灼眼のシャナW
高橋弥七郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紅世《ぐぜ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)坂井|悠二《ゆうじ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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1 霧中の異界
「おまえなんかに、絶対に負けない!!」
轟《ごう》とあがった咆哮《ほうこう》に驚いて、坂井《さかい》悠二《ゆうじ》は御崎《みさき》高校の屋上から、裏庭に向けて声を放った。
「シャナ!?」
答えは返ってこない。代わりに、ダダン、と硬く壁を蹴《け》る音を置いて、一人の少女が屋上まで飛び上がってきた。宙に浮く間も惜しいのか、フェンスの上縁《うわべり》を掴《つか》んで反転、悠二の眼前に着地する。
見慣れているはずのその姿を目にして、しかし悠二は思わず、息を呑《の》んでいた。
炎髪《えんぱつ》が火の粉《こ》を舞い咲かせ、黒衣《こくい》が大きくはためき、大太刀《おおだち》が鋭く閃《ひらめ》く。
そして、紅蓮《ぐれん》の灼眼《しゃくがん》が壮絶な怒りを点《とも》し、煌《きらめ》いていた。
美しさではない、力強さに見惚《みと》れること半秒、悠二は目の前に降り立った少女、『炎髪灼眼《えんぱつしゃくがん》の討ち手』シャナに訊《き》く。
「と、徒《ともがら》≠ヘ裏庭かい!?」
「えっ?」
世界のバランスを守るため、異世界の住人紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠討滅《とうめつ》する異能者・フレイムヘイズたる少女は、なぜか驚きを顔に表した。
それを不思議に思いつつも、悠二《ゆうじ》は恐る恐る、裏庭に面したフェンスに近付く。
「さっき、負けないとか怒鳴《どな》ってただろ?」
「あ――」
シャナはようやく、自分の言動を悠二が誤解していることに気付いた。
「大きな気配は市街の方にあるけど、なにかラミーみたいに特別な奴《やつ》が……」
悠二が裏庭を見下ろそうとする。
シャナは、それだけのことが、とても恐ろしく、嫌《いや》だった。
その、今ははっきりと分かる理由が、彼女を衝《つ》き動かす。
「いいの」
シャナは悠二の手を取り、引っ張っていた。
自分がそこで叫んだことの意味を知られたくない、という理屈からではない。
そこにいる少女の姿を見せるのが嫌だ、という感情からだった。
とにかく、絶対に、見せたくなかった。
「え、だって」
「いいの!」
シャナは恐さの裏返しである怒鳴《どな》り声を上げた。悠二がそれに驚く様子に少し怯《ひる》み、そしてそんなことを感じた自分にも怯む。それを隠すため、ことさらに声を強くする。
「そっちじゃない。徒≠カゃないの、大丈夫」
「……? わ、分かったよ」
本当は全然分からなかったが、悠二はそう答えた。まるで駄々《だだ》っ子《こ》のように頬《ほお》を膨《ふく》らませて言う――と彼には見えた――シャナの姿には、そう答えさせるだけの切実さがあった。そうでなくても、この状況への対処は一刻を争うはずだった。彼女に手を引かれるまま、裏庭と反対の正門側、大通りから市街地までを見渡せるフェンスの際に立つ。
二人の前に、異界が広がっていた。
自分たちのいる市立|御崎《みさき》高校を含めた西側住宅地。
御崎市の中央を割って滔滔《とうとう》と流れる真南《まな》川と、それを挟む高い堤防。
市の中心に渡された大鉄橋・御崎大橋。
その向こうに高いビルを林立させる東側市街地。
これら見慣れた風景を、山吹色《やまぶきいろ》に光る霧が覆《おお》い、不気味に彩っていた。濃《こ》く薄《うす》く、全体を隠したり見せたりしながらたゆたうそれは、真昼の空を薄くぼやかし、陽光を山吹の内に妖《あや》しく紛らせている。
そしてなにより、それら眼下の全《すべ》てから動きと音が失われ、静止していた。
悠二《ゆうじ》は、この霧の奥からにじり寄ってくる、なにかの気配を感じる。たった今まで、この霧に覆《おお》われるまで全く感じなかった『本来この世に存在しないものの違和感』……紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠フ気配を。
「じゃあ、この気持ち悪い霧や封絶《ふうぜつ》みたいな感じは……あっちの気配の仕業《しわざ》?」
「そう、あそこにいる紅世の徒≠フ、ね」
シャナの煌《きらめ》く灼眼《しゃくがん》も、悠二と見つめる方角を同じくする。
「それだけじゃない。市街の辺《あた》りにも、凄《すご》く大きな奴《やつ》がいて……戦ってる」
悠二は彼女に頷《うなず》き返すことができた。
数度の戦いを経たためか、あるいは毎夜の鍛錬《たんれん》のおかげか、彼の紅世の徒≠フ気配に対する感覚は、かなり鋭敏になっていた。大きな気配を持つ徒≠ニ相対して自在法を振るっている、もう一つの獰猛《どうもう》な気配が誰なのかも、はっきりと分かった。
「相手は……あの人か」
以前、互いの信念の相違から激突した、シャナと同じフレイムヘイズの女性。
悠二は、戦闘狂とも言うべき彼女と王≠ェまだ御崎《みさき》市にいることを薄々《うすうす》察し、物騒に思っていたが、この際それはシャナの助けとなっているようだった。彼女の、フレイムヘイズとしての強さだけは折り紙付きだから、共同戦線を張る上では心強い。
相手は最低二人……私は近付いてくる方を片付ければいいわけね、アラストール」
「うむ」
当座の方針を確認するシャナに、重く低い男の声で答えたのは、彼女の胸元にある、黒い球に金のリングを交叉《こうさ》させた意匠《いしょう》のペンダント。
この遠雷の如き声の主は、シャナと契約し異能を与える紅世の王≠フ一人、天壌《てんじょう》の劫火《ごうか》<Aラストール。本体をシャナの内に眠《ねむ》らせる彼(?)は、このペンダント型の神器コキュートス≠ノ、意思のみを表出させているのだった。
「戦場の環境を繰る自在師のようだ。敵本体だけでなく、周囲にも気を配るのだぞ」
「うん」
シャナは、彼に対しては素直に頷く。
悠二は山吹色《やまぶきいろ》に霞む空に目を転じた。
「戦場……この霧みたいなのは、やっぱり封絶≠ネのか?」
封絶とは、ドーム状の因果《いんが》孤立空間である。その内部を世界の流れから切り離すことで、外部から隔離《かくり》・隠蔽《いんぺい》する……紅世の徒≠ェ人間の存在の力≠喰らう際、隠れ蓑《みの》として多用する不思議の術、自在法≠フ一つだった。
「そうみたい。でも、こんなに大きなものを張る意味が、よく分からない」
封絶の中で動けるのは、原則的に紅世の徒≠ゥ紅世の王≠ニ契約した異能者・フレイムヘイズのみである。通常、互いが近くに存在する場合、この空間は決闘場として機能するが、それをここまで広くする意味はあまりない。むしろ自身の原動力たる存在の力≠無駄《むだ》に消耗《しょうもう》したり、その維持に苦労したりするだけのはずだった。
「ただの封絶じゃなくて、なにか、手のこんだ罠《わな》なのかな?」
悠二《ゆうじ》は嫌《いや》な予感を声にした。
ちなみに、悠二は徒《ともがら》≠ナもフレイムヘイズでもない。徒≠ノ喰われた人間の代替《だいたい》物トーチ≠ナあり、またその中に紅世《ぐぜ》≠フ宝具《ほうぐ》を収めたミステス≠ニいう特殊な存在だった。
彼の蔵した、時の事象に干渉する特別な宝具『零時迷子《れいじまいご》』が、常人の静止する封絶《ふうぜつ》の中でも彼に自由な行動を許している。もっともこの秘宝は、封絶の中で必然的に起こる、戦闘に関する機能を全く持っていないのだが。
シャナは、そんな悠二に頷《うなず》いてみせる。
「たぶんね。アラストールも知らないの?」
「我の記憶にはないな。近き時代に渡り来た者の、特殊な自在法だろう」
僕はどうしよう、と訊《たず》ねかけた悠二の矢先を、シャナが制した。
「悠二、おまえはここに隠れてて」
「えっ……」
「今度の戦いは小細工《こざいく》なし、正面からの、力と力の激突になる」
おまえは足手まとい、と言外にシャナは告げていた。
「でも!」
「うるさいうるさいうるさい! 巻き込ませないで!!」
灼眼《しゃくがん》が突き刺さるような眼光を放ち、反論を封じる。
弱い自分を受け入れはした。駄々《だだ》をこねることの無意味さも分かっている。時間もない。
それでも、言わずにはいられない。
「隠れてるだけしかできないのか? 他《ほか》になにか、僕にできることは?」
「……無謀《むぼう》すぎる。戦いなのよ[#「戦いなのよ」に傍点]?」
シャナの、今度は頭ごなしに怒鳴《どな》りつけるのではない静かな確認は、それゆえに悠二に大きな覚悟《かくご》を求めた。
アラストールも、容赦《ようしゃ》なく事実を突きつける。
「しよう、と思うことまでは誰でもできる。だが、いざ事に当たって、的確な狙《ねら》いを定め、適切な手段を構築することのできる者は少ない。それらの判断を実行するために必要な度胸と運を持つ者は、さらに稀《まれ》だ」
安直《あんちょく》な口先だけの「できる」という答えを許さない、これは悠二に優しくない彼なりの思いやりだった。
無論彼は、自分になにかあればシャナが悲しむ(自意識過剰だろうか?)からこそ言ってくれているのだろうけど……と悠二《ゆうじ》は思う。
シャナは煌《きらめ》く灼眼《しゃくがん》を山吹色《やまぶきいろ》の霧の中枢《ちゅうすう》に向け、来《きた》るべき戦いへの心胆《しんたん》を練る、そのついでのように言う。
「私の結論は、戦いに連れて行くのはダメ、ってこと。この徒《ともがら》≠フことは、なにも分かってない。だから私は、おまえを守ることを保証できない。もし『アズュール』で防げる攻撃じゃなかったら、おまえという存在は消滅する。だから連れて行くのには反対」
悠二は声を詰まらせた。彼が紐《ひも》に通して首に下げている宝具《ほうぐ》、火|除《よ》けの指輪『アズュール』は、炎や爆発などを防ぐことができる。しかし、その密《ひそ》かな切り札頼りの自負を、いきなりシャナはぶち壊した。いつものことながら、反論の余地は全くなかった。
アラストールが後を継《つ》ぐ。
「我もシャナと同意見だ。狩人≠フときのように巻き込まれたわけでもなく、『弔詞《ちょうし》の詠み手』のときのように救うべき者もいない。そもそもの参戦の理由がない。戦力外でもある。ゆえに戦いの場への帯同《たいどう》は許されぬ」
今度は根本的な部分で否定された。
感情論で食い下がれるほど、二人は甘くはなかった。血気や勇気だけでなんとかできるほど、容易《たやす》い戦いでもなかった。悠二は黙るしかない。
しかし、シャナとアラストールは、彼を全く当てにしていないわけではなかった。絶対に本人には言わないが、二人とも彼の、難局において発揮される鋭い判断力だけは認めていた。
アラストールが言う。
「貴様には教育する機会がなかったが……徒≠フ存在の格に応じた、起こせる現象の規模というものがある」
「?」
なんの話か分からず、悠二は黙って聞く。
「この巨大な封絶のような空間は、我の顕現《けんげん》時に行った以上の規模と現象の複雑さを持っている。今感じている程度の気配しか持たぬ徒≠フ力だけで起こせるものとは到底思えぬ……この意味が分かるか」
この問いに、シャナとアラストールは期待する。
そして悠二は、期待を違《たが》えなかった。
「なにか、宝具か特別な自在法で、この霧の空間は維持されてる……?」
シャナは強く笑って、答える。
「そう。私たちが戦ってる間に、その辺りを調べてみて。目の前の徒≠ェその手の宝具を持ってたり、自在法を使ったりしてるかもしれない。でも、その仕掛けが徒%鱒lじゃない、この空間のどこかに配置されてる可能性も、同じくらい大きい」
「それを探すのか」
「あれば、の話だけどね。徒《ともがら》≠ヘ、トーチが封絶《ふうぜつ》の中を動くなんて思いもしないだろうから、自由に探索できるはず。存在の力≠フ流れや徒≠フ接近は、もう感じられるんでしょう?」
「……うん、多分」
ぶっつけ本番への不安からの頼りない答えに、シャナは少し眉《まゆ》を寄せる。
「しっかりしてよ。自分からなにかやりたい、って言い出したんだから。なにか分かったときも、単独で対処するかどうかの判断、私たちに伝えるときの方法、全部おまえに任せる」
アラストールが付け加えた。
「念のために言っておくが、貴様に託《たく》すこの行動は、全くの予防措置に過ぎぬ。そんなことをせずとも、我らがこちらに向かってくる徒≠討滅《とうめつ》する、あるいはこの封絶を作る宝具《ほうぐ》を始末することで、事態は終息するやも知れぬのだ」
「分かってる」
「加えて無論、危険もある。我らが囚《とら》われているこの自在法がどのような力を持っているか、それも現状では判断てきぬ。あるいは燐子《りんね》≠フ現れる可能性さえある」
悠二は、自分が喰われかけたこともある徒≠フ下僕《げぼく》である怪物燐子=c…不吉なその言葉と自分が踏み込む場所の恐ろしさを改めて感じ、しかし重く静かに答える。
「……僕が言い出したことだ。その責任も取るよ」
ゴクリ、と飲み込もうとした唾《つば》が、ない。いつの間にか、緊張で口の中はカラカラに乾いていた。
「うむ」
しかしアラストールはそんな悠二に、珍しく満足気な声で答えた。
少しは認められたのかな、と悠二はまだ起こしてもいない行動に、早すぎる充足感を得る。
シャナは隠さず、微笑して頷《うなず》く。跳躍に備え、フェンスから離れる。
「じゃあ、もう行くわ。できるだけ前に出て戦うから、その間に学校から出て」
「うん」
悠二は、離れ難いシャナの傍《かたわ》らから、なんとか体を動かした。屋上の出口に向かおうとして、ふとフェンス際で静止している友人・池《いけ》速人《はやと》の姿が目に入った。思わず声を出していた。
「シャナ!」
飛び出しかけたシャナが振り向く。
「なに」
「学校……皆を、守ってくれるかい?」
シャナも、池の存在に目を留めた。数秒、間を置いてから、明快に答える。
「できる範囲での最善《さいぜん》を尽くすことだけは、約束するわ」
「ありがとう。僕もやるよ」
「分かってるわよ」
互いに、短く、確認する。
悠二《ゆうじ》はこれに、一言軽く付け加えた。
「なんか役に立ったら、ご褒美《ほうび》でもくれよな」
「――っ」
なに馬鹿《ばか》なこと言ってんの、と返しかけて、シャナは唐突《とうとつ》に気が付いた。
(そういえば)
この少年は、なぜここまで頑張《がんば》ろうとしているのだろうか? 震えて自分に守られていればいいのに。大人《おとな》しく後ろに隠れていればいいのに。自分もアラストールも、それを責めようとは思わない。なのに、なぜ?
街のため? その住人のため? 友人のため? 家族のため? 徒《ともがら》≠ェ許せないから? (違う)
と思った。自分の全《すべ》てを、存在を賭《か》けてまで行動する理由。
(――「頑張るよ」――)
そう。
今日の朝、蒼空《あおぞら》を前に、風の中で、自分に向けられた言葉の、これは実行なのだった。
(……私の、ため……)
そう思った途端《とたん》、猛烈《もうれつ》な熱さが胸の中に湧《わ》き上がってきた。まるでその熱さに連鎖反応したかのように、坂井《さかい》千草《ちぐさ》に聞いた言葉が蘇《よみがえ》る。
(――「自分の全てに近付けてもいい、自分の全てを任せてもいい……そう誓う行為。それは親しい人たちに対するものと違う、もっと強くてどうしようもない気持ちを表す、決意の形。だから、その決意をさせるのに相応《ふさわ》しい相手でなければ絶対にするべきじゃないし、されるべきでもない」――)
悠二と、自分。
悠二と、自分。
悠二と、自分。
誓う行為は――
「ば、馬鹿!!」
「っ!?」
悠二は、シャナが唐突に叫んだので驚いた。なぜか真《ま》っ赤《か》になっている。そんなに気に障《さわ》るような冗談《じょうだん》だったろうか?
「ば、馬鹿はないだろ」
「うるさいうるさいうるさい! やってもないことで、見返りを期待するんじゃないわよ!」
「分かった分かった! そんなに怒らなくても……」
悠二《ゆうじ》はシャナの内心には全く気付かず、怒れるフレイムヘイズから逃げ出すつもりで駆《か》け出した。出口の鉄扉《てっぴ》を開けて、最後に言う。
「じゃあ、あとで」
「うん」
お互い、気のきいた言葉も交わさず、別れた。
悠二が階段を下りてゆく音をしばらく聞いていたシャナは、いきなり、パン、と空《あ》いた方の手で頬《ほお》を叩《たた》いた。
胸元から、黙っていてくれたアラストールが言う。
「ゆくか」
「うん」
悠二に返した言葉と同じとは思えない、強く力を燃え滾《たぎ》らせる声が返される。
それは、フレイムヘイズの声だった。
灼眼《しゃくがん》を煌《きらめ》かせて、渦《うず》巻き迫る山吹色《やまぶきいろ》の霧の中枢《ちゅうすう》を見|据《す》える。もう、かなり近い。霧の薄《うす》れた端々《はしばし》からなにか、のたうつ紐《ひも》、あるいは蔓《つる》らしきものが見え始めていた。
(出来るだけ前進して、学校から引き離す)
シャナは『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を握る手に力を込め、小さな胸いっぱいに息を吸い込む。
そして気合|一閃《いっせん》、
「っはっ!!」
足の裏に紅蓮《ぐれん》の爆発が起こり、『炎髪灼眼《えんぱつしゃくがん》の討ち手』は、戦場に向けて跳《と》んだ。
御崎《みさき》市にいたもう一人のフレイムヘイズ、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドーは、自分を囲んでいた異界が、いつしか恐ろしい規模にまで広がっていることを知った。
(気配を消すだけの自在法じゃなかったっての?)
などと思うが、しかし深く考えている余裕《よゆう》がない。とりあえずは目の前の問題……自身の命を左右する戦いの方を優先しなければならなかった。
「――よっ!」
疾走《しっそう》の途中、前に出した足を路面に思い切りぶつけ、反動で強引に後方へと跳ぶ。
疾走本来の軌道上に、濁《にご》った紫色の爆発が起きた。石|畳《だたみ》を弾き飛ばして膨《ふく》れ上がった炎《ほのお》の中から、その紫色の炎でできた虎《とら》の頭が飛び出し、下がるマージョリーを追う。その首から下は不自然に細い管のようになっている。まるで虎のろくろ首だった。
それが反対側からもう一本、下がるマージョリーの背後から、挟《はさ》み撃ちにせんと迫る。
「!」
虎の牙《きば》に挟まれたと知るや、マージョリーはその場で輪舞のステップを踏むようにクルリと回る。その回転の中、華麗《かれい》に、手にしたドでかい本で追いすがる方、次いで前から迫る方、それぞれの虎《とら》の頭をぶっ飛ばした。
「ぎょわっ、だはっ!?」
その、束《たば》ねた画板ほどもあるドでかい本から、甲《かん》高い悲鳴が上がった。この本型の神器グリモア≠ノ意思を表出させている紅世《ぐぜ》の王=Aマージョリーと契約して彼女に異能を与えている蹂躙《じゅうりん》の爪牙《そうが》<}ルコシアスのものである。
ぶっ飛ばされて、それぞれ見当違いな方向に逸《そ》れた虎《とら》の頭は、しかし再び軌道を修正して、いっぱいに開けた口をマージョリーに向ける。
その顎《あご》の内に存在の力≠フ変換を見て取ったマージョリーは跳《と》ぶ。また遅れて虎の口から、紫色の炎《ほのお》が双頭《そうとう》の間を結ぶように迸《ほとばし》った。
眼下を不気味な色の炎に彩られて宙を舞うマージョリーは、伊達眼鏡《だてめがね》越しに、炎と煙|溢《あふ》れる戦場から、虎のろくろ首の繋《つな》がる本体の位置を看破《かんぱ》する。
「そこっ!」
大きく振った腕の先から、群青《ぐんじょう》色をした火弾が幾つも撃ち出され、狙《ねら》い違《たが》わず一つ残らず、その本体に命中する。虎の発したものに勝《まさ》るとも劣らない威力の爆発が起こった。虎のろくろ首は力を失い、地面に落ちる。
マージョリーは着地のついでに、その一本を踏み砕《くだ》いた。群青色の照り返しの中、ジャケットとバギーパンツをラフに着こなした、モデル裸足《はだし》の美貌《びぼう》とスタイルを誇る長身がそびえる。
しかしその全体には、戦い疲れというだけでない、どこか気だるい雰囲気があった。いい加減に後ろでまとめた髪を、鬱陶《うっとう》しそうに首だけで払って、言う。
「あ〜、靴、もっときっちりしたの、履《は》いてくりゃ良かった」
「人の宿を乱暴に振り回しといて、最初に言うことはそれかよ、我が薄情なる同志マージョリー・ドー?」
大き目の革《かわ》靴の爪先《つまきき》を路面でカンカン叩《たた》くマージョリーに、マルコシアスは恨《うら》み事をぶつける。もちろん、露ほどもそれを気にした風もない答えが返ってくる。
「他《ほか》に手がなかったのよ。素手《すで》じゃ熱そうだったし」
「あーあー、そーかいそーかい」
軽口を叩《たた》き合っているようで、しかし両者は毛ほどの油断もしていない。さっきの火弾程度でやられるような敵では決してなかった。
なんといっても、強大なる紅世《ぐぜ》の王≠フ一人。なぜか他者の依頼を果たすことに喜びを見出している、酔狂《すいきょう》な男(?)。
そしてやはり、火の粉《こ》を散らす煙越しに、
「全く本気を出せず[#「出せず」に傍点]にこの戦闘力……さすがはフレイムヘイズ屈指《くっし》の殺し屋だ。並みの徒≠ナは、君の髪一本|焦《こ》がせんだろう」
余裕《よゆう》と笑みを匂《にお》わせる男の声が、カシャ、パキン、と砕《くだ》けた歩道の石|畳《だたみ》を踏みしめる靴音とともに近付いてくる。
それに連れて、ダークスーツを纏《まと》った長身の男が姿を現す。オールバックにしたプラチナブロンド。彫りの深い顔にはサングラスをかけて目線を隠している。
その両腕は、肩から力なくダラリと垂れて、マージョリーの足下で砕かれた一本、路面に転がるもう一本、それぞれの虎《とら》のろくろ首に繋《つな》がっている。
しかし男には、まだ腕があった。
「ちっ」
マージョリーとマルコシアスは、同時に舌打ちした。
男の右肩から、二本目の右腕[#「二本目の右腕」に傍点]が生えていた。
その腕は、虎のろくろ首と同じくダークスーツの袖《そで》を伸ばして、しかし手首から先を盾《たて》のような形状の甲羅《こうら》として膨《ふく》れ上がらせていた。先のマージョリーの攻撃は、この甲羅の盾の表面を黒く焦《こ》がしただけで終わっていた。
「だが、この千変《せんぺん》<Vュドナイを倒すには、弱すぎる」
左肩から、二本目の左腕[#「二本目の左腕」に傍点]が伸びて、胸ポケットから煙草《たばこ》の箱を取り出した。それを指で軽く叩《たた》き、突き出た一本を、凄《すご》みの利いた笑みの端《はし》に咥《くわ》え取る。先端に、濁《にご》った紫色の火が自然と点《とも》った。
すう、と胸を膨《ふく》らませて紫煙を吸い込み、その胸にもう一つ、わざとらしく牙《きば》だらけの口を開けて吐《は》き出す。頭にある方の口[#「頭にある方の口」に傍点]が、端に煙草《たばこ》を寄せて言う。
「本気を出せない理由がなんなのか……興味はあるが、とりあえず先に、殺させてもらおうか。君には多くの盟友《めいゆう》を討ち滅ぼされているからな」
マージョリーに踏み砕《くだ》かれた虎《とら》のろくろ首が、もう一本と共に紫の火の粉《こ》となって弾ける。シュドナイの肩口でもそれは散って、何事もなかったかのように、彼の腕は二本に戻っていた。同時に、パキパキと音を立てて、その体の輪郭《りんかく》が揺れ始める。胸から吹かれた煙草の紫煙越しに、その両|側頭《そくとう》から捻《ねじ》れた角《つの》が伸びた。
「趣味の悪い虚仮脅《こけおど》しね、千変=v
マージョリーの、嫌味《いやみ》ではない率直な感想に、シュドナイは煙草を上下させて答える。
「素の自分を常に晒《さら》している、と言って欲しいな」
通常、紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠ヘ一旦《いったん》取った姿を崩さないが、このシュドナイは千変≠フ真名《まな》の通り、その場の都合に合わせて自在に姿を変えるという、文字通りの『変わり者』だった。
「最近の若い徒≠フ大半は、人間とその文化様式を愛しすぎて、異形《いぎょう》を嫌悪したり陳腐《ちんぷ》だと思うようになってしまった。封絶《ふうぜつ》普及以前の伝統を守っている王≠フ一人としては、寂しい限りさ」
言う間に甲羅《こうら》の盾《たて》が縮み、普通の手首へと戻る。さらに間を置かず、スーツを破って両肩が盛り上がり、腕は体に不釣合《ふつりあ》いに巨大な、紫色に燃える虎縞《とらじま》の毛並みを持つ豪腕《ごうわん》となった。そこにあることの違和感が、どんどん増してゆく。
(……よう、マージョリー)
マージョリーの小脇に挟《はさ》まれたグリモア≠ゥら、マルコシアスが二人の間だけに通じる自在法を介《かい》して言う。
(なによ)
(ここは一旦|退《ひ》こうぜ。今のおめえと千変《せんぺん》≠カゃあ、端《はな》から勝負になんねえ。愛染《あいぜん》≠ヌもの張った、妙な自在法の中にいることでもあるしよ)
(……)
フレイムヘイズとしての長い戦歴を持つ彼女らにとって、それは片手の指で数えるほどしか採ったことのない選択|肢《し》だった。そして今回は、その中でもさらに特別の例外となった。
(……そうね)
あっさりと、マージョリーが賛同したのだ。
彼女は気だるい気持ちの中でため息をつく。
戦闘意欲が、全く湧《わ》いてこなかった。欠片《かけら》も感じることができなかった。戦う前から、そうなるのではないか、という不安はあった。同時に、実際に戦ってみれば、また再び燃え上がるのではないか、という希望も持っていた。
しかし、駄目《だめ》だった。
戦うこと自体は、できる。
しかし、ただの使命感では決定的な力が湧《わ》かない。
燃えない[#「燃えない」に傍点]のだ。
自身本来の力、蹂躙《じゅうりん》の爪牙《そうが》≠フ契約者としての証《あかし》、炎《ほのお》の衣《ころも》『トーガ』を纏《まと》うことができないのも、自在法を縦横に繰る『屠殺《とさつ》の即興詩』を歌えないのも、己を衝《つ》き動かしていた巨大で熱い憎悪の炎が、以前の戦いで心からぽっかりと抜け落ちてしまったから。
分かっている。分かっていた。
が、だからといって、なにができるわけでもない。
(なら、逃げるのだって……別にいいわ)
そう、思えてしまうのだった。紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠ヌもにとって、恐怖の代名詞、死の同義語とも言われた『弔詞《ちょうし》の詠み手』が。我ながら不甲斐《ふがい》ないとは思うが、その気持ちも、
(だからなんなのよ)
で片付いてしまう程度のものだった。逃げる、ということへの引け目さえ感じない。
(こーりゃ、重傷だ)
とマルコシアスは思ったが、口には出さなかった。元より責める気はない。彼女を信じている、などという空々しい感情も抱《いだ》いていない。そこまで付き合いが浅いわけでも短いわけでもなかった。思ったのは、
(ま、雨の日ってのもあらーな)
それだけである。
どうしようもないことは、どうしようもない。
なるようにしかならないことは、なるようにしかならない。
「ふう……」
マージョリーは、ゆっくり近付いてくる異形《いぎょう》のシュドナイに、再びため息をついてみせた。
そこに混じった群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》が、急に彼女を囲んで渦《うず》巻く。
「むっ?」
そこに自在法の発生を感じたシュドナイは、咄嗟《とっさ》に両手を交叉させて顔を庇《かば》った。
その瞬間、火の粉がフラッシのような閃光《せんこう》を撒《ま》いて、一斉に弾けた。
が、サングラス越しの視線は、その光に紛《まぎ》れて上空に舞い上がる火球を見つけていた。
(――『弔詞《ちょうし》の詠み手』が逃げる!?)
