灼眼のシャナ 番外編 おじょうさまのしゃな
高橋弥七郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)繁栄《はんえい》の極み
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|所領にある本邸《カントリーハウス》に対して
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)刃[#「刃」に傍点]
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おじょうさまのしゃな
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1 深夜の街路
十九世紀末、繁栄《はんえい》の極みにある大英帝国。
真夜中のロンドンに、馬蹄《ばてい》と車輪の立てる乱暴な合奏《がっそう》が響きます。
人通りのない街路、ガス灯の白々《しらじら》しい輝きの下を駆け抜けてゆくのは、二台の馬車。二頭立て四輪の荷車で、荷台には大きな樽《たる》が山積みに括《くく》り付けられていました。
路面は既に花崗岩《かこうがん》の砕石《さいせき》敷《し》きではない新式の、走るに適した滑《なめ》らかなアスファルト舗装《ほそう》でしたが、馬車の速度は尋常なものではなく、車輪か路面かが削れる異音が夜気《やき》を劈《つんざ》きます。
「まずったな、畜生。まさか奴に出くわすとは」
「もうシテイの受け渡し場所に向かうのは無理ですね、ボス」
「そうでなくとも、今回は我々だけじゃない。後続の足手まといどもが一緒だからな」
先頭を行く馬車で、騒音と振動の中、声を交わしたのは三人。
最初に喋《しゃべ》ったシーツお化け・ギュウキは荷台の樽《たる》上に陣取り、次のゴーグルとスカーフで顔を隠した鉄道員らしき男・パラが御者《ぎょしゃ》席《せき》で手綱《たづな》を握り、最後の和服を着て鶴嘴《つるはし》を抱えた女性・ゼミナが隣に座っています。この奇天烈《きてれつ》な三人組は、頻《しき》りに後ろを気にしつつも、曲がりくねる道を絶妙の手綱《たづな》捌《さば》きで切り抜けてゆきます。
「ギュウキさん、いっそ樽《たる》を後ろの連中にぶつけて、追ってくる奴への生贄《いけにえ》にするか?」
というゼミナの提案に、ギュウキは首を横に振りました。
「そいつはよくねえ選択だ。止まった馬車には目もくれず、逃げる俺たちに狙いを定めさせる逆効果になる。パラ、後ろが無事な内は着かず離れずだぞ」
「了解。後続がやられたら加速します。もう少しで――」
パラが言う、疾走《しっそう》の背後で、七色の光芒《こうぼう》が輝きます。路面を砕《くだ》き、幾《いく》つかのガス灯を叩き折って走るそれは、彼らに後続する馬車の車輪を引っ掛けました。
「ぬわっ!? こ、このヘボ御者《ぎょしゃ》が!」
「相乗りがうるさせえ! 文句あんなら、ご自慢の翼で飛んで逃げろ!」
その馬車に乗っていた、竜とも鳥とも見える怪物・セムルバと、指輪を多数|嵌《は》めた青年・カシャが怒鳴り合います。そして後ろ、樽《たる》の上に蹲《うずくま》っていた金鱗《きんりん》の翼竜《よくりゅう》・ニティカが、
「このままでは追いつかれる――!」
言うや、高速で走る馬車の向かい風を受けて飛び立ちました。逃げようとしたのか、立ち向かおうとしたのか、いずれにせよ彼は、大空へと舞う前に、
「――ん、がっ!?」
次なる七色の光を顔面に受けて斜めにグルグル回り、傍《かたわ》らの壁に激突してしまいました。
のびた彼を無視して、馬車を後から追う影は、ガス灯の頂《いただき》を蹴って夜を跳んでいきます。その手に在る刃[#「刃」に傍点]が文字通りに一閃《いっせん》、輝きを迸《ほとばし》らせました。
後続の馬車は、三度放たれた七色の光を後部へとまともに受け、紛々に粉砕《ふんさい》されます。
「んぎゃあああ!!」「うおわあああ!?」
セムルヴとカシャは吹き飛んで頭から落ち、さらに壊れた樽《たる》の中身を被りました。アスファルトにぶちまけられ、広がってゆくのは真っ赤な、血――ではなく、ワインです。
追いかける影は、解き放れた馬二頭の背を軽く一歩と一歩、さらに駄目押しと悪党二人を重く一歩と一歩、踏んづけて、またガス灯の上に飛び上がり、残る一台の後を追いました。
後方の惨状《さんじょう》に俄《にわ》かな加速を始めた馬車の三人は、大いに焦ります。
「パラ。退《の》き口《ぐち》まで、後どれくらいだ」
「あの角の先に地下鉄《チューブ》が」
「来たぞ!」
鶴嘴《つるはし》の女・ゼミナの警告に、勧告で答えるように、
「観念するがいい、悪の秘密結社[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]!」
追いすがる影が宙から、凛《りん》と通る男の声を発しました。
「水増やし粗製《そせい》ウィンの不正流通もこれまでだ! 既に倉庫は、俺が紛々に[#「紛々に」に傍点]破壊した!!」
逃げる三人組は、これを聞いてゲンナリします。
「おいおい、陸軍局の近所だぞ。そこまでするかね」
「我々は下《した》っ端《ぱ》、しかも雇われの運び屋なんですが」
「そんなこと気にしたり、耳を貸したりする奴か」
言う間に、次なる七色の光が暗夜を輝きで満たし、馬車の後方に突き立ちました。
ちっ、とギュウキは舌打ちしつつ、二人の襟首《えりくび》を掴《つか》んで飛び降ります。
半壊した馬車は、やはりウィンを振りまきながら縁石《えんせき》にぶつかって、止まりました。
馬のいななきを尻目に逃走を図る、三人組の前――正確にはその斜め前方、やや上に位置するガス灯の頂《いただき》で、まるで重さがないような、カン、と軽く踏む屹立《きつりつ》の音が鳴ります。
「夜に架《か》けたる七色は、悪を誅《ちゅう》する正義の光――」
明かりを直下から受けるのは、夜風に傲然《ごうぜん》と翻《ひるがえ》る真っ白なマントに銀髪、その内に浮かぶ真っ白な髑髏《どくろ》の仮面という、面妖《めんよう》ながら威風《いふう》堂々《どうどう》たる男。
「――白《シロ》仮面《かめん》、参上!!」
観念してへたり込む三人組の耳に、騒ぎを聞きつけ、おっとり刀で駆けつけるスコットランドヤードのホイッスルが、痛く痛く響いていました。
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2 午後のお茶会
ロンドン近所に、均整の取れた左右対称の、豪勢《ごうせい》ながら過度な虚飾《きょしょく》を排したトーテングロ家の大邸宅があります。当主は伯爵《はくしゃく》の位を持つアシズ。無論、名誉の家門に列なる貴族です。
邸宅に付随《ふずい》する庭も、田園の風景を再現した広大なもので、芝生の生い茂る斜面、狭間に流れる小川、林や池まで配《はい》されています。人口超過でぎゅうぎゅう詰めなロンドンの近くに、これだけの広さを持つタウンハウス――|所領にある本邸《カントリーハウス》に対して、宮廷への出仕《しゅっし》や社交期に滞在する別邸――を持ち得ている事実が、家の格を示していると言えるでしょう。
今、その庭の風景は春の盛り。風にそよぐ緑は鮮やかに、花はとりどりの点描《てんびょう》をなし、流れる川は透徹《とうてつ》の宝石と見紛《みまが》うほど。
これら穏《おだ》やかな光景を眺めるためのテラスで、午後のお茶会が開かれています。招待主が一人、招待客が二人という、ごくごくプライベートなもので、真っ白なクロスの掛かったテーブルも上下のない丸型。各々《おのおの》の装《よそお》いもくつろいだものです。
招待客の一人、オガタ男爵《だんしゃく》家の令嬢《れいじょう》、マタケが興奮した口調で言います。
「ほら、見て見て」
とても身分相応とは言えない言葉遣いの彼女が差し出したのは、街頭ビラです。簡単な物語風に纏《まと》められた一枚刷りの投売りで、本来は貴族が手にするような物ではありません。それを彼女が持っているのは、心情的には好奇心から欲したため、物理的には今彼女の傍《かたわ》らに控《ひか》える小間使い《レディースメイド》のナカムラが街角で買い求めたためです。
「他のも全部、出しちゃってよ」
「はいはい。あー、やっぱ私はこっちなのね」
妙なことを言いつつ、ナカムラは傍らの小物入れから、紙の束を取り出して渡しました。
オガタがテーブル中央に広げた物は、まだインク臭いも鼻に付く、真新しい新聞やビラです。
紙面を躍る文字には、共通する単語が二つ。
もう一人の招待客、ヨシダ子爵家の令嬢、カズミが、
「え、と……『白《シロ》仮面《かめん》またまた現れる!』『白《シロ》仮面《かめん》、[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の粗製《そせい》ワイン秘密工場を破壊す」』『白《シロ》仮面《かめん》vs[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]、真夜中の追走劇』……白《シロ》仮面《かめん》と[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]のことばっかり」
と幾《いく》つかを読み上げて、感嘆《かんたん》しました。
白《シロ》仮面《かめん》とは、ここ数年、夜のロンドンに出没している正体不明の怪傑《かいけつ》のとこです。
