灼眼のシャナU
高橋弥七郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)歪《ゆが》んでいる
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)突然|跳《は》ね上がって
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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プロローグ
僕は、知らされた。
一人の少女に。
誰にも気付かれないところで人が喰われ、この世が歪《ゆが》んでいると。
人がこの世にあるための根源の力を、異世界の住人たちが喰っているのだと。
異世界の住人紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ヘ、人の存在の力≠得ることで、この世に自分を現す。その力で物事を自在≠ノ操る。人の目を誤《ご》魔《ま》化《か》し、この世を好きに闊歩《かっぽ》する。
喰われた人は、消える。死ぬんじゃなくて、消える……最初からいなかったことになってしまう。存在そのものを奪われるのだから。
存在の欠けた場所は、歪む。それまで存在していたものへの繋《つな》がりが断たれることで、世界に不自然と矛盾がたくさん生まれる。
その存在の乱獲と歪みは、いずれこの世と紅世≠ノ取り返しのつかない災厄《さいやく》をもたらす……徒≠フ中でもとりわけ強大な存在である王≠スちの中に、そう思った連中がいた。
彼らはその災厄《さいやく》を未然に防ごうと、この世で好き放題に存在の力≠喰い散らかし、自在≠ノ物事を捻《ね》じ曲げ続ける同胞たちを討ち滅ぼすことにした。
でも、強大な彼らがこの世に現れ、戦うためには、より多くの存在の力≠ェ要る。そのためにたくさんの人を喰らうんじゃ、本末転倒だ。だから、彼らは次《じ》善《ぜん》の策を取った。
この世の人の過去・現在・未来、全《すべ》ての広がりを器に見立て、そこに満たされていた存在を捧《ささ》げさせて、空いた器に王≠スる自身を容れる……そんな、策だ。
そして、王≠ノ望まれた人たちは躊躇《ためら》うことなく、自らの存在を供《く》物《もつ》として捧げ、代わりに器を満たす力を得る契約を交わした。この世の人としての、全てを失おうとも。
彼らは紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ノ、大切なものを奪われた人たち。だから彼らは、戦いを、復讐《ふくしゅう》を、討滅《とうめつ》を望み、王≠フ力を振るって紅世の徒≠、どこまでも、いつまでも、追い続ける。
この世の人でもなく、紅世の徒≠ナもない、異能を繰《く》る討ち手たち。
その名はフレイムヘイズ=B
僕の前に、外《はず》れた世界を引き連れて現れたフレイムヘイズは、紅世≠フ魔神天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールと契約した『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》の討ち手』。
瞳と髪を紅《ぐ》蓮《れん》に煌《きらめ》かせ、黒《こく》衣《い》をまとい、大《おお》太《だ》刀《ち》を振るう、少女。
名前は、シャナ。
僕が、つけた。
1 もつれる今
坂《さか》井《い》家の狭い庭に満ちる、早朝の静謐《せいひつ》な空気。
それを裂《さ》いて一陣《いちじん》、
坂井|悠《ゆう》二《じ》へと向けて、空気を裂《さ》く音さえ後に残す、神速《しんそく》の斬撃《ざんげき》が疾《はし》る。
悠二が、その地を摺《す》ってせりあがる太《た》刀《ち》風《かぜ》に感じるのは必殺の威力。その威力に立ち向かう気の張りが、ない。恐れから、反射的に目を閉じる。
「っ!」
太刀風が、閉じた瞼《まぶた》を削《けず》るように通り過ぎた。
その衝撃《しょうげき》にこじ開けられるように悠二が再び見れば、斬撃はすでに方向を変え、頭上から降ってきている。その重さを想像した体が慄《おのの》き、仰《の》け反《ぞ》る。
その傾斜に沿って、斬撃は地へと扱い込まれる。と思えば、それは突然|跳《は》ね上がって、まごつく悠二の脛《すね》を十分な重さを持って、
ひっぱたいた。
「ぅあ痛っ!」
悠《ゆう》二《じ》は思わず、打たれた脛《すね》の中心部、いわゆる弁慶《べんけい》の泣き所を抱え込み、飛び上がった。その片足飛びする足裏に、さっき脛を打った木の枝がひょいと入って、引かれる。
「う、わわっ!?」
見事なタイミングで足を掬《すく》われた悠二は、背中からまともに地面に落ちた。
「んぎっ! ――っ」
「三十二回目」
息を詰まらせ悶絶《もんぜつ》する悠二を傲然《ごうぜん》と見下ろしているのは、小柄な少女。
年の頃も十一、二という幼さだが、押しの効いた凛《り》々《り》しい顔立ちや、全身に満ちる圧倒的な存在感が、異様なまでの貫禄《かんろく》をその身にまとわせている。その貫禄は、片手に軽く握《にぎ》った木の枝に白刃《はくじん》以上の迫力を、着ているぶかぶかの体操着に鎧《よろい》以上の重厚さを与えている。
「今朝だけで三十と、二回目」
悠二を翻弄《ほんろう》した斬撃《ざんげき》も異常な貫禄も当然、少女はただの人間ではない。
この世の人の存在の力≠喰らう異世界の住人紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠討滅《とうめつ》する異能者フレイムヘイズ≠フ一人だった。
悠二のつけた彼女の通称はシャナ=B本名は不明。あるのかもしれないが、不明。
そのシャナが、倒れた悠二を苛立《いらだ》った顔で睨《にら》んでいる。
「どういうつもり?」
淡くも鋭い朝の光が、長いストレートの黒髪を透《す》かして射しこみ、悠二に目を細めさせる。
眩《まぶ》しい、あまりに眩し過ぎる姿。
と不意に、そのシャナの胸元から、重く低い男の声が響いた。
「まったくだ。たるむにしても程がある」
声を出しだのは、銀の鎖で繋《つな》いだ黒い球を、交叉する金のリングで結んだ形のペンダント。
声の主は天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストール。同胞による存在の力@衰lが引き起こす世界のバランス崩壊を憂い、契約の元、シャナに力を与えている紅世の王≠フ一人である。
彼(?)は、本体をシャナの内に眠《ねむ》らせ、意思だけをこのペンダント型の神器コキュートス≠ナ表出させているのだった。
「このところ、打たれる数が初日よりも増えているではないか。この鍛錬《たんれん》を提案したのは貴様なのだぞ」
「そりゃ、そう、だけど」
悠二は弱々しく答えた。寝巻き兼用のジャージの背をはたき、のろのろと身を起こす。
その、どこかやる気のない様子に、シャナはますます表情を険しくした。
アラストールの言うように、この鍛錬は悠二の希望によるものだった。
十日ほど前、悠二はシャナ、アラストールと出会い、彼女らと、この街で人間の存在の力≠喰い散らしていた紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ニの戦いに巻き込まれた。正確には、巻き込まれていた自分の立場を、守られる事情を自分が持っていることを、気付かされた。
ともかくも三人は紆《う》余《よ》曲折《きょくせつ》を経て、なんとかその徒≠倒しだのだが、その戦いにおける悠《ゆう》二《じ》の立場は完全なお荷物だった。たしかに頭脳労働その他、役に立てた場面もあったが、それでも守られっぱなしという立場は辛《つら》かった。そのためにシャナの心身を、ひどく傷つけもしたのだ。
だから戦いの後、当分この街に居着くことを決めた二人に、せめて足手まといにならない程度に自分を鍛えてくれないか、と申し出たのも、悠二としては当然の思考の帰結だった。
対するシャナは、不承不承の体《てい》を取りつつも断らず、ゴールデンウィークも含めた一週間ほどの毎早朝、稽《けい》古《こ》をつけてくれた(もっとも、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠討滅《とうめつ》する以外に生活というものを持たない彼女には、他《ほか》にすることもないのだが)。
ところが、その期間を経た今も、悠二には上達の気配がない。コツを覚える程度の進歩もなく、それどころか今のように怠《たい》惰《だ》の色さえ見せ始めていた。
シャナの教え方が悪かったのかといえば、そうでもない。そもそもシャナが悠二に課しかことは『目を閉じるな』、それだけだったのだから。
鍛錬《たんれん》の初日、つまり徒≠討滅した翌朝。
前の晩に力を出し尽くした影響で、立っているのがやっとというほどに消耗《しょうもう》した(と、シャナ自身ではなく、アラストールが言った)シャナは、それを感じさせない力強い声で言った。
「戦いの場でうまく立ち回るために必要なのは、技術じゃない。ただ一つ、『殺し』を感じるってことなの」
なんとも率直で殺伐《さつばつ》とした、彼女らしい言い回しだった。
「なにをするにつけ、これができないと話にならない。逆にこれができれば、相手の『殺し』を避けることも、その隙間に自分の『殺し』を入れることも自在≠ノなる。だから、おまえはまず『私がいる』、その全《すべ》てから『殺し』が生まれるのを感じることから始める」
「そんなこと言ったって……具体的には、どうすりゃいいのさ」
訊《き》く悠二に、シャナは楽しそうに、しかし思い切り酷薄《こくはく》に笑って見せた。
「見て慣れる、それだけよ。これから私が、いろんな『殺し』をおまえに見せる。おまえはそれを見て、感覚を磨き感触に慣れていく。簡単でしょ?」
ぞっとする悠二にシャナがつけた一つの条件、それが、
「だから、絶対に目を瞑《つぶ》っちゃ駄《だ》目《め》。もし瞑ったら、遠慮なくひっぱたくわよ」
というものだった。
(……最初は、ちゃんとやってたのに……)
苛《いら》立《だ》つ表情の影に暗く重い気持ちを隠して、シャナは思い返す。
訓練を始めた頃の悠二には熱意があった。それは必ずしも結果には結びつかなかったが、ともかく動作一つ一つに意気込みが表れていた。自分も、なぜかそれが面白くて、楽しくて、戦いでの消耗《しょうもう》も気にならないほどに体を動かした。
それが、いつ頃からだろう、悠《ゆう》二《じ》が妙に力を抜き始めた。それを指摘されると言い訳をして、ともかく毎朝サボることもなく……しかしどこか気迫を失っていった。
シャナとしても、別に義務ではないのだから、本人にやる気がないのなら放り出せば良かった。事実、アラストールはそうするよう言った。
「でも徒《ともがら》≠ェまた現れたときのために備えておく必要があるの!」
とシャナは自分でも驚くほどの大声で反抗し、アラストールは黙った。いつものように、ごめん、構わん、ですぐに仲直りできたけれど。
(……分からない……)
悠二の態度も、自分の気持ちも。
遠まわしに拒《こば》まれている……そう思うと、怒りとも困惑ともとれない、重くて嫌なものが、胸の中に湧《わ》き上がってくる。
(私はあのとき、フレイムヘイズとしての自分を、確信して覚悟して、戦った……悠二もそれを……だから……なのに……)
あの戦いでの悠二の叫びを、最後の笑みを、シャナは思い出す。思い出して、また苦しくなる。こんなことになる前は、あの叫びは、あの笑みは、もっと……。
のろのろと立ち上がって自分に向き合う、悠二の姿。
(違う、こんなの[#「こんなの」に傍点]じゃない)
そう感じる。しかし、なにがどう違うのかが分からない。
それを糾《ただ》すための言葉を、自分は持っていない。
だから、持っているものをぶつけるしかない。
それは、木の枝でしかない。
嫌な気分だけれど、そうするしかない。
思いの袋小路で足《あ》掻《が》くように、シャナは再び悠二に斬撃《ざんげき》を繰り出そうとする。
その、互いの隙間でしかない二人の対《たい》峙《じ》に、
「シャナちゃん[#「シャナちゃん」に傍点]、そろそろ切り上げないと、今日から学校でしょう?」
と、呑《のん》気《き》な女性の声が割って入った。
坂《さか》井《い》家の縁側(といっても、単なる庭に面した掃《は》き出し窓だが)に、悠二の母である坂井|千《ち》草《ぐさ》が、お盆《ぼん》を置いて座っていた。
お盆には、よく冷えたオレンジジュースを入れたグラスが二つと、かりんとうを山と盛った皿が載《の》っている。この場に微《び》妙《みょう》に合っていないお菓子は、悠二に稽《けい》古《こ》をつけてくれる超絶|甘《あま》党《とう》少女・シャナヘの、千草からのお礼である。当然、悠二にはこれを食べる権利はない。
「今朝も全然ダメ?」
おっとり笑顔に嫌《いや》味《み》のない呆《あき》れを混ぜて、千《ち》草《ぐさ》は言う。
坂《さか》井《い》家は本来三人家族だが、父の貫《かん》太《た》郎《ろう》は海外に単身|赴《ふ》任《にん》しているので、家には悠《ゆう》二《じ》とこの千草しかいない。
シャナは御《み》崎《さき》市に来てから、大半の時間をこの坂井家で過ごしている。
図らずも守ることになった悠二の自宅、ということもあるが、千草が何につけ物事を受け入れ、余計な詮索《せんさく》をしないからでもあった。彼女はシャナが無遠慮に入《い》り浸《びた》っても、嫌な顔一つせず、文句一つ言わない(なにをされても気にはしなかったろうが)。それどころか毎朝の、この息子《むすこ》をぶっ叩《たた》くだけのような鍛錬《たんれん》も、ほとんど楽しんで眺めている感さえあった。
シャナは木の枝を放り捨てて、その千草の傍《かたわ》らに小さな腰を落とした。むすっとした顔で答えつつ、かりんとうに手を伸ばす。
「今朝も、全然、ダメ。なってない。それどころか悪くなってる」
ボリ、と苦虫代わりにかりんとうを噛《か》み潰《つぶ》す。
千草はそんな、見た目中学生も怪しいシャナのタメ口を全く気にしない。ただ、息子の不《ふ》甲《が》斐《い》なさに、頬《ほお》に手を当ててため息をつく。
「そう。せっかくシャナちゃんが毎朝来てくれてるのに、やり甲斐がなくて悪いわねえ」
シャナはこの街では表向き、悠二のクラスメート平井ゆかり≠偽《ぎ》装《そう》している。千草も最初は当然、彼女をその名で呼んでいたが、入り浸られる[#「られる」に傍点]場所で二つの名前を使い分けるのが面倒くさくなった悠二は、母にも彼女をシャナ≠ニ呼ばせるようにした。
「そういうあだ名なんだ」
という息子の一言で、千草はあっさり納得した。
シャナはそんな、隔《かく》意《い》というもののない彼女が嫌いではない。かりんとうを今度は鷲掴《わしづか》みにして言う。
「千草が気にすることじゃない。悪いのは悠二よ」
「貫太郎さんと私、どっちに似ても運動神経はいいはずなのにねえ」
「素質が良くても、本人に気迫がなければ駄《だ》目《め》」
容赦《ようしゃ》なく言うと、シャナは小さな掌《てのひら》一杯に掴んだかりんとうを口に放り込んだ。バリボリと派手に音を立てて、これを粉々に砕《くだ》く。
千草は、あらあら、と言うだけ。嬉《うれ》しそうですらある。
こういう千草の態度は、悠二と出会うまで人とのやり取りのほぼ全《すべ》てを力と売買の形でしか行ってこなかったシャナに、新鮮な驚きと居心地の良さを感じさせている。
千草も、シャナの不器用さを微笑《ほほえ》ましく思っているらしい。この十日ほどで、彼女にとってのシャナの存在は、『悠ちゃんのガールフレンド』という、間に悠二を置いたよそよそしいものから、『私のお友達』、あるいは『娘』ほどにまで近付いていた。そのシャナが、かりんとうを全部食べ終わるのを待って、言う。
「お風呂、早く入っちゃいなさい。体操服は忘れずにいつもの籠《かご》に入れてね」
「うん」
シャナは素直に答え、お盆《ぼん》からグラスを取った。挿《さ》してあるストローを無視してジュースを一気に飲み干し、音高くグラスをお盆に返す。すっくと立って縁側を上がり、風呂場へと向かう。広がりなびく長い黒髪が、その顔を隠していた。
シャナは千《ち》草《ぐさ》に半ば強制されて、毎朝の鍛錬《たんれん》の後、入浴するようになっていた。千草も、おっとりしているようで、こういう辺りの押しは強い。もっとも、勧められた本人は結果的にこの入浴という行為をかなり気に入って、朝からの長風呂も珍しくなくなっている。
人としての暮らしを持たないシャナは、そもそも入浴の習慣を持っていなかった。別に不潔だったわけではない。アラストールによる清めの炎《ほのお》の力で体を清潔に保てていたため、その必要がなかっただけのことだ。
悠二は一度だけ、その清めの炎を見ている。一瞬、体の表面を炎が覆《おお》ったように見えた、それだけであらゆる汚れが清められるという、なんとも簡単で便利な力だった。
「煮沸《しゃふつ》消毒みたいだな」
と口を滑《すべ》らせて蹴《け》り飛ばされたのは余談。
ともかく風呂は、実用本位なシャナの、食事と並ぶ数少ない娯楽となっていた。
そのシャナの奥に入ってゆく後ろ姿を見るでもなく、悠二も縁側に力なく座る。ふと、横からの視線を感じた。
感じて、しかし無視する彼に、小さな子供に言い聞かせるような声がかかる。
「悠ちゃん、女の子をいじめるのは、お母さん感心しないわよ」
悠二は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「……いじめる? 逆だろ」
息子の本気の返事に、千草はため息とともに首を振る。
「ふう……本当に、鈍いところだけは貫《かん》太《た》郎《ろう》さんによく似てるのねえ」
「どういうことさ」
「教えたげません。自分で考えなさい」
千草は、悠二が手を伸ばしたグラスを先に取り上げ、ストローに口をつけた。
悠二は文句を言おうとして、やめた。
「……」
脱衣所で、シャナは黙々と服を籠の中に放り落とす。
一瞬で終わる清めの炎の爽快感とは対照的な行為。温かなくつろぎである入浴と、その準備である脱衣……最初の頃は下《へ》手《た》な鼻歌さえ出た。今は重いため息しか出ない。
籠《かご》の中、こういうときには服の一番下に隠される決まりのペンダントから、アラストールがくぐもった声をかける。
「まだ続けるのか」
「……ごめん」
「そうではない」
この、シャナにとっては父か兄、あるいは師か友である異世界の魔神は、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》≠ネどという物騒《ぶっそう》な真《ま》名《な》の似合わない、結構な人格者である。しかしその彼をして、このところの悠二の態度は腹に据《す》えかねるものがあったらしい。平淡な声で、決定的なことを訊《き》く。
「ここでの暮らしをまだ続けるのか、と問うているのだ」
「!!」
シャナが、脱ぎかけたキャミソールの中で身を硬くした。
「平《ひら》井《い》ゆかり≠ナあることも、学校とやらに関わっているのも……ここにいること、それさえも、狩人《かりうど》<tリアグネとの戦いからの惰性に過ぎぬ。坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》を消して『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を回収、あるいは破壊するという選択|肢《し》を、我らは当然、持っている」
「……っ……」
声が枯《か》れたように、シャナはただ、口を開け閉めする。
アラストールは構わず続ける。
「あ奴《やつ》の存在とここでの暮らしを我が許容している理由はひとえに、おまえの意思のあるがためだ。どうだ、まだ続けるのか」
「わ、私……」
使命以外の面では全く幼い少女に、しかしアラストールは何も教えない。ただ言う。
「分からぬというのなら、答えは急がずともよい」
「アラストール、私、でも……」
「不分明なことを無理に言葉にするな。誤《ご》魔《ま》化《か》しが生じる」
アラストールは言い繕《つくろ》いを許さない。
シャナは一言だけを、やっと返した。
「……もうちょっと、待って」
「分かった。早く入れ。遅刻する」
「うん」
シャナは残った下着を全部脱いで、浴室に入る。ペタペタと踏むタイルまでもが、やけに冷たく感じられた。
(なぜ、こんなことで、ここまで嫌《いや》な気持ちになるんだろう)
事実は簡単なのだ。
悠二が、やる気をなくした。
それだけだ。
(なぜ、こんなことで)
シャナはシャワーを出して、頭からかぶる。
冷えた浴室に湯気が立ちこめてゆく。
その曇る視界の中、思いに沈む。
(悠《ゆう》二《じ》があんまり弱すぎるから嫌《いや》になった? それとも、口だけでやるやるって言う、その不真面目さに怒ってる?)
もしそうだとしても、それがなぜ、こんなに重くて嫌な気持ちを湧《わ》き上がらせるのか。
(分からない)
自分のことなのに、本当に、なにも、分からなかった。
(――っ!!)
シャナは不意に衝動《しょうどう》に駆《か》られ、握《にぎ》り拳《こぶし》で稜線《りょうせん》の脹《ふく》らみもわずかな胸を思い切り叩《たた》いた。
この不可解な思いも壊《こわ》れよ、とばかりに。
しかし、もたらされたのはやはり、鈍い痛みと温水の飛沫《しぶき》だけ。
これまでのように、力ずくでは解決しなかった。
温水と湯気の中で、小さな休が立ち尽くす。
(……力、ずく……)
内と外からくる胸の苦しさに顔を伏せつつ、ふと思った。
(……いっそ、徒《ともがら》≠ェ来ればいい……)
思った瞬間、気持ちが高揚した。
(そうだ)
それはいつもの、闘争心の滾《たぎ》りだけではない。無自覚の、まるですがるような期待をも込めた、熱く切実な渇望だった。
(戦い……戦いさえあれば、そうすれば、あのときみたいに……すっきりできるかも)
以前も、今のこの気持ちとどこか似た、嫌な気分になった。しかし、訪れた戦いが全《すべ》て、それを吹き飛ばした。吹き飛ばしてくれた。
そう、戦いさえあれば。
戦いさえあれば。
「!!」
そして、
まるで奇跡のように。
あるいは冗談《じょうだん》のように。
まさに、そう思った瞬間に、シャナは感じた。
(……いる……)
この世の違和感。
本来この世にいるはずのない者が存在しているという、違和感。
それは、存在の力≠繰り、この世に干渉する者の気配。
(……紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ェ、近くにいる……!!)
流れ落ちる温水に隠すように、シャナは悲痛なまでの笑みを浮かべていた。
しかし、その戦いの到来は、シャナの期待と望み、全《すべ》てを裏切る。
黒いパンプスを先端にかざした、すらりと長い両脚を組んで、その女性は座っていた。
外見は二十《はたち》過ぎ。欧州系特有の鼻筋の通った美《び》貌《ぼう》を薄化粧で、しかし見事に彩っている。ストレートポニーにした栗《くり》色の髪の艶やかさや、抜群のプロポーションを包む丈の短いスーツドレスの着こなしなど、その全体は、まるで撮影を待つトップモデルだった。
ただし、その『笑えば絶世の』という美貌が、どういうわけか険悪そのものの表情を作っていた。縁《ふち》なし眼鏡《めがね》を貫いて走る眼光も、強烈な鋭さを持っている。
彼女が陣《じん》取っているのは、御《み》崎《さき》市駅バスターミナルの、ベンチを並べた待合所。通勤通学の雑踏《ざっとう》でごった返すそこは、駅ビルと大通りに挟まれた御崎市の中心部である。
であるが、その雑踏は、異様な苛立《いらだ》ちを顔に表す美女と、その前に積んであるとある物[#「とある物」に傍点]の周囲十メートルほどを、まるで見えないフェンスでも張ってあるかのように避けて通っている。
表情どおりの不機嫌そのものといった声で、女性は言う。
「……にしても、なに、この街? トーチだらけ」
彼女は五人掛けベンチの真中に浅く腰掛けているが、その付近には誰もいない。ただ、背もたれにかけた手の下、右隣の席に、たった一つの持ち物らしい妙な物体が置かれていた。
異様に大きく、分厚い本。
まるで画板を幾つも重ねたようなモノゴツさである。それが、鞄《かばん》のような下げ紐《ひも》をつけた、ブックホルダーとでもいうような物に収まっている。
女性は視線をその本に流し、吐《は》き捨てるように言う。
「ここに向かってたのかしら、ラミーの奴《やつ》。たしかに、あのクソ野《や》郎《ろう》には絶好の狩《かり》場《ば》だけど」
それに答える。
本が。
「ああ、屍拾《しかばねひろ》い≠フ習性って奴か。ここまでの量がありゃ、あの臆病《おくびょう》者も多少の無理を覚《かく》悟《ご》で拾いまくるだろーぜ。やぁっと、楽し激しいギザギザのベーゼをプレゼントできるってもんだ、ヒー、ハー!!」
この、本があげた下品で耳|障《ざわ》りなキンキン声に、女性は秀麗《しゅうれい》な眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「ああ、そーね。でもとりあえず、この街でトーチが多い原因、ざっと調べるわよ。他《ほか》に徒《ともがら》≠ェいて、変な邪魔されたらたまったもんじゃない」
「いーじゃねーか、いーじゃねーか、我が麗《うるわ》しの酒盃《ゴブレット》、マージョリー・ドー! みんな、みんな、噛《か》み裂《さ》いて燃しちまえばよ!」
マージョリーと呼ばれた女性は、ボスン、と本をぶっ叩《たた》いた。
「マルコシアス! あんたがそんないい加減な調子だから、ラミーなんて弱っちい雑《ざ》魚《こ》をいつまでも追う羽《は》目《め》になってんのよ?」
マルコシアス、というらしいその本は、負けずに返す。
「おめえに言われるたぁ心外《しんがい》だねえ! 追ってる間に偶然ぶつかる奴《やつ》を律《りち》義《ぎ》にミナミナ殺しにしてっから、いつまでも肝心の標的を殺《や》れねえんだろ?」
「当っ然でしょ! 紅《ぐ》世《ぜ》の徒≠ブチ殺すのが、私たちフレイムヘイズ≠ネんだから!!」
敵はブチ殺す、その方針自体に異存はないらしい。
マルコシアスは不審気に訊《き》く。
「……? じゃ、なにが不満なんだ」
「いつまでも同じ獲《え》物《もの》を追ってるって状態が鬱陶《うっとう》しいのよ! ちゃっちゃとぶっちめないと、シャツのタグが引っかかるみたいに気持ち悪くてたまんないでしょーが!」
マルコシアスは弾《はじ》けるように一声、笑った。
「ッハ! なあるほど、それじゃ今回はマ〜ジメ〜に殺《や》るか」
「そーよ、真面目に、殺るのよ」
マージョリーは苛立《いらだ》った表情のまま答え、本を今度は軽く、ポンと叩《たた》く。
「とにかく、この街のトーチの多さは異常だわ。絶対なにかあったのよ。探《さぐ》り入れるから、案内人を見つけて」
「あいあいよ〜」
不思議なことが起こった。本を包むブックホルダーの、まるで日記に付いている鍵のような止め具がひとりでに外れ、風もないのにバラバラとページがめくれ始めたのだ。年代ものの羊《よう》皮《ひ》紙《し》らしいそのページは、古めかしい文字でびっしり埋《う》め尽くされている。
マージョリーの右横二席分を占領してめくれ続けていた本は、やがて一つの付《ふ》箋《せん》を挟んだページで止まった。
「んで、選定の括《くく》りは?」
訊《き》かれて、マージョリーは答える。不機嫌そうな声で、いけしゃあしゃあと。
「そーね。若くて、私のこと『美人』って実際に口にした奴」
「ケーッ、色ボケが!」
嘲《あざけ》るように答えつつも、本は古文字の一部に群青《ぐんじょう》の光を点《とも》して浮かび上がらせる。それは、存在の力≠繰って不思議を起こす自在式≠フ一つ。
「お黙り、バカマルコ。年食ってる奴《やつ》は、都合も見かけも駆《か》け引きも、いろいろと面倒でしょうが。それに、私に好意的な方がなにかと便利なのよ」
「あーあー、そーゆーことにしといてやるよ」
声の切りと共に、浮かび上がった古文字が左から光を強めて流れ、消えた。
マージョリーの頭の中に、自分たちを囲んで流れる、あるいは立ち止まって見ている人間たちの姿が浮かび上がった。それはすぐに薄れ始め、最後に群青《ぐんじょう》の光に包まれた該当者だけが残る。ぴくり、と眉《まゆ》が寄る。
「二人、いるわね」
「ガキンチョだな、若過ぎねえか?」
「リードするには都合いいわ。顔も、まあ片方は及第点ね」
「ヒーッヒ、やっぱ色ボ……」
「お黙り」
マージョリーは本を乱暴に閉じた。ブックホルダーの紐《ひも》を取って肩にかけ、ベンチから颯爽《さっそう》と立ち上がる。
御《み》崎《さき》市は、市の中央に流れる真《ま》南《な》川を挟む、東側の市街地と西側の住宅地。それを大鉄橋・御崎|大橋《おおはし》が結ぶ、という形をしている。
市立御崎高校一年二組のクラスメートである佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》と田《た》中《なか》栄《えい》太《た》は、同じくクラスメートの坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》と池《いけ》速人《はやと》が別の中学でそうだったように、中学校以来の付き合いである。
「ひゅーう、すんごい美人。お近づきになりたいな」
「うむうむ、たしかに美人、いや、美女というべきだ」
二人は市街地の外側にある、旧住宅地と呼ばれる地区に住んでいる。当然、対岸の住宅地にある高校への通学路も一緒。その道筋は、駅前に出て大通り沿いに御崎大橋を渡り、そのまま一直線に道沿いの高校に至る、というものだ。住宅地側に住んでいる悠二や池と比べて道程は遠いが、代わりに繁《はん》華《か》な市街への寄り道が気軽にできるという利点もあった。
「ところでさ、田中。あのビジョの前にあるのは……なんだと思う?」
人垣《ひとがき》の間から眺める佐藤啓作は、とりあえず美をつけてもよい容姿の華奢《きゃしゃ》な少年、
「俺《おれ》には……ボコられたチンピラの山に見えるが」
人の頭越しに見ている田中栄大は、愛嬌《あいきょう》のある面付きをした大柄な少年である。
この二人は登校中、駅前に連なる人垣を見つけて割り込んだのだった。ゴールデンウィークの間、結局会わなかった坂井悠二や池速人、平《ひら》井《い》ゆかりや吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》ら、親しいクラスメートとの久々の雑談のつかみとしては上々のネタであるように思われた。
なにせ、駅の待合所のど真ん中に、スタイル抜群、眼鏡《めがね》の外人美女……二人の憧《あこが》れる『女性の完成形』そのものが、ガラの悪そうな男七、八人からなる山を目の前に積み上げて、堂々と座っているのだ。常識外の光景といっていいだろう。
その美女には、どうにも刺々《とげとげ》しい雰囲気があるため近付く者はいない。それでも皆、時間の許す限り、遠巻きに彼女を観察している。
「あの山と、さっきから一人で喋《しゃべ》ってたのは関係あるんだろーか」
二人が見る先で、さっきから独り言を呟《つぶ》いたり本をバラバラめくったりしていたその美女、今その本を閉じて立ち上がっていた。
「さあな。ケータイかけてたようにも見えんかったが……およ?」
鋭く、しかし優雅に歩き始めた美女の後ろから、通勤客の報《しら》せを受けてきたのだろう、警官が二人、駆《か》け寄ってきていた。待合所のど真ん中にあるチンピラ山を見て一瞬ギョッとし、慌《あわ》てて声をかける。
「おい、君!」
しかし、美女はそれを無視して……なぜか、佐藤と田中の方にツカツカと歩いてくる。なにが気に食わないのか、その美《び》貌《ぼう》は不機嫌そうに顰《しか》められている。
「待ちたまえ!」
追いついた警官がその肩に手をかけた、
と、見えた次の瞬間、
美女は肘《ひじ》から先の動きだけで、彼を小枝でも払うように二、三メートルからの宙に放り投げていた。
触れたのは指先程度、力を込めたようにも見えない、まるで警官に重みがないような奇妙《きみょう》な眺めだった。その不思議な時間が、
「――ごげっ!」
警官の落下と悲鳴で動き出した。
「カ、カズさん!」
もう一人の警官が倒れて動かない同僚に叫び、腰の警棒に手を伸ばす。
佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》は見た。
彼らの方に向けられた美女の不機嫌そうな顔が、その動作を見もしないのに、明らかな呆《あき》れのため息をつくのを、確かに。
「ああ、もう」
美女は小声で呟《つぶや》き、肩から下げていたブックホルダーに指先を付ける。
すると、そのドでかい本が、まるで掌《てのひら》に吸い付くように浮き上がり、突然開いた。敵意と恐怖を顔に浮かべる警官に、その開いたページがかざされる。
一瞬、まるでストロボのような、青く強い光が見えた……気がした。
はっ、と観衆が我に返れば、美女の前に出した掌に、画板をまとめたような本の背が張り付き、開いている。ありえない光景だったが、それ以上の不思議がすぐに起こる。
「これで、文句ないわね。アレは、どっかのババアに絡《から》んでたのを鎮圧[#「鎮圧」に傍点]しただけ。もう片していいわよ」
と美女が顎《あご》でチンピラを指して言い、警官が慌《あわ》てて答礼したのだ。
「は! 治安活動へのご協力に感謝します!」
美女はその返答を無視して、再び体を翻《ひるが》す。本はいつの間にかまた閉じて、小脇に収まっていた。
佐藤と田中は顔を見合わせ、また不思議を見直す。
警官はどこか呆《ほう》けたような表情で、うめく同僚を助け起こしている。
そんな背後の光景をもう忘れているかのように、美女はなぜか立ち尽くす人垣《ひとがき》、その中の彼らに向けて一直線に歩いてくる。
やがて美女は人垣の端《はし》、つまり二人の真ん前に立った。
丈《たけ》の短いスーツドレスをまとう、出るところを見事に押し出した長身。十五|歳《さい》としては平均的な身長の佐藤は元より、大柄な田中とほとんど目線が並んでいる。もちろん、その貫禄《かんろく》は比べ物にならない。
いつしか二人を残して、人垣が退《ひ》いている。彼らだけが何《な》故《ぜ》か動かずに、というより身動きを許されないように、そこに棒立ちに立たされていた。
その二人に美女は、苛立《いらだ》った表情もそのままに、ぶっきらぼうな口調で訊《き》いた。媚《こび》を売るでもなく、科《しな》を作るでもなく、ただ優雅に身を逸《そ》らし、髪を掻《か》き揚げて。
「私、そんなに綺《き》麗《れい》?」
「はいっ!!」
二人は声をそろえて返答した。
こうして、佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》と田《た》中《なか》栄《えい》太《た》は、蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアスのフレイムヘイズ、マージョリー・ドーの、御《み》崎《さき》市における案内人となったのだった。
坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、実は人間ではない。
(それは、問題じゃないんだ)
より正確に言うと、今ここにいる彼[#「今ここにいる彼」に傍点]は、故・坂井悠二の残り滓《かす》、トーチ≠ナある。
(そんなこと[#「そんなこと」に傍点]には、もう、とっくに気持ちの整理をつけたはずなんだ)
その昔、この世に現れた紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠スちは、ひたすら人の存在の力≠喰い続けるだけだった。喰われた人々の消滅によるこの世の歪《ゆが》みも紅世≠ニのバランスも気にかけず、ただ己の欲するままに力を振るい、この世を荒し、乱し続けるだけだった。
しかしその内、徒≠スちは気付いた。
忌々《いまいま》しい同胞殺し、彼らの自在≠邪魔する討滅《とうめつ》者・フレイムヘイズが、彼らの存在の力@衰lによって生じるこの世の歪み……つまり、存在の急速な喪失による違和感を察知して自分たちを追っている、ということに。
そこで彼らは、その歪みの衝撃《しょうげき》を極力小さくするための、一つの方法を考え付いた。
人の存在の力♀ロごと全《すべ》てを喰わず、その残り滓《かす》で代替《だいたい》物を作り、配置することを。
トーチ≠ニ名付けられたその代替物は、周囲の人や世界との繋《つな》がりを当面保つ。本人の欠片《かけら》から造られているため、記憶も人格も生前のまま。生命活動さえ行われている。
ただ、わずかに残された存在の力≠フ消耗《しょうもう》につれ、無気力、無個性になり、文字通り存在感をなくしてゆく。こうすることで、その喪失《そうしつ》は人々に違和感をもたらさなくなる。
どれだけ大きな存在感を持ち、目立っていた人物でも、次第に周囲に構われなくなり、忘れられてゆく。少しずつその役割や居場所を他人に明け渡し、やがて、その人物のいない風景、必要としない世界に人々が慣れた頃……本当に消える[#「本当に消える」に傍点]。誰にも気に留められることなく。
このトーチの出現によって、フレイムヘイズが感じられる範囲での急激な歪みはなくなった。フレイムヘイズたちは、自分の足で歩き回ってトーチのある場所を探し、徒≠見つけなければならなくなったのだった。
しかし、世界の条理とは、よほど皮肉にできているものらしい。この徒≠スちの誤《ご》魔《ま》化《か》しの道具が結果的に、存在の急速な喪失によるこの世の歪《ゆが》みを緩《かん》和《わ》したのである。フレイムヘイズの目的である世界のバランス保持を、その仇敵《きゅうてき》たる徒《ともがら》≠ェ手伝ってくれたのだった。
とはいえ、徒≠ェ乱獲を止めるはずもない。ならば、フレイムヘイズによる討滅《とうめつ》も続く。
トーチの出現後も、両者のいたちごっこに終わりは見えなかった。
今ここにいる悠《ゆう》二《じ》も、その本人の残り滓《かす》、トーチである。つまり、本物の坂《さか》井《い》悠二≠ヘとうに、この街を襲った紅《ぐ》世《ぜ》の徒≠ノ喰われて、死んでいるのだった。
(そう、あの戦いの中で僕は思ったはずだ……そんなこと[#「そんなこと」に傍点]はどうでもいい、今あること、それだけだ、って……)
ただ、悠二の場合は多少、事情が複雑である。
彼はミステス≠ニ呼ばれる、トーチの中でも特殊な種類の存在だった。簡単に言うと、体の中に宝物を持っている。
(あの戦いの中で、彼女と今を……そう、思ったんだ……今もたぶん、そう思ってる……)
一名を『旅する宝の倉』とも呼ばれるこれ[#「これ」に傍点]は、紅世の徒≠ェ作った宝《ほう》具《ぐ》と呼ばれる不思議を起こす器物や、力そのものを身の内に隠している。宿したトーチが消えれば、中身はまた次のトーチヘと転移し、いつまでもこの世を流離《さすら》う。
悠二の中に入っているのは宝具。それも『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』という、時の事象に干渉する紅世の徒#髟中の秘宝だった。その昔、この世で一人の人間に恋した紅世の王≠ェ、その人間を『永遠の恋人』とするため作った永久機関だという。
この宝具は本来、日々|消耗《しょうもう》し続けてゆくものであるトーチの存在の力≠一日という単位に括《くく》りつけ、毎日零時に、その前日の消耗を回復させるという力を持っていた。
この宝具そのものや転移の経緯には不明な点が多いが、それでも当面の恩恵として、悠二は気力や人格を保ったまま日々を暮らしてゆくことができた。理屈の上では、永遠に。
本人は今思っているように、開き直りに近い納得を抱いて今の自分を生きている[#「今の自分を生きている」に傍点]。しかし、まさに今ある、その気力と人格が、暮らす日々での悩みを彼にもたらすのだった。
(……なぜ彼女といるその今に、僕は気持ちの張りを持てないんだろう……)
悠二は、いつもの通学路をシャナと歩く。
傍《かたわ》らを、小柄な体を感じさせない堂々とした歩調で進むシャナは、朝風呂同様、慣例どおりに坂井家で朝食をとった。
彼女が名を借りている本物の平《ひら》井《い》ゆかり≠燉I二のように、一家三人で紅世の徒≠ノ喰われていた。全員がトーチとなって、いつか消える生活を送っていた。そこにシャナが自分の存在を割り込ませて彼女を名乗っているわけだが、最近その両親が、ついに存在の力≠失い消滅した。
結果、シャナが偽《ぎ》装《そう》している平井ゆかり≠セけが残され、彼女は一人暮らしということになってしまった。これは、坂井|千《ち》草《ぐさ》が彼女に世話を焼く理由の一つでもある。
シャナも、一応は実家ということになっている平《ひら》井《い》家を、生活要品の倉庫、あるいは毎夜の寝床という程度にしか考えていない。これは、彼女が坂井家に入《い》り浸《びた》る理由の一つ。
その彼女は登校日になった今日も、ゴールデンウィーク中の習慣どおりに坂井家で朝を過ごし、その行動の延長として、当たり前のように一緒に学校に向かっている。つまり悠《ゆう》二《じ》とともに登校するのは、今日が初めてのことだった。
その、ともに歩く、今。
(……今が全《すべ》て……でも、その今をどう思っているか、それが分からなくなるなんて……)
悠二の胸の奥に、重い戸《と》惑《まど》いのようなものがわだかまっている。
これが、彼を以前のように動かしてくれない。彼女と一緒に紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ニ戦っていたときの、あの踊るような気持ちが、あの熱い力が感じられない。
では、彼女を嫌いになってしまったのか、といえば、
