TITLE : からだの手帖
講談社電子文庫
からだの手帖
―薬よりよく効くからだの事典―
高橋長雄 著
からだの中の風船旅行へ――はしがきにかえて
いまや人類は,太陽や月はもちろんのこと,天体の運行を秒よりもこまかな単位で予測し,宇宙船をつくり,驚くような精度でそれをうちあげ,宇宙旅行さえも可能にしようとしている。
しかし,もっとも身近な自分のからだについては,意外にも多くのことが知られていないし,医療関係以外の人々は,からだのことにはすこぶる無頓着である。著者自身,かなり古くからのカーマニアで,毎日ハンドルをにぎり自動車のおせわになっているが,故障でも起きないかぎり,ボンネットをあけてエンジンをのぞいたり,機構を勉強しようという気になれない。一般の人たちは,病気にでもならないかぎり,からだがどういうしくみで,そこでどういうはたらきが営まれているか,気にしないというのと同じことである。
医学専門書のように,固い字で築きあげられた石造りの建築物さながらに,薄暗くて尊大な感じでなく,近づきやすく理解しやすい形にして,最新の医学知識を正しく解説してみたいというのが,著者の年来の希望であった。その一つのこころみが,この「からだの手帖」である。
本書は,昭和三十八38年十10月から現在まで,およそ二2年間にわたって週一1回,北海道新聞に連載している「からだ そのしくみとはたらき」に若干筆を加え,あらたに十10項目ほどを追補して一冊にまとめたものである。一1回分を千三百1300字という動かせない枠の中で,独立した一篇にしたために,記述すべき内容を,医学的に重要な順に取捨選択しなくてはならなかったが,そのために無味乾燥になるおそれのあるときには,選択には若干の手心を加えた。一篇ずつ独立しているから,相互の脈絡は強くないが,どこから読んでも読めるようになっている。
新聞掲載分も九十90回を越え,スクラップブックに切りぬきをしておられる熱心な読者諸賢や先輩知人のおすすめに力をえ,このたび一書にまとめることにふみきった。
とにかく,本稿の執筆の時間にあてた毎週日曜日の午後のひとときは,週一1回旧知に会って,書斎で気ままなおしゃべりをするような楽しさを感じてきた。それが一書にまとまり,世の中に出ていこうとしているのであるが,急に「よそゆき」を着せられて,衆人環視のなかに出てゆくような面映ゆさを感ずる。
「ひょうたんから駒」が出たように,「からだの手帖」が世に出たわけであるが,「駒を出した」のは北海道新聞社学芸部の栗原,竹岡の両次長さん,記者の貝塚さん,上野さんであり,「馬子にも衣裳」を着せたのは,講談社の藤田部長さん,末武さんである。深謝申しあげたい。挿絵は,新聞のときからのコンビの鈴木隆幸画伯(日本宣伝美術会員)にお願いした。自由で含蓄のある絵で本書を飾ってくれたことに感謝申しあげる。
於札幌
著 者
目次
ニューロン ◇通信網の単位
反射 ◇知覚から運動へのUターン
大脳回および大脳溝 ◇うねの上の司令部
大脳辺縁系 ◇内密の我
意識 ◇知・情・意の舞台
言語野 ◇おしゃべりはここにはじまる
脳波 ◇脳からの電気の波
自律神経系 ◇隠然たる実力者
記憶 ◇大倉庫に整頓されている知恵袋
睡眠 ◇人生の三分の一3分の1の長さの休息
夢 ◇経験の切片でできたステンドグラス模様
目 ◇表情のあるビデオカメラ
視覚 ◇そのふしぎ
耳 ◇伝声管とてんびん
鼻 ◇クリーナーと暖房器
味覚 ◇茫漠たる審美覚
皮膚覚 ◇皮膚上にちりばめられた哨兵所
触覚 ◇盲人の目
痛み ◇心頭を滅却すれば火もまた涼し
心臓 ◇自動操縦器つき筋肉ポンプ
心臓 ◇情熱の炉からポンプへ
血管 ◇血液輸送の配管
血管 ◇ジーグフリードの葉
血管 ◇血管を運転する神経系
リンパ管系 ◇地下水を集める大河
リンパ管系 ◇レース編みの中の警察署
脈拍 ◇血管の壁を走る波
血圧 ◇あがるもさがるも
血圧 ◇のぼる一方の坂
血液 ◇物資運搬用貨車
赤血球 ◇コンテナーを運ぶ輸送用車
血液型 ◇血液のなかの個人識別票
Rh因子 ◇Rh陰性の女性の相性
白血球 ◇白血球――忠実な保安官
気道 ◇リンゴのある空気の通り道
肺 ◇フォームラバーでできた大工場
呼吸運動 ◇いのちの波動
肺活量 ◇ふいごから出入する空気の色分け
呼吸中枢 ◇いのちの波動を御するもの
口 ◇働き者の門番
歯 ◇からだのなかでもっとも硬いしかけ
唾液腺 ◇潤滑剤と消化液
肝臓 ◇血液のクリーナー
食欲 ◇中枢のシーソーにあやつられる原動力
胆嚢 ◇胆汁の濃縮工場兼倉庫
膵臓 ◇消化の万能選手
胃 ◇感情と共鳴する消化工場
胃 ◇胃の窓からのぞけた「生体試験管」
腸 ◇食物の巡礼行路
腸 ◇ベルト・コンベアつきの化学工場
腸 ◇百二十120畳敷の醗酵化学工場
虫垂 ◇反逆だけに意義を感ずる斜陽の臓器
腎臓 ◇小工場の同業者協同組合
腎臓 ◇環境づくりの調節器
膀胱 ◇水門番人のいる貯水池
ホルモン臓器 ◇出る川のない湖
ホルモン ◇動物界の公分母
脳下垂体前葉 ◇ホルモン・コンツェルンをあごで使うボス
催乳ホルモン ◇母性愛ホルモン
副腎刺激ホルモン ◇ストレスへの前哨拠点
脳下垂体後葉 ◇半分は女性専用品
甲状腺 ◇性格の泉
甲状腺ホルモン ◇生体エンジンのアクセル
副腎皮質 ◇ストレスへの堡塁
副腎髄質 ◇戦いの腺
性ホルモン ◇動物の根底にあるもの
性ホルモン ◇悩みの泉
性徴 ◇骨になっても消えない刻印
女性 ◇女性――くすり箱つきのからだ
乳房 ◇魅力あふれる化学工場
体温 ◇二重窓に囲まれたエンジン・ルーム
体温 ◇サーモスタットつき冷・暖房装置
汗 ◇からだの冷却加速液
汗 ◇良心とのたたかいでしぼられる汗
細胞 ◇生命の小片
細胞 ◇たたみこまれた設計図
酵素 ◇「生命のもとなる酵素」
遺伝 ◇未来永劫に生きる形質
皮膚 ◇いつも新しい皮ぶくろ
毛 ◇不思議な力をもつ皮膚の附属品
骨 ◇鉄より丈夫でながもちする心棒
骨 ◇多忙な生きている支柱
筋肉 ◇自家充電装置つき電池で起る躍動
筋肉 ◇人さし指が動くまで
手 ◇造物主の機械工学上の傑作
手 ◇人間全体の総代
脂肪組織 ◇エネルギー銀行
抗菌 ◇信頼するに足る堡塁と自衛軍
免疫 ◇自然治癒力の大立者
扁桃腺 ◇陽動作戦につかわれる「ぎせい部隊」
ホメオステーシス ◇もっとも保守的な管理機構
疲労 ◇グロッキー前にある赤信号
疲労 ◇意欲によって吹きとばされるスト指令
受精 ◇星の数から選ばれた優者
胎生期 ◇暗黒のなかの建設
幼小児期 ◇電機部品に配線される時期
思春期 ◇大人へのファンファーレ
更年期 ◇人生のたそがれ
老化 ◇生物時計で刻まれる年齢
老化 ◇西に傾く太陽
老化 ◇生命に年数は加えられたが……
ニューロン・neurone
■ 通信網の単位
初夏のさわやかな朝,窓をあける。目にしみるような緑,小鳥のさえずり・すがすがしい微風……。平和なこのような朝でも,人体の感覚器という索敵隊は,臆病なキリギリスが触角を休みなく動かしているように,ゆだんなく外敵の侵入を警戒し,外界の情報を集めているのである。
一億三千1億3000万個の網膜の感覚細胞は,脳の視領に向かって忙しく映像を送り,内耳の繊細な神経の末端は,麦の穂がゆれるようにゆらいで,音の感覚を,脳に向かって電送する。そして,約五十50万個の皮膚の触点と約二十五25万個の冷点は,室内に流れこんでくる空気の感じを脳に向かって通報する。目から,耳から,皮膚から脳に送られてくる通報は,ごく短い時間に幾千,幾万というおびただしい数にのぼるのである。
この神経系の基本的な単位をニューロンという。ニューロンは,一1個の神経細胞と,それから出ている二2種類の突起,すなわち短くて数の多い原形質突起と,一1本の非常に長い神経突起(神経繊維)からできている。
坐骨神経を例にとってみよう。この神経を輪切りにして顕微鏡で見てみると,袋につつんだ線香のたばを輪切りにしたように,多くの神経繊維が集まっているのが見える。さらによくみると,そのなかに,いろいろな太さや形のものがふくまれている。一番太いのは運動神経繊維である。同じ運動神経のなかでもとくに太いのが,筋肉を速く動かすための繊維であり,それより細い種類のものが,からだの姿勢を保っている緊張筋を,ゆっくり動かす神経繊維である。
運動神経よりやや細い,もう一つの神経は,知覚神経である。運動神経が脳から,手足の方に命令をくだす系統であるのに対して,知覚神経は手足の方から頭に情報をつたえるルートである。
知覚神経よりさらに細いのは自律神経で,興奮を伝える速度は一番のろい。刺激の仕方や刺激の加えられた繊維の種類によって血管が拡張したり収縮したり,腺(せん)の分泌が変わったりする。
神経に信号が伝えられるとそこにごく弱い電気が起こる。この電気が,導火線につけた火のように,同じ強さで先の方に伝わっていき,筋肉を収縮させたり,頭に感じを伝えたりするのである。
いまから百八十180年ほど前のこと,カエルの脚を解剖していた解剖学者のガルヴァニが,たまたまメスやピンセットが神経にふれると筋肉がピクピク動くのをみつけた。この発見が,電気が神経を通り筋肉を動かすという重大な生理学の一部門をひらく端緒になった。
画期的な大発見が偶然の機会になされることが多いが,神の啓示に似たその機会は,実はそれまでに人間の目の前を幾回となく素通りしていたはずである。その啓示をガッチリ受けとめ,科学の画期的な大発展に接続させるためには,まず具眼の科学者を養成すること,そして啓示に遭遇する確率を大きくするために,このような科学者の数を増加させることが必須と考えられるのである。
反射・reflex
■ 知覚から運動へのUターン
小学校にいっている小さい子供が,ひなたで近所の子供たちと,小さい「きもだめし」をやっている。相手の目の前で,急に手を振って,まばたきをしなかったら,きもがすわっているということらしい。ためされる方は,まぶたを閉じまいとして力をいれ,目を大きく見開いているが,たいていはまばたきをしてしまう。そうするとかわいい歓声があがって,また次の子供がためされる。
目の前にあるリンゴに手をのばして,それをとるばあいを考えてみよう。
まずリンゴを目で見,とっていいかどうか判断し,いいとなって,はじめてとろうという意思が発動して,手を動かす筋肉に運動の命令がくだるのである。したがって,そこにあるリンゴを手にとるというだけでも,頭や脊髄(せきずい)の神経径路のなかを,信号が複雑な往復をして,はじめて行動が起こされるのである。まして,アダムとイブがリンゴを食べようと思案した時や,人けのないリンゴ園のかき根に近く,たわわに実っているリンゴの木の下で「冠を直そう」かと考えている時などには,神経の中にもっと複雑な信号の往復があるはずである。
目の前に迫ってきた危機を,とっさに避けるためには,これでは間に合わない。複雑な神経径路のなかから近道を通って,とりあえず危険をさけるための運動の命令を筋肉に伝えなければならない。前に述べた,まばたきの反射も,目を守るための合目的的な反射運動なのである。ちょうど役所などで,緊急事態のもとでは,下の役の人に専決がゆるされるようなものである。
歩くという動作でも,歩きはじめや,止まるときには意思が働くが,歩いている間は,ほとんど無意識に手足が動く。足の裏の皮膚や足の関節から,脳の方に伝えられる歩行状態についての情報が,脊髄のところでUターンして,すぐに筋肉への運動命令に交換されるので,考える必要がないのである。
運動競技の練習を重ねると,その動作に関連するいろいろな反射運動の情報伝達・運動指令の通り道がだんだん短く単純化され,かつまた早く連絡されるようになるために,技が上達してくるのである。
呼吸,循環,消化などの自律神経の関与する働きも,すべて反射的に行なわれている。
からだの各部分の筋肉の緊張に,黒幕的支配力を及ぼしているものに,頸(けい)反射というものがあるが,これについては別に述べる。
考えてみると,若い世代のなかに,「反射的」な人間がますます多くなっていくような気がする。気にくわないとすぐ暴力ざたになったり,ピストルで人を射ってみたいというと,すぐ人殺しをするたぐいである。この反射径路を閉鎖し,思考と行動の間に社会通念,義理,道徳,「修身」などを介在させるためには,何よりもまず,若い世代におけるこの種の「反射機構」成立の必然を解析する必要があるようである。
大脳回および大脳溝・cerebral gyrus & sulcus
■ うねの上の司令部
畑にうねを切ったように,大脳の表面には,溝(みぞ)とうねが,まがりくねって走っている。この溝やうねは,だれの脳でもほとんど同じようにできていて,どんな小さいうね(これを回という)にも溝にもいちいち名前がついており,その名前をいえば,街の中で何丁目何番地というように,その所在を指させるようになっている。
役所や会社にいろいろな課があって,それぞれ仕事を分けて担当しているように,脳の中にも,はっきりした仕事の分担がある。大脳を側面からみた場合,ほぼ真ん中に,頂上近くから中心溝とよぶ溝が斜め前に向かって走っている。この溝の前にある帯状の部分(中心前回)が運動野という筋肉運動をつかさどるところで,中心溝の後方の部分(中心後回)は皮膚感覚と筋肉運動の感覚をつかさどる体性感覚野である。
局所麻酔で開頭手術をうけている患者の運動野に電極をあて,弱い電流を通ずると,その場所によって手首がピクッと動いたり,電極をもう少し下にずらすと親指が動いたりする。電極を体性感覚野にもっていくと,電極をあてた位置によって手首にさわられているようだとか,顔にさわられているとかいう。ちょうど,ピアノの一つの鍵盤が一つの音を出すように,脳の運動や感覚野の一つの点とからだの一定部分とは完全に対応するようになっているのである。
模型的に,脳の表面に,その部分と対応する体の部分を順々に描いてみると,足を上に頭を下にした図ができあがる。ところが,この図に現われた手足などからだの各部分の大きさは,実際のからだの部分の大きさとずい分異なった割合になっている。脳の運動野で胴体が占める広さは,一1本の手の指を動かす部分の広さしかないし,体性感覚野で上下のくちびるの占める広さは,胴と尻に対応する部分を合わせた広さとひとしい。運動野では発声や咀嚼(そしやく)などの重要な働きをつかさどる部分がとくに広く,体性感覚野では舌の占める部分が目立って広い。
脳の側頭葉という部分を電気で刺激すると,前にきいたことのある歌を思い出したり,前にみたことのある景色を思い出す。また,見ているものが,急に遠方にとおざかって小さく感じたり,音が思いがけなく近づいて大きな音になったりする。この部分は記憶や判断の働きをつかさどる領域である。また,おでこの内側の前頭葉は創造,企画,感情などの精神機能が営まれる座とされている。
東京大学の標本室の片隅で,夏目漱石の脳をみたことがある。夕陽がかげって,やや暗くなったタナの上の,標本びんにはられたレッテルの名前が,私の足をとめたのである。この脳の,回溝の起伏の間から,数々の名作が生まれ,喜びと悲しみがかみしめられ,死の直前まで「明暗」の筋書きが点滅していたのである。「則天去私」をモットーにしていた漱石の脳の中に最後に焼きついて,このびんの中に固定された思索はどんなものであったろうかと考えながら,「草枕」を思い「こころ」を思いうかべたのである。
大脳辺縁系・limbic system
■ 内密の我
化石で発見された人類の一番古い祖先は,今から*約七十70万年前に生存していたと推定されるアウストラロピテクスである。その脳容積は平均五百五十550ミリリットルで,類人猿のそれに比べてわずか百100ミリリットルしか多くない。ところが,*約五十50万年前に生存していたジャワ原人の脳容積は九百900ミリリットルにふえ,さらに約二十20万年前に生存していたネアンデルタール人は千二百1200―千六百1600ミリリットルに増加しており,現代人の脳に比べて遜色がないほど大きくなっている。
人間の脳は生後一1ヵ月でサルの脳の重さになり,三3ヵ月でアウストラロピテクスの脳に,十一11ヵ月でジャワ原人,十10歳でほぼネアンデルタール人の脳の重さに匹敵するようになる。
あめ細工師が細筒の先につけたやわらかいあめを,吹いたり,つまんだりしているうちに見事な形につくりあげていくように,はじめ単純な一1本の神経管であった胎児の脳は,発育につれ次々に脳の重要な部分ができてき,こみいった構造になっていく。しかし,出産時の人間の胎児の脳は,どの動物の脳よりも未完成で,たとえ満期で生まれても,脳の完成の度合いからみると,みんな早産児ということになる。
大脳の皮質は構造も働きも非常に異なる三つの部分からできている。そのうち古皮質と旧皮質は系統発生的にも個体発生的にも早くから発達している部分である。発生の初めにはこの部分が表面に出ているが,新皮質があとからどんどん発達してくるために,古い部分は大脳半球の底面や内側面に押しやられたり,なかに包み込まれたりしてしまう。旧皮質(梨状葉)と古皮質(海馬と歯状回)さらに視床下部及び扁桃核(へんとうかく)と中隔核を合わせて大脳辺縁系と呼ぶ。
大脳辺縁系は,におい,痛み,内臓覚のような原始感覚を感じ,食と性と群居の本能をいとなむと考えられている。したがって高尚な精神機能をもたない下等動物の脳ほど,この辺縁系が脳の中で大きな割合を占める。本能の欲求が満たされると快感を覚え,満たされないと不快を感じ,さらには怒りを発するに至るのも辺縁系の働きである。ベルグソンの「内密の我」,フロイトの「深層の心」は,この辺に宿っているものであろう。
自律神経の働きと,ホルモン分泌の調節は,肉体を円滑に運転し生命を快適に維持するための二大双璧である。この二2つの大物,それに内臓の働きも視床下部を仲立ちにして,辺縁系によって監視され統御されている。すなわち,辺縁系は動物としての人間の心と生命の管理者であり,高尚な精神機能をつかさどる「神に似せて作られた」部分である新皮質系の監督をうけながら共存しているのである。アルコール性の飲料で強く酔うと,まず新皮質がマヒして辺縁系に対する監督の力がゆるみ,先生がいなくなった小学校の自習時間のように,辺縁系の獣性が露出する。ソクラテスは,人間とは「理性をもった動物」であるとしたが,このことばは「新皮質をもち辺縁系で命を保っている生物」と翻訳できるのである。
意識・consciousness
■ 知・情・意の舞台
民族意識とか問題意識などと,医学以外の分野でも意識ということばはよく使われるが医学で使われる意識なる用語は,定義がなかなかむずかしい。「意識とは現在の瞬間における精神活動の全体である」と定義されたりしている。
身近なものに例をとれば,舞台とプロデューサー,それに照明係の三者の組合わせを,意識になぞらえることができる。
舞台の上で乱舞する知・情・意,三つどもえの演技に,照明係はワイド,スポットなどの照明を駆使する。一人の主役にスポットライトが当てられると,そこだけが明るく強調されるが,ほかの方は暗くて見えなくなる。一つのことに熱中している状態である。照明全体が暗くなると,ビデオもとれないし,プロデューサーにも舞台が見えなくなってしまう。軽い場合は意識混濁であり,重いと意識を失うという状態である。
プロデューサーは,舞台を第三者の立場からながめうる意識のチーム中唯一の人である。テレビ文化の消耗品といわれるプロデューサーの仕事は,舞台上の芝居の進行,カメラのアングル,そして映像を記録するビデオの方まで気を配り,多忙をきわめる。意識の内景をながめるプロデューサーは自我意識であるが,意識全体の中で統一のとれた活動が行なわれ,記憶が正確にできるよう,忙しい役目を果たしているのである。
神(しん)は心に,魂(こん)は肝に,精は腎に,魄(はく)は肺に,志は脾(ひ)に宿ると考える陰陽五行説では脳の出る幕がない。たしかにヒポクラテスは「全集」のなかで精神の座が脳であると明言しているが,精神作用の大脳皮質局在論が確立され始めたのは十八18世紀後葉になってからのことである。
ところで意識はどういうしくみの上に,できあがっているのであろうか。静かなへやでくつろいで新聞を見ているときでも,目はいうにおよばず耳や鼻などの五感,それにからだの平衡をたもつための筋肉や関節などからだのすみずみから,東京都内の電話を全部一度にかけたよりもっと多い数の情報が感覚神経径路を伝って,脳に向かって騒々しく送られている。この喧騒をきわめる情報の刺激が,分岐した路を通って脳幹の中心部にある網様体に送りこまれ,ここがガンガンと起こされる。そうしてこの網様体が起きると,ここから二2つの神経路を通って,大脳皮質に向かって意識形成のための呼びかけが行なわれる。一つは視床という中継所を通り,他の一つは,寄り道をしないで,まっすぐ皮質の方に行く。中継所を通るほうはスポットライト係で,注意の集中に関係し,寄り道をしないでいく方は照明を持続的に,一様に明るく点灯させる係である。舞台が明るくなり,そこにプロデューサーが現われると,ここに意識が成立し,知・情・意の舞台の演技を待つばかりになるのである。
深層心理学でいう「無意識」は,抑圧された願望の隠れ場所の謂(いい)であるが,このものは,プロデューサーのいない真っ暗い奈落でうごめき,舞台の上にも不思議な影響力を与えるのである。
言語野・speech area
■ おしゃべりはここにはじまる
一八六〇1860年ごろフランスのブローカ医師が,二十一21年も前から「タン」という音以外,ことばをしゃべれなくなった患者を診察していた。当時は人間がものを考えたり,ことばをしゃべったりするのは,からだのどこの働きによるのか,まだはっきりしていなかったころである。この患者の死後,ブローカ医師は,その死体を詳細に調べ,大脳左半球の第三前頭回の後半部がこわれていることを発見した。
だんだん研究が進み,同じくものをいえない患者でも,二つの場合があることがわかってきた。一つはブローカ医師のみた型で,あることばを口に出そうとすると,発声の器械に故障がないのに,「声を組み立ててことばにすることができない」ためにしゃべれないものである。運動性失語症と名付けられる。もう一つの型は,耳はよく聞こえ,ことばが脳の中まで信号としてはいってきているのに,その意味がどうしてもわからず,「相手のいっていることが理解できないために自分もしゃべれない」という場合である。これを感覚性失語症という。ただし「絶望の孤島」でロビンソン・クルーソーが最初にフライディに会った時のように,ことばという「ものに対する符号」がお互いに異なっているために話が通じないのとは違う。
したがって,おしゃべりが可能なためには相手のいっている意味がよく分り,自分のいおうとすることばを音声に組立てうることが必要である。相手のいっていることを理解するための総本部である感覚性言語野は,大脳左半球の聴覚野をとりまく上側頭回と中側頭回の後方部にある。ことばを音声に組みかえる中枢である運動性言語野は左半球の第三前頭回の後半部にあるが,このほか左半球内側面の補足運動野に第三の言語野があることが証明されている。
不思議なのはことばを聞いたり,しゃべったりの総元締めが,みんな大脳の左半球にあることである。人間は右ききが多いが,右ききの人は言語野が左にあるという考え方があった。七十70万年ほど前,アウストラロピテクスなどの化石の人類の獲物をみても,ラスコー洞窟(どうくつ)の壁画に手形をのこしたクロマニオンをみても,ほとんどが右ききである。
しかし,脳腫瘍(のうしゆよう)などのため手術によって左あるいは右の言語野にあたる部分を除去した患者についての観察では,右きき,左ききに関係なく言語野は左半球にあることが確かめられたのである。
私たちが話すことばを分類して,基本的な生命活動に密着した「情動的なもの」と,高等な精神活動のシンボルとしての「知的なもの」とに分けることがある。この両者の織りなす錦絵が,日常のことばのやりとりなのである。ティーンエイジャーたちの熱狂している流行歌曲をきいていると,知的なことばの流れというよりは,情動の叫びというべき音声の含有量がますます多くなりそうな傾向を感ずる。新しい世代の知的な発育と情動的な発育とのアンバランスがこういう嗜好を生ずる原因の一つなのであろう。
脳波・brain wave
■ 脳からの電気の波
南イタリアのポンペイのまちが,ベスビオス火山の大爆発で火山灰に埋められ,廃虚と化したのは,西暦七九79年八8月のことである。このポンペイの廃虚から発掘された薬種商の看板に,地中海でとれるシビレエイを描いたものがある。当時の記録によると,ひどい頭痛や,分娩時の痛みを取り除くために,シビレエイを頭にまきつけ,失神させるということがおこなわれていたらしい。
シビレエイはデンキウナギ,デンキナマズのような淡水産のものに比べ,発生電圧はずっと低いが,じかに頭をつけると気を失わせるほどの電気を出すらしい。こんな強い電気ではないが,ふつうの動物のからだの中でも,筋肉が収縮したり,神経組織が刺激されると,電流が流れる。
手術で露出したウサギの脳の表面に電極を当て,鋭敏な電流計につないで,活動している脳の細胞が電気を発生するのを証明したのはイギリスの生理学者ケイトンで,一八七五1875年(明治八8年)のことである。発生した電気の時々刻々の変化は記録計の上に,ノコギリの刃のような模様を描く,これが脳波である。
人間で脳波を調べる場合,いちいち頭蓋骨を手術で切り開くわけにいかないので頭の皮のそとに電極を当てて計ることになる。すると電圧の変化は,一万分の一1万分の1ボルト以下という小さい値になるが,脳波計で増幅すると記録できるていどになる。
頭の皮の上から調べることのできる脳波は,電極の下にある脳の新皮質の表面から三3―四4センチメートル以内の部分に起こる変化に限られる。新皮質の発育していない乳幼児では脳波のノコギリの刃のたけが低く,刃もまばらであるが,年齢がすすむにつれ,刃のたけは高くなり,数も多くなってくる。脳波の形は,起きているときと眠っているときとで違うし,ゆったりした気分でいるときと精神活動が盛んに起こっているときとで,はっきり違った形になる。目を閉じ,落ち着いた精神状態にあるときは三十30―六十60マイクロボルト(一1マイクロボルトは一1ボルトの百万分の一100万分の1),毎秒八8―十三13サイクルという波が主になるが,物を見たり,一心に考えたりすると,もっと早い波が出てくる。逆に睡眠が深くなればなるほど波はおそくなってくる。
故アインシュタイン博士の脳波記録をみたことがある。脳波をとりながら,博士にむずかしい理論を考えるように要請した部分に印がつけてある。その間,約五5秒,博士は相対性理論の中の数式をチラッと考えたかもしれない。あるいは統一場の問題を思い浮かべたかもしれない。ノコギリの波の数がふえて,生物学的な必然が脳波記録の上に,形のごとくあらわれている。それは,ごく凡庸な市井人に暗算をさせたときの脳波と,ほとんど変わりないものである。複雑な電気回路を誇る脳波計で,おびただしい増幅をし,脳そのものの働きをとらえたかにみえる脳波をもってしても思考や思想を,「形而下」の現象として完全にとらえるのは,月に行くよりも遠い将来に属することに違いない。
自律神経系・automatic nervous system
■ 隠然たる実力者
山の中を歩いていた人が突然,クマに出会ったとしよう。顔面そう白となり,胸は早鐘のようにうつ。顔面がそう白になるのは,皮膚の血管が縮小するからである。そのかわり脳や心臓の血管は広がって血液がたくさん流れ込むようになり,手足を動かす筋肉にも,きたるべき戦闘のために血液の補給が増加する。心臓の拍動が増すのは,臓器・組織のフル運転に備えて,血液補給量を増すためである。呼吸は早く,大きくなり,気管支は太く広がって空気がたくさん肺に出入りして,酸素を多くとり入れるような態勢ができあがる。瞳孔(どうこう)は大きく開かれて,敵をよくみすえることができるようになる。その代り,胃腸や胆嚢(たんのう)や膀胱(ぼうこう)など,急を要しない臓器の働きは,戦時中の平和産業のように冷遇されることになる。以上述べたすべての戦時編制は,交感神経という,自律神経系の中の軍部大臣の役割をする神経の活動によって一気にできあがるのである。
戦時緊急態勢と反対に平和的,蓄備的な半面は副交感神経によって主宰される。副交感神経系が働きだすと,瞳孔は小さくなり,刺激的な光線が目の中にはいりすぎないように調節される。心臓はゆっくり静かに動いて,よけいなエネルギーを消費しない。呼吸はおそくなり,休息状態に適する静かな動きになり,胃腸はにぎわしく活動を始める。生殖のいとなみも副交感神経の支配下にある。
すなわちからだの中の戦争と平和は交感神経系が活躍しだすかどうかにかかっている。からだの最高司令部である大脳がいったん非常事態宣言をしてしまうと,あとは,大脳の支配外のところで,自律神経系はすこぶる専横な活動をし,「下剋上」の状態になるのである。
からだという一つの会社は,社長の命令をおいそれとはきかない自律神経系という労組のような下部組織に完全に死命を制せられているかっこうである。自律神経系のなかでは視床下部がまず「地区労」というところだがその上に「総評」がある。内臓脳といわれる大脳辺縁系である。ここが視床下部を統御・調整し,ここで精神現象と政治折衝をし,自律神経系が影響をうける。
自律神経系を一つの家庭にたとえると交感神経は“だんな”であり,副交感神経は“奥さん”である。そして家庭の場合と同様に,活動の基調は副交感神経系が営み,だんなは大そうじの時など重いものをもつ時に動員されたり,家庭内の行事にアクセントをつける役割をしているが,それが交感神経なのである。
また,乗馬でいえば,手綱が副交感神経の統御であり,ムチが交感神経のアクセントである。「生気にあふれる」若人などというときの「生気」は,副交感神経系の活発な活動に由来するのである。
漢方には古くから陰陽学というのがあり,病気や薬に陰陽の区別をつけ,病因論や,薬効などをこの二つの対立したものの存在によって説明しているが,交感神経,副交感神経の対立と考え合わせて興味深い。
記憶・memory
■ 大倉庫に整頓されている知恵袋
目をさましている限り五感を通じて人間の脳のなかに送られてくる信号は,莫大な数にのぼる。それらの信号は直ちに分析され,大事なものだけが記憶として倉庫の中にしまいこまれる。
この記憶の倉庫にはいる項目の数は七十70歳の寿命を活動しつづけた人で十五15兆に達するという。ひとりの人間の記憶の倉庫には,日本中の質屋を全部集めたよりも,数多く,種々雑多な品物がぎっしりつまっているのである。そしてもっとも驚くべきことは,その分類管理のよさである。
何年前のいつごろ,こんな記憶をしまいこんだはずだがといえば,おびただしい品物の中から,どんなカビくさい記憶でも,たちどころに目の前にとりだしてくれるのである。もっとも質流れのように,しまったはずの品物が,倉庫の中から姿を消すこともまれではないが……。
無意味な文字のつづりを覚えさせ,どれくらい,それが記憶の倉庫から消えていくかを調べた心理学者の研究によると,二2日目で,覚えたことの六〇60%を忘れてしまうが,そのあとの忘れ方はゆっくりで,一1ヵ月たっても七九79%以上を忘れることはなかったという。ラフマニノフは,大曲でもたった一度聞いただけで覚え,すぐそれをピアノでひくことができたといわれ,ナポレオンが戦略上の要点を記憶するのは神わざのようであったと伝えられている。学生時代の「暗記もの」の試験のことを考えてみても,記憶の能力は,たしかに人によって違う。
局所麻酔で脳を手術している患者の側頭葉の部分に細い電極をおき電流を流して刺激すると,以前に聞いたことのある歌が聞こえてきたり,みたことのある景色がまざまざとよみがえってきたりする。
判断野とよばれる側頭葉や海馬を中心とした領域に記憶の倉庫があるらしいのである。
記憶の倉庫に記憶すべき事項が搬入されると,神経細胞相互間にその記憶事項に関する信号を回す特別な回路ができあがり,こんど思い出そうとする時に,ちょうどテープレコーダーのようにその回路の中を覚えこんだ時と同じ形で信号が回転し,記録した時のようすを,再現するという。
また学習によって記憶を増しつつある神経細胞には,化学分析で,リボ核酸が増加していくことが確かめられているところから,一つ一つの神経細胞の細胞質内のたんぱく質に痕跡がとどめられ,細胞の単位で記憶ということが起こっているともいわれる。
人類の今日をあらしめた科学の発達は,他の動物にみない人類の記憶のよさに基因しているのであるが,魂を切りさいなむような悲恋や復仇の物語も,結局は,心に刻みこまれて消えない記憶が原動力になっているのである。うらみ,つらみなど楽しくない記憶を,記憶の倉庫の窓から虚空に向かってパッパッと投げ捨てることができ,楽しい記憶だけをあたたかくしまっておくことができたら,人間はもう少し幸福な動物になれるに違いないのだが……。
睡眠・sleep
■ 人生の三分の一3分の1の長さの休息
およそ脳をもっている動物はすべて眠る。眠りは食欲と同じように,どうしてもかなえられなければならない本能的な欲求である。
眠れないのは,飢え以上に苦痛である。たえず,くすぐったり,こづいたり,にえ油をかけたりして眠らせないようにすることが,昔,中国やフランスで拷問の責め道具に使われたという。
第二次大戦中アメリカで数百人の兵士が参加して,大規模な断眠の実験がおこなわれた。断眠二2,三3日目から,いらいらしたり,記憶がわるくなったり,錯覚や幻覚がおこったりして,四4日目には,ほとんどの者が落伍した。実験が終わってから精密検査をしたところ,肉体的に異常が認められた者はなく,精神状態の異常はひと晩ぐっすり眠ったらすっかり回復した。ただし,二2人の被験者だけは,その後数年間,精神異常に苦しんだということである。
古代ギリシャでは死の神の弟のヒュプースが眠りの神とされ,「眠りと死――それは暗夜に生まれたおそるべき双生児」といわれていた。魂が人間からこっそりでかけて留守になると,眠りが起こり,魂が永遠にとびさると死ぬと考えたのである。
現在でも,どうして動物は眠るのかということは,まだはっきりわかっていない。大脳の血液循環がわるくなるためとか,脳細胞の樹状突起がちぢんだり,グリア細胞がシナプスの間にはいりこんでシナプス伝達を阻害するためとかいわれていた。パブロフは大脳皮質のある場所に起こった「保護抑制」が大脳皮質全体に拡がるためと考えた。また,特殊な疲労物質がたまるためであると考える学者もいたが,頭が別々で共通の胴をもった女の双生児をしらべて,この考え方は間違っていることが証明された。一方の女の子が眠っている時,もう一方の子は横になったまま目をあけておきていたのである。
眠る時間の長さは人によって非常に異なる。ナポレオンのように三3時間でたりる人もあり,十10時間眠ってもまだたりないという人もいる。結局,必要なのは,眠る時間と睡眠の深さの二2つの値から求められる「眠りの量」である。すなわち睡眠時間だけでなく,眠りはじめてから,どんな深さで眠りが経過するかが問題である。
眠りの深さの経過には三3つの形がある。寝ついて後,一1時間くらいで,もっとも深い眠りにはいり,その後しだいに浅くなってくる健康的な形。寝ついたあとも,うつらうつらしてなかなか深い眠りにはいらず,夜がしらじらと明けるころ眠りがやや深くなる都会の神経質なサラリーマンなどによくみる形。それに,この両方の中間の形の三3つである。
悪いやつほどよく眠るという医学的根拠は明らかでないが,よくても悪くても,底に徹して,迷いのない人間は,偽善,偽悪で中空に浮いている連中にくらべて,睡眠をさまたげる「思い」が少ないということでもあろうか。
夢・dream
■ 経験の切片でできたステンドグラス模様
経験ゆたかな猟師は,猟犬が眠っている時のようすから,いまウサギを追っている夢をみているとか,キツネ狩りの夢をみていると,あてることができるという。生後六6週間もたつと,赤ん坊は眠りながら笑い,舌をピチャピチャさせる。
ローマの暴君ネロは夢を決してみなかったと伝えられ,セルバンテスの「ドン・キホーテ」の従者,ふとっちょのサンチョも夢をみたことがないことになっている。サン・ドウニのように眠りには必ず夢を伴うと主張する人もあるが,百100人のうち五5人は全然夢をみないという統計を出した学者もいる。
眠っている人の脳波には特殊な,ゆっくり起伏する波がでるのが常である。ところが眠っているのにもかかわらず,目がさめているときのような脳波が,ときどきあらわれる。このとき,同時に,心臓の拍動や呼吸が早くなったり,眼球運動や顔や手足の小さい運動が起こったりする。賦活睡眠とか逆説の眠りといわれる状態である。この状態は数時間の眠りの間に,だれにでも三3,四4回あらわれ,長いときには一1時間近くもつづく。脳波で賦活睡眠のパタンが現われたときに,その人をゆり起こして聞いてみると十10人のうち八8人まで,そのとき夢をみていたと答える。ところが賦活睡眠の形の脳波が出ていないときに,起こしてきいてみると夢をみていたという人はわずか七7%にすぎない。してみると賦活睡眠は夢をみている状態といえそうである。
眠っている人の手を,そっと暖めてやると,その人は,火の中を進んでいく夢をみると,二千三百2300年も前にアリストテレスが書いている。寝ているとき,胸が圧迫されて,おそろしい夢をみたり,寒さ,暑さ,においや音が,それに関連する「人工的」な夢を誘うことがある。「夢は五臓のつかれ」と昔からいわれているが,内臓から大脳辺縁系へ送られる信号が夢の発生にかなりの影響を与えるらしい。夢が過去の印象の再現であったり,情動の余波の翻案であること,そして海馬回が記憶の倉庫の所在地であり,情動が大脳辺縁系の所管であることを考えると,大脳辺縁系が夢の発現に果たしている役割の大きいことを想定できるのである。
