TITLE : 値段が語る、僕たちの昭和史
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はじめに
――僕と同じ世代の読者のみなさんへ――
1970年(昭和45年)9月、今は亡き渋谷駅前の“名曲喫茶”『らんぶる』。
少し遅れてきた彼女は、「後で読んでね」とテーブルの上に手紙を置いて、逃げるように立ち去った。20歳になったばかりの筆者は、振られたのである。すぐに席を立って追いかけたが、レジでお金を払っているうちに、彼女は渋谷駅前の人混みに紛れてしまった。
それから30年、彼女とは会っていない。
長いことトレンディ・ドラマを見てきた今なら、「お客さん、お金!」と叫ぶ店員を振り払うようにして外に飛び出し、100メートルほど(かっこよく)走った後に彼女に追いつき、駅の人混みも何のその、「でも僕はあなたが好きなんです!」とか呼びかける、最高の見せ場を作れたものを。
しかしそのとき筆者はポケットから財布を取り出し、お釣りが出ないように気を遣ったりしながら、コーヒー代を払っていたのだった。
当時の喫茶店のコーヒー代は、120円。そうか、あのとき払ったのは120円ぐらいのお金だったのか。まだまだだったなあ、20歳の俺。
あるいは64年(昭和39年)10月、東京オリンピックが華やかに開催された頃。
ある朝、友だちの鈴木君が、一緒に中学校に向かって歩きながら、「♪アイワナホールデューヘエーン」と、大変かっこいいフレーズを口ずさんで、言った。「知ってっか? ビートルズ」。登校仲間の関君と根本君と筆者の3人は、そのフレーズのかっこよさにしびれて、聞いた。「ビートルズ? しゃねなあ、どごで聴いたのや?」「東北放送(ラジオ局)の『百万人のヒットスタジオ』だ。かっこいいべ」
その夜筆者らは鈴木君の家に集まり、鈴木君の勉強机の上に置かれた小型ラジオを見つめていた。夜9時、流れてくるロックンロール・サウンド。こうして、東北地方だけでなく全国にビートルズ・ファン、そして後の深夜放送ファンが生まれていったのである。
当時のラジオの最低価格が、4800円ぐらい。ようやく、中学生の子どもにも買ってやれる値段になってきた時代だった。
本書は、「値段」によるタイムトラベルの試みである。
泣きながら連れていかれた床屋、小学校の遠足で食べたバナナ、高校の入学祝いに買ってもらった自転車、バリケードストライキの学内で初めて食べたカップヌードル、彼女と食べたハンバーガー、結婚を決めて初めて買った新品のテレビ……。
いったい、それらの「商品」や「サービス」の値段はいくらだったのか。読者は、そのときの値段とその移り変わりを辿ることで、子ども時代や青春時代、あるいは結婚したての頃といった、過ぎ去った20世紀後半の日々を改めて旅することになる。
本書を、いわゆる“団塊の世代”と、その貧しかった時代を知らない“団塊ジュニア”たちに捧げたい。父ちゃんたちはこんなに貧乏で、バカだったのだ。
なお、各テーマの冒頭のグラフは、基本的に、その当時の金額を「銀行員大卒初任給」を基に現在に換算した値段と、今現在の値段の比較になっています。本文中ではしばしば、ある年の物価を100とした「物価指数」で現在の金額に換算したりもしていますが、両者の間には微妙な違いがあるのでご注意ください。
21世紀最初の年、7月吉日
高橋孝輝
値段が語る、僕たちの昭和史
あのころコレはいくらだった?
目 次
●はじめに 僕と同じ世代の読者のみなさんへ
第1章
失恋したときだって、お腹は減った
〜食べ物の値段〜
インスタントラーメン代
貧乏学生には唯一無二の主食だった格安食品も、当初は本物のラーメンとほぼ同価格と、高めで発売
カップラーメン代
浅間山荘事件で「あれはなんだ?」と一躍話題に。元祖カップ麺は30年間で値上げがたったの40円!
バナナ代
特別な日の特別な食べ物だった高価なバナナ。
現在の価格に換算すると1房なんと1800円だった
卵代
卵焼きは家長だけの特別料理だった子どもの頃。当時の卵は今の値段で1個8300円の超高級品
牛乳代
「給食は脱脂粉乳」世代にとっての贅沢品も、30年前より割安で、毎朝ゴクゴクの日常品に
ハンバーガー代
値下げ戦争勃発で、ついに創業時より安価に。これぞ正しい“米帝”ファーストフード!?
ウイスキー代
学生時代、初めて本格的に飲んだ酒はレッド。ホワイトだって当時は超高級品だったんだ!
第2章
すべては日用品になってしまった
〜モノの値段〜
少年マンガ週刊誌代
よど号ハイジャック犯も読んでいたマンガ誌。今も昔も、毎週買えるかな? ぐらいの妥当な値段
コンドーム代
気持ちが高ぶった初めてのコンドーム購入。でもあれって、いったいいくらだったんだ?
ラジオ代
眠い目をこすって夢中になった60年代深夜放送。テレビ登場後で、この頃すでに手の届く値段に
自動車代
「国民車」といっても当時の初任給の25倍! とはいえ7倍になった今でも高級品に変わりなし
自転車代
「中古再生車を三角乗り」していた高価な乗り物も、40年間で盗まれても惜しくないほど安価な日用品に
百科事典代
「マイホームの応接間に、百科事典を飾る」これがステータスだった時代もありました
文庫本代
貧しき大衆に、安く本を提供し続ける文庫本。その志は、現在もまだまだ死んではいない!
背広代
全共闘運動に憧れて、制服闘争を闘ったりしたのに、新しい道に進むため必要だったのは4万円の背広代
電球代
「白い灯り」と「黄色い灯り」には貧富の差が? それでも16年間値上げされていない電球は優等生
テレビ受像器代
「日本選手団の紅白のユニフォームが印象的」でも当時月収の9倍もしたカラーTVで見ましたか?
第3章
日常とは違う、ちょっとしたこと
〜ゆとりの値段〜
銭湯代
湯上がりのフルーツ牛乳が楽しみだった銭湯も、風呂付きの定着で30年間で約1万軒が廃業に
床屋代
無理矢理連れて行かれ、半べそ状態で丸坊主に。今は当時に比べて30倍、でも時代にあった適正価格?
パチンコ代
1発ずつはじく手動式時代は1000円で終了も、「CR機」登場の今では平均8000円に増額
映画代
家族で見に行ってたのは2〜3本立ての2番館。料金一律ではない、割安映画館の復活を願いたい
プロスポーツ入場料
ファンのことを考えたメリハリのある料金設定。必然の値上げも、物価上昇率とほぼ同じだけ
喫茶店のコーヒー代
コーヒー1杯で何時間でも過ごせた喫茶店。学生たちにとって、けっして安くはなかった
宝くじ代
発売時の宝籤は1枚が初任給の8分の1と超高額。それでも人気があったのは、当せん金も高額のせい
結婚式代
30年前ですでに96万円もした非日常大イベント。だからって今300万円以上するのはもっと異常
パーマ代
戦後こんなに値上がりしたものは他にない!? それでも禁止されていた時代を思えば、まあいいか
第4章
時の流れとともに、常識も変わる
〜生活の値段〜
大学の授業料
30年間で月収の3分の1から2倍以上に高騰。学友諸君! 学費値下げ闘争を、いま再び!
電車賃
「出かけて帰ると500円ぐらい」は70年代の話。今や「30q圏で往復1000円以上」が当たり前
飛行機運賃
「飛行機で帰省する」と聞いて驚愕した学生時代。90年代以降は新航空会社参入でうれしい値下げ合戦
タクシー運賃
80年代終電後のお開きなら当然タクシー帰宅。実は今より高かったのに。景気よかったなあ
電話通話料
近隣の「呼び出し」が我が家の自慢だったのに、高度成長期の波に乗ってあっという間に1家に1台
携帯電話代
会議中に「ちょっと失礼。あ、もしもし……」欲しかったけど、当時は基本料だけでも2万円!
家庭教師代
70年代の一番「おいしかった」小遣い稼ぎでも、今は授業料の値上げで「稼いで学ぶ」は無理な時代
運転免許代
実技教習で教習官とけんかしてドブに捨てた数万円。今だったら30万円捨てることになるんだなあ……
初任給
揶揄の対象「団魂の世代」命名の裏側には、高初任給の我らに対するひがみがあった?
撮影/外崎久雄
校正/東京出版サービスセンター
制作/主婦の友インフォス情報社
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主婦の友インフォス情報社 企画出版部
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第1章
食べ物の値段
失恋したときだって、
お腹は減った
学生時代の主食だったインスタントラーメン、風邪をひいたときにだけ食べさせてもらえたバナナ、初めて二日酔いを覚えたウイスキー……。少年時代でも青年期でも、貧乏でも裕福でも、生きていくうえで絶対に必要なのは、いつの時代も「食べること」だった。
インスタントラーメン代
貧乏学生には唯一無二の主食だった格安食品も、当初は本物のラーメンとほぼ同価格と、高めで発売
当時の値段を今のレートで換算すると
世界最初のインスタントラーメン(即席ラーメン)は、1958年(昭和33年)、大阪市の食料品貿易会社サンシー殖産(現在の日清食品)の社長、安藤百福氏が開発した『チキンラーメン』だと言われる。しかし、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち』というドキュメンタリー番組によれば、その2年前の56年(昭和31年)、「南極観測隊が、東京の二幸食品という会社が開発した『即席ラーメン』を持っていった」とも言われている。おそらく、昭和30年代初頭に日本では様々な人が「簡単にできるラーメン」というアイデアを抱き、それぞれのやり方で実現しようとしていたということなのだろう。
ただし、「日本で初めて大々的に食されたインスタントラーメン」という形容詞なら、間違いなく『チキンラーメン』である。その味は、スープも麺もいわゆるラーメンとは似ても似つかないものだったが、独特のうまさがあった。たちまちのうちに日本中に拡がって、日本の食の定番になった。家庭では主に子どものおやつや夜食として。貧乏な学生には唯一無二の主食として。
と言って、インスタントラーメンは最初から安いものだったわけではない。
発売時の『チキンラーメン』の値段は、1袋35円だった。
『戦後値段史年表』(週刊朝日編・朝日文庫)などの資料から、当時の物価水準を復元してみると……。まず、本物のラーメンが40円だった。かけそばやもりそばが30〜35円だった。当時インスタントラーメンに最も近い存在だったうどん玉が1個5〜6円だった。簡単なおやつ代わりになる食べ物つながりで言えば、木村屋総本店のアンパンが12円だった。安い食材で言えば納豆が10円、豆腐が15円だった。そしてコーヒーが喫茶店で50円、東京・日本橋たいめいけんのカレーライスが100円だった。ちなみに都バスや国鉄の最低運賃が15円だった(いずれも東京での値段)。また、銀行員大卒初任給1万2700円から換算すると、当時の35円というお金は今の480円に相当する。『チキンラーメン』は、けっこう高いものだったのだ。
「社史などの記述を見ると、35円が高いという意識は社内にもあり、問屋からも高いと指摘されたようです。しかし、テスト販売では物珍しさもあってか、その値段でも売れ行きが好調でした。また、いい材料を使っているし、長期保存でき、簡単に作れるという特別な付加価値もあるという自信から、35円でいくと決定したと伝えられています」
と、これは日清食品の説明。『チキンラーメン』発売開始から2年後、60年(昭和35年)に発売された明星食品の『味付けラーメン』も、35円だった。
明星食品は、当時の値段についてこう言っている。
「ただ実際には、(当時増えつつあったスーパーマーケットなどでの)お試しセールで値引き販売されたり、“ナベ付き販売”などの売り方をしたりしていたようなので、実勢価格はメーカーのつけた標準価格よりかなり安くなっていたと思います」
当初の実勢価格は、種々のデータから推測するとスーパーでは30円から33円、町内の商店などでは標準価格のまま35円だったようだ。
しかし62年(昭和37年)頃から1袋30円というものが増え始め、65年には『チキンラーメン』も30円に。60年代後半には、全体の実勢価格が26円とか27円にまで落ちてきた(総務省統計局小売物価統計調査による・以後も同じ)。するとすかさずメーカーは、すでに62年に開発されていた「粉末スープを別添え」という手法を応用して、従来の「しょうゆ味」の他に「塩味」(64年に大ヒット)や「味噌味」(68年に大ヒット)を投入。69年(昭和44年)には麺を油で揚げずに蒸気で蒸して仕上げる「ノンフライ麺」も登場させ、71年には実勢価格を30円に、72年には33円に戻した。じりじり下がる実勢価格を新製品投入でくいとめるというパターンは、その頃から始まっていた。
ところで70年(昭和45年)当時の物価は、本物のラーメンが180円、かけそばやもりそばが100円、アンパン25円、納豆20円、豆腐35円、コーヒー120円、カレーライス150円、都バスと国鉄初乗り30円、銀行員大卒初任給は3万9000円となっていた。だから1袋35円のインスタントラーメンには大変割安感があった。オイルショックを契機に諸物価が急騰した73年(昭和48年)から80年にかけてはインスタントラーメンの標準価格も上がったが、改定額は40円(73年)、55円(74年)、60円(77年)、70円(80年)と、穏やかなものだった。インスタントラーメンが安いという私たちの感覚は、この時代に生まれ、定着したのである。
インスタントラーメンの80年代は、明星食品の『中華三昧』(81年)など1袋120円もする“高級もの”のヒットで明けた。しかしそのベースはメーカー希望小売価格80円、実勢価格70円前後の廉価品にあり、その希望小売価格は80年代末に90円に引き上げられたもののバブル経済に引きずられることはなく、90年代もずっと90円で推移。実勢価格82〜83円となって現在に至っている。
80年代前半のこと。年若い、そして貧しい友人の部屋を訪ねたら、平たい段ボール箱が3つ積んである。聞けば、アルバイトのお金が入ったので、インスタントラーメンを36個入り×3箱買ってきたとのこと。そして、「これでしばらく飯の心配はなくなった」と、心底うれしそうに笑っていた。
小ナベあるいはヤカンからの“直食い”が可能な、食器要らず。キャベツの油炒めを載せて、これでOKと信じた栄養バランス。ちょっと豊かなときの、ラーメン2個プラス卵の一気食い。その登場時はさておき、インスタントラーメンは、60年代半ばから現在までいつも貧しき者の味方だった。
発売当初のチキンラーメン。CMでやっていた、生卵をのせてお湯をさす食べ方が定番だったが、本当に貧乏なときは卵もなし。そのままかじるとおいしいと言っていた強者もいた。
(写真提供/日進食品〓)
【資料提供】
〓日本即席食品工業協会、明星食品〓、日清食品〓
カップラーメン代
浅間山荘事件で「あれはなんだ?」と一躍話題に。元祖カップ麺は30年間で値上げがたったの40円!
当時の値段を今のレートで換算すると
『カップヌードル』と初めて出会ったのは、1971年(昭和46年)もそろそろ年末になろうとしていた、ある夜のことだ。友人たちと通りかかった学内の生協食堂の前に新しい自動販売機があり、商品見本のウインドウに置かれたプラスチック容器には独特の書体で「CUP NOODLE」、販売機側面にはでかでかと、「容器をそのまま台の上に置いてボタンを押してください。お湯が出ます」という注意書きがあった。
へえ、すぐに食えるってこと? これは面白い。ちょうど飯でも食おうかと歩いているときだったので、全員で1個ずつ買った。ボタンを押し、どうなるのか見ていると、上から先が尖った金属パイプが下りてきて、蓋にプスリと穴をあけ、ジョボジョボとお湯を注ぎ込み始めた。素晴らしい! 皆で地面に座って、その新しい食べ物を味わった。
71年(昭和46年)に発売された『カップヌードル』は、またしても日清食品の開発だった。またしてもと言うのは、58年(昭和33年)に『チキンラーメン』を発売して、インスタントラーメンの市場を拓いたのも、日清食品の前身のサンシー殖産だったからだ。この『カップヌードル』の発売も、その後巨大な「カップ麺」市場を拓くことになる。
『カップヌードル』開発話には、アメリカにインスタントラーメンを売り込みに行った日清食品の安藤百福社長が、ラーメンを紙コップに入れ、フォークを使って試食するアメリカ人バイヤーを見て思いついたとか、いろいろ面白い話がある。しかし最も面白かったのは、それが「1個100円」という当時としては大変高い価格設定だったのに、すぐ飛ぶように売れるようになったという、その「きっかけ」である。
実は最初に自動販売機で買ったとき、筆者はそれが高いとはあまり感じていない。家庭教師のバイトのおかげで20年間生きてきたうちで最も懐が温かかったためだが、その後思うところあって家庭教師を辞めると、高いと思うようになった。当時袋入りのインスタントラーメンはスーパーで普通30円、“売り出し”のときだと、25円で売られていた。『カップヌードル』1個のお金で、袋入りなら3〜4個食べられたのである。
中華ソバ屋のラーメンが180円、喫茶店のコーヒーは1杯120円もしたが、ソバ屋で食べるかけそばやもりそばが100円、当時出始めの立ち食いそば屋ではかけそばやかけうどんが60円ぐらいで食べられた時代だった。
『カップヌードル』は名前と容れ物がかっこよく、『チキンラーメン』以来の、ナベを使わないでも調理でき食えるものだったが、中味は『チキンラーメン』以上にラーメンとかけ離れたものである。それがなぜ1個100円という高値で売れてしまったのか。
「社内アンケートでも、高すぎると否定的な意見が大勢を占めました。でも自動販売機という新しい販売ルートを開くことができたのと、浅間山荘事件で関係者が食べていたのが話題になったことが大変大きかったと思います」
これは日清食品の話だが、後段についてはインスタントラーメンの業界団体、「社団法人日本即席食品工業協会」に補足してもらおう。
「72年(昭和47年)2月に連合赤軍が人質を取って立てこもった浅間山荘事件では、休憩中の機動隊員がカップラーメンを食べている風景が全国にテレビ中継されたり、写真が週刊誌に掲載されましてね。『あれはなんだ?』と、見た人の興味を引いたようなんです。浅間山荘の中でも(犯人や人質が)食べていたと言われましたからね」
浅間山荘事件では、テレビ局はNHKも民放も連日長時間中継を行い、警官隊の突入が行われた日には10時間以上も、CMもほとんどカットして現場の様子を中継。人質が救出された時間の視聴率が89・7%に達した。それは一面では、革命家グループと警察の闘いがリアルタイムでお茶の間で見られるという、テレビ及び革命運動史上前代未聞の事態でもあった。そこで『カップヌードル』である。知名度は飛躍的に高くなった。
知名度が増せば、新しい食べ方、新しい味の『カップヌードル』だ。売れないはずがない。すぐに競合メーカーも参入して、販売食数は初年度71年(昭和46年)の400万食から72年の1億食、73年の4億食と増え続けた。そして75年(昭和50年)に10億食を、85年には20億食を超えて、現在は30億食に迫る。袋入りの販売食数は現在20億食で減少中だから、カップ麺は今や押しも押されもせぬインスタントラーメンの中核商品となっている。
その間、商品内容もバラエティに富んだものになった。70年代中頃にすでに「カップ焼きそば」や「カップうどん」が登場し、かやくや麺に「フリーズドライ(真空凍結乾燥)製法」なども導入された。80年代には“ご当地”ラーメンや“エスニック”辛口ラーメン、量を加減した「ミニカップ」「大カップ」などアイテムを増やし、89年(平成元年)に初登場した生タイプ麺は92年の日清『ラ王』(当時250円)を大ヒットさせて、一時代を画した。
しかし値段はそれほど値上がりしていない。『カップヌードル』について言えば、74年(昭和49年)に120円、79年に130円、83年に140円、そして89年(平成元年)に155円へ値上げされただけである。実勢価格はそれより常に10〜12円安く推移しており、現在は143円。71年(昭和46年)の銀行員大卒初任給が3万9000円だから、380円になっていても不思議ではない。『カップヌードル』は、この30年間でずいぶん安くなってきていたわけである。
日清食品は最近、ゴルバチョフやビートルズなどの歴史映像を使った「21世紀カップヌードル」のCMを展開した。「歴史」の中にある『カップヌードル』。あの72年(昭和47年)2月を生きた人々は今、そのメッセージをどのように受け止めているのだろうか。
有名な浅間山荘事件での1コマ。当時「あれはいったい何を食べているんだ?」と話題になったのもうなずける。2月の寒い中、さぞおいしそうに食べていたのだろう。
(写真提供/文藝春秋)
【資料提供】
〓日本即席食品工業協会、明星食品〓、日清食品〓
バナナ代
特別な日の特別な食べ物だった高価なバナナ。現在の価格に換算すると1房なんと1800円だった
当時の値段を今のレートで換算すると
「戦後の、1949〜50年(昭和24〜25年)の頃だったかなあ、銀座の千疋屋さんで、一番高い果物がバナナだった。1房が当時のお金で何千円かしていてね……」
日本バナナ輸入協会で専務理事を務める、山崎金一さん(73歳)の想い出だ。日本がいまだ「進駐軍(米軍を主力とした連合国の日本占領軍)」の支配下にあり、「焼け跡」「闇市」「GHQ(連合軍総司令部)」などの言葉がリアルだった時代を記憶する人も、すでにあまり残ってはいまい。しかし、ではこんな言葉はどうだろうか?