(嫌いなわけないじゃないか)
と断言できる。……誰もいない所で、という条件付きだが。
正直、悠二にとって恋愛|云々《うんぬん》で語るには、シャナという少女はあらゆる意味で並|外《はず》れてるので、例えば(そう、あくまで例えなんだけど、と悠二は自己弁護する)、吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》などに抱《いだ》いている素朴な好意ほどに、その手の気持ちの実感を持てない。しかしそれでも、あの戦いで掴《つか》んだ強い気持ちは、今でも自分の中に確かにある。
(なら、この澱《よど》んだ、どうしようもない気持ちはどこから来るんだろう)
思い悩むその目に、朝の先が差し込む。
シャナと出会った頃には、冷静に自分への思いを巡《めぐ》らせることを促《うなが》していたこの光にも、今は煩《わずら》わしささえ感じさせられる。彼女の後に大急ぎでシャワーを浴びた生乾《なまがわ》きの髪も、爽《さわ》やかな朝の風に、重い。
全《すべ》てをネガティブに感じてしまう。
不意に、シャナが口を開いた。
「悠二」
それだけで一旦《いったん》黙る。
お互いに話すタイミングを計って、結局もう一度シャナが言う。
「この近くに、徒≠ゥフレイムヘイズが来てる。昼食をとったら、すぐ調べに出るわよ」
「……」
人の存在の力≠喰らう異世界の住人がまた現れた、その衝撃《しょうげき》の報《しら》せ。
しかし、悠二の胸の澱みはどうしようもなく重く、粘《ねば》りつくように気持ちを鈍《にぶ》らせる。
その答えは、
「…………ふう、ん」
これだけだった。
シャナは悠《ゆう》二《じ》に期待していた。
前の戦いのように、驚いて、慌《あわ》てて、たまに鋭いことを言って、一緒に。
そんな悠二の姿を期待していた。期待していたことを、ようやく自覚した。自覚したことで、期待はより大きく、強くなった。
なのに、
「なに気の抜けたこと言ってんのよ!!」
怒《ど》鳴《な》り声が朝の通学路に響いた。
シャナは、その期待を裏切られ空いた大きな穴に、怒りがなだれ込むのを感じた。
十日前なら、この声に弾かれるように反応していたはずの少年は、今は鈍く眉《まゆ》を顰《ひそ》めるだけ。
「そんなに怒鳴るなよ」
「――っ!! 徒《ともがら》≠ェ来てるのよ!? どっかで人を喰ってるかもしれないのよ!? なんで、なんでそんなにだらけていられるのよ!!」
悠二は、その怒鳴り声になにも感じなかった。
そんな理屈は、自分でも十分以上に分かっているのだ。
彼女が怒っているのに、分かっているのに、なにも感じない。
自分を睨《にら》みつけ、強く硬く声を突きこんでくる少女を眺める。
と、何気なく、澱《よど》みのどこからか一言が、泡《あわ》のように浮かび上がった。
「僕なんかいなくても、別に困らないだろ」
「!! ……っ」
シャナは絶句した。
怒りが雲散霧消《うんさんむしょう》した。
なにも分からなくなった。
悠二と自分のこと、求めていた戦い、期待と怒り、その前の苦しみと戸《と》惑《まど》い、自分が一体なにを、どうしたくて、
全《すべ》てが、分からなくなった。
「……」
悠二も自分の言葉に驚いていた。
自分が口にしかことは事実だろうか。自分が口にしかことは本音だろうか。
なぜ、あんな言葉が出たのか。なぜ、彼女の表情が凍《こお》り付いているのか。
声が出ない。出せない。
なにを言えばいいのか分からない。
「……」
「……」
やがて二人は、どちらからともなく視線を外《はず》し、学校に向かって歩き出す。
大通りに入っても、互いの重い沈黙が喧騒《けんそう》の中、空白のようにはっきりと感じられる。
二人はほとんど無意識に、もう一人……彼らの間にある唯一の存在が、この空白を埋《う》めてくれることを求めていた。ノロノロと歩みを緩《ゆる》め、求めていた。
シャナの胸のペンダント、
その中から全《すべ》てを見つめ、全てを分かっているはずの天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールに。
二人にすがられていることを感じながら、
しかし彼はそれゆえに、なにも言わなかった。
市立|御《み》崎《さき》高校玄関ホール、一年生用|下《げ》駄《た》箱《ばこ》の陰で、吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》は死に瀕《ひん》していた。
もちろん、ものの例えである。
ではあるが、本人の意識としては、全く的確な表現でもあった。
十日ほど前、無制限にランニングをさせられて倒れたときよりも、その翌日、クラスメートの坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》に想いの丈《たけ》を告白した(彼女の中ではそういうことになっている)ときよりも、さらにその翌日、平《ひら》井《い》ゆかりに恋敵として宣戦布告した(これも同様)ときよりも、強く激しく鼓動が胸を打っているのだ。
頭はクラクラするし、見えるもの全てに霞みがかかっているし、脚はガクガク震えているし、おそらく顔も赤くなっているだろう。心の中では、速すぎる心音に合わせるように、同じ単語がリピートされている。
(……できる、大丈夫、言える、できる、大丈夫、言える、できる、大丈夫、言える……)
緊張が人を殺すかどうかを今の彼女に訊《き》けば、はい今死にます、という答えが返ってきたことだろう。
その手には、紙切れが二枚。握《にぎ》りしめ揃えた両手の親指で、まるで化け物を封じる御札に念をこめるように、力一杯押さえつけている。
傍《かたわ》らを通り過ぎる同級生たちが怪《け》訝《げん》な視線を向けているのにも気付かない。そこまでの余《よ》裕《ゆう》はない。なにしろ、一生一大の決心で、
「へぇ、それで坂《さか》井《い》の奴《やつ》をデートにでも誘うの?」
「ひゃあっ!?」
吉《よし》田《だ》は縮こまってジャンプ、という器用な真似をした。
見れば傍《かたわ》らに、クラスメートのメガネマンこと池《いけ》速人《はやと》が立っている。相変わらず平静そのものの顔つきで、嫌味のない万能感を漂《ただよ》わせている。
「いいい、池君、これ、おと、お父さんがくれて、映画とかでも、その、良かったんだけど、ここ、こういうのもいいかなって、私、でも」
まるで身の潔白の証明書のように吉田が前に差し出しているチケットには、『御崎アトリウム・アーチ美術館主催 ガラス美術工芸展』とある。
池《いけ》は、なるほど吉《よし》田《だ》さんらしい、渋《しぶ》くて良い趣昧だな、としっかり場所や内容まで確認してから、その手を押し戻してやる。
「僕に言い訳しなくてもいいって。ま、坂《さか》井《い》が来たら切り出したげるよ」
「え、あ、ありがとう」
池はお礼には手を振って構わず、自分の用事として周囲を見回す。
「それより、佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》、まだ来てない?」
「う、うん、見てないけど」
池は、やれやれ、と言って頭を掻《か》く。
「宿題借りたときくらい、早く来いよな、ったく……」
吉田にとって、こういう親切を何ということもなくしてくれる池は、自分もこうなりたい、と憧《あこが》れる存在だった。自分から目立とうとはしないが、頭はいいし、他《ほか》のことも大抵、平均以上にこなす。それを鼻にかけることもない。人付き合いも上手《うま》くて(現に、彼にだけは敬語を使わずに話すことができる)、困っていたときにも何度か肋けてくれた。特に今のような、坂井|悠《ゆう》二《じ》に関することで、何度も。
吉田は思い切って、この頼りになるクラスメートに訊《き》いてみた。
「い、池君」
「ん、なに?」
「坂井君……こういうの、嫌いかな」
チケットを手にして立つ吉田|一《かず》美《み》の、助けないと自分が悪者になるような、不安気でか細い姿。本人は全く自覚していないようだが、実は容姿的にも彼女は、人目を惹《ひ》き付ける派手さこそないものの、かなり可愛《かわい》い部類に入る。
(ううむ、坂井よ、僕はおまえがヒジョーに憎い)
心中で悠《ゆう》二《じ》に五、六発ほど正拳《せいけん》突きをぶちこんで、それでも池は律《りち》義《ぎ》に的確に答える。
「デートってのは、なにを観《み》るかじゃなくて、誰と一緒に行くかで楽しさが決まると思うよ」
「そう……」
吉田はその『一緒に行く自分』に一番自信が無い。少し大人《おとな》ぶって、こういう展示会なんかを選んでみたが、無《む》駄《だ》だったろうか……。
吉田の沈む様子に、池は慌《あわ》てて言葉を継《つ》ぎ足す。
「だ、大丈夫、吉田さんが誘えば坂井も絶対喜ぶって!」
「……そうかな」
「そうだよ、もし行かないなんて言ったら」
強く保証しようとして、ふと、その悠二の傍《かたわ》らに立つドえらい貫禄の少女が示すだろう反応、眉《まゆ》を釣り上げ眼《まなこ》を燃え上がらせる、恐怖の姿を思い浮かべる。
とりあえず、そこら辺の要素を盛り込んで、
「……ま、なんとか説得してみるよ」
という辺りで妥協する。
もちろん吉《よし》田《だ》にとっては、それだけでも嬉《うれ》しい助力だった。
「ありがとう、池《いけ》君」
「だから、お礼なんていいって……ん、噂《うわさ》をすれば」
池の眼鏡《めがね》が、玄関ホールに入ってきた坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の姿をとらえる。
ガキン、と吉田の体が直立不動の姿勢で固まった。
(……駄《だ》目《め》だこりゃ)
池は早々に彼女の自助努力を諦《あきら》め、一週間ぶりに会う友人に声をかけようとする。
と、その傍《かたわ》らに、小柄な少女の姿があるのに気付いた。
(あらら、平《ひら》井《い》さんも一緒か)
最近あの二人は、特になにをするわけでもないのに、ずっと一緒にいる。悠二だけに話をするというなら、この朝の登校時が狙《ねら》い目だと思ったのだが、あてが外《はず》れた。
とりあえず声くらいはかけよう、と思い、吉田の肩を軽く叩《たた》いて悠二の方へと向かう。
吉田も金縛《かなしば》りを解かれたように、それでもかなりギクシャクしながら続く。
が、二人は数歩だけで止まる。
止まらせられた。
平井ゆかりと坂井悠二の周囲に、重苦しい沈黙が下りていた。
他《ほか》の生徒は二人を遠巻きに取り巻いて、その静かな脅威《きょうい》に慄《おのの》いている。
平井ゆかりが、いつもの屹然《きつぜん》とした存在感ではなく、皮膚をチリチリ痛ませるような圧迫感を、あたり構わず撒《ま》き散らしていた。
そして坂井悠二は、それに何を感じている様子もなく平然と傍らにある。
不気味な眺めだった。
二人はともに無表情。しかしそれは、心の穏やかさがそうさせているのではない。むしろ逆の……心に渦《うず》巻くものが激しすぎ複雑すぎる、その混沌《こんとん》を表したものだった。
それを周囲にいる者は感じさせられる。
触れたら絶対に爆発する、そんな危機感があたりに満ち満ちていた。
その二人が上履きに履き替えて、池と吉田の前に来る。平井ゆかりは、わずかに顔を振り向けるだけ。悠二は、おはよ、と短く言い置いていく。
返事どころか身動きさえできず、池と吉田は、二人が教室に向かうのをただ見送ることしかできなかった。
池《いけ》速人《はやと》が一時間目の授業で、恨《うら》み節《ぶし》を吐《は》きながら宿題忘れのペナルティを喰らっている頃。
御《み》崎《さき》市駅で不思議な美女に捕まった佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》と田《た》中《なか》栄《えい》太《た》は、駅の待合所と大通りを挟んで反対側に位置する喫茶店にいた。
(今日はガッコはサボりか……ま、美女とお茶してるってことで元は取れてるか)
(そういや、高校入ってからは初めてだな……池にゃ悪いが、しゃーあんめえ)
などと思い、並んで座る二人とテーブルを挟んで向かい合っているのは、マージョリー・ドーと名乗る美女と、マルコシアスと名乗る……本。
朝の通勤時特有の、静かだが忙《せわ》しない空気の中、マージョリーはまるでこの店の主人のようにウエイトレスを横柄《おうへい》に呼びつけて、
「一番高い紅茶、ホットで三つ、早くなさい」
と勝手に注文した。二人を促《うなが》して席につかせると、彼女は声を潜《ひそ》めるでもなく、いきなり核心から切り出した。
「この街に人喰いの怪物が来たの。私たちはそれを追ってる。だから協力しなさい」
「……」
「……」
おいおい、とマルコシアス――二人の目と頭がおかしくなければ、マージョリーの横の席に置かれたデカい本――が呆《あき》れた声を出す。
「いくらなんでも無茶だぜ、我が性急なる追っ手、マージョリー・ドー。もーちょっと信じやすく噛《か》み砕《くだ》いて言えねえのか」
「……」
「……」
信じられない話に、信じられない現象が、信じやすく言えと。
二人はどう反応していいものやら、さっぱり分からなかった。
「そうやって言っても、理解できるとは限らないでしょうが。だったら、最初から本当のこと説明しとく方が手間も省けるってもんよ」
この万年不機嫌美女は、どうやら面倒くさいことが嫌いらしい。
「……」
「……」
佐藤と田中は、戸《と》惑《まど》い、というほどにも反応を返せないポカンと抜けた顔で、二人(?)の次の言葉をただ待っている。
そんな二人の様子に、マージョリーは苛立《いらだ》ちを勝手に募《つの》らせて、説明を補足する。
「じゃ、も少し詳《くわ》しく言うわ。人喰いの怪物の正体は、この世の歩いてゆけない隣[#「歩いてゆけない隣」に傍点]にある『紅《くれない》の世界』から来た紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ一人、屍拾《しかばねひろ》い<宴~ーって奴《やつ》」
ますます頭がこんがらがった、などと言えば、さっきの警官のようにぶっとばされそうな気がしたので、二人はとりあえず黙って考える。
(……電波系?)
(……にしちゃ、さっきのポリさんとか、この本とか……)
普通、人間は不思議が目の前にあっても、それをすんなり認めることができない。自分の正気を疑うか、目の前にあるものの方こそが間違っていると思う。
しかしこの二人は、自分の正気を疑うような陰性の人格も、目の前にあることを否定できるほどに強い意思力(頑迷《がんめい》さとも言う)も持っていない。もちろん、不思議をありのままに受け入れられるほど突き抜けてもいない。
つまり、お気楽な人間であるところの二人は、第四の選択|肢《し》を取った。
態度保留、である。
不思議についての解釈と納得を急がず、成り行きに任せてしまおう、というわけだった。深刻っぽい物事の詮索《せんさく》より、条件付きでも美女との同行である。二人は正直者でもあった。
「え、と……それで、具休的になにすりゃいいんですか?」
「まさか、その怪物と戦え、ってんじゃ?」
マージョリーは、ハッ、と笑い飛ばした。
「馬鹿。んなこと、誰が頼むもんですか。徒《ともがら》≠ブチ殺すのは、フレイムヘイズである私とマルコシアスの役目よ」
なんだか見かけと裏腹《うらはら》に、中身はかなり獰猛《どうもう》……もとい、激しい人らしい、と二人は思う。
思いつつ、
「ふれいむ?」
と佐藤が、また出た理解不能な単語を訊《き》き返した。
今度はマージョリーの代わりに、その横の席に置かれた本が答える。
「俺《おれ》たちみたく、紅《ぐ》世《ぜ》の徒≠ブチ殺す奴《やつ》のことさ、ヒッヒ」
なにがおかしいのか、甲高い笑い声をあげながら、その本・マルコシアスは続ける。
「んーで、俺たちが今追ってるラミーって野《や》郎《ろう》、雑《ざ》魚《こ》のくせに気配隠すのだけはうまくてよ。こんなトーチだらけで、他《ほか》の徒≠ェいるかもしれねぇ街に入られちまったもんだから、とりあえずここを調べるための案内人、つまりおめえたちが要るってわけだ」
「とおちだらけ?」
今度は田中が訊く。
「あー、もー」
マージョリーは、せっかく整っている髪をガリガリと掻《か》きむしった。本当のことを説明するなどと言っておきながら、どう説明するかについては深く考えていなかったらしい。
激しい上に、いい加減……もとい、おおらかな人らしい、と二人はそれぞれ不機嫌美女の分析ページに項目を付け加える。
「私、やっぱパス。マルコシアス、頼むわ」
その分析どおりにか、マージョリーはあっさり前言を撤回した。
「あぁん? そりゃ責任|放《ほう》棄《き》ってもんだぜ、我が」
バン、と本に手が叩《たた》きつけられて、声が途切れる。
「お黙り。道々で説明、よろしく」
マージョリーは相棒に反論の余地を与えない。立ち上がって二人に言う。
「とりあえず、この街の大まかな構造を実地に教えて。それから、最近起こった変な事件や噂《うわさ》話なんかがある場所を回るわよ」
どうやら拒否は、端《はな》から選択|肢《し》に含まれていないらしい。
しかし、まずそれよりも、と佐《さ》藤《とう》はマージョリーを呼び止める。
「あ、マージョリーさん」
「なによ」
「えー、あのー」
彼が指差した先、立ったマージョリーの傍《かたわ》らに、紅茶を運んできたウェイトレスが困惑顔で佇《たたず》んでいた。
「……」
眼鏡《めがね》越しに、その罪なきウエイトレスを睨《にら》んだマージョリーは、無言でトレイからカップを取り上げる。そして、湯気の上がっている熱湯寸前の中身を、まるで出陣《しゅつじん》前の乾杯の如く、いきなり全部、咽《の》喉《ど》に流し込んだ。平然とした顔でカップをトレイに返すと、変に身近な不思議を披《ひ》露《ろう》されて固まる佐藤と田《た》中《なか》に、
「ほら、なにしてんの」
と顎《あご》で促《うなが》す。
「は?」
「へ?」
二人は驚くウエイトレスとも目線を合わせてから、顎で指されたものを見る。
熱湯寸前の紅茶が満たされたカップ二つ。
「もう行くんだから、早く」
二人は舌を火傷《やけど》した。
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2 歩みは全て激突へ
その日の御《み》崎《さき》高校一年二組の授業は、誰にとっても苦行となった。
平《ひら》井《い》ゆかりことシャナが、身を縮めさせるような圧迫感を教室中に放出していたためだ。
「血液の中で練られていたチヌ第一物質が……」
クラスメートは皆、無害な強者だったはずの彼女……彼らが密かに言うところの『用心棒の先生』による、このご乱行に閉口していた。
本来の彼女も決して愛想《あいそ》のいい方ではなかったが、それでもその無愛想さは、誰にも媚《こ》びないという態度……いわば爽快《そうかい》さに通じるものであって、こんな、無《む》闇《やみ》な重圧をもたらす類《たぐい》のものではなかった(教師にとっては必ずしもそうとは言い切れないが)。
「脂肪分によって分解され、タイロミンとデジタミンに分かれ……」
この大荒れの原因が、坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》とのケンカにあることは、二人の間に漂《ただよ》う空気から容易に察することができる。が、だからといって、事情を聞き出したり、ましてや関係修復に乗り出したりすることなど、彼女を知る者には不可能だった。誰だって、自分を爆心地にする起爆スイッチなど押したくはない。
二人のケンカという予想外の出来事に戸《と》惑《まど》い、また今の雰囲気に縮こまってしまっている吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》は元より、坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の友人にして誰もが頼りにするメガネマン池《いけ》速人《はやと》でさえ、そのあまりな険悪さに近付くのを憚《はばか》っているのだから、他のクラスメートに手出しができないのは当然のことだった。
結局彼らは、息が詰まり腹の締まる、この責め苦にも似たとばっちりに耐えるしかなかった
「デターミンはリンパ液に結合して、カチルダ酸とノバ粘液とサルマドンと……」
教える側も、今教壇に立っている生物教師始め、彼女にやり込められて無視するようになった者、対決のため猛勉強してきた者、この日ばかりは全員が態度を同じくした。できるだけ彼女を剌激しないように、声を小さく身動きも少なく、淡々と授業を行う。
「この際、ノバ粘液は体温によって分解され消滅するが、その残《ざん》滓《し》がカチルダ酸に……」
生物教師の、内緒話のようなボソボソ声を聞き逃す心配はなかった。教室内は、互いの瞬《またた》きの音さえ感じられるほどに静まり返っていた。
「核カチルダ酸とサルマドンによって生成されたカッサノ蛋白質により……」
そんな教室の雰囲気を完全に無視して、シャナと悠二は、ただ黙って座っている。
不機嫌美女マージョリー・ドーと、その脇に下げられたブックホルダーに収まるマルコシアスは、案内人である佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》と田《た》中《なか》栄《えい》太《た》を引き連れて、街中の主な場所を数時間かけて練り歩いた。
その間、マルコシアスによって、この世に起きている『本当のこと』の解説が行われていた。まとめた画板ほどもあるドでかい本が、得々と語る。
「人喰いっつったって、別に骨や肉をバリバリ噛《か》み砕《くだ》いてるわけじゃねえ」
この本はグリモア≠ニいう、マージョリーの身の内にあって彼女に力を与える蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアスの意思を表出させる神器なのだという。もちろん、説明されたところで理解できるような話ではないが。
「存在の力≠チてえ、この世に存在するための、大元のエネルギーみてえなもんを吸い取ってんだよ」
「はあ」
と佐藤。もう、本と話すことへの違和感はなくなっていた。慣れたのである。
「紅《ぐ》世《ぜ》≠ゥら渡り来た徒《ともがら》≠ヘ、そうやって得た存在の力≠使って、この世に存在したり、自在≠ノ物事を操ったりするってえ仕組みさ」
「へえ」
と田中。不思議の理屈は、聞いたところでやっぱり不思議の一つでしかない。
「でも、この世に本来いねえ奴《やつ》らがいて、本来あるべき者を消したり、起こるわけねえことを起こしたりしてたら、いつか世界が妙な感じに歪《ゆが》んじまう。だから、それを防ぐために、俺《おれ》みてえな力の強い徒《ともがら》≠ナある王≠ェこっちの人間の中に入って、この世を荒らす徒≠ブチ殺すことになった」
佐《さ》藤《とう》が頷《うなず》いた。
「ははあ、それがフレイムヘイズ……で、トーチってのは?」
「徒≠ェ喰った人間の残り滓《かす》だ。いなくなった人間がいるように見せかけて、フレイムヘイズの追跡を誤《ご》魔《ま》化《か》す道具さ」
田中が、とんでもないことに思い当たった。
「ん? それが御《み》崎《さき》にあるってことは……ここにはとっくに徒≠ェいた……?」
「そーいうこと。今もいるかも知れねえ。だから、おめえたちと調べて回ってるんだよ、ヒッヒッヒ!」
ヒッヒッヒじゃないだろ、とは思いつつも、二人の心中には案外、動揺はなかった。まだ危機感に襲われるほど、物事への実感を持てていないのだった。
これが例えば坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の場合だと、いきなり最初から自分自身が既にトーチで、本人はもう死んでいると知らされるなど、どうしようもない状況へと突き落とされている。
しかしこの二人の場合、目の前で非日常を振り撒《ま》くものは、今のところ、強引な美女と喋《しゃべ》る本、それだけである。何より、彼らは非日常をこの世に表す象徴・トーチを見ることができなかった。
それに、マージョリーが不思議の存在である自分のことを隠さない……つまり、それが当然のように振舞っていることも影響している。彼女は、街中でマルコシアスが喋るのを隠そうとさえしなかった。訝《いぶか》しむ者があれば、
「ああ、ケータイよ、ケータイ、気にしないで」
と言い訳にもならないことを言って、手を振るだけ。しかしそれだけで大半の者は、なんだ、と納得して自分の世界に戻っていった。僅《わず》かに疑問を持った者も、マージョリーのあまりに平然とした態度を見る内に興味を失った。日々忙しく立ち働く存在である彼らは、一瞬の疑問を突き詰める欲求を持てるほど暇ではないのだった。
「人ってのは、例え実際に見たことでも、常識から外《はず》れていれば、それを常識で理解できるよう加工して納得するものなの。多少の不思議は放っとけば消えるのよ」
とマージョリーが言ったように、不思議というものは、それを相手が認め解説してくれない限りは、常識の壁の中に埋《う》もれてしまうものらしかった。
「あんたたちのことにしたって、私たちのやることは人間には証明不可能だから、秘密を守れとか強制したり、口を封じたりする必要もないわけ。証明できなきゃ信じられない、信じられないことはないのと同じ、言い張れば狂人扱いされる、それが世間のオチなのよ」
そんなわけで佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》は、初《しょ》っ端《ぱな》から燐《りん》子《ね》≠ノ喰われそうになったり徒《ともがら》≠フ標的にされたりした悠《ゆう》二《じ》と比べ、(悠二が気の毒になるほど)物理的にも精神的にも気楽に、非日常ヘと足を踏み入れることができたのだった。
実際、マージョリーに対しても佐藤は、
「今のところ、俺《おれ》たち自身がどうこうされるって恐さもないですしね」
と半ば諦《あきら》めた表情で苦笑し、田中も、
「要するに姐《あね》さんは、俺たちに悪さする奴《やつ》らをぶっちめようってんでしょ?」
といつの間にか呼ぶようになった妙な尊称を口にしながら、肩をすくめるなどしている。
二人とも、拒絶も否定も襖悩《おうのう》も見せない。
そのあまりにお気楽な様子に、
(今時の子は、不思議にビビらないっていうか、ほんと、イージースタンスねえ……それとも、こいつらが特別に能天気なだけかしら)
とわずかに呆《あき》れるマージョリーだが、実のところ、彼女の方もあまり無《む》駄《だ》に深く考えないお気楽な性格なので、どっこいどっこいではあった。
(ま、使いやすいんなら、なんでもいいわ)
そうして彼女は、御《み》崎《さき》市の地理を大方頭に叩《たた》き込むと、いよいよ本題として二人に、この街で最近起こった異変について問い質《ただ》した。
歩き詰めで疲労|困憊《こんぱい》の体の二人は顔を見合わせて、
「俺たちでも知ってる大事件って言えば……」
「ま、アレしかねえだろ」
と即答、とある事件の現場へとマージョリーを案内した。
そこは繁華街のすぐ奥にある、ビルの解体工事現場。人通りも少ない路地を塞《ふさ》いで張られたブルーシートの向こうから、大きな掘削《ほっさく》機械が覗き、エンジンの唸《うな》りと建材の圧砕《あっさく》音が重く響いている。
一週間ほど前の午後四時過ぎ、この繁華街の奥にあるビルの裏手で、突如|謎《なぞ》の大爆発が起きた。その爆発によってビルは半ば倒壊、死傷者も三十人余りを出したという、御崎市政始まって以来の、まさに大惨事だった。その原因は未だに判明していない。
これだけの大事件だ、絶対に何かあるに違いない、マージョリーの役に立てる、と二人は早くも開花した子分根性を疲れた体の内に弾ませて案内したが、しかし現場を見た彼女には、大して興味をそそられた様子もなかった。
シートの継《つな》ぎ目を軽くめくって、眼鏡《めがね》越しに気のない視線を中の解体現場へと向ける。
「壊《こわ》すだけってのは他の手段でいくらでもできるし、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ヘ大概、自分の暴れた後を修復するのよね」
その後ろから中を覗きつつ、田中が訊《き》く。
「姐《あね》さんみたいな、フレイムヘイズに見つかるから?」
「そうよ。よほどの変わり者でもない限り、徒《ともがら》≠ヘ、ただ壊《こわ》したり暴れたりなんて……ん?」
言いかけて、マージョリーはふと気付いた。
「もし、ここにいたのが徒≠セけじゃなかったら……これ、他《ほか》のフレイムヘイズと戦った跡なのかも……マルコシアス」
ああ、とグリモア≠ゥら返答が来る。
「言われてみりゃ、薄く気配は感じるな。ラミーの野《や》郎《ろう》は気配消していやがるだろうから、同業者か、別の獲《え》物《もの》だ」
その声に不意に喜びの色が混じる。
「っにしても、これがもし戦いの跡だとしたら、まーまーのぶっ壊し具合だな。修復の手間も惜しむような乱戦だったわけか……俺たちと気が合いそうだぜ、ッヒヒ!」
まるで爆撃跡のようなビル崩壊の有様を前に、マルコシアスの笑い声が甲《かん》高くあがる。
自分たちの街で、自分たち認識の及ばない場所で、こんな結果を生む戦いが繰り広げられていた……佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》は『本当のこと』の恐ろしさの一端《いったん》を垣《かい》間《ま》見た気がした。戦慄《せんりつ》というほどではないが、ようやく事態への真剣昧が湧《わ》いてくる。二人して、思わず唾《つば》を飲んでいた。
マージョリーはそんな二人には構わず、マルコシアスに訊《き》く。
「そいつの場所は特定できない?」
「難しいな。そいつが自在法を使うなり目一杯人を喰うなり、なんか派手な動きすりゃ一発なんだが」
「あーもー、気持ち悪いわねえ!」
マージョリーは、またも髪をガシガシ掻《か》きむしる。
「いーじゃねーか、いーじゃねーか。誰だろうと、邪魔すりゃブチ殺すだけさ」
「そりゃそうだけど」
言い合うマージョリーらに、佐藤が怪《け》訝《げん》な顔をして訊く。
「……フレイムヘイズ同士でも、戦うんですか?」
マージョリーは平然と答えた。
「邪魔されりゃね」
それより、と話題を戻す。
「ケーサク、エータ、もしこの街が戦場だったのなら、他にもおかしなことが起きてるはずよ。なにか覚えはないの」
「え、と……他には……依《よ》田《だ》デパの空騒ぎくらいかな」
佐藤は田中に話を振る。
「ん〜? ああ、あのイタ電騒ぎか。ありゃ関係ねえだろ」
「なんのこと?」
マージョリーは田《た》中《なか》を睨《にら》む。
「笑い話ですよ?」
「いいから」
彼女は、他人が勝手に判断することを好まない。なににつけ判断は自分で行う、その材料を提供するのが他人、これが彼女の思考原則だった。
剣幕《けんまく》に押されて、田中は言う。
「この爆破事件があった夜、ピリピリしてた警察に、依《よ》田《だ》デパートって廃ビルの屋上でまた爆発した、ってイタ電が入ったんですよ。んで、警察が真《ま》に受けて総員出動したら、なんにもなしで大恥かいた、って……」
「それだわ」
マージョリーは、いきなり断定した。きょとんとする二人に苛《いら》立《だ》った口調で言う。
「さっきも言ったでしょ。徒《ともがら》≠ノせよフレイムヘイズにせよ、戦った後に私たちはその場所を元通りに修復するのが普通なの」
「あ」
二人は声をそろえた。
「なにかあったはずなのに、なにもなかった……それこそが、私たちが不思議を行った証《あかし》でしょうが! 案内して!」
「ああ、それなら」
「もう見えてますよ、姐《あね》さん」
二人が振り仰《あお》いだ先、路地裏の狭い空からも、それは見えた。
御《み》崎《さき》大橋《おおはし》の袂《たもと》に建つ、市街で一番高いビル。
旧依田デパート。
そこはかつて、この御崎市全域を巻き込む大異変を目論《もくろ》み、シャナと悠《ゆう》二《じ》によって討ち滅ぼされた紅《ぐ》世《ぜ》の王=c…狩《かり》人《うど》<tリアグネの策源地だった場所。
午前中だけで坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、
「なんとかしてくれ」
に類する言葉を五度聞かされた。その中には生徒だけでなく、彼がシャナと一緒にひどい目に遭《あ》わせた体育教師まで含まれていた、というあたりに事態の深刻さがうかがえる。
ともあれ、悠二の返答は決まっていた。
「僕は彼女のお守《も》りじゃない」
ほとんど意地になってそう言い張った結果、クラスメートの間において『平《ひら》井《い》ゆかりの不機嫌の原因は、坂井悠二とのケンカである』ということが公式見解として確定された。
それを小耳にはさんだ悠《ゆう》二《じ》は顔を顰《しか》める。
(勝手言ってるよ……ケンカだって? 僕がどうやってシャナと……)
悠二は自分とシャナの関係を、彼女が自分にぶつける、そんな一方通行なものだと思い込んでいた。シャナという強大な存在、坂《さか》井《い》悠二という小っぽけな存在、それら、どうしようもない実感から思い込もうとしていた。彼が、母・千《ち》草《ぐさ》の『シャナをいじめる』という言葉を全く理解できなかったのは、このためだった。
シャナ、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールのフレイムヘイズ、神通《じんつう》無《む》比《ひ》の大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』を振るう『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》の討ち手』、無敵、圧倒的、絶対的、強くて、強くて、強くて……
悠二は、シャナを偶像視していた。
ガタン、と椅《い》子《す》をわざと大きく鳴らして、そのシャナが立ち上がった。
昼休みの教室が静まり返った。恐る恐る動いていたクラスメートたちも、その場で身動きを止める。
悠二は変わらず、自分の机を見つめたまま。
唇《くちびる》を引き結んだシャナは、その場に棒立ちに立って、
ただ一秒、待った。
「……」
「……」
そして、無情の時を過ごしたことを思い知ると、鞄《かばん》をつかんで足早に教室から出て行った。
その小さな体で行く先に立ち尽くすクラスメートたちを押しのけ、曲がり角の机を薙《な》ぎ倒し、引き戸のガラスを砕《くだ》きかねない勢いで閉め、まさに嵐のように。
その閉められた引き戸の衝撃《しょうげき》が鼓《こ》膜《まく》から薄れる頃になってようやく、悠二を除く全員が肩から力を抜いて、椅子に机に体重を預けた。教室に、虚脱にも似たため息が満ちる。
悠二は、このため息の中に、自分に何らかの行動を期待する空気が混じっていることを薄々感じる。感じながら、しかし無視する。現に、望まれているだろうことをするだけの強い気持ちは湧《わ》き上がってこない。
やがて、極限の緊張の末もたらされた弛《し》緩《かん》が、いつも以上の騒がしさとなって教室を埋《う》め始めた。みな、あえて二人の話題には触れない。
そんな中、ノロノロと鞄を探って、ふと、
(おにぎり、買うの忘れた……)
と今日の登校時の出来事を思い出し、また沈みこむ悠二に、
「今日は人数も半分だな」
と池《いけ》速人《はやと》が声をかけた。
結局、佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》と田《た》中《なか》栄《えい》太《た》は揃って欠席したので、今日は寄せる机も一つで済む。
「そだな」
気のない返事をする悠《ゆう》二《じ》の前に、小さな弁当箱が置かれた。
「ど……どうぞ」
吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》が、いつも以上に控えめな声で言った。
彼女からの弁当は、まだ習慣というほどに馴《な》染《じ》んでいなかったので、悠二は驚き、素直に礼を言った。弱い声で。
「ありがとう、吉田さん。助かるよ」
「い、いえ、こっちが勝手に、してるんです」
吉田は真っ赤になって、その対面に座る。
その間に席を取りつつ、池《いけ》が続ける。彼は律《りち》義《ぎ》で、機を見るに敏でもあった。
「もう一つ、渡す物あるだろ、吉田さん」
「あっ! あ、い、池君、でも、今日は……」
吉田は、ごにょごにょと語尾をすぼめ、うつむいてしまう。
なんのことか分からない悠二に、池が再び言う。
「え〜と、なんだっけ、駅の向こう側に新しく、でかいビル建ってただろ。あそこで美術展が開かれるから観《み》に行きませんか、って……だよね?」
確認すると、吉田はほとんど泣きそうな顔を、ほんの少しだけ頷《うなず》かせた。
いじめてるんじゃないんだけどなあ、と池は苦笑して、自分のホカ弁を開く。
「要するにデートだよ、デート。今日は授業もあと一つだけだし、行って来いよ」
吉《よし》田《だ》はとうとう顔を両手で覆《おお》ってしまったが、こうでもしないと百年話が進まない。彼女のためのショック療法だ、とこの出来過ぎな少年は割り切っていた。
「……おまえは仲人《なこうど》か?」
ぐじぐじと、らしくもない険悪な声で言う悠《ゆう》二《じ》に、池は涼しい顔でさっさと切り返す。
「そんなもんだ。どうせ今日は暇なんだろ?」
悠二には、暗に池が平《ひら》井《い》ゆかりを追いかけなかったことを責めているように思えた。それに反発するように、答えが口を突いて出た。
「…………か」
「え?」
吉田は、最初その声の意味を理解できなかった。
悠二がもう一度、自分自身に確かめるように言う。
「行こうか、古田さん」
「っええっ!!」
吉田は、緊張以外でも死ねる精神状態があることを、初めて知った。
漆黒《しっこく》の闇《やみ》で満たされた空間。
そこを不意に、
ズドガン、と重い打撃が襲い、群青《ぐんじょう》の光が四角く穿《うが》たれた。打撃に弾け跳んだ闇は、鉄《てっ》扉《ぴ》と千切れた鎖《くさり》の姿を取って床を重く打ち、埃《ほこり》を舞い上げる。
その群青の光の中に浮かぶのは、三つの人影。
「うっぷ……」
右に立つ佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》は、もうもうと上がる埃に思わず、手で口元を隠した。
真中、鉄扉を一撃で蹴《け》り潰《つぶ》したマージョリー・ドーはパンプスを履《は》いた脚を下ろして、魅《み》惑《わく》の脚線を再びスーツドレスの内に隠す。
左に立って、それを名残惜しげに横目で追う田《た》中《なか》栄《えい》太《た》が言う。
「姐《あね》さん、爆発が目撃されたのは屋上ですよ」
「んなこたぁ、分かってるわよ。ここがちょっと臭《にお》ったの。あんたたちも、なにか変な物がないか探しなさい」
うるさそうにマージョリーは答え、暗闇《くらやみ》へと音高く踏み込む。
外は昼近くになっているはずだが、この閉鎖された依《よ》田《だ》デパートの上層フロアは、時が流れるのを拒否しているかのように、広く深い闇《やみ》を己が内に溜めている。
その闇を群青《ぐんじょう》色の光が炙《あぶ》り、追い払う。光はマージョリーが小脇に下げたドでかい本グリモア≠フ閉じた羊《よう》皮《ひ》紙《し》の隙間から、炎《ほのお》の形で漏《も》れ出ていた。
佐《さ》藤《とう》は、その灯《あか》りを頼りに進む。埃《ほこり》の幕が薄く視界にかぶって、なんとも気分が悪い。
「こんな状態で探せって言われても……」
「だいたい、変なものってなんなんです?」
田《た》中《なか》も、灯りに取り残されないように続く。広いデパートのフロアは、柱が疎《まばら》らに立っている以外はなにも見えない、平面の天地に挟まれた闇の世界だった。
「分かんないから探してんのよ」
もっともなような、そうでないようなマージョリーの返答に、マルコシアスがグリモア≠揺《ゆ》すってゲタゲタと笑った。
それでも彼女らは入ってすぐ、前方の闇の中に堆《うずだか》く積もるなにかを見出すことができた。
「……なにかしら? マルコシアス」
「あいあいよー」
マージョリーの求めに応じて、その小脇のグリモア≠ゥら漏れ出ていた群青の炎が一雫《ひとしずく》、ぽたりと落ちた。それは床面に付く前にひょろりと舞い上がり、前に向かう。
怪談に出てくる人魂《ひとだま》のような炎の雫は、前方のなにかの上にたどり着くと突然、光量を増した。天井《てんじょう》に巨大な電球が一つ点《とも》ったかのように、全《すべ》てが照らし出される。
その眩《まぶ》しさに目を細めた佐藤は、やがて瞳に結ばれた光景に素《す》っ頓狂《とんきょう》な叫びをあげた。
「……なんだ、こりゃ?」
「元デパートだから……か?」
田《た》中《なか》も呆《あき》れた声を出す。
警戒の末、現れたそのなにかは、フロアの体積半分は占めていそうなほどに広がる、
玩具《おもちゃ》の山だった。
シャナはただ歩く。
(……)
その歩調は速い。
なのに、なぜこんなに足が重い。
(おいしくない)
圧迫感は、人込みに穴を開けるほどに強力になっている。
なのに、なぜ人を邪魔に思う。
(おかしい)
使命への欲求は燃え滾《たぎ》るほどに熱い。
なのに、なぜ前を向けない。
(前と、昧が違う)
以前に厳選した銘柄だった。
なのに、なぜこんなに、
(おいしくない)
事実は、簡単なのだ。
悠《ゆう》二《じ》が、やる気をなくした。
悠二が、自分を拒《こば》んだ。
悠二が、一緒に来てくれなかった。
それだけなのに。
悠二、
悠二、
悠二、
なぜ、
自分はこんなに、悠二のことに。
(全然、おいしくない)
シャナはただ、鬱々《うつうつ》と歩き続ける。
メロンパンを仇《かたき》のように噛《か》み干《ち》切《ぎ》りながら。
