|灼《しゃく》眼《がん》のシャナ\
高橋弥七郎
イラスト/いとうのいぢ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)半|袖《そで》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「そんな状態こそが普通」に傍点]
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プロローグ
人ならぬ者たちが、この世の日に陰に|跋《ばっ》扈《こ》している。
古き一人の詩人が与えた彼らの|総《そう》称《しょう》を|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニいう。
「これが……この|度《たび》の|託《たく》宣《せん》に依りて得られた式です。どうですか、おじさま」
「んー、んんーっん! こぉーれはまた、|凄《すご》ぉーいものを持ち帰ってくれましたねえー?」
自ら称して|渦《うず》巻《ま》く|伽《が》藍《らん》=A詩人名付けて|紅《ぐ》世《ぜ》≠ニいうこの世の歩いてゆけない|隣《となり》≠ゥら渡り来た彼ら|徒《ともがら》≠ヘ、人がこの世に存在するための根源の力、存在の力≠奪うことで自身を|顕《けん》現《げん》させ、在り得ない|不《ふ》思《し》議《ぎ》を起こす。思いの|侭《まま》に、力の許す限り、滅びのときまで。
「核から二十二層、|循《じゅん》環《かん》部《ぶ》は五百六……よぉーくもまあ、こぉーこまで複雑な式を構成でぇーきたものです。まぁさにェエークセレントッかつェエーキサイティング、ッジョブ! なぁーにより、その|解《かい》析《せき》という私への|挑《ちょう》・|戦《せん》!! 『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』に戻った|甲斐《かい》があぁーりましたねえー!?」
彼らに存在の力≠喰われた人間は、いなかったことになる[#「いなかったことになる」に傍点]。
これから伸び、|繋《つな》がり、広がるはずだったものを欠落させた世界の在り|様《ざま》は、|歪《ゆが》んだ。|徒《ともがら》≠フ自由|自《じ》在《ざい》な|跳《ちょう》梁《りょう》に伴い、その|歪《ゆが》みは加速度的に大きくなっていった。
「しぃーかし、必要な部分の|顕《けん》現《げん》は、とぉーっくの昔に終わったんですが……この|超《ちょう》! 複雑な式の用途は、いったいなぁーんなのか? ヘカテー、|奴《やつ》はなにこか言ぃーってましたか?」
「これが、最後の式だと」
やがて、強大な力を持つ|徒《ともがら》≠スる|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠轤フ中に、そんな状況への|危《き》惧《ぐ》を抱く者が現れ始めた。大きな歪みがいずれ、この世と|紅《ぐ》世《ぜ》¢o方に|大《だい》災《さい》厄《やく》を|齎《もたら》すのではないか、と。
そして、一部の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠轤ヘ、|同《どう》胞《ほう》を狩るという|苦《く》渋《じゅう》の決断を下した。
「んなぁーるほど……いぃーよいよ、本気で始めるつぅーもりですか。組ぅーみ込むための|再《さい》構成は、|慎《しん》重《ちょう》に慎重を期ぃーすことにしましょう。少々、時間がかぁーかりそうですねぇ」
「おじさま」
「ん〜ん?」
彼らの|尖《せん》兵《ぺい》、あるいは武器となったのは、|徒《ともがら》≠ヨの|復《ふく》讐《しゅう》を願い誓った人間……|己《おのれ》が|全《ぜん》存在を王≠フ|器《うつわ》として捧げ、|異《い》能《のう》の力を得た人間……|討《とう》滅《めつ》者フレイムヘイズ=B
「『奴』などという呼び方は改めてください」
「……」
この|討《う》ち|手《て》らに追われ、狙われ、狩られて……それでも|徒《ともがら》≠轤ヘ、生きていく。
思いの|侭《まま》に、力の許す限り、滅びのときまで。
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1 母の城
早朝の|坂《さか》井《い》家|玄《げん》関《かん》で、|間《ま》延《の》びした呼び|鈴《りん》が鳴ってから一拍、
「|御《ご》免《めん》ください」
|平《へい》淡《たん》な、しかし|凛《りん》とした女性の声が|響《ひび》いた。
「!!」
なぜか今日は居間にいた、上下ジャージ姿の坂井|悠《ゆう》二《じ》が、ギクリと体を|硬《こう》直《ちょく》させる。
「? ……こんな朝早くに、どなたかしら」
|挙《きょ》動《どう》不《ふ》審《しん》な|息子《むすこ》をとりあえず置いて、その母・坂井|千《ち》草《ぐさ》は|暖簾《のれん》を|潜《くぐ》って廊下に出た。
いつもなら、息子に|稽《けい》古《こ》(彼らは|古《こ》風《ふう》に『|鍛《たん》錬《れん》』と呼んでいた)をつけてくれる|可愛《かわい》い少女が現れるはずの時間だが、
(シャナちゃんとは違う声だったわね)
思いつつ玄関に向かう千草を、悠二が追いかけてきた。
「あ、か、母さん」
少女による毎朝の|稽《けい》古《こ》のおかげか、最近、|僅《わず》かながら線の太さを感じさせるようになってきた|息子《むすこ》が、|今朝《けさ》は|妙《みょう》にオドオドしている。
|千《ち》草《ぐさ》はその|様《よう》子《す》にピンと来た。
(心当たりがあるみたいね……シャナちゃんに関係のある方なのかしら?)
思う間に、短い廊下から玄関に出る。
来客たる女性は声をかけた後も、|律《りち》儀《ぎ》に扉の向こうに立ったままでいるらしい。
千草はすぐサンダルを|履《は》いて、扉を開けた。
「あら、シャナちゃん。おはよう」
開けた先には、|毎《まい》早朝|訪《たず》ねてくる、そしてほぼ毎日夜まで|坂《さか》井《い》家で過ごす少女・|平《ひら》井《い》ゆかりこと『シャナ』が、やはり常と同じ体操着|姿《すがた》で立っていた。ただ今朝、その表情は硬く、ともすれば暗く、さらには|緊《きん》張《ちょう》さえしていた。
「おはよう、千草」
短い|挨《あい》拶《さつ》も、|微《び》妙《みょう》に歯切れが悪い。その黒い瞳は、チラチラと横を|窺《うかが》っている。
千草が目を移した少女の|傍《かたわ》らに、 |欧《おう》州《しゅう》系らしい一人の女性が立っていた。 さっき来訪を告げた人物らしい。|流《りゅう》暢《ちょう》に、しかし|平《へい》坦《たん》な声で挨拶する。
「初めまして、奥様」
顔を確かめ合う間も僅か、女性はからくり人形のように急な動作で腰を折り曲げた。お|辞《じ》儀《ぎ》のつもりらしい。背負っていた|唐《から》草《くさ》紋《も》様《よう》の|風呂《ふろ》敷《しき》包みが、その勢いで後頭部をガツンと打つが、特に|堪《こた》えた|様《よう》子《す》もない。
「まあ、奥様だなんて……失礼ですけれど、平井ゆかりさんの?」
照れつつも千草は|尋《たず》ねた。あだ名ではなく、本名として知らされている方の名で。このあたりはさすが、世間付き合いに長けた主婦である。
「はい」
短い返答とともに、また勢いよくバネ仕掛けのように体を起こした女性は、|奇《き》妙《みょう》な|格《かっ》好《こう》をしていた。
|丈《たけ》長《なか》のワンピースに白いヘッドドレスとエプロン、編上げの長靴……まっすぐに伸ばされた|背《せ》筋《すじ》も含めたその姿は、いわゆるメイドと呼ばれる種類のもの。それが、唐草紋様の風呂敷包みを背負っている。|今《いま》時《どき》見ない出で立ちだった。
「幼少よりお仕えさせていただいた|給《きゅう》仕《じ》であります」
肩までの髪の内にある端正な顔立ちは、声以上に情感に乏しい。
逆に千草は、大いに|喜《き》色《しょく》を表して来訪を歓迎する。
「それはそれは、はるばる遠い所を、ようこそお越しくださいました」
「……」
女性は、それで自己紹介が終わったかのように黙ってしまった。
「……?」
|不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔をして|肝《かん》心《じん》な部分の紹介を待つ|千《ち》草《ぐさ》に、シャナが急いで付け足した。
「ヴィルヘルミナ・カルメルっていうの。アラストールの古い友達」
「そう、アラストオルさんの……ああ、玄関|先《さき》でお話するのもなんですから、どうぞおあがりください。ろくなお持て成しもできませんけれど」
「はい。それでは、お言葉に甘えさせていただくのであります」
|謹《きん》直《ちょく》に、|妙《みょう》な|口《く》調《ちょう》で答えて、ヴィルヘルミナは玄関に入った。廊下で顔を|強《こわ》張《ば》らせて立つ|悠《ゆう》二《じ》の姿に一瞬|目《め》をやり、しかし反応を示さず靴を脱ぐために|屈《かが》む。また、背負った|風呂《ふろ》敷《しき》包みが頭をゴンと|叩《たた》いた。
千草が、|息子《むすこ》の態度を軽く|叱《しか》る。
「悠ちゃん?」
「え、あ、いらっしゃ……い」
悠二は|吐《と》息《いき》にさえ|擦《かす》れる、か細い声しか出せなかった。
そんな彼を|気《き》遣《づか》うように、
「悠二」
続いて入ってきたシャナが声をかけた。
|僅《わず》かに|安《あん》堵《ど》する悠二、心持ち|微笑《ほほえ》むシャナ、その二人の間を|塞《ふさ》ぐように、靴を脱いだヴィルヘルミナが立ち上がった。
その|双《そう》眸《ぼう》が、僅かな感情を表して|眇《すが》められる。
そのとき、
「どうぞ、カルメルさん」
千草がにこやかに言って、来客用のスリッパを出した。
「……痛み入ります、奥様」
ヴィルヘルミナはこの水入りで、また感情を奥に|隠《かく》した。
と、その|隙《すき》を狙っていたかのように、
「悠二、始めるわよ」
シャナが素早く手を伸ばして、悠二の|袖《そで》を引いた。
「うわっ!? 僕まだ靴、靴|履《は》いてないって!」
「いいから!」
引いて引かれて、二人は玄関先から毎朝の|鍛《たん》錬《れん》場所である庭へと走って行った。
「……」
その|様《よう》子《す》をじっと見送るヴィルヘルミナに、千草は改めて声をかけた。
「さ、おあがりください」
|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は人間ではない。
かつて彼の住む街・|御《み》崎《さき》市を|襲《おそ》った|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》∴齧。に存在の力≠喰われて死んだ『本物の坂井悠二』……その残り|滓《かす》から作られた|代《だい》替《たい》物・トーチだった。
トーチは、時とともに存在感や|居《い》場所、役割を失い、人知れず消えていくモノ。
徐々に周囲の人々からそこに居ること[#「そこに居ること」に傍点]を忘れられ、本人の気力も意欲も失せ、惜しまれることも悲しまれることも、惜しむことも悲しむこともなく……いつしか消える、無情の道具。
|徒《ともがら》≠ノとっては、人を喰らうことで生まれる|歪《ゆが》みの発生を|和《やわ》らげ、|討《とう》滅《めつ》者フレイムヘイズの追跡をかわすために作られる、|誤《ご》魔《ま》化《か》しの道具。
悠二は、その一つ……ただし、ただの道具でもなかった。
身の内に、|宝《ほう》具《ぐ》を宿していたのである。
時の事象に|干《かん》渉《しょう》する、|紅《ぐ》世《ぜ》=b秘《ひ》宝《ほう》中の秘宝『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』である。
この、毎夜零時に|宿《やど》主《ぬし》が一日に|消《しょう》耗《もう》した力を回復させるという、一種の永久機関の働きによって悠二は人格や存在感を維持したまま、日々を送ることができていた。
宝具を宿すトーチ、『旅する宝の|蔵《くら》』ミステス≠ニして。
人ではない存在による、人としての生活を。
とはいえ彼も、|歴《れっき》とした|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ関係者である。生活の一部には、|常《じょう》人《じん》には有り得ない光景や習慣も入り込んでいた。具体的には、毎朝毎晩の|鍛《たん》錬《れん》である。
彼はシャナと|出《で》遭《あ》ってからの数ヶ月、
短期的には、|徒《ともがら》≠ニの戦いで得られた経験を確認し、|練《れん》磨《ま》し、|昇《しょう》華《か》させるために、
長期的には、いつかこの街から巣立ち、シャナとともに歩いてゆく力を蓄えるために、
朝は主に基礎的な体術を、夜は主に存在の力≠フ|繰《く》りを、シャナとアラストールの二人を師として心身に|叩《たた》き込んできた。そうすることで、今の自分の置かれた不安定な立場に、自分という|不《ふ》可《か》思《し》議《ぎ》な存在に、未来や意義、道を作り出すかのように。
今、坂井家の庭で行っているのは、その朝の方だった。
(分かる)
思う悠二の眼前、体操服を着た|小《こ》柄《がら》な少女が、流れる[#「流れる」に傍点]。
その表現こそ|相応《ふさわ》しい、|滑《なめ》らかかつ留まることのない|体《たい》捌《さば》きと、木の枝による鋭い|斬《ざん》撃《げき》。足の運びと腕の振りは、軽やかかつしなやかで、なにより強い。舞う風の|顕《けん》現《げん》のように、腰まである|黒《くろ》髪《かみ》が朝日の中に|靡《なび》き輝いて、思わず|見《み》惚《ほ》れてしまいそうになる。
しかし悠二は今、それらへの|痺《しび》れるような|感《かん》嘆《たん》とは別のもの[#「別のもの」に傍点]を感じている。
(分かるぞ)
体術の鍛錬における実際の行為は、『彼女がぶっ叩きにくる木の枝をひたすら避ける』というだけの単純なものである。もちろん、単純ではあっても容易ではないが。
シャナが上から下から、ときにはフェイントもかけて、しかし|悠《ゆう》二《じ》の体ギリギリの場所に木の枝を振り向ける。|刹《せつ》那《な》の爆発力を備えた、|隙《すき》と|途《と》切《ぎ》れを見せない|流《りゅ》麗《れい》果《か》断《だん》な|斬《ざん》撃《げき》だった。
息も|吐《つ》かせぬ、という言葉の意味を悠二はまさに体感する。
(力が)
恐らくは『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の機能の一つなのだろう、存在の力≠ヨの――ときにはフレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』たるシャナよりも――|鋭《えい》敏《びん》な知覚が|報《しら》せる。
眼前、 木の枝を|縦《じゅう》横《おう》に振るう少女の中で存在の力≠ェ高まっていくのを、 |燃《ねん》焼《しょう》にも似た力の変換が起きるのを、その爆発の力が|噴《ふ》きだす|予《よ》兆《ちょう》を、見て取る。
(集まる)
一つ力の流れ、
一つ所への集中、
一つ動作の発生、
|幾《いく》つも振り回される見せかけの斬撃の中に混じる『本命の|一《いち》撃《げき》』が向かうのは――
(――ここだ!!)
「はずれ」
反応して避けようとした先に、シャナが一言、一歩、|一《ひと》太刀《たち》を差し出していた。
回避するための出足を軽く払われて、悠二はつんのめる。
「っと、わあっ!?」
|無《ぶ》様《ざま》に転ぶ|寸《すん》前《ぜん》、素早く地面に手を着いて、|中《ちゅう》腰《ごし》の体勢を立て直す。|鍛《たん》錬《れん》の中でようやく身に付けた(本人としてはいささか|不《ふ》本《ほん》意《い》な)|体《たい》捌《さば》きである。
見上げた先で、息も乱さず|小《こ》柄《がら》な|体《たい》躯《く》を|屹《きつ》立《りつ》させるシャナが、軽く髪を払った。先刻までの不安げな|様《よう》子《す》を|微《み》塵《じん》も感じさせない冷徹な声で採点する。
「繰り出すタイミングを感じるまでは|漕《こ》ぎ着けたけど、その後に手こずるみたいね」
「そ、そんな簡単にフレイムヘイズの、本気の一撃を見切れたら苦労しないよ」
反対に、胸の内まで乾くように息を切らした悠二が、|膝《ひざ》に|掌《てのひら》を載せて|弁《べん》解《かい》する。
が、もちろん、シャナはこういう点に関しては|容《よう》赦《しゃ》がない。
「全然、本気の一撃なんかじゃない」
「……」
「何度も言うけど、高まった力がどこに|溢《あふ》れていくか、それも全体の流れに|則《のっと》ったものなんだから、感じることができるはずよ」
珍しく、大きな声で説明を繰り返す少女に、悠二は|頷《うなず》いてみせる。
「……うん。まあ、ここまではできたんだし、やってみるさ」
今度は答えず、シャナは木の枝を軽く手首だけで回した。
ヒュヒュ、と鋭い|唸《うな》りが早朝の空気を渡り、悠二に|緊《きん》張《ちょう》を|促《うなが》す。
「いくわよ」
髪が宙に残されるように|靡《なび》き、また次の|二《に》十《じゅっ》振《ふ》りが始まる。
「よーし、来い」
始めた当初、|鍛《たん》錬《れん》の項目は『振り回す枝を、目を開けて見続ける』だけだった。
それがいつの頃からか、『前もって声をかけた|一《いち》撃《げき》を避ける』になっていた。
今では、『十九回の|空《から》振《ぶ》りの後に繰り出す、二十回目の本命の一撃を避ける』という複雑なものになっている。相手の手数を数えながら力の高まりと一撃の繰り出される向きを感じるという、冷静さと|鋭《えい》敏《びん》さが求められるこの|厳《きび》しい鍛錬を、|悠《ゆう》二《じ》はさんざん打っ飛ばされつつも、とにかく|諦《あきら》めずに続けている。
|今朝《けさ》は特に、身を入れて。
お互いに[#「お互いに」に傍点]、と感じながら。
悠二は、|斬《ざん》撃《げき》を鋭く繰り出す少女の姿に|違《い》和《わ》感《かん》を抱いていた。
(シャナ、どうしたんだろう)
彼女の厳しさが、いつもとは違う。
常の|余《よ》裕《ゆう》が、まるでない。からかうこともなく、すぐ黙ってしまう。身動きも最低限で、|頬《ほお》が硬く引き締まっていて、視線をチラチラと他所に移す。短い付き合いながら、それら細かな|挙《きょ》措《そ》の全てが分かる。感じられる。
鍛練の場で、こんなに落ち着きのない彼女を見るのは初めてだった。
(やっぱり、あの人……)
ギリギリの場所を|過《よ》ぎる木の枝に冷や汗を流しながら、また思う。
(ヴィルヘルミナ・カルメルっていったっけ……あの人を気にしてるのかな?)
昨夜、友人たちと花火をした帰り道、シャナと二人きりでなんとなく[#「なんとなく」に傍点]――
(いや)
正直に認めて、ものすごく[#「ものすごく」に傍点]いい|雰《ふん》囲《い》気《き》になっていたところに、|突《とつ》如《じょ》、割って入った、|奇《き》妙《みょう》な|格《かっ》好《こう》と|口《く》調《ちょう》のフレイムヘイズ……悠二は、このヴィルヘルミナという女性について、ほとんどなにも知らない。|遭《そう》遇《ぐう》してすぐ、会話の場から追い払われたためである。
(――「今より、フレイムヘイズ同士[#「フレイムヘイズ同士」に傍点]の会議を行うのであります」――)
という彼女の言葉は、シャナとともに|幾《いく》度《ど》も|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニの激しい戦いを|潜《くぐ》り抜けてきた、と|密《ひそ》かに自負していた彼の『少年としての誇り』を、いささか以上に傷つけた。
(いや、そんな、そんなことは、どうでもいいんだ)
と、斬撃の|誘《ゆう》導《どう》する方向にステップを踏みながら、|心《しん》中《ちゅう》密かに強がってみる。
(それよりも、シャナだ)
彼女の|緊《きん》張《ちょう》の|度《ど》合《あ》いは、明らかに普通ではない。いかなる敵も恐れず立ち向かうフレイムヘイズ、まさに|炎《ほのお》の|化《け》身《しん》のような烈しくも美しい――
(というか、|可愛《かわい》)
「ぃがっ!?」
つい気を緩ませた|悠《ゆう》二《じ》は、当てに来た|二《に》十《じゅっ》振《ふ》り目を、横合いから肩に受けて吹っ飛んだ。
「あっ!?」
その|一《いち》撃《げき》を振るったシャナも驚く。
ミステス≠フ少年はゴロゴロゴと二回半ほど転がって、狭い庭の茂みに頭から突っ込んだ。
シャナは大声を上げたことを|後《こう》悔《かい》したらしく、|微《び》妙《みょう》に声をすぼめて、この|失《しっ》態《たい》を|叱《しか》る。
「な、なんで、よりによって今日……馬鹿!」
「そ、そんなこと、言ったって」
打たれた肩をさすりながら、 悠二は身を起こした。 |派《は》手《で》に吹っ飛ばされこそしたものの、ダメージは打撃を受けた箇所に残る|鈍《どん》痛《つう》だけで、負傷というほどのものはない。この打たれ強さは夜の方、存在の力≠|繰《く》る|鍛《たん》錬《れん》の成果らしい。|安《あん》堵《ど》の|溜《ため》息《いき》とともに、体に付いた|埃《ほこり》や葉っぱを払って立ち上がる。
そのついでに見れば ――これで何度目か―― シャナは庭の真横、|縁《えん》側《がわ》代わりの大窓から続きの居間を、横目で|窺《うかが》っている。言うまでもなくそこは、ヴィルヘルミナ、母・|千《ち》草《ぐさ》、アラストールらによる会談の行われている場所である。
その、あからさまな|動《どう》揺《よう》の姿に、悠二はまた思う。
(よりによって[#「よりによって」に傍点]、今日[#「今日」に傍点]?)
やはりシャナは、相当にあの|無《ぶ》愛《あい》想《そう》な女性の存在を意識しているようだった。
出会った際の会話から、彼女がシャナを育てた|云《うん》々《ぬん》、興味深い|事《こと》柄《がら》の|断《だん》片《ぺん》を聞いている。どうやら彼女は、自分の知らないシャナの過去に、深く関わる人物であるらしい。
しかし今、シャナがこうして自分をしごいて|鍛《たん》錬《れん》をアピールし、また|無《ぶ》様《ざま》なことになって|慌《あわ》てたりしていることと、その話は一体どう関係しているのだろう。今さら育ててくれた相手にいいところを見せたいわけでもないはずだが。
(今やってる鍛錬は、別にフレイムヘイズの使命とは関係ないんだし)
そう、シャナ自身には関係がなさそう……とすると、いいところを見せねばならないのは、
(もしかして、僕なのか?)
思う彼の前、やや小さな声でシャナが注意する。
「今度は気を付けて」
「分かった」
|悠《ゆう》二《じ》は|頷《うなず》いて腰をやや低く落とし、これ以上無様を|晒《さら》さないよう、構える少女の全てに神経を集中させる。させつつ、しかしあのヴィルヘルミナという女性のことに、重く暗い気持ちを向けずにはいられない。
より正確には、ヴィルヘルミナという女性が、シャナに対してなにをしたか、なにを言ったか、ということにである。
(まさか、この世を荒らす|徒《ともがら》≠|討《とう》滅《めつ》して回るのがフレイムヘイズの使命なのに、一箇所に留まって……僕なんかに構ったりしているから、怒られたんだろうか?)
悠二は、完全に|誤《ご》解《かい》していた。
(たかが[#「たかが」に傍点]ミステス[#「ミステス」に傍点]∴黷ツ[#「一つ」に傍点]のために使命を|疎《おろそ》かにしている、って……あんな|厳《きび》しそうな人だからな……なんとか、シャナは悪くないってことを説明できないかな)
悠二は、シャナが[#「シャナが」に傍点]|叱《しか》られたのだとばかり思っていた。
(アラストールも、とりあえずこの街への滞在に|納《なっ》得《とく》してくれたんだし……そうだ、なんならマージョリーさんにでも、『シャナは|怠《なま》けたりなんかしてない、この街を|襲《おそ》った王≠何人もやっつけてる』ってことを話してもらおう……元々、あの人が呼び寄せたらしいし)
悠二は、|呑気《のんき》に思う。
(うん、そうしよ)
「うぼはっ!?」
また|懲《こ》りずに次の|二《に》十《じゅっ》振《ふ》り目を|横《よこ》っ|面《つら》に食らって、悠二はぶっ飛んだ。
シャナが怒り半分、|動《どう》揺《よう》半分の|叱《しっ》声《せい》をあげる。
「ああっ!? もう――!」
昨夜、ヴィルヘルミナ・カルメルは、|秘《ひ》宝《ほう》『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を|蔵《ぞう》するミステス″竏范I二の扱いについて、シャナに、こう提言していた。
このミステス≠破壊してしまえ、と。
|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、自分の危険な立場に、全く気付いていなかった。
一方、坂井家の居間では、食卓を囲む保護者三人[#「三人」に傍点]による面談が|粛《しゅく》々《しゅく》と進んでいた。
来客を迎えるため居間のテレビは消されていたので、庭から何度か上がる、悠二の|間《ま》抜《ぬ》けな|絶《ぜっ》叫《きょう》とぶっ飛ばされる騒音が、やけに大きく聞こえる。
また一つあがった声と騒音、少女の小さな|叱《しっ》声《せい》を聞いて、|千《ち》草《ぐさ》はクスリと笑った。
「まあ、悠ちゃんったら。今日は|随《ずい》分《ぶん》と熱心ねえ」
「……」
対面に座ったヴィルヘルミナは答えず、無表情に見つめ返す。
その二人の間で、
「ゴホン」
と|遠《えん》雷《らい》のように重く深い声が、しかしどこか|上《うわ》擦《ず》った調子で、スピーカーから|響《ひび》いた。
声の主は、シャナと契約し、フレイムヘイズとしての力を与える|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔神《まじん》|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールである。彼は、
(まったく、今日くらいは|模《も》範《はん》的にできぬのか、|痴《し》れ者め……)
図らずも契約者と同じ形で、|情《なさ》けない少年を|心《しん》中《ちゅう》で|叱《しか》っていた。
普段は 黒い宝石に金の輪をかけたペンダントコキュートス≠ノ意志を|表《ひょう》 出《しゅつ》させている彼は今、それを内蔵した携帯電話として、テーブルの上にある。その携帯電話からは|二《ふた》又《また》のコードが伸びて、|両《りょう》脇《わき》に置かれたミニコンポ大のスピーカーに|繋《つな》がれていた。これこそヴィルヘルミナが背負ってきた大きな|風呂《ふろ》敷《しき》包みの正体であり、保護者のみによる三者|面《めん》談《だん》を|不《ふ》都《つ》合《ごう》なく行うための設備でもあった。彼女はこういう、機械類の|細《さい》工《く》においても有能な女性なのである。
(それにしても)
携帯電話の中、アラストールは|炎《ほのお》の魔神らしからぬ、冷や汗に|塗《まみ》れる思いをしていた。このテーブルを囲む三者面談において彼の立場は、その身の置き所と同様、非常に|微《び》妙《みょう》である。
|背《せ》筋《すじ》を伸ばした、まるで人形のように|謹《きん》直《ちょく》な姿勢で座るヴィルヘルミナ・カルメル。
常の|如《ごと》く柔らかな|微笑《ほほえ》みを浮かべ、特に|緊《きん》張《ちょう》するでもなく対面で向き合う坂井千草。
この両者の間、テーブルの一辺に、彼ことコキュートス%熨のスピーカー付き携帯電話が、まるで|行《ぎょう》司《じ》のように配置されているのである。
(この状況は、まずい)
なにか自分が、とんでもない役割をあてがわれているように感じて、偉大なる(はずの)|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔《ま》神《じん》は|戦《せん》慄《りつ》していた。
そんな彼の|心《しん》中《ちゅう》を知ってか知らずか、|千《ち》草《ぐさ》がなんということもなく話を続ける。
「カルメルさんは、シャナちゃんの養育係だと言うことですけれど、この|度《たび》、|訪《たず》ねてくださったのは、シャナちゃんに――」
「……」
能面のように固まったヴィルヘルミナの顔、その前髪の間で、右の|眉《まゆ》が|僅《わず》かに|強《こわ》張《ば》りの動きを見せた。
(いかん)
|奥《おく》方《がた》に前もって説明しておくべきだったか、とアラストールは焦る。
ヴィルヘルミナは|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーと契約した、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=b討《とう》滅《めつ》の使命を持つフレイムヘイズの一人、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』である。
彼女は、アラストール、もう一人の同志(アラストールは、この男の名を極力思い浮かべないようにしている) とともに、 数百年の|歳《さい》月《げつ》をかけて純粋|培《ばい》養《よう》のフレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』たる少女を作り上げた人物である。
特に彼女は、『当時名を持たなかった、持つ必要がなかった、ただ一つの|称《しょう》号《ごう》を|冠《かん》することを期待され、|相応《ふさわ》しいと|見《み》做《な》されていた少女』の、人間としての生活における全般の指導を担当してきたため、ひときわ深く、育ての親として少女を愛していた。また、アラストールら三人が、新たな『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』を作り上げる、と誓った女性の、|無《む》二《に》の親友でもあった。
そんな彼女は昨夜、自分たちの育て上げた完璧なはずの、どこまでも強く生きるはずのフレイムヘイズと数年ぶりの再会を果たし……そこに、全く思いもよらぬものを見たのだった。
どこの馬の骨とも知れぬミステス≠フ少年に寄り添う、まるで|市《し》井《せい》の|一《いち》人間の|如《ごと》く――(まあ、認めたくはないが、しかし……そうなのだろう)
――恋する少女となり果てた『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』の姿を。
自分たち三人、数百年をかけた情熱と|執《しゅう》念《ねん》の|精《せい》粋《すい》をそのように変えてしまった、この街での暮らしの|象《しょう》 徴《ちょう》が、本来は持っていなかった、 使命の|塊《かたまり》たる『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』には必要のない、『シャナ』という名前なのだった。
それを、|元《げん》凶《きょう》たる馬の骨の親・千草が、
「シャナちゃんに――」
とごく自然に通称として使っているのである。|不《ふ》機《き》嫌《げん》にならないわけがなかった。
本来これは、悠二がフレイムヘイズの少女に|即《そっ》興《きょう》で付けた名であり、アラストールもいつしか認めていた通称であり、千草にもそう呼ぶよう言ったあだ名だった。
だから今、彼女がそれを口にするのは当然のことなのだが、ヴィルヘルミナが感じるものに変わりがあるわけではない。
「――一人暮らしをさせていることが、心配だったからですか?」
「その通りであります、奥様」
平然と受け答えしてこそいるものの、代わりに声は恐ろしいほどに冷えている。
「やっぱり。|年《とし》頃《ごろ》の女の子ですからね、分かりますわ[#「分かりますわ」に傍点]」
「……」
ヴィルヘルミナの|眉《まゆ》が|密《ひそ》かに、しかしギリギリと音を立てるように半ミリ、|釣《つ》りあがった。
(うっ、いかん、しかし)
どっちにどう味方すべきなのか、さっぱり|見《けん》当《とう》のつかないアラストールである。
そもそも彼は、シャナ以上に『この世のバランスを守る』という使命に|殉《じゆん》じる|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A戦いに生きる|炎《ほのお》の|魔《ま》神《じん》なのである。男女の|恋《れん》愛《あい》など、理解できようはずもない。
(……いや)
実のところ、全く|疎《うと》いわけでもない。
理解ではなく、|感《かん》得《とく》していた。
しかし、永久に|癒《いや》せない痛みの下、胸の奥の奥に|埋《うず》み火として抱いているその気持ちは、決して|表《おもて》には出せない。
シャナのそれとは、なにもかもがあまりに違いすぎるのである。
それは、二人で一人のフレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』として、戦火|渦《うず》巻《ま》く|千《せん》軍《ぐん》万《まん》馬《ば》、乗り越え踏み越えた末に|繋《つな》がれた、心の|絆《きずな》。
(――「愛しているわ、|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストール、誰よりも」――)
二人の他には、誰への何にもなりはしない、|唐《とう》突《とつ》で|強《ごう》引《いん》で|頑《がん》迷《めい》な、解けない|絆《きずな》。
彼は、そこからの気持ち[#「そこからの気持ち」に傍点]しか知らない。
そこへと至るまでの経過はまことに味気ないもので、そうなるとは思わず、そうしようとも思わず、そうなっていきなり、|全《ぜん》なる一つとなった。もちろん自ら語る気もない。
(どれだけ我が強く大きなものを抱いていても、助言を|欠片《かけら》も漏らせないのであれば、結果としての現象はなにも分かっていないのと同じ、ということか……|愚《おろ》かしいことだ)
それに、語る語らないを|措《お》いても、彼の感得は特殊すぎて|普《ふ》遍《へん》性がなかった。気持ちの在り|様《よう》もあまりに強力すぎて、今の少女の不安定なそれに対する参考にはなりそうにない。
だからその点、ごく普通の主婦、人と人の間にある気持ちを|熟《じゅく》知《ち》した|大人《おとな》の女性である|千《ち》草《ぐさ》を、アラストールは大いに頼っていた。純粋|培《ばい》養《よう》したがゆえに無防備な少女の心身を、無法な少年が抱く|邪《よこしま》な欲望から守るために。実際その助言は何度も行われている。
つまり、シャナを守るという観点に立ってみれば、千草はむしろヴィルヘルミナの味方であるとさえ言えた。しかし反面、少女自身が求めるのならば、|遠《えん》慮《りょ》なく恋愛の進展に一役買うところもある。千草の中では、その双方は|矛《む》盾《じゅん》しない行為であるらしい。
人の心というものが明確に|峻《しゅん》別《べつ》できない複雑なものであることを、長くこの世にあってなお痛感するアラストールだった。
「……|奥《おく》方《がた》」
ペンダントから拾った声を、スピーカーが|響《ひび》かせる。
「はい?」
|千《ち》草《ぐさ》は、いつものように柔らかく|和《なご》やかな笑顔で答える。
(この笑顔が|曲《くせ》者《もの》なのだ)
とアラストールは、対処するに、あるいは|徒《ともがら》≠謔閧燗しい相手について思う。
彼女は、他者の心の動きに|敏《びん》感《かん》である。これまでも|幾《いく》度《ど》か彼女とは話したが、その時々、いずれも本心を|悟《さと》られていた。そして彼女は常に、それと分かっていながら、そ知らぬ顔で相手にとって適切な助言を与えるのである。
今も、恐らくは分かっているはずだった。
理由はともかく、ヴィルヘルミナの心が|穏《おだ》やかならぬものであると。
(危険だ)
と思う。千草が何を言うか、全く予想できない。自分が驚かされるだけなら問題はないが、今日は相手が相手である。事態は|密《ひそ》かに|切《せっ》迫《ぱく》していると言っていい。|下手《へた》をすると――
(――む、待て、我は誰を心配している[#「我は誰を心配している」に傍点]?)
いくらヴィルヘルミナが内心|激《げっ》昂《こう》したからといって、千草に直接|危《き》害《がい》を加えることは、フレイムヘイズの常識として、まずあり得ない。彼女が危害を加えるのは――
(――ふん、馬鹿な)
内心、わざと大げさに|嘲《あざ》笑《わら》う。
たかがミステス∴齣フ、どうなろうと知ったことではない。そう、これはシャナのため。アレ[#「アレ」に傍点]にもしものことがあれば、シャナが悲しむ。だから、そうならないよう気を|遣《つか》っているだけのこと。そういうことなのである、あくまで。
(ここは、|敬《けい》意《い》を払うべき奥方のためにも、事を|荒《あら》立《だ》てぬようにせねば)
と|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ|威《い》名《みょう》轟《とどろ》かす|魔《ま》神《じん》らしからぬ事なかれ主義で、彼は二人の間に入る。
「ああ、奥方。できれば、ヴィルヘルミナ・カルメルの前では、あの子[#「あの子」に傍点]のことを『|平《ひら》井《い》ゆかり』と呼んでやってはもらえまいか」
「……? はい、平井ゆかりさん、ですね。なんだか久しぶりで、かえって新鮮ですわ」
言って|微笑《ほほえ》む千草に、アラストールはやはり|感《かん》嘆《たん》の念を抱いた。
普通は事情を|訊《き》き返すものである。それを、興味などおくびにも出さず、あっさり|承《しょう》服《ふく》してしまった。ヴィルヘルミナが漂わせる|不《ふ》穏《おん》な空気を察していればこその対応だろう。
「我らの家は、|格《かく》式《しき》にうるさくてな……ご|面《めん》倒《どう》をおかけする」
などと、アラストールは|要《い》らぬフォローまで入れてしまっていた。
ヴィルヘルミナはこのやり取りに口を挟むでもなく、冷ややかな視線だけを、自分の設置した機器の中央、携帯電話へと向ける。
(どのような理由から、その女性の肩を持つのでありますか)
(|詮《せん》議《ぎ》)
まるで、声を出さずに会話する|自《じ》在《ざい》法《ほう》を使われたかのように、ヴィルヘルミナとティアマトー、二人の女性からの追及を感じるアラストールである。彼女らは、アラストールの事情[#「アラストールの事情」に傍点]を知っているため、彼が他の女性と仲良くすることを好ましく思っていない。
(我には決して後ろ暗い所などないぞ)
と断じて思いつつも、その抗議は実際の現象として、また男性による女性への言い訳として、相手の心に届くことはない。どうしようもなく|不《ふ》条《じょう》理《り》、かつ不利な情勢だった。
|辛《かろ》うじての救いの声が、場の|雰《ふん》囲《い》気《き》を|和《やわ》らげる。
「カルメルさんは今、その|平《ひら》井《い》ゆかりさんのお家に|滞《たい》在《ざい》を?」
「はい、奥様」
シャナは、この街で|徒《ともがら》≠ノ一家ごと喰われトーチとなった『平井ゆかり』という、|悠《ゆう》二《じ》のクラスメイトの存在に割り込んでその立場を|偽《ぎ》装《そう》、生活基盤を得ていた。そうしてからすぐ、卜ーチとなった他の平井家の人間も消えたため、現在、彼女は一人暮らしをしていることになっている[#「していることになっている」に傍点]。ほぼ毎日、|坂《さか》井《い》家に入り|浸《びた》っていることもあり、その自宅であるマンションの一室は、ほとんど寝床兼倉庫という扱いだった。
ちなみに、数度に渡る|千《ち》草《ぐさ》との携帯電話|越《ご》しの会談の結果、アラストールは海外で職務に励むシャナの育ての親、ヴィルヘルミナは、彼の元から|遣《つか》わされた養育係、ということになっている。
「当分……そう、二、三ヶ月ほどは、この街に滞在する予定であります。その間、あの方の日常のお世話も、当然私が行わせていただくのであります」
|微《び》妙《みょう》に挑発的な|口《く》調《ちょう》で告げたヴィルヘルミナは、
「それは素敵ですわ」
という、思わぬ同意の|即《そく》答《と》を受けた。
「――?」
彼女としては、母親|面《づら》をして少女をいいように|玩《もてあそ》んでいる女性に、自分こそが少女の保護者であると示した、そのつもりだった。だから当然、少女を取り上げられた女性は寂しがり、自分を|疎《うと》んじると思っていた。相手がそう感じることに、暗い期待と優越感さえ持っていた。
ところが、その予想に反して千草は笑っている。それは|虚《きょ》偽《ぎ》や|阿《おもね》りでは在り得ない、喜びだけではない笑いだった。
「私どもも、少しは寂しさを|紛《まぎ》らわせるお手伝いはしてこられたと思いますけれど……やっぱり本当の家族と一緒にいることが、あの子にとって一番でしょうから」
「家族」
不意を討たれたように、ヴィルヘルミナは声を漏らしていた。
アラストールも同じで、こちらは|絶《ぜっ》句《く》して言葉の意味を思う。
(家族)
彼女らは|戸《と》惑《まど》った。
|妙《みょう》な話ではあったが、それは少女を『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』として|鍛《きた》え上げ作り上げた|面《めん》々《めん》、アラストール、ヴィルヘルミナとティアマトー、そして今は亡いもう一人の男が、一度たりと考えたこともない|概《がい》念《ねん》だった。
彼らにとって少女は、使命感と友情と愛情を原動力に数百年、尽きぬ|妄《もう》執《しゅう》でもって鍛え上げた一個の芸術品であり、|魔《ま》神《じん》|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠|容《い》れる|無《む》二《に》の|器《うつわ》であり、極言すれば、フレイムヘイズという機能そのものだった。
もちろん皆それぞれ、育てた時間|相《そう》応《おう》に少女への愛情を持ってはいたが、それら感情、|理《り》非《ひ》善悪を超えてまず何より優先されていたのは『少女をフレイムヘイズとすること』だった。
少女の方も、自らの|境《きょう》遇《ぐう》を平然と受け入れて育ち、堂々と巣立っている。
しかし、それは他の生き方や|価《か》値《ち》観を与えられなかったから。
彼ら、少なくとも死んだ男を除いた三人はそのことをよく知っており、ゆえに少女に対して大きな負い目と|罪《ざい》悪《あく》感を抱いていた。
少女が|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠容れるに足る|器《うつわ》、|時《じ》空《くう》に巨大な可能性と|影《えい》響《きょう》力の広がりを持つ『偉大なる者』であればなおさらである。彼らが『少女が本来この世で得るはずだった存在』を|摘《つ》み取ったことによる人間世界の損失は、決して小さくはない。
そして、育てた四人の内、三人までが|常《じょう》人《じん》の価値観を持たない|異《い》世界からの客人たる|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠セった。ヴィルヘルミナ・カルメルただ一人だけが、本来の人の在り|様《よう》を――必ずしも幸福なものではなかったらしいが――実体験として知っていた。
彼女だけが、知っていて、しかし教えなかった。
少女をフレイムヘイズとして作り上げるために。
恐らくは誰よりも近い場所で、愛していながら。
これら思いを巡らせる数秒の間に、アラストールは気付いた。
(……ヴィルヘルミナ・カルメル)
彼女も同じことを考えたのだろう、常の無表情に、|僅《わず》かな揺らぎが生じていた。
数百年からの長い付き合いである彼には、その『僅か』がこの|鉄《てつ》面《めん》皮《ぴ》の女性にとってどれほど大きな|衝《しょう》撃《げき》を受けた|証《あかし》なのか、よく分かった。
「そのように、|不《ぶ》躾《しつけ》な……私は血の|繋《つな》がりもない、単なる養育係の身であります」
フレイムヘイズ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は、なんとか事実で感情を抑制しまうと試みるが、
「あの子の方は、単なる、とは思ってないようですよ?」
|千《ち》草《ぐさ》はその感情で事実を圧倒する。
「すごく、|嬉《うれ》しそうです」
あまつさえ、皆のために心から笑った。
その笑みに|釣《つ》られるように、
「そう、でありますか」
ヴィルヘルミナもつい、声を出していた。
アラストールは毎度のように|感《かん》嘆《たん》する。
(まったく、恐ろしい)
|坂《さか》井《い》千《ち》草《ぐさ》は、たった一つの単語を起点に『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』の反抗を抑え、|怯《ひる》ませてしまった。その笑顔が、ただの|呑気《のんき》さの表れでないことの意味が、本当に恐ろしい。
「血の|繋《つな》がりなんか、一緒に暮らした家族にとっては|些《さ》細《さい》なことじゃありませんか」
という|駄《だ》目《め》押しに、アラストールもヴィルヘルミナも、答えを用意できなかった。
そのとき、
|湯《ゆ》沸《わか》しポットが、ピー、とお湯が|沸《ふっ》騰《とう》したことを|報《しら》せ、
「あら」
千草はあっさりと、張り詰めていた場の空気を|融《と》かした。
なんということもなく彼女は立ち上がり、今度は単なるはにかんだ|微笑《ほほえ》みで、固まっているヴィルヘルミナに|尋《たず》ねる。
「お恥ずかしいのですけれど……急なことで、|紅《こう》茶《ちゃ》のティーバッグしかありませんの。お茶|菓《か》子《し》も、本当にお持たせでよろしいんですか?」
その指すところの物は、ヴィルヘルミナが背負ってきた|風呂《ふろ》敷《しき》包みに入っていたもう一つのもの、和菓子の包みである。庭で暴れている少女の好みに合わせた、あんころ|餅《もち》だった。
「どうぞお|気《き》遣《づか》いなく、奥様」
そう答えるのが|精《せい》一《いっ》杯《ぱい》のように、ヴィルヘルミナは声を|絞《しぼ》り出した。
「アラストオルさんの分も|淹《い》れますね。二人だけというのは落ち着きませんし、せっかくですから顔合わせのお茶会のつもりで、ふふ」
「う、うむ、お任せする」
アラストールは、|一《いっ》介《かい》の主婦が腕利きのフレイムヘイズと|紅《ぐ》世《ぜ》$^正の|炎《ほのお》の|魔《ま》神《じん》を|翻《ほん》弄《ろう》しているという現状を思い、|降《こう》参《さん》の|溜《ため》息《いき》を|密《ひそ》かに|吐《つ》いた。
坂井千草は、自分の密かな|偉《い》業《ぎょう》に、全く気づいていなかった。
シャナは、焦っていた。
数年ぶりに巡り合えた、自分の育ての親の一人であるヴィルヘルミナの|酷《ひど》い提言に。
坂井|悠《ゆう》二《じ》、破壊する。
目の前で必死に自分が軽く振る枝を避ける少年を、
|徒《ともがら》≠ニの戦いを|幾《いく》度《ど》もともに潜り抜けてきた少年を、
自分に使命以外の世界を知るきっかけをくれた少年を、
そしてなにより、『どうしようもない気持ち』を抱くようになった少年を、
破壊する。
その気になれば、ほんの|四《し》半《はん》秒。
振るう木の枝に存在の力≠集中して、|炎《ほのお》の剣を|顕《けん》現《げん》させるだけでいい。
耐久力を高める|鍛《たん》錬《れん》もしていないミステス≠ヘ、ひとたまりもなく蒸発するだろう。
その、ほんの四半秒の距離にあるもの。
(――やだ!)