名の通り、白い仮面とマントを身に纏《まと》い、都会に溢れる悪という悪を次々と七色の光で薙《な》ぎ倒す……そんな謎めいた風貌《ふうぼう》と胸のすく活躍ぶりから、市民の拍手|喝采《かっさい》を大いに浴びてるのでした。法曹《ほうそう》関係者や宗教家らは、|俗悪冊子《ペニー・ドレットフル》が現実になったようだ、と眉を顰《ひそ》めていますが、市民にとっては俗っぽい好奇心こそ活力源、彼の人気は一向に衰える様子がありません。
そしてもう一方の[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]は、この一年ほどの間に世情を騒がすようになった悪の秘密結社、あるいはならず者集団です。働く悪事は大小様々、ときおり白《シロ》仮面《かめん》とぶつかってはコテンパンにやられていますが、捕まる者はいずれも下《した》っ端《ぱ》か雇われ者ばかりで、これもまた正体不明……白《シロ》仮面《かめん》とは真逆の謎と恐怖で、市民の関心を大いに引いている存在でした。
「ロンドンの夜は、彼らの庭みたいになってるね」
言って、カズミが傍《かたわ》らを伺うと、
「はい。そのような不逞《ふてい》の輩《やから》が行き交う昨今ですから、お嬢様には今日も早めにお戻りあそばしますように、との奥様の仰《おお》せです……はあ、ちゃんと言えた」
彼女の小間使い《レディースメイド》であるフジタが、棒読みに安堵を付け加えて答えます。
その中に混じった単語に不服を覚えたマタケは、口を尖《とが》らせました。
「分かってないなあ。不逞《ふてい》の輩《やから》の[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]をやっつけるのが白《シロ》仮面《かめん》じゃない。社交界でも噂《うわさ》は持ちきりで、昨今は女王|陛下《へいか》のお耳にまで達したんだから」
弁護《べんご》になっていない弁護《べんご》に苦笑したカズミは新聞を取りつつ、招待主に尋ねます。
「シャナちゃんは、どう? 一度でいいから白《シロ》仮面《かめん》を見てみたい、とか思わない?」
「……」
黙って紅茶に口つけていたシャナ、トーテングロ伯爵《はくしゃく》家のご令嬢《れいじょう》は、ミントンのカップを皿に置くと、律儀《りちぎ》に思案の体を取りました。
その間を持たせる絶妙なタイミングで、彼女の数歩後ろに控《ひか》えていた長身銀髪の人物が、手に在るティーポットで、空になったカップに音も立てず紅茶のお代わりを注ぎました。
彼の名はメリヒム。トーテングロ家の執事《バトラー》です。
黒《くろ》い燕尾服《えんびふく》、糊《のり》の利いた白いシャツ、黒《くろ》い蝶《ちょう》ネクタイ、という落ち着いた装《よそお》いは、美丈夫《びじょうふ》の形容に相応しい男ぶりと調和して、重すぎず出すぎず、彫像の名品にも似た風格を漂《ただよ》わせます。
本来は、来客中である当主・トーテングロ伯アシズに付くべきところを、とある采配《さいはい》によって、シャナ嬢付き小間使い《レディースメイド》チェルノボーグと接客を入れ替わっています。無論、男だからとて粗相《そそう》などあるわけもありません。立場はオガタ家小間使い《レディースメイド》のナカムラやヨシダ家小間使い《レディースメイド》のフジタと同じく、佇《たたず》んではより控《ひか》えめに、動いてはより滑らかに、共に在る影というより、傍《かたわら》らに在る木の如《ごと》く自然に、そこに在ります。
彼が元の位置に戻ると、計ったようにシャナが答えます。
「……必要でないことには、あまり興味がない」
「あー、これでもダメか」
マタケはあからさまにガクッと肩を落としました。
「シャナちゃんは、もっと心にユトリとか持たないと。幾《いく》ら可愛くて教養があってダンスが上手くて習い事をこなしても、そんなガチガチじゃ意中の人は振り向いてくんないよ?」
そう、容貌《ようぼう》は可憐《かれん》、挙措《きょそ》は洗練《せんれん》され、結い上げた髪も艶《つや》やか、ドレスも着こなす、模範的な伯爵《はくしゃく》家のご令嬢《れいじょう》たる少女には、心の余裕というものが欠けていたのです。
今も、からかわれたことをどこまで理解していたのか、
「そういう人はいない」
と簡潔に答えるのみでした。
「そ、そう……」
あまりに無邪気《むじゃき》な素《そ》っ気《け》無さに、マタケは無念の唸《うな》りのように返しました。実は、マタケとカズミによる一連の会話、シャナの興味を誘いそうな話題を持ちかける試みは、彼女の|女家庭教師《ガヴァネス》であるゾフィーおよびタケミカヅチから、かねてより要望されていた行為でした。
彼女ら曰く、
「あの子は、淑女《しゅくじょ》として為すべき課題を生真面目《きまじめ》にこなし、また十分以上の成果を以って応えてくれてもいるのですけれど……代わりに、それ以上の部分が、全くないのです」
「我ら教育系としては、その張り詰めた完全無欠にこそ危うさを感じるわけですな。ご友人方には、なんであれ彼女に一歩、そこから踏み出すきっかけを与えて頂きたい」
とのこと。
マタケもカズミも同じ心情から、なんとか要望に沿おうと日々頑張ってはいるのですが、当のシャナは実に物堅く、その悉《ことごと》くを知らず跳ね返し続けているのでした。
今もカズミは、友人のために心を砕《くだ》く優しい少女、優しさを受け取りつつも上手く返せない少女、二人の友人として思案を巡らせます……と、手に取ったままの新聞が目に留まります。
(とりあえず、話だけでも続ければ、興味の取っ掛かりくらいにはなるかも)
どういう流れに持っていくか考えてから、おずおずとマタケに言います。
「事件なのは、分かるけど……どうしてこんな怖い話をわざわざ?」
「ん、怖いっていうか」
マタケも相手の心遣いを察して、感謝の念とともに話に乗ります。
「最近、シャナちゃんがオリエンタルな鎧《よろい》を買った、って聞いたから、剣術に興味でも湧いたのかなー、とか思ってさ。それで白《シロ》仮面《かめん》のこと思いついたわけ」
「求められた修養科目に、そういうのはない。鎧《よろい》は――」
先日来、彼女の部屋で、錦の敷物の上に鎮座《ちんざ》しているのは、隻眼《せきがん》鬼面《きめん》の武者《むしゃ》鎧《よろい》です。東方《とうほう》物品《ぶっぴん》の収拾は貴族にとって高級志向の表れですが、だとしても剣呑《けんのん》なチョイスと言えるでしょう。
「――単に父様と母様の趣味」
少し間を置いたのは鎧《よろい》の脇、セットとして購入した物らしい、抜き身で据《す》え置かれた大《おお》太刀《だち》に、どこか惹《ひ》かれるものを感じていたからでした。しかし『淑女《しゅくじょ》として自分が為すべきこと』から外れている、というだけで、それは彼女にとって不要なことと決まってしまう[#「決まってしまう」に傍点]のでした。
あくまで頑《かたく》なな友人の姿に、言いかけるカズミ、
「求められるとかじゃなくて、自分からやりた――」
「シャナちゃーん」
その声を遮《さえぎ》って、屋敷の中から小柄な女性が走ってきます。
「っシャナちゃん! 今、私たちの話をしてた?」
すぐ後ろから抱き着いて、思うさま頬《ほお》擦《ず》りするのは、トーテングロ伯爵夫人ティス。シャナと三つ四つ離れた清美《せいび》な少女としか見えませんが、断じて母です。
「か、母様」
困った半分、照れ臭さ半分で、シャナは目を白黒させます。
と、同じく屋敷から、重い、壮年の男の声が。
「ティス、控《ひか》えよ。客人の前だぞ」
言葉ほどに叱《しか》っている風ではない、むしろ慈《いつく》しみゆえの抑制《よくせい》を感じさせる、その声の主は、仮面に角、逞《たくま》しい体躯《たいく》と翼――にトップハットとフロックコート、ステッキを加えた、紛《まが》うことなき紳士《しんし》です。彼こそ、当家の主にしてシャナの父、トーテングロ伯アシズその人です。
伯爵《はくしゃく》は茶席に歩み寄り、頭は下げず言葉で謝します。
「失礼、お嬢《じょう》さん方。我が方の客人を庭にお通しするところでな。ティス」
「もう少しだけ。だって、私たちの娘なんですもの」
可愛くてたまらない、という気持ちを仕草に笑顔に表して、夫人は娘を抱きしめました。シャナも抵抗せず、赤い顔で抱かれるままになっています。
伯爵《はくしゃく》は、仕様のない、という溜め息を漏らして背後、自分の来客に向き直りました。
庭向きの戸口から、全使用人の筆頭にして家内業務全般を統括《とうかつ》管理する家令《ハウス・スチュワード》たるモレクが、フランスとオーストリアから訪れたという客人らを案内します。
「どど、どうぞ、こちらです」
「家令《ハウス・スチュワード》がオドオドするな、痩《や》せ牛。伯爵オ《はくしゃく》様が軽く見られてしまうだろうが」
彼に並んで、こっそりと耳打ちするのは、めリヒムと臨時に役どころを交代した、シャナ付き小間使い《レディースメイド》チュルノボーグです。
燕尾服《えんびふく》の直立する牛骨、地味なハイネックドレスの右腕だけが大きな女性、という二人は、ゴタゴタしつつも妙な纏《まと》まり、あるいは繋《つな》がりが見て取れます(つまるところ、それが家政に不都合のないときに度々、メリヒムと入れ替わるよう伯爵《はくしゃく》が命じる理由でした)。
そして、夫人付き小間使い《レディースメイド》であるチグサが、
「出口、一つだけ段になっております。ご注意ください、ゴグマゴーグ様、オオナムチ様」
和やかに言って導くのは、本日の来客。
「ほう、これはまた見事な……。息の詰まるロンドン近郊と思えませんね」
等身大の人形を頭頂で躍らせる石の巨人と、
「風光《ふうこう》明媚《めいび》、とはこのことか」
鉄の甲冑《かっちゅう》の如《ごと》き大《おお》百足《むかで》……に見える、他国の貴族です。どちらも段など関係ないように思えますが、そこは接客のマナーというもの(彼らを通せるほどお屋敷は広いのです)。