「姐《あね》さ〜ん! これおわっ!?」
ガシャグシャ、と音を立てて、田《た》中《なか》が玩具《おもちゃ》の山の頂から転がり落ちた。
「あぁ? なによ」
遠くから、マージョリーの相変わらず不《ふ》機《き》嫌《げん》そうな声が飛んでくる。この不機嫌は、自分の探索が邪魔されたからか、とだんだん彼女の性格に慣れてきた田中は思う。
フロアを埋《う》め尽くす玩具の山の上から、佐《さ》藤《とう》が顔を出す。
「お〜い大丈夫か、田中……おおっ?」
佐藤が眺めた先、田中が落ち込んだ窪《くぼ》みに、フロアの数分の一はあろうかという大きさの箱庭があった。一目で見渡せないほど、疎《まば》らな主柱の間をギリギリに占めて広がっている。
「……これ、御《み》崎《さき》市だよな?」
この、群青《ぐんじょう》の光に照らされた広大な箱庭は、驚くべき精巧さで御崎市の全域を擬《ぎ》していた。素材こそブロックや模型、玩具の部品だが、それらは全体像の再現技術の高さを際立たせる模様でしかない。
「ああ、すごく細かいぞ。街灯も信号も、爆破された路地裏まで作ってある……一体誰が?」
田《た》中《なか》は起き上がらずに、低い視点からこの大パノラマを観察する。
今、自分が視線を向けた場所が、市外に出る大通りの端《はし》だと一目で分かる。大きさや材料という違いはありながら、既《き》視《し》感《かん》さえ覚えた。
その田中の上に影が落ちる。
「ん? ……ぅわお」
目線を上げると、宙に浮いたグリモア≠ノマージョリーが腰掛けて、箱庭を見下ろしていた。順応性の高い二人は、もうこの程度[#「この程度」に傍点]のことには驚かなかくなっている。今、それを下から見上げている田中には、スーツドレスの奥に覗《のぞ》く魅《み》惑《わく》の脚線を観察する余裕さえあった。ぅわお、の声は、マージョリーが浮いている不思議への驚愕《きょうがく》ではなく、脚線美への感嘆である。
「あっ、おいこら田中! おまえなに見てんうわたたた!」
「ふっふっふ、お手柄のご褒《ほう》美《び》というやつだ」
ゴロゴロ転がって落ちる佐《さ》藤《とう》や、ほくそ笑む田中を無視して、マージョリーは箱庭の中央にグリモア≠移動させる。
東の市街地と西の住宅地を割って流れる真《ま》南《な》川と、大鉄橋・御《み》崎《さき》大橋《おおはし》。その袂《たもと》に建っているのは、今自分たちがいる旧|依《よ》田《だ》デパート。まさに御崎市の中心。
市街地のビル群の中でも頭一つ高い、その頂に、マージョジーは爪先《つまさき》を立てて舞い降りた。模型は、雑多な部品をツギハギした見かけからは考えられないほどの強度で彼女を支える。
その彼女の足の下に、なにかがある。
それは箱庭全体に葉脈のように張り巡《めぐ》らされた、力の源。
マージョリーはそれを、こんな箱庭を作ることのできる紅《ぐ》世《ぜ》≠フ宝《ほう》具《ぐ》を知っていた。
「これ、『玻《は》璃《り》壇《だん》』だわ」
その傍《かたわ》らに浮いたままのグリモア≠ゥら、マルコシアスがうめき声を漏《も》らす。
「ああ……たしか、こいつを最後にかっさらったのは……」
周囲を取り囲む、無数の玩具《おもちゃ》の山。
間違いない。あれ[#「あれ」に傍点]は、そういう奴[#「そういう奴」に傍点]だった。
近代以降では五《ご》指《し》に入るだろう、極め付けに厄介《やっかい》な紅世の王=B
歪《ゆが》んだ物欲と愛情で心を満たす、宝具のコレクターにして、狡猾《こうかつ》なるフレイムヘイズ殺し。
「――狩《かり》人《うど》=I 狩人<tリアグネ!!」
マルコシアスが咆《ほ》えた。
「ッヒャ、ハハ、ハーッ! この街、あのフェチ野《や》郎《ろう》の巣だったんだな!?」
その咆哮《ほうこう》に答えるように、マージョリーの髪やスーツドレスの端々《はしばし》を、群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》がチラチラと飾り始める。浮くグリモア≠ゥら漏《も》れ出ていた炎《ほのお》が内に吸い込まれ、勢いよく噴《ふ》き出し、また吸い込まれ、また噴き出す。まるで猛獣の吐《と》息《いき》のようだった。
その群青《ぐんじょう》の明滅を、しかしマージョリーは叩《たた》いて打ち切らせた。
「バカマルコ、興奮してんじゃないわよ」
「なんだ、なんだ、蝿《はえ》追ってて鹿見つけたようなもんだぜ? 久々の王=I 歯応えのある敵! もっと喜べよ、我がぶっちぎりの牙《きば》、マージョリー・ドー!?」
「あの壊《こわ》れたビルを忘れたの? 狩《かり》人《うど》≠ヘ、この街で戦ったのよ?」
「だからなんだよ?」
狂騒《きょうそう》に猛《たけ》るマルコシアスは気付かない。
マージョリーは興奮に揺《ゆ》れるグリモア≠鷲掴《わしづか》みにして、無理矢理小脇に抱え込んだ。
「分かんないの? あの変態コレクターが勝って生きてたら、こんなとびっきりの宝《ほう》具《ぐ》のある場所まですんなり通してくれるわけないでしょーが」
挟まれて暴れていたグリモア≠ェ、ぴたりと止まる。
「ん? そういや、たしかに……しかし、まさか討滅《とうめつ》されたってのか? あのフレイムヘイズ殺しが? 宝具使いの燐《りん》子《ね》=w可愛《かわい》いマリアンヌ』だってついてるはずだぜ?」
「でも今のところ、それ以外に考えられないでしょ。だとすると、さっきあんたが感じた気配は、奴《やつ》を討滅したフレイムヘイズってことになるわね」
「ケーッ、なんでえ、同業者かよ、つまんねえ」
マルコシアスの消沈《しょうちん》ぶりを表すかのように、マージョリーを取り巻いて吹き散っていた群青の火の粉《こ》が収まった。
「とりあえずは、最初の予定通りにラミーのクソ野《や》郎《ろう》を殺《や》ることにしましょ。この『玻《は》璃《り》壇《だん》』を見つけただけでも、調査した甲《か》斐《い》があったってもんよ。おかげで、奴を見つけてブチ殺すのも、かなり楽になるわ」
佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》が大通りを歩いて、彼女の足下にやってきた。
「このミニチュア、そんなに凄《すご》い道具なんですか?」
「まあ、たしかに精巧だけどな」
マージョリーは顎《あご》に手をやって、少し考える。やがて、出来の悪い生徒に補習を受けさせる教師のような、相手の無知を救ってやる、という顔になって、
「……ふん、そうね、今使ってみるのもいいか。マルコシアス、できるわね」
「ああ、こいつ動かす程度なら、他から存在の力≠持ってこなくても軽いぜ。ご両人、テキトーなトコに登れや」
マルコシアスに言われ、二人はそれぞれ近くのビルの上に登る。
その様子を確かめると、マージョリーは足下、旧|依《よ》田《だ》デパートビルの模型をパンプスで強く、ガン、と踏みつけた。
その中に秘められた宝具『玻璃壇』が力の供給を受け、静かな脈動を開始する。
御《み》崎《さき》アトリウム・アーチは、御崎市駅のすぐ裏手にある。
この、ごく最近|竣工《しゅんこう》したばかりの高層ビルは、その名のとおり、内部に全層吹き抜けの|半《ア》屋《ト》外《リ》空《ウ》間《ム》を大きく開けている。そして、この吹き抜けの上層部に、同じく名にあるとおりのアーチ(建築用語的にはブリッジだが)、つまり渡り廊下が四本も架《か》けてあった。
この四本のアーチこそが『御崎アトリウム・アーチ美術館』だった。その構造は、通常の美術館での順路を立体的にしたようなもので、展示場を兼ねたアーチを下から上へと練り歩いて
ゆく。この順路の終着点、つまり登りきった最上階には、レストランや喫茶店などがあり、客の財布の紐《ひも》を疲労と景観で緩《ゆる》めるという仕組みである。
その入り口である一番下のアーチ、美術館で言うところの第一層の端《はし》に、坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》と吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》の姿があった。
アーチの入り口には、かえって安っぽくなるだけという装飾の類《たぐい》もなく、『御崎アトリウム・アーチ美術館|主宰《しゅさい》 ガラス美術工芸展』と書かれた簡素な看板と係員のカウンタだけがある。
二人とも鞄《かばん》さえ持った学生服のままだが、大人《おとな》という、主に他人の品行を気にする生き物は、若者がこういう場所に来ているというだけで全《すべ》てを許す。まだ日が高いということもあってか、係員も特になにを注意するでもなく、二人は簡単に入館することができた。見たところ、混み合っている様子もない。
人込みが好きではない悠二はほっとした。アーチに入り、そして入った者の大半がそうするように、この美術館の構造に感嘆の声を漏《も》らす。
「……へえ、綺《き》麗《れい》だな」
階下への採光効率ギリギリの太さを持つアーチは、上半分がガラス張りだった。一階おき、四十五度ずつずらして架《か》けられた上三層のアーチと、さらにその上に張られた強化ガラスの大天蓋《だいてんがい》が一目で見渡せる。立体に交叉するアーチの構造美と、降り注ぐ陽光の開放感、それぞれが違和感なく空間の中に共存していた。
それを本当に見ているのかどうか、傍《かたわ》らを歩く吉田一美が、
「そ、そうです、きれいです」
と、妙な言葉|遣《づか》いで答えた。
そんなガチガチに固まっている少女の様子に、悠二は思わず、くすりと笑う。
(なんで僕なんかと一緒で、そこまで緊張するのかな)
と微笑《ほほえ》ましく思う間もわずか、平静への揺《ゆ》り戻しがくる。
(こんな僕なんかと一緒で)
本物の坂井悠二の残り滓《かす》。たまたまミステス≠ニして、その内に永久機関『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』を宿したために存在の消耗《しょうもう》から免れ、日々を過ごすことを許されている身。
今さら、そのことを思い煩《わずら》ったりはしない。そういうものと受け入れて、今を生きている[#「生きている」に傍点]。ただ時折、今のように不意に平静な気持ちになってしまう、そのことが忌々《いまいま》しかった。
(これだって、僕にとっては初デートなんだ、もう少しドキドキとかワクワクとか、してもよさそうなものなのに)
悠《ゆう》二《じ》は十五|歳《さい》の少年として、もっと出《で》鱈《たら》目《め》に、もっと思い切り、感じたかった。
そのことへの悔しさや怒りが、一つの姿を無理矢理に心から押し出した。あるいは、奥に隠した。本来、彼が望むように、ほとんど限界までを感じさせていたはずの、その姿を。
(……楽しもう、そうさ、楽しんでやる)
デートが楽しいのではない、デートを楽しもうと決める、そんな自覚のない不自然な弾みをつけて、悠二は控えめな印象の、しかし十分以上に可愛《かわい》い少女を促《うなが》す。
「いこうか、吉《よし》田《だ》さん」
「はい、い、いこうです」
二人の前に伸びるアーチには、ガラス工芸品の置かれた展示台が、鑑賞者同士が邪魔にならない適度な間隔で配置されている。色も形も様々なガラスたちが、アトリウムの自然な光の中
で輝いていた。この美術館の特徴を生かした展示物の選択といえる。
第一層に並べられているのは主にオブジェの類《たぐい》で、透き通った円柱、逆に乳白色をした裸婦像、絡《から》み合う蔦《つた》を模した緑のレリーフなど、ガラスのイメージに収まらない様々な色と形の林立である。
ところが悠二には――平均的な高校生としては当然だが――こういう芸術分野の知識が全くない。目の前の工芸品に込められた技術の精粋《せいすい》、その機《き》微《び》を、あるいは感じていたとしても、うまく表現などできなかった。
指先を床に付けて踊る手首を見ても、
「綺《き》麗《れい》だな」
中に泡《あわ》を躍《おど》らせる立方体を見ても、
「綺麗だな」
芸がないとはまさにこのことだった。
いざ楽しもうと意気込んでも、こんな場所でなにをどうしたらよいのかが、さっぱり分からないのである。気持ちだけが空回りして、結局なにもできない。
もっとも一緒に見ている吉田の方も、過度の緊張からまともに口が動かず、
「そうですね」
としか答えられないのだから、どっちもどっちではあった。
そんな会話とも言えない会話でお茶を濁《にご》しながら、二人はアーチをゆっくりと歩いてゆく。
佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》は、もう今日何度目になるのか分からない不思議の光景に圧倒されていた。
「うわあ……」
「すげえ」
闇《やみ》に浮かび上がる箱庭に無数の、半透明の小さな人影が動いていた。
御《み》崎《さき》市のミニチュアを形作る『玻《は》璃《り》壇《だん》』は、その内に動く人間を映し出す宝《ほう》具《ぐ》だったのだ。
蠢《うごめ》く人影はみな簡略化された同じ形のもので、道具の類《たぐい》も表示されないようだが、代わりに取る動きそのものは非常にリアルだった。
「なんつーか、トイレの記号が動いてるみてえだな」
「馬鹿、レディの前だぞ。せめて非常口の、とか言えよ」
田《た》中《なか》の緊張感のないボケと佐《さ》藤《とう》のとんちきなツッコミに、マージョリーは思わずこめかみを指先で押さえてため息をついた。マルコシアスは常の如く愉快気に笑う。
ともかく彼女らの眼下では、トイレのであれ非常口のであれ、単純な形の人影の群れが、それぞれの日常の姿を箱庭に表している。
歩道を行く者、建物に入る者、出てくる者、駅から駆《か》け足する者、手を繋《つな》ぐ者、荷物を積み下ろす者、道路の上、座った格好で流れているのは車、かたまって立っているのはバスに乗る者を表しているらしい。目を凝《こ》らせば、建物の中まで透《す》かして見ることができた。
この無数の影を彷徨《さまよ》わせるミニチュアの中央、内に『玻璃壇』を秘める依《よ》田《だ》デパートの頂に立つマージョリーが、まさに異界の女王のようにスーツドレスの身をそびえさせて言う。
「かなり昔、支配って行為に興味を持った祭礼《さいれい》の蛇《へび》≠チていう紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェいたの。そいつが自分の作った都『大縛《だいばく》鎖《さ》』を見張るため作ったのが、これ」
「天|裂《さ》き地|呑《の》むってえ化け物だったんだが、都作った途《と》端《たん》、フレイムヘイズに袋|叩《だた》きにされちまって一発昇天よ、ヒヒッ!」
その脇に抱えられたマルコシアスが笑う。
「そのあと、こいつはいろんな奴《やつ》の手を渡り歩いて、最後にそれを奪いやがったのが」
「狩《かり》人《うど》<tリ……なんたらって奴ですか」
「でも姐《あね》さん、そいつはこの街でなにを見張ってたんです?」
首を捻《ひね》る佐藤と田中に、マージョリーは一言で答える。
「たぶん、これ」
群青《ぐんじょう》の光跡《こうせき》を残し、手を横一線に振る。その光が消えると同時に、眼下の光景が一変した。
ミニチュア上の人影が全《すべ》て消え、代わりに疎《まば》らな……それでもかなり多くはある灯火が残った。それは幻想的というにはあまりに不気味で悪夢めいた光景だった。
「やっぱり多いわね。こんなにたくさん……これでなんか変なこと企《たくら》んでて、それを嗅《か》ぎ付けたフレイムヘイズに殺《や》られた、ってとこかしら」
佐藤と田中には、この灯火がなにを意味するのか分からない。ただ、その頼りなげに蠢《うごめ》く光の色には、とてつもなく不吉なものを感じた
「なんか、気持ち悪……」
「姐《あね》さん、これは?」
マージョリーは全く平然と、日常を破壊する答えを口にする。
「説明したでしょう、トーチよ」
「! く、喰われた人……」
「こ、こんなに……っ!?」
呆然《ぼうぜん》とした二人は次の瞬間、我に返って自分を、互いを見た。分からない。自分たちは、そのトーチとかいうものを……自分たちがそれ[#「それ」に傍点]であるかどうかを、判別することができないのだ。焦《あせ》りと恐れで目の前が真っ暗になる。
そんな切《せっ》羽《ぱ》詰《つま》った二人の様子を、マージョリーは嘲笑《あざわら》う。
「馬鹿。あんたたちは違うわよ。もしトーチだったりしたら、最初から声なんかかけやしない。でも、これだけ喰われまくってるから、あんたたちの家族や知り合いにはいるかもね」
二人はギョッとなった。自分たちの周りを異常な世界が侵食してゆく……その、得も言われぬ悪《お》寒《かん》が総身《そうしん》を走り抜ける。
「そうね、目立たなくて大人《おとな》しい、いてもいなくても同じような奴《やつ》とか」
自分の知人に、既に喰われた者がいるかもしれない。今まさに、いなくなろうとしている者がいるかもしれない。悲しめないままに別れ、忘れてしまった者がいたかもしれない。
佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》と田《た》中《なか》栄《えい》太《た》は、自分たちがそんな恐ろしい場所に足を踏み入れてしまったことを……いや、世界はもとから恐ろしい場所であり、今それをようやく実感しただけだということを知った。
それは、良いも悪いも関係のない、
ただの、『本当のこと』。
坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、楽しんでくれているだろうか。
吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》は、それが心配だった。
平《ひら》井《い》ゆかりとのケンカに付け込むようにデートに誘ってしまった。例えそれが池《いけ》速人《はやと》の助力による結果だとしても、事実としてはそういうことになっている。そんな自分と一緒で、彼は楽しんでくれているだろうか。
デートの楽しさは一緒に行く相手次第、という池速人の言葉は(いつもどおり)正しいと思う。今、自分は楽しい。実はかなり背伸びした、分かりもしない美術展などに来ているのに、一緒にいて、一緒に歩いて、一緒に見る、そうすることが楽しかった。
理由も理屈もない。
坂井悠二という少年と一緒に、という全《すべ》てが、胸が痛くなるほどに楽しいのだ。
だから、なおさら彼が、自分と一緒にいることを楽しんでくれているかどうかが気にかかった。自分だけこんなに楽しいというのは、ずるい気がした。
見たところでは、特に機嫌が悪いわけでもなさそうなのだけれど。
ときどき、笑ってくれる。展示物を見ては、綺《き》麗《れい》だな、と言ってくれる。なにか特別なことをしてくれるわけでもないし、どれに対しても全く同じ感想しか言ってくれないけれど、自分の方も似たようなものだから、偉そうなことは言えない。
今、その自分たちが歩いているのは美術館の第二層、古ガラス工芸の展示場で、下と比べてかなり厳重な展示ケースの中に、陶器と区別のつかないくすんだ茶色の壷《つぼ》や、接《つ》ぎの入った飴細工《あめざいく》のような皿などが置かれている。
現代の均質な製品と違って、あるものは露骨に、あるものは微《び》妙《みょう》に歪《ゆが》んでいるけれど、それがかえって一つ一つに独特の愛嬌《あいきょう》を与えているような気がする。人の手の触れたことの名残を感じる、とでもいうのだろうか。
ふと思う。今、そうやって感じていることを軽く、
「この土色の濁《にご》ったところ、発掘されたときにこびりついたんでしょうか」
とか、
「持つところがトゲトゲのグラスなんておかしいですね」
とか口にできれば少しは会話も弾んで、彼の気持ち、その欠片《かけら》でも知ることができるのではないか、と。
けれど悔しいことに、自分の鈍い体は心についてこない。坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》と一緒にいる、他《ほか》でもないその楽しさに硬直しきってしまっている。何度もデートして一緒にいることに慣れれば、少しはリラックスして、自然な会話なんかもできるようになるのだろうか。
そんな、考えるだけで逆に体が硬くなるようなことを、それでも目指そうと思う。
そもそも自分が彼にどう思われているのか。彼のタイプは強くて勝ち気な子(小さな、は入らないと思う……たぶん)なのではないか。あの平《ひら》井《い》ゆかりと対決なんかできるのか。前途が多難だということは、簡単に分かる。
それでも、目指そうと思う。
精一杯、そうなれるよう頑張ろうと思う。
……でも、今の段階では、本当にどうしようもないことに、
「綺麗だな」
「そうですね」
の会話が精一杯なのだった。
もちろん、それだけでも楽しくはあるのだけれど。
吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》が微笑《ほほえ》んでいる。
悠《ゆう》二《じ》はそのことに、安堵《あんど》に似た喜びを感じていた。
美術館の第三層、現代工芸の展示場(と案内用のプレートに書いてあった)を静かに、しかし少し足を弾ませて歩いている。
第二層の、まるで博物館のようだった厳重さとは違う、かなりオープンな展示スペースに置かれたガラス工芸品を見ては目を輝かせている。
冷水のような透徹《とうてつ》さを持つグラスの色合いにため息をつき、明確な意思と巧みさに満ちたレース文様を載《の》せる壷《つぼ》の技術に驚く……そんな感情の起伏が、控えめな仕《し》草《ぐさ》の端々《はしばし》に覗いている。そして時折、柔らかで優しげな笑顔をこっちに傾ける程度に向けて、またすぐに、それがいけないことだったかのように急いで逸《そ》らす。
そんな彼女の様子を見ていると、なんだかこっちまで恥ずかしくなってくる。
(本当、違うもんだな)
彼女に答えるように、力の抜けた笑みが自然とこぼれる。
自分に好意を抱いてくれているらしい、可愛《かわい》い少女。
その控えめな、しかし確かな好意の表れに、むずかゆいような嬉《うれ》しさを感じる。その嬉しさのお返しとして、なにか気の利いたことでも言って彼女に喜んでもらえればいいのだが、残念ながら、その手のことは全く苦手だった。
(お互い、実用本位ってことか)
今度は苦笑が漏《も》れる。
自分にできるのは、綺《き》麗《れい》だと分かってはいても、それ以上のことはさっぱりという美術だか工芸だかのガラスを前に、馬鹿の一つ覚えみたいな感想を繋《つな》いでいくだけ。
とはいえ、こういう所に来る機会は滅多にないので、純粋な興味はあるし、誘ってくれたことに感謝もしている。悪いデートじゃない、と素直に思う。
見たことのないものを見るのは楽しい。
それが綺麗なものなら、可愛い女の子と一緒なら、なおさらだ。
(絶対に、見に来ないだろうし)
再び、苦笑。
ふと見れば、吉田一美が、もう何度目だろうか、自分になにか言おうとして挫《ざ》折《せつ》している。
なにを話したいのだろう。目の前にあるガラスのことだろうか。それとも、このデート自体のことだろうか。彼女自身のことだったり、自分のことだったりしたら、どんな風に答えればいいんだろうか。実際にはなにも言われていないのに、なんだか困ってしまう。
せめて、自分も楽しんでいることを分かってもらいたいのだが。
(こんなこと、あの子が相手なら絶対に考えないよな、はは…………っ)
心から笑いかけるその気持ちと、
目の前の蒼《あお》い大杯《たいはい》越しに見つけたそれ[#「それ」に傍点]、
二つが重なって唐突に、
(!?)
愕然《がくぜん》となった。
夢が覚めるように、楽しさが霧《む》散《さん》する。
(あの子[#「あの子」に傍点]だって?)
とんでもない違和感が襲ってきた。
さっきから、自分はなにを考えているんだろうか。
(いったい、誰と違うっていうんだ?)
もちろん、シャナと。
(お互いって、誰とのことを言ってるんだ?)
もちろん、シャナとのこと。
(見に来ないって、誰が?)
もちろん、シャナが。
(あの子[#「あの子」に傍点]?)
考えるまでもない。当たり前に、その姿は心にあった。
シャナ。
自分が見つけたそれ[#「それ」に傍点]。
目には見えない灯《あかり》を胸の奥に点《とも》した、人として暮らし消えてゆく代替《だいたい》物……トーチ。
それ[#「それ」に傍点]が棲《す》む、外《はず》れた世界に立つ少女……シャナ。
シャナ、
シャナ、
シャナ、
自分はシャナのことばかりを。
ずっと想っていたのか。
その姿を、追い出して、隠して、見ないようにしていた。そのはずだった。
なのに、ずっと想っていた。
なぜ。
あんな気の抜けた鍛錬《たんれん》に付き合わせてしまった、あんな言葉を口にしてしまった、あんな黙殺するような態度を取ってしまった……それら負い目のような、マイナスの気持ちからか。
それとも[#「それとも」に傍点]。
(……ならなぜ、あんな言葉を吐《は》いたりしたんだ……あんな言葉を吐かせた僕の胸の奥は、どうなってるんだ、あのときの力は、いったいどこに行ってしまったんだ……)
彼女は、馬鹿な自分を見限ってしまったろうか。
恐い。
彼女は、馬鹿な自分を見捨てて、どこかに去ってしまうかもしれない。
恐い。
(なら、追いかければよかったんだ、一緒に行けばよかったんだ……以前の僕なら、間違いなくそうしていたはずなのに……なぜ!?)
そんな、暗く沈む悠《ゆう》二《じ》の目を、蒼《あお》く透《す》き通った大杯《たいはい》に反射した陽光《ようこう》が鋭く刺した。
(……今の、ぐちゃぐちゃに濁《にご》った僕と正反対だな……)
目の前、人の背《せ》丈《たけ》ほどもある大杯に映りこんだ今度の笑いは、苦い自嘲《じちょう》だった。
その蒼の彼方《かなた》に、図らずも自分をうちのめしたものがいる。
今にも消えそうなほどに弱々しく揺《ゆ》らぐ灯《あかり》。
老人の団体客の一人。緩《ゆる》やかに目尻の下がった、温和そうな老婦人のトーチ。
実は、見つけた、という表現は正しくなかった。ずっと見て、感じていた。ただ、もうそれがいる光景に慣れ切ってしまって、なんとも思わなくなっていたのだ。
その、静かに微笑《ほほえ》む老婦人の、乗り越え、積み重ねてきた数十年の歳月を感じさせるたたずまい。しかし彼女は、もうすぐその全《すべ》てを存在ごと失ってしまう。破滅というも生ぬるい終局。
それを想像し考えていても、鈍い痛み、重い悲しみ、全ては遠かった。感じてはいるか、それで動じたりすることはなくなっていた。
今やこの、トーチのある外《はず》れた世界こそが、自分にとっての日常になっていたのだ。
シャナの、フレイムヘイズの、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フいる、この世界こそが。
(――――?)
と、不意な違和感があった。
さっきまでいた老婦人のトーチの姿が、団体客の中にない。
いや、掻《か》き消えた。唐突に。
燃え尽きて存在を失うには、まだ早すぎるはずだった。
(……どういうことだ?)
老人たちがゆるりとした歩調で出てゆく、第三層アーチの出口。
第四層に上るエスカレーター。
その傍《かたわ》らの休憩所に、
(!!)
座っている。
細身の、クラシックなスーツを着た老人が。
その姿を取っている紅世の徒≠ェ。
俄《にわ》かに緊迫の度合いを深めた箱庭の中、佐《さ》藤《とう》が重い口を開く。
「……これを見張ってれば、屍拾《しかばねひろ》い<宴~ーがどこにいるか分かるんですね」
群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》を吐《と》息《いき》のように吹いて、マルコシアスが答える。
「大体はそうなんだがよ……見つけなきゃなんねえのは、そこそこに弱いトーチが突然消える決定的瞬間ってやつだ。それをこのデカい模型と、こんだけあるトーチの中から見つけるなんてな、聖書の誤字を探すようなもんだ。とりあえず、自在法で範囲を絞りこまねえとな。あいつ、すぐ居場所を変えやがるし」
「じざいほー?」
「存在の力≠繰って使う、『好き勝手に起こす不思議』だよ」
「魔法、みたいな?」
「ま、そんなもんだ」
街をうろついているという人喰いへの恐れを声にこめて、田《た》中《なか》も訊《き》く。
「それで姐《あね》さん、そのラミーって、どんな奴なんです?」
マージョリーは獲《え》物《もの》への不快感を、鼻を鳴らすことで示す。
「ふん、気色《きしょく》の悪い、なに考えてんだか分かんない奴よ。他の徒《ともがら》≠ェ作ったトーチを拾い集めて、こそこそと存在の力≠溜め込んでる。自分自身もトーチの中に寄生させて、最低限の存在の力≠オか使わない。おかげで気配が薄いったら!」
どういうつもりか知らないが、さっきのトーチはこいつがなにかしたために消えたに違いなかった。シャナたちが感じた気配の正体は、こいつなのか。しかし、
(な、なぜ、気付かなかったんだ!?)
こんなに、それこそ実際に目に入れるまで紅《ぐ》世《ぜ》の徒≠フ存在を察知できないとは思いもしなかった。油断していたのだろうか。フリアグネとの戦いのときには、その世界の違和感が近付いてくる感触を、あれほど確かに感じたのに。
シャナに訊《き》けば、この理由が分かったかもしれない。
アラストールに訊けば、こいつがどんな徒≠ゥ分かったかもしれない。
でも、今はなにも分からない。なにもできない。
悠《ゆう》二《じ》は胸の中で苦く、自分の弱さを噛《か》み締めた。彼はミステス≠ニいう、宝《ほう》具《ぐ》を内に秘めた特別なトーチだったが、その宝具『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』は、戦いには全く向いていないのだ。
(これでいったい何度目だ? 悔しい……なんてちっぽけなんだ!)
「……坂《さか》井《い》君?」
吉《よし》田《だ》が、急に立ち止まった悠二を怪《け》訝《げん》な顔で見る。
「……」
悠《ゆう》二《じ》には、それに答えられるだけの余裕がない。
そんな怒りと焦《あせ》りに揺《ゆ》れる悠二の視界の中、いつの間にか徒《ともがら》≠ヘ立ち上がっていた。
クラシックなスーツをまとった、棒のような痩身《そうしん》。手にはステッキがある。硬く尖《とが》った容貌《ようぼう》、伸びた背筋と合わせて、その全体には老紳士という形容がぴったりくる気品が感じられる。
が、その姿も今の悠二には、猛獣《もうじゅう》を裏に隠す立て看板としか映らない。
(ここで存在の力≠喰われて……終わるのか)
自分という存在の消滅。
シャナのおかげでしばらくは考えもしなかった可能性。底冷えするような恐怖が、ジワジワと全身に染《し》みこんでくる。しかし悠二はそれさえも押しのけて、必死に打開の道を探す。今消えるとしたら、自分というトーチ一つでは済まないからだ。
(せめて吉《よし》田《だ》さんだけでも逃がさないと……!)
吉田を手で押して自分の背中に隠し、そのついでに素早く周囲に人がいないか見回す。誰にとって幸いなのか、今このアーチ内には自分たちしかいない。
その巡らせた目が偶然徒≠フそれと合った。
緊張の糸に命を乗せた、壮絶なにらみ合い……と悠二は思っていたが、傍《はた》目《め》には、悠二が涼しい顔をした老紳士を睨《にら》みつけているだけである。
吉田はわけが分からず、おろおろと悠二と老紳士を交互に見る。
そのにらみ合いの均衡を破ったのは老紳士の方だった。
「ほう……分かるのか[#「分かるのか」に傍点]。只者《ただもの》ではないな」
外見を裏切らない、聞く者に歳月の安心をもたらす、渋《しぶ》く枯れた声。
もちろん悠《ゆう》二《じ》には、この声も威圧としか受け取れない。紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ェ芝居がかった挙《きょ》措《そ》を好むことは、フリアグネのときに散々思い知らされている。徒≠ノは自分がトーチだというのは一目瞭然《いちもくりょうぜん》、ミステス≠ナあることさえばれてしまうかもしれない。あの、自分の中の宝を狙《ねら》った狩《かり》人《うど》≠フ、妄執《もうしゅう》そのもののような視線を思い出して、おぞ気が走る。
ところがこの老紳士は、くい、と顎《あご》を上げて、全く予想外のことを言った。
「安心しろ」
尖《とが》った容貌《ようぼう》が、笑みの方向に折り曲がる。
「まだ君の灯《あかり》は強いから、摘《つ》んだりはしない。世界のバランスが崩れてしまう」
「……?」
まるでフレイムヘイズのようなことを言う。
訝《いぶか》る悠二に、老紳士はさらに予想外のことを言った。
「それより、一緒に歩かないか」
「さてと……マルコシアス!」
「おっ、と」
マージョリーが再びグリモア≠宙に浮かべ、その上に腰を下ろした。
「姐《あね》さん、どこへ?」
田《た》中《なか》が驚いて訊《き》く。
「さっき、マルコシアスが言ったでしょ。自在法でラミーのクソ野《や》郎《ろう》を探すのよ。トーチを使うのも、屋上でないといろいろ都合悪いし」
「トーチを、使う?」
「そーよ」
いちいち説明することに苛々《いらいら》しながら、それでもマージョリーは答える。きちんと理解させないと、こっちの話が通じないこともあるからだ。
「この宝《ほう》具《ぐ》一個程度ならともかく」
と顎《あご》で『玻《は》璃《り》壇《だん》』の込められたビルを指す。
「大掛かりな自在法を、私自身が持ってる存在の力≠ナ行うのは疲れるの。他人の力を喰って消費し続ける徒≠ニ違って、私たちフレイムヘイズにとってのそれは、生命力そのものなの。疲れというよりは怪《け》我《が》に似た感じ。一応回復はするけど、無《む》闇《やみ》に使うと、いざ敵が現れたときに殺《や》られるしかない。だから、できるだけ自《じ》前《まえ》の力は使わないようにする」
ミニチュアに蠢《うごめ》く灯火を見下ろす。
「で、こういうときは周囲にある存在の力≠フ残り滓《かす》であるトーチを使うことにしてるの。この街、馬鹿みたいにたくさんトーチがあるから、ある意味助かるわ」
「でも、そのトーチって……」
佐《さ》藤《とう》が恐る恐る訊《き》く。
「俺《おれ》たちにはどれだか区別できないけど、普通に生きてる……人間なんですよね?」
「その残り滓。本人はとっくに死んでるわよ。ただ、その代わりをしてるだけの道具だって言ったでしょ。いちいち気にしてたら、頭おかしくなるわよ」
「は、はあ……」
佐藤も、黙っている田《た》中《なか》も、トーチというものについては話として聞いただけで、それが実際にどんなものであるかを、その目で見ていない。本人はもう死んでいる、という決定的な言葉に、しようがない、と妥協させられてしまう。
「それに、使うったって、こんだけの中から五、六個。ラミーのクソ野《や》郎《ろう》が持ってく数に比べたら微々たるもんよ」
「……」
本当に言いたいのはそういうことではないはずなのだが、実感を持たない事実は他《ひ》人《と》事《ごと》として収まってしまいそうになる。押しきる相手に対抗できるほどの力にはならなかった。もっとも、例え実感を持っていようと、マージョリーが聞き入れることなどなさそうに思えるが。
「理解できたわね? じゃ、私たちは行くわよ」
「お、俺《おれ》たちは……?」
心細げな様子の佐藤を、マージョリーは言葉ではたく。
「馬鹿。なーにみっともない顔してんの。あんたたちには、ここでやることがあんの。シャキッとなさい」
彼女は手を頭上に差し上げ、その頂で指を鳴らした。
闇《やみ》に鋭く広がる音に乗って、指先から群青《ぐんじょう》の火花が無数に飛び散った。
フロアの闇を、まるで星空のように飾ること数秒、その華《か》麗《れい》さに息を呑《の》む佐藤と田中のちょうど真中でそれは集束し、松明《たいまつ》ほどの大きさの炎となる。
「これを通して、私と話ができるわ。私たちが気配感知の自在法を立ち上げたら、改めて指示を出す。場所の見方とか呼び方は分かってるわね? そのために案内させたんだから、しっかり見てんのよ!」
言い置くと、マージョリーとマルコシアスは飛び去った。
群青の松明と共に箱庭に取り残された二人は、自分たちの足下に広がる外れた世界を眺める。
やがて、佐藤が小声で、割と気にした風に顔を撫《な》でつつ訊《き》く。
「……俺、そんなにカッコ悪い顔してた?」
「さあな」
田《た》中《なか》は苦笑と共に答えた。
明かり取りの窓も塞《ふさ》がれた、デパートの階段。
その闇《やみ》の中、群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》を吐《は》き散らしながら、上へ上へと、マージョリーたちは階段を渦《うず》巻くように登る。その気分も、まさに上昇気流に乗るように高揚し続けている。
群青の炎をバリバリと上げるグリモア≠ゥら、マルコシアスがからかいの声を送る。
「ッヒッヒ! 俺を前にして、よくもまあ、あんな嘘《うそ》つけるもんだ、我が優しき姫君、マージョリー・ドー!」
眼鏡《めがね》の奥に視線を隠し、マージョリーは答える。
「なんの話よ?」
「自在法なんざ、あの部屋でもできるだろうが。ラミーのクソ野《や》郎《ろう》やご同業が噛《か》み付いてきたときに、あのガキンチョどもを巻き込んじまうからだろ?」
「バカマルコ、話が逆よ」
「あん?」
眼鏡の奥から、殺意の眼光が鋭く走る。
「思いっきり暴れるのに、あいつらは邪魔なのよ」
間を一瞬取ってから、マルコシアスは爆笑した。
「ッ、キァーッハハハハハハ! いーぜえ、いーぜえ、最近じゃ一番の殺し文句[#「殺し文句」に傍点]だ、我が愛《いと》しきフレイムヘイズ、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドー!」
「あんがと、我が愛しき蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアス!」
眉《まゆ》根《ね》を寄せつつ笑う、まさに凶暴《きょうぼう》と呼ぶに相応《ふさわ》しい形相《ぎょうそう》のマージョリーは、いつしかグリモア≠フ上に立っている。足の裏を滑《すべ》ることもなく着けて、その真下からの推力に乗り進む姿は、まるで人の形をした矢のようだった。
やがて、その行く先にわずかな灯《あかり》が。
「ノック・ノック!!」
叫び、美《び》麗《れい》の矢は突進の先端に人差し指を突き出す。
瞬間、群青の火の粉《こ》が巻いて、彼女の指を太く強く、鋭い鉤爪《かぎづめ》さえ備えた炎の塊《かたまり》へと変えるその群青の炎でできた爪先《つまさき》が、わずかな灯を階段にあけていた屋上への扉を突き、薄紙のように破った。
二人は真っ二つになった扉を連れて、白昼の空に飛び出す。
「ヒャーッ、ハーッ!! はーじめるぜぇっ!」
マージョリーの足からグリモア≠ェ離れ、マルコシアスの叫ぶ姿のように羊《よう》皮《ひ》紙《し》のページがバラバラと開いた。
「ケーサク、エータ!」
マージョリーの叫びに、階下の松明《たいまつ》を介した答えが返る。
<<は、はい!>>
<<ちゃんと見てます、姐《あね》さん!>>
「よし!」
マージョリーは右手に開いたグリモア≠取り、その紙面の古文字が群青《ぐんじょう》に輝くのに合わせて、手を直下に振る。
ズバッ、と屋上の古びた石畳に、群青の炎でできた奇怪な紋章《もんしょう》が燃え上がった。
存在の力≠繰ることで、この世を意のままに動かす自在法=Bこの紋章《もんしょう》は力の流れの象徴であり、また効果を増幅するための装置でもある自在式≠セった。
その自在式の中央に、マージョリーはストレートポニーとスーツドレスをなびかせて着地、常に即興の、いい加減な呪文《じゅもん》を唱え始める。
「マタイマルコルカヨハネ四方配して寝床の夢を破るお化けをこづかれよ」
その言葉が起こす求めの流れに乗って、自在式が起動した。
紋章の縁《ふち》から、さんさんと照る陽光の元で薄く、群青の波《は》紋《もん》が平面に沿って広がる。その光は遠くなるにつれ薄まり、屋上を越える頃には見えなくなる。しかしそれは確実に、遠く遠くへと広がってゆく。途中にあるトーチを必要な分だけ飲み込み、消し去りながら。
この世の違和感にぶつかり、不協和音を響かせるために。
もう何個目とも知れないメロンパンを噛《か》み千《ち》切《ぎ》っていた口が、初めて声を紡《つむ》ぐ。
「アラストール」
胸元のペンダントコキュートス≠ノかける声だけは、静かだった。
繁華街の人込みに穴を空けて一人歩いていたシャナは、その全身に巨大な自在法の波が通り過ぎる感触を得た。
チリチリと、まるで肌が焼け付くほどに力が漲《みなぎ》ってくる。
使命。
自分の使命に、燃える。
ペンダントからアラストールが答える。
「広範囲を探る自在法か。自在師だな、用心しろ」
「うん、行くわ」
「うむ」
何気なく脇道に逸《そ》れた。
周囲に人の気配がないのを確認するや、食べかけのメロンパンとスーパーの袋、鞄《かばん》を無造作に放り捨てて、跳ぶ。
電柱の頂を蹴《け》り、屋根を越え、自在法の広がりと逆方向、つまりその震源へと向かう。
その跳躍の中、行く先を初めて目に入れたシャナは、
半秒、心臓の凍る思いをした。
(――なんてっ!)
凄《すさ》まじい、まさに燃えるような怒りが、風切る体に黒《こく》衣《い》をまとわせる。
(――ところにっ!)
次の一蹴りの内に、殺伐《さつばつ》の銀に輝く大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』が握《にぎ》られている。
(――いるのよっ!!)
行く先を刺す瞳が灼熱《しゃくねつ》の煌《きらめ》きを点《とも》し、後に流す髪が火の粉《こ》を引きながら炎《ほのお》の彩りを得る。
(――討滅《とうめつ》! 討滅する!!)