「昔バナナは病気のときしか食べられるものじゃなかった……」
「年に1度の遠足のときに食えたなあ。でもうちは3人兄弟だったから3等分してね」
「うちはクリスマスだけ。サンタさんが南の国から持ってきてくれるものと思ってた」
1960年(昭和35年)以前に生まれた人、つまり今40歳以上の人は、皆、高いバナナに関するそれぞれの“伝説”を持っている。占領下日本の最後の年の生まれの筆者も同様、バナナを目にすると、今でも特別の想いがわきあがるのを禁じ得ない。
それは、サンフランシスコ講和条約の締結(51年・昭和26年)で占領が終わり、日本が独立しても、56年(昭和31年)に経済白書が「戦後は終わった」と宣言しても、高度成長経済が始まり、「所得倍増計画」が実現性のない夢ではなくなった60年代前半になっても、バナナが、まだとんでもなく高いままだったからだ。
バナナがそんなにも高かったのは、戦後の変則的なバナナ輸入方式のためである。
1902年(明治35年)に台湾バナナから始まった日本へのバナナ輸入は、戦争による中断後、49年(昭和24年)に再開される。輸入業者が政府とGHQ(連合軍総司令部)に熱心に運動し、「外貨特別割当て」を得てようやく実現したものだったが、外貨割当ては年間総額が50万ドルとか60万ドルに過ぎなかった。そのため多くても10数社しか輸入のためのドル資金を得られず、そこに何千という輸入業者が押し寄せたものだから、業者同士で警察沙汰を起こすやら、“黒い霧”つまり政治家との汚職問題を起こすやら、毎年大変な騒ぎになった。そこで外貨割当ての公正を期すため、「ガラポン方式」といって宝くじと同じ抽選方式にしたり、バナナを輸入する代わりに同じ金額だけ日本製品の輸出を義務化するという「リンク方式」、それに「入札方式」など、様々なやり方が試みられた。
勢い、ようやくバナナの現物を手にした輸入業者は、目一杯儲けを乗せた値段で卸すようになる。輸入量も、輸入再開後10年以上も、たった2〜3万トンで推移し、60年代に入っても7〜8万トンというところで、戦前の10万トンというレベルにすらなかなか戻らなかった。品薄はますますバナナの値を吊り上げた。
64年(昭和39年)に開始された総務省統計局によるバナナの小売価格調査によれば、64年は1キロ228円、65年は1キロ264円である(年平均価格・以下も同じ)。
バナナ1キロというと、大ぶりのものが5〜6本1房にまとまったものだ。当時の銀行員大卒初任給をもとに今の金額に換算すると1700円から1800円ちょっとしていたということである。また、65年(昭和40年)の264円は、当時牛肉(中質肉)を320グラム買え、コーヒーが3杯飲め、天丼が1杯食えた金額だった。いやはや、下々の家庭ではなかなか食えなかったはずだ。
しかし、バナナの価格事情は、64年(昭和39年)にバナナ貿易が自由化されて以降、一変する。自由化当初こそ混乱して従来同様の高値をつけたものの、65年(昭和40年)の1キロ264円をピークにその後スルスルと下がり続け、72〜73年1キロ139円で底を打つ。また、自由化に伴って輸入量も20万トン、30万トン、40万トンとすさまじい勢いで増えた。生産量に限りがあった台湾バナナに代わり、まずエクアドルバナナが、次にフィリピンバナナが激増して、72年(昭和47年)には輸入量が100万トンを超えた。戦前の水準の10倍である。安くなるはずだった。
ちょうど73年(昭和48年)頃のある日、大学生だった筆者はアルバイトの給料が入るまで後3日、財布には後300円しかなかった。考えた末に買ってきたのが、バナナ2房。それを3日に分けて食べ続けたのだが、昔大変な贅沢品だったものを食べていると思うと、お金はなくても何だかとても満たされた気持ちになったことを記憶している。全くもって、底値になっていたバナナのおかげだった。感謝している。
ただ、72〜73年(昭和47〜48年)の安値はやはり輸入量の拡大に伴う異常値だったようで、その後のバナナ価格は1キロ170円、190円と徐々に昔の値段に近づきながら80年代に突入し、85年(昭和60年)に286円という、統計調査開始以来の最高値をつけたが、また少し下げながら、90年代に突入。90年代半ば以降は、60年代半ばの値250円前後に戻って、安定中だ。
35年前と今と、バナナの値段がほとんど同じ。これはどういうことかというと、この35年間でバナナはうんと安くなったということだ。また、ここ30年間ほどの輸入量も、72年(昭和47年)に106万3000トンを記録した後は、99年(平成11年)の98万トンを除くと70万トンから80万トンの間で推移している。年間に国民1人あたり約6キロ、大ぶりのもので6〜7房、小ぶりのものなら10房近くを食べている勘定だ。
かくて、バナナはスーパーに一年中並んでいる、ありふれた安い果物になり、高いバナナは“伝説”になった。筆者の家庭でも、子どもはさしたる感動もなく、むしゃむしゃとバナナを食べている。1人で、続けて何本も! その姿を見て、なんだかおもしろくない気持ちになるのは、筆者だけだろうか。
今とは違い、店先で「1山いくら」としては売られていなかった高級品のバナナ。昭和30年代の日本橋・千疋屋総本店でもバナナは大切に店の奥で売られていた。
(写真提供/〓千疋屋総本店)
【資料提供】
総務省統計局経済統計課小売物価係、日本バナナ輸入教会
卵代
卵焼きは家長だけの特別料理だった子どもの頃。当時の卵は今の値段で1個8300円の超高級品
当時の値段を今のレートで換算すると
まだ昭和30年代前半の頃だったと思う。
後に、東京ではだいぶ事情が違っていたらしいと知ったが、その頃の地方の、それも勤め人でない家の食事は、貧しくかつ単調なものだった。朝は大根のみそ汁、つけもの、ときに納豆あるいはふりかけ、昼は学校で給食が食べられたから豪勢なものだったが、夜はつけものにおかず1品を大皿に盛りきりである。おかずは煮物が多かったが、時々コロッケとか焼き魚ということもあった。ソース焼きそばは大変なご馳走だったが、具はキャベツだけだった。肉は週に1回、土曜夜のカレーのときだけの楽しみだったのである。
ただ父にだけは、夜、おかずがもう1品ついた。卵焼きとか塩辛、冷ややっこということが多かったと記憶している。父はそれを肴に酒を2合飲み、酔うと2時間ほど寝た。卵焼きなどはしばしば半分ぐらい残されていたが、筆者も妹も手は出さなかった。一度寝て起きてから、父はその半分の卵でご飯を食べると知っていたからである。
1958年(昭和33年)頃の卵代は、卸値で1キロ220円(今のM玉で15〜16個)ほど。流通マージンが今と同じと仮定すると、小売値は1個18〜20円ほどという計算になる。
敗戦後しばらく、卵は卸値が1キロあたり300円以上という異常に高い値段で流通していたが、50年(昭和25年)を過ぎると200円前後まで急落し、72年頃までほとんど同じ値段で推移していく。その間一般の物価は毎年確実に上がっていったから、卵代は毎年確実に(相対的に)下がり続けたことになる。ただ、50年代後半は物価が急激に上がり始めたばかりの頃で、地方では特に、卵はまだ高いもの、特別なものという意識が色濃く残っていた。農家ではさらにそうだった。
同じ50年代後半のことだ。小学生低学年だった筆者が、住んでいた地方都市からさらに田舎にある母方の実家の農家に遊びに行くと、到着翌日の朝食のときだけ、しかも筆者のお膳にだけ、卵が1個ついていた。庭先で飼われていた鶏の産んだものだが、一緒に食べるその家の家族はもちろん、その家の主人のお膳にすら、卵はなかった。祖母が、遠くから1人で遊びにきた孫にだけ、卵を振る舞ってくれたのである。
そのときは、ふだん滅多に食べることのない「卵ご飯」のおいしさに、ただ無我夢中で食べてしまった筆者。しかし、卸値が1キロ200円前後とすると、生産農家が手にするお金は卵1個あたり10円前後。10円は当時の物価で言うと納豆1個、アンパンやジャムパンが丸々1個買え、もう少しで豆腐が1丁買える金額だ。子どもが学校に持っていく弁当のおかずが味噌だけということもしばしばだった小農家の暮らしの中で、その1個の卵がどんなにすごい歓待だったか、今ならわかる。
それから40年近くたった。
その間卵の価格は、石油ショックに続く74年(昭和49年)の狂乱物価で再び卸値1キロあたり300円近くに値を上げ、第2次石油ショック(79年)後の81年には334円の高値をつけた。しかし円高で餌代、光熱費が安くなった80年代後半には168円の安値をつけ、弱含みのまま90年代を過ごして、現在に至る。小売値は、L玉や“地鶏卵”などのブランドにこだわらなければ、M玉で1パック(10個入り)180〜200円で1個20円見当。売り出しでは1パック80円とか100円、つまり1個10円以下の卵すら珍しくない。
なぜ卵の値段は50年前より安いのか? いくら何でも不思議なことなので、生産者団体である日本養鶏協会など業界関係者に聞き回ってみた。すると答えは一つ。「需要に比べて供給が多すぎる」というのである。
45年(昭和20年)、卵の生産量は3万3094トンだった。それが、95年(平成7年)には、255万7642トンになっている。仮に1個65グラムとして、この50年間で生産個数は、5億個から390億個以上にまで、約80倍に増えていた。
生産量が伸びたのは、第一には、養鶏業が大型化したためだ。昔は“庭先”養鶏だったのに、今や1生産者で数10万羽は当たり前。総養鶏羽数は、45年(昭和20年)の700万羽弱から、95年(平成7年)には1億5000万羽弱と20倍以上になっている。
鶏の数が20倍なのに、卵の生産量が約80倍になったのはなぜか。その答えが、生産量が伸びた第二の理由にもなるのだが、「品種改良」があったためだ。日本の養鶏業は、外国から、少ない餌で、しかも窓のない鶏舎に閉じこめて飼ってもたくさんの卵を産む品種を輸入し、日本産の鶏と掛け合わせるなどして、最終的にはかつての4倍もの個数の卵を産む鶏を実現した。イノベーション(技術革新)があったのは、工業製品においてだけではなかったのである。
その結果、今や日本国民1人あたり、年に336個(95年の消費個数)もの卵を保障されるようになった。赤ちゃんから100歳を超えたおじいちゃんおばあちゃんまで、ほぼ毎日1個食べないとなくならない数だ。これ以上食べろと言われても、ちょっとつらい。しかも卵は生鮮品だ。早く売らないと商品として価値がなくなる。では、値段を下げても売ってしまおう。こうして、需要と供給という、経済学の教科書(というより中学校の社会科教科書か)あたりで習った通りの経済原則で、今の卵の価格が形成された。
ただ、どうなのだろう。こんなにも安いままで、鶏卵産業はこの先も存続できるのだろうか。
2年ほど前、ガソリンスタンドに立ち寄ったときのことだ。「ありがとうございました!」という声とともに差し出されたのは、卵2パック。ガソリン代は2000円なにがし。今や卵は、わずか2000円の客にも無償提供される
“粗品”に成り下がっていた。卵パックがこすれるキュッキュッという音は、まるで資本主義がきしむ音のように聞こえた。
贈り物用として「木箱入り」のものまで売られていたほど高級品だった卵。一般的には、当時はまだプラスチックのパックなどはなかったので、もみがらに詰めて運ばれ、1個1個小売りされていた。
【資料提供】
〓日本養鶏協会
牛乳代
「給食は脱脂粉乳」世代にとっての贅沢品も、30年前より割安で、毎朝ゴクゴクの日常品に
当時の値段を今のレートで換算すると
昭和20年代末、牛乳は1本14〜15円で、ジャムやバターをつけたコッペパン(おやつでなく食事として食べられていた)と同じ値段だった。作家の畑山博氏は、当時の牛乳について、「それを飲むならもう一つパンをと思って手を出さなかった」と、『値段の風俗史』(週刊朝日編・朝日新聞社刊)の中で書いている。1935年(昭和10年)生まれの畑山氏が20歳直前、東京下町の町工場で働いていた時代のことである。
しかし戦後生まれ、それも昭和30年代生まれになると、もう少し牛乳に関する感じ方が違うのではないかと思う。
なぜなら、その時代はなぜか牛乳の値段が1本12円50銭まで下がり、そこから昭和20年代末の1本15円までゆっくりと回復してくる時代だったからだ。牛乳代が戦後の高値を更新するのは、63年(昭和38年)に1本16円になってから後のことだ。その間、世の中は神武景気(55〜56年)、岩戸景気(59〜60年)を経て、高度経済成長期に突入した。55年(昭和30年)からの10年間で物価も50%近く上がったが、所得は80%近く上昇した。牛乳の値段は相対的に安くなり、値ごろ感が増していた時期だったのである。
その上、昭和30年代以降に生まれた人々が小学校に上がる頃には、「センター(共同調理)方式」による学校給食が整備されているときだった。それ以前の給食は、多くがアメリカの「ララ(アジア救済連盟)」が敗戦国の子どもたちのために贈ってくれた、ララ物資=脱脂粉乳だけだったりしていた。が、以後はパン、それもマーガリン付きの食パンがつくようになったのはもちろん、カレー、シチューなどのおかずまでついて、さらに脱脂粉乳でない本物の牛乳が添えられるようになった。要するに彼らは、日本で初めての本物の牛乳育ちの子どもたちだったのである。
ちょうど新幹線(東海道)や高速道路(名神)が開通し、東京オリンピックが開催され、海外渡航が自由になり(以上64年)、カー、クーラー、カラーテレビが3Cと呼ばれて消費者の憧れになった時代。日本が「戦後」を脱却して「現代」の体裁を整えてきた頃だ。もはや牛乳はちょっとした贅沢品ではなく、日常品だった。
もちろん、いつの時代にも貧乏人はいる。
51年(昭和26年)生まれの筆者の場合、最初に意識した牛乳の値段は1本15円だった。60年代前半のことだと思う。中学校ではいわゆる給食はなく、ビン入り牛乳だけが配られたが、それは脱脂粉乳だった。だから筆者にとって牛乳は60年代を通して“ちょっとした贅沢品”で、その後70年代に東京に出て学生になり、より貧しさが増すと、ますます貴重品になった。それでも70年初めに1本25円とか28円の頃はそこそこ飲んでいたが、石油ショック(73年10月)後、駅売りの牛乳が一気に48円に値上げされると、「こ、これは高い」と驚き、以後はあまり飲まないようにした記憶もある。喫茶店のコーヒー120円などはよく飲んだのに。
しかし、時代の波は筆者のような貧乏人にも押し寄せてくる。いきなり30年間ジャンプして現在に飛んでしまうと、筆者はついさっき朝食で牛乳を400tほど飲み干してきたばかりだ。牛乳ビン2本とちょっと? バカ言っちゃいけません、牛乳は70年代中頃から紙パック入りが普通になり、小さいやつでも200t、あるいは500t、家庭用だと1000tになっていて、我が家でも冷蔵庫には常時1000t入りが2本入っているのである。そこからコップについで、2杯ほどグイグイッと飲んだわけである。
自慢しているように聞こえたらお許し願いたい。牛乳は今それほどごく普通の飲み物になっているということを言いたかったのだ。
今飲んだ牛乳の値段は、(近所のスーパーで)1000t149円だった。かつての牛乳ビン180tに換算すると、約27円だ。この数字は何かの間違いではない。2001年(平成13年)の牛乳代は、70年代初頭の水準のままだった。ここ30年間物価は3倍になっている。所得水準は5倍近くになっている。なのに同じ値段なのだから、牛乳はものすごく安くなったことになる。筆者がグイグイやっていても不思議ではなかった。
73年(昭和48年)に48円になって以来の牛乳価格の推移を簡単に辿ってみよう。
ビン入り牛乳はその後紙パック入りと内容量が同じ200t入りとされて、70年代後半には50円台になり、80年代には57円とか58円とか、50円台の後半で推移した。そして89年、昭和が終わり平成になると一気に60円台に突入。90年代初めには70円台に突入して、近年実勢価格は80円近くになっている。70年代中頃に150円前後でスタートした1000t紙パック入りは、すぐに200円前後に値上げされ、70年代末に一時220円前後の高値をつけたものの、80年代は200円前後で推移。90年代は少し上がって210円前後できたが、実勢では170〜190円前後となって現在に至っている。
1000t紙パック入りの値段推移で明らかなように、牛乳価格はこの間、相対的に大幅に下がってきていた。業界関係者などによれば、その原因は「牛乳の過剰生産」「価格決定権の小売店への移動」の2点に尽きる。つまり、この間酪農農家も大型化が進み、牛乳生産は年々伸びてきた。そのため生産が過剰気味になったところへ、スーパーなどが安い目玉商品の象徴として牛乳に安値を要求する。生産者も加工業者も、買ってもらえずに捨てたり、もっと安い加工乳原料として売るよりはと、値引きしてきたというわけだ。
実は、筆者がさっき飲んだ牛乳は、2000年(平成12年)に食中毒を起こしてミソをつけた雪印牛乳。だから突出して安かったのだ。その後も、同様の廃棄牛乳回収―再利用事件が起きているが、その遠因は、すでに限界まで来ている牛乳の低価格構造にもあると見てよさそうだ。
サラリーマンが駅のスタンドで、「今日も1日がんばりましょう」と、気合いを入れるかのように、ビン入り牛乳を一気飲みしている光景も、最近ではさっぱり見なくなった。写真は1960年の大阪・南海難波駅構内。
【資料提供】
〓全国牛乳教会、〓中央酪農会議
ハンバーガー代
値下げ戦争勃発で、ついに創業時より安価に。これぞ正しい“米帝”ファーストフード!?
当時の値段を今のレートで換算すると
1996年(平成8年)1月、世の中ではTBSが坂本弁護士の取材ビデオをオウム真理教幹部に見せていたという事実が発覚し、フランスは太平洋で核実験を強行し、いじめを苦にした中学生の自殺が相次いでいたために時の文部大臣が緊急アピールを出したりしていた頃だ。
外食業界とハンバーガー好きの間に衝撃が走った。
マクドナルドが、20日間という「期間限定」ながら、ハンバーガーを1個80円、チーズバーガーを1個100円で販売したのである。ハンバーガーといえば、当時よそのチェーンでは1個210円が通常価格だった。その3分の1に迫ろうというとんでもない低価格に、私たちは驚き、呆れつつマクドナルドに走った。結局マクドナルドは20日間に、予定していた5000万個をすべて売り切ったという。
このハンバーガーの大安売りには、「25周年創業価格プロモーション」という名前が付いていた。71年(昭和46年)に、東京・銀座三越の1階、銀座通りに面してマクドナルド1号店が商売を始めたとき、ハンバーガーはたった80円だったのである。
「安かったんだなあ」と誤解してはいけない。「安い」と思えるのは今の物価感覚で見ているからで、70年(昭和45年)当時のアンパン(木村屋総本店)30円、かけそば(東京・有楽町更科)100円、カレーライス(東京・日本橋たいめいけん)150円、銀行員大卒初任給が3万6700円だった時代の物価感覚で見れば、それなりの値段だったのである。例えば東京に出てきたての大学生だった筆者は、ハンバーガーは値段の割に腹の足しにならないものと判断し、“ファーストフード”としてはもっぱらその頃から駅前に林立するようになった「立ち食いそば」を利用していたものだ。
また当時は68年(昭和43年)、69年に最高潮に達した全共闘運動が最後のどっこいしょ的盛り上がりを見せていた頃で、立て看とビラに溢れた学内で、あのマクドナルドの袋を持ったり食べている者は1人もいなかった。近くにマクドナルドの店もなかったし、何と言ってもベトナム戦争を継続していた“米帝(アメリカ帝国主義)”の食べ物など食べてやるものか(笑)という気持ちも少しはあったかもしれない。
マクドナルドは、今で言うなら「スターバックス」のイメージに近かったと思う。牛肉とパンの焼ける匂いとお手軽な内装、座りにくい椅子、マニュアル主義など、アメリカ的な匂いをプンプンさせながら日本に上陸してきた食べ物、それがハンバーガーだった。後にしつこく語られることになる、「マクドナルドの肉には猫肉が混ぜられている」という風説は、うんと希薄になった反アメリカ感情の表れというのが筆者の理解である。
さて、食い物に関しては詳細な記憶を誇る筆者が、マクドナルドのハンバーガーをいつ初めて食べたかは覚えていない。おそらく70年代の中頃過ぎ、マクドナルドが100店展開を達成したあたりに、友だちが買ってきたものを1個もらって食べたのだと思う。うまいと思った。牛肉の味に混じるケチャップとピクルスの味が新鮮だった。
しかしその頃まで、マクドナルドのハンバーガーは73年(昭和48年)4月に100円になり、同じ年のうちの11月に120円になり、74年には150円になっていた。次の値上げは79年(昭和54年)で170円だった。ちなみに、マクドナルドに続き72年(昭和47年)にチェーン展開を開始したロッテリアとモスバーガーは、ハンバーガーが1個100円、80円でスタート、ロッテリアはマクドナルドとほぼ同時期に120円、150円に値上げし、小規模チェーンだったモスは少し遅れて76年に150円に値上げしている。
70年代後半、150円という価格で日本に浸透していったハンバーガーは、マクドナルドとロッテリアが180円に値上げして80年代に突入。83年(昭和58年)にはともに200円に、そして85年にはマクドナルドが、86年にはロッテリアが210円にして、90年代前半まで過ごしている。モスは例によって少し遅れて90年(平成2年)に210円化した。
この210円を安いと思った人はまずいないだろう。大食漢のためあの量ではおやつにしかならず、しかも世の中一般の人より少し貧しい階層に属している筆者は、呆れるほど高いと感じた。90年代に入り、バブル経済が崩壊して貧乏な人が以前より増えると、筆者のように思う人は確実に増加したに違いない。
そうした情勢をうけ、95年(平成7年)4月、マクドナルドは賭けに出た。ハンバーガーを130円に、チーズバーガーを160円に、価格を大幅に引き下げたのである。96年(平成8年)1月の80円、100円の創業価格キャンペーンはその値下げに続くもので、同年7月、12月にも実施。さらに97年(平成9年)の期間限定99円セールなどを経て、2000年2月にはついにハンバーガー65円、チーズバーガー80円という「平日半額」の価格改定を実施した。マクドナルドはこの安売り攻勢で、売り上げを94年(平成6年)の2150億円から2000年には4300億円に、店舗数は1169店から3598店にまで伸ばしている。
当初は、シェア拡大、競合店潰しの一時的な安売り攻勢だろう、だいたいモスバーガーのほうが高いけど圧倒的にうまいからなあ、などと冷ややかに見つめていた筆者だったが、平日に71年(昭和46年)創業時の価格を下回るに至って、考えを改めざるを得なかった。だって、立ち食いそば1杯の値段(現在天ぷらそばが320〜350円)で5個も食べられるんだもの。ある日夕食用にとハンバーガーを8個、チーズバーガーを2個、フィレオフィッシュを2個買って(家族4人用である)、1000円札でお釣りが来て驚いたことがある。これぞ、正しいアメリカン・ファーストフードの姿ではないだろうか。デフレ・スパイラルは我々下々の者にとって何ひとつ悪いことはないのである。
銀座三越1階にできた日本上陸第1号店。歩行者天国ということもあり、中央通りにパラソルまで拡げての大にぎわい。当時は、「観光地」だったのかも。
(写真提供/日本マクドナルド〓、1971年撮影)
【資料提供】
日本マクドナルド〓、〓モスフードサービス、〓ロッテリア
ウイスキー代
学生時代、初めて本格的に飲んだ酒はレッド。ホワイトだって当時は超高級品だったんだ!
当時の値段を今のレートで換算すると
♪民衆の酒焼酎は、安くて回りが速い…
「♪民衆の旗赤旗は、我らが行く手を守る…」で始まる『赤旗の歌』など知っている人は、もう限られていると思う。第1次安保闘争が終わった1960年代初め頃までよく歌われていたその歌に、51年(昭和26年)生まれの筆者は、後年冒頭のようなその替え歌を聴くことで辛うじて間に合った世代である。あれから30年余。蓋し、隔世の感がある。
いや、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が「検定」を通過するとか、小泉総理の登場で自民党が人気を盛り返すといった事態を、ここで憂いてみせようとしているわけではない。それはそれとして、「焼酎」と、当時その対極にあった「ウイスキー」との位置関係の変わりようについて、隔世の感があると言っているのである。
国産初の「ウイスキー」は、29年(昭和4年)に寿屋洋酒店(現・サントリー)が売り出した『白札』、後の『ホワイト』である。
『白札』はあまり売れなかった。おかげで寿屋は『赤玉ポートワイン』の儲けを吐き出し、経営が傾いたという。売れなかったのは、『白札』が正統的なスコッチウイスキーの製法で造られ、ピート(泥炭)の煙臭さが濃厚に残っていたために、「ウエスケだか何だかしらねえが、こんなもん焦げ臭くてとても飲めたモンじゃねえ」と日本人の酒飲みから言われたためだった。そこで寿屋は味をかなり変えて『角瓶』を出し、そのヒットが後の発展の基礎を作った…と寿屋史は続く。が、普通の日本酒1升が1円30銭ぐらいだったのに、『白札』は4合(720ミリリットル)瓶で4円50銭もしたという値段の高さが、最も大きな売れない理由だったと思う。以来ウイスキーは、「高級品」として、飲んべえたちの間で位置付いたのである。
そして戦争の時代になり、負けると、世の中の酒の大半は米から密造した「どぶろく」か「焼酎」、それも日本酒を取った酒かすを再発酵させた上で蒸留した「カストリ焼酎」になった。ウイスキーは旧日本軍の「隠匿物資」かアメリカ占領軍の「横流し品」で、どちらも普通の人が簡単に入手できるものではなかった。
ウイスキーが一般人の酒飲みの前に再登場するのは、敗戦による混乱が収まり、復興が本格化した55年(昭和30年)前後からである。サントリー広報室が語る。
「まず大衆向けウイスキー『トリス』隆盛の時代があって、銀座の立ち飲み“トリス・バー”で、『トリス』のハイボール「トリ・ハイ」が1杯30〜50円で飲めた。『トリス』でウイスキーが普及していったんです。その頃のお遣い物は『角瓶』で、『白札』や、50年(昭和25年)に発売していた最上位商品の『オールド』は端役にもなっていませんでしたね」
やがて60年代も中頃になり、高度成長で世の中が豊かになると、『トリス』でウイスキーの味を覚えた酒飲みたちが、50年代からずっと720ミリリットル730円を維持していた『白札』に移ってくる。64年(昭和39年)、『白札』は『ホワイト』に改名されて値段が750円になったが、都会の勤め人の普段のウイスキーは『ホワイト』、たまに会社の金で飲むのが『リザーブ』とかニッカの『スーパーニッカ』(3000〜3500円)、お遣い物は『オールド』(5000円前後)、まだ若く貧しい勤め人は最下級品の『トリス』や『レッド』(400〜500円台)、といった飲み方になった。ちなみにその頃焼酎は、1升(1・8リットル)でも350円程度だった。
ウイスキーがブレークしたのは70年(昭和45年)前後だった。再びサントリーのお話。
「テレビが普及し広告の力が以前に増して強くなったこと、パック旅行開始で海外が身近になったこと、高度成長で可処分所得の増加したこと、60年代末に週休2日制やスコッチの自由化があったこと……。そういう時代背景があって、ウイスキーが外だけでなく家でも飲まれるようになり、同時に若い人の間にもウイスキー志向が芽生えてきた」
68年(昭和43年)11月、高校2年だった筆者が初めて本格的に飲んだ酒も、だから『レッド』だった。2リットル近く入っていた大瓶が確か1000円ぐらいだったと思う。家族が旅行で留守の友人宅にその大瓶を持ち込み、コーラ割りにして5人で飲んだその末だが、夜中に目が覚めるとこたつの周りが……。とてもここに書き記すことはできない。
大学生や若い勤め人は、68年(昭和43年)に840円、74年に950円になっていた『ホワイト』を飲んだ。学生街のスナックやコンパ(若い人向けの洋酒酒場)では、そのボトルが1500円とか2000円でキープできた。サミー・デービス・ジュニアの『ホワイト』のCMがヒットしたのが73年(昭和48年)。味にうるさいやつや金持ちは『角瓶』や『リザーブ』を飲んだ。そしてウイスキーは「75年(昭和50年)前後の景気後退をものともせずに」売れ続けたのである。
が、80年代にウイスキー市場は暗転する。「増税のためウイスキーの値段が毎年のように上がり、売れ行きが大低迷する時代に入った」のだ。『ホワイト』は76年(昭和51年)に1000円に、80年には1250円に、84年には1620円に、89年(平成元年)には1780円にもなった。ウイスキー値上げの影響で、80年代前半には焼酎の炭酸割り「サワー」登場を契機にした焼酎ブームになる。80年代後半には日本酒の地酒ブームが来る。バブル人たちはワインブームにうつつを抜かす。ウイスキー全体の売り上げ(課税数量)は83年(昭和58年)をピークに何と96年(平成8年)まで落ち続けて、96年の売り上げはピーク時の4割に過ぎなくなっていた。
今2001年(平成13年)、ECとの長い貿易摩擦の結果、ウイスキーと焼酎の「酒税率」が限りなく近づき、結果としてウイスキーの値段は大幅に下がった。『ホワイト』で1180円。酒飲みの嗜好は安くなった外国産(元超高級)ウイスキーに向いて、国産ウイスキーは“民衆の酒”になる可能性すら出てきている。いや本当に、隔世の感が強い。
若々しい宇津井健がなつかしい「レッド」のポスター。お金のない学生にとって、お酒といえばコレ。コーラで割って飲むのが主流だった。
(写真提供/サントリー〓)
【資料提供】
サントリー〓、ニッカウヰスキー〓
第2章
モノの値段
すべては日用品に
なってしまった
生まれたときからテレビを見ている人たちには、初めて家にテレビが来たときの感動はわからない。また、補助輪付きの自転車に乗っていた人たちには、“三角乗り”はできない。今では何てことのない日用品も、世の中に登場したときは、すべてが衝撃の品々だった。
少年マンガ週刊誌代
よど号ハイジャック犯も読んでいたマンガ誌。今も昔も、毎週買えるかな?ぐらいの妥当な値段
当時の値段を今のレートで換算すると
1970年(昭和45年)3月、乗員・乗客140人を乗せた羽田発・福岡行きの日航機、『よど号』がハイジャックされた。ハイジャックしたのは「共産主義者同盟赤軍派」。9人の実行犯のリーダー、田宮高麿が機中から発表した声明文には、こんな文章があった。
「我々はあしたのジョーである」
『あしたのジョー』とは、68年(昭和43年)から73年にかけて『少年マガジン』に連載された熱血ボクシングマンガである。タイトルは、少年院にいた主人公・矢吹丈に後に師匠となる丹下段平が「明日のために」と題して、ボクシングのトレーニング法を書き送ったことに由来する。作者はちばてつや、原作が高森朝雄(梶原一騎)。ハイジャック直前の70年(昭和45年)2月段階では、ジョーとその魅力的な敵役、力石徹との死闘にようやく決着がつこうとしていたときだった。
田宮高麿は、ハイジャック当時27歳。大阪市立大学出身の新左翼活動家だった。その田宮が、「我々はあしたのジョーである」と宣言した事実から、我々は以下のようなことを推測できる。すなわち、(16歳の高校生も1人いたが)20代前半が中心のハイジャックメンバーの多くが『少年マガジン』を読んでいたこと、そして、そう宣言すれば耳にした人の多くが自分たちの心情を理解すると、田宮も他のメンバーも信じていたことである。
その通り。私たちは『少年マガジン』を読んでいた。そして矢吹丈や力石徹の暗くて熱い心情に、断固として闘い続ける姿に、憧れていた。田宮たちの心情が理解できた。
ここで言う「私たち」とは、70年(昭和45年)に小中学生、高校生、予備校生、大学生、大学院生、中卒や高卒や大卒や各中退の年若い社会人のことだ。当時、マンガがなぜ、小中学生だけでなく、かくも幅広い青年たちに読まれていたのか。もちろん、60年代に才能のある漫画家たちが多数登場し、年長の読者にも面白く読める作品を提供し始めたからだが、業界構造的に言うと、「週刊マンガ誌」の普及が大きかったように思う。
59年(昭和34年)、『少年マガジン』(講談社)が40円で、『少年サンデー』(小学館)が30円で創刊されるまで、マンガには2種類あった。『少年画報』(少年画報社)や『冒険王』(秋田書店)など、小説や読み物記事もある「子ども向け月刊総合誌」に載っていたマンガと、子ども向けマンガと大人(年長者)向け劇画が共存していた「貸本屋」マンガだ。それが、マガジン、サンデー創刊と引き続く『少年キング』(少年画報社・63年)、『少年ジャンプ』(集英社・68年)、『少年チャンピオン』(秋田書店・69年)創刊で、子ども向けマンガは週刊マンガ誌に一元化する。
70年(昭和45年)ハイジャック時の週刊マンガ誌の値段は、マガジンやサンデーなど先行誌が70円、後発のジャンプが90円。貸本屋マンガ時代は1冊10円で読めたことに比べると高く、月刊誌と違って「付録」もなかった。が、逆に言うと、1冊丸ごとマンガで、ギャグからストーリーマンガまで何本も1週間に1度読めるようになることで、作家もテーマも手法も多様化し、表現の1ジャンルとしてのマンガの確立と成長を可能にした。
ちなみにマガジンとサンデー創刊時の30円とか40円という金額は、木村屋のアンパンが2個半、豆腐が2丁買え、それだけではかけそばも食べられず、もう10〜20円出さないと喫茶店でコーヒーも飲めないという金額だった。子どもにとっては毎週必ず買うわけにもいかず、回し読みなどの対策を取る必要はあったが、まず妥当な金額ではなかったか。
70年(昭和45年)の70円とか90円という金額も、木村屋のアンパンがほぼ3個(1個25円)、豆腐が2丁(1丁35円)、後20〜30円でかけそばが食べられ、後40〜50円で喫茶店のコーヒーが飲めた金額である。これは、子どもの頃から少年マンガ週刊誌を読んで育ち、ちばてつやや赤塚不二夫の大ファンになっていた青年たちにとって、決して出せないお金ではなかった。貧乏で出せないという青年たち(筆者がそうだった)には、喫茶店があった。喫茶店では、少年マンガ誌の他に、60年代後半、劇画(大人向け貸本屋マンガ)の流れをうけて続々創刊されていた、『WEEKLY 漫画アクション』(双葉社・68年創刊時60円)、『ビッグコミック』(小学館・69年創刊時100円)など、週刊青年向けマンガ誌まで読むことができたのである。
かくて子どもから年若い大人まで少年マンガ週刊誌を読む時代が到来し、70年代以降、マンガは、サブカルチャーの主要なジャンルとして栄えることになる。
その後の少年マンガ誌の流れをざっと素描すると……。
まず70年代早々に少年マガジンが150万部を突破(100円時代)。77年(昭和52年)には、勢いのある新人漫画家を育成したジャンプが200万部を突破してトップに立ち、チャンピオンも同じ頃『ブラックジャック』(手塚治虫)と『がきデカ』(山上たつひこ)などのヒットで180万部を達成(150円時代)する。が、80年代には『キン肉マン』(ゆでたまご)、『ドラゴンボール』(鳥山明)、『北斗の拳』(原哲夫・武論尊)など超人気マンガを生み出したジャンプが独走し、90年代前半には1誌で600万部発行という空前絶後の記録を樹立した(170〜190円時代)。90年代後半から現在まで(200〜230円時代)はマガジンの巻き返し、長期間高品質を維持してきたサンデーの健闘もあったが、一時の勢いを失ったジャンプの退潮分をカバーするまでには至らず、連載マンガを単行本化した「コミック本」の売り上げ減とともに、出版不況の一因と指摘されている。
しかし、60年代から今現在まで、時に駅のゴミ箱から拾ってまで毎週各誌を読んできた筆者が懸念するのは、大人も読める少年マンガは終わったかもしれないということだ。その意味では、少年マンガを一時「熱血・友情」の一色に染めたジャンプの罪はまことに大きい。95年(平成7年)ピョンヤンで客死した田宮高麿が生きていたら、今のマンガ状況を見て、どんな感慨を持つだろうか。
1959年の『週刊少年マガジン』創刊号。表紙は第46代横綱の初代・朝汐太郎。相撲は「大ずもう春場所特集号」の文字からもわかるように、当時は子どもの間でも大人気だった。現在の週刊少年マンガ誌では考えられない特集である。
【出典】
『雑誌のもくろく』(東京出版販売〓)『出版指標年表1997年版』(出版科学研究所)
【資料提供】
小学館営業部
コンドーム代
気持ちが高ぶった初めてのコンドーム購入。でもあれって、いったいいくらだったんだ?