夢の内容は,時間,空間を超越した非論理的,非社会的な性質が強いが,心の奥底にある願望や欲求が夢の中で代償的にかなえられるという形のものが多い。なかんずく性的欲求が夢の原因として重要であるとフロイトは強調する。「夢みが悪い」からといって旅行や行事をとりやめるむきはいまでもかなりいるようである。マケドニアのアレキサンダー大王は夢占いの判定に従って大勝をはくしたといい,近くはメンデレーフが夢の中で元素周期律表を完成したといわれ,夢の内容に神秘的な啓示を信ずる人々がある。
しかし,くわしい分析によると,夢の内容は,本人が意識あるいは無意識のうちに経験したことに全く依存するといわれる。夢の世界でも,やはりまかぬ種ははえないのである。
目・eye
■ 表情のあるビデオカメラ
眼球の構造はカメラに似ている。目の水晶体はカメラのレンズのようであり,虹彩(こうさい)は絞り,眼球を包む脈絡膜は真っ黒で暗いカメラの内張りに相当する。フイルムにあたるところに網膜という光に感ずる細胞層がある。水晶体はレンズの形をした透明な袋に液体のつまったものである。水晶体のこの袋は周囲からチン氏帯に引っ張られ,毛様筋が伸縮するとチン氏帯の緊張が変化して水晶体の厚さが変わり,遠いものでも近いものでも,ちょうど網膜の上にピントの合った像を結ぶように無意識のうちに調節される。虹彩はE・Eカメラの絞りのように,暗いところでは広く開いて光線が豊富に取り入れられ,明るいところでは絞りが小さくしまって,まぶしい光がはいりすぎないように鋭敏に調節される。
網膜上に結ばれた倒像の形に応じてそこに神経を通れる形の興奮ができる。その興奮はまず視神経を通り第一視中枢,視放射を経て脳の後頭葉の視覚中枢に到達する。しかし,見ているその物がどういうものであるかがわかるためには,その像がさらに視覚性記憶中枢というところに送られて分析され,それ以前に目を通じて取り入れられた記憶と考え合わされなければならない。この二つの中枢の間の連絡が,けがや病気のために途絶えると,目では見えるがその意味がわからないという「精神盲」になってしまう。いってみれば目に映っているのは光と色の断片にすぎず,見ているのは目ではなく,その背後にある脳が見ているのである。まさに“心ここにあらざれば見れども見えず”ということになるのである。
網膜には円錐(えんすい)体と桿(かん)体と呼ぶ二2種類の視細胞がある。円錐体は日中の明るい光と色を感ずる細胞であり,桿体はたそがれや月明りの薄暗い光を感ずるが,日中の明るい光や色は感じない。地球上で,もっともすばらしい目をもつ動物は鳥類であり,その多くのものは,円錐体だけでできている網膜をもっている。そのため人間の目で一1メートルはなれて,かろうじて見える程度の小さな種子を日中百100メートルの距離からはっきり見えるが,たそがれから夜にかけてはすっかり盲になってしまう。人間でもビタミンAが欠乏すると桿体が働かなくなるために夜,目が見えない鳥目(夜盲症)になってしまう。鳥のうちでも“ズク”“ミミズク”の類,それから“コウモリ”“山ネコ”などは逆に桿体しかもっていないので日中の光ではまぶしくて見えないが,夜の暗い光のもとで,かえってよく見えるようになり,夜活躍する。
色盲は遺伝的な円錐体の発育不全と考えられ,性結合劣性遺伝の形で遺伝する。わが国では,男子の四・五4.5%女子の〇・二0.2%が色盲である。
メルビルの「白鯨」を映画化したもののなかに,クジラのモビー・ディックの目をクローズアップした場面があったが,動物でさえ目だけで立派に表情が出るものであると驚いたことであった。見るための目だけでなく,口ほどにものをいう目の働きも忘れてはなるまい。
視覚・visual sense
■ そのふしぎ
目の網膜に映った像は,視神経を通り,第一視中枢,視放射を経て脳の後頭葉の視覚中枢,さらに視覚性記憶中枢に送られ,はじめてみているものがなんであるか理解できることになる。お役所の中をまわされている書類なら,数日は楽にかかるという複雑さである。神経の中を送られる信号はかなり速いが,神経細胞を乗り換えるときにやや時間がかかるので,信号が頭の中のこの道程をたどるのに若干の時間がかかる。
たとえば,計時員が競技のタイムをとるばあいを考えてみよう。ピストルがなって選手はいっせいに走り出す。計時員はゴールのところにいて,スタートのピストルの煙を「目で見て」ストップウォッチを押す。そしてゴールの上に張ったテープに選手の胴体の一部が触れた瞬間を「目で見て」ストップウォッチを押して時間を読む。〇・一0.1秒の差を争う競技のばあい,この視刺激が脳の中を通る時間も問題になってくる。
この像が目に映ってから脳の中を通ってそれと知覚されるまでの時間は,対象が暗く,動きがおそいほど長くなるが,最短〇・〇四0.04秒,最長〇・三0.3秒もかかり,子供や老人では青,壮年よりおそく,女は男よりおそい。野球でバッティングがあたるかどうか,剣道で相手より一瞬早くその動きが察知できるかなどスポーツのワザの巧拙にこの目のはたらきの個人差が重大な意味をもつに違いない。
鏡にうつった自分の片方の目で反対側の目をみつめながら,目を左右に動かしてみても,決して自分の目の動きはみえない。これは,目が動き出す瞬間から,ごく短時間盲目になるという特性によるのである。映画やテレビのカメラが,速く動きながらうつしていると,流れるようなピンボケの映像がみえるが,頭を動かしながらみても,ものがはっきりみえるのは,この特性のおかげである。しかも目が動きはじめる直前にみた映像が,脳の中の視覚の道程に残っていて残像となるために,この盲目の瞬間は自分で気がつかない。
短い時間の間に二2つの光点をつぎつぎに示すと,二2つの光点の間に連続した運動を見るような感覚が起こる。このことを利用して映画がつくられる。しかし対象を見ている時間が〇・〇〇三0.003―〇・〇〇六0.006秒より短くなると,あまり速くて対象を認めることができなくなってしまう。ところがこのように見ている時間が短かすぎて,自分にはそれを見たという感覚が起こらない場合でも,しらずしらずの間に,見せられたものによって意識下の意志にかなりの影響を受けるという。
アメリカのある映画館で,劇フイルムの数十10コマに一1コマの割りに「パプコンを食べましょう」という幾枚かの字幕を入れて映写したところ,見ている人の目にはその字幕が全くみえなかったにもかかわらず,その日のパプコンの売り上げが平日の数割も多かったという。選挙運動や暴動の扇動がこのようにして行なわれると,自分の知らないうちに他人の意思のままに動かされかねない。目に見えないだけに薄気味のわるい話である。
耳・ear
■ 伝声管とてんびん
音は,まず集音器の役目をする耳殻にあつめられて耳の穴にとどく。それから二・五2.5センチメートルばかりのトンネル(耳道)を通る。耳道はまがりくねっていて爆風などの強い圧を柔らげ,入り口のさかもぎのような毛が虫や塵埃(じんあい)の侵入を防ぐばかりでなく,音波を全反射させて伝導の効率をあげてくれる。
鼓膜は,ちょうど太鼓のようにその音波に相応した調子でたたかれて振動する。しかし太鼓と大いに違うところは,鼓膜のはりかたは場所によって異なっているし,たたかれても,決して鼓膜全体として振動しないし,一度たたかれたあと振動をつづけて余韻を残すということをしない。
さて,鼓膜の振動は,その内側の中耳にある,二2つの小さい関節でつながった三3つの小さい骨(小聴骨)に伝導され,最後の骨は卵円窓というピンの頭ほどの膜に振動を伝える。ここから音の振動は内耳に達して,高さ一1センチ弱のカタツムリの格好をしたしかけの中で基底膜を振動させる。ここで物理学的な振動が神経刺激の形に変えられ,三百300本の神経繊維によって脳に送られる。
耳のもう一つの大切な働きはからだのバランスをとることである。内耳の前庭部という部分に二2つの小さい薄い袋がリンパ液で満たされている。このリンパの液の中に細い毛が海草のようにゆらぎ,その上に砂のような耳石がのっている。頭の位置が重力の方向からちょっとでも変わるとこの石が毛を引っ張って敏感にそのことを知らせる。この知らせは脳の中の仕掛けを回って,クビの筋肉に命令を下し,頭をもとの位置にもどそうとする無意識の運動(迷路反射)を起こす。
ネコを目かくしし,高いところから仰向けに落としても,落下しながらくるりと身をひるがえして足で安全に着陸する。落ちる様子を高速度映画にとって分析してみると,この迷路反射によって頭が地面の方に向かってぐるりと回り,そのためにクビがねじれ,そのクビのねじれを元に戻すためにからだがうまく回転して,地上に着くころには足がちゃんと地面に向かうようになっている。ネコにあるこの反射は人間にも同様にあり,修練すると,かなりの程度に敏感に鍛えることができる。
このように,人間が重力に対してからだのバランスを変えるさいには,内耳の働きにより,クビの筋肉をはじめ,諸所の筋肉の動きが無意識のうちに微妙に制御されるため,意識をしなくても,いろいろな筋肉に緊張の変化や動きがあらわれる。従ってこの自然の筋肉の動きにさからう運動は,弱められるばかりでなく不正確になりやすい。
相撲や柔道のわざ,いろいろな武術,スケートのスピン,水泳のとび込みなどのコツとして伝えられる事項の中にこのクビの姿勢を重視したものが多い。その昔,武術家が苦心して編み出した秘伝の型が,人間自身の奥底に潜在するこのような生理学的な動きを達観することによって到達しえたというのは興味深いことである。
鼻・nose
■ クリーナーと暖房器
鼻の穴(外鼻口)の奥のほらあな(鼻腔(びこう))は,縦の仕切りを境に左右に区切られる。この左右に分れた小べやは,またその外側の壁についている上,中,下の三3つのタナ(鼻甲介(びこうかい))によって仕切られている。このタナは,冷たい空気を敏感に感じて太くひろがるたくさんの細い血管で包まれている。このように反射的な血管拡張が起こると,暖かい血液がどんどん流れ込み,タナそのものが厚くふくれあがり換気口の入り口を狭めると同時に,タナ自身の温度が高まり,気管の方に入っていく空気を暖めることになる。つまり鼻甲介はたいそう敏感な,そして能率のよい自動暖房器の役目を果し,温度の変化に弱い気管や肺を保護しているのである。
温度と同時に乾燥した空気に湿度を与えるのもやはり鼻の役目である。一1日平均一1リットルの水が,ここで空気中に放出され,吸いこまれる空気に湿度を与えている。
鼻腔の中の障子の上方三分の一3分の1とまん中のタナのこれに面した部分の直径二2センチぐらいの区域に「におい」に感ずる細胞が集まって嗅感帯を形成している。食物を食べるとき,のみこむ作用につれて食物のにおいの微粒子を含んだ蒸気が裏口(後鼻口)からここに送られ,食物を味わうと同時ににおいを鼻に感ずるようになっている。ノリやマツタケなどはとくにそうであるが,すべて料理の微妙なよさは「におい」なくしては味わえない。わが国には古くから「聞香」のような修養法があったが,香水やしょうゆの職人の場合には,長年の練磨によって,嗅覚が驚くほど高度にとぎすまされている。
鼻のもう一つの重要なはたらきは,塵埃(じんあい)や細菌が気管の奥の方に侵入するのを防ぐことである。まず,外鼻口にさか立っている鼻毛が大型の塵埃をせきとめる。鼻腔から気管にかけて石畳のように敷きつめられた粘膜細胞には,顕微鏡でやっとみえる繊毛という毛が一面にはえている。ちょうど伸びきった稲穂の上を風が吹き抜けていく時のように,この繊毛は一1分間に二百五十250回ぐらいの周期で,気管の奥の方から外鼻口の方向に向かって,いつも波を打っている。
粘膜細胞は粘液を分泌するが,この粘液はあたかも薄い毛布のように繊毛の上をおおい,鼻腔だけでなく,のど,気管,食道の方にまで広げられている。しかも驚いたことに,この繊毛の上の薄い毛布は,たえず外鼻口や口腔の方に向かって移動し,鼻腔の場合二十20分に一1度の割りで,すっかり新しく敷きかえられる。したがって鼻腔に入ってきた細菌や小さい異物は,粘液の薄い敷き物と一緒に数分間で外鼻口付近まで送り出され,時ならずして鼻くそに乾燥してしまうか,鼻紙にふきとられる運命に陥るのである。
このように重要な機能をもった鼻はまた,顔のまん中に鎮座して,美醜の分水嶺を分ける大切な布石となり,クレオパトラの鼻などはついに古代エジプトの歴史をさえ動かしたのである。
味覚・sense of taste
■ 茫漠たる審美覚
視覚や聴覚が美術や音楽という人間の文化的所産の根源であるのに比べて,味覚や嗅覚(きゆうかく)は生理学的に原始的で低い程度のものとされ,低級感覚とよばれている。ダビンチのモナリザは,いまだにルーブル美術館の壁にほほえんで不朽の名作の名をほしいままにし,楽聖の業績も楽譜やレコードに,その輝かしい全貌を残している。しかし不世出の調理の名人の作品でも,食べてしまえばそれまでで,後世にその全容を伝えることはできない。
食物の味は甘味,酸味,苦味,塩味などの合計されたものであるが,すべての味をこの四4つの基本的な味に分解し,それぞれを共通のグストという単位で統計学的に評価し,紙の上に表現しようという試みがなされている。しかし,多数の人間の舌の協力を必要とする複雑なもので,しかも音楽を楽譜にのせるような直截さはない。
味は舌の上面に主として存在する味蕾(みらい)の中の味細胞によって感じられる。水や唾液に溶けた食物がこの味蕾の袋の入口からはいって味細胞の味毛を刺激する。その刺激は脳神経を経て大脳の感覚運動領の下部にある味覚中枢に伝えられ,味としての感覚ができあがる。
塩味は,舌のどの部分でもほぼ同じ程度に感じられるが,苦味は舌の根部背面で特によく感じ,舌の先端部は甘味,辺縁部ことにその前半は酸味によく感ずる。ブローム・サッカリンを舌先で味わうと甘いが,舌根部で味わうと同じものなのに苦く感ずる。ただし,辛味と渋味は味細胞に関係なく感じられる味である。
味はその味を含む液の温度や他の味成分とどういう割合で混じっているか(対比,打ち消し)ということや,におい,舌への触覚の相違などでもずいぶんと変わって感じられる。また同じ味を長く味わっていると感覚が疲労してきて感度が低くなったりする。たとえば温度であるが,十七度17℃―四十度40℃の間で塩味は温度の高いほど強く感じ,苦味は三十七度37℃以上で急に強く感じられるようになる。甘味は三十五度35℃で一番鈍感で,それより高くても低くてもよく感ずるようになる。
「空腹にまずいものなし」というが,たしかに敗戦前後の食糧難時代には審美的な味覚は退化してしまって,ずいぶんひどいものでも何とかのどを通った。味はまた人によって感じかたがずいぶん違う。たとえばフェニールチオカーバマイドという苦い薬を,いくらなめても全く苦味を感じないという先天的味盲の人が全人口の一三13%の割に存在する。
味についてはうるさいはずのフランスで,ヒラメが尊ばれ,タイが軽んじられるばかりでなく,肉をたべない金曜日には,上等のタイやマグロがふんだんにあるのにかん詰めのイワシを喜んでたべたりする。希少価値や食習慣が素材本来の味に先んずるのであろうか。熊掌,牛尾,ショウジョウのクチビル,はてはゾウの足まで美味の探究にすべての材料を渉猟したかにみえる中華料理でも,やはり味は素材そのものより調理人の魔術によって素材からひき出されるもののようである。
皮膚覚・cutaneous sense
■ 皮膚上にちりばめられた哨兵所
皮膚で感ずる感覚には四4つの種類がある。(1)温かい感じ,(2)冷たい感じ,(3)触れ,あるいはおされる感じ,(4)痛みである。これらの感じが二2つ以上同時に組合わされて感じられると,触れた物体の,ざらざらした感じとか,つるつるとか乾燥した感じなどの感覚が起る。
さきの細い金属製の容器に氷水やお湯をいれ,そのさきで,皮膚面を細かくしらべていくと,冷たさを感ずる点と,温かさを感ずる点を見つけることができる。冷たさを感ずる冷点は,一1平方センチの皮膚面に十三13―十五15個あるが,温かさを感ずる温点は一1―二2個しかない。この冷点,温点以外の場所では冷たさも温かさも全く感じないのである。
寒いときには体表面から体が冷えていくから冷点が体表面近くに位置し,温点は,体温の配分を行なう血管網の近くの,やや深いところにあるというのは,実に合理的にできているものである。
皮膚は現在の皮膚温を基準にして,それより高いときに温かく感じ,それより低いと冷たく感ずるのである。
割箸の先に,馬のしっぽの一1本の毛を三3センチメートル程に切ったものを接着し,皮膚の上を触れてみると,触れたのがよくわかる点と,それを全く感じないところとがあるのがわかる。触点は一1平方センチに六6―二十八28個あり,指先とか舌の先には特に多い。
触れている時間が短すぎると感じが起らないし,一様な強さで長く触れていても,なれて感じがなくなってしまう。着ている下着が皮膚に触れていても気にならないのはこの慣れによるのである。
だいたい触覚は短い一時的な刺激に応じて起るが,おされる感じ(圧覚)は,皮膚の表面の形が変えられたときだけ,持続性な感じとして感じられる。水銀は水の十三・六13.6倍も重い液体であるが,水銀の中に指をつっこむと,おされる感じがするのは水銀の表面のところだけで,均等に圧迫されているはずの指先には,おされた感じがしない。水銀面に接している皮膚の部分だけが,おされてひっこむために,圧迫される感じがするのである。皮膚の上に,ある重さのものをのせると圧覚を感ずるが,その重さの二十五分の一25分の1以上の重さが増減しないと重さの変化が感じられない。たとえば七十五75グラムの重さのものを掌にのせているとすると,三3グラム以上重さが変らないと重さの変化を感じられない。ところが二百200グラムのものをのせているときは,六・四6.4グラム以上のものをたさないと重さの加わった感じが起きないのである。これが感覚刺激強度と識別閾(しきべついき)についてのウェーバーの法則である。
ちょうど大金持の人は,百万円といってもわれわれの千円位にしか感じないのと同様である。ただし,ウェーバーの法則は,その重さが重すぎたり軽すぎたりすると成立しなくなる。富者の吝嗇(りんしよく)や貧者の一灯ということになると,一般的な標準があてはまらなくなるのと同様である。
触覚・tactile sense
■ 盲人の目
ガラスの表面にキズをつけ,それを指先でさわらせてみると,たいていの人は一1センチの一万分の一1万分の1の高さの差を区別できるし,皮膚の上を秒速一1ミリメートルの速度で,かすかに移動する物体を感ずることもできる。
この触感はまた,訓練によって非常に発達する。粉屋の専門家は,粉を少しつまんで指の間でこするだけで,すぐに等級をいいあてることができるし,盲目の植物学者ジョン・ウィルキンソンは,軽く舌で触れて五千5000種以上の植物を区別することができた。
われわれのまわりにも,麻雀のパイの表面を指先で軽く触れるだけで,「盲牌する」ことのできる「名人」がいる。盲牌したり,盲人が点字をよむためには,指先にふれた二2つの点がはっきり異なった二2点として感じられることが,まず必要である。
普通の人の指さきでは,間隔が二2ミリメートル以上離れた二2つの点でなければ,二2点として感じられない。つまり,二2ミリメートル以内の二2点は,一1つの点としか感じないのである。背中の皮膚はもっとも鈍感で,六十60ミリメートル以上離れないと二2つの点を区別できない。もっとも敏感なのは 舌の先で,一1ミリメートル間隔の二2点をはっきり二2点として弁別できる。舌の先でさわった虫歯の穴が,大きく感ずるのはこのためである。
場所の異なるいくつかの点を,皮膚の触覚で「触れわける」ことができるために,目で見なくとも,ものの形や大きさが判定できることになる。盲目で,聾,唖であったヘレン・ケラー女史は,握手の感じによって相手の体格から性格まで知ることができたという。
生まれつきの盲人や,三3,四4歳以前に完全に視力を失なった人達が,どんな世界をもっているかについて,二つの説がある。一つは,盲人の触覚によって築かれた空間は,われわれの視空間と本質的に同じであるという考え方である。もう一つの説は,盲人の遠近感は,一つのものに触れてから他のものに触れるまでの時間の長短として感じているか,一つのものに触れてから別のあるものに触れるまでに触れた,いくつかのものがよりあつまって構成する全く異なった空間であるとするものである。
そのいずれが正しいか,断定はむずかしい。盲人が撫(な)ぜたゾウの姿は,短時間の探求では,まさに支離滅裂であろうが,時間をかけたらあるいは,なんとか本当のゾウの形にまとめられるかもしれない。しかし,雲一つない青空のひろがりから宇宙を思い,見渡すかぎりの海原から地球の大きさを考えるめあきと,それらから完全に遮断されている盲人との間で,宇宙とか地球とかに対する考え方には,大きな相違ができそうに思える。
痛み・pain
■ 心頭を滅却すれば火もまた涼し(快川)
バビロニアの粘土板やピラミッド建設時代のパピルスに,痛みについての苦悩を書いてあるのをみると,痛みは人間の歴史はじまって以来ずっと人間の最大関心事の一つであったようである。
痛みという悪霊からわが身を守るために,おまじないをしたり,いれずみをしたり,猛獣の牙や爪をさげたりしたのは,その当時の人達の智恵であった。
ニッピュールのバビロニアの粘土板にある鎮痛剤の記録は,紀元前二二五〇2250年に書かれたものであるというし,紀元前一五五〇1550年に書かれたイバースのパピルスには,阿片を用いた鎮痛剤の処方がのっている。
患者が医者にみてもらおうと決心をする,もっとも切実で決定的な動機は痛みである。だから痛みのない病気はつい手遅れになりやすい。
一口に痛みといっても,シクシク,キリキリ,ズキズキなどといろいろの種類がある。痛みを感ずる知覚神経繊維は,太くて伝導速度の早いA―δ繊維と,細くて伝導速度が十10倍も遅いC繊維とがあり,A―δ繊維で感ずるとチクリという痛みが速やかに起り速やかに去るが,C繊維の感じは「うずく痛み」で,長く尾を引く。痛みの原因がこの両方の繊維に,どのように影響を与えるかによって,いろいろな痛みの種類ができるものらしい。
痛みは,二つの要素がからみあってできる感覚である。
まず痛みは,触覚などと同じく脊髄(せきずい)――視床道を経て大脳知覚領に刺激が送られて感ずる原感覚と,それに対応して起る不快,不安,恐怖,さらには逃避運動,叫び声をあげるなどの疼痛反応の二つの因子が混じり合ってできるカクテルである。
疼痛反応は原感覚による興奮が,視床下部から大脳辺縁系それに脳幹網様体から汎性視床投射系の経路を通ってひろがっていってできあがるもので,原感覚は同じでも反応は個人によってかなり異なったあらわれかたをする。痛みに我慢づよいといわれる人も疼痛計で測ってみると,原感覚としての痛みは同じ程度に感じていることが多い。ただ痛みに反応してギャアギャア騒がない人達なのである。
リングの上では,いくら撲られても平気な職業拳闘家が,歯科医の椅子の上で赤ん坊のように泣き叫んだりするのは,原感覚の受けとり方には,個人差のほかに心理的な影響が強くあらわれる証拠といえる。
新しい鎮痛剤ができると,その薬と全く同じ外観で,中味だけ澱粉にすりかえた「偽薬」をその鎮痛剤と交互にのませて効果を総合判定するのが例になっている。ところが,平均三3割以上の患者は,偽薬でも鎮痛剤でも,同じように効くと答えるのである。そして,同じ偽薬でも,大学病院で使った方が効いたという結果がでやすい。効きそうだという暗示が心理的影響を与え,痛みが止ったように感ずるらしいのである。「病は気から」と昔からいわれているが,「薬の効きめも気から」といえそうである。
心臓・heart
■ 自動操縦器つき筋肉ポンプ
心臓は筋肉でできたポンプである。心臓の筋肉は胃や腸を動かしている平滑筋と同じように自分の意思で止めたり動かしたりできない筋肉である。手足を動かすための骨格筋は,筋繊維に横紋があり,自分の思うままに,速くでもおそくでも動かすことができる。ところが不随意筋である心臓の筋肉には横紋があるのである。
平滑筋は,家庭の主婦のように,単調な仕事を,あきないでねばり強く繰り返すところに絶大な強みを発揮する。そこへいくと横紋筋は,大そうじに仕事をたのまれた亭主のように,たのまれたときだけ,奥さんのもてない重いものを動かしたりするが,疲れやすいし,ねばりがない。
心臓の筋肉は平滑筋と横紋筋のよいところを兼ねそなえ,平滑筋より速い運動をねばり強く繰り返すことができる。
人が寝ていようと起きていようと,心臓は四六時中活動するために,たくさんの酸素や,エネルギー源を必要とする。酸素やエネルギー源はすべて血液で運ばれているが,心臓に出入りする血液から,手あたり次第にそれらを取りあげるようなことはしない。銀行には毎日幾億という金が出入りし,銀行の職員はそれを取り扱ってはいるが,自分が使える金は,取り扱っている銀行の金とは縁がないのとまったく同じである。
心臓の筋肉は冠動脈を流れてくる血液からだけ酸素やエネルギー源の供給をうける。冠動脈を流れる血液量は全身へ回る血液の約五5%を占める。すなわち,体重の二百分の一200分の1の重さしかない心臓ではあるが,全身に回る血液の二十分の一20分の1を心臓自身のために必要とする。高給をとる銀行員というところである。しかし,単なるポンプとしても二十四24時間に約九千9000リットルの血液を回し,人生七十70年の間に無修理のまま二十五25億回も拍動するという,驚くべき器械であることを考えると配当の多いのは当然といえるかもしれない。
人間に近いイヌやウサギなど哺乳(ほにゆう)動物の心臓をからだのそとへ切り出しても,ランゲンドルフの装置の中に入れておけば,二2,三3時間は,心臓だけで,けなげな拍動を続ける。心臓だけになっても,右心房の大静脈・流入口近くにある洞結節から,一定のリズムで心臓収縮のための信号が発生し,それがからだの中にあった時のように,心房・心室へと伝えられて,拍動が起こるのである。このようにすばらしい完全自動操縦装置がついてはいるが,心臓がからだの中にあるときは自律神経の二本の手綱の制御に従順に従い,からだのおかれている環境の変化に応じ,その働きぐあいを敏感に調節して運転されている。
心臓の筋肉の中には痛みに感ずる神経がないから,心臓そのものは刺しても切っても痛くない。「傷心」「心痛」という表現は,ひどい悲しみや憂愁などのさいに心臓部に痛みを感ずることをいったものである。失恋のような事態では「心臓がこわれる」ようにも感ずるが,実際こういうばあい冠動脈から心臓への血液供給がへり,心臓は「青ざめて」いるはずである。
心臓・heart
■ 情熱の炉からポンプへ
心臓はその人の握りこぶしぐらいの大きさで,底が丸く先のとがった,いわゆるハート形をしている。ちょうど小枝にモモがなっているように,大動・静脈という太い血管の先にぶらさがっている。そして心臓が拍動するたびに,風に吹かれたモモが前後に揺れるように動いて,コトコトと胸の内壁をたたくのである。
心臓は,並んだ二2個のポンプである。
このポンプはゴム製の水鉄砲のように縮むと中にはいっている血液をしぼり出し,ふくらむ時に血液をすいこむというふうに働いている。右側のポンプは肺に血液を循環させるためのものであり,左側は肺以外のからだのすべての部分に血液を循環させる原動力になっているものである。
この二2つのポンプには,それぞれ二2つのつながったへやがある。静脈から心臓へ戻ってきた血液を受け入れる心房と,動脈を通じて血液を送り出す心室の二2つである。
血液を心房から心室,そして動脈へと,一つの方向に送り出すためにポンプには弁が必要になる。右の心房・心室間の弁は三3枚(三尖弁)でできており,左の心房・心室間は二2枚の弁で,僧の儀式の時の帽子のようなかっこうになっており,僧帽弁とも呼ばれる。心房が静脈からきた血液でいっぱいになるころ心房は収縮し,この房室間の弁がひらいて血液は心室に注がれる。心室が収縮を始めると房室間の弁はパラシュートのように拡がって,通路をふさいでしまう。この時,心室内の圧のために,弁が心房のほうへそっくり返らないようにパラシュートのひもをひきしめるのが心室内の乳頭筋である。弁はそのほかに心室と動脈の間にもある。右は肺動脈弁,左は大動脈弁で,それぞれ三3枚のポケット式弁でできている。
耳を左乳のところにあてるとドーットン,ドーットンという規則正しいリズムが聞こえる。よくきくと,まず静寂があり,それからドーッという低く長い音,つづいて短い高いトンという音,そして再び静寂がくる。大静脈から心房に血液が流れこみ,ついで心房の収縮によってそれが心室に移されるまでは静かである。最初の長い音は,主として心室の収縮による血液の奔流と房室弁が閉鎖して血液を振動させるためにできる。その次の短い音は大動脈弁が急に閉じるためにできる。
心臓は安静にしている時,一1回の収縮で五十50―八十80ミリリットル,一1分間三3―五5リットルの血液を送り出している。それが激しい運動のときには,その十10倍量も送血できる余力をもっている。心拍動数は乳幼児では多く,おとなになると少なくなって一1分間六十60―七十70になる。
精神感動によって拍動数がふえる。そのせいか,昔,精神は心臓に宿ると考えられていた。「胸に手をあてて考える」とか,「心から感謝します」とかいう。キューピッドが愛の矢で若い男女を射るときも心臓をねらう。現代の医学は情熱,知性の座としての心臓を,単なるポンプに格下げはしたが,心臓の拍動が「生きていること」の表徴であることは昔も今も変わらない。
血管・blood vessel
■ 血液輸送の配管
心臓から送り出される血液は左心室から,まず大動脈に送られる。大動脈はつぎつぎに枝分かれして,しだいに細い動脈になり,ついに毛よりも細い毛細血管になる。この毛細血管は網の目のように組織の中にはりめぐらされ,この流域が,組織と血液の間で,酸素や炭酸ガスの受け渡し,栄養と老廃物の受け払いのおこなわれる現場である。動脈はいってみれば,酸素やエネルギーのメッセンジャーである血液を,この現場まで送ることを目的とする配管なのである。
毛細血管流域で組織との間に取り引きを終えた血液は,まず細い静脈に集められる。山から流れる小川が海のほうに流れていくに従って集合して太くなるように,細い静脈を流れる血液はしだいに太い静脈に集められる。そしてついに上下二2本の大静脈になって心臓(右心房)に帰りつく。
動脈の壁は三3つの層からできている。一番内側を内張りする内皮細胞層と,一番外側の結合組織層の間に,筋肉(平滑筋)と弾性繊維を含む層がある。細い動脈ではこの筋肉がよく発達し,太い動脈では弾性繊維が豊富である。
静脈も内皮細胞の内膜と,結合組織の外膜の間に弾力繊維と平滑筋からなる中膜があるが,弾力繊維も筋肉も,動脈にくらべてずっと少ない。
静脈で特徴のあるのは逆流どめの弁がついていることである。動脈の血液は心臓からおしだされた勢いで圧は高く流れも速いが,静脈にはいるころには流れが弱くなって,からだの姿勢で下になった部分の静脈からは,血液が心臓のほうにあがれないで,かえって末端のほうに逆流しかねない。この逆流をとめるのが弁の働きである。
静脈注射の時にするように,ヒジの上あたりで,腕をしばると前腕内側の皮下静脈がふくれてくる。このふくれた静脈のところどころにコブのようにみえるのが弁の所在である。
この弁は,手足(四肢)の静脈にはついているが,大静脈にはついていない。イヌ,ネコをはじめ「四つ足」の動物が立っているところを横からみると,頭とシリは心臓の位置より高いところにある。それで,手,足のさきから静脈血が逆流しないで肩かシリのところまであがって,上・下の大静脈に流れこめば,あとは低きにつく勢いで,自然に心臓にもどっていく。
神様が人間をおつくりになる時に,四つ足族と同じ筆法でつくられたために,大静脈に逆流どめの弁がついていないと説明されている。
人間が立って歩くようになったことが,四つ足族からぬきんでて,万物の霊長になりおおせた要因になっている。しかし,静脈の流れのほうから考えると,立つことによって頭のほうから心臓に帰る血液の流れは,四つ足で歩くよりずっと良くなるが,下半身の静脈血のもどり方には悪影響が及ぶ理屈である。
頭の血のめぐりをよくすることと,動物的なたくましさを保つこととは,ギリシャ神話に語られる半人半馬の賢者ケイロンを除いては,ついに両立しないものなのであろう。
血管・blood vessel
■ ジーグフリードの葉
血管そのものが生きている組織であるために,酸素やエネルギー源の供給を受けないではやっていけない。動脈血には酸素もエネルギー源も豊富にはいっているので,つまみ食いで腹をみたす調理係のように,細い動脈は流れている血液から直接リベートをとってやっていける。しかし,疲れた血液を運ぶ係の静脈や規模の大きい太い動脈では,そうはいかない。ちゃんと正規のルート,つまり血管を養うための血管から酸素や栄養源が供給されるのである。
動物の動脈をからだのそとへ切り出し,片方の端を糸でしばって止め,反対の端から圧をかけて水を注入してみる。圧がからだの中の血圧より低いと,あまり太さが太くならない。ちょうど血圧ぐらいの強さになると急に太くなり始め,もとの太さの四4,五5倍にふくれる。ところが,これ以上圧を強くしていっても,圧の割りに太くなりかたはずっと少なくなってくる。
静脈は血液貯蔵所としての役目をもっているため,ずっと低い圧で,動脈よりもっと大きくふくらむ。血管が,どれくらいの圧で破裂するかをしらべた研究がある。頸(けい)動脈では,普通の血圧の十五15倍,静脈では,普通の血圧の十五15倍から三十30数倍であったという。
死に至る病が医学の進歩や寿命の延長などによって,だんだん昔と異なってきている。結核や急性伝染病による死亡が減ってきている反面,脳出血による死亡がますます多くなるようである。脳出血は脳血管の破裂によって,脳の中に血液があふれでて,大切な神経の連結を断ち切り人を死におとしいれる。歯,目に老化の波が打ち寄せるころには,いつのまにか動脈硬化が進行している。動脈硬化症で動脈の弾性が減ってもろくなるか,動脈瘤(りゆう)で血管の壁が薄くなるということがなければ,血圧がたとえ普通の二2倍や三3倍にあがっても,破裂することは,ありえない。
一1本の動脈が切れて,そこから血液が送られなくなっても,からだ中たいていのところは栄養不良になって壊死(えし)に陥るようなことはない。隣合ったよその動脈と互に枝の先でつながっているために,そこから応援してもらえるからである。一つの仕事に二人の人が精通していて,一人が欠勤しても,代役で用が足りるというのに似ている。ところが,脳や腎臓や心臓という大事なところには,その代役がいない。
もし,そういう動脈(終動脈という)が切れたり閉じたりすると,その動脈が受け持っている範囲が間もなく死んでしまって,働きを失ってしまう。心臓の壁に栄養を運んでいる冠動脈がつまると心筋梗塞(しんきんこうそく)でポックリ命をおとすことになる。「ニーベルンゲンの歌」のジーグフリードは,退治した竜の血を浴びて不死になるはずであったが,背中に落ちた木の葉のところに,その血がつかず,のちにそこを刺されて死んだ。神の周到な英知で完全につくられたはずの人間のからだではあるが,こんなところに治療医学で起死回生を期待しえない「ジーグフリードの葉」がついているのである。
血管・blood vessel
■ 血管を運転する神経系
ビルディングの集中暖房のボイラー室には,各階ごとに蒸気を送ったり止めたりできるセンがついている。使っているへやにはどんどん蒸気を送るが,使わないへやには送らないようにするしかけである。
人間の血管,とくに静脈や毛細血管のすべてがすっかり拡がると,からだの中の血液の量ではとうてい回りきれない膨大な容積になる。少ない血液で,いろいろな臓器に血液をうまく回していけるのは,ボイラー室で必要に応じて蒸気の送り方を加減する,腕ききのボイラーマンのようなしかけがあるからである。
ビルディングの中に,はりめぐらされている配管とからだのなかの血管を比べてみて,もっとも大きな相違点は,ビルの配管は元センで流量を加減するのに対し,血管は自分でパイプの太さを適宜変化させて,輸送する血液の分配を加減していることである。
運動して筋肉を使えば筋肉へたくさん血液が配給され,体温が上がれば皮膚へ,頭を使えば脳へというぐあいに,活動している場所には豊富に血液が回っていくようになっている。たとえば〇・五0.5秒間コブシを握りしめるという運動を一1秒おきに四4分間つづけると,腕にいく血液の量が,なにもしないときに比べて三十30倍にも増加するのである。
ところが活躍している筋肉へいく血管が太く拡がれば,それだけで,そこへ血液がたくさん流れ込むというわけにはいかない。むしろ血管が太くなるためにかえって血液の流れがおそくなり,結局酸素やエネルギー源の輸送が悪くなりかねないのである。ところが実際には,うまいぐあいに血管拡張とともに次のことがいっしょに起る。まず全身の血液の配分を監督している血管運動中枢という司令部(ビルで蒸気の配分をあんばいするボイラー室に似ている)の命令で,活動していない臓器にいく血管が縮まり,そこへの血液配分量がへり,その分だけ循環血液量に余裕ができる。一方,心臓へ指令がとんでポンプの能率がたかめられ,血液の流れる速度をあげるように調節される。このような一連の調節といっしょに,活動している臓器の血管が拡がるため,そこにどんどん血液が流れ込むことになるのである。