予想外の出来事に驚いたシュドナイは、それでも背中から蝙蝠《こうもり》の羽を生やす。一打ち、風を起こして舞い上がり、そのついでと虎《とら》の腕が、傍《かたわ》らに駐車してあった小型バンを鷲掴《わしづか》みに掴み上げた。
「っぬん!」
重さを感じさせない投擲《とうてき》で、バンが火球にぶつけられた。
途端《とたん》、
「ハズレだ、間抜け」
マルコシアスの声と同時に、火球は大爆発を起こした。
「うおっ……!」
膨《ふく》れ上がった猛火《もうか》を、片翼を盾《たて》に防いだシュドナイは、ズドン、と重く着地する。
黒煙が晴れて周囲を見れば、彼女が跳《と》んだ場所にあったマンホールの蓋《ふた》が砕《くだ》けている。閃光《せんこう》も火球も囮《おとり》で、こっちへの逃走が本命だったらしい。
人外《じんがい》の形を、全《すべ》てダークスーツの輪郭《りんかく》の内に収めてから、肩をすくめる。
「やれやれ、なんという抜け目のなさだ。やはり容易《たやす》い相手ではないな」
思いもよらぬ逃げを打った『弔詞《ちょうし》の詠み手』を追うべく、穴の縁《ふち》に立った彼の背に、
<<お待ちなさい、シュドナイ>>
と唐突《とうとつ》に制止の声がかかった。中年男性の声による優雅な女性口調、という妙なもの。
「?」
シュドナイが振り向くと、そこにはくたびれたスーツに眼鏡《めがね》という中年の男が立っている。この男には見覚えがあった。彼の依頼主がここ数日で用意していた、異界を発生させるため仕掛け、その一つだった。
<<もう、そんな奴《やつ》は放っておいていいから、『オルゴール』の警護について頂戴《ちょうだい》>>
どうやらこれは、依頼主との通信機も兼ねる燐子《りんね》≠フ一種であるらしかった。
(こんなんものを使っておいて、人のことを悪趣味と言うかね)
思い、苦笑しつつ、シュドナイは自分の受けた依頼への義務として意見する。
「しかし、放置しておくにはあまりに厄介《やっかい》で危険な存在だぞ。戦闘力だけではない、頭も切れる自在師だ」
現に今も、逃走した後の気配を断ってしまっている。早く追わねば、その痕跡《こんせき》を辿《たど》ることも難しくなるだろう。
しかしそんなシュドナイの懸念《けねん》を、雇い主は中年男性の顔と声で、柔らかに笑い飛ばす。
<<あら、紅世《ぐぜ》の王≠スるあなたが、討滅《とうめつ》の道具ごときを高く評価したものね>>
「相手の成り立ちがなんであれ、それが現実に脅威であれば当然、評価もするさ」
<<ろくに戦いもせず、さっさと尻尾《しっぽ》を巻いて逃げたようなフレイムヘイズが? これ[#「これ」に傍点]で見ていたけど、大した自在法も使えていなかったじゃない。とにかく、依頼主が構わないと言っているのだから、素直に従って頂戴な。あんな雑魚《ざこ》、お兄様の用が済んだ、そのついでに料理してやればいい……私たちにも、侮辱《ぶじょく》された借りがあることだし>>
見かけの優雅さとは裏腹《うらはら》の、執念《しゅうねん》深さが声の端《はし》によぎった。
「彼女を見くびるのは、どんな意味からも危険だと思うが」
シュドナイの、自分では妥当と思える評価に、ティリエルは、今度は無闇《むやみ》に明るく転じた声で返す。
<<見くびる? 私たちはこの『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』の中では無敵よ。その唯一の弱点が『オルゴール』だから、それを守ってほしいって言っているの。そんなにおかしな命令かしら?>>
「……」
<<大丈夫、あなたの意中の人がどんなに優れた自在師でも、私の『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』の中から逃げることは絶対にできない。むしろ、あなたが『オルゴール』を守ることで、彼女の方からやってきてくれるかもしれないわよ。そのときこそ、あなたへの依頼『私たちをフレイムヘイズから守る』を思う存分、実践してもらうつもり>>
「……いいだろう、依頼主の意思を尊重する」
シュドナイは、ようやく折れた。
<<結構。あなたが守る場所は――>>
満足げな笑みとともに、彼の警護対象のある場所を告げると、依頼主は通信を切った。
中年男性の姿をした燐子《りんね》≠ヘその場で棒立ちになる。即製の、この場で使い潰《つぶ》す消耗《しょうもう》品だからなのか、自律行動ができるほど出来は良くないらしい。しかし一方で、動かなくなったそれは、他の人間と見分けがつかなくなってもいる。手の込んだ偽装《ぎそう》だった。
シュドナイは最後にマンホールを一暼《いちべつ》し、届かぬ暗闇《くらやみ》に去った雄敵へと告げる。
「期待と一体の不安、落胆《らくたん》と一体の安堵《あんど》……君たる存在は、どっちに答えてくれるのかな、殺戮《さつりく》の美姫《びき》マージョリー・ドー?」
その雄敵は、紅世《ぐぜ》の王≠フ戯言《ざれごと》に付き合うどころではない。
「うぎ〜〜臭《くさ》い〜〜湿《しめ》っぽい〜〜気持ち悪い〜〜」
「ヒーッヒッヒ、我慢しろい。ご両人の前に出るときにゃ清めてやるからよ」
下水道の中、宙を飛ぶグリモア≠ノ座る『弔詞《ちょうし》の詠み手』は、悲鳴を上げつつ一目散に逃げていった。
大通りに列なす高い街灯の上に、シャナは降り立つ。
炎髪《えんぱつ》を紅蓮《ぐれん》の火の粉《こ》で飾り、黒衣《こくい》をたなびかせて屹立《きつりつ》するフレイムヘイズの前に、紅世の徒《ともがら》≠フ業《わざ》たる巨大な霧の渦《うず》が、大通りを雪崩《なだれ》のように突き進んでくる。
端々《はしばし》に細く先鞭《せんべん》をうねらせ伸ばし、路面を重く這《は》い、壁に強く絡《から》み、中途にある者を物を押し潰《つぶ》してゆく、恐るべき圧力と質量の怒涛《どとう》。それは、山吹色《やまぶきいろ》に輝く存在の力≠ナ構成された一塊《いっかい》の蔓《つる》だった。
シャナは大太刀《おおだち》『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を握る手に過不足ない緊張を込め、不意の攻撃に備える。
しかし、その警戒は必要なかった。
彼女の相対する敵は、自分たちの力に絶対的な自信を持っていた。不意打ちなど、元より考慮の外にあった。それどころか、蔓の雪崩《なだれ》を止め、その上に、華麗《かれい》に登場する。
その姿の周りに山吹色《やまぶきいろ》の霧が巻いて、蔓から離れた木《こ》の葉が渦として飾る。
立ち姿は一つ、いるのは二人。
豪奢《ごうしゃ》な金髪を混じらせて抱《だ》き合う少年と少女が、小山のように絡《から》む蔓の頂点に立っていた。
「初めまして」
少女は抱き締める少年に頬《ほお》を寄せ、目線だけを流して、高見《たかみ》から妙《たえ》なる調べを奏でる。
豪奢な金髪に包まれた美麗《びれい》の容貌《ようぼう》と、ピンと背筋を伸ばした細い体躯《たいく》、リボンをあしらった鍔広帽子《つばひろぼうし》とドレス……まるで等身大のフランス人形のような美少女だった。
「この方は私のお兄様、愛染自《あいぜんじ》<\ラト」
と、美少女はまず、自分が抱き締める、彼女と瓜《うり》二つの美少年を紹介する。
その美少年は華美《かび》な鎧《よろい》を身にまとい、手には西洋風の大剣を握っているが、どうにも表情が弱々しい。妹を抱き締める、というより、すがりついているように見えた。
「そして私は、愛染他《あいぜんた》<eィリエル。あなたは何《いず》れ様の契約者かしら?」
シャナは、フレイムヘイズとなって初めて、誰の契約者かと問われた。紅世《ぐぜ》≠ノその名を轟《とどろ》かす魔神《まじん》天壌《てんじょう》の劫火《ごうか》<Aラストールと、その契約者のことを知らない徒《ともがら》≠ェいるとは正直、驚きだった。
胸元のコキュートス≠ノ言う。
「アラストールの言ったとおり……かなり若い徒≠ンたい」
「我が『天道宮《てんどうきゅう》』にいた間に渡り来たのだろう」
シャナは絡《から》み合う兄妹を見上げ、堂々と名乗る。
「私は、天壌の劫火<Aラストールのフレイムヘイズ、『炎髪灼眼《えんぱつしゃくがん》の討ち手』シャナ」
しかしティリエルは、この名を聞いても大した畏怖《いふ》を表さなかった。アラストールの推測どおり、彼女ら兄妹は、アラストールがこの世に渡り来てから紅世《ぐぜ》≠ノ生まれ、また彼がこの世から隔離《かくり》されていた間に渡り来た、若い徒≠ネのだった。
口にした感想も、
「あら、古い名前」
これだけだった。
シャナは、自分の父や兄、師や友とも思っている魔神が馬鹿にされた様で面白くない。
しかもこの愛染《あいぜん》の兄妹≠ヘ、彼女が考える以上に無礼で我侭《わがまま》だった。
「まあ、そんなこと、どうでもよろしいわね。あなた自身には、用と言うほどの用はないんですもの。せいぜいが、ついでに遊ぶ相手、という程度かしら」
「……」
シャナは大いに不愉快になった。
他《ほか》のフレイムヘイズや徒≠ヘ、例え見せ掛けでもからかいでも、一応の礼儀というものを持って接することを知っていた。それがこの徒≠ニきたら。なにより思うのは、
(なんなのよ、こいつら、さっきから……)
抱《だ》き合い絡み合いして、それを見せ付けて。
シャナに居丈高《いたけだか》に声を放りつつ兄に頬擦《ほおず》りする妹、怯《おび》え隠れながら妹にベタベタとくっ付く兄。『体を触れ合わせることは親愛の情の証《あかし》』と坂井《さかい》千草《ちぐさ》は言ったが、それにしてもこの二人のそれは行き過ぎで、どこか納得いかない違和感がある。見ていて気持ちが悪いだけだった。
そう思われていることを分かっているのかいないのか、ティリエルは穏やかかつ傲慢《ごうまん》に、シャナに告げる。
「用というのは簡単。あなたのその剣を、私のお兄様に頂きたいの」
「……なんですって?」
「悪いのは頭? それとも耳? もう一度言いますわよ――」
「必要ない!」
シャナは足裏の爆発で、立っていた街灯を打ち倒し、跳《と》んだ。弾丸のような勢いで一息に、身勝手な徒《ともがら》≠ヨと大太刀《おおだち》を突き出す。
「あら」
ティリエルが言う間に、彼女らを乗せていた山吹色《やまぶきいろ》の蔓《つる》が一斉に伸びて、互いの間に割って入っていた。
「!」
自分の前に蔓で編まれた網を張られたと気付いたシャナは、とっさに刺突《しとつ》のため前に出していた切っ先を後ろに流し、再び振る。蔓は難なく裂《さ》け、前への道を開――かなかった。
「なんてせっかちさんかしら」
断ち切られた蔓が全《すべ》て、四方から生き物のように伸び、彼女を絡《から》め取ってしまったのだ。
「っぐ!?」
首にも巻きついた蔓が、人間なら一締めで引き千切《ちぎ》るほどの力をかけ、息を詰まらせる。
そして愛染《あいぜん》の兄妹≠ヘ、
「どうぞ、お兄様」
「うん!」
その場に全く似合わない声を交わす。
朗《ほが》らかな勧めと、明るい返事。
ソラトが、全身を絡め取られたシャナに振り向く。その動作は途中から加速し、再び現れた顔は戦闘術者としての冷徹さに静まり返っている。その中、瞳だけが純粋な欲望にキラキラと輝いていた。
華美《かび》な鎧《よろい》の少年剣士は、血色の波紋を揺らす大剣を手に、身動きの取れないシャナの元へと舞い降りる。
「……はあ、ふう、はあ……」
悠二《ゆうじ》の勇気は、階段を下りきった時点で早くも尽きた。
ただ駆《か》け下りただけで息を切らしていた。
(なに、この程度で疲れてるんだ)
いや、分かっていた。緊張しているのだ。
極限状態における心身の消耗を、悠二は今全身で感じていた。
(あ〜〜もう、この見栄《みえ》っ張《ぱ》り)
膝《ひざ》から下が引き攣《つ》りそうに硬くなるのに、なぜか細かく震える。太股《ふともも》には力が入らない。
肘《ひじ》から先も虚脱感で気持ち悪くなって震えている。立っているだけで肩が凝《こ》る。
(シャナの前だからって、いい格好して)
背筋は固まっているくせに力が入らず、まるで背骨が空洞になったよう。
逆に腹はキリキリと痛んで、まるで重たい鉛を飲んだよう。
(アラストールにも、役に立つってことを認めてもらいたがって)
目頭《めがしら》は意味もなく熱くなり、鼻はなにか詰められたように匂《にお》いを感じない。
口の中はカラカラ、舌はヒリヒリ、歯までが血流を感じてズキズキする。
(この無知無茶|無謀《むぼう》のバカガキ、いったいなにやってんだ)
まだなにもしていないのに、後悔が襲ってきた。
なにほどのことができるわけでもない。期待もされていない。
(なら、逃げたって、隠れてたって、別に構わないじゃないか)
シャナが自分に全《すべ》てを託《たく》したわけじゃない。
アラストールが自分を頼ったわけでもない。
(やったところで、なんになるってんだ)
今シャナが向かっていった。このまま勝ってしまうかもしれない。
ヒイコラ走る自分の前に舞い降りて、「もう終わったわよ」と言うかもしれない。
(それに、僕は弱い、弱いんだ)
自分の中にある秘宝『零時迷子《れいじまいご》』は、そもそも戦闘用の宝具《ほうぐ》ではない。
襲ってくるのが紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》=Aあるいは燐子《りんね》£度でも、軽く殺されてしまう。
(でも)
一階の廊下を、窓の外の光景を、注意深く覗《のぞ》き見る。
徒≠フ撒《ま》き散らす世界の違和感……いわゆる気配はないが、念のためだ。
(決めたんだ、やるって、決めたんだ)
ただの勇気では、ここから先に進めない。
必要なのは、あらゆる感情を制御《せいぎょ》する冷静さ、的確な道を選ぶ判断力、一粒の幸運。
(どうする、どうする、考えろ、考えろ)
思い通りにならない体を、ただ意志の力だけで動かして、悠二《ゆうじ》は踏み出す。
シャナのために。ここにいる皆のために。
(いや……気取るな、気張るな、できることを、きっちりするんだ……)
その間、二秒、あったかどうか。
シャナ、刹那《せつな》の判断が、反射のように体を動かした。全身の力を集中して大太刀《おおだち》『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を胸の前に無理矢理引き寄せ、ソラトの斬撃《ざんげき》を、自分を縛《しば》る蔓《つる》と交叉するように誘い込んだ。
ソラトは全く考えなしに、彼女を縛る蔓を断ち切りながら、最終目標《シ ャ ナ》へと斬《き》り進んだ。
その中途でシャナは、自分を捕縛《ほばく》するだけの数を失った蔓を片手に握り、引き寄せた。
蔓は張力に従って彼女の体を引き寄せ、ソラトの斬撃の軌道上から、その体を外した。
「!?」
ソラトが驚き見やった先で、シャナは既に大太刀《おおだち》を振るって残りの蔓《つる》を切り、大きく飛んでいた。
その間、二秒、あったかどうか。
危うく難を逃れたシャナは、黒衣《こくい》をなびかせて大きく跳《と》び下がった。愛染《あいぜん》の兄妹≠ニ向き合ったまま後ろ向きに軽く路面を蹴《け》り、まるで後ろに目がついているかのような正確さで信号機の上に乗る。
「戦力を見誤ったか」
「やるわね」
叱責《しっせき》でも弁解でもない、彼我《ひが》の初撃における率直な評価をアラストールとシャナは交わす。
大通りの真ん中にそびえる蔓《つる》の塊《かたまり》、その頂点でティリエルが口元に手を当てて笑う。
「ふふ、なにをしても無駄《むだ》ですわよ。この『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』の中での私たちは無敵《むてき》」
その傍《かたわ》らに、蔓の束に乗ったソラトが再び上がってくる。
「でも、それだとお兄様も楽しめませんから……」
最愛の兄に、蕩《とろ》けるような視線を送りつつ、口元を隠していた手を鋭く払う。
「!?」
その足下から、数百数千もの蔓が直線状に伸びた。アスファルトや石|畳《だたみ》を砕《くだ》き、ガラス窓を割り、屋根から貫かれた車が爆発炎上し……そのついでのように、静止した人々が幾人も引き千切《ちぎ》れる。
シャナの足元の信号機も、その一本の直撃を受けて真ん中からひしゃげ、折れた。
寸前に跳躍して、ビルの壁面に足をかけたシャナは見た。
蜘蛛《くも》の巣のように投網のように、大通りを覆《おお》い広がる山吹色《やまぶきいろ》の蔓を。
その一本の上を曲芸のように疾走《しっそう》してくるソラトを。
「さあ、私は手出しいたしませんわよ。せいぜいの奮闘をなさって」
「ちっ!」
舌打ちしてシャナは跳び、蔓の一本に乗る。
つもりだった。
「!?」
蔓が足を避けた。
「うふ」
愉快気に嘲笑《あざわら》うティリエルに怒りを覚える間も半秒、体勢を崩して宙を自由落下するシャナの至近《しきん》に、ソラトの欲望そのもののような声が迫る。
「『にえとののしゃな』!」
シャナはまるでそれが本能のように、声に重なる斬撃《ざんげき》の気配に大太刀を合わせる。
バガン、と恐ろしい衝撃《しょうげき》が頬《ほお》に数センチ空《あ》けて弾けた。
「っつ!」
宙では反動を受け止めることも逸《そ》らすこともできない。受け止めた反動のまま吹っ飛んだシャナは、ティリエルの攻撃が来る前にと、大太刀《おおだち》の峰で傍《かたわ》らの蔓《つる》を叩《たた》いて吹っ飛ぶ方向を変え、地面に着地した。と同時に体を路面に伏せる。
その頭上、背後から、鞭《むち》のようにしなる太い蔓が通過した。また声が降ってくる。
「『にえとののしゃな』!」
シャナは上を振り仰《あお》がず、屈《かが》んだ足に溜めた力で前に跳《と》ぶ。影が去る間も僅《わず》か、ソラトの全体重を乗せた大剣が路面を砕《くだ》いて突き立つ。
「まて、『にえとののしゃな』!」
まるで逃げる蝶《ちょう》を追いかけるような歓喜の声。
シャナは走る中で突然、前に踏み出すステップのベクトルを変えて、足裏を爆発させた。バック転のように後ろ向き縦に宙返りする、その中で体を半|捻《ひね》りさせて、後ろから追いすがってきたソラトの頭上に必殺の斬撃《ざんげき》を加える。
「あは――」
しかしそこにはすでに、無邪気《むじゃき》な笑いを隠すように大剣が掲げられていた。目で追っても理屈で考えても防ぎようのない一撃を、しかしソラトは簡単に受け止める。だけでなく、受け止める力をわざと弱めて、シャナを間合いの内に引き込んでいた。
「――は!」
少年剣士は明るい笑声の端《はし》で、存在の力≠手にある物に注《そそ》ぎ込む。彼の掲げる大剣に揺らめいていた血色の波紋が、その速さを増した。瞬間、
「ぐっ!?」
シャナは、刃の軌道からは絶対にありえない位置、右の首筋を一線、切り裂《さ》かれていた。痛みをゆっくり感じている暇もない。血の珠《たま》を引いて着地、大剣と再び刃を合わせる。
「すごいだろ、ボクの『ぶるーとざおがー』!!」
鍔《つば》迫り合いの中、ソラトは声だけは陽気に自慢の玩具《おもちゃ》の力をひけらかす。
「そんざいのちから≠こめれば、けんにさわってるあいてが、きずをおうんだ」
青い瞳の奥で、山吹色《やまぶきいろ》の力が燃える。
「こんなふうに!」
「っ!」
シャナは押し合う力を抜いて離れようとするが、ソラトは巧みな踏み込みと力加減のまま押し続ける。その間に、大剣に血色の波紋が揺れる。
「あうっ!」
シャナの太股《ふともも》に血の筋が走った。首といい、傷そのものは深くないが、互いの実力が拮抗《きっこう》している場合、僅《わず》かな違いが命運を分ける。ソラトの振るう大剣『吸血鬼《ブルートザオガー》』は、まさにその命運を一方的に使い手の側に傾ける宝具《ほうぐ》なのだった。
シャナの大太刀《おおだち》『贄殿遮那《にえとののしゃな》』は、自身に加えられる力や敵意の干渉を完全に無効化する……つまり絶対に破壊されず、いかなる攻撃も跳《は》ね返すという、一個の武器としては極上《ごくじょう》の存在だが、この『吸血鬼《ブルートザオガー》』のように『敵と触れ合うだけで、その体に傷を与える』という、発動条件が自身を介さない変則的な宝具とは相性が悪かった。
(こいつとは、迂闊《うかつ》に切り結べない……!)
しかも今、シャナの命運を脅《おびや》かすものはそれだけではない。
傷を負った痛みを押してソラトを鍔元《つばもと》で突き飛ばした、その周囲から先端を尖《とが》らせた蔓《つる》が幾筋も、矢のように飛んできた。
咄嗟《とっさ》にかわし、物陰を求めて跳《と》ぶシャナの背に、異様に朗らかな声がかかる。
「あら、お待ちになって、うふ、ふふふ」
盾《たて》にした地下鉄の入り口が突き崩され、吹っ飛んだ屋根ごとグシャグシャになる。転がった先で止まっていたトラックが穴だらけになって爆発する。傍《かたわ》らのガードレールが薄紙《うすがみ》のように貫かれ、足元の石|畳《だたみ》がクッキーより容易《たやす》く砕《くだ》け散った。
そうやって、三秒身を隠すことも許されず、攻撃をかわし続けるシャナの前に、また無邪気《むじゃき》な声が立ち塞《ふさ》がる。
「きみの『にえとののしゃな』、すごいけんなんだろう? たのしみだな」
トラックの残骸《ざんがい》から立ち昇る炎と煙を背負って、ソラトがにこやかに、しかし油断のない足運びで詰め寄ってくる。
「なにができるんだい? みせてよ……ねえ?」
じわりと周囲を押し包む危機感の中、シャナは黙って大太刀を構え直した。
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2 燐子《りんね》≠フ花
御崎《みさき》市の東側市街地、大鉄橋・御崎大橋の袂《ふもと》にそびえる旧|依田《よだ》デパート。
既にテナントも撤退《てったい》して、人の立ち入りも禁止されたこの廃ビルは現在、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドーとその子分たちの秘密基地となっていた。正確には、ここを根城にしていた紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠フ討滅《とうめつ》後に彼女らが乗り込み、居座っただけなのだが。
そのデパート上層の一フロア、閉め切られた窓の内に溜まる闇《やみ》の奥に、群青《ぐんじょう》色の弱い光が、奇妙な光景を浮かび上がらせていた。
玩具《おもちゃ》を積み重ねた山の内に広がる、御崎市を象《かたど》った箱庭。
かつてこのフロアを根城《ねじろ》にしていた徒≠フ遺《のこ》した宝具《ほうぐ》、『玻璃壇《はりだん》』だった。
「マージョリーさん、大丈夫かな……」
その中から、マージョリーの一の子分・佐藤《さとう》啓作《けいさく》の声が響いた。一応は『美』をつけてもよい少年の容貌《ようぼう》には、僅《わず》かに怯《おび》えの翳《かげ》りがある。
「それ、もう五度目だぞ」
同じくマージョリーの一の子分・田中《たなか》栄太《えいた》が答える(互いに譲らないので、それぞれが『一の子分』を自称している)。愛嬌《あいきょう》のある大作りな顔が、緊張に引き締まっている。
「それより、このフラフープみたいな輪っか、なんなんだろな」
「田中、それも五……四度目だっけ? ええと、とにかく俺《おれ》に訊《き》くなって」
言う二人の体の周り、華奢《きゃしゃ》な佐藤には径《けい》小さく、大柄な田中には径大きく、それぞれ群青《ぐんじょう》色の光の輪が浮かんで、周囲を照らしていた。よく見ると、光る文字だか記号だかが細かく縒《よ》り合わさって作られている。
いわゆる自在法というやつなのだろうが、二人はフレイムヘイズでも徒《ともがら》≠ナもない、成り行きからマージョリーに出会い、自発的かつ一方的に協力しているただの人間なので、その意味や効果などは全く分からない。
「マージョリーさんが来てから訊けよ……はあ、大丈夫かな」
「六度目。姐《あね》さんのこったから、大丈夫だとは思う、けど」
ちなみにマージョリーのことを、佐藤は『マージョリーさん』、田中は『姐さん』、とそれぞれ呼んでいる。
「なによ、その頼りない言い方は」
フロアの入り口から、いまいち張りのない不機嫌な声が響いた。
「あ、マージョリーさん!」
「姐さん、怪我《けが》は?」
二人が振り向いた先、フロアの宙を、群青色の炎《ほのお》を吹くグリモア≠ノ腰掛けたマージョリーが、ゆっくりと飛んできていた。
「あるわけないでしょ。誰に言ってるつもり?」
「かーなり、やばかったがな、ヒッヒ」
「お黙り、バカマルコ」
言い合いながらマージョリーは、フロアの支柱の間を一杯に埋めるほどに巨大な箱庭の中央、彼女らが今いるデパートを象《かたど》った模型の上に、ストンと降り立った。グリモア≠脇に挟《はさ》んで、雑多な部品で構成された、しかし異常なまでに精巧に作られた箱庭を、気のない視線で見渡す。
佐藤と田中は、それぞれ前の戦いでそうしたように、彼女を挟《はさ》んだやや低いビルの模型の上に立っている。
「ところでマージョリーさん、この輪っか、さっきいきなり出てきたんですけど、いったいなんなんです?」
「もしかして、さっき頭を突っ付いたときに、なんかジザイホーとか、かけたんですか?」
億劫《おっくう》そうにマージョリーは答える。
「そーよ。あんたたちにお守りを付けといたの。徒≠ノよる存在の力≠ヨの干渉に、ある程度抵抗することができるよう、念のためね」
先刻、徒《ともがら》≠フ襲撃を感知するや、マージョリーは彼らにこの秘密基地へと避難《ひなん》するように指示し、またその別れ際に額《ひたい》を指で突付いて自在法をかけたのだった。
「カンショー?」
「じゃ、なんかあったんですか?」
「あんたたちは外を見てないから分からないだろうけど、今、この街は丸ごと、特大の封絶《ふうぜつ》に覆《おお》われてる」
「えっ、フ、フーゼツ!?」
「それじゃ、この輪っかが……」
二人はようやく深刻な事態が進行中であることを悟《さと》った。
「そ。あんたたちを他《ほか》の人間みたいに静止させないための防御陣《ぼうぎょじん》も兼ね[#「ね」は底本では無し]てんの」
「そんな、街を丸ごと包むようなフーゼツをかけるなんて……今度の敵は、前の屍《しかばね》拾い≠チて奴《やつ》よりも……その、強いんですか」
佐藤《さとう》が心配気に訊《き》いたのは、マージョリーがその屍拾い≠ノ(実際はもう一人のフレイムヘイズに、だと思うのだが、恐くて訊けなかった)敗北を喫したことを察していたからだった。
そんな余計な心配や、一面では侮辱《ぶじょく》とさえ聞こえる問いに、しかしマージョリーは腹を立てなかった。立てられるだけの気力がなかった。簡単に肯定する。
「そーね、実害では比べ物にならないくらい厄介《やっかい》な奴《やつ》らが、三人もいたわ」
「三人――!」
田中が絶句する。
「ま、その内の二人は灼眼《しゃくがん》のチビジャリのとこへ向かったし、残った一人の追跡も、気配を消して撒《ま》いた。気配察知の自在法でも使われない限り、当面の危険はないと思うけど……この気配消すのって、やたら力を食う上に神経も使うのよね……」
発した声にも、戦いの姿勢そのものにも覇気《はき》がない。
佐藤と田中は、先の戦いの前に回復したように見えた彼女の気迫が、どういうわけか逆に衰え果てていることに気付いた。
「とりあえず、ここで相手の出方を探って、打つ手を考えるわ」
マージョリーは、一旦《いったん》戦いから退《しりぞ》いた今、心に深く根を張る倦怠《けんたい》感の存在を自覚させられていた。自分が本気になれないと、戦場で確認してしまった。
まさしく、フレイムヘイズとしての自分の存在意義に関わる非常事態……にも関わらず、危機感さえ感じない。重傷だと分かっていて、しかしどうしようもなかった。
「姐《あね》さん――?」
「…………」
田中は言いかけ、佐藤は無言のまま、この無気力状態を見た。
居候《いそうろう》している佐藤家の屋敷でゴロゴロしているときならともかく、戦いの場でこんな姿を見せられることになるとは、二人とも思いもしなかった。これがあの、燃え盛るような闘争心と煮え滾《たぎ》るような憎悪を撒《ま》き散らしていた『弔詞《ちょうし》の詠み手』と同一人物とは思えなかった。彼らが出会った当初のマージョリーなら、まず吼《ほ》え猛《たけ》って徒《ともがら》≠フ討滅《とうめつ》を叫んでいたはずだった。
自分たちが衝撃《しょうげき》を受け、問答無用で憧《あこが》れたマージョリー・ドーは、果たしてこんなに薄《うす》ぼんやりとした存在感の持ち主だったろうか……。
佐藤《さとう》はその不満を彼女自身に払拭《ふっしょく》してもらうため、半ばけしかけるような口調で訊《き》く。
「向こうの手の内が分かったら、ブチ殺しに行くんですね!?」
訊いた佐藤も聞いていた田中《たなか》も、強く獰猛《どうもう》な、情けない自分たちの性根ごとぶっ叩《たた》いてくれるような『格好良い』返事を期待していた。
ところがマージョリーは、眼鏡《めがね》越しの鈍い視線を彼に向け、気の抜けた声で、
「必要ならね」
とだけ。マルコシアスが、僅《わず》かにため息を吐《つ》いたような気がした。
佐藤と田中は、目線だけで互いを見る。大きな失望と怒りと悔しさに、小さな悲しさが混じったような、なんともいえない気分だった。
「さて」
やがてマージョリーが、辛《かろ》うじて残っているもの……惰性《だせい》にも似たフレイムヘイズとしての使命感から、ぽつりと言う。
その言葉とともに微量の存在の力≠フ供給を受けて、彼女の足元、旧|依田《よだ》デパートの模型に秘められた宝具《ほうぐ》が、静かに脈動を開始した。
「まずは『玻璃壇《はりだん》』、起動」
ジワジワと、彼らの眼下に広がる御崎《みさき》市の精巧なミニチュア上に、映像が点《とも》ってゆく。
それは、人の数だけある、単純な形をした半透明の影。箱庭として作られた地域の内にある全《すべ》ての人間を映し出す、これが広域監視用の宝具《ほうぐ》『玻璃壇』の機能だった。
本来なら、この宝具は人の動きまで再現できるのだが、御崎市は今、封絶に似た自在法の影響下に置かれているため、どの人影も静止したままである。
「で、トーチのみの表示、と」
声に従い、人影の大半が消えてゆく。後には、疎《まば》らに散る灯火だけが残された。
頼りなく、また不吉な揺らめきを持って箱庭に散らばるこれらの灯火は、全《すべ》てトーチ……紅世《ぐぜ》の徒≠ノ喰われた人間、その残り滓《かす》から作られた代替《だいたい》物の位置を示していた。
かつて狩人《かりうど》≠ニいう名の紅世の王≠ノ滅多やたらと喰い荒らされた御崎市は、被害を受けた他《ほか》の土地よりも、はるかにトーチが多いという。
佐藤と田中は、初めてその事実を知らされたときと変わらない戦慄《せんりつ》を抱《いだ》きつつ、この不気味な光景を見下ろす。
(まだ、これだけのトーチが残って――)
(それとも、今度来た奴《やつ》らが、またどんどん喰ったのか――)
そう、中途まで考えた二人は、続いて表れたものに驚き、目を見張った。
黙って立つマージョリーも眉根《まゆね》を寄せる。
映し出され、浮かび上がったのは、トーチだけではなかった。
箱庭の地面や壁、意識を集中して見通せる建物の内部など、『玻璃壇《はりだん》』のミニチュアのそこここに、文字列とも記号とも付かない紋様が、カビでも生やしたかのように不気味な斑《まだら》の彩りを加えていた。主に市街地を多く侵蝕しているその斑の間には、根だか蔓《つる》だかの模様が通い合い、結び合っている。まるで御崎《みさき》市を、蔓草が濃《こ》く覆《おお》っているかのようだった。
今、間違いなく御崎市が危機に直面している。
それを、この光景は如実《にょじつ》に、十二分に物語っていた。
なのに、マージョリーは、軽く鼻を鳴らしただけ。
「ふん……これが、この変則的で巨大な封絶《ふうぜつ》を維持する自在式ってわけか。思ったより面倒|臭《くさ》そうな感じね」
それに、自在法を縦横《じゅうおう》に使う紅世の王≠フ一人として、マルコシアスが答える。
「なんてーか、この自在式、配列が無茶苦茶だな。なんなんだ、この装飾紋の多さはよ? 塗り絵じゃあんめえに」
彼の言うように、『玻璃壇』による縮小という要素を除いても、紋様はほとんど塗りつぶされる寸前の密度で描かれている。
その大|雑把《ざっぱ》な概観から、マージョリーは自在師としての目を効かせた。
「たぶん、式の本体を隠す偽装《ぎそう》がほどんどね。その本体がどんな効果を持ってて、連中が何をやろうとしてるのか……この式の広がってる場所を、実際に目で見て確かめないと分からないわね」
「ああ。にしても、こーんな妙ちきりんな自在式があちこちにあったってえのに、全然気付かなかったとはな。我がしおれた花、マージョリー・ドーのローテンションに、俺《おれ》まで巻き込まれちまったか」
「勝手に人のせいにするんじゃないわよ、バカマルコ。あの変態兄妹が、偽装や隠蔽《いんぺい》の上手《うま》いコソ泥ってだけでしょうが」
人をぶっ叩《たた》くようだった罵詈雑言《ばりぞうごん》にも、やはり今一つ力がない。
佐藤《さとう》はそんな彼女に苛《いら》立ち、まるで自分が求めるように戦いへと話を進める。
「それで、マージョリーさん、その徒≠スちが今どこにいるか、前の……ええと、気配とか捉《とら》えるジザイホーで探ったりはしないんですか?」
マージョリーは彼の、妙に性急な様子を訝《いぶか》しげに見た。そして、その内にある感情の正体を察して、陰性の怒りを覚えた。声にその怒りを潜《ひそ》めて答える。
「馬鹿《ばか》。こっちが気配察知なんか使ったら、逆に相手に居所を報《しら》せることになるでしょうが。今はこっちが狩られてる立場なのよ? せいぜい隠れて、この封絶《ふうぜつ》もどきをぶち破る算段をしないと」
(狩られてる……? 隠れて……?)
佐藤《さとう》はそれら、なんということもない言葉に、大きなショックを受けた。彼の知るマージョリーが吐《は》く言葉とは思えなかった。
「……なんか、弱気ですね、姐《あね》さん」
田中《たなか》は、佐藤より率直で、単純だった。佐藤が隠そうとした失望、泣きたくなるような気持ちが全部、声に出てしまっていた。
「弱気……? 誰に、言ってんのよ」
マージョリーは声を揺らした。二人の失望する様に意外な衝撃《しょうげき》を受け、同時にその裏側にある、彼らの期待を鬱陶《うっとう》しく思った。頼みもしないのに期待して、事情も知らないくせに失望する、そのガキの身勝手さが気に食わなかった。
沈黙が下りる寸前、甲《かん》高い声が割って入った。
「ホレホレ、どーでもいーことくっちゃべってねえで、話ぃ進めようぜ」
「私は悪くないわよ」
不満気にへの字口を作るマージョリーを、マルコシアスは軽くあやす。
「あいあいよ、分かった分かった」
とーにかくだ、と場を仕切りなおす。
「当面、生き延びるためにゃ、このでけえ封絶もどきの仕掛けを、見破るなり無効化するなりしなきゃなんねえ。徒《ともがら》≠ブチ殺すかどうかは、まあ、そのときの状況次第だわな。なんと言っても、こっちは我がか弱き佳人《かじん》、マージョリー・ドーが本調子じゃねブッ!?」
マージョリーが仕返しとばかり、掌《てのひら》をグリモア≠ノ打ち付けた。
「お黙り、バカマルコ。とにかく、私は外に出て調査するから、あんたたちはここで状況を監視してて」
「……この『玻璃壇《はりだん》』、徒≠ヘ映らないんですか?」
田中が、マージョリーと自分たち、双方への不安から訊《き》いた。
マージョリーはそうと分かって、しかし涼しい顔で答える。
「無理ね。こいつは人間を監視するために作られた宝具《ほうぐ》だもの。人間やトーチ、存在の力≠竄サれを流す自在式だけしか表示できない。ま、大まかな位置くらいは気配でわかるけど……その内の一人は、特に気配がでかいし」
余裕《よゆう》の笑みで相対する千変《せんぺん》<Vュドナイの顔を思い浮かべて、マージョリーは不愉快になる。それが闘争心の燃料になるかと一瞬、期待したが、しかしやはり、燃えない。
田中がまた訊く。
「どこら辺《あた》りにいるんです?」
「私とやり合った千変《せんぺん》<Vュドナイは……市の中心部、ここからすぐ近くね」
「すぐ、近く……」
再び背筋を冷たくする田中《たなか》を置いて、マージョリーは遠くで激突する気配を感じる。
「あとの、この封絶《ふうぜつ》もどきを張った二人は……今、あの灼眼《しゃくがん》のチビジャリとやり合ってる真っ最中だわ。そいつらも、かなりデカい違和感バラまいてる。無茶苦茶してるみたい」
「二対一……その灼眼の人、助けに行かなくていいんですか?」
お人好しな田中の問いに、マージョリーは鼻で笑って返した。
「は、ジョーダンでしょ。そんな義理はないし、必要性も今んとこない」
これは彼女が気力を減退させているからなのか、それとも単に協調性がないからなのか、田中には判断がつかなかった。
「むしろ、あっちで厄介《やっかい》なのを引き付けといてくれれば、こっちは動きやすくなる」
と、不意に、
「マージョリーさん?」
しばらく黙っていた佐藤《さとう》が、口を開いた。
「なに」
さっきからのこともあって、マージョリーは僅《わず》かに警戒したが、佐藤は彼女の方を見ていなかった。『玻璃壇《はりだん》』の、とある一点……住宅地の川縁辺《かわべりあた》りを、じっと見つめている。
やがて彼は、その目に現象を確認しながら、報告する。
「トーチが一つ、動いてます」
一瞬、その意味を考えてから、マルコシアスとマージョリーが同時に驚きの声を上げた。
「あん?」
「なんですって?」
シャナは、十階はあるビルの壁面を、数歩で、一気に、駆《か》け上がる。
その後を追って、次々と山吹色《やまぶきいろ》に輝く蔓《つる》が壁を窓を砕《くだ》き、突き立ってゆく。ビルそのものを突き崩すように無数の蔓を食い込ませると、一斉にそれが引かれた。
「ひらーり……」
優雅なダンスでもしているかのような声とともに、大通りを占拠《せんきょ》していた蔓の塊《かたまり》が浮き上がった。その、直径にして二十メートルはあろうかという、純粋な存在の力≠フみの巨重が、屋上に降り立ったシャナの頭上から津波のように降ってくる。
「っく!」
シャナは足の裏を爆発させて、隣のビルに飛び移る。その背後で、蜂《はち》の巣になり、また巨重をかけられたビルが一挙に崩壊する。濛々《もうもう》と上がる土煙の中に、山吹色に輝く物体が、それに代わるように蠢《うごめ》いている。
(なんて無茶苦茶な奴《やつ》!)