当時の値段を今のレートで換算すると
初めてコンドームを買ったときの気持ちの高ぶりは、つい昨日のことのように覚えている。「家族計画」の自動販売機は近くになかったので、わざわざ下宿からかなり離れた薬屋まで走った。初めての店内で探しあぐねた。ようやく隅のほうの棚にそれらしきものを発見したが、なぜか全て包装済みで、メーカー名もブランド名も、何個入りでL、M、Sのうちどのサイズなのかも、何ひとつわからなかった。ともかくそのうちの一つを手に取り、白衣を着た親父にお金を渡して、急いで店を飛び出した。
いったいあのコンドームはいくらだったのだろう?
かつて筆者と同じような気持ちの高ぶりを経験した全ての人々のために、時代時代のコンドームの値段を辿ってみることにしよう。
1909年(明治42年)、日本で初めて商品化されたコンドーム『ハート美人』は、タバコが1箱8銭の時代に1ダース1円だった。その後コンドームは、帝国軍隊の官給品となることで広く普及していく。陸軍では『突撃一番』、海軍では『鉄カブト』というブランド名だったが、一般名は「衛生サック」。その第一の用途が「性病予防」だったことがわかる。なお、『突撃一番』も『鉄カブト』も、官給品だから原則は無料である。
敗戦後、コンドームの生産販売が復活したのは49年(昭和24年)で、戦前からのブランド『ハート美人』の値段は、12個入り1箱50円だった。『ゴールデンバット』が20本入りで30円、コーヒーが20円の時代である。今のコンドーム価格は、メーカー希望小売価格で言うと最低で1000円、最高3000円。タバコは『マイルドセブン』が250円、コーヒーが低価格店で180円から250円というところだから、当時の1箱50円という値段は大変安いものだったと言っていい。
しかし、朝鮮特需(朝鮮戦争による特需景気)が終わった52年(昭和27年)にまず54〜58円に値上げされ、「復興景気」が本格化した54年には54〜108円と、従来の倍の値段のものも登場し始めた。そして昭和30年代に入ると、景気の拡大に伴う物価上昇もあって57年(昭和32年)に100〜200円へ。59年(昭和34年)には300円という超高級品も登場。63年には500円で「こけし型(亀頭部分にくびれがある)」が、次いで「波打ち型(胴体部分に断続的にくびれがある)」や「ゼリー付き(濃いシリコンオイルが付いている)」が、いずれも500円で登場してくる。67年(昭和42年)、オリンピック後の不況(証券不況)から少し回復すると、コンドームの価格はついに最低150円から最高1000円の間になった。
世間ではカラーテレビ、カー、クーラーを「3C」と呼んで憧れていた頃である。68年(昭和43年)当時、タバコ代は『ハイライト』で80円、コーヒー代も80円。戦後の生産販売復活時から丸20年、コンドームは安いものはまだタバコ2箱、コーヒー2杯分という水準にあったが、一方で何だかわからないがめちゃくちゃ高いものも出てくるようになっていた。私見によれば、そうした高級品登場は、コンドームが性病予防という「衛生用品」から避妊という「セックスに関わるツール」に変化してきたことに対応している。性病がなくなったわけではなかったが、61年(昭和36年)の売春防止法の成立により公然売買春がなくなったこと、性意識の自由化がはっきりしてきたことの影響と言ってもいい。そして
「大人の玩具」「風俗」「結婚」などの例を見るまでもなく、セックスに関わるツールやサービスのコストや単価は割高になるものなのである。
コンドームをめぐる以上のような情勢変化を背景に、69年(昭和44年)、コンドーム業界に革命が起きた。ゴム厚が0・03ミリと、従来品の約半分の薄いコンドームが開発されたのだ。その代表格がオカモトの『スキンレス・スキン』であり、山之内製薬(製造は相模ゴム工業)の『サンシー』だった。ただし、その革命のおかげで69年から最低価格が50円上がり、コンドームの価格帯は200〜1000円になった。
筆者が初めて買ったのは、ちょうどその翌年の70年(昭和45年)である。包装紙の隅に小さく手書きで書かれた値段を手がかりに、ちょうど真ん中ぐらいの値段のものを選んだ覚えがあるので、500円くらいのものではなかったか。
革命後のコンドーム価格は、田中角栄の「日本列島改造計画」に端を発する地価高騰や第1次オイルショック後の狂乱物価をうけて、まず最高価格が72年(昭和47年)1500円、73年2000円、76年3000円、84年5000円と上がっていく。最低価格も74年(昭和49年)に一気に500円まで上がり、77年には1000円になった。つまり1000円から5000円という価格帯で、80年代後半からのバブル期と、90年代の平成大不況期に突入していったのである。
が、驕れるものは久しからず。99年(平成11年)になると、さすがに高すぎるものはなくなり、最高が3000円になった。そしてスーパーやコンビニでは、「1000円のものが3個パックで980円」「2000円のものが2個パックで1500円」などの大変納得できる値段でも出回るようになった。基本的にはデフレ・スパイラルのおかげだが、80年代の中頃以降、エイズをめぐる「セイフ・セックス」キャンペーンで、性病予防=衛生用品としてのコンドームの役割が再評価されたことも少しは影響しているものと思われる。
価格的に正しい道に戻りつつあるコンドーム。老婆心ながらメーカーサイドなどになお希望しておきたいのは、パッケージをわからなくする包装の全廃とスペック表示、特にエントリー層に向けた使い方・選び方の表示の充実だ。例えば筆者があのとき正しく「ゼリー付き」を選ぶことができれば、その後の筆者の人生はかなり変わっていたのではないかと思うからである(泣)。
「明るい家族計画」として、現在でも薬局の脇などに置いてあるコンドームの自動販売機。初めてのおつかいは、自動販売機で人目を忍んで……という人も多いのでは。
(写真提供/〓ダイト)
【資料提供】 相模ゴム工業〓、オカモト〓
ラジオ代
眠い目をこすって夢中になった60年代深夜放送。テレビ登場後で、この頃すでに手の届く値段に
当時の値段を今のレートで換算すると
次世代ならぬ“前世代メディア”ラジオ。ラジオは、1925年(大正14年)に日本に初登場し、NHKの「総合」と「教育」の2チャンネルしかなかったのに、戦前にすでに全国700万世帯に普及。戦後51年(昭和26年)に民間放送が始まると、ちょうど今のテレビと同じような、“マスメディアの王様”的なポジションについた。
♪カム、カム、エブリボディ(Come, come, everybody)
ハウデュウドゥ、アン、ハワユゥ(How do you do? and How are you?)……
「証城寺の狸囃子」の替え歌がテーマソングだったことから「カムカム英語」とも呼ばれた『英語会話』(46〜51年)、敗戦時の混乱で行方不明や音信不通になった肉親、知人を捜す『尋ね人』(46〜62年)、半世紀以上経た今現在も続く『のど自慢』(46年〜)、日本初のクイズ番組『話の泉』(46〜64年)、放送日の木曜夜8時半には銭湯が空になったとも言われるドラマ『君の名は』(52〜54年)……。もはや直接聴いたことのある人も少なくなってしまったが、ラジオ黄金時代の大ヒット番組の数々である。
そのラジオも、テレビ放送が始まり(53年)、テレビ受像器が安くなって普及が加速し始めると、王様から“零落した元王族”ぐらいの地位に滑り落ちる。59年(昭和34年)、ラジオ広告費はテレビ広告費に初めて追い抜かれ、以後その差は拡がるばかり。60年(昭和35年)末にはラジオ東京も社名からラジオを外し、「東京放送(TBS)」と名乗った。ラ・テ兼営社(テレビもラジオも放送する局)も、経営の主体はテレビになっていたのである。68年(昭和43年)には、NHKのラジオ受信料もなくなった。
しかし、それからずっとラジオが衰退し続けてきたわけではない。ラジオは、「深夜放送」でもう一花咲かせたのである。
ラジオの24時間放送は、59年(昭和34年)から60年代初めにかけて始まっている。初期の深夜番組には、牟田悌三、淡路恵子らによる『ミッドナイトアワー』(ラジオ東京)などの軽音楽番組があった。しかし、いわゆる「深夜放送」の元祖はやはり、59年開始の『糸居五郎のオールナイトジョッキー』(ニッポン放送)としておくべきだろう。これは単なる音楽ファン向けではなく若い音楽ファン向けの「おしゃべり番組」だった。今、50代後半にさしかかった人の中には、「夜更けの皆さんGO!GO!GO!」という糸居五郎の声に励まされつつ、夜更かしを覚えたという人も多いと思う。
そして60年代は、深夜放送全盛の時代になった。ニッポン放送『ヤング・ヤング・ヤング』(前田武彦・62年開始)などを経て、60年代後半には、『パック・イン・ミュージック』(TBS・67年〜)、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送・67年〜)、『セイ! ヤング』(文化放送・69年〜)という、深夜放送“御三家”がそろい踏みする。あの頃に早熟な中学生や普通の高校生だった者にとって、野沢那智と白石冬美(TBS)、斉藤安弘と亀淵昭信(アンコーとカメちゃん・ニッポン放送)、土居まさるやレモンちゃんこと落合恵子(文化放送)らのパーソナリティの語り口は、生涯忘れられないものになっているのではないか。それにあのステーションブレーク。
♪パック、インミュ〜ジック、ティビィ〜エス、ティビィ〜エス
聴いたことのない人には、わっからねえだろうなあ。
さて、深夜放送は、広告スポンサーも人材もテレビに持っていかれたラジオが、差別化の手段として持ち出した、2つの方法論から生まれたものだった。すなわち、出演者が1人ですむので制作費のかからない「おしゃべり番組」主義と、世代別の「ターゲット・セグメンテーション編成」。後者は、テレビ番組がいつの時間帯も“万人向け”だったのに対し、「昼は主婦」「深夜は10代」などというように、聴取者を厳密に分け、かける音楽や話題を聴取者のそれぞれの世代に合わせるというやり方をいう。
それらの方法論が思いの外うまくいき、例えば「深夜放送」というラジオ番組の新ジャンルを確立し得たのは、一つには、その当時10代から20代の人口が無茶苦茶増えつつあったからだ。そう、戦後のベビーブーマー、後に“団塊の世代”と呼ばれることになる人たちが、60年代中頃には10代後半から20代前半にさしかかっており、しかもヒマと力をもて余していたのである。
それともう一つは、60年代になるとラジオ(受信機)が、1家に1台から1人1台の時代へと突入していたことによる。
戦後、1台1万円前後していたラジオは、国内での販売量と輸出量の増加のため50年代後半から値下がりし始め、60年代初めには安いものなら6000円とか7000円で手に入るようになっていた。60年代後半には、1600円とか2000円で、ちょっと前まで1万円以上した超小型の「トランジスタラジオ」が手に入るようになった(値段のデータはソニーと松下電器の当時のカタログから抜粋)。すると、テレビは茶の間に1台だが、ラジオは子どもの部屋にも1台となり、やがて、子どもの勉強机の上にも1台ずつという時代になった。それで子どもたちは、(受験勉強を言い訳にして)深夜放送を聴くことが可能になったのである。
深夜のラジオから聞こえてくるロック、ロックンロール、フォーク。才気に溢れた人たちのおしゃべり。ときに交えられる、艶っぽい話や笑い話。世界が拡がる感じがした。テレビと違い、ラジオは、“ヤング”にとってとても身近なメディアになった。
ラジオはもう二度と“メディアの王様”にはなれないだろう。しかし、自分が深夜放送を聴いていたあの感じを思い出すと、完全に死に絶えるのも、ずいぶん先になるという気がしてならない。
1960年代に深夜放送全盛の時代がきたのも、一部屋にひとつが可能になったからだろう。写真は1955年に発売された日本初のトランジスタラジオ(1万8900円)。(写真提供/ソニー〓広報部)
【資料提供】 ソニー〓
自動車代
「国民車」といっても当時の初任給の25倍!とはいえ7倍になった今でも高級品に変わりなし
当時の値段を今のレートで換算すると
太平洋戦争での敗戦で生産停止に追い込まれた日本の自動車産業が、再びその歩みを再開したのは、1947年(昭和22年)、GHQ(日本占領軍の総司令部)が小型車の生産と普通車の組み立てを許可してから。ただ、最初に立ち上がったのは主に三輪や四輪のトラック生産で、昭和30年代に入るまでいわゆる「大衆乗用車」市場は存在しなかった。自動車好きは戦後しばらく、47年(昭和22年)に16万円、48年32万円、50年60万円、55年80万円もした『ダットサン(720t)』などを、憧れを持って眺めているしかなかった。
ダットサン55年(昭和30年)の80万円という価格は、当時の銀行員大卒初任給の約140倍の金額だった。とんでもなく高いものだったのである。
しかし、経済白書が「すでに戦後は終わった」と宣言(56年)し、日本経済が高度成長期に向かい始めると、大衆向け乗用車の登場が期待されるようになる。その目安となったのが、通産省が55年(昭和30年)5月に出した「国民車」構想だった。来るべき自動車大衆化社会に向けたこの構想は、「最高時速100キロ以上、4人乗り、ガソリン1リットルで走れる距離が30キロ以上」という性能を持ち、「排気量350〜500tで小売価格が1台25万円以下」という、何とも大胆なもの。
明らかに「軽」の規格で普通乗用車の性能を求められた自動車業界は頭が痛かったに違いないが、ここでは「25万円以下」という価格に注目しよう。つまり、大衆乗用車の価格は銀行員大卒初任給の45倍以下がふさわしいとされたわけだが、まだダットサンが80万円もしていた時代に、そんなに安い車ができるとは誰も思っていなかった。
ところがそれから5年ほど後には、例えば排気量こそ倍近い700tだったが、値段は38万9000円の『パブリカ』(61年・トヨタ)など、“かなり近い”車が登場してくるのである。その値段は当時の銀行員大卒初任給の約25倍に相当した。そしてさらに5年後の66年(昭和41年)には、ついに20倍を切る価格の乗用車が登場する。それが、『カローラ』(トヨタ)であり『サニー』(日産)だった。発売時の価格はカローラが49万5000円(1100t)、サニーが46万円(1000t)で、各々、銀行員大卒初任給の約19倍、17倍に相当する。
55年(昭和30年)の通産省による国民車「25万円以下」という「希望価格」が妥当だったことは、このカローラやサニー(マツダの『ファミリア』なども入れておきたい)という銀行員大卒初任給20倍以下の価格の乗用車が登場した60年代後半になって初めて、乗用車という商品がブレイクしたことに示されている。60年代初頭に400万台ほどだった四輪自動車台数は60年代後半に一気に1000万台を超え、70年(昭和45年)には1800万台(これ以降は総自動車保有台数)となり、以降は5年で1000万台ずつ増えて現在に至っていたのである。
カローラとサニーは、排気量は倍以上になってしまったが、その値段といい、売れ方といい、「国民車」と呼ぶにふさわしい、日本の代表的な大衆車となった。カローラなど、以後の30年間で累計1900万台売り切ったというからすごい。
さて70年代以降、サニーやカローラはそのブランドの中に、安いもの(装備が少ないもの)から高いもの(新技術を使った装備が多いもの)までラインナップとして揃えられるようになり、そのために値段の比較や推移の判断が難しくなってくる。しかし、折々の銀行員大卒初任給を基本にして2車種の最低・最高価格を辿ると、まず8倍から10倍(実額45〜60万円)に、やがて70年代後半には9倍から12倍(実額75〜130万円)に、80年代半ばには6倍から9倍(実額90〜160万円)に、90年代半ばには5倍から9倍(実額100〜180万円)という範囲に収まるようになっている。
ちなみに以上のようなサニーやカローラの値段の上がり方と物価指数を比較すると、66年(昭和41年)を100とした物価指数が現在390ほどなのに対し、車の値段の指数は最低価格で240、最高価格で370ほどになっているに過ぎない。つまり発売後の値段の推移は極めて妥当でリーズナブルなものだったわけである。
その間、大衆乗用車の排気量は1000t前後から1500t前後になり、車全体も大型化し、74年(昭和49年)、78年の2度にわたり排ガス規制をクリアし、間欠式ワイパー、AMラジオが標準装備となるなど、標準仕様もグレードアップしてきた。高価格帯大衆車では、パワーウインドウやデジタルメータ、リヤの3点式シートベルト、衝撃吸収ボディ、4輪ABS、紫外線カットガラスなど、それは贅沢な機能が付くようになった。
こうして見てくる限り、値段といい機能といい、日本の大衆乗用車は「至れり尽くせりの完成度の高い商品」であった。
しかし、なぜか筆者は「まだ高い」気がしてならないのだ。だいたい、66年(昭和41年)のその登場時と比較にならぬほど商品として普及した今、相対価格で2分の1前後にしかなっていなくていいのだろうか。パソコンを見よ。一般への普及を開始した90年代前半から今までの7〜8年の間に、大衆機の値段は3分の1以下になっている。50万円近くしたかつての最高機種と比較して機能・性能でもはるかに優れた装置が、10万円を切っているのだ。同じことがなぜ大衆乗用車で起こらないのか、不思議でならない。
高い車もあっていい。しかし大衆乗用車というジャンルにおいて、商品コンセプトを抜本的に改めることで、現在の半額に近い値付けにした超低価格車というのも、そろそろ出てきていい頃合いだ。アメリカ・カリフォルニア州の「排ガスゼロ規制」(2003年より順次開始)対応のために、電気自動車や燃料電池自動車の開発が進む現在は、その好機だと思う。ホンダあたりが何かやらかしてくれないものだろうか。
上は1932年製ダットサン1号車。下が58年製ダットサン1000。当時よくタクシーに使われていた。後ろにある「世界へ!」の文字が時代を表している。
(写真提供/日産自動車〓)
【資料提供】
日産自動車〓広報部、トヨタ自動車〓広報室
自転車代
「中古再生車を三角乗り」していた高価な乗り物も、40年間で盗まれても惜しくないほど安価な日用品に
当時の値段を今のレートで換算すると
「三角乗り」という、自転車の乗り方をご存知か?
