……出そう」
「えっ!?」
苦しそうに俺が言うと、千鶴さんは舌の動きを止めて、ペニスから口を離した。
俺のペニスは、ビクン、ビクンと震えていた。
「……こ、耕一さん」
千鶴さんは潤んだ目で俺を見つめると、震えた声で俺に囁いた。
「……だ……出すのなら……私の……お腹のなかに……」
「えっ!?」
千鶴さんは、頬を真っ赤に染めて、そう言った。
「で、でも、そんなことしたら……」
「……いいんです。……気にせずに……私のお願いをきいてください……」
千鶴さんはそう言うと、俺と入れ替わるようにして布団に寝そべり、ゆっくりと両脚を開いた。
愛液に濡れた千鶴さんの性器が、蒼い月光の下で露になる。
キラキラと蜜に濡れて輝く花弁は、淡く綺麗な桜色をしていた。
恥ずかしそうに顔を背けながら両脚を開く千鶴さんの姿を見て、俺は異常なほど興奮した。
「わ、分かった」
彼女を征服したいという強い欲望も後押しし、俺は頷いて、彼女の要求を受けいれた。 千鶴さんに身体を重ね、手で彼女の恥ずかしい部分に触れた。
熱く火照った花弁を開くと、くちゅりと音を立てて透明の蜜が溢れだした。
……濡れている。
……それも、こんなにたくさん。
……千鶴さんも興奮しているんだ。
千鶴さんが熱い吐息を漏らした。
指をなぞらせると、花弁はくちゅくちゅと水っぽい官能的な音をさせて小さく震えた。 力の加減もわからずに夢中で指を上下に動かすと、千鶴さんはあっと小さく呻いて下唇を噛んだ。
「……こ……耕一さん……ら……乱暴にしないで……」
「あっ! ご、ごめん!」
俺は慌てて指の動きを止めた。
今度はゆっくりと優しく、指を這わせる。
「千鶴さん、このくらい?」
「……は……はい……」
くちゅ、くちゅ、くちゅ……。
「……あっ、ああ……こ……耕一……さん……」
官能に震える千鶴さんの甘い声を聞き、俺の理性が弾けて飛んだ。
ペニスが憤るように膨張する。
「千鶴さん、もう入れるよ」
俺が言うと、千鶴さんは荒い息をさせて上下に肩を震わせつつ、潤んだ目でコクンと頷いた。
俺は膝を立てて座り、憤るように膨張したペニスを千鶴さんの性器へと導いた。
先端部分を花芯に押し当てる。
くちゅり、と水っぽい音がした。
蒼い月明かりの中、不安に怯える千鶴さんの表情には、無垢な少女の面影が色濃く浮かび上がっていた。
俺は腰を突き出した。
「……あっ!」
千鶴さんが身体を固くする。
だが、急角度に勃起したペニスは狙いを外し、性器の丸みを這うようにして、つるりと滑り上がった。
「あ、あれ!?」
焦った俺は、しゃにむになって挿入しようとする。
「……こ……耕一さん……ち……違います……もっと下です……」
千鶴さんが震えた声で言った。
「えっ、こ、このへん!?」
「……もっと……もっと……下です……」
俺は先端部分をあてがったまま、言われるままに、ペニスを下へスライドさせていった。
ちゅく……。
「……あ」
ある部分まで来たとき、ペニスの先端が水っぽい音をさせて、愛液の中に頭を埋めた。「こ、ここ?」
俺が訊くと、千鶴さんは恥ずかしそうに、コクンと頷いた。
「……そ、そこ……です……」
確かにそこは、力を加えれば、このまますんなりと奥まで入っていきそうな感じがした。
「じゃあ、いくよ」
「……は……はい……」
千鶴さんがきゅっと目をつぶって、唇を噛んだ。
俺は彼女の脇に両手をついて、ゆっくりと腰を突き出していった。
ずぶ、ずぶずぶ、ずぶずぶずぶずぶ……。
入っていく。
……ゆっくりと、……ゆっくりと、張りついていた肉壁を内側からこじ開けるようにして入っていく。
最初はスムーズに入るかと思われた千鶴さんの膣内は、実際に入ってみると想像よりも全然窮屈で、俺のペニスは、滑った愛液の力を借りてようやく先を進むことができる程度だった。
熱く火照った肉壁が、膣内に進入したペニスを拒むかのように押し返そうとする。
ずぶずぶずぶ……。
俺はそれに逆らって、固くなったペニスをさらに奥へと埋めていく。
ペニスと膣の隙間から、ちゅるちゅると音を立てて愛液が溢れだした。
「ああッ、あああッ、ああああ……」
千鶴さんが、か細く震えた声をあげる。
千鶴さんの膣内は熱く、そしてヌルヌルで、とても気持ちが良かった。
一番奥まで到達すると、取りあえず俺はゆっくりと息を吐いた。
いま俺は、憧れの千鶴さんとひとつになっている。
彼女の身体を、俺のペニスが貫いているんだ。
膣壁がピクピクと俺のペニスを締めつけている。
「……あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……」
苦痛と快楽が入り混じり、小さく呻きながらも打ち震える千鶴さん。
そんな彼女を見た俺の胸に、熱いものがこみ上げてくる。
憧れの千鶴さんを自分のものにしたという征服感と達成感だ。
それは心を満たし、俺を陶酔させていった。
だが、肉体はまだ満たされてはいなかった。
俺はゆっくりと腰を後ろに引いた。
力を抜いた途端、ペニスは出口へと押し返される。
俺はふたたび深く差し込んだ。
だが力を抜くと、すぐにまた入り口まで押し戻されてしまう。
また差し込む。
俺は何度もそれを繰り返した。
「……あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、ああッ!」
俺の腰の動きにあわせるように、千鶴さんの上半身が縦に揺れ動いた。
「……ふああああっ! 耕一さん! 耕一さんッ!」
千鶴さんが俺の名を呼び、俺はその呼び掛けに応えるように、深く腰を突き動かした。 千鶴さんの膣壁が、きゅっ、きゅっと俺のペニスを締めつける。
ヌルヌルとした溢れるほどの愛液の中を俺のペニスは何度も往復し続けた。
「……耕一さあん! ……耕一さあんッ!」
千鶴さんは、何度も俺の名を繰り返して呼んだ。
やがて、ジーンと痺れるような感覚が俺の下半身を襲ってきた。
「ゴ、ゴメン、千鶴さんっ! 俺、もうッ!」
「耕一さあーんッ!」
彼女が両脚を俺の腰に絡ませたときだった。
とくん……、とくん……、とくん……。
俺は絶頂を迎えると同時に、熱い飛沫を千鶴さんのなかに放出させていた。
千鶴さんのあそこが、きゅっきゅっと俺から精液を絞り出すように締まり、俺はそれに促されるように、何度も何度も射精した。
だが、いちど火が着いた若い肉体は、そう簡単には萎えることはなかった。
放出した後も、愛液と精子でヌルヌルになった千鶴さんの膣内を漂っているうちに、俺のペニスが、再びムクムクと起きあがっていった。
「……あっ、ああっ……こ、耕一さんが……また……私の中で……大きくなって……」
「……千鶴さん。俺、千鶴さんも気持ちよくさせたい」
俺はそう言って、結合部分の上端部分にある真珠のような突起に触れた。
千鶴さんのクリトリスだ。
その瞬間、千鶴さんは可愛く「あっ」と呻き、身体をビクンと弾ませた。
「ここが感じるところ……だよね?」
俺はその、包皮の中から恥ずかしげに頭を覗かせる千鶴さんのクリトリスを、指の腹の部分でコロコロと円を描くように転がした。
「ああッ! ……こっ、耕一さん!」
千鶴さんの身体が敏感に反応する。
突起は充血し、固くコリコリになっていた。
男の俺がペニスを勃起させるように、女である千鶴さんは、乳首と、クリトリスを勃起させるのだ。
俺は、痛くないよう、優しく愛撫を続ける。
千鶴さんの感度が徐々に高まっていく。
「……あっ……ああっ……あああああっ……」
千鶴さんの身体が、激しく弓なりに仰け反った。
彼女の息が荒がってきたのを確認すると、俺はその身体を抱き上げて、膝の上に乗せた。
俺は膝の上の千鶴さんをぎゅっと抱きしめた。
彼女を潰さないで抱きしめたいという思いが、自然にそんな体位を実行させたのだ。
「こ、耕一さん!?」
俺は、繋がったまま千鶴さんの身体の向きを変えさせて、まるで小さな子がおしっこさせてもらうような格好をさせた。
「耕一さん、こんな格好、恥ずかしいです!」
向きを変えるとき、いちどペニスがちゅるりと抜け落ちて、愛液と精液が混ざりあった液体が糸を引いて垂れ落ちた。
その液体に混ざって、千鶴さんの処女の証である血の筋が流れ落ちた。
俺は痛々しさに胸が押し潰れそうになったが、奇妙な興奮を覚えたのも事実だった。
「……ち……千鶴さん。……ごめん。……抜けた俺のを……また……入れて欲しいんだけど……」
「えっ!?」
千鶴さんが、頬を真っ赤に染めて俺を見た。
彼女の過剰な反応を見た俺は、ようやく自分がとんでもなく恥ずかしい行為を強要しているということに気がついた。
俺の両手は、千鶴さんの身体を支えるので塞がっていて、自分では挿入し直すことができない。
だから、千鶴さんにお願いしただけのつもりだったが、よくよく考えてみれば、それがどれほど羞恥心をあおる要求であろうことか。
だが、興奮で思考能力が麻痺した俺は、その程度の常識的判断さえも見失っていたのだ。
俺が慌てて訂正しようとしたときだった。
「あっ……」
千鶴さんは恥ずかしそうに俯きながら、震える手でおそるおそる俺のペニスを掴んだのだった。
「…………」
俺は何も言わず、かたずをのんで、千鶴さんの手の動きを見守っていた。
「……んっ……」
千鶴さんはぎこちない手つきで、俺のペニスを自分の性器へと導いた。
自分の指で、そっと花弁を開く。
先ほどと同じトロリとした液体が溢れ出す。
俺からは死角になって見えないと思っているのか、千鶴さんはそれを隠そうともしなかった。
そして、ゆっくりとペニスを膣口にあてがった。
「……は……はい……耕一さん……腰を……あっ!」
千鶴さんが最後まで言うより早く、俺は彼女の腰をずぶずぶと根元まで沈めていった。「……あっ、ああっ、ああああーーーーーッ!」
ペニスは前から挿入したときよりも深く、根元まで埋まった。
「……こ……耕一さんのが……こんなに……深く……入って……」
俺は千鶴さんの膝を持って、突き上げるように腰を動かした。
「ひうっ、ふううっ、はあああっ!」
千鶴さんが首から上を仰け反らせて、激痛と快感が入り交じった喘ぎ声をあげる。
俺は腰を動かしながら、すぐ横に近付いた千鶴さんの唇にキスをした。
「……ふむっ、ふあんっ、はあっ、あうっ……」
