|灼《しゃく》眼《がん》のシャナ]
高橋弥七郎
イラスト/いとうのいぢ
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)半|袖《そで》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「そんな状態こそが普通」に傍点]
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
プロローグ
夏も盛りを過ぎた早朝の空気は、|爽《さわ》やかさの中に|寂《せき》蓼《りょう》の|予《よ》兆《ちょう》を|匂《にお》わせる。
その|涼《りょう》風《ふう》の中、|坂《さか》井《い》家での|鍛《たん》錬《れん》に向かう道すがら、
「歌、でありますか」
常の通り、|丈《たけ》長《なが》のワンピースに白いヘッドドレスとエプロン姿のヴィルヘルミナ・カルメルが、無表情な顔を前に向けたまま、|隣《となり》を歩く少女に答えた。
「そう、歌」
こちらも常と同じ、体操着のシャナが|頷《うなず》く。
「あまり興味はないけど……昨日、ろくに知らないんだな、って言われた」
誰が、という主語を省いたのは、その少年の名前を出すと自分が怒ると思われているからだ、とヴィルヘルミナは察して、しかし追及は避ける。現在、この件はいろいろと|微《び》妙《みょう》な情勢下にあるのだった。とりあえず、|訊《き》かれたことについて考える。
(歌……たしかに、教えた覚えはないのであります)
彼女は、少女を完全|無《む》欠《けつ》のフレイムヘイズとすべく、不要な物事をすべて排除する形で育てた。巣立った少女と再会してからも、その完全無欠の変質を恐れ嫌って、不要と判断した物事を排除しようとした。しかし、|悲《ひ》喜《き》の|紆《う》余《よ》曲《きょく》折《せつ》を経た今では、
(教えなかったのなら、今教えよう)
と思えるようになっている。そうしたところで、少女のフレイムヘイズ[#「少女のフレイムヘイズ」に傍点]には|微《み》塵《じん》の揺るぎもない、と分かったからだった。もちろん、少女が言い|澱《よど》んだような例外も、あるにはある。
(さて……歌、でありますか……なにが良いか)
軽く|記《き》憶《おく》を|手《た》繰《ぐ》る。生まれ育った場所での|賛《さん》美《び》歌や|宮《きゅう》廷《てい》恋《れん》歌《か》から、|討《う》ち手となって以降、ロマの一団や|隊《たい》商《しょう》に聞かされた世俗|歌《か》謡《よう》まで、彼女は|意《い》外《がい》に広い分野の|音《おん》曲《ぎょく》に親しんでいる。
それらの中からなにを選ぶか――と考える間も|僅《わず》か。
自然と一つが、浮かぶ。
「古いもので、よろしければ」
「うん、どんなの?」
少し間を置いて、彼女は、|艶《つや》やかさより巧みさにおいて賞されるべき|清《せい》声《せい》を|紡《つむ》ぐ。
「――『   新しい 熱い歌を 私は作ろう   』――」
その声ではなく、選択された歌に驚いて、シャナの胸にペンダントとしてある|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールは、無い口で|噴《ふ》き出した。
「ッ!? ――ヴィルヘルミナ・カルメル!」
「なにか? 私の知る中で、最も良い歌を選んだだけのことでありますが」
「|大《たい》声《せい》不《ふ》審《しん》」
ヘッドドレスに意思を表出させる|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーともども、抜け抜けと返す彼女に、アラストールはなにか言おうとして、しかし結局黙った。
シャナが|不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに、自分の胸元と|隣《となり》の女性を交互に見て|尋《たず》ねる。
「|オック語《オクシタン》……なんの歌?」
「|魔《ま》神《しん》熟《じゅく》知《ち》」
「話さんぞ」
「――『   風が吹き 雨が降り 霜が降りる その前に   』――」
構わず続きを歌うヴィルヘルミナの、ことさらに|謹《きん》直《ちょく》さを装う[#「装う」に傍点]姿に、シャナは不意に気付くものがあった。一体どういう風の吹き回しなのか、
(ヴィルヘルミナが、アラストールをからかってる)
それも、楽しげに。顔は相も変わらぬ|半《はん》眠《ねむ》りのような無表情だが、シャナには、そうに違いない、という確信があった。幼少から十年余、この街で再会して一ヶ月ほど、こんな二人の情景を見たことはなかった。あったのかもしれないが、気付けたことはなかった。
「――『   我が恋人は 私を試す   』――」
その|歌《か》詞《し》から、アラストールが|動《どう》揺《よう》する理由をなんとなく感じ取って、なんだか自分まで楽しくなるシャナである。その心のまま、普段は|厳《げん》格《かく》な、しかし本当はとても優しい|異《い》世界の|魔《ま》神《じん》を、自分を育てた女性と一緒にからかうつもりで言う。
「ヴィルヘルミナ。その歌、後で教えて」
「いかんいかんいかん」
こんなやり取りの間に入れたことに、少女は背伸びした得意さを感じていた。もう歌そのものよりも、三人と話すことを楽しんでいる。
しかし、|乞《こ》われたヴィルヘルミナの方は、意外なまでの真剣|味《み》を表して|請《うけ》合《あ》った。
「|了《りょう》解《かい》であります。ただし、歌うには時と場合を選ぶこと。元となった歌を我々に教えた人間は、この歌に大きな魔法をかけたと言っておりましたから」
「魔法……? |自《じ》在《ざい》法《ほう》じゃなくて?」
シャナは、やや|畏《かしこ》まって|尋《だす》ねる。さっきまでからかっていた気持ちと、この真剣味は、どこかで|通《つう》底《てい》している……そう、感じられた。
「はい。そして、その時と場合がどういうものかを理解できるまで、歌うことは許されない。そういう歌であります。それでも良ければ、お教えしましょう」
「だめだだめだだめだ」
「男性|静《せい》粛《しゅく》」
ティアマトーが一言で|抗《こう》弁《べん》を封じた。
ヴィルヘルミナも、|往《おう》生《じょう》際《ぎわ》の悪い男[#「男」に傍点]を無視して言う。
「題名は――」
ふと、皆が黙って、聞いていた。
「――『私は他の誰も愛さない』――」
[#改ページ]
[#改ページ]
1 大戦
時は、十六世紀初頭。
ルターという名の|神《しん》学《がく》者が、ヨーロッパの文明文化の骨格たるキリスト教に、目覚ましい改革、あるいは|狂《きょう》騒《そう》の爆発をもたらすまで、あと数年という頃。
所は、|神《しん》聖《せい》ローマ|帝《てい》国《こく》。
|諸《しょ》侯《こう》と|騎《き》士《し》と教会が、|斑《まだら》のように領地を点在させる連合体の|一《いち》隅《ぐう》、|欧《おう》州《しゅう》を東西に横切って走る中央高地とドイツ北部平原の|境《きょう》界《かい》にある、ハルツ山地の緑なす|麓《ふもと》。
一つの、大きな|戦《いくさ》があった。
戦列に加わった者、聞き知った者らが『|大《おお》戦《いくさ》』と呼び|倣《なら》わす大きな……しかし決して人の|史《し》書《しょ》に表れることのない、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニフレイムヘイズによる、秘された戦い。
彼ら、人ならぬ身の|超《ちょう》常《じょう》者たち。
この世を欲望の|赴《おもむ》くまま|跋《ばっ》扈《こ》し、自由|自《じ》在《ざい》に|事《じ》象《しょう》を|捻《ね》じ曲げる|異《い》世界よりの|客《まれ》人《びと》らと、その巻き起こす害悪|災《さい》厄《やく》を食い止めんと|奔《はし》る|追《つい》討《とう》の|異《い》能《のう》者らの、|熾《し》烈《れつ》極まりない|激《げき》突《とつ》。
当時、|封《ふう》絶《ぜつ》はまだ発明されていない。
両|陣《じん》営《えい》、|人《じん》知《ち》想像を超えた闘争の|様《さま》は、人間たちの前に現れつつも|不《ふ》可《か》解《かい》に、|隠《かく》されることなく|謎《なぞ》めいて、世界と時代の中に存在していた。
この『大戦』も、また――
暗き夜に、|異《い》変《へん》が|渦《うず》巻《ま》いている。
|皇《こう》帝《てい》の軍団を二十|揃《そろ》えたとて届かぬだろう、|幾《いく》重《え》にも|雄《お》叫《たけ》びを連ねた|鯨《と》波《き》の声。
目に焼き付くように|迸《ほとばし》る、|幻《げん》視《し》と言うにはあまりに明確な、色とりどりの|怪《かい》火《か》。
地震と|雪崩《なだれ》を|諸《もろ》共《とも》に起こしたように、地平を揺るがし|響《ひび》く、爆発と|破《は》砕《さい》の|轟《ごう》音《おん》。
丘の向こう、野の先から渡り来るそれらは、|在《あ》り|得《え》ない|戦《いくさ》の|証《あかし》だった。
戦の起きている地[#「戦の起きている地」に傍点]の東に位置するベルニゲローデ、および西のゴスラー、両都市には、今の時期に戦があることなど、全く知らされていなかった。|領《りょう》主《しゅ》の|布《ふ》告《こく》、|兵《へい》事《じ》における|騒《そう》乱《らん》、旅人たちの|齎《もたら》す|不《ふ》穏《おん》の|噂《うわさ》、いずれも|皆《かい》無《む》だった。
にもかかわらず|厳《げん》然《ぜん》と、音と光による|怪《かい》異《い》はそこに在った。当時の人々は、それらを『在り 得ないこと』として切り捨てない。何らかの|前《ぜん》兆《ちょう》・|警《けい》告《こく》という現実[#「現実」に傍点]として受け取っていた。
中世後期における人間の現実は、大きい。
|虚《きょ》構《こう》や不可解と混じり会う、認識しきれない、巨大なものだった。
それは、個々人が持ち得る知識の狭さ小ささの裏返しでもある。人々は生活に必要な最低限の知識を、経験と|伝《でん》聞《ぶん》、|説《せっ》法《ぽう》によって補完し、ようやく不思議な現実[#「不思議な現実」に傍点]を受け入れていた(一部の者たちが、現実の純度を高めようと必死で|足《あ》掻《が》いている時代である)。
その補完のツール、起きた|事《じ》象《しょう》を溶かし、飲み込ませるスープの名を、『神』という。
自らの計り知れない全ての出来事は、この明らかな指針と定義した|概《がい》念《ねん》に照らし合わせて、仮にでも理解の|錯《きっ》覚《かく》を得る。または|納《なっ》得《とく》して|思《し》考《こう》を停止させる。
ゆえに両都市の住民たちは、夜に|渦《うず》巻《ま》く|怪《かい》現象は何らかの意味ある|徴《しるし》、それを|解《かい》釈《しゃく》するのは『神』を扱う専門家たる|聖《せい》職《しょく》者《しゃ》 ――土地の|司《し》教《きょう》、 噂を聞いて各地から流れ込む|説《せっ》教《きょう》士《し》や|托《たく》鉢《はつ》修《しゅう》道《どう》士《し》―― の役目、と|捉《とら》えていた。自らは、ただ見聞きするのみである。
もっとも、この不思議な現実[#「不思議な現実」に傍点]の|見《けん》聞《ぶん》風《ふう》説《せつ》は|程《ほど》なく、語られぬまま、記されぬままに|風《ふう》化《か》して消える。時の|神《しん》聖《せい》ローマ|皇《こう》帝《てい》マクシミリアン一世から『事象の一切を語るべからず、記すべからず』との|布《ふ》告《こく》があり、市民らの側も総じてこれに従ったためである。
この|緘《かん》口《こう》令《れい》が、ほぼ破られることなく徹底された理由は、|甚《はなは》だ簡単なものだった。聖俗|貴《き》賤《せん》によらぬ誰もが、戦の起きた地|自《じ》体《たい》に、格別な|畏《い》怖《ふ》と|不《ふ》吉《きつ》の念を抱いていたからである。
ベルニゲローデとゴスラーの間、北ドイツ平原から望む、|瘤《こぶ》の群れのようなハルツ山地の低い主峰は、古いゲルマンの|祭《さい》祀《し》場として世に知られていた。
峰名『ブロッケン』。
後に、イギリス出身の|修《しゅう》道《どう》士《し》・|聖《せい》ヴァルプルガの名と|土《ど》俗《ぞく》信仰の|儀《ぎ》式《しき》が|混《こん》淆《こう》したことで、『|魔《ま》女《じょ》の集会場』の名を、改めて広めた山である。
|地《じ》生《ば》えの|習《しゅう》俗《ぞく》を、|異《い》端《たん》魔《ま》道《どう》の名の元に|轢《れき》殺《さつ》する世界史の|悪《あく》夢《む》・魔女狩りは、この時期、既に毒の|萌《ほう》芽《が》を各地で見せ始めている。なによりも深く大きい、『世間』への恐れから、|曰《いわ》く付きの山における|怪《かい》異《い》を自ら言い触らし、広めようとする者は|皆《かい》無《む》だったのである。
見聞きした人間たちは、口を閉ざした。
当事者たちだけの、これは戦争だった。
「なんて|艶《あで》やかな夜かしら。色と色とが溶け合って、誰も彼もが燃えてるわ」
「まるで|凶《きょう》界《かい》卵《らん》≠ェ|如《ごと》き、趣味の悪い言葉遊びでありますな」
「まったくだ……が、しかしたしかに、燃えている」
「同感」
中世ヨーロッパに、この世で最大級の|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ集団があった。
ブロッケン山に|本《ほん》拠《きょ》たる|要《よう》塞《さい》を構えるその名を、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]という。
古き|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠スる|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの元、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』と称される九人の強大な王≠轤ノよって|統《す》べられる大集団だった。中世ヨーロッパが、この世に|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ最も|溢《あふ》れかえった時代と地域であるとはいえ、史上、万からの総員を抱える|徒《ともがら》≠フ集団は、他には片手の指で数えるほどしかない。
しかも彼ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は、この世に在る|徒《ともがら》°、生のため群れを成す他集団――例えば[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]のような――などとは明確な違いを持っていた。
彼らは、『軍団』だった。
戦いを常とする一団なのだった。
敵は|無《む》論《ろん》、彼らが『命の|薪《まき》』と|蔑《べっ》称《しょう》する人間|風《ふ》情《ぜい》ではない。|曖《あい》昧《まい》な予測と|過《か》敏《びん》に過ぎる|危《き》惧《ぐ》から|同《どう》胞《ほう》を殺すという|暴《ぼう》挙《きょ》を選び、あまつさえ人間などに力を与える|愚《おろ》かな|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠スち、その|尖《せん》兵《ぺい》たる『フレイムヘイズ』らである。
しつこく|湧《わ》いて出る、これら|討《とう》滅《めつ》の道具どもを|駆《く》逐《ちく》し、|以《も》って同胞たちに|安《あん》寧《ねい》なる世界を得さしめることが、彼らの自らに任じた役割だった。
「さて、ソカルの|奴《やつ》が|討《う》ち取られたって言うし、そろそろ本気で突入の機を狙うわよ」
「どこまで『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』の|感《かん》知《ち》を|掻《か》い|潜《くぐ》れるかが勝負でありますな」
「|範《はん》囲《い》収縮中」
「うむ、|戦《せん》況《きょう》把握のため、展開は戦場上空のみのはず。突入までの時間は十分|稼《かせ》げよう」
ある意味、|奇《き》異《い》な一団だったと言えよう。
なんとなれば|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニは本来、|己《おの》が欲望を充足させるためこの世に渡り来る、本質的に利己的な存在だからである。その行動原理は当然、|種《しゅ》々《しゅ》様々な欲望を|基《もと》に形作られており、|討《う》ち手らとの戦いなどは全くの|余《よ》事《じ》、でき得る限り回避したい|災《さい》難《なん》でしかないはずだった。
しかし同時に彼らは、人間とほぼ変わりのないメンタリティを持ってもいた(欲望の充足を求める傾向が強いのは、力を持っているがゆえの、内面の|露《ろ》骨《こつ》な表出に過ぎない)。
つまり、あくまで人間と同程度に[#「あくまで人間と同程度に」に傍点]、愛情を抱き、友情で|繋《つな》がり、|恩《おん》義《ぎ》に感じ入り、意気に共感する存在……愛する者を奪われれば|哀《かな》しみ、友を|討《う》たれれば怒り、恩義を行為で返し、共感した思想に賛同する存在なのだった。
そんな彼ら|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ戦う理由は、欲望|嗜《し》好《こう》利害|打《だ》算《さん》、という通常の|志《し》向《こう》以外に|幾《いく》らでも発生し得たのである。そして、戦うことを目的と定めた者たちの受け皿の内、最も強硬な一団として、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]という組織は在った。
「…‥意思、確認」
「……行くのでありますか」
「ええ、行くわよ。そう決めたんだから」
「――うむ」
対するフレイムヘイズ|陣《じん》営《えい》は、|慢《まん》性《せい》的な人材の不足に悩まされてきた。
ヨーロッパ全土から地中海を挟んだ北アフリカ、小アジアと中東をも含む|広《こう》範《はん》な地域が、古くから双方激しく|噛《か》み合ってきた|激《げき》戦《せん》区であればなおさら、その度合いは深刻だった。
フレイムヘイズとは、|都《つ》合《ごう》に応じて量産の利く存在ではない。その誕生は、人間が常ならぬ巨大な感情を抱く、|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ在る王≠ェそれに共感する、|双《そう》方《ほう》合意の上で契約する、等のプロセスを経て行われる。いずれも簡単に起きる|事《じ》象《しょう》ではなかった。
しかしそれでも、この時期、彼ら|異《い》能《のう》の討ち手たちは一気に増えた。
当時、受け皿となる人間の側が|戦《せん》乱《らん》病苦に|聖《せい》俗《ぞく》社会、生きる全ての|艱《かん》難《なん》に見舞われていたから、というだけではない。力を与える側、それまで静観を決め込んでいた大多数の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠スちも、先を争ってこの世界のバランスを守る戦いに加わったからである。
その引き金は、『|都《みやこ》喰《く》らい』と呼ばれる|自《じ》在《ざい》法《ほう》の発動だった。
優れた自在|師《し》でもあった[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|首《しゅ》領《りょう》、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズは、仕掛けを|施《ほどこ》した多数のトーチを|触《しょく》媒《ばい》に、『人』は元より、本来は喰らうに適さない『物』さえも――つまり、都市を丸ごと一つ、高純度かつ|莫《ばく》大《だい》な存在の力≠ノ変換したのである。彼は作り出した力を自らに取り込み、結果、一度に生じたものとしては史上空前の|歪《ゆが》みを、この世に生じさせた。
彼の行いを食い止めんと戦ったフレイムヘイズらは、|辛《かろ》うじて『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』一角の|討《とう》滅《めつ》という|戦《せん》果《か》を挙げこそしたものの、結局は式の発動を許し、多数の強力な|討《う》ち手を失い……つまり、名実ともに大敗北を|喫《きっ》したのである。
しかし反面、この大敗北は、全世界のフレイムヘイズや、未だ|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノあって静観を決め込んでいた多くの王≠轤ノ|尋《じん》常《じょう》ではない危機感を与えもした。本来、|滅《めっ》多《た》に|徒《と》党《とう》を組まない討ち手たちは、アシズ|率《ひき》いる大軍団[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]に対抗すべく、徐々に結束を固め出し、また危機感から人間との契約に踏み切る王≠熨揩ヲ始めたのだった。
それら、新たな|激《げき》突《とつ》の|種《たね》を|孕《はら》んだ|潮《ちょう》流《りゅう》の中、局所的な|激《げき》戦《せん》の続くこと十八年。
時に決着への|弾《はず》みをつける決定的な事件が、|遂《つい》に起きた。
アシズ自身が、とある|宝《ほう》具《ぐ》の|強《ごう》奪《だつ》に動いたのである。
正確に言うと、事件はその強奪自体ではない。宝具を所持していた|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ一派、強奪を目指す[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]、|阻《そ》止《し》に集ったフレイムヘイズらによる三つ|巴《どもえ》の戦いの最中で行われた、アシズによる|己《おの》が|企《き》図《と》、堂々の|宣《せん》布《ぷ》――己の目指す夢の|布《ふ》告《こく》――である。
彼が『|壮《そう》挙《きょ》』と自称する|企《たくら》みの全容を聞かされた|徒《ともがら》≠ニフレイムヘイズは、それぞれ正反対、両|極《きょく》端《たん》な反応を見せた。
組織に属さない者も含め、|徒《ともがら》≠轤ヘ|歓《かん》呼《こ》を上げて[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|陣《じん》列《れつ》に加わった。
逆に、フレイムヘイズとその内にある王≠轤ヘ、|戦《せん》慄《りつ》とともに|暴《ぼう》挙《きょ》の阻止を|誓《ちか》った。
この状況|錯《さく》綜《そう》した|大《だい》規模な激突の結果、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』のもう一角が|討《とう》滅《めつ》され、しかし宝具はアシズの手に落ちた。着々と、彼の企図は実現へと進む。|徒《ともがら》≠轤フ期待と|士《し》気《き》はいやが上にも上がり、フレイムヘイズらの危機感と恐怖は爆発的なまでに|募《つの》った。
そして、宝具の強奪から五日目……この夜。
双方は、最後の決戦に臨んでいた。
アシズによる『壮挙』実現を|奉《ほう》じる|徒《ともがち》≠轤ヘ[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|本《ほん》拠《きょ》地《ち》・ブロッケン|要《よう》塞《さい》に集結し、暴挙を砕かんとするフレイムヘイズらは|即《そく》製《せい》の兵団を組んで同地に|殺《さっ》到《とう》する。
大戦も、今や|酣《たけなわ》である。
巨大な足が、燃えるブナの木々を次々と|蹴《け》り砕き、大地を|削《けず》ってゆく。
「グウオアアアアアアアアアアアアア!!」
その森を圧して|聳《そび》える足、一目で見渡せないほど広がった両腕、|咆《ほう》哮《こう》に震え|撓《たわ》む|胴《どう》体《たい》、全てが、鉄だった。
「|貴《き》様《さま》らあああ、よくもおおお!!」
鉄板を|継《つ》ぎ|接《は》ぎして作った|鎧《よろい》ではない。ひたすら|無《ぶ》骨《こつ》で分厚い、|城《じょう》壁《へき》をそのまま鉄に変えたほどに巨大な鉄板を、|胴《どう》と両手足の形に組んであるだけという、|異《い》形《ぎょう》の巨人だった。|咆《ほう》哮《こう》を上げたのは、その|胴《どう》体《たい》部分に白い染料で描かれた|双《そう》頭《とう》の鳥である。
ブナとオークからなる|鬱《うつ》蒼《そう》とした|黒《くろ》森《もり》が、|衝《しょう》撃《げき》に、声に、鈍く震える。
と、その|余《よ》韻《いん》に|紛《まぎ》れて、枝の下、そこかしこから光が|閃《ひらめ》いた。やや遅れて、ダダダ、ダダダダン、と立て続けの軽い|破《は》裂《れつ》音が鳴り|響《ひび》く。
巨人の、広い胴体部の前面に、無数の打撃音を連れた粘っこい煙が上がった。近年、人間の軍や|傭《よう》兵《へい》部隊に普及し始めた、歩兵単位の|砲《ほう》・『銃』による|一《いっ》斉《せい》射撃である。
が、
「よくもソカルををを! |同《どう》胞《ほう》殺しの道具どもがああ!」
鉄の巨人は、全く応えた|様《よう》子《す》もない。足元、巨大な|松《たい》明《まつ》のように燃え盛る木々を|薙《な》ぎ倒し、|火《ひ》の|粉《こ》を|濛《もう》々《もう》と巻き上げて突き進む。
と、今度は先より数段|腹《はら》を重く打つ破裂音が、|銃《じゅう》火《か》と同数|湧《わ》き上がった。 |攻《こう》城《じょう》 砲《ほう》による|砲《ほう》撃《げさ》である。密度|濃《こ》く地を|隠《かく》す|黒《くろ》森《もり》の枝葉を突き破り、|火《か》薬《やく》による運動エネルギーを乗せた|大《だい》質量の|砲《ほう》弾《だん》が、鉄の|城《じょう》砦《さい》のような巨人に数十から|叩《たた》き込まれた。
「ガガッ、グガ、ゴッ!?」
バキン、ガカ、ガ、と打撃音に合わせて|唸《うな》った巨人は、しかしやはり、|僅《わず》かも傾かず、突進の勢いも減じない。どころか、大きく広げていた|城《じょう》壁《へき》のような両腕を一つ、配下の|軍《ぐん》勢《ぜい》を導くため大きく前に振った。
「|火《か》砲《ほう》の手は尽きたあああ! 進め進め戦友たちよおおお!!」
夜気を切って叫ぶ巨人の背後、ブロッケン山の方角から、
「おおーう! |先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》が|血《けつ》路《ろ》を開かれたぞ!」
「続け者ども、後れを取るな!」
「ガアアアオオオー!!」
「わあああああー!!」
色とりどりの|炎《ほのお》を引いた、大きさも形も不ぞろいな軍勢が|溢《あふ》れ出た。
茂みを払うのは羽根や骨、|鞭《むち》のような|触《しょく》 手《しゅ》に鉄の|篭《こ》手《て》。 倒され|燻《くすぶ》る幹を踏み越えるのは|蹄《ひづめ》や|鉤《かぎ》爪《づめ》、ときには|蛇《だ》尾《び》。|猛《たけ》り叫ぶ口は|尖《とが》った|嘴《くちばし》、あるいは|牙《きば》を並べた|顎《あご》。
まさに|魔《ま》軍《ぐん》と呼ぶべき、異形の軍団だった。
「[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]|万《ばん》歳《ざい》!」
「万歳、ウルリクムミ|御《おん》大将!」
「同胞殺しどもを踏み|漬《つぶ》せ!」
「|討《とう》滅《めつ》の道具どもを|噛《か》み砕け!」
口々に|咆《ほ》え、|鉄《てっ》塊《かい》の|疾《しっ》走《そう》を追い越していく魔軍から一つ、美女の顔を中心に抱いた|妖《よう》花《か》が舞い上がった。それはふわりと巨人の肩に乗り、|穏《おだ》やかな|口《く》調《ちょう》で語りかける。
「|御《ご》無事で?」
「人間の火遊び|玩具《おもちゃ》如《ごと》きでえええ、この|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミが揺らぐものかあああ」
鉄の巨人、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]が誇る『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角たる|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミは、肩に乗った|妖《よう》花《か》に、動かぬ首から答えを返した。
妖花はさらに|尋《たず》ねる。
「冷静で?」
ウルリクムミは|疾《しっ》走《そう》を遅らせず、返事には一拍|置《お》いた。
「……|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カルはあああ、|陰《いん》険《けん》悪《あく》辣《らつ》の嫌な|奴《やつ》だったあああ。しかしいいい」
|進《しん》撃《げき》する彼の眼前、三度|黒《くろ》森《もり》の中で光が|瞬《またた》いた。
今までのものとは違う、色とりどりの光。飛んでくるものも、|銃《じゅう》砲《ほう》弾《だん》の|類《たぐい》ではない。推進する火の玉……敵意を乗せて|奔《はし》り、|炸《さく》裂《れつ》炎上する初歩的な攻撃の|自《じ》在《ざい》法《ほう》『|炎《えん》弾《だん》』だった。
ウルリクムミは、|咄《とっ》嗟《き》に鉄の腕を妖花の前にかざして守る。炎弾は次々とその表面に|着《ちゃく》弾《だん》して、巨体を|爆《ばく》炎《えん》で|覆《おお》い尽くすが、その疾走は揺るがない。まるで|炎《ほのお》の|塊《かたまり》が|雪崩《なだ》れるように、|叫《きょう》喚《かん》する|魔《ま》軍《ぐん》を引き連れて巨人は走る。
熱気の中、|僅《わず》かに|喘《あえ》ぐ妖花が、|傍《かたわ》らに描かれた白い|双《そう》頭《とう》の鳥に言う。
「お手間を?」
動かす表情もない鉄の巨人は、妖花への答えでなく、先の言葉を続ける。
「我が[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』のかけがえなき一角にしてえええ、東方よりともに|轡《くつわ》を並べてきた戦友だったあああ」
|疾《しっ》走《そう》の風で|炎《ほのお》を吹き散らした眼下、森の中に、見つけた。
彼の同志・戦友らと組み合い、切り結ぶ物[#「物」に傍点]どもを。
|根《こん》拠《きょ》も|曖《あい》昧《まい》な、|身《み》勝《がっ》手《て》で一方的な危機感に駆られて、|同《どう》胞《ほう》たる|徒《ともがら》≠殺して回るという信じられない|愚《ぐ》行《こう》を犯す|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠スちの入った道具――フレイムヘイズを。
より強い怒りを込めて、再び|咆《ほ》える。
「その死にいいい、|怒《いか》らいでおられようかあああ! 我が『ネサの|鉄《てっ》槌《つい》』にてえええ、砕けて|朽《く》ちよ道具どもおおおお!!」
巨体の周囲に、|脳《のう》紺《こん》色の|火《ひ》の|粉《こ》を混ぜた|竜《たつ》巻《まき》が|湧《わ》き上がった。
暗夜、巨人を包む壁とも|見《み》紛《まが》うそれは、戦場全体から引き寄せられた剣や|槍《やり》の|穂《ほ》、ひしゃげた|兜《かぶと》や|錆《さ》びた|鎧《よろい》、先の大砲の|弾《たま》までをも混ぜた|鉄《てっ》塊《かい》群である。それらが合流し、徐々に勢いを増し濃紺に輝く激流となる。猛烈な速度で|飛《ひ》翔《しょう》する鉄と、鉄と鉄と鉄。
それが、
「前方うう、散れえええっ!!」
|轟《ごう》咆《ほう》を受けて、乱戦の中から、|徒《ともがら》≠スちが|一《いっ》斉《せい》に引いた。取り残されたフレイムヘイズらの頭上から、|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミの誇る破壊の|自《じ》在《ざい》法《ほう》『ネサの|鉄《てっ》槌《つい》』が|雪崩《なだれ》落ちてくる。
|一《いち》撃《けき》、
速さと質量のみならず、存在の力≠ノよる強化も受けた鉄の|怒《ど》涛《とう》が、|黒《くろ》森《もり》の一部を、その樹下に|潜《ひそ》んでいた討ち手ら|諸《もろ》共《とも》、|粉《こな》微《み》塵《じん》に打ち砕いた。
森の中央で|炸《さく》裂《れつ》する『ネサの|鉄《てっ》槌《つい》』も遠い、枝葉で|擬《ぎ》装《そう》された小さな|簡《かん》易《い》天幕が、古いオークの根元に張ってある。ハルツの緩い|山《さん》麓《ろく》を北と東、二方向から攻め上るフレイムヘイズ兵団の|片《かた》翼《よく》、北側の『サバリッシュ集団』|本《ほん》陣《じん》だが、人数は|僅《わず》かに数名と寂しい。
その天幕の入り口から、一人の女性が首を出して外の|様《よう》子《す》を|窺《うかが》っていた。
「あーらららら、ウチの右翼がワヤクチャに」
腹を轟咆に、|膝《ひざ》を|地《じ》響《ひび》きに震わされつつも、どこか|呑気《のんき》な|声《こわ》色《ね》の、丸顔、四十過ぎほどの女性である。その装いは、黒い|貫《かん》頭《とう》衣《い》に純白のベールという、戦場に|似《に》合《あ》わぬ|修《しゅう》道《どう》女《じょ》姿。
「ソカルの|討《とう》滅《めつ》が伝わって、火が|点《つ》いてしまったのかしら。|先《せん》鋒《ばう》の|雑《ぞう》兵《ひょう》の足を止めるために並べておいた|砲《ほう》列《れつ》だったのに……やっぱり、こっちの戦法を見抜かれてしまったようですね」
「ゾフィー・サバリッシュ君、呑気に感想を吐かれては困る。君が|総《そう》大将なんですぞ?」
取り澄ました男の声で答えるのは、人ではなく、ベールの|額《ひたい》に|刺《し》繍《しゅう》された青い星。
「分かっていますよ、タケミカヅチ。予想外に早かったから、ちょっと驚いただけ」
ゾフィーと呼ばれた女性は、|額《ひたい》を見上げて文句を言った。その|苦《にが》い表情にもどこか|稚《ち》気《き》があって、年に関係のない|可愛《かわい》らしさを感じさせる。
青い星ことタケミカヅチは|叱《しっ》責《せき》を打ち切って、彼女の感想を|分《ぶん》析《せき》する。
「たしかに、予想外の早さ。開戦から、まだたった|二《ふた》当《あ》てで我らの戦術と|陣《じん》容《よう》を見抜き、自らを|盾《たて》に突破をかけるとは。|流石《さすが》『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》、大した|慧《けい》眼《がん》。これなら、|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》≠フ方が|奢《おご》ってごり押しするだけ、やりやすかったですかな?」
「だめだめ。ソカルだって奢って当然の|戦《いくさ》上《じょう》手《ず》だったでしょう? 現に今日が、彼の|初《はつ》敗北じゃありませんか。たまたまカールの速度と攻撃力が、ソカルの性格と防御|陣《じん》に|相《あい》性《しょう》が良かっただけ……|討《とう》滅《めつ》の結果は運で拾ったものに過ぎません」
ブロッケン|要《よう》塞《さい》の|包《ほう》囲《い》を遠くから縮める形で攻め寄せるフレイムヘイズ兵団(この『兵団』という|呼《こ》称《しょう》は、|孤児《シロツツイ》と呼ばれる|傭《よう》兵《へい》あがりの|討《う》ち手から、その編制における意見を得た際につけられたものであり、|符《ふ》丁《ちょう》以上の意味はない)は、大きく二つに分かれている。
北から南に進む『サバリッシュ集団』(|総《そう》大将『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』ゾフィー・サバリッシュ)、
東から西に進む『ベルワルド集団』(副将『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』カール・ベルワルド)、である。
対する[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は、この空前の規模を持つ討ち手らの|迎《げい》撃《げき》にあたり、要塞での|籠《ろう》城《じょう》戦を選ばなかった。どころか、要塞守備兵を除く総力をもって、|裾《すそ》野《の》での野戦を|挑《いど》んでいた。
その彼ら、対フレイムヘイズ軍団[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は、大きく三つに分かれている。
左翼に、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角にして|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》たる|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミ、
中央軍に、同じく『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角、|先《さき》手《て》大《たい》将《よう》|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カル、
右翼に、とある援軍の一団[#「とある援軍の一団」に傍点]が、それぞれ|布《ふ》陣《じん》していた。
ウルリクムミの左翼が北から迫るサバリッシュ集団と|対《たい》峙《じ》し、ソカルの中央軍が東から攻め寄せるベルワルド集団に当たり、とある|援《えん》軍《ぐん》は中央軍の|援《えん》護《ご》に回る、という作戦方針だった。
これら、戦力|括《きっ》抗《こう》する|激《げき》突《とつ》の結果、フレイムヘイズ兵団の|片《かた》翼《よく》『ベルワルド集団』はソカルの早々な|討《とう》滅《めつ》という|大《だい》戦《せん》果《か》を挙げ、もう片翼『サバリッシュ集団』はウルリクムミの|猛《もう》攻《こう》に|晒《さら》されている。積極的に動かないとある援軍[#「とある援軍」に傍点]の|動《どう》静《せい》も含め、|戦《せん》況《きょう》は未だ優劣|混《こん》沌《とん》の内にある。
遠くその|有《あり》様《さま》を望見したゾフィーは、素早く胸の前で十字を切った。既に|聖《せい》職《しょく》を辞して久しいが、どうしても抜けない習慣である。
「分かってはいるけれど、|戦《いくさ》というのは|上手《うま》く行かないものですね」
|己《おの》の契約者に、タケミカヅチは|僅《わず》かに笑いを含んだ声で返す。
「開戦早々に|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》≠討滅できたのは、君が立てた作戦の確かな戦果ですぞ」
「代わりに、私たちが追い散らされかけているじゃありませんか。今回集めた|連《れん》中《ちゅう》は十八年前の|豪《ごう》傑《けつ》たちとは違う……[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]と正面から|殴《なぐ》り合うため限界まで数を|揃《そろ》えた分、|誰《だれ》も彼も急造の、討ち手としては|素人《しろうと》ばかり。必ず勝たねばならない|戦《いくさ》だというのに」
|溜《ため》息《いき》とともに、ゾフィーは『ネサの|鉄《てっ》槌《つい》』の|粉《ふん》塵《じん》上がる戦場を見やった。その周囲でもいくつか|爆《ばく》炎《えん》があがって、|怒《ど》号《ごう》と|絶《ぜっ》叫《きょう》が地鳴りのように|響《ひぴ》いてくる。
(あそこで何人、死んでいるやら)
|今《こん》大戦に臨んで集めた討ち手の大半は、契約|間《ま》もないか、独自の技を磨いてすらいない、いわば|新《しん》米《まい》ばかりだった。数少ない腕利きをそれらの隊長として配置してはいるものの、|所《しょ》詮《せん》は|即《そく》製《せい》兵団、 戦場|往《おう》来《らい》の|古《ふる》強《つわ》者《もの》たる『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』|直《じき》率《そつ》の|軍《ぐん》勢《ぜい》と、 まともに当たり得ようはずもない(ゆえにこそ、彼女は開戦直後の速攻でソカルを|討《とう》滅《めつ》する作戦を立てた)。
そうでなくとも、|徒《ともがら》≠轤フ士気は高い。彼らは|己《おの》が|首《しゅ》領《りょう》たる|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの推し進める『|壮《そう》挙《きょ》』に新たな時代の可能性を感じ、その実現のために各員|奮《ふん》起《き》しているのである。
長く[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]と戦ってきた経歴から|総《そう》大将に|推《すい》戴《たい》されたゾフィーは、その|彼《ひ》我《が》の戦力差を埋める|窮《きゅう》余《よ》の一策として、新米らに人間の武器である銃や大砲まで使用させている。
元々、使用者の体から離れる武器、いわゆる飛び道具は、存在の力≠ノよる強化や制御が困難であるため、討ち手から敬遠されていた。もっと扱いが|簡《かん》便《べん》で|威《い》力《りょく》も高い『|炎《えん》弾《だん》』という|自《じ》在《ざい》法《ほう》がある、 単なる|質《しつ》量《りょう》弾《だん》など少し|器《き》用《よう》な|徒《ともがら》≠ネら|容易《たやす》く|弾《はじ》いてしまう、 |銃《じゅう》創《そう》程度は|治《ち》|癒《ゆ》も早い、等の要素を考え合わせれば、無理してこれを使う意味など、どこにもない。
にもかかわらず、彼女が|火《か》砲《ほう》戦術の採用に踏み切ったのは、長期戦に備え、少しでも力を温存させたかったのと、並の|徒《ともがら》¢且閧ネら、|工《く》夫《ふう》一つで足止めもできたからである。
その工夫とは、まず銃を|撃《う》って|油《ゆ》断《だん》させ、接近してきたところを同数の大砲でぶっ飛ばすという『威力差攻撃』である。この不意を突く攻撃法は、意志によって強化を行う|徒《ともがら》=i|無《む》論《ろん》、フレイムヘイズも同様)には、それなりに有効だった。
取り回しが悪く|連《れん》射《しゃ》も効かないという当時の火砲の欠点も、|装《そう》填《てん》済みのものを|進《しん》撃《げき》しながら各所に置き捨てる、という方法で|対《たい》処《しょ》した。討ち手らは例外なく|怪《かい》力《りき》の持ち主であり、点火も自在に行える。つまり、彼女ら|異《い》能《のう》者の兵団なら、大砲を拾っては撃ち拾っては撃ち[#「大砲を拾っては撃ち拾っては撃ち」に傍点]して戦うことも可能なのだった。まず、敵の攻勢をこの戦術で押し|止《とど》め、弱ったところで自力の反撃に転じる(無論、後退の際の保険にもなる)、というのが彼女の立てた作戦の基本方針だった。
(でも、さすがにウルリクムミは容易い相手ではありませんね)
この戦術は、結果として、開戦当初にしか役に立たなかった。
歴戦の勇士として知られる[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》は、|僅《わず》かに二度の攻撃を受けただけで、『威力差攻撃』の狙いと弱点、配置された|砲《ほう》列《れつ》の役割まで見破ってしまったのだった。
彼は、最初の|一《いっ》斉《せい》砲《ほう》撃《げき》で出足を止められていた|徒《ともがら》≠轤|鼓《こ》舞《ぶ》しつつ、|率《そっ》先《せん》して前線を突破し、|双《そう》方《ほう》入り乱れる混戦に持ち込むという方法を取った。これではフレイムヘイズらも同士|討《う》ちを恐れて、せっかく用意した|砲《ほう》を使いにくくなる。
しかも、突破をかけられた『サバリッシュ集団』右翼は、中央を横合いから|援《えん》護《ご》するための部隊に過ぎず、人数も|寡《か》少《しょう》だった。|猛《もう》撃《げき》に|蹴《け》散《ち》らされ、今やその|陣《じん》列《れつ》は|崩《ほう》壊《かい》寸《すん》前《ぜん》である。
(それに、狙いもいい)
ウルリクムミは目の前の敵を打ち破るのみならず、両軍の|均《きん》衡《こう》を崩すためにも『サバリッシュ集団』右翼を|標《ひょう》的《てき》としたのだろう、とゾフィーは推測していた。この部隊はフレイムヘイズ兵団全体から見て、西の端に当たる。ここに切り込んでしまえば、|包《ほう》囲《い》されえる恐れもなく、|横《よこ》腹《ばら》を思うさま攻撃できるのだった。
(これは、かなりな危機的状況と見ていい)
兵団は、|新《しん》米《まい》揃《ぞろ》いというだけでなく、|一《いち》人《にん》一《いっ》党《とう》で協調性もない|連《れん》中《ちゅう》を寄せ集めた|烏《う》合《ごう》の|衆《しゅう》である。この攻撃に対応した|迅《じん》速《そく》な|陣《じん》形《けい》変更など望みようもない。この混乱のまま、ウルリクムミに右翼からの|横《おう》撃《げき》を食らえば、『サバリッシュ集団』自体が|潰《かい》走《そう》してしまう恐れさえあった。
(今までとは違って、今度の|戦《いくさ》は絶対に負けられない……やるしかありません、ね)
ゾフィーは観念するように|溜《ため》息《いき》を吐いた。十字を切りかけて、止める。
「私が出ます」
思わぬ言葉に、|天《てん》幕《まく》の内で地図を|睨《にら》んでいた数名に|動《どう》揺《よう》の声が上がった。
最初に|異《い》議《ぎ》を唱えるのは、タケミカヅチである。恐れからではなく、|理《り》屈《くつ》から。
「なんと。|総《そう》大将|自《みずか》らの|太刀打《たちう》ちとは、|愚《ぐ》策《さく》の|極《きわ》みですぞ」
言われた彼女は、しかし|天《てん》幕《まく》の中に向き直り、|噛《か》んで含めるように言う。
「迅速に|潰《かい》走《そう》寸《すん》前《ぜん》の右翼に駆けつける。新米たちを|脅《おど》し付けてその場に踏みとどまらせる。ウルリクムミを食い止めて陣列を立て直すための時間を稼ぐ。今、これら全部を同時にできるフレイムヘイズは私だけです。反論は?」
タケミカヅチ含め、誰も口を開かなかった。
「よろしい」
|貫《かん》禄《ろく》たっぷりに|修《しゅう》道《どう》女《じょ》姿の総大将は|頷《うなず》き、自分が不在の間の方針を示す。
「ドゥニ、とにかく『ベルワルド集団』との間に|伝《でん》令《れい》が通えるようにして|頂《ちょう》戴《だい》。向こうに|遠《えん》話《わ》のできる|自《じ》在《ざい》師《し》が生き残ってたら、そいつを引き抜いて。私の権限で許します」
天幕中央、折り|畳《たた》み式の|大《だい》卓《たく》に広げた地図を|睨《にら》む、背の高いマントの男が、静かに答える。
「|了《りょう》解《かい》です。直ちに、使えそうな連絡線を選定しましょう」
「アレックスは、私が戦ってる間に中央の陣列を整えておいて。相手が相手です、そう|猶《ゆう》予《よ》は作ってあげられませんから、大急ぎでお願い」
「はいよ、任せろ。気ぃ付けてな」
大卓の反対側にもたれかかっていた|軍《ぐん》装《そう》の|小《こ》男《おとこ》が、軽く手を上げて請け負った。
頷いて、ゾフィーは天幕の外に出た。さっきより戦闘|騒《そう》音《おん》が大きくなっている。これは交戦
|域《いき》が近付いている――つまりフレイムヘイズ側が押されている、という|証《しょう》拠《こ》だった。
戦場を見渡せば、星を|隠《かく》した空の下、黒く広がる森の中、どこもかしこも、色とりどりな爆発の|地《じ》響《ひび》きと、|種《しゅ》々《じゅ》様々な言語で叫ばれる|鯨《と》波《き》の声で満ちていた。
「どこまで踏ん張れるでしょう」
「でしょう、ではなく、踏ん張らねばならんのですぞ、ゾフィー・サバリッシュ君。あの作戦[#「あの作戦」に傍点]がうまく決まれば、勝敗も五分に戻せるはず」
|額《ひたい》の星からの、あくまで冷静な声に、ゾフィーは|溜《ため》息《いき》で返す。
「ええ。その作戦が成功して、ようやく五分……世の中って|厳《きび》しいわ」
「全ての|算《さん》段《だん》の中で、これが一番高い確率、しょうがありますまい。なんといっても、相手は我らが|宿《しゅく》敵《てき》[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]ですからな」
実のところ、フレイムヘイズ兵団の目的は、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]全軍の|殲《せん》滅《めつ》にはない。
|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの|企《くわだ》てた|暴《ぼう》挙《きょ》(|徒《ともがら》≠轤ェ『|壮《そう》挙《きょ》』と呼ぶ計画)の|阻《そ》止《し》――それが、至上にして|唯《ゆい》一《いつ》の命題なのだった。|戦《いくさ》は必要|不《ふ》可《か》欠《けつ》な、しかし|一《いち》手順に過ぎない。ゾフィーら|討《う》ち手の兵団に与えられた手順、その役割は、|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミと|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カル|率《ひき》いる|徒《ともがら》≠フ主力軍を、戦場で|釘《くぎ》付《づ》けにすることだった。
対フレイムヘイズ軍団[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は、|首《しゅ》領《りょう》たる|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの元、九人の強大な|紅《ぐ》世《ぜ》の王=w|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らが|徒《ともがら》≠フ|軍《ぐん》勢《ぜい》を|統《す》べる、という組織編制である。
しかし、その一人は十八年前、全ての|遠《えん》因《いん》となった『|都《みやこ》喰《く》らい』事件の際に、もう一人はほんの五日前、大戦の直接的な|発《ほっ》端《たん》となった|宝《ほう》具《ぐ》の|争《そう》奪《だつ》戦の中で、それぞれ|討《とう》滅《めつ》されている。
即ち、大戦の前段階で『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』は既に、
|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミ、
|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カル、
|闇《やみ》の|雫《しずく》<`ェルノボーグ、
|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリ、
|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激N、
|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qム、
|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》<Cルヤンカ、
の七人となっていた。
この内、軍を|率《ひき》いて戦場に現れたのは、ウルリクムミと、|緒《しょ》戦《せん》で討滅されたソカルである。
チェルノボーグは単独による暗殺を|旨《むね》とする|隠《おん》密《みつ》頭《がしら》、ジャリは|敵《てき》情《じょう》視察を|主《しゅ》任務とする|大《だい》斥《せっ》候《こう》、モレクは組織全体の運営に当たる|宰《さい》相《しょう》で、『|壮《そう》挙《きょ》』という困難極まる作業[#「困難極まる作業」に傍点]にかかりきりになっているだろうアシズともども、|要《よう》塞《さい》からの|出《しゅっ》戦《せん》は、まずないと見てよかった。
さらに、お義理の参戦であろうとある援軍[#「とある援軍」に傍点]を除くと、フレイムヘイズ兵団が|戦《いくさ》を進める上で最大の|懸《けん》案《あん》事項は、残る二人の動向に|絞《しぼ》られる。
[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]最強の将、『両翼』――メリヒムとイルヤンカである。
参戦すれば、攻防絶大な力で容易に戦局を転換させてしまうだろうこの二人が、未だ要塞の内に|籠《こも》っているのには、二つの理由があった。
一つは、ともに五日前の死闘によって|消《しょう》耗《もう》していること、もう一つは、その死闘で彼らが|激《げき》突《とつ》した当の相手……フレイムヘイズ兵団の切り札たる二人の|討《う》ち手が、未だ戦場に姿を現していないこと、である。
「切り札は、切らないことも使い道の一つ、ということね」
「しかし、ソカルの討ち死にで戦機は熟しつつありますぞ。転換の時は近い」
世に名だたる『両翼』が|警《けい》戒《かい》するのも当然だった。この二人の討ち手は、十八年の長きに渡り彼らと|鎬《しのぎ》を|削《けず》り合ってきた、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]にとって最悪の|宿《しゅく》敵《てき》なのである。
現に五日前の宝具争奪戦でも、この二人はメリヒムの半身とすら言える|燐《りん》子《ね》≠フ|軍《ぐん》勢《ぜい》『|空軍《アエリア》』を|殲《せん》滅《めつ》し、イルヤンカにもかなりの|深《ふか》手《で》を負わせている。
もっとも、双方の取り合った宝具は[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の手に落ち、また多数の強力な討ち手を失うなど、戦の結果そのものはフレイムヘイズ側の完敗だったが……
(負けは負けでも、|無《む》駄《だ》じゃあなかった、と考えるべきだわ)
ともかく、その宿敵二人の参戦を確認してからでないと、アシズを守る最強の戦力たる『両翼』は動くに動けない。彼らだけがあの二人と|互《ご》角《かく》に戦える存在である以上、不用意な戦局への手出しで|消《しょう》耗《もう》するわけにはいかないのだ。そもそもウルリクムミとソカルが軍を|率《ひき》いて出撃したのには、ブロッケン|要《よう》塞《さい》という、アシズが|企《き》図《と》の実現を目指す|本《ほん》拠《きょ》地《ち》で、|物《ぶっ》騒《そう》極まりない二人を迎え|撃《う》つ危険を回避するため、という側面もあるのである。
(なにしでかすか分かりませんからね、あのじゃじゃ馬は)
ゾフィーは、クスリと笑う前で、素早く十字を切る。
その指が宙に走った後に、青白い|電《らい》光《こう》が散った。
「何人にも|哀《あわ》れまれず、罪を犯して省みず、存在もならぬ無に|堕《お》ちる我らに、せめて勝利よ輝け、アーメン・ハレルヤ・この私」
|瞑《めい》目《もく》して唱えつつ、自分に願う[#「自分に願う」に傍点]ため両|掌《てのひら》を胸の前で組む。
バチン、と再び青白い火花が散った。
|出《しゅつ》陣《じん》の|儀《ぎ》式《しき》が終わるのを見たタケミカヅチが、散歩に誘うような軽い声で言う。
「では、参りましょうか――『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』ゾフィー・サバリッシュ君」
ゾフィーが明るく答える。
「はいはい、参りましょう――|払《ふつ》の|雷《らい》剣《けん》<^ケミカヅチ氏」
|刹《せつ》那《な》、|雷《らい》鳴《めい》の|轟《ごう》音《おん》とともに、黒い|修《しゅう》道《どう》服の|裾《すそ》から目を焼くような|眩《まばゆ》い|閃《ひらめ》きが|迸《ほとばし》った。まるで下半身を|稲《いな》妻《ずま》の|蛇《へび》と変えたかのように、フレイムヘイズ『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』は飛ぶ。
後には、吹き飛ばされた|天《てん》幕《まく》と、|迷《めい》惑《わく》顔を黒く|焦《こ》がした部下たちが残された。
|紫《し》電《でん》に包まれたゾフィーは、戦場の上空を横切る。その弓なりの軌道の|頂《いただき》で、戦場の空を一面に|覆《おお》う、雲とも見える黒い|靄《もや》に突っ込んだ。
と、靄を構成する|一《ひと》粒《つぶ》一粒が、彼女に群がり立って|襲《おそ》い掛かる。
無数の、指先ほどの大きさのそれらは、息も吸えないほどに密集する、|蝿《はえ》。
戦場|全《ぜん》域《いき》を|監《かん》視《し》するため、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角、|大《だい》斥《せっ》候《こう》|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリが展開した|自《じ》在《ざい》法《ほう》、『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』だった。天を|覆《おお》わんばかりの蝿の大群によって、彼は遠く広く見聞きし、また戦うのである。一匹一匹は|所《しょ》詮《せん》蝿、大した力もないが、とにかく数が多い。フレイムヘイズが誰も飛行して戦っていないのは、この危険な|結《けっ》界《かい》が空中に張ってあるためなのだった。
もっとも、紫電を|纏《まと》う、ゾフィーに、『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』は一切通じない。たかる|傍《そば》から蝿は|灰《かい》燼《じん》に|帰《き》してゆく。 そんな、|不《ぶ》気《き》味《み》に煙るゾフィーの|視《し》界《かい》、 行く先たる戦場に巨体が|聳《そび》えている。
(見つけた)
向こうも気付いたらしい。|慌《あわ》てて肩に乗っていた花を放り捨てるのが見えた。
「つきますよ――」
ゾフィーは修道服の裾を引き|絞《しぼ》り、飛行|体《たい》勢《せい》を反転させる。
「――だぁらっしゃあ――っ!!」
後方に稲妻を引いて、フレイムヘイズ兵団の|総《そう》大将は|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミの真正面、描かれた|双《そう》頭《とう》の鳥へと両足による飛び|蹴《げ》りを見舞った。
再びの|雷《らい》鳴《めい》、|壮《そう》絶《ぜつ》な放電、そして圧倒的な|衝《しょう》撃《げき》に、鉄の巨人が宙を舞った。
両軍ぶつかる東端に、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]と|陣《じん》列《れつ》を並べる、とある援軍[#「とある援軍」に傍点]があった。
|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カルを失いながらも、未だ|士《し》気《き》高く|奮《ふん》戦《せん》を続ける[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]中央軍の右翼(フレイムヘイズ兵団からの見方とは、ちょうど反対になる)として『ベルワルド集団』を圧迫する、|不《ぶ》気《き》味《み》なほどに整然とした一団である。
彼らは積極的に|戦《いくさ》に加わることなく、ウルリクムミによる|横《おう》撃《げき》の成功を待ってひたすら耐える中央軍と、静かに進退の歩調を合わせている。中央軍が一歩下がれば並んで一歩下がり、二歩進めば並んで二歩進む。進退を|邪《じゃ》魔《ま》する者のみを、|容《よう》赦《しゃ》なく圧殺する。
この一団、自らを称して[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]といった。
今、その|本《ほん》陣《じん》には、数百年に一度とも言われる、|稀《け》有《う》な情景があった。
実際の|眺《なが》めとしては、ただ三人[#「三人」に傍点]が、そこにいるだけである。ただし、多少なりと[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]について知っている者ならば、この|揃《そろ》い踏みがどれほど|奇《き》異《い》なことか、そして、それがどれほど重要な意味を持っているのかを思い、恐怖するはずだった。
そんな彼らの本陣は、軍団の移動に合わせて進退がしやすいよう、四つの支柱で四角く|陣《じん》幕《まく》を張っただけの簡素なものである。
内側を掃き清められた陣の中央には、|銀《ぎん》縁《ぶち》の装飾を|施《ほどこ》された黒材の|輿《こし》が置かれている。
輿の上には少女が一人、|端《たん》然《ぜん》と立っていた。
白く大きな|帽《ぼう》子《し》とマントに着られるような、|小《こ》柄《がら》な少女である。眠るような自然さで|相《そう》貌《ぼう》を閉じ、力なく前に下げた両手で|錫《しゃく》 杖《じょう》を|横《よこ》一《いち》文《もん》字《じ》に携えている。 確かに届いているはずの戦場の|叫《きょう》喚《かん》をさえ、神秘の風に変えてしまう、|不《ふ》思《し》議《ぎ》な|雰《ふん》囲《い》気《き》を漂わせていた。
輿の周りには、紙に描かれた|騎《き》士《し》が四体、少女を守るように立っている。これらも、薄さを感じさせない強力な力感に|溢《あふ》れており、風に|微《み》塵《じん》も揺るがない。
その中、輿の右前に立つ女性が口を開いた。
「まだ、それらしい動きはないかね、ヘカテー?」
少女の雰囲気も気にしない、灰色のタイトなドレスに装飾品を|幾《いく》つも付けた、|妙《みょう》齢《れい》の美女である。|額《ひたい》の一つを加えた|三《さん》眼《がん》だが、右のそれには眼帯がある。
ヘカテーと呼ばれた少女は、目を|瞑《つぶ》ったまま、唇だけを|僅《わず》かに動かして言葉を|紡《つむ》いだ。
「ありません。まだ、|一《いっ》画《かく》も動かしていないようです」
「ふうむ……その前に戦いが終わってしまっては意味がないのだがねえ。シュドナイ、『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』の参戦で、戦局はどの程度動くと思うね?」
女性と輿をはさんだ反対側、左前に立つ|漆《しっ》黒《こく》の|鎧《よろい》に身を固めた大男・シュドナイは、深くかぶった|兜《かぶと》のまびさしの下で笑った。
「ははあ、我らが|軍《ぐん》師《し》、|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオル殿に、|戦《いくさ》について|尋《たず》ねられるとは。俺|如《ごと》きが|浅《せん》慮《りょ》の口を挟んで良いものか」
笑いつつ、肩にかけた|槍《やり》で兜を軽く|叩《たた》く。
その子供っぽい|皮《ひ》肉《にく》に、眼帯の女性ことベルペオルは、薄い唇の端を|釣《つ》り上げて笑う。
「ふふ……なに、我らが将軍|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイ殿に、参考意見を|訊《き》いておきたいのさ」
あくまで自分が決定権を持つことを|匂《にお》わせての、|再《さい》質問である。
シュドナイは、フンと鼻を鳴らして、
「あの|雷《かみなり》ババアが参戦したからといって、さほど戦局には進展もあるまい」
それでも明確に答える。元々、軍師に対しても、さほどの悪感情を抱いているというわけでもない。単に性格の反りが合わないだけなのである。
「むしろ双方、|駒《こま》が|揃《そろ》って|膠《こう》着《ちゃく》するだろう。一方の|陣《じん》列《れつ》立て直しと再攻勢が、次の転換点か」
ふむ、とベルペオルは|頷《うなず》くだけで済ませ、肯定も否定もしない。彼女は、自らの考えを|容易《たやす》く他者に明かさない。さらに意見を求める。
「あと一つ、決定的な転換点があるとすれば……あの二人の参戦かね」
来るべきものへの期待から、シュドナイも今度は同意で返した。
「ああ。そうなれば『両翼』も|出《しゅつ》撃《げき》して、両軍ともに|奴《やつ》らを中心とした総がかりをかけるだろう。[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の中央軍が戦線を支えているのも、|同《どう》胞《ほう》殺しどもの左翼が|焚《ふん》塵《じん》の|関《せさ》≠|討《とう》滅《めつ》して以降、隊を前進させていないのも、その時に備えて力を溜めているからだ」
二人して、|他人《ひと》事《ごと》のように戦況を|分《ぶん》析《せき》する。
それも当然というべきか。実のところ[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]には、自分たちで戦局を動かす気が全くない。どころか、でき得る限りの膠着を望んでいた。ソカル亡き後も、その|軍《ぐん》勢《ぜい》と歩調を|揃《そろ》えているのは、決定的な局面を生まないための、消極的な|遅《ち》延《えん》工作なのだった。
名目こそ[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の要請を受けての参陣ではあったが、彼女らの真の狙いは、アシズの『|壮《そう》挙《きょ》』とは別にある。密接に関わりつつも、全く別の狙いが。元より|徒《ともがら》%ッ士の|誼《よしみ》、義理や人情で、世に|鬼《き》謀《ぼう》をもって鳴る|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》≠ェ|援《えん》軍《ぐん》を出すわけもない。
そのベルペオルが、|額《ひたい》の目だけで、月星もない暗夜を見上げる。戦場の空を|覆《おお》う、雲と|見《み》紛《まが》うばかりの黒い|靄《もや》は、全て|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリの|操《あやつ》る『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』である。
「だとしても、一体どこから攻撃をかける気なのやら……あの二人とて、上空に張られた『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』の|監《かん》視《し》網《もう》を|掻《か》い|潜《くぐ》り、ブロッケン|要《よう》塞《さい》に接近するのは、まず不可能だしの」
「まあ、いずれ|蝿《はえ》どもに見つかって、『両翼』との|派《は》手《で》派手しい対決の続きが、この|戦《せん》野《や》でも見られるだろうさ。俺たちの出番……いや」
シュドナイとベルペオルは揃って、視線を後ろに流した。
|依《い》然《ぜん》、同じ姿勢で目を|瞑《つぶ》り|佇《たたず》む一人の少女を、見る。
「俺たちの|巫女《みこ》の出番は、それからだ」
巫女|頂《いただき》の|座《くら》<wカテー、
|軍《ぐん》師《し》|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオル、