まず左足のみをペダルに乗せ、右足で強く地面を2〜3度蹴って、自転車を走らせる。十分なスピードがついたら、右足を、自転車のフレームが構成する「ペダル軸を頂点とした逆三角形」の中に差し入れ、もう一方のペダルに置く。そして自転車全体を進行方向に対して少し右側に傾けた体勢のまま、ペダルを漕いで走る……という乗り方だ。
三角乗りは子どもの必須技術だった。なぜなら、三角乗りを覚えておかないと、背が小さく、座席に座るとペダルに足が届かない子どもは、大人用自転車には乗れなかったからだ。子ども用自転車は、1960年代中頃まであまり一般的なものではなかった。小さな子が自転車で遊ぼうと思えば、ごつい荷台、ごついフレームの「実用車」か、実用車に比べれば細身の普通車か、いずれにしても大人用自転車を使うしかなかったのである。
子ども用自転車がなかったのは、自転車そのものが非常に高いものだったからだ。
ただしその高さは、例えばテレビが、銀行員大卒初任給が5600円だった53年(昭和28年)頃に16万円もしていたような、べらぼうな高さだったわけではない。同じ頃、自転車でも高いほうだった「実用車」が1万5000円前後だった。もちろん日用品に比べれば高かったが、一般人の手の届かないものではなかった。しかし、まだその頃は、少しでもお金があったら耐久消費財よりも目先の食べ物とか衣料品、もう1間広い借家などに回っていった時代である。自転車は、店をやっていた人がどうしても配達などに必要だから買うもので、子どもに買ってやるものではなかった。
その後実用車は、おそらく徐々にオートバイや小型トラックに取って代わられ、年々生産台数が少なくなったためだろう、60年(昭和35年)頃1万8000円、65年頃2万4000円、70年頃2万8000円と着実に高くなっていた。生産は80年代初めまで続けられたが、記録に残る最後の値段は82年(昭和57年)の4万4000円である。今もごくたまに古いタイプの実用車を見かけることがあるが、見るたびにその“力強さ”に感銘を受ける。それは実用車そのものというより、小さな身体で重い自転車に、しかも前と後ろの荷台に大きな荷を積んで走っていた、戦前から戦後しばらくの日本人に対する感銘なのかもしれない。
一方普通の自転車の値段は、50年代から70年代初めまで、20年間ほどあまり変わっていない。ブリヂストンサイクルの工場出荷平均価格(卸問屋に売る値段)で見ると、50年代の大半が1万円前後だったのに、60年代には9500円前後と、逆に安くなるという不思議な事態にもなっていたのである。
工場出荷価格平均が1万円前後だと、小売値の平均は1万円台中頃ではなかったかと思われる。給料や物価がどんどん上がっていく時代に、毎年ほとんど同じ1万5000円前後という値段だった自転車。売れないはずがない。年間の総生産(販売)台数は、56年(昭和31年)から60年にかけて100万台前半から300万台に、65年から68年にかけては300万台から400万台に、さらに71年から73年にかけては500万台から900万台半ばへと、3度に分けて大ブレークした。
しかし、56年(昭和31年)から60年にかけての1回目のブレーク時に自転車を買えたのは、大卒初任給が自転車代とほぼ同額になっていた大企業の勤め人や、長距離通勤者など自転車を本当に必要としていた大人だけだった。だがその頃になると、“中古自転車”が出回るようになっていた。“屑屋(廃品回収業者)”のおじさんのところに行くと、何台かの廃棄自転車の部品を寄せ集めて“再生”したものを、数千円で買うことができたのである。(貧しい)親は、子どもにこの中古再生自転車を買い与えた。子どもが最も多く三角乗りをしていたのは、従って50年代後半から60年代初めにかけてである。
それが、銀行員大卒初任給の50%ほどで自転車が買えるようになった65年(昭和40年)から68年頃の2回目のブレークの時期になると、大きくなった子どもの通学用などにも、新品の自転車を買うようになった。東京オリンピックが終わり、一時的に不景気(昭和40年の証券不況)になったりしたが、給料は今から思えば夢のように上がり続けた時代である。自家用車、カラーテレビ、クーラーの“3C”が、都会の富裕層の間で急激な普及を開始した頃でもある。筆者も、高校入学を機に、「5段変速」の新品を買ってもらった。うれしかった。
そして銀行員大卒初任給が4万5000〜6万円に上がり、自転車の工場出荷価格平均が最後に1万1000円台だった71年(昭和46年)から73年、自転車は大ブレークして、73年には年間総生産台数941万2000台という空前絶後の記録を樹立する。
70年代の流行は10段とか12段の変速、ドロップハンドル、そして「軽快車」。徐々に子ども用自転車も増えてきた。子ども用自転車を補助輪付きで乗り回す小さな子どもを見ると、我々三角乗りで自転車を覚えた世代は、何だかその子が甘やかされているように思えてしょうがなかったものである。以後、自転車は子どもたちと、ときに30万円もかけた自転車を乗り回す非常に少数の大人の玩具になった。
自転車の工場出荷価格平均は、その後長く1万5000円台で推移し、マウンテンバイクなどが流行った80年代後半になると1万7000円台まで上がったが、90年代には再び1万5000円前後に落ちている。これは、安い軽快車やママチャリだと、高い時期で2万円台、安い時期で1万円台、特売で1万円前後の小売値ということだ。自転車は一般にはもはや、駅前に放置して万一撤去されたり盗まれても惜しくないものになった。時代はとことん変わったのである。三角乗りが完全に忘れ去られる日も近い。
1950年に発売された婦人自転車は、今のママチャリと違って男っぽい印象。でも逆に、このレトロな雰囲気が今の若者たちにはうけそうだ。
(資料提供/ブリヂストンサイクル〓)
【資料提供】
〓自転車振興協会、ブリヂストンサイクル〓、〓自転車産業振興協会
百科事典代
「マイホームの応接間に、百科事典を飾る」
これがステータスだった時代もありました
当時の値段を今のレートで換算すると
10年ぐらい前、筆者は初めて百科事典というものを買った。借家で、応接間とも無縁な生活だったから、「マイホームの応接間に飾る」ためではない。机のそばに百科事典があれば、(取材の下調べや原稿内容の確認のための)図書館通いは半減するはずだ。コピー代もいらなくなる。という、ごくごく実利的な動機で買わせてもらったのである。
それでも、段ボール3箱に収められた百科事典が到着したとき、ある種の高揚感があったことを覚えている。「これで知識の全大系を手に入れた」という感じがしたのだ。
わかっている。それこそ(百科事典を応接間に飾りたがること以上に)知的俗物主義の典型だった。しかし想像するに、「百科事典という商品」の価値のかなりの部分は、知的俗物主義を満足させてくれるところにある。そのうえ、筆者のようなライターという職業などではけっこうひんぱんに役に立つというのだから、この百科事典という商品、なかなかの“内容”を持ったものと言えるのではないか。
問題はただ一つ、値段があまりに高かったことだ。
“百科事典の平凡社”が1955年(昭和30年)に刊行を開始し、59年に全32巻を完成した『世界大百科事典』(林達夫編集長)は、定価6万4000円だった。この金額は当時の都心の店のカレーライス640皿分、天丼430杯分に相当し、早稲田大学や慶応大学の年間授業料よりも高いものだった。当時の銀行員大卒初任給は1万5600円だったというから、その約4カ月分である。
その後『世界大百科事典』は68年(昭和43年)に15%値下げされて5万4400円になり、72年にはリニューアルされて「増補改訂版」全35巻9万6000円となった。これは同年の銀行員大卒初任給の1・8倍で、なおかつ筆者の東京学生暮らし1カ月の費用のちょうど2倍だった。当時は百科事典など眼中になかったが、この値段では、買いたくてもとても買えない。
増補改訂版は石油ショックに伴う紙代の高騰などにより、74年(昭和49年)に12万9000円に、77年に13万8000円に、79年に15万6000円に、80年には18万円へと価格改定された。8年間で1・8倍以上になったわけだが、同じ8年間で様々な業界の初任給も2倍から2・4倍に、物価も2倍以上になっているから、これは“便乗値上げ”ではない。81〜82年(昭和56〜57年)にはさらに「増補改訂版」全37巻にリニューアルされて、値段は19万8000円になった。そして83年(昭和58年)に20万8000円、86年21万4000円、87年21万8000円となったところで、88年に「新編集・内容一新」で『新世界大百科事典』(加藤周一編集長)全35巻が22万8000円で売り出された。筆者が買ったのはこの新版である。
この『新世界大百科事典』はその後消費税調整などで90年(平成2年)に23万5000円に、91年に26万5000円に、97年に27万5000円に値上げされた。今現在は本体27万円、消費税込みで28万3500円になっている。
この金額は40年前の約4・4倍だが、同じ40年間で5・8倍になった物価一般に比べると、上がり方はまだ穏やかだ。また、銀行員大卒初任給と比較すると約1・6倍で、相対価格で考えると、59年(昭和34年)の発売開始時における銀行員大卒初任給の4倍以降、60年代後半には1倍台、その後はずっと1倍台を維持している。買いやすくなったと言えそうだ。
しかし、今どきライター以外の誰が、30万円近くのお金を使って百科事典を買うだろうか? それだけあったら、グアムやサイパンあたりなら4泊5日の家族旅行ができるというのに? わずかに生き残っている「知的俗物主義」の主な対象は、今や(値段も似たようなものの)パソコンになったというのに?
ここに、この10数年間の平凡社の不幸があった。
平凡社によると、「59年(昭和34年)以来の旧版は延べ170万部売れましたが、88年以来の新版は10年で25万部ほどです」とのこと。旧版は特に67年(昭和42年)以降、高度成長経済下の住宅建築ブームの中で、「文学全集」とともに応接間の飾りとして重宝された時代によく売れたらしい。そう言えば小学館、学習研究社、旺文社、TBSブリタニカなどが次々に百科事典を刊行し、大販売攻勢をかけていたのはあの時代だった。
しかし80年代以降、バブルの一時期を除いて、高額な百科事典がバカ売れする状況は再来しなかった。時代は今、80年代の教養書不況、書籍一般の不況に続いて、雑誌、マンガ誌さえも不況の真っただ中に入ったところで、新版の25万部という数字は、そういう状況の中でよくそれだけ売れたなという数字なのである。
状況打開のために平凡社は、日立と「日立デジタル平凡社」という新会社を作り、そこから98年(平成10年)3月、CD−ROM版の『世界大百科事典』をスタンダード版で5万円台で発売。同年11月にはその第二版を3万9900円(消費税込み)という超低価格で売り始めた。筆者もすぐに買った。使ってみたら、書籍版のように1冊1冊本棚から持ってくる必要がないし、関連項目や関連図表にリンクが張られているので即座に飛び移れるし、まことに使い勝手がいい。データも90年代中頃段階にまでアップデートされていた。書籍版を子どもに下げ渡し、CD−ROM版に完全移行したのは言うまでもない。
しかし、このCD−ROM版百科もあまり売れなかったようで、2000年(平成12年)3月、日立デジタル平凡社は解散。CD−ROM版百科もその短い命を終えた。同種のものに小学館の『スーパー・ニッポニカ』などもあるが、『世界大百科事典』は、再び書籍版のものだけになったのである。わかった、わかりました平凡社様、もう4万円とは言わない。10万円以下だったら買うから、何とかCD−ROMの新編集版を出してはもらえないものでしょうか?
1959年に完成した『世界大百科事典』。本棚に揃えているだけで、部屋に重厚感が出た知的俗物。とはいえ、一度も開いたことのない人がいるとしたら、それはかなりもったいない話だ。
(写真提供/〓平凡社)
【資料提供】
〓平凡社、日立デジタル平凡社
文庫本代
貧しき大衆に、安く本を提供し続ける文庫本。その志は、現在もまだまだ死んではいない!
当時の値段を今のレートで換算すると
実は小学校高学年以来の“SF者”の筆者。ここ数年、本屋でSF本を買うとき気にかかっていたことがある。早川文庫とか創元推理文庫は、今どき珍しくSFをSFと明記して売っているので、筆者はここ20年ほど毎月欠かさず購入しているのだが、レジで出すお金が何となく増えたような気がしていたのだ。早川で4冊(SFの翻訳物は上下分冊が多いので2アイテム新刊が出ると4冊になることが多い)、創元で2冊、計6冊レジに持っていくと、ほぼ確実に4000円。下手をすると5000円を超えることも珍しくないのである。ちょっと前までだと、文庫本6冊なら、高くても3千数百円。うまくいけば2000円台で買えたような気も。実は私、この間SFに限らず、「文庫」が大幅に値上げされているのではないかと、ひそかに疑っていた。
1927年(昭和2年)に刊行を開始した岩波文庫の、創刊の辞「読書子に寄す」を読んでみよう。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。(中略)今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた、…」
「文庫」は、貧しき大衆に安く本を読ませるべく創刊されたものなのである。然るにいつの頃からか、その精神が忘れ去られているのではないか。で、岩波文庫から夏目漱石著『こころ』をサンプル抽出し、戦後50年の値段の推移を調べてみた。
『こころ』は50年(昭和25年)には★★★、すなわち90円だった。最近の人は知るまいが、岩波文庫は87年(昭和62年)まで、★1つ(100ページ相当)がいくらと決め、★の数で値段を表示していたのである。さて、その当時90円あれば、喫茶店でコーヒーが3杯飲めて、肉屋さんでコロッケを18個買うことができた。地下鉄乗車賃が全線10円均一、銀行員大卒初任給が3000円ほどの時代だった。とするとずいぶん高い気がするが、この年は角川文庫も創刊されて、50年代前半の世の中は文庫ブーム。『こころ』などもずいぶんたくさんの人が文庫で読んでいた時代だったようだ。
それが51年(昭和26年)に120円に値上げされ、62年に150円に値上げされて、各々11年間続く。筆者が夏目漱石を岩波文庫版で集中的に読んだのは中学校1年の頃だから、62年(昭和37年)か63年。岩波はグラシン紙だけだったが、その頃から文庫本にはカバーがつくようになった。60年代中頃には、新潮文庫で学校図書用222冊限定1000セット3万6000円、中学生向け名作セット50冊1万円など、セット販売も登場。71年(昭和46年)には講談社文庫も創刊。筆者もずいぶんお世話になったが、何だかこの頃がいちばん、各社の「創刊の辞」の志が実現されていた時代のような気がする。
73年(昭和48年)、『こころ』は210円に、2年後の75年、今度は一気に300円に値上げされる。石油ショックによる紙代値上げのためだった。文庫の定価がひんぱんに上がるようになったため、この頃から定価はカバーやオビに印刷されるようになった。
ただし300円の『こころ』は80年代末まで、320円に値上げしたのは、消費税導入(3%)の年の89年(平成元年)だった。その間文庫業界は、特に80年代初めから様変わりしていた。73年(昭和48年)の中公文庫、文春文庫創刊のあたりからその兆しはあったのだが、80年に河出文庫と徳間文庫、角川びっくり文庫、文化出版局ポケットメイト(アニメ文庫)などが、84年にPHP文庫、光文社文庫、知的生きかた文庫などが、85年にはさらに9文庫も創刊されて、一挙に“文庫戦国時代”の様相を呈してきたのである。ジャンルも文学中心からジュブナイル、科学、経済、スポーツ、趣味、動植物図鑑、コミックなどへとはっきり多様化してきた。もはや文庫は、高邁な志を実現する文化事業というより、出版社を支える「A6判の単行本」という意味合いが強くなった。
84年(昭和59年)の文庫本新刊点数は約3000点。発行部数は1億3700万冊。1000億円市場で、書籍発行部数の4冊に1冊は文庫本になっていた。
この文庫本景気は、93年(平成5年)のコンビニ向け文庫創刊ラッシュやコミック文庫の隆盛もあって94年まで続く。しかし87年(昭和62年)にサンリオSF文庫や旺文社文庫が廃刊、91年(平成3年)に文庫新刊点数が戦後初めて前年を下回るなど、80年代末から陰りは見えてきていた。そして95年(平成7年)に出版界がはっきり不況の様相を呈するようになると、文庫も徐々に勢いを失う。
90年代の『こころ』の値段は、消費税の5%化、内税外税で若干上下したが、現在は420円(消費税込み・本体価格は400円)である。50年(昭和25年)の90円と比べると4・7倍で、その間消費者物価指数は8倍以上になっているから、決して高くなっているとは言えない。今、岩波文庫の『こころ』を買うお金では、コーヒーはせいぜい1杯しか飲めず、コロッケならせいぜい5個しか買えず、地下鉄なら2回しか乗れないのだ。相対的には安くなっていると言ってもいいのである。
念のため、同じ岩波文庫のカール・マルクス著『資本論』第1巻の値段推移も調べてみた。すると巻構成が改められ新版になった58年(昭和33年)が120円。63年(昭和38年)150円、73年210円、75年300円、80年一気に450円、85年500円、93年(平成5年)587円と来て、今が693円だった。物価とほとんど同じ、約5・8倍の値上がりである。文庫をはじめとする本の値段は、基本的には刷り部数が多ければ割安に、少なければ割高になる。そのことと「資本論は年間に数百部しか売れていない」という岩波書店の言葉と併せ考えると、よくぞ絶版にしないでこの値段で売っていると言っていいと思う。文庫業界は様変わりしたが、その志はまだまだ死んではいない、と言い切りたい。
昭和30年代の岩波文庫『後世への最大遺物 デンマルク国の話』(内村鑑三著)。当時はグラシン紙がかかっていた(左)。この本は★印1個(当時は40〜50円)の価格。
(資料提供/〓岩波書店)
【資料提供】
〓新潮社、〓岩波書店
背広代
全共闘運動に憧れて、制服闘争を闘ったりしたのに、 新しい道に進むため必要だったのは4万円の背広代
当時の値段を今のレートで換算すると
1960年代末の「学園闘争」の時代、高校で「制服闘争」というものに参加した。
当時大学生は、「日米安保条約の自動延長」や各学内の「不正」に反対して「闘争」していた。ジグザグデモとかバリケードストライキはテレビで見ている限りは華々しいもので、自分たちでもやってみたいと考える高校生も多かった。しかし「闘争課題」がない。高校生だと政治課題では皆がついてこないし、「不正」も簡単には見つからない。そこで「校則」に目をつけた。制服や髪型などを強制するのは全体主義的で、生徒の自主性を損ねる。廃止しなければバリケードストライキも辞さない! ということにしたのである。
70年代中頃、東京の街でバッタリ、ともに制服闘争を闘った友人に出会った。「これから面接なんだ」と言う友人は、「短髪」で、「背広」を着ていた。
当時も今も衣服に対するセンスと知識を持っていない筆者には、あのとき友人が着ていた背広がどの程度のものだったか想像もつかない。が、総務省家計調査のデータなどから算出すると、75年(昭和50年)の背広上下1着の平均価格は、4万152円。全共闘運動に憧れ、失望し、先行きを考えて、新しい道に進む態度表明を行うには、当時1200円だった床屋代と4万円ほどの背広代が必要だったのである。
背広がそのように特殊な意味を持っていた時代は、もちろん、60年代から70年代中頃までの一時期に過ぎない。それ以前は、戦前の意識を引きずって、社会的エリートの象徴だったりしたし、70年代後半以後は、TPOによって使い分ける“コスチューム・プレイ”のアイテムの一つに過ぎなくなっている。
戦後50年間の、そのような背広の意味の変化を端的に示しているのが、値段の変化である。総務省家計調査によれば、51年(昭和26年)、「年間1世帯あたり背広の購入数」は0・04着。背広は「世帯」で考えても毎年1着買うものではなく、年間1世帯あたりの購入着数は今でも0・3着ほどに過ぎないが、それにしても0・04着とは、51年当時に背広を必要とする人がどんなに少なかったかわかろうという数字だ。その数字と、同じ総務省家計調査による「年間1世帯あたりの背広の購入金額」532円とから、当時の背広1着の平均単価を算出すると、1万3300円。この背広代の水準は、以後60年(昭和35年)ぐらいまで続く。
当時の各種の初任給は、55年(昭和30年)段階で、銀行員大卒初任給が5600円、国家公務員初任給(上級職)が9000円、小学校の教員初任給が8000円、日経連加盟大企業の初任給平均が1万3000円という額だった。銀行員大卒初任給がいかにも低いが、これは他業種企業の目があるので公開される初任給の額はものすごく安くしているという、最近と同じ事情によるものだと理解したい。
よく老人たちから、「背広は初任給とほぼ同じ値段」、「初任給ぐらいのお金をかけた背広を着るものだ」と聞かされたものだが、それはどうもこの50年代から60年代初めにかけて形成された“常識”であるようだ。東京紳士服専門店協会などの価格データによると、その時代はフルオーダーでも背広上下が1万2000円(50年代前半)、1万8000円(50年代中頃)、2万5000円(50年代末から60年代初め)で作ることができたのである。そして以上の値段はほぼ、時代時代の「日経連加盟大企業の初任給平均」マイナス2000〜5000円に相当していた。
しかし、60年代中頃以降の「背広代の家計支出」を見ると、「初任給額と同じ背広代」というのがいかに時代遅れの常識だったかはっきりする。初任給は急速に上がり90年代には65年(昭和40年)段階の10倍近くにまでなるのに、背広1着に対する家計支出は、65年1万8000円、70年2万7000円、75年4万円、80年5万円、85年5万2000円、90年(平成2年)5万7000円と、3倍程度にしかなっていなかった。時代が下るに従って、背広にはみんな、大企業初任給の半分とか3分の1ぐらいしか使わなくなっていたわけだ。
ただし、前出のオーダーメイド料金は、大企業初任給とほぼパラレルに上がっていた。80年代末からのバブル期には、大企業初任給を5〜7万円も上回って、24〜25万円にもなっていたのである。にもかかわらず、全体として背広代にあまりお金をかけないということが可能になったのは、60年代から百貨店などで「吊るし(既製服)」を買うことが一般的になり、80年代中頃からは「洋服の青山」などの既製服量販店が登場して、全体の価格を大幅に引き下げてくれたためだ。
背広代への家計支出推移を注意深く眺めていた読者は、80年代以降その増え方が急に鈍くなっているのに気づいたはず。「洋服の青山」の85年(昭和60年)段階の背広上下1着の平均価格は、オーダーメイドで18万円していた時代に3万5000円に過ぎず、90年代に入るやさらに下がって、3万2000円前後で推移していたのである。
現在のデフレ・スパイラルの中、背広価格は家計支出でも1着5万円を割り込もうとしており、オーダーメイド料金も20万円以下というところが多くなっている。もう2〜3年前の話になるが、背広上下1着「2500円」(量販店)、「1万円」(百貨店)という値付けすらあったと聞いた。オーダーメイドのシェアはここ40年著しく落ち込み、60年(昭和35年)に53%もあったのが、97年(平成9年)にはたったの3%になっていた。
背広のコスプレ化も進むはずなのである。背広というものに特殊な思い入れがある筆者には、現在の事態を喜んでいいのか悲しんでいいのかよくわからない。ただ、苦しむテーラー業界や、制服で高校を選び、もしかすると会社や職業すら制服で選ぶかもしれない娘を目の前にして、何となく忸怩たる思いを禁じ得ないだけである。
既製服量販店の増加とともに進んだ背広の「コスプレ化」。一人一人のために丹誠込めて仕立ててくれるテーラーには、こんな時代だからこそがんばってほしいものである。写真は1940年創業の銀座英國屋。
(写真提供/銀座英國屋、1955年撮影)
【出典】
総務省統計局、ザ・ウールマーク・カンパニー、『戦後値段史年表』
(朝日新聞社)
【資料提供】
東京紳士服専門店協同組合、青山商事〓
電球代
「白い灯《あか》り」と「黄色い灯り」には貧富の差が? それでも16年間値上げされていない電球は優等生
当時の値段を今のレートで換算すると
昔々、夜に、昼かと思うほどまぶしい光が漏れてくる家は、お金持ちの家と決まっていた。「電灯」が日本に入り始めた明治20年代から、大正時代末期頃までの話である。
1890年(明治23年)頃の電球代は、16燭光の明るさのものが1個1円、1ダース以上まとめ買いすると1個あたり85銭だった。この値段は、今の東芝の遠い前身「合資会社白熱社」が作った国産電球の価格で、輸入ものの“舶来電球”は、はるかに明るい24燭光で40〜50銭。安い上に品質も良かったというから、国産品は何となく情けない。
ちなみに、1燭光とはろうそく1本の明るさのことで、16燭光というと、ほぼ今の20Wの電球の明るさに相当した。24燭光だと30W電球の明るさぐらいで、逆に、今の60W電球の明るさは50燭光、今の100W電球の明るさは80燭光ぐらいに相当する。
1個50銭とか1円という値段は、アンパン5厘、駅弁7銭、日本酒1升17銭(『値段の明治大正昭和風俗史』週刊朝日編より)などという1890年(明治23年)当時の物価と比べると、著しく高かった。現在は60Wで160円、100Wでも190円(いずれもメーカー希望小売価格)だが、その金額では駅弁1個も日本酒1升もとても買えない。明治時代の電球は、やはりとんでもない贅沢品だったのだ。
その高い電球が曲がりなりにも普及し始めるのは、大正(1910年代)から昭和の初年(20年代後半)にかけて。国産のタングステン電球が大量生産されるようになって電球の値段は最初期の半値以下に下がり、都会では、貧しい家庭でも家の中に2灯か1灯の電球のあるのが普通になってきた。昭和も10年代になると電球の年間生産量が初めて1億個を突破し、電球はいよいよ本格的な普及期を迎える。
が、この段階で日本は戦争の時代に突入し、電気の普及もしばらく小休止。電球の生産量が戦前並みに回復したのは、昭和20年代も中頃を過ぎてからのことになる。
50年(昭和25年)、60Wの電球1個の値段は60円になっていた。昭和初年の20銭とか30銭に比べると大変な値上がりぶりだが、50年当時の60円は、喫茶店のコーヒー2杯、汁粉1杯、週刊誌2冊(『週刊朝日』通常号・1冊25円)、豆腐5丁、納豆7個、コロッケ12個の値段に相当する。今よりは高いが、ずいぶん日常的な値段になっていたと言えるのではないか。子どもたちは相変わらず「不要の電気は消すように」と厳しくしつけられたが、「夜明るい家」がお金持ちと言われることはもう絶えてなくなった。戦後の民主化は、家庭の電灯の民主化(平等化と言うべきか?)をももたらしたのである。
家の灯《あか》りに、再び「階級」というものが示されるようになったのは、60年代後半から70年代前半にかけてのことだったと思う。
その頃、暮らしぶりのいいサラリーマンの家庭や、商店などでも流行っている店の灯りは、「白っぽく」見えるほど明るくなっていた。それは60Wの電球を100Wに替えたというのではなく、電球を「蛍光灯」に替えた結果だった。蛍光灯は、日本では敗戦翌年の46年(昭和21年)から生産が始まり、70年代前半には電球の生産数を追い抜くほどの勢いで、その勢力を伸ばし続けていたのである。
蛍光灯は「長保ち」の上に同じ明るさで「消費電力が少ない」が売り物だったが、もちろん電球に比べるとはるかに高かった。一方電球は、主力の60W電球で言うと、51年(昭和26年)から53年まで65円とか75円と上下したが、54年から65年まで12年間65円を通し、66年から72年まで7年間は70円のままだった。その間物価は2倍以上に上昇していたから、電球は相対的にはまた半値近くまで下がったことになる。
結果として60年代後半、「白い灯りの家」は早くから蛍光灯に替えた生活に余裕のある家、「黄色い灯りの家」はそこまで余裕のない、貧しめの家となった。
しかし、歴史というのは皮肉なものである。それから20年ほど過ぎて、90年代になると、その「色分け」が逆転する。
90年代前半のある日、「家庭の照明設計」というテーマで取材に訪れた筆者に、照明機器メーカーの研究員が語った。
「タカハシさん、夜の団地で各家庭の灯りを見てください。どの家も住宅ローンを抱えているということは同じでも、白っぽい灯りの家はけっこう生活が苦しく、黄色っぽい灯りの家はまだ余裕がある家なんです」
そう。すでに80年代中頃から、「電球色」の蛍光管が、普通の蛍光管の2倍近い値段で売り出されていた。明るいが「白っぽい」色の蛍光管に比べ、太陽と似たような光を発するため、例えばお刺身の色などがきれいにおいしそうに見えるという触れ込みの蛍光管である。当時余裕のある家では、電球色蛍光管への交換が進行していたのだ。
筆者は当時ローンこそ抱えていなかったが、根っからの貧乏者の哀しさ。「刺身の色? ンなもんきれいに見えるったって、高いんじゃな」と、家の中は全て、白色の蛍光灯か電球だった。電球は、廊下とトイレと玄関のみ。その晩、帰り着いて見上げた我が家の灯りは、もうこれ以上にないほど冴え冴えとした白だった。
電球は、70年代以降も安いままだった。60Wは73年(昭和48年)に100円、74年に120円、80年に140円、そして84年に160円になってからは、値上げされていない。その後の技術改良により、今では100Wの電球は90Wの、60Wの電球は54Wの消費電力で従来と同じ明るさがあるという、10%の省エネを実現したにもかかわらず、同じ値段なのだ。さらにここ4〜5年は、白い光や黄色い光の「電球型蛍光ランプ」も着実に普及してきている。
おかげで、今の日本では、家の照明の光色が「貧しさ」や「金持ち」の象徴だとは、一概に言えなくなっていた。どうも「階級闘争」というやつは、年々難しくなる一方である。
「マツダランプ」の1950年代のパンフレット。この「マツダ」は、ゾロアスター教の光の神「アフラ・マズダ」からきている。現在は「東芝ランプ」と名を変えている。
(資料提供/東芝ライテック〓)
【資料提供】
東芝ライテック〓、松下電子工業〓
テレビ受像器代
「日本選手団の紅白のユニフォームが印象的」
でも当時月収の9倍もしたカラーTVで見ましたか?