血管を縮小させるほうの神経は,交感神経に属し,拡張させる神経は主として副交感神経に属する。交感神経は,一言にしていえば,敵と対決した時に戦闘体勢を準備する自律神経の系統であり,副交感神経は,平和な環境で,からだにエネルギーをたくわえるようにさせる神経系である。
いま医学の分野では癌の研究をやっていれば,研究費の配分がよく,人も集ってくる。研究題目が広遠かつ困難なものほど,活躍している筋肉への血液の供給のように,配分がよいのがあたりまえであろう。しかし,現在陽のあたらない研究の中から,驚くべき脈絡を生じ大発展に連ならないとはいえないのが科学である。どの一粒の麦にも生をつなぐに足る援助はたやすことができない。
リンパ管系・lymphatic vessel system
■ 地下水を集める大河
からだじゅうくまなく血液を回している血管系と似たしかけで,組織や臓器にからみつき,リンパ液をからだじゅうに回しているリンパ管系というものがある。ちょうど,色のないレース編みの網を,皮膚の下や臓器・組織の上にすっぽりかぶせたように,からだじゅうに,リンパ管系が張りめぐらされている。
ひざ小僧をすりむいた時,出血がおさまったあとで,やや黄味をおびた液体が小さなしずくをつくって傷口からしみ出てくるが,あれがリンパである。樹皮がはげると松の枝から「まつやに」が出てくるように,からだじゅうどこを切っても,このリンパが出てくる。ただし,血液のように色があざやかでないのでいっしょに出てくると,リンパの方は目に見えない。動脈から毛細管をへて静脈へ,そして心臓にもどって,ふたたび動脈へと,閉回路をぐるぐる,いそぎ足で回っている血流と対蹠的に,リンパ管系は大河のように,単一の方向に,ゆっくり流れている。それは神秘につつまれた大河の一つである。流れはゆるやかで,うっそうたる細胞の密林の間を通り大部分は解剖地図にも出ていないが,長さは幾キロメートルにも及ぶ。
この大河の源は,ちょうど岩の間からわいてでる泉のように,細胞のすきまから,にじみでる水源に発する。この顕微鏡的な水源は,まず顕微鏡的な支流にあつめられる。はじめ細胞の間にわいてくる水の量は,やはり顕微鏡的な微量であるが,天文学的な数にのぼる細胞の間からにじみでてくるこのリンパ液は,ついには目にみえる量になり,川の幅も増して,とうとうと流れるようになる。右側の頸部と右上肢からのリンパは右リンパ総管に集り,それ以外の全身のリンパは腸からの支流も合せて左総リンパ管に集る。左総リンパ管は胸管ともいわれ,リンパ管系ではもっとも太いところで,ストローくらいの太さがある。
は虫類や魚類にはリンパ心臓といって,リンパをまわす役目をするしかけがあるが,人間のリンパ管系にはそれがない。ただし,太いリンパ管には,逆流どめの弁がついているので,あるところまで押しすすめられたリンパは,前進はできるがあとずさりはできない。さいわい,リンパ管は大動脈にまきついていたり,筋肉のまわりにまつわりついているために,大動脈の拍動や呼吸・歩行などの筋肉運動や腸の蠕動(ぜんどう)運動によって圧迫されると,リンパは逆流どめの助けをかりて,一つの方向にむかって,流れていくわけである。
長時間,立っていたり,汽車の旅などで長く椅子に坐って足をさげていると,だんだん足がはれて,靴が小さくなったように感ずることがある。下肢の筋肉を動かさないためリンパがたまって足がはれるのである。
けがややけどなどで手足のひろい部分に傷ができると,傷が一応なおったようにみえても,はれがひきにくいことがある。炎症が原因でなければ,リンパ管系の水路の再建にひまどっていることに由来するものである。
リンパ管系・lymphatic vessel system
■ レース編みの中の警察署
皮膚ですっぽりおおわれているために,外からはみえないが,考えようによっては,人間のからだは,膨大な沼沢地のようなものである。幾兆ともしれない,見渡す限りの細胞は水辺の生活を営んでいる。
心臓の圧力が血管の内部に加わると,毛細血管の管壁にある微細なすきまから,たんぱく質などの栄養素,塩類などが水といっしょににじみ出てきて細胞のまわりを流れる。豊富な栄養素をふくんだこの液にとりかこまれ細胞はあたかも「乳や蜜の流れる地」に酔生夢死して,労せずして乳や蜜を汲んでは飲んでいるようなものである。
細胞の間を,すみからすみまで御馳走を一杯に盛った皿をまわしたあとの残飯を,もう一度血液のほうにもどして,新しい御馳走の材料にするために回収するのがリンパ系の役目の一つなのである。残飯のうちでも塩類と水の一部は毛細管の静脈端近くで血管の中に速やかに回収されるが,たんぱく質や,脂肪は,そのままでは静脈内へもどれない。
血液たんぱくに放射性ヨードで標識をつけ,それがリンパ管内に移っていく速度をしらべた研究によると,二十四24時間ごとに,われわれの血液たんぱくの半分が血管内から失なわれることがわかった。たんぱく質は生命維持のために枢要な役割を果している成分なので,もし,このたんぱく質の回収がうまくいかなくなったとすれば,すぐにも生命の危機が迫ってくることになる。この災禍をさけ,生命維持を可能ならしめているのは実にリンパ管系なのである。細胞のまわりをまわって役目を果したリンパを,屋根を流れる雨を雨どいに集めるようにリンパ管の中に集め,ついに静脈にまでそれをはこんでいくのである。腸で吸収した脂肪を乳液として血管系に導くのもリンパの役目であり,感染と戦う白血球のすくなくとも四分の一4分の1をつくるのも,抗体をつくり侵入する細菌との防御戦に活躍するのもリンパ系の役目である。
レース編みのようなリンパ管系のところどころにリンパ節とよぶ,小さい球がついている。リンパ節は「けしつぶ」ほどの大きさから「なた豆」ほどのものまで,いろいろあり,首,わきの下,またのつけね,腸のまわりなどにたくさんついている。
けがをして,傷口から細菌がはいってくると,このちん入者はリンパ管系に捕えられ,付近のリンパ節に押送される。ここでちん入者は,消されるなり,抑留されるなり,いずれにしてもからだの奥に侵入するのは阻止される。ちょうど,下水の流れの途中にあるゴミ捕集用の鉄網のように,リンパの流れの中にはいってきた細菌や微細な異物など,すべてここでおさえてしまう。
ところが,リンパ節がとりおさえた細菌の数が多すぎたり毒力が強すぎたりすると,数年前の釜ケ崎の警察署の例のように,逆に細菌に占領され,炎症という火事を起こしてしまう。リンパ節炎というのがこれである。
脈拍・pulse
■ 血管の壁を走る波
心臓から送り出された血液は,弾力性のよい大動脈をふくらませ,そのふくらみはつぎのふくらみをつくり,つぎつぎに細い動脈に向かって移動する。ちょうど獲物をのみこんだヘビのからだの中を「ふくらみ」が動いていくように……。
もし動脈が金属のようで弾力がなければ,心臓はもっともっと働いてずいぶん高い圧を作らなければ,血液は管の中を流れないはずである。おまけに空気圧縮室のないポンプのように,心臓が収縮していない間は流れが止まってしまう。
細いゴム管に水をいっぱい入れ,片方の端を糸で閉じ,他の端を指でおさえて水がこぼれないようにする。閉じたほうの端を棒の先でチョンとたたくと,ゴム管をおさえている指に一種の動きを感じる。水が管の中を指のほうに流れていくのではなくて,たたくことによって起こった圧の変化が,伝わってきて感ずるのである。脈拍も同じことである。たたくほうの端は心臓で,他方の端は抵抗の大きな毛細血管である。血夜が心臓から急に大動脈に押し出されると,ちょうど血管を中からたたいたように,その圧変化が,管の壁を伝わっていって,脈拍になる。脈拍というのは,血管の壁を走っていく波であって,血液が動脈の中を走っていって脈をうつのではない。
長く張ったヒモの一端をたたくと,やはりヒモの上を波が走る。ヒモを強く張るほど速く走る。脈の速さも,血管の張りを左右する血管壁の弾性や血圧などによって変わる。動脈硬化が起こり,血圧が高くなると速くなり,弾力性の豊かな柔らかい血管ではおそい。実測したところによると,八十四84歳の老人で毎秒八・六8.6メートル,五5歳の子供では毎秒五・二5.2メートルの速さであった。ちなみに,動脈の中を血液の流れる速さは毎秒〇・五0.5メートル以下である。
脈拍を触れてみると,一1分間にうつ脈拍数がわかるばかりでなく,脈のリズム・脈拍の大きさ,緊張度などを弁別でき,大動脈に血のはいる模様から心臓や血管のぐあいを想定し,流血量の増減を推測できる。昔から「脈をみる」ということが,医師の診察全体を意味することがあるくらいに脈拍のぐあいをみることが重要視されてきた。それなのに雲上人や殿様が病気になると,医師は直接診察することを許されず,隣室に控えて患者の手首にまいた長い糸のはじを引っ張って,そのかすかな動きから「糸脈」で病気を診断したという。
病気の診断のための検査方法は,近年ますます高度に進歩して,昔なら「勘」と「権威」で推量していた診断を,臨床検査の結果を組合せて,明確に決診できるようになった。しかし,複雑な検査のために,患者にもかなりの忍耐が要求されるばあいもある。検査のための苦悩に耐えかねて,「糸脈」式の診断を希望する人が少なくない。なかには検査はほどほどにして,すぐ治療にかかることを要求する人々もいる。しかし「糸脈」によっては,まず正しい診断をうることは至難である。浴びるほど薬をのんでも,診断が見当違いでは,かえって害になりかねないのである。
血圧・blood pressure
■ あがるもさがるも
穴のあいたゴムまりを水の中に入れて,手でにぎりしめたり,はなしたりすると,ゴムまりの中に水がはいったり,ふきだしたりする。
からだの中で心臓は,このゴムまりと同じ仕事をしている。ただ弁があるために,同じ穴から出入りするのではなく,血液が静脈からはいり動脈から出ていく点が異なっている。
ゴム製水鉄砲で,「にぎり」のところに水がたまり,そこをにぎりしめると,銃口から水がとび出すのがある。心臓をこのゴム製水鉄砲のふくらんだ「銃把(じゆうは)」になぞらえ,血管を銃身とすると,血圧というのは,水鉄砲の銃身を膨れさす圧力,いわば口からとび出してくる水の圧力にたとえられる。水をいっぱいすいこんで,強くにぎれば水は高い圧で飛び出すが,にぎる力が弱ければ水圧は低く,水はチョロチョロとしか出ない。
血圧のもとになる圧は,ポンプである心臓でつくられ,心臓から大動脈に出た途端が一番高く,だんだん動脈が枝分かれして静脈側に近づくに従って圧は低くなっていく。毛細管を経て静脈にはいるころは圧はずっと低くなり,大静脈では,圧は零か,または一時零以下になる。つまり,血圧は測る場所によって高さが異なる。通常血圧といえば,その人の二の腕(上腕)で測った上腕動脈の血圧のことをいう。
ゴム製水鉄砲で,銃身の管が細ければ細いほど,「銃把」をにぎる力を加えた時に圧が高くなりやすいし,また圧を高くしないと,水はとび出していかなくなる。血管の太さを細くしたり,太くしたり操縦しているのは血管運動神経であるが,この神経の指示によって血管が細くなると,水鉄砲の例のように血管の太い時にくらべて,心臓は余計に働かされ,血圧は高くあがることになる。
寒いとき,怒ったとき,こわいときに青くなるのは,いずれも顔の付近の血管が細くなり,皮下を流れる血液の量が減るためである。こんな時には血管の縮小によって血圧も相当高くなっているはずである。
栄養がよく,濃い血液が豊富に血管の中を回っている人は,水鉄砲の「銃把」に水がいっぱいはいっている状態と同じで,血圧が高くなりやすい。それと反対に,栄養不良で血液が薄く,血液の量の少ない人は血圧があがりにくい。
このように血圧をあげたりさげたりする原因には,種々のものがあり,これらの原因とその結果が互いにからみあい,互いに影響しあった総計が血圧として表われるのである。
老人病についての知識が普及し,中年を過ぎた人たちの間で,時候のあいさつのように血圧のことが話題にのぼる。なかには問題にならないくらいのわずかの血圧の昇降に一喜一憂している行き過ぎを見聞する。
株式相場を動かしている要因ほどに複雑な因果関係で動いているのが血圧である。精神状態によっても影響されやすいのであるから,しろうと診断でクヨクヨしていないで,早く専門家の意見を聞くのがよろしい。
血圧・blood pressure
■ のぼる一方の坂
ふつうに血圧といえば,その人の二の腕で測った上腕動脈の血圧のことをいう。上腕動脈を皮膚の上から骨にむかって圧迫し,どれくらい強く圧を加えたら,この血管をぺしゃんこにできるかでもって測る。血圧が高ければ高いほど,強く圧迫しなければ血管はつぶれない。
血管を圧迫するには,上腕にゴム袋をまきつけ,この中にポンプで空気をおしこむ。ゴム袋は布の袋に包んで,外側にふくれないようにしてあるので,空気をおしこめば,内側だけに向かってふくれて腕をしめつけ,血管を圧迫する。このゴム袋に圧力計をつないでおくと,腕をしめつけている圧力をはかれる。圧力は,ガラス管内の水銀柱を何ミリメートル押しあげるかによって測られる。
血管を圧迫しているところより指先側の動脈の上に聴診器をあててきいていると,脈をうつたびに,せまくなった血管を通る際の血液の渦流のために,雑音が聞こえてくる。ゴム袋の圧が高くなり,ついに血管がすっかりつぶれると,音がぜんぜん聞こえなくなる。血管がすっかりつぶされた時の圧を,最大血圧といい,心臓が収縮して血液を送り出し,最も血圧のあがったところに相当する。血管が最初つぶれ始める時の圧を最小血圧といい,心臓の拡張期の血圧にあたる。
おきあがりこぼしがどんなに動かされても結局は真っ直ぐ立ち直るように,血圧は大きく変動したあとでも結局は一定の値に落ち着く。まず大動脈,頸(けい)動脈洞などにある圧受容体が血圧の変化を感知する。そこから信号が司令部に送られ,制御系が活動してポンプ(心臓)の回転数や吐出量が調節され,パイプ(血管)の抵抗が切り替えられて血圧が一定のところに落ち着く。この調節装置は,電気冷蔵庫や電気コタツが,温度調節装置(サーモスタットという)によって一定の温度を保つのと似ている。
医学の分野で用いられる「正常」という言葉はただ同類がたくさんいるという意味だけで使われることがある。たとえば原水爆の恐ろしさを感じない人間が,八〇80%もいれば,恐ろしさを感じない方が「正常」だといいかねない。ところで血圧はどれくらいの高さが「正常」なのであろうか。何万人という大勢の人の血圧を測って,度数分布という統計的方法でしらべてみると,二十20歳台では平均値が,最大血圧百二十120,最小血圧七十五75ぐらいのところにある。もしこの年齢の人たちの八〇80%(平均値の上下四〇40%ずつ)までが「正常」とすると,その範囲は最大血圧百四十40,最小血圧九十90ということになる。
年齢が多くなるにつれ,血圧の平均値は上がる一方の坂道のように,的確に高くなっていく。老化のとくに早くすすむ例外的な人もいるので,平均値の上下の四〇40%の人たちを「正常」というのは無理な場合もあろう。しかし,若い人たちからみたら「正常」でないことになる老人たちも,老いをなげき,薬をあおるのは早計である。年相応のやや高い「正常」値に安住できるからである。
血液・blood
■ 物資運搬用貨車
血管を鉄道のレールにたとえると,血液は貨車に相当する。しかも,たえまなく動いている貨車である。血管の「鉄道」は,輸入品を国内に運び入れるための消化管周辺の臨海線をはじめとして,工場,倉庫,そして消費地の間に,網の目のように敷かれている。循環運転で運行されているため「貨車」ののべ数はぼう大に多く,その輸送力は驚くほど大きい。
輸送される物質は,酸素,栄養物などの原料のほか,ホルモンや免疫体などの工場生産物,いろいろな中間代謝産物,それに炭酸ガスや代謝の終産物などの廃物まで,実に多彩である。また貨車の貨物としては風変りであるが,血液に運ばれるものに熱がある。不必要な熱は血液がからだの表面の血管まで運び,そこから外部に放散させる。「生命のもとなる血」とは聖書の言葉であるが,実際,血液とそれをからだのすみずみまで回すためのポンプ(心臓)の二つが生命を維持するための主役を演じている。考えようによっては,たしかに,主役である血液を回すためのわき役が心臓であるといえるかもしれない。生物学的な言葉でいえば,血液は赤血球や白血球などの細胞を浮遊させた「組織」である。心臓のような組織なら,簡単な電動ポンプ(人工心臓)に一1時間くらい代役をさせることができるが,血液は決して人工的に作ることはできない。
まさに「血は水よりも濃」く,比重(水を一1として重さを比べてみると)一・〇六〇1.060であるが,血液の果たしている仕事の重さに比べて意外に軽い。しかし「濃い」という表現の別な要素である粘稠度(ねんちゆうど)は,水の約五5倍である。
血液を注射器でとって,試験管に入れ,しばらくそのままにしておくとゼラチンのように固まる。そして,ゼラチンのようなものの上にいくらか黄色味を帯びた液体がでてくる。この透明な液体が血清で,ゼラチンのようなものは血餅である。傷ついて出血したとき,血管の傷口をふさいで止血させるのはこの血餅である。
ヘパリンやクエン酸ソーダのような薬を,血液と混ぜてしばらくほうっておくと,こんどは血液は固まらないが,透明な部分と赤い部分に分かれる。透明な部分は血漿(けつしよう)といい,下の赤い部分には赤血球のほか,白血球,血小板などの有形成分がふくまれる。しかし血餅のように繊維素が,有形成分をがっちり固めていないので,かき回すと,またもとの血液のように均等に赤く分散する。
血漿の九〇90%は水で,残りはアルブミン,グロブリン,フィブリノーゲンなどのたんぱく質,食塩その他の無機塩類,ブドウ糖(これをとくに血糖という),脂質などが占める。
からだの中の血液の全量は,からだの大きさによってちがう。おおよそ体重の十三分の一13分の1といわれるから,体重五十五55キロの人は,四・二4.2キロ,容積にすると約四4リットルの血液が体中にあるということになる。「血の気の多い」人でも,「血も涙もない」人も,からだの中には等しくこれ位の量の血液がはいっている。
赤血球・erythrocyte
■ コンテナーを運ぶ輸送用車
血管を鉄道のレール,血液を,その上を走る貨車にたとえると,赤血球は,酸素や炭酸ガス輸送用車ということになる。近ごろは,荷物をがんじょうなコンテナーにいれて運ぶ「コンテナー輸送」が普及してきているが,酸素は赤血球の貨車につまれているヘモグロビンとよぶコンテナーで運ばれる。
赤血球は,ドラ焼きのような円盤形をしている。その直径は七・七7.7ミクロンで,一1センチメートルの間に,一万三千1万3000個も並べられるくらい小さいものである。そして,一1立方ミリメートルの血液の中に男子成人で五百500万個(女子では四百五十450万個)も含まれるので,一滴の血液の中に,日本の全人口数の数倍におよぶ数の赤血球がはいっていることになるのである。また,もし一人の人間のからだの中にある赤血球を横に並べれば,約十七万七千17万7000キロメートルの長さに達し,地球の赤道を四・四4.4回まくことができる。一1個の赤血球の表面積は百二十八128平方ミクロンしかないが,体中の赤血球の表面積を合計すると三千二百3200平方メートル,明治神宮外苑球場の約四分の一4分の1の広さに達する。
赤血球は胎児では,肝臓,脾臓(ひぞう),骨髄でつくられるが,生まれた後はおもに骨髄でつくられる。骨髄は骨の中空になっている部分をうめている組織であるが,この組織内の網目状の洞の薄い内被細胞から血球ができる。はじめは未熟な巨大赤血球母細胞ができ,何回か分裂して成熟すると,ちょうど,デパートなどでやっている自動ドラ焼き機からできあがったドラ焼きが一列に並んで出てくるように血管の中に送り出されてくる。赤血球は成熟の途中に,好塩基性が現われては消えたり,ヘモグロビンが,ドラ焼きの中のあんのように封入されたり変化するが,ふしぎなことに成熟すると細胞核がなくなってしまう。すなわちヘモグロビンや酵素を盛った一つの袋になり,働き蜂のように単純な仕事に専従することになるのである。
赤血球は新しくできてから百100―百二十120日もたつと古自動車が廃車処分になるように,寿命がつきてスクラップにされてしまう。スクラップになった赤血球の部品の一部は,骨髄にもどって新しい赤血球の生産に役立つが,大部分は肝臓から出る胆汁という消化液にまじって腸内に排泄(はいせつ)される。
ヘモグロビンは酸素と早い速度で結びつき,条件が変わると,また簡単に離れる。ところが燃料ガスや炭火の中にある一酸化炭素とは酸素より二百五十250倍も強い結合力でくっつき,一酸化炭素と結合してしまったヘモグロビンは,もう酸素と結合できなくなってしまう。そのため,たとえ純酸素を呼吸していても,ヘモグロビンが酸素を運搬してくれないため窒息死することになる。
金銭というものは,豊かでまろやかな生活感情と共存してこそ意味があるが,狭い唯物的な観念に偏執する浪費家や守銭奴は,宝の山にいてもさばくの野にたたずむにひとしいことになる。あたかも純酸素の中にいて酸素欠乏に陥る一酸化炭素中毒患者のように……。
血液型・blood group
■ 血液のなかの個人識別票
生命のもとなる血と聖書にあるところをみると,ずいぶん昔から血液の重要性は知られていたようである。だからけがなどで出血して死にそうな人に,健康な人の血液を補って助けようとする試みが,繰返し繰返しおこなわれていたに相違ない。赤くて一見,同じようにみえる動物の血も使われていたようである。
十五15世紀末,ローマ教皇インノケンチウス八8世の病気に,少年の新鮮な血を輸血したユダヤ人医師の話が伝えられている。教皇は死にその医師は命からがら夜逃げをしたという。十九19世紀末,イギリスの病理学者シャタックが肺炎患者の血球と血清をまぜると,それまで血清の中に均等に浮いていた血球が塊りをつくる(凝集する)ことを報告した。当時ウィーン大学の研究室にいたカール・ランドスタイナーが,追試のため二十二22人の健康な人の血液を血球と血清にわけて,たがいにまぜてみたところ,病気に関係なく,ある血清によって凝集されるものとされないものとがあり,これによって人間の血液を三3つの型に分類できることを発見したのであった。ときに一九〇一1901年である。
A型の人の赤血球のなかには,凝集素αにあうと凝集をおこす凝集原Aが含まれ,B型の人の赤血球のなかには凝集素βにあうと凝集する凝集原Bが含まれている。そしてA型の人の血清にはβ凝集素しかないので,自分のからだの中では凝集は起きない。しかしA型の人にB型の輸血をすると,Aとα,Bとβがあうことになって,ものすごい凝集が起り,そのためヒスタミンやセロトニンなどの有害物質ができて,輸血をうけた人はショックに陥り死に至る。O型の人は血球に凝集原をもたないが,血清にαとβの両方をもっているし,AB型の人は血球にAとBの両方の凝集原があるが,凝集素をもっていない。
日本人では,A型がほぼ四〇40%,O型三〇30%,B型二〇20%,AB型が一番少くて一〇10%という分布を示す。ロルシェフェルドはA型とB型の比率を民族指数と名付け,この値はその民族に特有なものであるという。血液型で,その人の性格をあてることができるという人がいる。O型は明朗な性格で社交的であり,AB型は陰気であるというが,明らかな統計的根拠を書きしるしたものをみたことがない。
血液型はメンデルの法則に従って規則正しく遺伝するので,父親と母親の血液型がわかれば子供の血液型が予想できる。A・B・O型のほかに,MN・Q・E・S・Rhなど多くの種類の血液型がつぎつぎに発見されたため,法医学的な親子の鑑別は非常に正確にできるようになってきた。
この血液型を区別する物質は,赤血球の表面のほかに,その人のほとんどすべての臓器や体液の中にも含まれていることがわかっている。
ちょうど,小学校一年に入学したての子供のように,自分の持物にいちいち丹念に名前をつけているのが人間のからだなのである。
Rh因子・Rh factor
■ Rh陰性の女性の相性
人間の血液にA・B・AB・O型の四4型があることを発見し,輸血を安全なものにしたのはカール・ランドシュタイナー博士である。
この画期的な発見から三十六36年たった一九三七1937年,ランドシュタイナー博士はウィーナー博士と,アカゲザルの血液を輸血された一匹のうさぎの血清に,いろいろな人の赤血球浮遊液をまぜて調べていた。アカゲザルの赤血球に含まれるRhという因子が抗原になって,うさぎの血清の中に,その抗原とだけ,ごく特異的に反応を起す抗体ができているはずであった。アカゲザルの赤血球に対する抗体を含む,このうさぎの血清は,たいていの人の赤血球を凝集させるが,人によっては凝集が起らないという区別があることがわかった。
このように,赤血球にRhの抗原をもっているRh陽性の人は,アメリカの白人では百100人中八十五85人,黒人ではややこれより多く,アジア人はさらに多いことが判明した。日本人では九九・五99.5%の人がRh因子をもっている。つまりRh陰性の人は,二百200人に一1人の割合にしかいない。いうなれば,日本人のRh陰性の人の割合は,欧米人の三十分の一30分の1という低率なのである。
輸血の前に,A・B・Oの血液型をよく調べ,よく合った血を輸血したにもかかわらず悪寒が起ったり,溶血が起ったり,ショックが起ったりすることがあるが,これはRh因子が原因であるらしいということがわかってきた。
Rh陰性の人にRh陽性の赤血球を輸血すると,輸血後間もなくその人の血清の中にRh因子と凝集を起す抗体ができあがる。抗体ができたあと再びRh陽性の血液を輸血すると,なかのRh因子と受血者の血液の中の抗体とが凝集を起し,ひどい副作用を起すのである。
新生児赤芽球症の原因もRh因子に関係のあることがレヴィーン博士の努力によって証明された。Rh陰性の女性がRh陽性の男性と結婚して妊娠すると,Rh因子は遺伝的に優性なために胎児はRh陽性になる。そして,もしその母体の胎盤の発達が不完全で,胎児のRh因子が母体の方に流入することがあると,母体のなかにRhの抗体ができあがる。この抗体は胎盤を通過して胎児のからだに入っていく。もし抗体の量が大量であると,胎児の体内でRh因子の抗原・抗体反応が起り胎内で死んでしまう。抗体のできかたが少いと,一見丈夫そうな赤ん坊として生まれてくる。しかし,まもなく母体から移行したRh抗体が赤ん坊のからだの中のRh因子と反応しはじめ,新生児赤芽球症が発症し,黄疸(おうだん)で死んでしまうのである。
統計的にみると,アメリカの白人の結婚の九9%は,Rh陰性の女性とRh陽性の男性という危険な組合せであるはずであるが,新生児赤芽球症は,幸いこのような組合せの四十分の一40分の1にしか起っていない。とはいえ見合結婚のばあい,Rh陰性の女性には,手相や人相よりRh陰性の男性が相性なはずである。理性より感情が先走りしてしまう恋愛結婚のばあいは,「あとの祭り」であろうが……。
白血球・leukocyte
■ 白血球――忠実な保安官
白血球は,一1立方ミリメートルの血液中に約六千6000個ある。その数は人によって違うばかりでなく,同一人でもいろいろな条件で変わる。たとえば,午後になると多くなるし,筋肉労働や,食事のあとにもふえる。細菌に感染するとふえるし,妊娠,分娩(ぶんべん)でもふえる。
赤血球は,核がなく,血管の中を押し流される以外,自分では全く動けないが,白血球には核はあるし,アミーバのように動き回れる。
白血球は,細胞質の中に,大きな顆粒(かりゆう)があるかどうか,またこの顆粒が,どういう色素で染まるかによって区別されている。顆粒が中性色素でよく染まる好中球とよばれる白血球は,運動が盛んで,一1分間に〇・〇五0.05ミリメートルも移動する。そして,細菌やこわれた組織,異物としてはいってきた微粒子などを自分のからだの中にとり入れ,消化酵素でとかす仕事をする。
姿をみせない怪盗のように,化膿菌が傷からからだの中にこっそり侵入しようとすると,侵入をうけて炎症を起こした組織は,リューコタキシンとよぶ物質をつくりだし,付近にいる白血球に非常呼集をかける。好中球,単球,網様内皮系の細胞が,おっとり刀でかけつけ,さっそく保安官のように細菌をとりおさえてしまう。
単球は赤血球の二2,三3倍もある大きい白血球で,好中球とともに,警備保安係の重要メンバーである。酸性色素で染まる大きな顆粒をもつ白血球は好酸球とよばれ,血液中には少ないが腸や気管支の壁にたくさんいる。この顆粒には大量の酸化酵素が含まれ,細菌の出す毒素などを酸化処理してくれる。好塩基球の中の塩基性色素に染まる顆粒は,血液凝固を防ぐヘパリンであるといわれる。
細菌が侵入すると,警備要員が非常呼集され,同時に,全身に向かって警備要員の増員がおこなわれ,増員が間に合わないと,かつての日本のように,未完成の兵隊まで動員される。白血球と細菌との戦いは,敵を白血球自身の体の中にとり入れて戦う白兵戦で,時には,白血球が敵と刺し違えて討ち死にする。
うみ(膿汁(のうじゆう))というのは,細菌と勇敢な白兵戦のすえ死滅した白血球の死体,死んだ組織の破片,組織からの分泌物のまじったものである。
白血球は骨髄でつくられる(リンパ球だけはリンパ組織や脾臓でつくられる)が,骨髄内の白血球製造装置と赤血球のそれとの生産高の比は三3対一1で,白血球のできる数の方がずっと多いはずなのに,白血球は赤血球の百分の一100分の1の数にしかならない。これは警備保安任務に忠実な白血球は,百日以上も生きる赤血球にくらべて著しく短命(二2―四4日という学者もあり,二2週間ともいわれる)なことによるという。一人でちゃんと生きていると豪語する人でも,一人の人の命は,目に見えない幾百という人々の庇護(ひご)と,尽力によってささえられているはずである。からだの健康も,白虎隊員のように可憐な三億五千3億5000万もの白血球の日々の犠牲において維持されているのである。
気道・respiratory tract
■ リンゴのある空気の通り道
口から胃まで食物の通る道を食道というように,口から肺胞(はいほう)までの空気の通る道を気道という。
気道はちょうど木の根を上のほうに,枝葉のほうを肺胞のほうに,さかさまに立てたような形をしている。気管は木の幹にあたり直径一・五1.5センチばかりの太さがある。長さは約十10センチ,それからふたまたに分れ左右の気管支になり,小指の太さぐらいになる。それから,つぎつぎに枝分れすると同時に,細くなって,コズエの先のほうの気管支は直径〇・二五0.25ミリほどの呼吸細気管支,肺胞管になる。肺胞管の先は,木であれば葉のついているところにあたるが,七億五千7億5000万個にもおよぶ半球状の肺胞がついている。
気管の前壁は半月状の軟骨の輪で取り巻かれ,クビをまげたり,前から押されたりしてもつぶれないようになっている。そのほかにも,クビの部分にある気道にはいくつかの軟骨輪が気道の保護サクの役目をしている。その一つにクビのところの甲状軟骨があるが,男性のおとなでは,そこがちょうどリンゴでもひっかかったようにとびでてみえる。アダムのリンゴといわれている。
エデンの国で神様が最初に作った人間アダムが,サタンの誘惑に負けて,イブのすすめる禁断のリンゴを食べたためにそれがのどにつかえてできたという。また「失楽園」によれば至上の知識に反逆して,考えもなく食べ,口をぬぐって隠していても,禁断の木の実を食べたという事実はちゃんとあらわれるという教訓になっている。
気道にはいる空気は,鼻の内部にある毛で,まずふるいにかけられ大きなゴミは除かれるが,細かいものはさらに奥のほうにはいりこんでくる。このようなほこりは,気道の粘液腺から分泌されるねばねばした粘液が,ハエ取り紙のような膜をつくってとらえてくれる。ほこりがいっぱいにくっついたこのハエ取り紙は,繊毛(せんもう)運動によるコンベアー装置にのって外へ外へと送り出され,咽頭(いんとう),喉頭(こうとう)にためられる。そしてほどなくセキばらいで口の外へほうり出されることになる。
気道の繊毛は顕微鏡でしか見えないかすかな毛であるが,口のほうに向かって,信じられないほど強い力で波打っている。カエルの喉頭から繊毛のついた組織の小さいかけらを切り出してビンの中に入れておくと,その組織片の繊毛が,戦車のキャタピラのように動いて,組織片はビンの壁をよじのぼり,出ていってしまう。
煤煙でよごれた空気を始終吸っていると,気道のこの清掃機構に能力以上の仕事の荷重をかけるために,粘液の過剰分泌を招き,こんどは,この粘液が刺激になってセキを頻発させることになる。
たばこの吸い過ぎも同様で,ところかまわずに灰を落とし,吸いがらをためて,掃除担当者のウラミを買うばかりでなく,自分のからだの中の気道清掃担当員に,不必要なご苦労を荷重することになるのである。
肺・lung
■ フォームラバーでできた大工場
背骨と胸骨の間に張られた肋骨(ろつこつ)のカゴの中に,心臓を左右から包むようにして,肺がはいっている。右側の肺は三3枚,左側は二2枚の肺葉がくっついて,左右とも先端(肺尖(はいせん))を上にむけた円すい形をしている。肺をメスで切ってみると,フォームラバーのようなふわふわした組織の間に,大小の気管支と血管が入りまじっているのがみえる。
たとえば,数の子が小さい粒の集まりでできているように,気管支のコズエ(肺胞管)のさきに,クワの実が群がるようにたくさんの肺胞が集まって肺ができているのである。肺胞の一1粒は〇・一0.1ミリほどの微細なものであるが,その数は七億五千7億5000万個にものぼる。一つ一つの肺胞を,もし平らにひろげたとすると,驚いたことに,身体全体の面積の二十五25倍,五十六56平方メートルという巨大な広さになる。
この小さい肺胞の一つ一つに,たんねんにクモの巣のように細い血管がまつわりついている。この血管はカイコの出す一本の糸よりさらに細く,赤血球(直径八8ミクロン)でさえも一列ならびでしか通れない。
からだじゅうの血液は,心臓ポンプにおされて,二2,三3分ごとに,肺胞のまわりのこの狭い血管を通らなければならない。からだじゅうを回って青黒く疲れ果てた血液は,肺胞工場にいれられ,新鮮な酸素の多い空気にふれる。そこで血液は,運んでいった炭酸ガスをすて酸素をとり入れて真紅のいきいきした血液に変わるのである。この炭酸ガスと酸素の交換授受は,キャフェテリアでお客が一列にならんで,新しいごちそうをもらうのに似ているが,肺胞におけるその動作の機敏さは,正に驚異である。
肺胞は,小さい胸の中に納まってはいるが,五十六56平方メートルもの反応面をもつ大工場である。ガス交換の主役ヘモグロビンは,三千八百3800平方メートルもの表面をもつ二十二22兆の赤血球の中にあって,すごい速度でグルグル循環している。仕事の能率が巨大な化学工場に匹敵するのも当然とうなずける。
肺には,スプリングの働きをする弾力繊維がはいっているが,自分自身で動くしかけはなく,胸郭(きようかく)の中の圧の増減によって受動的な動きをするだけである。したがって運動神経も,痛みを感ずる知覚神経もない。ただ自律神経の枝が肺胞に分布していて,肺胞のふくらみぐあいを調節している。深く息をすいこむと肺胞は普通の時の倍くらいにふくれるが,その時,吸気をやめさせる指令が頭の方に送られる。
逆に,息をはき出し肺胞がしぼむと,呼気をやめ,息を吸えという指令が,呼吸中枢に送られるようになっている。
政治のほうでも,左派が強くなりすぎて弊害が起こってくると,右派が台頭して弁証法的な中点が求められるように,この自律神経のはたらきで,吸う息とはく息が,ちょうどふりこのようにぐあいよく繰り返されるのである。
呼吸運動・respiratory movement
■ いのちの波動
呼吸運動にともなう肺の動きを,わかりやすく説明するためにヘーリングの模型というのがある。サッポロジャイアンツのビンの形をしたガラス器で,底にはゴムの膜がはってある。口には,一本の細いガラス管を通したゴム栓が,空気のもれないようにきっちりとはまっている。ガラス管のさきにゴム風船がついていて,びんの中につりさげられている。このゴム風船の吹き口は,ガラス管でそとにつながっているが,風船の中身とびんの中とは,全然交通がない。
この模型で,びんの底のゴム膜を下に引っ張ると,びんの中の圧が外部より低くなるためにガラス管を通ってゴム風船に外の空気がはいり,ふくらんでくる。底のゴム膜を内に押しこむと風船は縮んで,ガラス管から空気がでてくる。肺の空気の出入りは,これと同じ理屈による。
びんの底のゴム膜の役目をしているのが横隔膜だ。横隔膜は胸郭(きようかく)の底に,ふせたナベのかっこうに張られている薄い筋肉の膜である。胸郭というのは模型のびんに相当するところで,背骨と胸骨の間を肋骨(ろつこつ)で囲んだカゴである。弾力はあるが堅い。
横隔膜が縮むとナベの深さが浅くなり,模型のびん底のゴム膜を下に引っ張ったのと同じことになる。模型のガラス管は気道にあたり,ゴム風船はもちろん肺である。人のからだでは,びんの中でガラス管が二つに分かれ,左右にゴム風船がついていると思えばよい。肺と胸郭の内側との間に空気の流通のないのも模型のとおりである。