将軍|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイ、
役割も行動原理も異なる、強大な|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠スる彼女ら[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の幹部『|三柱臣《トリニティ》』が、同じ場所で|揃《そろ》って動くことなど、通常ならば|在《あ》り|得《え》ない事態である。
しかし、この|戦《いくさ》は通常のものではなかった。三人がともに、命と存在に|賭《か》けて|遂《すい》行《こう》を望む大命……その一つに|付《ふ》随《ずい》する重大な意味を持っているのだった。
|戦《せん》野《や》の一角で、『|三柱臣《トリニティ》』は時が来るのを、静かに待つ。
ブロッケン山を|主《しゅ》峰《ほう》とするハルツ山地は、全体になだらかな山々からなる。
|峻《しゅん》 険《けん》な|刃《やいば》、 あるいは壁を|彷《ほう》彿《ふつ》とさせるアルプスの|山《さん》嶺《れい》群《ぐん》とは違って、この一帯の|勾《こう》配《ばい》は、せいぜい|膨《ふく》らんだパイ|生《き》地《じ》が|幾《いく》つも並んでいる、という程度でしかない。
ただし、その規模は、山地と形容されるだけあって大きい。ブナやオーク、ヒマラヤ杉など、色も|樹《じゅ》相《そう》も濃い木々の密集する、まさに大地の|波《は》濤《とう》だった。
ブロッケン山は、その中でも|一《ひと》際《きわ》、大きな波として膨らんでいる。
[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|本《ほん》拠《きょ》地《ち》たる|要《よう》塞《さい》は、この山頂の台地に築かれていた。
深い霧によって常に自らの姿を|隠《かく》し、また近寄る者を喰らわず殺すことで、|近《きん》隣《りん》の人間たちから魔の山と恐れられるようになったこの地は今、十八年に渡った|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニフレイムヘイズによる闘争の集約点として、熱く燃えていた。
|麓《ふもと》の戦場で|湧《わ》き起こる|爆《ばく》炎《えん》の照り返しを受け、霧の奥に立ち並ぶ|塔《とう》の|輪《りん》郭《かく》が浮かぶ。速い山風に裂かれた切れ間には、|轟《とどろ》き震える夜気を硬く拒絶するような、白い|花《か》崗《こう》岩《がん》が|覗《のぞ》く。
要塞の形状は、当時一般の建築|様《よう》式《しき》ではない。目立った|胸《きょう》壁《へき》も見えず、直接山嶺に溶け込むような|威《い》構《こう》が幾つもの|塔《とう》を頂点として、総じては柔らかく|壮《そう》麗《れい》に、部分は硬く|頑《がん》健《けん》に、高く鋭く伸び上がっている。全容はまるで、なだらかな山頂に|被《かぶ》せられた巨大な|冠《かんむり》だった。
この冠の中央に、とりわけ大きく太い塔がある。『|首《しゅ》塔《とう》』と呼称される、対フレイムヘイズ軍団[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|中《ちゅう》枢《すう》機構だった。内部は空間で、鮮やかな青い光に照らされている。
光を放っているのは、大きな|鳥《とり》籠《かご》を頂く、大きな青い|炎《ほのお》。
これを支点に、|九《きゅう》岐《き》の腕を広げる黄金の|上《うわ》皿《ざら》天《てん》秤《びん》が、空間をいっぱいに埋めている。伸びた腕の先にある、家さえ載りそうな九つの大皿には、幾つか間を|空《あ》けて、五人の姿があった。
五人といっても、人間ではない。 いずれも世に名高き、強大なる|紅《ぐ》世《ぜ》の王 ――[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の誇る章高幹部『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』たちである。
燃え盛る青い炎に照らされる中、その一人が重々しく口を開いた。
「まだ、見つからぬか」
銀の長髪に|金《きん》冠《かん》を|模《も》した|額《ひたい》当《あ》て、二の腕の|膨《ふく》れた上衣に|胸《きょう》甲《こう》と|草《くさ》摺《ず》り、|拍《はく》車《しゃ》の付いた|長《ちょう》靴《か》、|襷《たすき》掛《が》けにした|剣《けん》帯《たい》に|吊《つ》ったサーベルという、|騎《き》士《し》、あるいは剣士の装い。
|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qム。『両翼』の右たる王≠ナある。
問いの投げかけられた向かいの皿には、人間|大《だい》の卵が浮かんでいた。卵には、|魔《ま》物《もの》と女と老人、三つの面が張り付いていて、三つの|剽《ひょう》げた声を混ぜて答える。
「わしは誰の口からも!」「知ることも聞くことも!」「できなかった!」
声を|繋《つな》げつつ笑って、カタカタと|面《めん》を震わせる。
|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリ。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』において|敵《てき》情《じょう》視察を|主《しゅ》任務とする|大《だい》斥《せっ》候《こう》である。
メリヒムの|隣《となり》、皿の平面から首をもたげる|竜《りゅう》が、落ち着いた老人の声で言う。
「あの『|天《てん》罰《ばつ》狂いと|女《おんな》丈《じょう》夫《ぶ》』が、これほどの|大《おお》戦《いくさ》の|先《せん》陣《じん》を切らぬとは、まさしく|奇《き》怪《かい》千《せん》万《ばん》。『|寡《か》言《げん》と|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》』の姿も見えぬ……となると、|何処《いずこ》かに伏せ|隠《かく》れ、|奇《き》襲《しゅう》でも|企《たくら》んでいるのか」
見せる首の全面を、分厚いと分かる|鈍《にび》色《いろ》の|鱗《うろこ》と|甲《こう》羅《ら》でガッチリと固めている。
|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》<Cルヤンカ。『両翼』の左たる王≠ナある。
ジャリの隣にある|牛《ぎゅう》骨《こつ》の顔が、せわしなく歯を鳴らして言う。
「あの二人が現れないまま戦局が|膠《こう》着《ちゃく》するのは、基本的には我が方にとって有利ですが……|無《む》為《い》に時が経てば、戦場で|孤《こ》軍《ぐん》奮《ふん》闘《とう》されているウルリクムミ殿の身にも危険が及ぶでしょう。ほぼ全兵力を預けたとはいえ、すでにソカル殿も亡くした今……果たして支えられるかどうか」
|派《は》手《で》な礼服で着飾った、直立する牛骨は、忙しなく|骨《こつ》体《たい》を動かして|同《どう》輩《はい》を心配する。
|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激N。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の|宰《さい》相《しょう》として、広く全般の|采《さい》配《はい》に当たる王≠ナある。
そんな彼の向かい側、黒い毛皮の|外《がい》套《とう》を|纏《まと》った|痩《そう》身《しん》の女性が、鋭い|叱《しっ》声《せい》をあげた。
「黙れ、|痩《や》せ牛。今さら既定の作戦方針に|愚《ぐ》痴《ち》を|零《こぼ》してどうなるか。主の『|壮《そう》挙《きょ》』実現のみを目指すと、我ら『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』は|誓《ちか》ったはずだ」
|黒《こく》衣《い》と|黒《くろ》髪《かみ》の内に、色の抜けるような鋭い|白《はく》面《めん》を見せる美女である。その顔と、頭上に一|対《つい》生《は》えた|獣《けもの》の耳の内にある毛だけが、黒い全身に三点の白を浮かび上がらせている。
その痩身の、右腕だけが大きい。どころか、|袖《そで》が|漏《ろう》斗《と》のように広がって床に着いていた。袖口からは|無《ぶ》骨《こつ》な黒い爪が放り出されていて、|雰《ふん》囲《い》気《き》の|剣《けん》呑《のん》さを助長している。
|闇《やみ》の|雫《しずく》<`ェルノボーグ。暗殺と|遊《ゆう》撃《げき》を|旨《むね》とする『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の|隠《おん》密《みつ》頭《がしら》である。
彼女にきつく言われてモレクは肩を落とし、しかし同意の|呟《つぶや》きを漏らした。
「たしかに……『壮挙』をさえ、|成《じょう》就《じゅ》させられれば、我々は……」
五人の『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』は、自分たちの載る天秤の中央、鮮烈に燃え盛る青い|炎《ほのお》を見つめた。その恐るべき密度と量の存在の力≠持つ炎こそ、彼らの主。
|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズ。[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の首領である。
「まだ、だ」
|一《いち》言《ごん》一句を確かめるような、重い壮年の男の声が『|首《しゅ》塔《とう》』内に|響《ひび》き渡る。
「まだ、早い……|九《く》垓《がい》を平らぐ、我が|天《てん》秤《びん》分《ふん》銅《どう》たちよ。しばしの、しばしの時を、この世に在る全ての者のために[#「この世に在る全ての者のために」に傍点]、生み出せ」
主の声に、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らは|一《いっ》斉《せい》に、それぞれの形で|威《い》儀《ぎ》を正して一礼する。
その中、|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリだけが、
「おお、主よ」「あなたは生きている以上は、無意味に生きないでください!」「あなたが心底から欲するものを、我らは時が来るまで待っているのです!」
と|面《めん》をカタカタ鳴らし|喚《わめ》いていたが、これはいつものことなので、誰も気にしない。
ただ彼らは(喚いている当のジャリも)主の青い|炎《ほのお》の上に、|炙《あぶ》られるように浮かび上がる大きな|鳥《とり》籠《かご》を……その中で、彼らの稼ぐ時間を、ほとんど|貪《どん》欲《よく》といって良いほどに|浪《ろう》費《ひ》する、一羽の鳥を……五日前、多大な|犠《ぎ》牲《せい》を払って|奪《だっ》取《しゅ》した|宝《ほう》具《ぐ》を……見上げた。
それは、一人の少女。
大きな鳥籠の中、|膝《ひぎ》を崩して座り込み、顔を|俯《うつむ》けたまま身動き一つしない。薄い衣から伸びた細い手足には、アシズの炎と同じ色の、血管にも似た|不《ぶ》気《き》味《み》な|紋《もん》様《よう》が浮かび上がっている。
少女は若く、存在も小さな|徒《ともがら》≠ナある。
しかし、たった一つ、|奇《き》跡《せき》の力を持っていた。
|自《じ》在《ざい》法《ほう》の……まさに望むまま、自由自在な|構《こう》築《ちく》である。
この世に渡り着た当初、彼女はおよそ不可能とは|無《む》縁《えん》であるかのように、自由に、鳥の空を|往《ゆ》くように飛び回り、思いのまま、あらゆるものに|干《かん》渉《しょう》した。並の|徒《ともがら》≠ヌころか王≠ノすら不可能な|事《じ》象《しょう》を、軽く|容易《たやす》く起こして、まさにこの世を遊びに遊んだ。
あるときは親切な王≠フ元で|気《き》儘《まま》に暮らし、またあるときは|放《ほう》埼《らつ》な|徒《ともがら》≠ニ|戯《たわむ》れ、また気が向けば人間と触れ合い、喰らった。恐るべき力を、誇るでもなく無自覚に|無《む》邪《じゃ》気《き》に振るい、余人を|憚《はばか》らず、心を|斟《しん》酌《しゃく》もせず、ただ自らの欲するままに、この世を飛び続けた。
しかし、|無《む》垢《く》で無知な少女は、気付けなかった。
自分自身も、他者の欲望の対象となることに。
少女の持つ力の意味に気付いた者が、それを|己《おの》が欲望の道具とすべく群がり集うのに、多くの時間はかからなかった。他者との|諍《いさか》いを嫌い、戦うことも知らなかった少女はすぐに捕らえられ、|自《じ》在《ざい》法《ほう》を|紡《つむ》ぐ|虜《りょ》囚《しゅう》、飼い主のために歌う鳥の身へと|堕《お》とされた。
『|小夜啼鳥《ナハティガル》』。
少女と、少女を捕えて望みの自在法を|啼《な》かせる|鳥《とり》籠《かご》――二つを合わせた一つの|宝《ほう》具《ぐ》に与えられた、それが名前だった。
この|境《きょう》遇《ぐう》に堕ちて数十年、少女は持ち主の望みをこの世に具現化する宝具として扱われてきた。当座の持ち主、宝具として彼女を奪おうとする者、それ以外の者、全てに。|徒《ともがら》≠焜tレイムヘイズも、あるいは人間でさえ、誰も彼女をそれ以外の存在と認める者はなかった。
少女は、そんな外の光景を、無気力に|眺《なが》め、ただ時を|潰《つぶ》すように過ごしてきた。
今も、文字通り籠の鳥として、|憂《ゆう》愁《しゅう》と|諦《てい》観《かん》を漂わせて目を閉じ、力なく|俯《うつむ》いている。
「今、しばしで、望みを、拾い上げられよう」
アシズが言うと同時に、鳥籠の|柵《さく》に青い|炎《ほのお》が|纏《まと》わり付き、吸い取られる。
少女が|僅《わず》かに|瞼《まぶた》を震わせた。薄い衣の開いた|襟《えり》元《もと》、|鎖《さ》骨《こつ》に、|這《は》い上がるようにジワリと、手足にあるのと同じ|紋《もん》様《よう》が浮かぶ。
この鳥籠は、単なる|檻《おり》ではない。存在の力≠注ぎ込むことにより、少女の|深《しん》層《そう》を支配する宝具でもあった。|不《ぶ》気《き》味《み》な紋様は、その支配力|浸《しん》透《とう》の表れである。これが全身に浮かび上がったとき、少女は『持ち主の望む自在法』を発動させる。
本来、この侵食は長い時をかけて行われる。弱きとはいえ、仮にも|徒《ともがら》≠意のままに|操《あやつ》るのである。実際に彼女を啼かせるためには、並の|徒《ともがら》≠ナは一生|手《て》の届かないほどに大量の存在の力≠ェ必要だった。ゆえに……あるいは当然と言うべきか、彼女を手にした者の大半は、この望みの必要量を満たすために無理な行動を取り、|自《じ》滅《めつ》している。
しかし、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズに、その心配は無用だった。
十八年前、オストローデという大都市を丸ごと存在の力≠ノ変換して以来、彼は高純度にして|莫《ばく》大《だい》な量の存在の力≠保持し続けていたからである。
|俄《にわ》かに|徒《と》党《とう》を組んで戦うようになったフレイムヘイズらとの闘争を支え、また圧倒してきたこの力は、たった五日で『|小夜啼鳥《ナハティガル》』という少女の大半を支配しょうとしていた。
彼の望む『|壮《そう》挙《きょ》』に必要|不《ふ》可《か》欠《けつ》のもの[#「もの」に傍点]を動かすために。
すがるべき主の言葉に、モレクは|牛《ぎゅう》骨《こつ》の顔を激しく|頷《うなず》かせて言う。
「そう、そうでなくては、我々の払った多大な|犠《ぎ》牲《せい》、同志の死が、全て|無《む》駄《だ》に――」
「まだ|戯《たわ》言《ごと》を|繰《く》るか、この|痩《や》せ牛が」
チェルノボーグがまた|口《くち》汚《ぎたな》く、その声を|遮《さえぎ》る。
「うむ、お気持ちは察するが、少し気を静められよ、|宰《さい》相《しょう》殿」
イルヤンカも首を向けて、落ち着きのない|同《どう》輩《はい》をたしなめた。
|硬《こう》軟《なん》二人に言われて、宰相という高い地位にあるはずの男は身を小さくしてしまう。
「は、はっ、申し訳、ありません」
宰相モレクは、これでも相当に強大な部類に入る|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ナあり、|明《めい》晰《せき》な頭脳と的確な指示で組織を動かす|賢《けん》者《じゃ》である。である、が、どうにも性格が|臆《おく》病《びょう》に過ぎた。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の同輩たちが加速度的に|討《う》ち死にしていくことへの|動《どう》揺《よう》も、骨の|容《よう》貌《ぼう》にありありと見える。
(無理もない、千年からともにあった戦友たちが、この|僅《わず》か十数年で……世に名高き我ら『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の|大  皿《ヴァークシャーレ》も、ずいぶんと寂しくなったものだ)
イルヤンカは、表情の|掴《つか》みにくい|竜《りゅう》顔《がん》に、僅かな悲しみを乗せた。
|緒《しょ》戦《せん》の速攻を受けてソカルが討ち死にした今、戦場で|孤《こ》軍《ぐん》奮《ふん》闘《とう》するウルリクムミを加えても、九人いたはずの彼らは、すでに六人にまで減っている。
(あるいは、我らはこの『|壮《そう》挙《きょ》』のために、|潰《つい》え去ってしまうのやもしれぬな)
これまで、自らも重要な戦力の一つとして組織を支えてきたアシズは、『壮挙』実現のため、『|小夜啼鳥《ナハティガル》』の支配にかかりきりになっており、『|都《みやこ》喰《く》らい』で得た存在の力≠焉Aその支配を行う作業へと回されている。あらゆる意味で後のない戦いに、彼らは立っていた。
イルヤンカとしては、自らの|忠《ちゅう》誠《せい》と|矜《きょう》持《じ》にかけて、そこに|悔《く》いも|恨《うら》みもない。『壮挙』の実現は、まさに素晴らしき変革、それでこそ我が命と|牙《きば》を捧げた主、と誇らしく思う。他の『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』たちも、態度こそ違え、同じ気持ちだろう。
(なぜ、この気持ちを、|奴《やつ》らも抱いてはくれぬのか)
五日前の『|小夜啼鳥《ナハティガル》』|争《そう》奪《だつ》戦で『壮挙』の意味と意義を|宣《せん》布《ぷ》されたフレイムヘイズらの反発、その内にある王≠轤フ|激《げっ》昂《こう》ぶりは、アシズや『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らの予想を遥かに超えていた。
これほど素晴らしいことを、なぜ。
(その分からず屋たちと戦ってきた我ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は、これまでのように、勝利して友を失い、勝利して同輩を失いして、|遂《つい》には、『壮挙』実現という勝利をなして……)
いかん、と|鉄《てつ》鱗《りん》の竜は僅か首を振る。
(宰相殿に偉そうなことは言えぬな)
振り向けた先に、彼らの主と、この世の全てを変えるだろう、万能の|鳥《とり》籠《かご》がある。
(年寄りは、どうにも弱気が先走るわ……ともかくも、我ら|栄《は》えある[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は勝ち続け、『|壮《そう》挙《きょ》』実現への道を一歩一歩、前進しているのだ)
イルヤンカは、『|都《みやこ》喰《く》らい』の戦いを思い出す。
十八年前にあった、|大《おお》戦《いくさ》の実質的な始まりと言っていい、戦いを。
特殊かつ大掛かりな、この|自《じ》在《ざい》法《ほう》は、いきなり行えたわけでも、|平《へい》穏《おん》の内に終えられたわけでもなかった。アシズが『|都《みやこ》喰《く》らい』の|触《しょく》媒《ばい》として作ったトーチの多さは、同時に大きな世界の|歪《ゆが》みをも周囲に|伝《でん》播《ぱ》し、敵を|誘《おび》き寄せたからである。
(まさに、|四《し》面《めん》楚《そ》歌《か》であったな)
『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らは、この準備段階における|尋《じん》常《じょう》ならざる世界の歪みに気付いたフレイムヘイズの一団、および[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]に敵対していた、別の王≠フ組織による|包《ほう》囲《い》と攻撃を、各自の力を尽くし、守りに守った。
当初は、敵の多さと地勢の悪さ(オストローデは大都市の常として平野|部《ぶ》にあった)から、防衛する[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]|劣《れっ》勢《せい》のまま戦局は|推《すい》移《い》していたが、 待望の転換点―― アシズの『|都《みやこ》喰《く》らい』|成《じょう》就《じゅ》によって、形勢は逆転した。
自らを巨大な存在とした|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズが、配下の『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らに力を分け与え、また自らも先頭に立ち、打って出たのである。かつてオストローデという名の都市だった場所[#「かつてオストローデという名の都市だった場所」に傍点]に四方から攻めかかっていたフレイムヘイズの一団と王≠フ組織は、この十人の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠先頭にした|軍《ぐん》勢《ぜい》による|総《そう》反撃を受けて、一挙に|撃《げき》砕《さい》された。
偉大な|首《しゅ》領《りょう》による|企《き》図《と》の成就と、それに伴う大勝利。[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の総員、|一《いっ》兵《ぺい》卒《そつ》に至るまでが、どこまでも突き進めるような|高《こう》揚《よう》感の中にあった。
(うむ、まさに、勝利の一歩だった……)
イルヤンカにとっては、まさに|黄《おう》金《ごん》時代の、栄光の|記《き》憶《おく》。
(だが……)
栄光の輝きは、その反対側に|不《ふ》吉《きつ》の影を映し出してもいた。
栄えある光に差した――否、堂々と立ち|塞《ふさ》がった、一つの影を。
猛然と燃える力を|紅《ぐ》蓮《れん》に表し、立ち塞がった、一人の|討《う》ち手を。
(……『|天《てん》罰《ばつ》狂いの|魔《ま》神《じん》と、その力を|自《じ》在《ざい》に使いこなす|女《おんな》丈《じょう》夫《ぶ》』……)
それまで東方で戦っていたという討ち手の女は、余勢を駆ってフレイムヘイズらを完全|殲《せん》滅《めつ》せんと|追《つい》撃《けき》をかけていた『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角と交戦、思わぬ底力と|機《き》転《てん》によって、これを|討《とう》滅《めつ》した。長く九皿|揃《そろ》って主の元に在った彼らの知る、初めての|喪《そう》失《しつ》だった。
しかもこの喪失は、|一《いっ》過《か》性の事件では終わらなかった。彼ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]と、その討ち手との十八年に渡る激しい戦いの、始まりの|烽火《のろし》だったのである。戦って|怯《ひる》まず、逃げるとなれば捨て|台詞《ぜりふ》の|大《おお》口《ぐち》を|叩《たた》く、彼女は[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|宿《しゅく》敵《てき》となった。
さらに彼女は戦い以外の面でも、一人一党の気風に|溢《あふ》れていたフレイムヘイズら――『|都《みやこ》喰《く》らい』事件では、単に並んで戦っただけという|烏《う》合《ごう》の|衆《しゅう》――を徐々に|纏《まと》め上げ、一つ力に変えていくという、この|大《おお》戦《いくさ》に|繋《つな》がる重大な役目をも果たしている。|忌《いま》々《いま》しいことに。
イルヤンカは、その女に影の|如《ごと》く付き添い背中を守る、もう一人の|討《う》ち手のことも思う。
(……『|寡《か》言《げん》の|大《たい》河《が》と|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》の|舞《ぶ》踏《とう》姫《き》』……)
|問《もん》答《どう》無用に衆を|惹《ひ》き付ける女とは反対に、正論と理によって衆を動かすフレイムヘイズ。どちらが欠けても今の状況は成立しなかっただろう、恐るべき運命の車の、もう|片《へん》輪《りん》。
この|宿《しゅく》敵《てき》二人とは、『両翼』として十八年の間に、何十度|戦《たたか》ったかしれない。
互いに|邪《じゃ》魔《ま》し、邪魔されて――しかし五日前の重大な戦いには、勝った。
今、彼の目の前にある|鳥《とり》籠《かご》の少女『|小夜啼鳥《ナハティガル》』の|争《そう》奪《だつ》戦である。その時点における鳥籠の持ち主であった|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ|居《きょ》所《しょ》への、ジャリとモレク、チェルノボーグを除いた『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の主力に、アシズをも加えた、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]始まって以来の|大《だい》遠《えん》征《せい》だった。
その最中、|性《しょう》懲《こ》りもなく集ったフレイムヘイズ兵団(と呼べるほどの勢力になっていた)との戦いが起こり、メリヒムはあの女に『|空軍《アエリア》』を|殲《せん》滅《めつ》され、イルヤンカも女の|相《あい》棒《ぼう》に手ひどい傷を負わされ……そしてまた、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角が|喪《うしな》われた。
が、それでも『|小夜啼鳥《ナハティガル》』の|奪《だっ》取《しゅ》という、確かな勝利は彼らのものとなった。
戦場で高らかに|宣《せん》布《ぷ》された[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の、アシズの目指す『|壮《そう》挙《きょ》』への猛烈な反発だけは全くの予想外だったが、どちらにせよ彼らの進む方向は決まりきっていた。
主の道を|塞《ふさ》ぐ者があれば、排除するだけのことである。
今、|山《さん》麓《ろく》で起きている大戦のように。
宿敵二人の出現が戦局に転換点を|齎《もたち》し、『両翼』の参戦も呼ぶ。そのときが[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]にとって本当の、そして恐らくは最大の、戦いの始まりとなるはずだった。
(|何処《いずこ》かへの|奇《き》襲《しゅう》か、新たな|援《えん》軍《ぐん》でも引き連れてくるのか――しかし、だとしても、遅い)
あの女が、先頭切ってやって来ないというだけでなく、これほどに事態が|推《すい》移《い》するまで動かないというのは、いかにも|奇《き》妙《みょう》だった。仲間(彼女はフレイムヘイズらのことを、そのような言葉で呼ぶ)を|無《む》駄《だ》死《じ》にさせるのは、彼女の|流《りゅう》儀《ぎ》ではないはずなのだが。
(メリヒムも、|大《たい》概《がい》焦《じ》れているな)
彼の|隣《となり》の|大  皿《ヴァークシャーレ》に立つ銀髪の剣士は、 さっきから組んだ腕の上で、せわしなく指をトントンと|叩《たた》いている。彼は他の誰よりも強く激しく、女との戦いを望んでいた。
フレイムヘイズから主を守る『両翼』の片割れとして。
戦いを|指《し》揮《き》する『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角として。
なにより、一人の『男』として。
(よりにもよって、なんと|厄《や》介《かい》な――)
「お?」「お?」「お?」
突然、ジャリが奇妙な声を合わせた。長く付き合っていると、その意味も分かる。
|不《ふ》審《しん》だった。
「誰が来たのか」「|柵《さく》の間から」「見よ」
この王≠フ言葉は、ほとんど飾りである。意味は言葉|尻《じり》と状況から察するしかない。
彼らの頭上、|星《せい》図《ず》の記された『|首《しゅ》塔《とう》』|空《くう》洞《どう》の天井に、どこからともなく現れた無数の|蝿《はえ》が群れなして|渦《うず》を作った。黒い風とも見えるそれが、やがて|砂《すな》絵《え》のように静止し、すぐ黒の|濃《のう》淡《たん》で描かれた|点《てん》描《びょう》のように明確な像を結んでゆく。
「門を」「門を揺さぶり」「壊しています!」
意味不明な文句の続く間に、天地|逆《さか》さまにした地形図が完成していた。戦場の|上《じょう》空《くう》一帯に張り巡らされた|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリの|自《じ》在《ざい》法《ほう》『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』に呼応した、正確な現状である。
ブロッケン|要《よう》塞《さい》を載せた山、周囲のなだらかな峰々、戦場となっている|裾《すそ》野《の》……しかし、彼が見せたいものは、そっちではない。
空中だった。
「む……?」
メリヒムが|眉《まゆ》を|顰《ひそ》め、その光景を見た。
他の『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』たちも、|怪《け》訝《げん》な|面《おも》持《も》ちで見上げる。
霧や風の動きまで|精《せい》巧《こう》に蝿で描かれた点描、その端から、空白が迫り出していた。そこだけ点描の描かれない|不《ふ》思《し》議《ぎ》な空白は、見る間に地図の端から離れ、宙を舞う|泡《あわ》のように動く。
否、進んでくる。
宙を行く、球が。
「なんでしょう、全てを|捉《とら》え映すはずの『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』に、空白が……?」
モレクが見上げながら|尋《たず》ねる。もちろん、答えられる者は無かった。
その巨大な球体状のなにかは、地図の上を、つまり実際の空を、進んでくる。
|炎《ほのお》渦《うず》巻《ま》く戦場の上を一直線に突っ切り、ブロッケン要塞|目《め》指《ざ》して、ひたすら真っ直ぐに。
「!!」「!!」
メリヒムとイルヤンカ、『両翼』は、互いの気配だけで確認し合った。
|突《とつ》如《じょ》、メリヒムの背後に|光《こう》背《はい》のような輝きが出現した。光であって光でない、圧迫感を与える|虹《にじ》色《いろ》の光背……まさに、その|真《ま》名《な》の|如《ごと》き、|虹《にじ》の|翼《つばさ》=B
抜く間も見せず、彼はサーベルを天にかざしていた。
その意味を|悟《さと》り、モレクが骨の身をガチャンと跳ね上げる。
「メリヒム殿!?」
「伏せんか、|痩《や》せ牛!」
チェルノボーグは|怒《ど》鳴《な》りつつ|膝《ひざ》を沈め、大きな右腕を|盾《たて》のように体の前にかざした。
剣を天にかざしたまま、メリヒムは|天《てん》秤《びん》の中央に燃える鮮やかな青い炎に向けて叫んだ。
「主よ!」
「許す――|征《ゆ》け、我が『両翼』よ」
アシズの声が終わると同時、『|首《しゅ》塔《とう》』|空《くう》洞《どう》内に七色の|光《こう》輝《き》が爆発した。|密《みっ》閉《ぺい》された場所の空気が解放される感覚を一同が得たときには、既に『首塔』の天井が|消《しょう》滅《めつ》している。
|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムの誇る、当代|最《さい》強《きょう》の破壊力を誇る|自《じ》在《ざい》法《ほう》、『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』の|炸《さく》裂《れつ》だった。
「うひゃあっ!?」
腰を抜かしてへたり込むモレク、
「来るのか、|奴《やつ》らが」
|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めるチェルノボーグ、
「赤毛の女は」「|大《たい》層《そう》図々しく|高《こう》慢《まん》な態度で庭へ押し入り」「|兜《かぶと》を脱がず剣を外さず――」
|喚《わめ》き続けるジャリらを置いて、
メリヒムは|空《あ》けた穴から、霧深き|闇《やみ》夜《よ》へと|光《こう》背《はい》を輝かせて舞い上がった。
続いてイルヤンカが、
「参ります、主」
言って、|天《てん》秤《びん》皿《ざら》の平面から、|隠《かく》されていた巨体を引っ張り出す。
長い首を伸び上がらせ、|縁《ふち》に鋭い爪をかけて腕を、より|重《じゅう》厚《こう》な|甲《こう》羅《ら》を輝かす体を、|弾《はず》みを付けるような太い足を、力感にしなる尾を引き出し、暴風を巻き起こす|翼《つばき》をはためかせ、|轟《ごう》と飛ぶ。その全形は、長く太い体を分厚い甲羅と|鱗《うろこ》に|覆《おお》った、四本足の|有《ゆう》翼《よく》竜《りゅう》だった。
ブロッケン|要《よう》塞《さい》の|頂《いただき》から空へと上った『両翼』は横に並んで、ジャリの地形図に映った空白のある方向を視線で刺す。
夜霧と山風の|彼方《かなた》、戦火に照り返される『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』の中、|蝿《はえ》の群れの見えない、ポッカリと穴の|空《あ》いたような空域がある。何者かの気配、自在法の発動、いずれも全く感じない。
が、だからこそ、それは異常な事態だった。
しかも、地形図で縮小された感覚と違い、それは猛烈な速度で|突《とつ》撃《げき》してくる。
本来ならば|怖気《おぞけ》を誘われるような光景と感覚の中、
「ふ、ふ、ふふ」
メリヒムは、震えていた。
「来い」
|緊《きん》張《ちょう》であり、期待でもある喜びに――笑っていた。
「今度こそ」
声に心に応えて、光背の輝きが一段と増し、広がってゆく。
「手に入れる」
巨大な円形に輝く虹色の光は、まるで山の|冠《かんむり》・ブロッケン要塞の|頂《ちょう》華《か》だった。
「おまえを――!!」
サーベルが振り下ろされた瞬間、背後の光背が、|波《は》紋《もん》の広がるのと逆向きに集束、|剣《けん》尖《せん》から直線の|虹《にじ》となって|迸《ほとばし》り出た。
ブロッケン山に迫りつつあった見えない何かに、 霧と|闇《やみ》を|貫《つらぬ》いた直線の虹 『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』がぶち当たり、|炸《さく》裂《れつ》した。|壮《そう》絶《ぜつ》な爆発と|破《は》砕《さい》音が|霧《きり》伝《づた》いに|山《きん》麓《ろく》を震わせ、虹色に燃え上がる|炎《ほのお》と|湧《わ》き上がる煙が、その何かの姿を|暴《あば》く。
なにもない場所に空いた[#「なにもない場所に空いた」に傍点]破砕面から、|壮《そう》麗《れい》な宮殿が|僅《わず》かに|覗《のぞ》いた。が、それは、一向に速度を落とさない。|要《よう》塞《さい》の中央部、アシズのいる『|首《しゅ》塔《とう》』へと、まっしぐらに突っ込んでくる。
メリヒムは、さらに笑みを深め、|隣《となり》に|滞《たい》空《くう》する|盟《めい》友《ゆう》へと|怒《ど》鳴《な》る。
「イルヤンカ!!」
「|応《おう》さ」
求められることを察していた|巨《きょ》竜《りゅう》は、すでに空を滑ってメリヒムの前へと出ている。その勢いで|撓《たわ》め反らしていた太い首を、胸に吸い込んだ空気の|噴《ふん》射《しゃ》口として、重く速く突き出す。
「ッガハアアアアアアア――――――!!」
その|幾《いく》重《え》にも|牙《きば》の並んだ口から、火山の|噴《ふん》煙《えん》にも似た|鈍《にび》色《いろ》の煙が吐き出された。水に大量の|墨《すみ》を落とすように、噴煙は|濛《もう》々《もう》と色濃く広がり、霧を追い出して空中に溜まってゆく。
と、その広がる先端が、見えない巨大な何かの突進に当たった。
|途《と》端《たん》、先の『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』の炸裂にも負けない、恐ろしい|衝《しょう》 突《とつ》音が発生した。 音だけでなく、見えない何かは、実際に衝突していた。鈍色の噴煙に。
これぞ|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》<Cルヤンカの力、当代最硬の防御力を誇る|自《じ》在《ざい》法《ほう》、『|幕《ばく》 瘴《しょう》 壁《へき》』だった。
吐かれた場所に留まり、|無《む》類《るい》の硬度を持つ壁となる噴煙に、|突《とつ》撃《げき》をかけた何かは自らの速度と質量によって壮絶な|衝《しょう》撃《げき》を受けた。投石が岩に当たって跳ねるように、それは突撃の進路を曲げられ、ブロッケン要塞の基部、山麓の岩盤に|墜《つい》落《らく》、|激《げき》突《とつ》する。
濛々と上がる|土《つち》煙《けむり》と『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』による|破《は》孔《こう》から、何かの全景がようやく知れる。
卵の|殻《から》のような球体に|覆《おお》われた、宮殿だった。
メリヒムとイルヤンカは、それが何であるか知っていた。
「これは――」
「――まさか、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』か!?」
この世で最大級の|宝《ほう》具《ぐ》、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』。
泡のような|異《い》界《かい》『|秘匿の聖室《クリュプタ》』により、内にある物の姿と気配を隠し、自在に空を行く……これを建造した王≠ニともに、 数十年から|行方《ゆくえ》不明となっていた移動|城《じょう》砦《さい》である。 特別戦いのための機能が備わっているとは聞いていない。戦場での突撃に、というより、そもそも戦いに使用するような|代《しろ》物《もの》ではなかった。
もっとも、彼女ら[#「彼女ら」に傍点]にとっては逆に、この城砦に備えられた気配の|隠《いん》蔽《ぺい》機能、それだけが必要なら駆り出しもするのだろう。戦場の外にも抜かりなく張り巡らされていた『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』の密度の薄い空域を、全く発見されることなく|掻《か》い|潜《くぐ》るには、たしかに効果的ではあった。戦場の上空、密度の高い『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』の中に入られたことで、ようやくジャリは全くなにもない空域の広さ[#「全くなにもない空域の広さ」に傍点]に気付くことができたのだから。
そして、気付いたときはすでに遅い。
移動|城《じょう》砦《さい》は速度によるごり押しで、 本来そこで引っかかるはずの戦場を、 |消《しょう》耗《もう》するはずの戦いを全てすり抜け、一挙にブロッケン|要《よう》塞《さい》まで到達してしまったのでみる。
この、 参戦どころか、 いきなり足元に食らい付いてきた|宿《しゅく》 敵《てき》の|急《きゅう》 襲《しゅう》――そもそも兵器として作られたわけではない|宝《ほう》具《ぐ》による、思いも寄らない|突《とつ》撃《げき》――危うく防いだ、的確でありつつも乱暴に過ぎる手段――それら全てに、イルヤンカは|戦《せん》慄《りつ》を通り越し、|唖《あ》然《ぜん》となった。
「これを直接、ブロッケン要塞にぶつけるつもりだったのか……なんという、|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な」
メリヒムは顔を振り向けず、
「今さら言うことでもなかろう、|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》<Cルヤンカ、我が戦友よ」
ただ求める女の姿のみを|土《つち》煙《けむり》の中に探しながら、まるで誇るように答える。
「そういう女だ」
そのとき、
ガン、
と|破《は》砕《さい》された|隠《いん》蔽《ぺい》の|殻《から》『|秘匿の聖室《クリュプタ》』の|縁《ふち》を、強く硬く誰かが踏みつけた。
|墜《つい》落《らく》の|粉《ふん》塵《じん》が薄れてゆく中に、|煌《きらめ》きが見えた。
あまりに|眩《まばゆ》い、|紅《ぐ》蓮《れん》の煌きが。
「――!!」
メリヒムは応えるように、再びその背後に|虹《にじ》色《いろ》の|光《こう》背《はい》を現していた。待ち|焦《こ》がれていた煌きに向けて、再びの笑みを浮かべる。|爽《さわ》やかさなど|微《み》塵《じん》もない、|征《せい》服《ふく》すべき|獲《え》物《もの》を見つけた|猛《もう》獣《じゅう》の、|狂《きょう》熱《ねつ》の笑みである。たまらない|喜《き》悦《えつ》を、そのまま言葉に変える。
「やはり、おまえが一番か――マティルダ・サントメール、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』よ」
火の粉を乗せた風が|渦《うず》を巻いて、|薄《うす》煙《けむり》が吹き払われた。
中心に、女が立っている。
紅蓮の煌きを|双《そう》眸《ぼう》と髪に宿す、女が。
|淑《しゅく》女《じょ》と言うには|印《いん》象《しょう》が|苛《か》烈《れつ》に過ぎ、|女《じょ》傑《けつ》と呼ぶには|挙《きょ》措《そ》が|高《こう》雅《が》に過ぎる。きつく跳ね上がった|眉《まゆ》を特徴とする|容《よう》貌《ぼう》は|不《ふ》思《し》議《ぎ》な|静《せい》謐《ひつ》を|湛《たた》えて、どこか秘された|宝《はう》剣《けん》の|凄《せい》艶《えん》さを思わせる。
「こういう場合は、一番だ、って言うものよ――『両翼』の右、|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qム」
その、振るわれるために秘されていた宝剣は、|凄《すご》みを利かせて笑い、求める。
「さあ、始めましょう、戦いを」
2 要塞
空にある|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムは、|出《で》遭《あ》う度に駆られる|激《げき》情《じょう》の中にあった。
飽きるどころか、|感《かん》銘《めい》と感動は|蓄《ちく》積《せき》され、大きくなる。
(今日も一つ、喜びとともに積み重なる……俺を前にした、おまえの姿が)
その|見《み》下《お》ろす先に立つ女は、しかし真っ向|睨《にら》み返して|見《み》下《くだ》されることがない。|火《ひ》の|粉《こ》を舞い咲かす|炎《えん》髪《ぱつ》と|煌《きらめ》く|灼《しゃく》眼《がん》をすら一部[#「一部」に傍点]とする、力と意志に満ちた|麗《れい》容《よう》は、まさに|絢《けん》爛《らん》な|豪《ごう》華《か》。
(|炎《ほのお》と|瓦《が》礫《れき》の、なんと|似《に》合《あ》う女か……燃えて、壊す、まるで|能《のう》動《どう》の|権《ごん》化《げ》だ)
黒いマントに|裾《すそ》長《なが》の|胴《どう》衣《い》、ベルトには|帯《たい》剣《けん》せず|鎧《よろい》は|帷子《かたびら》のみ、黒い|長《ちょう》靴《か》に輝く|拍《はく》車《しゃ》という、実質|本《ほん》位《い》に固めた出で立ちだったが、その全身からは、それこそが完全な姿と思わせる、見る者に『敵し得ない』と感じさせる、圧倒的な|貫《かん》禄《ろく》と存在感が発せられていた。
(美しい、という言葉で、この女は表せない)
当代|最《さい》強《きょう》と誰もが ――|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ナさえ―― 認める、|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールのフレイムヘイズ、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメール。
その待ち人の声を再び求めて、メリヒムは言う。
「まさか『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』を|奪《だっ》取《しゅ》してくるとはな。音に聞こえた|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》<Kヴィダも、とんだ時節に不覚を取ってくれたものだ」
「そう? |丁《ちょう》度《ど》いいタイミングだと思うけど」
マティルダはとぼけつつ、全く|率《そっ》直《ちょく》に戦いを始める。
|習《しゅう》癖《へき》として、|白《はく》磁《じ》のような ――と言うには生命力に|溢《あふ》れすぎている―― 左手で軽く、長い髪を払う。その、|華《か》麗《れい》に舞い咲く|火《ひ》の|粉《こ》も消えぬ間に、鋭くまっすぐ、横に手を差し伸ばす。
(俺と向き合う姿、か)
メリヒムがよく知る、|見《み》目《め》良《よ》き|仕《し》草《ぐさ》の終わりには、しかしやはり、|唯《ゆい》一《いつ》の不快な物が映る。
伸びた中指の付け根に輝く、黒い宝石を|意《い》匠《しょう》された指輪。|紅《ぐ》世《ぜ》$^正の|魔《ま》神《じん》たる|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールの意志を表出させる|神《じん》器《ぎ》コキュートス≠ナある。
手の|甲《こう》にかかる飾り|紐《ひも》の輝きとともに振られた先、広げた|掌《てのひら》の中に、|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》が|湧《わ》き上がった。炎は|大《たい》剣《けん》の形を取り、強く握り込まれる。
マティルダは具合を確かめるように一振り、上から下に払って|頷《うなず》く。
「よし」
その|傍《かたわ》ら、右手を軽く上げて、同じく炎を生む。
今度は丸く広がって、二の腕に固定される。体を全て隠せるほどの円形|盾《たて》だった。
「いくわよ、アラストール」
「うむ」
|遠《えん》雷《らい》のように重く低い魔神の声がコキュートス≠ゥら|響《ひび》く。
その|遣《や》り取りに込められた信頼以上のもの[#「もの」に傍点]に、メリヒムの|激《げき》情《じょう》が|憤《ふん》怒《ぬ》に代わった。
「――!!」
|傍《はた》目《め》にも分かる|豹《ひょう》変《へん》に、|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》<Cルヤンカは、
(まるで子供だ)
と今さらながら|呆《あき》れる。
全く、誰にとって幸運で不運なのか、|俄《にわ》かには判断の付かないことだったが、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]が誇る『両翼』の右、 |虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムは、その|宿《しゅく》 敵《てき》『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメールに|心《こころ》奪われていた。
しかも、宿敵として交えてきた|熾《し》烈《れつ》な戦いとその気持ちは、メリヒムにとっては|矛《む》盾《じゅん》しないものであるらしい。剣を交えることも二人――彼はアラストールの存在を無視するので、二人と言う――の結びつきの一つ形に過ぎん、と断言して周囲を|呆《あき》れさせたことある。
実際、彼が本気で戦っていることは、その|挙《きょ》動《どう》から明白であったため、誰も文句を言わなかったが……恐らく、彼の心を本当に理解できているのは主|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズだけだろう。
(ともあれ、マティルダ・サントメールではないが、ともあれ戦だ[#「ともあれ戦だ」に傍点])
イルヤンカはメリヒムを置いて、巨体を滑らすように降下した。
(あの二人だけではない、我ら[#「我ら」に傍点]の|戦《いくさ》もあることだしな!!)
再び、その分厚い|胸《きょう》甲《こう》が息を吸って|膨《ふく》れ上がる。
「ブガハアア――!!」
|牙《きば》を押して|迸《ほとばし》った『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』だが、今度は拡散しない。硬化させた先端を後続の煙で|噴《ふん》進《しん》させる、最硬度の|弾《だん》頭《とう》と|壮《そう》絶《ぜつ》な速度を持つ|砲《ほう》弾《だん》だった。狙いは|無《む》論《ろん》、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』に立つマティルダ。
しかし、イルヤンカは彼女に向けて撃ったのではない[#「彼女に向けて撃ったのではない」に傍点]。この|一《いち》撃《けき》は、必ず――
純白のリボンが、
ハラリと|一《いち》条《じょう》、マティルダの前に舞った。
最初の半秒を|優《ゆう》雅《が》に舞うと、いきなりそれは鋭く|螺《ら》旋《せん》状に回転、表面に|桜《さくら》色の|自《じ》在《ざい》式《しき》を発光させる。迫る『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』の噴進|弾《だん》を、螺旋の中に巻き込んで、全体を緩やかに曲げた。
その|屈《くっ》曲《きょく》に沿った噴進|弾《だん》は、あらぬ方向に飛ばされ、|山《やま》肌《はだ》に|着《ちゃく》弾《だん》して爆発する。
自慢の噴進弾を跳ね返されて、しかしイルヤンカは|獰《どう》猛《もう》に笑った。メリヒムにマティルダがあるように、彼に配された敵、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』の背中を守るフレイムヘイズに、言う。
「過日は世話になったな、『|寡《か》言《げん》と|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》』……」
マティルダと背中合わせに、女が|忽《こつ》然《ぜん》と現れていた。
「あれだけの負傷から|僅《わず》か五日、もう復調でありますか」
絹のブラウスを切込みから|覗《のぞ》かせる上衣、|葉《は》文《もん》様《よう》の|刺《し》繍《しゅう》の|施《ほどこ》された細長いスカートなど、場違いとも思える、|盛《せい》装《そう》した|貴《き》婦《ふ》人《じん》である。|豪《ごう》奢《しゃ》を下品に見せない|風《ふう》格《かく》を自然に|纏《まと》うこの女性こそ、戦技無双の|誉《ほま》れも高い『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルだった。
続けてその|額《ひたい》、宝石を添えた飾り|紐《ひも》型の|神《じん》器《ぎ》ペルソナ≠ゥら、
「|頑《がん》健《けん》祝《しゅく》着《ちゃく》」
短く|平《へい》淡《たん》な、からかいの言葉[#「からかいの言葉」に傍点]が発せられる。彼女に|異《い》能《のう》の力を与える|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーのものである。
イルヤンカの『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』を防いだ白いリボンは、 肩から|肘《ひじ》に絡んだ飾り紐の端である。 並の|徒《ともがら》≠窿tレイムヘイズによる防御・反射の|自《じ》在《ざい》法《ほう》ならば、 使い手もろとも打ち砕く 『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』の砲弾を、まだ戦闘|態《たい》勢《せい》すら取っていない状態で、軽くかわしてしまった。
もっとも、ヴィルヘルミナの方も、イルヤンカが本気ではなかったことが分かっている。宿敵同士、技の|冴《さ》えを確かめ合うのは|挨《あい》拶《さつ》代わり、ではない。挨拶そのものなのである。
それを十分に分かっている女、マティルダが、笑って|尋《たず》ねる。
「で、天下のブロッケン|要《よう》塞《さい》に乗り込んだってのに、おもてなしはお|馴《な》染《じ》みの二人だけ?」
抜かりなく周囲の情勢と位置を、|灼《しゃく》眼《がん》で確認しながら。
それを分かっている男、メリヒムが、笑って答える。
「俺たちは、ただの出迎えだ。いずれもてなしは|丁《てい》重《ちょう》にする――が」
同じく、女の|挙《きょ》動《どう》を、指先の震え一つまで|警《けい》戒《かい》しながら。
「それよりも」
(メリヒム?)
イルヤンカは、|盟《めい》友《ゆう》の|声《こわ》色《ね》に|不《ふ》穏《おん》なものを感じた。
彼のことは信頼しているが、今日の|戦《いくさ》は、これまでの|小《こ》競《ぜ》り合いや局地戦とは全く違う。
[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]はこのためにあったと言って良い、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの『|壮《そう》挙《きょ》』実現の時を目前、距離を|指《し》呼《こ》の間に置いた、まさに|危《き》急《きゅう》存《そん》亡《ぼう》の場なのである。
|麓《ふもと》における両軍の|対《たい》峙《じ》も、どちらが有利か|一《ひと》目《め》では分からない乱戦|模《も》様《よう》となっている。|趨《すう》勢《せい》いずれにせよ、全体の情勢に、遊びや|余《よ》裕《ゆう》はない。
(……だというのに、まさか)
|案《あん》の|定《じょう》、メリヒムは言う。
「|過《か》日《じつ》の約束を、覚えているか」
マティルダは一瞬、何のことか分からず、|怪《け》訝《げん》な顔をした。
彼女の背後にあるヴィルヘルミナの方は、間を置かず、肩の線を硬くする。
「……!」
メリヒムがそうであるように、彼女もまた、一つの想いを秘めず表し、求めていた。
不快げに答えたのは、マティルダの指にあるアラストールである。
「約束というのは、あの|愚《おろ》かしい|戯《たわ》言《ごと》のことか」
|欠片《かけら》も欲しくもない答えを受けたメリヒムは、|舌《した》打《う》ちせんばかりに顔を|顰《ゆが》めた。彼は、二人の間に入る|邪《じゃ》魔《ま》者を嫌う。その中で最も嫌うのが、この男なのである。
そんな彼らを、マティルダは|可愛《かわい》らしく感じて、思わずクスリと笑った。
「ああ、たしか――『勝った方が、相手を好きにする』――だったかしら?」
「では、主……そろそろ私も、参ります」
「うむ……」
天井の開いた『|首《しゅ》塔《とう》』の|頂《いただき》では、一つの|自《じ》在《ざい》法《ほう》が起動しようとしていた。
部屋の中央に燃える|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの青い|炎《ほのお》を受け、|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nが言う。
「ジャリ殿、『両翼』お|二《ふた》方《かた》に限って、万が一のことがあるとも思えませんが、もしもの時は、この場をお願いします」
彼の骨体は、落ち着きなくカタカタと震えていた。|派《は》手《で》な礼服の内から、骨がカランと|天《てん》秤《びん》の|大  皿《ヴァークシャーレ》に落ちる。 跳ね上がってもう一度床に着く前に、骨は黄色い|火《ひ》の|粉《こ》となって空間に薄く広がっていった。散った彼の体は遠くに、また近くに染み渡り、|自《じ》在《ざい》法《ほう》を|構《こう》築《ちく》してゆく。
言われた人間|大《だい》の卵、|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリは、|真《ま》面《じ》目《め》に返事をするでもなく、相変わらず三つの仮面を震わせて、いい|加《か》減《げん》な言葉を|喚《わめ》く。
「この|盾《たて》はしばしば敵に立ち向かい」「俺の代わりに傷を受けてくれた」「今日もこれがどれだけ役に立つか!」
しかし、その三つの声の中に、彼への言葉が、確かに込められていた。
モレクは貧相な骨だけの顔ではなく、|吐《と》息《いき》の中に|微笑《ほほえ》みを混ぜて、次の相手に言う。
「チェルノボーグ殿、私の『ラビリントス』発動後、即刻あちら[#「あちら」に傍点]にお送りします。どうか、処置の方をよろし――」
「|遺《ゆい》言《ごん》のような言い草を|止《や》めろ、|痩《や》せ牛」
|黒《こく》衣《い》白《はく》面《めん》の女、|闇《やみ》の|雫《しずく》<`ェルノボーグは、モレクの声を途中で切らせた。
彼女は、モレクが嫌いである。この|牛《ぎゅう》骨《こつ》の|宰《さい》相《しょう》が、自分たちも感じて、しかし奥底に隠しているものを|表《おもて》に出しすぎることに耐えられないのだった。
彼女らの隠すものとは、恐怖。
アシズが実現せんとする『|壮《そう》挙《きょ》』が、全く新しい時代を作り出す試みであるがゆえに、彼ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]はフレイムヘイズのみならず、この世そのものが起こす反動と抵抗に|晒《さら》される、あるいは呑み込まれる……そんな、|諦《てい》観《かん》にも似た、避け得ないものへの恐怖だった。
モレクは、持てる実力に比して、異常なまでに|臆《おく》病《びょう》である。しかし、だからこそ、彼はこの恐怖を誰よりも真剣に受け止めることができた。
他の『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らのような、いざとなれば自分の力で切り抜ける、という強者の気楽さと彼は|無《む》縁《えん》だった。彼はこれまでも、戦時下以外での組織の強化と、敵の弱体化に努めてきた。そして、その面において|有《ゆう》能《のう》極まりない存在だった。宰相|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nは、強者としてではなく、|賢《けん》者《じゃ》として|討《う》ち手らに恐れられた、数少ない王≠ネのである。
そんな彼をして、手の打ちようのない事態というものがある。
ゆえにこそ、手の打ちようのない事態としてあるように。
常に優勢を保って、しかし敵は無数に、|湧《わ》いて出た。
壮大な夢に|魅《み》せられた彼らも、決して|退《ひ》かない。
こんな|激《げき》突《とつ》が、無事に済むわけもなかった。
そうと分かっていても、彼らは進む。
アシズの望む『壮挙』を実現させる上での絶対|要《よう》件《けん》だった『|都《みやこ》喰《く》らい』、同じく『|小夜啼鳥《ナハティガル》』の|争《そう》奪《だつ》戦、そして今起きている『|大《おお》戦《いくさ》』……一人ずつ、長く欠けることのなかった|同《どう》輩《はい》たちが討たれてゆく。誰もが進むことを望んでいるため、誰にも事態の|推《すい》移《い》は止められない。
そして今、この欠落の感覚は、大詰めを迎えつつある『壮挙』と|呼《こ》応《おう》して、加速度的に増している。予感などという|曖《あい》昧《まい》なものではない。過去の|蓄《らく》積《せき》から得られる、時流の実感だった。
モレクが|怯《おび》えているのは、ただの|臆《おく》病《びょう》さの表れではない。自分たちを巻き込むものを、|聡《さと》い知性で明確に把握している、臆病さによってはっきりと感じているのである。
チェルノボーグは、そんな彼が嫌いなのである。
常に人より多く気を回し、気を|遣《つか》い、その結果見える、事実というどうしようもないものに怯えている……なぜ彼だけが、そんな目に|遭《あ》わねばならないのか……可哀相ではないか[#「可哀相ではないか」に傍点]。
だから彼女は、『あまり気にするな』という意味の言葉を放る。
「|几《き》帳《ちょう》面《めん》も、度が過ぎると|嫌《いや》味《み》にしかならん。我らが勝てば、なんの問題もないことだ」
|字《じ》面《づら》はかなり違っていたが。
もちろんモレクの方は、字面をそのまま受け取る。
「それは、そうですが……」
落ち込む声に|呼《こ》応《おう》するように、また骨が一つ落ち、|自《じ》在《ざい》法《ほう》に変化するため、散る。
それが、なんだか永の別れまでの時を数えているかのように思えて、チェルノボーグは怒りに|盾《まゆ》根《ね》をきつく寄せた。
その険しい表情を、彼女が自分を責めているものと恐れるモレクは、ようやく|己《おのれ》の誇らしき主、その|化《け》身《しん》たる鮮やかな青き|炎《ほのお》に向き直った。
「主、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』に再び|妙《みょう》な動きをさせぬよう、『ラビリントス』を常より大きな規模で張ります。でき得る限り時間を稼ぐつもりですが――」
「それ以上、申してくれるな、我が|宰《さい》相《しょう》」
アシズまでもが、心配性の右腕の言葉を切った。
「|挙《きょ》は、急ぐ」
声を行為に示すように、|鳥《とり》籠《かご》へと、さらなる力が注がれる。既に、|蹲《うずくま》る『|小夜啼鳥《ナハティガル》』の首の根元まで、|紋《もん》様《よう》は|這《は》い上がっていた。
「我が挙の|為《な》された後にこそ、おまえのような男が必要だ」
「……身に余るお言葉、光栄です」
声だけの喜びを|滲《にじ》ませ、モレクは身を低く|屈《かが》めた。お|辞《じ》儀《ぎ》をしたつもりらしいが、もう曲げる腰骨もない。それどころか、屈めた拍子に、肩の骨が礼服ごと|大  皿《ヴァークシャーレ》の上に落ちた。 首だけが、宙に浮いている形となる。
「王は言葉と行為であなたに感謝しておられる!」「|捕《ほ》虜《りょ》たちを引き連れて!」「出来るだけ早く戻るように!」
ジャリが|囃《はや》すように|喚《わめ》く中、最後にモレクは鳥籠、その中にある少女を見上げた。
「私は、|貴女《あなた》にも、我々の挙に……」
|宝《ほう》具《ぐ》となってから初めて、|同《どう》朋《ほう》として扱われている『|小夜啼鳥《ナハティガル》』に、声をかける。
「……この|倦《う》み疲れた時を打破する『壮挙』に、賛同して頂きたい」
ここに運び込まれてからずっと、開きっぱなしになっている鳥籠の入り口越しに。
「道具として使われるのではなく、同志として、協力を選んで頂きたい」
一度として答えず動きもしない|徒《ともがら》≠ノ、語りかける。
「そこより、自らの意思と足で、出てきて頂きたいのです」
「……」
今も同じく、無言と無反応で返される。
少女の|無《ぶ》礼《れい》な態度、モレクが少女に向ける|真《しん》摯《し》さを、チェルノボーグが|怒《ど》鳴《な》りつけた。
「|痩《や》せ牛、グズグズするな!」
「は、はい……では」
「あ――」
全く|呆気《あつけ》なく、モレク最後の骨、|頭《とう》骨《こつ》が落ち、黄色い|火《ひ》の|粉《こ》となって、消えた。
チェルノボーグは、心からの腹立ちを口の|端《はし》に乗せた。
「――っ、|鈍《どん》午《ぎゅう》が」
もはや言葉は通じないが、彼はここにいる。|程《ほど》なく、|自《じ》在《ざい》式《しき》を起動させる。
女は、男の割り振った自分の役目を果たすため、強く目を|瞑《つぶ》り、言う。
「主、私も参ります」
アシズには、傷ついた彼女の心が分かる。
ゆえに、こう答える。
「任せる。暴れよ」
「そうだ、お前さえ|承《しょう》服《ふく》してくれればいい!」
メリヒムは熱っぽく、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|宿《しゅく》敵《てき》を軍団に迎える|皮《かわ》算《ざん》用《よう》を叫んだ。
「我が主は、絶対にお許しくださる……いや、むしろお喜び頂けるだろう。他の『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』たちにも文句は言わせん」
|苦《く》笑《しょう》するイルヤンカの頭上に、ゆっくりと下りて、|至《し》誠《せい》の|誓《ちか》いを行う。
「俺と、剣の向きを|揃《そろ》えてくれ」
|剣《けん》尖《せん》を向けながら。
「俺が、勝ったとき」
戦いが|前《ぜん》提《てい》の、求愛だった。
その熱さに、|己《おの》が身の内にある|魔《ま》神《じん》の|不《ふ》機《き》嫌《げん》な感覚に、マティルダは笑う。
笑って、はっきりと答える。
「いいわよ。私は絶対に負けないから」
「――よし」
メリヒムは欲望に燃えて、マティルダを、手にすべき女を見つめる。
彼女との勝負に必要なもの以外、全て、一切が、目に入らなくなる。
その背後に立つ、もう一人の|可《か》憐《れん》な装いも、|憂《うれ》いの|麗《れい》容《よう》も、|無《む》論《ろん》。なぜ、もう一人が、最初から『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』の|戦《いくさ》装《しょう》束《ぞく》を|纏《まと》っていなかったのか。仮面を付けていなかったのか。
知っていても、目に入れようとしない。
彼を頭上に乗せるイルヤンカはその理由を知っているが、しかし彼は|盟《めい》友《ゆう》のように|奇《き》矯《きょう》かつ|傲《ごう》慢《まん》な性格ではない。無表情な『女性』への|憐《れん》憫《びん》を|僅《わず》かに抱きはしても、そんなことより、
(分かっているのか、今、我々の置かれている状況が――)
と思いかけた彼の|額《ひたい》を、メリヒムが|長《ちょう》靴《か》のつま先で軽くカン、と|叩《たた》いた。同時に、
(|宰《さい》相《しょう》殿が『ラビリントス』を展開中だ、その|構《こう》築《ちく》完了まで引き付けるぞ)
音に|拠《よ》らない冷徹|極《きわ》まる声が、|脳《のう》裏《り》に|響《ひび》く。
(む――?)
