灼眼のシャナ
高橋弥七郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)遥《はる》か未来に
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)単身|赴《ふ》任《にん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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プロローグ
その日。
その日も、坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は当然のように自分の日常に暮らしていた。
高校一年の四月末。新しい環境にもそこそこ慣れ、受験や将来について深刻ぶる時期は、遥《はる》か未来にある。他人と衝突《しょうとつ》するほどとんがってもいないので、友人も幾人かできた。
家庭は中流。一人っ子で両親は健在。ただし、父・貫《かん》太《た》郎《ろう》は海外へ単身|赴《ふ》任《にん》中。おっとりした誇りある専業主婦である母・千《ち》草《ぐさ》と、学校から徒歩二十分ほどの一戸建てで二人暮らし。
成績は中学のときから、中の上下を行ったり来たり。自分を磨《みが》こうと思うほどの気《き》概《がい》はない、しかし怠《なま》け過ぎても怖いので適度に努力する。微妙《びみょう》に要領が良い、とは中学以来の友人で現クラスメートでもある、メガネマン池《いけ》速《はや》人《と》の評。
彼女はいない。隣席の平《ひら》井《い》ゆかりに何くれとなく話し掛けてはいるが、これは彼女に、宿題等の援助をもらうためで、それ以上深くは考えていない。焦《あせ》って探すこともないと思っている。
目下の悩みは、迫るゴールデンウィークでの金の使い道。親しい友人たちとどこかに出かけたくもあるが、買いたいゲームやマンガもいくつかある。
その日の放課後に、学校を含めた住宅地の対岸、大鉄橋で結ばれた市街地に足を向けたのも、ゲーム店と本屋を巡って、その辺りの目《め》処《ど》をつけようと思ってのことだった。
その日、
その時まで、
悠二はそんな日常が永遠に続くと思っていた。
いや、そこまでの自覚さえ持たず、当然のように、無根拠な確信の中にいた。
しかし、その日、そのとき、
血のように赤い夕焼けの中で、彼の日常は、確信は、あまりにも呆《あっ》気《け》なく、燃え落ちた。
あるいは、燃え上がった。
[#改ページ]
1 外れた世界
坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、怪物に喰われつつあった。
それは、日常からわずか五分の距離。
突然、炎《ほのお》が視界を満たした。
レストランや飲み屋の立ち並ぶ繁華街、そこに流れ、悠二を混じらせていた雑《ざっ》踏《とう》、全《すべ》てを染めていた夕日が強く揺《ゆ》らいだかのような……澄みつつも不思議と深い赤の、炎が。
その最初の瞬間、悠二は、
「え」
とただそれだけしか言えなかった。
驚き戸《と》惑《まど》ううちに、ひたすら異常な光景の中に、悠二は孤立していた。
周りを壁のように囲み、その向こうを霞ませる陽《かげ》炎《ろう》の歪《ゆが》み。
足元に火の線で書かれる、文字とも図形ともつかない奇《き》怪《かい》な紋章《もんしょう》。
歩みの途中、不自然な体勢で、瞬《またた》き一つせずピタリと静止する人々。
「…………?」
悠《ゆう》二《じ》は呆《ぼう》然《ぜん》と、自分を取り巻くこれらを眺《なが》める。
常人が取る当然の反応として、これは悪趣味な夢だと思い込もうとする、その現実[#「現実」に傍点]逃避が、雑《ざっ》踏《とう》の真中に降ってきたものによって粉々に砕《くだ》かれた。
「っな!?」
その何かが着地する衝撃《しょうげき》で悠二は目覚め、そして見た。
降ってきた何かが、雑踏の真中にそびえている、
奇《き》妙《みょう》なもの……いや、その形や、元になったものは知っているが、それがどうしてそんな風[#「そんな風」に傍点]になっているのかが理解できない、そんなもの。
一つは、マヨネーズのマスコットキャラそっくりな三頭身の人形。
もう一つは、有《ゆう》髪《はつ》無《む》髪《はつ》のマネキンの首を固めた玉。
いずれも人の身の丈《たけ》の倍はあった。
(……なんの、冗談《じょうだん》だよ……?)
それが悠二の率直な感想だった。もはや悪夢さえ通り越した、まったく馬鹿な眺めだった。
しかし、それらは現に、目の前にいた。
その怪物たち、人形が巨体を揺《ゆ》り動かしてはしゃぎながら、耳まで裂けるように、
首玉がけたたましい声を幾《いく》重《え》にも重ねて、横一線にぱっくりと、
口を開けた。
途《と》端《たん》に、止まっていた人々が猛《もう》烈《れつ》な勢いで燃え上がった。それは、彼らに囲まれる悠二を焼くこともなく。熱さも感じさせない、しかし異常に明るい、炎。
この中で、悠二は麻《ま》痺《ひ》するように立ち尽くしていた。
ただ、見ている。
こんな出来事の中で、それ以外に何ができるというのか。
その、半ば虚《うつ》ろになった瞳に、映る。
燃える人々の炎の先端が、細い糸のようになって宙へと伸び、怪物たちの口の中に吸い込まれていくのが。
その内にある人々は、服も焦《こ》げず肌も爛《ただ》れない。しかし、怪物たちに吸われるにつれ、炎に揺らぐ姿が、だんだんと輪《りん》郭《かく》をぼやけさせ、薄れ……そして、小さくなっていく。
燃える炎も、中にある人も。
最初はキャンプファイヤーほどの大きさだったものが、すぐに焚き火ほどになり、さらに松《たい》明《まつ》から蝋《ろう》燭《そく》の灯《あかり》ほどへと、小さく、小さく……。
悠二は、その炎が吸われていく様《さま》を放心して見ていた。
見るうちに、まばらに点《とも》る灯《あかり》の中に一人、ぽつん、と取り残されているように立っている。
そんな彼の姿に怪物が二人して、ようやく気付いた。
人形が首だけをぐるりと回し、傾《かし》げた。
「ん〜? なんだい、こいつ」
悠《ゆう》二《じ》は、その子供っぽい声が、自分を指していることに気付くのに数秒かかった。
「……あ」
と間抜けな声を上げる悠二を、可《か》愛《わい》いマスコットキャラの、しかし巨大な瞳が睨《にら》んでいる。
いつしか首玉も丸ごと向き直っていた、真中にぱっくりと開いた口から、女の声で言う。
「さあ? 御《おん》徒《ともがら》≠ナは……ないわね」
「でも、封《ふう》絶《ぜつ》の中で動いてるよ」
「ミステス=c…それも飛びっきりの変り種ということかしら。久しぶりの嬉《うれ》しいお土産《みやげ》ね。ご主人様もお喜びになられるわ」
「やったぁ、僕たち、お手柄だ!!」
人形が、ズシン、と粗《そ》雑《ざつ》な作りの大足を一歩、踏み出した。元の形がユーモラスなだけに巨体ではしゃぎ、耳元まで裂《さ》けた口でニタリと笑う様《さま》は、おぞ気を誘う不気味さを持っていた。
「じゃ、さっそく……」
巨大な人形が悠二に向かって、地を揺《ゆ》るがし、走り寄って来る。土《ど》管《かん》ほどもある腕を、ぬうっ、とさし伸ばして、
「……あ、あ……?」
パニックを起こして騒ぐには、目の前に迫るものはあまりに異常で、圧倒的過ぎた。悠二に出来たのは、せいぜい後ずさるくらいだった。
しかし、その一歩を下がる間さえ与えてくれない。
悠二は視界を覆《おお》うような掌《てのひら》に、腹を乱暴につかまれた。その暴力の衝撃《しょうげき》がスイッチとなったかのように、全身にようやく恐怖の震えが湧《わ》きあがってくる。
「……う! うわ……」
もう、何をするにも遅すぎた。
持ち上げられ、振り回され、そして、
その行く先は、自分を軽く一《ひと》呑《の》みにできる……頭半分を切って開けられたような大口。
絶叫すら上げられない。
目を見開いて、冷や汗をびっしりとかいて、ただこの光景に翻《ほん》弄《ろう》されているだけ。
「いただきま――――――す!!」
こうして、悠二は喰われる運びとなった。
それは、日常から、わずか五分の距離。
そして、そこから外《はず》れた長い道の、始まり。
凄《すさ》まじい重さと勢いを持った、小さな何者かが落下してくる。
その落下の先《せん》端《たん》である爪《つま》先《さき》が、首玉の頂点に打ち込まれた。
「っぎ、ごぉ!?」
首玉が持つ口、全身の小さなもの、真中の大きなもの、それらから一《いっ》斉《せい》に、圧迫への絶叫があがった。あまりの踏《ふ》みつけの圧力に、首玉は半ば以上砕けた路面にめりこませる。
何者かは、着地と打撃をかねた一撃の力を、細くしなやかな足を曲げて溜め、さらに跳躍。
今度の先端は。鋭く輝く、刃《やいば》。
悠《ゆう》二《じ》を口の中に放り込もうとした人形が、がちん、と空気だけを噛《か》んだ。
「っ!?」
人形がふと見れば、目の前に、今喰おうとしていた獲《え》物《もの》が、ぐるぐると宙を舞っている。
自分の腕ごと。
「――っ」
すっぱりと、肘《ひじ》から先を断ち切られた、自分の腕ごと。
「っうぎゃああああああああ!!」
片腕をいつしか失っていた人形は叫び、よろめく。斬《き》られた断面からは、血ではなく薄白い火花がバチバチと散っていた。
その身の毛もよだつ叫びの中、悠二は地面に叩《たた》きつけられた。
「うぐ!?」
自分をつかんでいた巨《きょ》腕《わん》がクッションとなったためか、さほどの衝撃はなかったが、それでも二、三メートルは落下している。悠二は息を詰まらせて、そのまま地面に突っ伏した。
目の前で、切り落とされた巨腕が薄白い火花となって散る。
眩暈《めまい》を紛《まぎ》らす、その光の薄れた後に、悠二は見出す。
(……誰……?)
自分と人形の間に屹立《きつりつ》する、小さな、しかし力に満ちた、背中を。
焼けた鉄のように灼熱《しゃくねつ》の赤を点《とも》す長い髪が、
マントのような黒|寂《さ》びたコートが、
着地の余《よ》韻《いん》になびき、揺《ゆ》れていた。
コートの袖《そで》先《さき》から覗《のぞ》く可《か》憐《れん》な指が、戦《せん》慄《りつ》の美を流す、大きな刀を握《にぎ》っている。
少女、らしい。
灼熱の赤を点す、しかし柔らかな質感を持つ髪が、ゆっくりと地に引かれ、腰の下まで伸びる。その動きに取り残されるように、赤い火の粉《こ》が散った。
悠二は、周りの状況も、置かれた立場も忘れて見入った。
火の粉を舞い咲かせて屹《きつ》立《りつ》する、灼熱《しゃくねつ》の髪の少女を。
圧倒的な存在感だった。
その向こうで、口を耳まで裂いて叫ぶ巨大な人形など、ただの背景にすぎなかった。
「どう、アラストール?」
不意に、背を向けたまま少女が言った。凛《りん》とした、しかしどこか幼さを残したこの声に、
「徒《ともがら》≠ナはない。いずれも、ただの燐《りん》子《ね》≠セ」
と姿の見えない誰かが答えた。こちらは遠雷のように重く低い響きを持った、男の声。
「うあぁぁあぁ! よくも僕の腕ををを!!」
その会話を遮《さえぎ》るように、人形が鼓《こ》膜《まく》を引っかくような絶叫を上げる。残った腕を宙に振りかざし、握《にぎ》り拳《こぶし》を作った。
少女はそれを軽く見上げると同時に右手を振って、刀の切っ先を鋭く後ろに流す。その背後の路面にへたりこんでいる悠二の、側頭部ギリギリで刀の峰《みね》が止まる。
「―っ!」
悠二が息を詰めた、そのときには既に、少女の体は振った方向に思い切り捻《ひね》られて、左手が柄《つか》の端《はし》を握っていた。刀身を右の奥から振り抜くための構え。
人形の、頭身が低い分だけ巨大な握《にぎ》り拳《こぶし》が、少女を叩《たた》き潰《つぶ》さんと降ってくる。
「潰れちゃえ――――!!」
その拳の軌道が予定の半分も行かない間に、
少女は人形の膝《ひざ》元《もと》に踏《ふ》み込んでいた。
もう刀は振り抜かれている。
少女はその振り抜いた勢いのまま体を九十度回し、人形の真横へと後ろ跳《と》びに下がる。
「!?」
人形の拳の軌道が突然狂った。腕は出《で》鱈《たら》目《め》な方向に振られ、人形はその勢いでひっくり返った。自《じ》重《じゅう》で、顔を路面に激突させる。人形はわけが分からない。
「ぎぇっ、あ?」
振動に揺《ゆ》れる、そのつぶらに描かれた巨大な眼《め》が、とある物を見つけ、驚きに開かれる。
地面に、自分の足が一本、膝から下だけが残って立っていた。
少女が膝元に潜《もぐ》り込んだとき、神《しん》速《そく》、支えとなる足を一本、叩《たた》き斬《き》っていたのだ。
足が、すぐに薄白い火花となって散る。
その火花の向こうから、少女が地に倒れた彼(?)を、傲《ごう》然《ぜん》と見下していた。
火の粉《こ》を撒《ま》いてなびく長い髪と同じ、灼熱《しゃくねつ》の輝きを点《とも》した、二つの瞳で。
「え、え、炎《えん》髪《ぱつ》と、灼眼《しゃくがん》……!」
驚愕《きょうがく》に震える声が、人形の口からもれた。自分が、最悪の部類に入る敵に喧《けん》嘩《か》を売られたのだと、ようやく気付いたのだった。
少女は、自分の身の丈《たけ》のほどもある刀を右手だけで、その重さを感じさせることなく簡単に振りかぶる。倒れた人形に向けて歩き出す、その一歩ごとに、髪から火の粉が舞い散ってゆく。
殺《さつ》伐《ばつ》の美に満ちたこの光景を、悠《ゆう》二《じ》は身動きすることも忘れて見入る。
その終わりは呆《あっ》気《け》ない。
「う、うああ……っ」
何かを言いかけてもがいた人形の頭部を、少女は無《む》造《ぞう》作《さ》に片手|斬《ぎ》りで両断した。
人形がうす白い火花を弾《はじ》けさせ消滅してから数秒、ようやく少女は悠二のほうを見た。刀を右手に下げて、ゆっくり歩いてくる。
まだ路面に座り込んでいた悠二は、初めて少女を観察することができた。
今までの異常な状況と圧倒的な存在感で気付かなかったが、少女の背丈は、百四十センチ前後。自分が立てば、その胸までしかないだろう。年もせいぜい十一、二というところだった。
ただし、その整った顔立ちには、あどけなさが微《み》塵《じん》も感じられない。無表情だが、それは硬直の類《たぐい》ではなく、強い意志によって引き締められたものだと、一目でわかる。
凛々《りり》しい、と表現できる顔を、悠《ゆう》二《じ》は生まれて初めてみたような気がした。つなぎのような皮の上下と黒|寂《さ》びたコート、物《ぶっ》騒《そう》極まりない抜き身の刀さえ、彼女には相応《ふさわ》しく思える。
そして何より印象的なのは、焼けた鉄のように灼熱《しゃくねつ》の赤を点《とも》す、瞳と髪。
その、幻想的というにはあまりに強烈すぎる姿が、悠二の目の前にそびえる。
「……あ、その……ありがとう」
悠二は、我ながら芸がない、と思いつつも礼を言った。実際、格好をつけても様《さま》にならない状況ではある。
しかし少女は、その悠二の声を全く無視して、言う。
「ふ〜ん、コレ……ミステス≠ヒ?」
「……?」
その返答ではなさそうな言葉の意味を悠二が訊《き》く前に、少女の胸元から、さっきも聞こえた男の声が答える。
「うむ」
少女の胸元にはペンダントが下げられていた。
銀の鎖《くさり》を繋いだ、指先大の黒く澱《よど》んだ球。その周りを金色のリングが二つ、交《こう》叉《さ》する形でかけられている。優美な美術品のようでもあり、精《せい》巧《こう》な機械のようでもある。
どういう仕組みなのか、男の声は、そのペンダントの中から聞こえているらしかった。
「封《ふう》絶《ぜつ》の中でも動けるとは、よほど特異な代《しろ》物《もの》を蔵《ぞう》しているのだろう……」
不意に、悠二の背後で轟《ごう》音《おん》。
少女に蹴《け》り潰《つぶ》されて地面に埋《う》まっていた首玉が、砲弾のように彼らに向けて飛んでいた。
「え」
振り向こうとした悠二の鼻先を掠《かす》めるように、
「っ!?」
少女の強烈な前蹴りが打ち出される。真反対からの、強烈な刺《し》突《とつ》を受けた首玉は、あらぬ方向へと弾《はじ》き飛ばされた。側のレストランを砕《くだ》いて、まためりこむ。
少女は、蹴りの反動で路面に刺《さ》さった軸足を引き抜くと、濛々《もうもう》と土煙を上げるレストランに向けて歩き出す。
動揺していた悠二は、取り残される恐怖から思わず少女のコートの裾《すそ》をつかんだが、少女はすげなくそれを振り払った。
その、取り残された悠二に向けて、少女の真反対から人影が飛んでくる。
人影は、悠二の背を狙《ねら》って手を伸ばす。
少女が振り返り様、刀を一《いっ》閃《せん》する。
悠二の頭上すれすれを、横|薙《な》ぎの斬《ざん》撃《げき》が通り過ぎる。
これら、四《し》半《はん》秒もない流れを経て、悠二が気付けば、誰かの悲鳴が上がっていた。
「っぐぎ!」
背後で誰かが路面に落ちた。
振り向いた悠二の目の前に、女性のものらしい、切り落とされた腕が転がっていた。
「な、うわっ……!?」
思わず腰を引いた悠《ゆう》二《じ》の前で、その腕はさっきの巨大な人形と同じように、薄白い火花となって消える。
その火花の向こうに、切られた腕を押さえうめく女性がうずくまっていた。滑《なめ》らかで乾《かわ》いた質感を持つ金髪の奥で、美しいが、奇《き》妙《みょう》に無機的な顔が苦痛に歪《ゆが》んでいる。
少女は一歩進んで悠二の傍《かたわ》らに立ち、刀の切っ先を美女に突きつける。
「ふん、『逃げるにしても、せめてミステス≠フ中身くらいはいただく』ってわけ? こんなに簡単に釣《つ》れちゃうと、かえって拍《ひょう》子《し》抜けしちゃうわ」
少女は笑みを含ませて、傲《ごう》然《ぜん》と言い放った。
美女が、整った口元を無理矢理こじ開けるように、憎悪の声を吐《は》く。
「炎《えん》髪《ぱつ》と灼眼《しゃくがん》……アラストールのフレイムへイズ≠ゥ……この、討《とう》滅《めつ》の道具め……!」
「そうよ、だからなに?」
「私のご主人様が、黙っていないわよ……」
陳《ちん》腐《ぷ》な脅《おど》し文句に、少女は鼻で笑って返した。
「ふん、そうね。すぐに断《だん》末《まつ》魔《ま》の叫びを上げることになるわ」
笑いながら、片手で刀を大きく振りかぶる。
「でも、今はとりあえず、おまえの[#「おまえの」に傍点]を先に聞かせて」
少女が、あまりに平然と取ったその動作の意味に、悠二は一瞬遅れて気付いた。
殺そうとしている。
自分の置かれた立場や状況など分からない。
だから目の前の、少女が殺そうとしている、という事実だけに反応した。
かばおう、とまで考えたわけでもない。
ただ、自分の当たり前の感覚として、反射的に止めに入った。
「待っ」
振り下ろされる刀と美女の間に。
その、双《そう》方《ほう》にとって意外すぎる行動に、少女は驚き、美女は笑った。
美女の腕が、自分をかばった悠二の背中を貫き、内側に潜った[#「内側に潜った」に傍点]。
「!?」
悠二は感じた。
(なんだ?)
自分という存在が、核のような何かを揺《ゆ》さぶられて、消えそうになっていることを。
(僕の、中……なにか、なにかを……!)
感じて、恐怖した。
(やめ……!!)
その、一秒あったかどうかの感触と恐怖は、
「ぎゃああっ!!」
美女の絶叫によって途《と》切《ぎ》れた。
頭上、両手に握《にぎ》りなおした少女が、美女を斬《き》っていた。
その間にいた、悠二ごと。
一切の躊躇《ちゅうちょ》のない、左の肩口から腹にかけての袈《け》裟《さ》斬り。
「……っ!?」
悠二は仰《の》け反《ぞ》って倒れる刹《せつ》那《な》、美女が自分と同じ角度で斬り裂《さ》かれ、その火花散る中から、小さな人形が飛び出したのを見た。
「ちぃっ!」
舌《した》打ちするその人形は、茶色い毛糸の髪、青いボタンの目、赤い糸で縫《ぬ》われた口という粗《そ》末《まつ》なもの。靴も指もない肌色フェルトの足が路面を蹴《け》って、低く後ろに下がる。
これを追おうとした少女は、しかし、胸元のペンダントからの叫びを受ける。
「後ろだ!」
レストランで埋《う》もれていた首玉が再び少女を狙《ねら》って、瓦《が》礫《れき》の奥から砲弾のように飛び出していた。
少女は瞬時に体を返し、切り裂《さ》かれてうめく悠二を、地を滑《すべ》らす足で払《はら》い退《の》ける。その動作に乗せて、大上段から一《いっ》閃《せん》、首玉を真っ向から斬《き》った。
首玉は綺《き》麗《れい》に二つの半球となって吹っ飛び、すぐに大量の火の粉《こ》となって爆《は》ぜ、消えた。
そしてこの間に、人形は何処《いずこ》かへと去っていた。
不意な静けさが、人々の小さな残り火と破壊の傷跡を残す街路に訪れた。
それを破るのは、やはり少女。
「あの燐《りん》子《ね》≠フ言い方からすると、案外大きいのが後ろにいそうね」
答えるのも、やはりペンダント。
「久々に王≠討《とう》滅《めつ》できるやも知れぬ」
「うん、それにしても」
「ううう、ぐ……」
(き、斬られた……)
少女は自分の足元、路面に仰《あお》向《む》けに倒れてうめく悠二に目をやる。
「さっきはびっくりしちゃった。コレが動いているってこと、すっかり忘れてたから」
「ううう……」
(肩から、ばっさり)
「そうだな。我も一瞬、天《てん》目《もく》一《いっ》個《こ》≠フことを思い出して慌《あわ》てた」
「うう」
(死ぬ!)
「ま、あのときは最初っから飛び掛ってきたし……」
「うう、うぐはっ!?」
(死っ!?)
いい加減|苛《いら》立《だ》った少女が、ぼんと、悠《ゆう》二《じ》を蹴《け》飛《と》ばした。
「あーもう、うるさいうるさいうるさい。今さら[#「今さら」に傍点]、斬られたくらいで[#「斬られたくらいで」に傍点]騒がないで」
ペンダントもそれに容《よう》赦《しゃ》なく続ける。
「生前の[#「生前の」に傍点]器が知れるわ、痴《し》れ者めが。人間なら[#「人間なら」に傍点]、その深《ふか》手《で》を受けた時点で即死だ」
「……そ、そんなこと言われても、斬《き》られて………………ん?」
悠二はようやく気付いた。
斬られた感触を、それこそ自分の中を通り抜けた刃《やいば》の冷たさまで、はっきりと感じた。だから当然、凄《すさ》まじい痛みがあるものと思ってうめき声をあげていたのだが、それが、
「痛く、ない……?」
致命傷《ちめいしょう》というのは痛みも麻《ま》痺《ひ》するものなんじゃ? と思ったりもしたが、こんな回りくどいことを考えられる余《よ》裕《ゆう》を、今の自分が持っていることに、ようやく不審の念が湧《わ》いてくる。
(一体、なにがどうなって……う)
我ながら呑《のん》気《き》だと思いつつ、首をわずかに起こすと、嫌《いや》なものが目に入った。
やけに遠くにあるように感じられる『左肩側の体』と、手前で見事な一直線の切り口を斜めに走らせている『首付き、右肩側の体』。
二つに千《ち》切《ぎ》れて飛んでいないのはたまたまなのだろうが、なるほど、ペンダントが言ったように、普通ここまで斬られたら致命傷だろう(他《ほか》にも何か言ったような気がしたが、さすがにそこまで冷静にはなれない)。
なのにどういうわけか、血も噴出せず、苦痛もない。嫌な感じの『自分の中身』は見えるが、その断面は薄い光に覆《おお》われている。
「どういうこ……」
訊《き》こうとした悠二は、言葉を切った。
少女が自分の上に覆《おお》い被《かぶ》さってきたのだ。
その、灼熱《しゃくねつ》の光を点《とも》す瞳と髪が急に迫り、悠二の目に焼きつく。
「なっ、なに、を……!?」
頬《ほお》も触れ合うような、その近さ。
鼻にかかる、熱い火の香りと、ほのかで柔らかな匂《にお》い。
悠《ゆう》二《じ》はその全《すべ》てに、痺《しび》れる。
肩に、つ、と細くたおやかな指が触れた……
途《と》端《たん》、少女は乱暴に、悠二の分かれた体をくっつけた。
「っ?」
体の断面が合わさる不気味な感触が、悠二の目を覚ます。
正気に戻ってみれば、少女はもう体を離していた。
その小さな唇《くちびる》がすぼめられ、悠二に鋭く息を一吹きかける。
いきなり、悠二の全身が激しく燃え上がった。
「っうわ!!」
驚いた悠二は反射的に身を起こした。起こせた、そのことで、分かった。
斬《き》られた体が元通り、くっ付いている。
火は消えている。
恐る恐る、斬られた箇《か》所《しょ》を触《さわ》ってみると、傷どころか、服まで元通りになっていた。
しかし、そうやって眺《なが》めた自分の胸の奥に、
(……なんだ?)
灯《あかり》が、見えた。
ぽつん、と点《とも》る、小さな灯が。
体ははっきりと見えるが、その奥にあるこの灯も重なり、感じるように見える……それとも、見えるように感じているのか。
さっきから異常なことばかり起こってはいたが、この胸の中の灯は、なぜか特に気になった。
胸騒ぎを感じさせられる、何かがあった。
(そうだ、さっきあの女に触られたのは、これだ)
直感以上の、確信。
目の前の、自分を治《なお》した少女に訊《き》く。
「な、なにをしたんだ?」
が、悠二のこの当然の問いを、少女はまた無視した。見向きもせずに立って、刀をコートの中、左腰のあたりに収める。
切っ先から、後ろに突き抜けるような勢いで押し込まれた刀が、そのままコートの中に消える。刀身が少女の身の丈《たけ》ほどもあったというのに。まるで手品だった。
手ぶらになった少女は周囲を見回して、肩をすくめた。
「さっきの見た? あの燐《りん》子《ね》=Aちゃっかり手下が集めた分、持ってっちゃった」
小さな人形は逃げる際、大きな光の結晶のようなものを二つ、手の内に引き寄せて持ち去っていった。それは手下の怪物たちが集めた、とある力。
ペンダントからの声も、嘆《たん》息《そく》混じりに答える。
「うむ、抜け目のない奴《やつ》だが……まあ、このミステス≠フ中身のほうが危険性は高い。こっちを渡さなかっただけでもよしとすべきだろう。討《とう》滅《めつ》自体はいつでもできる」
少女は頷《うなず》いて、右の人差し指を天に向けて突き立てた。
周囲で光が弾《はじ》け、悠《ゆう》二《じ》は思わず身をこわばらせる。
路面にまばらに散っていた、まるで人々の名残《なごり》のようだった小さな灯《あかり》が、ふ、と幻が湧《わ》くように、人の形を取り戻していた。
一瞬はっとした悠二はしかし、棒立ちに立つ彼らの胸の中心に、自分の中にあるものと同じ灯が、ちろちろと点《とも》っているのに気付いて、どうしようもない頼りなさを感じた。
その灯は、最初に怪物に襲われた際、燃え上がった炎《ほのお》と同じもののように思える。
(でも、あの時は体全体を包んでいたのに、今はあんな小さな……まるで怪物に吸われた分、減ってしまったみたいだ……?)
突然、悠二の体を怖気が走り抜けた。
(……なんだ……?)
その自分の想像が、なにか、とんでもない破局のようなものの端《はし》に触れた気がしたのだ。
少女はそんな悠二に全く構わず、ペンダントと会話する。
「トーチ≠ヘこれでよし、と。直すのに何個か使うね」
「うむ……それにしても、派《は》手《で》に喰いおるわ」
「奴《やつ》の主って、よっぽどの大喰いなのね」
言う間に、幾人かが、再び一点に凝縮《ぎょうしゅく》された。瀕《ひん》死《し》の蛍《ほたる》のようになったその灯は宙を流れて、少女の突き上げた指先に宿った。
瞬間、灯は一《いっ》斉《せい》に弾《はじ》け、無数の火の粉《こ》となった。
それらの火の粉は、この陽《かげ》炎《ろう》の壁に囲まれた空間の中に舞い散ってゆく。怪物や少女によって壊されたところに触れると、火の粉はそこから持てる暖かさを染《し》み透らせるように微光を宿らせ、周囲へと広げる。
「あ……」
悠二が眺《なが》める先で、微光を宿した全《すべ》ての箇所が、ゆっくりと、無音で、テープの逆回しのように、壊《こわ》れる前の姿へと戻っていく。
砕《くだ》けた敷石がひびを霞ませ、割れたショウウインドウが張り直され、落ちたアーケードが持ち上がり、折れた街灯が伸びる。黒い焼け跡や、薄く澱《よど》んでいた煙さえ、消えてゆく。
修復の終わった場所からは微光が失せ、光景はどんどん元通りになる。
この空間に囲われていた人々が、胸に灯を点した以外は。
少女の指先で火の粉《こ》となって散った人たちが、欠けている以外は。
やがて、修復が全《すべ》て終わる。それは、時間にしてほんの十秒ほど。
少女が、おもむろに告げる。
「終わり、と」
光と衝撃《しょうげき》が湧《わ》き起こった。
「っわっ……!?」
悠《ゆう》二《じ》はいきなり、雑《ざっ》踏《とう》の喧《けん》騒《そう》に包まれた。思わず瞑《つむ》っていた目を開ければ、そこには、血のように赤い夕焼けに染まる繁華街と、ざわめく人の流れがあった。
周囲を覆《おお》っていた陽《かげ》炎《ろう》の壁も、足元に書かれていた火線の紋章《もんしょう》も、全《すべ》て掻《か》き消えている。
異変が起こる前の状態、完全に戻ったのか。
(……違う……)
悠二は、その違いをはっきりと感じていた。
自分と一緒にあの妙《みょう》な場所に囲われた人々は、まだ弱く薄い灯《あかり》を、胸のうちに点《とも》していた。
少女の指先で火の粉《こ》となった人々も、いない。
そして何より、自分の中に、灯が見える。
なのに、誰もそのことを言わない。当たり前のことのように、みな、気にしない。
(いや、気付いていないんだ……さっき起こってたことにも、今、僕が見てるものにも)
やがて、灯を胸の奥に点す人々は、雑踏の中に、どこか弱々しい足取りで散っていった。
呼び止めるでもなく、それが去るのを見ていた悠二は、自分の前にまだ少女が立っていることに、ようやく気付いた。周囲を見渡して、何かの確認か警戒をしているらしい。
少女の髪と瞳はいつの間にか、焼けた鉄が冷えるように、艶《つや》のある黒色になっていた。年に似合わない落ち着きはあるが、一応は普通の人間に見える。
そうやって少女を見上げていた悠二は、やがて自分こそが、周りの雑踏から好《こう》奇《き》の視線を受けていることに気がついた。自分は、まだ地面にへたり込んだままだったのだ。
「っと……!」
慌《あわ》てて立ち上がると、その目に繁華街を埋める雑踏の全景が入る。
そこには、弱々しい灯を胸の奥に点す人間が、幾人も混じっていた。
灯の小ささや距離は関係がない。ただ、感じる。
そのうちの一人、頭の薄いサラリーマン風《ふう》の男が、足取りも重く、傍《かたわ》らを通り過ぎた。
(さっき襲われた人じゃない……でも、灯を中に持ってるし、やっぱり本人も気付いてないみたいだ……いったい、なんなんだ……?)
元に戻ったはずの世界に溢《あふ》れる異常に、悠二は混乱のしっぱなしだった。
その混乱を収めるための答えを知っているはずの少女が、目の前にいる。
いるのだが。
「……あ、あの、さっきの、いや、今のことでもあるんだけど」
悠二は目の前の、自分の胸元までしかない少女に、しどろもどろな声をかけた。
そして、何度もそうされているように、やはり無視された。
少女は目の前にいるのに、自分の顔も見ようとしない。
さすがに悠《ゆう》二《じ》もむっときた。不安も手伝って、その肩に手をかけようとする。
「ちょっと、あんた、っぐ!?」
肩に行く前に、手首を取られていた。軽く添えただけのような、その細く優美な指は、しかし万《まん》力《りき》のような力で悠二の腕を抑え、身動きを許さない。
少女が、ようやく悠二と顔をあわせ、言う。
「うるさいなあ、もう」
冷たい、顔だった。
まるで騒がしいラジオでも見るような。
相手の人格を認めない……いや、そんなものなど最初からないと認識しているかのような。
「コレ、消そうか」
「な……!?」
悠二には、その言葉の意味は分からなかったが、ただ、少女が本気であることだけははっきりと分かった。ほんの少し前、人形に自分の中を揺《ゆ》るがされたときと同じ、異様な恐怖が湧《わ》き起こる。
しかし、
「待て」
そこにペンダントから静止の声がかかった。
「迂《う》闊《かつ》にミステス≠開けてはならん。天《てん》目《もく》一《いっ》個《こ》≠フときの騒《そう》動《どう》を忘れたか」
少女は、ふん、と鼻を鳴らして悠二の手を離した。
「もちろん分かってるけど、コレ、さっきからうるさくて」
「真実を教えてやればよい。それでコレも黙るだろう」
「あ、あんたら、コレ、コレって人を物みたいに……!」
悠二は勝手な言い合いに、赤くなった指をさすりながら喰って掛かった。
少女はいきなり冷淡に告げた。
「お前は人じゃない、物よ」
「な……!?」
絶句する悠二に少女は、よく聞きなさい、と念押ししてから言う。
「本物の『人間だったおまえ』は紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ノ存在を喰われて、とっくに消えてる。おまえは、その存在の消滅が世界に及ぼす衝撃《しょうげき》を和らげるために置かれた代《だい》替《たい》物《ぶつ》トーチ≠ネの」
理解を超えた言葉の乱発。
「…………なにを、言って……?」
悠二は戸《と》惑《まど》うしかない。
しかし、意識の片隅に、その言葉の意味を冷静に捉《とら》え、考える自分がいる。
そこから何か、不気味な実感が忍び寄ってくる。
言葉が頭の中で転がり始める。
(グゼノトモガラ、怪物。消える、何が。存在、なんの。本物、誰の。代《だい》替《たい》物《ぶつ》、僕が……?)
今度はペンダントが言う。
「我らの加護によって修復された今なら、その偽《ぎ》体《たい》を形作る存在の力≠ェ、胸の中に灯《あかり》として見えているはずだ。それこそ、貴様が人の身ならぬ、存在の残り滓《かす》であることの、なによりの証《あかし》だ」
ペンダント(?)が言うとおりだ。
見える、自分の胸の内にちろちろと揺《ゆ》れる、灯《あかり》が。
(……灯……存在の、力……?)
腹の底に冷たい感触が湧く。
少女らの言っていることの意味が、じわじわと理解されていく。
言葉が、意味を持って繋《つな》がり始める。
(僕が、消えた、さっきの、怪物に喰われて、僕は、残り滓、代替物……物……?)
異常なこと。恐ろしいこと。
しかし、今さら否定することはできそうにない。
なかったことにするには体験は生々しすぎ、知らされたことは説得力を持ちすぎていた。
追い討《う》ちをかけるように少女が続ける。
「周りにぞろぞろ歩いてるのがみえるでしょ? そいつらもみーんな、喰われた残り滓《かす》。この近くに、さっきみたいに、存在の力≠集めて喰ってる紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ一人がいるのよ。
『本物のおまえ』も、その犠牲者ってわけ。別に珍しくもない、世界中で普通に起きてることよ」
悠二には、少女の言うことが、うっすらと理解できる。できてしまう。
気付けば、少女が彼を置いて歩き出していた。
「ま、待って!」
それだけのことに取り乱してしまう。まるで親に取り残されそうになった幼児のように、悠二は後を追った。
「で、でも、そのグゼとかなんとかの、怪物が暴れたなんて話、聞いたことがない」
小《こ》柄《がら》だが大《おお》股《また》に歩くので、少女の足は速い。悠二は、動揺からもつれそうになる足を必死に動かしてついていく。
「当然よ。おまえも中で動いてたんなら、封《ふう》絶《ぜつ》って囲いを見たでしょ」
「あ、あの周りにあった、赤い、陽《かげ》炎《ろう》の壁みたいなやつのこと、か……?」
「正確には、あの壁の中の空間。あそこは世界の流れ、因《いん》果《が》から一時的に切り離されるから、周りに何が起こったかを知られることはない。それに、存在それ自体≠喰うから、喰われた人間は、いなかったことになる[#「いなかったことになる」に傍点]。痕《あと》なんか残らないの」
「……そんな……」
少女が立ち止まった。
悠《ゆう》二《じ》が重く垂れていた顔を上げると、そこはタイヤキの売店の前だった。
少女は店員に行って、ホットプレートの上にある分を全部買う。袋に詰めてもらうのを待ちながら、世間話でもするように、軽く言う。
「でも、ただ喰い散らかしていると、急に存在の空白を開けられた世界に、歪《ゆが》みが出る。だから、喰われた人間の代《だい》替《たい》物《ぶつ》であるトーチを配置して、空白が閉じる衝撃《しょうげき》を和《やわ》らげるのよ」
少女はタイヤキで一杯になった袋を受け取る。店員に対して軽く頷《うなず》き、代金を払って釣《つ》りを受け取る。妙《みょう》に貫《かん》録《ろく》があるので、無愛想ではあっても無礼には感じられない。
「見えるでしょ、周りにうろついてるトーチが。ああやって、喰われた者の代わりに人や世界との繋《つな》がりを当面保って、やがてその存在感を少しずつなくしていく。中の灯《あかり》が燃え尽きる頃には、誰からも忘れられて……ああ、ちょうどいいわ」
少女が空《あ》いたほうの手で指差した。
「えっ?」
「今、正面から歩いてくるトーチ、おまえには見えるでしょ?」
人込みに頼りない足取りで混じる、印象の薄い中年の男。その胸の内に、小さな灯がある。
「あの、灯の弱い人か……あ……」
ふと、灯が、消えた。
燃え尽きた。
男もいつしか、消えていた。
それがなんでもないことであるかのように、異変への衝撃を感じさせず、ただ、ふと、男は消えてしまった。
周りを歩く人々は誰も、そのことに気付かない、いや、気にしない。悠二も、言われなければ注意を払わなかったかもしれない。それほどに、男の存在感は薄かった[#「存在感は薄かった」に傍点]。
ふと、人込みに紛《まぎ》れて、見えなくなる。
そうなっても、誰も気にしない。
そんな人間が、しかし今、確実に、消えた。
「あ、あれが、燃え尽きる、ってこと……?」
「そ」
少女は簡単に答えて、また歩き出した。袋からタイヤキを取り出す。
その横に、小走りになって並んだ悠二は、少女の言う、トーチとなった人々を探す。
三十人に一人、いるかいないか……人込みの中、弱々しい灯を内に宿す、その人の代替物≠ヘ、嫌《いや》になるほど目についた。
「!」
また一人、視界の端《はし》で、灯《あかり》が、燃え尽きた。
誰かが、消えた。
人込みは変わらず流れ行く。
これが、自分の暮らしていた、自分が知らずに過ごしてきた世界の、本当の姿……?
人込みは変わらず流れ行く。
喰われた人々の残り滓《かす》を彷徨《さまよ》わせ、いつしか欠けさせていく世界……?
人込みは変わらず流れ行く。
悠《ゆう》二《じ》は頭を抱えた。迫る実感と恐怖、そして事実の重さに耐えかねるように。
「あの人たち、みんな、みんな喰われたってのか……さっきの化け物たちに……ひどすぎる」
タイヤキを頬《ほお》張り始めた少女の代わりにペンダントが答えた。
「そうでもない。我ら紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ中にも、この世の存在を無《む》闇《やみ》に喰らうことで世界のバランスが崩《くず》れ、それが我らの世界紅世≠ノも悪影響を及ぼすかもしれぬと危《き》惧《ぐ》する者が数多くいる」
「我ら? あんたらもあのグゼなんとかの……怪物の仲間なのか?」
悠二はようやく、ペンダントそのものが声を出していることを感じた(理解はできない)
「貴様が出会ったのは燐《りん》子《ね》≠ニいう、我ら徒≠フ下《げ》僕《ぼく》に過ぎぬ存在だが、まあ、そのようなものだ」
「とにかく、その災《わざわ》いが起こらないように、存在の乱《らん》獲《かく》者を狩り出して滅ぼす使命を持つのが、私たちフレイムヘイズ≠チてわけ。分かった?」
そのフレイムヘイズの少女は、軽く確認すると、またタイヤキを頬《ほお》張った。美味《おい》しいのか、わずかに頬が緩《ゆる》んで、見かけ通りの幼い顔になる。
悠二は少女らの話した、ほとんど荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》と言ってもいい説明を無理矢理にでも理解したつもりになって、核心に入る。
自分の、核心に。
いつしか腹の底に溜まっていた冷たいもの……恐怖が、声を詰まらせる。
「……あ、あんたたち、僕の……ことを、ミステス≠チて、言ってたよな」
よく覚えてたわね、と少し感心した少女は、しかしやはり、軽く答える。
「紅世の徒≠ェ、この世で作った宝具とかその力そのものを中に入れたトーチのことよ[#「トーチのことよ」に傍点]」
トーチのこと[#「トーチのこと」に傍点]……?