当時の値段を今のレートで換算すると
吉田茂という総理大臣が、国会で「バカヤロー」と怒鳴って解散総選挙になった1953年(昭和28年)。2月にNHKが、8月に日本テレビがテレビ放送を開始した。放送開始を目前にした1月、早川電機(現・シャープ)が発売した国産初のテレビジョン受像器は、14インチで17万5000円。6月に松下電器が発売した17インチは29万円もした。しばしば「テレビは当初1インチ1万円だった」と言われる。が、それは誤りで、普及型だった14インチで1インチあたり1万2000〜1万5000円はし、“大型画面の17インチ”になると1インチ2万円近くもしていたのである。
大卒の銀行員ですら初任給が5600円で、高い買い物というと、オーダーメイドの背広が1万2000円(東京)、国産の乗用車『ダットサンブルーバード』が32万円という時代だった。テレビは、お金持ちでも買おうかどうか迷うぐらいの買い物だったと言える。
そのためNHK開局時にテレビを持っていた世帯、つまり「視聴世帯」は866世帯、日本テレビの開局直後でも1000世帯に過ぎなかった。多くの人は、放送局が設置した「街頭テレビ」や家電メーカーの「巡回テレビカー」で、初めてテレビを見たのである。また放送開始から数年たつと、店の入り口に「テレビあり《ます》」と貼り紙した喫茶店や食堂が増えてきた。テレビが“客寄せ”になった時代だった。
しかし放送開始3年目の55年(昭和30年)以降、NHKの受信契約世帯は年に10万単位で増え始めて、59年3月末には198万世帯と一気に200万世帯に迫った。これは「皇太子(現天皇)ご成婚中継」(59年4月)見たさもあったが、基本的にはテレビ価格が下がったためだ。54年(昭和29年)秋には早川電機が9万9500円と、14インチで初めて10万円を切るテレビを売り出し、56年中頃には14インチなら7万円台という値付けが当たり前になった。「1インチ=5000円」がテレビ普及の分水嶺だったわけである。
「うちにテレビが来たのは俺が小学校5年のときだから61年(昭和36年)だ、テレビ普及はもう少し遅かったぞ」と思う人もいよう。しかしそれはあなたの家が少し貧乏なためだったか、地方に住んでいたためだと思う。筆者がそうだったのだが、「都会」の「勤め人」の家以外では、テレビ普及は3〜5年ほど遅かったと思う。自分の家にテレビが来るまで筆者たちは、近所の“ちょっと裕福な家”の縁側からテレビを見せてもらっていたものだった。
そういう情勢がだいぶ変わってきたのが60年代前半。64年(昭和39年)10月には、地方都市や農村でも、多くの人が自分の家のお茶の間で「東京オリンピック」中継を楽しんだと思う。
しかしもしあなたが、「東京オリンピック開会式のテレビ中継は、青い空と、日本選手団の白と赤のユニフォームが印象的だった」と記憶しているなら、それはおそらく後からねつ造された記憶である。カラーテレビは64年(昭和39年)10月当時16インチで20万円近くしていて、全国で5万台ほどしか普及していなかったからだ。カラーテレビに買い替える家が増え始めたのは60年代後半、16インチで13〜15万円になった頃からだった。
NHKが受信料に「カラー契約」を新設したのは68年(昭和43年)だが、その年だけでカラー契約世帯数は170万にも達した。そして71年(昭和46年)には1000万世帯を、74年には2000万世帯を超えて、白黒からカラーへの転換も、テレビそのものの「大衆化」もほぼ完了した。坊屋三郎が、商品名を連呼する外人のおじさんに向かい「なんだそりゃ」と聞くCMが記憶に残る、『クイントリックス』。74年5月の発売で、18インチと大型画面だったのに13万9000円と他社より2万円ほど安い値付けで大ヒットしたこの松下電器のカラーテレビが、その時期を象徴するテレビである。
その70年代中頃以降、テレビは激烈な低価格競争の時代を迎え、当時大型に属した18〜19インチでも小売単価は10万円を割り始めた。収益構造が悪化したメーカーは、そこで80年代に入ると「画面の大型化」で高価格を維持する作戦を採用した。すなわちまずは22〜24インチのテレビを、80年代後半には25インチを、そして90年代には29インチをメイン商品に設定して、新発売当初は20万円台の価格で市場投入してきたのである。
なお、80年代には低価格機でもリモコン付属が普通になった。このリモコン普及が、価格低下で進んだ「1家に2台、3台化(パーソナル化)」とともに、「ザッピング」という、テレビを決定的に日常化する視聴習慣を生み出す。押さえておきたいところだ。
90年代は、そのように日常化したメディアを見るための道具=テレビが、値段的にもさらに“日常化”していく時代になった。
14、16インチで特に付加機能を持たないテレビはやがて3万円を割り込み、今では2万円を切るものまで現れている。その一方でメーカーの収益源となった高価格テレビは、「衛星チューナ内蔵(BS)テレビ」「ハイビジョンテレビ」「横長ワイド画面(クリアビジョン)テレビ」などの、新しいテレビ放送方式に対応するテレビだった。しかし、BSテレビは90年代初めには29インチ20万円台後半だったのに、数年のうちに10万円台前半に下がり、2000年(平成12年)には8〜9万円台にまで下がっている。91年(平成3年)100万円ほどで登場したハイビジョンテレビは、97年頃28インチ32万円ぐらいにまで下がったところで、放送が将来デジタル化されることが決まって商品寿命が尽きた。90年代中頃、29インチ20万円台後半で登場した横長テレビも似たような運命を辿った。結局、90年代のテレビも、安くなる→高価格の新機能商品を出す→安くなるを繰り返してきたのである。
そして今、21世紀。テレビメーカーは28インチ30万円前後、32インチ40万円台という価格設定の「BSデジタルテレビ」を発売中だ。これも新しい放送方式の開始に対応したテレビだが、2003年(平成15年)以降は「地上波デジタルテレビ」というのも出てくる予定。そろそろ、一部の新しもの好きの人を除いて、そんなに続けざまに新しいテレビを出されても困るよ、買えないよという人が多くなっているのではないだろうか。
テレビはすでに、その50年前の登場時や30年前のカラーテレビ普及期のように、何をおいても手に入れておきたい商品ではなくなりつつある。その意味ではメーカー側の開発戦略や価格戦略も難しい時代にさしかかっていると言えそうだ。
テレビ受像器50年の値段とその周辺の歴史を辿ってきた。一つだけ付け加えておきたいのは、60年代最末期から70年代前半の「テレビ大衆化」完成期に、「反テレビ」という感じ方があったことだ。その頃、左翼に限らず、多くの学生や若い社会人にとってテレビは、「体制的」に過ぎ「メジャー」の匂いが強すぎるものだった。筆者の友だちにもテレビを持たない者がけっこういたし、「フォーク」の歌手はテレビに出なかった。転換点は、70年代後半のどこかにあったと思う。「テレビ大衆化」の渦に身を任せることで、筆者らは何を失い何を得たのか。吉田拓郎あたりにも、聞いてみたいことではある。
1960年頃の三菱ピアノ式テレビのチラシ。14型で正価6万1000円、月賦6万4000円。「ピアノ式」とは画面の下に鍵盤のようなものがあり、それをたたくと局が変わるという、ボタン式のこと。当時としては画期的だったようだ。
(資料提供/東京電力〓)
【資料提供】
松下電器産業〓テレビ事業部
【出典】
『NHKK放送文化』(NHK出版)
第3章
ゆとりの値段
日常とは違う、
ちょっとしたこと
今のように町に娯楽が溢れてはいなかった時代、家族で見に行く映画や喫茶店で友だちと何時間も過ごすことは、いつもとは少しだけ違う、小さな贅沢だった。余暇が「レジャー」というカタカナに替わられたのも、この当時だったかもしれない。
銭湯代
湯上がりのフルーツ牛乳が楽しみだった銭湯も、風呂付きの定着で30年間で約1万軒が廃業に
当時の値段を今のレートで換算すると
1950年代後半、筆者が小学生になったばかりの頃、我が家では夕飯を食べてから、銭湯まで15分ほど歩いて通った。と言っても毎日ではない。今どきの人は信じられないだろうが、夏場でも週に2回、冬場だと4日か5日に1度のペースだった。
引き戸を開けるとすぐ右手にえらく背の高い「番台」があり、いつも怒ったような顔をしたおばさんか、背筋を伸ばしたおじいさんが座っていた。「脱衣場」は大勢の人がせわしなく服を脱いだり着たり、女湯に向かって「おおい出るぞ」と呼びかける人がいたり、活気に満ちていた。「風呂場」に続くガラス戸を開けて中に入ると、湯気とお湯、石鹸の匂いがモワっときて、笑い声や「木桶」の音がカランカランと高い天井に木霊していた。湯上がりの「フルーツ牛乳」が楽しみだった。
銭湯代がいくらだったかは、全く覚えていない。
お風呂屋さんの業界団体「全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会」の話によると、東京都では53年(昭和28年)から56年までは15円、57年から59年までは16円だった。これは大人の料金で、銭湯代には他に「中人(6〜12歳)」「小人(6歳未満)」があり、それぞれ大人料金の4割前後、2〜3割というのが普通だったから、50年代後半の子ども料金は、小学生なら6〜7円、小学校に上がる前なら4〜5円だったはずである。
ただし、「入浴料金は戦前は各警察署長の認可事項でしたが、戦後は『物価統制令』に基づき、料金の上限が『統制額』として各都道府県知事によって決められている」ともいうことだった。つまり銭湯代は、都道府県ごとに違っていたのである。
例えば2000年(平成12年)4月現在で見ると、東京が400円なのに神奈川県は390円、北海道や東北、首都圏を除く本州中央の各県は350円前後、中国・四国・九州など南の県の多くは300円前後である。最安は沖縄県の200円。だから、東北は仙台の住人だった50年代後半の筆者の銭湯代はもう少し小額で、3〜5円程度だったのかもしれない。
60年(昭和35年)、筆者が小学校3年生ぐらいのとき、家に風呂がやってきた。おかげでしばらく、たっぷりのお湯に身体を伸ばして浸かる銭湯の快楽も、寝る前に急いで銭湯に走る不便さも忘れていたが、東京の大学生になって再び銭湯通いが始まる。
70年(昭和45年)の銭湯は驚きに満ちていた。洗い場には蛇口ごとにシャワーが取り付けられていた。お湯がジェット噴射のように飛び出したり、無数の泡がわき上がってくる湯船があった。10円で動くドライヤーがあった。風呂上がりには大型扇風機が心地よかった。
しかし、その頃の値段はまたしても覚えていない。確か100円もあればお釣りがきたような気もするが……。これも前出・連合会の資料によれば、60年(昭和35年)に大人17円だった東京の銭湯代は、以後19円、23円、28円、32円、35円と、ほぼ2年おきに値上げされて、70年には38円になっていた。なるほど、その38円に、確か5円のシャンプーとひげそりを買って48円、湯上がりに30円ぐらいだった牛乳を飲んで78円というのが、当時の筆者の銭湯におけるお金の使い方の定番だった気がする。
そうそう、10円入れると3分ぐらい震えているマッサージ椅子も楽しみだった。
「何だねえ、学生さん。三島由紀夫が鉢巻き締めて演説したら自衛隊員からヤジが飛んできたってね。今の若い人たちってのは、ああいうのはうけつけねえのかねえ」
「はあ、いや、あの……」
一緒に扇風機の風を受けていると、近所のおじいちゃんが話しかけてきたりもした。
今から振り返ると、銭湯はその70年前後が絶頂期だったのだ。当時は東京のような大都市はもちろん、ちょっとした規模の小都市にも筆者のような学生や貧しい勤め人、近所のおじいちゃんが無数にいて、みな銭湯を切実に必要としていた。そのため、60年(昭和35年)に全国で1万2000軒あまりだった銭湯は、69年には1万7642軒にまで増えていた。しかし、70年(昭和45年)頃から戦後のベビーブーマー(団塊の世代)が就職したり結婚したりして風呂付きアパートに住むようになると、風向きが変わった。
筆者のように貧しいままだった階層には値上げが打撃になった。銭湯代は、71年(昭和46年)から40円、48円、55円、75円と毎年値上げされ、75年についに100円になった。3日に1回を4日に1回、1週間に1回にしたのは、筆者だけではあるまい。なお筆者は、76年(昭和51年)以降も120円、140円と上がり続け、155円になった78年に、風呂付きアパートに移っている。少し金持ちになった? いや、勤め人の奥さんと結婚したおかげである。
銭湯の客足は目に見えて落ちた。銭湯経営が苦しくなった。だから銭湯代を決める各自治体も値上げを認めた。78年(昭和53年)に155円となった後も、銭湯代は80年代前半に2年ほど足踏みしただけで97年(平成9年)まで毎年ずっと、10円から25円ずつ値上げされた。値上げ→客が減る→値上げの繰り返しになった。その結果、銭湯の数は70年(昭和45年)以降一貫して減り続け、84年には1万2000軒を、91年(平成3年)には1万軒を割り込み、2000年4月現在では6956軒という数にまで落ち込んでいる。
3年ほど前、筆者はたまたま車で通りかかった銭湯に入ってみた。風呂代385円、別途サウナ代350円を、番台でなく「カウンター」で払って中に入ると、そこは20年前に比べ一段とグレードアップした世界があった。これなら1カ月に1度ぐらいは来てもいいな。極楽、極楽……。露天風呂に浸かりながらそう思った。しかし、それから1度も、その銭湯にも他の銭湯にも行っていない。
銭湯は、この21世紀前半を生きのびられるのだろうか。
1958年に改装オープンした東京・世田谷区の清水湯は、現在もほぼ同じ状態で営業中。年々経営が難しくなっている銭湯業界。昔ながらの銭湯にはぜひ生き残ってほしい。
(写真提供/清水湯)
【資料提供】
全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会
床屋代
無理矢理連れて行かれ、半べそ状態で丸坊主に。今は当時に比べて30倍、でも時代にあった適正価格?
当時の値段を今のレートで換算すると
よう。ずいぶんご無沙汰だったじゃねえか。この頭ぁ見りゃ、よその床屋に浮気してなかったこたぁわかるが、アレだぜ、いくらまともな勤めじゃないからって、お前さんぐらいの年になったら、もう少しマメに通って来なきゃあダメだぜ。
あん? 3800円だと2カ月に1度がせいぜい? 情けねえよなあ、ライターとかいう商売はそんなに儲からねえもんなのかい。何、床屋代が昔より高くなった気がする? ガキの頃は100円ぐらいだった? おいおい、お前さんうちの息子と同級だから、来年はもう50だろ。母ちゃんにうちの店に引きずってこられてから、何十年たったと思ってるんだ。ありゃあ、お前さんが小5のときだったから、ええと1962年(昭和37年)、その頃のうちの料金はよ、大人で220円。だからまあ子どもは160円ぐらいだったかな。
よく覚えてる? いや何さ、今度組合50年史を作るんで、ひいては昔のことを教えてくれって言われてさ、昔の帳簿を洗いざらい出して調べてるんだ、今。
俺が中野の親方んとこで修業を始めた戦後すぐは、床屋代は確か10円の頃だった。それがすぐに25円、60円と上がってな。うちの婆さんと所帯を持ってこの店を開いた52年(昭和27年)には、「総合調髪代130円」ってもんよ。130円で1〜2年やって、次は140円だ。140円で2〜3年やって、次は160円。この140円とか160円っていうお金はな、まだ赤ん坊だったお前さんは知るまいが、その当時カレーライスだったら2皿食えて、ビール大瓶1本買って20円くらいお釣りが来るお金よ。ま、今に比べるとずいぶん安かったことになるわな、床屋代ってやつはよ。
値上げできなかったのよ、あの頃は。正直言って。
あの頃はこの近所に5軒ぐらい床屋があってな、そのうち1軒は「顔ぞり」なしだったけどずっと120円でやってた。そしたらもう1軒が100円っていう料金を始めて、値下げ競争のようになったわけだ。弟子が何人かいる床屋はいいけど、うちみたいに1人でやってるようなところは、その料金じゃとてもやっていけねえ。ってんで、組合でもずいぶんもめてさ、料金は皆同じにしたらどうだって話になった。息子も生まれたばかり。今考えても厳しい時代だったよ。俺も若かったからできたんだよなあ。
それで組合で運動して、政治家の先生とかに陳情してできたのが、「環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律」(57年施行・現「生活衛生――」に名称変更)ってやつさ。
知ってるか?「適正化法」。知らねえよなあ。お前さんの仕事でも何か役に立つことがあるかもしれねえから教えとくが、「環境衛生関係営業」ってな、床屋とか美容院、飲食店や喫茶店、食肉や氷雪(アイスクリームだわな)の販売店、映画や演劇の興行場、旅館、銭湯、クリーニング屋の仕事のことだ。要するに、衛生に気を遣わなくちゃなんねえ仕事をそう呼んだわけだな。でな、適正化法のミソは、そういう仕事では「過度の競争がある等の場合における料金等の規制」ができる、ってところにある。
それで、美容組合もそうしたんだが、床屋のほうの理容組合も全国の「組合連合会」が作った「適正化基準」に沿って、各地域組合ごとに、「最低料金」や営業時間、休日などの規定を作ったんだ。知ってるか?「独占禁止法」。どれも独禁法じゃ「カルテル」として禁止されている違法行為だが、適正化法は、カルテルを拒否し、組合に入っていない店に対しても強制力を持ってた。それでようやく、俺たち床屋も週に1回は休めるようになったし、それ以前は朝8時から夜10時過ぎまで営業してたのに、10時―7時ぐらいですむようになった。値下げ競争にも歯止めが利いたってわけさ。
だから、それから後はずっと組合の規定料金よ。ま、原価率とか物価とか総合的に考えてだな、「適正な料金」ってのを決めてきたわけさ。景気がよくなって物価も給料も上がり始めた60年代に入ると、上がり方も急になったな。62年(昭和37年)には200円台を突破し、64年の東京オリンピックの年には300円台に突入だ。66年(昭和41年)には400円、70年には550円ぐらい、71年には600円台半ば、72年には750円ぐらい、73年には800円台半ばになった。あの頃は毎年100円ずつ値上げしてたわけさ。
でも驚くなよ、74年(昭和49年)には一気に1200円、76年には1600円だ。まあ、あのときぁ俺も、どこまで値上げすることになるんだろうって思ったね。ただ、80年(昭和55年)に2300円になったあたりから少し落ち着いてきて、85年あたりからは2700円とか2800円で割と安定した時期になったんだ。でもな、そこにバブルがきちまった。バブルが終わった年の91年(平成3年)には3000円を突破よ。後はまあ毎年100円ずつって感じで上がって、95年(平成7年)に3500円。うちはまあそれからもぼちぼち値上げして3800円にしてるが、3600円以上にはしてないところも多いよな。
え? この40年で床屋代は30倍ぐらいになってるって? まあ計算上はそういうことよの。その間に物価は7倍にしかなってないのか? うーん、俺らの商売は人件費だからさ、物価と同じってわけにはいかねえよなあ。適正化規制で値下げ圧力が効かないのが今の高価格の原因? お前さんね、俺がこうやってカミソリ持ってるときにそういうことは言わねえほうがいいぜ。第一、うちの店が儲けているように見えるか? 年金の足しになるかならねえかってところなんだ。
それによ、こうやって年寄りに肩もまれて気持ちいいだろ? 髪もわしゃわしゃと洗われて、これこそかゆいところに手が届くってもんだ。気持ちいい40分間で、3800円。決して高えとは思えねえんだがなあ。(文中の料金は時代時代の全国平均料金)
昭和30年代の「最新・ヘアースタイル」。左側にある髪型が当時の「ロング」。では、肩まである現在のロングはなんというのだろう。
1950〜60年の「現代標準頭髪型」。下にある女の子の髪型は「少女ボッブ」というらしい。「わかめちゃんカット」ではなかったのか。
(資料提供/全理連理容史料館)
【資料提供】
全国理容生活衛生同業組合連合会
パチンコ代
1発ずつはじく手動式時代は1000円で終了も、「CR機」登場の今では平均8000円に増額
当時の値段を今のレートで換算すると
パチンコは21世紀の今もまだ、「健全な大衆娯楽」なのだろうか。
いや、筆者がついさっき5万円溶かしてきたとかいうわけではない。「昨日10万円溶かしました(泣)」「昨日10万円勝ったので、デジカメを衝動買いしてしまいました」などという「友人」が後を絶たないから、言うのである。デジカメを衝動買いできた友人は羨ましいが、1日で10万円溶けて消えるというのはひどすぎる。
パチンコはもう、「風俗営業等の規則及び業務の適正化等に関する法律(風適法)」の対象となるいわゆる「遊技」ではなく、「ギャンブル」なのではないか?
「ギャンブルと遊技の違いは『底』があるかどうか。賭けようと思えば一度に100万でも1000万でも賭けられる競馬や競輪には、使ってしまうお金にも底がありません。しかしパチンコは、機械が1分間に100発以内しか打てないようになっていますから、1時間打っても6000発で1万5000円という底がある」
と、理路整然と答えてくれたのは、現在約1万7000軒あるパチンコ店の99%が加盟しているという業界団体、「全日本遊技事業協同組合連合会(全遊連)」の広報課長さん。確かに、開店から閉店まで打ち続けても、ご飯や休憩時間を除くと、打てるのはまあ10時間。玉は今1発4円だから、1発も入らなくても15万円、どんな台でも全く1発も入らないということはないから、負けても10万円という「底」があるのは確かである。やっぱり遊技は遊技なのか……。
しかし、では1日で10万円も負ける可能性がある遊技は、「健全」なのか?