客人らの姿を認めた伯爵《はくしゃく》は、娘の客人らに一声かけて、場を辞します。
「それでは、楽しんでゆかれよ……ティス、我らは庭の案内だ」
「はい。それじゃあ、また後でね、シャナちゃん」
夫人も名残《なごり》を惜《お》しみつつシャナを離し、頬《ほお》にキスをしてから夫の後を追いました。
緑の野を案内してゆく伯爵《はくしゃく》ら、地響きを上げて続く客人二人が遠ざかるのを、マタケとカズミは引きつった表情で見送ります。
「……」
一方のシャナは、広げられた新聞を手に取っていました。赤くなった顔を隠すためと、なにより友人の気遣いをちゃんと検討せねば、という思いがありました。
マタケも彼女の行為に気付いて、身を乗り出して尋ねます。
「どう、少しは興味湧いた? 白《シロ》仮面《かめん》、かっこいいでしょ?」
「……違法性はともかく、悪人を退治する行為は賞賛《しょうさん》に値すると思う」
言うシャナの背後、端然《たんぜん》とその場に在ったメリヒムの眉が、密《ひそ》かに微動します。
「でも、追跡の際に破壊した路面からガスが漏れて二件ほどボヤ騒ぎが起きてるし、犯人のうち三人がヤードの護送中に逃げてる。乱暴な割りに効率は良くなさそう」
微動して、そのまま固まりました。
もちろん、執事《バトラー》として、密《ひそ》かに。
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3 使用人のホール
その日の夜遅く。
伯爵《はくしゃく》家の夕食、デザートとお茶、後片付けを済ませてから、使用人たちもようやく、地下の使用人ホールで自分たちの遅い夕食を取っていました。よほどのことがない限り、この時刻に彼らを呼び出す壁の据《す》え付けベルが鳴ることはありません。
従僕《フットマン》や女中《メイド》ら、何十人という使用人が幾《いく》らかの残務に行き来する、この地下とは思えない大きなホールの片隅《かたすみ》に、上級使用人の集まるテーブルがありました。
本来、上下のけじめをつける意味から、上級使用人たちは家令《かれい》室《しつ》で食事を取るのを通例としていますが、外回りに職掌《しょくしょう》を持つ面々《めんめん》の打ち合わせや直接の指示のため、このテーブルを使うようになり、いつしか彼らが好きなときに集《つど》う場所となっていたのです。
その一席、テーブルに顎《あご》を乗せて食事を待つ|狩場番人《ゲームキーパー》フワワが、軽く笑い飛ばします。
「ハッ、なに不景気な面《つら》下《さ》げてんのかと思えば、バカバカしい。テメーの不始末がお嬢《じょう》にバレてしょげてるってか」
腹まで裂けた口を持つ狼たる彼は、領内の猟場《りょうば》を管理する役割を負う身で、主人がタウンハウスに住まうときは、同行して屋敷の敷地内で狩猟動物の飼育を行ったりしています。
真向かいで押し黙り、銀食器を磨《みが》くメリヒムを、隣を在る第一御者《ヘッド・コーチマン》イルヤンカが、
「そう言うな。我が伯爵《はくしゃく》家の安寧《あんねい》を守る執事《バトラー》として、仇《あだ》なす者らを排除しているのだ。お主もこの冬、密猟者退治で世話になったばかりではないか」
とフォローしました。彼の役割は、外出する主人の足となる馬車を駆ることです。巨大な竜たる彼自身が背に乗せて飛んでいるように見えなくもありませんが、気のせいです。
また一席、武器の刺さった壺《つぼ》という姿の|土地管理人《ベイリフ》ニヌルタが苦言を呈《てい》します。
「しかし、いかに正しき行いを為すとはいえ、かくも度々《たびたび》世情を騒がすのは感心せんな。我がというなら、まさに伯爵《はくしゃく》家に罪過《ざいか》の累《るい》が及ぶ危険性について、考えねばなるまい」
彼は旧制に言う代官で、主の領地を差配《さはい》するのが役割です。昔のように田舎詰めでなく、主とともに移動し庶務を決済するのが、現在の伯爵《はくしゃく》家における習いとなっていました。
実は――と言うまでありませんが、伯爵《はくしゃく》家の上級使用人らは皆、メリヒムが白《シロ》仮面《かめん》であることを知っています。一方で、伯爵《はくしゃく》は彼の無法行為について、なにも知らされていません。全ては、主への忠誠心《ちゅうせいしん》厚く、腕《うで》っ節《ぷし》強く、ついでに気の短い彼が自主的[#「自主的」に傍点]に、伯爵《はくしゃく》家を脅《おびや》かす、あるいは脅《おびや》かしかねない[#「かねない」に傍点]事物を片付けて回っているだけ[#「だけ」に傍点]、同僚たちは彼のフォローをしているだけ[#「だけ」に傍点]、そうして色々と飛び回っている間に評判が広まってしまっただけ[#「だけ」に傍点]なのです。なんとも人騒がせな話でした。
ちなみに、仮面をしながら堂々と名乗っているのは本人の趣味……ではなく、一応でも正義を主張しておくことで誤解を最低限防ぎ、またはしゃぎ過ぎる傾向のあるロンドンの新聞、引いては世論を味方に付けるための工作です(これはモレクの提案でした)。
今までも彼らは何度となく、道議に基づいた、法に拠って立つ、二つの正義について是非論を交わし、以ってメリヒムに自戒《じかい》と自制を促《うなが》していました。
とはいえ、園丁長《ヘッド・ガードナー》ソカルのように良識を嘲笑《あざわら》うというのは、少々やりすぎでしょう。
「くく、綺麗事《きれいごと》を。主の障害を取り除くは、臣《しん》の責務《せきむ》。法を守って迫る危険を放置するなど、本末転倒《ほんまつてんとう》も良いところ。さては、近く現れた[蛇《へび》]なぞに恐れでも抱かれましたかな?」
広大な庭園や菜園、温室の手入れを役割とする彼は、主が他に披露《ひろう》する看板を預ける、一種の芸術家であり、ゆえにというか、元からというか、非常に傲慢《ごうまん》な質なのでした。
ニヌルタの前にある水入りコップが凍り付き、ビシッと音を立てて割れます。
「物の道理を弁《わきま》えぬ臣《しん》が、主に悪名を着せることもあると気付かぬか」
「表面ばかり取り繕《つくろ》って、主への尽力を惜《お》しむ者には分かりますまい」
対するソカルの方も、床に根が食い込んで、バキバキと鈍い音を響かせます。
さて、今度は誰が止めるか、と他の三人が思うところに――鍵束《かぎたば》の音がジャラリ、
「はいはーい、皆さん、私らも混ぜてねー」
平然と、家政婦《ハウスキーパー》マティルダが割って入りました。二人の丁度中間に、どっかりと腰を下ろします。豪快《ごうかい》ながら、何故《なぜ》か野卑《やひ》に見えない奇妙な気品が漂《ただよ》っていました。
と、場の空白に審判を下すように、彼女の手に在る黒《くろ》い宝石の指輪から、重く低い声が。
「変わらず再確認する結論は一つ。私利に走らず、悪党を倒す」
「よね?」
後を受けて、マティルダはニヌルタ、次いでソカルへと、燃えるような瞳を向けました。
二人も、仲裁者《ちゅうさいしゃ》に気後れ《きおく》したことを隠すように黙って。矛《ほこ》を収めます。
マティルダは瞳の輝きもそのままの、実に強烈な笑顔を浮かべました。
「けっこーけっこー。じゃ、わたしも遅い晩御飯と行きますまか」
彼女の務める家政婦《ハウスキーパー》は、女性使用人の最上位にあたる役職で、使用人の雇用と解雇を始め、各持ち場の監督《かんとく》、貴重品の管理(腰の鍵束《かぎたば》は、その証です)、生活用品の調達など、その名の通り内向きの家政を一手に担《にな》っています。普通は女中《メイド》としての経験を積んだ年配の女性がなるものですが、彼女は若年ながら周りをガッチリ握り、十分以上に主人の信頼に応えていました。
また、指輪から響いた声の主はは、妖精のアラストールです。コティングリーの事件に先駆けること約二十年、彼女と共に在る本物の、あくまで妖精なのです。
「アルラウネ、ライスプティングが欲しいー」
「少々、お時間を頂いても?」
「はいはい、待ちます待ちます」
マティルダは傍《かたわ》らに漂《ただよ》っていた美女の顔を中心に抱く花、台所《キッチン》女中《メイド》アルラウネに言って、ようやっと寛《くつろ》ぎました。具体的には、テーブルの上に腕を伸ばして倒れ込みます。
そのだらしない様《さま》を、彼女と共に来た女中長《ヘッド・ハウスメイド》ヴィルヘルミナが咎《とが》めます。
「仮にも家政婦《ハウス・キーパー》が、はしたない真似は慎《つつし》むのではあります」
「重職《じゅうしょく》自覚《じかく》」
女中長《ヘッド・ハウスメイド》というのは、邸宅の清掃と管理を主業務とする家女中《ハウスメイド》を統括《とうかつ》し、家政婦《ハウスキーパー》の補佐にあたる役職です。いつもというのがいつなのか不明ですが、そのいつもより心持ちエプロンにフリルが多く、ドレスも午後用の黒になっています。そして無論、彼女に続いた声は、ヘッドドレスに取り憑《つ》いた妖精ティアマトーものです。
「ごめーん。でも今日は来客で一日大変だったからさー」
「まったく、仕様のない御人であります」
マティルダの、謝りつつもへばったままという姿に憤慨《ふんがい》しつつ、ヴィルヘルミナも着席します。当たり前のようにぬけぬけと、メリヒムの隣に。
「……」
「……」
未《いま》だ無言のまま銀食器を磨《みが》いていた執事《バトラー》は、微妙な沈黙を幾秒《いくびょう》か経て――不意に食器を置くや、自身の椅子《いす》を女中長《ヘッド・ハウスメイド》と反対側にずらし、そこに在った椅子《いす》を背中から回して二人の間に、タン、と置きました。まさに神速の妙技。とどめと背後に声をかけます。
「ジャリ、ここに座れ」