悠二は、破局を感じる。
「そのトーチが燃え尽きたら、中のものはすぐ、次のトーチの中へとランダムに転移する、言ってみれば『旅する宝の蔵』ね。お前は運悪く見つかって、その中身を狙《ねら》われたの」
トーチ[#「トーチ」に傍点]。
この少女は、それをどのように説明したか。
動《どう》悸《き》が、高まってくる。
(おまえは人じゃない、物よ)
全《すべ》てが噛《か》み合って、自分の置かれた状況が、立場が、存在が、形作られてゆく。説明されたことが、ようやく呑《の》みこまれてゆく。
(本物の『人間だったおまえ』は、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠ノ存在を喰われて、とっくに消えている)
胸が痛い。
(おまえは、その存在の消滅が世界に及ぼす衝撃《しょうげき》を和《やわ》らげるため置かれた代《だい》替《たい》物《ぶつ》)
咽《の》喉《ど》が詰まる。
(喰われた者の代わりに人や世界との繋《つな》がりを当面保って、やがてその存在感を少しずつなくしていく。中の灯《あかり》が消える頃には、誰からも忘れられて……)
声が震える。
「じゃ、あ……じゃあ、僕は……」
悠《ゆう》二《じ》は立ちすくんだ。
少女もうざった気な顔をして足を止め、悠二に向き直る。
「何度も言わせないの。おまえはただの、本人の残り滓《かす》。燃え尽きてゆくだけの存在」
衝撃、
と言うにはあまりにも遠く大きな、恐怖と寂しさ。
それは、世界の全《すべ》てが揺《ゆ》らいだかのような、あるいは自分が世界から零《こぼ》れ落ちたかのような、圧倒的な失調感だった。
「燃え尽きれば、宝《ほう》具《ぐ》も次のトーチの中に移る。他人が持ってるおまえの記憶も、お前がやってきたことも、関わった跡《あと》も、全部なくなる。存在が、なくなるから」
その真実≠ヘ、彼にとって死刑宣告、どころか、今、自分がいること=Aその全ての根幹の崩壊に他《ほか》ならなかった。
「そん、な」
声が途《と》切《ぎ》れた。何を言っていいのか、全く分からなくなったのだ。
ここからの、今の自分からの逃げ場を探すように、周りに目をやる。
日はすっかり暮れていた。
自分たちのいる場所が、繁華街を含む市街地と、その対岸の住宅地を結ぶ大鉄橋の歩道だということにも、今ようやく気付いた。
その、二人が立ち止まっていても滞りなく人並みを通す広い歩道を、人々が行き交う。
「でも」
トーチが、その中に、いる。
胸の内に灯を点《とも》した人の代替物が、いる。
男だったり、女だったり、老人だったり、子供だったり……たくさん、いる。
重い首を回して夜景を見渡せば、町明かりに混じって、彼らにだけ見える灯《あかり》が小さく、しかしなぜかはっきりと、無数に動いているのがわかる。
自分の前に、広がっている。
いつかは燃え尽きる灯を、自分と同じものを、彷徨《さまよ》わせる世界が。
「でも!」
悠《ゆう》二《じ》は、その全《すべ》てに反発する。
少女の呆《あき》れ顔を見ずとも分かりきっている、分かりきっている、意味のない反発。
それでも、せずにはいられない。
(僕が死んだ[#「僕が死んだ」に傍点]なんていわれて!! ……いや、坂井悠二という人間はもう死んでる[#「坂井悠二という人間はもう死んでる」に傍点]なんて言われて、この僕[#「この僕」に傍点]が、そうですか、って答えられるわけないじゃないか!!)
認められないのではない、認めたくない。
ただそれだけ。
「でもさっき、僕の体は傷ついて!」
「生《なま》身《み》なら致命傷よ」
即座に少女が答えた。
悠二は詰まりかけて、しかし再び返す。
「記憶だってある!」
「本人の残り滓《かす》なんだから当然でしょ」
悠二は必死になって探した。自分を証明するもの、いや、自分が『生きた坂《さか》井《い》悠二である』と証明するもの、それはなんだ、どこにある、どうやって示せる……?
「……」
目の前の少女は待っている。
「…………」
自分が、それを示すのを。
「……………………」
あるいは、示せないことを理解するのを。
「…………………………………………」
ない。
なかった。
何一つ、示せない。
どうやっても、できない。
真実《トーチ》が厳然と、傍《かたわ》らを通り過ぎた。
無力感が、全身を包む。改めて、訊《き》いた。
「僕が……坂井悠二が、とっくに、死んでいた?」
「そうよ」
もう一度、確認する。
「燃え尽きて、消える? ……僕が?」
「そうよ」
最後の抵抗は、弱々しかった。
「夢、じゃないのか?」
「ただの現実よ」
少女は容《よう》赦《しゃ》なく、強く、答える。
「……」
「もっとも、おまえはまだ灯が明るいから、意識とか存在感とか、しばらくは普通の人間と変わらないでしょうけど」
少女の言葉に、何も感じることができない。
自分は、いや、坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、死んでしまっているのだ。その程度を保証してもらって、いったいなんになる? 今の自分にとって、坂井悠二にとって、いったいなんになる?
そもそも、まず、なにより、
(今、この僕は、どうすればいいんだ?)
途《と》方《ほう》にくれた悠二は、力なく橋の欄《らん》干《かん》にもたれかかった。
夜景に混じる、トーチの灯。
自分の胸にも、それがある。
「これが、現実だって?」
化け物を潜《ひそ》ませ、人が喰われ、しかし人はそれと知らない世界。
何も為すこともなく、覚えていてもらうことさえできず、消えてしまう自分。
「そりゃあ……ひどすぎるよ」
悠二の心底からの悲嘆に、少女はやはり、容赦なく答えた。
「そういうものよ」
翌日、嫌《いや》味《み》なまでに明るい朝日の中で、悠二は目を覚ました。
半身を起こすと、まず寝ぼけまなこで、自分の体を見下ろす。
寝巻き代わりのジャージを着た、自分。
(……夢でありますように……)
と願いつつ一度目を閉じ、また開く。
恐る恐る、胸に目をやる。
奥に点《とも》る、灯が、見えた。
しばらくそのちろちろと燃える様《さま》をじっと眺《なが》め、
「………………はあ……」
やがて深いため息をつく。灯《あかり》が見えなくなった。
昨日の少女の声が脳裏に蘇《よみがえ》る。
肩を重くする、しかしはっきりと思い起こせる、強い声。
『ただの現実よ』
「……現実……」
自分の声で、我に返る。
そう、これは現実なのだった。
悠《ゆう》二《じ》は昨日のことを思い返す。
茫《ぼう》然《ぜん》自失としている間に、少女は消えてしまっていた。
悠二は、心細さと怪物への恐怖から、慌《あわ》てて家に駆《か》け戻り、そして、そこで自分の胸に灯が見えないことに気付き、慌てた。
(今思えば、慌てたってのも妙《みょう》な話だよな)
見えなくて結構ではないか。
それは、『自分が坂《さか》井《い》悠二の残り滓《かす》である証《あかし》』なのだから。それとも、一《いっ》旦《たん》実感を持ってしまえば、どんなに悲惨な事実であっても、自分を支える要素となってしまうということだろうか。
ともあれ、現実はすぐに、落《らく》胆《たん》とともに帰ってきた。
視線に力を入れた途《と》端《たん》、胸の灯が見えたのだ。
悠二はそのとき感じた。推測ではなく、はっきりと感じた。
灯は常に、自分の中で点《とも》っている。ただ、注視しなければ見えない、そういうことなのだ。
新しい目をもう一つ開けるように、見ようと思って初めて、この灯は目に映る。
(ああ、そうだ、昨日、そうして確かめたんだっけ)
悠二は、自分がこの感覚を昨晩の内に幾度となく試して、だいたいの勘所《かんどころ》をつかんでいたことを、寝起きの鈍い頭の奥から呼び起こす。
少女の言った、自分がとっくに死んでいるという、無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な現実。悩みとか苦境とか言うには、これは、あまりにも、どうしようもなさ過ぎた。
自分は、坂井悠二の残り滓《かす》として、絶望を抱くべきなのだろうか。
いつか訪れるだろう、燃え尽き、消える日を、恐れるべきなのだろうか。
(なのだろうか[#「なのだろうか」に傍点]?)
昨日は確かに抱いて、恐れていたのに。
今は、どうも薄ぼんやりとして、分からなくなっている。
一《ひと》眠《ねむ》りしたことで、昨日のことは昨日のこと、と心が勝手に整理してしまったのだろうか。
それとも、どうしようもなさすぎる事実の前に、諦《あきら》めを抱いてしまったのだろうか。
他《ほか》でもない自分自身の存在に関わる問題だと言うのに、ひどいアバウトさだ。これも池《いけ》が言っていた、微《び》妙《みょう》に要領が良いと言う自分の精神構造が、そうさせているのだろうか。
(……? 待てよ)
ふと、もっと根本的な違和感があることに気が付いた。
(昨日も今も、僕は本物の坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》≠ニして、苦しんだわけだ)
かつて生きていた、怪物に喰われる前の本物の坂井悠二≠ネら、自分が死んだことに絶望し、その存在が消えてしまうことに恐怖するのも当然だ。
(じゃあ、今の僕≠ヘ、どうなんだ? なんなんだ? どう思うべきなんだ?)
残り滓である自分は[#「残り滓である自分は」に傍点]。
「……」
不意に悠二は、そんな風《ふう》に考えられる自分が、ひどくドライな人間(なのか? いや待て待て)のように思えてきて嫌《いや》になった。
「……やめた」
こんな状況に追い込まれて、前向きに生きていけるほど強くはないと思うが、だからといって自《じ》虐《ぎゃく》趣味もない、はずだ。どうしようもないのなら、今までどおり、できることをしているしかない。いや、そうしていたい。
そんな悠二の思いに答えるように、階下から母が声をかけてきた。
「悠《ゆう》ちゃん、もう起きる時間よ!?」
悠二は時計を見る。いつもなら居間に下りている時間を、十分はオーバーしていた。
「うぇっ、もうこんな時間!?」
それまでの思案などどこかに放り捨てて、階段を大急ぎで駆《か》け下りる。
朝の時間密度は高い。寝床で粘《ねば》る時間、朝食をかき込む時間、寄ったコンビニでレジを待つ時間、高校前大通りの信号待ちの時間まで、悠二の頭の中には、始業のチャイムをタイムリミットとした、精《せい》緻《ち》なスケジュールが存在している。スケジュールの滞《とどこお》りは、即遅刻に繋《つな》がる。
駆け込んだ居間でテレビを見れば、いつも朝食を食べながら見ることにしていたスポーツニュースも、もう終わっていた。いよいよ余《よ》裕《ゆう》がない。
居間の、半月前までこたつだった食卓の上に、ご飯と味《み》噌《そ》汁《しる》、海《の》苔《り》と卵焼き、と言うシンプルかつオーソドックスな朝食が二人分、用意してある。母と自分のものだ。
坂井家は三人家族だが、父の貫《かん》太《た》郎《ろう》は海外に単身|赴《ふ》任《にん》しているため、母の千《ち》草《ぐさ》が誇りある専業主婦として家を守っている。
悠二が滑《すべ》り込むように食卓に着き、ご飯をかき込んでいると、その千草が居間に入ってきた。朝刊と牛乳を取りに出ていたようだ。
「どうしたの、悠ちゃんが寝坊なんて珍しいわね」
「うん、ちょっと」
悠《ゆう》二《じ》は、朝刊と牛乳を食卓に置く母・千《ち》草《ぐさ》の、人のよさそうな笑みを浮かべるおっとり顔を、ちらりと盗《ぬす》み見た。昨日も確認したことを、もう一度、改めて行う。
トーチではない。
母は、人間だった。
ほっとすると同時に、これも昨日と同じ、胸を締め付けられるような寂しさを覚える。
自分と言う存在が消えたら、両親はどうするだろう。いきなり、子供を持たなかったことになってしまう二人は。自分を育てた十五年と言う長い時間を、無《む》駄《だ》にさせてしまったのではないか。そのことに、寂しさと申し訳なさが溢《あふ》れてくる。
しかし、『死ぬ』よりは、悲しみを後に残さないだけ、『消える』方がまだましかもしれない。いなかったことにされるのを悲しく思うのは結局、自分一人だけなのだし。
(やっぱり僕はドライなんだろうか)
いや、それでも二人のためには、二人の再出発には、余計な悲しみなど、ない方がいいに決まっている。幸い二人は学生のときに結婚しているから、まだ若い。自分がいなくなったら、身軽になった母は、父の所へ行って新しい生活なんか始めたりするかもしれない……。
「なに、ボーっとしてるの、悠ちゃん。もう出る時間でしょう?」
「え? ……あ!?」
非常に後ろ向きな未来像を描いていた悠《ゆう》二《じ》は、千《ち》草《ぐさ》の声で我に返った。その言うとおり、もう余《よ》裕《ゆう》を持てる時間ではなくなっている。
「ごちそうさま!」
悠二は半分も食べられなかった朝食を置いて、階段を駆《か》け上がった。
仕《し》様《よう》がない、今日はいつも昼食を買っているコンビニで早弁を調達しよう、などと朝のスケジュールを微調整しながら、悠二は制服の詰襟《つめえり》を着込み、鞄《かばん》を引っつかむ。昨晩、寝る前にしっかり翌日の用意をしておいた。自分の図太さ、要領のよさに呆《あき》れつつも感謝する。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
軽く声を交わして家を出た。
これだけのことが、何でもないことが、どうしてこんなにも悲しいのか。
「……」
悠二は、ドライになりきれていない自分を証明した気になって、少しだけ、ほっとした。
虚《むな》しい安《あん》堵《ど》だった。
そんなことは分かっていた。
分かってはいたが、それでも。
悠二の住む御《み》崎《さき》市は、県下でもそれなりに大きな市で、かなり露《ろ》骨《こつ》な造りをしている。
市の中央を割って南北に走る真南川を挟んで、東側が都市機能を集中させた市街地、西側がそのベッドタウンの住宅地で、それを大鉄橋・御崎|大《おお》橋《はし》が結んでいる、という形だ。
悠二がこの四月から通ってほぼ一月になる市立御崎高校は、その西側、住宅地の中にある。自宅から徒歩で二十分ほどの近場だが、混み合った住宅地の中に建っているので、敷地に余裕がなく、自転車通学は原則的に禁止である。
悠二もこの規則を一応は守って、徒歩で通学している。
その、いつもの通学路も、今日ばかりは違って見える。正確には、違ってしまったのは自分の方で、この本当の状態が見えるようになった、ということのようだが。
自分と同じ、いつか燃え尽きて忘れ去られる運命の人々・トーチが、灯《あかり》を胸のうちに抱いて、それぞれの日常を送っている。歩きつつ、注意してそれらを見ていると、なんとなくトーチたちに共通する雰囲気があることが分かってきた。
灯の明暗による程度の差こそあれ、概《おおむ》ね目立たず、おとなしい。
そんな中で、炎《ほのお》の色が薄れて消えそうな『特に目立たない人』が、いつしか、ふと目に触れなくなり、忘れられ……いなくなるのだ。
昨日見たように、そして、今見ているように。
「……」
悠《ゆう》二《じ》の前を今、ランドセルを背負った小学生が四人ほど歩いている。口々に騒がしく、テレビヒーローの話で盛り上がっている。
「でも、変身のときに色々間違えてピンチになったろ」
「そだね、お面とか魚とかでさ」
「うん」
「敵の方も面白かったぜ」
その中に、相《あい》槌《づち》を打つだけの、弱々しい灯《あかり》を内に点《とも》す少年のトーチが一人、混じっている。
やはり存在感が希《き》薄《はく》な、おとなしそうな子だ。
それが、
ふ、と燃え尽き、消えた。
「……っ!」
何となく、いなくなった。
周りを歩く人はおろか、他の三人さえ、気に留めない。変わらず、楽しそうに会話を続けている。
実際、トーチだと認識している悠二でさえ、ほんの少しの違和感しか持てなかった。
少年は、全く、何となく、いなくなってしまった。
存在感を少しずつなくしてゆく、というのはこういうことなのか。
それでも、何も変わらず世界は動いていく。
これまでも、多くの人が、あんな風《ふう》に何気なく消えていたのか。
自分もいつか、ああやって消えてしまうのか。
思う悠二の体中に、冷たいものが走った。
(それにしても……)
昨日の少女が言うには、あの怪物たちは、この街で多くの人々を喰い続けているという。昨日も一人、それとも一体というのか、取り逃がしている。あの怪物や、その主……つまり親玉に当たる怪物が、今もどこかで人を喰い続けているのだ。しかも世界中で、これと同じことが行われているという。ひどい話だった。
そして悠二は、今になってようやく、気付かされていた。
昨晩も今朝も、母の無事に安心したが、これからもそうだという保証は、どこにもないということに。それは、これから確かめに行く学校の友人たちについても同じことだった。いつ襲われて、自分のようなトーチにされてしまうか分からない。
じわじわと危機感がつのってくるが、だからといってなにができるわけでもない。自分は所《しょ》詮《せん》、事実を知らされただけの、非力な一般人なのだ。昨日の少女のような、超常《ちょうじょう》的な力など持っていない。
(そもそも、僕だって怪物一味の標的になってるらしいけど、なにができるわけでもない……だいたい、自分の身だって……)
昨日の騒《そう》動《どう》を思い出す。智恵や勇気程度で対抗できるような相手では、ない。
(守れない、よな……あの子が連中を早々に退治してくれることを祈るしかないのか)
なんとも情けない話だが、それこそ少女に言った、
『そういうものよ』
ということか。絶望や恐怖などよりも、まず無力感が先に立つ。
(そういえば、あの子は、今もどこかで戦っているのかな?)
歩きつつ、周りに目線をやるが、目に映るのは、いつもの通学通勤の雑《ざっ》踏《とう》。
ただ、トーチが混じっているのが分かるだけの。
その雑踏の中、高校に通い始めて一ヶ月間の習慣として、悠二は道《みち》端《ばた》にベタベタ張られた旅行代理店の看《かん》板《ばん》の列を、歩きながら眺《なが》めていた。
モデルがかぶっている麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》子《し》、僕も帽子、新しいのを買おう、旅行、ゴールデンウィークにどこかに行こう、そういえば、テストがもう少しであるんだっけ、また池《いけ》の奴《やつ》に範囲を聞いて、ああ、あいつが貸してくれって言ってたCD、また忘れた……。
つらつらと流れる、なんでもない思い。
そうやって、逃避にも似た、束《つか》の間《ま》の日常に浸っていた彼の安息を、
ポスターの前を通り過ぎたスーツ姿の女性、その胸の内にある灯《あかり》が、容《よう》赦《しゃ》なく砕《くだ》いた。
「!」
悠《ゆう》二《じ》は自分のいる場所[#「自分のいる場所」に傍点]を思い出して愕《がく》然《ぜん》となり、そして立ちすくんだ。
「……どうすれば、この僕[#「この僕」に傍点]は、どうすればいいんだ……?」
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2 夕日、雨の夜、そして朝
重い気持ちを抱いて、悠《ゆう》二《じ》は自分のクラス、御《み》崎《さき》高校一年二組の教室に入った。始業直前の慌《あわただ》しく騒がしい、しかし明るさと楽しさに満ちた朝の教室。
いつも通りの、日常の風景。
悠二は教室を見回して、中学以来の友人、頭脳|明《めい》晰《せき》の人格者『メガネマン』池《いけ》速《はや》人《と》の姿を求めるが、今その姿は見えない。クラス委員などもして、他人に頼られる奴《やつ》だから、どこかに出ているのかもしれない。
もちろんこれは単なる毎朝の習慣で、彼に相談したりするつもりはない。まともな頭の人間に、今の自分の立場を理解してもらえるとは到底思えない。
(いっそ誰かが、僕の見えるもの感じること全《すべ》てが妄《もう》想《そう》で、おかしいのは僕の方だって教えてくれるんなら、無《む》駄《だ》に悩むこともないし、気も楽なのに)
と悠二は後ろ向きに思いつつ、のたのたと教室の真中辺りにある自分の席へと、足を引きずってゆく。席に腰を下ろすと、
(そういえば、一時間目の日本史、小テストだっけ……範囲はどこら辺だったかな)
と日常を過ごす、その必要性から思い出した。いつものように右隣の席に座っている平《ひら》井《い》ゆかりに、出題範囲を教えてもらおうと振り向く。
そして、そこに発見した。
「な……!」
自分の正気の完全な証明を。
日常の破壊者を。
平井ゆかりが座っているはずの席に、座っていた。
「遅かったわね」
フレイムヘイズの少女が。
凛々《りり》しい顔立ちを引き締め、腰の下まである長く艶《つや》やかな髪を背に流し、堂々と胸を張って、制服のセーラー服まで着て……あのフレイムヘイズの少女が、座っていた。
「なんであんたがここ[#「ここ」に傍点]にいるんだ!?」
「おまえを狙《ねら》う奴《やつ》らを釣《つ》るには、やっぱりその近くにいた方がいい、ってアラストールと話したの。ま、私もこういう場所には滅《めっ》多《た》に来ないし、見物がてら、ってとこ」
少女がスカートの中で足まで組んで、全く当然のように占《せん》拠《きょ》しているそこは、昨日まで、平井ゆかりというクラスメートが座っていた席。
「ひ、平《ひら》井《い》さんはどうしたんだ」
「ここにいたトーチ[#「ここにいたトーチ」に傍点]なら、私が割り込んだから、もうなくなったわよ。おまえの隣で、ちょうどよかったしね」
「……トーチ……平井さんが……?」
予想していた最悪の事態は、あまりにも呆《あっ》気《け》なくやってきた。
自分の日常が崩《くず》れる……いや、崩れていたことを、知らされる。
それを知らせた少女は、昨日と全く変わらない。平然と、非情の声を吐《は》く。
「そ、本人はとっくに死んでた。私は、その残り滓《かす》に私って存在を割り込ませて『平井ゆかり』になってるわけ」
「か、顔とかが全然違うだろ!」
思わず悠二は声を荒げていた。驚いたクラスメートたちの注視に、慌《あわ》てて声を潜《ひそ》める。
「……なんで誰も気付かないんだ」
「存在に割り込む、ってのは、元の人間に似せるとか、そういうことじゃないの。他《ほか》が認識していた平井ゆかりって存在を、私に挿《す》げ替えるってことなの。おまえは私たちの干渉を受けたからおかしく感じられるだけ。気にしないで」
「気にするに決まってるだろ! 平井さんはどうしたんだよ!」
ああもう、と少女は頭をかいて、呆《あき》れ顔を作って見せた。
「さっきから言ってるでしょ。平井ゆかりは私[#「平井ゆかりは私」に傍点]だって」
少女の言うとおり、クラスメートは誰も異《い》端《たん》者が紛れ込んでいることに気付いていない。
いや、彼女が以前からここにいるものと捉《とら》えているのだ。
悠二は、説明の細かい内容はともかく、これら彼女のやったことの意味はだいたい理解していた。しかしそれでも、言わずにはいられなかった。
「そういうことじゃなくて!! 元の平井さん、本当に、昨日までここに座っていた『平井ゆかり』は、どうなったんだ!?」
また大声を出した悠二を……挿げ替わった平井ゆかりではなく悠二の方を、クラスメートたちが怪《け》訝《げん》な顔で見ている。
悠二はそれらの表情で知らされる。
彼らからすれば、おかしいのは自分の方なのだ。
しかしそれでは、自分の知っている彼女は、彼女の存在は、あまりにも。
「昨日説明したでしょ。ここに座っていた平井ゆかりは元からいなかった[#「ここに座っていた平井ゆかりは元からいなかった」に傍点]……そういうこと。どうせ灯《あかり》も消えかけてたし、そのときはおまえも忘れてた。思い煩《わずら》うことなんかない」
「……」
特別に親しかったわけではなかった。目立たなかったし、おとなしかった。この四月から一月ほど、偶然隣席にいた、それだけのクラスメートだ。印象深い思い出もない。
(でも、彼女は、平《ひら》井《い》ゆかりは、確かにいたんだ)
そのことを、本人が覚えていて欲しかったかどうかは分からない。そんなことを考えるだけの事情も知らないまま他《ほか》のトーチが消えるときのように、ふと、全《すべ》てを失う、そんな終わりを迎えたのだろう。
それでも悠《ゆう》二《じ》は彼女のことを覚えていたかった。
今、同じ席に、平井ゆかりとして座っている少女。
それは彼女ではない。
それを自分は知っている。
それが、おそらく唯一の、彼女の存在した証《あかし》なのだ。
「……あんたの名前は?」
「名前?」
「『フレイムヘイズ』ってのは、怪物退治する奴《やつ》ら全員の名前だろ。あんた個人の名前は、なんていうんだ?」
「……え」
予想外の質問だったらしい。少女は不意に、顔を曇らせた。凛々《りり》しさを生む意思の力が揺《ゆ》らぎ、寂しさの端《はし》が、錯《さっ》覚《かく》のようにわずかにのぞく。胸に下げた、あの声の出るペンダントを掌中《しょうちゅう》でもてあそびながら、小声で答える。
「私は、このアラストールと契約したフレイムヘイズ、それだけよ。それ以外に、名前なんかない」
その顔から寂しさは消えていたが、今までの平然としたそれとは少し違う。
表情を消した顔だった。
「他のフレイムヘイズと区別するために『贄殿遮那《にえとののしゃな》』の≠チて付けて、呼ばせてはいたけど」
「ニエトノノシャ……?」
「『贄殿遮那』。私が持ってる大《おお》太《だ》刀《ち》の名前」
「そうか。じゃあ……そうだな、僕はあんたをシャナ≠チて呼ぶことにする」
平井ゆかりと、彼女は別人だ。
だから彼女には、別の呼び名が必要なのだ。
それは悠二にとっては重要な行為だったが、当然というべきか、シャナと名付けられた少女にとってはどうでもいいことだった。彼女は首を傾《かし》げて、軽く答える。
「勝手にすれば? 呼び名なんてどうでもいいし、私は私の役目を果たすだけ」
「それは、僕を守るってこと?」
「守る……?」
シャナは、あからさまに怪《け》訝《げん》な顔つきになった。
「ま、おまえに喰いつく奴がいるうちは、そういうことになるかもね」
まったくこの少女に言い方は身も蓋《ふた》もない。
悠《ゆう》二《じ》はため息をついて、しかし密かに、そんな彼女の言葉に、なぜか自分の暗く重い悩みを吹き払うような……理《り》不《ふ》尽《じん》な爽《そう》快《かい》さを覚えてもいた。
その、空元気のような、よく分からない気持ちのまま、悠二は当面の不安を口にする。
「それよりシャナ、あんた授業とか受けて、大丈夫なのか?」
シャナは、さっきとは別の理由で眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「勝手に名付けて、いきなり呼び捨て? ま、いいけど……それに、授業ってのも、この程度のお遊びでしょ?」
鞄《かばん》から教科書を取り出して、ひらひら振ってみせる。
そんな、見た目は中学生すら怪しい少女の、いかにも小馬鹿にしたような様子に、悠二はきな臭《くさ》い顔つきになった。
始業の予《よ》鈴《れい》が、その耳に不《ふ》吉《きつ》な音色を響かせる。
四時間目、英語の授業も終盤に差し掛かろうとしている。
教室は静寂と緊張の中にあった。
生徒たちは立てた教科書の中に顔を隠している。最初こそ通常通りに授業を行っていた英語教師も、今はひたすら板書を続けていた。
この異様な雰囲気を、圧倒的な迫力と存在感で作り出している小《こ》柄《がら》な少女が、教室のど真ん中の席に陣《じん》取《ど》っている。実際の動作としては、座っている、それだけなのだが。
少女は、教科書を閉じて、ノートもとらず、ただ腕を組んで教師を見ていた。
この何でもないはずの態度が、教師を動揺させている。彼女の視線が、まるで、野生動物でも観察しているかのように無遠慮で、敬意や尊重を全く含んでいないと、分かってしまうからだった。こんな授業態度を、朝から四時間連続で取っている。ちなみに、騒《そう》動《どう》はすでに三時間連続して起きている。
特に突っかかってくるわけでもないのだから、放置しておけばよいのだが、教師というのは、概《おおむ》ね沽《こ》券《けん》や面《めん》子《つ》にこだわり、妄信されることを欲し甘える生き物なので、こういう、自分を一個の人として計るような態度をとられることを嫌う。
そしてとうとう、この英語教師も前三者と同様に、少女の無礼な態度に我慢できなくなった。
不幸なことに。
板書を終え、英語教師は振り向いた。この、教え下《べ》手《た》と多い宿題で不人気な中年男は、口を二度ほど開け閉めしてから、ようやく裏返りかけの声を出した。
「ひ、平《ひら》井《い》、おまえ、最近[#「最近」に傍点]|不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》だぞ。ノートを取らんか」
平井ゆかり……悠二が名付けたところの少女・シャナが答えるのではなく、ただ、言う。
「おまえ」
いきなりこれである。
見かけの幼さに不《ふ》釣《つ》り合いな、押しのきいた凛々《りり》しい顔立ちが静かな気迫を発して、英語教師を半|金《かな》縛《しば》り状態にした。
「その穴|埋《う》め問題、全然意味の無い場所が空《あ》いてるわ。クイズじゃないんだから、前後の文脈で類推できる所を空けなさいよね」
シャナは、腕組みさえ解かない。
「う……!?」
「正しい答えは『That which we call a rose,By any other name world smell as sweet.』だけど、原文を覚えてないとできっこない」
完《かん》璧《ぺき》な発音。誰もが正解であることを確信できる、そんな答え方だった。
さらに容《よう》赦《しゃ》の無い追い討《う》ちがかかる。
「その板所も、段落で見たら、後二文も足りないわ。おまえが持ってるマニュアルのページ単位で書き写しているだけだから、そんなことになるのよ」
反論の余地の無い、痛烈で的確な指摘に、英語教師は思わず一歩下がった。
普通なら、肩書きや立場といった、自分の能力とは無関係な虚《きょ》飾《しょく》が彼を勇気付けるところだが、この、なぜか最近生意気になった少女の前では、そんなものが毛ほどの威力も持たないことを自覚させられてしまう。
弱者に弱者たることを自覚させる、強者の貫《かん》禄《ろく》というやつだった。
しかもこの強者、一旦口火を切ると容《よう》赦《しゃ》なく相手を叩《たた》き潰《つぶ》してしまう。
「おまえ、教師のくせに、学力がなくて、マニュアル外に手が届かないし、説明も下《へ》手《た》で、ダラダラ要領を得ない話をするだけ……なってないんじゃない?」
英語教師の顔が無《む》惨《ざん》に歪《ゆが》んだ。
「私に教えるつもりがあるなら、ちゃんと勉強してから出直しなさい」
生徒たちは一《いち》抹《まつ》の憐《れん》憫《びん》とともに、英語教諭が四人目の餌《え》食《じき》となったことを知った。
そういうことが延々四時間も続いたので、昼休みになるとクラスメートは息抜き……というよりは息|継《つ》ぎを求めるように一人、また一人と教室を出てゆき、結局、悠《ゆう》二《じ》はシャナと二人きりで弁当を食べる羽《は》目《め》になった。
悠二が予想していた騒ぎは、暴力面においては完全なマイナス方面に裏切られたが、精神面においては完全なプラス方面に裏切られたわけだった。
暴力を振るわれるよりも、アイデンティティを粉《ふん》砕《さい》される方が、実質ダメージは大きいと思うので、あるいはこれは惨《さん》劇《げき》と呼んでもいいんじゃないだろうか、と悠二は思った。
(何人、立ち直れるかな)
ただでさえ昨今の教師たちは、肩書きに無条件で与えられていた権威や信頼を(ほとんど自らの行いで)失いつつあるというのに……などと社会派を気取りつつ、コンビニおにぎりに喰らいつく悠《ゆう》二《じ》である。
隣の席を見れば、惨《さん》劇《げき》を引き起こした当の本人も、メロンパンをぱくついている。美味《おい》しさを感じているらしい、自然な顔のほころびなどには、見かけの年齢どおりの可《か》愛《わい》さがある。机の上に載《の》っている、どこぞのスーパーの袋の、むやみな大きさはどうかと思うが。
「なあ」
「なに」
外は騒がしいのに教室には二人だけ、そんな微《び》妙《みょう》に違和感のある光景の中、悠二は言う。
「あそこまでしなくてもいいだろ」
シャナは心《しん》底《そこ》不思議そうな顔で訊き返した。
「なにを?」
「……いや、もういい」
シャナは首を傾《かし》げて、またメロンパンを口に運ぶ。
昨日怪物を圧倒した姿が嘘《うそ》のような、その幸せそうな横顔に、悠二は気負いや深刻さといったものが殺《そ》がれてしまうのを感じた。
「昨日もタイヤキ食ってたけど……あんたも腹がすくのか」
「んむ、当然でしょ」
頬《ほお》張《ば》りながらシャナが答える。
悠二はついでとばかりに、昨日から気になっていたことを尋ねてみた。
「ところでさ……その声の出るペンダント、通信機なのか?」
「似て非なるものだ」
セーラー服の胸元に出されているペンダントから、午前中は黙っていた声が答えた。ここに二人しかいないからだろうか。
「これは、この子の内に蔵《ぞう》された紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠スる我、その意思だけをこの世に顕《けん》現《げん》させる、コキュートス≠ニいう神器だ」
「……ウチノゾウサレ? ケンゲ?」
シャナが、横目で睨んで、それでも解説を加えてやる。
「アラストール本人は、契約者である私の中にいて、このペンダントは、その意思を表に出す仕掛けってこと」
悠二は、不思議を理屈で考えるのをやめた。説明に素直に納得して、訊《き》きたいことを訊く。
「契約者……そういえば朝も、この彼(?)と契約してフレイムヘイズになった、とか言ってたな。あんた、やっぱり元は人間なのか」
「そうよ」
とシャナ。
「なんでフレイムヘイズなんかに?」
「おまえの知ったことじゃないわ」
それは名前を訊《き》いたときとは違う、カラッとした明快な拒《きょ》絶《ぜつ》だった。
悠《ゆう》二《じ》はそんな彼女のぶっきらぼうな物言いに、かえって爽《そう》快《かい》なものを感じる……まあ、拒絶には違いないのだが。
「……じゃあ、さ」
ふと、教室を見渡す。誰もいないので、アラストールの話も聞けてちょうどいい。
「他《ほか》の事でいいから……少し詳《くわ》しく話を訊いていいか?」
悠二としては、特に深い意図を持って言ってるわけではない。ただ、山積みの疑問を片付けないと気持ちが悪い、それだけのことだった。
シャナの方は、これは当たり前だが、あっさりしたものだ。
「さっきから訊いてると思うけど……で、なに?」
とりあえず悠二は、根本的なことから尋ねてみる。
「そもそも、グゼってなんなんだ」
そんなこと? という顔で、シャナはメロンパンの最後の一切れを口に放り込んだ。
「ん〜、紅《ぐ》世《ぜ》=c…『クレナイのセカイ』よ。この世の歩いてゆけない隣[#「歩いてゆけない隣」に傍点]。ずっと昔、どっかの詩人さんが、渦《うず》巻く伽《が》藍《らん》≠ノ、そういう気取った名前を付けたんだってさ。そこの住人を紅世の徒《ともがら》≠チて呼んでるの」
「異次元人……みたいな?」
これにはアラストールが答える。
「貴様らの概念で言い表せば、そうなる。貴様を襲ったのは、徒℃ゥ身ではなく、そ奴《やつ》がこちら側で作った燐《りん》子《ね》≠ニいう下《げ》僕《ぼく》だが」
「こっちの世界を乗っ取りに来た侵略者とか?」
「さてな、目的は各々による。一《いち》概《がい》には言えん。ただ、我ら紅世の徒≠ヘ、この世において存在の力≠自在≠ノ操ることで顕《けん》現《げん》し、またそれを変質させて事象を左右することができる。その事実ゆえに、この世に侵入する徒≠ヘ後を断たない」
「……なんだって?」
まったく、アラストールの言い回しは難《むずか》しい。悠二はその半分も理解できない。
シャナがまた説明を加えてやる。今度はため息をつきながら。
「この世には存在の力≠チていう根源的なエネルギーみたいなものがあるの。それがあって初めて、どんなものも存在できる。別の世界紅世≠ゥら来た、本来この世に『存在しないもの』である徒≠スちは、その力を得ることで、この世に存在できる……分かる?」
「ん〜、な、なんとか」
こめかみに指をやって必死に理解しようとする悠《ゆう》二《じ》に頷《うなず》いて、シャナは続ける。
「で、この世に居座るためには当然、存在の力≠使い続けなきゃならない。だから、彼らは人間からその力を集めてるの」
「存在の力≠集める、って昨日の、あれのことか……」
悠二の脳裏に昨日の、怪物が炎《ほのお》と化した人々を喰らう光景が蘇《よみがえ》り、おぞ気を呼ぶ。
シャナは気楽に頷く。
「そ。で、それぞれの目的とか狙いとかのために、その力を自在≠ノ操って不思議を起こしたり、下《げ》僕《ぼく》を作ったりするってわけ」
「この世の理から外《はず》れた、起こるはずのない現象、居るはずのない存在、そして何より、それらを生み出すための力の乱《らん》獲《かく》が、この世と紅《ぐ》世《ぜ》=A両界全体の存在のバランスを崩《くず》すやも知れぬというのに……まさしく愚者の遊《ゆう》戯《ぎ》というべきだ」
アラストールが、予想外に物《ぶっ》騒《そう》で重い話で締めた。
それをよそに、シャナは袋の中から取り出した一パック三本入りのみたらし団子をパクついている。ホクホクと、美味《おい》しそうに。
「そのバランスを崩さないために、乱獲者をやっつけるのがフレイムヘイズ、か……」
言いつつ、悠二もおにぎりをまた一個、口に運ぶ。
さっきのおぞ気は未だ背筋を冷やしているが、目の前のシャナがあまりに無《む》頓《とん》着《ちゃく》に、しかもニコニコして食べるので、不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》さへの腹立ちや単純な対抗心やらで、こちらも食べずにはいられなくなるのだ。これが生きてる気分かな、などと無《む》駄《だ》に深く考えつつ、さらに訊《き》く。
「はぐ、んで、その存在の力≠吸い取るのは……まあ、話を聞いてたら、他《ほか》でもまずいとは思うけど……人間でなきゃ、駄《だ》目《め》なのか?」
アラストールは、物を食べながら話をするという無作法を気にしないらしい。変わらず重く低い声で答える。
「当然だ。我らと近しい、深く強い意志ある存在であればこそ、力を得る意味がある。有《う》象《ぞう》無《む》象《ぞう》を飲み込めば、かえって薄められてしまうのみだ」
「チカシイ? 紅世の徒《ともがら》≠チて、僕らと同じような人間なのか」
「貴様らの概念での説明は難《むずか》しい。もし言い表すならば、論理より詩情が必要となろう」
悠二は、スポーツドリンクのプルを開けてため息をつく。
「ふうん……でも、昨日今日、見た限りじゃ、飲み干される日も遠くなさそうだけど」
「そうでもない。我らは古くからこの世に侵入し続けているが、人間は増え続けている。貴様が生まれる前から世界はそうやって動いてきたのだ。大勢に変化はなかろう。徒≠フ暴走を食い止めんと動く、我らフレイムヘイズという存在もある」
「これが、頼りになるのかな」
悠《ゆう》二《じ》が見る先で、最後の一本を綺《き》麗《れい》に食べたシャナが、指に付いたタレを舐《な》めている。
「ん〜、だから言ったでしょ。おまえっていう宝《ほう》具《ぐ》の蔵《くら》ミステス≠ェ燃え尽きるか、それを狙ってくる、ここの徒《ともがら》≠討ち滅ぼすまでは、守ることになるって」
本当に、この少女は身も蓋《ふた》もない言い方をする。
その悪意のない、ひたすら事実をぶつける率直さに、悠二はなんだか慣れてきている自分を感じた、腹立ちよりも苦笑が湧《わ》いてくる。
「心強いお言葉……でも、四《し》六《ろく》時《じ》中《ちゅう》一緒にいるつもりなのか?」
「とりあえず、夕方を警戒するわ」
周囲の世界との繋《つな》がりを一時的に断つ因《いん》果《が》孤立空間、封《ふう》絶《ぜつ》≠ヘ通常、人々が自己の存在を明確に認識する日中と、闇《やみ》の中で別の自己を目覚め演じさせる夜間、それらの境目である夕方と明方……つまり『変わろうとする揺《ゆ》らぎ』に乗じて行われる。
だから、襲撃《しゅうげき》もまず、その時間帯にあるということだった(不意打ちなどの回りくどい真《ま》似《ね》を、普通紅《ぐ》世《ぜ》の徒≠ヘ行わないらしい)。
「封絶……昨日、聞いたっけ。ゲームとかでよくある結《けっ》界《かい》みたいなもんか……って夕方!?」
悠二は納得しかけてから、とある事実に気付いて仰天《ぎょうてん》した。
「今日は授業が遅くまであるぞ! 下《へ》手《た》したらここに、学校に来るじゃないか!」
シャナが、頬《ほお》杖《づえ》の上で呆《あき》れ顔を作る。
「なに当たり前のこと言ってんのよ。私がなんのためにここにいると思ってんの?」
一瞬、安《あん》堵《ど》を覚えて……しかしふと彼女の性格に思い至り、訊《き》いてみる。
「皆も守ってくれる、とか……?」
「なにそれ?」
悠二は立ち上がった。
「どこ行くの」
「トイレだよ!」
と言い捨てて教室を出る。
歩きつつ、そういえば彼女は『食うだけ』なのかな、などと少々下品なことを考えていた悠二は、トイレの前で呼び止められた。
「おい、坂《さか》井《い》……!」
その、声をひそめた叫び、という器用な呼びかけに振り向くと、仲のいいクラスメートが三人、彼を手招きしていた。
そういえば、朝からシャナとのことに掛かりっきりで、彼らとは挨《あい》拶《さつ》一つ交わしていなかった。悠二は駆《か》け寄って声をかける。
「みんな、今日は食堂だったのか?」
その一人、中学からの友人で、頭も人もいい、メガネマンこと池《いけ》速《はや》人《と》が首を振って答えた。
「違うよ。それより坂《さか》井《い》、おまえ、よくあんな騒ぎのあとで、事の張本人と飯が食えるな」
その横、美をつけてもいい容姿を持ちながら、妙《みょう》に軽薄っぽい少年、佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》が続ける。
「ホント、勇気のある奴《やつ》。下《へ》手《た》すると、おまえまでセンセーどもに目ぇつけられるってのに」
「だいたい、おまえらって、そんなに仲良かったか? 抜け駆《が》けは許さん、許さんぞ〜」
と絡《から》んできたのは田《た》中《なか》栄《えい》太《た》。大《おお》柄《がら》だが愛嬌《あいきょう》があるので、粗《そ》暴《ぼう》には見えない。
「いや、仲がいいとかそんなのじゃなくて……」
悠《ゆう》二《じ》としては言葉を濁《にご》すしかない。まさか本当のことは話せないし、話したくもない。
(…………っ)
悠二はふと、この親しい友人たちを……目前にある日常の光景が本物なのかどうかを……朝に一度確かめたというに、また確認してしまっていた。そんな自分が嫌《いや》になる。
友人たちに変わりはない。むしろ変わったのは自分で、彼らがそのことを訊く。
「二人っきりで弁当食べて会話して。十分『そんなの』だろう」
「平《ひら》井《い》ちゃんも、確かに可《か》愛《わい》いといえば可愛いけど、なんつーか、マニアックな趣味だな」
「実はロリ属性持ちだったのか。侮《あなど》れん奴め」
さすがに血圧が上がってきた。
「あのな……」
言い返そうとして、ふと途切れた。
夕方。紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》=B襲撃《しゅうげき》。
何事につけ考えることを昨日から繰り返しているせいか、それともトーチの確認を行うたびの習慣になったのか、外《はず》れた世界のことを思い出す。
早退すべきだろうか。そうすれば、少なくともここが戦場になることはない。
その微《び》妙《みょう》な間が、友人たちの誤解を呼ぶ。
「やっぱり、やましいところがあるな?」
池がメガネを煌《きらめ》かせて追求する。
今になって気付いた大事なもの。
「ああいう娘《こ》に手を出せる神経を見込んで、話がある。是《ぜ》非《ひ》他《ほか》の女子とも渡りをつけてくれ」
佐藤が真《ま》面《じ》目《め》な顔で図々《ずうずう》しい懇《こん》願《がん》をする。
なんということのない。馬鹿なやり取り。
日常。いつもの風景。
無くしたくない、変えたくないもの。
(怪物一味だって、昨日の今日で来たりしないんじゃないか?)