拒否を心に秘めて|二《に》十《じゅっ》振《ふ》り目、当てるつもりの|一《いち》撃《げき》を、上段から真正面に振り下ろす。
悠二はこれを簡単に避けた。
「うわっ!……?」
甘い一撃だったのだろう、|不《ふ》審《しん》が一瞬、その瞳に|過《よ》ぎった。
(いけない)
こんな生ぬるい自分がなにを言っても、ヴィルヘルミナは耳を貸してくれない、そう思いを持ち直して、心持ち|太刀《たち》行きを鋭く速くする。
(強くなって)
悠二には『全く本気ではない』と言ったが、それでも実のところ、始めた当初よりは遥かに力を入れている。本人は、この進歩に全く気付いていないらしい。
(もっと)
シャナはもちろん、そのことを教えない。
悠二が自分の上達を知れば、無用の|増《ぞう》長《ちょう》と変な慣れで鍛錬を|舐《な》めてしまうだろう。心構えに関係なく起こる、それは必然の病のようなものだった。無自覚な|堕《だ》落《らく》と|油《ゆ》断《だん》の別名でしかない自信は、実戦での死に直結してしまう。
ゆえに、常時|脅《きょう》威《い》を与え、心身を引き締め続けさせる。
今、悠二の見せている|上《じょう》達《たつ》ぶりは、そんな教育方針の、一応の成果だった。あくまで一応、という程度ではあったが、それでも確かに進歩はしている。
しかしシャナは、それでは足りない、と焦っていた。
(もっと、もっと強くなって)
悠二は、ただのミステス≠ナはない。
内に『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』という、時の|事《じ》象《しょう》に|干《かん》渉《しょう》する|秘《ひ》宝《ほう》を|蔵《ぞう》しているのみならず、それを守るための防壁たる|自《じ》在《ざい》法《ほう》『|戒《かい》禁《きん》』までも備えているという、特別製のミステス≠ナある。
この特性、彼の持つ現実を、大したものだ、とただ感心していられれば良いのだが、残念ながら話は少々複雑である。
問題は、『|戒《かい》禁《きん》』にあった。
この|自《じ》在《ざい》法《ほう》は、戦闘用の|宝《ほう》具《ぐ》を装備したミステス≠容易に分解させないための、いわば対|徒《ともがら》@pの|鎧《よろい》である。ゆえに、作られた直後に|施《ほどこ》されるのが普通だった。
しかし、|悠《ゆう》二《じ》はこの|御《み》崎《さき》市で|徒《ともがら》≠フ一味に喰われてトーチとなり、程なく『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の|転《てん》移《い》を受けて偶然、ミステス≠ニなった……はずなのである。なのに、彼の体には『|戒《かい》禁《きん》』が施されていた。それも、世に名高い|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠スる|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイの|干《かん》渉《しょう》をさえ跳ね除けるほどに強力なものが。
|坂《さか》井《い》悠二というミステス≠ヘ、あまりに|不《ふ》審《しん》な存在だった。
ヴィルヘルミナに、破壊という選択|肢《し》を提示させるほどに。
(破壊なんて……させない!)
「ご、ほっ!?」
想いとは|裏《うら》腹《はら》に、つい強くなっていた|二《に》十《じゅっ》振《ふ》り目が|横《よこ》一線、悠二の|脇《わき》腹《ばら》に強く食い込んでいた。今度は|堪《こら》えることができず、ミステス≠フ少年は地に|突《つ》っ|伏《ぷ》す。
「あっ!? |大《だい》丈《じょう》――反応が遅い!」
ヴィルヘルミナへの聞こえを|憚《はばか》って、あえて強く|叱《しっ》責《せさ》した。
その声の奥にある|辛《つら》さを、悠二は|僅《わず》かな笑みで受け入れ、|頷《うなす》く。
「う、ん、ごめん――」
痛みが|頬《ほお》の|強《こわ》張《ば》りに見て取れる。今の状況は、彼にも|痩《や》せ我慢をさせているようだった。
彼の気持ちと表情に、胸の奥が、締め付けられるように痛む。
その事実を確認して、また別の、もっと奥深くが、もっと痛む。
(絶対、させないから)
想いを新たに、立ちあがった少年と、向き合う。
「いくわよ」
「うん、」
改めて、彼が身の内に宝具を宿した意味について、思う。
本来、|秘《ひ》宝《ほう》『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を持っていたはずのミステス≠ヘ、一人の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニともに『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』と称された、恐るべき使い手だった。こうして悠二の中に宝具が転移してきている以上、それ[#「それ」に傍点]は破壊されたに違いなかったのだが、
(どうして、そんなことに……?)
と思わされてしまう。
実のところ、『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』は、フレイムヘイズと|徒《ともがら》¢o方に伝説として広く語り継がれながら、誰にとっても重要ではない、という|奇《き》妙《みょう》な存在だった。
|討《う》ち|手《て》たるフレイムヘイズの方には、この二人を追う理由がなかった。
二人は『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』によって回復した力を互いの間で|遣《や》り取りしていたため、その片割れである|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ人を喰らわずに生きていた。この世のバランスに|悪《あく》影《えい》響《きょう》を及ぼすこともなく、ゆえにフレイムヘイズは|討《とう》滅《めつ》する必然性を持たなかったのである。
一方の|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠スちも、二人を|襲《おそ》ったりはしなかった。
例えば、強大な王≠ェ『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を持てば、力の許す限り、|放《ほう》埓《らつ》三《ざん》昧《まい》に生きてゆくことができる。しかし、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]をしていれば、確実にフレイムヘイズが襲ってくる。
そして『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』は、長期戦を有利にすることはあっても、直接的に戦闘力を増大させることは決してない。一日二十四時間は、フレイムヘイズと|徒《ともがら》≠ェ決着をつけるのには、あまりに長すぎる時間である。持っていたところでなんの役にも立たない。
そもそもこの|宝《ほう》具《ぐ》は、時の|事象《じしょう》に|干《かん》渉《しょう》するという異常な特性ゆえに|秘《ひ》宝《ほう》と呼ばれているが、効果の表れ自体は|日《ひ》毎《ごと》の存在の力♂復でしかないのである(この宝具を使用していたのが|件《くだん》の二人だけだったのだから、|巷《こう》間《かん》に流れている情報量|自《じ》体《たい》少ないのだが)。
常識的に考えれば、|狩人《かりうど》<tリアグネのような宝具|収《ゆう》 集《しゅう》 家《か》による単純な興味と|執《しゅう》 着《ちゃく》 以外に、この|奪《だっ》取《しゅ》を図るような|輩《やから》が出るはずもない。強大な|紅《ぐ》世《ぜ》の王<Nラスの二人と同時に戦う、というリスクに、メリットが全く見合わないからである。
(なのに、どうして)
二人が|行方《ゆくえ》を|眩《くら》ましてより百年余の今、事態は|俄《にわ》かに動き出している。
何者かが『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』の片割れ、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を宿したミステス=A通称『永遠の恋人』を破壊した。偶発的な戦闘の結果か、何者かの|謀《ぼう》略《りゃく》の|一《いっ》環《かん》か、それとも他に|窺《うかが》い知れぬ事情があったのか。
(――『ここ数年、私は百余年ぶりに現れた[#「百余年ぶりに現れた」に傍点]非常に危険な王≠ノついての案件に|専《せん》従《じゅう》していたのであります』――)
そう明言したヴィルヘルミナなら、事情|一《いち》連《れん》の|詳《しょう》細《さい》を知っているに違いなかったが、昨日の今日ということもあるのか、まだ話してもらっていない。|悠《ゆう》二《じ》の破壊、という提言で受けた|衝《しょう》撃《げき》を、自分が顔に出しすぎたせいもあるかもしれなかった。
(なんとか、しなくちゃ)
彼女は、自分を呼び寄せたマージョリーの口から、こちらで得られた|僅《わず》かな、しかし無視することもできない重大な情報を得ていたらしい。
その情報とは、悠二と接触した|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイの言葉である。
(――『まさか、|貴《き》様《さま》――そうなのか』――)
(――『まさか、まさかこれほど早く見つかるとは[#「これほど早く見つかるとは」に傍点]……』――)
かの王≠ヘ直接『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』に|言《げん》及《きゅう》したわけではない。悠二の中にあるものを『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』と分かって言ったのかどうかも不明である。であるが、|封《ふう》絶《ぜつ》の中で|徒《ともがら》≠竍|燐《りん》子《ね》≠フように自由に動けるミステス≠ヘ、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を除けば、まず戦闘用のものである。
しかし、|悠《ゆう》二《じ》は弱かった。
それこそが『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の証明となる。
(そう、悠二が弱かったから)
なによりこの件を複雑にしているのは、シュドナイという王≠ェ、世界最大級の|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ集団、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の構成員……しかもその|枢《すう》要《よう》たる|三柱臣《トリニテイ》の|一《ひと》柱《はしら》である、という事情にあった。
この街に|滞《たい》在《ざい》しているもう一人のフレイムヘイズ、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーなどは、シュドナイの言葉から、|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオルという、およそ知る者が触れたがらない|三柱臣《トリニティ》の一柱たる|鬼《き》謀《ぼう》の王≠ノよる|企《たくら》みが裏にあるのではないか、と疑ってもいた。
とはいえ、情勢が|切《せっ》迫《ぱく》しているかと言えば、それも非常に|微《び》妙《みょう》なところではあった。
先のように『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』発見(?)を|嬉《き》々《き》と叫んだはずのシュドナイ当人が、その|奪《だっ》取《しゅ》に|執《しゅう》着《ちゃく》するでもなく、早々に逃げ出していたからである。彼ほどに強大な王≠ェ、念願の|宝《ほう》具《ぐ》を打ち捨てて逃走するなど、普通では考えられないことだった。
それに彼は近年、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の構成員というより、他の|徒《ともがら》≠フ|護《ご》衛《えい》者として知られていたほどに、組織との距離が開いていた。そんな|繋《つな》がりも薄い組織|云《うん》々《ぬん》よりも、|収《しゅう》 集《しゅう》 癖《へき》を持つ誰かに|捜《たん》索《さく》を依頼されていた、という話の方が、まだしも説得力がある。
シュドナイが『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を発見した―― 彼が[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]にそれを報告した―― 彼らによからぬ企みがある―― それらは全て、|疑《ぎ》惑《わく》や想像の域を出るものではなかった。
(そうであって、欲しい)
元より『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』は、風変わりな機能こそあれ、持つことによるメリットは大したことのない宝具である。
|魔《ま》神《じん》を身に|容《い》れた『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』、フレイムヘイズ|屈《くっ》指《し》の殺し屋と恐れられる『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』、それに今は|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》の『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』までが滞在している死地に、あえて命を投げ落とさせるほどの|魅《み》力《りょく》を持っているとは|到《とう》底《てい》思えなかった。
ベルペオルが|鬼《き》謀《ぼう》の持ち主であるとはいえ、ただそれだけの理由で、全ての|事《じ》象《しょう》に|怯《おび》えるわけにもいかない(フレイムヘイズはその存在の性質上、起きる事象に対して受け身な、出たとこ勝負で生きているため、過度に用心しないということもある)。もし彼女自身が『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を得ても、全体の|脅《きょう》威《い》にそれほどの変化があるとも言えない。
結局のところ、シュドナイが悠二になんらかの発見をしたことに間違いはないが、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]という組織全体がこれを狙う線は薄い、と見るのが妥当なのだった。
(それより)
もっと直接的な危険の方は、|厳《げん》然《ぜん》と存在する。
関与もあやふやな[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]などより、もっと危険な、|警《けい》戒《かい》すべき相手が。
ヴィルヘルミナは、言った。
(――『いずれその者[#「その者」に傍点]にも『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』がここにあると知られるでありましよう』――)
その者[#「その者」に傍点]とは、『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』の生き残った片割れたる|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ナある。
|己《おのれ》の愛した『永遠の恋人』の宿していた|宝《ほう》具《ぐ》、その|形《かた》見《み》か|欠片《かけら》かを、取り戻しに来る可能性は、高い。何者かに暴力でもって、その|喪《そう》失《しつ》を強制されたとなれば、なおさら。
(――『確実に、かの王≠ニ[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の|企《き》図《と》を|挫《くじ》く方法がある……』――)
その|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ノ『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』についての情報が渡るのか、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]が一連の事態に|関《かん》与《よ》しているのか、いずれも不明である。
(――『その方法とは、ミステス#j壊による『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の|無《む》作《さく》為《い》転《てん》移《い》であります』――)
しかし、危険の|種《たね》を抱えておくよりは、取り除いておく方が良い。
ヴィルヘルミナは、そう考えているのだった。
|悠《ゆう》二《じ》を破壊して、中にある『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を|何処《いずこ》とも知らぬ、無数にこの世を|彷徨《さまよ》うトーチのどれか一体に転移させる……そうすれば、この|面《めん》倒《どう》な宝具を、相当な年月、欲する者たちの前から消すことができる。対処のための情報も用意もない現状で敵の|襲《しゅう》撃《げき》を待つよりは、遥かに身の安全を図ることができる。
|討《とう》滅《めつ》者・フレイムヘイズとしての、|至《し》極《ごく》真っ当な主張だった。
(分かってる、そんなこと……でも)
そう、それだけではない。むしろヴィルヘルミナにとってそれは、多分に|名《めい》目《もく》的なもの、お飾り、|偽《ぎ》装《そう》であり、本当の狙いが別にあることも、また分かっていた。
(悠二を、私から取り上げようとしてる)
つまり彼女の提言は、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』の保護者としての、非常に|恣《し》意《い》的な主張でもあるのだった。もちろん、|到《とう》底《てい》受け入れられるものではない。
(そんなの、やだ)
巣立ってから過ごした時間よりも、彼女に育てられた時間の方が末だ長いこの|生《しょう》涯《がい》で、ほとんど初めて抱く反発、以上の反抗だった。
自分の|斬《ざん》撃《げき》を必死の|面《おも》持《も》ちで感じ、かわす少年を見る。
(悠二を、壊すなんて)
|自《じ》在《ざい》法《ほう》『|戒《かい》禁《きん》』は、内部の宝具を取り出されそうになると発動する。しかし、いかにその|威《い》力《りょく》が強かろうと、ミステス≠サのものを破壊する分には、なんの障害にもならない。壊そうと思えば、
(ほんの、|四《し》半《はん》秒)
それだけで、事足りる。
(でも、でも――)
|足《あし》捌《さば》きが地を滑るように流れ、踏み込みを|感《かん》知《ち》させない|神《しん》速《そく》の前進となる。
体が|僅《わず》か沈むと同時に、腰の回転と腕の|延《えん》伸《しん》が連動して、握った枝が鋭利な|斬《ざん》撃《げき》となる。
(――絶対に、やだ!)
風切る音さえなく、木の枝が|悠《ゆう》二《じ》の|首《くび》筋《すじ》まで|皮《かわ》一枚の距離で止まっていた。
揺れる前髪の間から見上げる顔と、その目と、視線が合う。
「……」
「……」
無言で見つめ会う。
もう|理《り》屈《くつ》ではない。
彼が、好きなのだ。
だから、彼を破壊し、永遠に消し去ることなど、絶対にできない、許せない。
彼を、なんとしても守らねばならない。
あくまで、フレイムヘイズとして。
しかし、それ以外の自分としても。
そのためには、
「強くなって」
自分たちが、|生《なま》半《はん》可《か》な気持ちで今に臨んでいるわけでないことを、ヴィルヘルミナに伝えなければならない。言葉ではなく、行動と成果によって。
「もっと、もっと、強くなって」
「……」
多少の危険性さえも呑んで、悠二が自分の|傍《かたわ》らにいてもいい、悠二が存在していてもいい、と彼女に認めさせなければならない。言葉ではなく、行動と成果によって。
「うん、分かってる」
少し気弱に笑う少年を見あげて、胸の痛みと安らぎを、同時に得る。
なくしたくない……否、なくさない。
絶対に。
シャナは、ヴィルヘルミナがどれほど本気であるか、全く気付いていなかった。
三人分出された|紅《こう》茶《ちゃ》とあんころ餅を前に、保護者たちの話は続いてる。続いている、といっても声の交差ではなく、あくまで状況としてである。
(なんという、嫌な女でありましょう)
(同意)
声を出さずに意志を伝え合う|自《じ》在《ざい》法《ほう》で、ヴィルヘルミナとティアマトーは、不利な現状への文句を交わした。
食卓の対面でティーカップを傾ける、|千《ち》草《ぐさ》の笑顔がやけに|癇《かん》に|障《さわ》る。事実としては、単に口に出しているように、
「良かった、今日は薄くないみたい。お恥ずかしい話ですけれど、私、ミルクを入れないと濃さが分からないんです」
と紅茶の|美味《おい》しさを喜んでいるだけのことである。
しかし二人にはその平然とした姿が、
(知った風な口を、きくのであります……)
(|噴《ふん》飯《ぱん》……)
なぜか自分たちをやり込めて勝ち誇っているように見えてしまうのだった。
(……)
(……)
|烈《はげ》しい性格をした者の多いフレイムヘイズの中、例外的に表面・|内《ない》実《じつ》ともに冷静と言われる『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』と|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》≠ェ、ともに怒っていた。
もちろんこれは、痛いところを突かれたからである。
家族のように愛しながら、使命を持った芸術品、あるいは自身の作品として少女を扱っている――そんな|矛《む》盾《じゅん》と|酷《こく》薄《はく》さをズバリ指摘された、と一方的に思ったのだった。
(家族とは、考えて……否、私は、しかし……)
(……)
双方、怒りで考えがまと孝らない。|図《ず》星《ぼし》なのだから、どうまとめようもないのだが、それでも二人には|白《しろ》旗《はた》を|揚《あ》げるつもりは全くなかった。
「あら、美味しい」
ホコホコとあんころ餅を味わう|和《なご》やかな主婦を、いつもの無表情で観察する。|妙《みょう》に若い、という点を除けば、別段変わったところもない、普通の人間である。
「カルメルさんがアラストオルさんの元にお戻りになられる際には、私からも何か、|日《ひ》持《も》ちするものをお贈りしますね」
「いや|奥《おく》方《がた》、そのようなお|気《き》遣《づか》いは、どうぞご無用に願いたい」
「それくらいは、どうかさせてくださいな。いつも|平《ひら》井《い》ゆかりさんにお世話になっている、ほんのお返しですから」
「む、うむ……では、お言葉に……甘えさせてもらおう」
その普通の人間に、アラストールが思う|様《さま》あしらわれている、と見た二人は、闘志を奮い立たせる。
(|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠、まんまと丸め込んでいるのであります)
(|狡《こう》猾《かつ》)
(元々、彼は女性に対して押しが弱いのであります……こんな環境で甘やかされてしまっては、|無《む》双《そう》の|利《り》剣《けん》も一晩で|鈍《なまく》らと化すは道理)
(戦闘準備)
二人して|沈《ちん》黙《もく》の内に|了《りょう》解《かい》し、開戦のための心構えを始める。
元よりヴィルヘルミナらは、少女が世話になったことへのお礼を言うために訪問したわけではない。どのような環境が少女を変えてしまったのか、それを確かめるべく|潜《せん》入《にゅう》したのである。つまりは敵の手口と性質を|掴《つか》むための、|敵《てき》情《じょう》視《し》察《さつ》だった。
その|所《しょ》定《てい》目標をある程度達成した、と判断した――実際には、これ以上相手のペースに巻き込まれまいと焦った――二人は、|即《そく》断《だん》即《そっ》決《けつ》に|口《くち》火《び》を切ろうとして、
「カルメルさんに――」
「は?」
機先を制された。偶然だろうが、なんとも二人にとって嫌な感じではあった。
「――アラストオルさんへのお|土産《みやげ》を持って行っていただくのは、お客様にお使いをさせてしまう形になってしまって心苦しいのですけれど」
「いえ、その際は問題なく務めさせていただくのであります、奥様」
「良かった」
|千《ち》草《ぐさ》は手を合わせて|無《む》邪《じゃ》気《き》に喜ぶ。
その姿に心を乱されないよう、ヴィルヘルミナはでき得る限りの|剣《けん》呑《のん》な声で仕切りなおす。
「ところで、奥様」
「はい?」
「私ども……いえ、私、久方ぶりにあの方[#「あの方」に傍点]――」
と彼女はあくまで『シャナ』の名では呼ばない。
「――に再会し、いささかならず失望させられているのであります」
「むっ、う」
と、急な話の運びにアラストールが|唸《うな》った。
(なにが、むーう、でありますか)
(職務|怠《たい》慢《まん》)
二人は少々八つ当たり気味に、|心《しん》中《ちゅう》で|不《ふ》甲斐《がい》ない|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔《ま》神《じん》に不平を投げつける。
|肝《かん》心《じん》の千草はといえば、
「まあ」
と|怪《け》訝《げん》な顔で、|頬《ほお》に手を当てているのみ。ただの主婦の方が落ち着いて見えるというのは、同業者としてなんとも|情《なさ》けない話だった。
「あの方が」
とヴィルヘルミナは強く、改めて言いなおす。
「私どもの|許《もと》を|発《た》たれたときのお姿は、それはそれは|凛《り》々《り》しいものでありました」
気付けば、|千《ち》草《ぐさ》はいつしか|傾《けい》聴《ちょう》の姿勢を|面《おもて》に表している。
その打って変わった真剣な|様《さま》に、ヴィルヘルミナは|密《ひそ》かに驚き、しかし続ける。
「自らの在り|様《よう》を正しく認識して立ち、的確に対処して切り|拓《ひら》く……育てた私どもが、まさに理想とした姿だったのであります」
「……?」
ふと、千草の表情に|不《ふ》審《しん》の影が|過《よ》ぎった。
自らの言葉に激しつつあるヴィルヘルミナは、構わず畳み掛ける。
「それが今や――」
怒りに燃えるフレイムヘイズ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』の|脳《のう》裏《り》に、昨夜の光景が|過《よ》ぎる。あのひ弱そうなミステス≠ノ寄り添い……『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が寄り添い[#「寄り添い」に傍点]、 あまつさえ、 あのような行為[#「あのような行為」に傍点]に及ぼうと……!!
「――|余《よ》事《じ》に心|乱《みだ》し、正答への|蹈鞴《たたら》を見苦しく踏んでいるのであります」
この場合の正答とは、もちろん|悠《ゆう》二《じ》の破壊である。
千草はアラストールとの会談を経て、彼が警察関係の仕事をしており、シャナもその道を目指している、と|解《かい》釈《しゃく》していた(どちらも|大《おお》筋《すじ》、正しくはある)。だから、彼女はそれを|前《ぜん》提《てい》として話す。
「つまり、養育係のカルメルさんから見て、|平《ひら》井《い》ゆかりさんが勉強を|怠《なま》けている、と? たし
かに、我が家でくつろぐ時間は多いと思いますけれど」
「|堕《だ》落《らく》であります」
ヴィルヘルミナは一言の下、|斬《き》って捨てる。自分だけが言う権利を持つ、と信じる、養育係としての|矜《きょう》持《じ》によって。
「確固とした使命の剣、我々が育てた偉大なる|器《うつわ》を、このような場所で――」
「ヴィルヘルミナ・カルメル!」
アラストールが、口を滑らせまいかという|懸《け》念《ねん》、|千《ち》草《ぐさ》に対するあからさまな|難《なん》詰《きつ》への|叱《しっ》責《せき》、双方の意味を込めて鋭く言った。
千草は、自分の前ではかつてなかった彼の大声に驚き、|僅《わず》かに目を見張る。それほどに深刻な話がなされていることを思い、改めて自分の立場を重く受け止める。
しかし、|怒《ど》鳴《な》られたヴィルヘルミナの方は止まらない。それどころか、グリン、と機械のように首を回して、自分の設置したスピーカー一式を|睨《にら》みつけた。
「|貴方《あなた》が……」
不当かつ無責任な非難[#「不当かつ無責任な非難」に傍点]を受けたことでタガが外れたのか、その無表情の奥から、|遂《つい》に|憤《ふん》怒《ぬ》の低い声が吹き出す。
「貴方ほどの男が……|監《かん》督《とく》する立場にいながら……なんという、|体《てい》たらく……」
食卓の上に置かれた両の|拳《こぶし》が、鉄球をも砕き|潰《つぶ》すほどの|握《あく》力《りょく》でメキメキと固められていく。彼女は、常には全くないほどの|激《げっ》昂《こう》を見せていた。
対面にある千草は、この養育係が燃やす怒りの性質を、注意深く計る。今の話が、少女にとってどんな意味を持っているのかを、しっかりと見定める。
ヴィルヘルミナは、|強《こわ》張《ば》る唇を|無《む》理《り》矢《や》理《り》に開いた。
「いったい、いったい」
|犠《ぎ》牲《せい》にした大切な男への気持ち、
自分に望みを託した戦友との|絆《きずな》、
|成《じょう》就《じゆ》までに費やした|歳《さい》月《げつ》の長さ、
少女と|出《でい》遭《あ》えた|奇《き》跡《せき》の中の奇跡、
かけがえのない全てが、彼女の背に重くのしかかり、血を吐くような言葉を|紡《つむ》がせる。
「なんのために、あれほどの、力を尽くしたのか」
しかし、だからこそ、千草は気付いた。その顔にあった|不《ふ》審《しん》が疑問へと変わり、すぐ理解を経た|哀《かな》しみになる。
「カルメルさん」
なにを今さら言うことがある、と怒れる|面《おもて》を上げたヴィルヘルミナは、
「……、っ!?」
千草の表情を見て、驚いた。
彼女の顔にあったのは、恐怖でも、|感《かん》嘆《たん》でもない、|哀《かな》しみ。しかも、同情や|感《かん》傷《しょう》からのものではない、感情の|渦《か》中《ちゅう》にある者を本能的に恐れさせる理性の|厳《きび》しさ、間違いを犯した者を|叱《しっ》咤《た》する|辛《つら》さ、その表れだった。
その唇から、静かに、|一《いち》撃《げき》の前置きが放たれる。
「なんのために[#「なんのために」に傍点]?」
「……」
(……)
身の内にあるティアマトーともども、ヴィルヘルミナは口を閉ざした。形勢が不利であることの認識、次に食らう言葉が|痛《つう》撃《げき》であることの嫌な予感があった。
そして|千《ち》草《ぐさ》は、問い|質《ただ》すように、言う。
「あの子の、ためではないのですか?」
「ぅ――」
受けた|衝《しょう》撃《げき》に、ヴィルヘルミナは|無《ぶ》様《ざま》な、|唸《うな》るような声を漏らしていた。
やはり千草は察していた。
彼女の抱いている|矛《む》盾《じゅん》を。
彼女にとって、少女が一体どんな存在であるかを。
知らない振りをして強制していた、ずるい立場を。
「――、っ、それは」
ヴィルヘルミナは、|咄《とっ》嗟《さ》に続けようとした声を詰まらせてから、
(しまった)
と思った。
彼女は、自分が|融《ゆう》通《ずう》の利かない性格だと自覚している、ゆえに、より強き意志を保つという|超《ちょう》級《きゅう》の|頑《がん》固《こ》者である。『この世の本当のこと』を知らない|素人《しろうと》になにを言われようとも、その意見が妥当なものであろうとも、自説を曲げる気はさらさらない。
だからただ、そんな自分が、無理に反抗しようとして|動《どう》揺《よう》を|表《おもて》に出してしまったことのみを激しく|後《こう》悔《かい》した。
対する千草はあくまで平静に言葉を継ぐ。
「今から、少し分かっているつもり[#「分かっているつもり」に傍点]でお話しします」
「……?」
動揺を再び|沈《ちん》黙《もく》に|隠《かく》し、ヴィルヘルミナは正面から、手ごわい素人を|見《み》据《す》えた。
「皆さんが力を尽くされたことには、いろいろと事情もあるのでしよう。|歳《さい》月《げつ》の中で、たくさんの苦労もされたこととお察しします」
(……たしかに、分かった風なことを言うのであります)
|心《しん》中《ちゅう》吐き捨てつつ、|密《ひそ》かに|眉《まゆ》根《ね》を寄せる彼女に、
「でも」
|千《ち》草《ぐさ》は先からの|厳《きび》しさを不意に表して、言う。
「それらがなんのためであったのかは、はっきりしているはず……いえ、していなければならないはずです」
ヴィルヘルミナは、今度は黙るのではなく、|絶《ぜっ》句《く》した。
声だけは|穏《おだ》やかに、しかし|厳《きび》しく千草は追及を続ける。
「あの子のため――違いますか?」
口答え[#「口答え」に傍点]ができない。
「それ以外のどんなことで、あの子に望みをかけるのですか?」
ヴィルヘルミナは、気付いた。
気付かされてしまった。
(私は)
千草の方こそが、怒っている。
(私は!)
