灼眼のシャナS
高橋弥七郎
イラスト/いとうのいぢ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)自在|法《ほう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「最先端の」に傍点]
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夢を描きかえる|自《じ》在《ざい》法《ほう》は、あるのだろうか。
「みんな、よく聞いて」
|愚《ぐ》にもつかないことだが、いつもそう思う。
「明日の夜、またテトス|親父《おやじ》の一座が来るのは、知ってるわね?」
|悪《あく》夢《む》……それを|傍《はた》から見ている自分がいる。
「今度は、|大《だい》道《どう》芸《げい》を|披《ひ》露《ろう》するためじゃない。一つの計画を実行するためよ」
見る|度《たび》に、|飽《あ》かず|鮮《せん》明《めい》な感情が|溢《あふ》れてくる。
「ええ、ご期待通り。|宮《きゅう》宰《さい》に|帰《き》順《じゅん》した父の|旧《きゅう》友《ゆう》と、渡りをつけることができたの」
沸き立つ、自分を取り巻く全てへの、怒り。
「テトス親父の仲間が、その宮宰の所に出入りしてた|縁《えん》ってわけ。世間って狭いわ」
それらを砕き尽くさんとする、|渇《かつ》望《ばう》と|闘《とう》志《し》。
「デイヴィットの|糞《くそ》野《や》郎《ろう》は宮宰の|政《せい》敵《てき》でしょ? 軽くつついたら|案《あん》の|定《じょう》、乗ってくれた」
そして、なによりも深く暗い、|復《ふく》讐《しゅう》の|悦《よろこ》び。
「私の|要《よう》請《せい》が通っていれば、今夜来る一座の中に、宮宰の兵士が数人、混じってる」
あるいは、解放と自由よりも大きな、|悦《よろこ》び。
「私たちの役目は、分かってるわね? せいぜい最後の|晩《ばん》餐《さん》を楽しませてあげなさい」
痛いほどに胸|躍《おど》らせる、大きすぎる、悦び。
「それと、一つだけ、忘れないで。ジェイムズもデイヴィットも……私が殺す」
|悪《あく》夢《む》の中、|溢《あふ》れるものは、|苦《く》悶《もん》ではなかった。
「|無《ぶ》様《ざま》な|末《まつ》路《ろ》を、|栄《えい》華《が》の|終《しゅう》焉《えん》を、たっぷり見せ付けてから、|哂《わら》ってやる」
悪夢の中、満たされている気持ちは、悦び。
「私たちを汚し、奪った全てを|抉《えぐ》り取ってから、哂ってやるわ」
決して果たされることのない、|復《ふく》讐《しゅう》の悦び。
「そうして、|幾《いく》度《ど》も、殺す。殺して、私たちは……」
だからこその、悪夢。
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1 燃える川
全世界を揺るがした|大《だい》恐《きょう》慌《こう》から数年。
「――ああ、人間よ――」
その|震《しん》源《げん》地《ち》となったニューヨーク、マンハッタン島が、|新規まき直し《ニューディール》政策の元、かつての|繁《はん》栄《えい》を取り戻し、さらなる発展を|※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ取ろうと、おっかなびっくり身じろぎを続けている。
「――私は|讃《たた》えます――」
南北に長いこの島は、二つの川に挟まれていた。東を細く流れるのは、意味を名となすイースト川、西を太くたゆたうのは、この川を発見した探険家の名を取ったハドソン川。
「――物質を、力を――」
イースト川|河《か》口《こう》には、十六年もの|歳《さい》月《げつ》を費やして|架《か》けられた巨大な|吊《つ》り橋があった。|両《りょう》端《はし》の|接《せつ》岸《がん》部《ぶ》に、|優《ゆう》雅《が》にして|剛《ごう》健《けん》なローマン・アーチを|聳《そび》えさせる、ブルックリン橋である。
「――運動を、変化を――」
真昼の陽光を|翳《かげ》らす曇天の下、この中世の城門とも見える石造りアーチの上に、最先端の[#「最先端の」に傍点]トレンチコートをはためかせ、また|朗《ろう》々《ろう》たる|音《おん》吐《と》で歌い叫ぶ|奇《き》怪《かい》な姿があった。
「――ああ、人間たちよ――私は、祝福します――」
冬|迫《せま》る寒風にも|堪《こた》えず笑うそれ[#「それ」に傍点]は、人間ではなかった。ソフト|帽《ぼう》を押さえる|火《ひ》掻《か》き棒のような手。 |瀟《しょう》 酒《しゃ》なスーツの上、本来なら首のある場所に突き出た丸型メーター。体中からは、|鉛《なまり》色《いろ》の|火《ひ》の|粉《こ》が漏れ、舞う|端《はし》から蒸気となって立ち上っていた。
「もっと、変えなさい、もっともっと、作りなさい――」
|感《かん》極《きわ》まったそれ[#「それ」に傍点]が、|遂《つい》に見ること|叶《かな》った世界第一の近代都市、橋の向こうに|摩《ま》天《てん》楼《ろう》群《ぐん》を|聳《そび》えさせるマンハッタン島へと、両腕を広げ、声を張り上げる。
「人間たちよ、見せなさい、世界を塗り替えるほどの力を、私に!!」
|刹《せつ》那《な》、
ゴオッ、と|群《ぐん》青《じょう》色《いろ》の|炎《ほのお》が直下のイースト川から吹き上がり、全てを|舐《な》めて通り過ぎた。
「おおっ!?」
後には、イースト川の水面に|奇《き》怪《かい》な|紋《もん》章《しょう》が|火《か》線《せん》で描かれ、ブルックリン橋全体を丸ごと包み込む|陽炎《かけろう》のドームが出現している。ドームの壁面には火線と同じ群青色が揺らめき|過《よ》ぎり、内部にある全て――橋上の車が人が、川行く船が水面が――静止していた。
この世の|理《ことわり》に|干《かん》渉《しょう》し、在り得ない|事《じ》象《しょう》を思うが|儘《まま》に起こす『|自《じ》在《ざい》法《ほう》』の一つ。
内部を世界の流れから切り離し、外部から|隠《いん》蔽《べい》する|因《いん》果《が》孤立空間。
「|封《ふう》絶《ぜつ》!?」
驚いたそれ[#「それ」に傍点]は|咄《とっ》嗟《さ》に、鉛色の蒸気を足下から|噴《ふん》射《しゃ》して飛び|退《すさ》った。
その影も消えない足元へと、群青色に輝く炎の|弾《だん》丸《がん》がドドドッ、と立て続けに突き刺さり、|炸《さく》裂《れつ》する。石組みのローマンアーチが|粉《こな》々《ごな》に|爆《ばく》砕《さい》され、|濛《もう》々《もう》たる|粉《ふん》塵《じん》の中、|崩《ほう》落《らく》を始める。
「フレイムヘイズか!!」
ドームの高い天井へと舞い上がり、眼下の光景に目ならぬメーターを落とすそれ[#「それ」に傍点]の頭上、
「こーんにちは、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=v
「|早《さっ》速《そく》だがよ、死ね」
一つの姿が、二つの声を投げ落とした。身の周りを|幾《いく》重《え》にも|渦《うず》巻《ま》き輝いていた奇怪な文字列が|弾《はじ》けるように散って、今まで|遮《しゃ》断《だん》していた存在感を気配を、|十《じゅう》全《ぜん》に|誇《こ》示《じ》する。
浮かぶ本の上に立つ、|美《び》貌《ぼう》の女だった。
風に|靡《なび》く|艶《つや》やか|栗《くり》色《いろ》の|長《ちょう》 髪《はつ》と、 |抜《ばつ》群《ぐん》のスタイルを包む 白く細いロングドレスの|麗《れい》容《よう》。 しかし、見る者に刻み付けられるのは、|眼差《まなざ》しに満ちた|殺《さっ》気《き》の|脅《きょう》威《い》のみ。
対する、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニ呼ばれたそれ[#「それ」に傍点]が、
「この炎の色から察して、|貴女《あなた》は――」
言う間にも、女は腕を鋭く振り下ろしている。指先の|軌《き》跡《せき》をなぞるように|群《ぐん》青《じょう》色《いろ》の力が|迸《ほとばし》り、力は|炎《ほのお》に、炎は無数の矢となり、空を|貫《つらぬ》いて行く。
(評判どおり、短気で乱暴だ)
|徒《ともがら》≠ヘ|呆《あき》れつつ、 |火《ひ》掻《か》き棒のような両手を上に差し出して、 |袖《そで》口《ぐち》から|鉛《なまり》色《いろ》の蒸気を|噴《ふん》出《しゅつ》させる。|襲《おそ》い来る矢を防ぐのではなく、自身を|急《きゅう》降下させるためである。
(名乗り会いもなしに仕掛けてくるとは)
穴の|空《あ》いた風船のように、コートを|纏《まと》った頼りない体はヒュルヒュルと落下し、追いすがる炎の矢が触れるか触れないか、という際で、蒸気が、今度はズボンの|裾《すそ》から|猛《もう》烈《れつ》な勢いで|噴《ふ》き散らされる。|川《かわ》面《も》は爆発したかのように蒸気で満ち、その中から、
「おお、っと、っと?」
|徒《ともがら》≠ヘ水切りの石のように、|火《か》線《せん》走るイースト川を、横に跳ね滑った。
|僅《わず》か遅れた炎の矢は、蒸気の圧力に|撓《たわ》んだ川面に|悉《ことごと》く没し、爆発する。
その|膨《ふく》れ上がる|水《みず》煙《けむり》の中から、
「どうやら、そちらの名乗りは受けられぬようで――ならばこちらから!」
|封《ふう》絶《ぜつ》のドーム中空に浮かぶフレイムヘイズへと、堂々たる|音《おん》声《じょう》が届けられる。
「我が名は|穿《せん》徹《てつ》の|洞《ほら》<Aナベルグ!!」
返答は、
「ちっ」
という、|一《いっ》手《て》二《に》手《て》の攻撃をかわされたことへの|舌《した》打《う》ちだけだったが、|徒《ともがら》=Eアナベルグは構わずに続ける。
「|貴女《あなた》方[#「方」に傍点]は、 我らが|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノも名高き|蹂《じゅう》躙《りん》の|爪《そう》牙《が》<}ルコシアス殿、 世界でも|屈《くっ》指《し》の腕利き、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドー殿、とお見受けしましたが?」
水煙の晴れてゆく中、川面に立つソフト|帽《ぼう》にトレンチコートの|怪《かい》人《じん》は、|芝《しば》居《い》がかった|仕《し》草《ぐさ》で一礼した。|帽《ぼう》子《し》の|鍔《つば》の下から上空を、メーターだけの顔で|覗《のぞ》く。
「だったらどーだってんだぁ!?」
まっしぐらに突っ込んでくる本・マルコシアスが|耳《みみ》障《ざわ》りな|雄《お》叫《たけ》びで、
「黙って死んでりゃいいのよ!!」
その上に立つ女・マージョリーが、戦意に燃える|怒《ど》声《せい》で、それぞれ返した。返して、本を宙で急停止させ、|掌《てのひら》を広げる。
動作の|峻《しゅん》烈《れつ》さが|煌《きらめ》きとなって現れたかのように、攻撃の|自《じ》在《ざい》法《ほう》・|炎《えん》弾《だん》が数十もの数、放たれた。先の二手と違い、炎は直接アナベルグを狙わず、|弾《だん》道《どう》を|四《し》方《ほう》八《はっ》方《ぽう》へと散らしてゆく。
「お、おお?」
メーターの首が、針を揺らしてクルリと回り、自分の周囲に|着《ちゃく》弾《だん》する群青色の輝きを、ガラスの顔面に映した。
と、その輝きが水面を跳ねた。跳ねて転がり、後に|炎《ほのお》の|軌《き》跡《せき》を残してゆく。
ものの数秒で、水面にはアナベルグを囲んだ、高々と燃え上がる炎の壁が現れていた。|包《ほう》囲《い》に落ちた|徒《ともがら》≠ヘ再びクルリと首を回し、|感《かん》嘆《たん》の声を|火《ひ》の|粉《こ》から蒸気に変えて、漏らす。
「なんとなんと、さすがは音に聞こえた|自《じ》在《ざい》師《し》。これだけの自在|法《ほう》を、ろくな式の構成|補《ほ》助《じょ》もなく、|瞬《しゅん》時《じ》に――」
マージョリーには、話を聞く気など全くない。
「っは!」
気合|一《いっ》閃《せん》、広げていた|掌《てのひら》を握り込んだ。
応えて炎の壁が、中央にあるアナベルグへと|収《しゅう》束《そく》する。
ボガッ、
と空気が|圧《あっ》縮《しゅく》される鈍い|響《ひび》きがあり、遅れて水面が|逆《さか》巻《ま》き|爆《は》ぜた。水蒸気の奥、川の真ん中に穴が|空《あ》き、すぐに水が緩く大きく流れ込んでゆく。
|鉄《てっ》塊《かい》すらも|容易《たやす》く砕き|潰《つぶ》す、全周からの|爆《ばく》圧《あつ》である。いかに|徒《ともがら》≠ェ|身体《からだ》を強化していようと一たまりもない。
「ヒャーッ、ハーッ!」
先の攻撃で崩れた橋げたが、|幾《いく》重《え》もの高波に打たれるのを見下ろして、
「これでお|陀《だ》仏《ぶつ》、チョロいもんだ!」
マルコシアスが|下《げ》品《ひん》に笑い、本たる身を激しく揺らした。
これを踏ん付けて|鎮《しず》め、マージョリーも鼻で笑う。
「ふん、気配がやたらと大きいから、|隠《いん》蔽《ぺい》の自在法までかけて近付いたってのに。|案《あん》外《がい》大したことなかったわね」
言って、いつもの仕事『|徒《ともがら》≠フ|討《とう》滅《めつ》』に付き物の、いつもの|後《あと》片付け『|封《ふう》絶《ぜつ》内部の|修《しゅう》復《ふく》』を行おうと、未だ|泡《あわ》立《だ》つ水面に指を向け、
「とんだ|雑魚《ざこ》だっ――」
感想を口にしかけて、ようやく気付いた。
「――っは!?」
熱と|衝《しょう》撃《げき》の|余《よ》韻《いん》に荒れ狂う水面下に、未だ気配がある!!
「なんだ!?」
マルコシアスも叫ぶ。
気配の|源《げん》泉《せん》は、大重量の出現を予感させる水面の|撓《たわ》みを反秒|起《お》こし、盛り上がる。
濁った紫色の光[#「濁った紫色の光」に傍点]を爆発させての、出現。
(これは!)
(ヤベェ!)
二人、声をかける問も惜しんで身をかわした――はずだった本の|端《はし》を、イースト川の中から伸び上がったモノの巨体が、表面の|鱗《うろこ》が、|纏《まと》った|炎《ほのお》が、危うく|掠《かす》めた。
「っ!」
「う、おっ!?」
「ゴァァァオオオオオオオオオオオ――!!」
水を巻き上げ|牙《きば》を震わす|豪《ごう》咆《ほう》とともに|鎌《かま》首《くび》を持ち上げたのは、|悪《あく》夢《む》の住人のような、鉄道貨車より一回り二回り太い、巨大な|海《うみ》蛇《へび》。
その|怪《かい》物《ぶつ》が、見た目以上の|脅《きょう》威《い》を持つ存在であることを、宙できりきり舞いするフレイムヘイズは知っていた。|視《し》界《かい》の回る中、
(しまった、トーガ――)
身を守る|鎧《よろい》ともなる炎の衣を纏おうとしたマージョリーに、
(下だ!)
マルコシアスが四半秒の内、声なき声で叫んだ。
距離を取ろうとした二人の直下から、
もう一本、二本、三本の、先より細い海蛇が、先に|倍《ばい》する速度で突き出された。
状況は分かっていた。
多数の|徒《ともがら》≠ェ|襲《おそ》い掛かってきたのではない。これらの海蛇は全て、水面下で一つに|繋《つな》がっている、全てが一人の|徒《ともがら》=\―否、|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ネのである。
「くっ!」
焦るマージョリーは本ごと身をひねり、立った姿勢のまま|曲《きょく》芸《げい》のように、三本の|刺《し》突《とつ》をかわした。その|傍《かたわ》ら、通り過ぎた首の全てに|炎《えん》弾《だん》を発射、|命《めい》中《ちゅう》させている。
が、立て続けに炸裂する|群《ぐん》青《じょう》の|爆《ばく》炎《えん》の向こうから、
「ガアアアアア―――!」
真正面、最初に飛び出した巨大な鎌首が、まるで太い|鞭《むち》か|棍《こん》棒《ばう》のように、マージョリーへと振り下ろされてきた。
ズ、ドンッ、と、
(や、られた!)
(く、そったれえ!)
二人して|罵《ののし》る間に、吹っ飛ばされていた。
体中の骨がバラバラになるような|衝《しょう》撃《げき》が、一瞬で痛みを通り越して|痺《しび》れに変わり、意識が飛びかける。先のアナベルグのように水面を跳ねた身は、マンハッタン島の東岸、サウス・ストリート・シーポートへと、|叩《たた》きつけられる。
|寂《さび》れた|埠《ふ》頭《とう》のコンクリートが|弾《はじ》け、打ち捨てられたボートが|幾《いく》つも砕け、|嵐《あらし》のように木切れが宙を舞い、|渦《うず》と巻いた。
その|残《ざん》滓《し》が、カラ、カラン、と乾いた書を立てる中、
「う、ぐ」
マージョリーは乱れた髪を押しやるように、グイと|頬《ほお》を|拭《ぬぐ》う。
(く……なんて、こと……大きな気配の持ち主は、こいつ[#「こいつ」に傍点]の方……!)
大きな気配を持った一人がいたのではなく、大きな一人と小さな一人が同じ場所にいたのだった。気付かれないよう、遠くから自身に気配|遮《しゃ》断《だん》の|自《じ》在《ざい》法《ほう》をかけて近付いたため、細かな|察《さっ》|知《ち》に数秒のタイムラグができてしまったらしい。
(なんて、ヘマを……!!)
怒りと|衝《しょう》撃《げき》に揺らぐ|視《し》界《かい》の中、|海《うみ》蛇《へび》の全体 ――|炎《えん》弾《だん》で砕けた三本の首と巨大な|鎌《かま》首《くび》―― が|輪《りん》郭《かく》を乱した。まるで|圧《あっ》縮《しゅく》されるかのように、それは小さく|凝《こご》り、ジワジワと人の形を取ってゆく。やがて現れたのは、スーツを|着《き》崩《くず》した長身、オールバックスタイルのプラチナブロンド、彫の深い顔に、近年出回り始めた|黒レンズの眼鏡《サングラス》をかけた男だった。
海蛇の|額《ひたい》に乗っていたらしいアナベルグが、男の|傍《かたわ》らに降りてきた。ソフト|帽《ぼう》を取って、また|芝《しば》居《い》がかった、より|丁《てい》重《ちょう》な一礼をする。
「あの『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』を|一《いち》撃《げき》とは……救援に感謝いたします、|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイ殿」
「そういう、依頼だからな」
誇るでもなく、シュドナイと呼ばれた男は肩をすくめ、答えた。
(やっぱり……奴、か)
砕けた|木《もく》片《へん》に埋もれる中、マージョリーは|半《なか》ば閉じた目で、崩れたアーチの上に浮かび、|猛《もう》烈《れつ》な|違《い》和《わ》感《かん》を周囲へと|撒《ま》き散らす男を|捉《とら》える。
実際に|交《こう》戦《せん》したことこそなかったが、|噂《うわさ》は常々、耳にしていた。
|己《おのれ》の体を状況に応じて自在に変形させる、圧倒的な|戦《せん》闘《とう》力の持ち主。
|古《こ》来《らい》より、|幾《いく》人《にん》もの名のあるフレイムヘイズを|屠《ほふ》ってきた|紅《ぐ》世《ぜ》の王=B
他者から|護《ご》衛《えい》の依頼を受け、それを果たすことに喜びを見出すという変わり者。
|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイ。
考えるまでもない。彼が今ここにいるということは、|穿《せん》徹《てつ》の|洞《ほら》<Aナベルグの依頼で護衛を務めているのである。|万《ばん》全《ぜん》の状態で戦っても勝敗の見極め付かない|難《なん》敵《てき》たる王≠ェ。
マージョリーは、事前に気配の大きさを感じていながら、|迂《う》闊《かつ》に仕掛けた自分の|間《ま》抜《ぬ》けさを|呪《のろ》った。
(今、正面から仕掛けられたら、やばい……!)
(ちっ、半世紀ぶりに|教《きょう》皇《こう》子《し》午《ご》線《せん》越えて早々、|徒《ともがら》≠|仕《し》留《と》め|損《そこ》なって逃げの|算《さん》段《だん》かよ、なんとも|幸《さい》先《さき》のいいこったぜ)
(|無《ぶ》様《ざま》の上に殺されるよりはマシでしょ)
(そりゃ、そーだ)
声なき声を交わす二人をシュドナイは遠くに見て、|顎《あご》で指す。
「とどめを刺すか?」
ところがアナベルグは、
「いえ、放っておきましょう」
軽く答え、ずれた|帽《ぼう》子《し》を|被《かぶ》りなおした。
シュドナイは、決着にややの|執《しゅう》着《ちゃく》を示す。
「いいのか? あの女、|野《の》放《ばな》しにしておくと|厄《やっ》介《かい》だぞ」
「お知り合いですか?」
「いや、直接やり合うのは初めてだが……この数百年の間に、多くの|盟《めい》友《ゆう》らが|討《う》ち滅ぼされている」
「それはそれは」
アナベルグは、彼が|所《しょ》属《ぞく》するという古く大きな組織のことを思い、しかし、
「とはいえ正直、私は彼女の|身《しん》命《めい》に興味など持てないのですよ」
言って蒸気の|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》いた。
「フレイムヘイズは、力を得る|代《だい》償《しょう》に、|己《おの》が全てを王≠ノ|捧《ささ》げてしまった人間、世界に向けて広がるはずだったものを捨ててしまった抜け|殻《がら》ですから……それに」
さらに、金属パイプの首をギイ、と|傾《かし》げる。
「すぐに片付けられる相手でもないのでしょう?」
「まあ、な」
シュドナイは、|遥《はる》か遠方へと打ち飛ばした敵にサングラスを向ける。
|痛《つう》撃《げき》を与えることには成功したが、|油《ゆ》断《だん》は|禁《きん》物《もつ》だった。それですんなりと、とどめまで刺させてくれるような女なら、そもそもフレイムヘイズ|屈《くっ》指《し》の殺し屋と|同《どう》胞《ほう》たちに恐れられてはいないだろう。数百年の|戦《せん》歴《れき》は、決して運や力だけでは拾えない、|討《う》ち手としての、強さの所以たる何か[#「強さの所以たる何か」に傍点]の|賜《たま》物《もの》なのである。
一方のアナベルグも、依頼者としての|都《つ》合《ごう》で言う。
「もし手こずったりして、その中で私に危害が及んでは|本《ほん》末《まつ》転《てん》倒《とう》。なにより、|無《む》駄《だ》に時間を費やすわけにもいきません。せっかくフレイムヘイズたちが|欧《おう》州《しゅう》に駆り出されている|隙《すき》を見計らって、この美しきマンハッタンにやってきたのですから」
「……分かった、依頼|主《ぬし》に従おう」
シュドナイも、示された揺るぎようのない|理《り》屈《くつ》に|納《なっ》得《とく》の|頷《うなず》きを返した。
「どうも」
今度は軽く、ひょいと帽子を上げてアナベルグは礼を言い、宙で体ごと向き直る。
「では、お|二《ふた》方《かた》!」
マージョリーを遠く映すメーターの顔が、針をいっぱいに振って|興《こう》奮《ふん》を示す。ショーの司会者のように、両手がいっぱいに広げられる。
「どうぞ、広き世界にても数々起こしたる我が|悦《えつ》楽《らく》、『文明の加速』を、ご|覧《らん》あれ! 加速させる我が行いを、人間たちへの|礼《らい》賛《さん》を、ご覧あれ!!」
|音《おん》吐《と》朗《ろう》々《ろう》の声が、その|奇《き》怪《かい》な姿が、身から|零《こぼ》れ落ちる|火《ひ》の|粉《こ》の変じた|鉛《なまり》色《いろ》の蒸気に埋もれ、ぼやけてゆく。
「ほどなく、ほどなく……」
|木霊《こだま》が失せる頃には、二人の姿は|封《ふう》絶《ぜつ》の内から消えていた。
この去る|様《さま》を、好き|放《ほう》題《だい》に見せられ聞かされた二人は、|木《もく》片《へん》の中で倒れたまま、
「……」
「……」
負けた|悔《くや》しさへの|歯《は》軋《し》りではなく、生き延びたことへの|安《あん》堵《ど》を漏らした。
「……ひゅう、天の|賜物《ゴッドセンド》、|棚《ラック》から|幸運《ラック》、ってか」
「……バカマルコ」
ボン、とマージョリーは力なく本を|叩《たた》いた。
それを|契《けい》機《き》として、彼女の力が火の粉の形を取って、巨大な|封《ふう》絶《ぜつ》内に舞い上がる。
|群《ぐん》青《じょう》に輝く力の|粒《つぶ》は、崩れ落ちたブルックリン橋、砕けた橋げた、バラバラになったボートへと吸い込まれ、まるで時を戻すように、戦いの|痕《こん》跡《せき》を|修《しゅう》復《ふく》してゆく。
一分あるなしの間に、全ては元通りに直っていた。
「……あとは、これ[#「これ」に傍点]か」
マージョリーは、木片も失せ、|埠《ふ》頭《とう》に転がるままとなった自身の|惨《さん》状《じょう》を見て、言う。
「このドレス、|結《けっ》構《こう》気に入ってたんだけど」
純白だったロングドレスの各所は、引っ掛けてズタズタに破られ、|焦《こ》がされて穴が開き、川の水と|粉《ふん》塵《じん》と泥に汚れて、最低限の面積しか|隠《かく》せないボロ|雑《ぞう》巾《きん》と成り果てていた。
|封《ふう》絶《ぜつ》内の修復は、断絶した外部に、内部を整合させるという形で行われる。この、|自《じ》在《ざい》法《ほう》の持つ特性・|現《げん》象《しょう》から、どんな大きなものであっても、焼かれ砕かれた人間が何百といても、修復は完全|確《かく》実《じつ》に行われる。
ただし、内部で戦うフレイムヘイズ、あるいは|徒《ともがら》≠ニいう『断絶の中にあっても動ける存在』は、自身に|付《ふ》随《ずい》する物体含め、この|埓《らち》外《がい》に置かれる。自身に付随する|云《うん》々《ぬん》とは、服や|装《そう》飾《しょく》品のことである。|封《ふう》絶《ぜつ》内の全ては修復が可能で、体力や負傷も時間さえあれば回復するが、フレイムヘイズ自身の|纏《まと》う物品だけは戦闘の|名残《なごり》を留め、ボロボロのままだった。
マルコシアスが|下《げ》品《ひん》に笑いかける。
「キーッヒヒヒ! しゃーあんめえ、負けの|烙《らく》印《いん》、生の|代《だい》償《しょう》にしちゃ安いもんよ!」
「たしかに、ね」
|相《あい》棒《ぼう》の|活《かつ》を受けて、マージョリーはきしむ体を思い切って立ち上がらせた。ついでに、素早く全身に手をやって、負傷の度合いを確かめる。あるのは|僅《わず》かな気だるさと|鈍《どん》痛《つう》、目に見える傷も|擦《さっ》過《か》傷《しょう》や|打《だ》撲《ぼく》程度。重症というほどのことはなさそうだった。
「それじゃ……っしょ、と」
拍子をつけて、グリモア=\―彼女にフレイムヘイズとしての|異《い》能《のう》の力を与える|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A|蹂《じゅう》躙《りん》の|爪《そう》牙《が》<}ルコシアスの意思を|表《ひょう》出《しゅつ》させる|本《ほん》型《がた》の|神《じん》器《ぎ》――を、すぐ脇にある、直ったばかりのボートの中へと放り込んだ。
すぐさま|抗《こう》議《ぎ》の声があがる。
「おい、もう少し|丁《てい》寧《ねい》に扱ってくれや、我が|放《ほう》埓《らつ》なる|投《とう》擲《てき》者、マージョリー・ドー?」
「着替えに|速《すみ》やかな退去を求めるのは、レディの権利よ」
「あーあー、そうかい」
「スーツを|頂《ちょう》戴《だい》。マルセイユで買ったやつ。下着は白ね」
「あーいあいよ、我が|過《か》酷《こく》なる命令者、マージヨリー・ドー」
不平とともにグリモア≠フページがバラリと開き、|群《ぐん》青《じょう》の輝き|一《いっ》閃《せん》、服を吐き出した。
マージョリーは、ヒラヒラと舞い降りるこれらを笑って受け取り、
「ん――」
周囲をぐるり見渡した。敵たる|徒《ともがら》≠ノ対するものではなく、着替える女性の、気分としての|警《けい》戒《かい》である。もちろん|封《ふう》絶《ぜつ》は、未だ世界を静止させている。|徒《ともがら》≠フ去った後は、完全なる|閑《かん》寂《じゃく》の世界だった。
「――ん、よし」
誰にともなく言うと、受け取った服を|傍《かたわ》らに置く。そうして、|美《ぴ》麗《れい》の|女《じょ》傑《けつ》は|半《なか》ば破るようにボロボロのドレスを脱ぎ、|焦《こ》げた靴を放り捨てた。さらに軽く手を振って、|薄《うす》手《で》の下着も焼やし尽くすと、ボートの中の相棒に声をかける。
「マルコシアス、お願い」
「あいあいよー」
ボン、と突然その体が群青の|炎《ほのお》に包まれた。
これは『清めの炎』という、体を消毒、|洗《せん》浄《じょう》する|自《じ》在《ざい》法《ほう》である。
フレイムヘイズらは戦いの後、傷の|治《ち》癒《ゆ》を早めるために、これを使うことが必然を伴った習慣となっている(この|簡《かん》便《ぺん》爽《そう》快《かい》な自在法のあるためか、|討《う》ち手らは古来から総じて|清《せい》潔《けつ》を尊び、身の周りを衛生的に保つ傾向にある)。
強力なフレイムヘイズは治癒も早い。擦過傷は、この炎に包まれる間に治っていた。
「さて、と」
そうして、群青の消えた後に現れたのは、 まさに|絶《ぜつ》世《せい》たる――白き|裸《ら》身《しん》。 |彫《ちょう》像《ぞう》絵画の美では決して在り得ない、生命の|躍《やく》動《どう》感《かん》としなやかさに満ち満ちた、|豪《ごう》壮《そう》絢《けん》爛《らん》なる|起《き》伏《ふく》だった。
それを、
「っ大丈夫ですか!?」
「……」
|封《ふう》絶《ぜつ》の中に居るはずのない、突然飛び出してきた少年の目に、|眼鏡《めがね》に、余すところなく、|晒《さら》した。
「あ、れ?」
「……――ッ」
|絹《きぬ》を裂いて砕いて|擂《す》り|潰《つぶ》すような悲鳴とともに、また|封《ふう》絶《ぜつ》内に爆発が起こった。
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|悪《あく》夢《む》の中では、全てが|上手《うま》く行く。
これ以上ないほどに、上手く行く。
(やめて)
テトス|親父《おやじ》は、父の|旧《きゅう》友《ゆう》からの書状を|携《たずさ》え、予定に|倍《ばい》する兵士たちを引き連れてきた。書状には、|同《どう》僚《りょう》の娘たちの身の安全、|然《しか》るべき|身《み》請《う》け先を探す|旨《むね》、保証されていた。
(もう、やめて)
芸人と|馬《ば》丁《てい》に|扮《ふん》した兵士たちは、|玄《げん》関《かん》や庭、|裏《うら》口《ぐち》だけでなく、調べ上げた|隠《かく》し扉や抜け道にも|密《ひそ》かに配置された。女たちを|囚《とら》える|檻《おり》だった|屋《や》敷《しき》は、|主《あるじ》と客にとって必殺の|死《し》地《ち》と化した。
(見たく、ない)
ジェイムズの|色《いろ》金《がね》狂《ぐる》いは、私によってデイヴィットの糞野郎を落とす[#「私によってデイヴィットの糞野郎を落とす」に傍点]ことで、その|近《きん》隣《りん》の|筋《すじ》から、『|館《やかた》』の新たな|上《じょう》客《きゃく》を|獲《かく》得《とく》できる、|宮《きゅう》廷《てい》に|繋《つな》がりができる、と浮かれていた。
(もう、見たくない)
常は用心|深《ぶか》いデイヴィットの|糞《くそ》野《や》郎《ろう》も、|遂《つい》に私に受け入れてもらえる日が来た、という期待と確信から、緩みきっていた。|屈《くっ》強《きょう》の|護《ご》衛《えい》たちにも、その緩みが|伝《でん》染《せん》するほどに。
(お願い)
娘たちは、この|護《ご》衛《えい》たち、『|館《やかた》』の用心|棒《ぼう》や男どもを、いつも[#「いつも」に傍点]以上に|歓《かん》待《たい》した。私と|糞《くそ》野《や》郎《ろう》の愛の|成《じょう》就《じゅ》を祝う、という|名《めい》目《もく》を怪しむ者は、どこにもいなかった。
(お願い、だから)
腰に感じる腕、|頬《ほお》に感じる頬に、思わず|催《もよお》す吐き気と|悪《お》寒《かん》を、しかしドレスの中のナイフを握りしめることで、必死に抑え込んだ。これを|存《ぞん》分《ぶん》に振るう時を思い描いて、耐えた。
(見せないで)
今ここにある全てを、壊して、殺して、|奪《うば》って、|嘲《あざ》笑《わら》ってやる――そう、|誓《ちか》った。
私の合図で始まる、私の手で変える、私の意思が世界を|拓《ひら》く――そう、思った。
(ここから先を、見せないで――)
背中を焼くような|焦《しょう》燥《そう》感《かん》と、胸に甘く満ちる|快《かい》美《び》感《かん》だけを、抱いていた。
そして、時は来た。
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2 |人《じん》外《がい》の扉
人ならぬ者たちが、この世の日に陰に|跋《ばっ》扈《こ》していた。
古き一人の詩人が与えた彼らの|総《そう》称《しょう》を、|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ニいう。
彼らは|紅《ぐ》世《ぜ》≠ニいう、歩いてゆけない|隣《となり》≠ゥら渡り来た。彼らは存在の力≠ニいう、人がそこに在る[#「そこに在る」に傍点]ための根源的な力を喰らって自分自身を|顕《あらわ》し、在り得ない|不《ふ》思《し》議《ぎ》を現した。
彼らに存在の力≠喰われた人間は、いなかったことになった[#「いなかったことになった」に傍点]。
その人間が育ち、関わり、接するはずだった全ては、この欠落により、|歪《ゆが》んだ。生まれ、決して埋め合わされない歪みは|徒《ともがら》≠フ跋扈に伴い、大きくなっていった。
そして、|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノおいて、『この世で生じた歪みが|両《りょう》界《かい》に大いなる|災《さい》厄《やく》を|齎《もたら》す』との|観《かん》念《ねん》が広まり……危機感を持った王≠スちは一つの、|苦《く》渋《じゅう》の決断を下した。
|同《どう》胞《ほう》たる存在の|乱《らん》獲《かく》者たちを|討《う》ち|滅《ほろ》ぼす、という決断を。
その|尖《せん》兵《ぺい》、あるいは道具となったのは、|徒《ともがら》≠ヨの|復《ふく》讐《しゅう》を誓った、人間たち。
|己《おの》が|全《ぜん》存在を契約する王≠ノ|捧《ささ》げ、|代《だい》償《しょう》として|異《い》能《のう》の力を得た|復《ふく》讐《しゅう》鬼《き》たち。
彼らの|総《そう》称《しょう》を、フレイムヘイズという。
「あのー」
「……」
ブルックリン橋を渡って入るマンハッタン島の|南《なん》端《たん》部《ぶ》、ロウアー・マンハッタン。
この島が、アメリカ・インディアン ――まだ|先住民《ネイティブ》という呼び名は一般的ではない―― からオランダ人に|僅《わず》か二十五ドル相当の物品で売り渡され(もちろん、この国の開拓神話[#「開拓神話」に傍点]の|大《たい》半《はん》と同じく、|真《しん》偽《ぎ》のほどは定かではない)、ニューアムステルダムという名で|入《にゅう》植《しょく》の始まった最初期から開発を受けていた地区である。
「ぼ、僕、|※[#「兀にょう+虫」、第4水準2-87-29]《き》蜴《えき》の|帥《すい》<Eァラクのフレイムヘイズ、『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』ユーリイ・フヴォイカって言います」
「……」
当初、陸海の敵に備えるオランダの|要《よう》塞《さい》外《がい》縁《えん》部だった木製の|防壁《ウォール》は、三百年の時を経た今、名をそのままに|金《きん》融《ゆう》の一大|拠《きょ》点《てん》へと|変《へん》貌《ぼう》を|遂《と》げている。 |即《すなわ》ち、 先だって世界を|席《せっ》巻《けん》した|大《だい》恐《きょう》慌《こう》の|震《しん》源《げん》地《ち》・ウォール街である。
「えーと、今、イーストエッジさんの|外界宿《アウトロー》で、見習いとして働いてます。さっきも、その、|封《ふう》絶《ぜつ》が張られたので、|様《よう》子《す》を見に……戦闘、終わってたみたいでしたから……だから、あれは別に、見ようと思って、見たわけじゃ……」
「……」
新たにスリーピースのスーツを|纏《まと》ったマージョリーは今、ユーリイと名乗る少年フレイムヘイズとともに、この|高《こう》層《そう》建築の壁に挟まれた通りを、西に向かって歩いていた。|忙《せわ》しなく行き来する|雑《ざっ》踏《とう》の|頭《あたま》越《ご》し、正面に|聳《そぴ》える高い|尖《せん》塔《とう》を見て、思わず|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める(この尖塔を持つ古い教会の名は、トリニティ教会という)。
「い、いえ、この|眼鏡《めがね》を|弄《いじ》るのは|癖《くせ》で、さっきの、あれ[#「あれ」に傍点]を見たからとか、そういうのは関係なくて、えーと……そうだ、ウクライナ移民で、十六|歳《さい》です。あ、これはフレイムヘイズになってからの一年も足してます」
「……」
サウス・ストリート・シーポートでの衝撃的な[#「衝撃的な」に傍点]出会い以降、必死に話しかけるユーリイを無視し続けるマージョリー……ではなく、少年の腰にある|古《こ》風《ふう》な短剣が、気だるそうな女の声で|難《なん》詰《きつ》する。
「バーカ、フレイムヘイズが|年《ねん》齢《れい》なんか数えてどーすんのよ」
「あ、ごめん」
ユーリイは、 自分と契約した|紅《ぐ》世《ぜ》の王=\―|※[#「兀にょう+虫」、第4水準2-87-29]《き》蜴《えき》の|帥《すい》<Eァラクに、 その意思を|表《ひょう》出《しゅつ》させる短剣型の|神《じん》器《ぎ》ゴベルラ≠ノ、ペコリと頭を下げる。その拍子に|眼鏡《めがね》がずり下がった。
|慌《あわ》ててこれを押さえる契約者へと、ウァラクは気だるさに|呆《あき》れを混ぜて言う。
「だから、簡単に頭下げんじゃないわよ。ったく」
「ごめ――あ」
「ふう……」
「ヒャーッハハハ! |新《しん》兵《ぺい》さんゴクローサンってとこか、|※[#「兀にょう+虫」、第4水準2-87-29]《き》蜴《えき》の|帥《すい》=H」
マージョリーの右脇に|提《さ》げられたグリモア≠揺すって、マルコシアスが大笑いする。
さすがにこの大声は、周囲のニューヨーカーたちを驚かせたらしい。|老《ろう》若《にゃく》貧《ひん》富《ぷ》を混ぜた人ごみから、|奇《き》異《い》の視線が一見二人の四人[#「一見二人の四人」に傍点]に向けられる。
「えっ、あ」
ユーリイは救いを求めるように腰の短剣を見下ろし、しかしそこから|薄《はく》情《じょう》な|静《せい》寂《じゃく》だけを受け取った。|窮《きゅう》した|挙《あげ》句《く》、大声で先の|物《もの》真似《まね》をする。
「ハ、ハハッ、ハーッハハハ!」
「……」
マージョリーは|僅《わず》かな|溜《ため》息《いき》を吐いて、この少年を横目で見る。
『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』ユーリイ・フヴォイカ。
なんともらしくない[#「らしくない」に傍点]フレイムヘイズだった。
見た目の強さを感じさせない、|小《こ》柄《がら》で|痩《や》せぎすな体格。|気《き》弱《よわ》半分、|生《き》真《ま》面《じ》目《め》半分の|容《よう》貌《ぼう》に、無用なはずの眼鏡までかけている(当然、|伊達《だて》眼鏡だろう)。身なりもそこいらの子供と変わらない。長めのジャケットの内側、腰のベルトに|古《こ》風《ふう》な短剣型の神器ゴベルラ≠差しているのが、せいぜいの|特《とく》徴《ちょう》だった。
なにより、世の陰に|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠|狩《か》る|討《とう》滅《めつ》の追っ手らが持つ共通の|雰《ふん》囲《い》気《き》である、|切《せっ》羽《ぱ》詰《つ》まった気迫やそれを|隠《かく》す演技、|悟《さと》り抜いた静けさ……どの|匂《にお》いもしない。
少年の存在に|苛《いら》立《だ》ちのようなものを感じつつ、マージョリーはようやく口を開いた。
「ユーリイ、だっけ?」
「はい!」
「イーストエッジは|元《げん》――」
「あの! 僕、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』さんのこと、ずっと|尊《そん》敬《けい》してたんです!」
「――尊敬?」
マージョリーは自分の言葉を切られた|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》さも忘れ、つい|訊《き》いていた。
「はい!」
話しかけられたせいで|箍《たが》が外れたかのように、ユーリイは次々と言葉を連ねる。
「|外界宿《アウトロー》で見習いとして働いてると、あちこちで活躍されてるフレイムヘイズの皆さんの|噂《うわさ》をたくさん聞くんです。『|輝《き》爍《しゃく》の|撒《ま》き|手《て》』さん、有名な『|鬼《き》功《こう》の|繰《く》り|手《て》』さんと『|極《きょっ》光《こう》の|射《い》手《て》』さんのお二人、 亡くなった方でも、 伝説の『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』さんに『|理《り》法《ほう》の|裁《た》ち|手《て》』さん、もちろん『|星《せい》河《が》の|喚《よ》び……あ、イーストエッジさんは|称《しょう》号《ごう》で呼ぶと怒るんですけど」
「ちょっと黙って」
|無《む》邪《じゃ》気《き》すぎる|声《こわ》色《いろ》に、なにか耐え難いものを感じたマージョリーは、黙らせるつもりで|掌《てのひら》をその前に突き出す。
と、なにを思ったかユーリイは、
「わ!?」
叫んで、素早く飛び|退《の》いた。
段差による区別もろくにない、|轢《ひ》いた者勝ちの車道の|端《はし》に。
「馬鹿、なにやって――!」
逆に驚かされたマージョリー(彼女は、大都市における馬車の暴走と|轢《れき》死《し》を日常的に見ていた)が差し出した手を、その|袖《そで》口《ぐち》を、ユーリイは|慌《あわ》てて|掴《つか》む。引かれるとともに、
ブツン、と変な音がして、
「あ」
着替えたばかりだったマージョリーのスーツ、そのボタンが飛んだ。
「っ、す、すいません! イーストエッジさんに、|不《ふ》意《い》打《う》ちを食らわないようにする訓練を、いつも受けてて、その、本当にすいません!」
ペコペコ謝っては|眼鏡《めがね》を押さえる契約者、|異《い》能《のう》の討ち手であるはずの少年の姿に、
「はぁ……」
腰の短剣から、ウァラクが再びの|溜《ため》息《いき》を漏らす。どうやら、この手の失敗は初めてのこと、珍しいことではないらしい。
マージョリーは、そんな|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヨの同情から、怒るのを止めた。
「イーストエッジは、元気なの?」
脱力した声で|訊《き》き直しながら、前のボタンを全て外し、ラフな|格《かっ》好《こう》になる。結果として、ジャケットで隠されていた胸の|膨《ふく》らみが、大きく強調されることとなった。
ユーリイは、自他の行為に|眺《なが》めに、しょんぼりしたり顔を赤らめたりと忙しい。ついでに、その鼻先に、|傍《かたわ》らを走り抜けた自動車の排気ガスを吐き掛けられてむせた。
「ゲホ、ゲホッ、は、は、はい」
「ギィーッヒャヒャヒャブッ!?」
|懲《こ》りずに大声で笑う|相《あい》棒《ぼう》を|平《ひら》手《て》で黙らせたマージョリーは、|率《そっ》直《ちょく》な感想として言う。
「あんた、変なフレイムヘイズねえ」
特に他意を込めた言葉ではなかった。この|妙《みょう》に腰の低い、らしくない少年なら、まくし立てるような答え、大げさな|謙《けん》遜《そん》の同意、どちらかが返ってくるだろう。そう思っていた。
しかし、
「……」
なぜか少年は、表情を曇らせて黙ってしまった。
「なに?」
もう一度|訊《き》かれて、|慌《あわ》てて答える。
「……いえ、なんでも!」
その|不《ふ》審《しん》な|様《よう》子《す》に、|僅《わず》かふと引っかかるものを感じたマージョリーは、考えかけて、止めた。他人の事情をいちいち|詮《せん》索《さく》するのは趣味ではない。
(そうよ、知ったことじゃないわ)
その店、『イーストエッジ|外《がい》信《しん》』は、ウォール街からウィリアム通りを北に折れた先、|探《たん》偵《てい》事務所と|法《ほう》律《りつ》相談所に挟まれた、小ぶりな|低層長屋《ロウハウス》の一階にあった。
昔は|多《た》岐《き》に渡る人種|来《らい》歴《れき》からなる移民向けに|故《こ》国《こく》の新聞を売る|輸《ゆ》入《にゅう》業者もどきだったが、今は独自に特派員も出して、|欧《おう》州《しゅう》の情勢をそれぞれの言語で伝える|真《ま》っ|当《とう》な外信|社《しゃ》としての業務も行っている……ということになっている。
店構えの割に情報が確かで、各種|言《げん》語《ご》版《ばん》も|揃《そろ》っていることから、定期の|配《はい》信《しん》日《び》には大変な|賑《にぎ》わいを見せるが(現在、最も関心を集めているニュースは、フランコ将軍の動向である)、今日のような|通《つう》常《じょう》営業日だと、 単なる|場《ば》末《すえ》の新聞社の|趣《おもむき》である。 来客も、日に十人あれば良い方、という|閑《かん》散《さん》ぶりだった。
その|質《しつ》実《じつ》以前、|装《そう》飾《しょく》の省略が|醸《かも》し出す|素《そ》っ|気《け》ない|玄《げん》関《かん》に、マージョリーは立つ。扉の上、『イーストエッジ外信』という意味の言葉が、数ヶ国語・横書き・|縦《たて》並《なら》びに書き付けられた古い看板を見上げた。|懐《なつ》かしさを心地よく、変わらなさを|愛《いと》おしく感じる。
「半世紀前と同じね」
「ま、|模《も》様《よう》替《が》えする|柄《がら》じゃねーわな」