悠二は、未《み》練《れん》からくる希望的観測にすがっていた。
(そうさ、取り越し苦労ということもある。今日くるとは限らない、今日一日くらい……)
そうだとは分かっていても、すがりたかった。
「このムッツリが! おとなしい顔して、一体どういう手《て》管《くだ》を使った!! 教えデッ!?」
とりあえず、詰め寄る田《た》中《なか》は殴《なぐ》っておいた。
そして、しかし、敵は来た。
切れ切れの雲の彼方《かなた》に沈みつつある夕日が、全《すべ》てを寂寥《せきりょう》の赤に染めている。
ホームルームを終えて、教室を出て行きつつあった生徒たちをも染める、
その赤が、
洪《こう》水《ずい》のように溢《あふ》れかえり、空間を満たした。
「う!?」
授業が終わった、何事もなかった、と完全に油断していた悠《ゆう》二《じ》は動転した。慌《あわ》てて席から腰を浮かし、あたりを見回す。
陽《かげ》炎《ろう》の壁が、窓の外と廊下の一部を含めて、周りを囲んでいた。
床に火線が走り、紋章《もんしょう》らしき奇《き》怪《かい》な文字列を描いた。
生徒たちが、それぞれ動作の途中でピタリと静止した。
悠二はこれが何であるか、知っていた。
(……封《ふう》絶《ぜつ》……世界が、変わる……)
全身に響く世界の違和感、あるいは流れの変調のような感触に戦《せん》慄《りつ》する。
やはり自分は、他《ほか》の生徒たちのように静止しない。
この異世界の側に立っていた。
自分の中に収められた何か≠フために。
その臨席で、シャナがおもむろに立ち、言った。
「来たわね」
その強い線を描く唇《くちびる》の端《はし》が、釣《つ》り上がる。
「ほ、本当に、今、ここに!?」
未《み》練《れん》から引き起こしてしまった最悪の事態。
悠二の胸に、恐怖と後悔が押し寄せた。
「本当に、今、ここに、来たわ」
シャナは、そんな悠二に無自覚の断罪を下し、さらに強く叩《たた》くように、宣告する。
「さあ、やるよ」
シャナは軽く床を一《ひと》蹴《け》りして、窓と悠二の間の机《き》上《じょう》に飛び乗る。足を肩幅ほどに開き、堂々と窓に向かって立つ。腰の下まである艶《つや》やかな黒髪がわずかになびき、
そして火の粉《こ》を撒《ま》いて灼熱《しゃくねつ》の光を灯《とも》した。
その舞い咲く火の粉の向こうに、いつしか寂《さ》びた黒のコートをまとい、右手に戦《せん》慄《りつ》の美を流す大太刀『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を握《にぎ》る、フレイムヘイズの姿があった。
一瞬、その後ろ姿に見《み》惚《と》れた悠《ゆう》二《じ》は、はっと我に返って叫んだ。
「ま、まだ皆が! 他《ほか》の場所でできないのか!?」
封《ふう》絶《ぜつ》の中で止まるクラスメートのたちの中には、池《いけ》もいた。何《な》故《ぜ》か教科書ではない問題集を鞄《かばん》に入れている格好で止まっている。
「封絶したのは敵よ。向こうに言えば?」
シャナの言葉はいつも素《そ》っ気《け》無い、しかし反論の余地のない正しさを持っている。
「くっ!!」
すでにそういう彼女に慣れてしまった悠二は、どうせ徒《と》労《ろう》に終わるだろう反抗などせず、すぐさま行動に移った。とにかくマネキンのように固まったクラスメートを、シャナの立ち回りそうな場所から離さねばならない。
(ぼ、僕のせいなんだ! 僕がやらないと!)
幸い、ホームルームの後でもあり(ついでにシャナから早く逃げようとして)、教室内に残っていたのは、自分たち以外では四人ほど。シャナが向いている窓際には、中《なか》村《むら》とかいったはずの女生徒、一人だけしかいなかった。
悠二はその、窓際に立って化《け》粧《しょう》の途《と》中《ちゅう》で止まっている中村に駆《か》け寄る。
「ちょ、ちょっとゴメン」
唇《くちびる》を突き出した、かなり間抜けな格好で止まる彼女の腰を、大急ぎで抱え込む。床に脚が張り付いていたらどうしよう、と一瞬心配したが、これは杞《き》憂《ゆう》に終わり、当人の体重どおりに動かすことができた。もちろん、並みの体力しかない悠二は、持ち上げたり担《かつ》いだりに苦労する。
「っと、お、重いな、この!」
と本人が聞けば二、三度は殺されそうな感想を漏《も》らしつつ、廊下側の壁の影へと放り出す。
再び教室に入ってみれば、シャナはまだ机の上で立ったままだった。大太刀は両手で構えられ、微《み》塵《じん》の揺《ゆ》るぎもない。わずかに火の粉が、炎《えん》髪《ぱつ》から舞い落ちているだけ。
その痛いほどの静けさの中、シャナの向き合う正面、窓の一点、何かが小さく浮かんだ。
悠二はその不思議なものに目を止め、立ち止まっていた。
赤く燃え、揺れる陽《かげ》炎《ろう》の光を受けて、鋭くエッジを輝かせるそれは、長方形。
くるりと回って見せた絵《え》柄《がら》は、スペードのエース。
(……トランプ?)
その宙に浮く、一枚の薄いカードから、はらり、と、ありえない二枚目が落ちた。続けて三枚、四枚……赤い光の中に、カードが次々と零《こぼ》れ落ち、舞い上がり、どんどん増えてゆく。
無《む》軌《き》道《どう》に宙を固まって舞うそれは、やがて速さを増して窓の外を埋《う》め尽くす。
と突然、そのカードの軌《き》道《どう》が一方に指向する。
悠《ゆう》二《じ》に。
雲《うん》霞《か》の如きカードの怒《ど》涛《とう》が、窓枠や、ガラス、壁さえ吹き砕《くだ》いて教室になだれ込んだ。
「……っ」
叫びをあげるための空気が咽《の》喉《ど》を通る前に、それは悠二の眼前に迫り、
そして、食い止められた。
「わあ! ……?」
寂《さ》びた黒色の壁に。
シャナが左腕を一振り、コートの裾《すそ》を広げて伸ばし、悠二を守る盾《たて》としていた。その表面に突き立つカードの怒涛は、触れるそばから燃え上がり、裏には一点のへこみもつけられない。
シャナはその間すでに、左腕を再び柄《つか》に戻し、柄頭《つかがしら》を左脇の奥に引き込んでいる。右肩をやや前に突き出す、刺《し》突《とつ》の構え。
炎《ほのお》の輝きを点《とも》す二つの灼眼《しゃくがん》が、カードの怒涛、その力の源泉を見抜いた。
瞬間、
机の板が弾《はじ》けて砕け、脚のパイプが折れ飛ぶほどの踏《ふ》み切りを付けて、シャナは跳《と》ぶ。
カードの流れの一点へ、横合いから大《おお》太《だ》刀《ち》の切っ先が突き立つ。
「ぎ、ぐああああッ!!」
絶叫が上がり、カードの流れに揺《ゆ》らぎが生じる。
手《て》応《ごた》えと刺さり具合の感触を得るや、シャナは大太刀をひねって抜く。再び鋭く振りかぶり、頂点での溜《とど》めを置かず、真っ向から切り下げる。
刃の軌《き》跡《せき》に炎《ほのお》が走り、一気にカードへと引火《いんか》した。
爆発が、教室を衝撃《しょうげき》で膨《ふく》らませ、かき回す。
シャナは、その爆発を眼前に受け、しかし眉《まゆ》一つ動かさない。
コートの壁を挟《はさ》む悠二の頭上と足元からも炎が溢《あふ》れ、思わず悠二は飛び上がっていた。
「うう、わッ!?」
爆風が収まると同時に、コートの裾《すそ》の壁が取り払われる。
悠二の目に、ようやく教室の全景が入った。
床は焼け焦《こ》げ、フローリングも半分|剥《は》ぎ取られてコンクリートの地《じ》が出ていた。窓ガラスは全《すべ》て枠《わく》ごと吹き飛んで、机や椅子《いす》の破片が無《む》惨《ざん》に散らばっている。
悠二にとっては、自分の良く知る場所だけに、昨日の繁華街での光景よりも、受けた衝撃《しょうげき》は大きかった。
その光景の端《はし》に、シャナがいる。あれだけの爆発が起こったというのに全くの無傷で、相変わらず、小《こ》柄《がら》な体を傲《ごう》然《ぜん》と屹《きつ》立《りつ》させている。
その前に軽く差し上げた大太刀の切っ先に、とある物、あるいは者が、引っ掛けられていた。
昨日、シャナに斬《き》られたときに逃げていくのを見た、粗《そ》末《まつ》な作りの人形だった。
(たしか、燐《りん》子《ね》≠ニかいう、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ下《げ》僕《ぼく》……?)
その人形が、肩口から胸まで切り下げられた切っ先を深々と体に埋《う》め、百《も》舌《ず》のハヤニエのように掲げられている。その腹には、最初の叫びの原因と結果らしい、別の大穴が空《あ》いていた。中の綿も見えるその傷口からは薄白い火花が散って、噴き出す血を思わせる。
「ぎ、う……」
その赤い糸で縫《ぬ》われた口が、どうやってか低いうめき声を上げる。
シャナが、その人形に何か言おうとして、ふと周りを見回した。
さっきから散っていた薄白い火花が、地面を跳《は》ね、彼女を取り囲んでいた。火花は跳ねる内に体積を増し、彼女を中心に回り始める。
「う、く、くく……!」
いつしかうめきを忍び笑いに変えていた人形の傷口から、いきなり大量の火花が噴き出した。
それは一粒一粒をセルロイドのドールの頭に変えて、人形の全身に張り付く。その頭だけのパーツが、人形を中心としたいびつな巨《きょ》躯《く》を瞬《またた》く間に組み上げてゆく。
周りを跳ねていた火花も同じく、ドールの頭に変わって、くすくすと笑い出す。不気味な包囲網が彼女を取り巻いていった。
その異様な光景にあとずさって壁に張り付いた悠《ゆう》二《じ》は、目線を動かした拍《ひょう》子《し》に、教室の端《はし》に投げ出されているクラスメートたちを見つけてギョッとなった。
男子生徒が三人、さっきの爆風に吹き飛ばされて、教室の隅に押しやられていた。そのところどころが焦《こ》げた体はガラスの破片にまみれ、椅子《いす》や机の残《ざん》骸《がい》に打たれ、刺《さ》されている。
その無《む》惨《ざん》な姿に、悠二はショックを受けた。シャナにただ守られている、それだけでも非力な自分の身には余って、他《ほか》のことまで気を回せなかったのだ。
(……甘かった! 僕の考えが、全部、僕が!!)
後悔が、罪悪感が、彼を衝《つ》き動かす。
「池《いけ》!」
倒れている中の一人、友人の名を呼んで駆《か》け出した。
「く、ききき……」
ドールの頭で組み上げられた巨躯の中心で、人形が笑った。その太い両腕がシャナの大《おお》太《だ》刀《ち》の刀身をがっちりと掴《つか》み、固定する。
「もらったわよ、フレイムヘイズ!!」
その叫びを受けて、包囲網を作っていたドールの頭が、瞬時に巨腕を形成し、池に取りすがる悠二へと向かう。
「なにを?」
シャナは平然と答え、両爪先を支点にくるりと脚を捌《さば》く。
灼眼《しゃくがん》が光を引いて流れ、炎《えん》髪《ぱつ》が火の粉《こ》を撒《ま》いて翻《ひるがえ》る。
体をいっぱいに捻《ねじ》って、人形に背を向ける。
同時に凄《すさ》まじい踏《ふ》み切りが、剥《む》き出しのコンクリの床に破壊寸前の衝撃《しょうげき》と炎《ほのお》の波《は》紋《もん》を広げ、
「は?」
人形の視界が突然、高速で流れる。
シャナが、人形の巨《きょ》躯《く》を丸ごと刀身に抱えたまま、跳躍していた。
「っだあ!!」
シャナが咆《ほ》え、悠《ゆう》二《じ》に迫っていた巨腕を、刀身を掴《つか》んでいた人形の巨躯で叩《たた》き潰《つぶ》した。
一撃で、巨腕が、巨躯が爆《ばく》砕《さい》される。
「っな、わ!?」
わけも分からず、倒れた池《いけ》の上に(かばったわけではなく、位置上たまたま)覆《おお》い被《かぶ》さった悠二の背を、爆風が叩《たた》いた。
その、痺《しび》れや痛みもかすれ、遠く眺《なが》めが揺《ゆ》れるような感覚が、何秒か何十秒か……やがて、意識が鮮明になり、振り向く悠二、その眼前に、ぼろきれと化して切っ先にぶら下がる人形が差し出されていた。
「っわわ!!」
悠二は池を背に隠すように、腰をずり下げた。
今や人形は、毛糸の髪も根元から炭化し、ボタンの目も片方がちぎれていた。服どころか、体内の綿もほとんど吹き飛んで、ようやく肌色のフェルトが四《し》肢《し》を垂れているのみ。
「ひ、ひどいな……」
無《む》惨《ざん》な人形の姿を見て、悠二は思わず感想を漏《も》らした。
「助けられといて、何言ってんのよ」
簡単に答えたシャナは、その無惨な姿の人形を、大《おお》太《だ》刀《ち》を軽く振って床に放り落とした。冷たく訊《き》く。
「おまえの主の名は?」
人形は、赤い糸もほつれた口で、息を荒くするのではなく、音の飛ぶCDのように、途切れ途切れに応えた。
「わ、たし、が言うとお、もうフ、レイ、ムヘイズ」
「ううん、ただの確認。でもまあ、無《む》駄《だ》駒《ごま》をちょろちょろ出し惜《お》しみするくらいだから、よほどの馬鹿なんだろうけど」
「……う、ぐ」
人形は、あからさまな嘲弄《ちょうろう》に声を詰まらせる。
そこに、
「うふふ、有益な威力|偵《てい》察《さつ》、と言って欲しいね」
と奇《き》妙《みょう》に韻《いん》の浮かせた声がかけられた。
シャナが声のした瞬間、体を向け、悠《ゆう》二《じ》がその意味することに気付いて見る。
その先、破壊され開けられた窓の外に、長身の男が端《たん》然《ぜん》と一人、浮いていた。
背負った赤い陽《かげ》炎《ろう》に何《な》故《ぜ》か染まらない純白のスーツと、その上に羽織った、同じく純白の長《ちょう》衣《い》が、まるでシーツのお化けのようなあやふやな印象を見る者に与える。シャナの圧倒的な存在感とは正反対な、まるで幻想の住人だった。
「こんにちは、おちびさん。逢《おう》魔《ま》が時に相応《ふさわ》しい出会いだ」
触れれば輪《りん》郭《かく》がかすれそうな、線の細い美男子。紡《つむ》ぐ声は、調律の狂った弦楽器のような、妙《みょう》な韻を含んでいる。
悠二は直感する。
(こいつが、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠セ)
ここにあることがおかしい、そんな違和感の塊《かたまり》。
シャナが、その男の声とはまた逆の、凛《りん》とした強い響きで返す。
「あんたが主?」
「そう、フリアグネ=Aそれが私の名だ」
アラストールが、わずかに声を低くして言う。
「フリアグネ……? そうか、フレイムヘイズ殺しの狩《かり》人《うど》≠ゥ」
フリアグネと名乗った男は、薄い切り口のような唇《くちびる》を、笑みの形に曲げた。
「殺しの方で、そう呼ばれるのは好きじゃないな。本来は、この世に散る紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ宝を集める、それゆえの狩《かり》人《うど》≠フ真《ま》名《な》なのだけれど」
その視線が、シャナの胸元のペンダントコキュートス≠フ中を刺す。
「そう言う君は、我らが紅世≠ノ威名|轟《とどろ》かす天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールだね。直接会うのは初めてかな。こっちの世界に来たことは聞いていたけれど……君のフレイムヘイズ≠熄奄゚て見たよ」
ついで、シャナに目をやる。
「……なるほど、これ[#「これ」に傍点]が君の契約者『炎《えん》髪《ぱつ》灼眼《しゃくがん》の討《う》ち手』か……噂《うわさ》にたがわぬ美しさだ。でも、少し輝きが強すぎるな」
勝手な感想を並べるフリアグネをよそに、アラストールは小声でシャナに注意を促《うなが》す。
「なよなよした見かけや言動に惑わされるな。多数の宝《ほう》具《ぐ》を駆《く》使《し》し、フレイムヘイズを幾人も屠《ほふ》っている強力な王≠セ」
「うん、感じてる」
シャナは足裏をわずかに擦《こす》って、踏《ふ》み込みの態勢を取る。
「ふふ、そんなにしかめっ面をしなくても……」
言って、フリアグネは何気なく床に放り出された人形を見る。
その途《と》端《たん》、
「マリアンヌ!!」
急に表情が悲しみの色に染まり、調子っ外《ぱず》れな叫びがあがる。
「ああ、ごめんよ、私のマリアンヌ! こんな怖い子と戦わせてしまって」
芝居がかった動作で振られた手にはめられた、やはり純白の手袋の先に、一枚のカードが挟《はさ》んである。ぴ、と指の振りとともにカードが浮き、
「ん」
「わっ!?」
シャナと悠《ゆう》二《じ》の周りで、焦《こ》げたカードが一《いっ》斉《せい》に宙を舞った。
その焦げたカードが風を巻いて、フリアグネの指先に浮かんだカードへと集束《しゅうそく》してゆく。それが収まると、一枚となったカードは、その四分の三ほどを焦がし、欠けさせていた。
それを見たフリアグネは、またころりと表情を感嘆へと変えた。
「へぇ、私自慢の『レギュラー・シャープ』を、腕っ節《ぷし》だけでここまで減らすとは」
再び指先で欠けたカードを取ると、練《れん》達《だつ》の手品師のような流れる手つきでカードを袖《そで》口《ぐち》に滑《すべ》り込ませる。
もう片方の手には、いつの間にか、ぼろぼろの人形・マリアンヌが柔らかく抱かれていた。
また急に、フリアグネは泣く寸前の顔になって、愛する人形の有様を眺《なが》めやる。
「ああ、全く、フレイムヘイズはいつもひどいことをする」
マリアンヌが、ほつれた口元を蠢《うごめ》かせて詫《わ》びる。
「申、し訳あ、りませ、ん、ご主人、様」
「謝《あやま》らないでおくれ、マリアンヌ。君を行かせた私も悪いんだ。まさか剣一本で、ここまでひどいことをされるとは思っていなかったんだよ」
フリアグネは、今度は過度に優しい笑みを浮かべ、ふ、と息を、マリアンヌに吹きかけた。
すると、昨日の悠《ゆう》二《じ》のように、マリアンヌが一瞬、薄白い輝きの中で燃え上がり……そして、元のくたびれた人形の姿を取り戻していた。
「さあ、これで元通り。慣れない宝《ほう》具《ぐ》なんか持たせて、ごめんよ」
フリアグネはマリアンヌを抱き寄せ、調律の狂った猫|撫《な》で声とともに頬《ほお》擦《ず》りする。
その頬を寄せられたマリアンヌが、わずかに潤《うる》んだ声で答える。
「身に余るお言葉です、ご主人様……でも、今は」
うん、とマリアンヌに甘く返事すると、フリアグネはようやくシャナの方に目を向けた。今度は、表情が変わらない。笑みのまま。
「うふふ、昨日と今日で分かったよ。君はフレイムヘイズのくせに、炎《ほのお》をまともに出せないようだね。戦いぶりが、いかにもみみっちいな」
シャナが、ぴくりと眉《まゆ》を片方|跳《は》ね上げる。
「……なんですって」
「なにせ、かの天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》≠ニの契約者だ。どんな力があるかと警戒していたのに……その、かなりの業《わざ》物《もの》らしい剣の力を借りて、ようやく内なる炎《ほのお》を呼び出している程度とはね。違っているかな? 私の宝具への目利きは、かなり確かだと自負しているのだけれど」
「……」
シャナ、無言の渋《しぶ》い肯定に、フリアグネは笑みを深める。
アラストールが再び、低い声で答えた。
「なるほど、燐《りん》子《ね》≠最初に当てたのは、我らの力の程を見極めるためか。噂《うわさ》どおり、姑《こ》息《そく》な狩りをする」
この皮肉にも、フリアグネの笑みは崩《くず》れない。
「いやいや、昨日の戦いの顛《てん》末《まつ》を聞いて、さほどの危険はないだろうと踏《ふ》んではいたよ? 今日、様子見をしていたのは、あくまで念のためさ。私のマリアンヌの意志でもあったしね」
「昨日の恥を雪《そそ》ごうと……かえって無《ぶ》様《ざま》をさらしてしまい、申し訳ありません、ご主人様」
「うふふ、だから、それはもういいって言ったろう?」
頭を垂れる人形の髪に、軽くキスをしてみせる。
「さすがに、刀一本でここまでやるとは思わなかったけれど、まあ、それだけのことだね。ただでさえ、人の内に入って窮屈《きゅうくつ》だというのに、契約者も貧弱ときては、君の王≠スる力も、まさに『宝の持ち腐《ぐさ》れ』というところかな。ふ、ふふふ」
「……貧弱かどうか、見せたげるわ」
シャナが、灼眼《しゃくがん》の光をを強めて身構えるが、フリアグネは、今度は急に困った顔を作った。駄《だ》々《だ》っ子に対するように、首を振ってため息をつく。
「ケンカの押し売りかい? 無《ぶ》粋《すい》な子だなあ……私は、そうやってムキになったフレイムヘイズが、力を暴走させて爆死するのを何度も見ている。そんなことになって、そこのミステス≠ェ中《なか》身《み》ごと壊《こわ》されたら、私の真《ま》名《な》狩《かり》人《うど》≠ノとっては本《ほん》末《まつ》転《てん》倒《とう》なんだよ」
フリアグネは、また表情を薄笑いに改め、悠《ゆう》二《じ》に視線を流した。
「別に急ぐでもなし……もう少し、やりやすい状況を作ってから、また伺うことにするよ」
悠二という存在ではなく、悠二という宝《ほう》具《ぐ》を秘めたミステス≠、悠二の中にある宝具を、穴の空《あ》くほどに強烈な欲望を込めて、見る。
悠二はその視線の無情さに、ぞっとなった。
「なにが入っているのかな、その中……うふふ、楽しみだ……」
その薄白い姿が、妙に浮いた声が、その背に負った陽《かげ》炎《ろう》の壁の揺《ゆ》らぎと混じり、溶けてゆく。
その揺らぎに目を焼く内に、気付けば、フリアグネは去っていた。
「やはり、ただの徒《ともがら》≠ナはなかったな。王=Aそれも狩人<tリアグネとは」
「ふん」
重く声を響かせるアラストールに、シャナが短く鼻を鳴らして返す。
悠二が、切り傷や、火傷《やけど》だらけの池《いけ》を抱え起こしつつ、訊《き》いた。
「あいつが徒≠ネのか……」
これには、むくれるシャナではなく、アラストールが答えた。
「うむ。紅《ぐ》世《ぜ》の徒≠フ中でも、とりわけ強大な力を持つ王≠フ一人だ。我のように、人の身の内に存在を封じず、ゆえにこの世の存在の力≠喰らい続け、両界の均衡を崩《くず》す乱《らん》獲《かく》者……我らフレイムヘイズの敵だ」
「王=c…怪物の親玉だから、もっと凄《すご》い化け物みたいな奴《やつ》かと思ってた」
「見た目は判断材料にはならぬ。我らは、己が望む形で存在することができるのだから」
二人の会話に、シャナが割り込んだ。
「封《ふう》絶《ぜつ》内を直すわ。そいつ、使うから」
「え?」
シャナが顎《あご》で指す、その仕《し》草《ぐさ》は、悠二の腕に抱えられる、ぼろぼろの池《いけ》を差していた。
「使う? どういう意味だ?」
「そいつの存在の力≠使って、封絶内の壊《こわ》れた場所を直すの」
「!」
悠《ゆう》二《じ》は昨日の出来事を思い出した。
シャナが何人分かのトーチを火の粉《こ》に変え、封《ふう》絶《ぜつ》内を復元したことを。
そして、その人々が、封絶の解けたあとの世界に欠けていた……まるで最初から存在しなかったかのように、欠けていたということを。
悠二は慌《あわ》てて池《いけ》を抱え込んだ。
「き、昨日、トーチになった人たちを消したみたいに、池を使うってのか!?」
シャナはあっさり認めり。
「そうよ。ここには昨日みたいに連中の喰い残しのトーチがない。だから、その死にかけを使うの。トーチになる前の人間なら、死にかけ一人分で全部直せるわ。ついでに他《ほか》の人間の傷も治《なお》すし、そいつの残り滓《かす》にもトーチにして配置する。何の問題もないでしょ」
「おおありだよ!! 池が僕みたいに死ぬ[#「僕みたいに死ぬ」に傍点]って事だろ!?」
「当たり前じゃない。薪《まき》がなければ火は燃えないでしょ。元になる力が無いと、物は直せない、人も治せない」
「……くっ……」
シャナは、常に事実を突きつける。
悠二には、その事実を跳《は》ね返せるだけのものが、なにもない。
「分かった? そいつが知り合いで嫌《いや》だってなら、他《ほか》の奴《やつ》を使ってもいいわよ」
「そ、そういう問題じゃない!」
「じゃあ、どうしようってのよ。壊《こわ》れたまま、傷だらけのまま、封絶を解くっての? 言っとくけど、今の因《いん》果《が》孤立状態を解いて、この空間が動き出したら、そこに転がってる連中、確実に死ぬわよ」
シャナは、やはり事実を突きつける。
悠二も、彼女が理屈として正しいことを言っているのは分かっている。
腕の中にある池の、破片に切られ、炎《ほのお》に焼かれた傷が深いことは、素《しろ》人《うと》目にも容易に分かる。世界が動き出せば、重傷は間違いない……いや、シャナの言うとおり、死ぬのだろう。
しかし、倒れるクラスメートの中からトーチにする人間を選ぶことなど、悠二にできるはずもなかった。そもそも、彼らを巻き込んでしまったのは自分なのだ。
シャナの言うことが正しい、そのことは分かっていた。
正しいし、分かっているが、それでも、できないことはあるのだ。
「……」
黙りこくって解決法を探す悠二に、いい加減|焦《じ》れたシャナは、
「それじゃあ」
と馬鹿にするように言う。
「おまえ自身でも使う?」
「なんだって?」
シャナは、ことさらに意地悪な口調で提案する。
「おまえの残り灯《び》をいくらかでも削《けず》れば、物も人も直せるわ。もちろん、その分おまえの存在の力=c…『燃え尽きるまでの残り時間』は目減りするけど」
その提案が持つ意味の重さを理解した悠《ゆう》二《じ》は、しかし一瞬で決断した。
「分かった。それでいい」
「!?」
シャナは驚き……そしてなぜか、わずかに怒りを感じて、言う。
「駄《だ》々《だ》こねてた割には、やけに簡単に決めるのね」
これも悠二は即答、断言した。
「簡単なもんか」
「じゃあ、何で残された存在と時間を、みすみす捨てたりするのよ」
知らずの内に責めるような口調になっている問いに。静かで強い答えが返ってくる。
「こうなったのは僕の責任なんだ。それに」
シャナは、悠二が微笑していることに驚き、その声を聞く。
「捨てるんじゃない。生かすんだ」
その夜。
夜半を越えて空に垂れ込めた雲が、街に雨の帳《とばり》を下ろし、まばらな灯火をぼやかせている。
その片隅、坂《さか》井《い》、と表札を掲げたごく普通の一戸建ての屋根に、大きな黒い傘《かさ》が一輪、咲いている。
「なによ、なによ、なんなのよ、あのミステス≠ヘ!?」
その傘の下から、怒りの声があがった。
雨にぼやける街灯に、その姿を朧《おぼろ》に浮かべるのは、シャナである。
傘をさし、セーラー服で行儀悪く胡座《あぐら》をかいて、屋根の上に座っている。
本降りの雨は、彼女の周りで全《すべ》て弾《はじ》かれ、乾《かわ》いてゆく。ちなみに、彼女が怒っていることとその現象は、全く関係がない。
「燃え残りのくせに、生意気よ!」
封絶内の復元は結局、悠二の希望通り、その残り火を削った力で行われた。
教室の破損、およびクラスメートたちの傷と服は、一応無事に復元された。一応、というのは、力の量的にギリギリに削ったため、教室は所々手抜き工事のように古びてしまい、友人たちにも打ち身程度の後遺症が残った、ということだ。
それらの様子を見た悠《ゆう》二《じ》は、青ざめた顔で再び笑った。
悠二のその笑いが今、シャナを苛《いら》つかせている。
「本当に、なんて変な、じゃない、妙《みょう》な、違う、嫌《いや》な、そう、嫌な奴《やつ》!」
上がる声には、彼女らしくない、愚《ぐ》痴《ち》や文句のような、ひねた響きがあった。
シャナは、帰り道も悠二に付いて行ったが、話はしなかった。悠二も何度か話しかけたが、その度《たび》に睨《にら》み返されたので、やがて諦《あきら》めて黙った。家の前で別れたときも、それじゃ、と言った悠二に、うむ、と短く答えたのはアラストールだった。
それからすぐ、シャナは屋根の上に飛び乗って、フリアグネ一党への警戒に当たっている。
状況や相手の性格からして、ほとんど意味のなさそうな行為ではあったが、二人としては他《ほか》にすることもない。念のため、というだけのことだった。
そしてシャナは、屋根に座った途《と》端《たん》、それまでの沈黙の壁が決《けっ》壊《かい》したかのように、延々文句をアラストールにぶつけ続けていたのだった。
そんな彼女のいつにない荒れ様《よう》……あるいは取り乱し様に、アラストールは、ようやく可《お》笑《か》しそうに声をかけた。
「つまりアレは、おまえが久しぶりに、まともに接した人間ということだ」
期待してもいなかった、不意な胸元からの言葉に、シャナは内心で驚き、なぜか慌《あわ》てた。それを隠そうと、ことさら冷たく、しかしいつものようにしっかりと事実を言う。
「アレはミステス=A本人の残り滓《かす》よ」
うむ、とその明確な答えに満足の声を返したアラストールは、それでも彼女に問いかけるように続ける。
「自分では、そう思っていない……いや、それは人間にとって、自己の存在にとって、さして重要ではない、ということかも知れぬ」
「でも、残り滓よ。アレがなにをどう思っても、もうなにも、どうにも、なんともならない……そう、ならないのよ……」
アラストールは、シャナの頑《かたく》なな答えに、わずかに怒りと悔しさが滲《にじ》んでいることに気付いた。一見|冷《れい》酷《こく》な、しかし実はそうではない答えを返す。
「その通りだ。しかし、現実には多様な面が存在する。一つの事《こと》柄《がら》に、一つの現象しかないとは限らん。例外や事故、想像以上の出来事は、常にあるものだ」
「……」
「とはいえ、アレが元気なのも、今はまだ存在の力≠ノ余力があるからだ。いつかは、その思考能力も、意欲も、存在感も、薄れて燃え尽きる」
重く深いアラストールの声は予想外の打撃となって、シャナの、次の言葉を遅らせた。
「……………………ふん、せいぜいフリアグネを討《う》ち滅ぼすまで、もてばいいわ」
そのとき、がちゃん、と金属がぶつかる音がした。
シャナが見れば、屋根の端《はし》に掛け金具が突き出している。梯《はし》子《ご》の先だった。
そこからひょっこりと傘《かさ》が、ついで悠《ゆう》二《じ》の顔が現れた。
「ああ、やっぱりいた」
シャナは不機嫌さを隠さず、一言。
「いて悪い?」
けんもほろろなその言い草に、意外に執念《しゅうねん》深いな、と悠二は苦笑する。
「……そこにいられると、なんだか落ち着かないんだけど」
「ふん、おまえの知ったことじゃ」
ない、と言いかけて、シャナは気付いた。
「……おまえ、どうして私たちがここにいるって分かったのよ?」
首だけ出した悠二はそれを傾《かし》げ、考え考え言葉を継《つ》ぐ。
「いや、なんというか……流れ、みたいなものかな。今日の封《ふう》絶《ぜつ》とかの小さいやつ……それを感じたんだ」
アラストールが納得の声を出す。
「そうか、そうだな、あれだけの力の発現の場に立ち会っていれば、わかってもくるだろう」
普通はそれに気付くことも無く力を消耗《しょうもう》し、また消費されてゆくものだが、とまでは、さすがに言わない。
今度は首だけの悠二が訊《き》く。
「僕のことよりも、あんたたち『平《ひら》井《い》ゆかり』なんだろ? こんな所にいて、平井さんの家とかは、放って置いてもいいのか?」
シャナは、ふん、と鼻を鳴らした。
「そんなの、どうでもいいわ。『平井ゆかり』をしてるのはついでだし……それに、家族で喰われたんでしょうね、両親もトーチだった。なんとでも誤《ご》魔《ま》化《か》せる」
なんともひどいやぶ蛇《へび》だった。もっとも、言った当人にその自覚はない。
「それより、こっちは忙しいんだから、用が済んだらとっとと引っ込みなさいよね」
「忙しい?」
見た目には座っているだけのようだが。
「……そうなのか?」
悠二はシャナの胸元のアラストールに訊いてみる。
天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》≠ネどと物《ぶっ》騒《そう》な名を持っている割に、この異世界の王≠ヘ、物腰が落ち着いていて話しやすい。
「難《むずか》しい質問だ」
嘘《うそ》のイエスも不義理のノーも言えない、という答え。
悠二はなんだか、このシャナを気遣い、しかし暗に悠二へ答えを示している王≠ェ好きになりそうだった。その彼に敬意を表して、質問を変える。(必然的にシャナの抗議は却《きゃっ》下《か》された形になるが、やはりアラストールは何も言わない)。
「雨の中で、ずっと警戒を?」
シャナは、自分以上に『正しいに決まっている』アラストールに文句を言うこともできず、渋《しぶ》い顔をして言う。
「そうよ。連中はおまえを狙《ねら》ってるんだもの」
「ふうん、でも、なにもこんな所で……うわ、っと」
悠《ゆう》二《じ》は危なっかしい身のこなしで、屋根の上に登った。なぜかリュックを背負っている。片手に傘《かさ》を差しつつ、濡《ぬ》れた瓦《かわら》を這《は》うように慎重《しんちょう》に伝ってゆく。シャナの前までたどり着くと、濡れるのも構わずに座った。
さすがに胡座《あぐら》をかいていたシャナも、足を閉じて座りなおす。
その胸元から、アラストールが言う。
「貴様の気にすることではない」
うん、と悠二は頷《うなず》いた。
「そうだけどね、ちょっと訊《き》きたいことがあってさ」
言いつつ、背負っていたリュックを下ろし、魔法|瓶《びん》を取り出した。
「……?」
シャナは無言で、悠二を睨《にら》む。
悠二はその視線の中、器用に傘《かさ》を差しつつ、カップ兼用の蓋《ふた》を外《はず》して中身を注いだ。
ホットコーヒーだった。ちゃんとミルクも入れてある。
「ほい」
湯気の立つカップが差し出される。
拒《こば》む理由は、特にない。仕方なく、シャナは受け取った。
温かい。
カップ、それだけではない。店での売買や力を振るう以外での、手と手の交《こう》叉《さ》を感じた。本当に久しぶりの、ほのかな温かさだった。
シャナはカップを胸元に持ってきて、顔を傘で隠した。その陰から言う。
「で、なによ。これの代金程度なら答えたげるわ」
ありがとう、の一言もないが、その辺りは悠二としても期待していない。押しつけだと言うことも自覚していた。
「うん」
悠二は、意味のない返事をして心の準備をする。
やがて、傘を打つ雨の音がはっきり聞こえるほどに落ち着いてから、改めて口を開いた。
「僕が消えたら、他《ほか》の人たちは僕のことを全《すべ》て忘れる、って言ったよな」
「そうよ」
シャナは無情に断言した。
悠《ゆう》二《じ》は、自分がシャナのこういう、厳しく思える率直さを快く感じる理由が、何となく分かってきていた。
この少女は無《む》駄《だ》に慰めない。余計な粉飾《ふんしょく》で本質を隠したりもしない。知りたいことを問えば、その答えを明確に、包み隠さず示してくれる。自分はそれを快く、また嬉《うれ》しく思うのだ。
(つまり、僕が欲しいのは気遣いじゃない、ってことか)
悠二は……なんだか妙《みょう》な話ではあったが……自分の心の有様を、このシャナとの会話によって自覚させられていた。どうも、自分は悲壮に酔《よ》える柄《がら》ではないらしい。
もちろんシャナも、悠二のために、そんな話し方をしてくれているわけではない(と悠二も断言できる)。彼女は単に、気遣いなどに意味を認めていない、というだけのことだ。
ただの結果としての、この符合を、悠二はおかしいとさえ感じていた。
そのおかしみを微笑にして、悠二は再び訊く。
率直な答えが欲しい問いを。
「じゃあ、シャナ、アラストール、あんたたちは、どうなんだ? あんたたちも、僕のことをだんだん忘れていったり、感じられなくなったりしていくのか?」
「……」
シャナにとっては実際どうでもいい、簡単な問いだった。これも他《ほか》の問いと同じように軽く答えてやればよかったが、しかしなぜか一瞬、声が詰まった。
そしてその間に、アラストールが答えていた。
「いや。我らは、貴様のありのまま[#「ありのまま」に傍点]を、消えてゆく過程を、全《すべ》て認識する。我らは、この世の流れから外《はず》れた存在であり、存在の力≠フ振《しん》幅《ぷく》や、起こった事そのものを感じ取ることができるからな」
「……そうか」
シャナが、傘《かさ》の影から言う。
「そうよ。でも結局は、普通の記憶と同じように、これからの出来事の下に埋《う》もれてくだけよ」
「僕を見ていてくれるってだけで、十分だよ」
シャナは悠二の顔を見なかったが、なぜか彼が笑っていることが分かった。その、妙《みょう》に居心地の悪くなる確信を誤《ご》魔《ま》化《か》すように、黙ってコーヒーを口に運ぶ。
「……」
温かかった。
しかし、
「砂糖!」
「ちゃんと入れたんだけど」
悠《ゆう》二《じ》は、今度は声を出して笑った。リュックの中から、念のために入れておいたシュガースティックを取り出しながら訊《き》く。
「ところでさ、一晩中そうしているつもりなのか?」
シャナはスティックを三つむしり取って、それを全部入れる。
「そうよ。座って寝るのには慣れてるし、何かあったらアラストールが起こして……」
かき混ぜるものがない。遠慮なく求める。
「スプーン」
「あ」
忘れていた。要領が良いようで、どこか抜けている。ここが『微《び》妙《みょう》に』が付く所以《ゆえん》だろうか。悠二は、取りに戻ろうかと一瞬考えて、なんだか馬鹿らしくなった。
「そういえば、なんで屋根の上なんかで張り込む必要があるんだ? 僕から隠れたりする意味もないのに」
「……中に入れっての?」
シャナは傘《かさ》を上げて悠二を睨《にら》む。馴れ馴れしくされるのには慣れていない。
「一晩中、雨の中に座ってる女の子を上に置いておくってのは、はっきり言って安眠|妨《ぼう》害《がい》だと思うんだけど」
「知ったことじゃない、けど……アラストール?」
「ふむ、たしかに、なにかを守るようなケースは、これまでなかったな」
「なにかを、じゃなくて、誰かを、って言って欲しいんだけど」
悠二も虚《むな》しい抗議だと分かってはいるが、とにかく一応してみる。
「どうでもいいことよ」
「そう、どうでもよいことだ」
と返された。
「……それより、中に入るのはいいけど」
シャナが、傘の奥からギロリと睨んでいる。
悠二にはその意味が分からない。
「?」
「変なことしたら、ぶっとばすわよ」
「……そこまで特殊な趣味はしてな痛だっ!?」
スカーンと、中身入りのカップが顔面に命中して、悠二は危うく屋根から転げ落ちそうになった。
「ちょ、ちょっと待て!」
実際に待てと言われたのは悠《ゆう》二《じ》の方だが、とりあえず、そう返答せざるを得ない状況である。
現在使う者のない父の書《しょ》斎《さい》で寝ようと部屋を出かけたところで、シャナとアラストールに引き止められた……というより、制止命令を受けたのだった。
一階にいる母に気付かれないよう声を潜《ひそ》めて、それでも精一杯の声で反抗する。
「中に入れとは言ったけど、一緒の部屋で寝るとは言ってないぞ!?」
シャナがベッドの上でポンポンと跳《は》ねながら言う。
「おまえを守るために中に入ったのに、なんでわざわざ別の部屋になんなきゃいけないのよ」
「諦《あきら》めてここで寝ろ」
アラストールの、完全に命令者としての指示。
その彼の意思を表すペンダントを、シャナが首から外《はず》し、枕の下に押し込んだ。
「……何やってんだ?」
「見れば分かるでしょ、着替えるから、見えない所に行ってもらったの」
枕の下から、フゴフゴと籠《こ》もった声が続ける。
「そういう決まりなのだ。分かったら、早く貴様もどこかに潜《もぐ》り込め」
そう言われれても、と見回すと、ちょうど良い所に(?)押入れがある。
「……」
シャナに目を戻すと、うん、と頷《うなず》かれる。
「……普通、ここって、押しかけた方が入るもんじゃないのか?」
とぶつぶつ文句を言いつつも、押入れに向かう悠二だった。
その背中に、
「覗《のぞ》いたらぶっとばすわよ」
と、絶対に冗談《じょうだん》とは受け取れない声での脅《おど》しがかかる。
悠二はため息をつきながら、押入れのふすまを開けた。下の段は、古いマンガやら使わない布《ふ》団《とん》やらで一杯なので、上の段に上がる。もっとも、ここにも古い玩《おも》具《ちゃ》その他《ほか》がひしめいているので、その間に体育座りして体を収めなければならないが。埃《ほこり》が目鼻にしみる。
目の前にある、何《な》故《ぜ》か捨てられない大きなロボットのソフビ人形がと目が合った。
「ちょっと入れてくれ、いてて」
尻《しり》で、作らないまま置いていたプラモの箱を押し潰《つぶ》してしまった。
「なにやってんの、早く閉めなさいよ」
「そう急《せ》かさなくてもいいだろ。どうせ見られて困るようなスタイルでもないぶふっ!?」
ごいん、と今度は目覚まし時計が後頭部に直撃した。プラスチック製で良かった、と情けない安《あん》堵《ど》を覚えつつ、悠二は中からふすまを閉めた。
「……」
そのふすま一枚|隔《へだ》てた向こう、ベッドの方で、シャナがごそごそ動く気配がする。衣《きぬ》擦《ず》れの音からして、服を脱《ぬ》いでるらしい。
「…………」
さっきはからかったものの、さすがにこういう状況は気まずい。ゲフン、とわざとらしく咳《せき》払《ばら》いして、悠《ゆう》二《じ》は誤《ご》魔《ま》化《か》しに訊《き》いてみる。
「……寝巻きとか持わっ!?」
また何か、硬《かた》いものがふすまにぶつけられた。
「覗《のぞ》くなって言ったでしょ!」
「覗いてないって! ふすま見れば分かるだろ!?」
なんでこんな目に、などと思いつつも、何《な》故《ぜ》か言い訳口調になる。こういう場合、男は果てしなく立場が弱い。押入れの闇《やみ》の中、得がたい人生経験を苦く侘《わび》しく味わう悠二である。
「ね、寝巻き持ってるのか、って訊いてるんだよ」
「ないわよ。あるのは替えの下着だけ。体の汚れはアラストールが清めてくれるから、替えるのただの気分だけど」
「ふうん、そりゃいいな……あ、忘れるとこだった。ベッドの横の引き出しにジャージが入ってるから、それ着てくれ」
下着のままで寝られたりしたら、どんな拍《ひょう》子《し》で(自分が)危険な目に会うか、分かったもんじゃない……とまで、考えて、ふと疑問が湧《わ》く。
「ん? そういや、荷物なんて持ってたっけ」
「だいたいの物は入ってる」
「どこに?」
ズバッと、布か何かが広がるような音がした。
「アラストールのフレイムヘイズがまとう、黒《こく》衣《い》の中」
悠二は思い出す。
この音はたしか、教室で襲われたときに、自分を壁のように守ってくれた黒い……。
「ああ、あのコートか……そういえば、刀も収めてたな」
悠二は、どこぞの便利なポケットのようなもんか、と自分論理で納得する。
その間に、ベッドの方では、またわずかな衣擦れの音が。
(……替えの……下、着……?)