|坂《さか》井《い》千草の方こそが、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』のために怒っているのである。
そのあんまりな事実、自分の|醜《しゅう》悪《あく》さに気付かされて、彼女は|愕《がく》然《ぜん》となった。
と、アラストールが、
「|奥《おく》方《がた》」
同志を|気《き》遣《づか》い、千草に|寛《かん》恕《じょ》を求めた。
大丈夫、とばかりに千草は小さく|頷《うなず》いて、一瞬で|微笑《ほほえ》みを取り戻す。
「はい」
その|和《なご》やかさ、全く純粋ではない微笑みに、
(……|敵《かな》わぬな)
アラストールは困った風な|苦《く》笑《しょう》を、心中で漏らした。
元より千草としては、ヴィルヘルミナを責めて一時の|快《かい》を得ることなどが目的ではない。だから、ただ一人の母親として、少女のために言う。
「|平《ひら》井《い》ゆかりさんは、誇り高く力強い心を持った子です。私のように|僅《わず》かな付き合いしか持たない者でも、そのことがよく感じられるのですから……カルメルさんは当然、それが本質だと分かっていられるのでしょう」
「……」
ヴィルヘルミナは、僅かに顔を伏せて黙ったまま。
構わず、千草は言う。
「だからこそ、その|凛《り》々《り》しく|毅《き》然《ぜん》とした姿が変質してしまう、してしまったのではないか、という恐れを抱かれたのでしょう」
「……」
はい、という相手に|擦《す》り寄る声を、意地でも出さないヴィルヘルミナである。
さらに、千草は続ける。
「カルメルさんが|仰《おっしゃ》った、『心を乱す|余《よ》計《けい》なこと』というのは、家の|悠《ゆう》二《じ》とのこと、と|拝《はい》察《さつ》します。でも、私はあの子から悠二を、その問題を取り上げるのには反対です」
「……なぜ、でありますか」
ヴィルヘルミナは、答えを|欲《ほっ》するように|訊《き》いてしまっていた。
千草は、断言で答える。
「あの子が、あまりに幼いからです」
もちろん皆が分かっている、これは事実だった。
「もし今、むりやりに取り上げ、相手から引き|剥《は》がしても、長い人生……いつかは同じものにぶつかるでしょう。あれは、|陥《おちい》ることを避けられないものですから」
千草があえて明言しなかったものを思い、ヴィルヘルミナは胸の奥深く、傷の|疼《うず》きを得た。陥ることを避けられない、甘く|辛《つら》く、しかし鮮やかすぎる、それ[#「それ」に傍点]は傷。
(ぁ――)
分厚く高い|城《じょう》壁《へき》を|容易《たやす》く打ち砕く、一条の|虹《にじ》。
見上げた太陽の中、|竜《りゅう》の頭上に一人立つ騎士。
|翻《ひるがえ》るマント、|余《よ》裕《ゆう》ぶった|傲《ごう》慢《まん》極まりない笑み。
戦友を|数多《あまた》屠《ほふ》った恐るべき敵、嫌な、嫌な|奴《やつ》。
でも[#「でも」に傍点]。
(――っ)
数百年の時を経て、未だ完全なる姿で|蘇《よみがえ》る、それ[#「それ」に傍点]は傷だった。
不意に見た、その|眩《まばゆ》さから目を|背《そむ》けるように、ヴィルヘルミナは顔を伏せた。
「ただ、逃げることだけはできますが……そのとき、誇り高いあの子は、自分を許せなくなるでしょう。そうならないよう、多少乱暴であっても、実地に教えられるものを教えておかなければならない、と私は思うのです」
声が、心に痛い。
「それが、あの方の、ため……」
千草は答えず、改めて話しかける。
「日ごとに悩むことが多くなっています。悩んで、悩んで……でも、あの子はそれを乗り越えて、もっと、もっと強くなるのでしょう。その程度には、私も分かっているつもりです[#「分かっているつもりです」に傍点]」
ヴィルヘルミナは、伏せていた顔を上げる。
正面にある笑顔と、向き合う。
|和《なご》やかで、|厳《きび》しい、|微笑《ほほえ》み……全てに優しさを|通《つう》底《てい》させた、母親の笑顔と。
その女性は、しかし困った風に笑って言う。
「でも本当のところ、親としては、我が子には純真|無《む》垢《く》なままでいて欲しい、と願うのは当然とも思っているんですけれど」
「無知と清らかさは違うもの……|奥《おく》方《おくがた》の、言葉であったな」
アラストールが、ようやくの|溜《ため》息《いき》とともに口を開いた。
場に慣れぬ父親の|日和見《ひよりみ》主義に、|千《ち》草《ぐさ》はクスリと笑うことでトゲを刺す。そうして、同じ育ての親である女性に向けて助けを請う[#「助けを請う」に傍点]。
「実は私も、他人の助言だけで果たして効果があるものか、不用意に踏み込んでよいものか、計りかねているところでもあったんです。カルメルさんがしばらくこちらにご|滞《たい》在《ざい》なら……お別れでないというのなら、あの子のためにこれほど|有《あ》り|難《がた》いことはない、と思っています」
「……」
この期に及んでも、ヴィルヘルミナには負けを認める気は全くない。ただ、貴重な助言への答えを返すことについては、|吝《やぶさ》かではなかった。
「……悩みに付き合う程度には、滞在期間は取るつもりであります」
「良かった!」
ポンと手を|叩《たた》いて、千草は陰なく笑った。
その|無《む》邪《じゃ》気《き》な喜びようを見たヴィルヘルミナは、茶飲み友達にされてはかなわない、と|慌《あわ》てて念を押す。
「私はあくまで、ご|令《れい》息《そく》との交際には|断《だん》固《こ》反対であります」
「ええ、構いませんとも」
千草は|悪戯《いたずら》っぽく笑う。
「|不《ふ》甲斐《がい》ないと思えば、|遠《えん》慮《りょ》なくぶっ飛ばしてやってくださいね」
ヴィルヘルミナは、|小《こ》声《ごえ》で答える。
「……|了《りょう》、|解《かい》であります」
答えつつ、|心《しん》中《ちゅう》でこっそりと、負け惜しみの|罵《ののし》りを放つ。
(くそっ)
(下品)
(……)
パートナーに短く|窘《たしな》められ、心中においても黙る。
黙って、しかし思いを巡らせる。
この女性は……正直、嫌いではない。
なるほど、|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠ヘ丸め込まれたわけではなかったのである。
|尊《そん》重《ちょう》に値する|賢《けん》明《めい》な婦人、と評価すべき人物にして、母親だった。
少々|癪《しゃく》ではあるが、たしかに助言については参考になる点も多い。
口にする気はないが、正直、感謝もしている。
(しかし、それ[#「それ」に傍点]とこれ[#「これ」に傍点]とは……別であります)
(方針確認)
|断《だん》念《ねん》するつもりは、ない。
実行する[#「実行する」に傍点]として、なんの|不《ふ》都《つ》合《ごう》があるか。
この平和な家庭にある、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ノよって|蝕《むしば》まれた|証《あかし》。
|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》という彼女の|息子《むすこ》。
否、
彼の息子は、もういない。死んでしまっている。
そこにあるのは、故人の残り|滓《かす》から作られた|紛《まが》い|物《もの》である。
(気の毒……では、ありますが)
(現実|受《じゅ》容《よう》)
もう、彼女の息子はいない。
それが、|厳《げん》然《ぜん》たる事実である。
今ある光景、暮らしは、全てが|虚《きょ》構《こう》、|泡《ほう》沫《まつ》の夢。
(あのミステス≠破壊しても、奥様は忘れ、日々を過ごしていくのみであります)
(無間題)
いつか覚める、覚めて忘れる、夢。
意味も|価《か》値《ち》も、なにも残さない、夢。
対面で再びあんころ|餅《もち》に|舌《した》鼓《つづみ》を打つ女性が見ている、これは夢なのである。
(ならば、今であろうと、後であろうと、なんら変わらないのであります)
(決行)
果たして、|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠ヘ、どういう態度を取るだろう。
|憤《ふん》激《げき》するとは思えない。
彼は誰よりも、フレイムヘイズとしての使命感に厚い男である。
妥当性さえあれば、彼は自分たちの行動を、その結果を受容するだろう。
そして、
(……)
(……)
果たして、果たして、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』は、どういう態度を取るだろう。
気が重い。
坂井|千《ち》草《ぐさ》の助言を聞いたあとでは、なおさら。
しかし、彼女はフレイムヘイズである。
その任務にとって、十分に優先されるべき事態があれば、それを採るべきである。
彼女は、自分たちが育てあげた、完全なるフレイムヘイズなのだから。
(取るべき行動は……男女の情愛などによって、左右されてはならないのであります)
(確定事項)
それでもふと、|千《ち》草《ぐさ》の言葉が思い出される。
(―――『あれは、|陥《おちい》ることを避けられないものですから』――――『ただ、逃げることだけはできますが……そのとき、誇り高いあの子は、自分を許せなくなるでしょう』――)
一声、二声、言葉が浮かび上がる|度《たび》に、ジリジリと体中を|焦《こ》がされるような、硬く身の縮まるような感覚が|湧《わ》いてくる。
(――『あの子の、ためではないのですか?』――)
その感覚の名は、恐れ。
悲しさと|辛《つら》さを混ぜて、|襲《おそ》ってくる。
しかし、|断《だん》固《こ》として、行う。
(……奥様は、なにも、知らないからで、あります)
(……同意)
少女が、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が、フレイムヘイズとして採るべき行動は一つ。
それ以外にない。
恐れを、感じる。
自分たちは―――|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》≠ニ、自分たちと、そして彼は―――『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』をそのように|鍛《きた》え上げ、作り上げ、磨き上げた。
他でもない、彼女自身が、そう生きると選んだ。
なんの問題があろう。
なんの問題も、ない。
恐れを、感じる。
「カルメルさん?」
気付けば、|千《ち》草《ぐさ》が|気《き》遣《づか》わしげな顔で見ていた。
「いえ、少々[#「少々」に傍点]、考え事であります」
やや|慌《あわ》ててティーカップを取る。取って、中身を一気に流し込む。
「まあ、カルメルさんったら」
千草の|微笑《ほほえ》みが、胸を締めつける。
それでも、
(|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》を、破壊するのであります)
(|了《りょう》解《かい》)
|紅《こう》茶《ちゃ》は、悲しいほどに|冷《さ》めていた。
ヴィルヘルミナはは、シャナがどれほど本気であるか、全く気付いていなかった。
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2 帰る場所
|坂《さか》井《い》家で朝食を呼ばれてすぐ、ヴィルヘルミナは|平《ひら》井《い》ゆかりを連れて家に戻る、と|千《ち》草《ぐさ》に伝えた。
「本当に、お帰りになるんですか? もっとお話できれば、と思ってましたのに」
門前に立つ二人に、見送りに出た千草が|心《しん》底《そこ》残念そうに言う。
再びスピーカー等を、大きな|風呂《ふろ》敷《しき》に包んで背負ったヴィルヘルミナが、ガクンと腰を折って答えた。
「ご|厚《こう》意《い》のみ、ありがたく|頂《ちょう》戴《だい》いたします、奥様」
頭を下げた拍子に、また風呂敷包みが後頭部をゴンと打つ。
「ただ、私も|昨日《きのう》到着したばかり。今日は、荷物の整理などをお嬢様[#「お嬢様」に傍点]に手伝っていただく予定だったのであります」
もちろん、これは|嘘《うそ》である。シャナと坂井家の|狎《な》れ合いを|牽《けん》制《せい》するための、見え見えの予防線だった。
初めての|称《しょう》号《ごう》で呼ばれたシャナは、自分の養育係たる女性への不満を表すわけにもいかず、|気《き》丈《じょう》に踏ん張りつつも、どこか寂しげな風を漂わせて立っているのみである。
その装いは、|鍛《たん》錬《れん》における彼女のユニホームたる体操服ではない。涼しげな|薄《うす》手《で》のワンピースだった。
これは常の|如《ごと》く、鍛錬|後《ご》に朝|風呂《ぶろ》を使ったためだが、今日は少しだけ経緯が違っている。普段なら|千《ち》草《ぐさ》が責任を持って洗濯する体操着を、ヴィルヘルミナが回収して|風呂《ふろ》敷《しき》の中に背負っていた。
「私が参りましたからには、そうそう奥様に|無《む》駄《だ》なお世話をかけるわけにもいかないのであります。どうぞ、この程度の雑事はお任せを」
と|丁《てい》寧《ねい》に求められてしまうと、千草の方も無理にというわけにはいかなかった。
シャナの寂しげな表情は、早々に家に連れ帰らされるだけでなく、この|微《び》妙《みょう》に|坂《さか》井《い》家と距離を取らされて、しかも逆らえないという状況からも来ていた。
少女の|様《さま》を見かねた千草は、無駄かと思いつつも|訊《き》いてみた。
「なんなら、そのお手伝いに|悠《ゆう》ちゃんを|遣《や》りましょうか。もし男というのが|不《ふ》都《つ》合《ごう》でしたら、私が出向いても……」
しかし、やはりと言うべきか、ヴィルヘルミナは社交|辞《じ》令《れい》で|厳《げん》重《じゅう》にくるんだ、|断《だん》固《こ》たる拒否で答える。
「いえ。それはあまりに失礼。荷物も大した量というわけでなし、重ねてお|気《き》遣《づか》いは無用であります」
そうして彼女はまた、機械的に一礼する。
「では」
また明日、とも言わず、母子が返事をする間も与えず、彼女は体の向きを変える。
千草の脇、シャナの前に立つ|悠《ゆう》二《じ》が言う。
「それじゃ、また」
今夜、とは千草の手前、さすがに付け加えられなかったが。
「……っ」
シャナは表情の端に一瞬だけ|嬉《うれ》しさを|覗《のぞ》かせ、そしてすぐ、ぷいとそっぽを向いてそれを|隠《かく》す。答えは|傍《かたわ》らの女性の方に返していた。
「それじゃ千草、また来るから」
また、という言葉を改めて返す少女の気持ちを察して、千草はいつも以上に優しい|微笑《ほほえ》みで答える。
「ええ。アラストオルさんにも|宜《よろ》しく言っておいてね」
「うん」
|頷《うなず》くと、シャナはすでに離れたヴィルヘルミナの後を、小走りに追いかけて行った。
|坂《さか》井《い》母子は久しぶりに、二人きりが寂しいと気付いた。
|悠《ゆう》二《じ》と|千《ち》草《ぐさ》が家の中に入っていく、寂しい気配から数秒、
「お気付きでありますか?」
ヴィルヘルミナが小さく問い、
「当然でしょ」
シャナが強く答え、
「|結《けっ》構《こう》」
ティアマトーが短く受けた。
シャナは胸元に手をやり、言う。
「アラストール」
ボッ、とその手の中に|紅《ぐ》蓮《れん》の火が走り、
「うむ」
少女はいつの間にか、胸にペンダントコキュートス≠取り戻していた。
フレイムヘイズと契約した|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ意志を|表《ひょう》出《しゅつ》させる『|神《じん》器《ぎ》』は、契約者と王=Aどちらかが望めば、|即《そく》座《ざ》に契約者の元に現れる。
そのアラストールが(先の坂井家における三者|面《めん》談《だん》での情けなさを|欠片《かけら》も感じさせない)|威《い》厳《げん》に満ちた声を、やや低く|響《ひび》かせる。
「どう見る」
「気配は|徒《ともがら》≠竍|燐《りん》子《ね》≠カゃない。人間のようだけど」
シャナは答えつつ、身の内で存在の力≠練る。小さな|体《たい》躯《く》と足運びに、じわりと重みを加え、いつでも動作の急な転換に応えられるよう、力む|溜《た》める。
ヴィルヘルミナは、少女の決して鈍っていない力と|勘《かん》、なにより強者の|雰《ふん》囲《い》気《き》に|僅《わず》か目を細めつつ、しかし声だけは冷静に確認するる。
「いつからでありますか?」
「|鍛《たん》錬《れん》の途中から」
短く最低限に返してから、シャナは改めて感覚を|研《と》ぎ澄まし、周囲の状況を探る。
自分たちを|監《かん》視《し》する、何者かの視線がある――鍛錬の途中から、それに気付いた。
最初は坂井家への押し入りを|企《たくら》む|賊《ぞく》かとも思ったが、それにしては感じられる視線に|欲《よく》得《とく》の粘っこさがない。そして今も|尾《つ》いてきている、となると、
「|標《ひょう》的《てき》は我々、と見るのが妥当か」
アラストールが結論付けた。
人間がフレイムヘイズを探る、というのは、|奇《き》異《い》なようだがあり得ないことではない。
フレイムヘイズと|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ双方とも、|中《ちゅう》世《せい》以降は人間との近しい協力や関わりをほぼ断絶させているが、何も知らない人間を、その社会やシステムに|則《のっと》って活用することは、今でも|頻《ひん》繁《ぱん》に行われている。
ときには人間という立場を生かした|偵《てい》察《さつ》や調査を依頼し、またときには双方の組織の|外《がい》郭《かく》や構成員として雇われ……人間はさまざまな形で|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=Aあるいはフレイムヘイズとの関わりを持たされている。当然のこと、その種の人間は、自分たちの行為がどんな事件を起こす引き金になっているのか、どんなモノを相手にしているのか、知らされないのが普通である。
この街で言えば、|坂《さか》井《い》千《ち》草《ぐさ》がその典型であり、それより遥かに少ない、事実を知らされた協力者、ということなら、|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》、|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》などが挙げられる。
今、シャナたちを探っている者も、その利用されている人間の一例なのか。
|歴《れき》戦《せん》のフレイムヘイズ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』として、ヴィルヘルミナは首を――本当に|頸《けい》骨《こつ》が折れたようにガクッと――|傾《かし》げる。
「しかし、かの|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》≠ヘ、人間を|尖《せん》兵《ぺい》として使うことを好まぬため、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]は偵察攻撃、総員を|徒《ともがら》≠ノよって固めているはずであります。となると、異なる組織、あるいは単独の|徒《ともがら》≠フ手の者か……」
「[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]は悠二の件に絡んでないのかな」
やや|短《たん》絡《らく》的に結論を出す、というより望む方向に持っていこうとするシヤナセ、アラストールが|窘《たしな》める。
「喜んでいる[#「喜んでいる」に傍点]場合ではないぞ」
「用心」
ティアマトーも言う。
たった一つの失言で|未《み》熟《じゅく》者扱いをされて、シャナはムッとなった。さすがにそれを口には出さず、胸の内で|呟《つぶや》く。
(分かってる)
もし[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]ではないとしても、自分たちを特定し|尾《び》行《こう》して来る何者かがいる、というのは事実である。それに、相手が人間だからといって|油《ゆ》断《だん》は禁物だった。目的が偵察ばかりとは限らない。さすがに|封《ふう》絶《ぜつ》が発明された|近《きん》世《せい》以降にはほとんどなくなっていたが、それ以前は、強力な|宝《ほう》具《ぐ》を持った人間が|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠倒した例も相当数あるのである。
もちろん、人間に扱える攻撃型の宝具など、数としては希少もいいところだったし、使ったところでフレイムヘイズの|身《しん》体《たい》能力は|常《じょう》人《じん》とは根本的なスペックが|桁《けた》で違う。よほどの不運と気の緩みがなければ直接の危険はない。危険は、全体の状況にこそ|潜《ひそ》んでいる。
(分かってるんだから)
もう一度、シャナは胸の内で|唱《とな》え、自分がもはや巣立った頃とは違うことを証明すべく、心を|奮《ふる》い立たせる。周囲の状況を、首を動かさず、|目線《めせん》だけで確認してゆく。
天気は快晴。夏休みに入った、学生だけが感じる解放感を漂わせる朝は(シャナも|僅《わず》かに、習慣からの解放、という意味で感じている)、すぐ熱気に跳ね上がることが分かる、ワクワクするような|涼《りょう》気《き》で満ちていた。
さしてないはずの緑が|匂《にお》う住宅地の中ほど、|坂《さか》井《い》家から平井家のあるマンションへと向かう歩き慣れた道は、車の行き来もほとんどないのに、低いレンガ敷きの歩道がきちんと整備されている。辺りはほとんど二階建てまでの民家やアパートで、ところどころマンションや鉄骨に載った給水|塔《とう》が、屋根の間から突き出ている。
とりあえず、フォローやバックアップの存在など、光景の中に異常は見られなかった。
今歩いている道の|両《りょう》脇《わき》も、全て一般の住宅で、前後には人通りも――
「!」
シャナの|相《そう》貌《ぼう》が、|対《たい》向《こう》に走って来るものを|捉《とら》える。
見る間に近付くのは、大学生くらいの少年を乗せた自転車。
その少年は、
「?」
まるで|珍《ちん》獣《じゅう》でも見るかのように、二人を――正確には、ワンピースにフリル付きのエプロンとヘッドドレスという|今《いま》時《どき》ない服装、しかも大きな|風呂《ふろ》敷《しき》包みを背負っているというヴィルヘルミナを――|横《よこ》目《め》に流しながら通り過ぎた。
通り過ぎ|様《ぎま》、小さく鳴った口笛の意味を、二人はまず深読みする。
(合図、ではなさそうでありますな)
(こっちへの意識の集中も大したことないし、無関係かな)
それぞれ判断し、改めて『自分たちを注目する考の|在《あ》り|処《か》』そ探る。
本来は敵の気配や攻守の|際《きわ》を感じ取る、このフレイムヘイズ特有の能力を、彼女らは戦いの場以外、今のような|索《さく》敵《てき》や、逆に|隠《おん》密《みつ》活動においても|頻《ひん》用《よう》していた。
「後ろ」
シャナが、先に|看《かん》破《ぱ》した。
ヴィルヘルミナは小さく答える。
「人間の取る、正統な|尾《び》行《こう》術でありますな。では、次の角を曲がって、上から」
「うん」
養育係の女性と使命を果たせる喜び、未熟者|扱《あつか》いされたことを見返そうという気負い、双方を示してシャナは|頷《うなず》く。
二人は|四《よ》辻《つじ》に差し掛かると、右に折れた。すぐさま右手の屋根に飛び乗り、引き返して尾行者の頭上を取ろうとする、
「え!?」
そのとき、
「むっ?」
|尾《び》行《こう》者が逃げた。
自分たちに向けられていた意識が、急に|途《と》切《ぎ》れるのを感じたのである。
(ど、どうして?)
シャナは状況への|戸《と》惑《まど》いと|不《ふ》手《て》際《ぎわ》への焦りの中、屋根に跳び乗って、後方に引き返した。
並んで跳ぶヴィルヘルミナが念を押す。
「接触は、あくまでも|慎《しん》重《ちょう》に」
これは、相手が本当にただの人間だった場合のことを考えて、フレイムヘイズとしての力を見せるような|真《ま》似《ね》を|慎《つつし》む……つまり、常識の枠内で行動せよ、という意味である。
シャナは当然それを理解して、しかし少し腹立たしげに答えた。
「分かってる!」
彼女も、年数こそ少ないとはいえ、|幾《いく》多《た》の戦いを経てきた一人前のフレイムヘイズなのである。|新《しん》米《まい》扱いの助言は|心《しん》外《がい》だった。
(もう『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』の中にいるわけじゃないのに)
一方、そんな怒りの声(と感じた)をぶつけられたヴィルヘルミナは、内心、大きく驚き、またへこんでいた。もちろん表情には出さない。屋根を|一《ひと》蹴《け》り、少し前まで尾行者が|潜《ひそ》んでいたはずの角に、棒のような姿勢で、まくれないようスカートを|絞《しぼ》り、ズドンと着地する。
同時、突進の姿勢で軽やかに降り立ったシャナが叫ぶ。
「あっち!」
声と姿勢で指す先をヴィルヘルミナが見れば、やや遠くの角に、|慌《あわ》てて走り去る足先がテラリと見えた。
言ったシャナは、すでに駆け出している。フレイムヘイズの|脚《きゃく》力《りょく》で追いかければ、さほどの手間もかからず追い詰められるはずだった。
ほどなくと言うも短い間に、二人は尾行者が消えた角に駆け込む。が、相手はよほど|巧《こう》妙《みょう》であるらしい。曲がった先は、ほとんど数件ごとに|横《よこ》辻《つじ》がついている細切れの区画で、容易にその逃走経路を図らせない。すでに|不《ふ》審《しん》者の姿は影も形もなかった。
「アラストール」
「うむ」
シャナは身の内の|魔《ま》神《じん》と短く言い交わして、再び非常手段を取る。路面を強く蹴り、大きく|跳《ちょう》躍《やく》した。 ワンピースをはためかせて夏の濃い空気を|貫《つらぬ》き、 足下に広がった|御《み》崎《さき》市の住宅地をぐるり見渡す。
ヴィルヘルミナは、その宙に咲く一輪の|姿《し》態《たい》を見上げる。
「……」
そして一瞬、少女が自分に何も言わず対処|策《さく》を取ったことに一瞬の寂しさを覚え……すぐにその|馬《ば》鹿《か》馬鹿しい気持ちを打ち消した。自分たちが、かくあれ、と望む姿を少女は取っているのである。思い|煩《わずら》う必要も意味もない。
その少女・『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が叫ぶ。
「いた!」
着地してすぐ駆け出す背中を、ヴィルヘルミナは並ばずに、追う。
やがて、少女の見つけた|標《ひょう》的《てき》、自分たちを|尾《び》行《こう》していた|不《ふ》審《しん》者の背中が、四つほども角を曲がってから、ようやく見えた。
ひょろりと背の高い男で、夏だというのに|褐《かっ》色《しょく》のロングコートを|羽《は》織《お》っている。コートから出た首も、のんびり歩を進める足も細い。
と、その男もこっちに気付いたらしい。顔をコートの立て|襟《えり》越しに振り向かせると、|慌《あわ》てて再びの逃走にかかった。
「あ、待てっ!」
シャナは叫び、今度こそと追いすがる。
もちろん、待てと言われて待つ馬鹿はいない。
男は、細い足を|物《もの》凄《すご》い勢いでぶん回して、まさに|脱《だっ》兎《と》の|如《ごと》き勢いで|疾《しっ》走《そう》する。しかも、直線を|徒《と》競走する愚を犯さず、小まめに曲がって追っ手を|撒《ま》こうとしている。先の逃走経路も、まず常識では見つからないほど|巧《こう》妙《みょう》な順路で曲がっていた。
(もし|徒《ともがら》@高ンでないとしても、よほど|厄《やっ》介《かい》な人間でありますな)
ヴィルヘルミナが思う間に、その背が近づいてくる。いかに訓練されていようと|所《しょ》詮《せん》は人間、フレイムヘイズの相手ではない。
曲がって曲がって、道も直角に交わらない|生《いけ》垣《がき》に挟まれた裏道まで入り込んでから、ようやくシャナは不審者に追いついた。
「っはあ!」
飛び|蹴《け》り、という形で。
ところが、
「!?」
シャナは|驚《きょう》愕《がく》した。
蹴りを背のど真ん中に受ける|寸《すん》前《ぜん》、男がひらりとこれをかわしたのである。
いくら本気ではなかったとはいえ、フレイムヘイズの蹴りを、ただの人間が。
正確には、よろけて転んだ男が、頭から生垣に突っ込んだ、という状況である。
しかし、事実として蹴りを避けていた。お|世《せ》辞《じ》にも|格《かっ》好《こう》良くとは言えなかったが。
シャナは驚いた半秒の後、地面に|爪《つま》先《さき》を着けて反転、生垣の下で腹ばいの|匍《ほ》匐《ふく》姿勢になった男の背中を強く踏みつけて、その動きを封じた。制圧の完了を鋭く告げる。
「動くな。抵抗、反撃、脱出、全て不可能よ」
踏みつけた下から、やけに渋い声が|響《ひび》いた。|唸《うな》り声である。
「うーん……やられたな」
その声に敵意がないのを感じて、シャナは男の背中から足をどけた。すぐ反撃のカウンターを取れる位置に足を下ろす。現在の複雑な情勢下、|慎《しん》重《ちょう》に対応しようと、|傍《かたわ》らにやってきた同業の|先《せん》輩《ぱい》に、質問を|譲《ゆず》ろうと視線を向けた。
ヴィルヘルミナは頼られたことを感じて、先の怒りの声による落ち込みを|嬉《うれ》しさに反転させた。やはりもちろん顔には出さず、努めて平静な|声《こわ》色《いろ》で男を問い|質《ただ》す。
「一体、|貴方《あなた》は何者でありますか?」
ようやく身を起こすことを許された男は、地面に|胡坐《あぐら》をかいて座った。自分の前に|聳《そび》える恐ろしい女性たちを、|臆《おく》さず見上げ、笑う。
「それは、こちらが教えてもらいたいところなんだがね」
渋い声とは|裏《うら》腹《はら》に顔立ちは若く、三十過ぎほどと見えた。細長く|尖《とが》った|輪《りん》郭《かく》を、ひ弱さを感じさせない|強《きょう》靭《じん》な線で形作った、|不《ふ》思《し》議《ぎ》な|容《よう》貌《ぼう》である。
落ち着いた|様《よう》子《す》で、男は髪の毛に絡まった葉っぱを払いながら言った。
「初めまして、お|嬢《じょう》さん方」
その|尋《じん》問《もん》への回答ではない挨拶[#「挨拶」に傍点]に、フレイムヘイズらは|揃《そろ》って目を白黒させる。
|生《いけ》垣《がき》による|引《ひ》っ|掻《か》き傷だらけの顔で、しかし|泰《たい》然《ぜん》と、胡坐をかいた男は名乗った。
「私の名は、|坂《さか》井《い》貫《かん》太《た》郎《ろう》だ」
数分後、大通り沿いにある|喫《きっ》茶《さ》店のボックス席で、三人は向かい合って座っていた。
当初こそ、メイド(しかも大きな|風呂《ふろ》敷《しき》包みを背負っている)の方から喫茶店を訪ねてくる、という|珍《ちん》妙《みょう》な事態に周囲の注目も集まったが、座って数分した今では、誰もが自分の話題と興味に立ち戻っている。|異《い》変《へん》も|奇《き》異《い》も、|刺《し》激《げき》が続かなければ維持しないものらしい。
貫太郎と、その対面に並んで座るシャナとヴィルヘルミナの間、テーブル上には、一皿のピザ、サンドイッチ、ウーロン茶、スパゲッティ、トーストエッグ、特大チョコパフェ、山盛りのサラダ、ホットコーヒー、ホットケーキ等が、|所《ところ》狭《せま》しと並んでいる。
ちなみに、ヴィルヘルミナのホットコーヒー、シャナの特大チョコパフェ(既に|空《から》)以外は、全て貫太郎が頼んだものである。
「|赴《ふ》任《にん》先で『我が家のある街が大|惨《さん》事《じ》になっている』と聞いて、|慌《あわ》てて帰ってきたんだよ」
その彼は真正面、|酷《ひど》い目に|遭《あ》わされたばかりの二人に、|隔《かく》意《い》なく話しかけた。渋い声と落ち着いた|挙《きょ》措《そ》の割に、構えない人物のようだった。
「報道では死者はゼロとのことだったが、やはり家族のことだから、実際にこの目で見て安心したかったんだよ。休暇を取るまでは、それなりに|波《は》乱《らん》万《ばん》丈《じょう》な展開でね」
声を切ると、前に座る二人がギョッとするほどの|物《もの》凄《すご》い速さと勢いで、まさに『片付ける』ように口中へとピザを一皿分、一気に詰め込む。そうして、
「っつつ」
ごくり、と音が聞こえるほどの力で呑み込んだ。すると|途《と》端《たん》に、元の落ち着いた|雰《ふん》囲《い》気《き》に戻る。|傍《かたわ》らのナプキンを取って、|丁《てい》寧《ねい》に口元を|拭《ぬぐ》う|仕《し》草《ぐさ》も上品で、さっきまでのムチャクチャな食べっぷりは|片《へん》鱗《りん》も見えない。変な男だった。
「ともかく、まず早急に|安《あん》否《ぴ》を確かめるつもりで戻って、まだ二人とも眠っているだろう、と早朝の我が家を遠くから見守って[#「遠くから見守って」に傍点]みたら――」
(どうしてすぐ帰らないで、そんなことするんだろう?)
とシャナは思ったが、その説明はない。
「――庭で|息子《むすこ》が、棒を持った|可愛《かわい》いらしい女の子に追いかけられているじゃないか」
貫太郎は|別《べつ》段《だん》責めるでもない、むしろ平静な|口《く》調《ちょう》の中に、親しみさえ込めているのだが、それでもシャナはションボリとしてしまう。
坂井貫太郎といえば、|千《ち》草《ぐさ》の夫であり、|悠《ゆう》二《じ》の父である。その意味は制度でしか理解していないが、何百回と聞かされた千草の話を総合するに、『とても大好きで大事な人』であるらしい。外国に単身|赴《ふ》任《にん》している、『優しくて可愛い人』なのだとも言っていた。
悠二の方は、これらを聞く|度《たび》に、またか、と|呆《あき》れるだけで、自分から話してくれたことはないが、彼も決して嫌っているわけではないことは、言葉の|端《はし》々《ばし》から|容易《たやす》く推測できた。
とにかく、いかに敵の|襲《しゅう》来《らい》にぴりぴりしていたとはいえ、その人物を追い掛け回した|挙《あげ》句《く》、|生《いけ》垣《がき》に突っ込ませたり背中を踏んづけたりと、|酷《ひど》いことをしてしまった。相手にそれを気にしている|様《よう》子《す》が見えないとはいえ、やはり落ち込んでしまう(ちなみに、悠二を棒で追い回していたことについては、全く気に病んでいない)。
「それに、我が家の中を|窺《うかが》ってみると――」
(|塀《へい》や|遮《しゃ》蔽《へい》物があったはずでありますが、どうやって?)
というヴィルヘルミナの疑問にも、説明はない。
「――|千《ち》草《ぐさ》さんはもう一人、珍しい服装で飾ったお|嬢《じょう》さんと歓談中だ」
|貫《かん》太《た》郎《ろう》は言って、彼女を見る。
その妻にやり込められた後ということもあり、ヴィルヘルミナは少々|警《けい》戒《かい》感を持って、この|妙《みょう》に落ち着いた男の視線に応対する。
が、貫太郎はすぐに視線を外して、今度はホットケーキを一皿六枚、まるで|隠《かく》し芸か早食い競争のように、ムリヤリ口に詰め込んだ。|引《ひ》っ|掻《か》き傷だらけの顔が|噛《か》みに噛んで、朝食にもかかわらず、また|細《ほそ》身《み》のどこに入るのかという勢いで呑み込む。
「あんまり千草さんが楽しそうだったから、その|邪《じゃ》魔《ま》をするのもどうかと思ってね。君たちが帰るまで、外で待ってたというわけさ」
言ってから、|傍《かたわ》らを通ったウエイトレスに、
「ああ、ウーロン茶をもう一杯たのむよ」
と気軽に注文する。そうしてまた、|布《ふ》巾《きん》を取って口元を|拭《ぬぐ》う彼に、
「ならば、なぜ家に帰らず、私どもの方を|尾《び》行《こう》したのでありますか」
とヴィルヘルミナが、|単《たん》刀《とう》直入に|核《かく》心《しん》の質問を発した。
言われた貫太郎は、すでにテーブルにあったコップを傾けて中身を飲み干している。
「いいね、ウーロン茶は。日本に帰ってきたという気が――」
軽口の間に、相手が会話に遊びを持たないことを見て取ると、
「分かった、答えよう」
コップを静かに置き、|真《ま》面《じ》目《め》な顔、渋い声で答える。
「趣味だ」
ボックス席の中だけに、|沈《ちん》黙《もく》が降りる。
シャナは『そういう趣味もあるのか』と熱心に|頷《うなず》き、ヴィルヘルミナは凍りついたように固まった。
貫太郎は念のために確認する。
「……|冗《じょう》談《だん》だが?」
「当たり前であります」
ヴィルヘルミナは|眉《まゆ》根《ね》を|強《こわ》張《ば》らせ、言葉でぴしゃりと|叩《たた》いた。
「?」
シャナだけが一人、会話の意味が分からず、|怪《け》訝《げん》な表情で二人を交互に見る。
|貫《かん》太《た》郎《ろう》は頭を掻いて|苦《く》笑《しょう》し、そして何気なく、本当の答えを返した。
「まあ、実際のところ、君たちが何者なのか、突き止めようと思ってね」
「……」
押し黙るヴィルヘルミナ、
「どうして?」
|不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに|尋《たず》ねるシャナ、
双方の反応をを見てから、再び答える。
「自分の|留《る》守《す》中に見知らぬ人間が家にいたら、普通は|不《ふ》審《しん》に思うだろう? 私は普段、我が家に連絡を入れないから、|余《よ》計《けい》にそういうことが気になるんだよ」
彼は、|美《び》男《なん》子《し》という|類《たぐい》ではなかったが、細っこい|容《よう》貌《ぼう》の中に|妙《みょう》な深さを持っていた。妻である|千《ち》草《ぐさ》にも通じる、人に安心を|齎《もたら》すそれ[#「それ」に傍点]の底には、妻の明るさとは対照的な、重さがある。
「いくら|可愛《かわい》らしいからといって、それだけで人は信じられない」
そんな彼に笑いかけられて、シャナは意味もなく|頬《ほお》を|朱《しゅ》に染めた。
貫太郎は少女の|初《うい》々《うい》しさに笑みを深めると、本当の相手、自分の対面にいる無表情な女性に向き直る。
「私どものことは、奥様に尋ねればよろしいのであります」
果たして、少女の|様《よう》子《す》を逆に|苦《にが》々《にが》しく思うヴィルヘルミナが言った。
「そうだね、それはその通りだが」
笑顔の底の、重さが増す。
「世間には、悪事の|手《て》口《ぐち》は山ほどある。家の千草さんと|悠《ゆう》二《じ》も馬鹿ではないが、単身|赴《ふ》任《にん》の|大《だい》黒《こく》柱《ばしら》としては、いろいろ心配だ。たまに帰ってきたときくらいは全力でフォローしたいのさ」
ヴィルヘルミナは静かに、|挑《いど》むように|訊《き》く。
「もし私どもが、その悪事の手先だったら?」
「ヴィルヘルミナ!?」
シャナは驚いて|傍《かたわ》らを見上げたが、フレイムヘイズ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は正面の笑顔に|相《あい》対《たい》したまま、|微《び》動《どう》だにしない。
貫太郎の方はといえば、笑顔はそのままに、皿の上のサンドイッチを|鷲《わし》掴《づか》みにしていた。またまた丸ごと|無《む》理《り》矢《や》理《り》に詰め込み、|猛《もう》然《ぜん》と|噛《か》み、そして呑み込む。まるでそれが、答えを用意する時間ぴったりだったように、呑み込んで即、口を開く。
「そうではない人にいう必要はないな[#「そうではない人にいう必要はないな」に傍点]」
「もう、その疑いは晴れていると?」
ヴィルヘルミナ再びの質問への答えを、|貫《かん》太《た》郎《ろう》はシャナに贈った。
「|可愛《かわい》いだけでなく、いい子なようだからね」
笑って、|引《ひ》っ|掻《か》き傷をさする。
「――それに、そう、強い子でもあるな。全力フォローの結果がこうなるくらいだ」
その原因を作ったシャナが、またションボリする。
「……ごめんなさい」
「ああ、そういう意味じゃない」
自分の失言に気付いて、貫太郎は頭を|掻《か》いて|詫《わ》びた。
「どうも私は|冗《じょう》談《だん》が|下手《へた》でね。気にしないでくれ。|全《ぜん》然《ぜん》大丈夫だから」
少女の前に置かれた|空《から》の|器《うつわ》を見て、せめてもの|償《つぐな》いを持ちかける。
「特大チョコパフェ、もう一つ食べるかい?」
「……」
シャナは、|傍《かたわ》らの女性を恐る恐る見上げる。
許可を求められていることを感じたヴィルヘルミナは、短い|溜《ため》息《いき》とともに答えた。
「いいでしょう」
「ありがとう、ヴィルヘルミナ!」
「さあ、|遠《えん》慮《りょ》せず、どんどん食べなさい」
ボックス席に明るい声が|響《ひび》き、
「私どものお代は自分持ちであります」
「……」
「……」
すぐ収まった。
既に昼前、軽い[#「軽い」に傍点]朝食を終え、またシャナたちとも別れた貫太郎は、
(さて、ようやく我が家に……)
帰宅を果たすべく意気|揚《よう》々《よう》、我が家のある通りをまず角から窺う[#「まず角から窺う」に傍点]。
「……?」
と、彼はその門前に、さらなる来訪者を|捉《とら》えた。
(今日の|坂《さか》井《い》家は|千《せん》客《きゃく》万《ばん》来《らい》だ)
自分も含めてそう思いつつ、抜き足差し足で近づいてゆく[#「抜き足差し足で近づいてゆく」に傍点]。
近づくほどに、門前にある姿がはっきりしてくる。
女の子だった。
さっきまで一緒だった二人の、|丁《ちょう》度《ど》中間くらい、|悠《ゆう》二《じ》と同じ|年《とし》頃《ごろ》の体格である。|大人《おとな》し目な色合いのブラウスにプリーツスカートという服装。少し色素の薄い肩までの髪は、|絹《きぬ》糸《いと》のようにさらさらで、日の光の下、淡い輝きを見せている。
「――、――っ」
(?)
少女が何か言っている。体を前にやや傾けて、なにかブツブツと。
しばらくすると、体を伸ばす。|深《しん》呼吸をしているらしい。
(アブナい人だろうか……こういうケースは、想定していなかったが)
などと、|酷《ひど》く失礼なことを考える|貫《かん》太《た》郎《ろう》である。
やがて、その少女の言葉が耳に届くようになってきた。
「――|坂《さか》井《い》君――――ナちゃん――」
(坂井君?)
君付けされる坂井には、一人しか心当たりがない。
「――ゃんには関係のないことで、私が――誘って――」
(誘う?)
細い|体《たい》躯《く》を平然と歩かせ、しかし影のように音もなく、少女の背後に近付く。
「――私が、坂井君を、誘って、どこに行こうと、――」
(ははあ)
ようやく分かった。どうも、我が家に入った際の予行演習を、今ここでしているらしい。
「――ちゃんには、関係ないことでしょ、私が、坂井君を誘って、どこに行こうと――」
しかも、どこかのライバルを押しのけまでして、|息子《むすこ》をデートに誘おうとしてくれているようだった。
(ほう、|悠《ゆう》二《じ》のやつ……少し見ない間に、なかなか|隅《すみ》に置けない男になっている)
我が子の思わぬ成長に目を細めつつ、少女の背後を取る。肩越しに|派《は》手《で》な色のチケットを持っているのが見えた。いつもの習慣として確認し、覚える。
少女は再び深呼吸した。
「すぅー」
「はぁー」
後ろで、貫太郎も一緒に。
「はひゃわっ!?」
「こんにちは」
驚いて飛び上がった少女に、貫太郎は抜け抜けと|挨《あい》拶《さつ》した。
「我が家に、なにかご用かな?」
「え、え……?」
真っ赤な顔に|涙《なみだ》目《め》、ドキドキしているらしい胸を押さえるという、|初《うい》々《うい》しい少女の|仕《し》草《ぐさ》に、妻の若き日を重ね会わせる。
「おっと」
動揺の|極《きわ》みにあるらしい少女は、自分から話しかけられる|様《よう》子《す》ではなさそうだった。
一度目、|平《ひら》井《い》ゆかり、ヴィルヘルミナ・カルメル両|女《じょ》史《し》相手のときは|甚《はなは》だ|情《なさ》けない状況だったので、今度はできるだけ|格《かっ》好《こう》をつけて、自己紹介する。
「失礼」
もっとも、|引《ひ》っ|掻《か》き傷だらけの顔は、|隠《かく》しようもなかったが。
「|悠《ゆう》二《じ》のお友達ですか、お|嬢《じょう》さん。私は、|坂《さか》井《い》悠二の父で|貫《かん》太《た》郎《ろう》と――っわ!? ど、どうしたね、お嬢さ……|千《ち》草《ぐさ》さーん!!」
坂井貫太郎、久々の帰宅は、自分のみっともなさ、現れた意外な人物、双方へのショックから|失《しっ》神《しん》した少女を|担《かつ》ぎ込むという、さらに情けないものとなった。
「少しは気をつけてくださいね、貫太郎さん。あなたは昔から|茶《ちゃ》目《め》っ気が変な方向に飛びすぎてるんですから」
居間と続きの和室で、寝かせた|吉《よし》田《だ》を|介《かい》抱《ほう》する千草が、少し怒った|様《よう》子《す》で言った。
食卓には、|紺《こん》色の|作《さ》務《む》衣《え》に着替えた貫太郎の姿がある。
「まったくもって、申し訳ない……」
渋い声も|台《だい》無《な》しな弱々しさで答え、済まなそうに頭を|掻《か》いた。
その対面にある悠二が麦茶を飲みながら、久々の再会を果たした父に追い|討《う》ちをかける。
「いつも|無《む》駄《だ》に人を騒がすんだから、父さんは。そうでなくても、吉田さんは体育の授業で倒れちゃうくらいに体が弱いんだよ?」
「そのようだ、すまない……ときに悠二」
「?」
父が、真剣かつ興味|津《しん》々《しん》な風に|訊《き》いてくる。こういう場合、彼は大抵|碌《ろく》なことを言わない。
「平井さんと吉田さん、どっちが本命なんだ」
「ぶはっ!?」
悠二は思わず口に含んでいた麦茶を吹いた。
それを危うく避けた貫太郎が、|息子《むすこ》の|狼《ろう》狽《ばい》振りに正答を見出す。
「……決めてないようだな」
悠二は|咳《せ》き込みながら、なんとか言葉を|繋《つな》げる。
「げは、な、なっ、げほ、なんで、父さんが、シャナのこと、知ってんのさ?」
「父を|侮《あなど》るものじゃない。すでに面接も済ませ――『しゃな』?」
さっそく|馬《ば》脚《きゃく》を現す父である。
「|平《ひら》井《い》さんのこと。それに、別にまだ、二人は、そういうんじゃなくて、その」
|悠《ゆう》二《じ》もブツブツと言い訳をする。
と、そんな|情《なさ》けない男どもを制するように、
「|吉《よし》田《だ》さん、気が付いた?」
|隣《りん》室《しつ》で|千《ち》草《ぐさ》が言った。
|額《ひたい》のタオルと、見慣れない天井に、吉田は|戸《と》惑《まど》いの声を|零《こぼ》す。
「……あ、私……ここは?」
その顔を、千草が柔らかな|微笑《ほほえ》みとともに|覗《のぞ》き込む。
「私のお家。ごめんなさいね、|貫《かん》太《た》郎《ろう》さんのジョークって、笑えないのにショックばかり大きくて」
「大丈夫、吉田さん?」
妻の|酷《こく》評《ひょう》にがっくりする父を置いて、悠二も和室に入る。
吉田は、ようやく現状を理解し、|慌《あわ》てて身を起こそうとする。
「あ、私……すいません!」
「だめだめ、まだ寝てなさい」
「でも、別に調子が悪いとかじゃなくて、びっくりしただけで……」
「いいから、落ち着くまでくらいは、ね?」
千草が|有《う》無《む》を言わせない優しさで、少女を再び寝かしつけた。そうして、|布団《ふとん》の脇に置いたお盆から吸い飲みを取って|訊《き》く。
「頭とか、打ってない? |咽喉《のど》は|渇《かわ》いてないかしら?」
「それなら大丈夫だ。倒れる前に、しっかりと抱き止め――」
と口を挟む貫太郎を、
「黙っててください、大事なことを訊いているんですから」
千草が一言で抑えた。
|萎《しお》れる|大《だい》黒《こく》柱《ばしら》の姿に|哀《あわ》れを催した悠二は、グラスに麦茶を|注《つ》ぎ、渡した。
「ホント変わらないね、父さんは」
「こういうところは……たぶん、永遠にな」
受け取った貫太郎は、|苦《にが》くも|嬉《うれ》しげに、|微笑《ほほえ》んだ。
数分後、ようやく起き上がることを許してもらえた吉田は、改めて|介《かい》抱《ほう》してくれた千草にお礼を言い、貫太郎と悠二にも遅ればせな|挨《あい》拶《さつ》をした。
その|坂《さか》井《い》貫太郎こと自称・一家の|主《あるじ》は、食卓に|額《ひたい》を|擦《こす》り付けんばかりに謝る。
「いや、なにをやってるのか気になったもので……申し訳ない」
「い、いいんです、本当にいいんです。さ、|坂《さか》井《い》君」
大げさに謝られて因る|吉《よし》田《だ》は、|悠《ゆう》二《じ》と、次いで|千《ち》草《ぐさ》に助けを求めた。
「父さん、もういいってさ」
「ほらほら、|貫《かん》太《た》郎《ろう》さん。かえって吉田さんを困らせてしまってるじゃありませんか。もう止めてくださいね」
なにを止めるべきか、彼なりの|葛《かっ》藤《とう》があったのだろう、少し考えてから|頷《うなず》く。
「分かった。|極《きょく》力《りょく》考える」
その|奇《き》妙《みょう》な返事に、思わず吉田は悠二と目を合わせて笑った。そんな二人を見た千草も、どさくさで貫太郎も笑って――|余《よ》計《けい》な道を回り回った、ようやくの|談《だん》笑《しょう》となった。
「……いつも急に帰ってくるんだから」
困った半分、笑い半分の千草が台所から現れ、
「はい、どうぞ。用意とかしてないから、大した量はありませんよ」
ベーコンエッグと野菜|炒《いた》めを載せた大皿が、食卓の上にドンと置かれる。
「ああ、構わないとも」
取り皿を手にした貫太郎が、大きく深く|頷《うなず》いた。
「わあ――」
吉田は、その量の多さに目を見張る。千草の言葉とは|裏《うら》腹《はら》に、双方ほとんど山盛りだった。
千草が坂井家のローカルルールを、|和《なご》やかかつ満足気な笑みとともに教える。
「おかずは大皿いっぱいに載せて、各自で取り分けるのが家のやり方なの。貫太郎さんがこうでしょ?」
その視線の示す先では、細長いのにひ弱に見えない変な男が、自分の食べる分を皿に取り分けている。
「こうして皆で一緒に、楽しく騒ぎながらご飯を分けて食べるというのは、なんとなくワクワクするだろう?」
自説を行為で肯定する貫太郎の姿は、|容《よう》貌《ぼう》や声の渋さとは裏腹に、なんだか|無《む》邪《じゃ》気《き》な子供のようで、|妙《みょう》な|愛《あい》嬌《きょう》がある。
吉田はその|様《さま》に、千草が彼を好きな理由の|一《いっ》端《たん》を見たような気がした。
悠二が声をかける。
「吉田さんも早く取らないと、みんな父さんに食べられちゃうよ」
「はい。じゃあ、少しだけ、いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
千草は、どことなく|弾《はず》んだ声で勧めると、食卓に|頬《ほお》杖《づえ》を着く。その視線を|傍《かたわ》ら、自分の作った料理を、|急《せ》きたてられるような勢いで|掻《か》き込んでいる男に向ける。なにをするでもなく、ただ見つめて|微笑《ほほえ》む。
|吉《よし》田《だ》はそんな『妻の姿』に、激しい|羨《せん》望《ぼう》を覚えた。少し意識して、自分も|傍《かたわ》ら、適量を取って食べている|悠《ゆう》二《じ》へと視線を向ける。
彼も久々の帰宅が|嬉《うれ》しいのか、父の|無《む》茶《ちゃ》な食べっぷりを|呆《あき》れつつも笑って見ている。
|貫《かん》太《た》郎《ろう》は一人、食欲の男になっていた。
「|美味《うま》い。やはり|千《ち》草《ぐさ》さんの料理だ」
と、なんだか分かるような分からないような|誉《ほ》め方をする。
「お客様にお出しする分にも足りない、有り合わせですよ」
頬杖を着いたまま、ニコニコと千草は答える。
「いや、材料は関係ないな。|美味《おい》しいものは、美味しい」
「父さん、あんまりみっともない食べ方しないでよ。今日は吉田さんもいるんだから」
|息子《むすこ》に言われて、貫太郎は素直に謝る。
「ああ、そうか。いや、我が家の食事はしばらくぶりでね。重ね重ね申し訳ない」
「いえ」
吉田は、この|団《だん》欒《らん》に混じっていられることを|嬉《うれ》しく思っていた。
「坂井君のお母さんもですけど、お父さんも、すごくお若いんですね」
素直な感想である。千草が例外、と思っていたら、なんと父までが若々しい、というより若い。|従兄弟《いとこ》と言われれば信じてしまいそうだった。
「そうかな」
貫太郎は軽く首を|傾《かし》げ、
「まあ」
千草は素直に照れ、
自然と|目《め》線《せん》を合わせて、単純ではない笑みを交わす。
「二人は学生結婚だったしね」
そんな二人の|様《よう》子《す》には慣れっこな悠二が、投げやりに言った。
「そうなんですか」
吉田は、恋する|乙女《おとめ》として、打算のない憧れをその言葉に抱く。
|艱《かん》難《なん》を実際に味わった二人は、そのことを|表《おもて》に出さない。
ただ、貫太郎が、自慢ではない実感[#「自慢ではない実感」に傍点]を口にする。
「当時は、未熟さに見合った苦労が|容《よう》赦《しゃ》なく|襲《おそ》ってきて、大変だったよ」
そうして、急に笑って付け加える。
「そうだ、|年《ねん》齢《れい》は|訊《き》かないでくれ。千草さんに怒られてしまうから」
「もう、貫太郎さんったら」
|千《ち》草《ぐさ》も笑い、そうして、ようやく気が付いたように|吉《よし》田《だ》に向き直った。
「そういえば、吉田さん。今日はどうして家に? |悠《ゆう》ちゃんになにか御用?」
「――あっ」
すっかり|馴《な》染《じ》んでしまっていた吉田は、ようやく自分の用事を恩を出した。
「えっと、あの、シャナちゃんは?」
まるで舞台公演に必要な|相《あい》方《かた》を求めるように、当然この家に入り|浸《びた》っているはずの少女、ライバルの姿を探す。
|悠《ゆう》二《じ》はベーコンエッグを取る手を止め、少し複雑な表情で答えた。
「今日は、ちょっと用事があって帰ったんだ」
「そう、ですか」
吉田は、その事実に|奇《き》妙《みょう》な|落《らく》胆《たん》を感じた。
(チャンス、なのかな)
すでに|貫《かん》太《た》郎《ろう》に|目《もく》撃《げき》されたように、今日、彼女が|坂《さか》井《い》家を訪れた目的は、悠二をデートに誘うことである。
そして彼女はその場合、ほとんど当然のように『シャナを正面に置いて、悠二を取り合う』という状況を想定していた。そのための|台詞《せりふ》もしっかり(といっても短いが)用意して、|万《ばん》全《ぜん》の態勢で乗り込もうとしていたのである(その|出《で》端《ばな》を貫太郎に|挫《くじ》かれたが)。
だというのに、そのシャナが、今日に限っていないという。
気合を入れて臨んでいた彼女としては、正直|拍《ひょう》子《し》抜《ぬ》けする思いだった。
|大《だい》前《ぜん》提《てい》の消失に、
(どうしよう)
と|途《と》方《ほう》に暮れてさえいた。
もちろん彼女にも、今の状況がとてつもなく有利だというのは分かっている。分かっているのだが、なんだかライバルの|留守《るす》を狙ってこっそり、というやり方が、|卑《ひ》怯《きょう》であるように思えた。別に|格《かっ》好《こう》をつけているわけではない。あの『フレイムヘイズという強い少女』がライバルである、という事実に、|奮《ふん》起《き》と対抗心を抱かされるのである。
(でも)
ふと、|狼《ろう》狽《ばい》する中で思う。
つい先日、花火をクラスの仲間たちと楽しんだ夜、シャナは抜け駆けのように、手作り弁当を悠二に渡していた。あれは少し、卑怯な手口だったとは言えないか。
(なら、私だって――)
とまで考えて、
(いけない、そんな根に持つようなこと)
と思い直す。一方で、
(でも、それじゃ、今日はなんのために)
という焦りも生じる。
そして不意に、
「|吉《よし》田《だ》さん?」
と|悠《ゆう》二《じ》に呼ばれて、我に返った。
「えっ?」
気付けば、その|葛《かっ》藤《とう》の|様《よう》子《す》、無自覚な|百《ひゃく》面《めん》相《そう》を、|坂《さか》井《い》一家が|揃《そろ》って見ていた。
「あっ――」
首から上に全身の血が集まってくる。
「いえ、違うんです。私、これ、その……」
吉田は恥ずかしさのあまり、言葉を切った。
彼女としても、悠二とシャナを相手にすることについて、|覚《かく》悟《ご》はしていた。坂井家を訪ねる以上、千草もいるだろう、と予測していた。それに、千草は時と場合によっては味方になってくれる、最低でも中立でいてくれるだろう、と判断していた。場所も、玄関で言い合うくらいだろう、と思っていた。
(で、で、でも)
まさか父である|貫《かん》太《た》郎《ろう》までもが加わって、シャナのいない坂井家という一まとまりの中、自分という部外者が|団《だん》欒《らん》に混じって、こんな|度《ど》胸《きょう》試しのように取り囲まれる形で、答えを求められることになるなどとは、全く想像だにしていなかった。
(ど、どう、なにが)
パニックが起きそうになる。自分がなにをしに来たのか、熱を持った頭、痛いほどに|鼓《こ》動《どう》する心臓、|潤《うる》んでしまう瞳、全てが|邪《じゃ》魔《ま》をして、わけが分からなくなる。
(――私、私――)
そのとき、救いの神・千草が、|絶《ぜつ》妙《みょう》なタイミングで一言。
「そうだ、|悠《ゆう》ちゃん、せっかく来てもらったんだから、お部屋にお通ししたげなさいな」
悠二は吉田の、自室への予期せぬ訪問に、|慌《あわ》てて部屋を|片《かた》していた。
「ごめん、その、いきなりだったから」
といっても、それほど汚いわけではない。寝乱れたベッドを整え、床に散らかっていた雑誌と漫画をまとめる程度である。
「いい、いえ、思ったより片付――す、すいません」
ドアの前で立ちすくむ吉田は、見回すのが|不《ぶ》躾《しつけ》と思い、視線を|板《いた》敷《じ》きの床にやった。好きな少年の部屋に初めて入った、それだけのことに|緊《きん》張《ちょう》していた。
「は、はは、別にいいよ」
|悠《ゆう》二《じ》はこういう場合[#「こういう場合」に傍点]においてどうかと思いつつも、シャナに感謝していた。
彼女が|坂《さか》井《い》家に入り|浸《びた》って、ときに|無《む》造《ぞう》作《さ》に踏み込んできて疑問点を問い|質《ただ》したり、またときにベッドの上でゴロゴロしながら本を読んだりするおかげで、部屋の片付けが|常《じょう》 習《しゅう》 化《か》していたのである。
ようやく雑誌を一まとめに本棚へ押し込むと、悠二は|千《ち》草《ぐさ》の持たせた|座《ざ》布団《ぶとん》を取る。
「お待たせ。床に座布団と、ベッドに腰掛けるの、どっちが……あっ、|椅《い》子《す》もあるよ」
「それじゃ、座布団、お願いします」
「どうぞ」
「はい」
|微《び》妙《みょう》によそよそしい|遣《や》り取りとともに、二人は向き合って座った。
|吉《よし》田《だ》は渡された座布団に正座で、悠二は自分の椅子のクッションの上に|胡坐《あぐら》で……座りかけて、慌てて正座に直す。
「……」
「……」
まるで、お見合いのような|格《かっ》好《こう》だった。
二人とも、坂井夫婦という|潤《じゅん》滑《かつ》剤をなくして、つい口が重くなる。
(さ、|坂《さか》井《い》君の部屋に、入っちゃった……)
|吉《よし》田《だ》は、二人きりという願ってもない状況下、|口《くち》火《び》を切るきっかけを必死に探していた。全て予行演習とは違いすぎる、しかも|嬉《うれ》しい方への|誤《ご》算《さん》ばかりなので、かえって|動《どう》転《てん》していた。
(え、と、なんだろう、僕から話を振らないとダメかな)
|悠《ゆう》二《じ》は、そもそも何を言われるのか分かっていない。なにか話を、といっても共通する主な話題の学校は休みに入っている。まさか|紅《ぐ》世《ぜ》♀ヨ連のことを言うわけにもいかない。
互いの|躊躇《ためら》いで空気が重くなる、その|寸《すん》前《ぜん》、
「|悠《ゆう》ちゃん、入っていい?」
|千《ち》草《ぐさ》の声と共にドアがノックされた。
「う――どうぞ」
うん、といういつもの返事を、途中で|余所《よそ》行きの言葉に変えて、悠二は答える。
「お|邪《じゃ》魔《ま》します」
と|丁《てい》寧《ねい》に断って、千草がジュースを|注《つ》いだコップをお盆に載せ、運んできた。静かに二人の間にお盆を置いて、吉田に一言、
「落ち着いて、ね?」
「は、はい」
それだけで、少女は顔を明るく輝かせた。
逆に悠二は恥ずかしくなって|怒《ど》鳴《な》る。
「母さん!」
「はいはい、それじゃ」
全部分かっている風な母は、そそくさと退出した。
その階段を下りる気配もまだある中、吉田は|湧《わ》いた勇気の枯れない内にと、(彼女としては)大きな声で言った。
「明日、お|暇《ひま》ですか!?」
「わっ!? ……うん、暇、と言えばたしかに暇だけど」
飛び出た質問の意味を悠二は数秒考え、自分の立場やらなにやら、いろいろ考える。
そんな彼の|躊《ちゅう》躇《ちょ》を押し切るように、吉田は前のめりに詰め寄る。
「チケット、買ったんです」
「えっ……?」
「行きませんか?」
詰め寄られた分だけ|仰《の》け|反《ぞ》る悠二は、
(つ、つまりこれは……デート、か?)