シャナは自分の、異常な憤激の意味を自覚していない。
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3 邂逅明暗《かいこうめいあん》
御《み》崎《さき》アトリウム・アーチ美術館、最後のアーチである第四層を、老紳士が先導する。
坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ナあるその老紳士を刺激しないよう、表面上は素直にその求めに従って後に続く。
最初こそ二人の会話を不審に思っていた吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》も、今は老紳士の解説に聞き入っている。
「起源には、諸説あるらしい」
この第四層に展示物は置かれていない。広いアーチの両脇は、一直線の長|椅《い》子《す》がそれぞれ据え付けられているだけである。下の階層では上半分がガラス張りだった壁も、黒い遮光板《しゃこうばん》で覆《おお》われている。
そこを進む三人は、しかし明かりの下にあった。
「定義にもよるが、この形式のものは、十字軍が戦利品としてガラスをヨーロッパに持ち込んで以降、九世紀辺りだそうだ」
明かりは天井《てんじょう》からのものだった。
「綺《き》麗《れい》……」
吉《よし》田《だ》が初めて自分から、息を詰めるような嘆声《たんせい》を漏《も》らした。
「……」
両者の間に入って歩く悠《ゆう》二《じ》はもちろん、この異常な状況を楽しんでなどいない。
この紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ナある老紳士がどういう腹積もりなのか、さっぱり分からなかった。危害を加えないと言われたところで、それを無邪気に信じることなど到底できない。
自分程度がなにをしたところで無《む》駄《だ》なのは分かっているが、せめて吉田を逃がすことはできないか。自分がミステス≠セと気付いて、中身に興味を持っているのかもしれない。もしそうなら、彼女を逃がすだけの取引はできないか。
などと、危機感と焦燥《しょうそう》感に身を焼かれつつ思いを巡《めぐ》らせる悠二だが、それでも吉田の言うとおり、たしかに綺麗なものは綺麗だと思ってもいた。
展示物は置かれていない。
頭上に掲げられていた。
壁と同じく、遮光板《しゃこうばん》で覆われた天井《てんじょう》に開けられた箇所。
そこに、光が咲いていた。
陽光をめくるめく幻想の、しかし創作者の意図を明確に示した彩りに変えるそれは、鉛の桟《さん》で結合されたガラス片の集合体。
ステンドグラスといった。
「そう、綺麗だ。美とは、見れば皆、素直にそう感じるものだ」
第四層は、ステンドグラスのみを天井に掲げた展示場なのだった。
両脇に据えられた長椅《い》子《す》は、それをゆるりと眺めるための物だった。直上という展示様式が負《ふ》荷《か》をかけないよう、ステンドグラスの下には極薄の強化ガラスが敷いてあり、また全《すべ》てを一息に見渡せないよう、一つ一つ区切るように、天井には緩《ゆる》やかな仕切りが施してある。
老紳士は、真上にある聖人画らしいステンドグラスを見上げながら言った。
「だが美とは、美しいがために、それだけではいられなくなる。例えばこれなどは、聖書を読めない者にも一目で『神は貴い』と理解させる、視覚的な舞台装置として使われた」
その聖人が投げかける、透明度の低さからくる濃い光の中、吉田が少し悲しそうな顔をした。
老紳士は、まるでそれが見えていたかのように(見えていたのだろう、と悠二は思う)振り向き、同じ光の中、硬い線を曲げて笑った。
「美しいということには価値があり、価値ある物は利用される。そして、利用の必要性から、技法も表現も発達した。良い悪いは一概には言えない。分かるか、お嬢さん」
「は、はい……」
吉田は声に押されつつも、尊敬の念をこめて小さく答える。
「よろしい」
老紳士は頷《うなず》いて、また先を歩き出した。
天井《てんじょう》の仕切りの向こうに、また一つステンドグラスが現れる。展示の様式上、さほどに大きな物は置けないが、それでも光と影の切り絵は、どれも十分に印象の強いものだった。
「だがまた、その価値と利用と必要性が、それゆえに生み出した美を葬ることもある。これはレプリカだが……」
今頭上にあるステンドグラスには、天使が赤ん坊に手を差し伸べる図版が絵付けされている。
「教会に飾られていたこれのオリジナルは、宗教改革の時期に子供の投石で割られてしまった。旧教の象徴と見なされたからだ。新教徒となった人々は、子供を罰しなかった」
吉《よし》田《だ》は納得した風に頷《うなず》いた。悠《ゆう》二《じ》は、そんな言葉あったな、程度。
「美、それ自体は変わらない。しかし、美を育てたもの、美自体には関係ないものが、美を破壊し、無価値だと断定する……この一枚を取っても、世界の難しさが感じられる」
老紳士は、また歩き出す。
「今の時代は単純でいい。美は美としてのみ、愛することを許されている」
その言葉には、まるで全《すべ》てを昔から見てきたような実感がこもっていた。
そんなことも徒《ともがら》≠ネらあるかもしれないな、と思う悠二に、老紳士は背を向けたまま言う。
「君たち若い者には難しい話かもしれないが。まだ、人を愛するだけで精一杯というところか」
「人……」
その言葉に意表を突かれた悠二は、つい、言葉を漏《も》らした。
思わず立ち止まり、ステンドグラスを見上げていた。
眩《まぶ》しい。
眩しい姿。
見上げる、眩しい姿。
一人の少女、痛みさえ覚えさせられるその姿を、それでも悠二は強く思い描いていた。
そして吉田も、
ほんの少しだけ、自分にとってのそれを、傍《かたわ》らの少年を見た。
「――――!」
見て、直感した。してしまった。
ステンドグラスを見上げる少年は、思い描いている。
自分ではない、誰かを。
強く、強く。
気配探知の自在法は、いきなり巨大な不協和音にぶつかった。
「あん? マルコシアス!」
「でけえ! なんだ!?」
怒《ど》鳴《な》り声の交換の間にも、その不協和音の源である気配が近付いている。
爆発的な敵意を伴って。
「式、戻せ!」
「わあってるわよ!」
バシン、と右手のグリモア≠閉じ、左手を下に払う。
稼《か》動《どう》していた自在式が組み変わり、展開中だった気配察知の波《は》紋《もん》が収縮へと転じる。そのついでと、縮む波紋はいくつかのトーチを飲み込み、戦いのための存在の力≠吸収してゆく。
「これ、この街にいた……」
「フレイムヘイズだな?」
<<え、なんですって?>>
<<姐《あね》さん?>>
「先に、オマケだったフレイムヘイズの方が引っかかっちゃったわ。あんたたち、しばらく待機よ」
「いーねえ、いーねえ、この敵意、ビンビン来るぜ!!」
<<で、でも、フレイムヘイズってことは……>>
<<同士討ちですよ!? >>
「別に珍しいことじゃないわ」
言い合う間に、群青《ぐんじょう》の光の波が平面に沿って戻ってきた。その波が途中で吸収した存在の力≠持って、再び自在式に収まる。
マージョリーは静かに言う。
「封《ふう》絶《ぜつ》」
集められた存在の力≠ノよって、足下の自在式が再び組み変わる。廃ビルの屋上全域を覆《おお》うほどに大きな、円形の紋章《もんしょう》。そこから湧《わ》いた群青の炎《ほのお》が、視界一面を埋《う》めて上へと通り過ぎ、ビル上層部を球状に覆う陽炎《かげろう》の壁が形成される。
その内部を世界の流れから切り離すことで静止させ、また外部から隠蔽《いんぺい》する因《いん》果《が》孤立空間。
編み出された近世以降、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ存在を、人間の目から完全に隠した自在法。
封絶≠フ発現だった。
<<わっ?>>
<<あ、姐さんたちが映って……この変なマークはなんです?>>
マージョリーは封絶のついでに、階下の二人の前に浮かべた松明《たいまつ》を、屋上を映し出す仕掛けに変えた。今、彼らの前には、屋上に立つ彼女と、その床面を占める奇怪な紋章が映し出されているはずだった。
「封絶の自在式。外から中を隠す自在法を起こす紋章よ」
「こいつを張りゃ、いくら暴れても外にいる奴《やつ》はなにも気付かねえ。中で動けるのは徒《ともがら》≠ニフレイムヘイズだけ。要するに、俺《おれ》たちのための決闘場ってことさ、ヒーッハッハー!!」
そしてそこに、決闘の相手が飛び込んできた。
髪に瞳に紅《ぐ》蓮《れん》を点《とも》し、風切る黒《こく》衣《い》を後に引き、鋭い白刃《はくじん》を煌《きらめ》かせて。
さすがの二人が驚いた。
「炎髪《えんぱつ》……!」
マージョリーは伝聞で、
「灼眼《しゃくがん》か!」
マルコシアスは同胞として、それが誰のフレイムヘイズなのかを知っていた。
異世界紅《ぐ》世《ぜ》≠ノ威名|轟《とどろ》かす魔神、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストール。
そのフレイムヘイズ、『炎髪灼眼の討ち手』。
今は、シャナ、と名乗っている。
「おまえたち、ここでなにしてるの」
屋上に降り立ったシャナは、完全にケンカ腰で話を始めた。
大きく右手を、そこに握られた大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』を、前に突き出す。少女の身には不釣合いな、身の丈《たけ》ほどもある刀身が、微《み》塵《じん》の揺《ゆ》るぎもなく前を指している。いや、刺している。
常人ならそれだけで気絶しそうなほどに強烈なシャナの眼光を受けて、しかしマージョリーは、きつい美《び》貌《ぼう》にせせら笑いを浮かべて返した。
「はっ、礼儀知らずなガキンチョね。こんにちは、の一言もなし?」
「ヒッヒヒ、おーひさしぶりだな、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》=Bそれが『炎髪灼眼の討ち手』かい?」
傲然《ごうぜん》と立つ彼女の小脇に下げられたグリモア≠ゥら、マルコシアスが群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》を吹いて挨拶する。
シャナの胸元のペンダントから、アラストールが重く低く答える。
「蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアス、それに『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドー……貴様ら、こんな所まで彷徨《さまよ》い出てきたか」
「ヒャハハッ、そりゃお互い様!」
マルコシアスのキンキン声に、シャナは眉を顰《ひそ》めた。
「アラストール、こいつらなに」
「最悪だ。こいつらに話は通じん。もう戦う気だぞ」
ふん、とマージョリーは小さなフレイムヘイズを嘲笑《あざわら》う。相変わらず眉《まゆ》根《ね》を険しく寄せているため、凶相《きょうそう》としか映らない。出す声も当然、険悪だった。
「それだけ敵意を振り撒《ま》いて来といて、戦わないわけないわよね?」
その笑みを飾るように、ストレートポニーの端《はし》から、スーツドレスの縁《ふち》から、群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》がチロチロと吹き散り始めている。フレイムヘイズの戦闘準備の姿だった。
「あ、そうそう……いちおう、訊《き》かれたことに答えときましょうか。この街に、あの屍拾《しかばねひろ》い<宴~ーが入り込んでるの。私たちが探してたのはそっちで、あんたたちはオマケ」
「そーいうこと、そーいうこと、ここには、あのけったくそ悪いハイエナ野《や》郎《ろう》を噛《か》み千切《ちぎ》りにきたのさ」
群青の火の粉は今や、真昼の吹《ふ》雪《ぶき》のようにマージョリーの長身を囲んで吹き荒れている。
アラストールは無《む》駄《だ》と知りつつ、目の前の戦闘狂たちに言う。
「ラミーだと? 馬鹿な、なぜ奴《やつ》を討滅《とうめつ》する必要がある。奴は世界のバランスに極力気を使う、例外的な徒《ともがら》≠セ。奴を追い回せば、むしろ無駄な犠牲と騒動が増すだけだぞ」
突然、マージョリーの嘲笑《ちょうしょう》が消えた。群青の火の粉の勢いが増す。
「例外!? 紅世の徒≠ノ例外なんかあるもんですか!」
美《び》貌《ぼう》を凶悪《きょうあく》に歪《ゆが》め、マージョリーは咆《ほ》える。
「今はたまたま奴の都合で、他《ほか》の気に障《さわ》らないよう動いてるだけでしょうが。いつ溜め込んだ存在の力≠使って災厄《さいやく》を起こすか、わかったもんじゃないわ!」
どす黒くうねる、それは恐るべき憎悪の声だった。
「徒≠ヘ全《すべ》て殺す、殺す、殺す、殺して殺して殺して殺して殺し尽くすしかないのよ!!」
それとは対照的な、軽佻《けいちょう》浮《ふ》薄《はく》な哄笑《こうしょう》が上がる。
「ハ、ハ! 前もって災厄の種を除く、俺《おれ》たちってば、なーんて模範的なフレイムヘイズ!!」
「他者の憎悪に乗って虚言を弄《ろう》すな、戦闘狂めが!」
「ホ、言うねえ!」
「……」
シャナは話に加わらず、ただ前を向いて大《おお》太《だ》刀《ち》を差し出している。
最初に見たときから、アラストールが言ったように、こいつらは話のわかる相手じゃない、
と確信している。自分を上回る戦意と敵意を初めて感じた。しかもそれは、ほんの一瞬で燃え上がった。
戦闘意欲の塊《かたまり》のような奴らなのだ。
それでもアラストールは説得しようとしている。フレイムヘイズ同士の戦いは、確かに不《ふ》毛《もう》だ。止めたい気持ちも理屈も分かる。が、しかし、シャナはそれを、
(……まどろっこしいな……)
と思っていた。戦いに臨んでは冷静沈着という、普段の彼女にはあり得ないことだった。
つまり今、彼女は常の状態ではなかった。
まるで自分こそが戦いを求める戦闘狂になったように、戦いを欲していた。
自分のこの鬱々《うつうつ》とした感情を、誰かに、なにかに、思い切り、ぶつけたかった。
彼女自身がそうあるべきだと決めたフレイムヘイズ[#「彼女自身がそうあるべきだと決めたフレイムヘイズ」に傍点]として、あるまじきことに。
「あんたたち、あの狩《かり》人《うど》≠焜uチ殺したんでしょう? 御手並み拝見と行こうじゃないの」
「ヒァッハァ! ま、別に逃げたかったら逃げてもいいけどよ? どーだい、嬢ちゃん」
あからさまな挑発だった。
普段のシャナなら、この程度の挑発は軽く流していただろう。
今もやはり、その剣尖《けんせん》は揺《ゆ》るがない。
しかし、一言。
「……アラストール、まだ、戦っちゃだめなの」
「!?」
アラストールが驚愕《きょうがく》した。
得たりと二人の戦闘狂は笑う。
「ふう、ん……話の分かる[#「話の分かる」に傍点]奴《やつ》がいるじゃない」
「ああ、腰抜け大魔神の契約者たぁ思えねえな、ッヒヒ!」
「っ!!」
その、誰に対するよりも許せない侮辱《ぶじょく》を受けたシャナは、弾丸のように飛び出した。
御《み》崎《さき》アトリウム・アーチの最上階にある喫茶店、『アクロポール』。
その窓際の席に、悠《ゆう》二《じ》と吉《よし》田《だ》、そして老紳士が、テーブルの一辺ずつを占めて座っていた。
残り一辺をつけた壁でもある強化ガラス越しに、御崎市駅を挟んで反対側にあるバスターミナルと大通り、そこから続く御崎|大橋《おおはし》や繁華街などが、普段見ない角度からの新鮮な顔を、彼らに向けている。
喫茶店の内装は黒く燻《いぶ》した木材が主で、近代建築の中にいた無意識の疲れを程好くくつろげてくれる。明るすぎない飴《あめ》色の照明やツヤ消しされた調度品も、たっぷり取られたスペースにバランス良く配してあった。物も人も、密度が低くて心地よい。
悠二と吉田だけで入れば、いかにもな背伸びしたカップル然となっていたろうが、幸い(?)今、彼らは老紳士と一緒だった。『背伸びのカップル』と『お爺《じい》さんと孫《まご》二人』、外面としてどちらが格好悪いと思うかは人によるだろうが、とりあえず老紳士の風格がカバーしてくれるおかげで、場違い感だけは和らげられていた。
老紳士は、美術館を出た先にあるこのフロアで、彼らをお茶に誘ったのだった。もちろん、支払いは自分持ちであることを明言している。
それでも吉田は、端《はた》から見ても気の毒なほどに恐縮《きょうしゅく》していた。老紳士の博識と風格に尊敬のまなざしを向けていながら、あるいは向けているからこそ恐縮してしまっているのが、いかにも彼女らしい。
そんな彼女に、老紳士が手を上げて言う。
「そんなに構えないでくれ。久し振りに若い人と話をして良い気分にさせてもらった、これはそのお礼なのだから」
強圧に似たねぎらいが、少女を凝《こ》り固めている無用の遠慮を吹き払ってしまう。
「は、はい……それじゃ、いただきます」
「どうぞおあがり、お嬢さん」
吉田は、置かれたカプチーノのカップに小さく口をつけた。たぶん無理したのだろう。隠しているつもりでも、苦い、という感想が顔に出ている。
その向かいの席、相手が紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ニいうことで半ば開き直っている悠《ゆう》二《じ》の方は、老紳士に許可を求めるでもなく、さっさと自分のカプチーノを飲んだ。虚《むな》しい見栄から吉田に合わせたのだが、これが凄《すさ》まじく濃い。顔に出るのも無理ないな、と吉田に同情する。
(それにしても)
どうしたんだろう、と悠二はその吉田の様子を見て思う。
彼女の顔には、老紳士に対する遠慮や緊張というだけではない、憂いの色があった。沈んでいる、しかしそれを見せないように気を張る、そんな辛《つら》さの色。
悠二がそれに気付いたのは美術館を出てからだったが、その理由がさっぱり分からなかった。
(この徒≠フ話にも、そんな表情をさせるようなところはなかったはずだけど……)
と、その母が言うところの鈍感な少年は、他《ほか》でもない自分がその原因であることに、全く気付いていない。
左右、そんな二人の様子を眺めていた老紳士は不意に、しかし自然な動作で、トン、とテーブルを人差し指で叩《たた》いた。
「失礼、お嬢さん」
「っ!!」
悠二は、その指先に存在の力≠フ放出を感じた。驚愕《きょうがく》と戦慄《せんりつ》から、それまでの呑《のん》気《き》な悩みも忘れ立ち上がろうとするその彼を、老紳士は手を上げて制した。
「落ち着け。彼女には、少し眠《ねむ》ってもらっただけだ」
見れば確かに、吉田は座ったままの姿勢で目を閉じている。見た目、吐《と》息《いき》も穏やかで……なんの危険もなさそうではある。
しかし当然、悠二は緊張を解かない。自分をとうとう始末する気か、と思うだけだった。
「これで、二人の話ができる」
「なんの話だ」
悠二は敬語を使わない。
老紳士も頓着《とんちゃく》しない。
「まず名乗っておこうか、少年。私は屍拾《しかばねひろ》い<宴~ー。君も気付いた通り、紅世の徒≠セ」
「……」
屍拾《しかばねひろ》い≠ネどというおどろおどろしい名前に似合わない、清げな老紳士・ラミーは、警戒を解かない悠《ゆう》二《じ》に苦笑する。
「君は、礼儀をわきまえていないようだな」
「?」
「私が名乗ったんだ、君も名乗ったらどうだ」
これが、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ェトーチに対して取る態度だろうか。悠二は狐《きつね》につままれたような気持ちだった。そういえば……、
「……危害を加えるつもりなら、最初からやってるか……」
ラミーは答えず、頷《うなず》く。
今は、自分が答える番なのだ。
「僕は、坂《さか》井《い》悠二。トーチで……たぶん、気付いてると思うけど、ミステス≠セ」
「だろうな。自分の置かれた状況を自覚して、正気でいられるトーチなどいない。普通に暮らしてもいるようだ。心当たりの宝《ほう》具《ぐ》は幾つかあるが」
悠二は、相手が冷静な内に、と取引を口に出す。
「……僕の中の宝具が目的なら、せめて吉田さんを」
悠二が言う間に、ラミーはチラリと吉田の方を見た。そして、
「可哀相《かわいそう》に」
「!」
(やはり取引などできないのか、ならせめてなにか、どうやって、せめて吉田さんだけでも)
と絶望の中で足《あ》掻《が》く悠二を、またラミーが手で制した。
「坂井悠二。頭の巡《めぐ》りが早いのはいいが、早計《そうけい》という言葉もある。軽率さはかえって状況を不利にするぞ。もう一度言う、落ち着け」
「……?」
「私が可哀相に、と言ったのは、全く彼女自身の問題についての話だ。君は分かっていないだろうが」
たしかに、なんのことを言っているのか、悠二にはさっぱり分からない。
「まあ、それは本題ではない。本題は、君の近くにいるはずのフレイムヘイズについてだ」
「そんなことまで知ってるのか」
「前もって気配を感じているし、当然の推測でもある。君の知る真実は、まずフレイムヘイズからしか得る道がないはずだ。とにかく、そのフレイムヘイズに私が無害な存在だと知らせて欲しい」
「無害? 紅世の徒≠ェ?」
驚いた悠二だが、そんな馬鹿な、と言わせてくれない切実ななにかが、老紳士の求めにはこもっていた。
「私は人を喰わない。真《ま》名《な》の通り、屍《しかばね》……つまりトーチしか喰わないのだ。それも、君が図らずも見たとおり、かなり弱って消えそうなものだけを。この体も普通の徒《ともがら》≠ニ違って、存在の力≠ほとんど消費しないよう、トーチのものを借りている」
「……人には害を及ぼさないから見逃してくれ、っていうのか?」
「そうだ。おそらく君も関係者なのだろうが……この街にはトーチが異常に多い。私としては、滅多《めった》にない稼ぎ場所なのだ」
「なんでそんな、まだるっこしいことをするんだ? 徒≠ネら、他《ほか》の奴《やつ》がやってるみたいに、好き勝手に喰って暴れてうろつけばいいじゃないか」
ラミーは少し黙って、自分の答えを整理する。やがて、
「たくさんの、存在の力≠ェ欲しいからだ」
「?」
逆だろう、と思う悠二にラミーは言葉を継《つ》ぐ。
「私は一つ、莫大《ばくだい》な存在の力≠必要とする事業を遂行中だ。しかし、それを真っ正直に、この世の人を喰らうことで集めようとすれば、祭礼《さいれい》の蛇《へび》≠竍棺《ひつぎ》の織《おり》手《て》≠フように、どれだけ強大な存在であっても、集まってくるフレイムヘイズたちによって討滅《とうめつ》されてしまう」
例えには少し意味不明なところがあったが、それでも悠二は、ラミーの言いたいことが、なんとなく分かってきた。
「弱まったトーチだけを集めることで、世界のバランスに影響を与えないようにしている?」
「そうだ。無害でさえあれば、フレイムヘイズは普通、討滅に乗り出してこない。器が徒≠ヨの復讐《ふくしゅう》を望んでも、それに力を与える王≠ヘ、そこまでして同胞を殺そうとは思わないからだ。君を解体して中の、恐らくはかなりの水準にある宝具を取り出さないのも、君の知り合いのフレイムヘイズを剌激しないためだ。少しは安心できたかね」
「……」
なるほど、たしかに筋は通っている。しかし悠二は、その話の前提に気になる箇所を一つ見つけていた。
「あんたがそこまでして、たくさんの存在の力≠集めている事業ってのは、なんなんだ?」
悠二は、フリアグネの『都喰《みやこく》らい』という前例を体験している。でかい計画だの事業だのの企みには、当然警戒心が湧《わ》く。
ところがそれに、ラミーは意外過ぎる言葉を、一つだけ返した。
「未練、だ」
「?」
「昔、一人の人間が私のために、たった一つの物を作ってくれた。しかしそれは、私が見る前に壊《こわ》れ、永久に失われてしまった」
「……」
悠《ゆう》二《じ》は、さっきのステンドグラスの下での、老紳士の姿を思い出していた。
あのときは背中しか見えなかったが、恐らく今と同じ顔をしていたのだろう。
寂しさと悔恨《かいこん》を刻み、深い切なさに満ちた顔。
「私は、彼が贈ろうとしてくれた物を、この目で見たい。この手で触れたい。確かめたいのだ」
「そんなことが?」
「できる。年月を経て、そのための自在式も編み上げた。ただし、この世で完全に存在を無くした遺失物を復元するのだ。当然、式の起動には莫大《ぼうだい》な存在の力≠ェ必要になる」
「トーチで集めるって……どの程度なんだ、その、普通に喰うのと……比べて」
躊躇《ためら》いがちに訊《き》く悠二に、ラミーは簡単に答えた。
「感覚としては、千分の一、万分の一というところだな」
「千、万……!」
悠二は一瞬、この紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ノ尊敬の念を抱いてしまった。
「だから、この街のようにトーチの多い場所は、私にとっては宝《ほう》具《ぐ》などよりよほど貴重な宝の山だ。この世への影響が出ない程度に、しかしできるだけトーチが欲しい」
「……」
「もっとも、長居するつもりはない。厄介《やっかい》な奴らに追いかけられている身でもある」
「厄介な奴ら?」
「フレイムヘイズだ。とある場所で出くわして以来、しつこく付きまとわれている。普通のフレイムヘイズなら、私のような世界のバランスに影響のない雑《ざ》魚《こ》は放っておくのだが」
アラストールとシャナなら、無害な徒≠放っておくこともありそうな話だ、と悠二は思う。どうやら、この徒≠討滅《とうめつ》せずに済みそうだ、と安《あん》堵《ど》している自分を、悠二は感じていた。しかし、
「そいつらは特別、徒≠討滅することに執着《しゅうちゃく》している戦闘狂なのだ」
と続いたラミーの言葉に、今度は嫌《いや》な予感を覚える。
今朝、シャナが感じたという気配。それはもしかすると、自分も感じることができなかった、このラミーではなく……『厄介な奴ら』? 『戦闘狂』? 『フレイムヘイズ』!?
そしてラミーは言った。
「現に今、君の知り合いと戦っている」
突進するシャナの眼前で、吹き荒れていた群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》が突如、マージョリーに集束した。
「!」
彼女を包みこんだ炎《ほのお》の塊《かたまり》は、耳をピンと立て、目鼻を黒く穿《うが》った、一つの意外な姿を取る。
それは、まるで立てたクッションのように不細工《ぶさいく》な、ずん胴の獣《けもの》だった。
その両脇から突然、熊のように太い両腕が伸びた。本体は棒立ちのまま、鞭《むち》のように伸びたその両腕は、シャナを挟み漬《つぶ》すように両側から迫る。
「ッ!」
気合と舌打ち一声、シャナは足を床に打って右に飛ぶ。大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』が前から迫る獣の左腕を大上段から両断、霧消させ、さらにその振りぬいた勢いで反転、後ろから襲いくる右腕を逆|袈《け》裟《さ》の一撃で吹き飛ばした。
「前だ!」
アラストールが叫ぶ。
両腕を斬《き》っていたわずかな間に、マージョリーを収めた本体の腹が膨《ふく》らんでいた。その上にあるのは、一杯に仰《の》け反《ぞ》る、袋のような咽《の》喉《ど》元。
「よけろ!」
「くっ!?」
シャナは勘《かん》と反射で回避。
「ッバハァッ!」
叫びとも吐《と》息《いき》ともつかない声とともに、群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》が獣の口から溢《あふ》れ出した。
かかとを焼くほどの危うさで、シャナはこの炎の津《つ》波《なみ》をかわした。
煙と水蒸気が炎《ほのお》の波に押されて湧《わ》き上がり、高熱の通過を受けた石|畳《だたみ》がキシキシとうめく。
その黒|焦《こ》げの道の根元に立つ群青《ぐんじょう》の炎でできた獣は、ずん胴の上部、ちょうどマージョリーの頭があるあたりに一線、パカリと口を広げた。まるで鋸《のこぎり》のように鋭い牙《きば》を並べ、全体をUの字に曲げる。笑いの形だった。
牙の隙間からは虚《こ》空《くう》だけが覗《のぞ》き、その内にあるはずのマージョリーの顔は見えない。しかしその奥からは、歴《れっき》としたマージョリーの声が響く。
「ふふん、なかなか……」
マルコシアスが続ける。
「動きは悪かねえな、ヒッヒ」
その二人に、シャナは身を低くして向き直る。
「アラストール、あれは?」
「彼奴《きゃつ》ら蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》′ー現《けんげん》の証《あかし》、炎の衣『トーガ』だ。戦闘に長《た》けた恐るべき自在師だ、幻惑されるな。気を引き締めてかかれ」
半ば暴発のようにケンカを売ってしまったことを咎《とが》めず、アラストールは言う。
うん、とシャナはわずかに頷《うなず》き、大太刀の柄《え》を左の懐《ふところ》深くに押し込んだ。
右肩を前に出し、刀身を腰だめに寝かせて体の横に置く、刺《し》突《とつ》の構え。
対するマージョリーの方は、全くの棒立ち。
そのトーガが形作る獣は、股《また》が地に着くほどの短足で、歩行することさえ疑わしい。いつしか再生されている太い両腕はダラリと下げられ、群青の炎に黒く空《あ》く目鼻も間が広い。三角の両耳だけがピンと立っているので、妙な愛嬌《あいきょう》さえあった。やたら大きな口と合わせて、その全体は、獰猛《どうもう》な獣というより、出来の悪い着ぐるみのようだった。実際、マージョリーが着ているわけではあるが。
「さあて、お次は……」
ノロノロとマージョリーが言い、
「これだぁ!!」
マルコシアスが叫ぶ。
太く長い両腕が振られ、その指先から無数の炎弾《えんだん》を打ち出す。
「――っは!」
シャナは石畳に紅《ぐ》蓮《れん》の波《は》紋《もん》を残し、正面に跳《と》ぶ。
踏み切りと同時に突き出す剣尖《けんせん》が、その刺突の伸びる動きとともに、自分の進路を阻《はば》む炎弾だけを貫き散らしてゆく。その動きの終着点は、炎の弾幕の向こうに棒立ちする、獣の体。
大《おお》太《だ》刀《ち》、一跳び一瞬の一撃が、獣の腹を深々と貫いていた。
「んっ!?」
「オオッ!」
マージョリーの驚愕《きょうがく》とマルコシアスの嘆声の上がる間も惜しむように、
「はあっ!」
どんな法も術《すべ》も干渉できない、必殺の大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』が、剌《し》突《とつ》の穴からトーガを一気に吹き飛ばした。
「!?」
が、吹き飛んだ、その中は空《から》。
「あっははは! ハズレー!」
「つ〜ぎは当たるかな? ッヒャッヒャ!」
シャナは声の上がった後ろを警戒しつつ足を返す。
そして構えた大太刀の先に、思いもよらない光景を見た。
今打ち出された炎弾《えんだん》の数だけ、トーガの獣《けもの》が屋上に立っていた。
その全員が声を重ね、牙《きば》だらけの口で笑う。
「さあさ、鬼さんこちら!」
「イーッヒヒヒヒ!」
一斉に囃《はや》し立て、短い足でぴょんぴょん跳《は》ねる。
ジョークとも悪夢ともつかない眺めの中、それらは突然、高く跳《と》んだ。
シャナは見て取る。目立たない物陰に、一匹だけ跳んでいない獣がいる。
「それか!」
無数の獣が浮遊する下を、再びシャナは疾走する。神速《しんそく》の二歩、三歩の動作に斬撃《ざんげき》が乗り、三秒と経《た》たず横|薙《な》ぎにそれを一刀両断する。
が、
「ハ・ズ・レ!」
二つに千《ち》切《ぎ》れ飛んだ獣が、マージョリーの声で嘲笑《あざわら》い、
「おまけぇ!」
マルコシアスの叫びで爆発した。
「う、ぐっ!!」
シャナは反射的に黒《こく》衣《い》の裾《すそ》を壁のようにかざし、この衝撃《しょうげき》を受け止める。吹き飛ばされ、転んだ先は、宙に浮く獣たちの、ちょうど真下。
獣の群れが、爆音に混ぜて一斉に歌う。
「キツネの嫁入り天気雨、っは!」
「この三秒でお陀《だ》仏《ぶつ》よ、っと!」
歌の切りと共に、獣の群れは炎《ほのお》の豪雨へと変じ、直下のシャナヘと降り注ぐ。
「うわっ?」
「っすげえ!」
玩具《おもちゃ》の山の中央、『玻《は》璃《り》壇《だん》』の箱庭で、佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》が歓声を上げていた。
二人の間に浮かぶ、松明《たいまつ》が変形した盤に、屋上の戦況が映し出されている。その群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》による映像は今、炎の豪雨による攻撃が屋上に突き刺さり、爆発する様を映し出していた。
これほど凄《すさ》まじい爆発が屋上で起こっているにもかかわらず、大して階層が違わないはずのこの場所にも、振動は全く伝わってこない。マージョリーたちが説明してくれた、中の動きを外に漏《も》らさない自在法封絶《ふうぜつ》≠フ効果か、と二人はフレイムヘイズによる戦いの恐ろしさを、体感なき体感で思い知る。
声は、マージョリーとマルコシアスのものしか入ってこない。
映像は、人相《にんそう》が分かるほどに鮮明ではない。
彼らは、マージョリーが誰と戦っているかを知らない。
屋上に群青の炎が膨《ふく》れ上がり、弾ける。
炎を降らせた後も孤影を宙に残していた本物のトーガ、マージョリーの本体を、
「っと!?」
「ッヒュ!」
大《おお》太《だ》刀《ち》の剣尖《けんせん》がかすった。
シャナが、彼女らの眼前まで跳《と》んでいた。
爆発を一斉に受ける床の上に留まらず、自ら豪雨の中に飛び上がり突き抜けることで、受ける攻撃を最少限に押さえたのだった。飛び上がる途中にも数撃喰らってはいるが、床の上にいるよりも、そのダメージははるかに少なかった。
しかし、その千載一遇《せんざいいちぐう》の戦機において振るわれた一撃、今までとらえて、決して外《はず》したことのなかったそれを、シャナは、
(外した!?)
その頭上から、
「っこの!!」
「くっそガキがぁ!!」
長く伸びたトーガの両手を組んだ、巨岩も一撃で砕く打撃が叩《たた》きつけられた。
「っぐあ、うっ!!」
シャナは残り火くすぶる屋上に激突した。
石|畳《だたみ》が吹き飛び、床のコンクリが火の粉《こ》を撒《ま》いて砕ける。
「戦ってる、って……あんたを追ってきたのはフレイムヘイズなんだろ!?」
悠《ゆう》二《じ》は思わず叫び、立ち上がっていた。
客が少なかったため、特に人目をそばだてることはなかったが、それでもラミーは悠二に座るよう促《うなが》した。
「フレイムヘイズ同士の戦いは特段、珍しいことではない」
「なんだって?」
座りかけた悠二は、また驚いた。
「君たち、人と同じだ。怨恨《えんこん》や方針の違い、行き違いから気分まで、徒《ともがら》≠交えずとも争う理由はたくさんある」
「そんな……今、どうなってる?」
「さて。私が感じたのは、封絶《ふうぜつ》が発生したことと、そこにとんでもない敵意の塊《かたまり》が飛び込んだことだけだ。中のことは、君も知っているだろう、知る術《すべ》はない」
「……」
「まあ、心配せずともいい。どちらかが痛い目を見れば終わり、というのがこの手の戦いの相場だから、まず命を落とすことはないはずだ。あの二人が相手だから、君の知り合いには気の毒だが……」
悠二は、皆まで言わせなかった。
「大丈夫だよ」
その声は確信さえ通り越した、信奉《しんぽう》。
「なに?」
「シャナは絶対に、大丈夫なんだ」
すとん、と腰を勢いなく椅《い》子《す》に落とす。
シャナ、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールのフレイムヘイズ、神通《じんつう》無《む》比《ひ》の大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』を振るう『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》の討ち手」、無敵、圧倒的、絶対的、強くて、強くて、強くて……
そのシャナは、自分が同行を拒んだ後も、やはり変わらず[#「変わらず」に傍点]、どこかで戦っている。
勝手だと分かってはいるが、それでも悠二は寂しく、悔しかった。
そんな悠二の様子を訝《いぶか》しく思いつつも、ラミーは自分の疑問を口にする。
「シヤ・ナ……聞いたことのない名だ」
「名前がないって言うから、僕がつけたんだ」
「名前がない? 変わったフレイムヘイズだな。誰の契約者だ」
悠二には、ラミーの言う意味は分からなかったが、質問に答えることはできた。自分が見上げた巨大な炎《ほのお》、異世界の魔神の名を、少し得意気に口にする。
「天壌の劫火<Aラストール」
ラミーは、悠《ゆう》二《じ》の予想以上の驚きを示した。
「なに!? では、フレイムヘイズは『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》の討ち手』か!」
これほど驚かれるとは思っていなかった悠二は、逆にうろたえてしまった。
「あ、ああ……」
「なるほど、君の自信ももっともだ……そうか、まさか天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》≠ェいるとはな」
悠二は、一人|頷《うなず》いて納得するラミーに訊《き》いてみる。
「知り合いなのか」
「そのようなものだ。ふむ、そういうことなら、結果についての心配は要るまい。私も案外ついている。『炎髪灼眼の討ち手』の庇《ひ》護《ご》下でトーチを摘《つ》むことができるとは」
自分の知らない繋《つな》がりを感じて、悠二は意味のない疎《そ》外《がい》感を抱いた。
ラミーはもう、安心そのものと言った顔をしている。
「では、坂《さか》井《い》悠二、天壌の劫火≠ニ『炎髪灼眼の討ち手』に間違いなく伝えてくれ。私が、しばらくこの街に……、……?」
ラミーは言葉を切った。
悠二が自分の求めを聞いた途《と》端《たん》、さっきとは打って変わった心細げな表情になったためである。表情どおりの弱い声で言う。
「……たぶん、伝えるよ。愛《あい》想《そ》をつかされてなければ、また会うこともあるだろうし」
「なに? どういうことだ。普通、フレイムヘイズはミステス≠放ったまま、どこかに行ったりなどしないものだが」
「……」
理屈で問われても、感情には答える術《すべ》がなかった。
朝日の中に立つ、強さそのもののような姿を思う内に、また倦怠《けんたい》感が襲ってくる。
自分の全《すべ》てが張りを失う。
「……もう、帰ってこないかも。でも、しようがないんだ。僕は彼女の力になれない、なんの役にも立てない、したくても、その気持ちがもう、ないんだ」
「彼女? 討ち手は女か」
悠二は無言の肯定で返した。
(……女?)
ラミーは、その悠二の態度に気付くものがあった。
(「シャナは絶対に、大丈夫なんだ」)
そう言い切った、しかし信頼の温かみのない、まるで冷たい事実を告げるような表情。
(「僕がつけた」)
わずかに誇りが覗《のぞ》いた表情。
(「愛想をつかされてなければ」)
そこに滲《にじ》んだ諦《あきら》めや疲れ、悲しさや苦しさ。
これらの感情の表すものが、なんなのか。
(……やれやれ……)
その筋の悩みを抱えていることは、美術館内で見かけたときに薄々|勘《かん》付いていたが、まさかそういうこと[#「そういうこと」に傍点]だったとは。いよいよもって、同席の眠《ねむ》り姫が可哀相《かわいそう》になってくる。
少年……それに恐らく、討ち手の少女。
この未熟な生き物たちは、いつの世も変わらない。
「それを確かめたのか」
「……えっ?」
ラミーがテーブルの上で指を組んで、悠《ゆう》二《じ》を見ていた。見かけ以上の、歳月を経た深さを満たして、老紳士は再び訊《き》く。
「例えば、そう……もっとも野《や》暮《ぼ》な確かめ方だが……君は実際に言葉で、そのシャナ嬢に、自分は役立たずか、と訊いてみたのか」
「そ、そんな」
格好悪いこと……と悠二は言えず、口ごもる。
ラミーは手を開き、パン、と軽く叩《たた》いた。
「いやはや、大した朴念仁《ぼくねんじん》だ! 相手に確かめもせず一人《ひとり》合《が》点《てん》とは!」
「……」
「その気持ちがもうない? 確かめもせず、自分は駄《だ》目《め》だ、といういじけた心で、ただ相手を拒んだだけではないのか?」
いきなりの図星[#「図星」に傍点]。思わず悠二は声を張り上げた。
「――っでも! シャナが、あのシャナが、感じるわけが……僕なんかの、ことで……」
声は、言葉の情けなさにどんどん尻《しり》すぼみになる。
ラミーはその悠二の、フレイムヘイズという存在に対する、あまりにガチガチに固まった畏《い》敬《けい》の姿にため息をついた。
(やれやれ、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》≠゚……ようやく得た契約者に保護者意識でも湧《わ》いて、この少年に教えなかったな……?)