ブロッケン|要《よう》塞《さい》の『|首《しゅ》塔《とう》』から、ジワリと力の脈動が伝わってくる。盟友として知る|自《じ》在《ざい》法《ほう》の|感《かん》触《しょく》が、|牛《ぎゅう》骨《こつ》の宰相の|企《き》図《と》を理解させる。|滅《めっ》多《た》に使われない、しかし未だ何人にも破られたことのない|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激N|難《なん》攻《こう》不落の自在法『ラビリントス』発動の気配だった。
(なんと)
|切《せっ》迫《ぱく》した情勢下、自分の方こそが冷静でなかったことをイルヤンカは知り、|己《おのれ》を恥じた。メリヒムは|色《いろ》恋《こい》に熱くなってはいても、|耽《たん》溺《でき》はしていなかったのだった。思えば当然、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメールを、彼は負かそうとしているのである。
勝負以外の全てを切り捨てて、ようやく機も|掴《つか》めようかという、最高に最悪な敵と戦う気構えを欠いていたのは、イルヤンカ自身というわけだった。
(老人は常に出遅れる、か)
(それも|無《む》駄《だ》口《ぐち》だ、行くぞ戦友)
互いに表情を全く変えぬまま、『両翼』は戦闘を開始する。
イルヤンカが巨体を風に乗せ、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』の|縁《ふち》に立つ二人に向かって降下する。同時に、その広げた|翼《つばさ》から『|幕《ばく》 瘴《しょう》 壁《へき》』を|噴《ふん》射《しゃ》して、 自分の背後を|侵《しん》入《にゅう》不可能な無敵の|領《りょう》域《いき》と化す。 先の|噴《ふん》進《しん》弾《だん》を数十倍の大きさにしたような、恐るべき巨重の突進だった。
その|突《とつ》撃《げき》の|穂《ほ》先《きさ》は、|竜《りゅう》の額に立ち、|虹《にじ》の翼を背に現すメリヒムである。前方に掲げていたサーベルから、なんの前触れもなしに『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』を|一《いち》撃《げき》、放つ。あまりに|華《か》麗《れい》な、破壊力そのものたる輝きが、二人の立つ場所を|躊《ちゅう》躇《ちょ》なく目指し、爆発した。
その|爆《ばくく》炎《えん》の中から、|紅《ぐ》蓮《れん》の輝きが飛んでくる。
輝きに向けて、メリヒムは唇を引き|絞《しぼ》るように笑う。
(来い、フレイムヘイズ――!!)
鳴るはずのない|馬《ば》蹄《てい》の音を響かせて、|豪《ごう》壮《そう》な|鬣《たてがみ》を|靡《なび》かせて、|悍《かん》馬《ば》が駆けてくる。
鬣も紅蓮、馬体も紅蓮、馬具も紅蓮、|吐《と》息《いき》も紅蓮、馬蹄に散る火花も、紅蓮。
|跨《またが》るは、|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の女。
燃えるように、笑っていた。
正面から迫る[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の『両翼』。
いかなる英雄|譚《たん》の絵画にも、ここまで華やかかつ|勇《ゆう》壮《そう》な姿はあるまい、と思う。
マティルダ・サントメールは、戦うこと十八年で数十度という|宿《しゅく》敵《てき》たちを見て、燃えた。一つ間違えれば全てが終わる|交《こう》叉《さ》の中、であるからこそ感じられる命ギリギリの|際《きわ》で、自分の全てが研ぎ澄まされていくことに、たまらない充実を感じていた。
人間であったとき、世界の全てに奪われた、戦うという選択|肢《し》。
それを、今は|存《ぞん》分《ぶん》に握り、振るうことができる。
戦える。なんという、素晴らしき今。
「――っはぃやぁっ!」
マティルダは、持てる力のほんの一部、|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》でできた|悍《かん》馬《ば》に拍車をかけ、空を駆ける。手にした炎の|大《たい》剣《けん》を一振りして|矛槍《ハルベルト》に変え、脇に|掻《か》い込む。|竜《りゅう》に立ち向かう聖ゲオルグとも見えるその姿に、しかし|尊《そん》貴《き》の風はない。
聖者とは|真《しん》摯《し》な者であり、快楽に|淫《いん》しない。
彼女は戦いに喜び勇み、|爆《は》ぜるように笑う。
「ははっ!」
|巨《きょ》重《じゅう》の竜と破壊の剣士を眼前にして―― 彼女は|穂《ほ》先《さき》の届かない距離で、 ぐい、と|矛槍《ハルベルト》をさらに深く掻い込み力を|貯《た》めること一瞬、|烈《れつ》火《か》の|如《ごと》き突きを繰り出した。
「っだあ!」
同時に、彼女自身が突き出したものではない、しかし彼女のそれと並ぶ|槍《やり》衾《ぶすま》が空中に出現した。穂先の群れは、彼女の|疾《しっ》駆《く》に先駆けて前に伸び|奔《はし》り、また密集し、巨大な|一《いち》撃《げき》として『両翼』に|襲《おそ》う。
「ぬうっ!」
メリヒムは動じずサーベルを振り、『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』を放った。その輝きが、矢のように伸びてきた紅蓮の槍隊を苦もなく打ち砕く。が、その|陣《じん》列《れつ》を破り開けた空間に、目当ての姿はない。
(上か!)
自分たちの炎に彩られた霧の中、|一《ひと》際《きわ》目立つ紅蓮の悍馬が跳ね上がっている。その馬上、マティルダが大きく|矛槍《ハルベルト》を振りかぶっていた。
「イルヤンカ!」
「|応《おう》さ、――ハハアッ!!」
危機を感じて、イルヤンカは首を直上に振り向けつつ、『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』を吐き出した。
その張られた防御壁の上に、巨大化した|紅《ぐ》蓮《れん》の|矛槍《ハルベルト》が|叩《たた》き込まれる。|凄《すさ》まじい、煙のない|炎《ほのお》だけの爆発が起こり、|灼《しゃく》熱《ねつ》が空に|溢《あふ》れた。
人間なら余波だけで消し飛ぶような炎の中、|甲《こう》羅《ら》と|鱗《うろこ》に身を|鎧《よろ》うイルヤンカは|悠《ゆう》々《ゆう》と飛ぶ。空中で固めた『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』沿いに回り込み、その上に|滞《たい》空《くう》する女を|噛《か》み砕かんと|顎《あご》を開ける。
気付いたマティルダは、紅蓮の|悍《かん》馬《ば》を|鐙《あぶみ》で叩いて走らせる。手にある|矛槍《ハルベルト》を先頭に、炎を引き連れて向かう。今度は直接|矛槍《ハルベルト》を彼に叩き込むつもりだった。が、
「っあ!?」
|竜《りゅう》の|額《ひたい》にメリヒムがいない。
と思う間に、彼女の手首に純白のリボンが絡み、馬ごと引っ張られた。
「わっ――」
半秒前まで彼女のいた場所を、真後ろからの『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』が|貫《つらぬ》いていく。
「ちいっ!」
イルヤンカの反対側から回っていたメリヒムが、空中で|舌《した》打《う》ちした。
放り上げられた先で、マティルダは馬の体勢を整えつつ礼を言う。
「ありがと」
|傍《かたわ》ら、中に浮いて答えたのは、表情を|隠《かく》す仮面。 |鬣《たてがみ》のようなリボンを無数舞わす|戦《いくさ》 装《しょう》束《ぞく》を|纏《まと》った、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルである。
「いつも以上に、突っ込みすぎでありますな」
「性急」
同じく彼女と契約する|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーが、やや責めるような|口《く》調《ちょう》で続けた。
|苦《く》笑《しょう》しつつ、マティルダは『両翼』と距離を取る。
「せめて、|拙《せっ》速《そく》と言ってほしいな」
本当は一気に上昇して、ブロッケン|要《よう》塞《さい》の|中《ちゅう》枢《すう》だろう大きな|塔《とう》(彼女らは『|首《しゅ》塔《とう》』という|呼《こ》称《しょう》を知らない)を目指したかったのだが、距離によって破壊力の|減《げん》衰《すい》しない『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』を持つメリヒム相手に、間合いを開けすぎるのは|無《む》謀《ぼう》というものだった。イルヤンカが一緒だと、遠距離からの不正確な攻撃は『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』に|阻《はば》まれて、まず当たらない。|虹《にじ》の|翼《つばさ》≠ニ|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》=A『両翼』と戦う場合は、付かず離れず、互いの|必《ひっ》殺《さつ》距離で|鬩《せめ》ぎ合うしかないのである。
「来るぞ」
アラストールが短く言った。
「はぃやっ!」
二人の間に返事は不要である。マティルダは紅蓮の悍馬の腹を|蹴《け》り、横っ飛びに跳ねた。
その後を『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』が追う。一直線の虹が天に向かって|自《じ》在《ざい》に振り回される|様《さま》は、端から|眺《なが》めれば|奇《き》跡《せき》のように鮮烈|華麗《かれい》な光景だった。
もちろん当事者たちは、そこまで気楽に|眺《なが》められるわけもない。
マティルダは|悍《かん》馬《ば》の|疾《しっ》駆《く》をジグザグにして、この|遠《えん》慮《りょ》容《よう》赦《しゃ》のない攻撃を必死にかわす。その|傍《かたわ》ら、自分の右斜め後ろ、まだ絡まったままのリボン伝いに引っ張られて飛んでいる、|吹《ふき》流《なが》しのような姿のヴィルヘルミナを見る。先の|回《かい》避《ひ》同様、その|挙《きょ》措《そ》になんの|動《どう》揺《よう》も見られないことを見て取り、ややの|安《あん》堵《ど》を得、そして大きな|罪《ざい》悪《あく》感《かん》を抱く。
(|辛《つら》いことばかり、させてきたな)
十八年前、偶然から共闘して以来、ずっと一緒だった……二人といない友。
その彼女、ヴィルヘルミナ・カルメルは、|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムに|惹《ひ》かれていた。惹かれて、しかしマティルダとは全く別の想いと接し方で、彼を振り向かせようとしてきた。それは、先の|盛《せい》装《そう》のように常に空回り、|独《ひと》り|相撲《ずもう》となっていたが、彼女は|諦《あきち》めない。
実際に戦いの場で彼と向き合ったこともあったが、結果は同じだった。彼女の|討《う》ち手としての力と特性は、|問《もん》答《どう》無《む》用《よう》な破壊力を持つ『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』に|相《あい》性《しょう》が悪い。軽くあしらわれ、逃げられただけだった。会話さえ交わせてない。それでも、彼女は諦めない。
フレイムヘイズとして戦いながら、|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠振り向かせる。
そんな、不可能としか思えないことを実際に行っているマティルダと行動を共にする……それが二人の共闘、最初のきっかけであり、今も続く、彼女の揺るぎない目的なのである。
(でも、それも、もうすぐ終わる)
この戦いで、彼女を少しは楽にしてあげられるだろうか。
なにもかも全てを、消し去ることで。
マティルダは思い、|躊躇《ためら》う。
(|迷《めい》惑《わく》かな……でも、止めるわけにはいかない)
『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が|手《て》加《か》減《げん》という|概《がい》念《ねん》から最も遠い人間であることを、 ヴィルヘルミナは誰よりもよく知っている。両者が今、この戦いに全てを|賭《か》け、決して|退《ひ》かないことも、|無《む》論《ろん》。
一番辛い道を選んでいるのは、彼女自身なのである。
(いっそ、メリヒムに勝って、|奴《やつ》を彼女と――)
とまで――まるでメリヒムのように――|皮《かわ》算《ざん》用《よう》してから、また思い直す。
(お|節《せっ》介《かい》かな……でも、私には他になにもできない)
彼女がそれを望んでいるかどうか。
望んでいたとして、幸せになれるのか。
思って、感じて、考えても、答えは出ない。
(フレイムヘイズの、幸せ……か)
マティルダ・サントメールは、『幸せ』という言葉を自分が使ったときの他人の顔を思って、ほんの少しだけ、げんなりする。
マティルダは、異常なフレイムヘイズだった。
彼女は、討ち手となった自分を、幸福だと確信していたのである。
通常、フレイムヘイズは|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ヨの|復《ふく》讐《しゅう》を望む人間を器として生まれる。
存在の出発点がすでにマイナスであり、その行動原理も、誕生の原則から必然的に|悲《ひ》愴《そう》な復讐者のそれとなる。長く生きた者の中には|稀《まれ》に、使命感の純化によって精神を|昇《しょう》華《か》させる者もいたが、さすがに幸福であるとまで|飛《ひ》躍《やく》する者は|絶《ぜつ》無《む》だった。
尽きることのない戦いに生き、やがて心身を|疲《ひ》弊《へい》させて|討《う》たれ、また|消《しょう》滅《めつ》するという『フレイムヘイズの死生観』を、彼女は根底から|覆《くつがえ》す|異《い》端《たん》的存在なのだった。
これまで彼女は、そんな自分を当然のように他のフレイムヘイズたちに見せてきた。が、しかし、見せられた側は誰も、彼女の|在《あ》り|様《よう》を理解できなかった。|明《めい》朗《ろう》明《めい》敏《びん》のピエトロ・モンテベルディ、|肝っ玉母さん《ムッタークラージェ》ゾフィー・サバリッシュ、最古のフレイムヘイズの一人たるカムシン、物事の|窮《きゅう》理《り》を探るヤマベ……討ち手の中でも特に心深く力強い彼らですら、マティルダが、
(――「戦えるってのは、幸せなことじゃない」――)
と喜びを表して言うと、|一《いち》様《よう》に|怪《け》訝《げん》そうな表情になり、黙ってしまうのだった。
結局、マティルダ・サントメールの全てを分かってくれたのは、広く大きなこの世にただ一人……|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールだけだった。
ヴィルヘルミナとティアマトーは、理解というより観念して、彼女のやることを受け入れてくれている。もちろん、それでも十分に|嬉《うれ》しい。なにしろ、討ち手や|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ中には、彼女の平然とした|様《さま》を非難したり、|酷《ひど》いときには狂人扱いする者までいたのだから。
マティルダは、それらの仕打ちに傷ついたことは一度もないが、どうも自分の考え方が圧倒的に少数派であるらしいことは理解できた。
(そんな私が、ヴィルヘルミナの幸せについて考えたところで、|碌《ろく》なことにはならないか)
ただでさえ彼女には、この常識知らず、どうして|無《む》茶《ちゃ》ばかりするのでありますか、と怒られてばかりいるのである。
(結局、愛とか恋とかってのは、私とアラストールの場合みたいにどうしようもないものなんだから、成り行きに任せるしかない)
戦いに絡んでさえいなければ、この|土《ど》壇《たん》場《ば》、自分にとつての詰めの場面で変に悩むこともないのだが、どういう間の悪さか、彼女の周囲でのそれ[#「それ」に傍点]は、必ず戦場で|交《こう》錯《さく》する。
(アラストールは当事者の一人のくせに、こういうことでは全然頼りにならないし)
私も人のことは言えないけど、
だから私とこうなったのかな、
などと|惚気《のろけ》る間に、『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』が駆ける|馬《ば》蹄《てい》すれすれを過ぎる。
「っと!?」
(危ない危ない……いずれにせよ、なにもかも勝ってからの話)
「まだ声は届かぬか」
指輪から、そのアラストールが言った。
「ちょっと遠いかな」
マティルダは答えつつ、|灼《しゃく》眼《がん》で周囲の状況を改めて確認する。
下から迫る『両翼』との距離を調節しながら、じわじわとブロッケン|要《よう》塞《さい》の上部へと昇ってゆくつもりだったが、やはりこの二人は容易な相手ではない。
|迂《う》闊《かつ》に高度を上げようとすると、『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』がその頭を押さえに来る。|下手《へた》に大回りの軌道を取ると、『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』を要塞との間に張られてしまう。双方かわしつつ時間を|浪《ろう》費《ひ》した結果、逆に『両翼』の方がマティルダたちとの距離を詰めつつめった。
強敵の強敵たる|所以《ゆえん》に、マティルダは顔を勇めて言う。
「さすが、今日は一段と気合が入ってるわね」
「それはこちらとて同じことだ」
打てば|響《ひび》くように|気風《きっぷ》のいい答えをくれる|魔《ま》神《じん》に笑いかけ、さらにもう一度、自分たちの|居《い》場所を計る。『両翼』に|阻《はば》まれたため、彼女らはなだらかな山頂を丸ごと|覆《おお》う巨大な|冠《かんむり》、ブロッケン要塞の、ようやく中ほどまで高度を取ったに過ぎない。
(もう|噂《うわさ》の『ラビリントス』へと巻き込まれる圏内に入っただろうか)
音に聞こえた|難《なん》攻《こう》不落。対フレイムヘイズ軍団[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]が一つ所に|居《きょ》を構えた数百年を、その前、千年に渡る|放《ほう》浪《ろう》を守り抜いてきた|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nの|自《じ》在《ざい》法《ほう》。|千《せん》余《よ》万《まん》余《よ》の敵を飲み込み、閉じ込める巨大な力。
必ず仕掛けてくるはずの|罠《わな》を、戦いの中で待つこと久しい。
(まだか……早く、私たちを取り込め)
とマティルダは|焦《じ》れてさえいた。
その罠に『両翼』ごと飲み込まれること、罠の中から改めて要塞を攻略することが、彼女らの作戦方針だった。どう|慎《しん》重《ちょう》に|潜《せん》入《にゅう》しても、最終的に『ラビリントス』が発動することは分かりきっている。これを突破しない限り、アシズの元に|辿《たど》り着くのが不可能であることも。ならば、出来得る限り早く発動させ、また|噛《か》み破るのが、効率的なやり方というものだった。彼女らが『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』を持ち出したのは、一刻でも早く、この中に飛び込むためでもあった。
『ラビリントス』に入り込むことができれば、『両翼』が戦場に現れる心配はなくなる。彼女らと真正面から戦える|唯《ゆい》二《に》の存在は、|止《とど》めの|一《いち》撃《げき》として|温《おん》存《ぞん》されざるを得ないからである。
こちらが要塞に取り付いた時点で、『両翼』には、眼前の自分たちと戦うという選択|肢《し》しかなくなった、とも言える。|初《しょ》手《て》でこの状況に持ち込めただけでも|御《おん》の|字《じ》ではあったのだが……
(これからすることを思えば、|今《いま》程度の運は、なければ話にならない)
なによりも、時がなかった。
遠く戦場の|炎《ほのお》が、|叫《きょう》喚《かん》が、霧の向こうに見える。あそこで戦っている|連《れん》中《ちゅう》は、自分たちに全てを託して、命を張った時間|稼《かせ》ぎ、大軍団への|囮《おとり》を務めているのである。
その仲間たちが時を持たせている間に、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|首《しゅ》領《りょう》、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズを|討《とう》滅《めつ》する……あるいは最低限、|暴《ばう》挙《きょ》の実現を|阻《そ》止《し》する。この地に集った討ち手たちは、彼女自身とヴィルヘルミナも含めて、ただそれだけのために戦っている。
|徒《ともがら》≠轤ェ『|壮《そう》挙《きょ》』と呼ぶアシズの|企《たくら》みは、それほどに危険なものだった。
もしこれが実現してしまったら、人間という存在に|倦《う》み疲れた|徒《ともがら》≠轤フ間に、最悪にして絶大な指針が生まれてしまう。それだけはなんとしても食い止めねばならなかった。
少人数による行動を|旨《むね》とするフレイムヘイズが|未《み》曾《ぞ》有《う》の数、参戦したことに、この危機感に対する大きさは表れている。世界のバランスを|憂《うれ》える|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠セけでなく、その器となったフレイムヘイズたちも、この暴挙の意味するところに恐怖していた。
マティルダも、アラストールも、ヴィルヘルミナも、ティアマトーも、例外ではない。
恐怖は、時間を食らってどんどん大きくなる。
(まだか……『両翼』相手じゃ、時間を持たせることも――)
ふと、見上げた先、天井の抜けた|塔《とう》が、マティルダの目に入った。
その内に、鮮やかな光の照り返しが見えた。
「――青」
かつて|徒《ともがら》≠ノこそ|脅《きょう》威《い》とされた、色。
やはり、あそこが[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|中《ちゅう》枢《すう》部、つまりは|宝《ほう》具《ぐ》『|小夜啼鳥《ナハティガル》』の置かれた場所。
アラストールが鋭く言う。
「届くか!?」
「やってみる! ――っすぅ――っ!!」
馬上、マティルダは大きく背を反らして息を吸い込んだ。限界まで胸の内に|溜《た》めるや、戦場でもよく通る声で、『|首《しゅ》塔《とう》』の内へと、腹の底から全開に叫ぶ。
「――ガヴィダからの|言《こと》伝《づて》だ!!『ドナートは俺に言った!』――」
|朗《ろう》々《ろう》凛《りん》冽《れつ》の|響《ひび》きは、夜を抜け、霧を抜け、目当ての人物へと届いていた。
「――ッ!?」
『首塔』の|頂《いただき》にあるアシズの|炎《ほのお》が、|驚《きょう》愕《がく》に揺れた。
これまでなにをしようと、声の|欠片《かけら》、動きの|端《はし》一つすら見せることのなかった『|小夜啼鳥《ナハティガル》』の少女が、マティルダの言葉を聴いた|途《と》端《たん》、薄く目を開けたのである。
彼の炎の内に、得も言われぬ危機感が混ざる。
が、
そのとき、突然全ての光景が|罅《ひび》割《わ》れ、ずれた。
「――っう、わ!?」
驚くマティルダの手首に絡んだリボンが、強く締まる。
「マティルダ!」
「確保!」
離されまいとするヴィルヘルミナとティアマトーが、彼女にリボンを|幾《いく》条《じょう》も巻きつけた。
「『ラビリントス』だ!」
アラストールの声を合図としたかのように、|罅《ひび》割《わ》れずれた光景が崩れ落ち、混ざり合う。
上下左右も分からない|攪《かく》拌《はん》の中へ、またその奥へと、彼女らは飲み込まれていった。
霧を|纏《まと》ったブロッケン山の|頂《いただき》に、|異《い》様《よう》なものが現れていた。
|蹲《うずくま》る牛の形をした、|薄《うす》黄色の明滅を見せる巨大な|自《じ》在《ざい》法《ほう》である。
その自在法は、|尖《とが》った|王《おう》冠《かん》たるブロッケン|要《よう》塞《さい》、直下の|山《やま》肌《はだ》に|落《らく》着《ちゃく》していた『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』、さらには山頂の一部までも、上から|覆《おお》い|被《かぶ》さるように、腹の内へと収めてしまっていた。これぞ、空間を制御する自在法の中でも、特にずば抜けた効果|範《はん》囲《い》を誇る|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nの自在法『ラビリントス』だった。
|額《ひたい》にある三つ目の瞳で、遠くを|眺《なが》めるベルペオルが、一息吐く。
「やれやれ、どうやら|大《だい》擁《よう》炉《ろ》≠フ『ラビリントス』も、|無《ぶ》事《じ》発動したようだね」
変わらず目を|瞑《つぶ》るヘカテーの|輿《こし》を挟んだ彼女の反対側、シュドナイがまびさしを|僅《わず》かに上げて、人の|業《わざ》では|在《あ》り|得《え》ない|奇《き》観《かん》を見やる。
「|魔《ま》神《じん》の|手《て》駒《ごま》め、相変わらず|意《い》表《ひょう》を突くのが最悪に|上手《うま》いな……まさか、あの|爺《じい》さんから『|天《てん》|道《どう》宮《きゅう》』を|分《ぶん》捕《ど》ってくるとは」
その爺さん――『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』本来の持ち主たる|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》<Kヴィダは、彼ら|三柱臣《トリニティ》始め、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]にとって|縁《えん》遠《どお》い|間《あいだ》柄《がら》ではない。彼らの|本《ほん》拠《きょ》地《ち》は他でもない、ガヴィダによって『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』と対になる形で建造された移動要塞『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』なのである。
彼は、とある変人[#「とある変人」に傍点]の絡んだ騒ぎを|契《けい》機《き》に、協力関係にあった[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]と|袂《たもと》を分かち、自ら言うところの『|隠《いん》居《きょ》』の身となったはずだった。誰にも探知できない『|秘匿の聖室《クリュプタ》』に包まれた『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』、存在の力≠|消《しょう》耗《もう》しない|自《じ》縛《ばく》の|水《すい》盤《ばん》『カイナ』、双方の|宝《ほう》具《ぐ》の力によって身を隠し、この世のどこかを|彷徨《さまよ》っているはずだった。
今、その『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』が『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』の手に渡っているということは、
(|討《とう》滅《めつ》されたか……あの爺さん)
シュドナイは思い、|僅《わず》かに|哀《あい》惜《せき》の念を覚えた(当然のことながら、『|首《しゅ》塔《とう》』近くでマティルダの叫んだ言葉は、彼らには聞こえていない)。『ラビリントス』を見ながら言う。
「しかし、あれだけ|大《だい》規模な空間の制御を、そう長い時間、一人で支えられるものかな。|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》≠ヘ『|小夜啼鳥《ナハティガル》』に総力を注いでいて、|大《だい》擁《よう》炉《ろ》≠フ手当ては行えんのだろう?」
巨大な牛型の自在法は、 |城《じょう》砦《さい》丸ごとの大きさを持つ『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』までも、 腹の内に収めてしまっていた。敵の移動|要《よう》塞《さい》を外に放置するわけにはいかないのだから、ある意味、当然の処置ではある。が、だとしても、一人で扱うにはあまりに大きすぎる力であるように思えた。
また、同型の要塞を使う側から推測すると、『|秘匿の聖室《クリュプタ》』から内側に、そうそう|容易《たやす》く侵食や|干《かん》渉《しょう》ができるとも思えない。あの中に多数|潜《ひそ》ませているだろうフレイムヘイズの別働隊(あの二人も、自分たちだけで要塞が落とせると楽観するほど馬鹿ではないだろう)が『ラビリントス』の中で|一《ひと》騒《さわ》ぎ起こすのは時間の問題と思われた。
ベルペオルは、当然これら全ての事情を推察しているが、明確な答えは返さない。ただ、自分たちの取るべき行動の指針だけを示す。
「いずれにせよ、『ラビリントス』が発動したことで、早々に本丸を突かれ、全てが|台《だい》無《な》しになる危険性もなくなったわけだ。|遠《えん》慮《りょ》なく[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]を追い詰められるというものよ」
そう[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]実質の|指《し》揮《き》官は言って、肩から腕に巻きついていた|鎖《くさり》を、宙に解き放った。これは彼女が動き出す合図でもあった。
「なんとも、人の悪いことだ」
彼女の意図、すでに知らされている作戦への感想を、シュドナイは改めて述べた。|愉《ゆ》快《かい》半分、|苦《にが》さ半分に笑いながら。
「敵対行為に走らぬのは、せめてもの|情《なさ》けのつもりなんだがね――オルゴン」
「お|傍《そば》に」
ベルペオルに答えて、|陰《いん》鬱《うつ》な声が|響《ひび》いた。
声とともに、 |傍《かたわ》らの地面に|不《ぶ》気《き》味《み》な|緑《ろく》青《しょう》色の|炎《ほのお》が|点《とも》り、細い姿が伸び上がる。 羽根飾りのついた重たげな|帽《ぼう》子《し》と、ダラリと垂れ下がるマント、それだけの姿。ベルペオル直属の|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A紙のような|軍《ぐん》勢《ぜい》『レギオン』を|自《じ》在《ざい》に|操《あやつ》る|千《せん》征《せい》令《れい》<Iルゴンである。
「これより[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]は|撤《てっ》退《たい》を開始する。|陣《じん》を引き払え。それと、|殿軍《しんがり》を任せたい」
「は」
オルゴンは陰鬱な声に|喜《き》色《しょく》を|僅《わず》か|滲《にじ》ませて答え、手袋だけの手を出して一礼する。
撤退の殿軍は最も困難な軍事行動であり、ゆえにそれを任されるのは武人の|名《めい》誉《よ》だった。常より戦争屋を自認するオルゴンにとっては、最高に誇らしい命令である。
もちろんベルペオルは、そういう心の|機《き》微《び》を重々|承《しょう》知《ち》して部下を使っている。別の部下を|併《へい》用《よう》することで対抗心を|煽《あお》り、よりよく仕えさせることも忘れない。
「ガープ」
「ははっ、|軍《ぐん》師《し》殿!」
先の緩やかな現れとは対照的な、火花のような|浅葱《あさぎ》色の炎が立ち上った。現れたのは、四方に子供の人形を引き連れた|大《たい》兵《ひょう》の武装|修《しゅう》道《どう》士《し》である。オルゴンと同じ、ベルペオル直属の|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A駆ける速さで並ぶものなき|道《どう》司《し》<Kープである。
「伝令を頼むよ。戦場で|頑《がん》張《ば》っている|巌《がん》凱《がい》≠ノ、我らの撤退を伝えておくれ」
「|委《い》細《さい》承《しょう》知《ち》! |程《ほど》なく戻りましょうほどに、どうぞ構わず、|迅《じん》速《そく》にお|退《ひ》きあれ!」
ガープは|修《しゅう》道《どう》服《ふく》の胸をバンと|叩《たた》き、口数多く請け負った。ガチャガチャと腰に下げた剣が揺れて、|声《こえ》同様なんとも騒がしい。と、その|傍《かたわ》ら、人形の一体が指を遠く戦場の反対側、ウルリクムミが|激《げき》闘《とう》を続ける方角を差した。|途《と》端《たん》、|炎《ほのお》は|弾《はじ》けるような勢いで飛び立つ。言うだけの事はある、とんでもない速度で、空を|過《よ》ぎていった。
「ふん」
|同《どう》輩《はい》の|嫌《いや》味《み》――『|早く撤退させられるものならやってみろ《このノロマ》』――に対し、オルゴンは|僅《わず》か、ない鼻を鳴らした。鳴らしつつ、片手を差し上げ、自らの力、『レギオン』を発動させる。
ヘカテーの|輿《こし》を中心に張られていた|本《ほん》陣《じん》の幕が落ち、その外側に満ち満ちていた紙の|軍《ぐん》勢《ぜい》が|顕《あらわ》になる。紙に描かれた、|等《とう》身《しん》大《だい》の古い木版画のような兵士による軍勢である。
「輿は、いかがいたしましょう」
と、オルゴンは|陰《いん》鬱《うつ》な声で、|心《しん》服《ぷく》する|軍《ぐん》師《し》に|尋《たず》ねる。
彼女の周囲で|護《ご》衛《えい》についていた紙の|騎《き》士《し》四体も、彼の『レギオン』の一部、特に|精《せい》強《きょう》な『四枚の手札』である。|陣《じん》を|布《し》く前まで、この四体がヘカテーの輿の|運《うん》搬《ぱん》、および護衛という|栄《えい》誉《よ》ある役目を任されていた。
ベルペオルは軽く答える。
「別の者にやらせよう。手札も|殿軍《しんがり》に使うがいい。我が方の|撤《てっ》退《たい》を見れば、|同《どう》胞《ほう》殺しどもが有利を|錯《さっ》覚《かく》して追いすがって来ようからの。極力、我が方に死者を出すな」
「は」
「俺は観戦か? |折《せっ》角《かく》の|大《たい》命《めい》遂《すい》行《こう》も、|槍《やり》持《も》ちで終わりとは寂しい限りだが」
不満そうな顔で槍を差し上げるシュドナイにも、同じく。
「当面は|我《が》慢《まん》してもらおう。|余《よ》計《けい》な|警《けい》戒《かい》や|詮《せん》索《さく》を受けぬよう、|三柱臣《トリニティ》の|参《さん》陣《じん》はできるだけ伏せておきたいのでね。しつこく追いかけてくる者がおれば、その|始《し》末《まつ》を頼むが……オルゴン」
「突出した|討《う》ち手を陣内に引き込み、後続を分断、孤立を誘います」
「|結《けっ》構《こう》、かかれ」
「は」
オルゴンは手袋だけの手を前に腰を|屈《かが》め、その姿勢のまま宙を滑るように下がってゆく。
ヘカテーの輿を囲む『四枚の手札』たちも、剣を眼前に立てて一礼し、その後に続く。周囲の『レギオン』、|幽《ゆう》鬼《き》のような紙の軍勢も、槍を|一《いっ》斉《せい》に立てて前線に向かう。
それら進軍の|様《さま》から、やはり目を|瞑《つぶ》ったまま|微《び》動《どう》だにしないヘカテー、最後にブロッケン山を抱いて|蹲《うずくま》る『ラビリントス』へと、ベルペオルは三分の二の視線を順に移す。周囲を舞う鎖の中で小さく|哂《わら》って、|呟《つぶや》く。
「さて、せいぜい焦って『|愚《ぐ》挙《きょ》』の起動に|盲《もう》進《しん》してもらおうかね」
その|凶《きょう》悪《あく》な、無知を|嘲《あざわら》う目線を向けられる相手に、シュドナイは|密《ひそ》かに同情した。
(たしかにあのような|真似《まね》は、俺たち[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]にとっては『|愚《ぐ》挙《きょ》』以外のなにものでもないが……だとしても、全く気の毒なことだ)
我らが|軍《ぐん》師《し》|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》≠ノ|睨《にら》まれた身の不運を|嘆《なげ》いてくれ、 と気楽に念じつつ、 |とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》を鳴らすように、|槍《やり》で肩をゴンと|叩《たた》いた。
一人、ヘカテーだけが、|終《しゅう》始《し》動かぬまま、|輿《こし》の上にある。
「あたた……これが『ラビリントス』、か」
数秒前まで|要《よう》塞《さい》の外を飛んでいたはずのマティルダは、いつの間にか薄暗い石造りの廊下に|尻《しり》餅《もら》をついていた。|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》で照らされたそこは、呼び名の通りの|迷《めい》宮《きゅう》。
(やっぱり、『両翼』とは引き離されたか……|骨《ほね》宰《さい》相《しょう》め、こっちが|消《しょう》耗《もう》するまでは、あの二人を|温《おん》存《ぞん》しておくつもりね……どっちにとっても予定通り、か)
すぐ|傍《そば》、リボンで結ばれたヴィルヘルミナがいる他は、|人《ひと》気《け》もない。|自《じ》在《ざい》法《ほう》で強化したリボンで互いを結んでいたため、同じ場所に放り出されたらしい。
(|虹《にじ》の|翼《つばさ》≠フ|奴《やつ》、勝負に水を差されて怒ってるだろうな)
|苦《く》笑《しょう》して|眺《なが》める廊下は、様々な姿を持つ|徒《ともがら》≠フサイズに合わせてか、やたらと幅広く、天井も高い。|燭《しょく》台《だい》に|点《とも》された小さな火が、かえって|闇《やみ》の深さと|寂《せき》蓼《りょう》感《かん》を強調してしまっていた。とはいえ、想像していた|炎《えん》獄《ごく》や酸の海などは見えず、転がる人骨や|腐《ふ》臭《しゅう》悪臭の類もない。
「見た限り、特に変わったところもないかな」
「否」
「そう見えているだけのようであります」
ティアマトーとヴィルヘルミナが続けて言う。仮面を|額《ひたい》に上げ、|鬣《たてがみ》も縮めたその姿は、どこか|芝《しば》居《い》を一時休憩しているかのような|風《ふ》情《ぜい》もあった。
二人に言われて、アラストールが確かめる。
「む、たしかに……奥を見よ」
「……?」
マティルダが灼眼を|凝《こ》らした廊下の奥、彼女らの明かりが届くギリギリの場所に、|違《い》和《わ》感《かん》があった。|徒《ともがら》≠フ存在や自在法の行使に対して抱く感覚にも通じるそれは今、実際に目に見える形で在る。
奥に伸びる廊下が、途中で|捻《ね》じ曲がっているのである。壁に付けられた燭台の火が、ゆっくりと|渦《うず》を巻いているように見える。後方も同じく逆側に|捩《ねじ》れて、途中で角になっている。
「|泥《でい》酔《すい》したパラッツォ・ドゥカーレでも来たのかしら」
「にしでは、少々|作《さく》風《ふう》が地味でありますな」
壁や天井に風景を描く画家の名で遊びつつ、二人は立ち上がる。足の裏に感じる床が、|微《び》妙《みょう》に|湾《わん》曲《きょく》していて気持ち悪かった。
マティルダは目だけではない感覚で、周囲を探る。
「直接的な害を及ぼすんじゃなくて、内部の空間を|操《あやつ》る|自《じ》在《ざい》法《ほう》ってことかしら」
「そのようだ。|要《よう》塞《さい》丸ごとの規模とは恐れ入る」
アラストールの|賛《さん》辞《じ》に、平静な二人が声を続ける。
「内部に取り込んだ敵には不利な、味方には有利な地勢で戦わせることができるというわけでありますな。たしかに、こんな場所に『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』とともに|籠《こも》れば」
「|難《なん》攻《こう》不《ふ》落《らく》」
「おまけに、この気配か……」
恐らく今いる場所に限らないのだろう、『ラビリントス』の中には強力な|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ気配が満ちており、常のように敵の気配を|鋭《えい》敏《びん》に|感《かん》知《ち》できなくなっていた。
「|大《だい》擁《よう》炉《ろ》℃ゥ身の中にいるのだ、当然だろう」
歯ごたえのありすぎる肉を|噛《か》んだような顔をするマティルダに、アラストールが|厳《げん》然《ぜん》たる事実認識で返した。
「戦いに向いてないって話だったけど、どうしてどうして、さすがは『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角」
言いつつ、取り回しやすい大きさの剣と|盾《たて》を、|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》で練り上げる。
「これも計画の内だ。苦戦することも、な」
「そうね。とにかく私たちは、アシズのところに|辿《だど》り着きさえすればいいんだし」
「……」
「……」
数秒の|沈《ちん》黙《もく》があってようやく、マティルダは自分がヴィルヘルミナらの|機《き》嫌《げん》を損ねたことに気付いた。
「あっ」
しまったと思い振り向くと、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』はもう、仮面を下ろしてしまっていた。
マティルダはその仮面と向き合い、|灼《しゃく》眼《がん》を|僅《わず》かに伏せて言った。
「……ごめん」
「なにを、謝っているのでありますか」
「|既《き》定《てい》事項」
仮面と同じく、平静を装った|不《ふ》機嫌な声が答えた。
事実としてはアラストールの言うように、全ては計画の内のことだった。ここにいる四人だけではない、フレイムヘイズ兵団も含めた|討《う》ち手たちの全員は、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』と|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠ェ立てた一つの計画に沿って、それぞれの戦場を進んでいる。
全て、アシズの|暴《ぼう》挙《きょ》を|挫《くじ》くために。
(――「時を|浪《ろう》費《ひ》せず、|一《いち》撃《けき》で勝利するには、これしか手がないのよ」――)
この計画を一番最初に打ち明けたときの彼女の顔を、マティルダは今の仮面に重ねる。
同じ顔をしている、それがはっきりと分かった。
感情を|隠《かく》すのが|下手《へた》なところは、最初に出会った頃から、全然変わっていない。常の無表情も、|討《う》ち手としての仮面も、であるからこそ身につけた、彼女の|鎧《よろい》なのである。
打ち明けられた彼女は、じっと無表情のまま数刻を耐え、ゆっくりと問い返していた。
(――「もし『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』を手早く、『両翼』を|容易《たやす》く片付けられれば……|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》≠ノ余力を持って当たることができれば……いかにかの王≠ェ『|都《みやこ》喰《く》らい』による強大な力を持っていようと、勝機は見出せるでありましょうな?」――)
彼女自身、『両翼』と|幾《いく》十度、戦っている。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の恐ろしさもよく知っている。アシズの強大さも、当然。全てが全て、|在《あ》り|得《え》ない仮定だった。
しかし、これが、これだけが、彼女らが見出した、たった一つの希望なのだった。
彼女らは、マティルダとアラストールの立てた計画に、|欠片《かけら》も賛同などしていない。
彼女らは、自分の見出した万に一つ、億に一つという可能性に|賭《か》けて、ここにいる。
口だけの反対は無意味だった。
実力行使しても全く|敵《かな》わない。
|情《じょう》にすがっても振り払われるだけだろう。
放っておけば一人で行くに決まっている。
それら分かりきった事柄の上に、ヴィルヘルミナ・カルメルとティアマトーは立っていた。
マティルダ・サントメール、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』は、それが最良の手段だと判断すれば、|躊《ちゅう》躇《ちょ》などしない。例え、そのために自分の命が使い果たされようとも――
否、むしろ、その限界まで命を燃やさずにはいられない――
そうでなければ生きている意味がないと信じる――
そうしない|生《なま》温《ぬる》い自分の命を許せない――
本当に、どうしようもない女性なのである。彼女を生かしたいのなら、共に死力を尽くして戦い、その万、億に一つの可能性を、せめて二つにするしかないのだった。
マティルダは、そんな選択をしてくれた友人らの気持ちに、黙って抱きしめることで答えていた。特にヴィルヘルミナは、友と、愛する者、双方を失ってしまうかもしれない――そんな恐怖に|怯《おび》えて、それでも必死に|足掻《あが》く、そう言ってくれたのである。言い訳する気も計画を断念する気もないために黙って、だから優しく抱きしめることで、答えていた。
そんな彼女らの前で、ついうっかり、投げやりに聞こえる言葉を口走ってしまった自分の|迂《う》闊《かつ》さを、マティルダは|悔《く》やむ。悔やんで、グズグズはしない。彼女らが|掴《つか》もうとしている可能性に、少しでも近づくために、歩き出す。
「行こうか」
「|了《りょう》解《かい》であります」
折り良く、と言うべきか、その一歩が、戦いの始まりとなった。廊下の前後から、ガチャガチャと金属の鳴る音、ドヨドヨと|反《はん》響《きょう》して混じり合う声が近づいてくる。
「……」
マティルダは|紅《ぐ》蓮《れん》の剣と|盾《たて》を構え、|遂《つい》に彼女の本当の力を現す。
「……――」
一瞬|瞑《めい》目《もく》して集中、|己《おの》が身の内に眠る|魔《ま》神《じん》から得られる力を、|象《しょう》徴《ちょう》として|顕《けん》現《げん》させる。
「――戦闘開始よ、『|騎士団《ナイツ》』!!」
声を受け、広い廊下の|床《ゆか》一面から、紅蓮の|炎《ほのお》が|湧《わ》き上がった。
|渦《うず》巻《ま》き荒れ狂った紅蓮は、数秒で|大《おお》雑《ざっ》把《ぱ》ななにかの形を取る。
|槍《やり》を持った人間、|牙《きば》を|剥《む》く|獣《けもの》、この世には|在《あ》り|得《え》ない|化《ば》け|物《もの》。
マティルダ・サントメールを囲み、|一《いっ》斉《せい》に持てる武器を頭上に掲げる、それら。
『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』を中心に、炎の|唸《うな》りだけの|雄《お》叫《たけ》びを|朗《ろう》々《ろう》とあげる、それら。
主を最前列に、|穂《ほ》先《さき》、|剣《けん》尖《せん》、牙、爪を並べ、|一《いつ》糸《し》乱れぬ行進を始める、それら。
『|騎士団《ナイツ》』。
恐れず進み、|怯《ひる》まず|征《ゆ》くマティルダは、その行進の中、自分の|盾《たて》持つ右腕に絡んだリボンに一瞬の視線を流し、再び灼眼を前に向ける。そして声を、|激《げき》励《れい》とも|懇《こん》願《がん》とも取れる声だけを、自分の右後方にある友らに向けて、送る。
「離さないで」
「|了《りょう》解《かい》であります」
「前進」
友らが答えた。
長時間の戦闘を行えない『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』三度目の|退《たい》避《ひ》、その間を部隊の再編に費やしていた|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミの元に、|俊《しゅん》足《そく》の|道《どう》司《し》<Kープが舞い降りていた。
その用向きを聞いて、
「馬鹿な!?」
驚き怒ったのは、|黒《くろ》森《もり》の中、|片《かた》膝《ひざ》をついて座るウルリクムミ……の肩にある|妖《よう》花《か》である。
人形を引き連れた武装|修《しゅう》道《どう》士《し》、ガープは、|胡《う》散《さん》臭《くさ》い笑顔で答える。
「馬鹿とはまた、ご|挨《あい》拶《さつ》ですな。我らが|軍《ぐん》師《し》殿は、|城《じょう》砦《さい》の|本《はん》丸《まる》に乗り込まれた|貴《き》軍《ぐん》に、もはや利あらず、との判断を下されたのです」
「その本丸で今、|宰《さい》相《しょう》閣《かっ》下《か》の『ラビリントス』発動による反撃が!?」
必死に反論する妖花を|傍《かたわ》らにするウルリクムミは、無言。その分厚い鉄板でできた体中には|雷《らい》撃《げき》による|窪《くぼ》みや焼け|焦《こ》げが見え、肩には|無《む》惨《ざん》な大穴まで|空《あ》いていた。
その絵に描いたような敗軍の将の姿に、ガープは一礼に伏せた下で|嘲《ちょう》笑《しょう》を深める。
「用向き、|確《しか》とお伝えしましたぞ。それでは、|御《ご》武運をお祈り申し上げております」
人形が指を差して、ガープは飛ぶ。
そして半秒、
ガアン、
「おごあっ!?」
鈍い|衝《しょう》突《とつ》音と悲鳴が、同時に起こった。
「なっ?」
驚く|妖《よう》花《か》のすぐ横、肩の穴をこれ見よがしに通り抜けて帰ろうとしたガープを、ウルリクムミが鉄の|掌《てのひら》で|阻《はば》んでいた。胴に描かれた|双《そう》頭《とう》の鳥が、低く落ち着いた声で言う。
「世に名高き|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》=b殿《どの》率《ひき》いる[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]ではあああ、使者は人の肩を通って帰るのが作法かあああ」
「う、うぐ……!」
宙でふらついたガープは|羞《しゅう》恥《ち》に顔を|歪《ゆが》め、しかし言い返さず飛び去った。
「|先《さき》手《て》、|大《たい》将《しょう》?」
痛快さから声をかけた妖花は、しかしその描かれた鳥の顔に、彼女にだけ分かる深刻の色を見て取った。ガープの伝えた事柄は、もはや確定事項なのである。彼女の反論した『ラビリントス』発動による反撃は、裏を返せば、『両翼』始め、ブロッケン|要《よう》塞《さい》からの|来《らい》援《えん》が一切期待できない、ということでもあるのだった。
まさに、孤立|無《む》援《えん》。
その事実に、|気《き》遣《づか》いの視線を向けた妖花へと、しかしウルリクムミは指示で返す。
「次の総がかりではあああ、 全軍|一《いっ》刻《こく》を全てと決めてえええ、 東に|陣《じん》取《ど》る『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』の|軍《ぐん》勢《ぜい》ををを、中央軍によって圧迫するううう」
「せっかく攻め崩した北部をこのままに?」
問われて答えつつ、ウルリクムミは巨体を起こし、立ち上がる。
「中央軍を強固に保つことでえええ、|撤《てっ》退《たい》する[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]にいいい、敵の攻勢を|逸《そ》らすのだあああ」
妖花の顔が、喜びにほころんだ。彼女の|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》は、未だ勝利を|諦《あきら》めていない。その思いに応えるかのように、ウルリクムミは大音声を|同《どう》胞《ほう》たちに向ける。
「戦友たちよおおお! 今しばし持ちこたえよおおお! 我らが主の『|壮《そう》挙《きょ》』に向けえええ、時は確実に進んでいるぞおおおおお!!」
「うおおおおおおお――!」
「|万《ばん》歳《ざい》、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]!」
「まだまだ! まだまだ殺せるぞおお――!」
「ウルリクムミ|御《おん》大将、|万《ばん》歳《ざい》!」
「|同《どう》胞《ほう》殺しどもを踏み|潰《つぶ》せえ!」
未だ[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の士気は高かった。彼らの目指すもの、彼らの主|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの目指す『|壮《そう》挙《きょ》』は、それほど彼らにとって意義あるものと映っているのだった。
傷つき疲れた彼らは、ブロッケン山上に|蹲《うずくま》る巨牛の|自《じ》在《ざい》法《ほう》に、希望を託す。
|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ェ築く、新世界への希望を。
砕け散ったガラスのような『|秘匿の聖室《クリュプタ》』の破片は、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』の|中《ちゅう》枢《すう》部たる|城《じょう》砦《さい》の内部にまで飛び散っていた。『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』の|威《い》力《りょく》を示すこれらを音もなく踏んで、黒く細い影が、城砦の奥へと通じる一本道を進んでいた。
黒い|毛《け》皮《がわ》を|纏《まと》った|痩《そう》身《しん》の女性……『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角|闇《やみ》の|雫《しずく》<`ェルノボーグである。彼女がモレクに割り振られた役割は、『ラビリントス』に取り込まれた『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』の制圧だった。
戦術上の常識として、乗り込んできたのがあの二人だけのわけがない。フレイムヘイズの別働隊を|満《まん》載《さい》して、|潜《せん》入《にゅう》する二人の|援《えん》護《ご》、および要塞の|制《せい》圧《あつ》行動を始めるに決まっていた。
決まっていた、はずなのだが。
(どういうことだ)
初めて足を踏み入れたチェルノボーグにも、この城砦の単純な構造は分かった。
球体の下半分は|偽《いつわ》りの大地たる|岩《がん》塊《かい》で、中心断面が平地。その周囲には堀が水をたたえており、水際には|塀《へい》が|聳《そび》えていた。もちろん、こんなものは|徒《ともがら》¢且閧ノは無意味な飾りである。その内側には、やたらと|凝《こ》った造形の、実戦的とは言えそうにない|城《じょう》郭《かく》が建てられていた。
(なんなのだ、この飾りだらけの城は……兵器庫は、武者|溜《だ》まりは、|罠《わな》は、どこにある?)
想像していた『移動城砦』のイメージと、目の当たりにした現物が違いすぎることに|戸《と》惑《まど》いながらも、彼女は城の奥へと音もなく進んでゆく。モレクが配した役割をおざなりにするつもりは、さらさらない。
(……?)
その彼女の前に、壁|一《いっ》杯《ぱい》を埋めるような、|無《む》駄《だ》に大きな扉が現れた。
(|目《もく》視《し》した限りでは、まだ城の|最《さい》奥《おう》部《ぶ》には届いていないはずだが)
|慎《しん》重《ちょう》に、自在法の発動や罠がないか調べながら、扉に手をかける。
大きさの割に音もなく、|滑《なめ》らかに扉は開いた。
(また、飾りか)
チェルノボーグはいい|加《か》減《げん》、|呆《あき》れた。
両脇に二列ずつ円柱を並べた、巨大な|五《ご》廊《ろう》式《しき》の|大《だい》伽《が》藍《らん》だった。柱を結ぶアーチから伸び上がる天井一面に、踊り狂う|炎《ほのお》を描いたフレスコ画が広がっている。より正確には、描かれている のは|炎《ほのお》ではなく、|徒《ともがら》≠ニフレイムヘイズの闘争なのだが、|生《あい》憎《にく》とチェルノボーグには芸術への理解も|関《かん》心《しん》もない。任務の障害になるかどうか、それだけが彼女にとっての関心事項だった。
立ち並ぶ柱の間に敵の仕掛けがないか、探りながら進むが、やはり何もない。ところどころ|彫《ちょう》像《ぞう》が置かれているものの、その中にフレイムヘイズが|潜《ひそ》んでいるわけでもない。
彼女の内にようやく、拍子|抜《ぬ》け以上の疑念が|湧《わ》いてくる。
(まさか、本当にあの二人だけだったのか?)
意気込みだけで飛び込んでくるような|無《む》謀《ぼう》さと、あの[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|怨《おん》敵《てき》たちは、もっとも|縁《えん》遠《どお》いものであるはずだった。彼女も実際、何度か戦って分かっている。彼女らが絡んでいながら、こんな状態であるということは、何らかの|謀《はかりごと》が潜んでいるに違いなかった。
(それを確かめねば)
ここに自分を送り込んだ|宰《さい》相《しょう》モレクの指示は、やはり的確だった。そのことに満足感を覚えながら、しかし表情行動とも冷静そのものに、チェルノボーグは『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』の中を進む。
やがて彼女は、炎の|大《だい》伽《が》藍《らん》の終着点に到達した。
|壁《かべ》一面を占めるような、|豪《ごう》華《か》な|祭《さい》壇《だん》が|据《す》えてある。
|妙《みょう》な話だ、とまたチェルノボーグは思った。
この移動|城《じょう》砦《さい》を建造したのは、|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》<Kヴィダという|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ナある。彼は|道《どう》楽《らく》同然に、城砦や|居《きょ》館《かん》、武器から道具まで、数々の|宝《ほう》具《ぐ》を作りあげた存在だった。そんな彼の技術の|集《しゅう》大《たい》成《せい》とも呼ばれるこの宝具に、なぜ|虚《きょ》構《こう》概《がい》念《ねん》にすがるための道具が据えてあるのか。
(そういえば|痩《や》せ牛が、この|造《ぞう》営《えい》には人間も携わった、と言っていたな)
思いつつ、彼女はさらなる奥、必ずあるはずの侵入路を探す。
祭壇を乱暴に大きな|鈎《かぎ》爪《づめ》で引っ|掻《か》き回すこと数秒、そのスイッチはあっさり見つかった。わざわざ|重石《おもし》と歯車による機械仕掛けで作ってある。
(なぜ|自《じ》在《ざい》法《ほう》を使わないのだ?)