二人して笑い合い、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』は看板の掲げられたドアを素通りした。その|隣《となり》、同じ一階にあるドアを何気なく、力を込めて[#「力を込めて」に傍点]開ける。人間の腕力では絶対に開けられない、単純な力技でしか開かない、これはフレイムヘイズ用のドアだった。
ギリギリギリギリッ、とドアに|結《ゆ》わえられた|紐《ひも》がベルをけたたましく鳴らして、|異《い》能《のう》者の来訪を|店《みせ》全体に告げる。
入った中は、|意《い》外《がい》に広い。様相は、数年前までご|法《はっ》度《と》だった『|もぐり酒場《スピーキージー》』に似ていた。乱雑に置かれた|酒《さか》瓶《びん》と|酒《さか》樽《だる》、板を寝かせただけのカウンターに少数の|椅《い》子《す》、|剥《む》き出しの|煉《れん》瓦《が》と板張りからなる壁、 宿泊所|兼《けん》構成員|宿《しゅく》舎《しゃ》となっている上階への細く急な階段……その、 探せば街に|幾《いく》らでも見つかるだろう光景に、しかし|異《い》質《しつ》なものが、二つ混じっていた。
一つは、正面の壁を埋めるほどに無数|張《は》られた、|海《かい》図《ず》と地図。
|図《ず》法《ほう》版《はん》型《がた》、てんでバラバラなそれらは、古いものの上に次の図が積み重なって、歴史の層を成している。一つ一つには、異なる|筆《ひっ》跡《せき》でのメモや矢印、○や×といった記号が乱雑に書き記されていた。今、壁に見えるのは合衆国|地《ち》質《しつ》測量局の最新|版《ばん》世界地図で、中心に位置する[#「中心に位置する」に傍点]ヨーロッパに、大きく○が書き付けられている。
もう一つは、|青《せい》磁《じ》色の光で店の中を薄く照らす、|掌《てのひら》大《だい》の|正《せい》十二|面《めん》体《たい》。
|釣《つ》り糸もなく天井近くに静止するこれは、|不《ふ》思《し》議《ぎ》な、在り得ない|現《げん》象《しょう》を起こす|器《き》物《ぶつ》、すなわち|宝《ほう》具《ぐ》である。設置した者の力を受け(青磁色は、|宿《やど》主《ぬし》たるイーストエッジが持つ|炎《ほのお》の色)、一定|範《はん》囲《い》内《ない》の気配を|遮《しゃ》断《だん》するガラスの正十二面体『テッセラ』……全世界に点在するフレイムヘイズらの情報|交《こう》換《かん》・支援|施《し》設《せつ》たる|外界宿《アウトロー》の核、世界で最も数の多い宝具だった。
|表《おもて》向《む》きの職業や|調《ちょう》度《ど》の|差《さ》異《い》に|拠《よ》らず、この二つを備えている建物・場所が、|外界宿《アウトロー》と定義される。『イーストエッジ|外《がい》信《しん》』は、そのニューヨーク支部だった。
マージョリーは、この見た目も|異《い》質《しつ》な無人の店内をドカドカと進み、カウンター席に腰掛けた。ついでに横の席へと、重いグリモア≠|据《す》える。
と、|板《いた》壁《かべ》一枚|挟《はさ》んだ|隣《となり》、表向きの商売である外信|社《しゃ》から、
「はーい、|店《みせ》番《ばん》代わりまーす!」
元気なユーリイの声が|響《ひび》いてきた。彼はここの構成員なので、来客用のドアは使わず、人間用のドアから入っている。
やがて一人の男が、きしむドアを開けて入ってきた。
|中《ちゅう》肉《にく》中《ちゅう》背《ぜい》、 まるで岩になめし革を|被《かぶ》せたような|厳《いか》つい|面《めん》相《そう》の、 |頑《がん》健《けん》そのもののアメリカ・インディアンである。ワイシャツにズボン、|今《いま》付けた分厚い布のエプロン、というごく普通の|格《かっ》好《こう》が、|微《び》妙《みょう》に|似《に》合《あ》わない。
最低限、|唇《くちびる》を震わすように、しかし|意《い》外《がい》に|爽《さわ》やかな声で、フレイムヘイズ『|星《せい》河《が》の|喚《よ》び|手《て》』イーストエッジは|挨《あい》拶《さつ》をした。
「未だ|暴《ぼう》狼《ろう》の|加《か》護《ご》を受けているようでなによりだ、怒れる|獣《けもの》」
「よく、きたな」
短く深く、|貫《かん》禄《ろく》のある男の声で続けたのは、イーストエッジがベルトから|提《さ》げている、|浮き彫り《レリーフ》を|施《ほどこ》した石のメダルである。 これは、 彼が契約した|紅《ぐ》世《ぜ》の王=\―|啓《けい》導《どう》の|籟《ふえ》<Pツアルコアトルの意思を|表《ひょう》出《しゅつ》させる|神《じん》器《ぎ》テオトル≠セった。
「おひさしぶり、イーストエッジ、ケツアルコアトル。また寄らせてもらったわ」
ユーリイに対するものとは打って変わった、喜びを含んだ声でマージョリーが返した。
ゆっくりとカウンターの中へと入る同業者に、マルコシアスも、こちらは常と同じ|軽《けい》薄《はく》な|口《く》調《ちょう》で挨拶する。
「しーばらくだったなあ、|怪《かい》物《ぶつ》コンビ」
「ああ」
「変わりない、ようだな」
一人は顔に|皺《しわ》を刻むように、もう一人は声に少量|滲《にじ》ませて、笑い返した。
「こっちは、すーっかり変わっちまってるよーだな」
マルコシアスは|炎《ほのお》を少量|噴《ふ》いて|囃《はや》す。
「なんでえ、この|流行《はや》らなさはよ。世界|恐《きょう》慌《こう》、未だ|暴《ぼう》威《い》健在なり、ってか?」
マージョリーは|相《あい》棒《ぼう》の言う状況、一人の|討《う》ち手もいない、|寂《せき》寞《ばく》とした店内を見渡した。
「やっぱり、このニューヨークからも駆り出されたのね。あの坊や以外にいないの? マンハッタンに同業の気配がまるでないなんて、どんな|冗《じょう》談《だん》かと思ったわ」
イーストエッジは|微《かす》かに|顎《あご》を引いて|頷《うなす》き、
「仕方あるまい。悪名高き[|革正団《レボルシオン》]との戦いだ。皆、勇んで出て行った」
「無事であれば、いいが」
ケツアルコアトルが|慨《がい》嘆《たん》する。
答えを受けたマージョリーは、店の壁にある最新版の地図、ヨーロッパを大きく囲む○印に目をやった。
現在、世界中のフレイムヘイズたちは、とある|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ノよる大集団との戦いに駆り出されている。この、近代に|忽《こつ》然《ぜん》と現れた|結《けっ》社《しゃ》[|革正団《レボルシオン》]は、|奇天烈《きてれつ》な思想の元、討ち手と|徒《ともがら》=b双《そう》方《ほう》にあった|暗《あん》黙《もく》の|掟《おきて》を平然と破り暴れる(当人たちは「運動」と呼んでいたが)、|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》な|連《れん》中《ちゅう》だった。彼らの|孕《はら》む危険性を恐れた|欧《おう》州《しゅう》の|外界宿《アウトロー》は、急ぎ全世界へと伝令を送り、応えた者たちが|久《ひさ》方《かた》ぶりの|大《だい》規模な戦いへと|赴《おもむ》いている。
マルコシアスが、その戦いの|一《いっ》端《たん》を見た者として笑う。
「ヒッヒ! フレイムヘイズってな、 協調性ゼロだからなあ。 今度は|旗《はた》持《も》ちの|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》もいねえし、集まったところで|統《とう》制《せい》が取れんのか、怪しいもんブッ!?」
「わざわざ心配を|煽《あお》ってんじゃないわよ、バカマルコ」
ゲタゲタ笑うグリモア≠、マージョリーは張り飛ばした。彼女は、この心身ともに落ち着いたフレイムヘイズが嫌いではないのである。
「事実だろーがよ。ゾフィーの|雷《かみなり》ババアも、今度は|参《さん》戦《せん》しねーんだろ?」
なおも言うマルコシアスに、カウンターから声がかかる。
「|天《てん》空《くう》の|槌《つち》――」
イーストエッジは、|払《ふつ》の|雷《らい》剣《けん》<^ケミカヅチのフレイムヘイズ『|震《しん》威《い》の|結《ゆ》い|手《て》』ゾフィー・サバリッシュのことを、こう呼ぶ。
「――は、|緒《しょ》戦《せん》で生涯の友を二人も失ったのだ。無理もあるまい」
「あんなイカレた|奴《やつ》らが相手じゃあね。一度の|不《ふ》覚《かく》がたまたま命に届いた、ってことよ」
マージョリーは今日のこと[#「今日のこと」に傍点]も含めて平然と言った。
「こっちだって、やられる一方ってわけでもなし。なんせ、フォン・クーベリックの……あ、そうそう、マルコシアス」
「おっと、ほいさ」
グリモア≠ェページを開いて、そこからポイ、と|蜜《みつ》蝋《ろう》で|綴《と》じた封筒を吐き出した。
ピッ、と指二本でマージョリーはこれを取り、差し出す。
「はい、そのフォン・クーベリックから」
「手紙……?」
イーストエッジは|怪《け》訝《げん》な|面《おも》持《も》ちで受け取り、封を開けた。
|外《がい》信《しん》社《しゃ》も、ドレル・クーベリック……この、|欧《おう》州《しゅう》の|外界宿《アウトロー》を束ねる現代の|偉《い》人《じん》とは常時、|表《ひょう》裏《り》の業務で連絡し合っている。とはいえこの場合、手段に意味があった。
十九世紀の内に、大西洋|海《かい》底《てい》ケーブルは開通している。アメリカの|外界宿《アウトロー》も、とうに|委《い》託《たく》業者を通じて、重要な情報の|大《たい》半《はん》をそちら[#「そちら」に傍点]経由で|遣《や》り取りする仕組みになっていた。わざわざ手紙を、しかも名うての|討《う》ち手に託し送ってくるというのは、特別な|案《あん》件《けん》である|証《しょう》拠《こ》だった。
それを感じて、イーストエッジは表情を曇らせる。
「この席は|空《あ》けられん、|参《さん》戦《せん》はしない、と既に伝えたはずだが」
言って天井を、心持ち|顎《あご》を上げるように見上げた。
その先に浮かぶ|正《せい》十二|面《めん》体《たい》……|結《けっ》界《かい》発生装置『テッセラ』は、設置型の|宝《ほう》具《ぐ》である。結界を作るためには一つ場所に|据《す》えておかねばならず、力も断続的に|給《きゅう》与《よ》しておく必要があった。動かすか力を|途《と》切《ぎ》れさせるか、どちらかの|禁《きん》を破ると、|途《と》端《たん》に結界はその効力を失い、再び動かすにも相当な時間を要することとなる。
そうでなくとも、広大な大陸に古くから在る強力なフレイムヘイズ、『|星《せい》河《が》の|喚《よ》び|手《て》』イーストエッジは、マンハッタン島における討ち手らの|拠《よ》り所たる|外界宿《アウトロー》『イーストエッジ外信』を維持する、という役割に自らを|縛《しば》っている。|他《た》行《ぎょう》の要請に応えるわけもなかった(よほどの危機的状況でもない限りは戦意が|湧《わ》かない、とある理由[#「とある理由」に傍点]もある)。
もちろん、マージョリーもこれらの事情は重々|承《しょう》知《ち》である。
「別の用事じゃないの? いくらフォン・クーベリックが急進的な人でも、この大陸[#「この大陸」に傍点]から『|大《だい》|地《ち》の|四《し》神《しん》』を動かそうなんて思ったりしないはず」
彼女の言う『|大《だい》地《ち》の|四《し》神《しん》』というのは、イーストエッジも含むアメリカ・インディアンの、いずれも強力な討ち手たる|外界宿《アウトロー》の管理者たちのことである。
「どーだかな。あの若え爺さん[#「若え爺さん」に傍点]、とっぴなこと思いつくからよ、ヒッヒッヒ」
「ま、ゆーっくり、読んで|頂《ちょう》戴《だい》」
この、何気ない客[#「客」に傍点]の|気遣《きづか》いを、酒場の主人[#「酒場の主人」に傍点]は察し、言う。
「品が確かなのは、コーンウイスキーくらいだな」
「まだ、酒のルートが不安定だ」
ケツアルコアトルの補足に、クスリと小さな笑いが返った。
「やっぱ、しばらく寄り付かなくて正解だった?」
「そうだな。|禁《きん》酒《しゅ》法《ほう》時代は、出回る酒の質も最低だった」
また、|皺《しわ》を刻むように笑い返して、イーストエッジは大きな|酒《さか》瓶《びん》と重いグラスをそれぞれ一つ、カウンターに置いた。
この十九世紀から二十世紀の初頭、百年|程《ほど》の短い[#「短い」に傍点]期間の内に、|欧《おう》州《しゅう》のフレイムヘイズ、特に|外界宿《アウトロー》の在り|様《よう》は、急速な、そして|抜《ばっ》本《ぽん》的な変革を起こしていた。
|外界宿《アウトロー》という、逃げ込むための|隠《かく》れ家、立ち寄るだけの|溜《たま》り場でしかなかった『場所』が、情報の交換と共有、活動|資《し》金《きん》の援助、|迅《じん》速《そく》な交通手段の手配といった、本格的な『|支《し》援《えん》施設』へと|再《さい》編成されたのである。
フレイムヘイズ―― そもそもが個人的な理由に|拠《よ》って立っているため協調性に乏しい―― |異《い》能《のう》独自の力で世を押し渡る性質ゆえに 集団行動が|苦《にが》手《て》―― 感情を爆発させる|若《じゃく》年《ねん》で契約する者が大半であることから 組織|感《かん》覚《かく》や社会|通《つう》念《ねん》に|疎《うと》い―― これら、群れることに全く向いていない人種に、支援の面のみとはいえ変革を与えたのは、たった一人の男だった。
『|愁《しゅう》夢《む》の|吹《ふ》き|手《て》』ドレル・クーベリック。
|虚《きょ》の|色《しき》森《しん》<nルファスのフレイムヘイズたる|幻《げん》術《じゅつ》使《つか》いである。
彼は、|老《ろう》境《きょう》に入ってから契約した変り|種《だね》であるためか、|闘《とう》争《そう》本能に|衝《つ》き動かされ、|復《ふく》讐《しゅう》に|猛《たけ》り狂うという、常の|討《う》ち手ちとは全く違うメンタリティを持っていた。
曰く、『|漫《まん》然《ぜん》と|徒《ともがら》≠追うより効率的なやり方は|幾《いく》らでもある。協力せよ、|互《ご》助《じょ》せよ、|提《てい》携《けい》せよ』……一人一党を|旨《むね》とする|復《ふく》讐《しゅう》鬼《き》たちに受け入れられるわけもない主張を、彼は契約直後から、行く先々で説いた。もちろん、誰もまともに耳を貸していない。彼自身が、直接的な戦闘力に欠けるフレイムヘイズだった、という理由もある(言うまでもない、討ち手らにとって最も|権《けん》威《い》ある|箔《はく》は、強さである)。
そして数十年後、彼は煙たがられた|挙《あげ》句《く》に、当時、あぶれ者や変り種が行き着く定位置、あるいは|暇《ひま》人《じん》の座る|椅《い》子《す》でしかなかった|外界宿《アウトロー》の管理者に|就《しゅう》任《にん》した。彼を知る誰もが、「これであの|変《へん》物《ぶつ》も|大人《おとな》しくなる、意味|不《ふ》明《めい》な説教も聴かずに済む」と思った。
ところが、彼にとって、それは行き着く先などではなかった。
どころか、本当の事業の、ほんの始まりに過ぎなかったのである。
その|証《あかし》として、各地の|外界宿《アウトロー》へと、「情報|提《てい》供《きょう》の|定《てい》期《き》通信と交換を行いたい」という提案が、回状として巡り始めた。小さな、苦難に満ちた、しかし大事業への、一歩だった。
当初は、これを通わせる協力者や志願者の確保にすら苦労した。回状を渡す約束を守らない者、|端《はな》から|行《こう》為《い》自体を馬鹿にしていた者などが多かったからである。|肝《かん》心《じん》の回状を渡す相手の|外界宿《アウトロー》管理者にすら、当初はその意味や実効性を疑われれるばかりだった。
まさに孤立|無《む》援《えん》、|孤《こ》軍《ぐん》奮《ふん》闘《とう》の状況下、それでも彼は|驚《きょう》異《い》的な粘り強さと熱意を持って、説得と実行を続けた。
その彼に対する協力は、|道《どう》化《け》への|哀《あわ》れみという形で|芽《め》吹《ぶ》いた。
次に、|討《う》ち手として動いていた時代にできた友との合流があった。
すぐに、彼の|外界宿《アウトロー》を訪れる|顔《かお》馴《な》染《じ》みの討ち手間で、習慣化していった。
やがて、回状に記された情報の|恩《おん》恵《けい》、追跡の利益を受けた者が、|幾《いく》人《にん》か出た。
いつしか、出回る|範《はん》囲《い》、交換する討ち手、情報|網《もう》に加わる|外界宿《アウトロー》が、増えていた。
|幾《いく》つもの大きなトラブルを、|幾《いく》十《じゅう》もの小さなトラブルを、じっくり確実に超えてゆく内に、また十年単位での月日が流れ……回状のみでない、情報の交換と共有は、|外界宿《アウトロー》を行き来する討ち手らにとっての|慣《かん》例《れい》から、守るべき|規《き》範《はん》に、|遂《つい》には使命の一部として|遂《すい》行《こう》する制度となっていた。|欧《おう》州《しゅう》における|大《たい》半《はん》の|外界宿《アウトロー》も、ドレルの|影《えい》響《きょう》・制度下に置かれていた。
これらは、好意や|友《ゆう》誼《ぎ》の結果ではない。|討《とう》滅《めつ》を行う助けになる、|無《む》駄《だ》死《じ》にを減らせる、という……どこまでも普通の、なにより重要な、実績による変化だった。
そしてこの時期、ドレルはまた別の|支《し》援《えん》体制|構《こう》築《ちく》に着手していた。自身の|外界宿《アウトロー》をチューリヒに移し、人間社会の、それも主に|金《きん》融《ゆう》・運輸|関《かん》連《れん》の企業を|架《か》空《くう》名義で経営しだしたのである。
|英《えい》雄《ゆう》豪《ごう》傑《けつ》綺《き》羅《ら》星《ぼし》の|如《ごと》く|揃《そろ》うフレイムヘイズの歴史上にも、こんな奇行[#「奇行」に傍点]に走った者は一人としていない。人間だった頃に何者だったのか、若き老人はその|天《てん》稟《ぴん》と経験と知識を|多《た》彩《さい》豊富に持っており、|程《ほど》なく人間に事業|実《じつ》務《む》の大半を任せて、|外界宿《アウトロー》に在る彼がこれを|総《そう》括《かつ》する、という体制を作り上げてしまった。情報に続き、フレイムヘイズを最も直接的に動かす、資金と交通網のバックアップ体制が整備されたのである。
マージョリーがマンハッタンに現れた頃には、彼の|理《り》念《ねん》を掲げ、集った討ち手ら(中心となったのは、自身の|復《ふく》讐《しゅう》を果たし、生きる目的を見失った者たちだった)によって、チューリヒを中心に|緊《きん》密《みつ》な|連《れん》携《けい》を取る|有《ゆう》機《き》的《てき》組織が、欧州に誕生していた。
世に言う『ドレル・パーティ』である。
現在、世界中のフレイムヘイズらを欧州に集結させている[|革正団《レボルシオン》]との戦いでも、この新たに育った支援施設は、大きな役割を果たしていた。
今度の戦いは、中世に起きたフレイムヘイズと|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠ノよる|史《し》上《じょう》最大の戦争『|大《おお》戦《いくさ》』のような、|彼《ひ》我《が》の|軍《ぐん》勢《ぜい》を一箇所に集める決戦ではなかった。欧州|全《ぜん》域《いき》で|策《さく》動《どう》する[|革正団《レボルシオン》]に、同じく各地に点在する|外界宿《アウトロー》が一つ作戦|意《い》図《と》の元、各個に|対《たい》処《しょ》する、という一目で見えない全面戦争[#「一目で見えない全面戦争」に傍点]だった。主戦場すら明確でない、局地的な勝敗が入り乱れる|混《こん》沌《とん》の中で、じわじわと全体の情勢が|一《いっ》進《しん》一《いっ》退《たい》を続けていた。
これら|推《すい》移《い》の間も、|総《そう》指《し》揮《き》官《かん》であるはずのドレルは|幕《ばく》僚《りょう》団《だん》『クーベリックのオーケストラ』をチューリヒから動かしていない(むしろ、この戦いで最も忙しいのは、欧州の交通支援を総括するピエトロ・モンテベルディと言われている)。頭の古い復讐鬼たちには勝敗の判定さえ理解できない、しかしこれも|厳《げん》然《ぜん》たる『大きな戦い』だった。
文面を読み終わったイーストエッジは、手紙を|丁《てい》寧《ねい》に折り|畳《たた》み、封筒に戻した。
マージョリーはもちろん、文面について|尋《たず》ねるような|不《ぶ》躾《しつけ》な|真《ま》似《ね》はしない。ただグラスを傾け、|唇《くらびる》を酒で|湿《しめ》す。
少しして、|眼《め》を|瞑《つぶ》っていたのかどうか分からない細い|双《そう》眸《ぼう》が、深く黒い光を揺らした。
「|幻《まぼろし》の|涙《なみだ》――」
イーストエッジは、ドレルのことを、こう呼ぶ。
「――といい、今、彼が|討《う》ち手らを集め戦っている[|革正団《レボルシオン》]といい、時が|経《た》つと、人も|徒《ともがら》≠焉A様々な考え方を持つようになるものだ」
「我ら全て、変わりゆく者なのだ」
ケツアルコアトルも同じく、何か含むような声で言った。
マージョリーは|酒《しゅ》精《せい》の|吐《とい》息《き》に乗せて、少し笑う。
「ふふ、変わりゆく、ねえ。たしかに時が経つほど、いろんな酒が出てくるみたいだけど」
「私からも、討ち手の|大《たい》義《ぎ》を説く|檄《げき》文《ぶん》が欲しいそうだ」
と、イーストエッジは自分から、手紙の内容について触れた。
「|欧《おう》州《しゅう》で、未だ態度を|不《ふ》明《めい》瞭《りょう》にしている者、[|革正団《レボルシオン》]の|企《き》図《と》にややの|感《かん》銘《めい》を受けている者らの目を、我らの確たる言葉で覚ましてやって欲しい、と」
「なんとも、見込まれたものだ」
ケツアルコアトルまでもが、|呆《あき》れ半分、感心半分の声を漏らす。
この二人のめったに見ることのできない動揺の様[#「動揺の様」に傍点]に、マルコシアスは大笑いした。
「ギィヤーッハッハ! おめえらの吐く言葉なら、アルファベットの一つにも100万ポンドの重みがあるだろうぜ!」
マージョリーも鼻で笑う。
「ハッ、有名人の説得力を借りたい、ってわけ? 自分で道も決められないなんて、最近のフレイムヘイズってば|軟《なん》弱《じゃく》ねえ」
「自分の道を進みすぎってのも考えもんだがよ。こんな時期に、一人|遡《さかのぼ》って|新《しん》大陸に来るってのも……っと、|合《がっ》衆《しゅう》国《こく》だな、アメリカ大陸!」
騒ぎかけたマルコシアスは、|慌《あわ》てて言い直した。
イーストエッジとケツアルコアトルは、アメリカ・インディアン側に立つ者として、西洋人が発見した[#「発見した」に傍点]と称する観点からの呼び名である『新大陸』の|呼《こ》称《しょう》を嫌っている。
訂正を受けて、|尊《そん》崇《すう》を受けるフレイムヘイズは明確に返答した。
「この話、たしかに受けた。|平《へい》穏《おん》を乱すこと、我らが世の陰にある意味を、文字に記そう」
マージョリーはグラスを掲げ、|乾《かん》杯《ぱい》をして見せた。
「そりゃけっこーなこと。さっさとあっちの戦いが終わってくれないと、あんたたちも大変でしょうしね」
「あんなとっぽい|兄《にい》ちゃん、|物《もの》見《み》に使わにゃなんねーくれえの|人《ひと》手《で》不足たあな。いくら|※[#「兀にょう+虫」、第4水準2-87-29]《き》蜴《えき》の|帥《すい》≠ェ付いてるっつっても、ちーとヤバ過ぎだぜ、ヒッヒッヒ!」
笑うマルコシアスに、先と別の感情を込めた視線が向けられる。
「あの少年――」
イーストエッジは、ユーリイのことを、こう呼んでいた。
「――を、どう思う?」
「……」
マージョリーは答えず、視線だけを|板《いた》壁《かべ》一枚|挟《はさ》んだ向こう、|外界宿《アウトロー》の副業|兼《けん》隠《かく》れ|蓑《みの》たる『イーストエッジ|外《がい》信《しん》』の事務所|側《がわ》へと流す。
薄い壁越しに、来客の相手をする元気なユーリイの声が聞こえていた。
「はい、アイルランド版ですね、入ってます!」
フレイムヘイズや|徒《ともがら》≠ニは関係のない人間社会で、なんの|違《い》和《わ》感《かん》もなく過ごしている、|溌《はつ》剌《らつ》とした明るい、声が。
「うちのペーパーはどうです? あ、そうですか、はは……」
マージョリーは数百年の|戦《せん》歴《れき》を持つ|討《う》ち手として、少年の見せるそれら、あまりな真っ直ぐさ[#「あまりな真っ直ぐさ」に傍点]を、
「向いてないわ」
一言、|容《よう》赦《しゃ》なく|斬《き》って捨てた。
「百年ももてば、ある程度、人格は練られるかもしれないけど……まず、そうさせるための|執《しゅう》着《ちゃく》になる、|徒《ともがら》≠ヨの|憎《にく》しみと怒りが感じられない」
「そうか、やはりな」
イーストエッジは予想された答えに、硬い|面《めん》相《そう》をさらに|強《こわ》張《ば》らせた。
マージョリーはグラスをカウンターに置いて、|呟《つぶや》く。
「それに、あいつ……」
ここに来る前に見た、少年の|不《ふ》審《しん》な表情を思い出す。
(――「……いえ、なんでも!」――)
世界のバランスを守る、という|道《どう》理《り》によって作られた物。
でありながら、|理《り》非《ひ》を超えた感情によって歩んでゆく者。
|討《とう》滅《めつ》の追っ手・フレイムヘイズ。
少年の表情に|垣《かい》間《ま》見《み》えたものは、その存在にとって、なにか|相《あい》容《い》れない|因《いん》子《し》であるような気がした。
「……どっか、おかしい」
「そうだ。|尋《じん》常《じょう》の|討《う》ち手ならば、|復《ふく》讐《しゅう》を果たすために、|苛《か》烈《れつ》な戦意と|酷《こく》薄《はく》な|打《だ》算《さん》を両立させている。しかし少年は言動の|端《はし》々《ばし》、胸の奥に……在ってはならない狂いを持っている」
「危険すぎて、とても戦いには出せない」
イーストエッジは|頷《うなず》きを戻さず|頭《こうべ》を垂れ、ケツアルコアトルが|呟《つぶや》く。付き合いが|昨日《きのう》今日ではない彼らにとって、ユーリイの持つ危険性は、より大きな心配事であるらしかった。
その|様《さま》に、マージョリーはようやく|得《とく》心《しん》の入ったように|溜《ため》息《いき》を|吐《つ》く。
「やっぱり、あの|封《ふう》絶《ぜつ》の中に入ってきたのは、あんたたちの指示じゃなかったのね」
「ッハ、なーるほど。仮にも|千《せん》変《ぺん》≠ンてえな大物とやり合った場所に、終わった早々|新《しん》兵《ぺい》さんがノコノコやってくんだからよ。ガキの火選びにしちゃ、度が過ぎるってもんだ」
こと戦いに関してはシビアなマルコシアスも、軽く馬鹿にした。
マージョリーは|頬《ほお》杖《づえ》をついて、置いたグラスの|縁《ふち》を指でなぞる。
「で、なに?」
この男が|無《む》駄《だ》話を好まないことは、よく知っている。|訊《き》いたからには、なにかしたい、なにかしてもらいたいのであろう。
果たしてイーストエッジは言う。
「見ての通り、今のマンハッタンには、お前たちの他には我々、二者四人の討ち手が在るのみだ。常なら|徒《ともがら》≠煖ーれて近付かず、少年にも注意を|喚《かん》起《き》するだけで済んできたのだが」
「我々は、ここを動かない」
ケツアルコアトルが、『|星《せい》河《が》の|喚《よ》び|手《て》』を始めとする『|大《だい》地《ち》の|四《し》神《しん》』らが独自に持つ|苦《く》渋《じゅう》の|鉄《てっ》則《そく》を、やはり宣言していた。
少年になんらかの|措《そ》置《ち》が必要で、しかし彼らは動かない。
動けないのではなく、動かない……その訳を、かつて彼らと戦ったフレイムヘイズの一人[#「かつて彼らと戦ったフレイムヘイズの一人」に傍点]として、今は友の一人として、マルコシアスは|了《りょう》解《かい》している。重く受け取り、軽く返す。
「へっ、分かってらあ。『|大《だい》地《ち》の|四《し》神《しん》』の|一《いっ》柱《ちゅう》がウッカリ|外界宿《アウトロー》空《あ》けて、もし万が一の事があったら、この大都会ががら空きになっちまう」
「すまん」
|我《わが》儘《まま》への許しを|請《こ》うイーストエッジを無視して、|情《じょう》厚《あつ》き|狼《おおかみ》は|相《あい》棒《ぼう》に求める。
「よう、我が――」
「分かってるわよ。新兵の|監《かん》視《し》に心構えの教育、でしょ」
マージョリーは皆まで言わせず、|即《そく》答《とう》した。
「でも、あいつらを片付けるまでよ。そもそも|柄《がら》じゃないんだから」
頬杖の上で渋い顔を作り、
「今度はよりにもよって、あの|千《せん》変《ぺん》≠ェ相手だってのに……あー、やだやだ」
「|裸《はだか》見られる以上のハプニングはねーだろぜ、ヒャーッハハブッ!」
|相《あい》棒《ぼう》を|平《ひら》手《て》打《う》ちで黙らせる。
マージョリーは、ユーリイを伴って、日も暮れかかったロウアー・マンハッタンの薄暗い街路を、どこへともなく歩いていた。|一《いっ》旦《たん》は取り逃がした(と本人は主張する)|穿《せん》徹《てつ》の|洞《ほら》<Aナベルグと|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイの気配は、未だ強く漂っている。やはり、あの|芝《しば》居《い》がかった|怪《かい》人《じん》は、この|島《しま》自体に何らかの用があるらしかった。
(気配|察《さっ》知《ら》の|自《じ》在《ざい》法《ほう》で、いきなり戦闘に持ち込んでもいいけど……|下手《へた》すると、|護《ご》衛《えい》の|千《せん》変《ぺん》≠セけ出てきて、あの|徒《ともがら》≠ェ|他所《よそ》で事を起こす可能怪もある、か)
(ま、今回は|模《も》範《はん》解答示さにゃなんねーこともあるし、|自《じ》重《ちょう》だわな、ヒヒ)
足の向くまま、すでに根付いて長いチャイナタウンからリトル・イタリーを抜け、ソーホー地区に入る。行く手に、ミッドタウンの|壮《そう》麗《れい》な|摩《ま》天《てん》楼《ろう》群《ぐん》が|聳《そび》えていた。
(ふう、ん……模範解答、ね)
(お、ピンと来たか?)
そんな二人の、声なき会話にも気付かず、
「|感《かん》激《げき》です。『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』さんの探索に同行させてもらえるなんて」
さっきからユーリイは、まるで遠足のように|無《む》邪《じゃ》気《き》な声で話を続けていた。
マージョリーは適当に手を振って返し、
「イーストエッジの頼みだもの、しよーがないでしょ」
突然、大いに|凄《すご》んで見せる。
「それより、約束|忘《わす》れんじゃないわよ」
「……はい」
声に押されて少年は|渋《しぶ》々《しぶ》頷《うなず》き、ずれた|眼鏡《めがね》を戻した。
「もし|徒《ともがら》≠ニ|遭《そう》遇《ぐう》して戦闘になっても参加はしません」
言う腰からウァラクが、カチャンと短剣の|鯉《こい》口《ぐち》を鳴らして言う。
「どのみち、今のあんたにできることって、チョロッと|炎《えん》弾《だん》撃《う》つことと、|高《こう》速《そく》飛行くらいでしょ? |参《さん》戦《せん》しても|迷《めい》惑《わく》なだけよ。早いとこ一人前の『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』として、私の『|隷《れい》群《ぐん》』を使いこなして欲しいもんだわ」
契約した|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ|辛《しん》らつな評価はいつものことである。
「分かってるよ、ウァラク」
|新《しん》米《まい》フレイムヘイズは|苦《にが》く笑って、暮れ行くニューヨークを眼鏡に映した。
「でも、皆が|留守《るす》の間に、このニューヨークを|徒《ともがら》≠ノ|襲《おそ》われたってのに……|討《とう》滅《めつ》を他所からのお客さんに任せるなんて、少し|悔《くや》しくてさ」
マンハッタン|島《とう》中南部にあたるミッドタウン。その、ビルやアパートメントの作る低層の森から、|幾《いく》つもの高層ビルが巨木のそそり立つように天を突いている。夜になれば、低層は暗く高層は明るい、|不《ふ》思《し》議《ぎ》な夜景――実際には、貧困に|喘《あえ》ぐ者の多い低層部には電灯を付ける|余《よ》裕《ゆう》もないだけ、という非常に|世《せ》知《ち》辛《がら》い事情からなる――夜景が望めるはずだった。
「動けないイーストエッジさんはともかく、僕がいるのに……」
「約束」
早々に|零《こぼ》れた|危《あや》うい|台詞《せりふ》に、マージョリーは一言、|釘《くぎ》を刺した。
ユーリイは|慌《あわ》てて口を|噤《つぐ》――まず、話題を|逸《そ》らした。
「は、半世紀ぶりだと、ニューヨークも変わったんじゃありませんか?」
「……」
「まあ、来て一年の僕が言うのも変な話ですけど」
|尊《そん》敬《けい》する|大《だい》先《せん》輩《ぱい》のフレイムヘイズ、何度も|外界宿《アウトロー》で|噂《うわさ》に上った(良い噂なんかほとんどないだろうに、と本人は|自《じ》嘲《ちょう》気味に思う)『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーから、少しでもなにかを聞きたい、という意欲が声に|隠《かく》れず、|溢《あふ》れ返っていた。
「その僕が見ても、日ごとに変わるほどですから」
「……」
「五十倍の|歳《さい》月《げつ》だと、よほど違ったんじゃないか、マンハッタンは一面|荒《こう》野《や》だったんじゃない
か、とか思ったりして」
イーストエッジに|請《うけ》合《あ》った手前、マージョリーとしても、ただ突っぱね続けているわけにもいかない。|釘《くぎ》を刺すだけでなく、ある程度は人格の見極めをして、効果的な|掣《せい》肘《ちゅう》をしておく必要があった。|面《めん》倒《どう》臭《くさ》さを声に|隠《かく》さず、ようやく答える。
「……たしかに、ね」
|根《こん》競《くら》べに負けたようで、少し気に食わなかった。
「とりあえず、|街《まち》中《なか》に|豚《ぶた》や馬が少なくなったのは|結《けっ》構《こう》なことだわ」
「豚?」
驚く少年へと、気に食わない気分で、面白くもない話を、つまらなさそうに話す。
「荒野どころか、ゴミ|貯《た》めだったわ。あっちもこっちも、豚だらけ、馬だらけ、|糞《ふん》だらけ、|藁《わら》|屑《くず》だらけ。港もダウンタウンもゴミが山積み。ハンターズ・ポイントなんか、毒ガス|寸《すん》前《ぜん》の化学|臭《しゅう》の底よ」
「そう、だったんですか……」
ユーリイには、 |一《ひと》昔《むかし》前の|苛《か》烈《れつ》な都市|環《かん》境《きょう》について、いまいち想像力が働かないらしい。 これで少しは黙るか、と思ったマージョリーの希望は、
「……許せません[#「許せません」に傍点]」
「はあ?」
しかしあっさり破られた。
「そんな|酷《ひど》い時代を乗り超えて、 |禁《きん》酒《しゅ》法《ほう》もようやく廃止されて、 今も|大《だい》恐《きょう》慌《こう》から皆が立ち直ろうと|頑《がん》張《ば》ってる、そんな大事な時期に|襲《おそ》ってくるなんて、許せませんよ」
(こいつ……?)
マージョリーは、|新《しん》米《まい》フレイムヘイズの言動が、自分の知るそれ[#「それ」に傍点]の在り様と違っている、どころか間違っている[#「間違っている」に傍点]、そんな直感を得た。
(これが、イーストエッジの言ってた『在ってはならない狂い』か)
「そのアナベルグとかいう|徒《ともがら》=Aただ人間を喰らいに来ただけじゃなくて、『文明の――加速』でしたっけ、変なことを言ってたんですよね?」
「……ええ」
マージョリーの|不《ふ》審《しん》を|他所《よそ》に、少年は声に熱さを加える。
「人を喰らって世界を|停《てい》滞《たい》させるのが|徒《ともがら》≠セっていうのに、加速だなんて|暴《ぼう》言《げん》にも|程《ほど》があります。あの|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイまで|護《ご》衛《えい》に付けて、一体なにを|企《たくら》んでたのか……どんな|悪《あく》事《じ》であっても、絶対に僕らが阻んで――!」
「ちーっと落ち着いたらどうでえ、|兄《にい》ちゃん」
|口《く》舌《ぜつ》が加速する|寸《すん》前《ぜん》、マルコシアスが|絶《ぜつ》妙《みょう》のタイミングで口を挟んだ。
「――えっ、あ」
ユーリイは、ようやく我に返り、
「……すいません」
反射的に謝って、|俯《うつむ》く。また、ずれそうになる|眼鏡《めがね》を押さえた。
そうして、二人にして四人のフレイムヘイズは、無言のまま、歩く。
夕日を早々に|隠《かく》すビルの谷底を、行き交う人々と自動車に混じって。
すぐ|傍《かたわ》らを自動車が、ガリガリッ、と金属音を鳴らして走り抜けた。
それを|契《けい》機《き》にしてか、ウァラクが気だるい|呟《つぶや》きを漏らす。
「あんたは人間に入れ込みすぎなのよ。いつまで人間のつもりでいるわけ?」
ユーリイは、気弱に笑うしかない。
「うん、分かってるんだけど」
「どーかしら、ね」
「……」
また少し歩いてから、少年は顔を上げた。道路の両|脇《わき》から|聳《そび》える壁の上、分厚いスモッグの向こうに、星も見えない暗さを染み込ませつつある、夕の空がある。
眼鏡に映るのは、心洗う星空ではなく、白々と光る真新しい|街《がい》灯《とう》ばかりだった。
「……やっぱり、僕は変なフレイムヘイズ、なんでしょうか」
自分に向けられた質問だと気が付いて、マージョリーは少しだけ、|目《め》線《せん》を傍らに流す。
そこには、|真《しん》摯《し》な、答えを求める|瞳《ひとみ》が眼鏡|越《ご》しに揺れていた。
(子犬みたいな顔すんじゃないわよ)
|困《こん》惑《わく》しつつも、口を開く。
「まだ一年だったら、そんなもんでしょ」
我ながらの|日和《ひよ》った答えに、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』たる|女《じょ》傑《けつ》は少し|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》になった。
それを自分への不満と思い、ユーリイは肩を落とす。
「……イーストエッジさんからも、『おまえは変なフレイムヘイズだ』って、常々言われてるんです。他の、どんな|討《う》ち手の方々とも、僕は違うらしくて……訓練も受けているのに、|欧《おう》州《しゅう》の戦いには行かせられない、って言われました」
(そりゃそーでしょーよ)
こんな|甘《あま》ちゃんのひよっ子が行ったところで、犬死にがオチである。これならまだ、|大《たい》戦《せん》期《き》に|乱《らん》造《ぞう》された『ゾフィーの子供たち』の方が、|己《おのれ》の使命を理解し、|憤《ふん》怒《ぬ》憎《ぞう》悪《お》にギラギラしている分だけマシだった。
その、今度は本当に抱いた不満が、つい口を突いて出る。
「なんで、あんたみたいなのが契約でき――っと」
しかし、その不用意な問いに、ユーリイはまた笑い返した。
「分かってます、僕は……」
「あー、|兄《にい》ちゃん」
マルコシアスの制止にも、首を振る。
「僕は……いえ、僕らは一年前、アメリカに向かう移民船で、|徒《ともがら》≠ノ|襲《おそ》われました」
「|海魔《クラーケン》……まだ、そんなのが」
マージョリーは少し驚いた。
|海魔《クラーケン》というのは、海洋上で人を襲う|徒《ともがら》≠フ総称である。
|絶《ぜっ》海《かい》に孤立した|密《みっ》室《しつ》、しかも|大《おお》人数を|一《いっ》挙《きょ》に喰らうことのできる長距離|就《しゅう》航《こう》の旅客船は、|徒《ともがら》≠ノとって|格《かっ》好《こう》の|餌《えさ》場《ば》だった。フレイムヘイズの同乗でもなければ助からない、しかしフレイムヘイズが乗っている船を|徒《ともがら》≠ヘ襲わない……なんとも|厄《やっ》介《かい》な環境だった。
古くは|北《ほく》洋《よう》から|地《ち》中《ちゅう》海《かい》等の|近《きん》海《かい》に多かったため、まだフレイムヘイズにも|察《さっ》知《ち》と|対《たい》処《しょ》は可能だったが、定期的に大きな船が就航する時代になって以降、この阻止は、ほとんど|運《うん》次《し》第《だい》という状況になっていた。
|外界宿《アウトロー》が多く港に存在するのは、交通の便が良い、という目先の理由のみならず、この|海魔《クラーケン》への対処に、昔から彼らフレイムヘイズが|腐《ふ》心《しん》してきた|証《あかし》なのである。
とはいえ、 |一《ひと》昔《むかし》前、 この|無《む》道《どう》を|撲《ぼく》滅《めつ》しようという|機《き》運《うん》がフレイムヘイズの間に高まり、|大《たい》半《はん》の|海魔《クラーケン》は|討《とう》滅《めつ》された。狙われる定期|航《こう》路《ろ》には|近《きん》隣《りん》の|外界宿《アウトロー》に在る|討《う》ち手が|随《ずい》時《じ》乗り込む、という予防策も取られるようになって、近年は被害の|噂《うわさ》さえ珍しくなった。
はずだったのだが。
少年の|脳《のう》裏《り》に、移民としての|惨《みじ》めな光景が|蘇《よみがえ》る。
「あの狭く苦しい船底で、皆の人いきれにむせていたとき――」
まるで荷物のように扱われ、両親ともども|船《せん》倉《そう》の最下層に放り込まれた。|故《こ》国《こく》を見送ることさえできず、|澱《よど》んだ空気と|酷《ひど》い|臭《にお》いの底、暗く狭い場所に、皆で腹を|空《す》かして|蹲《うずくま》っていた。不意に|衰《すい》弱《じゃく》・発病して、アメリカの影すら見ることも|叶《かな》わず死にゆく|同《どう》胞《ほう》も数多く見た。
自分はその中で、|渡《と》航《こう》にあたって父から贈られた物を手に、|新《しん》天《てん》地《ち》を、求めて働けば手に入らないものはないという自由の国 ――それが|妄《もう》想《そう》の産物であると、当時は知らなかった―― への到達を、ひたすらに待っていた。父からの贈り物とは、当時は高級品だった|眼鏡《めがね》。
「のし上がるためには、学ばねばならない」
渡航を決めてから|口《くち》癖《ぐせ》のように言っていた父の、それは新生活への意気込みの表れだった。サイズが違っているのは、父の財力だと、|度《ど》数《すう》を合わせるだけで|精《せい》一《いっ》杯《ぱい》だったからである。
そんな自分も含めた、なにもかもが一杯一杯の、行く先にある|漠《ばく》然《ぜん》とした希望のみに|縋《すが》りついていた移民たちは……|辿《たど》り着いた先で絶望することすら許されなかった。
人間としての旅が、海の上で終わったのである。
事件は、全く|唐《とう》突《とつ》に起きた。
船倉の最下層まで届く|轟《ごう》音《おん》と|衝《しょう》撃《げき》、悲鳴すら混ぜて|俄《にわ》かに騒がしくなる天井、そして、刺すように差し込む日の光[#「日の光」に傍点]……在り得ない、その光を遮る影[#「光を遮る影」に傍点]は、もっと在り得ないもの。
缶詰の|蓋《ふた》を開けるように天井を|剥《は》ぎ取った、化け物。
巨大な|蛸《たこ》、腐った|藻《も》のような暗い緑色の光を|撒《ま》き、うねり|蠢《うごめ》く化け物だった。
腰を抜かす親切にしてくれた老人、周りを突き飛ばして走る知らない男、狂ったように叫ぶ|可愛《かわい》かった少女、泣き|喚《わめ》く|傲《ごう》慢《まん》だった船員、|怯《おび》えへたり込む父、ただ祈る母……皆、化け物に触れる側から燃え、吸われ、消えていった(その、存在を失うという|現《げん》象《しょう》の|感《かん》知《ち》が、フレイムヘイズたる者としての|素《そ》質《しつ》だったことを、後でイーストエッジから聞かされた)。
やがて、船体のきしむ音が|響《ひび》き、足元から冷たい海水が|溢《あふ》れた。実際には自分の方が海中に落ちていたのだが、もちろんその時点で冷静に状況を|把《は》握《あく》できるわけもない。数分で全身が|麻《ま》痺《ひ》し、死んでしまう冷水の中で、なおも放り出された人々を喰い続ける化け物、水の中で燃えて[#「水の中で燃えて」に傍点]消える人々の光を、見続けた。そのために、なぜか|眼鏡《めがね》を押さえ続けていた。
ずっと上に、さらなる輝きを見せる海面があった。
しかし間に、人喰いの化け物が、立ちはだかっていた。
苦しんで、もがいて、上に向かおうとした。なのに、力が足りなかった。冷たい水をかく力がなかった。化け物を押しのける力がなかった。輝く海面に|辿《たど》り着く力が、なかった。
(上に)
と望んだ。
(力を)
と望んだ。
(上に、向かう、力を)
と望んだ。
そのとき、
「……  ……―― ――求める? 飛べない誰かさん?」
全く不意に、
「求める? 飛ぶことを」
気だるそうな、女の声が響いた。
「求めるのなら、|誓《ちか》いなさい」
|不《ふ》思《し》議《ぎ》な声は、揺らいで燃える、ここではないどこか[#「ここではないどこか」に傍点]から響いていた。その広がりを感じながら、いつしか体は力尽き、水底へと沈み始めていた。意識は|朦《もう》朧《ろう》として、しかし|眺《なが》めはどこまでも|冴《さ》え渡って、頭上の海面を、立ちはだかる化け物を、見続けた。
どこからか|響《ひび》く声に、問うていた。
(|誓《ちか》うって、なにを?)
「私と、飛ぶ誓い」
なぜそんなものが見え、聞こえるのか。
「あんたの目の前にいる敵を、打ち破る誓い」
今、自分の目はたしかに、化け物と人の燃える光を、その向こうに輝く海面を、確かに見ている。自分の耳はたしかに、水圧に痛みを覚え、|泡《あわ》の|感《かん》触《しょく》を水の中に聴いている。
「そして、戦い続けるという、誓い」
しかし同時に、揺らいで燃える、|幻《げん》想《そう》的な世界も見え、声もはっきりと聞こえていた。
(誓ったら、どうなる?)