シャナは驚きつつも冷静に、ビルの屋上を幾つも渡り跳《と》んで離れる。
破壊を撒《ま》き散らす紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠ヘ珍しくないが、それにしても、ここまで野放図な力を振るえる者はそういない。どころか、この愛染他《あいぜんた》<eィリエルは、単純な破壊力なら、彼女がフレイムヘイズになって以降出会った徒£、間違いなく最大の存在だった。
シャナが知るこれ以上の力は、それこそ顕現《けんげん》した天壌《てんじょう》の劫火《ごうか》<Aラストールくらいのものだが、その彼とて、顕現してからの活動時間は短かった。一月前に遭遇《そうぐう》した蹂躙《じゅうりん》の爪牙《そうが》*{性の顕現も、一時的な力の暴走でしかなかった。
ところがティリエルは、力の弱まる気配も、それを気にして勝負を急ぐ様子も一向に見せない。通常の、単に強暴で未熟な徒≠ネら、調子に乗って消耗《しょうもう》したところを叩《たた》くのが定石《じょうせき》だが、この少女はどうやらその類とは対極の存在であるらしい。
(鍵は、この封絶《ふうぜつ》みたいな自在法……!)
と思っても、彼女はそっちの方面には疎《うと》い。周囲に張られた存在の力≠フ脈動を感じることはできるが、それに干渉して自在法の構成を破ったりするなどの器用な真似《まね》はできなかった。
その足下、
「ッ!?」
屋上の床面が砕《くだ》け、蔓《つる》の束がドリルのように突き上がってきた。咄嗟《とっさ》に避け、飛び降りようとしたビルの谷間から、
「ばあ!」
蔓に乗ったソラトが飛び出した。
シャナはその斬撃《ざんげき》をかわすため、再び屋上に戻る。それを追って、
「ほら、ほら、ほらほら!」
無邪気《むじゃき》な声とは裏腹《うらはら》な、大剣『吸血鬼《ブルートザオガー》』の流れるような連撃が、次々と繰り出される。
これを残らず『贄殿遮那《にえとののしゃな》』で叩《たた》き落すシャナだが、再び鍔迫《つばぜ》り合いに持ち込まれるのを警戒して、どうしても足|捌《さば》きは引き気味になっていた。
と、その後方、あと二、三区画ほど先に、山吹色《やまぶきいろ》の霧に薄《うす》く抱《だ》かれた御崎《みさき》高校がある。
それをただの事実として認識した瞬間、
(――「学校……皆を、守ってくれるかい?」――)
誇りと共にある使命感、己の存在意義の全《すべ》てが、どういうわけか、そのたった一言と綱引きをした。全く容易《たやす》く、なんの苦もなく前者二つが勝ったが、それでも同じ心の地平上にその一言は立って、勝負していた。
(いけない)
その戸惑《とまど》いを感じる間に、ソラトに半歩、距離を詰められた。
無邪気《むじゃき》で無慈悲な斬撃《ざんげき》が、真下から振り上げられる。
「っはは!」
「ッ!」
辛《かろ》うじて、かわした。上着の下部を半分、綴に割っただけで済んだ。もう三センチ前に体があれば、腸をぶちまけていたところだった。
が、夏服の上着を、せっかく千草《ちぐさ》がくれた新しい服を、斬《き》られた。
(――よくも!!)
それだけのことに、異常なまでの憤《いきどお》りが湧《わ》いた。
灼眼《しゃくがん》が煌《きらめ》きを増す。
(集中だ)
シャナは自身の中で、必殺の力を練り始める。
(――全力で不意を打て――心を澄まして『殺し』の道を辿《たど》れ――)
戦いの流れを無視して、ソラトと距離を取る。屋上からビルの看板を蹴《け》って降り、大通りを飛ぶように駆《か》ける。背後に気配を感じる。
軽く鋭い疾走《しっそう》で追ってくるソラトの足音と、その後ろ、今は援護に徹しているティリエルの、大通りを埋めて雪崩《なだ》れる巨重の気配。
「まてまてー!」
「どこへ行かれますの?」
すぐに、遊びから抜けることを許さないように、シャナの左右を蔓《つる》が伴走し始める。攻撃してこないのは、追いかけっこを楽しむソラトへの遠慮からだろう。
それを警戒しながら、シャナは念じる。
(決めろ)
力を注ぎ込む感覚、構成することで届く距離、威力と『殺し』の勘《かん》、
全《すべ》てが一致する。
「!!」
大太刀《おおだち》を握った右腕を置いて左回り、体だけで振り返る。
「?」
間抜けな顔で驚くソラトは、しかし確実に大太刀の斬撃を回避できる間合いを取る。
(一撃で、決めろ!)
足を重く地に打ち、背中に隠した形になった右腕に、練りに練った存在の力≠込める。毎夜の鍛錬《たんれん》で得た感覚と感触が、実戦の中で繋《つな》がる。握った『贄殿遮那《にえとののしゃな》』にアラストールのイメージを重ねて、強く強く、力を解き放つ。
「っだあ!!」
大太刀《おおだち》の剣尖《けんせん》から、恐るべき密度と確たる存在を持った紅蓮《ぐれん》の炎《ほのお》が迸《ほとばし》った。振り返って溜めた体勢から、全《すべ》てを込めて横|殴《なぐ》りに右腕を振り、真正面の標的を、斬《き》る。
「あ―― 」
ソラトの驚きの声が、中途で途切れた。
既に、『贄殿遮那《にえとののしゃな》』から伸びた紅蓮の大太刀が横一文字に通り抜けていた。
その後には、彼の胸から上、脛《すね》から下だけが、残されていた。
他《ほか》は全て、蒸発していた。
とっさに振り上げられた『吸血鬼《ブルートザオガー》』が、その動きの途中で自身を支えていた腕を失い、握っていた手首を火の粉《こ》と散らしながら吹っ飛んだ。ビルの壁に突き立って震える、その鈍い音と重なって、
「キャアアアア――――!!」
崩れ落ちる[#「崩れ落ちる」に傍点]ソラトを見たティリエルの絶叫が、山吹《やまぶき》の霧を劈《つんざ》いて走った。
(次で)
シャナはまだ紅蓮の大太刀を消していない。一振りで左から右、自分を取り巻いていた蔓《つる》は全て蒸発させた。溺愛《できあい》していた兄を失い動転する少女との間に、障害物はない。全て狙《ねら》い通り。
(終わりだ!)
足の裏に爆発を生む。ソラトの残骸《ざんがい》を飛び越え、紅蓮の大太刀をかざした炎の矢となってテ
ィリエルへと跳躍《ちょうやく》する。
が、
「すごい!」
その出端《でばな》、不意な叫びとともに両手首を掴《つか》まれた。
「っ!?」
驚愕《きょうがく》するシャナの真下、鼻も触れ合う距離に、金髪の美少年の無邪気《むじゃき》な笑みがあった。
「『にえとののしゃな』!」
手首を掴んだのは、炭化した胸の断面から伸びた山吹色の蔓《つる》。それが取り残された足首と繋《つな》がり、絡《から》み合って、間に合わせの体を形作っていた。
「離れろ!!」
「っく!?」
アラストールの叫びを受けて、体が反射的に動く。身を縮めてソラトの顔面を踏みつけ、足裏を再び爆発させる。手首を掴んでいた蔓を力ずくで引き千切《ちぎ》り、跳《と》び下がる。同時に、動揺から集中力が途切れ、紅蓮《ぐれん》の大太刀《おおだち》が散った。
「すごいなあ、すごいよ……」
その火の粉《こ》越しに、ソラトの陶然《とうぜん》とした声が響く。顔面に受けた爆発によって、兜《かぶと》が外れていた。広がり、中途から炭化した金髪、顕《あら》わになり、火傷を負った顔……そして蒸発した全身が、急速に元の姿を取り戻しつつあった。
「それが『にえとののしゃな』のちから? ほのおのけんだ!」
「再生……?」
「馬鹿《ばか》な、早すぎる」
シャナとアラストールが驚いたのも無理はなかった。紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠ヘ通常の生物のような形でのダメージこそ負わないが、体の大部分の損失ともなれば、まず致命傷といってよい。
それが、間髪入れずに再生した。周囲の人間から存在の力≠奪い、自身として再構成する、という手間のかかる治療を行ったような気配はなかった。
(いや、今、人を喰ったんじゃない……どこかから流れ込んで、修復した)
シャナは、自分がティリエルに飛びかかろうとした瞬間に、とある場所から地面伝いに凄《すさ》まじい量の存在の力≠ェソラトへと流れ込む、その脈動を感じた。
「そうか――!」
「うむ」
二人は一言ずつで、お互いに了解する。
この、無駄《むだ》に大きいと思っていた異界は、彼ら兄妹に存在の力≠供給するための巨大な精製工場なのだった。どうりで、ティリエルがあれだけの力を振るい続けていられたわけである。出現の直前まで気配を隠していたことといい、確かに大口を叩《たた》くだけのことはある、巧妙な自在師だった。
「でも、これだけ大きな空間の維持から、あの蔓《つる》の構成と攻撃、片割れの再生まで、全《すべ》てを同時に、しかも大した苦もなく行うなんて……できるものなのかしら」
「それら複雑な自在法の制御《せいぎょ》に心を砕《くだ》いているとは、到底思えぬな。もたらされたものを好き放題に使っている、という程度か」
「うん、やっぱり、なにかタネがあるんだ。さっき感じたアレかな……ん? そういえば」
これだけの再生能力を誇っているというのに、さっきなぜティリエルは叫んだのか。
そこに謎を解く鍵があるのでは、とシャナは思ったが、しかしその疑問には、彼女が明快に答えてくれた。暗い憎悪と怨念《おんねん》を音にしたかのような声で。
「許せない……私のお兄様に傷を負わせたわね……それに、それに、こともあろうに、私のお兄様の顔を踏みつけるなんて……!」
なんだ、とシャナは落胆《らくたん》しかけたが、しかしその憤激《ふんげき》の様は並ではない。気を引き締めて対峙《たいじ》する。
と、その間で、
「ティリエル、すごいよ!」
すっかり再生したソラトが、快活そのものの声で叫んだ。
「ほのおのけん! ボクこんなのほしかったんだ!」
次なる戦機を待って身構えるシャナを無視して、蔓の塊《かたまり》の上を振り仰《あお》ぐ。自分を僅《わず》かに覆《おお》う鎧《よろい》の残骸《ざんがい》を揺すって騒ぐその様は、まるで母親に甘える泥遊び後の子供だった。
「ねえ、ティリエル、これぬがして! きられたところ、まがってていたいよ!」
その言葉だけで、もうティリエルはさっきの怒りもどこへやら、表情を緩《ゆる》める。
「ええ、今すぐ」
言う間に彼女は、新たに伸ばした蔓でソラトの体を包みこみ、自分の元へと持ち上げた。
そうやって上にあがったソラトは、いきなり彼女に抱《だ》きついた。
「あたらしいのちょうだい! ねえ、ティリエル!!」
「はいはい、でもまずは、これを脱いでしまいましょうね、お兄様……」
ティリエルは蕩《とろ》けるような声で言った。蔓を使わず、自分の手で甲斐甲斐《かいがい》しく、胸から上、脛《すね》から下しかない鎧を脱がせてゆく。その一方で抜かりなく、蔓を再びシャナの周囲へと伸ばしてもいた。
シャナもこれを警戒し、また強い再生能力を持つ相手への無闇《むやみ》な攻撃を手控えて、静かに慎重に、その挙措《きょそ》を窺《うかが》う。
奇妙な戦闘の空白の中、ティリエルの放り捨てる鎧の残骸の次々に落ちる音だけが、次なる戦いへのカウントダウンのように、静かな街路に高く響く。
やがて全裸になったソラトが、優しく蔓で包まれた。
「新しいお洋服に、新しい鎧《よろい》……はい、できましたわよ」
再び蔓《つる》が解かれ、現れたソラトは、新たな鎧をその身にまとっていた。今度は、兜《かぶと》のない軽装である。
ティリエルは最後に、ビルの壁に突き立った『吸血鬼《ブルートザオガー》』を蔓で絡《から》め取ると、わざわざ自分の手に持ち替えてから、兄に捧げ渡した。
「剣は、もう少しの間、これで我慢してくださいね」
言いつつ、目線だけをシャナの方に流す。
「あれを、すぐに、いただきますから」
「うん!」
ソラトは頷《うなず》き、剣を無造作《むぞうさ》に取り上げた。
(言ってろ)
シャナは心中で吐《は》き捨てる。さっきから、この兄妹のやり取りが癇《かん》に障《さわ》ってしようがなかった。その不愉快さを闘争心に変えて、次の狙《ねら》いを定める。
目の前の愛染《あいぜん》の兄妹≠ノではない。
ソラトに再生のための力を流し込んだ存在の力≠フ根源に、である。おおよその場所の見当はついている。
距離はそこそこに遠い(ついでではあるが……学校とも離れることになる)。
恐らくはそれこそが、
(この空間を制御《せいぎょ》するための中枢《ちゅうすう》……?)
だとしたら、ティリエルがそこへの接近をすんなりと許すはずもない。現に、その方角には丁度《ちょうど》立ち塞《ふさ》がるように彼女が巨大な蔓の塊《かたまり》と共に陣《じん》取っている。偶然ではないだろう。ソラトとともに、あらゆる意味で舐《な》めてよい相手でないことは、もう証明済みだった。
焦《あせ》らず確実に、一手一手打っていかねばならない。その思考の中、
(そういえば)
一人の少年の姿を思い浮かべる。
この異界の調査、あるいは対処のために出て行った少年。
彼も、そこに向かうのだろうか。
だとしたら、巻き込んでしまうかもしれない。
(……けど)
危難に際して鋭い彼の機転が助けになる、それよりも、
口にした覚悟《かくご》が嘘《うそ》でないと証明してくれる、それよりも、
ただ、そこにいてくれれば、それだけで、
(嬉《うれ》しい)
坂井《さかい》悠二《ゆうじ》は、シャナが狙《ねら》い定めたのと、全く違う場所へと向かっていた。
討滅《とうめつ》の追手《おって》フレイムヘイズ、異世界の人喰い紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》=Aそしてその下僕《げぼく》である怪物燐子《りんね》≠セけが動くことのできる因果《いんが》孤立空間・封絶《ふうぜつ》の中、山吹色《やまぶきいろ》の霧を潜《くぐ》り、ときに行き合う静止した人々をかわして、ただ進む。
霧はその行く手、堤防沿いの道路の彼方《かなた》を厚いベールで隠して、まるで無限の広がりでも奥に秘めているかのような錯覚と不安を抱《いだ》かせる。存在の力≠フ流れを細やかに感じられる自分の感覚だけが頼りだった。
「――っは!?」
それとは関係のない、生《なま》の人間としての感覚が、全《すべ》てが静止する封絶の中、物音を捉《とら》えた……と思った。転がるように、傍《かたわ》らにあった道路工事の立看板の陰に身を隠す。
「――――――――」
胸を打つ動悸《どうき》の音が外に漏《も》れないか、そのあまりの大きさに本気で心配する。禁忌《きんき》のように息を止め、全神経を張り詰めさせて、今隠れている場所から見える範囲だけを探る。看板から顔を覗《のぞ》かせるまでの度胸はない。
異様なまでに冴《さ》え冴《ざ》えとした視界に広がるのは、右手に芝を隆起させる堤防、左手に軒を並べる古アパート、頭上に大きくなりすぎた街路樹、足下に粗末《そまつ》な舗装の道路……ただの街の一角、当たり前の光景。
しかし、それらを薄《うす》く包み、重くたゆたう山吹色《やまぶきいろ》の霧がある。
その中に、ぽつんと一人、買い物帰りらしい、スーパーの袋を下げた女性が静止している。
それだけで、全《すべ》てが異界の眺めへと変じる。
特に悠二にとって『封絶の中で静止した人間』は、自分のそれまでを全て打ち砕《くだ》いた赤い夕日を、紅世の徒≠フ下僕である怪物に襲われた情景を思い起こさせる。
あのときの、喰われる、という事態への焦燥《しょうそう》感にも似た原始的な恐怖。
(――「いただきま――――す!!」――)
霧の中から、その怪物燐子《りんね》≠ェ近付いてくる……
そこから
あのときの、自分という存在を、抗《あらが》えない力で左右されることへの根本的な恐怖。
(――「なにが入っているのかな、その中……」――)
いきなり頭上に徒≠ェ現れて、自分の存在を消し去る……
思い出したくもない、それらおぞましい記憶が次々と脳裏に蘇《よみがえ》り、また今の危機感へと変化する。じっとしていても、背筋の神経を一つ一つ氷でなぞられるかのような寒気が走る。
その寒気の中に囁《ささや》きが、幾つも重なり、何度も繰り返し、また混じり合って、響く。
止まれ。もういい。ここに隠れてろ。おまえはもう十分以上にやった。あとはシャナに任せろ。彼女が全部やってくれる。そこまでする甲斐《かい》はない。誰も守ってはくれないぞ。自分を守る力さえないじゃないか。命を、存在を、みすみすドブに捨てるつもりか。止《や》めるんだ。
悠二《ゆうじ》は、安堵《あんど》と甘さをちらつかせる、これら怯懦《きょうだ》の誘惑を、
「……やなこった、クソッタレ」
と、ことさらに口汚く罵《ののし》って追い払った。
その字面《じづら》だけなら、ハリウッドの映画に出てくるタフガイとも真《ま》っ向《こう》勝負できる格好よさだったが、残念ながら今の彼は、銃口を並べる敵のボスに(活劇の前フリである)死刑宣告を受けているわけでも、悪の帝王に「ともに世界を制しよう」という(一旦《いったん》承知してから不意打ちすれば良さそうな)誘いを受けているわけでもない。錆《さ》びた立看板の影で、汗をダラダラと流し、震えて独り言を呟《つぶや》いている一少年である。
「――分かってる[#「分かってる」に傍点]、けど[#「けど」に傍点]」
どれだけ格好悪くても動ければいい。シャナを助け、封絶《ふうぜつ》に囚《とら》われた御崎《みさき》市を守るために、自分にできると判断したことを、とにかく[#「とにかく」に傍点]果たし、行う。
(結局のところ、僕が強くなる、シャナのためにできることってのは、こういうことだけなんだしさ……だったら、そうと決めたんなら、やるしかないじゃないか)
そうとも。
やると決めたのだ。
あとは、実行するだけだ。
(シャナのために、強くなる……こういうところで、せめて)
行動への平静な力を、心の奥底から搾《しぼ》り出す。行動できるのなら、多少格好悪いことくらい、どうということは…………まあ、少しは格好をつけてみたい気もするが、それは後日の課題ということで。
(よし)
能天気な思いを巡《めぐ》らせることで、少しは落ち着いた。やはりと言うべきか、周囲には紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠竍燐子《りんね》≠ェ振り撒《ま》く世界の違和感……気配はない。何十度目かの、臆病《おくびょう》な自分の被害|妄想《もうそう》だったわけだ。
(行くか)
立看板の陰から、おっかなびっくり踏み出す。
静止した女性の脇を抜け、シャナと紅世の徒≠ェ戦っている気配を背中に感じて、霧の中を、自分の感覚だけを頼りに進む。
シャナの戦っている相手は、違和感を波のように、無茶苦茶に大きく小さく撒き散らしていた。分かりにくいが、ときどき微妙に、その振幅《しんぷく》が分裂する。歌の音階が上下に分かれるような、微妙な感じだった。
(そういえば、シャナは『最低二人』って言ってたな……もしかしたら、二人を相手にしてるのかも)
二対一、その事実に危機感が高まる。
(もう一人……どデカい奴《やつ》は、ずっと動かないし……なにやってるんだろう?)
アラストールによれば、違和感の振幅《しんぷく》の激しい奴《やつ》は、様々な自在法を使う変則的なタイプ、最初から大きな奴は、地力《じりき》の大きな実力派だという。
その実力派がついさっき、この街にいたもう一人のフレイムヘイズを倒した。
戦っていたフレイムヘイズの気配が、突然消えてしまった。
吼《ほ》え猛《たけ》る戦闘狂。蹂躙《じゅうりん》の爪牙《そうが》<}ルコシアスの契約者。かなりの美貌《びぼう》、スタイルも抜群という、いわゆる美女。『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドー。
(死んだ、のかな)
一度しか会ったことはなかったし、直接話をしたわけでもない……ほんの薄《うす》い縁《えん》しかない間柄だったが、それでも関わってしまうと、その成り行きを気にせずにはいられないのが人情というものだった。死んでしまったというのなら、なおさら。
正直、戦力として当てにしていたというのに、全くの誤算だった。自分たちと戦ったときの手強《てごわ》さが嘘《うそ》のように、あっさりと勝負はついてしまった。勝った徒《ともがら》≠フ方は今、悠々《ゆうゆう》と市の中心部に陣《じん》取っている。
つまりシャナは、当面でも二対一、全体では三対一という状況の元、戦っていることになる。相手の気配の大きさ(ご丁寧《ていねい》に、振幅の大きな奴、最初から大きな奴、両方の種類が揃っている)を考慮に入れなくても、シャナの不利は明らかだった。自分にできるやり方で彼女を助けねばならない、そんな切迫した危機感も持たされようというものだった。
(それにしても、遠いな……)
学校から、そんなに離れているようには感じなかったのに、まだ着かない。これは自分が隠れ隠れ歩いているためか、緊張して時間を長く感じているのか……恐らくその両方だろう。
シャナに背を向けて進んでいるのも、もちろん逃げているわけではない。彼女の戦いから得られたヒントで、この封絶《ふうぜつ》もどきに自分なりの対処をしようと考え、とある地点に向かっているのだ。
さっきシャナが、ドでかい力を使って徒≠叩《たた》いたとき、ダメージを回復させるためだろう、いきなり徒≠ヨと物凄《ものすご》い量の力が流れ込んだ。その力はかなり遠く、住宅地の外れあたりから放出されていた。
そこには燐子《りんね》≠ノ似た、微妙に大きな気配がある。しかし、
(あれは全体の中の、ほんの一部だ……もっと、ずっと、広がってる)
この巨大な封絶もどきの全域に、根のようなものが広く張られているのを感じる。
力を放出したものを蛇口《じゃぐち》とすれば、広がる根はそこに存在の力≠送る水道管といえる。そして、街の各所にはその水源……つまり存在の力≠周囲から吸い取り奪うなにかが散らばっている。封絶全体で見ると、この分布は、住宅地側には片手の指で数えるほどしかなく、市街地側にかなり多い(実は昼間ということで、住人が都市部に集まっていたため)。
今目指しているのは、住宅地側にある数少ないものの一つだった。
(もし、それが燐子《りんね》≠セったら、どうしよう)
かつて、紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠フ下僕《げぼく》であるその怪物に喰われかけたことを、また思い出す。あるいは徒≠ノ対するよりも、抱《いだ》く恐怖心は大きいかもしれなかった。
(……でも、行く)
不幸中の幸いと言うべきか、これまでのところ、その水源のような存在が動いた気配はない。その事実が、度胸ギリギリのラインで、なんとか体を動かしていた。とにかく、それに近付いて性質や仕組みなどを探り、できればなんらかの手段でそれを無力化したかった。なんらかの手段そのものについては、とりあえず見てから考えることにする。
やがてというか、ようやくというか、
(この先、か)
悠二《ゆうじ》は、目的地へと到着した。
目の前にある、枯《か》れかけた生垣《いけがき》を曲がった先。
どんな光景が、どんな怪物が、そこに待ち構えているのか。
大した量もない勇気をかき集めて、生垣の影からそっと顔を出す。
(なにも、出ませんように……)
そう願う悠二の背後[#「背後」に傍点]から、手が伸びる。
抱《だ》き合った愛染《あいぜん》の兄妹≠ェ、蔓《つる》の先頭に乗って高速で迫る。
ソラトの腰に手をやって、まるで社交ダンスのように支えるティリエルが朗《ほが》らかに笑う。
「さあ、もっと踊ってくださいな!」
ティリエルに支えられて、シャナへと風|斬《き》る刃を向けるソラトも無邪気《むじゃき》に笑う。
「き――ん……」
二人が丸ごと、鎖分銅《くさりぶんどう》のように振り回される攻撃の先端に、大剣『吸血鬼《ブルートザオガー》』がある。血色の波紋が速度に細かく震え、刀身が己を埋める獲物を求めて走る。
「……がぁん!!」
ソラトの緊張感のない声とともに、斬撃《ざんげき》がシャナにぶつかる。
シャナはこれに刃を一瞬だけ合わせ、逸《そ》らそうとする。数秒とて触れ合わせていれば、『吸血鬼《ブルートザオガー》』の力で傷を――と思う間も僅《わず》か、
「っく!」
斬撃の勢いに押されて弾き飛ばされていた。すぐさま路面を蹴《け》って方向を変える。
その後を追って、上から無数の蔓《つる》が槍《やり》のように矢のように降り注ぐ。大通りを山吹色《やまぶきいろ》の林に変えながら、次々と突き刺さってゆく。
シャナは回避しつつ、情勢を冷静に観察する。
(やっぱり……!)
ティリエルの操る蔓《つる》の塊《かたまり》はやはり、さっき存在の力≠ソラトに流し込んだ供給源のある方角を塞《ふさ》ぐように、巨体を押し進めていた。そこに向かわせたくないのだ。
蔓の塊の上で、相変わらず兄と体を絡《から》め合いながら、ティリエルが声を放ってくる。
「ああ、退屈ですわ、あなた。さっきのフレイムヘイズもそうでしたけど、全然お喋《しゃべ》りしてくれないんですもの。トモガラガニクイー、とか、ワタシノフクシュウノリユウハー、とか、なにか場を盛り上げるようなことを仰《おっしゃ》る気はありませんの?」
「……」
「もしかして、その余裕《よゆう》もないと?」
「……」
挑発とも本気とも取れるティリエルの声には答えず、シャナはひたすら背後から襲い来る蔓の攻撃を避け続ける。その疾走《しっそう》の中、砕《くだ》けたアスファルト片を一つ拾い上げ、気合|一閃《いっせん》、
「――っは!」
小さな掌《てのひら》に余る大きさのそれを、自分を追って来る蔓の雪崩《なだれ》の向こうに立つ愛染《あいぜん》の兄妹≠ヨと放った。
アスファルト片は、最小限のモーションで砲弾《ほうだん》にも勝《まさ》る威力と速度を得、兄妹へと飛ぶ。
「また?」
が、ティリエルはそれだけ言って、自分たちを乗せた蔓の束《たば》を軽く傾ける。アスファルトの欠片《かけら》は、掠《かす》りもせずにその傍《かたわ》らを通り過ぎた。
「何度やっても無駄《むだ》だと言っているのに」
呆《あき》れて肩をすくめる彼女の袖《そで》を、傍らのソラトが掴《つか》んで揺する。
「ティリエル、つぎ、つぎ、きろうよ!」
「はいはい、分かってますわ、お兄様。ちょっと興醒《きょうざ》めですものね、さっきから逃げては投げ、投げては逃げ、お喋りにも答えてくれませんし……そろそろ本気で片してしまいましょうか」
シャナを追う蔓の塊が、その速度を増した。山吹色《やまぶきいろ》の雪崩にも見えるそれは、目の前でチョロチョロと逃げ回る獲物を一息に飲み込もうと迫る。
「教えたげるわ」
「?」
ティリエルは、走る背中越しにシャナの声を……騒音の中でも確と響く強い声を、聞いた。
「おまえたちと話をしないのは、おまえたちが」
言葉を切るのに合わせて、シャナは急に振り返った。
(ジャンプしても無駄《むだ》よ、すぐに打ち落とせるわ)
と先までの戦いでシャナの動きに見切りをつけていたティリエルは、
完全に不意を突かれた。
一瞬、
たった一瞬で、シャナは眼前に雪崩《なだ》れてくる蔓《つる》の群れを掻《か》い潜《くぐ》り、驚く兄妹の傍《かたわ》らを、
飛び過ぎていた。
「――な!?」
「わ!?」
その背に、紅蓮《ぐれん》の双翼を煌《きらめ》かせて。
「ベタベタして不愉快だからよ」
素っ気ない声を通り抜け様に残して、シャナは蔓の塊《かたまり》の後方へと抜ける。幾度となく物を投げつけたのは、この不意な飛翔《ひしょう》による突破のために、蔓の反応速度や、飛来物への対処の動作などを感覚として掴《つか》むためだった。
そして兄妹を背にした今、彼女と存在の力≠フ供給源との間を阻《はば》むものは、なにもない。
「っく――!」
「まてえ!」
追いかけっこが再び始まる。
狙《ねら》うべき標的へと向けて、シャナは紅蓮《ぐれん》の双翼から光跡《こうせき》を一線引いて、飛ぶ。
その後を山吹色《やまぶきいろ》の蔓が一斉に、決壊《けっかい》した堤防から溢《あふ》れる濁流のように雪崩れてゆく。大通りの街灯を薙《な》ぎ倒し、車を轢《ひ》き潰《つぶ》し、人を押し流し、後を追う。
もう互いに遊びはない。
(どこ?)
シャナは得た感覚に従い、大通りから外れる。やや低い家屋の密集地の上を、一気にショートカットして抜ける。追ってくる兄妹によって、その後は一直線の破壊に巻き込まれてしまうが、今は他《ほか》にやりようがない。行く手にあるはずの自分の標的を探す。
(――あった!)
方角はドンピシャ。
コの字型マンションの中庭から巨大な、空へ手を差し伸べるように花弁を開く、華麗《かれい》な山吹色の花が咲いていた。異界全体から存在の力≠集め、その維持や制御《せいぎょ》を行っている、自在式か燐子《りんね》≠ゥの仕掛けに違いなかった。
シャナは飛翔《ひしょう》の快感と戦機を前にした高揚で、まさに火の玉のようになっていた。
「ふ――っ」
シャナは手の内にある『贄殿遮那《にえとののしゃな》』に、再び力を集中させる。
蔓とともに雪崩れてくる愛染《あいぜん》の兄妹≠フ姿は、シャナのはるか後方にある。地面を伝い、物を破壊しながらの進撃なのだから、当然ではあった。圧倒的な存在と力が、今は逆に彼らを縛《しば》る足|枷《かせ》となっていた。
シャナは最後に、標的である巨大花自身からの攻撃を警戒して、曲線軌道で上昇する。
(……顕現《けんげん》は一瞬でいい……ただ一息、アラストールがいつか、デパートの屋上を一撃で吹き飛ばしたときのような、一瞬必殺の大威力!!)
その上昇の頂点で体勢を反転、真下へと大太刀《おおだち》を向ける。切っ先で指す、マンションを鉢《はち》に咲き誇る巨大花に、吼《ほ》える。
「――っ燃えろぉ!!」
空気を押し拉《ひしゃ》げさせるような燃焼の轟音《ごうおん》とともに、炎《ほのお》が膨《ふく》れあがった。
それは念じたアラストールのものよりも数段小さく、顕現もほんの一瞬でしかなかったが、しかし、それで十分だった。
彼女を始点とした火柱が、紅蓮《ぐれん》の奔流《ほんりゅう》となって直下の地面を直撃、そのついでのように、山吹色《やまぶきいろ》の巨大花を消滅させていた。
その紅蓮の輝きは、迸《ほとばし》り出たその一瞬で、また唐突《とうとつ》に消える。
後に残されたのは、黒|焦《こ》げになったマンション内側の壁と中庭のみ。その威力は、力を呼び起こしたシャナ自身でさえ驚かせるほどのものだった。一月《ひとつき》に渡る鍛錬《たんれん》と、戦闘によって高まった集中力の成せる業《わざ》だった。
「っはあ、はあ……これで!」
シャナは僅《わず》かに息を切らしながらも、この成果に満足する。これで戦局にも、なんらかの変化が起こるはずだった。動揺しているだろう愛染《あいぜん》の兄妹≠ノ向き直る。と、
「まだだ!!」
アラストールの鋭い声、
「っ!?」
大きな力を放出した後の弛緩《しかん》が、僅《わず》かに反応を遅らせた。
そしてそれは、致命的な遅れとなった。
どこかで嘲笑《ちょうしょう》が、ほろりと。
「うふ、かかった」
巨大花の破壊でできた空白に向かって、御崎《みさき》市全域から凄《すさ》まじい力が流れ込んできた。幾何学的にも自然物にも見える曲線に乗って走る力は、その勢いをまま、速さと威力に変えた自在法として発動する。
否、シャナの直下、四重五重の円形に並ぶ奇怪な山吹色の文字列が、互い違いに回り輝き、既に発動していた。
「しまっ――!!」
悠二《ゆうじ》は突然、首を真後ろから鷲掴《わしづか》みにされた。
「――ッ!!」
生垣《いけがき》の陰から飛び出しかけた、半端《はんぱ》な縛《しば》り首のような格好で固定される。
悠二はずっと恐れていたこと、不安に思っていたことの実現に凍《こお》りつき、暴れたり叫んだりすることも忘れた。自分を掴んだモノを振り返り見ることもできない。一杯に見開いた目で、角の向こうの光景を、ただ見る。
「!?」
得も言われぬ不気味な眺めが、そこにはあった。
古びた遊歩道脇の、街路樹の根でデコボコになった石|畳《だたみ》の歩道。
そこに、片足を上げた姿勢のままで止まっている、笑顔の老人。
彼の周囲、ポツリポツリと路面に揺らめく、幾つもの小さな火。
笑顔の老人は、人間ではなかった。
それは、シャナと戦っている敵に、回復のための存在の力≠供給した水源……そう悠二が捉《とら》えたモノだった。直感で、それがなんであるかを悟《さと》る。
(り、燐子《りんね》≠セ!)