マティルダやヴィルヘルミナと共に来ていた宙に浮く卵、従者《ヴァレット》ジャリは、
「ご立腹召さるな」「私は貴女《あなた》の邪魔立てをしない」「出来ればお役に立ちたいと思っている」
などと意味ありげなことを三つの面で喋《しゃべ》って、椅子《いす》の上に振りました。従者《ヴァレット》とは、今で言う秘書、あるいは側近に相当するん直属の、身辺の世話に従事する役職です。
あっさりかわされ、むむむ、と変な唸《うな》りを上げる女性は無視して、アラストールが促《うなが》します。
「そんなことより、ジャリよ。家令《ハウス・スチュワード》よりの指示を」
応じてジャリが、その身辺から手の代わりとハ……ではなく、蝶《ちょう》の群れを出し(彼も食事時のTPOは心得ているのです)、封筒を一つ、テーブルの中央に置きました。
「森の住人たちの」「集まりの真ん中で」「見せるがよい」
突っ伏したマティルダを除く一同の顔が、引き締まります。
ロンドンで白《シロ》仮面《かめん》が活動を始めて以来、何度か互いの状況から協力し、事情をも了解し合った、一つの組織を示す暗号名が、特殊な記号で書かれていました。
その組織とは――テムズ河川《かせん》警察。
そこに、厨房《ちゅうぼう》全体を統率し主のため腕を振るう料理長《シェフ》ウルリクムミが、ライスプティングのみならず、炒《いた》め物や揚げ物、チーズにパンにシチューを山ほど、盆に載《の》せてやってきます。
「待たせたなあああ、おまえたちいいい」
マティルダの快哉《かいさい》と共に、ようやく彼らの晩餐《ばんさん》兼、騒がしい作戦会議が始まりました。
一方、
白《シロ》仮面《かめん》に関係する何事かの会合がある度、家令室《かれいしつ》で二人きりにされる家令《ハウス・スチュワード》モレク、およびシャナ付き小間使い《レディースメイド》チェルノボーグも、共に遅い食事を取ってました。
「……」
「……」
二人の間で話が弾むことはありませんが、
「……美味しいですね」
「……そうか、そうだな」
これはこれで、幸せそうではありました。
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4 ウェスト・インディア・ドック
ロンドン市内を西から東、海へ向けて蛇行《だこう》するテムズ川は、世界の要港《ようこう》となった同市の、引いては大英帝国にとっての大動脈です。この流れの一隅《いちぐう》、市の中心からやや東に、湾曲《わんきょく》してU字型に、縁《ふち》取られた半島部、|犬の島《アイル・オブ・ドッグズ》があります。
ウェスト・インディア・ドックは、この半島部の付け根に位置し、約三百エーカー(約121.4万平方キロメートル)もの広さを持つ、東西に伸びる長方形の堀です。西インド方面からやってきた大型の商船を四百|隻《せき》以上|係留《けいりゅう》できる、大英帝国でも指折りの巨大|船渠《ドック》でした。
大小多くの船が停泊する水場の常として、周囲には無数の、貯蔵《ちょぞう》と保管の設備も整った大型倉庫が所狭《ところせま》しと軒《のき》を連《つら》ねています。昼間には荷の積み下ろしでごったがえす場所ですが、夜には港湾《こうわん》管理事務所の夜警《やけい》がたまにランプを持って通りかかる、あるいは稀《まれ》に船内から騒ぐ声が漏れる程度の、設備の大きさに見合わない無人《むじん》境《きょう》となります。
帆《ほ》を畳《たた》んだマストの林立は、さながら枯れた針葉樹林。倉庫は壁で星と月を塞《ふさ》ぎ、隙間《すきま》で疎《まば》らなガス灯を阻《はば》む、闇への入り口となります。水底に証拠を消し、水上に追っ手を撒く、悪党の楽園だった河畔《かはん》の情勢も、河川《かせん》警察の登場でそれなりに改善されましたが、殺人強盗泥棒|人攫《ひとさら》いに海賊まで、未《いま》だ世に悪党の尽《つ》きることはありません。
そして、今日も今日とてその一つ、明かりを点《つ》けない小船が、接岸します。
「ああ、時間通りに到着ですね」
「ふむ、貴殿らが「B」のご一党かの?」
悪党その1&妖精ことカムシンとベヘモットが小さく声をかけた先、岸壁で待っていた、直立する駱駝《らくだ》に仮面をつけた大きな豹《ひょう》という二人……なのかどうか、ともかく駱駝《らくだ》が、手に在るランプのシャツターを一線、薄く開けて答えます。
「いかにも、[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]のウアルだ。早速だが、荷揚げを急いでくれ。頼む」
「了解した」
仮面の豹《ひょう》が、小船から放られた艫綱《ともづな》を受け取って、舫《もやい》杭《ぐい》に素早く括りつけました。
同時に、船から幾人《いくにん》もの人影が、のっそり立ち上がります。カムシンも含めて皆、中世の盗賊のような黒ずくめのフードにマントという姿で、どう見ても堅気ではありません。
その中、悪党その2&妖精ことフランソワとグローガッハが、
「それにしても酷い役回りだなあ……」
「最初が徒《ともがら》メインだったから、今度は私たちってことね」
などとぼやきつつ、背負った壺《つぼ》で大きく膨《ふく》らんだマントをマントを翻《ひろがえ》して艫綱《ともづな》と反対側、船尾《せんび》と岸壁にそれぞれ片足をかけ、着岸を安定させます。
続いて立つ悪党その3&妖精ことザムエルとジルニトラは、
「どんな配役であれ、なった以上はこなせば良かろう」
「とはいえ、様々な意味で屈辱的《くつじょくてき》ではある」
言って早速、荷物を抱え上げました。
小船に山積みされているのは、見た限りは何の変哲《へんてつ》もない、一抱えほどの木箱です。
岸壁に上がった悪党その4&妖精ことクロードとカイムは、
「確かに、麻薬の密輸とは、な。どこまでも汚れ役が付いて回る」
「へっ、不満があったところで腰抜けが逆らえるわけもねえだろ。とっととやれ」
渡される木箱を受け取って、岸壁に積み始めました。
悪党その5&妖精ことセンターヒルとトラロックは、
「アヘンだけでなく、ヘロインまで入っているのでしたか?」
「これはなかなか、できない体験ですね。早々に来て[#「来て」に傍点]もらいたいものですが」
船の中で、ザムエルに荷を渡してゆきます。
阿片《あへん》は、十九世紀初めから大英帝国、インド、清《しん》帝国の三角貿易における重要な産業物品[#「産業物品」に傍点]として、インドから清《しん》帝国へと輸出されていた麻薬です(これを原因とする『永遠の不名誉となる戦争』こと阿片《あへん》戦争は、物語の時点より半世紀ほど前の出来事です)。
もっとも当時、阿片《あへん》は大英帝国一般の国民にとって、毒物とは看做《みな》されていません。どころか、万病に効く治療薬として、気軽に服用されていました。これは、清《しん》で多くを廃人《はいじん》にした喫煙《きつえん》=即効性《そっこうせい》で吸収は大量、という方式でなく、経口《けいこう》摂取《せっしゅ》=遅効性《ちこうせい》で吸収も微量、という方式が主流だったためです。無論、その一般とは違う場所、例えばイーストエンドのスラム街や一部の社交場には昔から、その喫煙《きつえん》を行う阿片《あへん》窟《くつ》が多数、存在してはいたのですが。
つまり、彼らがわざわざ密輸しているのは、もう一つの品目――ヘロインが理由、ということになります。調和より四半世紀、販売開始から間もない、この麻薬は、阿片《あへん》とは比べ物にならない、極めて高い依存性と激烈な禁断症状を秘めた危険物でした。この物語の時点では、未《いま》だ服用は咳止めとしての経口で行われていましたが、誰かが程なく、静脈《じょうみゃく》注射によって引き起こされる闇の魔力に気付くはず――その程なく、という時機が、まさに今なのでした。こんなものが、上下どの階級であれ大量に出回れば、その惨禍《さんか》は絶大なのものになるでしょう。
等々、説明をしている間に、小船にあった全ての木箱は、岸壁に積み上げられました。
ウアルが次なる命令を出します。
「よし。次は、前の倉庫に運び込――」
刹那《せつな》、説明を書き綴《つづ》った甲斐もなく、七色の一撃で岸壁は砕《くだ》け、木箱は堀に落ちます。
「奴か?!」
叫び、飛び退《の》く彼の眼前で再び光が迸《ほとばし》り、沈みつつあった木箱が全て、粉々になりました。
「――っく!?」
失態《しったい》に歯《は》噛《が》みする仮面の豹《ひょう》の耳に、高きより朗々《ろうろう》たる声が届きます。
「世を人を、蝕《むしば》み侵《おか》す薬物の密輸、断じて許し難《がた》し!」
お世辞《せじ》にも綺麗《きれい》とはいえないテムズ川の水に混じってゆく貴重かつ高価な密輸品から、ウアルは目を転じます。倉庫の屋根で、いつしか出ていた月を背負って立つ、一人の男に。
「現れたな……!」
「悪の秘密結社[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]よ、身を以って[#「身を以って己」に傍点]己《おの》が栄える例なしと知るがいい!」
真っ白なマントに銀髪、その内に浮かぶ真っ白な髑髏《どくろ》の仮面を付けた男は、決め台詞に入ります。
「夜に架《か》けたる七色は、悪を註《ちゅう》する正義の光――」
彼が絶妙なタイミングで現れたのは、先に届いた手紙の故《ゆえ》でした。差出人は、彼らと密《ひそ》かな協力関係にあるテムズ河川《かせん》警察の高官、ピエトロとセンティアです。
書状に曰《いわ》く、
「今夜夜半、ウェスト・インディア・ドックに大量のヘロインを運び込もうとしている連中がいる。常の貸し借りを一つでも清算されたくば、是非とも夜の散策へと出かけられたし」