互いに呼吸を乱した者同士の口づけは、荒い呼吸のせいで、まるでじゃれ合う動物のようだった。
俺は千鶴さんの脚を閉じて、片手で両脚を抱え込むと、空いた方の手で、彼女のクリトリスをいじった。
「あふっ、あふうっ、ふううんっ、はあああっ!」
今度は両脚を開かせ、さらにもう片方の手で、乳首をキュッと摘んだ。
腰の動きは加速度的に早くなっていく。
ズンズン突き上げる腰の動きに、ネチネチいたぶるような指の動きが重なり、千鶴さんは髪を振り乱して可愛く身悶えた。
「……こっ、耕一さんっ、わたしっ、わたしぃ、もう、もうっ、すぐ、そこまで、身体がっ、熱っ……」
ちゃんとした言葉にはなってなかったが、千鶴さんが絶頂を迎えようとしていることは、十分なほど俺にも伝わった。
「千鶴さん、俺も、俺も、もう出そうだ。……また千鶴さんの中で出してもいいの?」
「……はっ、はいっ、耕一さんっ、私のっ、なかにっ、私のお腹のなかにっ、あっ、あっ、ああッ!」
千鶴さんの両脚がガクガクと震えだした。
あそこがきゅっと収縮し、小さく痙攣した。
「……千鶴さんッ!」
俺は渾身の力を込めて、深々と腰を打ち込んだ。
その瞬間だった。
「耕一さんっ、耕一さんっ、こういちさあぁーーーーーーーーーーーーーーーんッ!」
千鶴さんが絶頂を迎え、それと同時にペニスを締めつけられた俺も、熱い精液をほとばしらせて彼女の膣の奥を焦がした。
びゅっ……、びゅっ……、びゅっ……。
ふたりの絶頂が重なり合い、目に見えない激しい炎が燃え上がる。
トクン……、トクン……、トクン……。
千鶴さんの膣が震えるたび、俺もペニスを脈動させて放出した。
形の異なる性器を重ね合い、互いの肉体を共有したまま、俺と千鶴さんは、燃え上がる性愛をいつまでも享楽した。
やがて長い放出が終わり、それからしばらくの時間が過ぎ去っても、ふたりは繋がったままの姿でいた。
互いの存在を確認し合うように、長い長い口づけを交わし続けた。
蒼い月明かりが射し込む部屋で、ふたりの時間は、止まっていたのだ。
その後、俺と千鶴さんは仏間で合うことを約束し、いったん別れた。
先ほどの話の続きは、そこで聞くことになった。
彼女は服を着替えに自室へと戻り、俺はこの空いたわずかな時間を利用して、どうしても気掛かりだったことを確かめてみることにした。
居間へ赴く途中、洗面所に寄って、先ほど布団の下に隠していた下着を洗った。
居間の電話の前に立った俺は、今日もらった名刺を財布から取り出した。
裏にはボールペンで電話番号が書かれてある。
俺はひと文字ずつ確認しながら、プッシュした。
相田響子さんの携帯電話に繋がるはずだ。
ピッ、ピッ、ピッ……。
もし、これで、何もなかったように響子さんが電話に出れば、あの夢は、少なくとも現実ではなかったということが判明する。
頼む、出てくれ。
祈るような気持ちで、最後の番号を押した。
……お掛けになった携帯電話は、現在、電源を切っておられるか、通話のできない地域におられますので、お繋ぎできません。
……お掛けになった「「。
……カチャ。
俺は受話器を下ろした。
これで、淡い期待のうちひとつは消えてしまった。
胸に空洞ができたような気分を味わいながら、俺はテレビのスイッチをつけて、あれこれとチャンネルを変えてみた。
だが、こんな深夜では、さすがにどの局もニュースはやっておらず、かわりに外国映画やお笑いタレントの番組が流れていた。
俺はテレビを消して、仏間へと赴いた。
開いた雨戸の向こうから、涼やかな秋の夜風が部屋の中に流れ込んでいた。
俺は仏壇の前に座布団を敷いて、その上にあぐらをかいて座った。
仏壇に置かれた、白い布で包まれた親父の骨箱。
その中には、焼かれて骨になった親父がいる。
俺は線香を一本取り出し、火をつけ、手で扇いで炎を消し、仏壇に供えた。
煙が上がり、香の匂いが部屋を漂った。
りーり、りーり……。
線香の煙と聴こえてくる鈴虫の声が、不思議と俺の心を落ち着けた。
白い親父の骨箱を見つめながら、俺はひとり思いに耽った。
ここへ来て以来、俺のまわりで何かが変わり始めている。
平和な現実世界を逸脱し、血生臭い非現実的の世界へと移りつつある。
……連続連夜で見る奇妙な悪夢。
……昨日訪ねてきた刑事が言った、親父の死についての疑惑。
……梓の部屋で起こった、突然の俺の昏倒。
……そのとき見た、不気味な殺戮の夢。
……そして、現実に起こっていた、無差別殺人事件とかおりちゃんの誘拐。
……再び見た殺戮の夢。
……千鶴さんとの、人智を超えた獣のような戦い。
……響子さんの誘拐と、監禁しての激しい性行為。
そんな、不可思議なことすべてが、なぜか俺には、奇妙な一本の糸で繋がるように思えてならない。
そして、その糸を握っている人物こそ、ほかならぬ千鶴さんであるような気がする。
この柏木家には、俺の知らない、なにかいわくめいたものが隠されている。
彼女のいう、『大切な話』とやらを聞けば、真相の一端が明らかになるように思えるのだ。
それがどんな話かは、だいたい見当がつく。
千鶴さんは、俺の中に、もうひとりの俺が存在することを知っていた。
そして、夢の中で、彼女はその俺に対し「あなたを殺す」と言ったのだ。
彼女の口から語られるのは、きっと、あの公園での出来事についてだろう。
常識を越えた何かが、俺の知らないところですでに始まっているのだ。
だが、それとは別に、気になることがあった。
先ほどその話をしたとき、彼女が「親父からの遺言も含めて」と口にしたことについてだ。
……親父からの遺言。
そのひとことは、深い意味を秘めていた。
予期せぬ突然の事故だったといわれる親父の死。
だが、遺言を残していたということは、親父は自分の死を予測していたということではないか。
もちろん、まさかのために備えて、遺言を用意していたということもあり得る。
だが、特に身体も悪くはなく、歳もまだ五十歳そこそこの親父が、ただ何となく遺言を残したりするとは考えにくい。
昨日訪ねて来た刑事が言う通り、親父の本当の死因は、自殺か、もしくは他殺だということだろうか。
どうやら千鶴さんは、そのことについてもなにかを知ってるようだ。
思えば昨日、彼女が刑事たちの前で見せたあの複雑な表情が、そのことを物語っていたのだ。
俺はゆっくりと視線を上げ、骨箱を見つめた。
その瞬間、複雑な思いが頭の中を駆けめぐった。
俺と母さんを捨てた父。
血を分けたという事実と、戸籍が記すだけの父。
声や顔さえはっきりと思い出せない他人同然の父。
だが、その親父は、千鶴さんたち四姉妹にとって、大きな心の支えになっていたのだ。千鶴さんに後追い自殺を考えさせるほどに……。
親父がいなければ、自分たちは今日までやってこれなかっただろうと、千鶴さんは言った。
客観的にものを見れば、親父がこの屋敷へ赴くことになったのは、ごく自然な結果だった。
身寄りのない姪たちを養育せねばならなかったし、鶴来屋グループの運営も行わねばならなかったのだ。
それはいい。それは俺も分かってる。
ただ、疑問に思うのは、なぜ俺と母さんを置き去りにしなければならなかったのかということだ。
家族みんなでこの屋敷に住んでもよかったはずだ。
結果、母さんは未亡人同然の扱いを受けながら、病に伏して、そのまま逝ってしまった。
お嬢様育ちのくせに、たったひとりで、俺を育ててくれた母さん。
なぜ親父と一緒に住まないのかと訊ねると、母さんはいつも苦い顔で笑うだけで、結局、なにも応えてはくれなかった。
いつしか俺は、母さんはただ親父のわがままに振り回されているだけなのだと思い始めていた。
離れて暮らす寂しさが、なぜ一緒に住めないのかという怒りに変わり、やがてそれは深い溝を築いた。
だから、親父が遅ればせながら、一緒に住まないかと持ち掛けたとき、俺はきっぱりと断った。
俺の中では、親父はもう完全な他人だったし、それに母を見殺しにしたような男とは、一緒に暮らす気にはなれなかったからだ。
親父が死んだときも、俺は泣かなかった。
悲しくもなかった。
所詮、他人が死んだに過ぎないのだから。
俺がここにこうしているのも、半ば義理に近い感覚でのことなのだ。
「……お待たせしました」
背後からそんな声が聞こえた。
振り向くと、そこには千鶴さんの姿があった。
彼女は部屋に入り、俺と並ぶようにして膝を折って座った。
仏壇に線香をあげ、手を合わせ、しばらく黙とうをする。
やがて、ゆっくりと瞼を開き、俺の方を見た。
「お父さまと、なにか、お話をなさいました?」
彼女の問いに、俺は首を横に振って応えた。
「俺と親父は八年も離れて暮らしてたんだ。今はもう声も顔もはっきりとは思い出せない。語りかけても、どんな言葉を返してくるのか想像できないんだ」
「……そうですか……」
俺の冷たい回答に、彼女は複雑な顔をした。
「それにきっと親父のほうだって、俺との会話なんて望んじゃいないさ」
俺が言うと、千鶴さんは悲しげな瞳で俺を見た。
「……どうして、そんなふうに思うんですか?」
「俺と親父は、もう他人同然の関係だった。お互いに関わり合うことすら避けていたんだ」
「……そんなことは……」
「いや、そうなんだ。母さんが死んで、一人暮らしを始めてからも、親父は結局、いちどたりとも俺に連絡をよこさなかった。住所も電話番号もちゃんと判っていたはずなのに……」
「……それは耕一さんが、叔父さまに新しい住所も電話番号も教えようとしなかったからです。……叔父さまは寂しそうにおっしゃっていました。……あいつが自分との関わり合いを望まない以上、離れて見守ることしかできない……って」
「離れて見守るだって?」
俺は吹き出すように苦笑した。
「だいたい、あの親父が俺になにかを……」
言い掛けた俺の言葉を、千鶴さんが遮った。
「……耕一さんは現在、お母さまの実家のほうから月々の仕送りを受けていると思うのですが……」
「そうだけど……」
「実はあれは、叔父さまがあちらの実家を経由して、耕一さんに送られていたものなのです」
「えっ?」
その瞬間、俺は笑みを消して、目を開いた。
「学費を含む全てを、あの人が送っていたんです」
千鶴さんは静かな声で言った。
学費と仕送りの出所が、あの親父だって!?