その存在全体には、『人間の範疇《はんちゅう》』にない、なにか手を加えられた違和感のようなものが感じられた。紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠フ下僕《げぼく》……彼がかつて遭遇した、いかにもな強面《こわもて》の怪物たちとタイプこそ違うが、たしかにそう、燐子≠セった。
その周りの路面に揺らめく残り火の傍《かたわ》らには、子供用のゴムボールや真新しい三輪車、中身を零《こぼ》したジュースの缶《かん》などが、無造作《むぞうさ》に散らばっていた。これらは、遊んでいた子供たちとその親、もしかすると老人の縁者たちだったもの……さっきの戦いに供給するため、この燐子≠ノ存在の力≠吸い取られた、人間たちの残骸《ざんがい》だった。
悠二はそれら、笑顔の周りに広がる凄惨《せいさん》な喪失の光景を、首を鷲掴みにされたまま見せつけられる。
直前に、シャナがまた大きな力を振るったような気がしたが、自分の置かれた状況に呆然《ぼうぜん》としていて、冷静な判断を下すどころではなかった。
その見る先で、老人の姿をした燐子≠ェ変化を始めていた。
笑顔が、体が、積み木を崩すようにばらけた。それら部品の間を繋《つな》いでいる山吹色《やまぶきいろ》のリボン状のものが伸びてゆく。その複雑に絡《から》み合った文字列とも立体的に組み合わさった記号とも見えるものこそ、不思議を起こす力の流れの象徴にして効果を増幅《ぞうふく》する装置自在式≠セった。ばらけた部品を糧《かて》に、その自在式はどんどん長さを増し、絡み合い、膨《ふく》れ上がってゆく。
「……うわ」
動けない悠二の眼の前で、山吹色の自在式の塊《かたまり》は、周囲の家屋を越す高さにまで伸び上がる。リボン状の自在式はいつしか植物の蔓《つる》の形を取り、高く伸びた先端が縒《よ》り合わさって一つの大きな蕾《つぼみ》になる。
そして、その蕾は咲くための養分を求める。今度は上ではなく周囲へ、地面を伝ってジワジワと、根っ子のように蔓《つる》が伸び始めた。その先端に触れた残り火が、次々と存在の力≠吸い尽くされ、消滅してゆく。
「あ、あ……」
その蔓の先端が、首根っこを押さえられた悠二《ゆうじ》の方にも伸びてくる。
自分も消滅する……悠二はその魔手の迫る様を呆然《ぼうぜん》と眺めやる。
こうなることは覚悟《かくご》していた。
しかし実際にその憂《う》き目に遭《あ》うとなれば、当然の恐怖が湧《わ》いてくる。
ただ、後悔は感じない。それだけが、辛《かろ》うじて彼女に誇れることだろうか。
それでも、取り乱したのか悲しみからか、目がどうしようもなく潤《うる》む。
みっともない、などと考えられる余裕《よゆう》はなかった。
「――シャナ!!」
どんな意味を込めて搾《しぼ》り出したのか、自分でも分からない叫び。ただ、自分が最期《さいご》に言うべきことが、それ以外に思い浮かばなかった……それだけの、叫び。
「不愉快な名前ね」
「!?」
聞き覚えのある声に驚いた悠二は、後ろへと引き寄せられた。
「あんた、こんなとこでなにやってんのよ」
死んだとばかり思っていたフレイムヘイズ、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドーが、呆《あき》れ顔を彼に向けていた。
シャナは、空中で全身をぶん殴《なぐ》られたような衝撃《しょうげき》を受けた。紅蓮《ぐれん》の双翼にさえ飛翔《ひしょう》を許さない凄《すさ》まじい力で、地面へと引き寄せられる。地面に叩《たた》きつける気か、と思う間に再び、今度は引き千切《ちぎ》られるような痛みが四肢《しし》を襲う。
「っぐ!? こ、これ、は……」
シャナはマンション中庭の空中に、両腕を広げ、足をまとめた十字架の形で磔《はりつけ》にされていた。両手首と足首にはそれぞれ山吹色《やまぶきいろ》に光る自在式が回り、枷《かせ》となっている。その枷は宙で固定され、引くことも押すこともできない。紅蓮《ぐれん》の双翼の力を全開にしても同じ、虚《むな》しく背中で燃えるだけだった。
「わあ、すごいよ、ティリエル! こんどもつかまえたね!」
「ええ、当然ですわ、お兄様。フレイムヘイズって皆、頭が悪いんですもの」
囚《とら》われたシャナの頭上から、感嘆と嘲《あざけ》り、二つの明るい声が降りかかる。
「どうせ、あの大きな花を、私たちの弱点とでも思われたのでしょう? あんなに目立つ形で、しかも無防備なままに一輪、咲かせていたというのに……うふふ」
二人で一つの影が目の前に落ち、
「あれは『ピニオン』っていう、この『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』中《じゅう》から存在の力≠集めたり、私たちの近場に放出させたりする燐子《りんね》≠フ一種ですの」
そして抱《だ》き合う愛染《あいぜん》の兄妹≠ェ、蔓《つる》に乗って眼前に下りてきた。
「『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』全体で……そう、二、三十は配置してありますわ。今も、ここの物が壊れたことで、また別の『ピニオン』が新しい放出口に変化したところ。一つで足りないというのならどうぞ、いくらでも壊してくださいな」
リボンで飾られた帽子《ぼうし》の鍔《つば》の下に、形だけの笑みが見える。
「もっとも『ピニオン』は『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』の中では人間に偽装《ぎそう》されていますし、変化後にはよりどりみどりの罠《わな》も一緒に起動するのですけれど……ああ!」
と不意に明るく、わざとらしく、今気付いた振りをして付け足す。
「そういえば、最初の一つ目で、もう動けなくなっているのでしたわね、ふふ」
笑みの陰から、嗜虐心《しぎゃくしん》が覗《のぞ》く。
「でも、念のため――!」
声の切れを号令として、電柱ほどはあろうかという蔓の束が、宙で十字に固定されたシャナの腹を横様《よこざま》に打った。
「――ッ!」
コンクリの壁も一撃で粉砕《ふんさい》するほどの打撃を受けて、しかしシャナは絶叫することを堪《こら》えた。
「やっぱり動けないようですわね、ふふ」
それを微笑《ほほえ》んで眺めるティリエルの、今度は不意の一撃。
「っかは!」
背中をいきなり、より強く打たれて、シャナは思わず息を漏《も》らした。集中力が途切れて、紅蓮《ぐれん》の双翼が火の粉《こ》となって散る。
「あら、失礼。もう一打ち、言い忘れてましたわ」
ティリエルは、その様をまるで命の散華《さんげ》するように捉《とら》え、満足気に目を細める。と、その腕の中に抱《だ》かれていたソラトが、彼女に頬《ほお》を寄せて叫ぶ。
「ねえ、ねえ、ティリエル! もういいよね! つかまえたんだしさ!」
「ああ、そうですわね、お兄様」
うっとりとした顔で、ティリエルは寄せられた頬に頬|擦《ず》りで答える。そして、いかにもついでという風に、シャナに言う。
「では、そろそろ『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を、渡していただけます?」
「ボクにちょうだい! はやく!」
待ちに待っていた玩具《おもちゃ》をとうとう手に入れることができる、その期待と興奮に、ソラトはこれまで以上に目をキラキラとさせていた。
「誰が渡すか――っうぐ!」
拒否を口にした途端《とたん》、シャナの右手首の枷《かせ》が、その締め付ける力を強め始めた。組織が圧迫され、骨がきしむ。
「まあ、強情《ごうじょう》ですこと。私たちが優しくしているからって付け上がられると……少し怒ってしまいますわよ?」
「はなさないね、まだ、はなさないね」
抱《だ》き合ったまま勝手なことを言う二人に、もうシャナは返事をしなかった。否、できなかった。ほとんど腕を砕《くだ》かれる寸前の、常人なら泣き喚《わめ》くか失神するかという激痛に、歯を食いしばって耐える。
そんな彼女の抵抗を、ティリエルは嘲笑《あざわら》う。
「ふふん、頑張《がんば》るだけ無駄《むだ》なのですけれど。首にも枷をはめてみます? それとも、もっと手っ取り早く、『吸血鬼《ブルートザオガー》』で腕ごと頂《いただ》きましょうか?」
「え、きってもいいの?」
これは脅《おど》しではなかった。二人の表情から、そうすることになんの躊躇《ちゅうちょ》も抱《いだ》いていないことが分かる。今すぐにでも実行しそうだった。
そうされないために、そうされた場合、どう対処すべきか……と強く思いを巡らせる間に、手の方が物理的に、握ることに耐えられなくなった。持っている物の重さで、細い指が柄《つか》からほどける。
「くっ……」
それは、力なく開いた親指に鍔《つば》を引っかけて回り、ズン、と切っ先から黒|焦《こ》げの地面に深々と突き立った。
ソラトが歓喜の絶叫を上げる。
「『にえとののしゃな』!!」
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3 紅蓮の宣誓
「あんた、封絶《ふうぜつ》の中で動けるくらいしか能ないんでしょう。なんで隠れてないわけ?」
前に会ったときよりやや低調な声で、マージョリー・ドーは言った。悠二《ゆうじ》の方を向かず、ただその首を掴《つか》んだまま、ズルズルと後ろに引きずってゆく。
「うぐ、ちょ、うげ、苦、ぐ」
「ちょっと離れるわよ。このドでかい花モドキ、自在師と意識を同調させて、こっちの状況を見聞きするかもしれないから。私たちが動いてること、察知されるわけには行かないのよね」
「よお、マージョリー、首だ」
「……ん? ああ」
マルコシアスに言われて、ようやくマージョリーは、悠二が死にかけていることに気が付いた。手を離して、宙に浮かべたグリモア≠ノ腰掛けると、
「っげほ、げほっ、って、うわわっ!?」
今度は悠二《ゆうじ》を小脇に抱《かか》えて飛んだ。堤防を越えて一気に真南《まな》川を渡り、対岸・市街地側の堤防の陰に降り立つ。高い堤防の下なら、とりあえずさっきの燐子《りんね》≠ゥら、こっちは見えない。当面、あの蔓《つる》が伸びてくる心配もなさそうだった。
マージョリーは突然の飛翔《ひしょう》にクラクラしている悠二を放り出して、『玻璃壇《はりだん》』と通話する。
「聞こえる、二人とも? やっぱりこいつ[#「こいつ」に傍点]だったわ」
<<もう一人のフレイムヘイズのお付きで……ええ、と、たしかミステス≠チて奴《やつ》ですか?>>と佐藤《さとう》が、
<<そいつ、まさか戦おうとしてたんですか……?>>
と田中《たなか》が、それぞれ答える。
「みたいね。無謀《むぼう》もいいとこだわ。あのチビジャリに忠義立てしてるか、惚《ほ》れてるってとこでしょ」
悠二には、マージョリーが独り言を呟《つぶや》いているようにしか見えない。
「な、なに言ってるんだ……?」
マージョリーは、秀麗《しゅうれい》な眉《まゆ》をうるさ気に顰《ひそ》める。
「別の、もっとよく見える場所で戦況を監視してる私の子分たちと話してんの。少し黙ってて」
彼女は、自在法で『玻璃壇』に通信機の役割をする松明《たいまつ》を点《とも》すことで、佐藤・田中と話をしているのだった。ちなみに、向こうにはマージョリーとマルコシアスの声しか伝わらず、向こうの声も同様、マージョリーとマルコシアスにしか伝わらない。佐藤・田中と悠二はクラスメイトだが、互いがそこにいることには全く気付いていなかった。
マルコシアスが、そんな両者の間柄を知らぬまま言う。
「紹介は勘弁《かんべん》な。今後の活動に支障《ししょう》が出るといけねえんでよ、ヒッヒ」
その、なんだか含みのある言い草に、マージョリーは鼻を鳴らす。
「ふん、それより他《ほか》に動きは?」
<<……>>
<<……>>
沈黙が続いた。マージョリーは怪訝《けげん》に思って、もう一度聴く。
「なに、どうしたのよ」
さっきのように、また鬱陶《うっとう》しい文句を言うつもりか、なにか変なことを言ってしまったか、と密かに身構えたり動揺したりする彼女に、思いもよらない答えが返ってきた。
<<いえ、ちょっと感動してたんで……>>
佐藤は今、『玻璃壇』で両掌《りょうて》を力一杯に組んでいた。
「はあ?」
<<初めて『子分』って認めてくれたでしょう、姐《あね》さん>>
こっちはガッツポーズで震える田中《たなか》。
それを見てはいないが、声で彼らが本気だと感じて、マージョリーは呆《あき》れからの眩暈《めまい》を覚えた。思わず額《ひたい》を手で押さえる。
(……ど、どこまでガキなわけ……)
さっきは喧嘩《けんか》を吹っかけてきた(彼女はこう受け取った)くせに、ちょっと自分たちの気分を良くすることを聞いたら、もうこれだ。
(まあ、たしかに、子分としては可愛《かわい》げがあるけど……って――)
「――なに馬鹿《ばか》なこと言ってんのよ。それよりも、自在式に変化は?」
「ヒー、ハッハッハー! 照れてやがるぜ! 我が純情なるブッ!?」
「お黙り、バカマルコ!」
悠二《ゆうじ》の手前、マージョリーはことさら乱暴にグリモア≠ぶったたく。
<<え、えと、さっき出来上がった花モドキ――ですか? それが中心になるように、根っこというか、パイプラインみたいに繋《つな》がってる式が組み替えられました>>
<<トーチの方には変化がありません。花モドキの変化も、前もって分からなかったし……とにかく式はグチャグチャで、シロートには、もーなにがなんだか>>
できる範囲で正確に報告しよう、という意気込みが弾んだ声から丸分かりで、マージョリーは脱力する。なんだか色々、動揺したり気に病んだりした自分が道化《どうけ》のようだった。その馬鹿馬鹿しさは、顔の微苦笑、胸からのため息として表に出た。
「ふう――ん?」
マージョリーは、二人の報告と、目の前の少年がいるという事実から、気付いた。顎《あご》に手をやって沈思すること一秒、悠二に詰め寄る。
「そういや、なんであんた、あんな所にいたわけ?」
唐突《とうとつ》に美女に鼻先を突きつけられて、悠二は大いに焦《あせ》った。
「え、ああ、あそこにあった存在の力≠集める仕掛けを、なんとか壊そうと思って、急いで走って……まあ、それが燐子《りんね》≠セったことは知らなかったし、あんなのが相手じゃ、実際なにができたとも思えないけど……」
最後は渋々《しぶしぶ》、自分の不甲斐《ふがい》なさを吐露《とろ》する形になった悠二に、しかしマルコシアスは弾けるような感嘆で返した。
「おめえ、あの仕掛けがあることを、発動する前から察知してたってえのか!? 自在法の心得もねえのに!?」
「え? ……と、特別なこと、なのか?」
戸惑《とまど》う悠二を、マージョリーは興味深げに、ふうん、と眺め直す。
「思いっ切り、特別よ。この無茶苦茶に絡《から》み合った撹乱《かくらん》と偽装《ぎそう》の自在式の中で、隠された燐子≠フ位置を特定できるなんてね」
悠二《ゆうじ》は驚いた。このマージョリー・ドーは、戦闘の方面に特化しているとはいえ、相当な腕前を持つ自在師だとアラストールから聞いていた。その彼女でも見抜けなかったものを、自分が。
(そういえば、フリアグネの『都喰《みやこく》らい』のタネを見抜いたこともあったっけ)
ふと思い出す。消滅の覚悟《かくご》を決めていた極限状態では、シャナの心音《しんおん》を感じることさえできた。どうやら自分には、存在の力≠ノ対する特別な知覚があるらしい。日毎その力を左右する『零時迷子《れいじまいご》』によるものなのか、と冷静に考えるのは一瞬だけ。
なにより今は、歓喜が先立った。
(そうか……僕にも、シャナの役に立てる力があるんだ!)
「なるほど、チビジャリも案外、良い子分を持ってるじゃない」
感心した風に言うマージョリーの耳に、
<<むっ>>
と『玻璃壇《はりだん》』から嫉妬《しっと》の唸《うな》りが二重に聞こえた。ざまあみろ、と大笑いしたい気持ちを押さえつつ(それでも微妙にニヤつきながら)、話を続ける。
「あんた、私の嫌《いや》がらせに協力しなさい。チビジャリの方は、あの陰険変態兄妹との戦いで忙しいし。結果的に、チビジャリを助けられるわよ」
どうも彼女は、この状況下で幸いなことに、シャナに酷《ひど》い目に遭《あ》ったことを根に持ったりしていないらしかった。戦闘狂だから粗暴《そぼう》、復讐《ふくしゅう》者だから執念《しゅうねん》深い、という安直《あんちょく》な連想で片付けられるほど、単純な性格でもないらしい。
ともあれその提案は、悠二にとっては望むことそのものである。断るわけもなかった。強く頷《うなず》き、要求さえする。
「分かった。とりあえずその、変態? 兄妹……とか、事情を説明してくれよ」
「ヒュウ! ホントーに良い子分じゃねえか」
「それともなに、やっぱ惚《ほ》れてるわけ?」
からかうマルコシアスと他意なく訊《たず》ねるマージョリーに、悠二は咳《せき》払いだけで返事した。
もはや主《あるじ》にとって古びた玩具《おもちゃ》でしかなくなった大剣『吸血鬼《ブルートザオガー》』が、乱暴に放り捨てられた。まるで風車のように回転して、黒|焦《こ》げの壁に音高く突き立つ。
その主たる愛染自《あいぜんじ》<\ラトは、自分が長い間欲しがっていた新しい玩具、ただそれだけを見つめている。
シャナの炎《ほのお》で炭化した芝生の上に突き立つ、一振りの大太刀《おおだち》。
余計な装飾のない質実簡素な拵《こしら》えが与える、重みを持った風格。
優美に反《そ》った細く厚い刀身に満ちる、獰猛《どうもう》でさえある殺伐《さつばつ》の銀。
双方の全《まった》き調和のもと、佇《たたず》むその銘《めい》は、『贄殿遮那《にえとののしゃな》』。
「うわあ……」
ソラトは意味のない嘆声を上げながら、手を伸ばす。
噂《うわさ》はずっと、聞いていた。永きに渡り紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠ニフレイムヘイズを屠《ほふ》り続けてきた化け物トーチ、史上最悪のミステス=A紅世≠ノ関わる全《すべ》てに仇《あだ》なすモノ……天目一個《てんもくいっこ》=B
その本体にして神通無比の力を謳われる大太刀《おおだち》が、この『贄殿遮那《にえとののしゃな》』なのだった。
しかし、ソラトは感慨を抱《いだ》くことも、勿体《もったい》つけることもない。アイスクリームや風船を欲しがったときと同じ、己《おの》が欲望を満たす物の一つとして、無造作《むぞうさ》にそれを取り上げた。
「やったぁ! やったぁ! 『にえとののしゃな』だ!!」
びょんぴょん飛び跳《は》ねて、『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を振り回す。
宙で磔《はりつけ》にされたシャナは、そのソラトのはしゃぐ姿に、どうしようもない不快感を持った。アラストールを侮辱《ぶじょく》される感覚と似た……自分の一部でさえある、数多《あまた》の戦いを一緒に潜《くぐ》り抜けてきた友を汚されているような気持ちだった。そんなシャナの深い憤《いきどお》りを余所《よそ》に、
「やったよティリエル! ボクのもの、ボクのものだ!」
ソラトは叫んで、妹に抱《だ》きついた。その胸に埋もれながら、喜びを満面に示す。
ティリエルも、無邪気《むじゃき》な兄を胸に抱き締めて、ほとんど恍惚《こうこつ》とした表情で答える。
「その通りですわ、お兄様。あなたの物、私が与えた、あなたの物……ん」
ティリエルは、ソラトの髪にキスをした。
「……お兄様」
彼女の声に求めを感じて、ソラトもティリエルの胸から顔を上げる。
「うん! ごほうびだね!」
二人は見つめ合い、予定調和のように顔を寄せてゆく。
(……なに……?)
訝《いぶか》しげなシャナの目前で、その行為は始まる。
(――「自分の全てに近付けてもいい、自分の全てを任せてもいい……そう誓う行為」――)
不意な予感とともに、坂井《さかい》千草《ちぐさ》の声が脳裏に響いた。
(――「それは親しい人たちに対するものと違う」――)
今、行われつつあるものがそれ[#「それ」に傍点]だとは、どうしても信じられなかった。
(――「もっと強くてどうしようもない気持ちを表す、決意の形」――)
しかし、間違いようもない、互いに吸い寄せられるようなそれは、
(――!!)
口と口の、キス。
(――気持ち、悪い――)
唇《くちびる》を重ね、舌を絡《から》め合う二人の姿を、シャナはそう感じた。感じつつも目を閉じなかったのは、千草の言葉と目の前の行為が繋《つな》がらないことへの不審、そして最悪の意味で受けた衝撃《しょうげき》があまりに大きすぎたからだった。
こんなこと[#「こんなこと」に傍点]、不快にしか思えなかった。
と、まるでその気持ちが伝わったかのように――あるいは顔に出ていたのかもしれなかったが――ティリエルは眉《まゆ》を険《けわ》しく寄せた。
「…………ん」
最後にひとしきり強く兄を抱《だ》き締めると、名残《なごり》惜しげに唇《くちびる》を離す。僅《わず》かに唾液が糸を引く様が、よりシャナの不快感を煽《あお》った。
「そういえば、あなた……さっきおっしゃいましたわね?」
「……」
腕の内に兄を容《い》れて問い詰めるティリエルに、しかしシャナは答えない。
「ベタベタして不愉快、とか……私、侮辱《ぶじょく》は許さない質《たち》ですの。私とお兄様の愛を汚《けが》される類《たぐい》の言葉は、特に」
ティリエルはソラトの手を引いて、シャナのすぐ前に立った。シャナはやや高い場所で磔《はりつけ》にされているため、二人の顔は丁度《ちょうど》、彼女の腹あたりの高さになる。
「さて、どうやって殺して差し上げましょうか……っ!」
ガアン、とまた予告なしに、今度は頭を横様《よこざま》に蔓《つる》の束でぶん殴《なぐ》られた。
「ぐ、あっ!」
シャナは完全に空中で固定されているため、その衝撃《しょうげき》を動作や姿勢で逃がすことができない。全《すべ》てダメージとして受け取ってしまう。頭がくらくらして、目の前が白と極彩色に瞬《またた》いた。
(……違う、なにか、違う……)
その衝撃の中に、シャナは思いをよぎらせる。千草《ちぐさ》の言葉に納得した自分の気持ちと、この二人の様子に抱《いだ》いた違和感が、どこかで繋《つな》がっているのを感じる。
「ふん、せっかく時間をかけて『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』を張ったというのに、最初の罠《わな》でもう終わりなんて……威勢《いせい》の割《わり》に呆気《あっけ》なさ過ぎましたわね」
ティリエルの嘲《あざけ》りの端《はし》に、遊びの無い殺気がある。周囲に、蔓がざわめき伸びる気配が湧《わ》き上がる。
そのとき、
「ねえ、ティリエル! こいつでためしぎりしてもいい!?」
声に楽しさを一杯に表して、ソラトが言った。
途端《とたん》、ティリエルの殺気が霧散《むさん》した。
「あら、さっそくですの? どうぞ、構いませんわよ」
まるで散歩にでも誘われたような、明るい同意。
「ええとね、すこしずつきりきざんで、さいごにあの、ほのおのけんでとどめをさすんだ!」
「まあ、それは素敵なやり方ですわね」
「うん!」
ソラトの、頷《うなず》く仕草《しぐさ》と斬《き》る動作が、全く同時に起きた。
シャナが気付いた時には、もう彼は両腕を振り上げていた。
「――!!」
剣のやり取りで完璧に不意を突かれた衝撃《しょうげき》に、シャナは凍《こお》り付いた。
今ソラトが殺すつもりだったら、間違いなく即死していた。ただでさえ技巧精妙の使い手だったこの美少年は今、念願の宝具《ほうぐ》を手に入れ、精神的にも最高潮の状態にあるのだった。
「うん」
再びソラトが言うと、それを合図にしたかのように、斬撃《ざんげき》の成果が現れる。落ち葉の枝から離れるように、朝露の葉から零《こぼ》れるように、自然に。
白い上着の下半分に縦《たて》一線引かれていた斬撃の跡……先の戦闘中に斬られたその跡が、全く同一の延長線を描いて襟元《えりもと》へと伸びた。ハラリ、と上着が中心から分かれ、タイが結び目から二片を落とす。胸に下がったペンダントコキュートス≠避け、下のキャミソールにも繊維一本の傷さえ付けていない。恐るべき腕の冴《さ》えだった。
「このけん、ぜんぜんはすじがみだれない! ふりごこち、さいこうだよ!!」
その技巧が嘘《うそ》のように、ソラトは子供っぽく大太刀《おおだち》をブンブン振り回す。
ティリエルは耽溺《たんでき》の表情で答える。
「ええ、お見事ですわ、お兄様……神器までよけて差し上げるなんて、うふふ」
行為に声に嘲弄《ちょうろう》を受けるアラストールは、しかし答えない。
それをティリエルは観念したものと受け取った。勝ち誇って処刑法を告げる。
「さっき私のお兄様が仰《おっしゃ》ったこと、覚えていらっしゃる? 次はその貧相な胸の覆《おお》いを、その次は皮、その次は肉、その次は骨、その次は内蔵を一つずつ斬っていく……フレイムヘイズ相手によくやるお遊びですの。あなたは、どの辺《あた》りまで生きていられるかしら?」
「くっ……!」
シャナはなぶられる屈辱《くつじょく》に歯を食いしばり、全身に力を込めるが、やはり両手首と足の枷《かせ》はびくともしない。
その様に嗜虐《しぎゃく》の愉悦《ゆえつ》を感じつつ、ティリエルは兄を促《うなが》す。
「さあ、お兄様、続けてくださいな」
「うん、ふたつめ!」
剣風さえ感じさせない鋭い斬撃が過ぎて、今度はキャミソールが真ん中で割れた。
(……皮は、我慢できるかな……骨までだと、無理……)
シャナは、胸の中央を晒《さら》す羞恥《しゅうち》など感じない。次に来る一撃が、戦況にとってどれほど不利になるか、それだけを冷静に考えている。非常時に発揮する力も密かに溜め、顕現《けんげん》の構成を静かに練る。
そんな彼女に気を配るでもなく、ソラトは『贄殿遮那《にえとののしゃな》』の刀身に手を添える。
「このけん、すごいね! ボクのねらいにぴったりとんでいくよ! これなら、かわもにくもほねも、いままでよりずっとうまくきれるよ!」
「うふふ、そのようですわね。さあ、次を――」
市街地、山吹色《やまぶきいろ》の霧の中で静止する人込みの上を、束ねた画板ほどもある本グリモア≠ェすっ飛んでゆく。
「こ、今度の徒《ともがら》≠スちは『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を狙《ねら》って……? じゃあ、これはシャナのせいだって言うんごぁ!?」
その後ろに掴《つか》まる悠二《ゆうじ》は、カーブを曲がる拍子に舌を噛《か》んだ。
前には、マージョリーが足を組んで腰掛けている。膝《ひざ》についた頬杖《ほおづえ》の上から、無知に呆《あき》れる声が返ってきた。
「馬鹿《ばか》。誰も責めてなんかないし、責められるようなことでもないわよ。あの陰険変態兄妹が行く所は、全部こうなる。今度はたまたま、奴《やつ》らがここに来たってだけよ」
「ヒヒヒ、ま、そーゆーこった。ここに来たおかげでどっかは助かった。ここで討滅《とうめつ》すりゃ、以降の犠牲も出ねえ。フレイムヘイズの仕事ってなあ、そーいうもんよ。誰だって万能にゃーなれねえ。なら、次善《じぜん》の策《さく》で行くしかねえの、さ!」
マルコシアスも軽く言って、グリモア≠加速させる。山吹色《やまぶきいろ》の霧溜まりに突っ込むと、真ん前にビル壁面の突き出し看板が現れた。
「おーっとっとい!」
軽くグリモア≠ェ横転、華麗《かれい》にかわす。
「うわっ!?」
悠二《ゆうじ》は、マージョリーのように自在法でグリモア≠ニくっ付いていない。危うく振り落とされそうになった。
「ほら、どーでもいいことグチャグチャくっちゃべってる暇はないでしょ。だいたい、なんで私たちがあのチビジャリの弁護なんか……」
マージョリーはぶつぶつ言いながらも、悠二をグリモア≠フ上に引き上げてくれた。ついでにその手を引き寄せ、もう振り落とされないよう自分の腰に掴《つか》まらせる。佐藤《さとう》と田中《たなか》が見たら狂死ものの厚遇《こうぐう》だった。
ジャケット越しに感じられる、その細さと柔らかさに、悠二はドギマギする。お礼を言おうと思って上を見ると、今度はそこに豪勢な胸がそびえていたりする。慌《あわ》てて目を逸《そ》らし、小声をようやく搾《しぼ》り出した。
「た、助か、りました、どうも」
「あーはいはい。それより、そろそろでしょ」
どういう会話を子分たちとしたのか、マージョリーは出くわしたときよりも、少し倦怠《けんたい》感が薄《うす》らいでいるように、悠二には見えた。
(どこにも誰にも、色々あるもんだ)
と今のやましい状態を、いろいろ考えることで誤魔化《ごまか》している内に、次の標的が近付く。
「あ、あれだ!」
「どれよ」
「どれでえ」
即座に突っ込みが入る。職業(?)柄、フレイムヘイズは正確で具体的な表現を好む。
悠二はマージョリーの右脇から首を突き出し、必死に目を凝《こ》らして言い直した。
「えーと、ガソリンスタンドの前にいる、黒と赤のシャツを着てる若い男だ!」
「よし、メモ! ガソリンスタンド前、黒と赤のシャツ、若い男!」
<<りょーかい、ええと、御崎《みさき》シネマ横か……ガソリンスタンド前、黒と赤のシャツ、若い――>>
<<男な>>
<<わ、分かってるよ。マージョリーさん、オーケーです>>
佐藤《さとう》と田中《たなか》が『玻璃壇《はりだん》』から答える間に、二人を乗せたグリモア≠ヘ、悠二が指した男の頭上を通過する。
その男の形をしたモノは、群衆に紛《まぎ》れて潜《ひそ》む、そして悠二だけに判別できる、特別な存在。この封絶《ふうぜつ》もどきの中、周囲の人間から存在の力≠集め、愛染《あいぜん》の兄妹≠ヨと供給する燐子《りんね》≠フ一つだった。マージョリーは今、悠二《ゆうじ》の感覚を借りて、市街地に散らばり潜伏《せんぷく》しているそれらを見つけて回っているのだった。
マルコシアスが呆《あき》れ声で言う。
「よお、素直に覚える気にゃなれねえか、我がものぐさな探索《たんさく》者、マージョリー・ドー?」
「もし不測の戦闘が始まったら、混乱して思い出すどころじゃなくなるでしょ。実際に記録しとくのが一番なのよ」
「なーるほど、ごもっともだ。それを他人にさせるとこがアレだけどな、ヒッヒ」
「お黙り」
マージョリーは前にぶらつかせていた足の踵《かかと》でグリモア≠小突いた。
彼女は、潜伏している燐子≠すぐに破壊せず、記録するだけに留《とど》めている。
理由は二つあった。
まず一つは、千変《せんぺん》<Vュドナイの参戦を遅らせるためである。
もし燐子≠フ破壊を察したシュドナイが早々に現れたら、戦いながら燐子≠見つけてゆく羽目になる。(マージョリーが自分の不調を隠して悠二に語るところ)これは至難《しなん》の業《わざ》で、まず悠二の身がもたない。よって、あらかじめ場所を確定しておいてから、後で改めてマージョリー単独で潰《つぶ》しにかかることにしたのだった。
もう一つは、マージョリー・悠二の共作による、現状を打開する作戦の一環としてである。
「一自在師としては、ド素人《しろうと》に助けられたまんまじゃ、立つ瀬がないのよね」
とマージョリーが、
「計算外の僕だからできることだと思う」
と悠二が、それぞれ作戦への意気込みを語っている。
不幸中の幸いと言うべきか、この封絶もどきの中において、シュドナイは己の大きな気配を全く隠していない。大|雑把《ざっぱ》ながら、どの辺《あた》りにいるかすぐに分かる。今も市の中央部に鎮座《ちんざ》したまま。不意打ちの心配だけはなかった。
「たしか、これで一五個目だったわね。あと何個くらいあるわけ」
とマージョリーが、しがみ付く悠二を見下ろして訊《き》いた。
悠二は持てる感覚を集中させて、できるだけ正確な答えを返す。
「ええ、と……住宅地にいる、花も含めた二、三個……これを除いて、七、八個ってところだ。あ、次の信号を右に」
その住宅地に散らばる燐子≠焉Aどうやら坂井《さかい》家や学校からは遠い場所にいる。母・千草《ちぐさ》やクラスメイトたちは無事のはずだった。
原因がどうあれ、事態への収拾に動いているのだから、このくらいの気|遣《づか》いや心情的な贔屓《ひいき》は許してもらえるだろう……と悠二《ゆうじ》は半ば開き直りのように思う。
(そうさ、次善《じぜん》の策《さく》しかないのなら、その次善をきっちりと果たすだけだ……)
シャナは、実行を前提とした脅《おど》しにも、取り乱したりはしなかった。
ティリエルは、頬《ほお》をわずかに強張《こわば》らせた。
己《おの》が復讐《ふくしゅう》を果たすこと叶《かな》わず、処刑を待つのみとなったフレイムヘイズたちの憎悪と怨嗟《えんさ》の叫び、狂乱して暴れる様……そんな、彼女らが常に迎えてきた勝利の姿を、彼女が取らないことが、気に食わなかった。
「――なにか、言いた[#「た」は底本では無し]いことでもおあり?」
宙に磔《はりつけ》にされたままのシャナは、臆《おく》せず堂々と答えた。
「おまえたちのは、違う」
「……なんですって?」
ティリエルは、この簡潔な一言に込められた、自分たちの在り様への否定を感じ取った。兄と繋《つな》いだ手に力を込める。ソラトがその手に怒りの前兆《ぜんちょう》を感じて、ビクリと肩を震わせた。
シャナは構わず、自分の気持ちを口にする。
「おまえたちのは違う、って言った」
「……ふん」
ティリエルは鼻で笑うと、強く握った手を引いて、兄を抱《だ》き寄せて見せた。ソラトは抱き寄せられるまま、その体を妹に預ける。
「私が与えて差し上げたのよ? お兄様に、この喜びを」
「……」
「そして、そのお兄様の喜びが、私の心を満たしてくれる」
「……」
シャナは、その抱き合う姿に、いつかの自分と悠二《ゆうじ》を思い起こし、そしてその同じはずの姿に、奇妙な齟齬《そご》のようなものを感じていた。
「それを感じ合い、確かめ合う……私たちは、お互いに愛を謳歌《おうか》している……討滅《とうめつ》しか頭にない王≠フ道具ごときに、とやかく言われる筋合いはありませんわ」
ティリエルはソラトと、今度ははっきりとシャナに見せ付けるつもりで、熱く濃厚な口付けを交わした。
(悠二と私も、いつか一緒に行くときに、こんなこと[#「こんなこと」に傍点]を……?)