と|徒《ともがら》≠ニして|不《ふ》審《しん》に思いつつ、その構造の端、祭壇に連結されたパイプオルガンの取っ手に|偽《ぎ》装《そう》されたレバーを押し込む。
どこかで掛け金が外れ、重石を絡めたシャフトが回り、歯車に連動してゆく。複雑な仕掛けの結果として、高くも薄かった祭壇が、横へとずれてゆく。その現れた壁面に、今までの様式からすれば|粗《そ》末《まつ》な、ただの穴のような入り口が現れた。
チェルノボーグが中を|窺《うかが》うと、装飾のほとんどない、|空《くう》洞《どう》に近い空間が奥に広がっている。
(近いな)
ようやく奥の奥、本当の|中《ちゅう》枢《すう》、おそらく|同《どう》胞《ほう》殺しどもが|罠《わな》とともに多数潜んでいるだろう場所に|辿《たど》り着ける。そのことに自分の使命|完《かん》遂《すい》への期待と、モレクのくれた仕事を|十《じゅう》全《ぜん》に果たせる喜びが湧く。もちろん同時に、その完遂に向けて気を引き締めてもいる。
音と気配を極力殺して、その|妙《みょう》な空間に踏み込むと、すぐに布でぐるぐる巻きにされた何かに行き当たった。目を|凝《こ》らせば、さして広くもない空間に、同様の|布《ぬの》包《づつ》みが林立している。|慎《しん》重《ちょう》に中を|窺《うかが》うと、単なる石像である。他もどうやら同じ、|梱《こん》包《ぽう》された|彫《ちょう》像《ぞう》の群れらしかった。
(ガヴィダの|道《どう》楽《らく》か……石を|削《けず》ってなにが楽しいのだ)
などと、身も|蓋《ふた》もないことを思いながら、ようやくの、本当にようやくの、最後の出口に彼女は|辿《たど》り着いた。
布に包まれた彫像の森の奥に、|炎《ほのお》の明かりが見える。が、
(なんだと?)
チェルノボーグは、これまでで最も大きな疑念を抱いた。
(どういうことだ?)
奥に|潜《ひそ》む大きな気配は、|同《どう》胞《ほう》殺しの王≠スちのものであると思っていた。しかし、
(あの炎の色は――)
|大《だい》理《り》石《せき》のような、とよく例えられた、淡い|乳《にゅう》白《はく》色《しょく》の光。
彼女の知る限り、その色は他でもない、
(――|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》<Kヴィダのものだ)
わけが分からない。
彼女を含む誰もが、ガヴィダは当然、あの二人の|討《う》ち手に|討《とう》滅《めつ》されたものとばかり思っていた。当然である。|隠《いん》居《きょ》したとはいえ、仮にも|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ、討ち手の命ずるまま、自分の建造した|城《じょう》砦《さい》を|砲《ほう》弾《だん》としてぶつけるような|暴《ぼう》挙《きょ》に及ぶわけもない。その、はずなのだが。
|怪《け》訝《げん》に思う間も|僅《わず》か、彼女はその光を発する入り口に到達した。
城砦の|最《さい》奥《おう》たる場所は、先の|伽《が》藍《らん》と違い、どんな宗教色もない空間だった。
天井は石造りのドーム、|同《どう》心《しん》円《えん》上に配された二重の柱列、中央に向かって落ち|窪《くぼ》んでいく石段……その最深部、部屋の中央に当たる場所に、|噂《うわさ》に聞く、存在の力≠|消《しょう》耗《もう》せずこの世に留まることができるという|自《じ》縛《ばく》の|水《すい》盤《ばん》『カイナ』が見える。
そしてその上、光源たる大きな乳白色の炎の中に、|柄《え》の長い|大《おお》金《かな》槌《づち》を肩に立てかけた六本腕の|板《ばん》金《きん》鎧《よろい》が、詰まらなさそうに|胡坐《あぐら》をかいて座っていた。
「おう、やっぱり|手前《てめえ》が来たか、|闇《やみ》の|雫《しずく》=v
がらっぱちな、|老《ろう》境《きょう》にある男の声が、鎧の中からではなく、鎧自体から|響《ひび》いた。
「……」
チェルノボーグは、|俄《にわ》かには信じがたい状況に混乱した。
本当に、いた。
この板金鎧の姿をした|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ、|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》<Kヴィダである。
彼女の疑念を察して、
「驚いたか。ま、無理もねえ」
とガヴィダは自分から、ない口を開いた。
「俺だって一週間前にゃ、こんなことに自分が巻き込まれるたあ|欠片《かけら》も思ってなかったさ」
その声を受けて、チェルノボーグは、
「なにを、しているのだ」
あまりに根本的な問いを発していた。
「へっ、また難しいことを|訊《き》くもんだ。そうさな……」
ガヴィダは腕の一組を腕組みし、二本で重たげな|大《おお》金《かな》槌《づち》を|玩《もてあそ》び、一本で体を後ろ手に支え、最後の一本で|板《ばん》金《きん》の|面《めん》覆《おお》い、その|顎《あご》を|掻《か》いた。
「……あいつらに|言《こと》伝《づて》を頼んだ、その|駄《だ》賃《ちん》としてここまで運んでやった、ってとこか」
もちろん、チェルノボーグには意味が分からない。
とにかく情報を得ようと、更なる質問をぶつける。
「誰から、誰への、言伝だ」
掻いていた指をぴたりと止め、ガヴィダは表情のない面覆いを宙に向けた。
「俺の友達の純情な|爺《じじ》いから、俺の友達のいじけた|小《こ》娘《むすめ》への……かな」
[#改ページ]
3 迷路
グニャグニャと|蛇《だ》行《こう》し、天井といわず床といわず|幾《いく》又《また》も分かれ道を見せる|迷《めい》宮《きゅう》の奥。長く幅の広い階段が、途中から下側へとお|辞《じ》儀《ぎ》するように折れ曲がり、また|凹《おう》凸《とつ》に波打っている。
これら、自分の目を疑い、正気を侵食されそうな光景の中で、|紅《ぐ》蓮《れん》に燃える|軍《ぐん》勢《ぜい》と、それを前後から|襲《おそ》う怪物らによる、|地《じ》獄《ごく》もかくやという|奇《き》怪《かい》な|激《げき》闘《とう》が繰り広げられていた。
階段が下に[#「下に」に傍点]折れ曲がる角、紅蓮の軍勢の最前列で|炎《ほのお》の|大《たい》剣《けん》を振るっているのは、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメールである。灼眼を強く|煌《さらめ》かし、炎髪を|艶《あで》やかに|靡《なび》かせる、その姿は、|見《み》目《め》も行為も|咆《ほ》え|猛《たけ》る声さえ、危険な|眩《まぶ》しさに満ちている。
「はぃやっ!」
炎の大剣が、人間大の|蝙蝠《こうもり》を|脳《のう》天《てん》から|股《また》下《した》まで、一気に切り下げる。その裂けた間から、後ろにいた|人《じん》頭《とう》蛇《じゃ》身《しん》が|牙《きば》を|剥《む》いて飛び込んでくる。
「おっと」
ドン、と開いた大口に、マティルダは|剣《けん》尖《せん》を|無《む》造《ぞう》作《さ》に突っ込み、
「っだ!」
気合|一《いっ》閃《せん》、長い|蛇《じゃ》身《しん》の|尻尾《しっぽ》まで|爆《ばく》破《は》した。
|溢《あふ》れる|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》を踏み越えて、さらに|蝋《ろう》人形のように真っ白な三つ首の女が、|有《ゆう》翼《よく》の|鼠《ねすみ》が、顔に草花を|生《は》やした男が、|獅《し》子《し》頭《がしら》の|蜘妹《くも》が、次々と飛び掛かってくる。
「|矛槍《ハルベルト》!」
鋭く叫ぶと、その両脇から紅蓮の|槍《やり》衾《ぶすま》が飛び出し、まとめてこれらを|串《くし》刺《ざ》しにする。
その間に一歩、マティルダは踏み出す。この繰り返しで彼女らは一歩一歩、戦いながら|迷《めい》宮《きゅう》を進んでいた。もはや|徒《ともがら》≠|幾《いく》十|斬《き》り倒したかも分からない。|要《よう》塞《さい》内の守備兵として残された|徒《ともがら》≠フ数は、やはり相当に多いらしかった。
九十度下に折れ曲がった階段を角から見下ろせば、それが目で分かる。暗い中にまだ数十もの|徒《ともがら》≠フ炎、あるいは戦意にギラギラ燃える瞳が続いていた。まるで|地《じ》獄《ごく》への下り坂である。
(ま、似たようなもんか)
マティルダは思うと、その群れの中へと先頭切って飛び込む。群がる|徒《ともがら》≠スちを引き付けてから軽く身を|屈《かが》め、
「いよっ、と!」
右手の|盾《たて》を大きくして、攻撃を一身に受け止める。その下から、
「|突《とつ》撃《げき》!」
階段の角で攻撃|態《たい》勢《せい》を整えていた紅蓮の|軍《ぐん》勢《ぜい》、彼女の|討《う》ち手としての力の|顕《けん》現《げん》である『|騎《ナ》士《イ》団《ツ》』へと|号《ごう》令《れい》する。|矛槍《ハルベルト》を並べた突進が始まり、主の周囲にあった|徒《ともがら》≠|一《いっ》掃《そう》する。
と、|矛槍《ハルベルト》に打ち払われた|大《おお》犬《いぬ》の姿をした|徒《ともがら》≠ェ一人、大きく|蝙蝠《こうもり》の|翼《つばさ》を羽ばたかせて舞い上がった。眼下で押しに押す『|騎士団《ナイツ》』、それを|率《ひき》いる女に向けて、炎を吹きかけ――ようとした口をリボンでぐるぐる巻きにされた。|顕《けん》現《げん》する場所を誤った炎が破裂し、頭が吹っ飛ぶ。
そのリボンは、ご|丁《てい》寧《ねい》に残った体も、まるでミイラのようにぐるぐる巻きにして、その内で|焼《しょう》却《きゃく》処理する。一瞬|膨《ふく》れて|解《ほど》けた後には、桜色の|火《ひ》の|粉《こ》が散るのみで、灰も残らない。
「お見事」
鮮やかな手並みに|感《かん》嘆《たん》するマティルダに、その右後方から、
「|暇《ひま》潰《つぶ》し程度でありますな」
「前進」
言葉は|素《そ》っ|気《け》無く、内心は焦りに焦って、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメル、|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーの二人が答える。
その彼女らの真横、階段|脇《わき》の壁が突然下にずれ落ちて、巨大な扉が出現した。壁の仕掛けではない。壁の石は一インチたりと動いていない。この迷宮、『ラビリントス』を|構《こう》築《ちく》する|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nが、空間を|操《あやつ》って別の場所と連結したのである。
また|唐《とう》突《とつ》に、現れた扉を砕いて、石造りの巨人が彼女らに向けて|拳《こぶし》を振り落としてくる。
と、向かってくる|拳《こぶし》の先、|捻《ひね》られた腰、踏み出した足の三箇所を、それぞれヴィルヘルミナのリボンが軽く払った。鳴ったのはせいぜいが軽い、パン、という音。
|途《と》端《たん》、それが当然の流れであるかように、自分で勢いをつけながら、巨人は|仰《あお》向《む》けに|大《だい》転倒する。多数の|徒《ともがら》≠下敷きに、階段を砕く|轟《ごう》音《おん》を立てて、ゴロゴロと。
|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》の|誉《ほま》れを取る『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』、|真《しん》骨《こっ》頂《ちょう》たる光景だった。
マティルダはもう一度言う。
「お見事」
「|暇《ひま》潰《つぶ》し程度でありますな」
「前進」
ヴィルヘルミナとティアマトーも、もう一度同じ言葉で答えた。
彼女らの焦りが、マティルダにも伝わってくる。やはりモレクは、まず彼女らに|雑《ぞう》兵《ひょう》を|宛《あて》がい、力を|消《しょう》耗《もう》させてから、『両翼』にぶつける|腹《はら》積《づ》もりであるらしい。
(さすが、暴れ者|揃《ぞろ》いの『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』を束ねてきた|宰《さい》相《しょう》ね……処置にそつがないわ)
マティルダは|心《しん》中《ちゅう》で賞賛する。|要《よう》塞《さい》守備兵の|全《ぜん》滅《めつ》まで消耗戦を続けさせられたら、そこに『両翼』をぶつけられたら、勝ち目はない。でなくとも、この足止めに最適な|自《じ》在《ざい》法《ほう》によって、
(中に閉じ込められたまま、時間切れを狙われたら終わりだ)
|慎《しん》重《ちょう》居《こ》士《じ》として知られるモレクなら当然、 採り得る選択だった。 |討《う》ち死に相次ぐ『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』を、これ以上危険な目に|遭《あ》わせたくもないだろう。事態を動かすため決定的な戦局を求める彼女らにとって、モレクという|賢《けん》者《じゃ》は、あるいは『両翼』以上に戦いにくい相手だった。
(早く|埒《らち》を明けて、アシズのところに|辿《たど》り着かないと……ゾフィーたちも、私たちを信頬してこの作戦に命を賭けているんだから)
彼女らフレイムヘイズ兵団の作戦目標は、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの|暴《ほう》挙《きょ》、狂っているとしか思えないその|企《き》図《と》を|阻《そ》止《し》し、永遠にその実現をなからしめることである。|討《とう》滅《めつ》は、その結果に当然|付《ふ》随《ずい》するものではあったが、主眼はあくまで企図実現を|挫《くじ》くことの方にあった。
実現の瞬間、アシズの討滅に、大局的な意味はなくなる。
『試みを実現できた』という事実が、この世の全てを変えてしまう。
その後に残るのは、アシズに続かんと|徒《ともがら》≠スちが|狂《きょう》奔《ほん》する、恐怖の時代である。
大半の|徒《ともがら》≠ヘ、欲望への歯止めを持たない。必ずや、同様の実現を目指す者が現れる。アシズの持つ|卓《たく》抜《ばつ》した自在法の手腕、実現に必要な大量の存在の力≠ネど、実際に同じことをするための方法を知らない者たちによる無意味な|乱《らん》行《ぎょう》、その熱狂が過ぎた後に行われる|模《も》索《さく》等の段階を|潜《くぐ》り抜ける頃には、人類社会は|崩《ほう》壊《かい》し、この世のバランスは、もはや|調《ちょう》律《りつ》程度では取り返しのつかないほどに乱れてしまっているだろう。
しかも、その中で|徒《ともがら》%ッ士の|衝《しょう》 突《とつ》が無数に起きる――絶対に。 これまでの、フレイムヘイズと|徒《ともがら》≠フ戦いだけでは済まない、より|凄《せい》惨《さん》な動乱の世界が始まる。始まってしまう。
最初の実現を、決して|成《じょう》就《じゅ》させてはならない。|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズは、『|愚《おろ》かしい望みを抱き、やはり当然[#「やはり当然」に傍点]、失敗した王=xとして|葬《ほうむ》られねばならなかった。
もちろん、戦っているフレイムヘイズらにとっては、|阻《そ》止《し》の|成《せい》否《ひ》は勝敗どころではなく、生死にも直結している。もしアシズの|企《き》図《と》が成就してしまったら、自身強大な王≠スる彼も自由になるからである。そうなれば、
(|討《う》ち手たちの士気は、持たないだろうな……十八年前の『|都《みやこ》喰《く》らい』の戦いと同じ、アシズ自身の|出《しゅつ》陣《じん》と、残った『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の|総《そう》反撃で兵団は|崩《はう》壊《かい》、敗北するだろう)
マティルダにとっても|他人《ひと》事《ごと》ではない。『両翼』に加えてアシズとまで戦うとなれば、勝算など|欠片《かけら》もなくなる。もっとも彼女は、自分が死力を尽くすことは当然なのだから、気構えは特に変わらない、そのときはそのとき、と考えているのだが。
(敗北、ねえ)
|大《たい》剣《けん》を振るいながら、想像できないその情景、メリヒムの望みを思い、
(――「俺と、剣の向きを|揃《そろ》えてくれ」――)
寒気を覚える。
(やだやだ、|冗《じょう》談《だん》じゃない)
メリヒム自身が(それほど)嫌いなわけではない。確かに|討《とう》滅《めつ》すべき|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ナあり、鼻持ちならない|増《ぞう》上《じょう》慢《まん》であり、 やることなすこと|気《き》障《ざ》な|格《かつ》好《こう》付けであり、 人の顔を見る度に愛愛愛愛と暑苦しい言葉を吐き連ねてくる男だが、自分に|夢《む》中《ちゅう》になってくれている、という事実は、それだけで素朴な好意を抱く理由になる。
(なかなかのハンサムでもあるしね)
しかし、それらの全てを|措《お》いて、なによりもマティルダ・サントメールという人間は、自分が他人に好きにされることに|我《が》慢《まん》ならない|性《しょう》分《ぶん》の持ち主なのだった。支配や強制を拒否する、以上に、そこ[#「そこ」に傍点]では生きていけない、とすら感じてしまう、独立は彼女の精神の|根《こん》幹《かん》だった。
彼女がフレイムヘイズとしての生に充実を感じるのは、まさにこの根幹が、討ち手という存在に|合《がっ》致《ち》していたからである。命を|賭《か》けるに値する使命、討つべき強大な敵、信頼できる仲間たち……そして、戦える力。全て、彼女が|一《いっ》旦《たん》の最期を迎えた際に奪われたものだった。
彼女は、道程が|熾《し》烈《れつ》であることを恐れたりはしなかった。
歩く道がないこと、歩く足を失うことだけを恐れていた。
全てが、人として迎えた|空《くう》虚《きょ》な最期への|復《ふく》讐《しゅう》でもあった。
なにより|辛《つら》い、一度の|挫《ざ》折《せつ》を味わったがために、今の彼女は屈しない。強制には反発し、のみならず戦いを|挑《いど》む。愛を|捧《ささ》げる相手としては、全く不向きな女性だった。
彼女は、他人のための恋愛をしない。尊敬に値する志を黙々と行動で示す姿、今の自分をそのままに受け入れてくれる者を、自分から愛し、道を共にするのである。そんな彼女の|眼《め》に|適《かな》った男は、|放《ほう》浪《ろう》した数百年で結局、一人だけしかいなかった。
その事実は彼女にとって、自分を幸せだと確信できる、最後のダメ押しとなった。
一人の男というのが他でもない、彼女と契約し、ともにフレイムヘイズとしての使命を果たす|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔《ま》神《じん》……|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールだったからである。
しかも、その幸せの|余《よ》禄《ろく》として、彼の方まで彼女を理解し、愛してくれた。これは本当に予期すらしなかった、どうしようもなく|嬉《うれ》しい、|在《あ》り|得《え》ないほどの幸せだった。
(大丈夫)
そのアラストールは、今度の戦いでは、常にも増して言葉少なである。彼女らの目指す計画の終着点、彼自身が示した一つの終末に思いを致しているためなのは分かりきっていた。
(大丈夫よ、アラストール)
マティルダは、そんな彼を、心から|愛《いと》しく思っていた。自分の生きる姿[#「生きる姿」に傍点]を、本当に理解してくれる男に出会える女が、この世にどれほどいるだろう――そう、|自惚《うぬぼ》れることができる。
(私は、私のために許してくれた|貴方《あなた》のために、ちゃんとやるから)
アラストールは、マティルダを愛している。愛して、しかし彼女を失う選択|肢《し》を、|己《おのれ》に課したる使命のために提示した。迫る危機に打開策を求めていた彼女に、絶対にそれを選ぶと分かっていて、彼女はそうでなくては生きていけない[#「生きていけない」に傍点]、と誰よりも深く理解していたがために。
(そう、それが――)
実際に、お互い『愛している』と口にしたことは、一度もない。マティルダは言葉で念押しするのがあまり好きではなかったし、アラストールは元来が無口な上に大変な|堅《かた》物《ぶつ》である。
ただ、彼がたった一度、口にした言葉があった。
マティルダは、その大切な言葉を、胸に熱く抱く。
(――「心を結び合わせる」――ってことでしょう?)
ここに一緒にいられる、戦っている。
力を振り|絞《しぼ》り、生き抜くために。
その道が、また一つ|拓《ひら》ける。
前に、そう、ただ前に。
「はあっ!!」
|捩《ねじ》れた|角《つの》を|生《は》やした|怪《かい》鳥《ちょう》が、刺さった|紅《ぐ》蓮《れん》の|大《たい》剣《けん》の|炎《ほのお》によって|爆《ばく》砕《さい》された。
その先の|陣《じん》容《よう》が薄いのを見て取り、マティルダは|咆《ほ》える。
「|騎《き》乗《じょう》!!」
紅蓮の『|騎士団《ナイツ》』総員が、足元から|湧《わ》き上がった炎の|軍《ぐん》馬《ば》に|跨《またが》った。
マティルダも足下に現れた馬を|竿《さお》立《だ》てる。大剣を|矛槍《ハルベルト》に変えて、再び|咆《ほう》哮《こう》、
「|蹴《け》散《ち》らせぇ!!」
石段の上という地勢の不利を踏み砕くような|突《とつ》撃《げき》が始まった。|徒《ともがら》≠スちを|馬《ば》蹄《てい》に敷き、|穂《ほ》|先《さき》にかけ、突き抜けるのではなく、丸ごと踏み|潰《つぶ》すように、『|騎士団《ナイツ》』は|驀《ばく》進《しん》する。
やはり先頭にあるマティルダは、浮かぶヴィルヘルミナを|凧《たこ》のように右後方に引いて、どこまでも前に、どこまでも前に、|疾《しっ》駆《く》する。|頬《ほお》をかする敵の爪に血の一滴を|捧《ささ》げて、笑う。
素晴らしい、なんという道。
|不《ふ》思《し》議《ぎ》な対面が、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』|最《さい》奥《おう》部で続いている。
部屋の入り口から動かない|闇《やみ》の|雫《しずく》<`ェルノボーグは、中央にある銀の|水《すい》盤《ばん》を、その上に燃える|乳《にゅう》白《はく》色《しょく》の|炎《ほのお》の中で|胡坐《あぐら》をかく|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》<Kヴィダを、見つめる。
さっきから彼がなにを言っているのか、彼女には全く分からなかった。敵意を感じなかったため、仕掛ける間を失ってしまい、なんとも|中《ちゅう》途《と》半《はん》端《ぱ》な心持である。もし相手が、本来想定していた|同《どう》胞《ほう》殺しの道具どもであったのならば、|躊《ちゅう》躇《ちょ》なく|襲《おそ》い掛かっていたのだが。
炎の中で、|大《おお》金《かな》槌《づち》を肩にかけた六本腕の|板《ばん》金《きん》鎧《よろい》・ガヴィダが|頬《ほお》杖《づえ》をついた。
「分からねえか……だろうな、ああ。分からねえ方が、|都《つ》合《ごう》もいいってもんだがよ」
その、勝手に|納《なっ》得《とく》するがらっぱちな声に、チェルノボーグは状況の断片を得る。
(都合が、いい?)
やはり彼は、フレイムヘイズどもによる、なんらかの意を受けて動いているようだった。思えば当然、 あの『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』や 『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』らとともにブロッケン|要《よう》塞《さい》に|突《とつ》撃《げき》をかけてきたのである。|釈《しゃく》明《めい》無用、十分な敵対行動といえた。
事態の|大《おお》本《もと》をようやく思い出したチェルノボーグは、鋭く|尋《じん》問《もん》する。
「乗っていたのは、|貴《き》様《さま》ら三人だけか」
彼女の気配に殺気の端を感じたガヴィダは、失態に|慨《がい》嘆《たん》する|格《かっ》好《こう》として、鉄の|面《めん》覆《おお》いを、ガシャン、と革張りの|掌《てのひら》で|叩《たた》いた。
「あちゃー、やっちまった……どうも俺は口が軽くていけねえな」
「……」
答えを求める|沈《ちん》黙《もく》に、鎧は六つある肩を全部落として|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》いた。
「あー、まあ、そんなとこだ」
言いつつ、|傍《かたわ》らで大金槌を|玩《もてあそ》び始める。その見た目にも重そうな物体を数本の腕で|自《じ》在《ざい》に扱う|仕《し》草《ぐさ》には、遊びと、他の何かが|籠《こも》っていた。
チェルノボーグも|呼《こ》応《おう》して、声の調子を重くしてゆく。
「ここにいることの意味は、分かっているな?」
床に垂れ下がっていた大きな右腕の先、|艶《つや》のない爪が、|僅《わず》かに握り込まれた。
「なぜ、同胞殺しの王≠ヌもに、手を貸した」
「そろそろ、生きるのを終わりにしていい|頃《ころ》合《あい》と思った、ってとこだな」
腕の間を軽々と渡っていた大金槌が、ぴたりと二つの腕によって確保される。すぐにでも立ち上がり、打ちかかってゆくことのできる体勢である。言葉の|不《ふ》穏《おん》さから|不《ふ》意《い》打《う》ちに備えるチェルノボーグに、しかしガヴィダは力の抜けた声で続けた。
「四日ほど前、|昔《むかし》世話してやった|綺《き》麗《れい》どころが二人、|雁《がん》首《くび》揃《そろ》えて訪ねて乗やがったんだ。で、おまえさんたち、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|企《たくら》みを聞かされたのさ」
「なら、なぜ我らの側につかない?」
チェルノボーグは、『|壮《そう》挙《きょ》』の正しさを疑わない。
そしてその姿をこそ、ガヴィダは馬鹿らしく思った。不意に、どっこいせ、と|大《おお》金《かな》槌《づち》を|杖《つえ》にして立ち上がり、金属のつま先で、自分の立つ銀の|水《すい》盤《ばん》をカン、と|叩《たた》いた。
「聞いてねえかい、この水盤のこと」
「……『カイナ』だろう」
|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》<Kヴィダの人間好きは、|徒《ともがら》≠フ間では有名だった。
|宝《ほう》具《ぐ》は主に存在の力≠|繰《く》る人間によって生み出されるが、たまに|徒《ともがら》≠ェその過程で助力する例も見られる。ガヴィダはその中でも突出した存在で、古くから『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』や『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』を始めとする数々の優れた宝具を、人間とともに生み出してきた。
彼が人間好きになった理由は単純|明《めい》快《かい》だった。この種族による『物質の加工と表現様式によって生じる付加|属《ぞく》性《せい》』、 つまり芸術に|惚《ほ》れ込んでいたのである。 彼はその|真《しん》髄《ずい》を極めようと|古《こ》今《こん》東《とう》西《ざい》、世界を渡り歩いて、様々な成果や|惨《さん》禍《か》を得てきた。
今、彼の立っている銀の水盤『カイナ』は、そんな彼の|辿《たど》り着いた一つの境地である。
この水盤に乗った|徒《ともがら》≠ヘ、いるだけなら存在の力≠消費しない。人間の友らと何かを作るために、その意見をぶつけ合う永の語らいを得るために、人間を喰らう存在という|邪《じゃ》魔《ま》な立場を捨てるために、彼が作り上げた特別な宝具なのだった。
「知ってんなら、俺が人間に害なす企みに反発するのも分かるだろう?」
そのガヴィダの決め付けに、チェルノボーグは|憤《ふん》激《げき》を覚えた。
「それは、違う」
が、ガヴィダはにべもない。断言で|即《そく》答《とう》する。
「違わねえな。オストローデで何人『|都《みやこ》喰《く》らい』に巻き込んだよ? 千、万か?」
「……」
チェルノボーグは反論の材料を持っていなかった。
元より、人間の存在を軽視するのが、|徒《ともがら》≠フ基本的な習性である。
(――|徒《ともがら》≠ニ人間、双方の|為《ため》に成す、時代を変革する、『壮挙』――)
と|謳《うた》ったアシズの|気《き》宇《う》壮《そう》大《だい》な志に、 彼女始め[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の総員は|心《しん》服《ぷく》していた。 その実行によって 人間側が|被《こうむ》る惨禍を無視し、 ただ|徒《ともがら》¢、における可能性の広がりのみを見ている。物理的に優越した種族が宿命として持つ、これは相手への|鈍《どん》感《かん》さと言えた。
彼女ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]に限らず、『|壮《そう》挙《きょ》』が|徒《ともがら》≠轤フ広い支持を受けたのは、中世末期が、人間に対する|幻《げん》滅《めつ》の時代だったからである。人間が、文明の発達と文化の洗練によって|徒《ともがら》≠ノ|憧《あこが》れを抱かせるようになるのは、まだ遥か遠い未来の話だった。
今、|異《い》種族たる|徒《ともがら》≠轤フ目に映っているものは、 君主と教会の権力闘争、 飽かず続く国家間の|諍《いさか》い、 |固《こ》陋《ろう》な因習に支配された日々等、昔となんら変わり映えのしない|泥《どろ》沼《ぬま》、 追い|討《う》ちをかける|諸《しょ》災害に |倫《りん》理《り》の|崩《ほう》壊《かい》、 という|厄《やく》難《なん》の|巷《ちまた》でしかない。 人間らしくなりすぎ、 近付きすぎた彼らは、 世に|凝《こご》る|閉《へい》塞《そく》感や|厭《えん》世《せい》気分に当てられていた。 そして、それを『飛び越えられる者』=|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》 として、『飛び越えられない者』=人間 を|軽《けい》蔑《べつ》し始めていたのだった。
ガヴィダは、|傍《ぼう》観《かん》する|隠《いん》者《じゃ》として、それらの意味や感情を全て理解していた。人間の愚かしさ素晴らしさ、|徒《ともがら》≠フ素直さ|傲《ごう》慢《まん》さ、全てを。だから彼は、はっきりと言う。
「どう飾り立てたところで、ありや|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》≠ェ、自分一人のためにやってることさ」
「主を……その捨て名で呼ぶな」
「おまえたち[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は、人間を|麦《むぎ》の|穂《ほ》程度にしか思ってねえ戦闘軍団だからな。そりゃあ、一方的に巻き込まれる側を無視して、景気のいい文句に酔えもするだろうさ」
|僅《わず》かな抗議を無視してガヴィダは言い切り、同時に、身を包んでいた|炎《ほのお》を消す。
部屋は|闇《やみ》に閉ざされたが、もちろん二人にはなんの支障もない。
その闇の奥、いつしかチェルノボーグの目が|据《す》わっている。相手の気に食わない立場を、言い分を、ゆるりと|弾《だん》劾《がい》する。
「では、|貴《き》様《きま》は|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ナありながら、まるで|同《どう》胞《ほう》殺しどものように、その道具どものように、人間を守るために来たと言うわけか」
「そこまで|背負《しょ》った気持ちじゃねえさ。最初に言っただろ。あのお二人さんに|言《こと》伝《づて》を頼んで、その|駄《だ》賃《らん》としてここまで運んでやった、ってな」
チェルノボーグは、その言伝について彼が口にした言葉を思い出す。
(――「俺の友達の純情な|爺《じじ》いから、俺の友達のいじけた|小《こ》娘《むすめ》への……」――)
さらに、『ラビリントス』発動の直前、『|首《しゅ》塔《とう》』の外で『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が叫んだ言葉を連想する。
(――「――ガヴィダからの言伝だ!! 『ドナートは私に言った!』――」――)
その伝言によって、これまでなにを語りかけても反応しなかった『|小夜啼鳥《ナハティガル》』の少女が目を開けた。ということは、ドナートとやらが「純情な爺い」か、と思い、そして、
(こいつらは、『|小夜啼鳥《ナハティガル》』を我々の知らない方向に動かす|鍵《かぎ》を握っている)
危険だった。|宝《ほう》具《ぐ》『|小夜啼鳥《ナハティガル》』は、『|壮《そう》挙《きょ》』実現の|要《かなめ》である。それを予期せぬ行為に誘う要因は、なんであれ排除せねばならない。
チェルノボーグは|闇《やみ》の中、右の|巨《きょ》腕《わん》の爪を開いて、部屋の内に一歩、音もなく進み出る。
「|貴《き》様《さま》を生かしておいては、まずいようだ」
ガヴィダも、|大《おお》金《かな》槌《づら》を軽々と、六本の腕で|器《き》用《よう》に、クルクルと振り回し始めた。
「やっぱりそうか。ああ、そうだろうな」
青い|炎《ほのお》は、揺ぎなく鮮やかに、『|首《しゅ》塔《とう》』の|頂《いただき》、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の間を照らし続けている。『ラビリントス』に包まれても、この部屋は風景を変えていない。
|時《とき》折《おり》、|一人《ひとり》天秤の上に残された|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリが、
「あなたの素晴らしい力」「|寛《かん》容《よう》、大いなる知恵が」「あなたの内を満たしている」
などとわけの分からない言葉の断片を|喚《わめ》く以外、あたりは|静《せい》寂《じゃく》に満ちている。
アシズは無言で、自らの|化《け》身《しん》たる青い炎を、上に浮かぶ|鳥《とり》籠《かご》に注いでいる。
自らを閉じ込める籠と合わせて『|小夜啼鳥《ナハティガル》』と呼ばれる少女は、力なく座ったまま。その|俯《うつむ》けた|虚《うつ》ろな顔の端まで、アシズによる支配の|証《あかし》たる|紋《もん》様《よう》が|這《は》い上がっていた。
もうほんの|僅《わす》かで、彼女に課せられた作業……とある|自《じ》在《ざい》式《しき》の起動が、始まる。
しかし彼女は常のように、自分を使う者の意志など無視する。
どうせこの鳥籠の力で自分を好きに使うのだから、放っておいでも、なにもかも勝手に進んでいく……そんな、数十年来の無気力と|諦《てい》観《かん》の|泥《でい》中《ちゅう》に沈んでいた。
ただ、
その泥の中で、数十年ぶりに聞いた二つの名前が、彼女の|瞼《まぶた》を開けさせていた。
まるで、光を探すように。
(……ガヴィダ……?)
この世に渡り来たばかりの自分に、いろんな常識を教えてくれた世話焼きな|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フことを、思う。|宝《ほう》具《ぐ》に新しい力を付け加えてあげたときの、怒ったり驚いたり|悔《くや》しがったりする鉄の|面《めん》覆《おお》いを、思う。自分の危険さを|親《しん》身《み》になって|警《けい》告《こく》してくれた彼のことを、思う。遊ぶのに|夢《む》中《ちゅう》で、彼の元を飛び出した日のことを、思う。
(……ドナート……?)
自分が自由自在に飛びまわることのできた最後の時期、ロンバルディアの|片《かた》田舎《いなか》で出会った一人の、芸術家を目指していた青年を、思う。自分のことを|魔《ま》法《ほう》使いだと信じ、|更《こう》生《せい》させようと必死に神の教えを説いていた青年を、思う。そのくせ、自分の自在|法《ほう》を見る度に目を輝かせ『素晴らしい』と感激していた青年を、思う。ずっと、馬鹿なことで笑い合い、馬鹿なことで|喧《けん》嘩《か》していける、と信じていた青年を、思う。
(……ドナートからの、|言《こと》伝《づて》……?)
自分の自在法が、人を喰らうことで起こされていたと知って、本気で怒り、心から泣いた青年のことを、思う。人を喰らうという行為、なんの疑いも持たず、それが当然と思っていた行為を、彼の全てで否定された日のことを、思う。そんな彼が怖くて、彼をそこまで怒らせ悲しませた自分が怖くて、全てから逃げ出した日のことを、思う。一つの、大したことではない、しかしとても|嬉《うれ》しい約束が、永遠に果たされることがなくなった日のことを、思う。
(……ドナート、あれからどれくらい、|経《た》った……?)
あの後すぐ、|茫《ぼう》然《ぜん》自《じ》失《しつ》の自分を一人の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニ協力者らが捕らえ、この|鳥《とり》籠《かご》に閉じ込めた日のことを、思う。そこから日時を数えるのを止めてしまった自分の|怠《たい》惰《だ》を、思う。
(……ドナートから、私に……?)
彼が、自分になにを伝えようとしたのか、知りたかった。
しかし、怖くもあった。もし、それが否定の言葉だったら。
どうして今になって、しかも他の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ネどの|言《こと》伝《づて》で。
自分の知らない彼からの言葉を聞きたくて、聞きたくなかった。
(……ドナート……)
彼女は、しかし、やはり、動かない。
その顔の|端《はし》から、|紋《もん》様《よう》が這い上がる。
ブロッケン山を抱えて|蹲《うずくま》る|巨《きょ》牛《ぎゅう》『ラビリントス』に|化《け》身《しん》した|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nは、遠く戦場で|奮《ふん》闘《とう》する同志たちを見つめている。常は戦場に出ない彼だが、戦いには|素人《しろうと》ではない。
(ソカル殿やニヌルタ殿には、よく『|机《き》上《じょう》の|空《くう》論《ろん》だ』と笑われましたね……)
粘り強く説得すれば、最後にはいつも自分の意見を受け入れてくれた(従った、という考え方を彼はしない)二人、今はない戦友たちのことを|偲《しの》ぶ。
彼は、その手の会議における周囲の同意を、自分の|至《し》誠《せい》が通じたためと思っている。実際は彼の主張する、その『机上の空論』が、結局のところ一番正しいからなのだが、当人は気付いていない。落ち着きがなく|臆《おく》病《びょう》、という見せ掛けではない[#「見せ掛けではない」に傍点]彼の一面は、常時危機に|配《はい》慮《りょ》し|慎《しん》重《ちょう》、という別の一面の裏側でもあるのだった。
(ウルリクムミ殿は、中央軍を前進させることで|敵《てき》勢《ぜい》の|連《れん》携《けい》を崩すおつもりですね……[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の|後《こう》衛《えい》に喰らいついた|連《れん》中《ちゅう》を、そのまま|追《つい》撃《げき》の方面に押し出すとは、さすがです)
今も、自覚と|貫《かん》禄《ろく》のない|賢《けん》者《じゃ》は、山の上から戦場を見渡して、同志の身の安全を願う。
(主が『|壮《そう》挙《きょ》』を実現させるまで、なんとか持ちこたえてください)
|宰《さい》相《しょう》モレクは、ガヴィダの言ったようなこと、全てを|承《しょう》知《ら》している。承知して、しかし良心の|呵《か》責《しゃく》は|欠片《かけら》も感じていなかった。心優しくも頭脳|明《めい》晰《せき》な彼は、人間のことを『自分たちと同じ精神を持っているが、決定的に弱い種族』と規定していた。彼の優しさは|同《どう》胞《ほう》のみに向けられるものであって、ガヴィダ言うところの『|麦《むぎ》の|穂《ほ》』は適用外なのだった。
そんな彼だからこそ、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|宰《さい》相《しょう》が務まったのであり、また『|壮《そう》挙《きょ》』についても、『|同《どう》胞《ほう》にとって意義ある行い』と|惑《まど》うことなく|捉《とら》え、|遂《すい》行《こう》に|尽《じん》力《りょく》していた。
(我が一つの明確な指針を築き、同朋たちに示す)
彼は、延々|湧《わ》いて出る『毒を持った突然|変《へん》異《い》の|麦《むぎ》の|穂《ほ》』フレイムヘイズらとの戦いを|根《こん》幹《かん》から断つには、戦いを意味なからしめること、つまり『壮挙』の意義を|推《お》し立てて、この世に全く新しい秩序を作り出すことだ、と考えていた。
(『壮挙』の成果を実際に見れば、|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノある同朋たちも、新たな可能性の大きさに気づくでしょう……そのとき、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は新世界を再編する一つの機関となる)
実は、強気と|大《たい》義《ぎ》名分の影に|不《ふ》分《ぶん》明《めい》な気持ちを隠していたチェルノボーグではなく、|臆《おく》病《びょう》ながら明確に|徒《ともがら》≠ニしての立場を|堅《けん》持《じ》する彼だったなら、ガヴィダの人間寄りな主張を|容易《たやす》く|論《ろん》破《ぱ》できていたのである。彼は計画の実施者として、本当に本気なのだった。
(できれば生き残って、その一助をさせてもらいたいものですが、相手が相手です……そう簡単にはいかないでしょう……もしもの事があっても、私程度なら探せば|幾《いく》らでもいるでしょうし)
これは|卑《ひ》下《げ》や|謙《けん》遜《そん》ではない。思想や頭脳において指針を示す者なら、自分がいなくてもアシズがいる、と心底から思っているのである。
(しかし、これからさらに続く、新秩序に向かう戦いのために、強者は絶対に必要……)
ゆえに、 彼は『両翼』を|己《おの》が内に|隔《かく》離《り》し、 今|消《しょう》耗《もう》させている二人のフレイムヘイズへの手出しをさせないよう、|温《おん》存《ぞん》しているのだった。|疲《ひ》弊《へい》した彼女らを倒し、あの最悪の敵を味方に付けられれば(あるいはメリヒム個人の持ち物として|幽《ゆう》閉《へい》でもできるのなら)、もはや[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の、フレイムヘイズに対する有利は動かない。
(そのために、もう少しだけ|我《が》慢《まん》してください)
意中の女性と引き離され、また自身が閉じ込められたと知ったメリヒムは、『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』を|一《いち》撃《げき》放って『ラビリントス』をぶち抜いていた。さすがに二度目は放たず、イルヤンカとともに|大人《おとな》しく待機している。彼は|癇《かん》癪《しゃく》持《も》ちではあったが、|聡《そう》明《めい》でもある。この作戦の意味こそが、主の『壮挙』実現への|最《さい》短《たん》距離であると理解しているのだろう。
(『ラビリントス』が、内部を気配や存在以上に細かく捉えられない|自《じ》在《ざい》法《ほう》で良かった)
とモレクは|苦《く》笑《しょう》混じりに|安《あん》堵《ど》する。もし中を見たり聞いたりできていたら、あの|虹《にじ》の翼《つぱさ》≠ェ自分を恐ろしい|形《ぎょう》相《そう》で|睨《にら》み付けてくる|様《さま》を観察せねばならないところである。
彼の『ラビリントス』は、物質を強化する自在法ではないから、破壊エネルギーには特別な抵抗力を持っていない。ただ、|一《いっ》旦《たん》破壊されても、それを再び『ラビリントスという形』に構成し直すため、損傷に意味はなくなるのだった。必要とあらばブロッケンの峰を幾らでも取り込んで|迷《めい》宮《きゅう》は無限に再建できるのである……彼の力の続く限りは。だから、メリヒムが暴れなかったのは、双方の消耗を抑えるという意味で、ありがたいことだった。
(しかし、彼女は一体なにをやっているのでしょう?)
その、最も|警《けい》戒《かい》していた『ラビリントス』の破壊という手段を、最も警戒していた敵が、一向に|敢《かん》行《こう》する気配のないことを、モレクは|奇《き》妙《みょう》に思っていた。
『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメール。 モレクが知る限りでは、|智《ち》勇《ゆう》力量、|技《ぎ》巧《こう》特性ともに最強のフレイムヘイズである。さすがは|紅《ぐ》世《ぜ》$^正の|魔《ま》神《じん》|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールが選んだだけのことはある、まさに全てを焼き払う|炎《ほのお》のような女戦士だった。
彼ら『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角に最初の穴を|空《あ》け、無敵と|謳《うた》われたメリヒムに|伍《ご》し、五日前にはその|災《さい》厄《やく》の王の偉大な力、 |燐《りん》子《ね》≠フ|軍《ぐん》勢《ぜい》『|空 軍《アエリア》』までも|覆《ふく》滅《めつ》した(あれさえ残っていれば、とモレクは何度、大戦の作戦|立《りつ》案《あん》段階において悔やんだかしれない)、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|怨《おん》敵《てき》。
その彼女が、一向に『ラビリントス』の破壊に動かない。
|徒《いたずら》に|迷《めい》宮《きゅう》の中を走り回っては、モレクの差し向ける|要《よう》塞《さい》守備兵の|徒《ともがら》≠轤ひたすら|蹴《け》散《ち》らすのみである。まるで|隣《となり》を走る時間と競争でもしているかのような|妄《もう》動《どう》ぶりだった。状況は切迫しているし、|思《し》索《さく》より行動を好む|質《たち》であることも知っているが、だとしても、
(彼女は、ここまで|愚《おろ》かではない)
これは、|苦《く》汁《じゅう》を|舐《な》め、また舐めさせた長年の敵同士だからこそ、感じられる|奇《き》妙《みょう》さだった。彼は、 内に取り込む二人による破壊と|己《おのれ》の『ラビリントス』再構成による|一大《だい》消《しょう》 耗《もう》戦《せん》があると予想していたのである。特にマティルダの力は|莫《ばく》大《だい》と言っていい。中に閉じ込めての時間|稼《かせ》ぎがやっと、いずれ自分が先に力尽き|斃《たお》れるだろう、後事を『両翼』に託そう、と考えていた。だからこそ、あれほどに|悲《ひ》壮《そう》な|覚《かく》悟《ご》で主に別れを告げたのである。
(おかげで、いつもよりきつくチェルノボーグ殿に怒られてしまいました……彼女はどういうわけか、私の|自《じ》在《ざい》法《ほう》を本当に|難《なん》攻《こう》不落と思っている|節《ふし》がありますから)
実際は、難攻不落ではないが、破壊するのは|一《ひと》苦労。手勢を抱え込んでいれば、並のフレイムヘイズなら百人だろうと|悠《ゆう》々《ゆう》持ちこたえる。そういう自在法である。
彼の|目《もく》算《さん》では、 今から『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が破壊を行うとしても、 相当な時を要するはずだった。ともに在る『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』も破壊が得意ではない、格闘における技巧で戦う討ち手である。彼の再構成を妨害できる自在|師《し》でもなかった。現状は、|甚《はなは》だ彼に有利である。
(そのチェルノボーグ殿も、|上手《うま》くやってくれているようですね)
ブロッケン要塞とともに『ラビリントス』に取り込んだ『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』は、さすが名高き|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》<Kヴィダの|宝《ほう》具《ぐ》。再構成や|干《かん》渉《しょう》はできず、また『|秘匿の聖室《クリュプタ》』に|阻《はば》まれて、内部の気配や存在を|窺《うかが》うこともできない。
しかし、当然|満《まん》載《さい》されていたはずのフレイムヘイズの別働隊は、一人として要塞内部に漏れ出てはこなかった。『ラビリントス』|構《こう》築《ちく》と同時にチェルノボーグを送り込んだ手当ては、まず成功と見て良いように思われた。
(非常時とはいえ、暗殺が|本《ほん》務《む》の彼女にこんなことをさせてしまいましたが……埋め合わせはいずれ、何らかの形で差し上げるとしましょう……たしか、色のある花が好きでしたか)
これからも、できるだけ今の状態を維持して時を稼ぎ、彼女らの|消《しょう》耗《もう》も極まった時点で『ラビリントス』を解除する。そこを『両翼』に攻撃してもらい、|宿《しゅく》敵《てき》たる二人を片付ける。次にチェルノボーグが戦っている『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』を制圧する。主に危害の及ぶ可能性を排除し次第、総軍を挙げて|裾《すそ》野《の》に|進《しん》撃《げき》し、一人苦労をかけていたウルリクムミ|率《ひき》いる同志たちを助け、|討《う》ち手の兵団を|蹴《け》散《ち》らす。主の『|壮《そう》挙《きょ》』実現は、その中で|悠《ゆう》々《ゆう》と……
(……私たちは、勝つ)
時間は、どんどん早足に過ぎてゆく。
最強の敵は|迷《めい》宮《きゅう》を、ただ走り回っている。
取り込んだ『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』からも敵は出てこない。
戦場ではウルリクムミが敵軍を一手に支えている。
切り札たる『両翼』は未だ|万《ばん》全《ぜん》の状態で|温《おん》存《ぞん》してある。
時間は、どんどん、早足に、過ぎてゆく。
(勝つ、勝てる、勝てますよ、我が主)
モレクは、自分の中でなにが起こっているのか、知らない。
|僅《わず》かに|乳《にゅう》白《はく》色《しょく》の舞い散る|暗《くら》闇《やみ》に、恐ろしく重い打撃音と|擦《さっ》過《か》音が鳴り|響《ひび》く。
「いよいしょおっ、と!」
ガヴィダは、自分の建造した|宮《きゅう》殿《でん》の床を傷つけないよう、振り下ろした|大《おお》金《かな》槌《づち》を|絶《ぜつ》妙《みょう》のコントロールで別の手に受け渡し、円運動で上へと持ち上げた。さらに頭上、別の二本の晩が受け取って、頭上でグルグルと振り回す。
「ふう――、さあて、次は当たるか、な?」
鉄の|面《めん》覆《おお》いで軽く周囲を見回し、|闇《やみ》の|何処《どこ》かに|潜《ひそ》むチェルノボーグを探す。もちろん、相手は暗殺を|主《しゅ》任務とする『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の|隠《かく》し刀である。容易にその気配を取れるわけもない。さっきの大金槌と爪(だろう、ガヴィダには見えなかった)の|衝《しょう》突《とつ》も、全くのまぐれだった。
その|証《しょう》拠《こ》に、彼の|板《ばん》金《きん》鎧《よろい》の体には、もう何箇所も穴が開き、ひしゃげている。舞い散る乳白色の光は、彼の体から剥がれ落ちる存在の|欠片《かけら》だった。
「――こっちか!」
不意にガヴィダは叫び、大金槌に与えた遠心力を、気配を感じた方に振り向ける。
部屋の中心に|据《す》えられた『カイナ』まで降りる円形の段を囲む二重の柱列、その間から、
(ドンピシャだ!)
|獣《けもの》の耳を|生《は》やした|漆《しっ》黒《こく》の|痩《そう》身《しん》が|躍《おど》り出ていた――が、
「ぬおっ!?」
ドガン、
と彼はそれと全くの逆方向、背後から、来るはずのない|巨《きょ》腕《わん》の|一《いち》撃《げき》を受けていた。背部の|板《ばん》金《きん》がゴツい爪の形にへこみ、最初|視《し》認《にん》した方向に飛ばされる。
「ッ」
鋭く短く息を吸い込むチェルノボーグは、左の|拳《けん》撃《げき》を|叩《たた》き込む体勢である。その、本来あるべき右腕の先端は、
(伸びてるのか!?)