と今さらのように理解した。差し出された、赤やら金やら|派《は》手《で》な色合いのチケットの文字に目をやる。その丸っぽい文字のデザインには見覚えがあった。
「あっ、『ファンシーパーク』……そういや、まだ行ったことなかったな」
正式な名前は『|大《おお》戸《ど》ファンシーパーク』。
数年前、|御《み》崎《さき》市に|隣《りん》接《せつ》する大戸市の|山手《やまのて》、|往《おう》還《かん》道《どう》沿いに開業したテーマパークだった。地方ローカルらしいが、コマーシャルもよくやっている。割と笑えるコマーシャルソングが、一時期クラスで|流行《はや》ったりしていた。
|悠《ゆう》二《じ》個人としては、『ファンパー』という|略《りゃく》称《しょう》を知らないまま話を合わせようとして、結果トンチキな受け答えをしたという、非常に恥ずかしい思い出があったりする。
たまに誰かが休日に遊びに行ったのを|又《また》聞《ぎ》きするくらいで、特に興味というほどのものは持っていなかったのだが、
(遊園地、か……|池《いけ》がいつだったか、狭いけどアトラクションは面白いのが|揃《そろ》ってる、って言ってたっけ)
いざ、こういうことで誘われてみると、急に気になってきた。
(たしか、駅前から出てるシャトルバスでいけるんだよな?)
「あの、どうでしょう」
|吉《よし》田《だ》に|訊《き》かれ、答えようとした一瞬、悠二の|脳《のう》裏《り》に後ろめたさが|過《よ》ぎった。自分の置かれた立場や状況、なにより、
(シャナ、どう思――)
と、
彼の想いの端を|察《さっ》した吉田が、さらに詰め寄った。
「行きませんか!?」
前のめりに倒れそうな|剣《けん》幕《まく》に、思わず悠二は|唸《うな》るように、
「っう、ん」
|頷《うなず》かされていた。
野菜|炒《いた》めをバリバリ食べていた|貫《かん》太《た》郎《ろう》が、呑み込んでから|千《ち》草《ぐさ》に訊く。
「どうやら、上の二人はデートらしいな。千草さん、我々もどうだろう、ひとつ?」
新たに大盛りのチャーハンを持ってきた千草は笑って答える。
「お仕事は大丈夫なの?」
さっそく取り皿にこれを移す貫太郎は、なにをか深く、笑って返した。
「たまの休みだ、文句は言わせないさ。とりあえず午後から、久しぶりの散歩がてら調べておこう。希望はなにかあるかな?」
「最後がいつもの[#「いつもの」に傍点]なら、なんでも」
「よし、じやあ手広く|見《み》繕《つくろ》うとしよう……これは、新メニユーかな?」
チャーハンの|具《ぐ》を見て|訊《き》く夫に、妻はテーブルに|頬《ほお》杖《づえ》を着いて、充実の|微笑《ほほえ》みを返す。
「さあ? まずは食べてみてくださいな」
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3 過信と痛撃
湯気の中から、シャナが声を上げる。
「ねえ、ヴィルヘルミナー」
|平《ひら》井《い》家の|風呂《ふろ》場である。
「一緒に入ろうよー、知ってるー? お風呂って面白いんだよー?」
|湯《ゆ》船《ぶね》の|縁《ふち》に|顎《あご》を載せて、すりガラスの引き戸、その向こうを|窺《うかが》う。
マンションの風呂場であるため、あまり大きくはないが、|小《こ》柄《がら》なシャナがくつろぐには十分な空間である。
シャナは今日、平井家の風呂を初めて使う。|御《み》崎《さき》市で暮らすため『平井ゆかり』に|偽《ぎ》装《そう》して以降、彼女にとってこの家は、寝床|兼《けん》倉庫でしかなかった。生活の主体が、入り|浸《びた》っている|坂《さか》井《い》家にあったためである。風呂も当然、向こうで使っていた。
そもそもフレイムヘイズは、『清めの|炎《ほのお》』という|自《じ》在《ざい》法《ほう》で体を|清《せい》潔《けつ》に保てるため、入浴する必要がない(本来は傷ついた肉体の消毒に使うものという)。
シャナ個人は特に、幼少からアラストールの|炎《ほのお》の中でこの清めを受けてきたため、入浴という習慣の存在さえ知らなかった。彼女は自分が新発見したこの|娯《ご》楽《らく》に、養育係を誘おうと思ったのだった。
「――?」
ところが、返事は一向にない。
(他に片づける所、あったかな)
シャナは、彼女の張り切りようを思い出す。
|平《ひら》井《い》家は今日、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルの手によって、全面的な生活環境の改善が行われたのだった。とりあえず、普通に人の住める程度まで。
昼前、|貫《かん》太《た》郎《ろう》と別れてすぐ後、少女の暮らす家の扉を、ややの期待とともに開けたヴィルヘルミナが最初に見たのは、
「……」
狭い玄関先にドカンと置かれた巨大な業務用のゴミ箱だった。
やはりと言うか、その中はお菓子|類《るい》の|残《ざん》骸《がい》ばかりである。
「……」
その向こう、突き当たりの窓にカーテンも閉まったきり、という薄暗い廊下は、ひたすらに|殺《さっ》風《ぷう》景《けい》だった。見る場所、全てに|堆《うずたか》く|埃《ほこり》が積もっていた。
殺風景な理由は分かっていた。トーチだった家族の|消《しょう》滅《めつ》により、その私物や|痕《こん》跡《せき》が存在を許されなくなり、|一《いっ》斉《せい》になくなったのである。
トーチが消えることによって起きる現象は、本来|在《あ》った全ての痕跡を書き換える[#「書き換える」に傍点]、というポジティブな『|改《かい》変《へん》』ではない。そこに存在していた|繋《つな》がりや|証《あかし》がこの世から抜け落ちる[#「抜け落ちる」に傍点]、というネガティブな『|消《しょう》失《しつ》』である。写真からも記録からも、なくなるだけ。|矛《む》盾《じゅん》があっても、理由など誰も突き止められない。そんなものはないのだから[#「そんなものはないのだから」に傍点]。残された矛盾点や不自然な現象には、周りが勝手に理由と|理《り》屈《くつ》を付けて納得してしまう。
現代社会における、それが『喰われた結果』なのだった。
この結果の現れの一つとして、平井家にはシャナが存在を割り込ませた『平井ゆかり』という個人に繋がっている物だけが残されていた。
そして、それらのほぼ全てが、彼女がこの部屋にやって来たときのまま、ほったらかしにされていた。
玄関のゴミ箱と、見た限りの無惨な有様を前にしたヴィルヘルミナとシャナの、
「……これは?」
「なにが?」
「……」
という受け答えで分かるように、このフレイムヘイズとして育った少女は、掃除なる行為の必要性を、全く認めていなかった。
「どこを、使っているのでありますか?」
玄関先で固まるヴィルヘルミナに対する彼女の答えも、|簡《かん》潔《けつ》明《めい》瞭《りょう》だった。
「ベッドと机」
たしかに、確認すれば、ベッドに行くまでの道と勉強机だけが|清《せい》潔《けつ》に保たれていた。衣服や下着は、|纏《まと》め買いしたものらしい、大きな段ボール箱の列として部屋に|鎮《ちん》座《ざ》していた。
反面、その他の場所は、|完《かん》璧《ぺき》に放置されていた。台所どころか、そこに至るまでの廊下、かって両親がいただろう|空《から》っぽの部屋、フレイムヘイズに必要がないとはいえ|風呂《ふろ》もトイレも、全てが|堆《うずたか》く|埃《ほこり》をかぶって、|静《せい》寂《じゃく》と|沈《ちん》滞《たい》の空気に|澱《よど》んでいた。
かつて少女を育てた『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』という広大な|宮《きゅう》 殿《でん》を、 たった一人で保守管理していた|綺《き》麗《れい》好きのヴィルヘルミナにとっては、まさに耐え難い|惨《さん》状《じょう》である。少女にフレイムヘイズとしての技能以外、なにも|授《さず》けなかったのは彼女らなのだから、これは必然の結果であり、|因《いん》果《が》の|応《おう》報《ほう》というものではあったのだが。
ともかく、|己《おのれ》のその手落ちに少なからぬショックを受けつつも、彼女は養育係として、この惨状を打開すると決めた。
「……買出しに行くのであります」
「え?」
「|近《きん》隣《りん》に、ショッピングセンターの存在を確認しております」
「まだ下着はいっぱい残ってるよ」
本気でいう少女に、ヴィルヘルミナは|宣《せん》言《げん》した。
「暮らす家を、作らねばならないのであります」
「でも、ヴィルヘルミナ、状況の|後《あと》片付けは……?」
そう、 彼女がこの|御《み》崎《さき》市にやってきた(|表《おもて》向《む》き)本来の(ものとされた)理由は、 |紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニの戦闘でボロボロになった御崎市における|紅《ぐ》世《ぜ》♀ヨ連の事物、その|痕《こん》跡《せき》の|抹《まっ》消《しょう》と情報|操《そう》作《さ》なのである。こんな所で無駄なこと[#「無駄なこと」に傍点]をする|暇《ひま》はないはずだった。
フレイムヘイズの常識として使命を優先させるシャナに、しかしヴィルヘルミナはもう一度、強く言い直した。
「暮らす家を、作らねばならないのであります」
「……?」
その断言に|怪《け》訝《げん》な顔をする少女への言い訳、理由付けとして、ヴィルヘルミナは、
「この家を、御崎市における我々の活動のベースキャンプとして機能させねばならないのであります。どうぞ、その設営に助力を」
と非常に大げさな|虚《きょ》偽《ぎ》申告を行った。
「……うん」
シャナも、ここまで言われては反抗もできなかった。
こうして、|平《ひら》井《い》家の|大《だい》改装が始まった。
ヴィルヘルミナは生活に必要な|調《ちょう》度《ど》品《ひん》を|揃《そろ》えるため|都《つ》合《ごう》五度、巨大な登山用のザックに荷物をくくりつけてショッピングセンターと|平《ひら》井《い》家を往復した。
この間、シャナも彼女とともに出かけ、あるいは指示されたとおりに掃除や|模《も》様《よう》替えというものを手伝っている。彼女としては、ほとんど全てが初めての興味深い作業で、しかもそれが大好きな女性と一緒に暮らすためのものであることから、終始ご|機《き》嫌《げん》だった。
指示する側のヴィルヘルミナも、|僅《わず》かながら顔に出るほどの喜びを示していた。
ただ、
「これから一緒に暮らせるんだね」
という少女の言葉が、|辛《つら》かった。彼女としては、この作業は実のところ、一時の|滞《たい》在《ざい》における快適さを得るためと、少女のこれからを思っての|実《じっ》地《ち》研修でしかない。なにせ、長期滞在には決してならないのだから[#「長期滞在には決してならないのだから」に傍点]。
ともあれ、ほとんどその|日《ひ》一日をかけて、平井家は普通の家庭並みの生活環境、その|体《てい》裁《さい》を整えた。
夜も相当に|更《ふ》けた今、ようやく、初めて、自分が掃除した|風呂《ふろ》に、シャナは|浸《つ》かっていた。|湯《ゆ》船《ぶね》に張ったお湯が、満足感そのもののような安らぎを与えてくれる。
「二人で入るとねー、『背中を流す』ってのができるんだよー?」
封を切ったばかりのシャンプーや|石《せっ》鹸《けん》、タオルを使う|嬉《うれ》しさに|弾《はず》む声を再びガラス戸越しにかけるが、やはり返事はない。
「ヴィルヘルミナ?」
|怪《け》訝《げん》の色浮かぶその呼びかけに、アラストールが代わりに答えた。
「つい先刻、外に出た」
その声がガラス越しである以上にくぐもっているのは、少女が風呂に入る際の決まりとして、|神《じん》器《ぎ》コキュートス≠ェタオルの下の方に|隠《かく》されるためである。
「まだ足りぬ物があるらしい」
「ふうん……じゃあ、ちょっとだけ待ってよ……」
残念そうに言うと、シャナは鼻先までをお湯の中に|潜《もぐ》らせた。ぷくぷくと口から抱を吹いて遊びつつ、
(早く帰って釆ないと、夜の|鍛《たん》錬《れん》の時間が来ちゃうな)
と思う。そうして、|意《い》外《がい》に気持ちのいいものだった今日の掃除と『これからの、ヴィルヘルミナとの新しい生活』を想像し、水面下で|微笑《ほほえ》む。|悠《ゆう》二《じ》のこと、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』のこと、|徒《ともがら》≠フこと、全ての|懸《け》念《ねん》材料を加味して、それでも微笑む。
(背中流すのは、また明日[#「また明日」に傍点]でいいかも)
その目の前で、泡が|弾《はじ》けて消えた。
タオルの下で、アラストールは思う。
(シャナのために[#「シャナのために」に傍点]、あ|奴《やつ》の存在を『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』と|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》≠ノ|納《なっ》得《とく》させる方法が、なにかないものか)
彼は、さすがに数百年ともに暮らしてきただけに、彼女らの|性《せい》向《こう》を|熟《じゅく》知《ち》していた。
あの二人は、決して納得していない。
そしてそれを、表面に出しはしない。
分かっている。
あの二人は、|頑《がん》固《こ》者である。
意志を、行動によって示す。
|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》を破壊する、という行動を。
|断《だん》固《こ》として。
分かっているのだ。
(とはいえ、あの頑固者どもに、シャナ個人の感情や愛着を理由に|断《だん》念《ねん》を迫るは、まずもって|下《げ》策《さく》……いや、むしろ|逆《ぎゃく》効果でさえあるだろう)
もちろん彼自身、そんなみっともない|真似《まね》をするつもりも、契約者にそれをさせるつもりもない。彼も少女も、フレイムヘイズなのである。
(しかし、|理《り》を|以《も》って説くには、状況が不利に過ぎる……せめてあの二人が来るまでに、それなりの時が経っていれば、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]が無関係、あるいは無関心であることの説得力も出たのだが……いや、それだけでは|駄《だ》目《め》か)
そう、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』については、関わりがあやふやな[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]などより、もっと重要な|懸《けん》案《あん》事項が存在する。
他でもない、その|宝《ほう》具《ぐ》本来の持ち主だった『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』である。
現時点では、シャナもアラストールも、『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』がどうなったのか、どうなっているのかについて、未だにヴィルヘルミナらから聞かされていない。重要な案件であるはずなのに、一体どういうことであろうか。
(|妙《みょう》と言えば、なぜその発見以降、どのフレイムヘイズにも漏らされない|極《ごく》秘《ひ》事項などになっていた?)
いくらあの王≠ニミステス≠ェ通常の|範《はん》疇《ちゅう》から外れた、世に害を|為《な》さない存在であるとしても、普通ならまずあり得ない処置だった。
(まあ、その件に関しては、明日以降[#「明日以降」に傍点]にでも改めて|訊《き》き、坂井悠二|処《しょ》断《だん》の参考とすれば良いだろうが)
と、アラストールでさえ思っていた。
(戦いでも起これば、あ|奴《やつ》の有用性についても、多少は|弁《べん》護《ご》でき――まったく、なぜ我がこんなことを)
と|憤《ふん》激《げき》してから、これも全てシャナのため、と気持ちを落ち着ける。実のところ彼は、敵の|謀《たばかり》を見抜き、|反《はん》撃《けき》の|手《て》管《くだ》を思いつく|悠《ゆう》二《じ》のオ能を、シャナと同等に買っている。そのくせ、
(とにかく現状では、あ奴は間の抜けた、|凡《ぼん》愚《ぐ》市《し》井《せい》の|一《いち》存在に過ぎぬ……)
と|酷《ひど》い評価を下す。
(|夜《よ》毎《ごと》の|鍛《たん》錬《れん》において、さらなる|刻《こっ》苦《く》の課題を与えねばなるまい)
と酷い試練も課す。
(それに、そう)
ふと、思った。
(そろそろ……求めても、良かろう)
ヴィルヘルミナとティアマトーの|到《とう》来《らい》が、なんらかの踏ん切りとなったものか、彼はいつになく真剣に、『|坂《さか》井《い》悠二という存在』について思いを致していた。
シャナがどれほど強く想っていても、アラストールにとって悠二は|所《しょ》詮《せん》ミステス≠ニなった『ただの人間』でしかない。そんな少年を、慣れからくる『愛着』ではない、|冷《れい》厳《げん》極まりない『信用』を持ってよい存在か確かめよう――彼はそう思った。
単なる戦いの経験だけでは足りない。
もっと根本的な、心構えが必要である。
(どう共に生き、どう共に在るか……その|覚《かく》悟《ご》を、問い|質《ただ》そう)
少女の|下手《へた》な鼻歌と、バタ足(というそうだ)の水音をタオル越しに聞きながら、|魔《ま》神《まじん》は|密《ひそ》かに決意する。
夜の十一時を過ぎたことに気付いた悠二は、クーラーを止めると、小さなベランダに続く大窓を開けた。
シャナが来るのを待つ|傍《かたわ》ら、 部屋に夏の夜風を通すつもりだったのだが、 クーラーの人工的な|涼《りょう》気《き》を割って入ってきたのは|温《ねる》い|湿《しめ》り気の|塊《かたまり》だった。
街灯と屋根の向こうに広がる空は|薄《うす》曇《ぐも》りらしく、星は一つも見えない。|街《まち》灯《あか》りの反射が、低い|天《てん》蓋《がい》を灰色に照らし出して、|微《び》妙《みょう》に|不《ふ》穏《おん》な気配を漂わせていた。
(今日は遅いな……)
夜の鍛錬は、|概《おおむ》ね午後十一時前後から始まる。
場所は、お互い特に決めたわけでもなかったが、概ね|封《ふう》絶《ぜつ》を張った屋根の上。
主眼は、将来の|自《じ》在《ざい》法《ほう》行使を視野に入れた存在の力≠フ|繰《く》りと簡単な実技。
そのついでにシャナも、|悠《ゆう》二《じ》の存在の力≠使って、自分の力を磨いている。
終了の時刻は、彼の体に宿った『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』が発動し、その|日《ひ》一日に|消《しょう》耗《もう》した存在の力≠回復させる午前零時。
普段なら、もうやってきてもいい時刻である。
(やっぱり、あの人と積もる話でもしてるのかな?)
思って、ベランダの手すりにもたれかかる。
真下の玄関から右手に視線を流すと、普段とは違うものが、もう一つ見えた。
居間から庭に漏れる|灯《あか》りである。
|千《ち》草《ぐさ》は|専《もっぱ》ら|早《はや》寝《ね》早起きを習慣としているが、今日はさすがに特別だった。|貫《かん》太《た》郎《ろう》はどういう事情なのか、|赴《ふ》任《にん》先《さき》から連絡を|寄《よ》越《こ》すことはまずないので、いざ帰ってくると夫婦ともにお祭り状態になる。開けっ放しの窓から、灯りとともに漏れ出てくる話し声の端が、楽しげに|弾《はず》んでいた。
(よくこんなに長く家を|空《あ》けて仲の良さが続くもんだ……いや、だから続くのかな?)
と|生《なま》意《い》気《き》かつ分かったようなことを思う。
(明日の朝、母さん、起きられないかもな)
自分は絶対に起きないと、シャナが締め出しを食らってしまう、
そうだ、念のためにこのベランダの大窓の|鍵《かき》を開けておこうか、
それなら|寝《ね》坊《ぼう》しても、いや、別にするための言い訳じゃなくて、
などと、すっかり当たり前となった、シャナとの毎日を|脳《のう》裏《り》に巡らす少年の前に、
(……ん?)
ひらり、と、
(これは)
風に混じるような、リボンが|一《いち》条《じょう》、
(たしか――)
それが突然、硬質な流れに乗って彼の両手首に巻き付いた。
「うあっ――っ!?」
悠二はベランダの手すりに体をぶつけられる乱暴さで、一気に屋根の上まで放り上げられた。まるで一本|釣《づ》りされた魚のように宙を舞う彼は、眼下に力の脈動を感じる。
その力が|弾《はじ》け、|坂《さか》井《い》家を丸ごと飲み込む、鮮やかな|桜《さくら》色の|炎《ほのお》が|湧《わ》き上がった。
爆発でも|炎《えん》上《じょう》でもない。内部をこの世の流れから断絶させ、外部から|隠《いん》蔽《ぺい》隔《かく》離《り》する、ドーム状の|因《いん》果《が》孤《こ》立《りつ》空間を作り出す|自《じ》在《ざい》法《ほう》――
(――『|封《ふう》絶《ぜつ》』!)
思う間に、ガン、と|容《よう》赦《しゃ》なく屋根の上に落とされる。
「ぐ、がはっ!?」
背中を硬い|瓦《かわら》にしたたか打ちつけて、|悠《ゆう》二《じ》は息を詰まらせた。|衝《しょう》撃《げき》に揺れ、|瞬《またた》く|視《し》界《かい》一面、|坂《さか》井《い》家の周囲に、|桜《さくら》色の|炎《ほのお》を混じらせた|陽炎《かげろう》の壁が形成されているのが見え――
「う――わっ!?」
悠二は知らずバランスを崩して、転げ落ちそうになった。|間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》、屋根に手を|這《は》わせてしがみつく。いかに彼が特殊な|宝《ほう》具《ぐ》を宿したミステス≠ナあるとはいえ、|身《しん》体《たい》能力は|常《じょう》人《じん》と変わらない。不用意に落下して首の骨でも折れば、それで終わりだった。
「はあっ、はあっ」
やや斜めに下を向く形でへばりついた悠二は、全身にどっと冷や汗をかいた。そんな目の向く下方、屋根も含む地面各所に、|奇《き》怪《かい》な|紋《もん》章《しょう》が、やはり|桜《さくら》色の|火《か》線《せん》によって描かれていた。
背後から、|冷《れい》徹《てつ》な、二人で一人の声が|響《ひび》く。
「この程度の存在が……現在『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を入れている」
「ミステス=v
悠二が体勢を気にしつつ振り向いた先、
屋根の|頂《いただき》に、|孤《こ》影《えい》ながら二人たるフレイムヘイズが立っていた。
|給《きゅう》仕《じ》服に身を包んだ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルである。
陽炎の壁を背負い|屹《きつ》立《りつ》する|女《じょ》傑《けつ》の姿はあまりに|幻《げん》想《そう》的で、悠二は自分の危機感や|戸《と》惑《まど》い、あるいは怒りや恐怖さえも忘れて数秒、見人らされていた。
もちろん、すぐに覚める。
「なっ、な」
言おうとするが、背中の|打《だ》撲《ぼく》による痛みと|緊《きん》張《ちょう》から、|上手《うま》く切り出せない。
「――ふん」
影の中、女性が|侮《ぶ》蔑《べつ》の|吐《と》息《いき》を漏らしたように見えた。
十人並みの気の強さしか持たない悠二も、この態度にはさすがに少年としての誇りを傷つけられる。痛みへの怒りとともに荒い声を張り上げた。
「いきなり、なにするんだよ!」
しかし、|棟《むね》に立つヴィルヘルミナが、ブーツの底を、ゴリ、と|削《けず》るように|僅《わず》か動かす、それだけで悠二は|絶《ぜっ》句《く》させられる。感情の|昂《たか》ぶりの|程《ほど》が、|桁《けた》で違う。それが分かる。
少年の戸惑いを無視して、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は声を掛け合う。
「|身《しん》体《たい》機能の強化すら、できないようでありますな」
「|無《ぶ》様《ざま》」
確認するような、平静な声、
ただし、そう聞こえるだけの、
|突《》つけば|灼《しゃく》熱《ねつ》の|溶《よう》岩《がん》が|溢《あふ》れ出す、
そうと分かる、平静な声、だった。
|悠《ゆう》二《じ》は今、|徒《ともがら》¢且閧ノ何度も抱かされた恐怖を、この女性から同様に得て、心底からの寒さに震えた。まさか今、感じるとは思ってもいなかったそれは、
死の、|消《しょう》滅《めつ》の、恐怖だった。
「……」
「……」
その二人は言ってから、なぜか黙り込む。屋根にへばりついているミステス≠フ少年を、直立の中、|僅《わず》かに首だけを前に傾けて見下ろす。
陰になったその顔に、より以上の恐怖が|凝《こご》ってゆくように、悠二には見えた。
彼にとってあまりに長い、しかし実際にはほんの数秒の|沈《ちん》黙《もく》を経て、二人は平然と告げた。
「|鍛《たん》錬《れん》であります」
「|特《とっ》訓《くん》」
「こ、このことをシャナ[#「シャナ」に傍点]は?」
不用意な少年の質問が、恐怖の凝りを一気に|塊《かたまり》へと変えた。
「――シャ、――ナ、――」
ヴィルヘルミナが、ゆっくりと、その|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》な音を、なぞる。
(だめだ)
なにはなくとも、その言葉が思い浮かんだ。|歴《れき》戦《せん》のフレイムヘイズほどではないにせよ、彼も|幾《いく》度《ど》か、生死の線上に踊った経験を持っている。それが、教える。
(彼女は、危険だ)
この|素人《しろうと》の|怯《おび》えと危機感は当然、伝わっているはずだった。
しかし、ヴィルヘルミナは、突然話題を変える。
「ご|存《ぞん》知《じ》でありますな、『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』を」
無論、知らないわけがない。
ともに恐るべき使い手として名を|馳《は》せた|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニ、その恋人であるミステス=B
|己《おのれ》の中にある『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』本来の持ち主にして、恐らくは製作者でもある二人。
三百年の|放《ほう》浪《ろう》の末、百年あまり前、|行方《ゆくえ》を|眩《くら》ましたという、|謎《なぞ》の存在。
そのことを、なぜ今。
嫌な予感がした。
(どういう、つもりだ……?)
恐怖の塊が眼前にある、その事実に、悠二は体を|強《こわ》張《ば》らせつつ答える。
「ちょっとした、|上《うわ》辺《べ》の情報なら」
「未だ|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》=A『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』にも話していないことでありますが――」
(なんだって……?)
彼女らの意図が、|掴《つか》めない。
しかし、嫌な予感がした。
「――二年ほど前、私は一人の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠追って、中央アジアに向かったのであります」
「|壊《かい》刃《じん》<Tブラク」
|悠《ゆう》二《じ》が初めて聞く名前だった。
「いずれの組織にも属さない、殺し屋……『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』のように、ただ殺す、それゆえに付けられたものとは違う、依頼を受けて|標《ひょう》的《てき》をしとめる、本来の意味における『殺し屋』であります」
「|難《なん》敵《てき》」
ティアマトーの短い声に、|僅《わず》かな|苦《く》渋《じゅう》が|滲《にじ》んだ。
「中央アジアのとある都市において、その|壊《かい》刃《じん》≠ニ|遭《そう》遇《ぐう》した私は敗北し――」
「――ぇ」
悠二が上げかける驚きの声を、
「|傾《けい》聴《ちょう》」
ティアマトーの声が制した。
ヴィルヘルミナは、悠二を|依《い》然《ぜん》見下ろして、話を継ぐ。
「――そして、救われたのであります」
興味から、嫌な予感を押して聞き入り始めた悠二は、
(救われた? 誰、に……、――まさか)
ようやく話の意味を理解した。
果たしてヴィルヘルミナは言う。
「|壊《かい》刃《じん》≠フ標的たる者たち、『|約束の二人《エンゲージリンク》』に」
「ど、どういぅ」
震える声による問いを|中《ちゅう》途《と》で切るように、答えが返ってくる。
「私は|壊《かい》刃《じん》≠追っていた。|壊《かい》刃《じん》≠ヘ『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』を追っていた。そして|壊《かい》刃《じん》≠ェ二人のために張っていた必殺の|罠《わな》に、私が掛かったのであります」
「それで……負け、た?」
ヴィルヘルミナは影を落とした顔を|無《む》頓《とん》着《ちゃく》に|頷《うなず》かせる。彼女にとって、自身の敗北は大した|恥《はじ》ではないらしい。|淡《たん》々《たん》と、しかしどこかでなにかを|膨《ふく》れ上がらせつつ、話を続ける。
「結果として|難《なん》を逃れた二人は、救い出した瀕死の私[#「救い出した瀕死の私」に傍点]と力を合わせ、|壊《かい》刃《じん》≠|退《しりぞ》けたのであります」
(……そんなことが、あるのか、|紅《ぐ》世《ぜ》の王%ッ士……|壊《かい》刃《じん》≠ニ『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』が戦って、それをフレイムヘイズのカルメルさんが助けて、助けられて、今度は三人で……?)
悠二は複雑|怪《かい》奇《き》な成り行きに、|眩暈《めまい》のする思いだった。
「以降、私は|執《しつ》拗《よう》に追跡をかけてくる|壊《かい》刃《じん》≠ゥら二人を守り、ともに世界を巡っていたのであります」
「……」
|悠《ゆう》二《じ》にとつて、真実は驚きの連続だった。
彼も|屍《しかばね》拾《ひろ》い<宴~ーという実例を知っている。 フレイムヘイズと|徒《ともがら》≠ヘ、 利害が一致した場合、必ずしも敵対するわけでない。そう、知っている、知っていて、それでもやはり、世界というものは一枚二枚、想像の上を行くものなのだ、と思わされる。
「しかし――数ヶ月前」
ヴィルヘルミナの影の中に、さらなる感情が|渦《うず》巻《ま》く。そこには|喜《き》怒《ど》哀《あい》楽《らく》、なにもかもがあって、しかし|唯《ただ》一つの色に集約されていた。
|痛《つう》恨《こん》、という色に。
悠二が、恐る恐る|訊《き》く。
当然のことを……ミステス≠スる自分が今ここにあることの、理由として。
「やら、れた……のか」
「|壊《かい》刃《じん》≠フ追跡を、我々は遂に|撒《ま》けなかった……そして、全てが、あの戦いで……|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》に、なったので、あります」
独白に近いフレイムヘイズの|呟《つぶや》きは、ややの間を置いて、続く。
「次に|奴《やつ》は、ごく短い期間|探《たん》耽《たん》 求《きゅう》 究《きゅう》<_ンタリオンと組んで動き回っていたようでありますが、知っての通り、この街には現れていないようで――」
「――待ってくれ」
「?」
悠二は、思わず口を挟んでいた。
さっきの話は、|肝《かん》心《じん》な部分が省略されていた。|怯《おび》えの中、神経を|尖《とが》らせて聞かされた話の締めくくりであるというのに、それではあんまりだ、と思った。
「その|壊《かい》刃《じん》≠チて奴に、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を持ったミステス≠ェ破壊されたんだよな? もう一人、王≠フ方は、どうなったんだ?」
不意な問いかけに、|鉄《てつ》面《めん》皮《ぴ》の|輪《りん》郭《かく》が|僅《わず》かに|強《こわ》張《ば》った。
「……道を|違《たが》えはしましたが……|存《ぞん》命《めい》であります」
「存……生きてる? でもさっき、|壊《かい》刃《じん》≠フ目的は果たされたような言い方をしてたよな?」
悠二はなぜか、ひどく焦っていた。全身に、恐怖と熱意を混ぜ合わせた、|不《ぶ》気《き》味《み》な|焦《しょう》燥《そう》感があった。まるで、今を逃せば永遠にその機会がなくなってしまうかのように[#「今を逃せば永遠にその機会がなくなってしまうかのように」に傍点]、頭に浮かんだ疑問を、片っ端から口にしてゆく。
「じゃあ、|標《ひょう》的《てき》は『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』のミステス≠フ方だったってことか? |宝《ほう》具《ぐ》が目的なら、なぜ僕に|転《てん》移《い》したりしたんだ? その|奪《だっ》取《しゅ》に失敗したってことなのか?」
自分の在り|様《よう》に関わる全てを知っているかもしれない相手を前に、|噛《か》み付くように迫る。不安定な屋根の上であることも忘れ、伏せていた身を起こして。
「その戦いで『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』は一体どうなって、僕の中に|転《てん》移《い》したんだ?」
|己《おのれ》の|核《かく》心《しん》たる答えを求める少年に、二人は答えない。貧弱で頼りなげな姿からの|異《い》様《よう》な|豹《ひょう》変《へん》ぶりに、|密《ひそ》かに|面《めん》食《く》らってさえいた。
(こいつは……?)
(|奇《き》怪《かい》)
|悠《ゆう》二《じ》は、勢い込んでいても|逆《ぎゃく》 上《じょう》はしていない。 それどころか、一方的に受けた通告の|端《はし》々《ばし》から手がかりを|掴《つか》んで、どんどん事態の中心へと近づいてくる。
そういえば、少女からやや自慢げに、この少年に対する評価を聞いていた。|危《き》難《なん》に際して頭が切れる、と。図らずも二人は、それを自分たちの行為で証明してしまっていたらしい。
しかし、それに感心はできない……否、するわけにはいかない。
(断じて)
(|即《そく》実行)
これからの行為に対する自分たちへの言い訳[#「これからの行為に対する自分たちへの言い訳」に傍点]をしていただけなのに、このミステス≠フ少年に|妙《みょう》な感じで食いつかれてしまったことに、|後《こう》悔《かい》を覚える。やはりこういうことは[#「こういうことは」に傍点]、妙な気を回さず、さっさとかかった方が良いものらしい。それに|納《なっ》得《とく》できていれば、そもそも|余《よ》計《けい》な話などしていないのだが、そこはあえて無視する。
「いったい『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』と|壊《かい》刃《じん》≠フ戦いで、なにがあったんだ?」
「不明であります」
ヴィルヘルミナは、急な|即《そく》答《とう》で|強《ごう》引《いん》に会話を断ち切った。
驚いた悠二は、惜しむようにすがるように継続を求める。
「えっ、でも、目の前で見てたんじゃ」
「そんなこと[#「そんなこと」に傍点]よりも、|刻《こく》限《げん》である零時が迫っているのであります。早々に|鍛《たん》錬《れん》を」
「開始」
もはや、二人に話を続ける気はなかった。
屋根に座り込んでいた悠二の右手首に、再びどこからか伸びた白いリボンが絡まる。
「待っ――」
抗議を口にする間もなく、再び宙に放り上げられた。
「――わあっ!?」
「より|確《かっ》固《こ》と自己を意識せよ!」
下方でヴィルヘルミナが|怒《ど》鳴《な》る。と同時に、手首に絡まっていたリボンが|解《ほど》けた。
「――わあああああ!」
数メートルの高さから、一気に硬い屋根へと落下する。指示された内容を|実《じっ》践《せん》するどころか、理解する|暇《ひま》もない。見る間に屋根が迫り、
「ぐっ、が!?」
ゴグッ、という重くて嫌な打撃音と共に、自分の体が跳ね上がるのを、次いで転がるのを感じて、|悠《ゆう》二《じ》は焦る。
「う、わああ!」
必死に爪をかけて屋根に踏みとどまろうとするが、跳ねた反動は思ったよりも強い。
(落ち――!!)