シャナは兄妹の行為に釣《つ》られて一瞬、馬鹿《ばか》な妄想《もうそう》に引き込まれた。危うく我に返り、むっとなる。目の前の光景は、間違いなく受け入れられないなにかを持っていた。こんなことをするのは、絶対に嫌《いや》だった。
(そう……一緒に、っていうのは、こんなことじゃない……)
夜明け前、二人で青空を眺めたときの気持ちが、
(――「頑張《がんば》るよ」――)
戦いの前、別れたときの気持ちが、
(――「ありがとう。僕もやるよ」――)
こんな気持ちの悪いものと、同じであるはずがなかった。
(悠二《ゆうじ》……おまえは今、私と一緒にいてくれている[#「私と一緒にいてくれている」に傍点]……?)
それは問いかけでありながら、まるで確信のように心に響く。
シャナは、漠然《ばくぜん》とでありながらも感じている強さから、自分の想いの在り方こそが、唯一絶対の真実だと思っていた。ゆえにティリエルの、自分たちとは違う、より激しく執着《しゅうちゃく》に傾いた心情と行為が愛の一つ形であると理解できず、その姿に猛烈《もうれつ》な違和感を持っていた。
そんな彼女は、全く当然のように言う。
「やっぱり、違う」
「……」
ティリエルは、ソラトとの口付けを惜しみつつ、唇《くちびる》を離した。僅《わず》かに顎《あご》を引いて、帽子《ぼうし》の鍔《つば》の下に視線を隠す。その、笑顔に一線落ちる影の下で、ゆっくりと怒りが満ち始める。
それを感じながら、しかしシャナはきっぱりと言った。
「おまえたち、お互いにすがり付いているようにしか見えない」
ティリエルの笑顔が、
「――――!!」
一瞬で憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》へと変わり、絡《から》めていた手で兄のそれを引く。
「あっ?」
驚くソラトとともに、ティリエルはシャナへと手を伸ばしていた。二人の手にある『贄殿遮那《にえとののしゃな》』が、シャナの顕《あら》わになった胸の中央に突き付けられる。その切っ先が、本来の持ち主の白い柔肌《やわはだ》を、じわりと押した。
「……お子様には、少しお話が高尚《こうしょう》すぎましたかしら」
ティリエルは、その怒りの変貌に怯《おび》えるソラトを押さえつけるように胸に抱《だ》き、彼の手の上からかぶせるように握った大太刀《おおだち》で、シャナの胸の中心線を予行演習のようになぞる。
「愛を語ったところで、やはり道具相手では甲斐《かい》ないことだったようですわね……なるほど、その年でフレイムヘイズになっているのだから、女[#「女」に傍点]にも、なれていないのでしょうし」
「……女、に……?」
意味が分からず戸惑《とまど》うシャナを、ティリエルは深い怒りと優越感を混ぜて嘲笑《あざわら》う。
「ふん、そんなことも知らないくせに、私たちの愛を否定するなんて……」
憎悪の高まりとともに切っ先が止まり、シャナの胸に一点の影が深まる。
「……身のほど知らずもいいところ……!」
「っ!」
プツン、と切っ先の鋭さが、柔らかな肌の張力を越えた。ゆっくりと、血の玉が膨《ふく》らんでゆく。
「では、あなたの単純な頭でも分かるように言い直しましょうか。私はお兄様の望みを叶《かな》える、私はお兄様を守る、それが私の全《すべ》て……どう? 理解できまして?」
「――――っ!」
彼女が言う間にも、蟻《あり》の這《は》うようにゆっくりと、切っ先は下がっていた。血の球は崩れ、一筋の赤い流れとなる。
「そう、今のように」
シャナは叫びを堪《こら》え、思う。
(――こんな奴《やつ》らに見せ付けられて、戯言《ざれごと》を聞かされて――)
うんざりだった。
(――一緒にいるのも、もう――)
と、いきなり、
「!! ――なに、これは!?」
ティリエルが顔を跳《は》ね上げた。遠く市街地へと視線を巡らせる。
シャナも感じた。市街地に、一個の気配が現れている。
間違えようもないそれは、先の強大な徒《ともがら》≠ニの戦いの中、消えたはずの、獰猛《どうもう》な存在。
フレイムヘイズ、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドー、再びの参戦の証だった。
山吹色《やまぶきいろ》の霧の中に、ごく普通の乗用車が一台、止まっている。停まっているのではなく、止まっている『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』に囚《とら》われて、走行中に静止したのである。
にも関わらず、運転席には誰もいない。その隣の助手席、ぶち割ったフロントガラスから両足を投げ出して寝ているダークスーツの男に、もう喰われていた。
<<シュドナイ!>>
その車の傍《かたわ》らに棒立ちになっていた、配送屋らしき男の姿をした燐子=\―無論、『ピニオン』の一つである――が、彼の雇《やと》い主《ぬし》の言葉を届けた。
「聞いてるよ」
リクライニングを一杯に倒した助手席から、千変《せんぺん》<Vュドナイは答えた。サングラスに隠した目は開けず、火の消えた煙草《たばこ》を咥《くわ》えている。
<<気配は感じているのでしょう! なぜフレイムヘイズを殺しに行かないの! あいつよ、あの爪牙《そうが》の奴隷《どれい》が、また現れたのよ!?>>
逆上した声とその内容に、サングラスの上に出た眉《まゆ》が、僅《わず》かに寄った。
「彼女を放っておけと言ったのも、まず『オルゴール』を守れと言ったのも、君だったと俺《おれ》は記憶しているがね」
<<状況が違うわ! あいつは今、『ピニオン[#「ピニオン」に傍点]』だけを潰して回っている[#「だけを潰して回っている」に傍点]!! この短時間で、いったいどうやって、あれだけの偽装《ぎそう》紋様を見抜いたっていうの!?>>
(んなこた、知らんよ)
と思いつつも、
「それは、大変だ」
と返答してやる。もちろんティリエルはそんな気|遣《づか》いには気付かず、再び食って掛かる。
<<何をグズグズしているの!? このままでは『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』が解けてしまうわ!>>
シュドナイは起き上がりもせず、平淡な声を放る。
「別に構わんと思うがね」
<<なんですって?>>
「さっきまでの騒ぎで、もうお目当ての『贄殿遮那《にえとののしゃな》』は手に入れたのだろう? さっさとそこにいる……誰だかのフレイムヘイズを殺して引き上げたらどうだ。逃げるだけなら、香港《ホンコン》のときのように俺がなんとでもしてやる。これ以上の長居は、ただの無駄骨《むだぼね》だぞ」
この冷静な提案を、しかしティリエルはにべもなく拒否する。
<<駄目《だめ》よ! あいつは私の『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』の秘密を……『ピニオン』の偽装《ぎそう》を見破る方法を知っている! 生かして解き放つわけには行かないわ! それに>>
「それに?」
<<あの爪牙《そうが》の奴隷《どれい》は、私とお兄様を侮辱《ぶじょく》した! 殺すのよ!!>>
ティリエルの、憎悪と怨嗟《えんさ》からなる声に、シュドナイの煙草《たばこ》がピクリと揺れた。
「……しかし『オルゴール』はどうする。これをどうにかされるのが、一番困るんではなかったのか?」
<<あなたが狂犬を始末する。私たちはすぐこいつを処刑して合流する。それで終わり[#「それで終わり」に傍点]。なにを心配する必要があるの?>>
「それは、まあそうだが」
生《なま》返事の裏で、シュドナイは思いを巡らす。
(あの狡猾《こうかつ》な女が、こうも軽率に再戦を挑んでくるものだろうか……それとも、『ピニオン』を片付ければ我々が引き上げる、と常識から判断しているのか?)
彼はティリエルよりも、はるかによく『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドーの事を知っている。不調とは言え、油断して良い相手ではなかった。現に今も、どうやってか『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』の仕組みを看破《かんぱ》し、その力の根源である『ピニオン』を潰《つぶ》して回っている。
(いずれにせよ、判断するには材料が少なすぎるな……あるいは、一当てしてみるのもよいかもしれん)
とシュドナイは結論付ける。
<<場所は分かるわね? すぐかかって!>>
急《せ》かす声を受けて、ぷっ、と煙草が吹き捨てられた。
「分かった。『フレイムヘイズから君らを守る』というのが、俺《おれ》の受けた依頼だからな。小箱の番も、そろそろ飽きていた頃だ……」
フロントガラスから延びていた長い足が、その先に大|鷲《わし》のような爪を生《は》やしてゆく。さらにその全体が不自然にグニャリと下に湾曲し、ボンネットを文字通りの鷲|掴《づか》みにした。
「狼《おおかみ》狩り、か」
ボンネットを掴んだ足を支点に、まるで起き上がりこぼしのように、体が付いて立つ。ズルリ、と車の中から引き出され、立ち上がった体は、既に人の形をしていなかった。
「それにしても、期待と一体の不安……ここまで見事に応《こた》えてくれるとはな」
人外《じんがい》の怪物が、荒い息吹《いぶき》に混ぜて、濁《にご》った紫色の火の粉《こ》を散らす。
(処刑、ね)
ティリエルの、直接口に出しての通話を聞いていたシャナは、自分へと割り振られた予定に思わず失笑を漏《も》らした。
ティリエルが目ざとく見咎《みとが》める。
「なにがおかしいんですの?」
シャナは、血塗《ちまみ》れ、磔《はりつけ》の姿勢のまま、平然と答える。
「別に。待ってた[#「待ってた」に傍点]甲斐《かい》は半々だったかな、ってだけ」
その裏、頭の中では思考を猛然《もうぜん》と巡らせている。
(あいつが今、市街側にある『ピニオン』を破壊している)
調子に乗って『ピニオン』のことを説明し、焦《あせ》って戦況を敵前で喋《しゃべ》る、それら――圧倒的に有利な状況でしか戦ってこなかったがための――戦闘の機微への疎《うと》さから来る過失を犯したことに、ティリエル自身は全く気付いていない。現に、シャナの言葉の意味さえ図りかねている。
「……待っていた? 半々?」
「痛くて不快な目にあったことと、向こうの時間|稼《かせ》ぎになったことよ」
その意味ではなく生意気な口調に、ティリエルの苛立《いらだ》ちは再び、怒りに転化する。
「時間稼ぎ……そんな状態になってまでとは、ご苦労なことですわね。まあ、自分の成果を確かめられたのなら、もう思い残すことはないのでしょうけれど……お兄様」
ティリエルが、シャナから距離を取るべく歩き出す。その手に引かれるソラトは、彼女の意図を察知した。ぱっと顔を明るくする。
「あっ! つかうよ! つかってもいいよね、ほのおのけん!?」
「ええ。そろそろ、存分に、燃やして差し上げましょう。いらない道具や玩具《おもちゃ》は、焼いて処分するに限りますものね」
兄妹はシャナの正面、少し離れた場所に立った。
シャナは磔にされたまま、不敵に笑っている。
それが気に食わないティリエルは、再び見せ付けるように兄に抱《だ》きついた。
「寂しく一人、その身を焦《こ》がして死んでいきなさいな、討滅《とうめつ》の道具」
しかしシャナは、彼女の予想に反して、その笑みを崩さない。力を声に満たして、言う。
「一人じゃない」
「ふん、身の内にある王≠ェ一緒? その王≠ェあなたを抱き締めてくれるとでも?」
シャナは、せせら笑うティリエルを無視して、自分の言葉を続けた。
「道具でもない」
「……」
ティリエルは、今度は笑うことができなかった。なにか気圧《けお》されるようなものを、磔にされた獲物が漂《ただよ》わせていることに、ようやく気が付いた。一言だけなのは、クドクド説明するまでもない事実だから、と感じさせられる。
それは強烈な確信の姿だった。
そして、卑小《ひしょう》な反駁《はんばく》ではない、堂々たる宣誓《せんせい》のような声が上がる。
「私たちは、共に在ってすがらず、ただ互いを強く感じ、力を得る」
シャナは、炎髪《えんぱつ》と灼眼《しゃくがん》を華麗《かれい》に煌《きらめ》かせ、笑っていた。
「私は、フレイムヘイズ。世界のバランスを守るという使命の遂行を誓い、決意した者」
それに和して、胸元のコキュートス≠ゥら、今まで一言も喋《しゃべ》ろうとしなかった魔神《まじん》の、遠雷のように豪快《ごうかい》な笑声《しょうせい》が轟《とどろ》いた。
「……ふ、ふふ、はは、はぁ――っはははははははははははははははははははは!!」
ティリエルは、この凄《すさ》まじい交歓の様に、言い知れない恐怖を抱《いだ》いた。たまらず兄を急《せ》かす。
「お、お兄様!!」
「うん!」
ソラトは隙ない構えで『贄殿遮那《にえとののしゃな》』をかざし、その切っ先を離れたシャナに向ける。
シャナは全くなんということもない顔で、
「炎《ほのお》の剣、ね……それは」
両腕に存在の力≠、広がる力のイメージを漲《みなぎ》らせた。
「――っこれ!?」
両手首の枷《かせ》が、内からの莫大《ばくだい》な力の膨張《ぼうちょう》を受けて、一気に砕《くだ》けた。
シャナの両腕から、各々短く顕現《けんげん》したそれは、二振り燃える、紅蓮《ぐれん》の刃。
兄妹が『贄殿遮那《にえとののしゃな》』の能力によるものと勘《かん》違いしていた、『炎髪灼眼の討ち手』の力。
「――なっ!?」
「――――あ」
驚愕《きょうがく》するティリエルと呆気《あっけ》にとられるソラトの前で、シャナは両腕を頭上で合わせた。二振りの刃は、そこで紅蓮の大太刀《おおだち》へと変わる。
「っ! お兄様!!」
「うん、ほのおのけん――」
ソラトはこの期《ご》に及んでもなおティリエルの命令で動き、その手に握った『贄殿遮那《にえとののしゃな》』に存在の力≠集中させる。しかし当然、なにも出ない。
その彼らの眼前に、紅蓮の大太刀が振り下ろされた。地面に激突し、大爆発が起こる。
(な、なんてことなの! 爪牙《そうが》の奴隷《どれい》といい、なぜこうも――!?)
帽子《ぼうし》を押さえ、ドレスを熱波になびかせながら跳《と》び退《すさ》るティリエルを、傍《かたわ》らのソラトが肩で突き飛ばした。
「お兄――!!」
紅蓮の炎満ちる戦野、束縛《そくばく》を打ち破ったシャナが、その頭上から飛び掛っていた。彼女の手にある得物《えもの》は、紅蓮の大太刀ではない[#「紅蓮の大太刀ではない」に傍点]。
ソラトは剣士としての絶妙な反射から、この不意打ちを『贄殿遮那《にえとののしゃな》』で受け止めた。
が、
「!」
ティリエルは、ギョッとなった。
シャナが持つ、その大剣は――!!
「――ぉ」
兄様、の声が出る前に、シャナは瞬間的に放出できる存在の力≠フ全《すべ》てを、気合とともに大剣に流し込んでいた。
「っだあああっ――!!」
力の供給を受けた大剣『吸血鬼《ブルートザオガー》』が、刀身に揺れる血色《ちいろ》の波紋を、強く波立たせる。
「あっ?」
ソラトの呆《ほう》けた声が、爆発するように全身から噴《ふ》き上がった血|飛沫《しぶき》の中、埋もれた。
血飛沫が山吹色《やまぶきいろ》の火の粉《こ》となって散る、その光を斬《き》り裂《さ》いて、シャナの二太刀目が走る。
ド、とくぐもった音がして、『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を握っていた手首が斬り飛ばされた。
クルリと宙を回る半瞬でそれは捕らえられ、本来の持ち主の手に帰《き》す。
それと一つ動作の元、
「返す」
の声と共に投げつけられた『吸血鬼《ブルートザオガー》』を、ティリエルがまともに胸に喰らい、吹っ飛んだ。
さらにシャナは、熟達の演舞のように流麗自然な踏み込みで彼女を追い、取り戻した愛刀の横斬り一閃《いっせん》、その胴を両断した。
鍔広帽子《つばひろぼうし》が宙に取り残され、はらりと舞う。
愛染《あいぜん》の兄妹≠ヘ、互いに驚きしか表せず、くずおれ、転がった。
シャナは既に、紅蓮《ぐれん》の双翼を煌《きらめ》かせて、中天に舞い上がっている。
全《すべ》てを焼き尽くすために。
(悠二《ゆうじ》)
心の隅で小さく呟《つぶや》く。すでに確信していた。
(悠二が、いるんだ)
ティリエルが偽装《ぎそう》云々を豪語《ごうご》していた『ピニオン』を、どうやってマージョリーは見分けたのか。一度敗れたというのに、なぜまた軽率に見せ付けるような行動を取っているのか。
巨大な異界『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』。その全域から存在の力≠集め、愛染の兄妹≠ノ供給する仕掛け『ピニオン』。動き出したもう一人のフレイムヘイズ。市の中心にいた強大な徒《ともがら》=B
坂井《さかい》悠二という存在をそこに加えることで、繋《つな》がりと狙《ねら》いが見えてくる。
(――そう)
熱く強い気持ちが、胸を痛いほどに焦《こ》がす。ティリエルから受けた痛みなど押し流してしまうような、より強い紅蓮の力が、炎髪《えんぱつ》に灼眼《しゃくがん》に双翼に溢《あふ》れる。
(これが、一緒にいるってことよ!!)
<<花柳建設の看板越えて、向かいのビル二階>>
<<これか、バー『Bウィンド』の中、灰色ジャケット、ピアノ弾いてる若い男!>>
田中《たなか》と佐藤《さとう》の指示通りに、群青《ぐんじょう》の火を噴《ふ》くグリモア≠フ上に立ったマージョリーが、人の形をした矢のように飛ぶ。その眼鏡《めがね》越しの視線が、やや薄《うす》まった山吹色《やまぶきいろ》の霧の彼方《かなた》に『Bウィンド』の看板を捉《とら》える。
「……せー、の!」
その飛翔《ひしょう》の先頭に突き出した指先に、まるで鏃《やじり》のように群青色の炎《ほのお》が噴き出す。その棚引く間も数秒、瀟洒《しょうしゃ》な格子戸を模した窓をぶち破って、中に踊りこむ。さっきミステス≠フ小僧と見て回ったときに覚えている。真昼間からバーの奥でピアノ弾いてるスカした奴《やつ》だ。
「背理《はいり》、回帰順配列!!」
掛け声と共に指した指先で、鏃が円形の自在式に変化、起動した。その威力を受けて、指差された男、人間に偽装《ぎそう》した燐子《りんね》≠ヘ一挙にばらけ、再び組みあがる[#「再び組みあがる」に傍点]。
実は、ティリエルが感じたのとは違い、『ピニオン』は破壊されてはいなかった。マージョリーによる細工で、その機能をとある方向[#「とある方向」に傍点]へと変質させられていたのである。
「よっし終わり、次!」
<<田中>>
<<おう、次は店出て左、大通りまっすぐ、交叉点の歩道橋>>
<<ええと……そこに一人だけいる、白いスーツの男!>>
とうとう『公称』となったマージョリーの子分二人は、田中が『玻璃壇《はりだん》』を見ながら燐子≠烽ヌき(彼らは『ピニオン』という名称を知らないのでこう呼んでいる)を素早く効率的に潰《つぶ》して回るルートを指示し、佐藤がメモを元に燐子≠烽ヌきの細かい特徴を読み上げるという役割分担で、マージョリーに指示を出していた。自ら言うところでは成績も悪い方だというのに、こういう気の乗ったことへの手際はいい。
(勉強の方も、要するに怠けているだけじゃないの)
という感想を、マージョリーはあえて口にしなかった。
「いた」
歩道橋の上に立っている燐子≠烽ヌきに再び指を差し、
「背理、回帰順配列!!」
の掛け声とともに組み替える。お得意の即興詩ではない、流れの色気も遊びの弾みもない、全くの機能のみの掛け声。気に食わないが、歌が湧《わ》かないのだからしようがない。
「あと二、三個か……――!」
<<次は……>>
言いかけた田中《たなか》を、
「いいわ」
マージョリーは遮《さえぎ》った。グリモア≠宙に留めて、その上で風を受け、立つ。
<<え、あ……!>>
田中が気付き、声の端《はし》に恐怖の色を表す。作戦に折り込み済みの、難しくも恐ろしい戦いが始まるのだ。
「時間切れよ。上手《うま》くやった方だけどね」
強大な力を持つ紅世《ぐぜ》の王≠ェ、遂に動き出した。感じる気配、この世の違和感が、どんどん大きくなる……つまり、近付いてくる。
<<マージョリーさん>>
<<姐《あね》さん>>
不安から同時に二人が言いかけるが、またマージョリーは自分の声で遮る。
「お黙り。まあ後は、灼眼《しゃくがん》のチビジャリかミステス≠フ小僧《こぞう》がなんとかするまで、粘《ねば》れるだけ粘ってみるつもり。逃げが二度通用する相手じゃないだろうしね……」
<<最初からそんな弱気なんて、マージョリーさんらしくないですよ!>>
佐藤の声に、またぞろムカッときた。
(私に自分の期待を押し付けるのは止めて)
<<以前の、あの強くて格好いい姐さんは、どこにいったんですか!>>
田中の声で、危うく怒鳴《どな》りそうになった。
(私は、おまえたちが思ってるほど、強くも格好よくもない! 間違えるときは間違えるし、負けるときは負けるし、逃げるときは逃げるし、落ち込むときは落ち込むのよ!!)
それを辛《かろ》うじて押し止めたのは、取り乱すのはみっともないという、要するに、女としての見栄《みえ》だった。
実際に口にしたのは、
「……らしいもらしくないもないわよ。私は今、自分がなにしてんだか、なにしたいんだか、分からなくなってんだから」
という、抑制を効かせた本音[#「本音」に傍点]だった。
それが、あるいは怒鳴りつけるよりも効いたのかもしれない。二人は黙ってしまった。
ややあって、田中がポツリと訊《き》いた。
<<フレイムヘイズの使命とかは、感じないんですか?>>
「今まで好き勝手やってきたしね。なにが使命なのやら」
佐藤があくまで期待を捨てずに言う。
<<それじゃもっと単純に、僕らと御崎《みさき》市を守ってくれるとか……>>
「守る? 今さらそんな大仰《おおぎょう》なこと言われても、実感なんて湧《わ》きゃしないわよ」
言う間に、本当の時間切れが来た。
「ご両人、戦闘中は話し掛けんじゃねえぞ」
マルコシアスが真剣な声で遮《さえぎ》り、
「また、後でね」
マージョリーが軽く別れを告げ、そして、
二人は、きれいさっぱり、戦いだけに心を向ける。
その手始めと、宙でグリモア≠フ上に立っていたマージョリーは、本ごと体勢を、ヒョイと傾けた。その傾ける前に顔のあった場所を、濁《にご》った紫の炎弾《えんだん》が通り抜けた。背後のビルに直撃して大爆発を起こす。その紫色の炎《ほのお》を背負って、
「さて本当、どうしましょ」
「てめえで考えろい」
動じずに言い合う二人の頭上を、大きな黒い影が紫の火を引いて通過した。それはほとんど減速せずに、爆砕したビルの隣、電光[#「光」は底本では「子」]掲示板に頭から突っ込み[#「頭から突っ込み」に傍点]、しかし足から着地した[#「しかし足から着地した」に傍点]。吸収しきれなかった衝撃《しょうげき》が亀裂《きれつ》となって、掲示板を火花と走る。
マージョリーは、その場でグリモア≠くるりと後ろに向け、火花の中の怪物を見やる。電光掲示板に九十度傾いて立つ怪物は、飛んできたときと逆の姿勢を、体の形を変えることで取っていた。
その概観は二足《にそく》歩行の、腕ばかり太い虎《とら》のようだったが、膝《ひざ》から下は鷲《わし》の足、そのくせ背中に生《は》えているのは蝙蝠《こうもり》の羽、虎の頭には鬣《たてがみ》と角《つの》を生やし、オマケとばかり蛇《へび》の尻尾《しっぽ》まで伸びている。
全く、千変《せんぺん》<Vュドナイの名に恥じない、無茶苦茶な姿だった。
その頭だけが、首の関節を無視して動き、マージョリーに相対する姿勢を取る。不自然に大きな牙《きば》を生やす虎の口から、凄《すご》みの効いた笑いを匂《にお》わす男の声が響く。
「どうやら今度こそ本気、最後の最期《さいご》まで、やり合えそうだな」
声に乗って、濁った紫の火の粉《こ》が零《こぼ》れる。
「存分に、獣と獣、快楽を交わそう、殺戮《さつりく》の美姫《びき》」
マージョリーは小さく舌打ちした。その言う通り、向こうは本気である。しかしこっちは。
「……あんまり、その気にさせてくれない格好ね。仮にも千変≠スる者、もう少し見映えのする格好をしてくれないと、ギャラリーに下がっても楽しめやしない」
彼女の声に及び腰を感じ取って、虎の口が苦笑に歪む。
「やれやれ、せっかくの誘いだというのに、つれないことを言ってくれる……が、まあ今なら、その言葉も相応《ふさわ》しく感じられるな。二人、知友の叫喚《きょうかん》を伴奏に、熱き夜を過ごした同士」
その全身に、恐るべき力が漲《みなぎ》る。
「スッパリ、気持ち良く別れるとしよう」
そろりそろりと、悠二《ゆうじ》は人あって動かぬ異界を進む。
どうやら作戦は大筋、上手《うま》くいっている。
マージョリー・ドーは練達《れんたつ》の自在師として、これだけ燐子《りんね》≠ネどの数が多い、構造も複雑で稼働範囲も巨大な自在法を、一人二人で制御《せいぎょ》しきるのは無理だ、と判断した。悠二も知る、高名な自在師たる老紳士でも不可能なほど、と彼女は例えたから、この封絶《ふうぜつ》もどきは、相当ややこしい代物《しろもの》であるらしい。
そのマージョリー言うところの変態兄妹(……シャナは大丈夫だろうか?)が、遭遇《そうぐう》時に口にしたという。『オルゴール』を起動させる、と。恐らくはそれこそが、この自在法を制御するための宝具《ほうぐ》なのだろう。
そして悠二は、あのドでかい気配を持った千変<Vュドナイが、戦いが始まって早々、ここ[#「ここ」に傍点]に張り付いて動かなくなったことを不審に思った。彼をシャナとの戦いに参加させないのは、まあ変態兄妹の嗜虐《しぎゃく》趣味で説明がつくが、それでもマージョリーという難敵の追撃や探索《たんさく》もさせずに、ずっと同じ場所に留め置くというのには、やはりなにかしらの理由があると考えるべきだった。
ここ[#「ここ」に傍点]が御崎《みさき》市の中心である、という単純な構図からも、理由は容易に想像できた。
近く、フリアグネという同じような例からの連想もある。
つまり、『この封絶もどきの全域を制御するための宝具がここにある』ということだ。
そこで悠二は非常に単純な、しかしマージョリーも認めた有効な作戦を立てた。
まず、マージョリーに封絶を維持するための力を集める燐子≠烽ヌきを攻撃させる。そうすれば変態兄妹は、彼女を排除せずにはいられなくなる。兄妹はまず離れることはないというから、この任に当たるのは当然、千変<Vュドナイということになる。
「ははあ、私に囮《おとり》やらせようってわけ?」
「ヒッヒ、いやま、有効だろうぜ。体調不良のフレイムヘイズが、封絶破ってトンズラしたがってるように見えるからブッ!」
「お黙り、バカマルコ」
などのやり取りの末、彼女は結局、この囮役を務めることに同意した。彼女自身も、この封絶もどきに自在師としての罠《わな》を張りたいとのことだった。
「こっちで百年も過ごしてない、ちょいと物隠すのが上手《うま》いからって調子に乗ってるガキどもに舐《な》められっ放しで黙っていられるほど、私は人間が出来てないの」
「んーなもん、見りゃ分かるってブッ!」
「お黙り、バカマルコ」
などなどのやり取りは、まあ、余談。
ともあれ、悠二《ゆうじ》の出番はその後。マージョリーがシュドナイを誘い出した留守を狙《ねら》って、その宝具《ほうぐ》を探し出し、無力化するということだった。
連中も、まさか封絶《ふうぜつ》の中で動けるミステス≠ェいるとは思ってもいないだろう。シュドナイをここ[#「ここ」に傍点]から離れさせることに躊躇《ちゅうちょ》はないはずで、実際マージョリーが暴れ出してから程なくして、彼は出て行った。冗談のように恐ろしげな姿で。
そして、悠二が最も恐れた燐子《りんね》≠焉Aフリアグネの下僕《げぼく》たちと違って、自律して動けない、あくまで封絶維持のための装置程度の存在であるとの結論を得ている(マージョリー曰く、宝具使い『可愛《かわい》いマリアンヌ』を筆頭に、彼の燐子≠スちは他《ほか》と比べて高度なものが多かったという)。作り手との意識の同調も、まず戦闘など、他《ほか》に気を取られることがあれば大丈夫だろう、ということだった。
そのシャナと変態兄妹の戦闘は、どうも乱戦模様だった。住宅地で物凄《ものすご》い力がせめぎ合っている。ともかく、この封絶の中枢《ちゅうすう》を破壊ないし撹乱《かくらん》できれば、少なくとも兄妹の方はなんとかなるはずだった。その護衛という千変《せんぺん》≠焉A足手まといを連れて二人のフレイムヘイズを相手にするほど愚かではないだろう。その点は、なぜかマージョリーが保証している。
(なんにせよ、今の僕のできることは、こういう裏方しかないってわけだ)
シャナが乱戦の場をこっちに振り向けないか、マージョリーが時間稼ぎを上手《うま》くやれるか、不安・不確定な要素もあるにはあったが、どうせ現状ではこれ以上のことはできない。
(万全《ばんぜん》ってのは、できるときと、できないときがある……今は、できない方さ)
と悠二は今の状況を受け入れていた。
(さて、どこだ……?)
いつも歩いている広い歩道だけではない、片側で三車線ある車道、中央分離帯と、そこから幾本も斜めに伸び上がる太いケーブルなど、普段は入れない場所を一人でうろつく、そんな微妙に心弾む非日常感とともに、悠二は存在の力≠ノ関係する器物を探し始めた。
そこは、御崎《みさき》市の中央に位置する建造物。
真南《まな》川にかかる大鉄橋、御崎大橋。
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4 愛染《あいぜん》の終《つい》
ティリエルは、胴《どう》を両断された衝撃《しょうげき》と虚脱の中、中天《ちゅうてん》へ一線、光跡《こうせき》を引いて舞い上がる紅蓮《ぐれん》の飛翔《ひしょう》を呆然《ぼうぜん》と見上げていた。視界の端《はし》で、鍔広帽子《つばひろぼうし》が優雅に宙を舞っている。
(――お兄様が、重傷を、治さないと――)
自分の、ほぼ致命傷と言える損傷を受けた体の治癒《ちゆ》は、考慮の内にない。あるのはただ、最愛の兄を守る、それだけ。しかし、
(――『ピニオン』の数が、足りない――)
最愛の兄を一挙に再生させるための力を集められない。張り巡らせた根の各所に妙な障害があって、市街地の外縁部《がいえんぶ》辺《あた》りにある無事な『ピニオン』からの供給がうまくいかなかった。
(――こうなれば――)
自分の力の及ぶ範囲にある根、存在の力≠自分たちに向けて流すための自在式、それらを構成する力|全《すべ》てを、急場の治癒に当てるしかない。そして、
(――ああ、あいつを、止めなければ――)
この段階に至って初めて、最愛の兄以外のことに、シャナに思考が向いた。兄を傷付け、また今とどめを刺そうとしている、憎むべき討滅《とうめつ》の道具……いや、恐るべき『フレイムヘイズ』。
(――再生と防御《ぼうぎょ》、双方を――)
自分の力の及ぶ『ピニオン』は、放出口である巨大花の燐子《りんね》≠煌ワめて、もう住宅地側に残った三つだけ。急ぎ、これらの構成を全《すべ》て解いて、存在の力≠ノ変換せねばならない。
(――『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』は、もう維持できない――)
もはや手段を選んでなどいられない。そうでもしなければ、頭上で今まさに自分たちを討滅しようとしているフレイムヘイズの攻撃を凌《しの》ぎつつ、兄を[#「兄を」に傍点]再生することなどできない。
(――そうだ、シュドナイとの連絡役の『ピニオン』も、もう必要な――!?)
