|灼《しゃく》眼《がん》のシャナ[
高橋弥七郎
イラスト/いとうのいぢ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)半|袖《そで》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「そんな状態こそが普通」に傍点]
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プロローグ
人は誰も気付かない。
自分が暮らしている日常のすぐ|傍《そば》にあるものを。巻き込まれてその中にあるときも。
この世の歩いてゆけない|隣《となり》=c…|異《い》世界|紅《ぐ》世《ぜ》≠ゥら渡り来た|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ェ、人の持つこの世にあるための根源の力、存在の力≠喰らい、いなかったことにしている[#「いなかったことにしている」に傍点]と。
「どうにも、ならないのかな」
|零《こぼ》れ落ちた問いに、正面に立った真っ黒な自分[#「真っ黒な自分」に傍点]が答える。
「どうにも、ならないさ」
人から奪った存在の力≠ナこの世に|不《ふ》思《し》議《ぎ》を自在に起こし、自由に|跋《ばっ》扈《こ》する彼ら、|徒《ともがら》≠スちは、|己《おのれ》が行為の世界へと及ぼす|影《えい》響《きょう》のことを考えない。そこに本来あった者の欠落によって生まれた|歪《ゆが》みが、いずれ双方の世界に呼び起こすだろう、|大《だい》災《さい》厄《やく》のことを。
彼らはただ、|自《じ》侭《まま》に生き|様《ぎま》を現して、笑い喜び、ときに泣く。
「どうにも、できないのかな」
真っ黒な自分が、また答える。
「どうにも、できないさ」
やがて、|災《さい》厄《やく》への|危《き》惧《ぐ》を抱いた一部の|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠轤ヘ、|無《む》道《どう》の|同《どう》胞《ほう》らを|狩《か》ると決意した。
彼らは、人間……|徒《ともがら》≠フ存在に気付かされ、|愛《いと》しい者を喰われ、|復《ふく》讐《しゅう》を望む……そんな人間に、全存在を王≠フ|器《うつわ》として|捧《ささ》げさせ、代わりに|異《い》能《のう》の力を与えた。
こうして、|討《とう》滅《めつ》者フレイムヘイズ≠ヘ誕生した。
「どうすればいいんだろう」
真っ黒な自分が、今度は問い返してくる。
「どうしたいんだ?」
そして|徒《ともがら》≠ヘ、人の欠落という大きな|歪《ゆが》みを感じ追ってくるフレイムヘイズから逃れるため、喰った者の残り|滓《かす》からトーチ≠ニいう|代《だい》替《たい》物を作るようになった。トーチは残された存在の力≠フ|消《しょう》耗《もう》とともに、ゆっくりと役割や居場所、存在感を失い、やがて消える。
この人間の|紛《まが》い物、|故《こ》人《じん》の|欠片《かけら》でしかない道具は、今も無数、世を|彷徨《さまよ》っている。
「どう、したい?」
真っ黒な自分は近付き、対等の相手として、問いかけてくる。
「そうだ。どうしたいんだ、|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》――?」
目覚まし時計のベルが鳴って、夢は途切れた。
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1 雨の別れ
夜通し降り続いた|霧《きり》雨《さめ》は、まだ止んでいなかった。
明けるのが早い夏の朝も、今日は|靄《もや》と風雨の中、|一《いち》面《めん》灰色の世界である。|蒸《む》し暑さはまだ当分やってこない。細かい水滴は|涼《りょう》気《き》となって|御《み》崎《さき》市の住宅地を包み込んでいた。
その中、黒い傘と赤い傘が、横並びに進んでいる。
「シャナ、出た時間が遅かったから、ちょっと急ごうか」
黒い傘の下から、坂井悠二が|傍《かたわ》らの赤い傘に声をかけた。平凡な|風《ふう》采《さい》にもどこか、線の強さを感じさせるようになった少年は、上下トレーニング用のジャージ姿である。
「うん」
赤い傘の下から、シャナと呼ばれた少女が|素《そ》っ|気《け》無く答えた。背が低いので、その表情は傘の|縁《ふち》に|隠《かく》れて見えない。こちらは大きなTシャツにスパッツという姿だが、その見た目の|可愛《かわい》らしさとは|裏《うら》腹《はら》な存在感が全身に漂っていて、弱さ頼りなさを|欠片《かけら》も感じさせない。
それも当然、彼女は人間ではない。この世を乱す|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠追う異能者・フレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』だった。
その彼女の|傘《かさ》が、|僅《わず》かに先行する。
|悠《ゆう》二《じ》も足を速めて、|隣《となり》に並んだ。
「……」
「……」
傘の下、互いを|密《ひそ》かに横目で見つつ、しかしなにも言わずに雨の中を歩く。
二人は普段、この時間帯を早朝の|鍛《たん》錬《れん》にあてていたが、今日は別の用事のため雨中を外出していた。双方ともにトレーニングウェア姿なのは、|悠《ゆう》二《じ》の母・千草に『外で|鍛《きた》えてくる』と言って出てきたからである。
「……ん、っ」
悠二が、なんとなく|咳《せき》払《ばら》いをした。
シャナが、傘を上げずに|訊《き》く。
「なに?」
「いや、別に」
「そう」
それっきり言葉は|途《と》切《ぎ》れ、また|沈《ちん》黙《もく》が降りた。
一昨日の事件[#「一昨日の事件」に傍点]から、二人の間には|微《び》妙《みょう》な距離が開いていた。気まずい、というほど重苦しくはなく、仲良く、というほど打ち解けてもいない、そんな距離が。
ケンカをしているわけではなかった。
夜|零《れい》時《じ》前には坂井家の屋根の上で存在の力≠フ|繰《く》りを、早朝には同・庭で肉体の行使を、二人して鍛錬するという日課も、事件の前と同じように行っている。
シャナが坂井家に入り|浸《びた》って千草といろいろ話をしているのも同じ。ご飯を一緒に食べるのも同じ(昨日の土曜日は学校も休みだったので、朝昼晩ともである)。たまに悠二の部屋にやってきて、単身|赴《ふ》任《にん》で不在の父・|貫《かん》太《た》郎《ろう》の|書《しょ》斎《さい》から持ち出した分厚い本を、ベッドに|寝《ね》転《ころ》んだり座ったりしながら広げる、これも同じ。
ただ、必要|最《さい》低《てい》限《げん》の言葉しか交わさない。
二人の間に薄い壁が一枚張ってあるかのように、なんとなく会話がなかった。
「……」
悠二は、雨の|帳《とばり》の先を見つめ、|吐《と》息《いき》を密かに漏らした。
たぶん気付かれただろうが、シャナはやはりなにも言ってはこなかった。
彼の心は、重く、暗い。
しかしそれは、今の|雰《ふん》囲《い》気《き》によるものではなかった。
今歩いている先、向かっている用事こそが、原因だった。
傘の|柄《え》を握る自分の手を見て、ふと思う。
(なにを、どう、言おう)
|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、人間ではない。
『本物の坂井悠二』は、かつてこの街を|襲《おそ》った|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ|一《いち》味《み》に存在の力≠喰われて死んだ。『今ここにいる坂井悠二』は、その残り|滓《かす》から作られた|代《だい》替《たい》物・トーチだった。
残された存在の力≠フ|消《しょう》耗《もう》とともに、存在感や|居《い》場所、役割を徐々に失ってゆき、誰にも気付かれないまま、ひっそりと消える、道具。
石を水に、ただ放り込めば、音や|波《は》紋《もん》で気付かれる。ゆえに、ゆっくりと沈めて、その行為のあることを知られないようにする、そんな|誤《ご》魔《ま》化《か》しの道具。
坂井悠二は、その一つなのだった。
しかし、偶然からか、それ以外の理由からか、彼は一つの|宝《ほう》具《ぐ》を身の内に宿していた。
時の|事《じ》象《しょう》に|干《かん》渉《しょう》する|紅《ぐ》世《ぜ》=b秘《ひ》宝《ほう》中の秘宝『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』である。
|何処《どこ》からか|転《てん》移《い》してきたこの宝具は、毎夜|零《れい》時《じ》、|宿《やど》主《ぬし》の存在の力≠回復させる働きを持つ、一種の永久機関だった。そのおかげで悠二は消えることもなく、『旅する宝の|歳《くら》』ミステス≠ニして、人格や存在感を保ったまま、日々を人として暮らしてゆくことができていた。
(せめて昨日、みんなが気持ちを整理しきれてない内に会えてたら……)
もっとも、既に死んだ人間の残り滓である、という事実に違いはない。
そのことを、悠二は友人たちに知られた。
|一昨日《おととい》の事件……一人の|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠フ|襲《しゅう》来《らい》という事件の中で、|否《いや》応《おう》なく。
クラスメイトの中でも特に仲のいい|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》と|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》。
そして、自分に好意を抱いてくれていた、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》に。
佐藤と田中は、この街に滞在するもう一人のフレイムへイズ、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーと深く関わっていたことから、必然的に顔を合わせる|羽《は》目《め》となった。
吉田の方はその逆で、完全に偶発的な|露《ろ》見《けん》だった。さらにもう一人のフレイムヘイズ、『|儀《ぎ》装《そう》の|駆《か》り|手《て》』カムシンが、彼女を利用した(と悠二は思っている)結果である。
坂井悠二は既に死んでおり、彼らの前にいるのは、その残り滓に過ぎない――その、決して知られたくなかった事実を、最も親しい人々に、とうとう知られてしまった。
そのとき悠二は、知られたことへの|衝《しょう》撃《げき》、自身の選択への|後《こう》悔《かい》、今ある現実への怒り、全てをたしかに感じていた。しかし、|怒《ど》涛《とう》のように流れ、切迫していた事件の中では、それらに|浸《ひた》っている|余《よ》裕《ゆう》などなかった。知った側の三人も同様である。
彼らはフレイムヘイズらとともに、|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ|企《たくら》みを阻止するため、必死に考え、全力で走り、結果生き延びることができた。そしてどうやら、その究極の|安《あん》堵《ど》と|高《こう》揚《よう》によって、知らず心身を|痺《しび》れさせていたらしい。
事が片付いた後、|浴衣《ゆかた》姿で戦ったシャナのボロボロな姿を|千《ち》草《ぐさ》に|納《なっ》得《とく》させるため、四人でいろいろ言い訳したりするなどの|騒《そう》動《どう》もあって、彼らはなんとなく、いつの間にか、|各《おの》々《おの》の家路についたのだった。
しかし今、
間に一日、起きた事態を冷静に|捉《とら》えなおすには十分すぎる時間を置いて、|悠《ゆう》二《じ》は自分の正体を知ってしまった友人たちとの、望まぬ再会の場へと向かっている。
この朝、街から去るフレイムヘイズ、『|儀《ぎ》装《そう》の|駆《か》り|手《て》』カムシンを見送るために。
これは全くの八つ当たりだったが、
(本当に、どこまでも嫌な|奴《やつ》だよ)
と悠二は|傘《かさ》の下で、これから別れる老フレイムヘイズを|心《しん》中《ちゅう》で|罵《ののし》っていた。
その|隣《となり》で、
「……ん、っ」
シャナが小さく、|咳《せき》払《ばら》いのような|吐《と》息《いき》をついた。
フレイムヘイズの|僅《わず》かな|息《いき》遣《づか》いに反応した、その|鋭《えい》敏《びん》さを自覚しないまま、悠二は|訊《き》く。
「なに?」
「別に」
「そう」
シャナの|素《そ》っ|気《け》無い答えに短く返して、また黙る。
細かい|雨《あま》粒《つぶ》の|傘《かさ》を|叩《たた》く音だけが、二人を包む。
(シャナにこそ)
悠二は傘の|縁《ふち》で、|目《め》線《せん》の正面を|塞《ふさ》いだ。
(シャナにこそ、今までと同じように、接して欲しかったのに)
|傍《かたわ》らを歩く少女・シャナは、フレイムヘイズである。
彼女にとって悠二は、出会った瞬間からトーチであり、ミステス≠セった。最初は変わった道具、それこそ石ころ程度にしか思われていなかったはずである。そこから始まって数ヶ月、いつしか親しいと言えるだろう|間《あいだ》柄《がら》にまでなっていた……はずである。彼女こそ、最初からここにいる悠二[#「ここにいる悠二」に傍点]のことを知って、理解してくれている存在だった。
それが、どういうわけか、今の状態である。
以前にもケンカらしきものをしたことはあったが、あのときは|怒《ど》鳴《どな》り合ったりするなど、直接的なぶつかりがあった。今は、お互いに、なんとなく、距敵が開いているだけ[#「だけ」に傍点]。
(実際、怒ってはいないと思うんだけど)
昨日から何十度目か、悠二は横目で少女の気配を|窺《うかが》う。最近、彼女の気持ちの端を感じられるようになったと思っている。あくまで端ではあったが、それなりに自信はあった。その|勘《かん》で察するに、怒ったり悲しんだりはしていない、|不《ふ》機《き》嫌《げん》や不満の色も見えない……なにか、もどかしくも触れることを|躊躇《ためら》っている……そんな感じだった。
(やっぱり、あれ、なのかな)
実のところ|悠《ゆう》二《じ》は、原因について心当たりがあった。というより、彼女がこんな状態になったのは|一昨日《おととい》の事件以降なのだから、当然のように推測できた。
事件の最中、彼は|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》から、一つの告白を受けたのである。
(――「私、|坂《さか》井《い》君が、好きです」――)
完全|無《む》欠《けつ》の、愛の告白を。
しかも、卜ーチと知られた、その後に。
彼女は、こうも言った。
(――「坂井君は、人間です」――)
そのときの、二人折り重なるように倒れた状景を思い出す|度《たび》に、悠二は|陶《とう》然《ぜん》となる。
「……」
着崩れた|浴衣《ゆかた》と、乱れた髪の|艶《なまめ》かしさ、
上気した|頬《ほお》、熱さ優しさを同時に満たして|潤《うる》む瞳、
(……|綺《き》麗《れい》だったというか、色っぽかったというか)
胸も、互いの|鼓《こ》動《どう》を感じ合えるほどに押し付けられていた。
(すごく柔らかくて、熱っぽくなるようないい|匂《にお》いもして……)
それらの光景と|感《かん》触《しょく》の中で、自分という存在の真実を知った上で認めてくれる[#「自分という存在の真実を知った上で認めてくれる」に傍点]告白を受けたのだから、心が揺れないわけが――
と、シャナが、心なしか鋭い|尋《じん》問《もん》のように。
「なに?」
「ぁえっ!? べ、別に!」
思わず声が裏返った。
「……そう、変なの」
言葉は同じでも、体感温度が違った。上げない|傘《かさ》の下から、ジトッとした視線を向けられているように感じる悠二である。言い訳するように、あくまで告白の|核《かく》心《しん》部分だけを思う。
(吉田さんは、僕のことを……僕が|大《だい》前《ぜん》提《てい》としていたことを、壊してしまった)
悠二はこれまで、『自分は人間ではない』という|酷《ひど》すぎる現象としての事実[#「現象としての事実」に傍点]を、もう起こったこと、取り返しようのないものと認め、受け入れようとしてきた。本物の坂井悠二が生きるはずだった|平《へい》凡《ぼん》な、しかし何物にも代え難い日常を、|諦《あきら》めようとしてきた。そう遠くない未来、家族や友人たちと別れ、生まれ育った|御《み》崎《さき》市から出てゆく、と心に決めてもいた。
実際、永久機関『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を宿した不老のミステス≠ェ、変わり移ろいゆく人間たちとともに暮らしてゆくことはできない。外へと向かう他に、道はなかった。シャナとの日々の|鍛《たん》錬《れん》は、その確実に来る旅立ちのための準備なのである。
なのに、
(僕は、なくして、なかった……?)
そんな|覚《かく》悟《ご》の中で受けた|吉《よし》田《だ》の告白、かけられた言葉は、|悠《ゆう》二《じ》に深く強い|衝《しょう》撃《げき》を与えた。
(いや、違う、そうじゃない……!)
うろたえた、と言い換えてもいい。
今さら|平《へい》凡《ぼん》な人生など送り得ない。人として暮らしてゆくことなどできようはずもない。そうと分かっていても、|零《こぼ》れ落ちた日常への回帰を望む気持ちが――代え難い大切なものと痛感するがゆえに――心のどこかで|疼《うず》いた。シャナに対して、この街を出るときを目指して|頑《がん》張《ば》る、せめて足手まといにならないくらいには、などと偉そうに|誓《ちか》っておきながら。
さっきの鋭さも含めて、自分の|不《ふ》甲斐《がい》なさを悔しく思う。
(シャナは、そんな僕の|情《なさ》けない|動《どう》揺《よう》を感じたのかな)
悠二は、あれほどの|真《ま》心《ごころ》を向けられ込められた吉田の告白に、答えを返していない。
そんなことをしている場合ではなかった、ということもあるが、他でもない彼女の言葉の|真《しん》摯《し》さが安易な返答を|躊《ちゅう》躇《ちょ》させた、というのも大きい。幸い――なのかどうか、彼女もその場での|即《そく》答《とう》を求めたりはしなかった。
結局|一昨日《おととい》は、告白こそされたものの、本当にそれだけで、以降は二人で話す機会もないまま、一同のなんとなくの解散とともに別れたっきりになっていた。
しかし、その彼女にも、これから会わねばならない。
どういうわけか彼女は、街から去る『|儀《ぎ》装《そう》の|駆《か》り|手《て》』カムシンのことを(悠二にとっては気の知れないことに)|尊《そん》敬《けい》していた。行動を共にした数日の間に、悩みへの助言を受けたことが、その理由らしい。|律《りち》儀《ぎ》な彼女がその|出《しゅっ》立《たつ》を見送りにくるのは当然のことといえた。
丸一日の時間を置いて、あの時の告白を見つめなおした彼女は、果たしてどんな顔をして自分に向き合うのだろう。その想いが、もし映画などでよくある、危険の中で盛り上がった突発的なものでしかなかったら、彼女は自分に、人間でない自分に、
(どんな顔を向けるんだろう?)
顔そのものを|背《そむ》けられるかもしれない。
|怯《おび》えた視線を向けられるかもしれない。
それを思うと、|覚《かく》悟《ご》で固めていたはずの心が、寒く心細くなるのを感じる。
それでも、心のどこかで、そんな自分を見つめる別の自分がいることも感じる。
(いったい、どうされたいんだろう?)
人間として温かく迎えて欲しいのか。
冷静に現状を受け入れて欲しいのか。
もしかして、踏ん切りをつけるために|酷《ひど》く当たって欲しいのか。
分からない。
(分からない、か……いつもそうだな、僕は)
分からない分からないと言いながらフラフラ揺れて、その揺れる自分しか見えなくなる。
そのせいで、シャナを怒らせ、困らせ、泣かせてしまったことがある。
|一昨日《おととい》も、|吉《よし》田《だ》に|真《しん》摯《し》な想いを告白されたのに、答えを返せなかった。
(|酷《ひど》い|奴《やつ》、だよな……直そうとは、思ってるんだけど)
追い詰められるとうまく働くらしい自分の頭は、こういう方面では全くといっていいほど頼りにならない。なんとも|間《ま》抜《ぬ》けな話だった。
|隠《かく》すには大きな|溜《ため》息《いき》が、小さな言葉となって|零《こぼ》れ落ちていた。
「ごめん」
「?」
|隣《となり》を歩くシャナが、|怪《け》訝《げん》そうにこちらの|様《よう》子《す》を|窺《うかが》う気配がした。数歩|歩《ある》いてから、|傘《かさ》をクルリクルリ、|誤《ご》魔《ま》化《か》すように回して遊びながら短く、
「いい」
とだけ。
それっきり、また|沈《ちん》黙《もく》が降りる。
|悠《ゆう》二《じ》は、そんなシャナに、許された|嬉《うれ》しさよりも、済まなさと後ろめたさを覚えた。
今の、確かな|気《き》遣《づか》いを感じる返事に対するものだけではない。
|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=b討《とう》滅《めつ》の使命を持つフレイムヘイズが、自分を|問《もん》答《どう》無《む》用《よう》で連れ去らないこと、
ミステス≠スる自分を分解し、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を回収するという|非《ひ》情《じょう》の手段を取らないこと、
旅立ちの準備ができるまで、ともにこの街に留まってくれていること、
その準備自体、朝晩における心身の|鍛《たん》錬《れん》に付き合ってくれていること、
それら示してくれる数々の誠意に対して、自分があまりに|不《ふ》実《じつ》であるように思われた。
彼女に『どうして自分と距離を取ったりしているのか?』などと偉そうに問い|質《ただ》せない、それが大きな理由だった。
(……)
一方で、小さな理由も、いちおう、ある。
しかしこれは、
(……まさか)
と思わずにはいられない。
問うこと自体が|侮《ぶ》辱《じょく》とも思える――返ってくる答えを聞くのが恐い――問う側である自分自身の気持ちもはっきりと把握できていない――そんな理由。
吉田一美に告白されたことをシャナが気にしている[#「吉田一美に告白されたことをシャナが気にしている」に傍点]。
(まさか、ね)
過ぎた|自惚《うぬぼ》れに|呆《あき》れて、|自《じ》嘲《ちょう》が漏れた。
全くいい気な、男の抱く勝手な|妄《もう》想《そう》だ、と思った。
たしかに、そうであれば嬉しい――そうであったら、と|密《ひそ》かに望んでいるかもしれない――
しかし、彼女がそうであるとは|到《とう》底《てい》思えない――そんな|妄《もう》想《そう》。
考える、それだけでも『彼女の存在|全《すべ》てでさえある使命』のために自分を|度《たび》々《たび》頼りにしてくれた『彼女が自分に求めている存在である|戦《せん》友《ゆう》』として恥ずべきこと、と思った。
|一昨日《おととい》、告白を受けた後、|吉《よし》田《だ》にも|訊《き》かれそうになった。
(――「|坂《さか》井《い》君は、シャナちゃんを……」――)
(――「えっ?」――)
(――「……いえ、やっぱり、いいです」――)
それは、答えられない問いだった。
そもそも、その気持ち[#「その気持ち」に傍点]がどんなものなのか、分からない。今、自分がシャナに向けている信頼や|尊《そん》敬《けい》、抱いている親しみや気恥ずかしさなどとは、どう違っているのか、どこからが違うのか、もしかして一緒のものなのか。
(――「どこからが、『好き』なんだろう?」――)
友人の|池《いけ》速《はや》人《と》が、いつか口にした言葉を|悠《ゆう》二《じ》は思い出していた。
(それが分かれば、苦労はないよな)
悩みは尽きず、手立ても見えない。
今度は気を|遣《つか》わせないよう、心の中で|呟《つぶや》く。
(ごめん)
シャナはまだ、クルリクルリと|傘《かさ》を回していた。
朝日を薄める雨の中、|御《み》崎《さき》市を住宅地と市街地の二つに割って流れる|真《ま》南《な》川《がわ》が、灰と泥を混ぜた色の巨体を|重《おも》々《おも》しく波打たせている。
その上に|架《か》かる御崎|大《おお》橋《はし》、住宅地|側《がわ》の|袂《たもと》で、悠二とシャナは残りの|面子《めんつ》が集まるのを待っていた。黙って歩いている内に、なんとなくお互い早足になっていたらしい。結局、集合時間より少し早く、待ち合わせ場所に着いてしまっていた。
ジョギングのメッカであるはずの|堤《てい》防《ぼう》には、あいにくの雨天という二ともあり、人っ子一人見えない。道路にも水|飛沫《しぶき》を上げて通る車の|往《おう》来《らい》は|稀《まれ》で、橋の上は|耳《じ》目《もく》も|肌《はだ》も雨のみを|捉《とら》える|静《せい》穏《おん》の世界となっていた。
橋の両袂に一つずつ設置されたデジタル時計が、温度や湿度とともに時刻を表している。
「まだかな」
待つ人間が必ず言う、場持たせの言葉を口にした悠二に、シャナは答えない。実はその言葉はもう三度目だった。|相《あい》槌《づら》を打つのも|面《めん》倒《どう》、とばかりに彼女は手すりの向こうを|眺《なが》めている。
悠二も返答を期待していない。シャナと視線の向きを同じくした。
|大《たい》河《が》と言っていい真南川は、|相《そう》応《おう》に広い|河《か》川《せん》敷《じき》を両岸に持っている。
その両|河《か》川《せん》敷《じき》は今、ガラクタの山、ゴミの原と化していた。
|一昨日《おととい》開かれた、県下でも有数の大花火大全『ミサゴ祭り』の跡である。
|後《あと》片付けを行うはずの昨日、昼前から早々に雨が降り始めたため、ほとんどの資材やゴミは火の元|関《かん》連《れん》のものを除いて、ほとんどそのままに放置されていた。祭りの前、|無《む》性《しょう》にワクワクさせられたものと似て、しかし正反対の|寂《せき》寥《りょう》感《かん》のみを覚えさせられる光景だった。
と、不意に雨の|静《せい》穏《おん》を破る、明るい声が。
「よう、おはよーさん」
|傘《かさ》をさした|大《おお》柄《がら》な少年・|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》が、|愛《あい》嬌《きょう》たっぷりに笑っていた。
「やっぱりというか、そっちが先か」
「あれ?」
その横に傘を並べて|怪《け》訝《げん》そうな顔をしたのは、|華《きゃ》奢《しゃ》な『|一《いち》応《おう》』美少年・|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》である。
「なんだ坂井、そのカッコ?」
日曜の早朝ということもあって、彼らは当然のように私服だった。
|悠《ゆう》二《じ》はかけられた言葉に、
「ああ、これ? いつも朝にトレーニングしててさ、その服だよ」
つい普通に返し、そして、
(――ッ)
突然と言っていい、締め付けるような感謝の気持ちが|湧《わ》き上がるのを感じた。
「へえ。なんつーか、強そうに見えるな」
「そりゃ、あれだけドンパチ|潜《くぐ》り抜けてたら|貫《かん》禄《ろく》も出るだろ。ねえ、|姐《あね》さ……あれ?」
後ろに細い|目《め》線《せん》をやった田中は、そこに|意《い》中《ちゅう》の|人《ひと》影《かげ》がないことに気付いた。
佐藤も市街地に延びる広い歩道を振り返る。
「おかしいな、さっきまで後ろに……?」
(――――ああ)
悠二は、全く想像だにしていなかった。
友人らの態度がこれまで通りだったことを、ではない。
それなら、甘えるように『そうであれば』と望んでさえいた。
想像していなかったのは自分の心、
ここまで大きく強烈な感激[#「感激」に傍点]を抱いた、自分の心だった。
どんな意図や気持ちでそう振る舞っているのかという相手への推察、
|嬉《うれ》しさや|安《あん》堵《ど》などの、本来|踏《ふ》んでから盛り上がってゆく感情の段階、
全てをすっ飛ばして、自分にいつもと同じように接してくれているという、その事実に対して、悠二は|怒《ど》涛《とう》のような感激させられていた。雨の下、その内心を表すかのように|潤《うる》む瞳を伏せ、|情《なさ》けなく緩んでいるだろう顔を傘の下に隠す。
|傍《かたわ》らのシャナは、やはり何も言わなかった。
「あ、やっと来た。マージョリーさん」
「|姐《あね》さん、どこ行ってたんですか」
|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》がそれぞれの呼び方で、ようやく現れた女性に声をかけた。
橋の|車《しゃ》道《どう》両端に付けられた広い歩道のど真ん中を、いまひとつ|冴《さ》えない足取りで、長身の女性が歩いてくる。趣味のいいブラウンの|傘《かさ》の|柄《え》を立てかけた肩の横、気だるげな|麗《れい》容《よう》が|面《めん》倒《どう》くさそうに答えた。
「あーもー、るっさいわね。私は朝|弱《よわ》い、って言ってんでしょうが」
ガシガシと、簡単に|結《ゆ》い上げた|栗《くり》色《いろ》の長髪を引っかくこの美女こそ、フレイムヘイズ|屈《くっ》指《し》の殺し屋として|徒《ともがら》≠ノ恐れられる『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーである。
「キィーッヒヒヒ!」
と、傘を立てかけるのと反対側、右肩の掛け|紐《ひも》からぶら下がり、脇に挟まったドでかい本がけたたましい笑い声をあげた。
「|寝《ね》酒《ざけ》深《ふか》酒《ざけ》サンザンやって、朝に弱いもねーもんだブッ!?」
バン、
「るっさいって言ってんでしょ」
と持ち主に|叩《たた》かれたこの本は、彼女に|異《い》能《のう》の力を与える|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》=A|蹂《じゅう》躙《りん》の|爪《そう》牙《が》<}ルコシアスの意志を|表《ひょう》出《しゅつ》させる|神《じん》器《ぎ》グリモア≠ナある。
「単にそこの自販機でコーヒー買ってただけよ」
|不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに言いつつ、マージョリーはグリモア≠フ陰に|隠《かく》すように持っていた缶コーヒーのプルを、片手の指で|器《き》用《よう》に開けた。
大きな胸を|反《そ》らしてこれを一気飲みする彼女に、シャナがフレイムヘイズとして|単《たん》刀《とう》 直《ちょく》 入《にゅう》に確認する。
「|事《じ》後《ご》処理の話はどうなったの?」
「――っぷは」
質問の間に、マージョリーはコーヒーを飲み終えていた。|瞼《まぶた》も重たげな視線を|伊達《だて》眼鏡《めがね》越《ご》しに宙へやること数秒。|空《から》の缶を指先で振りつつ、|素《そ》っ|気《け》無く答える。
「|外界宿《アウトロー》に連絡はしといたわ。数日中に処理されるでしょ」
「――ックックック」
マルコシアスがなぜか笑った。
「なんだ」
シャナの|胸《むな》元《もと》、黒い宝石に金の輪をかけた|意《い》匠《しょう》のペンダントコキュートス≠ゥら、|遠《えん》雷《らい》のように重く深い声が問い|質《ただ》した。マージョリーにおけるマルコシアスと同じ、シャナと契約する|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールのものである。
その|糾《きゅう》弾《だん》の|響《ひび》きにも、構わずマルコシアスは|癇《かん》に|障《さわ》る笑い声で答える。
「ヒャッヒャ、なーんでもねえ、なんでもねえ」
「……」
この|軽《けい》薄《はく》な|王《おう》≠ニ|反《そ》りの合わないアラストールは、会話を続けるのを止めた。
そんな彼、シャナとともに在る|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔《ま》神《じん》に、|一昨日《おととい》の事件で初めて彼のことを知った|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》が、|僅《わず》かに恐れの色を表して言う。
「それにしても、駅とか、なんか|酷《ひど》いことになってますけど……俺たち知らん振りしてていいんですかね」
「昨日、駅前に|様《よう》子《す》を見にいったら、 マスコミや|野《や》次《じ》馬《うま》が、|復《ふっ》旧《きゅう》 工事の作業員と入り乱れて大騒ぎになってましたよ」
それにはシャナが、鼻をフンと鳴らして答える。
「どうせ解明なんかされっこない。|事《じ》後《ご》処理の|連《れん》中《ちゅう》が手を打って、適当な理由か|証《しょう》拠《こ》がばらまかれたら、皆すぐ平静に戻る」
「そんなものなのかな」
|悠《ゆう》二《じ》はつい、いつものように|相《あい》槌《づち》を打っていた。
シャナもそれに少し反応して、しかし努めていつものように返す。
「そんなもんよ」
「……」
アラストールは、その|胸《むな》元《もと》で|沈《ちん》黙《もく》している。
マージョリーはそんな三人の|微《び》妙《みょう》な|様《よう》子《す》には気付かないまま(気付いても放って置いただろうが)、背後の、雨に|煙《けぶ》る|彼方《かなた》を振り返る。
「ま、|封《ふう》絶《ぜつ》の外であれだけド|派《は》手《で》にぶち壊すことは|滅《めっ》多《た》にないから、処理する|奴《やつ》もそれなりに苦労はするでしょうね。死人が出なかったのは、不幸中の幸いってやつ?」
「だーな。駅は|全《ぜん》壊《かい》して|高《こう》架《か》ごと作り直さなきゃなんねえし、例の仕掛けの入った看板の破片もそこら中にブチまけられてるし、大通りの街灯もあらかた吹っ飛んでる。|怪《け》我《が》人だけで済んだのは幸いも幸い、でっけえ|奇《き》跡《せさ》だ、キーッヒヒヒ」
マルコシアスが|他人《ひと》事《ごと》のように笑った。
全員、マージョリーと同じく大通りの先、今は雨の|帳《とばり》に|隠《かく》された|御《み》崎《さき》市駅の方角を見やる。
一昨日の事件……一人の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ノよる|襲《しゅう》撃《げき》は、これまで御崎市で|幾《いく》度《ど》か行われた|徒《ともがら》≠スちとの戦いとは違う、|特《とく》異《い》なものだった。
フレイムヘイズや|徒《ともがら》≠ヘ通常、『|封《ふう》絶《ぜつ》』と呼ばれる|因《いん》果《が》孤《こ》立《りつ》空間の中で戦う。
このドーム状の空間は、その内部を世界の流れから|断《だん》絶《ぜつ》させ、外部から完全に|隔《かく》離《り》・|隠《いん》蔽《ぺい》してしまう働きを持っていた。近世以降、|徒《ともがら》≠窿tレイムへイズの活動が世の人の前から消え去り、また現在も知られていないのは、まさにこの|自《じ》在《ざい》法の発明があったためである。
|封《ふう》絶《ぜつ》の中で動けるのは|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ関わる者たちだけで、中にある他の者・物は世界の流れから切り離されて静止する。巻き込まれた者は、その間に起きたことを覚えていない。自分自身が|徒《ともがら》≠ノ喰われても、気付けない。
そして|封《ふう》絶《ぜつ》はもう一つ、|隠《いん》蔽《ぺい》のために重要な力を持っていた。
この|自《じ》在《ざい》法《ほう》に|囚《とら》われた空間では、人も物も、|断《だん》絶《ぜつ》した外部との整合を取る形で容易に復元できるのである。ある程度の存在の力≠使えば、閉じ込められる前の状態を、容易に取り戻せた。|徒《ともがら》≠ェ破壊を人喰いを世の影で好きに起こせる、これが最も大きな理由なのだった。
その|封《ふう》絶《ぜつ》を、シャナたちは|一昨日《おととい》の事件では使わなかった。
正確には、|襲《しゅう》来《らい》した|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ張り巡らせた仕掛けによる妨害を受け、使うことができなかったのである。結果、|御《み》崎《さき》市は|修《しゅう》復《ふく》を期待できない|剥《む》き|身《み》のまま、戦いの舞台となってしまった。
特に、その|王《おう》≠ノよる仕掛けの|中《ちゅう》枢《すう》としてフレイムヘイズらの総攻撃を受けた御崎市駅の損害は|酷《ひど》く、|駅《えき》舎《しゃ》を載せる|高《こう》架《か》もろとも、ほぼ|全《ぜん》壊《かい》状態である。大通りでも祭りの看板に|偽《ぎ》装《そう》・配置された仕掛けの破片が散乱し、その周囲、大通りの街灯なども|軒《のき》並《な》み|粉《ふん》砕《さい》されて、駅前は|爆《ばく》撃《げき》後《ご》の戦場もかくやという|惨《さん》状《じょう》となっていた。
と、
「ん――?」
「来たか」
マルコシアスとアラストールが、それぞれ声にして|報《しら》せた。
雨の向こう、彼らの見る市街地の方から小さな影が一つ、じんわりと|滲《にじ》みの増すように現れる。|程《ほど》なくそれは、真夏にもかかわらず全身を|分《ぶ》厚《あつ》い|雨《あま》合羽《がっぱ》で包んだ少年の姿となった。
「ああ、朝早くからすいません」
声変わり前の高い、しかし|瑞《みず》々《みず》しさの全くない子供の声が、|目《ま》深《ぶか》に|被《かぶ》ったフードの内からかかる。
シャナよりもさらに幼く見えるこの少年は、|一《ひと》目《め》で|只《ただ》者《もの》でないことが分かった。小さな右肩に、布でグルグル巻きにした身の|丈《たけ》の倍はあるだろう|棒《ぼう》を|担《かつ》いでいるからである。重たげな質感に満ちた棒は、少年の持つ圧倒的に大きく|穏《おだ》やかな存在感によって、一つの姿として|不《ふ》思《し》議《ぎ》な|調《ちょう》和《わ》を見せていた。
「ふむ、待たせてしもうたかの」
少年の左手に絡められたガラス玉の飾り|紐《ひも》から、|嗄《か》れた老人の声があがった。
「ああ、とはいえ、ほぼ時間通りではあるのですが」
少年は、フードの下から|傍《かたわ》らの時計を見上げる。
彼の名は、フレイムヘイズ『|儀《ぎ》装《そう》の|駆《か》り|手《て》』カムシン。その左手に巻かれたガラスの飾り紐型の|神《しん》器《き》サービア≠ノ意志を|表《ひょう》出《しゅつ》させる|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A|不《ふ》抜《ばつ》の|尖《せん》嶺《れい》<xヘモットとともに、気の遠くなるような|歳《さい》月《げつ》を|流離《さすら》ってきた、|最《さい》古《こ》のフレイムヘイズの一人だった。
「ふむ、それもそうか……おや、おじょうちゃんはまだかね」
言われて、|集《つど》った一同も初めて気が付いた。
カムシンとベヘモットが『おじょうちゃん』と呼ぶ少女・|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》が、まだ来ていない。
時計を見れば、待ち合わせ時間の二分前。
|律《りち》儀《ぎ》で、人|一《いち》倍《ばい》他人に気を|遣《つか》う彼女が待ち合わせに遅れることは考えにくかった。
(吉田さん、やっぱり……?)