ふと、先の会話の中から浮かび上がったその単語に、悠二は思わず、ごくり、と息を呑《の》む。
今、ふすま一枚向こうで展開されている光景
を一瞬想像して、すぐに猛烈な後ろめたさに襲われる。想像の進展を邪《じゃ》魔《ま》するために言う。
「ところでさ、いつまで入ってりゃいいんだ」
無情の声が返ってくる。
「夜中ずっとに決まってんでしょ」
「んな馬鹿な」
悠《ゆう》二《じ》は脱力した。
と、その拍《ひょう》子《し》に、下に敷いていたプラモの箱に体重をかけてしまった。紙の箱から折れたランナーが突き出て、その尻を刺す。
「ぅ痛っ!?」
反射的に飛びのいた。
「あ」
気付いたときには、もう遅かった。ふすまを押し倒して、悠二は押入れの外に、頭から転がり落ちていた。
逆さになった視界の中心に、ちょうど全部脱いだ所だったらしいシャナが、悠二には理解不能な形状の小さな布切れを手にして、立っていた。
「……」
シャナも、予想外すぎる事態にきょとんとした顔になって、逆《さか》さまの悠二を見ている。
「……」
艶《つや》やかな黒髪の中に浮かぶ、小さな、一点の曇りもない白《はく》磁《じ》のような肢《し》体《たい》。
未成熟ゆえにあからさまな膨《ふく》らみのない、ただ流麗《りゅうれい》な曲線によって描かれる。清《せい》冽《れつ》の姿。
悠《ゆう》二《じ》が、自分の存在が過去最大の危機にあることを忘れて見入るほどの。
(……きれ
真夜中、奇《き》跡《せき》的にボコボコにされただけで済んだらしい悠二は、痛みで目を覚ました。
「……」
カーテン越しに入る街灯だけを明かりとする薄暗さの中、まだ逆さまの視界をベッドの方に動かす。毛布に包まった、小さな膨《ふく》らみが見えた。
ところで、
そのベッドの前の床に、抜き身の大《おお》太《だ》刀《ち》『贄殿遮那《にえとののしゃな》』が突き立っている。
このあからさまな意思表示を、転げ落ちたままの格好で眺《なが》めつつ、悠二は呟《つぶや》く。
「……今度は、斬《き》っても治《なお》してくれないんだろうな」
「当然だ」
どこからか、アラストールがフゴフゴと答えた。
翌日、明けてみると空は快晴。
部屋にも、カーテン越しに澄んだ朝の光が差し込んでいた。
あるいは明け方の襲撃があるのでは、とアラストールは枕の下で警戒していたが、結局、何事も起きず何者も訪れず、シャナの熟睡は妨《さまた》げられることはなかった。
一方、間に『贄殿遮那』を置いた反対側の壁際。その床で、真夜中に寝直した悠二が、蓑《みの》虫《むし》のように毛布に包《くる》まって寝ている。
その彼の、タオルケットを丸めた枕もとで突然、目覚し時計のアラーム音が鳴り響いた。
わずか半秒で悠二は音源を察知、見もせずにアラームのスイッチを叩《たた》き、黙らせる。
「……ん……」
重い瞼《まぶた》を開けて最初に見る物は、金属バット。別に、普段からこんな物を抱いて寝る趣味があるわけではない。単なる用心、あるいは無《む》駄《だ》な手立ての一環である。もちろん、用心している相手は、ベッドの中の少女ではない。
悠二はむっくりと半身を起こした。伸びをしようとすると、体の節々が痛む。
「あ、っ痛ちち……」
板敷きの床に寝ていたせいか、どうも体が妙《みょう》な感じにこっている。その代わり、というべきか、昨日ボコボコにされた所は、もう痛まない。シャナが手加減してくれていたのか、それとも単に、自分の若い回復力によるものか……まあ、まず後者だろうが。
悠二は、ベッドの小さな膨らみに目をやる。目覚ましの音が半秒で消えたせいか、起きる気配もなく、微《かす》かな寝息を立てている。その手前に突き立つ剣《けん》呑《のん》な大《おお》太《だ》刀《ち》がなければ、平和な光景に見えなくもない。
ふと、その大太刀で思い出したように、悠《ゆう》二《じ》は自分の胸を見る。
なんということもなく、見る。
灯火が、現れた。
「…………はあ」
昨日とは別の意味を持つ、ため息だった。
絶望や恐怖が、ほとんど実感を持てないほどに薄れている。
それに気付いたための、ため息だった。
(人間は慣れる動物だっていうけど、こんな状況でもそうだってのは、なんだか凄《すご》いな……それとも、今までと同じ日々を過ごしたいって執着《しゅうちゃく》の現れなのかな)
シャナを起こさないよう、静かに立って、ベランダに通じるガラス戸を開ける。
狭《せま》いベランダに出て、外を眺《なが》める。
朝の清涼《せいりょう》な空気が肺を満たす。
家の前の道を、通勤、通学の自転車が通り過ぎてゆく。
その道の端《はし》が、昨日の雨の名残《なごり》に黒く湿《しめ》っている。
空は、広く青い。
全《すべ》て、いつもと変わらない、爽《さわ》やかな朝だった。
(……変わったのは、僕……ここにいて、これを感じる僕、か……)
今、体に感じているものが、存在の消滅などという、言葉や理屈だけでしかとらえていないものを、いかにも絵《え》空《そら》事《ごと》のように思わせてしまう。なんとも、現金な話ではある。
後ろのベッドの中で、その感じるものの一つ、痛さの原因が、少しむずかった声をあげる。
足元を見ると、昨晩屋根に登るのに使った梯《はし》子《ご》が畳《たた》んで寝かせてあった。
悠二は昨夜の、シャナやアラストールとのやり取りを思い浮かべた……多少、不純な映像も混じっている気がするが、そのこと自体は大して重要ではない、はずだ、と弁解する。
(ああやって、少し話をして、少し笑って、少し騒いで……その程度のことで……)
自分は、消滅の絶望と恐怖を忘れてしまえるのだろうか。
自分の存在そのものの問題を。
(……忘れる?)
その言葉には、どこか違和感があった。
また少し考えてみるが、その違和感の意味はよく分からない。
(まあ、そう簡単に答えが出るものでもないか)
と思い、悠二は笑った。
そして、笑える自分を自覚して、驚いた。
そんな、重いのか軽いのかはっきりしない気持ちのまま、ベッドに声をかける……恐る恐る。
「おーい……シャナ、そろそろ学校に行く時間、だぞ……?」
ぱたんと布《ふ》団《とん》が跳《は》ね上げられて、シャナが半身を起こした。
昨日のことを思い出して、慌《あわ》てて目を伏せようとした悠《ゆう》二《じ》は、そのシャナがジャージを着ているのに気が付いた(つまり、しっかり見ていた)。自分が言っておいた通りにしてくれたらしい。ぶかぶかなので、ほとんど首元から埋《う》もれるような格好だ。
安《あん》堵《ど》半分、残念半分の悠二に、シャナが顔を向ける。その寝ぼけ顔は、見かけの年齢並みに可《か》愛《わい》い。長い髪も、後ろで簡単に一まとめに縛《しば》っていた。
「……ん〜、言われなくても分かって……!?」
眠《ねむ》たげな声で悠二に答え、その顔を見たシャナが突然、驚愕《きょうがく》に目を見開いた。
「な、なんだよ?」
悠二は慌てて自分の体を見回すが、胸の内の忌《いま》々《いま》しい灯《あかり》も含めて、特別変わった様子はない。
そうやっている間に、シャナは再び布団の中に潜《もぐ》り込んでいた。
少し待ったが、出てくる気配がない。さっきの様子だと、別に昨日のことを怒っているわけでもなさそうだが。
「……勝手に用意して出かけるからな? 見つからないように出てってくれよ」
悠二は声をかけて、部屋を出ていく。
布団の中で、シャナは珍しく困《こん》惑《わく》の表情を作っていた。
「……ねぇ、アラストール、あれ[#「あれ」に傍点]、どういうこと?」
枕の下からアラストールも深刻な声で答えた。
「うむ、気付いたか」
「どうして? 考えられない」
「中にある宝《ほう》具《ぐ》の力、だろうな」
アラストールは、実は今の悠二の様子から、一つの宝《ほう》具《ぐ》の存在に思い当たっていた。
封《ふう》絶《ぜつ》の中で動ける、奇《き》妙《みょう》なミステス″竅sさか》井《い》悠二。
なるほど、もしその中に入っている物が、あれだとしたら、この奇妙さにも、さっきの様子にも説明がつく。
しかし、それは同時にあり得ない筈《はず》の物だった。
紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》#髟中の秘宝。
『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』
もし、そうだとしたら、絶対にフリアグネに渡すわけにはいかない。
そしてシャナも、今の悠二の様子に、一つの気持ちを芽生えさせていた。
もしかしたら、と刹《せつ》那《な》、胸をよぎっただけの、無自覚な、小さな、気持ち。
昨日、手渡されたコーヒーのような、ほんの少しの、温かさ。
[#改ページ]
3 シャナ
シャナにとっての二日目の授業は、前日と同様、突っかかった教師の壮絶な自爆という、一種|滑《こっ》稽《けい》でさえある残《ざん》酷《こく》ショーの様《よう》相《そう》を呈《てい》している。
教師は恐れ、生徒は慄《おのの》き、という状況が三時間目まで続いて、しかし四時間目で一方に大逆転が起こった。
四時間目の授業は体育だった。
その授業を担当した体育教師(男性・三十三・独身)は、最近、平《ひら》井《い》ゆかりという生徒が騒ぎを起こしている、と同僚たちから聞いたらしい。
授業を受け始めてわずか一月程ながら、陰《いん》険《けん》かつ横《おう》柄《へい》、しかも女生徒をいやらしい目で見ることで、すでに悪評が定着しているこの体育教師は、生意気な生徒を許容できないタイプでもあった。彼は、自分の授業でその平井とやらをへこませてやろうと、画《かく》策《さく》した。
彼は、いきなりクラス全員に無制限のランニングをするよう言った。
この一月の記録を見れば、平井ゆかりは特別優秀な成績を残しているわけでもない。すぐに根を上げるだろう、と思った。ヘバっても、しばらくは無理矢理走らせてやる、とサディスティックな愉《ゆ》悦《えつ》を覚えつつ、体育教師は不満顔の生徒たちを延《えん》々《えん》、走らせた。
ところが予想に反して、平《ひら》井《い》ゆかりは涼しい顔で走り続ける。
小学生にしか見えない、体操服に着られているような小《こ》柄《がら》な少女が、授業時間の半ばを超えても、全く同じペースで足を動かしている。
体育教師は焦《じ》れたが、そもそも彼女をいじめることが目的なのだから、彼女がヘバるまではランニングを止めることができない。フレイムヘイズと持久力を競わされる羽《は》目《め》になった、悠《ゆう》二《じ》始めクラスメートたちこそ、いい迷惑だった。
やがて、あまり体の丈夫でない女生徒が一人、トラック上でうずくまった。
苛《いら》立《だ》ちから、体育教師が怒《ど》鳴《な》り声を上げる。
「こらー、吉《よし》田《だ》ぁ! なにをサボっとるか!!」
「吉田さん!」
「一《かず》美《み》!」
息を切らして胸を押さえる、吉田という女生徒に、クラスメイトたちが駆《か》け寄った。
普段から貧血などをよく起こしている、こういうことになるのは分かりきっていたのに、という生徒たちの批難の視線を、体育教師は全く感じることができない。
「なにを勝手に集まっとる、貴様ら!」
「先生、一美を休ませて上げてください」
と吉田の背をさする女生徒が訴えたが、体育教師は、標的である平井ゆかりに、吉田の不調にも動じることなく走り続ける姿を見せつけられて(と彼は感じた)気が立っていた。
「うるさい! そういってサボってたら、いつまでたっても体力がつかんだろうが! 立て!」
そのとき、ふと誰かが漏《も》らした。
「だいたい、なんでいきなり持久走なんだよ」
無能な小人物というのは、自分の痛いところを突かれると逆上する。
体育教師は何を思ったか、いきなり吉田の手を掴《つか》み、無理矢理引き起こした。
「貴様がサボっとるから、みな足を止めてるだろうが! 立て!」
「……っ」
咽《の》頭《ど》の動きだけで息をしているような吉田が、声にならない悲鳴をあげた。
驚いた生徒たちが抗議する、ついでに悠二が『出る足』を制止する、
その前に、
体育教師が思いきり尻《しり》を蹴《け》飛《と》ばされて、すっとんだ。
不意の出来事に一瞬、呆《ぼう》然《ぜん》とした生徒たちが我に返ってみた先に、平井ゆかりことシャナが、小さな運動靴の底を見せて立っていた。
息も乱れず、汗もせいぜい一《ひと》雫《すじ》の、無《む》駄《だ》なく引き締まった体《たい》躯《く》。
後ろで一つにまとめられた、長く艶《つや》やかな黒髪が、蹴《け》りの余《よ》韻《いん》のようにふわりと舞っていた。
(……あちゃー、やった……!)
制止の届かなかった悠《ゆう》二《じ》が頭を抱えた。
シャナが体育教師を蹴り飛ばした理由の大半は、たまたま自分の走行ライン上を体育教師がふさいでいたということだが、それでも、吉《よし》田《だ》をしっかり片手で受け止めてもいる。
「さっきからずっと走るだけ……これ、一体なんの『授業』なわけ?」
一応、どんな内容のものなのか、試していたらしい。自分の肩にもたれかかってヒュウヒュウ息を継《つ》いでいる吉田を見て、眉《まゆ》根《ね》を寄せる。
(どうせ、可《か》愛《わい》そう、とかじゃなくて、非効率的だ、とか思ってるんだろうな)
と悠二は、その内心を正確に察している。
案《あん》の定《じょう》、シャナは言った。
「馬鹿な訓練。ただむやみに体を動かすだけなんて、疲れるだけでなんの意味もないわ」
「き、貴様……!!」
土まみれの顔を拭《ぬぐ》って、体育教師は起きあがる。汚れた顔は、怒りで真っ赤になっていた。
もちろんシャナは、そんな憤《ふん》怒《ぬ》には毛ほどの感《かん》銘《めい》も受けていない。
「おまえ、この授業の意味を説明しなさい」
と問い質《ただ》すだけだ。
(やれやれ、やっぱりこうなるのか)
「……シャナ」
騒《そう》動《どう》を確信した悠二が小さく声をかけると、シャナは、肩に持たせかけていた吉田を放って寄越した。
悠二は受け取った少女の華《きゃ》奢《しゃ》な体と弱々しい息づかいに驚いて、思わずその顔を覗《のぞ》き込む。
「だ、大丈夫?」
吉田は青ざめた顔を、それでもわずかに頷《うなず》かせた。
それほど深刻な状況でもなさそうだ、と悠二は安《あん》堵《ど》して、すぐ他《ほか》の女生徒に吉田を預ける。
彼らの背後では、体育教師が激《げっ》昂《こう》した声を張り上げていた。
「貴様、教師を足蹴りにしたな!」
体育教師は、シャナの話になど耳を貸さない。彼女に詰め寄り、『平《ひら》井《い》ゆかりには通じない』と同僚から散々忠告されたはずの、権威による攻撃を始める。
「この不良が!! 教師に暴力をふるいおって! 停学、いや退学にしてやるぞ!!」
猛《たけ》り狂う大《おお》柄《がら》な体育教師の前で、腕組みして平然と立つ小柄なシャナは、一言。
「説明さえできないの?」
「分かってるな! 問題だ、これは問題行為なんだぞ!!」
話が全く噛《か》み合わない。
体育教師が話をしようとしていないのだから当然ではあった。この男は、自分の感情をぶちまけることしか頭に無いのだった。
彼の周りにいる生徒たちの方は無論、その狂態に、完全にシラケている。
そしてとうとう、
(目《め》障《ざわ》りな奴《やつ》)
す、とシャナの眉《まゆ》が平《へい》坦《たん》になった。彼女の戦闘開始を告げる表情だ、と一目で察知した悠《ゆう》二《じ》は、我ながら最高と思えるタイミングで叫びを上げていた。
「蹴《け》りだ!」
シャナが、動く、その初《しょ》っ端《ぱな》に受けた、妙《みょう》な指示。
「?」
やめろ、と言われていたら、シャナは無視して、目の前で吠《ほ》える無能者の顔面に拳《こぶし》を叩《たた》き込んでいただろう。しかし、そうでは無かったので、彼女は悠二の指示通りに気持ちよく、無能者を蹴り飛ばした。
彼女にしてみれば軽く脚を出した程度の、しかし常人にはとんでもない威力の蹴りが、ギャグマンガのように体育教師をすっとばした。
体育教師はきれいな放物線を描ききって、地面に激突した、ぎぴ、と変な叫びが上がる。
「あ〜あ……」
悠二は自分の指示ながら、その蹴りの無茶な威力にため息をついた。クラスメートたちの注視の中、一度頭を掻《か》いてから大きく息を吸い、わざとらしく声を張り上げる。
「先生、トラックの中に突然入ってきたら[#「突然入ってきたら」に傍点]危ないでしょう!」
シャナが怪《け》訝《げん》な顔をする。
メガネマン池《いけ》が、さすがに付き合いの長い友人らしく、最初に悠二の意図を理解した。同じく大声で、周りに聞かせるように叫ぶ。
「蹴っ飛ばされても、仕《し》様《よう》がありませんね!」
佐《さ》藤《とう》が、にっと笑って、周りのクラスメートを煽《あお》る手つきで両手を振り上げ、後に続く。
「だよなー! 平《ひら》井《い》ちゃん、足速いから!」
それと顔を見合わせた田《た》中《なか》が、最初に声を張り上げる。
「そりゃ、急にゃあ、止まれねえわな!!」
ようやく察したクラスメートたちが、一《いっ》斉《せい》に声を上げ始めた。
悠二や池と肩を並べて、佐藤や田中と声を合わせて、歓声にもにた大騒ぎをトラック上に巻き起こす。
「僕、見てましたよ、先生が平井さんの前に飛び出すところ!」
「私も!」
「あはは、センセ、カワイソ!」
「俺《おれ》だって目がかすんでよ、前がよく見えなかったって!」
「交通事故みたいなもんだよな!」
この自分に全く分《ぶ》のない喧《けん》噪《そう》の中、それでも体育教師が、
「……き、きさま、ら……」
と、這《は》いつくばった姿勢の影から、呪《じゅ》詛《そ》のような声を漏《も》らす。
騒ぎに隠れるように、悠《ゆう》二《じ》は傍《かたわ》らのシャナに体を傾けて、密かに訊《き》く。
「脅《おど》しとか、できる?」
なんだか自分もシャナに影響されて、いい性格になってきてるなあ、と悠二は責任を転《てん》嫁《か》してみたりする。
同じく騒ぎに紛《まぎ》れて、体操服の内側に隠れるアラストールが、こっそりと言った。
「そうだな、金を得る[#「金を得る」に傍点]ときによくやる方法でどうだ」
「そーね、たしかに、威《い》嚇《かく》で黙りそうな顔してる」
なんだか普段の生活が想像できそうな物《ぶっ》騒《そう》なやり取りを経て、シャナが再び歩き出す。
それだけの動作に、クラスメートが再び静まり返る。
体育教師は、突然訪れた静寂の中に、足音だけが残っていると気付いて、蒼《そう》白《はく》になった。
「ちょうど、トラックの上にいるね[#「ちょうど、トラックの上にいるね」に傍点]」
戦《せん》慄《りつ》の台詞《せりふ》。
「ひっ、ひあ……」
体育教師が逃げ出そうともがいた、その鼻先に、ズドン、と脚が踏《ふ》み下ろされた。地に付けた腹をも震わせる、その一《ひと》踏《ふ》みが、再び上げられる。
目の前、しっかりと固められたトラックが、靴底型の穴を五センチからの深さ、空《あ》けていた。
驚愕《きょうがく》と恐怖に目を剥《む》く体育教師に、悠二が最後の駄《だ》目《め》を押す。
「先生、これからも気をつけないと、危ないですよ[#「これからも気をつけないと、危ないですよ」に傍点]」
「……分かった?」
シャナがとびきり凶悪《きょうあく》な笑みとともに言い、体育教師は何度も全力で頷《うなず》いた。
悠二が付け足すように、にこやかに訊く。
「もう、解散してもいいですよね?」
体育教師はさらにぶんぶん頷いて、
「あ、あとは、じじ自習だ!」
と言い捨てると、腰|砕《くだ》けに走って逃げ出した。
今度こそ、生徒たちの間で完全無欠の歓声が爆発した。
そんな中、悠二は傍らを見て、
「素早いなあ……っと待った待った! 追わなくていいって!」
走り出そうとするシャナを慌《あわ》てて引き止める。
「なんでよ、敵は潰《つぶ》せる内に潰し……!?」
その二人をクラスメートが押し包んだ。
意味もなく叩《たた》いたり、興奮した声で誉《ほ》めそやしたり、嫌《いや》みなく冷やかしたりと、もみくちゃにされる。ともに過ごしたのが一月だけというクラスメートたちは、このとき初めて同じ気持ちで、大騒ぎに騒いでいた。
悠《ゆう》二《じ》は嬉《うれ》しかったり驚いたり、ついでにシャナの反応に慄《おのの》いたりしながら、体中に打ち込まれる平手打ちに悲鳴を上げる。
シャナは、目を白黒させて、彼女を押し包む歓声と好意の触れ合いに翻《ほん》弄《ろう》されていた。
この中、池《いけ》は一度だけ悠二の頭を軽くはたくと、すぐ人の輪から外《はず》れた。同じく悠二の背中を……こっちは思い切りぶっ叩いていた田《た》中《なか》を呼ぶ。
「おーい田中ぁ、吉《よし》田《だ》さんを担《かつ》いでくれ」
「ほいきた」
別の女生徒に膝枕《ひざまくら》されている吉田(佐《さ》藤《とう》が、それを羨《うらや》ましげに見ながら、吉田の顔をハンカチで扇《あお》いでやっている)を、太い腕で軽く担ぎ上げ、保健室へ運んでいく。
そんなこんなの騒ぎの後、
残った時間を、悠二たちはのんびりと、春の芝《しば》に寝ころんで過ごした。
というわけで、平《ひら》井《い》ゆかりことシャナは、本人の意図する所によらず、クラスメートたちから人気を集めることとなった。
その人気がどれくらいかというと、着替える際に他《ほか》の女子が、芝に寝転んで草だらけになった彼女の髪に皆で櫛《くし》を通してくれるくらい(彼女の身《み》繕《づくろ》いの無《む》頓着《とんちゃく》さを見かねたらしい)。
……残念ながら、悠二はその心温まりつつもヒヤヒヤものな光景を見ることはできなかったが。幸いシャナも、何かを言い立てるでもなく、おとなしくしていたらしい。
とはいえ、いきなりそれで完全に打ち解けられるほど、シャナも近付きやすくはない。とりあえず『無法者』から『用心棒の先生』にランクアップした、という程度だ。
それでも今日は、体育の授業直後の昼休みになっても、昨日ほど露骨に出て行く者はいなくなっていた。クラスメートは半分方、教室に残っている。
悠二としては、本意なのか不本意なのか……彼女をクラスに馴《な》染《じ》ませる、という行為にどれほどの意味があるのか、よく分からない。
それでも、昨日一昨日のことで僕にクソ度胸が付いたこと、それだけは確かみたいだ、巨大人形や首玉、カードの嵐や爆発の後じゃ、威張るだけの体育教師なんか藪《やぶ》蚊《か》一匹ほどにも恐怖を感じない、いやいや、危ない考えを持ちすぎだ、後がないからって、投げやりになっちゃ駄目《だめ》だ、残った時間を有意義に使わないと、でもそれがなんになるんだ……
徒《つれ》然《づれ》考えてから、改めて教室内に、目線だけを泳がす。
(まあ、寂しく取り残されるよりはいいか)
結論の出ない考え事は止《や》めて、悠《ゆう》二《じ》は今ある状況を素直に受け入れることにした。
昨日と同じ、コンビニおにぎりをかぶりつく。ちなみに、彼がいつもコンビニおにぎりなのは、母に弁当を作ってもらうことが格好悪い、という少年的な見栄からだ。
「それで、今日も夕方まで居残りするのか? 今日の授業はそこまでないからいいけど」
パリパリと海《の》苔《り》を噛《か》み砕《くだ》きつつ、隣席に声をかける。
「ううん、夕刻までにここを出るわ。相手がちょっとでかいから、せめてこっちに有利な場所で戦わないと」
シャナも相変わらず、メロンパンを美味《おい》しそうに食べている。食料袋は、やはり満杯だ。
この体のどこに入るんだ、と悠二は、片手で抱えられそうな細い腰を見て思う。
「……どこ見てんのよ?」
シャナに睨《にら》まれて、悠二は慌《あわ》てて目をそらした。
「え、いや、別に……それで、有利な場所なんてあるのか?」
「とにかく、他《ほか》に人間がいないとこ。おまえってば、放っとくとすぐに変な真似して邪《じゃ》魔《ま》するから」
「そうか、ありがとう」
悠二は素直に感謝の言葉をかけた。
「うるさいうるさいうるさい。私のやりたいようにやる、って言ってるだけよ」
シャナは乱暴に、メロンパンの最後の一切れを詰め込む。続いて、今度は子供用の、甘いコーヒー飲料のパックを袋から取り出した。なかなか開かない口を、いじくりまわしつつ言う。
「せめて、おまえの中身がなんだか分かれば、こっちにもやりようがあるんだけど」
「そんな妙《みょう》なものが僕の中に?」
悠二はこうして日常にいると、外《はず》れた世界のことを、つい忘れそうになる。
自分が、故人の代《だい》替《たい》物《ぶつ》トーチ≠ナあり、
同時に紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ宝具を身の内に宿した蔵《くら》ミステス≠ナあることを。
あるいは、無意識に忘れようとしているのかもしれない。
それを許さないように、外れた世界の証《あかし》・シャナが、確たる存在感を持って目の前にいる。
「うん、なんだか厄《やっ》介《かい》な物っぽいのよね、アラストール?」
アラストールが珍しく、返答を遅らせた。
「……うむ。その中身を確かめるには、まずもって貴様を消さねばならん」
パックの口と格闘するシャナはそれに気付かず、ただその内容を補足する。
「でも、宝具の質が分からないのに開けたら、何が起こるか分からないの。前に、それでひどい目にあったこともあるし」
「やれやれ、僕の安全は、その程度のものなのか」
「うん、その程度のもの」
シャナはわざと意地悪く、事実を突きつけるつもりで言った。
しかし悠《ゆう》二《じ》は、これに平然と答えた。答えることが、できるようになっていた。
「ふうん、そうか」
「……おまえ、最初みたいに、生き死にをぐちゃぐちゃ言わなくなったわね」
「ん? いや、今でも自分が少しずつ消滅に近付いていることは、怖いと思ってるよ。でも、それを言っても仕《し》様《よう》がないし」
「……」
シャナは悠二の平然とし過ぎた様子が、なぜか癇《かん》にさわった。
このミステス≠ヘ道具。なら何をどう思っていようと構わないはず。それがなぜ癇にさわるのか。何かを期待しているのか。それを裏切られるのが嫌《いや》なのか。
ふと湧《わ》いたそれらの思いと、そんなことを考える自分への言い知れない腹立ちとが、胸の中で渦《うず》巻く。思わず、責めるような声を出していた。
「諦《あきら》めたの?」
これにも、落ち着いた答えが返ってきた、
「さあ。実はよく分からない。でも、あんたやアラストールがいてくれるのは、すごくありがたくて嬉《うれ》しい……それだけは、はっきりと分かるよ」
「……?」
意外すぎる言葉に、シャナは不可解なものを見るような目で、悠二を見た。
悠二の顔にはまた、静かな微笑がある。
「全《すべ》てを分かってもらえる相手がいるってのは、それだけで結構支えになるものさ」
「私たちが支えですって?」
シャナはせせら笑って返した。
何かを期待されている、それは自分がさっき思ったことと、どこか同じ……互いに分を越えた匂《にお》いを持っていると気付いて、急に突き放したくなったのだ。
「おまえに終わりを運んできた者たちを、支えにするって言うの?」
「本当のことを教えてくれただけだろ。あんたが僕を殺したわけじゃない」
悠二は、これだけは真剣に否定した。
「ふん、同じことでしょ」
「いや、違うね」
「同じよ」
「違うね」
「同じ」
「違う」
言い合う内に、二人は真正面から睨《にら》み合っていた。
「……」
「……」
静かな、しかし火花の散りそうなこの対決に、遠慮がちに、小さく、声がかけられた。
「……あ、あの……」
二人が振り向いた先に、控えめな印象の少女が、真っ赤になった顔を伏せて立っていた。
ほんの少し前にトラック上で倒れ、シャナが(結果的に)助けたクラスメート、吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》だった。保健室から戻ってきたらしい。顔色もそれほど悪くはなさそうだった。
「吉田さん?」
意外な人物の登場に、悠《ゆう》二《じ》は少し驚く。
シャナは、存在の残《ざん》滓《し》からその少女の記憶を拾い上げる。平《ひら》井《い》ゆかりの友人だったらしい。さして親しくはなかったようだが。
「その、ゆ、ゆかりちゃん、さっき、体育の時間……あ、ありがとう」
吉田の声は小さすぎ、しかも途切れ途切れなので、聞こえにくいことこの上ない。
シャナは、まだ機嫌を直していない。悠二との言い合いを邪《じゃ》魔《ま》された事のやっかみも手伝って、ことさら無情に訊《き》く。
「なんか用?」
「ば、馬鹿、お礼言ってるんだから、どういたしまして、くらい言えよ」
「なにが馬鹿よ」
シャナは、他《ほか》でもない悠二の助け船に、むっとなった。吉田とは正反対の、強い声で言う。
「私は、私の邪魔する奴《やつ》を片付けただけよ」
「あ〜、まあ、そうなんだけど」
この少女の容《よう》赦《しゃ》のなさを悠二は分かっているつもりだが、それでも今の物言いが、いつも以上にキツくなっているのが分かる。
そうでなくとも、吉田は気が弱い。今も、シャナの言葉に小さくなっている。
ほとんど自分との言い合いのとばっちりを受けた形の彼女が、悠二は気の毒になった。どう慰《なぐさ》めようか、と思って彼女を見れば、その前にそろえた手の中に、片方の掌《てのひら》でも隠せるほどに小さな弁当箱がある。
「あ、弁当……一緒に食べる?」
「え、は、はい……!」
言われた吉田が、パッと顔をほころばせた。野《の》辺《べ》の小花に雲間の日が当たったような、ふと綺《き》麗《れい》なものを見つけさせられたような気持ちにさせられる、そんな微笑《ほほえ》みだった。
悠二は、この微笑みに、ほっとさせられた。
(シャナとはえらい違いだな)
フレイムヘイズたるシャナの(馬鹿にするとき以外の)笑みは、まさしく炎《ほのお》のような、強烈に自分から輝く力そのもの……
(って、なに比べてんだ、僕は)
意味も無く照れた悠《ゆう》二《じ》は、誤《ご》魔《ま》化《か》すように、吉《よし》田《だ》のために空《あ》いた席を寄せてやる。
「シャ……ゴホン、平《ひら》井《い》さん、なにが困るわけでもなし、一緒に食べて話すくらいいいだろ」
実は悠二は、同じクラスになってから一月になるが、彼女とほとんど話をしたことがない。さっきの騒《そう》動《どう》を含めて、二、三回あるかないかだ。いつも自分の席でおとなしく本を読んでいる子、という程度の印象しかない。
それでも、女の子と仲良くするというのは悪い気分ではない。
(吉田さんって、よく見れば可《か》愛《わい》いしね)
悠二は少年らしい健全かつ邪《よこしま》な精神の元、頬《ほお》を緩《ゆる》ませる。
シャナの方は、
(さっきのことをきっかけに、存在の力≠ェ薄れて遠ざかってた平井ゆかりと、また仲良くしようとしてるのかな)
と、内心で冷静に判断し、そのついでのようにぶっきらぼうな声で返す。
「好きにすれば?」
もう少し他《ほか》に言葉があるだろ、と言う悠《ゆう》二《じ》のぼやき並みに小さく、吉《よし》田《だ》が答える。
「あ、ありがとう……」
そこに、
「お〜い……」
と聞き慣れた声がかかる。
吉田の後ろの方で、声をかけた池《いけ》を始め、佐《さ》藤《とう》や田《た》中《なか》が、恐る恐る手をあげている。今まで事態を静観していたらしい。
悠二は苦笑して手招きした。
この三人が加わり、にわかに机を寄せた昼食会が始まる。
田中が大声で話を始め、佐藤がまぜっかえし、池が締めて悠二が補足する。吉田はときどき小さく笑って、しかし会話には加わらず、弁当をつつく。
シャナはそんな彼らをよそに、自分の食料袋から、あんまん、饅頭《まんじゅう》、チョコレートなどを取り出して黙々と食べ続けている。しばらくして悠二が会話から外《はず》れると、その袖《そで》を引っ張って顔を寄せ、文句をつけた。
「アラストールと話しにくい」
「いいだろ別に。たまには普通の人と接してみろよ」
「なんでそんな余計なこと」
「いいから。さっき取り囲まれたときだって、まんざらでもなかっただろ?」
「わけわかんなかっただけよ」
「そういうところを直すためにも、やっぱ接しとくべきだって」
「直す? どういう意味よ」
そうやって顔を寄せてひそひそ言い合う二人を見て、吉田が初めて口を開いた。
「……二人とも、な、仲、いいんですね」
「そ、そんなことないよ!」
その窺《うかが》うような視線と質問に、手を振って必死に否定する悠二だが、池たちは微《び》妙《みょう》な羨《せん》望《ぼう》をこめて、口々に言う。
「いや、いいぞ」
「うんうん、いいな」
「いいって、絶対」
昨日よりも早く訪れた放課後。
悠二は、池たちに寄り道を誘われない内にと、シャナとともに脱《だっ》兎《と》の如き勢いで教室を出て行った。
その駆《か》け去る二人の後ろ姿を、教室の戸から顔を出した田《た》中《なか》と佐《さ》藤《とう》が、呆《あき》れ顔で見送る。
「うむむ、いきなり二人して逃げ出すとは。さてはデートか? 許せん」
「許す許さんはともかく、あの平《ひら》井《い》ちゃんと、ね。やっぱマニアックな趣味だよなあ」
言って頷《うなず》き合う二人を寄り道に誘おうと、池《いけ》が席を立つ。と、その前で、吉《よし》田《だ》がきょろきょろと、あたりを見回している。
「吉田さん、平井さんなら坂《さか》井《い》と一緒に帰ったよ」
「え……ゆかりちゃんと……?」
池は、会話の主語が、微《び》妙《みょう》に食い違ったことに気が付いた。一瞬、宙を仰《あお》いでから、吉田に提案する。
「あのさ、吉田さん……」
その頃、学校から離れた悠《ゆう》二《じ》とシャナは、学校前から御《み》崎《さき》大《おお》橋《はし》へと続く、大通りの雑《ざっ》踏《とう》に混じっていた。
日はまだ高く、夕方までは間がある。
「こりゃ、絶対に池たちは誤解してるだろうな」
悠二は、傍《かたわ》らを大《おお》股《また》に歩くシャナに合わせて、やや早足になっている。
「なにを?」
「いや、こっちの話」
「?」
人のいない場所に、といいながら何《な》故《ぜ》かシャナの足は市街地へと向けられていた。
二人は、学校のある住宅地と、その対岸にビルを林立させる市街地を繋《つな》ぐ、御崎大橋へと差し掛かる。
悠二は、最初の夜のように、トーチのあるなしを見渡していた。
両端《りょうたん》に広い歩道のつけられた大鉄橋には、やはり胸に灯《あかり》を抱くトーチが幾人も行き来している。最初意識していたときよりも簡単に、はっきりと見えた。感覚を研《と》ぎ澄ますコツが掴《つか》めてきたのか、灯自体は小さいのに、距離があってもそれと分かる。
そんな気の滅入る眺《なが》めの中、悠二は口を開く。
「そういえば、一つ、訊《き》きたかったんだけど」
「なに」
「こっちで存在の力≠喰ってるのは、世界に歪《ゆが》みなんか出ても構わないっていう、乱暴な連中だったよな。なんで几《き》帳面《ちょうめん》に、喰い滓《かす》をトーチに変えたりするんだ?」
歩く二人の傍らをまた一人、自分たちと同じ年頃の女の子が通り過ぎる。かなり薄い、消えそうな灯を胸の内に宿して。
「……トーチは、世界の空白が閉じる衝撃《しょうげき》を和らげるためのもの、だっけ? そんな回りくどいことしなくても、とにかくたくさん喰って力を蓄えれば、フレイムヘイズなんか気にしなくてもいいんじゃ?」
シャナは首を振った。
「私たちフレイムヘイズは、世界の歪《ゆが》みとか、力を自在≠ノ振るうのを感じて、徒《ともがら》≠追うの。無《む》闇《やみ》に喰って、世界のバランスを大きく崩《くず》すような真似をする奴《やつ》がいたら、世界中からフレイムヘイズが群がり寄ってきて、そいつを狩り出しにかかるわ」
その胸元から、アラストールが続ける。雑《ざっ》踏《とう》に紛《まぎ》れているので、人の注意は引かない。
「フリアグネほどの王≠ニもなれば、もちろん並みの徒≠ニは比べ物にならない力を持っているが、あいにくと我を始め、フレイムヘイズに力を与えている徒=Aその全員が王≠ネのだ。戦えば、まず無事では済まん。単純な力の強さでは推し量れない者たちもいる」
再び、シャナ。
「乱《らん》獲《かく》者たちは普通、そんな厄《やっ》介《かい》でなんの得にもならないフレイムヘイズたちと戦うのを、できるだけ避けるの。そのためなら、トーチを作る手間くらいは取るでしょうね」
「ふうん、なるほど……それで、あのフリアグネをやっつけるとして、どうやって見つけるんだ? あいつ、有名なんだったら、他《ほか》のフレイムヘイズと情報を交換して、手の内や狙《ねら》いを割り出すとかしてみたら……」
「ああ、それは無理」
シャナは悠《ゆう》二《じ》の提案を簡単に却《きゃっ》下《か》した。ひょい、と鉄橋の手すりの上に飛び乗る。
「わっ、危な! ……くないのか……それで、なんだって?」
周囲から向けられる好《こう》奇《き》の視線の中、シャナは片方に鞄《かばん》を持った手を横一杯に広げて、軽《かる》業《わざ》のように平然と歩く。
「無理って言ったの。偶然に出会う以外で、連絡なんか取り合ったことなんかないんだもの」
「はあ?」
細い手すりの上で踏《ふ》まれるステップには、まるで踊っているような躍動感がある。
その弾《はず》む毎《ごと》に慌《あわ》てる悠二の様子がなんだか面白くて、シャナは、わざと大きく跳《と》んだりしてみる。
「っと……フレイムヘイズはそれぞれの事情と理由で戦ってるし、自分の力だけを頼むような奴《やつ》ばかりだから、群れることには向いてないの」
その弾む様子に寄せられる好奇の目線に真っ赤になっていた悠二は、うん、と頷《うなず》く。
「それはよく分かる」
「なんか言った?」
「いやなんでも」
「……とにかく、世界をうろついていれば、徒≠フ喰い滓《かす》であるトーチは自然と目に入るものなの。灯《あかり》の燃え具合で新しいか古いかは分かるし、あとはその付近を見張っていればいい」
「意外にアバウトなんだなあ……もっとはっきりと相手を捉《とら》えられないのか?」
「だいたいの感覚で、いるらしい、ってことは分かるし、近くに来たり封《ふう》絶《ぜつ》したりすれば、かなり細かく場所を特定できる。おまえを最初に見つけたときも、そう。急いで飛び込んだら、間抜けな顔をしたトーチがあわあわ言ってて、思わず笑っちゃったわ」
いかにも小《こ》馬鹿にした様子で言うシャナに、悠《ゆう》二《じ》はしぶとく反撃する。
「……スカート」
目線ギリギリを、ひらひら上下に揺《ゆ》れていたその奥から蹴《け》りが飛んできて、悠二の視界が暗転する。鼻を押さえる内に気が付けば、シャナは手すりから下りて、横に立っている。
「連中が喰うために封絶すれば、そこに割って入る。向こうが噛《か》み付いて来たら、それを倒す。簡単なもんよ」
「つまり、フレイムヘイズは個々人で、いきあたりばったりに戦ってるのか」
「そんなとこ。紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠フ理屈で言えば、この世に潜《もぐ》り込んで喰うのも勝手なら、それを追って討《う》ち滅ぼすのも勝手ってこと」
アラストールが、むっとした声で言う。
「勝手などと気軽に言うな。我がこの世に渡り来て、愚かとはいえ同胞を討ち滅ぼすような真《ま》似《ね》をしているのは、両界のバランスを憂える大《たい》儀《ぎ》あってのことだ」
「はいはい、ちゃんと分かってるってば」
シャナは、これには気持ちよく笑って答えた。アラストールに対するときは、こういう可《か》愛《わい》げのある顔もするんだけどなあ、と鼻をさする悠二は不公平なものを感じる。