僅《わず》かに意識を向け、仰天《ぎょうてん》した。少年の形をした何者かが、橋の上を、『オルゴール』の近くをうろついている!! シュドナイは爪牙《そうが》の奴隷《どれい》と戦闘中で、ここはがら空《あ》きだった。
(――存在の力≠全て集めて、阻止しなければ――)
今の状況下、燐子≠操るだけの余裕《よゆう》はない。この監視役も含め、手の届く四つ全ての『ピニオン』の存在の力≠回収して、兄を守る力とする。
(――もう、このフレイムヘイズを放って逃げるしか……けど、まだ、お兄様のために――)
胸を『吸血鬼《ブルートザオガー》』に貫かれてから、そう改めて[#「改めて」に傍点]決意するまで数秒。
鍔広帽子《つばひろぼうし》が、宙で燃え尽きる。直上から、紅蓮《ぐれん》の奔流《ほんりゅう》が迸《ほとばし》り落ちてきた。
路面すれすれを蝙蝠《こうもり》の翼で滑空《かっくう》して、シュドナイが迫る。
突進の正面、グリモア≠フ上に立つマージョリーは、これを闘牛士のようにギリギリでかわした。
「っこの!」
危うく翼を鼻先にかすめて、その背中に群青《ぐんじょう》色の火弾を数発、叩《たた》き込む。
それを立て続けに食らいながら、しかしシュドナイは笑う。
「はーっはっはっは! 弱い!!」
傲然《ごうぜん》と吼《ほ》えて、鷹《たか》の爪《つめ》を地面に打ちつける。それを支点に、膝《ひざ》から上をぐるりと回し、虎《とら》の口を大きく開く。
「炎《ほのお》と言うなら!」
口内が濁《にご》った紫色に閃《ひらめ》き、同色の炎弾がドカドカと吐《は》き出される。その傍《かたわ》ら、別に開けた口[#「別に開けた口」に傍点]で大きく叫ぶ。
「これくらいはやって欲しいものだ!」
炎弾を食らった高架道路や商店が爆砕《ばくさい》され、ひん曲がった街灯や電話ボックスが宙を舞う。
と、崩落する高架の土煙の中から、サーファーよろしくグリモア≠ノ乗ったマージョリーが滑《すべ》り出た。その手に取った電柱ほどもある道路標識を、槍《やり》投げの要領で構え、
「せえ、の!」
放った。フレイムヘイズの怪力に加え、標識の後ろから群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》が噴射される。ほとんどミサイルのようなこの突進を、しかしシュドナイは片手で苦もなく受け止めた。
「込める存在の力≠ェ足りないな。これでは、簡単に自在の干渉を受けてしまうぞ」
また同じように、巨体で道路標識を振りかぶる。その後ろに燃えていた群青の炎が、紫に取って代わられる。その上さらに、先端にも炎が燃え上がった。
「これがっ、手本だ!!」
無造作《むぞうさ》に放られた標識が、炎の車輪となってマージョリーを襲う。
「っちい!!」
道路を深く削《けず》って低空を飛ぶそれを、グリモア≠上昇させてかわす。
その眼前に、濁《にご》った紫の怪物が、ヌッと。
「気配りも足りない」
「!!」
両の掌《てのひら》が、マージョリーを両側から押し包んだ。
「手弱女《たおやめ》ぶりも、過ぎると無様《ぶざま》だな。再戦も、所詮《しょせん》無謀《むぼう》の産物だったか」
「――くぅ!!」
口答えどころではない。豪腕《ごうわん》は万力《まんりき》のように彼女の体を締めあげる。
虎《とら》の口が開き、その中にシュドナイの、サングラスをかけた顔が現れた。『弔詞《ちょうし》の詠み手』への底意地の悪い面《つら》当てだった。その顔が、わざとらしい悲しみの色を浮かべる。
「別れは常に寂しいな」
と、不意にその顔が遠ざかった。否、マージョリーを掴《つか》んだ両腕が伸びていた。彼女を先の重しに、グルグルと振り回し始める。
「せめて安らかに逝《い》けるよう、激しく抱《だ》き締めていよう」
凄《すさ》まじい回転が加わり、最後にシュドナイは、言う。
「腕だけで、な」
その両腕が、手首からプツンと千切《ちぎ》れた。
マージョリーは立体駐車場の一階に激突し、シャッターを破って中の車を粉々にした。
シュドナイはその直上へと飛び上がり、口からこれまでで最大級の炎弾《えんだん》を撃ち出した。砲弾のようなそれは駐車場の屋上から一階までを一息にぶち抜いて落ち、全《すべ》てを爆発させた。
一階のシャッターを、今度は逆に中から押し出すように噴《ふ》き出た紫の爆炎《ばくえん》の中、上半身らしき人影が一瞬だけ転がり、すぐ群青の火花になって押し流された。僅《わず》かに突き出た腕も、その先にかざされたグリモア≠焉Aすぐ炎に飲み込まれて消し飛ぶ。
「……」
シュドナイはこの、あまりに呆気《あっけ》ない、長きに渡る好敵手の消滅の様を黙って見下ろす。生きるに、また戦うに倦《う》んだフレイムヘイズが迎える、これは典型的な最期《さいご》の姿でもあった。
あるいはフレイムヘイズの絶命による、マルコシアス一瞬の顕現《けんげん》があるかと思い、気を張って待つが、紫の炎《ほのお》を隙間から噴《ふ》き上げる瓦礫《がれき》の山には変化が無い。
(……あれだけ気力の萎《な》え果てたフレイムヘイズに、王≠ェ義理立てする謂《いわ》れもない、か)
シュドナイは輪郭《りんかく》を揺らめかせ、人間の姿に戻った。眼下、墓標としては無粋《ぶすい》に過ぎる残骸《ざんがい》に、哀《あわ》れみと好意から、短い弔詞《ちょうし》を零《こぼ》す。
「せめて、よき地獄を、マージョリー・ドー」
シャナが指した『贄殿遮那《にえとののしゃな》』の切っ先から直下、再びマンションの中庭へと、渾身《こんしん》の炎が迸《ほとばし》り出る。この紅蓮《ぐれん》の奔流《ほんりゅう》を撃ち放って、しかしシャナは驚愕《きょうがく》した。
「――!?」
彼女の直下に、巨大花の消失を埋めたときと似た、しかしさらに速く、さらに高密度の存在の力≠ェ、回路とも血管とも見える曲線に乗って流れ込んでいた。山吹色《やまぶきいろ》に輝くその力の流れは自在式に変化せず、ただ一点に集束する。
ティリエルが、『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』の内にある根を届く限り手繰《たぐ》り寄せ、届かない部位は引き千切《ちぎ》り、残った『ピニオン』を吸い込み、凝縮しているのだった。
必殺を期した紅蓮の炸裂《さくれつ》がマンションを揺るがし、今度は黒|焦《こ》げにするだけでなく、中庭側の壁を爆圧で押し砕《くだ》いた。炎と煙が渦《うず》巻き踊り、そこにあった全《すべ》てを焼き尽くす。
続いてシャナは、先の自在法に囚《とら》われた経験、そして直下における力の凝縮への警戒から、力を搾《しぼ》り出した体を押して、素早く回避行動を取った。
まさにその瞬間、
「!」
直前まで滞空していた位置に、山吹色の自在式が逆向きの波紋のように集束した。捕らえ損なって、空中でバチン、と火花を散らせる。
さらに真下から、シャナが回避する先に飛び込んでくる影……否、山吹色の光の塊《かたまり》がある。
驚きつつも、シャナはこの突撃を避けた。
光の塊は僅《わず》かな距離を置いて空中に静止し、突如、花開くように無数の光を散らした。その中から現れたのは、完全に傷を癒《い》やし、『吸血鬼《ブルートザオガー》』を構えた愛染自《あいぜんじ》<\ラトと、彼の背に負ぶさり、首に腕を絡《から》める愛染他《あいぜんた》<eィリエルだった。
散った光は花弁へと変わって、まるで二人を包むケープのように広がり、滞空する。その花弁の一片一片は、とんでもない量を凝縮した存在の力≠フ塊だった。
完全にとどめとして放った紅蓮の奔流を防ぎきった上に、これほどの力を保っている……兄妹の思わぬ底力に、シャナは畏怖《いふ》を覚えつつも気を引き締め、『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を構え直す。
と、その差し出された大太刀《おおだち》を見たソラトが、口を尖《とが》らせて叫んだ。
「ボクのだ! ボクの『にえとののしゃな』をかえせ!!」
「……まだそんなことを」
さすがにシャナは呆《あき》れた。この期《ご》に及んで、駄々《だだ》っ子《こ》の我侭《わがまま》を聞かされるとは思ってもみなかった。
答えて、兄の肩にしなだれかかるように掴《つか》まるティリエルが、物憂気《ものうげ》に口を開く。
「――渡して、ぃた――だきま、す――わよ」
その微妙に反響を伴う声を訝《いぶか》しく思い、彼女に目をやったシャナは、
「――!!」
驚愕《きょうがく》した。
帽子《ぼうし》をなくしたティリエルの、金髪が被《かぶ》っていると見えた顔半分が、山吹色《やまぶきいろ》に燃えていた。よく見れば、兄の首に回された腕も、力なく背にぶら下がる体も、その輪郭《りんかく》を薄《うす》れさせ、揺らめかせている。時折、山吹色の炎がチラチラと輪郭からはみ出していた。
それは、この世での顕現《けんげん》の力を失いつつある証拠だった。
「おまえ……まさか、その周りの力は……!」
ティリエルは、燃えて輪郭を失っている頬《ほお》を兄に寄せ、途切れ途切れの、まるで灯火が風に
揺らめくような声で答える。
「ぇえ。このケープ――私、じ身――私のぉ兄様――守るぁぃ染《ぜん》、他《た》=Aその――ん在――本質――姿」
言いつつ、その一つきりの目線を、二人を取り巻き輝く華麗《かれい》な山吹色《やまぶきいろ》の花弁に流す。
「ぁなた――とんでも、なぃ、一撃――防ぐこと――私のぉ兄様――治す――と、両方行ぅに――、存、在の力=\―足りな、か――たんですの――だか、ら――」
ティリエルは、皆まで言うのは億劫《おっくう》であるかのように、言葉を切った。
彼ら紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠ェ、自身の本質を存在の力≠ナ変換し、この世に現れることを『顕現《けんげん》』という。彼らの行動は全《すべ》て、この顕現の上に溜めた力を消費することで行われるが、その消費が本質を顕現させている領域にまで及ぶことは、己《おの》が存在そのものを削《けず》り、消滅させることと同義……『死』に他《ほか》ならない。
全力を吐《は》き出した戦いの結果としての自滅ではない。他者のため、当然のように我が身を削り、滅びる……この愛染他《あいぜんた》<eィリエルは、自身の欲望に生きることを常とする紅世の徒≠フ中でも、特別の例外と言うべきだった。
シャナはそんな彼女の姿に、深刻な疑問を持った。
「……なぜ、そこまでするの? 私なら、自分たちを守るための自在法が破綻《はたん》したら、敵なんか捨てて、迷わず逃げる」
ぼろぼろのティリエルが、まるで勝者のような――シャナが密かにショックを受けるほどに強い――笑みを浮かべた。
「何度も――ぃって、差し上――たはずです、けれど――? 私は、ぉ兄様――望み――叶《かな》える――守る、それが私――全て」
頬《ほお》をほとんど混ぜるほどにソラトへと擦《す》り付けながら、見つめる先を兄と同じくする。ただ一点、シャナの持つ『贄殿遮那《にえとののしゃな》』に焦点を合わせる。凄《すさ》まじい執念《しゅうねん》が、炎《ほのお》以上に瞳を燃やしていた。
「私の、ぉ兄様――望み――まだ、叶って、ぃなぃ――だか、ら――私――叶える――邪魔を、す――者から、私はぉ兄様――守る」
狂ってなどいない。
しかし理屈も打算もない。
それはまさに、理非《りひ》善悪に縛《しば》られず、飾り気のない真《ま》っ直《す》ぐな、確固とした意思の……彼女自身の在り様だった。
シャナは一言、確かめずにいられなくなった。
「それが、おまえの――?」
ティリエルは山吹色《やまぶきいろ》の炎の中、初めてシャナに好意的な、美しいと思える微笑《ほほえ》みを見せた。その声は、揺れる唇《くちびる》から、しかししっかりと紡《つむ》ぎ出された。
「そう、愛」
不思議な、不快ではない沈黙が、宙にある両者の間を満たす。
それを破ったのは、ソラトの無邪気《むじゃき》な、それゆえに凶悪《きょうあく》な声だった。
「ティリエル、はやくほしいよ!」
「ぇえ、えぇ、――分か、って――すわ、ぉ兄様」
自分の状態を気|遣《づか》うこともなく、ただひたすら己の欲望のみを追う兄に、やはり彼女は蕩《とろ》けるような笑みで答えていた。
シャナは、全く馬鹿《ばか》な質問をしていた。
「なんで、そんなやつに」
ティリエルは、それには答えなかった。
もうとっくに、答えていたから。
代わりに、消え果てそうな声を絞《しぼ》って、提案する。
「ぁなたにも――この、どぅしよぅもなぃ――気持ち、感じ、させてぁげ――しょうか?」
「――えっ」
戸惑《とまど》うシャナに、ティリエルは強烈で残酷《ざんこく》な声を贈る。
「ぁの橋に、ぃま――しょぅ年が、一人――ぃますの」
「!!」
全《すべ》てが伝わった。
シャナは顔色を一気に青くし、ティリエルは満足気に薄《うす》く笑う。
「――やっぱり[#「やっぱり」に傍点]。ぉ兄様――橋、に――」
「うん!」
ソラトは『贄殿遮那《にえとののしゃな》』をチラリと見て、しかしティリエルの指示に従う。
華やかな山吹色《やまぶきいろ》に輝く花弁のケープが愛染《あいぜん》の兄妹≠包み、飛翔《ひしょう》を始めた。シャナの大事なものを、坂井《さかい》悠二《ゆうじ》という存在を奪うために。
「待っ――!!」
シャナは紅蓮《ぐれん》の双翼を燃え上がらせて追う。
御崎《みさき》大橋に、こいつらが向かう先に、悠二がいる。
(どうしようもない気持ち)
シャナは、灼熱《しゃくねつ》に煮え滾《たぎ》る頭の中、痛いほどの動悸《どうき》を宿す胸の奥、喪失の恐怖に震える心の底……唐突に起きた、それら異常の深きから、なぜか莫大《ばくだい》な力が湧《わ》いてくるのを感じていた。
その力が、凄《すさ》まじい勢いで体を心を衝《つ》き動かす。
(どうしようもない、気持ち)
ふとシャナは、前方やや下を飛翔する愛染の兄妹=Aソラトの背に掴《つか》まるティリエルが、自分を見て微《かす》かに笑ったのを感じた。嘲笑《ちょうしょう》ではないことが、なぜか当然のようにはっきりと分かった。その笑みから、揺れる炎に混ぜて、声が小さく。
「さぁ――頑張《がんば》って」
彼女が、兄と自分、どちらに向けて言ったのか、分からなかった。
ただ、強く思う。
(私は負けない、死なせない!!)
山吹《やまぶき》と紅蓮《ぐれん》がせめぎ合いもつれ合いして、御崎《みさき》大橋へと飛ぶ。
はらはらと、ティリエルの命が花弁《はなびら》として後《あと》に散り、消えてゆく。
悠二《ゆうじ》は現実というものの厳しさと無情さを、ひしひしと感じさせられていた。
ヒーローを気取るつもりはなかったが、それでもなにか、小なりとシャナを助けることができれば、と思っていた。途中までは、上手《うま》くいっている、と思った。御崎大橋の道路上に当然のように佇《たたず》んでいた燐子《りんね》≠ェ突然、弾けて消えたときは、自分に運が向いてきた、と能天気に喜びもした。
しかし結果は、あまりにも間抜けで、無力感を味わわされるだけのものに終わった[#「終わった」に傍点]。
(そりゃ、そうだよな……)
仮にも紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠ェ、自分の自在法のタネを、簡単に手の届く場所に置いたりするわけがなかったのである。人間が触れることはもとより論外だろうが、フレイムヘイズの攻撃を捕捉《ほそく》し、妨害するためにも、この処置[#「この処置」に傍点]は当然だったろう。
悠二は燐子《りんね》≠ニ同じ、しかしもっと複雑な力の振幅《しんぷく》が、はるか頭上で奏でられている(『オルゴール』の名前から、そう連想した)のを、僅《わず》かな探索の内に見出していた。
御崎大橋は、いわゆる斜張橋《しゃちょうきょう》と呼ばれる大きな規模の橋である。概観としては、道路を跨《また》いで立つ『A』の形をした二つの主塔上部から前後に太いケーブルを伸ばし、それで橋の桁《けた》を釣《つ》る、というもの。
つまり、宝具《ほうぐ》『オルゴール』は、その主塔の頂《いただき》に置かれていたのだった。
人間は、飛べない。
当たり前の、しかしシャナと一緒にいると忘れてしまいがちになる、常識の壁。
それが今、厳然と悠二の目の前に立ちはだかっていた。
メンテ用の梯子《はしご》は高い場所から始まっていて、そこに取り付くことができない。作業用車両のある場所は知らない。あったとして、それを運転することも操縦することもできない。
そこに宝具のあることが分かっていて、しかし並の人間程度の力しか持たない悠二には、なにもできなかった。それに、『並の人間としての力』も、他《ほか》と比べて、ほとんどないに等しかった。それが一番、堪《こた》えた。こればかりは言い訳ができなかった。
でもなにか、今の自分でどうにかできないか、そう思ってうろうろしている内に、
(……)
マージョリーが、あっさり負けてしまった。
そして、彼女を負かした紅世《ぐぜ》の王=c…その周囲に身の毛もよだつ違和感を漂《ただよ》わせる、ダークスーツにサングラスの男、千変《せんぺん》<Vュドナイが、
(……ど……)
目の前にいた。
逃げる暇さえなかった。
山吹《やまぶき》の薄霧に包まれた、人・物、ともに動かぬ静寂の中で、一対一。
(……どうする?)
シュドナイは訝《いぶか》しげな目で、こっちを見ている。それはそうだろう。自分たちの仕掛けの中枢《ちゅうすう》で、いきなり怪しげなトーチに出くわしたのだから。
(……なにができる?)
なにをどうすれば、自分とシャナのためになる? 手持ちのカードにはなにがある? 今の状況でそれをどう切ればいい? 冷静になれ、機転を効かせ、度胸を据《す》えろ。
(……シャナ)
助けを求めても無駄《むだ》だ。求めて得られるなら、それもいい。自分は身の程知らずではない。しかし今、助けを求める声は届かない。自分で、やるしかない。
(……シャナが来るまで、時間を稼《かせ》がないと)
戦いは論外。では話をすべきか。難しい。体にせよ声にせよ頭にせよ、事態を動かしてはいけない。時間稼ぎをするなら、その全《すべ》てを凍《こお》り付かせなければならない。なら、
(……膠着《こうちゃく》状態を、作るんだ)
ハッタリだ。仕掛けることを躊躇《ためら》わせるのだ。自分は封絶《ふうぜつ》の中で動ける。それ以外は、まだ知られていない。なら、そこを警戒させればいい。なにか、切れるカードはあるか。
(――あった!!)
そいつ[#「そいつ」に傍点]の名、恐ろしさ、特性、全てシャナから聞いていた。三人の徒《ともがら》≠ェなんのために御崎《みさき》市にやってきたかは、マージョリーから聞いた。シュドナイが腕利きというならなおのこと、この不自然な状況から信じさせ、警戒心を抱《いだ》かせることができるはずだった。
一縷《いちる》の望みを託《たく》すタネを見つけて、しかし悠二は努めて自然体で立つ。まあ実際のところ、シュドナイに出くわした姿勢のまま、ボーッとしていただけなのだが。
「……?」
軽い運動を終えたシュドナイは、なにやらてこずっているらしい兄妹の援護に向かう途中、単なる確認としてこの御崎大橋に戻ってきた。それが、
(なんだ、こいつは?)
思わぬ闖入《ちんにゅう》者と遭遇《そうぐう》してしまった。サングラス越しに観察する。フレイムヘイズでも徒≠ナもない。なら、ミステス≠ニいうことになる。
(……ミステス[#「ミステス」に傍点]≠セと……まさか……?)
そもそも、なにを目的として愛染《あいぜん》の兄妹≠ニ自分がここにやって来たのか。その意味に思いをやり、戦慄《せんりつ》する。じわり、と全身に変容の力を準備して、重く問う。
「……貴様、何者だ」
(来た!!)
緊張から、腹痛と頭痛と眩暈《めまい》と耳鳴りに襲われながらも、悠二《ゆうじ》はじっくり溜めて、答える。
「……我が名は」
低く、抑制を効かせた声で、とどめの一言。
「天目一個《てんもくいっこ》=v
それは、かつて『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を振るい、フレイムヘイズ紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》*竄ず、血風散華[#「散華」は底本では「惨華」]《けっぷうさんげ》と斬《き》り倒してきた、恐るべき化け物の名。その本体たる大太刀《おおだち》と同じく、いかなる自在法の干渉も受けず、ただ紅世≠フ臭《にお》いを追って斬る、史上最悪のミステス≠フ名。
ここにいる以上、悠二という存在には当然、その可能性があった。
そしてやはり、シュドナイはサングラスの向こうで目を剥《む》いた。
(――かかった!!)
悠二は作戦を誇る笑みを押し隠し、自分の演技力でどこまでできるか、虎《とら》の威《い》を借《か》る狐《きつね》よろしく、踏ん張れるだけ踏ん張ろう、と心に決め――
「ゴアアァッ!!」
シュドナイは唐突《とうとつ》に吼《ほ》えつつ両腕を虎の頭に変え、銃の抜き打ちのように炎弾《えんだん》を立て続けに打ち出した。手前の路面から砕《くだ》いて、炎弾は次々と怪しいミステス≠ノ命中し、濁《にご》った紫色の爆発と燃焼を起こす。
しかし、
「……むっ!?」
煙と炎の薄れたそこには、やはり[#「やはり」に傍点]ミステス≠ェ無傷のまま、平然と立っていた。
シュドナイはこの確認の結果に苦い表情となり、両腕の虎を差し出したまま、警戒体勢を取る。噂《うわさ》通りなら、いつどんな恐ろしい斬撃《ざんげき》が襲ってくるか、分かったものではない。
やがて、相対する天目一個[#「天目一個」に傍点]≠ヘ顔を伏せ、姿勢を低くした。左の腰元に両腕を硬く据える構えを取る。それは、まるで刀を抜き打ちする寸前のように見えた。
その手の先には僅《わず》かな存在の力≠フ集中が見られるだけで、実際に刀は見えていないし、構え自体も微妙に素人臭《しろうとくさ》く思えるが、そんなことで油断するわけにもいかない。むしろ剣筋や間合いが予測し辛《づら》く、迂闊《うかつ》に仕掛けることができなくなった。
「ちいっ」
シュドナイは、思わぬ場所に思わぬタイミングで現れた難敵に舌打ちし、自らも緊張して、この恐るべきミステス≠フ一撃を待つことにした。
(とうに消えたと聞いていたが……まさか、『贄殿遮那《にえとののしゃな》』があれば、自在に作り出すことができるのか? なるほど、それを得たフレイムヘイズが強くなるわけだ)
疑念から見当違いな深読みをするシュドナイの頬《ほお》に、獰猛《どうもう》な笑みと冷や汗が宿る。
対する悠二は、
(し! し! し! し! 死ぬかと、死ぬかと思った――!!)
動悸《どうき》からの震えを必死に押さえ、衝撃《しょうげき》に潤《うる》む目を伏せて、なんとか誤魔化《ごまか》していた。
シュドナイの炎弾《えんだん》を受けたときも、もちろん平然としていたわけではない。単に反応できず、硬直していただけだった。炎弾を防げたのも、胸に紐《ひも》を通してかけている宝具《ほうぐ》、火|除《よ》けの指輪『アズュール』のおかげである。ここに来る前、トイレに行っておいて良かった、と心底思う。
この抜き打ちの構えも、毎朝の鍛錬《たんれん》でシャナが棒切れを振るう、その姿の粗雑《そざつ》な模倣《もほう》である。実は風呂場などで、密かにその格好いいポーズを真似《まね》してみたりするなどの、恥ずかしい行為の産物だったりした。
(……で、でも、贅沢《ぜいたく》は言ってられない……人間万事、サイ、サイ、なんたらだ)
塞翁《さいおう》が馬、である。
とにかく悠二としては、これでハッタリのタネは打ち止めだった。シュドナイは、奇跡的に上手《うま》く引っかかってくれている。あとは、これをどれだけ持たすことができるか。
(け、結局……最後は頼ることになったわけか……)
でも、少しは誉《ほ》めて欲しいな、とも思った。
どっこい、マージョリー・ドーは生きていた。
「…………あ、そっか……」
気絶から覚めて、自分の置かれた状況を思い出した彼女は、呆《ほう》けた声を出した。瓦礫《がれき》の山の中、僅《わず》かにできた空間に閉じ込められているらしい。服をはたき、狭い中で立ち上がる。
変わらず彼女の小脇にあったグリモア≠ゥら、ボブッ、と群青《ぐんじょう》色の灯《あかり》が漏《も》れ出た。マルコシアスの軽薄な笑い声が響く。
「ヒッヒッヒ! 全く、おめえの往生際《おうじょうぎわ》の悪さにゃあ感動さえするぜ、我が頑強《がんきょう》なる生命、マージョリー・ドー」
状況、声、内容、その全《すべ》てを受けて、マージョリーはゲンナリとした顔になった。
「……本当に、死んだと思ったんだけどね」
「なーに嘘《うそ》ついてやがる。奴《やつ》の一撃食らうのに合わせてダミー放り出して、同時に気配消すなんて芸の細っけえ真似《まね》しやがったくせによ」
マージョリーは、この相棒《あいぼう》の声に、微量の嘲《あざけ》りが混じっているように思った。不愉快さに声を低くして、訊《き》く。
「なにが、言いたいわけ」
「そーさな、目の前のことから逃げて誤魔化《ごまか》してる間に、後悔の種はどんどん育っちまうってえことか」
なにかを突き付けている。それを感じて、しかしマージョリーは目を逸《そ》らした。
「ふん、後悔もなにも……抜け殻《がら》には、なるもんですか。だって、もう、特にやることはないんだし……」
「銀≠ヘ、どうするよ。放り出すってのか」
ピクリ、と眉《まゆ》だけが動いた。が、すぐにその活力も衰える。
「……どうせ待ってても、勝手に来るんでしょ……? だったら、自分から動くことなんか、ないじゃない」
「……」
返事はなかった。これ幸いと、マージョリーは嫌《いや》な話題を切り上げる。
「さって、と。いつまでもこんな所に埋もれてらんないわね。外はどうなってんのかしら……ケーサク、エータ、自在式は今、どんな感じ?」
「……」
マルコシアスが無言のまま、炎《ほのお》を弱めた。
「ちょっと、なに黙ってんの」
答えはない。
「……なによ、今は戦闘中じゃないから、喋《しゃべ》ってもいいのよ」
やはり、答えはない。
「どうしたの、ケーサク、エータ、なんとか言いなさい! マルコシアス、どうしたの、通信の自在法は途切れてないわよ!?」
「……」
せっつくマージョリーに、しかしマルコシアスは答えず、ただ、火を消した。
マージョリーは驚く。
「ちょ、なに?」
暗闇《くらやみ》の中、マルコシアスが、ぽつりと言う。
「さっきから、ずっと出ねえ。物音も、ねえ」
「――――え? なに、なによ、それ」
今度は、答えない。
「ど、どういうことよ、なに言ってんのよ!? ケーサク!! エータ!!」
静寂を相手に、マージョリーは怒鳴《どな》り続ける。
「まさか勘《かん》付かれて、千変《せんぺん》≠ノ? あの兄妹が? なんで、待ってよ! マルコシアス、なんで起こさなかったのよ!!」
答えはない。
どこからも。
ただ、暗闇だけが彼女を押し包んでいる。
数秒、耐えることもできなかった。
「マルコシアス!!」
マージョリーは絶叫して、目の前の暗闇を殴《なぐ》った。鈍い音がして、それっきり。
やがて、小さな答えが来た。
「おめえの望んだ結果だよ、我が怠惰《たいだ》なる愚者《ぐしゃ》、マージョリー・ドー」
「な――!?」
あからさまな侮蔑《ぶべつ》の言葉に、マージョリーは絶句した。
「後悔もしねえ抜け殻《がら》だぁ? そう嘯《うそぶ》いてる間に、このザマだ。おめえはなんとかすることができた、なのにしなかった、だから、こうなった……どの口で、誰に文句を言うよ?」
彼女は呆然《ぼうぜん》となった。数百年ともにあったこの騒がしくも優しい狼《おおかみ》に、こうもあからさまな悪意を持って罵《ののし》られたことは、一度もなかった。
呆然となった彼女に、マルコシアスは容赦《ようしゃ》なく追い討ちをかける。
「エータに使命を感じないかと訊《き》かれて、なんと答えたよ?」
(――「今まで好き勝手やってきたしね。なにが使命なのやら」――)
「ケーサクに守ってくれと言われて、なんと答えたよ?」
(――「守る? 今さらそんな大仰《おおぎょう》なこと言われても、実感なんて湧《わ》きゃしないわよ」――)
「コレは全部、おめえの出した答え……しょうがない、で愚図《ぐず》ってた、おめえの答えさ」
「……」
マージョリーは、自分の愚かさに打ちひしがれ、突き付けられたものの重さに挫《くじ》け、後悔に深く沈んだ……りしなかった。
「――まだよ!!」
彼女は必死に足掻《あが》いた。目の前の暗闇《くらやみ》を、思い切りぶん殴《なぐ》る。砂埃《すなぼこり》がパラパラと落ちた。
「まだ話が通じなくなっただけでしょう!!」
「おめえか俺《おれ》の指示がなけりゃ、ご両人があそこを離れるわけがねえ」
いつになく静かなマルコシアスの理屈にも耳を貸さない。足掻くというのは、ただの感情だからだった。再び殴る。ズン、と衝撃《しょうげき》に瓦礫《がれき》が震える。
「徒《ともがら》≠ノ襲われそうになって逃げたのかもしれない!!」
「『玻璃壇《はりだん》』は徒≠映さねえ。気付いたときは死ぬときさ」
相手がどれだけ正しくても、明らかな事実を目の前にしても、それが認められない。抗《あらが》い、もがく。また殴る。バシ、と重くひびの入る音がした。
「それを見たの? 聞いたの? 確かめてないんでしょう!?」
「行ったところで、もう全《すべ》て終わってるだろうよ。トーチにできる喰い滓《かす》が残ってりゃいい方だ」
さらに殴る。ゴス、と巨重《きょじゅう》同士の擦《す》れる音がした。
「じゃあトーチだけでも拾って、あいつらが望んだように連れてってやる!!」
「存在を無くしてからじゃ遅すぎるし、意味もねえな。そこまで惜しむんなら、なんで最初からやらなかったよ」
今度は、両の掌《てのひら》でバン、とすがるように瓦礫を叩《たた》く。
「――だって! もう少し休ませてくれても、甘えさせてくれてもいいじゃない!! 何百年私がやってきて、いきなり全部、それを奪われて、そんな、急に自分を変えることなんてできないわよ!」
マルコシアスは、ハッ、と鼻で笑った。
「それが許されるんなら、ミナミナ幸せで、俺たちも要らねえだろうさ。この世が『どうしようもねえ』のは、攻めるも守るもそいつの勝手、ミナミナ好きにやって、てめえの責任《ケツ》を持つ、誰も逃《のが》れられねえ……そういうことなんだからよ」
無慈悲な宣告への答えは、すぐには返ってこなかった。
乱れ荒げられていた息|遣《づか》いが整えられてから、さらに長い沈黙を経て、ようやくマージョリーは重い口を開いた。
「……やらなかったことは、罪なの……?」
マルコシアスは、即答。
「おめえがそう感じるのならな。それも、勝手さ」
「…………」
今度はややの沈黙を経て、マージョリーは言う。
「………………今度のは、壊したいものじゃない、守りたいものだったのに」
群青《ぐんじょう》色の火の粉《こ》が、暗闇《くらやみ》に瞬《またた》いた。
「またこうやって、なにもかも無くしてから、瓦礫《がれき》の中、罪に塗れて、這《は》いつくばって、やり直すのね」
やがて火の粉は集まり、小さな、蝋燭《ろうそく》ほどの火が点《とも》った。
「そーいうこった。おめえは、とっくに選んでんだぜ? なにもかも無くして、それまでもこれからもどうしようもねえ場所で、まだ立ち上がる……そんな道をよ。もういいや、こんなもんだろ、って放り出さずにな。俺《おれ》は、そんなおめえに惚《ほ》れ込んで、俺の炎《ほのお》を預けたんだ」
点った火は、徐々に彼女を照らし出し、その体の表面を燃え広がってゆく。
「まだ、立ち上がる、か……でも、案外、結構、凄《すご》く……堪《こた》えるわ」
「ご両人に聞かせたいね……で、どうするよ。このままここに、ほとぼりが冷めるまで潜《ひそ》んでるかい?」
強烈な怒りと決意を漲《みなぎ》らせた美貌《びぼう》が、既に立ち上るほどになっていた炎に包まれた。
「まさか。可愛い子分[#「可愛い子分」に傍点]を殺されたのよ。こっちの手落ちだとしても、ただじゃ済まさないわ」
「ヒヒ……じゃあ、行くか」
ポーンと一|跳《と》び、軽く舞い、二跳び、砲弾のようにぶち上がる。
自分たちを押し包む瓦礫を軽く突き破って、一気に表に出た。
鉄骨を跳《は》ね除《の》け、コンクリートを蹴《け》散らして、傲然《ごうぜん》と瓦礫の頂《いただき》にそびえたそれは、
群青色の炎でできた、ずんぐりむっくりの獣《けもの》。
耳をピンと立て、目鼻を黒く穿《うが》ち、鋸《のこぎり》のような牙《きば》を並べて大きく笑うそれは、蹂躙《じゅうりん》の爪牙《そうが》≠フフレイムヘイズ、『弔詞《ちょうし》の詠み手』が纏《まと》う炎の衣『トーガ』だった。
それを見て、
「ん、えっ!?」
「どわあっ!」
と驚き転ぶ二人が、下に。
「――――え?」
頂から、マージョリーはその二人を呆然《ぼうぜん》と見下ろした。
「……ケ、ケーサク、エータ……?」
いなくなった、消えてしまったと思った二人は、そこにしっかりと存在していた。体中コンクリの粉塵《ふんじん》や煤《すす》で真っ黒になっている。二人でこの瓦礫《がれき》を掘り起こそうとしていたらしい。
ク、ク、ク、と必死《ひっし》に笑いを噛《か》み殺す声が聞こえる。
「…………ちょっ、と……どう、いう、こと……?」
あまりの怒りに、マージョリーは声を震わす。
「ヒッ、ヒヒ、ヒ、まあ、この世もたまにゃ、甘えツラを見せることがあるってえわけだ」
「か、担《かつ》、いだ、わ、ね……バカ、マルコ」
トーガが、バチバチと爆《は》ぜるような音を立てて燃え上がる。
「あ〜ん? 俺《おれ》ぁ、『さっきから誰も出ねえ、物音もしねえ』とは言ったが、ご両人が死んだなんて、一言も言っちゃーいねえぜ? ご両人も、俺が[#「俺が」に傍点]『ここに埋まってる』って言ったから来ただけだしよ。ミナミナ、おめえの早とちりだろ、ヒャッヒャッヒャ!!」
「……あん、た、ねえ……!!」
ブチブチと、自分の脳の血管が切れるのを、ほとんどマージョリーは実感した。
「マ、マージョリーさん!!」
「姐《あね》さーん!!」
下から、二人が瓦礫をよじ登ってくる。
無事だった、二人が。
「……」
マージョリーは、
「……――」
彼らの粉塵と煤に塗《まみ》れた全身を、血だらけの掌《てのひら》を、涙に崩れた顔を見て、
「――――――ッ」
不意に激情が別の方向へと傾くのを感じた。
(――――――ぅ、うわ、ちょ、待っ!?)