|悠《ゆう》二《じ》は彼女がまだ来ない理由――|一昨日《おととい》の告白が一時の熱情であり、それから覚めたことで自分に会い難くなっているのか――を思い、我ながら嫌になるほどの|動《どう》揺《よう》と|落《らく》胆《たん》を覚えた。
|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》は、気にしないよう|慰《なぐさ》めるべきか、|沈《ちん》黙《もく》を守るべきか迷った。
シャナは、胸の内に|醜《しゅう》悪《あく》な|安《あん》堵《ど》が生まれたのを自覚し、顔を|顰《しか》めた。
|傘《かさ》打《う》つ雨より重いその空気を、
遠くからの一声、
「お、遅れてすいません!」
柔らかで明るい声が破った。
バシャバシャと水を跳ねる音とともに、チェック|柄《がら》の傘がカムシンと反対側、住宅地の方から駆け寄ってくる。一同の前に来ると、その傘は前に倒れた。
その下で一息吐くと、まだ荒い呼吸を抑えて、少女はしっかりと|背《せ》筋《じ》を伸ばし|挨《あい》拶《さつ》する。
「おはようございます」
「お、おはよう」
|戸《と》惑《まど》うような悠二、
「おはよーさん」
「おはよ。珍しいな、吉田ちゃんがギリギリなんて」
ほっとする田中と佐藤、
「うん、おはよ」
複雑な表情のシャナ、
友人たちはそれぞれ、お互いの顔を確認する。
悠二、佐藤と田中、シャナと向き合った吉田の表情は、雨中でも晴れやかだった。その手が傘と反対側、左手に提げていた防水の|紙《かみ》袋《ぶくろ》を示す。
「す、すいません――昨日の夜、お母さんが、これ、勝手に片付けちゃって――探してたら、こんな時間に――」
息を吐いて浮かべる照れ笑いには、無理をして気を張る|様《よう》子《す》もない。その自然体のせいか、以前の縮こまっていた頃と比べて、彼女は一回り二回り存在感を増していた。
カムシンは、そんな少女の変化を見てか見ずにか、軽く|頷《うなず》いて答える。
「ああ、構いませんよ。時間は……」
「ふむ、今が|丁《ちょう》度《ど》じゃしの」
彼らが見上げた先で、デジタル時計の|表《ひょう》示《じ》が待ち合わせ時間に変わる。
「でも、カムシンさんたちは」
「?」
不意の問いかけに、カムシンは|僅《わず》かに|顎《あご》を上げて疑問の風を表した。そして、
「もし私が遅れていたら、待たずに行ってしまったんじゃ、ありませんか?」
「……」
自分を理解する少女の|微笑《ほほえ》みを受けて、そのまま固まる。感情表現に乏しい彼の、それは肯定と驚きの姿だった。ベヘモットが僅かに、ふむ、と|不《ふ》分《ぶん》明《めい》な返事をする。
その二人に、もう一度|吉《よし》田《だ》は柔らかく笑い返し、手にある|紙《かみ》袋《ぶくろ》を持ち上げた。店のロゴらしきアルファベットをあしらい散らした、趣味の良い|代《しろ》物《もの》である。
「せっかく一日、街を出るのを待ってもらったんですから……ちゃんとこれを渡さないといけない、と思って」
本末、カムシンらは事件の|翌《よく》日《じつ》、つまり昨日、|御《み》崎《さき》市から出てゆくつもりだった。
それを、吉田が『もう一日だけ』と引き止めたのである。どうやら、この紙袋の中のものを二人に贈るためだったらしい。彼女らしい|細《こま》やかな心配りだった。
「お仕事のことを思えば、本当は引き止めてはいけない、と分かっていたんですけど……」
カムシンとベヘモットは、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ノよって|歪《ゆが》められた世界の修正に当たる特別なフレイムヘイズ『|調《ちょう》律《りつ》師《し》』で、御崎市にもそのためにやってきた。
同じ場所で人間が多数|徒《ともがら》≠ノ喰われると、世界の歪みも|局《きょく》所《しょ》的に大きくなる。そんな場所を訪れ、人が欠けたことへの|違《い》和《わ》感《かん》、|喪《そう》失《しつ》による|不《ふ》整合を、その街に長く暮らしてきた者のイメージによって修正するのが、彼らの役割だった(正確には、調律師は有志の自発的な行動でしかないが)。
「ああ、気にされることはありません。どうせあの騒ぎの後に、何らかの|悪《あく》影《えい》響《きょう》が残っていないか、見て回るつもりでしたから」
「ふむ、むしろ念入りに調べる機会にもなった。こちらが感謝しても良いくらいじゃよ。なにせ、他ではまずない|特《とく》異《い》なケースじゃったしの」
吉田は、彼らの調律作業への協力、具体的には修正に必要なイメージの提供を求められ、これと同行する内に、悠二やシャナの正体、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ|跋《ばっ》扈《こ》する『この世の本当のこと』を|半《なか》ば強制的に知らされることとなった。
当然、彼女は大きな|衝《しょう》 撃《げき》を受け、深い恐怖に|苛《さいな》まれることとなったが、 |一昨日《おととい》の事件を経た今では、そのことを|恨《うら》んだりはしていない。どころか、カムシンらのおかげで前に進む強さを得られたことに感謝し、その強さを持って|厳《きび》しく生きる二人を|尊《そん》敬《けい》してさえいた。
その感謝を表す、ほんの心積もりを込めた贈り物を、彼女は差し出す。
「これ、本当につまらないものですけど」
カムシンは首だけで|会《え》釈《しゃく》して受け取る。
「ああ、これはどうも」
防水ビニールで|覆《おお》われた|瀟《しょう》洒《しゃ》な|紙《かみ》袋《ぶくろ》は、|膨《ふく》れた体積の割に軽かった。
ベヘモットが|不《ふ》確《かく》定《てい》な物体を確認するため、早々に|訊《き》く。
「ふむ……今、開けても良いかね?」
「はい、どうぞ」
|吉《よし》田《だ》は|快《かい》諾《だく》して、自分の|傘《かさ》を袋の上に|被《かぶ》せるよう寄せる。
そんな優しい少女にカムシンは再び首だけで会釈し、袋を開けた。
全員が黙って見つめる中、取り出された物は、|麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》子《し》。
やたらと|鍔《つば》が広い。少年の姿をしたカムシンが被っても似合うよう、飾りは最低限、空色のリボンが一巻きしであるだけという|簡《かん》素《そ》なものだった。
「真夏に、あのフードは暑いんじゃないかと思って……サイズは合ってるはずです」
カムシンは、|貰《もら》ったそれを数秒じっと見てから、半歩|下《さ》がった。
「どうもありがとう。大事にします」
深く腰を折って礼を言う彼に、吉田は|慌《あわ》てて手を振る。
「いえ、お世話になったお礼としても軽いですけれど」
照れ|隠《かく》しのように空を見上げて、笑った。
「それに今日は、あいにくの雨ですし。私、いつも間が悪いんです」
「ふむ」
べへモットが、吉田に答えるように、また|己《おの》が契約者を|促《うなが》すように|唸《うな》った。
体を起こしたカムシンは、|無《む》造《ぞう》作《さ》に|雨《あま》合羽《がっぱ》のフードを下ろした。|一《ひと》房《ふさ》に編んだ髪が後ろに垂れ、無数の傷を刻んだ|褐《かっ》色《しょく》の|容《よう》貌《ぼう》が雨天の元、|露《あらわ》になる。
この、|余《よ》計《けい》なことは全くしないはずの、|情《じょう》味《み》の|欠片《かけら》もないはずの、使命の結晶のような老フレイムヘイズが取った意外な態度に、マージョリーとマルコシアスは|密《ひそ》かに驚いた。
そちらは完全に無視して、カムシンは麦藁帽子を被る。
「ああ、どうです、おじょうちゃん」
「ふむ、少しは男前が上がったかの」
|僅《わず》かに伏せられた鍔の大きな麦藁帽子は、彼の傷だらけの顔を|程《ほど》よく隠していた。
「はい、かわ――かっこいいです」
吉田は|頬《ほお》をかいて訂正し、その訂正した分を力強く言い切った。
カムシンはそれを笑うでもなく、また軽く|頷《うなず》いた。そうして、自分でどの形が被り良いか、いろいろと角度をいじる。その姿だけを見ていれば、|歳《とし》相《そう》応《おう》の子供にしか見えなかった。
しかしもちろん、本質は全く違う。最古のフレイムヘイズたる少年[#「最古のフレイムヘイズたる少年」に傍点]は、シャナの|胸《むな》元《もと》にあるペンダントに、角度を直した|帽《ぼう》子《し》の下から声をかける。
「ああ、|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》=A我々はこれから|近《きん》隣《りん》の|外界宿《アウトロー》を巡って、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]を始め|徒《ともがら》≠フ集団の動きを探ってみることにします」
「ふむ。なにか、|無《む》性《しよう》に嫌な予感がするのでな……|不《ふ》穏《おん》な動きがあれば、改めて|報《しら》せよう」
アラストールも重く答える。
「頼む。恐らく我々は、ここより動けぬだろうからな」
老フレイムへイズは|僅《わず》かに|頷《うなず》き返した。
そしていきなり、|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》の方に顔を向けて言う。
「ああ、私の知る限り、フレイムヘイズと|轡《くつわ》を並べて戦えた人間は、ごく僅かな例外しかいません――」
少年二人は、『マージョリーとともに世を渡り、ともに強く生き、ともに何事かを|為《な》したい』という切望、その|核《かく》心《しん》を不意に突かれてぎょっとなった。
「――が、友情を|育《はぐく》み、また愛し合った者なら無数にいます。もちろん、その最後には避けえぬ|離《り》別《べつ》も訪れますが……まあ、これは人間同士でも同じことでしょう」
「ちょっ、なに無責任に|焚《た》き付けてんのよ!?」
二人の顔に|露《ろ》骨《こつ》な喜びの色が宿るのを見たマージョリーは|怒《ど》鳴《な》った。
|平《へい》然《ぜん》当然としたベヘモットの声が返る。
「ふむ、事実は事実じゃよ。知られたところで困難であることに変わりはないからの」
「ケーッ、|詭《き》弁《べん》もいいトコだな。今から逃げるジジイは気楽でいいぜ」
マルコシアスが珍しく、悪意のみを表して毒づいた。彼は少年らの|無《む》謀《ぼう》な望みに、少年らのためを思って、反対していた。
もちろん古きフレイムへイズは動じない。さらに、|悠《ゆう》二《じ》とシャナに向き直る。帽子の|鍔《つぱ》の下から|褐《かっ》色《しょく》の瞳で二人を|見《み》据《す》える。
「ああ、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]ほどの組織に『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』があると知られた以上、今となっては留まるが|得《とく》策《さく》か、去るが有利かは|一《いち》概《がい》に言えなくなっていると思いますが……」
言われた二人は答えず、|揃《そろ》って押し黙った。
|一昨日《おととい》の事件の|傷《きず》痕《あと》である、|駅《えき》舎《しゃ》を始めとする一連の破壊は、実際に被害に|遭《あ》った者も含めて、|半《はん》端《ぱ》な形で世間に認識されていた。
というより、誰も事態の正確な|経《けい》緯《い》を覚えていなかったのである。
事件の|首《しゅ》謀《ぼう》者たる|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠フ張り巡らせた仕掛けと、カムシンらの行おうとしていた|調《ちょう》律《りつ》が|干《かん》渉《しょう》し合ったことによる副作用の、これが結果だった。
人々は事件の開始時点から、起こっている現象を当然のことと受け入れてしまう『|平《へい》静《せい》の波』
とでもいうような力を浴び続け、やがてその重度な|影《えい》響《きょう》で『今ある全て[#「全て」に傍点]を受け入れた|無《む》気《き》力《りょく》状態』に陥ってしまったのである。目の前で起こり動くものに対する心の動きを、一時的に失ってしまっていた。
人々にとっては、気が付いた瞬間、駅は既に|全《ぜん》壊《かい》状態、街のあちこちにも破壊の跡がある、といった状況である。調査しょうにも、誰からも|証《しょう》言《げん》は得られなかった。
実のところ、人々は自失する前、戦いの初期段階において、シャナやマージョリーが空を飛ぶ光景や|炎《ほのお》を巻き起こす|様《よう》子《す》などを|目《もく》撃《げき》していた。しかし、誰もそれを言い立ててはいない。これは|平《へい》静《せい》の波によって、誰もがそれを当然の光景[#「当然の光景」に傍点]、と感じさせられていたからだった。もし、
「燃える|翼《つばさ》で空を飛ぶ少女を見たか?」
という形で誰かが|訊《き》けば、その人は、
「ああ、見たけど、それがなんなんだ?」
と答えただろう。
見ていた側は、それを|至《し》極《ごく》普通の光景と|捉《とら》えていたのである。
事件の実態を多くの者が見て、しかし全く広まることのなかった、これが理由だった。もちろん、破壊の方法や状況についての解明なども、人間には不可能である。
|謎《なぞ》だけがそこかしこに|散《さん》在《ざい》し、マスコミがそれを材料に無数の|風《ふう》評《ひょう》を|撒《ま》き散らしている、というのが今の|御《み》崎《さき》市の状況だった。
これらは、まさにカムシンとベヘモットの調律、そしてこれを利用した|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ仕掛けによって|偶《ぐう》然《ぜん》得られた、まさに|僥《ぎょう》 倖《こう》だった。 実際、戦いに関わった誰もが――シャナやマージョリーは元より、|悠《ゆう》二《じ》や|吉《よし》田《だ》でさえ――最後の|反《はん》攻《こう》作戦では、ある程度の|犠《ぎ》牲《せい》が出ることを|覚《かく》悟《ご》していた。
そうならなかったのは、ただの運に過ぎない。
次もそれが得られるとは限らない。
「ふむ、しかし|一昨日《おととい》の戦いで、人々の心身への|傷《きず》痕《あと》、物への損害があれだけで済んだのがたまたま[#「たまたま」に傍点]じゃったことは、覚えておいても良かろうな」
悠二は|唸《うな》るように、正論を|容《よう》赦《しゃ》なく突き付ける|調《ちょう》律《りつ》師《し》たちに答える。
「もっと|慎《しん》重《ちょう》に考えて戦えってことだろ、分かってるよ」
一方のシャナは、鼻をフンと鳴らしただけだった。
これでようやく、全てを言い終えたらしい。カムシンは、最後に別れを告げる相手、吉田|一《かず》美《み》に体ごと振り返った。
雨の中、なんとなく、一同の間に|沈《ちん》黙《もく》が降りる。
それを破ったのは、以前の彼女では決してできなかっただろう、吉田だった。
「カムシンさん、これを」
彼女は言って、ポケットから一つの物を取り出す。
それは、|可愛《かわい》らしいシールで|綴《と》じた、小さな|布《ぬの》包《づつ》み。
「お借りしてた『ジェタトゥーラ』……返します。少し汚れてたので、|綺《き》麗《れい》に|磨《みが》いておきました」
カムシンは|麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》子《し》を|頷《うなず》かせると、その中身、少女に|残《ざん》酷《こく》な『この世の本当のこと』を見せた|片眼鏡《モノクル》を受け取り、|内《うち》 懐《ふところ》に収めた。
そして、老フレイムヘイズは、それがまるで旅立つ|儀《ぎ》式《しき》の終わりであるかのように、
「ああ……では」
「ふむ、行くか」
誰かにではなく、互いに声をかけて確認し合った。
「……」
吉田も感じた。
別れの時が来たと。
カムシンは、もらった麦藁帽子を大事そうに|紙《かみ》袋《ぶくろ》に収めると、元通り|雨《あま》合羽《がっぱ》のフードを深く|被《かぶ》る。少女の差し伸べる|傘《かさ》の下から、後ろに一歩を踏んで出た。
傘から一歩外で雨を受け、二人は口を開く。
「ああ、もう、助言は不要ですね。私たちに二度と会わないよう」
「ふむ、そしてそこで幸せになれるよう、二人して願っておるよ」
心身を|一《いつ》にするフレイムヘイズ『|儀《ぎ》装《そう》の|駆《か》り|手《て》』は、最後に声を合わせて言った。
「「ありがとう、吉田一美さん」」
「!! ……はい」
|吉《よし》田《だ》は、雨に|濡《ぬ》れるフードの奥で、少年が明るく笑ったのを、たしかに見た。
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断章 |参《さん》謀《ぼう》の|帰《き》還《かん》
細かく重く質感を|響《ひび》かせて、巨大な石造りの扉が閉まった。
その|宮《きゅう》殿《でん》の床は、まるで|漆《しっ》黒《こく》の|水晶《すいしよう》のように、三人の|帰《き》還《かん》者を正反対に映し込む。
|程《ほど》なく、内に広がる透き通った闇[#「透き通った闇」に傍点]とでも言うべき空間に、銀色の|雫《しずく》が舞い、物体の|輪《りん》郭《かく》を形作ってゆき……両脇に並ぶ列柱となった。
三人はその、天井も壁も見えない|幻《げん》想《そう》的な廊下を進む。
「久々の『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』だ、少しは|懐《なつ》かしいかね、|教《きょう》授《じゅ》?」
|優《ゆう》雅《が》な足取りで先頭を行く女性が、振り返らずに言った。
|闇《やみ》に|紛《まぎ》れそうな灰色のタイトなドレスと、|艶《なまめ》かしく浮かび上がる白い|肌《はだ》が対照的な、|妙《みょう》齢《れい》の美女である。体中をアクセサリで飾っているが、特に長い|鎖《くさり》を両の肩から腕にかけて巻いているのが目立った。
女性は、右の目に|眼《がん》帯《たい》を着けていた。
しかし、目は二つ|覗《のぞ》いている。
つまり、三つ目の女性だった。
|額《ひたい》と左、ぎらつく金色の瞳が、なかなか返らない答えを求めるように左へと流れる。
それを察して、女性に続く『教授』は|仕《し》様《よう》がなく、|興《きょう》の薄さも|露《あらわ》に答えた。
「後ろを振ぅーり返る趣味はあぁりませんねえ」
ダランと長い|白《はく》衣《い》をまとった、ひょろ長い男である。足取りも|枯《かれ》枝《えだ》を振るように軽い。
「なぁーんにも変わってないとなれば、見ぃーる|価《か》値《ち》もありませんよ」
研究と実験と発明に|己《おの》が存在の全てを|賭《か》ける彼は、|懐《かい》旧《きゅう》という感情を持たない。本来は|好《こう》奇《き》心《しん》の|塊《かたまり》として輝く鋭い|双《そう》眸《ぼう》も、今は分厚い|眼鏡《めがね》の奥に鳴りを|潜《ひそ》めていた。
片方の手で、頭に巻いたベルトごとガサガサの長髪をかきむしり、もう片方の手で、首から掛け|紐《ひも》でぶら下がる無数の道具をいじっている。いかにもつまらなさそうな|風《ふ》情《ぜい》だった。
と、その後ろから、ガッシャンガッシャン金属の足音をうるさく鳴らして続く三人目が声をかけた。
「でも教授ー」
ガスタンクのようなまん丸の体に、パイプやコード等で過当にそれらしく作られた手足を持つ、二メートル強の物体である。
「|銀《ぎん》沙《さ》回《かい》廊《ろう》はただの通路だから変わるわけありま|へひはひひはひ《せいたいいたい》」
|頭《とう》頂《ちょう》にネジ巻を突き出し、|膨《ふく》れた|発条《ばね》に歯車の両目を付けた顔らしきもの……その|頬《ほお》が、マジックハンドに変形した|教《きょう》授《じゅ》の手につねり上げられた。
教授は腰から上だけを真後ろに|半《はん》回転させ、自分の|下《げ》僕《ぼく》をつねり上げつつ歩く。
「ドォーミノォー、私がこぉーこにいれば変ぁわっていたかもしぃーれないでしょう? おぉー前はそれでも私の助ぉ手ですか?」
ドミノと呼ばれた|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ下僕である|燐《りん》子《ね》≠ヘ、ようやく離された|頬《ほお》をシャリシャリと|擦《こす》って目の前、上半分だけ反対に歩く教授に言う。
「さっき振り返らないって言ったばか|ひひはひは《りいたいた》」
「ドォーミノォー、おぉーまえには研究に必要|不《ふ》ぅー|可《か》欠《けつ》なフゥーレキンブルな発想が足ぁーりませんよぉ?」
再びつねりつねられる彼らの進む先で、|列《れっ》柱《ちゅう》を現したときと同じく銀色の光の|粒《つぶ》が|集《つど》い、
半秒、それは|重《じゅう》厚《こう》な両開きの扉を形成した。間を置かず、扉は開く。
「おかえりなさいませ、|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオル|参《さん》謀《ぼう》閣《かっ》下《か》」
何者かの声とともに白い光が|回《かい》廊《ろう》の黒を掻き消し、いつしか三人は|殺《さっ》風《ぷう》景《けい》で広いドーム状の部屋の端に立っていた。
彼女らの前で、一人の男が腰を|屈《かが》めている。
背中に|蝙蝠《こうもり》の羽を|一《いっ》対《つい》畳《たた》み、|尻尾《しっぽ》が後ろに細く伸び、胸の前に添えられた右手の爪も鋭く、|尖《とが》った耳と二本の角が、ぞろりと伸びた|黒《くろ》髪《かみ》の間に見える。|鉄《てつ》鋲《びょう》を打った|頑《がん》丈《じょう》そうなベルトには、分厚く長い|鞘《さや》に収まった|湾《わん》曲《きょく》刀《とう》まで|提《さ》げていた。
|今《いま》時《どき》見ない、ステロタイプな|悪《あく》魔《ま》の|様《よう》相《そう》である――が、
「|宮《きゅう》橋《きょう》は収納を完了、『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』は定刻の|回《かい》遊《ゆう》に入ります」
腰を伸ばしたそこに現れたのは、押しの弱そうな『|小《こ》役《やく》人《にん》』とでも表現すべき中年男の顔だった。細く垂れた目と|削《そ》げた|頬《ほお》、|微《び》妙《みょう》に広い|額《ひたい》にかかる後れ毛が、同情と|哀《あい》感《かん》をそそる。よく見れば|身形《みなり》も|平《へい》凡《ぼん》なスーツ姿で、体の付属品とのミスマッチがはなはだしい。
その顔が、さっそく|驚《きょう》愕《がく》に変わった。
「おわはっ! |探《たん》耽《たん》 求《きゅう》 究《きゅう》@l!?」
「んーんんん、ひぃーさしぶりですねえ、フェコルー」
教授が上半身はそのままに、首だけ前向きに戻してニイッと笑った。
その背後から、ドミノも大きな体を前に傾けて|挨《あい》拶《さつ》する。
「どうも、ご|無《ぶ》沙《さ》汰《た》してます、|嵐《らん》蹄《てい》@lー」
ハワワ、と指を|咥《くわ》えて|怯《おび》えるフェコルーは無視して、|眼《がん》帯《たい》二つ目の女性・ベルペオルは、体中のアクセサリを鳴らしてドーム中央に進む―――と、その|擂《すり》鉢《ばち》状に降りる階段の底、どす黒く|煤《すす》をまとわり付かせ、上向きに口を開けて灰を満たす巨大な|竈《かまど》の|様《よう》子《す》が、常と違っていることに気付いた。そこに刺さっているはずの|杖《つえ》と|槍《やり》がない。背後を向かず、声だけを背後に放る。
「フェコルー、『トライゴン』も『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』もないようだが」
その問いに、ばね仕掛けのように|背《せ》筋《すじ》を伸ばして反応したフェコルーは、|滅《めっ》多《た》に無い状況への|戸《と》惑《まど》いとともに説明する。
「は! それが、お|二《ふた》方《かた》ともに、ご|出《しゅっ》立《たつ》なされまして」
「二人とも[#「二人とも」に傍点]?」
平静を常とするベルペオルが驚きに目を見張った。
「は。 将軍|閣《かっ》下《か》が六日前に、|大御巫《おおみかんなぎ》が三日前にそれぞれ、 |大《たい》命《めい》を果たすためと申され、|別《べっ》途《と》に発たれました」
たしかに、この|大《おお》竈《かまど》『ゲーヒンノム』に突き立てられた|宝《ほう》具《ぐ》は、大命の|遂《すい》行《こう》時にしか使用されない決まりだが、それにしても、ベルペオルとしては|俄《にわ》かには信じ難いことだった。
片や、|本《ほん》拠《きょ》地《ち》『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』に寄り付くことさえ|滅《めっ》多《た》にない、将軍|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイ。
片や、大命の降下すること自体が|稀《まれ》な、|巫女《みこ》(|大御巫《おおみかんなぎ》は|尊《そん》称《しょう》)|頂《いただき》の|座《くら》<wカテー。
(はて、これは何かの|兆《きざ》しであろうかの)
|参《さん》謀《ぼう》|逆《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオルを合わせて『|三柱臣《トリニテイ》』と|号《ごう》し世に恐れられる、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》″ナ大級の集団[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の|幹《かん》部《ぶ》三人同時の活動など、この数百年無かった事例である。
(他でもない『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の件もある……やはり|教《きょう》授《じゅ》を連れ帰ったのは正解だったようだ)
そんな|心《しん》中《ちゅう》の|訝《いぶか》しさを、しかしベルペオルは|面《おもて》には出さない。
(まずはヘカテーの|帰《き》還《かん》を待って、|目処《めど》が立ちそうか、|諮《はか》るとしようかね)
考えつつ、軽く左手を振る。
すると、彼女の肩から腕に巻きついていた|鎖《くさり》が、|竃《かまど》へと漂い出した。そのまま、平面に満たされた灰の上をクルクルと、ゆるく渦巻いて|滞《たい》空《くう》する。
そうしてからようやく、彼女は振り返った。
「フェーコルゥー、私の研究室は、そぉーのままにしてあーるんでしょうねえ?」
「ははは、はひぃ、も、もちろんです、|探《たん》耽《たん》 求《きゅう》 究《きゅう》@l」
などとフェコルーを|覗《のぞ》き込んで|怯《おび》えさせている|教《きょう》授《じゅ》に言う。
「やれやれ、ヘカテーを喜ばせようと思って、お前を迎えに行くという用向きを伏せていたのに、|生《あい》憎《にく》と出かけているらしい。残念だよ」
「んー、ヘカテー? はぁーて、誰でぇーしたか?」
まだ上半身を逆にしたまま、教授は首を|捻《ひね》った。とぼけているわけではなく、真剣に悩んでいるのである。
後ろからドミノが耳打ちした。
「教授、笛の|巫女《みこ》様ですよ。笛を十六回も改造してあげたじゃないです|はひははは《かいたたた》」
「おぉーしえられなくても、当然、無論、分ぁーかってます」
教授は逆さの上半身で背後のドミノをつねる。もう片方の手が、疑問の形に添えられるべき|顎《あご》を探して、後頭部をわさわさと|蠢《うごめ》いていた。
「しぃーかし、あぁの子でも外に出ぇることがあるとは、知ぃーりませんでしたねえ」
薄い唇を切れ上がらせて、ベルペオルは笑う。
「この『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』を包む『|秘匿の聖室《クリュプタ》』は、あの子の力を展開するのに|邪《じゃ》魔《ま》なんだよ。|折《せっ》角《かく》客を招いたというのに、張り合いのないことさね。まあ、どうせすぐ……ああ、そうだ」
ようやく教授の前から数歩下がって|一《ひと》息《いき》吐《つ》く|貧《ひん》相《そう》な|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》=i!)に問い|質《ただ》す。
「フェコルー、|壊《かい》刃《じん》≠ヘ訪ねて来なかったかね」
教授の|眉《まゆ》がピクリと跳ね、ドミノがムッと|唸《うな》った。
フェコルーは数秒、|記《き》憶《おく》を|手繰《たぐ》り、答える。
「は、|停《てい》泊《はく》地《ち》での来訪、|帰《き》還《かん》した|巡回士《ヴァンデラー》や|捜索猟兵《イェーガー》からの連絡、いずれも受けておりません」
「そうかい。行き|逢《あ》った際、|回《かい》遊《ゆう》路と停泊地を教えておいたのだが……やはり、東洋になんぞ用でもあるのだろうかね」
「ふん、あんな|奴《やつ》」
ピー、と蒸気を|噴《ふ》いてドミノが|呟《つぶや》いた。両目の歯車がグルグル回っているのは、彼が|興《こう》奮《ふん》している|証《しょう》拠《こ》である。
普段はとみに|温《おん》厚《こう》で、|徒《ともがら》≠ノ対しても|敬《けい》意《い》を払う(中には作った者に似て、|無《ぶ》礼《れい》な者もいる)この|燐《りん》子《ね》≠ェあからさまに怒っているのを、ベルペオルは珍しく思った。
(そういえば)
出会った際、|懐《かい》刃《じん》≠フ方も相当カリカリ来ているようだった。あの男もかなりの|不《ふ》平《へい》屋《や》ではあったが、怒るという場面を見た|記《き》憶《おく》は、彼女が過ごした長い|歳《さい》月《げつ》の中でもそうはなかった。
「|教《きょう》授《じゅ》、いったい|壊《かい》刃《じん》≠ノなにをしたんだね?」
|訊《き》かれた教授は、フン、と鼻で笑った。
「なぁーんにもしぃーていませんよ。そぉれより、あぁーの|因《いん》習《しゅう》 旧《きゅう》 弊《へい》の|徒《と》めは、私の研究と実ぃーっ|験《けん》を――」
首を除く上半身だけが正反対の教授は、|僅《わず》かに顔を伏せた。
|傾《けい》聴《ちょう》すべくフェコルーは耳をそばだて、逆にドミノはこっそり一歩下がった。
「ッ『イィ――カレたからくり』などと|侮《ぶ》辱《じょく》したのですよ!!」
両腕が正反対のままワキワキと|蠢《うこめ》く。ドミノは一歩下がっていたため、代わりにフェコルーがこれに捕まった。
「のわはー!?」
そのまま|襟《えり》首《くび》をギリギリと|裸《はだか》締《じ》めの|要《よう》領《りょう》で絞り上げられて、中年|顔《がお》が|悶《もん》絶《ぜつ》する。
「――のごっ、ほっ、っ――」
「教授、それは私の部下だよ」
ベルペオルにたしなめられて、ようやく教授は自分が別人を捕まえていると気付いた。首が正反対を向いて|怒《ど》鳴《な》る。
「ドォーミノォ――! よぉそ様に|迷《めい》惑《わく》をかけるとは、そぉーれでも私の助手でぇすか!?」
「ひ――!! す|ひはへんふひはへん《みませんすみません》!!」
改めてドミノをつねり上げる教授に、|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》きつつベルペオルが|訊《き》きなおす。
「それじゃあ、|懐《かい》刃《じん》≠フ方が怒っていたのはどういうわけだい?」
「んー、ちぃーっとも分ぁーかりませんねぇ。あいつが持ってた|骨《こっ》董《とう》品《ひん》を一本、ものすごーく|超《ちょう》・強力でカッコイイものに改良してあげた[#「改良してあげた」に傍点]ら、どういうわけか怒り出ぁーしましてねぇ。ドォーミノォー、アレを、持ぉーっていますね?」
教授は、|胡《う》散《さん》臭《くさ》い含み笑いを浮かべつつ、助手に指示した。
「痛たた……はぁーい、少々お待ちを……よいしょ」
|頬《ほお》を|擦《こす》りながら、ドミノはガスタンクのような腹を開く。
「ものすごーく超・強力でカッコよく改良してあげた[#「改良してあげた」に傍点]骨董品、と――あった、コレでーす!!」
機械部品のいっぱい詰まった腹の中から、|一《ひと》振《ふ》りの剣が|掴《つか》み出された。
西洋風の、両手で持つ型の|大《たい》剣《けん》である。技巧の|粋《すい》を|凝《こ》らされた|装《そう》飾《しょく》と、|宝《ほう》具《ぐ》自体の持つ|風《ふう》格《かく》が全体に漂っている。相当な|業《わざ》物《もの》と、容易に察することができた。
ドミノはそれを軽く頭上に差し上げると、柄元のスイッチ[#「柄元のスイッチ」に傍点]を、
「えい」
と握り込んだ。
ギュイイイイイイイイイイイイイイイン、
と|刀《とう》身《しん》が高速回転する。
そんな自作の機能|美《び》にウットリドキドキしている|教《きょう》授《じゅ》に、ベルペオルは一応、確認のために|訊《き》いた。
「……これは?」
教授は上半身を(一回転半させて)元に戻すと、胸を張って堂々と答えた。
「ドォ――リルです」
「……ドリル?」
教授は得意|満《まん》面《めん》、両腕を誇らしげに広げ、再び答える。
「そう! |浪漫《ロマン》の結晶、ドォーリルです!!」
声に負けず高らかに、
ギュイイイイイイイイイイイイイイイン、
と刀身の高速回転する音が、『|星《せい》黎《れい》殿《でん》』|中《ちゅう》枢《すう》に|響《ひび》いていた。
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2 その一日
|御《み》崎《さき》高校の生徒に限らず、学生という身分には、避けえぬ|試《し》練《れん》が定期的に訪れる。
いわゆる『テスト』という|筆《ひっ》記《き》による学力|査《さ》定《てい》で、学校とは|極《きょく》論《ろん》すれば、これを実施する、あるいは強制するための機関とさえいえた(生徒たちには|異《い》論《ろん》もあるだろうが)。
ミサゴ祭りも終わり、夏休みを目前に控えた今、学校はいよいよその|本《ほん》領《りょう》を、嫌な形で|発《はっ》揮《き》しようとしていた……が、今年はどうも、事情が複雑である。
昨日の雨も上がった、月曜の昼下がり。
常にも増して騒がしい市立御崎高校一年二組の教室で、いつもの|面子《めんつ》六人が机を寄せて昼食を食べている。
「何年か前までは、もう少し|余《よ》裕《ゆう》のある日程だったらしいね」
御崎高校では毎年、ミサゴ祭りが終わった次の週に期末テストを行う(市の実行委員もその辺りを|勘《かん》案《あん》して、|県《けん》教《きょう》委《い》と開催の日程を|諮《はか》っているらしい)。
今年は月曜日に試験直前の説明を兼ねた|通《つう》常《じょう》授業を行い、続く火・水・木を試験、金・土・日が試験休み、そして|翌《よく》週《しゅう》の月曜日に試験結果の返却と通信|簿《ぼ》の配布、一学期の終業式を行う、という日程である。生徒たちにとっては実質、試験休みが夏休みの始まりだった。
「特に試験休みは長かったらしいよ。|年《とし》毎《ごと》に制度が変わるところもあるらしいし、週休二日なんかのせいで、指導|要《よう》領《りょう》とか授業日程とかが混乱してるみたいだ」
訳知りに話をしているのは、一年二組のお助けヒーロー・メガネマンこと|池《いけ》速《はや》人《と》である。
「ま、制度がどうあれ、生徒の側は通知された日程をこなすしかないんだけどね」
言って、ホカ弁の|焼《やき》肉《にく》をかき込む。
他の五人、|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》、シャナ、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》、|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》、|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》は、それぞれの知識の|範《はん》囲《い》や興味に応じて、適当に|相《あい》槌《づら》を打った。
今日はクラス中、というより学校中が、三日前のミサゴ祭りで起こったらしい[#「起こったらしい」に傍点]|謎《なぞ》の事件の話題で持ちきりとなっている。今も周りでは、
「|白《しら》峰《みね》駅の|怪《かい》電車、ケータイのカメラで撮られててさ――」
と号外の新聞を見せ合う者あり、
「駅を見てきたんだけど、ムチャクチャだったよ――」
と身振り手振り|惨《さん》状《じょう》を説明する者あり、
「ほら、駅前広場、看板の燃えカスのところに、|鑑《かん》識《しき》ってやつ? いっぱいいたぞ――」
と|初《はじ》めて見た状景に|興《こう》奮《ふん》する者あり、
「レポーターとかカメラマンとか、すごい人数だったよな。俺インタビュー受けたぜ――」
等々、|昼《ひる》飯《めし》時の話題として|喧《けん》々《けん》囂《ごう》々《ごう》叫ばれている。さらには、
「|復《ふっ》旧《きゅう》作業で駅前|交《こう》差《さ》点《てん》が通行止めでしょ、大通りが臨時で歩行者天国になってたよ――」
「どっかの喫茶店、さっそくテーブルと|椅《い》子《す》、外に出して、オープンカフェにしてたよね――」
自分たちの街の|様《さま》変《が》わりに驚いたり、
「それより他所から来る|野《や》次《じ》馬《うま》が多くてさあ――」
「|御《み》崎《さき》市《し》駅、夏中はまず復旧は無理だって。最悪――」
などと、現実の|迷《めい》惑《わく》に顔を|顰《しか》める者もいた。
|詳《しょう》細《さい》や原因が不明な出来事というものは、 であるからこそ|余《よ》計《けい》に、 |噂《うわさ》話としてはつつき|甲斐《がい》があるらしい。一年二組の教室内だけでも、議題は尽きず|溢《あふ》れていた。
ただ、ここにいる六人だけが、別の話をしている。
というより、六分の五人が事件の真相を知っているので、最初から話す気がない。池から試験の話を色々聞いているのは、 彼らにとっては『御崎市を巻き込む|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠フ|襲《しゅう》 撃《げき》』という終わった事件よりも、目の前に迫った『夏休み前最後の|関《かん》門《もん》にして試練たる期末試験』の方こそが、現実として大問題であるからだった。
その中、コンビニオニギリを早々に平らげ終わった|田《た》中《なか》が不平を漏らす。
「さっき体育のオッサンに聞いてみたんだけどさ、その何年か前の試験休みは一週間くらいあったらしいぞ。いいよなあ」
「でも、代わりに土曜の授業が増えるんだろ? そんなの嫌だね」
半分になった焼きそばパンを片手に、|佐《さ》藤《とう》が答えた。
|吉《よし》田《だ》も小さな弁当をつつく|箸《はし》を休めて言う。
「もし授業時間を減らしても、教えないといけない学科の量は変わらないから、しわ寄せは私たちと先生と、両方に来るんじゃ……?」
|目《め》線《せん》等、|僅《わず》かな|挙《きょ》措《そ》で話を振られたと気付いた|悠《ゆう》二《じ》が続ける。
「ホント、誰が決めてるんだか。それより、終業式直前の休みがもったいないな。試験とか終業式とか、全部まとめて二、三日で終わらせて、早く夏休みにして欲しいよ」
その主張の不適当さを、シャナがさっさと突く。
「生徒の側は、試験が集中すれば日程に|余《よ》裕《ゆう》がなくなる。教師の側は、試験の採点と通信|簿《ぼ》の評定のための時間がなくなる。どっちも苦労するだけハム」
指摘するや、彼女は自分のメロンパンを――彼女|曰《いわ》く『カリカリモフモフ』と――|頬《ほお》張《ば》る。
「……そりゃ、そうだけど」
悠二の、もっともらしく生徒を代表した意見に|相《あい》槌《づち》を打ちかけた佐藤と田中が、|慌《あわ》ててシャナの側に回って同意する。
「そうそう、そのとおり」
「いーかげんなこと言うなよなー」
そんな二人の調子の良さに、|池《いけ》はクスリと笑う。
逆に悠二はぶすっとなって、吉田の作ってくれた弁当をパクついた。
「……相変わらず、|美味《おい》しいな」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
もはや|定《てい》番《ばん》となってしまった(ごく一部=約一名には不評な)、二人のやり取りである。
「この……切ってあるピザみたいなの、なに?」
「それはキッシュつていう、フランスのお|惣《そう》菜《ざい》みたいなものです」
|訊《き》かれて、吉田は|嬉《うれ》しそうに解説する。これも、いつものこと。
「パイ|生《き》地《じ》に野菜とクリームを入れて、チーズを載せてから焼くんです。野菜が美味しく食べられるから、よく作るんですけど……好みの味でしたか?」
「うん。ほうれん草とか、チーズと混ざったらこんなに美味しいんだ」
「はい。食べ過ぎると、ちょっと太っちゃいますけど」
「はは、吉田さんは全然|大《だい》丈《じょう》――」
「悠二」
と、急に|横《よこ》合《あ》いからシャナがぶっきら棒な声をかけた。
「えっ?」
「今日あげたチョコレートは、|洋《よう》菓《が》子《し》の|老舗《しにせ》として有名な『おたふく屋』の物なの。|創《そう》業《ぎょう》は明治三十五年に|遡《さかのぼ》るし、菓子|博《はく》覧《らん》会《かい》でも|度《たび》々《たび》受賞してる|銘《めい》菓《か》の中の銘菓なんだから」
「はあ」
シャナは張り合ったつもりらしい、お菓子そのものとは全く関係のないデータによる主張を終えると、なぜか|微《び》妙《みょう》に勝ち誇ったような顔で、メロンパンを再び食べ始める。
そんな彼女の行為に|悠《ゆう》二《じ》と|吉《よし》田《だ》は顔を見合わせてキョトンとなり、|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》は笑う。
(……?)