まるで引っ張りすぎた服のように、ひょろりとどこかに続いている。もちろん、その先は自分の背中側だろう――とガヴィダが考える間に、|鈍《どん》器《き》のような右腕とは対照的な、|杭《くい》の|如《ごと》き左の|手《しゅ》刀《とう》が突き込まれる。
シャガッ、
と抵抗も|僅《わず》かな|刺《し》突《とつ》で、ガヴィダの腕が一本飛んだ。それは床に落ちる前に、|乳《にゅう》白《はく》色《しょく》の|火《ひ》の|粉《こ》となって散る。
「ちいっ!」
|鎧《よろい》姿の王≠ヘ存在の|喪《そう》失《しつ》による|激《げき》痛《つう》を押して、|大《おお》金《かな》槌《づち》を取り落とさないよう飛びついた。と、その腕の一本を、チェルノボーグの太い右腕にガッチリと|掴《つか》まれている。恐ろしい勢いで引っ張られ、柱の一つに叩きつけられた。
「っが、はっ!」
|装《そう》飾《しょく》として立てられた柱を砕いて、ガヴィダはその向こう、壁面に|激《げき》突《とつ》する。
(く! そったれ……一番、配置を悩んで立てた、柱に……)
跳ね返る眼前、|野《や》獣《じゅう》のような|跳《ちょう》躍《やく》で、|黒《こく》衣《い》の女が舞っていた。その体勢は、飛び|蹴《げ》り。
ガギュ、と胸部の板金が穴の|空《あ》く|寸《すん》前《ぜん》までひしゃげる、嫌な音が|響《ひび》いた。
ガヴィダは壁に|縫《ぬ》い止められるように一瞬だけ立ち、
「う、ごぁ……」
そして、|呻《うめ》きとともに|斃《たお》れた。乳白色の火の粉が、命の散るようにハラハラと舞う。
「少しは、年寄り、を、いたわら、ねぇかい」
床に倒れ伏したガヴィダが、切れ切れに言った。
元々彼は、戦いが得意でも好きでもない。 長く実戦から遠ざかってもいた。 『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』きっての 近接|格《かく》闘《とう》者《しゃ》相手の戦いは分が悪い、 以上に自殺行為ですらあった。 かつて 敵を無数、 叩き壊した大金槌『キングブリトン』も、 先の|衝《しょう》 突《とつ》以外は |空《むな》しく|空《くう》を切るばかりである。
その息を継ぐにもガチャガチャとうるさい板金鎧の前に、黒い足が音もなく立つ。
「私は、おまえのような|変《へん》節《せつ》漢《かん》が嫌いだ」
戦いの最中は全く口を利かなかったチェルノボーグが、|忌《いま》々《いま》しげに声を吐いた。
自分の|無《ぶ》様《ぎま》を笑いつつ、ガヴィダはひしゃげた胸を上下させて答える。
「へっ、|堅《かた》物《ぶつ》、|真《ま》面《じ》目《め》が、好きってか……」
「……」
なぜかチェルノボーグは黙った。
|怪《け》訝《げん》に思い、顔を上げようとしたガヴィダの頭を、
「っがぁっ!?」
上から黒い右の|巨《きょ》腕《わん》が、思い切り|叩《たた》いた。|兜《かぶと》がひしゃげる|寸《すん》前《ぜん》の打撃に|眩暈《めまい》を覚える彼に、腕をそのままにしたチェルノボーグが言う。
「|同《どう》胞《ほう》でありながら……この世に|顕《けん》現《げん》し、さんざん人間を喰らっておきながら……今さらのように人間に|義《ぎ》理《り》立《だ》てして命を捨てる|愚《おろ》か者め」
「く、く……」
巨腕の|下《した》敷《じ》きになったままで、ガヴィダが笑った。
その声の中に、チェルノボーグは|嘲《あざけ》りの|匂《にお》いを|嗅《か》ぎ付けた。腹立ちとともに|訊《き》く。
「なにが、おかしい」
「|手前《てめえ》の、言ってることは、|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》だ……主と、そっくりだな」
「なんだと」
反撃の機を狙っての|挑《ちょう》発《はつ》か、と一瞬|警《けい》戒《かい》するが、その気配はない。|大《おお》金《かな》槌《づち》もすでに遠く転がり、今や|髄《ずい》の|楼《ろう》閣《かく》≠ヘ、虫のように|掌《てのひら》の下敷きとなっているのみである。
「|変《へん》節《せつ》漢《かん》、てな……手前の、主の、ことじゃねえのか?」
「!!」
「|味《み》方《かた》から敵、敵から味方、どっちも同じ、変節漢、だろ? なんで|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》≠ヘ――」
ギギ、と彼を押さえ込んだ掌が、力を強める。
「我が主を、その名で呼ぶなと言ったはずだ」
チェルノボーグは、声を平静に保つ。保つ、と分かる声だった。
ガヴィダはもはや嘲りを隠さずに、しかし言い直す。
「手前らの主は、なぜ|討《う》ち手としての使命を、|放《ほう》棄《き》して、この世に王≠ニして|顕《けん》現《げん》した?」
彼女ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|首《しゅ》領《りょう》・アシズには、もう一つの名があった。
|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニしての、|真《ま》名《な》が。
「なぜ、まだフレイムヘイズとしての|称《しょう》号《ごう》を、名乗っている?」
アシズが今、|冠《かん》している|呼《こ》称《しょう》は、真名ではなかった。
|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》=c…それは、彼がフレイムヘイズであった時に[#「彼がフレイムヘイズであった時に」に傍点]、得た称号だった。
「……」
掌が|鎧《よろい》の体を|掴《つか》み上げ、握り締めるが、彼は|弾《だん》劾《がい》を止めない。
「ぐ……狂って、いるのさ……人に|魅《み》入《い》られ、人を憎み、なお愛す……|哀《あわ》れな、|魔《ま》王《おう》」
「黙、れ」
ギギギギ、と|板《ばん》金《きん》が|軋《きし》む。
「は、はあ……|生《あい》憎《にく》と、俺はおしゃべり、でな……よくドナートにもっ!?」
ガキュ、と|甲《かん》高《だか》い音がして、締め上げられていた腕が一本、折れ曲がった。
それでもさらに、ガヴィダは眼前の不快げな白い顔に向かって言う。
「 ――は、ははは、あいつは、|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な旗を掲げて、|皆《みな》引っ張っていくぜ…… |手前《てめえ》ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]を、人間の信じるあの世まで、な」
「黙れと言っている!」
チェルノボーグは話を打ち切るために、ガヴィダを放り投げた。
壊れた人形のように、ひしゃげた王≠ヘ部屋の中央、石段の底まで転げ落ちる。
もう立ち上がれない彼に、|黒《こく》衣《い》白《はく》面《めん》の女は勝ち誇って言う。
「あの世へ行くのは、|貴《き》様《さま》らの方だ」
彼女の|宰《さい》相《しょう》が|遂《すい》行《こう》しつつある作戦は、|完《かん》璧《ぺき》なのである。それを誇らずには、この|妄《もう》言《げん》の|徒《と》に勝ち誇らずには、いられない。段の高みから、底で壊れて転がる|甲《かっ》冑《ちゅう》に叫ぶ。これが勝利というもの、これが彼女の軍団が得る姿だった。
「|痩《や》せ牛の『ラビリントス』は|難《なん》攻《こう》不落、 |疲《ひ》弊《へい》した|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》どもを『両翼』が片付け、 |同《どう》胞《ほう》殺しどもの|軍《ぐん》勢《ぜい》も|蹴《け》散《ち》らす、我が主が『|壮《そう》挙《きょ》』を|成《じょう》就《じゅ》する、それで全てが終わる――我ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の勝利だ!!」
しかし、返ってきたのは、期待していた|悲《ひ》嘆《たん》の|呻《うめ》きではなく、変わらぬ|嘲《あざけ》り。
「くっ……くは、ははは、はは」
「……」
もう何を言っても|無《む》駄《だ》、と判断し、チェルノボーグは段の下に飛び降りた。ひしゃげて転がる|鎧《よろい》の|傍《かたわ》らに立ち、右の|巨《きょ》腕《わん》をとどめとして振りかぶる。
と、その下で小さく、ガヴィダが|呟《つぶや》いていた。
「……勝てる、もの、か……」
もう十度からは数えていない|騎《き》兵《へい》突《とつ》撃《げき》の中、ヴィルヘルミナが|仮《か》面《めん》越しに言った。
「再発見、これで|百《ひゃく》条《じょう》目《め》であります」
「どこ?」
|紅《ぐ》蓮《れん》の|悍《かん》馬《ば》の|鞍《あん》上《じょう》、 |矛槍《ハルベルト》を縦横に振るいつつ|尋《たず》ねたマティルダには、ティアマトーが|明《めい》 瞭《りょう》簡《かん》潔《けつ》に答える。
「右前方」
|華《か》麗《れい》な|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の |女《おんな》戦士を先頭に切り込む『|騎士団《ナイツ》』の行く手に、 傾斜し|蛇《だ》行《こう》する道が見える。その|三《みつ》股《また》上下に分かれる突き当たりの右端から、百条目[#「百条目」に傍点]が確かに伸びていた。
純白の細い糸――ヴィルヘルミナが|鬣《たてがみ》から四方|八《はっ》方《ぽう》へと|密《ひそ》かに伸ばしていた、|罠《わな》。
戦闘の中においても、灼眼は|過《あやま》たず標的を|射《い》止《と》めた。
「あれか……何番目に伸ばした|奴《やつ》?」
「五十五」
ティアマトーの|即《そく》答《とう》を補足するように、ヴィルヘルミナは|分《ぶん》析《せき》する。
「見えているのはあの糸だけありますが、感覚的にはもう二本、ここになくてはならないはずであります。やはり、内部の空間は相当に|弄《いじ》られているようでありますな」
彼女らは、マティルダと|迷《めい》宮《きゅう》を駆ける間に伸ばした糸で、『ラビリントス』の広がりを立体的に把握していたのだった。何より貴重な時間を使って。
「ともあれ、伸ばした糸に行き合うのも、これで百条目。準備はもはや|万《ばん》端《たん》であります」
「|敢《かん》行《こう》」
待ち|焦《こ》がれていた区切りの数の到来を受け、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は焦りのまま、|拙《せっ》速《そく》ともいえる素早さで、見える|徒《ともがら》≠フ全てにリボンを巻きつけ、空中に巻き上げた。
「と、とっ――弓!」
マティルダが|慌《あわ》てて『|騎士団《ナイツ》』に|号《ごう》令《れい》、宙にある|徒《ともがら》≠文字通りの|火《ひ》矢《や》で無数|貫《つらぬ》く。その矢は|半《はん》拍《ぱく》置いて爆発し、|渦《うず》巻《ま》いた|炎《ほのお》の去った後に、|静《せい》寂《じゃく》が戻る。
「び、びっくりした……どうしたの、らしくな――」
|騎《き》乗《じょう》していたバランスを、いきなり右腕に絡めていたリボンで崩された。
「――っわ!?」
一回転、着地させられると、仮面のヴィルヘルミナが真ん前に立っている。
「次の|軍《ぐん》勢《ぜい》が|宛《あて》がわれる前に、始めるのであります」
「|迅《じん》速《そく》行動」
時間ではなく、彼女の|消《しょう》耗《もう》を抑えるための|催《さい》促《そく》である。
そんな彼女らの、|率《そっ》直《ちょく》でぶっきら棒な優しさに、マティルダは思わず|抱《ほう》擁《よう》で応えたくなった。|無《む》論《ろん》、取った行動は違う。
「反撃開始ね……|全《ぜん》周《しゅう》防御!!」
再びの号令で『|騎士団《ナイツ》』は|下《げ》馬《ば》、外側に|矛槍《ハルベルト》を向けて、彼女らを円形に取り囲んだ。これは当然、『ラビリントス』の空間組み換えによる|不《ふ》意《い》打《う》ちへの防御|陣《じん》、|邪《じゃ》魔《ま》をされないための安全地帯というだけのものだったが、
(……)
ヴィルヘルミナには、薄暗い迷宮の中、彼女らを照らして|傅《かしず》く|紅《ぐ》蓮《れん》の『|騎士団《ナイツ》』の輪が、特別な|儀《ぎ》式《しき》の場 であるように見えた。 間に隔てるもののない、 より近く感じられる姿、 |己《おの》が手でそれ[#「それ」に傍点]を届けようと、仮面を上げ、|鬣《たてがみ》を縮める。そして、
(……どうか)
一つの思いを込めて、一つのものを、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は胸の前で織り上げた。
「わぁ――」
思わずマティルダは、|賛《さん》嘆《たん》の声を上げる。
ヴィルヘルミナの両|掌《てのひら》の上に現れたのは、純白の|可《か》憐《れん》な|花冠《コローナ》。
|繊《せん》細《さい》可憐な造花からは、織り込まれた|蔓《つる》の流れるように、同じく純白の糸が多数、伸びていた。それはどこまでも長く柔らかで、透き通ったケープのようにも見える。とても二人の切り札、モレクを|撃《げき》破《は》するため用意した取って置きの仕掛け[#「仕掛け」に傍点]とは思えなかった。
「ちょっと演出|過《か》剰《じょう》じゃない?」
照れくさそうに笑って、これを軽く取ろうとしたマティルダの手を、ヴィルヘルミナの掌が断固たる硬さで|迷《さえぎ》った。
「?」
急いでいるのは彼女なのに、と|怪《け》訝《げん》な顔を上げたマティルダは、驚いた。
そこに、仮面を外した顔があった。
「一つだけ、これからすることを、|誓《ちか》ってほしいのであります」
「|宣《せん》誓《せい》儀《ぎ》礼《れい》」
彼女のことを考えて、今から起きることを考えて、マティルダはおずおずと、|尋《たず》ねる。
「……メリヒムの、こと?」
ずっと 自分と一緒にいてくれた理由の半分だろう――そう、 |自惚《うぬぼ》れから『自分の量』を多めに見積もってみる――彼女の想いのために、なんとかしてあげたいとは思っていた。が、あの最強の|敵《てき》手《しゅ》と、殺さないよう|手《て》加《か》減《げん》して戦うのは自殺行為であ
仮面が突進してきた。
ドゴッ、
「んぎゃっ!?」
と本気の、|額《ひたい》に上げていた仮面による|頭《ず》突《つ》きが、鈍い音を立てた。
「ちょっ! い、今の、かなり痛……」
打たれた頭を押さえてよろけるマティルダは、抗議を中途で切る。切らされる。
ボロボロと涙を|零《こぼ》して、もう一つの仮面[#「もう一つの仮面」に傍点]を外したヴィルヘルミナが、泣いていた。
「少しは……少しは、自分がどう思われているか……どこまで思われているか……考えて」
「……」
マティルダは|絶《ぜっ》句《く》する中、自分の|酷《ひど》い思い違いに気付いた。自惚れではなかったのである。自分は、彼女が一緒にいてくれた理由の、確かな半分。だからこそ彼女は、もう半分との間に挟まれ、揺れて、苦悩しているのである。この|無《む》二《に》の友に対する|侮《ぶ》辱《じょく》を、心底から恥じる。
「……ごめん」
「|無《む》神経」
ティアマトーも、短く非難する。
「ごめん……」
「おまえが悪い」
アラストールまで。
「……」
圧倒的に不利な状況を、マティルダは|弁《べん》解《かい》ではなく、やはり常のように、行動で破る。
黒いマントを大きく鋭く両手で広げるや、その浮き上がる内で|優《ゆう》雅《が》に|片《かた》膝《ひざ》を着く。やや|前《まえ》屈《かが》みに、頭を差し出すような姿勢。
「|誓《ちか》いを」
|女《おんな》戦士からの、|貴《き》婦《ふ》人《じん》への求め。
ヴィルヘルミナは一度上を向いて、どちらの仮面も|被《かぶ》り直さず、できるだけ心を強く……二人といない友に、これから一緒に戦う友に、別れの際にある友に、それでも言う。
「どうか、生きて」
彼女は、|諦《あきら》めない。
これからの戦い、その後の|儀《ぎ》式《しき》の中で、希望を|掴《つか》むことを。
ヴィルヘルミナは、その可能性を、神にすがらず、友に求めた。
(そして、やはり言うのでありましょう、|貴女《あなた》は)
「|誓《ちか》います」
(でも、お|生《あい》憎《にく》さま、と)
「でも、お生憎さま」
誓う姿の顔を上げ、|紅《ぐ》蓮《れん》に|煌《きらめ》く|灼《しゃく》眼《がん》を、貴婦人に向ける女戦士。
「とっくに、全力で、私は生きてる」
(――ああ――)
ヴィルヘルミナは、もう自分がどんな種類の涙を|零《こぼ》しているのか、全く分からなかった。
|滲《にじ》んで、目に痛いほど踊る紅蓮の煌き、その|頂《いただき》に、|花冠《コローナ》を載せた。
反撃が、始まる。
|冠《かんむり》から長く柔らかく伸びる純白の細糸、
二人で駆け回る間に張り巡らしておいた、力の|誘《ゆう》導《どう》路《ろ》に、
爆発的な、まさに爆発的な、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』の全力が|奔《はし》る。
|宰《さい》相《しょう》|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nは、彼自身の|化《け》身《しん》である『ラビリントス』の内部|全《ぜん》域《いき》へと、|莫《ばく》大《だい》な量の、破壊を込めた力が|瞬《しゅん》時《じ》に広がり、また奔り巡ったことに|驚《きょう》愕《がく》した。
血管に毒が回るのを自覚するように、|悪《お》寒《かん》と|怖気《おぞけ》、|破《は》滅《めつ》への予感が|過《よ》ぎる。
(これは)
今まで感じていた『|騎士団《ナイツ》』の力が、散っていく。|騎《き》士《し》の一人分ほど、それでも並のフレイムヘイズを優に上回る力の|塊《かたまり》が、感じる間に焦る間に、全身へと飛び散ってゆく。
その現象の意図、狙いを感じて、予感は確信に変わる。
(まさか)
一部を破壊されても、 その箇所に力を集中することで|修《しゅう》 復《ふく》できる『ラビリントス』を、全域一挙に破壊しょうとしている[#「全域一挙に破壊しょうとしている」に傍点]。 信じられない、 巨大な力と 技量による攻撃。 であるからこその|宿《しゅく》 敵《てき》、 マティルダ・サントメール――その恐るべき力への|対《たい》処《しょ》に与えられた時間は、一瞬。
(しまった)
やはり彼女らは、|無《む》為《い》に走り回っていたわけではなかったのである。なにか、こうするための特別な仕掛けを張り巡らせていたに違いなかった。内部を|漠《ばく》然《ぜん》としか|捉《とら》えることができなかったせいもあるが、強敵ゆえに、|警《けい》戒《かい》を当人たちのみに集中させすぎた――全くの不覚。
(解くか)
否。今、『ラビリントス』を解くことはできなかった。|咄《とっ》嗟《さ》のことで、取り込んだ者らの位置を調整できない。もしあの二人が『両翼』より主の近くに出たら、世界の|新《しん》秩序|構《こう》築《ちく》という[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の大目標、その全てが終わってしまう。せめて彼女に力を使わさねば。
(主、おさらばです)
しかしある意味、分かりきった結果ではあった。
自分は、最初に想定したとおりの、自分の使命を果たした。『|壮《そう》挙《きょ》』実現までの時間を稼げなかったのは不徳の致す限りだが……|後《こう》事《じ》は『両翼』に、主に託す。
(あなたも、どうか生き残ってください、チェル――)
|脳《のう》裏《り》に一人の、|黒《こく》衣《い》白《はく》面《めん》の女性が|過《よ》ぎった瞬間、
ブロッケン山上に|蹲《うずくま》っていた|巨《きょ》牛《ぎゅう》の姿をした|自《じ》在《ざい》法《ほう》『ラビリントス』が、内部各所に散っていた|紅《ぐ》蓮《れん》の|騎《き》士《し》らによる同時|一《いっ》斉《せい》の大爆発によって、|粉《こな》々《ごな》に砕け散った。
あまりに大きな揺れを受け、さすがのチェルノボーグも体勢を|僅《わず》かに崩した。
(な、なんだ、なにが起きた)
「く、はは! やりゃあがった……はははっ、はははははは!」
その足元に転がるひしゃげた|鎧《よろい》、ガヴィダが狂ったように笑った。
(地震……いや、この『ラビリントス』の中にそんなものが……『ラビ、リント、ス』?)
なぜガヴィダが笑うのか――その意味に心底からの寒気を覚えたチェルノボーグは、もはや虫の息という|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠、右の|巨《きょ》腕《わん》で乱暴に|掴《つか》み上げた。
「|貴《き》様《さま》あ! なにを知っている! なにが起きた!?」
答えは、あまりに簡単である。
「お察しの、とおりさ」
「|嘘《うそ》だ」
断言の|即《そく》答《とう》に、ガヴィダはもう一度、|誤《ご》伝達のないよう、言う。
「『ラビリントス』が、吹っ飛んだんだよ」
「嘘だ」
双方、勝敗の表情が逆転していた。
「なんで、ここには俺しか、いなかった? なんで、別働隊が乗り込んで、ない? この『ラビリントス』の破壊に……巻き込みたく、なかったからさ」
「嘘だ。|痩《や》せ牛の『ラビリントス』は、|難《なん》攻《こう》不落なんだ」
また、無表情に断言した。しかし、ガヴィダを掴む右の巨腕は、細かく震えている。
「外に出てみりゃ……嫌でも、分かるさ。|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nは、|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》に、|討《とう》滅《めつ》された」
「嘘、だ!!」
瞬間、|眉《まゆ》根《ね》が寄り、掴んだ手の内に|枯《かれ》草《くさ》色《いろ》の爆発が起きた。
「――ッ!!」
全く|他《た》愛《あい》無《な》く、ガヴィダは|粉《こな》々《ごな》になった。|兜《かぶと》が壁に当たって床に落ち、カラカラと回る。
それが静止する前に、チェルノボーグは部屋から駆け去っていた。
死に損ないの|戯《たわ》言《ごと》を事実で打ち払うために。[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]が誇る|宰《さい》相《しょう》|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nの『ラビリントス』は、|古《こ》来《らい》より敵を捕らえて砕き、外からの攻撃に|小《こ》揺《ゆ》るぎもしなかった、|難《なん》攻《こう》不落の|自《じ》在《ざい》法《ほう》なのである。何百年前か、たった一度だけ、彼が自ら誇った言葉を吐いた。
(――「はは、難攻不落、と言っても良いかもしれませんね」――)
そう、彼が誇るくらいだから、事実なのだ、絶対に。
チェルノボーグはひたすらに、彼の大きな姿を求めて、走る。
「いるんだろう、痩せ牛」
|彫《ちょう》像《ぞう》の倉庫を、
「心配なんか、していないぞ」
|祭《さい》壇《だん》の脇を、
「いくらオドオドしていても」
|大《だい》伽《が》藍《らん》の下を、
「おまえは、無敵なんだ」
大きな扉を、
「メリヒムもイルヤンカも、ソカルの|奴《やつ》だって、|皆《みな》知ってるんだ」
|城《じょう》郭《かく》を、
「おまえは、どれだけ|苛《いじ》めても」
その出口を通り抜けた。
「そこに――」
――あったのは、夜。
風に霧が巻き、遠く戦火を臨む、ブロッケン|要《よう》塞《さい》の|麓《ふもと》。
夜しか、なかった。
『ラビリントス』が、なかった。
彼が、いなかった。
「――あ、ぁあ、あ」
チェルノボーグの|膝《ひざ》が崩れる。
「うわあぁあああああああああああああああああああああぁ――――!!」
|獣《けもの》のような|絶《ぜっ》叫《きょう》が、|慟《どう》哭《こく》が、夜の峰に|響《ひび》き渡った。
『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』の|最《さい》奥《おう》に転がるガヴィダは、残り少ない時間を、|途《と》切《ぎ》れがちな思いで|潰《つぷ》していた。
(やれ、やれ……最後の最後で、とんだ波乱の人生だぜ)
若き日々を|討《う》ち手や|同《どう》胞《ほう》と戦い―― やがて人間と芸術の偉大さに気付き―― 数多くの|宝《ほう》具《ぐ》を彼らと作り上げ―― |隠《いん》居《きょ》して、|虚《こ》空《くう》から人の世を|徒《ともがら》≠フ|業《わざ》を|傍《ぼう》観《かん》し―― そして、最後に。
(感謝するぜ、|炎《えん》髪《ぱつ》の……この|戦《いくさ》を知らずにのうのうと生きてたら、俺は……)
人間の言い回しを考えて、笑う。
(……そう、あの世で[#「あの世で」に傍点]、あいつに顔向けできねえってもんよ)
あの世という、|徒《ともがら》≠ノは理解し難い|概《がい》念《ねん》を、ガヴィダは好意的に思い浮かべる。
(大好きな|奴《やつ》らが、楽しく過ごす場所に、自分も加わる、か……たしかに、いい|妄《もう》想《そう》だ)
あるいは、それこそが自分の最も欲しかった世界なのかもしれなかった。
(ああ、そうだよ、な)
ふと、思った。
なんの障害もなく、一緒にいられる……それが、欲しかった。
(俺ぁ、天国作ってたんだ)
|今《いま》転がっている場所からは見えない、銀の|水《すい》盤《ばん》『カイナ』……あれも、そんな気持ちで作った物の一つだった。たくさんの物を、たくさんの奴らと、作りたかった。
(いや、もう、作ったんだ……物も、一緒に作る友も、たくさん)
その中の、最も長く親しく付き合った最後の一人、とある老人のことを思う。
(|手前《てめえ》のことだけが、残ってた……仕事も途中でほっぽって|逝《い》っちまうから、|未《み》練《れん》たらたらな|言《こと》伝《づて》なんか残していきやがるから、俺がこんな|面《めん》倒《どう》の末に、こんな|格《かっ》好《こう》になる、くく)
ガシャン、と鉄の|面《めん》覆《おお》いが落ち、|乳《にゅう》白《はく》色《しょく》の|火《ひ》の|粉《こ》として、散る。|兜《かぶと》の、一見|虚《うつ》ろな中には、しかしたくさんのものが詰まっていた。
(世間知らずの、いじけ娘、め……)
一時、自分の元に舞い込んだ|無《む》邪《じゃ》気《き》な少女に笑いかける。
(手前の目で、手前への想いを、手前の無気力が招いた、結果を、受け止め、やが、れ)
そんな、思いだけに満足感を表して、
(そして、知るがいいさ……人間が、|結《けっ》構《こう》、お人よし、なんだって、ことを、よ……)
兜が、乳白色の明かりを|撒《ま》きながら崩れていく。
( …ドナー よ、向 うが 本当 ある  エールで 一杯、やろ や …  )
そして、明かりは、消えた。
ブロッケン|要《よう》塞《さい》の『|首《しゅ》塔《とう》』が、一時の|衝《しょう》撃《げき》の後、再び|夜《よ》霧《ぎり》と風に|晒《さら》されていた。
「我が|宰《さい》相《しょう》よ……|無《む》駄《だ》にはせぬぞ」
|天《てん》秤《びん》の中央で鮮やかに青く燃えるアシズが|呟《つぶや》いた。
一人きりの『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』が、いつにも増して大声で|喚《わめ》く。
「僕たちは毎夜楽しく過ごしました!!」「僕には悲しみを|嘆《なげ》いてくれる友がいました!!」「彼は僕のために|懇《こん》願《がん》し、悲しみの涙を流しました!!」
そのジャリに、アシズは命じる。
「|大《だい》斥《せっ》候《こう》、今はただ、空を守れ。あとは『両翼』がやる」
すでに|宰《さい》相《しょう》はいなかった。主たる彼自身が、全てを命じなければならない。
「秘密を|不《ふ》可《か》思《し》議《ぎ》にも明らかにし!」「天の顔を無数の星に飾り|給《たも》うたお方が!」「王に|誉《ほま》れと|安《あん》寧《ねい》を|授《さす》け給うことを!」
例によっての|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な言葉に従って、彼の|自《じ》在《ざい》法《ほう》、|蝿《はえ》でできた防御|陣《じん》『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』が『|首《しゅ》塔《とう》』の頂上付近に密集し、|渦《うず》巻《ま》く。
そして、いよいよ|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズは、
かつて一人の人間と契約し、|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》≠ニいう|真《ま》名《な》を持っていた|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ、
今や『|都《みやこ》喰《く》らい』によって、強大な存在の力≠保持する[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|首《しゅ》領《りょう》は、
「始めよう……『|小夜啼鳥《ナハティガル》』よ」
|己《おのれ》が唱える『|壮《そう》挙《きょ》』を実行に移す。
未だ|鳥《とり》籠《かこ》の中にあって動かぬ少女は、かつての知友たる王<Kヴィダの|消《しょう》滅《めつ》も知らず、ただ|俯《うつむ》いて座っている。その顔は、半分までをアシズの意のままにする|紋《もん》様《よう》に支配されていた。
彼女と鳥籠――宝具『|小夜啼鳥《ナハティガル》』が、 ゆっくりと上昇する。 モレクによって開け放されていた扉が、傾きにキイと鳴るが、|囚《とら》われ人はやはり見向きもしない。
その浮き上がった鳥籠の下、アシズの青き|炎《ほのお》の中を、一つの金属板が漂い浮かんでくる。
炎にも犯されない、見た目にも強固なその表面には、|聖刻文字《ヒエログリフ》、あるいは|ルーン文字《フサルク》のような、細かい記号状の文字列が|二《ふた》揃《そろ》い、刻まれていた。|年《とし》経《へ》た|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ネら|一《ひと》目《め》で分かっただろうそれは、今では全く使われていない形態と様式を持つ、古代の自在式である。
鳥籠と金属板は、まだ止まらず上っていく。
やがて『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の中央|炉《ろ》が、底を|競《せ》り上がらせて|嵌《はま》った。
そこには、青い宝石の|塊《かたまり》とも見える、一つの棺が置かれている。アシズの持つ力、物体を|因《いん》果《が》の流れから切り離して閉じ込める『|清《せい》なる棺』だった。中には、人間の姿がある。
目を閉じ、胸の前に|掌《てのひら》を組んで眠る、若い女性。
「|紡《つむ》いでくれ、『|小夜啼鳥《ナハティガル》』」
「紡いでくれ、『|小夜啼鳥《ナハティガル》』」
深い|哀《あい》切《せつ》と大いなる希望を満たしたアシズの|乞《こ》いに、少女は|鸚鵡《おうむ》返《がえ》しに答えた。
支配の|程《ほど》に満足して、アシズはさらなる存在の力≠鳥籠に注いでゆく。
「おまえなら、これらの自在式を起動できる……存在の『分解』と、『定着』の、式を」
自らの意思では答えない少女の顔を、|紋《もん》章《しょう》がさらに|這《は》い上がってゆく。
アシズは構わず、少女に強制するための|鳥《とり》籠《かご》に、意思を込めた。
応じて、ゆっくりと不自然に、少女の口が開く。
「    ―――――――――――――――――――――――    」
|一《ひと》声《こえ》、人間では発し得ない、音が鳴る。
ゴオン、と重い|鐘《かね》を鳴らすような音を上げて、金属板の文字に光が|点《とも》った。
「おお……」
アシズは信じられないという心持で、声を漏らした。
彼が入手してからこの方、|解《かい》読《どく》の手掛かりすら|掴《つか》めなかった|難《なん》解《かい》極まる|自《じ》在《ざい》式《しき》が、若い|徒《ともがら》≠フ、たった一声で起動していた。
「あなたは常に目覚めた|獅《し》子《し》であると信じられています!」「あなたは他の者が剣で勝利するときに!」「|子《こ》羊《ひつじ》の|如《ごと》き|寛《かん》容《よう》と知恵で勝利なさいます!」
ジャリも大声で|喚《わめ》き、この[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]|悲《ひ》願《がん》実現の光景を三つの仮面で見つめる。
アシズは、|炎《ほのお》の|頂《いただき》に鳥籠、中ほどに金属板、底に|棺《ひつぎ》を一直線に並べた。|一《いち》躍《やく》大きく炎を|膨《ふく》れ上がらせ、|己《おの》が全開の力を振り|絞《しぼ》る。
「おまえが、 この存在の『分解』と『定着』の自在|法《ほう》を|操《あやつ》ることで―― 私が織り合わせるための、『この世に共に在るための糸』を|紡《つむ》ぐのだ」
青い炎、『|都《みやこ》喰《く》らい』で得られた高純度の存在の力≠フ中で、棺の|蓋《ふた》が溶け、消える。
女性は、目を開けない。
すでに、死んでいた。
「彼女という、この世の存在を『分解』せよ。私という、|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ存在を『分解』せよ」
その声には、とある感情が|顕《あらわ》になっていた。
「私が織り成した、合わさり一つとなった我々の存在を、この世に『定着』させよ」
それは、狂気。
「我らの子を――『|両《りょう》界《かい》の|嗣《し》子《し》』を、生み出すのだ」
モレクの死によって元に戻ったブロッケン|要《よう》塞《さい》の基部、
「始まった!?」
「急ぐぞ」
「ここを砕けば、外であります」
「脱出」
|花《か》崗《こう》岩《がん》の壁を砕いて、二人のフレイムヘイズは外の|山《やま》肌《はだ》に出た。
マティルダは、ヴィルヘルミナの織ってくれた純白の|花冠《コローナ》、モレクの『ラビリントス』を破壊した道具を、まだ|被《かぶ》っていた。『|騎士団《ナイツ》』を散開させた際、その大きな負荷によってか、ケープのような糸は焼き切れてしまったが、|冠《かんむり》の美しさには変わりがない。
彼女自身も、一瞬|一《いち》撃《げき》の全力放出によって、その顔に疲労を色濃く見せていたが、笑う強さ、歩みの確かさは変わらない。その彼女が、友と並んで見晴るかす世界にあるものは、
未だ|裾《すそ》野《の》に激しく続く両軍の戦いと、
雲のように|溜《た》まる真っ白な霧と、
夜明けもまだ遠い|漆《しっ》黒《こく》の|間《やみ》と、
|宿《しゅく》敵《てき》。
重々しく空を舞う|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》<Cルヤンカと、その|額《ひたい》に立つ|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qム。
[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の誇る最強の将、『両翼』。
彼らは、|得《え》難《がた》き|宰《さい》相《しょう》を|討《う》ち果たされ、戦意に燃えている。
楽しくてたまらない、という風にも見える、|凄《すさ》まじい|形《ぎょう》相《そう》。
マティルダは、女として女のために怒り、戦士として戦士を迎え笑う。
メリヒムは彼女の疲労を知って、|容《よう》赦《しゃ》もせず|遠《えん》慮《りょ》もなく、戦いを求める。
「準備は、|万《ばん》端《たん》だな?」
マティルダは、笑みを崩さず、堂々受けて立つ。
「それを、私に|尋《たず》ねるの?」
[#改ページ]
4 両翼
昔―― |紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ェ『歩いてゆけない|隣《となり》』に在る別の種族・人間と共感し、 その存在を知るようになってから|僅《わず》かの頃、一人の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ、その『隣』へと渡る術を編み出した。
その術は、たちまち|徒《ともがら》≠スちの間に広まった。|苛《か》烈《れつ》な力の|鬩《せめ》ぎ合いを延々続ける故郷ではなく、|己《おの》が存在と意思を|自《じ》在《ざい》に現すことのできる、また生きる上での|余《よ》裕《ゆう》や|無《む》駄《だ》なものを持つことを許される『隣』が、彼らには楽園のように思えたのだった。
しかし逆に、渡り来た|徒《ともがら》≠轤フ|脅《きょう》威《い》に|晒《さら》される側、人間にとって、その|跳《ちょう》梁《りょう》を止める者のなかった|古《いにしえ》の時代は、|地《じ》獄《ごく》でしかなかった。そんな人間らを|遠《えん》慮《りょ》容《よう》赦《しゃ》なく喰らう|徒《ともがら》≠轤ヘ、我が世の春を|謳《うた》うように新世界を|跋《ばっ》扈《こ》し|事《じ》象《しょう》を|弄《いじ》り、|放《ほう》蕩《とう》の限りを尽くした。
が、やがて、一つの報いが彼らを|襲《おそ》う。
渡り行く者、また戻る者(当時はごく当たり前に両界を行き来する者が多かった)が、境界において次々と|遭《そう》難《なん》するようになったのである。追い返され、|中《ちゅう》途《と》で傷つき、時には|行方《ゆくえ》不明、|消《しょう》滅《めつ》さえした。まるで、越えようとした海で|大《おお》時化《しけ》に|遭《あ》うように。
ようやく|不《ふ》審《しん》と|疑《ぎ》念《ねん》を持った|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ一人が、世界の|在《あ》り|様《よう》を|捉《とら》える特別な感覚をもって、この境界をふと|覗《のぞ》き、捉え、そして……|愕《がく》然《ぜん》となった。
両界の|狭《はざ》間《ま》たる境界が、『|隣《となり》』に生じた不自然な|歪《ゆが》みに引き|摺《ず》られ、|捻《ね》じ曲がりつつあったのである。事ここに到って、ようやく|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠轤ヘ『歩いてゆけない隣』での|放《ほう》埓《らつ》が、なんだったのか、なにを意味するのか、自分たちになにを|齎《もたら》すのか、|悟《さと》った。
彼らは『世界のバランスという名の家』……そこで共に並び立って家を支えていた柱の片方を、好き勝手に|削《けず》り、|弄《いじ》り回していたのだった。放埓が長く続けば、いつかきっと『隣』の柱は折れ、『家』は|倒《とう》壊《かい》する。横に並んだ柱である|紅《ぐ》世《ぜ》≠も巻き込んで。
この、後に『|大《だい》災《さい》厄《やく》』と呼ばれるようになった倒壊の危機説は、|徒《ともがら》≠スちを|震《しん》撼《かん》させた。
実際に境界を越えて帰って来た者らの証言とともに説は広まり、特別な感覚を持った者、|判《はん》断《だん》説得によって|了《りょう》解《かい》した者、 |勘《かん》を鋭く利かせた者、 単に心配性な者……賛同者は、境界における|遭《そう》難《なん》者の数と比例するように増えていった。
しかし一方、すでに『隣』へと渡り、そこで|気《き》侭《まま》な暮らしを送る者たちに、これらの|切《せっ》迫《ぱく》感は伝わらなかった。 そして、気侭な暮らしであればこそ|執《しゅう》着《ちゃく》する者は多く、 また渡り行く者も|途《と》絶《だ》えない。元々、|紅《ぐ》世《ぜ》≠嫌って渡る者が大半なのだから、これは当然のことだった。
そうこうする間にも人間は喰われ続け、世界は歪みを増していった。
今すぐ|愚《ぐ》行《こう》を犯す|同《どう》胞《ほう》を止めねばならない。
例え殺してでも。
とはいえ、|憂《うれ》える彼らが『隣』へ|赴《おもむ》くには、|幾《いく》つもの障害があった。
まず、弱い|徒《ともがら》≠ナは、荒れた境界を『隣』まで渡り切るのは困難、|成《せい》否《ひ》はほとんど|運《うん》任《まか》せと言って良かった。しかも渡った後は|十《じっ》中《ちゅう》八《はっ》九《く》、放埓|無《む》道《どう》の同胞らと戦うことになる。
『隣』には、強大な存在たる|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ赴かねばならなかった。
だが、『隣』で王≠ェ|顕《けん》現《げん》するには、放埓を行う者たちと同じ|様《よう》に存在の力≠消費せねばならない。そのためには当然、人間を喰らわねばならない。強大な王≠ナあれば、より大量に。これでは|本《ほん》末《まつ》転《てん》倒《とう》、なんの意味もなかった。
そのジレンマに|懊《おう》悩《のう》しながら試行|錯《さく》誤《ご》と暗中|模《も》索《さく》が行われること数百年、|遂《つい》に一人の王≠ェ、|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノおける一つの|儀《ぎ》式《しき》を応用して『隣』に|干《かん》渉《しょう》する方法を編み出した。
|神《しん》威《い》の『|召《しょう》喚《かん》』である。
|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノも、神と呼ばれる存在は|幾《いく》柱《はしら》も存在していた。
ただ、彼らは『隣』における信仰の|中《ちゅう》 核《かく》や|概《がい》念《ねん》の|具《ぐ》象《しょう》たる|架《か》空《くう》存在とは違い、 どこまでも現実的な、|権《けん》能《のう》と|威《い》力《りょく》をもって世界の法則の一端を体現する、|超《ちょう》常《じょう》的存在の|総《そう》称《しょう》を言った。
彼らは祈りと|代《だい》償《しょう》、運と|神《かみ》自身の意思により、特異な権能を行使し、強大な威力を|発《はっ》揮《き》する。
その|降《こう》臨《りん》を|要《よう》請《せい》する儀式を『召喚』と言い、儀式は、神の意思をその力を欲する者に向けさせること、了解を得るための代償として|犠《ぎ》牲《せい》を払うこと、の二つに大別される。
一人の王≠ェ編み出した、存在の力≠消費せず『|隣《となり》』に干渉する方法とは、この|儀《ぎ》式《しき》を『隣』で|執《と》り行わせ、儀式に伴う|代《だい》償《しょう》は|召《しょう》喚《かん》主・人間の方に負わせる、というものだった。
神が|己《おのれ》の力を欲する者を感じるように王≠スちは徒|《ともがら》≠ヨの|復《ふく》讐《しゅう》の念を抱く人間を探した。元々、彼らと共感することで『隣』を知ったのである。最も強力な感情の一つである|憤《ふん》怒《ぬ》と|憎《ぞう》悪《お》を|感《かん》知《ち》するのは|造《ぞう》作《さ》ないことだった。また、復讐という目的は人間に全てを捨てさせる。代償を払う儀式である召喚も、強制力を持つ約束である『契約』も、|容易《たやす》く成立した。
こうして、人間に存在の全てを捧げさせた王≠轤ヘ、|空《から》っぽとなった人間の内に|転《てん》移《い》することで|遂《つい》に、世界に|歪《ゆが》みを発生させることなく、『隣』における|居《い》場所を得ることに成功した。世界に接する|殻《から》は人間、内に在るのは|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニいう、一種の|誤《ご》魔《ま》化《か》しだった。
契約によって人間の内に入った|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ、召喚を受けた時点で存在の総量を固定される。『召喚され続ける=人間の内に在る』限りは、人間を喰らわなくても、その存在は維持されるのだった。人間の体力のように、力を使った分は|消《しょう》耗《もう》するが、休息すれば固定された総量まで回復してゆく。討ち手として活動を続けるのにはうってつけの形態だった。
その総量の上限は、人間が捧げた全て ――|時空《じくう》に広げる全存在『運命という名の器』―― であり、強大な|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠|容《い》れるにはあまりに小さなものだった。必然的に、王≠轤ヘそこに入るほどに己が身を休眠させることとなったが、眠った体から漏れ出す力だけでも、契約者の適性や|鍛《たん》錬《れん》次第で、人間を喰らい|顕《けん》現《げん》する|徒《ともがら》≠轤ニは、十分に戦うことができた。
世界のバランスを守る|討《とう》滅《めつ》の追っ手の、誕生だった。
彼らの総称は、契約の際に人間が|幻《げん》視《し》する、境界の光景から採られている。
|曰《いわ》く、『|炎の揺らぎ《フレイムヘイズ》』。
これら討ち手、フレイムヘイズには、人間を器とする構造原理から、行動の主導権はほぼ人間側が握るという欠点もあったが、ともあれ方法は確立し、多数の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ|異《い》界《かい》へと旅立っていった。|無《む》道《どう》を働く|同《どう》胞《ほう》を討つために。
その第一|陣《じん》に、一人の、強大な|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェいた。
|真《ま》名《な》を|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》≠ニいう。
契約者たる人間、フレイムヘイズ『|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》』とともに、|異《い》世界での活動を始めたばかりの王≠轤|率《ひき》い、最初期に乱立していた|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ組織群を|数多《あまた》覆《ふく》滅《めつ》した|傑《けつ》物《ぶつ》である。
当初の彼は、フレイムヘイズと契約した王≠フ理想|像《ぞう》ともいうべき存在だった。
この世のバランスを守るという使命感に燃えており、その|大《たい》志《し》を|遂《すい》行《こう》するだけの圧倒的な実力を持ち、世を|覆《おお》う規模で|渦《うず》巻《ま》いていた|徒《ともがら》≠ヨの|怨《えん》嗟《さ》の声の中から、自己の志に見合う人間を|厳《げん》選《せん》した。契約者となった女性の方も、人々を異世界の魔物から守るという使命を|一《いち》途《ず》に果たす純真さで応え、『|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》』の称号は、英雄の名として世に|轟《とどろ》いた。
後の時代のように、|徒《ともがら》≠ノ喰われる者の減少による|人《ひと》手《で》不足から、|復《ふく》讐《しゅう》を望む者なら無条件で契約する、という|泥《どろ》縄《なわ》の状況と違い、当時は人間側も|精《せい》鋭《えい》を選ぶことができたのだった。
だが彼は、やがて、進む道を決定的に|違《たが》える。
二人の間に、|紅《ぐ》世《ぜ》≠ナ策を講じた者らの予期だにしていなかった事態が起きた。
|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ男、契約者の女――二人が、恋に落ちたのである。
以前から、|徒《ともがら》≠ニ人間の精神の|在《あ》り|様《よう》がほぼ同じであること、ゆえに世界の境界を越える共感を得られたことは、|紅《ぐ》世《ぜ》≠ナも広く知られていた。『|隣《となり》』に渡った者たちの間に、そのような事例があることも確認されていた。
しかし、そういう感情は、『隣』を荒らす者らの抱く、|放《ほう》埓《らつ》な欲望の一つとして、ほとんど無視されていた。世界のバランスを案じ|憂《うれ》える|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠轤ヘ、立場や思想の上から、|誰《だれ》一人として『隣』に渡ってはいなかったのだから、それも無理からぬことと言えた。
実際に『隣』へと渡ることで初めて、彼らは知らされた。
人間との間に|芽《め》生《ば》える愛情、そのとてつもない危険さを。
他でもない、フレイムヘイズ『|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》』の死によって。
契約者の死によって|召《しょう》喚《かん》の契約が|失《しっ》効《こう》すると、それに力を与えていた|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ、まず当然のこととして|紅《ぐ》世《ぜ》≠ヨの|帰《き》還《かん》の|途《と》につく。しかし、いかに強大な存在であっても、『隣』の|歪《ゆが》みによって荒れた境界は、そうそう|容易《たやす》く渡れない。契約者が死に至るほどの激しい戦いで力を使い果たし、帰還も|叶《かな》わず境界の内に呑まれて死ぬ王≠熨スかった。
また、目の前の使命を|完《かん》遂《すい》するため、残された力で『隣』に|顕《けん》現《げん》し、最後の|抗《こう》戦《せん》を行う者もいた。その、 契約によって『隣』に|縛《しば》られた状態での顕現は、 本来|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ存在である王≠ゥら、器という|誤《ご》魔《ま》化《か》しの道具を取り除くことに他ならない。通常の|徒《ともがら》≠フように、人間を喰らって存在の力≠得るという準備段階を持たないまま行われる顕現は、長時間|維《い》持《じ》することができない。どころか、その場で全力を|消《しょう》耗《もう》し尽くして死ぬしかない。戦闘にのめりこんだ|挙《あけ》句《く》にこの道を選んで|自《じ》滅《めつ》する者は、使命の性格上、後を絶たなかった。
その中、
|己《おの》が契約者の死に面したアシズ(という通称を得た|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》=jは、異常な行動に出た。
彼は、砕けつつあった契約者の体を、自身の能力たる『|清《せい》なる|棺《ひつぎ》』の内に保存した。
同時に、周囲に在った人間を、なんの|躊躇《ためらい》もなく無数|喰《く》らい、存在の力≠得た。
そして、『隣』に|縛《しば》られた身を解放するため、その場で自らを|再《さい》召喚し、顕現した。
まさしく、|神《かみ》業《わざ》だった。
彼は|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ帰り、また『隣』へ渡るという、本来|経《へ》るべき過程を省くために召喚の|儀《ぎ》式《しき》を応用し、|瞬《しゅん》時《じ》、同一地点に、|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニして顕現を果たしたのである。
受け入れられない現実――契約者の死――を変えるために。
ただ一つの望み――愛する女の再生――を、果たさんがために。
この、最も|功《こう》多《おお》く強大な王≠フ|離《り》反《はん》という、|前《ぜん》代《だい》未《み》聞《もん》の大事件は、同じ立場にあったフレイムヘイズのみならず|紅《ぐ》世《ぜ》≠竅w隣』《となり》に|跋《ばっ》扈《こ》する|徒《ともがら》≠轤ノまで、大きな|衝《しょう》撃《げき》を与えた。
彼に、使命と|真《ま》逆《ぎゃく》の行動を取らせたものは明白だった。
愛情である。
長く、あるいは深く関わるほどに、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ェ人間を愛する確率は高まる。そしてそれは容易に、彼ら本来の道を|違《たが》わせることになる。人間を喰らう|徒《ともがら》≠ェそのことに悩み、使命に従事する|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ触反する……愛情は、彼らにとって|脅《きょう》威《い》の共通項となった。
ともあれアシズは、世界のバランスよりも自分一人の愛情、その再生を選び――必然の結果として、彼を追う者たち、元同志たる|討《う》ち手らと戦うようになった。
フレイムヘイズは、絶対に彼を許さなかった。単純な、背信への|咎《とが》からではない。彼の行為を許せば、討ち手らの存在意義は根底から|覆《くつがえ》されてしまうからである。
逆に|徒《ともがら》≠轤ヘ、彼を|畏《おそ》れつつも|敬《けい》服《ふく》した。『欲望の肯定』こそが全ての彼らは、断固として望み目指し、また守り続けるアシズの姿に|感《かん》銘《めい》を受けたのだった。
そんな彼個人の|抗《こう》戦《せん》が、変質し、集団となるのに時間はかからなかった。|古《こ》竜《りゅう》イルヤンカが付き従い、巨人ウルリクムミが服し、|変《へん》物《ぶつ》ジャリを加え、|賢《けん》者《じゃ》モレクを迎え …… |中《ちゅう》東《とう》から小アジアを経て|欧《おう》州《しゅう》に|居《きょ》を移す頃には、彼は対フレイムヘイズ軍団[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]を|率《ひき》いる、世界のバランスにとって最大級の敵となっていた。
名乗りは、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》≠ノ変わっていた。
それは、彼にとって愛する女性と一つになった名だった。
「起動しました」
運ばれる|輿《こし》の上にあるヘカテーが言い、
「来たか」
シュドナイがまびさしの下に目を光らせ、
「ふむ」
ベルペオルが唇の端を|吊《つ》り上げて笑った。
整然と|撤《てつ》退《たい》する[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の中央、地面を滑るように低く飛ぶ竜に乗せた輿の上で、ヘカテーが|錫《しゃく》 杖《じょう》を両手でくるりと振り回す。 数度回して、石突で床を突く。シャーン、と三角の錫杖|頭《とう》にはまった、同じく三角形の|遊《ゆう》環《かん》が、透き通った音色を辺りに|響《ひび》かせた。
錫杖頭から数個、明るすぎる水色の三角形が|零《こぼ》れて、彼女の周囲に舞う。
それらを、|巫女《みこ》たる少女は同じ色の瞳で見回した。
彼女の右、|鎖《くさり》で作った|渦《うず》巻《ま》きに立って|併《へい》進《しん》していたベルペオルが|尋《たず》ねる。
「どの|断《だん》篇《ぺん》だね?」
「起動は|一《いっ》画《かく》のみ、限定的なものなので、まだ分かりません」
ヘカテーはそちらを向かず、ただ目の前にある水色の三角形だけを見つめて答えた。
彼女を挟んだベルペオルと反対側、左を黒馬で|騎《き》行《こう》するシュドナイが|嘲《ちょう》笑《しょう》する。
「ふん、いかに相手が『|小夜啼鳥《ナハティガル》』とはいえ、俺たちの『|大《たい》命《めい》詩《し》篇《へん》』をそう簡単に解読できるものか」
ベルペオルも嘲笑で返すが、向ける相手は違う。
「それはその通りだが、今、一画のみとはいえ起動させられているのも事実だよ。|油《ゆ》断《だん》は禁物さね……それで、把握にはどの程度かかる?」
「防御|外《がい》甲《こう》を抜け、詩の|本《ほん》譜《ぷ》に入れば、|即《そく》座《ざ》に」
「|結《けっ》構《こう》、続けて|監《かん》視《し》しておくれ」
言うと、彼女は自分を乗せた|鎖《くさり》の渦を半回転させて、|陣《じん》の後方を|眺《なが》めた。
遥か後方、モレクの『ラビリントス』が吹き飛んで、山上のブロッケン|要《よう》塞《さい》が、再び|露《あらわ》になっている。その付近で、|紅《ぐ》蓮《れん》の爆発と『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』らしき直線の|虹《にじ》が|迸《ほとばし》り、|交《こう》錯《さく》していた。
(よしよし、|程《ほど》よく追い込んでおくれな、紅蓮の|大《だい》魔《ま》神《じん》)
と、その視線の|端《はし》、
(おや)
|殿軍《しんがり》に、輝きを|朧《おぼろ》に揺らす光の幕が|翻《ひるがえ》った。
(思わぬ大物が出張ってきたね……ウルリクムミめ、中央軍で攻勢をかけて、|撤《てっ》退《たい》する我が方に敵の|矛《ほこ》先《さき》を押し出させたか……相変わらず見事な|戦《いくさ》運びよな)
うちに欲しいくらいだ、と惜しみつつ、反対側のシュドナイに声をかける。
「シュドナイ」
「見ている。そろそろガープあたりが救援の|要《よう》請《せい》に――」
来た。
「|軍《ぐん》師《し》殿!」
ボン、と|浅葱《あさぎ》色の火花を上げて、ベルペオルの|傍《かたわ》ら、やや低空に、人形を四方に引き連れたガープが現れた。宙に浮かぶ騒がしい男は、焦りを顔に態度に表している。
「かねてご|懸《け》念《ねん》の通り、|敵《てき》右翼の|迫《つい》撃《げき》が本格化しております!」
彼が|慌《あわ》てるのも無理はない。
敵は、フレイムヘイズ兵団の副将。
「|先《せん》陣《じん》を切っているのは『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』です!」
ベルペオルは、見れば分かる報告に、一応|頷《うなず》く。
「そのようだね。将軍[#「将軍」に傍点]、我々は『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』まで相手にする気はないよ」
「介入の|隙《すき》を与えず|潰《つぶ》せばいいのだろう?」
|当《とう》意《い》即《そく》妙《みょう》に返すと、シュドナイは後衛に向けて馬首を返した。その傍ら、言い置く。
「くれぐれも、俺の|可愛《かわい》い|頂《いただき》の|座《くら》<wカテーを危険な目に|遭《あ》わせないでくれよ」
「将軍の|頑《がん》張《ば》り次第だね」
そんな二人の|応《おう》酬《しゅう》に、無表情に前を見るヘカテーが付け足した。
「私はあなたのものではありません」
シュドナイは笑って肩越しに手を振り、自分の戦場に向かう。
|闇《やみ》の|雫《しずく》<`ェルノボーグは、|要《よう》塞《さい》の中を音もなく走る。
アシズの元に戻り、新たな命令を受ける気はなかった。
彼女は、こう言われていたからである――『許す。暴れよ』と。
これまで直接的に彼女への命令を下してきた|宰《さい》相《しょう》が、もういない、ということもある。
自分の全てを張り詰めさせ、住み慣れた|静《せい》寂《じゃく》の要塞を、一つの意図をもって進んでゆく。中央|身《しん》廊《ろう》の、|幾《いく》重《え》にも連なる飾り気のないアーチを|潜《くぐ》って、奥へ、上へ。
走る中、ふと、この地に入城した数百年前の思い出が、|脳《のう》裏《り》を|過《よ》ぎった。
アシズを先頭にした『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』堂々の行進。廊下両側には、無数|様《さま》々《ざま》な[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の同志たちが柱間を埋めて騒ぎ、誰もがこれから始まる戦いに燃えていた。
(そう、主の後に、イルヤンカ、メリヒム、|痩《や》せ牛、ジャリ、ソカル、私……後ろは、ニヌルタ、フワワ、ウルリクムミ、だったな)
|見《み》栄《え》っ張りのソカルが、この入場の順序にこだわったために、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の間で|一《ひと》悶《もん》着《ちゃく》起きたことも、ついでに思い出す。
どうせ自分とイルヤンカが一と二だ、と無視するメリヒムや、なんとか妥協点を探そうと案を出しては|却《きゃっ》下《か》されるモレク、どこでもいいから早く決めてくれとウンザリするフワワ、|喚《わめ》き騒ぐだけのジャリ、功績の順であるべきだと|断《だん》固《こ》主張するニヌルタ、自分は大きくて|邪《じゃ》魔《ま》だから最後で良いとだけ言ったウルリクムミ、激発しそうな者を|諭《さと》すイルヤンカ……
(私は、たしか何も言わなかったのだったか)
彼らの半分は、もうこの世にも|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノも、いなかった。
これからさらに、減るかもしれなかった――彼女自身も含めて。
それはいい、元より|覚《かく》悟《ご》の上、と思う。しかし、なにもせずに全てを終えること、あるいは主と新たな世界を迎えることは、|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニしての|衿《きょう》持《じ》が許さなかった。全てを|賭《か》けて、全てを出し尽くして、|成《せい》否《ひ》を待つ……否、成否の示される時へと向かう。
彼が、そうだったように。
(見ているがいい、痩せ牛……泣いて|蹲《うずくま》ったままの私ではないぞ)
音無しに、彼女は駆ける。
(見ているがいい、痩せ牛……主のために、この私が成すことを)
|要《よう》塞《さい》を、奥へ、上へと。
「――はあっ!!」
降下した|山《やま》肌《はだ》に前|脚《あし》を突き出し、 続いて踏ん張る両後ろ足から 『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』を|噴《ふん》射《しゃ》して急速|反《はん》転《てん》、イルヤンカは再び|巨《きょ》重《じゅう》を夜空に|飛《ひ》翔《しょう》させる。
その分厚い|兜《かぶと》のような|額《ひたい》の上、|片《かた》膝《ひざ》を着いて|衝《しょう》撃《げき》に耐えたメリヒムは、上空を|単《たん》騎《き》疾《しっ》駆《く》する|紅《ぐ》蓮《れん》の|悍《かん》馬《ば》に向けて、続けざまに『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』を二度、三度と放射した。
その三度目の虹が、悍馬の前足を二つとも吹き飛ばして、マティルダは前に放り出される。
「っと、は!?」
「もらった!」
飛び上がる|巨《きょ》竜《りゅう》から、さらに自力で|跳《ちょう》躍《やく》したメリヒムが、サーベルを前にかざして叫んだ。
「なにをよ!?」
空中で一回転したマティルダは、その勢いを乗せて、左手の|矛槍《ハルベルト》を突き出す。
メリヒムは、ガン、とその|矛《ほこ》先《さき》をサーベルで払い、|愛《いと》しい女へとさらに接近。
マティルダは|即《そく》座《ざ》に|漆《しっ》黒《こく》のマント『|夜《よ》笠《がさ》』に飛翔の|自《じ》在《ざい》法《ほう》を展開させ、同時に|矛槍《ハルベルト》を|大《たい》剣《けん》に変え、|盾《たて》を消し、両腕で大剣を握る。まさに|絶《ぜつ》技《ぎ》をしての|間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》、|鍔《つば》迫《ぜ》り合いに持ち込む。
|銀《ぎん》髪《ぱつ》に|金《きん》冠《かん》を|模《も》した|額《ひたい》当《あ》てを頂く、|精《せい》悍《かん》な男。
|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》を鮮やかな紅蓮に|煌《きらめ》かす、|壮《そう》麗《れい》の女。
互いに、|僅《わず》か顔を寄せ合いさえすれば、唇も届く距離。
しかし互いに、|刃《やいば》以外を交わす気は|毛《もう》頭《とう》ない。
「もちろん、おまえを得る勝負を、だ」
ギリギリと合わせた|鍔《つば》元《もと》に力を入れながら、メリヒムは声を|絞《しぼ》り出した。
「おまえをだ、って言わないあなたは好きよ」
冷や汗を浮かべたマティルダは笑って答え、突き放すタイミングを計る。
その直下から、彼女を|噛《か》み砕かんと迫っていたイルヤンカが、不意に両腕を純白のリボンに絡め取られ、巨重の突進を一気に|横《よこ》回転、|明後日《あさって》の方向に投げ飛ばされた。
「ぬうっ!」
その飛ばされた先に、同じリボンで編まれた|網《あみ》を見つけて、イルヤンカは|笑《しょう》止《し》に思う。
「|舐《な》めるな、ツバハア――!!」
口から吐き出した『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』、特大の|噴《ふん》進《しん》弾《だん》を受けて網が引きちぎれた。
「舐める? まさか」
どこからか、平静な声がかけられた瞬間、|千《ち》切《ぎ》れた網が|一《いっ》斉《せい》に|解《ほど》けた。無数のリボンの断片による|吹雪《ふぶき》となって、イルヤンカを取り囲む。その表面に浮かんだ|桜《さくら》色の自在|式《しき》は、
(|爆《ばく》破《は》か!)
思っても、先の|噴《ふん》進《しん》弾《だん》の発射で、全身を|覆《おお》うほどの『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』を|咄《とっ》嗟《さ》に集められない。
(ちいっ、さすがに|儂《わし》と戦い慣れて――)
リボンが全周|一《いっ》斉《せい》に|起《き》爆《ばく》した。|桜《さくら》色の幻想的な|火《か》球《きゅう》が、|竜《りゅう》を包む|炉《ろ》となって|轟《ごう》々《ごう》と燃える。
その火球を見下ろす上空、未だ宙で押し合い|圧《へ》し合いする二人との間に、巨大な|鬣《たてがみ》と仮面に身を|覆《おお》ったヴィルヘルミナが浮かんでいた。
(この程度では、足止め程度にしかならないでありましょうが)
(|牽《けん》制《せい》重要)
ズドン、と、
「!」「!」
その火球をやすやすと打ち破って、|鱗《うろこ》を鈍く輝かす竜が彼女らに突進する。体表は焼け|焦《こ》げていたが、元より|真《ま》名《な》の示すとおりの|頑《がん》丈《じょう》さを誇る|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ナある。
「……|舐《な》めていたようでありますな」
「反省」
言い合う二人は、再び迫るイルヤンカに、鋭くリボンを伸ばすが、
「二度は通じん!」
長い首を|竜《たつ》巻《まき》に変えるかのように|鈍《にび》色《いろ》の『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』が発生、これを跳ね|除《の》けた。
ティアマトーが叫ぶ。
「回避!」
「っく!?」
ヴィルヘルミナは眼前、広がる竜の|翼《つばさ》との|衝《しょう》突《とつ》に対し、前に展開させたリボンをクッション代わりにして危うくかわした。今度は投げ飛ばすだけの|余《よ》裕《ゆう》がない。何度かクルクル回って、ようやく体勢を立て直す。
(いけない)
|鍔《つば》迫《ぜ》り合いを続けるマティルダとメリヒムの真下から、イルヤンカが飛び込んでゆく。
その|尻尾《しっぽ》にようやく|一《いち》条《じょう》、リボンを絡めたが、もちろんそれで止まる突進ではなかった。
(ままよ!)