昔のパチンコは、それは健全なものだった。
1950年(昭和25年)、その年に玉代は1発1円から2円に値上げされたが、何しろ当時のパチンコ台は玉を1発1発手で入れ、ハンドル状の金具を引いて離すという操作をしてようやく打つことができるもの。1分間に打てるのはせいぜい30発で、しかも台の前には椅子がなく、立ったまま打つものだった。そのため遊ぶ時間もまず2〜3時間が限度。最高に負けても6000円から7000円という額ではなかったかと思われる。
もちろん、50年(昭和25年)当時の7000円はけっこうとんでもない額だった。今の銀行員大卒初任給を根拠に換算すると、現在の6万円近くに相当する。6万円でも10万円でも大金には変わりないが、「チューリップ」(66年全盛)も「フィーバー」(80年登場)もない時代で“儲け”の額も限られていたから、毎日そんな限度額まで血相を変えて突っ込む人はそう多くはなかった。普通の人は200円とか300円、突っ込んでしまっても1000円とか2000円打ってダメだったら諦めたのである。換金すら一般的ではなく、勝っても、タバコやチョコレートをたくさん取ってお土産にするのが普通だった。
それが、52年(昭和27年)登場後55年に禁止となった「連発式」(溜め皿から重力で穴に入っていく玉をハンドルで打つ方式の台)が復活(69年)し、今の「電動式」が許可されて登場したあたり(73年)から、パチンコはハイリスク・ハイリターンの「遊技」に様変わりしていく。手先の不器用な人でも1時間で数千発の球を打てるようになり、勝ったときの儲けも大きいが、負けたときも大きく負けるようになったのだ。1発2円から3円へ(72年)、3円から4円へ(78年)という玉代の値上げが、それに拍車をかけた。
筆者が頻繁にパチンコをするようになったのは71年(昭和46年)くらいからだが、電動台が登場すると、それまでのように初期投資が200円とか300円ではすまず、すぐ1000円、2000円になってしまった。わけあって家庭教師収入で優雅だった学生生活を中断し、仲間内で食えない仕事を始めて一層貧乏になると、とてもそんなお金は出せなくなった。筆者にとってはそのときから、パチンコは健全な娯楽ではなくなったのである。
では筆者より金持ちのちゃんとした労働者、学生にとってはどうだったか。
「パチンコ貸し玉料の年間総売上推計値」(『レジャー白書』88年〜・財団法人余暇開発センター発行)と、95年段階での「1人の客の平均年間パチンコ回数=24・9回」を基に、「客が1回のパチンコで使うお金」の推移を計算してみた。すると、88年(昭和63年)にはすでに1万7000円にもなっており、その後毎年2000円から3000円ずつ伸びて、98年(平成10年)には4万2000円にも達していた。ただ、もちろんパチンコには「出玉」という戻しがあり、出玉は今ではほとんど現金に交換されて客の収入になる。そこで、「出玉還元率=1・3倍」「景品交換レート=62・5%」という妥当と思える数値を基に「現金交換後の実質的パチンコ代」を推算すると、88年段階で3300円ほどだったのが、90年代前半に6000円前後にまで跳ね上がって、現在は8000円近い水準になっている。
パチンコ代の貸し玉料は、この20年以上1発4円から上がっていない。しかし、パチンコ好きが「フィーバー」(80年)台に熱中し、『レッドライオン』や『ゼロタイガー』(80年代後半)での大当たりを喜び、「プリペイドカード」(90年)や「CR機」(92年)導入、『麻雀物語』(90年)や『CR黄門ちゃま』『CR花満開』(93年)といった新台に目を奪われている間に、パチンコ代は実質大きく値上がりしていたのである。
値上がりしたということだけでなく、客1人・1回8000円という数字が、毎年のパチンコ人口2千数百万人の「平均値」であることに注意してほしい。1回で10万円溶かす人も多いのだ。これは誰にとっても「健全」とは言えないのではないか。
パチンコはもう昔のパチンコではない。ここらで「換金」すらはっきり認めていない風適法から除外し、バクチと認定して考え直すべき頃合いだと思うが、どうか。ついでに、子連れパチンカーのために「保育所」も完備して。
大人気だった1950年の手動式パチンコ店。台の上に見える人は、裏側から玉を入れる係りの人。こんなところまで手動式だった。
(写真提供/毎日新聞、1950年撮影)
【資料提供】
全日本遊技業協同組合連合会
映画代
家族で見に行ってたのは2〜3本立ての2番館。料金一律ではない、割安映画館の復活を願いたい
当時の値段を今のレートで換算すると
1958年(昭和33年)、日本における映画館の観客動員数は11億2745万人で、史上最高を記録した。当時の日本の全人口は9200万人。ということは、赤ん坊から老人まで「国民1人あたり1年に12回以上」映画館に足を運んだ計算になる。実際には赤ん坊は入場料を払わず、忙しがりの旦那さんやご老人はあまり映画を見に行ったとも思えないので、映画を見る人は「年に20回近く」映画館に通っていたことになる。
50年代後半はまさしく「映画の黄金時代」だった。
当時極貧と言ってよかった筆者の家庭ですら、日曜日にはたまに家族揃って映画を見に行ったものである。『にあんちゃん』(59年日活)とか『名もなく貧しく美しく』(61年東宝)などの貧しい家庭や貧しい人を描いた映画を見たとき、おそらく我が身の貧しさを投影して感情移入したのだろう、いつもは嫌になるほど現実派の母がボロボロ涙を流していた。そういう大衆が映画を支えていた。
58年(昭和33年)当時の映画館入場料は、150円だった(東京での封切り館の窓口価格)。150円と言えば当時の物価で喫茶店のコーヒー3杯分、天丼1杯分、カレーライス1・5皿分、月極めの新聞代の3分の1より少し高い料金に相当した。また当時の銀行員大卒初任給1万2700円は封切り映画85回分だった。
筆者の家族が見に行っていた映画館は、仙台という地方都市の、しかも2番館だった。2本立てか3本立てで、値段はたぶん30円ぐらいは安かったと思う。ただ、大人120円、子ども60円として、家族6人だと480円だ。筆者がかなり大きくなってからも、「この子はまだ幼稚園」と主張して子どものバス代を“節約”していた母が、それだけの大金を素直に払ったとは思えない。仙台地方では、バス代・入場料などの各種料金の節約行為を“ぺろんこ”と言う。少なくとも子ども2人分ぐらいは“ぺろんこ”したのではなかったか。当時の映画はこういう大衆にも支えられて(?)いたのだ。
50年代に夢のような栄華を誇った映画界も、しかし60年代に入ると秋の日の落日のように、つるべ落としに凋落する。
テレビのせいだった。
テレビは、それまでは映画が提供していた感動、カタルシス、情報、さらには『〜映画劇場』という形で映画そのものまで、全部まとめて、ただで提供した。テレビ番組はまだ稚拙で、映画に比べるとだいぶ見劣りしたが、貧乏人は無料という魅力には抗し得ない。映画の観客動員数は、61年(昭和36年)に10億人を割り込むと、70年には2億5000万人余りに、80年以降は1億5000万人前後にまで減った。今現在は1億3500万人(2000年)だが、90年代半ばには一時1億2000万人台にまで下がり、ハリウッド映画の大型ヒット作品が出ないと1億人すら割り込むかもしれない状況になっている。
映画館の数も激減した。
61年(昭和36年)の全国7457館をピークに、以後は毎年一本調子で減り続け、93年(平成5年)には1734館に。ただその後は同じ建物内に小規模映画館を複数作るシネマコンプレックス形式が流行したため、映画館数としては下げ止まり、2000年(平成12年)には2524館まで回復している。
基本的には観客も減り、映画館も減った。にもかかわらず、映画の入場料は戦後一貫して右上がりを続けた。60年(昭和35年)200円、65年350円、70年550円、75年1000円、80年1400円、85年1500円、90年(平成2年)1800円という具合である。
58年(昭和33年)当時の150円と比較するため、1800円という金額を現在の他の商品の物価水準で表すと、喫茶店のコーヒーほぼ4杯分、天丼の並1・5〜2杯分、カレーライス2〜2・5皿分、月極めの新聞代の2分の1より少し安い料金に相当する。現在の銀行の大卒初任給17万4000円は、映画代約100回に相当する。
なんだ、映画代はそれほど上がってないんだと思って物価指数と比較すると、この40数年で物価は6倍弱になっただけなのに、映画代は12倍にもなっていたのである。
料金を下げる気はないのか。映画館の業界団体「全国興行生活衛生同業組合連合会」に聞いてみた。
すると、「下げる余地はあまりない」というにべもない答え。理由は、「各映画館は配給会社に『映画料』を支払ってその映画を小売りしているが、映画料は入場料収入総額の何%という歩合で支払っている。今の歩合率は洋画の大作だとだいたい70%前後、邦画で50〜60%もあり、さらに1スクリーン8000万円くらいかかる基本設備の償却費、土地代(賃借料)、人件費などのコストを除くと、多くの映画館はかなりのヒット作品が出なければ、利益を出せるか出せないかかつかつという状況」で、しかも「1000円でやっている『映画の日』には、普段でも入っている映画はもっと入るようになるが、入っていない映画はやっぱり入っていない。映画にはブランドイメージというものがあり、入場料が安ければお客が来るというものでもない」というもの。
そうだろうか。アメリカの映画入場料は今現在でも5〜6ドルだという。日本の映画代が高いのは、やはり50年代から続く料金カルテル「適正化規制」のためではないのか。その「適正化規制」も、89年(平成元年)に廃止されて今はない。日本映画の凋落には、言われるように制作側や配給側の問題もある。が、ここはまず料金をドーンと下げて、それでやっていくノウハウを編み出すべき時なのではないか。
左から、『疾風!鞍馬天狗』(1956年、主演・嵐寛寿郎)、『日本誕生』(59年、主演・三船敏郎)、『東綺譚』(60年、主演・山本富士子)のパンフレット。ちなみに、鞍馬天狗の脇にいる子役は松島トモ子。
(資料提供/〓映画文化協会)
【出典】
『全国映画統計』(〓日本映画製作者連盟)
プロスポーツ入場料
ファンのことを考えたメリハリのある料金設定。必然の値上げも、物価上昇率とほぼ同じだけ
当時の値段を今のレートで換算すると
学費値上げ粉砕闘争で負けようが、連合赤軍事件で新左翼運動に失望しようが、ソ連が崩壊しようが、心はいつも“赤い”ままでやってきた。日の丸? 冗談じゃない。あんたら、たった50年前のことを忘れちまったのか。歴史に対して不誠実だ。そう言ってきた。
それが今、「サッカー日本代表」の戦いに熱狂している。
国立競技場に行って、巨大な日の丸を目の当たりにしたり、「ニッポン、ニッポン」というかけ声の中に身を置いたりしている。かけ声に唱和したり日の丸を顔に描いたりこそしてないものの、日本代表のユニフォームは着ている(笑)。いったい俺はどうしちゃったんだろうと、思わざるを得ない。
血が騒ぐのである。
ナショナリズムやファシズムもそうだが、プロスポーツも、昔から筆者のような大衆に支えられてきた。いずれもセックスと同様、血が収まり、飽きるまでやめるのは難しい。自覚的でないと道を誤りやすいが、過剰に自覚的だと、あのカタルシスを堪能できない。だから、S席が7000円? よし貰いましょ、ってなものなのである。
そういう大衆の傾向をわかったつもりになってのことだろう、1993年(平成5年)スタートしたプロサッカー「Jリーグ」は、けっこう強気の料金設定を行ってきた。
Jリーグでも野球と同様、入場料はその試合の主催チームが決める。そのためチームと場所により料金区分も違えば金額もかなり違うが、例えば鹿島アントラーズ(鹿島スタジアム)の場合、SS席5000円、S席4000円、SA席3000円、ゴールの真後ろで自由席が大人2500円、小中学生1500円だ。今やJリーグのリーダーとなった感もあるジュビロ磐田(ジュビロスタジアム)は、SSからABCまである指定席が各々6500円、4500円、4000円、3500円で、自由席のサポーター席が大人2000円、小中学生が1000円である。
この値段、東京の人はそんなものかと思うかもしれないが、東京に比べると物価も給与もかなり安いだろう鹿嶋や磐田の人は、ずいぶん高いと思ったのではないか。アントラーズとジュビロは、何しろチームが強いこととファンの組織作りに努力してきたために安定した観客動員数を誇ってきたが、Jリーグ全体の人気は案の定、95年(平成7年)頃を境に凋落に転じ、1試合の平均観客数は当初の2万人前後から、96年、97年には1万人前後にまで減ってしまった。再び回復の兆しを見せ始めたのは、ワールドカップが迫りサッカーくじが開始された2001年(平成13年)シーズンに過ぎない。
その点、歴史の長いプロ野球は、実に巧みに時代時代の料金設定をしてきた。
今現在の料金は、東京ドームを本拠とする巨人と日本ハムの場合、指定席がS席5900円(5100円)、A5200円(4100円)、B3700円(3100円)、C2300円、自由席が内野2階で大人1900円、子ども1000円、外野が大人1000円、子ども500円だ(カッコ内が日ハム戦料金・記述のない場合は同額)。また西武ドームの西武戦は、指定席A3500円、B3200円、自由席が内野で大人2800円、子ども1000円、外野が大人1600円、子ども500円となっている。
「指定席」と「自由席」で、「大人」と「子ども」で、それに“中央”と“地方”で、サッカーに比べるとずいぶんメリハリの利いた料金になっているのがわかる。
こうしたプロ野球の料金設定の“二極分化”は、例えば「後楽園球場→東京ドーム」の巨人戦「指定席」料金と「自由席」料金の推移を比較すると、より明確になる。
50年(昭和25年)の巨人戦指定席は100円、内野自由席は80円だった。その後50年代のうちは、どちらの席も前年の観客動員実績を見て、上げたり下げたりを繰り返した。54年(昭和29年)に指定席250円、自由席150円にしたかと思うと、翌年は指定席のみ200円に戻し、自由席を170円に値上げ。翌56年には指定席をまた250円にし、自由席を150円に下げるという具合である。
しかし指定席料金は結局、以後70年代初頭までは物価上昇率をやや上回る割合で値上げされ続け、62年(昭和37年)には320円、65年には450円、71年には700円となった。そして74年(昭和49年)以降は850円、1200円(75年)、2100円(80年)、2900円(85年)、4900円(90年)、5700円(95年)と急上昇しつつ、現在の料金5900円に続く(80年以降は指定A、90年以降は指定S料金)。この70年代以降の上がり方は物価上昇率の3倍近い、大変な上がり方だ。
ところが内野自由席料金は違った。50年代末から60年代初頭にかけて170円、180円を行き来した後、63年(昭和38年)に200円、65年に250円になると、何と76年までの12年間、250円のまま凍結されたのだ。そして77年(昭和52年)に物価上昇分に追いつく値上げ(一気に400円)を行うが、80年代に500〜900円、90年代に1000〜1200円となって、現在の1900円に続く。この上がり方はほぼ物価上昇分だけである。
取れる人からはとことん取るが、貧乏な人や子どもでも何とか出せるぐらいの料金の席も用意しておく。プロ野球の料金戦略は年季が入っていた。子どもでも1000円ぐらいは取るJリーグと比べると、大衆を相手にしたプロスポーツとしてどちらの戦略が優れているかは火を見るよりも明らかだろう。完全フランチャイズ制、地域がチームを支えるという優れたコンセプトを採用したJリーグ。その発展を願う者の1人として、入場料設定でもうひとつ工夫してくれることを期待したい。
1949年10月、サンフランシスコ・シールズを迎えての日米野球大会が行われた後楽園球場。数々の名場面を残したこの球場も、88年に東京ドームとして生まれ変わった。
(写真提供/〓東京ドーム)
【資料提供】
〓東京ドーム、日本プロサッカーリーグ事務局
喫茶店のコーヒー代
コーヒー1杯で何時間でも過ごせた喫茶店。学生たちにとって、けっして安くはなかった
当時の値段を今のレートで換算すると
♪君とよくこの店に来たものさ。
訳もなくお茶を飲み話したよ…
1972年(昭和47年)「ガロ」という名のフォークグループが歌った、『学生街の喫茶店』(作詞/山上路夫 作曲/すぎやまこういち)。この歌に、フォークが大好きだった人たちはもとより、ロック大好き、“闘争”大好きだった人たちすらどこか郷愁を誘われるのは、「喫茶店」というものが、当時の学生たちにとってまことに快適な空間だったからだ。
今から30年ほど前、70年代前半の喫茶店でのコーヒー代は、100円台前半。ラーメンやカレーライスが200円弱、当時出始めだった立ち食いそば屋での天ぷらそばが100円弱(いずれも東京都内での価格)、ビール大瓶1本が140円という物価の中で、1杯100円とか120円という値段は決して安くなかった。にも関わらず、貧乏な学生たちは何かというと喫茶店にたむろして、友だちと話に興じたり、学生向けの店には必ず置いてあった『少年マガジン』や『少年サンデー』『少年キング』などの少年マンガ誌を読んだりして過ごしたのである。「回転率」などという野暮な言葉はまだそんなには流通していなかったから、客は気が向けば、コーヒー1杯で何時間でもそこで過ごすことができた。
恋人と会ったり別れたりするのは、ガロの歌と違って、街中の「名曲喫茶」が定番だったように思う。“活動家”が新人を闘争に“オルグ”するのも、街中の店だった。“公安のスパイ”が懸念された「学生街の喫茶店」は、“革命的警戒心”をもって(笑)避けられたのだ。終電に乗り遅れたら、コーヒー代は50円ほど高くなったが「深夜喫茶」があった。「歌声喫茶」に行くのはもう恥ずかしいことだったが、“ヒッピー”などヘンな人たちが集まる「ジャズ喫茶」や「ロック喫茶」にはよく行った。
学生たちばかりではない。おばさんたちのためには「甘味喫茶」とか「和風喫茶」があった。働くおじさんのためには「電話喫茶」が、ちょっとスケベなおじさんのためには「美人喫茶」があった。70年(昭和45年)当時、喫茶店は、まるで古代ギリシャの各都市の中心にあり、市民の集会や取引や社交の場となった“アゴラ(広場)”のような、家でも学校でも職場でもない、第三の空間だったのである。
その喫茶店が、いつ頃からだろう、何か別のものに変質していったのは。
客の目で見ている限り、第1次石油ショック(73年10月)後の“狂乱物価”でコーヒー代が200円(74年)になり、250円(75年)になり、280円(77年)に、そして300円(83年)になっても、喫茶店はまだまだのんびりできる場所だったような気がする。しかし、コーヒー1杯が400円(88年)、450円(89年)になった80年代の末になると、バブル経済の狂騒の中で喫茶店も何か“気ぜわしい”場所になってきた(コーヒー価格は全て東京・浅草にある喫茶店「アンジェラス」の価格)。喫茶店は、だらだらと何時間も過ごす空間ではなく、「営業回り」の間にちょっと休んだり、嫌な上司を避けてちょっと逃げ込めはするがすぐまた仕事に戻る、通過基地のような場所になってしまった。
元凶は察するに田中角栄である。彼の提唱による列島改造ブーム(72年)に端を発し、80年代後半のバブル期にはっきり表面化した「地価狂乱」が、喫茶店好適地のテナント料をも高騰させた。結果、喫茶店経営が苦しくなった。業界関係者の話によれば、60年(昭和35年)前後には、コーヒー1杯50〜80円でも、1日40人から50人の客が入れば2〜3年で開店資金を回収できたという。それが70年代後半から徐々に利益が薄くなり、80年代後半には1杯350円取っても利益を上げにくくなった。家賃と人件費の上昇のためである。
経営的には、「喫茶店の黄金時代」はすでに70年代半ばには終わっていた。そして80年代中頃からは、高価格店と低価格店への、二極分化が始まる。
例えば「カフェラミル」は、85年(昭和60年)の開業以来、東京の盛り場を中心に最大勢力時の90年代初頭には41店展開した、高価格店チェーンだ。内装だけで坪あたり200万円かけたという小じゃれた店作りで、コーヒー代は1杯450円でスタートしたがすぐに500円、600円に値上げし、90年代には他店の2倍近い800円とした。一方「ドトールコーヒー」は、80年(昭和55年)にコーヒー1杯150円(91年180円に値上げ)という業界衝撃の低価格で原宿に1号店を開くや、96年(平成8年)末までにフランチャイズを495店に増やした喫茶店チェーンである。また96年には、“アメリカ大資本の日本上陸”と話題になった「スターバックス」も、コーヒー1杯250円という(少し高めの)低価格喫茶店チェーンとして出発した。
高級店と低価格店に分かれ、両者とも隆盛できたヒミツは、カフェラミルで1000円前後、100人以上、ドトールで300円前後、普通は700〜800人という、「客単価(客1人が使う平均金額)」と「1日の客数」にある。つまり、家賃、人件費などのコスト上昇を、高級店は客単価で、低価格店は客数の多さで乗り越えたのだ。
とはいえ、その結果失われたものはあまりにも大きい。筆者はカフェラミルにもドトールにもスターバックスにも入るが、残念ながらどこにも何時間もいる気持ちにはならない。スターバックスでは店内でタバコが吸えないせいもあるが、それより何より、椅子やテーブルの狭さ、接客システムなどの全体から、「何時間もいてはいけない」という暗黙の“メッセージ”が伝わってくるからだ。それはおそらく誤解ではないと思う。
あの“学生街の喫茶店”はこのまま死滅してしまうのか。自堕落で心地よいあの「学生気分」と一緒に? 時々その生き残りを見つけると、懐かしくてたまらない。
昭和30年代の店内。今流行のカフェにはない、落ち着いたムードが漂う。確かにこれなら何時間でもいてしまいそうだ。
(写真提供/アンジェラス)
1946年創業の浅草「アンジェラス」。昭和30年代からほとんど変わっていないという。まさに、古き良き時代の喫茶店の典型。
【資料提供】
アンジェラス(東京・浅草)
宝くじ代
発売時の宝籤《くじ》は1枚が初任給の8分の1と超高額。それでも人気があったのは、当せん金も高額のせい
当時の値段を今のレートで換算すると
近代の日本で宝くじが解禁されたのは、1945年(昭和20年)7月。「勝札」という名前で、太平洋戦争の軍資金を稼ぎ出そうとしたものだった。それまで「富くじ」の類は、明治政府ができてからずっと、「僥《ぎょう》倖《こう》の利をもって民心を誘惑し、その職を怠らしめる」という理由で禁止されていたのである。
しかし、その戦争に負けたら、何でもありになった。
8月15日の敗戦後すぐ、10月29日には、「宝籤」と名を変えて登場。白米が闇で1升70円で買えた時代に1枚10円もしたが、1等賞金10万円、副賞布地50ヤールがついたうえに、外れ券4枚で『金鵄(きんし=タバコの銘柄)』を10本もらえるというのがうけて、大評判になった。政府の資金不足も、国民の物不足も、それだけ極まっていたというべきか。翌46年(昭和21年)には、勝負の勝ち負けを予想してくじを買う「野球籤」やら「相撲籤」、「競馬籤」、現金より景品主体の「三角籤」、「劇場籤」とか「クローバー籤」なるよくわからぬものまで、様々な「宝籤」類似のくじが発売された。
また、この年の末から、政府だけでなく地方自治体も宝くじを販売できることになった。民主主義の世の中になって地方自治が国是となり、警察や教育、福祉行政が従来以上に地方自治体の責任となり、戦災からの復興や復員者(兵役や外地から日本に引き揚げてきた人々)の受け入れのための資金不足は、中央政府より深刻だったためである。本当に地方自治をやるつもりなら、国税と地方税の配分を根本から変えるのが先だったろうに。中央集権の意識は、そう簡単には改められなかったということか。
47年(昭和22年)には続々と「地方籤」が発売され、急激なインフレもあって1枚50円、1等賞金額100万円の宝くじも登場してきた。そして48年(昭和23年)には、新たに「当せん金附証票法」という法律が制定されて、現在に至る宝くじ制度が確立された。
めったにお目にかかる法律ではないので、ここにその目的と発売者に関する定めを紹介しておこう。まず目的は、「経済の現状に即応して、当分の間、当せん金附証票の発売により、浮動購買力を吸収し、もって地方財政資金の調達に資する」(第一条・表記は現行法による)ため、である。また発売者は、政府及び「都道府県並びに(中略)戦災による財政上の特別の必要を勘案して総務大臣が指定する市」(第四条)とされた。
政府による発売はその後54年(昭和29年)に廃止され、宝くじは今地方自治体だけが発売するようになっているが、この「当せん金附証票法」という法律自体は、「戦災云々」という文言を含め、今も立派に生き残っている。宝くじ(この法律で「籤」は「くじ」になった)は、地方自治体が、地方財政資金調達のために発売しているものだったのである。
知らなかった! そう言えば、宝くじの券には「全国自治宝くじ」とかいう字が印刷してあったような……。そうと知っていれば、もっと積極的に協力したのに。
なお、当せん金附証票法の第四条では、その利益の使い道も次のように定めている。
「公共事業、その他公益の増進を目的とする事業で、地方行政の運営上緊急に推進する必要があるものとして、総務省で定める事業の費用の財源に充てる」
具体的には何に使っているのかと、各自治体の宝くじ事業の連合組織「全国宝くじ協議会」の事務局(東京都財務局主計部公債課)に聞いてみた。
「例えば99年(平成11年)は、全国自治宝くじと東京都単独の宝くじで約630億円の収益金が得られました。使い道は、昔は水源確保のためのダムとか都営住宅の建設資金なども多かったのですが、今最も多いのは公園と河川整備資金です。ただ、あらかじめ予算を組んでおき、後から宝くじの収益金を当て込んでいくので、具体的にどの公園、どの川の土手と特定はできないですが」
なるほどそうでしたか。
しかし、買うほうにとってみれば、地方自治の何のは関係がない。私など、“働けど働けど我が暮らし楽にならざる じっと手を見る”現状から逃避するための夢を、ひたすら買っていたのだ。
その夢は、年々大きくなってきている。
50年代から60年代初めまでの宝くじは、1枚20円、30円、50円などとバラバラだったのが徐々に100円に統一されていき、54年(昭和29年)には1等賞金もそれまでの100万円、110万円から400万円にジャンプアップ。60年(昭和35年)に500万円、68年には1000万円に、73年の石油ショック後の物価高騰をうけて78年には、1枚200円の宝くじの場合に2000万円に、そして80年には1枚300円の場合に3000万円となった。そしてその年、「ジャンボ宝くじ」という言葉が初めて使われている。
以降、現在まで約20年間、宝くじ1枚の値段は、95年(平成7年)の「阪神・淡路大震災復興宝くじ」のような特殊な場合を除いて、だいたい300円をキープ。その一方で1等賞金は、80年代後半に5000万円、6000万円と増額され、90年(平成2年)頃には前後賞と合わせて1億円に、97年にはついに1等単独で1億円に、99年には2億円となって、前後賞を合わせると、いやはや3億円もの賞金が得られるようになったのである。
「1等賞金の額÷宝くじ1枚の値段」を「夢の大きさ」と定義すると、45年(昭和20年)の1万倍から今の67万倍と、67倍にもなっていた。先述の当せん金附証票法の定めでは、1等賞金は「証票金額の百万倍に相当する額を超えない範囲の額とすることができる」(第五条第二項)とある。夢はもう少しだけ大きくする余地がありそうだが、こういう夢だけ大きくなっている日本でいいのか(そして何故筆者には夢のままなのか)と、じっと手を見る今日この頃でもある。
1969年の大阪万博・千里会場に設けられた特設宝くじ売り場。「特設」とはいっても、後ろの壁に手書きのポスターを貼り、テーブルを出して売っているだけ。なんだか不用心な気もするが……。
【資料提供】
『'99年宝くじのしおり』(全国都道府県及び12指定都市)
結婚式代
30年前ですでに96万円もした非日常大イベント。だからって今300万円以上するのはもっと異常
当時の値段を今のレートで換算すると
名古屋はエビフライと味噌カツの他にも、結婚にお金をかけることで有名な地域だという。新婦側で新居で使う家具や生活用品を準備する際にも、荷を積んだトラックが何台も連なるくらいの量を運び込むのが良しとされるとか。
バカバカしいことである。今や「家族」というモデルすら成立しがたくなっていて、夫婦関係もほんのちょっとした綻びから破綻する時代だというのに、(具体的な知り合いはいないが)名古屋の人々はいったい何を考えているのか。
ことが深刻なのは、この何十年間か、日本中の人がプチ名古屋人化していることだ。