ふと|池《いけ》は、このいつもの光景に|違《い》和《わ》感《かん》のようなものを覚えた。それを|訝《いぶか》しみつつも、途切れた会話のフォローとして、話を元に戻す。
「……それで、明日からその試験だけど、皆は試験勉強はしてるわけ?」
基本的に、答えは決まりきっている質問だった。
|御《み》崎《さき》市《し》在《さい》住《じゅう》の少年少女なら、まず間違いなく『やってるわけがない』と答えるはずである。学生としての社交辞令[#「学生としての社交辞令」に傍点]、というだけではない。誰もが、その直前にあるミサゴ祭りへの用意に全力を|傾《けい》注《ちゅう》し、テンションを合わせているからである。
生徒が抜け|殻《がら》のようになってこの期末試験に臨むのは|年《とし》毎《ごと》の、教師にとっては割と|迷《めい》惑《わく》な|恒《こう》
|例《れい》といってよかった(もっとも、今年はそのミサゴ祭りで事件が起こったため、祭りの前よりも変な意味でのテンションは上がっているのだが)。
そんな|池《いけ》の問いに、|案《あん》の定、|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》は、渋い顔になる。
「んなもん、してるわけないだろ」
「ちょっと忙しかったしな、はは、は」
マージョリーに付いていくため、学業とは全く別の分野を|頑《がん》張《ば》っていた二人は、|相《そう》応《おう》の実りとペナルティを|等《とう》量《りょう》、背負うこととなっていた。元から成績が良い方とは言えない二人にとって、これはかなりのピンチである。
|悠《ゆう》二《じ》の成績は中の上下を行ったり来たりというレベルだが、今はやはりいろいろあって、下の方に傾いていた。冷や汗とともに|頷《うなず》く。
「うん、たしかに、忙しかった」
「そ、そうですね」
|吉《よし》田《だ》は|概《おおむ》ね成績良好だから、これはただ|相《あい》槌《づら》を打っただけ。
「あむ、んむ」
やり取りを無視するシャナは、最後のカリカリを、口元を緩ませて食べている。
「……?」
他者の|雰《ふん》囲《い》気《き》に|敏《びん》感《かん》な池は、彼らの口ぶりや態度に|違《い》和《わ》感《かん》を、今度はより進んで、|繋《つな》がりとして感じた。
そしてふと、|今朝《けさ》のことを、自分のあずかり知らぬ変化のことを、思い出した。
(なにか、関係があるのかな)
実のところ、彼は今日、登校することに恐さのようなものを感じていた。
彼はミサゴ祭りの中、息を切らし顔色を|蒼《そう》白《はく》にした吉田と出会っていたのである。
彼女のあの表情は、どう考えてもただごとではなかった。彼女にとって、なにかとても|酷《ひど》いことが起こったに違いなかった。それを一目で|看《かん》破《ぱ》した彼は、その日の学校で彼女から助けを求められなかったことを悔しく思っていたこともあって、今こそ自分が、と意気込んだ。
なのに、そのはずなのに、その後、彼女となんとなくはぐれてしまった[#「なんとなくはぐれてしまった」に傍点]。
あんな表情をした彼女を放って。
常の彼からは考えられない|失《しっ》態《たい》だったが、現にはぐれて、いつしか祭りの中を一人、歩いていた。その後もちろん探しもしたが、相手は|万《まん》単位の|人《ひと》波《なみ》である。|彷徨《さまよ》っている内に、祭り自体が終わってしまった。全く、|冴《さ》えないとはこのことだった。
しかし、本当に|不《ふ》可《か》解《かい》なことは、今朝起こった。
祭りでのことに気を重くして早朝の教室に入った彼を、他でもない吉田が迎えたのである。その彼女は、はぐれる直前の|憔《しょう》悴《すい》ぶりが|嘘《うそ》のように生き生きとしていた。
(――「あの少し前に嫌なことがあって、混乱してて……でも、もう大丈夫だから」――)
と恥ずかしげに言った彼女は、はぐれたときの……さらにその前の彼女と、明らかに違っていた。支えてあげなければ倒れてしまいそうだった、あのどうしようもない頼りなさが、|嘘《うそ》のように消えていた。|微笑《はほえ》む優しさに、力があった。
(なにが、あったんだろう)
それからずっと、|池《いけ》は考えていた。
彼女が自分の知らない場所を進み、自分の知らないなにかを|潜《くぐ》り抜け、自分の知らない結果を経て、全ては解決した。
子供ではないから、そういうことになっても別に不満は――だぶん、まあ、おそらく、とりあえず――ない。彼女を積極的に助けていた、お|節《せっ》介《かい》を焼いていたときも、彼女にそういう強さを持って欲しいと思っていた。
しかし、実際に彼女が自分の助けなしで変わってしまうと、もう自分の助けが|要《い》らなくなっただろうことを理解してしまうと、|寒《さむ》々《ざむ》しい|喪《そう》失《しつ》感《かん》を抱かずにはいられなかった。
ここまで変わった理由は、一つしか考えられない。
(|坂《さか》井《い》――かな)
|悠《ゆう》二《じ》が彼女に、なにかをした。
あるいは彼女が悠二に、なにかをした。
(彼女が強くなった……ということは、彼女から、した[#「した」に傍点]んだろうか?)
そういう|色《いろ》眼鏡《いろめがね》で見れば、今日の悠二にはたしかに、何気ない|貫《かん》禄《ろく》というか、そこはかとない|余《よ》裕《ゆう》のようなものが感じられる。
(坂井も、|吉《よし》田《だ》さんと一緒に変わった、のか?)
そう|下《げ》世《せ》話《わ》な|勘《かん》繰《ぐ》りをしてから、胸が痛くなることに改めて驚く。
そもそも彼女を助けていた目的は、坂井悠二との仲を取り持つことだったのだから、これは全く|不《ふ》条《じょう》理《り》な痛みという、べきだった。それらの|情《じょう》動《どう》でさえ冷静に|分《ぶん》析《せき》できてしまう|性《しょう》分《ぶん》も含めて、自分というものに|嫌《いや》気《け》がさす。
(やれやれ)
思わず|溜《ため》息《いき》を、あくまで|心《しん》中《ちゅう》において漏らすメガネマンだった。
他人から頭がいい|要《よう》領《りょう》がいいと言われているが、実際には自分の気持ち一つとっても、この|体《てい》たらくである。今も、のけ者にされたような気がして、|僅《わず》かに不満を感じている。もちろん|根《こん》拠《きょ》などなく、だからどうするわけでもない。
が、やはり、なんとなく不満を感じる。
(本当、|情《なさ》けない)
と、
「ん……?」
自分の後ろに気配を感じて振り向く。
バカ話で笑う|谷《たに》川《がわ》と|小《こ》林《ばやし》、またお化粧|直《なお》しをしている|中《なか》村《むら》、なんだか急いで弁当をかき込んでいる|笹《ささ》元《もと》……などの教室の|喧《けん》騒《そう》を見回してから気がついた。自分の|椅《い》子《す》の後ろに、誰かが|隠《かく》れるように張り付いている。
「へへー」
かくれんぼで見つかった子供のように笑ったのは、|緒《お》方《がた》真《ま》竹《たけ》だった。
「なに、緒方さん」
|池《いけ》の言葉に、|田《た》中《なか》の顔がいきなり|緊《きん》張《ちょう》に|強《こわ》張《ば》る。
逆に|佐《さ》藤《とう》は、にやりと|意《い》地《じ》悪《わる》な笑みを浮かべた。
「え、と……」
腰を伸ばした緒方は、背が高い。女子バレー部に|所《しょ》属《ぞく》しているため全体的にスリムで、|容《よう》姿《し》も性格も、『|可愛《かわい》い』というより『|格《かっ》好《こう》いい』|部《ぶ》類《るい》に属している。それがなぜか、今は態度も表情も、|妙《みょう》に浮ついて見えた。
「さっき池君たち、試験のこと、話してたでしょ?」
「……してたけど?」
池が素直に答えると、緒方はそっぽを向いてゴホン、と|咳《せき》払《ばら》いをしてから言う。
「あのさ、勉強会、しない?」
「勉強会?」
近頃の学生としては、まず聞いたことも無いだろうイベント名である。
緒方は息を吸うと、
「今日から三日、皆で集まって試験勉強するの。実は私も、|結《けっ》構《こう》ヤバくってさ。池君や|一《かず》美《み》に教えてもらったら、一夜|漬《づ》けの連続でもなんとかなるかなあ、って思ったりしたわけ。だから、それ、それで、良かったら、ここのみんなでさ」
と早口で一気に、まるで公式を|暗《あん》唱《しょう》するかのような必死さでまくし立てた。やけに最後の『みんな』を強調していたり、そのいう途中にチラチラ田中の方を|窺《うかが》ったりした|様《よう》子《す》から、
(ははあ)
と|聡《さと》い池は|看《かん》破《ぱ》して|顎《あご》に手をやり、
(わあ……)
吉田は恋する者|同《どう》士《し》の共感から思わず口を押さえ、この提案の真の狙いを|悟《さと》った。
他方、
「くっくくっく……」
「な、なんだよ、変な笑い方しやがって!」
横目で笑う佐藤に|怒《ど》鳴《な》る田中が真っ赤になっている。
事実としては佐藤だけ知っていることだが、緒方は、田中に告白したばかりである。ミサゴ祭りの帰りに……というとムードがあるように思えるが、実際には、|常《じょう》人《じん》にはそうと知られぬ|紅《ぐ》世《ぜ》の王=b襲《しゅう》撃《げき》最中のことで、|田《た》中《なか》としてはそれどころではなかったりした。
もちろん告白への返事もうやむやのままとなっている。互いに|緊《きん》張《ちょう》と照れがあるのも、当然といえば当然だった。
「ど、どう?」
もう声も裏返りかけの|緒《お》方《がた》は、なぜか|悠《ゆう》二《じ》に|訊《き》いている。この六人で、無関心が分かりきっている少女を除けば、彼が中心であるような気がしたのだった。
「勉強会、ねえ……」
そこまで買われているとは知らず、悠二は|呑気《のんき》に考える。たしかに、|池《いけ》や|吉《よし》田《だ》、シャナに教えてもらえば、やや低調|気《ぎ》味《み》の成績も上がる可能性はあった(自分としてもいちおうそれなりに[#「いちおうそれなりに」に傍点]勉強時間は取っている、と主張したい彼である)。
と、池が不意に賛同の声を上げる。
「いいじゃないか、僕は構わないよ」
緒方と田中のことに気付き、間を取り持ってやるためのお|節《せっ》介《かい》……というのは、自分の|表《ひょう》層《そう》に対するものも含む言い訳である。
彼は、吉田との関わりを今になって欲したのであり、また彼女を変えた悠二への対抗心や|嫉《しっ》妬《と》からの|衝《しょう》動《どう》にも駆られていた。彼の心は複雑なようで、単純だった。悪意に似ていたが、|陰《いん》性《せい》なものではなかった。
|池《いけ》速《はや》人《と》は一少年として、|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》が何事か乗り越えたように見えることが、悔しかったのである。
悠二の方は数秒、何事か考えてから、
「う……ん」
友人の言葉に押されて、|唸《うな》るように答えている。
「俺もサンセー。つか、ありがたいぞ――な?」
|佐《さ》藤《とう》が言って、|隣《となり》で体ごと横を向いている友人の肩を|叩《たた》いた。
叩かれた|田《た》中《なか》は細い目を横に流して、そこに|緒《お》方《がた》決死の視線を受けた。それとまともに|相《あい》対《たい》することができず、真っ赤になって目を|逸《そ》らし、
「あーもう、いいよ、オーケー、問題なし。これでいいんだろ」
と|観《かん》念《ねん》する。
やった、と|露《ろ》骨《こつ》に顔を輝かす緒方を見て、|吉《よし》田《だ》は自分の向かいに声をかける。
「……シャナちゃん[#「シャナちゃん」に傍点]?」
「んむ――」
一人、|我《われ》関《かん》せずを装って[#「装って」に傍点]|一《ひと》口《くち》羊《よう》羹《かん》を|齧《かじ》っていたシャナは、ようやく口を動かすのを止めた。手にした包み紙を、既にいっぱいになったゴミ用ビニール袋に入れてから考える。
勉強会、という言葉は初めて聞いた。単語|自《じ》体《たい》から、また会話の内容から、だいたいの内容は|類《るい》推《すい》できる。吉田の言葉が『一緒に行こう』という意味であることも理解していた。興味もいちおう、あるにはある。しかし同時に、
(どうして、そんなことが言えるの)
以前はオドオドしていただけの少女が、今はごく自然にそういう言葉を『敵』にかけられるようになっていることへの恐れもあった。そんな『敵』の優しさが、胸にこたえる。
(もっと、嫌な|奴《やつ》なら良かったのに……)
あの事件があった夜、吉田|一《かず》美《み》は、坂井悠二に「好きだ」と言った。
ずっと前にそう言うと宣言されて、そしてとうとう、言われた。
(私だって……悠二のことが好き)
あの事件の前までは、フレイムへイズたる自分だけが、坂井悠二のことを知っていた。
この街に|巣《す》食《く》っていた|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=b一《いち》味《み》に|襲《おそ》われ死んだ人間・坂井悠二の残り|滓《かす》、
時の|事《じ》象《しょう》に|干《かん》渉《しょう》する|紅《ぐ》世《ぜ》=b秘《ひ》宝《ほう》中の秘宝『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を宿したミステス=A
フレイムヘイズ以上に存在の力≠|微《び》細《さい》に|捉《とら》える|鋭《えい》敏《びん》な感覚の持ち主、
いざという|危《き》難《なん》に際して、異常なまでに頭を|冴《さ》え渡らせる切れ者、
それら、坂井悠二の本当の姿を。
(それ以外だって、たくさん)
手を|繋《つな》ぐときの|癖《くせ》、食べ物の好き嫌い、手合わせで弱いところ、強いところ、普段の生活でいい|加《か》減《げん》なところ、こだわってるところ、一緒にいて、いろいろ、たくさん、知っている。
(でも)
あの事件で、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》も|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の正体、本当の姿を知った。
彼という存在が、既に|亡《な》い『本物の坂井悠二』の|残《のこ》り|滓《かす》であるということを。
なのに、その上で彼女は、坂井悠二に『好きだ』と言った。
信じられなかった。
本当のことを知ったのに[#「本当のことを知ったのに」に傍点]。
彼女は自分や悠二と同じ場所に……自分と悠二だけの場所に、踏み込んできた。
自分がフレイムヘイズであることは、もう有利に働かない。
こんな状況は|想《そう》定《てい》したことがなかった。
彼女は、|対《たい》等《とう》の相手になってしまった。
(この私が[#「私が」に傍点]、悠二を好きなの)
そうやって|駄《だ》々《だ》をこねても、もう彼女は引いてはくれない。こうしている間にも、彼女の『坂井悠二との時間』は増え続けてゆく。自分だけが知っていた、いろんな坂井悠二が、彼女に取られてゆく。
しかし、今以上に動けない。
(恐い)
この、悠二を想う力は、あまりに強すぎた。
自分の意志で制御ができなかった。
戦いの中でも、それ以外でも、
でたらめに、|不《ふ》条《じょう》理《り》に、
暴走し、爆発する。
そんな危険で恐ろしい思いを、三日前の事件で嫌というほど味わった。
集中せねばならないときに悠二のことを想い、
彼がそこにいないだけで自分の戦いに不安を抱き、
|唐《とう》突《とつ》に彼のことを思い出して激しい|寂《せき》蓼《りょう》感《かん》に|苛《さいな》まれる。
あそこまで精神の安定と|均《きん》衡《こう》を欠いた戦いは初めてだった。
おかしなのは、その前の戦い ――愛を実践し、それに|斃《たお》れた|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニの戦い―― のときも同じ気持ち[#「同じ気持ち」に傍点]を持って戦っていた、そのときは信じられないほどの歓喜と無限に|湧《わ》き出す力を得ていた、ということだった。
全く、わけが分からなかった。
(好きが、恐い)
この『どうしようもない気持ち』のせいで、 フレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が、 ただ一個の確たる自分が、使命への|従《じゅう》事《じ》者が、形作られ|研《と》ぎ澄まされてきた全てが、乱され、揺るがされ、変わってしまう。
そんな|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な力にこれ以上身を任せることが、たまらなく恐かった。
(なのに)
絶対に負けたくない、と思っている。
自分を乱し、揺るがし、変えてしまうこの想いを、抑えられる自信が、全くない。
それが最も、恐かった。
(それとも)
この気持ちのせいで、もう、なにかが変わってしまっているのだろうか。
ここに来た頃の自分がどんな存在だったか、よく覚えていない。
が、もしその頃に今朝のようなこと[#「今朝のようなこと」に傍点]をされたら、
(もっと違う対応をしてたかな)
自分でそんな疑問を感じられるほどには、たしかに変わっていた。
|今朝《けさ》、授業が始まる少し前のことである。
ギリギリで|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》が教室に駆け込んできた。その際、田中が軽く、
「おお、おっす、シャナちゃん」
と彼女に|挨《あい》拶《さつ》したのである。
それを聞いて、
「なにそれ?」
「しゃなちゃん?」
と他のクラスメイトが|尋《たず》ね、佐藤が答えた。
「ああ、新しいあだ名。今日から、このお|嬢《じょう》さんの名前は|平《ひら》井《い》ゆかりではなくシャナちゃんです。シャナちゃんをヨロシク」
「……」
座る彼女の肩に、親しげに手を置いて。
「変なの」
「なんで急に?」
「いきなり呼べって言われてもなー」
などと、数人が|僅《わず》かに|囁《ささや》き合い、また首を|傾《かし》げる中、佐藤は教室の|片《かた》隅《すみ》、|吉《よし》田《だ》に|片《かた》目《め》を|瞑《つぶ》って見せた。
吉田は|頬《ほお》と|瞼《まぶた》を熱くして、お|辞《じ》儀《ぎ》をするついでに、深く机に顔を伏せた。
シャナは、この街では『平井ゆかり』という少女を|偽《ぎ》装《そう》して生活している。
『本物の平井ゆかり』は、この街で大規模な|自《じ》在《ざい》法《ほう》起動を|企《たくら》んでいた|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠ノ家族ぐるみで喰われ、死んだ。シャナは、その死後に作られた平井ゆかりのトーチに存在を割り込ませ、街で暮らすための生活|基《き》盤《ばん》と、|秘《ひ》宝《ほう》を宿す|悠《ゆう》二《じ》を見張るための立場を手に入れたのだった。
滞在も数ヶ月|経《た》ち、家族のトーチも消えたことで結果的に一人暮らしとなっているが、実際のところ、彼女の生活|主《しゅ》体《たい》は|坂《さか》井《い》家にあり、|平《ひら》井《い》家のあるマンションは夜になって帰る|寝《ね》床《どこ》程度の扱いである。『平井ゆかり』という名も、悠二やその母の|千《ち》草《ぐさ》からは『シャナ』と呼ばれているため、学校で使われる|符《ふ》丁《ちょう》程度のものでしかない。
しかし、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》にとって『本物の平井ゆかり』は友達だった。
その友達が|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ノ家族とともに喰われたこと、フレイムヘイズの少女がその代わりになっていたことを、彼女は三日前の事件の際に知らされたのである。
彼女は少なからぬショックを受けたが、実はシャナという代役が存在するため、本来そこにいたはずの『本物の平井ゆかり』については全く思い出せず、|喪《そう》失《しつ》感《かん》もなかった。ただ、顔も思い出せない友人[#「顔も思い出せない友人」に傍点]が死んでいた、という事実だけが、|戸《と》惑《まど》いとともに彼女の心を重くした。
それでも、世間的に生きていることになっている以上、これからもシャナは『平井ゆかり』と呼ばれ続ける。|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》は、そんな彼女の|負《ふ》担《たん》を減らそうとしたのだった。せめて、自分たち仲間と、もう少し広い|範《はん》囲《い》くらいは、『平井ゆかり』の名を使わなくて済むように。
「こら佐藤、なに朝から騒いでんだ」
「おっとと、失礼」
|朝《ちょう》礼《れい》のため入ってきた担任に怒られて、|慌《あわ》てて佐藤は席に座った。
その周りから、|僅《わず》かに声が漏れている。
「なんで『しゃな』?」
「さあ? でも|響《ひび》きはいいかも」
とりあえず、数人が|記《き》憶《おく》の|片《かた》隅《すみ》に留める程度でも、まず宣告さえしておけばいい。実際に彼女と関わりの深い悠二や佐藤らのグループが使い続けていけば、いずれ他のクラスメイトにも|馴《な》染《じ》んでいく。あだ名とはそうしたものだった。
そんな短い騒ぎの中、シャナは肩に佐藤の手を置かれたとき、なんのリアクションも返さなかった。|殺《さっ》気《き》を持っていなかったとは言え、他人が不用意に自分の体に触れたというのに、
なにもしなかった。
それくらいはいいだろう、と許していた。
フレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が。
(昔なら、佐藤|啓《けい》作《さく》をぶん投げて、周りの騒ぎを黙らせるくらいはしてたかも)
その|差《さ》異《い》を自覚して、
(やっぱり、私……変わったの、かな)
|戸《と》惑《まど》いを|隠《かく》すためにより表情を固める。
「シャナちゃん?」
(ん……?)
再び|吉《よし》田《だ》から声をかけられて我に返ると、他の|面子《めんつ》が自分のことを見つめていた。皆が無言のまま、一緒に来て欲しい[#「一緒に来て欲しい」に傍点]、と求めている。それが分かる。
別に自分が|採《さい》決《けつ》権《けん》を握っているわけでも、自分が行かなければ勉強会とやらが成立しないわけでもないのだから、勝手に決めれば良いのに……などと思う一方で、彼ら少年少女がみんなで[#「みんなで」に傍点]という行為を楽しく感じる生き物であることも考える。
(たしかに、断る理由も、ないけど)
|緒《お》方《がた》が|合《がっ》掌《しょう》のポーズを取っている。これは、お願いを表す仕草であると教えられた。
|池《いけ》は|特《とく》段《だん》の感情も見せず、逆に|佐《さ》藤《とう》は期待を、|田《た》中《なか》は|諦《あきら》めを表して結果を待っている。
そして吉田が正面から、自分を見ていた。以前のような、|気《き》迫《はく》や|対《たい》抗《こう》心《しん》を込めた視線ではなかった。ごく普通に、友人として接している。
絶対に|相《あい》容《い》れない『敵』であるはずなのに。
(嫌な|奴《やつ》なら……|悠《ゆう》二《じ》を|攫《さら》って、ここから今すぐにでも、出て行けたのに……)
その苦しさから逃れるように、つい|隣《となり》の席にチラリと|目《め》線《せん》をやっていた。そうしてから、自分の取った行動に気付いて、|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める。まるで他人に頼ったり、|伺《うかが》いを立てたりしているようで|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》だった。
その悠二が、気を向けられたことを察して|訊《き》く。
「どう?」
最近の悠二は、変なところで鋭い。なんだか嫌な感じだった。
「……」
しかしもちろん、本当は嫌ではない。
|躊躇《ためら》いがちに答える。
「……私、それ[#「それ」に傍点]のやり方知らない」
「訊かれたことを教えればいいだけだよ」
悠二は|朝《あさ》晩《ばん》の|鍛《たん》錬《れん》を思い、フォローする。
緒方が全員参加を|既《き》成《せい》事実化しようと声を上げる。
「とにかく決まりね?」
「決まり決まり! 俺たちにはメガネマン先生が付いてる!」
「あー」
佐藤が田中の肩を抱いて、|一《いち》蓮《れん》托《たく》生《しょう》と揺さぶった。
池は|苦《く》笑《しょう》して、向かいの少女に、複雑な気持ちを|隠《かく》して言う。
「気楽に言ってくれるよ。まあ、吉田さんもいるし、なんとかなるかな」
「ええと、できる|範《はん》囲《い》なら」
そう|謙《けん》虚《きょ》に応える彼女を見て、
(ならほとんど全部じゃないかな)
と思いつつ、|悠《ゆう》二《じ》は質問する。
「それで、やるのはいいけど、どこに集まろう?」
「|佐《さ》藤《とう》ん|家《ち》! 広いし人いないしご飯も作れるし!」
佐藤や|田《た》中《なか》と中学以来の友人である|緒《お》方《がた》が、当然のように言った。
|御《み》崎《さき》という街は、|大《たい》河《が》・|真《ま》南《な》川《がわ》を挟んで、西と東を交互に発達させてきた。
「ほんのちょっとの間、家を|空《あ》けてもらえるだけで構わないんです。お願いしますよ、マージョリーさん!」
「やあよ。あんたが言ったんでしょ、『好きなように暮らして構いません』って」
核となったのは西部の|山《さん》腹《ぷく》にある|御《み》崎《さき》神《じん》社《じゃ》である。これは、暴れ川だった真南川を治め|鎮《しず》めるための|鎮《ちん》守《じゅ》で、かなり古い年代に|創《そう》祀《し》された。中世になって、この低い山のなだらかな|裾《すそ》野《の》に|鳥《とり》居《い》前《まえ》町(神社の|門《もん》前《ぜん》町)ができた。これが、街としての御崎市の始まりという。
「そ、そんな|意《い》地《じ》悪《わる》言わないでくださいよ、|姐《あね》さん」
「なーにが意地悪なのよ。いつもだって、別にウロウロしてるわけじゃなし。ここで酒飲んでる内に、その勉強会とやらも終わるんじゃないの?」
その後、真南川の|治《ち》水《すい》が進んだことで東部に広大な農村が現れ、|主《しゅ》要《よう》街道からの近さ等の|要《よう》因《いん》から、住人の生活|密《みつ》度《ど》は東部に|偏《へん》在《ざい》する形で増していった。その間、西部は御崎神社の|社《しゃ》領《りょう》を|横《おう》領《りょう》した|小《しょう》領《りょう》主《しゅ》が|館《やかた》を構えたりするなど、|統《とう》治《ち》する側の土地となっていた。
「だから、このバーはトイレのすぐ近くで……マルコシアスからも何とか言ってくれよ」
「ヒーッヒッヒ、ケーサクよお、我がものぐさなバラスト、マージョリー・ドーが自分からデカくて重いケツ上げたりするわきゃねブッ!」
やがて|明《めい》治《じ》頃、御崎神社にゴタゴタがあり、杜領が安く払い下げられることとなって、人口は西部に流れ込んだ。現在、住宅地と呼ばれている地区の基盤は、この頃にできている。ちなみに、御崎高校の創立も同時期である(|旧《きゅう》制《せい》で『|御《み》崎《さき》尋《じん》常《じょう》中学校』といった)。
「だいたい、ほんの何日か前に『出て行かないで』って泣きついたばかりのくせに、 もう|掌《てのひら》 返《かえ》したりするわけ?」
「そういうわけじゃ……ただ、|姐《あね》さんのことを、ちょっと|誤《ご》解《かい》してる子が……」
そして戦後、|大《おお》地《じ》主《ぬし》のものだった東部|全《ぜん》域《いき》が、農地|改《かい》革《かく》で|小《こ》作《さく》人《にん》に解放された。これに伴う|区《く》画《かく》整理に御崎市駅の|竣《しゅん》工《こう》が重なり、現在『市街地』と呼ばれる近代都市としての東部が発展を始める。|法《ほう》制度の下、東西を合わせた『御崎市』、その誕生だった。
「あーん? |誤《ご》解《かい》ってなぁ、なんのことでえ」
「いや、それは、その……」
|佐《さ》藤《とう》家は、その東部でも指折りの|旧《きゅう》家《か》だった。 区画の整理後、|旧《きゅう》地《じ》主《ぬし》階《かい》級《きゅう》の人々が|集《しゅう》 住《じゅう》するようになった東部の、通称『旧住宅地』全てが、本来は佐藤家の|地《じ》所《しょ》だったことでも、その|威《い》勢《せい》の強さを容易に察することができる。現在も、その|影《えい》響《きょう》力はほとんど減じていない。
「とにかく出て行くのは|却《きゃっ》下《か》。ここで寝てる」
「ヒヒ、ま、何事もないよう祈ってるこったな」
大通りから少し入った場所に突然現れる、区画丸ごとを|覆《おお》う|塀《へい》と、その中央に付けられた大きな門。これが旧住宅地の|概《がい》観《かん》である。佐藤家の|邸《てい》宅《たく》は、当然というべきか、この中でも相当に大きなものだった。また、近所というほどではないが、|田《た》中《なか》の家もこの地区にある。
「……佐藤」
「それしかないなら、とにかく祈っとけ」
かくして、少年二人の努力も|虚《むな》しく、極めて|威《い》力《りょく》の高い|不《ふ》発《はつ》弾《だん》は処理されないまま、勉強会が始まる。
勉強会、と|緒《お》方《がた》が名付けたこの集まりは、|翌《よく》日《じつ》が試験である以上、必然的に夜、しかもそう遅くない時間に帰宅せねばならない。
特に初日である今日は、午前で終わる試験日と違って昼からの授業もあった。帰ってすぐ佐藤家に集合するとしても、大した時間は取れない。女性|陣《じん》は、|一《いっ》旦《たん》帰ってからの|身《み》支《じ》度《たく》に時間がかかるので|尚《なお》更《さら》である。
それでも、時間的に|半《はん》端《ぱ》になるため夕飯は佐藤家で作ろう、という話が加わると、|俄《が》然《ぜん》このイベント[#「イベント」に傍点]は楽しげなものになってきた。
佐藤家は家族が一緒に住んでいない、佐藤|啓《けい》作《さく》の一人暮らしなので(これについては|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》な事情があるらしく、彼は話したがらない)、|昼《ひる》勤《きん》のハウスキーパーが帰れば、家には彼らだけとなる。試験勉強という|甚《はなは》だしくつまらない目的こそあれ、彼らはこのイベントを、ほとんどミニキャンプのように捉えたのだった。
中でも特に、|吉《よし》田《だ》は張り切っていた。
きっかけは、
「ウチの|厨《ちゅう》房《ぼう》広いからさ、食材とかそこにある分使ってくれていいよ」
という佐藤の発言である。
吉田は佐藤家に行ったことは一度もなかったが、かなりの|豪《ごう》邸《てい》であることは本人とその友人たちから|冗《じょう》談《だん》交じりに聞いていた。
「俺も普段は適当に作ってるから、手の込んだのでなけりや手伝ってもいいし――」
「あ、あの、どれくらいの大きさなんですか?」
台所でなく『|厨《ちゅう》房《ぼう》』という言葉を使った彼に、料理好きの少女は勢い込んで訊いていた。
「へ? あ、ええと」
「オーブンとかフライヤーはどんな? グリラーとかグリドルもありますか? もしかして、もう|電《でん》磁《じ》調理器も?」
そうして|佐《さ》藤《とう》も知らないようなことを|延《えん》々《えん》問い|質《ただ》した彼女は、勉強と料理、どっちが目的なのか分からないような気負いと言葉で、勉強会の|炊《すい》事《じ》を|請《う》け負った。
「任せてください、腕によりをかけて作りますから!」
ちなみにその|隣《となり》では|緒《お》方《がた》が、
「なによ、その目は。女だからゴバン作れって、そんなの男女|差《さ》別《べつ》よ!」
「なんにも言ってないし思ってもないって!」
などと、|劣《れっ》等《とう》感から来る被害|妄《もう》想《そう》を|田《た》中《なか》にぶつけていた。
そんなこんなで、|悠《ゆう》二《じ》とシャナは今、佐藤家に向かって大通りを歩いていた。
勉強会のため再び集まる彼らは、当然|私《し》服《ふく》である。
悠二は例によって、|柄《がら》物《もの》のTシャツに洗いざらしのジーンズ、という芸のない|格《かっ》好《こう》である。自分とシャナの教科書やノートを入れたバッグを手に|提《さ》げていた。
シャナの方は、腰を|絞《しぼ》ったブカブカのローブTシャツ。もちろん|千《ち》草《ぐさ》のコーディネートである。手には、これまた千草が『皆のおやつに』と持たせたケーキの箱を抱えていた。
その二人は、大通りの歩道ではなく、車道のど真ん中を歩いている。
彼らだけではない。市街地|側《がわ》の大通りは今、やたらと広い歩行者|天《てん》国《ごく》となっていた。
|御《み》崎《さき》大《おお》橋《はし》の手前から|全《ぜん》壊《かい》した御崎市駅までの間に交通規制が|布《し》かれ、車の出入りが禁じられていたのである。
歩く二人を含めて、大通り全体に|雑《ざっ》踏《とう》が|溢《あふ》れているという、まず普段では絶対に見ることのできない光景が、|視《し》界《かい》いっぱいに広がっていた。
ところどころにシートをかぶせられているのは、事件の混乱の中、|衝《しょう》突《とつ》事故を起こした自動車である。回収のためのレッカーを待っている間に大通りが歩行者天国化したため、とりあえず|放《ほう》置《ち》されていた。
これら壊れたウインカーの|破《は》片《へん》等も|佗《わび》しい、 駅前の陰気な|復《ふっ》旧《きゅう》 工事の一部とも見える物体の周りには、対照的に明るく|賑《にぎ》やかな|喧《けん》騒《そう》が広がっている。
道路沿いの店、あるいは地理的に全く関係のない店までもが出張でテーブルや|椅《い》子《す》を並べてオープンカフェを開き、道行く客を呼び込んでいた。なぜかしんみりと弁当をつつく青年二人、|物《もの》珍《めずら》しそうにはしゃいでパフェを|頬《ほお》張《ば》る少女のグループ、|日《ひ》傘《がさ》の下でのんびりコーヒーを|啜《すす》る老人など、|種《しゅ》々《しゅ》雑《ざっ》多《た》な人々が座っている。
店々の|隙《すき》間《ま》は、地面にシートを広げたアクセサリショップやストリートミュージシャンらが当然のような顔で占め、未だに街の住民へのインタビューを迫るレポーターやカメラスタッフなどとともに、声と音で、騒がしく人ごみを飾っていた。
(覚えてないとはいえ、あれだけの破壊があった後なのに)
起きた事件と今の状況は、たしかに不運で|不《ふ》便《べん》には違いない。が、それでも、生きている以上は目の前の現実に|対《たい》処《しょ》するしかない。不運と不便を利用できるなら、当然する。それももちろん、できるだけ。
(すごいんだな、人間って)
そんな、非日常の|災《さい》厄《やく》の跡にも営々と日常を築いている人間たちの姿を見て、|悠《ゆう》二《じ》はなんだか心強くなった。
その中に混じるトーチたち[#「たち」に傍点](悠二はトーチをあくまで人してと扱う)、自分が恐れる非日常の|象《しょう》 徴《ちょう》だった人間の残り|滓《かす》たちも、世界の|歪《ゆが》みを修正する『|調《ちょう》 律《りつ》』が行われて以降は、めっきり数が減った。
調律というものの具体的な原理や構造は理解できないが、感覚的にはなんとなく分かった。調律師・カムシンの『存在の歪みを|均《なら》して、これからあるだろう|欠《けつ》落《らく》も整理した』という言葉を、その|字《じ》義《ぎ》通りに感じる。
シャナと出会った日、絶望とともに燃え落ちた日常が、見た目の破壊とは|裏《うら》腹《はら》に|蘇《みがえ》りつつある、世界の生命力が目の前に|溢《あふ》れている、そう思えた。
しかし反面、その|異《い》変《へん》、これだけの破壊が|僅《わず》か一晩で振り|撒《ま》かれた、|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠ニの戦い、フレイムヘイズたちの力への|脅《きょう》威《い》も感じる。
(あれだけの戦いで死人が出なかったってのは、幸運というよりも|奇《き》跡《せき》だな)
そのような奇跡が得られたのは、カムシンが別れる際、指摘したように、たまたまだった。
|襲《しゅう》 撃《げき》の|首《しゅ》謀《ぼう》者たる|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ目的が|自《じ》在《ざい》式《しき》の|構《こう》築《ちく》にあり、 人を喰うことは二の次だったから……理由はそれだけに過ぎない。
実際、最初に|御《み》崎《さき》市を|襲《おそ》った王≠フように、|企《き》図《と》する目的に喰うこと[#「喰うこと」に傍点]が含まれていれば、それこそ百、千、|下手《へた》をすると|万《まん》単位で|人《ひと》死《じ》には出るのである。他でもない悠二|自《じ》身《しん》、そして|隣《となり》を歩くシャナが|偽《ぎ》装《そう》している|平《ひら》井《い》ゆかりも、その|犠《ぎ》牲《せい》者だった。
(もっと、うまくやれたんだろうか?)