引っ張られる中、自分からもリボンを引いて、猛烈に加速する。イルヤンカの背中にようやく追いつき、そこからさらに上へとリボンを伸ばす。声とともに。
「|矛槍《ハルベルト》!」
「!」
|要《よう》請《せい》にマティルダが答えて、メリヒムを|鍔《つば》元《もと》で突き放すと同時に左右、数十の|騎《き》士《し》を作り、彼へと|矛槍《ハルベルト》を突き出させる。
「要らぬ|邪《じゃ》魔《ま》を!」
|憤《いきどお》りを|隠《かく》さないメリヒムは、これら数十の|矛《はこ》先《ささ》を軽くいなし、切り払い、|叩《たた》き落とす。最後の一振りは当然、決め手の『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』。
その|迸《ほとばし》った先にあったマティルダは真下へと、落ちるようにかわした。足に絡んだヴィルヘルミナのリボンが引いたのである。
「弓!」
意図せぬ回避にも『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』は|慌《あわ》てず、自分の左右に腕だけを数十組、弓とと もに現し、|射《い》掛《か》けさせた。矢が離れると、腕は|一《いっ》斉《せい》に消える。
|炎《ほのお》の矢が、|逆《さか》巻《ま》く|豪《ごう》雨《う》のようにメリヒムへと|奔《はし》った。
と、今度は彼を、イルヤンカが真上へと押し上げる。|紅《ぐ》蓮《れん》の矢が次々と体に|命《めい》中《ちゅう》して爆発する中を、|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》≠ヘ全く揺るがずに上昇、縮めていた|翼《つばさ》を再び広げ、|滞《たい》空《くう》する。
ヴィルヘルミナに引かれて降りたマティルダ、
イルヤンカに押されて昇ったメリヒム、
双方再び開いた距離で上下、視線を|激《げき》突《とつ》させる。
(やはり、恐ろしく強い)
その場にある全員が、その場にある全員に対して、思った。
本当に決着がつけられるのか、誰にも分からない。
(それでも、戦う)
その場にある全員が、思った。
フレイムヘイズ兵団の左翼、ブロッケン|要《よう》塞《さい》を東から圧迫していたベルワルド集団は、思わぬ苦戦と混乱に見舞われていた。彼らの正面にある敵、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]中央軍の|頑《がん》強《きょう》な抵抗、どころか攻勢によって、その|陣《じん》列《れつ》を大幅に後退させられたのだった。
ほんの少し前まで圧倒的な優位を保っていたはずなのに、と大半の者は思い、焦っていた。
開戦|早《そう》々《そう》の速攻で中央軍の将、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カルを討ち取り、その右翼を構成していた[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]も|撤《てっ》退《たい》したのだから、そう思わない方がどうかしている。
しかし、戦いというものは、有利の中にこそ危険が|潜《ひそ》んでいるものなのだった。
優勢を確信した、ベルワルド集団の|指《し》揮《き》官にしてフレイムヘイズ兵団の副将、『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』カール・ベルワルドは、撤退を始めた[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の|追《つい》撃《げき》に兵を|割《さ》き過ぎたのだった。
優勢なのだから、中央軍に当てる兵は少なくてもいい、という|本《ほん》末《まつ》転《てん》倒《とう》な方針の元、|手《て》薄《うす》になったベルワルド集団は、逆に|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミの|命《めい》によって増強された中央軍の|猛《もう》攻《こう》を受け、圧倒されたのである。
人数だけの即席フレイムヘイズが大多数の彼らは、勝っているときは調子に乗って強さを|発《はっ》揮《き》するが、|難《なん》局《きょく》には全くといっていいほど抵抗力がなかった。たちまち陣列は崩れたって、開戦から稼いでいた距離をあっという間に押し戻されてしまった。
おまけに、この後退によって|連《れん》携《けい》を崩された北のサバリッシュ集団までもが、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]中央軍と左翼による|半《はん》包《ほう》囲《い》の危機に陥り、|総《そう》大将『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』ゾフィー・サバリッシュも、部隊を後方へと下げざるを得なくなってしまった。
その|黒《くろ》森《もり》の、枝葉も茂る|闇《やみ》の中、ゾフィーは地図を|両《りょう》脇《わき》に抱え、|脱《だっ》兎《と》の勢いで逃げつつ、
「カールはどこほっつき歩いてんだい!?」
と|怒《ど》鳴《な》ったが、|相《あい》方《かた》である|払《ふつ》の|雷《らい》剣《けん》<^ケミカヅチ、
「彼を副将に任じたのは君ですぞ、ゾフィー・サバリッシュ君」
またその後ろで机や|天《てん》幕《まく》を引っ|担《かつ》いで走るドウニ、アレックスら、
「人事の成功と失敗は総大将の責だと思うのですが」
「どっちにせよ、今になって言うのは間抜けってもんだわな」
|各《おの》々《おの》即《そく》座《ざ》の反撃を食らっている。
もちろんゾフィーにも言い分はあった。
『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』カール・ベルワルドは、たしかに強力かつ有能なフレイムヘイズではあったが、誰かが自分の上に立つのを嫌う、という|討《う》ち手に多く見られる性格の|一《いち》典《てん》型《けい》でもあった。
大戦に参加する討ち手の中で、仮にでも彼が|心《しん》服《ぷく》しているのは、|要《よう》塞《さい》に乗り込んだ二人とゾフィーだけである。それ以外の、まして自分より弱い者の|指《し》揮《き》になど、服すわけもなかった。
しかし、この大戦における作戦の|大《たい》綱《こう》は、ゾフィーがウルリクムミと戦っている間に、カールが速攻でソカルを討つ、というものだった。そこには、彼の強大な攻撃力が前提として織り込まれていたのだから、彼は結局、副将に配置するしかなかったのだった。
この作戦は|緒《しょ》戦《せん》において狙い通り、カール|率《ひき》いる『ベルワルド集団』によるソカル|討《とう》滅《めつ》という|大《だい》戦《せん》果《か》を挙げることができた。しかし一方で彼が、その大戦果に引き|摺《ず》られて全体の|戦《せん》況《きょう》を読み違えるという、典型的な落とし穴にはまってしまっている。
百戦|錬《れん》磨《ま》の|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》ウルリクムミが、その|隙《すき》を逃すわけもない。未だ十分な余力を残す[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|徒《ともがら》≠轤ヘ、むしろここが踏ん張りどころと、各所で反撃を開始していた。フレイムヘイズ兵団は今、有利さへの|油《ゆ》断《だん》に足を取られて、最も危うい局面を迎えていた。
ゾフィーは、これら危険性に気付いていなかったわけでも、|無《む》策《さく》だったわけでもない。こういう局面もあろうかと、何人か冷静な|補《ほ》佐《さ》役《やく》をつけるなど、一応の処置はしてあった。
ところが、そのカールは補佐役らを振り切って、最前線に飛んでいってしまった(追おうとした補佐役らは、紙の兵士『レギオン』による巧みな足止めを食らっていた)。緒戦の大戦果に気を良くした彼は、次に逃げてい[#「逃げてい」に傍点]る一団を|蹴《け》散《ち》らしてやろうと勇み立っていたのである。
その一団、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の|殿軍《しんがり》に、|不《ふ》思《し》議《ぎ》な光がある。
「イーヤッハー!!」
背後に、緑から|赤《あか》 紫《むらさき》、さらには白までを|朧《おぼろ》に揺らす|極光《オーロラ》を引いて、 馬より一回り大きな|鏃《やじり》が戦場を高速ですっ飛んでいた。鏃は、その前に立ちはだかる紙の兵士たちを、次々と断ち割り、|容《よう》赦《しゃ》なく跳ね飛ばし、最後には|轢《ひ》き|潰《つぶ》してゆく。
「俺様の『ゾリャー』の前に立つんじゃねえ、|有《う》象《ぞう》無《む》象《ぞう》どもがー!!」
鏃の上面に入った切れ込みの中から、|面《めん》覆《おお》いのない|兜《かぶと》を|被《かぶ》った、気の強そうな|顎《あご》髭《ひげ》の青年が顔を|覗《のぞ》かせている。『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』カール・ベルワルドだった。
「いよっ、と!」
|己《おのれ》を乗せた巨大な鏃型の|神《じん》器《ぎ》『ゾリャー』を左に|僅《わず》か傾けて、大回りにターンする。その間も、次々と紙の兵士を突き飛ばし、切り裂いていく。その高速で流れる光景の中、
「ん、味方が付いてきてないな?」
彼はようやく気付いた。
「飛び上がった|奴《やつ》が何人か、『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』に喰われたのは見たわよ」
彼を乗せる神器から、まず|艶《つや》っぽい女の声が、
「それにこのウザったいペラペラ兵、|雑《ざ》魚《こ》どもには荷が重いみたい」
続いて、軽くはしゃぐ声が|響《ひび》いた。
カールと契約し、|異《い》能《のう》の力を与える|紅《ぐ》世《ぜ》の王=c…|一《いっ》心《しん》同体の姉妹、|破《は》暁《ぎょう》の|先《せん》駆《く》<Eートレンニャヤと|夕《せき》暮《ぼ》の|後《こう》塵《じん》<買Fチェールニャヤである。
彼女らはカールの、|指《し》揮《き》官としての|不《ふ》手《て》際《ぎわ》を|嗜《たしな》めるでもない。
「やーっぱ|速《はや》過《す》ぎんのよ、あんた」
「つーか、|強《つよ》過《す》ぎんじゃない?」
むしろ、|揃《そろ》えた声には、己の契約者を誇る風さえあった。
「へっ、当然だろ! この俺様は――」
声に応えて、鏃の後方に引かれていた|極光《オーロラ》が、鳥の|翼《つばさ》を広げるように、両側面にも展開される。翼に触れるものは皆、鋭利な|刃《は》物《もの》で|斬《き》られたかのように上下|真《ま》っ|二《ぷた》つになって吹き飛ぶ。高速で地を|疾《しっ》走《そう》する、それはまるで|一《いち》陣《じん》の|太刀《たち》風《かぜ》だった。
「――『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』だぞ!!」
「ッハハ!」
「ッキャー!」
カールは外見こそ青年だが、実際には数百年を戦い抜いてきた|歴《れき》戦《せん》のフレイムヘイズであり、当然のことながら|愚《おろ》かではない。にもかかわらず、自身の立場や全体の戦局をさほど深刻に受け止めていない。自分たちのいる場所では、事実として敵を倒し、勝っているからだった。
また彼らは、瞬間的に|大《だい》威《い》力《りょく》を|発《はっ》揮《き》する『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』ゾフィー等、特別な|連《れん》中《ちゅう》にこそ及ばないものの、|単《たん》騎《き》の高速|戦《せん》闘《とう》では|屈《くっ》指《し》の強さを誇るフレイムヘイズである。多数の敵に取り囲まれても、さっさと突破して友軍に合流できる、合流さえできれば自分が戦局を逆転させられる、そう本気で楽観していたのだった。
そんな彼らの敗因[#「敗因」に傍点]は、個人のそれに比して|数《すう》段《だん》複雑な集団|戦《せん》闘《とう》に慣れていなかったこと。目の前で|蹴《け》散《ち》らされている敵の姿が、反撃の準備、その一段階であると見抜けなかったこと。そして――敵中に孤立した状態で[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の将軍の前に立ってしまったこと、だった。
自信満々に突き進む彼らの前に、その敗北が、一つ姿を取って現れる。
黒い|鎧《よろい》に身を固め、|剛《ごう》槍《そう》『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』を|携《たずさ》える|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイである。
「ここまででいい。降ろせ、オロバス」
言って、彼は|黒《こく》馬《ば》の|鞍《くら》壷《つほ》を|叩《たた》いた。
黒馬の姿をした|徒《ともがら》=Aオロバスは首を回して|尊《そん》崇《すう》する将に言う。
「しかし、将軍……」
「|騎《き》乗《じょう》したまま全力を出したら、お前が|潰《つぶ》れる。いいから、離れて見ていろ」
シュドナイは笑って、手にある剛槍を軽くかざして見せた。|大《たい》命《めい》遂《すい》行《こう》時にのみ使用を許可される『|三柱臣《トリニティ》』専用の|宝《ほう》具《ぐ》は、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の構成員にとって|畏《い》怖《ふ》の対象である。
オロバスは|恐《きょう》懼《く》して、その足を止めた。
「は……それでは、|存《ぞん》分《ぶん》のお働きを」
「馬鹿言え。存分に、のんびり戦ったりしたら、ババアにどんな|嫌《いや》味《み》を言われるか――」
「来ます!」
ふん、とシュドナイは鼻で笑い、|下《げ》馬《ば》した。手を振ってオロバスを追い払うと、『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』を大きく一振り、右の脇に深く重く|掻《か》い込む。まびさしの|縁《ふち》に|極光《オーロラ》の輝きを映して、待つ。
|戦《せん》野《や》を|疾《しっ》走《そう》するカールら三人は不運にも、彼と出会ったことがなかった。その姿を|視《し》認《にん》しても、紙の兵士の中に一人目立って立つ、|人《ひと》型《がた》の|徒《ともがら》£度にしか思わない。
「|標《ひょう》的《てき》発見だ!」
カールは|凶《きょう》暴《ぼう》に笑って、|刃《やいば》の|翼《つばさ》を広げる『ゾリャー』を加速させる。もちろん、彼も世に名だたる|討《う》ち手である。不用意に仕掛けるつもりはない。
「のこのこ出てくるくらいだから、腕利きかも」
「気い付けてよー!?」
ウートレンニャヤとヴェチェールニャヤの言う程度には|警《けい》戒《かい》もしていた。どころか、
(翼か『ゾリャー』の|衝《しょう》 角《かく》で一当てして体勢を崩し、 背後に回って『グリペンの|咆《ほう》』と『ドラケンの|哮《こう》』を同時に叩き込んでやる)
必勝の戦法を|躊躇《ためら》わず取るつもりだった。『グリペンの咆』、『ドラケンの哮』というのは、彼を乗せる|鏃《やじり》型の|神《じん》器《ぎ》『ゾリャー』の両側面に伸びる|極光《オーロラ》の翼を|凝《ぎょう》 縮《しゅく》、 流星に変えて敵に叩き込む、『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』最強の|自《じ》在《ざい》法《ほう》である。
|威《い》力《りょく》こそメリヒムの『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』に及ばぬものの、|連《れん》射《しゃ》や|誘《ゆう》導《どう》が自在に行えるため、|汎《はん》用《よう》性は非常に高い。『ゾリャー』で高速移動しながら、この攻撃を連続で|叩《たた》き込まれて無事だった者は王≠ノもいなかった。|緒《しょ》戦《せん》で|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カルを討ち取ったのも、同じ戦法だった。
「いくぜ二人とも、|咽喉《のど》の調子は!?」
「いい感じょ」
「じゃんっじゃん歌いましょー!」
ただ、彼ら三人には、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の誇る『|三柱臣《トリニティ》』が|一《ひと》柱《はしら》、将軍|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイによる本気の攻撃を受ける|覚《かく》悟《ご》が、圧倒的に足りていなかった。シュドナイはソカルと違い、|油《ゆ》断《だん》などしていなかった。開戦当初のように、油断する状況でもなかった。
カール・ベルワルドは、仕掛けを誤った。『ゾリャー』の|突《とつ》撃《げき》ではなく、最初から『グリペンの|咆《ほう》』と『ドラケンの|哮《こう》』という最強の力によって|牽《けん》制《せい》すべきだったのである。
シュドナイは、迫る『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』にではなく、|己《おのれ》を取り囲む『レギオン』に|怒《ど》鳴《な》った。
「オルゴン! 右を伏せさせろ!!」
声を受けて、彼の右側にあった紙の兵隊たちが|一《いっ》斉《せい》にバラリと地面に落ちる。
「な」「えっ」「へ?」
カールらが|不《ふ》審《しん》の言葉を口にする前に、まだかなり間合いが開いていたはずの敵、その手にしていた|剛《ごう》槍《そう》が、『ゾリャー』左の横合いからぶん回されてきた。
とんでもない、城の|尖《せん》塔《とう》ほどもある大きさになって。
それは左側面にある|極光《オーロラ》の|翼《つばさ》を見る間に吹き散らして|衝《しょう》突《とつ》、
バガッ、
と重く硬い打撃音を戦場に|響《ひび》かせた。
「うぐっ!?」「ひっ!」「あっ!?」
三人は回転する天地の中で叫んだ。
数秒で、上にあった地面が『ゾリャー』にぶつかる。吹っ飛ばされ、|墜《つい》落《らく》した、と理解できない。あまりな|大《だい》打撃に、彼らの頭と体は|痺《しび》れていた。
そんな、|悠《ゆう》長《ちょう》でやわな敵の頭上に、シュドナイは|膝《ひざ》から下だけを|虎《とら》に変えて|跳《ちょう》躍《やく》していた。
(念を押すまでもないようだが)
元の大きさに戻していた右手の剛槍『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』に今一度、|容《よう》赦《しゃ》のない全力を注ぎ込む。
(|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》≠ニは知らぬ仲でもない……せめて|手《た》向《む》けに、この|一《いら》撃《げき》を贈ろう)
右腕だけで大きく上に振りかぶり、振り下ろす。
「く、そ……――」
本能のように『ゾリャー』を再び走らせようとしたカールは、今わの|際《きわ》に、見た。
剛槍の|穂《ほ》先《さき》が――再び巨大化して、数十に分裂して、 |濁《にご》った|紫《むらさき》色の|炎《ほのお》を|纏《まと》って、 逃げる場所を|寸《すん》地《ち》も与えぬ重量の雨となって――降ってくる|様《さま》を。
「――――っ!!」
|怖気《おぞけ》を誘う|地《じ》響《ひび》きに一瞬|遅《おく》れて、|濁《にご》った|紫《むらさき》色の|炎《ほのお》が|煉《れん》獄《ごく》のように|溢《あふ》れかえった。
|極光《オーロラ》の揺らめきはその内に溶け、すぐに呑まれて、消えた。
ヴィルヘルミナ・カルメルは……|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーのフレイムヘイズ、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は……常に悩み、それでも全力で戦ってきた。
恋する男を敵に回して。
彼女が、その恋する男・|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムのことを、
(嫌な|奴《やつ》)
と思うのは、彼が全く単純であるからだった。
マティルダを愛する|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ、それだけしか頭にない。心の内に他者を入れる余地を一切持っていない。彼が見つめるのはマティルダ一人きり、向き合う行為も戦い一つきり。
そんな彼だから|惹《ひ》かれたのか、あるいは理由などないのか。
|一《ひと》目《め》、彼を見てからずっと、ただただ、想わされる[#「想わされる」に傍点]――|忌《いま》々《いま》しいことに。
(嫌な奴)
いっそ、利用するために近付いてきてくれれば、|刹《せつ》那《な》の夢に|浸《ひた》ることもできた。
そうして裏切られ、捨てられれば、怒りや|幻《げん》滅《めつ》で|諦《あきら》めることもできた……だろう。
しかし彼は、ヴィルヘルミナが最初に見た、見て、恋した姿のままで在り続けた。
|一《いち》途《ず》に、一人だけを、一つの行為で、ひたすらに追い続ける、その姿であり続けた。
彼は裏切らない。
彼は|脇《わき》目《め》を振らない。
彼は振り向くことはない。
だから、それでも追い続けてきた。
追い続けて、|遂《つい》にここ[#「ここ」に傍点]まで来てしまった。
どちらも|退《ひ》けない、退かせられない、戦いの場に。
彼が見つめ続けてきた女性、彼女にとって|無《む》二《に》の友と一緒に。
(本当に、嫌な奴)
メリヒムは、このヴィルヘルミナの胸中を、全て知っている。全て知って、それでも彼女に何もしない、目も向けない、話しかけない、もちろん、振り向くことなど、|到《とう》底《てい》。
マティルダも、全て知っている。全て知って、それでも自分の前進を決して止めようとはしない。立ち|塞《ふさ》がる者が、他でもないメリヒムであっても、であるからこそ、当然。
(本当に)
ヴィルヘルミナには、この世の全てが、互いの|因《いん》果《が》で|縛《しば》り合う|牢《ろう》獄《ごく》のように思えた。分かっていても、知っていても、どうしようもないことばかりが|襲《おそ》い掛かってくる……否、自分から向かって行かざるを得なくなる。言い訳しようのない、自分の意思で。
(本当に、なんて世界)
彼女は全てを|隠《かく》す。
仮面の中に|懊《おう》悩《のう》を。無表情の奥に|葛《かっ》藤《とう》を。
当の相手二人には隠しきれていない、どころか|見《み》透《す》かされているらしい。
が、それでも、隠し秘めねばならなかった。胸の内を明かして、一体なんになるのか。感情のままに|咆《ほ》えてどうにかなるようなら、とっくにそうしている。どうにもできないからこそ、せめての可能性、万が一、億が一の可能性を求めて、全力で|足掻《あが》いているのである。
仮面と無表情を、その決意の表れとして。
(なのに)
メリヒムは、マティルダの|在《あ》り|様《よう》、全てに|痺《しび》れている。それと|真《ま》逆《ぎゃく》の|無《ぶ》様《ぎま》さは絶対に見せられない。彼女のように|鮮《せん》烈《れつ》に、|凛《り》々《り》しく、|敢《かん》然《ぜん》と在らねばならない。
マティルダは、決定的な終着点に向かい突き進んでいる。それを食い止めるためには、この恐るべき『両翼』を、さらには待ち構えるアシズを、早々に倒さねばならない。
男の心を得るために、
|無《む》二《に》の友を救うために、
ヴィルヘルミナ・カルメルは仮面を|被《かぶ》り、戦う。
(なのに、なにも捨てられない)
二人のフレイムヘイズと『両翼』の激しい戦いは、舞台をブロッケン|要《よう》塞《さい》の|一《いっ》端《たん》に移していた。山上に被さった|王《おう》冠《かん》の突起、その一つである|尖《せん》塔《とう》の周りを、双方どちらが追うでも逃げるでもなく|旋《せん》回《かい》し合う。塔の|途《と》切《ぎ》れる先端、|双《そう》方《ほう》再びの|激《けき》突《とつ》が近い。
それに気付いて、|竜《りゅう》の額《ひたい》で|片《かた》膝《ひざ》を着き耐えるメリヒムは、|眉《まゆ》根《ね》を寄せた。
(ちいっ、ここまで押し上げられたか)
(なんの、ものは考えよう……空に近くば、我らに利がある)
暴風の|化《け》身《しん》のように旋回するイルヤンカが、音なき声を返す。
『両翼』は改めて、マティルダとヴィルヘルミナ、|宿《しゅく》敵《てき》二人の|手《て》強《ごわ》さを感じていた。彼女らは、『両翼』最大の弱点を計算に入れて、空中戦を展開していたのだった。
弱点とは他でもない、彼らの主・アシズが『|壮《そう》挙《きょ》』を実行中の『|首《しゅ》塔《とう》』である。|威《い》力《りょく》射《しゃ》程《てい》ともに|無《む》双《そう》の『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』や、|大《だい》打撃力を持つ『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』の|噴《ふん》進《しん》弾《だん》は、この方向に放てない。
彼女らはその|僅《わず》かな|隙《すき》となっている角度を|挺《て》子《こ》に、決して近付かせまいとする『両翼』を相手に、今ある高所にまで勝負の場を持ち上げていた。
かわして攻撃、逃げて攻撃、その中、『両翼』の|射《しゃ》線《せん》上に『首塔』が重なった瞬間、僅かに上昇――という作業の積み重ねである。|尋《じん》常《じょう》な集中力、状況|判《はん》断《だん》能力ではなかった。
付き合わされた彼らも、追い回し反撃を避ける、攻撃して敵を逃がさず、という長時間の|緊《きん》張《ちょう》と反射と力の|消《しょう》耗《もう》に、いい|加《か》減《げん》疲労の色も渡い。心底から、恐ろしい|敵《てき》手《しゅ》への|畏《い》怖《ふ》が|湧《わ》く。
それでもイルヤンカは、全力を振り|絞《しぼ》る要求を、|盟《めい》友《ゆう》に突き付ける。
(やれるな、|虹《にじ》の|翼《つばさ》=H)
(返答が必要か?)
メリヒムは着いた|片《かた》膝《ひざ》に、行動の起点となる力を|溜《た》める。
四者の解放される空が、近い。
その|薄《うす》霧《ぎり》に満ちる行く手を、|紅《ぐ》蓮《れん》の|悍《かん》馬《ば》で|騎《き》走《そう》するマティルダは険しい顔で見上げる。
(アシズを|盾《たて》にする手も、もう限界ね)
(『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』、|手《て》筈《はず》は)
アラストールが、契約者の右腕に絡んだリボンで後ろに引かれるヴィルヘルミナに|訊《き》く。
|無《む》論《ろん》、返ってくる声は、いつものように平静そのもの。
(|万《ばん》全《ぜん》であります)
その|鬣《たてがみ》からは、|一《いち》条《じょう》の|罠《わな》、秘めたる切り札が、緩く大きく細く、風に流れている。
(|撹《かく》乱《らん》要求)
ティアマトーが、それ[#「それ」に傍点]の|察《きっ》知《ち》を|阻《はば》むための、|派《は》手《で》な攻撃を求めた。
彼女らは、この|期《ご》に及んでなお、『両翼』の恐ろしさを身に染みて思い知る。
彼らの攻撃の死角、アシズの|籠《こも》る|塔《とう》という絶対有利な条件を得ていながら、|亀《かめ》の歩みのようにしか戦局を進めることができない。|死《し》角《かく》の効果を過信して|迂《う》闊《かつ》な攻撃や位置取りを行えば、|即《そく》座《ざ》に『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』か『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』が|襲《おそ》ってくる。
|覚《かく》悟《ご》や勢い程度ではカバーしょうもない実力の|伯《はく》仲《ちゅう》が、彼女らの最も避けたかった消耗|戦《せん》を延々、強いていた。もちろん『両翼』の狙いはそこにあるのだろう。分かっていても……そう、なによりもまずい、と分かっていても、みすみす|術《じゅっ》中《ちゅう》にはまってしまった。
激戦に身を置いたとき特有の高揚と万能感によって、未だ疲労こそ自覚してはいないが、限界は遠からず来る。マティルダは、その確かな予感を得ていた。
(ただでさえ、『ラビリントス』の破壊で一度、全力を放出してるってのに……本当、モレクの|奴《やつ》ってば、よくもあんな逃げようのない罠を張ってくれたもんだわ)
と|苦《にが》く思う反面、さらなる|苛《か》烈《れつ》さで彼女らを襲う『両翼』の動きを冷静に|分《ぶん》析《せき》もする。
(あの二人、大きなの、仕掛けてくるわね)
(うむ、くれぐれも|警《けい》戒《かい》しろ)
アラストールは、あえて言葉で注意を|喚《かん》起《き》する。
この|塔《とう》を|旋《せん》回《かい》し出して以降、『両翼』は『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』も『|幕《ばく》 瘴《しょう》 壁《へき》』も放ってこない。|牽《けん》制《せい》程度になら使ってもよさそうなものを、あえて封じているというからには、この先……|尖《とが》った塔の先に広がる|虚《こ》空《くう》で、なにか仕掛けてくるのに相違なかった。
もちろん彼女らの方も、無策なままそれを迎え|撃《う》つつもりはない。 |細《さい》工《く》は|流《りゅう》 々《りゅう》、あとはどっちが|上手《うま》く相手を引っ掛けられるか。ここが勝負の|正《しょう》念《ねん》場《ば》だった。
|遂《つい》に迎える空への散開に備え、マティルダは|緊《きん》張《ちょう》の糸を改めて、強く太く|縒《よ》り合わせる。
(さて、|埒《ちら》が明くのか、明けられるのか……)
(明けるのであります)
(断固)
ヴィルヘルミナとティアマトーによる立て続けの念押しに、
(そんなに信用ないのかしら)
マティルダは一人、胸の内で|苦《く》笑《しょう》した。
ジャリが、『両翼』と|討《う》ち手二人の|激《げき》突《とつ》に備え、『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』で『|首《しゅ》塔《とう》』の|頂《いただき》を|覆《おお》う。
その内部、|大《だい》天《てん》秤《びん》の上で繰り広げられる光景は、劇的な変化を見せていた。
「……感じる……」
中心には、上から、アシズの|化《け》身《しん》たる鮮やかな青い|炎《ほのお》、古い|自《じ》在《ざい》式《しき》を刻んだ金属板、女性の眠る|棺《ひつぎ》、と縦に三つ連なっている。
「……感じるぞ、私とティスの存在が、|解《ほど》けて糸になってゆくのを……」
その連なりを囲んで立ち上っているのは、複雑な文字列からなる、二重の|螺《ら》旋《せん》。
ティスと呼ばれた少女とアシズ自身である、この|渦《うず》巻《ま》く二つの文字列は、上に近付くに従って|径《けい》を縮め、|遂《つい》には青い炎の中に一点、収束している。
まるで、燃料をつぎ込まれて燃える、巨大な|燭《しょく》台《だい》だった。
アシズの声を受ける|鳥《とり》籠《かご》と少女こと、|宝《ほう》具《ぐ》『|小夜啼鳥《ナハティガル》』は、二重螺旋の燭台から少し離れた場所に、|疎《そ》外《がい》されるように浮かんでいる。少女の|虚《うつ》ろに開いた口からは休みなく、声なき歌が|紡《つむ》ぎ出されていた。既に顔の下半分が、アシズによる支配の|証《あかし》たる|紋《もん》様《よう》に侵食されていた。
「だが、まだだ……まだ、『|両《りょう》界《かい》の|嗣《し》子《し》』を織り成すには、まだ足りぬ……」
もはや、アシズの声に|鷹《おう》揚《よう》さはなかった。どこまでも切迫し、|熱《ねっ》狂《きょう》し、|陶《とう》酔《すい》している。
ジャリの三つの|面《おもて》から|湧《わ》き出す大声にも、|僅《わず》かな力みが漂っていた。
「私の苦しみは!」「王の|栄《えい》誉《よ》の前では力を失います!」「今こそ助かる道を探しましょう!」
彼らは知らない。彼らが望みを託す自在式を、|監《かん》視《し》している者が近くにあることを。
目前に見える悲願の|成《じょう》就《じゅ》には、しかし未だ無数の|艱《かん》難《なん》が待ち受けている。
ゆるりとした後退を続ける[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の中央。
ヘカテーは前に並べた数個の、明るすぎる水色の三角形を同色の瞳に照り輝かせて言う。
「どの式の|断《だん》篇《ぺん》か、おおよその|目《め》星《ぼし》がつきました」
「見せてもらおうか」
|傍《かたわ》ら、皿状にした|鎖《くさり》に乗るベルペオルが、ようやくの報に皿を回して体ごと振り向いた。
『|三柱臣《トリニティ》』の|巫女《みこ》は、三角形を四つ集め、三角|錐《すい》を組み上げる。それはすぐ人間|大《だい》ほどに広がり、内部にアシズが『|小夜啼鳥《ナハティガル》』に|解《かい》読《どく》させた一方、『分解』の|自《じ》在《ざい》式《しき》を浮かべた。
ベルペオルは、口元に細い指を当てて考える。
「やはり、存在を|一《いっ》旦《たん》『分解』するための式か……しかしまた、|随《ずい》分《ぶん》と長く古めかしい。試行|錯《さく》誤《ご》されていた時代のもののようだが」
「第二層|基《き》幹《かん》部《ぶ》、十八案目の|抜《ばっ》粋《すい》です」
巫女の|即《そく》答《とう》に、|軍《ぐん》師《し》は驚きを見せた。
「十八案目? そんな古いものが実用に耐え得るのかね」
「|詩《し》篇《へん》との共振に、|僅《わず》かなブレがあります。恐らくおじさま[#「おじさま」に傍点]は、オリジナルの式を改変し、最低限の稼働を行えるか、実験するつもりだったのでしょう」
珍しく、ベルペオルは困った風に|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》いた。
「勝手に断篇を持ち出した|挙《あげ》句《く》、不用意な改変まで……頭が良いだけの馬鹿者[#「頭が良いだけの馬鹿者」に傍点]め、今度見つけたら、少しきつい|灸《きゅう》を|据《す》えてやらねば」
「……」
ヘカテーは少し宙を見つめて、|隣《となり》に顔を向けぬまま言う。
「|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオル」
「なんだね、改まって」
ベルペオルは、|透《とう》徹《てつ》の|氷《ひょう》像《ぞう》のような横顔に、僅かな感情が揺れるのを見て取った。
「おじさまに、|酷《ひど》いことをしないでください」
少女の|懸《け》念《ねん》に、|嘲《ちょう》笑《しょう》ではなく|苦《く》笑《しょう》とともに答え、安心させる。
「実際に痛めつけるわけではないよ。しつこく言って聞かる、ということさ。我が|同《どう》胞《ほう》を多く無為な[#「無為な」に傍点]|騒《そう》動《どう》に巻き込み、死なせたことくらいは、せめて反省させねばの」
ヘカテーの|頬《ほお》に|安《あん》堵《ど》の緩みを見つつ、ベルペオルはもう一度、|密《ひそ》かに溜息を吐いた。
(といっても、どうせ本人には、毛ほども責任の自覚などないのだろうが)
彼女ら[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]は、|大《たい》命《めい》を果たすための重要な作業を、とある|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ手に|委《ゆだ》ねている。ところがこの王≠ヘ、|在《あ》り|得《え》ないほどに優れた頭脳と|独《どく》創《そう》性を備えている半面、その場の興味や思い付きで言動や目的がコロコロ変わる、超のつく変人でもあった。
そんな彼だったから、『|大《たい》命《めい》詩《し》篇《へん》』と呼ばれる[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]|秘《ひ》蔵《ぞう》――|遂《すい》行《こう》の助力を|要《よう》請《せい》された彼以外は 『|三柱臣《トリニティ》』しか触れたことのない|代《しろ》物《もの》である――の自在式の一部を 外部に持ち出したのも全く他意のない、その場で思いついた名案[#「その場で思いついた名案」に傍点]だったのだろう。
あるいはなにか、必要な実験に使うつもりだったのかもしれないが、彼の興味は散る|花《か》弁《べん》の向き以上に移ろいやすい。一つの戦いに巻き込まれた際、彼はこれをあっさり手放し、どころか、すっかり忘れてさえいた。事の|露《ろ》見《けん》も、全く不用意な彼自身の告白からである。そういう、自身の何もかもに、危険なまでに自覚のない男なのだった。
ともあれ、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]がヘカテーの|共《きょう》振《しん》を頼りに数十年、所在を探索し続け、ようやく突き止めたとき、 それは、とんでもない王≠フ抱く|宿《しゅく》 願《がん》の重要な一部……|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズによる『|壮《そう》挙《きょ》』の|中《ちゅう》核《かく》となっていた。
常はこの手の|騒《そう》動《どう》には|傍《ぼう》観《かん》を決め込むベルペオルが、『|三柱臣《トリニティ》』始め主要な王≠多数集めて|参《さん》戦《せん》したのは、ヘカテーを至近まで運んで、アシズの持つ式が[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]から持ち出されたものであることを確認させ、また同時に始末[#「始末」に傍点]させるためなのだった。
元より彼女らは、アシズの『壮挙』などに、なんの興味もない。[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]は、独自の『|大《たい》命《めい》』|遂《すい》行《こう》のために動いている。
そのアシズの持つ|自《じ》在《ざい》式《しき》を確認したヘカテーは、今まさに、始末をしようとして、
「?」
「どうしたね、ヘカテー?」
|僅《わず》かに|覗《のぞ》いていた感情を、再び大命遂行の|厳《げん》格《かく》さの奥に|隠《かく》した。
「|断《だん》篇《ぺん》は、一つではないようです」
「なんだって?」
ベルペオルの|驚《きょう》愕《がく》に、少女は明確な|証《しょう》拠《こ》を示す。
「共振のブレは、式の改変だけが原因ではありません。もう一つ、他に持ち出されていた式との相互|干《かん》渉《しょう》です」
全く、あの天才は、|余《よ》計《けい》なことだけは|遠《えん》慮《りょ》なく、無数に行う。
「やはり、少しくらいは痛い目に|遭《あ》わせた方が良いやも知れんの」
「……はい」
今度ばかりは、ヘカテーもかばいきれなかった。
|尖《せん》塔《とう》の|頂《いただき》に広がる空、正反対の方向へ、二人のフレイムヘイズと『両翼』は飛ぶ。
マティルダは|紅《ぐ》蓮《れん》の|悍《かん》馬《ば》の|鬣《たてがみ》に身を伏せつつ、『両翼』の仕掛けを|捉《とら》えようとして、
(さあ、どんな奥の手を――、っ!?)
驚いた。
イルヤンカが霧を巻いて反転、巨大な体をうねらせて真っ正直に追ってくる。その|額《ひたい》に立つメリヒムは、右手だけでサーベルを握り、右足を僅か前に出して|半《はん》身《み》に構えている。
「はっ!」
笑いとも掛け声とも取れる叫びをあげて、マティルダは|馬《ば》首《しゅ》を返した。|炎《ほのお》の|矛槍《ハルベルト》を|一《ひと》振《ふ》りで|大《たい》剣《けん》に変えて、握りを強くする。リボンで引かれるヴィルヘルミナは、なにも言わない。
双方、|虚《こ》空《くう》の強風を切り、空中で、真正面から、接近する。
メリヒムは『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』を放たない。
イルヤンカは『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』を吐かない。
マティルダは『|騎士団《ナイツ》』を出さない。
ヴィルヘルミナはリボンを伸ばさない。
ただ、互いの敵に視線だけを差し向ける。
マテイルダは最高の|緊《きん》張《ちょう》の中、
(本当に)
眼前に迫る巨大な|竜《りゅう》の突進を、
(本当に、なんて世界)
その|額《ひたい》に立つ|銀《ぎん》髪《ぱつ》の剣士を、
(なにもかも)
|睨《にら》み|据《す》えて、大剣を繰り出す。
(なにもかもが、熱く燃えてる!!)
ギッ、と音も重なる|一《いっ》瞬《しゅん》五《ご》撃《げき》、大剣とサーベルが|交《こう》錯《さく》して、たちまち|擦《す》れ違った。
「――」
風の中、マティルダは|紅《ぐ》蓮《れん》の|悍《かん》馬《ば》を|錐《きり》揉《も》みさせて、|巨《きょ》竜《りゅう》の|翼《つばさ》と|尻尾《しっぽ》を|紙《かみ》一《ひと》重《え》で避ける。
「――ッヒュ!」
鋭く息を継いだときにはもう、互いに大きく距離を取っていた。再び馬首を返して、止まらず大回りに、同じくこちらに向き直る剣士と竜を夜の中に|捉《とら》える。
と、夜風に大きく|靡《なび》く|炎《えん》髪《ぱつ》、|零《こぽ》れて踊る|火《ひ》の|粉《こ》を入れる|視《し》界《かい》が、
(……?)
どういうわけか、上下に揺れている。
(……なに?)
自分が肩で息をしている。そうと気付いた|途《と》端《たん》、常は|薄《うす》紙《がみ》程度も感じない|鎧《よろい》の重さが、体にのしかかってきた。息を整えようとしても、力を満たそうにも、体が意思について来ない。
マティルダは|愕《がく》然《ぜん》として、
(なんて、ことかしら、はは)
そして笑った。この自分が、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が、息を切らし、疲労している……その実感に、ようやく|襲《おそ》われる。襲われて、しかし口にするのは別のことだった。
「さすがの『両翼』も疲れてるみたいね」
これは|嘘《うそ》でも強がりでもない。|刃《やいば》を合わせて初めて得られた実感である。
イルヤンカの突進、メリヒムの|剣《けん》撃《げき》、ともに|充《じゅう》溢《いつ》する力の|怒《ど》涛《とう》ではなかった。全開と同じ|威《い》力《りょく》の、しかし|消《しょう》耗《もう》した力を振り|絞《しぼ》った|一《いち》撃《げき》だつた。つまり、彼女と同じく、限界が近い。
「|彼奴《きゃつ》らにも、同じく|悟《さと》られていよう」
アラストールは、彼女の言葉ではない部分に向けて、|厳《きび》しく答える。
「いつまでも、|手《て》間《ま》取《ど》ってはいられないのであります」
「勝利|奪《だっし》取《しゅ》」
ヴィルヘルミナとティアマトーは逆に、焦りを声に|滲《にじ》ませた。
マティルダは、それでも笑って拍車をかける。
「そうよね、ここで終わりじゃないんだから[#「ここで終わりじゃないんだから」に傍点]」
疲れたからといって、なにが変わるわけでもない。成すべきことは|山《さん》積《せき》している。死力を尽くしてしか勝てないのだから、死力を尽くすだけ。その先で待つものには、そのとき持っている全力を出すだけ。今からなにを思い|煩《わずら》っても意味のないことだった。
「さあ、行くわよ」
誰にでもなく、自分に言う。
|紅《ぐ》蓮《れん》の|悍《かん》馬《ば》は、『両翼』に向かって突進を始める。
「ヴィルヘルミナ、ティアマトー」
自分の右腕に絡んだりボン、その先に引かれる戦友に言う。
「なんでありますか」
「あなたたちの決め手、頼りにしてるわよ」
返事まで数秒、間が開いた。
「そちらこそ、真っ向の勝負、後れを取らぬように」
「必勝」
マティルダは返事をせず、笑うだけに止めた。
戦いの終局を目指して、紅蓮の悍馬を|疾《しっ》駆《く》させる。
残った全ての力を振り絞る。振り絞って、燃やす。
(後のことは、|一《いっ》切《さい》考えるな……今を、燃やせ……今を、どこまでも)
力に|溢《あふ》れていたときには念じる必要のなかった当たり前のことを、強く念じる。
遠くから、彼女ら目がけてまっしぐらに飛んでくる|巨《きょ》竜《りゅう》イルヤンカ、その|額《ひたい》に立つメリヒムの背に、輝く|光《こう》背《はい》の|如《ごと》き円形の大きな|虹《にじ》……|虹《にじ》の|翼《つばさ》≠ェ、現れていた。
(|綺《き》麗《れい》ね――|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qム)
ほんの一瞬だけ、彼とヴィルヘルミナのことが|脳《のう》裏《り》を|過《よ》ぎりかけて、しかし打ち払った。あの翼を広げる彼への|礼《れい》儀《ぎ》として、彼女に偉そうに言った自分の責任として、全力を出し切る。
紅蓮の悍馬は|蹄《ひづめ》の音高く、空を一直線に|翔《かけ》る。
正面、イルヤンカは、遂に最後の『|幕《ばく》 瘴《しょう》 壁《へき》』を翼から|噴《ふん》射《しゃ》して加速してくる。さっきのように|擦《す》れ違うことはできない。あの巨体の突進と正面から|激《げき》突《とつ》するしかなかった。
(なんて、敵なのかしら)
しかしこれこそ、これこそまさに、命を燃やすに値する、敵。
マティルダは自分の奥底から、また力が|湧《わ》いてくるのを感じた―― その力が、燃える―― 全てが研ぎ澄まされてゆく―― 起きる|事《じ》象《しょう》をなにも逃さない―― 世界が、自分と一つになる。
メリヒムの背に輝く|翼《つばさ》が一瞬で|凝《ぎょう》縮《しゅく》される。
(でかいのが来る!)
常のように、彼の『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』の発射を感じて、
(いや、何か違う)
世界と一つになった自分との、|違《い》和《わ》感《かん》を得る。
(ここだ!!)
全くの|勘《かん》で、違和感から遠ざかる方向、下へと、|悍《かん》馬《ば》の|疾《しっ》駆《く》を大きく|逸《そ》らす。
さっきまで走っていた軌道に、特大の太さを持つ『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』が突き抜けた。
(かわし――)
(まだだ!!)
アラストールが言葉でなく|思《し》考《こう》としての危機感を伝える。
気付いたとき、通り過ぎた『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』が過か後方で、馬の避けた方向へと跳ね返っていた。
(――ッ!?)
アラストールの危機感に、マティルダは反射だけでかわした。
瞬間、
|胴《どう》を傾けた悍馬の半分が、|虹《にじ》の激流に|削《けず》りとられ、|消《しょう》滅《めつ》した。
マティルダは傾けた馬から落馬するような形で、さらに体を投げ出している。が、それでも右足は、破壊力の余波に|晒《さら》され、ズタズタにされていた。
「うっ、あ!?」
|痺《しび》れる|寸《すん》前《ぜん》の、最大の|激《げき》痛《つう》が彼女を|襲《おそ》う。
が、それより、
(しまった――『|空軍《アエリア》』、生き残ってたのか!)
マティルダは戦いのことを思う。
見えなくとも、『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』の反射の|種《たね》は分かっていた。
宙に浮く、|硝子《ガラス》の|盾《たて》である。五日前の『|小夜啼鳥《ナハティガル》』|争《そう》奪《だつ》戦で、彼女が|殲《せん》滅《めつ》したはずの……天に無数|舞《ま》って『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』を|自《じ》在《ざい》に反射、変質させる|燐《りん》子《ね》=B剣士メリヒムの持つ、攻撃のための盾[#「攻撃のための盾」に傍点]。その生き残りか|新《しん》造《ぞう》かを、|闇《やみ》と霧の|彼方《かなた》に、今まで使わずに|隠《かく》していたのである。
この、たった|一《いち》撃《げき》のために。
それだけで十分だった。
互いが力を出し尽くした結果として現れる、危ういバランスを崩す。
勝負はそれで一気に、崩された側へと傾く。
今のように。
イルヤンカが|駄《だ》目《め》押《お》しのように突進してくる。その|翼《つばさ》からは『|幕《ばく》 瘴《しょう》 壁《へき》』を|噴《ふん》出《しゅつ》して、彼の後方に避けることを防いでいる。小回りの利かない部分はメリヒムが『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』で補う。
まさに無敵とも思える[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の『両翼』。
その二人と、マティルダとヴィルヘルミナは数十度に渡り戦い抜いてきた。
まともに当たって勝てるわけがないことは、理解していた。
だから、そのための|罠《わな》を、この戦いの中で仕掛けていた。
(傷を、負ったのは、好機だ)
マティルダは、|激《げき》痛《つう》の中、宙に放り出されても、そう思っていた。
(ヴィルヘルミナが、一緒だから、不用意な『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』や、『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』は、撃たない)
自分の右腕に絡んだリボンを、その先にいる戦友を、感じる。
(突進と|剣《けん》撃《げき》で、直接、|止《とど》めを刺しに、決着を付けに、来る……近付いて、来る!!)
閉じかけていた両の|灼《しゃく》眼《がん》を、ガッと見開く。
「だああああ――っ!!」
|刹《せつ》那《な》、彼女とヴィルヘルミナを取り囲むように|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》が|湧《わ》き上がり、天を焼き尽くすような規模で『|騎士団《ナイツ》』が現れた。
メリヒムもイルヤンカも、これを悪あがきとは思わなかった。しかし、策らしい策があるとも思わなかった。彼女の限界が近いことを、二人は当然のように|看《かん》破《ぱ》していたのである。
|突《とつ》撃《げき》してくる『|騎士団《ナイツ》』の|槍《やり》隊《たい》を、イルヤンカは全く問題とせず、|己《おの》が硬さでぶち破った。
メリヒムは|無《む》謀《ぼう》にも突き掛かってくる者らを|斬《き》り伏せつつ、その奥、最愛の敵へと向かう。
|猛《もう》火《か》の奥に、彼女がいた。
(|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》!!)
(マティルダ・サントメール!!)
思いと想いは正反対に、しかし力の向きは全く同じに、『両翼』は|宿《しゅく》敵《てき》へと|襲《おそ》い掛かる。
と、
その彼女がものすごい勢いで移動した。
否、
自分たちの方が、動いていた。投げ飛ばされていた。
「ぬうっ!?」
イルヤンカは、自分の体中に、リボンが|幾《いく》条《じょう》も絡んでいるのに気付いた。
(『|騎士団《ナイツ》』の展開は、これを隠すためか!)
気付いて、|訝《いぶか》しんだ。
投げ飛ばして、一体なんの意味があるのか、|俄《にわ》かには理解できなかった。彼は、|真《ま》名《な》の通りの|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》=A|鎧《よろい》を|纏《まと》った|竜《りゅう》なのである。どこに|叩《たた》きつけられても傷一つ――
(策のあることを)
ヴィルヘルミナは|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》の中、|分《ぶん》析《せき》する。
(気付かれる前に、叩き落さねば)
分析して、時間が足りないと気付く。
(|己《おの》が長所ゆえの|油《ゆ》断《だん》を)
自分の投げの速度では、イルヤンカの|滞《たい》空《くう》時間が長すぎることに。
(自覚する前に、叩き落さねば)
数秒ない判断の元、彼女は自分の|鬣《たてがみ》の一本を引く。投げ飛ばされて裏返る、しかし背中と同じく分厚い|鱗《うろこ》で|覆《おお》われた腹部へと、
「――はあああっ!!」
全く彼女らしくない|強《ごう》引《いん》さで、|壮《そう》絶《ぜつ》な両足による|蹴《け》りを叩き込んだ。
「ぬおおっ!?」
イルヤンカは驚いた。もちろん、この程度の蹴りでダメージなど受けようはずもない。
ゆえに考える――彼女は無意味なことをしない――なら打撃に意味はない――それが狙いではない――この打撃によって|齎《もたら》されるもの――それは自分の押し出された、先――?
|薄《うす》霧《ぎり》の中から、さっきまで|双《そう》方《ほう》周囲を回っていた、巨大な|要《よう》塞《さい》の|尖《せん》塔《とう》が現れ、
(!!)
目を焼くほどに|眩《まぶ》しく、|桜《さくら》色に発光した。
正確には、|旋《せん》回《かい》する間に|幾《いく》重《え》も塔に絡み付けていた|一《いら》条《じょう》の細い|紐《ひも》。
そこに|延《えん》々《えん》刻み込まれた|形《けい》質《しつ》強化の|自《じ》在《ざい》式《しき》が、発光していた。
形質の、強化――|尖《とが》った、塔の。
(しまった!?)
イルヤンカは、双方でこの塔の周りを回っていたとき、既に二人が――ヴィルヘルミナが、|罠《わな》を張っていたことにようやく気付いた。『|幕《ばく》瘴《しょう》壁《へき》』を展開する間がない。
(この、加速を得るための、蹴りか!!)
ズドグッ、と|不《ぶ》気《き》味《み》な音を立てて、|巨《きょ》竜《りゅう》は背中から尖塔に突き刺さった。自在法で強化された尖塔の鋭い|先《せん》端《たん》が、|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》≠フ鱗を砕き、突き破る。
「ゴアアアアアアア――――――!!」
ブロッケン山の|虚《こ》空《くう》、広く戦場まで|断《だん》末《まつ》魔《ま》が|轟《とどろ》き渡った。
「イルヤンカ!?」
さすがのメリヒムが|驚《きょう》愕《がく》する。
イルヤンカ、『両翼』の左は、|盟《めい》友《ゆう》に向かって|咆《ほ》えた。
「離れ、ろ!!」
|古《こ》竜《りゅう》は最期を自覚する。未だかつて破られたことのない|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》≠フ|鎧《よろい》を、まさか投げを多用する『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』によって破られるとは。常にマティルダの|補《ほ》佐《さ》に回っていた彼女の方が、切り札を|隠《かく》し持っていようとは。|油《ゆ》断《だん》、油断、全くの……油断。
(これだけの、|自《じ》在《ざい》法《ほう》を、あの戦いの、内に――見、事だ!)
彼の命そのものたる|鈍《にび》色《いろ》の火花が、体のど真ん中、大きく開いた傷口から|噴《ふん》出《しゅつ》する。巨大な|槍《やり》と化した|塔《とう》が、勢いを減じぬまま|貫《つらぬ》いてゆく。未だ彼の上にある『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』が、地面に突き立てたリボンによって|牽《けん》引《いん》していた。このまま下まで|貫《つちぬ》き通すつもりらしい。
(もはや、|大《だい》規模な『|幕《ばく》 瘴《しょう》 壁《へき》』は、張れぬ)
どころか、今にも命の火が尽きようとしている。しかし、|古《いにし》えより|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズに付き従ってきた|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニして、|無《む》為《い》な死を迎えることだけは絶対に受け入れられない。
(主よ、|僅《わず》かの、力を……!!)
鈍色の火花を眼前に受けるヴィルヘルミナ、
「!?」
その足が、黒煙にも似た『|幕《ばく》 瘴《しょう》 壁《へき》』によって捕らえられた。
同時に、イルヤンカは|無《む》理《り》矢《や》理《り》に体を|捻《ひね》る。
「グアオオオオオ!!」
強化された塔が、巨重の無理矢理な動作によって、中ほどから折れた。
「う、あ!?」
「|退《たい》避《ひ》!!」
できない。|執《しゅう》念《ねん》のような『|幕《ばく》 瘴《しょう》 壁《へき》』によって捕らえられたまま、ヴィルヘルミナはイルヤンカと折れた|尖《せん》塔《とう》の|崩《ほう》落《らく》に巻き込まれていった。
強い夜風に|土《つち》煙《けむり》も薄れた尖塔の|頂《いただき》、折れた跡に、|瓦《が》礫《れき》の平面ができていた。
その円形の決戦場、両端に、残された二人は降り立つ。
「……やってくれたな」
メリヒムの顔に混じるものが、初めてマティルダへの|愛《あい》を越えていた。
それは、|紛《まぎ》れもない、怒り。
「お互い様、でしょ?」
マティルダは、自分の右腕に絡んだリボンに手をやって言う。
そのリボンは、地に着く前に|千《ち》切《ぎ》れていた。
「これでも、まだ……あんな、馬鹿な約束を?」
彼女の体力は、ほとんど限界に近い。ヴィルヘルミナの投げを|隠《かく》すための『|騎士団《ナイツ》』で、残された力のほとんどを使ってしまった。『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』の余波に|晒《さら》された足も、ほとんど引き|摺《ず》っているような状態である。
メリヒムはそれを見て取り、しかし当然のようにサーベルを構える。
「|無《む》論《ろん》だ。他でもない……イルヤンカも|了《りょう》解《かい》済みのこと。それに、言ったはずだ。我が主は、絶対にお許し下さる、むしろお喜び頂けるだろう、とな」
「そりゃ、種族と身分を越えた恋は、あっちが|先《せん》輩《ぱい》だし、ね……」
マティルダの笑いにも、今一つ力がない。
「|降《こう》伏《ふく》しろ――とは言わん。おまえは絶対に、受け入れはすまいからな」
メリヒムは|冷《れい》厳《げん》と言う。
言って、既に踏み込んでいた。
「ぅわっ!?」
眼前、触れ合う|寸《すん》前《ぜん》まで互いの唇が近付いていた。
飛びのいたマティルダに向けて、|遠《えん》慮《りょ》無用の|斬《ざん》撃《げき》が|奔《はし》る。|炎《ほのお》の|大《たい》剣《けん》を出してようやくこれを防いだ彼女は、踏ん張ろうとした右足の|激《げき》痛《つう》に顔をしかめる。
「痛っ……」
「だが、マティルダ・サントメール、|愛《いと》しき女よ。おまえは結局、敗北する」
言う|傍《かたわ》ら、流れるようなサーベルの|煌《きらめ》きが、どんどん突き込まれてくる。
|歩《ほ》をまともに運べないマティルダは、必死にこれを手先の速さのみで|凌《しの》いでいくが、こんな戦い方では、そう長く持たない。といって、なけなしの力による『|騎士団《ナイツ》』など出したところで、この男には毛ほどの障害にもならない。
(相当|消《しょう》耗《もう》してるはずなのに……やっぱり、なんて、強い!)
メリヒムは最後に|一《ひと》振《ふ》りして、わざと|鍔《つば》迫《ぜ》り合いに入る。
「その体力で、負傷で、もはや我が主を|討《う》つことは|叶《かな》うまい」
「く――」
相変わらずの、剣を介した会話。
「我ら『両翼』と当たった時点で――敗北はもう、決まっていたのだ」
ガラ、と背後、|瓦《が》礫《れき》の落ちる音にマティルダが気付けば、|塔《とう》の|縁《ふち》に追い詰められている。
まるで|絶《ぜっ》体《たい》絶《ぜつ》命《めい》を絵に描いたような状況に、彼女は笑う[#「笑う」に傍点]。
「そう、かしら?」
「――」
アラストールが、なにか言おうとして、黙った気配があった。
そのことに、メリヒムは二人の間に割り込まれたような不快げな顔になった。その気分を払うように、まるで確認し直すかのように、言う。
「俺は、おまえを、愛している」
マティルダが思わず赤面するような、|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な形での――傷ついた女を|断《だん》崖《がい》に追い詰め、剣の|刃《やいば》越《ご》しに|囁《ささや》く――愛の言葉である。
「ゆえに、俺はおまえをみすみす、主の手にかけさせたりはしない。ここで止める」
「あんまり|縛《しば》ると、逃げる|口《こう》実《じつ》にされちゃうわよ」
「構わない。俺は、逃がしたりはしない」
どうしてこれ[#「これ」に傍点]を、ほんの少しでもヴィルヘルミナに向けてくれないのか。
どうしてよりによってこれ[#「これ」に傍点]が、自分のような戦いしか知らないガサツ者に向くのか。
マティルダは深刻な、今さらの悩みに|襲《おそ》われた。
そのとき、不意に、
「――っと!?」
メリヒムが鍔迫り合いの力を抜いた。
呼び込まれるように数歩、痛めた足で|蹈鞴《たたら》を踏んだマティルダは、危うく体勢を立て直す。
(なんの、つもり?)
見た先、剣を離したときの感覚よりも少し遠い、塔の縁にメリヒムは立っていた。
そこへ向き直ろうとして、マティルダはギョッとなった。
「な!?」
もう二人、|等《とう》距離を開けた塔の縁に、メリヒムが立っている。
「これは……」
振り向き確認することで、ようやく分かった。七人に分身したメリヒムが、|塔《とう》の中心に立つ彼女を取り囲んでいたのである。今までに見たことのない、彼の奥の手だった。
霧を混ぜた風の中、マティルダは|紅《ぐ》蓮《れん》の|大《たい》剣《けん》を構え直す。
普段なら|在《あ》り|得《え》ない、|背《せ》筋《すじ》の寒さを感じながら。
二人の|対《たい》峙《じ》する真下、すでに元の形を留めていない塔の|瓦《が》礫《れき》に混ざって、腹に|大《おお》穴《あな》を開けた|竜《りゅう》が横たわっている。傷口から|噴《ふん》出《しゅつ》していた|鈍《にび》色《いろ》の|火《ひ》の|粉《こ》は、いまや|僅《わず》か風に踊るのみ。
その竜の腹の下から、瓦礫を押し|退《の》けて、ヴィルヘルミナが|這《は》い出した。|鬣《たてがみ》は各所引き|千《ち》切《ぎ》れ、|盛《せい》装《そう》は白い|肌《はだ》を各所に|覗《のぞ》かせ、仮面も半分以上は割れ砕けて、用をなさなくなっている。
その割れた|神《じん》器《ぎ》から、ティアマトーが変わらない声を出す。
「|容《よう》態《だい》報告」
「かなり……危険で、あります、な」
這い出した姿勢のまま、ヴィルヘルミナは答えた。体中ガタガタで、力が出ない。なんとか体を這いずらせて瓦礫の一つに|辿《たど》り着き、背中を預けて座る。
(早く、体力を取り戻して、マティルダを、助けないと)
まだ、そんなことを思っていた。彼女は絶対に|諦《あきら》めないのである。
とはいえ、塔を丸ごと|槍《やり》に変えるほどの|自《じ》在《ざい》法《ほう》で|消《しょう》耗《もう》した後の重傷である。いかに|治《ち》癒《ゆ》能力を持つフレイムヘイズといえど、そう簡単に回復はできない。しかし、それでも、できる限りのことはするのだった。友情と、愛のために。
と、そんな彼女の前で、僅かに瓦礫が音を立てた。
重く顔を上げた先、死に|瀕《ひん》したイルヤンカが、|薄《うす》目《め》を開けて、彼女の方を見ていた。
ボロボロのヴィルヘルミナは、死にゆく|宿《しゅく》敵《てき》へと、自然に声をかける。
「……お別れで、ありますな」
「その、ようだ」
竜は敵意を向けるでも|怨《えん》嗟《さ》の声を上げるでもなく、|穏《おだ》やかな視線を、ただ座った宿敵へと向ける。そのまま数秒、なにをか思ってから、深い|吐《と》息《いき》のように言った。
「……あいつは、よせ[#「よせ」に傍点]……苦労する、だけだ」
数百年からの付き合いを|滲《にじ》ませた、笑いを含んだ声だった。
ヴィルヘルミナは僅かに|眉《まゆ》根《ね》を寄せる。
が、そのときにはもう、竜は彼女を見ていなかった。|虚《うつ》ろな瞳を宙に向けながら、僅かに開けた口から、|寂《せき》蓼《りょう》とも|悲《ひ》嘆《たん》とも……あるいは|恍《こう》惚《こつ》とも取れる声を、僅かに|零《こぼ》す。
「主……お先、に、|参《まい》  ――    」
まるで中身の抜けた|砂《すな》細《ざい》工《く》のように、|竜《りゅう》の巨体が崩れた。数秒持たず、鋭い|牙《きば》、鉄の|甲《こう》羅《ら》と|鱗《うろこ》、長い首、太い手足、大きな|翼《つばさ》、しなやかな尾、全てが|鈍《にび》色《いろ》の|火《ひ》の|粉《こ》となって、散った。
「……」
ヴィルヘルミナは、見る者のなくなった場で、ようやく渋い顔を作った。マティルダにも、メリヒムにも、イルヤンカにさえ……他人に自分の心のなにもかもがお見通しなのは、|甚《はなは》だ面白くなかった。仮面まで|被《かぶ》っているというのに。
その、アンフェアと思える全てに向けて、彼女は|罵《ば》倒《とう》の|呟《つぶや》きを漏らした。
「……お|節《せっ》介《かい》で、あります」
「|妥《だ》当《とう》意見」
|薄《はく》情《じょう》なパートナーを、彼女は自分の頭をゴンと|殴《なぐ》ることで|制《せい》裁《さい》した。
(この男の強さは底なしだ)
マティルダは、今さらのように|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムという敵に|戦《せん》慄《りつ》していた。
彼女を囲む七人の剣士は、全員|同《どう》方向にサーベルを倒し、一人一色ずつ足した虹の輪を作っている。その輝きには、この|土《ど》壇《たん》場《ば》に至ってなお、絶大な破壊力が満たされていると分かる。
これが|収《しゅう》縮《しゅく》するのか、全方向からの|照《しょう》射《しゃ》が来るのか、マティルダには判断がつかなかった。|遮《しゃ》蔽《へい》物のない空に飛ぶのは間抜けのすることだろう。|塔《とう》だからといって階下に|潜《もぐ》ったら、上空に待機しているだろう『|空軍《アエリア》』の|即《そく》時《じ》反射で塔ごと|粉《ふん》砕《さい》される。
(どうする)
メリヒムが見せたこの|自《じ》在《ざい》法《ほう》は恐らく隠していたのではない、|変《へん》幻《げん》自在|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》のヴィルヘルミナと常に一緒だったからだ、相手が単独でないと、足を止めないと、こんな|悠《ゆう》長《ちょう》な自在法は使えない――そう流れるように|分《ぶん》析《せき》する。|相《あい》棒《ぼう》のいない背中が、夜風を受けて寒かった。
(一人で何とかしないと……彼女のためにも)
決意は、しかしそれだけでは何の意味もない。起きる現象を|捉《とら》え、|勝《しょう》機《き》を探す。
「マティルダ・サントメール、愛する女よ」
起きる全てに気を張るマティルダへと、メリヒムの一つが口を開いた。
「最後に、言おう」
もう一つが、サーベルを鋭く、輪の中の愛する女へと向ける。
「俺は、決して|手《て》加《か》減《げん》をしない」
別の一つ含め、全員写し身のように、同じ動きを見せた。
「俺に残された全力で、お前を倒す」
さらに別の一つの決意通りに、虹の輪の輝きが増す。
「おまえを愛し、愛されるべき者として」
中心にあるマティルダに、また違う一つが|誓《ちか》う。
「受け止めてくれ、愛する女よ」
次の一つの声に、行動への|予《よ》兆《ちょう》が|匂《にお》う。
「俺の、全てを」
最後の一つの言葉を切りとして、
(……)
破壊の力が指向性を持つ。
「……受け取るのは」
マティルダは|灼《しゃく》眼《がん》を見開き、静かに|呟《つぶや》いて跳んだ。
「好きじゃない」
前へと。
彼と同じく[#「彼と同じく」に傍点]、七つに分かれて[#「七つに分かれて」に傍点]。
(な)
|想《そう》定《てい》外の事態に驚いたメリヒムは|僅《わず》かな間、破壊をどの点で|炸《さく》裂《れつ》させるか迷った。
(に!?)