息を吸う時は横隔膜や外肋間筋(ろつかんきん)が大いに働かなければならないが,普通に息をはき出す場合は,縮んでいた横隔膜がゆるむだけで,あとは胸郭の弾力によって,ひとりでに呼気がはき出される。
せきやくしゃみがでるときは,内肋間筋や呼吸補助筋が収縮して,積極的に息をはき出す体制がつくられる。せきは,声門を閉じたままで息をはき出す体制がすすみ,ついに,しまっている声門がこじあけられて,息がすごい速度ではき出されるものである。くしゃみは声門が開いたところを,強く息がはき出されるという点でちょっと異なっている。しゃっくりは,横隔膜がけいれん性に急に収縮するために,短く鋭い吸気運動が起こるものである。あくびは脳の酸素不足に由来する反射的な深呼吸である。春の日ののどかなあくびもあるが,会議室や講堂でのあくびはこまりものである。伝染さえもする。
ため息,すすり泣き,そして笑いも特殊な形の呼吸運動である。心のわだかまりが,ふっと口をついて出ると,ため息になる。すすり泣きや笑いは,綾なす心の複雑さを,多彩にいろどって表現してみせる呼吸運動である。
手に汗を握るシーンでは「いきを殺し」,心おどる歓喜の場面では「いきをはずませる」。「生きる」という言葉は「いきをしている」がつまったものであるが,いのちの抑揚が,呼吸運動に密接につながっているのがおもしろい。
肺活量・vital capacity
■ ふいごから出入する空気の色分け
せい一杯息を吸いこんだあと,せい一杯吐き出し,どれくらいの量の息を吐きだせるかを計るのが肺活量測定である。成年健康男子で三千五百3500―四千4000ミリリットルが普通である。肺活量はからだの表面積の広い人ほど多い。
おとなが安静時,一回に呼吸する量は四百400―五百500ミリリットルであるから,肺活量の大きさの一1割程度しか使っていないし,はげしい運動をした時でも一回の呼吸量は,せいぜいその人の肺活量の半分くらいにしかならない。
肺活量が大きくても,激しい運動にたえうるとは言えない。往年のマラソン選手,村社の肺活量は三千五百3500ミリリットルしかない。一般に陸上競技の選手より水泳選手の方が肺活量は大きいが,マラソン,水泳のような激しい運動では肺活量の大小よりも,心臓の力の方が「がんばり」の能力に関係がふかい。
ふつうに息を吐き出したあと,さらに息を吐きだそうとすると,まだかなりの量を吐き出せる。そして,もうこれ以上息を吐くことができないという限界に達しても,まだ肺の中には千五百1500ミリリットルもの空気がのこっている。これを残気という。その状態で,胸郭(きようかく)のなかから肺をからだのそとへ切り出すと,肺は自分の弾力で縮んで,この残気の大部分が出てしまう。ところがそれでもまだ少量の空気が頑強に肺の中に残っているために,水に浮かしてみると浮くし,しぼれば空気のアワが出てくる。
母親の胎内にいる胎児は,胎盤を通じて酸素や養分をうけているので,別に肺で呼吸したり,食事をする必要はないが,いったん母親の胎内から出ると,すぐに自分で呼吸を始めないと生きていけない。生まれ出た赤ん坊は,まずしゃばの空気を深く吸いこんで,大きく吐きだす。これがうぶ声である。うぶ声をあげ一度でも肺に空気がはいると,たとえその直後に死んでも,死産と違って,その肺を切り出して水に浮かべると浮く。
肺のなかにわだかまって,普通の呼吸で動かない空気(呼予量と残気の和で機能的残気量という)の量は三千3000ミリリットルもあり,激しい運動をして大きな息をするときのための予備として残されている。また一方,この機能的残気は人間のからだを周囲の環境の急激な変化から守る一種の安全装置の役目をしているのである。
もし一回呼吸するたびに肺の中の空気が全部入れ替わるとしたらどうであろう。炭火をたきこめたへやに足を踏み入れ一呼吸したら,肺のなかは一酸化炭素で充満し,逃げ出すひまもなく中毒する。麻酔薬をかがせて患者をねせようとする時に,邪魔になるのも肺の中で動かないでいるこの空気である。吸わせた麻酔薬がこの残気に薄められて麻酔がかかる濃度になりにくいからである。
極端な思想の持主や,その場のふんいきに簡単に左右される人は,歴史や伝統といった「残気」が少ない人である。しかし芸術家の鋭い感受性や,思想家の透徹した洞察は「残気」の否定のうえに存在するものなのであろう。
呼吸中枢・respiratory center
■ いのちの波動を御するもの
深呼吸を何回もつづけると,あとしばらく呼吸が全く止まるか,小さくなって数が少なくなる。逆に,呼吸をとめてこらえていると,一1分ぐらいでどうしても息をせずにはいられなくなる。深呼吸を何回もした時は,血液の中の炭酸ガスが減っている。
息をこらえてがまんできなくなった時しらべてみると,血液中の酸素は減り,炭酸ガスが増えている。息をこらえる前に酸素をじゅうぶん吸わせておいても,同じようにがまんができなくなる。このとき血液の酸素は減ってなくて,ただ排泄すべき炭酸ガスだけが多くなっている。
要するに,酸素ではなくて血液中に含まれている炭酸ガスが,呼吸を支配する脳の部分(呼吸中枢)に働きかけて呼吸をつづけさせているのである。
呼吸中枢は第四脳室底にあり,呼吸については最高の命令権をもっている。熱がある時のように,温度の高い血液が呼吸中枢に直接回っていって,呼吸を速くすることもあるが,脳のほかの部局から回ってきた指令に従って,運転されることが多い。短い時間ならば自分の意思で呼吸をとめることができるというのは,呼吸中枢が,大脳の指示に短時間なら服従できるということを示す。
肺胞のふくらみぐあいから迷走神経を介して呼吸中枢へ指令が回されるし,総頸動脈の分かれ目のところにある頸動脈体は酸素欠乏に応じて呼吸中枢の活動を促進させる。皮膚に冷たいという感じを与えると急に深い吸息が起こる。食物をのみこむ時には,まずその咽頭(いんとう)への刺激が一時呼吸を止めさせ,食物が通っていく間に気管のほうに吸いこまれるのを防ぐ。鼻かぜをひいて鼻に炎症が起こったり,暗いへやから急に外に出て青空を仰ぐと,くしゃみがでるのは,鼻や目からの反射で特別な形の呼吸が起こったものである。
間脳には悲しみ,苦痛などの単純な情動を支配する司令部があり,泣いたり笑ったりの総元締めをしている。泣くときのしゃくりあげるような呼吸,笑うときの連続して息を吐き出す運動は,すべて間脳から呼吸中枢へ指令が回っていって起こるものなのである。
このように精神状態が呼吸に影響を与えるのとちょうど逆に,呼吸が精神状態に強い影響を与える。座禅やヨガの修者の修行には,呼吸のしかたを重要視する。人が力を合わせて船をこいだり,重い荷物を運んだりする時に,ゆるやかな歌に声を合わせるのは,「呼吸を合わせて」力の統合をはかるためである。
両肩を無理のないていどに後ろに引き,静かに息を吐き出し,少し間をおいてから,今度は肺が気持ちよくいっぱいになるまで深く,ゆっくり息を吸いこむということを十二12,三3回繰り返すと憂うつをふきとばすのに有効であると推奨する人がある。ため息をついているより,積極的に吐き出したほうがすっきりするということなのであろう。息を吸うという英語が,同時に意気を鼓舞するという意味をもっているのは興味深い。
口・mouth
■ 働き者の門番
ある町の人口がなん人というばあいのように,口が人全体を代表することがあるが,たしかに口は,枢要な数々の仕事をしている。なによりもまず食物の入り口が閉じては,生命を保つことができない。静かな呼吸は鼻からだけでもできないことはないが,呼吸がさらに激しくなって,あえぐような時には口からも呼吸しなければ苦しくてやりきれない。
人間をほかの動物からとび抜けて発達させ,今日の文明をもたらした原動力の一つは,人間が言葉を使えるようになったことに由来するが,言葉を発音する際には共鳴箱としての口腔そして共鳴箱を調節する舌,唇音を出すときの口唇の働きは欠くべからざるものである。
生まれ落ちたばかりの赤ん坊は目は見えず,手足もうまく動かすことができないのに,乳を吸うというような複雑な口の動きはちゃんとできる。驚いたことに口を動かす神経や筋肉は母親のおなかの中にいる時にすでに完成している。口から先に生まれなかった人でも口から先に育ったに違いないのである。昏睡状態に陥ったり麻酔にかかっている赤ちゃんの意識が回復してくる時には,まず乳を吸う口の動きが最初にもどってくる。
食物をかむという動作は,たしかに自分の意志でいつでも自由にできるが,ふだん食事をしているときには一回一回あごを上げたり下げたりする運動を意識しないのが普通である。食物をかみ,あごを閉じていくと歯ぐきや口腔粘膜に圧迫の感じがだんだん強くなってくる。そうすると口を閉じる筋肉の働きは反射的に止められ,口を開く筋肉が活動を開始する。咀嚼(そしやく)はこのことが自動的に順序よく繰り返しておこなわれるのである。この下あごをあげたり,下げたりする反復運動は,手術で脳をすっかりとってしまった動物でも,下あごにおもりをつけて口をひろげてやると反射的に起こってくる。
口でくわえて引っ張る力は訓練によってずいぶん強くなるものらしい。自動車につけたロープを口でくわえてひっぱるショーマンがいるという。かむのは原始人の重要な戦闘武器であったが,学童たちの間では口から唾液をはきかけるだけで,けっこう戦闘武器として役立っている。
口のまわりにはたくさんの筋肉がついていて口をつぼめたり,上につりあげたり,「へ」の字に結んだりして表情を大きく変えることができる。とがった口は不平を,「へ」の字は決意と忍従を,凹形は喜び,微笑を示す。あきれると開いた口がふさがらなくなるし,しまりなく開いた口は一見して,あまり利口でなさそうである。
赤ちゃんの口の両端のあたりを軽くなぜると,その刺激で口が笑った時の形になるが,そうなると気持も笑った時の気持に変わってきげんがよくなる。おとなでも,笑った時の表情で心から怒ることはたしかにむずかしい。まず微笑を口のあたりにただよわせ,幸福そうな表情をすることが,幸福感を自分のものにする秘訣といえそうである。
歯・tooth
■ からだのなかでもっとも硬いしかけ
口をひらいてみえる歯の部分は,歯のさきの歯冠だけであるが,実は土に打ちこまれた杭のように,目にみえる地上の部分のほかに,土の中に埋れた部分がある。歯肉とあごの骨のなかに埋れた歯の部分を歯根という。
あごの骨には,歯槽という歯根をおさめる深いへこみがあり,歯根膜という繊維のあつまりが歯根と歯槽の間を埋めている。歯根膜の繊維は,一端は歯槽の骨の中に,一端は歯根のセメント質とつながっている。真上からみた一1本の歯の歯槽を自転車の車輪にたとえれば,車軸が歯,歯根膜がスポークのような関係になっている。つまり歯は,歯根膜の繊維に四方からつりさげられた形になっているのである。そして歯根膜は車輪のスポークと同様に,歯に加わった力が直接周囲のあごに波及しないように,ショックアブソーバーのような緩衝作用をする。
硬いものをかんだり,ボクシングや交通事故であごを強く打ったときにも,すぐ歯を折ったり,歯槽がかけたりしないためのしかけである。
歯を縦に割った断面をみると,歯冠の部分は表面が,半透明の白いエナメル質で,その内部に,黄色味をおびた象牙質がある。歯根部は,外部がセメント質,内部は象牙質でできており,いずれも硬い物質である。
なかでも,硬いのはエナメル質で,水晶にちかい硬さをもち,鉱物の硬度計で六6―七7度という価をもつ。象牙質はエナメル質よりやや軟く,硬度計で四4―五5度であるが,緻密(ちみつ)な材質で,かけたりするもろさがない。セメント質は骨細胞に似た,生きた細胞をそのなかに含んでおり,歯根膜と共に,外部から栄養を受けて生きている組織である。
四肢の骨が,長管状骨といって,竹の幹のような中空のパイプでできているように,歯も内部に,外形と相似形の比較的広い空洞がある。歯が生きているときには歯髄とよばれる軟い組織でみたされ,歯髄は細い血管と神経であごの骨と連結されている。
エナメル質を縦断して,その割面をみると,互いに平行にならんだ層が重なっているのがみえる。ちょうど崖の面に,年ごとに堆積した地層が,きれいな層をつくっている形である。驚いたことに,同じ人で同じ時期に生えていた歯には,全く同じように,この層が刻まれている。木の年輪がその年の春から秋までの生長を示すように,このエナメル質の層は,その層ができた時の全身の新陳代謝の状況を的確に示すもので,同時期の歯のエナメル質の縦断面をつけあわせてみると,ちょうど,同じピストルから発射された弾丸の条痕をくらべたように完全に一致するのである。
サルの犬歯は,雌では門歯とほとんど同じ大きさであるが,雄のは長くて大きく,闘争的な雄と育児をする雌とで,はっきり区別がつく。
人間の男女には,もうこのような明らかな差異はみとめられない。人間が野獣と異なり,「平和な動物」になった証左とみる考え方もある。
唾液腺・saeivary gland
■ 潤滑剤と消化液
唾液腺の主なものは,顔の両側に三3個ずつある。耳のつけねの前下のあたりで「おたふくかぜ」のときはれる耳下腺と,下顎骨の囲いの中に包まれている顎下腺,舌の下で顎下腺にとなりあっている舌下腺の三3つである。
また唾液腺には,ねばっこい粘液をだす腺と,炭水化物(でんぷん質)の消化酵素であるプチアリンのたくさんはいったさらっとした唾液をつくる漿液腺(しようえきせん)と,その両方を分泌する混合腺とが区別される。耳下腺は漿液腺であり,顎下腺,舌下腺は混合腺である。
よくかんで唾液と混ぜ合わされた口いっぱいの食物が,口から胃まですべり降りるのに三3秒しかかからないのに対し,唾液がよくまじっていない堅くかわいた食物は十五15分間もかかる。
ご飯を口の中で長くかんでいると甘くなってくるのは,唾液による消化の結果,糖ができてきている証拠である。
酒を造るという意味の「醸(かも)す」という言葉は「かみす」からなまったものであるといわれる。柔らかくたいた飯をよくかんで,甘くなったところでかめの中に吐き出し,貯蔵すると自然に発酵して酒ができる。その昔,南方の常夏の島々に散在する民族は,月夜の晩,美しい少女を選んでこのようにして酒を造らせたという。日本でも,奈良朝時代までは同様に酒刀自とよばれる女の唾液によって神祭りのための酒が造られていた。
食物が口の中にはいると,反射によって直ちに唾液があふれ出てくるが,好物が目の前に現われたり,空腹の時にごちそうのにおいをかいだり,話を聞いただけでも唾液はでてくる。
イヌに食事を与えるたびに,同じ音を聞かせていると,その音を聞かせただけで唾液がどんどんでてくるようになる。このようにして,ある音による条件反射ができあがったイヌに,今度は音を聞かせて食物をやるという操作に引き続き,まぶしい光をあてた後食事を与えないということを交互に繰り返していると,おもしろいことが起こる。
まず動物は音を聞いて唾液を流すという反射をしばらくの間忘れてしまう。しかし二2,三3ヵ月もつづけていると,ふたたびその音が唾液を流出させるようになり,さらに光は唾液をぴたっと止めるようになる。そして,ここまでくると,この音に対する反応と光に対する反応との区別は,非常に正確に,しかもさい然とできあがる。
ところが,こうなってからでもイヌを怒らせたり,うんと空腹にさせたり,性的に興奮させたりすると,意外に容易に,この区別は,またメチャメチャに狂ってしまう。条件反射はもっぱら大脳の働きに由来するものであるが,怒りのためにカッとなったり,動物的な欲望を強く感じたりすると,高尚な頭の働きはすっかりダメになるということが,はっきり証明できるというしだいである。
長い歳月,行ないをすまし,学問の研鑽を積んだ人間でも,みずからの内界に吹きすさぶ嵐には,意外に簡単に手痛い影響をうけるというのも,動物としての人間のやむをえない弱さであろう。
肝臓・liver
■ 血液のクリーナー
心臓のように拍動はしないし,胃腸のように動いたり,なったりしない「沈黙の臓器」といわれる肝臓であるが,死命を制する重要なことを「肝要」とか「肝心」などと表現する習わしになっているのをみると,昔から肝臓は生命維持に重要な臓器と考えられていたのだろう。
肝臓は腹の中の右上,横隔膜の下に肋骨(ろつこつ)のカゴにつつまれて鎮座している。重さ約一・三1.3キログラム,脳とともにからだの中で最も重い臓器である。肝臓のはたらきは,こまかいものまで入れると五百500種類に及ぶといわれる。
まず,肝臓は一日一1リットルに近い胆汁をつくって十二指腸に送り,脂肪の消化吸収を助ける。黄疸(おうだん)の患者の皮膚に出てくる色,大便の黄金色は,すべてこの胆汁中の色素に由来し,もとはといえば,古くなった赤血球のなかのヘモグロビンからできるものである。
腸から吸収した栄養素をとり入れた血液は,必ず一度肝臓というフルイの目を通ってから全身の血液とまじるようになっている。炭水化物は消化してブドウ糖になり,たんぱく質はバラバラのアミノ酸に解体されるが,これが肝臓に送られてくると,それぞれグリコーゲンに変えられて肝臓の倉庫にたくわえられたり,その人に特有なたんぱく質に組立てられる。ビタミンA,D,B12B12なども同じで,ここの倉庫の中にたくわえられ,必要に応じて血液中に放出されるしかけになっている。
アルコールやニコチンは肝臓ですっかり酸化されて無毒になってしまうし,口から飲んだ毒や消化の途中できてくる有害物質は,ここで複雑な化学反応のすえ無害なものにされる。例えば,肉を食べた時,その消化中につくり出されるアンモニアは,もしそのままからだに回れば,神経系統をかく乱して,激しいけいれんを起こすにじゅうぶんな量に達する。しかし,腸からのアンモニアを含んだ血液が肝臓を通り抜けるころには,アンモニアはすっかり無害の尿素に変えられ,尿素は間もなく腎臓(じんぞう)から排泄される。
からだのためになるはずの薬に対しても,肝臓は手心を加えない。たいていの薬は,毒が受けるのと同じ待遇をうけて,薬としての作用を失うことになる。からだの中でホルモンの過剰生産がおこなわれると,後始末をするのも肝臓である。
脳や心臓の細胞は,いったん死んでしまえば,もうもとの細胞はできてこないが,四六時中重労働を課せられ過労に陥りやすい肝細胞は,たとえ死んでも,何回でも繰り返し新しい細胞と入れかえられるようになっている。
人生は生きるに値するかという質問に対して,「それはリバーしだいである」と答える問答がある。英語で「生きる人」という言葉と,「肝臓」という言葉がたまたま同じつづりでリバーというが,肝臓が健康に対して占める重大な役目を思うと,この問答のリバーは肝臓と理解してもそのまま通りそうである。人生楽しむべし――というムードの横溢している今日,強肝剤ブームもゆえなしとしない。
食欲・appetite
■ 中枢のシーソーにあやつられる原動力
食欲は空腹感にはじまる。往時,空腹感は,からになった胃から脳に信号が送られてくるために,起こると考えられていた。
細長いゴム管のさきに,肉厚のゴム風船をつけて口からのみこませ,胃の中にはいったところで,かるくふくらませておく。口からそとにでたゴム管のさきにタンブールというしかけをつけると,胃が収縮運動を起こして,ゴム風船を圧迫するとその程度に応じて針が上下して運動の状況が記録できる。こうしてみた胃の運動が盛んなとき,その人の胃はからで,きまって空腹感を感じているのである。
ところが,外科手術が進歩して胃を全部切りとることがどんどんおこなわれるようになってみると,この考え方が間違っていることがわかった。まったく胃のない人でも空腹感を感じるし,もちろん食欲もあるのである。
数年前,脳の研究をしていたアメリカの学者たちがおもしろい発見をした。シロネズミの脳の視床下部の内側部(腹内側核)を手術や薬の注入によって破壊したところ,そのネズミたちは,猛然とエサをたべだし,みるみるうちに太りだしたのである。また成熟した雄ネズミの視床下部外側部に精密な手術によってあらかじめ電極をいれ,雌ネズミといっしょの箱にいれて観察していると,床にたくさんエサをばらまいておいても,雄ネズミはエサに見向きもしないで雌ネズミに関心を示す。ところが,この電極に弱い電流を流して刺激をはじめると,とたんに異性に背をむけてエサをもりもりたべだす。しかし刺激をやめるとまたまたエサをたべるのをやめて雌ネズミに関心を示すようになるのである。
こんどは視床下部の内側部に電極をいれて電気を流してみると,外側部を刺激した時とちょうど逆に,全然エサをたべなくなってしまう。こうなってからでも,むりやり口にエサをいれればのみこむところをみると,エサを食べる機構には故障のないことがわかる。イヌ,サルでも同じ現象がみられ,人間でも,銃弾などによる視床下部の損傷で,食欲の異常増進のおこることが知られている。
結局,視床下部の内側の核に血液中の栄養素の増減に応じて満腹感を感じる神経中枢があり,外側の核に空腹感を感じる中枢があるということになるのである。そしてこれらの中枢に感じが起こると,それは大脳辺縁系に伝送されて,そこで「食」にまつわるもろもろの心が形成され,それに伴ってあらゆる行動がおこされることになる。
人間を,止むに止まれぬ行動にかりたてる基本的な欲望のなかで,食欲はもっとも切実な原動力の一つである。
従って,「最低」の食欲をみたすに足る賃金といえば,たしかに賃上げ闘争を正当化する錦の御旗になる。ただし,この場合,エンゲル係数をある程度高く見積るという前提が必要であろう。
軍部や一部の政治家が計算した「最低」という膨大な食欲をみたそうとして,戦争に錦の御旗をもちだしたりすると手痛い目にあうのである。
胆嚢(たんのう)・gall bladder
■ 胆汁の濃縮工場兼倉庫
胆嚢は濃緑色,長さ七7―八8センチ,幅四4センチほどのナス型の袋で,肝臓の下面についている。肝臓で作られた胆汁は輸胆管を通して十二指腸に送り出されるが,その管の途中から枝分かれしてこの袋がついている。胆汁は十二指腸のグラウンドに出る前に,ダッグアウトの胆嚢の中に待機していることになる。肝臓で一日に作られる胆汁の量はおとなで五百500―千1000ミリリットルに及び四六時中絶えまなく分泌されているが,胆嚢にたくわえられ待機している間に水分が吸収され,粘液が加えられて,だんだん濃くなる。
胆嚢造影剤を注射しレントゲンで調べてみると,胆嚢の中の胆汁がしぼり出されるのは,食べた脂肪やたんぱくが胃を通って十二指腸の中にはいってきた時であることがわかる。とくに,胆嚢はあぶらっこい食物を食べてまもなくから収縮をはじめ,たまった濃い胆汁をすっかりしぼり出すまで二2,三3時間収縮をつづける。胆汁が脂肪の消化に欠くべからざるものであることを考えると,脂肪の食後に濃い胆汁がタイミングよくしぼり出されるというのは,実に好つごうである。胆嚢の仕事は言いかえると,時節におかまいなしに黙々とその製品を作り出す工場の商品を,いい機会がくるまで濃くしてたくわえておく濃縮工場と倉庫の役割りをつとめることにあるのである。
胆嚢収縮のタイミングについての情報は,非常に速く小腸の現場から脳に伝えられる。脳から胆嚢への収縮の命令は,こんど自律神経を伝わってきて,一方では胆嚢を収縮させると同時に,他方では胆道の十二指腸への出口を開閉しているオディ氏筋をゆるめて開門し,濃い胆汁を流出させることになるのである。胆嚢からの胆汁排出が円滑にいくためには,袋全体が内容をしぼり出すように縮むのと出口の門が開くという両方のことがうまくいかなければならない。胆汁が胆嚢の中にとどこおると,胆嚢炎や胆石の原因になる。
肝は五臓の一つであり陰陽五行説で胆嚢はそれに対する腑(ふ)である。そして,解剖学的にみると,「肝胆相照らして」となりあって位置している。古語でキモといえば,肝臓のみならず内臓全部を意味することもあるようであるが,「きもったまがつぶれる」ように感ずるのは,ビックリした時であり,「きもったまがすわっている」のはちょっとやそっとのことに動じない「胆力」のある人の形容詞である。
ずいぶん昔(二2世紀ごろ)ガレーヌスの時代から,人の感情や情緒の特性を表わす型として胆汁質という気質が考えられていた。気が強く積極的で情熱家で,怒りっぽいというのがその特徴である。カントのいう活動性の気質はこの胆汁質と大同小異で,粘液質の対極をなすものである。
「きもったま」の大きい人間と,胆汁質の威勢のいい人間のイメージが,洋の東西のへだたりにもかかわらず相似点の多いのは興味深い。
膵臓(すいぞう)・pancreas
■ 消化の万能選手
膵臓は胃のうしろに横たわる長さ十五15センチメートル,幅五5センチメートル,重さ百100グラムほどの細長い臓器である。膵臓の仕事は,二2種類の分泌液を製造しその一つを専用のパイプを通じて十二指腸に送り,他を直接血液の中に流し込むことにある。
膵臓の外分泌液,膵液(すいえき)は実に多彩で,強力な消化液である。消化液には,それぞれはっきりした仕事の分担がある。たとえば唾液は炭水化物(でんぷん質)を消化するが,たんぱく質や脂肪には知らん顔である。胃液はでんぷん質や脂肪には全く無為で,ひたすらたんぱく質の消化のみに従事する。しかし,膵液は脂肪を消化するばかりでなく炭水化物もたんぱく質も消化し,胃や唾液腺が故障しても,膵液だけでそのいずれの代役をも,じゅうぶんにつとめることができるほど強力である。
膵臓は一1日に一1リットル以上の膵液をつくり出す。動物実験でくわしく調べてみると,食物が胃を通って十二指腸にはいると,はじめて膵液がどんどん流れ出てくることがわかる。ところが,化学用の塩酸を十二指腸に入れただけでも,またからだのそとへ切り出した十二指腸のかけらを塩酸で煮だしてその汁を注射しても膵液の流出が始まるのである。ただし,このようにして出てくる膵液は,量は多いが薄くて肝心の消化酵素が少ない。おいしそうなごちそうを目でみ,舌で味わうと反射的に,量は少ないが消化力のつよい膵液が膵臓の中につくられ始める。
数時間後,胃での消化が終り食物が十二指腸に送られてくると,食物にしみた胃液の塩酸と十二指腸の粘膜との接触から,膵液の分泌を命令する物質がつくられ血液の中に送り出される。かくして,タイミングよく準備された濃い膵液と,量の多い薄い膵液が,いっしょに十二指腸内に送り出されることになる。
膵臓のもう一つの重要な役目である内分泌の仕事は,膵臓組織の中の特別な細胞の集まりである「ランゲルハンス」島によっておこなわれる。一つ一つの島は直径〇・一0.1―〇・二0.2ミリメートルほどの微小な組織ではあるが,膵臓全体に二万2万個以上の多数が分布している。この島組織はインシュリンとよぶホルモンをつくり,島を取り巻く毛細血管の中に直接送り出す。
食物という燃料を絶えず燃やして運転している人体をボイラーにたとえると,インシュリンはボイラーの通風口をあける役目をしている。インシュリンが欠乏すると,通風口がしまって,ボイラーは不完全燃焼をはじめ,ススがいっぱいにつまり,石炭(食糧)をくべればくべるほど黒煙がくすぶって手がつけられなくなってしまう。インシュリンの欠乏は糖尿病をひき起こし,血液中のブドウ糖濃度は高くなったままになり,脂肪の不完全燃焼のため酸性の中間物質もいっぱいたまって,ついには機械が止る。通気口をさわやかに開き,こんな状態を一掃してくれるのが,インシュリンなのである。
胃・stomach
■ 感情と共鳴する消化工場
食道を通って胃に送りこまれる食物は,胃の中にめちゃくちゃにためられるのではなくて,意外にも,まず入っていった順番に順序よく層をつくって重なる。胃の大事な働きである食物と胃液とを万遍なくまぜ合わせる仕事は,食物が幽門の方に送られていってから始まる。ただし,液体だけは,固形物が胃につまっていても,胃の上下の壁に沿ってひと足さきに腸の方に通っていける。
胃がしなければならない大切な働きの一つは,胃液を分泌し,たんぱく質を消化し,かつ胃液中の塩酸の殺菌力により,胃内容の腐敗,発酵を防ぐことである。胃液の中の塩酸はずいぶん濃く(〇・四0.4―〇・五0.5%)トウガラシ,ワサビなど刺激性食物のいずれよりも強い刺激作用をもっている。さいわい健康な胃の内面は,驚くほど抵抗力の強い粘液におおわれ,この粘液で完全におおわれている限り,胃壁は胃液に対してはもちろんのこと,どんな刺激食物を食べても平気なのである。なんらかの理由でこの粘液の防御陣地に破綻(はたん)ができると胃液がみずからの胃を消化するようになり胃潰瘍(かいよう)ができる。そしていったん潰瘍ができると,こんどはわずかな刺激でも強い痛みを起こすなどの激しい反応を起こしやすくなってしまう。
胃は,決して伸びきった皮の袋ではなく,一番内側の粘膜層と外側の漿膜の間にはさまれた三層の筋肉層には一定の張りがあり,かつ十五15―二十20秒の間隔をおいて蠕動(ぜんどう)とよぶ収縮の波が,胃体部から幽門の方へと動いている。蠕動というのは内容を上から下の方に向かってしごいていく動きのことをいい,胃,腸の内容はこの動きによって次第に肛門側に移動する。
生後間もない赤ん坊の,感情のすべてを支配するのは胃のふくらみぐあいである。胃が空っぽになって,ひもじくなると直ちに苦痛,苦悩の情動が起こるし,反対に満腹は喜びや,ゆとりのある気分とつながっている。この心理的な関連は,成長していく長い時期のうちにだんだん習慣づけられてしまう。
おとなの世界でもけんけんごうごうの議論は,胃にいっぱい食物が入っている状態では,起こりにくいし,満腹の座では,ねむけを伴った平和が堂に満ちて議論が尖鋭化しにくい。
赤ん坊時代のこの胃と気分との関連性は,次第に逆方向にもつながるようになる。つまり激しいふんまんやしっとは胃を飢餓の時のような状態にし,胃液をどしどし分泌させるし,不安や恐怖は胃を静止させ吐き気を催させたりする。
腹にすえかねるというのは,不平,不満,不愉快が腹にこたえてがまんできないという意味である。英語で胃という言葉を動詞に使うと,がまんするという意味になる。兼好法師の「物言わぬは腹ふくるるわざ」というのは,いいたいことをいわずにがまんしていると,ムーッと胃のあたりにつかえる感じがするという意味であろう。
このように,胃は食物の一時的な貯蔵所であり,消化のための一工場であると同時に,実にデリケートな感情の共鳴箱であるといえるのである。
胃・stomach
■ 胃の窓からのぞけた「生体試験管」
一八二二1822年六6月のある日,ミシガン州マキノ島にあるアメリカ毛皮商会の店のドアを勢いよくあけて,酔っぱらった猟師たちが,どやどやと入ってきた。ちょうどその時,一1丁の銃が暴発して,カウンターの方に歩いていた若い男の脇腹にあたった。みなはあわてて,近くの陸軍基地に,近隣唯一の外科医である医師を迎えに走った。うたれた男は,なまけもので,のんだくれのカナダ人,アレクス・セント・マーチンという猟師である。
間もなく,青色の制服に当時流行のハイ・カラーをつけたウィリアム・ボーモント医師があらわれた。床の上に息もたえだえに横たわる患者を診察してみると,命中した鴨撃弾は,左の脇腹に,こぶしがすっぽり入るほどの大穴をあけており,ボーモント医師の推測では,マーチンの命は,もう二十20分ももつまいと思われた。ところが,幸い弾が胃前壁で血管の少いところにあたったことと,小男ではあったがマーチンの根強い生命力のおかげで,一命をとりとめることができた。傷口もきれいになおったが,手術による縫合を頑固に拒んだため,ちょうどズボンのポケットの入口が,洋服の外側についている形に,胃の窓が脇腹にあいており,窓をおおっている胃粘膜のひだを人さし指でおしのけると,胃の中がポケットの中をのぞくようによくみえた。
マーチンは,その後六6年間ボーモント医師と一緒に住んで,「生体試験管」の役目をいやいや引受けたのである。
パンの小片をのみこんだマーチンの胃の内面はボーモント医師の目の前で,ピンク色から鮮やかな赤色になり,蓮の葉にむすぶ露のように,数百の液体の細粒が,いっせいに胃粘膜の表面にしみ出てき,まもなく,胃壁をしたたりおちたのである。
胃液の何物たるかさえ全くわかっていない当時,肉をとかしていく胃液の,目をみはるような消化作用を,ボーモント医師は,まのあたりみることができたのである。
二百三十八238回の実験の間には,食事を長く待たされてマーチンが腹を立てることがあった。食事のとき腹をたてると,いつも消化が目立って遅くなった。マーチンが怒った時,食べた焼肉は,機嫌がよい時に比べて二2倍も長く胃の中にとどまっていた。「恐怖と怒りは,胃の分泌を妨げるものである」と,ボーモントは書いている。ボーモント医師は,それまでの実験の結果を「胃および消化の生理に関する実験と観察」の一書にまとめ,次の実験にかかる前に,マーチンの希望をいれてカナダに帰した。マーチンはそのまま姿をかくし,ついに再びボーモントの前には現われなかった。
もし,マーチンが再びボーモントに協力してくれたら,胃のはたらきの研究が飛躍的に進展したであろうにと残念であるが,それは第三者の身勝手な希望というものである。医学の進歩のためという御題目で,のみたくもない薬をのまされたり,生体実験をされるのは,マーチンならずとも願いさげにしたいと考えるのは,当然といえよう。
腸・intestine
■ 食物の巡礼行路
草食動物の腸は肉食動物より長い。ウシでは身長の二十二22倍(約五十七57メートル),ウマでは十10倍(約三十30メートル),ブタでは十六16倍(約二十四24メートル)もある。しかし,肉食動物のネコでは四4―五5倍(約二2メートル),雑食のイヌでは五5倍(約五5メートル)である。ところで人間では,死体で測定すると,小腸約六6メートル,大腸一1メートル半で,身長のほぼ五5倍に等しい。
ところが,生きている人に,錘につけた細い紐をのみこませて測ってみると,二・五2.5メートルほどの長さしかない。おそらく,つづら折りの道を,錘の力によって最短距離でつなげると,かなり短縮できるということと,死んで,生前にあった正常の腸の緊張がなくなると,かなり長くなるということなのであろう。
小腸の一番口側の部分は十二指腸である。握りこぶしを三3つ(指十二12本分)ならべたほどの長さがあるというのでこの名がつけられた。ちょうど「C」の字型をした十二指腸の真中ほどのところに,肝臓からの胆汁と,膵臓(すいぞう)からの膵液を十二指腸に送りこむ管が口をひらいている。胃の出口の門番をしている幽門が,程よい間隔で,胃の内容を十二指腸に送りこむと,この管から強力な消化液が流され,ここで混ぜ合わされる。
十二指腸につづく空腸(二・五2.5―三・〇3.0メートル)は,解剖のさい内容物が入っていないことが多いのでこの名があり,空腸につづく廻腸(三・五3.5―四・〇4.0メートル)は,その名の通りとくにまがりくねった感じがする。空腸の部分で,ほぼ消化の過程は完結し,廻腸は,主として消化したものを吸収する仕事をする。
空腸と廻腸は,腸間膜という扇形にひろがる風呂敷のようなものの縁についていて,腹壁を開くとゾロゾロと創のそとへあふれ出す。腸を動かす神経や吸収した栄養物を肝臓に運ぶ血管も,腸の栄養をつかさどる動脈もすべて,この腸間膜という風呂敷の中に配管されている。
この腸間膜の扇の要の部分は,左上腹から右下腹にかけて斜めに,後腹壁に固定されているから,古式にのっとって「切腹」をすると,腸間膜がきれ,腸間膜の中を走っている太い血管が切断されるために,かなりの出血が起るはずである。生麦事件に連坐して「切腹」を命ぜられた薩摩藩士たちが,自らの腸を千切(ちぎ)って投げつけたというのは,おそらく,この小腸の部分と推測されるが,医学的にみてその豪勇さは驚くべきものである。
小腸は右下腹部にあたるところで,垂直に大腸と結合している。小腸の一番最後の部分には結腸弁というしかけがあり,大腸の中の圧が高くなっても内容を小腸に逆流させない。
長いこの腸の中を通って,食物を順々に肛門の方に移動させる原動力は,腸の粘膜と漿膜の間にはさまれている筋肉層のはたらきによる。すき腹のとき,動いてゴロゴロ音をさせていた腸のこの筋肉層は,加工されて,ヴァイオリンやチェロ,ハープなどの楽器の弦になり,妙音を出すということになる。
腸・intestine
■ ベルト・コンベアつきの化学工場
おなかがすいてグウと音でも出るか,シクシク痛くでもならない限り,われわれは腹の中で起こっていることに無関心であるが,四六時中食物は文字どおり「羊腸」の長路をそろそろと旅をつづけている。この食物輸送の原動力は,腸の途中にできたくびれが順々に下のほうに内容をしごいていく,蠕動(ぜんどう)運動という動きである。
腸の運動には,内容輸送のほかに分節運動といって腸の中身をただ混ぜ合わせるだけの動きもある。また腸壁の局所的な運動で,飲みこんだ魚の骨や針のとがった方を口側に,丸い方を進行の方向に回すようなこともする。
腸のこのような運動は,腸にくびれを作る輪状筋と長軸の方向に収縮する縦走筋の二2層の筋肉が働いて行なっている。
腸の小さいかけらをからだの外へ切り出して食塩やカルシウム,カリウム,ブドウ糖などを適当量入れた液につけ,液の温度を体温まで暖ため,酸素を通ずると,この腸のかけらが,ガラスの器の中で,のびたり縮んだり運動を始める。腹痛どめの薬として使われるアトロピン系の薬を入れてみると腸の運動はだんだん小さくなって,ついに止まってしまう。逆にアセチールコリンの類は腸の運動を強く,盛んにする。このようなガラスの中の腸を使って,いろいろな薬の腸運動に対する作用を正確にしらべることができる。