今も大通りの先、御崎市駅では、ショベルカーやクレーン車が何台も|瓦《が》礫《れき》を取り除く作業を行っているのが見えた。クラスの|噂《うわさ》話では、昨日の雨が止んでから、昼夜休みなしで動いているという。|素人《しろうと》目《め》にも、復旧は当分先であると分った。
また、御崎市駅は数個の|路《ろ》線《せん》を連絡するターミナル駅でもあったので、その|寸《すん》断《だん》による沿線住民への|影《えい》響《きょう》 は計り知れなかった。 市は|緊《きん》急《きゅう》 措《そ》置《ち》として、 前後の駅をバスの|臨《りん》時《じ》運行で|繋《つな》いでいるらしいが、もちろんその程度で処理しきれるほど利用者は少なくない。御崎高校でも、電車通学していた生徒が|幾《いく》人《にん》か、本来はご|禁《きん》制《せい》のはずの自転車通学を|黙《もく》認《にん》されたりしていた。
これが、これだけのものが、歯車一つ狂っただけの結果。
「……|封《ふう》絶《ぜつ》が張れなかった、ただそれだけ[#「それだけ」に傍点]なんだよな」
「?」
シャナが、首を|僅《わず》かに|傾《かし》げた。もうそれで通じる、という無意識の行為である。
その近さに気付かないまま、|悠《ゆう》二《じ》も答える。
「いつもシャナたちが|封《ふう》絶《ぜつ》を使ってるところを見てたけど、こんなに重要なものだなんて思わなかった、って話。一度使えないだけで、こんなに|酷《ひど》いことになるなんてね」
シャナは少しの間、自分たちの戦いの結果たる光景に|目《め》線《せん》を遊ばせ……そして、さり気なく重要な話を切り出す。
「やってみる?」
「えっ?」
「|自《じ》在《ざい》法《ほう》『|封《ふう》絶《ぜつ》』と、|修《しゅう》復《ふく》の練習」
悠二は驚きと期待と不安を、声に混ぜた。
「僕が、自在法を? ミステス≠ナも、そういうことが……?」
|即《そく》答《とう》が返ってきた。
「できる。ミステス≠ヘ、その|蔵《ぞう》した|宝《ほう》具《ぐ》の種類によって様々な特性を持つ。中には、|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》&タみの戦闘力を持った|奴《やつ》だっていた」
「へえ……戦ったことがあるの?」
「うん」
シャナは|頷《うなず》きつつ、自分に|大《おお》大刀《だち》『|贄《にえ》殿《とのの》遮《しゃ》那《な》』を託して散った|隻《せき》眼《がん》鬼《き》面《めん》の|鎧《よろい》武《む》者《しゃ》の|威《い》容《よう》と、その戦いにおける|死《し》線《せん》の上を渡る|感《かん》触《しょく》を思い浮かべる。
「死にかけた。剣の腕だけなら、あれ以上の使い手には会ったことがない」
その|率《そっ》直《ちょく》な感想に、ミステス≠フ持つ可能性に、悠二は|感《かん》嘆《たん》する。
「そんなに……でも、僕にそういう適性はあるのかな」
「一度は存在の力≠制御できたんだし、|千《せん》変《ぺん》≠フ腕の不快感もなくせたんでしょ? |下《した》地《じ》はもう、十分できてると思う」
悠二は以前、一つの戦いで、ミステス≠スる自身の存在を、危うく|分《ぶん》解《かい》されかけたことがあった。身の内にある宝具『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を、強大なる|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイに奪われかけたのである。彼の腕を体の中に突き通され、今まさに分解、|消《しょう》滅《めつ》しそうになった、
そのとき、
蔵した宝具を守る『|戒《かい》禁《きん》』という自在法が、シュドナイの腕を折った。
いつ、誰が、どうやって、なんのために|施《ほどこ》したのか……全て不明な力だったが、ともかくも|悠《ゆう》二《じ》は、そのおかげで|消《しょう》滅《めつ》せずにすんだ。
しかし代わりに、というべきか、彼はその体の内にシュドナイの折れた腕を、そのままに残していた。どことも知れない体内にもう一本の腕を感じる、という猛烈な|悪《お》寒《かん》を抑え込むために、彼は相当な苦労と|鍛《たん》錬《れん》を強いられた。
それが、三日前の戦いの最中に突然、解消された。とある事情[#「とある事情」に傍点]で|激《げき》怒《ど》した際、その怒りを現すために存在の力≠フ|在《あ》り|様《さま》に触れ、|繰《く》り方を|感《かん》得《とく》し、結果その腕と一つに|繋《つな》がったのである。以降、彼はシュドナイの晩の存在を感じていなかった。
「まあ、たしかに存在の力≠フ流れを感じるだけだったときとか、自分で|下手《へた》にいじってたときよりは、なんとかなると思うけど……」
「やっぱり、不安?」
少年の頼りない顔を、シャナは|僅《わず》かに身を|屈《かが》めて|覗《のぞ》き込む。長く|艶《つや》やかな|黒《くろ》髪《かみ》が、肩からさらりと|零《こぼ》れた。
その姿への自然な|感《かん》嘆《たん》として、悠二は|微笑《ほほえ》みを浮かべ、答える。
「そりゃあ、ね。いくら『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』で回復するっていっても、たった一人分の存在の力≠セし。フレイムヘイズや|徒《ともがら》≠ニ比べたら、微々たるもんだろ?」
「えっ……気付いて、ないの?」
「なにが?」
「……アラストール」
シャナは悠二の問いには答えず、なぜか|胸《むな》元《もと》のペンダントコキュートス≠ノ|尋《たず》ねた。
「告げるのは[#「告げるのは」に傍点]、もう少し様子を見てからだ[#「もう少し様子を見てからだ」に傍点]。 |習《しゅう》得《とく》の方は構うまい。 |自《じ》在《ざい》法《ほう》構《こう》築《ちく》の|練《れん》度《ど》を上げてゆけば、あらゆる|事《じ》象《しょう》の制御・|察《さっ》知《ち》に役立つだろう」
少女と契約する|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔《ま》神《じん》も、悠二には分からない前置きをしてから許可した。
「告げるって、なんのこと?」
|怪《け》訝《げん》な顔をする悠二に、シャナは首を振って答える。
「まだ言えない。今のところ、悪い|兆《ちょう》候《こう》は見えないから安心していい」
「……その答えで不安にならない|奴《やつ》はいないと思う」
「うるさいうるさいうるさい。大丈夫、そのときは私がなんとかする。とにかく、アラストールの許可も出たから――」
言いかけたシャナは、急に悠二を見た。目をパチクリとさせ、
(なんだ)
と|密《ひそ》かに思った。
「なに?」
「なんでもない。今夜から|封《ふう》絶《ぜつ》の鍛錬、始めるわよ」
「ま、シャナが言うなら、大丈夫かな」
信頼からそう答える|悠《ゆう》二《じ》に、シャナは言う。
「悠二」
「なに?」
心持ち下から|窺《うかが》うように悠二をじっと見つめ、もう一度、
「悠二」
確かめるように。
「なに?」
返事を受けてもシャナは答えず、歩きながら見上げる。そしてまた、
「悠二」
「……なに?」
悠二は、もしかして自分の顔に何か付いているのかと思い、|頬《ほお》を触った。
その|様《よう》子《す》を、シャナはくすりと笑った。
「馬鹿」
「え、だからなにがさ?」
悠二は訳が分からない。
ただ、そのシャナの笑顔に|釣《つ》られて、自然と笑い返していた。
(なんだ)
とシャナは思う。
(こういう話なら、ちゃんと普通に、悠二と口をきけるんだ)
新しい方法を編み出したのか、見落としていたものの再発見か。
(悠二と話してさえいれば、こうして、|嬉《うれ》しい)
少女は自分の胸を締めていたなにかが|融《と》け落ちてゆくのを感じていた。
(悠二が一緒にいてくれさえすれば、恐くない[#「恐くない」に傍点])
と、
その鼻に、一つの|匂《にお》いが引っかかった。瞬間的にその根源を|感《かん》知《ち》する。
「……メロンパンが動いてる」
「はあ?」
|面《めん》食《く》らう悠二をおいて、シャナは小走りに|雑《ざっ》踏《とう》を抜け、一つのバンの前で止まった。
車体後部を改造した、移動メロンパン屋だった。
「一つ|頂《ちょう》戴《だい》」
頬を|興《こう》奮《ふん》で|上《じょう》気《き》させる少女に、店員が大声で返す。
「はーい、メロンパン一つ!」
悠二は|呆《あき》れた声で言う。
「母さんがケーキを持たせてくれてるのに。夕飯だってあるんだぞ?」
「それも後でちゃんと食べる」
「ああ、そう」
答えた|悠《ゆう》二《じ》も、ふと気付いた。ここ数日の、なんとなく互いの間に漂っていた重い|雰《ふん》囲《い》気《き》がいつの間にか、何を|謀《はか》ったわけでもない流れの内に融けていることを。
シャナはその|嬉《うれ》しさを隠して、パンを受け取る背中|越《ご》しに言う。
「とにかく、今夜から|封《ふう》絶《ぜつ》の前段階、存在の力≠|繰《く》るための|鍛《たん》錬《れん》を始めるわよ」
「はいはい。夜までテスト勉強して、その後は屋根の上で|特《とっ》訓《くん》か。今日から三日はハードスケジュールだな――、っふふ」
|苦《く》笑《しょう》に似た|吐《と》息《いき》を、悠二は漏らした。
シャナは|紙《かみ》袋《ぶくろ》に入った焼きたてほやほやのメロンパンを、さっそくカリカリ、次にモフモフ|頬《ほお》張《ば》っている。|蕩《とろ》けるような笑顔とともに、また歩き始めた。
「んむ、なに?」
「いや、なんだかおかしいなって」
悠二も歩を並べる。その|露《ろ》骨《こつ》なメロンパンの効果である笑顔[#「メロンパンの効果である笑顔」に傍点]に、今度は露骨に|苦《く》笑《しょう》した。
「存在の力≠繰るとか|封《ふう》絶《ぜつ》とか、人の常識からかけ離れてて、すごく恐いことと――」
ふと|傍《かたわ》らの交差点から、脇に目を流す。
通行止めと書いてあるのだろう看板の背中と、差し渡されたデンジャーストライプの|阻《そ》止《し》棒《ぼう》の向こうに、 大通りの|代《だい》替《たい》道路となっている狭い|旧《きゅう》道《どう》の|大《だ》渋《じゅう》滞《たい》が見えた。 警察官が鳴らす笛の音が、自動車の|騒《そう》音《おん》に混じり、|響《ひび》いている。
人には分からない場所での行為、その結果を受け取る人々の|様《よう》子《す》だった。
「――テスト勉強みたいな、ごく普通の生活のことを一緒に並べてるのが、なんだかおかしくてさ」
元・普通の人間だった悠二の|感《かん》慨《がい》は、|総《そう》身《しん》を一個のフレイムヘイズとして|鍛《きた》え上げられたシャナには分からない。
彼女なりの|理《り》屈《くつ》として、悠二に答える。メロンパンを頬張りながら。
「はむ――ん、 この街で仮にでも[#「仮にでも」に傍点]暮らす以上は、 その|偽《ぎ》装《そう》した身分を演じておくべき――ほむ――ん、 宿泊|施《し》設《せつ》への|潜《せん》伏《ぷく》も、 住居を定めない|徘《はい》徊《かい》も、実際にそこの住人に|紛《まぎ》れて暮らすことで得られる情報の|総《そう》量《りょう》には及ばない。んむ」
(やっぱり、シャナは実務の|都《つ》合《ごう》からものを考えるんだな)
悠二はその|謹《きん》直《ちょく》さをおかしく思い、そして、ふと気が付いた。
シャナとの二度目の出会い。そうそう人には関わりたがらないはずの彼女が、あっさりと自分の|隣《となり》の席に現れたときのことを。
「そうか……ここに来る前にも、今の『|平《ひら》井《い》さん』みたいなことをしてきたんだ」
今さらのように、彼女がフレイムヘイズとしての|流《る》浪《ろう》を経てきたことを思う。|世《よ》慣《な》れていないことから『真っ白』だと、勝手に思っていた彼女にも、いろんな過去があることを。
そのシャナが、軽く|頷《うなず》く。
「一箇所に隠れてなにか|企《たくら》んでるタイプの|徒《ともがら》≠ェいた場合はね」
|一《いっ》旦《たん》声を切ってまたメロンパンを|頬《ほお》張《ば》り……そして、|悠《ゆう》二《じ》にだから、と続ける。
「――んむ ――でも、 ここほどたくさんの人と話をしたことはなかった。|滞《たい》在《ざい》期間も、今までは|徒《ともがら》≠見つけて|討《とう》滅《めつ》するまでだったから、長くて三日くらい。暮らす、って言葉を使えるのは、本当はここだけかも」
「……」
「え?」
シャナは、悠二がなにか|訊《き》いたような気がして、その顔を見上げた。
「いや――あ、ここだよ」
悠二は|誤《ご》魔《ま》化《か》して、|旧《きゅう》市街地に抜ける|脇《わき》道《みち》を指し示した。
シャナも深く追及はせず、並んで進む。
さっきまでの|喧《けん》騒《そう》や|混《こん》沌《とん》が、|嘘《うそ》のように消え失せる、|閑《かん》静《せい》な|雰《ふん》囲《い》気《き》の|辻《つじ》を歩くこと数分、なんとなく落ちていた|沈《ちん》黙《もく》を、悠二が破った。さっき、言いかけた質問で。
「今、楽しい?」
シャナは、その質問に、疑問で返す。
「……そうかな」
「楽しそうな顔、してるよ」
悠二は、少女の声に表情に、揺れるものを|捉《とら》えて、言った。
シャナは少し考えてから、感じてから、答える。
「……そうかも」
もう、メロンパンはなくなっていた。
夏の高い日が暮れる前に、七人は|佐《さ》藤《とう》家に集まった。
女性|陣《じん》はシャナ含め、|妙《みょう》に張り切ったおめかしをして現れ、逆に代わり映えのしない|格《かっ》好《こう》の男性陣(学校から佐藤家に直行している|田《た》中《なか》などは、学生服のままである)を驚かせた。
|吉《よし》田《だ》は|無《む》地《じ》のブラウスとフレアスカート、|緒《お》方《がた》は大きなセーラーシャツに短めのパンツルックで、両者とも控えめながら化粧にも気合が入っていた。
「……なにしに来たか、分かってるよね?」
|池《いけ》が、一番言う必要のない相手だと思っていた吉田にそう言ったのは、おめかしが理由ではない。彼女がその両手に、一杯に|膨《ふく》れたスーパーのビニール袋を提げていたからだった。
「ご、ごめんなさい、でも、途中のスーパーが|丁《ちょう》度《ど》、安売りだったから……」
その割にバッグは手持ちではなく、真夏の背負い式であるあたり、いかにも|嘘《うそ》の|下手《へた》な|吉《よし》田《だ》である。見破られたのを察した吉田は、|田《た》中《なか》に案内されて早々に|厨《ちゅう》房《ぼう》へと消えてしまった。
帰ってきた田中の伝えるところによると、彼女は|佐《さ》藤《とう》家の広いそこを見るや、
「わあ、すごいバーナー、オーブンも大きいし。さすがにフライヤーはないですね。でもグリラーはちゃんとあるし、シンクもたくさん――」
などと、田中には半分も分からない言葉で大はしゃぎしたという。
「夕飯は私一人で作りますから、皆さんは構わず勉強しててください」
との伝言もあった。
その張り切りようを|邪《じゃ》魔《ま》するのもどうか、と思われた一同は、|素《す》直《なお》にその|厚《こう》意《い》に甘えることにした。彼女なら別に|切《せっ》羽《ぱ》詰《つ》まって勉強しなくても、という信用もある。
佐藤が用意した勉強会の場所は、佐藤家における五つ目の[#「五つ目の」に傍点]応接間だった。
|木《もく》目《め》のフローリングに薄いマットの敷かれた、広く明るい部屋である。|四《よ》隅《すみ》に置かれた|観《かん》葉《よう》樹《しゅ》もやたらと|背《せ》丈《たけ》があり、高い天井に向かう柱のようだった。その中央に、輪切りにした大木の分厚い|甲《かん》板《ぱん》に|硝子《ガラス》板を載せた|大《だい》卓《たく》と、床に座るためのクッションが一組、置かれている。
いやらしくなるだけである|余《よ》計《けい》な装飾のない、しかし一目で高いことが分かる、そんな部屋だった。
「やっぱ、ある所にはあるもんだなあ」
何度か訪れている|悠《ゆう》二《じ》による改めての|感《かん》嘆《たん》に、この家|唯《ゆい》一《いつ》の住人である佐藤は、
「ああ、好きに飲んでくれていいよ」
とピントのずれた返事をした。
彼の言っているのは、大卓の上に置かれた|給《きゅう》茶《ちゃ》器《き》のことである。当然のように冷水式で、ご|丁《てい》寧《ねい》にアイスボックスまで置いてあった。
「|晩《ばん》飯《めし》は自分たちで作るって言ったら、こんなの用意してってさ。なんだっけ、お|釈《しゃ》迦《か》様とか、そんな種類の|麦《むぎ》茶《ちゃ》が入ってるんだとさ」
ちなみに麦茶ではなく、お釈迦様でもない。|鉄《てっ》観《かん》音《のん》茶《ちゃ》である。
「じゃあ、さっそく始めようか。これだけの環境だ、はかどらないと|嘘《うそ》だぞ」
メガネマン・|池《いけ》の|鶴《つる》の|一《ひと》声《こえ》で勉強会は始まった。
大卓は|歪《ゆが》んだ円形なので、誰がどこと決めるでもなく、|皆《みな》適当にクッションを置いて座る。
悠二の|隣《となり》にはシャナが、田中の隣には|緒《お》方《がた》が、それぞれ当然のように座った。緒方の|魂《こん》胆《たん》としては、目的の半分以上はこの時点で達せられたわけで、あとはついでに勉強して、試験の成績が上がれば言うことはない。
「んじゃあ、いっちょ|頑《がん》張《ば》っちゃおうかなー、へへ」
隣に向かって笑いかける。
「そ、そうか」
|田《た》中《なか》は今さら意識しているらしく、硬くなっていた。
彼は|佐《さ》藤《とう》とともに、強く憧れる女性・マージョリーについていくという|遠《えん》大《だい》な(というより|無《む》謀《ぼう》な)計画を立てていたが、三日前の事件における佐藤|自《じ》身《しん》の|実《じっ》体験によって、腕っぷしの方面で彼女の役に立つことが不可能、以上に危険であることが判明した。元から分かりきっていたともいうが、とにかく体験して、思い知った。
そうして二人は改めて、自分たちの何を|鍛《きた》えるか、頭を|捻《ひね》ることとなった。
事件の前、|池《いけ》に|遠《とお》回《まわ》しに相談して、『頭を使うしかないのでは』という当たり前の回答を|貰《もら》ってはいたが、具体的になにをすれば良いのかは、|見《けん》当《とう》もつかなかった。
理想としては他でもない、あの|人《じん》外《がい》の戦場でフレイムヘイズたちにヒントを与えた|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》のように、役に立つ作戦を立てることなのだろうが、こればかりは|特《とっ》訓《くん》でどうにかなるようなものでもなさそうだった。せめてその|域《いき》に近付こうと思い、考え付いた対策は、日課とした|乱《らん》読《どく》に、|謎《なぞ》解《と》きやパズルなどの占める割合を増やす、という遊び程度のものである。
他にやれることといえば、勉強くらいしかない[#「勉強くらいしかない」に傍点]。
その意味で田中は、今回の勉強会をいい機会と|捉《とら》え、|緒《お》方《がた》にある程度の感謝もしていた。|隣《となり》に座ったりするくらいならお安いご用である。多少|硬《かた》くなるのは仕方ないが。
そんな、まだ相手からの好意に慣れない少年は、
(まあ、告白されたからって、いきなりどうこう進むってもんでもないだろ)
と、|酷《ひど》い割り切りをしてから、メガネマン先生に、
「まず、テストに出るトコの答え、教えてくれよ」
と|顰《ひん》蹙《しゅく》ものの質問をした。
勉強会は、意外なほど順調に進んだ。
池|速《はや》人《と》という、ものを教える|達《たつ》人《じん》がいたからである。
彼は根本的に『他人に合わせる』人間で、それゆえに|自《じ》他《た》の|諍《いさか》いを収めたり、逆に盛り上げたりすることが|上手《うま》かった。つまりこれは、相手がなにを思っているかを正確に|察《さっ》知《ち》する『思い|遣《や》り』を持った人間、ということである。
例えば佐藤が、
「ここのlearningってどこにかかってるんだか分からーん」
と言ったら、池はまず、佐藤から二、三、話を聞き、『彼がどういう形でものを理解をしているか』を見抜くのである。それが判明すれば、逆に『どうすれば正確に理解できるのか』も自然と見えてくる。
「これは最初のA little learningまで一つの名詞|扱《あつか》いで、主語になるんだ」
さらに彼は、その見えたものを的確に表現し、相手に伝達することにも|長《た》けていた。
「そうだな、真ん中のisで区切ったら、もう簡単だろ?」
「ははあ、なーるほど」
一方、
「なあ、なんでchildが主語なのにfatherが次にあるんだ?」
と意味|不《ふ》明《めい》な質問をする|田《た》中《なか》の意図を理解せず、
「文章がそうなってる。普通の|構《こう》文《ぶん》どおり読めばいい」
と自らが|看《かん》破《ぱ》した正解を――つまり『本来|踏《ふ》むべき|論《ろん》理《り》的な手順』を示し、
「……じゃあ、最後のmanってなんなんだ?」
「その前のof theからかかってる」
「だーかーら! なんでそーなってんのかって」
「なんでって、さっき言ったとおり」
示した正当な|理《り》屈《くつ》で相手が理解できないと『なぜ理解できないのかが理解できない』といった|風《ふ》情《ぜい》でキョトンとするシャナとは、まさに正反対の有能さ[#「正反対の有能さ」に傍点]だった。
「はは、頭がいいだけだと教師にはなれないのかな」
|悠《ゆう》二《じ》が|意《い》地《じ》悪《わる》く笑い、
「うるさいうるさいうるさい、だからやりかたは知らないって言った!」
シャナが赤くなって|怒《ど》鳴《な》り、
「まあまあ、正解をハッキリ教えてくれる人がいるってのは、教える側としてもありがたいよ」
|池《いけ》が抜かりなくなだめ、
「それより池〜、結局ここはどうなってるのか教えてくれ〜」
田中が頭を抱えて泣きつき、
「私はさっきの説明で分かったけど。ちゃんと聞いてないからじゃないの?」
|緒《お》方《がた》が一緒にいることを楽しみ、
「おーおー、なんだかリードしてますな」
|佐《さ》藤《とう》がひやかしている内に、
「夕ご飯、できましたよー」
|吉《よし》田《だ》が夕飯をカートに乗せて持ってきた。
|快《かい》哉《さい》は全員で一つ、形こそ違え|一《いっ》斉《せい》に上がった。
|大《だい》卓《たく》の上には、おかずばかり数品、|大《おお》皿《ざら》小《こ》皿《ざら》に盛られ並べられていた。
「吉田さん、これサイコー。|坂《さか》井《い》はいつもこんなの食ってんのか、くそー、|羨《うらや》ましい」
田中が肉とピーマンの|妙《いた》め物を|頬《おお》張《ば》ったまま、|行《ぎょう》儀《ぎ》悪く言った。
吉田は照れ笑いを浮かべつつ、最後になる自分のお|椀《わん》に|味《み》噌《そ》汁《しる》を|注《そそ》ぐ。
「|煮《に》物《もの》とか、時間のかかる物は作れなかったんですけど」
「いや、これだけ|豪《ごう》華《か》なのに|文《もん》句《く》言ったら|罰《ばち》が当たるよ」
|池《いけ》も同じ妙め物に|舌《した》鼓《つづみ》を打つ。隠し味になにか入れているらしく、ぴりりと|辛《から》い。
「このオムレツ、いろいろ入ってるけど、何か特別な料理?」
|緒《お》方《がた》が、|田《た》中《なか》に料理|云《うん》々《ぬん》、自分で言ったことをそれなりに意識して|訊《き》く。
「ううん、ご飯がなかったから、ピラフに入れる予定だった|具《ぐ》を入れて焼いてみたの」
|苦《く》笑《しょう》する|吉《よし》田《だ》に、佐藤がしまったという風に言う。
「あっ、|晩《ばん》飯《めし》要《い》らないって言っちまったからだ。そこまでは気が付かなかった、ゴメン」
「いえ、出来合い料理も楽しいです」
言ってから、|悠《ゆう》二《じ》の方に向き直る。
一番、|心《こころ》尽《づ》くしを届けたかった少年は、オムレツを|美味《おい》しそうに食べていた。
それだけで、吉田の胸は|安《あん》堵《ど》と温かさで満ちる。いろんな心配や不安、あるいは絶望さえも、目の前の姿があれば大丈夫だと思えた。ごく自然に語りかける。
「|苦《にが》手《て》なものとか、なかったですか?」
「全然。すごく美味しいよ。やっぱり吉田さんは料理が|上手《うま》いね。卵の味が違うだけで、オムレツが別の料理みたいだ」
「|坂《さか》井《い》君の家は違うんですか?」
「そうだね。どう言えばいいのかは、よく分からないけど」
はは、と悠二は頼りなく笑う。
その|隣《となり》で|味《み》噌《そ》汁《しる》をすすっているシャナにも、吉田は|衒《てら》いなく訊く。
「どうかな、シャナちゃん」
「うん、美味しい」
シャナは短く答えて、またお|椀《わん》に口をつける。言葉こそ|素《そ》っ|気《け》ないが、別に表情は硬くも|剣《けん》呑《のん》でもない。
「よかった」
返事と表情、両方への答えを返して、吉田はようやく自分の|箸《はし》を取る。
その姿には、以前のようなか細さが見えなかった。押しが強くなった、目に見える|仕《し》草《ぐさ》に変化があった、というわけではない。ただ彼女は、悠二とシャナに対して、しっかりと確信のようなものを持って向き合っていた。二人の|微《び》妙《みょう》な|繋《つな》がりを見て不安になることはない。自分が持っている気持ちが揺らぐこともない。
今ある自分の気持ちを、できる形でごく普通に示していた。
シャナも、そんな吉田の姿ともう一つのこと[#「もう一つのこと」に傍点]、両方への|羨《せん》望《ぼう》を持って、ポツリと|呟《つぶや》く。
「いいな……私も、これくらい……」
「え?」
なにを言ったか、|吉《よし》田《だ》が|訊《き》こうとしたとき、池が声をかけた。
「吉田さんは勉強、どうするの?」
「あ、池君に教えてほしいところはノートにまとめてあるから、片付けの後に見てもらおうと思ってるんだけど、いいかな?」
「オーケー、任せてよ」
池は軽く、しかし内心は大きな喜びとともに、気になる少女からの頼みを|請《う》け負った。そうでなくても、自分でなければならないことで頼られるのは素直に|嬉《うれ》しい。|馬《ば》鹿《か》馬鹿しいと思いつつも、|悠《ゆう》二《じ》への|優《ゆう》越《えつ》感を抱いてしまう彼だった。
その悠二が、|田《た》中《なか》と言う。
「それより、|後《あと》片付けくらいなら僕たちがやるよ」
「んむ、そだな、ご|馳《ち》走《そう》のお返しくらいはしないと」
「あんたたちは時間を惜しんで勉強しないとダメなんじゃない?」
笑って言う|緒《お》方《がた》には|佐《さ》藤《とう》が、
「そっちだって人のこと言えないだろ」
と突っ込んだ。
「なによー、それならそっちは言えるっての?」
わーわー言い合う彼女らに、なぜか|味《み》噌《そ》汁《る》のお|椀《わん》をじっと見つめるシャナが、さっきの吉田への|呟《つぶや》きとは違う、小さくてもはっきりと通る声で言う。
「池|速《はや》人《と》と吉田|一《かず》美《み》を除いたメンバーから選抜すればいい」
結果、残る五人でのジャンケンが採用された。
「んにゅ‥‥‥」
佐藤家の室内バーに|据《す》えられたソファで、マージョリーは目を覚ました。
見るでもなく見た窓の色は黒。もう夜になっているらしかった。バーカウンター内の照明だけが、薄く寂しく部屋を照らしている。
それなりの時間|寝《ね》たはずだが、酔いはイマイチ覚めていなかった。|倦《けん》怠《た》感《かん》と|嫌《けん》悪《お》感《かん》で練り固められたような体を、ゆっくりと起こす。
「水……」
|髪《かみ》留《ど》めを外したため|散《さん》々《ざん》に|寝《ね》乱《みだ》れた|栗《くり》色《いろ》の髪をかき上げながら、ソファ前のテーブルに目をやる。
水差しはあったが、|空《から》だった。
(あー、全部水割りにして……空になったから寝たんだっけか)
ご|丁《てい》寧《ねい》にもその|隣《となり》、アイスペールの氷までなくなっている。そういえば、グラスに残った氷を|噛《か》み砕いた|記《き》憶《おく》もある。なんでそんなことを、と馬鹿な|酔《よ》っ|払《ぱら》いを一秒だけ|心《しん》中《ちゅう》で|罵《ののし》ると、|辛《かろ》うじて残っていたビーフジャーキーに手を伸ばす。
(……アホらし)
|余計《よけい》にノド|渇《かわ》くじやないの、と思い直す。そして、思い直したのになぜか、パクリとジャーキーを|咥《くわ》えた。
「……ペッ」
もちろん|不味《まず》かったので、すぐに吐き出す。その手を死体のように力なく下ろして、床に打っちゃっていたグリモア≠フ掛け|紐《ひも》を取った。
「水、水、と」
そのドでかい本を右脇に挟むと同時に立ち、足を引き|摺《ず》って出口に向かう。
「よお、我が低調なる眠り姫、マージョリー・ド――」
「ちょっと、黙ってて……頭痛い」
酔いに|澱《よど》んだ言葉で|相《あい》棒《ぼう》の言葉を封じる。なにか忘れているような気もした。
(ああ、|眼鏡《めがね》……だっけ? まあ、いいや)
たしかに|伊達《だて》眼鏡もなく、髪も下ろしたままでバサバサに広がっている……が、特に重要でもない。とにかく、今は頭が働かないので、とりあえずは水を飲もうと思った。
その脇で、マルコシアスが|群《ぐん》青《じょう》の火を|溜《ため》息《いき》としてボンと|噴《ふ》いた。
(ま、いーか)
どうせ行くのは勉強と関係のない場所である[#「勉強と関係のない場所である」に傍点]。
|緒《お》方《がた》は、銀色のシンクが並び、タイル敷きの床には排水|溝《こう》もある、佐藤家の広い|厨《ちゅう》房《ぼう》で、ぶつぶつ言いながら食器を洗っていた。
「ジャンケンはいいけど、なんで一人なのよ」
ふと、|既《き》視《し》感が|過《よ》ぎる。中学のとき、|田《た》中《なか》と一緒に出入りしていた頃を思い出した。これを|捻《ひね》らねば全体に水の出ない、やたら固い水道の|元《もと》栓《せん》。つまみとして太いサラミを切っていたとき、|包《ほう》丁《ちょう》を落として欠けたタイル。佐藤が滑って転んで頭をぶつけた|頑《がん》丈《じょう》なオーブン。なにもかもが、全く変わっていなかった。
「――はあ」
作業の中で思い出して、溜息を|吐《つ》く。ああいう、お互いの距離を簡単に近くできた頃のような|無《む》邪《じゃ》気《き》さが、今の自分にも欲しかった。高そうな皿にスポンジをするりと流しつつ一人、声に出して|慨《がい》嘆《たん》する。
「|一《かず》美《み》はいいなあ……料理、ちょっとやってみようかなあ」
と突然、厨房の大きな引き戸が開いて、
「ばーさん、いるの? お水ちょーだい」
二人は出くわした。
「……あれ?」
「!?」
マージョリーを見た|緒《お》方《がた》は、真っ赤になって口をパクパクさせた。
(あーあ)
マルコシアスは手があれば|額《ひたい》に当てたい気分になった。彼がさっき注意しようとしたのは、行為それ自体もだが、なによりマージョリーの|身形《みなり》に問題があったからだった。
彼女は、下着の他にはブカブカのYシャツを|羽《は》織《お》っただけという、見ようによっては非常な|誤《ご》解《かい》を招く|格《かっ》好《こう》をしていたのである。こんな姿の美女が、下ろした髪を乱して、|伊達《だて》眼鏡《めがね》も忘れた目を|据《す》わらせている。
いろんな意味で、危険な|眺《なが》めだった。
緒方は当然のようにその姿を誤解して、皿を手から取り落とす。幸い、洗い|桶《おけ》の上だったので、皿は割れず水の中に落ちただけで済んだ。
「あ、え、佐藤の[#「佐藤の」に傍点]……? でも、今はいない、ようなこと」
|動《どう》揺《よう》して、なにを言っているのか自分にも分からない。
「んー? 誰、アンタ」
マージョリーは|訝《いぶか》しげに見慣れぬ少女を|眺《なが》めていたが、すぐ|詮《せん》索《さく》には飽きて、のそのそと彼女に近付いてゆく。
「……あ」
|緒《お》方《がた》は、その近付いてくる|妖《よう》艶《えん》な|美《び》貌《ぼう》(と彼女には見えた)を、彼女と|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》の光景を、ようやく思い出した。動揺しつつも確信する。
(ま、間違いない)
ミサゴ祭りの|露《ろ》店《てん》街で、田中栄太とイチャついていた(と彼女には見えた)美女だった。
その嫌な嫌な光景が思い出される。
(な、なんでその人がこんな所に)
緒方|真《ま》竹《たけ》による田中栄太への告白の、マージョリー・ドーは原因だった。
(も、もしかして|佐《さ》藤《とう》の、でもあの時は田中と一緒だったし)
元々緒方は、そのミサゴ祭りの日、田中に告白しよう、などと心に決めていたわけではなかった。実際、彼をお祭りに誘うことすらできず、|心《しん》底《てい》に|鬱《うつ》々《うつ》としたものを|隠《かく》して、他の友人たちと遊んでいた。
そんな中、この欧州|系《けい》らしい美女と田中がイチャついている(と、彼女には、断じて、そう見えたのである)光景に、悔しさと怒りが込み上げ、そのあと|偶《ぐう》然《ぜん》行き|逢《あ》った彼に詰め寄り、|我《が》慢《まん》できずに大泣きし、そして最後に、それら感情の高まりによって告白することができたのである。
以上のような|経《けい》緯《い》から冷静に考えると、実は彼女こそが、想いに踏ん切りをつけるきっかけとなってくれた|恩《おん》人《じん》と言うことさえできるのだが、もちろん感謝する気にはなれない。
(い、一体どういう、関係? まさか二人とも?)