「望みのままに、飛べるようになる。敵を打ち破る、力を得る。そして……あらゆる人の|記《き》憶《おく》から消え、|絆《きずな》を全て失い、人ではなくなる」
(そん、な)
「飛びたいという願い、戦うという意思、それだけが、誓いに代わる」
気だるい声は、しかし|有《う》無《む》を言わせなかった。
父も母も目の前で火に変わって、化け物に吸い取られてしまった。|新《しん》天《てん》地《ち》で暮らすための全て、移民として|故《こ》国《こく》から持ち出した|家《か》財《ざい》も全て、船ごと沈んでしまった。今、自分に残されているものは、遠く輝く海面と、その間に立ちふさがる、巨大な化け物。
それだけだったのに、
それだけだったからこそ、
「選びなさい。誓うか。それとも……」
ドクン、と、胸が打破の予感に高鳴った。
「|諦《あきら》めるか」
「――!」
ガボッ、と思うだけでなく、声として叫んだ相子に、口の中へと冷たい海水が入り込んできた。|観《かん》念《ねん》的なものではない、|残《ざん》酷《こく》な実感としての死が、|咽喉《のど》に肺に入ってきた。
必死にもがいた。
もがいて、心で叫んだ。
「いやだ[#「いやだ」に傍点]!!」
と。
「誓いは……|成《な》された」
声が聞く間に近くなり、耳元で|弾《はじ》けた。
|途《と》端《たん》、今まで冷たい海中で死にかけていた体に、|猛《もう》烈《れつ》な熱さが満たされた。
のみならず、周囲の海水までをも|沸《ふっ》騰《とう》させ|泡《あわ》立《だ》たせていた。
気付けば、望んだ場所へと、輝く海面へと、向かっていた。
その向かう先に、もう一つのものが、立ちはだかっていた。
化け物。
「戦いなさい! そのための力は、もう宿っている!!」
声が自分の中から|響《ひび》いてくる。
「うわあああああああああああああああああああ――!!」
|湧《わ》き上がる熱が体の回りに|渦《うず》巻《ま》き、吹き出す力が上昇の|感《かん》触《しょく》を与える。
バガン、
と硬く大きなものを砕いたような、|妙《みょう》に乾いた音が海中で響き、
「わ、あ――――」
気付けば、深い|紺《こん》碧《ぺき》を下に、広い|蒼《そう》穹《きゅう》の中にいた。
手には、|鞘《さや》に収まった短剣があった。それは、|故《こ》国《こく》で|眼鏡《めがね》を得る際、父が|断《だん》腸《ちょう》の思いで売り渡した、フヴォイカ家|重《じゅう》代《だい》の宝剣に、そっくりだった。
|怪《かい》物《ぶつ》の爆発が、遠い下方の海中で起こったが、それはもはや、『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』ユーリイ・フヴォイカにとって、過去の|残《ざん》滓《し》でしかなかった。
あらゆる人[#「あらゆる人」に傍点]の|記《き》憶《おく》から自分が消えても、なんの意味もない。
|絆《きずな》など、家族を喰われた時点で、とっくになくなっていた。
それらのことに、全てが終わってから、ようやく気付いた。
「でも、|後《こう》悔《かい》もしてるんです」
自分の契約について語り終えたユーリイは、歩きながら地面に|眼《め》を落とす。
「後悔? 契約したことに?」
「おいおい、そりゃねーぜ」
言ったマージョリーとマルコシアスに、少年は|慌《あわ》てて手を振って見せた。
「いっ、いえ、そういう意味じゃないです! 僕をあの|地《じ》獄《ごく》から救い出してくれたウァラクには、本当に感謝しています!」
「あたりまえよ」
とウァラク。
「それに今、イーストエッジさんの所にいさせてもらえることにも……まあ、|欧《おう》州《しゅう》行きを許してくれなかったのは正直、不満ですけど…… 普通に移民としてやってきたよりも、 たぶんずっと、恵まれた暮らしを送れていると思ってますから。ただ――」
「ただ?」
|怪《け》訝《げん》な顔をするマージョリーに、再び路面に眼を落としたユーリイは|苦《にが》く、|呟《つぶや》いた。
「あのとき、誰も助けられなかった」
(あっ)
「自分のことだけに|精《せい》一《いっ》杯《ぱい》で……」
(なーるほど、な)
マージョリーとマルコシアス、二人で一人の『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』は、ようやく理解した。
少年が漂わせる、|違《い》和《わ》感《かん》の正体を。
「今度くらいは、誰かを助けたいんです」
彼は、世界のバランスを保つことを使命とするフレイムヘイズの身で、 人間に|執《しゅう》 着《ちゃく》しすぎていた。本来持つべき熱意の方向が、完全に狂っていた。倒すべき|徒《ともがら》≠ナはなく、人間の方を向いていた。|緊《きん》急《きゅう》避《ひ》難《なん》的な契約によって|己《おの》が|身《しん》命《めい》を救われたがために、フレイムヘイズという存在に、なにか|奇《き》妙《みょう》な|幻《げん》想《そう》を……希望のようなものを|仮《か》託《たく》してしまって[#「しまって」に傍点]いたのだった。
違和感の正体、狂いの指す方向とは、つまりは『善意』なのだった。
この、自分が生き抜くことにおいて、容易に危険へと取って代わるものを、彼は存在の根底として持ってしまっていた。 |復《ふく》讐《しゅう》者として生まれるはずのフレイムヘイズ。 エゴによってようやく自身の|悲《ひ》境《きょう》を受け入れ、生き延びることに執着できるという|異《い》能《のう》者。
ユーリイ・フヴォイカは、その例に|倣《なら》っていないイレギュラーだったのである。
(こんな危険な子、戦いに使えるわけがない)
(向く向かねー以前の問題だったなあ、こりゃ)
|相《あい》棒《ぼう》に次いで、マージョリーは少年の短剣に声をかける。
「ウァラク」
「分かってる[#「分かってる」に傍点]。けど、どーしようもないでしょ?」
その気だるい声には、|諦《あきら》めが|匂《にお》っていた。
マージョリーも、少年の抱える|病《びょう》魔《ま》の抜き|難《がた》さを思い、|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める。
復讐や|執《しゅう》念《ねん》という、手段を正当化する、ゆえに生き延びる力となるもの。
利害や|打《だ》算《さん》という、|冷《れい》徹《てつ》に割り切る、ゆえに生き残る確率を高めるもの。
それらをなにも持っていない少年は、その場の感情で、|非《ひ》論《ろん》理《り》的に動く。生き延びたいと願う者、生き残ろうと望む者の行く手を、善意によって掻き回す[#「善意によって掻き回す」に傍点]、最悪の存在なのだった。
マージョリーにとっては当然の|帰《き》結《けつ》としての、
「今すぐ帰りなさい」
しかしユーリイにとってはあまりに|唐《とう》突《とつ》すぎる、冷たい言葉が放たれた。
「え、えっ!?」
「すぐ|外界宿《アウトロー》に帰って、あと十年、まず人間として暮らしなさい。あんた程度じゃ、フレイムヘイズは務まらない」
「え、えっ!?」
自分の決意を示すつもりで語った契約の話、それが|齎《もたら》した、期待とは正反対の結果に、ユーリイは|狼《ろう》狽《ばい》した。自分たちがうろついている目的で、せめてもの抵抗を試みる。
「でも、|徒《ともがら》≠探さないと」
「んなもん、出てきたら|叩《たた》くだけのこった」
マルコシアスまでが無情に言う。
「そんな、|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》ですよ、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』さん!」
「無茶も何もない。ここまでうろついて、まだ|徒《ともがら》≠フ目的も分からないような|未《み》熟《じゅく》者に付いて来られても|迷《めい》惑《わく》なだけ」
「そんな」
「私たちは、分かった」
「えっ」
弱々しくなる抵抗に、マージョリーはとどめとして言ってやった。
「じゃあ、改めて|訊《き》くわ。|穿《せん》徹《てつ》の|洞《ほら》≠ノついての情報は、出掛けに教えた通り」
「は、はい」
ユーリイは必死に思い出す。
(――「どうぞ、広き世界にても数々|起《お》こしたる我が|悦《えつ》楽《らく》、『文明の加速』を、ご|覧《らん》あれ! 加速させる我が行いを、人間たちへの|礼《らい》賛《さん》を、ご覧あれ!!」――)
どの言葉も|抽《ちゅう》象《しょう》的過ぎて、込められているらしい意味など、|微《み》塵《じん》も|掴《つか》めない。
「こそこそ|隠《かく》れてるくせに、どうして『ご覧あれ』なんて言ったのか。言った|徒《ともがら》≠フ性格と、今歩き回った結果から、私は|奴《やつ》の目的を推測できた。あんたはどうなの?」
|畳《たた》み掛けるようにマージョリーは言う。
「おめえのレベルはその程度ってこった。帰ってじっくり考えな。もうガキは寝る時間だ」
マルコシアスにも、取り付く島がない。
このマンハッタンを守るため、|腕《うで》利《き》きのフレイムヘイズと一緒に|徒《ともがら》≠ニ戦うことを望んでいた少年は、最後の希望と、自分の腰に目をやった。が、
「たしかに、分からないのなら、|参《さん》戦《せん》の資格はないわね」
「ウァラク!?」
なんだかんだで優しいはずの|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ワでもが、同行を|諦《あきら》めた。
|頷《うなず》いて、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』は、少年ではなく短剣ゴベルラ≠ノ、別れを告げる。
「そういうこと。そろそろ見栄えのいい[#「見栄えのいい」に傍点]夜が来るから、行くわ」
「ま、イーストエッジにゃあ、『悪い』って言っといてくれや、|※[#「兀にょう+虫」、第4水準2-87-29]《き》蜴《えき》の|帥《すい》=I」
一人、会話から取り残され立ちすくむユーリイに、背が向けられる。
「待っ――」
遠ざかる姿の|端《はし》を掴もうと駆け寄る少年の手を、マージョリーは|遠《えん》慮《りょ》なく掴み、乱暴に放り投げた。
「――わあっ!」
|無《ぶ》様《ざま》に|尻《しり》餅《もち》をついた少年に、背中|越《ご》し、必殺の気合を込めた声が降りかかる。
「来るんじゃないわよ、絶対」
|雑《ざっ》踏《とう》の奥に彼女の姿が消えた後も、少年は立ち上がれなかった。
|迷《めい》惑《わく》そうによけて歩く人々の間、刺すように光る街灯の下、行き交う自動車の|騒《そう》音《おん》の中、座り込んだまま……フレイムヘイズの|残《ざん》影《えい》を、ただ目だけで追っていた。
[#改ページ]
突然、目の前が、真っ白になった。
違う――銀色の光で、満たされた。
燃えている――『|館《やかた》』が、|炎《ほのお》に包まれていた。
階下、恐怖の|絶《ぜっ》叫《きょう》と逃げ|惑《まど》う騒ぎが、|分《ぶ》厚《あつ》い|絨《じゅう》毯《たん》と石作りの|床《ゆか》越《ご》しに伝わってきた。
ジェイムズの|色《いろ》金《がね》狂《ぐる》いが、デイヴィットの|糞《くそ》野《や》郎《ろう》が、|慌《あわ》てふためいて立ち上がった。
伏せていた兵士が|気《け》取《ど》られた――娘たちが秘密を漏らした――テトスの|親父《おやじ》が、父の|旧《きゅう》友《ゆう》が裏切った――最初から全てが|罠《わな》だった――あらゆる可能性を並べ立て、すぐに否定した。
用心|棒《ぼう》たちを求め女を押し|退《の》ける太った|爺《じじい》、目の前で|護《ご》衛《えい》に飛びつく|軟《なん》弱《じゃく》な男、叫ぶだけの女たち、|戸《と》惑《まど》いを見せる用心棒、護衛、男ども、誰も、なにも、分かっていない。
が、なにが起こったのか[#「なにが起こったのか」に傍点]は、どうでもよかった。目に明らかな|異《い》常《じょう》事態も、例え天が砕け地が消えても、知ったことではなかった。自分の全てを、今ここに|遂《と》げねばならない。
こいつらを自分の手で消す[#「こいつらを自分の手で消す」に傍点]。
それだけしか、頭になかった。
ドレスの内に隠していたナイフを|掴《つか》み、助けを求める振りをして糞野郎に――
グン、
と、床が大きく|撓《たわ》むのを感じた、また沈み込んだかと思った、
|途《と》端《たん》、全てが|弾《はじ》けた。
屋根が巻き上げられ、壁が砕け、窓が破れ、床が抜けた。カーテンが|絨《じゅう》毯《たん》が|椅《い》子《す》がテーブルが食器が酒が食べ物が吹き飛び、燃えた。|梁《はり》が落ち、|煉《れん》瓦《が》が散り、|炎《ほのお》が舞い、黒煙が満ち、
自身は、転がっていた。
血と|煤《すす》に|塗《まみ》れて、痛みで動けず、手にナイフはなかった。
そんな、|無《ぶ》様《ざま》に転がる、転がることしかできない自分の前に、
銀色に燃える狂気の姿が、|聳《そび》え立っていた。
|覆《おお》い|被《かぶ》さってくるように、太い手足を大きく広げる、|歪《ゆが》んだ西洋|鎧《よろい》。その汚れた|板《ばん》金《きん》の|隙《すき》間《ま》からザワザワと|這《は》い出そうとしている、虫の|脚《あし》のような物。|鬣《たてがみ》のように炎を|噴《ふ》きあげる|兜《かぶと》。まびさしの下にある、目、目、目、目……
(なに、よ、これ……)
わけが、分からない。
理解|不《ふ》能《のう》な状況の中、想像を絶する相手は、腕を振り上げた。|軋《きし》む板金の中に|蠢《うごめ》く虫の足、その隙間から銀色の炎が噴き出し、|瓦《が》礫《れき》の間から、目当てのものを引きずり出す。
|苦《く》痛《つう》以上に、恐怖の悲鳴を上げる、|同《どう》僚《りょう》の娘たち。
|宙《ちゅう》吊《づ》りのまま|喚《わめ》き、|怯《おび》えて暴れる、『|館《やかた》』の用心|棒《ぼう》や男ども。
同じく暴れる兵士たちに|芸《げい》人《にん》衆《しゅう》、流血し意識を失っているテトス|親父《おやじ》。
そして、|護《ご》衛《えい》もろとも|磔《はりつけ》のように持ち上げられる、ジェイムズとデイヴィット。
(こい、つ)
銀色に燃える化け物は、覆い被さる姿勢のまま、無数の目を全て、自分に向けている。
(私を、見ている)
やがて化け物は、宙にある者らを喰らい始めた。まるで果実をもいでは|頬《ほお》張《ば》るように。娘たちから、順番に、一人ずつ……一人ずつ……一人ずつ……一人ずつ……一人ずつ……
(違、う)
なぜか皆、一人喰われる|毎《ごと》に、同じ反応を示した。まるで、自分が初めて喰われるかのように。それまでに喰われた者たちを忘れてしまったかのように[#「それまでに喰われた者たちを忘れてしまったかのように」に傍点]。一人が|傍《かたわ》らで喰われていくという極限の恐怖が過ぎると、また次の者が、喰われるという未知の恐怖に叫ぶ。
(わらってる)
こんなことになっても、起き上がれない、|指《ゆび》一本動かせない、ナイフもない。
ただ、床に転がっていることしか、化け物の|為《な》す|様《さま》を見続けることしか、できない。
(私を、わらっている)
今ここにある全てを、壊して、殺して、奪って、|嘲《あざ》笑《わら》う――
自分の合図で始まる、自分の手で変える、自分の意思が世界を|拓《ひら》く――
あるいは今の光景こそ、自分が|遂《と》げ、果たすべきものだったはずなのに、それを――
(あざ、わらって、いる)
ジェイムズの|色《いろ》金《がね》狂《ぐる》いとデイヴィットの|糞《くそ》野《や》郎《ろう》が、|炎《ほのお》の中で引き裂かれ、|鮮《せん》血《けつ》を|撒《ま》き散らすのを見ても、血を|啜《すす》られるように喰われてゆくのを見ても、動けなかった。自分のもの[#「自分のもの」に傍点]を、自分の全てを、本当になにもかも、奪われた瞬間だったというのに――動けなかった。
ただ、銀色の|怪《かい》物《ぶつ》は、笑っている。
(嘲笑っている)
だから、|瀕《ひん》死《し》の体に残された全てで、叫ぶ。
|悪《あく》夢《む》を破るために、|全《ぜん》身《しん》全《ぜん》霊《れい》を|奮《ふる》い起こして、叫ぶ。
叫ぶ。
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3 生きる道
当時のニューヨークは、一九一六年に制定されたゾーニング法によって、|聳《そび》え立つビルディングに、とある|様《よう》式《しき》が加えられるようになっている。
一定の高さより上層の階は、街路への採光のため、|敷《しき》地《ち》線《せん》から角度をつけて後退させることを義務|付《づ》けられた結果たる様式……いわゆるセットバックである。簡単に言うと、この時期の高層ビルは、|先《せん》端《たん》に行くに従って細くなる|尖《せん》塔《とう》型(さらに簡単に言えばエンピツ型)にするよう定められていたのだった。
世界的に有名なものとして、車のホイールをデザイン化した|華《か》美《び》極まるクライスラー・ビル、ゴシック様式を|存《ぞん》分《ぶん》に取り込んだウールワース・ビル、電波をモチーフにした複雑な頂部を持つRCAヴィククー・ビル、アール・デコの巨大なモニュメントたるロックフェラー・センター(|着《ちゃっ》工《こう》中)等がある。
これら|絢《けん》爛《らん》な|摩《ま》天《てん》楼《ろう》群《ぐん》を取り|揃《そろ》えたニューヨークという都市は、 まさしく文明の|象《しょう》 徴《ちょう》、二十世紀における近代|建《けん》築《ちく》の|万《ばん》国《こく》博《はく》、という|趣《おもむき》さえあった。
このビルも、その一つ。
夜なお、というより、夜であればなおのこと増える来客に|賑《にぎ》わうエントランスホール。
ビルを|象《かたど》る大きな|銅《どう》版《ばん》レリーフの下、総合受付に、|不《ふ》思《し》議《ぎ》な来訪者があった。
「こんばんは、お|嬢《じょう》さん」
係員の女性が顔を上げると、|目《ま》深《ぶか》に|被《かぶ》ったソフト|帽《ぽう》に真新しいトレンチコートという、|小《こ》洒落《じゃれ》た出で立ちの男が、|忽《こつ》然《ぜん》と立っている。
「……」
女性は、常の接客を一瞬|忘《わす》れ、ポカンとなった。職業|柄《がら》、人の気配に|敏《びん》感《かん》なはずの自分が、|寸《すん》前《ぜん》に立たれるまで、全く気付けなかったからである。|紛《まぎ》れて近付けるような|人《ひと》混《ご》みは、どこにも見えなかった。逆に、なぜかこの男の周りだけ、|妙《みょう》に人との距離がある。
「……あ、ようこそ、いらっしゃい、ませ」
ようやく、それだけをたどたどしく答えた。
不思議な男は、|洗《せん》練《れん》された|挙《きょ》措《そ》で|帽《ぼう》子《し》をヒョイと持ち上げて一言、
「いやまったく、素晴らしいビルです」
と|賞《しょう》賛《さん》する。
観光に訪れるおのぼりさんから、それに類する言葉を、それこそ何万回と受けた彼女だったが、それでも言葉に詰まった。先からの|奇《き》妙《みょう》な感覚だけが、理由ではない。
「写真では|幾《いく》度《ど》も|拝《はい》見《けん》しましたが……いざ実見するとまた、別の|感《かん》嘆《たん》を抱かされますな。これだけの構造物を、|僅《わず》か四〇五日という短い工期で|建《けん》造《ぞう》してしまうとは。まさに|古《いにしえ》のバベル、バビロンにも並ぶ|偉《い》業《ぎょう》です」
熱っぽく語る、どうやら|壮《そう》齢《れい》らしき男の顔が、まるで|靄《もや》か蒸気でもかかっているかのようにぼやけ、ハッキリと見ることができなかったからである。目の前にいるというのに。
自分の頭の中までがぼやけてしまったかのように、あやふやな声で、受付の女性は返す。
「お、恐れ入り、ます」
男は気配だけで笑い、両 |掌《てのひら》を受付のカウンターに突いた。 なぜか、ガチャン、と金属のぶつかる音がする。
「このビルは、人間という生き物の底知れないパワー、建築という文明の壮大な営み、|双《そう》方《ほう》の確かな|証《あかし》として、|永《えい》劫《ごう》、記録に留められる[#「記録に留められる」に傍点]でしょう――」
いつしか男は、|朗《ろう》々《ろう》と大声を上げていた。
「――そして、新たな人間のパワーが次のビルを生み出し、営みは限りなく大きく、底なしに深く、果てもなく広がってゆくでしょう!!」
|唐《とう》突《とつ》に繰り広げられた演説に、係員の女性だけでなく、ホールにあった人々が皆、驚きと|奇《き》異《い》の視線を向け、また|僅《わず》かな|感《かん》嘆《たん》の声を混ぜる。
それら観衆のあることを大いに自覚した|風《ふう》に、男はクルリと|半《はん》回転し、ソフト|帽《ぼう》を取り、腰を折って一礼した。低い姿勢のまま、ゆっくりと受付を離れ、ホールの中央に向かう。
物好きな数名が、演説の熱意に比して寂しい拍手をパチパチと贈った。
男は|帽《ぼう》子《し》を|被《かぶ》り直すと、背を伸び上がらせ、両手を大きく広げる。
「人間たちよ――」
と、
男の周りに、明るいのか暗いのか分からない光が漏れていた。
すぐ蒸気になって消えてゆくその光は、|火《ひ》の|粉《こ》であるらしい。
「――私は、祝福します」
ボッ、と今度は明らかな発火音が、した。
|突《とつ》如《じょ》、男を中心とした輪を作るように、|鉛《なまり》色《いろ》の|炎《ほのお》が、暗く|昏《くら》く|閃《ひらめ》き走り、鈍く緩く広がりたゆたい、熱く厚く燃え上がった。
「見せなさい。この|灰《かい》燼《じん》の跡に、この|喪《そう》失《しつ》の先に、新たに塗り替える、世界を!!」
ホールに在る|誰《だれ》一人、眼前で起きている|事《じ》象《しょう》を理解できない。|不《ふ》思《し》議《ぎ》な男――|穿《せん》徹《てつ》の|洞《ほら》<Aナベルグが、蒸気の内から丸型メーターの顔を、|火《ひ》掻《か》き棒の手を、既に現していることにすら、気付けない。
騒ぐことも忘れ、展望台への観光客、オフィス勤めのビジネスマン、|幾《いく》人《にん》も詰めていた|警《けい》備《び》員、最初に接客した受付|嬢《じょう》、皆してその場で|呆《ぽう》然《ぜん》と、男の周りで踊る|炎《ほのお》を見つめている。
「さあ、我が『文明の加速』に|殉《じゅん》じなさい……エンパイア・ステート・ビル!!」
アナベルグの叫びに応じて、炎が|溢《あふ》れ出そうとした、
そのとき、
人間でない一人[#「人間でない一人」に傍点]が、理解し、気付き――|呟《つぶや》いた。
「|封《ふう》絶《ぜつ》」
|道《みち》端《ばた》、|空《あ》き家の|玄《げん》関《かん》口《ぐち》に座り込んでいた『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』ユーリイ・フヴォイカが、|自《じ》在《ざい》法《ほう》発現の気配を察して、顔を上げる。
「……始まった」
「みたい、ね」
腰にある短剣型の|神《じん》器《ぎ》ゴベルラ≠ゥら、|※[#「兀にょう+虫」、第4水準2-87-29]《き》蜴《えき》の|帥《すい》<Eァラクが短く答えた。
遠くミッドタウンに張られた、特大の|封《ふう》絶《ぜつ》が見える[#「見える」に傍点]。
その中で、どんな戦いが起こっているのか、ここからでは分からない。
ただ、戦いが始まったこと、それだけしか分からない。
「ユーリイ」
ウァラクが、ゆるりと口を開いた。
遠い|封《ふう》絶《ぜつ》を、なにかを|請《こ》うように見上げながら、少年は答える。
「なに?」
「なんで、バカ正直に答えたのよ」
「……さっきの、こと?」
少年の|脳《のう》裏《り》に、|尊《そん》敬《けい》するフレイムヘイズへと示した決意の声が|蘇《よみがえ》る。
(――「あのとき、誰も助けられなかった」――)
実のところ、それらの言葉は、初めて口にしたわけではなかった。
(――「今度くらいは、誰かを助けたいんです」――)
彼は一年前、この大陸に流れ着いて初めて出会ったフレイムヘイズ……『|星《せい》河《が》の|喚《よ》び|手《て》』イーストエッジに、全く同じ言葉を向けていたのだった。
(――「おまえの思いは、誰にも求められない。おまえの望みは、危険すぎる」――)
それが、少年の|真《しん》摯《し》な決意に対する、|偉《い》大《だい》な|討《う》ち手からの答えだった。
「フレイムヘイズ[#「フレイムヘイズ」に傍点]から、同じ答えを……拒絶をもらうことは、分かってたはずよ」
ウァラクの言うとおりだった。
「なのに、どうして?」
「分かってたよ……うん、分かってた」
ユーリイは|頷《うなず》いて、また見上げる。フレイムヘイズの戦場を。
「けど」
ポツリと、口にする。
「僕には、それが間違ってることだとは、どうしても思えないんだ」
ホテルのロビーからさらに外、数個|先《さき》の|区画《スクエア》まで広がる巨大な|封《ふう》絶《ぜつ》が、世界最高|峰《ほう》の|高《こう》層《そう》建築物、エンパイア・ステート・ビルを丸ごと飲み込んでいた。地面に大きく|紋《もん》章《しょう》を描く|火《か》線《せん》は、|陽炎《かげろう》のドームに|時《とき》折《おり》よぎる|炎《ほのお》は、再び|見《まみ》える|群《ぐん》青《じょう》色《いろ》。
「やれやれ、なんと|無《ぶ》粋《すい》な停滞[#「停滞」に傍点]を」
アナベルグは全てが静止する中で|呟《つぶや》き、自身の周囲から|溢《あふ》れ出しつつあった炎の|渦《うず》を、|幻《まばろし》のように消した。|封《ふう》絶《ぜつ》が張ってあっては、何の意味もない。改めて『文明の加速』を行うには、|封《ふう》絶《ぜつ》を張る者を倒すしかなかった。
そこに、声がかかる。
「|封《ふう》絶《ぜつ》も張らずに大暴れ?」
「ナリ[#「ナリ」に傍点]に|似《に》合《あ》わず、ギョーギが悪いじやねーか」
声の源へと、アナベルグは答えを返す。
「ふふ、趣味は人それぞれ、というやつですよ。我々|徒《ともがら》≠ナあれば、なおのこと……」
ガラスと銀色のフレームに群青を映す、|豪《ごう》勢《せい》な|玄《げん》関《かん》口《ぐち》に、女が|仁《に》王《おう》立《だ》ちしていた。
「進歩の舞台にようこそ、おいで下さいました。|蹂《じゅう》躙《りん》の|爪《そう》牙《が》<}ルコシアス殿、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドー殿」
呼ばれて、マージョリーは笑いかける。|愛想《あいそ》笑いではない。心の底からの、|獲《え》物《もの》に再会できた|猛《もう》獣《じゅう》の|喜《き》悦《えつ》たる笑いである。止まった周囲を見渡し、
「舞台、って割には寂しいわね。一人?」
「な、わけねーわな」
逆に真剣な声のマルコシアスが、|唸《うな》るように続ける。
『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』たる二人は、先から|奇《き》妙《みょう》な感覚の中にあった。
この付近、|何処《いずこ》かに|潜《ひそ》んでいるだろう、|護《ご》衛《えい》の|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイと、眼前にあるアナベルグの気配が、混じり合って|捉《とら》えきれないのである。最初にアナベルグと戦ったときは、自分たちが気配|遮《しゃ》断《だん》の|自《じ》在《ざい》法《ほう》を使っていたため、その気配を細かに感じることができなかったのだとばかり思っていた。
(それが、間違ってたってこと?)
(チッ、|意《い》外《がい》に|面《めん》倒《どう》な|野《や》郎《ろう》だな)
二人して、|土《ど》壇《たん》場《ば》での計算|違《ちが》いに|戸《と》惑《まど》う。もっとも、
(まあ、違ってたとしても)
(やることにゃ変わりはねえ!)
戸惑いはしても、恐れはしない。|躊躇《ためら》いもない。
「こんな寂しい舞台で|空《から》演《えん》説《ぜつ》ぶつより、私の招待を受けてくれない?」
「っ夜空で楽しく踊ろうぜ、ッヒャーッハーッ!!」
二人して笑い、跳びあがる間に、その全身が燃え上がった。
「おおっ!」
驚くアナベルグに向かって、 |弾《だん》丸《がん》のように飛んでくるそれ[#「それ」に傍点]は、 |群《ぐん》青《じょう》色《いろ》の|炎《ほのお》によって形作られた|寸《ずん》胴《どう》の|獣《けもの》――『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』の|纏《まと》う炎の衣トーガ≠セった。
|慌《あわ》てて足元から蒸気を|噴《ふん》射《しゃ》し、横っ飛びに逃げるアナベルグを無視するように、炎の獣となったマージョリーらはロビーの壁面、エンパイア・ステート・ビルのレリーフへと、正面からぶつかった。
と、
ぶつかった炎の衣が砕け、|幾《いく》百《ひゃく》もの|欠片《かけら》となって飛び散った。その破片が、周囲の床に壁に天井に、人に|観《かん》葉《よう》植物に|絨《じゅう》毯《たん》に燃え移り、体積を増して|渦《うず》巻《ま》いてゆく。
「むうっ!?」
アナベルグがよけた先、よけた後を追う間に、いつしか炎はエントランスホール全体に燃え移り――|翻《ほん》然《ぜん》、炎の|濁《だく》流《りゅう》と化して押し寄せた。
残された退路は、|唯《ただ》一つ。
ボン、と再び蒸気を|袖《そで》口《ぐち》から|噴《ふ》いて、アナベルグはその退路、ビルの|玄《げん》関《かん》口《ぐち》に向かって飛んだ。|一《いっ》旦《たん》、外の|石《いし》畳《だたみ》を踏んで、さらに足元から蒸気を噴射、上空へと逃れる。
|間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》、その後をロビーから|溢《あふ》れた群青色の炎の|雪崩《なだれ》が|襲《おそ》い、通り過ぎた。
「ふう。フレイムヘイズは人間の|抜《ぬ》け|殻《がら》、と言いましたが……訂正しなければならないようですね。その抜け殻に、危険と殺意を詰め込んである。|価《か》値《ち》がない以上の、|害《がい》毒《どく》でしかない」
|率《そっ》直《ちょく》な|賛《さん》辞《じ》とともに、メーターの顔を持つ|徒《ともがら》≠ヘエンパイア・ステート・ビルの直線的過ぎる壁面へと、真横に着地した[#「真横に着地した」に傍点]。
眼下に溢れた炎は、やがて渦を巻いて|凝《ぎょう》縮《しゅく》し、再び炎の獣の形となる。
その立てた|枕《まくら》のような、しかし|凶《きょう》暴《ぼう》な|牙《きば》を|剥《む》き出して|唸《うな》るトーガに向けて、アナベルグはガッチャンガッチャンと、|火《ひ》掻《か》き棒のような手で拍手する。
「さすがは世に知られた|自《じ》在《ざい》師《し》、|多《た》彩《さい》高度な力ですな。私など、ほとんど一つの特性のみしか扱えま――」
せん、とまでは言わせてもらえなかった。
トーガの獣が、|熊《くま》よりも長く太い両腕を大きく振り上げ、その先から|幾《いく》重《え》もの|炎《えん》弾《だん》を、まるで先の世界大戦で登場した|機《き》関《かん》銃《じゅう》のように、|釣瓶《つるべ》撃《う》ちに放ってきていた。
アナベルグが壁面を垂直に走って逃げる、その後に|炎《えん》弾《だん》は次々と|着《ちゃく》弾《だん》して、コンクリートとガラスの大雨を降らす。
その、人間に当たれば|即《そく》死《し》さえする破片と|瓦《が》礫《れき》からなる|大《おお》嵐《あらし》の中を、トーガの|獣《けもの》は全く意に|介《かい》せず高速で上昇、|討《とう》滅《めつ》すべき敵の後を追う。
「私の特性は、見ての通りの、っと!」
蒸気を|噴《ふ》いてアナベルグの避けた後を、手品のように伸びた腕が|掠《かす》める。
「全てをぼやかす蒸気、っでして!」
転がるように、弱い力しか持たない|徒《ともがら》≠ヘ壁面を駆け上がってゆく。
「幸いなことに、この蒸気は広がり薄まっても、ある程度の|広《こう》範《はん》囲《い》に効果を及ぼすのです。そして、ぼやかす対象は、ご|存《ぞん》知《じ》のはず――」
これを|猛《もう》然《ぜん》と追うトーガの獣は、炎弾を放つ|傍《かたわ》ら、大きく息を吸い、腹を|膨《ふく》らませた。|火《か》炎《えん》放射の|予《よ》備《び》動作である。
「――気配、です!」
言ってアナベルグの避けた向こう、既に迫っていたエンパイア・ステート・ビルの頂部が見えた。針のような|尖《せん》塔《とう》、その|先《せん》端《たん》にある飛行船を|繋《けい》留《りゅう》するためのマスト(名ばかりのもので、実際に繋留しょうとして|大《だい》失敗している)が、|陽炎《かけろう》のドームを刺すように伸びている。
(これが、この弱っちい|徒《ともがら》≠フ)
それを何気なく見たトーガの中のマージョリーは、
(手品のタネか!!)
マストの|頂《いただき》に、アナベルグと混じり合った気配を感じていながら、今まで位置を特定できなかった|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイが立っているのを―― |無《む》造《ぞう》作《さ》に飛び降りてくるのを―― 体の|輪《りん》郭《かく》が膨れ上がるのを―― |虎《とら》とも|獅《し》子《し》ともつかない|有《ゆう》翼《よく》有《ゆう》角《かく》の化け物となるのを―― その|鉤《かぎ》爪《づめ》が眼前に迫ってくるのを―― 見た。
「|美《び》貌《ぼう》は、|隠《かく》すものではないだろう!?」
平然と言って、|怪《かい》物《ぶつ》に変じたシュドナイはトーガの獣を引き裂いた。
ユーリイは、|道《みち》端《ばた》に立って、|封《ふう》絶《ぜつ》を遠く見つめていた。
「間違ってない、ねえ」
「うん。例え他の人たちがどうであっても、それが僕にとっての、『フレイムヘイズとして|此処《ここ》に在る理由』だと思えるんだ」
ウァラクに答える顔には、強い決意の色があった。
「皆の|留守《るす》を狙って、このニューヨークに|徒《ともがら》≠ェ来たんだ」
「そりゃ、来るでしょうね」
腰で、短剣の|鯉《こい》口《ぐち》が、ガチンと鳴る。
その動作の重さを感じて、ユーリイは|呟《つぶや》く。
「イーストエッジさんは、動けない」
「そういう、立場だもの」
また、ガチンと鳴る。
また、返して呟く。
「今、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』さんが戦ってる」
「それが、彼女の使命よ」
さらに、ガチンと鳴る。
今度は、|即《そく》答《とう》しない。
「……」
言われたことを考えて、
自分のことを考えて、
そして、それでも、はっきりと言う。
「助けられるのは僕だけなんだ[#「助けられるのは僕だけなんだ」に傍点]」
「……危険|視《し》されたことを、そのまん言うなんて、いい|度《ど》胸《きょう》してるわねえ」
フレイムヘイズ本来の使命とユーリイの目指すものとの間には、明らかな|齟《そ》齬《ご》と|乖《かい》離《り》があった。|異《い》能《のう》の|討《う》ち手たちは、正義の味方ではない。世界のバランスを保つため|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠|討《とう》|滅《めつ》する、それだけを|唯《ゆい》一《いつ》の目的とする存在である。人助けは結果であり、目的ではない。
(なんだけど、ねえ……)
ウァラクは、短剣の身を小さくカチャカチャと震わせた。笑っている。
「ホント、変な子と契約しちゃったもんだわ」
「ごめん、ウァラク」
素直に頭を下げる少年には、常のフレイムヘイズのような|貫《かん》禄《ろく》は|欠片《かけら》もない。しかし、また|慌《あわ》ててかけ直す|眼鏡《めがね》の奥、おっとりした|双《そう》眸《ぼう》には、決意の力が満ちている。もう、|譲《ゆず》る気はないらしかった。
「ごめん、で済むわけないでしょ、このスカタン」
いつものように気だるそうに言い、
「でも、ま」
やはり気だるい声を、継ぎ足す。
「|復《ふく》讐《しゅう》鬼《き》の行く先ってのは正直、|見《み》飽《あ》きちゃってんのよね」
「えっ?」
「たまには、別のケース[#「別のケース」に傍点]を見届けるのも、悪くはないかも」
「いいのかい、ウァラク!?」
少年の顔が、喜びに輝いた。
その|無《む》邪《じゃ》気《き》さに|釘《くぎ》を刺すように、ウァラクは言う。
「最後に一つだけ、確認させて。イーストエッジは、あんたの心構えや他人にかける|迷《めい》惑《わく》だけを、心配してたわけじゃない、ってことは?」
もちろん、ユーリイには分かっていた。
「……」
あの無表情な、怒るときも|諭《さと》すときも、笑うときでさえ表情をほとんど変えない、|偉《い》大《だい》な|討《う》ち手が、自分を戦いに出さなかった理由の、|使《し》命《めい》以外の部分での、大きな一つ――命の心配。それは他でもない、彼の|慈《いつく》しみ。それを思ってなお、決意は揺るがない。
「……戦うんだ、分かってるよ」
「なら、いいわ」
ウァラクも軽く流し、戦いにおける注意を始める。
「で、助けに入るのは|結《けっ》構《こう》だけど、|封《ふう》絶《ぜつ》内部の状況が分からなきゃ、かえって足を――」
「大丈夫」
少年は、今度は一人の、|異《い》能《のう》の討ち手として笑った。
「たった今、支配しておいた|蜥蜴《とかげ》を三匹ほど、中に|潜《もぐ》らせて|監《かん》視《し》し始めたところだよ。まだ|自《じ》在《ざい》に数千数万を|操《あやつ》る『|隷《れい》群《ぐん》』には|程《ほど》遠《とお》いけど、これくらいなら、なんとか」
|相《あい》棒《ぼう》に|披《ひ》瀝《れき》して見せたそれは、『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』の持つ力、周囲に在る小動物を使い|魔《ま》として操る『|隷《れい》群《ぐん》』の|一《いっ》端《たん》だった。
「あっ、あんた、さっきからじっとしてたのは……!」
してやられたことに気付き|絶《ぜっ》句《く》する|※[#「兀にょう+虫」、第4水準2-87-29]《き》蜴《えき》の|帥《すい》<Eァラクに、フレイムヘイズ『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』ユーリイ・フヴォイカは言う。
「あのときみたいに、飛ぶよ」
静かに、宣言する。
「そして、今度こそ助ける」
|鉤《かぎ》爪《づめ》によって引き裂かれたトーガの|獣《けもの》が、その|傷《きず》口《ぐち》に沿ってパックリと分かれた。
「!?」
|虎《とら》とも|獅《し》子《し》ともつかない|様《よう》相《そう》を驚きに|歪《ゆが》めるシュドナイ、その周囲に、分かれた数だけのトーガが出現していた。それらは|摩《ま》天《てん》楼《ろう》の風に揺られ、またすれ違う間に数を増す。
いつしか、空に留まるシュドナイと、ビルの壁面に立つアナベルグを、無数のトーガの獣たちが取り囲んでいた。
「パンチとジュディのパイ取り|合《がっ》戦《せん》!」
トーガ全体から、マージョリーの歌声が|響《ひび》き渡る。
「パンチはジュディの目に一発!」
さらに続けて、マルコシアスの歌声が風に混じる。
アナベルグはメーターの首でクルクルと、異常な光景を見回した。
「これは!?」
「……『|屠《と》殺《さつ》の|即《そっ》興《きょう》詩《し》』か!」
シュドナイが叫び、|蝙蝠《こうもり》の|翼《つばさ》を|一《ひと》打《う》ち、依頼主の元へと急行する。
フレイムヘイズ『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』による、|自《じ》在《ざい》法《ほう》発現の|予《よ》備《び》動作、『|屠《と》殺《さつ》の|即《そっ》興《きょう》詩《し》』。
本来ならば、式の|構《こう》築《ちく》や力の配分|等《など》、|繊《せん》細《さい》複雑な作業を必要とする大掛かりな自在法を、即興の歌を口ずさむだけで発現させるという、恐るべき技能、殺し屋たるの|所以《ゆえん》だった。
そのマージョリーの声と、
「パンチが|曰《いわ》く、もひとついかが!?」
最後にマルコシアスの声で、
「ジュディが曰く、もうケッコー!!」
空にあったトーガの|獣《けもの》が|一《いっ》斉《せい》に|弾《はじ》けた。|猛《もう》烈《れつ》な|炎《ほのお》が|爆《ばく》圧《あつ》を伴い空を|迸《ほとばし》り、ビルの上層|階《かい》が|撓《たわ》んで砕け、|先《せん》端《たん》のマストと|尖《せん》塔《とう》が|粉《こな》々《ごな》に吹き飛ぶ。
ガラスを|溶《よう》解《かい》させるほどの|壮《そう》絶《ぜつ》な熱量が残したものは、|濛《もう》々《もう》と上がる|白《はく》煙《えん》と、|頂《ちょう》部《ぶ》に見るも|無《む》残《ざん》な|半《はん》壊《かい》の|様《さま》を現すエンパイア・ステート・ビル。
そして、砕けたビルの壁面に埋まる、|奇《き》妙《みょう》な物体。
宙に一つだけ残されていたトーガの獣の中で、
「ん……?」
「は、はあ」
マージョリーが|怪《け》訝《げん》に|眺《なが》め、マルコシアスが理解したそれは、まるで二匹の|亀《かめ》を腹でくっつけたかのような、人を|丸《まる》々《まる》二人入れられるほどの大きさの、球体|状《じょう》の|甲《こう》羅《ら》だった。シュドナイの|防《ぼう》御《ぎょ》体勢らしい。
「さすがは|千《せん》変《ぺん》=Aなんでもありね」
「丸焼きが嫌で|壺《つぼ》焼《や》きになった、ってか、ヒャーハハッ!」
と、その甲羅の中から、くぐもった返事が。
「いやはや、本当にお見事です。『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドー」
アナベルグの声だった。
「しかし、どうせなら|封《ふう》絶《ぜつ》を張らずに壊して頂きたいものですな。せっかくの破壊力が、もったいない[#「もったいない」に傍点]ではありませんか」
「……あんた、やっぱり、このビルを」
「|封《ふう》絶《ぜつ》もなしに、ブチッ壊すつもりだったってのか」
マージョリーとマルコシアスは|剣《けん》呑《のん》な声で、確認する。
|甲《こう》羅《ら》の中からの声は、聴衆に|漲《みなぎ》る|怒《ど》気《き》を知ってか知らずか、
「もちろん、すでにお聞かせした通り――これぞ『文明の加速』!」
|悦《よろこ》びに高まり、大きく|反《はん》響《きょう》した。
「素晴らしいとはお思いになりませんか、この|聳《そび》え立つ|摩《ま》天《てん》楼《ろう》! 人間の力、世界の在り|様《よう》すら変える文明の力を! この、無いものを目指し、失って補う、という形で|育《はぐく》まれてきた|偉《い》大《だい》な力の先を、もっと見たい、自分の力で引き寄せたい、とは思われませんか?」
ようやく『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』たる二人は、 この|怪《かい》人《じん》の目的―― 否、手段[#「手段」に傍点]への確信を得た。得て、|憤《ふん》激《げき》を覚える。
「だから、私は与えるのです……|炎《ほのお》による|喪《そう》失《しつ》を、次なる変化に向かう人間たちへの祝福として。そうすれば、焼け跡から、今を超える力が|芽《め》吹《ぶ》く。世界の在り様を変える文明の力が、私の手で、私の力で、私の炎で――変わる! なんという|悦《えつ》楽《らく》、なんという|快《かい》美《び》感《かん》!!」
|興《こう》奮《ふん》も|絶《ぜっ》頂《ちょう》な声に、トーガの|獣《けもの》は並ぶ|牙《きば》をジャリン、と鳴らした。中からマージョリーが、|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》さを音にしたような声で、眼前で閉じ|籠《こも》る人間の敵[#「人間の敵」に傍点]に向かって言う。
「ふん、大した理論|武《ぶ》装《そう》の|放《ほう》火《か》魔《ま》ね」
「言葉だきゃあ、|大《おお》仰《ぎょう》だがな。こりゃ|傑《けっ》作《さく》だ、ハハ、ヒーッヒッヒッヒ!!」
同じく、言葉だけで笑うマルコシアスに、|落《らく》胆《たん》の|溜《ため》息《いき》が漏れる。
「ふう、む……やはり、人間であることを捨てた、広がりを持ち得ない|抜《ぬ》け|殻《がら》には、この|偉《い》業《ぎょう》の|価《か》値《ち》は理解できませんか」
トーガの獣は答えるついでに、口を開けた。
「こっちは抜け殻、そっちは消し炭、どっちが|酷《ひど》いのかしらね」
メラメラと揺れ動く|群《ぐん》青《じょう》色《いろ》の炎が、中から|覗《のぞ》く。
「ほいじゃま、そろそろ、|壺《つぼ》ごと|程《ほど》よくとろかして――」
「上!!」
「!?」
マージョリーは、突然|届《とど》いた、聞き覚えのある少年の声から、
声に込められた危機感から、反射的に宙にある身を|逸《そ》らした。
「――っ」
ゴシャッ、と硬いもの柔らかいものが引き裂かれる音が、その耳元を|掠《かす》める。
「――っぐ、あ!?」
真上から来たなにかが、|凄《すさ》まじい勢いで脇を突き抜けていった。
|群《ぐん》青《じょう》の|炎《ほのお》で編まれた|頑《がん》健《けん》な|鎧《よろい》たるトーガを|容易《たやす》く|半《はん》壊《かい》させ、中にあったマージョリーの本体、右肩から|脇《わき》腹《ばら》を|挟《えぐ》り引き裂いたそれは、下方で|翼《つばさ》を開き、|滞《たい》空《くう》する。
「マージョリー!? くそっ!」
マルコシアスが驚き見やったそれは、|紛《まご》うことなき|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイ。先の|虎《とら》とも|獅《し》子《し》ともつかない|異《い》形《ぎょう》の、|脳《のう》天《てん》から背中までに、まるで|衝《しょう》角《かく》の|如《ごと》き巨大な一本|角《つの》を|生《は》やしている。
そのシュドナイは、やや不快げに|目《め》線《せん》を下方にやり、
「|要《い》らぬ|邪《じゃ》魔《ま》を――ッゴアア!」
一発、|炎《えん》弾《だん》を口から吐き出した。
ビルの壁面にへばりついていた|蜥蜴《とかけ》、遠くにある少年フレイムヘイズの声を伝え、マージョリーの命を救った使い|魔《ま》、『|隷《れい》群《ぐん》』の一匹が、|瞬《しゅん》時《じ》に|爆《ばく》砕《さい》される。
「惜しかったですな」
中からの声を合図に、球形の|甲《こう》羅《ら》が|濁《にご》った|紫《むらさき》の|火《ひ》の|粉《こ》となって散った。その後には、ソフト|帽《ぼう》にコートの|怪《かい》人《じん》、アナベルグ一人だけが残される。
(しま、った……)
(体を切り離してやがったのか!)
『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』は、自分たちがまんまと敵の策にはまっていたことを知る。
シュドナイは、アナベルグの蒸気によって起きる気配の|混《こん》淆《こう》に乗じて、自身の一部だけを依頼者の守りに残し、本体を遠く上空に逃がしていたのである。そうして、眼前に彼が在ると|誤《ご》|認《にん》させたマージョリーを、|猛《もう》烈《れつ》な速度による完全な|不《ふ》意《い》打《う》ちで|一《いち》撃《げき》必《ひっ》殺《さつ》する、はずだった。
|妙《みょう》な|蜥蜴《とかげ》の介入さえなければ。
その|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》さを|獣《じゅう》面《めん》の内に|隠《かく》して、シュドナイは依頼人に答える。
「なに、構わんさ。予定が少々、ずれ込んだだけだ」
答えて、|虎《とら》の顔を|嘲《ちょう》笑《しょう》で|歪《ゆが》めた。
肩から|脇《わき》腹《ばら》を|一《いっ》線《せん》引き裂く|深《ふか》手《で》を受け、血みどろになったマージョリーは、宙に浮かぶグリモア≠フ上で|片《かた》膝《ひざ》を着くという……もはや敵ではない、|獲《え》物《もの》としての姿を、|徒《ともがら》≠スちの目に|晒《さら》していた。
エンパイア・ステート・ビルを中心とした|封《ふう》絶《ぜつ》の、すぐ外側。
五番街とブロードウェイの交差路に建つ、鋭角な三角型のフラット・ライアン・ビル屋上に、ユーリイは立っていた。望んで、しかし望んでいなかった今の状況で、
(僕が助けないと、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』さんは死んでしまう)
自分を必死に|焚《た》き付ける|傍《かたわ》ら、右手で|動《どう》悸《き》激しい胸を押さえる。
「さっきの、|伝《でん》声《せい》で|警《けい》戒《かい》されたろうから……もう『|隷《れい》群《ぐん》』は近づけないだろうね」
左手では、腰に差した短剣型の|神《じん》器《ぎ》ゴベルラ≠フ|柄《つか》を、|掴《つか》んでいる。
「そーね。でも、それは同時に、狙いどころでもあるわ。あれで終わり、って|油《ゆ》断《だん》してくれれば、今からの本命[#「本命」に傍点]を、まともに食らってくれる」
そこから|響《ひび》くのは、今までとは打って変わって真剣な、ウァラクの声。
「改めて、おさらいよ。私たちの『|隷《れい》群《ぐん》』、本来の特性は、数多くの使い|魔《ま》を力の|奔《ほん》流《りゅう》に変えて、これを|自《じ》在《ざい》に操作すること。でも、あんたにはまだ、それだけの技量はない」
「うん」
ユーリイは|率《そっ》直《ちょく》に自分の実力を認め、|頷《うなず》く。
「だから大して技量の必要ない、乱暴な|突《とつ》撃《げき》だけを行う」
「うん」
また頷いて、|徐《おもむろ》にゴベルラ≠抜く。
「乱暴だけど、あんたの全力を|注《そそ》ぎ込む、|強《きょう》烈《れつ》な一撃よ。|遠《えん》慮《りょ》なく、食らわせてやんなさい」
「うん」
さらに頷いて、夜景を|仄《ほの》かに宿す|刀《とう》身《しん》を、前にかざす。胸に添えていた手も加え、両手で真正面に、短剣を突き出す姿勢となる。
「狙いは、定まってるわね?」
「うん。残り二匹の蜥蜴で、遠くから計測してる。大丈夫、訓練と同じだ……外さない」
いつしか表情の|強《こわ》張《ば》りは|覚《かく》悟《ご》の|厳《いか》めしさに変わる。
ボッ、と全身を|丹《に》色《いろ》の光が薄い|輪《りん》郭《かく》として包んだ。
かつての『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』たちは、この光の下、無数の『|隷《れい》群《ぐん》』を巨大な|竜《たつ》巻《まき》として立ち昇らせたという。しかし、今の彼にできるのは、その、ほんの小さな|真似《まね》事《ごと》だけ。
|異《い》能《のう》の力に|惹《ひ》かれ、夜のマンハッタンで、誰も気付かない移動が始まる。
街灯に引き寄せられていた夜の虫たちが、明かりの元から離れてゆく。様々な、無数の、統制にさほどの力を要しない生き物たちが、一人の少年の|纏《まと》う光の元へと、集ってゆく。
それはやがて大きな輪となり、中心に引き込まれて|渦《うず》となり、|収《しゅう》束《そく》して竜巻となる。
人一人を包むサイズの、高速で渦巻く無数の虫たちを巻き込み力とする、丹色の竜巻。
「僕は、飛ぶ」
「それが、|誓《ちか》い」
二人で一つの『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』は、
「僕は、戦う」
「選んだのは、あんた」
かつての誓いを再び交わして、夜を飛ぶ。
かつて抱いた思いを再び胸の中で叫び、
(上に、向かう、力を――!!)
望み、見上げる短剣を突きつける。
|封《ふう》絶《ぜつ》の中に|聳《そび》える、|摩《ま》天《てん》楼《ろう》へと。
|翼《つばさ》をはためかせて、シュドナイは再びマージョリーの頭上を取った。
今度は、周囲にあの|小《こ》賢《ざか》しい|蜥蜴《とかげ》が存在しないか、|一《いち》望《ぼう》して確かめる。
(ちっ、気配を|掴《つか》みにくい、が……まずは、こいつだ)
宙に浮かぶグリモア≠フ上に|膝《ひざ》を着く|美《び》麗《れい》の女は、傷ついてなお……否、傷ついたその姿により改めて、大きな|感《かん》銘《めい》を見る者に与える。
「引き裂き散り行く花は……どれほどの|可《か》憐《れん》さで、目を楽しませてくれるのかな?」
そんな殺しの|賛《さん》辞《じ》に、
「――ペッ」
と血混じりの|唾《だ》棄《き》を返礼に受け取ると、
「ふっ」
シュドナイは笑って翼を縮め、降下を始めた。
|蹲《うずくま》る女を|一《いち》撃《げき》、引き裂き|叩《たた》き|潰《つぶ》すべく、腕を振り上げる。
(終わり、だ!!)
思った瞬間、
腹部が、吹っ飛んでいた。
「な」
状況を理解できない|僅《わず》かな時を経て、
「にいっ!?」
シュドナイは痛みよりも、まず驚きから叫んでいた。自分が、|猛《もう》烈《れつ》な速度を持つ巨大な|弾《だん》丸《がん》のようなもので|貫《つらぬ》かれ、上、下半身が引き|千《ち》切《ぎ》られたことに気付く。
「っぐ」
自分を貫いた|丹《に》色《いろ》の弾丸は、|封《ふう》絶《ぜつ》の外から|飛《ひ》来《らい》したらしい。それは巨大な|陽炎《かげろう》のドームの|壁《かべ》|際《ぎわ》で急速ターンし、引き返してくる。
(速い……さっきの使い|魔《ま》の|主《あるじ》か!)
シュドナイは急ぎ、上半身の断面から無数の|蛇《へび》を伸ばし、下半身に結合させた。やけに|大《おお》雑《ざっ》把《ぱ》な構成の、しかしそれなりに強力な|自《じ》在《ざい》法《ほう》を迎え撃つべく、|炎《えん》弾《だん》を腹の中で練る。
と、
その眼前、空中で数十個、立て続けに爆発が起こった。
(これは!?)
腕で顔をかばったシュドナイは、爆発そのものではなく、輝く色に|戦《せん》慄《りつ》した。
|群《ぐん》青《じょう》。
(まだ、これだけの力を残していただと!?)
並みのフレイムヘイズなら、|致《ち》命《めい》傷《しょう》という|深《ふか》手《で》を与えたはずである。
だが、
そう、
『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーは、並みのフレイムヘイズではなかった。
|封《ふう》絶《ぜつ》の空をUターンしてシュドナイを狙っていた丹色の弾丸、『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』ユーリイ・フヴォイカは、|突《とつ》然《ぜん》前方に|閃《ひらめ》いた無数の爆発を見て、再び|軌《き》道《どう》を変えた。
その正面に、グリモア≠ェ。
「っわ!?」
「止まるな!」
マージョリーは鋭く叫んで身を|翻《ひるがえ》し、少年の|隣《となり》を高速で|併《へい》進《しん》する。
救援への、一片の|謝《しゃ》辞《じ》すらない。右腕もだらりと垂れ下がった、|鮮《せん》血《けつ》を振り|撒《ま》く重傷の身には、その|極《きょく》限《げん》状態であればこその、煮え|滾《たぎ》るような|執《しゅう》念《ねん》だけが|漲《みなぎ》っていた。
|怯《ひる》みや恐れは、見せない。見せれば、死ぬからである。それらの感情を持たない、と見る者に思わせる。思わさねば、殺されるからである。
この、フレイムヘイズという存在を、今まさに|目《ま》の当たりにした少年の、
「傷が――」
分かってなお、口にしかけた|気《き》遣《づか》いを、
「役割|分《ぶん》担《たん》、相手は分かってるわね!!」
フレイムヘイズは、|咆《ほう》哮《こう》のような|怒《ど》声《せい》で|遮《さえぎ》った。
怒声を発した口は、|凶《きょう》暴《ぼう》な殺意を漲らせ、笑っている。
笑いが、再び|湧《わ》き起こった|群《ぐん》青《じょう》の|炎《ほのお》、トーガの内に|隠《かく》れた。
なにを言うにも、なにをするにも、まず敵を|討《う》ち果たしてから。
そんな存在たるの表明[#「存在たるの表明」に傍点]を指示として受け――ユーリイは、また飛ぶ。
あまりに|唐《とう》突《とつ》過ぎる状況の変化に、アナベルグは付いてゆけない。
「い、いったいなにが……?」
ビルの壁面に立って、メーターの針を|忙《せわ》しなく揺らして|戸《と》惑《まど》う。
その彼の元に、|丹《に》色《いろ》の光を|撒《ま》いてユーリイが飛び込んでくる。
「お、おっ!?」
|咄《とっ》嗟《さ》に蒸気を|噴《ふん》射《しゃ》して、アナベルグはこれを避けた。
(しまった、|新《あら》手《て》のフレイムヘイズか!)
|心《しん》中《ちゅう》、大いに焦る。
実は、彼の持つ特性、気配や|認《にん》識《しき》をぼやかす蒸気の効果は、自分たち|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠セけに作用するものではない。|仇《きゅう》敵《てき》たるフレイムヘイズらにも同様に効果を|齎《もたら》す、|諸《もろ》刃《は》の剣だった。その|来《らい》襲《しゅう》を事前に|察《さっ》知《ち》することは不可能……でなければ、いかに高速とはいえ、あの|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイがみすみす|不《ふ》意《い》打《う》ちなど受けようはずもない。
この|自《じ》在《ざい》法《ほう》の|難《なん》点《てん》ゆえに、彼は|敵《てき》味方が入り混じらない状況、つまりフレイムヘイズが|欧《おう》州《しゅう》に|集《しゅう》結《けつ》する|隙《すき》を突いてニューヨークへと現れたのである。散発的に現れる敵には、マージョリーとの戦いのように、シュドナイと同じ場所に在ることで|対《たい》処《しょ》する。
しかし、
(いかん、計算|違《ちが》いだ!)