そして、その迷いの内に、マティルダは|企《き》図《と》を果たしていた。
分身と見えたのは、彼女そっくりに形成された『|騎士団《ナイツ》』。それら六つが、七つに分かれたメリヒムの間、破壊の力の|塊《かたまり》たる|虹《にじ》に割って入り、|自《じ》爆《ばく》していた。
「う――」
|塔《とう》の上に、|紅《ぐ》蓮《れん》と虹の混ざり合った、|凄《すさ》まじい|爆《ばく》炎《えん》が荒れ狂った。
「――おおおお!!」
メリヒムは、思わずサーベルを持った手で、自らを|庇《かば》う。
その、ほんの|一《いち》動作を遅らせた彼は、
爆発によって分身を解いた彼は、
|炎《ほのお》をまともに受けながらも、
|大《たい》剣《けん》を振り下ろしてくる、
|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の女の姿を、
見た。
[#改ページ]
[#改ページ]
5 遥かな歌
|紅《ぐ》蓮《れん》と|虹《にじ》の|炎《ほのお》、力|溢《あふ》れる乱流によって、|塔《とう》が|根《ね》元《もと》からゆっくりと倒れ、やがて自重による|崩《ほう》落《らく》が始まった。その崩落は塔だけに留まらず、周囲の土台や|胸《きょう》壁《へき》も巻き込んで、|大《だい》質量による|雪崩《なだれ》となる。
|濛《もう》々《もう》と上がる|土《つち》煙《むり》の中、|瓦《が》礫《れき》の間を|一《いち》条《じょう》のリボンが直線に走って一人を|掴《つか》み、少し迷うように間を|空《あ》けてもう一条が伸ばされ、さらに一人を捕らえた。
先の|絶《ぜっ》叫《きょう》に続く塔の|倒《とう》壊《かい》は、『|首《しゅ》塔《とう》』、|要《よう》塞《さい》、|裾《すそ》野《の》の戦場へと、余すところなく|晒《さら》される。
その土煙と|轟《ごう》音《おん》から、|辛《かろ》うじて逃れる要塞の|一《いっ》郭《かく》、
「――っ! 痛ぅ……」
崩落により|覗《のぞ》いた|岩《いわ》肌《はだ》に放り落とされたマティルダは、右足と、新たに刻まれた肩口の切り傷による|激《げき》痛《つう》に顔を|顰《しか》め、それでもまず、自分ともう一人を助け出した戦友、|隣《となり》でへたり込んだヴィルヘルミナに確かめた。
「無事、だった、ヴィルヘルミナ?」
「……それは、こっちの|台詞《せりふ》であります」
「|当《とう》方《ほう》軽傷」
「とても、そうは見えぬが」
ティアマトーには、アラストールが答えた。
天下の『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』が、仮面も半分以上|壊《こわ》れ、|鬣《たてがみ》も|千《ち》切《ぎ》れたのか縮めたのか分からないという、ひどい|有《あり》様《さま》である。服も破れてへたり込む全体からは、常の|謹《きん》直《ちょく》さまで抜けている。
爆発をまともに受け、右足と肩口を負傷したマティルダの方も、マントと|鎧《よろい》、いずれも|襤褸《ぼろ》布《きれ》同然となっている。|消《しょう》耗《もう》が色濃く、というより|隠《かく》しようもなく、|表《おもて》に出ていた。
しかし、そんなことよりも[#「そんなことよりも」に傍点]、とマティルダは痛む肩と右足を|庇《かば》いつつ立った。その拍子に、襤褸の胸元と|裾《すそ》が崩れて、|煤《すす》塗《まみ》れの白い|肌《はだ》が|覗《のぞ》く。その上に|鮮《せん》血《けつ》が|幾《いく》筋《すじ》も走った。
「――、っ」
「あまり、世話をかけさせないでほしいのであります」
心とは|裏《うら》腹《はら》にヴィルヘルミナは言って、残ったリボンを|幾《いく》条《じょう》か伸ばした。
ほんの数秒、 それが巡る内に、マティルダは汚れを|綺《き》麗《れい》に|拭《ぬぐ》い取られ、 純白のドレスを着せられていた。 もちろん服の方はついでで、 本当の目的は|包《ほう》帯《たい》による全身の応急手当てである。
「感謝無用」
ティアマトーに先回りされたため、マティルダは小さく|頷《うなず》くだけでその意を示す。純白の|華《か》麗《れい》なドレスは、時と場に似つかわしくないように思えて、しかし実際には|纏《まと》う者の力により、見事なまでに|瓦《が》礫《れき》の野に|一《いち》輪《りん》咲き誇った。その|紅《ぐ》蓮《れん》の花は、すぐ|傍《かたわ》らに|目《め》線《せん》を落とす。
|遂《つい》に勝敗の分かれた長年の|宿《しゅく》敵《てき》が、そこに横たえられていた。
マティルダと同じく|黒《くろ》焦《こ》げで、右腕と両足が斜めに一線、|斬《ざん》撃《げき》の|軌《き》跡《せき》のまま断ち切られている。|溢《あふ》れる力感も今やなく、|零《こぼ》れる七色の|火《ひ》の|粉《こ》も|僅《わず》かな、それは敗者の姿だった。
「俺が、負けたのか」
その宿敵たる男、|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムの、未だ声だけは熱い。敗北を受け入れられないのではない。後れを取ったことを|悔《くや》しく思っているわけでもない。敗北してなお、愛する女に|執《しゅう》着《ちゃく》しているのである。
「ええ……わ、私の勝ち、ね……」
その熱い気持ちの中に、未だ歩みを止めようとしない自分への怒りもあることを感じて、マティルダは|苦《く》笑《しょう》した。
「……|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》≠ニもども、好き勝手やってくれちゃって……! これから大仕事が待ってるってのに」
ヴィルヘルミナの|有《あり》様《さま》にも目をやりながら肩をすくめる、いっそ気楽とすら見える彼女の姿に、メリヒムは怒りを爆発させた。
「大仕事―― 馬鹿な! そんな状態で まだ戦うつもりなのか!? |無《む》茶《ちゃ》、いや無理だ! その体で我が主と戦うなど――!」
叫んで、手足のない体を起こそうとして|挫《くじ》け、それでも叫ぶ。
「おまえはいつから|自《じ》滅《めつ》を|美《び》徳《とく》とするようになった!?」
今までの|貴《き》公《こう》子《し》然《ぜん》とした、切迫した感情に|余《よ》裕《ゆう》ある態度を|纏《まと》っていた男の|豹《ひょう》変《へん》に、マティルダもヴィルヘルミナもきょとんとなった。
「おまえの命と強さは、生きてこそ輝くものだ! 止めろ! 止めるんだ!!」
マティルダは、その|逆《ぎゃく》上《じょう》振《ぶ》りに|嬉《うれ》しさと好意を抱き、しかし憎まれ口で答えた。
「あー、もう、男のヒステリーはみっともないわよ。そんなに叫ばないで。手足|斬《き》り飛ばされて、よくそんなに大声出す元気があるわね……」
|無《む》論《ろん》、そんな元気があるわけではない。|無《む》理《り》矢《や》理《り》に|絞《しぼ》り出しているのである。自分の命を、叫びと変えて。ゆえにこそ、届くと信じて。
「今からでも遅くはない! 我が主も俺も、おまえを死地に駆り立てる|天《てん》罰《ばつ》狂《ぐる》いの|魔《ま》神《じん》とは違う! おまえの戦いは、かつて主も経験されたことだ! 必ず許される! 俺はおまえを愛しているんだ! 必ず守ってみせる! 愛さえあれば、全てが押し通せる! 俺と――俺と生きる道を選べ!!」
しかし、その命を|賭《か》けた言葉は、|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムという男が|遂《つい》に、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメールという女を――彼女は他人の気持ちで止まったりしない、その生きる道は必ずしも命と重なっていないと――理解できなかったことの|証《あかし》として|響《ひび》いていた。
その悲しさ寂しさを|僅《わず》かに抱いて、しかし確かに自分を愛してくれている男への敬意から、マティルダは、|偽《いつわ》りない言葉を贈る。
「愛さえあれば[#「愛さえあれば」に傍点]? あなたらしい言い草だけど、とんでもない|了《りょう》見《けん》違いよ」
彼女は他でもない、自分を最も深く理解し、長も強く愛する魔神が、ゆえにこそ、|辛《つら》く苦しい道を、|己《おのれ》に課した使命から当然のように選択し、自らに強いているのを知っている。
「私を進めているのは、私の意志よ。その先にあるものだって分かってるし、そうするしかないアラストールのことも分かっている」
そして同じく、彼を最も深く理解し、最も強く愛する自分が、その道に自分の生を重ねられていることを、幸せに思う。
「でも、だから、私はそれを選択する」
彼も、自分も、心底から望んで[#「心底から望んで」に傍点]決めたことを、彼女は知っている。
それが、理解し合い、愛し合った結果であることを、幸せに思う。
「あなたの愛では、私は止められない。 つまり今、 私は、あなたを、とうとう、ふっちゃった――ってわけ」
メリヒムは、決定的な言葉に|衝《しょう》撃《げき》を受けて、全ての意欲を失い、静まった。|観《かん》念《ねん》するように目を閉じ、言う。
「――……そう、か……」
彼にとってこの|所《しょ》作《さ》は、自分を殺せ、と言うサインだったが、|生《あい》憎《にく》とマティルダは友人思い[#「友人思い」に傍点]だった。あるいは意地悪[#「意地悪」に傍点]だった。常の|癖《くせ》として|後《おく》れ|毛《げ》を払い、言う。
「さて、あなたの出した条件だったわね……勝った方が相手を好きにする……ったく、女に出す条件じゃないわよね」
「……?」
メリヒムは、今となってようやく、自分の言い出した約束が、他人によっても通用され得ることに気付いた。
その|身《み》勝《がっ》手《て》な男を見下ろすマティルダには、もちろん彼を――必殺のつもりで振り下ろした|大《たい》剣《けん》の|致《ち》命《めい》傷《しょう》を避け、あまつさえ反攻の|斬《ざん》撃《げき》まで放ったとんでもない男を――むざむざと殺してやるつもりなどない。彼がここにいるという幸運は、全く得がたいことなのだから。
(そう、ね)
万が一――あくまで、万が一のことがあったとき、彼にも協力して|貰《もら》おう、と思う。
(ヴィルヘルミナにも、少しくらい|役《やく》得《とく》があったって……いいはず)
少しだけ、彼女に対する自分の|傲《ごう》慢《まん》さについて考えてから、
(怒らない、よね、ヴィルヘルミナ……?)
できるだけおどけた調子で言う。
「知ってるでしょうけど、私はそういう|奴《やつ》には|惨《ひど》いわよ? ……ねえ?」
当然メリヒムが|討《う》たれるものと思い、助命|強《ごう》談《だん》の機を計っていたヴィルヘルミナは、|目《め》線《せん》を合わせた戦友の意図を、直感的に察した。
(なっ、あ!)
察して、激しく|動《どう》揺《よう》する。マティルダがこれから口にすることは、おそらく自分が望んでいた喜び……悲しみを|前《ぜん》提《てい》とした、喜びだった。
メリヒムの方は、自分が生かされていることに、なんの意味があるのか分からない。
(……?)
愛する女の手にかかるのならば|本《ほん》望《もう》と思い、しかしその死に何らかの条件でも付くのか、という程度にしか、今の自分の立場、その重要性を考えていない。
マティルダは、そんな女と男に向けて、
「二人[#「二人」に傍点]で」
言葉をそこで切った――否、
切らされた。
黒い|杭《くい》が、
マティルダの白いドレスの右胸から、|生《は》えていた。
ヴィルヘルミナとティアマトーは、それ[#「それ」に傍点]が何であるか、知らなかった。
メリヒムは知っていたが、それ[#「それ」に傍点]がなにを意味しているのか、理解できなかった。
三人ともが数秒、ぽかんとそれ[#「それ」に傍点]を見つめる。
最初に理解し、叫んだのは、アラストールだった。
「マティルダ!!」
「っ」
答えようとしたマティルダの胸で、|杭《くい》の先端が開いた。
|繊《せん》細《さい》な、硬く細く黒い、指。
ようやく我に返り、叫ぼうとするヴィルヘルミナ、
「――」
杭は胸から生えたのではなく、背後から突き通されたのだと知るティアマトー、
「――――」
マティルダの後方、|瓦《が》礫《れき》の|隙《すき》間《ま》から、一直線に黒い杭が伸びているのを見たメリヒム、
「――――!!」
三人の前で、開いた指が|竜《たつ》巻《まき》のように回って、後ろに引き抜かれた。
がぼっ、と|奇《き》妙《みょう》な音がして、彼女の右胸に大穴が開く。
「――っ」
声にならない|吐《と》息《いき》がマティルダの唇から漏れ、メリヒムの顔を、ヴィルヘルミナの手を、自身のドレスを、|噴《ふん》出《しゅつ》した大量の血が、赤く熱く染めた。
くず折れる彼女を、ヴィルヘルミナは代わりに立ち上がるように、受け止めた。
(軽、い――)
酔い|潰《つぶ》れてベッドに運んだときよりも、戦いで負傷し岩陰に引き|摺《ず》ったときよりも、町での|余《よ》計《けい》な寄り道を止めるときよりも、|喧《けん》嘩《か》して|胸《むな》倉《ぐら》を|掴《つか》み合ったときよりも。
(なに、この、軽さ――)
ぞっとなった。
命が、抜けていく。
戦友――ともだちの、命が。
今の、黒い手が、持って行ってしまう。
(だめ、返、して)
彼女を柔らかに横たえるや、その手の伸びてきた場所に、仮面の割れた、表情を|顕《あらわ》にした怒りの視線を向け、跳んでいた。まるで、持ち去られたものを追いかけるように。
(返して)
|瓦《が》礫《れき》の下から、|獣《けもの》の耳を|生《は》やした|漆《しっ》黒《こく》痩《そう》身《しん》の女が現れていた。
笑っている。|黒《こく》衣《い》の内にある|白《はく》面《めん》が、大きく笑っている。
残った力、振り|絞《しぼ》る、なにも、なにも、頭に、ない。
ただ敵に、|闇《やみ》の|雫《しずく》<`ェルノボーグに、飛び掛かる。
(返せ!!)
飛び掛かった|一《いち》撃《げき》目《め》、信じがたいことに、放った無数のリボンを全てかわされた。
その黒衣の|流《りゅう》麗《れい》な|体《たい》捌《さば》きの一点で、また左腕が黒い|杭《くい》として伸び、右肩を|貫《つらぬ》かれる。|瞬《しゅん》時《じ》に引き抜かれ、肩から先の感覚を失うが、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』の戦闘力に本体の損傷は関係ない。
二撃目、引き抜かれた左腕にリボンを絡めたが、ぐにゃりと伸びて投げを打てない。
逆にリボンや腕の絡んだ奥から、|獣《けもの》の爪を生やした鋭い|蹴《け》りが伸びてくる。|咄《とっ》嗟《さ》にこれを|捉《とら》えた瞬間、その足裏が爆発した。|爆《ばく》圧《あつ》による|大《だい》打撃を受け、リボンも|千《ち》切《ぎ》られ、逃げられる。
三撃目、離れようとする細くしなやかな影に、リボンの先を|刃《やいば》とした|槍《やり》衾《ぶすま》を差し向ける。
が、その芸のない、焦りからの直線的な攻撃は、チェルノボーグの|痩《そう》身《しん》に|不《ふ》釣《つり》合《あ》いな、右の|巨《きょ》腕《わん》で一撃|粉《ふん》砕《さい》される。リボンで捕らえても|先《さっき》のように伸びると判断して、|一《いっ》旦《たん》離れる。
(ぐ、う!)
これら数秒の|交《こう》錯《さく》を経て、ヴィルヘルミナはようやく肩の痛みを感じた。貫き通され、|鮮《せん》血《けつ》の|噴《ふ》き出す傷口をリボンで|塞《ふさ》ぎつつ、爆発の打撃にきしむ体を|躍《おど》らせて距離を取った。|彼方《かなた》、瓦礫の上を無音で数度、跳び渡って止まったチェルノボーグへと向き直り、攻撃に備える。
と、そこで向き合った顔に、
(――)
ヴィルヘルミナは、鏡を不意に見たような驚きを感じた。
(――仮面だ)
白面に、喜びではない笑いが|貼《は》り付いている。彼女だからこそ、分かった。それが本物の表情でないと。しかしもちろん、意味を|尋《たず》ねるような|真似《まね》はしない。会話できるような|余《よ》裕《ゆう》も余力も、とっくにない。相手が答えないことも分かっている。
仮面が、仮面だと分かり合うことが、
戦いが、戦いにどれほど命を|賭《か》けて|挑《いど》んでいるか感じ合うことが、
互いの間にある、全て。
瓦礫の野に倒れ伏したマティルダは、力なく地に着いた|頬《ほお》にまで、|零《こぼ》れた赤い命が広がっているのを感じた。やけに熱いものだ、と、どこか|呑気《のんき》に思っていた。
(血、か……)
薄く目を開けた彼女は、自分の血を浴びたメリヒムが震えているのを、知る。
(たくさん、流しちゃった、な)
倒れる中、思った。
(これで、万が一じゃ、なくなった、か)
今までは、傷つき疲れたとはいえ、それでもなお、ヴィルヘルミナの言うように、アシズと死力を尽くして戦う、という選択|肢《し》が残っていた。しかし、
(これじゃ、もう私は、戦えない)
胸の、ご|丁《てい》寧《ねい》にも傷口を|抉《えぐ》ってズタズタにしてくれた傷は、深かった。|消《しょう》耗《もう》しきった体にこの|重《じゅう》傷《しょう》では、ろくな|治《ち》癒《ゆ》も望めない。自分自身の戦闘能力は、|潰《つい》えた。さすがは『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の|隠《おん》密《みつ》頭《がしら》にして世に知られた暗殺者、最高のタイミングだった。
しかし、絶命の|窮《きゅう》地《ち》にありながら、
(人間なら|即《そく》死《し》だ……フレイムヘイズって、大したものだわ)
恐ろしいほどに、|思《し》考《こう》が澄み切っていた。
そこに、とある一つの実感が、在った。
「アラス、トール」
「マティルダ」
彼女の呼びかけの意味を知る|魔《ま》神《じん》は、静かに重く、答えた。
「私[#「私」に傍点]、行くね[#「行くね」に傍点]」
|血《ち》溜《だ》まりの中から、ゆっくりと立ち上がる彼女、その言葉に、メリヒムは|唖《あ》然《ぜん》となった。
「なにを、している――マティルダ・サントメール!?」
メリヒムは、それでも行こうとする彼女が、冷静な判断力を失っていると思った。自分の|葬《ほうむ》ってきた無数のフレイムヘイズらの最期と、その立ち上がる姿が重なる。
「まさか」
契約者と深い|友《ゆう》誼《ぎ》を結んだ|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ、しばしば行う最後の|悪《わる》足掻《あが》きの手段があることに気付いて、彼は焦った。
「まさか|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠、|顕《けん》現《げん》させるつもりか」
その手段とは、『契約著の死、直後の顕現』――つまり、|己《おのれ》を|容《い》れていた器=契約者を破壊された王≠ェ|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ帰らず、契約でこの世に|縛《しば》られた身のままで顕現し、残された存在の力≠フ枯れるまで戦い、死ぬ――というものである。
メリヒムは、|厳《げん》然《ぜん》たる|理《り》屈《くつ》で、その無駄死に[#「無駄死に」に傍点]を止める。
「|無《む》駄《だ》だ! 持って一瞬だ、何の意味もないぞ!」
普通に考えるのなら、彼の言うことは全く正しかった。最後の顕現という手段を採るには、|天《てん》壌《じょ》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールの存在は、あまりにも大きすぎるのである。
そもそもこの手段は、内にある|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ大きいほどに、意味がなくなる。人間を喰らい存在の力≠得る、という準備段階を経ずに強大な存在を顕現させるのは、|薪《まき》のない|大《たい》火《か》を燃やすに等しい。この世に縛られた|大《たい》火《か》は、その場ですぐに燃え尽きる。
ゆえに当然と言うべきか、この|無《む》茶《ちゃ》な自殺行為を行う王≠ヘ、ほとんどいない。|徒《ともがら》≠フ間でも、この行為は、自己防衛を無視した暴走として|捉《とら》えられていた。
アラストールがその手段を取ったとしても、メリヒムの言うように、一瞬持てばいい方である。彼は他の|徒《ともがら》≠ニは違う、|紅《ぐ》世《ぜ》$^正の|魔《ま》神《じん》なのである。|顕《けん》現《げん》の成功すら怪しい、あるかどうかも分からない一瞬[#「あるかどうかも分からない一瞬」に傍点]で、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズという世に聞こえた|自《じ》在《ざい》師《し》を――『|都《みやこ》喰《く》らい』によって得た存在の力≠未だ|莫《ばく》大《だい》な量|押《お》さえる存在を――|仕《し》留《と》められるわけがない。
もしそれが、彼女の前進を支える希望、アシズ|討《とう》滅《めつ》の切り札なのだとしたら、|無《む》謀《ぼう》にも|程《ほど》があるというものだった。
(まさか)
とメリヒムは焦った。
(その暴走によって、愛に二人、|殉《じゅん》じるつもり、なのか)
あるいは自分こそが欲していたかもしれない|終《しゅう》焉《えん》の姿を、この二人[#「この二人」に傍点]が演じ、消える。
その|妄《もう》想《そう》に、男としての|猛《もう》烈《れつ》な|嫉《しっ》妬《と》と|憤《ふん》怒《ぬ》が|湧《わ》き上がった。
「そんな方法は|博打《ばくち》とすら言えん――! ただの|自《じ》暴《ぼう》自《じ》棄《き》だ!!」
必死に、|理《り》屈《くつ》と感情、双方から制止する。
しかし、マティルダは答えなかった。
ただ一息、胸の|重《じゅう》傷《しょう》へと必死に、残った存在の力≠集中させ、呼吸を整える。
できるだけ強く、彼に、これからの|誓《ちか》いを求めるために。
「さっきの、続き、やり直すわ」
「……な、に?」
|訝《いぶか》り、自分を見上げるメリヒムに、マティルダ・サントメールはもう一度、息を吸い、力を満たして、口を開く。
「約束は三つ。もう人を喰わないで。もう世を騒がすことはしないで。私の後に現れる『|炎《えん》髪《ばつ》|灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』を、私の愛のために[#「私の愛のために」に傍点]可能な限り|鍛《きた》えて。約束破ったら|酷《ひど》いわよ?」
「なにを、言っている?」
|暴《ぼう》挙《きょ》に|反《はん》駁《ばく》しょうとしたメリヒムは、彼女の言い分に|咄《とっ》嗟《さ》の返答をし損なった。
(二人一緒に、死ぬつもりでは、ない……?)
メリヒムは、まずそのことに|奇《き》妙《みょう》な|安《あん》堵《ど》を覚え、そして、さらなる深い疑問を抱く。
最後の顕現を行うつもりもないのに、このまま主の元に向かうつもりなのか。それなら本当に、ただ殺されるだけではないのか。その行為に一体なんの意味があるのか。
(――「もう人を喰わないで」――「もう世を騒がすことはしないで」――?)
なら、なぜ今すぐに、自分を殺さないのか。|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ帰れ、二度とこの世[#「この世」に傍点]には来るな、と言うのなら、まだ分かる。自分をこの世で生かしておく、その意味が全く分からない。
(――「私の後に現れる『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』を、可能な限り|鍛《きた》えて」――?)
|在《あ》り|得《え》る話ではない。フレイムヘイズとは|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ側から探すものである。もし、彼女が仮に ――あくまで、もし、仮に、だが―― 死んだとしても、新たなフレイムヘイズの探査と選定は当然、|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ帰ったアラストールが行う。この世に残れと一方で言い、もう一方でフレイムヘイズの|鍛《たん》錬《れん》を望むとは、|矛《む》盾《じゅん》というにも|程《ほど》があった。アラストールが見つけた新たな器を鍛えることに、意味でもあるというのか。
(なぜ、そんな|迂《う》遠《えん》なことを)
ある可能性――他でもない、 自分たちの主|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズが、 契約者の死に際して行った、周囲の人間を喰らい尽くして行った、|再《さい》召《しょう》喚《かん》の|自《じ》在《ざい》法《ほう》――を思う。
しかし、これも在り得ない。
その方法は、アシズが|並《なみ》外《はず》れた自在|師《し》であったからこそ成功した|神《かみ》業《わざ》、周囲に多数の人間がいたからこそ起きた|奇《き》跡《せき》だった。アラストール自身は、自在師と言うほどに|器《き》用《よう》ではなかったし、|人《ひと》里《ざと》離《はな》れた山中にあるブロッケン|要《よう》塞《さい》の周囲には当然、喰らうべき人間もいない。
(いるのは、我らの|同《どう》胞《ほう》だけ――)
ふと、
(――)
自分がなにかを知っているような気がして、メリヒムは|戦《せん》慄《りつ》を覚えた。
(――?)
その彼に向けて、血に染まったドレスを|纏《まと》った|紅《ぐ》蓮《れん》の女は言う。
「|生《あい》憎《にく》と、あなたを運んであげられるだけの|余《よ》裕《ゆう》が、私にはないの。腕は一本残ってるし、|這《は》ってでもいいから『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』まで|辿《たど》り着いて|頂《ちょう》戴《だい》。幸い、この下の方に落ちてる」
「なん、だと?」
今さら『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』に行ってどうするのか、求めの意味を理解できない彼に、まるで、|駄《だ》々《だ》っ子に言い聞かせるように、あるいは|刹《せつ》那《な》、恋人に求めるように、彼女は言う。
「|誓《ちか》いは、せめて、守って」
「……」
その初めての感覚に|陶《とう》然《ぜん》となった彼の前で、しかし、やはり、女は燃え上がる。
瞬間、右腕に紅蓮の|炎《ほのお》が広がって、|盾《たて》となる。
ババッ、とその表面で|炎《えん》弾《だん》が、より強力な彼女の炎に呑まれ、|僅《わず》かな火花を散らした。
紅蓮の|大《たい》剣《けん》が現れ出で、黒いマントが血染めのドレスを|覆《おお》う。
最後まで戦いの姿を彼に見せて、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメールは笑う。
「本当、敵は嫌って程、有能ね」
いつしか、|睨《にら》み合う ヴィルヘルミナとチェルノボーグ、 倒れるメリヒムと立ち上がったマティルダを遠巻きに囲んで、|徒《ともがら》≠ェ多数、崩れた要塞から現れていた。
チェルノボーグは、『ラビリントス』の|崩《ほう》壊《かい》した後、|要《よう》塞《さい》内を駆け回って、残った守備兵をかき集めていたのである。
(痛っ……やっぱり、振れない、か)
握るだけでも|辛《つら》い、重さのない|大《たい》剣《けん》をそれでも握って、マティルダは力を|絞《しぼ》り出す。応えて、彼女とメリヒムの周囲に、|紅《ぐ》蓮《れん》の|軍《ぐん》勢《ぜい》『|騎士団《ナイツ》』が出現した。
「なっ……!?」
信じられない、あれだけの|消《しょう》耗《もう》と負傷を超えての力に、メリヒムは恐怖した。現れた力|自《じ》体《たい》にではない、なぜ、こんな力が|溢《あふ》れているのか、にである。
なにか、彼女は取り返しのつかないものを[#「取り返しのつかないものを」に傍点]|削《けず》っている。
その|冴《さ》え|冴《ざ》えとした顔に向けて、メリヒムは引き止めるために叫んだ。
「よせ、マティルダ・サントメール! おまえはもう剣を振れないんだぞ!?」
驚くことも反発することもない、当たり前の事実に、マティルダは|頷《うなず》く。
「そうね。剣は、振れない。でも、もう私自身が戦う必要はないのよ……|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》≠フ前まで、私という器を持っていけばいいだけなの」
やはり、|無《む》謀《ぼう》な|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》∴齒uの|顕《けん》現《げん》に|賭《か》ける気なのか。では、|先《さっき》の|奇《》妙《みょう》な約束、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』を育てよ、とはなんだ。それに、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』まで|辿《たど》り着け、という
(!!)
メリヒムは|愕《がく》然《せん》となった。
たった一つ、あったのである。
マティルダの……というより|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールの、採り得る手段が。
「馬鹿な」
最初に感じたのは、|魔《ま》神《じん》|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠ノ対する、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニしての生の恐怖。
「あれ[#「あれ」に傍点]を」
次に感じたのは、主が|討《とう》滅《めつ》されるという、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|一《いち》兵士としての恐怖。
「あの儀式[#「あの儀式」に傍点]をこの世でやるつもりなのか!?」
その次に感じたのは、彼らの『|壮《そう》挙《きょ》』が|潰《つい》えるという、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角としての恐怖。
「|在《あ》り|得《え》ん、聞いたこともない!|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》=A|貴《き》様《きま》、なんという――!!」
マティルダの確実な|消《しょう》滅《めつ》への恐怖は、最後だった。
いつの間にか、彼女の死を受け入れつつある、その焦りとともに彼は止める。
彼女の行動を。主の殺害を。|宿《しゅく》願《がん》の破壊を。
なにより、自分の愛の|喪《そう》失《しつ》を。
「止めろ! なぜ、なぜおまえを、他人の|犠《ぎ》牲《せい》にせねばならん! おまえは俺のものだ! 許さない、俺は許さないぞ、マティルダ・サントメール!!」
「もう、本当、最後まで黙らない人ねえ、ヒス持ち|血《ち》塗《まみ》れのハンサムさん。最後の勝負、キツかったけど、楽しかったわ……」
マティルダは、それでも行う者として、|苦《にが》く笑う。
周囲で、『|騎士団《ナイツ》』が剣を振り上げていた。
その意図に気付き、メリヒムは別れを|拒《こば》む。
「待て――待ってくれ!!」
「いやよ、待たない。さよなら、なの」
マティルダは苦さに別のものを混ぜて、笑いかけた。その声を切りとして、『|騎士団《ナイツ》』が|一《いっ》斉《せい》に、振り上げていた剣を地に突き立てた。|紅《ぐ》蓮《れん》の火花が走って、|岩《がん》盤《ばん》が|崩《ほう》落《らく》する。
「マティルダ――――――――ッ!!」
「|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qム、さよなら――」
メリヒムの|視《し》界《かい》の中、紅蓮の|悍《かん》馬《ば》に|跨《またが》るマティルダ・サントメールの姿が、遠ざかる。
遠ざかって、二度と戻らなかった。
崩落の|轟《ごう》音《おん》がまだ残る中、|一《いっ》旦《たん》離れてから|微《び》動《どう》だにしない二人、ヴィルヘルミナとチェルノボーグの頭上を、紅蓮の|流《りゅう》星《せい》群《ぐん》が飛び越えた。『|騎士団《ナイツ》』から放たれた|火《ひ》矢《や》である。|包《ほう》囲《い》から|突《とつ》撃《げき》に移ろうとしていた|要《よう》塞《さい》守備兵の前にそれは|着《ちゃく》弾《だん》して、|炎《ほのお》を|撒《ま》き散らす。
|火《ひ》の|粉《こ》、紅蓮の|欠片《かけら》が、二人の間にひとひら入った|刹《せつ》那《な》――双方が動く。
『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルは火の粉を|相《あい》方《かた》として、前へと|優《ゆう》雅《が》に流れる。
|闇《やみ》の|雫《しすく》<`ェルノボーグは自身の影、真下へと、黒い水と化したかのように消える。
ヴィルヘルミナは、敵の溶け込んだ影が薄れて消えるのを見る。考える間はなかった。長い年月を戦い抜いてきた|討《う》ち手としての|勘《かん》、そして舞い手としての|興《きょう》趣《しゅ》に従い、踊る。
周囲に|溢《あふ》れる炎に連れて伸びる影、彼女の真下から、細い|杭《くい》とした左腕を先端に、チェルノボーグが飛び出した。
「!?」
|黒《こく》衣《い》の内にある|白《はく》面《めん》が、自分の真上にある|標《ひょう》的《てき》、その|姿《し》態《たい》に目を見張る。
桜色の火の粉を|花《はな》弁《びら》のように舞い散らし、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』が宙を、逆さまに踊っていた。
毛ほどの|躊《ちゅう》躇《ちょ》を経て伸びた左腕が、それを丸ごと包み込むリボンの渦に巻き込まれ、|捕《ほ》縛《ばく》される。間を置かずに爆発、左腕が消し飛んだ。
しかしそのとき、チェルノボーグはすでに、
「――ゴッ、ハ!?」
ヴィルヘルミナの腹へと、右の|巨《きょ》腕《わん》による|拳《けん》撃《げき》を|叩《たた》き込んでいた。捕らえられた瞬間に、左腕を切り離していたのである。左肩から先は、粘土を|千《ち》切《ぎ》ったように細く途切れていた。
太い爪を突き刺さず|殴《なぐ》ったのは、リボンに捕らえられる間を極力なくすためである。|衝《しょう》撃《げき》を十分に伝えた|拳《こぶし》は|瞬《しゅん》時《じ》に引かれ、その反動のまま一回転、腹に|一《いち》撃《げき》を喰らって身を|屈《かが》めるヴィルヘルミナの|脳《のう》天《てん》に振り下ろされる。
ガガンッ、と|拳《けん》撃《げき》と地に|叩《たた》きつけられた打撃音が、ほとんど重なって起きた。
(とどめ、だ!)
地を跳ねる|獲《え》物《もの》の真上から、チェルノボーグは必殺の両足|蹴《け》りを落とす。と、その両足がリボンに捕らえられた。意識があることさえ|驚《きょう》異《い》の敵に、|先《きっき》と同じく足裏を爆発させた――
「!!」
――瞬間、|両《りょう》脛《すね》から下が吹き飛んだ。
|己《おのれ》の、|枯《かれ》草《くさ》色の|炎《ほのお》で。
|激《げき》痛《つう》以前に事実を確認したチェルノボーグは、|勝《しょう》機《き》が去ったことを、知った。
(|不《ふ》、|覚《かく》!!)
地に落ち、ゴロゴロと転がる中、ヴィルヘルミナのリボンが足先を包む球状に編み上げられていたこと、そこに反射の|自《じ》在《ざい》法《ほう》が張り巡らされていたことを、瞬時に|看《かん》破《ぱ》する。よりにもよって『|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》』に同じ手を二度使ってしまった、熱くなっていた自分の|愚《おろ》かさを|呪《のろ》う。
(そうなんだ、私は馬鹿だから、おまえが――)
「――ッシュ!!」
呪いつつ体を|捻《ひね》り、吹き飛んだ脛ではなく、硬い|膝《ひざ》を地に打って再び飛び掛かった。
立ち上がったヴィルヘルミナは、この|執《しつ》拗《よう》に|襲《しゅう》撃《げき》する|痩《そう》身《しん》を|間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》、リボンで受け止めた。
(細すぎる)
その|違《い》和《わ》感《かん》を抱いた|刹《せつ》那《な》、自分の真下、影の中から現れた|巨《きょ》腕《わん》に、|貫《つらぬ》かれた右肩から先、腕を丸ごともぎ取られた。ブチブチと嫌な音がして、|異《い》様《よう》な|喪《そう》失《しつ》感に|襲《おそ》われる。
「あ、ぐっ!!」
飛び掛かったとき、チェルノボーグはすでに巨腕を影の内に|潜《もぐ》らせていたのである。
突き上げられた巨腕が反転し、真上からヴィルヘルミナを引き裂く――
「――っ!!」
――|寸《すん》前《ぜん》、リボンに捕らえられたチェルノボーグの本体が焼き砕かれた。
眼前で起きた爆発に、自らも吹き飛ばされ、倒れたヴィルヘルミナは、|瞼《まぶた》の内に、|不《ふ》思《し》議《ぎ》な|残《ざん》像《ぞう》が残っているのに気付いた。
それは、暗殺者の|白《はく》面《めん》に浮かぶ、|微《かす》かな、本当の笑み。
|戦《せん》塵《じん》に|塗《まみ》れた|妖《よう》花《か》が、唇を震わせて言った。
「まさ、か?」
「……|紅《ぐ》蓮《れん》、だあああ」
戦場の一角に|聳《そび》える|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミは、|戦《せん》塵《じん》に|塗《まみ》れた傷だらけの巨体を|僅《わず》かに反らし、暗い空を仰いだ。
戦場にあった[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]、フレイムヘイズ|兵《へい》団《だん》双方は、|先《せん》刻《こく》夜を突いて|轟《とどろ》いた|断《だん》末《まつ》魔《ま》によって『両翼』の左、|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》<Cルヤンカの死を知った。
そして今また、|要《よう》塞《さい》の|一《いっ》郭《かく》の|崩《ほう》落《らく》とともに『両翼』の右、|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qムの『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』が、ぱったりと|途《と》絶《だ》え……今、|紅《ぐ》蓮《れん》が輝くのを、見た。
無敵と思えた『両翼』が、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|威《い》信《しん》の|象《しょう》徴《ちょう》たる二人が、|討《う》たれた。
それは深刻な士気の低下となって[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]を不利に追い込むだろう……『|壮《そう》挙《きょ》』の危機という大局的な見地ではなく、あくまで|軍《ぐん》勢《ぜい》を預かる|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》として、ウルリクムミはそう事態を|捉《とら》えた。
|案《あん》の|定《じょう》、|妖《よう》花《か》が不安げに|尋《たず》ねる。
「|進《しん》退《たい》は、如何に?」
「やることはあああ、変わらぬううう。主の元にいいい、|同《どう》胞《ほう》殺しどもを引き入れるわけには行かぬわあああ」
彼は、素早く判断を下す。
「北にいいい、用意していた攻勢のための部隊をををを、中央軍の維持に回すううう。ベルワルドの残党どもをををを、一気に打ち砕く|腹《はら》積《づ》もりで攻めかかるのだあああ」
「|退《ひ》いた北の敵を追わない、と?」
妖花は驚いた。
北から攻めかかっていた『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』ゾフィー・サバリッシュ|率《ひき》いるサバリッシュ集団は、中央軍の攻勢による|半《はん》包《ほう》囲《い》を避けるため、大幅に部隊を後退させている。
また、彼らの在る中央軍正面の敵たるベルワルド集団は、その|指《し》揮《き》官《かん》『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』カール・ベルワルドの討ち死にもあって、もはやその|陣《じん》列《れつ》は、敗走|寸《すん》前《ぜん》なまでに崩れていた。
つまり[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は(|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カルの|喪《そう》失《しつ》を除けば)有利な情勢下にある。
これを|勝《しょう》機《き》と見たウルリクムミは、|敵《てき》本隊であるサバリッシュ集団を一気に|叩《たた》いて戦局を決すべく、自らも含めた|追《つい》撃《げき》部隊を編制中だった。その|虎《とら》の|子《こ》の軍勢を、もはや敵し得ないベルワルド集団に向けるのは、|無《む》駄《だ》遣《づか》いではないか、と妖花は思ったのだった。
しかしウルリクムミには、また別の考えがある。
「まずもってえええ、士気を維持せねばならぬううう。必殺の機に繰り出す|槍《やり》もおおお、|赤《あか》錆《さび》の|塊《かたまり》では意味なきことだあああ」
局地的なものでいい、 圧倒的な優勢を作らねばならない。 『両翼』の死、という事態は、単なる戦力の|減《げん》衰《すい》ではない。戦場で戦う[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|徒《ともがら》≠スちにとっては、自分たちの後方で起こる事態への不安、|来《らい》援《えん》が来ないかもしれないという孤立感、『壮挙』の失敗という|大《たい》義《ぎ》喪失への|懸《け》念《ねん》等々……士気|崩《ほう》壊《かい》を|齎《もたら》す|災《さい》厄《やく》、兵士にとつての|病《びょう》魔《ま》なのだった。
これを払う|唯《ゆい》一《いつ》の方法は、一時の|錯《さっ》覚《かく》であっても、勝利を実感させることだけである。そうして、 とにかく『|壮《そう》挙《きょ》』実現までの時間を稼ぐ。 後の|戦《せん》況《きょう》……誰が生き残り、誰が|来《らん》援《えん》に現れる等は、今は考えない。手持ちの戦力で最善を尽くすのみだった。
不幸中の幸いと言うべきだろう、|総《そう》大将たる『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』は、『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』の討ち死にによって、行動を|鈍《どん》化《か》させている。彼女にまで万が一のことがあれば、|士《し》気《き》が|崩《ほう》壊《かい》するのはフレイムヘイズ兵団の方なのだから、これは当然のことだった。彼女とその部隊は当面、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]中央軍の攻勢を|阻《はば》む要素とはなり得ない。
(有利不利は|一《いち》概《がい》に言えぬううう、我らは主の命を|遂《すい》行《こう》するのみよおおお)
もちろん、ウルリクムミは、これらの打算を|表《おもて》には出さない。大きく戦場に|響《ひび》かせるのは、皆を焚きつけ勇気付ける大音声のみである。
「我らはこれよりいいい、中央軍正面の敵を|撃《げき》砕《は》するううう! 踏み|潰《つぶ》せえええ!!」
返ってくる|怒《ど》号《ごう》は、|随《ずい》分《ぶん》小さくなっていた。
アシズの青き|炎《ほのお》、|自《じ》在《ざい》法《ほう》の金属板、ティスを横たえた『|清《せい》なる|棺《ひつぎ》』――それらを囲む二重|螺《ら》旋《せん》からなる|燭《しょく》台《だい》は今、アンバランスな形態へと|変《へん》貌《ぼう》していた。
立ち上る、アシズとティスの存在を解いた二重螺旋。その|収《しゅう》束《そく》点たる炎が、『|首《しゅ》塔《とう》』|頂《いただき》の|空《くう》洞《どう》を埋めんばかりに|膨《ふく》れ上がっていたのである。
アシズ自身でもある炎の中心には、青き中にもより青き輝きが、静かに脈打っていた。
(たった一人を織り成すために、これほどを、費やすのか)
高名な自在|師《し》として知られた|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》≠ヘ、まさに身を震わす思いで、|積《せき》年《ねん》の願いたる、契約者・ティスとの|融《ゆう》合《ごう》体《たい》『|両《りょう》界《かい》の|嗣《し》子《し》』を生成していた。
かつて『|都《みやこ》喰《く》らい』で得た|莫《ばく》大《だい》な存在の力≠フ、数割もの量。友にして仲間、部下にして|同《どう》胞《ほう》であった『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』ら、戦場にある者たちの稼ぐ時間。そして、彼らの命。全てを捧げてなお、この新たな存在は|貪《どん》欲《よく》に全てを求めていた。
|後《こう》悔《かい》は、|欠片《かけら》もない。
あの|喪《そう》失《しつ》の日以来、この時のためにこそ、彼は生き続けてきたのだから。
ただ、恐ろしかった。
|供《く》物《もつ》と言うにはあまりに|膨《ばう》大《だい》すぎるものを、この子は喰らい続けている。
しかし、心地よくもあった。
(ティス……そなたの夢は、かほどに、大きかったのか……)
そんな夢を互いに抱いたことが、心地よい。
(――「アシズ様」――)
決して様と付けることを止めなかった、|愛《いと》しい娘。この世を荒らす|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠討つべく渡り来たアシズ、まだ|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》≠ニ名乗っていた彼を、天の使いだと信じていた、娘。
(――「とても|不《ふ》遜《そん》な、夢を、見ていたのです」――)
|転寝《うたたね》から覚めた娘は、|旅《りょ》塵《じん》に|塗《まみ》れた|頬《ほお》を|擦《こす》って笑った。
あのとき自分が、その後の全てを決めてしまう問いを、どういう言葉で発したのか、アシズはよく覚えていない。申せ、の簡素な|一《ひと》声《こえ》だったか、教えてくれ、と優しく言ったか……。
今は、答えだけが、心に|響《ひび》く。
(――「お怒りに、なりませんか」――)
何度もそう|念《ねん》押《お》しして、彼女は言った。
(――「あなた様の子を授かり、ともに|穏《おだ》やかに暮らす、そんな夢です」――)
と。
それは無理だ、と大笑いしたはずである。
なぜなら、彼女の全く怖くない|膨《ふく》れっ面を、その言葉を覚えている。
(――「お、お笑いになられるなんて、|酷《ひど》うございます!」――)
|随《ずい》分《ぶん》と怒らせてしまい、しばらく使命に|障《さわ》った。
その時は、彼女がどれほどの想いを込めて自分への言葉を|紡《つむ》いでいたのか、全く理解できていなかった。そんな|己《おのれ》の|愚《おろ》かしさが、|悔《かい》恨《こん》とともに心を締め付ける。
彼女の想いの|丈《たけ》を知ったのは、自分も同様に想っていたと気付いたのは、
(――「……お許しください、アシズ、様……いつか、と夢見て、いました……」――)
全く思いがけない、死を迎えた時。
(――「……あなた様と、私と、子供たちで、暮ら……」――)
なにもかもが、遅すぎた。
呼びかけても、|叱《しか》っても、答えなくなってから。
彼女そのものたる、己を|容《い》れる器の割れる感覚に恐怖し、必死にその|崩《ほう》壊《かい》を喰い止めた。自身の|紅《ぐ》世《ぜ》≠ヨの|帰《き》還《かん》も、一時的な|顕《けん》現《げん》による|復《ふく》讐《しゅう》も、彼女を崩壊させてしまう。だから、周りの人間どもを全て喰らった。その力によって、彼女という『ただ一つ心通じた場所』を基点にして、己を|強《ごう》引《いん》に|再《さい》召《しょう》喚《かん》した。 彼女の|棺《ひつぎ》を守り、抱いて、顕現した。 それを許さないという追っ手を焼き尽くし、自分にこうさせた全てを憎み、延々|挑《いど》んでくる者らと戦った。
棺の内に封じた、ティスを復活させるための|放《ほう》浪《ろう》が、始まった。
|襲《おそ》い来る敵と戦って生き延び―― 残された|秘《ひ》法《ほう》を学び尽くして―― この世にある術を法を|隅《すみ》々《ずみ》まで|浚《さら》って―― あらゆる試行|錯《さく》誤《ご》、実験を行って―― しかし、死だけが払えない。
そうした|彷《ほう》徨《こう》の内に、
(――「|御《おん》身《み》は、なぜ泣かれているのか?」――)
|鎧《よろい》の|竜《りゅう》が|尋《たず》ねた。
(――「|恩《おん》義《ぎ》に報いるためえええ、我が|身《しん》命《めい》をををを、主に捧ぐううう」――)
鉄の巨人が|誓《ちか》った。
(――「なにを手に入れたいのか」「差し出せと言うのか」「厚かましき者よ」――)
|奇《き》妙《みょう》な卵が騒いだ。
(――「私|如《ごと》きを、必要と|仰《おつしゃ》る……?」――)
|牛《ぎゅう》骨《こつ》の|賢《けん》者《じゃ》が震えた。
(――「|喧《けん》嘩《か》、できるんだろう?」――)
|牙《きば》剥《む》く|野《や》獣《じゅう》が|唸《うな》った。
(――「私は欲しいだけなのだ、私を振るう腕が」――)
氷の剣が求めた。
(――「|相《そう》応《おう》の代価は、頂けるのでしょうな?」――)
石の|大《たい》木《ぼく》が笑った。
(――「永の|助《すけ》太刀《だち》も、また|一《いっ》興《きょう》」――)
|黒《こく》衣《い》白《はく》面《めん》の女が|呟《つぶや》いた。
(――「いいだろう、見せてくれ、|貴《き》公《こう》の世界を」――)
|虹《にじ》の剣士が|頷《うなず》いた。
いつしか、自分が求めるものを他者も認め、助力してくれるようになった。自分が進む道をともに歩いてくれるようになった。払えない死に|懊《おう》悩《のう》していた眼前に、ティスが最も望んでいた願いを|叶《かな》える力が、金属板の形で現れた。全てがその実現に向かって動き出した。友らがそれに応え、彼の願いは様々な名目、飾り、|大《たい》義《ぎ》を|纏《まと》い、|膨《ふく》れ上がった。
誰も、なにも、|一《いっ》切《さい》捨てなかった。ときに傷つき、あるいは病み、または|逸《はぐ》れていた、彼らの手を取り、包み、自分の願い、大義という名目に寄り添わせて、一緒に進んだ。
まるで、子らを|育《はぐく》むように。
それらの歩みが今、一つずつ|剥《は》がされ、元の姿に戻りつつある。
結局、たった一つの願いだけが、残されていた。
(――「……あなた様と、私と、子供たちで、暮ら、す……」――)
この、たった、一つ。
自分に叶えられる、ひとかけら。
(十分だ、十分だとも)
彼女とともに|在《あ》る別の形、かつての自分が笑った在り|得《え》ない命、その誕生。
(この願いさえ、あれば)
そのとき――二重|螺《ら》旋《せん》が、途切れた。
|要《よう》塞《さい》内部、天井高く幅も広い|伽《が》藍《らん》を『|首《しゅ》塔《とう》』に向けて、『|騎士団《ナイツ》』は|進《しん》撃《げき》を続けていた。|悍《かん》馬《ば》の|蹄《ひづめ》、差し向けられる|矛槍《ハルベルト》、放たれる矢、全てが|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》で練られた|軍《ぐん》勢《ぜい》は、追いすがり迎え|撃《う》つ|要《よう》塞《さい》守備兵を|蹴《け》散《ち》らし、決して速度を緩めない。
ただ、その総数は『ラビリントス』の中にあったときよりも遥かに少なく、常に先頭にあったマティルダも中央で守られている。彼女を|襲《おそ》う者は|悉《ことぐと》く、紅蓮の|騎《き》士《し》たちに|斬《き》り伏せられ、また同じ馬に|跨《またが》り、後ろから抱くように守るヴィルヘルミナに|縛《しば》り殺されていた。
「ありがとう……ヴィルヘルミナ」
「……」
自分の前、紅蓮の|鬣《たてがみ》に身を伏せるマティルダに、ヴィルヘルミナは返事をしない。
彼女の右腕はチェルノボーグにもぎ取られて、ない。時を長くかければ再生もするはずだったが、今はただ、肩に|包《ほう》帯《たい》代わりのリボンをきつく巻きつけるのみである。
|騎《き》走《そう》する|伽《が》藍《らん》の先に、冷たく湿っぽい、夜風が巻いた。
出口が、近い。
「本当言うと、止められると思ってた」
「……」
また、黙ったまま。
単なる|様《よう》式《しき》の|修《しゅう》復《ふく》に力を使うのが惜しいのか、|神《じん》器《ぎ》ペルソナ≠ヘ割れ砕けたままだった。代わりに、もう一つの仮面たる無表情で、その顔は|覆《おお》われている。
紅蓮の『|騎士団《ナイツ》』は伽藍のアーチを抜けて、『|首《しゅ》塔《とう》』周りの庭・|内《ない》郭《かく》に出た。庭と言っても|芝生《しばふ》が|生《は》えているでもない。ひたすら|閑《かん》散《さん》とした、|石《いし》畳《だたみ》と|岩《いわ》肌《はだ》ばかりの平面である。
「……」
「……もし」
マティルダが|沈《ちん》黙《もく》してから、ようやくヴィルヘルミナは口を開いた。
「もし、あなたを|無《む》理《り》矢《や》理《り》に止めて、なにもかもが敵の思い通りとなったら」
その後ろからの、片腕の|抱《ほう》擁《よう》に、より強く力を込める。傷に|障《さわ》る|寸《すん》前《ぜん》まで、強く。
と、そんな彼女らめがけ、伽藍の屋根から数人の|徒《ともがら》≠ェ飛び降りてきた。周囲の岩陰からも同時に、|異《い》形《ぎょう》の一団が|一《いっ》斉《せい》に飛び掛かってくる。守備兵|最《さい》後《ご》の|足掻《あが》きだった。
彼女らを守る『|騎士団《ナイツ》』が、|矛槍《ハルベルト》を|針《はり》鼠《ねずみ》のように立てて、これを次々と|串《くし》刺《ざ》しにしてゆく。
数人、中央の二人へと飛び掛かるが、
「敵も味方も、我々のことを|嘲《あざけ》るでありましょう」
小さく心情を|吐《と》露《ろ》するヴィルヘルミナは、全く|無《む》造《ぞう》作《さ》にこれらをリボンで捕らえ、
「あなたを生かせるのなら」
ぐるぐる巻きにして、|爆《ばく》殺《さつ》する。
「ただ、それだけが|叶《かな》うのなら……あるいはその道を選択することも、あったのでありましょう。でも、もう、それすら……」
|桜《さくら》色の|火《ひ》の|粉《こ》舞い散る中に浮かび上がる無表情は、必死に理性を保とうとする彼女の|葛《かつ》藤《とう》、そのものの姿だった。
「今、止めても、あなたは私の腕の中で|抗《あらが》いながら、|無《む》為《い》に死ぬだけなのでありましょう」
片腕による|抱《ほう》擁《よう》も、同じ。決して留め置けないものを、せめて今だけは、と抱き締める気持ちの表れだった。
「なら、せめて、一緒に在りたい[#「一緒に在りたい」に傍点]。一緒に生きることが|叶《かな》わずとも、一緒の道を進むことは、私|次《し》第《だい》で、まだ、ずっと……」
「……」
その言葉でなにをか確かめ終えたのか、二人を乗せ、走っていた|紅《ぐ》蓮《れん》の|悍《かん》馬《ば》が、消えた。
「あっ――」
「……もう、ここまででいいわ」
そしてマティルダは、とうとうヴィルヘルミナの手から、離れる。
二人は横たわる|徒《ともがら》≠フ|屍《しかばね》を|揃《そろ》って踏み、その火の粉と散る中に着地した。
彼女らの前に、|遂《つい》に|辿《たど》り着いたブロッケン|要《よう》塞《さい》の『|首《しゅ》塔《とう》』が、夜風の中に|聳《そび》え立っていた。
この周囲を守っていた|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリの『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』も、今は見えない。
「あとは私とアラストールがやるから」
決別を口にする『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』は、 いつしか|大《たい》剣《けん》と|盾《たて》を、両手に現していた。 まるでそれが、自分の完全な姿であるかのように。
ヴィルヘルミナはなにもかも、なにが分かっていても、言わずにはいられなかった。考える前に、口を開いていた。
「まだ――」
が、マティルダは、
「ここから先は、一緒[#「一緒」に傍点]でも意味がない……」
押し|被《かぶ》せるように言って、ことさら馬鹿にする風に笑った。
「分かってるくせに、らしくないわね。いつからそんなに他人に深入りするようになったの?」
彼女はヴィルヘルミナを、常の冷静な戦友として扱っている。自分がいなくなる、その心の準備を、別れる|仕《し》度《たく》を、させている。
「――」
ヴィルヘルミナが気付いて、言う前に、
「もう、左右『両翼』も落とした……あいつも、これで終わりよ」
また、フレイムヘイズとしでの、決意の言葉が|塞《ふさ》いだ。
ならばと、フレイムヘイズとして、自分たちの話[#「自分たちの話」に傍点]として、|訊《き》く。
「……その|虹《にじ》の|翼《つばさ》≠、なぜ生きたまま、あのような」
「ふふ、いいじゃない。我ながら|意《い》地《じ》悪《わる》な物言いだけど、彼は絶対に|誓《ちか》いを守ってくれるわ」
マティルダは、本当に|意《い》地《じ》悪《わる》に笑う。
メリヒムに対しても、ヴィルヘルミナに対しても。
「それに、私たちの本当の|標《ひょう》的《てき》は、あいつ……でしょう?」
その見上げる先、天井の開いた『|首《しゅ》塔《とう》』の内に、鮮やかな青い光が透けて見える。
|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの|御《ご》座《ざ》所《しょ》である。
「私たち、でありますか。人を|疎《そ》外《がい》して、一人だけ死にに行くというのに、|随《ずい》分《ぶん》と勝手な物言いであります」
ヴィルヘルミナは意地意へのお返しとして言った。
その言葉に声に、心の張りが少し戻ったのを感じて、マティルダほ満足した。『首塔』の|頂《いただき》を見上げたまま、自分の向かう場所を見上げたまま、言う。
「別に、死にに行くわけじゃない――駆け抜ける命が、あそこで尽きるだろう、ってだけのこと。死ぬのは、ただの結果よ」
「|詭《き》弁《べん》」
「結果の|後《あと》始《し》末《まつ》をさせられる側の身にも、なってほしいのであります」
そんな、|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》≠ニ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』、二人とのいつもの会話を、マティルダは心に染み込ませるように楽しんでいた。
「後始末、か…… 『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》』のことは、とりあえず|虹《にじ》の|翼《つばさ》≠ノも頼んどいたし…… なんとかそっちで、ねえ、アラストール?」
「む」
責任を誰よりも感じている彼は、やはり言葉少な。この|生《き》真《ま》面《じ》目《め》さも、いつも通り。
と、そんな彼女に、いつも通りであろうとする[#「いつも通りであろうとする」に傍点]ヴィルヘルミナが実務的に話を切り出す。
「なら私が、その|主《しゅ》導《どう》を務めるのであります」