「でも、最初来たときから思ってたんだけど……この街って妙《みょう》なのよね」
シャナが目の前、のしかかるようにそびえる市街のビル群を見上げる。
幾つかの路線を連絡し、大きなバスターミナルも含む御《み》崎《さき》市駅の駅ビルを中心に、市役所やオフィス街、デパート群、地下を含む繁華街などが二人の前に連なり建っている。
悠二も見上げて訊《き》く。
「妙って、なにが」
言われれば、なんでもそう思えそうだった。
今まで気にかけたことも無かった、当たり前の光景。しかしその薄皮の向こうには、どこまでも深く遠く広がっている、別の、外《はず》れた世界があるのではないか。
「あのフリアグネ一人が普通に喰った結果としては、トーチの数が多すぎるのよ」
シャナは、悠二が自分たちの参考になるような意見を、思わぬ観点から出すかもしれない、という期待を込めて言った。自分の使命に関することだけに、この期待からは学校でのような苛《いら》立《だ》ちは生まれない。
「燃え方も、昨日喰われたような新しいのから、消える寸前の古い奴《やつ》まで、はっきり言って多過ぎだわ。この街に定住でもしていなければ、ここまでにはならないはずなんだけど」
「……それが?」
その頼りない答えに、シャナはがっかりした。
「察しが悪いわね」
やはり勝手に期待して勝手に失望して……その自分らしくない、他人を気にかけているという事実に、シャナは今さらながら、むかっ腹を立てた。それが自分の勝手だと分かってはいても、声に不機嫌の色が落ちるのは隠せない。
「力を、喰って使って遊ぶのなら、うろつけばいいわけだし、普通徒≠ヘそうするの。これだけの数のトーチが、少しずつにでも一つ所で消えたら、世界の歪《ゆが》みも大きなものになる。フリアグネは、フレイムヘイズに発見されるようリスクをわざわざ負っている……ということは、この街に何かあるか、この街で何かをしようとしているのかのどちらかってこと」
「なにかって、なに」
もう少し他《ほか》になにか言えないの、と思いつつ、ぶっきらぼうに返す。
「そんなの、分かるわけないじゃない。あのフリアグネって奴《やつ》、たくさん宝《ほう》具《ぐ》を持ってるそうだから、それが関係してるんでしょ」
なぜかいきなりシャナが不機嫌になったので、悠《ゆう》二《じ》は最低限のことだけを訊《き》いた。
「……で、結局どうするつもりなんだ?」
「日暮れ前まではここらをうろついて、それから先はおまえの家で待ちかまえる、ってとこ」
「なんだ、やっぱり向こうのアクション待ちってことか」
悠二も、無自覚に鋭いことを言う。
シャナは、さらにむっときて、黙った。
悠二はまたビル街を、人捜しにも物探しも向かない場所を眺《なが》めた。当たり前の光景、その薄皮の向こう、外れた世界のことを想像する。
「……こうやってる間にも、誰かが喰われていたり、消えて忘れられたりしてるのかな」
いまさらの話題を、シャナは簡単に肯定した。
「そうよ。世界中で、昔からずっと」
理《り》不《ふ》尽《じん》な仕返しのつもりで言ってみる。
「これがおまえの知った『本当のこと』……怖い?」
二人の傍《かたわ》らを、また、消えかけの灯《あかり》を宿した女性が通り過ぎていった。二十過ぎくらいの、赤いスーツを着た美人。もっとも輝いて過ごせる日々の中にあるはずの人。
でも、もう、すぐにいなくなる。
これが、本当のこと。
自分の、避け得ない未来の姿。
悠二はそのことを思い、しかしなぜか静かな気持ちで答える。
「言ったろ。もちろん、怖いよ。でも、そうだな……どこか、すっとしたんだ」
その不思議な答えに、思わずシャナは、今までの不機嫌を忘れて、悠二の顔を見上げていた。
悠《ゆう》二《じ》が気付いて見返し、少し笑う。自然な、力の抜けた笑み。
シャナは慌《あわ》てて視線を逸《そ》らした。ずんずんと歩調も荒く歩き出す。
「……行くわよ!」
「どこへ?」
「分かるわけないでしょ!」
悠二は全く、わけが分からない。
「……あのさ、さっきから、なに怒ってるんだ?」
「怒ってない!」
言えるわけがなかった。
その顔は、少し良かった、などと。
そういう事を考えてしまった自分に、困ったり戸《と》惑《まど》ったり……とにかく怒って見せる。それ以外にやりようを知らない、接し方が分からない。
「やっぱり怒ってるじゃないか……変な奴《やつ》だな……?」
「怒ってないったら怒ってない!!」
「はいはい……」
首を傾《かし》げる悠二を引き連れて、シャナは大《おお》股《また》で雑《ざっ》踏《とう》を貫いていった。
人通り激しい御《み》崎《さき》大《おお》橋《はし》。
悠二とシャナのいる、橋の袂《たもと》あたりから少し離れた支柱の影で、少年少女が四人して固まって、二人を観察している。
「おっ、やっと歩き出した」
先頭にいるのは、眼鏡《めがね》をターゲット・スコープのように煌《きら》めかせる池《いけ》である。
その背後から、吉《よし》田《だ》がこっそりと不安気な顔を覗《のぞ》かせている。
「で、でも、いいんですか、つけたりして……?」
その遠慮がちな声に、佐《さ》藤《とう》が軽く笑って答える。こっちは全く隠れていない。
「気にすることないって、吉田ちゃん。別に邪《じゃ》魔《ま》してるわけじゃないんだしさ」
「は、はあ……」
「向こう楽しい、俺たち無害、つまりオールオッケーってこと」
馴《な》れ馴れしい口調でも、不思議と嫌《いや》みにならないのが、この美のつく少年の特徴である。
その佐藤と吉田の後ろに、そびえるように田《た》中《なか》が立つ。大作りな顔に好奇心を剥《む》き出しにして叫ぶ。
「そうとも! ここは我々としても、後学のために坂《さか》井《い》と平《ひら》井《い》さんの心温まる交流の一部始終を見届けねばならん! 行きましょう、吉田さん!」
「は、はい」
握《にぎ》り拳《こぶし》と一緒の力説に、吉《よし》田《だ》は勢いで頷《うなず》かされる。
「おい、あんまり騒いで見つかるなよ。坂《さか》井《い》はともかく、平《ひら》井《い》さんが恐……っと、す、すいません」
池《いけ》が、田《た》中《なか》に顔を向けた拍子に、赤いスーツを着た若い女性に肩をぶつけた、
気がした。
「ん、どした、池」
佐《さ》藤《とう》が不思議そうに訊《き》いた。
池は、ふと振り返る。肩をぶつけたはずの……何だったか?
「え? いや」
池自身も、首を傾《かし》げる。
そんな彼の後ろから、ためらいがちに、吉田が小さく声をかけた。
「あの、二人、行っちゃう……」
「お、急げ急げ! 決定的瞬間を見逃しちまうぞ」
「なにを期待してるんだ?」
田中の叫びに呆《あき》れ声を返しつつ、池は二人の後を追う。吉田らも続いた。
そこで消えた一つのトーチには、誰も気を払わなかった。
そこで途切れた一人の女性の存在に、誰も。
世界は変わらず動いている。
そんな世界を見下す、あやふやな白い姿が、とある高いビルの屋上の緑《ふち》にある。
狩《かり》人《うど》<tリアグネである。
その美《び》麗《れい》の容《よう》貌《ぼう》に、困惑の色が濃い。
「久しぶりのミステス≠ェ、まさかフレイムヘイズと一緒に現れるとはね……しかもそうなることで、私は戦わねばならなくなった[#「戦わねばならなくなった」に傍点]……因《いん》果《が》の糸の、なんという複雑さだろう」
その足下に、粗《そ》末《まつ》な人形・マリアンヌが、ビル風に毛糸の髪をなびかせて付き従っている。
「ご主人様。あのフレイムヘイズ、仮にも天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》≠フ契約者です。妙《みょう》な底力でかき回されるかもしれません、ご用心を」
フリアグネは、それに目線だけを流して、急に穏やかな顔になった。韻《いん》の狂った声で、優しく言う。
「大丈夫だよ、マリアンヌ。私は、フレイムヘイズ相手なら絶対に負けない[#「フレイムヘイズ相手なら絶対に負けない」に傍点]……そうだろう?」
「はい。しかし、せっかく懐《ふところ》に飛び込んできたミステス=A戦う前になんとか手に人れておきたいものです」
主に似て、マリアンヌも宝《ほう》具《ぐ》への執着《しゅうちゃく》が強い。
フリアグネの顔が、物憂げに曇る。
「そうだね……連中は、こっちから手を出しさえしなければ、なにもできないはずだから、まだ時間はあるだろう。計画の邪《じゃ》魔《ま》をされないよう、狩りの準備をしよう」
す、と手を差し伸ばす。
「そうとも、今さら邪魔などさせるものか……君を、君という存在を、私は作って見せるよ、私のマリアンヌ」
「ご主人様……」
マリアンヌも、ふわりと浮いてその手を取る。
無数に繰り返してきた、舞《ぶ》踏《とう》のような仕《し》草《ぐさ》。
フリアグネは、この世で作り、そして恋した人形を胸に抱く。
「君を、燐《りん》子《ね》≠ネどという道具ではない、この世で生きてゆける、一つの存在にしてみせる」
「すでに十分な意志≠ヘ頂きました……まだ、足りないのですか?」
これも、何度となく繰り返されてきた問いと、答え。
「ああ、足りない。今の君は……燐子≠ニいう存在は、とても不安定だ。存在の力≠集めることはできても自分に足すことはできず、私たち徒《ともがら》≠ノ力を供給されなければ三日ともたずに消えてしまう……あまりに、儚《はかな》すぎる存在だ」
その心中を表すように、声の音律はふらふらと乱れている。
マリアンヌは逆に、確信を声にする。
「私は、それがご主人様との、分かち難い絆《きずな》であると信じています」
「嬉《うれ》しいよ、マリアンヌ。だけど、私は君のためにできること、全《すべ》てを行う……それこそが、今、私がこの世に存在している、全ての理由なんだ」
誓いつつ、フリアグネは抱く腕に力を込める。
「ようやく、君のために必要なだけの力を得られる目《め》途《ど》がついたんだ。今さら邪《じゃ》魔《ま》など、させはしない……狩ろう、これまでのフレイムヘイズどもと同じように、狩ってしまおう」
いつしか顔には満面の笑みが浮かんでいたが、またすぐ、懇《こん》願《がん》するような表情、口調になる。
「そうしよう、マリアンヌ、そうするべきだよね?」
抱かれた人形・マリアンヌの顔は、変わらない。
声だけが、至《し》情《じょう》を込めて紡《つむ》がれる。
「はい、その通りです、ご主人様」
ぱっ、と子供のように顔を明るくして、フリアグネは高らかに、調子っ外《ぱず》れに謳《うた》う。
「歓迎の準備をしよう、マリアンヌ! 可《か》愛《わい》い子らを集めて、盛大におもてなししよう!!」
「はい、ご主人様!」
フリアグネは空《あ》いた手を大きく振って、愛する人形ともども、薄白い火花となって散った。
その火花も、すぐに陽光に溶け、風に紛《まぎ》れ、消える
夕暮れに少し間を残す、白けた昼。
その気だるい空気の中、悠《ゆう》二《じ》とシャナは、ようやくの家路についていた。
「つ、疲れた……本当に歩き続けさせるんだもんな……」
悠二はほとんど足を引きずるようにして歩いていた。
結局、何の成果もなかった。そもそもが、手がかりはなし、あるのは目的だけ、相手の出方を待つ、という探索だ。当然と言えば当然の結果ではあった。
「うるさいうるさいうるさい。最初に言った通りのことをしただけでしょ、後で文句言わない」
言うシャナの足取りは、当然と言うか、全く変わりがない。とりあえず、機嫌がなおっただけでもましとすべきか、と悠二はポジティブにものを考えてみたりする。
「ふう……ま、帰って一休みできるからいいか」
「な〜に、お気楽なこと言ってんの。夕方にはまた一戦あるかもしれないんだから、警戒は続けるわよ」
シャナは悠二の希望をさっさと砕《くだ》くが、これは機嫌の問題ではなく、単にそういう性格なだけだ。
悠二は、そこまで彼女を理解できている自分に、思わず苦笑した。
「はいはい……ん?」
信号待ちで足を止めた悠二は、その反対側の人込みに、たまたまトーチを五人ほど見つけた。
「なに?」
「いや……昼に言ってただろ。トーチが古いとか新しいとか……それで今日は、歩くついでに注意して見るようにしてたんだけど、たしかによく見れば分かるもんだな、って」
悠二の目には、その五人のトーチの胸に点《とも》る灯《あかり》の色や濃《こ》さの違いが、ありありと映っていた。
真中の、杖《つえ》をついた老人の灯は、まだ新しい。
端《はし》の、親と手を繋《つな》ぐ男の子は、もういくらももたないだろう。
なんとも、道理から外《はず》れた、不条理な世界だった。
「なんだ、そんなこと」
シャナは笑い飛ばした。
悠二も、この外れた世界に引き込まれる気分を吹き飛ばそうと、あえて軽口で返した。
「そう、そんなこと……でも、やっぱり気分のいいもんじゃないな。人ごとに不気味に鼓《こ》動《どう》してるなんて、まるで心電図を覗《のぞ》き見してるみたいで落ち着かないよ」
「……鼓動? なんのこと」
シャナが怪《け》訝《げん》な顔をして振り向いた。
「え? 灯《あかり》が、揺《ゆ》れたり膨《ふく》れたりしてるだろ。ほら、古そうな奴《やつ》は遅く、新しそうな奴は速く……見えないのか?」
「うん、見えない。アラストール、あなたは?」
「我にも見えん」
シャナはじろじろと悠《ゆう》二《じ》を見る。
「おまえって、本当に変なミステス≠ヒ。なに入れたら、そんな力が出るの?」
「こっちこそ訊《き》きたいよ。見えるものは見えるんだから仕《し》様《よう》がないだろ」
信号が青になって、人が流れ始める。
二人も歩き出した。
「でも、アラストールにも見えないのに……それ、本当?」
シャナの疑わしげな様子に、悠二は少し傷つく。
「ちゃんと見えてるって。ほら、前の新しいトーチの中、速く動いてるだろ」
「だから見えないんだってば。新しいってのは分かるけど」
不意に、アラストールが言う。
「全《すべ》て、と言ったな?」
この紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ノは、きっちりしっかり、答えさせられる貫《かん》禄《ろく》がある。
悠二は改めて周りを見回し、確認する。
大通り沿いの歩道には、一巡り見回すだけで、二、三十はトーチが見える。それぞれ、胸の内に抱く灯の濃《こ》さや燃え具合に応じて、元気だったり弱々しかったり……。
自分はどうか、と確認すれば、それは速くも遅くもない。
規則正しい鼓《こ》動《どう》を、深く、静かに行っている。
悠二は求められた問いに、自分の待つ妙《みょう》な力への責任を待って答えた。
「うん、全部、鼓動してる」
「トーチの多さと関係あるのかな」
シャナの疑問に、いつもならすぐに返ってくる答えがない。
「……アラストール?」
やはり答えはない。
シャナも悠二も、彼の答えを待ち、ただ黙って歩く。
次の信号に差し掛かる頃になってようやく、アラストールは口を開いた。
「かなり昔、西の果てに、自分の喰ったトーチにとある仕掛け[#「とある仕掛け」に傍点]をして、とんでもない世界の歪《ゆが》みを生んだ王≠ェいた」
いきなりの昔話に、二人は面食らった。
「真《ま》名《な》を、棺《ひつぎ》の織《おり》手《て》≠ニいったその王≠ヘ、我らがフレイムヘイズを大々的に生み出す契機ともなった事件を引き起こした」
シャナが、訊く。
「……どんな事件?」
「『都《みやこ》喰《く》らい』」
その、たった一言の持つ、凄《すさ》まじく不吉な響きに、悠《ゆう》二《じ》は震え上がった。
目の前で、信号が赤に変わる。
シャナはスーパーに入っても、目の前の生鮮品には目もくれない。通常の買い物の順路を無視して、その中心辺りにあるお菓子売り場に向かう。
「……」
気の抜けた顔の悠二が、その後に続いている。
赤信号になった歩道の横が、たまたまスーパーの入りロで、シャナが、戻るついでと夜食を買いに寄った。それだけのことなのだが、
(にしても、スーパーで敵の陰謀《いんぼう》云々について話をするかな、普通……)
震え上がった自分が馬鹿みたいに思えてくる悠二である。
アラストールは、このシャナの行動を不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》とは受け取らないらしい。変わらず深刻な口調で、話を続ける。
「その棺《ひつぎ》の織《おり》手《て》≠ヘ、己の喰ったトーチに鍵《かぎ》の糸≠ニいう仕掛けを編み込んでいた。彼奴《きゃつ》の指示一つで、代《だい》替《たい》物《ぶつ》の形《けい》骸《がい》を失って分解し、元の存在の力≠ノ戻るという仕掛けだ」
「それが、なんになったの?」
買い物カゴを下げたシャナも、別に不真面目なつもりはない……というか、彼女がこういうことでふざけることなど、まずなさそうだが。
「彼奴は、潜《ひそ》んだ都の人口の一割を喰らうと、仕掛けを発動させた。トーチは一《いっ》斉《せい》に代替物としての機能を失って元の力へと戻り、偽《ぎ》装《そう》されていた繋がりを突然大量に失ったその都には、人を物を巻き込む、巨大な世界の揺《ゆ》らぎが生じた」
シャナは棚から袋菓子を取りながら、そのついでのように悠二を見る。
「……おまえ、ついてきてる?」
「まあ、なんとか。要するに、人一人いなくなることを、ゆっくり存在惑をなくしてくことで
破《は》綻《たん》させないようにしていたのがトーチ、と」
悠二は確認するようにシャナを見、その頷くのを受けて続ける。
「なのに、それがいきなり、たくさんいなくなったら、世界が矛盾だらけで無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》になるっ
てこと……かな?」
「よろしい」
シャナはもう一度頷いて、次の棚に向かった。
今のは誉《ほ》めてくれたのかな、悠《ゆう》二《じ》はわずかな自己満足にひたる。
「アラストール、それで?」
「うむ、後は簡単だ。その巨大な揺《ゆ》らぎは、トーチの分解に触発され、雪崩《なだれ》を打つように都一つ、丸ごとが莫《ばく》大《だい》かつ高純度な存在の力≠ヨと変じた。棺《ひつぎ》の織《おり》手《て》≠ヘ、本来我らが喰らうに適さないものも全《すべ》て、糧《かて》とする法を編み出したのだ」
シャナは話題への緊張感もなく、冷蔵棚から子供用の甘いコーヒー飲料を取りつつ言う。
「それが『都《みやこ》喰《く》らい』……でも、その棺の織手≠ヘ討滅できたんでしょ?」
「多くの王≠ニフレイムヘイズたちによる、長い戦いを経て、ようやくな。なにしろ、棺の織手≠ヘ都市一つ分の力を喰らい、しかもそれを自在≠ノ操れるだけの……当時の乱《らん》獲《かく》者の中では最強の王≠セったのだ」
悠二は、にわかに危機感を感じ始めていた。
「……それで、その大昔のとんでもない秘法が今、ここで進められてるっていうのか?」
「一つ所におけるトーチの異常な多さと、その中の不可思議な仕掛け……状況があのときと酷《こく》似《じ》している。フリアグネが、あの棺の織手≠フ秘法を、そう簡単に使えるとも思えぬが……その可能性がわずかでもあるならば、フレイムヘイズとしてはなんとしても漬《つぶ》さねばならん」
可能性と言いつつも、アラストールはほとんど確信しているようだった。
「そうか、そうだよな……」
実は、この話を聞くまで、悠二はフリアグネ一党を、『たちの悪い通り魔』程度にしか思っていなかった。身近なようで、しかし実際には襲われたのは自分だけ。自分が抱え込んでいれば周りにその脅威は及ばない。その内シャナがやっつけてくれる。
そんな錯覚[#「錯覚」に傍点]を持っていた。
しかしもし、連中が本当に『都喰らい』の成就を企てているのなら、下《へ》手《た》をすればすぐにでも、皆が皆、トーチの一《いっ》斉《せい》崩壊に巻き込まれて、この御《み》崎《さき》市ごと喰われてしまうことになる。
自分どころか、母も友人も、暮らしていた街さえ、消滅してしまう。
悠二は初めて、フリアグネ一党への敵意を覚えていた。
恐怖ではない、敵意を。
シャナはそんな悠二をよそに、気楽そうに言う。
「でも、見た限りじゃ、トーチの数もまだ一割には程遠いわね。潰《つぶ》すなら、早い内がいいんだろうけど、見つけるのは難しいし」
「本当に、向こうのアクションを待つしかないのか?」
急に意気込んで言う悠二に、シャナは意外そうな顔をした。
「ん〜、とりあえず、こっちにも餌《えさ》はあるけど」
「餌?」
「おまえよ、ミステス=Bなんせあいつは、狩《かり》人《うど》≠セもの。せっかく目の前にぶら下がってるお宝を、みすみす『都《みやこ》喰《く》らい』に巻き込んだりしないでしょ」
「そうか、そういうことでなら、僕でも何かの役には立てるな」
餌《えさ》扱いにも関わらず、妙《みょう》に意欲的になっている悠《ゆう》二《じ》を、シャナは不審気に見た。
(……? ま、いいか)
いつしか買い物カゴを一杯にしていたシャナは、最後にレジ近くの棚でパンを選ぶ。やはりその視線を釘付けにしているのは、メロンパンだった。さっきまでの話題など頭から消えたかのように、何種類もあるメロンパンを、慎重《しんちょう》に吟味する。
悠二が後ろから覗《のぞ》き込んで、一つ、値段の高いものを指差す。
「これは? 本物のメロン果汁入りとか書いてるぞ」
「駄《だ》目《め》よ」
言下に否定された。
「なんでさ。値段なんかどうせ関係ないんだろ?」
シャナは、買い物カゴと鞄《かばん》を持った両の手を器用に腰に当てて、胸を張る。
「メロンパンってのは、網目の焼型が付いてるからこそのメロンなの! 本物のメロン味なんて、ナンセンスである以上に、邪《じゃ》道《どう》だわ!」
突然の大声と主張に、周囲の買い物客たちからも、おお、と声が漏《も》れる。
「はあ」
と悠二も、その堂々たるポリシーの表明に、同意するしかない。
結局、厳選の作業には、それから十分の時を要した。
二人はスーパーを出た後も、トーチ内の鼓《こ》動《どう》を観察するため、ゆるゆると歩いてきたので、家に帰り着いた頃には、すでに黄《たそ》昏《がれ》の色は深くなっていた。
今にも襲撃を受けそうな微《び》妙《みょう》な緊迫のまま、悠二たちは家の前に立つ。
「……」
しかし悠二は家に人らない。門の脇から狭い庭に回って、塀《へい》際《ぎわ》の茂みの中にしゃがみこむ。
シャナが不思議そうに訊《き》く。
「なにしてんの?」
悠二は、じとっとした視線をシャナに向ける。なるほど、たしかに彼女はこういうことを考えなさそうではある。
「母さんが一緒にいるようなときに、昨日みたいな騒《そう》動《どう》があったらまずいだろ。せめて日が沈むまでは、ここに隠れとくんだよ」
「ふうん、家族思いなのね」
「普通はそうだろ」
悠《ゆう》二《じ》は言ってから、何の気なしに思う。
シャナは、元この世の人間だと言っていたが、フレイムヘイズになる前は一体どこでどうしていたんだろうか。彼女にも家族がいたんだろうか。
そう考える間も、シャナは無表情に固まっていた。やがて、簡単に答える。
「……まあね」
シャナも悠二の側にしゃがんだ。スーパーの袋から、キャンディの袋を取り出す。
それを見た悠二が、やることもないので、手を差し出す。
「一つくれよ」
「嫌《いや》。私のよ」
例によって身も蓋《ふた》もない答え。
ぴくりと頬《ほお》を引きつらせて、それでも悠二は求める。
「いっぱいあるじゃないか。一つくらいくれよ。甘い物は疲れたときにいいんだ」
「嫌。知ったこっちゃないわ」
「くれよ。今日は『都《みやこ》喰《く》らい』のこととかでも役に立ったじゃないか」
「嫌。たまたまの手《て》柄《がら》で偉そうにしないでよね」
だんだん、二人とも意地になっていく。
(……やれやれ……)
アラストールが吐《つ》くため息にも気付かない。ひたすら言い合う。
「くれよ」
「嫌」
「くれ」
「嫌」
「く」
「嫌」
「ケチ」
悠二が戦法を変えた。
今度はシャナが頬《ほお》を引きつらせる。
「……なんですって? よく聞こえなかったわ」
「どケチ」
びし、と青筋がシャナの額《ひたい》に走る。
「ど、を付けたわね……?」
「聞いてたんじゃないか。くれよ」
「絶対嫌!」
二人は庭の茂みの中で、額をぶつけるようににらみ合う。
「絶対、を付けたな!?」
「付けたがどうしたのよ!」
「どケチの証明したってことだよ!」
「あ、また言った!?」
「言ったがどうした!」
その二人の頭上から、声が降ってきた。
「悠《ゆう》ちゃん、そんな所で、なにしてるの?」
二人して上を向くと、おっとり顔の女性……悠二の母親である坂《さか》井《い》千《ち》草《ぐさ》が、窓から顔を覗《のぞ》かせて、こっちを不思議そうに見下ろしている。
「……見つかっちゃったわね、ゆーちゃん[#「ゆーちゃん」に傍点]?」
ぷぷっ、とシャナが口元を押さえて笑う。
「……」
わずかに目元を引き攣《つ》らせる悠《ゆう》二《じ》は、あえてシャナにではなく、もう一人、冷静で頼りになってものが分かっていて話しやすくて大人な対応をするはずの王≠ノ訊《き》く。
「…………アラストール」
「なんだ、ゆーちゃん[#「ゆーちゃん」に傍点]?」
「……………………もう、夕方は過ぎたよな」
いつしか頭上は闇《やみ》の黒。
「……なんでこーなってんの」
「僕は知らん」
「我も知らん」
シャナは、坂《さか》井《い》家の食卓についていた。
彼女を見つけて玄関先に駆《か》けつけた千草の、柔《にゅう》和《わ》な容《よう》貌《ぼう》による異様な押しの強さに怯《ひる》む内に、気付けばここに座らされていた。
「悠《ゆう》ちゃんが、家にガールフレンド連れてくるなんて初めてだわ」
と満面に喜びを示した千草は今、台所で、これでもかとばかりにご馳《ち》走《そう》を作っていた。既《すで》に食卓にはサラダと汁物の他《ほか》に二品も並んでいるのに、まだ何か焼いている音が聞こえてくる。
シャナは伏目がちに、対面に座る悠《ゆう》二《じ》を睨んでみる。
「おまえの母親、なんで、息子《むすこ》と、庭の茂みの中で、怒《ど》鳴《な》りあっていた、その相手を、夕食に、招待したりするわけ?」
一言一言を強調しながらの抗議は、目の前の皿に盛られた、エンドウの湯《ゆ》葉《ば》巻き揚げの香ばしい匂いに妨害されて、いまいち迫力が足りない。
悠二の方も、頬《ほお》杖《づえ》を突いているのか頭を抱えているのか、微《び》妙《みょう》な体勢でぼやく。
「って言うか、なんでこのちびっ子に対して、ああいう解釈ができるんだ」
好物の、ぶり大根の煮付けも、今日ばかりはつまみ食いの手を伸ばす気が起きない。
「昨夜のことといい……貴様、実は本当に、そういう趣味を持っているのではなかろうな」
「あのね!」
アラストールの真剣な懸《け》念《ねん》に怒《ど》鳴《な》って返す悠二を、千草が呼ぶ。
「ちょっと悠ちゃん、これ運んでくれない?」
「あ〜、はいはい」
言われて、ゆるゆる渋《しぶ》々《しぶ》、悠二が立ち上がる。奥に入るや、その叫びがあった。
「こ、この上オムライスまで!? 作り過ぎだろ!」
「いいじゃない、ヒミツの隠し味が入ってて美味《おい》しいわよ。それに、平《ひら》井《い》さんにはウチの、いい印象を持ってもらわないと、悠ちゃんも困るでしょ」
「なんに困るんだよ!」
「またまた〜、ふふ、貫《かん》太《た》郎《ろう》さんとのことを思い出すわねえ」
「もうその話はいいって!」
奥で交わされる会話を聞いていたシャナは、ふと目を閉じる。
「……」
目を開ければ、温かな、家族に食べさせるための食事がある。
目をやれば、簾《のれん》越しに振り向いた母親の、優しい微笑《ほほえ》みがある。
「……」
また、目を閉じる。
やがて千《ち》草《ぐさ》が、大皿を持つ悠《ゆう》二《じ》を従えて入ってきた。
皿の上には、やけにドでかいオムライスが一つ載《の》っている。坂《さか》井《い》家のローカルルールでは、オムライスは全員で……といっても普段は二人だけだが、切り分けて食べるものなのだった。今日は三人分なので、いつもよりもさらに大きい。
千草が、人のよさそうな……というより、人のよいとしかいえない笑みを浮かべて言う。
「さあ、召し上がれ。遠慮しないで、たくさん食べていってね。デザートも用意してあるから」
そんな千草の笑顔に釣《つ》られて、シャナは自然と、表情を緩《ゆる》めていた。
悠《ゆう》二《じ》は初めて、彼女の自然な微笑みを見た。
夕食の後も延々、『二人のお話』を追って引きとめる千草から引き剥《は》がすように、悠二はシャナを脱出させた。
千草が『悠《ゆう》ちゃんのガールフレンド』との別れを惜《お》しんで表の通りまで出てきたので、シャナは角を曲がってから、他《ほか》の家の屋根伝いに坂井家に帰らなければならなかった。
ついでに、
「暗くなってるから彼女を送ってあげなさい」
との千草の命令を受けた悠二は、送る当の本人が何《な》故《ぜ》か先に帰ってしまったので、
「守るとか言ってたくせに、襲われたらどうするんだ、まったく……」
などと、非常に情けない文句を言いつつ、近くのコンビニで時間を潰《つぶ》す羽《は》目《め》になった。
そんなシャナが、屋根の上に孤影ながら二人として、座っている。
悠二は部屋の窓の鍵《かぎ》を開けてくれていたはずだが、シャナは今、何となく、入りたくなかった。屋根の傾斜に三角座りする、その右に千草が持たせたお菓子の袋を、左に自分が買ったスーパーの袋を、それぞれ置いている。
そろえた膝《ひざ》に、小さな顎《あご》を載せて夜景を眺《なが》める。
今日の空には、雲がない。月が明るかった。
「ねえ、アラストール」
なんということもなく、話を始める。
悠二と出会って以来、なぜかこういう癖がついてしまった。
それまでは、騒がしいとき、静かなとき、止まってるとき、動くとき……どの場合も、沈黙を保つことが義務であるかのように、口数少なく過ごしてきたというのに。
「あなたの真《ま》名《な》には悪いと思うけど……そういえば、私は別に、激情に燃えたりしてるわけでもなかったのよね」
「分かっている。おまえの契約文言は、いろんな意味で傑作だった」
目の前、手に絡《から》めたペンダントコキュートス≠フ中から、天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールが、遠雷のように重く低い声で答えた。
そう、この恐ろしげな名の割には結構な人格者で世話好きな紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ、答えてくれる。
今までも答えてくれたのだろう、自分が勝手に押し黙っていただけのことなのだろう、誰かのおかげでそれが……とまで思って、なんだか癪《しゃく》なので打ち切る。
そういう心の動きに関係しているのか、力の抜けた笑みがもれた。
「ふふ、ありがと」
「おまえは、他《ほか》のフレイムヘイズが、自身を燃え滾《たぎ》らせるものを得る、その時間や過程を全《すべ》て抜かして契約し、幼くして『討《う》ち手』となった……ただ徒《ともがら》≠討滅するための存在だからな」
「普通に火が出せないのは、そのせいかな……もし天《てん》目《もく》一《いっ》個《こ》≠ゥら『贄殿遮那《にえとののしゃな》』を奪ってなかったら、ずっと撲《なぐ》って蹴《け》って、それだけでしか戦えなかったんだろうし」
その声は、わずかに沈んでいた。
アラストールは声に苦笑を混じらせる。
「フリアグネに言われたことを気にしていたのか。案ずることはない、おまえを本気にさせるだけの敵に、これまで出会えなかった、その結果に過ぎん」
「うん。ただ契約どおり、冷静に確実に、紅世の徒≠討ち滅ぼすために戦ってきた、それだけなんだけど」
「我だけを連れてな。誰と交わることもなく」
「交わらなくても、なにも困らなかった」
それはシャナの本音だった。
アラストールも本音で答える。
「そうだな。交われば、むしろ困ることが増えるだろう。しかし」
「?」
「悪くはなかろう?」
ふと、悠《ゆう》二《じ》の顔が浮かんだ。周りを包むクラスの連中の様子が、千《ち》草《ぐさ》の微笑が浮かんだ。
答えを、いつものように明確に返せない。
「……そうかな」
シャナは、膝頭《ひざがしら》に頬《ほお》を乗せた。す、と瞼《まぶた》を閉じる。
(今日は、登って来て欲しくないな……)
思う内に、寝息を立て始めていた。
悠二も、今日は探索と監視に加え、夕食後の神経戦という駄《だ》目《め》押しを喰らったため、余力が無《な》い。帰るや風呂、さらにベッドヘと直行、轟《ごう》沈《ちん》していた。
一人、小さな手に絡《から》められたコキュートス≠フ中から、アラストールだけが静かに月を眺《なが》めている。
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4 悠二
翌朝も快晴だった。
その朝の光の中、悠《ゆう》二《じ》は自分の現実を間違えることなく、ぼんやりとした頭で寝床を探る。
(……バット、バット……)
そういえば、昨日はちゃんと持ってから寝たっけか、あれ、なんでベッドで寝てるんだ、ああ、戻って来たらシャナがまだ寝てなかったんだ、まあいいよな、いないんなら僕が寝てても元々僕の部屋なんだし……などと薄い思考を巡らせながら、腕の中にあるものを抱え直す。
ふにゃ、
と、なぜかそれは柔らかくて暖かい。
ほっとするような、いい匂いもする。
(……変な、バット……ま、いいか……気持ち……いい、し…………)
「……すう……」
その頬《ほお》に、かすかな吐《と》息《いき》がかかった。
「!?」
ぎょっとなって目を開けると、目の前、吐《と》息《いき》のかかるほどに近く、というより自分が抱きかかえる格好で、
シャナが隣に寝ていた。
普段の凛《り》々《り》しさや力強さが欠片もない、
繊細|可《か》憐《れん》な、安らいだ寝顔。
「…………」
その、恋すらためらわれる清らかさに、見《み》惚《と》れること数秒、
「……はっ!?」
悠《ゆう》二《じ》は自分が昨晩以上の、それこそ絶体絶命の危地にあることに気付き、全速で後退した。
「っわ! っわわ、わ、んが!?」
最後の叫びは、ベッドからずり落ちて後頭部を強打したものである。
「な、なな……ええと、なんだ?」
頭を押さえてうめく悠二に、布《ふ》団《とん》の中、シャナの胸元あたりから(確かめるほど命知らずではない)、これ以上ないくらいに不機嫌そうな紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ声がかかる。
「……ふん、目を覚ましたか」
「うぉわぅわぇ! こここ、これは不可抗力で、不《ふ》埓《らち》な真《ま》似《ね》は決して、いや多分してないと!」
「当然だ。していたら、貴様に朝はない」
ひたすら物《ぶっ》騒《そう》な返答に、それでもほっとしかけた悠《ゆう》二《じ》だが、すぐに、
「さっきは危なかったがな」
と追い討ちがかかって背筋が冷える。
「な、なんでここで寝てるんだ? しかもその」
悠二の脳裏に、たった今見た寝姿が思い浮かぶ。
「……下着のままで」
その不《ふ》埓《らち》な想像を、アラストールの不機嫌な声が、ズガンと砕《くだ》く。
「我が下に降りるよう言ったのだ。この子も寝ぼけていて、服を脱ぎ散らかすや布《ふ》団《とん》にもぐりこんで寝てしまった。不本意ではあったが、わざわざ起こすのも憚《はばか》られた、それだけだ」
悠二の側《そば》に潜《もぐ》り込むときのシャナが、今まで見たこともないほどに緊張を解いた様子だった、眠《ねむ》りについた顔があまりに穏やかだった、だからその邪《じゃ》魔《ま》をしかねた……とまでは言わない。
「う、ん……なに、もう朝?」
シャナが、二人の会話のせいか、目を覚ました。まとめず寝たために乱れた髪が、素の肩に
ばさばさとかかる。
その胸元に下げられたままだったペンダントコキュートス≠ゥら、アラストールが言う。
「起きたか」
「おはよ、アラストール……ん〜〜っ!」
シャナは寝ぼけまなこを擦《こす》って、全身に強い力を行き渡らせるように伸びをする。つい、と視線を落として、自分の今の状態を確認、首を捻《ねじ》る。
「〜はれ? なんで私、ベッドで寝てるの?」
「我が勧めたのだ」
「ふ〜ん、そうだっけ…………え」
シャナは、なぜか後ろ向きに正座している悠二と、今の自分の格好に気が付いた。
部屋を眺《なが》めれば、昨日のように悠二が壁際で寝ていた痕《こん》跡《せき》はなく、そのとき巻いて寝ていた毛布も、今ベッドの上にあるわけで、つまりこれが意味する所は。
「……」
「……」
「……」
三者、それぞれの意味合いをもつ沈黙。
やがて、その圧倒的不利な雰囲気の中……例えるなら、刑場の土《ど》壇《たん》場《ば》で事前通知無しの打ち首を待つ罪人のような気分……で正座していた悠二が、恐る恐る、シャナに背を向けたまま声をかける。
「あの〜……シャナ、さん?」
「……昨日といい、今日といい……」
びしびしと青筋の立つ音が聞こえそうな、凄《すご》みと怒りに満ち満ちた声が、低く漏《も》れる。
「い、いやだからこれは双方にとって幸せいや不幸な事故であって僕はやましいことはしてないとそれに昨日ほどじゃなかったいや気持ちよかったりしたけどそれはあくまで結果というやつで思わぬ所で嬉《うれ》しかったりいやそういう意味ではなくてどんな意味かというといやこれが」
冷や汗と言葉を垂れ流す悠《ゆう》二《じ》の背後で、ズバッ、とフレイムヘイズの黒《こく》衣《い》の広がる音がした。
これの意味する所が何か、悠二が考える前に、
「峰《みね》だぞ」
というアラストールの声がして、その脳天に大《おお》太《だ》刀《ち》が、ドバカ、と一撃。
悠二はもんどりうって昏《こん》倒《とう》した。
重傷寸前の一撃を受けた悠二が、いつもの起床時間に起きる……というより覚《かく》醒《せい》することができたのは、まさに習慣の勝利だった。
脳天に載《の》っけた、生涯最大と思われるたんこぶを掌《てのひら》に感じながら、悠二は恒《こう》例《れい》のように、朝日の中で思案している。ちなみに目覚めた後も、反省のほどを示すため、姿勢は正座である。
その、いささか以上に間抜けな格好の彼を、日の光が照らしている。
朝は変わらず、やってきていた。
明日が無いように思えた身にも、変わらず。
今日という形で。
だとしても、
(……う〜ん、ここまで来たか)
悠二は脳天を撫《な》で付けながら、しばらく待つ。
しかし、やはり、もう、ため息が出ない。
絶望や恐怖が、静かに収まっていた。
忘れたわけでも、なくなったわけでもない。たしかにあると感じるが、しかし、心を乱すことはなくなっている。
(ほんと、変だ……いつか来る消滅のときに怯《おび》えて、毎日ガタガタ震えて暮らす、そんな風《ふう》になると思ってたのに)
妙《みょう》な話だが、実際には全く逆だった。
ほとんど平然として、今の自分の境遇を受け入れている。
最初の頃の、半ば強迫観念に囚《とら》われて、それが当然の態度[#「それが当然の態度」に傍点]、と怯《おび》えていた自分の姿を、可《お》笑《か》しいとさえ感じる。そこまでの馬鹿|余《よ》裕《ゆう》が、今の自分にはある。
慣れだけで、ここまでになるものだろうか。
それとも、シャナが言ったように諦めたのだろうか。
あるいは、これが燃え尽きてゆくことによる無気力の表れなのだろうか。
(……どうも、違うんだよな……なにか、つかみそうな……なんだろう……?)