この新たな、しかもシュドナイを|一《いち》撃《げき》で|叩《たた》き落とすような|強《つわ》者《もの》(と彼は思った)の乱入は、彼にとっては予想外の事態だった。|慌《あわ》てて、
「|千《せん》――!!」
呼びかけようとした彼の真正面に、|丹《に》色《いろ》の|弾《だん》丸《がん》が、少年の|雄叫《おたけ》びが、飛び込んでくる。
「やっと――」
「う」
反射的に蒸気を|噴《ふん》射《しゃ》して|回《かい》避《ひ》しようとするが、間に合わない。
「――捕らえた!!」
「があっ!?」
弾丸を形成する丹色の|奔《ほん》流《りゅう》に巻き込まれた左腕が、根こそぎ|※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ取られた。飛び散る金属らしき破片の舞う間も|僅《わず》か、腕はトレンチコートの|袖《そで》ごと|鉛《なまり》色《いろ》に燃え果て、消える。
その上から、一歩遅かった|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイが、
「|貴《き》様《さま》――!!」
|襲《おそ》い掛かろうとする、さらにその|脳《のう》天《てん》へと、
「あんたの相手は」
トーガの|獣《けもの》が、両腕をハンマーのように組んで|叩《たた》きつけた。
「っ私、よ!!」
叫びを力に変えた打撃のまま、シュドナイを|強《ごう》引《いん》に、エンパイア・ステート・ビルの壁画に押し付け砕きながら降下する。
「ぬ、ぐ、おおおおおおおおおおおおおおお!?」
|異《い》形《ぎょう》の|怪《かい》物《ぶつ》は、コンクリートと鉄骨とガラスを八十六階、全長三八一メートル分、|凄《すさ》まじい圧力を持って叩きつけられ続けた[#「叩きつけられ続けた」に傍点]。ガレキが|肉《にく》片《へん》が|火《ひ》の|粉《こ》が|弾《はじ》け飛び、|群《ぐん》青《じょう》と|濁《にご》った|紫《むらさき》は、混じり合い|縺《もつ》れ合いしながら、遥か下方へと、落ちた。
それを割れたメーターに映す、孤立|無《む》援《えん》のアナベルグは、
「今さら、|邪《じゃ》魔《ま》立《だ》てを……フレイムヘイズ!!」
今までにない、|怒《ど》気《き》を含んだ叫びを上げて、両足から蒸気を噴射した。
|封《ふう》絶《ぜつ》の中を大回りに戻ってくる丹色の弾丸へと|無《む》謀《ぼう》とも思える突進を行い、その接触|寸《すん》前《ぜん》、※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]ぎ取られた肩口から蒸気を吐き出して|回《かい》避《ひ》する。同時に、スレスレに過ぎ行く破壊力の|塊《かたまり》へと、残った右腕を振り向けて|炎《えん》弾《だん》を|連《れん》射《しゃ》する。
ドドドッ、と空に|轟《とどろ》く|炸《さく》裂《れつ》音、宙に|膨《ふく》れ上がる鉛色の|爆《ばく》炎《えん》、二つを正反対の方向に破って|双《そう》|方《ほう》、|擦《す》れ違う。
「カ、ハッ!」
|至《し》近《きん》での、ほとんど捨て身の攻撃を行ったアナベルグは、蒸気の勢いですっ飛びながら、鉛色の息を吐き出した。
一方のユーリイは、
「く、|仕《し》留《と》め|損《そこ》なった!」
自身の|纏《まと》う|攻《こう》防《ぼう》一体の力、丹色の|竜《たつ》巻《まき》とも見える『|隷《れい》群《ぐん》』に包まれていたため、立て続けの|炎《えん》弾《だん》にも、全くダメージを受けていない。ただし、
(やっぱり、キツいか)
彼の内に在り、また|突《とつ》撃《げき》の|先《せん》端《たん》でかざされた短剣ゴベルラ≠ノ意思を表すウァラクは、少年が、どんどん|消《しょう》耗《もう》してゆくことを感じて焦る。
この一年、ユーリイはイーストエッジの指導の元、|自《じ》在《ざい》法《ほう》を効率的に使う訓練を、毎日欠かさず行ってきた……が、契約|以《い》来《らい》初めてとなる本格的な戦闘への|緊《きん》張《ちょう》、上がりすぎたモチベーションが、持てる力を|無《む》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》なペースで吐き出させている。
(あまり長くは持たない)
分かっていたことを改めて|認《にん》識《しき》し直すと、ウァラクは愛すべき契約者を|焚《た》き付ける。
「ああいう変則的な力を持った|奴《やつ》は、|細《さい》工《く》をさせる前に、速攻で片付けるのよ!」
「うん!」
ユーリイは答え、後方から|斉《せい》射《しゃ》される|追《つい》撃《げき》の炎弾をかわしながら、|丹《に》色《いろ》の|弾《だん》丸《がん》の|軌《き》道《どう》を曲げる。その敵の浮遊する|座《ざ》標《ひょう》を、離れた位置から『|隷《れい》群《ぐん》』の一部たる|蜥蜴《とかげ》で|捉《とら》え、
(すごい、力だ――もっと、|上手《うま》く使えれば、もっと、たくさんの人を――)
もっと楽に、とは考えず、自身の得た『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』の力を、存分に[#「存分に」に傍点]振るう。スタミナが無限でないことは|重《じゅう》 々《じゅう》 理解し、実感もしていたが、それでも抑えられない。技巧からの意味ではなく、心が、抑えを利かなくしていた。
「行く、ぞ!!」
丹色の弾丸が|径《けい》を縮めて|収《しゅう》束《そく》、破壊力を増す。
描かれるカーブの行き先を知ったウァラクは、
「ど、どうする――、っ!!」
驚く間に、少年の狙いを察して、息を呑んだ。
その後方、|封《ふう》絶《ぜつ》の空に輝く|軌《き》跡《せき》を、アナベルグは蒸気の|噴《ふん》射《しゃ》で追う。
(若い、|討《う》ち手だったか)
彼も、それなりにフレイムヘイズとの|交《こう》戦《せん》経験を持っている。ユーリイの戦い振りから、ようやく敵が|強《つわ》者《もの》などではない、|素人《しろうと》同然の|新《しん》米《まい》であると見抜いていた。
(ただ|逸《はや》り|猛《たけ》って、|不《ぶ》器《き》用《よう》に力を|撒《ま》き散らすだけという相手なら、むしろ組し|易《やす》い……攻撃をかわし、いなして、消耗を待てばよろしい)
いかに速いとはいえ、|不《ふ》意《い》打《う》ちでさえなければ、そうそう攻撃を受けたりはしない。ターンして向かって来ても、大きく|回《かい》避《ひ》しながら|逐《ちく》次《じ》、炎弾をお見舞いするだけのことである。
(あの技、恐らく中からの攻撃はできない……|一《いち》撃《げき》でしとめられなかったのは、敵ながら手抜かりと言う他ありませんね、ふ、ふ)
左腕を失った痛みを怒りの微笑に変え、逃げる丹色の弾丸に次々と|鉛《なまり》色《いろ》の炎弾を|撃《う》ち込む。かわされているようだが、実のところ、それも先刻から張っている|罠《わな》の|一《いっ》環《かん》だった。
(不用意な|反《はん》転《てん》攻勢をかけてきたときこそが、|勝《しょう》機《き》)
二度目の接触で|自《じ》爆《ばく》寸《すん》前《ぜん》、|擦《す》れ違い|様《ざま》の攻撃をかけたのは、|炎《えん》弾《だん》をとにかく|命《めい》中《ちゅう》させるためだった。それから以降、後方から同様に炎弾を放っているが、全てかわされている。
それで、いいのだった。
この、命中イコール爆発、という確信を無意識に抱かせ、不用意な|突《とつ》撃《げき》をかけてきたところで、立て続けに外れそうな[#「外れそうな」に傍点]|釣瓶《つるべ》撃《う》ちを行う。そうして、|隠《かく》し技たる『炎弾の|任《にん》意《い》爆発』によって、外れたと思わせた炎弾を、周囲で|一《いっ》斉《せい》に|起《き》爆《ばく》させる……!!
(いかにあの|自《じ》在《ざい》法《ほう》が|頑《がん》丈《じょう》に維持されていたとしても、|不《ふ》意《い》に起きた全周からの|大《だい》爆発を耐えるためには、相当な力を|消《しょう》耗《もう》せずにはいられますまい――ふ、ふ!)
|一《いっ》旦《たん》、そうやって|彼《ひ》我《が》の戦力バランスを崩し、不意|打《う》ちの成功という心理的|優《ゆう》勢《せい》に立つことができれば、後は|余《よ》裕《ゆう》で|自《じ》滅《めつ》を待つことができる。ひたすら逃げ回り、ときに反撃の|素《そ》振《ぶ》りでも見せれば、|年《とし》若《わか》いフレイムヘイズは無意識に、再びの|痛《つう》撃《げき》を|警《けい》戒《かい》する。もはや|戦《せん》局《きょく》を動かす|大《だい》胆《たん》な行動、思い切った攻撃は、選択できなくなる。
(事実、これまでもそうでした)
舌なめずりするように思い、逃げる|丹《に》色《いろ》の|弾《だん》丸《がん》を追う。速度で劣っているため、すぐ引き離されるが、距離さえ開いていれば特段の問題はない……と考える間に、予定との|齟《そ》齬《ご》が出た。
(どういう、ことだ?)
その弾丸が引き返してこない。本当に逃げている。いつしか、|封《ふう》絶《ぜつ》の中心に立つエンパイア・ステート・ビルをグルグルと|双《そう》方《ほう》して回る、間抜けな追いかけっこ状態になっていた。
(まさか、こうやって私の後方に付くつもりか?)
向こうの速度が勝っているのだから、当然いつかは立場が逆転する。
(ふん……そうなったとして、後方から来るところを狙い撃つまで)
向こうが時間を稼いでくれるのなら、むしろありがたいこと、攻撃する方向が変わるだけ、やることは同じ、と|晒《わら》うアナベルグは、全く気付いていなかった。
追いかけっこに|興《きょう》じる間に、双方の|旋《せん》回《かい》半径が縮まっていたことを。
エンパイア・ステート・ビルとの距散が詰まっていたことを。
ユーリイはただ、その距離だけを欲し、飛び続けていた。
そして|遂《つい》に、『|隷《れい》群《ぐん》』の一部たる|蜥蜴《とかけ》が、|射《しゃ》程《てい》圏《けん》内に|獲《え》物《もの》の入ったことを知らせ、
これを受けた『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』は進路を急速|変《へん》更《こう》、敵との距離を一気に詰める。
今まで壁としてあったエンパイア・ステート・ビルを、回らずに、突き抜けて。
「――」
自身の蒸気で気配を|混《こん》淆《こう》させていたアナベルグは、
「――っ」
|突《とつ》如《じょ》、|至《し》近《きん》にあったビルの壁面を砕き現れた丹色の弾丸を、
「――っな!?」
逃げようのない腹の中心に受け止め、上下真っ二つに断ち割られた。
「っぐあああああああああ!!」
この|粉《ふん》砕《さい》を自分の正面に見たユーリイは、|遂《つい》に果たした自分の悲願に喜ぶ、
「やった!」
「まだよ!」
間を与えられなかった。
ウァラクの叫びの意味を理解する前に、眼前。
「なん、何、なんという、ことだ」
「っは!?」
|隻《せき》腕《わん》、上半身だけとなったアナベルグが、空を|貫《つらぬ》いて飛ぶ|丹《に》色《いろ》の|弾《だん》丸《がん》、その|先《せん》端《たん》にへばりつき、|衝《しょう》撃《けき》と熱にボロボロと部品を|撒《ま》き散らしながら、|執《しゅう》念《ねん》の|絶《ぜっ》叫《きょう》を上げていた。
「私が、私、ワタシが! フレイムヘイズ、|復《ふく》讐《しゅう》、だけの、|抜《ぬ》け|殻《がら》、に!」
「う……」
怒りと欲望に|塗《まみ》れた声に押され、ユーリイは|咽喉《のど》を詰まらせる。
ウァラクは、この程度の|徒《ともがら》≠|一《いち》撃《げき》必《ひっ》殺《さつ》できなかったことに、|内《ない》心《しん》で|舌《した》打《う》ちしていた。
(ちっ、追いかけつことビルの突破で、破壊力が|減《げん》衰《すい》してる)
「振り落とすのよ、ユーリイ!」
「――う、ん!」
我に返り、|頷《うなず》いたユーリイの顔色は、既に|困《こん》憊《ぱい》の色を|隠《かく》せなくなっている。が、その身の危険を押して戦うことへの、自身を燃やす充実を表してもいた。
(そう、だ……敵を、倒すんじゃ、ない――)
丹色の弾丸が、|軌《き》道《どう》を|螺《ら》旋《せん》状に変える。
ものの数秒で、残った|胴《どう》体《たい》の半分がゴソッと脱落し、|鉛《なまり》色《いろ》の|火《ひ》の|粉《こ》に、次いで蒸気となって散った。ガクガクと揺れる絶叫は、未だ続いている。
「も、もっと、見、ワタ、人間の、人間、ニン」
言う間に、バキン、とメーターのガラスが割れ、蒸気が|噴《ふん》出《しゅつ》した。
苦痛と|虚《きょ》脱《だつ》感《かん》の中、ユーリイは|怪《かい》人《じん》の遺言[#「遺言」に傍点]に、強烈な怒りを覚える。
「僕は」
|脳《のう》裏《り》に、使い|魔《ま》越《ご》しに聞いた彼の宣言が|過《よ》ぎる。
(――「だから、私は与えるのです…… |炎《ほのお》による|喪《そう》失《しつ》を、 次なる変化に向かう人間たちへの祝福として」――)
「助ける」
重く|咆《ほ》える間に、また、別の言葉が過ぎる。
(――「やはり、人間であることを捨てた、広がりを持ち得ない|抜《ぬ》け|殻《がら》には、この|偉《い》業《ぎょう》の|価《か》値《ち》は理解できませんか」――)
「僕は」
体中から力が失せ、骨が肉が悲鳴を上げる。
眼前に|徒《ともがら》≠ェ張り付き、立ちはだかっている。
「ニ、見届、ト、」
「抜け殻じゃ、ない」
それでも、|咆《ほ》える。
本当に言いたかった言葉 ――「僕は、僕も、人間だ」―― は、事実ではなかった。それを分かって、分かっているからこそ、眼前の|徒《ともがら》≠ノ、咆える。
「そう、だ、僕は、お前のような、奪う者から守る[#「奪う者から守る」に傍点]――それだけしかない者[#「それだけしかない者」に傍点]だ!!」
「人 、ゲ 、     」
ユーリイに向かってか、それとも|断《だん》末《まつ》魔《ま》の切れ|端《はし》か、判別のつかない|片《かた》言《こと》を残して、|遂《つい》に|怪《かい》人《じん》・アナベルグは最後のパイプ、ネジ、メーターの針までバラバラになって、消えた。
「やっ、た……!」
今度こそ、本当に。
とうとう、自分の力で|徒《ともがら》≠倒した。
とうとう、自分の力で、人を――
(!!)
|感《かん》慨《がい》に埋もれかけた心が、覚めた。
(そうだ、まだ、助けてなんかいない)
|丹《に》色《いろ》の|弾《だん》丸《がん》の針路が、変わる。
「よしなさい、|無《む》茶《ちゃ》よ!!」
少年の意図に気付いたウァラクが、制止の叫びを上げた。
「分かってる」
答える少年の声は、|消《しょう》耗《もう》というだけでない、静けさに満ちている。
「無茶なのは、分かってるんだ[#「分かってるんだ」に傍点]」
それは、自分の道を全力で走り切ると決めた者の、|真《しん》摯《し》過ぎる|覚《かく》悟《ご》の|様《さま》。
「あんたって、フレイムヘイズは……」
ウァラクは、彼の行為を受け入れるしかないことを|悟《さと》り、|溜《ため》息《いき》とともに|呟《つぶや》く。
「……こうやってしか、生きられないのね」
|慨《がい》嘆《たん》と|呆《あき》れ、|哀《かな》しみと共感を|綯《な》い交ぜにした、それは理解の言葉だった。
「うん」
ユーリイは|頷《うなず》き、|神《じん》器《ぎ》ゴベルラ≠、より強く前へと突き出す。
向かう先は、ただ一つ。
ビルの壁面を砕き降りる間にも、互いに|爪《そう》牙《が》を突き立て、|猛《もう》火《か》を混ぜる、|壮《そう》絶《ぜつ》な殺し合いを繰り広げた|獣《けもの》と獣が、|瓦《が》礫《れき》の底で|対《たい》峙《じ》していた。|双《そう》方《ほう》とも疲労に|息《い》吹《ぶき》を荒げ、しかし全く|衰《おとろ》えない殺意を、言葉として交わす。
「依頼主を殺されたのは、初めてだ……趣味とはいえ、大した|屈《くつ》辱《じょく》だな」
「そう思うんなら、|余《よ》計《けい》な|真似《まね》せずに、星のお姫様と引きこもってなさいよ」
シュドナイとマージョリーは、不敵に言い合う陰で獣の足を|摺《す》り、次なる行動への体勢を整える。
互いを動かす|戦《せん》機《き》がなんであるかは、分かりきっていた。
アナベルグの|討《とう》滅《めつ》によって、気配を|混《こん》淆《こう》させていた蒸気も|消《しょう》滅《めつ》している。|封《ふう》絶《ぜつ》内に残された者たちの気配は明確に|掴《つか》めるようになっていた。誰が、なにをしているか――今、どこにいるか――これから、なにをしようとしているのか――全てが、感じられる。
シュドナイは、
ただそこに在り続けるだけで、正面と頭上[#「頭上」に傍点]、双方からの|挟《はさ》み|撃《う》ちに|晒《さら》されるという、自身の置かれた|危《き》機《き》的《てき》状況を思った。思って|慌《あわ》てず、
(さて、どう動くか)
迷うというよりは、戦機に動くための|予《よ》備《び》動作として、|思《し》考《こう》を流す。
(もはや依頼人もいない……ここで|妙《みょう》な意地を張って戦う必要はない、が)
眼前で戦意に|逸《はや》り|猛《たけ》るトーガの獣を、|虎《とら》の|瞳《ひとみ》で見つめた。実際に|干《かん》戈《か》を交えてこそ掴める、容易ならぬ強敵の実感、それだけが|唯《ゆい》一《いつ》にして絶対の|判《はん》断《だん》材料。
(この殺し屋が、|易《やす》々《やす》と|逃《のが》してくれようはずもない)
それどころか、|下手《へた》な逃走の|挙《きょ》動《どう》、緩んだ|様《よう》態《たい》など見せれば、的確にして|苛《か》烈《れつ》、|遠《えん》慮《りょ》容《よう》赦《しゃ》のない追い|討《う》ちがあることは明らかだった。
(皆殺しにするか)
それが一番|簡《かん》単《たん》な方法ではあった。|力《ちから》技《わざ》で両者を討ち伏せることは十分可能――
(だが)
と、自身の|爪《つめ》と|炎《のお》で掴んだ実感が、|掣《せい》肘《ちゅう》をかける。
強力なフレイムヘイズが死に|瀕《ひん》して|発《はっ》揮《き》する底力は、甘く見てよいものではない。大した意義もない|場《ば》末《すえ》の戦いで、|無《む》駄《だ》な|深《ふか》手《で》を負うリスクは避けるべきだった。
(|面《めん》倒《どう》だな……やはり、|退《ひ》くか)
見切りを付けた彼は、退くに容易ならぬ敵を出し抜くための|算《さん》段《だん》を、考えない[#「考えない」に傍点]。ただ戦いの流れに身を任せ、|閃《ひらめ》きを得る時を、なおも続く危機的な状況の中で、|悠《ゆう》然《ぜん》と待つ。
マージョリーは、
|不《ふ》意《ふ》打《う》ちによる|深《ふか》手《で》を負っている。この身でも、死力を尽くして戦い、挟撃[#「挟撃」に傍点]すれば、シュドナイに|痛《つう》撃《げき》を与える、|上手《うま》く行けば|討《とう》滅《めつ》することも不可能ではない、だろう。
(でも)
彼女は、『|命《いのち》懸《が》け』の戦いを安売りする気など、|微《み》塵《じん》もなかった。フレイムヘイズという存在が、単純な、ただ力を振るい暴れ回るだけの|狂《きょう》戦《せん》士《し》でないことの|所以《ゆえん》を、最も色濃く宿した者であればなお、当然のこと。すなわち彼女が思うのは、
(こんなところで死ぬわけには、いかない)
この、自身が果たすべき|復《ふく》讐《しゅう》のために生きる、という『戦意に根ざした、生への強烈な|渇《かつ》望《ぼう》』である。ゆえに、彼女始め、|極《きょく》限《げん》状態にあるフレイムヘイズの大半は、命を使った|博打《ばくち》などを軽々に打ったりはしない。使命に生きる|云《うん》々《ぬん》は、しょせん王≠ニの契約における|建《たて》前《まえ》、行為を正当化する後付けの|理《り》屈《くつ》に過ぎない。
(奴を、殺すまで、絶対に死ねない……絶対に!)
最終的に、彼女はそれだけを思う。生き延びてこそ、|仇《きゅう》敵《てき》を目指せる。数百年を戦い抜いてきた、というのは、死を避ける選択|肢《し》を採り続けてきた、ということでもある。この、極限状態における冷静な判断力を備えていないフレイムヘイズは、生きてゆけない。
(そう、生きる)
そのためだけに感覚を|研《と》ぎ澄ます、ほんの数秒間だけの、|思《し》考《こう》と決定。
片方は、|無《む》駄《だ》な戦いに見切りを付け、|退《ひ》く判断を下した。
もう片方は、命懸けの戦いを、生き延びるために避けた。
いずれも|至《し》極《ごく》当然な、|理《り》路《ろ》整然とした、生きるための道だった。
この戦場でただ一人、ユーリイだけが、異なる道を選んでいた。
|瓦《が》礫《れき》の底で|戦《せん》機《き》の|到《とう》来《らい》を待つ|獣《けもの》と獣を、|丹《に》色《いろ》の光が照らし出す。
ユーリイの|纏《まと》う『|隷《れい》群《ぐん》』の|竜《たつ》巻《まき》、丹色の|弾《だん》丸《がん》が、今まさにシュドナイを直上から|襲《おそ》う。
瞬間、
「ぬうん!!」
不用意に|回《かい》避《ひ》すれば|双《そう》方《ほう》からの|挟《きょう》撃《げき》に|遭《あ》うだけ、と分かっていた戦闘|巧《こう》者《しゃ》たる|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ヘ、より強い敵・マージョリーの反撃を最も遅らせることのできる|唯《ゆい》一《いつ》の突破|口《こう》に向かい、全身の|輪《りん》郭《かく》を|膨《ぼう》張《ちょう》変形させて――飛ぶ[#「飛ぶ」に傍点]。
驚いたのは、ユーリイだけだった。
巨大な鳥となったシュドナイが|真《ま》正面に迫る、
「――っ」
と見たときには既に、
「――っ、あ!?」
その|刃《やいば》となった|翼《つばさ》に、力を弱めていた|竜《たつ》巻《まき》は切り裂かれていた。
中にあった少年も、|諸《もろ》共《とも》に、ひとたまりもなく。
フレイムヘイズ『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』ユーリイ・フヴォイカは、自分が敵たる|徒《ともがら》%人にそうしたように、|胴《どう》を真っ二つ、断ち割られていた。
そして、百戦|錬《れん》磨《ま》の|千《せん》変《ぺん》<Vュドナイは、少年のように、詰めを忘れたり誤ったりはしない。断ち割られ、二つになって燃え落ちてゆく|残《ざん》骸《がい》へと、その向こうに在る本当の|標《ひょう》的《てき》へと、肩に一つ|生《は》やした|鎌《かま》首《くび》から、
「ゴアアアアアッ!!」
|追《つい》撃《げき》を断つための、特大の|炎《えん》弾《だん》を放っていた。
無論[#「無論」に傍点]、フレイムヘイズ|屈《くっ》指《し》の殺し屋たる『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーは、|欠片《かけら》も|油《ゆ》|断《だん》などしていない。|動《どう》揺《よう》も今は[#「今は」に傍点]感じない。この、自分に向けられた必殺の|一《いち》撃《げき》を、トーガの口から吐き出した特大の炎弾によって|相《そう》殺《さい》する。
「はああああああっ!」
間にいる、すでに|致《ち》命《めい》傷《しょう》を受けた、助けようもない、|無《む》謀《ぼう》にも突っ込んできた、ただ殺されるためだけに割って入ったも同然の、ユーリイ少年にも、
|無《む》論《ろん》、構わず。
ほんの少しだけ欲しかった――涙は、トーガに包まれていて、見えなかった。
(ごめん、ウァラク)
(しくじってない[#「しくじってない」に傍点]、でしょ?)
しかし、ただの|錯《さっ》覚《かく》だろう――|炎《ほのお》の|獣《けもの》は、悲しげな顔をしているように、見えた。
特大の炎弾同士の|激《げき》突《とつ》は、シュドナイを遥か遠くへ押しやり、マージョリーをその場に押さえつけ、ユーリイを|粉《こな》々《ごな》に打ち砕き……激しい戦いにようやくの|水《みず》入《い》りと、死を|齎《もたら》した。
それだけの、ことだった。
世界最高を誇る|高《こう》層《そう》建築物、エンパイア・ステート・ビルへの放火と破壊を|目論《もくろ》んだ|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=\―|穿《せん》徹《てつ》の|洞《ほら》<Aナベルグは|討《とう》滅《めつ》され、その|企《き》図《と》も|潰《つい》えた。
それこそが、成果だった。
全てが当然の、在り|様《よう》と結果。
[#改ページ]
すでに真夜中、|外《がい》信《しん》社《しゃ》の明かりは落とされていた。
マージョリーは、その|隣《となり》のドアを開けて入る。
ギリギリギリギリッ、と夜にも構わず、ドアに|結《ゆ》わえられた|紐《ひも》がベルをけたたましく鳴らして、|異《い》能《のう》者の来訪を|店《みせ》全体に告げた。
重い顔を上げると|案《あん》の|定《じょう》、|外界福《アウトロー》には、イーストエッジが一人、カウンターの中で待ちわびるように立っていた。帰った|人《ひと》影《かけ》が一つであることを見て、しかしなにも言わない。
付き合うように、黙って戸口に立っていたマージョリーは、やがて新しく着替えたスーツドレスの身をふらつかせながら、倒れ込むようにカウンター席に腰を降ろした。
その拍子に、ゴトン、とグリモア≠ェ床に落ちる。
マルコシアスは黙っていた。
イーストエッジは、細い|双《そう》眸《ぼう》の内から、カウンターに|突《つ》っ|伏《ぷ》す女を静かに見つめ、すぐ背を向けた。バックバーの奥から、|隠《かく》してあったウイスキーを|一《ひと》瓶《びん》、|粗《そ》末《まつ》なショウガ水を一瓶、グラスを二つ、木のカップを一つ、カウンターに出す。
と、いつの間にか、カウンターの上に、|歪《ゆが》んだ針金の|欠片《かけら》が放り出されていた。それは、かつてガラスのレンズがはまっていた物の、|残《ざん》骸《がい》だった。
グラスが一つ、マージョリーの前に、もう一つがイーストエッジの前に、カップが針金の欠片の前に、それぞれ置かれた。瓶が、突っ伏す|肘《ひじ》に当たる。
身を起こしたマージョリーは、自分のグラスにだけ、ウイスキーを|注《そそ》ぐ。
少し、|溢《あふ》れた。
イーストエッジは、まずショウガ水をカップに、次いでマージョリーから受け取ったウイスキーを、自分のグラスに注ぐ。ショウガ水だけが、少し溢れて、針金を|浸《ひた》した。
二人にして四人はなにも言わず、ただ黙って、グラスの水面が静まるのを待った。
と、いきなりマージョリーは一気にウイスキーを|呷《あお》った。
それを見たイーストエッジは、自分のウイスキーを飲み|干《ほ》した。静かに。
そして、ショウガ水を床に|撒《ま》き、カップを握り|潰《つぶ》した。やはり、静かに。
その音に、少しだけ肩を震わせたマージョリーは、一言、小さく|呟《つぶや》いた。
「やっぱり、迷わなかったわ」
[#改ページ]
|悦《よろこ》びに|渇《かわ》き、無力に|憤《ふん》怒《ぬ》する、果てなき|悪《あく》夢《む》を破る叫びは、ただ一つ。
なにがあっても変わらない、それだけでしか破れない、
ブチ殺しの|雄叫《おたけ》び。
[#改ページ]
1 かくしごと
|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》の机の上に、写真立てが一つ、置かれている。
写真の中に在るのは、少年。
教室の|窓《まど》際《ぎわ》に立ち、こちらへと振り向いた――不意に撮られた、ゆえにこそ自然な|佇《たたず》まいを見せる――|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》という、少年。
|極《ごく》薄《うす》のデジカメを自慢しに持ってきた|中《なか》村《むら》公《きみ》子《こ》が、ある物いる者、何十と写しまくった中の一枚だった。そのことを知った吉田が、珍しく誰の助けも借りず、中村に頼み込んでプリントしてもらった一枚だった。|代《だい》償《しょう》は、あまり品が良いとは言えない笑いと、|肘《ひじ》打《う》ちの連打だった。
やっと得た、一枚きりの、大切な人の、写真だった。
|御《み》崎《さき》高校一年二組の教室には、まだ夏休み明けの|弛《ゆる》んだ|雰《ふん》囲《い》気《き》が漂っていた。
|残《ざん》暑《しょ》の午後、しかも放課後ともなれば、生徒は空気の抜けたボールのように、|弾《はず》む活力もないダラダラした身動きのまま帰宅の|途《と》につく。
その気だるい流れの中で鋭く、しかし小さな声で、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》は言った。
「|池《いけ》君、お願いだから」
「えっ?」
「|坂《さか》井《い》君には言わないで」
常の|穏《おだ》やかな、|微笑《ほほえ》みこそ|似《に》合《あ》う柔らかな|容《よう》貌《ぼう》が、|強《こわ》張《ば》りの|端《はし》に恐れすら|覗《のぞ》かせている。
まさかこんな顔をされるとは思ってもいなかった池|速《はや》人《と》は、|釣《つ》られて勢いよく|頷《うなず》いていた。
「そ、そりゃあ、僕は別に構わないけど」
他人への気配りを忘れない、頼られるクラス委員『メガネマン』として、|他《た》意《い》なく持ち出した、なんでもない話題のはずだったのだが。
「でも――」
どうして、と彼が|尋《たず》ねようとしたとき、いつもの|面子《めんつ》が教室に帰ってきた。体育館で行われた|課《か》外《がい》授業の上映会、その|後《あと》片付けに駆り出されていたのである。
「なははっ! やっぱまだ、最初に痛い目に|遭《あ》わされた時のこと、忘れてないみたいだな。シャナちゃんに|椅《い》子《す》運び言いつけるとき、顔が強張ってたぞ」
|意《い》地《じ》悪《わる》っぽく笑っているのは|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》、
「もう授業の方だってマトモにやってんだから、堂々としてりゃいいのにな。つーか俺とは普通に|喋《しゃべ》ってるぞ。シャナちゃんも、もう気にしてないだろ?」
肩をすくめて見せるのは|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》、
「気にするって、なにを」
|怪《け》訝《げん》な顔で短く|訊《き》き返すのは、|平《ひら》井《い》ゆかりことシャナ、
「あははっ、さっすが。やっぱ私、シャナちゃん好きだわ」
その肩を軽く気持ちよく|叩《たた》くのは|緒《お》方《がた》真《ま》竹《たけ》、
そして、
「あ、二人ともお待たせ。行こうか」
最近、どこか|芯《しん》の強さを外にも表すようになってきた少年、坂井|悠《ゆう》二《じ》。
言われて、自然と皆が|鞄《かばん》を取った。
市街の中心に当たる|御《み》崎《さき》市《し》駅が、とある事件で|全《ぜん》壊《かい》して以来、駅から伸びる大通りは歩行者天国となっている。
もはや日常の風景となっているそこは、帰宅の時間帯ということもあり、|車《しゃ》歩《ほ》道《どう》問わず、行き交う人々でごった返していた。|所《ところ》構《かま》わず商品を広げる|露《ろ》店《てん》、うろつく物売り、ストリートミュージシャンらも飲まれて埋もれるほどの|人《ひと》出《で》である。
彼ら、男四人に女三人という、やや|大《おお》所《じょ》帯《たい》なグループは、下校ついでに駅前で買い物をした|佐《さ》藤《とう》に付き合った後、この大通りの歩行者|天《てん》国《ごく》をうろついていた。
寄り道は学生の冒険である。
様々な用事が待ち構える家に帰らない[#「帰らない」に傍点]ことの開放感、出会うものをなんでも楽しんでしまう遊びの|爽《そう》快《かい》感《かん》、|建《たて》前《まえ》としての禁止|事《じ》項《こう》を破る|背《はい》徳《とく》感《かん》……制服のままでいることさえ、彼らの足を|弾《はず》ませる材料になる。
その足は今、|温《ぬる》い夕風と人ごみに|揉《も》まれて、|一《ひと》休憩に入っていた。ペットボトルを一本ずつ買った彼らは、本来は車道との区分けになっている|柵《さく》に並んで腰掛ける。
「――で、その|監《かん》督《とく》が|酷《ひど》い|奴《やつ》でさ、リアリティとか言っちゃ俳優|苛《いじ》めてるらしんだよね」
|緒《お》方《がた》は楽しげに言い、|弾《はず》むような勢いで|田《た》中《なか》の|隣《となり》に座った。
佐藤が、その田中を挟む反対側に腰掛ける。
「ああ、聞いたことあるある。マラソンをマジで走らせたり、電流とか爆発で|怪《け》我《が》させたりするって話だろ? あれじゃ役者がついてかねーよな」
笑って、わざと席を詰めるようにして、田中を緒方に押し付ける。
緒方と密着する形になり、|迷《めい》惑《わく》半分|照《て》れ半分の顔をした|大《おお》柄《がら》な少年は、|誤《ご》魔《ま》化《か》すようにペットボトルの|清《せい》涼《りょう》 飲《いん》 料《りょう》水を|一《いっ》気《き》飲みした。一息ついて、自分たちの前を流れすぎる人々を細い目で|眺《なが》める。
「爆発って言や……駅の|補《ほ》修《しゅう》工事、|結《けっ》構《こう》進んでるみたいだな」
視線の先にあるのは、歩行者天国の終点である|御《み》崎《さき》市《し》駅。
一月と少し前、世の裏を|跋《ばっ》扈《こ》する|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=Aその一人との戦いによって周囲の|高《こう》架《か》ごと|全《ぜん》壊《かい》した|駅《えき》舎《しゃ》は、ようやく|瓦《が》礫《れき》の|撤《てっ》去《きょ》と基礎工事が終わり、鉄骨を組み立て始めていた。
人の身ながら戦いの|端《はし》に加わった田中には、|感《かん》慨《がい》深いものがあるらしい。
その際、彼と行動を共にしていた佐藤だが、
(ったく……オガちゃんの話に付き合ってやれよな〜)
友人のそういう|生《き》真《ま》面《じ》目《め》な部分には、思わず|苦《く》笑《しょう》が漏れる。
代わって、佐藤の隣に座った|池《いけ》が話題を受けた。
「大きなクレーンとかの作業が終わったら、ここの交通|規《き》制《せい》も解くって聞いたよ」
緒方が驚いた顔を見せる。
「それって、この大通りの歩行者天国がなくなるってこと? せっかくフリマの場所とか値切り方、覚えたところだったのに……」
彼女と池は|紅《ぐ》世《ぜ》≠フ事情を知らない。駅の全壊についても、|徒《ともがら》≠ニ戦うフレイムヘイズ側の|流《る》布《ふ》した、事件ではなく事故(|経《けい》年《ねん》劣《れつ》化《か》による高架|線《せん》路《ろ》の|崩《ほう》落《らく》と、重量バランスの変動に耐え切れなかった駅舎の|倒《とう》壊《かい》)という情報を信じていた。
池は手に持ったウーロン茶を|一《ひと》飲《の》みしてから答える。
「ここに店を出してる人たちも、歩行者|天《てん》国《ごく》を残して欲しい、って|嘆《たん》願《がん》してるらしいよ。市の方でも、大通りは無理だけど、|側《そく》道《どう》で代わりができないか検討してるってさ」
|悠《ゆう》二《じ》が、歩道から車道、車道から歩道と横切り歩く人々を見ながら、それに答える。
「駅はともかく、大通りの方はこのままでいい、って思う人もいるだろうな。車を使ってないと、不便って実感もないし」
彼の右|隣《どなり》、|池《いけ》との間に掛けた|吉《よし》田《だ》が、
「そうですね。なんだか、あのお祭りが、ずっと続いてるみたい……」
自分たちも含めた|雑《ざっ》踏《とう》を、ほのかに笑って見つめる。
駅が|全《ぜん》壊《かい》した|騒《そう》動《どう》は、|御《み》崎《さき》市の夏祭り・ミサゴ祭りの当日に起きた。彼女はその際、重要な役割を|担《にな》い、同時に悠二へと、自らの熱い想いの|丈《たけ》を告げている。
彼女にとって目の前の光景は、そんな思い出の延長線上にあるものなのだった。
と、
「……」
悠二を挟んで反対側に座る|小《こ》柄《がら》な少女が、同じ日のことを思い、しかし逆の気持ちを抱いてムッとなった。言うまでもない、シャナである。
高校の制服を|纏《まと》っても十一、二|歳《さい》という幼さを|隠《かく》せない|容《よう》姿《し》に、圧倒的な|貫《かん》禄《ろく》と存在感を満たした彼女は、人間ではない。|徒《ともがら》=b討《とう》滅《めつ》の使命を持った|異《い》能《のう》者――フレイムヘイズ『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』である。|坂《さか》井《い》悠二という特別な少年[#「特別な少年」に傍点]を|監《かん》視《し》し、守るためにこの街に滞在している。その行為に、使命という以上の気持ちを自覚しながら。
彼女にとってのミサゴ祭りとは、吉田と同じ想いを悠二に対し抱いている(はずの)自分がなにもできなかった、敗北の日でもある。思い出して|愉《ゆ》快《かい》でいられるわけもなかった。そもそも彼女は吉田と違って、
「はむっ!」
悠二に直接的行動[#「直接的行動」に傍点]を軽々に取ることが、性格の面からも立場の上からもできない。少なくとも、自分ではそう考えている。
「んむっ!」
せいぜいが、険しい表情と大げさな|仕《し》草《ぐさ》で、移動パン屋のメロンパンにかぶりつくくらいだった。悠二なら、今の自分の気持ちを感じ取ってなにか言ってくれる、という(無自覚な甘えから来る)|抗《こう》議《ぎ》行動だった。
果たして悠二は、望んだとおり困った顔で笑う。笑いかけてくれる。
「シャナ、いっぱい|零《こぼ》してるよ」
「……分かってる」
期待通りの声を受けて満足したシャナは、不愉快な振りで、|素《そ》っ|気《け》無《な》い振りで、|頷《うなず》いて見せる。そうして、メロンパンのせいにしてニコニコと笑う。
「やっぱりここのメロンパン、|美味《おい》しい」
「作りたてだからね」
|悠《ゆう》二《じ》も困った笑顔のまま答える。
と、今度は|吉《よし》田《だ》が、|寸《すん》前《ぜん》までのシャナのようにムッとなる。悠二にまた話しかけ、なぜかシャナが答える。悠二が焦ってとりなす。他の皆が、そんな三人を見て笑い、からかう。
当たり前の光景は、常のことと受け取る者、いつまであるのかという不安を胸の底に抱く者、今があるのならと開き直って楽しむ者、平然と過ごす者、|眼《め》には見えない|悲《ひ》喜《き》こもごもを秘めて、ゆっくりと流れてゆく。
それから少し後、一同は寄り道の終わり、最初の別れがある場所に差し掛かっていた。
|雑《ざっ》踏《とう》溢《あふ》れる歩行者|天《てん》国《ごく》に、何気なく開いた一つの|筋《すじ》。|御《み》崎《さき》市の中央を東西に割って流れる大河・|真《ま》南《な》川《がわ》の東北に位置する、|旧《きゅう》住宅地への入り口である。
|佐《さ》藤《とう》、|田《た》中《なか》、|緒《お》方《がた》の三人は、この地区に住んでいた。
少し奥に|閑《かん》静《せい》な|大《だい》邸《てい》宅《たく》ばかりを並べるこの筋も、入り|端《はし》は他の道と同じ、大通りの|喧《けん》騒《そう》に満ちている。
ここまで来てようやく、|池《いけ》はほっと一つ、|安《あん》堵《ど》の|溜《ため》息《いき》を吐いていた。
(やれやれ……とりあえず、今日は無事に乗り切れたかな)
吉田に頼まれた、悠二に言ってはいけないこと。それ[#「それ」に傍点]について知っている可能性の高い人物が、この|一《いっ》行《こう》の中に混じっていて、今ようやく別れつつあったからである。
つまりは、最近彼らとよく遊ぶようになった女友達、緒方|真《ま》竹《たけ》。
自分が切り出したときの吉田の驚きようから考えて、他の誰かが先にそのことを口にした可能性は低い……と池は見ていたが、女友達というのはそういう情報[#「そういう情報」に傍点]を|頻《ひん》繁《ばん》に|遣《や》り取りしているように思える。|油《ゆ》断《だん》は|禁《きん》物《もつ》だった。
(緒方さんなら、吉田さんが口止めしてても、うっかり|喋《しゃべ》りそうだ……)
歩行者天国に設けられたフリマスペースの|片《かた》隅《すみ》、曲がり角の|露《ろ》店《てん》に並べられた、趣味がいいのか悪いのか分からないアクセサリーをひやかしている一同の後ろで、つい|苦《く》笑《しょう》を漏らす。
(それに、言った吉田さん本人が、僕に注意したことを忘れてるみたいなんだよな)
まあ、しょうがないけど、と苦笑を深める。
悠二と一緒だと、彼女は気分が|高《こう》揚《よう》して冷静さを失ってしまうのだから。
そしてそれは、止めようと思って止められるようなものではないのだから。
悠二になにか言ったり、シャナに対抗したりで|一《いっ》杯《ぱい》一杯の彼女に、|余《よ》計《けい》な心配事に気を払う|余《よ》裕《ゆう》などないだろうことは、容易に察することができた。
そんな、自分ではない少年[#「自分ではない少年」に傍点]へと心を向ける彼女に対して、|拗《す》ねるような気持ちもあるにはあったが、
(それでも……いや、だからこそ、やらずにはいられないのかもな)
結局、|緒《お》方《がた》が不用意になにか言わないか、|律儀《りちぎ》に一人|警《けい》戒《かい》しながら同行している。
(ホント、変な苦労ばかり背負い込むもんだ)
自分の性分を、|溜《ため》息《いき》一つで受け入れる正義の味方・メガネマンだった。
(ま、緒方さんには明日にでも、僕から|念《ねん》押《お》ししとこう)
思う彼の前で、その緒方が|露《ろ》店《てん》の物に関連してか、アクセサリーの話をしている。並べられた品の|物《ぶっ》色《しょく》を止めると、皆に向き直って、
「シャナちゃんのそれ――」
と、同じく彼女の、黒い宝石に金の輪を|意《い》匠《しょう》したペンダントを|目《め》線《せん》で指しながら、
「――ほどじゃないけど……じゃーん!」
首にかけていた|網《あみ》紐《ひも》、その先にある物を胸元から引っ張り出した。
銀色、指先|大《だい》の、絡まる|蔦《つた》で花弁を|象《かたど》ったペンダントだった。
一同が、その素朴で|慎《つつ》ましい、しかし巧みな|細《さい》工《く》に目を見張る。
「きれい……」
|吉《よし》田《だ》が芸のない、しかし最上級のほめ言葉を口にした。
緒方は期待通りの答えを受け取ると、
「そう?」
見せびらかすための手をやや上げ、胸を張る。
「……かけて来てたのか」
|田《た》中《なか》が言う、その|声《こわ》色《いろ》に照れを感じた|池《いけ》は、わざとらしい|口《く》調《ちょう》で|尋《たず》ねる。
「高そうなペンダントだね。どうしたの?」
|緒《お》方《がた》は再び、待ってましたとばかりに答えた。
「田中に|貰《もら》ったんだ、へへー」
|嬉《うれ》しげな表情から、|物《もの》自体を自慢することよりも、貰った|経《けい》緯《い》を明かすことの方を楽しんでいるのがありありと分かる。その理由、意味するところはさらに|明《めい》瞭《りょう》だった。
「へえ、田中に……」
|悠《ゆう》二《じ》が、分かっているのかいないのか、|小《こ》粒《つぶ》ながら趣味のいいペンダント、満面に笑みを作る緒方、そしてあらぬ方向に目線を泳がす田中を順番に見た。
その田中は、ブツブツと言い訳めいた答えを返す。
「|体《てい》のいいたかりだよ、たかり。ったく、|一《ひと》月《つき》も前のことなのに……」
その困る|様《さま》をニヤニヤと笑って見ていた|佐《さ》藤《とう》が、ようやく説明を補足する。
「こいつ、ちょっとしたこと[#「ちょっとしたこと」に傍点]でオガちゃんを泣かしたのが、マージョリーさんにバレてさ」
「マージョ……? ああ、佐藤ん|家《ち》に滞在してるっていう、女社長さんか」
池は少し前、緒方からそのような説明を受けていた。実際に会ったことはなかったが、佐藤と田中が|惚《ほ》れ込んでいる人であるらしい(以前に変な質問をされた、その対象ではないかと、彼は|睨《にら》んでいる)。
|無《む》論《ろん》、その女社長の正体はシャナと同じ、|徒《ともがら》≠|討《とう》滅《めつ》するフレイムヘイズの一人、『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーである。
佐藤は、その|居《い》 候《そうろう》を自慢するような得意|顔《がお》で答える。
「ああ。で、オガちゃんになにか、そのお|詫《わ》びをしてやれ、って言われたのさ」
「そういうこと」
緒方は深々と|頷《うなず》き、|尊《そん》敬《けい》する女性の言葉を、まるで|聖《せい》書《しょ》を読む|司《し》祭《さい》のように繰り返す。
「――気持ちの交わりをキッチリと物でやり取りするのは、『そういう関係』の基本――なんだってさ。やっぱ、マージョリーさんは分かってるよね。田中、今度ちゃんとお礼に|伺《うかが》います、って言っといてね」
「ヘーへー」
ぞんざいに答える田中だが、『そういう関係』であることについては否定しない。
(いいなあ、二人とも……)
|吉《よし》田《だ》は、そんな緒方と田中の、遠回しな|自《じ》他《た》公《こう》認《にん》の仲を|羨《うらや》ましく思い、
(あいつら、|余《よ》計《けい》なことばっかりするんだから)
シャナは、同業者としてマージョリーの深入りを不用意であると思っていた。
そういや、と|佐《さ》藤《とう》が|緒《お》方《がた》に言う。
「オガちゃん、最近マージョリーさんトコに、いろいろ相談に来てるんだよなー」
口を|尖《とが》らせんばかりの不満な|声《こわ》色《いろ》だった。
彼は|田《た》中《なか》と共に、世界を渡り|徒《ともがら》≠ニ戦う|美《び》麗《れい》の|女《じょ》傑《けつ》・マージョリーの|弟子《でし》を一方的に|自《じ》認《にん》している。向こうからは全く相手にされていない、|宿《やど》主《ぬし》程度にしか思われていない、という自覚があるため、気軽に接しては答えを得ている緒方が羨ましくてたまらないのだった。
|羨《うらや》まれる少女は、そんな子供のような|嫉《しっ》妬《と》にも、悪びれずスッパリ答える。
「まーね。こういうこと[#「こういうこと」に傍点]を相談できる女の人って、|身《み》近《ぢか》にいないし。それに、マージョリーさんって、なんていうか……話しやすいんだ」
そこで突然|振《ふ》り向いて、同意を求める。
「ね、|一《かず》美《み》?」
「っう、うん」
|吉《よし》田《だ》が|慌《あわ》てて|頷《うなず》く。
「へえ、吉田さんも相談とかしてるの?」
「は、はい……ごくたまに、ですけど」
|悠《ゆう》二《じ》は|不《ふ》思《し》議《ぎ》に思った。彼の知る『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドーは、|手《て》強《ごわ》い敵として出会い、頼れる味方として共に戦った、|討《とう》滅《めつ》の追っ手・フレイムヘイズでしかない。その際に見知った性格も、|豪《ごう》放《ほう》磊《らい》落《らく》な戦闘|狂《きょう》というもので、とても悩める少女たちの相談を受けつけるような人物には見えなかった。