「情報源はタレコミだけど、各方面に裏は取ったから安心しとくれ。別紙に、夜警《やけい》の行き届かない部署と、小型船を着ける低い埠頭《ふとう》を記しておいたから、後は出たとこ勝負だね」
とのこと。
こちらから後始末を押し付けたり、向こうが厄介ごとの解決を持ち込んだりする間柄として一定の信を置いている彼らの、言った通りの場所に、密輸犯はやってきました。
満を持しての声が、夜を渡ります。
「――白《シロ》仮面《かめん》、参上!!」
「ええい……ものども、かかれ!」
ウアルは典型的な悪役台詞で背後に命じますが、返事はなし。思わず振り返った先で、
「っ、な!?」
いつの間にか小船が岸を離れています。
「ああ、それでは、お先に失礼しますよ」
「ふむ、[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]のために命を懸《か》ける義理はないからの」
カムシンとベヘモット初め悪党らは各々《おのおの》櫂《かい》で漕《こ》ぎ、壮絶な勢いで広い船渠《ドック》の中を何処かへと去っていてしまいました。
「き、貴様ら!」
怒る[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の頭上に――七色の光が降りかかります。
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5 とある広間
何処とも知れない、豪奢《ごうしゃ》極まる調度ながら仄暗《ほのぐら》い大広間に、貴種と思しき面々《めんめん》が四人、テーブルクロスのない、鏡の如《ごと》く磨《みが》き抜かれた長テーブルの四方に集《つど》っています。
その上座に在るのは一人の、やんごとなき身分と一目で分かる身形の少年です。
背後の壁にあるのは、軍旗《ぐんき》のように大きく華々《はなばは》しい、、黒《くろ》い蛇《へび》が身をくねらせる|壁掛け織物《タペストリー》。
「今度がウアルらが、食われたか」
少年が尋ねると、右の席に座った貴婦人《きふじん》が答えます。
「は。ニューゲートに収監《しゅうかん》される模様です。折って脱獄《だつごく》の手引きをいたしましょう」
「ふむ――教授は、怒っただろうな」
クスリ、と少年は陰なく愉快げに笑いました。
女性が再び、微苦笑を浮かべて答えます。
「まあ、多少は」
実際のところは、
「ノォウ! 生成の場所と技ぃー法の違いがっ! 多幸感と禁断症状にどぉーのような影響を与えるのかっ! という多ぁー角的研究がブゥーッチ壊しじゃぁーありませんかっ!」
「教授ー、もう三度ほど結論も出してたんですし、いいじゃないで|ふはひははは《すかいたたた》」
「なぁーにを言ぃーっているんですか、ドォーミノォー!! そぉーの時々に、感じて気付いてピィーンとくる! そぉんなナニかにまた会いに、私は今もこれからも、突ぅーき進んでゆ」
以下略な遣《や》り取りがあったのですが、主従ともにその辺りは流します。
左の席に座った軍人らしき男が、まだ主流とは言えない紙巻《かみまき》煙草《たばこ》を手に(この座に嫌う者がいるので火は点《つ》けていません)、また別種の笑いで尋ねます。
「公爵《こうしゃく》閣下《かっか》、彼奴の邪魔立てにより失敗した計画も、これで十を超えたところ。いい加減、手を引かれるおつもりは?」
少年は、嘲弄《ちょうろう》とも叱責《しっせき》とも取れる進言に、変わらぬ愉快さを以って返します。
「ない、よ。逆に、楽しくなってきたくらいさ。元々、あの白《シロ》仮面《かめん》に興味を持って始めた悪い遊び[#「悪い遊び」に傍点]なんだ。向こうが退屈しないよう、そろそろ僕らの方も本気で、舞台に上がろうじゃないか。何時《いつ》の何処《どこ》かは……分かってるね?」
真向かいの席にある、白ずくめの修道女《しゅうどうじょ》然《ぜん》とした少女が立って、恭《うやうや》しく一礼しました。
「早急に、御言を一統に布達《ふたつ》いたしましょう」
貴婦人《きふじん》と軍人も立って姿勢を正し、三者、声を合わせます。
「――いと貴《とうと》き黒《くろ》い蛇《へび》よ、我ら此処《ここ》に集《つど》う――」
少年は最後に立ち、手にあった仮面で、顔を隠しました。その陰から漏れ出るのは、遠く、深い、少年のものではない、声。
「食《パン》の足る者は、娯楽《サーカス》を求める……か」
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6 侯爵邸
その夜、ロンドン近郊にあるバルマス家所有の城館で、舞踏会《ぶとうかい》が開かれていました。
バルマス家は、侯爵《こうしゃく》の位を預かる名門中の名門で、当主はユウジ。年若くして家を続きながら議会上院の切れ者として、また救貧院《きゅうひんいん》や孤児院《こじいん》に援助する篤志家《とくしか》として知られています。
彼の主催する舞踏会《ぶとうかい》の会場である侯爵《こうしゃく》邸は由緒《ゆいしょ》ある古城を改装した、外に威風《いふう》堂々《どうどう》、内は壮麗《そうれい》絢爛《けんらん》という城館ですが、これさえ数多く所有する中の、春に使う館でしかありません。
招待客の方も、相応の品格を備えた貴族や大土地所有者から、各界の名士まで、錚々《そうそう》たる顔ぶれが三百人以上と、まことに盛大。侯爵《こうしゃく》家の脅威《きょうい》、押《お》して知るべしというところです。
今も、城館の輪になった前庭を通ってきた馬車から、次々と招待客が降り立っています。
「よ、良いのでしょうか、私|如《ごと》き者がこんな……」
「このような時に、遠慮も気後《きおく》れも卑下《ひげ》も無用だ。そ知らぬ顔でいれば、なんの問題も起きん。もっと堂々《どうどう》と歩くがいい」
角を意匠《いしょう》した髪飾りをしたメアや、裾《すそ》の長いコートを羽織《はお》るサブラク、
「はは、またその襟巻《えりま》きか?よっぽど気に入ったんだな」
「それは、そうだ。貴方《あなた》のくれた物なのだから」
「……うむ」
そつのない着こなしのクレメンスと、シャックなドレスを纏《まと》うセシリア&クエレブレ、
「なんで相手がコイツなんだよ、今度は結婚|詐欺《さぎ》ってか?」
「まあまあ、チョィ役だからって膨《ふく》れてちゃみっともないよ」
「私の方も、異議申し立てができるのならしたいものだ」
「そ、そんなに怒らなくてもいいじゃない、レベッカちゃん」
艶姿《あですがた》も台無しな大股で歩くレベッカ&バラルに、礼装を一分の隙もなく決めるフリーダー&ブリギッド、
それぞれの趣向で飾った紳士《しんし》淑女《しゅくじょ》が、次々と城館の中へと進みます。彼らは玄関ホールで帽子や上掛け等を、別室で控《ひか》える使用人ら預け、人波溢れるダンスホールへと入ってゆきました。
ホールの天井は高く広く、床は硬質に輝き、装飾はどこまでも華美。当主の若さを示すような、新式の電気を使った巨大なシャンデリアが三台、蝋燭《ろうそく》よりも明るく、ガス灯より優しく、輝きを降らせています。ホールを見下ろせる二階は休憩室が設けられ、壁には縦に長大な窓が夜の鏡となり、人の会話を妨げない大きさで妙なるバイオリンの調べが、
「其《そ》は清らかな誉《ほま》れたる、沈まぬ日をば仰《あお》ぎ見る……」
ついでに誰も聞いていない奏者ロフォカレの歌声も微《かす》か、流れています。
やがて、ギャラリーが集《つど》うのを待っていたかのように、
「アシズ・トーテングロ伯爵《はくしゃく》ご夫妻! 並びに、ミス・シャナ・トーテングロ!」
入口脇に立つ接待係のジョージが、高らかに呼び上げました。
場が静まり返るのではなく、喧騒《けんそう》の質が感嘆《かんたん》へと変化します。
威風《いふう》辺りを払うアシズと腕を組――むと足が浮いてしまうので、腕に抱えられるティス夫人のスタイルも、もはやロンドンの社交界で知らぬ者はありません。
そしてなにより注目は、その傍《かたわ》らを静々《しずしず》と歩むシャナに集まります。
結い上げた黒髪は明かりに映えて濡《ぬれ》羽《ば》色《いろ》をなし、大胆に首元を開けた赤のドレスも、膨《ふく》らませた肩と肘上までの手袋、コルセットで絞られた細腰、足下までをスリムに覆《おお》うスカートと、伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》として望まれる姿そのもの。加えて、銀の雫《しずく》が幾《いく》十《じゅう》も連《つな》なる豪奢《ごうしゃ》なネックレスが、格と箔《はく》を厳しくも美しく、見る者に示します。もちろん身形だけでなく、両親ともども挨拶《あいさつ》を受け、澱《よど》みなく微笑で返す様《さま》も、完璧。
しかし、それ[#「それ」に傍点]をこそ心配する友人が二人、交際相手ともども挨拶《あいさつ》に赴《おもむき》きます。
「こんばんは、シャナちゃん」
「ご機嫌|麗《うるわ》しゅう、トーテングロ伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》」
殊更《ことさら》に近しい口調で声を掛けたカズミと、あくまで折り目正しく接するイケ、
「相変わらずすごい人気ねえ」
「これはこれは、って言った方がいいかな」
こっちは自然体の親しさを見せるマタケと、両の手を広げて剽《ひょう》げるタナカら、舞踏会《ぶとうかい》ではお馴染《なじ》みの面々《めんめん》です。くだらないゴシップを明るく楽しく裏表《うらおもて》なく、彼らは語ります。
形式張った遣《や》り取りと愛想笑いに凝り固まっていたシャナの表情も、この友人たちの輪に囲まれることで、ようやくの柔らかさを宿してゆくのでした。