「ちょっと、聞いてんの?」
正座する悠《ゆう》二《じ》の正面、開けたガラス戸の向こうから、シャナが刺《とげ》々《とげ》しい声をかける。
「ん? ああ、うん」
「頭の栓《せん》がどっか緩《ゆる》んでんじゃない?」
「ぶっ叩《たた》いた奴《やつ》が言う台詞《せりふ》じゃ……いえ、なんでもありません」
灼眼《しゃくがん》ではない眼光に打たれて、悠二は反論を即座に撤回する。
そのまま、平然と訊《き》き返す。
「……で、なんだっけ?」
すでにセーラー服を着ているシャナは、ベランダの手すりに、小鳥のように腰掛けていた。不機嫌をあからさまに眉《み》間《けん》の皺《しわ》に残して、ため息をつく。
「はあ……こんなのの言うことを信用するの、アラストール?」
「当面はな」
その胸元のペンダントから、アラストールが答える。彼の声も、まだかなり険悪である。
「現段階では、未だトーチの数は、フリアグネが『都《みやこ》喰《く》らい』を発動させるだけ用意されていないはずだが、それでも早急に手を打っておくべきであることは変わらん。しかし彼奴《きゃつ》らも、我らに察知されることを恐れてか、一昨日以来、封《ふう》絶《ぜつ》と乱《らん》獲《かく》を行っていない」
「つまり両方とも手詰まりってことか」
正座のまま腕を組んで言う悠二に、シャナが言う。
「いちおうは、おまえって餌《えさ》を連れてうろうろするつもりだけどね。こうやって睨《にら》み合ってる内に、トーチはどんどん消えてくから、その内、連中も焦《じ》れて出てくるでしょ」
ところがこれに、思いもかけない答えが返ってきた。
「いや、それじゃ駄《だ》目《め》だ」
「なんですって?」
悠二が、シャナを見ていた。やはり平然とした表情で。
シャナは、この反論にも不快さを感じない。ただ訊き返す。
「どういう意味よ?」
悠二もそれを……シャナが、道理が通っていればそれを素直に受け人れる少女だということを、分かっている。
「向こうに主導権を与えちゃ駄目だ」
悠二は、自分でも驚くほど、冷静になっていた。さっきの自己分析の副産物なのか、自分たちがやるべきこと、やれることが、明確に頭に浮かぶ。
「こっちが待つってのはつまり、相手に何か準備させたり、次に行動を起こすのを受け止めて動くってことだろ。それじゃ、罠《わな》の中に自分から飛び込むようなもんだ」
「じゃあ、どうしようっての? 向こうが動かないから、こっちは苦労してるんじゃない」
「呼び寄せる方法はあるよ」
悠《ゆう》二《じ》は、苦《く》渋《じゅう》の選択であるはずの提案を、なぜかあっさりと口にすることができた。
「連中が『都《みやこ》喰《く》らい』を企《たくら》んでいてもいなくても、たぶん、噛《か》み付いてくる」
「……?」
「どういうことだ」
不審気なシャナの胸元から、アラストールが訊《き》く。その声には、さっきまでの不機嫌さは欠《かけ》片《ら》もない。
「連中の企みのキモは分かってるんだ。だから、その邪《じゃ》魔《ま》をしてやればいい」
「貴様、まさか」
悠二の意図を察して、アラストールは驚いた。
悠二は、うん、と頷《うなず》いて続ける。
「もう、手段を選んでる余《よ》裕《ゆう》はなくなってると思う。待ってれば、こっちが不利になるだけだ。まだ無事な連中から[#「まだ無事な連中から」に傍点]、きっちり守っていかないと[#「きっちり守っていかないと」に傍点]」
ふうん、と同じく察したシャナが、楽しそうな声を上げた。
「ぶったたいてスイッチでも入ったのかな」
アラストールも、愉《ゆ》快《かい》気《げ》に言う。
「かもしれん。突《とっ》飛《ぴ》ではあるが、確かに効果的だ」
「じゃあ……」
悠二に、シャナは頷いて見せた。とびきり明るく強い笑みが……名案を評価するだけではない、悠二という存在への言い知れない嬉《うれ》しさを感じた笑みが、その顔にある。
「うん、乗ったげる。昼食を取ったら、すぐに学校を出るわよ。忙しくなりそうね」
「あら、平《ひら》井《い》さん?」
「あ」
ベランダの下からかけられた呑《のん》気《き》な声に、悠二は今までの冷静さを全《すべ》て吹き飛ばされた。
母・千《ち》草《ぐさ》だ。
うっかりしていた。
悠二の部屋のベランダは、玄関の真上にある。
新聞と牛乳を取りに出た千草が、上での会話に気付いたらしい。朝っぱらから息子の同級生(には見えないが)の少女が、その部屋のベランダに腰掛けていたら、あらぬ誤解を受け……
「おはよう。どうしたの、こんなに朝早くから?」
なかった。千草の呑気さが、こんなときはありがたい。
「どうしてそんな所に?」
「えーと、ちょっと一《ひと》跳《と》び」
とシャナも、根本的なところでずれた答えを返す。
「あらあら、お転《てん》婆《ば》さんね」
千《ち》草《ぐさ》も負けていない。
悠《ゆう》二《じ》は思わず脱力して正座を崩《くず》した。
結局シャナは、朝食も坂《さか》井《い》家でご馳《ち》走《そう》になった。
三日目の授業は、三種類に割れた。
初めてシャナの授業を受ける教師は、例によって壮絶な自爆で、プライドと権威を粉《ふん》砕《さい》した。これは前日、前々日と同じ。
顕《けん》著《ちょ》な変化があったのは二度目以降の教師で、これは、正反対の反応を示した。
完《かん》璧《ぺき》な無視か、対決である。
前者は『触《さわ》らぬ神に崇《たた》りなし』の態度で、彼女を徹頭徹尾無視するという非常に分かりやす
いもの。
後者は、悔しさと熱意から自分なりの研究と勉強を行って、シャナにその是《ぜ》非《ひ》を問うという、なんだか主客転倒なもの。
教師の方はともかく、生徒たちの方は、三日目ともなれば彼女の態度にも慣れ(昨日の、体育の授業の影響でもある)、授業を楽しむ[#「楽しむ」に傍点]だけの余《よ》裕《ゆう》も出てきていた。
教師という仕事がどう行われるべきものか、どういう人間がそれに向いているのか、そしてそれを考える教師がいかに少なかったかという、いわば子供が大人を観察する場所として、授業は機能し始めたのだった。
この状況は、ただの職業として教師を選んだ者にとっては災《さい》難《なん》以外の何物でもなかったが、そうではない、教育への理念や情熱を持っていた者(少数派のようだが)は、まるで真剣勝負のように燃えた。
シャナは相変わらずである。
求められれば、ひたすらシビアな、反論の余地のない事実を突きつける。
まるで授業に審判が現れたようだった。
結果、三日目の午前四時間で、粉《ふん》砕《さい》一、無視二、対決一のスコアである。
昼休みになったが、もう用事もなしに出て行く者はいなくなっていた。
池《いけ》ら三人と吉《よし》田《だ》も、悠二やシャナと一緒に昼飯を取ることが当然のように、机を固めている。
周囲のクラスメートも各々、昼食とおしゃべりを楽しんでいて、もうシャナが現れる前の光景と変わらない。
(やっぱ、慣れってことか)
などと思いつつ、例によってコンビニおにぎりを、海《の》苔《り》をパリパリ割って食べる悠《ゆう》二《じ》である。
「ところで、平《ひら》井《い》さん」
池《いけ》がホカ弁を開けつつ、何気なく切り出した。
「なに」
シャナは例によって無愛想に答える。
アラストールと大っぴらに話ができなくなるので、彼女は他人との同席を好まない。全く文字通りに、一緒に食べる、というだけで、ひたすら食料袋から取り出す昼食を頬《ほお》張《ば》っている。
今食べているのは、もはや定番とも言えるメロンパンだ。
もう彼女のそういう所に慣れたらしい池も構わず、悠二を箸《はし》で指《さ》す。
「いったいこいつのどこが気に入ったんだい?」
「ぶはっ!?」
指された悠二は剌されたように、思い切りむせた。
佐《さ》藤《とう》や田《た》中《なか》も興味|津《しん》々《しん》で注視する中、しかしシャナは全く表情を変えない。
「気に入った? なんのこと」
「いやだって、昨日も放課後にずっとデートしてたろ」
「でーと?」
「……おまえ、つけてたのか」
危ないことをする、と思って悠二は池を睨《にら》む。
すると、答えは意外な所から返ってきた。
「ご、ご、ごめんなさい……私が、二人がどこに行ったのかな、って、その、池君に、訊《き》いたから……」
「吉《よし》田《だ》さん?」
悠二は、『本物の平《ひら》井《い》ゆかり』はそんなに吉田さんと仲が良かったっけ、と(気持ちの悪いことに)薄れつつある彼女の情景を思い出そうとする。
ほとんど思い浮かんでこないが、それにしては彼女の様子はどうも深刻そうだ。あるいは彼女たちの間でしか話せない類《たぐい》の悩みでもあるのだろうか。
そんな彼女を、池がフォローする。
「まあ、追いかけたのは後になってからだよ。最初からつけようと思ってたわけじゃない。御《み》崎《さき》大《おお》橋《はし》でちょうど追いついて、面《おも》白《しろ》そうだから観察してたんだ」
シャナの方を見て、こっちには賢明にも、箸《はし》で指さず言う。
「おまえらがどこかに寄ったら声をかけようと思ってたのに、延々歩くばかりだろ。その内、吉《よし》田《だ》さんが疲れたんで、皆でジュース飲んで先に帰った、それだけさ」
「せっかくのデートだってのに。もつと他《ほか》に楽しみようはなかったのか?」
「この甲《か》斐《い》性《しょう》なしめ。全然見ごたえが無かったぞ。もっとサービスしろ」
例によって佐《さ》藤《とう》と田《た》中《なか》が続ける。
「おまえらもか……」
悠《ゆう》二《じ》が頭を抱える。
逆に、そもそも何が話題になっているのか理解していないシャナが、涼しい顔で吉田に訊《き》く。
「なにか、私に用でもあったの?」
「う、ううん、そうじゃ、なくて……」
吉田は複雑な表情をして顔を伏せてしまう。
「じゃあ、コレに用が?」
シャナは、二人引く自分、の引き算から出た答えとして、悠二をぞんざいに親指で指《さ》した。
いきなり、伏せられた吉田の顔が、耳まで真っ赤になる。ほとんど中身の減っていない小さな弁当箱に、箸《はし》が刺さって止まった。
池が、その吉田と悠二を、ついでにシャナの方をちらりと見て、情勢を計る。佐藤は物見高く楽しそうに、田中は固《かた》唾《ず》を飲んで、吉田を見守る。この三人は昨日の同行で、概《おおむ》ね彼女の事情[#「彼女の事情」に傍点]を察していた。
昼休みの喧《けん》騒《そう》の中、不意に、この面々の間だけに、張り詰めるような緊張が生まれる。
(…………ん? ……まさか……)
悠二は、この吉田の様子に、非常にいい気な想像、あるいは妄《もう》想《そう》を抱いた。
(いや、まさかね)
ははは、こういうことは、だいたいが恥ずかしい思い込みで終わってしまうもんさ、と悠二は(実は期待の裏返しである)心理的予防線を張る。
しかし一方の吉田は、その悠二の予想を覆《くつがえ》すように、伏せた真っ赤な顔の下で、しかし何とか声を絞《しぼ》り出そうと頑《がん》張《ば》っている。
その間も、シャナだけがメロンバンをもぐもぐと食べていた。目線だけで、なぜか固まっている悠二たちの様子を観察している。
結局、吉田が、
「あ」
と搾《しぼ》り出すまでに、五秒はかかった。
「あの、昨日、その……格好よかった、です」
必死に搾り出した言葉を切って、忘れていたように、息を継《つ》ぐ。
「え、でも、実際に何かしたのは平《ひら》井《い》さんで、僕は何も……してないけど」
悠二は言いつつ、情けない台詞《せりふ》だなあ、とげんなりしてしまうが、事実だから仕《し》様《よう》がない。
ところが、
「そんなことありません!」
と吉《よし》田《だ》が真っ赤な顔を上げて、ようやく吸った息を、また全部|吐《は》くように言った。叫ぶ、といえるほどに声量はないが、それでも教室にいた全員が、驚いて彼女を見た。
「格好よかったです、とっても!」
クラスメートたちの注視の中、悠《ゆう》二《じ》はその声に打たれたように呆《ぼう》然《ぜん》となっていた。
こういうシーンは、ドラマやマンガの中だけにしかないものと思っていた。現実は当然、そうではないのだが、十五年の人生経験しかない彼にとっては、実際に出くわすまでは、とにかく遠い絵《え》空《そら》事《ごと》でしかなかった。そして、いざそれが目の前に現れると、経験の浅さから、うろたえるしかない。
「私、助けてくれたり、せ、先生に、きちんと、ものを言ったり、すごく、格好よかったです本当です」
「……はあ、ええ、と……あ、ありがとう」
また倒れるんではないか、と思わせられる吉田の危なっかしい気迫に押されて、悠二はひたすら間抜けな答えを返した。どうしようもない気恥ずかしさと照れに、頬《ほお》が緩《ゆる》み熱くなる。
吉田の方も実は、本当に言いたいこと[#「本当に言いたいこと」に傍点]にまで言葉が届いていないのだが、元来が内気な彼女としては、ここらが勇気の限界だった。また顔を伏せて、黙り込んでしまう。
悠二も動転してしまって、居心地がいいのか悪いのか、それさえ分からない。なにか言うべきなんだろうか、でもなにを、どういう風《ふう》に、と思考だけが熱っぽさの中で空回りする。
教室を沈黙が支配する。
その中、一人、この雰囲気をよそにメロンパンを食べていたシャナが、自分の横で赤くなっている悠二を見た。次に、同じように真っ赤になって顔を伏せている吉田を見る。
さっきのやり取りの意味が、教室が静かになった理由が、ちっとも分からなかった。昨日のこと、格好よかった、ありがとう……何かおかしなやり取りだったろうか。
「……」
もう一度、悠二に目を戻した。
「…………」
真っ赤な、笑う直前のような、困りきったような、変な顔。
シャナは何《な》故《ぜ》か急に、この悠二の顔に、むっとなった。
怒り、だろうか。
しかし……徒《ともがら》≠ノ歯応えがなかったとき、他《ほか》のフレイムヘイズに喧《けん》嘩《か》を売られたとき、街で愚《おろ》かな人間を見たとき、アラストールに甘いもの以外も食べろと叱られたとき……今まで感じてきた種々強弱のそれらと、なにか、どこか、違う。
そう、『悠二が自分を怒らせたことに腹が立つ』とでもいうような、理《り》不《ふ》尽《じん》な気分。
我知らず、口がへの字に曲がっている。
急に、ここにいたくなくなった。
悠《ゆう》二《じ》を、なんだか許せない生き物のようにギロリと睨《にら》んで、訊《き》く。
「もう食べ終わった?」
不意な声に悠二が、これも何《な》故《ぜ》か慌《あわ》てて振り向く。
「え、あ、うん」
返事なのかどうかも分からないその声を無理矢理、肯定と解釈して、シャナは席を立った。
「じゃ、行くわよ」
二人とも、元々昼には出て行く予定だったから、帰る用意はしてある。
シャナは鞄《かばん》と食料袋を素早く取り、もたもたしている悠二の手を引く。
「ほら、なにぐずぐずしてんの」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
「やだ」
「やだ、って……」
予想外すぎるシャナの答えに悠二は慌て、鞄を持ちつつ、吉《よし》田《だ》の方を見る。
彼女はシャナの剣《けん》幕《まく》に驚き、またわずかに怯《おび》えを走らせている。
その顔が、光景が、横にすっ飛ぶ。
シャナに手を引かれ、というより振り回されるように、悠二は教室から連れ出されていった。
二人が教室を出て十秒は経ってから、池《いけ》がぽつりと、沈黙を破った。
「……これは、本物かな」
今度は、吉田がむっとなって、二人の出て行った先を見つめていた。
その二人は、出た勢いのまま、廊下を走っている。
シャナはもう手を放しているが、悠二がついていくことに変わりはない。
「な、なんなんだよ、いきなり」
せっかくいいとこだったのに、と言えるほど悠二もスレてはいないが、それでもわずかに不満は声に出る。
横を走るシャナが、まだへの宇口を崩《くず》さず、答える。
「うるさいうるさいうるさい。予定通りの行動よ」
「そりゃ、そうだけど……」
少し残念かな、と悠二は、自分がまともにものも言えなかったことも忘れて、吉田の顔を思い浮かべる。
その尻《しり》に突然、シャナの蹴《け》りが入って、悠二はつんのめった。
「っわ!? な、なにすんだよ!」
「なにユルんでんのよ、これから絶対に一戦やらかすんだから、しゃきっとしなさいよ!」
「だからって蹴《け》っ飛ばすか、普通!?」
「蹴っ飛ばすの! 普通は!!」
凄《すさ》まじい迫力で断言されたので、悠《ゆう》二《じ》は黙って走ることにした。
広がりを無限に思わせる暗《くら》闇《やみ》に、数十を数える薄白い火が点《とも》り、彷徨《さまよ》っている。
それら薄白い火の一つが突然、大きく膨《ふく》れ上がった。
やがて火は、細い輪《りん》郭《かく》に白い輝きをまとった、優美な男の姿を取る。長《ちょう》衣《い》の中で、灯火を逆に映す黒い鏡のような床を、細く軽く踏《ふ》む。
狩《かり》人《うど》<tリアグネだった。戸《と》惑《まど》いを顔に見せ、しきりに首を捻《ひね》っている。
「マリアンヌ、これは、いったい何事だい?」
その調律の狂った声色は、いつにも増して外《はず》れていた。
ぼっ、とその前方の床に、巨大な箱庭がライトアップされるように浮かび上がった。玩《おも》具《ちゃ》のブロックや模型をつなぎ合わせて作られたそれは、御《み》崎《さき》市の全域を精《せい》巧《こう》に擬している。
その中には、無数の鬼《おに》火《び》のような灯火が散らばり、蠢《うごめ》いている。
トーチを示す印だった。
「ご、ご主人様!」
燐《りん》子《ね》<}リアンヌが、動揺を声に表して言う。箱庭の一番高いビルを模したプラスチックの箱の上に、その粗《そ》末《まつ》な人形の体を載《の》せている。
「崩《くず》れているじゃないか? 私の『都《みやこ》喰《く》らい』の布石が」
フリアグネは平静な様子に変わって、その箱庭を見渡す。
マリアンヌが答えて、指もないフェルトの手で、市街の一点を指《さ》す。
「フレイムヘイズです! あの小《こ》娘《むすめ》が、封《ふう》絶《ぜつ》でトーチをどんどん消費して……っは!?」
言う間にこの、御崎市全域をモニターする道具である箱庭の一角に突然、封絶を示す光の半球が現れた。この封絶の印は、しかし発生するや、すぐに薄れて消える。
その中に蠢いていたトーチを示す灯火も、同時に。
封絶発生のエネルギー源として消費されたのだ。
「……どういうことなんだ?」
フリアグネは眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
フレイムヘイズがトーチを消費するなど、普通では考えられない。彼らはこの世界のバランスを保つために戦っているのだから当然だ。
マリアンヌが短い手足をばたつかせて言う。
「まさか、トーチを消費して世界の歪《ゆが》みを故意に生み、他《ほか》のフレイムヘイズたちを、この地に呼び寄せようとしているのでは?」
「まさか……いや……そうか、やるものだね」
フリアグネは、マリアンヌの言葉から相手の意図を看《かん》破《ぱ》した。それが、彼の線薄い美《び》麗《れい》の容《よう》貌《ぼう》に、刃《やいば》のような薄笑いを結ばせる。
「なるほど、あのおちびちゃんと恐い恐い魔神の王≠ヘ、そういう危機的な状況を作ることで、私を誘っているんだ」
「誘う?」
「そうさ、君が言ったように、あの二人は他《ほか》のフレイムヘイズを呼び寄せるポーズを取りつつ、私の計画の根幹たるトーチをこれ見よがしに消して……ん」
と言う間にも、また一つ封《ふう》絶《ぜつ》が行われ、トーチも一つ消えた。
がっくりした表情になって、しかしフリアグネは続ける。
「今は消えかけのトーチを使っているようだけど、それがなくなれば、今度はより強いものを使うのだろうね。私が出て行かなければ、トーチはどんどん消費され、計画は……私の望みは潰《つい》える。そして、それは同時に、周囲のフレイムヘイズの集結と私の討《とう》滅《めつ》をも意味する、というわけさ」
「そ、そんな」
フリアグネは翻《ひるがえ》る長《ちょう》衣《い》に顔を隠して、箱庭の上へと舞い上がった。マリアンヌを、その浮遊の中で柔らかく拾い上げる。
次に現れたのは、優しい微笑だった。
「マリアンヌ、そんなに怯《おび》えた顔をしないでおくれ」
胸の中の、表情を縫《ぬ》い付けられた人形。その表情を、彼だけが知ることができる。優しく笑って、しかし鋭い声を出す。
「そんなに深刻になることはない。これはつまり、挑戦状なんだ。狩《かり》人《うど》≠フ前に、獲《え》物《もの》が見せた足跡さ。彼らは、こう言っているんだよ。『さあ、どうする?』とね」
彼らが見下ろす、無数の灯火を蠢《うご》かす箱庭で、また一つ封絶が。
フリアグネの眉《まゆ》が上がり、口元が引き締まった。真剣そのものの顔で、言う。
「獲物に、こうまで言われたら……狩人≠ニして取るべき道は一つ、そうだろう?」
マリアンヌは、嬉《うれ》しげに叫んだ。
「は、はい、ご主人様!」
フリアグネは子供をあやすように、マリアンヌを宙に差し上げた。そのまま二人で、暗《くら》闇《やみ》の宙をゆっくりと回る。
そうして回る内に、フリアグネの左手薬指に、指輪が一つ、現れている。
その銀色の指輪には、中心に線を引くように奇《き》怪《かい》な文字列が刻まれていた。それが一つ、また一つと暗闇に薄白く光り、光った文字は暗闇にこぼれるように残されてゆく。いつしか残された文字は、星空のように暗闇をいっぱいに埋《う》めていた。
「もうすぐだよ」
フリアグネが陶《とう》然《ぜん》とした面持ちで言うや、文字は一つ所へと収《しゅう》束《そく》、一個の巨大な球体を作り上げる。
同時に、掲げられたマリアンヌの胸の内にも、同じ文字による、やや小さな球体が点《とも》った。まるでトーチの灯《あかり》のように見えるそれは、存在の力≠フ結晶。燐《りん》子《ね》≠ェ、喰えない力を内に宿しているのだった。
「もうすぐ、君に編み込んだ、この自在式を起動させることができる……そのために必要だった莫《ばく》大《だい》な存在の力≠ェ、もうすぐ手に入るんだ」
この球体の文字列こそ、かつて封《ふう》絶《ぜつ》という因《いん》果《が》孤立の自在法を編み上げ、紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》≠完全にこの世の人間の目から隠すことに成功した、天才的な自在師螺《ら》旋《せん》の風《ふう》琴《きん》≠フ遺産。
内蔵するモノの在り様を組み換え、他者の存在の力≠ノ依存することなく、この世に適合・定着させる『転生の自在式』だった。
「この自在式が起動したとき、君は生まれ変わる。誰に頼ることもない、まごうことなき、一個の存在へと」
繊細な美《び》貌《ぼう》が、恍《こう》惚《こつ》に蕩《とろ》ける。
彼にとっては、秘法『都《みやこ》喰《く》らい』さえも、この起動に莫《ばく》大《だい》な存在の力≠必要とする自在式のための、エネルギー調達手段でしかなかった。
大きな仕掛けの、小さな望み。
それこそが、フリアグネの目的なのだった。
(……それにしても)
フリアグネの恍《こう》惚《こつ》に、小さな、しかし根本的な不審が黒くよぎる。
こんな、世界のバランスと自分への挑発を天《てん》秤《びん》にかけるような思い切った手を打つには、まず自分の計画の根幹が、数多く配置されたトーチであると、確信[#「確信」に傍点]していなければならない。
自分の仕掛けは、まず他《ほか》の徒≠ノ見破られたりはしないはずなのだが。
(ふ、まあいいさ、計画の準備自体は、ほぼ完了している[#「完了している」に傍点]のだ……今さら止められはしない)
また表情が、優しい微笑に転じる。
「マリアンヌ、おまえはここで、全体のバランスを見張っているんだ。状況によっては、すぐに始めるからね」
「はい、分かりました……ご主人様は」
マリアンヌの言葉は、問いではなく、確認。
闇《やみ》の中、輪舞する彼らを取り巻いて、薄白い炎が数十、浮かび上がる。
「もちろん、狩《かり》人《うど》≠フ仕事をするよ」
炎に照らされたフリアグネの笑みが深まり、黒々とした影を作る。
市街の一角、人通りの少ないとある路地裏で、す、と一《いっ》対《つい》の目が閉じられ、
そして開く。
灼眼《しゃくがん》が煌《きらめ》き、それと同じ色の、まさに目を焼くような紅《ぐ》蓮《れん》の炎《ほのお》が立ち上った。
仁《に》王《おう》立《だ》ちするシャナを中心に、路地裏を埋《う》めて、炎は上へと通り過ぎる。そのあとには、奇《き》怪《かい》な紋章《もんしょう》を路面に描き、撹《かく》拌《はん》される瀑《ばく》布《ふ》のような陽《かげ》炎《ろう》の壁に囲まれた、直径にして三十メートルほどのドーム状の空間が残される。この内部に囚《とら》われたモノは、まるでポーズボタンでも押されたかのように静止する。
一時的に周囲の世界から因《いん》果《が》の流れを切り離す孤立空間、封《ふう》絶《ぜつ》≠セった。
(……こればっかりは、何度体験しても慣れることができないな)
悠《ゆう》二《じ》は、自分の全《すべ》てを変えたこの光景を、おぞ気を感じながら見ていた。
今見ているこれは、夕のゆらぎ≠竍明のかすれ≠フ力を借りない、フレイムヘイズ自身、つまりシャナの力で発生させたものだ。すでに二度見ている夕焼けの光とは違う、火線の紋章も陽炎の壁も、まさに炎の色であり、力感だった。
この封絶に囚われた者は本来、世界から因果の流れを切り離されて、次の存在へとシフトできない、つまり動けなくなるのだが、身の内に何らかの宝《ほう》具《ぐ》を秘めたミステス≠スる自分には、どういうわけか影響がない。普段どおりに動ける。まあ、それだけのことだが。
(でも、そのおかげで……いや、そのせいで、かな?)