(特に、吉田さんとは正反対の性格じゃないのかな)
と、単純な線引きをして|訝《いぶか》しむ。
「そうは見えないけど……」
思わず口にした|未《み》熟《じゅく》な少年に、緒方は|優《ゆう》越《えつ》感《かん》のようなものを|匂《にお》わせて言う。
「男には分かんないのよ。ね、シャナちゃん?」
「えっ」
また突然、同意を求められて、シャナは|戸《と》惑《まど》った。彼女にとってマージョリーは実際に|刃《やいば》を交え|炎《ほのお》を|介《かい》し戦った相手である。互いに使命の上でのこと、特段の|隔《かく》意《い》は持っていないが、かといって話しやすいかと言うと……
(……)
導き出された|認《にん》識《しき》は、否定に類するものだった。しかし、緒方への答え[#「緒方への答え」に傍点]として、それでは不適当であるように思えた。なんとなく、頷く。
「……うん」
「?」
|案《あん》の|定《じょう》、|悠《ゆう》二《じ》は|妙《みょう》な顔をする。彼はシャナとマージョリーの|間《あいだ》柄《がら》を、ほぼ余すところなく知っている。性格的に、あまり馬の合う相手ではないことも、当然。
シャナは、
(変なの)
そう、自分の口にした答えを、自分でおかしいと思っていた。実務的な|応《おう》対《たい》ではない、人との会話というものを覚え始めていることへの自覚は、まだない。
|池《いけ》が、その答えに別な感想を漏らす。
「なんだ、マージョリーさんに会ったことないのは僕だけか。|佐《さ》藤《とう》、今度|紹《しょう》介《かい》してくれよ」
「えっ、あ、まあ……いろいろ難しい人だから、そのうちな」
佐藤は苦しい笑いで|誤《ご》魔《ま》化《か》した。
「そーそ、優しいのは女の子に対してだけなんだから」
|緒《お》方《がた》は逆に明るく笑って見せ、ペンダントを再び、大事そうに胸元にしまう。
「そうだ、プレゼントって言えば――」
「!」
池はその声の先に|繋《つな》がるものを予感していた。
「――|明後日《あさって》、|一《かず》美《み》の誕生日でしょ?」
さっと|吉《よし》田《だ》の顔が青ざめた。
池は、なにも、しなかった。
思わず飛びついて口を押さえようかと思うほどに焦り、しかし結局、なにも。
できなかったのではなく、しなかった。
自分では認めたくない、吉田に対する|拗《す》ねた気持ちが、行動を|鈍《にぶ》らせていた。
緒方が、|無《む》邪《じゃ》気《き》に言う。
「みんなで誕生パーティーしようよ!」
|零《れい》時《じ》に、ややの間を置いた夜。
|坂《さか》井《い》家は|陽炎《かげろう》のドームに包まれる。
|時《とき》折《おり》、|紅《ぐ》蓮《れん》の|炎《ほのお》を過ぎらせ揺らめくこれ[#「これ」に傍点]は、世界の流れから内部を|断《だん》絶《ぜつ》させ、外部から|隠《いん》蔽《ぺい》・|隔《かく》離《り》する|自《じ》在《ざい》法《ほう》、|因《いん》果《が》孤《こ》立《りつ》空間『|封《ふう》絶《ぜつ》』である。
その中、屋根の|天《てっ》辺《ぺん》に当たる|棟《むね》の上、狭い庭の地面を背後にする|突《とっ》端《たん》で、いつものジャージ姿の悠二が、日課となっている夜の|鍛《たん》錬《れん》を行っていた。
|目《もっ》下《か》の課題である、ただ立つ[#「ただ立つ」に傍点]中で、
(……本当に、吉田さんは……)
夕方の出来事を思い出して、クスリと笑う。
「なんでありますか」
|即《そく》座《ざ》に、眼前で|棒《ぼう》立《だ》ちとなっている|監《かん》督《とく》役《やく》の女性が注意した。
フレイムヘイズ、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルである。
純白のヘッドドレスとエプロン、|丈《たけ》長《なが》のワンピースに編み上げの|革《かわ》靴《ぐつ》という、一見してメイドと分かる装い。肩までの髪の内にある、情感に乏しい|端《たん》正《せい》な顔立ちが、|僅《わず》かに寄せた|眉《まゆ》根《ね》という形で|不《ふ》機《き》嫌《げん》を表している。
「あ、すいません」
|悠《ゆう》二《じ》は|即《そく》座《ざ》に謝る。
と、その視線の行く先、ヴィルヘルミナによって通せんぼされた反対側の|端《はし》から、
「なに?」
シャナが声をかけた。こちらは、ヴィルヘルミナが用意した、動きやすい|薄《うす》手《で》のジャケットにスパッツという装い。
「ええ、と」
答えようとした悠二の声を、
「会話|無《む》用《よう》」
とヴィルヘルミナのヘッドドレスから発された、より|無《ぶ》愛《あい》想《そう》な声が|遮《さえぎ》った。彼女と契約し、|異《い》能《のう》の力を与えている|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A|夢《む》幻《げん》の|冠《かん》帯《たい》<eィアマトーのものである。
|渋《しぶ》々《しぶ》、という感情を|隠《かく》さず、シャナは返答する。
「はぁい……」
ヴィルヘルミナらは、彼女を拾い育てた|養《よう》育《いく》係である。ゆえに当然、親代わりの存在として、シャナと悠二、二人の仲が進展するのを大いに|警《けい》戒《かい》していた。というより、|露《ろ》骨《こつ》に|邪《じゃ》魔《ま》していた。朝と夜の|鍛《たん》錬《れん》に、『より|広《こう》範《はん》かつ高度な指導』を行う、と称して参加しているのも、(明言こそしていないが)その|一《いっ》環《かん》だった。
(ヴィルヘルミナの馬鹿……)
シャナは、|密《ひそ》かに楽しみにしていた悠二との二人きりの時間を邪魔されて|悔《くや》しい思いをしていたが、まさかこの胸の内を明かして|抗《こう》議《ぎ》するわけにもいかない。根が実直なので、適任者たる女性が自分たちを|鍛《きた》えることに、|理《り》屈《くつ》として|納《なっ》得《とく》もしていた。
それでも、やっぱり、少しだけ口を|尖《とが》らせずにはいられない。
(ヴィルヘルミナの、馬鹿……)
|罵《ば》倒《とう》では決してない、大好きな人が認めてくれない、という不満を胸に、フレイムヘイズの少女は、自分の鍛錬を|黙《もく》々《もく》と行う。
その小さな|掌《てのひら》から、|紅《ぐ》蓮《れん》の|火《ひ》の|粉《こ》が|封《ふう》絶《ぜつ》の中に|渦《うず》巻《ま》く。
シャナは最近、 ヴィルヘルミナらから、 先代『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』の戦術――|各《かく》戦局でどのような手段や力を用いて戦っていたか――について詳しく教わっていた。彼女に異能の力を与える|紅《ぐ》世《ぜ》の王=A|天《てん》壌《じょう》の|劫《ごう》火《か》<Aラストールも珍しく|多《た》弁《べん》に、この説明を補足していた。
|大《たい》抵《てい》のフレイムヘイズは、個々人の持つ『強さのイメージ』を、契約した|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ力によって|具《ぐ》現《げん》化《か》するため、聞いたことそのままを|真似《まね》することは望まれていない。あくまで自分の戦い方における参考として聞くように、とのことだった。
以来シャナは、いろいろと|腹《ふく》案《あん》を持って、|技《ぎ》量《りょう》発展の|試《し》行《こう》錯《さく》誤《ご》に|励《はげ》んでいた。
そんな少女の|鍛《たん》錬《れん》開始を背に気配と感じて満足し、前の少年に向ける顔はあくまで|厳《きび》しく、ヴィルヘルミナらは|促《うなが》す。
「さあ、あなたも」
「集中」
「はい」
鼻先が触れ合う|程《ほど》に詰め寄る給仕|服《ふく》の美人(程度にしか表現の幅のない少年だった)を前にして、しかし恐さ以外の|動《どう》悸《き》を感じない|悠《ゆう》二《じ》だった。なんといっても、彼女らには本当に殺されかけたことさえあるのだから、他を感じられようはずもない。
|海《かい》賊《ぞく》に海上の|細《ほそ》板《いた》へと追い詰められるような心持ちで、今までとっていた姿勢に、より力を入れる……否、存在の力≠ナ、自分の形を構築する[#「自分の形を構築する」に傍点]。
両手を横に広げた、まるで|案山子《かかし》のような片足|立《だ》ちの形。
三十分以上、ずっとこの姿勢のままで、彼は立っていた。
(そこに在ることに、力を使う……だったよな)
|常《じょう》人《じん》には不可能なことを行って、しかし彼にはさほどの疲労もない。
なぜなら彼、|坂《さか》井《い》悠二は、常人ではない。
どころか、|厳《げん》密《みつ》には坂井悠二ですらなかった[#「坂井悠二ですらなかった」に傍点]。
『本物の坂井悠二』は、かつて|御《み》崎《さき》市を|襲《おそ》った|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》∴齧。に、この世に存在するための根源の力、存在の力≠喰われて、とっくに死んでいた。ここにいる彼[#「ここにいる彼」に傍点]は、その残り|滓《かす》から作られた|代《だい》替《たい》物《ぶつ》・トーチなのだった。
(そう、僕は人間じゃない)
トーチは、火の|点《つ》いた|蝋《ろう》燭《そく》のように、残された存在の力≠時とともに|消《しょう》耗《もう》してゆく。それに連れて、周りの人々はトーチとなった人間を忘れ、本人も気力や意欲を|減《げん》退《たい》させる。そうして存在感や|居《い》場所、役割を失った頃、誰にも気付かれることなく消える。
世の裏に|跋《ばっ》扈《こ》する|徒《ともがら》≠ェ、人を喰らうことで生まれる|歪《ゆが》みを一時的に|和《やわ》らげる、歪みの発生を|感《かん》知《ち》する|討《とう》滅《めつ》者・フレイムヘイズの追跡から逃れるために作った、道具だった。
(僕は、坂井悠二の|残《ざん》影《えい》みたいな存在だ)
ただ、悠二はトーチの中でも特別な存在だった。
その身に|宝《ほう》具《ぐ》を宿すトーチ、『旅する宝の|蔵《くら》』ミステス≠セったのである。
彼の内に|何処《いずこ》からか|転《てん》移《い》してきた宝具は、時の|事《じ》象《しょう》に|干《かん》渉《しょう》する|紅《ぐ》世《ぜ》=b秘《ひ》宝《ほう》中の秘宝『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』。毎夜|零《れい》時《じ》に、|宿《やど》主《ぬし》たるトーチが一日に|消《しょう》耗《もう》した存在の力≠回復させるという、一種の永久|機《き》関《かん》だった。
(こうして日々を送っていられるのも、『|零《れい》時《じ》迷《まい》子《ご》』による、偶然の結果だ)
|悠《ゆう》二《じ》はこの|宝《ほう》具《ぐ》の働きにより、人格や存在感を維持したまま、日々を送っていた。
命が失われた時の姿で。
永遠の時の迷子として。
(それでも、確かに今ここにいて、感じて、思っている……)
その感じたことの一つを、今また思い浮かべる。
|緒《お》方《がた》による、なんでもない言葉、
(――「――|明後日《あさって》、|一《かず》美《み》の誕生日でしょ?」――)
友達として|至《し》極《ごく》当たり前の提案を聞いた|吉《よし》田《だ》一美の表情を、思い浮かべる。
自分の誕生日を|隠《かく》す内気な少女、ひけらかして騒いでもらうことへの|遠《えん》慮《りょ》……そんなものでは在り得ない、明かしたくなかったことを明かされたという|衝《しょう》撃《けき》、知られたくないことを知られてしまった|悔《かい》恨《こん》、そして、恐怖。
(……)
悠二は、吉田がなにを気遣っていた[#「気遣っていた」に傍点]のか、一瞬で気付かされた。彼女に告白されてからハッキリと感じるようになった気持ちと、その表情が全く同じ性質のものだったからである。
『本物の|坂《さか》井《い》悠二』が持っていた、
『今の坂井悠二』が持っていない、
ミステス≠ニなって失った、人間としての未来。
そんな彼に、
人間である自分は生きている、
人間である自分は成長してゆく、
今いる坂井悠二とは違う、と示してしまう日。
吉田にとって、人間である自分の生命は、悠二のことを想っているからこそ|禁《きん》忌《き》となり、ゆえに隠そうと思い、|遂《つい》には明かされることへの恐怖となっていた。
(……分かるよ、吉田さん)
確かに悠二はそのことを聞いて、胸の内に|木《こ》枯《が》らしの吹くような、どうしようもない|寂《せき》 蓼《りょう》 感《かん》を覚えていた。自分が、もう彼女たち人間[#「彼女たち人間」に傍点]とともに普通に年を重ねてゆくことができない、それ以外のもの[#「それ以外のもの」に傍点]として決定的に道を|違《たが》えてしまった、と改めて思い知らされた。
(でも)
そんな彼女の|気《き》遣《づか》いを、|嬉《うれ》しく思い、|哀《かな》しく思う。
嬉しく思ったのは、彼女らしい、自分を殺した思い|遣《や》りが染みたから。哀しく思ったのは、その思い遣りが、自分を人間ではない存在と|認《にん》識《しき》した上でのものだったから。
(そう思えるってのは、僕が、ちゃんと僕として生きているってことだ)
|悠《ゆう》二《じ》にとって、彼女が思い|煩《わずら》うことは全くの|杞《き》憂《ゆう》に過ぎないものだった。
彼は、自分の|境《きょう》遇《ぐう》に対する|憐《あわ》れみを、とっくに失っていたのである。心が|磨《ま》耗《もう》しきったからなのか、|悟《さと》りでも開いて吹っ切ったからなのか、単に状況に慣れたからなのか、それとも元々の性格がドライだったからなのか、判別はつかない。それでも、実際の|心《しん》象《しょう》として彼は、自分は生きてい[#「自分は生きてい」に傍点]る、と思っていた。
(もしかして|吉《よし》田《だ》さんは、こうして僕に『自分は何者なのか』って思わせること自体を、止めさせたかったのかな)
いつかシャナに言われたことがある。
(――「寒々しさやよそよそしさというのは、始まりにあって、これからを築いてゆくものじゃない。始まりにあるのは、お前が今日感じた、いつもの日常、いつもの風景、いつもの友達。それを、寒々しさとよそよそしさが、|削《けず》ってゆく……それが、これからの日々」――)
悠二は思う。
(吉田さんが|隠《かく》したのも、その一つの表れなんだろうか)
うそ寒い思いを|僅《わず》かに過ざらせて、しかし自分の|境《きょう》遇《ぐう》は憐れまない。それよりも、こんな自分を好きだと言ってくれた少女のために考える。
(いや……こんなこと[#「こんなこと」に傍点]のせいで吉田さんに、本当は楽しく過ごせるはずだった誕生日を、|辛《つら》い思い出になんか、させられないよな)
(――「みんなで誕生パーティーしようよ!」――)
という|緒《お》方《がた》の提案を聞いて、自分の方を見て、吉田が苦しげな顔をしたとき、|咄《とっ》嗟《さ》にそれを払うように明るく、|有《う》無《む》を言わせない大きな声で、
(――「いいね、みんなで|賑《にぎ》やかにやろう!」――)
そう答えた自分の行動は、間違っていないはずだった。
事情を知っている|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》も、一瞬|遅《おく》れて、
(――「オッケー! いいよな、吉田ちゃん!」「パーッとやろうぜ、楽しく!」――)
と応じてくれた。なぜか|池《いけ》は変な顔をして黙っていたが、結局|同《どう》意《い》した。言いだしっぺの緒方には|異《い》論《ろん》のあるはずもない。シャナだけは意味が分からないのか、キョトンとして成り行きを見ていたが、周りの|様《よう》子《す》から、とりあえずと同意していた。
そして、こういうイベントの好きな佐藤が、
(――「んじゃ、どんな誕生パーティーにする?」――)
と張り切って意見をまとめ、その場でパーティーの|細《さい》則《そく》も決まった。
日時は|明後日《あさって》の放課後。
場所は吉田家の居間。
参加者はそれぞれプレゼントを持ち寄る。
主催者の|吉《よし》田《だ》は、ご|馳《ち》走《そう》でお返しする。
最後の項目を、せめてと付け加えた少女は、一同に向けて頭を下げ、言った。
(――「ありがとう」――)
と、
上げた顔は、ほんの少し、なにかを引き|摺《ず》っていたが……たしかに喜びの笑顔だった。
(吉田さんには、笑ってて欲しい)
それだけを、思う。
思って、笑う。
その表情を、真ん前に立つ|監《かん》督《とく》役《やく》の女性に|見《み》咎《とが》められた。
「|真《ま》面《じ》目《め》にやるのであります」
「|懲《ちょう》罰《ばつ》」
バシッ、とどこからか純白のリボンが走り、屋根の|端《はし》に立っていた片足を払われる。
「っう」
その|一《いち》撃《げき》で、|悠《ゆう》二《じ》は宙に放り出されていた。
「わあっ!?」
自分の下に遠い地面しかないという、位置の実感。空中にある一瞬の、|不《ぶ》気《き》味《み》な|怖気《おぞけ》を伴った|浮《ふ》遊《ゆう》感《かん》。|双《そう》方《ほう》が|雪崩《なだ》れるように、落下という|根《こん》源《げん》の恐怖に変わる。
変わったときにはもう|激《げき》突《とつ》が眼前に――
「――」
ビシ、と、
目を見開いた数センチ先で、地面が止まる。
「――ッ!」
足首に、先と同じ白いリボンが巻きつき、捕らえていた。
|瞬《まばた》きをようやく思い出した|途《と》端《たん》、どっと冷や汗が|噴《ふ》き出す。
「|悠《ゆう》二《じ》、大丈夫!?」
屋根の上から心配げに|覗《のぞ》き込むシャナに、悠二は目と鼻の奥を押さえつけられるような、逆さ|釣《づ》りの感覚の中で答える。
「あ、ああ、なんとか……」
「ヴィルヘルミナ!」
声を確認するや、シャナは|掴《つか》みかからんばかりの勢いでヴィルヘルミナに詰め寄った。彼女らには、実際に悠二を殺しかけたという|前《ぜん》科《か》もある。心底からの恐怖が表情の中に|僅《わず》か、|残《ざん》滓《し》を|垣《かい》間《ま》見せていた。
それを見て取る詰め寄られた側は、しかしいつもと同じく、平然と返す。
「|鍛《たん》錬《れん》の最中に気を散らして、だらしなく笑う方に|非《ひ》があるのであります」
「正当|懲《ちょう》罰《ばつ》」
「笑う……?」
ようやく、この懲罰に理由があることに思い至り、|怪《け》訝《げん》な声で|訊《き》いたシャナへと、|元《もと》養《よう》育《いく》係の女性は――今度は他意ありありと――答える。
「|大《おお》方《かた》、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》嬢《じょう》のことでも考えて、ニヤついていたのでありましょう」
「|弛《し》緩《かん》面《めん》相《そう》」
悪意からの|憶《おく》測《そく》で|図《ず》星《ぼし》を突かれて、つい悠二は逆さ釣りのまま、
「へ、変な意味で笑ってたわけじゃ――あ」
叫んでから、自分の|間《ま》抜《ぬ》けな|自《じ》白《はく》に気付いた。恐る恐る、静まり返った屋根の上へと、声をかける。
「……シャナ、さん?」
「落として」
|冷《れい》酷《こく》な少女の指示を、『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』は|躊《ちゅう》躇《ちょ》なく実行する。
足首のリボンが|解《ほど》けた。
「|待《ま》ぐげっ!?」
地面に顔から落ちた悠二は、変な叫び声を上げて倒れた。
「|痴《し》れ者が」
アラストールの声が、聞こえたような聞こえなかったような。
家の台所にあるテーブルで、|吉《よし》田《だ》は気のない視線で料理の本を|眺《なが》めていた。見慣れたメニューを目に流す、という以上の速さで、パラパラとページをめくってゆく。
(……)
最後までめくると、|傍《かたわ》らにある、料理の本のぎっしりと詰まったカラーボックスから、また一冊を取る。すでにテーブルの上には、本の山ができていた。
(……あれで、良かったのかな)
またページをぞんざいにめくりながら考える。
自分の表情のせいだったのだろうか。すぐに|隠《かく》していた意図に気付かれてしまった。どうしてこう、変なところで正直に顔に出してしまうのだろう。いくら自分が決意したり他人に口止めしたりしても、これでは全く意味がなかった。
(私って、本当にダメだ)
もしかして、隠そうとしたこと自体がお|節《せっ》介《かい》だったかもしれない。それも、『|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は人間ではない』という|認《にん》識《しき》を|前《ぜん》提《てい》とした、お節介である。こういう気の回し方に、彼は|不《ふ》機《き》嫌《げん》にならずにいてくれるだろうか。
(……ダメだけど)
暗く沈みそうになる気持ちを、なんとか押し上げる。|尊《そん》敬《けい》する強い人、傷だらけの少年の言葉を、これまで何度か決意の|度《たび》そうしたように、また胸の中で|唱《とな》える。
(――『それでも、良かれと思うことを、また選ぶのだ』――)
あのとき[#「あのとき」に傍点]も、そうやって選んで、悲しく苦しい事実に直面させられた。
しかし代わりに、彼に本当の意味で近付き、想いを告げることができた。
良いことと悪いことは、複雑|怪《かい》奇《き》なまでに絡み合っている。
決して、彼への歩み寄りを、止めてはいけない、止める気もない。
なにせ、|恋《こい》敵《がたき》の少女・シャナは、世界にこれ以上ないほどの、|超《ちょう》強敵なのだ。
自分よりもっと坂井悠二の近くにいて、自分よりずっと接する時間が多くて、自分より遥かに強くて|可愛《かわい》くて頭も良くて――
(いけない、「それでも、|王《おう》子《じ》は|怪《かい》物《ぶつ》に立ち向かいました」ですよね……カムシンさん)
心を|奪《ふる》い立たせるために、少しオーバーな表現で恋敵を|捉《とら》えてみる。
(ごめん、怪物はないよね、シャナちゃん)
自分で考えたことに、思わず笑っていた。
ようやく、気分が落ち着いてきたことを感じる。
悩み事があると、こうして台所でいろんな料理の本を静かに眺めて、心を静めるのが吉田の|習《しゅう》 癖《へき》だった。こうして立ち直るまでの時間が、最近では少し短くなったような気がする。 気がするだけで、立ち直る活気も恐らくは|虚《きょ》勢《せい》だが、ないよりはマシだろう。
(素直に受け取ろう、楽しく過ごそう、そうすれば|坂《さか》井《い》君も少しは喜んでくれる)
できるだけポジティブに考える。考えて、今度こそ本当に、自分の誕生日を祝ってくれる皆に振る舞うための料理を選ぼうと本をめくる。来てくれる皆が|美味《おい》しいと思ってくれれば、とても|嬉《うれ》しい。坂井|悠《ゆう》二《じ》が美味しいと言ってくれれば、とてもとても嬉しい。
(坂井君には、笑ってて欲しい)
そうして、皆と笑い合いたい。もちろん、ライバルであるシャナとも。
そのとき、
ガチャリ、とドアが開いて、パジャマ姿の少年が入ってきた。
|面《おも》差《ざ》しは|吉《よし》田《だ》と似ているが、目が少々|釣《つ》り上がっていて、受ける|印《いん》象《しょう》は|随《ずい》分《ぶん》と違う。
「なんだ|姉《ねえ》ちゃん、またブルー入ってんの?」
弟・吉田|健《けん》だった。
三つ違いの中学一年生。姉とは|対《たい》照《しょう》的な、はしこい少年である。
「また、は|余《よ》計《けい》でしょ」
「じゃあ、長々と?」
少し|膨《ふく》れる姉を背に、健は冷蔵庫を開ける。
「もう。これでも少しは短くなってるんだから」
「どーだか」
ジュースのパックを取り出した少年は取り合わず、|水《みず》屋《や》からコップを出した。
「姉ちゃんってばさ、積んでる本の量と顔色で、どれくらい沈んでるか、|一《ひと》目《め》で分かるんだよなー。なんか、見え見えっつーか」
「余計なお世話です」
結局、姉が大いに膨れてしまう、いつもの姉弟の|口《くち》喧《げん》嘩《か》……その最後に、
「そう、かな」
ズケズケものを言う弟らしくない、|妙《みょう》な返事が来た。
「ま、今日はまだ……マシな方みたいだけど」
「?」
吉田は弟の態度に、ようやく|違《い》和《わ》感《かん》を覚えた。
自分の悩みについて、からかう軽さではなく、絡むような細かさで、弟が|指《し》摘《てき》したことは、今までなかったように思う。目の前でコップへとジュースを|注《そそ》ぐ弟に、声をかける。
「健?」
「……」
健が[#「健が」に傍点]、|即《そく》答《とう》しない。彼女と目を合わせるのを避けるように冷蔵庫にパックを戻し、そのまま振り向かない。
ほんの|僅《わず》かな|沈《ちん》黙《もく》を経て、
「|姉《ねえ》ちゃん」
|健《けん》は|妙《みょう》に|平《へい》淡《たん》な声で答えた。
「俺、今日、学校の帰りに大通りのゲーセンにいてさ」
「うん……?」
|吉《よし》田《だ》は、弟が何を言おうとしているのか、さっぱり分からなかった。
テーブルに片手をかけた健は、さり気ない|風《ふう》を装って、言う。
「そっから出たときに、見たんだ」
「なにを?」
「あの『写真の|兄《にい》ちゃん』が、別の女と一緒にケーキ屋に入ってくの」
「あ……っ」
吉田は弟の勘違い[#「勘違い」に傍点]に、思わず息を呑んでいた。
「なんか、すんげえ仲良さそうだった」
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2 たくらみ
吉田健は、軽い|口《く》調《ちょう》を装って、姉に|訊《き》く。
「その、『写真の兄ちゃん』と一緒にいた子、姉ちゃんは知ってるのか?」
|半《なか》ば以上の確信を持って、それでも吉田|一《かず》美《み》は問い返す。
「|坂《さか》井《い》君と、一緒に……どんな子、だったの?」
声の|上《うわ》擦《ず》る理由が、単なる弟へのばつの悪さなのか、自分の知らない坂井|悠《ゆう》二《じ》ともう一人の少女の行動を知ったことへの|動《どう》揺《よう》なのか、自分でも分からない。
健はテーブルにもたれて(まだ腰掛けられるほど背は高くない)、思い出す風に手を|顎《あご》に当てる。どこか|芝《しば》居《い》がかっていて、わざとらしかった。
「えっと、ちっちゃくて、髪の長い……まあ、|可愛《かわい》い子だった、かな」
(やっぱり)
吉田は、心に重しのかかるような事実を、なんとか受け止める。
その子の名はシャナ。
|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》を巡り、自分と張り合っている、|異《い》能《のう》の|討《う》ち手・フレイムヘイズたる少女。
「『写真の|兄《にい》ちゃん』――サカイっての? 彼女付きだったんだ」
まったく、|健《けん》の口ぶりには|遠《えん》慮《りょ》というものがない。
その一方的な決め付けに、|吉《よし》田《だ》は|頬《ほお》を|僅《わず》かに|膨《ふく》らませて|抗《こう》議《ぎ》する。
「か、彼女なんかじゃ、ないよ……シャナちゃんは」
「そうは言うけどさ」
姉の、僅か、というだけの抗議の姿に、なぜか健は|苛《いら》立《だ》ちのようなものを覚えた。自分でも気付かぬ間に、姉を|挑《ちょう》発《はつ》するような、あてつけがましい|口《く》調《ちょう》になる。
「写真の兄ちゃん、その『シャナちゃん』と楽しそうに話してたぞ。買ったケーキを分けるとか分けないとか」
実のところ、そのシャナと悠二の会話というのは――
「いくら|物《もの》欲《ほ》しそうに見ても、分けたげないわよ」
「べ、別にそんなこと、思ってないよ」
「|嘘《うそ》。悠二はモンブランが大好きだって|千《ち》草《ぐさ》が言ってた」
「それを知ってて、僕の前で五つも六つも買うか?」
「欲しくなったから買っただけ。でも絶対分けたげない」
「あのなー」
――などという、非常にさもしい会話だったのだが、距離を開けて見聞きしていた健にはそこまでの|詳《しょう》細《さい》は分からない。ただ、二人の近しい|雰《ふん》囲《い》気《き》を感じ取っただけ、その|印《いん》象《しょう》をまま、姉に伝えただけだった。
「彼女でもなけりゃ、そんな話しないんじゃないの?」
「そ、それは……」
吉田は言い|澱《よど》む。弟が口にしたのは、単なる印象だった。|理《り》屈《くつ》で否定するのは難しく、その持ち合わせもない。自分の覚えている感情が、ただの反発にしか過ぎないものであることも分かっている。が、それでも言葉は|湧《わ》き上がった。胸の奥から、熱く激しく。
「とにかく違うの!」
「っ!?」
健は目を丸くして、キョトンとなる。
普段は|穏《おだ》やかな姉による、この強気の|反《はん》撃《げき》は、弟を相当に驚かせたようだった。
抑えきれなかった気持ちを話相手にぶつける、そんな自分の行動に、今度は言った吉田自身が驚いた。|慌《あわ》てて謝る。
「あ、ご、ごめん……|怒《ど》鳴《な》ったりして」
ところが、怒鳴りつけられた(というほどの迫力はなかったが、吉田自身はそう思った)健は突然、ニヤリと笑った。
「ははーあ」
「な、なに?」
その、意地の悪そうな、人の心を|見《み》透《す》かしたような弟の笑いに、姉はこれまで一度もやり返せたことが無かった。果たして|健《けん》は今度も、|図《ず》星《ぼし》を突く。
「さては、そのサカイって|奴《やつ》を、シャナちゃんって子と取り合ってるわけだ」
「!!」
|吉《よし》田《だ》の顔が、驚きの上に|羞《しゅう》恥《ち》の|朱《あか》を加える。
「よく考えてみりゃ、毎日|弁《べん》当《とう》まで作ってやってたもんなー。ファンパーにもデート行ってたみたいだし。なるほどなるほど、|姉《ねえ》ちゃんには珍しい、積極的なアピールってわけだ」
「そ、あ、でも……」
「たしかに、違う女を彼女なんて言ったら『ちがうのお〜!』って叫びたくもなるか」
「うう……」
しきりに|感《かん》嘆《たん》するふりをしてからかう健に、吉田は口答えの一つもできない。
これまでは、『写真の|兄《にい》ちゃん』の件でからかわれるのは悪い気分ではない、むしろ照れくさくも|嬉《うれ》しいことだった。しかし今は、写真をネタにした軽い会話[#「軽い会話」に傍点]とはいえ、『|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》』のことを実際に知られた、シャナという少女と張り合っていることを知られた、その上でのからかいである。恥ずかしくてたまらなかった。しばらくはこのネタで|弄《いじ》られることを|観《かん》念《ねん》する。
と、|健《けん》が続けて、そんな姉の|懸《け》念《ねん》を先取りするように言う。
「んで、さっそく自分のお誕生会にでも招待して、二人っきりで甘い夜を過ごすつもり、と」
「えっ、あ!」
|吉《よし》田《だ》は、自分が悩みの内にめくっていた料理のタネ本から、自然と取り分けていた数冊の表紙に『誕生日のお料理特集』、『お誕生日に喜ばれるメニュー』等の文字があることに気が付いた。自分の誕生日は|明後日《あさって》である。秘めていたはずの想い、隠していたはずの計画を見破るヒントを自分で並べていたことに、思わず頭を抱えたくなる。
「|姉《ねえ》ちゃんって、ホントなんでも見え透いてるんだよなー」
「べ、別に、二人っきり、ってわけじゃ……みんなと一緒にするんだから」
弟の痛い|指《し》摘《てき》にも、小声で|弁《べん》解《かい》をするのが|関《せき》の|山《やま》という、|威《い》厳《げん》の|欠片《かけら》もない姉だった。
「でも、|本《ほん》音《ね》は二人っきりがいいんだろ?」
「健!」
吉田の怒る振りは、ケンカを終わらせるいつもの合図である。事情が多少変わっても、この効果は幸い、同じだった。
|慣《かん》例《れい》通りに健は笑って逃げる。もちろん捨て|台詞《ぜりふ》は忘れない。
「けっこーけっこー、恋せよ|乙女《おとめ》ってやつ?」
コップを放り出して、彼はようやく台所から駆け去った。
「もう」
残された吉田は、珍しくしつこく絡んできた弟への|不《ふ》審《しん》を一瞬だけ抱き――しかしすぐに忘れて――机の上に積み重なった料理の本を片付け始めた。
その外、
「……」
健は廊下に突っ立っていた。その表情は、台所にあったときの|生《なま》意《い》気《き》そうな笑顔ではなく、|不《ふ》機《き》嫌《げん》に|顰《しか》められている。
姉から離れた|途《と》端《たん》、|滲《にじ》んでくる気持ちがあった。
(……なんか、ムカつく)
姉に対してではない。
(サカイ、か)
姉の言っていた男[#「男」に傍点]に対しての、腹立ちである。
(よりにもよって、姉ちゃんみたいなのを、他の女と|天《てん》秤《びん》にかけてる、ってか)
彼|自《じ》身《しん》にとって、全く|意《い》外《がい》な気持ちだった。
今まで、こんな気持ちを『写真の|兄《にい》ちゃん』に対して抱いたことはなかった。
姉に|彼《かれ》氏《し》がいる、あるいは、そう言ってるだけで|憧《あこが》れているに過ぎない(憧れるほどの|美《び》男《なん》子《し》か、とは思っていたが)のだとしても、それはそれで姉の|勝《かっ》手《て》だと全く無視して、からかいの材料|程《てい》度《ど》にしか思っていなかった。
ところが今日の夕方、そいつ[#「そいつ」に傍点]が別の女と親しげに話し、一緒に歩いている光景を見た|途《と》端《たん》、自分でも|意《い》外《がい》な……驚くほどの|動《どう》揺《よう》を感じた。そして今、姉にその|真《しん》偽《ぎ》を問い|質《ただ》して、一緒にいた小さな、しかしやけに|凄《すご》みのある|可愛《かわい》い子が、本当に奴[#「奴」に傍点]を間に挟んだライバルであると確認したことで、動揺は怒りに変わった。
彼氏だというのなら全然許せた。
というより、どうでもよかった。
いくらでも勝手にイチャついていればいい、と思っていた。
しかし、相手の男が、姉を誰か他の女と比べていたり、そのために姉を|辛《つら》い目に|遭《あ》わせているとなれば、話は全く別なのだった。
感情が怒りに変わった後に、自分がそう思っていたと気付いた。
とにかく、サカイとやらが気に食わない。
(まさかあいつ[#「あいつ」に傍点]、姉ちゃんにいいように尽くさせといて、シャナちゃん、だったか……その子にも同じように……)
わざと悪い方に考える。
(比べるどころか、|二《ふた》股《また》かけてるんじゃないだろうな)
|無《む》根《こん》拠《きょ》、完全な|邪《じゃ》推《すい》である。
であると分かっていて、なおも怒りを激しく燃やす。
|敵《てき》愾《がい》心《しん》を、まるで自分から|煽《あお》るように|膨《ふく》らましてゆく。
理由は分からなかったが、悪いことだとは思わなかった。
あの姉を、自分が守らなくていったい誰が守るというのか。
あの姉、あんな姉に対し|不《ふ》誠《せい》実《じつ》な|真似《まね》をしているサカイとかいう奴[#「サカイとかいう奴」に傍点]に、任せられるわけもない。むしろ、そのサカイから、サカイの|行《ぎょう》状《じょう》から、姉を守らねばならない。
シャナとかいう子と歩いていた、|文《もん》句《く》を言いつつも楽しそうな、緩んでだらしない顔を思い出して、|眉《まゆ》根《ね》を寄せる。なんとかしなければ、という|衝《しょう》動《どう》に駆り立てられる。
(でも、どうしたら……)
居ても立ってもいられなかったが、具体的になにをするか、ということまでは思いつかない。|迂《う》闊《かつ》に動いて姉を泣かせるような結果に……仲を|険《けん》悪《あく》にしてしまったりしては、元も子もない。サカイ自体は、全く、|完《かん》璧《ぺき》に、気に食わない|奴《やつ》だというのに。
(|姉《ねえ》ちゃんを、サカイを……つまり、なんだ……?)
結局自分がなにをしたいのか分からなくなり、|健《けん》は|俄《にわ》かな混乱に陥る。
と、その中で不意に、
(そうだ!)
とある少女、よく家に遊びに来る姉の知り合いの顔が、|脳《のう》裏《り》に浮かんだ。
(あの人に相談してみよう)
そう心に決めて、|健《けん》は階段を上がっていった。
シャナは、存在を喰われて死んだ、|平《ひら》井《い》ゆかりという少女の存在に割り込み、|己《おのれ》の身分を|偽《ぎ》装《そう》している。当座の|居《きょ》宅《たく》もその自宅たるマンションの一室であり、ともに喰われたらしい家族の消えた後は、一人暮らしとなっていた。
ここに、彼女の|養《よう》育《いく》係であったフレイムヘイズ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』ヴィルヘルミナ・カルメルが訪れ、諸事情から同居するようになって、少し|経《た》つ。
一人暮らしだった頃は(|坂《さか》井《い》家に入り|浸《びた》っていたこともあって)|必《ひつ》要《よう》最小限のものしか備えていなかった|殺《さっ》風《ぷう》景《けい》な部屋も、ヴィルヘルミナ|来《らい》訪《ほう》以降は、普通の家庭ほどに飾り気も生まれている。
今、かつて『本物の平井ゆかり』のものだったシャナの部屋に、|零《れい》時《じ》を過ぎた|夜《や》半《はん》にもかかわらず、一人の来客の姿があった。
「|粗《そ》茶《ちゃ》ですが」
正座して、紅茶を|淹《い》れたカップとモンブランケーキの皿を載せた|盆《ぼん》を差し出したのは、ヴィルヘルミナ、
「はいっ、すいません!」
同じく、こちらは|座《ざ》布《ぶ》団《とん》の上に正座して、ペコリとお|辞《じ》儀《ぎ》で返したのは、夜中に自転車を飛ばして平井家を訪れた|緒《お》方《がた》真《ま》竹《たけ》である。
「はむ、もむ」
シャナはその|傍《かたわ》ら、机の前の|椅《い》子《す》に座って、さっそく自分に出されたモンブランケーキを満面の笑みで|頬《ほお》張《ば》っている。
今日買って帰った六つの――帰った直後にヴィルヘルミナと一つずつ、|晩《ばん》御《ご》飯《はん》後のデザートにまた一つずつ食べた――残り二つである。|悠《ゆう》二《じ》にはあげなかったが、緒方になら簡単にご|馳《ち》|走《そう》する気になれた。
「それでは、どうぞごゆっくり」
「はい!」
|襖《ふすま》を閉めてヴィルヘルミナが去ると、緒方は|覿《てき》面《めん》に体から力を抜き、
「……ふう」
目の前にある盆を見て、ぽりぽりと困った|風《ふう》に頬を|掻《か》く。
彼女は人生の師・理想の女性と仰ぐマージョリー・ドーを佐藤家に訪ねた際、一緒に飲んでいる給仕|服《ふく》の女性と何度か|遭《そう》遇《ぐう》して|顔《かお》見《み》知《し》りとなっていた。ただ、|快《かい》活《かつ》を|旨《むね》とする彼女には、その|杓《しゃく》子《し》定《じょう》規《ぎ》な|佇《たたず》まいや|堅《かた》苦《くる》しい|雰《ふん》囲《い》気《さ》が少々|窮《きゅう》屈《くつ》に感じられるものらしい。
対して、小さな頃からヴィルヘルミナと暮らしていたシャナは、当然のように自然体である。ようやくくつろいだ|風《ふう》の|緒《お》方《がた》に軽く言う。
「食べないの? |美味《おい》しいよ、んむ」
言って、また|頬《ほお》張《ば》った。
「あ、うん。もらうね」
輝くような笑顔を見せるクラスメイトに緒方は答え(彼女は|紅《ぐ》世《ぜ》≠ノついての|事《こと》柄《がら》をなにも知らない)、|慌《あわ》ててケーキの皿を取る。
「でも、いいのかなあ……|玄《げん》関《かん》先《さき》で立ち話するだけ、のつもりだったんだけど」
「ヴィルヘルミナは、お客様をお持て成しするのが好きなの」
「ふうん」
そういえば、と緒方は、ヴィルヘルミナについて『堅苦しい人』という感想を漏らした自分を、マージョリーが笑ったことを思い出す。
(――「そりゃ、観察|眼《がん》が|未《み》熟《じゅく》なだけ。彼女は私よりよっぽど優しいわよ。単にその優しさが相談役に向いてないってだけのこと」――)
意味を図りかねながらも、彼女はマージョリーの言うようなヴィルヘルミナ[#「マージョリーの言うようなヴィルヘルミナ」に傍点]をなんとか見出そうと|傾《けい》注《ちゅう》していたが、それでもやはり、実際に顔を合わせると|緊《きん》張《ちょう》が先に立ってしまう。やはりそう簡単に、|師《し》匠《しょう》の|域《いき》には届かない。
(優しい、か……そりゃ、悪い人じゃない、ってことくらいは分かるけど)
つい考え込んでいた緒方に、
「|迷《めい》惑《わく》だった?」
人の気分を|慮《おもんばか》ることをようやく覚え始めた少女は、感じたことをストレートに|尋《たず》ねた。
|意《い》外《がい》な問いに緒方は驚き、大きく首を振る。
「えっ? う、ううん! 全然そんなことないよ。ただ、家には、『ちょっとコンビニに行ってくる』って言って出てきたからさ。ほら、あんまり女の子がゆっくりしてっていい時間でもないでしょ?」
変に|饒《じょう》舌《ぜつ》な答えを受けたシャナは、
(でも――)
部屋に通されたことで、用件を|簡《かん》便《べん》に伝える以上の時間を|浪《ろう》費《ひ》している。
|御《み》崎《さき》市における夜間の|治《ち》安《あん》情勢は、人間の少女が一人で出歩くには、少々|危《き》険《けん》である。
|虚《きょ》偽《ぎ》報告によって外出|許《きょ》可《か》を得た彼女が、帰宅の遅いことで家族から|不《ふ》審《しん》を抱かれる。
等々の事項は、彼女にとって|都《つ》合《ごう》の悪いことであるはず。
(――それは迷惑ってことじゃないのかな?)
と|対《たい》人《じん》関係に|疎《うと》い身で、|率《そっ》直《ちょく》に|遠《えん》慮《りょ》の|修《しゅう》辞《じ》を|検《けん》証《しょう》する。そうして結局、検証した上で得た|矛《む》|盾《じゅん》に|納《なっ》得《とく》できないまま、また率直に|尋《たず》ねる。
「それで、用件はなに?」
「うん」
|緒《お》方《がた》は|頷《うなず》いて、ようやくの本題に入る。
「|一《かず》美《み》の誕生日のこと。なにか、特別なプレゼントをあげよう、って思いついてさ。で、善は急げ、ってことで真夜中に自転車飛ばしてきたわけ」
「特別?」
シャナは、|悠《ゆう》二《じ》を巡って戦う強大な敵(と彼女は|捉《とら》えている)たる|吉《よし》田《だ》一美に対して、|悪《あく》感情は持っていない。どころか、むしろ彼女の素朴で|穏《おだ》やかな性質を好いてさえいた。
そんな彼女の誕生日である。
緒方が来る直前、|坂《さか》井《い》家での夜の|鍛《たん》錬《れん》から帰る道すがら、ヴィルヘルミナに誕生日とはなにか、誕生パーティーでは普通どんな|催《もよお》しをするのか、等を|訊《き》いていた。それは祝うべき行事であること、親しい者はプレゼントを贈ること、等も理解した。
悠二に関することで|譲《ゆず》る気は全くなかったが、それ以外で彼女を喜ばせるのは、大いに|結《けっ》構《こう》だと思っている。明日にでも、|千《ち》草《ぐさ》かヴィルヘルミナに、なにを贈れば喜ばれるのかを改めて尋ねようと考えていたところだった。
その予定を、緒方が繰り上げて持ってきたわけである。
「そう、特別。せっかくだから、ずっと思い出として残るようなのを」
「……どんなこと?」
ひたすら実質|本《ほん》位《い》で、|思《し》考《こう》や|観《かん》念《ねん》においても|装《そう》飾《しょく》というものに|無《む》縁《えん》なシャナは、|抽《ちゅう》象《しょう》的な表現で語られても、いまいちピンと来ない。
それなりの日月、彼女と付き合ってきた緒方も、言う間に気が付いた。目の前でキョトンとしている、同性から見ても|可愛《かわい》らしく感じる女の子にも分かるよう、提案を具体的に、|簡《かん》潔《けつ》に言い直す。
「ズバリ、料理!」
「?」
まだ分からないようなので、さらに分かりやすく。
「私たち二人で、一美に|美味《おい》しいものを作ったげるの」
「えっ」
ようやくの理解に|辿《たど》り着いて、シャナは驚きの声をあげた。
緒方はその驚く|様《よう》子《す》に満足しつつ、自分のプランを|披《ひ》露《ろう》する。
「なにかある|度《たび》、一美にはご|馳《ち》走《そう》を作ってもらってるでしょ。だから、たまには私たちの方で、美味しい料理を振る舞ってあげようって思ったわけ。どう?」
ほとんど|不《ふ》審《しん》のように、シャナは|訊《き》く。
「そんなものでいいの?」
|緒《お》方《がた》は少し|心《しん》外《がい》な|風《ふう》に答えた。
「そんなもの、ってことないでしょ。そりゃ、たしかに|一《かず》美《み》に比べたら……っていうか、まあ私も、あんまり、そっちは得意じゃ……ないけどさ」
常の彼女らしくない歯切れの悪さは、提案に説得力を与える料理の|腕《うで》前《まえ》が、いま一つ二つ足りないことを表している。とりあえず、|心《こころ》意《い》気《き》だけで|抗《こう》弁《べん》などを試みる。
「出来がどうであれ、心を込めた贈り物ってのは|嬉《うれ》しいものなの」
「……」
言われて、シャナは少し前、自分が|悠《ゆう》二《じ》に弁当を作ってあげたときのことを思い出す。
悠二の母・|千《ち》草《ぐさ》の指導の下、|頑《がん》張《ば》ってフライパンを振るった|甲斐《かい》あって、悠二は大喜びで弁当を食べてくれた(実際の感想が見た目と正反対だったことを彼女は知らない)。あれは個人的にも、火力を抑えることのできた自信作だったが、そんな自分自身の感情以上に、悠二の態度から満足感と誇らしさ、嬉しさを得ることができた。
たしかに、悪い提案ではないように思える。
「なんとなく、分かる」
緒方は同意を受けて、得意げに笑った。
「でしょ? |下手《へた》に高級なプレゼントあげるよりも、そっちの方が一美も喜んでくれそうな気がするんだ」
この提案、実は|懐《ふところ》 具合がさほど|芳《かんば》しくないという、 彼女|自《じ》身《しん》にとっての|裏《うら》事情もあったのだが、ともあれシャナにとっては望むところである。
「うん」
「よっし! じゃ、明日の放課後に二人で|特《とっ》訓《くん》して、|明後日《あさって》の誕生パーティーの日に本番、ってことでどう?」
|無《む》論《ろん》、これにも|異《い》存《ぞん》はない。
「分かった」
「決まりね。で、なに作る? やっぱ、オーソドックスにケーキとか――」
「メロンパン」
シャナは|語《ご》尾《び》に重ねるように|即《そく》答《とう》した。
「……」
「……?」
二人、数秒|見《み》詰《つ》の合ってから、緒方が訊く。
「……誕生日に?」
「……ケーキでいい」
|渋《しぶ》々《しぶ》、シャナは提案を|撤《てっ》回《かい》した。
翌日、部活を軽い顔出し程度で切り上げさせてもらった|緒《お》方《がた》は、大急ぎでシャワーを浴びるや、鳥の飛び立つような早足で学校を出た。
向かう先は|坂《さか》井《い》家である。
(よーし! まずは材料の買い出し、と……坂井君ちの近くに、その手のお店はあったかな? それとも商店街に回った方がいいかな?)