「な、なんで、そんな……」
「……回りくどいことを……と思われるでしょう。でも、耕一さん? もし、叔父さまが、直接あなたに仕送りをされたら、あなたは素直に受け取られましたか?」
「それは……」
俺は口ごもった。
千鶴さんは、遠い目をして仏壇を見つめた。
「……あの人は、いつも耕一さんのことを一番に考えていました。……誰よりも深く、あなたのことを愛していたのです。よく、向こうの実家に電話して、あなたの近況をうかがっていました」
「親父が……」
俺は、どんな表情をすればいいのかも分からずに、親父の骨箱に目を向けた。
当然、骨箱は何も応えなかった。仏壇の線香が白い煙をあげているだけだ。
甘んじて受け取っていた母の実家からの仕送りが、実は親父からのものだったなんて、そんなこと今まで考えたことすらなかった。
「……私、何度もそのことをあなたに打ち明けようかと思いました。……だけど、叔父さまがどうしても黙っていてくれとおっしゃるので言えませんでした。……叔父さまは、そのことを知ると、あなたはきっと仕送りを受け取らなくなると思ったのです。……父らしいことは何一つしてやることができなかった、だからせめて、このぐらいのことはしてやりたいのだと、いつもそうおっしゃっていました……」
千鶴さんは俯いて、胸もとに手を当てた。
「だけど、親父が、俺と母さんを捨てたということは事実なんだ。……そんな罪滅ぼしみたいなことをされたところで……」
俺が言うと、千鶴さんは長い黒髪を揺らしながら、首を左右に振った。
「……違う、違うんです。叔父さまは耕一さんを捨てたわけじゃありません。……叔父さまが耕一さんと離れて暮らねばならなかったのも、すべては耕一さんのためなんです」
千鶴さんが、いつになく感情的に訴えた。
「俺の……ため?」
俺が繰り返して訊くと、千鶴さんは頷いて応えた。
「……はい。そのことを今からあなたにお話しします。叔父さまが、あなたと離れて暮らさねばならなかった理由。……そして、叔父さまが亡くなられた本当の理由を……」
「親父が死んだ……本当の理由?」
千鶴さんは仏壇を見つたまま、ゆっくりと頷いた。
「……耕一さん……外へ出ましょう」
千鶴さんは、唐突にそんなことを言った。
俺が不思議そうな顔を向けると、彼女は仏壇の方を見つめたまま言った。
「……今夜は……月がとても綺麗ですし……なんだか身体がまだ火照っていて……夜風にあたりたい気分なんです」
そのときの彼女の横顔は、なぜか愁いを帯びているように見えた。
「うん……」
何となく俺が承諾すると、千鶴さんは小さくコクンと頷いて立ち上がった。
続いて俺も立ち上がったとき、千鶴さんが言った。
「……耕一さん。お父さまに、これ以上お話しすることはありませんか?」
「……いや、もう別にないよ。でも、それってどういう意味?」
逆に俺が訊ねると、彼女は目を逸らして俯いた。
「……い、いえ、……ただ、このままじゃ、……叔父さまがあまりにも可哀想なので……」
語尾が弱々しく消え入る。
そんな彼女を見た俺は、千鶴さんが、俺に何か後ろめたいことを隠してるような気がしてならなかった。
悲しげな横顔、逃げるように逸らす視線、そして、まるで俺が二度とここへ戻らないかのようにも取れる今の意味深なセリフ。
こんな夜更けに、外へ出ようというのも不自然だ。
ふと脳裏に、夢の中で千鶴さんが言った「あなたを殺します」という言葉が浮かんだ。 まさか……、まさか千鶴さん、俺を外へ連れ出して、そこで……。
俺の背筋にゾクリと悪寒めいたものが走った。
……はは、馬鹿馬鹿しい。
俺は口の中でそう呟くと、頭に浮かんだ悪い冗談を振り払った。
自嘲気味に口もとを歪める。
今の千鶴さんが、そんなこと考えるはずがない。
彼女と俺は、互いに身体を重ね合い、あれほど深く愛を確認しあったのだから……。
8・きずあと
屋敷を出た俺と千鶴さんは、川沿いに歩き、裏手にある山道を登り始めた。
蒼い月光に照らされた、ほのかに明るい道を歩く。
頬に当たる夜風が気持ちいい。
空はよく晴れていた。
都会では見ることのできない満天の星が、銀の砂を散りばめたようにきらめいている。 ぽっかり浮かんだ月が、真円を描いていた。
「……月を見ると、不思議と心が落ち着くんです」
千鶴さんが空を見上げて言った。
「……太陽の光を跳ねて輝く月……とても優しい輝きだと思いませんか?」
「うん……」
俺は素直に頷いた。
暗い夜の闇を優しい光で照らす月。
遠い昔の人間たちは、この柔らかな光をさぞ神秘的なものとして捕らえていたことだろう。
ふと、そんなことを考えてしまう。
そして、不思議と俺の目には、そんな神秘的な月が千鶴さんと被って見えてしまうのだった。
「……小さい頃、よく父に連れられて、この山道を歩きました」
千鶴さんは懐かしそうに目を細めて言った。
「……春には梅や桃や桜の花を見に、お弁当を持って、川の上流まで登りました。花が散り、木が葉をつける頃になると、今度はワラビやゼンマイなどの山菜摘みに来るんです。……私と梓で、どっちが多く摘めるかを競争したりしました。とても楽しかった……」
水の流れる音に、虫の声が重なる。
自然からの優しい抱擁。
溢れる生命を感じる。
「夏には、よく花火をしに来ました。ここをもう少し行った辺りに水門のある河原があって、いつもそこでするんです。花火はとても楽しいんですが、次の日に梓が飛ばしたロケット花火を拾うのが大変で……」
千鶴さんが苦笑する。
だが、ふたたび目を細めると、
「……あの当時、そこにはたくさんの蛍がいたんです。それはもう、とっても綺麗でした」
うっとりとした声でそう言った。
「うん、そこには俺も行ったことがあるよ。梓たちと釣りをしに行ったんだ」
その日のことを思い出し、俺が言った。
暑い夏の日の午後、俺と梓と楓ちゃん、初音ちゃんの四人は、その河原で魚釣りをして遊んだ。
そのとき、梓は水門の上で足を滑らせ、川に落ちて溺れてしまった。
あいつは無事だったが、買ってもらったばかりの靴を川底に沈め、わんわん泣いていた。
「……耕一さん」
そのとき、千鶴さんが不意に立ち止まり、こっちを振り返った。
いつの間にか、その表情は厳しさを携えていた。
「な、なに?」
俺はそんな彼女の突然の変わり様に戸惑いつつも、微笑んで応えた。
「……そのときのこと、はっきりと憶えてますか?」
彼女はいきなり、そんな質問を俺に浴びせた。
なぜか周囲には、ピンと緊張の糸が張りつめたような気がした。
「えっ? ま、まあ、うろ覚えだけど……」
俺が曖昧に応えると、千鶴さんはゆっくりと深呼吸してから、その重たい唇を動かした。
「……耕一さん、憶えてませんか? そのとき、あなた自身の身になにが起こったのかを……」
「俺自身に? 梓じゃなくて?」
「はい、あなた自身にです。梓が水門で足を滑らせ、川で溺れた、その後で……」
「その後? いや、とくに何も……」
「……そうですか」
千鶴さんは目を伏せ、俯いた。
サラサラサラサラ……。
風が草葉を鳴らして吹き抜けた。
千鶴さんが顔を上げ、俺の目を見つめた。
そして、口を開いた。
「……あなたはその後、川で溺れ、死にかけたんです」
「えっ?」
千鶴さんの突拍子もないセリフに、俺は間抜けな声で訊き返した。
「死にかけた……って、この俺が?」
千鶴さんはコクンと頷いた。
「ちょ……ちょっと待ってよ」
俺は笑ったつもりだったが、動いたのは口のまわりだけだった。
「俺はそんな記憶……」
「……記憶がないのは……」
千鶴さんが遮って言った。
「……憶えていないのは、多分、あなたが自分自身で、記憶を閉ざしてしまったせいです」
千鶴さんは、まっすぐ俺を見据えたまま言った。
「記憶を……閉ざす?」
わずかな沈黙があってから、俺はぎこちない笑顔を作って言った。
「……ごめん、千鶴さん。……ちょっと話が突飛すぎて、よく理解できないんだけど……」
呆れたような口調で言うと、千鶴さんは真剣な顔つきのまま、静かに語り始めた。
「……私は、直接そこにいたわけではないので、詳しくは知らないのですが、……聞いた話によると、そのときあなたは、溺れた梓を助けるために、自らも川の中へ飛び込んだのです。無事に梓を助けたあなたは、川底に沈んだあの子の靴を拾うために、もう一度水の中へと潜っていった……」
「ま、待ってよ。もうその時点で、俺の記憶とは随分と違ってる。俺は梓を助けたりはしてないし、あいつの靴だって……」
俺が口を挟んでも、千鶴さんは気にせず続けた。
「……そして、耕一さん。……あなたは、川底で運悪く、水門工事に使われた古いワイヤーロープに足を絡め、水の中に捕らわれてしまう。……そして、溺れたあなたは生死の境をさまよったのです」
「……だ、だから、そんな記憶は……」
だが、そのとき、脳裏に奇妙な映像が過ぎった。
……ごぼごぼと音のする、冷たく、息苦しい水の中。
……キラキラと波打つ水面の光に向けて、必死に手を伸ばす俺。
……足に絡みつく、重たい錆びた金属の縄。
……俺の左足から流れる血が、まるでたち昇る真っ赤な煙みたいに水中に広がっていく。
……孤独と寂しさと、そして冷たい恐怖が、身体の底から沸き起こってくる。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。
全身が震え、心臓が早鐘のように鳴っていた。
何なんだ、この記憶は……。
何なんだよ、この冷たい水の中の記憶は……。
まさか。
まさか、本当に俺は……。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。
身体の奥で、何かが脈動し始めていた。
「……ですが」
千鶴さんは続けた。
「死の淵を垣間見た瞬間、あなたは、その幼い歳にも拘わらず、本来の『ちから』を目醒めさせてしまう。呪われた『柏木家のちから』を。……あなたは自らの手でワイヤーロープを引きちぎり、辛くも窮地を脱すると、水面に出て、そして……」
千鶴さんの黒髪が風になびいた。
「……殺戮の衝動に駆られ、あの子たち三人を殺そうとした。……そう、さながら今回の連続殺人のときのように……」
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。
心臓の鼓動がさらに早くなる。
身体が冷たく汗ばむ。
俺の顔は、ぎこちない笑みのまま凍りついていた。
千鶴さんに言葉を返そうとしたが、咄嗟にはなにも思い浮かばなかった。
わずかな沈黙をやり過ごしてから、ようやく俺は、首を横に振りながら言った。
「……よく……理解できない……」
声が震えていた。
千鶴さんは無視して続けた。
「……でもそのときは、あなたは、あの子たちを殺さずにすんだ。……あなたの理性が、目醒めた『もう一人の自分』を制御したのです。……幸いまだ幼かったので、目覚めた『ちから』も微弱だったのでしょう」
淡々とした口調で語る彼女の瞳は、真っ直ぐに俺を捕らえて放さない。
「ちからとか……目醒めたとか……俺……梓たちを……だって……そんな……ことが……」
自分でも、何を言ってるのか判らなくなる。
言葉を発するうちに、俺の目に涙が滲んできた。
いくら余裕の態度を装おうとしても、心はすっかり動揺し、落ち着きをなくしていた。「……梓をおぶって、家に戻ってきたあなたは、その日の晩、左足に負った傷のせいで高熱を出し、そのまま寝込んでしまった。……そして、その熱が引いたとき、あなたは水門での出来事を憶えていなかった。自分が溺れたことも、ちからに目醒めたことも、全て忘れてしまっていた。そう、あなたは無意識のうちに自分の記憶を操作し、記憶ごと、もう一人の自分を心の中に封じ込めてしまったのです」
千鶴さんは、動揺する俺を見ながらも語り続けた。
「柏木の『ちから』とは……」
わずかに間を置き、そして、声を落として言った。
「……鬼の『ちから』なのです」
「お……に……」
繰り返すように俺が呟くと、彼女は小さく頷いた。
「……あなたも今日、公園で見たでしょう? 私のあの恐ろしい……もうひとつの姿を……」
そう言うと彼女は、悲しげな表情で笑った。
俺はなにも応えられなかった。
様々な映像が頭の中を飛び交っただけで、結局何も口にすることはできなかった。
肯定も否定もしなかったが、口をつぐんでしまったことが、結果的に、それを認めてしまうことと同じになった。
それを汲み取った千鶴さんは、短く吐息をつくと、また話を続けた。
「この地に伝わる伝奇のひとつに、『雨月山の鬼』というお話があります。室町時代中頃、雨月山という山に、鬼の一族が住み着いて、悪事を働き、人々を苦しめたといわれる伝説です」
冷たい風が、旋を巻いて吹き抜けた。
夜の闇よりも黒い千鶴さんの髪が、緩やかに舞い上がる。
「鬼たちは、時の領主が三度に渡って遣わした討伐隊によって雨月山を追われますが、決して、滅んだわけではありませんでした」
俺の背中に、冷たい汗が伝った。
「……なぜなら」
次の言葉を聞いてはいけないような気がした。
だが、千鶴さんは続けた。
「……その一族の血は、今もなお、この柏木家に脈々と受け継がれているのですから……」
千鶴さんは、決して、俺をからかっているわけじゃなかった。
彼女が普通の人間じゃないということは、夢を見たときから、とっくに解っていた。
ただ、それを素直に認めたくはなかった。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。
心臓の鼓動はさらに激しさを増す。
荒い息とともに、激しく肩が上下する。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。
俺の中で、何かが目醒めつつあった。
「鬼とはいっても、頭に角を生やした昔話に登場する鬼の姿をしているわけではありません。……でも、普通の人間とは明らかに違うのも事実です。『ちから』を解き放てば、肉体は異常なほど強靭になり、人の姿を持ちながらにして、野生の獣以上の筋力を発揮できるようになるのです」
「野生の獣以上の……」
俺は、夢の中での千鶴さんを思い出していた。
明らかに人間の限界を超えた動き。
全身から溢れ出る殺意。
あれが、鬼のちから……?