挨拶《あいさつ》を受ける両親も、それを密《ひそ》かに満足げに、眺めています。
談笑が続くこと僅《わず》か。
ホール奥の扉が開いて、舞踏会《ぶとうかい》の主催者たるバルマス候ユウジが入場してきました。陽気《ようき》な歓声を受けるその姿は、力に満ちた表情と鷹揚《おうよう》ながら弛《ゆる》みのない挙措《きょそ》、仕立ての良さが遠目にも分かる燕尾服《えんびふく》に、銀の握りを付けた黒《くろ》壇《たん》のステッキと、非の打ち所のない紳士《しんし》ぶりです。
「当家の晩餐会《ばんさんかい》にようこそ」
から始める、丁寧《ていねい》ながら印象に残らない彼の挨拶《あいさつ》を経て、会は早々にダンスへと移ります。楽師《がくし》たちは、まず緩《ゆる》やかに始め、すぐに調子を上げて、人々の動きを演奏で誘導します。
ホールのそこかしこで、軽快なワルツに乗ってペアが踊り始めました。
「そのドレス、良く似合ってるよ、フィレス」
「ヨーハンこそ、燕尾服《えんびふく》がすごく格好良いわ」
今にも抱き合わんばかりに熱っぽく、手を腰を取り合うフィレスとヨーハン、
「わ、私はスラム育ちで、こういうのは……」
「こんな場で文句を言ってんじゃない。役得だと思え」
「恐れずステップを踏みなさい。それで第一段階は合格です」
「輪を描き飛ぶ鳥を思われよ――」
拙《つたな》いステップを踏むダン&フィフィネラと、華麗《かれい》に舞うヒルダ&ヴォーダン、
「えへへー、ど、どうですか、この格好?」
「褒《ほ》めんのよ、分かってるわね?」
「褒《ほ》めんのよ、全感性を駆使して」
「ん、ああー……つまり、スゴクキレイだな。トテモカワイイと思うぞ痛っ!?」
「言葉の繰《く》りは、少し修行した方が良いな」
精一杯着飾ってアピールするキアラ&ウートレンニャヤ・ヴェチェールニャヤと、その彼女ら[#「ら」に傍点]に向こう脛《すね》を蹴り飛ばされたサーレ&ギゾー、
さらにはヨシダとイケ、マタケとタナカまで、様々な組み合わせが、生まれては消え、離れては繋《つな》がり、まるで燕尾服《えんびふく》とドレスの織《お》り成《な》す万華鏡《まんげきょう》となったかのように、夜を彩ります。
その中、シャナは両親とともに侯爵《こうしゃく》への挨拶《あいさつ》に出向いていました。
「お招き、ありがとうございます。侯爵《こうしゃく》閣下《かっか》」
「よくおいでくださいました、伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》」
二人とも完璧な、しかし社交辞令を一歩も出ない言葉を交わします。
シャナは、この有能にして人格者との誉《ほま》れも高い、若き侯爵《こうしゃく》家の当主に、異性として心引かれたことはありません。容姿や行状の問題ではなく、社交界によくいる、これ以上ない猫がぶり、身を固める虚偽《ぎょぎ》の殻《から》、等の胡散《うさん》臭《くさ》さを感じているためだす。もっとも、実は向こうもそう思っていることを、ゆえに必要以上に近づいてこないことを、彼女は知りません。
と、通り一辺倒《いっぺんとう》の遣《や》り取りを終え、挨拶《あいさつ》の列から離れた彼女に、小さな声がかかります。
「題『貴族』なる仮装に紛《まぎ》れたる過客の如《ごと》し……おいたわしや[#「おいたわしや」に傍点]」
「?」
淑女として優雅《ゆうが》に振り向いたシャナは、ホールの端、古城の形を残す無骨《ぶこつ》な支柱の陰に、一人の男が佇《たたず》んでいることに気付きました。東方《とうほう》趣味らしきゆったりした衣に、纏《まと》めず広がる長髪という異装。静けさを保ち、瞳だけが熱の脈動を感じさせる、不可思議な人物です。
「典雅《てんが》の所作に澱《よど》みなく、しかし、楽しまれぬご様子」
「楽しい、楽しくないの話ではないでしょう」
意味の分からぬまま、シャナは明晰《めいせき》に返します。
「そう在るべき立場に、私はいるのですから」
「なるほど。場に立ち居つつも溶け込まず、虚飾《きょしょく》といえど安易に異を唱えず、規範への堅固な志操《しそう》を抱かれる心身は……偽りの形であっても、その強さゆえ賞賛《しょうさん》に値しましょうな」
分かるような分からないようなことを言う彼の傍《かたわ》らに、
「同志サラカエル」
と、一人の女性が立ちます。端正な顔立ちと長身に、レースを多用したドレスの似合う佳人ではありますが、表情や素振りに、およそ舞踏会《ぶとうかい》には相応しくない鋭さが満ちています。
「同志ドゥーグが戻りました。そろそろ同志グロードとも合流してよいのでは」
「ええ。切り上げ時ですね、同志ハリエート・スミス」
言って彼、サラカエルは身を屈め、別れを告《つ》げます。
「伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》、声をおかけした身が先に辞する無礼、ご容赦《ようしゃ》を」
「……いえ」
理解しかねた話に食い下がるわけにも行かず、シャナは首を振ることしかできません。
緩《ゆる》やかに一礼、倣《なら》う女性とともに素早く身を翻《ひるがえ》し、陰に在った男は陰から去ってゆきます。
「一度、思うが侭に振舞う者を、ご覧になればよろしい、なにかが見えるでしょう!」
宿題のように言い置かれた声に答えることもできず、シャナは彼の後姿を見送ってました。
そうして、彼が姿を消して数分の後、侯爵《こうしゃく》邸の何処かで、
「時間、か」
人狼《じんろう》ファレグが、一つのレバーを落とします。
全てが、闇に包まれました。
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7 仮面舞踏会
突然、ダンスホールのみならず、バルマス侯爵《こうしゃく》邸における明かりが一斉消えたそのとき、メリヒムは丁度、伯爵《はくしゃく》夫妻とともにホールにいました。会話の中で交わされた約束事や取り決めについて、幾《いく》つか迅速《じんそく》に手配するためです。
「何事だ」
言った伯爵《はくしゃく》だけでなく、周りも怪訝《けげん》のどよめきを漏らします。彼らの大半は蝋燭《ろうそく》やオイルランプを夜の明かりとしているため、不意の闇に落ちる『停電』という事態に慣れていないのでした。当初はそれでも、侯爵《こうしゃく》による余興《よきょう》の前触れだろう、と大人しくしていた者らも多かったのですが、一向に何も始まらない、ただ黒々とした闇に閉じ込められただけ、という状況が数分続くと、徐々に動揺が広がり始めます。
流石《さすが》に伯爵《はくしゃく》は動じず、ただ、傍《かたわ》らに在るティス夫人を守るため抱きかかえました。
メリヒムも彼らを守る者として、群衆そのものを警戒します。
(いかんな、誰かが一突きすればパニックが起きるぞ)
逆境やストレス、自身への直接的な危機というものに慣れていない貴族や名士らは、不安を制御する方法を知りません。ただ身の内に溜め込まれてゆくそれらが臨界点を超え爆発する。
まさに寸前、
バン、と明かりが一つ、ホールの使われていなかった高いテラスに点《とも》りました。闇中に縋《すが》る一条の糸として、誰もが振り向きます。やはりこの消灯は侯爵《こうしゃく》の余興《よきょう》だったのだ、人を脅かせる催《もよお》しとは穏《おだ》やかな侯爵《こうしゃく》らしくもない、と安堵《あんど》とともに注視した先にいたのは、
「ようこそ[#「ようこそ」に傍点]、諸君」
しかし、侯爵《こうしゃく》ではない、もっと別の何か。
「我が名は『黒《くろ》い蛇《へび》』――[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の首領なり」
聞き慣れぬ、遠く深い男の声を零《こぼ》すそれは、言葉通りの不気味な蛇《へび》の仮面に、後頭に伸びる尾、纏《まと》うマント、全てが黒の怪人でした。人々が受けた衝撃に叫びを上げそうになる、
またその寸前、
ホールの各所に、明かりが点《とも》されます。光の中に浮かび上がったのは、扉の前に立ちはだかり、いつの間にか閉まっていたカーテンごと大窓を塞《ふさ》ぐ、同じ黒《くろ》い仮面を被った一団でした。
黒衣に長柄《ながえ》の斧を持った男と、緩《ゆる》やかな白衣の女が、
「我らこそ、真の[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]!」「御一同は、今や我らが虜《とりこ》」
悪魔然《あくまぜん》とした奇妙なスーツを纏《まと》う男と、魚っぽい人物が、
「ど、どうぞ騒がれることなく」「我らが首領の、下知《げち》を、聞かれよ」
三本角の甲虫《かぶとむし》のような男と、袋を背負ったローブ姿の子供が、
「抵抗も、逃亡も、我らの前には無意味!」「死を望むのなら、別だけど」
獅子《しし》の鬣《たてがみ》に宮廷服の男と、一人だけ正統な紳士《しんし》と見える男が、
「よって、心がけるべきは一つ」「なにより、まず従順であることを願います」
双頭にマントの人物と、逆に首のない鳥のような何者かが、
「我ら[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]、無法の住人とはいえ」「無用の殺生《せっしょう》は、本意ではありません」
文字の上、あるいは噂《うわさ》でしか知らなかった凶悪な秘密結社によって次々発せられる恫喝《どうかつ》が、招待客らを、歌劇の中に囚われたような興奮と不安で支配します。
(真の[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]に、その首領だと……いったい何者だ?)