さっきは欠片《かけら》も出なかったものを今、自分がトーガの中でボロボロと零《こぼ》しているのを感じて、彼女は焦《あせ》った。今の状態で喋《しゃべ》ったら、絶対にバレてしまう。自覚はなかったが、トーガの獣《けもの》も、思い切り肩を震わせていた。
それに気付かずよじ登ってくる二人に、マルコシアスが明るい声をかけた。
「おおっと、ご両人。マージョリーは今、ボコボコにされて怒り心頭、本気の本気ってとこだ。触《さわ》ると本当に火傷《やけど》するぜ」
「え、でも、怪我《けが》とかは?」
心配げな佐藤《さとう》に、マルコシアスは軽く請《うけ》合う。
「ヒッヒッヒ、この程度で我が不死身《ふじみ》の猛者《もさ》、マージョリー・ドーが傷つくもんかい。むしろ、戦いに向かいたくてうずうずしてるところよ」
「この程度って……」
田中《たなか》は爆撃跡のような瓦礫《がれき》の山を見回す。
「早く『玻璃壇《はりだん》』に戻れとさ。今ヒス状態だからよ、下手《へた》に絡《から》んだら、このドでけえ手で思いっ切りぶったたかれるぜ?」
マージョリーは声を出せないので、ただ震えながらトーガを頷《うなず》かせた。
佐藤《さとう》は、そのマージョリーの様子を見て、確認するように言う。
「……分かりました。もう、大丈夫なんですね?」
マージョリーは再び頷く。
「そうですか。じゃあ、俺《おれ》たち、戻ります」
それまでの必死さが嘘《うそ》のようにさっぱりと、佐藤は言った。田中を促《うなが》して、瓦礫を降りてゆく。田中も降りながら、血だらけの腕を振り上げて大きく叫んだ。
「徒《ともがら》≠ネんか、ぶっ飛ばしてやってくださいよ!」
また、マージョリーは頷く。
頷きつつ、マルコシアスとの間にだけ通じる声で、言う。
(……お礼、言うべきなわけ、コレ)
(ヒヒヒ、さっきのとコレでチャラ、ってことでどうでえ)
(全部自分で撒《ま》いた種でしょうが……なんなのよ、もう……私、馬鹿《ばか》みたいじゃない)
(それじゃあ、やめるかい?)
(んなわけないでしょ……守るものが、あるのに)
トーガの内で、拗《す》ねたような泣き笑いが起きる。
(さあ、非情の世を歌い渡ろう、我が無様《ぶざま》なる旅人、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドー)
軽くも深い誘《いざな》いに、静かで強い決意が返る。
(ええ。とびきり惨《むご》いのを、聞かせたげるわ。我が憎《にく》き相棒《あいぼう》、蹂躙《じゅうりん》の爪牙《そうが》<}ルコシアス)
ふと、マージョリーは、瓦礫の山の下で、子分たちが自分を見上げているのに気付いた。
それに答えるように、トーガの胸を張り、太い腕を翼のように広げて見せる。
そして、せいぜい格好よく見えるように、大きく跳《と》んだ。
戦場へと。
(シャナが、もうすぐ来る)
それを悠二《ゆうじ》は感じている。
どんどん近付いてくる。物凄《ものすご》い速度で。
嬉《うれ》しくもあったし、頼もしくもあった。
しかし、物事というのは、順調一本|槍《やり》で行くことに絶対的な抵抗を持っているものらしい。
(……ど、ど、どうし、よう……)
彼女らが近付いて来ることで、シュドナイはすっかりやる気になってしまっていた。その体中に、『殺し』の力が満ちていくのが、ありありと分かった。
もし炎《ほのお》の類《たぐい》ではない……それこそ今、目の前に掲げられている『両腕の虎《とら》の頭』にでも襲われれば、一たまりもない。噛《か》み千切《ちぎ》られて、全《すべ》ては終わりだった。
体が突然、腹の底に氷が溜まったように、重く冷たくなった。
一瞬の後に、自分が消滅しているかも知れない。今まさに、相手はそうしようとしている。
そんな、拒《こば》んでいた理解と実感が、どんどん心に染《し》みこんでくる。
いきなり、
カチン、と硬く軽い物がぶつかる音がした。
(……?)
最初、悠二《ゆうじ》はそれがなんの音であるか分からなかった。またすぐに、
カチカチ、と今度は連続して音が鳴る。
(……)
カチカチカチカチ、とさらに音は速く激しくなる。
(……あ、あ)
ようやく気付いた。自分の歯が、震えて鳴っているのだ。
(止まれ、止まれ、止まれ!)
心で叫んでも、体は言うことを聞かない。形だけの抜き打ちの構えがグラグラと揺れ、崩れてゆく。関節にどうしようもないだるさが満たされて、そこにまた震えが入り込む。
今や悠二は全身を、瘧《おこり》のように揺らしていた。もう、どうしようもなかった。
「……?」
シュドナイの怪訝《けげん》な顔つき、それが、
「! ――貴様!!」
一瞬の得心《とくしん》で、怒りへと転化する。
(ま)
悠二が思う間に、
(ずい――!!)
ズドン、とその胸に、シュドナイの伸びた腕が突き刺さっていた。腕全体を燃やしていた炎は結界《けっかい》に阻《はば》まれ、その境界で途切れていたが、腕そのものは阻みようがなかった。
「この俺《おれ》をペテンにかけたな?」
悠二を突き刺した腕は、しかし反対側に飛び出ず、その内側に潜《もぐ》っていた。肉体的なダメージこそないが、彼のミステス≠ニしての本体、秘宝『零時迷子《れいじまいご》』に向けて、シュドナイはその手を伸ばしていた。存在そのものの消滅の危機だった。
「あ……」
封絶《ふうぜつ》の中で動けるだけのミステス=A炎《ほのお》を防ぐだけという戦闘のド素人《しろうと》にまんまと騙《だま》されていたことに、シュドナイは大いにプライドを傷付けられていた。
「ちっ、なんてことだ。せめて中身くらいは当たりであってくれよ」
虚仮脅《こけおど》しだったミステス≠フ中身が、果たして時間の浪費に見合うだけの物かどうか、その無能振りから疑いつつも、シュドナイはより深くへと手を伸ばす。
恐怖に冷える悠二《ゆうじ》の脳裏に、いつか燐子《りんね》≠ノ同じことをされた記憶が蘇《よみが》える。あのときは、シャナが助けてくれた(燐子≠イと斬《き》られたことは、頭から追い出していた……末期《まつご》の回想くらい、綺麗《きれい》に思い描きたい)。
しかし今、彼女はここにいない。
彼女がここに来るまでには、まだ少し時間が必要だった。
それを、発達した感覚の中で思い知らされて、悠二は絶望的な気持ちになった。彼女と一緒に居続けたことで、彼女との距離を、別れを、より鮮明に感じる……その酷《ひど》い皮肉に、怒りさえ抱《いだ》いた。
そして遂に、シュドナイの伸ばした手が、悠二の奥深くで鼓動《こどう》しているものに届く。
(あった)
シュドナイはにやりと笑い、
(――シャナ、ごめん!!)
悠二は燐子≠フときにも感じたことのない、それ以上……自分の分解と消滅に身構える。
ピシ
不意に、奇妙な感覚が悠二の全身を貫いた。
亀裂《きれつ》の音と、その実感。
「? っが」
最初悠二は、これは自分が砕《くだ》ける音だ、と思った。
「ぐ、お」
しかし、視覚はその認識を裏切っていた。
「おおお」
聴覚が捕らえていたのは、自分の声ではなかった。
悠二はようやく極限の緊張から覚める。シュドナイがよろめいていた。悠二に伸ばし、潜《もぐ》り込んでいた腕を掴《つか》んで……否、潜り込んでいた部分を失った、腕の傷口を掴んで。
「おおおおおおおおおお――――――!!」
まるで猛獣《もうじゅう》の断末魔《だんまつま》を思わせるような絶叫。その押さえる傷口は、引き千切《ちぎ》れたのではない、石膏像《せっこうぞう》の折れるにも似た、異様なものだった。濁《にご》った紫色の火花が、そこから血のように噴《ふ》き出している。
身を僅《わず》かに屈《かが》めて、シュドナイはうめくように言う。
「……か、『戒禁《かいきん》』!? 馬鹿《ばか》な、俺《おれ》を、この千変《せんぺん》≠退《しりぞ》けるほどの『戒禁』だと!?」
「う、う――」
その声の意味を理解する余裕《よゆう》は、悠二《ゆうじ》にはなかった。ただ、砕《くだ》け折れたシュドナイの腕が、異様な実在感を持って自分の中に漂《ただよ》っている……その、まるで腕が自分の中に一本増えた[#「腕が自分の中に一本増えた」に傍点]かのような悪寒《おかん》に総身《そうしん》を苛《さいな》まされ、苦しんでいた。
「一体……何を蔵している、貴様……いや、封絶の中で動く[#「封絶の中で動く」に傍点]…………?」
ふらついて、うわ言を呟《つぶや》くシュドナイが、ぴたりと止まった。
悪寒でよろよろと下がっていた悠二は感じた。
気付かれた。
「まさか、貴様――そうなのか[#「そうなのか」に傍点]」
シュドナイの顔に、苦痛以上の巨大な歓喜が浮かび上がっていた。
「う、あ――」
悠二はその表情に、なにかを感じた。強力な紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠フ秘宝を得た、そんな安易な喜びの表出では、決してなかった。
そして、それを確定付けるように、シュドナイは言った。
「まさか、まさかこれほど早く見つかるとは[#「これほど早く見つかるとは」に傍点]……ク、クク、クククク……」
シュドナイは腹の奥底からの笑いを響かせて、悠二へと……その中の宝具《ほうぐ》『零時迷子《れいじまいご》』へと、無事な方の手を、文字通りに長く伸ばす。
悠二は、先の存在消滅にも勝《まさ》る恐怖を、この姿に抱《いだ》いた。自分の知らないなにかが、自分にとって決定的なことを左右しようとしている、その直感があった。
「あ、あ――!」
シュドナイの手が、眼前に迫る。今度は逃げられないと分かった。悠二は自分の全《すべ》てを覆《おお》い尽くすようなその手を、ただ震えながら見る。
それが、
「ドカ――ン!!」
と横合いから降ってきた陽気な声で、吹っ飛んだ。
「!?」
その声を上げて、火山弾のように無茶な速度と重量をもって飛び込んできたのは、群青《ぐんじょう》色の炎《ほのお》の塊《かたまり》。シュドナイの本体を横様《よこざま》に蹴《け》っ飛ばしたのは、ずん胴《どう》の底にある短足、足の裏。
シュドナイは路上の車、四、五台を転がり潰《つぶ》して、諸共《もろとも》に爆発した。
「――っな、あ、い、生きて――」
ようやっと驚くだけの余裕《よゆう》を取り戻して、悠二《ゆうじ》は言う。
目の前に再び、死んだと思ったフレイムヘイズがそびえ立っていた。今度は、悠二たちが戦ったときの、戦闘意欲そのもののような、トーガを纏《まと》った姿で。
「ふふん、ナーイスタイミング」
「戦機も熟して、程好い食い頃だなあ、ヒー、ハー!」
やり取りする声にも、以前の不敵《ふてき》な弾みがあった。
悠二はその異様な明るさを頼もしく思い、
「調子は戻ったのか、ってえええ――――!?」
群青《ぐんじょう》の獣《けもの》に無造作《むぞうさ》に掴《つか》まれ、思い切り勢いをつけて、投げられた。
シュドナイに向けて。
炎上する車の残骸《ざんがい》から身を起こしたシュドナイは、
「……くそッ!」
(俺《おれ》としたことが、『零時迷子《れいじまいご》』を前に、我を忘れ――なっ!?)
顔を上げた先、真正面から物凄《ものすご》い速さで迫る、自分の標的の姿に仰天《ぎょうてん》した。
そして、その間に上がっている歌声に戦慄《せんりつ》した。
「ハンプティ・ダンプティ、転《ころ》がり落《お》ちて――」
屠殺《とさつ》の即興詩!!
「砕《くだ》けろ!」
悠二が砕けた。
「わあ!! って、あれ?」
叫び、身を縮めた悠二は、なぜかマージョリーの足下で、砕ける自分を見ている[#「砕ける自分を見ている」に傍点]ことに気付いた。
「うおお!?」
そんな、偽《にせ》の悠二が砕ける様《さま》に焦《あせ》ったシュドナイは一瞬の後、その欠片《かけら》から変じた鳥篭に閉じ込められていた。
「そおりゃああああ――――!!」
間髪《かんぱつ》入れず、彼を足止めの自在法である篭ごと、膨《ふく》らみ伸びた群青の豪拳《ごうけん》がブチ飛ばす。
「ぐはおおおっ!!」
「ペニィ!」
さらに、宙を吹っ飛ぶ彼を、手の先から撃ち出された炎弾《えんだん》が容赦《ようしゃ》なく叩《たた》く。
「ペニィ! ペニィ!」
立て続けに炸裂《さくれつ》するそれは、腑抜《ふぬ》けていたときとは比べ物にならない威力を持っていた。
「ペニィ積《つ》もればお金持《かねも》ち、っと!!」
「ヒャーッ、ハーッ、ターマヤー!!」
とどめのデカい炎弾《えんだん》が炸裂《さくれつ》し、シュドナイは煙を引いて御崎《みさき》大橋の下、真南《まな》川へと落ちた。
己が力たる炎《ほのお》の明るさと、奏でる即興|呪文《じゅもん》の滑《なめ》らかさに、群青《ぐんじょう》の獣《けもの》が口をUの字に曲げて満足気な笑顔を作る。
「なんだ、憎しみ以外でも結構、戦えるじゃない」
「みてえだな、ッヒヒ!」
その足下から、悠二《ゆうじ》が身を起こしつつ文句を言う。
「な、なにすんだよ! 無茶苦茶だ!」
もちろんマージョリーは涼しい顔……というか、獣の笑顔さえ崩さない。
「撹乱《かくらん》のタネに使われたくらいでギャーギャー言うんじゃないわよ」
悠二はまたなにか言いかけて、はっと気付く。
「そ、そうだ、『オルゴール』!! この上に!!」
言われて、マージョリーは顔をトーガの中から現し、頭上、橋の主塔を振り仰《あお》いだ。
「ふうん、なーるほど、でも」
「え?」
「あれはチビジャリの担当ね。こっちはあのグニャグニャ野郎《やろう》の邪魔《じゃま》をしないと」
「え? でも、さっき……ううっ!」
言いかけて、悠二は川の中で膨《ふく》らむ力に怖気《おぞけ》を感じた。
「あいつがあの程度で死ぬようなら、誰も苦労しないっての」
マージョリーは再び顔をトーガの内に隠す。獣の牙《きば》がジャリン、と居並び揃って笑う。
「嬢《じょう》ちゃんに教えてやんな」
からかうようなマルコシアスの声を切りに、トーガの獣はボン、と地を蹴《け》って、橋の下へ飛び降りてゆく。すぐに、橋の下から大きな爆発と水|飛沫《しぶき》が連続して上がった。
悠二は、御崎大橋から一直線に住宅地へと伸びる大通り、その上空に目を転じた。
(……来た!)
恐らくは愛染《あいぜん》の兄妹≠セろう山吹色《やまぶきいろ》の光と縺《もつ》れ合いながら、まっしぐらに飛んでくる。
紅蓮《ぐれん》の双翼を煌《きらめ》かせる、フレイムヘイズの少女が。
悠二は、黙って指を天に差した。
その悠二の行為に対するシャナの評価は、
(――あの馬鹿《ばか》!)
というものだった。
(自分が狙《ねら》われていることも知らないで!)
しかし、彼の指す意味は分かった。御崎市の中心部たるそこ、橋の車道を跨《また》いで立つA型主塔の頂点に、『ピニオン』を制御《せいぎょ》する宝具《ほうぐ》『オルゴール』があるのだ。
そして、それら使命遂行の状況把握から僅《わず》かに遅れて、
(やっぱり、一緒にやっててくれた)
そのことを思い、胸を熱く焦《こ》がす。
今は自分が僅かに先行しているため顔を合わせることはできないが、ソラトの背にあるティリエルに、あの自分の形[#「自分の形」に傍点]を誇ってやりたい気持ちだった。
その気持ちを弾みとして、さらに速く強く、御崎《みさき》大橋を目指す。
橋のすぐ脇、真南《まな》川の川面《かわも》が連続して爆発した。ティリエルの言っていた助《すけ》っ人《と》……噂《うわさ》に高い千変《せんぺん》<Vュドナイと、マージョリーが戦っているのが分かった。彼女の戦闘における判断力を信用するシャナは、この戦闘が自分への援護だと正確に理解する。
この勝負、あとは狙《ねら》われている悠二《ゆうじ》を守り、狙っている『オルゴール』を愛染《あいぜん》の兄妹≠ゥら奪取、あるいは破壊するのみだった。
「アラストール、私のやり方を見ていて」
彼女の言う意味を即座に悟《さと》ったアラストールは、静かに答える。
「よかろう、思い通り、思い切り、やるがいい」
シャナは僅かに頷《うなず》き、紅蓮《ぐれん》の双翼に力を注《そそ》ぎこむ。
その気迫を感じたティリエルが、花弁のケープから一片《いっぺん》、山吹《やまぶき》の火花を弾けさせた。
「――さぁ――ぃきます、わよ――彼に――ごぁぃ拶、を――!」
その散った火の粉《こ》は炎弾《えんだん》へと膨《ふく》らみ、シャナではなく、橋の中央にいる悠二へと向かう。
「ちいっ!」
シャナは舌打ちとともに体勢をくるりと回し、腕を振った。その先から紅蓮の炎が溢《あふ》れる。
(だめだ、小さい!)
その炎は彼女が念じ描いたものより、かなり小さかった。自身の力が消耗《しょうもう》しているというのもあるが、形のハッキリした大太刀《おおだち》や、流れる方向が一直線な奔流《ほんりゅう》を生み出すのと違って、曖昧《あいまい》な炎《ほのお》を構成するには、まだまだ熟練度が足りていないのだった。
溢れ出た炎はティリエルの炎弾を幾つか逃しながらも、その残りを誘爆させた。彼女の正面で。自分の放ったものであるがゆえに至近《しきん》で、しかも前方を遮《さえぎ》る形で、その誘爆は起こる。
「!」
(今だ!)
兄妹が驚き、これをかわす間に、シャナは僅かな距離を、悠二を拾い上げる間を稼《かせ》いだ。御崎大橋に、そこに立つ少年にぐんぐん近付く。ティリエルの炎弾《えんだん》を追いかける形で。
「悠二、避《よ》けて!」
その大音声を聞くまでもなく、悠二は咄嗟《とっさ》に近くの車の陰へと飛び込んでいた。危うくその周囲に着弾して、山吹色《やまぶきいろ》の爆発が起こる。
「どわ――――っ!?」
圧力を伴った炎《ほのお》の波が、吹っ飛んだ車と一緒に悠二《ゆうじ》を無茶苦茶に翻弄《ほんろう》する。
その手を、細い指がしっかりと掴《つか》んだ。望んでいた声が、凛《りん》と響く。
「来て」
悠二は頬《ほお》も焦《こ》げる熱さの中、衝撃《しょうげき》に瞑《つむ》った目を開けもせず、ただ頷《うなず》いた。強く握り返す。新たな衝撃が、直上への跳躍から飛翔《ひしょう》に変わる。炎を突き抜け煙を越える感触が、ただ風を切るものとなってから、悠二はようやく目を開けた。
「うわ」
目の前スレスレを、A型主塔の鉄壁が流れ過ぎて行く。ふと、悠二はこの騒動の始まりで、シャナが屋上に上がってきた動作を思い出した。
その予想通り、シャナは主塔の頂《いただき》寸前の壁に大太刀《おおだち》の切っ先を浅く刺し、急ブレーキをかけた。華麗《かれい》に、くるりと回って上辺の端《はし》に着地する。
これら一連の動作に振り回された悠二は、危うく上辺に激突しそうになったところを、シャナの細い腕でがっしりと受け止められた。
「ぐえっ!」
と悲鳴を上げる間に、乱暴に放り捨てられる。
「いつつ……、ん……?」
そのショックから覚め、立ち上がろうとする悠二の耳に小さく、音が触れた。
どこまでも金属的な、しかし澄明《ちょうめい》繊細な音色。
テンポの緩《ゆる》い、しかしどこか緊迫の香るメロディ。
心の琴線《きんせん》を切なく揺らす、清らかな孤高《ここう》を奏でる楽器。
「……『オルゴール』……?」
悠二は呆然《ぼうぜん》と立って、探していた物を、御崎《みさき》市を覆《おお》った異界の中核たる宝具《ほうぐ》を、見た。
下から見た感じよりも、意外と広いA型主塔の上辺、長方形の真ん中にポツンと、音と情景の寂しさを漂《ただよ》わせて、それは置かれていた。
粗末《そまつ》な、木目《もくめ》も擦《す》り切れた、木の小箱。
そして今、その切ない音色を転がし零《こぼ》す小箱を挟《はさ》んだ反対側の端に、山吹色の花弁《はなびら》でできたケープを豪奢《ごうしゃ》に靡《なび》かせて、愛染《あいぜん》の兄妹≠ェ降り立っていた。
「やっととまった! ねえ、はやくわたしなよ、ボクの『にえとののしゃな』!!」
一人元気な愛染自《あいぜんじ》<\ラトが、懲《こ》りずに『吸血鬼《ブルートザオガー》』を振り回しながら言う。
その背に負ぶさる愛染他《あいぜんた》<eィリエルが、
「――さぁ……ぉ兄様――に、渡し、て――」
と、こちらも懲りずに言う。その反響する声には、自分たちの虎《とら》の子の宝具《ほうぐ》『オルゴール』を前にしたためか、余裕《よゆう》の色さえあった。
しかし悠二《ゆうじ》は、彼女の姿を見て、思わずあとずさっていた。
「な、な……!?」
ティリエルは既に、顔半分以外の輪郭《りんかく》を保っていなかった。ソラトの胸にぶら下がる手は中途で途切れ、足は広がるドレスと混じって、その判別も付かない。最愛の兄に燃え被《かぶ》さる、一塊《いっかい》の炎《ほのお》となっていた。
山吹色《やまぶきいろ》の花弁からなるケープの鮮やかさとともに、彼女はソラトを飾っていた。しかし、そのケープの花弁の数も今や、最初見たときの四分の一ほどまでに減っている。
これぞまさしく、愛染他《あいぜんた》*{質の姿だった。
そしてそれは同時に、彼女が『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を欲する兄を助け続けることも意味する。当面、シャナにとっては、それだけが重要なことだった。
(いや、もう一つ、か)
両者の間にある、『オルゴール』。
用法も特性も不明の、しかしこの巨大な異界の中核《ちゅうかく》であるという宝具《ほうぐ》。兄妹は、ことさらに取り戻そうという動きを見せない。もしかすると、発動には直接手を触れなくても良いのかもしれなかった。
(だとすると、少し厄介《やっかい》か……)
思うシャナに、山吹色の炎に半分浮かぶ美貌《びぼう》からの声が届く。
「――私――少し、ぉどろ、いて――ますのよ」
少しずつ、その声がしっかりしてくる。
「ぁれだけ――フレィムヘイ――ズ、としての誇りを、語ってぃらしたのに」
炎に浮かぶ半分の美貌、それだけが確固とした姿を取り戻していた。
シャナは気付いた。
ティリエルは最後の勝負に向けて、己に残った力を集中している。まるで蝋燭《ろうそく》が、燃え尽きる寸前に炎を明るく光らせるように、彼女は強く激しく輝いていた。
「この『オルゴ、ール』の破壊でなく、まずその方、を助けに行かれるなんて」
ティリエルは、自身誇る切り札の宝具を気にする素振りを見せない。ただ、鮮やかな半分の微笑を浮かべて、シャナと、その後ろの悠二に目をやっている。
シャナは、そんな彼女の様子に複雑な戸惑《とまど》いを覚えつつも、はっきりと答えた。
「この封絶《ふうぜつ》は、既におまえたちを援護する機能を失ってるから、それを維持する宝具の重要性も低い。最初に破壊する必要もない。おまえたちとの戦いだけが重要……だから、こいつをまず拾い上げたのよ」
悠二は、守られることの情けなさと嬉《うれ》しさを、密かに噛《か》み締める。この一見、理詰めで殺伐《さつばつ》としたシャナの言葉は、実は『悠二を庇《かば》いながら戦っている』ことを、はっきりと認めていた。
ティリエルは炎の中、頷《うなず》く風に顔を伏せる。
「なるほど――たしかに私は、あなたを動揺させ、隙《すき》を作るために、その方を真っ先に捕らえるか殺すかしようと考えていましたわ――」
その声には、悪びれる様子もない。
「でも――」
「!」
シャナは身構える。
「――『オルゴール』に対する認識だけは――甘かったようですわね」
「うっ?」
悠二《ゆうじ》も気付いた。
いつしか、奏でられる音色が変わっている。
「ボクらの『オルゴール』は、すごいんだぞ! むずかしいじざいほーを、まとめてたくさんつかえるんだ!!」
得意気なソラトの横顔に陶然《とうぜん》となって、ティリエルは声を連ねる。
「――ええ、その通りですわ、お兄様。複雑な『ピニオン』稼働《かどう》のための自在式も、一度これに込めれば、あとは自動的に行ってくれる――」
彼女が目を瞑《つむ》り、耳を傾ける間にも、ケープから花弁が次々と舞い落ちてゆく。
「――こう、音色を綴《つづ》って――延々と――」
それは、彼女が新たに『オルゴール』に打ち込んだ自在式を幾重にも使っていることの……そして、彼女の命が確実に散り果てつつあることの証明だった。
「――欠点は、音色を安定させるためには置いておかねばならないことと、一つの自在式しか奏でられないということ――まあ、『オルゴール』ですもの、しょうがありませんわね――」
ティリエルは最後の雄弁とばかりに声を連ね……そして、ゆっくりと、一つきりの目を開く。
そこには、消耗《しょうもう》を全く感じさせない強い光が宿っていた。
シャナは、彼女がなんの自在式を『オルゴール』に打ち込んだかを察しつつ、しかし別の一言を……惜別《せきべつ》の声を贈る。
「なんて、馬鹿《ばか》なの」
ティリエルはそれを受け取り、揺れる自身の中から、勝敗いずれにせよ待つものへの恐怖を微塵《みじん》も感じさせない、明るい声で返す。
「うふふ――ありがとう[#「ありがとう」に傍点]――でも私は、私のお兄様以外から、賞賛を受けようとは思っていませんのよ――いえ――そう、誰からも[#「誰からも」に傍点]――」
最後の最後まで、彼女は愛染他《あいぜんた》≠セった。
「さあ、参りましょう――お兄様――」
そして、妹の許可を得た愛染自《あいぜんじ》≠焉A剥《む》き出しの我欲のみの答えを返す。
「うん、ティリエル! ボクの『にえとののしゃな』!!」
対するシャナは、後ろへと、顔を向けずに宣言する。
「大丈夫」
「うん」
悠二《ゆうじ》との、それだけのやり取り。
それだけで、疲れきった体に、また力が湧《わ》いた。
両者の間で、『オルゴール』が鳴っている。
水面下を高速でのたくり進む影を追って、トーガを纏《まと》ったマージョリーが宙をすっ飛んでゆく。その腕の先から次々と炎弾《えんだん》が影へと叩《たた》き込まれ、水柱が派手《はで》に上がった。
と、その水柱の一つを突き破って、海蛇《うみへび》のような化け物、千変《せんぺん》<Vュドナイの化身の一つが飛び出した。
「おっ、と!」
マージョリーは眼前に迫る化け物にも慌《あわ》てず、熊のような両腕でこれを挟《はさ》み潰《つぶ》した。その潰れた部分から、連鎖して群青《ぐんじょう》の爆発が起こり、粉々にする。
と、
「下だ!」
マルコシアスが叫び、その通りに直下からもう一匹、同じ化け物が飛び出した。マージョリーはすぐさま身をかわし、その回避で振った腕を化け物の首に巻きつけた。
「コソコソしてないで出てきなっ、さい!!」
一本|釣《づ》りよろしく、思い切り引っ張り上げる。
ズズ、と水面が盛り上がり、両腕でしかなかった海蛇の本体、虎《とら》のような化け物が、水面を割って飛び出した。
「ゴアアアアア!」
海蛇を切り離すと、その虎の化け物に変じた千変<Vュドナイは、新たな腕を伸ばして襲い掛かる。その鉤爪《かぎづめ》が、思い切りマージョリーを切り裂《さ》いた。
と、その彼女が分裂し、彼を円形に囲む。
「薔薇《ばら》の花輪《はなわ》を作ろうよ、っは!」
即興詩を歌うマージョリーに、
「ポッケにゃ花が一杯さ、っと!」
マルコシアスが答えて、全周一斉に爆発する。
「ぐおおっ!?」
(おのれ、こうも一方的に……!)
シュドナイは、普段の彼にはないことに、大いに焦《あせ》っていた。『零時迷子《れいじまいご》』を蔵したミステス≠ノ、自身を構成する本質の幾分かをもぎ取られたとはいえ、ここまでの苦戦になるとは思いもしなかった。マージョリーの強さは、全く異常といってよかった。ようやく見つけた『零時迷子《れいじまいご》』を目の前にして……歯|噛《が》みしたい思いとはこのことだった。それに、
(このままでは愛染《あいぜん》の兄妹≠轤焉c…)
シュドナイは、彼らへの愛着も友情も持ってはいなかったが、自身の信条である依頼を果たし損なうことには、大きな屈辱《くつじょく》を感じる。
(しかし、だとすると、あの兄妹と独力で渡り合っているフレイムヘイズも、相当な使い手ということになるが……何者――)
「――うおっ!?」
咄嗟《とっさ》に身を逸《そ》らす、その眼前でバクン、とトーガの牙《きば》だらけの口が噛み合った。
「ヒャーッハッハ! 美女のべーゼを避けるたあ、どういう了見《りょうけん》でえ!?」
気に障《さわ》るマルコシアスの笑い声を忌々《いまいま》しく思いつつ、蝙蝠《こうもり》の翼を生やして飛び上がる。
(!)
一気に広がった視界に、御崎《みさき》大橋の主塔が入った。
(まさか?)
そこから一点、目を刺す煌《きらめ》きを受けて、シュドナイは驚愕《きょうがく》した。
(紅蓮《ぐれん》!!)
見間違うはずもない。
あの色を宿すフレイムヘイズは、広きこの世に、ただ一人。
「――『炎髪灼眼《えんぱつしゃくがん》』だと!?」
「ごめーとー!!」
「あ、た、り、だ!!」
馬鹿《ばか》のような隙《すき》を作ったシュドナイの背中に、組んだ両掌《りょうて》がハンマーのような勢いでブチ込まれた。
「ぐわあっ!!」
シュドナイは再び真南《まな》川へと叩《たた》き込まれる。
(最悪だ! 天壌《てんじょう》の劫火《ごうか》≠ェ!! 『零時迷子』と一緒に!!)
ダメージや戦況、全《すべ》てを吹き飛ばす後悔が、彼を支配した。探し求めていた『零時迷子』を発見した喜びが、一人のフレイムヘイズの出現によって今や、最悪の事態への危惧《きぐ》に取って代わられていた。
(過干渉はまずい! 我々との関わりを気取られたら終わりだ!!)
他者の護衛という稼業《かぎょう》に喜びを見出してから初めての選択|肢《し》を、彼は採る。矜持《きょうじ》も信条も、もはやどうでもよかった。これ[#「これ」に傍点]に比べたら、全く大した問題ではない。
(くそっ、この場に『弔詞《ちょうし》の詠み手』さえいなければ――!!)