「……私たち女の場合はそれまでですが、男の場合は、さらなる変化が訪れます。……意識は次第に、飽くなき殺戮の衝動に支配されていき、肉体もより戦い向きな野生の獣に近い姿へと変化を遂げます。……その姿は、もはや人と呼べるものではなく、むしろ怪物といった言葉が相応しい姿と化すのです……」
これまで学んだ常識全てを一瞬にしてくつがえす、あまりに突拍子もない話。
戸惑わないほうが、どうかしている。
だが、それは真実なのだ。
俺の両手に微かに残る、人の骨を砕く感触が、熱い血の感触が、その荒唐無稽な話を肯定している。
「ちからに目醒めた柏木家の男性は、その後、大きく二種類に別れるのです。……ちからを制御できる者と、できない者に……」
「ちからを制御できない者……」
俺は独り言のように呟いた。
「ちからを制御できない者は、徐々に人の心を失い、やがては鬼そのものになってしまうのです。……殺人によって悦楽を得る、鬼そのものに……」
千鶴さんは薄く瞼を閉じて、目を伏せた。
「……そして……哀れにも、私の父も……あなたのお父さまも、そのちからを制御することができなかった……」
「親父たちも……」
「……特に……父は……悲惨だった……」
千鶴さんがか細い声で言った。
「……父は、自分が鬼の力を制御することができないと知ってからも、沸き起こるおぞましい殺戮の衝動に、理性の一片が尽きるまで、必死の抵抗を続けました。日に日に理性を失い、獣のようになっていく自分に、誰よりも父自身が一番怯えていた……」
俺が見た……暗闇で朝を待つ夢。
自分の中から這い出そうとする、もう一人の自分と必死に戦い続ける夢。
身体中が震え、汗が浮かび上がる。
心臓が激しく高鳴り、呼吸が荒ぶる。
もしも、あんな症状が、四六時中続いたとしたら、それは地獄のような苦しみに違いない。
「……末期の父は、見るに耐えなかった。人と獣の姿を何度も往復しながら、手の届くものは全て滅茶苦茶に破壊し、自分の身体にも無数の傷痕を刻んでいた。麻薬中毒患者の末期症状にも近い状態が続くなか、母と、姉妹の中で唯一それを知らされた私は、何も出来ず、ただそんな父を見守るしかなかった……」
遠い過去の記憶を瞳に映す千鶴さん。
その映像は、俺の想像の域をはるかに越えていた。
「……そして、ついにある日、見るに見かねた母は、父を道連れに自殺してしまった。……睡眠薬で眠らせた父を車に乗せ、ガードレールを突き破って、崖から転落した。そう、あなたのお父さまと同じように。……世間では事故だといわれ、真実を知っているのは、姉妹の中でも私と楓しかいない……」
千鶴さんの瞳が涙で潤んだ。
「……私の机の引き出しに、ひっそりと届けられていた母の遺書は、何枚にも渡る長い謝罪の言葉で埋め尽くされていた……」
溢れた涙が、千鶴さんの頬を伝って落ちた。
忌まわしい一族の血に縛られ、その呪われた運命に逆らえなかった哀れな叔父と叔母。 だが、命を絶って苦しみから逃れたその二人より、俺は残された千鶴さんのほうが可哀想に思えた。
長女であるがゆえに、一族の血にまつわる呪われた運命をも受け継がねばならなかった彼女……。
当時、まだ中学生だった千鶴さんは、同い年の少女たちが両親に甘えて生活する中で、ひとり涙を拭い、三人の妹たちの母親を演じなければならなかった。
俺が彼女に感じていた母のような温かさは、彼女の涙ぐましい演技によって作られたものだった。
そんな彼女が、ただひとり、心の拠りどころにしていた人物が、俺の親父だったのだろう。
千鶴さんは親父の前でだけ、妹たちの母ではなく、歳相応の娘に戻ることができたのだ。
だが、そんな親父も、先月、突然の事故でこの世を去った。
そして彼女は、残された最後の支えを失った。
「それじゃあ、親父もその鬼のちからのせいで……」
俺が訊くと、千鶴さんは手で涙を拭って顔を上げ、潤んだ瞳で頷いた。
「……私たちの両親が死んだとき、すでに叔父さまにもその兆候は現れ始めていました。……そして叔父さまもまた、自らが鬼の力を制御できないことに気が付いていらしたのです……」
「じゃあ、俺と暮らしていたときには、もう……」
「……はい。……ただし、叔父さまの場合は、父のような急激な変化ではありませんでした。……叔父さまは長い年月をかけて、少しずつ、少しずつ、自分の中の鬼に心を蝕まれていったのです……」
「心を……蝕まれて……」
「……それゆえに叔父さまは、あなた達と一緒に暮らすことができなかった。……いつ自分の中の鬼が目醒め、あなたたちを襲ってしまうかもしれなかったから……」
「だから親父は……俺たちと……離れて住んだ……?」
俺が呟くと、千鶴さんはコクンと頷いた。
「……叔父さまは、鬼と化した自分が、最愛のあなたとあなたのお母さまを、その手で殺してしまうことを、もっとも恐れていたのです。……何度もその夢を見てはうなされ続けていました……」
これまでずっと、俺と母さんを捨てたと思っていたはずの親父。
だが、まさかそんな理由があったなんて……。
「……叔父さまは、そのことをあなたのお母さまに打ち明けました。あなたのお母さまは、柏木の血の悲劇を理解してくださったうえで、相談の末、仕方なく叔父さまとの別居を決意なされたのです」
千鶴さんの言葉は、さらに俺を驚かせた。
父に振り回されていたと思っていた母。
その母も、実は親父の別居に同意していたなんて。
俺が別居の理由を訊ねるたび見せた、母さんのあの曖昧な微笑みが思い出された。
「……なんでだよ。……なんでふたりとも、俺にはなにも教えてくれなかったんだよ……」
俯いた俺が、ぎゅっと拳を握りしめながら呻いた。
「……それもすべて、耕一さん、あなたを想ってのことなのです……」
「俺を想って……?」
千鶴さんは頷いた。
「……下手にこの真実を知り、それをきっかけとなって封じた記憶が戻ってしまえば、あなたは再び自分の中に眠っている鬼を呼び醒ましてしまうかもしれない。叔父さまはそれを恐れられたのです……」
「そんな……」
俺はそれ以上の言葉を失った。
「……だから私たち姉妹も、水門でのことに関する話題は、極力避けるようにしていたんです……」
明かされていく真実。
俺の勝手な思い込みとは、全然違っていた。
親父は俺を捨てたわけじゃなかった。
母さんを振り回していたわけじゃなかった。
俺と母さんを愛するがゆえに、離れて暮らさざるをえなかったのだ。
親父は、わがままをやってたんじゃない。
俺の幸せを選んでくれていたんだ。
「……この八年間は、叔父さまにとって辛い戦いの日々でした。……理性と欲望、人間の血と鬼の血の、激しい戦いの毎日でした。……そんな姿を見ながらも、私は父のときと同様、何もしてあげることができなかった。叔父さまを……助けてあげることが……できなかった!」
千鶴さんが、声を絞り出すように叫んだ。
目から涙が溢れていた。
その涙は、親父を失った悲しみからか、呪われた血に対しての嘆きからか、それとも無力な自分への怒りからか、それは俺には判らなかった。
「……そして先月、叔父さまは、ついに自分の中の鬼を押さえることができなくなり、母と同じように、自殺の道を選んでしまわれた。……人間の心を完全に失い、ただの人殺しの怪物となる前に、自らの手でその生命を断たれたのです……」
「じゃあ……やはり親父は自殺……」
「……そうです。……警察は鑑識の結果、事故においての計画的な部分を発見したのでしょう。……心の中の鬼が自分を護ろうとするため、叔父さまはただの方法では死ねなかったのです。……だからアルコールや睡眠薬を使用する、一見他殺とも思えるような手の込んだ自殺をしなければならなかった……」
「それで……警察は……」
「……私はそのことを知っていましたが、とても警察にこんな話をする気にはなれなかった。……たとえこの私が疑われていたとしても、そんなこと、もうどうでもいいことだもの……」
千鶴さんは泣きながら、ふふふっと笑った。
「千鶴さん……」
「……そして、耕一さん……」
千鶴さんは、優しく俺に微笑みかけた。
「……叔父さまからの遺言です」
「親父からの遺言……」
俺が繰り返し呟くと、千鶴さんはコクンと頷いた。
「……叔父さまが、伝えてくれと言った言葉をそのまま言います」
千鶴さんの唇がゆっくりと形を刻んだ。
「耕一……」
……その瞬間、俺は、目の前の千鶴さんに親父の姿が重なったような錯覚を覚えた。
そうだ……この顔だ。
忘れかけていた親父の顔が……、俺に語りかけるときの仕種が……、はっきりと目の前に浮かび上がった。
そうだ……親父は俺に語りかけるとき、いつもこんな笑みを浮かべていた。
俺は、この笑顔が大好きで、だから……。
「……耕一、きっとお前は俺を恨んでいることだろう。……それは当然だと思っている。お前を人並みに愛してやることができなかったばかりか、母さんの最期すら見届けてやることができなかったこの俺だ。だから、許してくれとは言わない。それはそれで、仕方のないことだと思っている……」
ちがう。
違うんだ。
俺は、恨んでいたわけじゃない。
本当は……。
……すねていたんだ。
親父のことが好きだったから、あんたのこの笑顔が大好きだったから、居なくなったことを子供みたいにすねていただけなんだ。
……だけど、時間が経つにつれ、大人になるにつれ、その溝が深くなってしまった。