「えっ、あなたが?」
マティルダは不意を突かれた。今まで、この話題にはお互い極力、触れないようにしてきたので、当然ヴィルヘルミナはこの件には全く関わっていなかった。
「どうせあなたのこと、その辺りの具体的な指示はなにも定めぬまま……そう、ゾフィー・サバリッシュに|口《くち》約束で軽く頼んだ程度でありましょう」
「……」
|図《ず》星《ぼし》だった。さすがに良く分かっている。
「|承《しょう》諾《だく》要《よう》請《せい》」
「……」
「私以外に、適任は存在しないのであります」
その決意の姿に、
「……本当、らしくない……」
マティルダは、なにも|誤《ご》魔《ま》化《か》さない微笑で答えていた。
|暴《ぼう》威《い》渦《うず》巻《ま》く戦場での、取り付く島のない|姫《ひめ》君《ぎみ》との出会い。足を引っ張り合いつつも一緒に戦った最初の頃。彼女の想い人を知り、|大《おお》喧《げん》嘩《か》して別れた後の寂しさ。すぐに再会し、背中を合わせたときの絶大な安心感。そして、激戦の血流で、いつしか編まれた信頼。
全てが巡り巡って、お互いに、この姿に|辿《たど》り着いた。
「……そうね、あなたたちだから、最後まで甘えるわ」
全てを託せる者を得られた|歓《よろこ》びの中、彼女は自分の左手にある指輪に視線を落とす。
「この、|厳《きび》しさでしか他人に当たれないくせに、本当は優しくて優しくてたまらない、|可愛《かわい》らしい|大《だい》魔《ま》神《じん》に、新しいフレイムヘイズを見つけてあげて」
見つめ返されているのを感じて、そのたおやかな指を強く握る。
「私は、これから行くけれど」
全身を|虚《きょ》脱《だつ》感と|激《けき》痛《つう》に|苛《さいな》まれながらも、強く、強く。
自分を誇りとしてくれる友らに、|情《なさ》けない姿を残していきたくなかった。
「この人は、こんなこと[#「こんなこと」に傍点]じゃ絶対に|挫《くじ》けないし、|諦《あきら》めない。そんないい男に|相応《ふさわ》しい、完全|無《む》欠《けつ》のフレイムヘイズを見つけてあげて。男を残して死ぬ女の……これが最後のお願い」
言うやマティルダは、痛みを全て無視してヴィルヘルミナを力強く抱き締め、一瞬でポンと突き放した。
「あっ……」
「背中を預けるのに、あなたたちほど安心できた戦友はなかったわ」
その預け続けた背を、最後まで向ける。
「さよなら、ヴィルヘルミナ、ティアマトー。今までありがとう……」
最後まで強く在ろうとする後ろ姿を残して、舞い上がる。
「あなたたちに、天下|無《む》敵《てき》の幸運を」
金属板に刻まれた、細かい直線からなる文字列が輝いている。
|僅《わず》か前まで稼働していた『分解』は、黒く文字を|焦《こ》がして|沈《ちん》黙《もく》し、今はもう一つの|文《ぶん》節《せつ》、『定着』へと、輝きは移っていた。
|炎《ほのお》と金属板と|棺《ひつぎ》、三つからなる|燭《しょく》台《だい》の周りを囲んでいた二重|螺《ら》旋《せん》は消えている。必要量を満たしたアシズとティスの存在は、炎の中で|凝《ぎょう》集《しゅう》されるように輝きを増し、|鼓《こ》動《どう》を強めている。全く新しい存在『|両《りょう》界《かい》の|嗣《し》子《し》』が、まさに結晶となってこの世に現れようとしていた。
その鼓動と結晶を抱き巨大化したアシズの炎が放つ光によって、『|首《しゅ》塔《とう》』の|頂《いただき》、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の間は|凄《すさ》まじい青一色の世界と化していた。
その中に、違う色が一点、|煌《きらめ》く。
「――ガヴィダからの|言《こと》伝《づて》、やり直すわ」
「……来たか」
声とともに、アシズの炎が重く揺れた。
青い世界に侵されない、その確固とした煌きは、メリヒムの『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』によって開けられた天井の大穴から、ゆっくりと降りてくる。
「――『ドナートは俺に言った』――」
「おまえはなにを信じているのか!」「なにを望んでいるのか!」「俺はおまえの持っているもののなにも欲しくはない!」
ただ一人、ここに残った『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』、|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリが|喚《わめ》く。
|紅《ぐ》蓮《れん》は構わず、言う。
髪と瞳、|大《たい》剣《けん》と|盾《たて》を煌かせて、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメールが、言う。
「――『君の絵を描いたよ[#「君の絵を描いたよ」に傍点]、と』――」
「――!!」
燭台の|傍《かたわ》らに浮かぶ|鳥《とり》籠《かご》の中、変わらず歌を|紡《つむ》ぎ続ける少女の左目が、大きく見開かれた。
それ以外の部位……右目を含む顔の半分以上と全身には、すでに支配の|紋《もん》様《よう》が浮かび上がっている。『|両《りょう》界《かい》の|嗣《し》子《し》』生成に全力を振り向けるため、既にアシズは鳥籠への力の注入を行っていなかったが、すでに少女は振り向くどころか指一つ、自分の意思で動かせない。『定着』の|自《じ》在《ざい》式《しき》を稼働させる、|一《いち》宝《ほう》具《ぐ》『|小夜啼鳥《ナハティガル》』となっていた。
アシズが、その支配に|僅《わず》かの|揺《ゆ》るぎもないことを確かめつつ言う。
「もはや『|小夜啼鳥《ナハティガル》』は我が支配下にある。なにを呼びかけようと|無《む》駄《だ》だ」
「そう。まあ、いいわ」
マティルダは馬鹿にしたように言って、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一皿に降り立った。
「私たちは、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』で送ってもらう代わりに、|言《こと》伝《づて》を頼まれただけだし。その後のことは知ったこっちゃない。あなたの|暴《ぼう》挙《きょ》を|阻《はば》むためなら、彼女を|討《とう》滅《めつ》することだって考えてる」
自身の危機を知った『|小夜啼鳥《ナハティガル》』は、しかし見開いた目を向けるだけ。なにを感じ思ったところで、支配された体は動かなかった。
そちらにはもう目も向けず、マティルダは言い放つ。
「我が名は、|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールのフレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』マティルダ・サントメール。おまえの|無《む》道《どう》と狂気に、|終《しゅう》焉《えん》を|齎《もたら》す者よ」
青い|炎《ほのお》は、|埋《うず》み火のように熱を|隠《かく》して、静かに答える。
「よくぞ来た、と答えよう……我が[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]最悪の|敵《てき》手《しゅ》よ。だが、今の|貴《き》様《きま》に、一体なにができる。見てくれと声に、|辛《かろ》うじて|虚《きょ》勢《せい》を張るのが|精《せい》一《いっ》杯《ぱい》の|有《あり》様《さま》ではないか」
マティルダは一瞬|固《かた》まってから、|苦《にが》く笑った。
「……ばれたか」
すでに彼女の体は|度《たび》重《かさ》なる激戦で、|抜《ぬ》け|殻《がら》も同然だった。相手へのハッタリとして用意したスカスカの|大《たい》剣《けん》と|盾《たて》も、もはや持ち上げることさえできない。普段ならとうに倒れているだろう傷ついた体を支えているものは、|半《なか》ばはアラストール、もう半ばは自分自身への意地だった。
そんな彼女を誰よりも知る|魔《ま》神《じん》が、指輪から|挑《ちょう》発《はつ》的な声をあげる。
「だとしても、みすみすこの場に我らを招き入れたのは、いささか|寛《かん》容《よう》の度も過ぎるというものだな、|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》=v
「……私はこの場所に、貴様らという危険な敵手を、迎え入れた[#「迎え入れた」に傍点]。その意味が、分かるか」
一瞬、|罠《わな》があるかと周囲に視線を巡らせたマティルダの姿に、アシズは|哀《あわ》れみを感じた。それは、いつかの自分とティスの写し身だった。自分の使命感のみを|糧《かて》に、果て無き戦いを、力尽きるまで行う、|無《む》為《い》徒《と》労《う》の|流離《さすら》いの果てにある、フレイムヘイズの姿。
そこで見つけた、彼にとっての|唯《ゆい》一《いつ》の解を、二人に示す。
「貴様らが愛し合っている、と知っていたからだ」
アラストールは|沈《ちん》黙《もく》を守り、
「……」
マティルダは、期待されたものとは違う種類の笑みを浮かべ、答えた。
「ははあ、私たち[#「私たち」に傍点]に『二人目』でも作らせて、味方に引き込むつもりだった?」
|正《せい》鵠《こく》を|射《い》られて、しかし悪びれることなくアシズは言う。
「そうだ。|貴《さ》様《きま》らフレイムヘイズの生きる果てには、なにもない。命を|削《けず》り、追い使われ、今や死ぬのみとなった貴様なら、この世界の真実を体感できているはずだ」
行き着く果てで彼が抱く、青い中にもより青き結晶、その|鼓《こ》動《どう》を|灼《しゃく》眼《がん》に映して、マティルダは自分自身の言葉で答える。
「それは真実なんかじゃない……単なる、あなたの結果よ」
|瀕《ひん》死《し》と言っても良い状態にある彼女の|気《き》丈《じょう》さ、|頑《かたく》なさに、アシズは|困《こん》惑《わく》する。
「分からぬな……なにが貴様にそこまでさせる。人の世を守りたいという使命感か?」
「そんなにお偉い理由じゃないわ。単なる|復《ふく》讐《しゅう》……自分への、ね」
聞き慣れた、フレイムヘイズの戦う理由に、|奇《き》妙《みょう》な言葉が付いていた。
「なに?」
「こうして生まれ変わって、戦うことができる。それを全部取り上げられた昔の自分への、これは復讐なの。だから、絶対に止まらない。できると思ったことに|躊《ちゅう》躇《ちょ》しない。前に進む」
言った通りに、マティルダは天秤の|大  皿《ヴァークシャーレ》をゆっくりと進む。 その|傍《かたわ》ら、宙に浮く|鳥《とり》籠《かご》の中にある少女を見上げる。
「あの、|鎧《よろい》のトンカチ|爺《じい》さん…… あなたのことを知って、|散《さん》々《ざん》文句言ってたわ ――『苦しむ振りをして、あいつ[#「あいつ」に傍点]に当て付けている、そんな自分に満足してるイジケ娘め』―― ってね」
「……」
言われた『|小夜啼鳥《ナハティガル》』は、自由になる左目だけでマティルダを見返す。そこには|微《かす》かな、険しい感情の色が漂っていた。
「私、そういう|奴《やつ》が嫌いなの。本当に殺されたくなかったら、自分でなんとかしなさい」
少女の視線、感情の色を、むしろ心地よさげに笑って受け取ると、マティルダは中央に青く燃える|燭《しょく》台《だい》に向き合う。
「さて、そろそろ時間|稼《かせ》ぎに付き合うのも終わり」
|天《てん》秤《びん》の|大  皿《ヴァークシャーレ》の端に立って、礼を言う。
「ありがとう、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズ……あなたって本当に優しいのね。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の|化《ば》け|物《もの》どもは、自分たちがあんなだから、より強い奴の優しさが染みたのよ、きっと」
いきなりの|不《ふ》可《か》解《かい》な言葉に、アシズは|警《けい》戒《かい》する。
しかし、警戒では全く意味がなかった。
「だけど、私もアラストールも、その優しさには応えられない。だって、私たちは――」
マティルダの|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》が、不意に|煌《きらめ》きを増す。
「――自己満足が第一の、|酷《ひど》い奴らだから」
ガッ、と空間が|不《ぶ》気《き》味《み》な|軋《きし》みを上げて重くなり[#「重くなり」に傍点]、青い光景が|紅《ぐ》蓮《れん》に|挿《す》げ替えられた。
「――!?」「――!?」「――!?」
天秤の一角に浮かぶジャリが、|咄《とっ》嗟《き》の声も上げられず、紅蓮の中に|縫《ぬ》い止められた。
「――!」
|鳥《とり》籠《かご》の中にある少女も、左目だけに|驚《きょう》愕《がく》の風を表し、一色の|視《し》界《かい》に|戸《と》惑《まど》う。
「……な、馬鹿、な――」
一人、この光景の中で青き|炎《ほのお》を保つアシズが、しかし空間の重さに抵抗するような|唸《うな》り声を上げた。彼は、この儀式[#「この儀式」に傍点]に詳しかった。この世で|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ェ活動を始めて以来、聞いたこともない事例であり、しかし|理《り》路《ろ》整然と考えてみれば、十分|在《あ》り|得《え》ること。
「この世での……|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠フ|神《しん》威《い》、|召《しょう》喚《かん》……これ、が――狙いだったのか!?」
|紅《ぐ》蓮《れん》の光景に溶け込むような|双《そう》眸《ぼう》が、彼を|睨《にら》み|据《す》えている。
「そうよ。|敵《かな》わぬ敵に|玉《ぎょく》砕《さい》して果てるなんて、趣味じゃない。きっちりと全て、片付ける」
アシズは、|戦《せん》慄《りつ》した。
ティスを|喪《そう》失《しつ》して以来の恐怖が、炎の|総《そう》身《しん》を震わす。
「そうして、燃え尽きる」
この世に在る|徒《ともがら》≠フほぼ全ては、|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノおける人間に相当する存在であり、王≠煖ュ大な力を持っているというだけの同一種である。
しかし|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールは、違っていた。彼は|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノおける世界法則の体現者、|超《ちょう》 常《じょう》的存在たる神の一人であり、 持てる|権《けん》能《のう》は審判と|断《だん》罪《ざい》という『|天《てん》罰《ばつ》神《しん》』だった(ゆえに『真正の』という表現が使われる)。
そんな彼がこの世に渡り来たのは、双方の世界に|仇《あだ》なす|同《どう》胞《ほう》に天罰を下すためであり、またフレイムヘイズとしての使命に特別こだわるのも、自らの|神《しん》格《かく》と権能ゆえだった。
ところで、ここに一つの|齟《そ》齬《ご》がある。
その類別において神ではない|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠スちは、|召《しょう》喚《かん》の手法を応用してフレイムヘイズと契約する。これは彼らの権能において召喚されるのではなく、自分の器とするため、契約者の存在全てを捨てさせ、そこに眠らせた|己《おの》が身を容れる、というただの作業[#「ただの作業」に傍点]である。つまり、|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠轤ヘ、人間に自分を呼ばせて|境《きょう》界《かい》を移動しただけなのだった。
そして、同じ作業によって契約した真正の神たるアラストールも、ただこの世へと移動しただけであり、実際には|神《しん》威《い》の召喚を受けていない状態にあった。眠りの内に|湧《わ》き出す力を契約者に与える、という常の状態ならば、彼は他の王≠ニ、なんら変わりのない存在である。
しかし、いざ神威を召喚する|儀《ぎ》式《しき》があれば、彼は|顕《けん》現《げん》する。
それが、他の|徒《ともがら》≠竍王≠ノはない、彼の神としての権能。
彼――|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠呼ばう儀式の名を、|天《てん》破《ぱ》壌《じょう》砕《さい》≠ニいう。
|紅《ぐ》蓮《れん》の光景の中、青い|炎《ほのお》は死地から逃れんと必死の、しかし緩やかな動きを見せる。
「自ら|喪《そう》失《しつ》、別れを、選ぶ……なんという、|愚《おろ》かな|真似《まね》を!」
眠っていた|魔《ま》神《じん》の本体を目覚めさせたりすれば、巨大すぎる|正《しょう》 真《しん》正《しょう》 銘《めい》の神の|顕《けん》現《げん》、人の身が行い得る限界を遥かに超えた顕現は、器となっていた契約者を破壊してしまう。
アシズには、その選択が信じられなかった。
「愛し合って……いるのだろうが!!」
間違いなく、マティルダ・サントメールは、死ぬ。
しかし、
「それは、別れない理由にはならないわ[#「別れない理由にはならないわ」に傍点]」
そのマティルダは、笑っていた。
心の|充《じゅう》溢《いつ》を満面に|煌《きらめ》かせて。
「さて、|生《いけ》贄《にえ》は、と」
(時間が、ない)
(……)
紅蓮の帳《とばり》――魔神|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠迎える|紅《あか》い世界は、 |召《しょう》 喚《かん》の|代《だい》償《しょう》たる生贄を捧げる場でもあった。その|標《ひょう》的《てき》として選ばれたのは、
「さすがに、|貴方《あなた》ほど存在が巨大だと、紅蓮の帳の|干《かん》渉《しょう》も弱まるか……生贄にする死の影が薄いみたいね。|僅《わず》かでも、動けるようだし」
(体が、煮え|滾《たぎ》って、る……蒸発、しそう、アラストール)
(……マティルダ)
ゆるりと遠ざかろうとする|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズではない。
「じゃあやっぱり、こっちね」
(痛い……痛い、痛いよ、アラストール)
(マティルダ)
「おお、|山※[#「木+虍/且」、第4水準2-15-45]子《さんざし》、よ」「お前は、刺す、ために」「青々、と、している」
|天《てん》秤《びん》の一角で浮いたまま静止を強いられている|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリだった。
その背後には、マティルダから受けた紅蓮を|遮《さえぎ》った|証《あかし》たる影が、黒々と壁に伸びていた。どこか異常なまでに濃く黒いそれは、生贄たる者が捧げる、存在の|影《かげ》法《ほう》師《し》。
これを取り込み、変換し、神を|喚《よ》ぶ|供《く》物《もつ》にして動力源たる『|心臓《コル》』とする。
「――|荒《あら》振《ぶ》る身の|掃《はら》い世と定め|奉《まつ》る、紅蓮の|紘《ひろ》に在る|罪《つみ》事《ごと》の|蔭《かげ》――」
(息、苦しい、アラストール)
(まだだ)
マティルダが|音《おん》吐《と》朗《ろう》々《ろう》と|祝詞《のりと》を唱え始める。
「――|其《そ》が身の罪と言う罪、刈り断ちて身が|気《い》吹《ぶ》き|血《ち》潮《しお》と|成《な》せ――」
(目が、耳が、おかしい、アラストール)
(まだだ、マティルダ!)
じわじわと、ジャリの黒い影に、周囲の|紅《ぐ》蓮《れん》が侵食を始める。
「……いか、ん、|凶《きょう》界《かい》卵《らん》=c…!!」
アシズの|絞《しぼ》り出すような声に、ジャリが答えた。
「私は、その、ような、約束で」「あなたに、|縛《しば》られ、たくは、ありません」「さよう、なら」
|刹《せつ》那《な》
ズズン、
と|帳《とばり》の外で、|地《じ》響《ひび》きを伴う|轟《ごう》音《おん》が鳴り|響《ひび》いた。
(!?)
(!?)
マティルダとアラストールの驚く前で、部屋の光景が傾いた。
傾きがズレになり、寒気を伴う落下の感覚が|襲《おそ》う。
(な、に――!?)
(|塔《とう》を、崩したか!?)
紅蓮の帳を張った『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の間そのものが|崩《ほう》落《らく》している。つまり、鈍くとも行動の自由を持っているアシズ、その付属物たる金属板や|棺《ひつぎ》、『|小夜啼鳥《ナハティガル》』が空へと抜け出てしまう。|下手《へた》をすると、この崩落によってジャリさえ逃してしまうかもしれない。
(しまっ、た――!)
(ぬかった!!)
巨大な『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の重みによって割れる塔の外に、無数の|蝿《はえ》の大群『|五月蝿《さばえ》る風』が|渦《うず》巻《ま》いていた。黒い霧とも見えるこれが力を結集して、巨大な『|首《しゅ》塔《とう》』を崩したのだった。
この蝿の大群を|操《あやつ》る|自《じ》在《ざい》法《ほう》は、一定レベル以上の防御力を持つ相手には全く通じない。ジャリの|本《ほん》領《りょう》は、絶大な規模で自在法を展開し制御する点にあり、戦いという行為にはなかった。しかし、ゆえにこそ、二人は注意を払っていなかった|伏《ふく》兵《へい》に足を|掬《すく》われる形となった。
マティルダには、この|儀《ぎ》式《しき》を二度行うだけの力が残っていない。
アシズが同じ|罠《わな》にかかるわけもない。
全てが、失敗で終わる。
(くっ、う――――うあああ!!)
マティルダは落ちる紅蓮の光景の中、心で|絶《ぜっ》叫《きょう》していた。
(前と同じ[#「前と同じ」に傍点]は、嫌だ!!)
奪われたもの―― 戦う機会―― 失われる仲間―― |暴《あば》かれた|虚《きょ》偽《ぎ》―― |仮《かり》初《そめ》の栄光―― 敵意の視線―― |不《ふ》条《じょう》理《り》な裁き―― そして、|処《しょ》刑《けい》―― かつて、人の身で見た|悪《あく》夢《む》が|過《よ》ぎる。
しかしすぐ覚めた。
(今度こそ)
終わりだとしても。
(最後まで)
その時が来るまで、
(|諦《あきら》めない、決して!!)
「――絵を」
ドッ、と一つの|衝《しょう》撃《げき》音《おん》とともに、突然、光景が止まった。
「見たい、触れたい、確かめたい」
驚くマティルダたちの耳に、声が届いた。
初めて開く、少女の声だった。
「ドナートの描いた、私の、絵を」
アシズの眼前、|鳥《とり》籠《かご》から少女が細い手を差し出して、|塔《とう》の|崩《ほう》落《らく》を静止させていた。
「愛し合っていても、別れるのだな……ああ、そうだったのか……そう、だったのだ」
涙が、既に|紋《もん》様《よう》の消えた|頬《ほお》を伝い、流れ落ちていた。
「私は、なにをしていたのだろう……私は、彼を愛しているのに、別れてしまった」
アシズは、信じ難いものを見た。少女が左目で|一《ひと》睨《にら》みした瞬間、手を侵していた|紋《もん》章《しょう》が|掻《か》き消えた。右手の指を二つ、唇に当てると、首から下の紋様が一気に|失《う》せた。
「彼も、私との約束どおり、私の絵を、描いてくれた……私は、なにをしていたのだろう」
あれだけの時間と存在の力≠費やして刻んだ支配の|自《じ》在《ざい》式《しき》が、ほんの数秒で|解《かい》除《じょ》された。しかも、返す刀で手を差し出して、『|首《しゅ》塔《とう》』の崩落を一人で止めている。
「|逢《あ》いに行こう、愛する男に。見に行こう、私の絵を。おそらく、それだけのことなのだ[#「それだけのことなのだ」に傍点]」
その声には、顔には、|俯《うつむ》いていた|囚《とら》われの鳥の|面《おも》影《かげ》はない。
静かな決意と、深い喜びが、宿っていた。
今や少女は、自らの意思で口を開き、言葉を|紡《つむ》ぐ。
「|魔《ま》神《じん》よ……我が|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ|威《い》名《めい》轟《とどろ》かす|紅《ぐ》世《ぜ》$^正の魔神|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠諱v
鳥籠の内から、今まさに飛び出そうとする力に|溢《あふ》れた声で|請《こ》う。
「この助力の|代《だい》償《しょう》に、戦場より無事に去る許しを|貰《もら》いたい」
まるで、その許しさえあれば|容易《たやす》く逃れられるような物言いだった。そして今この場に在る誰もが、それを不可能とは思わなかった。
アシズでさえも。
ゆえに、彼は心の底から恐怖した。
ここで|天《てん》破《ぱ》壌《じょう》砕《さい》≠ェ発動すれば、自分の存在が。
それよりも、今この鳥を逃せば、彼の抱く結晶は、|鼓《こ》動《どう》は。
「|止《よ》せ――|止《や》めろ!!」
「我が名において、許そう」
アラストールが言った。
「|籠《かご》から出た時……おまえは、我と共に同じ敵を破る、友となる。この|因《いん》果《が》の交叉路の上において、我はおまえの友。ゆえにその行く道を|遮《さえぎ》るまい。籠を出よ。そして、|宝《ほう》具《ぐ》たるの名『|小夜啼鳥《ナハティガル》』を返上せよ……我が友|螺《ら》旋《せん》の|風《ふう》琴《きん》<潟ャiンシー」
「|止《や》――」
|呆気《あっけ》なく、全く呆気なく、|鳥《とり》籠《かご》が砕けた。
そして同時に、宙に静止していたジャリの黒い影が一気に侵食された。
|断《だん》末《まつ》魔《ま》をあげる間もない|炸《さく》裂《れつ》、彼の色ではない|炎《ほのお》……|紅《ぐ》蓮《れん》の、|膨《ぼう》張《ちょう》。
その中心で、|凄《せい》絶《ぜつ》な笑みと共に、マティルダが唱える。
「――|天《てん》破《ぱ》、|壌《じょう》砕《さい》=\―」
上空にあった『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』が、|一《いっ》斉《せい》に|亜《あ》麻《ま》色の炎となって燃え上がり、消える。
後には、雲の|隙《すき》間《ま》に星の|瞬《またた》く夜空が残されていた。
ウルリクムミは、大きく広がった夜空を見上げて|慨《がい》嘆《たん》し、なお戦友たちのために働くことを心に決める。
「……全軍にいいい、|転《てん》進《しん》の指示を出せえええ」
その指示に、|妖《よう》花《か》は全ての終わりを感じた。
「|籠《ろう》城《じょう》、を?」
「|要《よう》塞《さい》方面にではないいいい、ゆるりと後退を続けている[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の部隊にいいい、合流するのだあああ。|後《こう》衛《えい》には|千《せん》変《ぺん》=b殿《どの》がいようううう、我が名においてえええ、収容を願うのだあああ。後の身の振りようはあああ……|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》%aが|差《さ》配《はい》してくれよううう」
「主の救援には?」
分かっていても、|訊《き》かずにはいられない。
「行ったとて|無《む》駄《だ》だあああ、我らが『|壮《そう》挙《きょ》』はあああ……|潰《つい》えたのだああああ」
ブロッケン要塞の|頂《いただき》が、|噴《ふん》火《か》したかのような紅蓮に染まっていた。
その|傍《かたわ》らからも、恐ろしい規模で鮮やかな青い光が|膨《ふく》れ上がっている。
妖花はその輝きに|賭《か》けたかった。
しかし、ウルリクムミは|軍《ぐん》勢《ぜい》を預かる|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》として、精神論ではなく現実|認《にん》識《しき》によって、より多くの兵を生かすための判断を下す。
「誰が勝てようかあああ、あの|紅《ぐ》世《ぜ》$^正の|魔《ま》神《じん》んんん、|天《てん》罰《ばつ》下す|破《は》壊《かい》神《しん》にいいい……まさかこの世でえええ、|神《しん》威《い》召《しょう》喚《かん》を行うとはなあああ……」
深い|哀《あい》切《せつ》が、鉄の|響《ひび》きに混じっていた。
「|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》は?」
「俺はあああ、戦友たちが全員|転《てん》進《しん》を終えるまでえええ、ここに踏みとどまるううう」
「そんな!?」
焼け|焦《こ》げと|凹《おう》凸《とつ》、穴も開いた鉄腕を大きく振って、ウルリクムミは崩れ始めた友軍を|撤《てっ》退《たい》の方向へと|誘《ゆう》導《どう》する。
「あの|顕《けん》現《げん》を見ればあああ、|同《どう》胞《ほう》殺しどもは|嵩《かさ》にかかって攻め立ててこようううう。|大《たい》勢《せい》は決したのだあああ……もはや自身の|討《う》ち死にも含めて戦力を|温《おん》存《ぞん》する必要はないいいい、『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』も|程《ほど》なくううう」
ガガッ、と|稲《いな》妻《ずま》の|閃《ひらめ》きが遠くに見えた。
気の早いことだあああ、とウルリクムミは思い、強敵の|突《とつ》撃《げき》に備えて足を踏ん張る。
「お前も行くのだあああ、|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》=b殿《どの》にいいい、|此《こ》度《たび》の|参《さん》戦《せん》の|御《おん》礼《れい》――」
|妖《よう》花《か》は、払われそうになった肩から頭へ、ふわりと飛び移った。
「……お|供《とも》を?」
その妖花を、やっぱり払い除けて、ウルリクムミは言った。
「許すがあああ、まずは離れよおおお」
|幾《いく》つも穴の開いた体の周囲を、鉄の|怒《ど》涛《とう》『ネサの|鉄《てっ》槌《つい》』が|渦《うず》巻《ま》いて流れ始める。
そして、稲妻が飛んできた。
|膨《ふく》れ上がる|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》の中に、アラストールの声が響く。
「これで、良かったのか、マティルダ」
「いいのよ、私は|納《なっ》得《とく》してるんだから」
炎の中心に浮かぶマティルダが答えた。ドレスも|大《たい》剣《けん》も|盾《だて》もマントも、身に|纏《まと》った全てが、薄れ、溶けてゆく。もはや、苦しみはない。全てが吹き飛んだような|爽《そう》快《かい》感《かん》だけがあった。
「さあ、行きましょう」
遥か下方で、|要《よう》塞《さい》を踏み|潰《つぶ》す足の|感《かん》触《しょく》があった。
しかし、その足の持ち主は、|憂《うれ》いに満ちた|呟《つぶや》きを漏らす。
「我は、今となってようやく……|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》≠フ心を理解している」
困ったように、マティルダは自分を包む男に笑いかけた。
「もう……せっかく|格《かっ》好《こう》付けたのに、二人っきりになった|途《と》端《たん》に、そんな……そんなことで、あなたの志を|貫《つらぬ》いてゆけると思っているの? それとも、あなたの志は……|誓《ちか》い、決意した心は……一人の女との|情《じょう》に流されるような弱いものだったの?」
「――いや[#「いや」に傍点]」
そこだけは重く、|確《かく》とした声が返る。
彼の揺るぎない心に、マティルダは大きな敬意を抱く。だからこそ、それを|茶《ちゃ》化《か》し、からかう。彼の心を知っているからこそ。
「まあ正直、惜しいかな、とは思うけどね。こんなにいい女なのに。でもまあ結局、心を結び合わせてる、って感じられた男は、あなた一人だけだったんだし」
|案《あん》の|定《じょう》、答えは返ってこない。
くすりと笑い、|余《よ》計《けい》な力を抜いて、また笑う。
「だから、私は幸せ。他でもない、あなたのために死ねる……いいえ、命を燃やし尽くせるのだから。今まで、私の|惨《みじ》めな|復《ふく》讐《しゅう》に付き合ってくれて、ありがとう」
「……」
「それと、取って置きの秘密……最後だから打ち明けるけど――――大好き。愛してる」
ややの間を置いて、少し前の言葉に、答えが。
「……惨めなものか。我が、|憧《あこが》れるほどに……見事だった」
一つ前の言葉は、初めてマティルダがその言葉を自分から使った、というだけで、彼にとっては分かりきっていることだった。
「そう……それだけが、ちょっとした引け目だったんだけど……良かった」
|安《あん》堵《ど》と、喜びが|僅《わず》かに|掠《かす》れる。
「じゃあ、あなたのために[#「あなたのために」に傍点]、覚えておいて。私は、私の惨めな復讐に果てるんじゃない、あなたの志への敬意から全力を振り|絞《しぼ》るんだってことを。だから、私は幸せだったってことを」
思いが、終わる。
存在が、器が、|炎《ほのお》に呑まれ。薄れる。
それを感じて、マティルダ・サントメールは言う。
「さようなら。あなたの炎に、|永久《とわ》に|翳《かげ》りのありませんように」
悲しみを彼に残さないよう、|懸《けん》命《めい》に。
「もう一度だけ、言わせてね」
|愛《いと》しさだけを|遺《のこ》そうと、心から。
「愛しているわ、|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストール、誰よりも――」
ブロッケンの山上に、それ[#「それ」に傍点]は山鳴りと|地《じ》響《ひび》きを|撒《ま》き散らして、|聳《そび》え立った。
|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールの、|顕《けん》現《げん》だった。
その|全《ぜん》形《けい》は、|漆《しっ》黒《こく》の|塊《かたまり》を奥に秘めた、|灼《しゃく》 熱《ねつ》の炎。 |轟《ごう》々《ごう》と|渦《うず》巻《ま》き荒れる|紅《ぐ》蓮《れん》の中に、|要《よう》塞《さい》を踏み砕く太い足と、夜風を裂く|鉤《かぎ》爪《づめ》を|生《は》やした長い腕、見る者を圧する分厚い|胴《どう》体《たい》の上には、|畏《い》怖《ふ》を与える|角《つの》らしきものを|生《は》やした頭が見える。夜空を思わせる|皮《ひ》膜《まく》を張った|翼《つばさ》が広がり、全天に向かって|紅《ぐ》蓮《れん》の|火《ひ》の|粉《こ》を|撒《ま》き散らしていた。
その前に、鮮やかな青が輝き、|膨《ふく》れ上がる。
「なぜだ……」
紅蓮とは対照的な、流れる風に色の見えるような、青き|炎《ほのお》。
|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズの、|顕《けん》現《げん》だった。
|片《かた》膝《ひざ》を着いて|蹲《うずくま》る、巨大な翼を持つ、巨大なる仮面の王=B硬い羽根のように広がる髪、鋭く突き出た角、細くも|逞《たくま》しい|体《たい》躯《く》、そして、|優《ゆう》雅《が》とすら言っていい、鳥の翼。周囲に|渦《うず》巻《ま》く青き流れの中に、それらがはっきりと見て取れた。
「なぜ、愛する者を捨てるフレイムヘイズが、私の前に立ちはだかるのだ」
アシズは、かつての自分とは正反対の敵を前にして、|慟《どう》哭《こく》した。
「なぜ、愛を選ばない。かけがえのない、この世に|唯《ただ》一《ひと》つの、愛を」
切々と|咆《ほ》え、『|都《みやこ》喰《く》らい』で得た存在の力¢Sてを|己《おのれ》の顕現のために使う。
「愛し合う者が、互いの生きる道を……なぜ、選ばぬのだ!!」
答えて、|遠《えん》雷《らい》にも似たアラストールの声、その|轟《とどろ》きが、山並を鈍く震わせる。
「|貴《き》様《さま》は、|何処《どこ》を、見ているのだ」
声は、怒りに燃えているようにも、|歓《かん》喜《き》に|戦慄《おのの》いているようにも聞こえた。
「我らは、共に生きて、|此処《ここ》に在る」
言うや紅蓮の|魔《ま》神《じん》は、青さ天使の胸の内にある、
未だ輝き|鼓《こ》動《どう》する『|両《りょう》界《かい》の|嗣《し》子《し》』となるはずだった結晶。
特別な二つの|自《じ》在《ざい》式《しき》『分解』と『定着』を刻んだ金属板。
青い|棺《ひつぎ》の中、|永久《とわ》の眠りにつくフレイムヘイズ・ティス。
それらを、伸ばし|貫《つらぬ》いた腕の|一《いら》撃《げき》、たったの一撃で|掴《つか》み、握り砕いていた。
「――――――ッ!!」
「我が女、マティルダ・サントメールの……生き|様《ぎま》を、見よ」
ブロッケン山と、それを囲むハルツ山系に、紅蓮の|怒《ど》涛《とう》が巻き起こり、爆発した。
|雷《かみなり》に打たれたかのように、|輿《こし》の上にあったヘカテーの体が跳ねた。
「――う、あ、ッ――!!」
「な、に!?」
|傍《かたわ》らに浮かんでいたベルペオルは、三分の二の目を|驚《きょう》愕《がく》に見開いた。
|即《そく》座《ざ》に情景の意味を理解する。
「――しまった!」
彼女の足元から、皿状に|渦《うず》巻《ま》いていた|鎖《くさり》の一部が|千《ち》切《ぎ》れて走った。
「共振を|遮《しゃ》断《だん》せよ、『タルタロス』!!」
持ち主の命令を受けた鎖の|宝《ほう》具《ぐ》『タルタロス』は、|蹲《うずくま》って震えるヘカテーの周りで輪を作ると、鎖の|環《わ》一つ一つを外して広がった。そのまま宙に浮いて、|巫女《みこ》を特定|現《げん》象《しょう》から切り離す。
「大丈夫かい、ヘカテー!?」
鎖の渦を|輿《こし》に寄せて、|軍《ぐん》師《し》は巫女たる少女の身を助け起こした。
その|白《はく》皙《せき》の|容《よう》貌《ぼう》が、より|蒼《あお》く白くなっている。冷や汗もびっしりと浮かび、息も荒い。
「……ふう」
とりあえずの無事を確認すると、軍師はまず、周囲を|窺《うかが》った。どんな敵より、味方の将軍がいないかを確認する。もし彼が、守るべき巫女のこんな状態を見たら、|激《げっ》昂《こう》して何をしでかすか分かったものではなかった。|下手《へた》をすると|己《おの》が身すら危うい、と|危《き》惧《ぐ》しっつ……彼が[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の敗兵を収容するため|後《こう》陣《じん》に詰めていることを確認し直し、|安《あん》堵《ど》する。
そうして、ようやく腕の中の少女に|尋《たず》ねた。
「ヘカテー、まさかとは、思うのだが」
ベルペオルの|懸《け》念《ねん》を、息を整えるヘカテーは|頷《うなず》くことで肯定する。
「はい――『|大《たい》命《めい》詩《し》篇《へん》』が、砕けたの、です」
「……なん、ということだ……」
さすがの|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオルが、|総《そう》身《しん》を震わせた。
山上、青い天使を|一《いち》撃《げき》で打ち倒した|紅《ぐ》蓮《れん》の|魔《ま》神《じん》を、|畏《い》怖《ふ》とともに見上げる。
彼女ら[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]|秘《ひ》蔵《ぞう》の|自《じ》在《ざい》式《しき》『|大《たい》命《めい》詩《し》篇《へん》』は、|解《かい》読《どく》や稼働が困難というだけのものではない。例えそれがごく一部の|断《だん》篇《ぺん》であっても、|一《いっ》旦《たん》物に刻めば破壊や|干《かん》渉《しょう》を受け付けなくなる『完全一式』という特別な自在式なのだった。だからこそ、オリジナルを握るヘカテーが、共振による破壊を行うべく、わざわざ|出《しゅつ》座《ざ》してきたのである。
それを、あの魔神は一撃で|容易《たやす》く砕いたという。
「……『|天《てん》罰《ばつ》神《しん》』の|神《しん》格《かく》は、|伊達《だて》ではないということか……全く、この世はままならぬわ」
冷や汗を|頬《ほお》に伝わせつつも、彼女の|怜《れい》悧《り》な頭脳は、この新たな危険性によって生まれる事態や、今後への|影《えい》響《きょう》を|即《そく》座《ざ》に計り始める。
(幸い、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は|出《で》所《どころ》の究明をしていなかったようだ……破壊によって現物も消えたこと、その破壊を天罰|狂《ぐる》いの|同《どう》胞《ほう》殺しが行えること、これらの確認を成果とすべきだね……あとは、あの逃げた『|小夜啼鳥《ナハティガル》』を、いざ使うときのため、|監《かん》視《し》させておこうか)
状況を整理し終えるや、彼女は再びヘカテーを輿に|丁《てい》重《ちょう》に横たえる。と、態度を一変させ、すっくと立って鋭い声を張り上げる。
「ガープ!」
「はっ! 軍師殿!」
火花と共に現れた武装|修《しゅう》道《どう》士《し》に告げる。
「将軍に|伝《でん》令《れい》! [|仮装舞踏会《バル・マスケ》]は、只今をもって[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|残《ざん》兵《ぺい》収容を終了、フレイムヘイズの追い|討《う》ちに|一《ひと》当《あ》てし、全速で|戦《せん》域《いき》より|離《り》脱《だつ》する!!」
遠い戦場には、もう鉄の巨人は立っていなかった。
(  新しい 熱い歌を 私は作ろう  )
アラストールの胸に、歌が|響《ひび》いている。
マティルダ・サントメールの、|妙《たえ》なる歌声だった。
常の|神《しん》威《い》召《しょう》喚《かん》であれば、召喚|主《しゅ》の|祝詞《のりと》が続いているはずの、今。
|炎《ほのお》の内には、いつか聞き|惚《ほ》れた|戯《ざ》れ歌が、彼女の心の|余《よ》韻《いん》として、響いていた。
(  風が吹き 雨が降り 霜が降りる その前に  )
|山《やま》肌《はだ》に打ち付けられた青い天使は|咆《ほ》える。
「死んで、死んで、なんの生き|様《ざま》だというのだ!!」
咆えて、|己《おのれ》の胸に突き刺さった|紅《ぐ》蓮《れん》の腕を、引き抜いた。
その胸の大穴を、周囲に満ちていた青き流れが|瞬《しゅん》時《じ》に埋め、|癒《いや》す。
(  我が恋人は 私を試す  )
|要《よう》塞《さい》を|灼《しゃく》 熱《ねつ》に溶かし、また踏みしだく紅蓮の|魔《ま》神《じん》は、|顕《けん》現《げん》を果たした本物の|灼《しゃく》 眼《がん》で青い天使を|睥《へい》睨《げい》し、|轟《ごう》々《ごう》と炎を|撒《ま》き散らして|咆《ほう》哮《こう》する。
「|貴《き》様《さま》と同じだ! 契約者の生き様が、今の貴様と共に――在る!!」
|牙《きば》だらけの口から|一《ひと》塊《かたまり》の|炎《えん》弾《だん》が吐き出され、爆発する。
(  私が彼を どんなに愛しているか  )
とっさに差し出された天使の腕が、その紅蓮の爆発によって|千《ち》切《ぎ》れ飛び、青い|火《ひ》の|粉《こ》が圧倒的な紅蓮に呑まれてゆく。
「違う!! 死に様だ! 私と共に在るのは、ティスの死に様だ!!」
その|膨《ふく》れ上がる炎の中から、天使が|角《つの》を突き出した。
(  どんな|諍《いさか》いの|種《たね》を |蒔《ま》こうとも|無《む》駄《だ》  )
しかし、その|角《つの》は|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》の奥、|漆《しっ》黒《こく》の|体《たい》表《ひょう》で、|容易《たやす》く砕けた。
「|徒《ともがら》≠|討《う》ち果たしたティスを、人間のため力を使い果たした、我が愛する娘を――」
よろめいて立ち上がる|傍《かたわ》ら、受けた傷をさらに|癒《いや》す。青き流れは、薄まってゆく。
「――弱さから恐れ、|強《ごう》欲《よく》から利用し、|挙《あげ》句《く》に殺したのは、人間どもだ!!」
(  私は この|絆《きずな》を 解きはしない  )
その薄まる流れを、青い天使は|凝《ぎょう》縮《しゅく》してゆく。
「だから喰らった! 守るのを止めた! ティスと共に生きる、それだけを望みとした!! ただ、共にあろうと……それを世の|理《ことわり》が許さぬのなら、理をすら変えてみせると!!」
流れは、彼を中心とした、|鮮《せん》烈《れつ》な輝きとなって|渦《うず》巻《ま》いた。
(  かえって私は 恋人に全てを与え 全てを|委《ゆだ》ねる  )
青い天使は、背にある|翼《つばさ》を大きく広げ、羽ばたいた。
「新しき世に|響《ひび》き渡る、古き理を送る、ゆえに我らは[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]!!」
翼の広がりとともに力の渦は|弾《はじ》け、大きく羽ばたくとともに|濁《だく》流《りゅう》となる。生み出された青い|雪崩《なだれ》は、正面に立つ紅蓮の|魔《ま》神《じん》を、山ごと飲み込んで、|眩《まぶ》しく爆発した。
(  そう 彼のものとなっても構わない  )
その爆発の中から全く|無《む》造《ぞう》作《さ》に、無傷の魔神は角を突き出した。
「その意気やよし、|冥《めい》奥《おう》の|環《かん》=c…いやさ、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》=I」
青い炎を裂いて繰り出された魔神の角は、天使の|胸《きょう》郭《かく》を押し|潰《つぶ》した。巨大な天使が、|山《やま》肌《はだ》を|削《けず》って岩を|撒《ま》き、木々を焼いて下がる。
(  酔っているなぞとは 思い|給《たも》うな  )
山系に、離れた両者の|咆《ほう》哮《こう》が|轟《とどろ》き渡る。
「だが、世の理は、過ちを決して|看《かん》過《か》せぬ!!」
「過ちでなどあるものか――我が――愛が!!」
踏み潰された|要《よう》塞《さい》を間に置いて、互いに息を胸郭|一《いっ》杯《ぱい》に吸う。
(  私が あの美しい|炎《ほのお》を 愛しているからといって  )
双方の口から|渾《こん》身《しん》の、巨大な|炎《えん》弾《だん》が吐き出された。
想いのぶつかるように、中間点で|紅《ぐ》蓮《れん》と青が|激《げき》突《とつ》し、
一瞬も耐えられず、青が吹き散らされた。
紅蓮の|炸《さく》裂《れつ》に青き天使は|粉《こな》々《ごな》に砕け、山地が|要《よう》塞《さい》が|余《よ》波《は》に飲み込まれ、|弾《はじ》け飛んだ。
(  私は 彼なしには   生きられ ない  )
|撤《てっ》退《たい》の途上にあった『|三柱臣《トリニティ》』が、
|戦《せん》野《や》に残されたフレイムヘイズ兵団が、
|山《さん》麓《ろく》から離脱した『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』にある二人が、
大戦の終結を知らせる、紅蓮の|号《ごう》砲《ほう》を、聞いた。
(  彼の   愛の |傍《そば》に いて そ  ほど  わたしは        )
そして――
いつしか歌は|途《と》切《ぎ》れ、聞こえなくなっていた。
代わりに、ただ一人の胸の中で、|響《ひび》き続ける。
いつまでも――いつまでも――。
[#改ページ]
戦場の|端《はし》、
砕けた木の株に腰掛けた、|修《しゅう》道《どう》服《ふく》もボロボロに|擦《す》り切れたゾフィーは、|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》いた。
その手には、たった今、一人の女性から届けられた、手紙がある。布に書き付けられた事柄に目を通して、その|帯《たい》同《どう》者――恐るべき|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ生存――に驚き、しかしなにも処置を取らなかった。
(今、あのじゃじゃ馬のためにしてやれることは、せいぜいこの程度ですか……本当、|人《ひと》一人のなんと|非《ひ》力《りき》なこと……)
その|額《ひたい》、青い星の|刺《し》繍《しゅう》から、タケミカヅチがことさら取り澄ました声で言う。
「勝ちましたな」
その乱れることのない声の助けを借りて、ゾフィーは心の|平《へい》衡《こう》をようやく保った。一軍を|率《ひき》いて戦った者の|弱《よわ》音《ね》を、こんな彼にだからこそ、|密《ひそ》かに漏らす。
「ええ、なんとか。いささか以上に殺しすぎたようですけれど……敵も、味方も」
殺した敵を、砕いた巨人や散った花を、死なせた戦友を、|気風《きっぷ》の良い青年や|煩《わずら》わしい取り巻きを、偉大な……そう、偉大と言っていいフレイムヘイズのことを思った。
手を胸の前に上げ、一瞬|躊躇《ためら》い、しかしすぐに笑って、十字を切る。
「いや、よくやりました、ゾフィー・サバリッシュ君」
「おかげさまで、タケミカヅチ氏」
二人して言い合い、意味もなく笑い合った。
と、その背後から、ドゥニとアレックスが声をかける。
「|総《そう》大将、|痕《こん》跡《せき》抹《まっ》消《しょう》の作業に|丁《ちょう》度《ど》いい|嵐《あらし》が来ると、フランソワが申しております」
「でっけえ|瓦《が》礫《れき》くらいは|他所《よそ》にやっとくか? ま、ほとんど残っちゃいねーだろが」
ゾフィーは立ち上がって|埃《ほこり》を払い、遠い|紅《ぐ》蓮《れん》の|煌《きらめ》きに笑いかけた。
「いつの日か、再び素晴らしきフレイムヘイズを連れて、我々の前に現れるのでしょうね、|貴方《あなた》は……その日が、とても楽しみ」
山上、|灼《しゃく》熱《ねつ》の風吹き荒れる|魔《ま》神《じん》の眼前に、|螺《ら》旋《せん》の|風《ふう》琴《さん》<潟ャiンシーが舞い降りた。
「|蒙《もう》を|啓《ひら》いてくれた彼女に」
少女の|容《よう》貌《ぼう》には、未だ表情らしい表情は戻っていない。しかし、その奥には、凍り付いていた|大《たい》河《が》の再び流れ出すように、緩やかで深い感情のたゆたいが見えていた。
「そして、行路の|檻《おり》を砕いてくれた|貴《き》君《くん》に、|万《ばん》謝《しゃ》の念を贈る」
「……」
アラストールは言葉ではなく、胸深くの|唸《うな》りだけで答えた。
その|灼《しゃく》眼《がん》の奥に彼の心を見て取ったリャナンシーは、ゆるりと一礼した。
「では、私は行く……愛する者の、元へ。これからは、自分でなんとかしてみよう[#「自分でなんとかしてみよう」に傍点]……さらばだ|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》=A我が新しき友よ。|因《いん》果《が》の交叉路で、また会おう」
顔を上げず、少女は深い緑色の|火《ひ》の|粉《こ》を散らして、消えた。
その別れを契機としてか、|紅《ぐ》蓮《れん》の|魔《ま》神《じん》も巨大な|総《そう》身《しん》を、散らす。
|炎《ほのお》の|吹雪《ふぶき》、舞い咲く花弁とも見える無数の火の粉の中、一つだけ大きく|点《とも》る、炎があった。
どこか|孤《こ》影《えい》を揺らすにも似た、その紅蓮の炎は、ゆっくりと下に、下に、降りて行く。
何かが、|零《こぼ》れるように。
砕けた断面を見せて空に浮かぶ『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』へと。
その内に在る、銀の|水《すい》盤《ばん》『カイナ』へと。
炎の降りる先、
頭上を埋める紅蓮の火の粉、彼女の|欠片《かけら》を、一人の男と、一人の女が見上げていた。
「触れるな、ヴィルヘルミナ・カルメル」
愛する男・メリヒムに初めて名を呼ばれたヴィルヘルミナは、
「……、っ」
しかしその言葉の意味に気付き、凍り付いた。彼を助け起こそうと差し伸ばしていた一本きりの手を下ろし、疲労ではない|困《こん》憊《ぱい》から、へたりと座り込む。
そんな彼女には目もくれず、上から降りてくる紅蓮の炎だけを|睨《にら》みつけるメリヒムは、固まりつつある、愛する女の血に|塗《まみ》れた顔で、|冷《れい》酷《こく》に、固く、しかし一つ愛情を持って、言う。
「俺たちが、今ここに在る意味を、思え」
言う間に、彼の顔が蒸発するように薄れてゆく。
「マティルダ・サントメールの望みを果たそう」
二度と人間を喰らわないと|誓《ちか》った彼は、自らの|顕《けん》現《げん》の規模を押さえるため、変わる。
最低限、ただ動くだけの、白骨の姿へと。
その|掠《かす》れ行く声が、|残《ざん》酷《こく》に、告げる。
「我々は……ただそのため、だけに……ともに在ろう[#「ともに在ろう」に傍点]――」
ヴィルヘルミナは、そんな|酷《ひど》い、それでも愛する男の|傍《かたわ》らに、座る。せめて、許された場所のように。|膝《ひざ》を抱えて、その内に|隠《かく》すように、小さく|呟《つぶや》く。
「嫌な、|奴《やつ》」
白骨となった男は、もう、答えなかった。
|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》を|水《すい》盤《ばん》に|点《とも》して、『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』は飛び立った。
未だ明けない、夜の|彼方《かなた》へ。
果ての見えない、時の中へ。
ただ一人の望みを、抱いて。
[#改ページ]
エピローグ
|坂《さか》井《い》家の|縁《えん》側《がわ》を兼ねる、庭に面した|掃《は》き出し窓。
その|縁《へり》に座って、必死の|形《ぎょう》相《そう》で逃げる少年、怒って木の枝を手に追いかける少女、双方を|微《び》苦《く》笑《しょう》して|眺《なが》めやるヴィルヘルミナに、アラストールが声をかけた。
「いったい、どういうつもりだ? 今になって、あのような歌を教えるなど」
|傍《かたわ》らに置かれたペンダントコキュートス≠ノ顔を振り向けることなく、少女の養育係だった女性は、小さく答える。
「そろそろ、自分で考えさせても良いかもしれない、と思ったのであります」
「|情《じょう》操《そう》教育」
「……」
アラストールは、早くはないか、と抗議する気に、なぜかなれなかった。かつての契約者と自分のことを思い出したから……そんな|半《はん》端《ぱ》な気持ちで少女に接しているとは思いたくなかったが、答えは|茫《ぼう》漠《ばく》としている。しかし、悪い気分では、なかった。
彼の心をどこまで分かっているのか計らせない、無表情という|仮《か》面《めん》越《ご》しに、ヴィルヘルミナはまた小さく|呟《つぶや》く。
「フレイムヘイズの|在《あ》り|様《よう》、その全てを伝え終わったのであれば……あと一つ、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』のことを、少しずつ……」
茂みに突っ込んだ少年を大きく明るく笑う少女の|様《さま》に、|僅《わず》か目を細める。
しばらくして、今度はアラストールが小さく呟いた。
「ともに在る、か」
そして不意に、
「あの歌」
「?」「?」
二人に|尋《たず》ねるでもなく、言う。
「あのような、題名だったのだな」
対して二人は、あからさまに|呆《あき》れた風を見せた。
「最初に、アキテーヌで|伊達《だて》男から教わったときに聞いていたはずであります。マティルダが言い寄られていたからといって、いかにも|動《どう》揺《よう》しすぎでありますな」
「|狼《ろう》狽《ばい》無《ぶ》様《ざま》」
「……」
昔|馴《な》染《じ》みの|容《よう》赦《しゃ》ない指摘に|閉《へい》口《こう》して、それでもアラストールは想う。
マティルダ・サントメールと交わした声を。
(――「ふふふ、どうですかな、アラストール君」――)
(――「知らん」――)
元の歌詞から|改《かい》変《へん》した|戯《ざ》れ歌を、得意げに|披《ひ》露《ろう》した契約者。
感想を求められて困る彼を、楽しげにからかった『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』。
(――「せっかく恥ずかしいのを|我《が》慢《まん》して、言葉を選んだのに」――)
(――「知らんと言ったら知らん」――)
今も、彼女はともに在った。
その声は、歌と連なって、たおやかに|響《ひび》いている。
(――「恥ずかしい歌詞に、恥ずかしい題名……歌には魔法がかけられてるって本当ね。『これは歌だ』って言えば、普段は|隠《かく》してる本当の気持ちを、簡単に口にできるもの」――)
胸の奥、深くに。
いつまでも――いつまでも――。
[#改ページ]
想いとともに、日々は流れる。
自分と、誰かの、時を|繋《つな》いで。
世界は、それらの全てとして、いつかへと向かう。
[#改ページ]
[#改ページ]
あとがき
はじめての方、はじめまして。
久しぶりの方、お久しぶりです。
|高《たか》橋《はし》弥《や》七《しち》郎《ろう》です。
また皆様のお目にかかることができました。ありがたいことです。
さて本作は、|痛《つう》快《かい》娯楽アクション小説です。今回は、X巻で少しだけ触れた、先代『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』の戦いを描く|外《がい》伝《でん》です。次回から、いよいよ話がきな臭くなってくる予定です。
テーマは、描写的には「別離と愛」、内容的には「いきる」です。主人公は大暴れ、|頑《がん》固《こ》親父《おやじ》は純情を秘め、|鉄《てつ》面《めん》皮《ぴ》は誰よりも|心《こころ》乱《みだ》し、|傲《ごう》慢《まん》剣士は|恋《れん》愛《あい》一直線。敵も味方も大忙しです。
担当の|三《み》木《き》さんは、繰り返しますが、本当に働きすぎな人です。その|膨《ぼう》大《だい》多様な仕事は、編集の|範《はん》疇《ちゅう》を超えています。今回の内容も、ラブの配分を巡り戦車|相《あい》撃《う》つ闘争を(以下略)。
|挿《さし》絵《え》のいとうのいぢさんは、|丁《てい》寧《ねい》に絵を描かれる方です。前巻では、常の表紙や挿絵のみならず|図《ず》解《かい》まで、腕の|冴《さ》えを|堪《たん》能《のう》させていただきました。さらなる|忙《ぼう》中《ちゅう》にも変わらず、この|度《たび》も|拙《せっ》作《さく》への|甚《じん》大《だい》なる|御《ご》助力をいただけたことに、深く深く感謝いたします。
県名五十音順に、青森のK田さん、愛知のK池さん、愛媛のMさん、大阪のK本さん、岡山のF井さん、神奈川のSさん、T塚さん、埼玉のN村さん、栃木のE老根さん、長崎のN口さん、新潟のK林さん、兵庫のO本さん(|覗《のぞ》かせてもらっています)、北海道のHさん、いつも送ってくださる方、初めて送ってくださった方、いずれも大変|励《はげ》みにさせていただいております。どうもありがとうございます。アルファベット一文字は|苗《みょう》字《じ》一文字の方です。
以前にも書きましたが、当方いささか事情あって、返信ができません。お手紙はしっかり読ませてもらっていることを右に示すことで、これに代えさせて頂きたいと思います。
ところでこの秋、拙作「灼眼のシャナ」がアニメ化することと相なりました。本稿を借りまして、構成|添《てん》削《さく》に|尽《じん》力《りょく》して頂いた担当の三木さん、素晴らしい挿絵で至らぬ本文に命を吹き込んで下さったいとうのいぢさん、本作りでいつも苦労をおかけしているスタッフの方々、そして何より、「|灼《しゃく》眼《がん》のシャナ」を愛読して頂いている読者の皆様に、厚く|御《おん》礼《れい》申し上げます。
それでは、今回は順当に、このあたりで。
この本を手に取ってくれた読者の皆様に、|無《む》上《じょう》の感謝を、変わらず。
また皆様のお目にかかれる日がありますように。
[#地付き]二〇〇五年六月   高橋弥七郎