経済企画庁(当時)の諮問機関に物価安定政策会議というのがあり、1990年代半ばに進行した異常な円高に伴う「内外価格差(日本と外国での同じモノやサービスの値段の差)」が問題になったときに、日本での高い「結婚式費用」についても議論され、検討のために75年(昭和50年)から95年(平成7年)までの結婚式費用の推移が調べられていた。そのデータによると、75年に人々は「挙式と披露宴」関係だけで平均96万円のお金を使っていたという。その他の、例えば「新生活関係準備費用」や「新婚旅行費用」「婚約関係費用」などまで含めると、288万7000円平均だった。今でも大金だが、75年当時はもっと大金だったろう。
それが80年(昭和55年)になると、挙式・披露宴費用は189万3000円、全費用は545万円と、それぞれ倍増していた。80年前後と言えば、筆者が一緒にデモに行き、バリケードを組み、カウンターカルチャーを語ったが、きちんと就職した友人たちが、次々に結婚式を挙げていった頃だ。筆者もお呼ばれして初めてフランス料理や本格中華料理を食べさせていただいたが、いや、みんな、そんな大金を使っていたのか。
結婚式代は、その後も驚くべき上昇を続ける。
85年(昭和60年)には挙式・披露宴関係だけで232万円に、全費用は688万円になった。バブル経済真っただ中の90年(平成2年)には、挙式・披露宴288万円、全費用756万円だ。もうこうなると、最高額の買い物が48万円のパソコンでしかない筆者には論評のしようもない額である。しかし費用の上昇はまだ続く。誰の目にもバブル経済は終わったとわかったのは91年(平成3年)だが、その年、挙式・披露宴費用は305万円とついに300万円のラインを超えてしまい、92年には全費用のほうで800万円のラインを突破。そして93年(平成5年)には、挙式・披露宴費用361万4000円、その他費用471万9000円、合わせた全結婚関係費用833万3000円と、史上(と言ってもデータを取ったのは1975年からに過ぎないが)最高の金額に達したのだった。
主要都市銀行、優良生損保、ごく一部のメーカー大企業の勤め人を除き、20代で800万円の年収がある人はそう多くない。(2人合わせても)800万円の貯金を持っている人はもっと少ないと思う。結局、親がかりなのである。多くの人にとって結婚は、本人たちのときには合算年収より多い額を蕩《とう》尽《じん》する一大イベントになっていた。ここ20年ほどの日本人に、あの名古屋人たちを笑う資格はない。
改めて問おう。結婚や結婚式って、そんなにお金をかけてするものなのだろうか。
「そうよ!」という女性からの答えがすかさず聞こえてきそうだが、貴女方は間違っている。ナニ「素敵な結婚式をしたい」? だったら、本当に「素敵な」形式を自分で考え出せばいい。あのバカげたお仕着せの形式を踏襲しようとするから、親がかりでないとできなくなるのである。自分のことは自分でする。親も大変なのだ。少しは考えろよな。
おお、いけない。筆者も娘が大きくなってきているもので、思わず説教モードに入ってしまった。近年の結婚式費用の推移を見ておかなければならない。
物価安定政策会議のデータは95年(平成7年)までしかないので、以後は、東京都内のとある公共結婚式場における「客単価(挙式・披露宴の総費用÷出席者人数)」で見ていく。すると94年(平成6年)の3万5200円以来、99年の3万1600円まで一貫して減少していた。この式場はよそに比べると客単価が少なくとも数千円は高めだが、バブル崩壊以来現在まで続く結婚式費用の低落傾向の証として紹介しておこう。以下は、その式場の営業マネージャー氏の解説だ。
「私どもが開業した84年(昭和59年)頃、1組の挙式・披露宴費用は250〜260万円というのが普通でした。それが今は200万円ぐらいが普通になっている。総額が小さくなったのは、“地味婚”になったというより単純に披露宴への出席人数が少なくなったから。昔は平均で80人以上だったのが、今は70人を切り、67〜68名ぐらいになっています」
こうした近年の費用低落傾向を、業界では“ゼクシィ現象”と呼んでいるのだそうだ。
「94年(平成6年)に『ゼクシィ』という結婚情報誌が創刊されてから、式場の価格情報はもちろん業界のウラ情報まで掲載されるようになった。それ以前は結婚式代がいくらかかるか、式場に行ってみないとわからなかったが、以後は比較検討できるようになった。式場側も『ゼクシィ』に広告を出すときには低価格を競うようになって、結果として消費者の価格意識が高まり、業界全体の低料金化が加速されたというわけなんです」
一冊の雑誌がそこまで世の中を変えた。『ゼクシィ』について、筆者はその話を聞くまで「結婚情報誌だと? この軟派雑誌め」と思っていたが、その功績は天より高く評価したいと思った。願わくば甘い結婚幻想を振りまくのをやめ、「10万円以下でできるソバ屋の2階でのクラシックでレトロな結婚式特集」でもやってほしいものだ。
1970頃の結婚式。今ではめずらしい「お座敷にお膳」のスタイル。(無駄に?)華々しい「テーブル席でフランス料理」の現在のスタイルより、ずっと厳粛な雰囲気が漂っている。
【出典】
物価安定政策会議・サービス問題専門委員会報告書、『挙式前後の出納簿』(三和銀行ホームコンサルタント)
パーマ代
戦後こんなに値上がりしたものは他にない!? それでも禁止されていた時代を思えば、まあいいか
当時の値段を今のレートで換算すると
「ゼイタクは敵だ!」
1940年(昭和15年)8月、「国民精神総動員本部」により東京市内1500カ所に立てられた看板が、日本をまた一歩、戦争のほうへと押しやった。
そのとき「ゼイタク」という言葉でイメージされたのは、「男が料理屋とか待合い、カフェやダンスホールなどで芸者、娼妓、女給さんたちと楽しく飲んで食べて遊ぶこと」とか、「男女を問わずきらびやかなもの、派手なものを身につけたり、着たりすること」。が、その象徴として狙い撃ちされ、「時局下」の寒々しい時代を示すものとして後々まで記憶されたのは、やはり女性の「パーマ」であり、その禁止だったと言えよう。
ノスタルジーの歌い手として世に出た頃のあがた森魚が、その2枚目のアルバム『噫無情(ああむぢゃふ)』の中で、歌っている。
♪貴男何だかおセンチね もうすぐ外地へお出ましね
あたしも最後のパーマネント この髪乱して踊りたい
踊ろうか 踊りましょう せめて今宵限りでも
(『昭和柔侠伝の唄〜最后のダンスステップ』〈作詞・作曲/あがた森魚〉より)
あがた森魚も、筆者も、まだ生まれていなかったが、嫌な時代だった。
パーマという「洋髪」の手法が日本に入ってきたのは、関東大震災(23年=大正12年)前後のこと。大正の末にアメリカ帰りの“洋髪美容師”山野千枝子氏が銀座に美容室を開いた頃から拡まり始め、30年代に入るとすっかり一般的なものになっていた。初期のパーマは熱くしたこてで髪を挟んでウェーブを作る「マーセル・ウェーブ」だったが、30年代中頃からは機械を使った「パーマ(パーマネント・ウェーブ)」が普及を開始して、40年(昭和15年)には、パーマをしてくれる美容院が東京だけで850軒にも達していたという。
料金は、32年(昭和7年)頃のマーセル・ウェーブの時代が20円、35年前後の機械を使った「パーマ代」が、10〜15円だった。
当時、銀行員大卒初任給が70円、白米10sが2円50銭。10円あれば、鰻重が16人前、カレーライスなら100皿食べられ、ビールの大瓶を30本ほど飲めた。一方、当時の「床屋」のほうの料金は40銭とか50銭程度。パーマは確かに「ゼイタク」なものだったのだ。
しかし戦争が終わると、パーマはたちまちのうちに復活した。今では知る人も少ないが、「進駐軍(連合国の日本占領軍)」の「キャンプ(基地)」の周辺は、「GI(米兵)」を相手にするパーマ姿の女性たち、「パンパン」であふれたのである。
51年(昭和26年)生まれの筆者は、辛うじてこのパンパンさんたちのことを記憶している。生家は2間と台所という一軒家だったが、茶の間に家族6人が住み、もう一間にパンパンさん3人が下宿していた。幼なじみは「オンリー(将校など特定の人を相手にする人)さん」の子どもたちだった。夕方になると、石鹸のいい匂いをさせた白い人や黒い人が、町内をうろうろしていた。55年(昭和30年)頃までは確かにいたはずのあの人たちは、あれからどこに行ってしまったのだろう。今となっては、古い写真の中にそのパーマ姿を残すばかりだ。
記録によれば、48年(昭和23年)のパーマ代は300円、52年には390円前後だった。52年(昭和27年)当時、銀行員大卒初任給は5600円、白米10sは445円である。390円あれば、鰻重1・5人前、カレーライスが5皿食え、ビールは大瓶で3本飲めた。戦後になって、パーマ代はずいぶん大衆化していたのである。
50年代の中頃、パーマは戦前以来の機械式から薬液を使う「コールド・パーマ」に移行し、それを機会に25%近いパーマ代の値上がりがあって、500円台に突入した。以降パーマ代は物価上昇とともにも緩やかに上昇し、66年(昭和41年)には1000円台に突入。物価高騰期だった70年代には、73年に2000円台、翌74年には3000円台、76年に4000円台にという具合に、あれよあれよと言う間に急上昇する。しかし80年(昭和55年)前後に5000円台を突破してからは比較的落ち着きを見せ、6000円台突破は91年(平成3年)と、平成の御代になってからのことになる。今現在は7000〜9000円台で、高いところで1万円超というところだろう。
52年(昭和27年)を基準にすると、今の物価はその頃の約7倍に過ぎないのに、パーマ代のほうは20〜25倍になっている。実は、パーマ代と床屋代ほど、戦後になって値上がりしたものは他にあまりない。いずれも、戦後長く独占禁止法の適用除外を受けた「カルテル料金」だったためだ。しかしだからと言ってあまり文句を言う気にもなれないのは、これは個人的な理由なのだが、筆者のおばさんをはじめとする数多くの農家の娘たちが、40年代末から50年代全般にかけて「パーマ屋」に修業徒弟に入り、60年代後半から70年代にかけて、ようやく一本立ちして店を持ったりしていったという見聞をしてきたからだ。
今、お客さんが年に何人いるのか心配になるほどとんでもない田舎の、とんでもなく辺鄙な場所に、「美容院」が建っていることがある。その多くは、3食ともおかずは納豆だけ(筆者のおばさんの例)などという厳しい修業徒弟生活を経て「美容師」となり、“故郷に錦を飾った”かつての娘たちの手になるものだったのである。
今現在は、“カリスマ美容師”なども跳《ちょう》梁《りょう》跋《ばっ》扈《こ》する時代。筆者の奥様や娘も、平気で1万円近い「カット代」などを支払っている。けちな筆者がそれでも文句をつけないでいるのは、そうしたら、またあの「ゼイタクが敵」の時代に戻ってしまう気がするから、でもある。パーマは時代のリトマス試験紙。パーマぐらい、かけたかったらいつでもかけられる世の中であってほしいではないか。
今のパーマと違い、1950年代のパーマは「きっちり」として大人っぽかった。が、それにしても今の若者と比べると、同じ日本人とは思えないほどの体型差。この50年間で日本人そのものが変わったんだなあ。
【資料提供】
全日本美容業生活衛生同業組合連合会
JASRAC 出0109286−101
第4章
生活の値段
時の流れととも、
常識も変わる
電車に乗って通勤し、休みの日には車でドライブ、中学生でも携帯電話を持ち、ほどんどの人が大学へ通う。この何でもない風景も、時代とともに少しずつ変化している。気が付かないうちに過ぎてしまった、身近な生活の中に溢れている「値段」の変遷。
大学の授業料
30年間で月収の3分の1から2倍以上に高騰。学友諸君! 学費値下げ闘争を、いま再び!
当時の値段を今のレートで換算すると
1971年(昭和46年)春。「学園闘争」の余燼未だ醒めやらぬ中、某国立大学に入学した筆者は、「学費値上げ粉砕闘争」に直面した。その年、「政府文部省権力」は、卑劣にも「教育の帝国主義的再編」を策謀し、なんたることか、国立大学の授業料を年額1万2000円から3万6000円へと、一気に3倍に上げようとしていた! のである。
いやはや。
物持ちのいい友人がいて、30年たった今、当時の私が書いた「クラス討論」のためのビラを読むはめになった。一読赤面。稚拙の極み。借り物の言葉ばかりで、何の説得力もない。が、30年前のバカな自分が一点だけ「正しかった」のは、ここで値上げを容認すれば際限のない値上げ攻勢がきて、大学の門戸が狭められることになると語っていた点だ。
2001年(平成13年)春。筆者の娘が某私立大学に入学した。初年度の学費(授業料+入学金+施設費等)は150万円。金額を聞いて、私はうろたえた。こ、これは、一介のフリーライターの収入で払える額ではない。もちろん払えるフリーライターの人もいるが、私は払えない。30年たつ間に、学費はとんでもなく上がってしまっていたのである。
昔、大学の授業料はとても安かった。国立大学の授業料は、49年(昭和24年)の「国立大学設置法」以降で見ると、年額3600円(全学部・全学で同じ金額)でスタートし、日本が一応独立した年の翌年の52年に6000円に値上げされ、経済白書が「戦後は終わった」と宣言した56年には、9000円へ。そして東京オリンピックの前年(63年)に1万2000円になって、71年(昭和46年)まで9年間も続いていた。
ちなみに銀行員大卒初任給は、49年(昭和24年)には月額3000円、52年に5600円、60年に1万5600円、63年に2万1000円、71年には4万5000円だった。つまり、国立大学の授業料は、52年(昭和27年)から62年まで、年額で、就職したてのペエペエの銀行員の給料1カ月分そこそこ、63年以降70年代初頭までは2分の1から3分の1以下と大幅に安かったのである! 地方の貧しい家庭の出身だった私ですら「安い」と思ったものだった。
では、私立大学の授業料はどうだったか。
例えば慶応大学の授業料は、49年(昭和24年)から56年まで年額3万円だった。3万円という額は、同時期の銀行員大卒初任給(月額)の6〜10倍だから、今現在で言えば約105万円から175万円。その頃の慶応はやはり、「金持ち」大学だったと言っていい。
しかし、以前は安かった早稲田も高くなり、50年代後半以降、慶応と早稲田の学費はほぼ同じ水準になる。57年(昭和32年)には慶応3万円、早稲田が2万6000円、58年には両校とも3万円、61年は慶応4万円・早稲田3万6000円、64年は慶応6万円・早稲田5万円、66年には再び両校8万円と横に並んで、71年まで同額という具合だ。
65年(昭和40年)当時の銀行員大卒初任給は2万5000円だから、早稲田の学費5万円はその2カ月分に過ぎない。大学生の子を持つサラリーマンだと、まず初任給の3倍近くの給料をもらっていたはずだから、今よりかなり安い学費だったと見ていい。にもかかわらず早稲田で65年、学費値上げ粉砕の運動が盛り上がった(そして全国の大学に学生運動が拡がった)のは、値上げでサラリーマンの子弟以外が大学に進学しにくくなる、学生自身が働いて自分のお金で大学を出るのが難しくなる、という理由からだった。
66年(昭和31年)以降71年までの慶応・早稲田の授業料8万円を、月に均すと6500円。この額は、70年当時の「週2回・1カ月・1万2000円程度」という家庭教師代を考えれば、学生が自分で稼ぎ出せる金額だった。つまり70年前後までは、ちょっと根性を入れてバイトすれば、授業料はもちろん下宿代や飯代、本代、喫茶店代なども含めて、大学に通うための全ての費用を学生自身の稼ぎで賄えた時代だったのである。
ところが、70年代に授業料は国立私立を問わず、狂ったように値上げされていく。
国立は、72年(昭和47年)に年額3万6000円、76年に9万6000円とハネ上がり、以降はほぼ2年おきに値上げが繰り返されて、現在の50万円近くにまでなった。早稲田と慶応は、72年に12万円とした後、70年代のうちに30万円前後にまで値上げし、90年(平成2年)にはついに50万円前後へ。その後は毎年小幅の値上げを繰り返して、現在の60万円台半ばに至っている。
お断りしておくが、ここまで「授業料」として挙げた金額は、入学金や設備費等(現在、私立では最低40〜50万円)を含まず、慶応・早稲田では文系の、しかも最も安い学部の数字だ。いろいろ全部入れると、初年度は国立で約80万円近く、私立文系では最低でも120万円はかかる。私立理工系や「情報学部」など新設学部の場合は、安くても150万円前後、下手をすると200万円近いお金がかかるのだ。
学費がこんなにも高くなった背景には、「財政問題」があり、「受益者負担」や「負担の公平化」、それに国立と私学の「格差是正」という論理がある。しかし考えてみよう。コンビニで深夜のバイトを週5日やっても、月12万円足らず。百ウン十万円という学費は、学生がバイトで稼ぎ出せる額ではないし、確定申告での所得が多い年でも500万円に満たないフリーライターに、たやすく出せる額でもない。また、「医者になるのは医者の子弟」というような、新たな“世襲社会”を招きかねない学費水準は、「適正」なのか?
筆者の娘の初年度の学費150万円は、幸い、主に共稼ぎをしている筆者の妻の集金努力によって確保され、翌日には大学の口座に消えた。私怨を込めて、筆者は呼びかけたい。老いたる学友諸君!「学費値下げ闘争」を、今再び!
1969年、東大・安田講堂前をデモする反日共系の学生たち。手に持っているのはご存じゲバ棒。ヘルメットとタオル覆面、角材のゲバ棒は学生運動の三種の神器だった。(写真提供/毎日新聞社)
【資料提供】
慶応大学学生課、早稲田大学広報課、文部科学省学務課
電車賃
「出かけて帰ると500円ぐらい」は70年代の話。今や「30q圏で往復1000円以上」が当たり前
当時の値段を今のレートで換算すると
最近10年ほど、財布の中のお金の減り方が早い気がする。1万円札がくずれてから、ゼロになるまでの時間が、短いのである。
確かに、学生のときに比べると、ぜいたくになっている。“立ち食いの天ぷらそばに卵を落とす”ようになったし、“カレーにコロッケをのせる”などしているのだ。やむを得ずタクシーを使うというときの“やむを得ず”についても、どんどん基準が緩やかになっていることは、自覚している。しかしあるとき、取材費の計算をしていて、気がついた。「電車賃」が、けっこうまとまった金額になっていたのである。
出張取材でなく、都内取材で、1週間ほどの間に行った7〜8件の取材交通費が、1万3000円を超えていた。その間、タクシーも何度か(やむを得ず)使ったが、電車賃だけでほぼ1万円になっていた。ということは、1日平均1500円ほど。この額は、筆者の“人生の常識”を大きく揺るがすものだった。
この何十年間、筆者は無意識に、「出かけて、帰ると、電車賃は500円から600円ぐらいなもんである」と、固く信じていたのである。
ちょっと出かけて1500円。電車賃は、いつ頃からこんなに高くなっていたのか?
そこで、(東京駅のそばにあって筆者には往復1340円かかる)JR東日本本社と、(新宿駅のそばにあり往復960円かかる)小田急電鉄本社に行って、聞いてみた。
1948年(昭和23年)から現在までの電車代の移り変わりを調べたのは、国鉄→JRでは「30q」圏についてである。「30q」圏とは、「新宿―日野」「東京―国分寺」(中央線)「新宿―船橋」(総武線)「東京―大宮」(京浜東北線)間などに相当する。また小田急線では、同じく「30q」圏の「新宿―町田」の料金を調べた。首都圏以外の住人の方は、申し訳ないですが、以下「30q」圏ということで、お近くの地域の路線にアナロジーしてお読みください。
さて、戦争が敗戦に終わり、電車が都市郊外の農家に「買い出し」に行く人や「闇屋」で一杯だった48年(昭和23年)、「国鉄」東京―大宮間の運賃は30円だった。小田急線で、新宿―町田間は35円。しかし翌49年(昭和24年)、すぐに国鉄は45円に値上げ。50年(昭和25年)には小田急線も45円に値上げして横に並ぶと、51年にはどちらも60円に、53年にはどちらも70円に値上げして、「30q」圏は70円という値段が60年前後まで続く。
敗戦直後に比べれば、世の中はもうすっかり落ち着いていた。一応アメリカ占領軍はいなくなって日本は独立(51年)し、南極に観測隊を送ったり、造船世界一になったり(56年)して、敗戦で傷ついたプライドも少しは回復していた頃のことである。60年(昭和35年)、日米安保条約に反対する国民運動が盛り上がった年だが、デモに参加するため大宮から東京まで国鉄に乗ると、70円だった。小田急線で町田から新宿まで出ると、80円だった。この値段はすぐに両線とも90円に値上げされ、それが65年(昭和40年)まで続くが、66年になると、電車賃情勢はかなり変わってくる。
66年(昭和41年)、国鉄の大宮―東京間が120円になり、小田急線の新宿―町田間が110円と、大幅に値上げされたのだ。しかも、国鉄は69年(昭和44年)にまた値上げして140円にし、74年にはさらに170円にまで値上げする。同じ74年(昭和49年)、小田急線も値上げして新宿―町田間を150円にするが、このあたりから、はっきりと、国鉄のほうが私鉄に比べて高い時代に突入した。
76年(昭和51年)、国鉄の大宮―東京間は何と、一気に100円も値上げして270円になった。小田急線の新宿―町田間はその前年に値上げされていたが、180円だった。国鉄に比べれば、穏やかなものである。国鉄は以後も、78年(昭和53年)に310円、79年に360円、80年に380円、81年410円、82年440円と毎年値上げを繰り返した。そして民営化しJRになるに際して510円にストーンと上げ、以後は消費税導入とその3%から5%への税率アップに際して調整値上げをし、530円、540円としただけで現在に至る。
それに対して私鉄の小田急線は、79年(昭和54年)190円に、81年210円に、83年230円にと、ほぼ2〜3年に1度20円程度の値上げを繰り返すだけで、現在に至る。その結果、81年(昭和56年)から91年(平成2年)までは、同じ「30q」圏で見ると、小田急線はJRの2分の1の料金だった。私鉄は90年代にも定期的に値上げされたので、今は540円(JR大宮―東京間)、360円(小田急線新宿―町田間)と半額にまではなっていないが、それにしても低料金だ。
国鉄→JRの狂ったような値上げは、ちょうど国会などで国鉄の累積赤字が問題になり、民営化が議論されている時期と符合する。「大赤字」だからという理由で、史上例を見ない大幅な料金値上げが実施されたのだ。国鉄の歴代経営陣の無能と、国鉄を政治の道具にしてきた政治家たちこそが、責めを負うべき事態と言えよう。組合? 一部指導部に問題があったとはいえ、国鉄清算事業団への配転そして解雇など、あれだけ露骨な“いじめ”に遭ういわれは、組合員にはない。
こうして電車賃の値上げの歴史を振り返ってみて、わかった。筆者の「出かけて帰ると電車賃は500円から600円ぐらい」という“常識”は、70年代の、それも前半に作られたものだったのである。70年代の末には、早くもそんな常識ではどこにも通用しなくなっていた。そう言えば吉祥寺で飲んでいて、まだ電車がある時間だったのに高田馬場まで歩いて帰ったのは、70年代末だった。吉祥寺―高田馬場間は、路線距離にするとわずか12キロ。すると、運賃は高くなっていたとはいえ160円前後だったはずだ。飲んでいて、100円玉2個残す知恵もなかったんだな、30歳目前の俺。バカである。
リズミカルな音を立てながら、すばやく切符を切っていく駅員さんに憧れた子ども時代。一度はやってみたいと思っていたのに今やほとんどが自動改札。寂しい。
【資料提供】
小田急電鉄〓、JR東日本〓
飛行機運賃
「飛行機で帰省する」と聞いて驚愕した学生時代。90年代以降は新航空会社参入でうれしい値下げ合戦
当時の値段を今のレートで換算すると
この日本で、飛行機が一般人と関係があるものになったのはいつ頃なのだろうか?
陸運統計要覧及び鉄道統計年報によれば、昔、1950年(昭和25年)、遠くに(ただし国内で)移動する人の80%以上は鉄道を、15%は自動車を、1%は船を使ったという。しかし日本の戦後は驚くべきモータリゼーションの時代だった。今、人が移動するとき、70%以上は自動車を使い、鉄道を使う人は30%を割り込み、船は0・2%になってしまっている(各割合は輸送機関別輸送人員数を総輸送人員数で割ったもの)。
飛行機? 国内移動で飛行機を使う人は、21世紀の今現在ですら、全体の0・1%に過ぎない。割合としては船を使う人よりも少ないのである。
うーむ、こんなに少ないとは思わなかった。それでも飛行機は、少しずつ我々一般人の視界にも入ってきつつあった。いくつか証拠を挙げよう。
最も強力な証拠は、この筆者ですら、80年代の初めには(仕事でだが)国内線を利用するようになっていたことだと思う。出版社は、月刊誌で12ページの取材記事をまとめるために、ライターとカメラマン各1人に北海道千歳空港までの往復チケットを準備してくれた。確か片道3万円近くした。現在、北は青森以北、南は四国、九州、西は山陰の取材、及び新潟、福井を除く北陸地域の取材は、たいてい飛行機を使う許可が出る。たぶんビジネスの人もほぼ同様の内規になっているのではないか。
それから「スカイメイト」。70年代初頭に筆者は、九州や北海道出身の友人が「飛行機で帰省する」と聞いて驚愕するとともに、羨ましく思ったことがある。「『汽車』で帰るより安いんだ」という説明だった。スカイメイトは全日空が66年(昭和41年)、羽田沖の墜落事故による客数激減をカバーするために始めた、学生向け半額割引制度。現在は12〜22歳を対象に全社が実施する。飛行機の一般化にそれなりの役割を果たしていたし、今でも果たしているのである。
そして航空旅客の「絶対数」の増加がある。航空旅客数は、統計的には50年(昭和25年)に36万1000人という実績を出し始めてから、増加率で言えば自動車の旅客数を上回る勢いで伸び続け、総旅客数に対する割合で言うとたった0・1%でも、絶対数では9000万人を超えて1億人に迫る。もう少しで「国民1人が1年に1回は飛行機に乗る」ところだった。
以上の根拠から、飛行機は大衆化しているとはまだ言えないが、大衆の視界には充分入ってきたし、特に九州・沖縄と北海道関係者、及び大企業のビジネスマンにはかなり一般化していると言えるのではないか。というところで、値段の話に入りたい。
サンプルとして、羽田―福岡間の航空運賃の戦後50年間の推移を見てみよう。羽田―福岡間は、戦後一貫して旅客数の多さを誇り、航空各社のドル箱路線であり続けるとともに、山陽新幹線が開通してからは新幹線運賃と比較されて何かと注目されてきた路線だ。
51年(昭和26年)に戦後初めてその空路が開かれたときの運賃(普通・片道)は、1万1520円だった。銀行員大卒初任給が3000円の時代である。金持ちでも生半可な金持ちだと躊躇する金額だった。しかし、その後の値上げは穏やかなものだった。それは、日本の航空事業が運輸省(現・国土交通省)のコントロール下に置かれ、70年(昭和45年)までは日本航空と全日空の2社体制、71年からは東亜国内航空(現・日本エアシステム)を含めた3社体制にとどめ置く代償として、運賃上昇を厳しく抑制されたためである。
運賃は55年(昭和30年)から1万2600円になると6年間据え置かれ、61年に1万3600円にされたが、客数減少のためすぐに翌62年1万3000円に値下げされて、64年まで据え置かれる。以後は65年(昭和40年)1万3200円、67年1万3800円と小刻みに値上げされるとそのまま5年間据え置かれ、72年に1万4800円になった。72年(昭和47年)の値段は当時の銀行員大卒初任給5万2000円を根拠にすると、現在の5万円台半ばに相当する。安くはないが小金持ちなら、また新婚旅行者などだったら使うかもしれない金額だったと言える。
その後、石油ショックによる燃料費高騰で、航空運賃は70年代半ばに大幅に値上がりする。羽田―福岡間も74年(昭和49年)1万9500円、75年2万100円となり、第2次石油ショックの翌年80年には2万4800円に、82年には2万7100円となった。
が、この頃から政府・公社事業の民営化やその事業への民間参入を促す規制緩和政策が始まり、日本航空も87年(昭和62年)には完全民営化。それに伴って航空運賃も値下げに向かい、89年(平成元年)に2万5350円となるが、96年にはまた値上げされて2万6600円、98年には2万7400円となっていた(以上運賃は全て通常期の普通運賃)。
そこへ、“半額運賃”の航空会社スカイマークエアラインズの参入があった。同社は98年(平成10年)9月、羽田―福岡間1万3700円で1日4往復の営業を開始。その後、既存3社がスカイマークが飛ぶ時間前後の便だけほぼ同じ値段に割り引くという“意地悪”のため、「空席率」が3割を超えてコスト高となり、2万3000円にまで値上げして現在に至る。正直に言ってスカイマークの座席は狭く、筆者のようなデブには窮屈極まりない。が、客に若くてきれいなスチュワーデスを見せるのがサービスなのか、3社体制で決めた飛行機代が妥当なのかと問いかけたその志は、断固として支持したい。
その後98年(平成10年)12月には、羽田―千歳間でもエア・ドゥという低料金航空会社が誕生した。しかし最近はスカイマークもエア・ドゥも苦戦が伝えられる。このままでは、また高い飛行機代の時代になるかも。読者の皆さん、「マイレージ」がどうのとせこいことは言わず、羽田―福岡はスカイマークを、羽田―千歳はエア・ドゥを利用しましょう!