その例外であるメリヒムは、白《シロ》仮面《かめん》として歯噛《はが》みしていました。自分が事件に巻き込まれた場合、飛び出しては正体がバレてしまいます。もう一つ、なによりの問題は、この会場に主人である伯爵《はくしゃく》一家がいることでした。三人の存在が、白《シロ》仮面《かめん》としての勝手な活動を明かしてしまう、戦うことで一家を危険に晒《さら》してしまう、彼にとって二重の枷《かせ》となっていたのです。
(遂に現れた悪の首領を前に、身動きできんとは……外の連中を頼るよりない、か)
今夜、この侯爵《こうしゃく》邸には、伯爵《こうしゃく》の従者《ヴァレット》ジャリ、夫人の小間使い《レディースメイド》チグサ、令嬢《れいじょう》の小間使い《レディースメイド》チェルノボーグ、そして第一御者《ヘッド・コーチマン》のイルヤンカが同行しています。この内、チグサを除く三人は、それなりに[#「それなりに」に傍点]腕っ節も立ちます。異常事態を知った彼らが、何らかのアクションを起こすことで、とにかく伯爵《はくしゃく》一家を退避させる、そうすれば大暴れできる[#「大暴れできる」に傍点]、とメリヒムは期待しました。
(しかし、その前に、俺もやらねばならぬことが)
まずいことに、シャナの姿が、近くに見えないのです。人ごみで溢れかえる暗がりの中、しかも[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の目を盗んで、彼は令嬢《れいじょう》を保護しなくてはならないのでした。
危機感を募《つの》らせる彼を他所《よそ》に、テラス上で首領『黒《くろ》い蛇《へび》』が観衆に呼びかけます。
「立場を了解頂けたところで、要求を伝えよう。なに、危険などない。我ら[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]初の大興行に立ち会われた証に、諸君らの身につけた貴重品を頂戴《ちょうだい》したい、というだけのこと」
要するに強盗の類《たぐい》か、というざわめきへ、さらに。
「案じられることはない。後日、責任を持ってお返しにあがるはずだ……品々を送りつけた、ロンドン中の新聞社が、な。その際は、この場の顛末《てんまつ》を包み隠さず語ってもらいたい」
ざわめきが色合いを変えます。
首領『黒《くろ》い蛇《へび》』の狙いが、ようやく招待客らにも分かったのでした。舞踏会《ぶとうかい》に集《つど》った上流階級の人々を、好き勝手に容易く、翻弄《ほんろう》し蹂躙《じゅうりん》することで、[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の力を喧伝《けんでん》する(この時期になると、新聞社による醜聞《しゅうぶん》の流布《るふ》は誰にも抑えることができなくなっていました)……宣言通りの大興行に添える花として、彼らは扱われようしているのです。
下世話《げせわ》な記者に、事件の当事者としての醜聞《しゅうぶん》を根掘り聞かれる、おぞましく恥じずべき光景を想像して、ようやく人々の間に反発の空気が生まれます。
が、首領『黒《くろ》い蛇《へび》』は、どこまでも狡猾《こうかつ》でした。
「妙な気は起こされぬがよるしい。我らも悪党の端くれ。拒否すれば……」
その機運すら挫《くじ》く最後の手駒《てごま》を、既に用意していたのです。彼は黒《くろ》いマントを広げ、その内を晒《さら》しました。現れたのは、彼が纏《まと》う見慣れぬ様式の赤い鎧《よろい》と、同じく赤い、手駒《てごま》。
「このお方が、まず傷つくことになる」
それは、あらゆる観衆を――アシズやティス、メリヒムすらも――驚愕《きょうがく》させるもの、赤いドレスを纏《まと》った可憐《かれん》な伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》、シャナでした。
人々の動揺を十分誘えたことに首領『黒《くろ》い蛇《へび》』は満足し、
「では、早速始めよう」
言うや、一枚の紙をテラスの下、人垣の間へと投げ落とし、それが地面に付く寸前、投げ放った短剣を以って縫《ぬ》い止めました。紙には、出席者の名前が書き連《つら》ねてあります。
「この通り、誰がこの舞踏会《ぶとうかい》に出席しているかは分かっている。呼び上げる順に、その紙の許《もと》へ、我らが満足するだけの品を一つ、置いていっつもらおうか」
そうして目を遣《や》った背後、いつの間にか立っていた三人の内、少女と見える小柄な白服の少女が頷《うなず》き、まるで暗記していたかのように朗々《ろうろう》と、出席者の名簿を読み上げ始めました。
招待客らは反発を覚えつつも、人質と、周りで睨《にら》みを利かせる[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の手前、従わざるを得ません。最初の頃はおずおずと、慣れてからはそそくさと、宝石、装身具、扇子《せんす》、ステッキ、片眼鏡など、各々《おのおの》贅《せい》を凝らした品を一つずつ置いてゆきます。
数分の後、そこにはまさしく宝の山が出来上がっていました。
この様《さま》を、メリヒムは苦い表情で見守るしかありません。
(イルヤンカ、チェルノボーグ、なにをやっている……!)
なにせ、真っ先に逃がすべき令嬢《れいじょう》が、敵の首領に囚われているのです。かつてない窮地《きゅうち》、常にはない味方の来援を待つ焦りと苛立《いらだ》ちばかりが、心中に降り積もってゆきます。
ところで、その人質ことシャナは、首領『黒《くろ》い蛇《へび》』を、じっと見つめていました。こういう場合への対処法は、彼女の教わった規範の内にはありません。対処不能な状況ゆえに、己《おのれ》を捕らわれえる(といっても、軽く肩に手を乗せているだけですが)人物を、見つめます。とりわけ、黒《くろ》い仮面の内に滾《たぎ》る力、楽しくてたまらないという気持ちを漲《みなぎ》らせた、目を。
やがて、白服の少女が、とある名前を読み上げます。
「アシズ・トーテングロ伯爵《はくしゃく》ご夫妻!」
我に返ったシャナが目を転じる、その先に、二人が歩み出ています――と、
「モノは渡す。が、代わりにその子を解放してもらいたい」
伯爵《はくしゃく》が左の手に、握りに象牙《ぞうげ》細工《ざいく》を施《ほどこ》したステッキと、夫人の金環《きんかん》を握って、求めました。
「あなた方だけに、例外の取引を認めろと?」
「認めてもらう。私たちは、その子の父であり、母なのだから」
右腕に抱えられる夫人ともども、伯爵《はくしゃく》は確《しか》と見つめ、断固と言いきりました。
「父様、母様……」
両親の声に思わず声を詰まらせるシャナを介して、対峙する双方の沈黙が数秒、首領『黒《くろ》い蛇《へび》』が、また笑います。
「これは、様式なのだよ。求められて易々《やすやす》と返すようでは、折角の大興行も、筋書きへの不満が零《こぼ》れようというもの。どうぞ気兼ねなく、ご令嬢《れいじょう》ともども最後までお付き合い願いたい」
「……!」
夫妻の後ろ、付き従っていたメリヒムが、遂に堪忍《かんにん》袋《ぶくろ》爆砕《ばくさい》して飛び出そうとする、
その出鼻を挫《くじ》くように、
「はーっはっはっはっはっはっは!!」
ホールに度外れた哄笑《こうしょう》が響き渡りました。
「そこで離せば、見逃してやったかもしれないのに、やっぽ悪人ってのはぶっとばされる宿命を背負ってるみたいね!」
(この声は……!)
驚愕《きょうがく》するメリヒム同様、居並ぶ[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]たちが視線を彷徨《さまよ》わせ、やがて射止めたその姿は、天井。今は僅《わず》かな明かりに、薄くガラスの輪郭を浮かべるシャンデリアの上。
立っているのは、明らかに女性、しかし異様な貫禄《かんろく》に溢れた……白いマントと髑髏《どくろ》の仮面。
それが、二人[#「二人」に傍点]。
「白《シロ》仮面《かめん》、参上!!」であります!!」
最初に口上を述べていた女性が固まって、真横で同じポーズを取っているもう一人に向き直ります。
もう一人は、あらぬ方向に視線を逸《そ》らしました。誤魔化《ごまか》しているつもりのようです。
「ちょっと、ビィル……ムニャムニャ、なんで貴女《あなた》までここにいるのよ?」
「誰がやるか[#「誰がやるか」に傍点]、という皆の意見が纏《まと》まる前に独断《どくだん》専行《せんこう》した貴女《あなた》に糾弾《きゅうだん》される筋合いはな――」
ドカァン!!