近付いてくる、その対決すべき相手は、|鼻《はな》筋《すじ》の通った|華《か》麗《れい》な美貌、すらりとした足の目立つ長身、|栗《くり》色の|艶《つや》やかな髪、大きな胸が特に目立つ|抜《ばつ》群《ぐん》のスタイルを誇っている。
(こ、こんな女に、田中が|誑《たぶら》か、されて……)
その圧倒的な|威《い》容《よう》と物量で、緒方は思わず|納《なっ》得《とく》させられてしまいそうになる。
ともかく、顔は寝起きで簿ぼんやりし、|背《せ》筋《すじ》も|猫《ねこ》背《ぜ》で、髪は|寝《ね》乱《みだ》れらしきものでグシャグシャ、体中に気力の|欠片《かけら》も感じられない、今の美女[#「美女」に傍点]の状態を見て、なんとか心を支える。
一方、マージョリーはと言えば、
(水、水……)
程度しか頭が回っていなかった。緒方に歩み寄っているのは、単に彼女の背後にあるシンクで水を飲もう、と思っているだけのことである。ところが、その少女がまん前に立って、|退《の》いてくれない。
数秒、|僅《わず》かな間を置いた、|微《び》妙《みょう》に間抜けな|対《たい》峙《じ》があった。
その|静《せい》寂《じゃく》を、緒方の|緊《きん》張《ちょう》した声が破る。
「あの、あなた、|田《た》中《なか》、その」
「……?」
マージョリーは|訝《いぶか》しげに、自分の前で唇も硬く話す少女を見る。見覚えはない。たしかに|初《しょ》対面のはずだった。
|緒《お》方《がた》は突然叫んだ。
「私、緒方|真《ま》竹《たけ》って言います!」
「はあ」
少女の|素《す》性《じょう》やここにいる事情にまで、水を求める|酔《よ》っ|払《ぱら》いの美女は頭が回らない。
ポカンとする|相《あい》棒《ぼう》に、マルコシアスが二人の間だけで通じる声を飛ばす。
(仲間集めてベンキョーする、って|御《ご》両人が言ってただろが)
しかし、彼女としてはまともに返事を返すよりも、
(あー、まあ、とりあえずは)
「水……」
「わひゃああ!?」
|酒《さけ》臭《くさ》い|吐《と》息《いき》とともに美女にしなだれかかってこられて、緒方は別の叫びを上げた。
マージョリーは|下《した》敷《じ》きにした少女を無視して、その頭越しに背後の食器置き場からグラスを取る。少女を自分の支えにしながら、水を飲んで、おかわりして、また飲む。そうしてようやく、一息ついた。|僅《わず》かに、ものを考える|余《よ》裕《ゆう》ができる。
「っあー、生き返った――」
「どいて〜ください〜」
マージョリーは、ああ、と自分の胸で|溺《おぼ》れる少女の存在に気付き、半歩ヨロリと下がる。
「で、オメガさんが……なに?」
自分の顔と手に残る豊かな|感《かん》触《しょく》を|羨《うらや》みつつ、緒方はきつく訂正する。
「オガタです! 緒方、真竹!」
「あーそ。日本人の名前って……覚えにくいのよねー」
答えつつ、マージョリーはさらに下がる。実は足が止まらない。後ろに、|丁《ちょう》度《ど》いい高さのダンボールの箱があるのを|感《かん》知《ち》して、なんとかそこに腰を、ストンと落とした。
「う、わっ!!」
|途《と》端《たん》、空箱[#「空箱」に傍点]の中に|尻《しり》から落っこちた。その勢いで、箱の後ろにあった金属棚にも頭をぶつける。棚に載った|鍋《なべ》や|釜《かま》がその|衝《しょう》撃《げき》で跳ね、|厨《ちゅう》房《ぼう》にものすごい|騒《そう》音《おん》を|響《ひび》かせた。
「んぎ〜」
「だ、大丈夫ですか!?」
尻から段ボール箱に突っ込んだフレイムヘイズ|屈《くっ》指《し》の殺し屋は、酒で|濁《にご》った頭に|一《いち》撃《げき》されて|半《はん》失《しっ》神《しん》状態になった。
(――ったく、しまんねえ!)
余りに間抜けな|相《あい》棒《ぼう》の姿に、マルコシアスは|一《いっ》瞬《しゅん》二《に》撃《げき》、|自《じ》在《ざい》法《ほう》を使った。
グリモア≠ゥら一瞬だけの|閃《せん》光《こう》が|迸《はとばし》り、|緒《お》方《がた》が思わず目を|瞑《つぶ》る。その間に、
ボン、
と彼女の全身が|群《ぐん》青《じょう》色の薄い|炎《ほのお》で|覆《おお》われ、消えた。
これは、フレイムヘイズの体を|浄《じょう》化《か》したり、体調等をある程度回復させる基礎的な自在法、『|清《きよ》めの炎』である。マージョリーは主にこれを二日|酔《よ》い対策に使っている(飲み過ぎを相棒に|咎《とが》められて、その罰としてやってもらえないことも多々あるが)。
「……」
そうして、一気に酔いを覚まされたマージョリーは、まず目の前、なにが起こったのか理解できず|呆《ぼう》然《ぜん》としている緒方を見、
「……――」
そして、髪もボサボサ、|眼鏡《めがね》もかけず、着ている物も下着とYシャツだけという自分が、段ボール箱に尻を突っ込んで倒れていることを、自覚する。
「――っぎゃあっ!? な、なんなのよこのカッコ?」
思わずYシャツの中に身を縮める。
(おめーのコーディネートだろ、なんなら『トーガ』|纏《まと》ってもいいぜ)
なかなかない|無《ぶ》様《ざま》を|晒《さら》したことに耳まで真っ赤になって、しかし反論できずに黙るマージョリーは、そんな自分を|誤《ご》魔《ま》化《か》すように、さっきまでの薄ぼんやりとした状況を思い返す。
|半《なか》ばこっそり|目《め》線《せん》を上に上げると、緒方は目をしばたたかせて、周りを見ている。閃光をなにかの|錯《さっ》覚《かく》と思っているらしい。
(ええと、なんの話だっけ……)
思い出しつつ、ともかくもダンボールから抜け出そうとしたマージョリーは、
「あっ!!」
緒方とは別の叫びを不意に受けて、またダンボールの中に落ちた。
「……」
|眉《まゆ》根《ね》を寄せて、マージョリーは叫びの上がった方を見る。
「こ、こんばんは」
そのジトッとした視線に射られた先で、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》がぺこりとお|辞《じ》儀《ぎ》をした。
「……今度は吉田さんが戻ってこないな。緒方さんの手伝いでもやってるのかな?」
|池《いけ》が携帯で時間を確認して言った。
吉田が、『食後のデザートに』とシャナ持参のケーキを取りに行ってから、もう十分は|経《た》つ。いくら|佐《さ》藤《とう》家が広いといっても、そんなに時間がかかるわけはなかった。
佐藤は、|池《いけ》が赤線を引いたポイントを|睨《にら》む|傍《かたわ》ら答える。
「んー、廊下は一直線で、迷うわけはないんだけどなあ」
「早くケーキ持ってこないと、シャナさん[#「さん」に傍点]が爆発するぞ」
「しないわよ」
ムッとなりつつも、シャナは|田《た》中《なか》の差し出した例題の|正《せい》誤《ご》をチェックしてゆく。
彼女には答案の正解|不《ふ》正解と、田中がどこで論理の展開を誤ったか、それだけしか分からない。彼の間違った理由を考え、解説してやるのは池の役目だった。そのための|註《ちゅう》を、軽くシャーペンを走らせ、付けてゆく。
その横で、|悠《ゆう》二《じ》が教科書を置いた。
「僕が見てこようか」
言って、立ち上がろうとする、
「……」
その|膝《ひざ》裏《うら》を、シャナの手が|絶《ぜつ》妙《みょう》のタイミングで払い、|尻《しり》餅《もち》をつかせた。
「あだっ!? な、なにするんだよ、シャナ?」
「私が見てくる。悠二は、ちゃんと言われた|範《はん》囲《い》、覚えときなさい」
シャナはなんだか偉そうに言って、立ち上がる。
「そんなにがっつかなくてもケーキは逃げ痛っ!?」
悠二の頭を、ポコン、と小さな|拳《げん》骨《こつ》が|殴《なぐ》りつけた。
佐藤家室内バーのカウンター内に立つ|緒《お》方《がた》真《ま》竹《たけ》が、グラスと|酒《さか》瓶《びん》を自分の前に置いた。
彼女の正面、カウンター席に座るマージョリーのそれらと、|対《たい》抗《こう》する形である。
「ふうん……ここ、使ったことあるんだ?」
瓶やグラスを探すこともなくテキパキと持ち出す緒方に、マージョリーが|頬《ほお》杖《づえ》の上から|訊《き》いた。彼女は、未成年の飲酒については|特《とく》段《だん》、文句を言う気もないらしい。むしろ|相《しょう》伴《ばん》の相手、あるいは|肴《さかな》として楽んでいる向きさえあった。
「昔っからずっと、田中君と[#「田中君と」に傍点]、ここに出入りしてましたから」
緒方は一部を強調して返答した。もっとも、別の一部、|文《ぶん》頭《とう》あたりは|嘘《うそ》である。高校になってからは|真《ま》面《じ》目《め》にクラブ活動に|勤《いそ》しむようになり、友達づきあいも女性側に傾いていた。
「もちろん他の場所にも、いーっぱい一緒に行きました」
彼女は、水|二《に》杯《はい》で酔いを醒ました(と状況から思った)美女に食い下がり……というより、その引き上げるのにくっついて、ここまでやって来たのだった。
「なんかよく分かんないけど、どうせ|暇《ひま》だし、話くらいは聞いたげるわ」
笑って言い、カウンター席に着いたマージョリーだったが、|妙《みょう》なのは、その|隣《となり》になぜか|吉《よし》田《だ》まで座っている、ということだった。慣れない場所と|雰《ふん》囲《い》気《き》に|戸《と》惑《まど》い、縮こまっている。
吉田は心配げな顔で、クラスメイトの戦いを|危《き》惧《ぐ》する。
「お、|緒《お》方《がた》さん……」
「大丈夫、私は酒量をちゃんとわきまえてるから[#「私は酒量をちゃんとわきまえてるから」に傍点]」
根本的なところで|噛《か》み合わない答えを返しつつ、緒方は|皮《ひ》肉《にく》のジャブを一発、マージョリーに繰り出した。
ところがマージョリーは、|頬《ほお》杖《づえ》をついた|余《よ》裕《ゆう》の笑みを崩さない。
|伊達《だて》眼鏡《めがね》をかけ、軽く髪を|梳《と》かし、ワイシャツの肩にカーディガンを載せ、スラックスを|穿《は》いた……ただそれだけなのに、もうさっきのみっともない|酔《よ》っ|払《ばら》いが、|貫《かん》禄《ろく》ある美女に変身していた。バーの風景に溶け込み雰囲気の一部となるその姿は、専門誌のグラビアにしても全く|違《い》和《わ》感《かん》がなさそうだった。
これだけはグラビアモデルにはない、やけに|凄《すご》みのある笑みを浮かべて、美女は言う。
「ふーん、エータ[#「エータ」に傍点]と、ねえ……|隅《すみ》に置けないわね、あいつも。これで連れてってくれ[#「連れてってくれ」に傍点]なんて言うんだから、|酷《ひど》い話」
緒方の軽いジャブに、いきなりマージョリーによる無意識の、しかし必殺のクロスカウンターが二連発で入った。
緒方は思わずよろけ、カウンターテーブルにもたれかかる。
マージョリーは少女の|奇《き》妙《みょう》な反応を見て、またカラカラと笑う。
(ど、どうしよう)
吉田は困っていた。緒方は、この美女の正体や事情をなにも知らない。|揉《も》め事だけは|回《かい》避《ひ》させようと二人にくっついてきたのだが、早々に危険な話が出てしまった。
(なんとか|誤《ご》魔《ま》化《か》さないと)
マージョリーが果たして、言ったことの本当の意味を素直に解説してくれるものかどうか。という以前に、フレイムヘイズの事情を話すわけにはいかないわけだから……
「さ、さっきのは、そんな意味|深《しん》な意味じゃなくて」
吉田は焦りに舌をもつれさせながら|仲《ちゅう》介《かい》に入った。
ところが、これが|薮《やぶ》蛇《へび》のようなもので、緒方はなんだか裏切られたような顔になった。
「|一《かず》美《み》はこの人と|田《た》中《なか》の関係、知ってたの?」
「えっ、う、うん」
彼女は答えを持っている、という|勘《かん》を利かせて、緒方はさらに詰め寄る。
「この人、誰なの?」
「それは、その……」
「田中とどういう関係なの? それとも|佐《さ》藤《とう》の方?」
「あ、えと」
「なんで|我《わ》が|物《もの》顔《がお》でここにいるの?」
「う……」
「なんで|一《かず》美《み》が知っ――」
「はーい、そこまで」
|困《こう》じ切った|吉《よし》田《だ》を見かねてか、マージョリーようやく助けに入った。
「ここに当人がいるのに、そっちに|訊《き》くこたないでしょ」
言われて、|緒《お》方《がた》もようやく我に返った。自分のせいで友達が半泣きになっていると気が付いて、|慌《あわ》てて頭を下げる。
「ご、ごめん、一美。ちょっと|興《こう》奮《ふん》してた」
「……うん、いいよ、気にしてないから」
よしよし、と二人の態度を|心《しん》中《ちゅう》で評価しつつ、マージョリーは口を開く。
「あー、私の名前はマージョリー・ドー。ここにいるのは、仕事[#「仕事」に傍点]のためのねぐらを探してたとき、ケーサクに『家を使ってくれていい』って言われたから。ケーサクとエータには街の案内を頼んだだけ。それが終わった後も追っかけてきてんのは|連《れん》中《ちゅう》の勝手」
立て板に水を流すが|如《ごと》きスムーズな回答だったが、緒方はさらに追及する。
「他人の家に住み込んで、それでどんなお仕事してるっていうんですか」
「それは秘密。お金には困ってないけど、ここは便利で静かだし、なにより酒も飲み放題ってケーサクが言うからね」
彼女らの後ろに広がる空間、室内バーであるはずの部屋には、どでかいクローゼットが|幾《いく》つも置かれている。 ソファとセットのテーブル上には宅配ピザの食べ掛けや|空《あ》き|瓶《びん》、 床には脱ぎ捨てたストッキング、クシャクシャの毛布など、ここで寝起きしているらしき生活感のとっちらかりが容易に見て取れた。
(なんなのよ、もう……だいたい、|佐《さ》藤《とう》も佐藤よ、今さら女の人を家に連れ込むなんて……こんな、|得《え》体《たい》の知れない――)
しかし緒方には、この|貫《かん》禄《ろく》ある美女がたかりの|類《たぐい》ではなさそうだということくらいは分かった。|大《おお》雑《ざっ》把《ぱ》な|仕《し》草《ぐさ》にもどこか気品があるし、高そうな服を|無《む》造《ぞう》作《さ》に着こなしている。仕事という言葉にも|空《そら》々《ぞら》しさはなく、逆に言えない意味、その重みが感じられた。
(実業家、とか、かな……)
一学生でしかない少女は、|僅《わず》かに『美人女社長』への|劣《れっ》等《とう》感を抱くが、それでも彼女の口ぶりからは|納《なっ》得《とく》できない、自分にとって最も重要なことを問い|質《ただ》す。
「じゃあ、なぜ、それだけ[#「だけ」に傍点]の|田《た》中《なか》と、お祭りで、そ、その、デート、なんかしてたんですか?」
「はあ?」
目を丸くするマージョリーにさらに言葉をぶつける。
「|田《た》中《なか》とイチャついてたじゃないですか! 二人っきりで!」
「お、|緒《お》方《がた》さん」
どうなだめようかとオロオロする|吉《よし》田《だ》の横で、マージョリーは首を|捻《ひね》る。
(そりゃあ、たしかにカーニバルで遊びはしたけど、ここまで文句を言われるよーなことしたかしら? そもそも、さっきからなにが言いた――)
(我が|鈍《どん》感《かん》なる|美《び》姫《き》、マージョリー・ドー、まーだ酔ってんのか?)
足元に置かれたグリモア≠ゥら、|余《よ》人《じん》には聞こえない声が彼女に届けられた。
(はあ? どーゆー意味よ)
(見たまんまだ[#「見たまんまだ」に傍点])
もう一度首を捻って、マージョリーは目の前、バーカウンターに両手をついて自分を|睨《にら》む少女を見つめなおす。その張り詰めた、気迫|溢《あふ》れる表情の|隅《すみ》に|覗《のぞ》く、不安な色と熱っぽさ。
急に、そしてようやく、その表情の意味に気付いた。
(ああ、なんだ)
気付いて、つい|失《しっ》笑《しょう》しそうになる。とある事実[#「とある事実」に傍点]から、少女の抱いた|危《き》惧《ぐ》を|考《こう》慮《りょ》の内から除いていたため、全く気付けなかった。少し注意して見れば、『二人』がつり合っている|間《あいだ》柄《がら》かどうか、容易に察することができただろうに。
(……とはいえ、それができないものなのよね)
マージョリーは、少女の見せる必死さを|可愛《かわい》らしく思った。それでも、あくまで|表《おもて》向《む》きは平静に、手をヒラヒラ振って言う。
「安心なさい。エータともケーサクとも、あんたが思ってるような間柄じゃ全然ないから」
|隣《となり》にいる吉田が、言われた二人を気の毒に思うほどの、あまりに|簡《かん》潔《けつ》で|完《かん》璧《ぺき》な否定だった。
緒方もこれには少し|鼻《はな》白《じろ》んだが、すぐ勢いを回復して問い直す。
「でも、実際にデート――」
「あれはデートなんてもんじゃないわよ。だいたい、あのときはエータだけじゃなくてケーサクも一緒だったんだし。聞いてない?」
「あ……」
緒方は、話を根本的に|覆《くつがえ》す指摘を受けて口ごもった。たしかに田中が言い訳した際、|佐《さ》藤《とう》もあの場にいたと言っていたような……。
「でも、でも、田中の|奴《やつ》、あんなに楽しそうにして――」
「あんた、恋された[#「恋された」に傍点]ことはある?」
「えっ?」
突然割って入った|逆《ぎゃく》質問に、緒方は|困《こん》惑《わく》した。
「な、なんでそんな……」
怒ろうとして、そこに回答拒否を許さない強烈な、|眼鏡《めがね》越しの視線を受けた。
考え、思いを巡らして、|渋《しぶ》々《しぶ》答える。
「……たぶん、ないと思います」
|嘲《ちょう》弄《ろう》を受けることを|覚《かく》悟《ご》し、カウンターの中で立ち尽くす少女を、しかしマージョリーは|頬《ほお》杖《づえ》の上から静かに見つめる。その恋のほど[#「恋のほど」に傍点]がどの程度か、よく|見《み》極《きわ》めてから声をかける。
「じゃあ、分からないわね」
これは|嘲《あぎけ》りではなく、確認の言葉だった。
「あのね、恋されるってのは、すごくおっかないことなのよ」
恋する[#「恋する」に傍点]ことだけしか知らない少女たちは、|不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔をした
「普通じゃ考えられないような力を|捧《ささ》げられる、|真《しん》摯《し》の重さ―――その力|全《すべ》てを|呵《か》責《しゃく》なく使い|潰《つぶ》せる、 ゾッとするほどの|愉《ゆ》悦《えつ》―――温かい安らぎと|表《ひょう》裏《り》一体の、 張り詰めた|綱《つな》渡りの|緊《きん》張《ちょう》―――恋と愛ってのは、こういうことを相手に感じさせる[#「相手に感じさせる」に傍点]ものなの」
いつしかマージョリーは、一人ではなく二人に語りかけていた。
少女らは美女の言葉に込められた、過ごした日々と想いの実感に|気《け》圧《お》されつつ聞く。
マージョリーは透き通った寂しい笑みを見せた。
「まあ、『女』としては残念で、『私』としては|有《あ》り|難《がた》いことだけど」
しかしその笑顔が、
「あの二人に、そういうものを感じさせられたことは、一度もない。二人は、私に恋をしていない。私への愛も持っていない」
今いない二人に下したのは、
「あいつらの目は、|無《む》邪《じゃ》気《き》すぎる。恋とも愛とも方角の違う、あれは|綺《き》麗《れい》な憧れの色。あいつらは、他人に自分の夢を重ねて、その強さを喜ぶ子供なのよ」
|酷《こく》とさえ言える、|厳《げん》格《かく》な審判だった。
「……」
「……」
これは、少年たちへの同情をこそ感ずべき酷さだった。
また、少年たちへの|憐《れん》憫《びん》をこそ|催《もよお》すべき厳格さだった。
しかし、どういうわけか、
二人の少女は、その女の姿[#「女の姿」に傍点]に、強い|尊《そん》敬《けい》の念を抱かされていた。
見事な女は、少女らの前で|瓶《びん》を傾け、無色透明の酒をグラスに満たす。
そして飲む、その|寸《すん》前《ぜん》に、グラスを止めて|軽《かる》口《くち》を飛ばす。
「もちろんあいつらの場合、憧れの中には『女に対する男の一番正直なもの』もいっぱい混じってるでしょーけど。あんたには、ちょーっと足りないかな」
|吉《よし》田《だ》のものと見比べて、付け加える。
「エータを|墜《お》としたいんなら、せめてアレくらいの大きさにならないとね」
その指摘するところに気付いて、|緒《お》方《がた》は胸を両手で押さえた。
「お、大きなお|世《せ》話《わ》です!」
真っ赤になって口答えするが、その声には当初のような反発の色はなかった。
「え? ――あっ……」
|吉《よし》田《だ》も|僅《わず》かに遅れて気付き、ますます縮こまった。
そんな少女らの顔を|肴《さかな》に、マージョリーは酒を|呷《あお》る。トン、と|小《こ》気《き》味《み》よい音を立てて|空《から》のグラスを置くと、さっきと全く同じ笑みを見せた。
「でもま、ここには当分いるだろうし、その間くらいは、子供の夢にも付き合ってやるつもりだけど。一度見せた以上は、ある程度の責任を取らないとね」
(ヒーッヒッヒ! こりゃあたまげた! 我が厚き|仁《じん》者《しゃ》、マージョブッ!?)
足元のグリモア≠|蹴《け》り飛ばすと、もう一度、酒を|注《つ》ぐ。そのついでとして、カウンター越しに自分を見つめる少女に、顔を向けずに言う。
「私は追いかけるのに楽な夢じゃないから、これからも二人は悩むわ。だからエータだけでもいい、ドンドン仲良くなって支えてあげなさい。私はそういうの、|面《めん》倒《どう》くさいからヤダし」
なにを言われたか理解するまで一秒、緒方はカウンターテーブルに両手をつき、前のめりに断言した。
「はい! ドンドン仲良くなります!」
クックック、とマージョリーは|愉《ゆ》快《かい》そうに声を立てて笑った。そうしてグラスを取り、それを|目《め》線《せん》まで差し上げる。グラスに|隣《りん》席《せき》の、成り行きに|安《あん》堵《ど》した風な少女が|縦《たて》長《なが》に映っていた。
「あんたも、|下手《へた》な|遠《えん》慮《りょ》なんかしてると、|意《い》中《ちゅう》の人を取られちゃうわよ。こういうのは|大《たい》抵《てい》、|先《せん》手《て》必勝、|手《て》数《かず》の多い者が勝つんだからさ」
やはりというか、お見通しらしい。
同意に強く|頷《うなず》く緒方を見つつ、吉田は|頬《ほお》を|朱《しゅ》に染めた。
良識からくる|躊躇《ためらい》を口にする。
「|遠《えん》慮《りょ》、でしょうか……」
自分が見たものを思う。
人の生死と世界の|真《しん》偽《ぎ》――見ている物事が大きすぎて実感もできない、しかし現に起こっていることへの恐怖だけは染み込んでくる、さらに広く大きな何かを見た|驚《きょう》嘆《たん》を抱き、自分がそれを見てしまったことに|戸《と》惑《まど》う――それらの感情が|綯《な》い|交《ま》ぜになって、焦りや引け目のようなものに変わる。想い過ごす以上の行為が許されるのか、とつい考えてしまう。恋する相手がそちら側の存在[#「そちら側の存在」に傍点]であれば、なおさらだった。
そんな心の流れを、素直に口にする。
「でも、知ったのに、そうしても、いいんですか?」
緒方の前であることを考え、できるだけ言葉を|削《けず》る。
どこかでやった覚えのある作業だった。
マージョリーは|深《しん》刻《こく》な問いに、あまりに軽く答える。
「いいのよ。それで世界が|破《は》滅《めつ》するわけでなし。あんたが好きなんでしょ?」
「……」
三日前、告げられた言葉が|脳《のう》裏《り》に|蘇《よみがえ》る。
(――「今、好きかどうか。それだけなのよ。他には本当に、なにもないんだから」――)
|吉《よし》田《だ》は今、その言葉をくれた|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の母・|千《ち》草《ぐさ》とは正反対な場所に立つ人物から、同じ答えを受け取ったことを知った。
教えを受けて、しかし踏み出すのは自分。
それを思い、|頷《うなず》く。
「そうですね」
|傍《はた》から見ていた|緒《お》方《がた》にも分かる、真剣で重そうなこの会話を、不意な声が切った。
「あっ、こんな所にいた」
シャナが、開け放していた戸口から顔を|覗《のぞ》かせていた。
「他の|連《れん》中《ちゅう》が気にしてるから、早く部屋に帰った方がいい」
吉田が|慌《あわ》てて立ち上がる。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、いろいろあって」
シャナの言った用件にだけではない、大きな後ろめたさを、彼女は持っていた。カムシンといい、千草といい、マージョリーといい、なんだか自分ばかりが助力を受けている……そう考えられたのである。フェアにいきたい、とまで偉そう[#「偉そう」に傍点]なことは考えられなかったが、|優《ゆう》遇《ぐう》されていることへの|居《い》心《ごこ》地《ち》の悪さがあった。
緒方も顔を|強《こわ》張《ば》らせて笑う。
「あはは、うん、たしかに、いろいろね」
「……」
シャナは険しい視線で、どことなく共犯者っぽい|雰《ふん》囲《い》気《き》を漂わせている三人を順番に見回す。|誤《ご》魔《ま》化《か》すように笑う緒方、済まなそうにしている吉田、そしてそっぽを向いてわざとらしく口笛など吹いているマージョリー。
「なにか変なこと、吹き込まれなかった?」
シャナは、吉田がドキッとするようなことを、その当人に|訊《き》いていた。
しかしその目には|詰《きつ》問《もん》の色はない。どうやら、マージョリーが|紅《ぐ》世《ぜ》♀ヨ連の話を緒方にしていないか、という確認であるらしかった。
吉田は、|安《あん》堵《ど》を感じる自分を|情《なさ》けなく思いつつも、|律《りち》儀《ぎ》に答えた。
「うん、別に、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]は……」
その間、シャナはドアの|緑《ふち》からマージョリーを|睨《にら》んでいる。彼女の態度になにか、きな|臭《くさ》いものを感じたらしい。
しかし、見つめられる側の美女は、知らん振りを決め込んで酒をグラスに|注《つ》いでいる。ついでにしっしと手を振って、自分の部屋から少女たちを追い出しにかかった。
「はいはい、話は終わったんだし、恐いチビジャリもきたし、ちゃっちゃとお帰りなさい、お|嬢《じょう》さん方」
|緒《お》方《がた》は、自分が及びもつかない一人の女性に、敬意をもってキビキビとお|辞《じ》儀《ぎ》する。
「はい、それじゃ失礼します!」
|吉《よし》田《だ》も|隣《りん》席《せき》から立って、深く頭を下げた。
「私も……本当に、ありがとうございました。|頑《がん》張《ば》ってみます」
残る方と出る方を|交《こう》互《ご》、|不《ふ》審《しん》げに見るシャナの背中を、
「んじゃ、部屋帰ろう」
緒方が言って押し、バーから出て行く。
吉田も|誤《ご》魔《ま》化《か》すように、シャナに言う。
「私、台所からケーキとジュース持っていくから」
「? ……うん」
そうして扉が閉まると、室内バーには|俄《にわか》な|静《せい》寂《じゃく》が訪れた。
薄暗い照明の中、マージョリーはカウンターテーブルの上に|目《め》線《せん》を流す。
|酒《さか》瓶《びん》とグラスが、置き去りにされていた。
強がってそれを並べていた少女の姿が思い出されて、つい笑みが|零《こぼ》れる。
その笑みに|相《あい》棒《ぼう》の、|酌《く》み交わす相手が消えた寂しさを感じて、
「ヒヒッ、女の子にゃ素直に助言するじゃねえか。ご両人が|歯《は》噛《が》みして悔しがるぜ、我が|残《ざん》酷《こく》なる|師《し》匠《しょう》、マージョリー・ドー?」
足元のグリモア≠ゥらマルコシアスが|茶《ちゃ》化《か》した。
それを|蹴《け》らず|爪《つま》先《さき》で|玩《もてあそ》び、マージョリーは柔らかく笑う。
「当然でしょ。『女の子』ってのは、砕けば強くなる『男の子』と違って、心も、体も、大切に育てないとすぐ|駄《だ》目《め》になっちゃうものなんだから」
「ハハァ、さーすが、よくご|存《ぞん》知《じ》だ」
「そ。よーく、ご存知」
言って、マージョリーはグリモア≠蹴った。
勉強会から帰って数時間後、午前|零《れい》時《じ》も近い|坂《さか》井《い》家。
|悠《ゆう》二《じ》の部屋から続きの狭いベランダ、その大窓の|枠《わく》に、悠二とシャナが並んで腰を下ろしていた。
これは彼らが日課にしている、夜の|鍛《たん》錬《れん》であある。常は屋根の上に張った|封《ふう》絶《ぜつ》の中で行っているが、今日は特別な課題があるため、こんな所に隠れるようにして座っている。
その鍛錬を始めようというとき、|悠《ゆう》二《じ》が気の抜けた声を漏らした。
「……どうして、なんともなかったんだろう」
「なんの話だ」
シャナの|胸《むな》元《もと》のペンダントコキュートス≠ゥら、アラストールが答えた。
悠二は一言で答える。
「今日、一日の話」
意外に長い足を狭いベランダの床に投げ出して、両手を後ろの支えに伸ばす彼は、いつものジャージ姿。
「?」
|隣《となり》で|膝《ひざ》を抱えて座り、首を|傾《かし》げたシャナは、|一《いっ》旦《たん》平《ひら》井《い》家に帰って着替えてきた、大きめのパジャマ姿。
二人、いつもの|格《かっ》好《こう》である。
「本当に聞いてもらいたいのならば、我らにも分かるよう話せ」
アラストールが|不《ふ》分《ぶん》明《めい》な回答を|叱《しっ》責《せき》した。
悠二は頭を|掻《か》いて、自分の気持ちを整理する。
「ごめん。なにから言えばいいのかな……そう、三日前、あの日の屋上で皆と出くわしたとき、僕が、ミステス≠セってことを知られて……そのせいで、これからの日々が悪い方に変わってしまうんじゃないか、って思った。恐かった、って言ってもいい。昨日の朝、|佐《さ》藤《とう》や|田《た》中《なか》、|吉《よし》田《だ》さん――」
悠二はさらりと、その名を出した。抵抗を感じた|様《よう》子《す》もない。
そのこと、それだけのことに、シャナは胸に鋭い痛みを覚えていた。
(私がここにいるのに[#「私がここにいるのに」に傍点])
悠二との全てで、自分の心が揺れる。あの戦いのときのように。恐くて、嫌だった。
「――と会ったときに、そうなるんじゃないか、って不安に思ってた。なのに、皆あまりに普通で、いつもと全然変わらない態度で接してくれた。すごく、|嬉《うれ》しかったけど……どこかで同時に、おかしいとも思ってた。これが本当に、僕が|覚《かく》悟《ご》していた、なくしてしまったものへの仕打ちなんだろうか、って」
「……」
アラストールは答えず、続けさせる。
「でも、あれは言ってみれば、カムシンたちとのお別れの場で……あそこにいる僕らは、まだシャナたちの側にいた、そう思うことで|納《なっ》得《とく》したんだ」
(シャナたちの[#「シャナたちの」に傍点]、側?)