シャナに出会った。この世のものならぬ怪物に襲われる羽《は》目《め》にもなったが。
事実を知らされることになった。本物の自分は死んでいるという事実だったが。
良い悪いで言うなら、明らかに悪い方の分が勝ちすぎているようだが、それでも悠《ゆう》二《じ》は、シャナに言ったように、すっとしていた。
その気持ちがどういう意味を持っているのか、燃え尽きる前に知りたい、というのが、ささやかな、しかし恐らくは難しい、悠二に残された望みになっていた。
(残された、か……実際、どの程度の時間があるのかな)
新しいか古いか程度の判別はつくようになっていたが、さすがに後どれくらい、とまでは分からない。慣れにもよるのだろうが、その慣れるだけの時間は、おそらくないだろう。
そんな自分と同じ、燃え尽きる運命のモノが今、封《ふう》絶《ぜつ》の中にぽつんと一人、あるいは一つ、止まっている。いざ襲撃というときに周囲を巻き込まないよう、雑《ざっ》踏《とう》から離れるまで持っていた、それ。
存在の力≠喰われた人間の残り火から作られた代《だい》替《たい》物《ぶつ》。
存在の喪《そう》失《しつ》を緩《ゆる》やかに行い、世界に歪《ゆが》みを生まないための道具。
トーチ。
自分との違いといえば、紅《ぐ》世《ぜ》≠フ宝《ほう》具《ぐ》が入っていない……ただ、それだけ。
もはや芯《しん》の先の光点ほどでしかない、灯《あかり》の薄れたそのトーチは、出前中らしい、岡《おか》持《もち》を手にした若い男。
悠《ゆう》二《じ》は思う。
(店の人だろうか、バイトだろうか、したいことがあったんだろうか、欲しいものがあったんだろうか、家族は、恋人は、友達は……)
しかし、もう存在の力≠ェ、ない。それだけで、何もかもが無意味になる。
傲《ごう》慢《まん》な哀れみか、単なる同情か、悠二はつい声を漏《も》らしていた。
「……もう存在が薄すぎて、他人との接触にも実感を持たれないような消えかけ、か……」
男のトーチが、一点に吸い込まれるように凝縮《ぎょうしゅく》する。点となったそれは、瀕《ひん》死《し》の蛍《ほたる》のように宙を漂《ただよ》い、悠二の前に立つシャナの、天に突き上げられた人差し指の先にとまった。
「ふん、そうよ」
灼眼《しゃくがん》を煌《きらめ》かせて言うシャナは、大太刀はもとより、炎《えん》髪《ぱつ》も現さず黒《こく》衣《い》もまとっていない。封《ふう》絶《ぜつ》の制《せい》御《ぎょ》程度は、灼眼だけで十分できるということだった。
「自我も意欲もほとんどなくなった、ただ作業として残りの日を過ごすだけの残り滓《かす》よ」
どうも昼からのシャナは、物言いがつっけんどんだった。
悠二には、いつもは冷静さからくるその態度が、今はどうも、その逆のものからきているように思われた。もっともこれは、吉《よし》田《だ》とのことで調子に乗っている自惚《うぬぼ》れかもしれないが。
ともかく二人して、なんともむずかゆい、顔を合わせ辛《づら》い雰囲気の中で作業を行っている。
やがて、シャナの指先で、凝縮されたトーチが消える。この路地裏を覆《おお》う封絶を保つための力として、使い果たされたのだった。
悠二が同類の最《さい》期《ご》を看《み》取《と》るように言う。
「これでまた一人、死んだ、か」
「言い出しっぺが今さら何を。だいたい、とっくに死んでるわよ」
顔も向けずに言うシャナに、悠二はわずかに苦笑する。
「うん、分かってる」
「どうだか……これで四十三個目ね」
シャナの灼眼《しゃくがん》が、瞬《またた》きとともに黒く冷え、封絶が解かれた。
因《いん》果《が》が再び外と繋《つな》がって動き出す。といっても、今のトーチが人込みから離れるのを待って封絶したので、戻った場所はうらぶれた路地裏、大して違和感はない。
舗《ほ》装《そう》もつぎはぎの路面を、古びたビルと長年放置された工事フェンスで挟《はさ》んだ、街の影。人一人の存在がひっそり消える場所としては、おそらく相応《ふさわ》しい場所。
悠二は、何でも深く考えすぎだな、と自《じ》嘲《ちょう》に似たため息をついた。
「……そろそろ、向こうとしても痛くなってくる頃かな」
シャナの言うとおり、自分が提案しての一連の行動ではあったが、それでも悠二は、早くそうなって欲しい、と思う。
アラストールが答えた。
「うむ。貴様の言った通り、数や規模に意味があるのなら、それを減らしてゆくことで、遠からず彼奴《きゃつ》も出て来るだろう」
今朝、悠《ゆう》二《じ》はこう主張していた。
『その意図や使い道が分からなくても、使うものが分かっていれば、邪魔するのは簡単だ』
これにはシャナも、アラストールさえ感心した。無論、表には出さなかったが。
さらに悠二は、こう、付け加えもした。
『シャナ、アラストール、あんたたちも、僕が利用できるというなら、そうするのがいい』
『うん』
と自分がためらうことなく頷《うなず》いたのを、シャナはほとんど驚きと共に感じていた。
アラストールは、黙っていた。
そのとき、シャナは自問していた。
これは冷たいやり取りか、と。
そして、自答していた。
違う、むしろその反対だ、と。
そのことを、はっきりと確信できた。そのことが、何《な》故《ぜ》か嬉《うれ》しくもあった。
ところが、昼休みに悠二が、あの吉《よし》田《だ》とかいう奴《やつ》を相手に笑ったり困ったりしているのを見て、また何故か、その嬉しさが逆転してしまった。
この辺りが、どうもよく分からない。考えるほどに、その思考は掻《か》き乱され、立ち消えてしまう。こんなことは初めてだった。そんな思いのまま口を開けば、何か変な言葉が飛び出てしまいそうで、悠二とまともに顔を合わせることもできない。
だからシャナは、早く出て来い、と思っていた。
余計なものを全《すべ》て吹き払う戦いが、今、いちばん欲しかった。
「よぉし、どんどん行くわよ」
その欲求を声に出して、シャナが踏《ふ》み出した。
刹《せつ》那《な》、悠二は、
ズン、と自分の中で震えるものを感じた。
「!?」
もはや奥深くではない。神経のように、その感覚は体中に染み通っていた。
痛みや衝撃《しょうげき》ではない。巨大な存在に対する反響、あるいは共振だと、分かる。
そして、今日一日で、それが何を意味するのかも実感していた。
瞬《またた》き一つ、シャナが踏み出した足を地に置く、実際にはそれだけの間に得た感触を声に出す。
「シャナ!」
「! ……へえ、分かってきたじゃない!」
シャナが、悠《ゆう》二《じ》の反応の意味を察した。
わだかまり全《すべ》てを消し去る嬉しさを、強い笑みに変える。
その笑みの中に、灼眼《しゃくがん》が煌《きらめ》いた。
フレイムヘイズとしての彼女が、燃え上がる。
「狩《かり》人《うど》≠フご登場ね」
路地裏を埋めるように、薄白い炎《ほのお》が真下から立ち上った。
悠二が感じた、この世の流れの外にある存在の接近。それが起こす、因《いん》果《が》の断《だん》裂《れつ》。
地に紋章《もんしょう》、周囲に陽《かげ》炎《ろう》が残され、囲われた世界が止まった。
薄白い炎、つまり狩人≠ノよる封《ふう》絶《ぜつ》だった。
その中、
シャナの長い黒髪が、火の粉《こ》を舞い咲かせて、灼熱《しゃくねつ》の光を点《とも》す。火の粉の向こうで、黒|寂《さ》びたコートが体を包み、大《おお》太《だ》刀《ち》『贅殿遮那《にえとののしゃな》』が右の手に握《にぎ》られる。
そのフレイムヘイズの顕《けん》現《げん》を見下すように、調子っ外《ぱず》れな声が降ってくる。
「いやはや、まったく困った子だね」
シャナと悠二が同時に見上げた先、フェンスの支柱に結わえられた街灯に、薄白い火が一つ点《とも》っていた。
火に焼かれた街灯が、すぐに乾いた破裂音を撒《ま》いて砕《くだ》ける。そのガラスの、薄白く瞬《またた》く雫《しずく》のような破片が地に落ちる前に、火は膨《ふく》れ上がって、人の形を取っていた。
純白のスーツの上にまとった、やはり純白の長《ちょう》衣《い》が、火の余《よ》韻《いん》のように大きく揺《ゆ》れた。僅《わず》かに眉《まゆ》を寄せて見下ろす容《よう》貌《ぼう》は、かすれんばかりの儚《はかな》さ。
それとは全く対照的な、存在惑に満ち溢《あふ》れた強さで、シャナが言う。
「真《ま》名《な》の割りに、辛《しん》抱《ぼう》が足りないんじゃないの? 狩《かり》人《うど》<tリアグネ」
言いつつ、大《おお》太《だ》刀《ち》を片手持ちにしたまま、わずかに腰を落とす。
その動作を知りつつも、狩人<tリアグネは苦笑で答える。
「ふふ、せっかく描いた絵を、無《ぶ》粋《すい》な鼠《ねずみ》の足跡で汚されては、いかに温厚をもって鳴る私でも怒るさ……最悪の気分だよ」
凄《すご》みの利《き》いた最後の一声に、シャナも不《ふ》敵《てき》に返す。
「じゃあ、どうする?」
フリアグネが一転、形相《ぎょうそう》を凶悪《きょうあく》に変え、
「こ」
の音をあげる内に、シャナは足裏に爆発を起こして跳《と》んでいた。
「ろ」
の声を紡《つむ》ぐフリアグネは、大太刀の一《いっ》閃《せん》を至《し》近《きん》に、しかし余《よ》裕《ゆう》の表情でかわす。
「す」
飛《ひ》燕《えん》の舞うように下に跳びつつ体を返して、宙にあるシャナヘと、手袋をはめた掌《てのひら》を差し出す。その表面から純白の炎《ほのお》がほとばしった。
シャナは刀の峰《みね》を体に叩《たた》きつけ、反動で大きく返し太《た》刀《ち》を振るう。その動きに連れて宙で体勢を回し、炎も太刀|風《かぜ》一振り、吹き散らす。
この、絶技ともいうべきシャナの立ち回りを、フリアグネは小さく口笛で賞賛した。
両者着地。
シャナはどっしりと前、やや低めの体勢で大《おお》太《だ》刀《ち》を構える。
フリアグネは優雅に長身を反らして、これに対《たい》峙《じ》する。
戦いでは完全におまけの悠《ゆう》二《じ》は、慌《あわ》ててシャナの背後に回った。
「今日は、お人形遊びじゃないの?」
シャナがあからさまな挑発の声を投げるが、フリアグネは余《よ》裕《ゆう》の表情で、ショーの開幕を知らせるように両手を大きく広げる。
「もちろん、用意してあるとも」
シャナを悠二を取り巻いて、数十もの薄白い炎が、狭い路地裏に所狭しと湧《わ》き上がった。
その内から、『お人形』たちが姿を現す。
頭身の大きい、しかしどこか頭が丸めの人形たち。滑《なめ》らかな体のラインに、目立たない形で関節が仕込まれている。これらは、シャナはもちろん悠二も知らないが、アクションフィギュアという非常にマニアックな種類のものだった。もちろん、すべて少女型である。
「ふうん、なるほど。」
「か、かなり恐いかも」
シャナが嘲《あざ》笑《わら》い、その後ろの悠二がひるむ。
実際、顔をアニメ調にペイントされ、微《び》妙《みょう》に大雑把《おおざっぱ》な縫製の服をまとった等身大の人形が群がり立つ光景は、悠二の言うように恐いものがあった。
その格好も、カジュアルやゴスロリから、パンクルック、メイド、巫《み》女《こ》、水着(当然のようにスクール)、ナース、メガネにブレザー等々……。
それら、まさしく趣味の産物が、可愛《かわい》く描かれた笑顔のまま、コキコキと関節を鳴らして詰め寄ってくる。武器こそ待っていないが、代わりにその両の掌《てのひら》に、薄白い炎が燃えている。
得意げなフリアグネの声が、その包囲の向こうからかかる。
「うふふ、おちびちゃん、ご期待に添えたかな?」
「さあ? それは、やってみないと」
シャナは、デザインなど、気にもかけない
いささか以上にがっかりした顔になって、フリアグネが告げる。
「さみしい感想だねえ。じゃあ、やろうか」
戦闘の開始を。
三十は数えられそうなフィギュアが一《いっ》斉《せい》に飛び掛り、
まずシャナの正面にいたナースが、眼前に突然現れた斬《ざん》撃《げき》で両断、爆《ばく》砕《さい》された。
その乱風に揺《ゆ》れる炎《えん》髪《ぱつ》の中、灼眼《しゃくがん》が閃《ひらめ》き、次の獲《え》物《もの》を探す。
包囲の一角に割り込んだシャナに、その両脇のゴスロリとブレザーが襲い掛った。
両者の動き出すと同時に、シャナは片方、ゴスロリの懐《ふところ》に踏《ふ》み込み、その一歩目で横|薙《な》ぎに斬《き》っている。
両腕を振り上げたまま上半身を吹っ飛ばすゴスロリ。
それを背にシャナは反転、もう一方、ブレザーヘと火を引く切っ先を突き入れる。
「っだあ!!」
気合一声、ブレザーが粉々に吹き飛んだ。
「わわわっ!?」
その爆風に翻《ほん》弄《ろう》され、さらにフィギュアに取り囲まれる悠《ゆう》二《じ》の耳を、シャナの声が打つ。
「伏せ!!」
言葉がどうとか言う暇はない、言う気もない。悠二は体を、ひび割れたアスファルトの路面になげうった。
その鼻先に、ズドン、と火の粉《こ》を撒いてシャナの足が踏《ふ》み込まれ、頭上を太《た》刀《ち》風《かぜ》が鋭く広く抜ける。周囲で割れるような爆発が幾つも起き、瞬《またた》きすれば鼻先の足はない。
悠二の真上、次の獲物への最短距離を、シャナは大きく低く跳《と》んでいた。
首を捻《ひね》って悠二が見れば、シャナは身の丈《たけ》ほどもある大《おお》太《だ》刀《ち》を、まるで小枝のように軽々と、留まることない風のように振るっている。数的劣勢や自分という足手まといの存在など全く問題にしない、圧倒的な強さだった。
「はっ!!」
袈《け》裟《さ》斬《ぎ》りの一線を斜に引いて、ランジェリーとチャイナの上半身がまとめて斬り飛ばされ、ビルの壁に叩《たた》きつけられた。
火花と化しつつある二つの下半身を蹴《け》散《ち》らした向こうに、ようやく本命の薄白い影が見える。
シャナは改めて大太刀の切っ先を右後方へと大きく振って、脇の構えを取ると、その本命・フリアグネを逆袈裟に斬り上げようと一歩、踏み切りの足を路面に打ち付ける。
「っふふ……!」
それとほぼ同時に、フリアグネは純白の手袋をはめた右手の拳《こぶし》、その握《にぎ》りこんだ親指を勢いよく上に向けて弾《はじ》いていた。
ピイン、
と手袋で弾いたとは思えないほど澄んだ音色を響かせて、宙に舞ったのは一枚の金貨。しかしその金貨は、くるくる回るたびに残像を残し、どこまでも上がってゆく。
シャナが踏み込んでくるタイミングに合わせて、その金貨の残像の根元である右の拳《こぶし》を、フリアグネは思い切り引き、振った。
途《と》端《たん》に、その残像は長くしなやかな金の鎖《くさり》となり、シャナの上に降りかかる。
「!?」
シャナは、この真上から迫る金の鎖《くさり》を斬り上げたが、この残像の鎖は斬れなかった。どころか、大《おお》太《だ》刀《ち》の刀身を幾重にも巻き絡めてしまう。
駄《だ》目《め》押しのように、鎖の先《せん》端《たん》であるコインが刀身の平の部分に、磁《じ》石《しゃく》のように張り付くに至って、シャナはようやくこれが、武器殺しの宝《ほう》具《ぐ》であることを理解した。
「ちっ!」
両者、僅《わず》かな間を置いて、互いの武器で引き合う。
「うふふ、どうだい、私の『バブルルート』は。その剣がどれほどの業物でも、こいつを斬ることはできないよ」
金の鎖の端《はし》を引くフリアグネが、自分の宝具を誇る。
(なら、持ち主を斬る)
と当然のように思うシャナも、大太刀を立ててフリアグネを引き、互いの間を計る。
周りからフィギュアがにじり寄り、引き合う二人の間にも幾体か入る。
有利か不利か、微《び》妙《みょう》な状態。
背後、僅《わず》かに気を張ると、悠《ゆう》二《じ》は……まだ少しの間は、大丈夫。
そう判断しつつ見る先、フリアグネが空いた手で、つい、と長《ちょう》衣《い》の袖《そで》口《ぐち》からまた一つ、宝具らしき物を取り出した。
指先につままれているのは、簡素な、しかし上品な作りのハンドベル。
なにかをさせる前に、とシャナは一瞬、引きを強めた。フリアグネも引き返す。瞬間、その力に乗せて踏《ふ》み切る。足裏の爆発も加えての、前への突進。
間に入っているフィギュアたちなど問題ではない。一気に斬《き》り進んで、フリアグネに刃《やいば》を突き立てるだけ。
(!)
悠二は感じた。
(共鳴?)
前に跳《と》ぶシャナ・間に入るフィギュアたち・その向こうで笑うフリアグネ・笑う?・その手で揺《ゆ》れるハンドベル・そこに感じる・旋《せん》律《りつ》の共鳴・フィギュアたちに同じ響きが……
「下がれ!!」
流れる思いも半ば、危機感だけを拾って、悠二が叫んだ。
ベルの一音を鳴らしたフリアグネが驚愕《きょうがく》した。
「な!?」
「!!」
前へと進んでいたシャナは、次の一歩を地に突き立てて爆発させ、咄《とっ》嵯《さ》に逆進した。
刀身に絡《から》み付いていた金の鎖《くさり》、武器殺しの『バブルルート』が、なぜかそれだけでほどけた。
それを危機の証《あかし》と感じるシャナの眼前で、目の前のフィギユアたちが凝縮《ぎょうしゅく》され、破《は》裂《れつ》する。
大爆発が巻き起こった。その衝撃《しょうげき》に、錆《さ》びたフェンスが押し倒され、路面がめくれ上がる。
「ぐ、あうっ!!」
シャナも、爆風と炎《ほのお》の中、地面に叩《たた》きつけられた。体に、常にない痛みと戦《せん》慄《りつ》が走る。
(もし突っ込んで、至《し》近《きん》で巻き込まれていたら……!)
一方、手の内に『バブルルート』の金の鎖を引き戻し、コインヘと戻したフリアグネは、ついに気付いた。
(こいつか[#「こいつか」に傍点]!!)
このハンドベル型の宝《ほう》具《ぐ》『ダンスパーティ』の共鳴に咄《とっ》嵯《さ》に気付けるものなど、まずいない。自分がトーチに仕掛けたものは、この妙《みょう》な探知機のようなミステス=Aその中の宝具によって露《ろ》見《けん》したに違いない。
計画を邪《じゃ》魔《ま》した張本人《ちょうほんにん》への怒りとともに、
コレクターの血が沸き立った。
「は、は、ははは!!」
興奮を面に表して、フリアグネはまた、『ダンスパーティ』を一振りする。
シャナは、また至《し》近《きん》で数体のフィギユアの多重爆発を受けた。
「っうぐ!」
封《ふう》絶《ぜつ》全体を揺るがすような爆風の中、今度は地面を転がって、止《とど》めを剌そうと近付いたフィギュアを一体、起き上がり様《ざま》に斬《き》り捨てる。
「っこの、舐《な》めるな……痛っ!」
そのまま走ろうとしたが、体中を走る激痛に思わず膝《ひざ》をつく。
得意気なフリアグネの声が、その耳に届く。
「はは、素《す》晴《ば》らしい威力だろう、私の『ダンスパーティ』は。燐《りん》子《ね》≠弾《はじ》けさせて、爆弾にする宝具さ!!」
さすがに狩《かり》人《うど》≠フ真《ま》名《な》は、伊《だ》達《て》ではなかった。一筋縄でいかない、どころか宝具を駆《く》使《し》した予想外の攻撃ばかりを繰り出してくる。
それを思い知ったシャナのわずか後方で、また一体、爆発した。
爆発した場所の意味を、爆発させたフリアグネの意図を、シャナは悟《さと》り、焦《あせ》った。
「っく!!」
そこは、自分と悠二の、ちょうど中間。
爆発の反対側にある悠二は、最初のフィギュアの破《は》裂《れつ》で、すでに路面に突っ伏していた。あとはただ、翻《ほん》弄《ろう》されるだけ。頬《ほお》を路面で削《けず》るように、爆風に引きずられる。
「……ッカ、ハ……!!」
と、突然、その悠二の周り、息もできない衝撃《しょうげき》が、消えた。
不審に思い、目を開けると、自分の周りに、小さな見えないドームでもあるかのように、爆風と猛《もう》火《か》が避けて通っていた。
「…………?」
その現象の理由が、目の前にある。
見慣れた、存在感が地に根を張っているような、力強い足ではない。
気の抜けた風船が地に漂《ただよ》っているような、あやふやな輝きを持つ、全《すべ》てが純白の足。
調子っ外《ぱず》れな、好奇心を顕《あら》わにした声が、頭上からかかった。
「……中に、なにが、あるのかな?」
耽《たん》溺《でき》の愉《ゆ》悦《えつ》に美《び》麗《れい》の容《よう》貌《ぼう》を歪《ゆが》める狩《かり》人《うど》≠ェ、悠二の目の前にいた。
その背後から、銀光が迫る。
炎《えん》髪《ぱつ》を爆風に流し、灼眼《しゃくがん》で獲《え》物《もの》を捕らえるシャナ、横|薙《な》ぎ必殺の一刀。
その軌道に、
フリアグネは首を鷲《わし》づかみにした悠二を、無造作に突き出していた。
これまでにないことが起こった。
シャナが、躊躇《ちゅうちょ》した。
大《おお》太《だ》刀《ち》の運びを一瞬、止めてしまっていた。
「っ!?」
彼女は、驚き、戸《と》惑《まど》う。
その一瞬の間に、フリアグネは悠二を連れて飛び上がっていた。
「は……はは、はははははは!!」
フリアグネは、全く予想外の展開を、狂った音程で嘲《あざ》笑《わら》う。彼女に斬《き》らせて、その隙《すき》に中の宝《ほう》具《ぐ》を持ち去ろうとしただけなのに。このミステス≠フ消滅と中の宝具の奪い合いを天《てん》秤《びん》にかけた、互いの秘技の応酬《おうしゅう》にこそ、備えていたというのに。
まさか、まさかフレイムヘイズが刃を止めるとは[#「フレイムヘイズが刃を止めるとは」に傍点]!!
おかしくてたまらない。このミステス≠ノは、どうやら利用価値がありそうだった。
「ははは! アラストールのフレイムヘイズ! まだ戦う気があるのなら、このミステス≠ェ惜《お》しければ、街の一番高い場所まで来るがいい……最高の舞台を用意して持っているよ!!」
その飛《ひ》翔《しょう》に絞《こう》首《しゅ》刑《けい》のように吊られ、苦《く》悶《もん》する悠二の眼に、一つの顔が焼きついていた。
シャナの躊躇、その一瞬後の、顔が。
凄《そう》絶《ぜつ》な、後悔の表情。
炎髪灼眼の討《う》ち手たる自分自身への、怒りと失望の表情。
「っ――!!」
どういうわけか、悠《ゆう》二《じ》は絶叫していた。首を掴《つか》まれている苦しさも忘れて。
「―――――――――!!」
助けを求めたわけでも、恐怖を声にしたわけでもない。
シャナのことを、意味をなさない、ただ感情を声に変えた叫びを、あげていた。
その様《さま》を嘲笑《ちょうしょう》するフリアグネが、自分の力を消費して行っていた封《ふう》絶《ぜつ》を解く。
そして、ハンドベルを振った。
「っくく、そぉれ!!」
動き出した世界の中、遠ざかるシャナの小さな姿を中心に、残ったフィギュアたちが一《いっ》斉《せい》に弾《はじ》けた。大爆発が起こり、路地を炎《ほのお》で埋《う》め、ビルを一瞬で砕《くだ》いた。
市街を襲う轟《ごう》音《おん》に、悠二の叫びは掻《か》き消され、
やがて、枯《か》れた息とともに意識は闇《やみ》に沈んだ。
5 フレイムヘイズ
思ってしまった。
アラストールのフレイムヘイズが。
ずっと一緒にいてほしい[#「ずっと一緒にいてほしい」に傍点]と。なくしたくないと。
そう、少しでも、思ってしまった。
思ってしまっていた。
そのことが、恐さを生んだ。
ふと、大《おお》太《だ》刀《ち》を止めてしまうほどの、恐さを。
でも、私は、アラストールのフレイムヘイズ。
私がそうあるよう望んだ、だからある存在。
それが、全《すべ》て。それが、私。
私がそうあるよう望んだ、だからある存在として、私は選ぶ。
戦うと。
でも、あのミステス≠ヘ、どう言うだろう。
助けて、と言うだろうか。
あのミステス≠ノ、助けて、と言われたら。
私は、どうするだろうか。
大丈夫、フレイムヘイズとして、戦う。
『シャナ、アラストール、あんたたちも、僕が利用できるというなら、そうするのがいい』
なんて言葉。でも、私はそれに、なんと答えたか。
そう、
『うん』
と答えていた。
そうだ、そういうことなのだ。
私がそうあるよう望んだ、だからある存在として、私は選ぶ。
戦うと。
そのはずだ。
でも、とても恐い。
恐い、この私が、恐い。
でも、恐いなら、覚《かく》悟《ご》しよう。
私は、戦うことを、覚悟しよう。
私は、アラストールのフレイムヘイズ。
私がそうあるよう望んだ、だからある存在。
……
戦うよ?
なにを、言うつもり?
私は、戦うよ?
でも、胸が、すごく痛いよ。
……悠《ゆう》二《じ》。
市街地と住宅地を結ぶ大鉄橋の袂《たもと》に、周囲から頭一つ抜いて、高くそびえるデパートがある。
正確には元デパートで、今現在、営業しているのは地下街の一部となっている食品売り場だけ。地上部分は親会社の事業|撤《てっ》退《たい》で放《ほう》棄《き》されていた。不況下で新たなテナントも入らず、徒《いたずら》に高いだけのビルは完全に空家である。
もっとも、それは人間にとっての話。
地上階の中ほどから上は、フリアグネ一党が運び込んだ無数の玩《おも》具《ちゃ》や雑多な道具類によって埋《う》め尽くされていた。普段は、その合間や上を燐《りん》子《ね》≠ェゆらゆらと彷徨《さまよ》っているところだが、今は完全な闇《やみ》に閉ざされている。
一党は全員、屋上の寂《さ》びれた遊戯場に集《つど》っていた。
破れた丸テントや錆《さ》び付いたレール、朽《く》ちたカート、雨水を溜めたアイスボックス……それら、楽しさの廃《はい》墟《きょ》の中に、背景用の壁が取り払われた、アトラクション用の舞台がある。
屋上の端《はし》でもある、そのあちこち破れ窪《くぼ》んだ舞台からは、活力を表す市街地、団《だん》欒《らん》を浮かべる住宅地、カーランプを行き来させる御《み》崎《さき》大《おお》橋《はし》とその下を滔《とう》々《とう》と流れる真《ま》南《な》川、全《すべ》てが一望できる。
その御崎市の頂点とも言える夜の舞台上に、整列するモノたちがいる。
マネキン人形の群れだった。
これらはもちろん、フリアグネの燐子≠ナある。皆、凹凸だけの顔と抜群のスタイルを、とりどりの様式と色彩によるウェディングドレスで着飾っていた。
きらびやかさ以外、何も求められないドレスを着たマネキンが、夜風の中、身動き一つせず無言で居並ぶ様《さま》は、まるで悪夢の中のファッションショーのようだった。
それらが薄く明かりを受ける夜景は、時が経《た》つにつれ、風が行くにつれ、疎《まば》らになってゆく。
ただ静かに、夜が更けてゆく。
その同じ、吹きさらしの舞台の片隅に、悠《ゆう》二《じ》も座り込んでいた。もう何時間も、人ならぬ人垣の合間から洩《も》れる灯《あかり》に、ぼんやりと向かい合っている。
拘《こう》束《そく》さえされていない。無力なミステス£度に、そんなものは無用ということだろう。フリアグネは彼を軽く扱っていた。彼という存在がまだある、それが何よりの証《あかし》だ。
ここで意識を取り戻した悠二は、すぐにでも自分の中の宝《ほう》具《ぐ》を取り出され、消滅させられるのでは、と構えたが、彼を見下ろしたフリアグネは、薄笑いとともに、こう告げた。
『君の目の前であの子を殺す、あるいは、その逆になるかもしれないが……いずれにせよ、ただ戦うだけじゃあ、物足りない。私の邪《じゃ》魔《ま》をしてくれた報いを、戦うだけではない苦しみを、誰かが昧わうのを見なければ気が済まない……』
薄笑いの向こうには、まさに炎《ほのお》のような怒りがちらついていた。
そして悠二は、そう告げられてからずっと、穴も空《あ》きそうな舞台の上に座り込んでいる。
頭の中では、あの少女が最後に見せた表情が、ぐるぐると回り続けていた。
まず斬《き》って、中の宝具をフリアグネから守って、その後で治《なお》す、そうすればよかったのだ。
最初に会ったときは、そうしていた。
自分は、一個のトーチに過ぎない存在なのだから。
ただ、身の内に宝具を秘めたミステス≠ニいう変わり種だった。
そう、それだけ。
それだけに過ぎなかった、はずなのに。
大《おお》太《だ》刀《ち》が、止まった。
止まってしまった。
変えてしまったのだ、自分が、彼女を。
(僕が、あんな顔をさせてしまったんだ)
悠《ゆう》二《じ》はそのことを、どうしようもなく重く感じていた。自分のことになど、頭が回らない。いや、これは……彼女が変わったことは、自分の問題なのだ。彼女を変えてしまった、彼女にあんな顔をさせてしまった自分の問題なのだ。
ほんの一瞬の気の迷いだったとしても、止まってくれたこと自体は、嬉《うれ》しかった。抱きしめたいほどの愛《いと》おしささえ覚える。
(でも、それはそれ、だ)
あのときの彼女の顔。
あれは、己の本質を揺《ゆ》るがされたことへの驚き、変わってしまった自分への怒り、そうさせたものへの恐怖、そして、取った行動への後悔と失望……それらを感じてしまった顔だった。
(なんてこった)
と思う。どんなひどいことをするよりも、されるよりも、堪えた。
そうさせてしまった自分が、彼女に、今さらでもしてやれる……いや、すべきことはあるか。
ある。
それは、彼女を、彼女として。
フレイムヘイズたる彼女を、フレイムヘイズたる彼女として。
彼女が、その自分を貫き通し、これからも強く生きていけるように。
せめて自分が、そんな彼女の強さを受け入れる覚《かく》悟《ご》を持っている、と伝えるのだ。
大丈夫だと[#「大丈夫だと」に傍点]。
(……やれやれ)
悠二は、危うく浮かべそうになった苦笑を何とか鎮《しず》める。
(ずいぶんとしょってるなあ、僕は)
また風が一《いち》陣《じん》吹いて、古い舞台が軋《きし》みを上げる。
それに釣《つ》られてか、マネキンたちの向く先、屋上の手すりの上に純白の姿を立たせるフリアグネが、首を傾《かし》げ、言った。
「……来ないね……?」
その一番近くに立つ、純白のウェディングドレスで着飾ったマネキンが、あのマリアンヌとかいった人形の声で言う。
「ご主人様。もしかして、先の爆発で死んでしまったのでは……?」
フリアグネはそれに、蕩《とろ》けるような甘い顔を向けて答える。
「舐《な》めては駄《だ》目《め》だよ、マリアンヌ。あの[#「あの」に傍点]アラストールのフレイムヘイズだ、生きているのは間違いない。それよりも考えられるのは、怖《おじ》気《け》づいて逃げ出したってことだろうね……コレを見捨てて」
この嘲弄《ちょうろう》に、しかし悠《ゆう》二《じ》は反応しない。
フリアグネは肩をすくめて、つまらなさそうな表情を見せる。
「……ふう、張り合いのない奴《やつ》だなあ。せっかく色んな宝《ほう》具《ぐ》をそろえておもてなしの用意をしていたのに、残念だよ」
突然、長《ちょう》衣《い》を広げて悠二の前に降り立った。いたずらを企《たくら》む悪ガキのような顔を近づける。その両手には、いつしか宝具が現れている。
右手には銃、左手には指輪。
「この二つ、なんだか分かるかい?」
フリアグネは左手薬指、手袋の上からはめられた銀色の指輪をかざす。
自分が集めた珍品を他者にひけらかし、お喋《しゃべ》りをするのが楽しいらしい。コレクターにはありがちな性格だった。自分が消されていないのは、実はこっちの理由によるところが大きいのではないか、と悠二は勘《かん》繰った。
「これは『アズュール』っていう、火|除《よ》けの指輪なんだ。さっきの爆発や、フレイムヘイズの炎《ほのお》を防ぐ……もっとも、あの子には使うまでもないけれど」
今度は、右手に握《にぎ》った銃の筒《つつ》先《さき》を、悠二の眉《み》間《けん》に突き付ける。ひどく古臭い、西部劇にでも出てきそうなフォルムのリボルバーだった。
「で、これが真《しん》打《うち》。百年くらい前に作られた、物|凄《すご》い宝具なんだ。『トリガーハッピー』って言ってね……私の愛銃さ」
その言葉の意味からすると恐ろしい状況で、フリアグネは得意気に説明を続ける。
「ほうら、ご覧の通り、弾はない」
と弾倉を横に出して見せる。六つの穴の向こうに、フリアグネの顔が見えた。
「けど、この銃の形はただの、撃つという行為を表すための様式さ。弾なんかいらない。撃つ意思を持つ者が使えば、いくらでも撃てる。その効果は……なんだと思う?」
不気味で薄い笑みを作りつつ、手首を返して弾倉を直す。
「実は」
と、一秒も置かずに秘密を明かしにかかる。自慢したくて仕《し》様《よう》がないのだ。
「この銃は、対フレイムヘイズ用の宝具なんだよ……っはは!」
悠二は内心の衝撃《しょうげき》を、辛《かろ》うじて隠した。
フリアグネは突然、深刻な面持ちとなる。相手のことなど考えない、自己満足のための説明。
「フレイムヘイズは、契約者が『過去・現在・未来』で自分が占めるはずだった存在の全《すべ》てを王≠ノ捧《ささ》げ、かわりに王≠ェ、空っぽになった契約者という器に、その力を満たすことで出来上がる」
悠《ゆう》二《じ》にとっては、意外に興味をそそられる内容だった。
「そうやって王≠フ力を得た契約者は、持てる意思力と技量で王≠フ力をこの世に引き出す。そして、この器の中に入るとき、王≠ヘ己が存在を、その内に収まる程度にまで休眠させるんだけれど、この『トリガーハッピー』は、その休眠を破ることができるんだ。すると、どうなるか、分かるかい?」
「……」
フリアグネは突然、悠二の目の前で、左の握《にぎ》り拳《こぶし》を開く。
「ボン、と器は割れて契約者は爆死する……楽しいだろう?」
にんまり笑うと、フリアグネは銃口を悠二から外《はず》して、天に突き上げる。
悠二はそれを見ないが、フリアグネは構わず続ける。
「そして王≠ヘ、この世に無理矢理に現れることになる。ところが彼らは、この世に在り続けるだけの存在の力≠、そもそも持っていない。だから、両界のバランスを崩《くず》すのを恐れる彼らは、すぐ紅《ぐ》世《ぜ》≠ヨと帰ってしまう……つまり、私の完勝、というわけさ」
と、不意に得意げな笑みが、苦笑に変わる。
「でも、街中でそれをやったらまずいんだ。なんせ、おちびちゃんの中に入っているのは、あの天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストールだ。街中で迂《う》闊《かつ》に器を割って出現させたりしたら、せっかく作ったトーチの多くを吹き飛ばしてしまうほどの大爆発が起きるだろう。だから、わざわざ決闘場を指定したんだ。ここなら、爆発が起こっても市街への被害は最小限で済むし……」
悠二の顎《あご》に、空《あ》いた手を添えて上を向かせる。
「呼びよせるための餌《えさ》として、君も持ってきた」
真夜中の月が、拳銃を手にして目を細める、純白の男の姿を浮かべている。
「そうして、炎《ほのお》も喰らわず、一撃で必殺する私が、確実に完全に、勝利する」
なのに、と一転、への字口を作って、声の調子を落とす。
「あのおちびちゃんの性格なら、すぐにでも追ってくると思ったのに、正直|拍《ひょう》子《し》抜けだよ。あれからトーチを消して引っ掻《か》き回すでもなし……なにを考えてるんだろうね?」
要するに、それが訊《き》きたかったらしいが、もちろん悠二が答えるわけもない。
フリアグネも、さして期待していない。ぴっ、と手を払い、悠二から離れる。
(たしかに、なにを考えてるんだろうな……?)
という悠二の思いは、フリアグネのものとは微《び》妙《みょう》に違う。
実は悠二は、ここに来てから、ずっと感じている。
どきん、どきん、
という、胸を破るほどに、激しい鼓《こ》動《どう》を。
ずっと。近くに。
誰のものかは、分かりきっていた。今の自分には、はっきりと分かる。
彼女だ。
何を狙《ねら》っているのか知らないが、ひたすらに待っているらしい。
(そんなに緊張するなよ)
今度こそ、彼女は思い切りやるだろう。これも、はっきりと分かる。
(だから、緊張してるんだな)
ただ自分を冷《れい》酷《こく》に見捨てるつもりなら、こんなに緊張はしない。
自分に構わず戦うことを決意している、そのことに緊張してくれているのだ。
彼女が戦いで、それ以外の理由で緊張することなどありえない。
嬉《うれ》しかった。
また、笑いを噛《か》み殺す。
(……ふふ、僕も相当、おかしくなってるな……)
彼女が、自分に構わず全力で戦う。
それは、自分が間違いなく、巻き込まれて死ぬ、ということだ。
彼女が、自分を殺してでも戦うと決意している、ということだ。
しかし、それでも嬉しく思う。
彼女が自分を心にかけてくれている。それを実感できる。それを嬉しく思う。
悠二はそういう殺《さつ》伐《ばつ》とし過ぎている、いかにも彼女とのこと≠轤オい自分の気持ちを、ごく自然に受け人れていた。納得さえできる。
(そう、あの子を変えてしまった、その責任というやつ…………、っ?)
今、何かに触れたような気がした。
大事な何かに。
悠二がそれに思いを巡らせようとしたとき、彼女の鼓《こ》動《どう》が、さらに高まった。
(!)
見つけた小さなとっかかりは、感じた鼓動の強さに流され、また胸の奥底に消える。
フリアグネも、何らかの気配を感じ取ったらしい。ぴくりと眉《まゆ》を跳《は》ね上げる。
「ふふ、なにをモタモタしていたのやら……ようやく来たね?」
その体の、薄白い長《ちょう》衣《い》の揺《ゆ》らぎが大きくなる。
「さあ、おまえたちも」
フリアグネが指輪を煌《きらめ》かせる左腕を大きく払うと、長衣の影から様式も形状もまちまちな剣が数十本飛び出し、舞台の床に深く突き立った。
ウェディングドレスを着込んだマネキンたちが不気味に動いて、各々剣を取り、戦闘体勢を整えていく。
その中で、マリアンヌだけが動かず、その場に佇《たたず》んでいる。
まるで、そんなものは必要ないとでも言わんばかりに。
フリアグネは、その傍《かたわ》らに進み、陶《とう》然《ぜん》とした顔で語りかける。
「マリアンヌ、もうすぐ君を、一個の存在にしてあげることができるよ……君と私と、いつまでもいつまでも、一緒に生きよう」
マリアンヌは、一言だけで答える。
「ご主人様」
フリアグネは『トリガーハッピー』を待った手で純白の花嫁・マリアンヌを抱き寄せ、もう片方の手を、夜景に向かって突き出した。
その指先には、あの燐《りん》子《ね》≠爆発させるハンドベルがある。
戦闘準備は万全、というわけだった。
その両脇に、剣を掲げたウエディングドレスのマネキンたちを傅《かしづ》かせ、舞台の中央で花嫁を抱く優美な長身が、告げる。
「さて……炎《えん》髪《ぱつ》の子|獅《し》子《し》を、狩るとしようか」
悠《ゆう》二《じ》は、戦いの始まりを、感じる。
非力な自分を巻き込むに違いない戦いの、始まりを。
(さあ)
しかし、その顔には、笑みが浮かんでいた。
強烈な期待と欲求の、笑みが。
彼の目の前に来る、少女への期待と欲求の、笑みが。
(やれ!)
ただそれだけが、心を満たす。
自身気付かない、少女と同じ強い笑みが、悠二の満面に刻まれていた。
(いいから、思い切り、やれ!!)
感じた。
少女が答えるように、鼓《こ》動《どう》を痛いほどに早く、大きくする。
そして、
(来た!!)
舞台の、フリアグネたちの、真正面。
煌《きらめ》く夜景を背に、飛び上がった。
灼眼《しゃくがん》が、狩《かり》人《うど》≠、居並ぶマネキンたちを、出迎えのように眸《へい》睨《げい》する。
炎髪が、舞い咲く火の粉《こ》を流星の尾のように引く。
黒《こく》衣《い》がなびき、大《おお》太《だ》刀《ち》が閃《ひらめ》く。
それは、アラストールのフレイムヘイズ。
「シャナ!!」
悠二は、一声だけ。
「銃に当たるな!!」
その叫びが、マネキンの蹴《け》りで途切れた。
「……」
その声を聞いたシャナは、笑った。
泣きそうなほどに強く、燃えそうなほどに強く。
「……っはは!!」
「む、『フレイムヘイズ殺し』の宝《ほう》具《ぐ》か」
その胸元、夜光をコキュートス≠ノ受けるアラストールが、状況を理解する。
屋上に着地したシャナは頷《うなず》いて、しかし悠《ゆう》二《じ》を助けになど行かない。
(私がそうであるよう望んだ、だからある存在として、私は選ぶ)
悠二の意思も、全《すべ》て感じた。
決意も覚《かく》悟《ご》も嬉《うれ》しさも……そして、それらを生み出す、小さな一つの気持ちも、感じた。
(戦う、と!!)
もはや、自分のやるべきことを、
マネキンたちの向こうに下がる狩《かり》人《うど》<tリアグネを追う。
それだけだった。
フリアグネの銃口が自分を指向したと見るや、シャナは横っ飛びに飛んだ。残した火の粉《こ》を
貫いて飛ぶ弾丸を肩の横にすかすと、地を踏《ふ》んで足裏を爆発させる。大《おお》太《だ》刀《ち》、必殺の刺《し》突《とつ》が狩《かり》人《うど》≠ノ向かう。
が、その前をマネキンが塞《ふさ》いだ。
「っ邪《じゃ》魔《ま》!!」
攻撃は止まらず、足は留まらない。マネキンを大太刀でぶち抜くと、そのまま横に引き裂《さ》いて刀身を抜き、影から撃って来るフリアグネの第二弾から逃れる。その横|斬《き》り体勢のまま半回転、背後の一体の首を斬り飛ばす。
フリアグネは、その間にシャナとの距離を取っていた。今度はハンドベルを振る。
「弾《はじ》けろ!」
前方からシャナに追っていたマネキンが一体、凝縮《ぎょうしゅく》し、爆発した。
シャナは、これを前に[#「前に」に傍点]跳躍して、かわした。爆風が背を襲い、同時に前へと加速させる。
「!?」
驚いたフリアグネは、別のマネキンの影に、飛んで逃れる。
そのマネキンが、ブーケと一緒に握《にぎ》った剣を振ってシャナに迫る。
「っち!!」
舌打ちしてシャナはマネキンの胴を断ち切り、またすぐ低く横に飛ぶ。
半秒前にシャナの体のあった場所を、弾丸が抜けた。
双方とも、悠《ゆう》二《じ》の存在を無視している。
フリアグネは、もう非力なミステス≠ネどに、目もくれない。
シャナはすでに巻き込む覚《かく》悟《ご》の上で戦っている。
「っと!?」
もちろん悠二自身も、そのことを理解している。爆発に紛《まぎ》れて、舞台から転げ落ちた。コンクリートを舐《な》めるように這《は》いつくばった自分の無《ぶ》様《ざま》さに、思わず苦笑が洩《も》れる。なぜか、恐怖は大して感じなかった。
(はは、まったく、格好悪いな)
そのとき、
キーン、とフリアグネのハンドベルが鳴った。
「!」
悠二は、そのベルの音を感じた。
何かを内に秘めたミステス≠スる彼だけが持つ感覚で。
(……なんだ?)
その音には、奇《き》妙《みょう》な違和感があった。
また、キーン、とフリアグネのハンドベルが鳴った。
燐《りん》子《ね》≠ェ爆発した。
頭を低くして、その爆風から逃れる。
(違うぞ、どういうことだ)
今鳴った、二つの音色が、微《び》妙《みょう》に違っていた。
悠《ゆう》二《じ》は、これまで研《と》ぎ澄ましてきた感覚で、その違いの意味を探る。
(鳴らせ!)
鳴った。燐《りん》子《ね》≠ェ爆発して、炎《ほのお》と衝撃《しょうげき》が頭上を抜ける。肩口が熱く焼ける感覚がある。
(くっ、知ったことか……鳴らせ!!)
鳴った。今度は爆発しない。
代わりに、その音色は深く広く、夜を渡ってゆく。
また、鳴った。今度も爆発しない。
ドクン、
と悠二は感じた。感じたものに、そうけだった。
(これは……!)
悠二はこの、感じたものを、知っていた。
トーチの中に点《とも》っていた灯《あかり》、それに宿っていた鼓《こ》動《どう》。
フリアグネはさらに、マネキンを爆発させる以外に、ベルを鳴らし続ける。
その度に、澄んだ音色が御《み》崎《さき》市全域へ、そこにひしめく無数のトーチヘと響き渡ってゆく。
トーチに宿る、弱いものには遅い、強いものには早い鼓動が、それを受けている。
悠二は、自分の鼓動がやはり、その影響を受けないことも感じていたが、そんなこと[#「そんなこと」に傍点]はもう、どうでもよかった。今、御崎市に起きていることを、考えねばならなかった。
(どういう意味が……?)
また一つ、ベルが鳴って、
(!!)
そして今度こそ、悠二はたどり着いた。
トーチに込められていた鼓動が、ベルの音を受けて、加速されていた。
(……そ、そうか)
悠二は戦《せん》慄《りつ》とともに、知った。
目の前で起きている爆発と、本質は同じなのだ。
鼓動が加速される先に、全《すべ》てが同時に迎える、一つの崩壊点があるのだ。
(一《いっ》斉《せい》爆発させるための仕掛けだ!!)
アラストールの声が、脳裏に蘇《よみがえ》る。
『棺《ひつぎ》の織《おり》手《て》≠ヘ、己の喰ったトーチに鍵《かぎ》の糸≠ニいう仕掛けを編み込んでいた。彼奴《きゃつ》の指示一つで、代《だい》替《たい》物《ぶつ》の形《けい》骸《がい》を失って分解し、元の存在の力≠ノ戻るという仕掛けだ』
(単なる分解どころじゃない、爆発だ)
『彼奴《きゃつ》は、潜《ひそ》んだ都の人口の一割を喰らうと、仕掛けを発動させた。トーチは一《いっ》斉《せい》に代《だい》替《たい》物《ぶつ》としての機能を失って元の力へと戻り、偽《ぎ》装《そう》されていた繋《つな》がりを突然大量に失ったその都には、人を物を巻き込む、巨大な世界の揺《ゆ》らぎが生じた』
(感じる、その大きさを……一割に満たなくても、この威力なら)
『その巨大な揺らぎは、トーチの分解に触発され、雪崩《なだれ》を打つように都一つ、丸ごとが莫《ばく》大《だい》かつ高純度な存在の力≠ヨと変じた』
(十分、『都《みやこ》喰《く》らい』を起こせる……!)
あのハンドベル。
あのハンドベルこそが、フリアグネの切り札だったのだ。
(くそっ、狡《こう》猾《かつ》ってのはまさにこいつのことだ!)
連中は一見、戦力を自分で減らすだけでしかない自爆戦法を取り続けている。シャナにとって、フリアグネのハンドベルは、マネキンを爆発させる物でしかない。しかし、実はそれは、ハンドベルを鳴らすことの真意を隠すための偽《ぎ》装《そう》工作だったのだ。フリアグネは、自爆戦法の陰に隠れて、市全域でのトーチ一斉爆発を……『都喰らい』の成就を、着々と進めている。
この狡猾な狩《かり》人《うど》≠ノとっては、前の自爆戦闘さえ、最後の戦いのための伏線だったのだ。
フリアグネは、シャナと戦うために待っていたのではない。
馬鹿正直にハンドベルを使って『都喰らい』を発動させていたら、シャナはそれを、我《が》武《む》者《しゃ》羅《ら》に狙《ねら》ってきただろう。最悪、先手を打って、自分が提案したトーチの消費をどんどんやってしまっていたかもしれない。
だからフリアグネは、まだ『都喰らい』の準備は終わっていない、今は戦いに集中している、そう見せかけるための、隠れ蓑としての戦い[#「隠れ蓑としての戦い」に傍点]を欲していたのだ。
戦意に溢《あふ》れるフレイムヘイズが、目前の戦いを優先させることを見越しての、外《はず》れようのない計略だった。
(僕でなければ、この鼓《こ》動《どう》も、その意味も、感じられなかった……!)