「……だけど、ただ、これだけは覚えていてほしい……」
親父の目が、真っ直ぐに俺を捕らえた。
その目は懐かしく、そして、とても温かかった。
「……耕一、たとえお前が、俺を恨んでいたとしても、俺は、いつもお前の幸せを、心から願っていたよ……」
いつもお前の幸せを、心から願っていたよ……。
お前の幸せを、心から願っていたよ……。
幸せを、心から願っていたよ……。
心から願っていたよ……。
願っていたよ……。
「親父は……親父はずっと俺のことを想ってくれていたのに、俺は……俺はそんな親父に対して……」
俺は泣いた。
声を殺して泣いた。
胸が痛かった。
張り裂けそうだった。
馬鹿な自分が許せなかった。
「……耕一、俺たちは、親子という、切っても切れない血の絆で結ばれている。……そして、親っていう奴は、誰しも子供を想うものなんだ……」
そのまましばらく、俺は肩を震わせて泣き続けた。
綺麗な水が流れていく。
空にぽっかりと浮かんだ黄色い月が、川の流れの中央に映っていた。
水門のある河原。
そこは、見覚えのある光景だった。
子供の頃、俺は、梓と、楓ちゃんと、初音ちゃんの四人で、ここへ釣りをしにやってきた。
暑い夏の日の午後。
忘れた記憶は、まだ戻らない……。
「……叔父さまが死んだとき、私には、あらゆることがどうでもいいように思えた……」 千鶴さんがポツリと呟いた。
川の流れにかき消されるような、小さな声だった。
「……仕事のこと、……妹たちのこと、……私自身のこと、何もかもが、もう、どうでもいいように思えた……」
「千鶴さん……」
俺が言うと、彼女は疲れた顔を向けて微笑んだ。
その頬には、涙が乾いた跡があった。
水の流れる音と虫の声とがきれいに調和し、それに草葉を揺らす風の音が交じった。
「……何もかもがどうでもいいから、もう何があっても辛いなんて思わないはずだった……」
千鶴さんはゆっくりと顔を伏せた。
「……涙なんて、とっくに涸れ果てたと思っていた……」
言いながら、俺に背を向け、おぼつかない足どりで向こうへ歩き出す。
その後ろ姿はひどく頼りなく見え、夜の闇に消えてなくなりそうな気がした。
「千鶴さん「「」
呼びながら、俺が近付こうとしたときだった。
千鶴さんは、突然、振り返ると、
「来ないで!」
大きな声で叫んだ。
俺は、ビクッと身体を震わせて、立ち止まった。
「……来ないで……耕一さん……」
もう一度、千鶴さんは囁くように言った。
「ど、どうしたのさ……?」
俺は戸惑いながら、ぎこちない笑みを返した。
千鶴さんは目にいっぱいの涙を溜めていた。
潤んだ瞳。
涙は今にも目から溢れそうだった。
「……耕一さん」
彼女はゆっくりと唇を動かし、そして語り始めた。
「……あなたがこの家に滞在している間、私はあなたを観察し続けた。……いえ、正確にいうと、あなたの中の鬼を観察し続けた。……幼い頃に一度目醒めたあなたの中の鬼が、再び目醒めの兆候をみせていないか、それを観察していたのです……」
「!」
「……もしも、あなたの中の鬼が、再び目醒めつつあるのなら……、そして、あなたも父や叔父さまのように、そのちからを制御できないのだとしたら、……そのときは……、……そのときは……」
千鶴さんは、そこで言葉を止めた。
冷たい風が川の水面に細波を作って吹き抜け、彼女の長い黒髪をなびかせた。
その目から、一粒の涙がこぼれると同時に、彼女は言った。
「……あなたは、制御することができなかった……」
一度溢れると、涙は止まることなく流れ続けた。
「ち、違う! あれは……」
俺が言い掛けると、千鶴さんは両手で耳を塞いだ。
「何も言わないで!」
髪を振り乱し、頭を左右に振って叫んだ。
「……お願いです。……もう、なにも言わないで……。これ以上……私を……辛くさせないで……」
「辛くさせる……?」
俺は繰り返し呟いた。
「俺が千鶴さんを辛くさせたって……?」
千鶴さんはゆっくり頷くと、両手を耳から離して、下へおろした。
輝く涙が、頬をこぼれ落ちた。
「……あなたを愛したくなかった。……愛してしまえば、きっとまた、胸が引き裂かれるほど……苦しくなる……。……だから、ずっと心を凍らせていた。心がなければ、きっと胸に痛みを感じることもないはずだから……」
千鶴さんの声は嗚咽を交えた。
「……だけど……あなたは……私の心を……、……凍っていた私の心を……もとに戻してしまった……」
冷たい風が、頬を撫でて吹き抜けていく。
清らかな水が、月光に輝きながら流れていく。
そして、千鶴さんの頬を熱い涙が伝っている。
「……私、もう……いや。……もう……これ以上、あんな辛い思いはしたくない……」
泣きながら、彼女は言った。
……あんな辛い思いはしたくない。
まるで、これから再び、その苦しみを受けなければならないようなセリフだった。
どういう意味だろう。
疑問に思ったが、結局、言葉の意味を訊ねることはできなかった。
彼女の涙を見ていると、俺は胸にぽっかりと風穴が開いたような気持ちになって、言葉を失ってしまったからだ。
忌まわしい血の呪いを受け、両親と、そして新たな心の拠りどころであった俺の親父をも失ってしまった彼女。
千鶴さんの心には、癒すことのできない大きな傷痕が残っている。
千鶴さんは、崩れるように顔を伏せると、ゆっくりと唇を動かした。
「……だけど、……だけど私は、……私はあなたを……」
彼女はそこで言葉を止め、深く息を吸った。
呼吸にあわせて、すう……と肩が持ち上がる。
ぎゅっと拳を握りしめ、そして、再び顔を上げた。
ふたつの眼が、冷たく俺を見据えた。
同時に、彼女は言った。
「私は……、あなたを、殺さなくてはいけない!」
その瞬間、千鶴さんの髪が舞い上がった。
キーンと耳鳴りがし、凍るような冷気が彼女の身体から放射された。
それは草葉を揺らし、水面に細波を刻んだ。
虫たちの声がピタリと止む。
吹きつける冷気によって、俺の頬は一瞬にして血の気を失った。
千鶴さんの妖気を帯びた双眸が、涙をこぼしながら俺を凝視していた。
夢の中で見たときと同じだ。
千鶴さんは、自らの『鬼』を呼び醒ましたのだ。
彼女の足下の地面が、徐々に押しつぶされていく。
外見こそ変わらないが、彼女の体重は見るも明らかに増加していた。
どんな現象が起こっているのか想像もつかないが、ただ、俺の身体はビリビリと恐怖を感じていた。
この場にいては危険だと、本能が叫んでいた。
……あなたを、殺さなくてはいけない。
その言葉が、何度も頭の中で鳴り響いた。
「ち、千鶴さん!」
俺は叫んだ。
気を抜けば、殺気に押された身体が勝手に後退ってしまう。
「……どうしてさ!? どうして、この俺を殺すなんていうんだよッ!?」
俺が訊くと、彼女は低い声で応えた。
「……これ以上、……殺人の鬼と化したあなたを野放しにはできない……」
千鶴さんはゆっくりと前に踏み出した。
「……この身に代えても、あなたを殺します……」
泣きながら、言った。
「ま、待ってよ……」
俺は震えた声で言った。
「……あれは俺じゃない、俺じゃないんだ! 不思議なことに、確かに俺は、あの化け物野郎と意識が通じているけど、奴はこの俺とは明らかに違うんだ!」
俺が言うと、千鶴さんは悲しい目をして、首を横に振った。
「……いえ、あれはあなた本人です」
「違う! だって……」
俺が、その根拠を説明しようとしたとき、千鶴さんは冷たく言い放った。
「……あなたの胸の傷痕が、その証拠です」
「む、胸の傷!?」
「……その傷は、私が公園であなたと戦ったときに負わせた傷です。……脅威的な回復力で、随分と治っているようですが……」
「そんな傷なんて……」
言いながら、俺はTシャツの襟もとを広げ、自分の胸を覗き込んだ。
すると、そこには……。
「!」
傷はあった。
なにかで引っかかれたような傷が、確かに俺の胸に刻み込まれていた。
「そんな……」
俺は目を大きく見開いて、ただ呆然と、その胸の傷痕を見つめ続けた。
「……先ほど、あなたの部屋でその胸に抱かれたとき、シャツの襟もとから、その傷痕を覗いてしまったとき、私は、神様を恨んだ。……涙が止めどもなく溢れ、何も見えなくなった……」
千鶴さんの目から、ポロポロと涙がこぼれ続けた。
「……全てが夢であることを、心から願った。……でも、胸に伝わるあなたの温もりは現実だった。……ふたりがひとつになったとき、私を貫いた痛みも、その後に訪れた快感も、全てがリアルな現実だった……」
ふたりの距離は縮まり、あともう僅かで互いに届く位置に到達する。
「……今夜は私、泣きながら眠ります。……そして明日、目が覚めたら、きっと一番にあなたを捜すでしょう。……今夜のことが、夢であることを信じて……」
泣きながら千鶴さんは、ゆらりと手を持ち上げた。
細い女の腕だが、鬼の剛力を秘めたそれは、熊の爪をも凌駕する凶器なのだ。
千鶴さんが腕を振り下ろせば、きっと俺は、痛みを感じる間もなく、あの世行きになるだろう。
そしてついに千鶴さんは、その手の届く距離にまで近づいた。
「……耕一さん」
千鶴さんが微笑んだ。
涙に濡れた、……辛く、……切なげな、悲しみに満ちた微笑みだった。
「……あなたのこと……誰よりも好きだった……」
千鶴さんが囁いた。
こんなところで殺されるわけにいかない!