「一応、言っておこうか。我々紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ヘ、なぜここにいると思う」
「えっ?」
「君たちの科学で証明されているように、宇宙は広いな?」
悠二はいきなりの、わけの分からない話題に面食らった。
ラミーは答えを期待せず、話を進める。
「そんな無数に星がある『この世』で、なぜ我々はこの地球に現れた? なぜ我々の世界紅世≠ヘ歩いてゆけない、しかし隣なのか?」
「……」
「それは、我々と同じ[#「我々と同じ」に傍点]だからだ。存在の有様が違うだけで、我々と変わることのないモノを、その内に持っているからだ。それゆえに、我々は君たちの存在の力≠得ることができるし、ここで何かを成したいと欲する者も出てくる……何が言いたいか、分かるか?」
「……彼女を特別視するな、ってこと……?」
「ふ、頭は悪くないようだ……そう、その通り。紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ナさえ、そうなのだ。元よりこの世の人間であるフレイムヘイズだけが、特別な、触れ得ぬ強さなど持っているものか」
悠《ゆう》二《じ》はそれでも、自分の前にそびえる少女の姿を感じている。
「……でも、実際に、彼女は強いんだ」
だが、その最後の根性なしの反撃[#「根性なしの反撃」に傍点]は、あっさり打ち破られる。
「君よりは、な。だが、それだけのことだ」
「――――!!」
悠二の胸に、一瞬だけ不条理な怒りが吹き上がり、
そして、静まった。
ため息を鳴らすように、悠二は小さな声を出す。
「……ええ、と」
「なんだ」
「なんていうか、その…………ぁ」
「ありがとう、などと青いことを言ってくれるなよ、坂《さか》井《い》悠二」
ラミーはあっさり悠二の言葉を先取りして、軽く笑う。
「他人の利他行為を買い被《かぶ》るな。私は自分の身を守るために、私の追手に対抗できる者に加担しているに過ぎないのだから」
言うと彼は、ようやく自分の前に置かれたカップを取った。すっかり冷めて不味《まず》くなっているだろうに、顔には出さない。
(顔には出さない)
悠二は、ふと思ったその言葉が、どこかでなにかに繋《つな》がったのを感じた。
シャナの表情、その内側の気持ち。
それを自分はちゃんと思いやったことがあったろうか。
強い彼女が動じるわけがない、と傲慢《ごうまん》にも決め付けていたのではないか。
彼女が自分に拒まれたときに見せた表情に、だから自分は戸《と》惑《まど》い、驚いたのではないか。
自分は彼女のことを、全く分かっていなかったのではないか。
自分から、分かろうとする努力を放《ほう》棄《き》していたのではないか。
その理由は、まさに自分の……
(……くそっ! 僕は、なんて弱くて、ちっぽけなんだ……)
悠《ゆう》二《じ》の体の芯《しん》に、後ろ向きでは決してない自己嫌悪の念が溢《あふ》れた。
その思いを表情に見て取ったラミーぱ、満足げな笑みをカップの陰に隠した。恐らく、熱くても不昧《まず》かったろうその中身を飲み干すと、カップを皿の上に戻して言う。
「……さて、話は終わりだ。そろそろ、眠《ねむ》り姫を起こすぞ」
「あっ」
悠二は慌《あわ》ててそれを遮《さえぎ》った。
「なんだ」
「……なんでそんなに、なんでも……お見通しなんだ?」
ラミーは、今度は苦笑と嘲笑《ちょうしょう》を等分に混ぜた。
「ふん、そういうことをいちいち訊《き》くから、青いというのだ」
答えを与えず、吉《よし》田《だ》を起こすためにテーブルを指で一打ちする。
「ぐ、う……」
シャナは崩落《ほうらく》寸前の瓦《が》礫《れき》の中から身を起こした。
大《おお》太《だ》刀《ち》を杖《つえ》のように突いてもたれかかる。手に入れて以来、初めての使い道だった。
「……」
その胸元に揺《ゆ》れるペンダントの中、アラストールは、シャナの戦いぶりのあまりな変調に密かに驚いていた。
いつもの彼女の戦い方は、無《む》鉄砲《てっぽう》に飛び込むように見えて、その実、常に次の動きを体の中に練っているというものだった。外《はず》せばそれに切り替え、切り替えたものが合わなければ、また次に変わる。この途切れることのない攻撃動作の連続こそが、彼女の強さだった。
それが、今の彼女は完全に逆だった。一つ目の攻撃の次を全く考えていない。
一撃、それだけは強力に見えても、後が続かない。まるで転ぶことを考えずに突っかかる子供のようだった。マージョリーとマルコシアスのように、攻撃をいなすことが得意な敵に対するには、まさに最悪の戦い方だった。
大太刀の運びや身動き、その一つ一つは的確だが、それは所詮《しょせん》、咄嵯《とっさ》の反射と勘《かん》の産物に過ぎない。戦闘そのものの流れが頭にない。相手に主導権を与え続けているのもそのためで、そして一番悪いことに、本人がそのことに気付いていない。
そこまで分かっていて、しかしアラストールはなにも言わなかった。
戦う相手であるマージョリーたちも、そんなシャナの不《ふ》甲《が》斐《い》なさを同様に感じているらしい。
「あんた、本当にあの『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》の討ち手』? 本当にあの狩《かり》人《うど》≠ブチ殺したの?」
「ちいっと弱すぎんぜ。それとも、狩人≠ェ噂《うわさ》ほどでもなかったのか、ヒャッハ!」
トーガの獣《けもの》の口元から、不機嫌そうなマージョリーの顔だけがポコリと現れた。ますます着ぐるみめいて見えるが、光景自体ははなはだ物騒である。
群青《ぐんじょう》色をした陽炎《かげろう》の壁に囲まれた空間の中、太い両腕をまるで翼《つばさ》のように不自然に大きく広げて立つ、ずん胴の獣《けもの》。その周囲にも、群青の火の玉がいくつも浮かんでいる。
「も、あんたいいわ。これ以上邪魔しないってんなら、あと一撃で[#「あと一撃で」に傍点]見逃したげる」
「そだな。あんま楽しめねえし、でけえの一発でシメにすっか」
言い終わると、返事も待たずマージョリーは顔を引っ込める。再び獣の口が牙《きば》を剥《む》き出して笑い、周囲の火の玉が火勢を上げた。
やがて、破壊を呼ぶ即興の呪文《じゅもん》が、見えないマージョリーの唇《くちびる》から流れ出る。
「月火水木金土日、誕婚病葬《たんこんびょうそう》、生き急ぎ」
曜日の声に合わせて、火の玉が七本の剣の形へと変わる。
(なに……?)
シャナの意識は、衝突《しょうとつ》のショックで混濁していた。
なにかできることはないのか。なにもできることはないのか。なにもできないのか。
声を求めていた。声を欲していた。
以前、ここでそう思ったとき、答えてくれた声を。
「ソロモン・グランディ」
獣の腹が再び、一杯に膨《ふく》れる。
それに虚《うつ》ろな目をやったシャナは、唐突《とうとつ》に覚める。
(そこは……)
今、獣が立っている場所。
そこは、フリアグネとの戦いの後で、倒れた少年の手を握った場所。
「はい」
ほとんど無意識に、その場所から獣を追い払おうと前に飛び出しかけたシャナ、その周囲に、身動きを許さない檻《おり》のような七本の剣が突き立った。
(そこに)
自分に笑いかけてくれた少年がいた場所。
他《ほか》の誰にも触られたくない、大切な場所。
「それまで、よ!!」
剣の檻に捕えられたシャナに向かって、獣の口から吐《は》き出された炎《ほのお》の怒《ど》涛《とう》が押し寄せる。
(そこに、立つな!!)
目の前に『贅殿遮那《にえとののしゃな》』をかざしていたのは、単なる反射。
それが炎の怒涛を一瞬斬り裂《さ》き、しかし込められるべき力を得られずに、敗れた。
高熱に肌を焼かれ、黒《こく》衣《い》を裂かれ、炎髪《えんぱつ》を焦《こ》がし、
そして、
灼眼《しゃくがん》を瞑《つむ》って、
シャナは放り出された。
屋上から。
前の戦いで、フリアグネによって落とされた場所から。
胸を撃たれ、それでも笑って落ちた場所から。
今は、叫びさえ上げられない。
皮肉と言うには、あまりにひどすぎた。
彼女は封絶《ふうぜつ》を抜けて、とどめのように真《ま》南《な》川に落ちた。
川《かわ》面《も》は燃え上がらなかった。
老紳士とは、御《み》崎《さき》アトリウム・アーチの玄関ホールで別れた。
何度もお礼を言う吉《よし》田《だ》に、老紳士こと屍拾《しかばねひろ》い<宴~ーは、やはり軽く穏やかに返した。
悠《ゆう》二《じ》も一瞬、ありがとう、と言おうとして、止めた。ラミーの固い線で作られた顔を見て少し考え、結局一言、
「ごちそうさま」
と言った。
ラミーはその、多くのものを込めて贈られた言葉に微苦笑して、
「なに、お節介《せっかい》だ」
とだけ答えた。このとき、彼は今まさに、自分の望まない形で決着がついたらしいことを感じていたが、それを悠二には言わなかった。お節介《せっかい》が図らずも生きるらしい、微苦笑にはその意味もあったのだが、さすがに悠二にはそこまでの洞察《どうさつ》力はない。
やがてラミーは二人に見送られつつ、ホテルとなっている中層階へのエレベーターに姿を消した。
本当に泊まっているんだろうか、などとどうでもいいことを考えながら、悠二は吉田と共に外へ出た。
空はいつしか、夕に迫っていた。
ビル外構の庭園に朱《しゅ》が差し込んで、時の寂寥《せきりょう》を否応《いやおう》なく感じさせる。その庭園の向こう、道路一つ隔てた駅前では、帰宅ラッシュが飴まっていた。
遠く見える、そのトーチを混ぜた雑踏《ざっとう》と夕焼けが、悠二に一人の少女のことを思わせる。
(まだ今も、戦ってるのかな)
シャナの強さへの過信は、まだ心に根を張っているが(現に今も、悠二は彼女の勝敗を全く問題視していない)、それでもなにか、吹っ切れたような清々《すがすが》しさがあった。なにもせず欝々《うつうつ》としていた自分の後ろ向きな気持ちが、嘘《うそ》のように消えていた。
(……謝ろう……そうだ、僕が悪いのは分かりきったことなんだ、せめて謝って……)
「あの、坂《さか》井《い》君」
不意に声をかけられて、悠《ゆう》二《じ》は思い切り動転した。
「あっ、な、なに?」
夕焼けの中、吉《よし》田《だ》が微笑《ほほ》んで、悠二を見ていた。憂いは少し薄れて、代わりに一緒に過ごす時への惜しさが滲《にじ》んでいる。が、それでも彼女は言った。
「今日は……ここで、いいです」
「え、でも帰り道は、もう少し一緒だけど」
「ううん、寄り道、したい所があるから……」
「そう…………――っ!」
唐突に、悠二は感じた。それが嘘《うそ》だと。
そしてもう一つ。自分が思っていること、それが彼女の憂いの理由だとしたら。
(だとしたら、僕は本当の馬鹿だ)
そんな悠二の心中を察したのか、吉田はまた笑って言った。
「きょ、今日は、どうも、ありがとう。私、楽しかったです。本当ですよ!」
誓うように胸に手を当てて言ってくれる。
しかしだからこそ、悠二は辛《つら》かった。
誰だって、こんないい子を、こんな目に遭《あ》わせていいはずがなかった。
「……うん、こっちこそ、ありがとう」
悠《ゆう》二《じ》は結局そんな、変な答えを返していた。今の自分に返せるのは、そんな程度だった。自分が笑っているのが分かった。どんな笑顔なのかは分からないが、さぞかし情けないものだろう、とは思う。
そんな顔を見て、それでもやはり、吉《よし》田《だ》は笑い返してくれた。そして、その笑いに一言付け加える。
「でも[#「でも」に傍点]」
「?」
「また、誘いますから!」
その言葉は、戦闘続行の宣言だった。
「そ、それじゃ、また明日! さようなら!」
自分の意気込みに照れたのか、吉田は慌《あわ》ててお辞儀をすると、駅の方へと小走りに走っていった。一度も振り返らないまま雑踏《ざっとう》の中に混じり、見えなくなる。
庭園に一人、取り残された悠二は、深くため息をついた。
(……本当に、どうしようもなくちっぽけだな、僕は……)
いつか、こんな自分を、どうにかできるようになるのだろうか。
「あ〜、修復とかで結構疲れたから、今日はもう止め! また明日にするわ」
マージョリーは、玩具《おもちゃ》の山に戻ってくるなりそう言った。
「え、姐《あね》さん、明日も……ってことは」
田《た》中《なか》が横を見た。
佐《さ》藤《とう》が目を合わせる。
「俺《おれ》たちも一緒、なんですよ……ね?」
やはりというか、非日常はバカンス程度で過ぎてくれそうにないらしい。
「とーぜんでしょ、なに言ってんのよ」
「ヒヒヒッ、ま、観念するこったぜ、ご両人。我が多情の花、マージョリー・ドーは、一旦《いったん》男を捕まえたら、飽きるまで離しゃしねえからブッ」
脇のブックホルダーに収まったグリモア≠、叩《たた》いて黙らせる。
「お黙り。さて、今日のねぐらを探しに行こうかしら」
「酒のある所か? あんな液体流し込むだけで、よくもまあ気分良くなれるもんだ」
「あんたがぶっ壊す感触を好きなのと同じよ」
「ヒュ、今日は冴《さ》えてるな、我が玄妙《げんみょう》なる詩人、マージョリー・ドー!」
その会話をよそに、佐《さ》藤《とう》は田《た》中《なか》を肘《ひじ》で小突いた。
「な、おい」
田中も小声で答える。
「いや、俺《おれ》はいいけど、おまえが」
「いいって。俺も別に、どうせ誰も構やうわっ!?」
二人の前に、眉《まゆ》を寄せたマージョリーが顔を寄せていた。
「私の前でヒソヒソ話は厳禁。言いたいことはちゃっちゃと言って、言えないことなら黙りなさい……で、なに?」
きをつけの姿勢で、佐藤は言う。
「あの、いろいろと便利なねぐらがあるんですけど」
「どこよ」
「……俺ん家《ち》、です」
マージョリーはその妙な提案に首を傾げ、数秒考えてから言う。
「酒、あるんでしょうね?」
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4 夜に想う
夕焼けは、いつもあの日のことを坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の脳裏に蘇《よみがえ》らせる。
外《はず》れた世界に踏み込んだ日……などと言えば聞こえはいいが、実際は紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ下《げ》僕《ぼく》である怪物燐《りん》子《ね》≠ノ喰われそうになったところを、シャナに助けられた日だ。
彼女との出会いは、今でも鮮明に思い出せる。
屹立《きつりつ》する、あまりに力強く、格好良い背中。
それからいろいろあったようで、実は十日ほどしか経《た》っていない。
たったそれだけの日数で、彼女のことを分かった気でいた、その自分の傲慢《ごうまん》に、悠二はどうしようもない恥ずかしさを覚えていた。最初の四日、狩人《かりうど》<tリアグネとの戦いでの、彼女と過ごした経験があまりに強烈過ぎて、そんな錯覚を抱いていたのだ。
それはスタート地点に過ぎなかったのに。
夕焼けの心細さが、その自責に一瞬、負の方向への拍車をかける。
(……帰ってきて、くれるかな……)
彼女が、こんな馬鹿な自分に愛《あい》想《そ》を尽かして、なにも言わずにどこかへ行ってしまったらどうしよう……悠《ゆう》二《じ》はその何度目かの、なによりも恐ろしい想像を慌《あわ》てて打ち消した。
改めて、さっきの決意を強く心に持ち直す。
(どんな答えを返されても、謝って、そして訊《き》こう、しっかりと)
やがて、暮れる日が家々の屋根に隠れる頃、悠二は自宅へと帰り着いた。
ドアに手をかけ、ただいま、と言いかけたそのとき、
「悠二」
思いもよらない声が、彼を呼び止めた。
「? ……アラストール?」
いったいどこからだろう、と思って、まず上を見た。
「庭だ」
「庭? ……あ、か、帰ってきてくれたのか、シャナ!」
ようやくその事実に思い至って、喜びの叫びをあげる。
「なんの話だ?」
訝《いぶか》しげに答えるのは、やはりシャナではなくアラストール。
しかし悠二には、どっちでも良かった。アラストールがいるということは、シャナもいるということなのだから。
「シャナ! …………?」
狭い庭に駆《か》け込み、探すこと数秒。
塀際《へいぎわ》の茂みの中に、シャナはいた。
全く、予想外の姿で。
「……?」
髪をぐしゃぐしゃにし、頬《ほお》を煤《すす》で汚し、服をボロボロにして、小さく、小さく、しゃがみこんでいた。
まるで、負けたかのような姿で。
シャナが[#「シャナが」に傍点]、負けたかのような姿で。
「シャナ! いったいどうしたんだ!?」
「うるさい!」
駆け寄ろうとした悠二は突然、シャナに大声で怒《ど》鳴《な》られて、その場に立ちすくんだ。
「……シャナ?」
シャナが立ち上がっていた。
「うるさいうるさいうるさい! なにが、どうした、よ!!」
ボロボロの体を必死に支えて、灼眼《しゃくがん》ではない、しかし燃えるような強い感情を込めた瞳で悠二を睨《にら》みつけていた。
「おまえのせいなのよ! おまえのせいで、もう、私、全部、無茶苦茶なんだから!!」
「――――!!」
「戦ってるときも! 戦ってるのに! おまえのせいで!!」
(僕の、せい?)
その難詰《なんきつ》の言葉に、しかし悠《ゆう》二《じ》は震えるような、痺《しび》れるような衝撃《しょうげき》を受けていた。いや、実際に体は震え、心は痺れていた。
(シャナが[#「シャナが」に傍点]、僕のせいで[#「僕のせいで」に傍点]、負けた[#「負けた」に傍点]?)
悠二の体が勝手に動いた。引き寄せられるようにシャナに歩み寄った。
シャナは、ただ詰《なじ》り続ける。
「全部おまえが悪いんだから! おまえがあんな、あんなことするから!」
悠二は強い欲求に駆《か》られて、自分の胸ほどまでしかない小さな少女を、思い切り抱き締めていた。今ここにあるなにかを、その腕で、体で、確かめたかった。
シャナは拒まなかった。その胸の中で、ただ感情を、出《で》鱈《たら》目《め》な言葉で吐《は》き出し続ける。
「ねえ! これ、悔しいんじゃない! 怒ってるんでもない! これが、悲しい、なのよ! なんで私、みんな、悠二、おまえが悪いのよ!」
「ごめん、いじわるして、ごめん」
悠二は子供のように謝り、シャナを非力な腕で精一杯抱き締めた。
その体は、自分がそうだと思い込んでいた大きさや強さが嘘《うそ》のように、小さく、か細かった。夕|闇《やみ》に黒くくすむ髪と、服を通して伝わる体温が、少し冷たかった。それがなぜか、とても悲しかった。
「こんな、こんな気持ちになるのは嫌《いや》!」
シャナも、悠二の胸に顔を埋めたまま、詰襟《つめえり》を両手で思い切り握《にぎ》り締め、引き寄せた。
悠二は引かれて、彼女に顔を寄せる。炎《ほのお》の残り香《が》の中に、いつか鼻をかすめた少女の柔らかな匂《にお》い、眩暈《めまい》と安《あん》堵《ど》とを呼ぶ、ほのかに甘い匂いがあった。
それが、今は逆に力を、精一杯以上の力を振り絞らせる。
しかしそれでも、弱すぎた。あまりに弱すぎた。
「ごめん、ごめん」
「もっと強く、もっと強く!」
シャナは叫び、強く引っ張る。息が詰まり、詰襟の縫い目が破れた。
それでも悠二は渾身《こんしん》の力をこめて、少女を抱き締め続けた。
今[#「今」に傍点]、自分はシャナに触れている[#「自分はシャナに触れている」に傍点]。それを叫びたくなるほどに、悠二は彼女の存在を近く強く、心に体に感じていた。
「うん」
「もっと強く!!」
「うん」
シャナは、自分が掴《つか》み、自分を包む少年に、心から求めた。
「……もっと、強くなってよ……!!」
「うん」
自分は弱い。
悠《ゆう》二《じ》はそれを、この悔《かい》悟《ご》と歓喜の抱擁《ほうよう》の中で思い知った。
思い知って、その先を望み、決めた。
「うん、なるよ」
そして、この言葉の内にはっきりと理解した。
自分が気持ちの張りを持てなかった、シャナに意地悪をしてしまった、その理由を。
恥ずかしい。
こんな、こんなことのために、彼女を。
「だから、泣かないで」
御《み》崎《さき》市東側にある旧住宅地は、この街が都市として発展するずっと前に、地主階級の人々が本宅を集めて作った集落を母体としている。集めた理由は、戦後の土地整理の都合だとか、地主の寄り合いと街の役場を近くするためだとか、いろいろある。
佐《さ》藤《とう》家は、その集落ができる前からこの場所にあった、本物の旧家である。といっても、家屋はとっくに建て替えられていて、昔の名残はだだっ広い庭園程度のものだ。
その庭園が宵闇《よいやみ》に沈む頃、佐藤家に四つある門の一つ、夜遊び用に使われる『御勝手』という小さな戸口の鍵を、放蕩《ほうとう》息子《むすこ》が開けた。後に続くその客人たちとともに、別段こっそりという風もなく中へと上がりこむ。
屋敷という形容が相応《ふさわ》しい構えを持つ佐藤家の中は、明るくも人気《ひとけ》がなかった。
「なに、あんた金持ちなんだ。妬《ねた》ましいわね」
訪問者でありながら、なぜか廊下の先頭を行くマージョリー・ドーは、屋敷の構えから飾りから、金のかかっていそうな全《すべ》ての物を見て口を尖《とが》らせる。
その脇に抱えられたグリモア≠ゥら、マルコシアスが愉快気な笑い声を上げた。
「ヒャッヒャ、根無し草のひがみか?」
「お黙り」
後に続く佐藤|啓作《けいさく》も、苦笑して返す。
「そうやって口に出してもらえると、すごく気が楽ですよ」
「あっそ。じゃ、これからもどんどん口に出すことにするわ……で、金持ちは分かったけど、かえって面倒なんじゃないの、親とか外聞とか」
「大丈夫、親は気にしないし、評判も今以上に悪くはなりませんよ」
「はあ?」
「いろいろあって、いろいろあった、そういうことです」
佐《さ》藤《とう》は肩をすくめて、詳しい説明を避けた。
後に続くその友人・田《た》中《なか》栄《えい》太《た》も黙っている。
マージョリーには詮索癖《せんさくへき》はない。自分の要求が叶えられるかどうか、それだけに興味があった。また前を向いて、広くて長い廊下をもらったスリッパでズンズン進む。
「それより酒は、ちゃんとした質と量、あるんでしょうね」
「なんなら樽《たる》ごと出しますよ」
「ふう、ん」
マージョリーは珍しくにんまりと、あまり上品ではない感じに笑った。幸い、前を向いているので、後ろの二人には見えない。
「あ、その黒いドアです」
マージョリーの右に、簡素な様式のドアがあった。その中央に貼られた真鍮《しんちゅう》のプレートには、古めかしい書体で『BAR』と彫り付けられている。
「室内バー? えらく癇《かん》に障《さわ》る響きね」
「お詫《わ》びの品はたくさんありますから、勘弁《かんべん》してください」
言って入ろうとする二人に、田中が声をかけた。
「佐藤。俺《おれ》、今日泊まる、って家に電話してくるよ」
迷いなく奥に入って行く。この家に慣れているらしい。
「またぶり返したのか、って泣かれるなよ」
佐藤のからかいに田中は振り返らず、手だけを振って答えた。
「もう枯れてるだろ」
「そりゃそうか、すまん」
佐藤が先導して入ったその部屋は、広かった。
正面に、足りないのはシェーカーを持つバーテンだけ、というバーの設備が備え付けられていた。雑多な酒瓶の並んだ多段棚と飾り気のないカウンター、揃えられたバー・ツールに磨き抜かれたグラスなどがランタン型の淡い照明の下で、静かに客を待っている。
「うわぉ!」
マージョリーは、まるで自分のための楽園を見つけたように感嘆の声を上げた。上げてすぐ、この(既に自分の物と規定した)楽園に侵略者はいないか、確認する。
「ここ、あんたのオヤジとか飲みにくんの?」
来たらぶっ飛ばす、という意気込みを隠しもしないマージョリーに、佐藤は微量の異物を混ぜた笑みで答える。
「この家で、俺《おれ》と田《た》中《なか》以外の人間は、昼勤のハウスキーパーたちしか見たことがありません。安心して飲んでもらっていいですよ」
「あ、そ。そりゃ結構」
佐《さ》藤《とう》の言ったことの意味には興味を示さず、マージョリーは部屋を見渡した。部屋の手前、ソファに囲まれたテーブルの上に、きれいに積まれた漫画週刊誌や、畳《たた》まれた毛布などが置かれているのが目に入る。ハウスキーパーが整理したものらしい。
ゴホン、と佐藤が咳払《せきばら》いして、それを隅に片し始める。どうやらこの部屋を自分の娯楽室にしているらしい。
その少年に、マージョリーはさっきから僅《わず》かに鼻についていたことをズバリと言う。
「これだけのものがあって、金持ちの不幸をちらつかせるわけ?」
苦笑しっぱなしだった佐藤は、その苦さと笑みを、より深くした。
「耳が痛いな。ま、『反抗するポーズ』の格好悪さを感じられる程度にはなったんですけど」
と言う間に、本の束の中から、女性には見せにくい種類の雑誌が落ちた。慌《あわ》てて隠す。
「い、いろいろと分かってくれる奴《やつ》とも会えたりしましたしね、ハハ」
「アレ?」
「まあ、アレです」
「へ? なに?」
マージョリーが親指で指し、佐藤が頷《うなず》いて見せたアレこと、部屋に入ってきた田《た》中《なか》は、わけがわからず、きょとんとした。
家に入った二人を見た坂《さか》井《い》千《ち》草《ぐさ》の第一声は、
「泣かせたわね、悠《ゆう》ちゃん」
第二声は、
「でも、いい涙みたいだから、許したげる」
というものだった。
シャナの怪力で破れた悠二の詰襟《つめえり》や、ボロボロ煤《すす》だらけのシャナのセーラー服を、彼女は問答無用で剥《は》ぎ取った。明日の朝には綺《き》麗《れい》に生まれ変わっていることだろう。さらに彼女は、
「転んだの」
というシャナの、これ以上ないくらいに下手《へた》な言い訳にも、黙って風呂を用意してくれた。
とどめは、
「シャナちゃん、今日は晩御飯、食べていきなさいね。なんなら泊まってってもいいけど」
である。
シャナは、千草にだけ見せるしおらしさで、泊まることを言葉少なく断ったが、それでも彼女の対応は天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールをして、
「できた奥方だ。とても貴様の母とは思えん」
と感嘆の声を上げさせてしまうほど見事なものだった。
「そりゃどうも」
普段着に着替えた悠《ゆう》二《じ》は、複雑な表情でお礼を言った。
板敷きの床に胡座《あぐら》をかいて座る悠二の前、ベッドの上に、アラストールの意思を表出させるペンダント型の神器コキュートス≠ェ置かれている。シャナが風呂に入っている間だけ借りてきたのだ。そのアラストールが言う。
「それで、どうだ。少しは自分の愚かしさが目に入るようになったのか」
この異世界の魔神は、全く優しくない。困っているときにはなにもしてくれない。自分なりの答えを見つけたときに初めて、それを確認させるように口を開く。
悠二はしかし、そんな優しくないアラストールが嫌いではなかった。
「そうだな、馬鹿だってことは骨身に染《し》みて分かった……と思う」
「貴様にしては上出来な答えだ。的確でもある」
本当に、全く、優しくない。
「…………でも正直、シャナが負けるなんて、考えたこともなかったよ」
悠二の実感のこもった告白を、アラストールは、
「それは貴様の甘えだ」
と一刀両断で斬《き》り捨てた。
「甘え……?」
「今朝、貴様がシャナになんと言ったか、覚えていよう」
忘れるわけもない。
(「僕なんかいなくても、別に困らないだろ」)
「……そうか。僕は、なにもかも全部、シャナに押し付けてたのか」
なんていじけた考えだろう。まさに、甘えだ。今思い出しただけでも恥ずかしくなる。
「でも僕に、なにか……できるんだろうか」
「それこそ、自分で考えるべきことだ。我らはどのような意味においても、貴様を縛《しば》った覚えはないぞ、ミステス″竅sさか》井《い》悠二」
「うん……でも、その自由ってのが、かえって難しいな」
「動く気構えだけをしておけ。なにができるかは、起きた状況の中で考えるがいい」
アラストールは、フリアグネとの戦いで貴様がしたように、とまでは言わなかった。
彼は、全く優しくないのだった。
特に、悠二に対しては。
シャナは、バスタブの中で体をくつろげていた。
さほど大きくはない坂《さか》井《い》家のそれも、小柄な彼女が体を伸ばすのにはちょうど良かった。
長い黒髪が広がってキラキラ光る。千《ち》草《ぐさ》からは、手入れのため、まとめてタオルにしまうよう言われていたが、面倒なのと、どうせすぐ清めの炎《ほのお》で乾かせるから、というのを理由に無視している。これは、彼女の言いつけを破っている唯一の例だが、実は悪戯《いたずら》をしているような愉快さも覚えていた。
入れたばかりの透明なお湯に顎《あご》まで浸《つ》かって、目を閉じる。戦いで受けたダメージや負けた悔しさが、大したことではないと思えてくるほどに、気持ちがよかった。
胸のつかえが、重さが、全《すべ》て消えてしまっていた。
事実は、やはり簡単だった。
(……「ごめん」……)
悠《ゆう》二《じ》が、そう言っただけ。
(……「いじわるして、ごめん」……)
そう言って、抱き締めてくれただけ。
微笑以下の、ほんの小さな笑みを、湯気に隠して浮かべる。
言われ、抱かれた途《と》端《たん》、悲しさの上に嬉《うれ》しさがなだれ込んできて、また突然、それらが全て、
ぽっかりと失《う》せてしまった。残ったのは、雲一つない青空のような、素晴らしい気持ち。
「……」
シャナは、お湯の中で両肩を抱いた。
水面に小さな波を立てて、呟《つぶや》く。
「……もっと、強くなって……」
少年の弱い力で抱かれた場所は、しかし暖かかった。
その余韻に浸《ひた》るように、シャナは深く安《あん》堵《ど》のため息をついた。
「なに、屍拾《しかばねひろ》い<宴~ーに会っただと?」
「うん」
悠《ゆう》二《じ》は、今日起きたことを細大|漏《も》らさず、アラストールに話した。隠すと、いろんな意味でためにならないと思ったので、吉《よし》田《だ》とのことも含めて全部。気分は懺《ざん》悔《げ》である。
幸い、アラストールは吉田とのことには興味を示さなかった。彼の興味は、当然のことながらラミーに向けられる。
「そうか、今回は貴様のことで借りを作ったか。返礼をせねばな」
やはりアラストールには、無害なラミーを討滅《とうめつ》する気は端《はな》からないらしい。そのことにほっとしつつ、悠二は訊《き》く。
「再戦する気なのか。それでラミーが言ってた戦闘狂って、どんな連中だったんだ?」
「うむ」
アラストールも、蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアスのフレイムヘイズ、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドーとの戦闘の推移を、悠二に詳《くわ》しく聞かせた。
その想像以上の大敗ぶりに、悠二も顔を蒼白《そうはく》にする。
「……ヤバそうな連中だな。たしかに言動からしてラミーが無害だろうがなんだろうが、関係なしに殺してしまいそうだ。あれから封絶《ふうぜつ》とか自在法とかは?」
「使っていない。恐らく、戦闘での疲労を回復させているのだろう」
悠二はとりあえず安心した。ラミーがその戦闘狂らによって危機に陥る、しかも自分がシャナを不調にしたせいで、となれば、恩《おん》を仇《あだ》で返すことになってしまう。
「明日になってから、またやるつもりなのかな……でも、やっぱりフレイムヘイズ同士で戦うってのは、感じとして抵抗があるな」
「我らの大義は一つだが、その解釈と遂行手段は各々で違う。自然、衝突《しょうとつ》も対立も発生する」
「本当、ラミーの言ったとおり、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠焜tレイムヘイズも、僕らと同じなんだな」
「そうだ。しかし、再戦を行うのは、その対立や私《し》怨《えん》からではない。もっと切実な理由がある」
「え?」
「貴様も聞いたとおり、ラミーが集めている存在の力≠ェ問題なのだ。トーチとはいえ、奴《やつ》は数百年からの時をかけて蓄積している。恐らく、相当な量となっているだろう。そしてその制御《せいぎょ》には、奴独自の自在法が使われている」
「そういえば、そんなこと言ってたな。編み上げたとかなんとか」
「奴が討滅《とうめつ》された場合、その制御を離れ存在の力≠セけが残されることになる。トーチで埋《う》まり、大きな歪《ゆが》みを持つこの街で、それが開放なり分解なりしたとき、なにが起こるか……」
悠二はごくりと咽喉《のど》を鳴らした。
「デカい爆弾みたいなものか」
アラストールは答えず、対処法を示す。
「ともかく、蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》≠ニ『弔詞《ちょうし》の詠み手』に誓約でもさせるか、当分追えなくなるまで痛め付けるか……いずれにせよ、勝つことが前提となる。貴様、アレは持っているな?」
その質問の意味を察して、悠二の背筋に寒気が走る。しかし、はっきりと答える。
「もちろん。ずっと首にかけてるよ」
「よし。奴らとの戦いは、あるいは貴様を伴った方が事態への対処を容易にするやも知れぬ。不本意だが、共に来い」
「……やっぱり。まあ、そうなるだろうとは思ったけど」
悠二は、今自分が強い微笑を浮かべていることに気付いていない。
「シャナの感情|云々《うんぬん》の話ではないぞ。あくまで戦闘の必要因子として貴様は……」
その、保護者根性丸出しで予防線を張るアラストールの声を、階下からの声が遮《さえぎ》った。
「悠《ゆう》ちゃーん、晩御飯できたわよ。早く降りてらっしゃい。シャナちゃん待たせちゃ駄目よ」
「……降りますか」
「ふん、聞いただろう、シャナを待たせるな」
くすりと笑って、悠二はコキュートス≠手に取った。
「ハハ、アッハハハ!」
マージョリーは今日一番の、ごきげんな笑い声を上げた。
その原因は明白。カウンターテーブルの上に転がった、三個ばかりのウイスキーの瓶《びん》……正確には、そこに入っていた液体である。
「あ〜、ケ〜サク、ここいい、ブリテンの酒た〜くさんあって気に入ったわ〜」
タガを思い切り外《はず》しまくった彼女は、スーツドレスをだらしなく着崩して、カウンター席に片足まで載《の》せている。飲む前の、厳しくも堂々としたフレイムヘイズの姿は見る影もない。今やただの酔っ払い姉ちゃんである。
彼女を挟んで左右、椅《い》子《す》一つずつ空けて座る佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》は、大人《おとな》しくオレンジジュースとジンジャーエールでご相伴《しょうばん》に与《あずか》っている。
いるのだが。
「マ、マージョリーさん! 飲むのはその、いいですけどうひぇっ!」
「たたー助けてけてくれ、と今日は言えるえるのーで言うががが、助けてくーれれ」
「姐さん、ちょ、アブな!」
気分良く酔ったマージョリーがブックホルダーの掛け紐《ひも》を掴《つか》んで、グルグルとグリモア≠振り回しているのである。コンパ帰りの女子大生がハンドバッグで遊ぶ様に似てはいるが、振り回しているのは、まとめた画板ほどもあるグリモア≠ナある。破壊力が違った。
そこに意思を現しているマルコシアスとしては当然、たまったものではない。今日のマージョリーは、酒にか人にか戦いにか、特にご機《き》嫌《げん》らしく、いつもの倍の速さで振り回される。
「アッハハ、こ〜んな程度が避けられないよ〜じゃ、フレイムヘイズは務まらないわよ〜」
フニャフニャと締まりなく笑ってはいても、相変わらず眉《まゆ》根《ね》だけは険しく寄っているので、傍《はた》目《め》にはほとんどいじめっ子状態である。
佐《さ》藤《とう》はマルコシアスの叫びを耳元に通過させながら、なんとか返答する。
「お、俺《おれ》たちはフレイムヘイズじゃないですよ?」
「ええ〜、じゃ〜私がフレイムヘイズ〜?」
「そ、そりゃそうでしょ姐さわおっ!」
即死を免れ得ない打撃の風が、田《た》中《なか》の鼻先を通り抜ける。
「へっへえ〜、じゃ〜エ〜タはなーによ? も〜しかして、も〜しかすると、フレイムヘイズ? あっはっはっは!」
もう無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》である。席を外そうとすると、目を吊《つ》り上げて、
「な〜によ〜、人がせっかく故郷の酒を楽しく飲んでんのに、一緒に飲めないって言うの?」
と酔っ払いの常套《じょうとう》句で絡《から》んでくる。逃げようがなかった。
その内、節をつけて歌まで歌いだした。
「そ〜できるんならそ〜したい、もしできないのならど〜できる、♪」
伴奏はグリモア≠フ風切る音とマルコシアスの悲鳴。
「できなきゃできないできるかね、きみもできなきゃできぬはず、♪」
佐藤と田中は、拷問《ごうもん》を楽しめと強要されたような顔で、椅《い》子《す》に張り付いている。
「それともきみはできるのか、できずにきみはできるのか、♪」
一人高らかに、マージョリーは歌う。
眉《まゆ》根《ね》を険しく寄せた笑みを浮かべて。
悠《ゆう》二《じ》は風呂や宿題を済ますと、ベッドのシーツを伸ばして、ジャージを一揃え、その上に置いた。さらに押入れからもう一枚、毛布を取り出す。つい、苦笑が漏《も》れた。
(慣れたもんだな)
シャナが、散々引き止める千《ち》草《ぐさ》に、
「大丈夫、いいの。また明日」
と言って家を出てから、しばらく経《た》つ。
例によって、すぐそこまで送る悠二に、シャナは、
「鞄《かばん》、拾ってくる」
と言い置くと、どこかに行ってしまった。
悠二は、その言葉の意味を取り違えなかった。
やがて、悠二の作業が終わるのを見計らっていたように、ベランダ側の大窓が開いた。
鞄を持ち、薄い朱色のワンピースを着たシャナが、ずかずかと上がりこんでくる。
千草が、今洗っている制服の代わりに、と貸したその服はなぜか新品で、しかもサイズがぴったりだったりした。不機嫌を装った顔も、その色につられたようにわずかに赤い。
「いらっしゃい、お嬢さん」
「うるさい、うるさい、うるさい。もう寝る」
からかう悠二に、シャナは真《ま》っ赤《か》になって答えた。その前を横切って、当たり前のように、悠二が用意した自分の寝巻きであるジャージを取る。
そのとき、悠《ゆう》二《じ》の鼻に淡く、自分も使っているシャンプーの匂《にお》いがかかった。
さっきとは違う匂《にお》い。自分も馴染《なじ》んだ匂い。
それだけのことが、今、自分の傍《かたわ》らでジャージを広げて前後ろを確認している少女との距離を、近く感じさせる。触れることができる、触れることができた、その近さを感じて、悠二は不安と嬉《うれ》しさを混ぜたような、しかし奇妙《きみょう》に穏やかな気持ちになっていた。
その気持ちに胸を暖めながら、シャナを着替えさせるため、部屋を出てゆく。
「十分したら戻るよ」
「三分でいい」
会話とも言えない会話。しかし、今はもう、それだけでよかった。
「はいはい……あ」
悠二はふと、あることを思い出して、戸口で止まった。
「なに」
「大《おお》太《だ》刀《ち》、もう床に剌さないでくれよ」
「それは、おまえ次第」
「……」
「……」
二人は、どちらからともなく吹き出した。
マージョリーは歌の切れで突然、派手にぶっ倒れた。
「うわっ!」
「姐《あね》さん!」
持ち主に放り出されて床に落ちたグリモア≠ゥら、マルコシアスが言う。
「だいじょーぶだよ、ご両人。いつものこった。バタンキューで明日の朝、俺《おれ》に言うのさ。『頭の中のデカい鐘止めて〜』ってな」
「ほ、本当ですか?」
佐《さ》藤《とう》がグリモア≠床から拾う……というより、持ち上げる。よくもまあこんな重い物をブンブン振り回せたもんだ、と改めてマージョリーの怪力への驚きが湧《わ》く。
「ヒヒ、我が眠《ねむ》れる美女マージョリー・ドーにならともかく、俺《おれ》に敬語は止めろ、気色悪ぃ。タメ口でいいぜ」
「なんだか意外で……だな」
田《た》中《なか》が倒れたマージョリーの上体を起こした。その拍子に、スーツドレスのくつろげた胸元から豪勢な中身が覗《のぞ》きそうになった。慌《あわ》てて襟元《えりもと》を整える。
「な、なんというか、すごく強そうな雰囲気だったけど」
その荒々しい寝息は、ライターを近づければ炎《ほのお》になりそうなほど酒|臭《くさ》い。
「飲める酒量は普通だ。いろいろ無理してんのさ」
「いろいろ、か。気ぃ張り続けるってのは、疲れるもんだしな」
妙な実感を込めて田《た》中《なか》は言った。
佐《さ》藤《とう》が、こちらはグリモア≠抱え上げつつ、だらしなく緩《ゆる》んだ寝顔を見つめる。
「屋上で戦うとき、凄《すご》く怒ってたな。紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠チて奴《やつ》ら、マージョリーさんによっぽどひどいことしたんだろうな……あんな……」
(「徒≠ヘ全《すべ》て殺す、殺す、殺す、殺して殺して殺して殺して殺し尽くすしかないのよ!!」)
佐藤も田中も、あれほどに露《ろ》骨《こつ》で強烈な殺意を、声というものに感じたことはなかった。かつての自分たちのこと[#「自分たちのこと」に傍点]が、ほんのお遊びだったことを思い知らされる、本物の雄《お》叫《たけ》び。
「フレイムヘイズは復讐《ふくしゅう》者なんだろ。家族とか恋人とか、そんな感じか……よいせ」
田中はマージョリーを持ち上げ、ソファに運んだ。自分とほとんど変わらない背《せ》丈《たけ》の女性は、意外なほど軽くて、細くて、柔らかかった……酒臭いのは勘弁《かんべん》だが。ストレートポニーを乱さないよう気をつけてソファに寝かしつけると、わずかに艶《つや》っぽくむずかる。
「ま、光景としちゃ、最悪だったわな」
その傍《かたわ》らに置かれたグリモア≠ゥら、珍しく笑いを込めず、マルコシアスが言う。
「……見てみるか?」
二人の了解を待たず、グリモア≠フ縁《ふち》から、わずかに群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》が吹かれた。
途《と》端《たん》、
「ぅ!?」
「わ!?」
佐藤と田中の脳《のう》裏《り》に、一瞬の光景がフラッシュバックした。
砕《くだ》けた石|塀《べい》、焼け落ちた梁《はり》、濛々《もうもう》たる黒煙、煤《すす》と血に塗れた自分の腕が見えた。
目の前を、付近を、彼方《かなた》を埋《う》めるのは、ただ、赤い炎のみ。
その中、
眼前に一つだけ、
銀色に燃える狂気の姿がそびえ立っていた。
「――――――」
「――――――」
覆《おお》い被《かぶ》さるように手足を大きく広げ、銀の炎を巻き上げる、歪《ゆが》んだ西洋|鎧《よろい》。なにも持たない、その鎧の隙間からは、ザワザワと虫の脚のような物が這《は》い出そうとしていた。鬣《たてがみ》のように銀の炎を吹きあげる兜《かぶと》、そのまびさしの下には、目が、目が、目が、目が……!!