当初、彼女としては|邪《じゃ》魔《ま》者《もの》の人らなさそうな|平《ひら》井《い》家で、全てに|厳《げん》正《せい》的確であるように見えるヴィルヘルミナ・カルメルに、ケーキの作り方を聞こう、指導を受けよう、と思っていた(そのお願いも兼ねて、平井家を訪れたのである)。|家《か》政《せい》婦《ふ》なのだから当然、料理もできると思っていたのである。
ところが意外なことに、申し出を受けたヴィルヘルミナは、
「少々、難しくありますな」
とだけ言って、そそくさと逃げるように自分の部屋に引きこもってしまった。
どうやら、料理だけはからっきしダメであるらしい。普段出す食事もほとんどがレトルト食品、|得《とく》意《い》料理はサラダと|湯《ゆ》豆《どう》腐《ふ》、というあたりから、その腕前は|推《お》して知るべしである。
この意外な事実を知り、|困《こう》じ果てた緒方に、シャナが、
「じゃあ、|千《ち》草《ぐさ》に教えてもらえばいい」
と提案し返したのだった。
言われて気付けば、いつぞや|御《み》崎《さき》神社に遊びに行った際、あの優しく|温《おん》和《わ》な女性には|美味《おい》しいお弁当をご|馳《ち》走《そう》になっている。|悠《ゆう》二《じ》に、|四《し》苦《く》八《はっ》苦《く》料理する|様《さま》を見られるかもしれないのが|難《なん》点《てん》と言えば難点ではあったが、今日は彼も|吉《よし》田《だ》へのプレゼントを買いに出かける、とのことである。特別な問題はなさそうに思えた。
(あっ、そうだ! たしか|副《ふく》道《どう》脇《わき》に、新しいスーパーできたんだっけ……そこに寄ってけばいいかな)
ポケットから、材料をメモした紙片を取り出して確認する。
今日は誕生パーティーに参加する他の皆、|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》や|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》、|池《いけ》速《はや》人《と》らも、それぞれ用意するものがあるということで、各人バラバラに帰っている。
なんだか自分だけ出遅れたような気にさせられていた緒方は、スラリと長い足を|小《こ》気《き》味《み》良く振り、乾かす間を惜しんだ髪を|残《ざん》暑《しょ》の風に|靡《なび》かせ、大通りを行く。
と、そこに、
「あっ! あの――」
大通り沿い、屋根つきバス停で待っていたらしい|人《ひと》影《かげ》が、声をかけてきた。平均よりも背の
高い|緒《お》方《がた》から見て、かなり|小《こ》柄《がら》な少年である。
「あれっ……|健《けん》君じゃない?」
|吉《よし》田《だ》家に遊びに行くようになってから、何度も一緒にゲームなどをして|顔《かお》見《み》知《し》りになっている吉田|一《かず》美《み》の弟・健だった。
「どしたの、こんなとこで。お|姉《ねえ》ちゃんなら、今日はもう帰ったと思う、けど?」
言う間に、気が付いた。
なんだか今日の彼は、姉をからかって遊ぶ、明るくてはしこい少年、という常の感じではない。その硬い表情の中、重たげに|唇《くちびる》が開く。
「いえ、今日は、姉ちゃんのことじゃ……あ、違わないのか……」
口の中だけで、モゴモゴと声を転がすように言った。
「?」
いよいよもって、らしくない。
緒方は、そんな少年の|様《よう》子《す》を|不《ふ》審《しん》に思い、改めて|訊《き》き直す(例え急いでいる時であっても、困っている者を|邪《じゃ》険《けん》に扱わないのが、彼女の美点である)。
「なにかあったの?」
「はい、その……」
|促《うなが》されても、健はなかなか言葉を|濁《にご》して答えない。が、やがて|躊躇《ためら》いがちに、おずおずと本題を口にした。
「|姉《ねえ》ちゃんのカレ……いえ、その……」
言い|辛《づら》そうに口ごもる|様《さま》を見せて待たせること数秒、ようやく意を決して声を出す。
「サ、サカイって、どんな|奴《やつ》なんですか?」
「えっ」
|緒《お》方《がた》は、思わず|素《す》っ|頓《とん》狂《きょう》な声をあげていた。
|一《いっ》旦《たん》口にして楽になったのか、次の質問は素早く、|単《たん》刀《とう》直《ちょく》入《にゅう》に来る。
「そのサカイは、シャナって子と、どういう関係なんですか?」
「え、えー、と……それは……」
今度は、緒方が返答に困って立ち尽くした。
弟が友達を問い詰めているのと反対側、学校に近接する商店街に、姉の|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》はいた。
|傍《かたわ》らに在るのは、|渦《か》中《ちゅう》の|元《げん》凶《きょう》・|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》――ではない。
「へえ、スーパーよりずっと安いな」
メガネマンこと|池《いけ》速《はや》人《と》である。|八百屋《やおや》の店先に並んだ、普段の|登《とう》下《げ》校《こう》ではただ通り過ぎるだけの背景に初めて注目した彼は、その安さに驚いていた。
「これも四個でいいんだっけ、吉田さん?」
明日の誕生パーティーで出す料理の材料を書き記したメモを手に、吉田が|頷《うなず》く。
「うん。重かったら言ってね、池君」
「まだ|全《ぜん》然《ぜん》大丈夫だよ」
答えた池は、右手に学校の|鞄《かばん》、左手に店|備《そな》え付けの買い物|籠《かご》を|提《さ》げている。
吉田と家の近い彼は、プレゼントの|一《いっ》環《かん》、彼女へのお祝いのオマケとして、明日たくさん出されるだろう料理の材料|買《かい》出《だ》しを申し出ていたのだった。
悠二に対するよりやや近しい調子で、吉田は何度目かのお礼を言う。
「本当にありがとう」
その笑顔にも、|肩《かた》肘《ひじ》張《は》らない自然さがあった。
彼女にとって、池は対等に会話できる、|唯《ゆい》一《いつ》の男友達なのだった。
反対に、池の吉田に対する感情は、実のところかなり複雑なもの[#「複雑なもの」に傍点]がある。もっとも、それを|表《おもて》に出すほど、彼は不安定な人間ではない。いつものように接して、いつものように言う。
「いいよ。明日のついでってことで」
「じゃあ、ご|馳《ち》走《そう》して、お返しするから」
「それは素直に楽しみだな」
笑って池は、自分が普段寄っているスーパーに比べてかなり安いジャガイモを、買い物籠に放り込んだ。荷物はそれなりに重かったが、ここは男という|見《み》栄《え》っ|張《ぱ》りな生き物として耐える。持ちやすいよう、手の握りを直しつつ|尋《たず》ねた。
「この後さ」
できるだけ、さり気なく。
「駅前のアクセサリーショップに行こうと思ってるんだけど」
「え、|池《いけ》君が? 珍しいね」
本気で感心する|吉《よし》田《だ》に、池は|苦《く》笑《しょう》を漏らす。
「そうじゃなくて、吉田さんの誕生日プレゼントを買いに行くってこと」
「あっ――」
吉田は自分の返答の|間《ま》抜《ぬ》けさを恥じ、また思いもしなかった親切に驚く。
「なにか希望はある?」
「私、いいよ、そんなの」
|慌《あわ》てて手を振る彼女だったが、池もさすがにこの頼みだけはきけない。
「いいわけないよ。|折《せっ》角《かく》の誕生日なんだ、むしろ大いに希望を述べて欲しいな」
「でも……」
「|遠《えん》慮《りょ》はこの際、要らないよ」
「う、ん」
ようやく吉田は|頷《うなず》く。済まなさそうに。
「僕は|意《い》外《がい》性よりは確実性で行きたいからね。気に入ってもらえるデザインを選べるかどうかはともかく、ジャンルくらいはご期待に沿いたいわけ」
言われて彼女は少しだけ考え、やがて遠慮がちに答えた。
「じゃあ……アクセサリーとはちょっと違うけど、ハンカチなんか、あると|嬉《うれ》しいかも」
あまり高いものにならないように、という彼女なりの|気《き》遣《づか》いを察しつつ、池は軽く頷く。
「りょーかい。こりゃ、意外とセンスの問われるお題だな」
「ありがとう、池君」
「お礼を言うのはまだ早いよ。とりあえず、今持ってるこれ[#「これ」に傍点]を吉田さん|家《ち》に運んでから、聞こうかな」
「うん」
二人は|微笑《ほほえ》みを交わし、歩いてゆく。
|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》の家は、かつて地主|階《かい》級《きゅう》であった人々が|集《しゅう》 住《じゅう》する|旧《きゅう》 住宅地でも、|指《ゆび》折《お》りの|豪《ごう》邸《てい》である。かつて彼はここで、家事をハウスキーパーに任せた独り暮らしをしていた。かつて、というのは、数ヶ月前に|居《い》 候《そうろう》が一人、家に転がり込んだからである。
その|居《い》 候《そうろう》とは、他でもない『|弔《ちょう》詞《し》の|詠《よ》み|手《て》』マージョリー・ドー。 |前《まえ》裾《すそ》を|縛《しぼ》ったワイシャツに|膝《ひざ》までのスラックスという、いかにもいい|加《か》減《げん》な|即《そっ》興《きょう》の|格《かっ》好《こう》をすら、|貫《かん》禄《ろく》のごり押しで着こなす|異《い》能《のう》の|討《う》ち手は今、
「う〜、ん……」
メジャーカップを手に、一つの実験を行っていた。|夏《なつ》特有の白けた夕日の差し込む室内は、|静《せい》寂《じゃく》に|緊《きん》迫《ぱく》を加えた|厳《おごそ》かさの中にある。
「……もう、ちょっとなのよね」
周りに並べられているのは、メモにグラスにバースプーン、|果物《くだもの》にナイフに|搾《しぼ》り器にアイスペール……ここは、広大な|佐《さ》藤《とう》家の中にある室内バーだった。カウンターとバックバーを備えた本格的な作りで、ごく最近、工事が行われて|水《みず》場《ば》も付いた。
「……あとは、ライムの量だと思うわけよ」
|伊達《だて》眼鏡《めがね》越しの鋭い視線でカップの傾きを調整し、|一《いっ》滴《てき》一滴を計りつつ、シェーカーへとライムの搾り汁を|注《そそ》いでゆく。
部屋には他に、ソファ一式とクローゼット|数《すう》揃《そろ》い、大きな|姿《すがた》見《み》等が置かれている。彼女は、この室内バーを佐藤家における|居《きょ》室《しつ》と勝手に定め、|御《み》崎《さき》市における活動|拠《きょ》点《てん》としていた。
と、その|傍《かたわ》ら、バーカウンターの上に置かれた、|画《が》板《ばん》を|纏《まと》めたような大きさの本が、
「ヒッヒッ、半日かけて、ようやくレシピ一つ完成か。まったくご苦労なこったぜ、我が|執《しっ》拗《よう》なる|鯨《げい》飲《いん》者《しゃ》、マージョリー・ドー?」
と|耳《みみ》障《ざわ》りな声で|喚《わめ》いた。声の|主《ぬし》は|蹂《じゅう》躙《りん》の|爪《そう》牙《が》<}ルコシアス。マージョリーと契約し、|異《い》能《のう》の力を与える|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ナある。
常の彼女であれば、|相《あい》棒《ぼう》が意思を|表《ひょう》出《しゅつ》させる本型の|神《じん》器《ぎ》グリモア≠乱暴に|叩《たた》くところだが、今は|慎《しん》重《ちょう》にも慎重を重ねる作業の途中である。
「お黙り、バカマルコ」
と、小さく、ゆっくり、|呟《つぶや》くのみだった。
「|黄《おう》金《ごん》率《りつ》の探求は、カクテル飲みの|醍《だい》醐《ご》味《み》なの、よ……」
|繊《せん》細《さい》優《ゆう》雅《が》な指先が、|精《せい》密《みつ》機械のようにメジャーカップを傾け、完成に向かう、最後の一滴を加えようとする。そのとき、
「たーだ今帰りました!」
「ちやーっス!」
ドカン、と、
「っ!」
扉を開けて入ってきた佐藤と|田《た》中《なか》の大声に押されるようにつんのめったマージョリー、その手元で、ライムの搾り汁が全部、シェーカーの中に注がれた。
「……」
静止ボタンを押されたように固まる彼女を、
「ヒャーッハハハハハブッ!?」
大きく笑い飛ばしたマルコシアスが、|鞭《むち》のようにしなる腕に払われて吹っ飛んだ。ドでかい本であるグリモア≠ヘそのまま、狙いすましたかのように、
「んごわっ!?」
「どはっ!?」
現れた二人にぶち当たり、廊下へと|諸《もろ》共《とも》に転がり去った。
「あー、もー!」
マージョリーは頭をガシガシと|掻《か》いて、|栗《くり》色《いろ》の髪を掻き混ぜる。
少しして、放り出された廊下、ドアの|端《はし》からおずおずと、
「あ、あのー」
「|姐《あね》、さん?」
もう一度二人が|覗《のぞ》き込んでみると、マージョリーはカウンターの中で|眉《まゆ》根《ね》を寄せて、投げやりにシェーカーを振っていた。|不《ふ》機《き》嫌《げん》さも|露《あらわ》に口を開く。
「別に、怒ってないわよ」
「キィーッヒヒヒ、顔はそう言ってなブッ!?」
佐藤が抱えていたグリモア≠ノ、アイスが|弾《だん》丸《がん》のように打ち込まれた。
「ったく、一言多いのよ」
「また、カクテル作ってたんですか?」
カウンターの散らかり具合を見た|田《た》中《なか》は、ようやく自分たちが彼女のお楽しみを|邪《じゃ》魔《ま》したらしいことに気付いた。その|証《しょう》拠《こ》のように、
「そう、作ってたの[#「作ってたの」に傍点]」
と|大人気《おとなげ》なく過去形を強調した声が返ってくる。もっとも、不機嫌ではあっても、その言うとおり、怒りの|深《しん》刻《こく》さはない。二人は胸を|撫《な》で下ろし、ようやく部屋に入った。
佐藤|啓《けい》作《さく》と田中|栄《えい》太《た》は、|美《び》貌《ぼう》貫《かん》禄《ろく》、強さと恐さを併せ持つフレイムヘイズたる彼女に|憧《あこが》れ、その|子《こ》分《ぶん》を|自《じ》称《しょう》している。称するだけでなく、色々と自分たちなりの|猛《もう》勉強とトレーニングを行って、子分たるに|相応《ふさわ》しい存在になろうとしていた。
学校から帰っての読書もその一つである。
「田中、あれ、ちゃんと買ったか?」
「ああ」
内容こそ|雑《ざつ》学《がく》の方面に|偏《かたよ》ってはいるものの、彼女と出会ってからの数ヶ月で、それなりの量をこなし、また量に見合った(あまり役には立ちそうもない)知識を蓄えている。
が、それでも今日、ソファに座った彼らが取り出した本は、マルコシアスを驚かせた。
「よう、ご両人。ノンジャンルっつっても|程《ほど》があるんじゃねえか?」
言われて、|佐《さ》藤《とう》が|苦《く》笑《しょう》する。
「ああ、これか?」
彼が手にしていたのは女性ファッション雑誌、
「違う違う、今日のは、プレゼントを選ぶための本だよ」
|慌《あわ》てて手を振った|田《た》中《なか》が持っていたのは、アクセサリーの専門書だった。
「プレゼントォ? こないだマタケにやったばかりだろ。ご両人、|意《い》外《がい》にもてんだな。それとも、誰かに迫る気かあ?」
ガタガタと騒がしく身を揺するグリモア≠ノ、佐藤は肩をすくめて見せた。
「残念ながら、そーいうのじゃないんだな」
「明日……マルコシアスも知ってるだろ、|吉《よし》田《だ》ちゃんの誕生日でさ」
田中も言って、本を開く。
「オガちゃんにあげたみたいなアクセサリーにするか、もっと普通っぽい感じの、別のなにかにするか、|姐《あね》さんにも話を|訊《き》こうと思ってさ」
「つーか、女の子へのプレゼントなんて、俺らにはよく分かんねーし……」
佐藤から、期待の|籠《こも》った視線を向けられたマージョリーは、シェーカーから|注《そそ》いだ、ライム入りすぎのカクテルを|一《いっ》気《き》飲みして、少し考える。
「ヨシダ? ああ、カズミのことね」
|緒《お》方《がた》と比べて回数こそ少ないものの、ごくたまに|深《しん》刻《こく》な顔で相談に訪れる――主に|紅《ぐ》世《ぜ》≠ニ人間の関わりについての助言を得るため――押しの弱い少女のことを思い出した。
「ふうん、あの子のバースデー・パーティーやるんだ」
「さーぞかし|炎《えん》髪《ばつ》灼《しゃく》眼《がん》の|嬢《じょう》ちゃんの周りは騒がしくなんだろうなあ、ヒッヒッヒ!」
なんだか自分たちには見えない所まで見通しているようなマルコシアスに、
「どーだろな」
と返してから、佐藤は改めて|尊《そん》敬《けい》する|女《じょ》傑《けつ》に|尋《たず》ねる。
「なんなら、マージョリーさんも出席しますか?」
「とりあえず、オガちゃんは誘いに来ると思いますよ」
田中も続けたが、当の本人はカウンターに|肘《ひじ》を着いて鼻で笑う。
「ふん、ジョーダンでしょ。なんで私が、少年少女のホームパーティーなんかに出なきゃなんないのよ」
やっぱり、と少年二人は肩を落とす。実のところ、緒方にかこつけた自分たちからの誘いだったわけだが、その程度の|魂《こん》胆《たん》はお見通し、以前にそもそも行く気は全くないようだった。
(ま、ダメ元だったしな)
(そうそう|上手《うま》くは行かねーか)
と、当面[#「当面」に傍点]は|諦《あきら》めて思う二人の頭上に、|古《ふる》臭《くさ》い|響《ひび》きの、キンコーン、という音が鳴った。佐藤家の|呼《よ》び|鈴《りん》である。
「ん――?」
|佐《さ》藤《とう》が本から顔をあげた。
|田《た》中《なか》が腰を浮かしかける。
「俺が出ようか」
「いいよ。プレゼント選んでてくれ」
言って、|家《や》主《ぬし》たる少年は廊下に出てゆく。
家の仕事を受け持つハウスキーパーの|老《ろう》婆《ば》たちは、彼らの|帰《き》宅《たく》前後に|昼《ちゅう》謹《きん》を終えて帰ってしまうので、夜の来客への|応《おう》対《たい》は、必然的に彼がやることとなっている。
|旧《きゅう》住宅地には、土地|柄《がら》としてセールスマンなどはやって来ない。恐らく郵便物でも届いたのだろう、と田中は思い、言われた通り、アクセサリーの本をめくる。
「オガちゃんのときも、全然分かんなかったんだよなあ」
「ヒーッヒッヒッ、マタケ|嬢《じょう》ちゃんは、おめえから|貰《もら》ったもんなら生ゴミだって|祭《さい》壇《だん》に飾るだろうさブッ!?」
「|乙女《おとめ》の気持ちを生ゴミに例えたりするんじゃないわよ、バカマルコ」
再びアイスを鋭く投げつけられて、グリモア≠ヘ黙った。
そうして、マージョリーはレシピのメモに英語の走り書きを記し、田中はアクセサリーの本に目を落とすという、不意な|静《せい》寂《じゃく》が室内バーに訪れる。
ややの間を置いて、佐藤の帰ってくる足音が廊下から|響《ひび》くと、
(ん? ……|妙《みょう》ね)
マージョリーは|不《ふ》審《しん》げな顔を上げた。
足音が、彼一人だけのものではない。もう二組、来客用スリッパの音がパタパタと鳴っているのを、フレイムヘイズの鋭い聴覚が捉えていた。
キイ、と扉が開いて、|戸《と》惑《まど》いを顔に表した佐藤が入ってくる。
「あのー」
「誰?」
すでに彼だけでないことは分かっているので、マージョリーは残る二人が誰なのか、というところから質問を始めた。
答える前に、見慣れた顔が戸口から顔を出す。
「こんにちは、マージョリーさん」
「なんだ、マタケじゃない」
マージョリーは拍子|抜《ぬ》けした。
現れたのは、|僅《わず》かに|緊《きん》張《ちょう》した|様《よう》子《す》の|緒《お》方《がた》だった。
(ん?)
しかし、それならそれでおかしい。この二人という組み合わせなら、からかい合い笑い合って廊下をやってくるはずだった。つまり、|佐《さ》藤《とう》に|戸《と》惑《まど》わせ、|緒《お》方《がた》を|緊《きん》張《ちょう》させているのは、残るもう一人の来客である。
緒方が廊下の方を見て、
「さ、大丈夫……相談に乗ってくれる、いい人だから」
と|促《うなが》す。
|相《あい》棒《ぼう》がグリモア≠|僅《わず》かに揺すり、笑いをこらえている気配を|不《ふ》愉《ゆ》快《かい》に思いつつ、その来客の入ってくるのを待つ。
ようやく、パタリ、とスリッパを鳴らして|小《こ》柄《がら》な影が、戸口に現れた。
「……?」
|田《た》中《なか》も、初めて見る顔に|怪《け》訝《げん》な|面《おも》持《も》ちとなる。
気の強そうな|容《よう》貌《ぼう》に、僅かな|怯《ひる》みの色を浮かべた、彼らより|幾《いく》つか幼い少年だった。
マージョリーは、最も基本的な質問を、この来訪者に投げかける。
「あんた誰?」
少年は|背《せ》筋《すじ》を伸ばし、大きな声で答えた。
「はじめまして! |吉《よし》田《だ》健《けん》っていいます!」
[#改ページ]
3 いたずら
その日は皆、|微《び》妙《みょう》によそよそしい。
|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》も|池《いけ》速《はや》人《と》も、佐藤|啓《けい》作《さく》に田中|栄《えい》太《た》、緒方|真《ま》竹《たけ》、シャナでさえ、一人の少女に対し、|不《ふ》可《か》視《し》の|薄《うす》壁《かべ》を|隔《へだ》てるような態度で接している。それはひんやりとした|疎《そ》外《がい》ではなく、むしろ逆の、うずうずするような|弾《はず》みの|蓄《ちく》積《せき》と|隠《いん》蔽《ぺい》だった。
少女・吉田|一《かず》美《み》の誕生パーティーは、いよいよ今夜である。
「じゃ、私たち、先に帰るからねー!」
手荷物を提げた緒方が言って、友達の手を|空《あ》いた方の手で取った。
その友達・シャナは戸惑いと驚きを表して、しかし逆らわずに|連《れん》行《こう》されてゆく。
「ひ、引っ張らなくても――」
「勢い勢い! さ、早く!」
ドタバタと教室から出てゆく二人を見送って、佐藤がクックッと笑った。
「オガちゃん、またやけに熱入ってんな」
少女二人が、|吉《よし》田《だ》へのプレゼントとして、誕生パーティーに出すケーキを作ることは、すでに参加者|一《いち》同《どう》へと伝わっている。それはある意味、今日一番の|見《み》物《もの》と言えた。
「こういう|賑《にぎ》やかなの、好きだからな」
|田《た》中《なか》は言ってから、うーむ、と|唸《うな》る。
「シャナちゃんと組んで、か。どんな|代《しろ》物《もの》ができんだろな……こういうの、アレだ、なんて言ったっけ、えーと、ヘビがどうとか」
「|鬼《おに》が出るか|蛇《じゃ》が出るか?」
|即《そく》答《とう》した|池《いけ》に向き直り、指を差した。
「そうそう、それだ」
|鞄《かばん》を取った|悠《ゆう》二《じ》が、|苦《く》笑《しょう》して言う。
「ひどいなあ。せっかく吉田さんに喜んでもらおう、って張り切ってるのに」
「そりゃー、そうだけど、なあ?」
「炭の|塊《かたまり》を食べて喜べるかは|微《び》妙《みょう》だろ」
「んー、料理は愛情って言うけど……あれは、ね」
|佐《さ》藤《とう》、田中、池が、|各《おの》々《おの》好き勝手なことを言った。
|緒《お》方《がた》はともかく、シャナの作る料理(と名乗る|黒《くろ》焦《こ》げのなにか)の実態は、彼ら親しい仲間内ではすでに|周《しゅう》知《ち》の事実である。本人が満足げに悠二へと差し出し、食べさせる光景も――その後に彼が見せる『耐える男』の|形《ぎょう》 相《そう》も――もはや一度二度で済まない回数、見ている。 不安にならない方がおかしかった。
それでも、その主な被害者たる少年・悠二は|精《せい》一《いっ》杯《ぱい》の|弁《べん》護《ご》を試みる。
「緒方さんも一緒だし、|母《かあ》さんもフォローするって言ってたから、なんとか、なるんじゃ、ないかな、うん」
その二人による昨晩の|予《よ》行《こう》演習が『|坂《さか》井《い》家に立ち込める|刺《し》激《げき》臭《しゅう》』という結果に終わっていることは、あえて言わない。
「ま、なるようになるか……とりあえず、俺たちも|一《いっ》旦《たん》帰ろうぜ」
弁護が効いたのか、あるいは|諦《あきら》めるしかないと|観《かん》念《ねん》したのか、田中も鞄を手に立った。
「こっちはこっちで打ち合わせもあるしな」
佐藤も|頷《うなず》いて続く。
「吉田さん、お先に」
池が、|窓《まど》際《ぎわ》でコンコンと|咳《せ》き込みながら|黒《こく》板《ばん》消《け》しを|叩《たた》いている吉田に、ひとまずの別れを告げた。今日一日、なんとなく距離を取っていた少女も、|微笑《ほほえ》んで返す。
最後に悠二が、軽く手を振った。
「今晩、またね」
|途《と》端《たん》、
「はい!」
微笑が花の咲くように明るくなる。
本人に自覚はないらしいが、男四人はその喜びの姿に、目を|釘《くぎ》付《づ》けにされた。
皆して思わず|赤《せき》面《めん》すること一秒の後、
「あ痛っ!」
|悠《ゆう》二《じ》は|佐《さ》藤《とう》に肩を、
「痛っ、な、なんだよ!?」
|田《た》中《なか》に背中を|小《こ》突《づ》かれていた。
「別に、|憎《にく》たらしいだけだ」
「そうだな、うん、憎いぞ」
そして、その|傍《かたわ》ら、
「……」
人知れず、小さな|溜《ため》息《いき》を吐く少年が一人。
四人は別れ際、大通りに面した正門で、改めて最後の打ち合わせを行う。
「ふうん。幸い、全員プレゼントは|被《かぶ》らなかったわけだ」
皆から大まかな品目(いちおう、お互い|詳《しょう》細《さい》は|隠《かく》す)を聞いた|池《いけ》が、|安《あん》堵《ど》の声を漏らした。
「昨日、相談とかしてなかったからな。|結《けっ》構《こう》心配だったんだ」
田中が、|周《しゅう》到《とう》すぎる『メガネマン』の|杞《き》憂《ゆう》を笑い飛ばす。
「|貰《もら》う方がそこまで気にするか? もし被っても、両方ともプレゼントなら|嬉《うれ》しいだろ」
「あー、でも」
と佐藤が人差し指を立てる。
「同じものプレゼントして、なんか|見《み》劣《おと》りとかしたら、確かに嫌だなー」
悠二は笑って、池に向き直る。
「結局はバラけたみたいだし、いいじゃないか。で、なにか他に決めることは?」
「いや。僕からは、その|確《かく》認《にん》以外は特に。こういうことは佐藤の方が詳しいだろ。用意するようなものとかあるか?」
頼られた佐藤は、腕を組んで考える。
「そーだな……盛り上げるためのパーティーグッズくらいは|揃《そろ》えとこう。|吉《よし》田《だ》ちゃんがそういうの、買ってるとは思えんし」
「そりゃそーだ。駅前|辺《あた》りに寄ってみるか」
田中が言って、
「細かい品目はいいだろ。各人、テキトーに行きがけにでも探すように」
池がまとめ、
「分かった。集合、遅れないようにな」
|悠《ゆう》二《じ》が答えて、パーティーに招待された男四人は、再びの集合に備えるため、解散した。
一方、同じくパーティーに招待された女二人、シャナと|緒《お》方《がた》は、自宅には戻らず、|坂《さか》井《い》家に直行していた。
「ごめんくださーい!」
|呼《よ》び|鈴《りん》を押すと同時に声をかけると|程《ほど》なく、
「はーい」
トタトタと廊下をやってくる音と気配がして、すぐ扉が開いた。
「いらっしゃい。待ってたわよ、二人とも」
柔らかな声とともに、和やかな笑顔の女性が顔を出す。悠二の母・|千《ち》草《ぐさ》である。
「用意はしてあるから、さっそく取り掛かりましょうか」
「ん」
半年からこの家に出入りするシャナは軽く、
「お|邪《じゃ》魔《ま》します」
慣れていない緒方は|畏《かしこ》まって答え、|玄《げん》関《かん》に靴を|揃《そろ》える。
ちなみに、緒方が|提《さ》げている荷物は、パーティーのための着替えで、ケーキ作りの材料ではない。その手の準備は前日に|万《ばん》端《たん》整えている(足りなくなったもの、足りなくなりそうなものは、千草が|今朝《けさ》の内にこっそりと買い増しに出ていた)。
時間ギリギリまでケーキを作り、着替え等の|支《し》度《たく》も坂井家で行う、というのが二人の計画だった。もちろん、提案したのは千草である。
「じゃ、昨日決めた通りに|分《ぶん》担《たん》しましょうね」
その千草が言って、二人をそれぞれの戦場へと案内する。
緒方は台所、シャナは食卓のある、続きの居間である。
昨日、とある用事[#「とある用事」に傍点]から、やや遅れて坂井家にやってきた緒方と、張り切って千草と準備し待ち構えていたシャナは、予行演習という名の|惨《さん》劇《げき》、食材に対する最大限の|侮《ぶ》辱《じょく》、二つの|試《し》練《れん》を経て、一つの方針を定めていた。
|即《すなわ》ち、
ケーキのスポンジ部分は緒方が、
飾り付け部分はシャナが担当する、
というものである。
シャナは火を使わせるといかなる品目も|十《じゅっ》 中《ちゅう》八《はち》九《きゅう》 十《じゅう》、『|黒《くろ》焦《こ》げのなにか』に変えてしまうのだから、この|担《たん》当《とう》区分は|至《し》極《ごく》妥当な配置と言えた。|緒《お》方《がた》は|特《とく》段《だん》、料理の|腕《うで》前《まえ》に|長《た》けているわけではない……どころかケーキ作り自体、実は初めての経験だった。が、それでもシャナよりは任せられる[#「任せられる」に傍点]、と|千《ち》草《ぐさ》は判断したのである。
シャナは自分より遥かにその道を極めている女性の判断を(|渋《しぶ》々《しぶ》と)支持した。今はただ、自分に振り分けられた作業、飾り付けの方に全力を|傾《けい》注《ちゅう》するつもりである。それでも、
「まずは、生クリーム作りからね」
そう言って、エプロンとボウルを渡す千草に、
「分かってる。昨日|何《なん》度《ど》もやった」
答えつつ、|僅《わず》か口を|尖《とが》らせてしまう。
もちろん千草は、そんな態度を取る少女を|可愛《かわい》らしく思う。
と、二人の|傍《かたわ》らで、昨日買ったばかりのエプロンを身に付けた緒方が、
「よーし、私も……お願いします!」
まるで部活のように、大きく鋭く叫んだ。
千草は変わらず笑って、ポンと肩を|叩《たた》く。
「緒方さん、そう力まないで。お|菓《か》子《し》作《づく》りは気軽に楽しく、ね?」
「はいっ! ……あ」
「ふふ、それじゃあ、まずは昨日の復習からね。スポンジケーキ作りで注意することは、覚えてる?」
「はいっ、|生《き》地《じ》を型に入れるとき、真ん中に集まらないように――」
「千草、変な色になった」
「……シャナちゃん、なに混ぜたの?」
|偉《い》大《だい》なる主婦による|督《とく》励《れい》の元、少女二人の|奮《ふん》闘《とう》が始まった。
ところでもう一人、商店街にある喫茶店の|片《かた》隅《すみ》で、
「……」
「どう? できるでしょ?」
|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》の誕生パーティーに向けた準備に|余《よ》念《ねん》のない少年がいた。
「……」
「ふむ。なんとか、なるでありましょう[#「でありましょう」に傍点]」
吉田の弟・|健《けん》である。
「……ホント、ですか? 俺――僕の考えてたのは、もっと簡単な……」
「ま、たしかに信じられないでしょうけど、このオネーサン、そういうことは名人級なのよ。私を紹介したマタケに|恥《はじ》かかすような|真似《まね》はしないから、安心なさい」
「|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》嬢《じょう》には、いつぞや|迷《めい》惑《わく》をおかけした借りが、あるのであります。お返しという意味で、今回の件における協力は、むしろ望むところであります」
彼は、彼個人の準備とともに、一つの計画を、とある女性らと|密《ひそ》かに進めていた。
「はあ……よろしく、お願いします」
「はーいはい。んで、私はどーやって参加すればいいのかしら」
「|貴女《あなた》はごく普通に、正面から入場すればよろしいのであります」
姉の誕生パーティーにおける、一つの計画を。
「それじゃ僕、家で待ってます。え、と……」
「いーわよ、払っとくから」
「でも」
「どうぞ、ご|遠《えん》慮《りょ》なきよう。これも、お返しの|一《いっ》環《かん》であります」
とある、二人の女性らとともに。
夕飯時というにはやや遅い、午後八時前。
街灯が明るさを主張し始めた|御《み》崎《さき》市《し》商店街には、客よりも|家《いえ》路《じ》を急ぐ会社員の姿が目立つようになっている。
|軒《のき》を連ねる店々は、御崎市東側の|繁《はん》華《か》街《がい》などとは違って、個人商店が主であるため、午後八時を店|仕《じ》舞《ま》いの|刻《こく》限《げん》とする所も多い。
この、人通りも|疎《まば》らとなった通りの西口(学校の|塀《へい》沿いに出る東口と反対側)に、ラフな私服|姿《すがた》の少年四人が、最後に合流する少女二人を待っていた。言うまでもない、
「こーいうイベントってのはさ、バラバラに訪ねたりしたら|微《び》妙《みょう》にシラけんだよ。全員で一気に|賑《にぎ》やかに押しかけようぜ」
|佐《さ》藤《とう》、確信を持っての提案を受けた、|悠《ゆう》二《じ》らパーティーに参加する男性|陣《じん》である。
この待ち合わせの提案者である佐藤が、|襟《えり》の中に首を|疎《すく》めて言う。
「|坂《さか》井《い》、ケーキ、どれくらいできてたんだ?」
まだまだ|残《ざん》暑《しょ》の残る季節ではあったが、夕暮れも過ぎた後に吹き行く風が、彼らになんとはなしの寒々しさを演じさせていた。
悠二は頭を|掻《か》いて返す。
「出るときは、今にも完成するようなこと言ってたんだけどなあ。すぐ追いかけるから、って|緒《お》方《がた》さんも言ってたし……」
「もう吉田さん|家《ち》に行く時間になるぞ」
|池《いけ》が携帯の時計を見て言った。
|田《た》中《なか》も|顎《あご》に手を当てて|唸《うな》る。
「うーむ、なんとも|捻《ひね》りのない話だ」
結果としては、この場の誰もが予想していた通りの展開となった。
ケーキ作りに|勤《いそ》しんでいるシャナと|緒《お》方《がた》が、集合に遅れていたのである。そのための時間を|余《よ》計《けい》に取っての、やや遅めに集合というスケジュールだった(招待側の|吉《よし》田《だ》に料理を作る|余《よ》裕《ゆう》を持たせるためでもあった)のだが……やはり二人は|悪《あく》戦《せん》苦《く》闘《とう》しているらしい。
「集合に|手《て》間《ま》取《ど》って吉田さんを待たせたんじゃ|本《ほん》末《まつ》転《てん》倒《とう》なんだけどな。|坂《さか》井《い》の家に電話して、まだダメなら、僕らだけで先に行――」
「ごめーん! お待たせ!!」
|池《いけ》の勇み足を、|間《かん》一《いっ》髪《ぱつ》で|緒《お》方《がた》の声が|遮《さえぎ》った。
見れば、商店街の|疎《まば》らな|人《ひと》影《かげ》の間を、少女二人が歩いてくる。
「おーいおい、遅いぞ、二人とも……」
|佐《き》藤《とう》が口を|尖《とが》らせた。尖らせて、そのまま|口《くち》笛《ぶえ》を|吹《ふ》いた。
二人は、|大《おお》袈《げ》裟《さ》過ぎないほどに、しかし疲れて帰路に着く|雑《ざっ》踏《とう》の中で輝くほどに薄く化粧を|施《ほどこ》し、また|着《き》飾《かざ》っていたのである。
緒方は淡い緑を基調にしたパンツルック、シャナは逆にモノトーン|風《ふう》な|柄《がら》のブラウスとプリーツスカートで、背の高低とも|相《あい》俟《ま》った、見事な|好《こう》対照を成していた。それぞれが持つ、ケーキらしい|綺《き》麗《れい》な|包《ほう》装《そう》紙《し》に包んだ箱が、道行く目的を明確に示している。
もっとも、男どもの感性は、それらを表現するには、あまりに|無《ぶ》粋《すい》である。
「また今日は気合入ってんな」
という|田《た》中《なか》の言葉に、緒方はプーッと|頬《ほお》を|膨《ふく》らませた。
「まず『綺麗だな』でしょ?」
遅れて、池が|苦《く》笑《しょう》とともにフォローする。
「うん、よく|似《に》合《あ》ってると思うよ。それはもちろん思うけどさ。今、先に行くかどうか、考えてたとこなんだ。間に合ってよかったよ」
「走ったら振動でケーキが崩れるし、|千《ち》草《ぐさ》も『汗ばんでお化粧が|台《だい》無《な》しなる』って言った」
シャナが実直かつ明快に回答した。
そうして、|悠《ゆう》二《じ》をじっと見る。
「あ、シャナも、綺麗だね、うん」
悠二は期待に背中を|一《ひと》突《つ》きされるように、|頷《うなず》いていた。
その、いかにも適当な反応に、シャナも頬を膨らませる。
そして、
「話すんなら、歩きながらにしよう。もう時間がないからさ」
「よっしゃ、行くか。俺、吉田ちゃん|家《ち》、初めてなんだよな」
池と佐藤が、
「シャナ、ケーキの箱、持とうか?」
「いい。自分で持ちたい」
|悠《ゆう》二《じ》とシャナが、
「で、オガちゃん、結局どうだったんだよ」
「ま、着いてからのお楽しみってとこね」
|田《た》中《なか》と|緒《お》方《がた》が、
ようやくメイン会場へと足を向ける。
ピンポーン、
と芸のない|呼《よ》び|鈴《りん》が鳴って、
「っ!」
リビングで待ち|侘《わ》びていた|吉《よし》田《だ》が、跳ねるように立ち上がった。自分の|格《かっ》好《こう》、飾り気のない|上《じょう》品《ひん》なワンピースという姿を、柱にかけた小さな|鏡《かがみ》で確認して、少し|髪《かみ》飾《かざ》りを直す。
「……よしっ」
小さく|頷《うなず》いて、短い廊下へと出た。
「はーい!」
大きくない声をかける間に着く|玄《げん》関《かん》は、やけに静かである。
(誰か、一人で来たのかな?)
家が近い|池《いけ》君かな、などと思いつつ、ドアを開けたそこには、
「おっ、やっぱめかし込んでるじゃん?」
「……|健《けん》」
毎日|家《いえ》で見ている顔があった。ガックリと肩を落とす。
そんな姉の|様《よう》子《す》に、|密《ひそ》かに、しかしかなりムッと来た健は、からかいながら中に入る。
「そんな顔してたら、そこにいる|坂《さか》井《い》悠二に嫌われるぞ」
「えっ」
顔を上げた先には、暗い夜の玄関のみ。
「|姉《ねえ》ちゃん、引っかかりすぎー」
「もう、健!」
さすがに吉田は怒って、ドアをやや乱暴に閉めた。逃げる弟を追って振り向く、その背中に、
ピンポーン、
と再びの呼び鈴が。
「あっ!」
さっきのドアを閉めた音や自分の|怒《ど》鳴《な》り声 (|客《きゃっ》 観《かん》的にはさほど大きくも無い声である)が聞こえていなかったか心配する。
(落ち着いて、落ち着いて……)
今度こそ、と胸に手を当てて深呼吸し、
「今開けまーす!」
と、ややわざとらしくその場で声を上げてから、ドアを開ける。
「こーんばんは、カズミ」
「マージョリーさん!?」
思いもかけない|美《び》麗《れい》の|女《じょ》傑《けつ》が、なんということもなく|玄《げん》関《かん》先に立っていた。
「来てくださったんですか」
「まー、気が向いちゃったのよね、なんか」
「いよーう、|嬢《じょう》ちゃん。ハッピーバースデー、ヒャッヒャ」
彼女の|右《わ》脇《き》にあるグリモア≠ゥら、周囲に気を配ってか、やや小声のマルコシアスが|挨《あい》拶《さつ》した。
「はい、どうも、ご|丁《てい》寧《ねい》に……、あ、どうぞお入りください」
|戸《と》惑《まど》いがちに、しかしよく恋愛についての相談を|緒《お》方《がた》とともに持ちかけている女性を、内に招く。来客用のスリッパを出した、その前、ドアの閉まる音と重ねるように、
「はい、プレゼントのシャンパン。ノンアルコールだけど」
ドン、と大きな|瓶《びん》の|束《たば》が置かれる。
「あ、ありがとうございます」
驚く彼女を|他所《よそ》に、マージョリーは周りを見る。家そのものではなく、来訪者の|有《う》無《む》を気配に確かめて、鼻をフンと鳴らした。
「|連《れん》中《ちゅう》、まだ来てないのね」
少女が待っていた、そのことを、それだけで、それゆえに、|憤《いきどお》る。待たせた仲間たち、特に一人の少年の仕打ちに、|呆《あき》れの|溜《ため》息《いき》を吐いた。
「ったく、しようのない」
|吉《よし》田《だ》も察し、|慌《あわ》てて手を振る。
「いえ、約束の時間は――」
ちらり、と|靴《くつ》箱《ばこ》上の置時計を見て、
「――今、ちょうど、過ぎましたけど……」
少しだけがっかりした。
瞬間、
ピンポーン、
と|三《み》度《たび》の|呼《よ》び|鈴《りん》が。
「あっ」
思わずマージョリーを見て、そこから|一《いっ》転《てん》した笑顔を受け取る。本当に今度こそ、とドキドキしながら|玄《げん》関《かん》のドアに手をかけた。
と、その|髪《かみ》飾《かざ》りの位置を、マージョリーがひょいと直した。
|吉《よし》田《だ》は気付き、
「どうも、ありが――」
「いーから」
言う|途《と》中《ちゅう》で|促《うなが》されて、|微笑《ほほえ》み返すだけに止める。マージョリーの、笑顔に手に言葉に勇気を|貰《もら》ったような強い気持ちで、ドアを開けた。
|途《と》端《たん》、
パパパパパパーン!!
と連続したクラッカーの|破《は》裂《れつ》音《おん》が鳴って、
「―ふわぁっ!?」
貰った勇気も|瞬《しゅん》時《じ》に消し飛んだ少女は、|一《ひと》たまりもなく後ろに倒れた。
「おっ誕生日おめでとー!」「おめでとさん!!」「おめでとー!」「おめでとう!」「おめでとう、吉田さん!」「おめでと」
|佐《さ》藤《とう》の|音《おん》頭《ど》に重ねて続けて、|田《た》中《なか》と|緒《お》方《がた》と|池《いけ》と|悠《ゆう》二《じ》とシャナが口々に言い、そして倒れかけた吉田と彼女を支えるマージョリー、二人を見て驚いた。
「マージョリーさん!?」「|姐《あね》さん、なんで?」「|一《かず》美《み》!」「|吉《よし》田《だ》さん、大丈夫!?」「わっ、ご、ごめん吉田さん!」「あっ」
騒がしい来訪者たちに転ばされて、
「――」
しかし吉田はクスクスと笑っていた。
「――、ふふ、あはは」
「大丈夫……みたい、ね」
抱きとめていたマージョリーも、表情に|安《あん》堵《ど》と|等《とう》分《ぶん》に笑みを混ぜ、やがて全員にその表情は伝わっていった。
そうして、招待|主《ぬし》たる少女は――ようやくの、心からの笑顔で、客人たちを迎えた。
「ようこそ。いらっしゃい」
(よし、行くぞ)
|作《さく》戦《せん》開始である。
「あ、今からなんだ?」
さりげなく、廊下の奥から出て行く。
さりげなく、さりげなく、軽く|請《う》け|負《お》う|風《ふう》に。
「|姉《ねえ》ちゃん。俺がスリッパ出すよ」
「そう? じゃ、お願い――あ、弟の|健《けん》です。こっちですから!」
はじめまして、と|挨《あい》拶《さつ》する間に、姉ちゃんはマージョリーさんからプレゼントされたシャンパンを抱えて、リビングに入ってゆく。これで大丈夫。
マージョリーさんが、ドキリとするような|目《め》配《くば》せをして、声をかけてきた。
「あがらせてもらうわよー」
「はい。どうぞ」
その足元に、スリッパを置く。
次に、あの『シャナ』が靴を脱いだ。
「ええ、と――オジャマシマス」
なんだか言い慣れない|平《へい》坦《たん》なアクセントで言う、その足元に同じく、
「……どうぞ」
スリッパを出す。と、目の|端《はし》で、|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》が靴を脱いでいる。
今だ。来客用スリッパの箱の中、別に分けておいた特製品を、何食わぬ顔で。
「どうぞ」
「ありがとう」
|履《は》いて踏み出した瞬間、|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》は、すっ転んで頭を打った。
まずは一つ。
|吉《よし》田《だ》の父母から、『ゆっくりしていってください』、『みんな楽しんでちょうだいね』、という|穏《おだ》やかな|挨《あい》拶《さつ》を受けてすぐ、一同は吉田家のリビングにあるテーブルを囲んで立った。
|上《かみ》座《ざ》に招待者|兼《けん》主役の吉田。
右側に、悠二、シャナ、|池《いけ》。
左側に、|緒《お》方《がた》、|田《た》中《なか》、|佐《き》藤《とう》。
対する|下《しも》座《ざ》に、マージョリー(彼女は吉田の父母から、まるで保護者|代《だい》行《こう》のように扱われ、「これじゃ飲もうにも飲めない」と|愚《ぐ》痴《ち》を|零《こぼ》していた)という席取りである。
|健《けん》はごく普通に家で過ごすように、リビングと続きの台所から、その|様《よう》子《す》を|眺《なが》めている。
「それにしても……」
緒方が、コンプレックスもありありという|風《ふう》に、口を開いた。
「ケーキは私たちが作る、ってこと、前もって言っといて良かったわ」
「ま、この|腕《うで》前《まえ》と競わされちゃあな」
田中の|率《そっ》直《ちょく》な感想にも、反発の声を出せないほどの、それは|豪《ごう》勢《せい》な眺めだった。
テーブルの上には、吉田の作った様々な料理が|所《ところ》狭《せま》しと並べられていたのである。
一口で|摘《つま》めそうなクラッカー類、食べ応えのありそうな|惣《そう》菜《ざい》、|透《す》き通ったスープに切り分けられた|果物《くだもの》類……高級感と|贅《ぜい》沢《たく》さではなく、|手《て》間《ま》暇《ひま》と心|尽《づ》くしからなる品目が|揃《そろ》っている。漂う|匂《にお》いが、|空《くう》腹《ふく》感《かん》を助長させていた。
吉田は少し照れて言う。
「ちょっと、張り切りすぎたみたいで……」
「ちょっと、ね。はは」
さすがのメガネマンが、|感《かん》嘆《たん》に|僅《わず》か|呆《あき》れさえ混ぜて笑った。
悠二もただただ圧倒されるばかりである。
「でも、これはこれで、吉田さんの誕生日らしいかも」
さっき廊下で打った頭を押さえつつ、一番|労《ろう》力《りょく》を使っただろう招待者に笑いかけた。
「そ、そうですか?」
それを受けて、輝くような笑顔になる少女、
(なに平然と『シャナ』を|隣《となり》に立たせてんだよ)
逆に、|不《ふ》機《き》嫌《げん》極まりない|顰《しか》めっ|面《つら》になる少年、
|双《そう》方《ほう》をチラリと見やったマージョリーが、誰とはなしに声をかける。
「|論《ろん》評《ぴょう》は、実際に食べてからにした方が盛り上がんじゃないの?」
それはそうだ、と立ちっ放しだった一同が|椅《い》子《す》を引きかけたとき、
「待った待った!」
こういうイベントだと必ず進行役になる|佐《さ》藤《とう》が、声を張り上げた。
「せっかくマージョリーさんがシャンパン持ってきてくれたんだ、座る前に、一つ|乾《かん》杯《ぱい》といこうぜ!」
「お、いいな」
「さんせー!」
|田《た》中《なか》と|緒《お》方《がた》が|即《そく》座《ざ》に賛同して、|悠《ゆう》二《じ》と|池《いけ》とシャナが、|裁《さい》可《か》を求むべく|吉《よし》田《だ》を見た。
もちろん、拒否の来ようはずもない。
「はい、じゃあグラスを――」
「|姉《ねえ》ちゃん。俺が出すよ」
台所にいた|健《けん》が言って、|戸《と》棚《だな》を開けた。
吉田は、|妙《みょう》に|甲斐《かい》甲斐《がい》しい弟の|様《よう》子《す》に首を|傾《かし》げる。
「今日はずいぶん親切なのね?」
「そんなことないって」
首を振って言う健に、マージョリーが|意《い》地《じ》悪《わる》く笑いかける。
「実はお姉ちゃんのパーティーに混ぜて欲しいんじゃないの?」
「えっ?」
吉田は少し|意《い》外《がい》だった。
弟が、こういう姉の関係する話や催しに立ち入ってきたことは、今までになかった。好き嫌いよりも、少年としての照れ臭さやバツの悪さが先立つのだろう、と思っていた。
しかし、さっきからスリッパやグラスを出したり、台所に用もなく座っていたりと、妙な態度を取っているのも確かである。
「そうなの、健?」
訊いてみると、さらに意外なことに、
「いいかな?」
と|遠《えん》慮《りょ》気味な態度での、許可さえ求めてきた。
友人たちが白けないだろうか、と一同を振り返るが、もちろんそんなことを言い立てる者はいない。池が皆を代表するかのように、
「いいんじゃない?」
と軽く言った。周りも|頷《うなず》いて返す。
「じゃあ!」
健も、わざとらしいほど|朗《ほが》らかに笑って、まるで仲間入りの|儀《ぎ》式《しき》のように、皆にグラスを配ってゆく。
その中、|悠《ゆう》二《じ》もグラスを受け取った。デジャヴを覚えるシチュエーションに、ほんの|僅《わず》か|緊《きん》張《ちょう》する。|玄《げん》関《かん》での|悪《あく》夢《む》が、痛みとして|脳《のう》裏《り》に|蘇《よみがえ》る。
(このスリッパ……なんだかやけに、底がツルツルしてるような……まさか、ね)
そのまさか ――|健《けん》の手による『底に|蝋《ろう》を|摺《す》り込む』などという|古《こ》風《ふう》な|悪戯《いたずら》―― を、可能性としては|捉《とら》えても、実際にそんなことあるわけがない、と|楽《らっ》観《かん》する、お|人《ひと》好《よ》しな彼である。
(……)
グラスになにか塗られていないか、ふと確認して自己|嫌《けん》悪《お》を覚える。
(……はは、馬鹿みたい)
会ったこともない[#「会ったこともない」に傍点]|吉《よし》田《だ》さんの弟に悪戯なんかされるわけがない、スリッパのことも思い過ごしだろう、と彼は常識から結論付けた。
健はその間、
「この私が、ノンアルコールで|乾《かん》杯《ぱい》する|羽《は》目《め》になるとはねー」
とぼやくマージョリーに、最後のグラスを差し出している。
「どうぞ」
言った|刹《せつ》那《な》、その|瞳《ひとみ》が、確認を求め|窺《うかが》うような色、|稚《ち》気《き》を帯びた|弾《はず》むような気配を、僅かに過ぎらせた。もちろん、|特《とく》定《てい》個人にとっての危険なそれらは、他の誰にも見えない。
そしてマージョリーは、
「あんがと」
と一言だけを返した。
やがて、新たに健も加えた全員のグラスにシャンパンが満たされたのを見た|佐《さ》藤《とう》が言う。
「よーし、それじゃ、まずは吉田さん」
「はい?」
「誕生パーティー開会の宣言から、どーぞ!」
「え、ええっ!?」
全く予測だにしていなかったことを求められた吉田は、危うくグラスの中身を|零《こぼ》しかけるほどに|動《どう》揺《よう》した。
「いよっ、待ってました!」
「|頑《がん》張《ば》ってー!」
|田《た》中《なか》と|緒《お》方《がた》が|囃《はや》し立てる。悠二は|暢気《のんき》に笑い、|池《いけ》などは笑って柏手までした。
「え、え、でも……」
口ごもって、その場でオドオドして立ち尽くす。少人数の仲間内とはいえ、他者から注目されることを|苦《にが》手《て》とする彼女にとって、これは十分な|難《なん》業《ぎょう》なのだった。こうして|慌《あわ》てていることへの済まなさまで加わり、混乱に|拍《はく》車《しゃ》がかかる。
なかなか言い出せない彼女に、悠二が|傍《かたわ》らから一言だけ、助け舟を出した。
「今日はありがとう、でいいと思うよ」
|吉《よし》田《だ》は、少年の声に|弾《はず》みと笑顔を|貰《もら》って、
「は、はい」
それでも少し詰まりながら、
「今日は、どうも、ありが、とう……ございます」
ようやく言い切って|一《ひと》息《いき》吐いた。
応えて|佐《さ》藤《とう》が、|正《せい》反対の大声で叫ぶ。
「っしゃ、それじゃ、吉田|一《かず》美《み》さん十六|歳《さい》の誕生日を祝して……カンパーイ!」
皆が|一《いっ》斉《せい》に、少し遅れてシャナも、声を合わせて|唱《しょう》和《わ》した。
「かんぱーい!!」
(まだ、|半《はん》信《しん》半《はん》疑《ぎ》って感じだな)
他が一気に飲み|干《ほ》す中、|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》だけが味を確かめるように、|警《けい》戒《かい》しながらシャンパンを飲んでいる。もちろん、仕掛けなどしていない。
グラスには。
そうして安心させ、皆と予想通りの[#「予想通りの」に傍点]席に着いた瞬間、
ブー、
と、|座《ざ》布《ぶ》団《とん》の下から音が出た。
「えっ!?」
「おい」「悠二、|下《げ》品《ひん》」「ちょっ、ヤダ、坂井君」「坂井……」「おまえなー」「クックッ…」
|大《おお》柄《がら》な人、『シャナ』、|緒《お》方《がた》さん、メガネの人、|賑《にぎ》やかな人のジトッとした|目《め》線《せん》に、マージョリーさんの|忍《しの》び笑いがオマケについた。
坂井悠二は、|慌《あわ》てて立ち上がる。
「い、いや! 違うよ、してないって!?」
|姉《ねえ》ちゃんは、なにが起こったのか分からずキョトンと見上げて、
「あ……」
すぐ、顔を真っ赤にして|俯《うつむ》く。
「だから違うってば! ここに座ったら……あっ!」
坂井悠二が、ようやく|座《ざ》布《ぶ》団《とん》の下から、ブーブークッションを引き出した。
犯人への追及が始まる、その|機《き》先《せん》を制して、さっさと認める。
「うっかり置き忘れてました[#「うっかり置き忘れてました」に傍点]。すいません」
「えっ……そ、そう」
坂井悠二始め、一同は|気《き》勢《せい》を|削《そ》がれる。
「|健《けん》!」
|姉《ねえ》ちゃんだけが怒った。これも予想通り。
「い、いいよ|吉《よし》田《だ》さん。別に」
そう言うだろう。言った以上、話は流れる。
「ま、これもイベントに付き物の、笑えるアクシデントってやつだ。場も|解《ほぐ》れたところで、楽しく飯食おうぜ!」
|賑《にぎ》やかな人が、笑って仕切りなおした。
|上手《うま》い言い訳だ、見習おう。
「そ、それじゃ、どうぞ食べてください」
気を取り直した吉田が言って、パーティーは一見、和やかに始まったが、各々の|心《しん》境《きょう》は複雑である。
「いっただきまーす。お、これ|美味《うま》そう!」
「アスパラのベーコン巻きか。なんか別の野菜も挟んであるな」
|田《た》中《なか》と|佐《さ》藤《とう》は実のところ、健が|悠《ゆう》二《じ》にした|悪戯《いたずら》を、偶然ではない、と当たり前に|認《にん》識《しき》していた。さっき転んだ|経《けい》緯《い》を目の前で見ていた、というだけでなく、少年の開き直った|白《しら》々《じら》しさ、明るさに|透《す》けて見えるわざとらしさは、彼らのよく知る感覚だったからである。
とはいえ、なにを積極的にするでもない。
(あー、やっぱ昨日、佐藤の家まで相談に来たのって、そういうことだったのか)
(こりゃ、止めても|無《む》駄《だ》なんだろーな)
|所《しょ》詮《せん》このことには部外者、|諦《あきら》めと|好《こう》奇《き》の視線でもって成り行きを見守るのみだった。
一方、
「このサーモン、いい香りがするね」
|緒《お》方《がた》は、そう手放しに構えてもいられない。健に悩みを持ちかけられ、マージョリーに紹介したという責任もある。
(マージョリーさん、けしかけるようなこと言ったんじゃ……?)