腸の運動はまた自律神経の強い影響をうける。突然敵が現われて戦わなければならない時のように,交感神経が興奮する時には腸の運動はいっせいに止まってしまう。逆に副交感神経(迷走神経)が刺激されると腸の運動が活発になる。おなかがグウとなったりするのはこの時である。ゲーテが木の葉の相対性発育についての発見をした時に「喜びのあまり腸が動いた」と書いているが,喜びや幸福感にひたれる時は,腸の運動がたかまってくるものである。逆にふんがいしたり陰うつになったりすると腸の動きが悪くなり,消化液の出も悪くなってしまう。
食欲が人間を食物獲得にかりたて,獲得した食物を口で咀嚼(そしやく)し,食道・胃を経て腸の中を旅させるのは,一に腸における吸収を最終目的にしているのである。
食物をいろいろな栄養素が組み合わされてできた建築物にたとえると,小腸で吸収できるのは消化で完全にばらばらに解体されたものにかぎる。この解体材は,肝臓などでその人に特有の建築物として面目を一新して再建されるか,からだという工場の燃料になる。
たとえ年中ビフテキだけしか食べない人でも,からだの筋肉は決してウシの肉といれかわらないのはこの理由によるのである。
外来新知識に傾倒して,すっかり自分を失うくらいにバタ臭くなった人間でも,腸は頭とは異なって,食物をすっかり素材に分解し,自分の身につけるときには,必ず自分独自のものにしてしまうものなのである。
腸・intestine
■ 百二十120畳敷の醗酵化学工場
小腸の内壁は,絨毛(じゆうもう)とよぶフワフワした毛状の突起で,いちめんに覆われている。この毛状の突起は,ちょうど,じゅうたんの細いけばのように密生している。
一1本の絨毛の表面を電子顕微鏡で拡大してみると,表面の細胞の一つ一つに二十20―三十30本の小さなこん棒状の突起がならんでいる。マイクロビリーといわれるものである。小腸の内面には起伏のはげしい大小のしわがあり,さらにその表面に絨毛が生えているのであるから,その凹凸を平板にのばしてみると,小腸全体で十10平方メートル,ざっと四4畳半の広さがあることになる。もし,さらにマイクロビリーの凹凸まで平らにのばすと広さは二百200平方メートル,百二十120畳敷に達するといわれる。
これだけの広さがあるからこそ,朝,昼,晩腹一杯つめこまれる食事を短時間のうちに消化し,吸収することができるのである。
口からほうりこまれる食物は,消化の化学の面からみると,建築材料が複雑に組合わされてできた大建造物にたとえることができる。そして,この建物を一本の梁,一つのレンガにまで分解して,はじめて腸で吸収することができるのである。
栄養物解体の直接の働き手である酵素は,腸というまがりくねった川を流れる食物に,とびのって解体に従事する。腸絨毛は川の底にゆらいでいる水藻のようにゆれ動いて,解体がすんだ建材が流れてくると,つぎつぎに絨毛の中に吸いこんでしまう。
解体がじゅうぶんでない大きな栄養素の粒は,藻の表面の小さい穴から入れないが,さらに川を下っていくうちに,密生する藻の間から湧き出る「あらて」の酵素につかまって,さらに小さく解体され,ついに吸収される。脂肪酸,グリセリンは,絨毛を縦に貫いて流れるリンパ管の中に吸いこまれ,アミノ酸と糖は,絨毛の中に細い網の目をつくっている血管に吸いとられる。小腸という川を流れていったドロドロの液体は,食後七7―八8時間で大腸に入る。大腸の中を送られていく間に,腸内容から水分が回収され,硬さをましてくる。
大腸はバクテリアがうようよしていて,小腸とは全く異なった環境をつくっている。幸い無害な大腸菌が勢力をはっていて,ほかの有害なバクテリアの繁殖をゆるさないため,人間はこの腸内の細菌によって何の被害も受けないばかりか,大腸菌が食物の残りカスを分解して,ビタミンKなど,有益物質をつくってくれたりする。
大腸菌は大腸のなかにいれば無害だが,虫垂炎の手遅れなどで腹腔内にばらまかれると,腹膜炎をおこして,命とりになりうる。
ふだん暴力団を腹の中に飼って,大腸の中に縄張りをもたせている感じであるが,大腸菌は,都市の汚水浄化場の細菌と同様,人間と共存共栄の道を歩いているのである。
虫垂・appendix
■ 反逆だけに意義を感ずる斜陽の臓器
胃を通った食物は十二指腸,空腸,廻腸をまわって大腸に送られる。大腸は右下腹部に始まり,かたかなのロの字から下の横棒をとった形(かたかなのコの字を横にした形)に腹腔内をまわって左側にいき,S字状結腸,直腸になる。小腸と大腸のつなぎめのところは,小腸が水平,大腸が垂直でT字形に交叉している。
そのため大腸のはじまりの部分は,大腸と小腸の交叉点から下の方に五5―六6センチメートルほどの袋になっている。これが盲腸で,大腸の中で一番太いところだ。この盲腸から,怪獣キメラの「しっぽ」よろしく,長さ五5,六6センチメートルの虫垂がぶらさがっている。
暗室で,レントゲン線で腹部を透視しても,そのままでは骨がみえるだけで,小腸も大腸も全然みえない。ところがレントゲン線の影をつくる硫酸バリウムという薬をのませてからみると,バリウムが胃腸の壁に沿って流れていくために,間接に,胃腸の内側の輪廓をみることができる。
百五十150グラムほどのバリウムをのませて五5時間ほどたってから,盲腸のあたりを,レントゲン透視してみると,バリウムがちょうど廻腸の末端のあたりから盲腸にかけて通過しているのがみえる。虫垂にもバリウムが入り,細いひものようにみえる。健康な虫垂は,盲腸についているところを中心に,ふりこのように動くし,虫垂の内容をしぼり出す運動をしているのもみえる。虫垂に炎症を起すのが虫垂炎で,ひどければ手術で切除しなければならない。切りとった虫垂を切開してみると,果物の種子とか,歯ブラシの抜毛,魚骨などが入っていることがある。おそらく,炎症を起したために,虫垂の内容をしぼり出す動きがふじゅうぶんになって,内容が入ったきりになったのであろうが,昔は,種子などの入りこむことが,虫垂炎の原因であると,もっぱら考えられたものである。
虫垂には四百400個以上のリンパ濾胞が分布しているが,虫垂のはたらきというのはそのリンパ濾胞のはたらきであると考えている学者がある。ウサギの虫垂は,炭水化物や脂肪に対する消化酵素を分泌して,はっきりした活動をしている器官である。人間の虫垂は,人間の薦骨(せんこつ)の先端にわずかに残っている「しっぽ」の痕跡と同様,退化しつつある臓器であるために,はっきりしたはたらきをもたないとする考え方の学者も多い。
たちのよくない労組が,仕事もせずに,もっぱら破壊的なストをするように,虫垂は虫垂炎という病気を起すことだけで,有名になった臓器という感じである。しかも,虫垂炎はいじわるく,入学や就職試験の前などに「時」をかまわずに出てきたり,修学旅行中や遠洋航海中などに「ところ」かまわずに起ってくる。
研究がすすめば,扁桃腺のように炎症を起すそのことに意義がある臓器なのか,神様が「人間にお灸をすえる」ために指定した場所なのか,そのうちに判明することであろう。
腎臓・kidney
■ 小工場の同業者協同組合
腎臓はそら豆の形をしたにぎりこぶしほどの大きさの臓器で,横隔膜の下,背骨の両側に一1個ずつある。腎臓の仕事は,腎単位というそれぞれ独立した単位がしている仕事を統合したものである。一つの腎臓に百二十120万個もの腎単位が含まれていることを考えても,一つ一つの腎単位はいかに微細なものであるかがわかる。
いうなれば一つの腎単位は,腎臓という協同組合に加盟している一軒の下請小工場のようなものである。一軒ずつの下請小工場でできた製品が組合に集められ,組合の名において一括取扱われるのに似ている。これはたとえば心臓などと非常に違っているところである。心臓は伸びたり縮んだりする筋肉組織と刺激を伝導する組織などが寄り集まって,結局,心臓全体としてポンプの仕事をしている。つまり心臓は,各課の分業でなりたっている会社のようなものであって,同業の下請共工場の協同組合ではないのである。
一つの腎臓は百二十120万軒もの下請小工場があるが,のぞいてみると,実際,一生懸命仕事をしているのは,なんと六6軒か十10軒に一1軒くらいの割りでしかない。かつての鉄や繊維の工場のように,ひどい操業統制や操短をしているのである。
ちょうど,豪華な赤や青のネオンサインが順番についたり消えたりするように,仕事をしている工場と,休んでいるところが順番に切りかえられ,一つの工場だけが,過労に陥らないようになっているらしい。
腎単位は,糸くずを丸めた「ごてんまり」のような毛細血管の球である糸球体と,それを取り巻いている嚢(のう)=ボーマン氏嚢=,そしてその嚢に源を発し,曲がりくねりながら腎組織の中を通って腎盂(じんう)につうじている尿細管というパイプからできている。血液が糸球体を流れている間に,たんぱく質や脂肪以外の血漿成分が血圧の力によって糸球体の濾膜(ろまく)から濾過されて,ボーマン氏嚢に集められ細尿管の中を流れていく。
腎臓を流れる血液の量は,一1日に延べ一1トン半にも及び,糸球体から一1日に濾過される量は百八十180リットル(ドラムかん一1本分)に達する。この濾過の大きさからも,腎臓がいかに重大な仕事をしているかがうなずけるのである。ところが,濾過量は一1日百八十180リットルに達しても,実際に腎臓から尿として出るのはその一1%にも達しない少量である。これは濾過された液が,細尿管の中を流れているうちに,濾液の九九99%もがその壁面から再び血液の内に吸収されるためである。
からだがどういう理由で,一度捨てたものを再びまた,ほとんど全部,拾いあげるような手数のかかることをするのか不明であるが,腎機能を考えるについては,捨てる方よりも拾う方の役割が重大な意義をもっている。
ちょうど,不良化した少年達を捨てるように隔離することは簡単であるが,愛情をもって教導し社会の中にとりもどすことの方がはるかにむずかしいように……。
腎臓・kidney
■ 環境づくりの調節器
アメーバやゾウリムシなど下等な動物ほど,住みにくい環境でも生きていくが,人間のからだの細胞のように,高度に分化すると,ちょっと環境が悪くなっても,手ひどい影響を受けて,まいってしまう。
人間の細胞は薄い塩水の中でなければ生きていけない。真水の中では,海の魚を川や湖などの淡水の中に放したように,早晩死滅してしまう。しかも,その塩の濃さは,非常に正確に一定でなければぐあいがわるい。濃すぎれば,ナメクジに塩をふりかけたように,細胞は縮みあがってしまうし,薄すぎると,雨にぬれたカンパンのように,ふやけて死んでしまう。塩の濃さによって,滲透圧(しんとうあつ)の値が変わり,これが細胞の生死に影響する。滲透圧の値は,塩だけでなく,ブドウ糖や,たんぱく質の濃度をますことによっても,同様に高めることができる。
酸とアルカリというのは,火と水のように,正反対の性質のものである。からだの中の細胞は,ごく薄いアルカリ性の液のなかで生きている。それが,すっぱくなりすぎても,またアルカリ性が強くなりすぎても,細胞は生きていけなくなる。塩からくても,あまくても,すっぱくても,舌にあやつられる人形のように,味さえよければ鯨飲馬食(げいいんばしよく)しかねない人間のために,余分な水や塩をからだから追い出し,酸やアルカリを調節して,跡始末をしてくれるのが腎臓なのである。つまり苦労をしらない金持ちの三代目のような,からだの細胞のぜいたくな要求をみたして細胞たちの住みやすい環境をつくってやるデラックスな調節装置が腎臓なのである。
胃液や腸液をつくる胃腸の工場は一度で完成品をつくりあげるが,腎臓ではそう簡単に完成品(尿)はできあがらない。腎臓はまず血液をふるいにかける。ふるいの道具は,ふつうの粉をふるうふるいのように,平板な網でない。ちょうど,熱帯魚を飼う水そうの中で,エアポンプからの空気を,こまかな泡として吹き出させる,あの丸いたまと似たしかけである。糸のように細い血管でできた糸球体という丸いたまに,微細な穴がたくさんあいていて,ふるいの役目をする。ここでは,ふるいの目より小さい物質は,からだのためになる大切なものも,排泄(はいせつ)しなければならない不用のものも,一様にふるい落してしまう。こぼれたこの液を再び血液の中にとり入れるのは,尿細管であるが,とくに滲透圧や酸アルカリの調節のために,選択的に吸収をし,腎臓の役目のしあげをするのは配管の終末に近い第二曲尿細管というところである。
中小企業の倒産はいまだに跡をたたないが,倒産を機会に借金も従業員も,ご破算にして,有能な社員だけを集めて第二会社を作る「計画倒産」もあるときく。腎臓を通る血漿のなかから,いいものも悪いものも,すっかりなげだしたあとで,もう一度いいものだけを血液の中にひろいあげる腎臓のはたらきに,なにか似たものを感ずる。
膀胱(ぼうこう)・urinary bladder
■ 水門番人のいる貯水池
膀胱は,五臓六腑の一つに数えられ,かなり昔から,その存在が知られていた。いまのようにゴムやプラスチック製の袋がなかったころ,氷嚢には,牛の膀胱からつくった袋が使われていた。カゼの熱の床の中で,額にのせられた氷嚢が,動物の尿をためる袋だときいて,こわがった幼い日のことを思い出す。
腎臓でできた尿を膀胱に運ぶ尿管は,膀胱内の底面にある三角形をした部分(膀胱三角)の,後ろの二2つの頂点にむかって,背後から斜めに膀胱の壁を貫いて入っていく。尿がたくさんたまって膀胱がふくらみ壁が薄くなると,貫通部分の尿管が斜めに入っているために,そこが圧迫されて自然に閉じ,尿を腎臓の方に逆流させないようになっているのである。三角形の残りの一1つの頂点は内尿道口で,尿道につながる膀胱の出口である。
平均五5秒ごとに尿が尿管の口から膀胱内に吐き出されるが,そのたびに,尿管口がまずひっこんで口が開き,尿を吐き出すと,口をつぐむように閉じる。ちょうど鯉が水中でえさを口から出したり入れたりするかっこうに似ているので,鯉口運動と名付けられている。
膀胱は下腹部,恥骨のすぐ後にあり,前と後下の部分は周囲と癒着しているために,尿がだんだんたまってくると,後上方にむかってふくれてくる。膀胱に尿がいっぱいになると大きな卵形になり,壁の厚さが三3ミリメートルほどに薄くなるが,からになると上下から球をおしつぶした形に縮まり,壁の厚さも一・五1.5センチメートルくらいに厚くなる。壁の一番内側に粘膜,そのそとに膀胱を圧縮するための平滑筋の層,まわりと癒着していない外側は,腹膜のつづきである漿膜がおおう。膀胱壁の筋肉は,三3枚の走向の異なる層がベニヤ板のようにはりあわされてできており,外と内は縦の方向,まん中だけが膀胱にたがをはめたように輪状にとりまいている。
尿がこぼれないように膀胱の出口をかためているのは,この輪状筋の内尿道口をとりまいている部分である。内括約筋とよばれ,これは,自分の意思であけたりしめたりできない。外括約筋は尿道の起始部にあり,意思のままに動かすことのできる随意筋である。膀胱の中に尿がだんだんたまり,嚢がひろげられていくと,なかの圧がしだいにたかまっていく。その圧が水柱三十30センチメートルという値に達すると,その刺激が大脳に伝えられ尿意をもよおす。排尿が起こるときには,輪状筋が膀胱をしめつけると同時に,内括約筋が出口をゆるめ,意思が放尿を許すと外括約筋もゆるんで尿がでてくる。
膀胱に尿がたまることも,尿意をもよおすことも肉体の必然な現象として起こるが,尿意と実際の放尿との時間的距離は,幼児や原始人の程度から,教育や練磨によって,文化人の程度までひろげることができる。精神によって肉体を制御するのは「反自然的」だとけぎらいされることもあるが,そのような訓練をへて,人間は,はじめて文化生活の中に住めるようになるのである。
ホルモン臓器・hormone organ
■ 出る川のない湖
世界最古の医学書であるエジプトのパピルスに,七百700種あまりの薬が書かれている。そのなかに動物の臓器のエキスがのせられている。臓器のなかには,生命や精神の構成分と考えられていた「精」が含まれ,それがエキスのなかにでてきて薬になると信じられていたのである。このような素朴な“臓器療法”がギリシャ医学からローマ医学,さらに後代へと引き継がれてきた。そして十八18世紀には死刑囚の死体から切り出した人間の臓器エキスが,動物のと並んで正式の調剤用薬として薬だなにおかれるようになったのである。
睾丸(こうがん)が男性のからだに重要な役割をもっているらしいことはかなり昔から想像されていた。睾丸をとると,鼻息の荒い雄馬が扱いやすくなり,けんかずきの雄鶏が友好的になる。一七七五1775年ド・ボルトー博士は,去勢によって起こるいろいろな変化は,睾丸でできる何かがからだのなかになくなるためであろうと考えた。そのころ名医のほまれ高かった七十二72歳のブロン・セカール博士が,イヌの睾丸エキスを自分のからだに注射したところ驚くほど若返ったという発表をした。老大家の体験談は非常なセンセーションをまきおこした。そして,臓器エキスの有効成分として,現在のホルモンに近いものの存在が推定されるようになってきたのである。
汗腺や唾液腺には,その工場でつくった製品を外に送り出すための専用のパイプがついている。このように専用パイプから製品を送り出すことを外分泌という。胃腺から胃液が出,肝臓から胆液が出ているのも外分泌である。ところが立派な工場があるのに,製品を送り出すパイプをもっていない腺がある。たとえば甲状腺であるが,首の前のところにあるこの大きな臓器は,そのなかでつくった液を送り出すパイプをもっていない。これは往時の医学者たちにとって大きな不思議であったに違いない。その昔,はいる川も出ていく川もない摩周湖に驚異の目を見張ったアイヌ人たちの驚きさながらに……。ところが実は,甲状腺でできた製品は,直ちに付近を流れている細い血管やリンパ管のなかに流れこめるようなしかけになっているのである。これが内分泌であり内分泌によって分泌される成分がホルモンなのである。のみ薬は,のみこんだあと食道から腸への長い旅をし,じょじょに吸収されながらきくために,ききがわるく,しかもおそいが,皮下や筋肉注射では,薬はまもなく血液のなかにはいっていくので速くきくし,量が少なくても効果が大きい。内分泌腺は,つくったホルモンをいつも注射したときのようにからだの中に補給しているといえる。
ノレンの上の換気口からもうもうたる煙とよいかおりをはき出して,味覚をそそる「ホルモン焼き屋」は,秋の夜の景物として楽しいものである。そして,そこは素朴な臓器療法の施行所でもある。恋愛「感情」だけで肌のすみずみまでホルモンのいきわたる乙女のように「たま」などほおばったあとは,ホルモンが補給されたらしいという「意識」で足も軽やかになるから妙である。
ホルモン・hormone
■ 動物界の公分母
口からからだのなかにはいった食物は胃を通り,長いつづらおりの腸を旅するうちに,消化吸収の働きによってとり入れられ,からだ中の化学工場に原料として供給される。この化学工場で作られた製品は脳という行政府や,呼吸・循環の担当者など生命維持のための消費面に送られていってエネルギー源となる。工場の生産能力にはかなりのゆとりがあるが,中小企業の小工場のように製品ストックをむやみに多くするわけにはいかない事情があり,また運動や病気のときなどには消費量が飛躍的に増進するということがあるので,消費量にあわせて工場の生産高を過不足なく調節することは,ずいぶんと複雑でむずかしい。この生産と消費のバランスをじょうずにとるのが神経系と数種のホルモンである。
ホルモンは現在,存在が確認され,よく知られているものだけでも三十30に近いが,性に関係のないものが大部分である。
ホルモンということばは「刺激する」とか「よびさます」という意味のギリシャ語からできたものである。語源のとおり,ホルモンは特定の物質代謝をよびさましたり,特定の器官の働きを刺激したり,からだの成長・発育を促すなど複雑多彩な作用をする。
ホルモンをつくる臓器である内分泌腺は脳下垂体,甲状腺,副甲状腺,副腎,性腺,膵臓(すいぞう),松果腺,胸腺のすべてを合わせても約六十60グラムの重さしかないが,この少量の組織が体重六十60キログラムの人間の全身を支配する。
脳下垂体が一生の間に製造するホルモンの量は茶さじ一杯にも満たないが,茶さじ一杯でるかでないか,でるにしてもすてきなタイミングででるかどうかによって健康が維持できるか不具廃疾が起こるかがきまる。思春期には男女とも肉体的に大きな変動が起こり,しかけ花火に火がついたように,色とりどりの変化がつぎつぎに起こるが,その火つけ役をする性ホルモンの量は,まことに微量で郵便切手の重さしかない。
ホルモンは人生開花などの重大な時に,威力を発揮するばかりでなく,実は,日常の一挙手一投足にも関係をもっている。いまペンをにぎって字を書いているのを一例とすれば,腕の筋肉に力を与えるために,血中の糖を増すように手配しているのはホルモンなのである。
内分泌腺の働きは,相互に影響しあい,相互に一つのバランスをとっている。たとえば,ある内分泌腺の働きが不活発になったとすると,その働きを改善させるために他の腺からそこを刺激するホルモンが送られてくる。
おもしろいのは,ホルモンは動物世界の公分母のような存在であることである。若いテレビ女優の性ホルモンのあるものは,雌のタヌキやキツネのそれとまったく同一である。プロボクサーの脳下垂体ホルモンのあるものは,ハツカネズミのものとまったく同物質である。神様は人間をおつくりになる時,ところどころに動物用の部品をおつかいになったらしい。
脳下垂体前葉・anterior pituitary
■ ホルモン・コンツェルンをあごで使うボス
おわんの舟にのることのできた一寸法師,フキの葉の下に住むコロボックル,チューリップの花から生まれた親指姫など「こびと」についての楽しい物語は数多い。
一方また,榛名山に腰をかけ,利根川で,すねを洗った大男の大太法師(だいだぼうし)の話や,九州の大人弥五郎など,大男の話もいろいろある。しかし現実に,われわれがみる「こびと」は,物語の「こびと」よりずっと大きいし,大男もガリバーがプロディナック国でみた大男よりずっと小さく三3メートルをこえることは稀である。
「こびと」や大男ができる秘密は,下垂体前葉から分泌される成長ホルモンにひめられている。子供のうちに,このホルモンの分泌がおとろえると下垂体性の「こびと」になってしまうし,下垂体にできものができてホルモン分泌が多くなりすぎると,大男ができる。しかし,ホルモン相互の調整作用や,栄養の点からみた生命維持の限界があるため,現実には物語のような極端にはなりえないのである。
さて,脳下垂体は,前葉と,神経葉といわれる後葉,さらにその間をうめるうすい中間部が合体してできた球形の臓器である。この三3つの部分を合わせても,大きさは一粒のうずら豆くらいしかなく,重さは男子で〇・五0.5グラム,多産婦で一1グラムくらいしかない。
交響楽団の全楽器が指揮棒の一閃で,とどろくような音を出すように,うずら豆の半分の大きさしかない下垂体前葉は,一1本の毛髪ほどの重さの,微量のホルモンで「いのち」という大交響楽を指揮する。いってみれば,下垂体前葉は甲状腺,副腎皮質,性腺などホルモン界のもっとも有力なメンバーをことごとく,そのコンツェルン(企業結合)の中に統合し支配しているのである。このコンツェルンは,からだのなかでおこなわれる新陳代謝,対ストレス反応,生殖腺の発育や分泌機能などに,広範かつ多大な影響力をもっているので,下垂体前葉は結局,からだ全体にたいして強力な支配力をもっているといえる。たとえば,下垂体前葉は,甲状腺刺激ホルモンという命令書を作って甲状腺に送りつける。すると,下垂体の命令は直ちに実行にうつされ,甲状腺の各工場はいやおうなしに増産操業にはいり,甲状腺のはたらきは高揚される。下垂体前葉は副腎皮質にも,卵巣や睾丸などにもこのような刺激ホルモンを送って,各ホルモン工場の生産をリモコンする。
成長ホルモンをはじめ,このような「コンツェルン」駆動(くどう)ホルモンを出すホルモン界のボスにふさわしく,下垂体前葉は,後葉,中間部といっしょに,頭蓋底の中心に近く,蝶形骨のトルコ鞍と名づけられる骨製の鞍にのって,安楽にかまえている。馬に鞍をおいて乗るのは人間であるが,人間にトルコふうの鞍をおいて乗っているのは,脳下垂体さまということになる。そしてこの殿様はどうかすると,ホルモン界にあらしを巻き起こして人間を翻弄し,人を「馬,鹿」にしかねないのである。
催乳ホルモン・lactation hormone
■ 母性愛ホルモン
ルノワールの「母と子」という絵がある。のちに映画監督になったむすこのピエール・ルノワールが,夫人のひざの上に抱きかかえられ,乳をのんでいる図である。ピエールはまだ誕生日まえの赤ちゃんで,片手で自分の足をひっぱりあげながら,無心に乳をのんでいる。夫人は,明るい日差しをあびて,窓の下にすわり,家庭の平和に満足しきったなごやかな目をし,口もとに微笑がこぼれている。かわいい乳のみごに向けられた夫人の母性愛の深さが,豊かな乳房に表徴されて,まさに心暖まる一幅の絵である。
母性愛は人間にかぎらず,どうもうなクマにでも,ネズミのような小動物にも等しく,これをみることができる。子供を生んで,かいがいしく乳をのませたり,子供のめんどうをみている母ネズミの脳下垂体を手術で切りとると,母ネズミの子供にたいする態度がガラリと変わる。母ネズミは,それまでなめるようにしてかわいがっていた子供たちを,じゃまものあつかいにしはじめる。子供たちが乳をのみやすいように横になって哺乳していた母ネズミは脳下垂体を切りとると,乳をすいによってくる子ネズミを,じゃけんにふりはなし,ふみつぶさんばかりに歩きまわる。こんな母ネズミに,下垂体前葉ホルモンと副腎皮質ホルモンをまぜて注射してやると,手のひらをかえしたように,ふたたびいそいそと乳をのませ,子ネズミのめんどうをみるようになるのである。
このような作用をもっているのは下垂体前葉から分泌されるホルモンのひとつで,催乳ホルモン(プロラクチン)あるいは黄体刺激ホルモンと名付けられるものである。プロラクチンは,このように母親に母性的な行動や態度をとらせるようにする力があるばかりでなく,哺乳動物の妊娠をつづけるのに重要な役割をする黄体を存続させ黄体ホルモンの分泌をうながしたり,乳腺を刺激して乳汁分泌をさかんにする作用があるのである。乳房に乳がたまって痛いくらいにはってくると,いかに薄情な母親でも子供を思い出し,哺乳という,もっとも端的な「母性」的行動にかられ,母性にめざめるというようなことなのかもしれない。
ところが,チャドウィック博士によれば,乳腺のない鳥類,爬虫類,両棲類,魚類の下垂体前葉にもプロラクチンと同等のものが含まれており,そのホルモンは,これらの動物にも「母性」をめざめさせる力があるという。さらに,このホルモンは,雌ばかりでなく雄にたいしても,子供の庇護(ひご)や養育などの「母性」的行動を起こさせる原動力になるのである。
深い英知と,複雑な感情をもつ人間を,ネズミのような実験動物といっしょにするのは当をえていないかもしれない。しかし,一般にホルモンのもっている,はかりしれない力から考えて,人間のもちうる情動のうちもっとも愛他的であり神聖である母性愛でさえも,一片のプロラクチン分泌の多少によって,かなりの影響をうけるものなのかもしれない。
副腎刺激ホルモン・adrenotropic hormone
■ ストレスへの前哨拠点
三十30年ほど前,モントリオールのマギル大学で,ハンス・セリエ博士は新しいホルモンを発見すべく実験をしていた。当時すでに二2種類の女性ホルモンが発見されていたが,博士は第三の性ホルモンをみつけようとしていたのである。あらかじめ卵巣をとり除いた雌のネズミに,臓器のエキスをなんども注射し,そのあと解剖して性器に変化が現われるかどうかをしらべていた。解剖の結果,変化の現われることも現われないこともあったが,いつもきまって起こる変化があった。ネズミの副腎がふつうの大きさの三3倍にもはれ,リンパ系はちぢみ,胃や腸に潰瘍(かいよう)ができるのであった。
ところが不思議なことに,臓器エキスの腐敗防止のために加えていたフォルムアルデヒドだけを注射しても,副腎がふくれ,胃腸に潰瘍ができ,リンパ系がちぢむ。
フォルムアルデヒドのような毒物の「刺激」がこういう変化を招くとすれば,ひどい寒さや疲労などの刺激も同じような影響をからだに与えるのではなかろうか。セリエ博士は冬の寒い日,ネズミをふきさらしの実験室の屋根の上においてみた。モーター仕掛けの回転かごに入れてぐるぐるまわし,ネズミをくたくたに疲れさせてみた。そのあと解剖してみると,想像どおり副腎は大きくふくれあがり,リンパ系はちぢみ,胃腸に潰瘍ができている。つまり,どんな種類のストレスでも結局,からだに同じような症状をひき起こすのである。
ところが,下垂体を手術でとりさったネズミは寒さ,疲労,精神緊張,騒音,毒物などのストレスを与えても,副腎や胃腸にまったく変化が起こらないが,ストレスにたいする抵抗力は非常に弱い。研究がすすむにつれて,全般のようすがはっきりしてきた。ストレスが加わると,からだはそれに対抗するために,脳下垂体前葉から副腎皮質のホルモン生産をたかめさせるホルモンをどんどん血液中に放出する。そうすると副腎は軍需大臣からの戦闘資材増産命令をうけた工場のように,さっそく増産にとりかかり,ストレスと戦うための副腎皮質ホルモンをつくる一方,設備投資をしてホルモン工場をどしどし拡張し,ふくれあがってくるのである。
脳下垂体前葉から分泌される副腎皮質刺激ホルモンは三十九39個のアミノ酸が連鎖してできている物質である。そのうち最初から二十四24番目までのところは,動物の種類に関係なくアミノ酸が同じ順序でならび,この部分が副腎への刺激作用をもっている。
狭い国土に人と自動車があふれ,まちにはビル建築の騒音がひびき,いたるところで人々はガミガミと反対しあう。まさに「ストレスがいっぱい」である。おそらく,毎日,われわれの脳下垂体と副腎の間に,ストレス対策の指令と報告が激しくピストン運動をしているに違いない。副腎が風船のようにふくれあがり,胃腸に風穴があかないよう祈らねばならぬ。
脳下垂体後葉・posterior pituitary
■ 半分は女性専用品
堅牢な頭蓋骨という「とりで」の真ん中の上座に,トルコ鞍という骨製の「鞍」にのって鎮座しているのが脳下垂体であるが,そのうしろの方半分が脳下垂体後葉というところである。小指のつめほどの大きさの脳下垂体の,そのまた半分しかないこの後葉から,驚くほど強力なホルモンが分泌される。しかし,後葉ホルモンの製造工場は後葉そのものではなく,実は視床下部の核の中にある神経細胞が製造元である。ここでできた後葉ホルモンはコロイド状の小滴と細胞の軸索なり,視床下部から下垂体後葉にかけられた神経というベルト・コンベアで,後葉の毛細血管のなかの倉庫に送られ,たくわえられる。そして,ここぞというときに,いっせいに「くらだし」されるのである。
後葉ホルモンの一つは抗利尿ホルモンである。腎臓のなかの糸球体という血液を濾過するしかけは,一日に約百八十180リットル(ドラムかん一1本分)の液体を細尿管のなかに流しこむが,そのほとんどが,そこで再びからだのなかに吸収されるために,実際に尿になる量は一日一1―一・五1.5リットルくらいに減ってしまう。この再吸収を加減しているのが抗利尿ホルモンなのである。
実験動物に大量の水を飲ませると,抗利尿ホルモンの分泌がテキメンに減って尿がたくさんでるし,砂漠に住むカンガルーネズミはふつうの動物の十10倍に近い抗利尿ホルモンが分泌され,尿は極端に少ない。夏,筋肉労働をして,あせをどんどん出し,血液の水分が減ってくると,下垂体後葉からの抗利尿ホルモンの分泌が多くなり,尿として水分がからだから失われるのが防がれるしかけになっている。病気でこのホルモンのでかたが悪くなると,尿崩症が起こり一日六6―十10リットル,最大三十30リットルも尿が出るようになる。尿がどんどん出るので,水をひっきりなしに飲まなければならず,患者さんは水飲み場とトイレの間を往復する人生を送ることになる。抗利尿ホルモンの大量を注射すると血圧が高くなるが,ふつう生理的に分泌されているくらいの量では,血圧にいちじるしい影響はない。
脳下垂体の後葉は,もう一つオキシトチンというホルモンを分泌する。オキシトチンは子宮に強い収縮を起こさせる。妊娠が進むにつれて,子宮はますますオキシトチンに敏感になる一方,血液中のオキシトチン破壊酵素が減ってくるために,一1グラムの一千万分の一1000万分の1という微量で子宮は強く収縮し,胎児を子宮から押し出してしまう。
脳下垂体の前葉からは,催乳ホルモンが分泌され,後葉からは子宮収縮ホルモンであるオキシトチンが分泌される。催乳ホルモンとオキシトチンの分泌は脳下垂体のはたらきのうちの大事な部分を占めるのであるが,これらのホルモン,とくにオキシトチンの男性における役割はあきらかでない。男性のばあいは,その胸に所在なげにくっついている乳首さながらに,このホルモン王国の王座である脳下垂体にも,女性専用品のイミテーションが,大きなスペースを占めているらしい。
甲状腺・thyroid gland
■ 性格の泉
いつもびっくりしたような,とび出た大きな目をし,汗ばみ,どきどきと大きな脈が速くうっている。みるとくびのところがはれている。バセドー氏病患者の症状である。この症状は,知性のすぐれた,音楽や文学にたん能な若い婦人に現われやすいと,昔から考えられていた。こういう人はきまって感情的な性格で精神状態が安定せず,得意の絶頂と失意のドン底の間をはやあしで往復している。人をけしかけて戦わせようとするかと思うと,すぐ仲良くしようとしたりする。
バセドー氏病の症状は甲状腺ホルモンの分泌が多すぎるために起こる。甲状腺はくびの前面,のどぼとけの下に蝶が羽根を広げたかっこうをしている大きな臓器である。甲状腺が機能亢進などで大きくはれあがると,くびの前下の部分が前にせり出し,首が太くなったようにみえる。
イギリスの画家ロセッティの妻,「祝福されたる乙女」は,前頸部がかなりもりあがっている。甲状腺のはれによるものであるのは間違いない。「ロセッティの頸」を美の表徴としてとり入れたのは,自然の細密な描写を旗印にかかげたロセッティ,ミレー,ハントらのラファエル前派の人々である。
先天的に甲状腺ホルモンの分泌がわるいとクレチン病が起こる。
大人になってから甲状腺が萎縮し,はたらきが弱まることがある。ちょうどバセドー氏病と反対に,患者は心身の活動がにぶり無精になる。顔やからだがはれぼったくなり,毛髪がぬけて,ふけこんだ感じになる。粘液水腫という病気である。
イギリス王朝のヘンリー八8世は,五十50歳ころ,この病気にかかった。そのため性の刺激を失い,精神がにぶった。しかしそのためにアン・ブーリン妃をはじめとして,のちぞえの数人の妃との血なまぐさい葛藤に終止符がうたれ,晩年はいかにも平和な日々を送られた。もし,その当時,乾かしたヒツジの甲状腺の粉末を毎日耳かきに数杯のんでいれば,王の心身の活動力が回復することを医師が知っていたら,絶対主義的な中央集権化がいきすぎてイギリスの歴史は著しく変わった姿になっていたに相違ない。
粘液水腫の患者に甲状腺ホルモンを与えると,にぶかった頭脳がはっきりし,目は輝きをとりもどし,まゆや頭にも毛髪が生えてくる。鈍重にふとっていた顔がひきしまって,さえた顔色になる。女性であれば二十20歳も若返ったような感じになるのも珍しくない。バセドー氏病と粘液水腫の差は,一つのユリの花の花粉ほどの微量な甲状腺ホルモンが,毎日でるかどうかの差である。そしてこの差が,落ち着きと興奮との差をつくり,さらには白痴と天才の差にもなる。
甲状腺ホルモン・thyroid hormone
■ 生体エンジンのアクセル
人のからだは,食物から供給される燃料をもして動いているエンジンにたとえることができる。そして甲状腺ホルモンは,この燃料のもえかたを加減しているホルモンである。
ウシやヒツジなど,家畜の甲状腺をかげ干しして,粉末にし,人にのませると甲状腺ホルモンの過剰状態ができあがり,エンジンは熱気をおびて,はげしく動きだす。自動車のエンジンなら,いくらアクセルを踏んでも,いれただけのガソリンがなくなれば,それ以上暴走することはないが,人のからだはちょっと違う。家畜の甲状腺に由来するホルモンの命令にでも,人のからだはまっとうに反応し,皮下に貯蔵されたエネルギー源である脂肪をどんどん消費し,ゆきすぎると最後の「鉢の木」までも燃しかねない。
婦人の容姿を表現することばのうち決して使ってならないのは「ふとった」という形容詞であると,アメリカで教えられた。このことばで,逆鱗(げきりん)にふれると,百のお世辞もおよばない。ふとった婦人は,自分のもっとも恥ずべき,秘めたる罪悪をあばかれたかのように動転してしまう。こういう婦人たちであるから「やせ薬」には目がないわけで,想像以上に普及しているらしい。
「やせ薬」には,いろいろな種類の薬が配合されるが,甲状腺ホルモンは,そのなかの常連の大物で,家畜の甲状腺の干物が,必死の婦人方の頼みの綱になっているのである。
しかし,甲状腺ホルモンをたくさんのむということは,人工的にバセドー氏病の状態をつくることであるから,乱用は危険である。
第二次世界大戦中,空襲がはじまってロンドン市中が恐怖につつまれると,まもなくバセドー氏病患者が目立ってふえだした。ドイツでも従軍した女子通信隊員にたくさんのバセドー氏病患者が発生した。しらべてみると,精神的なストレスがこの病気を起す原因になったことが判明した。実際,個人的に深い情動の動きを呼びさますような話題を選んで議論しかけてみた実験によると,一1時間もたたないうちに,血液中のたんぱく結合ヨード量が倍になり,甲状腺のはたらきが非常にたかまってくることが証明されている。