全《すべ》ての成り行きをシュドナイは呪《のろ》い、行動した。
「ん!?」
「なぬっ?」
今度は、マージョリーとマルコシアスが驚いた。
真南《まな》川の水面《みなも》に映る影が薄まり、凄《すさ》まじい速度で遡《さかのぼ》り始める。
あの千変《せんぺん》<Vュドナイが、逃げを打っていた。
寂しさの音色に誘われて、両者は別れを始める。
ソラトが鋭く速く、踏み出した。
その首に腕を絡《から》めるティリエルが、ケープとともに、薄れてゆく。
対するシャナは、持てる全ての力を振り絞って、
「――はあっ!!」
紅蓮《ぐれん》の大太刀《おおだち》を真正面に放射した。主塔上辺を焼き焦《こ》がしながら、炎《ほのお》の塊《かたまり》は突き進む。
ソラトはその真正面から衝突《しょうとつ》し、しかし炎を突き破る。『オルゴール』による、幾重もの火|除《ひよ》けの自在法を受けた彼は、シャナの炎から完璧に守られていた。
まさに、ティリエルの望むように。
そして、その防御《ぼうぎょ》対象に、ティリエル自身は含まれていなかった。
「私の――お兄様」
山吹色《やまぶきいろ》のケープが全て、兄を守るために散り果て、
「なんでも――なさって――私が、許し――」
ティリエルの姿も同じく、紅蓮の中に、消えた。
駆《か》けるソラトの足下で、『オルゴール』も、己の音色を愛した持ち主を追うように、最後の自在法を奏で続けながら、溶け去った。
それら、他《ほか》の何物にも気を向けず、ソラトは、ただ見る。
妹の切り拓《ひら》いた活路の末にある、自身の欲望の標的を。
それを持つ者は、目に入らない。
シャナは、そんな欲望の盲進を見|据《す》え、全く無造作《むぞうさ》に、手にあった物を放り投げた。
『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を。
ソラトが当然のこと[#「ソラトが当然のこと」に傍点]と、それを見上げる。
「あ――ごぶっ!?」
その腹に、シャナが足裏の爆発から全身のバネと動作の流れ、全《すべ》てを調和させた末に生まれる砲弾の如き拳《こぶし》を叩《たた》き込んでいた。さらに、身を折るソラトの両肩に手を掛け、軽業《かるわざ》のように回転、その背を踏んで、跳《と》ぶ。
その跳躍の先で彼女が手に取ったものは、
「――『にえ、との――
声の切れを待たず、紅蓮《ぐれん》の双翼で真下へと加速した斬撃《ざんげき》が、見上げようとしたソラトを脳天から一線、真っ二つに断ち切った。
そして、間を置かない二撃目がその胸に突き立つ。
「ごめん」
シャナは、もういない者へと声をかけ、内側からソラトを粉々に爆砕《ばくさい》した。
山吹色《やまぶきいろ》の火の粉《こ》散る中、宙から落ちてきた『吸血鬼《ブルートザオガー》』が上辺に突き立ち、傾く。
それは、主《あるじ》に取り残されたようにも、主の墓標となったようにも見えた。
シャナは全《すべ》てが終わった後も、『吸血鬼《ブルートザオガー》』を前に無言で佇《たたず》んでいた。
そんな彼女の背中を、同じく黙って見ていた悠二《ゆうじ》は、不意に肩を叩《たた》かれた。
「うわっ!?」
「そっちも片付いたみたいね」
驚き振り向いた先に、マージョリーが立っていた。もうトーガも解いている。
「ヒヒ、そっちも[#「そっちも」に傍点]? 逃がしたってのも、まあ、たしかに片付いたといや、片付いたようなもんだがよ」
「お黙り、バカマルコ」
マージョリーはマルコシアスのグリモア≠、バン、と叩く。
悠二は、また驚いた。
「逃がした!? あいつ、またやってくるんじゃ……? なんだか僕の中の宝具《ほうぐ》に、妙に興味持ってたみたいだし……」
あの、自分をなにかとんでもないことに巻き込もうとしていたように思える紅世《ぐぜ》の王≠フ姿が再び脳裏に浮かんで、背筋が寒くなる。そういえば、胸の中でもげた腕も、まだ感触が残っていて気持ちが悪かった。
しかしマージョリーたちは、全くお気楽に言う。
「いいじゃない。紅世の徒《ともがら》≠ネんて、逃がすときは逃がすし、来るときは来る、そんなもんよ」
「逃がした当人が言っても、言い訳にしかなんねえけどな、ヒヒブッ!」
再び、バン、とグリモア≠ェ叩かれる。
「ま、とりあえず今、生き残れたことでも喜んでたら? あの三人相手なら、それだけで十分に幸運よ」
「慰めになってるのかなあ、それ……」
「別に慰めてなんかないわよ。だいたい、またやってくるとして、あんたがここにいるとは限らないでしょ」
「!」
マルコシアスがさらに言う。
「もっとも、そうなったら、ここに次、徒《ともがら》≠ェ来たときは守れねえってわけだ。どっちにしても、どうしようもねえ。割に合わねえのがこの世ってもんさ」
「――」
悠二《ゆうじ》は、この二人の軽く放った言葉に、大きな衝撃《しょうげき》を受けた。
シャナといつか一緒に行ければ……そう漠然《ばくぜん》と望んでいた。しかしそれは、母や友人たちを無防備なまま残していくことと同義だったのである。
ここに留まり、次の徒≠フ到来を待つか。
それとも出て行って、この街を放置するか。
自分だけで決められることでもなく、また簡単に結論の出る問題でもなかった。
悠二は、自分が尽きることのない悩みの道にあることを思い、深々とため息をついた。やっと徒≠追い払ったという達成感も、いつの間にか吹き飛んでしまっていた。
「悠二、なんともない?」
そんな彼の前に、シャナがようやくやって来た。『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を黒衣《こくい》の左腰に収めて消す、その姿には、どこか悲痛の風があった。あの徒≠フ兄妹の死に、感慨のようなものを抱《いだ》いているらしい。
そのことを不思議に思った悠二は、尋ねようとして仰天《ぎょうてん》した。
「うん、大丈――わっ!? シャ、シャナ! それ、君の方が!?」
赤黒い血の染《し》みが、首筋から胸元から、夏服やサイハイソックスにもべっとりと付着していた。事態の収まった今になってようやく、悠二はそれに気付いたのだった。
しかし、当のシャナは軽く答える。
「ん? ああ、これ? うん、大丈夫。もう傷は塞《ふさ》がってると思う……アラストール」
「うむ」
彼女の体表を、清めの炎《ほのお》が覆《おお》った。その紅蓮《ぐれん》の中で、体に付いた汚《よご》れや血の染みが、水の蒸発するように消えてゆく。
「――――」
「ほら、やっぱり塞がってる」
「――――」
「……悠二?」
シャナは返事をしない悠二を訝《いぶか》って、自分から彼の方に目を転じた。その先で、
「――――」
目を皿のように見開いた悠二が、シャナの真っ二つに斬《き》られた上着の間……白く清められ顕《あら》わになった胸の中央を凝視《ぎょうし》していた。
黒衣《こくい》の内から神速《しんそく》の抜き打ちが走り、アラストールが一言。
「峰《みね》だぞ」
ドバカ、と久々に脳天を『贄殿遮那《にえとののしゃな》』でぶん殴《なぐ》られ、悠二《ゆうじ》は糸の切れた操《あやつ》り人形のようにぶっ倒れた。よせばいいのに、頭を押さえて無謀《むぼう》な抗弁をする。
「い! いや、だって心配で」
「足りなかったか」
「みたい」
「ぐぼはっ!」
「……楽しそうねえ、あんたたち」
二発目を食らわすシャナと食らって吹っ飛ぶ悠二に、マージョリーが呆《あき》れ声で言った。
「そろそろ封絶《ふうぜつ》、解きたいんだけど」
「んーな、じゃれてる暇があんなら、嬢《じょう》ちゃんもちょいと中の復元を手伝ってくれや」
マルコシアスにも言われて、シャナは――黒衣を寄せて胸を隠し、危うく主塔から落ちそうになった悠二をグリグリと踏みつけて押さえながら――御崎《みさき》市の全域を灼眼《しゃくがん》で見やった。
「そういえば、愛染《あいぜん》の兄妹≠討滅《とうめつ》したのに、まだ解けていないのね?」
「市街地に散らばってる燐子《りんね》≠烽ヌきに、機能を阻害する自在式を埋め込んどいたのよ。あ
そこの存在の力≠ナ、封絶全体を持たせてるわけ。馬鹿《ばか》みたいに集めてたから、復元する分には足りるはずよ」
「ああ、見つけた燐子《りんね》≠ノ仕掛けをするって言ってたのは、このことグエエエ」
「うるさいうるさいうるさい」
シャナは悠二《ゆうじ》をグリグリと踏みつけながら、マージョリーの方に向き直った。
「愛染他《あいぜんた》≠フ力が弱まったのは、おま……あなたのおかげね。どうもありがとう」
マージョリーは、この素直な感謝にばつが悪そうに苦笑して、肩をすくめる(その足下の行為は、あえて無視した)。
「ふん、いいわよ。こっちがブッちめたいからやっただけ。それに、燐子≠烽ヌきを見分けたのはあんたの大切な人だし。なかなか使えたわよ」
「べ、別に大切なんかじゃない!」
「物扱いの方を否定してほしグエエエエエエエ」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい」
マージョリーは手を振ってシャナのグリグリを中断させた。
「あーほら、もういいでしょ。そろそろ復元するわよ。連中の干渉が消えたから、これも、もうただの馬鹿《ばか》でかい封絶《ふうぜつ》よ。要領は同じ」
「分かった」
二人のフレイムヘイズは、乗っ取った『ピニオン』に残された存在の力≠、封絶内を復元する力へと変換する。
もしティリエルの死と同時に『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』が解けていたら、戦闘中に出た人的・物的損害は、全て残されたまま動き出していたはずだったから、この封絶の保持はマージョリーの重大な功績と言うべきだった。
実際、御崎《みさき》市には、ここから見下ろす分だけでも相当の被害が出ている。ビルから道路から、車も人も、無茶苦茶に焼かれ砕《くだ》かれしている。人の場合、ただ戦闘に巻き込まれただけなら癒《いや》されもするが、存在の力≠奪われた者はトーチにするしかない。全く、どうしようもないことだった。
そんな、復元といっても、たしかに取り返しのつかないものを含んだ作業を、シャナは人差し指を天に突き上げて、マージョリーは印を結んだ手を前に出して、それぞれ行う。封絶が巨大すぎて、なかなか始まらないが、ともかくも作業を続ける。
それを傍目《はため》に、アラストールはマルコシアスに訊《き》く。
「それで、通常の封絶になったため、千変《せんぺん》≠ヘ逃げおおせることができたというのか」
「あー、たぶんな。味方の全滅で自分の退路ができるたあ、笑えねえ顛末《てんまつ》さ、ヒッヒッヒ!!」
アラストールは、少し間を置いてから、改めて言う。
「……その品の悪い笑い声は止《や》めろ、蹂躙《じゅうりん》の爪牙《そうが》=B癇《かん》に障《さわ》る」
「人の豊か〜な感情表現にまで口出すなよ、カタブツ大魔神《まじん》……おっと、それより千変《せんぺん》≠ナ思い出したぜ」
「なんだ」
「その兄ちゃん、ただのミステス≠カゃねえ、『戒禁《かいきん》』持ちだ。野郎《やろう》、眼の色変えてやがった」
「!!」
アラストールの驚きを感じて、悠二《ゆうじ》が身を起こそうとする。
「な、なんのことグエエエ、も、もういいだろ!?」
「……」
いい加減のしつこさに文句を言うと、指を突き上げたままのシャナも足をどけた。許したのではなく、『戒禁』という予想外の言葉に警戒感を持ったのである。
しかしアラストールは、それについての即答を避けた。
「……ふむ、その件は、日を改めて詳《くわ》しく聞こう。当分、この街に滞在しているのだろう?」
「ああん? まあ、我が麗《うるわ》しの酒杯《ゴブレット》、マージョリー・ドーはその気だろうがよ」
「ん〜、まあ、ね」
マージョリーは曖昧《あいまい》な声を返すと、前に出した指を、パチンと鳴らした。復元への道筋は作った。あとは、水の低きに流れるように修復も治癒《ちゆ》も行われ、封絶《ふうぜつ》も解けてゆくだろう。
シャナも手を下ろし、そして……始まった光景に、驚きの声を漏《も》らした。
「あ……」
そこにある皆が、それぞれの声で感嘆を示した。
主塔頂点から見渡す街の全域に、鮮やかな山吹色《やまぶきいろ》の輝きが広がっていた。
市街地に幾本も伸び上がり花開いた『ピニオン』たちから散ってゆく、その華麗《かれい》な輝きは、人を癒《いや》し物を直す、復元のための力に変換された、山吹色の火の粉《こ》。
あれだけの死と破壊を振り撒《ま》いた戦いの幕引きとは思えない、
それはまるで、一面に咲き乱れる花園だった。
散り行き、消える、刹那《せつな》の花園。
それから程なく。
封絶が解けるまで僅《わず》かという段階になって、シャナは唐突《とうとつ》に思い出した。
「――あっ!!」
「わっ!? シャナ?」
花園の散る様を座って見ていた悠二《ゆうじ》は、その危機感の塊《かたまり》のような声に、思わず腰を浮かせた。
「は、早く学校に戻らないと!!」
「へ? あ、ああ、そういえば」
なにか、紅世《ぐぜ》の徒《ともがら》≠ノ関する変事でも起こったかと身構えた悠二《ゆうじ》は、拍子抜けした。
「もし封絶が解けたときに僕らがいなかったら、どうなるんだ?」
これは、しっかり襟《えり》を合わせた黒衣《こくい》の胸元にいる、アラストールへの質問である。
「トーチ消滅の場合と、原理的には同じだ。不自然さを無理矢理に納得させるために、意識と記憶の変化が起こる」
「元からいなかったように思わされる、ってこと?」
「そうだ」
悠二は、この異界が発生したとき――なんだかひどく前のことのように思える――に自分が置かれていた状況を思い出す。
(ああ、そうだ、たしか屋上で池と……いっそ、このままでもいいかも……)
などと及び腰になる悠二とは対照的に、シャナは酷《ひど》く焦《あせ》っていた。
「そんな話どうでもいいから、戻るわよ!」
「なにそんなに慌《あわ》ててるんだ?」
「いいから!!」
シャナは絶対に、なかったことにする[#「なかったことにする」に傍点]つもりはなかった。悠二を抱《かか》え上げようとして、黒衣の中の状況を思い出す。
「あ、ふ、服、どうしよう!?」
体は炎《ほのお》によって清められていたが、服には血の染《し》みや切傷《きりきず》がそのまま残っていた。混乱の中で、いきなり切り札を出す。
「――そ、そうだ、千草《ちぐさ》に!」
「いくら母さんでも封絶《ふうぜつ》の中じゃ動けないって! 落ち着けよ、学校でなにかしてたのか?」
悠二の問いに、シャナはそっぽを向いて答えた。
「なな、なん、なんにもない! なんにもないわよ!!」
見かねたアラストールが、ため息ついでに提案する。
「……学校には装備品の販売部署があったはずだが」
「購買部のことか?」
悠二の翻訳に間髪入れず、シャナが叫ぶ。
「じゃあ、購買部を襲う!」
「他《ほか》に言い方あるだろ……でもまあ、今はそれしかないか。お金置いとけばいいだろうし」
その眼前で紅蓮《ぐれん》の双翼が燃え上がる。
「飛ばすわよ! しっかり掴《つか》まっ――……手を繋《つな》いで。なによ、なんか文句あるの?」
「……いや、もちろん、ない、です、はい」
一連の騒ぎを呆《あき》れて見ていたマージョリーに、シャナは振り向いて言う。
「じゃあ、またね!」
手を繋《つな》いだ悠二も、宙に引かれながら。
「わ、きょ、今日はありがとう――!」
声を返す間もなく、二人は飛び去った。
残されたマージョリーはそれを見送りながら、ぽつりと言う。
「またね[#「またね」に傍点]、ありがとう[#「ありがとう」に傍点]……か」
「ヒヒ、おめえにゃ特に縁《えん》のなかった言葉だな」
笑うマルコシアスのグリモア≠、彼女はポン、と叩《たた》いた。
「ふう……色々|酷《ひど》い目にあったけど……なんだか、スカッとした」
「そーかいそーかい、そりゃ良かった。俺《おれ》も胸痛めて嘘吐《うそつ》いた甲斐《かい》があったってもんだ、ヒャッヒャッヒャ!」
「……それは許してないわよ」
と、そこで思い出して、『玻璃壇《はりだん》』へと呼びかけてみる。
「で、聞いてた、二人とも?」
<<ええ。他《ほか》にやることもないですし……とにかく、うまく片付いたってことですよね?>>
答えがある。
<<姐《あね》さんとマルコシアスの声だけしか聞こえないんで、意味の分からないところが大半でしたけど……ちょっと、悔しいです>>
答えがある、それだけのことが、妙に嬉《うれ》しかった。
「そうね、気が向いたら話したげる。それより、今日は飲むわよ!!」
久々の、憂さ晴らしからではなく出たこの宣言に、なぜか子分二人は沈黙で答えた。
御崎《みさき》高校一階|端《はし》の購買部から、シャナは最小サイズの夏服入りの袋を持って出た。乱暴に棚《たな》を漁《あさ》ったお詫《わ》び料含めて、豪儀《ごうぎ》にも万札と引き換えである。悠二《ゆうじ》もそのどさくさ紛《まぎ》れに、自分の煤《すす》と泥《どろ》で汚《よご》れた服の代わりを頂《いただ》いた。
シャナは着替えるのに良さそうな場所を探して、誰も彼もが静止する廊下を足早に進む。どうせ皆止まってるんだからどこでもいいじゃないか、という悠二の合理的な意見は、灼眼《しゃくがん》の一睨《ひとにら》みで却下《きゃっか》された。その灼眼も炎髪《えんぱつ》も、今は黒に戻っている。黒衣は当然そのままなので、色合い的に、今の彼女は黒一色である。
そのシャナが、校舎|端《はし》の廊下に入った辺りで、急に止まった。
後に続いていた悠二は、危うくぶつかりそうになる。
「わ、っと、なに、着替える場所、あったのか?」
シャナは背中を見せたままで言う。
「……今度の戦い、おまえは『ピニオン』を見抜いたり、『弔詞《ちょうし》の詠み手』を手伝ったり、色々|頑張《がんば》ってた」
「え――」
頑張ってた。
悠二《ゆうじ》はそのいきなりな評価の一言を受けて絶句した。感動していた、と言ってもいい。彼女に認められることには、それだけの重みと価値があった。
そしてシャナは振り向く。
「だから、約束のご褒美《ほうび》、あげる」
「え? …………ああ、そういえば――」
悠二としては、別れる前にそんなことを言ったような気がする、程度の思い入れだった。ほんの軽口のつもりだったのに、どうも彼女は真《ま》に受けていたらしかった。
(ご褒美ねえ……なにがどう欲しいわけでもない……けど……?)
悠二は、目の前のシャナが、胸に抱《だ》いた夏服の袋から目線だけを出して、こっちをじっと見上げているのに気が付いた。
「な、なんだい?」
「……」
返事はない。躊躇《ためら》いがちに、上目|遣《づか》いで、しかしどこか切羽《せっぱ》詰まったような眼差しで悠二を見つめている。その漆黒《しっこく》の瞳は、僅《わず》かに潤《うる》んでいるように見えた。心なしか、顔も赤い。
悠二はその様子に、健全だか不健全だかの動悸《どうき》が不意に高まってくるのを感じた。
(も、もしかして……)
アレ、だろうか。
映画なんかのクライマックスでは日常茶飯事な、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]。
しかし、それが現実にあり得るなどとは、考えたこともなかった。
(まさか……でも)
これは、この彼女の様子は、どう見ても。
(いい、のかな……?)
非常にみっともなくも、悠二は周りを確認してみたりする。封絶《ふうぜつ》がまだ解けていない以上、誰も見ているわけはないが、なんとなくである。もちろん人影はなかった。
夏服の袋で隠れた彼女の可憐《かれん》なものと触れ合うことを想像して、ゴクリ、と咽喉《のど》を鳴らす。頬《ほお》どころか顔全体が火の点《つ》いたように熱くなり、情けないことに眩暈《めまい》までしてきた。
いつか彼女を抱き締めたときのような、恥や外聞、打算展望見栄良識、全《すべ》てすっ飛ばして突き進む力が、再び彼を衝《つ》き動かし、体を前に傾けてゆく。
そして瞬《まばた》き一つの間に、
バン、
「んがっ!?」
と鼻先に叩《たた》きつけられた。
「――?」
驚いて目を開けると、視界いっぱいが埋まっている。
メロンパンの袋で。
「とっておきのやつ。美味《おい》しい」
とシャナ、無情の言葉。
悠二《ゆうじ》はそれを受け取って、しげしげと眺める。
昨日か一昨日か、スーパーの売り場で『メロンパンの評価はどのような項目において下されるべきか』を一席ぶたれた結果、買い込んでいた銘柄《めいがら》のものだった。
「――ああ」
その慨嘆《がいたん》は、『やっぱり』なのか、『なんだ』なのか。
極度の緊張からの失望、自分の一方的な早とちりに、悠二は腰が砕《くだ》けそうになった。未練がましくもう一度、確認する。
「……これ?」
「それ」
シャナは身も蓋《ふた》もなく告げると、さっさと体を返して、傍《かたわ》らの教室にかかっていた南京錠《なんきんじょう》を据付《すえつけ》金具ごと引っこ抜いた。引き戸をがらりと開けて、振り返らず中に入っていく。
と、メロンパンの袋を手に呆然《ぼうぜん》と佇《たたず》む悠二《ゆうじ》の耳に、小さな声が届いた。
「嬉《うれ》しかった」
「えっ」
会話を断ち切るように、シャナは扉を乱暴に、ピシャン、と閉じた。
「……」
その鋭い音にも、悠二は反応しなかった。
脳裏には、ただ一つ、シャナの残した言葉だけが反響していた。
(――「嬉しかった」――)
それは、行為への評価でも、お礼でもない。
彼女の気持ち。
悠二はその一言だけで、全《すべ》ての悩みと不安を越える力を得られたように思った。
着替えを済ませた二人は別れ、それぞれの場所へと向かう。
悠二は足取り重く、シャナはやや慌《あわ》てて。
「そうだ」
とシャナは別れ際、急に恐い顔になって言った。
「裏庭、絶対に覗《のぞ》いちゃだめ。もし覗いたら――」
「たら?」
「痛覚《つうかく》を持って生まれてきたことを後悔させてやるから」
思いっ切り本気のその声に、悠二は何度も頷《うなず》いた。
山吹色《やまぶきいろ》の悪夢はようやく去った。
霧は既に晴れ、散っていた花弁も、もはや見えない。
(あとは、あれだけ)
校舎屋上のフェンス際に腰を下ろした悠二は、そのさらに上に広がり、御崎《みさき》市全域を包む、巨大な陽炎《かげろう》のドームを見上げた。もたれかかった金網が、ギシリときしむ。
(そして、これが始まる……か)
傍《かたわ》らを見やる。
そこに沈痛な面持ちで座っているのは、池《いけ》速人《はやと》。
(僕の質問は、届いてたのかな?)
この封絶《ふうぜつ》の発生間際に口にした、重要な問い掛けのことを思う。
答えて欲しいのか、欲しくないのか……よく分からなかった。
ただ、陽炎《かげろう》の消え果てるときを、空を見上げて待つ。
やがて、というほども経《た》たずに、池《いけ》が口を開いた。
「……どうだろうな[#「どうだろうな」に傍点]。凄《すご》く強く『助けたい』とは思ってる。でも、どこからが、『好き』なんだろう? どこからが、おまえや彼女の言う『そうだ』って気持ちなんだろう?」
それは、問いへの答えであり、また問い返しでもあった。
悠二《ゆうじ》にはそれが、まるで自分とシャナのことを訊《き》かれているように思えた。答えることができない。池も、それを求めては来なかった。
二人は、ただ空を眺める。
封絶《ふうぜつ》が解け、外と因果《いんが》の流れが繋《つな》がった途端《とたん》、御崎《みさき》市の日は暮れ始めていた。
シャナは早足で、裏庭へと向かう。
フレイムヘイズとしての彼女は、急がずとも封絶が解除される前には辿《たど》り付ける、と告げていたが、それ以外の……今まで存在していると気付かなかった、それ以外のもの[#「それ以外のもの」に傍点]としての彼女は、ひたすら足を速めさせる。
まるで愛染《あいぜん》の兄妹≠ニ御崎《みさき》大橋まで競争したときのような、強い焦燥《しょうそう》感があった。冷静になれない。なぜかあの、残虐《ざんぎゃく》で横暴で身勝手で高飛車《たかびしゃ》で気に食わない愛染他《あいぜんた》<eィリエルの声が、脳裏にこだましていた。
(――「どぅしよぅもなぃ――気持ち」――)
全く大したことのない行動、ただ歩く、それだけで息が荒くなる。
そしてシャナは、ついに中断された決闘の場へと帰ってきた。
一人の少女が、まるで彫像のように彼女を睨《にら》みつけて待っている。
(……どうしようもない、気持ち……?)
その気持ち、この気持ちが、目の前の気弱な少女にあんな無謀《むぼう》とも思える、自分との対決に踏み切らせ、しかも圧倒した……今のシャナは、そのことを漠然《ばくぜん》と感じ、また理解できるようになっていた。さっきのご褒美《ほうび》をあげるときも、ティリエルたちのことを思い出して、絶対に嫌《いや》だと思っていたはずの行為を、一瞬だけ……
考えている間に、対峙《たいじ》する。
そして初めて、気が付いた。
(あっ……な、なにを、言えば、いいんだろう)
悠二とのことを言うべきだ、とまでは分かった。しかし、悠二とのなにを言えばよいのか、そもそも自分はなにを言いたいのか、そこまでくると混乱が始まる。
あれだけ悠二を急《せ》かしてこの場に戻って来たというのに、いざこの場に臨んでみると、その意気込みは空回りして、焦《あせ》りだけが心を満たしてしまう。もう胸に軽く触れても、動悸《どうき》が伝わってくる。頭の中にまで響いてくる。
(どう、どうしよう、どうしたら)
あの愛染《あいぜん》の兄妹≠ニの戦いの中で、なにかを掴《つか》めたように思う。
悠二《ゆうじ》が一緒にいてくれた、そのことでなにかを得られたように思う。
(……でも、でも、それを、どうやって言えば[#「どうやって言えば」に傍点]……)
混乱の中で惑《まど》って悩む、その間に、封絶《ふうぜつ》が解けていた。
「あ――」
シャナにとっての最強の敵、
吉田《よしだ》一美《かずみ》が、動き出した。
じっと睨《にら》みつけている。
(恐い)
悠二と一緒にいた嬉《うれ》しさが、この少女に坂井《さかい》悠二を取られるかもしれない、と思うことで喪失《そうしつ》への恐怖に逆転した。シャナは再び、より強く襲ってきたその恐怖に、全身を震わせた。彼女が止まる前、自分はなんと言ったか。頭の中がグチャグチャで思い出せない。それが、
「私だって……なに?」
吉田一美の静かな、強い一声で蘇《よみがえ》った。
(――「わ、私、私だって――!!」――)
その熱さ激しさも。
(なんだろう、私は、なにを)
どうすれば吉田一美を止められるのか、全く分からなかった。ただ気持ちを声に変える。
「だめなの! 悠二はだめ!!」
なにを言っているのか、自分でもわけが分からなかった。
一瞬|呆気《あっけ》に取られた吉田一美は、むっとなって言い返した。
「だめじゃない! 私は、好きです、って坂井君に言うし、ずるいゆかりちゃんに邪魔《じゃま》されることもないんだから!」
「ずるくなんかない! だめったらだめなの!! 悠二は私の――」
両の拳《こぶし》を握り、叫ぼうとして、シャナは不意に声を切った。
吉田一美が息を飲んで、その続きを待っている。
しかし、シャナはなにも言えなかった。両の拳が、力なく下がる。
(……悠二は[#「悠二は」に傍点]、私の[#「私の」に傍点]、なに[#「なに」に傍点]……?)
全く初めて、その問いに彼女は突き当たっていた。
自分が知っているものに悠二を当てはめることができない、悠二は自分の知らないもの、でも自分は悠二とたくさんのものを一緒に持っていて、たくさんのことを一緒にして、それが凄《すご》く、凄《すご》く嬉《うれ》しくって――!!
再び両の拳《こぶし》を胸元に上げて吼《ほ》える。
「悠二《ゆうじ》は私と一緒にいる方が、絶対いいんだから!!」
しかし、吉田《よしだ》一美《かずみ》は黙らない。
「そんなことない! それを決めるのは坂井《さかい》君よ!!」
シャナが悠二のことを断言できなかった、そのことが彼女をより強気にしていた。
そんな強気の姿が、今度はシャナを焦《あせ》らせ、苛立《いらだ》たせる。顔を真《ま》っ赤《か》にして怒鳴《どな》った。
「悠二のこと、なにも知らないくせに!」
「これから知るもの!」
「そんなの無理よ!」
「なんで無理なの!」
「無理ったら無理なの!」
「……」
「……」
二人はいつしか、額《ひたい》をぶつけるほどに近寄り、睨《にら》み合っていた。
暮れ始めた日の中、二人はそのまま対峙《たいじ》し、やがて、
「私、ちゃんと言ったから」
吉田一美は、真っ向から堂々と挑戦した。
シャナはそれを、受けて立つ。
「負けない、絶対に負けない」
沈黙――罵倒《ばとう》し合うよりも強烈なものが渦《うず》巻く数秒の沈黙を経て、二人は同時に体を返した。
互いに背を向けて、俄《にわか》に訪れた下校時刻に慌《あわただ》しく揺れる校舎へと、別々の道筋で戻っていく。
一緒に歩くことは、絶対にできなかった。
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エピローグ
漆黒《しっこく》の水晶のような床が、靴音を響かせて進む男の姿を正反対に映している。
そこは、柱と床だけの空間だった。
壁はない。白い円柱が列なす向こう、両の際は、永遠の虚《きょ》。
天井《てんじょう》もない。頭上は一天、望む限りに広がる、明瞭の星空。
やがて男は、円柱の列を抜けて、開けた空間に出た。
円形に柱を配したその空間の中心には、純白の石からなる祭壇が、暗夜の海に浮かぶ氷塊《ひょうかい》のように競《せ》り上がっている。漂《ただよ》う静謐《せいひつ》と触れ得ざるものの雰囲気は、古代の神殿を思わせた。
と、不意に男の頭上から、澄んだ、感情の起伏に乏《とぼ》しい少女の声が降ってきた。
「あなたが『星黎殿《せいれいでん》』に立ち寄るとは、珍しいこともあるものですね、千変《せんぺん》<Vュドナイ」
シュドナイはサングラスの奥で目を細め、しかしわざとらしく困った口調で言う。
「そう嫌味《いやみ》を言ってくれるなよ、俺《おれ》の可愛《かわい》い頂《いただき》の座《くら》<wカテー。俺だって、たまにはババアや盟主《めいしゅ》殿に顔を見せようって気にもなる。忘れられて、居場所がなくなると困るしな」
言いつつ星空を仰《あお》いだ彼の頭上に、明るすぎる水色の炎《ほのお》の粒が、まるで星のように幾つも輝き現れた。それは祭壇の中央へと、球形の軌道を巡りながら降り、その内に一つの姿を現した。
大きなマントと大きな帽子《ぼうし》に着られているような、小柄な少女だった。肩までで揃えられた髪の内に佇《たたず》む無機質で繊細な容貌《ようぼう》は、零下《れいか》に磨かれた透徹《とうてつ》の氷像を思わせる。
少女・ヘカテーは炎の粒と同じ、明るすぎる水色の光を瞳に点《とも》し、抑揚《よくよう》の無い声で言う。
「仮にも将《しょう》たる身が、その程度の認識では困ります。私たちには、果たすべき大命がおおよそ三十、あなたへの分担は八あります。道楽にかまけているあなたが果たしたものは、まだ一つもありません」
その杓子定規《しゃくしじょうぎ》な物言いに、シュドナイは苦笑した。
「それと」
とヘカテーは続ける。
「?」
「私はあなたのものではありません」
苦笑は声になった。ヘカテーはやはり気にした様子もない。
「く、くく、そうか、それは残念……まあ、愛の語らいは次に持ち越すとして、ババアはどうした?」
「その呼び方は改めるよう、本人からも要求されていたはずです。ベルペオルなら、所用に出
ています。彼女はあなたと違って、盟約《めいやく》に忠実ですから」
シュドナイは平淡な声の嫌味《いやみ》を聞き流して、肩をすくめる。
「なんだ、あいつにゴマをすれなければ、来た意味がないな」
「どうして、ベルペオルだけ[#「だけ」に傍点]なのです」
ヘカテーの意図を察して、しかしシュドナイは表情に嘲《あざけ》りを匂《にお》わせる。
「ふん、盟主《めいしゅ》殿の方には、やるだけ無駄《むだ》さ。なんせ風見鶏《かざみどり》よりもクルクル変わるご機嫌の持ち主だ。それにどうせ、また人間をなぶりに出ていて、ここにはいないのだろう? 悪趣味……いや、むしろ有害ですらあるというのにな」
ヘカテーは冷然と答える。
「私たちは、彼を掣肘《せいちゅう》できません。彼は、私たちが推戴《すいたい》する盟主なのですから」
「君は、奴《やつ》に唇《くちびる》を求められても、同じことを言いそうだな」
「彼が望めば。しかし彼は望まないでしょう。なにより、彼は唇を持っていません」
冗談への大真面目な返答に、再びシュドナイは笑った。笑って、祭壇を長い足で大股《おおまた》に上がり、ヘカテーの一段下で屈《かが》む。ちょうど正面に立つヘカテーに、顔を寄せる。
「実は、今日はもう一つ、君に取っておきのプレゼントを持ってきた。俺《おれ》の道楽も、まんざら捨てたもんじゃないってことを、分かってもらえると思うんだがな」
ことさらに、他《ほか》に聴く者とてない『星黎殿《せいれいでん》』祭壇の間で、ヒソヒソ話を気取る。
しかしヘカテーは、そのふざけた仕草《しぐさ》の中に、本気の色を見て取った。
「……なんですか」
「とても良い報《しら》せと、とても悪い報《しら》せだ……どっちから聞きたい?」
勿体《もったい》つけた言い様に、ヘカテーはさっさと釘《くぎ》を刺《さ》した。
「まず、煙草《たばこ》を止《や》めなさい。止めないと、今度から内緒話《ないしょばなし》は聞きません」
シュドナイは、これには困った顔をした。
それまでの日々は、誰も知らないところで変わり始める。
知る術《すべ》もなく、止める者もなく、変転の時は静かに忍び寄る。
世界は、それを抱《いだ》き、それを秘め、ただ動き続ける。
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あとがき
はじめての方、はじめまして。
久しぶりの方、お久しぶりです。
高橋《たかはし》弥七郎《やしちろう》です。
また皆様のお目にかかることができました。ありがたいことです。
さて本作は、痛快《つうかい》娯楽《ごらく》アクション小説です。あー、今回はよく斬《き》った爆破した燃やした壊《こわ》した……と、ガキっぽく満足したところで、次は少し昔の話になる予定です。
テーマは、描写的には「戦闘戦闘戦闘のち決闘」、内容的には「いっしょに」です。シャナは敵のベタラブ全開振りにイライラし、悠二《ゆうじ》は度胸試しの連続でグロッキーになります。
担当の三木《みき》さんは、闘志|溢《あふ》れる人です。降って湧《わ》いた災害に怒り心頭です。まあ、こっちはやることやるだけですが。もちろん今回も、互いの弾丸|照星《しょうせい》に交《か》う撃ち合いが愛(以下略)。
挿絵《さしえ》のいとうのいぢさんは、とても繊細《せんさい》な絵を描かれる方です。V、Wの組になった表紙では、先に両方見ることのできる作者の特権を満喫させていただきました。今回は特に、非常な忙中にも四度、拙作《せっさく》への甚大《じんだい》なる御助力をいただけたことに、深く深く感謝いたします。
県名五十音順に、岡山《おかやま》のS本さん、神奈川《かながわ》のT塚さん(あなたです)、東京《とうきょう》のW山さん、長野《ながの》のI黒さん、兵庫《ひょうご》のN波さん、大変励みになりました。どうもありがとうございます。
その関係で最近、本を買ってくださる読者の方々の話と、それに基づく本の作り方というものを担当さんから聞いて、目の覚める思いをしました。これからも頑張《がんば》ります。
さて、今回も近況で残りを埋《う》めましょう。映像では超有名ボクサー2を久々に通しで見て、その超特級の映像美に感動したり、本では単位の辞典を読んで、どうでもいいことまで定義付けしたがる人の性《さが》を垣間《かいま》見たり、漫画では野望のキングダムを読んで、獣臭《けものくさ》い炎《ほのお》の吐息《といき》を吹き上げたりしていました。次回、ボクサーが野望の階段を十の百乗ジュールくらいの熱量でもって駆《か》け上がります(嘘《うそ》)。
というわけで、今回は間を空けていないため、ネタもより不足気味でお送りしました。
この本を手に取ってくれた読者の皆様に、無上《むじょう》の感謝を、変わらず。
また皆様のお目にかかれる日がありますように。
[#地付き]二〇〇三年四月 高橋弥七郎