言われた少女は、その表現に|違《い》和《わ》感《かん》を覚えた。
「なのに、 また……今日一日、正真|正《しょう》銘《めい》の『僕の日常』まで、 平和に普通に、終わってしまった。学校に行って、クラスの|連《れん》中《ちゅう》と顔を合わせて、授業を受けて、昼休みには|池《いけ》も混ぜて、|吉《よし》田《だ》さんのお弁当を食べて、笑って話をして、|緒《お》方《がた》さんも加えた勉強会までして……そこでも皆、普通だった。これまでとなにも変わってない。全く同じだったんだ」
(――|悠《ゆう》二《じ》は――)
悠二は、まるで自分と違う場所に立っているかのように話した。
シャナは、そんな風に思われていることが、悔しかった。
「もちろん、いじめられたいわけじゃない。その反対だけど、それがこんなに当然のようにやってくるなんて、信じられないんだ。てっきりもっと寒々しくって、よそよそしいなにかが始まる。そう当然のように思って、|覚《かく》悟《ご》してたんだ。それが――」
「悠二は」
「えっ?」
急に口を挟まれて、悠二は|隣《となり》に目を向けた。
|膝《ひざ》を抱えて座るシャナは、顔を正面に向けたまま、唇を引き結んでいた。悠二でなくても分かる、|辛《つら》さがその唇の端から|滲《にじ》んでいる。
「な、なに? ゴメン、なにか悪いこと言った?」
事情は分からないまま、悠二はとにかく謝った。
シャナは首を振った。|黒《くろ》髪《かみ》が揺れて、夜の中に光る。帰る前に|坂《さか》井《い》家の|風呂《ふろ》を使ったため、シャンプーのいい|匂《にお》いが|鼻《び》腔《こう》をかすめた。
悠二は、そんな少女の|様《よう》態《たい》に、つい|陶《とう》然《ぜん》となる。
が、彼女はまごうことなき、フレイムへイズだった。
揺れた髪が収まったとき、その中に浮かんでいた表情は振り落とされていた。悠二の疑問と|戸《と》惑《まど》いに、冷たくさえある平静な声が答える。やはり顔は、正面に向けられたままだった。
「日常というものは、真実を知ったところで、そう簡単に壊れない。今までのおまえ[#「おまえ」に傍点]が、それを証明してきたはず。今は困らない。ただ、それだけのこと」
シャナがいつも悠二に使ってきた二人称が、|酷《こく》薄《はく》に|響《ひび》く。
アラストールはそれを聞いて、しかし言うに任せる。
「|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》も、|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》も、吉田|一《かず》美《み》も、おまえが人間じゃないっていう真実を知っても、その真実に対応する|術《すべ》を持ってない」
持っているのは自分だけ。
その|優《ゆう》越《えつ》感《かん》が、シャナの独占|欲《よく》を|衝《つ》き動かす。
「彼らには、フレイムヘイズや|徒《ともがら》≠フように、おまえの存在を左右することも、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を利用することもできない。真実がなんであれ、それまでと同じで|不《ふ》都《つ》合《ごう》がないものは、そのまま|惰《だ》性《せい》で流れ動いていく」
「惰性……」
今の、人間としての自分の生活、人との|係《かか》わり合い、変わっていないことで|掴《つか》めるかと思いさえした希望が、あまりに無情な言葉で否定され、|悠《ゆう》二《じ》は|蒼《そう》白《はく》になった。
シャナはその気配を感じつつも、|膝《ひざ》に回した腕を締め付け、続ける。
「でもいつか」
口が止まらない。
「――」
アラストールがなにか、|忠《ちゅう》言《げん》のようなものを言いかける、
「彼らの中の誰かが」
それにおっかぶせて自分の言葉を続ける。
「ふと、おまえに小さな|違《い》和《わ》感《かん》を抱く。おまえは、私たちと居続けることで、人間の成長とは違う、別の形で変化していくだろうから。『本物の|坂《さか》井《い》悠二』はこんな[#「こんな」に傍点]だったろうか……そんな思いを何度も抱くようになる。それが、それまでのおまえの生活を、彼らの態度を、少しずつ|削《けず》っていく」
悠二を悲しませることになる。今も悲しんでいる。
しかし、震え始めた唇で、さらに。
「寒々しさやよそよそしさというのは、始まりにあって、これからを築いてゆくものじゃない。始まりにあるのは、お前が今日感じた、いつもの日常、いつもの風景、いつもの友達。それを、寒々しさとよそよそしさが、削ってゆく……それが、これからの日々」
自分には、フレイムへイズとしての自分には、そうして『この世の本当のこと』を語ることしかできない。|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》のように、感情に任せて言うことはできない。
それこそが自分、フレイムへイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』なのだから。
悠二は、そのことを誰よりも分かってくれる。
そうでなくなったとき、怒ってくれさえした。
だからこそ、より強く、あらねばならない。
力強く、誇り高きフレイムヘイズとして。
「悠二」
ここに来るまで感じたこともなかった自分、フレイムへイズではない自分[#「フレイムへイズではない自分」に傍点]の切望が、声に表れそうになる。最近鋭くなった悠二に、それを必死に|隠《かく》して、言う。
「おまえは、私の側の存在よ」
「……」
|隣《となり》にいて、しかし顔を合わせられない少年は、ややの|沈《ちん》黙《もく》を置いて、|呟《つぶや》く。
「……また|性《しょう》懲《こ》りもなく、人間だった頃の自分にすがり付こうとしてたんだな」
シャナは、前を見たまま。
|悠《ゆう》二《じ》も|隣《となり》を見ず、前を向いて話す。
「ごめん、シャナ、アラストール。偉そうに『旅立つ日まで|頑《がん》張《ば》ろう』なんて|誓《ちか》ったばかりだったのに……|吉《よし》田《だ》さんに――」
悠二は|一《いっ》旦《たん》声を切り、言葉を選ぶ。フレイムヘイズに[#「フレイムヘイズに」に傍点]言うべきことではない。
(シャナに、こういうことを聞かせちゃ、ダメだ)
そんな少年の|逡《しゅん》 巡《じゅん》する姿にシャナは小さな怒りと|呆《あき》れ、 なにより大きなもどかしさを抱いた。
(馬鹿……私、知ってるんだから)
しかし、お互いがそう望んでいるがゆえに、言葉は選ばれる。
「――『引き止められるような|嬉《うれ》しいこと』を言われて、また夢を見たんだ」
ミステス≠スる少年の瞳は、まさに夢の像を結んでいた。
「ずっとこの街にいて、シャナと|朝《あさ》晩《ばん》一緒に頑張って、母さんとアラストールが時々電話で話して、|池《いけ》に勉強とか宿題を教えてもらって、|佐《さ》藤《とう》や|田《た》中《なか》と面白い話をして、昼には吉田さんのお弁当を食べて、|緒《お》方《がた》さんとかクラスの|連《れん》中《ちゅう》、授業を受けて、遊んで、寄り道して、買い食いして、映画とかも、ダラダラ歩くだけも、そんな『夢』……」
夢と夢、言葉の間に|過《よ》ぎったものが、言葉とともに|途《と》切《ぎ》れる。|名残《なこり》を惜しむような間を|空《あ》けてから、シャナもアラストールも代わってくれない宣告を、自分の口で。
「絶対に、できないと分かってたのにね」
シャナは|厳《きび》しく、ただ|頷《うなず》いた。
同じ夢を聞かされるままに見て、その重さ大切さを感じて、それでも頷いた。
やがて罰のように、口を|尖《とが》らせて言う。
「うそつき[#「うそつき」に傍点]」
「ふむ」
アラストールも同意するように|唸《うな》った。
悠二は、|辛《つら》さを|滲《にじ》ませて笑うしかない。
と、シャナが素早く、その手を取った。
「わっ?」
今まで、恐れるように互いの指先だけを取り合い|繋《つな》いでいた手を、シャナは強く温かく柔らかい手に力を込めて、握っていた。
「|鍛《たん》錬《れん》を始める。まず存在の力≠外に展開する感覚に慣れて」
その手にあるものを感じながら、うそつき悠二は、改めて決意の言葉を返す。
「うん」
[#改ページ]
断章 将軍の|攻《こう》伐《ばつ》
風の揺らぎも見えない|濃《のう》霧《む》の中、|埠《ふ》頭《とう》に大型客船が|繋《けい》留《りゅう》されていた。|絶《ぜっ》壁《ぺき》のように黒く|聳《そび》える船体には、風雨|波《は》浪《ろう》の跡も濃い。大きさの割に|人《ひと》気《け》はなく、埠頭の|疎《まば》らな街灯だけが、霧の奥にようやく、その影を浮かび上がらせていた。
と、|尖《とが》った船首|甲《かん》板《ぱん》の港側、柵の際に小さく明かりが|点《とも》った。
|不《ぶ》気《き》味《み》に|濁《にご》った|紫《むらさき》色の、火である。
上下に軽く揺れるそれは、|咥《くわ》えタバコだった。
「|将《しょう》軍《ぐん》」
ザアッ、とタバコを吸う男の頭上から、何者かが舞い降りた。
大きな鳥のようにも、人のようにも見える怪物だった。|片《かた》膝《ひざ》をついて|畏《かしこ》まるそれには、人としての頭がなく、胸がやたらと大きく張っている。両腕も鳥のように|翼《つばさ》として|畳《たた》まれて、体も形だけは人間だったが、全身には|獣《じゅう》毛《もう》が|生《は》えていた。
その|鳥《とり》男《おとこ》、とでも言うような怪物は、胸に目と裂けた口を現して、男の声で告げる。
「|包《ほう》囲《い》、完了いたしました。今のところ、|気《け》取《ど》られた|様《よう》子《す》もありません」
男の声で話す首なしの鳥男に、将軍と呼ばれた男は|僅《わず》かに|嘲《あざけ》りを混ぜた|苦《く》笑《しょう》で答える。
「そりゃあ、そうだろうさ。|大《たい》半《はん》が|自《じ》在《ざい》師《し》の編成だ。これで気取られたら、ベルペオルのババアが千年の単位で|唱《とな》えてきた『組織であるがゆえの強さ』も|戯《たわ》言《ごと》になる」
逆に、明確な嘲りを浮かべる目は、夜中にも|拘《かかわ》らずかけられたサングラスの奥にあった。ダークスーツを|纏《まと》った長身で、プラチナブロンドをオールバックにしている。全身には、|傍《かたわ》らの鳥男など問題にしないほどの、|尋《じん》常《じょう》でない存在感があった。
その将軍が、短く|訊《き》く。
「ドレル・パーティーの|外界宿《アウトロー》か。何度、取り逃がした?」
「は、末端の人員を除けば、二百年で五度になります」
鳥男は、ない頭を下げるように身を|屈《かが》めた。
「金庫|番《ばん》と|道《みち》案内が野放しか。なるほど、欧州のフレイムヘイズも|安《あん》泰《たい》なわけだ」
「全く、|不《ふ》甲斐《がい》なきことで……申し開きもございません」
「いいさ、|貴《き》様《さま》らがてこずってくれるおかげで、俺のような|奴《やつ》でも組織に身を置ける。守らせてくれない相手に身を|捧《ささ》げると、|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイの|矜《きょう》持《じ》も|暇《ひま》をもてあます」
言葉の意味が分からなかったので、鳥男は黙ってさらに深く、身を屈めた。
「さて、そろそろ始めるか」
プッ、とタバコを海に吹き捨てると、[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]|三柱臣《トリニティ》が|一《ひと》柱《はしら》、|将《しょう》軍《ぐん》|千《せん》変《ぺん》<Vユドナイは右腕を大きく、横に伸ばした。
と、その掌に牙を並べた口が開き[#「掌に牙を並べた口が開き」に傍点]、中から|鈍《にび》色《いろ》の物体、内蔵するにはありえない長さの物体が滑り出た。その棒状の物体の端を、放り出される寸前で|掴《つか》むと、大きく|一《ひと》振《ふ》り、持ち替えて地に着ける。ズゴン、と重く下端の|石《いし》突《づき》を打たれた木の|甲《かん》板《ぱん》が、そのすぐ下に敷かれた鉄板ごと|凹《くぼ》む。
「おお」
|鳥《とり》男《おとこ》が|感《かん》嘆《たん》の声とともに見上げたそれは、シュドナイの長身をさらに二回りは超えた、|径《けい》太く|穂《ほ》先《さき》も長大な|剛《ごう》槍《そう》だった。
「これが|宝《ほう》具《ぐ》『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』……!」
「使うのを見るのは初めてか。なかなか面白いぞ、こいつは」
いつしか|凶《きょう》暴《ぼう》な笑みが、シュドナイの顔を埋めている。剛槍『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』を握った腕にも、|濁《にご》った|紫《むらさき》の|炎《ほのお》が|溢《あふ》れ始めていた。
「は、はっ、では総員に突入の合図を――」
「|要《い》らん」
鳥男の言葉を、シエドナイは|問《もん》答《どう》無用で切った。
「黙って見ていろ。他の|連《れん》中《ちゅう》もだ」
「し、しかし」
パキパキと、シュドナイの体が|唸《うな》る。
「お前たちに|包《ほう》囲《い》させたのは、俺の|後《あと》片付け、打ち漏らしの|始《し》末《まつ》をさせるためだ。久々の|大《たい》命《めい》遂《すい》行《こう》を|邪《じゃ》魔《ま》されたくはないし、兵を|無《む》駄《むだ》に殺すのも好かん。だいたい『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』は、|手《て》加《か》減《げん》には向いていない」
|輪《りん》郭《かく》が揺れ、崩れてゆく。
その|様《さま》を、|畏《い》怖《ふ》を持って鳥男は見上げ、再び|平《へい》伏《ふく》する。
「は、それでは|存《ぞん》分《ぶん》のお働きを」
「くくっ、お前たち、少し言葉|遣《づか》いが|大《だい》時代的過ぎる。少しはテレビでも見ろ」
|牙《きば》を|覗《のぞ》かせてシュドナイは笑い、揺れる輪郭、その背中から巨大な|蝙蝠《こうもり》の羽を広げた。数度羽ばたいて風を起こすや、見かけ以上の重い一歩を踏み切って、船から飛び降りる。
降下は途中から|滑《かっ》空《くう》、そして|飛《ひ》翔《しょう》となった。
|濃《のう》霧《む》に満ちた風の中で、|槍《やり》を持った男の輪郭は、変わる。
|鬣《たてがみ》と|角《つの》で頭部を飾る、腕ばかり太い|虎《とら》。|膝《ひざ》から下は|鷲《わし》の足、そし|蛇《へび》の|尻尾《しっぽ》と蝙蝠の|翼《つばさ》。
まるで|古《こ》文《ぶん》献《けん》におけるデーモンのような姿だった。
「おお……、む?」
それを見送る鳥男は、|奇《き》妙《みょう》なことに気がついた。
シュドナイの|体《たい》躯《く》が三回りは巨大化したというのに、その体に対する|槍《やり》の大きさの比率が変わっていないように見えたのである。
「まさか」
再び、霧の奥に飛び去る姿へと目を|凝《こ》らす。気のせいではなかった。
|剛《ごう》槍《そう》『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』は、変化した腕に合わせて、巨大化していた。
まさに、|千《せん》変《ぺん》∴、用の宝具に|相応《ふさわ》しい、特異な能力だった。
その槍を|携《たずさ》えて、シュドナイは|埠《ふ》頭《とう》倉庫街の|狭《はざ》間《ま》を|猛《もう》進《しん》する。霧の中、両脇に倉庫|居《い》並《なら》ぶ似たような風景を|視《し》界《かい》に流して空を突き進むことしばし。
正面に、赤もくすんだレンガ造りの、古ぼけた建物が現れた。ランタン型の照明が入り口両脇に|吊《つ》られている。|粗《そ》末《まつ》な吊り看板には|場《ば》末《すえ》の酒場としての名が見える。しかしその実態は、この地に構えられたフレイムへイズらの情報交換・支援施設……通称|外界宿《アウトロー》である。
中でもこの、ドレルという名のフレイムヘイズが主催する外界宿は、情報|便《べん》宜《ぎ》、素早い移動の手配、資金の|工《く》面《めん》や管理などの支援を討ち手たちに対し行ってきた、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ノとっての大きな障害、|欧《おう》州《しゅう》に深く刺さった|刺《とげ》だった。
(作戦手順としては、まず|討《とう》滅《めつ》された|連《れん》中《ちゅう》の|行方《ゆくえ》を問い|質《ただ》すべき、か)
|濁《にご》った|紫《むらきき》に燃える|虎《とら》は、ベルペオルが定めた組織の|規《き》範《はん》を思い出す。
個人的にも、 |索《さく》敵《てさ》に便利使いしてきた|琉《りゅう》 眼《がん》≠ニいう若い|徒《ともがら》≠フ|生《せい》死《し》くらいは知りたいと思っていた。が、
(まあ、いい)
スッパリ|諦《あきら》める。
中途|半《はん》端《ぱ》はいけない。|叩《たた》き|潰《つぶ》すつもりなら、叩き潰すことだけを考える。
考え、飛ぶ彼の感覚の中に動きがあった。
(気付いたな)
|幾《いく》人《にん》ものフレイムヘイズが、自分の屋内への突入に合わせて攻撃を始めるつもりか、力を|滾《たぎ》らせているのを感じる。|小《こ》粒《つぶ》中粒、正面からまともに戦えば、そこそこ手こずりそうな力の規模である。
しかしシュドナイは、虎の顔に|牙《きば》を|剥《む》いて|嘲《ちょう》笑《しょう》した。
身の内に|莫《ばく》大《だい》な存在の力≠練り、
突然、
|飛《ひ》翔《しょう》の高度を下げて、店を正面に|見《み》据《す》える通りに着地した。路面の|石《いし》畳《だたみ》を無数|粉《こな》々《ごな》に|弾《はじ》き飛ばし、|溝《みぞ》を作って止まる――その反動を使い、
「ゴアアアアアアァァァァァ!!」
|怒《ど》涛《とう》のような|咆《ほう》哮《こう》を上げて、後ろ|溜《だ》めに大きく構えていた剛槍『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』による|刺《し》突《とつ》を繰り出した。
限界近くまで巨大化させた腕で。
それに伴い巨大化した、|紫《むらさき》の|炎《ほのお》を|纏《まと》った|槍《やり》で。
|一《いち》撃《げき》、|外界宿《アウトロー》が丸ごと、ぶち抜かれた。
古ぼけたレンガ造りの建物は、巨大な槍の質量と炎の圧力で|膨《ふく》れ上がって爆発する。その中にいたフレイムヘイズ、事務か雑用かに使っていた|僅《わず》かな人間たち|諸《もろ》共《とも》に。
「!」
シュドナイは、その破裂に混じり、逃げた|人《ひと》影《かげ》を|感《かん》知《ち》する。|瞬《しゅん》時《じ》に腕と槍を縮め、再び|蝙蝠《こうもり》の|翼《つばさ》を開いて舞い上がった。
「ふはははは! |寸《すん》でのところで俺と気付いたな、ドレル!?」
飛び上がった人物は、倉庫の屋根に着地した。
それは|鷲《わし》鼻《はな》に|白《はく》髪《はつ》、|皺《しわ》を鋭く|刻《きざ》んだ|小《こ》柄《がら》な老人だった。大き目のフロックコートに首を埋め、|苦《く》渋《じゅう》の表情で恐るべき敵を迎える。
男性で老人という、フレイムヘイズとしても珍しいこの人物は、『|愁《しゅう》夢《む》の|吹《ふ》き|手《て》』ドレル・クーベリック。
欧州におけるフレイムヘイズたちの活動の多くを裏で支えてきた|立《たて》役者だった。戦闘が|本《ほん》分《ぶん》ではない。人間であったときに築き上げた人格と運営能力で、組織的に|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠狩るという方式を広めた、若き思考[#「若き思考」に傍点]を持つフレイムヘイズだった。
「くー、なんてこと! |千《せん》変《ぺん》≠ェ単独で、しかも『|神《しん》鉄《てつ》如《にょ》意《い》』まで持って現れるなんて!?」
耳に|障《さわ》る女の声が、ドレルの持つステッキから上がった。これはブンシェルルーテ=Bドレルに力を与える|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》=A|虚《きょ》の|色《しき》森《しん》<nルファスの意識を|表《ひょう》出《しゅつ》させる|神《じん》器《ぎ》である。
その|一《いっ》心《しん》同《どう》体《たい》たる二人の直下に、|濁《にご》った紫色の|火《か》線《せん》が走った。線は|奇《き》怪《かい》な|紋《もん》章《しょう》を描いて燃え続ける。|陽炎《かげろう》の壁が彼らの周囲を取り巻きドームを形作る。|隔《かく》離《り》・|隠《いん》蔽《ぺい》空間『|封《ふう》絶《ぜつ》』の発現だった。
気付けば二人の前、倉庫の屋根に、踏む足も重く|千《せん》変《ぺん》≠ェ舞い降りている。
「くく、一人身では逃げることも難しいようだな、若きご老体[#「若きご老体」に傍点]。クレツキーやボードは、あの中か?」
|封《ふう》絶《ぜつ》の外、陽炎の壁越しにうっすらと|外界宿《アウトロー》が燃えているのが見えた。
「キーッ、なんですって!? ドレル・パーティーを|侮《ぶ》辱《じょく》すると許さないわよ!」
|嘲《ちょう》弄《ろう》に答えたのは、ドレルではなくハルファスだった。
その契約者たるドレルの方は、深い彫りの奥にあるエメラルドグリーンの瞳で、静かにシュドナイを見つめている。
|虎《こ》面《めん》が、大きく笑った。
「そのドレル・パーティーは、今|潰《つぶ》した。現代の|外界宿《アウトロー》は、金に機械に情報|媒《ば》体《たい》、それらを処理する人間もか? 壊れてはならない物を多数抱えているからな」
さすがの|自《じ》在《ざい》法《ほう》も、金を生み出すことはできない(その昔、一人の|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠ェ人間とともに研究した時代もあったが、実現しなかった)。
フレイムヘイズが生活資金を得る手段としての|強《ごう》奪《だつ》は、容易である反面、|余《よ》計《けい》な|騒《そう》動《どう》も抱え込むことが多いため、あまり好まれていない。年々|犯《はん》罪《ざい》捜査の|厳《きび》しくなる現代では、できるだけ|余《よ》計《けい》な関わりと|足《そく》跡《せき》を残すべきではない、というのが|討《う》ち|手《て》たちの共通認識だった。
よって彼らの|大《たい》半《はん》は、資金管理の財団を自ら作って加盟し、そこを通じて必要|経《けい》費《ひ》他の金銭を得るという手法を取るようになっていた。
ドレルが数人の仲間と|主《しゅ》催《さい》していた|外界宿《アウトロー》、通称ドレル・パーティーも、その一つ……である以上に、|幾《いく》つかの地区に|跨《またが》る|外界宿《アウトロー》の経営主体たる財団そのものだった。
それを|潰《つぶ》すために現れた[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の将軍は軽く笑う。
「この手合いは、備えをする前に圧倒的な力で踏み潰せば、組織が根本から立ち行かなくなる。単純な|復《ふく》讐《しゅう》鬼《き》が|揃《そろ》っていた昔と違って、|一《いっ》旦《たん》見つければ|対《たい》処《しょ》は|容易《たやす》い上に|戦《せん》果《か》も大きい」
「ムキー!」
ステッキを揺すってまた怒るハルファスを|他所《よそ》に、ドレルはようやく口を開いた。
「容易に見つかるはずのない我々を発見するほどに本格的な|索《さく》敵《てき》網《もう》を展開し、しかも名にし|負《お》う|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイ自らが潰しに来た……[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]が|大《だい》規模に動く予備行動、フレイムヘイズたちの出足を|挫《くじ》く作戦の|一《いっ》環《かん》かな」
虎は笑いを収めた。
「さすがは、戦闘以外で初めて名を|馳《は》せたフレイムへイズだ……が、|冥《めい》土《ど》の|土産《みやけ》を渡すほど、俺は|気《き》前《まえ》が良くない。我らがババアにゴマするため死んでくれ、としか言えんな」
|槍《やり》を握る腕に、力を込める。
「ドレル!」
「……私が死んでも、この世に|顕《けん》現《げん》しようなどと決して思ってはいけないよ、ハルファス。契約でこちら側[#「こちら側」に傍点]に|縛《しば》られた|王《おう》≠ヘ、顕現後の一時的な活性を終えれば自然と立ち|枯《か》れて、死んでしまうだけだからね。それに、直接的な攻撃力に欠けた君では、顕現してもこの|千《せん》変《ぺん》≠ノは勝てないだろう。私だけならともかく、君まで死ぬのは、とても悲しい」
落ち着いて|諭《さと》すドレルの周りに、薄いオレンジ色の|火《ひ》の|粉《こ》が散り始める。これは、|抗《こう》戦《せん》、というだけの戦い。フレイムヘイズたるの意地の姿だった。
「イヤ――!! ドレル、逃げるのよ!」
火の粉|舞《ま》う中、彼は首を振って|遺《ゆい》言《ごん》を続ける。
「もう二百年にもなるか……私は|存《ぞん》分《ぶん》に、私の仕返しをした。私一人の|仇《かたき》を|討《う》ってからは、他者のそれを助けてきた。組織の作り方、運営の方法を広めることもできた。|千《せん》変《ぺん》≠ヘああ言ったが、実際のところフレイムヘイズは、数百年前と比べてずっと楽に、愛する者の仇と、両界を|脅《おびや》かす敵と、戦えるようになっているんだ」
|苦《く》笑《しょう》するシュドナイの周囲に、ゆらゆらと|炎《ほのお》からなる|人《ひと》型《がた》が立ち上がり始める。火の粉の中で、それは人数を増し、やがてドレルの姿を取ってゆく。『|愁《しゅう》夢《む》の|吹《ふ》き|手《て》』の力は、|幻《げん》術《じゅつ》だった。
取り囲まれた|紫《し》炎《えん》の|虎《とら》は身を|屈《かが》め、|槍《やり》を繰り出す力を|溜《た》める。
全ての方向から、|駄《だ》々《だ》をこねる|孫《まご》娘を諭す|老《ろう》爺《や》のような声が|響《ひび》いていた。
「みんな君のおかげだ、ありがとう。もう、おかえり」
「ドレル――!!」
|感《かん》知《ち》した、
「はあああっ!!」
その場所に向けてシュドナイは|剛《ごう》槍《そう》一《いっ》閃《せん》、二回りほども巨大化した槍を|横《よこ》様《ざま》に振り、|幻《げん》影《えい》の中にあった本物のドレルの体を、上下二つに断ち割った。そこに込められた強大な力が、切れ|味《あじ》以上の破壊力を持って、|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠フ|器《うつわ》を打ち砕いた。
シャーン、
と、まるで薄いガラスの割れるような音が、|封《ふう》絶《ぜつ》内に|響《ひび》いた。
|余《よ》韻《いん》の中に、世界の揺らぎの閉じる感覚がある。
契約者が言い聞かせたためか、顕現はなかった。
シュドナイが槍を回して地に打ち付ける、それを合図としたかのように、|封《ふう》絶《ぜつ》が解けた。
|傍《かたわ》ら、燃え盛る|外界宿《アウトロー》の火が、赤々と|夜《よ》霧《ぎり》を染め上げていた。周囲から、消火のためか|野《や》次《じ》馬《うま》か、人間が集まりつつある。
「これで、三つになりますな」
いつしか傍らに降り立っていた|鳥《とり》男《おとこ》が、将軍の|遂《すい》行《こう》した|大《たい》命《めい》を数えた。
「ふん」
サングラスに|炎《ほのお》を映す|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイは、特別な|感《かん》慨《がい》も持たず、|号《ごう》令《れい》する。
「|撤《てっ》収《しゅう》だ」
「はっ!」
後に炎と破壊を置いて、|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》≠ニその一党は、夜の暗きへと飛び去った。
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3 来たるもの
学生らを苦しめた夏休み前最後の|関《かん》門《もん》・期末テストから三日、|遂《つい》に審判の日が来た。
|猛《もう》烈《れつ》な|暑《しょ》中《ちゅう》にも|遠《えん》慮《りょ》なく、狭い校庭で行われた、|退《たい》屈《くつ》以上の苦痛でしかない終業式、
教室での、分かり切っている上に実効もほとんどない、長々とした注意事項の|羅《ら》列《れつ》、
それを記したプリントの山と、|滅《めっ》多《た》やたらと多い宿題、担任によるさらなる|念《ねん》押《お》し、
|等《など》々《など》、夏休みを迎えるための|儀《ぎ》式《しき》が、|勿《もっ》体《たい》つけるような時間の緩さとともに進行した末、
|悠《ゆう》二《じ》ら七人は、受け取った答案によって、三日間に渡る勉強会が、|概《おおむ》ね成功と言っていい結果に終わったことを知らされた。
もちろん、一夜|漬《づ》けの割には、という前置きを付けての話である。点数の伸び率は、あくまで元からの積み上げに|相《そう》応《おう》したものでしかなかった。このあたり、勉強という実力|評《ひょう》価《か》手法には一片の|容《よう》赦《しゃ》も|情《じょう》味《み》もない。|真《ま》面《じ》目《め》にやった分だけ成果を得られた、という|容易《たやす》く優しい話でもあるが。
細かい点数は置いて|概《がい》観《かん》を示すなら、シャナと|池《いけ》は上の上、|吉《よし》田《だ》は上の中、悠二は中の中、|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》と|緒《お》方《がた》は下の上である。
「うーん、そうか。二日目と三日目の終わり頃はダベるようになってたからなあ。もっと|真《ま》面《じ》目《め》にやっとけば良かったか」
と三日間彼らの先生役を務めた|池《いけ》が、
「私もご飯ばかり作らずに、教える方に回ってれば良かったかも……」
と結局三日間、夕飯を作ってくれた吉田(二日目からは、自費を使わず佐藤家の食材を使うよう、皆に言われた)が、それぞれ下の上となった三人の結果を残念がった。
しかし当の三人、佐藤、田中、緒方らの方は|概《おおむ》ね満足した|様《よう》子《す》で、
「|上《じょう》出《で》来《き》上出未。なんてったって|追《つい》試《し》がない」
「うむ、まったく。こんな晴れやかな気分で休みに入るのって初めてかもな」
「けっこーギリギリだったのね、危なかった……」
とそれぞれ感想を述べた。
通信|簿《ぼ》も皆、それら結果に|準《じゅん》拠《きょ》したもので、返却に従って、教室の各所では悲鳴と|安《あん》堵《ど》が飛び交った。
シャナの成績は、局所的に|凹《くぼ》んでいる箇所はあるものの、学科に関してはほぼ|完《かん》璧《ぺき》である。そんな彼女は周囲を見て、例によって|不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔をした。
「成績なんて、自分で書いたテストの評価で決まってるのに、どうして今さら驚いたり喜んだりするの?」
とりあえず安堵側に回ることのできた|悠《ゆう》二《じ》は、その表情のまま答えた。
「その試験の答えを|運《うん》任《まか》せにした人もいるってこと。シャナも、母さんにその成績見せたら、喜んでもらえると思うよ」
シャナは答えず、|嬉《うれ》しそうな顔を見られないよう、そっぽを向いた。
それは、硬い靴底を鳴らして突き進む。
|自《じ》在《ざい》法《ほう》と|宝《ほう》具《ぐ》によって、この世ならぬ力の気配を消し、恐るべき速度で。
それは、|御《み》崎《さき》市に向かっていた。
ところで彼らは、勉強会最終日から、どこかへ一緒に遊びに行こう、という話をしていた。
言いだしっぺは、やけに気負った緒方である。
「七人で試験を|頑《がん》張《ば》った打ち上げとか、そういうのやろうよ」
目的というか|標《ひょう》的《てき》は明らかではあったが、だからといって他の|面子《めんつ》には|強《きょう》硬《こう》に反対する理由もなかった。
「私も賛成です!」
と|吉《よし》田《だ》も、どういうわけかこれに強い|口《く》調《ちょう》で賛成し、
「そだな、吉田ちゃんには|美味《うま》い|飯《めし》食わせてもらったし」
「俺も意義なーし」
続いて|佐《さ》藤《とう》、|田《た》中《なか》も支持した。
「僕もいいよ」
|池《いけ》が言って、|悠《ゆう》二《じ》もやけにあっさり応えた。
「うん、賛成」
シャナは、自分が『この街での生活をキチンと|偽《ぎ》装《そう》しろ』と言ったことも忘れてムッとなったが、その悠二や他の|面子《めんつ》に見つめられて結局、投げやりに|承《しょう》諾《だく》することとなった。
日取りは、試験休みの三日間が、|緒《お》方《がた》のクラブ活動で|都《つ》合《ごう》が悪かったため、終業式当日の夜、つまり今夜と決まった。
なぜ夜なのかというと、なにをしよう、やっぱり遊びに、どこに行こう、などと話していた中で、悠二が珍しく、それでもたしかに自分から、おずおずと意見を述べたためである。
「花火[#「花火」に傍点]、やり直したいな[#「やり直したいな」に傍点]」
その控えめな名案に、誰もが自然と賛同の声を上げた。
ほんの一週間ほど前、県下一の大花火大会があったばかりだったが、この場にいる七人はいずれも、その場において|騒《そう》動《どう》に巻き込まれるか、嫌な気分で過ごす|羽《は》目《め》になるかしていた。
それを、ここにいる七人でもう一度やり直す。
なんとも魅力的な提案であるように思われた。
「よし、俺に任せとけ」
と佐藤が、この提案の実行を軽く|請《う》け負った。
「夜遊びってだけでいろいろうるさいかちな。文句言われないよう、いい場所見つけるよ」
この手のイベントにおける彼のプロデューサーとしての|手《しゅ》腕《わん》には定評がある。実は、この花火を『佐藤家の広くて静かな庭でやろう』と一同がまとめかけたところを、|家《いえ》主《ぬし》たる彼が、
「なんでせっかくのイベントを、自分の家でやらなきゃなんないんだよ」
と|拒《こば》んでいたので、その責任上からも積極的に動いたらしい。結果として、思いもよらない場所が、イベント会場として用意されることとなった。
「|御《み》崎《さき》神社あー?」
最後のホームルームも終わり、彼らだけが残った教室に、田中の|素《す》っ|頓《とん》狂《きょう》な叫びが|響《ひび》いた。
佐藤が得意げに|頷《うなず》く。
「そ。正確には、御崎神社すぐ脇の|境《けい》外《がい》。今、そこで古い|殿《でん》舎《しゃ》を取り壊して駐車場にする工事をやってるんだ。建物を取り除いて、今は|礎《そ》石《せき》だけになってる。周りも開けてるから火事の心配もないし――」
なぜかいきなり声を|潜《ひそ》める。
「――すぐ横に|社《しゃ》務《む》所もあるから、オガちゃんが|田《た》中《なか》を|襲《おそ》おうとしても助けが呼べる」
「なっ!?」
|緒《お》方《がた》がすごい|形《ぎょう》相《そう》で|佐《さ》藤《とう》の首を絞めた。
「ぐはおっ!」
(仲良さそうに思えたけど……田中|栄《えい》太《た》への|奇《き》襲《しゅう》を|潰《つぶ》されたのがそんなに嫌なのかな)
シャナが言葉をそのままの意味で受け取って、成り行きに理解不能な顔をする。
それをよそに、
「お、落ち着けオガちゃん!」
「う〜」
田中が抑えて、ようやく緒方は手を放した。
佐藤はようやく|人《ひと》心《ごこ》地《ち》つく。
「ジョ、ジョーダンにそこまで|過《びん》敏《かん》だと|余《よ》計《けい》に疑われッ痛っ!?」
今度は|池《いけ》が|小《こ》突《づ》いた。
「話が進まないだろ。それより、そんなとこ勝手に使ったりして、怒られないのか?」
「別に勝手じゃないぞ。|佐藤家《う ち》は神社の|氏《うじ》子《こ》だし、ちゃんと|宮《ぐう》司《じ》さんにも許可を取ってる」
「ははあ……」
さすがのメガネマンも感心する。
佐藤は顔も広く、こういうことの|手《て》際《ぎわ》は非常にいい。普段は嫌っているはずの家の力も、必要なときにはしっかり使うあたり、調子がいいというか|強《したた》かというか。
「じゃあ、それでいこうか。待ち合わせ場所はどこに?」
佐藤はなぜかニヤリと笑って、
「|坂《さか》井《い》ん|家《ち》」
と言った。
|御《み》崎《さき》神社は、住宅地の真ん中にぽつんと一つだけ盛り上がった濃緑の|塊《かたまり》、御崎山の|中《ちゅう》腹《ふく》にある。山というほどに高くは見えないが、実際には、緩い|裾《すそ》野《の》に住宅が迫っているためにそう見えるだけで、遠くから見れば全体に高く、正確な|類《るい》別《べつ》上もちゃんと山になっている。
|度《たび》々《たび》氾《はん》濫《らん》していた|真《ま》南《な》川の周辺で、全く揺るがずに青々と木を茂らせていたことから、山自体が|神《しん》体《たい》と|見《み》做《な》され、人々の信仰を集めるようになったらしい。しかし、いつの頃か別の神様を招いたり、|縁《えん》起《ぎ》を|失《しつ》伝《でん》したりしたため、今では祭っている神様はゴチャゴチャになっているという。
「日本では別に珍しくもない話だけどね」
と|池《いけ》が解説する内に、彼らはちょっとした|徒《と》歩《ほ》での|遠《えん》足《そく》を終えて、|御《み》崎《さき》山の|麓《ふもと》に着いた。
周りの景色を|眺《なが》めながら、|田《た》中《なか》も言う。
「俺、|鳥《とり》居《い》前《まえ》町に来るの、小学校のとき以来だな」
神社への|参《さん》道《どう》である広く緩やかな坂道には|舗《ほ》装《そう》が|為《な》され、街路樹の手入れも行き届いている。|近《きん》隣《りん》住民以外は自動車を使わないので、広い参道は徒歩でのんびり登ってゆくことができた。別に観光名所ではないので、人の|往《おう》来《らい》もほとんど見られない。
そんな、静かで|穏《おだ》やかな風景が、夕焼け色に染まっていた。
|緒《お》方《がた》が背後に広がる自分たちの街、その初めて見せる顔に、|溜《た》め息を|吐《つ》いて言う。
「こんな所があったんだ。なんだか、すごい新発見した気分」
「ふふふ、もっと言えもっと言え」
自分の選定に間違いのなかったことを確認した|佐《さ》藤《とう》が、満足そうに|頷《うなず》いた。その|傍《かたわ》らに立ち、夕焼けの色に見入る少女に向けて、言う。
「……自分が今住んでる街[#「今住んでる街」に傍点]をこうやって眺めるのも、悪くないだろ?」
言われてシャナは振り向き、また街に|目《め》線《せん》を戻して、頷く。
「うん、きれい」
「……」
|吉《よし》田《だ》はそんな少女の姿を、次いで|悠《ゆう》二《じ》に目をやった。
彼は、皆と同じく緩やかな斜面の向こう、夕日に染まる御崎市を眺めていた。どこがどうというわけではないが、落ち着いて見える。
「……なに?」
「え、いえ」
|慌《あわ》てて手を振る吉田を、シャナはじっと|睨《にら》んで、しかしすぐプイと顔を|逸《そ》らした。
今日の女性|陣《じん》の|格《かっ》好《こう》は、ミサゴ祭りにおけるそれとは対照的だった(ちなみに、いうまでもないことだが、男性陣は代わり映えしない|普《ふ》段《だん》着《ぎ》である)。
シャナは|薄《うす》手《で》のゆったりしたワンピース、吉田は|丈《たけ》長《なが》のブラウスにプリーツスカート、緒方はノースリーブのシャツにオーバーオールと、それぞれの感覚で動きやすそうな|装《よそお》いである。これは佐藤が、
「御崎神社は石段が急だから、ミサゴ祭りのときみたいな|浴衣《ゆかた》は止めた方がいいよ」
と注意したためだった。
その言ったとおり、夕に沈む御崎市に背を向けた彼らの前にある御崎神社の外見は、参道を登りきった所に突然盛り上がる緑の山と鳥居、そのぽっかりと開いた口の向こうに見える|急《きゅう》峻《しゅん》な石段、というもの。
「なるほど、こりゃたしかに|浴衣《ゆかた》には向かないな」
池がその|勾《こう》配《ばい》を見て|納《なっ》得《とく》する。
「長くはないけど、とにかく急なんだよ、ここの石段」
|佐《さ》藤《とう》は笑って皆を先導した。
「登ったら|休《きゅう》憩《けい》所がある。暗くなるまでそこでダベってよう」
「|坂《さか》井《い》のおっかさんに、お楽しみも|貰《もら》ったしな」
|田《た》中《なか》が手に下げた大き目のバスケットを危うく振りそうになって抑える。
「お母さん、キレイな人だったねえ」
|緒《お》方《がた》がそれを受け取ったときのことを思い出して言った。
|吉《よし》田《だ》も熱心に|頷《うなず》く。
「う、うん。すごく」
「そうでもないよ」
言われても、別に|嬉《うれ》しい年代ではない|悠《ゆう》二《じ》である。むしろ、ばつの悪ささえ感じた彼は、自分|担《たん》当《とう》のバスケットを乱暴に振って石段へと向かう。
と、その手をシャナが取った。
「わ、っ?」
「乱暴にしないで」
「あ、ご、ごめん」
少し怒ったような|口《く》調《ちょう》で言われて、悠二は|慌《あわ》ててバスケットを両手で前に抱え直した。
それを笑いつつ、一同は石段の下に立つ。佐藤の言ったとおり、さほど長くはない。両脇に|灯《とう》篭《ろう》を|疎《まば》らに並べ、踊り場も三つほどついているのが見えた。石段は|苔《こけ》こそ|生《は》えていないが、ところどころ|歪《ゆが》んでいたり、踏み慣らされて|微《び》妙《みょう》な|艶《つや》を持ったりしている。
見上げれば、頭上は大きく張り出した木の枝の重なりで|塞《ふさ》がれている。階段の頂上に見える夕焼け空と合わせて、石段はまるで|夕《ゆう》闇《やみ》のトンネルだった。
それは|御《み》崎《さき》市《し》駅の前にいた。
破壊の|有《あり》様《さま》をしげしげと|眺《なが》め、驚きも恐れも抱かない。
そしてすぐ歩行者に|紛《まぎ》れて、消えた。
「えっ、それじゃ、あの記念|樹《じゅ》の枝、おまえらが折ったのか!」
御崎神社の休憩所は、階段を登りきったすぐ横、本殿に続く|石《いし》畳《だたみ》の脇にある。
「ふっふっふ、告げ口してくれるなよメガネマン。だいたい力|加《くわ》えたのは田中だからな」
本来はその名の通り、|参《さん》拝《ぱい》者の|休《きゅう》憩《けい》に使われる場所だが、夜になるとまず|神《しん》職《しょく》の人以外は誰もやってこない。
「あれはおまえがふざけて足掛けてたからだろ。そうと知ってたら後ろから押すかよ」
建物自体は|簡《かん》素《そ》な新築の平屋建てである。|佐《さ》藤《とう》によると、神社は今、これから花火をする広場も含めて、古くなった建物を|順《じゅん》次《じ》建て直しているとのことだった。
「ったく、あんたたち、中学のときから全然進歩してないのねえ」
休憩所の中には、自販機数台と|畳《たたみ》敷《じ》きの|中《なか》座《ざ》敷《しき》だけがある。|蛍《けい》光《こう》灯《とう》の白も明るい室内は、新築特有の木の|匂《にお》いとクーラーで快適だった。
「|緒《お》方《がた》さんも中学、一緒だったんだ?」
|雰《ふん》囲《い》気《き》としては夜風で|涼《りょう》を取るべきだったろうが、残念なことに窓を開けていると虫ばかりが入ってくるため、人工の涼気で|我《が》慢《まん》せねばならない。
「あれ、|吉《よし》田《だ》さん知らなかったんだ? この三人は東中だよ」
七人は、その休憩所の中座敷で、尽きることのない話を続けている。一人を除いて。
「……」
|沈《ちん》黙《もく》を守る少女は、ここ数日、強力な力を見せつけられ続けた『敵』への|反《はん》攻《こう》作戦……その|火《ひ》蓋《ぶた》を切る瞬間の|到《とう》来《らい》を、息を|潜《ひそ》めひたすら待っていたのである。
やがて、各人一本ずつ買ったジュースが|空《から》になった頃、
「そろそろ暗くなってきたし……食べるとしますか」
|池《いけ》が言うのに気付けば、|夕《ゆう》闇《やみ》はガラス窓に室内を映すほどになっていた。
「本日のもう一つのメインイベントね」
緒方が大きなバスケットを|車《くるま》座《ざ》の真ん中に寄せる。
中に、|坂《さか》井《い》千《ち》草《ぐさ》の用意した夕飯が入っているとのことだった。
その大きさに、細い目をますます細める|田《た》中《なか》が、ふと気付いて|尋《たず》ねる。
「そういや、なんで俺たちの分まで坂井のおっかさんに用意してもらったんだ?」
(問題ない、大丈夫)
|沈《ちん》黙《もく》する少女は、動悸と耳鳴りの中、|密《ひそ》かに|覚《かく》悟《ご》を決めた。
「なにしろアレだ」
本イベントの運営委員長である佐藤が、田中のもっともな質問に答える。
「そもそも今日のイベントは『俺たちテストお疲れ様、吉田ちゃん|美味《おい》しい夕飯をどうもありがとう花火パーティー』――」
彼以外の全員が初めて、この長ったらしいイベント名を聞いた。
(さり気なく、してればいい)
少女はそれらの声も全く耳に入れず、あくまで自分の戦機を|窺《うかが》う。
「――なんだから、吉田ちゃんにお弁当作らせるわけにもいかないだろ。といってコンビニで|飯《めし》買って行くのも芸のない話だ。バーベキューでもしてやろうかと思ったけど、道具を|担《かつ》いでいくのは大変だし、神社の方も花火以上の許可をくれなかった……となると弁当しかないわけだが」
|佐《さ》藤《とう》は指を五本、差し出して順番に折っていく。
(そう、これは|千《ち》草《ぐさ》のついでなんだから)
少女は自分に言い訳をして、気持ちを落ち着けようとする。
「|田《た》中《なか》と、オガちゃんのおっかさんは俺のことが大嫌い。|吉《よし》田《だ》ちゃんと、|池《いけ》の家には行ったことがない。つまり消去法で、|麗《うるわ》しの千草サンの所に泣きついたってこと」
|悠《ゆう》二《じ》自身は家のことをなんだかんだ言われるのを、少年として|迷《めい》惑《わく》に思っていたが、事実は事実として、やや|仏《ぶっ》頂《ちょう》面《づら》で答える。
「まあ、母さんはこういうの大好きだからね。なんだか朝から張り切ってたよ。吉田さんのお疲れパーティーってことで好みも訊かれたくらいだし……エビチリ、好きだったよね?」
「はい、ありがとうございます!」
吉田は|嬉《うれ》しさに声を|弾《はず》ませた。
(|気《き》負《お》わず、|緊《きん》張《ちょう》せず、渡せばいい)
少女は、|宿《しゅく》敵《てき》の態度も目に入らないほどの、極限の緊張状態にある。
「ま、僕たちはなんでも|美味《おい》しいもののご|相《しょう》伴《ばん》に頂かれれば満足だけどさ」
池の正直な意見に、|緒《お》方《がた》も賛同した。
「そうそう、んじゃ、そろそろ開けていい?」
(今だ!!)