なかった。|辛《かろ》うじて。運良く、両腕ともに|瓦《かわら》の段に引っ掛けられたのである。落ちたときの|打《だ》撲《ぼく》は、むしろ|痺《しび》れていてあまり感じない。代わりに心臓が、|胸《きょう》郭《かく》を内側から破りそうなはどに踊っていた。
「む、ムチャしないでくれよ!」
心臓の|鼓《こ》動《どう》を耳にまで鳴らして、悠二は声を上げる。今こうして屋根の端に引っかかることができたのは、単なる運に過ぎなかった。恐らく、本当に落ちそうになったら、あのリボンで助けてくれるのだろうが――
(――っ!?)
悠二は不意に、|背《せ》筋《すじ》に|寒《さむ》気《け》が走って驚いた。
|物《もの》凄《すご》い勢いで、鼓動する胸の内を黒い恐怖が|浸《しん》食《しょく》してゆく。
(本当に、助けてくれるのか……?)
痛む両手の|爪《つま》先《さき》を|瓦《かわら》から|剥《は》がすと、その何本かに血の|湿《しめ》りを感じる。
|依《い》然《ぜん》同じ棒立ちの姿で|棟《むね》の上にある、|彫《ちょう》像《ぞう》のような女性を見上げる。
自分を見下ろす黒い影の中を、|封《ふう》絶《ぜつ》の外壁である|炎《ほのお》を混ぜた|陽炎《かげろう》が|時《とき》折《おり》、照らし出す。
|垣《かい》間《ま》見《み》える整った|容《よう》貌《ぼう》は、しかしあくまで無表情だった。
笑っていない。
怒ってもいない。
ただ、こっちを見下ろしている。
(――いや[#「いや」に傍点])
|不《ぶ》気《き》味《み》な確信が、来た。
「自己の|確《かっ》固《こ》たる意識が存在をより強く現し、全ての力の根本となる」
|教《きょう》本《ほん》を棒読みするかのような指示がある。
と同時に、見えた。
彼女のフリルつきエプロン、その後ろにある結び目あたりから、まるで|鞭《むち》が|奔《はし》るように、白いリボンが伸びた。柔らかに伸びる、その純白の|一《いち》条《じょう》は、|悠《ゆう》二《じ》の肩を横から打った。
「うぐあっ!」
柔らかに、見えただけだった。実際は|鋼《こう》鉄《てつ》の棒よりも硬く、かわせるような速さでもない。ひとたまりもなく宙を、真横に吹っ飛んでいた。二、三度転がって、大の字になることでなんとか止まる。
「はっ――、あっ」
息継ぎとも|喘《あえ》ぎともしれない声を漏らす彼に、|非《ひ》情《じょう》の声が降りかかった。
「できないのでありますか」
「|怠《たい》惰《だ》」
「そん、な――」
二人は返事を求めていない。今度は|寝《ね》転《ころ》がった腹に、恐らく上からの(どこから来たのか全然分からない)打撃をまともに受けた。
「――!」
もう悲鳴も出ない。
胃の内容物を吐き出しそうになって、思わずむせる。|咽喉《のど》の奥に|溢《あふ》れた嫌な味を、うつ伏せになることで|堪《こら》える。なんとか|膝《ひざ》を立てようとする、そこにあの感覚がある。
シャナと毎朝、|鍛《たん》錬《れん》していた存在の力≠フ高まり。
(――くそおっ!)
その現れである新たな|一《いち》撃《げき》が来て、
そして、もちろん、
避けることなどできない。
立てかけた足の|脛《すね》を鉄の棒のようなリボンで|殴《なぐ》り飛ばされ、顔から屋根に突っ込む。歯が、嫌な音を立てて|瓦《かわら》と|擦《こす》れ、また唇を切った。
(――あ、っ――)
|朦《もう》朧《ろう》とした意識の中で、それでも強く恐怖する。
危険だった。
間違いない。
殺そうとしている。
(――、――)
どうしようもない暴力が、|襲《おそ》ってくる。
|顎《あご》が震え、肩が震え、腹が震え、腰が震える。
痛みのような|痒《かゆ》みのような、恐怖の味が全身に染み渡る。
彼女は、殺すための言い訳[#「殺すための言い訳」に傍点]を終えようとしている。
その、死刑|宣《せん》告《こく》が、来る。
「この基礎ができていれば、全ての行為は人間を超える」
言葉自体には、なんの意味もなかった。
彼女の内に高まる力が、また自分に向けられる。
想像するまでもなく、なにが起こるか分かった。
(破壊され――殺さ――)
自分の中にある『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』は、|沈《ちん》黙《もく》している。
分かっていた。危機に際してなにか効果があるような宝具ではない。
それが、現実というものだった。
しかし、そんなこと、今はもう、
(――消え―― いや、だ――)
思ったところで、止められはしない。
屋根に|斃《たお》れ伏した、その頭上から、死の|先《せん》鞭《べん》が、一片の|容《よう》赦《しゃ》もなく|奔《はし》る。
(――っ)
死を迎える中、誰かの名前が、
両親か二人の少女か友人たちか、
|過《よ》ぎりかけて、
バガン、
「!!」
と|素《す》足《あし》が、
小さくて丸い指も見える、
柔らかそうなその素足が、
目の前の|瓦《かわら》を、死もろとも踏み砕いていた。
「っなにしてるのっっ!!」
裏返りかけた|怒《ど》声《せい》が、よく知っている少女の声が、|迸《ほとばし》った。
ズドン、
と鼻先を|削《けず》るような|寸《すん》前《ぜん》に、これも見慣れた|大《おお》太刀《だち》の|切《き》っ|先《さき》が振り落ちてきた。瓦を割った銀光の中に、|眩《まばゆ》い|紅《ぐ》蓮《れん》が映っている。
半秒遅れて、ハラリ、と|視《し》界《かい》の内に落ちてきたのは、自分に死と|消《しょう》滅《めつ》を与えようとしていた白いリボンだった。それは瓦に接触するや、|桜《さくら》色の|火《ひ》の|粉《こ》となって散り、消える。
ようやく、震えの残る|咽喉《のど》から、空気を声にして|搾《しぼ》り出す。
「――シャ、ナ」
半分閉じた目に、|聳《そび》える|黒《こく》衣《い》『|夜《よ》笠《がさ》』が、その上に|煌《きらめ》く|炎《えん》髪《ぱつ》と|灼《しゃく》眼《がん》が、見える。
いつ見ても思う。
こんなときでも、思った。
(――|綺麗《きれい》だ――)
|悠《ゆう》二《じ》の声に答えたのは、アラストールだった。
「ふん」
鼻で一息。
それだけだったが、確かな|安《あん》堵《ど》の一息だった。
シャナが答えなかったのは、怒りで全身を|戦慄《わなな》かせていたためである。
「何を、なさるのでありますか」
「|不《ふ》審《しん》」
抜け抜けと答えるヴィルヘルミナとティアマトーに、シャナはその戦慄きをまま、声に変えて差し向ける。
「もう一度、|訊《き》く……なにしてたの」
少女の怒りをもちろん、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』の二人は感じていた。
しかし、|動《どう》揺《よう》してはいなかった。
二人は|揃《そろ》って|高《たか》をくくっていた。
こんなこと[#「こんなこと」に傍点]は、今までに何度もあった。
平然としていれば、なんの問題もない。
養育係として、本気でそう思っていた。
「この者に、体術における存在の力≠フ|繰《く》りを|教《きょう》示《じ》していただけであります」
「|実《じっ》地《ち》演習」
ゆえに答えは、とぼける以上に開き直りに近かった。
「ヴィルヘルミナ……」
シャナはそんな二人の嫌な嫌なところを見て、|悠《ゆう》二《じ》に対する仕打ちへのものと同等、あるいはそれ以上に、悲しくなった。
「ヴィルヘルミナなんか……」
悲しくて、あまりに悲しくて、怒りが|湧《わ》き上がる。
「?」
「?」
|訝《いぶか》しむ二人に向けて、シャナは|怒《ど》鳴《な》った。
「ヴィルヘルミナなんか、|大《だい》嫌《きら》い!!」
その言葉のあまりな|衝《しょう》撃《げき》に、
「な――」
「え――」
|間《ま》抜《ぬ》けな声を上げた『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は、口を|僅《わず》かに開いた表情、やや右後方に傾いた姿勢で固まった。
そんな二人をシャナは完全に無視する。|大《おお》太刀《だち》を、|翻《ひるがえ》る|黒《こく》衣《い》の|裾《すそ》、なぜか下の方にゆっくりと収める。そうしてから、|傍《かたわ》らに転がっていた悠二を向き合う形で軽々と抱き上げた。|打《だ》撲《ぼく》で|膨《ふく》れた|頬《ほお》や血の|惨《にじ》む|爪《つま》先《さき》などに気が付いて、ギュッと唇を引き|絞《しぼ》る。
「痛っ――痛いよ、シャナ」
「我慢して。飛ぶ」
声の切りとともに|紅《ぐ》蓮《れん》の|双《そう》翼《よく》が爆発して、少年を抱いた少女は|封《ふう》絶《ぜつ》の外、|薄《うす》曇《ぐも》の夜空へと飛び去った。
――それから数分。
未だ張られた封絶の内に、
「んー? なにコレ、どーゆー状況?」
「いよー、久しぶりだなあ、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』! ……?」
封絶と戦闘の気配を感じて現れた、もう一人のフレイムヘイズが、まるで|自《じ》在《ざい》法《ほう》に|囚《とら》われた人間のように固まったままのヴィルヘルミナを発見した。
雲の|帳《とばり》を目指して、紅蓮の|翼《つばさ》が一直線に上昇する。
流れる血も固まるような、痛いほどに猛烈な風が、悠二を|叩《たた》いていた。
「シャナ……」
「なに?」
シャナの肩に|頬《ほお》を載せ、口中に血の味を感じながら言う。
「いい|匂《にお》いがする」
「なに、言って……こんなときに」
言ってから、小さく続ける。
「お|風呂《ふろ》、入ってたから」
「温かい、な」
|呟《つぶや》くと、|悠《ゆう》二《じ》はようやく恐怖の|強《こわ》張《ば》りを解き、全てを少女に預ける。
シャナは傷に|障《さわ》らない程度に、しかししっかりと強く、少年を抱き締める。
「……なに?」
悠二が呟いていた。
耳を澄まして、夜の風に混じる声を判別する。
「僕、全然、なにも……」
|途《と》切《ぎ》れ途切れに、声が漏れ出していた。
「んな、ことされたのに、せっかくあれだけ……すごく、弱いんだな、僕は――」
「当たり前でしょ、たった数ヶ月の|鍛《たん》錬《れん》だけでフレ――」
「シャナ」
アラストールが、声を切らせた。
「……?」
やがてシャナは、自分の肩に頬を押し付けた少年が、震えているのに気が付いた。
「くそ、――っ、なんで、こんな……弱いん、だ……」
「悠、二?」
「くそっ――くそ――、く、そぅ――、――」
「……」
声は次第に小さく|絞《しぼ》られてゆき、やがて必死に|堪《こら》える、|唸《うな》り声になった。
「ぅ――ぅぅ、ぅ」
肩に伏せた彼の顔から、|飛《ひ》翔《しょう》に取り残された涙の|雫《しずく》がポロポロと落ちていく。血の|滲《にじ》んだ指先が、少女の|黒《こく》衣《い》を強く|掴《つか》む。まるで力を、|渇《かつ》望《ぼう》するように。
「ぐ――、う、ううう、うう――」
シャナは、抱いた少年から|零《こぼ》れる涙に驚き、漏れる|鳴《お》咽《えつ》に|戸《と》惑《まど》う。
「……」
締め付けられるよりも強く、|貫《つらぬ》かれるよりも激しく、その胸に痛みを覚える。しかし、それを収める方法を、知っていた。教えてもらっていた。
「……いいよ」
この、少年に。
「いいよ、泣いても……だから」
今度は、自分がそうできることの、なんという喜びと、切なさ。
自分の前にあって震え、むせび泣く少年が、たまらなく|愛《いと》しい。
ともにあるのが当然のように、それで一つ形のように、少年を強く抱く。
「もっと強く」
いつかと同じ言葉を、少年の耳元で小さく|呟《つぶや》く。
いつか言葉が積もって、少年を大きく育てるようにと。
「もっと、強くなって」
|紅《ぐ》蓮《れん》の|双《そう》翼《よく》が、心に応えて大きく|吼《ほ》え、三人は雲上に出た。
小さな、三人にして二人の影を浮かび上がらせるそこは、月光|満《み》つ|雲《うん》海《かい》。
シャナは、自分と向き合うように抱えた少年に|訊《き》く。
「|悠《ゆう》二《じ》、寒くない?」
「うん……シャナの、方こそ」
少し落ち着いたのか、悠二はハッキリした声で答えた。今見せた自分の|無《ぶ》様《ざま》さが恥ずかしいらしく、顔を合わせようとしない。
「わ、私はいいの。フレイムヘイズなんだから」
シャナも、変な言い訳で適当に答えた。さっきの、いつもなら考えられないほどに突っ走った言動、その気分の高まりを強いて忘れようとする。
「便利なんだな」
悠二は少女の肩に|頬《ほお》を載せたまま、しばらく|煌《こう》々《こう》の広野を|感《かん》嘆《たん》とともに|眺《なが》めた。やがて、小さく、|遠《えん》慮《りょ》がちに言う。
「なん、というか……その」
「うん」
「ごめん、いろいろ」
「いい」
シャナは一言で、それ以上の謝罪を封じた。
「ふん」
その二人に挟まれた|格《かっ》好《こう》のアラストールが、鼻を鳴らした。今度は、今の二人とさっきの状況の双方に対する、|不《ふ》機《き》嫌《げん》な色で。
「いささか、読み違えたようだな。まさか|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》≠ニ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』が、あそこまで強攻策を採るとは」
「……|大《だい》嫌《きら》い、ヴィルヘルミナなんて」
シャナは|嫌《けん》悪《お》ではない悲しみの声を、もう一度繰り返した。
|悠《ゆう》二《じ》も安直な|追《つい》従《しょう》からの同意を避け、考える。
(あの二人の、あの行為は、シャナにくっついた……僕っていう悪い虫を追い払う、それだけだったんだろうか?)
どうも、そんなに単純なものとは思えなかった。柔らかくて安心できる、小さな肩の上で|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》き、自分が|叩《たた》きのめされる直前の会話を振り返る。
(そういえば、結局答えてくれなかったな、『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』の|顛《てん》末《まつ》……シャナやアラストールにも話してないって言ってたけど、やっぱり黙ってた方がいいんだろうか?)
自分を殺しかけた相手であっても、その真剣な気持ちを思うと、やはり。
(――『全てが、あの戦いで……|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》に、なったので、あります』――)
なにか意味があって、黙っているのかもしれない。誰のなんにとって有利になるのかが全く分からない話である。|迂《う》閥《かつ》に口にするのは|憚《はばか》られた。
(そうだな、あの人がシャナと仲直りしたら、改めて話を聞いてみよう)
「もう、こんな目に|遭《あ》わされるのは、ゴメンだし……」
「痛い?」
|気《き》遣《づか》うシャナに振り向こうとするが、お互いの顔が近すぎる。
シャナもそれに気付いたのか、ぷいと顔を反対側に|背《そむ》けた。
その|仕《し》草《ぐさ》があんまり|可愛《かわい》くて、悠二は痛みの中、思わず笑っていた。
「そりゃあ、ね……この|怪《け》我《が》、|零《れい》時《じ》に治るのかな」
「シャナ、|窮《きゅう》屈《くつ》だ」
アラストールが発言を求める|前《まえ》振《ふ》りとして、声をかける。
「うん」
シャナは答えて、軽く悠二を放り上げた。
「うわおっ!?」
空中でジタバタする悠二が何度か回ってから、シャナは笑って、しかしふわりと優しく受け止める。|横《よこ》抱《がか》え、いわゆるお|姫《ひめ》様|抱《だ》っこの形だった。男としては非常に|格《かっ》好《こう》悪いが、|彼《ひ》我《が》の力量を考えれば、妥当な形ではある。お互いの顔も適度に離れて話しやすい。
ただ、
「どうしたの、悠二」
今度は悠二が顔を背けていた。
「いや、その……はは、そ、そうだな、お|風呂《ふろ》、入ってたんだっけ」
あらぬ方向を見ている|頬《ほお》が、|冴《さ》えた月光の中、真っ赤になっている。
「え?」
シャナには、彼がなにを言っているのかよく分から――
「――あっ!」
分かった。
「み、見た、なに、なに見たのか言いなさいよ!」
|悠《ゆう》二《じ》に負けず、真っ赤になってお|姫《ひめ》様|抱《だ》っこのままギリギリと|器《き》用《よう》に体を締め上げる。
「いだだだだ! 見てない見てない見てない!」
|封《ふう》絶《ぜつ》発生の気配を感じて|急《きゅう》遽《きょ》 ――文字通りに―― 飛んで来た彼女は、コートのような|黒《こく》衣《い》、それ一枚きりしか着ていなかったのである。上に投げた拍子に、それに気付かれてしまったらしい。|厳《きび》しく問い詰める。
「じゃあなんでそっぽ向いたのよ!!」
「見てない見てないいだだだ、いやちょっとだけ足が、それ以外いだだだだ、死、死ぬ、実は胸元、上から、ちょっとだけだだだだ、死ぬって!?」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
別の理由、締め上げられることで真っ赤になる悠二の|様《さま》に、ようやく罰を与え終わったと判断したらしいアラストールが声をかける。
「もうよかろう、シャナ」
「うー」
まだ不足とばかり、シャナは|涙《なみだ》目《め》で|唸《うな》り、しかしとりあえず力を緩めた。なんとか|窮《きゅう》地《ち》を逃
れた|悠《ゆう》二《じ》も、ぜえぜえと荒い息を吐いてぐったりする。
そんな二人への|苦《く》笑《しょう》を混ぜつつ、アラストールは|瀕《ひん》死《し》の少年に、遅い回答を与えた。
「|怪《け》我《が》は、恐らく|零《れい》時《じ》になれば治ろう」
きつく|襟《えり》を合わせた|黒《こく》衣《い》の胸元、月光に照り映えるペンダントコキュートス≠ェ、強い|口《く》調《ちょう》で|釘《くぎ》を刺す。
「だが、それだけのことだ。一日の内に破壊されるか否かは、|偏《ひとえ》に|貴《き》様《さま》自身の力にかかっている。ゆめゆめ|油《ゆ》断《だん》するな。現状では、シャナに|要《い》らぬ手間をかけさせるばかりだからな」
シャナは、ぷいとそっぽを向いた先で小さく誓う。
「別に、守ったげるのは、いいけど」
「……ありがと」
苦笑と|息《いき》継《つ》ぎを混ぜて、悠二はできるだけ軽く聞こえるよう答える。その陰で|密《ひそ》かに、
(本当に、|情《なさ》けないな、僕は)
と思う。|厳《げん》然《ぜん》たる力の差への|諦《あきら》めや|拗《す》ねでは、もうない。ただ、ひたすらに、いつかは[#「いつかは」に傍点]、という|悔《くや》しさと|渇《かつ》望《ぼう》を、胸中で燃やす。痛いほどに、苦しいほどに。
と、そのとき、彼のポケットの中でアラームが鳴った。
「零時だ……よく壊れなかったな」
常なら|鍛《たん》錬《れん》の終わりを告げるその音は今日、|雲《うん》海《かい》の|浮《ふ》遊《ゆう》を終える合図となる。
(こういう夜を、僕は何度、越えられるんだろう)
思う彼の身の内に、|唐《とう》突《とつ》に力が|溢《あふ》れた。
「来た」
「……どう?」
「うん」
心配げなシャナに、悠二はことさら強く|頷《うなず》いて見せる。
|頼《ほう》、指先、背中……アラストールの言ったとおり、ヴィルヘルミナにボロボロにされた体は、すっかり回復していた。ほとんど初めて、自分の|蔵《ぞう》する宝具の|有《あり》難《がた》味《み》を実感する。
「治った」
「当然だ」
アラストールが短く返した。
シャナも少しだけ笑って、これからの話をする。
「明日からはもう、好きにさせないから。ヴィルヘルミナたちが反省する[#「反省する」に傍点]まで、付きっ切りで守ったげる」
保護者の一人に対して偉そうに物を言う、その得意げなシャナに同意しようとして、悠二はハタと気付いた。
(……明日から?)
「どうしたの?」
「なんだ」
二人に|訊《き》かれて、|悠《ゆう》二《じ》は高空の中に|脂《あぶら》汗《あせ》をかく。
「い、いや、その……」
悠二の回復に満足げなシャナは、笑って答える。
「なに?」
「怒らないで、聞いて欲しいん、だけど」
「うん」
「……明日、僕は、|吉《よし》田《だ》さんとファンシーパークに、その、出かけるらしい、ですよ……?」
悠二は、なぜか笑顔のままのシャナに、|仁《に》王《おう》の|憤《ふん》怒《ぬ》する|様《さま》を|連《れん》想《そう》した。
「ふうん、そう」
あくまで笑顔のまま、シャナは抱えていた悠二を、落とした。
「ッ――――――――――――――………………………………
判別つかない言い訳を残しながら、悠二は雲の底へと落ちていった。
一人の少年がまっ逆さまに|御《み》崎《さき》市の地表へと|特《とっ》攻《こう》している頃、
吉田家の台所では、エプロン姿の吉田|一《かず》美《み》が、明日のための準備を|余《よ》念《ねん》なく行っていた。
|鼻《はな》歌《うた》を歌いながら、片付けと準備、双方を|手《て》際《ぎわ》よくこなす。彼女の後ろ、テーブルの上には、材料や|浸《つ》け置きの容器などが|所《ところ》狭《せま》しと並べられている。
その台所のドアを開けて、
「あれ、姉ちゃん。夏休みだってのに、また弁当?」
パジャマを着た中学生くらいの少年が入ってきた。
吉田と顔立ちは似ているが、目は少々|釣《つ》り上がり気味で、|仕《し》草《ぐさ》も素早い。
さっそくその素早さで伸ばされる手を吉田は|叩《たた》いて、
「|健《けん》! それは|摘《つま》んじゃ|駄《だ》目《め》」
お姉さんらしく、上から|睨《にら》むように弟・健を|叱《しか》りつける。実際は背丈も近いので、あくまでように[#「ように」に傍点]、としかならないのだが。
「ケチケチすんなよー、こんだけあんだからいいじゃん」
健はブー垂れつつも、もう一切れ、浸け置きの肉をヒョイと|掻《か》っ|攫《さら》う。鈍い姉の|美味《おい》しい|献《こん》立《たて》を勝手に味見する[#「勝手に味見する」に傍点]のは、いつものことだった。
吉田も、|呆《あき》れながら、そのふてぶてしい摘み食いを|咎《とが》めない。|生《なま》意《い》気《き》てはしっこい弟にしてやられてしまうのは、いつものことだった。
「もう……一個ずつだからね」
「はーいはい。にしても、『写真の兄ちゃん』も大変だ。毎度これじゃ太っちゃうよなー。男は胸に|贅《えい》肉《にく》いかないんだからさ」
|吉《よし》田《だ》が真っ赤になって|叱《しか》る。
「|健《けん》!」
「おやすみー!」
|懲《こ》りずに最後の一切れを|摘《つま》むと、健は逃げていった。
ちなみに『写真の兄ちゃん』とは、言うまでもなく|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》のことである。一度、部屋に辞書を借りに来た際、写真立てに入れていた彼の写真を見られてしまったのである。それ以来、吉田は弟から写真、写真とからかわれている。
もっとも、健は悠二のことを『姉の|彼《かれ》氏《し》』と|見《み》做《な》し、からかっているので、吉田の方も密かにそれを許す、以上に楽しんでさえいたのだが。
恋する少女は、『写真の彼』と過ごす明日に期待し、また|鼻《はな》歌《うた》とともに台所を跳ねる。
「明日……晴れるといいな」
とある少年が高空からの|落《らく》着《ちゃく》寸《すん》前《ぜん》に受け止められ、軽い|鞭《むち》打《う》ちにかかった頃、
|御《み》崎《さき》市《し》東部、|旧《きゅう》住宅地の一角にある|佐《さ》藤《とう》家の|豪《ごう》邸《てい》は、急な来客を迎えていた。
「マージョリーさん、あの人いったい誰……どちらさんですか?」
長い板張りの廊下を行く佐藤|啓《けい》作《さく》が、前を歩く長身の女性に|訊《き》いた。
|簡《かん》素《そ》なシャツ・ドレスを|翻《ひるがえ》して行く、その|妙《みょう》齢《れい》の美女は、フレイムヘイズ|屈《くっ》指《し》の殺し屋として知られる『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーである。
「フレイムヘイズよ。言ったでしょ、|後《あと》始《し》末《まつ》の人員を呼んだって」
|伊達《だて》眼鏡《めがね》と|栗《くり》色の長髪を特徴とする|麗《れい》容《よう》が、しかし|無《ぶ》愛《あい》想《そう》に答えた。彼女は現在、|大《だい》邸《てい》宅《たく》の多い|旧《きゅう》住宅地でも特に|立《りっ》派《ぱ》な構えを持つ、この佐藤家に|居《い》 候《そうろう》している。
佐藤は、いわば家主|筋《すじ》にあたるが、同時に彼女の子分を|自《じ》認《にん》してもいる。親分に対する|慇《いん》懃《ぎん》な口調で、
「へえ、あの人も……でも、なんでいきなりコレ[#「コレ」に傍点]なんです?」
と自分が抱えているものを見て言った。
氷を|満《まん》載《さい》した、小さなバケツほどもあるアイスペール。マージョリーが片手に持つつまみを山盛りにした大皿ともども、佐藤家の|厨《ちゅう》房《ぼう》から持ち出したものである。
佐藤家に招かれたその女性は、|幾《いく》つもある応接室ではなく、いきなり室内バーの方に通されたのだった。
「再会の|乾《かん》杯《ぱい》、って言うには、なんか、あの人……」
お祭り騒ぎの大好きな佐藤は、人のテンションに|敏《びん》感《かん》である。
さっき|佐《さ》藤《とう》家の玄関で出くわした、その女性の第一|印《いん》象《しょう》は、妙に|無《ぶ》愛《あい》想《そう》な人、だった。
ただそれは、マージョリーのように、持てる力の|余《よ》裕《ゆう》から人を突っぱねる|傲《ごう》慢《まん》さ(佐藤は少年として、こういう|格《かっ》好《こう》よいところに憧れる)とは違う……|抜《ぬ》け|殻《がら》になったため他人への応対もロクにできないという、ひどい|落《らく》胆《たん》の姿だった。
(まあ、いきなり玄関にメイドさんが現れたりするもんだから、こっちもリアクションに困ったんだけどさー)
なにか|冗《じょう》談《だん》でも言って場を|和《なご》ませるべきだったかな、と彼がトンチキな|後《こう》悔《かい》をする間に、室内バーに着いた。
マージョリーは、そのドアを軽く開けると振り向き、|空《あ》いた方の手を差し出す。
「ほら」
示すところはアイスペールの|譲《じょう》渡《と》だった。
「え、あれ?」
当然のように|酒《しゅ》宴《えん》に混じることができると思っていた佐藤は驚いた。
マージョリーはふざけるでもなく、事実を告げる風に言う。
「こっからは、お子様お断り。酒場ってのは、|溜《た》め込むものを持った|大人《おとな》だけの天国なの」
「つーか、腹のモノぶち|撒《ま》ける|地《じ》獄《ごく》だ、ヒャッヒャッヒャ!」
彼女の右肩から掛け|紐《ひも》でぶら下がるドでかい本が、|軽《けい》薄《はく》な声で笑った。|神《じん》器《ぎ》グリモア≠ノ意志を|表《ひょう》出《しゅつ》させる|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』に|異《い》能《のう》の力を与える|蹂《じゅう》躙《りん》の|爪《そう》牙《が》<}ルコシアスである。
|請《こ》われて|宿《やど》借《か》る|居《い》 候《そうろう》のマージョリーは、全く|遠《えん》慮《りょ》をしない。 |露《ろ》骨《こつ》に子供扱いされて不満げな少年から、ひょいとアイスペールを取り上げた。
「いーから今日はもう寝なさい。明日の朝、ミステス≠フ坊やの家に『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』がこっちにいるって連絡するの、忘れないでね」
佐藤|啓《けい》作《さく》は|悠《ゆう》二《じ》のクラスメイトで、日常の面では特に親しい友人、非日常の面では互いにフレイムヘイズと関わっている者|同《どう》士《し》である。ヴィルヘルミナと|繋《つな》がりの深いシャナの方に直接連絡しないのは、彼が|平《ひら》井《い》家の電話番号を知らなかったためだった。
「はい……」
がっかりする少年を見かねて、|情《じょう》に厚い|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ言い聞かせる。
「しょげるなよ、ケーサク。俺たちゃなにも偉ぶってるわけじゃねえんだ。ただ、大人ってなぁ、飲んでるところを見られたくねえのさ、ヒヒ」
「私は違うわよ」
「おめーは別の意味で見せられねブッ!?」
マージョリーがアイスペールを持った腕の|肘《ひじ》で、|器《き》用《よう》にグリモア≠|小《こ》突《づ》いた。その動作のついでにクルリと回れ右して、佐藤に背を向ける。
「んーじゃ、おやすみ」
「安き眠りを、ケーサク」
「……っ、あ」
|佐《さ》藤《とう》が返事する前に、マージョリーは扉の中に滑り込んでいた。|悄《しょう》然《ぜん》と立ち去る少年の気配を背に、こっちも|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》く。
「はあ……」
「ヒーツヒヒヒヒヒ、まったく、あっちもこっちも応対に忙しいこったな、我が|懇《こん》切《せつ》なる世話人、マージョリー・ドー?」
「ホント。最近、こーゆーことばっかやってる気がするわ」
|相《あい》棒《ぼう》の同情に|苦《く》笑《しょう》で答え、両手の荷物も軽々と、もう一人[#「もう一人」に傍点]の方に向かう。
(ま、私が呼びよせた責任ってのもあるしね……)
早くも自分の決断を|後《こう》悔《かい》する彼女だった。
佐藤家にある室内バーは、 広い部屋の一角に本式のカウンターと|酒 棚《バック・バー》を備える、|豪《ごう》華《か》なものである。後になって改築したためか、室内に|水《みず》場《ば》こそないが、グラスにバー・ツールに冷蔵庫|等《など》、飲む分だけなら、足りないものはバーテンダーだけという状態だった。
ランタン型の淡い照明の下、そのバーテンダーのいないカウンターに|突《つ》っ|伏《ぷ》すような姿勢で、一人の女性が酒を飲んでいた。
|見《み》間《ま》違《ちが》えようもない|給《きゅう》仕《じ》服。
フレイムヘイズ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルである。
突っ伏す肩の線に力もない、典型的な|自棄酒《やけざけ》の姿である。
(|駄《だ》目《め》だ、こりゃ)
マージョリーは自分の役回りへの抗議として、再び溜息を吐いた。そうして、今日はいつものカウンター席ではなく、足りないバーテンダーの位置、カウンターの中に入る。
「ほら、つまみ持ってきたわよ」
「……」
返事もなく突っ伏す女性の|傍《かたわ》らに、アイスペールとつまみの大皿、ついでのようにグリモア≠熏レせる。そこから、互いにしか通じない声で文句が来た。
(我が|非《ひ》情《じょう》なる|相《あい》棒《ぼう》、マージョリー・ドー、下に|隠《かく》してくれねえのか)
(あんただけ逃げようったってそうはいかないわよ)
フレイムヘイズ|屈《くっ》指《し》の殺し屋にも、恐い情景というものがある。
目の前の、ワインの|空《あ》き|瓶《びん》なども、その一つだった。|辛《から》口《くち》のサペラヴィばかり、しかもコルクを抜かず、ビンの首を|鋭《えい》利《り》に切り落としてある。三本あって、その全てが|空《から》だった。
カウンターに伸びた手の先、|脚《あし》を持つのでなく|掌《てのひら》で包んでしまっているワイングラスに、傾いた赤い水面が|透《す》けて見える。
マージョリーは頭をガシガシ|掻《か》いて、その前に|頬《ほお》杖《づえ》を着いた。広がった髪の内に伏せられた同業者の顔を|覗《のぞ》き込んで、いきなり言う。
「話しなさいよ」
「……」
返事は、やはりない。
しかし構わず、マージョリーは続ける。
「さすがの私も、子持ちの気持ちは分かんないわよ。自分から言ってくれないと。|愚《ぐ》痴《ち》、言いに来たんでしょ」
「……」
来ない答えを数秒待ってから、マルコシアスが言う。
「子持ちの相談にゃ山ほど乗ってきただろ?」
「まーね。それにしたって、ダンマリ決め込まれたら、顔覗くしかやることないじゃない」
「……た、で……す」
マージョリーの言った|語《ご》尾《び》に|紛《まぎ》らすように、伏せた下から、|僅《わず》かに声が|零《こぼ》れた。
二人は黙って、次の声を待つ。
ヴィルヘルミナの両 |掌《てのひら》が力を失って、ワイングラスが下にずれた。 僅かに身を起こして、揺れる赤い、|紅《あか》い水面を、見つめる。
「……|醜《みにく》い、私は、すごく……勝手で……」
酔うと|蒼《そう》白《はく》になる|質《たち》であるその|容《よう》貌《ぼう》は、いっそ|凄《せい》艶《えん》でさえあった。
「分かっ、てる……だからこそ、なのに……分かって、欲しいのに……」
マルコシアスは、グダグダで|要《よう》領《りょう》を得ない『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ではなく、彼女と契約する|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ノ訊く。
「よお、|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》=Aなんのことか説明……は、無理か」
言う途中で|諦《あきら》めた。
|端《たん》的《てき》な単語でしか話さないティアマトーは、 その意志を|表《ひょう》 出《しゅつ》させるヘッドドレスをピクリとも動かさず、それでも短く一言だけ答える。
「|反《はん》抗《こう》面《めん》罵《ば》」
「|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|嬢《じょう》ちゃんに、ひでえこと言われたってか?」
「|一《いち》大《だい》衝《しょう》撃《げき》」
「ふうん、あのチビジャリが、ね」
マージョリーは、|干《かん》戈《か》を交えたことさえあるフレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』、その在り|様《さま》を|脳《のう》裏《り》に思い浮かべる。 |故《ゆえ》なく反抗するとも思えない……いっそ|嫌《いや》味《み》なまでに、 使命を|生《き》真《ま》面《じ》目《め》に|捉《とら》え、また果たす少女だった。
(可能性があるとすれば……)
自分が呼んだ理由しかない、と呆れる[#「呆れる」に傍点]。
「ったく、到着したのは昨日でしょ? あれほどデリケートな問題はないってのに、もう手ぇ付けて……というより」
「手ぇ出したな? ははぁ、そーりゃ嬢ちゃんもお力ンムリになるわけだ」
同じ推測をしたマルコシアスが、同じく|呆《あき》れの声で受けた。
「――!」
バシ、とワイングラスにヒビが走る。
血の|滲《にじ》むように、握る指の|隙《すき》間《ま》からワインが染み出してゆく。
そんな|図《ず》星《ぼし》の姿にマージョリーは|頬《ほお》杖《づえ》を止め、|傍《かたわ》らの|布《ふ》巾《きん》を取ってやる。
「あんたたち、やっぱ育ての親と子供だわ。|単《たん》刀《とう》 直《ちょく》 入《にゅう》すぎるトコなんかそっくり」
「……そっく、り」
布巾を受け取ったヴィルヘルミナは|微笑《ほほえ》みの気配を浮かべ、しかしすぐにそれを崩した。前に立つ女性に見られまいと、|掌《てのひら》で顔を|隠《かく》す。
「……でも、|大《だい》嫌《きら》い……大嫌い、と……どうしよう……」
あのときのショックを思い出して、肩が震え始めた。
そんな、フレイムヘイズの|体《たい》面《めん》を保とうとする|哀《あわ》れな姿に、マージョリーは簡単に言う。
「とりあえず、その|鉄《てつ》面《めん》皮《ぴ》を外して泣いてみたら?」
「……え……」
「いいもんよ? たまにはこうでなければ[#「こうでなければ」に傍点]って仮面|外《はず》してみるってのも」
言いつつ、自分用に後ろの|酒 棚《バック・バー》から一本、適当にウイスキーの|瓶《びん》を取る。
「フレイムヘイズってのは、その気と力があればゴリ押しで突き進めるから、多少の悩みとか苦しみなんて無視できるでしょ? なくなったわけじゃないのに、中身は人間そのままだってのに、そいつらはどんどん奥底で|溜《た》まって、|凝《こ》り固まってく」
彼女は、永き|流《る》浪《ろう》の中で何度か訪れた、 |切《せっ》迫《ぱく》感と|殺《さつ》戮《りく》 衝《しょう》動《どう》の|塊《かたまり》となった時期に、心に、思いを|馳《は》せる。その症状が最も重かったのは、ごく最近で……
「ふん」
ついでに|蘇《よみがえ》った|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》な|記《き》憶《おく》を、|鼻《はな》息《いき》で消し去る。そのついでとして瓶の首を、|掴《つか》んだ片手の親指、その|捻《ひね》りだけで吹き飛ばした。
「とにかく、そーゆーのをたまには吐き出さなきゃやってらんない、ってこと。スッキリしたら、いい考えも浮かぶでしょ」
「ヒーッヒヒヒ、グダグダ悩んだ|挙《あげ》句《く》、死にかけるような戦いをして、やーっと気付けた|教《きょう》訓《くん》か、我が|神《しん》妙《みょう》なる哲学者、マージョリー・ドブッ!?」
|相《あい》棒《ぼう》を、グリモア≠ノ|平《ひら》手《て》を|一《いち》撃《げき》することで黙らせた。
言われたヴィルヘルミナは、思う。
(いい、考え……)
「アンタ、チビジャリと外面だけ[#「外面だけ」に傍点]はそっくりだからね……まだワインはいる?」
「いえ……」
言葉に|僅《わず》かな|嬉《うれ》しさを得、答えは|即《そく》座《ざ》に出している。
(そんなもの、あるわけがない……)
|頑《がん》固《こ》に、あくまで頑固に、決めている。
(ないから、やるしかない……)
|貰《もら》った|布《ふ》巾《きん》で、ワインに|濡《ぬ》れた手を|拭《ふ》き始めた。
(嫌われても、私は、あくまで、やる……)
ゆっくりと|掌《てのひら》を、指を拭いていく、その上に、ポツリと|雫《しずく》が落ちる。
(私たちのフレイムヘイズを……守る、ために……)
それでも構わず彼女は、手を拭き続ける。
「……――」
雫がさらに一|粒《つぶ》、二粒と落ちてきたので、布巾を顔に当てた。|隠《かく》すように、その雫の元、両の瞳に当てる。自分の|愚《おろ》かしさが、少女に与えるだろう悲しさが、嫌われるだろう|辛《つら》さが、とうとう限界を超えて|襲《おそ》ってきた。
「――う……う」
彼女は、子供のようにクシャクシャになる顔を|布《ふ》巾《きん》で|隠《かく》し、自分にできる|精《せい》一《いっ》杯《ぱい》の|嗚《お》咽《えつ》を漏らし始めた。
「う……ふう、うう〜〜……」
マージョリーは首を|捻《ね》じ切った|瓶《びん》を小さく掲げ、
「ほいじゃま、こっちも|乾《かん》杯《ぱい》。|他人事《ひとごと》に」
「美女の涙と少女の怒りに、だろ」
ガブリと乱暴にウイスキーを|呷《あお》る。
薄く淡い照明の下、ヴィルヘルミナは身を震わせて泣き続けた。
[#改ページ]
4 |抗《あらが》う子供たち
|悠《ゆう》二《じ》とシャナが|封《ふう》絶《ぜつ》の解けた|坂《さか》井《い》家におっかなびっくり戻り、夜通しの|警《けい》戒《かい》を経て迎えた|翌《よく》朝《あさ》は、|冗《じょう》談《だん》のような快晴だった。
その強い陽の光が差し込む|自《じ》屋《しつ》で、
「坂井|悠《ゆう》二《じ》。|貴《き》様《さま》にこのようなことを語るのは、いささか以上に|癪《しゃく》だが――」
悠二は|微《び》妙《みょう》な|緊《きん》張《ちょう》の元、アラストールと話していた。早朝|鍛《たん》錬《れん》後の、ボロボロヨレヨレのジャージ姿である。
悠二の部屋に泊まったシャナ(当然、悠二はベッドを彼女に|譲《ゆず》り、自身は床で毛布に|包《くる》まって寝た)は、いつもの時間に玄関へと回って|千《ち》草《ぐさ》に|挨《あい》拶《さつ》し、庭で悠二を|厳《きび》しくしごき、今はその後の入浴中である。
「――ヴィルヘルミナ・カルメルを許してやれ」
「えっ?」
床に正座する自分(なんとなくそういう姿勢になってしまう)の前、ベッドの上に置かれたペンダントコキュートス≠ゥらの|意《い》外《がい》な声に、|悠《ゆう》二《じ》は少し驚いた。
「あれは、全てにおいて|情《じょう》の深い女なのだ」
と言われても、悠二はピンと来ない。
「情の、深い? そうは見えないけど」
冷静|沈《ちん》着《ちゃく》にして|冷《れい》酷《こく》非《ひ》情《じょう》、フレイムヘイズの使命に従って自分を|始《し》末《まつ》しょうとしたことといい、シャナを育てた|師《し》匠《しょう》の一人という想像通りの人物にしか見えない。
「見えにくいだけだ」
アラストールは、そんな少年の浅い見識と|鑑《かん》定《てい》眼《がん》を|叱《しか》った。この少年には、もっと深くなってもらわねば困る。
「実際に取る行動が、使命と重なっているがために起きる|錯《さっ》覚《かく》に過ぎん」
「錯覚……だとしても、フレイムヘイズは普通、|復《ふく》讐《しゅう》者なんだろう?」
どこが違うのか分からない、という抜けた顔に、
(全く、なぜにこのような|奴《やつ》を……いや、こ奴が普段から切れ者としての|面《つら》を表していれば、なんの問題もないのだ)
と|心《しん》中《ちゅう》、シャナにではなく、あくまで悠二に責任を|被《かぶ》せつつ、|辛《しん》抱《ぼう》強く説明する。
「フレイムヘイズにも、さまざまな人間がいるのだ。ヴィルヘルミナ・カルメルは、使命を果たすことを、自身の激しい感情によって誓っている。だが、その理由が、他とは異なるのだ」
「情が深くて、使命の理由が違う……? 自分の|復《ふく》讐《しゅう》じゃないとしたら……他の人のため、ってこと、なのか?」
今度は満足のいく回答だったが、もちろんそれを|声《こわ》色《いろ》には出さない。
「そうだ。あれは、|己《おのれ》の怒りという単純で容易な|衝《しょう》動《どう》からではなく、他者との交わり、|繋《つな》がりの中で使命の|遂《すい》行《こう》を誓い、抱いた心を守り続けようとしている[#「守り続けようとしている」に傍点]のだ」
「そう、か」
言われて、悠二は、なんとなく|納《なっ》得《とく》できたような気がした。
あの、文字通りの|死《し》地《ち》だった|封《ふう》絶《ぜつ》の中で、自分を殺そうとしていたヴィルヘルミナ・カルメル。彼女の顔に落ちた陰の内に|滾《たぎ》っていたもの、その中から語られた言葉、全てが他者への想いだった。シャナ、アラストール、『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』……まだ、他にいるかもしれない。彼女が心を捧げて誓った、誰かが。
「ゆえに、あれは容易には曲がらぬ」
アラストールの言葉に、悠二は自然に|頷《うなず》いていた。
「我は|志《こころざし》で、あれは情で、シャナを育ててきた。『完全なるフレイムヘイズ』は、あれにとって他者への誓いの姿、そのものなのだ」
「それを……変えられたと思ったのかな」
考えて、ふと|訊《き》いてみる。
「シャナは、あの人のそんなところを、知ってるのか?」
「いや、明確に理解はしていまい。我も、進んで教えるつもりはない。どちらにも……|辛《つら》かろうからな」
「いいのかな、それで」
アラストールはしばらく黙って、答えを|搾《しぼ》り出した。
「それを告げたところで、|納《なっ》得《とく》できる|質《たち》のものでもあるまい。互いに、こうして暮らす内に気付いて、許してゆければよいのだが」
「シャナはともかく、カルメルさんは、そんなに|悠《ゆう》長《ちょう》な人かな」
実際に|襲《おそ》われたばかりの|悠《ゆう》二《じ》が抱く当然の|危《き》惧《ぐ》に、しかしアラストールは保証も回答も与えず、ただ現状を解説するに留める。
「さてな。今度はいささか、|己《おのれ》が育てたという|自《じ》負《ふ》も過ぎたようだが……次にどう出るかまでは|量《はか》りようもない」
「自分が大切に育ててきたシャナに反発されたってのは……ショックだったろうな」
その同情する風な声を、アラストールは|意《い》外《がい》に思った。
「怒っては、おらぬのか?」
「許してやれ、って言ったのはアラストールの方だろ」
悠二は、その質問こそ意外と答える。
「そりゃ、殺されそうになったんだから、恐いには決まってるよ。けど、今ここから生き延びるためには、僕が彼女のことを理解して、彼女にも僕を理解してもらう、それしかないと思うんだ」
「……ふむ」
フレイムヘイズに近い、現実主義者としての考え方が板についてきた、そのことに|密《ひそ》かに満足するアラストールである。
「どう言えばいいのかな……カルメルさんは、僕に向き合って|詰《なじ》ってたときも、僕を消そうと力を振るってたときも、すごく|辛《つら》そうに見えたんだ。シャナにどれだけの望みをかけてたか、聞いてるだけでも痛いくらいに分かってさ」
悠二は|一《いっ》旦《たん》言葉を切り、少女のための怒り[#「少女のための怒り」に傍点]を口にする。
「でも、納得もいかなかった。それはあの人の|都《つ》合《ごう》であって、シャナの生き方は、シャナ自身が決めるべきだと思う。シャナが怒ったのは、あの人がそれを、力で押し付けようとしたってところもあるんじゃないかな」
(ふむ、いいだろう)
アラストールは絶対に口にはしない合格点を|心《しん》中《ちゅう》で出した。代わりに、
「シャナも、そう思っていよう」
などと他人にかこつけて同意する。
|悠《ゆう》二《じ》はそれを分かってか分からずか、困った半分、|嬉《うれ》しさ半分に笑った。
と、そこに、階下からシャナが声をかけた。
「悠二――、お|風呂《ふろ》空《あ》いたよ――?」
「うん、すぐ降りるよ――!」
腰を上げて答える悠二に、アラストールは話を終える意味も込めて念を押す。
「シャナにはいうな」
「分かってる。でも……」
「?」
悠二はベッドからコキュートス≠取ると、それを目の前にやって口を|尖《とが》らせた。
「なんだかずるくない? 僕にばっかり、シャナのそういうこと[#「そういうこと」に傍点]に当たらせてさ」
「ふん、言うようになったものだ。なにもかも|貴《き》様《さま》の|播《ま》いた|種《たね》、シャナを困らせ|心《こころ》乱《みだ》させている|張《ちょう》本《ほん》人《にん》なのだから、全ては|自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》というものだ」
責められて、しかし悠二は笑った。
アラストールの声が、|隠《かく》しようもなく笑っていたからである。
それから数時間後、悠二は|佐《さ》藤《とう》からの電話を|安《あん》堵《ど》とともに受け取っていた。
彼は|今朝《けさ》から、|微《び》妙《みょう》にイチャイチャしている|貫《かん》太《た》郎《ろう》と|千《ち》草《ぐさ》、微妙にイライラしているシャナに囲まれて、非常に|居《い》心《ごこ》地《ち》が悪い居間に座らされていた。せっかく父が帰っているのだから、と部屋にも帰れない空気の中、ひたすら耐えていたのである。
早く|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》と出かける時間よ来い、でもそのときシャナがどんな反応を見せるか、そもそも自分はカルメルさんに命を狙われている、なのにこういう|呑気《のんき》な|真似《まね》をしていていいのか、とはいえ昨日は断れる状況じゃなかった、カルメルさんがその内なに食わぬ顔で現れるかも、などなど、|思《し》考《こう》の|堂《どう》々《どう》巡《めぐ》りに逃げ道を作って、朝から見るでもないテレビを|呆《ぼう》然《ぜん》と見ていた。
そこにかかってきた佐藤からの電話を、悠二は文字通り一息|吐《つ》くように受け取って、しかしすぐ切ってしまった。向こうから伝えられる用件が、大したものではなかったからである。まさか長電話してくれとも言えない。|体《てい》裁《さい》を気にした|躊《ちゅう》躇《ちょ》の間に、あっさり電話は切れらた。
悠二が居間に帰ってくると、読んでいた分厚い本から顔を上げたシャナが、
「なに?」
と|訊《き》いてきた。佐藤からの電話というのは|滅《めっ》多《た》にない。 とすれば、まずその家に|居《い》 候《そうろう》しているフレイムヘイズ、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーの関係する話に決まっていた。
さっきから食卓の上に開いた本(漏れ聞いたところでは、家のリフォームとかなんとか)の内容を説明している千草、静かな|相《あい》槌《づち》を打つ貫太郎らにも|配《はい》慮《りょ》した形で答える。
「やっぱり、マージョリーさんとこ[#「マージョリーさんとこ」に傍点]に泊まってたよ。夜遅くまで飲んでたらしくて、今は酔い|潰《つぶ》れて寝てるってさ」
「そう」
シャナはほっとした|様《よう》子《す》で、|貫《かん》太《た》郎《ろう》の|書《しょ》斎《さい》から持ち出したものらしい本を閉じた。さっきから|頁《ページ》が進んでいなかったことを|悠《ゆう》二《うじ》は知っているが、もちろん|指《し》摘《てき》はしない。
「とりあえず、大丈夫みたいだね」
悠二は当然、自分の存在は|当《とう》面《めん》安全である、という意味で言ったのだが、
「……そうみたいね」
シャナは当然、吉田|一《かず》美《み》とのデートに|支《し》障《しょう》がない、という意味に取った。
そして悠二には、そんな少女の気持ちが分かってしまったりするのだった。腹の底に氷の|杭《くい》を打ち込まれたような|寒《さむ》気《け》を覚える悠二に、
「シャナちゃん、カルメルさんとケンカでもしたの?」
と|千《ち》草《ぐさ》が状況を知らぬまま、助け舟を出した。
「えっ、あ、だって……」
シャナは、不意を突かれて言葉に詰まった。それでもなんとか、最低限の言葉で自分の意見を表明する。
「……ヴィルヘルミナが、悪い」
千草は昨日のこともあって、その状況をなんとなく察する。察して、確認する。
「ちゃんと話し合ったの?」
「そ、それは……でも」
確かに、話し合ってはいない。しかし、|断《だん》固《こ》たる行動でヴィルヘルミナは示し、自分も一言で返した。今さら話は、やりにくい。
しかし千草は、ヴィルヘルミナのために、シャナへの|譲《じょう》歩《ほ》を迫る。
「|駄《だ》目《め》よ。せっかく久しぶりに会えたんでしょ。お互いに|納《なっ》得《とく》いかないことがあるなら、キチンと本音をぶつけ合わないと」
「でも、きっと許してくれない」
|僅《わず》かに|頬《ほお》を|膨《ふく》らませて|駄《だ》々《だ》をこねるシャナに、
「シャナさん」
今度は本を閉じた貫太郎が向き直る。
「きっと[#「きっと」に傍点]、という言葉は、そういう風に使ってはいけない。使うなら、そう――」
「きっと、許してくれる――ね?」
千草が続けて、にっこり笑った。
二人に笑いかけられて、シャナは素直に|頷《うなず》く。
「……うん」
ただの言葉遊びのはずなのに、|拗《す》ねていた自分がひどくみっともなく思えてしまう。
(どうしてこの人たちが言うと、世の中がスッキリするんだろう?)