犬死はまっぴらごめんだった。
俺は、彼女にくるりと背を向けると、全力でその場から逃げ出した。
「……耕一さん」
千鶴さんが涙声で俺の名を呼んだ。
「……お願いです。……逃げないで。……もう、これ以上、私を辛い気持ちにさせないで……」
だが、俺は構わずに走り続けた。
声がどんどん遠くなっていく。
俺は後ろを振り向かずに走った。
振り向けば、その瞬間にも彼女に追いつかれそうな気がして恐かった。
屋敷を出るときに感じた悪い予感が当たった。
彼女は始めから、俺を殺すつもりだったのだ。
いったい、なんでこんなことに……。
呪われた一族の血のせいだといわれても、とても、「はい、そうですか」とは納得できない。
千鶴さんに殺されるなんて、不条理すぎる。
そのとき、ひゅんと風が鳴り、俺の頭上を黒い影が過ぎった。
俺の目の前に、軽やかな足どりで着地した人影は、千鶴さんに他ならなかった。
「……耕一さん。……お願い、無駄な悪あがきはやめて。……鬼となった私からは逃れようがないことは、あなたもよく知っているはずでしょう。……でも、どうしても死にたくないというなら……」
千鶴さんは俺を見つめた。
「耕一さん、あなたも自らの鬼を呼び醒ましなさい。そして、……私を殺してください」 彼女は感情のない声で言った。
「こ、殺せだって!? この俺に?」
俺が言うと、彼女はコクリと人形のように頷いた。
「俺が千鶴さんを殺せるわけがないだろう!」
思いきり叫んで言った。
「……でしたら……私が……あなたを殺します」
千鶴さんが冷たく言い捨てた。
その言葉は、氷の刃のように俺の胸をえぐった。
「……なんでだよ。なんで死ぬか殺すかの選択しかないんだよ……」
俺が絞り出すような声で言うと、千鶴さんは哀しげな目で俯いた。
「俺は死にたくないし、千鶴さんが死ぬ必要もない。きっとなにか他にいい解決策があるはずだ。……きっとなにか……」
「いえ……」
そのとき、千鶴さんが口を挟んだ。
「ないんです……」
悲しみを帯び、涙に濡れた言葉。
「……父も叔父さまも、それを信じて、自らの中の鬼と戦い続けました。……でも、結局最後は、苦しみ抜いて死んでいったのです。その様は、哀れ以外のなにものでもなかった。……耕一さん、私は、そんな風に苦しむあなたを見たくないんです……」
「だからって、そんな焦らなきゃならない理由はないだろう!?」
「……あなたはすでに、八人もの人間を殺しているわ。……あなたの鬼は、父や叔父さまより、はるかに強く、大きく成長してしまった。……このままでは、あなたはいずれ、殺戮を求めるだけの獣になり果ててしまう。そうなれば、きっと長くはない。……あなたはいずれ、誰かの手によって殺されてしまう。……だったら、そうなる前に、せめて私が、私がこの手であなたを葬ってあげたい……」
「だから、違うんだって!」
俺は強く訴えた。
「何度も言うように、あの化け物は俺じゃないんだ! 俺とは違う、全くの別人なんだっ!」
確固たる証拠があるわけではないが、俺はそのことを強く確信していた。
夢で見たあの映像。
犯人は、声も、手の形も、住んでいる場所も、全てが俺とは異なるまったくの別な男だった。
鬼と化したのも、俺ではなく、その男に違いない。
原因は分からないが、俺はなぜか、そいつの意識を共有しているのだ。
夢を通じて、男の見ているものや考えていることを感じることができてしまうのだ。
そして多分、肉体に受けた痛みや傷さえも共感してしまうのだろう。
そう考えれば、すべて納得がいく。
俺の胸に傷が残っていた理由も上手く説明がつく。
あの怪物が、この俺とは何の関係もない別人であることが判明すれば、俺も千鶴さんに殺されずにすむ。
だが、それを証明する物的証拠はなにもない。
この状況でいくら俺がそう言っても、命ごいのための苦しい作り話にしか聞こえないだろう。
論より証拠を見せることができれば……。
「……耕一さん、……お願いです、……このまま素直に私に殺されてください……」
涙目で懇願しつつ、千鶴さんがゆらりと歩み寄る。
これ以上、話など聞いてくれそうにない雰囲気だ。
辛い思いを味わうくらいならと、このままひと思いに俺を殺してしまうつもりのようだ。
「俺は死にたくない! まだ、やりたいことだって、たくさんあるんだ!」
言い捨てて、その場で振り向くと、俺はまた全力で逃げ出した。
「……どうして、……解ってくれないの」
背中から、泣いた千鶴さんの声が聞こえたが、俺は立ち止まらなかった。
一心不乱に走り続けた。
途中、河原の石につまづいて転びそうになり、なんとか体勢を立て直すと、また走り続けた。
無駄なあがきだということは十分にわかっている。
いくら俺が全力で逃げたところで、鬼と化した彼女なら、たった一度の跳躍で追いつけるはずだ。
彼女がその気になれば、今この瞬間にも、俺を殺すことができるだろう。
だが、千鶴さんはそうしなかった。
それができないのは、彼女もまた辛いからだ……と、そう思いたい。
俺が諦め、彼女の言葉に同意したならいざ知らず、必死に抵抗する俺を無理矢理殺せるほど、彼女は冷酷にはなりきれないのかもしれない。
とにかく逃げ続けてやる。
そのうち彼女の考えが変わり、説得の余地も生まれるかもしれない。
肺が焼けつくほどに走った。
目の前に水門が見える。
俺はそれに向かって走った。
水門の上にたどり着いたとき、俺は激しく息を切らせながら、一度そこで後ろを振り向いて、千鶴さんの姿を捜した。
だが、先ほどまでいたはずの場所には、彼女の姿はなかった。
「「ど、どこにいったんだ!?
慌てて、俺が周りを見渡したとき、
「……耕一さん」
背後から千鶴さんの声が聞こえ、俺は心臓が止まるほど驚いた。
ゆっくりと後ろを振り返ると、髪を風になびかせた千鶴さんがいた。
その瞬間、俺は氷の手で心臓を鷲掴みされたような錯覚を覚えた。
千鶴さんの瞳は、もはや感情を持つ人間のそれとは思えないほど黒く濁っていた。
頬の涙も乾いている。
「ち、千鶴さん……」
息を切らせた俺が荒い呼吸を交えて漏らすと、彼女は短くひと言、俺にこう言った。
「……ごめんなさい。……耕一さん」
それが、さよならの言葉だった。
ヒュッ!
千鶴さんの手が、目にも留まらない速さの影となって俺を襲った。
咄嗟に身体を仰け反らせたが、手の形をした刃は、俺の胸を斜めに裂いた。
凍るような冷たい痛みが胸に走り、紅い血の珠が宙を舞う。
その様が、スローモーションのように見えた。
朱色の珠が、ひとつ、ふたつ、みっつ、千鶴さんの顔に振りかかる。
赤い雫が、彼女の頬を伝って流れ落ちた。
薄れゆく意識のなか、その映像を眺めていた俺は、まるで彼女が、赤い血の涙を流して泣いているように見えた。
俺は血の塊を吐きながら、水門の上を転げ落ちた。
俺の目には、自らの手を呆然と見つめる千鶴さんの姿が映っていた。
落下していく。
水面に到達するまでの時間が、妙に長く感じた。
ばしゃあっ!
俺の身体が水の壁を突き破った。
たくさんの飛沫をあげて、俺の身体は冷たい水の中に沈んでいった。
俺は、夜の闇を裂いて疾駆していた。
木々の間を抜け、岩から岩へと跳躍する。
……近い。
……もうすぐだ。
間違いようのない同族の匂いが近づき、俺はさらに強く『柏木千鶴』の存在を感じた。 先ほどまでは微弱だったその匂いが、今はプンプンと漂ってくる。
それは、あの女が狩猟者としての『ちから』を解放させているということを意味していた。
漂う匂いから、俺は女の持つ強い力をも感じとっていた。
混じりけのない高潔なる狩猟者の匂い。
この世で最も美しい生命を持つ者の匂いだ。
生命が散ると同時に燃え上がる、美しい炎。
この俺か、もしくは柏木千鶴、お前のどちらかが、その炎を燃え上がらせるのだ。
熱い血がドクドクと身体中を駆けめぐる。
全身に力がみなぎる。
やがて始まるであろう、狩猟者同士の壮絶な戦いを思い描き、俺はさらに興奮した。
……ごぼごぼと音のする、冷たく、息苦しい水の中。
……俺の身体は、指一本たりとも動かない。
……黄色い月明かりがほのかに射し、ユラユラと水面に輝いていた。
……俺の胸から流れる血が、まるでたち昇る真っ赤な煙みたいに水中に広がっていく。 ……孤独と寂しさと、そして冷たい恐怖が、身体の底から沸き起こってくる。
……いつか、どこかで、これと同じような光景を見ていたような気がする。
……忘れていた遠い過去。
……思い出してはいけない、幼い頃の記憶。
……だが、なぜだろう?
……今は、それを思い出さなくてはいけないような気がした。
風に混じる女の匂いが、少しずつ強くなっていく。
俺は、あの女との距離が近いことを確信した。
女の匂いに混じって、水の匂いも感じられた。
もうすぐ川があるのだろう。
そして、そこに、女はいる。
俺の標的、『柏木千鶴』が……。
躰が炎のように熱くなる。
俺は歓喜に打ち震えた。
……再び水の中。
……先ほどから、俺の意識は、奴と自分の間を交互に往復している。
……意識が遠退けば奴に同調し、目が醒めれば、また自分の中に戻ってくる。
……テレビのチャンネルを切り替えているような感じで、ひどく気分が悪かった。
……だが、これではっきりした。
……奴は、俺の中に潜む鬼などではない。
……やはり完全な別人だ。
……そして、それとは別にもうひとつ、はっきりしたことがある。
……それは……。
……奴はこの近くにいて、そして、明らかに千鶴さんを殺そうとしているということだ。
俺は林を抜け、開けた河原に躍り出た。
目の前には川が流れている。
川上の方へと目を向けると、そこには忘れ去られたような古い水門があるのが分かった。
その水門の上に、月光を浴びてたたずむひとりの女の姿を確認する。
間違いない、あれが柏木千鶴だ。
俺は満面に笑みを浮かべた。
女はまだ、俺の接近には気付いていないようだ。
水門の上に立ち、水面を見つめている。
ククク……。
いよいよだ。
先ほどの決着をつけようではないか。
誇り高き狩猟一族の女よ、この世で最も美しい炎を俺に見せてくれ。
俺は、全身から激しく殺気を放出し、女のいる水門に向かって跳んだ。
……暗く、冷たい水の中。
……目も霞んできた。
……ごぼっ。
……肺の中に残っていた最後の空気が口から漏れ、泡になって水面へと昇っていった。 ……苦しい、……空気が欲しい。
……だが、それでも俺の身体は動かなかった。
……胸から血が流れ出るにつれ、俺の身体はどんどんと体力を失っていく。
……やっぱり俺は、このまま死ぬんだろうか。
……この暗く、冷たい水の中で、誰にも看取られず、たったひとりで死んでいくのだろうか。
……孤独感、寂しさ、恐怖心、それらがさらに大きく膨らんでいく。
……あのときと同じだ。
……あのときと「「。
……意識が遠ざかっていく。
……あのときって……いつのことだっけ……。
何やら呆然とした顔で川の水面を見つめ続けていた女も、ようやく俺の放った殺気に気がつき、こちらに顔を向けた。
ダンッ!
それと同時に、俺は、女の手前二〇メートルの地点に着地した。
俺の姿を見た瞬間、女は濡れた瞳を大きく開いて、驚きの表情を浮かべた。
「……ま、まさ……か」
女は震えた声で呟いた。
女は、俺と川の水面を何度も交互に見やった。
「……そ、そんな、……こ、耕一さんじゃ……ない……!?」
女は明らかに動揺していた。
俺との戦いに、ではなく、俺の存在自体に動揺しているように見えた。
「……耕一さん……ではなく……全く……別の鬼……?」
女の膝から力が抜けていく。
ガクガクと、おぼつかない足どりで、二、三歩ほど後ろへ退いた。
その足がもつれ、よろめく。
とても、俺の敵意を真っ向から受け止められる状態ではなかった。
どういうわけか、女は戦いの意志を見せなかった。
いや、それ以前に、その目はこの俺を捕らえてさえいない。
弱々しく、脆弱で、誇り高き狩猟者というよりも、恐怖に怯える普通の人間に近かった。
それも、俺に怯えているわけではない。
何らかの、別の理由に震えているのだ。
どうしたというのだ。
先ほどの戦いのように、狩猟者としての貴様の本性を見せてみろ。
もう一度、あのときと同じちからを俺に見せろ。
俺は身体中から殺意を放ち、同時に地の底から響くような咆哮をあげた。
「グオオオオオオーーーーッ!!」
女はビクッと身体を震わせると、はっと目の焦点を俺に合わせた。
その刹那、風の唸りを伴って、俺が仕掛けた。
女との間合いを詰める。
息をひとつする間もなく水門の上へと移動し、爪で女に襲いかかった。
「!」
女はすかさず、後ろへ跳んで逃げる。
だが、遅い!