「――あ、んっ」
少女が、シャナが、小さく|咳《せき》払《ばら》いした。
「シャナ?」
なんの気なしに振り向いた悠二は、ギョッとなった。
シャナの顔が、今まで見たこともないくらいに赤く染まっていたのである。彼女がフレイムヘイズと知らなければ、本当に病気と思ったかもしれなかった。それほどに耳から|首《くび》筋《すじ》から、とにかく全てが真っ赤になっていた。
「……」
シャナの|脳《のう》裏《り》に、いつか聞いた、千草の言葉が|蘇《よみがえ》る。
(――「手作りのお弁当を渡す行為っていうのはね、シャナちゃん」――)
その言葉を勇気と変え、少女は恐るべき素早さでバスケットのロックを外し、腕の影だけを残すように|蓋《ふた》を開け、端の方に|視《し》認《にん》された(|万《まん》が|一《いち》にも取り違えのないよう、バスケットの取っ手に印をつけておいた)目標物を|鷲《わし》掴《づか》みにし、
(――「その人が好きだって言ってるのと同じなの」――)
|悠《ゆう》二《じ》の鼻先に、というより|目《もく》測《そく》を誤って鼻に、
「んがっ!?」
「悠二、食べなさい!!」
目標物を|直《ちょく》撃《げき》させていた。
この間|僅《わず》か四秒。
五秒目には、|一《いち》撃《げき》喰らった悠二が後頭部を床にぶつけて|悶《もん》絶《ぜつ》している。
「〜〜〜〜……」
ポカンとなる|面《めん》々《めん》の中、頭を押さえつつようやく起き上がった悠二は、自分になにかを|叩《たた》きつけた姿勢のまま固まっているシャナの姿を確認した。
「……?」
叩きつけられた物は、|可愛《かわい》いタヌキ|柄《がら》の布に包まれた、四角い物体だった。
信じられない、といった|面《おも》持《も》ちで、悠二はその物体について|訊《き》く。鼻を押さえながら。
「……もしかして、これ」
もしかしてもなにもない。どう見ても、弁当。
「うるさいうるさいうるさい! |余《よ》計《けい》なこと言わずに食べるの!!」
もう|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》だった。
(そういえば)
|悠《ゆう》二《じ》は、今日の帰宅後、いきなりジョギングを強制されたことを思い出す。
「わざわざ……え、でも……?」
言いつつ、ようやく彼が弁当を受け取ると、シャナはクルリと|車《くるま》座《ざ》に背を向けてしまった。その肩が|小《こ》刻《きざ》みに震えて、息も荒い。よほどの|緊《きん》張《ちょう》と|昂《こう》奮《ふん》があったらしい。
「あり、がとう」
悠二は答えつつ、しかし混乱していた。|驚《きょう》天《てん》動《どう》地《ち》の事件が起こった。本当に起こった。そう感じた。こんなことがあるわけないと、この段階になってもまだ思っていた。
(だって、シャナ[#「シャナ」に傍点]なのに?)
フレイムへイズなのである。
フレイムヘイズでしかないはずなのである。
フレイムヘイズ以外の何者も持っているわけがないのである。
今までずっと、そう|捉《とら》えてきた。 実際彼女がそうだと示してきた。 そんな『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』として以外の彼女を考えることは、誇り高きフレイムヘイズへの|侮《ぶ》辱《じょく》だと思うようになってさえいた。
なぜ、そう思うようになったのか。
答えは明白。他でもない、彼女が自分に、その形での|絆《きずな》を求めてきたから。だから自分も、戦場で彼女が示してくれる信頼に少しでも応えようと踏ん張ってきたのだ。
そのはずだった。それが間違っているとは、考えたこともなかった。
なのに今、彼女の方から、そうではない、それ以外もあるのだ、と。
(――いいんだ[#「いいんだ」に傍点]――)
なにかが、どこかで、外れた気がした。
(――好きになってもいいんだ[#「好きになってもいいんだ」に傍点]――)
胸の中に生まれたものが表情に出る、その|寸《すん》前《ぜん》、
「だめ!」
(!!)
|吉《よし》田《だ》が叫んでいた。
「そんなのだめ!」
「だ、だめじゃない!」
背中を向けていたシャナが体ごと振り返って、叫び返した。
しかし吉田は引き下がらない。
「だって、私もみんなも、お弁当持ってこないときに、こんなこと!」
「う……」
悠二も含めて、この場の全員が、|滅《めっ》多《た》に見られないものを見た。
「……わ、私は、たまたま、こういう、それは悠二が、うそつきで、だから……」
なんとシャナが、いつも|無《ぶ》愛《あい》想《そう》で|理《り》路《ろ》整然として冷静|沈《ちん》着《ちゃく》な彼女が、|傾《うつむ》いて口ごもったのである。何事も|為《な》せない手が、胸の前でただふらふらしている。
|滅《めっ》多《た》に見られないと言えば、もう一方もそうだった。
「たまたまでお弁当なんか作れるわけないよ!」
なんと|吉《よし》田《だ》が、いつも|温《おん》厚《こう》で人当たりが良くて優しい彼女が、本気で|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めて怒っていたのである。その手は強く力いっぱい、胸の前で振られていた。
「違、そうじゃ、なくて……なんとなく、そう、なんとなく作りたくなっただけなの!」
シャナに|僅《わず》かに力が戻ってきた。|当《とう》座《ざ》の言い訳を何か見つけるため、考えもなしに口だけで|誤《ご》魔《ま》化《か》そうと叫ぶ。
「それに、対等だって言ったくせに、私だっていろいろ、するんだから、でもこれはそういうのじゃない、ただ単に、お弁当渡しただけでしょ!!」
心にもないこと、とはまさにこのことだったが、吉田には効果があった。
たしかに、行為としての事実は、ただそれだけ[#「ただそれだけ」に傍点]なのである。
僅かに|怯《ひる》んだ吉田を見て、さらに勢いから追い討ちを掛けようとするシャナの前に、|佐《さ》藤《とう》が割って入った。
「待った待った、ケンカなし!」
「落ち着いて、吉田さん。お弁当一つのことじゃないか」
吉田の前にも、|池《いけ》が入っていた。
「それは、そうだけど」
「……」
池は、まるで|駄《だ》々《だ》っ子のように半べそをかく彼女、|生《なま》の感情を表す彼女に一瞬、|惹《ひ》き込まれかけた。|慌《あわ》てて自分を取り戻す(こういうことのできる自分に、彼はウンザリしていた)。
|緒《お》方《がた》がようやく中立の女性として、だらしない少年に声をかける。
「|坂《さか》井《い》君! あんたのせいなんだから、シャキッとしなさいよ」
「えっ、僕の……」
|半《なか》ば|呆《ほう》けていた|悠《ゆう》二《じ》は、間抜けな答えを返して、緒方を|呆《あき》れさせた。
「っもう! ちょっとは|貫《かん》禄《ろく》出てきたかと思ったのに、外側だけ!?」
「オガちゃん……あの」
後ろからおそるおそるかかった声に、ぴしゃりと言う。
「|田《た》中《なか》は黙ってて!」
「はい」
「坂井君、お弁当一つで今日のイベントぶち壊すつもり?」
(別に、僕が弁当作ったわけじゃ)
と悠二は|心《しん》中《ちゅう》で言い訳しつつ、思い直しもする。
(ま、まあ、そうだよな……いつもの昼食だって、|吉《よし》田《だ》さんに張り合ってお|菓《か》子《し》をくれるじゃないか……なんでいきなり、全てを|擲《なげう》って告白されたみたいに思ったんだ?)
あの、狂おしいほどに熱い気持ちが、 どうして突発的に|湧《わ》き上がり、 また燃え上がったのか……今考え直してみても、さっぱり分からなかった。
もちろん救いがたい|朴《ぼく》念《ねん》仁《じん》たる少年は、それが心と心の共感、強い|絆《きずな》による共感で、彼女の気持ちをダイレクトに受け取ったためであるとは思ってもいない。
「二人とも、もういいでしょ? さ、食べたら仲直りする、いいわね?」
女の子がもう一人いてくれて助かった、と思う|情《なさ》けない男どもをよそに、|緒《お》方《がた》は二人をそれぞれ|睨《にら》み、|頷《うなず》かせていた。
皆がバスケットの中身、|豪《ごう》華《か》なサンドイッチを主体としたお弁当を取り出す間に、
(そうそう、お弁当一つお弁当一つ……)
|悠《ゆう》二《じ》も念じながら、できるだけ起こったことを|矮《わい》小《しょう》化《か》しようとする。そうして、まるで悪いことをしてしまったかのようにシュンとなっているシャナのために、|狸《たぬき》柄《がら》の包みを開ける。
中から、包みとは対照的な、飾りつ気のないアルミの弁当箱が現れた(悠二の父・|貫《かん》太《た》郎《ろう》の物を借りたのである)。
「な、なんだか大きいな」
まるでいつもと逆の、 ムーとへの字口を作る吉田と、 じっと見ているシャナの前で、|緊《きん》張《ちょう》感とともに|蓋《ふた》を開ける。
「……」
真ん中に、ふやけたメロンパンがご飯の代わりに押し込まれていた。その周囲にはアルミホイルによる適当な仕切りがあって、|黒《くろ》焦《こ》げの何かと、黒焦げの何かと、黒焦げの何かと、とどめに黒焦げの何かが入っている。
悠二は|強《こわ》張《ば》る|頬《ほお》をできるだけにこやかに動かして、言った。
「……い、いただきまーす」
シャナはその笑顔に自分の成功を一方的に感じ、グッと|拳《こぶし》を握った。
それは、目指す|標《ひょう》的《てき》の気配を、|慎《しん》重《ちょう》に探りながら進む。
橋を越えて、対岸のビル街とは対照的な一般住宅が建ち並ぶ地区に入る。
気配のある方向を、じっくりと探り、感じた。
まだ口の中がジャリジャリする気がして、悠二はつばを飲み込んだ。
その見る先で、シャナが叫び声を上げる。
「うわっ!?」
「なはは、これ見るの初めてかー?」
|佐《さ》藤《とう》が、まるで花火の発明者であるかのように得意げに笑った。
彼が持っているのは、棒の先から|吊《つ》るされ、緑色の火を|噴《ふ》いてクルクル回る、空中ネズミ花火のようなものである。
|闇《あん》中《ちゅう》、|鮮《あざ》やかな|刹《せつ》那《な》の|煌《きらめ》きを飛ばす|光《こう》輪《りん》の周りには、|火《ひ》の|粉《こ》を避ける|緒《お》方《がた》と|田《た》中《なか》、
「ちょっと、近づけないでよ!」
「うおっと!」
目を見開いてびっくりしている|吉《よし》田《だ》もいる。
「ひやっ!?」
今、彼らが花火に|興《きよう》じているのは、|休《きゅう》憩《けい》所|裏《うら》の小さな石段を降りた|山《やま》陰《かげ》に、ひっそりと|土《つち》肌《はだ》を見せる広場である。古い|殿《でん》舎《しゃ》の|撤《てっ》去《きよ》作業が終わった跡地で、ところどころ、|半《なか》ば土に埋もれた|礎《そ》石《せき》が残っていた。
周りは|樹《じゅ》容《よう》鬱《うつ》々《うつ》、高い木々に取り囲まれて、|余《よ》計《けい》な光は頭上の星空と、外れにある|社《しゃ》務《む》所の窓にしかない。花火の光を思う|存《ぞん》分《ぶん》、目に遊ばせることができた。
「良かったな、二人とも仲直りして」
|悠《ゆう》二《じ》の後ろから、|池《いけ》が声をかけた。
「ん、ああ」
「ほい、お疲れさん」
クククと笑って、ジュースを手渡す。
渋い顔で、しかし素直に受け取って、悠二はプルを上げた。
「サンキュー」
あの後、|興《こう》奮《ふん》から我に返ったシャナと、一時の怒りを|沈《ちん》静《せい》化させた吉田は、食事の間に佐藤と田中が大騒ぎした結果、なにがどうというわけでもなく、元通りになっていた。
今ではああして、本日のメインイベントたる花火を一緒に楽しんでさえいる。
恐らく|胸《きょう》 中《ちゅう》は複雑なのだろうが、 そういうものを抱えたままでも一緒に遊べ、また遊ぶ内にわだかまりを|融《と》かしてしまえるのが仲間というものである。
(仲間……?)
悠二は思ってから、片方の少女にとって、それがいかに|特《とく》異《い》なことであるかを感じた。
(あのシャナが……でも実際に、僕に弁当を――)
思い出して、また熱くなりそうな頭を冷やすように、ジュースを一気に飲む。
そのシャナは、少し離れたところで、黒い|塊《かたまり》がムニムニと伸びてゆく様に顔を|顰《しか》めている。
「気持ち悪い、なにこれ……?」
「はは、なんだ、ヘビ花火も知らないのか」
そんな少女の|戸《と》惑《まど》いを、|田《た》中《なか》が大きく笑い飛ばした。
「シャナちゃんってアタマいいのに、こういうことは全然なのね」
「ま、そーゆー人もいるだろ」
|不《ふ》思《し》議《ぎ》がる|緒《お》方《がた》を|佐《さ》藤《とう》がフォローし、|吉《よし》田《だ》もまた笑う。
「シャナちゃん、それ、別に動かないから避けなくてもいいよ」
佐藤が両手の|紙《かみ》袋《ぶくろ》いっぱいに持ってきた花火によるイベントは|概《おおむ》ね、全ての花火を初めて見るシャナの驚く姿を楽しむものとなっていた。ちなみに、ロケット花火やパラシュート等の打ち上げるもの、|派《は》手《で》に音が鳴るもの等は神社から注意されて、事前に|除《のぞ》いてある。
「ふう、やっと口の中から|炭《すみ》の味が――」
「なあ、|坂《さか》井《い》」
ジュースで口の中をスッキリさせた|悠《ゆう》二《じ》に、|池《いけ》が声を掛けた。
その声の真剣|味《み》に気付かず、少年は軽く答える。
「ん?」
「ミサゴ祭りで、吉田さんになにかしたのか?」
「えっ!!」
悠二はジュースの缶を取り落としそうになった。
そんな彼の方を池はあえて見ず、答えも求めず、花火の光を追う。
「おまえも、彼女も――」
真っ赤な火の|点《つ》いた|棒《ぼう》花火を|無《む》邪《じゃ》気《き》に振り回すシャナの横で、笑って逃げる少女、
吉田|一《かず》美《み》の姿を、追う。
「なんか、変わったよな……|芯《しん》が入った、っていうか」
「……」
「いつか、言ったよな。好きかどうか分からない、どこからが好きか分からない、って」
「……覚えてるよ」
悠二は、中学以来の親友の言葉を、しっかりと受け止める。
「最近、これかな、って思うものを、分かる[#「分かる」に傍点]んじゃなくて、感じてる[#「感じてる」に傍点]。焦りというか、もどかしさというか……言某では|上手《うま》く表現できないけど」
まるで教わったものを飲み込むかのように、しばらく間を置いてから、悠二は返す。
「そうか……やっぱり、それはあるんだ[#「それはあるんだ」に傍点]」
池は、切実なくせに|奇《き》妙《みょう》なその答えに|苦《く》笑《しょう》した。
「だから、はっきり言っとく。僕は吉田さんが好きなんだ」
今さらのような、しかし初めて確定として口にされた言葉だった。
悠二は、そう言えることへの|羨《せん》望《ぼう》のようなものを感じて、|曖《あい》昧《まい》に|頷《うなず》く。
「……うん、まあ、分かった――痛っ!?」
|悠《ゆう》二《じ》の肩を強く|叩《たた》いて、池はまた笑った。
「|坂《さか》井《い》、これは|恋《こい》敵《がたき》への|宣《せん》戦《せん》布《ふ》告《こく》なんだから、もう少しピリッとしろよ。で、結局|吉《よし》田《だ》さんになにをしたんだ? これだけは聞かせてもらいたいな」
悠二は|一《いっ》旦《たん》グッと詰まって、しかし観念したかのように|吐《と》露《ろ》を始める。
「なに、っていうか、特別なことじゃ……いや、特別か……つまり吉田さんが――」
向こうで、シャナが子供のように導火線に火の|点《つ》いた花火を持って走っている。
というより、走ってくる。
「おい、それ持って歩く|奴《やつ》じゃ――!!」
遠くから|田《た》中《なか》が叫んでいるのが聞こえて、
「あっ」
「のわーっ!!」
シャナの簡単な驚きの声とともに、悠二の目の前が真っ白な火花で埋め尽くされた。
「だ、大丈夫ですか?」
吉田が|慌《あわ》てて、その後ろから田中と|緒《お》方《がた》、|佐《さ》藤《とう》らも駆け寄ってくる。
|密《みつ》談《だん》の場は終わりと知った池は、また肩を叩いて言った。
「ま、いきなりなにがどうなるわけでもないさ。変わらないといえば、全く変わらないよ。どうも僕は態度も暴力も、乱暴なことは好きじゃないようだし」
「メガネマンが敵か……恐いな」
悠二は|本《ほん》音《ね》をあっさり口にして、池をまた|苦《く》笑《しょう》させた。
それは、目指す|標《ひょう》的《てき》が|鬱《うっ》蒼《そう》と茂る山の中にいると気付いた。
交戦の際に振るう力が残るかどうか、というほど|念《ねん》入《い》りに気配を|隠《かく》す。
|慎《しん》重《ちょう》に、あくまで慎重に、それは緩い坂を登る。
チ、チ、と細く鋭い、そして切なく|儚《はかな》い火花を、|線《せん》香《こう》花火は散らす。
シャナは初めて見る|不《ふ》思《し》議《ぎ》な、|地《じ》味《み》でありながら目の離せない、オレンジ色の|閃《ひらめ》きを見つめていた。しゃがんでいる彼女を、他の全員が囲んでいる。
これが最後の線香花火、今日最後の花火だった。
燃える|度《たび》に先端の玉は大きくなり、火花も盛んに|弾《はじ》ける。
その一瞬の光を、シャナは黒い瞳に映し込む。
|派《は》手《で》派手しく燃える普通の花火とは違う。
終わりの予感を見せながらゆっくりと、線香花火は閃く。
|炎《ほのお》を上げず、|鮮《せん》明《めい》で|繊《せん》細《さい》な光を、ただ|閃《ひらめ》かせる。
シャナは、その終わりが|膨《ふく》らんでいく|様《さま》に、どうしようもない寂しさを覚えた。
たぶん、他の皆も、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》だってそう感じているだろう、と思えた。
火花の|間《かん》隔《かく》が、少しずつ開いてゆく。
鈍く光るオレンジ色の玉が限界まで大きくなり、
|不《ふ》意《い》に寂しさの涙が|零《こぼ》れるように、|闇《やみ》の中に落ちて、消えた。
なんとなく、|静《せい》寂《じゃやく》が訪れる。
夏の風、緑の|匂《にお》いと、暖かさに混じる|肌《はだ》寒《ざむ》さが、皆を包んで、過ぎる。
|悠《ゆう》二《じ》が小さく、終わりを告げた。
「うん」
吉田がその落ち着いた|様《よう》子《す》を見て少しだけ笑い、|池《いけ》はそれに別の笑いを見せる。
「あーあ、終わっちゃった」
|緒《お》方《がた》は|田《た》中《なか》に、明るくおどけるように言い、田中も笑い返す。
「ほい、燃えカスはこの中ね」
|佐《さ》藤《とう》はバケツと金ばさみを持って来て、シャナに最後の切れ端、花火ではなくなったものを入れるよう|促《うなが》した。
「……」
シャナは生まれて初めて見た火花の|名残《なごり》、目に焼きついた|煌《きらめ》きを思って、手の中にあるものを放し難く感じた。しばらく考えてから、
「もらっとく」
言って、それを手に握り込んだ。
誰もからかいはしなかった。
やがて、
ゴミの|始《し》末《まつ》やバケツの|返《へん》却《きゃく》、|社《しゃ》務《む》所への|挨《あい》拶《さつ》などを終えて、佐藤が帰ってきた。
「お待たせ、ほいじゃま帰ろうか」
と、彼は皆がこの広場に入ってくる際に使った階段に向かおうとするのを、予定していた笑いとともに呼び止めた。
「おーっと、待った! おかえりはアチラ」
「へえ?」
「道、見えないぞ?」
緒方と田中が、彼の指し示す先を見て言うが、佐藤はそれも予定の内と解説する。
「道っていっても踏み固めただけの坂道だからな。大丈夫、直線に下りるだけだ」
|怪《け》訝《げん》な顔で池が|訊《き》く。
「近道なのか?」
「それほどでもない。ま、とにかく俺に任せなさい」
ついて行けば、|空《あ》き地の真ん中からたしかに|土《つち》肌《はだ》が一直線、下へと延びている。その先は木木の|生《お》い茂った真っ暗な空間で、明かりは見えない。
「大丈夫なのか?」
「坂は緩いし、すぐ林は抜けるよ」
言う間に|佐《さ》藤《とう》は坂道を下り始めていた。仕方なく、他の|面《めん》々《めん》も後に続く。
|吉《よし》田《だ》は|悠《ゆう》二《じ》に身を寄せ、シャナは悠二の手を引いて歩く。|田《た》中《なか》と|緒《お》方《がた》は、ごく自然に手を|繋《つな》いでいた。|池《いけ》は|苦《にが》く笑って、|最《さい》後《こう》尾《び》を行く。
そうして歩くこと数分、
頭上の枝が、眼前の木々が|突《とつ》如《じょ》、|途《と》切《ぎ》れた。
「――!!」
全員が、案内した佐藤も改めて、息を|呑《の》んだ。
開けた低い|山《やま》肌《はだ》から、|御《み》崎《さき》市の|街《まち》明《あ》かりが|一《いち》望《ぼう》の下、広がったのである。
手前の|裾《すそ》野《の》にゆるりと傾斜してゆく|鳥《とり》居《い》前《まえ》町、その向こうに家々の|憩《いこ》いを見せる住宅地、ただただ黒く大きく横たわる|真《ま》南《な》川、 夏休みに眠る御崎高校、 |渋《じゅう》滞《たい》する御崎|大《おお》橋《はし》、|不《ふ》夜《や》城《じょう》の市街地――全てが、見渡せた。
佐藤が、この|絶《ぜっ》景《けい》を紹介した者の|特《とっ》権《けん》として、一番に口を開いた。
「いいだろ? 子供の頃、|神《しん》事《じ》から抜け出したときに見つけた、取って置きの|眺《なが》めだ」
「ああ」
「きれい」
田中と緒方が芸のない答えを返し、
「最後の最後で|隠《かく》し玉か」
と池は評価した。
そんな中、
ふと、心の|零《こぼ》れ出るように、
「この眺めを持っていけば……街を出た後も、寂しくはなさそうだな」
悠二は|呟《つぶや》いていた。
「!?」
その|傍《かたわ》らにあった吉田はその言葉の意味に凍りつき、
「――!」
悠二を挟んで彼女と反対側にいたシャナは、喜びの震えを感じた。
なにも知らない緒方が驚いて|訊《き》く。
「えっ、|坂《さか》井《い》君、転校とかしちゃうの!?」
「なんだって!?」
|池《いけ》も|仰《ぎょう》天《てん》して|悠《ゆう》二《じ》を見た。
「ち、違う違う、そういう意味じゃない」
|慌《あわ》てて悠二は|失《しつ》言《げん》を|弁《べん》解《かい》する。
「いつか出て行くとき[#「いつか出て行くとき」に傍点]に、ってことだよ」
「なんだ、驚かすなよ」
池は|心《しん》底《そこ》ほっとしたように|吐《と》息《いき》を漏らした。
|緒《お》方《がた》も|文《もん》句《く》を言う。
「|紛《まぎ》らわしいなあ、もう。せっかく皆、こうやって楽しく遊べるようになったのに、もうお別れかと思っちゃった……ね?」
「ん、ああ、そうだな。そう簡単に出て行くなんて言うなよ[#「そう簡単に出て行くなんて言うなよ」に傍点]」
田中が声の裏にゲンコツを|隠《かく》して言った。
|佐《さ》藤《とう》が口を|尖《とが》らせて漏らすのは、|失《しっ》笑《しょう》と|羨《せん》望《ぼう》である。
「まったくだ、人が用意したイベントの|趣《しゅ》旨《し》を勝手に変えるなっつーの」
「ごめん」
悠二は軽く笑い返しつつそれらを感じ……そして、改めて景色に目をやる。
|眩《まぶ》しげに目を細め、その色彩、形、印象、想い、全てを|脳《のう》裏《り》に焼き付ける。
いつか本当に出て行くとき、この美しさを|御《み》崎《さき》市として思い出せるように。
その彼の手を、いつしか二人の少女が一つずつ取っていた。
正反対の感情で。
それは、ついに|標《ひょう》的《てき》を|視《し》認《にん》した。
|徒《と》党《とう》を組んでいる、そのことに驚きながらも、抜かりなく|襲《しゅう》撃《げき》の機を図る。
標的の移動に伴い、それは|尾《び》行《こう》を始めた。
|道《みち》順《じゅん》として、まず|吉《よし》田《だ》と池が最初に別れた。
家まで全員で送ろうとした悠二たちを、遠回りになるからと吉田は|丁《てい》寧《ねい》に断った。
「池君の家も近くだから、大丈夫です」
そう|無《む》警《けい》戒《かい》に頼られた池は、そんな彼を見た悠二は、お互い|苦《にが》く笑うしかなかった。
やがて、別れてから数分、足取りも重く|隣《となり》を歩く吉田に、池は|訊《き》いていた。
「さっきの……みんなで街を見たときの話だけどさ」
「えっ」
「|坂《さか》井《い》が出て行くことに、なにか心当たりでもあるの?」
「! う、ううん、そういうわけじゃ……」
全く、|吉《よし》田《だ》は|嘘《うそ》が|下手《へた》である。
|池《いけ》は、|悠《ゆう》二《じ》の言う『いつか』が遠いことを信じたかったが、彼女の|慌《あわ》てようから、楽観できそうにない、という推測も持った。悠二に対して、|水《みず》臭《くさ》い、と思う。しかし|隠《かく》しているのなら隠すなりの理由や意味もあるのだろう、とも思う。|坂《さか》井《い》悠二は、いい奴だが馬鹿ではない[#「いい奴だが馬鹿ではない」に傍点]。もちろん、悩んだり|酷《ひど》い目に|遭《あ》ったりはするだろうが。
(もしかして)
さっきのやり取り……自分が感じた、|佐《さ》藤《とう》や|田《た》中《なか》らも含めた何かの|繋《つな》がりは、これ[#「これ」に傍点]かもしれない、と|密《ひそ》かに当たりをつける。よりにもよって『吉田が好きだ』と悠二に言った日に、そんなことに気付かされるとは、と|心《しん》中《ちゅう》で|溜《ため》息《いき》も|吐《つ》く。
これで悪人なら、
(その辺りを|梃《て》子《こ》にして、吉田さんの心を動かすかもな)
もちろん、そんなことはできない。
特別優しかったり、|理《り》非《ひ》善《ぜん》悪《あく》にこだわったりしているわけではない。そういう自分の気持ちだけを優先して、今ある皆の関係を|険《けん》悪《あく》にするようなことが、単に嫌なのである。そういうことはしたくないし、実際できない。そういう性格なのである。
(協調性がありすぎるってのも考えもんだ)
そう自己|分《ぶん》析《せき》も批判もできるが、そんな性格を変えられないことも、同時に自覚できる。全く、どうしようもないくらいに抑制の効いた自分[#「自分」に傍点]だった。
「それじゃ、どうしてずっと元気がないのさ」
|躊躇《ためら》う少女が言い|易《やす》いように助け舟を出す。そうして頼られることを|嬉《うれ》しく感じ、頼って欲しいとも思っている。少し前までとは逆に。
吉田はその言葉を受けてしばらく悩んでいたが、やがて口を開く。
「私……坂井君を、なにがあっても、この今、好きでいようと決めたの」
彼女はもう、助言を必要としなくなっていたが、自分に確認させるため、素直な心の内を誰かに聞いてもらいたい、とは思っていた。池|速《はや》人《と》は、彼女にとってそれができる|唯《ゆい》一《いつ》の友人なのだった。
「なのに、坂井君のあの言葉を聞いて、心が揺れた……そうなったとき、とか、そうなった後は、とか……計算高い自分が出てきて、今の気持ちと|綱《つな》引《ひ》きをしたの。ずるいよね」
吉田は弁護を|欲《ほっ》さず、自分で自分を笑った。
池はそのことへの|理《り》不《ふ》尽《じん》な寂しさと焦り、そして怒りから、つい早口で答えていた。
「その|歳《とし》で、友達[#「友達」に傍点]と別れることを現実問題として考えれば、誰だってそうなるよ。悩んだり迷ったりすることに、誰からも文句を言われる|筋《すじ》合《あ》いはないさ」
「?」
|吉《よし》田《だ》は、そんな|池《いけ》の、いつもの冷静な彼らしくない|口《く》調《ちょう》を|訝《いぶか》しんだ。他人から求めるだけでなくなった少女は、頼りにしていた友人に、初めての質問を発してみる。
「池君も……なにか悩んでるの?」
「!!」
池は驚き、思わず足を止めていた。
「別に、なにも」
素早く言って取り|繕《つくろ》い、また歩き出す。
吉田は、 自分の|柄《がら》にもないお|節《せっ》介《かい》で 彼を怒らせてしまったと思った。 その後を |慌《あわ》てて追う。
「ご、ごめんなさい。私、|余《よ》計《けい》なこと……言った、かな」
そんな少女の優しさが、不用意に縮められる距離が、池には|辛《つら》かった。
「いや、気にしてないし、別に吉田さんがなにかしたわけでもないよ」
そんな少年の、なんでも自分で片付けようとする|頑《かたく》なさを、吉田は歯がゆく思った。
二人は互いに相手の、一歩の近さ、一歩の速さに、鈍い痛みを覚えていた。他の誰より近い|間《あいだ》柄《がら》であるがために、なおさらその一歩は大きく、どうしようもなく感じられた。
吉田は友人へと、あくまで誠意を込めて言う。
「なら、いいけど……なにかあったら、言ってね。私、なんにもできないけど、聞くことくらいなら、たぶんできると思うから」
池は友人以上に想い始めた少女へと、心を|隠《かく》して答える。
「ありがとう。この悩みが、僕のこういうところ[#「こういうところ」に傍点]を超えるほどになったら聞いて欲しい……いや、聞いてもらうことにするよ」
吉田は少年の重大な宣言の意味に全く気付かず、明るく|請《う》け合った。
「うん」
|御《み》崎《さき》市東部に住んでいる|佐《さ》藤《とう》、|田《た》中《なか》、|緒《お》方《がた》の三人は、住宅地の端でシャナ、|悠《ゆう》二《じ》らと別れ、大通りの歩道から|旧《きゅう》住宅地への横道に入る。
夜昼ない|喧《けん》騒《そう》に満ちた大通りの歩行者天国の明かりが遠ざかってゆく。
「なんだか、まだお祭りが続いてるみたい」
気楽に笑った緒方を、田中が|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めて軽く|叱《しか》る。
「|怪《け》我《が》人が何十人も出てんだぞ」
「はーい、ごめんなさーい」
頭をかいて緒方は素直に謝った。
佐藤が笑って|茶《ちゃ》化《か》す。
「はっはっは、|田《た》中《なか》君は|真《ま》面《じ》目《め》で|堅《かた》苦《くる》しいですなあ」
|塀《へい》と街灯だけ、という寂しい|旧《きゅう》住宅地の|辻《つじ》が、やがて十字|路《ろ》に差し掛かる。
佐藤は直進だが、田中は|緒《お》方《がた》を送っていくために道を折れる、別れ道だった。
「じゃ、オガちゃん送ってくるよ」
「ああ。もう今日は帰って寝ちまえ」
田中に答えた佐藤は、ニタッといやらしく笑って付け加える。
「オガちゃんに|襲《おそ》われるなよ」
「バカ、逆だろ」
田中が|律《りち》儀《ぎ》に|訂《てい》正《せい》した言葉の意味を考えて、緒方は真っ赤になった。
「普通に、俺は襲ったりしない、って言いなさいよ、もう!」
佐藤はそんな二人の何気なく近い|様《よう》子《す》に、今日のイベントの企画者として満足感を得る。それをまともに表さず、意地悪さを加えてからかうのが、彼の彼たる|所以《ゆえん》である。
「はは、まあせいぜい、唇くらいは気を付けなよ、オガちゃん」
「ふん、大丈夫ですよー。あんたと違って、田中は言ったらちゃんと守るんだから。お祭りの|翌《よく》日《じつ》だって――」
「わーわーわー!! 言わなくていいっグッ!」
当然これを聞き逃す佐藤ではない。田中を後ろからチョークスリーパーで絞めあげてから、緒方に|尋《たず》ねる。
「えっ、なになに?」
「どーしよっかなー」
緒方はむしろ話したそうにもったいぶってから、あっさり口を割った。
「えへへー、ミサゴ祭りのときさ、田中、急いでどっか行くときに『また明日[#「また明日」に傍点]』って言って別れたんだけど――」
「……!」
佐藤は、そのときに田中がそんなことを言った、というより|誓《ちか》った意味に気が付いて、思わず腕の力を緩めた。
「――次の日って土曜で休みだったじゃない? だから当然、 |冗《じょう》談《だん》だと思ってたのに、 本当に来ちゃったのよ」
言う緒方の顔はふにゃふにゃと緩んでいる。
「ウチの親って、以前のこととかでアンタたちが|大《だい》嫌いでしょ? なのに|真《まっ》昼《ぴる》間《ま》に堂々とやってきて、『昨日の約束だったから』って……そんな律儀に守るほどのことでもないのにね」
「あ、|挨《あい》拶《さつ》だけだぞ。他には何もしてないぞ」
田中は絞められる姿勢のままで|弁《べん》解《かい》した。
佐藤は、今度はからかわなかった。田中の首を絞める姿勢のまま、彼の行為を誠実さの|発《はつ》露《ろ》とのみ受けとっている|緒《お》方《がた》に、言ってやる。
「オガちゃん……こいつ、真剣に向き合えば、真剣に応えてくれる|奴《やつ》だからさ。大事にしてやってくれよ」
「へぇ? なによ、いきなり」
突然(と彼女は思った)|真《ま》面《じ》目《め》な話を振られて、緒方はキョトンとした。
その少女に、|佐《さ》藤《とう》は|田《た》中《なか》を押し付けてやる。
「ほい、じゃな」
「わやっ!?」
「おわっと?」
よろめき|縺《もつ》れる緒方と田中が声を上げる間に、佐藤は家に向かって駆け足を始めていた。
すぐ立ち直った田中は、夜道を遠ざかる背中に大声で、一番喜ぶだろう声をかける。
「今日、面白かったぞ!」
「ありがとねー!」
緒方の声も受けた彼は、肩越しに手を振って、夜に去った。
|悠《ゆう》二《じ》とシャナは、互いに一つずつバスケットを下げて、|坂《さか》井《い》家への|帰《き》途《と》に着いていた。
「さっきのこと、考えてる?」
シャナが、|隣《となり》の悠二を見上げて|訊《き》いた。
常の|大《おお》股《また》で、ワンピースを|翻《ひるがえ》らせる姿には、どこか|嬉《うれ》しさの|弾《はす》みがある。
「うん。喜べばいいのか、悲しめばいいのか、よく分からないんだ」
悠二は言葉通り|不《ふ》分《ぶん》明《めい》な表情で答えた。
先の別れ|際《ぎわ》、彼は佐藤から一つの|懺《ざん》悔《げ》を受けていた。
田中たちと少し先に進んでから急に引き返し、前に立った少年は、
「すまん、坂井……俺はどうも、いい奴になれない。さっきの『出て行く』って話を聞いたとき、俺はおまえのことを|羨《うらや》ましいと思ってた。おまえが苦しんでるって分かってんのに」
そう言って|目《め》線《せん》を伏せた。
悠二は何百、何千度と悩んだ|先《せん》達《だつ》として、落ち着いて答えることができた。
「いいよ。僕だってそうだ[#「僕だってそうだ」に傍点]……誰だって、思い通りになんかいかない。|自《じ》在《ざい》法《ほう》を使えるフレイムヘイズだって、そうなんだから」
そのとき、|僅《わず》かに怒った振りをしてみせたシャナは今、表情を|隠《かく》している。
悠二はそんなフレイムへイズに訊き返す。
「ああいうのも、シャナが言ってた、僕の生活を、今までを|削《けず》っていく『寒々しさとよそよそしさ』の一つ、なのかな」
「……」
シャナは浮かれて|薮《やぶ》蛇《へび》な質問をしてしまった自分の|愚《おろ》かさを|呪《のろ》い、ぐっと押し黙った。
彼女は、自分の喜びの|酷《ひど》さ|下《げ》劣《れつ》さを知っていた。
知っていて、しかしそれでも。
この喜びがフレイムヘイズたる自分への|冒《ぼう》涜《とく》になると分かっていて、それでも。
そんな強い気持ちへの恐れと|嫌《けん》悪《お》が、|悠《ゆう》二《じ》とともにいられる|嬉《うれ》しさに混ざる。
ぶれる気持ちの強さが、制御できない。
「悠二」
そう|傍《かたわ》らに声をかけられることの喜び。
「なに?」
そう傍らから答えの返ってくる安らぎ。
「そうならざるを得ないの。あなた[#「あなた」に傍点]はもう、とっくに変わってるのだから」
それを|繋《つな》ぎ止めたい。|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》に渡したくない、という気持ちが|膨《ふく》れ上がる。
いつしか、シャナは足を止めていた。
悠二も立ち止まり、二人、夜の街灯の下で向き合う。
「……なにが?」
シャナは気持ちの暴走を抑えられない。
目の前の不安げな彼に答えられるのは、現象としての彼[#「現象としての彼」に傍点]を理解できるのは、自分だけ。だから彼は自分と一緒にいるのが正しい、そうあらねばならない、と|自己《じこ》正当化の|鎧《よろい》を|纏《まと》う。
「悠二の身の内に漂っていた|千《せん》変《ぺん》≠フ腕は――」
「シャナ」
激する少女は、制止しまうとするアラストールの声を、コキュートス≠抑えることで封じた。初めての、考えたこともなかった、彼への反抗だった。
「――あのミサゴ祭りの日に、あなたと繋がって一つになった。あなたが望んで、その力を飲み込んで、存在≠ヘ大きく膨れ上がった」
「えっ――?」
驚き|絶《ぜっ》句《く》する悠二に、さらに言う。
「もう悠二は並みの|徒《ともがら》≠遥かに超える存在の力≠フ|塊《かたまり》になってる。『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』は、あなたと繋がった|千《せん》変《ぺん》≠フ片腕|分《ぶん》も、一つの|宿《やど》主《ぬし》として回復させている」
「でも、僕はなにも感じてない。変わってない」
|抗《こう》弁《べん》するように、悠二は今の自分に留まろうとする。
「それは、悠二が今の人間としての自分しか、感じたことがないから。それ以上を構成してないから。そこまでしか自分を顕現させていない[#「自分を顕現させていない」に傍点]から」
「……」
|顕《けん》現《げん》。
それは普段、二人の会話で、|徒《ともがら》≠竍|王《おう》≠ノ対してのみ、使ってきた言葉だった。
|悠《ゆう》二《じ》は、それが自分を説明するために使われたことへの|衝《しょう》撃《げき》に|痺《しび》れ、立ち尽くした。
「今の『人間としての|坂《さか》井《い》悠二』を|漠《ばく》然《ぜん》と維持している存在の力≠|再《さい》構成する、それを|鍛《たん》|錬《れん》するだけでいい。|熟《じゅく》練《れん》すれば、悠二の|在《あ》り|様《よう》に応じた力が得られる。|自《じ》在《ざい》法《ほう》だって使える」
シャナにとって、この事実は当然、素晴らしいことだった。
しかし、悠二にとってそれは、『自分が人間ではない』ということ、またシャナと旅立つ日が現実のものとなりつつあることの証明だった。
そんな恐れと|戸《と》惑《まど》いの中、
「あなたはもう、人間を超えられる」
悠二は自分を見上げ、呼びかける少女の姿に、表情に、|雰《ふん》囲《い》気《き》に、|違《い》和《わ》感《かん》を持った。
(フレイムヘイズとして?)