アメリカの高原地帯に住むオザルクというインディアンの種族は,新婚の花嫁の首の太さを計って,花嫁の感激の大きさを測定する風習があるという。新鮮な花嫁ほど,新婚にまつわるもろもろの刺激のために甲状腺のはたらきが活発になり,はれてきて首が太くなるというのである。
古語に「はなじろむ」ということばがある。いきどおりを感じ興ざめた思いをするという意味に用いられているようであるが,実際「はなじろむおもい」をしているらしい相手をよくみると,鼻から鼻翼のまわりにかけて白っぽくなっている。古い時代の歌人の観察のたしかさに驚嘆するのであるが,新婚の花嫁の首の太さのわずかな増加と新婚の感激の大きさという一見関係のない二つの現象の相関をみぬいた古いインディアンの観察力に敬意をはらうものである。
副腎皮質・adrenal cortex
■ ストレスへの堡塁
こぶしをにぎったぐらいの大きさの,そら豆のかっこうをした腎臓の直上に,ひだの多い,小さい三角帽子をかぶせたかっこうにチョンとのっているのが副腎である。腎臓が左右にあるように,その上にのって副腎も左右に一つずつある。腎臓は百五十150グラムぐらいの大きい臓器であるが,副腎は男子で平均十10グラム,女子で十二12グラム程度の小さい臓器である。副腎をメスで横断してみると,二2つの異なった部分,外側をとり囲む皮質と,その内部の髄質がみえる。
この副腎皮質をさらに顕微鏡でしらべると三3つの層がある。この三3つの層からは各々特別なステロイドホルモンが分泌される。ステロイドと総称される有機化合物は,このごろよく話題にのぼるコレステロールの親類筋にあたり,副腎皮質のホルモンだけでなく卵巣や睾丸など性腺でできるホルモンも化学的にはこのグループに属する。
副腎皮質の一番外側の顆粒層からは,からだ中のナトリウムやカリウムの出し入れを調節するアルドステロン,束状層から炭水化物やたんぱく質の代謝に影響を与えたり,からだのなかの炎症に影響力をもつ糖コルチコイドが分泌されるし,一番内側の網状層からは性ホルモンに類似したホルモンが分泌され,とくに女性に影響を与える。
副腎髄質だけなら全部切りとっても死なないが,皮質を切りとると一1―二2週間で死んでしまう。副腎皮質を切除した動物は元気がなくなり,食欲はおとろえ,おう吐,下痢を起こす。血圧も体温も低くなり,寒さや暑さなど種々のストレスに対する抵抗力が弱まり,もろいからだになってしまう。ちょっとからだを動かしても,すぐ強い疲労が現われ,ついに死亡することになる。
病気のために副腎のはたらきが弱まることがある。アジソン氏病がそれであるが,重症の時には,ちょうど動物の副腎を手術で切りとった時と同じような症状が出てき,ちょっとしたストレスで容易にショックに陥り,生命の危険が迫る。
ストレスがからだに加えられると,その襲来を知らせる警告が脳下垂体から出される。この警告が副腎に届くと,副腎はホルモンを増産して,全身に警告反応という体勢をつくりあげる。
ストレスの大きさが,からだのストレス防衛力に見合う程度のものであると,からだは警告反応体勢に続いて,そのストレスに対する抵抗力を獲得する。これが鍛練とか「慣れ」の成果である。ところが,からだのストレス防衛力を大きく上回るようなストレスを長い時間続けて負荷すると,副腎を疲労困憊(こんぱい)させるために,「慣れ」も抵抗力も獲得できないばかりか,ワンゲルの「しごき」事件のように,体をそこなうことになってしまう。
競技のトレーナーが選手を疲れすぎないよう,意気を喪失させないように,訓練したり,激励したりするように,教育とか「しつけ」にたずさわるものも,当人に加わるストレスの大きさを考えて調節してやらないと,副腎のばあいのように「角をためてウシを殺す」ことになりかねない。
副腎髄質・adrenal medulla
■ 戦いの腺
副腎の存在がはじめて認められたのは,いまから四百400年前,ユースタキュース医師によってである。当時の記録には,なかに液体のはいった小さい袋が腎臓の上に乗っていると書かれている。副腎は外側を包む皮質と,内側の髄質の二2つの部分からできているが,髄質は死後融解しやすいため,死後数日を経て,秘密に人体解剖をしていた当時としては,やむをえない誤りであったのである。
副腎髄質は,交感神経系の一部が内分泌器官に変身したものである。したがって交感神経系のボスである脳の視床下部から延髄の分泌中枢,さらに胸髄灰白質にある下位中枢をへて副腎に伝わるという命令系統によって,そのはたらきが統制されている。
副腎髄質が活動を始めると,そこからアドレナリンとノルアドレナリンという物質が血液中に送り出される。アドレナリンとノルアドレナリンは双生児の兄弟で,作用する場所により力の強さは異なるが,性格はほぼひとしい。これらの物質が血液のなかに出てくると,交感神経系が活動したのと同じことがからだの中に起こってくる。
まず血管,ことに皮膚や腹部内臓の細動脈や毛細血管を強く収縮させ血圧をあげる。顔の皮膚にいく血管が縮小し流れていく血液の量が減るため顔色が白っぽくなる。瞳孔は大きくみひらかれ眼球がやや前にせり出し,脈は早く打ち,心臓や筋肉への血液の配給が盛んになる。
夜道で突然野犬に襲われた時などには,このような戦闘体勢がとっさに準備されるが,それ以外にもいろいろな時に,当人の意思には関係なく,副腎髄質からアドレナリンが分泌され戦闘体勢がつくられる。強い痛みや寒さが加えられたり,失血したり,窒息したときなどがそれである。
ドラむすこを正座させて,真っ青になってしかりつけていた父親が急に脳出血でなくなるという事故も,激怒が副腎からアドレナリンをたくさん分泌させ,急激に血圧をあげる結果である。
樊〓(はんかい)のような豪傑が怒ると,怒ったネコの背中のように,怒髪ことごとく冠をつくほどになるらしいが,たしかに立毛筋はアドレナリンの作用で収縮し,毛を立てる。筋肉の緊張がたかまりすぎて,武者ぶるいが出たり,ひやあせが出てきたりするのもアドレナリンの作用である。ボクシングの試合をみていると,青ざめた顔色をし,コチコチに筋肉をかたくしている選手は,勝運にめぐまれにくいようである。オリンピックの試合でも,日の丸にこだわってコチコチになった選手は,意外なミスをおかして負けている。
アドレナリンは,血液中にでるとすぐに分解されるために,その効果は長続きしない。試合の初めに副腎を働かせすぎると,疲れてしまって肝腎のときにうまくいかず竜頭蛇尾に陥りやすい。勝つことの一つの要因は,大脳辺縁系につちかわれる根性と度胸で,はやる副腎をうまく調教し,分泌を過不足なく均等に配分することにあるのではなかろうか。
性ホルモン・sexual hormone
■ 動物の根底にあるもの
大分市高崎山の万寿山別院境内には七百700匹におよぶニホンザルが群生している。このニホンザルの社会には,厳然たる上下の地位の区別があり,バナナのふさのようなエサを与えてみると,まずボス・ザルが食べ,そのあと順々に下位のサルがエサをとるという順序から,そのランキングがはっきり弁別できる。こういう地位の上下は,チンパンジーの群にも存在しているが,おそらく原始的な人間社会にもあったものと考えられる。
群棲しているボス・チンパンジーの睾丸(こうがん)を切りとると,そのチンパンジーの地位がずっとさがってしまう。ところが,そうなってからでも,男性ホルモンを注射してやると,まもなくもとの地位をとりもどすのである。このように雄チンパンジーは,男性ホルモンの分泌のよいものほど,テキメンに上の階級にのぼるのであるが,実は雌についても,まったく同じ傾向が認められるのである。卵巣をとると,その「地位」がさがるし,女性ホルモンを注射すると,さがった順位がまたもとにもどるのである。
同種のネズミを数匹,おなじかごの中で飼うと,やはり指導的「地位」につくネズミと被支配側にまわるネズミができるが,指導的なネズミを解剖してみると,きまって副腎が小さい。指導的「地位」に,みちたりた気分でいる動物にくらべ,下位にあまんじなければならない連中は,不平不満などの精神的葛藤(かつとう)がストレスになって,副腎の肥大を招くということかもしれない。とにかく,支配者のホルモン事情は,性ホルモン分泌は旺盛であるが,副腎ホルモンはあまり多くないということになる。
イヌと電柱といえば,片足をあげたイヌの特有な放尿の姿を連想するが,電柱に用のあるイヌは成熟した雄だけである。雌イヌは足をあげるような「無作法」はしない。しゃがんだままで用をたす。また,子イヌもけっして足をあげない。雄のイヌが足をあげはじめるのは生後二十20週ぐらいして,思春期に達してからである。ところが,まだ電柱になんの反応もしめさない雄の子イヌに男性ホルモンを注射すると,生後十二12週目ぐらいから足をあげるようになる。また,雄の子イヌの睾丸を手術で切りとっておくと,いつまでたっても,足をあげるようにならない。成熟した雌イヌに男性ホルモンを注射していると,まもなく雌イヌなのに,あられもなく足をあげるようになる。
人間が,ほとんどはだかに近い姿で原始的な社会生活をいとなんでいた時代にくらべると,今の人間は,日増しに複雑化する社会の規則や慣習に,十重,二十重に取り囲まれ,動物としての部分を,あまり奥の方におしこめてしまったようにみえる。イヌの放尿の時の姿勢が,人間的感覚で「行儀」がよいとか,わるいとか批評するのは奇妙なことかもしれないが,男性ホルモンの増減のまにまに「行儀」がよくもわるくもなるイヌをみても,動物としての人間を無視して,青少年に「行儀」や「しつけ」を強要することの「むなしさ」を思うのである。
性ホルモン・sexual hormone
■ 悩みの泉
妊娠三3ヵ月をすぎると母親のおなかの中の胎児に男女の差ができてくるが,男の胎児でも生まれる少し前まで,陰嚢(いんのう)の中の主人公は留守である。胎児の睾丸(こうがん)は,はじめ腹腔内で腎臓の付近(へその位置より高いところで,背骨の両側にある)にあり,そこで発育する。出産間近くなって,はじめて睾丸は,落ち着くべき所に向かって,徐々に移動を開始する。
腎臓のそばから陰嚢への長い旅路の途中で,睾丸が,旅行をとりやめて,腹腔内にとまってしまったり,嚢にはいる直前で,鼠径管(そけいかん)内にとまってしまうこともある。新約聖書マタイ伝第十九章に「それ生まれながらの奄人あり,人にせられたる奄人あり,また天国のために自らなりたる奄人あり,これを受け容れうる者は受け容るべし」とある。奄人とは睾丸のない男性のことである。
「生まれながらの奄人」には,睾丸が旅路の途中で道草をくったところに落ち着いてしまった外見上だけのものと,発育不全などで実際に睾丸が全くない場合とがある。
「人にせられたる奄人」とは,去勢手術で睾丸を切りとられた男子のことである。アラビアン・ナイトの物語には,たくさんの宦官(かんがん)がでてくるが,この宦官というのも,「人にせられたる奄人」たちである。去勢によって性欲が失われると考えられたため,多くの美妃を擁するハレムの雑務万端を切りまわす仕事をまかされていた。
宦官という職制はギリシャやローマ帝国の古い時代からあり,中国でも,三千3000年以上昔,周の時代にはじまり,明の時代までつづいていた。もとは,罪によって宮刑(去勢の刑)に処せられたものが使われていたが,のちに「みずからなりたる奄人」たちが宦官になった。
宦官は去勢によって,温和な性質になるが,陰険で謀略を好むという独特な性格ができあがるらしい。おまけに後宮への出入りが自由なために宮中に勢力を植えつけ,王侯の寵愛(ちようあい)をうけたりした。宦官は出世の道をうるための交換条件として,すすんで「男性」をかなぐりすてたのである。
女性の加入を許さない中世の厳格な教会のコーラスには,ボーイ・ソプラノ歌手は欠くべからざるものであった。ボーイ・ソプラノ歌手にするために思春期前に去勢して,声変わりを防ぐということがおこなわれ,十九19世紀の終わり,ローマ法王レオ十三13世の禁止令がだされるまで,いたいけな多くの少年の去勢がおこなわれていたのである。
思春期以前に去勢すると,性の悩みを全く感じない人物ができあがる。性に惑わない道心堅固な修道士を志して去勢手術をうけた人も多いという。こういう人々は,教会のおしえのとおりの行ないを,労せずして実行できたらしい。
しかし,このような人々のえた悟りは,煩悩のない菩提で,おそらくずい分と薄っぺらなものであったに違いない。
悩みに色どられた人間臭い悟りであってこそ,影の中に浮き彫りされたレンブラントの光のように価値あるものであるはずである。
性徴・sexual characteristics
■ 骨になっても消えない刻印
りゅうりゅうとした筋肉,広く厚い胸,ひげそりあとの青いほおなど,男性の美しさは男らしさのなかにある。
ロングビーチのミス・ユニバース・コンテストでは,目鼻だちやヒップやバストの豊かな計測値のほかに,水着に包まれた肢体とその動きがもっとも女性らしく美しくなければならないのである。
男性の男性らしい特徴,女性のいかにも女性らしい特徴のことを性徴という。男性らしい声やからだつき,また女性らしい姿態など全身にあらわれた性徴を二次性徴といい,性器そのものに関する特徴を一次性徴という。
一次,二次とも,性徴のあらわれかたはいずれも性ホルモン分泌の良否に強く左右されるものである。男性の場合,アンドロジェンが性徴発現の原動力になる。アンドロジェンの分泌がたかまってくるとヒゲがはえ,男くさい体臭ができ,声が太くなる。筋肉のたんぱく質がふえ,身長と体重が,ぐっと増してくる。
もし思春期に,結核などの病気で睾丸を失うか,先天的に発育が悪かったりすると,女性のように腰の幅が広くなり,乳房や腰のまわりに脂肪がつき,声がわりもせず,ヒゲもはえない。
女性の二次性徴の原動力は卵巣ホルモンのエストロジェンである。エストロジェンの分泌がたかまると,皮下脂肪がつき,骨盤が幅広くなり,乳房の乳管が発達してくる。
ところが男性ホルモンは睾丸だけの特産品でないし,女性ホルモンも卵巣だけの特産品ではないのである。妊娠にとって大切なホルモンであるプロジェストロンは男女を問わず副腎でできるし,睾丸でさえもできる。エストロジェンも量は少ないが睾丸の中ででもできる。
したがって純粋に男性的な要素のみの人間はいないし,純粋に女性的な女性もいないということになる。哲学者のオットー・ワイニンゲルによると,一般に男性は完全に男性的な部分αMと女性的な若干の部分αWを加えたものとして表現しうるし,女性も同様にβW+βMとして表現でき,男女間のけん引力や同性愛,倒錯愛までこの式を展開して説明できるという。
夜のまちのネオン灯の家の住人には,しばしば性徴だけでできているような「性的人間」がおり,一次および二次性徴のかけらを売り物にする。
ゲーテは「ファウスト」に「永遠に女性的なものが,われわれを高めてくれる」ということばで絶句させている。メフィストの魔力を打ちまかしてファウストの精神を天国に救いあげたものはグレートヒェンのなかにある女性の心理的な特性である。このような性の特徴を三次性徴という。
焼けたり腐ったりしてすっかり白骨になった死体がみつかると,それが男か女かということがまず問題になるが,頭骨や骨盤の骨にあらわれる男女の違いは比較的に明瞭で,まず判断を誤ることはない。人間は骨になってさえも「性」からのがれられないものなのである。
女性・female
■ 女性――くすり箱つきのからだ
女は男より長生きする。これは日本だけのことではなく,ほとんどすべての国における傾向である。わが国の各年齢での死亡率を男女別に比較してみると,どの年齢層でも女の方が低い。とくに高齢になるほど女の死亡率は低くなる。
成人病についてみると,脳卒中で死亡するのは,女一1に対し男一・〇〇七1.007,心臓病は女一1に対し男一・〇四1.04,ガンについては女一1に対し男一・一八1.18である。結核でなくなる男の数は女の二2倍半,肺炎やインフルエンザで死亡する男は女より三3割多いし,小児マヒでは五5割も多い。
どういうからだの仕組みやはたらきが,この男女の寿命の差をつくるのであろうか。
男は一家の生計のにない手として四面楚歌の職場にたち,心身を労することが多いからであろうか。一九二〇1920年フロリダ州の白人男子の死亡率は女子より一四14%高かったが,一九五〇1950年には男女の死亡率の差が六二62%にも増加している。ところがいにしえの生活様式をそのままに伝承している信仰心のあつい男女の修道僧三万七千3万7000人を対象にした調査によると,一九〇〇1900年には修道女の寿命が男の修道者に比べ,わずかに一1,二2ヵ月しか長くなかったのに,一九五七1957年には五5年九9ヵ月も長くなっているところをみると,医学の進歩には関係があろうが,生活のストレスの増大と男女の寿命差には,関連がないといえそうである。
出血や痛みのひどい外科手術にも女の方が男よりよく耐えるし,第二次大戦中,強制収容所生活の苦しさに耐えて生きのびたものも女が多かった。
女は細胞学的にみて,遺伝子をいっぱい含んだエックス染色体を男より一1個多くもっているために,血友病,色盲,アガンマグロブリネミアなど,男の悩む「性にまつわる」欠陥には決して悩まされない。
女性がめったにお産で死ななくなってから,二十五25歳から四十40歳までの年代の女の死亡率は男の半分以下になった。とくにいちじるしいのは冠状動脈の病気で死亡する率であるが,この期間では女一1人に対し男五・六5.6人が死んでいる。しかし,女でも四十五45歳を過ぎるとこの病気にかかる率は高くなるし,早く月経のなくなった人の罹病率も高い。してみると,女の長生きの原因はどうやらエストロジェンにあるようである。卵巣が活動している間,女性の全身に豊富にこのホルモンがゆきわたっている。そしてこのホルモンが血液中のコレステロールの増量をおさえ,冠動脈の硬化を防止しているらしいのである。
テストステロンが男性をかりたて,われとわが牙を燃焼させる「火つけ」役しかしないのとは大きな違いである。
高田保によれば,人類,女類,畜類と分類すべきであるというし,国木田独歩やオットー・ワイニンゲルの女性酷評論もあるが,生命を産み出すという能力は,たしかに女性の神わざである。だからこそ「女は男よりも上等の薬ばこをもってこの世にでてくる」のである。
乳房・breast
■ 魅力あふれる化学工場
生まれて間もない赤ん坊の,それも男女にかかわりなく,乳房が一円アルミ貨位の大きさにふくれて,しぼると薄い乳汁が出ることがある。ドイツ語で魔女の乳と呼ばれているものである。母親の体内にできた乳汁分泌ホルモン(催乳ホルモン)が赤ん坊に移行して,乳房を発育させるためにおこる。二2週間ほどでおさまり,その後思春期まで休止状態をつづける。思春期になって卵巣が活動を始めると,乳房がめだって発達してくる。最初は小さな突出した円錐であるが,乳腺組織が増殖するにつれて保護の役目をする脂肪もその上につき,豊かになってくる。
二2種の卵巣ホルモンのうち,エストラジオールは乳房の管系の発育と成長をうながし,もう一つのプロジェストロンは乳をつくる細胞の発育と増殖をおこす。乳首も大きくなり,乳首のまわりには乳房輪が色づき,皮脂腺が活動をはじめ,赤ん坊が乳を吸うときに乾いたり,ひびが入ったりするのを防ぐ。
赤ん坊が生まれてから二2日ないし四4日間,乳房は初乳という黄色っぽくて,ねばねばする液体を分泌する。これには緩下(かんげ)作用があり,赤ん坊の消化管から,粘液その他の老廃物をとりのぞく仕事をするし,母親が細菌と戦って獲得した抗体がその中に分泌され,全く細菌にさらされたことのない赤ん坊に,親ゆずりの抵抗力を与える。
乳はどんな生物でも,乳児の要求にちょうど合うように調合されている。たとえば,セイウチの乳は人乳の十二12倍もの脂肪を含んでいるが,これは冷たい海水の中に住むための必需品である脂肪の皮下ジャケツをつくる材料になる。子ウシは六十60日で生まれたときの体重の約二2倍になる。人間の赤ん坊の二2倍の速さであるが,この急速な成長にみあうように,牛乳は人乳にくらべ二2倍のたんぱく質,四4倍のカルシウム,五5倍の燐を含んでいる。乳房は子供の発育につれて,だんだん多い量の乳をつくり,成分もその時の発育に適したように調合のぐあいが変えられていく。
乳腺がどのようにして乳をつくり出すかは,いまだに神秘である。三十30ミリリットルの乳をつくるのに,約十二12リットルの血液が乳腺を循環する必要があると考えられている。乳の成分が血液のそれとかなり異なっているところからみても,乳房が単なるボトリング工場でなくて,特殊な合成化学工場であることが判る。乳の中の乳糖やたんぱく質や脂肪は,血液中のブドウ糖,アミノ酸,脂肪酸などの原料から,手のこんだ工程を経て作られるものに相異ないのである。
女性の乳房は昔から画家や彫刻家や詩人などによって,美の象徴としてたたえられてきた。しかし,この頃のような多種多様な代用乳房の横行や奇形的大乳房の礼讃はいかがなものであろう。乳房を,男性を魅了するための装飾的性設備であると考えるような現代の錯覚をつくりあげたのは男女いずれの罪かはしらないが,乳児の健康のためは勿論,母体のためにも,「乳児へのものは乳児へ」返還すべきものである。
体温・body temperature
■ 二重窓に囲まれたエンジン・ルーム
零下二十20度という厳冬の冬にも,三十30度に近い酷暑の夏にも,人間の体温は,外界の温度に左右されず,ほぼ一定に保たれる。人間のほか,ほとんどすべての哺乳類,それに鳥類もこのような体温の変動しない恒温動物に属する。ところがヘビ,ガマ,カエル,それに魚類や,これらより下等な動物は,外界の温度が変化すると,それにつれて体温が変化する。このような変温動物の体温は,夏は二十20度以上にのぼり,冬は零度近くにさがる。しかし,変温動物の体温は真夏でも三十30度を越えることはまずないから,触れてみると,いつも冷たく感ずる。変温動物が,時に冷血動物と呼ばれるゆえんである。
人間のからだというエンジンは運転中にかなりの熱を出す。これが体温を高めるのに役立つが,体温を一定に保つためには,必要以上の熱を体の外へ放散しなければならない。自動車のエンジンは,燃料の爆発によって動力を得るが,同時にかなりの熱が出る。この熱の一部を利用して,冬には温風ヒーターで車内をあたためるが,残りの熱は冷却水に吸いとり,冷却水がラジエーターの中を循環している間に,放熱板の間を吹く風で熱を放散させる。もし冷却水の循環が悪かったり,冷却水が少なくなっていたりすると,熱射病の時のように,エンジンが過熱してしまう。
体温が一定に保たれているといっても,産熱器械が動いている時と休んでいる時とでは若干違うし,体温を計る場所によっても温度が異なる。一日のうち,もっとも低いのは,眠りにはいってから数時間たった午前一1―五5時の間で,もっとも高いのは,午後二2―六6時の間である。しかし,最高と最低の差が摂氏一1度を越えることはまずない。
からだの部位による体温の違いをみると,頭部と躯幹はほぼ同じで高く,腕,手,大腿,下腿,足の順序に低くなる。耳たぶの温度はもっとも温度の変わりやすいところで,いつもかなり低い。熱いおなべなどをうっかり持ったあと,指先で耳たぶをおさえるのは,冷たい耳たぶで指先を冷やそうというわけである。
皮膚の表面の温度は,その場所の皮下の血管がひろがって,血液がたくさん流れているかどうかによって異なるし,外界の温度や発汗のある,なしによっても異なる。ところが,どこの場所でも,皮膚表面から二2センチ内部にはいると,直腸温に近い一定の体温になっている。つまり,からだの中心の高温層を,厚さ二2センチほどの低温層で包んだ状態になっているのである。それは,ちょうど,二重窓で室内と外界とを仕切り,室内の温度が外気で直接影響をうけないようにしているのと似たしかけである。
熱血漢といい,冷血漢といっても,皮膚の表面二2センチの部分を通り抜けると,その層の下には万人共通の体温が,いきづいているはずである。いんごうじいさんを人情家に変えたり,ヤクザな道楽むすこをりっぱに改心させるには,さほど厚くないこの殻を貫通する手がかりだけが必要なのである。
体温・body temperature
■ サーモスタットつき冷・暖房装置
自動調節器つきの暖房装置が普及してきて,小事業所や家庭にまで進出してきた。へやの温度が下がると,自動的に石油バーナーに火がついて,ボイラーをわかす。あらかじめ,温度調節器(サーモスタット)の目盛りをある温度に合わせておくと,ボイラーから供給される熱によって,へやの温度がそこまで上がると,自動的に火が消えるようになっている。近代的なビルディングでは暖房だけではなく,冷房の方も自動的で,夏,へやの温度が高くなりすぎると,冷房器がはたらいてへやの温度を下げ,はじめ目盛りを合わせたところまで下がると,器械が自然に止まる。
人間の体温も,このような自動調節器の役目をする「しかけ」で,一定の温度に保たれているのである。人間のサーモスタットは視床下部にそなえつけられている。このサーモスタットにも,体温が下がってきた時に暖房器に点火するための部分と,体温が上がりすぎた時に暖房器をとめ冷房器を始動させる部分とがある。暖房器をはたらかす部分は後視床下部の外側にあり,冷房器をはたらかす部分は前視床下部である。細菌の毒素などのためにこの部分が変調されると発熱が起る。
寒い空気が鼻から吸い込まれると,反射的に鼻腔内の空気の通り道をとりまいている粘膜の血管に暖かい血液がどんどん流入するようになり,空気取入口付近の温度をあげると同時に,鼻道という換気口をせばめ,冷たい空気を,のどの方に素通りさせにくくする。からだの表面に近い部分の血管は,いっせいに縮み,からだの内部の暖かい血液がからだの表面に廻っていって冷やされるのを防ぐ。そして,中枢のサーモスタットからの命令で,肝臓や筋肉など,ふだん熱をだしている工場に熱の増産命令がくだされる。「沈黙の臓器」である肝臓は,静かに産熱機械をフル運転させ熱をどんどん生産するが,筋肉の方は,そうはいかない。調子の悪い二気筒エンジンを空転させている時のようにブルンブルンと全身の筋肉がふるえだす。戦慄(せんりつ)というのがこれである。一方では熱の支出をへらし,一方では熱を増産し,体温があがってくる。
逆に,体温があがりすぎたばあいを考えてみよう。からだには,電気冷蔵庫の製氷室のように,低温をつくりだすところはない。ただ,からだの中でできた熱を,皮膚というラジエーターからはやく外界に放散するだけのしかけしかないのである。皮膚の血管は,広々とひろがり,からだのなかであたためられた血液は皮膚の表面にどんどん流れていって,そこで熱を外界にすてる。もし汗が出ると,この冷却の能率はさらに高まる。
情熱がもえ,「あつき血潮」がわくと,体温が上がるように感ずる。しかし,実際にからだの内部で発生する熱量は,本人が感ずるほど増加していない。ホルモンや自律神経の影響で,内部にあった熱が表面に顔を出し,表面にあった理性が内の方に押しやられるだけで,さいわい本人がりきんでいるほど,からだの方はついていかないのである。
汗・sweat
■ からだの冷却加速液
からだの中でできた熱は血液をあたため,あたためられた血液は循環によって皮膚の表面にまわり,皮膚からふく射および対流によって,からだの外へだされる。しかし,そとの温度が高かったり,運動などによってからだの中で熱がどんどんできる時には,これだけでは熱の放散がふじゅうぶんになる。夏,ビールを冷やすとき,ビールびんにぬれた布きんをかけて風通しのよいところにおくと,よく冷えるという台所の知恵からでもわかるとおり,水でぬれたものがかわく時には,気化熱が運び去られ冷えてくる。水でぬれた皮膚がかわく時に冷えるというしかたで,からだも能率よく冷却されているのである。
からだは,二つの方法で,皮膚をぬらしている。一つは,石垣のようにつまれた皮膚の細胞のすきまから,水分をしみ出させ,目に見えないていどに膚にしめりを与える。もう一つは,汗腺から,それとわかる汗として出てきて,はだをぬらすものである。
ごくまれではあるが生まれつき汗腺がなくて汗の出ない人がある。また皮膚萎縮のために汗腺が働かなくなることもまれにある。このような人々は,短時間,太陽にさらされただけで体温が四十40度以上にあがる。そして体温があがってくると,ちょうど汗腺のない動物であるイヌのように,一1分間に九十90回もあえぐような呼吸をするようになる。
汗腺には,二つの種類がある。一つはエクリン腺(小汗腺),もう一つはアポクリン腺(大汗腺)である。アポクリン腺は,汗の中に腺細胞の破片をまぜて分泌する点が,エクリン腺と異なる。哺乳動物中人間以外で汗腺をもつものは,ほとんどアポクリン腺だけしかなく,はっきりした体臭をもっている。人間のアポクリン腺はわきの下,乳房,陰部などにあり,もともとローラン送信所のように自己の存在を周囲,特に異性に知らせるはたらきをもっていたようである。
汗腺のなかには,実際「汗を流して」働いているものと,汗を出さない不能汗腺というのがまじっている。不能汗腺は,顕微鏡で構造をしらべても,なんの欠陥もなく,見たところ同じかっこうをしているのに,全くはたらきのないものである。同じ姿をしていて一方ははたらき,一方は全くはたらかないということになると,会社の中などでは,「等しからざるを憂うる」連中が,「禄盗人(ろくぬすびと)」と叫んで大騒ぎをおこしかねない。
からだや会社や大工場など,大きな有機体が運営されるばあい,ある一つの時点だけをみると,どこかの部分に,どうしても避けられない仕事分担上の不公平とひずみができる。汗腺のように,みない,きかない,いわない職員ばかりで会社を組織することは,現在では,できない相談であろうし,汗を出すことに意義を感ずる職業使命感や,全体の生命維持という至上命令をおしつけることで,この不公平を納得させるのも,むずかしそうである。しかし「左や右に片寄って,手っとり早い標語をみつけようとすることは再びすまい」と私は思うのである。
汗・sweat
■ 良心とのたたかいでしぼられる汗
涼しい夏の札幌から,ジェット機で一1時間。むしぶろのような羽田飛行場におりたつと,短い潜伏期のあと,いっせいに額から,胸から,背中から汗が流れだす。このように暑いために出る汗を温熱性発汗といい,手のひらと足のうらをのぞく全身の皮膚面からでる。周囲の温度が高かったり,筋肉運動の結果,体内の熱の発生が多くなり,このままでは体温が,どんどんあがるという感じがすると,ある潜伏期をおいて汗が出だす。この潜伏期の時間は,冬は長く,夏は短いし,人によっても異なる。出る汗の量は,やはり四季で違うし,からだの部位によっても異なり,個人差も大きい。ふつう,顔,くび,背中,手の甲に多い。
同じく汗といっても,手のひら,足のうら,わきの下の汗は,他の部分の汗と全く性質の違った汗である。先年の東京オリンピックは,さすがに各種目にすばらしい競技が展開され,テレビによる茶の間の観戦者たちも,思わず「手に汗をにぎった」。シーソーゲームをくりかえす野球を応援していて手に汗をにぎったり,お祭りの小屋がけの「おばけ屋敷」できもだめしをして,わきの下から冷や汗を流した経験をもっている人も多いことであろう。
このような汗は,精神性発汗といわれるもので,精神的に強く感動した時とか,驚いたり,緊張した時,温熱性発汗とは異なった中枢からの命令で分泌されるものである。
汗は九九99%が水で,そのほか食塩,尿素,尿酸など尿中に含まれる物質のほとんどがごく少量ずつはいっている。ちょうど尿を大量の水でうすめたものが汗なのである。
人間の皮膚の電気抵抗は,汗が出ているかどうかによって大きく変る。それで,手のひらに電極をあて電気抵抗をはかっていれば,汗が出ると,とたんに電気抵抗がさがるのではっきりそれとわかることになる。
手のひらの汗のでかたは,情動の影響を敏感にうけるから,このしかけをつけて検流計の針のふれをみていると,その人が感情を動かしたかどうかをみることができる。「うそ発見器」というのがこれである。口をぬぐってうまくうそをいいおおせたと思っていても,うそをいう時には,うそをいわない時よりも,手のひらの汗がちゃんとよけいにでて器械にはっきりあらわれるのである。
エンマさまが舌を抜こうかどうかを決めるのに使いそうな器械であるが 実際,検査される人が,精神病者でさえなければ,「うそ発見器」の示す結果は非常に正確である。つまり,だれでもうそをいうときには,自分の良心を説得するためにかなりの精神的な努力をし,情動の動きを経験しているという証明がなされたことになる。こう考えると,良心をもっていない人間はいないという医学的証明ができたといえそうである。
性善説,性悪説の論争も,うそ発見器の発見をもって終焉(しゆうえん)とみるべきか。道学者先生万歳。
細胞・cell
■ 生命の小片
大きなレンガづくりの建築物が小さいレンガの集合によってできているように,人間のからだは,顕微鏡でみなければみえない小さい細胞のおびただしい数の集合によってできている。
普通の細胞は細胞質と核および細胞膜の三3つの主要部分からできている。細胞質は,繊維状あるいは膜状のたんぱく質分子が複雑に入り組んで網の目をつくったものである。この網の目はそれ自身たくさんの工作機械(酵素)を備えた工場であるが,細胞の中の他のいろいろな工場に敷き地を提供し,また工場に原料を運び込んだり,製品を積み出したりする路線が開通している。
電子顕微鏡でみると,この網の目の上に,リボ核たんぱくの粒が小さい点としてみえる。このリボ核たんぱくは直径〇・〇二0.02ミクロン(一1ミクロンは一1ミリメートルの千分の一1000分の1の長さ)ほどのちっぽけなものであるが,細胞がふえるときに新しい細胞質を自分と同じ型に作る旋盤の役目をする重要なものである。
細胞質のこの網の目の中には,また,ミトコンドリアという〇・二0.2―三・〇3.0ミクロンばかりのイモやキュウリのかっこうをしたものがたくさんはいっている。よくみると薄い二重の膜で包まれた,サヤエンドウのさやの内部のように,内側に少なくとも二十五25種類の酵素系が並んではいっている。この酵素系は栄養素を燃やし細胞内でエネルギーを生産する仕事をしている。ミトコンドリアの数は細胞によって異るが,肝臓の一1個の細胞は約千1000個のミトコンドリアをもち,おのおののミトコンドリアにはおなじ酵素系を二千2000ももっているものがあるので,この顕微鏡でやっとみえるミトコンドリアが,実は能率のよい大化学工場の働きをしているのである。
細胞核は細胞の働きに対して総括的な統御の役目をするほかデオキシリボ核酸(DNA。以下デ・リ・核酸と略そう)からなる染色体を含んでいる。染色体は遺伝子をふくみ,その細胞から次の代の細胞ができる時,新しい細胞の構造や働きなどを決める設計者の役目をする。核の中にある核小体は細胞質中のリボ核たんぱくと同じような物質でできており,核膜にある小孔を通じ,設計者である遺伝子の命令を現場に伝える現場監督の役目をする。
細胞は細胞膜にある小さな穴を通じて養分をとり入れ,細胞の生産した製品を出荷し,工場でできた廃物をすてる。特殊な化学物質による細胞間の伝令もここを通じておこなわれているらしい。
一日のうちに,われわれのからだの細胞の総数の二2%ずつが死んで消えていき,そのかわり,毎日何千億という細胞が新しくできてこれを補っている。一番入れかわりのはげしいのは皮膚,骨髄,腸管,それに男性の性腺である。健康な場合,その他の器官ではずっと入れかわりの速度がおそい。肝臓の細胞などは一1年半もの寿命をもつ。
一千1000兆におよぶからだ中の細胞一つ一つの神秘的な働きもさることながら,おびただしいこれらの細胞を統制し生命を営んでいく機構のみごとさは,まさに神をみるここちがするのである。
細胞・cell
■ たたみこまれた設計図
肺や腎臓が左右二つずつあるのに,大切な心臓が一つしかないのはどういうわけかという質問がある。血管というパイプの配管が,今と全然別な仕方でできていれば二つの心臓でも,ぐあいよくいきそうにも思える。
しかし,実際に二つの心臓を持った赤ん坊はまず生まれない。赤ん坊が母親の胎内にいる間じゅう,母親から発育についての指図をうけるからまちがった発育をしないと考えるかもしれない。ところが妊娠の期間中母体は胎児の発育に必要な栄養を供給するが,建築単位の細胞については最初に卵細胞一1個しか与えない。たとえば血液であるが,胎盤を境に母体の血液と胎児の血液は向かい合っているが決して混じり合わないし,母体は決して胎児に「血を分け」ない。つまり母体は胎児に栄養による影響を与えても,いつ心臓をどこにいくつ作れなどという発育についての指図は全然しないのである。それでも,最初一1個だった細胞は,ひとりで分裂をつづけ,受情後九9ヵ月もすると天文学的数字にふえ,しかも成長は時計の針のように正確に進行し,心臓は一1つに,血管の配管は昔からある解剖図のようにでき上がっていくのである。
この秘密は細胞核の染色体の中にあるデオキシリボ核酸にひそんでいる。デ・リ・核酸は等間隔の横木でつながった,らせんばしごのように,二2本のからみ合ったテープ状のコイルからできている。顕微鏡でやっと見える大きさしかない人間の一つの細胞核の中の,このコイルを引きのばすと一1メートル半というものすごい長さになる。このコイルの上に,卵細胞からおとなに発育し死ぬまでの間のからだについてのすべての設計図がたたみこまれているのである。人間の一つの細胞内のデ・リ・核酸のもつこの設計図の内容を文章に翻訳し,それをタイプで打ったとすると,一千1000冊の百科事典にいっぱいになるといわれ,デ・リ・核酸が出す指令の仕事の数は七十70万件と推定されている。