姉を思いやる彼が悠二を|警《けい》戒《かい》するだろうことは分かっていたが、誕生パーティーにかこつけて、嫌がらせ|紛《まが》いの行為……ではなく、嫌がらせそのものを行うとは、正直、予想外だった。自身の知る限り、|陰《いん》湿《しつ》とは|程《ほど》遠《とお》い性格の子だったし、マージョリーがその手のことを|黙《もく》認《にん》するとも思っていなかったのである。
(せっかく|一《かず》美《み》が、なんの|遠《えん》慮《りょ》もなしに|坂《さか》井《い》君と楽しく過ごせるイベントだってのに……)
まさか弟である健が、その|邪《じゃ》魔《ま》をするとは思いもしなかった。今の立場にある自分が、どうすれば丸く収められるのか、見当も付かない。
(……でも、もう目の前ではやらないよね)
あえて希望的|観《かん》測《そく》にすがってみる。スリッパも仮に|悪戯《いたずら》の|一《いっ》環《かん》だとして、もう|吉《よし》田《だ》には|目《もく》撃《げき》されてしまった。さすがにこれ以上は、姉のためにも|下手《へた》な|真似《まね》はしないだろう。
(そうよね、考えすぎよ、ね……はは)
|逃《とう》避《ひ》のように、そう思う。
そう思えない者も、いた。
「ふうん、このニンジンの妙め物、すごく甘いな。レストランの付けあわせみたいだ」
|池《いけ》の|睨《にら》んだところ、吉田の弟は、まだなにかしでかしそうな|雰《ふん》囲《い》気《き》である。
(理由は……考えるまでもないか)
それにしても、嫌がらせをして|溜《りゅう》飲《いん》を下げるには、いかにも|場《ば》違《ちが》いの|観《かん》があった。姉が最も楽しみたい場面で、姉の好きな人を|酷《ひど》い目に|遭《あ》わせるのは、|徒《いたずら》に姉を悲しませてしまうだけなのではないか。
(お|茶《ちゃ》目《め》、って言うには、どうにもやり口がシビアなんだよな……弟とは仲がいい、って吉田さんも言ってたし、|玄《げん》関《かん》口《ぐち》で少し話した限りは、その通りに見えたけど)
なんにせよ、そのせいで吉田の誕生日が|台《だい》無《な》しになってしまうというのはいただけない。軽い|警《けい》戒《かい》くらいはしておくべきだろう、と思う。
(もっとも、|主《しゅ》導《どう》権《けん》は|健《けん》君にあるから、どこまで意味があるかは分からないけど)
いつしか|癖《くせ》になっている、|密《ひそ》かな|溜《ため》息《いき》を一つ吐いて、
(ホント、なんでこう、変な苦労ばかり、勝手に背負い込んでんだろ)
メガネマンは非常の事態へと備える。
全てを感じていながら、|大《おお》筋《すじ》の意図を|掴《つか》んでなお、なにもする気のない少女がいる。
「あむ、んむ……このピラフ、バターの香りがして、すごく|美味《おい》しい」
シャナは、|悠《ゆう》二《じ》を巡って対立するライバルである吉田を、認めつつも距離を取っている。
個人の性質として彼女を好いているし、仲良くすることにも抵抗はないが、だからといって自分から近付くこともない。今起きていることについての事情を|詮《せん》索《さく》する気も、弟そのものへの興味も特にない。
(まあ、大した害もないみたいだし)
それに、と思う。
(舞い上がってる悠二も、少しくらい痛い目を見た方がいい)
でも、とも思う。
(吉田|一《かず》美《み》が嫌な気分にならなきゃいいけど)
自分と対するときには恐ろしく強くて|頑《がん》固《こ》だが、それ以外の心身への|衝《しょう》撃《げき》にはてんで弱い少女を、よく知っているからこそ、心配する。せっかく皆で集まって楽しんでいるのである。嫌な事件がないに越したことはなかった。
心配して、それでも自分から動く気はない。
(この程度なら、放っておけばいい)
攻撃|自《じ》体《たい》はどうせ、|悠《ゆう》二《じ》に行くのである。
その悠二はといえば、
「あっ、これ、前にお弁当に入れてくれてた|奴《やつ》だね。 ええ、と…… なんだっけ? 温かいとまた別な味がするな」
|悪戯《いたずら》をされたことも忘れて……というより、特に深く考えず、|暢気《のんき》にパクパクとご|馳《ち》走《そう》を|頬《ほお》張《ば》っていた。
弟の悪戯を|突《とっ》発《ぱつ》性のものと思っている|吉《よし》田《だ》は、なにも知らぬまま、
「はい、キッシュです。温かいときはチーズを多めに入れて、ボリュームを増やすんです」
言って、笑って、今という|至《し》福《ふく》の時を過ごす。
それを|下《しも》座《ざ》から、
(さて、どうなることやら)
マージョリーが|眺《なが》めるでもなく眺めていた。
吉田が彼女のために改めて用意した|肴《さかな》 ――軽く|湯《ゆ》掻《が》いて |醤《しょう》油《ゆ》と|摺《す》りゴマをかけたほうれん草――を、一人つまむ。元々おしゃべりに来たわけではなく、見届けに来た[#「見届けに来た」に傍点]のである。そのときを待って、|酒《しゅ》精《せい》のないシャンパンの甘さに閉口しながら、少年少女の会話を聞き流す。
その|端《はし》に、|健《けん》は座っていた。
|微《び》妙《みょう》に混じらず騒がず、ただ黙って。
姉の楽しげな|様《よう》子《す》を、|密《ひそ》かに|覗《のぞ》いて。
様々な|思《おも》惑《わく》を内に秘め、楽しい[#「楽しい」に傍点]誕生パーティーは続く。
皆が料理をそれぞれ|賞《しょう》味《み》した|頃《ころ》合《あい》を見計らって、|緒《お》方《がた》がシャナに|目《め》配《くば》せした。
「|一《かず》美《み》、それじゃあ、そろそろ誕生日|恒《こう》例《れい》の行事に入りたいんだけどー?」
「え? うん」
吉田は察して、テーブルの中央を見る。
皆も同じく、一部に不安混じりの視線を、料理に取り囲まれた二つの箱へと|注《そそ》いだ。
シャナと緒方|謹《きん》製《せい》、吉田へのプレゼントたるケーキである。
「やっぱ誕生日には、これがなくちゃねー」
緒方はうきうきした様子で席を立つ。
「|蝋《ろう》燭《そく》は?」
「|千《ち》草《ぐさ》が用意してくれてる」
吉田に答えて、シャナはポケットから|綺《き》麗《れい》な色合いの、小さな蝋燭を入れたビニール袋を取り出した。この|儀《ぎ》式《しき》についてのレクチャーは受け、|予《よ》行《こう》演習もしっかりと済ませてある。
「|蝋《ろう》燭《そく》をフー、って|奴《やつ》か。高校生にもなってやることか?」
|田《た》中《なか》が無神経に言って、|佐《さ》藤《とう》に|窘《たしな》められる。
「イベントつてのは|趣《しゅ》向《こう》が盛りだくさんであるべきなんだよ」
「そうよ、|白《しら》けること言わないでよねー」
|緒《お》方《がた》も|尻《しり》馬《うま》に乗って|糾《きゅう》弾《だん》した。
「へーへ、すいませんね。どうせ俺は気が利きませんよ」
口を|尖《とが》らせる田中を、|池《いけ》がなだめる。
「まあまあ、やることには賛成だろ?」
そこに、|悠《ゆう》二《じ》が|尋《たず》ねた。
「ところで、気になってたんだけど……二つ[#「二つ」に傍点]あるのはどうして?」
「まあ、その……」
緒方は照れるように頭を|掻《か》いた。
「|一《かず》美《み》とか、|坂《さか》井《い》君のお|母《かあ》さんみたいに、大きくって|見《み》栄《ば》えのいいケーキは、まだできないからさ。小さめのを作ったの」
「みんなで食べるのなら二つにしよう、ってことになった」
シャナも言って、箱に手をかけた。
|慌《あわ》てて緒方も|倣《なら》い、
「じゃ、開けまーす! いち、にの……さん!」
二人は同時に、箱の|上《うわ》蓋《ぶた》を外した。
「おおっ!」
「すげえ!」
「ケーキだ!」
「白いじゃないか痛っ!?」
佐藤が田中が|感《かん》嘆《たん》し、池が驚き、悠二がシャナに|殴《なぐ》られた。
箱の中から、男性|陣《じん》の不安を吹き払うような、真っ白い生クリームの|塊《かたまり》にイチゴを|円《えん》環《かん》状《じょう》に載せた、|簡《かん》素《そ》な|拵《こしら》えの物体が二つ、現れていた。
多少|型《かた》崩《くず》れしていて、生クリームの表面にも|不《ぶ》器《き》用《よう》に塗りつけた|工《こう》程《てい》がありありと|窺《うかが》えるものの、ともかくもケーキという見かけの要件は満たしている。
|立《りつ》案《あん》者として誇らしげに胸を張る緒方、
「どう、一美? なかなかのもんでしょ?」
同じく人に物を贈る誇らしさを抱くシャナ、
「味は私が確認した。甘くて|美味《おい》しい」
二人に見つめられた|吉《よし》田《だ》の|許《もと》に、今度はその周りにいる友達から、大切な人から、
「よっしゃ、今度は俺らの番だな!」「ちょっ、バカ、|一《いっ》斉《せい》にって言っただろ!」「こういうのは勢いだよ、勢い!」「おめでとう、|吉《よし》田《だ》さん!」
|雪崩《なだれ》のように物を押し付けられた。
ケーキと一緒にあげよう、と四人して示し合わせていた、|各《おの》々《おの》のプレゼントだった。
真っ先に差し出した|田《た》中《なか》は、リボンをかけたフライパン。制した|池《いけ》は要望どおり、箱に入ったシックな色合いのハンカチ。前のめりに捧げる|佐《さ》藤《とう》は、マーガレットの小さな花束。そして|悠《ゆう》二《じ》は、なんとも|工《く》夫《ふう》のない、犬のぬいぐるみ。
「田中、誕生日にフライパンはねーだろ」「花束か。そういうプレゼントもあったんだ」「おっ、高そうなハンカチ」「そんなことないって、それより犬の人形って|平《へい》凡《ぼん》すぎだろ」
わーわー言い合う少年らを、今度は、
「ちょっと、あんたたち。騒ぐんなら|一《かず》美《み》にちゃんと渡してからにしなさいよ」「あげる方は逃げないんだから、順番に渡せばいい」
と少女らが諭し、騒ぎに|拍《はく》車《しゃ》をかける。
その中、
「……」
夢のような自分への全て[#「自分への全て」に傍点]に、吉田は胸の詰まる思いだった。
「……」
詰まったそこを越えて、|歓《かん》喜《き》と|感《かん》激《げき》と感謝が、涙となって|溢《あふ》れ出す。
「………………あ……、がと………っ」
止めどなく、震える声と涙が、溢れ出す。
「……あり、がとう……」
「吉田、さん……」
悠二始め、ぴたりと騒ぐのを止めた皆は、しかし謝まらず、|宥《なだ》めもしない。吉田がポロポロと|零《こぼ》す|滴《しずく》が、笑顔の涙と分かるからだった。皆してその姿に、嬉しいと思ってもらえた[#「嬉しいと思ってもらえた」に傍点]、という実感をもらい、照れ臭さと喜びを半々に、胸を熱くする。
と、その中、|緒《お》方《がた》が|唐《とう》突《とつ》に、
「か、一美ったら、大げさなんだから……シャナちゃん、|蝋《ろう》燭《そく》立てよ」
もらい泣きしそうな声を明るく|励《はげ》まして、中断したイベントを続行させる。
「ん」
シャナも、|頬《ほお》が熱くなるのを無視し、努めて平静な態度で、緒方に蝋燭を|半《はん》分《ぶん》渡した。
ケーキ二つに八本ずつ、蝋燭が立てられてゆく。静まった部屋の中、まるで|神《しん》聖《せい》な|儀《ぎ》式《しき》であるかのように、マッチによる火が|点《とも》されてから――緒方が|促《うなが》す。
「一美」
「うん」
その間、皆にクラッカーが配られる。受け取って、|隣《となり》に回して、|吉《よし》田《だ》以外に行き渡る。マージョリー以外、誰も気にしてはいなかったが、配ったのは|健《けん》である。
涙を指先で|拭《ぬぐ》いつつ吉田は立って、自分の前に置かれた二つのケーキ、その上で|不《ふ》思《し》議《ぎ》と周りを暗く見せる、十六の小さな|灯火《ともしび》を見つめる。
「……」
まだ少し涙で|滲《にじ》む、その揺らめきから、一人の少年に目を移した。
少年は涙の微笑に打たれ|陶《とう》然《ぜん》と見つめ返し、その隣にある少女は気に食わないながらも『今くらいは』と見て見ぬふりをする。
そうして吉田は、想いを胸に|溜《た》めるように息を吸い、
「――ふぅっ」
小さく緩やかな|吐《と》息《いき》で、灯火を消す。
一度では足りず、
「ふぅっ」
涙混じりの照れ笑いを混ぜた二度目で、十六の灯火は全て消えた。
(いよいよ、か……)
どうやらパーティーの進行役を|自《じ》認《にん》しているらしい、|賑《にぎ》やかな人が、
「誕生日おめでとー!!」
叫んでクラッカーをパンと鳴らした。
「おめでとう!」
続いて|大《おお》柄《がら》な人やメガネの人、|緒《お》方《がた》さんに『シャナ』、|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》が次々と続いて、大きな音と声で|姉《ねえ》ちゃんを祝福する。その中、マージョリーさんは少しだけ笑って、指先でクラッカーを|玩《もてあそ》んでいる。
(よし)
どことなく、自分に|促《うなが》している、ように思う。
(やるぞ)
もちろん、勝手な|妄《もう》想《そう》だ。
「……」
一秒二秒遅れて、皆が騒音で耳を|麻《ま》瘴《ひ》させた|隙《すき》を突く。手にした自分の|得《え》物《もの》、|火《か》薬《やく》だけでなくテープや|紙《かみ》吹雪《ふぶき》などの中身までも増量して、容器も一巻き多く固めたという、特製のクラッカーを、坂井悠二に向ける。
「……――」
その瞬間、『シャナ』がこっちを|睨《にら》んだような気もしたが、構わない。
|邪《じゃ》魔《ま》されないままに、グイと|紐《ひも》を引っ張る。
「――っ!!」
バァン!
という|凄《すご》い音とテープの束が、
「わあっ!?」
|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》の顔面を|直《ちょく》撃《げき》して、ひっくり返らせた。
|姉《ねえ》ちゃんが叫ぶ。
「坂井君!!」
やるつもりだった。
やって、しまった。
仕掛けたイベントは、あと一つ。
|騒《そう》音《おん》に|痺《しび》れた空白の中、一同が、起きた事件を|反《はん》芻《すう》する。
今度こそ、間違いなかった。
幸せ|一《いっ》杯《ぱい》な|雰《ふん》囲《い》気《き》を破壊する|所《しょ》業《ぎょう》。
|健《けん》による、坂井悠二への|悪戯《いたずら》……否、嫌がらせだった。
|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》は改めて健の意図を確認し、|緒《お》方《がた》は悪い予感が当たったことに|絶《ぜっ》句《く》する。|池《いけ》は結局なにもできなかった自分に|憤《ふん》慨《がい》した。シャナは無害とたかを|括《くく》って動かなかったことを|悔《く》やみ、マージョリーは、ただ知らん顔。
悠二は倒れたまま、|呆《ぼう》然《ぜん》としている。体に|怪《け》我《が》らしい怪我はなかったが、受けたショックで|僅《わず》かに放心していた。
そして、
「……」
|吉《よし》田《だ》は、
「……」
涙を流して、
「……健!!」
怒っていた。
さっきとは違う涙を流して、肩を震わせて、心の底から、怒っていた。
「!」
驚いて目を見張る健に、ゆっくりと歩み寄る。涙を流しながら、怒りの表情もそのままに。|弁《べん》解《かい》しょうと思った|緒《お》方《がた》、|宥《なだ》めようとした|池《いけ》、二人に身動きを取らせないほどに、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》は怒りで|一《いっ》杯《ぱい》になっていた。
|覚《かく》悟《ご》して待つ|健《けん》の前に、立つ。
(ふう、ん……『健の馬鹿!』って泣き|喚《わめ》いて逃げなかったな)
健は気弱な姉が、これまで見せた怒りの姿を一つずつ、|脳《のう》裏《り》に巡らせてゆく。
(じゃあ……『どうして、こんな|酷《ひど》いことするの!』かな)
逃げたり、泣いたり、|平《ひら》手《て》打《う》ちしたりの、感情を爆発させた姉の姿を。
(それとも……『健なんか嫌い!』かな)
巡らせて、その中から来るだろう、自分への|断《だん》罪《ざい》を待つ。
「健」
「……」
涙を流す姉を、弟は見上げる。
「直して」
「…えっ?」
見上げた先で待っていた静かさ、意味|不《ふ》明《めい》な言葉、これまでにない態度、全てに|面《めん》食《く》らう弟へと、姉は示す。
指で、テーブルの真ん中を。
テーブルの真ん中にある、ケーキを。
「直して」
「あ……」
テーブルの真ん中で、特製クラッカーが吐き出した紙テープと|紙《かみ》吹雪《ふぶき》に|塗《まみ》れた、シャナと|緒《お》方《がた》からのプレゼントであるケーキを。
泣きながら、しかし強く、吉田は言う。
「お願いだから、直して」
「……」
ようやく正気に戻り、身を起こした|悠《ゆう》二《じ》が、
「つ、つ……、ぁ――!?」
全く今さら、|深《しん》刻《こく》な事態のあることを知る。
姉弟は、|余《よ》人《じん》の入り難い|対《たい》峙《じ》の中にあった。
他の面々が、長すぎるほどに長く感じた、しかし実際には|僅《わず》か十秒ほどのそれは、
「……」
「……分かったよ」
健の一言で、ようやく解けた。
怒り、震える姉の横を通って、緒方の|傍《かたわ》らから、テーブルに手を伸ばす。
「ごめんなさい、|緒《お》方《がた》さん、シャナ……さん」
「う、うん」
「……」
|戸《と》惑《まど》う緒方、黙っているシャナ、二人を見るでもなく、|健《けん》は自分の|仕《し》出《で》かした|惨《さん》事《じ》の|後《あと》始《し》末《まつ》を行う。
生クリームの上にへばりついた紙テープを、イチゴに降りかかった|紙《かみ》吹雪《ふぶき》を、一つずつ、型崩れしないように取り除いてゆく。
その作業が終わる|寸《すん》前《ぜん》、今まで|傍《ほう》観《かん》していたマージョリーが、不意に口を開いた。
「で、どうなの?」
答えて健が、
「はい[#「はい」に傍点]」
と一言だけ。
気まずく張り詰めた空気の中で交わされた会話、その意味を、誰も理解できなかった。二人の|仲《ちゅう》介《かい》をした緒方、その|様《よう》子《す》を見ていた|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》らも、『やっぱり二人には、なにか示し合わせるところがあったのか』と改めて確認しただけである。
やがて、始末を終えた健は、手に取った紙テープと紙吹雪を台所のゴミ箱へと捨て、シンクで手を洗う。
「泣いたり怒ったり、ただキレるだけだろ、って|舐《な》めてたんですけど……なんか、|妙《みょう》に打たれ強くなった感じです。誰のせい……いや、おかげ、なのかな」
弟たる少年は、結局まだ謝っていない人間をチラリと見て、リビングの出口に向かう。
「……健?」
「|姉《ねえ》ちゃん」
|怪《け》訝《げん》な|面《おも》持《も》ちになる姉に、背中|越《ご》しの一言。
「これで、最後だから」
「っ!?」
彼の手が、出口|脇《わき》の壁に添えられている。
その下にあるのが、台所とリビングの照明スイッチだと皆が気付いた瞬間、
|視《し》界《かい》が|暗《あん》転《てん》した。
「健君、やめなさい!」
緒方は健を制止しょラと、|寸《すん》前《ぜん》まで彼の見えた方向に走った。
「危ないって!」
田中は緒方の飛び出す気配を感じて、その肩を|掴《つか》もうとした。
「マージョリーさん!」
|佐《さ》藤《とう》は|訳《わけ》知《し》りらしいマージョリーの方へと、声を張り上げた。
「|坂《さか》井《い》!」
池は、今度こそはと|悠《ゆう》二《じ》にもう一度|伏《ふ》せるよう手を伸ばした。
シャナは、
(むっ!)
リビングへと|躍《おど》り込んでくる何者かの存在を|察《さっ》知《ち》し、その進路を|遮《さえぎ》ろうとした。遮ろうとして、クルリと|闇《やみ》の中で|視《し》界《かい》が回転、放り出されていた。|驚《きょう》愕《がく》に目を見開く。
「――なっ!?」
悠二は、
(いけないっ!?)
自分が近くにいると、また何か|酷《ひど》いことが起きてしまうのでは、と|咄《とっ》嵯《さ》に考え、|慌《あわ》てて飛びのこうとして――全身をなにか、|紐《ひも》のようなものでぐるぐる巻きに|拘《こう》束《そく》された。
「ぐうっ!?」
一方、闇の中、周りのドタバタした気配に立ちすくんだ|吉《よし》田《だ》は、
(え、えっ?)
その肩と腰を、誰かの手で柔らかく|捕《と》らえられた。固まる間に自分の体が浮き上がり、服を|紐《ひも》解《と》くように脱がされる、代わりになにか別のものを|纏《まと》わされる、|不《ふ》可《か》思《し》議《ぎ》な|感《かん》触《しょく》が数秒の内に通り過ぎてゆく。
「な、な――」
「お静かに」
闇の中から突然、|平《へい》坦《たん》な女性の声で|囁《ささや》かれて、
「!?」
吉田は凍りついた。
その声を聞きつけたシャナが、驚き叫ぶ。
「ヴィルヘルミナ!?」
パチン、
と突然、電灯が|点《つ》いた。
いつの間にか、|緒《お》方《がた》も佐藤も|田《た》中《なか》も池もシャナも……|健《けん》までもが、同じ向きで並ばされていた。一列になった彼らの後ろには、部屋の|端《はし》に付けられたテーブルがある。
そして前には、
輝くような、純白のドレス姿へと|様《さま》変《が》わりした吉田|一《かず》美《み》が、立っていた。
それは、ただのドレスではない。柔らかな花のように広がる|裾《すそ》、頭に載せた薄いベール、|肘《ひじ》までの締まった手袋、そして、手に取ったブーケ――全てが純白の、
ウェディングドレスだった。
その|清《せい》楚《そ》な|佇《たたず》まいに、並んだ一同は|揃《そろ》って言葉を失い、ただ|見《み》惚《と》れる。
「……あっ?」
自分の姿に驚いた|吉《よし》田《だ》は、|慌《あわ》てて周りを見回して、すぐ|隣《となり》に、自分の夢たる姿を見つけた。
「あ、れ?」
同じく自分の|格《かっ》好《こう》に驚く|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》。彼も、純白のタキシードに身を包んでいた。
|唖《あ》然《ぜん》と、その『二人』を見ていたシャナが、
「っ!」
|唐《とう》突《とつ》に我に返って、自分の|傍《かたわ》らに何気なく立っている女性を|睨《にら》みつける。
「ヴィルヘルミナ! どういうこと!?」
マージョリー以外の皆がぎょっとして、ようやくその女性の存在に気付いた。
|丈《たけ》長《なが》のワンピースに白いヘッドドレスとエプロン、|律儀《りちぎ》に吉田家の来客用スリッパを|履《は》いた、情感に乏しい|容《よう》貌《ぼう》の女性である。
やはり情感に乏しい声で、シャナの|養《よう》育《いく》係にしてリボンを|縦《じゅう》横《おう》に|繰《く》るフレイムヘイズ『|万《ばん》条《じょう》の|仕《し》手《て》』たる女性は言う。
「|吉《よし》田《だ》健《けん》氏の|要《よう》請《せい》であります」
「健の……?」
吉田が、皆の並ぶ|端《はし》で、プイとそっぽを向いている弟を見る。
弟たる少年は、|逸《そ》らした先から、明らかに照れ|隠《かく》しという、そっけない|口《く》調《ちょう》で言う。
「ま、ここまで|豪《ごう》勢《せい》なの着せてくれるとは、思ってなかったけどさ」
適当に|着《き》飾《かざ》らせて『写真の|兄《にい》ちゃん』とのツーショットを撮り、それをプレゼントにしてやろう、と当初計画していた少年は、それまではせいぜい|悪戯《いたずら》、嫌がらせをしてやろうと計画していた少年は、マージョリーの紹介で助力してくれた女怪の、あまりに見事な|手《て》際《ぎわ》(フレイムヘイズとしての力を使ったのだから当然ではあったが)に|驚《きょう》嘆《たん》し、同時に感謝していた。
「まあ……あれ[#「あれ」に傍点]くらいやらなきゃ、これ[#「これ」に傍点]と|釣《つ》り合わないだろ?」
吉田は思わず、
「健――!」
|意《い》地《じ》悪《わる》な弟に、抱きついていた。
「わっ!? あ、相手が違うだろ!!」
真っ赤になって|抗《こう》議《ぎ》する健に、しかし吉田は|頬《ほお》を寄せて|頷《うなず》く。
「うん……でも、でも、ありがとう……」
「……ん。誕生日おめでとう、|姉《ねえ》ちゃん」
今度は、その目に涙はない。
|溢《あふ》れているのは、ただ喜びだけだった。
部屋の|隅《すみ》で壁にもたれ、一部|始《し》終《じゅう》を見物していたマージョリーが、|悠《ゆう》二《じ》に向かってニヤリと笑いかける。
「ま、今日くらいはいーんじゃない?」
「はあ……」
頼りなく返す悠二、
「と、いうことであります」
「もう――!」
状況から怒るに怒れないシャナ、
二人を、姉弟を囲んで、皆が笑う。
その中で、吉田は心から、ここにいる皆に、ここにある全てに、言った。
「ありがとう」
吉田|一《かず》美《み》の机の上に、写真立てがもう一つ、増えた。
新しい写真の中に在るのは、皆。
片されたリビングで、結婚式の|一《いち》場面のように|集《つど》う、皆。
ぷーと|頬《ほお》を|膨《ふく》らまして横を向くシャナ、|苦《く》笑《しょう》してそれを|宥《なだ》める|池《いけ》、前に座って皆のプレゼントを掲げる|佐《さ》藤《とう》と|田《た》中《なか》と|緒《お》方《がた》、照れ臭そフに鼻を|掻《か》く|健《けん》、後ろで無表情に立つヴィルヘルミナ、並んで|呵《か》呵《か》大《たい》笑《しょう》しているマージョリー。
そして中央、二人して|盛《せい》装《そう》し、真っ赤な顔で腕を組む、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》と|坂《さか》井《い》悠《ゆう》二《じ》。
弟に|貰《もら》った、皆と撮った、大切な人との、写真だった。
少女の日々は、想いを乗せて巡り行く。
喜びと優しさと、温かさに包まれて。
苦しみも悲しみも超えて、ずっと。
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低い|瘤《こぶ》の群れとも見えるハルツ山地に、霧はない。
|蒼《そう》穹《きゅう》は|爽《そう》快《かい》に雲を|疾《しっ》駆《く》させ、|山《さん》麓《ろく》は|一《いち》望《ぼう》の深緑を敷いている。
その|澄《ちょう》明《めい》な風光の中、白黒の|蝶《ちょう》も共に踊る、|花《か》崗《こう》岩《がん》の突き出し転がった岩場で、
「花が、お好きですか?」
小さく咲いた花を、馬鹿のように|呆《ぼう》然《ぜん》と見下ろしていたらしい。
「っ!?」
背後からかかった女性の声に、|闇《やみ》の|雫《しずく》<`ェルノボーグは不意を突かれた。世界|有《ゆう》数《すう》の規模を持つ|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ軍団[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]|大《だい》幹部『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角、|隠《おん》密《みつ》頭《がしら》の地位に在る者として、あってはならない|失《しっ》態《たい》である。|誤《ご》魔《ま》化《か》し半分に|生《なま》返事をした。
「ん、ああ」
|黒《こく》衣《い》と|黒《くろ》髪《かみ》、|獣《けもの》の耳、|痩《そう》身《しん》に右の巨腕、という|剣《けん》呑《のん》な姿をした|己《おのれ》が、花などに見入っていた、というのは、少々……と言わず、大いに大いに|体《てい》裁《さい》が悪い。なにより、
(もしソカルあたりに知られれば、百年はもの笑いの|種《たね》にされてしまう)
なんとか話を|逸《そ》らす。
「|主《あるじ》は、まだ到着されぬか」
主とは、彼女ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|首《しゅ》領《りょう》、|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズのことである。
声をかけた|徒《ともがら》≠ヘ、自分の問いを流されたことに|頓《とん》着《ちゃく》しない。美女の顔を中心に抱いた花、という|異《い》形《ぎょう》を|僅《わず》か前に傾けて|頷《うなず》く。
「はい、|殿軍《しんがり》よりの脱落者がないか、道具どもの|追《つい》撃《げき》がないか、お気を配られながらの|行《こう》軍《ぐん》ですから……常のように、ゆるりと参られるのでは?」
この|徒《ともがら》≠フ名は|架《か》綻《たん》の|片《ひら》<Aルラウネ。|援《えん》護《ご》や補助の力に|長《た》けた|自《じ》在《ざい》師《し》で、チェルノボーグと同じ『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角たる|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミの|副《ふく》官《かん》を務めている。ちなみに、言葉を疑問系で結ぶのは、彼女の|癖《くせ》である。
「そうか……」
チェルノボーグは短く返し、
「……おまえなら」
|訊《き》こうとして、止めた。
アルラウネは、|隠《おん》密《みつ》頭《がしら》たる|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠フ立場と気質、普段の親交から、止められた問いの内容と意味を、容易に察する(|質《しつ》実《じつ》剛《ごう》健《けん》にして|不《ふ》言《げん》実《じっ》行《こう》、おまけに文字通りな|鉄《てつ》面《めん》皮《ぴ》の持ち主を|上《じょう》官《かん》に持つ彼女にとって、|表《おもて》に出ない意図や感情を|汲《く》み取ることは、副官として|必《ひっ》須《す》の職能でもあった)。
「この花、ですか?」
「いや……」
口だけの否定に、アルラウネはにっこりと笑い返す。
「この花は――」
「待て」
と、解説の出だしに、今度は本気の制止がかかった。
チェルノボーグの耳がぴんと立って、表情も鋭くなっている。
が、これも同じ[#「これも同じ」に傍点]であることが、アルテウネには分かっていた。
|案《あん》の|定《じょう》、カラカラと乾いた足音が、背後の山道から近付いてくる。
「おお、こんな所におられましたか」
「なんの用だ、|痩《や》せ牛」
チェルノボーグの、これ以上ないほど|険《けん》悪《あく》な声に出迎えられたのは、彼女らに負けず劣らずの|異《い》形《ぎょう》。|派《は》手《で》な礼服で着飾った、直立する|牛《ぎゅう》骨《こつ》だった。
|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激N。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角、|宰《さい》相《しょう》の地位にある強大な王≠ナある。が、
「は、はい、実は入城[#「入城」に傍点]の件に関して、ソカル殿から一つ、提案が……|仮《かり》本《ほん》営《えい》に『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』総員、集まっております」
出迎えにオドオドと答え、骨の身を震わせる姿には、|貫《かん》禄《ろく》の|欠片《かけら》もない。
その|様《さま》に、チェルノボーグはむかっ腹を立てる。目に見えるように。
「また、なにか|妙《みょう》な|難《なん》癖《くせ》をつけているのか」
「いえ、そんな、難癖と言うほどのことでは」
モレクは目に見える部分に対して|慌《あわ》てふためき、|同《どう》輩《ぬい》を|庇《かば》った。
「だいたい、|痩《や》せ牛」
チェルノボーグは攻勢を緩めない。
「|貴《き》様《さま》、なぜ|下《か》僚《りょう》の|徒《ともがら》≠使わん。|宰《さい》相《しょう》自身が|伝《でん》令《れい》に走るなど、|軽《けい》率《そつ》にも|程《ほど》があるぞ」
「も、申し訳ありません。なにせ皆が皆、入城の準備に忙しい折でして」
「それを申し訳と言うのだ」
ペコペコするモレクに|叱《しっ》声《せい》を飛ばして、しかし|促《うなが》す彼に続いている。
そんな素直でない彼女を、同性としておかしく思うアルラウネに、
「そうだ、アルラウネ殿」
モレクが足を止め、声をかけた(彼は下僚にも殿と付ける)。
「ウルリクムミ殿が、|郭《かく》内《ない》に割り振る人員の配置について、ご相談があるとか。|同《どう》道《どう》を願えますか?」
これは、求められるまでもなかった。
「私、少々他用が……ややの|後《ご》刻《こく》に|参《さん》上《じょう》するご許可を?」
「はあ。入城後の|事《じ》案《あん》ですから、特段の問題はないはずですが」
ところが、この鈍い男は、そんな|気《き》遣《づか》いには全く気付かず、別の話を続けようとする。
「ウルリクムミ殿といえば、『|建《けん》造《ぞう》の|護《ご》衛《えい》に当たった者らに、なんらかの|褒《ほう》章《しょう》で|報《むく》いたい』という伺いを、私とニヌルタ殿も含めた連名で|主《あるじ》に出そうという話も――、っと!?」
いい|加《か》減《けん》焦《じ》れたチェルノボーグの巨腕が、礼服の|襟《えり》首《くび》を|掴《つか》んだ。
「なにをグズグズしている、行くぞ|痩《や》せ牛!」
「は、はい、すいません。アルラウネ殿、この話はまた後刻に……」
ズルズルと引き|摺《ず》られてゆく宰相――職制上、 彼の上あるのは|首《しゅ》領《りょう》たるアシズのみ、 つまり組織のナンバー2――の|情《なさ》けない姿を、しかしアルラウネは敬意を込めた|目《もく》礼《れい》で送った。そうして、花たる身をひらりと回し、対面に|鎮《ちん》座《ざ》する山を、その|頂《いただき》に|聳《そび》える|威《い》容《よう》を見やる。
アシズ|率《ひき》いる|殿軍《しんがり》の合流を|仮《かり》本《ほん》営《えい》にて待つ[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]総軍が、|本《ほん》夕《ゆう》入城する新たな|本《ほん》拠《きょ》地《ち》。なだらかな山に|被《かぶ》せられた|冠《かんむり》とも見える、|金《きん》城《じょう》鉄《てっ》壁《ぺき》の|大《だい》城《じょう》塞《さい》。
ブロッケン|要《よう》塞《さい》である。
これから入城する要塞を|眺《なが》める|絶《ぜっ》好《こう》の位置、ブロッケンと並ぶ頂に、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の仮本営が|敷《ふ》設《せつ》されていた。物資|運《うん》搬《ぱん》用《よう》の荷台の間に飾り幕を張っただけ、という簡素な|様《よう》式《しき》で、全体に|大《おお》雑《ざっ》把《ぱ》な|方《ほう》陣《じん》――正方形の部隊|配《はい》置《ち》――を組んでいる。
人ならぬ|異《い》形《ぎょう》の|徒《ともがら》≠スちがひしめき合う……のみならず、迫る入城の準備に駆け回る、この|本《ほん》営《えい》の中央に、特別|広《こう》大《だい》な、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らの|集《つど》う空間があった。
彼ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]最高|幹《かん》部《ぶ》たる九人の王≠フ総称、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』は、一つの|宝《ほう》具《ぐ》の名を流用したものである、その宝具は、中央の支点から|九《く》岐《ぎ》の腕を広げる黄金の|上《うわ》皿《ざら》天《てん》秤《びん》、という|奇《き》怪《かい》な形状をしており、特筆すべき機能として、|徒《ともがら》≠フ持つ存在の力≠支点から皿へと、皿から皿へと|再《さい》分配することができた。 サイズも|伸《しん》縮《しゅく》自在で、 上皿に家さえ載せるほどに大きくもできれば、逆にテーブルに載るほどに小さくもなる。
今、宝具[#「宝具」に傍点]『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』は人の|背《せ》丈《たけ》大《だい》に縮められ、集った九人の[#「九人の」に傍点]『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らの中央に|据《す》えられている。
この、彼らが在るべき場所の目印を囲む一人[#「一人」に傍点]、
「つまり、ですな」
一枚の葉もない石の|大《たい》木《ぼく》が、口のようなウロから|甲《かん》高《だか》い声を吐き出していた。|双《そう》眸《ぼう》と|見《み》紛《まご》う割れ目とともに|黄《おう》土《ど》色の光を染み出させる姿は、まるで木に宿った|幽《ゆう》鬼《き》である。
|焚《ふん》塵《じん》の|関《せき》<\カル。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角にして|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》――|同《どう》様《よう》の地位にあるウルリクムミと二人、全軍の|先《さき》駆《が》けを任される、名うての|戦《いくさ》上《じょう》手《ず》だった。
「|要《よう》塞《さい》の城門から|本《ほん》郭《かく》まで抜けるには、|今《いま》説明した中央の大廊下を通るしか、道がないわけでして……まあ、防衛上の観点から、当然の構造ですな」
「はあ」
とモレクがとりあえずの|相《あい》槌《づち》を打つ|隣《となり》、
「さっきから、なにが言いたいのだ、ソカル」
|厳《きび》しく締まった声が、くすんだ色合いの、大きなガラス|壺《つぼ》から|響《ひび》く。その壺には|槍《やり》に剣に|棍《こん》棒《ぼう》、様々な武器が刺さり、中からはチラチラと雪のように|黝《おおぐろ》の|火《ひ》の|粉《こ》が|零《こぼ》れていた。
|天《てん》凍《とう》の|倶《ぐ》<jヌルタ。 『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角にして中軍|首《しゅ》将《しょう》―― |首《しゅ》領《りょう》たるアシズを守り、全軍の|中《ちゅう》核《かく》となる主力軍を|率《ひき》いる、|堅《けん》実《じつ》にして冷静な|指《し》揮《き》官《かん》である。
さらにその隣、牛の十倍はある巨体を|蹲《うずくま》らせ、|熊《くま》の十倍はある太い|四《し》肢《し》を|苛《いら》立《だ》ちに揺すり、|胴《どう》の|半《なか》ばまで裂けた口に|牙《きば》を並べる|狼《おおかみ》が、|溜《ため》息《いき》のように|焦《こげ》茶《ちゃ》の火を|噴《ふ》いて文句を言う。
「てめーの話は回りくどいんだよ」
|戎《じゅう》君《くん》<tワワ。 『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角にして|遊《ゆう》軍《ぐん》首将―― |戦《せん》機《き》に応じて敵の|虚《きょ》を|急《きゅう》襲《しゅう》する、または危険な任務に|率《そっ》先《せん》して当たる、|遊《ゆう》撃《げき》部隊の|勇《ゆう》猛《もう》なる|長《おさ》である。
ソカルは察しの悪い|同《どう》輩《はい》たちに、|嫌《いや》味《み》たっぷりな溜息を|吐《つ》ついて見せた。
「ふう……つまり、つまり、ですな。この|式《しき》典《てん》で、我ら『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の姿を、同志たちに適正な形で見せねばならない、ということです」
飾り幕の中、黄金の上皿天秤を囲む九人の間に沈黙の時が過ぎ……結局、分からない、という八人の意見を|代《だい》弁《べん》するような声が、大きく|響《ひび》く。
「適正な、形だとおおお?」
|語《ご》尾《び》を大きく震わせて、城壁のような分厚い鉄板を組み合わせた巨人が、|興《きょう》も薄げに|訊《き》いた。|胡坐《あぐら》をかく身に首はなく、|胴《どう》体《たい》部分には白い染料で|双《そう》頭《とう》の鳥が描かれている。
|巌《がん》凱《がい》<Eルリクムミ。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角にして|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》――ソカルとともに|先《せん》陣《じん》を切る、|卓《たく》抜《ばつ》した戦術|眼《がん》と|統《とう》率《そつ》力の持ち主である。
今度は|嫌《いや》味《み》以上、馬鹿にした色も|露《あらわ》に、ソカルは言い直す。
「我らが[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]総員の見守る中での入城……|衆《しゅう》目《もく》を集め|記《き》憶《おく》に留まるこの|式《しき》典《てん》は、当事者たる我ら自身が考える以上に大きな意義を持っている……そうですな、|宰《さい》相《しょう》殿?」
突然、話を振られたモレクは、|慌《あわ》てて頭を巡らせた。
「は、そう、でしょうね。我々の入城は、この|欧《おう》州《しゅう》へと|主《しゅ》戦場を移す決意を表明したようなものですから、フレイムヘイズだけでなく、|同《どう》胞《ほう》たちも注目するはず。式典が、彼らに我々のことを伝え聞かせる、最も|端《たん》的《てき》な姿となることは間違いないでしょう」
やや早口で説明する、|論《ろん》理《り》自体は非常に|明《めい》晰《せき》的確である。
が、その|聡《さと》さをこそ、チェルノボーグは|難《なん》詰《きつ》する。|心《しん》中《ちゅう》で。
(馬鹿が、|何故《なぜ》こんな|奴《やつ》の|言《げん》を補足する……ますます|弄《ろう》舌《ぜつ》が滑るばかりではないか)
思った通り、裏付けを得たソカルの主張は、ますます勢いを増した。
「つまり、つまり、つまり、ですな。この長く語り継がれる入城式典では、|大《だい》廊下を一列に進まねばならない、しかも|後《こう》世《せい》に笑われぬよう、適正な形で行うべし、ということですよ」
つまりつまりと重ねるほどに、|論《ろん》旨《し》は整理されない。
いい|加《か》減《げん》、|訊《き》き直すのも馬鹿らしくなった面々に代わり、今まで|蹲《うずくま》っていた|長《ちょう》老《ろう》が|鎌《かま》首《くび》を持ち上げた。分厚い|甲《こう》羅《ら》と|鱗《うろこ》で|巨《きょ》躯《く》を|覆《おお》った、四本足の|有《ゆう》翼《よく》竜《りゅう》である。一言、|論《ろん》点《てん》を|纏《まと》める。
「つまり[#「つまり」に傍点]、入城式典における行進の順序を定めたい、ということか」
|甲《こう》鉄《てつ》竜《りゅう》<Cルヤンカ。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角にして、『|両《りょう》翼《よく》』の左――[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の力の|象《しょう》徴《ちょう》とも呼ばれる最強の|二《に》将《しょう》、その|盾《たて》たる|片《かた》割《わ》れである。
石の|大《たい》木《ぼく》は、太い|幹《みき》をガサガサと震わせて笑う。
「さすがはイルヤンカ殿、ご|明《めい》察《さつ》です」
言葉だけだと長老を|褒《ほ》めているようでも、|口《く》調《ちょう》の方では、明察できない[#「明察できない」に傍点]|連《れん》中《ちゅう》を馬鹿にしたように聞こえる。なんとも|癇《かん》に|障《さわ》る男だった。
モレクが、ようやくの理解とともに首を|傾《かし》げる。
「しかし、それほどこだわることでしょうか? なんなら我々九名、|主《あるじ》を囲んで空から『|首《しゅ》塔《とう》』へと降り立つ形式にしても……」
「これは、|賢《けん》者《じゃ》として名高い宰相殿の言葉とも思われませんな!?」
「はっ!? はあ、申し訳ありません」
ソカル、|即《そく》座《ざ》の反発に、|牛《ぎゅう》骨《こつ》は飛び上がって|慄《おのの》く。
(まったく、|無《ぶ》様《ざま》な……もう少し|大《たい》度《ど》に構えればどうなんだ)
チェルノボーグはイライラする|内《ない》心《しん》を|隠《かく》さず、組んだ左腕の指を|叩《たた》いた。
その間も、ソカルは自説の主張を続けている。
「我ら[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]は、軍団として成り立つ組織! |漫《まん》然《ぜん》と空から飛び降りての入城など、聞こえが悪いにも|程《ほど》があるというものでしょう! 我らが堂々の行進を|示《じ》威《い》として見せ付けてこそ、語り草になるのです!!」
「友よ!」「|夢《ゆめ》幻《まぼろし》がなにを意味しているか!」「言って欲しい!」
いつ果てるともない|大《たい》木《ぼく》の主張を|遮《きえぎ》るように、|魔《ま》物《もの》と女と老人の|面《めん》を|貼《は》り付けた人間|大《だい》の卵が、それぞれから|飄《ひょう》げた声で、意味|不《ふ》明《めい》の言葉を張り上げた。
|凶《きょう》界《かい》卵《らん》<Wャリ。 『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角にして|大《だい》斥《せっ》候《こう》―― 無数の|蝿《はえ》を|操《あやつ》る|自《じ》在《ざい》法《ほう》『|五月蝿《さばえ》る|風《かぜ》』によって、広く情報を収集する組織の|枢《すう》要《よう》たる|変《へん》人《じん》である。
彼の言葉は、基本的に大意を込めただけの|出《で》鱈《たら》目《め》で、会話は成立しない(付き合いの長い他の|面《めん》々《めん》が察するに、先の言葉は『よく分からん』という意味のはず[#「はず」に傍点]である)。ゆえにソカルは、彼を無視して話を続ける。
「同志たちも、上から降ってくる我らを|眺《なが》めて、なんの楽しみがありましょう! それに、他の|方《かた》々《がた》はともかく、大地に根を張る我が身を空から降らそうとは……なんたる|侮《ぶ》辱《じょく》!」
たしかに、石の大木が空から舞い降りる姿は、絵になり|難《がた》そうではあった。
モレクには|無《む》論《ろん》、他意など|欠片《かけら》もない。
「い、いえ、そういうつもりで言ったわけでは」
|脅《おど》しとも取れる|難《なん》詰《きつ》に、声で態度で|平《ひら》謝《あやま》りする|宰《さい》相《しょう》を見かねたニヌルタは、|反《そ》りの合わない石の大木へと|逆《ぎゃく》襲《しゅう》を始める。
「ふん、|己《おの》が|身形《みなり》に|劣《れっ》等《とう》感《かん》を抱いての|反《はん》駁《ばく》とは。語るに落ちる、とはこのことか」
「……なんですと?」
「だいたい、|主《あるじ》が不在の間にそのような|案《あん》件《けん》を勝手に決めて良いわけがあるまい。主がなんでも許される、と軽んじているからこそ、このような|忙《ぼう》中《ちゅう》に|無《む》駄《だ》話を持ち出す気になるのだ。そういうのを、|姑《こ》息《そく》という」
「ほう……私が、主を軽んじている、と?」
バキバキ、と大木の幹が|鳴《めい》動《どう》する。根が|花《か》崗《こう》岩《がん》に食い込んで見る間に太くなり、枯れた枝から|黄《おう》土《ど》色の|火《ひ》の|粉《こ》が落ち葉のように無数、舞い始める。激しく光を|明《めい》滅《めつ》させるウロの中から、|険《けん》悪《あく》さを加えた|甲《かん》高《だか》い声が漏れ出した。
「他の|戯《ざれ》言《ごと》はともかく、そればかりは聞き捨てなりませんな」
「ふん、失言の次は|失《しっ》態《たい》を見せる気か? |虚《きょ》妄《もう》に満ちた言葉ではなく、行為で答えるがいい。勝手な提言、主を軽んじていること、無駄話、姑息……本当は、どれが気に|障《さわ》った?」
|挑《ちょう》発《はつ》する声の冷たさが形となったかのように、刺された武器の表面に|霜《しも》が白く張る。同時にガラス|壺《つぼ》の中から、すう、と氷の|粒《つぶ》が舞い始めた。数秒の内に、氷の粒は|吹雪《ふぶき》のように|渦《うず》を巻き、壺を浮き上がらせてゆく。
「お、お|二《ふた》方《かた》とも、どうか落ち着いてください!」
モレクが|慌《あわ》てて両者の間に入ろうとする。
(馬鹿が! 何度打ち砕かれれば気が済む――!!)