とシャナは|不《ふ》思《し》議《ぎ》に思った。こういうところが、|息子《むすこ》の方に|僅《わず》かでもあれば、と少し|恨《うら》めしげに|傍《かたわ》らを見て比較する。
「……な、なに?」
ジトッとした目で|睨《にら》まれて、|悠《ゆう》二《じ》は|上《うわ》擦《ず》った声を返した。
「別に」
鼻でフンと(コキュートス≠フ中の誰かとともに)|小《こ》馬鹿にして、そっぽを向いた。
それを|隙《すき》と見たのか、
「あ、もうこんな時間だ」
悠二は時間をわざとらしく確認して立った。そっぽを向いた先でムッとなるシャナを置いて、居間から駆け足で出てゆく。
「じゃ、そろそろ、いってきまーす」
|千《ち》草《ぐさ》が見送りと諸注意のためついていく。
「|吉《よし》田《だ》さんに、昨日のお|詫《わ》び、改めてしておいてね。せっかくのデートなんだから、ちゃんと楽しんでくれてるか、気を|遣《つか》ってあげなさい。ハンカチとちり紙は――」
「分かってるって、小学生じゃないんだから!」
居間に残って、悠二のうるさげな声と扉の閉まる音に聞き耳を立てていたシャナは、僅かに口を|尖《とが》らせ、胸中で叫ぶ。
(悠二の|馬《ば》鹿《か》、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿)
部屋に戻ってきた千草は、
「まあ」
まだそっぽを向いたままでいる少女を見つけて、困ったような笑みを漏らす。
シャナは|背《そむ》けた顔を真っ赤に染めて、できるだけ冷静を装って|訊《き》き、
「吉田|一《かず》美《み》……昨日、来てたの?」
「ええ。一緒にお昼ご飯を食べたの」
「……」
そして、|膨《ふく》れっ|面《つら》を見せたくなくなって、体ごと後ろを向いた。
(千草は、分かってる[#「分かってる」に傍点]くせに)
と思いつつも恨めない。
自分でも、分かっているから。
怒る前に、自分で悠二をふん捕まえてしまえばいいだけなのだ。そうするために決断するのは自分自身で、そこは決して他人の助けや後押しを得られない部分なのだ。
(分かってる、けど……)
たった一言、こう言えばいいだけ。
「|悠《ゆう》二《じ》、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》なんかより、私とここにいて」
しかし、言えない。理由はいろいろあるようにも、たった一つであるようにも思えた。
と、不意に、|貫《かん》太《た》郎《ろう》が声をかけた。
「シャナさん、今日はお|暇《ひま》かな?」
恐る恐る、|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》はドアをノックした。
さっき、電話の前にどうなったかを確かめに来てから二度目である。
「……マルコシアス?」
「あいあいよー」
ドアのすぐ中から、小さく声がした。
「まだ二人とも寝てんのかな? そろそろ|爺《じい》さんたち来るから、カルメルさんの分も朝と昼の飯、作らせるかどうか訊きたいんだけど」
爺さんたち、というのは佐藤家のハウスキーパーらのことである。佐藤はこの大きな|屋《や》敷《しき》に元々一人で住んでおり、家の|雑《ざつ》務《む》は昼勤の彼らに任せていた。
「あー、朝は二人とも無理だろ。『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』はカウンターで伸びてやがるし、我がふしだらな|泥《でい》酔《すい》者、マージョリー・ドーは、ソファでいつもの|如《ぐと》しだ、ヒッヒ」
「そうか……ふう」
なぜか|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》いた佐藤に、|暇《ひま》を持て余す|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ、からかい半分で訊いてみた。
「どーしたケーサク、美女二人の|寝《ね》乱《みだ》れた|様《よう》子《す》でも|覗《のぞ》きたかったか?」
「ち、違――っ!?」
心情的には割と|図《ず》星《ぼし》ではあったが、とりあえず溜息の理由ではない。ドアにもたれかかって本音をぼやく。
「……さっき、|坂《さか》井《い》に電話しただろ? そしたらあいつ、今日はファンシーパーク……|大《おお》戸《ど》の遊園地だけどさ、そこにデートしに行くんだってさ。ちょっといいなー、とか思ったわけ」
「キーッヒッヒッヒ、そりゃ大変だ。|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|嬢《じょう》ちゃんが、|不《ふ》機《き》嫌《げん》の腹いせに|殴《なぐ》り込んでくるかもしれねーな」
「はは、それならそれで楽しいかも」
|他《た》愛《あい》もない会話をドア越しに続ける二人は、気付かなかった。
坂井に、と聴いた瞬間、カウンターに|突《つ》っ|伏《ぷ》していた肩がピクリと動いたのを。
とある|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニの戦いで|散《さん》々《ざん》に破壊された|御《み》崎《さき》市《し》駅の前には、未だに多くの|重《じゅう》機《き》・|建《けん》機《き》が|常《じょう》 駐《ちゅう》している。 駅前大通りが歩行者天国となっていることと合わせて、駅前のバスターミナルは狭く、また込んでいた。
ここで待ち合わせした|悠《ゆう》二《じ》と|吉《よし》田《だ》は、予定よりやや遅れて、ファンシーパーク行きのバスに乗り込んでいた。
|御《み》崎《さき》市《し》駅は複数の路線を連絡している大きな駅だが、今は使用不能である。夏休みであってもバスの乗客はそれほど多くはないだろう……と二人は|油《ゆ》断《だん》していたのだが、実際に行ってみると、|停《てい》 留《りゅう》 場《じょう》は人員整理のロープが差し渡されるほどの人だかりだった。
ようやく発車した、|派《は》手《で》な赤いシャトルバスの中は、クーラーの涼しさに一息|吐《つ》くカップルや、大声で騒がしい子供を|叱《しか》る親子連れ、今からお|土産《みやげ》のぬいぐるみをなんにするかで|揉《も》めている女の子の一団など、まるで音と人いきれの|坩堝《るつぼ》だった。
そこに混じって|吊《つ》り革に|掴《つか》まる悠二は、すぐ前、幸いにも確保できた|空《あ》き席に座らせた吉田に声をかける。
「大丈夫、疲れなかった?」
大げさに|気《き》遣《づか》う悠二に、吉田はクスリと笑って答える。
「まだ着いてもいませんよ。大丈夫です」
今日の彼女は、落ち着いた色合いのブラウスとプリーツスカートという装い。座った|膝《ひざ》の上には大きなバスケットとショルダーバッグ、白いリボンをひと巻きした|麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》子《し》がある。
「大きいね。もしかして、全部お弁当?」
もはや悠二にとって、吉田が弁当を用意してきてくれるのは当然のこととなっていた(その代わりに彼は、いつものお返しも含め、今日は中での全てを自分が|奢《おご》ろうと気張っている)。
果たして|椅《い》子《す》に|行《ぎょう》儀《ぎ》よく座る少女は|嬉《うれ》しそうに|頷《うなず》く。
「はい。暑くても大丈夫そうなのを、たくさん作ってきました」
こういうなんでもない、ごく普通の、しかしだからこそ大切な『恋人同士の会話』を交わせることに、吉田は|至《し》上《じょう》の喜びを覚えていた。
彼女は、悠二の|境《きょう》遇《ぐう》を知っている。
二度と人間に戻ることはない―――たまたま『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を身の内に宿したがために意志と存在感を残している ――本物の|坂《さか》井《い》悠二の残り|滓《かす》―― いつかこの街を去ってしまう――そんなミステス″竏范I二の境遇を。
それら全てを知って、しかし彼女は告白した。
自分は、今ある坂井悠二が、好きなのだ、と。
彼女にとって、このデートや普段の触れ合いは、思い出作りなどという|呑気《のんき》で|諦《あきら》めのいいものではない。今、抱いている気持ちを必死に彼にぶつける、その表れだった。
少し前までは、彼のような境遇を持つ人物をこういうこと[#「こういうこと」に傍点]に誘っていいものか悩んだりしていたが、それも、とある女性の助言によって吹っ切っていた。
自分の心、坂井悠二を好きだという、今持っている気持ちに、正直になると。
消えてしまういつかが来るかもしれないのなら、なおさら大切に、この今を。
その|悠《ゆう》二《じ》が、窓を|覗《のぞ》くために腰を折って、|吉《よし》田《だ》に言った。
「あれかな、ビルの間に光ってる|塔《とう》の先が見えたよ」
その距離の近さに一瞬ドキリとした吉田は、|誤《ご》魔《ま》化《か》すように彼と視線を同じくした。
「え、ど、どこでしょう」
「えーと、どう言えばいいのかな……あ、ほらまん前」
「あっ本当! やっぱりあの|水《すい》晶《しょう》の|塔《とう》、すごく目立ちますね」
「|山手《やまのて》だから、建っている場所|自《じ》体《たい》が高いのかも」
ふと悠二は、遠くを見て喜ぶ吉田の笑顔を、|嬉《うれ》しさと切なさの中で見た。
ほんの数ヶ月前なら、この光景をどれほどに喜べただろう――一時間後の未来さえ思い|煩《わすら》わず、嬉しさを|享《きょう》受《じゅ》できたろう――自分が人間でありさえすれば。
そしてもちろん、そうではない。
体の中にあるもの、
自分が死んだ[#「自分が死んだ」に傍点]という最悪の認識を|齎《もたら》した、
それでも生きていける力[#「生きていける力」に傍点]を与えてくれる、
一人の少女と出会い、知り合う機会をくれた、
そして、|人《じん》知《ち》の及ばぬ敵に狙われる理由たる、
宝具……『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』
なにもかも、全てが全く思い通りに行かないこと、
どうしようもなくなったからこそ、見出せるもの、
知らなければ、|平《へい》穏《おん》に暮らすか、死んでいたこと、
不幸と幸福が|表《ひょう》裏《り》一体だと気付かせてくれたもの、
ふと気付けば、なにを喜んでいいのか、なにを悲しんでいいのか、こんがらがって分からない日々と世界の中に、放り込まれていた。
そんな、決して知るべきではない日々の中に、目の前の少女は自ら飛び込んできてくれた。好きだといってくれた。その包んでくれる優しさに引かれて、|今《いま》一緒にいる。
そして、
もう一人の少女は、放り込まれたときから、ずっと以前から、その|過《か》酷《こく》な戦場に在った。強烈な憧れとなって常に自分を|惹《ひ》き付け、後に続かせられ、吸い寄せられる。
(……好き、か)
吉田が告白してくれた気持ちを、嬉しいと思う。
シャナが憧れの中から歩み寄ってくれたことも。
ただ、
そこまで[#「そこまで」に傍点]なのである。
(僕は……どう、思っているんだろう)
二人に対して、好きか嫌いかしか言えないのだとしたら、当然好きに決まっている。
だが、愛情が分からない[#「愛情が分からない」に傍点]。
感じているのかいないのか。
(そもそも、ハッキリした答えはあるものなんだろうか)
|中《ちゅう》途《と》半《はん》端《ぱ》なまま、お互いに引っ張り回されている、これが理由だった。
誰も、答えを与えてくれない。自分で見つけるには、あまりに|難《なん》解《かい》だった。あるいは簡単なのかもしれないが、気付くことができない。答えはどこまでも|茫《ぼう》漠《ばく》としている。
それに、今の自分が置かれた|微《び》妙《みょう》極まりない立場から、自分が愛情以外の要素で決定的な選択をしてしまうことへの恐れもあった。
|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》に、留まりたい今の生活、学校や友達、両親や家、
シャナに、避け得ず来る旅立ち、戦いや|流《りゅう》離《り》、未知の世界、
彼女らの気持ち、自分の気持ちに、それらへの願望や|打《だ》算《さん》を混ぜて、|小《こ》汚《ぎたな》く計ってはいないか……向けられる気持ちのあまりな|真《しん》摯《し》さから、そんなことを考えさせられる。
(真剣に、できるだけ真別に、答えたいんだ)
ガタン、とバスが揺れて|沈《ちん》思《し》から覚める。
ふと、笑みが|零《こぼ》れた。
(こんなときに、ホント|呑気《のんき》だよな……それに、|臆《おく》病《びょう》、なのかも)
「あっ、看板が。もう一キロ!」
喜ぶ少女に、|悠《ゆう》二《じ》はその笑みのまま答える。
「|意《い》外《がい》に近かったね」
どこまでも|嘘《うそ》のない、しかし答えを持っていない笑顔で。
|大《おお》戸《ど》ファンシーパークの全景は、緩い|裾《すそ》野《の》の|造《ぞう》成《せい》地《ち》を連結した『大きな|段《だん》々《だん》畑』である。
そこには|稲《いな》穂《ほ》の代わりに、大きな|水《すい》晶《しょう》を頂く|不《ぶ》細《さい》工《く》な複合施設『シンボルタワー』を中心とした、アトラクションとパビリオン、レストランや各種|店《てん》舗《ぽ》などの施設が、|所《ところ》狭《せま》しと|賑《にぎ》やかに|軒《のき》を連ねている。
もっとも、敷地そのものは大して広くない。これは、元々がしがない地方|博《はく》覧《らん》会《かい》のパビリオンを移設した|山《さん》 上《じょう》公園だったためである。 簡単に|潰《つぶ》せない上に維持費だけはやたらとかかるこれらの施設を、なんとか|有《ゆう》効《こう》活用できないか……市当局から県までが頭を|捻《ひね》った|苦《く》心《しん》の結果が、このレジャー施設化というわけだった。
いざ開園すると、その|地《じ》味《み》なパビリオン(花の常設展や|土《ど》器《き》の博物館)よりも、周囲のアトラクションに客は集まったが、遊園地としての評価は|概《おおむ》ね高く、県外からも客を呼べる|貴《きち》重《ちょう》な市の|財《ざい》源《げん》となった。企画者としては、まずもって成功といってよい結果であろう。
そんな企画者らの成功の大きな要因、設計時には|無《む》駄《だ》としか思えなかった、やたらと広い駐車場とバスターミナルに、悠二と|吉《よし》田《だ》は降り立った。
悠二は降り場から一直線に続く正面ゲートまでの歩道を見回して言う。
「へえ、けっこう|綺《き》麗《れい》だね」
普通は|出《で》店《みせ》などがあるはずのそこは、看板と|幟《のぼり》、大きな|分《ぶん》別《べつ》用《よう》ゴミ箱しか置かれていないため、非常にスッキリしているように思えた。
「吉田さんは、来たことがあるの?」
悠二は再び吉田からバスケットを受け取る。彼女の|美味《おい》しい弁当と引き換えなら、この程度は安い|駄《だ》賃《ちん》だった。
「はい、二度はど両親や弟と」
「へえ。じゃあ、迷わなくても済むかな」
「はい、任せてください!」
張り切って叫ぶ吉田と並んで、悠二は人ごみの中を歩いていった。
シャナは、しつこくアラストールに説明 ――という名の言い訳―― した言葉を、心の中で繰り返していた。
(|悠《ゆう》二《じ》に近ければ近いほど、ヴィルヘルミナが|襲《しゅう》撃《げき》をかけてきた際の|即《そく》応《おう》性が高くなる)
降り立ったファンシーパークのバスターミナル[#「ファンシーパークのバスターミナル」に傍点]で、(もちろん|千《ち》草《ぐさ》がかねてより用意していた)キュロットスーツを見せびらかすように大きく伸びをする。
「ん――!」
ポニーテールにした髪も、気分が変わっていい感じである。
彼女の姿は今、なぜかファンシーパークにあった。
悠二が出かけた直後、|貫《かん》太《た》郎《ろう》と千草に、
「今日はお|暇《ひま》かな? 実はこれから、私たちもデートに出かけようと思っているんだが」
「一緒に来ない? なんなら、シャナちゃんの好きな所に連れてったげてもいいわよ」
と誘われたのである。
実のところ、シャナはその一日をどう過ごすかについて迷っていた。
悠二のことなど知ったことではない、勝手にすればいい、と思っていた。といって放置しておくのも、フレイムヘイズとしては|手《て》抜《ぬ》かりであるような気がした。
どこに行くか、と|訊《き》かれて、パン屋やフルーツパーラー、ドーナツ屋などなど(食べ物関連の場所ばかりなのは、彼女の行動|範《はん》囲《い》が他にないからである)を思い描いたが、結局、
(――「明日、僕は、|吉《よし》田《だ》さんと、ファンシーパークに」――)
なにより強い気持ちを、声に出していた。
「……ファンシーパーク」
「えっ、あの|大《おお》戸《ど》の遊園地?」
千草は、|世《せ》知《ち》に|疎《うと》いはずの少女が持ち出した|意《い》外《がい》な提案に、|僅《わず》かな驚きを示した。
逆に、彼女を誘った当人である貫太郎は、|微《び》妙《みょう》に視線を宙にやって、少し笑った。
「だめ……?」
僅かに不安げな顔をした|可愛《かわい》い少女に、千草は首を振って見せる。
「いいわよ。シャナちゃんが行きたいんなら。ねえ、貫太郎さん?」
「ああ、調べてあるよ[#「調べてあるよ」に傍点]。すぐにでも出かけられる」
いつものように|万《ばん》全《ぜん》な夫に|頷《うなず》くと、千草はむしろこれを待っていたのか、シャナの手を引いて立った。
「え、千草……?」
「さ、そうと決まればシャナちゃんもおめかししなきゃ」
そんな|遣《や》り取りから一時間|余《よ》、
シャナは貫太郎、千草らとともに、この地にやってきたのだった。
(悠二に近ければ近いほど、ヴィルヘルミナが|襲《しゅう》撃《げき》をかけてきた際の|即《そく》応《おう》性が高くなる)
と、また念じる。
その後ろ、バスから降りた|千《ち》草《ぐさ》が、伸びをした少女に、楽しく|弾《はず》んだ声をかける。
「|窮《きゅう》屈《くつ》だった?」
彼女は珍しいスーツドレス姿で、|僅《わず》かに化粧もしていた。久々のデートということで、めかしこんでいるらしい。
「すまないね。 |生《あい》憎《にく》とレンタカーというのは|縁《えん》起《ぎ》が悪くて、プライベートでは|極《きょく》 力《りょく》使わないようにしてるんだ」
変な言い訳とともに|貫《かん》太《た》郎《ろう》が続いて降りてきた。こっちはさすがにコートこそ着ていなかったが、味も|素《そ》っ|気《け》もないグレーのスーツはそのままである。千草は、彼に合わせて自分とシャナの服をコーディネートしたようだった。
二人に言われたシャナは、もちろん|不《ふ》機《き》嫌《げん》なわけではない。その反対だった。
「|全《ぜん》然《ぜん》大丈夫」
ポニーテールの|感《かん》触《しょく》を楽しむように首を振り、今度は逆に、少しすまなそうな|面《おも》持《も》ちで二人に|尋《たず》ねる。
「でも、いいの? 私の行きたいところ、優先して……せっかく貫太郎、帰ってきてるのに。千草、もっと他に、行きたいところはなかった?」
今さらな少女の確認に、|坂《さか》井《い》夫婦は、顔を見合わせて笑った。
「デートというのは楽しむものだ。そして私は今、とても楽しいよ」
「そうそう、|余《よ》計《けい》な気を回さなくてもいいの。私は、貫太郎さんが一緒なら、どこでも楽しいんだから。シャナちゃんがいればもっと、ね?」
さあ、と貫太郎と千草が、それぞれ左右から手を差し伸べた。
「……ん」
シャナは照れつつも、二つの手を取った。なんとなく|嬉《うれ》しくて歩が弾む。
三人は、どこからどう見ても、|行《こう》楽《らく》に来た普通の親子連れだった。
「こうしてると、|悠《ゆう》二《じ》の小さい頃を思い出すな」
と貫太郎が言えば、
「貫太郎さん、すぐ持ち上げたり振り回したりするから、悠ちゃん、よく泣いてたわね」
と千草が返す。
「もっと回してやっていれば、体も|鍛《きた》えられてたかもしれないな」
「|駄《だ》目《め》駄目。ごくたまにしか帰ってこないのにそんなことしてたら、|懐《なつ》かないどころか逃げ回るようになってましたよ」
特別、何がどうという話でもないのに、
「ふふ」
シャナは嬉しくて、楽しくて、温かかった。
来る途中までは、|悠《ゆう》二《じ》のことをどうしよう、とゴチャゴチャいろんなことを考えていたが、到着した今では、そんなことはどうでもよくなりつつあった。
|悠《ゆう》二《じ》と一緒にパン屋を巡ったときのように、|千《ち》草《ぐさ》と一緒にお祭りを回ったときのように、今日も好きな人と変わった場所で知らないものを見る、その楽しみに胸がいっぱいになっていた。
「『デート』って、楽しいね」
少女の|無《む》垢《く》な感想に、二人はまた|揃《そろ》って笑う。
(楽しもう)
とシャナは|呑気《のんき》に思う。別に使命を忘れたわけではない。悠二の近くにいさえすれば問題ない、と思っていた。彼女なりに妥当と思える理由がある。
(今日はヴィルヘルミナ、お酒に酔って寝てるらしいし)
酒というのは、なんだかよく分からないが、|今朝《けさ》、|貫《かん》太《た》郎《ろう》に聞いたところでは、
「|美味《おい》しくて気持ちよくなる薬だが、飲みすぎると毒に変わる飲み物だよ」
というもので、要するにアルコールを|含《がん》有《ゆう》した特殊な飲料であるらしい。気持ちよいのに|油《ゆ》断《だん》して、よく量を誤るという。
シャナは冷静なヴィルヘルミナらしくない失敗だと思った。しかし、もう大丈夫、彼女は危険ではないだろう、と踏んでいたのは、彼女が酔い|潰《つぶ》れたと聞いたからではない。貫太郎の説明から、
(そんな気持ちのいいものを飲んだんだから、少しは|機《き》嫌《げん》も直ってるよね)
と、酒というものの性質を完全に|勘《かん》違《ちが》いしていたからだった。話し合って仲直りする機会はすぐに来る、と思っていた。
シャナはやはり、ヴィルヘルミナの本気に気づいていなかった。
入ってすぐにあった売店(外では|設《せつ》営《えい》が許されないため、中で営業しているらしい)でソフトクリームを買った悠二と|吉《よし》田《だ》は、それを|舐《な》めつつ、入り口前の広場に|聳《そび》える、巨大な案内|看《かん》板《ばん》の前に立った。
初めて来た悠二には、なにが良くて悪いのか、というより感覚的にどう歩けばいいのかの|見《けん》当《とう》がさっぱりつかない。|大《おお》雑《ざっ》把《ぱ》にパビリオン、乗り物、|絶《ぜっ》叫《きょう》マシーン、公園、レストラン、|土産《みやげ》物店、と分けてから、|隣《となり》に|尋《たず》ねる。
「吉田さんは絶叫マシーンとか|苦《にが》手《て》?」
「……は、はい、すいません」
早々に楽しいデートに|蹴《け》躓《つまず》いたと思って、吉田は小さくなった。
悠二は笑って言う。
「違う違う、二人で行って楽しい所を選ぼうってこと。なんなら吉田さんの言うとおりに回ってもいいよ。もう|遠《えん》慮《りょ》はしないでね」
最後に付け加えたのは、今|舐《な》めているソフトクリームを|奢《おご》る際に|散《さん》々《ざん》押し問答をして、やっと|吉《よし》田《だ》に今日遊ぶ分|全《すべ》て奢ることを同意させたばかりだからである。
「は、はい……それじゃ、選んでいいですか?」
まだ|躊躇《ためら》いがちに|訊《き》く少女に、明るく|請《う》け負う。
「うん。なんといっても、今日は吉田さんに誘ってもらったんだから。真ん中にある|塔《とう》でもカートでも、なんならメリーゴーラウンドとかコーヒーカップでも、好きなのに付き合うよ」
というわけで、
|悠《ゆう》二《じ》は自分の発言に責任を取り、本当にメリーゴーラウンドの馬車に、吉田と並んで乗る|羽《は》目《め》となった。
街の|死《し》角《かく》は、ビルの谷間や|裏《うら》道《みち》だけではない。
上にも、存在する。
建ち並ぶビルの屋上は、下からは見えず、また見上げる者もない。遠くから|見《み》咎《とが》められることも|稀《まれ》で、仮に目に留まっても、鳥の|飛《ひ》翔《しょう》、あるいは単に|錯《さっ》覚《かく》と思われるのが常だった。
今まさに、その死角を一人の女性が|跳《は》ね、|跳《と》んでいた(同時刻、ソファから床に転げ落ちて目を覚ましたマージョリーは、来客が帰ったことを|相《あい》棒《ぼう》によって知らされている)。
厚い|靴《くつ》底《ぞこ》を持つ編上げブーツが、屋上のコンクリに|罅《ひび》を入れ、階下の人間に|衝《しょう》撃《げき》を与える。その力は上昇と前進によって消え、また新たな踏み切り台が、風の中近付いてくる。それをまた|蹴《け》って、|跳《ちょう》躍《やく》、前進。
(見えた)
(|視《し》認《にん》)
寝ぼけた頭に|佐《さ》藤《とう》の声を聞き、位置を地図で確認してから時も|僅《わず》か、もはや目的地は眼前にあった。ビルの向こう、山の|裾《すそ》野《の》に広がるレジャー施設。
|大《おお》戸《ど》ファンシーパーク。
彼女は、あくまでミステス=b坂《さか》井《い》悠二を破壊するつもりでいた。
|鍛《たん》錬《れん》を装っていたため少女による|介《かい》入《にゅう》を招いた、昨夜のようなヘマは、もうしない。
今日は、|問《もん》答《どう》無用で破壊する。
(ただ……)
(|検《けん》知《ち》)
彼女らにとって|甚《はなは》だ|都《つ》合《ごう》の悪いことに、フレイムヘイズの気配が同方向に存在していた。どうやら、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が、ミステス≠フ|護《ご》衛《えい》についているらしい。そのことを、二人は|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》に思う。そこまで少女に想われているミステス≠ノ対する怒りが、|倍《ばい》増《ぞう》する。
(断じて)
(破壊)
しかし、容易に近づくわけにはいかない。もし、少女に出くわしたら……迷いはないが、悲しくなる。悲しくなって、動けなくなる。なんとしても、少女をかわしたい。
(なんとか、|隠《おん》密《みつ》裏《り》に)
(|隠《いん》蔽《ぺい》)
|跳《ちょう》躍《やく》して空にある彼女のエプロン、その後ろ腰の結び目から無数の白いリボンが伸び、まるで|包《ほう》帯《たい》でぐるぐる巻きにするかのように、彼女の体を|覆《おお》い尽くしてゆく。数秒の内に、その姿は完成していた。真っ白なコートかジャンプスーツのような衣を|纏《まと》った巨体である。
これは、気配を|隠《かく》す|自《じ》在《ざい》法《ほう》を|幾《いく》重《え》にも重ねた、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』特有の技である。力の消費が激しく、長時間使うことはできないが、当面の隠蔽さえできれば問題はない。
新たに大きくなった足でビルの屋上を|蹴《け》る。
(しかし、あるいはこちらに有利やも知れぬのであります)
(|偽《ぎ》装《そう》)
行く先は、遊園地である。この|大《おお》柄《がら》な|白《しろ》装《しょう》束《ぞく》という|奇《き》異《い》な|格《かっ》好《こう》でも白昼|堂《どう》々《どう》、人ごみや着ぐるみに混じって歩き回ることができる。
(断じて)
(破壊)
白い巨体で|華《か》麗《れい》に宙を舞う『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は、遊園地の中に飛び込んだ。
|悠《ゆう》二《じ》は、迫る危機に全く鈍感だった。
「このパビリオン、大きいけど何があるの?」
遊園地の外れに並んで|蹲《うずくま》る、四角と球の建築物を見上げて言う。
四角い方は全面ガラス張りで、中には緑と花らしきとりどりの色、血管のように張り巡らされた水道管などが見えた。もう片方は体育館ほどの大きさの、黒ずんだ丸いドームで、骨組みが薄っすら浮かぶ安っぽいつくりをしている。
両方とも、開館されているはずなのに|人《ひと》気《け》がない。他のアトラクションにはある|派《は》手《で》な看板も見えず、受付のカーテンまで閉まって、出入りの管理すら投げやりな|様《よう》子《す》だった。
「ガラス張りの方が|蘭《らん》を集めた植物園で、ドームの方は|土《ど》器《き》の博物館だったと思います」
|吉《よし》田《だ》が、家族で来たときの|記《き》憶《おく》を頼りに説明した。
悠二は感心しつつ首を|傾《かし》げる。
「へぇ。なんでこんな所に土器?」
「さあ……?」
二人は、|大《たい》抵《てい》の来園者がそうであるように、このファンシーパークの成立|過《か》程《てい》、本来はこのパビリオンこそが本当の出し物であることを知らない。普通に目で見たまま、|寂《さび》れているという感想を抱く。
「どうりで人がいないわけだ」
「他に面白い場所、いっぱいありますし」
|悠《ゆう》二《じ》の|鋭《えい》敏《ぴん》な感覚は、精神を集中|緊《きん》張《ちょう》させていればこそのものだった。
「あ、林だと思ったら売店か。|凝《こ》ってるなあ」
|危《き》難《なん》においてはフレイムヘイズ以上に働く|洞《どう》察《さつ》力も、この程度である。
「|抹《まつ》茶《ちゃ》アイスが名物らしいですよ」
「お茶の木にしては大きすぎるな」
悠二は笑い、|吉《よし》田《だ》も笑う。
彼、|坂《さか》井《い》悠二こと『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』のミステス≠ヘ、フレイムヘイズの気配と敵意がいきなり消えたこと、どころか、接近しつつあったことにさえ、気づいていなかった。
気づいたのは、もう一人のフレイムヘイズの方である。
シャナは買ってもらったばかりのポップコーンを地面に落とした。
「アラストール……!?」
「……」
|迂《う》闊《かつ》にも返答を求めた契約者に、|魔《ま》神《じん》は答えない。
ヴィルヘルミナのものだろう、近付いてきた気配が、いきなり消えた。
|一昨日《おととい》の夜に使っていた|自《じ》在《ざい》法《ほう》に違いなかった。
それが一体、なにを意味しているのか。
答えは、明白だった。
(どうして?)
シャナには、ヴィルヘルミナがこうまで悠二に……悠二の破壊に|拘《こだわ》る理由が、全く分からなかった。
「シャナちゃん?」
|傍《かたわ》らにあった|千《ち》草《ぐさ》は、急に自分を見上げた少女の|形《ぎょう》相《そう》に驚いた。
顔色が|蒼《そう》白《はく》になっただけでなく、|異《い》様《よう》なまでの緊張が全身にある。
「どうしたの? どこか痛いの?」
千草は|慌《あわ》てて少女の|額《ひたい》に手を当て、肩を支えるように軽く|掴《つか》んだ。
その|掌《てのひら》が、気持ちが、温かければ温かいほどに、|喪《そう》失《しつ》の恐怖は増す。
ポツリとシャナは|呟《つぶや》く。
「ヴィルヘルミナが来た」
「えっ、どこに?」
|千《ち》草《ぐさ》は辺りを見回すが、もちろんその姿はない。
「ごめん――|悠《ゆう》二《じ》は、きっと守るから!」
「シャナちゃん!?」
温かさを振り払って、シャナは駆け出した。
|呆《ぼう》然《ぜん》と見送る千草の前に、ジュースを両手に一つずつ持った|貫《かん》太《た》郎《ろう》が立った。シャナの駆け去った方を見て、|不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔をする。
「どうしたんだい、シャナさんは」
千草は|穏《おだ》やかな、しかし真剣な質問で返す。
「|悠《ゆう》ちゃんも、ここに来てるのね?」
「ああ。昨日、|吉《よし》田《だ》さんがそのチケットを持ってるのを見たよ」
当然のように貫太郎は答えた。
「シャナちゃん、なにか困ったこと[#「困ったこと」に傍点]、あったみたい」
「……ふむ」
キーワードを聞いた貫太郎は、宙を一瞬見やって、深く|苦《く》笑《しょう》した。手にあったジュースを片方、妻に渡し、シャナのために買ったもう片方を一気に飲み干す。
「……千草さん」
声とともに空のコップを受け取った千草は、|納《なっ》得《とく》の|微笑《ほほえ》みで答える。
「はい」
「せっかくのデートだが、少し外すよ」
「どうぞ。シャナちゃんのためだし……でも」
今度は少し、|悪戯《いたずら》っぽく。
「でも、この分の埋め合わせは、きちんとしてくださいね」
「もちろん。そっちの準備も全て|万《ばん》端《たん》だ」
細い体を鋭く返して貫太郎は人ごみに|紛《まぎ》れ、残された千草は笑って|溜《ため》息《いき》を一つ|吐《つ》いた。
元が|山《さん》上《じょう》公園であるファンシーパークには、小さな|緑《りょく》地《ち》エリアがある。
ごく短いハイキングコースを登った先、|芝《しは》生《ふ》の丘になっているここは、|賑《にぎ》わう遊園地とその向こうにある|大《おお》戸《ど》市を一望できる|絶《ぜっ》景《けい》の|好《こう》位置だった。
その緑地エリアの一角、|疎《まば》らに立つ木の影で、悠二と吉田は弁当を広げていた。
辺りにも同じような親子連れや恋人同士が、持ち込みや売店の弁当をそれぞれ広げ、憩いの時を過ごしている。日差しは強かったが、山の中腹にあたるこの公園には適度な風が吹き降ろしていて、木陰は快適だった。
「もう大丈夫、|吉《よし》田《だ》さん?」
その緑も|薫《かお》る風の中、|悠《ゆう》二《じ》が|気《き》遣《づか》わしげに言う。
「やっぱり|拙《まず》かったかな?」
「いえ、私が言い出した、ことですから……」
答える吉田には、いま二つほど元気がない。原因は、さっき入ったお化け|屋《や》敷《しき》である。
彼女としては、|漫《まん》画《が》等《など》でよくある『恐くて抱きつくシーン』を期待して入ってみたのだが、実際にはパニックを起こしてわけが分からなくなっただけだった。はしたない声を上げていなかったか、みっともなく取り乱していなかったか、心配でしょうがなかった。
そんな|羞《しゅう》恥《ち》と自己|嫌《けん》悪《お》を抱いたまま、彼女は一番の見せ場である昼食の時間を迎えていた。
今日の主体は、この公園での食事を|想《そう》定《てい》したサンドイッチである。よく油を切ったカツや卵とツナを混ぜたサラダなどのサンド、初めて作ってみたお菓子|風《ふう》の|湯《ゆ》葉《ば》巻《ま》き、さらには野外での弁当に|定《てい》番《ばん》のお|絞《しぼ》りと水筒など、バスケットの中には楽しみの形そのもののように、さまざまな物が詰め込まれていた。
悠二は、吉田が落ち着くのを待ってから、ようやくカツサンドに手を付ける。
「いただきまーす」
吉田は、昨日見た|千《ち》草《ぐさ》と|貫《かん》太《た》郎《ろう》の姿を思い浮かべて、答える。
「はい、どうぞ召し上がれ」
|茶《ちゃ》目《め》っ|気《け》の|微笑《ほほえ》みを込めたその返事に、悠二は恥ずかしくなって、|無《む》理《り》矢《や》理《り》話題を変えようと景色の方に目を転じた。
「やっぱり夏休みだな、すごく人が多い」
「そうですね」
吉田もやや下方、無数とも思える遊園地の|人《ひと》出《で》を見やる。
その中に、恐怖の使者が混じっているとも知らず。
(悠二、吉田|一《かず》美《み》……ヴィルヘルミナ、どこ!?)