ある人の細胞のなかのデ・リ・核酸は,その人のもとになった卵細胞が受精した瞬間,両親のデ・リ・核酸の中に含まれる設計図の中から半分ずつが選ばれ合体されてつくられたものである。この膨大な数にのぼる設計図の中の指令の順列組み合わせの数を考えただけでも,おそらく人間が地球上に発生して以来,全く自分と同じ人間はあとにもさきにも存在しえないだろうということが推定できる。しかも,その第一番目の細胞にもられたデ・リ・核酸中のこの全く個性的な設計図は六十60兆近い体内のすべての細胞核の中のデ・リ・核酸にその写しが伝えられていくのである。
考えてみると,母親も父親も自分の細胞核の中のデ・リ・核酸にもられた父祖伝来の設計図を子供に託しはするが,母親の胎内にいるときでさえも,親は単に栄養の供給人にすぎないのである。まして生まれ出てしまえば,子供が,親は「すねをかじらせる」器械としか考えないのもやむをえない生物学的必然なのかも知れない。
酵素・enzyme
■ 「生命のもとなる酵素」
実験室でひときれの肉を消化して,その構成分のアミノ酸にまで分解するには,肉を濃い酸の中で,まる一日煮るというような化学操作を加えなければならない。ところが,からだの中では,酵素が同じ仕事を二2,三3時間で,しかも摂氏三十七37度という低温で,しあげてしまうのである。
からだに入った栄養物は,口を通り,胃腸を通るうちにたくさんの種類の酵素のはたらきで消化され,体内にとりいれられ,蓄えられる。蓄えられた物質は,種々の酵素のはたらきによって「生命の火」の燃料になり,燃焼によってできたエネルギーは,こんどはアデノシン三燐酸(ATPと略称される)として貯えられる。心臓が脈をうちつづけ,呼吸を続けることができるのは,酵素の仲介によって,ATPが筋繊維にエネルギーを供給するからである。
神経の末端や神経と筋肉の接続点で,ごく微量のアセチール・コリンが放出されることによって,神経の中を通ってきた情報が接続点を越えて,次のノイロンに移ったりその作用をあらわしたりする。このような重要な役割をしているアセチール・コリンではあるが,役目がすんだら,即座に壊して「御役御免」にしてしまわなければ,心臓などに致命的な副作用をおこすのである。チョンマゲ時代に,お城の秘密を作った棟梁がお城の完成と同時に殺されたように,首切り役をする別な酵素がやってきて,何十分の一秒という短時間の間に役目のすんだアセチール・コリンを分解してしまう。
酵素とその酵素の作用をうける物質とは,鍵と錠前のように専門があり,専門の対象にだけはすばらしい作用をあらわすが,ほかの基質には知らん顔をしているのが特徴である。アセチール・コリンを合成する酵素とアセチール・コリンを壊す酵素とが隣り合せにいても,自分の専門のこと以外には決して手をださないのである。したがって,非常に複雑な化学反応の組合せで支えられている人間のからだには,既知のものだけで六百五十650種もの酵素があり,おそらく,まだまだたくさん発見されるはずである。
酵素はこのように,生命を代弁するようなはたらきをしているので,パスツールのころまでは「生命なしに醗酵なし」といわれ,醗酵のような酵素による化学変化は,すべて生きものによってのみ起ると考えられていた。ところが,一九二六1926年,ナタマメからウレアーゼ(尿素酵素)が化学的に純粋な結晶たんぱく質の形でとりだされてから,酵素も純粋な化学物質であることが証明されたのである。すでに,いままでに約百種類の酵素が,純粋な結晶の形でとりだされている。
ある種の酵素がなくなったり,欠陥があるために起る病気が知られている。ある遺伝子の不完全さが,それに由来する酵素を不完全にし,そのために病気が起ると考えるのである。生命のない幾百種かの酵素がよりあつまって,「生命の火」を燃し,酵素の不完全さが「生命の火」を揺がせて病気を招くのである。
遺伝・heredity
■ 未来永劫に生きる形質
大学卒業の前後十10年あまり,私は,汽車で一1時間ばかりの距離を大学に通っていた。四4人一組のボックスの向いがわに,仲むつまじい夫婦と子供が並んで坐っているようなことがよくあった。当時,親子間の耳殻の形の相似に興味をもって調べていたが,子供の耳は父親と母親の形のそれぞれに瓜二つ位に似ていながら,少しの矛盾もなく小さい一組の耳の形におさまっているのである。
親にあった特徴が子に伝わることを遺伝という。おそらく大昔からたくさんの人がこの事実に気がついていたに違いないが,遺伝が何によって,そしてどのように子供に伝わるかということが,科学的にとりあげられたのは,近々百100年ほど前のことである。そしてそれが遺伝学という学問の形になったのは,その後さらに三十五35年たった「メンデルの法則の再発見」以来のことである。人間の細胞の中にある四十六46個の染色体は形,大きさのほぼ等しいものが対をつくっている。そのうち一方が父親の精子に,一方が母親の卵子に由来するもので,この染色体の中に,両親の遺伝的な特徴がすっかりたたみこまれているのである。ただし,男子の一組の染色体だけは対になっていない。つまり,すべての染色体が形,大きさとも対になったばあい女子になり,二十二22対は対になっているが,一組だけ対になっていないばあい男子ができるのである。
両親の一方の髪の色が黒く,一方が金髪とすると,子供には黒い髪の遺伝子と金髪の遺伝子が染色体の中に入ってくるが,実際,うまれる子供の髪の色は黒い。つまり,子供にあらわれる一つの特徴について,両親から遺伝される遺伝子が相互に異なっているばあいには,どっちか一方しか表面にでないのである。表面に現われる特徴(形質という)を優性といい,隠れてしまう形質を劣性とよぶ。優性とはよぶが,黒い髪の方が金髪より上等という意味ではない。真っ直ぐな髪の毛は,ちぢれたり,ウエーブした毛より劣性であるし,目の色は黒,茶,灰,緑,青の順に劣性になる。
一重(ひとえ)まぶたと二重(ふたえ)では,二重が優性,まつげは長い方が優性,高くて幅のせまい鼻は,低くて広い鼻に対して優性に遺伝するので,まつげが長く黒い瞳で鼻の高い美男・美女がだんだん地球上に多くなっていくわけである。
似たもの夫婦で,まつげの短いもの同志,鼻の低いもの同志が結婚すると,まつげが短く,鼻の低い子供が生まれる。両親がまつげが長く鼻が高くてもその子の二組の祖父母のおのおの一方が,まつげが短く鼻が低いと,まつげが短く鼻の低い子供が四分の一4分の1の確率で生まれる。ごく稀ではあるが親になかった形質が突然子供にあらわれることがある。突然変異といわれるものである。突然変異によってできた「親に似ない鬼子」の形質も,その次の代から遺伝されるようになる。
こう考えてくると,いまここに立っている一人の人間の背後には,縦につらなる古い古い先祖の歴史が,文字通り脈々と伝わっているのを感ずるのである。「戯れに恋はすまじ」。
皮膚・skin
■ いつも新しい皮ぶくろ
新約聖書マタイ伝の「新しい酒は新しい皮ぶくろに」という言葉の通り,日進月歩をつづける人類はいつでも新しい皮ぶくろにおさまっている。去年の皮膚(表皮)を現在そのままかぶっている人間は一人もいないはずである。
表皮の内側の円柱細胞層がときどき分裂して新しい細胞をつくり,それが数週間かかって表皮の表面へゆっくり押し出されてくる。この細胞が,いよいよ皮膚の表面に近づくと,細胞としての命が失われ,角質化して,二十20枚ほどつみかさなり,外側から次第にあかになって知らないうちに落ち,ころもがえされることになるのである。
先端のごく細いものでさわったり,刺したりして調べてみると,一1平方センチメートルの皮膚の広さの間に,痛みを感ずる痛点は約百100―二百五十250,さわるのがわかる触点は約二十五25,冷たさのわかる寒点は六6―二十20ヵ所,暖かさのわかる温点は三3つぐらいで,その場所以外は感じがない。この感覚点の数は部位によって異なるが,ヘレン・ケラー女史の触覚のように訓練によって鋭くとぎすますことができる。感覚点の皮下にはそれぞれ異なった形の感覚の受容器があり,一つの受容器からは一つの神経径路が開通していて刺激がそのまま大脳皮質に伝えられるために,目をつぶっていても,どの部分の皮膚が刺激されたかすぐわかるようになっている。このようにしてできあがる感覚であるが,やはり錯覚はある。アリストテレスの豆と名づけられた実験で,目をつぶって,人さし指と中指を交差してその間に豆をはさんで机の上で動かしてみると一個の豆を二個のように感ずる。
なかみの六〇60%以上が水であるわれわれのからだを包み・乾上ることを防いでいる完全防水の被覆が皮膚である。自動車のラジエーターのように肉体というエンジンの過熱をふせいでいるのも皮膚の表面と,そこに数多く分布している汗腺(かんせん)である。
皮膚の毛にはごく微細な筋肉(立毛筋)がついており,寒くて鳥はだになっている時とか,恐ろしくて総毛立ったという時にはこの立毛筋が収縮し,毛をひっぱって直立させる。
人の年齢は皮膚に刻まれるといわれる。赤ん坊はみずみずしい繊細な皮膚をもっているし,青年の皮膚は無数の弾性繊維による張りと,皮脂の適当なうるおいで,生気がみなぎっている。結婚直前のおとめのやわはだはホルモン分泌の高潮の中で輝くばかりの美しいうるおいをおびる。老人の皮膚は,皮脂の分泌がへって,乾き,たるみ,肉体年齢を示す尺度になる。
皮膚の色は表皮中の有棘(ゆうきよく)細胞層と円柱細胞層に含まれるメラニン色素の多少によってきまる。全身の総量でわずか一1グラムのメラニン色素が,黒人種の皮膚と白色人種の皮膚との差をつくるのである。しかも,この色素の量の相違は,その人間の精神の美しさや体力の優劣などとは無関係に,人間のあいだの根強い愛憎を左右し,アンクル・トムの悲劇の原動力になるのである。
毛・hair
■ 不思議な力をもつ皮膚の附属品
毛は哺乳動物に特有な皮膚の附属品で,発生学的に表皮からできてくるものである。
人間のからだの表面には,ほとんど全身にくまなく約五十50万本の毛が生えている。しかし,全く毛の生えないところもある。手のひら,足の裏,指の屈曲面,指の末節の背面,くちびる,亀頭,陰核,包皮内面などである。
ちょうど,長靴をはいてやわらかい泥の中に足を埋めたような恰好に,皮膚にさしこまれているのが毛である。長靴が毛嚢(もうのう)で,中の足が毛という配列になっている。長靴の踵とつまさきの間のくぼみに,ふまれた泥の部分にあたるところが,毛乳頭である。この毛乳頭で新しい細胞がつぎつぎにでき,古い細胞を毛嚢の方に押しあげる。押しあげられた細胞は角質化の過程を経て毛に変っていく。つまり毛乳頭が,毛の発生,生長を支配する。毛を無理にひっぱると,毛根に白いものがついて抜けてくるが,それが毛嚢の一部である。
皮膚の表面にでている毛の部分を毛幹という。毛幹を顕微鏡でみると,毛小皮という鱗片が屋根の瓦のように重なりあっているのがみえる。毛髪を手掌上にとり,その上を軽く指先でおさえて左右に動かしてみると,この瓦の重なりを下からすりあげるようにした時だけ動くが,上から下にこする時には毛髪は動かない。瓦は毛根から毛さきの方にむかってふかれているから,指について移動する方向が毛根側ということになる。毛小皮の下に紡錘形の角化細胞からなる毛皮質という層があり,メラニン色素顆粒と多少の気泡が含まれている。
毛髪の中心は毛髄質で,二2―三3列の多角・球形細胞からできている。この細胞内にも微量のメラニン色素顆粒や気泡が含まれる。
毛の色は毛皮質および毛髄質内にあるメラニン色素顆粒の量できまる。色素がなくなると灰白色になり,気泡が増加すると銀白色になる。
毛には一定の寿命があり,寿命がつきると毛嚢は萎縮して休止期に入り脱毛する。頭髪は三3―五5年,まつ毛は三3―五5ヵ月で生え代る。頭皮の毛嚢のおよそ九〇90%が働いており,一〇10%が休止している。ところが体の他の部位では,その反対で,休止している毛嚢の数の方が多い。
毛の役目の第一のものは体表面の保護である。わきやビーナスの丘の毛は,摩擦による皮膚の損耗を防ぐのに役立っているし,頭髪も,擦過する力に対してはかなりの保護作用をもっている。まゆ毛は目に汗の入るのを防ぐし,鼻毛,耳毛,まつ毛等は塵埃や虫の侵入を防いでいる。口ひげ,あごひげなどは男性の性徴をほこる装飾である。
「女の髪の毛は巨象もつなぐ」といわれているが,たしかに緑したたるばかりの髪の毛は,女性の魅力の重要なポイントで,男性の心を強くつなぎとめるものである。実際にも毛髪でつくったロープはすこぶる丈夫で,昔,京都東本願寺の棟上げが,ほかの綱では切れてどうしても成功しなかったとき,北陸女性の髪の毛のロープを使って,はじめて成功したということである。
骨・bone
■ 鉄より丈夫でながもちする心棒
骨格は,からだの支柱として実に能率よくできている。大腿骨や脛骨などの長管状骨は,竹の幹のように中空である。中空の方が,同じ重さの「むく」の棒よりも支持力が強いという原理にかなっている。
骨の表面の硬くて密なところを緻密質(ちみつしつ)といい,緻密質の内部の海綿様の構造のところを海綿質というが,海綿質をつくる海綿小柱の配列の方向が,力学的にもっとも支持力を強くする方向だそうである。レントゲンでみると,海綿小柱は,近代的な橋梁の橋げたのように美しい曲線をつくって並んでいるのをみることができる。このような精巧な力学的構造のために,骨は同じ重量の鋼鉄製の支柱よりも強いということになるのである。
からだの支柱としての骨格には,軽くて丈夫ということのほかに,さらに二つの難問が課せられている。一つは成長の問題であり,もう一つは自在な可屈性保持の問題である。人のからだは,昆虫のように脱皮できないから,からだが成長するに従って骨も成長してもらわなければならないのである。骨に対して,一方では頑丈な支柱としての役目を要求しながら,他方では成長に合せるという幅のある性質を要求するのである。
両親に庇護(ひご)されて,危険にあうことが少く,体重も軽い乳幼児期には,将来の骨の大部分はまだ軟骨の状態にある。からだの発育と,その骨に対する力学的要求に合わせ,発育の邪魔にならない部分から,少しずつ硬い骨に化骨していく。さらに,長管状骨のばあいは,ちょうどシールド工法でトンネルを掘るときに,掘進してはシールドをのばしていくように,長管状骨の両端にある骨端線で新しく骨を作っては,古い骨にたして長さを増すという方法をとるのである。
骨の支柱に可屈性を与えているのは関節であるが,関節の構造と靭帯(じんたい)・筋肉の張力のたすけによって,実に巧妙に支柱としての力を弱めずに,自在な可屈性をうることができるようになっている。重い頭をのせる第一頸椎(けいつい)は,地球を支える巨人になぞらえてアトラスとよばれるが,第二頸椎と共に,頭の荷重に耐え,しかもじゅうぶんな可動性を確保するという実に見事な構造をもっている。
脊椎骨の間には,椎間板(ついかんばん)という弾力性のあるクッションが挿入されているし,脊椎全体が弓なりのバネになっていて,重い頭をのせ,とんだりはねたりすることによる衝撃を吸収する。バネのアーチといえば,足の裏にも骨と靱帯による見事なのがついている。
骨は,地上でもっとも「ながもち」する物質の一つである。湿気におかされる鉄や,風化に弱い石などより,はるかに変化をうけにくい。十10年以上も前の殺人事件が,ひょっこり土中から出た白骨によって明るみにで,時効前に犯人があげられたという話も,耐久性の強い骨のおかげであるし,百100万年も前の原人の骨の化石が出土して,人類の祖先の研究が進んだりするのも,驚くべき骨の耐久性に起因するものである。人は死して,少なくとも骨を残すのである。
骨・bone
■ 多忙な生きている支柱
建築中のビルディングの工事をながめているのは,なんということなしに楽しみなものである。クレーンが鉄骨をまきあげる。声高に合図をしながら,それを所定の場所にすえて,リベットを打つ。赤色の鉄骨の構造ができあがってコンクリート流しが始まると,日一日とビルディングらしい容姿になってくる。ビルディングが完成すると,もう,中の鉄骨をみることができないために,コンクリートの衣の中で支柱としての役目を果している鉄骨のことを忘れてしまいそうである。
ためこんだ金の利子で食べている隠居のように,何年も前に骨細胞の分泌物でつくった骨組を不動産のように賃貸しして,無精をきめこんでいるのが骨格であるなどと思われがちである。ところが,どうしてどうして,骨はからだじゅうで,もっとも忙しく活動している器官の一つである。
血液の中の赤血球は,酸素の運搬者として,生命を左右する重要な役目をもっているが,寿命が短いために,毎分平均一億八千1億8000万個ほどの赤血球が死滅している。若くて健康な赤血球を造って,だめになった選手と交代させているのが骨なのである。赤血球をつくるのは,骨の中空の部分をしめる骨髄であるが,もしそのはたらきが弱くて,新しくできる赤血球数が少くなると貧血が起り,ひどくなると命とりになる。
外敵である細菌の侵入に対して,身を挺して戦う白血球をつくるのも骨髄であるし,血管の破綻を補修し,血液の凝固をすすめる血小板も骨髄工場で,日夜をわかたず製造されているのである。
骨には,からだの中にあるカルシウムと燐の大部分が含まれている。カルシウムは,血液の凝固,筋肉の収縮,心臓の拍動,自律神経系のはたらきを進行させるのに,必須のものであるが,骨はカルシウムのホメオステーシスによる出納を調節する銀行の役目をしている。カルシウムが食物からとれないと,預金をしないで銀行の蓄え分をおろしたときのように,骨のカルシウムがへって柔かくなり曲ったりする。
骨には想像外に多数の血管が出入りしているために,血液と接触している骨の面積は莫大な広さになる。この広い面積から造骨細胞が骨成分を汲みあげて骨形成をすすめる一方,破骨細胞が既設の骨をこわすという作業が休みなく続けられ,新しく吸収されたカルシウムが骨銀行に預金されて沈着し,古くから骨についていたカルシウムが払い出され回収されるということを繰返しているらしいのである。
放射性のカルシウムや,燐やストロンチウムがからだの中に入ると,普通のカルシウムや燐のように骨組織の中に沈着し,いつまでも放射能の害毒を生体に与える。
「恨み骨髄に入る」というのは,恨みがもっとも深刻であるという表現であるが,核爆発実験に派生するストロンチウムなどの放射性物質は,骨組織の中に入りこんで,飽くことを知らない人間の欲望への恨みを,骨髄に向って訴えつづけることになるのである。
筋肉・muscle
■ 自家充電装置つき電池で起る躍動
からだのあらゆる動きの根源になっているものは,筋肉の動きである。そして筋肉の動きのもとになっているのは,筋肉の細胞単位である筋繊維の収縮である。
筋繊維は幅五十50ミクロン,長さ五5―十二12センチメートルの細長い細胞で,これがたくさん集って一つの筋肉ができあがっている。
筋繊維の中で特徴的なのは筋原繊維で,電子顕微鏡でみると,多数のフィラメントの集合からなり,各フィラメントはさらに鎖状たんぱく質の束からできているのがわかる。このたんぱく質がアクトミオシンで,これが収縮単位である。
アクトミオシンにアデノシン三燐酸(ATPと略称される)という化学物質を加えると,強い収縮が起る。アクトミオシンはゼリー状の物質として試験管にとりだすことができるから,この収縮は試験管内で立派に再現できる。生きものだけにしかないと考えられていた「運動」を,人工的につくれるのである。
筋肉というエンジンで使われる燃料としてのATPエネルギーは,ATPが高エネルギー燐酸結合を一つはなしてADPという物質になることによって,あがなわれる。ところが,「燃えかす」のはずのADPは,クレアチン燐酸の供給する燐酸をもらって,すぐまたもとの燃料に復活するのである。つまり,クレアチン燐酸がある間は,ADPはすぐATPに戻って燃料としての力をもちつづけるのである。
ところが,ATPでアクトミオシンが収縮するのも,ADPがクレアチン燐酸のおかげでATPに復活するのも,全く酸素を必要としないのである。それでは運動したときにはげしく呼吸をして,酸素をさかんにとり入れようとするのは,なんのためかということになる。実は,筋肉の中で,グリコーゲンやブドウ糖を酸素で燃してエネルギーを発生させる別な道があるのである。このような燃焼によってできたエネルギーはATPという形で貯えられ,さらにクレアチン燐酸として貯えられることになる。いろいろな仕事やらアルバイトをして結局,貨幣という形でその成果を蓄積しておき,社会のいろいろな機構を動かすのに,その貨幣を使うというのと同じである。
つまり筋肉は,全く酸素がなくとも,ATPやクレアチン燐酸というエネルギーの貯金で,とりあえず動くことができるが,早晩,ブドウ糖などを燃焼させるという方法で,また預金をしておかなければならないのである。
百100メートルなどの短距離競走では,ほとんど呼吸をしないで走りきるらしいが,マラソンとなるとそうはいかない。一方で筋肉へのエネルギーをつくりながら,一方でそれを消費するという出納の平衡を,どれくらいうまくとれるかが,長続きできるかどうかの分れめになるのである。定年は昔と変らないのに,寿命は長くなる一方ということになると,余生のマラソンにも,貯金や一時金だけでなく,エネルギーを生産する道も考えないわけにいかないのである。
筋肉・muscle
■ 人さし指が動くまで
オーストリアのフェルディナント皇太子にむかってピストルの引金を引いたセルビアの一青年の,人さし指の筋肉の動きが,バルカンの一角から世界中にむかって戦火をひろげ,ついに第一次世界大戦をひきおこすきっかけになった。一つの小さな筋肉の動きが八百五十850万人の死者と,二千2000億ドルの戦費を空費させることになったのである。
考えてみると,人間の一生の間,なにをするにも筋肉は実に重要な役割を演ずるものである。
母親の胎内で成長した子供が,月みちてこの世に生まれでるのは,子宮の筋肉が収縮し胎児をそとへおし出すからである。逆立ちしたままでたべても,食物が胃に送られるのは食道の筋肉のはたらきであるし,ベルト・コンベアのように消化,吸収の歩みに合せて,食物を胃から腸へ,腸から外界へと送るのも胃腸の筋肉である。空気を肺に出し入れし,腎臓から尿をうまく体外に排泄できるのも,やはり筋肉の力である。笑いも,涙も筋肉のはたらきではじめて可能になるし,心臓の筋肉のはたらきが生を可能にしている。
からだのなかの筋肉には三3つの種類がある。一つは,胃腸や,胆嚢(たんのう)や膀胱(ぼうこう)にある筋肉で,平滑筋といわれるものである(本書の消化器,泌尿器の項を参照)。次は手足を動かす横紋筋で,自分の思うままに動かすことができる。第三のものは心臓の筋肉で,構造上,前二者の中間に位するものである(本書の心臓の項を参照)。
例をピストルの引金を引く指の運動にとって考えてみよう。
まず,大脳皮質で,引金を引くべきかどうかについて,善悪,利害得失などについていきつもどりつの思案をする。その結果,引金を引くべしという決定がされると,左大脳半球の前中心回にある右人さし指の最高運転司令部の神経細胞から,命令の信号が発せられる。信号は錐体道をかけおり,延髄のところで右側に切りかえられ,右側の脊髄の前角細胞のところまでいく。そこで尺骨神経と正中神経にいく神経細胞にうけつがれて,命令は現場にとどけられる。
人さし指を前後から,ちょうどテントの支柱を二2本の綱で引張って固定しているように,横紋筋の腱というひもが,引張りあっている。指を曲げるためには,曲げる方のひもを引張ると同時に,つっぱっている反対側のひもを緩めなければならない。つまり深・浅の指屈筋と虫様筋が収縮を起し,固有示指伸筋,総指伸筋がゆるむと,人さし指はまがってくる。こう書くと,指をまげるという運動に,ずいぶん複雑な手続きがいりそうな錯覚を感ずるが,実は,運動神経の中を信号が伝わる速度は,一1秒に三十30―百二十120メートルであり,筋肉の中を収縮の波が拡がる速さは毎秒三3―十五15メートルという速さである。
大脳があさはかな決定をし,運動神経に命令を伝えてしまうと,すぐに筋肉は実行に移してしまい「後悔先にたたず」ということになるのである。断行の前に熟慮を必要とするゆえんである。
手・hand
■ 造物主の機械工学上の傑作
子供の頃,暮や正月に台所で鶏を料理しているのをみていて,よく,切った鶏のあしをもらったのを覚えている。切口にみえる紐のようなものを引張ると,爪のはえた指がのびたりちぢんだりして面白く,小さなリモコン装置の玩具として結構楽しめたものである。この細い紐が腱である。人間の手や指を動かす筋肉も,大部分は前腕にあって,指の先とは腱だけでつながり,筋肉が縮むと腱が引張られ,あやつり糸で動く人形のように指が動くのである。もし筋肉が,動かすべき指に直接ついていたとすると,現在の何倍も太い指になり,動かそうとしても,指がお互いにぶつかりあってとても器用に動かせなくなるはずである。手は小さな骨がぎっしりつまってできている。手首に八8個,手のひらに五5個,手の指に十四14個の骨がある。これらの骨は,それぞれ特有な関節面をもって,相接し,強靱な靱帯によって,結びつけられている。
ペンをにぎって,字を書く動作を考えてみても,親指,人さし指を主とし,手首,腕,肩を協調して動かすため,三十30以上の関節と五十50以上の筋肉の連繋動作がおこなわれるのである。かようなデリケートな運動によって字が書かれるために,書かれた一つ一つの字に,はっきりした個人差がでてくる。二人の人が同一筆跡である可能性は,六十八68兆回に一1回しかないと計算されている。筆跡鑑定とか,承認のしるしとしての署名が有用な所以である。
親指は,他の四4本の指とは無関係に動き,すべての指のうちで,もっとも忙しく,もっとも重要なものである。親指は他のどの指とでも向いあわせて,つまんだり,つかんだり,しぼったりできる独得な能力があるため,親指が健全で,そのほかの指一1本があれば,指のはたらきの多くのものを代行することができる。手のひどい怪我のばあい,外科医はなんとか親指を助けようとする。生命保険会社でも,傷害の特約をすると,親指と人さし指の損失に対し,保険金の全額の五分の一5分の1を支払うことになっている。命の五分の一5分の1の値段である。
力が強いことからいうと,普通,中指がもっとも強く,ついで人さし指,くすり指,小指の順になる。運動の敏速なのは人さし指と中指である。ピアノでトリルを弾くとき,あまり上手でない人でもこの二2本の指だけは速く,なめらかに弾くことができる。ピアノの名手の飛ぶように動く指先は一1秒間に百二十120の音符,つまりそれぞれの指で一1秒間に十二12回鍵盤をうつことができるという。
マジックハンドというのがあって,かなり細かい動作ができるし,筋肉の動作電流でマイクロモーターを運転する人工義手もできたと伝えられるが,人間の手ほど強力で完全な道具をつくることは,機械工学的なアプローチでは,月にいくほど難しいことだそうである。まして日本舞踊にみる,流れるような「精神内面の手による表現」ということになると,人間の肉体でなくてはまずできないことと断定できるのである。
手・hand
■ 人間全体の総代
運転手,騎手,投手,捕手,はたらき手など,手がからだ全体を意味するばあいが非常に多い。たしかに手は,作業をしたり,芸術作品をつくったり,感情を表現したり,愛したりという人間的な行動のほとんどすべてに,主要な役割を果している。どこかを,からだの総代に選ぶとすれば,やはり手か口が選ばれるということであろう。
多くの国で,手をにぎりあうのは,信頼,愛,および友情の表現であり,こぶしをにぎるのは,気力や決意の強烈な表現である。今は昔,見合の席で女性が畳のけばをむしっていたというのは,全く受身の立場にたたされた女性の所在ない気持の表現であろう。
大脳皮質の前中心回にからだの各部分の運動を司る最高司令所が目白おしに並んでいる。ちょうど,自治省などに各府県別の係りがあり,自治省の中では,北海道の係りと青森県とか岩手県の係りが隣りあって並んでいるようなものである。自治省の方針はその係りを通じて各府県に伝えられ,実行にうつされる。
大脳前中心回にある手に対する司令所の広さは,ほぼ胴体全部に対する司令所の広さに等しい。ことに親指に対する司令所は,ほぼ大腿・下腿・足の全部に対する司令所を合わせたほどの広さがある。手や指の重要性に対する,からだとしての評価が,大脳における司令所の占有面積の広さの大小にあらわれているものであろう。
指先や手のひらには,特別な感覚装置がそなわっている。とくに指には,郵便切手よりも狭い面積に数百万個も含まれている。特有なのはパチニー小体とよぶ黄色・卵円形の,圧力を感受するしかけである。全身にあるパチニー小体総数の四分の一4分の1近くが指と手のひらに分布している。人さし指には,とくに豊富で,圧の感じに非常に敏感である。盲人が点字を読むのに,好んでこの指を使うのは,この指がその目的にもっとも有能だからである。指先にある皮膚のひだの模様が指紋であるが,これは万人不同,終生不変の個人認識票である。計算によると六百四十640億人に一1回の割に同じ指紋があるといわれているが,十10の六十60乗回に一1回という数字をあげる学者もいる。泥棒や強盗犯の認識票として役立つばかりでなく,ある種の遺伝性心疾患や特殊な眼や精神病の患者をみつけだすのにも有用らしい。
人間のたどるべき運命の筋書きが,手のひらに手相という特別な暗号で書かれていると信じている人々がいる。
古代インドに始まった手相による吉凶の占いや運命判断は,ギリシャ,エジプトさらに周の時代中国にも渡り,全世界にひろがった。夜の街角にあんどんをかかげ,天眼鏡をかまえた「手相見」先生に,真剣な相談をもちかけるのは苦境に悩む人々である。中世の暗黒時代にも手相占いが流行した。
働けど働けど幸福がやってこないと「じっと手をみ」つめるようなことになり,手相を考えるにいたるということなのであろう。
脂肪組織・fat tissue
■ エネルギー銀行
必要とする量より余計に,エネルギーがからだの中にとりいれられると,あまったエネルギーは脂肪という形で脂肪組織内にたくわえられる。人間が幾日も食事をしなくても,餓死しないのは,「エネルギー銀行」にたくわえた脂肪が利用できるようになっているためである。
からだの成分のうち,エネルギーに転換しやすい炭水化物の貯蔵量は,成人男子の全身の組織と体液の分を総計しても,八十80グラムに満たない。この量をカロリーに換算すると,「あんぱん」一個分にみたない程度のものである。
ところが脂肪は,非常に太った人のばあい体重の半分にもなりかねないし,このくらいの量の脂肪は,たとえ絶食して水ばかり飲んでいても一1ヵ月半の間,生命を保てるほどのカロリー源になるのである。実際,クマは秋にどっさり食べて脂肪をつけ,冬眠にはいると,なんにも食べないで春まで生きている。食糧や水のない砂ばくを旅行するラクダのコブも,その中はほとんど純粋な脂肪である。妊娠,分娩(ぶんべん),育児など,自分一人のからだだけでなく赤ん坊の分までみなければならない女性には,当然かなり余裕のあるたくわえが必要である。豊かな皮下脂肪によるまろやかなからだの線が女性らしさの特徴になっているのは,このためである。
脂肪をたべると腸から分解吸収された後,からだのなかで簡単にすぐまた脂肪に合成されるが,イモ,カボチャ,おしるこなど油気のないでんぷんやブドウ糖からでも,からだのなかで脂肪がつくられる。石焼きいもやに集まる頬の赤い娘さんたちが,気はずかしげに,そっとそでの下に焼きいもをしのばせていくのも,「カラ党」なら卒倒しそうな甘いおしるこを,女学生たちが事もなげに平げるのも,実は自然の摂理に従っているのである。
脂肪組織は「エネルギー銀行」の役目のほかに,フォームラバーのパッドのように外界よりの衝撃から血管や神経を守るはたらきもするし,からだの熱を外部に逃がさないための断熱材のはたらきもする。いわば,人間は皮膚の下にもう一枚上等な脂肪の下着をきているのである。冬は暖かくていいが,夏,運動をして体内の温度が高くなると暑くてたまらないということになる。
みたところじょうぶそうな五十50歳の人は,今後二十20年近く生きられる見込みがあるが,からだに脂肪がつきすぎて太っている人は,統計上その可能性が三〇30%ほど少なくなるといわれる。太った人は,錘(おもり)をからだの中にいれて,どこにいくにも持って歩いているわけであるから,からだのいろいろなしかけを損耗しやすい。太った人は,やせた人にくらべて三3倍以上も高血圧症にかかりやすいし,心臓の冠動脈の病気になる率も二2,三3倍高い。糖尿病になる率は四4,五5倍高く,大手術をするときの危険性も二2倍ないし四4倍多い。
食事をとりすぎて太り,寿命を短くしている人は,まさに自分の歯で自分の命をかじりとっているのである。
抗菌・antibiotic action
■ 信頼するに足る堡塁と自衛軍
ばいきんノイローゼというのがある。外出して帰ってくると,うがいをする。手を消毒薬でなんども洗う。人からもらったものは太陽に何時間もさらしたあとでないと手をふれないという人達である。
たしかに,人間は細菌でとりかこまれている。手の表面には,間違いなくすごい数の化膿球菌がついている。じゅうぶん煮ない限り食物には,いろいろの雑菌が,たしかに入っているはずである。
ばいきんでとりかこまれているわれわれが,特に消毒もしないで食べたり,からだに触れたりしているのは,命がけの賭をしているようにみえるかもしれない。しかし,昨日も一1昨日もそうであったように,おそらく大丈夫であろうという漠然とした感じで,たいていの人は暮している。
口から入った細菌は,唾液の中に含まれる抗菌性の成分に,まず攻撃される。食物につつまれて,のみこまれた細菌は,胃の中で強い胃酸にあって殺菌されてしまい,生きたまま腸に達する細菌はごくわずかになる。
腸の中では,いろいろな消化液が大斧をふるって細菌を追い廻し,腸管内のリンパ組織も細菌に捕捉殲滅(せんめつ)戦をいどむ。大腸のなかでは,大腸菌のような「御用細菌」が縄張りをはっていて,ほかの細菌の繁殖を許さない。
鼻から入った細菌は,鼻腔内の複雑な道を通っていくうちに,はえとり紙にひっついた蝿のようにとりおさえられ,そとに向かって押送されて間もなく鼻くそにまるめられてしまう。そこをなんとか通りぬけて気管にはいっても,繊毛運動で運転されている粘液のベルト・コンベアにつかまり,そとの方に向かって送り出され,間もなくせきばらいで口の外に出されてしまう。細菌が皮膚や粘膜の傷から,からだの中に侵入したらどうなるであろうか。条件のよいところで細菌がふえるときには,二十20分毎にねずみ算でふえるから,七7時間以内に百100万にふえ,翌日には幾千兆にもふえる。
しかし,からだは,そんなに細菌の思うようにふえさせはしない。まず細菌の入りこんだところに炎症という戦いを起し,味方の遊撃軍である白血球が細菌の橋頭堡に向かって攻めこむ。白血球は侵入した細菌にするすると近づき,ゼリーのような自分のからだを細菌のまわりに流し,細菌をとりかこむ。そのうちに,白血球のからだにポカッと穴があき,自分のからだの中に細菌をとりこんでしまう。もし白血球が細菌との戦いに手をやいていると,巨大食細胞という大型細胞が出てきて,細菌をとりいれた白血球ごとたべてしまう。戦いが一段落すると白血球も,巨大食細胞も,細菌のかけらも,すべてリンパ系の水路に流され,そこを流れていくうちに,塵埃処理をしてくれるリンパ組織に捕捉され,始末されてしまう。
からだには,いまの国際情勢と同様外憂は絶えないが,外敵を防ぐ堅固な堡塁と勇敢な兵隊がいる。細菌ノイローゼの君よ,味方を信ぜよ。しからば救われん。
免疫・immunity
■ 自然治癒力の大立者
はしかや猩紅熱(しようこうねつ)に一度かかって治ると,もう二度とかからないが,このように,感染する病気から免除されている状態を免疫という。赤痢菌やリン菌のような人間の伝染病菌をいくらイヌやネコにうつそうとしても決してうつらない。
動物の種類や種族によって,生まれながらに,ある感染症から免除されているばあいを自然免疫という。それに対し,一度かかったり予防注射を受けたために,二度とその病気にかかりにくいという形の免疫を獲得免疫という。同じ感染症に二度かからなくするのは,主としてからだの中でできる抗体のはたらきによる。たとえば猩紅熱にかかったとしよう。最初猩紅熱の病原菌である溶血性連鎖状球菌(溶連菌)が侵入したとき,からだの自衛基地にある抗体製造工場は,まだ,その病原菌に合う抗体のつくり方をしらない。なにしろ,抗体は菌と割符を割ったようにぴったり合わなければならないから,新しく侵入してきた菌があるたびに,からだはそれに合う抗体のつくり方を覚えなければならない。このために数日を必要とする。その間,細菌は,大いに羽根をのばしてのさばり,病状は悪化する。しかし,抗体の製造が軌道にのってどんどん作られ,血液や体液の中に送り出されると,抗体は溶連菌めがけて突進し,菌に「攻撃目的物」というしるしをつける。戦時中,味方のスパイが敵地に潜行して,重要軍事施設に目印をつけ,爆撃を効果的にしたという物語のようにである。そうすると,からだの自衛軍は白血球や巨大食細胞を動員し,目印のついた細菌や異物をぱくぱく食べて征伐してしまう。したがって,じゅうぶんな量の抗体ができ,白血球の戦力さえ衰えなければ,やがて病菌は一掃されることになる。