シャナたちは目の前の戦闘に集中している。必殺武器が自分を狙《ねら》っているのだから当然だ。あるいはそれを悠《ゆう》二《じ》にひけらかしたことさえ、計算の内なのか。
(でも……逆転は、できる)
悠二は、目の前の夜景を見る。
今まで、全く気がつかなかったが、フリアグネが行わず、シャナが完全に失念していることを、やればいい。とにかく、ハンドベルの音を街に届かせなければいいのだ。
そのために、行うべきことは、一つ。
(知らせないと!)
それを叫ぼうとした瞬間、至《し》近《きん》で爆発が起こった。
叫びもかき消されて、悠二はコンクリートの床に叩《たた》きつけられた。
「…………っ、っ……!!」
数秒の暗転。悠《ゆう》二《じ》は朦《もう》朧《ろう》とした意識に、なんとか力を込めようと足《あ》掻《が》く。
(せめて、一声だけでも、力が)
助けを求める声ではない、助けるための声を。
(……シャ、ナ……)
あの顔を、見てしまったから。
彼女を変えてしまった、自分の……、
(……)
彼女を、変えた……?
(……ああ、そうか……)
朦朧とした意識の中で、
(僕が、シャナを変えた)
悠二はとうとう見た。
そして掴《つか》んだ。
(ここにいる、僕が[#「ここにいる、僕が」に傍点])
そう、消える運命にある、それがなんだ。
自分が動かなければ、彼女が死ぬかもしれない。
自分が動けば、彼女を助けられるかもしれない。
そういうこと、それだけのこと。
自分が本当に生きているかどうかなんて関係ない。
自分が動くことで、変わるのだ。
そういうこと、それだけのこと。
死んでいる事も、死んだあとの事も、動ける今があるのなら、関係がない。
(生かす、か……なんだ、分かってたんじゃないか……)
倒れる彼を再び爆風が襲い、容《よう》赦《しゃ》なく転がした。
(動こう……ああ、そうとも、動けるさ)
煙に咳《せ》き込み、砂《さ》塵《じん》を噛《か》み、それでも坂《さか》井《い》悠二は、他《ほか》を全《すべ》て捨てて、一声の力を溜める。
自分を、彼女を、生かすために。
すでに残りのマネキンは、四体にまで減っていた。
フリアグネを守る壁も薄い。
実は、悠二に吹聴《ふいちょう》したほどにフリアグネ主従は有利なわけではなかった。それどころか、自分たちが予想した以上の苦戦を強《し》いられていた。
そもそも彼らは、自爆戦法を取る内に『都《みやこ》喰《く》らい』が発動すれば、その混乱に乗じて逃げることさえ考えていた。彼らの目的は、マリアンヌの中にある『転生の自在式』の起動であって、フレイムヘイズとの戦いなど、そのついでに過ぎないのだから。しかし逆に言えば、彼らはその成就のない限り逃げることができない、ということでもあった。そして、何より欲しいその時間が、自分たちの命を守る戦力を目減りさせてしまう。
この苦戦の原因は、簡単に言うと、誤算、だった。
フレイムヘイズ必殺の宝《ほう》具《ぐ》『トリガーハッピー』がヒットしさえすれば終わる、という楽観的な前提を、彼らは持っていたのだ。実際|他《ほか》の、炎《ほのお》を自在に操る強力なフレイムヘイズ[#「強力なフレイムヘイズ」に傍点]相手なら、とっくに勝負はついていたはずだった。
ところが今、勇《ゆう》躍《やく》して彼らに襲い掛かってくる少女は、違っていた。
相性というものの、これは最悪の展開だった。
他のフレイムヘイズなら、まず炎を主力に使ってくる。だから、火《ひ》除《よ》けの指輪『アズュール』でこれを防いでいる内に、必ず隙《すき》ができた。
しかし、この少女、炎も満足に扱えないフレイムヘイズ[#「炎も満足に扱えないフレイムヘイズ」に傍点]は、剣しか使わない。いや、使えない。最初から隙などできようはずもないのだった。そして、その剣の腕、それだけは圧倒的なまでに、強い。
大した敵ではないという認識が、自分たちの優位性が、本来どこに根ざしていたのかを、フリアグネ主従は豊富な経験という名の慣れ[#「豊富な経験という名の慣れ」に傍点]から、見落としていたのだった。
彼らは、苦戦する内にようやくそのことに気付いたが、もはや退《しりぞ》くには遅かった。今や『都《みやこ》喰《く》らい』の発動とフリアグネの命は、ぎりぎりの死線の上で綱引きをしている。絡《から》みに絡めた策《さく》謀《ぼう》が、いつしか自分たちをも束《そく》縛《ばく》してしまっていたのだった。
シャナの方は、全く単純である。どんな企《たくら》みをしていようと、とにかくフリアグネを叩《たた》き潰《つぶ》せば終わりだ、と断定している。目の前の戦闘に勝ちさえすればいい、そう思っている。その単純さが、結果的に戦況を有利に展開させていた。
(……ご主人様)
純白の花嫁が、傍《かたわ》らで、わずかに焦《あせ》りを顔に浮かべる主に語りかける。
(駄《だ》目《め》だ、マリアンヌ)
シャナの踏《ふ》み込んだ先に、またドレスのマネキンが立ちふさがる。
「どけ!!」
強い笑みが浮かぶ。どいつもこいつも、全くの無能だった。剣の腕も力も、せいぜいフリアグネの射撃の援護としてしか使えないような雑《ざ》魚《こ》ばかりで、歯《は》応《ごた》えというものがまるでない。
(しかし、このままでは、ご主人様のお命まで……逃げることも、今となっては至《し》難《なん》の業《わざ》です)
フリアグネが、駄《だ》々《だ》をこねるように首を振る。
(駄《だ》目《め》だ、マリアンヌ!)
マネキンが振り回す剣に、シャナは軽く大《おお》太《だ》刀《ち》を合わせてその切っ先を巻き込み、刃《やいば》を逸《そ》らす。その間《かん》隙《げき》に踏《ふ》み込んで、肩から一撃、体当たりを喰らわせる。
「っは!」
吹っ飛ぶマネキンを、返し太《た》刀《ち》で二つに斬《き》って飛ばす。
(ご主人様が討《う》ち滅ぼされれば、私も生きてはいられません……しかし、その逆は違います)
純白の花嫁、その内にある愛《いと》しいぬいぐるみに、哀願するように顔を向ける。
(駄目だ、マリアンヌ!!)
マネキンたちの剣にも、それぞれ曰《いわ》くや特別な効果があるのだろうが、シャナが持つ神《じん》通《つう》無《む》比《ひ》の大太刀『贅殿遮那《にえとののしゃな》』は、そういう力《ちから》を全《すべ》て打ち消す、ある意味最強の武器だった。特定の、あの武器殺しの宝《ほう》具《ぐ》でもなければ、何も恐れることはない。
「あと三つ!!」
ただの剣術でも、こんな闇《やみ》雲《くも》に突っ掛かってくるだけの、動きにくそうな格好の人形に遅れをとるわけもない。
(マリアンヌ、私は君のために、全《すべ》てを……!!)
二人の夢の姿、マリアンヌの花嫁|衣《い》裳《しょう》。その白絹の手袋に包まれた左手が、フリアグネの泣き顔に触れ、右手がハンドベルに添えられた。ベルを、揺《ゆ》らす。
(ええ、ご主人様……私も、同じなのです……それができることを、私は嬉《うれ》しく思っています)
シャナの前に映る、残と二体のマネキン、その内の、前に立ちふさがる二体が凝縮《ぎょうしゅく》する。しかし、もうその手は通じない。
「むっ!」
シャナは爆発に備えるため、黒《こく》衣《い》の裾《すそ》を、幾《いく》重《え》にも身の回りに巻いた。フリアグネの銃撃の目標にならないよう、ステップを横に踏《ふ》む。凄《すさ》まじい爆発の衝撃《しょうげき》に叩《たた》かれ、黒い筒《つつ》のように転がるが、傷というほどのものは負わなかった。素早く体勢を立て直す。
(ご主人様の持つ、オリジナルの自在式があれば大丈夫、同じ式で組み立てられた私の修復も可能でしょう)
できるかどうかも分からないことを、それでもマリアンヌは口にして、駆《か》け出した。
(マリアンヌ!!)
黒《こく》衣《い》の防《ぼう》御《ぎょ》を解いたシャナの正面、爆発の真中から、純白のウェディングドレスを来たマネキンが突然、猛《もう》進《しん》してきた。
しかし、
(破れかぶれ!)
とシャナは判断した。後続はない。この一体だけ。しかも、このマネキンは何も持っていない。爆発するつもりだとしても、その前に、斬《き》る。
斬れば、火花となって散る。爆発は起こらない。
(きっと、修復してください。約束ですよ、ご主人様……私も、あなた[#「あなた」に傍点]と……)
誓うことで、マリアンヌは、愛する主を守るための行動を、許してもらう。
誓いの履《り》行《こう》など、重要ではなかった。
主のためにできること全《すべ》て、今こそがまさにその、全て。
(マリアンヌ!!)
シャナの大《おお》太《だ》刀《ち》が、真正面から純白の花嫁を両断した。
これで、爆発はしない。
「あとは……!」
フリアグネだけ。
シャナは、真っ二つになったマネキンの間を抜けるように、前に踏《ふ》み出した。
その、わずか一歩の、油断。
(ご主人様のために……それ[#「それ」に傍点]が、欲しかったのよ!!)
分かれたマネキンの休の中から、伸びた。
金の鎖《くさり》が。
「う?」
シャナが思わずかざした刀身に、がりり、とそれは絡《から》み付いていた。
散った薄白い火の粉《こ》の中から、粗《そ》末《まつ》な人形の燐《りん》子《ね》<}リアンヌが現れた。その手からは、武器殺しの宝《ほう》具《ぐ》『バブルルート』が伸びている。
シャナは、彼女が最初のときのように、体を二重に持っていたことを思い出し、焦《あせ》った。
「っく、しまった!?」
「フリアグネ様[#「フリアグネ様」に傍点]!!」
魂《たましい》の叫びが、想い人を動かした。
「マリアンヌ!!」
ハンドベルが、鳴る。
(まずい!!)
シャナはとっさに、人形に引き寄せられる大《おお》太《だ》刀《ち》から手を放す。
マリアンヌが凝縮《ぎょうしゅく》し、シャナを至《し》近《きん》からの爆発で吹き飛ばした。
破裂の余韻を残す夜気の中、
「……う、う……」
金網も吹き飛んだ屋上の縁で、ぼろぼろになって膝《ひざ》をつくシャナは、鳴《お》咽《えつ》を聞く。
「……ううう、うう……私のマリアンヌ……私の、マリアンヌ!!」
嗚咽は、銃口の向こうから来ていた。
眉《み》間《けん》に突きつけられた銃口の向こうで、白い幽《ゆう》鬼《き》のように立つフリアグネが、泣いていた。
「できるとも、するとも、マリアンヌ! ここで得られる力、全《すべ》てを使ってでも、君を蘇《よみがえ》らせてみせる……そして」
その右手には、フレイムヘイズ必殺の銃、『トリガーハッピー』が握《にぎ》られている。
「この世で一個の存在にしてみせる!!」
その左手には、『都《みやこ》喰《く》らい』を起こすハンドベル、『ダンスパーティ』が握られている。
「……そして、いつまでも二人で生きよう、二人で……」
フリアグネは、噴出する悲しみに狂喜を混ぜた。
差し出す銃口の前に、ぼろぼろになって膝《ひざz》をつく、憎きフレイムヘイズがいる。
秘法『都喰らい』は、最後の仕上げ、一打ち、二打ちを残すまでになっている。
右手と、左手。
フレイムヘイズ殺しと、『都喰らい』の成就。
フリアグネは、邪《じゃ》魔《ま》者を排除し、愛する者の復活を望む。
「……だから、まず、死ね」
満面を満たす悲しみと狂喜に、さらに怒りが混じる。
トリガーにかけられた指に、力が籠《こ》もる。
「フレイムヘイズ……この、討滅の道具が!!」
「……っ!!」
シャナは全身を苛《さいな》む激痛の中、歯《は》噛《が》みする。
さっきの燐《りん》子《ね》≠フ爆発を至近に受けて、体はぼろぼろだった。もう、走るどころか、立ち上がることさえできない。腕も、せいぜい一撃の力が残っている程度。しかも手には大《おお》太《だ》刀《ち》がない。眉《み》間《けん》に必殺武器が突きつけられている。
(……なにも、できない……!?)
苛《いら》立《だ》ちと怒りが立ちのぼる。しかし今、何をなすべきか、それさえ分からない。
そのとき、
「封《ふう》絶《ぜつ》だ!!」
瓦《が》礫《れき》の中から這《は》い出た悠《ゆう》二《じ》の叫びが上がった。
「っな!!」
フリアグネが、その突然の声に、彼の企《たくら》みを看破した声に、驚愕《きょうがく》した。わずかに視線が悠二の方へと流れる。
その、ほんのわずかな間に、シャナは悠二の指示を実行していた。
「……!!」
灼眼《しゃくがん》が、力を振り絞《しぼ》る。
紅《ぐ》蓮《れん》の猛《もう》火《か》が視界を埋《う》め、彼らをこの世の因《いん》果《が》から孤立させる。
御《み》崎《さき》市を揺《ゆ》るがすハンドベル『ダンスパーティ』の音は、もう外に届かない。
(奴《やつ》の企み、封絶、何《な》故《ぜ》まだベルを持ってる、トーチの鼓《こ》動《どう》、燐《りん》子《ね》≠フ爆発、狙《ねら》いは!!)
シャナは封絶の意味を、フリアグネの思惑を、流れるような思考の末に、悟《さと》る。
「止《や》め…!!」
フリアグネが制止の声をかけ、トリガーに力を込めた。
刹《せつ》那《な》、
「っはあ!!」
シャナは、自分に残された最後の力で、床にあったガラスの破片を掴《つか》み一《いっ》閃《せん》、斬《き》っていた。
目の前にあるものは、二つ。
自分の命を確実に奪うだろう、銃を握《にぎ》った右手。
悠二が叫んだことの意味、ハンドベルを持つ左手。
「そう。私はフレイムヘイズよ」
シャナは、自身を誇り、斬っていた。
左手を。
ハンドベルを。
宙高くばらける指とともに、ハンドベルが、真っ二つになっていた。
「き」
フリアグネは、ばらけ飛ぶ自分の指と、秘宝『ダンスパーティ』を、見る。
「っ」
この光景の意味を、理解する。
もう、封《ふう》絶《ぜつ》が解けても、意味がない。
計画を、『都《みやこ》喰《く》らい』を、発動できない。
マリアンヌも、帰ってこない。
自分と、マリアンヌの、永遠も。
全《すべ》てが、潰《つい》えた。
「っあああああああああ!!」
フリアグネは何もかも、全《すべ》ての感情を乗せた絶叫をあげ、トリガーを絞《しぼ》った。
悠《ゆう》二《じ》は、シャナを見て、笑っていた。
シャナも、悠二を見て、笑って撃たれた。
二人は、叫びの意味を、取った行動の意味を、全て理解し合って、
笑っていた。
そして、胸の中央に弾丸を受けたシャナの体が、屋上の縁から、落ちた。
彼女の張った封絶が、解けた。
彼女の体が、再び動き出した世界へ、
震源を失い、鼓《こ》動《どう》を収束《しゅうそく》させた街へ、
デパートの背後に流れる真《ま》南《な》川へと、
炎《えん》髪《ぱつ》から火の粉《こ》を舞い散らせて、落ちてゆく。
「こわれてしまえ!! ばくはつしろ!! すべて!! すべてえ!!」
あらん限りの声で、フリアグネは狂気の悲鳴を上げる。
御《み》崎《さき》市の、まさに中心である真《ま》南《な》川。
天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストール、一瞬の顕《けん》現《げん》による大爆発が、どれほどの破壊を街に人にトーチにもたらすことになろうと……もう、どうでもよかった。
その狂乱の中、
「…………?」
フリアグネは、予想外の光景を見た。
彼女が落ちたらしい、遙《はる》か下方、真南川の水《みな》面《も》。
そこに、赤い火の粉《こ》からなる波《は》紋《もん》ができた。
そしてそれが、広がる。
河《か》川《せん》敷《じき》を越えて堤防を登り、
鉄橋を包んで市街へ伸び、
住宅地を覆《おお》い道を走り、
遠く遠くへと赤い波紋は広がってゆき、
それが地平線に達した瞬間、
一気に燃え上がった。
御崎市の全域を巻き込んで燃え上がった、
炎《ほのお》の色は、紅《ぐ》蓮《れん》。
悠《ゆう》二《じ》は、この感触を、知っていた。
「……封《ふう》絶《ぜつ》……?」
夜景に遠く、星空を歪《ゆが》ませて、凄まじい陽《かげ》炎《ろう》が濛《もう》々《もう》と上がっている。
地面に広く、全《すべ》てを捉《とら》えて、奇《き》怪《かい》な紋章《もんしょう》が火線で描かれている。
巨大な、あまりに巨大な封絶が、御崎市全域を覆っていた。
そしてその中心、これだけは本当に燃え上がっていた真南川の広い水面から、
ゆっくりと、それ[#「それ」に傍点]が身を起こした。
屋上を見下ろすほどに巨大な、それ。
「……狩《かり》人《うど》<tリアグネ……」
名を呼ばれたフリアグネは、その遠雷のような轟《とどろ》きに、縛《しば》られたかのように立ち尽くした。
瓦《が》礫《れき》の中でへたり込む悠二は、その轟きの元となった声を、知っていた。
「ア、アラス……トール?」
巨大な、漆《しっ》黒《こく》の塊《かたまり》を奥に秘めた灼熱《しゃくねつ》の衣たる炎《ほのお》が、何かの形を取っている。大きすぎて、全体の形が分からない。屋上を、身を屈《かが》めて覗《のぞ》き込んでいるらしい。視界の前一面を広く覆《おお》っているのは翼か。
あまりに圧倒的な紅《ぐ》世《ぜ》の王=c…天壌《てんじょう》の劫《ごう》火《か》<Aラストール、その顕《けん》現《げん》だった。
「……己が持てる宝《ほう》具《ぐ》を弄《もてあそ》んだがゆえに、墓穴を掘った愚かな王≠諱c…」
再び、腹の底を震わせるような、重く低い声が轟《とどろ》く。
「……その宝具……我が身を目覚めさせることで、契約者の器を破壊するものだったとは……恐れ、かわしていたことも、今となっては笑うべきか……いや[#「いや」に傍点]……」
わずかに苦笑らしき轟きを声の端《はし》に残すと、アラストールは、辛《かろ》うじて腕と分かる炎《ほのお》の塊《かたまり》を、屋上に立ち尽くすフリアグネに向けた。それにつれて、凄《すさ》まじい熱波が、全《すべ》てを焼き付かせるように襲ってくる。
「……貴様には、我が身の顕現が、何を意味するか分かるか……? 我が身が目覚めてなお、我がここに顕現し続けていられる理由が分かるか……? その宝具による小《こ》細《ざい》工《く》は、他《ほか》のフレイムヘイズには通じても、この子には効かぬ……」
アラストールは、己を宿した少女を傲《ごう》然《ぜん》と誇る。
「この子、本来の末は……後世に名を刻む芸術家か、万《ばん》民《みん》を動かす政治家か、勇を戦場に馳《は》せる武人か、悪業人心に轟かす咎《とが》人《にん》か……あるいは、それらの母か……この子は、この子こそは、我天壌の劫火≠フ王たる存在≠容れるに足る器を時空に広げる『偉大なる者』なのだ」
フリアグネには、もはやその説明を理解できるだけの余《よ》裕《ゆう》がない。己をじわりと焦《こ》がす熱波の中、そびえるそれを、表情の抜け落ちた顔で見上げている。
「……この天壌の劫火≠ェ、契約者を選ばぬとでも思ったか……」
この世に顕現した本物の灼眼《しゃくがん》が、愚かな王≠睨《にら》み据《す》えた。感情を顕《あら》わにさせてもらえるほど、身動きを許してもらえるほど、その威圧感は弱くはなかった。
「受けよ……報《むく》いの、火を」
その、吐《と》息《いき》の一《ひと》撫《な》で。
たったそれだけで、デパートの屋上が、丸ごと吹き飛ばされた。
悠《ゆう》二《じ》は一瞬、フリアグネの細い輪《りん》郭《かく》が砕けたのを、
薄白い炎が鳥の形を取って、紅《ぐ》蓮《れん》の炎に押し潰《つぶ》され、流されていくのを、見た気がした。
彼の、こぼれるように小さな断《だん》末《まつ》魔《ま》は、一つの名前だったが、
それを聞いた者はなかった。
復元を終え、封《ふう》絶《ぜつ》が解かれたデパートの屋上で、悠《ゆう》二《じ》は今まさに燃え尽きつつあった。
弱々しく、ところどころ輪《りん》郭《かく》も薄れる体を仰《あお》向《む》けに寝かせ、右手を胸の前にかぎしている。
(……凄《すご》いんだな、アラストールって……フリアグネの奴《やつ》、フレイムヘイズの火は防げる、って言ってたのに)
「この、有様、か……」
誰にともなく、声を出す。
自分が、まだここにいることを確かめるように。
悠《ゆう》二《じ》はその右手に、斬《き》り飛ばされたフリアグネの指を……正確には、指が火の粉《こ》となって散った後に残された、火|除《よ》けの指輪『アズュール』を握《にぎ》っていた。
彼の前にそれが降ってきたのは偶然か、それともシャナの執念《しゅうねん》のおこぼれか……まあ、どっちでもいい。
その、揺《ゆ》らいで落ちそうになった手を、誰かが取った。
悠二は目線だけで、その誰かを見る。
「……やあ」
黒《こく》衣《い》の襟《えり》元《もと》をきっちりと合わせた、傷も治《なお》っているらしいシャナが、傍《かたわ》らに座っていた。背後には、いつ回収したのか、大《おお》太《だ》刀《ち》が突き立っている。
わずかに前|屈《かが》みになって自分を見つめるその表情は、険《けん》の取れた穏やかなもの。なんの名残《なごり》か、黒髪が幾筋か頬《ほお》でほつれていた。
(……綺《き》麗《れい》だな……)
と悠二は素直に思った。その陶《とう》然《ぜん》とした気持ちのまま、言う。
「……どうだい? 僕、治せる?」
シャナはゆっくりと、首を振る。
再び彼女の内に戻ったアラストールが、胸元のコキュートス≠介して告げる。
「もはや残り火とも言えぬ。消えつつある陽《かげ》炎《ろう》だ……我らと意識を交えることができるのは、貴様が我らと長く接していた、その余《よ》禄《ろく》に過ぎぬ」
「そう、か」
案外、気持ちは静かだった。まあ、戦いに踏《ふ》み込んだとき、すでに決心はついていた。
そんなことより[#「そんなことより」に傍点]、
「シャナ」
「なに」
「ずっと考えてたことの答えが……やっと出たよ……消えてしまういつか、なんて、どうでもよかったんだ……今いる僕がなにをするか、だったんだ」
「……」
途切れ途切れの声が紡《つむ》がれていくのを、シャナは静かに待つ。
「……自分が何者でも、どうなろうと、ただやる、それだけだったんだ……」
言葉が終わったと見るや、
「バカな悩み」
とシャナは、いつもの調子で斬《き》り捨てた。
「そうだな……やったことも、あんまり格好よくなかったし」
悠《ゆう》二《じ》は、笑った。自《じ》嘲《ちょう》ではない。
「うん、格好悪かった」
シャナも、くすりと笑い返した。嘲笑《ちょうしょう》ではない。
そして、付け足す。
「でも……笑ってくれたね、最後に」
穏やかな顔で。
「ありがと」
「……うん、鼓《こ》動《どう》が、聞こえたからね……」
シャナは少し驚き、それから赤くなって頷《うなず》いた。
笑っていた。あのときのように。
少しくらい調子に乗ってもいいよな、と悠二は思う。
「シャナ」
「なに」
「お願いが……あるんだ、けど」
「なに」
「シャナって、名前」
「……?」
「ずっと、使って……くれないかな」
シャナは返事をしなかった。
ただ笑って、頷いた。
ありがとう、と悠二は言えない。
その力が、もうなかった。
シャナの笑顔が、薄れていく。
自分も笑っていることを感じて、その心地よさの中、悠二は目を閉じた。
……これが、死なのか……
……なんだ……悪くない、気分……だ……
……
……ここはどこだ?
死んだのかな?
でも、僕は坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》じゃない。
人間じゃない。
死んでしまったら、どこへ行くんだろう。
僕が死んだら。
消えるだけじゃなかったのかな。
消えた後があるなんて。
不思議な感じだ。
でも、聞こえる。
なんだろう。
聞こえる。
動いている。
鼓《こ》動《どう》?
ああ、ずっと聞こえていた、音だ。
どこかでずっと。
いや、僕の奥で。
動いている。
規則正しく、いつまでも変わらず。
なんだろう、これは。
動いている。
……
……
「……っくく」
こらえるような笑い声。それはすぐに弾《はじ》けた。
「っあははははは!!」
無邪気で明るい笑い声が、夜風と渡り、月夜に響く。
聞こえる。
「…………?」
悠二は目を開けた。
「………………え?」
見える。
「っはは、あはははは!!」
「ふ、ふ、ふ」
アラストールまで、忍《しの》び笑いを漏《も》らしている。
半ば放心状態の悠《ゆう》二《じ》は、ゆっくりと身を起こした。自分の手を見る。
手が、ある。薄れていない。胸元を見れば、灯《あかり》も元の明るさを取り戻している。
「驚いた? なぜ私たちが襲撃を待ってたと思う?」
「ふ、ふ、万が一のときを考えての措置だったが、こうも場面と時間が重なると、安《あん》堵《ど》よりも笑いが出るというものだ……ふ、ふ、ふ」
「ほら、完全に元通り!」
シャナが、いつもの強さを取り戻したシャナが、悠二の背中を思い切り叩《たた》いた。
「ぶは!? な、なな、なにがどうなって……?」
「おまえ、一つ忘れていたでしょう? 大事なこと」
「?」
「貴様の、ミステス≠ニしての中身のことだ」
アラストールが、笑いを声に込めて言う。
「……ああ、そういえば……それが、これと……?」
疑わしげに自分の体を眺《なが》めてみる。
胸の内の灯は、相変わらず点《とも》っている。
しかしその奥に、何かがあるのを感じる。
ふと、さっき、どこかで感じた鼓《こ》動《どう》を思い出した。
「それが、『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』の力だ。封《ふう》絶《ぜつ》の中で動けるのも、鼓動を感じるのも当然……時の事象|全《すべ》てに干渉《かんしょう》する紅《ぐ》世《ぜ》の徒《ともがら》#髟中の秘宝だからな」
『零時迷子』
かつて一人の王≠ェ、恋に落ちた人間を『永遠の恋人』とするために作ったといわれる永久機関だった。
これをトーチの中に埋《う》め込むと、そのトーチの存在の力≠ヘ、一日という単位で時の中に括《くく》りつけられる。その日の内にどれだけ力を消耗《しょうもう》しても、翌日の零時になれば再び次の一日ヘと存在は移り、初期値の力を取り戻すことができるという。
「その王≠ヘ、かなり前に消息を断っている。貴様にそれが転移してきた以上は、『永遠の恋人』もろともに、なんらかの異変があったのだろうが……まあ、今はどうでもよいことだ」
「おまえにはまだまだ、私たちに見届けてもらえるだけの未来があるってことなのよ、悠二[#「悠二」に傍点]」
決定的なことが起こった。
「……あ……今……」
ふふふ、とシャナは悪《いた》戯《ずら》っ子のように笑って、
「おまえの中にあるそれは、紅世の徒≠ェ持てば、ほとんど存在の力≠フ消耗を考えずに力を振るえるっていう、物《ぶっ》騒《そう》な代《しろ》物《もの》なの」
「うむ、シャナ[#「シャナ」に傍点]の言う通り、『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』は、乱《らん》獲《かく》者にとっては最高の物。そして我らフレイムイズにとっては無用の物。しかし絶対に渡せぬ物だ」
悠《ゆう》二《じ》は、二人が何を言いたいのか、ようやく理解した。
「……あ、それじゃあ……」
「うむ、しばらく貴様という危険物を、この街で見張ることにする」
「そういうこと。なによ、文句あるっての?」
悠二は確信とともに。
「ない」
「よろしい」
その断言に満足したシャナは立ち上がり、悠二に手を差し出した。
悠二はその手をしっかりと取り、立つ。
ふとその胸元が目に入って、気が付いた。
さっきから、やけに黒《こく》衣《い》をがっちり着込んでいると恩ったら……そういえば、足も裸足《はだし》だ。
「……ちゃんと下着の替え、持ってるか?」
真っ赤になったシャナのアッパーカットが真下から入って、悠二は再びひっくり返った。
[#改ページ]
エピローグ
翌日も、空は快晴だった。
シャナ、本日のスコア、午前四時間で無視三、対決一を経た昼休み。
今日は誰も、外に出て行かない。
昨日起こった、吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》の告白未遂、坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の敵前逃亡、平《ひら》井《い》ゆかりの強制連行という三大事件によって、教室は朝から微《び》妙《みょう》な緊迫の内にあった。それなりに会話もしているが、声のボリュームはどこか絞《しぼ》られがちである。
その雰囲気の中にあっても、悠二は全くいつものように、鞄《かばん》からおにぎりを取り出す。
(僕の中に『零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』が転移してきたのは、偶然だ)
悠二はこの雰囲気を、あえて無視している。正直、昨夜のことで頭がいっぱいだった。
(僕が、自分の人格を無くすほど弱っていない内に転移してきたのも、偶然だ)
その悠二の代わりに、メガネマン池《いけ》が机を寄せたり椅《い》子《す》を持ってきたりしている。ああいうことがあった後でも、一緒に昼飯を食べさせるつもりらしい。野《や》次《じ》馬《うま》根性かショック療法か、いずれにせよ大きな御世話ではある。
(そういう僕の所にシャナが来たのも、それでフリアグネの企《たくら》みに気付けたり、倒せたりしたのも全部、偶然だ)
シャナは、これも例によってというべきか、他《ほか》が集まってくるまで待ったりせず、さっさとメロンパンを嬉《うれ》しそうに頬《ほお》張《ば》っている。昨日のようなことがあっても、呼び方以外に特別、扱いが変わっていないのは、喜ぶべきか悲しむべきか。
(でも、そんなことに感謝したり運がよかったとか言っても意味がない……僕が今こうやって、自分のことを考えられるだけの力を持っている、その中でできることをする、それだけを分かっていれば十分なんだ……そう、僕がなんであるのかさえ、どうでもいいことなんだ)
シャナが、悠《ゆう》二《じ》の視線に気付いて、睨《にら》み返してくる。
(結局、なんでもないことなんだよな……あの戦いで気付いたことは)
傍《はた》目《め》には『見つめ合う二人』とでも見えたのだろうか、前の椅《い》子《す》に座った池《いけ》が、ゴホン、と咳《せき》払《ばら》いしたが、無視する。
(……今あることが全《すべ》て、か……改めて言葉にすると陳《ちん》腐《ぷ》だけど、まあ『本当のこと』なんて、そんなものなのかもな)
さらに佐《さ》藤《とう》が、わざとらしく口笛を吹きながら横の席についたり、その向こうに座った田《た》中《なか》が足でつついてきたりもするが、やはり無視する。
が、
「……あ、あの……ゆかり、ちゃん」
唯一無視できない声が、悠二を物思いから引き戻す。
吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》だった。見れば、彼女は、なぜか悠二ではなくシャナの前に、か細い体を一杯に緊張させて立っている。唇《くちびる》を強く引き結び、シャナを必死の気迫を振り絞《しぼ》って睨んでいる。
無論シャナは、そんな視線をそよ風ほどにも感じない。怪《け》訝《げん》な顔で、簡潔に訊《き》く。
「なに」
「……わ、わ、私……」
「?」
もつれながらの声は、最後だけはしっかりと、響いた。
「負けないから」
教室内がどよめく。
あの[#「あの」に傍点]吉田一美が、あの[#「あの」に傍点]平《ひら》井《い》ゆかりに。
教室中が、この吉田の宣戦布告と、それが巻き起こすかもしれない騒《そう》動《どう》に戦《せん》慄《りつ》した。
ところが、宣戦布告を受けた当のシャナは、その言葉の意味がさっぱり理解できない。首を傾《かし》げてから、悠二に訊《き》く。
「何の話?」
よりにもよって僕に振るな……と悠《ゆう》二《じ》は言いかけて、よく考えると自分が張本人《ちょうほんにん》らしいことに思い至った。もちろん、こういう状況をうまく切り抜けられるだけの経験はない。
あわあわと、どう説明すべきか迷っている間に、吉《よし》田《だ》はシャナの対面に座っていた。シャナも、悠二に返答を強要するわけでもなく、不審気に吉田を観察している。
不穏な局面がとりあえず流れて、悠二はほっとする。そんな情けない自分を、
(……しようがないだろ、こんなこと、僕は色々と初めてで……)
と心中で自己弁護する、その前に、細い指に押された小さな包みが一つ、机の上を滑《すべ》ってきた。カチカチになった細い指は吉田のもので、押されてきた包みは、弁当箱だった。
「……ええ、と……」
悠二が顔を上げると、吉田は逆に顔を伏せている。今にも机に突っ伏しそうに緊張した声で言う。
「……いつも、その、おにぎりばっかり……だから」
「ど、どうも、ありがとう」
吉田のようにしどろもどろに、悠二は礼を言う。
吉田とお揃《そろ》いの物らしい、小さな弁当箱。可愛《かわい》い箸《はし》箱《ばこ》まで付いている。
この非常に素《そ》朴《ぼく》な好意に、思わずジンとなる悠二だが、同時に猛《もう》烈《れつ》な後ろめたさも襲ってくる。恐る恐る隣を見ると、シャナがこっちをジロジロ見ている。弁当箱を追って、こっちに視線を移したらしい。
「どういうこと[#「どういうこと」に傍点]、悠二[#「悠二」に傍点]?」
「あ」
その強く響きすぎる声で発された言葉は、教室内に、今度は不穏などよめきを起こした。
悠二の全身に、だらだらと冷や汗だか脂汗だかが流れる。
彼女は単純に、吉田の行為の説明を求めただけだ。そして悠二にとっては、この呼ばれ方こそ、晴れてシャナに一人格として認められた証《あかし》(推測)……なのだが、悲しいかな、今の状況で、そう受け取ってくれる者は、まず皆《かい》無《む》だろう。
案《あん》の定《じょう》、戦況の複雑な推移を静観していた池《いけ》が、眉《まゆ》を顰《ひそ》めて言った。
「……坂《さか》井《い》、おまえ、そうか」
「いや、これはそういう意味じゃ……」
と否定しようとして、ふと考える。
昨日のこと、あのときのこと、自分は、シャナのことを、どう思っていたか。
そういう感情なのか、違うのか、よく分からない。
もっと深いような、もっと強いような、でも、そもそも自分は、そういう感情を知らない。
あれが、そうなのだろうか。
……などと色々思う内に、頬《ほお》が熱くなってきた。自分でも、どうしようもない。顔が真っ赤になっていると自分で分かるほどの、無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な熱さだった。
「なーるほど、うんうん、やっぱり。頑《がん》張《ば》れよ、色々と」
と隣席の佐《さ》藤《とう》が、ニヤニヤして肩を叩《たた》く。
「……我々に黙って、そういうアレをナニするとは……いい度胸だ」
田中は頬《ほお》を怒りに引き攣《つ》らせている。
周囲でも、
「まあ、聞きまして、奥様?」(男)
「なんてことざーましょ!」(これも男)
などと、今までの重苦しい沈黙の反動のような騒ぎが、あえて彼らの方に顔を向けずに湧《わ》き起こっていた。口笛まで多重奏される。ほとんど昼飯の肴《さかな》扱いである。
その騒ぎの中、それでも吉《よし》田《だ》は悠《ゆう》二《じ》を見て、宣言した。
「……負けませんから」
彼女は顔を伏せずに、正面から悠二を見ていた……むっときてはいるようだったが。
「は、はあ、はい」
悠二は、おどおどと答える。
シャナが、その様子にピンとくる。悠二が、またあの表情を、吉田に向けている。笑う直前のような、困りきったような、変な顔。その手は、貰《もら》った弁当箱に添えられている。
「……」
なんだか、非常に面《おも》白《しろ》くない。昨日のように、悠二を連れて飛び出したくなったが、今日はその理由がない。どうしようか、と冷静を装った顔の内で考える……そして半秒の後、自分の前に置かれたものが目に入って、ぱっ、とやるべきことが浮かぶ。名案のように思われた。
「……」
シャナは、おもむろに食料袋からチョコスティックの箱を取り出すと、悠二の前に放った。
「…………?」
この唐《とう》突《とつ》かつ予想外の、まるで鳩《はと》に餌《えさ》でもやるかのような行動に、悠二はぽかんとなった。
こればかりはいつものように、簡潔に状態を表す声がかかる。
「あげる」
「へ?」
悠二が見れば、シャナはもう知らん顔をしてメロンパンの残りをかっ喰らっている。どこか嬉《うれ》しそうな、というか得意げな様子なのは、たぶん、気のせいではない……と、その前に座る吉田が、ますますむっとなっているのに気が付いた。慌《あわ》てて弁当箱を開く。
「い、いただきまーす」
そうすると、今度はシャナが横目で険《けわ》しい視線を送ってくる(のを感じる)。
(い、いったい僕にどうしろってんだ……)
悠《ゆう》二《じ》はこの八《はっ》方《ぽう》ふさがりの状況を誤《ご》魔《ま》化《か》すように、やけにおかずが多くて美味《おい》しい弁当の賞味に専念する。味は最高……なのにどこか、ほろ苦かった。
やがて、小《しょう》康《こう》状態に入ったらしい肴《さかな》に飽きたクラスメートたちも、それぞれの話題に戻っていった。朝からの緊張も忘れて、いつものように、昼休みを楽しみ始める。
このざわめきの中、悠二は、自分の置かれた立場に、改めて嘆息する。
昨日までのものとは違う、今への思いを込めた、ため息だった。
(……つまり、『本当のこと』だろうがなんだろうが、気付いた所で、楽《らく》ができるわけじゃないってことか……)
でも、楽が楽しい、とは限らないわけで。
(言い訳かなあ、これは)
悠二は、ほんの少しだけ、笑みを作る。
団《だん》子《ご》の串《くし》を咥《くわ》えたシャナが、その悠二の表情を見て、こっちもほんの少しだけ、頬《ほお》を緩《ゆる》める。
話し声に湧《わ》く教室の窓から覗《のぞ》く空は、今日も快晴。
世界は変わらず、ただそうであるように、動いている。
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あとがき
はじめての方、はじめまして。
久しぶりの方、お久しぶりです。
高《たか》橋《はし》弥《や》七《しち》郎《ろう》です。
また皆様のお目にかかることができました。ありがたいことです。
さて本作は、痛《つう》快《かい》娯《ご》楽《らく》アクション小説です。またか、とか言わないように。本人も分かっていますが、全然直す気はありません。
テーマは、描写的には「斬《き》って燃えて爆発」、内容的には「いまあるもの」です。心身|無《む》闇《やみ》に強い少女と、難《なん》儀《ぎ》な境遇に置かれた少年のお話です。
担当の三《み》木《き》さんは、様々な意味で本気の人です。本作でも、発想の転換や参考意見など、多方面でお世話になりました。中でも、とある要求における攻防は乱《らん》刃《じん》相《あい》摩《ま》凄《せい》絶《ぜつ》を極め(以下略)。
挿《さし》絵《え》のいとうのいぢさんは、とても美しい絵を描かれる方です。頂いたラフ画は、終盤の直しを体感速度三倍で進めてしまう威力でした。甚《じん》大《だい》なる御助力に、深く感謝いたします。
京都のM林さん、大変励みになりました。当面御期待には副《そ》えず、また仔《し》細《さい》あってお返しもできませんが、代わりに、この一文をもって御礼を。どうもありがとうございます。
……
……懲《こ》りることを知らないのか、また書くことがなくなってしまいました。
とりあえず、徒《つれ》然《づれ》に文字を埋《う》めて、この場を凌《しの》いでみましょう。近頃、本では旧軍の補給|参《さん》謀《ぼう》さんの実録を読んだり、映画では宇宙戦争二の伯爵《はくしゃく》燃え〜とか超強力三人|娘萌《むすめも》え〜とか抜かしたり、ゲームでは年上の彼女の手を引いて姑《しゅうと》さんから逃げたりと、妙《みょう》に濃い日々を過ごしておりました。この経験を生かして、いずれ作品に、『超強力で年上な旧軍の伯爵』を登場させるかもしれません。もちろん嘘《うそ》です。
というわけで、いい感じに埋まったようなので(オイ)、今回はこのあたりで。
この本を手に取ってくれた読者の皆様に、無上《むじょう》の感謝を、変わらず。
また皆様のお目にかかれる日がありますように。
[#地付き]二〇〇二年八月  高橋弥七郎