その、容易に|己《おの》が身を捨てる|宰《さい》相《しょう》のやり方を、チェルノボーグは心中で|罵《ののし》った。見かけなど飾りに過ぎない、異常な大きさと規模の力を持つ彼は、|揉《も》め事があった場合、自分の|骨《こつ》体《たい》を壊させ砕かせることで、当事者|間《かん》にある|鬱《うっ》憤《ぷん》を晴らす。意味や効果は分かっていた。が、それでも彼女は、モレクのやり方が気に食わない。
(お前がそうだから、こいつらも甘えて[#「甘えて」に傍点]、いつまでも|幼《よう》稚《ち》ないざこざを起こ――)
|刹《せつ》那《な》、
岩を掘る根、風に舞う氷、触れかけた|双《そう》方《ほう》の間に、|一《いち》条《じょう》の|虹《にじ》が|迸《ほとばし》った。
爆発とも破裂とも付かない|衝《しょう》撃《げき》音《おん》が辺りに|木霊《こだま》し、|鮮《せん》烈《れつ》な|七《なな》色《いろ》の光が一同の目を焼く。
「|貴《き》公《こう》ら、新たな|居《きょ》城《じょう》へと|胸《むね》躍《おど》らし参られる|主《あるじ》を、|無《ぶ》様《ざま》な|内《ない》紛《ふん》で出迎える気か」
イルヤンカの足にもたれ、昼寝に|興《きょう》じていた男が、七色の破壊|光《こう》――|当《とう》代《だい》最強を誇る攻撃系
|自《じ》在《ざい》法《ほう》『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』――を発した剣を突き付けて、 静かに言った。 銀の|長《ちょう》髪《はつ》に|金《きん》冠《かん》を|模《も》した|額《ひたい》当《あ》て、青い|軍《ぐん》装《そう》という|騎《き》士《し》、あるいは|剣《けん》士《し》。
|虹《にじ》の|翼《つばさ》<<潟qム。『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の一角にして、『|両《りょう》翼《よく》』の右――イルヤンカとともに[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の力の|象《しょう》徴《ちょう》として軍団を支える最強の|二《に》将《しょう》、その剣たる|片《かた》割《わ》れである。
|泡《あわ》を食って根を引き戻す|大《たい》木《ぼく》、再び地へと落ちる|壺《つぼ》に、
「それに、昼寝の|邪《じゃ》魔《ま》だ」
と付け加えたのは、|冗《じょう》談《だん》や|軽《かる》口《くち》ではなかった。現に、剣を目にも留まらぬ速さで|腰《よう》間《かん》の|鞘《さや》へと収め、再び目を|瞑《つぶ》ってしまう。
「ちゅ、|仲《ちゅう》裁《さい》に感謝いたします、メリヒム殿」
というモレクの|謝《しゃ》辞《じ》への返答すらしない。最強の将ならば、この場を収める言葉の一つもあってしかるべきだったが、口は|不《ふ》機《き》嫌《げん》に引き結ばれて、開く気配もなかった。彼は『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』のリーダーが自分でないことを知っているため、|余《よ》計《けい》なことを言わないのである。
同じ『|両《りょう》翼《よく》』たるイルヤンカの方は、その本当のリーダー[#「本当のリーダー」に傍点]に向けて、|穏《おだ》やかに言う。
「|宰《さい》相《しょう》殿は、入城の順序を|主《あるじ》の不在中に定めることについて、どう思われる?」
そんな自覚など|欠片《かけら》もない、|牛《ぎゅう》骨《こつ》をカタカタ震わせる男は、|怯《おび》えてなお明確に答えた。
「いえ、実のところ、入城の準備における全ての|事《じ》案《あん》は、先行した私と、|建《けん》造《ぞう》期間の守備に当たっていたウルリクムミ殿に任せる、との|下《か》達《たつ》を受けておりまして」
ソカルは、自分の主張への決定権がモレクにあることを知って気を強く持ち直し(この|執《しゅう》念《ねん》と立ち直りの早さが彼の長所である)、割れ目の奥から、|皮《ひ》肉《にく》たっぷりな視線を、先走って自分を制した氷の剣に向ける。
「ほう、ではやはり――」
「ウルリクムミ、|貴《き》様《さま》はどう思うのだ」
ニヌルタはそちらを無視して、人格|面《めん》で信頼の置けるウルリクムミに(戦闘面においては、彼自身|認《みと》めたくないことではあったが、ソカルにも信頼を置かざるを得ない)|尋《たず》ねた。
|公《こう》明《めい》正《せい》大《だい》を以って鳴る鉄の巨人は、声を震わせ、長い一言を吐く。
「俺は巨体ゆええええ、先頭に立っては|邪《じゃ》魔《ま》だあああ、ゆえに最後で良いいいい」
これはつまり、ソカルの提案を支持し、自分は争いを|譲《ゆず》る、という表明だった。戦場外での彼は、全てにおいて|慎《つつし》み深いことで知られている。
「では、我々は|行《こう》軍《ぐん》によって入城する、ということでよろしいですか?」
モレクの|裁《さい》定《てい》に、誰も|異《い》論《ろん》を挟まない。
ただジャリだけが、
「さあ!」「冗談はやめにして!」「|真《ま》面《じ》目《め》なことを始めましょう!」
と三つの声で|喚《わめ》いていたが、これは誰も気に留めない。
「|早《さっ》速《そく》ですが、先の『|戦《いくさ》狩《が》り』で最大の力の|収《しゅう》穫《かく》を得た私が先頭を――」
「これまで果たしてきた|功《こう》績《せさ》の順であるべきだ」
さっそく、自己主張しかけたソカルを、ニヌルタが|断《だん》固《こ》とした|口《く》調《ちょう》で制した。
モレクが、それでは、と案を提示する。
「そういうことなら、『|両《りょう》翼《よく》』のお|二《ふた》方《かた》であるべきなのでしょうが…… やはり、 無理にで二列となるわけには……?」
「メリヒムの|旦《だん》那《な》とイルヤンカ|爺《じい》さんを横に並べるってのか?」
フワワが|素《す》っ|頓《とん》狂《きょう》な声で言った。
たしかに、|縦《たて》に並ぶというのは、注目を受ける『行進』という形式から、好ましくない。メリヒムも、イルヤンカの巨体の向こうにいては、反対側から見えないだろう。
「はあ、やはり|駄《だ》目《め》ですか」
とりあえず、順番|争《あらそ》いを半分に減らせるか、と思ったモレクも、これをあっさり|撤《てっ》回《かい》した。
「では、『|両《りょう》翼《よく》』|御《ご》自身、イルヤンカ殿にはご希望が?」
「うむ……」
イルヤンカは、未だにバチバチと火花を散らし合うソカルとニヌルタを見て|苦《く》笑《しょう》する。
誰かが大筋の方針を示さねば、またぞろ二人は|撃《げき》発《はつ》しかねない。ウルリクムミもそれを見越して、まず自分を|最《さい》後《こう》尾《ぴ》に置いたのであろう。常の|如《ごと》く|宰《さい》相《しょう》が事を収めるにしても、苦労を減らしてやるに越したことはない。
|徒然《つれづれ》思い、|顎《あご》を開いた。
「|先《せん》陣《じん》争いで混乱することの|愚《ぐ》を、 友軍の間に|連《れん》携《けい》あってこそ敵を破れることを、|戦《いくさ》 上《じょう》手《ず》のお|主《ぬし》らが知らぬわけもあるまい?」
まず一言、争う二人に|釘《くぎ》を刺してから、苦労性の宰相に告げる。
「年の|功《こう》で、ここは先頭を|譲《ゆず》って頂けようかな、宰相殿?」
「は、それでは、先頭をイルヤンカ殿に……メリヒム殿は二番手でも?」
彼の気性の荒さを恐れるモレクが、その目覚めた後のことを心配するが、
「任されよ。|儂《わし》から言い含めておこう」
イルヤンカは軽く|請《うけ》合《あ》った。その|傍《かたわ》ら、自身にもたれて寝入る振りをする[#「振りをする」に傍点]青年|騎《き》士《し》へと目を落とす。通したい主張や要求があるときは|強《ごう》引《いん》かつ|問《もん》答《どう》無用に押し通すこの男が、無視を決め込んでいる。ということはつまり、イルヤンカに先頭を|譲《ゆず》っているのである。
早々に席を埋めてくれた|長《ちょう》老《ろう》に感謝したモレクは、
「つまり、|主《あるじ》の後にイルヤンカ殿、次がメリヒム殿、最後尾はウルリクムミ殿、と……主に付き従った|歳《さい》月《げつ》からすれば、三番手はジャリ殿、ということになりますが?」
続いて|律儀《りちぎ》にも、宙に浮かぶ卵へと意見を求めた。
どうせまともな意見など返ってこない、と|大《たい》半《はん》の者が思う。
が、
「彼女を|尊《そん》敬《けい》し!」「優しく扱うのが良い!」「それは、彼女とお前に、|諍《いさか》いを起こさせないためである!」
問われたジャリは突然、他の全員がギョッとなるようなことを言った。
女、という類別を受ける人物は、この『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』に一人しかいない。今まで意見を言わなかったため無視してきた、しかし|一《いっ》旦《たん》怒れば、他の|面子《めんつ》に負けず|無《む》茶《ちゃ》をする|腫《は》れ物のような|隠《おん》|密《みつ》頭《がしら》――チェルノボーグ。
|唐《とう》突《とつ》な指名を受けた彼女は、平然と腕を組んだまま、|不《ふ》機《き》嫌《げん》に顔を|顰《しか》めたまま、
(な、なにを言っているのだ!?)
と|内《ない》心《しん》だけで大いに|慌《あわ》てた。常に|出《で》鱈《たら》目《め》な言葉を吐き散らすだけだと分かっている、順番を自分に譲ると言っているだけかもしれない、この言葉に、思わず|勘《かん》繰《ぐ》ってしまう。
(ま、まさか、知っているのではあるまいな[#「知っているのではあるまいな」に傍点]!?)
|奇《き》妙《みょう》な卵の内心を計ることは、フレイムヘイズを百|屠《ほふ》るより困難である。彼女は、組んだ腕を、握る|掌《てのひら》を、強く固めることしかできない。顔に力を入れて、なんとか無表情を維持しようと必死になった。表面上は、顰めっ|面《つら》がますます不機嫌の度を強めたかのように見える。
一方のモレクはといえば、
「ええ。それはもちろん、チェルノボーグ殿は尊敬しておりますが……しかしジャリ殿は、隠密頭も含めた、我々の活動の基となる情報を集められる組織の|要《かなめ》でありますし」
などと人の気も知らないで[#「人の気も知らないで」に傍点]、|懸《けん》命《めい》に|理《り》屈《くつ》を並べ立てている。
そのことに、チェルノボーグは不意な、燃え上がるような怒りを覚えた。他の面子が恐れた通りの行動(理由は違っていたが)、ソカルやニヌルタも驚く、モレクへの直接行動、
「っわ、だっ!?」
伸びた足による|神《しん》速《そく》の|蹴《け》りが、モレクの|派《は》手《で》な礼服の背中に|叩《たた》き込まれる。
軽い体は大きく吹っ飛んで、フワワの腹、|獣《じゅう》毛《もう》の中に埋まった。
「……そんなにジャリの後が嫌だったのか?」
その上、腹まで裂けた口が、ウンザリした声を吐き出す。
「つーかよ、モレク。俺はどこでもいーから早く決めてくれや?」
もっともな意見に、頭をカラカラと振って|牛《ぎゅう》骨《こつ》が|弁《べん》解《かい》する。
「も、申し訳ありません」
見れば、チェルノボーグは背中を向けてしまっていた。こうなると、彼女はもうなにを言っても答えない。さっきの言葉の、なにが気に|障《さわ》ってしまったのか、サッパリ分からなかった。
(ジャリ殿と、特別|仲《なか》が悪いということはなかったはずですが……?)
と、
「ふう……」
イルヤンカが、なにか含みを持たせた|溜《ため》息《いを》を吐いた。
「|宰《さい》相《しょう》殿、チェルノボーグは、なによりまず|己《おのれ》のことを考えよ、と言っておるのだろう」
少々|意《い》地《じ》悪《わる》に、色々|取《と》れる言い方をする。
|案《あん》の|定《じょう》、後ろを向いた肩が、|僅《わず》かに線を固くした。
(やれやれ、明言[#「明言」に傍点]などすれば、本気で飛び掛かられるな)
今度は|心《しん》中《ちゅう》で|溜《ため》息《いき》を吐いて、|周《しゅう》旋《せん》の言葉を続ける。
「自身、|失《しつ》念《ねん》されておるやも知れぬが、お主は宰相の地位にある。その身を軽んじるのは、|主《あるじ》の意向と信頼を軽んじることに他ならぬ、我ら『|両《りょう》翼《よく》』に先頭を|譲《ゆず》られたとして、その次はジャリ殿ではなく、お主でなくてはならんはずだ」
「あ」
モレクは|指《し》摘《てき》されて初めて気付き――チェルノボーグとイルヤンカが隠した方の意味には全く気付かず――他の面々に許可を求めるように、|空《から》っぽの視線を巡らせた。
ソカルもニヌルタも押し黙ったまま、フワワはフンと鼻を鳴らして文句を言わず、メリヒムは目を覚まさない。|騒《そう》動《どう》の|元《げん》凶《きょう》であるジャリだけが、
「以上の他に欠けてはならない!」「役目が決まれば!」「誰も文句を言ってはならない!」
と意味があるのかないのか分からない言葉を吐き散らしている。
「そ、それでは|不《ふ》肖《しょう》、この私が『|両《りょう》翼《よく》』の後を……」
宰相の|遠《えん》慮《りょ》がちな決定を、
「|席《せき》次《じ》の|序《じょ》列《れつ》から、当然そうあるべきだ」
「まあ、主の定めた|職《しょく》制《せい》ですからな」
ニヌルタとソカルが|追《つい》認《にん》し、イルヤンカが、
「これでよいのだな、チェルノボーグ?」
と後ろを向いたままの|黒《こく》衣《い》の女性に言った。僅かに首元だけが動いて、|頷《うなず》きとなる。
そのことにほっとしたモレクは、
「では、後は……」
「|貴《き》公《こう》がさっさと決めろ。時間がない」
「は?」
いつの間にかメリヒムが立って、剣の位置を直していた。
イルヤンカも、首を大きく振り上げ、
「おお――」
|感《かん》嘆《たん》とも|陶《とう》酔《すい》とも取れる|唸《うな》りを漏らす。
「これで我々がここへ来た件については終わりにしましょう!」「|貴方《あなた》の|家《か》臣《しん》を受け取ってください!」「彼らの|誉《ほま》れは|貶《おとし》められてはいません!!」
ジャリの声が、さらなる|狂《きょう》騒《そう》に高まった。
一同が見やる、暮れ始めた遠き東の|地《ち》平《へい》。
染み渡る|闇《やみ》の中に、|全《まった》き青の輝きが見えた。
その下を進んでくる、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]|殿軍《しんがり》。
見る間に、青の輝きは天と地を明らかにしてゆく。
はらり、
と、輝きの|欠片《かけら》のような羽根が|一片《ひとひら》、
置かれた|宝《ほう》具《ぐ》『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の中央に、|集《つど》う九人の王≠スる『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』の中央に、|躍《おど》っていた。羽根はさらに多く広く、山上に降り|注《そそ》ぎ、その豊かな光で『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』のみならず、仮|陣《じん》営《えい》にある全ての|徒《ともがら》≠スちをも包み込んでゆく。
入城の準備に立ち騒いでいた者らが皆、|一《いっ》斉《せい》に静まり返って、|光《こう》臨《りん》を待った。
誰もが見上げる天上から、重い、壮年の男の声とともに、
「遅く、なったな……|九《く》垓《がい》を平らぐ、我が|天《てん》秤《びん》分《ふん》銅《どう》たちよ」
|仮《か》面《めん》に|角《つの》、|逞《たくま》しい|体《たい》躯《く》に|翼《つばさ》を持つ、一人の|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ェ、舞い降りていた。
|宝《ほう》具《ぐ》『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』が、この|到《とう》来《らい》に反応し、巨大化する。|仮《かり》本《ほん》営《えい》の空間をいっぱいに埋めて黄金の輝きを夕日に輝かす。|敬《けい》愛《あい》して止まない|無《む》二《に》の主へと、『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』らは|大  皿《ヴァークシャーレ》の上で|各《おの》々《おの》の姿に見合った、|最《さい》敬《けい》礼《れい》の姿勢を取る。
|棺《ひつぎ》の|織《おり》手《て》<Aシズ。世界最大級の規模を誇る|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》≠フ集団、対フレイムヘイズ軍団[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]の|首《しゅ》領《りょう》、世に名高き|自《じ》在《ざい》師《し》にして、世界|秩《ちつ》序《じょ》への最大級の|背《はい》信《しん》者。
その優しい[#「優しい」に傍点]彼は、愛する子らに向けるように、一同を宙で一回り|眺《なが》め、天秤の中央へと、|爪《つま》先《さき》だけで降り立つ。そうして、信頼する|宰《さい》相《しょう》へと、まず問う。
「なにか、変わったことは、あったか?」
問いを向けられていない二人が、|密《ひそ》かにビクリとなる。
恐怖から。
力、苦痛、死への恐怖ではない。
優しさを与えてくれる者が悲しむことへの恐怖から、である。
しかし、宰相|大《だい》擁《よう》炉《ろ》<c激Nは、敬礼の下から平然と答える。
「いえ、特には」
その|毅《き》然《ぜん》とした立ち|居《い》振《ふ》る|舞《ま》いには、主を補佐する|賢《けん》者《じゃ》としての、また『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』を|纏《まと》める宰相としての|風《ふう》格《かく》が、確かに表れていた。ただし、本人の自覚はない。
「入城|式《しき》典《てん》における、我ら『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』行進の|序《じょ》列《れつ》を、合議にて定めましてございます。どうぞ、|御《ご》裁《さい》可《か》を……」
アシズは、|僅《わず》か視線を、地に深々と刺さった『|虹《こう》天《てん》剣《けん》』の跡に流し、微笑した。
「苦労をかける[#「苦労をかける」に傍点]、我が宰相」
「……|勿《もっ》体《たい》無《な》き、お言葉」
震えるような喜びを骨の|総《そう》身《み》に感じつつ、裁定を下す。
「|主《あるじ》の後に、イルヤンカ殿、メリヒム殿、|不《ふ》肖《しょう》私、ジャリ殿、ソカル殿、チェルノボーグ殿、ニヌルタ殿、フワワ殿、ウルリクムミ殿の順にてございます」
左右の『|両《りょう》翼《よく》』、イルヤンカとメリヒムを先頭に、|宰《さい》相《しょう》モレク、|古《こ》参《さん》にして組織の|枢《すう》要《よう》たるジャリ、|戦《せん》功《こう》においては確かに|図《ず》抜《ぬ》けた存在のソカル、数々の|暗《あん》殺《さつ》行動で組織を裏から支えるチェルノボーグ、公正でさえあれば文句を言わないニヌルタ、自身を誇ることに全く興味のないフワワ、あらかじめ|最《さい》後《こう》尾《び》を名乗り出ていたウルリクムミ……全員の意見を入れた、誰からも文句の出ない、|絶《ぜつ》妙《みょう》の配置だった。
これを聞いたアシズは再び、|天《てん》秤《びん》の支点の上で、遊ぶように|爪《つま》先《さき》立《だ》ちの身をくるりと回し、居並ぶ『|九《く》垓《がい》天《てん》秤《びん》』たちに視線を巡らす。
|平《へい》然《ぜん》当然とそこに在る『|両《りょう》翼《よく》』―― 今は騒がず浮かぶ|大《だい》斥《せっ》候《こう》―― 自分の前では|大人《おとな》しい、ゆえに|可愛《かわい》い|先《さき》手《て》大《たい》将《しょう》―― また悲しい|葛《かっ》藤《とう》を経たのか、 少し元気のない|隠《おん》密《みつ》 頭《がしら》―― 正しさから来る情の|強《こわ》さを、|刃《やいば》に|霜《しも》と見せる中軍|首《しゅ》将《しょう》―― |呑気《のんき》に|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺す|遊《ゆう》軍《ぐん》首将―― |黙《もく》して|頑《がん》と|聳《そび》える頼もしき先手大将―― そして最後に、|貫《かん》禄《ろく》のない無自覚な|賢《けん》者《じゃ》へと、告げる。
「許す」
九人|揃《そろ》っての|返《へん》礼《れい》を受け取った青き天使は、どこまでも大きく強く|翼《つばさ》を広げ、山上の|仮《かり》本《ほん》営《えい》で彼の|号《ごう》令《れい》を待つ子ら、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]全軍へと|朗《ろう》々《ろう》、声を|轟《とどろ》かせた。
「|歓《かん》呼《こ》せよ!! これより、[|とむらいの鐘《トーテン・グロッケ》]はブロッケン|要《よう》塞《さい》に入城する!!」
天地を揺るがす歓声の後、|俄《にわ》かに|慌《あわただ》しくなった仮本営の|端《はし》で、|配《はい》下《か》に|軍《ぐん》勢《ぜい》を持たない名のみの隠密頭は、集合する前に立っていた|岩《いわ》場《ば》を、また一人で訪れていた。
(いったい何度、この失望と怒りを味わったんだ)
全く、馬鹿な話。
自分が悪いのである。
分かっていて、それでも。
(せめて、おまえたちくらいは)
思い、そこに在る花々を静かに見下ろす。
と、そこに、
「こちらですか、チェルノボーグ殿?」
また|唐《とう》突《とつ》な訪問を受けた。
これ[#「これ」に傍点]を想う自分は、冷静になれないらしい。
|半《なか》ば|諦《あきら》めのように|微《び》苦《く》笑《しょう》し、振り向く。
「なんだ、|痩《や》せ牛」
「いえ、その……」
おどおどする男、確信を持てない、ゆえに他人に気を回し、気を|遣《つか》い、振り回され、他人から向けられる思いを感じられず、気付けず、考えられない……そんな、ひたすらに自分だけを|磨《す》り減らしてゆく男の姿が、とても|疎《うと》ましい。疎ましくて、|辛《つら》い。どうして彼だけが、そんな目に|遭《あ》わねばならないのか。|可哀《かわい》想《そう》だ、守りたい、|襲《おそ》い|掛《か》かる全てから――彼を。
しかし、思っていることの一粒すら、声にできない。
口から出るのは、|今《いま》在る彼の姿への|苛《いら》立《だ》ちだけ。
「……馬鹿め」
「は? はあ、どうも、申し訳ありません……」
こうやって、言葉の意味も問い|質《ただ》さず、すぐ謝るのも気に食わなかった。なぜ、もっと堂々としないのか。ほんの先刻、|主《あるじ》の前で見せた、あの|毅《き》然《ぜん》とした姿を、少しでもいい、自分にも他人にも、見せてやったらどうだ。そうすれば、もっと安らげるはずなのに。
(いや、無理なのだ……こいつは、主の『優しさ』に応えているのだから)
思って、想って――自分には、ただそれだけのことが、できない。彼と同じように。苦しさから、目さえ合わせられなかった。|語《ご》調《ちょう》だけが、|虚《むな》しいほどに強かった。
「なんの用だ。全軍の集合には遅れず行く」
|慰《なぐさ》めに来てくれたわけでないことくらい分かっていた。そういう気の利いたことが全くできない男なのだ。
「ええ……実は、伝言を二つ、預かってまいりまして」
「伝言?」
|妙《みょう》な用事と|訝《いぶか》る彼女に、モレクは|慌《あわ》てて|弁《べん》解《かい》する。
「あっ、お怒りはごもっともですが、決して立場を軽んじているわけでは。ただ、その伝言を託されたお|二《ふた》方《かた》から共に、私自身が行くように、とのご指示を受けたまででして」
(だから、なぜ|宰《さい》相《しょう》が他人の指示を――)
思ってから、ふと、その指示を下した相手への直感が働く。
誤りはなかった。
「我らが主よりの伝言が一つ――『この一時を過ごせ[#「この一時を過ごせ」に傍点]』と。それだけを伝えればよい、と申されました」
「……」
なにもかもお見通しの主、その優しさに、チェルノボーグは思わず顔を伏せた。過ぎたる計らいに、それでももう少し甘えるため、あえて伝言への返事をしない。
そんな彼女の|内《ない》心《しん》など察し得ない|鈍《どん》感《かん》男《おとこ》・モレクは、|己《おのれ》に託された仕事として、さっさと二つ目の伝言を読み上げる。
「もう一つは、アルラウネ殿からで――『|レーヴェンツァーン《セイヨウタンポポ》です』と。その花ですか?」
「!」
「花が、お好きですか?」
モレクが図らずも、アルラウネと同じ問いを口にした。
反応は、全然|違《ちが》ってしまう。
「違う」
チェルノボーグは無意味な反発と断言を、いつものように返してしまっていた。しかし、伝言を他でもない彼に託した|主《あるじ》とアルラウネ、二人の優しさに応えるため、少し、ほんの少し、言葉だけで歩み寄る。
「……色のついた花が、好きなのだ」
「はあ」
色はどんな花でもついているのでは――という|無《ぶ》粋《すい》極まりない問いを、モレクは先に怒らせてしまったことを思い出して、なんとか呑み込んだ。
「|貴《き》様《さま》も|宰《さい》相《しょう》ならば、|麾《き》下《か》の|諸《しょ》将《しょう》の|趣《しゅ》向《こう》程度は覚えろ。私は、こういう花が好きなのだ」
「は、はあ」
モレクにはわけが分からない。今度は|蹴《け》り飛ばされないようしっかり覚えようと、その花を見るため、女性の|傍《かたわ》らに立つ。
「『|レーヴェンツァーン《セイヨウタンポポ》』、ですか」
「そうだ」
さっきまで知らなかった花の名前に、チェルノボーグは偉そうな|頷《うなず》きで返し、自分に許した|僅《わず》かな、|至《し》福《ふく》の一時に|浸《ひた》った。
二人は|飽《あ》かず、花を見つめる。
なにも言わず、ただ見つめる。
暮れつつある夕の光を|輪《りん》郭《かく》に乗せて、その花は咲いていた。
|枯《かれ》草《くさ》色《ろ》――彼女の持つ|炎《ほのお》の色、黄色――彼の持つ炎の色、
二つの色が、一緒になって、咲いていた。
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教[#顔画像] 「|探《たん》耽《たん》 求《きゅう》 究《きゅう》のダァーンタリオ――ン!!」
ド[#顔画像] 「なんでも質問|箱《ばこ》でございますでーす!!」
教授(以下教)「んーふふふ、久しぶりに私たちの全面|無《む》敵《てき》華《か》麗《れい》大開放お買い得|最《さい》先《せん》端《たん》にしてェエーキサイティングな出番がやぁーってきたようですねえ、ドォーミノォー!?」
ドミノ(以下ド)「はいでございますです、教授!」
教「こぉーれこそ、私たちのェエークセレントな活躍が読者|諸《しょ》氏《し》に認められたぁーっ、|証《あかし》!」
ド「はいでございますです、教授!」
教「さーあ! |早《さっ》速《そく》ゴリゴリムシャムシャ、質問を片付けまぁーすよぉー!?」
ド「はいでございますです、教|ひゆひははは《じゅいたたた》!?」
教「さぁーっきから同じ|台詞《せりふ》ばかりじゃありませぁーんか! 会話だけで進むこぉーのコーナーを、そぉーんなことで|担《にな》っていけると思っていぃーるんですかぁー!?」
フリアグネ(以下フ)「……勝手に|担《にな》わないでくれないか」
マリアンヌ(以下マ)「|宝《ほう》具《ぐ》『押し出しトンカチ』で、えいっ!」教「ぬぉー!?」ド「むぎゅ」
フ「ふう、やっとページがスッキリしたね」
マ「このコーナーは、会話がくどいと見にくいだけですから」
フ「そう、それにここは、私たち二人がようやく得た愛の城だ。誰にも|邪《じゃ》魔《ま》させたりなんかしないよ、私の|可愛《かわい》いマリアンヌ」
マ「フリアグネ様……」
フ「マリアンヌ……」
マ「……あの、そろそろお仕事をしないと、もう2ページ目も終わってしまいます」
フ「ああ、それじゃ始めようか。本項は、私と私の可愛いマリアンヌが、読者の皆から寄せられた『|灼《しゃく》眼《がん》のシャナ』に対する疑問質問に答えていく、|由《ゆい》緒《しょ》正しきコーナーだ。今回は少し専門的というか、やや深い話題にも触れる予定となっているよ」
マ「またお会いできて|嬉《うれ》しいです! では|早《さっ》速《そく》、一つ目のお手紙を……」
マ[#顔画像] Q『宝具の中に、|徒《ともがら》≠ェ望みそうにないものが混じっているのは|何故《なぜ》ですか?』
フ[#顔画像] A「状況|次《し》第《だい》でどんな宝具も生まれる|余《よ》地《ち》はあるんだよ」
フ「これはまた、|初《しょ》っ|端《ぱな》から私好みの質問が来たね」
マ「お手紙には、人格を交換する『リシャッフル』や、カードを|操《あやつ》る『レギュラー・シャープ』と……あと|燐《りん》子《ね》≠爆破する『ダンスパーティ』なんかも……人と|徒《ともがら》=b双《そう》方《ほう》が望んで宝具を作る理由が分からない、そうです……」
フ「ああっ!? そんな悲しい顔をしないでおくれ、マリアンヌ! ええ、と……まず、|大《だい》前《ぜん》提《てい》の話をしよう! |封《ふう》絶《ぜつ》発明以前の時代、人間と|徒《ともがら》≠フ距離は、今よりずっと近しいもの、どころか混じり会い暮らしていた、ということだ」
マ「……古くは神や|悪《あく》魔《ま》、時代が下がってからは|妖《よう》精《せい》、|妖《よう》怪《かい》、|怪《かい》物《ぶつ》に|魔《ま》法《ほう》使《つか》い、時には|奇《き》人《じん》変人として|認《にん》識《しき》されたりしていたんですね?」
フ「|螺《ら》旋《せん》の|風《ふう》琴《きん》<潟ャiンシーとドナート青年の|逸《いつ》話《わ》が|典《てん》型《けい》例かな。近代以降、|徒《ともがら》≠ヘ正体を|隠《かく》し、人間社会に|紛《まぎ》れるようになった。彼らの武器や兵隊|官《かん》憲《けん》など、|薮《やぶ》蚊《か》程度の存在だけれど、周りで騒がれては自分の楽しみに|障《さわ》るし、文明文化への敬意と|羨《せん》望《ぼう》も、正直持っている。ただ荒れ狂うよりは、その中で過ごしたい、と考える者が|大《たい》半《はん》さ」
マ「本巻に登場した|穿《せん》徹《てつ》の|洞《ほら》<Aナベルグさんも、その一人でしょうか?」
フ「彼はその部分だけを肥大化させた、|極《きょく》端《たん》な例だね。さて、以上のことを|念《ねん》頭《とう》に、話を|宝《ほう》具《ぐ》に戻そう。その|大《たい》半《はん》を占める武器は分かりやすいな。利害が一致し|共《きょう》闘《とう》するようになった人間と|徒《ともがら》≠フ間には、武器が生まれやすい。武器殺しの『バブルルート』、|討《う》ち手への|復《ふく》讐《しゅう》に燃える人間と作った『トリガーハッピー』等の|変《へん》種《しゅ》も|同《どう》系《けい》列《れつ》と言える」
マ「戦闘用の宝具は、特定の|戦《せん》況《きょう》や敵に対応する形で増えていったんですね」
フ「そうでない『リシャッフル』の場合は、互いの|境《きょう》遇《ぐう》を|悲《ひ》観《かん》した貴族と|徒《ともがら》≠ェ生み出した|珍《ちん》品《ぴん》だ。入れ替わった後、彼らはどうなったのか……話が長くなるので|割《かつ》愛《あい》しよう」
マ「では、『レギュラー・シャープ』は?」
フ「あれの正体は、|占《うらな》いに取り|憑《つ》かれた人間と|徒《ともがら》≠ノよる『自動的に切られるカード』で、元はタロット|一《ひと》揃《そろ》いの形をしていた。占いに使えるカードを時とともに飲み込んで、今は|プレーイングカード《トランプ》として在る。飲み込んだ中から必要な量を自動的に場に出す[#「自動的に場に出す」に傍点]……」
マ「つまり、本来は武器ではなく、使う側が大量に出す指示をしていた、カード自体が存在の力≠ナ強化されていた、というだけだったんですね」
フ「あー、あと、『ダンスパーティ』は、|対《たい》|燐《りん》子《ね》℃gい用の宝具で……私が|御《み》崎《さき》市のトーチに|施《ほどこ》したような、|燐《りん》子《ね》≠|起《き》爆《ばく》させるための|鼓《こ》動《どう》を植え付けることができる」
マ「……それを、|一《いっ》気《き》多数に制御できたフリアグネ様は、やっぱりすごいですね!」
フ「まあ、そう、かな……うん。ちなみに、私は|狩人《かりうど》≠ニして『物事の性質を見抜く力』が|本《ほん》領《りょう》、ゆえに手に入れた宝具の使い道を|即《そく》座《ざ》に|看《かん》破《ぱ》できるわけだ」
マ(あれっ、見抜けるのは『|獲《え》物《もの》の性質』だったんじゃ……?)
フ「あのおちびちゃんの|秘《ひ》めたる底力と器を、状況への焦りがあったとはいえ見抜けなかったことが、身の|破《は》滅《めつ》に|繋《つな》がってしまったわけだけれど――」
マ「はい?」
フ「――この力のおかげで、君という、真に愛し合うべき人を見出せた。|悔《く》いはないよ」
マ「フリアグネ様……」
マ[#顔画像] Q『|悠《ゆう》二《じ》はシャナが出す|紅《ぐ》蓮《れん》の|双《そう》翼《よく》で|火傷《やけど》しないんですか?』
フ[#顔画像] A「フレイムヘイズも|徒《ともがら》≠焉A出す|炎《ほのお》には二種類あるんだよ」
フ「おちびちゃん始め、討ち手や|徒《ともがら》≠ェ見せる|火《ひ》の|粉《こ》や輝きの大半は、物理的な意味での火ではなく、|事《じ》象《しょう》への|干《かん》渉《しょう》=在り得ないことの現れ、その|片《へん》鱗《りん》が視覚化されたものだ」
マ「|紅《ぐ》蓮《れん》の|大《おお》太刀《だち》や|炎《えん》弾《だん》は|延《えん》焼《しょう》もしていますから、本物の火ですか?」
フ「そう、それらは最も単純な『破壊のイメージ』、熱量の発現だから当然、見たままの火だ。一方、紅蓮の|双《そう》翼《よく》は『|飛《ひ》翔《しょう》のイメージ』を発現させたものであって、燃やすことが|本《ほん》義《ぎ》ではない。望めばそうすることもできるだろうけれど、普段は熱くないだろうね」
マ「なにをするでもなかった|纏《てん》玩《がん》”ウコバクさんは、足跡が|燻《くすぶ》っていたようですが」
フ「あれは、|彼《かれ》自身を実体化させる『|顕《けん》現《げん》』が不安定だったため、存在の力≠ェ漏れ出していたために起きた現象さ。なんとも、|不《ぶ》器《き》用《よう》なことだ」
マ「フレイム[#「フレイム」に傍点]ヘイズ、紅[#「紅」に傍点]世=A火の粉[#「火の粉」に傍点]……火を連想させる単語が多くて|紛《まぎ》らわしいですね」
フ「まったくだ。作者のフォローは本意ではないけれど、コーナーがコーナーだ、説明はしておこう。知っての通り|徒《ともがら》≠焉b討《う》ち手も、持てる力は炎に|縛《しば》られない。フレイムヘイズの名の|由《ゆ》来《らい》は、契約時に|幻《げん》視《し》する両界の|狭《はざ》間《ま》が『炎の揺らぎ』に見えるからで、炎そのものとの直接的な関係はない。本当の意味での炎使いは『|炎《えん》髪《ぱつ》灼《しゃく》眼《がん》の|討《う》ち|手《て》』等、かえって少ないくらいだね」
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マ[#顔画像] Q『|紅《ぐ》世《ぜ》の王≠ニ|徒《ともがら》≠ノは、どんな違いがあるんですか?』
フ[#顔画像] A「|概《おおむ》ね、|統《とう》御《ぎょ》できる存在の力≠フ規模によって分けられるようだ」
フ「|既《き》刊《かん》で|幾《いく》度《ど》か説明したように、私も含む王≠ニは、強大な力を持つ|徒《ともがら》≠フことだ。今回は、この『強大な力を持つ』ということについて、少し詳しく説明しよう」
マ「例えば、本編に登場した|徒《ともがら》≠フ|琉《りゅう》眼《がん》<Eィネさんが、『|都《みやこ》喰《く》らい』を起こして大きな力を手に入れたら、それで王≠ノなれるんでしょうか?」
フ「それが、そう|上手《うま》くはいかないのさ、マリアンヌ。我々|徒《ともがら》≠ェ、人間から得た存在の力≠自分の体へと変換することで、この世に存在していることは知っているね?」
マ「はい。私たち|燐《りん》子《ね》≠燗ッじように、存在の力≠ゥら作られています」
フ「君には、そこいらの|徒《ともがら》≠ェ持っている量など、全く問題にならないほどに大きな力を注ぎ込んできたけれどね、ふふふ……」
マ「フリアグネ様っ」
フ「ゴホンッ、とにかく、この基本原則……存在の力&マ換を|大《だい》規模に|統《とう》御《ぎょ》できる者のことを『強大な力を持つ』|徒《ともがら》=∞王≠ニ呼ぶんだ。この適性を持たない者が|莫《ばく》大《だい》な力を得ても、意志を飲み込まれ、存在を薄められ、|遂《つい》には消えてしまうだけだ」
マ「じゃあ、ウィネさんは、大きな力を持っても|徒《ともがら》≠フままなんですね」
フ「その通り。|大《おお》袈《げ》裟《さ》に例えるなら、王≠ヘ|戦《せん》艦《かん》で|徒《ともがら》≠ヘモーターボートだ。戦艦に入れるだけの莫大な燃料を背負わされたモーターボートは、|即《そく》座《ざ》に沈んでしまうだろう?」
マ「なるほど。では、|徒《ともがら》≠ェ王≠ノ成り上がる方法はないのですか?」
フ「|徒《ともがら》≠熕ャ長はするし、両者に|定《てい》量《りょう》化《か》された区分はないから、適度に強くなり、多くから恐れられるようになれば、自然と|徒《ともがら》≠ヘ王≠ニ呼ばれるようになるよ。ただ、人間と同じく、成長の度合いは、先天的な才能や通性、後天的な|鍛《たん》錬《れん》や|研《けん》鑽《さん》に左右される……つまり、一生|努《ど》力《りょく》して|徒《ともがら》≠ナ終わる者もいれば、生まれつき王≠セった者もいる、ということだ」
マ「世の中は|厳《きび》しいです。あ、でも|徒《ともがら》≠フ|愛《あい》染《ぜん》他《た》<eィリエルさんは、街一つを包む|封《ふう》絶《ぜつ》を張っていました。彼女は力も強く、各地で恐れられていたようですが」
フ「彼女は、実のところ大した規模の力を統御していたわけではないんだよ。自身の能力『|揺りかごの園《クレイドル・ガーデン》』の拡大と維持、人間の捕食による力の供給、武器である|蔦《つた》の|具《ぐ》現《げん》化《か》、それらは全て、特殊な設置型の|憐《りん》子《ね》=wピニオン』が行っていた。彼女|自《じ》身《しん》は、事前に仕掛けた多数の『ピニオン』へと命令を送っていただけなのさ」
マ「まさに|司《し》令《れい》塔《とう》、というわけですね。あ、分かりました。たくさんの『ピニオン』を維持するため、あの|宝《ほう》具《ぐ》『オルゴール』を使っていたんですね?」
フ「正解だよ、マリアンヌ。むしろ彼女の才能は、人間に打ち込むだけで|多《た》機能な|燐《りん》子《ね》≠生み出せる|自《じ》在《さい》式《しさ》の|構《こう》築《ちく》、という点にある。これは、『他者のために全てを捧げる』という彼女の本質を|移《い》植《しょく》する行為……『ピニオン』は、いわば彼女の|分《ぶん》離《り》体《たい》なんだ。同様の例として、|天《てん》才《さい》的《てき》自在|師《し》|螺《ら》旋《せん》の|風《ふう》琴《きん》<潟ャiンシーがいる」
マ「そういえば、彼女も|徒《ともがら》≠ナした」
フ「彼女は統御できる力こそ小さいものの、異常に|高《こう》効率な……つまり、|僅《わず》かな力で大きな効果を生む自在|法《ほう》を|瞬《しゅん》時《じ》に構築することができるという、まさに天才だ。統御できない分の力も、|毛《けい》糸《と》玉《だま》に変えて持ち運んでいる。これは|滅《めっ》多《た》に使わないようだけれどね」
マ「それらの、宝具や自在式の応用で、統御できる力が小さな|徒《ともがら》≠ナも大きな|影《えい》響《きょう》力を持てるんですね。全世界の|徒《ともがら》≠フ皆さん、|頑《がん》張《ば》ってください!」
フ「|綺《き》麗《れい》に|纏《まと》まったところで、次にいこう」
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マ[#顔画像] Q『|封《ふう》絶《ぜつ》発明|以《い》後《ご》、フレイムヘイズは生まれてますか?』
フ[#顔画像] A「減少|傾《けい》向《こう》にはなったけれど、生まれ続けているよ」
マ「でも、|復《ふく》讐《しゅう》のために生まれるのですから、|徒《ともがら》≠ノ|襲《おそ》われたことを自覚できないと|駄《だ》目《め》なのでは。|封《ふう》絶《ぜつ》に|囚《とら》われたら、|常《じょう》人《じん》は静止してしまいますよね?」
フ「イレギュラーというのは、どこにで発生するものだよ、マリアンヌ。まず、本巻に登場した『|魑《ち》勢《せい》の|牽《ひ》き|手《て》』ユーリイ・フヴォイカの契約に見られるような……そもそも|徒《ともがら》≠ェ|封《ふう》絶《ぜつ》を張っていなかった、というケースがある」
マ「あっ、そうでした。あの|海魔《クラーケン》が|封《ふう》絶《ぜつ》を張っていなかったのは、やはりフレイムヘイズの気配がなかったからですか?」
フ「だろうね。自分が襲う人間から|討《う》ち手など生まれない、とたかをくくっていたのさ。この世に渡り来て間もない者、若く|無《む》鉄《てっ》砲《ぽう》な者は、|連《れん》中《ちゅう》の恐ろしさを知らないから、そういう|迂《う》闊《かつ》な|真似《まね》を平気でする。[|仮装舞踏会《バル・マスケ》]などは、そういう|事《じ》例《れい》を減らすため、|新《しん》参《ざん》者を見つける|度《たび》に|訓《くん》令《れい》を与えているようだ」
マ「彼らは、自分たちの不用意な真似が|齎《もたら》す結果について考えてくれないのですね……ハァ」
フ「他には、我々の行為や|自《じ》在《ざい》法《ほう》を感じる|適《てき》性《せい》に目覚めた本質的な|異《い》能《のう》者が『この世の本当のこと』を知って契約するケース。『|儀《ぎ》装《そう》の|駆《か》り|手《て》』カムシン・ネブバーウの例が分かりやすいな。この種の人間は、数が少ない代わりに強力な討ち手となる傾向を持っている」
マ「それは|封《ふう》絶《ぜつ》云《うん》々《ぬん》とは、あまり関係なさそうですね」
フ「時代に|拠《よ》らず一定の割合で存在する彼らは、|異《い》種《しゅ》族《ぞく》|紅《ぐ》世《ぜ》の|徒《ともがら》=b侵《しん》攻《こう》に対抗するため生まれる『人類の|抗《こう》体《たい》』のようなものではないか、と私は見ている。さて……最後が全く|以《も》って|忌《いま》々《いま》しい、一人の男が編み出した、|人《じん》為《い》的なケースだ」
マ「一人の男?|探《たん》耽《たん》 求《きゅう》 究《きゅう》<_ンタリオン教授、ですか?」
フ「いや、本巻で|詳《しょう》細《さい》に紹介された『|愁《しゅう》夢《む》の|吹《ふ》き|手《て》』ドレル・クーベリックだ」
マ「彼は、|外界宿《アウトロー》の改革者、でしたよね?」
フ「まさに、そこ[#「そこ」に傍点]なんだよ。彼は、|外界宿《アウトロー》の経営に人間を組み入れる、という前例のない方式を取っていたんだが……そうする内、討ち手や自在法に多く触れた人間の構成員が存在の力≠竢チ失の|違《い》和《わ》感《かん》を|薄《うす》々《うす》とでも|感《かん》知《ち》できるようになっていくことに気が付いた。本編だと、|吉《よし》田《だ》一《かず》美《み》嬢《じょう》や|佐《さ》藤《とう》啓《けい》作《さく》・|田《た》中《なか》栄《えい》太《た》両君に、|兆《ちょう》候《こう》が見られる|現《げん》象《しょう》だ」
マ「あっ、まさか!?」
フ「そのまさかだ。彼は|微《び》弱《じゃく》な|感《かん》知《ち》能力を得た構成員の内、信頼を置ける者に『この世の本当のこと』を、|外界宿《アウトロー》の真の役割を、教えていたんだ。そして、|討《う》ち手と個人的友情、あるいは愛情を|育《はぐく》んでいた人間の中から、相手の存在の|消《しょう》滅《めつ》を感じ、|喪《そう》失《しつ》の悲しみと|復《ふく》讐《しゅう》心《しん》を抱き、新たな討ち手として契約する……そんな異常者[#「異常者」に傍点]が出るようになった」
マ「……」
フ「ドレル・クーベリックによって、|外界宿《アウトロー》は、使命感・復讐心・知性・|適《てき》性《せい》等を備えた『フレイムヘイズ養成|機《き》関《かん》』の面まで備えるようになってしまったんだよ。もちろん、絶対量は|微《び》々《び》たるものだが、|脅《きょう》威《い》には違いない」
マ「|度《たび》々《たび》本編で名前が出ていたのも|伊達《だて》じゃない、|凄《すご》い人だったんですね」
マ[#顔画像] Q『教授の|徒《ともがら》≠ニしての能力って発明ですか?』
フ[#顔画像] A「彼の能力は、物質を|具《ぐ》現《げん》化《か》することなんだ」
フ「彼の使う『|我《が》学《がく》の|結《けっ》晶《しょう》』が|宝《ほう》具《ぐ》なのかどうか、という質問にも併せて答えよう。あれは、彼が具現化させた物質によって作り出された、まさに力の結晶なんだ」  教「んー」
マ「普通、|御《おん》|徒《ともがら》≠ェ生み出すのは|現《げん》象《しょう》……|炎《ほのお》や風などの『一時的な|干《かん》渉《しょう》』ですよね?」
フ「ところがあの男は、本来は自身のみに行う『|顕《けん》現《げん》』を、『他の物体』として永続的に実体化させることができる、という|特《とく》異《い》独自な力を持っているんだよ」  教「ふふふ!」
マ「きゃあっ!?」教「今こそ、|華《か》麗《れい》なるリィーベンジッ&リィーバイブがスッタァ――ト!!」
フ「うわっ!?」                        ド「おじゃましまーす」
教「私の誇ぉーる『|我《が》学《がく》の|結《けっ》晶《しょう》』っは! 宝ぅー具にして宝具に|非《あら》ず!!」
ド「教授がインスピレーションで生み出した『素材』を、この世の道具に組み込むことで『|我《が》学《がく》の|結《けっ》晶《しょう》』は誕生するんでございますです。まあ『素材』も、|大《たい》概《がい》は使い物にならないガラクタなんでございますけ|ほひはひひはひ《どいたいいたい》」
教「|一《ひと》言《こと》多ぉーいですよ、ドォーミノォー! こぉーの世を知るには、その場|限《かぎ》りの現象など起ぉーこしても無意味! ナァーンセンスノォーサンキューノォーッフューチャー!!」
フ「あー、うるさいうるさいうるさい[#「うるさいうるさいうるさい」に傍点]。マリアンヌ」
マ「はい、もう一度、宝具『押し出しトンカチ』で、えいっ!」教「ふぉー!?」ド「ぎゅう」
フ「やれやれ、彼らの説明は|無《む》駄《だ》に文字数を食うから、読者の皆が疲れてしまう」
マ「とにかく、ダンタリオンさんだけが特異な|宝《ほう》具《ぐ》を多数、自分のためだけに使ってる理由は分かりました。その力を|上手《うま》く使えば、|凄《すご》く強力な宝具を作れそうですけど……」
フ「そのお願いを、彼が[#「彼が」に傍点]素直に聞いてくれると思うかい?」
マ「……いえ」
フ「そんな彼を比較的[#「比較的」に傍点]上手くコントロールしている|連《ぎゃく》理《り》の|裁《さい》者《しゃ》<xルペオルは、|自《じ》在《ざい》式《しき》を込めるための『素材』たる|金《きん》塊《かい》『デミゴールド』をせしめて、色々と作っているようだ。|琉《りゅう》眼《がん》<Eィネの持っていた『|非常手段《ゴルディアン・ノット》』も、そうして作られた宝具の一つだ」
マ「なるほど、色々|繋《つな》がりがあるんですね……あ、フリアグネ様。そろそろページが終わりに近いようです」
フ「楽しい一時は、過ぎ去るのも早い……なんとも切ない、これも世の|理《ことわり》なのかな」
マ「また次も、|頑《がん》張《ば》りましょう、フリアグネ様」
フ「そうだね、私の|可愛《かわい》いマリアンヌ。じゃあ、最後は一気に質問を片付けよう」
Q『ヘカテーのでっかい|帽《ぼう》子《し》の中には何が入っているんですか?』
A「夢と秘密が詰まっているらしい」
Q『シュドナイはシャナを見てなんとも思わないのですか?』
A「『俺はヘカテーを愛しているのであって、決してそういう[#「そういう」に傍点]趣味なのではない!』そうだ」
Q『ヴィルヘルミナの好き食べ物はなんですか?』
A「ぶつ切りチーズを|肴《さかな》にワインを飲むのが|密《ひそ》かな楽しみ、とのことだ」
Q『|封《ふう》絶《ぜつ》内のものが壊されたとき、トーチがなかったら、どうするんですか?』
A「フレイムヘイズが|自《じ》前《まえ》の力で|修《しゅう》復《ふく》するよ」
Q『お願いですから「あの|高《たか》橋《はし》」ぶりを治してください』
A「また、返事の手紙が……『ドンマイ』とだけ書いてあるな」
マ[#顔画像] 「読者の皆さん、今回はこの辺。でお別れです――えい!」教「ふぐぉっ」ド「わ
フ[#顔画像] 「飛び出してくる|連《れん》中《ちゅう》の|機《き》先《せん》を制するとは|流石《さすが》だね、マリアンヌ」
マ[#顔画像] 「フリアグネ様と私の、大切なコーナですから……それでは」
フ[#顔画像] 「またいつか、私とマリアンヌの熱き|交《こう》歓《かん》を見せられるよう願っているよ」
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あとがき(すし詰め版)
はじめての方、はじめまして。久しぶりの方、お久しぶりです。
|高《たか》橋《はし》弥《や》七《しち》郎《ろう》です。また皆様のお目にかかることができました。ありがたいことです。
さて本作は、|痛《つう》快《かい》娯《ご》楽《らく》アクション小説です。今回は、書き下ろしのマージョリー編、hp|掲《けい》載《さい》の|吉《よし》田《だ》さん編、短編と|掌《しょう》編《へん》一つずつという構成です。次は、お待たせしました、本編です。
テーマは、描写的には「関わりと|繋《つな》がり」、内容的には「だれもが」です。|外《がい》伝《でん》は、本編では見られないものと、本編で見えているものを。掌編は、本編の|補《ほ》足《そく》説明を書きました。
担当の|三《み》木《き》さんは、ようやく一息つかれたようです。とはいえ、世にお仕事の|種《たね》は尽きまじの|趣《おもむき》。今回のサービスシーンは特に、手首|切《せつ》断《だん》を|賭《か》けた|腕《うで》相撲《ずもう》の結果、入ることに(以下略)。
|挿《さし》絵《え》のいとうのいぢさんは、品のある絵を描かれる方です。キャラクターの何気ない立ち|居《い》振《ふ》る|舞《ま》いに、意思と意図を感じさせられます。ご本業の|繁《はん》忙《ぼう》期に差し掛かる中にも変わらず、この|度《たび》も|拙《せっ》作《さく》への|甚《じん》大《だい》なる|御《ご》助力を頂けたことに、深く深く感謝いたします。
県名五十音順に、|愛《あい》知《ち》のS田さん、|青《あお》森《もり》のK田さん、|茨《いばら》城《ぎ》のT原さん、|岩《いわ》手《て》のK田さん、大阪のH田さん、K本さん、Nさん、N谷さん(おめでとうございます、|圧《あっ》巻《かん》でした)O島さん、T中さん、U田さん、Y田さん、|鹿《か》児《ご》島《しま》のS冥さん、|神《か》奈《な》川《がわ》のF井(G動)さん、K田さん、M野さん、Sさん、|岐《ぎ》阜《ふ》のT井さん、Y浅さん、|京《きょう》都《と》のK本さん、M林さん、|熊《くま》本《もと》のお名前を書き忘れた方、|高《こう》知《ち》のK石さん、|埼《さい》玉《たま》のK川さん(Y川さん?)|佐《さ》賀《が》のK島さん、|滋《し》賀《が》のK島さん、|千《ち》葉《ば》のM原さん(いつも細かにありがとうございます)O村さん、Y谷さん、東京のA安さん、I出さん、K窪さん、M田さん、M松さん、Zさん、|徳《とく》島《しま》のK林さん、U田さん、|栃《とち》木《ぎ》のE老原さん、|鳥《とっ》取《とり》のH取さん、|富《と》山《やま》のT沢さん、|長《なが》野《の》のK藤さん、O鐘さん、|新《にい》潟《がた》のO竹さん、|兵《ひょう》庫《ご》のM下さん、O削さん、T井さん、|広《ひろ》島《しま》のH沢さん、I井さん、|福《ふく》岡《おか》のH谷さん、H田さん、S山さん(T山さん?)|北《ほっ》海《かい》道《どう》のK子さん、Y田さん(お見事です)|宮《みや》城《ぎ》のI深さん、K木さん、T中さん、いつも送ってくださる方、初めて送ってくださった方、いずれも大変|励《はげ》みにさせて頂いております。アルファベット一文字は|苗《みょう》字《じ》一文字の方で、県が同じ場合はアルファベット順になっています。年賀状も頂きました。どうもありがとうございます。
ところで当方、いささか事情あって、返信ができません。お手紙はしっかり読ませてもらっていることを右に示すことで、これに代えさせて頂きたいと思います。
それでは、今回はこのあたりで。
この本を手に取ってくれた読者の皆様に、|無《む》上《じょう》の感謝を、変わらず。
また皆様のお目にかかれる日がありますように。
[#地付き]二〇〇六年三月   高橋弥七郎