一度からだが抗体のつくり方を覚えてしまうと,二度目に同じ細菌が入ってきたときには,抗体の産生はずっと速やかに始まるし,生産高も大きくその速度も速くなる。
数千の細菌が橋頭堡を作るべく二度目に侵入してくると,からだは数時間以内に抗体をどんどん増産し,白血球が片端から征伐してしまい,感染が起ったという感じがしないうちに戦いは終ってしまう。
ジフテリヤ菌や破傷風菌などは,菌体のそとへ毒素をだして人間に害を与える。からだは,この毒素に対しても抗体をつくり,毒素にまけない免疫をつくるのである。
赤ん坊は,生後二2,三3週間まではほとんど抗体をつくる力をもたない。生まれでてくる前に母親からもらった抗体と,母乳の中に出てくる抗体によって,からだを守るのである。
免疫という英・独・仏の医学用語の語源であるラテン語のインムニタスという言葉は,国家の課する税金や使役から免れるという意味をもっている。それが近世になって「厄のがれ」という意味から,病気を免れるというふうに使われるようになったものである。病気と税金とは「厄の大なる二つのもの」ということなのであろうか。
扁桃腺・tonsil
■ 陽動作戦につかわれる「ぎせい部隊」
口を大きく開けさせてのどの奥の方をみると,ぺラペラぶらさがっている口蓋垂を中心に,軟い緞帳(どんちよう)のように張られた軟口蓋がみえる。この軟口蓋の袖のところの平らな楕円形の高まりが口蓋扁桃である。
扁桃腺にはこのほかに,舌根に舌根扁桃があり,咽頭の天井には咽頭扁桃があり,咽頭を要塞のようにぐるりと取りまいている。
だいたい咽頭の組織は,ふだん非常に酷使されている。摂氏六十60度の熱いお茶から零度のアイスクリームまで,おかまいなしにほうりこまれる。平常呼吸のときで時速十六16キロメートル,くしゃみや咳のときは時速三百二十320キロのスピードで,一日に総計一万一千五百1万1500リットルほどの空気が出入りし,その空気に乗って塵や有毒ガスが入ってくる。都会の空気の中に入っている煤煙や自動車の排気ガスに加えて,タバコのタールまで吹きつけてくる。咽頭にある幾十対もの筋肉の,複雑な協同運動である「呑みこみ」動作は,一日に三千3000回以上もおこなわれるし,毎日二万五千2万5000語以上の言葉を構音するために速射砲のように筋肉の収縮が繰返される。
このように過労を強いられ,有毒物質と接触しなければならない咽頭入口には,食道と気管の門番として,このような扁桃による要塞が必要に違いない。この要塞には発見者にちなみ「ワルダイエルの輪」という名前がつけられている。
軍事目的の要塞は敵をよせつけないというのがその任務で,装備を極秘にし,殺気をただよわせるが,ワルダイエルの輪は,むしろ逆に,細菌につけいるすきをみせて,さそいこむようにする。細菌が攻めこんで扁桃にとりつくと,用意してあった自衛軍の白血球をどんどん繰りだし,たいていは敵を圧倒殲滅(せんめつ)してしまう。この戦いの成果が,その感染菌に対する抗体による抵抗性の獲得である。抗体は,死んだ細菌のからだの中の成分や細菌のだす毒素が,直接からだの中に入らないと製造できないので,かような反間苦肉の策が用いられる。つまり,からだは扁桃というしかけで天然のワクチン接種をしているといえる。
細菌との戦いの経験の少い子供ほど,しばしば扁桃が戦場になり,戦いの辛酸をなめることになるが,この戦いに戦勝をつみかさねていって,抵抗力のつよい大人ができあがるのである。
しかし,迷惑なのは扁桃である。陽動作戦を立派に戦っても,敵である細菌の方が強すぎることだって,しばしばある。戦線が膠着(こうちやく)状態になると,味方は戦力である血液をどんどん補給し戦況の改善につとめるために,扁桃は,大きくはれたままになる。そうすると扁桃腺肥大という汚名をきせられて,切りとられたりする。
神州といわれた日本も敗戦の辛酸をなめた。心配なのは,「敗戦の甘味」をなめた不埒者が戦争を甘くみること,そしてまた,戦犯という刻印をおされたグループの中に,扁桃のように苦戦敢闘のすえに薄情にも切りとられた人達が交っていなかったかということである。
ホメオステーシス・homeostasis
■ もっとも保守的な管理機構
地球ができてから現在までの五十50億年の歴史のうち,三十30億年は無生物の時代であった。火山からふきだす硫化水素や窒素やメタンガスを含む厚い雲が地球の表面を包み,焼けただれた溶岩や褶曲(しゆうきよく)によってできた峨々(がが)たる山々は,シーンと静まりかえっていた。
大気中にできた有機物は雨といっしょに原始の海に流れこみ,有機物の濃度がたかまるにつれ,種々の化学反応が起こる。そして徐々に高分子のものができ,ついに太古の海の中で原始的な核酸とたんぱく質ができあがる。「母なる海」に浮かぶ核酸とたんぱく質の微小な液滴から,ゆくりなくも「生命」が誕生する。血液が海水の成分と,ずいぶん似ていたり,系統発生の道すじをたどって大きくなってくる人間の胎児が,羊水のなかにひたっていたりするのは,原始の海で育った生命を連想させるものである。
水が緩衝作用をするために,海の中に住んでいると,大気が急に暑くなっても寒くなっても影響は少いし,毒が入ってきても周囲のたくさんの水がうすめてくれるために悪影響をうけないですむ。たとえ強い放射線が降りそそいでも,一1メートルほどの水の層にほとんど吸収されてしまって,深いところにはとどかない。かように,生物が海の中に住んでいる間は,水が生活環境の変動から生命を護ってくれるために,内部環境保全のための複雑なしかけは必要でなかった。ところが原始の海に葉緑素をもった藻類が発生し,大気中の酸素含量が増す一方,酸素の上層にできたオゾン層が,地上にふりそそいでいた紫外線の力を弱めてくれるようになると,生物は,水から陸にあがろうとした。
陸にあがれば,生物は,寒暖の差や,雨風など変化の激しい気象状態に直面しなければならない。そこで生命は,大量の水を身内に包みこむことによって,海水中に住んでいた時のような安定した内部環境をえようとしたのである。人間の体内には体重の七7割にあたる大量の水が含まれ,実際,これがもっとも保守的に体内の環境を一定に保ってくれるのである。
生命をとりかこんでいる体内の環境を,外界の変化による影響から護ろうとする傾向をホメオステーシスとよぶ。水をもって陸にあがってきた生物は,さらにホメオステーシスによって,内部環境の恒常性を保とうとしているのである。
体温が四季を通じ常に一定に保たれるのも,血液の量や血液中の塩分や糖分などの成分の濃度が,驚くほど精密に一定に保たれるのも,このホメオステーシスの諸反応によって,はじめて可能となるのである。
昔,よくおこなわれた飲みくらべ食べくらべの試合は,とりもなおさず各人のもっているホメオステーシスの能力のたけくらべである。からだは,人工のどんな精密な機械よりも精密に調節され,運転されているということを忘れ,あたかも,胃袋をつつむふくろとでも考えるから,こんな無謀なことができたのであろう。
疲労・fatigue
■ グロッキー前にある赤信号
手のひらを上に向けた位置で前腕を二2ヵ所でしっかり固定し,人さし指,薬指も動かないようにしておいて,中指に長い糸をむすびつける。糸の他端は,自由にまわる滑車を通して,ぶらさげた三3キログラムの錘にむすびつける。この糸の中間にペンをつけ,一定速度でまわっている円筒の紙の上に,中指の屈伸のようすを記録するようにしておく。
指をまげると,紙の上にとがった山が画かれ指をのばすと,山の峰から,錘が一番下った位置をしめす基線までもどる。二2秒ごとに鳴るメトロノームの音にあわせて,中指をできるだけ強くまげてはのばすことをくり返すと,そのたびにとがった峰が記録される。十九19世紀末,北イタリア,トリノ大学で生理学を講じていたモッソーの考案になるエルゴグラフという疲労測定装置である。
始め指の疲れていないあいだ,大きく指をまげることができるので高い山を画けるが,だんだん疲れてくるにつれて,山は低くなり,ついには動かなくなってしまう。
当時モッソー先生の研究室にマジオラとアドウコという二人の青年医師がいた。二人とも二十八28歳,体格も,食べものも,生活様式も,さして変りがないのに,エルゴグラフによる検査では,いつもはっきり異なった図が画かれるのであった。マジオラ医師の曲線は,一1回の屈曲ごとに山の高さがどんどん低くなっていったが,アドウコ医師の方は,屈曲を四十40回近く繰返すまで山の高さがあまり低くならない。つまり,線香花火のようにすうっと力が抜けていく形と,いよいよ動けなくなるまで力を出せる形があるのである。
右手の中指が,すっかり疲れて動かなくなったとき,左手の中指の力をしらべてみると,左は,力が弱っていないか,ときにはかえって力が強まっていた。だから,からだの一部の筋肉の疲労は,全身の疲労とは異なると考えなければならないのである。
疲れて動けなくなった中指に,直接弱い電流を流して,筋肉そのものを刺激してやると,またかなりの時間,指が動くところをみると筋肉そのものが疲れきって動けないのではない。
軽くなにかを考えさせながら,あるいは本など読ませながらエルゴグラフを画かせると,普通より長い時間,指を動かせる。また,中指が疲れて動かなくなったとき催眠術をかけると,再び動かせるようになるのをみても,大脳のはたらきが,この種の疲労に大きな関係をもつことがわかる。
つまり,筋肉がすっかり力を出しきって,どうしても動けなくなる前に,大脳が疲労という赤信号をだし,その信号に従って,筋肉は相当の余力を残したままストップしてしまうらしいのである。
使われていた人が経営者になった途端,以前の何倍も働いて,しかも疲労を感じなくなるという例をきくが,物を考える大脳が,疲労という赤信号をどのへんにおくかを決めているらしいことが想像できるのである。
疲労・fatigue
■ 意欲によって吹きとばされるスト指令
疲れて動かなくなってしまった筋肉を調べてみると,筋肉が全く力を出しきったために動かれないのではなくて,大脳で感ずる疲労という感覚のために,余力を残したまま動くのをやめさせられたという状態になっている。いよいよ追いつめられて,にっちもさっちもいかなくなる前に,待遇改善争議をはじめ,ついには労組の中央組織が,ストを指令して動きをとめてしまうという姿なのである。
筋肉の疲れたという感じは,痛い,熱い,冷たいという感じの情報が通る道,つまり,脊髄――視床を通って大脳皮質の後中心回転にとどけられてできる感覚である。
ちょうどエルゴグラフのテストで,もう中指を動かすことができないという時期がくるように,遠足のあとやマラソンのあとなどには,全身が疲れてもうからだを動かせないという感じが起る。全身疲労といわれるものである。全身疲労といっても,遠足やマラソンなら,下肢の筋肉そのものに,はっきり疲れた感じがあるし,筋肉が疲労すると現われる乳酸が血液中にふえていたり,筋肉のエネルギー源になる成分がへったり,ホメオステーシスがゆがんでいる。たとえば乳酸を目安にしてみると,それが血液百100ミリリットル中に百100ミリグラムより多くなるころに,全身疲労があらわれる。
普通では,五十50秒しか鉄棒にぶらさがれない人に催眠術をかけたら,七十70秒間懸垂ができるようになった。さらに三3回目には,この二つの記録よりよい記録がでたら五5ドルやると約束しただけで,二2分間も懸垂できるようになったとシワーブ博士は報告している。
疲労をしらずに労働の能率をあげるための第二に有効な方法は,労賃をあげることであるというのが,アメリカのある自動車会社での調査の結果であるが,シワーブ博士の例と同様,全身疲労の起りかたは,その仕事に対するその人の価値判断によって強く影響されるらしいのである。
ある仕事が,情熱を打ちこむに値すると判断したり,この仕事は経済的に割がいいと判断するのは大脳の新皮質であるが,その判断に従って意欲をふるいおこすのが大脳辺縁系である。意欲がかきたてられれば,かきたてられるほど,全身疲労という「からだへの停止信号」が,消耗の極に近づいた位置に立てられるのである。
ところで,いよいよになるまで疲労を感じさせないようにする手段で,第一に有効な方法は,同じ自動車会社での調査結果によれば,その仕事に使命感を感じさせたり,面白みを発見させたりして,仕事に情熱を打込むようにもっていくことであったという。つまり,情熱がもえて大脳辺縁系の活動レベルがたかまると,疲労という意欲の喪失が起りにくくなるのである。
現状を打開しようとしないで,ただ現状に不満を感じている連中や,他人を羨しがってばかりいる野心家たちは,いつも疲労と隣り合せに住んでいる人達といえるのである。
受精・fertilization
■ 星の数から選ばれた優者
化石になっている恐竜のプロトセラトプスの卵は長さが約二十20センチあるし,現在生存しているダチョウの卵でも十五15―十六16センチはある。スズメの卵でさえも親指のあたまくらいの大きさがあるのに,万物の霊長である人間の卵は直径〇・二五0.25ミリ,肉眼でやっとみえるほどの大きさしかない。
クジラやゾウなどのからだの大きい哺乳動物でも卵は人間の卵とほぼ同じ大きさで,約二百200万個で大さじ一杯になるくらいの体積である。しかし,これでも,人間のからだの中では,最も大きい細胞なのである。
人間の卵は,ニワトリの卵のような殻をかぶっていない。ちょうど堅めのゼリーほどの堅さで球形をしている。生まれたばかりの女の赤ちゃんの卵巣のなかに,すでにおびただしい数の卵が,卵胞膜の袋につつまれてはいっている。
雪解けの水が流れ去り,湿地帯に水ばしょうが白い花を咲かせると,北の国の春の幕が上がることになるが,女体の春は,卵巣で卵が成熟をはじめ,初潮が訪れることでそれと知れる。卵巣の中の卵の一つに,突然,次の月に成熟すべしという特令が与えられる。それまで,じっと眠ったように静かにしていた卵が急に大きくなりはじめ,卵を包んでいる卵胞膜も,中にたまってくる 液体の増加に伴い,急速に大きくなってくる。発育を始めて十10日ほどすると,卵胞はビニール袋に水を入れたような外観になり,オハジキくらいの大きさになって卵巣の表面にあらわれてくる。ついに卵胞はやぶれて,中の卵は腹腔内に落ちる。
海底の岩に付着している海草がゆらぐように,卵巣の表面をゆっくりとなでまわしている卵管采というしかけが,この落ちた卵を拾いあげ,卵管(俗にラッパ管ともいわれる)のなかに送りこむ。張り出した細いステージの上を気取って歩くファッションモデルさながらに卵は卵管の中をゆっくりおりていく。一組五5億匹の精子が,この卵をめがけて死にものぐるいのマラソンをしてかけあがってくる。しかし,コースはなかなかの難路で,選手の三分の一3分の1は子宮に到達するまえに落伍してしまう。白雪姫の物語のように,一番早くついた精子がお姫様をもらえる。
卵巣のなかには,さまざまな成熟の段階にある約三十30万個の卵胞がひしめいている。しかし,母体は初潮から閉経までの三十30年間に月に一1個,計四百400個の卵しか育てることができない。したがって三十30万個の卵の中から,四百400個を選ぶというはげしい選抜がおこなわれる。かように,厳重に選抜された卵と五5億匹の精子のなかから選ばれたもっとも優秀な一1匹とが合体して受精がおこなわれ,一人の人間の誕生が準備される。この天文学的コンテストに合格した人間の卵と,アベベ選手にもまさる根性と力を証明された精子が合体してできる胎児は,勝利と栄光につつまれてあるはずである。敗北と汚辱は,胎児がこの世の中に生まれでてからもっぱら人為的に加えられることに属するのである。
胎生期・fetal period
■ 暗黒のなかの建設
〇・二0.2ミリメートルほどの人間の卵にその百分の一100分の1の直径しかない小さな精子の頭が衝突すると,卵は分裂して発育をはじめる。卵の核と精子の頭の中にある染色体が合体して,緻密(ちみつ)な設計図ができあがり,その設計図によって発育という建設の大事業が進められるのである。この設計図の緻密さは,まさに神わざで,ビルの建築にたとえれば,超高層ビルの窓わくのネジ一本一本まで細かい仕様がついているばかりでなく,そのビルが古くなったらどういうふうに変わっていくかまで決められている。年とってから白髪になるのか,はげるのか,動脈硬化を起こしやすいのか,小太りになりやすいのかまで,ちょうどエンマ様の玻璃(はり)(水晶)をあらかじめみてかいたように,設計の詳細がつくされているのである。
卵管(ラッパ管)のなかで受精した卵は約一1週間の旅をして,しずしずと子宮へおりていく。受精卵のこの旅は,実はあまりゆっくりしていられない。受精卵のもっている「御弁当」はおよそ八8日分しかないからである。「御弁当」をすっかり食べてしまう前に子宮にたどりつき,着床してそこから栄養の補給をうけなければならない。
子宮につく前に受精卵が旅行をやめ,そこで腰をすえて発育をはじめると,子宮外妊娠という大事がおこる。
受精後三3週間たって,はじめて肉眼でみることのできる器官が現われる。これは二2つの厚いふくらみで,発育してのちに脳になる。四4週目になると尾がはえてくる。ただしこの尾はサルやネズミのような細いしっぽではない。幅広く,筋肉もついていて力強く,むしろ魚の尾によく似ている。この時期に,のどにあたるところに魚のえらに相当する裂け目ができ,そのまわりの血管も,支持組織も,えらのしかけにそっくりで,心臓や排泄腔まで魚類に似た姿になってくる。しかし妊娠二2ヵ月を経るころには,しっぽのまわりのおしりの部分が成長してきて,しっぽを包みこむようになり,全体としてだんだん魚らしさがなくなってくる。そして走馬灯のように,古代から人類がたどってきた生物進化の道すじを走りすぎ,めまぐるしく格好を変え,まもなくまぎれもない人間の姿がはっきり現われてくる。
五5週目の終わりで胚体は約五5ミリメートルほどになり,鼓動する心臓,明白な神経系,小さな手足の芽ばえ,大きな目,腎臓の原基,のびていく消化管,そしてけなげにも,みずからの次の時代をになわせるための細胞のかたまりさえも,この時期にすでに用意しているのである。
このころになって,つわりがあったりするとそろそろ外界でも腹のなかのことがわかりかけてくる。そして,肩の荷でもおろすような簡単な気持ちで,この世紀の建築にストップをかけようなどという神をおそれぬ相談がでてきたりする。天地自然の運行そのままに着実かつ整然とできていく見事な建築に思いをいたすと,とてもこの建築契約を途中で廃棄することなどできないはずなのだが……。
幼小児期・infancy
■ 電機部品に配線される時期
人間の脳は「おとな」になると生まれた時の約四4倍の重さになるが,体重の方は,赤ん坊の時の平均二十二22倍止まりである。ところが,チンパンジーやゴリラでは,赤ん坊のとき,人間の脳の三分の一3分の1しかないし,「おとな」になってもせいぜい三3倍ぐらいにしかふえない。しかし体重は,生まれた時の四十40倍から六十60倍にもなる。だいたい子供の動物は,からだにくらべて頭が大きく手足が短い。成長するに従って手足がのび,頭にくらべてからだが大きく発育し「おとなっぽい」からだのつりあいになる。
生まれたばかりの人間の赤ん坊は四頭身であるが,二2歳で五頭身,六6歳で六頭身,十二12歳で七頭身となり,だんだん成熟するにつれて八頭身に近づく。しかし人間の赤ん坊は,ずばぬけて頭が大きいため,どんなに年をとっても,類人猿ほど「おとなっぽい」からだのつりあいにはならない。
十四14世紀初頭,ルネッサンス初期の画家たちは,頭の小さい子どもをよく描いた。当時の「マドンナと幼いキリスト」という題の絵は,その小さい頭のために「マドンナと非常に小柄な男」のような感じにかかれていたのである。
人類は,進化するに従って,チョンマゲの似合いそうな面長の顔から,リーゼントスタイルの似合う横にひろい短い顔に変わっていくという説がある。短頭化現象といわれるものであるが,七頭身の多い大和民族にも,この小頭巨体化の傾向がでてきているといわれる。
ウシやウマでも,生まれたばかりの時は,人間の赤ん坊より,ずっとましである。ウシやウマの子は生まれて間もなく,細い足をふまえて立ちあがり歩き出す。生まれたばかりの人間の脳は,ほぼ「おとな」のチンパンジーやゴリラの脳の重さに等しいにもかかわらず生後一1年の間は,人間の赤ん坊の物を覚える速度は,チンパンジーの赤ん坊よりおそい。脳や脊髄に含まれる灰白質の中の脳細胞の数は,赤ん坊と「おとな」とで,ほとんど差がないが,「白質」すなわち細胞と細胞の間の連絡路は,赤ん坊ではまったく不完全である。
赤ん坊の脳は,ラジオやテレビのキャビネットの中に真空管やトランジスタ,トランスなどいろいろの部品がおとななみにそろってはいっているが,配線していないようなものである。すなわち頭でっかちの人間の赤ん坊の脳は,部分品をならべただけの組み立て用「部品キット」である。そして,その重さと生後一1年をすぎてからのめざましい知的発達からみて,確かに人間の赤ん坊の「部品キット」には,よい部品がたくさんはいっていて,配線さえ完了すれば,牛馬はもちろん類人猿など遠く及ばないすぐれた器械ができあがる素地をもっているのである。
そしてこれらの部品を組み立て,配線をし,脳としての機能を順々にひきだしていくのが,教育やしつけなのである。もっとも大切な部品の配線が行なわれる幼児期,児童期の教育が,できあがった器械の性能に重大な影響力をもつであろうことが容易に理解できるのである。
思春期・puberty
■ 大人へのファンファーレ
乳児期から幼児前期にかけてのめざましい成長のあと,六6歳から十二12歳までの児童期には,一定した順調な成長が続く。思春期が近づいてくると,開花をひかえて一段と「せたけ」がのびる植物のように,ふたたび飛躍的な発育がはじまる。もっとも目立つ成長をするのは,一般的にいって,身長では男子十四14歳,女子十一11歳,体重・胸囲では男子十四14歳,女子十三13歳の一1年間である。この成長を維持するために,子供たちはすさまじい食欲を示し,ふつうおとなの一・五1.5倍から一・八1.8倍ものカロリーを摂取する。
思春期を迎えてすべての臓器や組織が,いちじるしく成長するが,その成長の足並みが一線にはそろわないので,各臓器,組織の間の均衡が狂いやすく,思春期特有の不安定を招くことになる。骨格や筋肉の成長についても不ぞろいができ,手先やからだのこなしが,なんとなく無器用になり,ドイツで「骨なし時代」といっている時期が訪れる。思春期の若者はどんどん成長していくからだの割りに,心臓のポンプとしての能力の増進がふじゅうぶんで,そのため,心悸亢進やめまい,頭痛やけだるさなどの症状をあらわしやすい。
一方,急激に活動しはじめる性ホルモンの刺激によって「おとな」のよそおいがすすんでいく。二次性徴があらわれるのである。男子は下顎がはり,鼻梁が高くなって,丸い子供の顔から,長細い彫りのある顔になってくる。薄ひげがはえたり,いったいに体毛が濃くなってくる。そのうちに「声がわり」があらわれ,子供から「おとな」への脱皮の明らかなしるしとなる。女子では乳房の隆起,骨盤の拡大が始まり,皮下脂肪が増加してからだ全体にやわらかい曲線美があらわれてくる。そして初潮がおとなへの蝉脱(せんだつ)のファンファーレになるのである。
中学に入学するときの少年の約八8割(男子九9割,女子七7割)はまだ子供のからだであるが,三3年たって中学を終える時には約八8割(男子七7割,女子九9割)に,性的成熟が始まる。つまり中学の三3年間に日本の子供の大部分は,子供から「おとな」への重大な転機を迎えるのである。
思春期にはいった子供たちは,うすあかりの中で,なにか来たるべきものを予感しながら手探りしているうちに,「なにか欠けている感じ」を強く感じはじめる。そして,その理由も,解決法もわからぬままに,思春期特有の生活気分――はしゃいでいたかと思うと,急転直下急にふきげんな沈黙におちこんだり,明るい素直さから急に暗い反抗的自己主張に,そしてそわそわ動きまわるかと思うとものうい怠惰が支配したりというムードができあがるのである。
「おとな」のかっこうをしたからだの内部に,そして累卵(るいらん)の不安定さの上に,傷つきやすい心を包んでいるのが,思春期を迎えた子供たちの姿である。このような子供たちが,名実ともに安定した「おとな」に落ち着くまで,春の草花にそそがれるようなあたたかな慈愛の陽光と,清らかに澄んだ空気とがぜひとも必要なのである。
更年期・climacterium
■ 人生のたそがれ
更年期という医学用語は,ギリシャ語のハシゴの横木という意味のことばに由来する。ギリシャ時代の星占師たちは,人生の厄年は七7年ごとに現われると信じていた。ひとしい間隔で七7年目ごとに置かれた横木を踏みながら,ハシゴを上っていくようなのが人生であり,その横木にあたる七7年目ごとに,人間は生命の危険にさらされるとしたのである。この考え方によると,四十二42歳のところに六6回目の厄年があることになるが,この頃に,壮年期と初老期の境目があり,目立ったからだの変化が現われやすいために,とくに代表的な横木と考えられたものであろう。
咲き誇る花のように新鮮で,美しい人生の春に続いて,強烈な太陽の照りつける夏が訪れ,続いておだやかな秋の日に収穫を楽しむ時期がやってくる。それがこの更年期である。一1日の時間にたとえれば,日中のギラギラした太陽の時のあとにやってくるしずかな「たそがれ」である。女子では,規則正しかった月経がだんだん不規則になり,二2,三3年間の間に閉止してしまう。
女子の更年期は,まず卵巣機能の低下ということで始まる。卵巣のはたらきが弱ってくると,その「上役」で監督の任にあたっている脳下垂体から,卵巣のはたらきを督励する性腺(せいせん)刺激ホルモンが繰り出される。
支店の業績が急に低下すると本店から,やかましく督励の指令がとぶのと同様である。実際,性腺刺激ホルモンは,十代二十代にくらべ五5―六6倍もの量が脳下垂体から送り出されているが,いかに刺激しても,疲れきった駄馬にムチうつように,卵巣はいっかないうことをきかない。
つまり,性腺刺激ホルモンはずいぶんよけいに分泌されるが,卵胞ホルモンの出方が減り,さらに排卵がうまくいかないため黄体ホルモンが欠乏し,これらのホルモンの不均衡を補うために自律神経系,とくに交感神経が過敏になってくる状態が更年期なのである。かようなホルモンや自律神経系の失調から,憂うつになったり興奮したり,気が変わりやすくなったり,記憶力が低下したりという精神症状がかもしだされ,めまい,動悸(どうき),耳鳴り,発汗,それに顔がほてったり,のぼせたりという自律神経の過敏状態が起こる。
卵巣は更年期にはいると三十30歳ころの半分近くに縮むのにくらべ,睾丸は四十40歳ころ,もっとも重くなり,七十70歳になっても,せいぜい一1割程度しか縮まないので,男性では脳下垂体の性腺刺激ホルモンの分泌はあまり増加せず,したがって更年期の開始の時も,症状もはっきりしないことが多い。
四季を通じて変わりばえのしない男性にくらべ,育児,家庭づくりに主役を演じ,春から夏にかけて,きらびやかな大輪の花をつけた女性は,更年期になるといたいたしい凋落(ちようらく)の時を迎える。しかし「花よ嘆くなかれ」である。生物の究極の目的の一つは実を結ぶことである。人生の結実も,花のあとに,そして結局,主として女性の中に集約されるもののようだからである。
老化・senile change
■ 生物時計で刻まれる年齢
からだを構成するおびただしい数の細胞は,あるものは分裂によって新しく細胞をつくり,あるものは年をとり,ついに死滅するという変化をしている。幸い,多数の細胞が,年老いて死滅しても,新しい細胞と入れ替わるために,それがただちに全体の老化や死亡を招かない。ちょうど,役所で年をとった職員がつぎつぎに定年退職をしていっても,若い人がそのあとを引き受け支障なく業務を続けているのと似ている。
細胞のふえる速度が細胞の死滅する速度より早い間はその個体は成長するが,死滅する速度の方が早くなると,萎縮や老化が起こってくる。
ひとりの人間に,天から与えられる成長のための「ふしぎな力」――浦島太郎のもらってきた玉手箱の中の「老化を加速する魔力」のような――の九九99%は,子宮内で卵細胞から胎児ができてくる時期に,つかわれてしまう。残りの一1%の力で,生まれてからの成長が営まれ,さらに老化が導かれるのである。
からだ全体としては,まだ若々しくても,ある臓器だけ,早く老化するように運命づけられているものがある。たとえば,できてから九9ヵ月もたっていないのに,妊娠の終わりごろに,胎盤はすっかり老化して老年性の構造になってしまう。また胸骨のうしろにある胸腺という臓器も,児童期の終わりごろには老化して萎縮してしまう。かたよった生活や病気などのために,ある臓器だけが特に早く老化し,そのために全体の老化がはやめられることもある。
からだが年をとるのは,生まれてからの時間がたつからであるが,この時間は,時計の針の動きといつもいっしょとは限らない。十10里を歩いて疲れきった旅人の,最後の一1里を歩く時間は,最初の一1里にくらべてずいぶん長く感じるに違いないし,からだにも,それだけの影響が及ぶことであろう。毎日,ハンでおしたような生活をしている人と,波乱万丈の人生を生きている人とでも,時間の感じかたはずいぶん異なるものであろう。このように,その人の生活様式や生活態度などによって,その人の上を通りすぎていく時間の速さが異なる。そしてこの時間が異なれば,その人の老化速度も異なるはずである。――もちろん,このばあい多忙そして過労による老化の増進を考慮しなければならないが……。
かように,暦の年齢と生物学的年齢との間に,食いちがいを生ずることになるのであるが,青少年期には,この懸隔の人による相違はいちじるしくない。しかし,初老期をすぎる頃から,個人差がますます大きくなっていく傾向を示す。
定年退職制の問題点の一つは,それが暦の年齢によって事務的に行なわれることにある。しかし,このようなばあい生物学的年齢を用いようとしても,現在の医学のレベルでは戸籍を調べて出てくるような直截(ちよくせつ)な数字が出ないことは明らかである。年式が古くて程度のよい中古車というのは,売る時に割損であるが,人間でも当分はその損を我慢しなければならないようである。
老化・senile change
■ 西に傾く太陽
細胞のなかで燃えている生命の火も,やはり「もえくず」をのこす。ストーブで石炭を燃やしたあとには,石炭殻がいっぱいにつまって,だんだん燃えが悪くなる。細胞の中も,この「もえくず」がたまってくると,生命の火の燃えが悪くなって,老化が起こるとする考え方がある。
生きたままとりだした組織を,酸素や栄養をじゅうぶんに含んだ溶液の中に入れ,適温に保っていると,からだのそとでも生きていける。組織培養という方法である。この方法でニワトリの胚芽からとった心臓の一片を培養し,生命の火のもえくずのたまらないよう,培養液を毎日新鮮なものと交換していると,この組織を老化させずに,ニワトリの寿命の数十倍も長く生きつづけさせることができる。生命の火のもえくずは,もともと血液の循環の悪い遅栄養組織や間葉性組織に,とくにたまりやすいはずであるが,実際そういう組織から老化が始まってくる。
細胞の中の成分はおびただしい数の,目に見えない微細な粒になっている。このつぶは,そのまわりに水のつぶを引きつけていて水になじみやすく,親水性コロイドとよばれる。若々しい細胞は,たとえば赤ちゃんの皮膚の細胞のように,その中のコロイドの親水性がつよく,「みずみずしい」。年をとってくると,このコロイドの水を引きつける力がだんだん弱くなり,「みずみずしさ」がなくなってくる。カサカサにかわいた老人の皮膚の細胞のコロイドは,老化して親水性がなくなったものである。老化の原動力の一つを,親水性コロイドが年とともに水を引きつける力が弱くなることに関係があるという説がある。
「人はその動脈といっしょに年をとる」といわれるように,動脈は年とともに堅く,弾力がなくなる。いうなれば動脈硬化というのは,老化の象徴的な変化なのである。自動車のゴムタイヤも古くなると,もろく,堅くなってくる。タイヤにもメーカーによって,最初から優劣の差があるように,遺伝で生まれつき堅くなりやすい人がある。運転のしかたが荒い人の車のタイヤのように,からだのとりあつかいの荒い人の動脈も早くボロボロになる。油や薬品をタイヤにつけるとゴムが早くもろくなるが,嗜好品ののみすぎで,動脈をいじめると,やはり硬化が早く起こってくる。
こわれて,だめになった細胞を入れ替えるための増殖促進物質が,血液の中から欠乏していくのが老化の原因であるとか,生命の火のもとになる細胞内の生原素が消耗するために,細胞の栄養が低下し老化が進むと考える人もある。そのほか性腺や脳や唾液腺の萎縮が,老化をひき起こすという考え方もある。いずれにしろ,老化を防ぎ長寿を全うするのは,生きとし生けるものの絶えざる願望である。しかし,老化という現象は,西に傾く太陽のように,抵抗しえない必然であることを思うと,「夜があるからこそ昼がますます明るく,冬があるからこそ春が楽しい」と考えるべきなのであろう。
老化・senile change
■ 生命に年数は加えられたが……
人生五十50年とは明治時代,あるいはそれ以前の昔からいいならされた言葉である。しかし,平均寿命からみると明治三十30年代から大正末期までは,男子四十二42歳,女子四十五45歳どまりで,昭和に入っても,終戦前は「五十歳の壁」が,不老長寿の悲願の前に立ちはだかっていた。
わが国の男女の平均寿命が五十50歳の壁を突破したのは,昭和二十二22年以降である。
そして,昭和二十七27年には男子六十60歳,女子六十三63歳と「六十歳の壁」をも突破し,昭和三十九39年には,男子六十七・七67.7歳,女子七十二・九72.9歳に達した。「五十歳の壁」を前にして,一進一退を繰返していた過去何十年,何百年にくらべて,最近十数年間のわが国のこの方面における進歩は,実に目ざましい。
かように寿命がのびる一方,昭和三十二32年以降出生率がガタンと減って,昭和二十二22―四4年のベビー・ブーム時の半分以下になった。すなわち,多産多死型の人口動態から,短時日の間に近代的な少産少死型になったのである。この変化が,あまり急激に起ったために,近い将来,生産年齢人口の一時的な急増のあと,人口の老齢化が,いそぎ足でやってくるはずである。昭和三十30年には六十60歳以上の老人は七百二十一721万人,総人口の八8%であったが,昭和三十五35年には八百二十四824万人,昭和四十五45年には総人口の一1割が六十60歳以上の老人で占められる計算である。そして,このままに推移すれば,五十50年後には十四14歳以下の学童が全人口の一七17%,六十五65歳以上の老人が一九19%を占めることになる。
生産のオートメーション化が進めば進むほど熟練工の必要性が減っていくのに,年をとっているから,勤続年限が長いからという理由だけで,高給を払わなければならないし,筋肉労働力は年齢が多くなるにつれて低下するということになると,人口の老齢化は大小の企業体に重大な影響を与えることになる。約千編の伝記を検討した結果によると,科学,芸術,文学などの領域で,ある個人のなしとげた生涯の最善の業績は,大多数(七〇70%)のばあい四十五45歳以前に完成されている。レーマンによると「物理,化学,発明,交響曲作曲などの分野における最高の労作は三十30歳―三十五35歳の間につくられている」という。四百400件の資料の統計からドーランドは,最善の業績がなされた平均年齢を,牧師・芸術家については五十50歳,政治家・医師では五十二52歳,哲学者――五十四54歳,数学者・天文学者――五十六56歳,歴史家――五十七57歳,博物学者・法律学者――五十八58歳とだしている。
最善の労作をものしたあと,年老いたからといって業績が全くあがらないわけではないから,このピークの年齢のあとの年代も意義があるはずであるが,生命の延長を可能ならしめた医学が,単に生命に年数を加えるだけでなく,年齢に生命を加えるような方向にも一層の努力を向け,老齢で良い仕事ができるような時代を招来すべきであろう。
●高橋長雄(たかはし・たけお)
一九二二1922年、北海道小樽市に生まれる。北大予科、北大医学部卒の生粋の道産子。札幌医科大学教授(現在、名誉教授)。医学博士。薬理学、外科学専攻ののち、ニューヨーク大学で、当時新しい分野として脚光をあびつつあった麻酔学を研究。わが国麻酔学の草分けの一人である。
*
本書は、一九六五年八月、講談社ブルーバックスB‐47として刊行されました。 本書は、1965年8月、講談社ブルーバックス(B-47)として刊行されました。
からだの手帖(てちよう) 薬(くすり)よりよく効(き)くからだの事典(じてん)
*電子文庫パブリ版
高橋(たかはし) 長雄(たけお) 著
(C) Takeo Takahashi 1965
二〇〇一年十二月一四日発行(デコ)
2001年12月14日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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