人ごみで埋まる広い道を、シャナは立ち止まっては見回し、見回してはまた走る。
周囲を歩く人々は、そんな彼女を|迷《まい》子《ご》、あるいははしゃぐ子供と見て、気にもとめない。
「気配を断っているのが、|一昨日《おととい》の|自《じ》在《ざい》法《ほう》だとしたら……|格《かっ》好《こう》はあの大きな|白《しろ》装《しょう》束《ぞく》?」
「恐らくな。|度《たび》々《たび》見たわけではないが、形態を変えるとしても、大差ない格好であることは間違いない」
|雑《ざっ》踏《とう》の中、 周囲に知人のない今、 シャナはアラストールとごく自然に声を交わす。もちろん誰も、その異常には気付かない。
「|封《ふう》絶《ぜつ》を使ってくれれば、すぐそこへ飛んでくのに」
「昨夜のこともある。『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ともあろう者が二度、|迂《う》闊《かつ》な過ちは犯すまい。ただ、|覚《かく》悟《ご》はしておくことだ」
アラストールは声の調子を落とし、|遠《えん》雷《らい》のような声を深く|響《ひび》かせる。
「『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は、我々の存在に気付いたがために[#「我々の存在に気付いたがために」に傍点]気配を消した……あれは、本気だ」
その響きに、シャナは|総《そう》身《しん》が引き締まるのを感じる。
「うん。でも……分からない。どうしてヴィルヘルミナは、ここまでするの?」
「覚悟には、それを問い詰めることも含まれる。我らには、その権利があろう」
シャナは|道《みら》端《ばた》での、|埒《らち》の明かない問答を切り上げ、無言で|頷《うなず》く。また走り、大きな広場に行き当たった。そこで周囲を見回して、思う。
(なんて、やりにくい場所……)
感情のまま走ってしまったため、|始《し》点《てん》近くに戻ってしまった。ファンシーパークに限らないが、この手の施設の道は、|大《たい》抵《てい》が直角に交わらず、大小さまざまな別れ道も多い。相手が建物の中に入っていたらお手上げである。人探しをするには、全く最悪な場所だった。
(それに……なんで私が)
|悠《ゆう》二《じ》が|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》とデートしている、自分が感じた、あの|嬉《うれ》しくて、楽しくて、温かな|雰《ふん》囲《い》気《き》を、今どこかで二人が……そう思うと、イライラがムカムカに変わる。
(悠二なんかを……悠二なんかを!!)
憎まれ口にはしかし、守るために、守らねば、守りたい、と続く。
|切《せっ》羽《ぱ》詰《つ》まった焦りが、|短《たん》絡《らく》を生む。
「アラストール、私が|封《ふう》絶《ぜつ》を使おうか? そうすれば悠二も気付――」
途中で自分の|愚《ぐ》策《さく》に気付き、口を閉じた。
アラストールが|慎《しん》重《ちょう》を期すために、愚作を|検《けん》証《しょう》する。
「|賭《か》けとしては分が悪すぎる。もし『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』が我々よりも|坂《さか》井《い》悠二の近くにいた場合、封絶の発動を|察《さっ》知《ち》して急行するあ|奴《やつ》を|捕《ほ》捉《そく》するだろう。我々は、|目《もく》視《し》によってしか『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』を発見できない分、不利なのだ」
「うん」
短く、|納《なっ》得《とく》ずくの答えをシャナは返し、さらに辺りを見回す。 悠二か吉田一美、|白《しろ》装《しょう》 束《ぞく》のヴィルヘルミナ、誰でもいい、知っている姿を――
「どうしたんだい、シャナさん」
まるで当たり前のように、グレーのスーツを着た男が立っていた。
シャナは驚いて、思わず声をかける。
「|貫《かん》太《た》郎《ろう》、どうしたの」
「それはこっちの|台詞《せりふ》だな。|千《ち》草《ぐさ》さんが心配していたよ?」
「……」
|誤《ご》魔《ま》化《か》しとともに|駆《か》け出そうとして、
(そういえば、最初に……)
ふと、思った。思った次の瞬間に、|訊《き》いていた。
「|貫《かん》太《た》郎《ろう》は最初に会ったとき、なぜ私たちの|尾《び》行《こう》に気付いて逃げたの?」
「?」
(シャナ?)
アラストールの|怪《け》訝《げん》な気配を察しつつも自分の|勘《かん》を信じ、細くも|強《きょう》靭《じん》な|容《よう》貌《ぼう》を見上げる。
貫太郎は数秒の|黙《もっ》考《こう》を経て、
「角を曲がる|仕《し》草《ぐさ》が、不自然だったからだよ。まるで身を|隠《かく》すように、急に曲がっただろう。だから尾行に気付かれた、と思ったんだ」
と正直に告げた。
シャナは|頷《うなず》き、彼が助けになると認める。
「貫太郎、人探しも|上手《うま》い?」
貫太郎は少し見つめ返してから、|妙《みょう》なことを|尋《たず》ねてきた。
「困って、いるんだね?」
「? ……うん」
事実として素直に頷き、
「ヴィルヘルミナが来てる」
とりあえず、人間にも分かるだけの説明を試みる。
「|悠《ゆう》二《じ》を、酷い目に合わせようとしてる[#「酷い目に合わせようとしてる」に傍点]の」
「ふむ、カルメルさんが来て、悠二が危険だ、と……よし、分かった」
|貫《かん》太《た》郎《ろう》は少女の|緊《きん》張《ちょう》の|度《ど》合《あ》いから、事態の|切《せっ》迫《ぱく》を|察《さっ》した。
「お互いのレギュレーションを、説明してくれるかな?」
「手伝ってくれるの?」
感じて、深く笑った。
「ああ。私の仕事は、困った人の相談に乗ることだからね」
顔まで|覆《おお》う|白《しろ》 装《しょう》束《ぞく》の|大《おお》 男《おとこ》として、家族連れや恋人同士、ファンシーパーク名物という多数の着ぐるみや遠足らしき子供の群れに混じっていたヴィルヘルミナは、
(……いた)
(|捕《ほ》捉《そく》)
|遂《つい》にミステス=b坂《さか》井《い》悠二をその目に捉えた。|見《み》間《ま》違《ちが》えようもない、その少年は軽そうなバスケットを大きく振って、見慣れぬ少女と楽しげに話しながら歩いている。
(……『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』という者がありながら……)
(|不《ふ》埒《らち》)
その|繋《つな》がりを絶つために現れた二人は、全く勝手に怒っていた。周囲に少女の姿がないのはこのせいか、と|納《なっ》得《とく》しつつも|憤《いきどお》り、仲の良い恋人同士にしか見えないミステス≠ニもう一人の少女を、スリット状の|覗《のぞ》き穴から|睨《にら》む。
そうして怒りの一歩を踏み出したところで、
パァーン!
「ふぁっ!?」
(!?)
と突然、ラッパの音を、顔の|真《ま》横《よこ》から受けた。
彼女を中に収めた巨体がグラリと|傾《かし》いで、危うく|膝《ひざ》を着きそうになる。
「な、な……」
くらっときた頭を振り向けて睨む先に、
「……?」
鉄の|鎧《よろい》を着た|鷹《たか》の着ぐるみが立っていた。片方の手にさっきのラッパ(首から|紐《ひも》で|提《さ》げている物らしい)を、もう片方の手に風船の|紐《ひも》束《たば》を持っている。お遊びかショーの|一《いっ》環《かん》か、オーバーアクションで驚いた|様《よう》子《す》を見せ、鉄の腕を組もうとする。
「……っ」
そのユーモラスな動きに|釣《つ》られ集まりつつある観衆に、二人は|困《こん》惑《わく》する。
(脱出)
ティアマトーに|頷《うなず》いて返すと、ヴィルヘルミナは|人《ひと》垣《がき》越《ご》しに、やや遠ざかってしまった|悠《ゆう》二《じ》と少女を見つける。急ぎ後を追おうとするその前に、
「――ッ!?」
突然、|片《かた》膝《ひざ》を着いた|鷹《たか》が、風船を一つ、まるで求婚でもするかのように大げさな|仕《し》草《ぐさ》で差し出した。着ぐるみのショーだと思っている観衆から、ドッと笑いが起こる。
この腕を、周りの人々を押しのけて、ヴィルヘルミナは二人の後を追った。
(|不《ふ》覚《かく》。|衆《しゅう》目《もく》を集めてしまえば、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』に見つかって……)
(|追《つい》跡《せき》)
(分かっているであります!)
|滅《めつ》多《た》にない|醜《しゅう》態《たい》への照れ隠しに、思わず大声を|心《しん》中《ちゅう》で張り上げてしまう。
その見る先で、二人が道を折れた。
見失わない内に、と知らず足早になって追いかける。
さっきの騒ぎのせいか、周囲からの視線が多く集まってイライラする。殺気や|害《がい》意《い》の気配がないと、あの手の|不《ふ》意《い》討《う》ちも|容《よう》意《い》に食らってしまう。そうでなくも、この|隠《いん》蔽《べい》形態は|視《し》界《かい》もスリット程度と狭いので、ああいうアクシデントには弱かった。
ああいう、というか、こういう、というか。
小走りに曲がったヴィルヘルミナは、真正面から走ってきた誰かに|衝《しょう》突《とつ》し、
真上から氷入りのジュースを浴びて、
「ひゃあっ!?」
思わず女性としての声を張り上げていた。
自分の前に転んで|尻《しり》餅《もち》を着いていたのは、またしてもファンパー名物の着ぐるみである。赤い|鬣《たてがみ》の|一《いっ》角《かく》獣《じゅう》だった。それが頭を振ってジュースを飛ばし、手に持ったお|盆《ぼん》を|恨《うら》めしそうに|眺《なが》める。
「……う」
そしてまた、こっちの|様《よう》子《す》に気がついてガバッと目の前に|土《ど》下《げ》座《ざ》した。
「止め……」
言いかけて、口をつぐむ。
こんな謝られ方をしたら、人がまた集まってしまう。というか、もう集まっていた。人通りの多い|往《おう》来《らい》、しかも着ぐるみ同士のアクシデントである。目立たないわけがなかった。
なぜこんな目に|遭《あ》わねばならないのか、|間《ま》抜《ぬ》けな自分の姿に、思わず|慨《がい》嘆《たん》しかける、そんな彼女にパートナーが言う。
(|無《ぶ》様《ざま》)
(うるさいであります!)
ややヒステリックに答え、|土《ど》下《げ》座《ざ》も|措《お》いて|一《いち》目《もく》散《さん》に逃げ出す。危うく見失うところだった二人の遠い背中を、今度こそ|慎《しん》重《ちょう》に、周囲に気を払いつつ追う。
幸い二人は、人の少ないパークの外れに向かっていた。
さっきの不用意な騒ぎを思い、 周囲に|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の少女が来ていないか、 流れる景色の中を注意深く観察する。
(|衝《しょう》突《とつ》注意)
(……)
もはやパートナーに言い返す気力もなく、黙って二人をつける。|上手《うま》い具合に、向こうは振り向くことも周りを|眺《なが》めることもしない。 こっちの姿は既に一度見られている、 どんな手段で少女に通報されるか分かったものではない、と距離を開けていたのだが、どうもこちらの買い|被《かぶ》りだったらしい。|人《ひと》気《け》のない場所で|急《きゅう》迫《はく》し、|有《う》無《む》を言わせず片付ける、と決める。
やがて二人は立ち止まり、建物の一つに入った。
(しめた)
とヴィルヘルミナは思った。建物の中なら、目立たず|始《し》末《まつ》できる。しかも、見るからに|寂《さび》れたパビリオンで、人気もなさそうだった。
「む」
(左前方)
またしても着ぐるみが横合いから現れたので、二人は一応、避けて通ろうと考える。
サングラスをかけたライオンだった。今度は、引っ掛けられるような物は持っていない。首にはさっきの物と同じラッパがかけられていたが、もちろん気付いていれば|不《ふ》意《い》討《う》ちにはならない。人っ子一人いない外れの道だからか、|傍《かたわ》らのベンチに腰を下ろした。どうやら休憩するためにここに来たものらしい。
ヴィルヘルミナは|僅《わず》かに|安《あん》堵《ど》の|吐《と》息《いき》を漏らして、ライオンの座った前を通り過ぎた。サングラス奥からの物珍しそうな視線は感じたが、もちろん|殺《さっ》気《き》などない。
(安堵)
(うるさいであります)
そうして二人はようやく、|獲《え》物《もの》を追い詰めた。|捕《ほ》捉《そく》し次第、これを破壊する。
パビリオンの、受付の人間さえいない寂れた入り口に足を踏み入れようとして、
プオー!
「!」
(!)
遠く背中に、ラッパの音を受けた。
振り返ると、ライオンがベンチに座ったままラッパを吹いていた。別にこっちに振り向くでもない。すぐラッパを口から離して、背もたれに体を預けた。
二人はフレイムヘイズとして、その|様《よう》子《す》に|不《ぶ》気《き》味《み》な|胸《むな》騒《さわ》ぎを覚えたが、|獲《え》物《もの》に出て行かれては元も子もないと、急ぎパビリオンに踏み込む。
その薄暗い入り口には、|色《いろ》褪《あ》せた 『|郷《きょう》土《ど》の出土品・|縄《じょう》文《もん》式《しき》土《ど》器《き》とその時代』 と書かれた地方|博《はく》覧《らん》会の地味なポスターが張ってあった。
駆け抜けたパビリオンの裏[#「駆け抜けたパビリオンの裏」に傍点]にあるベンチに、|悠《ゆう》二《じ》と|吉《よし》田《だ》は並んで座っていた。
まだ、今は日常。
しかし、すぐに変わる。
悠二は、思わぬ|来《らい》襲《しゅう》にとびきりの日をぶち壊された少女を気の毒に思う。
言われる吉田は、|不《ふ》思《し》議《ぎ》と|穏《おだ》やかな表情をしていた。
「ごめんね、恐い思いをさせて」
「いいです。事が、事だし……でも、一つだけ約束してください」
「うん、大丈夫、ちゃんと無事に帰って――」
「違います」
「?」
「これから、こんなことがあっても、私を仲間はずれにしないでください」
「えっ……?」
「|気《き》遣《づか》わないでください、利用してくれでもいいです、でも、知らずにいなくなるのは……それだけは、絶対に……嫌です……」
「――分かった。ありがとう」
「……」
「これからも、なにも言わないことだけは絶対にない、全部きちんと話す、そう誓うよ」
「……はい」
吉田は、にっこりと笑う。
笑顔が泣き顔と似ていることに、悠二は初めて気がついた。
(もう、逃げ場はないのであります)
(|王《おう》手《て》)
もう一息、獲物を追い詰めた、と確信するヴィルヘルミナは、パビリオンに踏み込む。
そこは、目立つ外観|優《ゆう》先《せん》に作られた、博覧会用の建築物だった。球状の骨組みを|厚《あつ》手《で》の構造材で外張りした単純な構造。球の内壁にはメンテナンス用の通路と|梯子《はしご》があるのみで、二階もなかった。
展示の仕方も、 |無《む》駄《だ》に広い円形のフロアにガラスケースを|升《ます》目《め》状《じょう》に並べるという、 かなり適当なものである。ケース内を照らす|蛍《けい》光《こう》灯《とう》の他に光源はなく、薄暗い照明の中に一直線、突き抜けた反対側に、出口の光がドアとして浮かび上がっている。
ヴィルヘルミナがなんということもなく目にしたその光の中で、
「!?」
少女が後ろ手に、ポニーテールを解いた。
「|封《ふう》絶《ぜつ》」
その|可《か》憐《れん》な唇が声を|紡《つむ》ぎ、瞬間、|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》が吹き上がる。
一瞬で、パビリオンとその周囲を|覆《おお》うドーム状の空間が構成されていた。内部を世界の流れと|断《だん》絶《ぜつ》させ、外部から|隔《かく》離《り》・|隠《いん》蔽《ぺい》する|因《いん》果《が》孤《こ》立《りつ》空間、封絶である。
気付けば、少女の髪と瞳は紅蓮に|煌《きらめ》き、長い|黒《こく》衣《い》が|翻《ひるがえ》っていた。その身の端からは、同じく紅蓮の|火《ひ》の|粉《こ》が舞い咲き、|渦《うず》巻《ま》く力の風を飾っている。
「ヴィルヘルミナ」
|驚《きょう》愕《がく》に凍りつく二人に少女が ――|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールのフレイムヘイズ 『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が――シャナが―― 語りかける。
「話を、|訊《き》かせて」
「おまえたちらしくもない|拙《せっ》策《さく》だな……なぜ、なにが、おまえたちにそこまで[#「そこまで」に傍点]させる」
その胸のペンダントコキュートス≠ゥら、アラストールも問いかける。
しかし、ヴィルヘルミナは、質問で返していた。
「なぜ、ここに」
「……|罠《わな》?」
信じられないという風な二人に、シャナは説明が先かと後ろに声をかける。
「|悠《ゆう》二《じ》」
少女の後方、今や紅蓮の炎を混ぜた|陽炎《かげろう》の壁を見せる出口から、一人の少年が入ってきた。|緊《きん》張《ちょう》と意志の力を、顔いっぱいに表して。
「他でもない僕の存在がかかってるからね……引っ掛けさせてもらったよ」
シャナに協力を求められた|貫《かん》太《た》郎《ろう》は、まずシャナを急ぎ、ファンシーパークの|監《かん》視《し》室に導いた。そんな場所があること、あっさり通れること、行った先を利用できること、|諸《もろ》々《もろ》を|不《ふ》思《し》議《ぎ》がるシャナに、貫太郎は涼しい顔で、
「出かける場所は|隅《すみ》々《ずみ》まで把握しておく|質《たち》でね」
と心構えの方面だけの答えを返した。
そうして彼は目立つ方、シャナが言うところの|白《しろ》 装《しょう》束《ぞく》の|大《おお》 男《おとこ》を探したのである。探す、という行為はまず道で、人通りの多い場所、つまりカメラのある場所で行われる|公《こう》算《さん》が高い。|案《あん》の|定《じょう》、テレビカメラの一つが、大通りの|結《けっ》節《せつ》点の一つで、やたらと目立つ大男を発見した。
|慌《あわ》てて飛び出そうとするシャナを、しかし|貫《かん》太《た》郎《ろう》は止め、代わりに|館《かん》内《ない》放送で、こう呼びかけるよう手配した。
<――|御《み》崎《さき》市《し》からお越しの|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》さま、御崎市からお越しの吉田一美さま、お父様[#「お父様」に傍点]が中央インフォメーションセンターでお待ちです――>
呼び出しに使う名前は、ヴィルヘルミナがまず知らないだろう吉田一美と、来園などしていないその父のもの。タイミングは、ヴィルヘルミナが大通りを|一《いち》巡《じゅん》した直後、気まぐれに建物の一つに入ったのを見計らって。
運も良かった。|悠《ゆう》二《じ》と吉田は、ちょうど昼の弁当を片付け、ハイキングコースを降りたところで、この放送を聴いたのである。
「父さんは、僕らがそのインフォメーションセンターに到着するまでの時間が、一番のヤマだった、って言ってたよ」
悠二の説明した、その長く短い時間を経て、父とシャナに合流した悠二は、ヴィルヘルミナをできるだけ|面《めん》倒《どう》の起きない場所に|誘《ゆう》導《どう》することを提案した。
気配を|感《かん》知《ち》できない彼女を、貫太郎が|監《かん》視《し》する(もちろん彼にはフレイムヘイズの気配|云《うん》々《ぬん》は分からないので|丁《ちょう》度《ど》いい)。|標《ひょう》的《てき》である悠二は吉田とともに、この|人《ひと》気《け》のないパビリオンに誘い込む。そして待ち構えたシャナが説得する、という役割|分《ぶん》担《たん》である。
「貫太郎|氏《し》が、我々を監視? ――っあ」
「着ぐるみ」
二人が気付いたように、彼女らを|邪《じゃ》魔《ま》した着ぐるみこそが、貫太郎だった。
悠二たちと細かく連絡を取り合う必要はない。|尾《び》行《こう》を邪魔して騒ぎを大きくすれば、悠二たちは自然と互いの間合いを知ることができる。最後のライオンによるラッパは、ヴィルヘルミナが|余《よ》計《けい》な|小《こ》細《ざい》工《く》をせず、真正面から入ることを示す合図だった。もちろん、そうさせないために貫太郎は人気のない場所、最後の見張りとしてベンチに座ったのである。
「貫太郎には、ここで私とヴィルヘルミナが話をつける[#「話をつける」に傍点]、ってことだけを言ってある」
「|彼《か》の|御《ご》仁《じん》に真実を告げず協力を仰ぐこの作戦は、|坂《さか》井《い》悠二が考案したものだ」
シャナとアラストールによる結びの解説を終え、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』は再び問う。
「ヴィルヘルミナ、今度はあなたが話して。どうして、悠二を目の|仇《かたき》にするの?」
「危険性、それのみならば、我らへの口が重くなることの理由にはなるまい。なぜ、ここまで|執《しつ》拗《よう》に『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の|無《む》作《さく》為《い》転《てん》移《い》に|拘《こだわ》るのだ」
|悠《ゆう》二《じ》も続いて、口を開く。
「二人には、呼び出されたときに話したよ」
スリットの間に|覗《のぞ》くヴィルヘルミナの表情が初めて、|眉《まゆ》の|一《ひと》揺《ゆ》れとして動く……それを確認して、続ける。
「|貴女《あなた》が|壊《かい》刃《じん》≠追いかけて、そこで『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』と出会って、互いに救い救われて、一緒に逃げて……でも、数ヶ月前、とうとう『永遠の恋人』が破壊された――」
ヴィルヘルミナは顔を|僅《わず》かに伏せた。
これが彼女の怒りの|前《ぜん》兆《ちょう》の姿であることを、悠二は知っている。しかし、言う。
「――あのとき|訊《き》いたよな? 依頼で動く殺し屋の|壊《かい》刃《じん》≠ヘ、本当に『永遠の恋人』の破壊を依頼されたのか、って」
自分の全てを、なにがどうなったのか、必死に問いかける。
「あの二人は誰にも|迷《めい》惑《わく》をかけずに生きてて、手を出すには強すぎた。他に考えられる理由は、個人的な恨みか――」
シャナが続け、
「――『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』だっていうの?」
アラストールが継ぐ。
「この宝具にそれだけの|価《か》値《ち》があると? 何者かによる、思いもよらぬ|企《たくら》みが仮にあるとしても、かの王≠ノ|報《しら》せようともせず、無作為転移を強行しょうとするのは|解《げ》せぬ」
「……」
「……」
ヴィルヘルミナとティアマトーは、|頑《がん》として答えを返さない。
悠二は、そんな|鉄《てつ》面《めん》皮《ぴ》のフレイムヘイズに食い下がる。
「お願いだ、教えてくれ。いったい、『永遠の恋人』に……いや、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』に、なにが起こったんだ?」
ようやく、ヴィルヘルミナは口を開いた。
「……あの時」
悠二は思わず、前のめりに聞く。
と、
「ヴィルヘルミナ」
シャナが言った。
「両脇のリボンを下げて」
悠二は|慌《あわ》てて自分の周囲を見回す。
「え、えっ!?」
展示ケースの下、非常灯の影、数多く伸ばされていたヴィルヘルミナのリボンが、一気に|翻《ひるがえ》り、その伸びた元の場所、白い巨体の足元に戻る。
と同時に、それが|解《ほど》けた。
|幻《げん》想《そう》的な|桜《さくら》色の|火《ひ》の|粉《こ》散る中、現れた『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』と、
静かに|紅《ぐ》蓮《れん》の火の粉を舞い咲かせ立つ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち手』、
双方|静《せい》寂《じゃく》の間に力が満ち、
「っ――」
驚いた|悠《ゆう》二《じ》の眼前、
純白のリボンが|神《しん》速《そく》の|槍《やり》の|如《ごと》く一直線に伸び、
シャナの|大《おお》太刀《だち》『|贄《にえ》殿《とのの》遮《しゃ》那《な》』が、これを抜きつけに|斬《き》り払っていた。
「――あっ!?」
ようやく、声を出した悠二が後ろに倒れ込む。
「悠二、早く下がって!!」
シャナが|目《め》線《せん》を前に|据《す》えたまま叫んだ。
アラストールは、声も低く、問う。
「本気か」
ヴィルヘルミナは答えず、ヘッドドレスに手を添えた。
「ティアマトー、|神《じん》器《ぎ》ペルソナ≠」
「|承《しょう》知《ら》」
添えた手を下に払うや、ヘッドドレスが無数の糸となって|解《ほど》けた。その糸は、|眩《まばゆ》いばかりの白に桜色の火の粉を混ぜて、新たな姿へと編み直される。
「ヴィルヘルミナ……」
シャナは|半《なか》ば|呆《ぼう》然《ぜん》と、しかしもう半ばを戦意で固めて、この|華《か》麗《れい》な変身を見つめる。
解けたヘッドドレスは、白く|尖《とが》り、細い|目《め》線《せん》だけを開けた、|狐《きつね》にも似た仮面へと編み直されていた。さらに、仮面の|縁《ふち》から無数の白いリボンが|溢《あふ》れ出、巨大な|鬣《たてがみ》として|膨《ふく》れ上がる。ヴィルヘルミナの体は、この巨大な鬣の中心に、仮面を付けた姿で浮かび上がっていた。その周囲には、桜色の火の粉が、|淡《あわ》雪《ゆき》のように舞い散っている。
これぞ|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーのフレイムヘイズ、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルの|戦《いくさ》 装《しょう》 束《ぞく》だった。
「不備なし」
「完了」
短く、二人は確認する。
美しい……|悪《あく》夢《む》では決してない夢の住人の、|可《か》憐《れん》不《ふ》思《し》議《ぎ》な姿に、シャナも悠二も、あるいはアラストールさえも|見《み》惚《ほ》れる。
しかし、これはただ|愛《め》で|鑑《かん》賞《しょう》する、花の美しさではない。
戦うための|刀《とう》剣《けん》、散る命の|儚《はかな》さを示す、|戦《いくさ》 装《しょう》 束《ぞく》の美しさである。
開戦の|口《こう》上《じょう》さえなかった。|鬣《たてがみ》の一端、純白のリボンが、さっきの|一《いち》撃《げき》と同等の|威《い》力《りょく》、数十もの数で、一気に|悠《ゆう》二《じ》を|串《くし》刺《ざ》しにせんと迫る。
「っわ!?」
悠二は必死に横へ飛び|退《の》く。
それをさらにシャナが|蹴《け》飛《と》ばした。
「馬鹿!」
「どあっ!?」
リボンによる|槍《やり》 衾《ぶすま》の|殺《さっ》傷《しょう》圏《けん》から悠二を蹴り出し、 |己《おのれ》の体は『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』万能の|衣《ころも》である『|夜《よ》笠《がき》』の|裾《すそ》を広げて守る。
ドドドドドドドドド、
と身の毛もよだつような本気の|刺《し》突《とつ》がその表面に無数|突《つ》き立ち、|銃《じゅう》弾《だん》に|小《こ》揺《ゆ》るぎもしない|黒《こく》衣《い》を|貫《かん》通《つう》寸《すん》前《ぜん》まで追い込んだ。
ようやく攻撃を止めたその陰で、
(ヴィルヘルミナは、本気だ)
認めたくない事実を、シャナは受け止める。
受け止めて、それでも叫ばずにはいられない。
これから、戦うために。
「ヴィルヘルミナ! 私、悠二を守るから!!」
いつの間にか元に戻った鬣の中、仮面の奥から、悲しい答えが返ってくる。
「我を通されるのでありますか、あくまで」
「|頑《がん》迷《めい》」
「どっちが!? ヴィルヘルミナはずるいよ、自分は何も言わないで! どうして私に話してくれないの!?」
「……」
仮面は|沈《ちん》黙《もく》を守った。
代わりに、ゆっくりと、その両手足が|舞《ぶ》踏《とう》の|前《まえ》触《ぶ》れのように広がってゆく。
「来るぞ」
|巨《きょ》竜《りゅう》をも|容易《たやす》く放り投げる彼女の技量を知るアラストールが、契約者に|覚《かく》悟《ご》を求める。
「うん……悠二! |邪《じゃ》魔《ま》にならないよう下がって!」
「わ、分かった!」
少年の|退《たい》避《ひ》する気配を感じつつ、シャナは考える。
アラストールから聞いたところによると、ヴィルヘルミナは|炎《えん》弾《だん》を始め、通常のフレイムヘイズのような破壊の|自《じ》在《ざい》法《ほう》をほとんど使わないという。代わりに、その呼び名の通り、万のリボンを|万《ばん》能《のう》自在に使いこなして敵を|翻《ほん》弄《ろう》する。
(組み合えば、|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》の投げが来る)
|大《おお》太刀《だち》『|贄《にえ》殿《とのの》遮《しゃ》那《な》』による近接|格《かく》闘《とう》を戦法の主体とするシャナにとっては、まさに|天《てん》敵《てき》といっていい相手だった。
ゆえに、|弾《はじ》き出される結論は、簡単|明《めい》瞭《りょう》。
(なら、|炎《ほのお》による最強の|一《いち》撃《げき》を、最初に|叩《たた》き込む)
|手《て》加《か》減《げん》して勝てる相手では、全くない。
(私の全力が、これだけになったと、ヴィルヘルミナに教える)
手加減して戦う気も、全くない。
(全てを見せる、見せて認めさせる……私は決して弱くなってなんかいない、このフレイムヘイズ、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』は、間違っていないと)
身の内にある存在の力≠、|燃《ねん》焼《しょう》に向けて一瞬で練る。
|警《けい》告《こく》もない、
一撃、|必《ひっ》殺《さつ》、
「――っだ!!」
巨大な|燐《りん》子《ね》≠丸ごと焼き払い、
|怪《かい》物《ぶつ》列車を一撃で消し|炭《ずみ》に変えた、
|莫《ばく》大《だい》な熱量の|怒《ど》涛《とう》が『|贄《にえ》殿《とのの》遮《しゃ》那《な》』を方向|舵《だ》にぶっ放される。
ただし、|闇《やみ》雲《くも》に力を放出するのではない。ヴィルヘルミナを中心とした、このパビリオンを半分消し飛ばすほどの球状に、熱量の発現|領《りょう》域《いき》を構成する。『|天《てん》道《どう》宮《きゅう》』を|発《た》った頃には考えられない、この街に来るまでできなかった、高度にして|驚《きょう》異《い》的な熱量の制御だった。
この攻撃を食らえば、生き残るどころか存在の維持さえ危ういだろう、
しかし、ヴィルヘルミナなら、なんとか耐え|凌《しの》いでギリギリ生き残るだろう、
シャナは、
「――」
そんな風に、甘く見ていた[#「甘く見ていた」に傍点]。
「――!?」
|炎《ほのお》を構成する中で、気づく。
眼前、|紅《ぐ》蓮《れん》の|熱《ねっ》塊《かい》が|膨《ふく》れ上がるよりも先に、シュルシュルと無数の|衣《きぬ》擦《ず》れのような音を|響《ひび》かせて、|異《い》様《よう》な物体が織り上がりつつあった。
それは、熱塊をちょうど受け止めるような、白い半球。
織り上げる糸は、純白のリボン。その表面には、|桜《さくら》色の自在式が、無限に続く|短《たん》冊《ざく》のように刻み込まれていた。
シャナは、ヴィルヘルミナの意図とともに、その式の効果を|概《がい》観《かん》で|瞬《しゅん》時《じ》に|看《かん》破《ぱ》する。
(反射!!)
瞬間、
ある一点を超えた|熱《ねっ》塊《かい》が、|奔《ほん》出《しゅつ》の方向を変える。
|炸《さく》裂《れつ》する焦点を、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』に結んで。
|百《ひゃく》戦《せん》錬《れん》磨《ま》『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は、少女が|初《しょ》手《て》から最大の攻撃を繰り出してくることなど、お見通しだったのである。
「――く、あっ!?」
自らに返されつつある|自《じ》在《ざい》法《ほう》の|構《こう》築《ちく》を止め、『|夜《よ》笠《がさ》』を|何《い》重《くえ》にも、出来得る限りの速さで巻きつける。|悠《ゆう》二《じ》に気を払う|余《よ》裕《ゆう》がない。
(|駄《だ》目《め》っ!!)
開戦からほんの数秒で、自らが|死《し》地《ち》にあった。
目も耳も鼻も|肌《はだ》も閉ざされ、全てが生死の|博《ばく》打《ち》として放り込まれる瞬間が来た。
全てを|抉《えぐ》るように、少女を中心にした空間で熱塊が炸裂する。
一瞬、パビリオンの四分の一が消し飛んだ。開放された|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》が、爆発の|衝《しょう》撃《げき》が、残った空間に吹き荒れる。爆発の|輻《ふく》射《しゃ》熱《ねつ》と衝撃波が|陳《ちん》列《れつ》ケースを|砕《くだ》き散らし、屋根を|粉《こな》々《ごな》にする。
その荒れ狂う炎の嵐の中で、悠二は身を伏せて必死に耐えていた。彼の周りには、ガラスのドームのような防御|壁《へき》が張られ、紅蓮の|乱《らん》流《りゅう》を防いでいる。
|紐《ひも》で通し、胸に下げていた|火《ひ》除《よ》けの指輪たる宝具『アズュール』の効果だった。これがなければ、人間と大して|耐《たい》久《きゅう》力も違わない彼の体は|消《け》し|炭《ずみ》になってしまっていただろう。ただ、
「わあ――――っ!!」
この『アズュール』は物体の|透《とう》過《か》を防げない。|物《もの》凄《すご》い勢いで飛んでくるガラス片や鉄骨の|欠片《かけら》などが、|容《よう》赦《しゃ》なく彼の体を切り裂き、|叩《たた》いた。
何秒か何十秒か、|濛《もう》々《もう》たる煙と、|弾《はじ》き飛ばされた物の壊れる音も、ようやく|掠《かす》れる。
「――シャナ」
顔を伏せていた悠二は、まず最初に名前を呼んだ。
そして、答える声は、
「その名は、|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》であります」
「!!」
純白のリボンが首に巻きつく。全く簡単に、シャナが守ると誓った悠二は、|絶《ぜっ》体《たい》絶《ぜつ》命《めい》の危機に陥っていた。
煙の向こうから|鬣《たてがみ》の風に流れるように、全く無傷の『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』が、|悠《ゆう》然《ぜん》と現れた。
「――、――」
ギリギリと、名を呼ぶことを禁じるように、悠二の首でリボンが絞まる。
「なるほど、確かに|顕《けん》著《ちょ》なる成長……しかし」
メギ、
「――ッ!!」
と|悠《ゆう》二《じ》は首の後ろ側に|不《ぶ》気《き》味《み》な|響《ひび》きを感じた。|激《げき》痛《つう》と息苦しさが、何かが|千《ち》切《ぎ》れていくような|悪《お》寒《かん》とともに|襲《おそ》いかかってくる。もがく体は、既に宙に浮いていた。
「貴様という存在だけは、|余《よ》計《けい》であります」
「……め」
煙も薄まった中に、黒い何かが動いた。
『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は、|鬣《たてがみ》の全体をゆらりと振り向かせる。
悠二もついでに宙で引っ張り回された先、その黒いものが手を出す。
(――シャナ――!!)
抵抗するように、最後にすがるもののように、悠二は心の中で叫ぶ。
しかし、そのすがるべきものは、今やボロボロになっていた。
「……だめよ、ヴィル、ヘルミナ……」
自らが放った|熱《ねっ》塊《かい》の|炸《さく》裂《れつ》を受けた少女は、『|夜《よ》笠《がさ》』を|幾《いく》重《え》にまとってなお、|満《まん》身《しん》創《そう》痍《い》の|体《てい》をなしていた。もはや|襤褸切《ぼろき》れ同然となった『夜笠』の中、お出かけ用の服は|黒《くろ》焦《こ》げとなり果てている。|煌《きらめ》く|炎《えん》髪《ぱつ》だけは|炎《ほのお》の燃え広がるように|修《しゅう》復《ふく》しつつあるが、体の方は焼け|爛《ただ》れた|部《ぶ》位《い》も多い。人間なら間違いなく、|人《じん》事《じ》不《ふ》省《せい》の|重《じゅう》傷《しょう》である。それでも少女は、必死に声を|絞《しぼ》り出した。
「ゆ……さない」
「‥‥」
ヴィルヘルミナは、仮面に表情を|隠《かく》してその|様《よう》子《す》をじっと見る。
これだけは全くの無傷、決して砕けることのない|大《おお》太刀《だち》『|贄《にえ》殿《とのの》遮《しゃ》那《な》』を、|杖《つえ》として黒焦げの床に突き立て、身を起こす。震えが|酷《ひど》い。まるで、今にも崩れ落ちそうな|泥《どろ》細《ざい》工《く》だった。
「ゆるさ、ない」
「|結《けっ》構《こう》……」
ヴィルヘルミナが、静かに答える。
「……『やめて』だの『許して』だの、|哀《あわ》れみを|請《こ》う言葉を吐いていたら、答える前に、まずコレを破壊していたのであります」
「――ッ!」
さらに一息、悠二は絞め上げられる。
「|鈍《なま》ったといっても、日常のことでありましょうか……なれば、なればこそ」
「ッ!」
悠二は骨の|軋《きし》みを、自分の|気《き》管《かん》に感じる。|咽喉《のど》仏《ぼとけ》が|潰《つぶ》れかかっていた。込み上げてくるものを必死に抑える。舌が|膨《ふく》れ上がっている今、|嘔《おう》吐《と》したら|吐《と》瀉《しゃ》物《ぶつ》で|窒《ちっ》息《そく》してしまうに違いなかった。
「守らねばならないのであります。完全なるフレイムヘイズを」
「……勝手なこと、ばっかり!」
声の切りとともに、シャナの両足の裏が爆発した。
|悠《ゆう》二《じ》を|縛《しば》るリボン目掛けて、|大《おお》太刀《だち》の|切《き》っ|先《さき》が走る。
が、
一瞬でその切っ先が、ふわり、と……全く当然のように、ふわり、と包まれていた。|刺《し》突《とつ》の勢いを殺さず、|僅《わず》かに力の流れる向きを変えて、シャナの体を恐ろしい勢いで回しながら投げ飛ばす。小さな体の向かう先は、床。
ダガン、とコンクリを砕き、体を転がす鈍い音がして、静かになった。
「私にも、|不《ふ》意《い》討《う》ちは効かないのであります」
「|無《む》駄《だ》」
平然と、自らの体はピクリとも動かさずにシャナを投げ飛ばしたヴィルヘルミナの|技《ぎ》量《りょう》に、悠二は恐怖した。
からり、と音がして、また悠二は振り向かせられる。
向いた先で、シャナが立ち上がっていた。
「まだ……まだ!」
再びの特攻、
「|誉《ほ》められない戦術でありますな」
「|無《む》謀《ばう》」
高空に放り投げられたシャナが、この|遣《や》り取りの終わりとともに落ちてきた。
ダン、と鈍い|響《ひび》きを上げて落ち、宙に浮く瞬間、|紅《ぐ》蓮《れん》の|双《そう》翼《よく》が燃え上がり、加速する。
|飛《ひ》翔《しょう》に|斬《ざん》撃《げき》を乗せるシャナ、その|真《ま》横《よこ》に、
「っあ!?」
|鬣《たてがみ》とその内に舞う『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』はその|字《じ》義《ぎ》通り、躍り出ていた[#「躍り出ていた」に傍点]。
「なかなか」
「|及《きゅう》第《だい》」
言う間にまた、絡んだリボンが動作の方向を変え、コンクリートの床に、|倍《ばい》化《か》された勢いで放り落とされている。じゃれ付く子供といなす|大人《おとな》ほどの、圧倒的な実力差だった。
しかしそれでもシャナは、
「うあああっ!!」
倒れる姿勢から|無《む》理《り》矢《や》理《り》に炎を|顕《けん》現《げん》させ、周囲を一気に焼き払う。
「――はあっ、――はあっ――、っ!」
気づいた。
鬣に舞う『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』が、自分の頭上に浮いていると。
降りかかってくるのは、リボンでできた|剣《けん》山《ざん》。
「――ぐっ!」
さっきと同じく、『|夜《よ》笠《がさ》』の|裾《すそ》を素早く上に展開して備える。
と、自分ではなく周囲に、まるで|檻《おり》のように取り囲む形で、リボンの雨が突き刺さった。
「!!」
意図に気づいたときは遅い。
アンカーとなったリボンに|牽《けん》引《いん》され、|凄《すさ》まじい勢いをつけられたリボンの剣山が、『夜笠』の防壁を|薄《うす》紙《がみ》同然に突き破った。
(シャナ!!)
|悠《ゆう》二《じ》は叫びたくても叫べない。それどころか、ヴィルヘルミナに振り回される彼自身の方が既に|瀕《ひん》死《し》とさえ言えた。その|苦《く》悶《もん》の中、|畏《い》怖《ふ》に体が震える。
(く、そおっ、なんて、|奴《やつ》)
彼を振り回すこの|鬣《たてがみ》 の |塊《かたまり》は、決して高速で移動しているわけではない。シャナが動く、その|僅《わず》かな前後に動き出している。速さはシャナ自身が受け持っていて、素早く動けば動くほどその突進力を利用され、|弾《はじ》き飛ばされる。
恐るべきは『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』、まさに|戦《せん》技《ぎ》無《む》双《そう》の|誉《ほま》れも当然な技の|冴《さ》えだった。
その鬣が仮面の|舞《まい》手《て》の、手を前に差し出すに従ってゆらりと動き、|直《ちょっ》下《か》串《くし》刺《ざ》しにした少女を、前に|掲《かか》げる。まるで、|磔《はりつけ》の罪人のようなその体は、そこかしこをリボンによって|貫《つらぬ》かれ、血が|噴《ふん》出《しゅつ》していた。
(そ、それでも、育ての親なのかよ!!)