それらは全て、笑っていた。
嘲笑《あざわら》っていた。
「――っひ」
「――ぎ」
絶叫の寸前、
「バカマルコ!!」
バン、とグリモア≠ェ上からの手に叩《たた》かれ、光景が途切れた。
「あ、あんた、なに、勝手に……」
マージョリーは、酔いと怒りで舌が回らない。眼鏡《めがね》の向こうの瞳が、わずかに潤《うる》んでいた。
「いーのさ、いーのさ『酒で言いたいこともある』……おめえの口癖だろ。たまには俺《おれ》も、誰かさんの酒|臭《くせ》え息で、なにかを言いたくなったんだよ。我が怒れる淑女《しゅくじょ》、マージョリー・ドー」
佐《さ》藤《とう》は、あまりな臨場感と光景、それ自体に鳥肌を立てていた。
「い、い、今の、化け物が、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》=c…あれが、マージョリーさんの大事な人を」
「違う」
マージョリーが燃えるような息を吐《は》いて、声を打ち切らせた。
そしてもう一度、腕でなにかを拭《ぬぐ》うように、顔を隠しながら。
「違うのよ」
「……」
「……」
二人は、持った疑問を口には出さず、目線だけを交わした。
田《た》中《なか》が、マージョリーのことは見ぬふりをしてマルコシアスに訊《き》く。
「……さっきの奴《やつ》は、まだ?」
「ああ。俺《おれ》はあの後すぐに渡り来たはずなんだが、そいつとは接触できなかった。探すとしても、徒≠ヘこっちで好きに姿を変えるから、あの悪趣味な格好もあてにならねえし、そもそも銀の炎《ほのお》を持った徒≠ネんて聞いたこともねえ」
ふと、言葉を切って、穏やかに。
「ま、それでも探すのさ。今までも、これからも、一緒にな」
「……ふん……。バカマルコが優しい声で喋《しゃべ》ってる……酔い、かなり回ってるみたい」
「そうか、明日の朝は見《み》物《もの》だな、ッヒッヒ!」
見える口元だけでマージョリーは笑い返し、体の力を抜いた。ソファに沈み込む。
佐藤が、邪魔かとは思いつつも訊いてみる。
「マージョリーさん、別の部屋にベッドが余ってますけど、移りますか? その格好のままってのも……」
マージョリーの口は、今度は含みのある笑みを浮かべた。
「このままでいいわ。ベッドは駄目《だめ》」
「?」
「ベッドってのは、いろいろヤバいのよ。気持ちよさとか、雰囲気とか……もしあんたたちに迫られたら、殺しちゃう」
「しませんよ、そんな恐いこと」
「しようがないので断念しますんがっ!?」
佐《さ》藤《とう》が田《た》中《なか》の脇腹を肘《ひじ》で小突いた。
「……ジョークじゃないの。フレイムヘイズは、なにもかも強すぎて、力一杯抱き合うこともできやしない……強くないと生き残れない、けれど、そんな奴ほど長く、何百年も一人で……そういうものなのよ……」
「おいおい、そりゃねーぜ。我が麗《うるわ》しの酒盃《ゴブレット》、マージョリー・ドー。俺がいるだろ」
「はい、はい……ありが、と、私の、蹂躙《じゅうりん》――爪《そう》牙《が》=Aマル、コ……」
息|継《つ》ぎの中、かくり、とマージョリーの首から力が抜けた。
寝息が静かになるまで、誰も、なにも言わずに待った。
やがて佐藤が、向かいのソファに置かれていた毛布を彼女にかけた。グリモア≠ノ軽く手を上げて、部屋を出て行く。
その後に続いて、忍び足で部屋を出た田中が電灯を消すと、あとにはバーカウンターの、幻のような明かりだけが残された。
ドアの閉まる寸前、その片隅から小さく、声が聞こえた。
「安き眠《ねむ》りを、ご両人」
電灯の消えた、薄暗い部屋の中。
シャナは『一緒』という、その心地よさを、久し振りに、胸一杯に、感じていた。
頭までかぶった毛布の中で、悠《ゆう》二《じ》はどうだろう、と思っていると、その悠二が……大《おお》太《だ》刀《ち》を間に置かない、反対側の壁際で毛布に包まっている悠二が、躊躇《ためら》いがちな声をかけてきた。
「……シャナ」
「なに」
即答していた。なんだか自分が悠二の声を待っていたみたいで、むっとなる。
悠二はそれに気をとめた様子もなく、また言う。
「明日から、また手伝うよ」
「アラストールから、もう聞いた」
ことさらに素っ気なく返した。拒絶ではないことは、たぶん分かってくれる……と思う。
悠二はまだもぞもぞと、なにか言いにくそうに、次の言葉を準備している。
「…………」
「…………」
じれったい。言えば、すぐ答えるのに。
それとも、なにか嫌《いや》なことだろうか。悲しいことだろうか。
そんなことを思う自分が少し臆病《おくびょう》になった気がして、また、むっとなる。
早く言って欲しい。
「…………シャナ」
わずかに震えのある真剣な声を受けて、予想外に強い動《どう》悸《き》が胸を一打ちした。
「なに」
こっちの声に動揺が出なかったろうか、と心配するが、悠《ゆう》二《じ》はそれどころではなさそうだ。なにを言おうとしているのか、ますます不安になる。
何秒か何分かの間を置いて、ようやく悠二が声を搾《しぼ》り出した。
「僕、役立たず、かな」
「……」
即答できなかった。
あんまり、
あんまり、馬鹿らしくて。
だから、
「馬鹿」
とだけ答えた。
悠二は、分かってくれた。
「……ありがとう、頑張るよ」
「うるさいうるさいうるさい。安眠|妨害《ぼうがい》よ」
思わず言い返して、毛布の中で悠二に背を向けた。そのまま意味もなく体を転がして、毛布にグルグル巻きになってみる。
悠二が言葉にか動作にか、少し笑った気がした。嫌な気分ではなかった。
その笑みを端《はし》に引っ掛けるような、声が。
「うん、ごめん。おやすみ」
毛布がゴソゴソしている。本当に、もう眠《ねむ》るようだ。
だから自分も、毛布の中、唇《くちびる》だけで、
おやすみ。
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5 今日という日は戦い
朝の街路を、シャナが意気揚々と登校する。綺《き》麗《れい》に糊《のり》付けされたセーラー服を心地よい朝の風に翻《ひるがえ》し、その足取りも軽やかに。
その横を歩く坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の方は、実は結構ヘコんでいる。どっちが張り切りすぎたのか、その日の早朝|鍛錬《たんれん》で、彼は見事なまでにボコボコにされたのだった。
シャナとしては「やっと」、本人としては「ついに」、本気を出して臨んだ結果が、最悪だった昨日と大して変わらなかったりするのだから、ヘコむのも無理からぬところではある。
その鍛錬の最後、地面に倒れた悠二は、かなり往生際《おうじょうぎわ》の悪い台詞《せりふ》を吐《は》いた。
「……今日、いきなり進歩すれば、かなり格好良かったんだけど」
それに対するシャナの返答は、
「そう簡単にできたら、誰も苦労しないわよ」
という、全くもって、ごもっともなものだった。
ちなみにその様子は、例によって見物していた坂井|千《ち》草《ぐさ》によって端的《たんてき》に表現されている。
「あらあら、格好悪いわねえ」
あらゆるものへの格好良さを憧《あこが》れ目指す『少年という生き物』としては、この言葉はかなりこたえるわけだが、それでも悠《ゆう》二《じ》は、昨日までのような虚脱《きょだつ》状態には陥らなかった。
それを気にしなくなった……いや、実はかなり気にしてはいるのだが……ともかく、その事実を認め、受け入れられるだけの神妙な気持ちが、彼の胸の中には生まれていた。
(まあ、僕も、本当に子供だったってことなのかな)
悠二は、昨日までの自分を思い返す。
なぜ、嫌いでないはずの彼女との全《すべ》てに、気の張りを持てなかったのか。
なぜ、いつも想っている彼女と一緒にいることを、拒んでしまったのか。
鈍い頭を必死に使い、多くの事柄を編み上げることでようやく得たその答えは、しかしあまりに馬鹿らしくて、情けなくて、ひどいものだった。
そう、
シャナの前で、いい格好がしたかったのだ。
(……我ながら、なんて恥ずかしい奴《やつ》……)
悠二は、今それを思う自分が赤面していることさえ感じた。
自分に自信が持てない、その事実と責任を全て彼女に押し付け、自分は無気力の倦怠に逃避していたのだ。甘えと言われてもしようがない。
彼女にいいところを見せたい、でもそれができない、そのことにいじけ、拗《す》ね、彼女を拒んでしまったのだ。完全な八つ当たりだった。
その結果が、昨日のざま。
悠二は、その(主観的には結構長い)人生の中で、こんなに自分のことを恥ずかしいと思ったことはなかった。穴がなくても自分で掘って入りたい気持ちだった。
子供っぽい見栄、それに恐らくは、強い彼女への嫉妬《しっと》。
いざ気付き、見《み》据《す》えた、それらの感情のなんという無《ぶ》様《ざま》さ。
しかし、それをようやく越えるだけの『自分の展望』ができたこと、それ自体には素直な喜びがあった。なによりも、シャナのためにそれができたことを嬉《うれ》しく思った。
「シャナ」
悠二は、その自分の気持ちを確かめるように声をかけていた。
「なに」
傍《かたわ》らを歩くシャナの口調は、いつもと同じ、ぶっきらぼうなもの。振り向きもしない。
しかし、その横顔は笑っていた。悠二も楽しいに違いない、という明るさを朝の光に負けないほどに浮かべて、彼女は笑っていた。
「今日は、どうするつもりなんだ?」
悠《ゆう》二《じ》も、その明るさに照らされるように、自然に笑い返していた。話題はどうにも色気のない実務的なことだが、それはそれで、自分たちらしくていいとも思う。
「そうね。向こうは、昨日と同じパターンで来ると思う」
「昨日……ああ、まず気配を探る自在法を使うってことか」
「うん」
シャナは悠二の理解が早いことを喜ぶ。今朝はそれがストレートに顔に出る。
悠二は今、改めてその様子を見て……全く今さらのように気付いた。
シャナという少女が、とても可愛《かわい》いということに。
その唐突な再認識に、悠二は本当に今さら、彼女と一緒にいることに、彼女を見つめていることに、照れを感じた。しかし、目を離せない。呆《ほう》けたように、その横顔に見《み》惚《と》れる。
シャナは、そんな悠二の内心も知らずに続ける。
「だから、それが始まってから動けばいい。幸い、あの自在法はこっちにも効果を分けてくれる。ラミーが引っかかった場所を察知したら、そこに向かって駆《か》けっこする……」
悠二が自分を見ていることにようやく気付き、顔を向ける。
「……なに?」
その、いつもの詰問調ではない、笑顔での軽い問いに、悠二は居《い》眠《ねむ》りを覚まされたように慌《あわ》てた。
「え、え、いや!」
彼女の言っていたことを、必死に記憶から汲《く》み上げて答えを繋《つな》ぐ。
「そそ、その駆けっこ……の途中で、戦闘狂をつかまえて決戦、ってことだよな」
シャナは、悠二の様子に少しだけ怪《け》訝《げん》な顔をしたが、深く追及はしなかった。
「……? うん、始まったら忙しくなる。おまえも覚悟しときなさいよ」
「わ、分かった」
「よし」
シャナはまた頷《うなず》いて、前を向く。
悠二は再び、今度は夢に落ちないよう気をつけて、その少女の横顔を見た。
眩《まぶ》しい、と感じる。
しかしもう、見栄っ張りの反感は抱かなかった。安っぽい嫉妬《しっと》も湧《わ》いてこなかった。
ただ、
(この子のために、強くなる)
その気持ちが、心の奥底で静かに燃えていた。
(……まあ、なかなか進歩しないけど……)
悠二はいつの間にか、今朝の惨敗さえ、自分の活力になっていることを感じていた。
二人が行く朝の街路は、シャナの笑顔のように爽《さわ》やかで、明るい。
その頃、彼らが迎え撃つ敵、
蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアスのフレイムヘイズたる『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドーは、床の上でのた打ち回っていた。
「うあ〜、駄目《だめ》〜、もう死ぬ〜、いっそ殺して〜、マーガレットにジャイルズにクレメント、み〜んなして頭の中で〜鐘鳴らしてる〜、う〜、あう〜」
朝日が容赦《ようしゃ》なく射す部屋の中、マージョリーは蓑虫《みのむし》のように毛布に包まって、ソファとテーブルの間をゴロゴロと往復する。この『弔詞の詠み手』の有様を見て、彼女に力を与える紅《ぐ》世《ぜ》の王<}ルコシアスはグリモア≠フ中から大笑いした。
「ヒッヒヒ、いー薬、いや毒か。ま、どっちにしろ清めの炎《ほのお》はしばらくお預け。しばらくそーしてろ、我が酔いどれの天使、マージョリー・ドー!」
「うう〜、バカマルコ殺す〜、でも死ぬ〜、殺して〜死ぬ〜死んで〜殺し〜あ〜う〜」
うめく彼女の傍《かたわ》らのソファには、いつ脱いだものか、スーツドレスが無造作にかけてあった。
つまり現在、彼女は下着姿ということになる。しかし、『寝起きの美女』の姿を大いに期待して部屋に入ってきた佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》と田《た》中《なか》栄《えい》太《た》が実際に目にしたのは、酒|臭《くさ》い息を吐《は》いて床の上で横回転を続ける『怪奇・蓑虫女』だった。二人の期待したお色気シチュエーションから、これでもかというほど容赦なくかけ離れた光景である。
「……こりゃ、しばらくは駄目か」
酔い止めの薬を持ってきた佐藤が、この蓑虫のツイストを見てため息をついた。
その横では、田中が朝食のカップ麺《めん》を立ったまますすっている。
「ン〜、放っとくわけにもいかねえし……なあ、もういいだろ、マルコシアス?」
「駄目だ、駄目だ。甘やかすと、また今日の晩もあーなるぞ、ヒッヒッヒ!」
「そりゃ勘弁《かんべん》」
「田中に同じ」
優しさは、身の安全の前に一瞬で敗北した。
「う〜らぎりもの〜、あとで〜、殺して〜、あう〜死ぬ〜」
登校ラッシュからかなり早い、朝の御《み》崎《さき》高校。その一年生教室の廊下で、メガネマン池《いけ》速人《はやと》が携帯電話に向かって叫んでいた。
「え、どーゆー意昧だよ。そんなことより、おまえら……急用? ならノートくらい届け……だから埋《う》め合わせとか、そーゆー問題じゃなくて、あ、こら、おい!」
切られた。めげずにリダイアルを押すと、通話中。受話器を外《はず》したままにしてしまったらしい。二人は携帯電話を持っていないし、あの馬鹿みたいに広い家には、なぜか一つしか電話がない。これで連絡はシャットアウトだった。
古い家ってのは変なところで非効率的なんだから、ったく、と憤慨《ふんがい》する。
「……佐《さ》藤《とう》君と田《た》中《なか》君、今日もお休みなの?」
心配そうな顔をした吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》が教室から出てきた。彼女もかなり旱めに登校してくるので、朝はよく話をする。大半は勉強のことというのが、池《いけ》としてはなんとも味気ないが。
「うん。なにか大事な用があるらしい」
まず、田中の家に電話をかけると、佐藤の家に泊まったという。その際、お母さんから、『宅の栄太に、佐藤家の狂犬から離れるよう説得して』と頼まれたが、あいにく池には狂犬などという知り合いはいないので、その頼みは無視して佐藤に連絡を取った。ところが佐藤も、わけの分からない急用のため、今日も休むという。
「……古文、今日は小テストあるけど、大丈夫?」
吉田は、池とは話しやすいらしく、坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》に対するときと比べると、口調ははるかに滑《なめ》らかである。これも、池としてはなんだか、そこはかとない悲しさを抱いたりする。
「う〜ん、テスト自体は困らないと思うけど、授業でとったノートをまた写し直すのが面倒なんだよな」
「じゃあ……佐藤君たちに写してもらったら?」
「だめだめ。あいつらの字じゃ、ノートが暗号帳になる」
くすくすと吉田が笑った。
その、他者の微笑を誘わずにいられない柔らかな笑みを見て、池は思う。
昨日のデートは上手《うま》くいったんだろうか。笑顔には、特に影があるようには見えない。しかしあの野暮《やぼ》天《てん》が、しかも落ち込んだ状態で、彼女に気をつかうことは難しいだろう。まずはデートに行くという既成事実を作ることで、今後の彼女の心に弾みがつけられればと思って行かせたのだが云々《うんぬん》……。
お節介《せっかい》精神全開状態の池を、いつの間にか吉田が怪訝《けげん》な顔をして見ていた。
「……池君?」
「え、いや、なんでも……おっと」
廊下の隅から一人、大人《おとな》が曲がってきたのを見て、池は持ったままだった携帯電話をポケットに隠した。校則上の建前として、携帯電話は禁止である。
まだ朝の喧騒《けんそう》もない静かな廊下を歩いてくるのは、取り立てて特徴のない中年男性……まあ、教師に違いないだろう。それ以外で、こんな場所をこんな時間に通る者は、まずいない。
(あまり見ない先生だな)
と池は思いつつも、如才《じょさい》なく会釈する。その隣で、こっちは純粋に礼儀として、吉田が深くお辞《じ》儀《ぎ》をしている。
その中年男性は鷹揚《おうよう》に、おはよう、と言って通り過ぎた。
「おはようございます……?」
答えた吉《よし》田《だ》は不思議な違和感を覚えて、廊下の向こうへと歩いてゆく、その男性の背中を見た。人相に見覚えはなかった(といっても、彼女は人の顔を見るのがすごく苦手なので、チラリとしか見ていないが)。なのに、初めて会ったような気がしなかった。
まるで、知っている人が別の顔をしているような……そんな、不思議な違和感だった。
それから少し後、平《ひら》井《い》ゆかりが坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》と一緒に教室に入ってきたとき、クラスメートたちは、なにかの――なにか、の例を挙げれば、おそらくは『悪い』ということになるだろう――冗談《じょうだん》だと思った。
それも当然の受け取り方だったかもしれない。『朗《ほが》らかな用心棒の先生』がいたら、誰だって薄気味悪く思うというものだ。昨日が昨日だったから、これが余計に引き立ってしまって、その場だけを見れば彼女は可愛《かわい》い、という事実[#「事実」に傍点]は、あっさりと見過ごされてしまった。
ともかくもそういうわけで、彼女が朝の教室で一番最初に遭遇したクラスメート、池《いけ》速人《はやと》にかけた、
「おはよ」
という挨拶は、銃口付きの『手を挙げろ』よりも恐かったりしたのだった。
池は冷静沈着で頭脳|明晰《めいせき》な人格者という、嫌《いや》味《み》なまでにいい男だったが、その彼をして、
(さては、昨日僕が二人のデートをセットアップしたことで、なにか報復でもあるのか?)
と見当違いな危機感を抱かせてしまうほどに、今日の彼女の様子は異常だった。
「はっはっは、いい気味だ。でもたまには素直に受け取れよ」
と坂井悠二が意地悪く、なぜか優越感に浸《ひた》った笑いとともにフォローしてくれなければ、彼は一日、ギロチンに首を固定された放置プレイの気分を味わっていたことだろう。
その池を始めとする、見当違いな恐怖と戸《と》惑《まど》いに揺《ゆ》れるクラスメートたちの中で、彼女の変化、その意味と理由をただ一人直感できたのは、当然というべきか、吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》だった。
(仲直り、したんだ)
昨日ケンカしていたのが今日これなのだから、常識で考えれば当たり前の結論ではあった。
それを混乱させているのは、ひとえに平井ゆかりの独特な個性が、吉田だけはある意味、彼女のそういう部分も含めて、対等な立場から見つめることのできる、唯一の人間だった。
それが彼女にとって幸いであるとは限らないが、しかし彼女は、平井ゆかりに宣戦布告したときから、悠二に関することだけは強気になろう、と決心していた。そうさせるだけの気持ちがあった。
今日の二人の様子を見ても、
(もっと、頑張ろう……)
と思えるほどに。
そんな張り切る彼女をよそに、クラスは瀑《ばく》布《ふ》にたらい舟で挑むようなスリルを持って、始業のチャイムを聞く。
昼なお暗い、旧|依《よ》田《だ》デパートの上層階。
玩具《おもちゃ》の山の中に広がる箱庭『玻《は》璃《り》壇《だん》』の中心、つまり、このデパートの模型の上に、佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》が背中合わせに立っていた。二人で眼下の御《み》崎《さき》市全域を見渡す格好である。
<<ケーサク、エータ、聞いてるわね>>
彼らの傍《かたわ》らに点る群青《ぐんじょう》の松明《たいまつ》から、昨日同様、屋上にいるマージョリーの声が響いた。結局、昼前まで蓑虫《みのむし》のツイストを踊らされたため、その声色はすこぶる険悪である。
<<昨日はいきなり変なガキンチョが来て、みんなメチャクチャになったから、今日は先に説明しとくわよ>>
その報復としてグリモア&S連回転の刑にあったマルコシアスは、今は静かにしている。
佐藤、田中両名も、頭に拳骨《げんこつ》を一発ずつもらっていたが、こっちはかなり手加減されたようだ。思い切り撲《なぐ》られたら頭がなくなっていただろうから、当然ではある。
「は〜い」
「へへ〜い」
<<シャキッとする!>>
不意な叱声一鞭《しっせいいちべん》、背筋が伸びる。
「はいっ!」
「はいい!」
<<よし。まず、普通に徒《ともがら》≠追う場合は、昨日みたく気配察知の自在法で大体の位置を測る。並の徒≠ネら、この察知した方向に進んでいけば、すぐに気配が引っかかるんだけどラミーの奴《やつ》はトーチに寄生してるせいか、それが極端に弱い。かなり近付かないと駄《だ》目《め》なの>>
ふむふむ、と概《おおむ》ねフィーリングで頷《うなず》く二人。
マージョリーは、やや不安げな間を取って、続ける。
<<……それに、奴はそうやって気配を察知した途《と》端《たん》、全く別の場所に移動してしまうのよ>>
「飛んで逃げた?」
佐藤が訊《き》くが、マージョリーは、いいえ、と返す。
<<普通の移動方法なら、こっちが近付く間に、その気配をとらえられないわけがない。一度、頭に来て、気配察知を間を置かずに十連発したら、全部が全部、違う場所で反応したのよ、信じらんない>>
呆《あき》れと怒りが声にこもる。
<<大体の位置はつかめるのに、いざ手を触れようとすると必ず逃げられるってわけ>>
「察知されたらテレポート〜、とか……無理かな」
田《た》中《なか》の意見にも、否定の答えが返る。
<<でかい力を使えば、できないこともないとは思うけど、そこまで世界を捻《ね》じ曲げる無《む》茶《ちゃ》な自在法なら、かえってその発動で察知は容易《たやす》くなるはず。とにかく、普通に考えられるだけのことは考えたの>>
「素人《しろうと》の思いつきは、やっぱ無《む》駄《だ》か」
「頭良い方じゃねえしな、俺《おれ》たち」
二人の自嘲《じちょう》を、マージョリーがぶっ飛ばす。
<<でも、今回は違うわ。なんたって、あの祭礼《さいれい》の蛇《へび》≠フ秘宝『玻《は》璃《り》壇《だん》』があるんだもの。今日こそ、その鬱陶《うっとう》しいからくりを解いて屍拾《しかばねひろ》い≠狩り出してやるわ。二人とも、よく見てるのよ。マルコシアスも、いいわね>>
ようやく、マルコシアスも口を開く。
<<あいあいよ〜、我が尖鋭《せんえい》なる剣、マージョリー・ドー>>
<<さあ、ケリをつけるわよ!>>
箱庭に、彼らを中心とした群青《ぐんじょう》の波《は》紋《もん》が広がる。
四時間目、日本史の授業中、
「来た」
いきなりシャナが咆《ほ》えるように言い、立ち上がった。
「よし」
臨席[#「隣席」の誤り?]の悠《ゆう》二《じ》は頷《うなず》いた。待ち構えてさえいた。ようやくだ。張り切っていたせいか、自分もわずかに、その反響するなにかを感じた。近い気がする。しかしとりあえず、
(……え〜と……)
悠二は、視線だけで左右を眺める。
教壇に立つ日本史の教師やクラスメートたちが、突然立ち上がったシャナに、もう何度目かという驚きと戸《と》惑《まど》いの視線を注いでいる。
そのシャナは、あらかじめ悠二に教えられていた台詞《せりふ》を言い放つ。
「お腹が痛いから早退するわ。坂《さか》井《い》悠二に送ってもらうから」
傲然《ごうぜん》と胸を逸《そ》らし、朗々たる声を響かせて。
(あ〜〜、ま、最初から演技力には期待してないけど)
諦《あきら》めのため息をつきつつ、悠二は机上の物を鞄《かばん》に突っ込む。帰る用意はあらかじめしてあったので、十秒で撤収《てっしゅう》準備は完了。席を立ち、悪びれもせず言う。
「それじゃ先生、そういうことで」
シャナが、立ち上がったその場で待っていた。
昨日とは違う。
悠二はしっかりと言った。
「お待たせ」
シャナもしっかりと答える。
「うん」
ぽかんと口を開けて見ていた日本史の教師が、そのやりとりで我に返った。
「お、おい、坂井……」
シャナが教師に目を向け、声を切らせた。昨日の険悪な雰囲気はない。常の平静さだけがあった。悠二に代わって、返答ではない言葉をかける。
「長い名前は、丸暗記させるんじゃなくて、その意味や由来を解説した方がいい。他《ほか》は、まあまあ流れを把握させる努力があって良かったわ」
「そ、そうか」
平《ひら》井《い》ゆかりの変化……つまりシャナの出現以降、初めて彼女と授業内容の勝負を始めたことで、生徒たちの高評価を密かに得ているこの青年教師は、受けた指摘を律《りち》義《ぎ》にメモに取った。
そしてその間に、悠《ゆう》二《じ》とシャナは教室から姿を消していた。
(……なんなんだろう……)
教室の隅で、悠二たちが出てゆくのを見送るしかなかった吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》は、彼らが時折見せる不思議な繋《つな》がりの姿に、胸の痛みを覚えた。助けを求めるように、つい池《いけ》を見てしまったが、さすがのメガネマンも、これにはただ肩をすくめて返すだけである。
(……ときどき二人で、二人だけで)
不安と羨望《せんぼう》を感じて、その弱気を自覚して、厳しさも不利も理解して、それでも彼女は想いのままに強く、誓う。
(頑張ろう、うん、頑張ろう)
彼女だけの、彼女なりの戦いは、まだまだ続くのだった。
ところで、
池はこの後、吉田が用意していた悠二の弁当を代わりに貰《もら》えた上、彼女と二人だけで昼を過ごすという特典にも与《あずか》ったため、個人的には出て行った二人に感謝することになる。
いつかのように、いつものように二人は廊下を走っていた。
開き直りに近い悪度胸が、もう板についてしまったことを嘆きつつ、悠二は言う。
「言い訳にも、もう少し芸がないと駄《だ》目《め》だな。なにかうまい手をちゃんと考えないと」
飛《ひ》燕《えん》が風切るように併走するシャナは、平然と答える。
「やることに変わりはない。気にした方が負けよ」
「とは言っても、学生にも結構、しがらみってものがあるんだよ。シャナだって、僕の母さんには怒られたくないだろ?」
「……」
「それで、どこに向かってるんだ? ラミーは見つけたんだろ?」
「うん。駆《か》けっこはこっちの勝ちが確定したみたい」
「そういや、今もなんだか近い感じがしてるけど」
「当たり」
シャナはやはり隠さず、強く笑った。玄関ホールで素早く靴を履き替えると、逆戻りしてその手前にある階段を駆け上がる。御《み》崎《さき》高校は、一年生一階、二年生二階、三年生三階と、非常に分かりやすい教室分けをしている。
外ではなく上に向かう、この意味に悠二は気付いた。
「まさか、学校の中?」
「そう」
シャナは、遅れがちな悠《ゆう》二《じ》にギリギリ速さを合わせて、階段を駆《か》け上がる。そしてその最後に立ち塞《ふさ》がる四階屋上出口のドアを、勢いに任せて蹴《け》り破った。錆《さ》びた鉄のドアが、網入りガラスもろともひん曲がって開く。
「ここよ」
悠二は薄暗い階段に突然空いた開口部に目を細め、シャナの後を追って屋上に飛び込んだ。
いつもドアが閉まっているので来たことのない屋上は、だからといって特別変わった光景があるわけでもなかった。古びたコンクリの床と、塗装の剥《は》げ落ちた金網のフェンス、ひび割れに細く生えた雑草、そして、空。
その、鍵が閉まっていたはずの屋上に、先客がいた。
屋上の真中に立つ、これといった特徴のないスーツ姿の中年男性。
しかし悠二は、その男が持つ違和感のイメージに覚えがあった。
「あんた、ラミーか」
男は悠二を見て笑った。再会を喜ぶ笑みだった。
「そうだ、坂《さか》井《い》悠二。仲直りができたようでなによりだ」
ラミーは目線をシャナに移す。
そのシャナが、ぶっきらぼうに訊《き》く。
「あんたが、屍拾《しかばねひろ》い=H」
「そうだ。初めまして、『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》の討ち手』。それともシャナと呼ぶべきか」
「シャナでいい」
「そうか」
ラミーはわずかに悠二を見てまた笑い、さらに目線を移す。シャナの胸元にあるペンダントコキュートス=Aその中に。
「久方振りだ、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》=Bどうにも、大変な迷惑をかけた」
「構わん。我らの方こそ、庇《ひ》護《ご》下にあるミステス≠ェ下らぬことで世話になった」
渋《しぶ》い顔をする悠二に、ラミーは言う。
「昨日のお節介《せっかい》の結果がどうなったか、見届けておきたくてな。トーチ摘《つ》みのついでと来てみた。眠《ねむ》り姫の様子も確かめたぞ。良い子だ、泣かせるな」
「なんの話?」
悠二はギョッとなって、できるだけシャナと目を合わせず、アラストールに言う。
「ア、アラストール、あのことは話してないのか?」
「どう話せというのだ」
「だからなんの話よ、二人してこそこそと?」
ラミーは、そんな彼らのやり取りに笑みを深め、後ろへと下がる。
「ふ、まあこれで、見るべきものは見た。そろそろ行くとしよう。まごまごしていたら、あの戦闘狂たちに捕まってしまう」
「大丈夫か?」
悠《ゆう》二《じ》の心配気な表情にラミーは笑いかけ、確たる答えを返す。
「案ずるな、坂《さか》井《い》悠二。これまでも上手《うま》く逃げてきた。これからも上手く逃げる。望みを果たすまでは、そう簡単には死ねない」
「じゃあ、私たちはケンカ相手を捕まえることに専念しようかな」
「そうしてもらえると助かる」
またラミーは後ろに下がる。
「では、因《いん》果《が》の交叉路で、また会おう」
「あ、……」
悠二が別れの言葉を言う前にラミーはその姿を火の粉《こ》に変えた。
風に吹き散らされ、消えた火の粉は、深い緑色をしていた。
箱庭では、田《た》中《なか》と佐《さ》藤《とう》が全身に冷や汗をかいていた。
(御《み》崎《さき》高かよ)
(ちょっと……シャレにならんなあ、これは)
自分たちの生活の一部に抜け抜けと紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ェ入り込んでいる、その証拠が、気配察知の自在法によって暴かれていた。
最初に察知し、波《は》紋《もん》を広げた場所は、市立|御《み》崎《さき》高校の屋上だったのだ。
マージョリーの言うところによれば、屍拾《しかばねひろ》い≠ヘトーチしか喰わないそうだが、それでも、もし坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》や池《いけ》速人《はやと》、吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》、小林《こばやし》、笹元《ささもと》、宮本《みやもと》、中村《なかむら》、谷川《たにがわ》……他のクラスメートたちが実はトーチで、今まさに喰われつつあるかもしれない、そう思うと気が気ではない(実は、佐藤が池との電話を早々に切ったのも、そうだったらどうしよう、という不安の表れだった)。
なにより二人が恐怖しているのは、自分たちの知っている人間が、いつの間にか世界からその存在を欠落させること……自分たちが、その人間がいなくなったことにも気付かず、いたことも忘れてしまう、という事実だった。自分の居場所を、自分が居ることを、若すぎる形で周囲に叫んでいた彼らであればこそ、その恐怖と危機感はより強かった。
彼らがラミーを憎むのは、全く当然のことだった。
その彼らに、マージョリーが松明《たいまつ》を通して怒《ど》鳴《な》る。
<<たぶん、そっち向かっても無《む》駄《だ》ね。次の気配察知、行くわ。妙なことが起きてないか、よく見ときなさいよ>>
「姐《あね》さん、さっき同じ場所で反応したの、昨日姐さんを襲った[#「襲った」に傍点]フレイムヘイズでしょう!?」
「そいつは放っといてもいいんですか?」
ついさっき、気配探知の力が波《は》紋《もん》のように御《み》崎《さき》市に広がったとき、波紋を揺《ゆ》るがす障害物が二つ、同じ高校内で反応した。小さな一つはラミーで、大きなもう一つは、どういうつもりか知らないが、昨日徒《ともがら》≠フ側に付いてマージョリーを邪魔した、変な[#「変な」に傍点]フレイムヘイズだった。
そのフレイムヘイズが、狩人《かりうど》≠ニかいう徒≠倒してこの街を救ってくれたらしいことは、知識として得てはいても、実感としてはまるでない。忘れたも同然に、頭から抜け落ちていた。今彼らの前にいるマージョリーの挙動こそが、彼らの価値観の基準点だった。
<<放っときなさい、あんな雑《ざ》魚《こ》。ノコノコやって来たらぶっ飛ばすだけよ。それより、鬱陶《うっとう》しいラミーのクソ野《や》郎《ろう》を噛《か》み千《ち》切《ぎ》る方が……先!>>
マージョリーの気合と共に、再び群青《ぐんじょう》色の波《は》紋《もん》が箱庭の上に広がる。それはビルの凹凸を縫《ぬ》って走り、やがて全く思いもよらない市街地の外れに反応を表した。さっきのフレイムヘイズは、そのままいるというのに。
<<ふん>>
<<やっぱり、思いっきりみょーな方向だな>>
「どういうからくりなんだ?」
予想通りの、どうにも奇妙《きみょう》な結果に、マージョリーとマルコシアス、そして田《た》中《なか》がうなる。
と、田中に背を合わせている佐《さ》藤《とう》が、気付いた。
「? ……田中、いや、マージョリーさん」
<<なによ>>
「あの……この『玻《は》璃《り》壇《だん》』って、トーチを映すんですよね」
<<そーよ、今さらなに>>
「トーチってのは、人間の存在の力≠フ残り滓《かす》なんですよね」
まだるっこしい言い方にマージョリーは苛《いら》立《だ》ち、先を促《うなが》す。
<<そーよ、しつっこいわね。だからなんなのか、はっきり言いなさい>>
「今、『琉璃壇』に、鳥が映ってるんです」
<<鳥?>>
映るわけがない。今、『玻璃壇』は、人間の存在の力≠セけを映し出しているのだから。
「それも、たくさんです……学校の周りから」
「本当だ……なんで?」
田中も見た。
御崎高校の周囲から、一羽、二羽、さらにさらに何羽も、間を空けて疎《まば》らに、しかし一つ動きとして、鳥が飛び立っていた。
<<……ん、……んふ、ふふふ>>
松明《たいまつ》の向こうから、マージョリーの深く愉快気《ゆかいげ》な笑い声が響いてきた。
<<ふ、ふふ、なるほど……で、鳥は、どこに向かってるの?>>
二人はその鳥の群れが目指す先を見る。
そこは……
シャナは、自在法の波《は》紋《もん》が再び自分を通り抜けた感触に、怪《け》訝《げん》な声を上げた。
「なに、あの戦闘狂、もう一度使った?」
「……?」
悠《ゆう》二《じ》は、ふと、疑問を持った。
アラストールが、遙《はる》か彼方《かなた》に再び現れたラミーの気配に驚嘆する。
「なんという速さだ、ラミーめ。もう市街の向こうまで移動している。特殊な自在法か?」
同じく、その遠さを感じたシャナが屋上から遠く、市街を見て言う。
「なるほどね、こんなに足が速いのなら、捕まるわけないか……でも、こんな調子で振り回し続けてたら、戦闘狂もあっちこっち飛び回るんじゃないかな。追いかけるのも一苦労ね」
「自在法を使いすぎるか、飛び回って疲れるか、いずれにせよ、ラミーの方に分があるな。本来ならば、その疲れを討つのが定石《じょうせき》だが」
「それだと、なんか面白くない。下手《へた》に待ちすぎて、トーチを無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》に消費されたらたまんない」
その、二人の会話に、小さな呟《つぶや》きが加わった。
「……妙だな」
途《と》端《たん》、シャナとアラストールは、呟きの主・悠二に注目する。いざというとき、悠二の頭は切れる。もうこれは、二人の共通認識になっていた。本人には決して言わないが。
シャナがワクワクする気持ちを隠して、できるだけ平淡な声で訊《き》く。
「なに」
「さっきのラミー、そこにいる違和感……気配って言うんだっけ、それを少し感じたんだ。一階と屋上、けっこう離れてたのに」
「……? 場所を特定するわけでもなし、その程度、感じて当然でしょ」
シャナは十日ほど前に、悠二がフリアグネの接近を感知したのを見ている。
ところが悠二は、まさにそうだったからこそ、奇妙《きみょう》さを感じていた。
「僕は昨日、初めてラミーに会っただろ。そのときは、実際に目で見るまで、なにも感じることができなかった。そこにいるのを見て初めて、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠セって分かったんだ」
「それで?」
シャナは、ただ先を促《うなが》す。
「ラミーは、昨日、シャナが負けたことも知ってた。なら今日、戦闘狂たちの気配察知が来ることも分かってたはずだ。なのに、昨日よりも気配が大きいなんておかしいじゃないか。相手を疲れさせるためってのも、気配を消せるんなら、やる意味なんてない。アラストール、さっきラミーが街の反対側にいきなり移動した、って言ったよな?」
「うむ」
とアラストール。
「そいつは、さっき見たラミー[#「さっき見たラミー」に傍点]と同じくらいの気配の大きさで、全く違う場所で、気配察知に引っかかってる……もう一度やったら、また別の場所で引っかかるんじゃないかな」
「気配察知に引っかかっているのは、囮《おとり》だと言うのか?」
アラストールは、この少年の着眼点に、やはり密かに驚嘆した。
そういえば、ラミーはトーチの中に寄生する、特殊な徒《ともがら》≠セ。優れた自在師でもある。その彼の特殊な自在法というのが、実は移動などではなく、囮を使うことだとしたら。
「たぶん戦闘狂は、そうやってかわされ続けて来たんだと思う。ラミーは、ずっとつけ回されている、って言ってた。素早く動けるなら、なぜ、逃げ切れなかった[#「逃げ切れなかった」に傍点]? それはラミーが、全体としては動いていない[#「全体としては動いていない」に傍点]ことを意味しているんじゃないのか?」
さすがのアラストールが、納得の唸《うな》り声を上げた。
「むう……なるほど、たしかに素早い移動などよりも、辻棲《つじつま》は合うな」
「あいつらは二つ目の気配に向かったのかな」
シャナが、だんだん心中を隠しきれなくなってきた。また遠くの、スモッグに曇る市街の方角を見た。今すぐにでも飛び出したかった。悠《ゆう》二《じ》を連れて。
その悠二は首を振る。自分で出した結論に焦燥感《しょうそうかん》が湧《わ》き上がっていた。
「……いや、今までさんざん振り回されてるはずなのに、今日に限って二度しか気配察知を使わないってのは、おかしい」
「じゃあ、なにか状況に変化が……?」
「うん、たぶん」
悠二は頷《うなず》きつつ思う。
自分が昨日出会ったラミー。周囲への気配を完全に断っていた存在。おそらくは、それこそがオリジナル。彼は今、どこにいるのか。心当たりは……ある。
「詮索《せんさく》は後だ。市街に向かおう、シャナ。下手《へた》をすると、すぐにでも戦闘が始まる。アラストール、ラミー自身の戦闘力は?」
「自身の存在たる気配を感じさせず、持てる存在の力≠焜gーチに寄生する身だ。ないに等しいだろう」
「やっぱり。早く行こう!」
「――ん」
「シャナ?」
悠二は怪《け》訝《げん》な顔をシャナに向けた。彼女のことだから張り切って走り出すと思ったのに、どういうわけか今、その表情には迷いの色がある。
「〜うん、急ぐ」
短く、無愛想《ぶあいそう》に答えて、シャナは悠《ゆう》二《じ》に背中を見せた。彼女の向いた先は、出口ではなく、市街方向のフェンス。鞄《かばん》を放り捨てて言う。
「跳《と》ぶから、つかまって」
「へ?」
「おまえの速さに合わせて走ってたら、間に合わないかもしれないでしょ!」
悠二は、後ろを向いている少女の耳が真《ま》っ赤《か》になっているのに気が付いた。
道理からすると、彼女の言うとおりなのだが。
「……え、と、いい、のかな?」
初心《うぶ》な少年としては訊《き》かずにはいられない。
「いいから、はやく!」
「うん、それじゃ……ごめん」
悠二は鞄をシャナのものと重ねて置くと、その背中から恐る恐る、たすきがけの要領で腕を回した。自分の胸ほどまでしかない少女に屈《かが》んで抱きつくという、ひどく間抜けな格好になる。長い髪と柔らかい体、少女の匂《にお》いに埋もれて、場違いな動《どう》悸《き》を押さえきれない。なにより、体の前で結んだ両手が、微妙《びみょう》な場所に当たるのが困る。といって動かせば、それはそれでなんだかいやらしい気が……
「もっと強くつかまって。振り落とされるわよ」
ほんのすぐ近く、頬《ほお》も触れ合う距離で、シャナが言う。
「う、うん、もっと強く……!」
悠二は、何気なく口にしたその言葉で、不意に気持ちが高揚するのを感じた。
シャナも答える。同じように、声の調子を上げて。
「そう、もっと強く!」
「うん、もっと強く!?」
「そう、もっと強く!!」
二人はまるで魔法の呪文《じゅもん》のように大声を交わし、しっかりと結びついた。
シャナは息を吸い込む。
その小さな胸いっぱいに力が漲《みなぎ》るのを、悠二は腕の中に感じた。
そしてシャナは、その全《すべ》てを空に放つように叫ぶ。
「行くわよ!!」
言うや、シャナの足裏に紅《ぐ》蓮《れん》の爆発が起き、
二人は一瞬で、空の点となった。
なるほど、『ラミーはトーチに寄生している』、それが答えだったのだ。
自分を、ごく微量の存在の力≠ナ維持できるほどに弱いピースに分け、それを数多くのトーチの内に宿し、他のトーチの回収に当たらせる。
そして本体、恐らくほとんど気配を察知できないほどに小さな、自身の核たるそれの元に、回収用のトーチをうまく偽《ぎ》装《そう》した運搬手段……今なら鳥でチマチマと集め、溜め込む。
まさに技巧の粋《すい》、この世に存在する方法さえ繰って御《ぎょ》す、卓抜《たくばつ》の自在℃t。普通なら、見破ることはまず不可能だったろう。
だが、今回こっちは、普通ではなかった。
かの祭礼《さいれい》の蛇《へび》≠ノよる広域監視用の宝《ほう》具《ぐ》『玻《は》璃《り》壇《だん》』が、その技巧を看《かん》破《ぱ》したのだ。
(命運が尽きるってのは、こういうことなのね)
旧|依《よ》田《だ》デパートの屋上に立つ美《び》麗《れい》長身の姿から、群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》が風に吹き散り始める。
「二人とも、見てるわね?」
<<はい、ちゃんと>>
<<全部目的地に入ったら、でしょう? 分かってますよ、姐《あね》さん>>
「よし」
ラミー本体の気配が小さすぎて分からなくても、居場所がある程度限定できれば、その弱点を突いた戦いようはいくらでもある。
「マルコシアス、一気にケリをつけるわよ!」
「ああ、やっとこさだな、我が高き誇り、マージョリー・ドー!」
ズバッ、と彼女の足下から群青の炎《ほのお》が燃え上がって、その身を包む。蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアスのフレイムヘイズの証である炎の衣『トーガ』、そのずんぐりむっくりの獣《けもの》のような頭部に一線、ぱっかりと牙《きば》だらけの口が開いた。
<<姐さん、今全部、真《ま》南《な》川を渡りました!>>
<<あと、一分くらいだと思います>>
虚《うつ》ろな口の奥から、マージョリーの声だけが響く。
「そう………………ありがと」
唐突な、礼。
<<へ?>>
<<マージョリーさん?>>
「あいつをブチ殺したら、お別れよ。もう『玻璃壇』も用済みだし。そっからの抜け出し方は覚えてるわね?」
一瞬の、間。
<<……姐さん!>>
<<そんな、ずるいですよ! こんなときに!>>
「うっさいわね。さっきのは酒のお礼! ガキンチョの相手はもう懲《こ》り懲《ご》りなの!」
<<こ、ここまで教えといて、あとは知らん振りですか!?>>
<<そうですよ! マージョリーさん、俺《おれ》たちも>>
「お黙り!! 徒《ともがら》≠ネんて、そう度々現れない。一生会わないのが普通。あんたたちはもう、一度会ったから……たぶん、大丈夫よ」
答えが返ってこない。
絶句しているのだ。
その声の空白に、なぜか異常な寂寥《せきりょう》感を覚えて、マージョリーは居丈高《いたけだか》に付け加えていた。
「またいつか、飲みたくなったら寄せてもらうわ。酒、補充しとかないとひどいわよ」
<<……>>
<<……>>
マージョリーは、依然続く沈黙をブチ破るように咆《ほ》えた。
「っさあ、鳥はどうなってんの! その程度もできないの!?」
<<今、最後の三……>>
田《た》中《なか》の声が、湿《しめ》って途切れた。
そして、佐《さ》藤《とう》が受ける。
<<一……全部>>
「じゃ、ね。私にしちゃ珍しく……楽しめたわ」
「火なき生あれ、ご両人、ヒァッハー!!」
屋上が、凄《すさ》まじい跳躍の反動に震えた。
封絶《ふうぜつ》がないために伝わった揺《ゆ》れが、玩具《おもちゃ》の山を鈍く走り、松明《たいまつ》を消した。
砲弾のような軌《き》道《どう》を描いて、群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》が御《み》崎《さき》アトリウム・アーチヘと飛ぶ。
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6 蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す! 紅《ぐ》世《ぜ》の、徒《ともがら》≠氈[!!」
「ヒャーッハーッハーッハー! 殺すぜ、壊《こわ》すぜ、食いちぎるぜぇ!!」
飛翔《ひしょう》するマージョリー・ドーとマルコシアスの雄《お》叫《たけ》びに乗って、その行く手、御《み》崎《さき》アトリウム・アーチで自在法が発動する。
その周囲にある外構庭園に、円形中空の自在式が燃え上がり、ビル全体を円柱状の壁が覆《おお》ってゆく。壁が閉じると、内に囚《とら》われた人々が全て止まった。
世界の流れから切り離すことで内部の人間を静止させ、また同時に外部から隠す、紅世の徒≠ニフレイムヘイズだけの舞台、因《いん》果《が》孤立空間封絶《ふうぜつ》≠フ現れだった。
その封絶へと飛び込み、さらにビル上層の壁面を貫いて吹き抜けへと踊り出たそれは、
四本のアーチ、その天井《てんじょう》に掲げられたステンドグラスを足下に敷いて燃え滾《たぎ》るそれは、
群青《ぐんじょう》色の、殺意の塊《かたまり》。
この、マージョリー特製の巨大な封絶は、その内部に群青の火の粉《こ》を吹雪のように舞わせている。それを構成する存在の力≠ヘ、ビルの中にいるトーチで賄《まかな》われていた。あちこちでトーチが弾け、また飛び散って群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》となり、封絶《ふうぜつ》の中を埋《う》めてゆく。
(この中に、いる)
(クソ野郎、どこだ?)