と二人の会話を裂いて、四方八方の壁が打ち砕かれました。満席に上がる悲鳴を浴び、粉塵《ふんじん》の彼方から、
黒く細い女性が「白《シロ》仮面《かめん》……参上」、巨竜が「白《シロ》仮面《かめん》、参上だ」、大きな卵が「白《シロ》」「仮面《かめん》」「参上」枯れ木が「ふははははは、白《シロ》仮面《かめん》参上ー!」、浮かぶ壺《つぼ》が「白《シロ》仮面《かめん》、只今参上した」、鉄巨人が、「白《シロ》仮面《かめん》んんん、参上ううう!!」、角を生やした骨が「シ、白《シロ》仮面《かめん》参上ーっ、です」、口の裂けた狼が「白《シロ》仮面《かめん》参上だオラァ!」、
大小むちゃくちゃな白《シロ》仮面《かめん》たち[#「たち」に傍点]が次々と飛び出して、我先に名乗りを上げました。
ホールの各所に在った[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の面々《めんめん》は驚き、それぞれ近場の白《シロ》仮面《かめん》と対峙《たいじ》します。招待客の方は阿鼻《あび》叫喚《きょうかん》、皆して走ってはぶつかり、ぶつかっては方向を変え、また走り出すという大混乱に陥《おちい》っていました。
「こういう時にこそ、ポイントを稼ぐのだ」
「望むならば、励んで、勝ち取るがいい」
「努力、いたしましょう!」
中華風のドレスを纏《まと》うゲケン&テイコウと、老紳士《ろうしんし》然《ぜん》としたコウシンが手を取って駆け、
「こ、ここ、こここは、俺に任せてください!」
「はーいはいはい、当てにしてるわよ、ケーサク」
「ヒッヒ! リードってなあ、こういうのも含んでんのか?」
装《よそお》いにも末熟さがありありと見えるサトウと、逆に似合いすぎるほどドレスの似合うマージョリー&マルアスが、ときにパニックを潜り、ときに紛《まぎ》れながら逃げます。
その中、主人をこの混乱から守ろうと前に立ったメリヒムに、伯爵《はくしゃく》が一言。
「許す、征け[#「許す、征け」に傍点]」
「!」
メリヒムは、その一言で主人が全てを察していたことを知って瞠目《どうもく》し、しかし混乱する状況は今まさに、自身が飛び出す好機であることを悟ります。
さらに、伯爵《はくしゃく》の腕に在った夫人が、えい、と夫の両目を塞《ふさ》ぎました。
「ティス、なにをする?」
「これでアシズ様は、誰がなにをしても、見えませんようね?」
主人らの心遣いを受け取り、
「……は。これより、執事《バトラー》メリヒムは迷子となります。不始末の罰は後ほど!」
メリヒムは駆け回る招待客らの中に、自ら飛び込みました。
一方、自称・正義の味方が起こした惨状《さんじょう》に、首領『黒《くろ》い蛇《へび》』は呆《あきれ》れ声で言います。
「白《シロ》仮面《かめん》というのは、随分と乱暴なのだな」
「いつも戦ってる相手なのに、知らないの?」
シャナが、こちらは平静に尋ねました。
一瞬、キョトンとなってから、首領『黒《くろ》い蛇《へび》』は笑います。
「ああ、実際に相《あい》見《まみ》えるが初めてはといえ、たしかに、手抜かりの謗《そし》りは免《まぬが》れ得んな。まさか、こんなに出てくるとは思わなかった。客人らに無駄な怪我人が出なければ良いが」
その愉快げな姿に向けて、さらにシャナは尋ねます。非難ではなく、純粋な興味として。
「どうして、楽しいの?」
「ははっ――理由など[#「理由など」に傍点]!」
一点の曇りもなく答える悪人の仮面を、またホール全体を、
七色の光が眩《まばゆ》く、照らしました。
誰もが目を細め、すぐにその輝きの意味を知ります。眩《まばゆ》さと驚き、そして今は期待で、いつしか足を止めていた人々は、伝え聞く言葉の、本物の[#「本物の」に傍点]到来を、待ちます。
やがて輝きが消え、以前に増やした暗さを錯覚する彼らの直上から、声が。
「夜に架《か》けたる七色は、悪を誅《ちゅう》する正義の光――」
シャンデリアに在る女性らの間に、新たな白いマントと髑髏《どくろ》の仮面を付けた男が、立っていました。誰もが――あるいは首領『黒《くろ》い蛇《へび》』でさえも――待った、その登場。
「――白《シロ》仮面《かめん》、参上!!!」
場の危機感を忘れた感嘆の溜め息が、ホールのそこかいこに漏れました。
シャナもまた、正面で剣を取る姿……白い仮面の内に、首領『黒《くろ》い蛇《へび》』と同じ力の滾《たぎ》りを認め、なににか、どこにか、計り知れない衝撃を受けました。目が、一杯に見開かれます。
その見る先、
「なんだ、結局来たんだ」
「手柄を横取りできず、ガッカリでありまあす」
謎の女|白《シロ》仮面《かめん》二人の密《ひそ》かな憎まれ口にメリヒムは振り向かず、やはり密《ひそ》かに尋ねます。
「なぜおまえたちが来た……いや、来ることができた?」
「ほんの少し前に、変な使いが御館に来たのよ」
突然訪問した、その真円の両目を持つ黒い犬のような使者は、
「今夜、侯爵《はくしゃく》、邸を[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]が大勢で、襲う」
それだけを言って、またすぐ消えてしまったのだといいます。
「で、真偽はどうあれ、皆で慌てて駆けつけてみたら、この騒ぎだったってわけ」
「誰がどう飛び込むか相談していたら、マテ……この白《シロ》仮面《かめん》が抜け駆けしたのであります」
ついでに各々《おのおの》、手に在る指輪とヘッドドレスが付け加えます。
「まずは救出が先と急いだまでのこと。他意はない」
「卑怯《ひきょう》千万《せんばん》」
そちらの声は無視して、気を取り直したメリヒムは、正面下方に在る敵に向き合い、堂々言い放ちます。
「この俺が来たからには、もう好きにはさせんぞ!」
「……ほう」
首領『黒《くろ》い蛇《へび》』は、目を細めて思案します。
切り札の人質を取っているとはいえ、相手が先の登場のように無茶苦茶なことをする連中というのは分かっている、対峙《たいじ》する部下と白《シロ》仮面《かめん》ら[#「ら」に傍点]によって無駄な大量殺戮《さつりく》が起きるのは望ましくない、あくまで世間には面白おかしく触れ回ってもらわねば楽しくない、殺人集団として怒りと憎しみを向けられるのは不愉快、などなど、実に身勝手な思案が巡りました。
ふと、伯爵令嬢の肩にかけていた手の力が抜けます。
「あ……」
シャナはそれに別れの気配を感じて、振り向きました。
首領『黒《くろ》い蛇《へび》』は、この解放を以って、シャンデリア上の白《シロ》仮面《かめん》に告げます。
「会場の諸君を戦いに巻き込むは無粋《ぶすい》、戦いの中で宝を掻《か》き集めるは不快……なればここで、双方|矛《ほこ》を納めて消える、というもの一つの道と思うが、どうかな?」
両者の交戦回避と、徴収《ちょうしゅう》した品々の放棄《ほうき》を提案することで、彼は会場の空気を味方にし、手打ちの雰囲気を作ります。
これ以上の騒動は御免、という招待客の中には、露骨《ろこつ》に頷《うなず》く者までいました。
「いいだろう」
メリヒムにも、異論はありません。令嬢《れいじょう》を開放させること、主人の安全を守ることが、彼の目的だったのですから。とはいえ、黙って返す気もありません。
「だが、覚えておけ。[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の跋扈《ばっこ》するところ――」
女|白《シロ》仮面《かめん》を両脇に、自らは刃を、執事《バトラー》の象徴たる磨《みが》き抜《ぬ》かれた銀のナイフを前にかざし、宣言します。
「――[白《シロ》仮面《かめん》党《とう》]が、いつでも現れるということを!!」
一瞬、閃《ひらめ》いた七色の輝きが、シャンデリアの中で乱反射し、幻想的な光景を作り上げます。
誰が最初に鳴らしたのか、一つ、二つ、三つ、すぐに雪崩《なだれ》を打つように、万雷《ばんらい》の拍手が、まるで歌劇の終幕でも迎えたかのごとく、湧き上がりました。
すっかり脇役になってしまった首領『黒《くろ》い蛇《へび》』は苦笑して、伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》に手を伸ばします。
「これだけ――」
「!」
その胸元に下がっていたネックレス、銀の雫《しずく》の一欠けらだけを、指先でもぎ取って、彼はゆっくりと一礼、ひと時をともに踊った少女に別れを告げます。
「これだけ、頂いてゆこう。では、お嬢さん――縁ならば、また」
身を屈めたまま数歩下がり、黒《くろ》いマントを翻《ひろがえ》します。
その後には、彼自身、控《ひか》えていた三人の影、全ての黒が、去っていました。
ほどなく、伸びたファレグを足下に、
「さて、これからなにが起こるのか……」
ラミーがスイッチを上げることで、また不意に、屋敷に光が戻ります。
シャナがテラスから見渡すと、黒《くろ》い仮面も、白い仮面も、全て掻《か》き消えていました。
まるで、一夜の幻《まぼろし》のように。
そして、この戦いの一部始終を遠くから見ていた男が、風の中で満足げに笑い、同志らと去ります。
[#改ページ]
8 後日談
バルマス侯爵《こうしゃく》邸における[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]の舞踏会《ぶとうかい》襲撃《しゅうげき》事件は、[白《シロ》仮面《かめん》党《とう》]によって当初の目的を阻《はば》まれたとはいえ、結局のところ世間に与えた影響、という点については、同じ結果になりました。
誰が漏らしたのか、誰が流したのか、事件は仔細《しさい》にかつ誇大《こだい》に装飾されて新聞を賑《にぎ》わせ、両者の次なる戦いを、世間は大いに、かつ無責任に胸躍らせて待つことになったのです。
トーテングロ家の人々の暮らしは、事件の後も変わっていません。誰も彼もが日々の生活を懸命に送り、折々《おりおり》の仕事に励み、時には休んで、泣いたり笑ったり。
その中に、ただ一つ。
|女家庭教師《ガヴァネス》ゾフィーとタケミカヅチに、
「淑女《しゅくじょ》として為すべき課題の他にも興味を持ってほしい、とは言いましたけれど」
「まさか、件《くだん》の騒動から導き出した結論が、あれ[#「あれ」に傍点]とは……流石《さすが》、侮《あなど》り難《がた》いお方ですな」
そんな当惑か感服かを抱かせた、出来事が。
伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》シャナが、
「マティルダに、メリヒムが一番だ、って聞いた」
初めて淑女《しゅくじょ》の教養以外のものに、興味を持ったのでした。
「私に、剣術を教えて」
こして、新たに結成された[白《シロ》仮面《かめん》党《とう》]、首領と共に動き出した[黒《くろ》い蛇団《へびだん》]、両者による一つの出会いは終わりを告《つ》げ、時はまた、新たな出会いへと向かいます。
果《は》たして白《シロ》仮面《かめん》メリヒムと頼れる仲間たちは、トーテングロ伯爵《はくしゃく》家とトンドンと、ついでに大英帝国の平和を守ることができるのでしょうか? はたまた、首領『黒《くろ》い蛇《へび》』率いる秘密結社の張り巡らせる新たな悪事が、それら全てを破滅させてしまうのでしょうか?
彼らの起こした波乱は、密《ひそ》かに蠢動《しゅんどう》する謎の第三勢力、伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》シャナの決意をも飲み込んで、さらなる激動を時代の中に巻き起こしてゆくことになるのです。
刮目《かつもく》して、待て次回――!!
シャナ「続かないわよ」
[#地付き]終わり
画集「蒼炎」収録