そう悠二は叫びたかったが、|窒《ちっ》息《そく》半歩|前《まえ》まで絞められた首は、ヒューヒュー間の抜けた音が出るだけ。自分の|情《なさ》けさと弱さに、涙も出ない。
仮面のグィルヘルミナは、|容《よう》赦《しゃ》のない|冷《れい》厳《げん》とした声で告げる。
「さあ、破壊への同意を。ただ、認めてさえくれれば、良いのであります」
(……!!)
悠二は悟った。
なぜ自分が、最初に|囚《とら》われたとき、|即《そく》座《ざ》に破壊されなかったかを。
ヴィルヘルミナはシャナの、日常に|惹《ひ》かれる心を折ろうとしていたのだ。
二度とこのようなことがないように、彼女自身に、誓わせようとしているのだ。
もう絶対に、|余《よ》計《けい》な事物に気を取られない、完全|無《む》欠《けつ》、一個のフレイムヘイズとして。
(……許さ、ない――!)
図らずも悠二は、シャナと同じ言葉で怒っていた。
自分の中に、いつか感じた存在の力≠フ|脈《みゃく》動《どう》を感じる。
しかし、それを|自《じ》在《ざい》に制御できるほど、こなれでもいない。こなれていたとして、この『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』を相手に何事かできるわけも、また通用するはずもない。しかし、それでも怒る。
シャナを力で従わせる[#「シャナを力で従わせる」に傍点]、という最低|最《さい》悪《あく》の行為に。
その|強《きょう》要《よう》に、自分の存在を利用されていることに。
ただ、心の底から、怒る。
(許さない――!)
怒っていると、シャナに伝える。
自分はそんなことを許しはしない、と伝えるために。
(許さない、絶対に!)
彼の心を継ぐように、|磔《たっ》刑《けい》に処されたシャナが、|薄《うす》目《め》を開けて、ぽつりと。
「絶対に……|嫌《いや》」
「!!」
ヴィルヘルミナが、仮面越しにも分かる|驚《きょう》愕《がく》の姿勢を見せた。
「私は従わない[#「私は従わない」に傍点]」
悠二は口の端だけで、笑う。
(ざまあ、みろ……これが、シャナだ)
怒れる少女は、口に|溜《た》まった血を吐き出して、|牙《きば》をむく|野《や》獣《じゅう》のように言う。
「ヴィルヘルミナの、方が、間違ってる」
仮面が、少女からの|煌《きらめ》きを受け、|紅《ぐ》蓮《れん》に染まる。
「私が、そんなこと認めるわけがないって、分かってるはず」
血みどろ|灰《はい》塗《まみ》れの中、二つの|灼《しゃく》眼《がん》が|燦《さん》然《ぜん》と燃える。
「私は、言ったよね、アラストール」
これまで一言も|喋《しゃべ》らなかったアラストールが、いつかの|宣《せん》誓《せい》を、読み上げる。
「皆がどれだけ自分を愛しても、自分がどれだけ皆を愛しても、嫌なら、絶対にやらない」
「――」
「――」
二人の|絶《ぜっ》句《く》があった。
今度は逆に、シャナが問い詰める。
「いったい……なにが、あったの?」
「……う」
「ヴィルヘルミナが、そんなこと、いうはずがない」
「う、う」
「なのに、なぜ……そんなこと言うの。私に、なにを隠してるの?」
「うう、う」
「私、そんなヴィルヘルミナには、絶対に従わない」
|一《いっ》端《たん》言葉を切って、ボロボロの少女は、ボロボロの少年に求める。
「一緒に、できるよね、|悠《ゆう》二《じ》」
「――」
「止め――」
自分と少女の間に割り込んだ声なき声[#「自分と少女の間に割り込んだ声なき声」に傍点]にヴィルヘルミナが|怒《ど》声《せい》を張り上げる瞬間、
「――っはあ!」
シャナは自らを|貫《つらぬ》いていたリボンを、全身から|噴《ふ》き出した|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》で焼き払っていた。
「――ぐっ!?」
近すぎる、その炎の輝きにヴィルヘルミナは|怯《ひる》む。
が、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は、この程度で戦いの流れを|見《み》誤《あやま》らない。
炎を突き破って飛んできた『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』|渾《こん》身《しん》の|刺《し》突《とつ》、 何の|工《く》夫《ふう》もない、 最後だろうその抵抗の先端を|捉《とら》え、今までと同じように投げ飛ばしていた。
床面に思い切り|叩《たた》きつけられて跳ねる、
そんなシャナの|様《よう》子《す》に勝利を確信する、
ヴィルヘルミナは気付いていなかった。
「危険!!」
彼女の眼前、
「――なっ!?」
首を|吊《つ》られていた少年が、見慣れぬ|大《たい》剣《けん》を、真っ向から振り下ろしていた。
少女は、噴き出した炎に|紛《まぎ》れ、|黒《こく》衣《い》の内よりもう一つの武器を少年に投げ渡していたのである。少年によって存在の力≠込められた大剣は軽々と、重い|斬《ざん》撃《げき》を放つ。
(が、甘い!!)
ドン、
と、ヴィルヘルミナはこの斬撃を、|眉《み》間《けん》まで|間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》の距離、
リボンの束で受け止め、今度こそ勝利を|掴《つか》んだと、
|錯《さっ》覚《かく》する。
(―――――――――――――はあああああああああああああああああああっ!!)
悠二が、|己《おのれ》が身にある存在の力≠大剣に|注《そそ》ぎ込むため、|咆《ほ》える。
大別の|銘《めい》は『|吸 血 鬼《ブルートザオガー》』。
かつて|御《み》崎《さき》市《し》を|襲《おそ》った|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=A|愛《あい》染《ぜん》自《じ》<\ラトが|所《しょ》持《じ》していた宝具。
銘の|由《ゆ》来《らい》たる――存在の力≠注ぎ込むことで触れた敵の体を切り刻む――|特《とく》殊《しゅ》能力が、並みの|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠遥かに|凌《りょう》駕《が》する悠二の存在の力=Aその|大《たい》半《はん》を注ぎ込まれて、ヴィルヘルミナに襲い掛かった。
ボバッ、
と血が、宙に舞う。
「あ ―― っ 」
「姫!?」
ティアマトーの叫びが一瞬で遠くに消え果てるほどの、深く無数の傷が、気の遠くなるような痛みが、いつかのように、またいつかのように――全てを|闇《やみ》に落とす。
ボロボロと、熱い|雫《しずく》が顔にかかる。
とても悲しい。
なぜ他人のために、そこまで泣くのか。
|意《い》地《じ》っ|張《ぱ》りな馬鹿、非常識なガサツ者。
なにが、なにが天下|無《む》敵《てさ》の幸運を、だ。
たまには、自分の身を守ったらどうだ。
「……馬鹿」
言って目を開けると、違う顔があった。
|可愛《かわい》い、可愛い、とても可愛い、少女。
でも、髪と瞳の色が、違う。
いや……知っている。
自分が、変えたのだ。
「ヴィルヘルミナ!! 良かった、良かった!!」
少女が|縋《すが》り付いてくる。
その胸のペンダントから、|呆《あき》れたような声が。
「だから大丈夫だと言ったであろうが」
「だって、だって|悠《ゆう》二《じ》があんなムチャクチャバカみたいな量の力|注《そそ》ぎ込むから!!」
「わ、悪かったって言ってるれひょ、初めてだから|加《か》減《げん》が分からなかったんひゃひょ」
薄い|視《し》界《かい》の端に、|殴《なぐ》った覚えのない|頬《ほお》を押さえたミステス≠フ少年がある。
「……|容《よう》態《だい》報告」
|無《ぶ》愛《あい》想《そう》なパートナーが|訊《き》いてきたので、短く答える。
「大事ない……でありましょう」
「本当に?」
少女が念を押して顔を|覗《のぞ》き込んでくる。
そんな表情を見ると、こっちまで悲しくなってくる。
だから、強く育てたのに。
「どうして、どうしてそんなに、感情を動かすのでありますか」
少女は|即《そく》答《とう》した。
「好きだから」
これは|嘘《うそ》だ。
|大《だい》嫌《きら》い、と思っている。
「勝手すぎるよ、ヴィルヘルミナは……大嫌い」
これも、嘘だ。
その心のまま、少女は言う。
「私が変わったって、思ったの……?」
なにも、答えられない。
「フレイムヘイズになったのも私、フレイムヘイズになろうとしてた[#「なろうとしてた」に傍点]のも私」
「……」
アラストールの|炎《ほのお》の中を、楽しそうにはしゃぎ、
|涼《すず》風《かぜ》を受ける|菩《ぼ》提《だい》樹《じゅ》の下、幹を挟んで|白《はっ》骨《こつ》と座り、
自分の|膝《ひざ》枕《まくら》の上で、|日向《ひなた》ぼっこをしてウトウトし、
「私はね、ヴィルヘルミナがこんなことになったら、いつだって泣くんだよ?」
「……」
階段を転げ落ちて泣かれ、
料理中に|火傷《やけど》して泣かれ、
工事中に埋まって泣かれ、
「強くて誇り高いフレイムヘイズになろうって思ってたけど、いっぱい泣いたよね?」
「……」
大事な鉢を割ったとき、きつい|酢《す》のものを食べたとき、本の上に|蜂《はち》蜜《みつ》をこぼしたとき、堀に落ちて|溺《おぽ》れかけたとき、刈り込みで手を切ったとき、工事中の電線に触ったとき、自信満々に解いた課題が間違っていたとき……
「変わってないよ。私、なにも変わってない」
「……はい」
涙が、また|溢《あふ》れてきた。
少女が、強く抱き締めてくれた。
恐怖と|焦《しょう》燥《そう》感《かん》は、いつしか消えていた。
「全て私の、|身《み》勝《がっ》手《て》だったのであります」
「|猛《もう》省《せい》」
血みどろの、未だ回復もままならないヴィルヘルミナは、砕けたショーケースに背を持たせかけ、その前に座った、同じくボロボロの二人に言う。
「私は……フィレスと戦いたくなかったのであります」
「それは……?」
「|彩《さい》飄《ひよう》<tィレスと、『永遠の恋人』ヨーハン……『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』の、名であります」
シャナが、先の言葉を|怪《け》訝《げん》な顔で繰り返す。
「戦いたく、ない?」
「どういう意味だ?」
|訊《き》く|悠《ゆう》二《じ》を、|険《けん》のない|平《へい》穏《おん》な瞳に映し、ヴィルヘルミナは答える。
「戦う前の質問に、まず答えるのであります」
「|秘《ひ》匿《とく》情報」
ティアマトーの一言で、空気に|緊《きん》張《ちょう》が走る。
その中、ヴィルヘルミナは、おもむろに口を開く。
「|壊《かい》刃《じん》≠ェ受けた|指《し》令《れい》は、恐らく『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の|奪《だっ》取《しゅ》」
シャナが|不《ふ》審《しん》気《げ》に|訊《き》く。
「えっ、でも、『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』を敵に回してまで欲しがるような物じゃないって……」
ヴィルヘルミナは、悠二を見つめたまま、言う。
「|貴方《あなに》に、未だ強力な『|戒《かい》禁《きん》』がかかっている理由でも、ある」
「えっ」
「|壊《かい》刃《じん》<Tブラクによる|痛《つう》撃《げき》を受け、ヨーハンを破壊されそうになったフィレスは、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の中にヨーハンを封じ、|転《てん》移《い》させたのであります」
「……封じ……なん、だって……?」
|悠《ゆう》二《じ》は恐怖の情報に触れて青ざめ、シャナは唇をグッと引き結ぶ。
「転移とは、この世と|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ『|狭《はざ》間《ま》の物体』たる|宝《ほう》具《ぐ》が、この世に開いた|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ穴、即ちトーチを自動的に|塞《ふさ》ぐ現象であります。|宿《やど》主《ぬし》のトーチという存在が消えた瞬間、宝具は次の穴へと、ランダムに転移する……フィレスはその現象を利用して、|奪《だっ》取《しゅ》寸《すん》前《ぜん》の『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を守った……いえ、愛するヨーハンを、逃がしたのであります」
「ま、待ってくれ! じゃあ、じやあ、僕の中には[#「僕の中には」に傍点]!?」
「そう。……あるのは、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』ではない……|己《おの》が復活の扉をフィレスが|叩《たた》くときを待つ……『永遠の恋人』ヨーハンそのものであります」
「そん、な――っ」
悠二は、座っていた腰を、さらに抜かしてへたり込んだ。自分の中に、目覚めを待つ誰かがいる――自分は、卵の|殻《から》に過ぎないかもしれない――その|衝《しょう》撃《げき》に、力が、抜ける。
|隣《となり》にあるシャナが、そんな少年の肩に手を添え、しかしヴィルヘルミナに強く|尋《たず》ねる。
「じゃあ、なぜヴィルヘルミナは……その、友達だった|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フために悠二を|囚《とら》えたりしないで、また数百年を……もしかしたら、ずっと見つからないままかもしれない|無《む》作《さく》為《い》転移をさせようと思ったの?」
ヴィルヘルミナは事態の|核《かく》心《しん》を突く少女の質問に、ややの|沈《ちん》黙《もく》を置いて答えた。
「それこそが、|呪《のろ》い」
「|悪《あく》夢《む》」
|不《ふ》吉《きつ》な二人の声を、アラストールが|質《ただ》す。
「できるだけ、事実を正確に頼む」
自分という存在への|裁《さい》断《だん》が下るときを待つ悠二に、
「|瀕《ひん》死《し》のフィレスがヨーハンの存在を封じ、転移させるまでの、ほんの|僅《わず》かな間に……」
ヴィルヘルミナは、|終《つい》の回答を、|腸《はらわた》の|捻《ね》じ切れるような声で|搾《しぼ》り出す。
「……私たちだけが、見ていたのであります。|壊《かい》刃《じん》≠ェ、見たこともない型の|自《じ》在《ざい》式《しき》を『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の|循《じゅん》環《かん》部、『永遠の恋人』ヨーハンを構成する部位に打ち込み、劇的に|変《へん》異《い》させたところを。|蝕《むしば》むように、|貪《むさぼ》るように、狂いと変化が起こり……そして」
「転移」
遠く離れた日本、|御《み》崎《さき》市《し》に。
トーチとなった、|坂《さか》井《い》悠二の、中に。
シャナと出会う数日、あるいは数秒、前に。
(……僕は、なんなんだ?)
|悠《ゆう》二《じ》は、知らず自分の胸を押さえていた。そこに本当はあるはずのない心臓が、内側から大きく|掌《てのひら》を|叩《たた》いている。息が、本当に苦しい。
(……この奥に、なにがある?)
その|懊《おう》悩《のう》をヴィルヘルミナは見て、しかし|平《へい》淡《たん》に語る。
「あのとき、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』に何が起きていたのかは不明でありますが、あれだけ構成を|司《つかさど》る|部《ぶ》位《い》の式を狂わされ変えられた以上、彼の復活はおろか、|不《ふ》期《き》の|災《さい》害《がい》発生すら、有り得る……」
「存在、|変《へん》異《い》」
「彼女は、このことを知らない……だから今も、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を追い求め続けている、必ずやってくる……彼女に『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』は渡せない……渡して、絶望など……させられない」
言う間に|目《め》線《せん》を床に落とすヴィルヘルミナに、シャナは言う。
「させられない、じゃなくて、させたくない、のね?」
「……」
ヴィルヘルミナの|沈《ちん》黙《もく》は、無言の肯定に他ならなかった。
そんな同志を、アラストールが重く|断《だん》罪《ざい》する。
「なるほど。戦いたくない、というのは、そういうことか。かの王≠ニそこまでの|友《ゆう》誼《ぎ》を結んだ、と……フレイムヘイズの使命に名を借りて、|己《おのれ》の|対《たい》峙《じ》すべきものから、逃げようとしていた、と言うのだな」
シャナは、静かに怒る。
「なんで、自分はそうなのに、私から悠二は取り上げようとしたの……?」
問いかけられたヴィルヘルミナは、強く見つめた。
「知られたくなかったのであります。戦友への誓いの形、あの男の愛の|証《あかし》たる『完全なるフレイムヘイズ』に最も近い場所にいる私が、|情《じょう》のために動いていることを」
いつか夢見て、いつか愛して、いつか|恨《うら》んで、いつか許した、少女を。
「恐れていたのであります。知られることで、私が望み、彼女が残し、彼が託した『完全なるフレイムヘイズ』が、私のせいで変わってしまうことを」
自分が、誇りとともに世へ送り出した、一人のフレイムヘイズを。
「取り除きたかったのであります。あなたが変わってしまう全ての要因、|元《げん》凶《きょう》、状況、生活、その全てを……|傲《ごう》慢《まん》にも、|恣《し》意《い》と、暴力で」
見つめて、涙を|零《こぼ》した。
|情《じょう》に|囚《とら》われる本心、|身《み》勝《がっ》手《て》な理由の怒り、少女に強制する|醜《みにく》さ、全てを使命の陰に|隠《かく》し、あくまで|我《が》を通そうとした。その|愚《ぐ》行《こう》を、分かっていても止められなかった。
自分たちの築いた全てが、崩れ去るような気がして。
しかしその少女は、一人頷いて[#「一人頷いて」に傍点]言う。
「決めた」
「……え、っわ!?」
シャナは、|悠《ゆう》二《じ》を支えていた肩をグッと引き、両肩を|捉《とら》えて向き合った。
恐怖に|呆《ほう》けていた少年は、|灼《しゃく》眼《がん》の|煌《きらめ》きを受け、|引《ひ》っ|叩《ぱた》かれるように目覚める。
「シャナ……」
「悠二、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』がどんな危険を|孕《はら》んでいるか分からない以上、それを不用意な|転《てん》移《い》で|野《の》放《ばな》しにはしない。だから、悠二も|覚《かく》悟《ご》を決めて」
悠二は、胸を押さえていた手を、そのまま握った。
(恐いけど)
という前置きを飲み込んで、|頷《うなず》く。
「分かった」
シャナはその内心を|見《み》透《す》かしたようにクスリと笑い、首にかけたペンダントを見る。
「アラストール、悠二は破壊しない。しばらくここに留まって情報を|収《しゅう》集《しゅう》する。いい?」
「うむ。動こうにも情報の量が|寡《か》少《しょう》に過ぎる。当面は|坂《さか》井《い》悠二を|餌《えさ》に、見えぬ敵の正体と出方を探るとしよう」
「道具の次は餌か……ひどい扱いだな」
「状況的な事実ってやつよ。|頑《がん》張《ば》れば、別の呼び名が付くかもね」
期待を込めてシャナは笑った。
悠二は|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》きつつも、自分の今を整理する。
「とりあえず、現状は維持。期待していた|謎《なぞ》も解けない。それどころか、もっとわけの分からない存在だって分かる。フィレスって人も追っかけてくる。|自《じ》在《ざい》式《しき》を用意した|奴《やつ》もいる……もう、どうにでもなれって感じだな」
「|覚《かく》悟《ご》は?」
|悪戯《いたずら》っぽく笑う少女に、|不貞腐《ふてくさ》れた風に、しかし|先《きっき》までの恐怖を押しのけて答える。
「決めるよ、決めるしかないじゃないか」
そんな二人の|遣《や》り取りを|傍《そば》から|眺《なが》めていたヴィルヘルミナは、深く|微《かす》かに笑った。
(私の役目は……終わっているのでありますな)
と、少女が少年を離し、自分に向き合っている。
「ヴィルヘルミナ、私はその|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ来たら、全部いうよ[#「全部いうよ」に傍点]。全部言って、それから、どうするかを決める」
その宣言には、|余《よ》計《けい》な感情はない。
堂々たる、自己の進む道の|表《ひょう》明《めい》だった。
「私は、自分で考えて、自分で決めて、自分で行動する。そう育ててくれたのは、アラストールとシロと、ヴィルヘルミナなんだから」
もう一度、アラストールが口を開く。
「|錯《さっ》覚《かく》だったのだ、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』」
深く強く、自らの|感《かん》慨《がい》を語る。
「我々が『完全なるフレイムヘイズ』を作り上げたわけではない。我々は、その材料を供したのみ。本当に作り上げたのは、ここにいる彼女なのだ」
胸元で彼に言わせるまま、シャナは立ち上がる。
「結果が全く|軌《き》を|一《いつ》にし、我ら自身がフレイムヘイズの使命に|凝《こ》り固まっていたがために、なおさら気付き難い。全てに強制できるのは彼女だけであり、フレイムヘイズとしての使命に、まして我らの愛情ごときに、|拘《こう》束《そく》力など、ない」
|封《ふう》絶《ぜつ》の中を|修《しゅう》復《ふく》するために、人差し指を天にかざす。
「彼女自身が、我らの使命に|殉《じゅん》じる意味を見出して選び、その道への敬意をもって|真《しん》摯《し》なる|遂《すい》行《こう》を誓ったのだ。ゆえにこそ、我も契約で応えた」
その指先から散った|紅《ぐ》蓮《れん》の|火《ひ》の|粉《こ》が、破壊された場所に、物に宿り、修復してゆく。
「|尊《そん》敬《けい》すべき人間に。対等の同志として」
傷だらけの、しかしあまりにも見事に|屹《きつ》立《りつ》する、一個のフレイムヘイズ。
ヴィルヘルミナは静かに、その『偉大なる者』の姿を見上げていた。
パビリオン裏のベンチに座っていた|吉《よし》田《だ》は、目を開けた。
|悠《ゆう》二《じ》が照れくさそうに笑って、
「やあ」
と言う。なぜか彼は、ファンシーパーク|土産《みやげ》の|長《なが》袖《そで》ジャケットを着ていた。
「終わったん、ですか?」
「まあね。ちょっとこじれたけど、|概《おおむ》ねめでたし、かな」
笑う彼の|襟《えり》元《もと》に、ものすごい|痣《あざ》が|覗《のぞ》いた。身動きにも、どことなく痛みをかばうようなぎこちなさがある。
「|怪《け》我《が》を……?」
心配する少女を元気付けようと、悠二は努めて軽く言った。
「大丈夫、ボロボロになっても、どうせ今夜十二時には全快するんだ」
そう少年が|気《き》遣《づか》ってくれることへの|嬉《うれ》しさの陰に、
(……)
吉田はふと、感じた。それを、それが生まれたことを恐怖して、|慌《あわ》てて自分の想いを、声に行為に込めて立ち上がる。
「ほ、本当に、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、もう|零《れい》時《じ》に|怪《け》我《が》が回復することは確認|済《ず》み」
その後ろからやってきたシャナが、代わりに答えた。
「それより、戦闘で服がボロボロになったことの言い訳を考える方が大事」
彼女も同じく、ファンシーパーク市販のジャージ上下を着ている。彼女の方には、怪我らしい怪我は見られない。服だけを破くなり燃やすなりしてしまったのだろう、と思う。
(そう)
そういうものなのだ[#「そういうものなのだ」に傍点]――と、また感じて、|吉《よし》田《だ》は悲しくなる。
「カルメルさんが僕やシャナとケンカして破った、って感じで泥を|被《かぶ》ってくれるらしいんだけどね。父さんにも|口《くち》裏《うら》を合わせてくれるように、|今《いま》話を付けに行ってるみたいだ」
生死の|遣《や》り取りの後にも平然としている少年を、吉田は黙って見つめる。見つめて、今感じたものを|誤《ご》魔《ま》化《か》すため、今を|繋《つな》ぎとめるために立ち上がり、
「大丈夫、なんですよね」
彼の手を握る。
「あっ!?」
その行為に驚いたシャナが叫んで、対抗するつもりか、もう片方の手をがっしり握る。
「んがっ!? 痛たたた! シャナ、強い強い!?」
「吉田|一《かず》美《み》も握ってるのに、なんで私だけに注意するのよ!」
「私はそんな握り|潰《つぶ》すようにはしてないもの!」
いつものように、|悠《ゆう》二《じ》を挟んで騒がしく言い争う。
必死に想い、|頑《がん》張《ば》って張り合う、いつもの遣り取り。
しかし吉田は、それらの中に、小さな気持ちが|滲《にじ》み出しているのを感じていた。
それは、二人に対して抱いた、『人間ではない、なにか別の存在』という距離。
それが恐くて、それを感じた自分が悲しくて――でも、手を離したくなかった。
「痛っ!? って、よよ、吉田さんまで!?」
「そっちもやってるじゃない!」
「シャナちゃんがするから|釣《つ》られただけ!」
絶対に、離したくなかった。
騒ぐ三人の声を近くに聞いて、ベンチに座るライオンは、肩に笑いの|弾《はず》みを持たせた。
その彼に、|恬《てん》淡《たん》と歩み寄る|人《ひと》影《かげ》がある。織り直したワンピースにヘッドドレスとエプロン、全て純白の衣装に身を包んだヴィルヘルミナだった。
「……」
ベンチの前まで来て、ライオンの顔を|凝《ぎょう》視《し》すること数秒、静かにその|隣《となり》に座る。
ライオンは、何も|尋《たず》ねなかった。それまでの姿勢で、相手の時が満ちるのを待つ。
お互い視線は向けず、ベンチの正面、歓声と音楽に|沸《わ》くファンシーパークの情景を、遠く見つめる。
「……」
また数秒の|躊躇《ためら》いを|空《あ》のてから、ヴィルヘルミナは口を開いた。
「親たる者に、少し話を|伺《うかが》いたいのでありますが」
ライオンは、深く静かに、その呼びかけに答える。
「いいとも。困った人の相談に乗るのが、私の仕事だ」
[#改ページ]
エピローグ
誰にとっても|酷《ひど》い騒ぎのあった|翌《よく》朝《あさ》。
早朝|鍛《たん》錬《れん》を終えた|悠《ゆう》二《じ》は、昨日と同じくシャナの入浴中に、自室でアラストールと|対《たい》峙《じ》していた。なにかと思って話を聞くと、『|吸 血 鬼《ブルートザオガー》』を始め、|宝《ほう》具《ぐ》の扱いや存在の力≠フ|加《か》減《げん》、戦闘中の行動など、レクチャーという名の|吊《つ》るし上げが延々続く。
シャナにら昨夜の鍛錬で似たような話をされていたため、
(なんで今さら?)
と悠二は|不《ふ》思《し》議《ぎ》だった。
そのレクチャーの最後、アラストールはいかにも付け足しのように、言う。
「昨日の件については、改めて礼を言っておこう、|坂《さか》井《い》悠二」
|不《ふ》意《い》討《う》ちのように言われて、悠二はポカンとなった。
「……」
「どうした、なにを黙っている」
「いや、アラストールが僕にお礼だなんて気持ち悪――あ、えーと、うん、変な気持ちだなあ、と思ってさ、はは、は」
ふん、とベッドの上に置かれたコキュートス≠ェ、鼻で笑った。
やはり床に正座する|悠《ゆう》二《じ》は、自分の疑問を口にする(鼻で笑われるのはいつものことなので気にしない)。
「でも、なんでわざわざこんなときに? 普通にシャナといるときにでも言えば」
「一緒の際に、|貴《き》様《さま》を認めるような発言をすれば、あの子に|油《ゆ》断《だん》と甘えが生じる」
「今言われたことを僕が漏らさない、って程度には、信用されてるわけだ……にしても」
悠二の|可笑《おか》しげな気配を、|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔《ま》神《じん》は|見《み》咎《とが》める。
「なんだ」
「そういうところは、やっぱり父親みたいに|厳《きび》しいんだなって思ってさ」
引っかかる部分を感じて、再び問い|質《ただ》す。
「まるで、そういうところ以外が|情《なさ》けないように聞こえるが」
「気のせい気のせい。でも、まあ、たしかに昨日はかなり危なかったな。シャナのためにもカルメルさんのためにも、なんとか助けることができて良かったよ」
悠二は笑って話を元に戻した。
ところがアラストールは黙ってしまう。
「……」
「どうしたんだ?」
「……|坂《さか》井《い》悠二、これからは、その|覚《かく》悟《ご》では足りぬ」
「えっ、でも」
「これからは、シャナがフレイムヘイズとして戦うだけではない。『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』のミステス≠スる貴様|自《じ》身《しん》の問題にもなるのだ。他者に外から働きかけるだけの覚悟では、足りぬ」
いきなり難しい話を振られて、悠二は|戸《と》惑《まど》った。
「……足りない?」
「そうだ、足りぬ」
悠二自身としては、できる|精《せい》一《いっ》杯《ぱい》のことを彼女のためにやってきたつもりなのだが。
言われていることの意味――これからは、より恐ろしい自分自身の中身と|対《たい》峙《じ》してゆかねばならないこと――問題は既に『戦うシャナという他人』ではなく、『なにかを秘めた自分』のものとなっていること――それら、もう自分が当事者であることも分かっている。
(……ん?)
今、|微《び》妙《みょう》な|矛《むじ》盾《ゆん》を感じた。
(僕というミステス≠ェ、問題の当事者として、シャナを助ける)
思いの中で並べ、|検《けん》証《しょう》する。
(シャナを助ける、ってのは、シャナを中心に考え、て……――そうか)
ようやく気が付いた。
足りないのは、『自分』なのだった。
彼女を中心に置いて、自分のやることを探すのではない。
自分を中心に置いて、彼女に対しなにかをぶつけるのだ。
(それが、僕からの|覚《かく》悟《ご》なんだ)
思ったとき、答えが自然に出た。
たった、一言。
「シャナを守ろう、この僕が」
「……」
アラストールが、その有り得なさ過ぎる言葉を聞いて、|呆気《あっけ》に取られたのが分かった。
「……」
言った|悠《ゆう》二《じ》自身も、あまりに身の|程《ほど》知らず過ぎる言葉を|反《はん》芻《すう》して、恥ずかしくなった。
「…………」
「…………」
しばらく双方とも黙って、
「………………フ、フ」
「………………ク、ククク」
そして、笑っていた。
「ッフハハハハハハハハハハ! なんだ、それが、|貴《き》様《さま》の覚悟だと、ハハ、ハハハハ!」
「ハハハッ、ハハハ、笑う、笑う、なよ、これでも、ハハ、必死なんだから、ハハハ!」
大声で笑って、笑って笑って、笑い転げて、
シャナが部屋に戻ってきて変な顔をするまで、二人は笑い続けていた。
昨日の|騒《そう》動《どう》の後、
もう大丈夫と見たヴィルヘルミナに子供らを預けた|貫《かん》太《た》郎《ろう》と|千《ち》草《ぐさ》は、予約を入れておいた駅前ホテルの高層バーに繰り出して、夜通し飲んでいたという。
シャナが悠二に|黒《くろ》焦《こ》げの何か(朝食であるらしい)を得意げに振る舞っている最中、二人は堂々の朝帰りを果たした。
そうして貫太郎はいきなり、
「えっ、もう出かけちゃうの!?」
とシャナが驚くほど、|口《く》調《ちょう》はあっさり、行動は急に、自らの|出《しゅっ》立《たつ》を告げた。
「今度だって休みがあったわけじゃない。家族が心配だから、と無理を言って帰らせてもらったんだ。その誠実さには、やはり同じ誠実さで答えなくてはいけないと思う」
|千《ち》草《ぐさ》も心得たもので、やや|酒《さけ》臭《くさ》いニコニコ顔で言っている。
「いつものことなのよ、シャナちゃん。なかなか捕まえさせてくれない人なんだから」
その、言葉とは|裏《うら》腹《はら》の幸せそうな笑顔を、シャナは|不《ふ》思《し》議《ぎ》に思った。
やがて昼前、|貫《かん》太《た》郎《ろう》はいつものグレーのスーツにコートを|羽《は》織《お》り、|坂《さか》井《い》家の門前に立った。
その前には見送りとして、千草と|悠《ゆう》二《じ》、シャナ、そして|急《きゅう》遽《きょ》呼ばれたヴィルヘルミナと|吉《よし》田《だ》の姿があった。
|各《おの》々《おの》、別れの言葉をかけ、その最後に、悠二が進み出る。
「はい、これ」
と|紳《しん》士《し》服《ふく》店のものらしい包み紙を渡す。
「ありがとう、いつも済まないな。昨日のデートで|小《こ》遣《づか》いも残り少ないだろうに」
受けとった貫太郎は、|嫌《いや》味《み》ではなく心底から|気《き》遣《づか》った。
そんな父のことを分かっている|息子《むすこ》は|苦《く》笑《しょう》する。
「じゃあアップしてくれるよう、母さんに言ってよ」
「あいにくだが、予算の編成権は母さんのものだ。独自に交渉してくれ」
軽く受け流しつつ、軽く包みを開けて、胸元にやる。
「どうかな、千草さん」
中は、渋い|紺《こん》地《じ》のネクタイだった。
まっさらな、ビニール越しの配色を見て取った千草は、|頷《うなず》いて答える。
「うん、いいかも」
貫太郎も頷き返してコートの内にこれをしまい、
「さて」
と|出《しゅっ》立《たつ》の合図のように、一声。
「今度の|帰《き》郷《きょう》は、なかなかに|刺《し》激《げき》的だったよ」
|妻《さい》子《し》の横に並ぶ三人の女性に笑いかけ、腰を軽く折った。
「|不束《ふつつか》な息子だ、どうか|厳《きび》しく接してやって欲しい」
「うん、任せて」
「そ、そんな」
「はい、極力厳しく接するのであります」
|三《さん》者《しゃ》三《さん》様《よう》の答えに笑顔を、
「父さん」
恨めしげな息子にさらなる笑顔を、
「いってらっしゃい」
最愛の妻に最高の笑顔を見せて、坂井貫太郎は|発《た》つ。
「いってきます」
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|何処《いずこ》か世の空を|彷徨《さまよ》う『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』の|中《ちゅう》枢《すう》部。
|殺《さっ》風《ぷう》景《けい》で広いドーム状の空間に、|妙《たえ》なる女性の声が|響《ひび》いた。
「ふむ、さすがの|探《たん》耽《たん》 求《きゅう》 究《きゅう》≠燻閧アずるか」
その中央、|擂《すり》鉢《ばち》状に階段を下った底にある巨大な|竈《かまど》の前に立つのは、タイトなドレスを多くのアクセサリーで飾った、|三《さん》眼《がん》の右目に|眼《がん》帯《たい》という|妙《みょう》齢《れい》の美女。
この世で最大級の|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ集団たる[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の幹部、『|三柱臣《トリニテイ》』が|一《ひと》柱《はしら》、|参《さん》謀《ぼう》こと|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオルである。
「物が物だ、|慎《しん》重《ちょう》を期すに越したことはあるまいが、だとしても三ヶ月とは長いの」
その右後方に腰を|屈《かが》める|悪《あく》魔《ま》形《がた》の男が、顔を伏せた下から答える。
「は、それが、その……|仰《おっしゃ》るところでは『少なくとも[#「少なくとも」に傍点]三ヶ月』と……」
「なに?」
その|呟《つぶや》きに巨人の|咆《ほう》哮《こう》を受けるよりも身を縮こまらせて、男は|弁《べん》解《かい》する。
「ききき、き、起動の方法よりも、まず、|式《しき》全体の構造|解《かい》析《せき》と、|新《しん》規《き》発見事項の研究から、始めておられる|由《よし》……」
その|情《なさ》けない姿からは、彼が[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の移動|要《よう》塞《さい》『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』の守りを|一《いつ》手《て》に任される|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A|嵐《らん》蹄《てい》<tェコルーであるとは全く想像できない。
「カンターテ・ドミノが|大《おお》御《み》 巫《かんなぎ》のご助力を得ることで、 なんとか起動|要《よう》件《けん》の構成を急がせてみると申しておりますが」
背を向けたままのベルペオルは、|僅《わず》かに顔を上げて|慨《がい》嘆《たん》した。
「ふむ……まあ、よいわ。いずれにせよ、|大《たい》命《めい》の発動まで、打っておかねばならぬ|布《ふ》石《せき》は山ほどあるのだ。この間、将軍には|同《どう》胞《ほう》殺しどもの耳と|脚《あし》を奪っておいてもらうとしようかね。さすれば結果的に、大命の|遂《すい》行《こう》も|滞《とどこお》りなく進むというものよ」
「は。ちょうどストラスが|戦《せん》況《きょう》 報告に戻っております。 |早《さっ》速《そく》将軍|閣《かっ》下《か》に|御《ご》意《い》向《こう》を通達いたしましょう」
ふむ、と答えるでもなく答え、ベルペオルは眼前の|大《おお》釜《がま》『ゲーヒンノム』を|眺《なが》める。
どす黒く積もった灰は、その|勾《こう》配《ばい》によって世界地図を描いていた。その東の端、|弧《こ》状《じょう》列島たる日本を、次いで正反対、|欧《おう》州《しゅう》に|目《め》線《せん》を流す。
「まったく、この世は、ままならぬのう……」
|呟《つぶや》き、|滑《なめ》らかな|頬《ほお》に指を添えて、|嘲《あざわら》う。
たまらないという風に、薄い唇の両端を|釣《つ》り上げて、嘲う。
「……ままならぬ、まったく、ままならぬ……ふ、ふふ、ふふふ」
困ったように、しかし、それをこそ、嘲う。
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日々の中で、誰もが出会い、別れゆく。
次なる時を、期して、恐れて、また出会う。
世界は、その時を|彼方《かなた》に秘め、ただ動き続ける。
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あとがき
はじめての方、はじめまして。
久しぶりの方、お久しぶりです。
|高《たか》橋《はし》弥《や》七《しち》郎《ろう》です。
また皆様のお目にかかることができました。ありがたいことです。
さて本作は、|痛《つう》快《かい》娯《ご》楽《らく》アクション小説です。今回は、メインキャストである保護者たちに、子供たちが|翻《ほん》弄《ろう》され(過ぎ)る展開です。次回は、少し変わった本になると思います。
テーマは、|描《ぎょう》写《しゃ》的には「|強《ごう》情《じょう》っぱりの|苦《く》悩《のう》」、内容的には「かくしごと」です。|強《きょう》硬《こう》派の|姑《しゅうと》|襲《しゅう》来《らい》に、|悠《ゆう》二《じ》とシャナは|戦《せん》々《せん》恐《きょう》々《きょう》。|吉《よし》田《だ》さんも絡んで、|騒《そう》動《どう》が起きたり起きたり起きたり。
担当の|三《み》木《き》さんはタフネゴシエーターです。営業さんに|校《こう》閲《えつ》さん、|他《た》部《ぶ》署《しょ》他《た》業《ぎょう》種《しゅ》諸《もろ》々《もろ》に日夜戦ってくれています。もちろん作者ともサービスシーン採用を巡り|戦《せん》斧《ぷ》断《ざん》撃《げき》の|際《きわ》(以下略)。
|挿《さし》絵《え》のいとうのいぢさんは、|微笑《ほほえ》ましい絵を描かれる方です。得意げなネコ口や照れた顔、タヌキ布の|裏《うら》 表《おもて》 紙《がみ》など、思わず口元が|綻《ほころ》びます。|御《ご》本業が|佳《か》境《きょう》に入られた中にも変わらず、この|度《たび》も|拙《せっ》作《さく》への|甚《じん》大《だい》なる|御《ご》助力をいただけたことに、深く深く感謝いたします。
県名五十音順に、|愛《あい》知《ち》のN々|垣《がき》さん、Y口《ぐち》さん、|青《あお》森《もり》のK|田《だ》さん、Y|谷《たに》さん、|秋《あき》田《た》のO野さん、大阪のK|本《もと》さん、|神《か》奈《な》川《がわ》のSさん、|埼《さい》玉《たま》のK|塚《づか》さん、T木さん、|滋《し》賀《が》のK|島《じま》さん、|千《ち》葉《ば》のY村さん、東京のW|部《べ》さん、|新《にい》潟《がた》のS|野《の》さん、|福《ふく》岡《おか》のY|野《の》目《め》さん、|福《ふく》島《しま》のH|間《ま》さん、Y|田《だ》さん、いつも送ってくださる方、初めて送ってくださった方、いずれも大変|励《はげ》みにさせていただいております。どうもありがとうございます。アルファベット一文字は|苗《みょう》字《じ》一文字の方です。
もし読み方が違っていたらすいません……そう、読みといえば、|参《さん》謀《ぼう》閣《かっ》下《か》の名前は「|PE《ペ》」ルペオルではなく「|BE《ベ》」ルペオルです。間違われると彼女は泣いてしまいます。私は高橋・弥七郎です。高橋弥・七郎ではありません。別に泣いていませんのでご安心ください。
ところで近日、いとうのいぢさんの初の画集『|紅《ぐ》蓮《れん》』が発売となります。頂いたご要望に沿って書き上げたシャナの短編も収録されております。|宜《よろ》しければそちらもご|覧《らん》ください。
なにげに|上手《うま》く埋まったようなので、今回はこのあたりで。
この本を手に取ってくれた読者の皆様に、|無《む》上《じょう》の感謝を、変わらず。
また皆様のお目にかかれる日がありますように。
[#地付き]二〇〇四年十一月 高橋弥七郎