気配が小さかろうと、もう関係ない。この中で動くモノがあれば、それすなわちラミーなのだ。動かなければ、他《ほか》のトーチ同様、この封絶を維持するエネルギーとして……と思う間に、
「見ーっけた」
マージョリーが見る、その視覚が形となるように、とある場所に満ちていた火の粉が固まった。それは、マージョリーのものを象《かたど》った、群青に輝く大きな瞳となる。
またその下に火の粉が固まって、群青に燃える牙《きば》を噛《か》み鳴らす大きな口となる。マルコシアスの声で、その口が轟《ごう》と咆《ほ》えた。
「会いたかったぜぇ〜っ? 屍拾《しかばねひろ》い!!」
これら目と口が浮かぶのは、吹き抜けを見下ろす屋上。
幾何学の波のような、ガラスの大天蓋《だいてんがい》。
その上に、一人の老紳士の形をしたトーチが、鳩《はと》の群に取り巻かれて立っていた。封絶の干渉にびくともしないそのトーチは、ただ、ステッキを前に突いたまま直立している。
ステッキに添えられた枯れ枝のような手に一瞬、強い力がこもる。
(……使うか、いや……)
思いとどまる老紳士、その数メートル前に浮かんでいた瞳と口が、大天蓋を下から吹き上げ破った炎と直結した。その群青の火柱は、やがて凝縮《ぎょうしゅく》して一つの姿を取る。
ずんぐりむっくり、着ぐるみじみた、炎《ほのお》の獣《けもの》。
ジャリン、と擦《す》るような音を立てて、強化ガラスの床をそれは踏む。
獣は不自然な大きさ広さを持った手を、両脇に翼のように広げ、言った。
「こおんにちは、屍拾い<宴~ー。あなたの滅びが来たわ」
鋭い牙《きば》を並べた口が、笑みの形で声を吐《は》く。
「ヒッヒ、熱いベーゼを受け取りな。一生一度の激しさだ」
「…………」
老紳士・ラミーは、無言のまま、ステッキを右の小脇に挟みこんだ。その棒のように細い左腕を前に、指まで水平に差し伸ばす。
「あら……やる気? そんな、か細い存在でぇ?」
殺意に酔う恍惚《こうこつ》とした声で、マージョリーは言う。
「いーぜえ、いーぜえ、やるのは勝手だ。結果は変わりゃしねえ」
嘲《あざけ》るマルコシアスの声を聞き流しつつラミーは指を開き、重く告げる。
「……惑《まど》え」
まるでそこにオルガンの鍵盤でもあるかのように、ラミーは指を空に一流れ、弾いた。
刹《せつ》那《な》、彼を囲んでいた鳩《はと》の群れが、その形を擬《ぎ》態《たい》していた存在の力≠ェ、一斉に弾けた。
「ん!?」
「おう?」
突然、マージョリーたちの視界に異常が起きた。腕で一《ひと》薙《な》ぎにできる位置にあったラミーの姿が遠ざかったのだ。大天蓋《だいてんがい》の強化ガラスが、周囲の光景ごとグニャリと波打ち、歪《ゆが》む。
弾けた鳩は純白の羽根となって無数乱舞し、青い火の粉《こ》を打ち消してゆく。ほどなくその乱舞は、ラミーどころかマージョリーたちをも囲み、一帯の空間を占拠するまでになっていた。
「ははあ……」
「お見事、お見事、ヒー、ハー!」
二人はその、美しいとも言える光景を演出したラミーに賞賛の声を放り、
「で、これでなにが」
言う間に獣《けもの》は仰《の》け反《ぞ》って腹を脹《ふく》らませ、
「できるんだぁ、ッハ――!!」
自分の足下に、獣は口からの炎《ほのお》を吹きつけた。群青《ぐんじょう》の灼熱《しゃくねつ》が溢《あふ》れ、羽根を焼き払ってゆく。その数の滅るにつれ、ラミーの姿が近付き、周囲の空間の歪みも元に戻ってゆく。
全く呆気《あっけ》なく、彼は攻撃の間合いに帰ってきた。
「終わぁ」
「りだ!!」
連なる雄《お》叫《たけ》びとともに、徒《ともがら》≠叩《たた》き潰《つぶ》すべく、太く長い腕が振り落とされた。
結局、最初から一歩も動かなかったラミーは、苦渋《くじゅう》の表情でその一撃を見上げる。
そして、裂《さ》けた。
真っ二つに。
獣の長い腕が。
「――!」
「――?」
獣の振り落とした長い腕が、縦《たて》真っ二つに裂け、飛び散っていた。
彼らの前に、群青の炎に負けない銀の光が一線、天地を指して輝いていた。
その銀の輝きは、峰を見せ、真上に振り上げられた大《おお》太《だ》刀《ち》。
ラミーの前に降り立った何者かが、振り下ろされた腕を斬《き》り上げ、真っ二つにしたことを、マージョリーとマルコシアスはようやく理解した。
火の粉が華麗に舞い咲く。
跳躍と斬撃《ざんげき》の余《よ》韻《いん》に長い髪が揺れる。
大太刀の向こうから、双眸《そうぼう》が彼らを見《み》据《す》えている。
全《すべ》て、同じ色。
紅《ぐ》蓮《れん》の煌《きらめ》き。
一人のフレイムヘイズが、ラミーの前に立っていた。
シャナは大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』を横に払った。その刀身から群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》が、まるで血|飛沫《しぶき》のように散る。
「こんにちは[#「こんにちは」に傍点]、蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアス。それに、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドー」
言う間に大太刀を引き戻し、再びの構えを取る。
「改めて名乗るわ。私は、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールのフレイムヘイズ」
動作につられ、黒《こく》衣《い》がゆらりとなびく。
「『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》の討ち手』……名前は、シャナ」
まさに誇るように、シャナは名乗った。
そして、フレイムヘイズとして堂々と告げる。
「さあ、選んで。この屍拾《しかばねひろ》い<宴~ーに手を出さないと誓うか、それとも」
大太刀の切っ先で、獣《けもの》の鼻先を指す。
「痛い目を見て反省するか」
「ふん、なにを偉そうに――っ!?」
鼻で笑いかけて、マージョリーは絶句した。
シャナの後ろ、ラミーの前に、見たこともないトーチが立っていたのだ。その少年の形をしたトーチは、ラミーを後ろにかばって下がらせている。ただのトーチが封絶《ふうぜつ》の中で動けるわけがない。となれば答えは一つ。
「ミステス≠セとお?」
マルコシアスも、今さら現れた、わけの分からない闖入《ちんにゅう》者に驚いた。
助けられたラミーも、彼女らに負けず劣らずの驚愕《きょうがく》を顔に表している。
彼が使った、周囲に羽根を舞わす自在法は、自分が逃げるためのものではなかった。この封絶の発動を感じ飛び込んでくるであろう者、『炎髪灼眼の討ち手』の接近を、マージョリーに察知させないためのものだった。
それは結果的に上手《うま》くいったわけだが、しかしまさか、坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》まで現れるとは思っていなかった。それも、封絶の中で動いている。いかにミステス≠ニはいえ、そんなことができるモノは、そういない。
「日々を暮らし、封絶の中で動く……そうか、君は……!」
「こ、こ、込み入った話は、ああ、後でね。とにかく、今は」
跳躍への同行で未だに視界が揺《ゆ》れている悠二は、ラミーを背に隠し、じりじりと後ずさる。
それを追おうと一歩踏み出したマージョリーは、わずかにずらされた足で通せんぼされた。
灼眼《しゃくがん》が彼女らを睨《にら》み据《す》え、小さな口が再び告げる。
「手は、出させない」
そのシャナに答えるべく、マージョリーはトーガの中から顔を出した。こちらは、凄《すさ》まじく険しい顔と声で言う。
「なに、今さらあんたみたいな雑《ざ》魚《こ》が、私たちを止められるとでも思ってんの?」
斬《き》られた腕が燃え上がり、なんでもなかったかのように再生する。
「今度は火傷《やけど》じゃ済まねえぜぇ? ヒャッヒャ」
それらの嘲弄《ちょうろう》に、しかし今のシャナは笑って返すことができた。
さっきの一撃の冴《さ》えも、ここに飛んでくるまでの跳躍の力も、全《すべ》て昨日とは違った。
(なんでもできる、なんでもできる)
胸の奥、体の芯《しん》、足の底から、力がそう叫ぶように湧《わ》き上がっていた。
大《おお》太《だ》刀《ち》に灼眼が映え、笑みが頬《ほお》に強く刻まれる。
「ぐじゃぐじゃとくっちゃべってないで、早く答えて。ラミーに手を出さないと誓うか、痛い目を見て反省するか」
マージョリーの眉《まゆ》が、さらなる不快の線を描く。
「……昨日みたいな目に遭《あ》っても、まだ徒《ともがら》≠庇《かば》い立てするってわけ?」
シャナの答えは簡潔だった。
「そうよ。彼は無害だもの」
「ふん、あんたも身内|贔屓《びいき》な王だちと同じことを言うわけね、『徒≠フ中にもいい奴がいる』なんてふざけたことを」
今度はシャナが、ふん、と鼻で笑った。
「言い争う気はないわ。おまえを教育してやる義務も意欲もない」
剣尖《けんせん》越しに、ただ声をやる。
「おまえが、私の使命遂行の邪魔をするかどうか。それだけ」
「……チビジャリが!!」
マージョリーの怒りを示すようにトーガが燃え上がる。その中に彼女の怒れる顔が呑《の》まれ、声だけがパックリ裂《さ》けた口の奥から響く。
「決めたわ。今度は逃がさない」
「ブチッ殺すぜ!!」
シャナはその死刑宣告にも、真っ向から笑って答える。
「できるものなら、どうぞ」
獣《けもの》が、鋸《のこぎり》のような牙《きば》でギリギリと歯《は》軋《ぎし》りした。
「く、くく……あんた、すんごく、ブチ殺し甲《が》斐《い》があるようになったわね……」
「全くだ……ヒッヒ……さあ、殺《や》るぜ、殺るぜ……殺るぜえっ!!」
咆哮《ほうこう》と共に、トーガの太い両腕が、前ではなく、両脇に広がった。
シャナは前の戦いのように突進せず、相手の動くに任せる。ほんの数秒で、伸びた腕は彼女を大きく囲んで燃える、群青《ぐんじょう》の円を描いていた。灼眼《しゃくがん》で、それを軽く一《ひと》砥《な》めする。
「……ふん」
後方の悠二とラミーは、この円の外にあった。マージョリーらの敵意は自分だけに向けられている……挑発《ちょうはつ》によって狙《ねら》い通りの状況を得たシャナは、薄く満足を顔に表す。
と、正面に立っていた獣《けもの》のシルエツトが揺《ゆ》らぎ、分裂する。分かれた影がまた分かれ、円に重なって立つ獣の数はどんどん増えてゆく。
シャナは、自分が十を超える獣に取り囲まれているのを知った。
その獣たちが、それぞれ大口を開けて歌い、笑う。
「サリー、お日様のまわりを回れ! あっはっは!!」
「サリー、お月様のまわりを回れ! ヒャッヒャッヒャ!!」
耳|障《ざわ》りに重なり響く声にも、シャナの心は動じない。
「……」
輝きを強める灼眼が、それらの声の源を看《かん》破《ぱ》する。
しかし、それと分かっても、シャナはいきなり仕掛けない。マージョリーらの意図、そこから起こる戦いの流れがどこに向かうかを、理性と本能で感じる。以前のように無《む》謀《ぼう》に突っかかることで、こっちから余裕をなくすような真似は、もうしない。
その半秒にも満たない間、感じた閃《ひらめ》きが道をつけてから、ようやく動く。
「……さて」
なんということもなく突然に、シャナの足裏に爆発が起きる。神速《しんそく》、自分を取り囲む獣の一匹に迫り、斬撃《ざんげき》を大上段から振り下ろす。
その獣は両腕を交叉させて、この一撃を受け止めた。
「ア・タ・リッ!?」
シャナは相手が言う間に、再び足裏を爆発させた。軽業《かるわざ》のように、相手の腕と大《おお》太《だ》刀《ち》の交叉を支点に宙を舞う。マージョリーの頭上を飛び越える間に、背後で炎《ほのお》の円が彼女の元に集束していた。どこに打ちかかっても、この閉じる円による攻撃を全周から受けていたのだ。
しかし今、シャナがいるのは円の外、つまりマージョリーの、
「後ろだ!」
「っく!?」
マルコシアスの叫びを受け、マージョリーは思わず屈《かが》んだ。その頭上を刃《やいば》が通り抜ける。切り落とされた獣の耳が宙に残され、火の粉《こ》となって散った。
(速い!!)
マージョリーは次の攻撃を警戒して、横っ飛びに跳《は》ねた。ついでと、振った腕の先から炎《ほのお》の弾を数十、ばらまく。
シャナは斬撃《ざんげき》の勢いのまま体を横に回転させる。その動きの内に黒《こく》衣《い》で体を覆《おお》い、飛来する炎の弾を弾く。弾が全《すべ》て通過した、その瞬間に体を現す。横の回転力は死んでいない。
「っは!!」
その勢いに踏み切りの力を足して、再び低くシャナは跳《と》ぶ。横の回転力を、斜め下からの逆|袈《け》裟《さ》斬《ぎ》りに変えて、獣《けもの》に追いすがる。
(自在法を練る間がねえ、くそっ!)
マルコシアスはたまらず炎を吹いた。周囲を熱で埋《う》め尽くし、シャナの接近を拒《こば》む。
大天蓋《だいてんがい》の強化ガラスが群青《ぐんじょう》の炎に灸《あぶ》られ、泡《あわ》立ちながら黒く焦《こ》げた。
シャナは、この眼前に広がった炎を避けるため、踏み出した足で床を打って飛び下がった。
やがて、膨《ふく》れ上がった白煙と異臭が薄れ、両者はやや間を取った、再びの対《たい》峙《じ》に戻る。
マージョリーは、今度は顔を出さずに言う。
「あんた、一体なに?」
今のシャナには、前の戦いでの稚《ち》拙《せつ》さが欠片《かけら》もない。全くの別人としか思えなかった。
問われたシャナは、大《おお》太《だ》刀《ち》を構えて、静かに答える。
「ただのフレイムヘイズよ。世界のバランスを守る、ただの、フレイムヘイズ」
まるで自分たちがそうではない、と指摘するかのようなシャナの口振りに、マージョリーは言い知れぬ腹立ちを覚えた。その怒りのまま、まさに火を吐《は》くように言い返す。
「私たちの使命は、徒《ともがら》≠フ討滅《とうめつ》よ」
シャナはやはり静かに答えた。
「違うわ。この世と紅《ぐ》世《ぜ》≠フバランスを守ることよ。徒≠フ討滅は、その一手段に過ぎない」
そして、表情に冷笑が加わる。
「私は、この世の害となる徒≠討滅してる。おまえは、殺したいから殺してるだけ」
図《ず》星《ぼし》を指されて、マージョリーは激昂《げっこう》した。
「!? ……なにも知らないチビジャリが!」
憎悪と怨《えん》嵯《さ》を込めた声に、しかしシャナは即答する。
「そうよ。おまえの事情なんか知らない。知ろうとも思わない」
冷笑は変わらない。
「ただ、おまえ、迷惑なのよ」
「――っ!」
今度こそ、マージョリーは言うべき言葉を封殺《ふうさつ》された。理屈で打ち負かされても、いや、打ち負かされたからこそ、感情の炎はより大きく燃え上がる。
(マージョリー)
(……大丈夫よ)
マージョリー・ドーの戦闘者としての恐るべき点は、憎しみと破壊|衝動《しょうどう》に燃え上がっていても、いざ取る行動が短絡《たんらく》的な猛攻《もうこう》にならないところにあった。相手をブチ殺すために、もっとも効率的な戦法はなにか、その思考はひたすら冷徹に巡らされる。
チビジャリが変わった理由はなんだ、前となにが違う、奴《やつ》自身の外見、戦闘様式に特段の変化は見られない、なら、この圧倒的な強さの要因は内的なものではないか、今の、この戦場でそれを引き起こしたなにか、それに関連するなにかを揺《ゆ》さぶる手段はないか。
(あった)
トーガの奥で、マージョリーは笑う。
そうだ、一緒に飛び込んでくるくらいだ、よほど頼りにしているのだろうが、所詮《しょせん》はトーチ、見れば存在の力≠熄人並み、できることもラミーのお守《も》り程度だ、そう、あのクソ野《や》郎《ろう》もろともに片付ければ、動揺するに違いない……。
自在法を流れに乗せる即興の呪文《じゅもん》が、裂《さ》けた口の奥から漏《も》れ出る。
「……縁の芝に雨よ降れ」
今のシャナは、攻撃の仕掛けに簡単に乗ってこない。
この場合、それはマージョリーにとって好都合だった。
「木にも屋根にも雨よ降れ」
一瞬の溜めを置いてから、叫ぶ。
「私の上だけ、避けて降れ!!」
突然、彼らの立つ屋上の周囲で、群青《ぐんじょう》の炎《ほのお》が膨《ふく》れ上がった。その爆発の如き膨張は壮絶な圧力で、御《み》崎《さき》アトリウム・アーチの上層階を縁《ふち》からグシャグシャに砕《くだ》いてゆく。
マージョリーは、封絶《ふうぜつ》内に散っていた群青の火の粉《こ》を密かに屋上付近に集結させ、今、それを一挙に破壊の力へと変換したのだった。
荒れ狂う群青の炎による強大な圧力が、建材を歪《ゆが》め、砕《くだ》き、巻き上げてゆく。その、大破裂とでも言うべき破壊のうねりが、屋上にあるもの全《すべ》てを呑《の》み尽くさんと、凄《すさ》まじい勢いで周りから押し寄せてくる。
悠《ゆう》二《じ》とラミーは、戦いを避けて下がっていたため、その大|破《は》裂《れつ》の間際にあった。
その様子を、呪文通りに小さな安全空間を作って籠《こ》もるマージョリーが、ほくそ笑みつつ眺める。
(さあ、あのトーチの小僧を守るなり、その消滅に動揺するなりしなさい、そうすれば……)
そうならなかった。
(――――な!?)
群青の大破裂が、悠二とラミーの周囲だけを[#「悠二とラミーの周囲だけを」に傍点]、避けた[#「避けた」に傍点]。
マージョリーは見た。
悠《ゆう》二《じ》が、引っかかった、という強《したた》かな笑みを彼女に向けたのを。
「ッマージョリー!!」
「っは!?」
マルコシアスの叫びで我に返ったマージョリー、
その眼前に、大《おお》太《だ》刀《ち》を突き込んでくるシャナの姿が。
このマージョリーの驚愕《きょうがく》の隙を突くために、シャナは攻撃の仕掛けを待っていたのだ。彼女には、悠二が絶対に大丈夫だと分かっていた。だから待つことができた。
大太刀が獣《けもの》の腹を深々と刺し貫いた。長い刀身が背中まで一気に抜ける。
「!!」
マージョリーは、信じられないものを見るような目で、すぐ下に煌《きらめ》く灼眼《しゃくがん》を見下ろした。
強烈な戦意に燃える、灼眼の持ち主の顔を。
「っはあっ!!」
鋭く一声、シャナが咆え、轟音《ごうおん》とともにトーガの半身が吹き飛んだ。その中にあったマージョリーの休も半分だけ露出し、大太刀を辛《かろ》うじてかわしていた右脇腹が衝撃《しょうげき》に裂《さ》ける。
「っぐ、うあっ!」
マージョリーは必死に跳《と》び下がろうとするが、その前に、周囲に迫っていた破壊の波が、力の制御《せいぎょ》を乱した彼女の周囲にもなだれ込んできていた。
「っう!?」
マージョリーが気付けば、シャナは黒《こく》衣《い》の内に身を隠している。
「ちいっ!!」
マルコシアスが必死にトーガを修復する。
が、その作業をも巻き込んで、群青《ぐんじょう》の大|破《は》裂《れつ》は屋上を、ガラスの大天蓋《だいてんがい》を、ビル上層階を、磨《す》り潰《つぶ》すように打ち砕《くだ》いた。
その炎《ほのお》の嵐の中、悠二は無傷で守っていた周囲の空間ごと屋上の崩落《ほうらく》に巻き込まれた。
「わわわっ!?」
彼らを支える床だった大天蓋の強化ガラスが、その下の梁《はり》ごと崩落する。
「君には驚かされてばかりだ」
その傍《かたわ》らに立つラミーが呑《のん》気《き》に言う間に一瞬の浮遊感、次いで落下の感触が襲ってくる。
「タネも仕掛けもあるーっわああ!」
ガラスの大天蓋が二人を混ぜて、吹き抜けの中を光の豪雨のように砕け落ちてゆく。ほどなく、真下に交叉する四層のアーチが、彼らを乗せた強化ガラスの板に激突した。その衝撃で二人は宙に放り出される。
「っわあ!?」
「むっ!?」
ラミーは悠《ゆう》二《じ》に手を伸ばすが、届かない。
落ちる、という悠二の恐怖は、一瞬だけだった。
その目がとらえていた。
強化ガラスの豪雨の中、どこかを蹴《け》って跳《と》んだらしいシャナが、ラミーを突き飛ばしてアーチの上に落とした。そのまま悠二にも同じように手を伸ばそうとする、が、
「危ない!!」
悠二は先に、その差し出された手を握《にぎ》った。彼の胸に下げられた宝《ほう》具《ぐ》を中心に、火|除《よ》けの結界《けっかい》が発生する。数秒遅れて、撃ち放たれていた数十もの炎《ほのお》の弾が、結界に弾き飛ばされた。
「悠二、落ちる! 『アズュール』の結界解いて!!」
そう、これが彼女らの隠し玉。悠二は狩人《かりうど》<tリアグネの討滅《とうめつ》以降、彼が残した火除けの指輪『アズュール』を紐《ひも》に通して首にかけていたのだ。
「まだだ、シャナ!」
アラストールがそれを制した。
頭上、ガラスの豪雨越しに見えた。
アーチの下、爪を鉄筋に食い込ませたトーガの獣《けもの》がぶら下がっている。
今結界を解けば狙《ねら》い撃ちされる。まずい状況だった。
マージョリーが自分たちを狙えなくなる位置に移動すること、それはつまり、彼女がラミーを襲うことだった。しかし今結界を解けば、落下の衝撃《しょうげき》を殺す間を得られないまま、彼女の攻撃を受け続けることになる。落下と攻撃、双方への対処の中では、悠二の身がもたない。
ならば待つ、とシャナは決める。
今の不利な状況を受け入れ、それを打開する勘《かん》が戦いの流れの中で閃《ひらめ》くのを待つ。
焦《じ》れることなく、静かに、しかし自分の全《すべ》てを動員して、待つ。
一秒あったかどうか、まずい状況は遠慮なく、すぐさま進展する。
マージョリーがズタ袋のような体を振って、ラミーのいるアーチの上に登ったのだ。
しかしそこから、全てが流れ出す。
シャナは自分から握るように手を繋《つな》ぎ直すと、共に落ちる少年に叫んだ。
「悠二、結界解いて!」
「わかった!」
火除けの力が失《う》せる。シャナは、足裏の爆発で落下の衝撃を殺しながら着地するべきかどうか考える。結論は否。それではラミーの危機を救うのに間に合わない。
そう考えるわずかな間にも、吹き抜けの底、黒い大理石に薄く水を張った噴水池が近付いてくる。先に落ちた強化ガラスと建材で埋《う》め尽くされた、それは光の奈《な》落《らく》。
しかし、窮地《きゅうち》の緊張が、燃え上がる戦意が、使命感が、そして悠二が、少女の内に、
(なんでもできる)
という確信を漲《みなぎ》らせる。その確信を糧《かて》に力が湧《わ》く。
そして、湧き出す莫大《ばくだい》な力を受け止め、広げるだけの……いつかどこかで感じた『巨大な自分』のイメージが、少女の存在に変化を及ぼす。
(なんでもできる!)
炎髪《えんぱつ》の撒《ま》く火の粉《こ》が、叩《たた》くような落下の風の中、彼女の背で渦《うず》巻く。
手を繋《つな》ぎ共に落ちる悠《ゆう》二《じ》は、驚きに目を見張った。
(なんでも、できる!!)
その紅《ぐ》蓮《れん》の渦は一瞬で燃え広がり、双の翼となっていた。それはまるで、いつかのアラストール顕現《けんげん》の姿を見るような、炎の翼だった。
呆気《あっけ》に取られる悠二をよそに、その翼は紅蓮に煌《きらめ》いて、シャナに空|征《ゆ》く力を与える。
ところが、悠二はあることに気が付いた。大声で叫ぶ。
「か、加速、加速してる! 下に!!」
さっきとは比べ物にならない勢いで、ガラスや建材の刃先を並べた光の奈《な》落《らく》が迫っていた。
「黙って! まだ上手《うま》く制御《せいぎょ》が……」
「って言ったってえええわあああ――――――っ!!」
悠二の視界が高速で歪《ゆが》み、捻《ねじ》れ、流れた。それが転進の光景だということを、右腕が与える、ほとんどもげる寸前という激痛とともに体感する。
光の奈落が、水蒸気爆発を起こして弾けた。
その膨張の中から、紅蓮の光跡《こうせき》を引いて、シャナと悠二は直上に舞い上がった。
「悠二! 体にしがみついて!」
光景の変転と衝撃《しょうげき》に呆然《ぼうぜん》としていた悠二を、シャナの声が引っぱたく。
「えっ!?」
「『贅殿遮那《にえとののしゃな》』が振れないでしょ!!」
「あ、ああっ!!」
痛む右腕を引かれ、真ん前の小さな体に必死にしがみつく。なにを感じる暇もない。
もう、眼前にアーチの最下層が、すぐ通り過ぎ、一瞬で最上層に。
この二人の唐突な出現に、今まさにラミーに襲い掛からんとしていたマージョリーが、ギョッとなって振り向く。
その体を、上昇する速さに任せて、シャナは大《おお》太《だ》刀《ち》を上へと振り抜き、
既に斬っていた。
「――――ッ!?」
紅蓮と群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》が混じり合う斬撃《ざんげき》の跡を体に一線、
「なんだとぉ!?」
刻まれたマージョリーは、マルコシアスは、たまらず仰《の》け反《ぞ》り、見上げた。
打ち砕《くだ》かれ、開けた天井《てんじょう》に、紅《ぐ》蓮《れん》の双翼を大きく広げ飛翔《ひしょう》する『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》の討ち手』を。
その仰け反った視界は急に速度を増し、流れ始める。
逆さまに。
今度はトーガの獣《けもの》が、群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》を撒《ま》いて、落ちた。
佐《さ》藤《とう》啓作《けいさく》と田《た》中《なか》栄《えい》太《た》は走る。
平穏の薄皮をかぶった世界を、しかしもはや、その向こうを見る術《すべ》のない二人は走る。
二人はマージョリーを探していた。
彼女は行った。それは駅の近く。自分たちもよく知っている場所。
なのに、思い出せない。
どこへ向かっているのか分からない。
なぜ分からないのか、その理由だけは分かっている。
封絶《ふうぜつ》のせいだ。
あの自在法が、取り囲んだ場所と外の世界との繋《つな》がりを断ってしまった。そのため、外にいる者は、そんな場所などない、と認識してしまっているのだ。
探して見つかるはずのないその場所を、それでも二人は探さずにはいられなかった。
会ってどうするのか、なにか言えるのか、なにかできるのか、そんなことは分からない。
ただ、会いたい。
なぜそう思うのか、理由さえ分からない、その気持ちだけが、彼らを衝《つ》き動かしていた。
その二人の必死の形相《ぎょうそう》に、道往く人々は怪《け》訝《げん》な、あるいは恐ろしげな顔をして避ける。
もちろん二人の目には、そんなものは映らない。映るのはただ、マージョリーの姿のみ。だが、それがない、どこにも。だから彼らは走り続ける。息を乱し、足をもつれさせて、それでも走り続ける。
そんな半ば朦朧《もうろう》とした意識を抱えて、駅の構内を通り抜けようとした二人は、彼らの前を塞《ふさ》ぐ雑踏《ざっとう》が急に静かになったことに気付いた。
立ち止まって見れば、前の雑踏、その全員が体を一杯に引き攣《つ》らせている。
不意に、誰かが叫んだ。言葉にならない叫びだった。それにつられてか、叫びは誘爆のように人々の間に広がってゆく。内で破《は》裂《れつ》した感情を外に吐《は》き出すような、恐るべき絶叫が駅構内を震わせ、渡る。
佐藤は肩で息をしながら、その不気味な様《さま》を眺める。
「ハァ、ハァ、な、なん、だ……?」
「あれ見ろ!」
彼に比べてやや余裕のある田《た》中《なか》が、その肩を掴《つか》んで体を引き起こした。
佐《さ》藤《とう》も見た。
捜《さが》し求めていたものの欠片《かけら》を。
群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》が、駅の向こう側からチラチラと風花《かざばな》のように舞い込んでいた。
「ど、どこから、だ?」
「分からねえけど、どうせこの近くだ、行こう!」
絶叫の上がる構内を、再び二人は走った。
その叫びがなにを意味するのか、なぜそうなったのか、自分たちもそうなるのではないか、
そんなことは、全く考えなかった。
ただ、マージョリーを探す、それだけしか頭になかった。
そして、そんな彼らにも群青の火の粉が、
このすぐ向こう、御《み》崎《さき》アトリウム・アーチを覆《おお》う封絶《ふうぜつ》から零《こぼ》れ落ち始めた火の粉が、
触れた。
最初から、大事なものなど、なにもなかった。
全《すべ》てを奪われて、生きていた。
だから、私から全てを奪った、そこにある全てを、
壊して、殺して、奪って、嘲笑《あざわら》ってやろうとした。
そのために長い時を耐え、我が身に代えて用意を整え、周到に慎重に準備した。
そして、そこにある全てを、壊して、殺して、奪って、嘲笑ってやろうとした、
まさにそのとき、
銀の炎《ほのお》。
奴が現れた。
奴は、全てを知っていた。
奴は、私に見せつけた。
奴が壊し、殺し、奪い、嘲笑うところを。
奴は私に告げた。
私が壊し、殺し、奪い、嘲笑うはずだったもの、私の全て[#「私の全て」に傍点]が、存在≠イと、消えると。
それを見せつけるため、本来は感じることのないその消滅を、私に見せているのだと。
そして、私の目の前で、私に残されていた全ては、消えた。
私は、空っぽになってしまったことを知らされた。
残されたものは、なにもない。
本当に、なにも。
瀕《ひん》死《し》の私を前に、銀の炎《ほのお》が嘲笑《あざわら》う。
(……せめて……)
無《ぶ》様《ざま》な私を見下して、銀の炎が嘲笑う。
(……せめて、こいつだけでも、こいつだけでもいい……)
惨《みじ》めな私の全《すべ》てを否定して、銀の炎が嘲笑う。
(……こいつの、全てを、壊《こわ》させて!! ッブチ、壊させてよおおおっ!!)