俺の手が、跳んだ女の足首を掴まえた。
「うッ!」
女が空中で体勢を崩した瞬間、俺は腕を振り回し、その身体を思いきり金属の床に叩きつけた。
ドオォーンッ!
金属の板を叩く鈍い音がし、女の身体が錆の浮いた水門上にへこみをつくった。
女の足首はまだ握ったままだ。
俺は腕を返し、さらに女の身体を振り回した。
バアァーンッ!
もう一度、叩きつけた。
女は吐血した。
さらにもう一度、と腕に力を入れたとき、女の逆の方の脚が俺の顔面を蹴りつけた。
衝撃に耐えきれず、女の靴の踵がもげて飛んだ。
脳を揺さぶるようなすさまじい衝撃に、俺は思わず手を離す。
女は俺の手から逃れると、起き上がって口もとの血を拭った。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
乱れた髪が風になびき、その奥から覗く鋭い眼光が俺を睨んだ。
呼吸も、獣のよう荒ぶっている。
そうだ、そうでなくてはならない。
ようやく、その気になったか。
この世で最も気高い生命を持つ者同士の死闘が、今ついに始まるのだ。
どちらかの生命は、間違いなく、燃え尽きる。
燃え上がる生命の炎は、何物にも比較できないほど美しいに違いない。
それを味わうことができるのなら、俺は生涯至高の快楽を味わうことになるだろう。
俺は興奮し、歓喜に震える唸り声をあげた。
……野獣のような唸り声をあげ、奴は千鶴さんに襲いかかった。
……視界が歪む。
……風のような速さ。
……ふたりの距離が一瞬にして詰まり、互いの位置を入れ替え、また離れる。
……奴の爪が、旋風を巻いて千鶴さんを襲う。
……千鶴さんは上に跳んでそれを交わし、頭上から奴に反撃する。
……彼女の刃物のような指が、奴の肩の肉をかすめ、鮮血をまき散らした。
……激痛が走り、それは俺にも伝わった。
……だが、奴は一歩も怯まなかった。
……それどころか、さらに積極的な戦いを展開する。
……千鶴さんが繰り出す連続攻撃の渦中へ飛び込み、大きく腕を振り下ろして彼女を殴りつけた。
ドオオンッ!
「くうッ!」
……その一撃がどれほどの破壊力を秘めていたかは、千鶴さんが叩きつけられた後の金属の床のへこみ具合で判った。
……金属の床に埋まるように倒れた千鶴さんに、奴はさらなる追い討ちをかける。
……背中から踏みつける。
ドオオンッ!
……金属の床は、さらに深くへこんでいく。
「あぐッ!」
……千鶴さんの口から血が溢れる。
……鬼のちからを解放し、超人化しているとはいえ、痛々しい光景だった。
……その一撃で、戦いの勝敗はほぼ確定した。
……千鶴さんは口から血の筋を流したまま、ぐったりとなった。
……それでもなお、奴は倒れた千鶴さんの身体を蹴り飛ばす。
……千鶴さんは水門の上を転がり、仰向けになった。
……奴はさらにゆっくりと、彼女に近付いていく。
……もう、よせ! 止めろ!
……俺は叫んだ。
……いつかどこかであった、これと同じ光景。
……そのときは確か、梓に、楓ちゃん、初音ちゃんがいた。
……三人に向かって、ゆっくりと歩いていく俺。
……そのときも俺は心の中で、止めろ、止めろと必死に叫び続けていた。
……心の奥底から沸きあがる、破壊と殺戮の衝動。
……それを求めることが自然のような気がした。
……そうだ、あのときも、俺は鬼になっていた。
……今感じている、この、みなぎる力を感じていた。
……冷たい川底で溺れ死のうとしている俺。
……この手で従妹を殺そうとしている俺。
……必死にそれを止めようとする俺。
……いつかどこかであった、同じ光景。
……俺の中に眠るちからが呼び醒まされ、そして暴走したあの日……。
……ドクンッ!
……ドクンッ、ドクンッ!
……ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!
……俺の中で、眠っていたなにかが目醒め、脈動し、うごめいた。
……それは、冷たい闇に閉じこめられていた。
……光も射さない永久の暗闇に閉じこめられていた。
……俺の中にある心の檻にだ。
……その檻には、決して開くことがないように厳重な錠が施されており、その鍵もまた、忘却の闇の彼方へと捨て去られた。
……ゆえにその後、檻の中に閉じこめられたそれは、二度と陽の当たる場所へは現れることはなかった。
……だが今、俺の手の中に、遠い彼方へと捨て去ったはずの鍵があった。
……俺はその鍵を手にし、閉ざされた檻へと近付いていく。
……閉ざされた錠に鍵を差し込む。
……回す。
……錠が外れ、檻の出口が軋み音をたてて開く。
……奴が、ゆっくりと這い出してくる。
……ドクンッ!
……ドクンッ、ドクンッ!
……ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!
……ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!
……檻から抜け出た奴は、俺の意識に触れ、頭の中に浸食してくる。
……ドクンッ!!
その瞬間、俺は、鬼と化した。
身体の奥底からマグマのように沸き出るちから。
細胞のひとつひとつが活性化し、胸の傷がみるみるうちに塞がっていく。
目醒めたばかりの鬼の遺伝子をもとに増殖、再構成され、骨と筋肉が人間の域を越えて強化していく。
肩の骨がメキメキと大きくなり、シャツが破れた。
太股の筋肉が膨張し、ズボンがはちきれた。
体重が増加し、足が川底に沈んでいく。
二倍近くに巨大化した手の指先に、刃のような爪が伸びる。
柏木に受け継がれた伝説の鬼のちから。
これが、その真の姿なのだ。
今の俺を阻める者はない。
俺は、間違いなく、この地上で最強の生物だった。
その力は、千鶴さんはもとより、同じ異形の怪物である奴さえも遥かに凌駕していた。 奴など足下にも及ばない、この溢れ出る力。
そしてまた、同時に俺は、自分がその鬼のちからをコントロールできることを確信した。
幼い頃から、心の中に封じ込めていた鬼。
いつしか俺は、自分でも知らぬ間に、その鬼を飼い慣らしていたのだ。
いや、ようやく欠けていたものを取り戻したというほうが正確だろうか。
俺は空気を求め、水面に向かって跳んだ。
ざばあぁーーーーッ!
水飛沫を上げて、俺の巨体が水面から飛び出した。
月光を背に宙を舞いながら、俺は肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。
そして、吼える。
「グオオオオオオオオオオオオーーーーーーッ!」
その咆哮は、夜の闇を裂いて響き渡り、辺り一帯の野山に住む動物たちをすくみ上がらせた。
ズダンッ!
激しい音を響かせ、俺は水門の上に降り立った。
金属の床が、足の形にへこんだ。
水門の上には奴がいた。
俺と同じく、異形の鬼と化した怪物。
鬼の血に支配され、殺戮を求めるだけのただの獣と化した名も知らぬ哀れな男。
俺は首を横に向け、威嚇するように奴を睨んだ。
奴は驚きを露にして、俺を見つめている。
俺は奴の方に躰を向け、ゆっくりと近付いていく。
「……!」
その瞬間、俺ははっと息を飲み、躰を硬直させた。
大きく見開かれた両眼が、奴の足もとに倒れた人影に釘付けになる。
奴の足もとには、血にまみれた千鶴さんがぐったりと倒れていて、そして……。
……そして、そして倒れた千鶴さんの腹部には、深々と奴の白い爪が突き刺さっていた……。
「…………」
俺が呼吸を止めて見つめる前で、奴はゆっくりと、その刃のような爪を引き抜いた。
赤く染まった千鶴さんの服の間から、さらに鮮やかな赤い血が溢れた。
千鶴さんは微かな呻きとともに、ビクンッと身体を震わせた。
それを見やりながら、奴は恍惚とした笑みを浮かべつつ、血濡れた爪を自らの舌で拭った。
そして、奴は俺に眼を向け……。
にたり……と、笑ったのだ。
刹那。
俺の中で、灼熱のマグマが弾け飛んだ。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
俺は吼えた。
周囲の空気がビリビリと震撼した。
同時に俺は、疾風となり、奴の懐に潜り込んだ。
風が唸る。
次の瞬間。
ブシュウウウウウゥゥゥーーーーッ!
奴の背中から勢いよく鮮血が噴き出し、辺り一面を真っ赤に染めた。
俺の繰り出した雷光のような拳が、奴の腕の防御を跳ね除け、腹筋を突き破り、背骨をかすめて腸を断ち切り、背中へと突き抜けていたのだ。
「グワアアアアアアアアアアアアアアーーーッ!」
奴の絶叫がこだました。
俺は、奴の躰を貫いたまま、その腕を振り回した。
ピピピッ!
熱い鮮血が俺の頬を濡らす。
バアアーーーーンッ!
俺は、奴の巨体を金属の床に叩きつけた。
血を撒き散らし、奴の躰から俺の腕が抜ける。
「グオオオオオオオオオオオオーーーーーーーッ!」
吼えながら、俺は、起き上がろうとする奴に対し、渾身の蹴りを見舞った。
真空の渦を巻き起こし、蹴りが、奴の脇腹にえぐるように食い込んだ。
肋骨が砕け、臓器は破裂した。
奴の巨体は錐揉みに回転しながら水面に叩きつけられ、その上を転がるようにバウンドし、最後は爆発のような水飛沫を上げて水中に没した。
波紋同士のぶつかりで水面に高波が生じ、その上に水滴がパラパラと雨のように降り注いだ。
気泡とともに血が浮かび上がり、それは水面に赤い花を咲かせた。
その瞬間、俺は炎を見たような気がした。
鮮やかな真紅の炎。
儚く、美しく燃え散っていく生命の炎だ。
いい知れぬ興奮が、俺の身体を突き抜けた。
「グオオオオオォォォ……、グオオオオオオオオオオオオオオーーーーーーーーッ!」
俺の咆哮が、夜の闇に轟いた。
奴はそのまま水中に沈んでいった。
その生死は定かではないが、ただでは済まないはずだった。
打ち寄せる波が水門に当たって、ざぷっ、ざぷっと音をさせている。
その音も、やがて次第に小さくなっていった。
辺りは、再びもとの静けさを取り戻していった。
「「千鶴さん。
俺は、はっと、彼女のことを思い出し、慌てて身を翻した。
そうだ、千鶴さんだ!
奴との戦いに破れ、血まみれの姿で倒れた彼女。
その爪で、下腹部を刺し貫かれていた。
俺は倒れた彼女に駆け寄っていった。
千鶴さんには、まだ辛うじて息があった。
微かに胸もとを上下させている。
俺は、彼女の身体をそっと抱き起こした。
千鶴さんがうっすらと目を開く。
「……こう……い……ち……さん……?」
今にも消え入りそうな声。
その口もとから、つうっと血の筋が伝っていた。
駄目だ。
喋っちゃ駄目だ!
すぐに病院に連れていってあげるから!