とてもそうは見えない。
(じゃあ、なんなんだ?)
この違和感には、覚えがあった。
(そうだ、あのときの)
ミサゴ祭りの中で、|吉《よし》田《だ》を押しのけて自分に振り向かせようとしたときと、同じだった。
(でも……でも、それは)
しつこく他に理由を考えようとした彼は、今日、彼女からもらった一つの心で止まる。
(あの、お弁当……)
悠二は混乱する自分を感じていた。
シャナに信頼される戦友としての自分であろうと思っていた。他でもない、シャナが自分にそう求めていたから。だから、シャナ自身がそうあろうと決めたはずのフレイムヘイズ[#「そうあろうと決めたはずのフレイムヘイズ」に傍点]じゃないときには怒りもした。しかし、シャナがそうしたという事実には怒っても、なぜシャナがそうしたのか、ということは考えなかった。否、考えようとして、それを自分の|妄《もう》想《そう》だと片付けてきたのだ。なぜなら、シャナはあくまで自分を信績できる戦友として扱ってきたから……。
それは悠二を迷路の内に迷わせていた、想いの|堂《どう》々《どう》巡り。
それが今日、あの弁当一つで断ち切られた。
悠二は、自分の前に立つ|小《こ》柄《がら》な少女を見た。
とても|可愛《かわい》い。
これまでもそう感じていた。
しかし今は、同じように感じて、なにかが決定的に、違っている。
とても可愛い[#「とても可愛い」に傍点]。
それはフレイムヘイズではない、一人の少女だった。
|頬《ほお》を上気させ、自分を|真《しん》執《し》な|眼差《まなざ》しで見上げている、一人の少女だった。
(シャナが、僕を、好き……?)
|悠《ゆう》二《じ》は今、シャナがフレイムヘイズとしての使命からではない理由で自分に向き合っていることを怒れなかった。彼女をそうさせる理由が、他でもない自分自身なのだから。
人通りもない夜道の街灯の下、二人はアラストールに声をかけられる可能性も忘れて、ただ見つめ合う。
やがて、悠二は小さく、確認するように|訊《き》いた。
「シャナは、それでいいの?」
フレイムヘイズたる者として、それ以外の気持ちで、自分に向き合っていいのか、と。
足りない言葉も全て理解したシャナは、身を小さくして顔を伏せた。
「だって[#「だって」に傍点]……」
しようがないじゃない、というまでの開き直りの言葉を、使命感の|塊《かたまり》である少女は続けることができない。しかしその伏せた下で、胸の内に|膨《ふく》れ上がる想いを感じる。
すぐ前にいる悠二には、どこか浮き足立っているような気配があった。
その不安定な|様《さま》をもどかしく思ったシャナは、
(キスしよう)
いきなりそう決意した。
(悠二と、|誓《ちか》おう)
いつか、|坂《さか》井《い》千《ち》草《ぐさ》が言っていた。
口と口のキスは、誓いなのだと。
( ――「自分の全てに近付けでもいい、自分の全てを任せてもいい……そう誓う行為。 それは親しい人たちに対するものと違う、もっと強くてどうしようもない気持ちを表す、決意の形。だから、その決意をさせるのに|相応《ふさわ》しい相手でなければ絶対にするべきじゃないし、されるべきでもない」―― )
その、教育者としての多分に|便《べん》宜《ぎ》的な説明を、シャナは思い切り、真に受けていた。少女はその行為をあくまで、悠二とともに|在《あ》る自分を示す誓いとして捉えていた。
あくまで|愚《ぐ》直《ちょく》に、検証する。
自分の全てに近付けでもいいか。自分の全てを任せてもいいか。
少し恐かったが、えも言われぬ焦りが背中を押す。
(いい)
どうしようもない気持ち。それを身をもって示した|徒《ともがら》≠ニ同じ言葉を、千草も。
それを表す決意を持っているか。
(持ってる)
坂井悠二は、その決意をさせるのに相応しい相手か。
今までの戦いが、彼とのやりとりが|脳《のう》裏《り》に|蘇《よみがえ》る。
(|悠《ゆう》二《じ》なら)
悠二となら、|誓《ちか》える。
その想いを一瞬で流し、顔を上げる。
自分を見つめている少し押しの弱い顔は、しかし以前とは違っている。
「悠二」
「え……?」
|怪《け》訝《げん》な顔をする悠二の|胸《むな》倉《ぐら》を、シャナは強く鋭く|掴《つか》んだ。
「わっ!?」
|不《ふ》意《い》の動きに驚いた悠二の手から、バスケットが落ちる。
「……」
シャナは一瞬、言葉で彼に告げようかと思ったが、なにをされようとしているのか、いまいち分かっていないらしい少年の顔を見ている内に、なんだか馬鹿らしくなった。
(いい、勝手に、誓う)
一方的な|覚《かく》悟《ご》を決めて、掴んだ胸倉を、さらに強く引く。
(唇と、唇で――)
顔と、顔が、近づく。
|刹《せつ》那《な》、
「!?」
「っは!?」
|突《とつ》如《じょ》湧《わ》き上がった巨大な|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ気配に、二人は|揃《そろ》って向き直った。
頭上、夜に白い体を舞わして|襲《おそ》い来る、大きな|人《ひと》影《かげ》。
「|悠《ゆう》二《じ》!」
「っわ!?」
シャナは|咄《とっ》嗟《さ》に悠二を強く突き飛ばし、自身もその反動で飛び|退《の》いた。
ドズン、と二人の中間に重々しく着地したそれは、二メートルを超える|巨《きょ》漢《かん》だった。がっしりとした体格で、真っ白なコートともジャンプスーツとも見える|衣《ころも》で全身を|覆《おお》っていた。
「け、気配は感じなかったのに!?」
驚く悠二にその巨漢は振り返った。フードと帽子を会わせたような顔に開いたスリットから、|得《え》体《たい》の知れない|冷《れい》徹《てつ》な視線が放射されている。
その、背を向けた|間《ま》抜《ぬ》けな敵に向かって、シャナは|足《あし》裏《うら》に|紅《ぐ》蓮《れん》の爆発を生み、跳んでいた。低い|跳《ちょう》躍《やく》の内に体を|黒《こく》衣《い》『|夜《よ》笠《がさ》』が|覆《おお》い、髪が瞳が紅蓮に|煌《きらめ》き|火《ひ》の|粉《こ》を流す。左の腰にやった両手が|神《じん》通《つう》無《む》比《ひ》の|大《おお》太刀《だち》『|贅《にえ》殿《とのの》遮《しゃ》那《な》』で抜きつけ|横《よこ》斬《ぎ》りに、巨漢を|両《りょう》断《だん》する。
と思った瞬間、
白い巨漢は迫る|斬《ざん》撃《げき》をバック|転《てん》で飛び越えた[#「飛び越えた」に傍点]。背後から|迫《せま》る|刀《とう》身《しん》の位置と速度を正確に|察《さっ》知《ち》し、その通過に合わせ、まるで低い棒高跳びでもするかのような|体《たい》捌《さば》きで、斬撃の後方に出ていた。
「っ!?」
飛び越えた場所は自然と、シャナの|殺《さっ》界《かい》の外、次の|一《いち》撃《げき》から最も遠い場所となる。
|両《りょう》掌《て》を地面につけた白い巨漢は、流れるような動作で|両《りょう》踵《かかと》を少女の頭上に落とす。
その風切る|重《じゅう》撃《げき》に向けて、シャナは再び紅蓮の爆発を足裏に生んで|頭《ず》突《つ》きを|敢《かん》行《こう》する。狙いは、踵に破壊力を与える太い|臑《すね》。
しかしまたその白い巨漢は流れ落とす足を広げ、その真ん中に少女を誘った。一瞬で|丸《まる》太《た》のような足が首に絡み、絞め上げながら|小《こ》柄《がら》なフレイムヘイズを近くの|塀《へい》に|叩《たた》きつける。
「ぐあっ!!」
しかしシャナも、ただやられたわけではなかった。足で投げ飛ばされる|寸《すん》前《ぜん》、相手の|両《りょう》腿《もも》を深く大太刀で|薙《な》いでいる。素早く立って、体勢を整える。
と、
「……」
その薙いで引き裂かれた太|腿《もも》から|零《こぼ》れ落ちているものを、シャナは見た。
「――」
|火《ひ》の|粉《こ》だった。
|桜《さくら》色の。
「――あっ!?」
|驚《きょう》愕《がく》と|歓《かん》喜《き》に声が漏れた。
しかし|剣《けん》尖《せん》を下げるような|間《ま》抜《ぬ》けな|真《ま》似《ね》はしない。
それは、彼女に育ててもらったフレイムヘイズとして[#「彼女に育ててもらったフレイムヘイズとして」に傍点]、あるまじき行為だったから。
白い|巨《きょ》漢《かん》はそれを確認し、応えた。
「お見事。腕は、なまっていないようでありますな」
「|重《ちょう》畳《じょう》」
一人の中に、二人の声。
どちらも、ぶっきら棒な女性の声。
|悠《ゆう》二《じ》は、いきなり白い巨漢が無数のリボンとなって|解《ほど》けるのを見た。
まるで編まれた布が糸となって散るように。
解けた後には、|可《か》憐《れん》な桜色の火の粉が舞い散った。
その優しい光の中から、|舞《まい》でも踊るような|優《ゆう》雅《が》さで、一人の女性が降り立った。
|丈《たけ》長《なが》のワンピースに白いヘッドドレスとエプロンを|纏《まと》った、一見してメイドと分かる|奇《き》妙《みょう》な|装《よそお》い。肩までの髪を軽く払った内にあるのは、|情《じょう》感《かん》に乏しい|端《たん》正《せい》な顔立ち。
シャナがその名を叫んだ。
悠二がこれまで聞いたこともないような、喜びの声で。
「ヴィルヘルミナ!!」
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エピローグ
|御《み》崎《さき》市での|後《あと》片付け ――具体的には、|偽《にせ》の原因や人々が|納《なっ》得《とく》できる|嘘《うそ》をばら|撒《ま》き、|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|痕《こん》跡《せき》を消し去るという作業―― の|陣《じん》頭《とう》指《し》揮《き》を|執《と》るため|派《は》遣《けん》されたのは、 この筋では有能|極《きわ》まりないと評判も高いフレイムヘイズ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルだった。
全て、マージョリーの|企《くわだ》てらしい。
彼女は、この作業に当たる者を|招《しょう》請《せい》する際、|近《きん》隣《りん》の|外界宿《アウトロー》に、『ヴィルヘルミナ・カルメルを探せ』と強く指示したのだった。運良くこれを|捉《つか》まえることのできた彼女は、電話口で、
「あのチビジャリ、あんたが育てたんだって? そろそろ深みにはまるわよ」
と言ったらしい。
ヴィルヘルミナはその言葉の|不《ふ》穏《おん》さ、 また 続いて聞かされた御崎市における事件の詳細に|驚《きょう》愕《がく》し、矢も|盾《たて》もたまらず駆けつけたのだという。そうして、ようやく『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』を探し出し、|久《ひさ》方《かた》ぶりということで腕を試そうと|尾《つ》けたところ、
「いささか以上に不穏な気配[#「いささか以上に不穏な気配」に傍点]を感じ、割って入ったのであります」
「|緊《きん》急《きゅう》避《ひ》難《なん》」
ヴィルヘルミナに短く言葉を続けたのは、彼女のヘッドドレス型の|神《じん》器《ぎ》ペルソナ≠ノ意志を|表《ひょう》出《しゅつ》させている|紅《ぐ》世《ぜ》の|王《おう》=A|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーである。
彼女らはシャナの|胸《むな》元《もと》に、平静|以《い》上《じよう》の冷ややかな視線を送り、
「|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》=A|貴方《あなた》がついていながら、これはどういうことでありますか」
「|監《かん》督《とく》不《ふ》行《ゆき》届《とどき》」
と|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔《ま》神《じん》を|容《よう》赦《しゃ》なく|糾《きゅう》弾《だん》した。
「……いや、分かっているが、いろいろあってな」
アラストールも、彼女らにはそうそう高圧的にものが言えない。
シャナは、今さらながら自分の行為が彼の前で行われていたこと、彼女らに見られていたことに気づいて、真っ赤になった。
そんな少女の|様《よう》子《す》を|訝《いぶか》しむ|悠《ゆう》二《じ》の眼前に、|不《ふ》意《い》に無表情な顔が近付いた。
「わっ!?」
その驚く間にヴィルヘルミナは、少年の上から下まで、|微《び》に入り|細《さい》に入り、全身を|無《ぶ》遠《えん》慮《りょ》に|値《ね》踏《ぶ》みするように|眺《なが》める。
シャナはまるで、イタズラの結果を見られてしょげ返る子供のように、|俯《うつむ》き|加《か》減《げん》にチラチラとその様子を|窺《うかが》っている。
「あの……」
悠二は、そんな少女の、出会ったときの喜びようと、今のしょげ返った姿のギャップがどういう意味を持っているのか、なにやら彼女と浅からぬ|間《あいだ》柄《がら》を感じさせる女性に訊こうとした。
「あの……」
ところが、その|機《き》先《せん》を制し、また会話をぶった切るように二人は言う。
「今日のところは、ミステス≠ノ用はないのであります。お引き取りを」
「|即《そっ》刻《こく》」
この|露《ろ》骨《こつ》な|排《はい》斥《せき》の言葉に、悠二は顔色を|蒼《そう》白《はく》にした。
同席や|傍《ぼう》観《かん》を|断《だん》固《こ》として拒否する、反抗どころか問答の|余《よ》地《ち》すら与えない、あまりに強力な断言だった。それが悠二の前に壁として立ちはだかり、交渉の気配さえ跳ね返し、同席や傍観をも拒否した。
「ヴィルヘルミナ!」
シャナの叫びも、彼女らを突き崩すことはできない。
「今より、フレイムヘイズ同士[#「フレイムヘイズ同士」に傍点]の会議を行うのであります」
「|部《ぶ》外《がい》秘《ひ》」
そのことさらな冷たさ、なにより彼女の言葉の示す意味に|痛《つう》打《だ》され、悠二は声に詰まった。手を伸ばして、シャナからバスケットを受け取る。
「|悠《ゆう》二《じ》」
「今日は、夜の|鍛《たん》錬《れん》は休もうか」
自分もそうなっているだろうな、と思いながら、泣き崩れそうな顔をしているシャナに言い置いて、悠二はフレイムヘイズたちの会議[#「フレイムヘイズたちの会議」に傍点]に背を向けた。
その去ってゆく背中を見送る少女に、ようやくという|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》いて、ヴィルヘルミナは言う。
「……あれが現在[#「現在」に傍点]の『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』のミステス≠ナありますか」
「|貧《ひん》弱《じゃく》」
「ヴィルヘルミナ、どうして、どうしてそんな|意《い》地《じ》悪《わる》するの」
「シャナ」
アラストールが|情《なさ》けない声を上げた契約者を|嗜《たしな》める。
「……」
ヴィルヘルミナは、少女が、『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』が、そんな名前をいつの間にかつけていることに、|清《せい》水《すい》を|穢《けが》されたような、(自覚してはいでも)勝手な怒りを|密《ひそ》かに抱いた。
少女がこの街に暮らしたことで、どう変化したかを見て取る。
か細い。
あの、偉大なる|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ|魔《ま》神《じん》の契約者として確固と立っていた少女と、あまりに違う。
「|故《ゆえ》なき――」
言いつつ、ヴィルヘルミナは『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』の|忠《ちゅう》言《げん》に、密かに感謝した。地面に|膝《ひざ》をついて、黒く冷えた美しい瞳と向き合う。
「――そう、故なき悪意では、ないのであります」
「|妥《だ》当《とう》」
育ての親として、悪意があることは否定しない。しかし明確な理由もある。
そのことを感じて、シャナはなんとか心を強く張り、フレイムへイズたらんとする。
その姿に|頷《うなず》くと、ヴィルヘルミナは|平《へい》淡《たん》な声で、ようやく本題に入る。
「私がこの地を|訪《とぶら》ったのは、|後《あと》始《し》末《まつ》以外にも、一つ用件が重なったからであります」
「『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』」
ティアマトーの一言に、アラストールが深く|唸《うな》る。
「……む」
「とある状況と事情から、|外界宿《アウトロー》でもごく少数のみにしか知らされていない|極《ごく》秘《ひ》事項でありますが……ここ数年、私は百余年ぶりに現れた[#「百余年ぶりに現れた」に傍点]非常に危険な|王《おう》≠ノついての|案《あん》件《けん》に|専《せん》従《じゅう》していたのであります。今も数人の同志が私に代わって、その|対《たい》処《しょ》に当たっております」
ヴィルヘルミナは、あくまで|淡《たん》々《たん》と重大な事項を伝える。
「案件における[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の|関《かん》与《よ》は現在調査中でありますが、いずれその者[#「その者」に傍点]にも『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』がここにあると知られるでありましょう。情勢は複雑かつ|微《び》妙《みょう》であります」
言葉の意味を飲み込んだシャナは、|猛《もう》烈《れつ》に嫌な予感を覚えた。
「百余年ぶりに現れた|王《おう》≠チて……まさか」
「はい。『|約束の二人《エンゲージ・リンク》』の、生き残った|片《かた》割《わ》れであります」
「!!」
シャナは自分を取り巻く|因《いん》果《が》の|怒《ど》涛《とう》をほとんど|肌《はだ》で、|怖気《おぞけ》として感じた。
「あの、ミステス≠守って戦うのも、一つの選択|肢《し》……しかし」
なぜ『しかし』が付くのか。
聞く内に、予感は恐怖に、恐怖は現実に、変わる。
「もっと確実に、かの王≠ニ[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]の|企《き》図《と》を|挫《くじ》く方法がある……私はそのことを、あえて教示するために参ったのであります」
シャナはいつしか、震えていた。
「……ヴィル、ヘルミナ……」
「はい。その方法とは、ミステス#j壊による『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の|無《む》作《さく》為《い》転《てん》移《い》であります」
断章 |巫女《みこ》の|託宣《たくせん》
|蒼《そう》穹《きゅう》はあまりに濃く、|白《はく》雲《うん》は眼下に|遥《はる》か、一つ|峰《みね》に降り積む雪はあくまで|清《きよ》い。
その峰の|頂《いたださ》に、大きなマントと|帽《ぼう》子《し》に着られたような少女が舞い降りた。肩までで|揃《そろ》えられた髪の内に|佇《たたず》むのは、|零《れい》下《か》に|磨《みが》かれた|透《とう》徹《てつ》の|氷《ひょう》像《ぞう》を思わせる、|無《む》機《き》質《しつ》で|繊《せん》細《さい》な|容《よう》貌《ぼう》。
|雪《せつ》上《じょう》、足はついても|跡《あと》はつけず、ただ手にした|錫《しゃく》杖《じょう》だけが、白に一つ点を|穿《うが》つ。三角形の|錫《しやく》杖《じょう》頭《とう》にはまった、同じく三角形の|遊《ゆう》環《かん》が、シャーン、と透き通った音色を一帯に|響《ひび》かせた。
と、少女は不意に|秀《しゅう》麗《れい》な|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める。
「……」
舞い降りたその場所に、また|性《しょう》懲《こ》りもなく突き立つ物を発見したのだった。
その水色の光を|点《とも》す瞳が映すのは、|錆《さ》びた棒に力なく垂れる|色《いろ》褪《あ》せた旗。
この二百年ほど、お気に入りの頂に来ると、必ずといっていいほど、この|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》で|無《ぶ》粋《すい》な人間の|痕《こん》跡《せき》が場の|静《せい》謐《ひつ》を|穢《けが》していた。|酷《ひど》いときは、登山に使ったものらしい道具一式がゴミとして|遺《い》棄《き》されていたこともあった。このゴミを運んでくる|愚《おろ》か者どもと|遭《そう》遇《ぐう》すれば、まず|問答《もんどう》無用で皆殺しにして来たが、さすがに|常《じょう》時《じ》見張っているわけにもいかない。
「……失せなさい」
せめて目に付く場所くらいは、と少女は錫杖を振るった。
シャーン、と再び|遊《ゆう》環《かん》が音色を響かせる。
|途《と》端《たん》、高き空に|一《いち》陣《じん》の突風が吹き荒れ、旗をその土台ごと、根こそぎ運び去った。風が飽きたらどこぞの地面に落下するだろうが、そこまでの興味はない。
残った穴を風と雪で飾り終えると、ようやく少女は|愁《しゅう》眉《び》を開いた。
そうして天を、ようやくの|大《たい》命《めい》を果たすときと見上げる。
どこまでもどこまでも、深く透き通った蒼穹が続いている。登り登れば、その先は暗く|翳《かげ》る星空となるだろう、|闇《やみ》を|隠《かく》す|壮《そう》麗《れい》な|蒼《あお》を、少女は両の瞳に映す。
やがてその小さな口から|音《おん》吐《と》朗《ろう》々《ろう》と、|祝詞《のりと》が|紡《つむ》がれてゆく。
「――|頂《いただき》の|座《くら》<wカテーより、いと暗きに在る|御《おん》身《み》へ――」
ヘカテーと名乗った少女は、小さな体に比して長い錫杖をクルリと回し、頂の雪に立てる。
「――|此方《こなた》が|大《だい》杖《じょう》『トライゴン』に|彼方《かなた》の|地《た》神《しん》通《つう》あれ――」
声の|途《と》切《ぎ》れるや錫杖が、明るすぎる水色の三角形を無数、周囲にばら|撒《ま》いた。大きなもの小さなもの、無数の三角形が舞ってはぶつかり、ぶつかっては砕け、砕けてはより小さな三角形を増やして、|山《さん》頂《ちょう》全体を水色の|竜《たつ》巻《まき》とも|吹雪《ふぶき》ともつかない輝きの中へと包み込んでゆく。
やがてその中心、|忘《ぼう》我《が》の表情で|俯《うつむ》いていたヘカテーが、突然目を見開いた。
同時に、もはや|砂《すな》粒《つぶ》ほどまで砕かれていた三角形の|吹雪《ふぶき》も止まる。
「――|他《た》神《しん》通《つう》あれ――」
その固まった|容《よう》貌《ぼう》に、|一《ひと》筋《すじ》汗が流れる。
止まった三角形の群れに光がこごってゆく。
「――他神通あれ――」
|二《ふた》筋、|三《み》筋が流れ、|頬《ほお》から|首《くび》筋《すじ》に落ちてゆく。
三角形の群れはその場に留まるのが限界というように、力を持て余し震え始める。
「――他神道ぁ――」
声が遠く吸い込まれるように消え、|相《そう》貌《ぼう》も色を失って|闇《やみ》に閉ざされる。
無音で三角形が散った。散って、互いの辺と辺を合わせてゆく。どんどん三角形は組み合わさって、|程《ほと》なくそれらは、雲上に突き出た|頂《いただき》をすっぽり|覆《おお》う球体となっていた。その内部は、今のヘカテーの瞳のように、光を失った|漆《しっ》黒《こく》の闇。
と、
銀が|一《ひと》雫《しずく》、降る。
もう|一《ひと》雫《しずく》、降る。
さらに増えて、キラキラと。
いつしか、球体の中を埋め尽くすように銀色の雫が降り|注《そそ》いでいた。それはまるで、プラネタリウムの内に映し出された、立体的な流星群。
この中央にあって雫を受けるヘカテー、球体に包まれた|頂《いただき》の地面、いずれも熱や|衝《しょう》撃《げき》を受けているようには見えない。ただただ|豪《ごう》奢《しゃ》な銀の輝きを浴び続ける。
やがて彼女は|錫《しゃく》杖《じょう》を手放し、両手を胸の前で広げた。
バン、
とその中に、宙に描かれた複雑|怪《かい》奇《き》な|自《じ》在《ざい》式《しき》が、銀の|炎《ほのお》をもって燃え上がった。
「――|眼《まなこ》へ落ちたるに|拠《よ》り|紡《つむ》ぐ式も――」
|途《と》端《たん》、|漆《しっ》黒《こく》の球体が|一《いっ》挙《きょ》に砕け散り、
銀の雫も|蒼《そう》穹《きゅう》の内に|掠《かす》れて消えた。
「――|此処《ここ》に|詰《つ》みなん――」
言葉を終えると同時に、ヘカテーの瞳に水色の光が|蘇《よみがえ》った。自分が抱えるように持つ自在式を、|一《ひと》睨《にら》みで小さな|珠《たま》に変え、|傍《かたわ》らに浮いていた錫杖の|天《てっ》辺《ぺん》に付ける。
周囲は既に、|祝詞《のりと》の始まる前と同じ光景に戻っていた。
その中、少女は錫杖を、その先に|点《とも》った銀色の珠を見上げ、ほんの|微《かす》かな笑みで飾った言葉をかけた。
「どうぞ、お早く……」
蒼穹はあまりに濃く、|白《はく》雲《うん》は眼下に|遥《はる》か、一つ|峰《みね》に降り積む雪はあくまで|清《きよ》い。
[#改ページ]
暮らしゆく日々の中で、種は|芽《め》吹《ぶ》く。
|交《まじ》わりと、変転と、|別《べつ》離《り》の実を結ぶために。
世界は、ここから、また、動き出す。
[#改ページ]
[#改ページ]
あとがき
はじめての方、はじめまして。
久しぶりの方、お久しぶりです。
|高《たか》橋《はし》弥《や》七《しち》郎《ろう》です。
また皆様のお目にかかることができました。ありがたいことです。
さて本作は、|痛《つう》快《かい》娯《ご》楽《らく》アクション小説です。今回は前巻の|後《ご》日《じつ》談《だん》と|次《じ》巻《かん》以降の準備のお話です。次は、今回あえて出番を減らした保護者たちのお話になると思います。
テーマは、描写的には「少年少女の悩み」、内容的には「なのに」です。|劣《れっ》勢《せい》のシャナ、決死の|反《はん》撃《げき》が始まるか。圧倒する|吉《よし》田《だ》さん、|余《よ》裕《ゆう》の攻勢が続くか。互いに|鎬《しのぎ》を|削《けず》ります。
担当の|三《み》木《き》さんは、|深《しん》海《かい》魚《ぎょ》大好きな人です。突然メガマウスの写真をメールで送りつけてくる恐怖の使いです。今回も、題材が決まるまでには、両軍の|精《せい》緻《ち》苛《か》烈《れつ》な総力戦が(以下略)。
|挿《さし》絵《え》のいとうのいぢさんは、|彩《さい》色《しょく》の巧みな方です。前巻の表紙は、様々な赤が交じり合う、|華《か》麗《れい》という表現こそ|相応《ふさわ》しい仕上がりになっていました。|御《ご》本《ほん》業《ぎょう》が最高にお忙しい中にも|拘《かかわ》らず、この|度《たび》も|拙《せっ》作《さく》への|甚《じん》大《だい》なる|御《ご》助力をいただけたことに、深く深く感謝いたします。
県名五十音順に、愛知のS木さん、青森のA馬さん、秋田のS藤さん、|愛《え》媛《ひめ》のMさん、大阪のK本さん、京都のM林さん(どうもありがとうございます)、群馬のM田さん、静岡のM月さん、福岡のY野日さん、北海道のS藤さん、いつも送ってくださる方、初めて送ってくださった方、いずれも大変|励《はげ》みにさせていただいております。どうもありがとうございます。アルファベット一文字は|苗《みょう》字《じ》一文字の方です。ちゃんと届いておりますのでご安心を。
さて、それでは久々に近況などで残りを埋めてみるとしましょう。
えーと、まずゲーム……あれ?
ならば、映画などを……あれ?
いくらなんでも本は……あれ?
今、気付いたのですが、仕事しかしてません。仕事しか。仕事しかしかしごとしかしかし
ここの|執《しっ》筆《ぴつ》が終わったら、どこかへ遊びに行く計画でも立てようと思います。本気で。
この本を手に取ってくれた読者の皆様に、|無《む》上《じょう》の感謝を、変わらず。
また皆様のお目にかかれる日がありますように。
[#地付き]二〇〇四年七月 高橋弥七郎