砕《くだ》けた石|塀《べい》、焼け落ちた梁《はり》、濛々《もうもう》たる黒煙、煤《すす》と血に塗れた自分の腕、
目の前を、付近を、彼方《かなた》を埋《う》める、赤い炎、
その死の眺めの中に、
(――いいとも――)
声が響いた。
(――いいとも、空っぽの器、群青《ぐんじょう》の映える、綺《き》麗《れい》な器――)
深く渦《うず》巻き、広がり満ちる、どこかから。
(――ブチ殺しの雄《お》叫《たけ》びを上げて、俺《おれ》を呼べ、俺の求めを満たす、麗《うるわ》しき酒盃《ゴブレット》――)
なんでも良かった、誰でも良かった。
だから私は上げた。
憎悪の声を、怨《えん》嵯《さ》の唸《うな》りを、狂気の悲鳴を、破壊の雄叫びを、
その息が途切れたとき、私は立ち上がっていた。
石塀を踏み砕き、焼け落ちた梁《はり》を突き破り、濛々《もうもう》たる黒煙を吹き払い、
全てを埋める、赤い炎を眼下に敷いて。
私は、変わっていた。
美しい群青色に燃える、巨大な……
異変に気付いたシャナは再び悠《ゆう》二《じ》とラミーの手を取り、吹き抜けから空へと舞い上がる。
その飛翔《ひしょう》に引かれ、上へとすっ飛ぶ悠二は、眼下の吹き抜けを一杯に埋めて、群青色の炎が湧《わ》き上がってくる光景を見た。
その炎の先端《せんたん》にある長く太い鼻面が、四層のアーチを一息に噛《か》み千《ち》切《ぎ》り、その勢いのまま吹き抜けの終点へと向かう。
彼女らが脱出し距離を取った後方、御《み》崎《さき》アトリウム・アーチの屋上を火口に、まるで噴火するかのように炎が膨張《ぼうちょう》した。それはやがて、一つの形を取る。
悠二は畏《い》怖《ふ》を声にした。
「狼《おおかみ》……!」
それはあまりに巨大な、群青の炎でできた狼だった。前足で崩壊した上層部を踏み砕《くだ》き、窮屈そうに上半身を引きずり出す、巨大な狼《おおかみ》。
蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》<}ルコシアス、その本性の顕現《けんげん》だった。
やがて、アーチをも軽く噛《か》み千《ち》切《ぎ》った顎《あご》が、ゆっくりと中天に指し向けられ、
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――!!」
唐突に咆哮《ほうこう》が上がった。
鼓《こ》膜《まく》を打ち震わすその咆《ほ》え声は、まるで空気の怒《ど》涛《とう》。
御《み》崎《さき》アトリウム・アーチのガラスが吹き飛び、静止していた人々が打ち倒された。
それは空中、距離を取っていたシャナたちにも襲い掛かる。
「ううう、わ、わっ、っ!?」
シャナに手を引かれ宙にぶら下がっていた悠《ゆう》二《じ》は、それをまともに受けた。体が、震えるというより、揺《ゆ》さぶられる。肺から腹から骨さえも、この音の暴力に翻弄《ほんろう》された。
その悠二の、シャナを挟んだ反対側、今は自分の力で宙に浮くラミーが、こちらは涼しい顔で天を振り仰ぐ。
「いかんな。深《ふか》手《で》を負ったフレイムヘイズが暴走している。このままでは封絶《ふうぜつ》が解けるぞ」
悠二が衝撃《しょうげき》の中で見れば、なるほど、このビルを囲む群青《ぐんじょう》色の陽炎《かげろう》が薄らぎつつあった。
「も、も、もし解けたら?」
「因《いん》果《が》が外と繋《つな》がって流れ出してしまったら、もう修復は不可能だ。奴《やつ》の火勢に当てられた中の人間は皆、死ぬだろう」
アラストールがペンダントの中から言う。
「注ぎ込んだトーチの数の割に、封絶の崩壊が急だな。ラミー、どういうことか分かるか?」
ふむ、とラミーは頷《うなず》くと、練達《れんたつ》の自在師として、ステッキの先に群青の火の粉を一つ捕らえた。その顔には、自分を追い詰めた者への、わだかまりのない憐憫《れんびん》の色があった。
「制御《せいぎょ》を失った封絶が崩壊する、その力の向きに乗って、奴の憎悪と悲鳴が外へと無秩序に流れ出ている。恐らく、封絶の外はパニックになっているぞ」
咆哮《ほうこう》にも全く揺《ゆ》るぎのないシャナが、呆《あき》れさえ混ぜて言う。
「子供の泣き声に当てられるようなもの?」
「そうだ」
群青の狼《おおかみ》は彼らを襲うでもなく、ただ轟々《ごうごう》と天に首を差し向けて咆《ほ》えている。ラミーから事情を聞けば、なるほどその声は、巨大な慟哭《どうこく》にも似ているように思われた。
しかし放っておけば、封絶は崩壊して大惨事になる。今の戦いの舞台は巨大ビルだ。フリアグネとの裏路地での戦いなど比べ物にならない犠牲者が出てしまう。
悠二は揺らぎの中、自分の手を引き、宙に浮くシャナの顔を見つめる。
考えているような、考えていないような。
でもまあ、彼女のことだ、結論は単純明快なものだろう、と思う。
「話して分からない相手は、とりあえずぶん殴《なぐ》って言うこときかす」
果たしてシャナは言った。迷いの欠片《かけら》もない声で。
「さっきもそうだったし、今もそう。やることに変わりはないわ」
悠《ゆう》二《じ》は、置かれた状況も忘れて、思わずくすりと笑った。笑って、言う。
「フレイムヘイズとして?」
「そう、フレイムヘイズとして」
シャナも強く笑って答え、自分の手に引かれ、ぶら下がる少年を見る。
悠二は先手を取って、意地悪く訊《き》いた。
「足手まといはいらない?」
「いる」
シャナは一言で期待[#「期待」に傍点]に応えた。アラストールの苦笑がわずかに聞こえたが、無視する。
「思い切り飛ばす。私が言ったら、最小限の結界《けっかい》を張って」
「分かった」
紅《ぐ》蓮《れん》の双翼が、より大きく燃え上がった。
悠二は虚《こ》空《くう》に揺《ゆ》られて、飛翔《ひしょう》の時を待つ。
しかし、シャナはなかなか動かない。
十秒ほどの沈黙を経て、ようやく悠二は不審に思い、シャナを見上げた。
「? ……どうしたんだ?」
見れば、なぜかシャナが怒った半分困った半分の顔で、悠二を見下ろしている。
アラストールが、仕方なく、という風に助け舟を出した。
「『贅殿遮那《にえとののしゃな》』だ」
「へ? ……ああ」
大《おお》太《だ》刀《ち》が振れないから、さっきのように体につかまれ、ということか。これは女心というのか、シャナも咄嵯《とっさ》のことではなく、改めて言うのは恥ずかしいらしい。
(昨日から、抱き付き運でも上昇してるのかな?)
嬉《うれ》しいような、嬉しくなくないような、つまり、いやまあ。
「つかまるけど、いいかな?」
「……」
シャナは、今度は完全に怒った顔で、悠二を前に引き上げる。
「んじゃ……よい、しょ!」
悠二は恐る恐る、その体にしがみいた。背中には翼が燃えているので、必然的に前に張り付くことになる。さっきはなにを感じる暇もなかったが、よく考えるとこの体勢は、
「ひゃわっ!! ちょっ、どこに顔押し付けてんのよ! も、もっと下、お腹に」
「うわ、頭を押すな! お、落ち、落ちる! さっきはなにも言わなかっただろ!?」
「さっき? さっきもこんなことしてたのね!? このドスケベ!!」
「んなの、覚えてないって! それどころじゃなかっただろ!」
「言い訳すんな!」
「懲罰《ちょうばつ》は後だ、シャナ」
アラストールが一言で場を締めた。ラミーが傍《かたわ》らで、肩を震わせて笑いを堪《こら》えている。
シャナはむっとなって、それでも黙って大《おお》太《だ》刀《ち》を握《にぎ》り直した。悠《ゆう》二《じ》も、なにやら混じっていた不穏な言葉をあえて忘れて、しっかりとシャナの胸の、やや下につかまる。
「……覚えてなさいよ」
「忘れて欲しいんじゃっわっ!?」
シャナは、悠二が答えきらない内に急発進した。御《み》崎《さき》アトリウム・アーチの屋上に陣取る巨大な群青《ぐんじょう》の狼《おおかみ》に向けて、紅《ぐ》蓮《れん》の光跡《こうせき》が鋭く伸びる。
狼は己に向かってくる敵意を感じてか、咆哮《ほうこう》を止めた。向かってくるちっぽけな二人に、ゆるりと首を巡《めぐ》らせ、一瞥《いちべつ》する。
瞬間、その周囲に炎《ほのお》の弾が無数に生まれ、一斉に飛び出した。先の戦いでマージョリーが見せた炎の豪雨、その十倍はあろうかという弾数だった。
「来た!」
「まだよ!」
その、もはや豪雨と言うより、満天を塞《ふさ》ぐ流星群のような攻撃に悠二が叫び、シャナが怒《ど》鳴《な》り返す。紅蓮の双翼は動かずにただ炎を吹き、二人を加速させる。
悠二は必死に『アズュール』の発動を押さえる。少しでもこれを使ったら、シャナの翼は消え、反撃は大きく躓《つまず》く。シャナの邪魔だけは絶対にしたくない。しかし、恐いものは恐い。
「シャナ!」
「黙って! 叫んでる間に機が来たらどうするの!」
それほどにタイミングはシビアなのだ。
悠二は黙って、神経を張り詰めさせる。相手の『殺し』の機を計るのは、自分にはまだ無理だと分かっている。目の前でなにが起ころうとシャナの指示に従う、それだけに集中する。
群青の流星群が、それぞれ複雑な軌道を描いて絡《から》み合い、殺到する。
シャナはまず鋭い螺《ら》旋《せん》で、次に一直線に突き抜けてこれをかわし、狼の死角になるビルの壁面へと向かう。悠二は鼻先を焼いて通り過ぎる炎の弾に恐怖し、しかし我慢する。シャナが自分に託すまで。自分は我慢するだけ、彼女に比べれば楽な作業、と必死に心を鼓《こ》舞《ぶ》する。
二人の速度は全く落ちない。むしろ加速し続けていた。
流星群はその後を追ってビルの壁面に群がる。幾つかが壁面に当たって爆発し、破片を周囲に撒《ま》き散らした。その破片に他《ほか》の弾が誘爆を起こし、壁面を連鎖的に砕《くだ》いてゆく。
二人に破片が幾つも当たるが、シャナはまだ指示を出さず、大太刀さえ振るわない。ただ、ビルの壁面ギリギリを沿って上へ飛ぶことに専念する。
湧《わ》き上がる噴煙さえ群青《ぐんじょう》に染めて、また次の弾幕が前から来る。やり過ごした弾も、彼女らを周囲から押し包むように迫っていた。
シャナは瞬《まばた》きにも満たない間で判断する。
上昇に十分な加速はある。周囲の弾幕に隙は少ない。爆発するから受け止めるのは無理。かわせば弾と壁面との爆圧で軌道が逸《そ》らされてしまう。これをかわせば弾幕は当面なし。
もっとも適切な間を、悠《ゆう》二《じ》の反応速度も加味して計る。そして、
「今!」
悠二には返事をする余《よ》裕《ゆう》もない。その胸にかけられた『アズュール』が二人を守る最低限の結界《けっかい》を展開、彼らを邪魔する弾だけを消し飛ばした。同時にシャナの翼も消えたが、彼女が流星群をかわし続けて稼《かせ》いだ速度は、そのまま二人をビルの上層まで押し上げる。
流星群の弾幕を、全く呆気《あっけ》なく、二人は抜けた。
「解いて!」
結界が解かれた。同時に、背後で彼らを押し包むはずだった流星群が一点で激突、大爆発を起こす。再び燃え上がった紅《ぐ》蓮《れん》の翼が、その爆風さえ前への助けとし、再びの飛翔《ひしょう》を始める。
その二人の行く手に、こちらを覗《のぞ》きこんでいる巨大な狼《おおかみ》の鼻面がある。
(見つかった!)
悠二は焦《あせ》るが、シャナはさらに翼に力を注ぎ、加速する。
狼はマージョリーとしての知能をしっかり持っていたのか、前足でビルの崩れた屋上部を打ち砕いた。瓦《が》礫《れき》が二人の頭上に崩れ落ちる。
「バォォォォォォォォォ!!」
再びの咆哮《ほうこう》に力を得て、瓦礫一つ一つの後方から群青の炎が噴射される。炎だけでは結界に防がれると気付いたのだ。数十、数百もの瓦礫が、まるでミサイルのように炎《ほのお》を吹いて、二人を狙《ねら》い、降ってくる。
しかし、シャナはこの危局にこそ、勝機を見出した。
悠二は雄《お》々《お》しく笑う彼女を、飛翔に引っ張られながら感じた。
シャナは進む。目指すは一番大きな瓦礫。二人を隠してなお余る、コンクリートの塊《かたまり》。
ようやく、大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』の切っ先が真上、突進の先端に向けられる。瓦礫が迫り、シャナの気合が響く。
「っは!!」
ズン、と純く短い音。瓦礫は砕《くだ》けず、大太刀の刀身を中程まで埋《う》めて、二人の行く手を塞《ふさ》ぐ。
悠二の脳《のう》裏《り》に閃《ひらめ》く。
(失敗、じゃない!)
シャナがこの程度の、破壊の見切りを誤るわけがない。
そしてやはり、彼女は笑みを崩さず、そのまま上昇する。この大重量を受けても、前進の勢いは全く死んでいない。反対側の噴射を押し返し、壮絶な力で舞い上がる。
「なんでも」
シャナの方から声を出した。
「なんでもできる」
紅《ぐ》蓮《れん》の翼が、ここぞと最大の炎《ほのお》を吐《は》き出す。
「グァォォォォォォォォォォォ!」
二人の頭上から、また腹の底を震わせる咆哮《ほうこう》が上がり、その中に、おぞ気を走らせる空気の感触が走る。悠《ゆう》二《じ》はそれを、狼《おおかみ》の前足による一撃だ、となぜか確信していた。
そしてその確信の通り、壮絶な力と力の衝突《しょうとつ》が二人の頭上で起こった。大《おお》太《だ》刀《ち》の剌さった点を中心に瓦《が》礫《れき》が砕《くだ》け、狼の前足が降りかかってくる。
「なんでも、できる!」
シャナは、この砕ける瓦礫の中を無理矢理に突破した。
抱きつく悠二は、彼女の『殺し』の瞬間を感じた。
「悠二!!」
「っ!!」
結界《けっかい》が展開され、眼前に迫った炎の前足が吹き飛んだ。上昇の勢いのまま、彼らは巨大な狼の中心部へと突き抜ける。その行く手、群青《ぐんじょう》の輝きの中に、見つけた。
胎《たい》児《じ》のように裸身を丸めてグリモア≠抱く、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドーを。
大太刀『贅殿遮那《にえとののしゃな》』、問答無用の一撃が飛ぶ。
狼が、終《つい》の悲鳴を上げる。
「おお……」
一人、宙にあって傍観していたラミーは、御《み》崎《さき》アトリウム・アーチの頂を飾っていた群青の噴火が一気に膨《ふく》れ、柔らかく散ってゆく光景に、感嘆の声を上げた。
その中に、紅蓮の炎が掠《かす》れ掠れ、飛んでいた。さっきの突進で全力を出し切ったのだろう、その飛行は力なく揺《ゆ》れ、下降線を描いている。
紅蓮の双翼を燃やす少女は、裸の女性を一人、掴《つか》んでいた。その女性は、少女以上に力なく、ぐったりしている。少年が紐《ひも》の先にぶら下げているのは、神器グリモア≠セろう。
その姿は遠いが、彼には二人の会話が聞こえる。
「案外静かだったわね、悠二。最後も、斬《き》るな、とか叫ぶと思ったけど」
「今の峰打ちのこと?」
「うん」
「……フレイムヘイズの使命は、なんだったっけ?」
「――っふふ」
「――ははっ」
その二人につられるように、ラミーも硬い線を曲げて微笑《ほほえ》み、スーツの内懐《うちふところ》に手を入れた。
シャナもマージョリーも、ほぼ全力を使い切ったようだ。今まさに解けつつある封絶《ふうぜつ》の内部を修復できるだけの力は残ってはいない。それができるのは……
「……」
ラミーは、ゆるりとした仕《し》草《ぐさ》で懐からなにかを取り出し、掌《てのひら》の上に置いた。
それは小さな、眼球ほどの大きさの、毛糸玉。
彼はしばらく、それを無表情に眺めていたが、やがて再び微笑を浮かべる。苦さ渋《しぶ》さをわずかに混ぜて。
その吐《と》息《いき》に誘われてか、毛糸の端《はし》が自然に、ほつれのほどけるように、僅《わず》かに切れた。
宙に流れたその切れ端は、いきなり深い緑色の火の粉《こ》となって散った。狼《おおかみ》の散《さん》華《げ》にも勝《まさ》る勢いで、深い緑色の火の粉が無数、湧き上がる。
その火の粉は封絶内を舞い踊り、戦いに荒らされたもの全《すべ》てに宿り、癒《いや》していった。
マージョリーが目覚めれば、視界は一面の夕焼け。
「よう」
傍《かたわ》らから、馴《な》染《じ》みの声が、力なく届く。
「……生きてんのね」
「お互いにな」
マージョリーは起き上がろうとしたが、その途端に走った激痛で挫《くじ》けた。脇腹を裂《さ》かれたり、胸から肩にかけて深く斬《き》られたりしたのを思い出して、起き上がるのを止める。
しようがなく、首だけを小さく起こして、自分の状態を確認する。髪がほどけているのが、風の感触で分かった。眼鏡もなくなっているが、元々|伊《だ》達《て》だったので、これは問題ない。
体の方もひどい格好だった。暴走して裸になったはずの体に、大きな布が巻きつけられていた(実は屋上に掲げられていた社旗)。手当ともいえない乱暴な処置だが、フレイムヘイズにはこの程度でも十分ではある。現に、盛大な血の染《し》みこそ見えるものの、もう出血そのものは止まっていた。消耗《しょうもう》し尽くした力の完治には、まだまだかかるだろうが。
その確認が終わると、今度はがくんと首を横に転がした。修復された御《み》崎《さき》アトリウム・アーチ屋上の縁《ふち》に寝かされているらしい。壁面清掃用ゴンドラのレールが背中に当たって、寝心地悪いことこの上ない。
そして、彼女が首を向けたすぐ横に、悠《ゆう》二《じ》が胡座《あぐら》をかいて座っていた。その表情には疲労の色が濃く見られるが、明るくもある。ただ、なぜか両の頬《ほお》が腫《は》れて、右目にも青|痣《あざ》があった。
「シャナ、目が覚めたみたいだよ」
その悠《ゆう》二《じ》が言うと、シャナがマージョリーを見下ろすように傍《かたわ》らに立った。炎髪《えんぱつ》と灼眼《しゃくがん》を黒く冷やし、大《おお》太《だ》刀《ち》も黒《こく》衣《い》もない、普通の人間の姿で。風をはらむ艶《つや》やかな黒髪が、まるで炎《ほのお》の名残のように、夕日の赤を受けている。
「……よく殺さなかったもんね。あれだけひどい目に遭《あ》わされて」
マージョリーの憎まれ口にも、シャナは平然と答える。
「おまえたちなら、そうしたかもね。でも、私たちは違う」
「……それは、フレイムヘイズの……」
「そう、フレイムヘイズの使命」
「……」
また、自分を否定された。もう、その言葉に力で反抗することもできない。
「当分ラミーを追えなくなるほどに痛め付けた。だから、私のやることは終わり」
「……あんた、使命、使命って、まるで王≠ンたい……すごく、嫌な奴ね……」
マージョリーの率直な感想に、シャナも同じく率直に返す。
「奇《き》遇《ぐう》ね。私もおまえが嫌い。昨日みたいな目に遭わされたのは初めてだったもの」
くすりと悠二が笑う。
途《と》端《たん》にシャナは平静を失って、むっとした表情になった。
その顔に、なぜかマージョリーは深く大きく、ショックを受けた。
(なによこいつ)
ひどく腹が立った。
(ずるい)
そう思っていた。そう思う自分を、とても惨《みじ》めに感じた。
その気持ちに、既《き》視《し》感《かん》のようなものを覚える。
まるで、あのときのようだった。
持っていたはずのものを、すがっていたはずのものを、全《すべ》て……。
不意に、傍らに新たな、細い影が立った。
(!!)
再びの、軽い既視感。しかしそれは、あの銀の炎ではない。
「ようやく止まったか、『弔詞《ちょうし》の詠み手』マージョリー・ドー」
暮れ行く日の中、黒く細く立つそれは、老紳士の姿をした屍拾《しかばねひろ》い<宴~ー。
「安心しろ、今さらなにをする気もない。先刻も蹂躙《じゅうりん》の爪《そう》牙《が》≠ノ脅されたばかりだ。『俺《おれ》の酒盃《ゴブレット》に手を出したら、顕現《けんげん》しててめえらを噛《か》み殺してやる』と」
マージョリーの枕元に置かれたグリモア≠ゥら、掠《かす》れ掠れの炎が漏《も》れる。
「うるせえ。今も変わらねえぞ。世界のバランスなんぞ知ったことか。周りの存在の力≠全部飲み込んで、てめえらを殺して殺して殺して殺し尽くしてやる」
この、自分同様に力を使い果たしてボロボロなはずの相棒の言葉に、マージョリーは何十年ぶりか、泣きたい気持ちになった。
ラミーはその、手《て》負《お》いの獣《けもの》の恫喝《どうかつ》にもこたえた様子はない。ただ、ため息をついた。
「やれやれ、仮にもフレイムヘイズに力を与える王≠フ台詞《せりふ》とは思えんな。おまえたちへの親切心から、ここに居残っている私の心情も察して欲しいところだが」
「……どういうことよ」
涙目を乱れた髪の内に伏せ、声だけを険しくするマージョリーの前に、ラミーはステッキの先を差し向けた。
その先には、彼が騒ぎの中で捕らえた群青《ぐんじょう》の火の粉《こ》があった。
「済まんが、見た」
「……」
「だが、銀≠ヘ追うな」
「!!」
「てめえ、奴を知ってるのか!?」
驚く二人に、しかしラミーは視線を合わせず、夕焼けを見やる。
「あれは、追うだけ無《む》駄《だ》なものなのだ。追えど付けず、探せど出でず、ただ現れる、そういうものなのだ」
「っぐ!!」
マージョリーは突然|跳《は》ね起きてステッキの先を握《にぎ》り、火の粉《こ》を奪い返した。体を走る激痛も無視して、それを血染めの胸に抱き、叫ぶ。
「そんな言葉だけで! 私の全て[#「全て」に傍点]を諦《あきら》めきれるもんか!!」
吐《は》くように、声を連ねる。
「誰にも駄《だ》目《め》なんて言わせない!! この復讐《ふくしゅう》は私のもの、この憎しみは私のものよ!!」
喘《あえ》ぎ喘ぎ言う彼女に呼吸の間を与えるように、ラミーは間を置き、やがて言った。
「では、言い方を変えよう。あれは、来るべき時節が来れば必ず会える、そういうものだ」
「……なんですって……?」
「私はそのことを伝えたかっただけだ。それをどう受け取り、行動するかはおまえの勝手だ」
「…………」
なにを言えばいいのか分からなくなったマージョリーに代わって、アラストールが訊《き》く。
「その銀≠ニやらが何者なのかは、言えぬのか」
ラミーは黙って頷《うなず》いた。
「そうか、では訊くまい」
ラミーは旧知の王≠ノ微笑で返し、改めてその契約者・シャナと目を合わせた。
別れが、夕の空気に寂しく匂《にお》う。
「世話になったな、『炎髪《えんぱつ》灼眼《しゃくがん》』……いや、シャナ、か」
対するシャナの返答はまことに素《そ》っ気《け》無い。
「使命に従ったまでのことよ」
「なるほど、さすがは天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》≠フ契約者。よいフレイムヘイズだ」
ラミーは笑い、最後に悠《ゆう》二《じ》を見た。
悠二は立ち上がり、この奇妙《きみょう》な紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ノ素直な謝罪の言葉、それだけをかける。握手を求めるには、人≠フ大きさが違いすぎた。
「悪かったね。せっかく集めた存在の力≠修復に使わせて」
「なに、望みへ至る時を得た礼……そう思えば安いものだ」
その彼があまりに軽く言うのを、かえって不審に思った悠二は訊《き》いてみた。
「……どれくらいだったんだ?」
「なに?」
「今日使った分は、どれくらいの時間をかけて集めたものだったんだ?」
「……ふ、君はときどき鋭いな……それより」
ラミーは誤《ご》魔《ま》化《か》した。少ない量でないことは明らかだったが、それを彼は言わせなかった。
「最後に、利害抜きで助言を一つ、サービスしてやろう」
「?」
今度は悠《ゆう》二《じ》が怪《け》訝《げん》な顔になった。
ラミーはシャナにも目線を送りつつ、軽く言う。
「これからは、不安になったら、黙って抱き寄せてキスの一つでもしろ。それで、なにもかもが、すぐに分かる」
「っな! ななな――!?」
「きす?」
ラミーは軽く笑って、夕日の光以上に真《ま》っ赤《か》になる悠二と、不思議そうな顔をするシャナに背を向けた。
立ち去る先は、屋上の端《はし》。
その背中越しに、別れの言葉が投げられる。
「さらばだ天壌の劫火=A我が古き友よ。因《いん》果《が》の交叉路で、また会おう」
アラストールが、黙った二人に代わって、静かに別れを告げた。
「……いつか望みの花咲く日があるように、螺《ら》旋《せん》の風琴《ふうきん》=v
異なる真《ま》名《な》で呼ばれたラミーは振り返らず、肩越しに手を上げ、小さく払った。
それを合図としたかのように、
細い姿は夕の赤にかすれ、風と消えた。
風が幾度か抜け、
ようやくシャナが驚きの放心から覚めた。一瞬、半身を起こしたまま固まっていたマージョリーとまで視線を合わせて、先の事実を確認する。マージョリーも同じく、驚きに目を見開いていた。
悠二は不思議そうな顔をして訊《き》いた。
「螺旋の風琴=H」
シャナが、彼女らしくない、わずかに恐れさえ含んだ声で答えた。
「……封絶《ふうぜつ》を始めとする、数多くの自在法を編み出した紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》″ナ高の自在師よ」
「それじゃ、屍拾《しかばねひろ》い≠チて真名は……?」
今度は分からない。シャナは自分の胸元を見る。
「どういうことなの、アラストール?」
アラストールは、とりたてて大仰《おおぎょう》な秘密という風でもなく、淡々と答える。
「トーチを拾う者≠ニいう語義で分かろう。通常、真名とは我らが紅世≠ノおける呼び名。だが、トーチはこの世にしかない。つまり屍拾い≠フ真名も、ラミーと言う通称も、この世を彷徨《さまよ》うための仮の冠《かんむり》だ」
悠《ゆう》二《じ》は、ラミーの去った夕日を眩《まぶ》しげに眺めた。
「そんなに凄い自在師が屍拾《しかばねひろ》い≠ネんて名前を名乗って、何百年も他《ほか》の徒≠フ作ったトーチを拾い続けて……たった一つの品物を、元に戻すためだけに……?」
「何を大切に思うかは各々で違う。貴様らと同じだ……シャナ」
「うん」
シャナはアラストールの意を違えず、マージョリーに向き直った。その胸のペンダントコキュートス≠ゥら、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》≠ヘ告げる。
「『弔詞《ちょうし》の詠み手』よ。紅《ぐ》世《ぜ》の徒≠ヨの復讐《ふくしゅう》は、大半の者がそれを理由に契約する以上、フレイムヘイズにとって当然の権利ではある。我々王≠ェ、世界のバランスを守るために、その感情を利用していることも認めよう」
マージョリーは、ペンダントの中を上目に睨《にら》んで言った。
「チビジャリが偉そうに言ってる使命ってのは、その利用法の別名でしょ」
「そこまで分かっているのなら、貴様の行動がフレイムヘイズの使命から逸脱《いつだつ》した場合、我々が貴様を止めるのも当然の道理と理解できるはずだ」
アラストールは悪びれずに答えた。シャナにも動揺の色はない。事実を事実として紅世の王≠ヘ語り、契約者はそれを受け入れているのだ。
「本来は、そのようなことにならぬよう、力を与えている王≠ェ止めるものなのだがな」
アラストールが付け加えると、グリモア≠ェ、ふん、と炎《ほのお》を吹いた。
マージョリーは、その上に手を置いてなだめる。彼女には、自分の望みに答えてくれただけの、この騒がしくも優しい狼《おおかみ》を責める気はなかった。起きた出来事も、受けた傷も、全《すべ》て間違いなく、自分の望みの形、その結果なのだと分かっていた……そう、分かっていたのだ。
「我々は、貴様を裁く気も諭《さと》す気もない。我々の立場と行動原理を表明するのみだ。螺《ら》旋《せん》の風琴《ふうきん》≠ナはないが、それをどう受け取り、行動するかは貴様の問題だ」
シャナが最後に言う。
「要するに、おまえがまた外《はず》れれば、私がまた止める。それだけを分かってくれりゃいいの」
悠《ゆう》二《じ》は思わず吹き出した。
「あれだけのことを、やってやられて、後始末として言うことはそれだけ? フレイムヘイズの使命ってのは、えらく簡単なんだな」
魔神と少女は、フレイムヘイズとして、声を重ねた。
「そういうものだ」
「そういうものよ」
悠二は、夕日に照り映える少女の姿を、今度こそ何の隔《かく》意《い》もなく、
(……眩《まぶ》しいな……)
そう、感じることができた。
暮れゆく陽《ひ》を背に、大天蓋《だいてんがい》の縁《ふち》を、グリモア≠抱えたマージョリーはヨタヨタと歩く。
言うだけ言ったシャナたちが去った後、屋上には、彼女だけが取り残されていた。
「……ぎっこんばったん、マージョリー・ドー……、♪」
ボロ雑巾のような休を引きずって、掠《かす》れる声で、小さく歌う。自分を動かしていた全《すべ》てを失った彼女は、まさに途方に暮れていた。歌を歌うくらいしか、やることがなかった。
「……ベッドを売って、わらに寝た……、♪」
眼下には、修復されたアーチと吹き抜けがある。彼女にとってそれは、自分の行為を全て否定されたような眺めだった。アレを殺すな、コレを追うな、痛い目を見て、やる気も挫《くじ》け……。
「……みもちが悪い、女だね……、♪」
と、その隙間から、見えた。思わず立ち止まる。
自分がどんな顔をしているのか、よく分からない。気持ちはもっと、分からなかった。
「……埃《ほこり》まみれで、寝る、なん……て……、♪」
声が震え、途切れた。身にまとった血まみれの布の、風にはためく音だけが残る。
階下の噴水池の縁《ふち》に、なにかを、誰かを待って座る、二人の少年の姿があった。
憎しみの夢から唐突に覚めた佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》は、その強烈過ぎる感情の残響に呆然《ぼうぜん》とする人々を掻《か》き分け、これも唐突に思い出した御《み》崎《さき》アトリウム・アーチ……彼らが今いた駅の、すぐ裏手にあるビルの中へと駆《か》け込んだ。
あのひどい夢を、マージョリーのことを、少しなりと理解できる、そんな自分たちに奇妙《きみょう》な誇りさえ持って。
しかし、それがなんになるのか。
たどり着いてから、ようやく二人はそのことに気付いた。
見上げた吹き抜けは新築の光沢《こうたく》に輝いて、起きたはずの騒動を欠片《かけら》も止《とど》めていない。それどころか、このビルの中にいた人々は、先の憎しみの夢さえ見ていないらしい。
そこには、ただ日常の風景があるのみだった。
封絶《ふうぜつ》が解けたのだから、戦いは終わったのだろう。
しかし、その戦いの結果がどうなったのか。
その結果が、この街になにをもたらしたのか。
それを知る術《すべ》は、全くなかった。
二人は黒大理石で囲われた噴水池の縁《ふち》に座り込んだ。
そのまま、見えなくなった非日常を、その象徴たる女性を待った。
夜も更《ふ》けて、係員に追い出されるまで、ただ、ひたすらに待った。
そして、全《すべ》ては自分たちを置いて過ぎ去ってしまったのだ、と、そう思った。
大きな家ばかりが立ち並ぶ、ゆえに寂しく静かな旧住宅地を無言で歩き、
久し振りに二人して痛飲してやろうと佐藤家室内バーのドアを開け、
そこに、
床にいくつも転がったウイスキーの瓶《びん》と、
ソファの端《はし》からだらしなく投げ出された両足を、見つけるまでは。
「いよう、おかえり、ご両人」
嵐のような寝息の向こうから、あまりに呆気《あっけ》なく、再びの非日常が彼らを出迎えた。
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エピローグ
さすがに昨日は疲れた。
初めての力まで無理矢理に引き出すことで、なんとか勝ちを拾ったけど、おかげで今日は足腰がヘナヘナして、頼りないことこの上ない。
同じ戦場にいた悠《ゆう》二《じ》は、今朝の鍛錬《たんれん》で、もうピンピンしていた。秘宝『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の力だということが分かっていても、なんだか不公平な感じがした。
まあ、鍛錬自体が楽勝なのは変わらないのだけれど。
それはともかく、体が消耗《しょうもう》を回復させようとしているのか、今朝から異常なまでの空腹感に見舞われたのには参《まい》った。昼食をこれほど待ち遠しく思ったことはない。
やっぱり、メロンパンは最高。この、カリカリモフモフとした食感がたまらない。
昨日の騒動からの帰り、スーパーで悠二に、その表現と実際の食感についての妥当性と関連性、それがおいしさに与える影響等を詳しく説明してやったら、変な顔をされた。
なんとなくその顔が気に食わなかったので、今朝、千《ち》草《ぐさ》に同じことを説明し直した。そうしたら、やっぱりというか千《ち》草《ぐさ》は熱心に聞き入ってくれて、最後には『今度自家製のを食べさせてあげる』とまで言ってくれた。やっぱり悠《ゆう》二《じ》なんかとは、全っ然、違う。
彼女の料理の腕前から推察するに、とてもおいしいものができるだろう。
うん、楽しみだ。
「おっはよーす」
と、できるだけいつものように軽く挨拶して、久々の教室に入った。もう昼休みだが、まあ気にしないでおこう。田《た》中《なか》なんか、
「みなさんお勤めごくろーさん」
ときたもんだ。お気楽な奴《やつ》め。
ゴールデンウィーク越しだから、ほぼ十日ぶりか。教室に馴《な》染《じ》みの顔が、ある。ただそれだけのことが、なんとも嬉《うれ》しく思える。真ん中あたりに、特に嬉しい面々が揃っていた。
坂《さか》井《い》が吉《よし》田《だ》ちゃんからの弁当を、隣を気にしながら食べている。今日の平《ひら》井《い》ちゃんからのエサ……じゃない、吉田ちゃんに対抗して寄越したおやつは饅頭《まんじゅう》か。相変わらずの恐妻家、からかいがいがある。吉田ちゃんもこっちを向いて嬉しそうな顔をしてくれる。うーん、癒《いや》される。平井ちゃんは……ま、期待するだけ無《む》駄《だ》か。
「なにが、おはよー、だ。もう昼だぞ」
近付くと、我らがメガネマン池《いけ》が、ホカ弁から顔を上げて睨《にら》んできた。
「そんな細かいこと言わずに、笑って笑って」
こう言えることの、なんてありがたさ。そういや、漢字では『有《あ》り難《がた》さ』って書いたんだっけか(う〜ん、俺《おれ》ってインテリ)……本当、なにもかもが、有り難い。
池には悪いことした、と思う。
「大変ベンキョーになった、うん、ありがとう、池クン」
真面目な口調が冗談《じょうだん》にしか聞こえない、自分の声が恨《うら》めしい。池の横に座って、ちゃんと両手で持ってノートを返しだのだが、
「古文なら、今日はもう終わったんだけどね」
と一刀両断《いっとうりょうだん》されてしまった。重《かさ》ね重《がさ》ね、すまん。
実は今日の午前中は、佐《さ》藤《とう》と一緒に姐《あね》さんのお使いで、服……特に下着……や眼鏡《めがね》、身の回りの品を買い出しに行ったりして遅刻したんだが、さすがにそれを言い訳には使えんしなあ。
まあ、結果として紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ヘいなくなったそうだし、めでたしめでたしなんじゃないだろうか。この程度のことには耐えるとしよう。
姐さんはそれ以外、戦いのことはなにも教えてくれなかったが、当面、俺たちにとっては、
「疲れたから、当分ここで寝てる」
って言ってくれただけで十分だ。んでもって、姐《あね》さんは本当に、ずっと寝てる。
その間に、悪い頭をフル回転させて考えんといかん。いろいろと。うん、いろいろと。
「で、どーだね坂《さか》井《い》クン、我々の留守中に恋愛戦線の状況に進展はあったかね」
……佐《さ》藤《とう》、おまえも少しは考えろ。
「グホッ!? ……ッ……ッ!」
坂井の奴《やつ》、変なトコに入ったな。吉《よし》田《だ》さんお手製の弁当を吹き出さずに我慢できただけでも上出来、と誉《ほ》めとくべきか。吉田さんのために。
とりあえず、その幸せ男は無視して、遅刻組に訊《き》いとくとしよう。
「で、おまえら、片付いたのか?」
なんだか驚いた顔をした佐藤は、宙を見やって、
「う〜ん、現在進行形、かな」
同じく田《た》中《なか》も顎《あご》に手をあてて、
「とりあえず一段落ってとこだ」
と各々、意外に真剣な答えだ。この二人がこんな態度を取るとは、かなり面倒なことのようだ。まあ、こっちのお節介《せっかい》で余計な首を突っ込むのも迷惑な話だろう。
「必要なら言えよ」
程度でとどめとけばいいか。
池《いけ》君は偉い。
あんなことを簡単に言えるなんて。
彼は、言ったからには実行するだろうし、実行すれば、上手《うま》くできるんだろう。私も見習いたい。いや、見習おう。お弁当作って食べてもらうだけじゃ駄《だ》目《め》だ。
一昨日はたまたま二人がケンカして、それで……デート……に誘えたけれど、あんな機会はもうないと思う。昨日から、もうすっかり二人は元に戻っている。
ゆかりちゃんはぶっきらぼうだけど、たぶん坂井君が好きなんだと思う。何度か、いい雰囲気(だと思う)になってたところを邪魔されたし。正直、むむっとくるけれど、私がゆかりちゃんのような、強くて格好いい女の子だったなら、同じように邪魔してると思う。
そんなゆかりちゃんと対決しなければいけないんだ。せめて池君のように、いろんなことで坂井君を助けたり、話をしたり…………できるだろうか……ううん、できるか、じゃない。
するんだ、難しいけれど。
したい、とは思っているんだから。
やろう、やれるはずだ。
田《た》中《なか》がまた馬鹿話をして、佐《さ》藤《とう》と池《いけ》につっこまれている。吉《よし》田《だ》さんはくすりと笑って、シャナは我関せずとメロンパンを食べて……なんだか久し振りに、元の光景に戻ったみたいだ。
……元の光景? 戻った?
変な話だ。大した日数を一緒に過ごしたわけでもないのに、いつの間にか、こうやって六人での昼食を日常だと感じている。シャナがいる、それだけでもう、非日常のはずなのに。
いや、違うのか。
ここに今あることに、日常も非日常もないのか。僕が過ごしている今こそが日常なんであって、それがおかしいことかどうか[#「おかしいことかどうか」に傍点]は、関係がないんだ。
シャナが戦ったり、フリアグネが陰謀《いんぼう》を企んだり、戦闘狂が暴れたり、ラミーが流離《さすら》ったりしているのも、今僕らがここでこうしているのとなんの変わりもない、日常の一部なんだ。
そんな中を、僕はどう進むべきなんだろう。
僕はシャナのように強くはない。彼女に守られている、ちっぽけな存在だ。
でも、今ここにいる。その僕が、シャナのために強くなる、そのためにはいったい、どのようにして、ここを進んでゆくべきなんだろう。
なんだか大げさで重すぎる問題だけれど、じっくり考えてみてもいいんじゃないだろうか。
良くも悪くも、僕の時間は永遠らしいのだから。
既に彼らの日常は、互いの知らないところで、互いの知らない形に変わっている。
それを彼らは知らず、今一時の歓談を楽しむ。
世界は、ただそうであるように、それらの全《すべ》てとして、動いている。
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あとがき
はじめての方、はじめまして。
久しぶりの方、お久しぶりです。
高橋《たかはし》弥七郎《やしちろう》です。
また皆様のお目にかかることができました。ありがたいことです。
さて本作は、痛快《つうかい》娯楽《ごらく》アクション小説です。友人に「何故《なぜ》おまえはそう、なんでも壊《こわ》すか」と言われても無視です。本になるまで学園ストーリーだと知らなかったことも秘密です。
テーマは、描写的には「敗北と大逆襲」、内容的には「うけいれる」です。痴《ち》話《わ》ゲンカ中のカップルが怖い姉ちゃんに絡《から》まれる、というお話です。たぶん。
担当の三《み》木《き》さんは、急な〆切を設定する人です。そうじゃないよ、と説得された次の日に、翌日〆切の仕事が来ました。今回も例によって、双方の間で怒《ど》涛《とう》破《は》岸《がん》の激突が萌(以下略)。
挿《さし》絵《え》のいとうのいぢさんは、可愛《かわい》さと格好良さを両立できる、希《け》有《う》な方です。「目次メロンパンチ&缶詰《かんづめ》タイヤキック」の超強力コンボには、私も瞬殺《しゅんさつ》されました。この度も拙作《せっさく》への甚大《じんだい》なる御助力をいただけたことに、深く深く感謝いたします。
県名五十音順に、愛《あい》知《ち》のK澤さん、神《か》奈《な》川《がわ》のT塚さん、京都《きょうと》のM林さん(あなたです)、東《とう》京《きょう》のN山さん、鳥取《とっとり》のY本さん、大変励みになりました。どうもありがとうございます。
今回は、御手紙に関して話題が一つあります。本作ヒロインの名前はシャ「ナ」であって、シャ「ア」ではありません。確かに赤くはなりますが、角はありませんし通常の三倍の早さもありませんし連邦の名機を貫いたりもしませんし額《ひたい》も光りません。お間違えなきよう。
さて、今回も残りを徒然《つれづれ》に埋《う》めていきましょう。映像ではバンドの兄弟(誤訳)を見て歩兵には絶対なるまいと誓ったり、本ではモストデンジャラスな場所(これも誤訳)を読んで娯楽作品の真髄《しんずい》を感じたり、ゲームでは鉄球ぶつけ合って赤《あか》石《し》先輩《せんぱい》ごっつぁんですな気分になったりしていました。次回、『デンジャラスなバンドの鉄球ぶつけ合い』にご期待ください(嘘《うそ》)。
今回はうまく埋まってくれました……と何気に虚《きょ》偽《ぎ》申告《しんこく》をしつつ、このあたりで。
この本を手に取ってくれた読者の皆様に、無上の感謝を、変わらず。
また皆様のお目にかかれる日がありますように。
[#地付き]二〇〇二年十二月  高橋弥七郎