「……こういち……さん……でしょ?」
彼女が弱々しく手を差し延べる。
俺はその手をぎゅっと握り締めて、頷いた。
「……もと……の……すがたを……みせて……」
俺は頷き、姿をもとの柏木耕一に戻した。
遺伝子が組みかわり、それに従って、細胞が激しい新陳代謝を繰り返す。
皮膚、骨、筋肉、その他の鬼だったときの不必要な細胞が、乾いた老廃物となって崩れ落ちた。
俺は人間の姿に戻った。
服は破れて全裸だった。
身体はすごい熱を帯び、加えて激しい体力の消耗を感じていた。
もとに戻った俺の顔を見て、千鶴さんはゆっくりと微笑んだ。
「……ちからを……つかい……こなせる……のですね……?」
彼女の手が、握っていた俺の手から滑り抜け、俺の頬に触れた。
俺は何度も大きく頷いた。
「……うん。だけど、その話は後だ。とにかく今は何も喋っちゃ駄目だ。すぐ病院へ行こう。もう一度、俺が姿を変えるから、そしたら千鶴さんを担いで……」
「……まって……こういちさん……」
千鶴さんが、消え入りそうな声で遮った。
「……もうすこし……だけ……そのすがたでいて……わたしの……はなしを……きいて……」
「駄目だよ! すぐに病院に……」
「……こういち……さん……」
千鶴さんは、じっと俺を見つめている。
「……わたし……もう……たすからない……から……」
そう言って、彼女は微笑んだ。
「ち、千鶴さん。なに言ってるんだよ……、なにいってるんだよッ!」
「……だから……そのまま……はなしを……きいて……」
震える彼女の手が、俺の頬を優しく撫でた。
本当は……俺も判っていた。
この傷では、彼女はもう助からないということを。
それでも、俺は認めたくなかった。
だって、千鶴さんはまだ生きているのだから。
弱々しくだが、俺の腕の中で、確実に息をしているのだから。
「……こういち……さん……」
千鶴さんは震える唇を動かすと、
「……ごめんなさい……」
かすれた声でそう言った。
「……ごめんなさい……わ……わたし……あなたのことばを……しんじようとも……せずに……もうすこしで……ほんとうに……あなたを……ころしてしまう……ところだった……」
千鶴さんの目から、涙がこぼれ落ちた。
「そんなこと……もういいよ。俺だって十分解ってる。一番辛かったのは千鶴さんじゃないか。みんなのために、千鶴さんがひとりで辛いことをしなくちゃならなかったんじゃないか!」
「……あ……ありがとう……こういち……さん……」
千鶴さんは微笑んだ。
「……ばかな……わたし……おとうさまを……うしない……おかあさまを……うしない……おじさまを……うしない……あなたまで……うしなって……それで……どうする……つもりだったの……かしら……」
「千鶴さん」
「……でも……いろいろ……つらかったけど……これでやっと……らくに……なれる……もう……なにも……うしなわなくて……すむ……」
「千鶴さん!」
俺は、千鶴さんの身体を、強く強く抱きしめた。
「……こういち……さん……とても……あたたかい……」
千鶴さんの手が、俺の手を握った。
「……い……いもうと……たちのこと……たのみ……ます……」
そう言った途端、彼女の手から力が抜け、するりと俺の手の中からこぼれ落ちた。
「……千鶴さん?」
俺が呼び掛ける。
だが、返事はなかった。
「千鶴さん!?」
俺は彼女の顔を覗き込んだ。
「……ち……ちづる……さん」
彼女は眠りについていた。
その表情は安らかで、穏やかだった。
俺の目に、熱い涙が浮かんできた。
千鶴さんの顔が滲み、うにうにと歪んでいく。
「千鶴さん……ッ!」
俺は、その安らかな彼女の寝顔を、両手で抱え込むようにして抱きしめた。
手には、千鶴さんの艶やかな髪の感触があった。
もう、なにも見えない。
もう、なにも聴こえない。
そのまま俺は、泣き崩れた。
妹たちのこと、頼みます……。
最後の最後まで、自分よりも、妹たちのことを気にかけていた千鶴さん。
妹たちの母親を演じ続けていた。
本当は、姉妹の中でも最も深く傷つき、今にも折れそうだったくせに、それでも彼女は、ずっと微笑みを絶やさず、妹たちを、そして俺を、温かく包み込んでくれていた。
俺は、寒さに震えていた彼女を、ほんの僅かにでも温めてあげることができたのだろうか……。
今はただ、俺はその安らかな寝顔を信じることしかできなかった。
9・夢
朝「「。
山頂から陽が昇り、蒼茫を白い光で霞めていく。
緩やかに頬を撫でる風が、暖かくなり始めた。
朝露に濡れた草葉が、陽を受けて輝き出す。
雲ひとつない、すがすがしい朝だ。
どこからともなく小鳥のさえずりが聴こえ、穏やかな日和を物語っていた。
千鶴さんの身体を抱き締めて泣き伏しているうち、いつの間にか俺は、疲れて眠ってしまったのだ。
俺は、夢を見ていた。
見ながらにして、自らこれを夢だと自覚できる夢、明晰夢と呼ばれる夢だった。
いつもの悪夢ではない。
千鶴さんの夢だった。
それは、俺が、千鶴さんと初めて出会ったときの夢だった。
俺はまだ小学生で、彼女は中学生。
初めて出会ったとき、彼女は学校から帰ったばかりの制服姿だった。
会った早々、俺は、その従姉のお姉さんにすっかり見とれてしまった。
澄んだ瞳。
光を跳ねて輝く長い黒髪。
子供ながらに、俺は胸のときめきを感じたのだ。
それが、俺の初恋だった。
俺は、顔を赤らめ、必死に胸のドキドキを隠そうとしていた。
彼女はそんな俺の前に立ち、優しく微笑むと、
「こんにちは、初めまして、耕一くん。私が、長女の千鶴です」
そう言って、右手を差し伸ばした。
すっかり緊張していた俺は、それが彼女からの握手の申し出だとも気付かず、ただ何度も頷いた。
すると彼女は、クスッと微笑んで、その手で俺の頭を優しく撫でた。
「これからもよろしくね、耕ちゃん……」
彼女は目を細めて言った。
ドクン、ドクン……。
俺の心臓が破裂しそうなほど高鳴った。
すぐ目の前に、千鶴さんの胸もとがあった。
綺麗な髪から、いい匂いがする。
俺は、そのドクンドクンという心臓の鼓動が、千鶴さんにも聴こえているのではないかと不安になった。
彼女に笑われるのではないかと思った。
だから俺は、顔を背け、その手を跳ね除けたのだ。
「あっ」
その瞬間、千鶴さんは驚いた顔をした。
跳ね除けられた右手を見つめると、寂しそうに目を伏せた。
俺は咄嗟に、自分の何気ないリアクションが彼女を傷つけてしまったのではないかと思った。
だが、彼女はすぐに顔を上げ、笑顔を見せた。
それで俺は「彼女もそんなに気にしてないな」と、勝手に納得してしまったのだ。
馬鹿な俺。
それが、千鶴さんの心に小さな傷痕を残すことになるとも知らず……。
俺は、ひねくれた幼い自分に腹が立った。
そんなことが積み重なり、彼女は、自分が嫌われているのではと思い込んでしまうのだ。
俺がもっと素直にしてれば、そんなふうに、彼女を傷つけることもなかったろうに……。
俺は、目が覚めたら、千鶴さんに謝ろうと思った。
あのときは照れてただけだよ、本当はすごく緊張していただけなんだよ、と言おうと思った。
……そして、思い出す。
それが、もう、できやしないのだということを。
俺は、夢の中でも泣いた。
涙のせいで、夢の映像が熱く滲んでいく。
千鶴さんの姿が、うにうにと歪んでいく。
こんなところまで、現実っぽくなくてもいいのに。
夢の中の俺は、ごしごしと涙を拭った。
でも、目の中の熱いものは拭いきれなかった。
きっと、涙を流してるのは夢ではなく、現実のほうの俺なのだ。
嗚咽とともに涙を擦り続けていると、夢の中の千鶴さんが、心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできた。
「……どうしたの、耕ちゃん?」
応えずに俺が顔を上げると、制服姿の千鶴さんは、優しく俺を抱き締めた。
「……耕ちゃん。……なにがそんなに悲しいの?」
千鶴さんは、そっと俺の頭を撫でた。
「私のこと、お母さんだと思って甘えてもいいのよ」
そんな相変わらずの彼女の言葉に、俺は泣きながら苦笑した。
夢は、もうすぐ醒めるだろう。
そして俺は、辛い現実に舞い戻る。
だから、それまでは、甘えていてもいいでしょう?
ねえ、千鶴さん。
俺が訊くと、彼女はいつもの優しい微笑みを浮かべて頷いた。
俺は、彼女の胸に顔を埋めて泣き続けた。
このまま、いつまでもこの夢が続けばいいと、そう思った。
いつまでも、千鶴さんに抱かれていたいと思った。
俺の頭を撫でる千鶴さんの手。
それは、野をそよぐ風のように優しく、朝の陽射しのように暖かかだった。
−おわり−
解 説「「これは単なる「エロ・ゲー」ではない!
あおむら さき
「今度は『天地無用!』のノリでやろうと思ってるよ」
そんな彼の言葉を聞いたのが今年の始めごろだった。前作「雫」もおもしろく、気になるのは次回作である。雫が狂気とエロスをキイワードにした、悲しく切ない物語であったのに対し、今回は打って変わって天地無用!である。
ご存じのとおり、天地無用!は宇宙よりの居候美女に囲まれて苦労が耐えない(笑)天地君が主人公のラブコメである。笑おうにも笑えない雫の悲愴な世界観に比べ、ある意味良い傾向と受け取った私も、新たな期待に胸ふくらますばかりであった。
そして発売も迫った五月末、電話口でスランプを告げる彼の声。なんと四人いる女性キャラの内たった一人分しかシナリオが上がっていないとのこと、……一大事である。物書きとしてのスランプの苦しさは私も重々承知しているつもりだ。必然的に思い浮かんだ言葉が「手伝おうか?」だった。
彼もその言葉に喜んでくれてはいたが、いかんせん私は七尾在住である。この手の作品は原作者とのコミュニケーションを密にする必要がある。適当な思い込みでシナリオを書き上げると、手伝いどころか邪魔になりかねない。リーフへお邪魔するには経済的理由で断念する他ない私は、あまり重要でない「裏シナリオ」を担当することになった。裏はあくまでオマケであり、万一の場合でも損害は少ない(おいおい)。
裏とはいえ主人公を始め四姉妹の性格を把握することは大切である。そこで送られてきたのは「千鶴篇」と呼べる本作品である。
さて、V・N(ヴィジュアルノヴェル)と呼ばれる本作は、いわゆる一般の小説とは違う。
画面の文字はなるべく少なく、表現が簡潔になっている。同じ言葉を連呼するものも表示上の演出である。したがって改行が非常に多い。全体の文字数に比べ改行の多さがページ数増加につながっている。
私の作品「サンダーボルト」に比べその総文字数は六%増しであるも、ページ数は三〇%増であることからもV・Nの特異性が伺えることと思う。
更に、本作を読まれて気付かれたかと思うが、もう一人の鬼の正体が明かされていない。「雨月山の鬼」に対する説明も控え目である。
これは誤りではない。V・Nの大きな特徴のひとつであるのだ。
V・Nは読者の選択によりシナリオが分岐するアドヴェンチャーゲームだ。選択次第で梓、楓、初音篇それぞれのストーリーが楽しめる仕掛けになっている。しかも今回のような悲しいラスト以外にも、ハッピーエンディングも用意されている。
鬼の正体、ルーツの謎はそれぞれの娘達の口から語られる。本作を読んだからといえ、「痕」自体の面白さはなんら色褪せる心配はないと付け加えたい。
最後になるが、「痕」は絶対に面白い。単なるエロゲーではない!
一九九六年六月某日
工藤静香「優」を聴きながら