1962年から74年にかけて製造された国産旅客機YS−11。写真はエアーニッポンの機体。主に、東京の離島や北海道内で運航中。30年ほどたった今でも、りっぱな現役である。
(写真提供/山本公平)
【資料提供】 日本航空〓、スカイマークエアラインズ〓
タクシー運賃
80年代終電後のお開きなら当然タクシー帰宅。実は今より高かったのに。景気よかったなあ
当時の値段を今のレートで換算すると
ライターの仕事を始めて、よくタクシーに乗るようになった。取材時間には決して遅れられないということもあるが、編集部との打ち合わせが伸びて(あるいはそのまま飲み会になって)、深夜1時過ぎにお開きなどということもよくあるからである。
しかし筆者の家は都心から遠い。タクシーで帰ったりしたら1万円もかかる。そのため最近では、資料とノートパソコンを常時携帯し、終電を乗り過ごしたらすかさずインターネットのできるマンガ喫茶に入って、始発電車まで原稿を書くことにしている。ただこの方法は、歳を取るにつれてだんだんと辛くなってくるのが難(泣)。
タクシー代って、昔からこんなに高かったっけ?
調べてみたら、いわゆるタクシーが誕生した1912年(大正元年)には1・6キロ単位で60銭だったし、27年(昭和2年)には東京市内ならどこまででも1円(「円タク」時代)だった。もう少し今の時代に近い、例えば52年(昭和27年)のデータだと、初乗り2キロ80円、2キロを超えると500メートルごとに20円だった(東京の値段・以下同じ)。日本が、2年前に勃発した朝鮮戦争の「特需景気」で復興のきっかけをつかみ、サンフランシスコ講和条約が発効して連合軍の日本占領が一応終わった年のことである。
その年、牛肉(精肉・中)は100グラム42円、鰻重300円、もりそば17円、コーヒー30円、国鉄初乗り5円、銀行員大卒初任給が5600円だった。
うーむ、タクシー初乗り料金でもりそばが4枚半食べられるということからすると80円は高いが、それでコーヒーが2杯飲め、牛肉のまあちょっといいところが200グラム買え、タクシー初乗り料金3回分ちょっとで鰻重が食えるということからすると、だいたいは今と同じ水準だったことになる。筆者がその時代に都内から約23キロ離れた家までタクシーで帰ると、だいたい900円。素晴らしく安い。が、銀行員大卒初任給が52年に5600円、今が17万4000円であることを根拠に試算すると、当時の900円は今の2万8000円にも相当することになる。めちゃくちゃ高い。
いろいろ比較勘案すると、52年(昭和27年)のタクシー料金は今より「少し」か「かなり」かはっきりはしないが、いずれにしても高かったと言えそうだ。
ただ、その後東京のタクシー料金は64年(昭和39年)まで12年間も同じままだった。そして64年に初乗り100円、2キロ以降450メートルごとに20円に値上げされると、今度は70年まで6年間そのまま。その20年間近く、特に60年代に入ってからは高度成長経済で所得が急に高くなっていたので、タクシー代は相対的に割安感が増していたと思われる。
何しろ70年(昭和45年)に100円ではもりそば1枚が精一杯で、牛肉などたった70グラムしか買えず、コーヒー1杯飲むにも足りなかったのである。都内から筆者の家までは1040円。1040円を、銀行員大卒初任給の額を基に現在の金額に直すと4600円。これは確かに安い。タクシー代は60年代を通して安かったと言ってよいのではないか。
しかし問題は70年(昭和45年)以降だった。タクシー代は、70年に初乗り130円に値上げされて以降、値上げに拍車がかかる。2年後の72年(昭和47年)には戦後最大の上げ幅で初乗りが170円になり、74年には石油ショックのせいもあって220円、280円と1年の内に2度にわたって値上げされ、77年、79年にも330円、380円へと値上げされた。各々の値上げ時には、2キロ以降料金も445メートル20円、430メートル30円、410メートル50円、405メートル60円、415メートル70円と値上げされた。長距離を乗った場合の料金も4倍近く高くなったのである。
80年代と90年代もすごい。初乗り料金は、81年(昭和56年)430円、84年470円、90年520円、92年(平成4年)600円、95年660円に値上げ。89年(平成元年)と97年には消費税導入と税率アップに伴う値上げもあった。2キロ以降料金も、405メートル80円(81年)、347メートル90円(92年)など初乗りと同時に値上げされ続け、97年には274メートル80円になった。その結果、ちょっと走ると1000円超、都内から郊外に長走りすると1万円も2万円もかかる、今のタクシー料金になったわけである。
筆者がよくタクシーに乗るようになったのは、不幸にも80年代半ばから。そこで東京のタクシー会社の業界団体「社団法人東京都乗用旅客自動車協会」に言ってみた。「東京のタクシー運賃はニューヨークやロンドンの2倍以上高い。儲け過ぎじゃないのか」
すると業界からは猛烈な反論が返ってきた。曰く、「タクシー経営では運賃認可の条件として『適正利潤は2・5%以下』と定められてきた。なのにどうして『儲け過ぎ』などということが出てくるんですか」「運賃や増車の完全自由化? タカハシさん、今のローリスク・ローリターン経営をハイリスク・ローリターン経営にせよと言うんですか」
70年代以降、値上げのためタクシー利用人口はバブルの一時期を除いて伸び悩み、90年代には減少に転じた。半面タクシーの台数は増加しており、実車率(1台のタクシーが走っている総時間の内の客を乗せている時間の割合)は50%を切った。真に問題なのは、タクシー運転手の平均年齢が50歳前後と高いのに、平均年収が500万円台半ばに過ぎないことだ。それも、20時間連続労働(プラス残業2時間まで・休憩5時間)を、1カ月に11回もこなすという、過酷な仕事をしてである。これを「世間並み」にするには、今の実車率や歩合率などの条件では、さらにタクシー代を値上げする必要があったのである。
うーむ。「運ちゃん」は必ずしも、この間の値上げの恩恵を受けていないのかなあ。タクシー代については、会社の取り分の妥当性など、改めて根本から考え直す必要がありそうだ。
1950年の大阪・近鉄上六駅前のタクシー乗り場。この頃のタクシーには、遠くからでも目立つ「○○タクシー」などのネオンがついていない。当時はどうやって乗用車と見分けたのか不思議である。
【資料提供】
〓東京都乗用旅客自動車協会
電話通話料
近隣の「呼び出し」が我が家の自慢だったのに、高度成長期の波に乗ってあっという間に1家に1台
当時の値段を今のレートで換算すると
1960年(昭和35年)頃、筆者の家に電話がついた。と言っても、それは店舗やアパートといった屋内にも設置できる公衆電話「ピンク電話」だったが、何しろ町内でまだ1軒しか電話がなかった時代だ。かなり自慢に思ったことを覚えている。もっとも、けっこう遠い家の人への電話がかかってくると、暗い夜道を「呼び出し」に行かされるのは決まって筆者。すぐに「何でうちに電話なんかあるんだ」と憤る気持ちのほうが強くなってしまったのだが。
電話は戦後長いこと、持っているだけで「ステータス」になる装置だった。
戦前は逓信省、戦後は電気通信省が行っていた電信電話事業が、電信電話公社(電電公社)に移管されたのが52年(昭和27年)8月。電電公社スタート時の「一般加入電話」の普及率は、人口100人あたりたったの2台に過ぎなかった。これは電話機の台数で言うと約180万台に相当するが、そのうち会社用を除いた住宅用は約7%、12万台ぽっちである。当時の日本の総世帯数が2500万ぐらいとすると、電話は200軒の家に1台あるかないかという珍しさだったわけだ。
そんなに数が少なかったのも無理はない。
53年(昭和28年)に「電話を引く」ためには、9万4300円もかかった。内訳は「加入料」300円、「装置料」4000円、「負担料(装置料とともに後の設備料の一部)」3万円、「電信電話債券」6万円。債権は数年後に同じ値段で売り払うこともできたが、実質負担を「設備料」など3万4300円と考えても、銀行の大卒初任給が5600円の時代には途方もない金額だった。ランニングコストは「月額基本料(住宅用・東京)」700円、「通話料金」が市内3分で7円、市外通話はまず100番に電話し交換手に相手につないでもらう方式で、東京―大阪間3分152円かかった。700円あれば鰻重が2杯食え、ウイスキーの『ホワイト(白札720ミリリットル)』1本、焼酎なら1升瓶が2本買え、150円あれば駅弁が3個、牛肉の大和煮の缶詰が2個買え、カレーライスが2皿食えた時代だ。電話は大変大変高いものだったのだ。
しかし60年(昭和35年)に、設備料が3万4000円から1万円に値下げされる(ただし債権は15万円へと一気に2倍半になる)と、家庭の電話は急速な普及期に入っていく。
62年(昭和37年)には普及率が人口100人あたり5台を超え、5年後の67年には人口100人あたり10台に、世帯で見ても10軒に1軒は電話がある家になった。ランニングコストは、基本料や市内料金は53年(昭和28年)以来変わっていなかったが、長距離通話料金は62年に値上げされて東京―大阪間が3分315円と倍以上になっていた。
設備料は68年(昭和43年)に3万円に、71年に5万円に値上げされ、69年には基本料が1000円になった。が、その当時は高度成長経済真っ盛り、所得も年々10%以上伸びていたイケイケの時代だ。少々の値上げで電話普及の勢いが止まることもなく、72年(昭和47年)には普及率が人口100人あたり21台に達し、10軒に4軒ほどは家に電話があるようになる。
70年代前半、世間の人々の半分近くが、イニシャルコスト5万300円、ランニングコスト数千円の電話という贅沢を、自らに許すようになっていたのである。ピンク電話はもう自慢でも何でもなかった。電話のある家の子が誰かを「呼び出し」に行かされることも急速に減っていった。電話はもう日常的な道具になった。
そして70年代後半という、後から振り返ると電電公社に最も勢いがあり、儲けることもできた時代がやってくる。76年(昭和51年)、電電公社は設備料を8万円に、月額基本料を1350円(77年に1800円)に、通話料は市内を3分10円に、市外は東京―大阪間を450円にという、大幅な値上げを行った。しかし日常的な道具と化した電話は普及し続け、普及率は77年(昭和52年)に人口100人あたり30台、82年に人口100人あたり35台(電話のある家はほぼ10軒に7軒)になった。82年(昭和57年)の総電話数は4150万台。この台数全てから、月額基本料と通話料が入ってくるのだ。おいしい商売だったと思う。
しかし日常的な道具になっただけに、利用者からはもう少しお手軽に(安く)使えるようにならないか、という要望が出てくる。民間からはそういうおいしい商売を自分でもやりたいという話が出てくる。電電公社は市外料金を若干値下げしたり(83年・東京―大阪間400円)、「これから『INS』という光ファイバー・ネットワークを作るので公社的組織と多額の資金が必要だ」という必死の予防線を張ったが、世間には通用しなかった。
85年(昭和60年)には電気通信法の改正でNTT(日本電信電話)株式会社へと民営化され、やがて事業も「県内」「県域を超えた長距離」「移動体」などと分割されてしまった。「通信事業開放」をうけ、「第二電電(DDI)」など競合企業も続々誕生してきた。競争の中で、NTTは料金を値下げせざるを得なくなる。電話料金値下げの時代の到来である。
値下げは長距離から始まった。NTT、NTTコミュニケーションズの回線を利用した場合の東京―大阪間3分料金で言うと、88年(昭和63年)360円、89年(平成元年)330円、90年280円、91年240円、92年200円、93年180円、96年140円、97年110円、98年90円、2001年80円。素晴らしい値下げぶりである。もちろんDDIなど後発の電話会社の料金はNTT系と同じか、少し安い設定となっている。
そして2001年(平成13年)、NTT東日本はついに市内料金をも3分8・5円に値下げした。赤字を理由に長く10円を維持してきた市内料金だが、「何だ、やっぱり下げようと思えば下げられるんだ」というのが利用者の率直な感想だ。従来の常識が崩壊し、新しい常識が誕生しつつある電話料金の世界。これからも楽しみな世界である。
1950年代初頭の4号機。ダイヤル式の欠点といえば、0と9の多い番号にかけると、あまりの遅さにイライラすることだろう。当時、黒電話の定位置といえば玄関先だった。
【資料提供】
NTT〓
携帯電話代
会議中に「ちょっと失礼。あ、もしもし……」 欲しかったけど、当時は基本料だけでも2万円!
当時の値段を今のレートで換算すると
携帯電話は便利だ。最近ではiモードやEZweb、それにモバイル・コンピューティングといったネットアクセスの注目度が高いが、ただの電話としてみても、どうしてもっと早く買わなかったのか後悔するぐらい、使い勝手がいいものである。
「タカハシさん、どこ行ってたんですか? お願いしたい仕事あったのに。連絡つかないから、別の人にお願いしちゃいましたよ」「!」
例えばこういうことは、もうない。
筆者が1996年(平成8年)まで携帯電話を買わなかったのは、もちろん高かったからだ。実は80年代の末、携帯電話に関連する料金を調べたことがある。ある日、某大手広告代理店の会議に出たら、当時まだ業界でも珍しかった携帯電話を持っているやつがいて、会議の途中に「ちょっと失礼」とか言いつつ、「あ、もしもし……」。ムラムラと欲しくなった。「コピーライターってやっぱ携帯だよな」とか思ったのだ。ただのライターだったのに。
調べると、携帯電話は最初にまず「保証金」と「設備料」で合計20万円くらい必要で、保証金10万円は3年後には戻ってくるものの、月額の電話代は「基本料」だけで2万円以上、「通話料」は「ちょっと使うと月額2〜3万円はいく」ということがわかった。仮に最初の20万円は払えても、その後毎月毎月以前より余分にかかる5万円近い額は、とても払い続けられない。涙をのんで諦めた。
ドコモ(NTT移動通信)資料により、その年88年(昭和63年)の携帯電話料金を正確に復元すると、「保証金」10万円、「設備料」7万2000円、「加入料」800円、「月額基本料」2万3000円。「10円で通話できる秒数」は160q以内6・5秒(3分換算料金277円)で、他社の携帯電話に電話するには別途「月額ローミング料」8800円などが必要というものだった。
理不尽なほど高い。
高いが、当時はそろそろ「バブル経済」が始まっていた頃。だから、売れっ子のコピーライターやデザイナー、ロケ・取材用に持たされていたテレビ局関係者など「ギョーカイ人」以外にも、例えば不動産や建設・工務店関係のオヤジさんたちが持ち歩いていたのである。筆者の親戚で通称“三鷹のおじさん”、内装工事関係・当時53歳もその1人だったが、筆者がのけぞって驚いたのは、その三鷹のおじさんから、「今は安くなった。前は契約するとき30万円近くかかってさ」と聞いたときだ。
電電公社(現・NTT)が東京地区で「自動車電話」のサービスを始めたのが、79年(昭和54年)。イラン革命が勃発し、その影響で第2次石油ショックが起きて、ガソリンスタンドが日曜休業になったりした年だ。そのときの料金は「設備料」8万円、「加入料」800円、「基本料」3万円、「通話料」が6・5秒10円というもの。しかしレンタルのみだった車載電話機を持ち逃げするやつが多かったのか、82年(昭和57年)、20万円もの「保証金」制度が導入された。3年後に返されるという話だったが、このとき、自動車電話のイニシャルコストはまさに「30万円近く」にもなったのである。
自動車電話は開業後6年を経た85年(昭和60年)にようやく全国サービス化し、自由に持ち歩ける「ショルダーホン」サービスも開始、月額基本料は2万6000円に値下げされたが、加入契約者数は6万5000件に過ぎなかった。当たり前である。
ようやく20万人に到達したのが88年(昭和63年)。その後バブル経済がやってきたり、「日本移動通信(IDO)」(88年)や第二電電(DDI)系の「セルラー電話」グループ(89年)などの新規参入があって、料金も少しは安くなった。91年(平成3年)にNTTから分社したドコモグループの場合、90年代初めの料金は保証金10万円、設備料他4万5800円、月額基本料金1万7000円、通話秒数は10円で7秒だった。しかし、携帯利用者は92年で171万人、93年(平成4年)でも213万人。まだまだごく一部の人に限られていた。
様子が変わってきたのは、95年(平成7年)中頃ぐらいからである。
まず、93年(平成5年)に開始されていた“次世代”デジタル携帯電話料金が、94年に2度にわたって値下げされ、ドコモの場合加入料2万1000円、月額基本料7800円になった。その電話機は当初10万円前後もしていたが、95年(平成7年)に入ると2〜5万円ほどになり、やがて量販店などではその年から始まったPHSの電話機が「3000円」などで売られ、さらに「10円」、「1円」で売られるようになった。すると携帯電話も、カラオケ屋で2時間以上いると、あるいは2000円以上ガソリンを入れると「無料でプレゼント」されるようになる。これは携帯やPHSの電話会社が、小売店に対し、「自社との契約をつけて1台売ったら3万円とか4万円を渡す」という「インセンティブ」をつけたために実現したものだ。おかげで筆者も、サクラヤでDDI系のPHSを2700円でゲット。喜んでいたら、2週間後には同じものが10円に(泣)。思い出してもすごい時代だった。
保証金もすでになく、筆者らはただ「契約事務手数料」3000円ほどを払えば使い始められたと記憶している。その頃の通話料金は、ドコモの携帯で「プランA」というコースの場合、月額基本料6800円、10円で14秒通話とまだ高かったが、95年(平成7年)以降はPHSを含めた携帯電話利用者が毎年1000万人ずつ増え、99年末には5700万人となって、ついに固定電話加入者数を抜く。携帯電話機“激安”化の成果である。
2001年現在の料金(ドコモのプランA)は事務手数料3000円、月額基本料4500円、通話秒数が10円で26秒。今度は通話秒数で激安競争が来ないものか。
携帯電話第2弾として1989年に登場した803型。メモリダイヤル20件、リダイヤル1件の機能付き。当初は87年に出た802型に比べてかなり小型化されたと思ったけど……。
(資料提供/木暮祐一)
【資料提供】
〓NTTドコモ
家庭教師代
70年代の一番「おいしかった」小遣い稼ぎでも、今は授業料の値上げで「稼いで学ぶ」は無理な時代
当時の値段を今のレートで換算すると
大学生は、ずいぶん昔から「家庭教師」で小遣い稼ぎをしてきた。
「内外学生センター」という財団法人がある。旧名を「学徒援護会」と言い、敗戦後の苦しい時代から、大学生(現在は世界各地から日本に来ている留学生を含む)にアルバイト・住宅・就職の紹介を行ってきた組織だ。その内外学生センターに残されていた資料によると、1955年(昭和30年)の家庭教師代は、「週2回・1回2時間」で月に1960円だった。55年当時、銀行員大卒初任給は5600円だから、1960円は現在の6万円ほどに相当する。とんでもなく高い。大学進学率が10%にも達してなく、「大学生」がまだ超エリートだった時代の賜だろう。
家庭教師代はその後も、物価上昇と歩調を合わせるようにして値上がりしてきた。安保闘争があった60年(昭和35年)には、「週2回・1回2時間」で(以下条件同じ)2730円に、早稲田大学で学費値上げ闘争が起きた65年には、4000円になった。ただし、各年の銀行員大卒初任給を基にして現在の金額に直すと、60年の2730円は現在の3万450円、65年の4000円は現在の2万7840円でしかない。55年(昭和30年)の6万円に比べると、だいぶ安くなってきていることがわかる。こうした家庭教師代の一般賃金に対する相対的な値下がりは、60年代を通して続いた。
理由は非常に単純で、大学生の「希少性」が失われたからである。62年(昭和37年)の大学進学率は13%だった。その後60年代と70年代の前半を通して進学率は伸び続け、75年(昭和50年)には3倍の39%に達した。60年代後半は戦後のベビーブーマーが大学生になる時期だったから、進学率の伸びは実数の爆発的な増加となって帰結した。「駅前大学」「マスプロ大学」「女子大生亡国論」といった流行語が、当時の大学生に対する評価を如実に示している。
しかし、家庭教師代の相対的な低落傾向は70年(昭和45年)以降、逆転する。
70年(昭和45年)の家庭教師代は7000円だったが、以後は毎年2000円前後ずつ、前年比30%近い割合で値上がりしていき、75年には1万7000円、76年にはついに2万円に達した。やはり各年の銀行員大卒初任給を根拠に現在の金額に直すと、それぞれ3万1230円(70年)、3万4800円(75年)、4万941円(76年)となる。このような賃金の伸びを家庭教師代の伸びのほうが上回る時代は、80年代に入っても続く。80年(昭和55年)の家庭教師代は2万5700円で、現在の4万3416円に相当した。家庭教師は、大学生にとって以前からまあ“おいしい”バイトだったのだが、70年以降は“おいしすぎる”バイトになった。
それが、ある特殊な人々に、皮肉な事態を招く。
60年代後半から70年代初めにかけて、「全共闘」という運動があったのをご存知だろうか。それ以前の学生運動の中で力を持っていた民青(日本共産党系の学生組織)や、仲間内でしか通用しない教理問答に明け暮れる新左翼の諸党派(“セクト”と呼ばれた)に心底ウンザリしていた“一般学生”たちが、独自に「全学共闘会議」という組織を作って進めた運動で、闘争テーマは大学当局の不正糾弾、旧態依然の講座制度打破などいろいろだったが、大学や教育システムへの「異議申し立て」を行ったことでは共通していた。それはやがて「教育の帝国主義的再編粉砕」などのハズシたスローガンに行き着くが、底にあったのは、「学校ってちょっとおかしいんじゃねえの」「そういうおかしな学校を成立させている世の中ってアホだぜ」という、ごく素朴な意識と言っていい。
その全共闘運動は、しかし69年(昭和44年)の東大「安田砦」の陥落、71年の全国全共闘の解体などを契機にして急速に沈静化し、収束していく。そのため多くの活動家は大学に戻るが、大学から除籍処分された者、授業に戻ることを潔しとしなかった者、何となく授業に出る気分じゃなかった者は、大学を離れた。で、大学を離れた者のかなり多くが、家庭教師やその延長としての塾の経営者、講師、予備校講師の道を選んだのである。逮捕歴があったり大学を中退した“過激派”に、職業選択の余地はあまりない。プラプラしつつどうやって食べていくか考えていたら、“おいしすぎる”家庭教師の道があったのだ。
繰り返すが、これは皮肉な事態だった。何しろ、官庁や企業に「人材」を供給するだけの大学に意味はない、上からの命令に忠実な奴隷のような労働者を作り出すのが今の教育で、その頂点にあるのが大学だと考えている者が、大学に行きたいという子(というより行かせたいという親)の手助けをしようというわけなのだから。でも金になった。土日にも家庭教師を入れたり、昼の時間の一部を塾で教えるのにあてれば、銀行に就職して1年目のやつと同じくらいの収入にはすぐなった。将来? 社会保障? 関係ないね。好きな本が読めて、後は時々パチンコするお金でも残れば、俺はそれでいいの。
家庭教師代はその後も賃金に対する相対的な値上がりを続けて、80年代前半銀行員大卒初任給の25%前後の線に落ち着き、93年(平成5年)には実額として4万4500円というピークに達した。ただし、その後は深刻化する不況と少子化の影響で下げに転じ、2000年(平成12年)には3万3000円にまで下落している。80年代の後半からは家庭教師派遣業大手の参入が相次ぎ、予備校、進学塾も増加して、かつてのようなおいしすぎる状況ではなくなった。
が、これまでの30年間で「親の意識」はより明確になった。子どもを将来収入の多い職業に就けるために、いい大学に入れる。そのためにいい高校、いい中学、いい小学校、いい幼稚園に入れる。生活が苦しくても塾代や家庭教師代、高い私学の学費などの教育費は削らない……。これはまさしく、全共闘運動で語られた「教育の帝国主義的な再編」を、各家族の側から見たときの完成された姿に他ならない。因果はめぐる、のである。
東京大学(本郷)の求人情報欄。家庭教師の募集のほか、都道府県町村の職員、中・高校の教師、企業の営業など、さまざまな職種の募集がある。中には「Webクリエーター」といういまどきの職業も。
【資料提供】
〓内外学生センター、東京大学学生部厚生課学生生活係
運転免許代
実技教習で教習官とけんかしてドブに捨てた数万円。今だったら30万円捨てることになるんだなあ……
当時の値段を今のレートで換算すると
自動車を運転するとき、国家から何らかのお許しをもらわなければならぬという制度は、日本では1907年(明治40年)に警視庁令として出された「自動車取締規則」がその始まりらしい。ただし、その取締規則は車単位のもので、所有者、型式などを届け出なければならぬというもの。その後19年(大正8年)、全国統一の規則を定めた内務省発布の「自動車取締令」で「運転手免許」が制度化されて、日本人は車を運転するとき、国家から免許をもらわなくてはならなくなった。
交通事故もある。泥酔して運転したり、めちゃくちゃな運転をするやつもいる。だから、運転免許制度自体はなくてはならないものだと思う。しかし、今運転免許を取るとしたら、「指定自動車教習所」や運転免許の元締め=公安委員会・警察に、締めて30万円は支払う必要があるというのは、いくら何でも高すぎないだろうか。
いったい誰が高くしてきたのか。
運転免許代を対象とする「小売物価統計」調査は、67年(昭和42年)以降しか実施されていない。そのため残念ながらそれ以前の運転免許代は定かでないが、61年(昭和36年)7月4日の毎日新聞に、「自動車ブームに免許屋」なる記事が掲載されている。この免許屋という商売は、折からのマイカーブームで運転免許取得希望者が激増したことに目をつけ、偽の運転免許証を売りつけたり、運転免許試験の「替え玉受験」をするというもの。前年60年(昭和35年)に「道路交通法」が全面的に改正され、指定自動車教習所制度など、運転免許制度は現在とほぼ同様の制度になっていた。それですぐ「免許屋」登場というのは、その改正でいきなり運転免許代が高くなったことを示唆している。
しかし、新道路交通法の新しい運転免許制度の中で、入所料とか教習単価を決めるのは教習所自身である。ちなみに小売物価統計によれば、67年(昭和42年)の指定自動車教習所の教習代は、学科が1回100円、実技が1回1190円だった(東京都の平均・以下同じ)。69年(昭和44年)まで教習時間数が調べられていないので免許代全額は不明だが、70年の学科25時間、実技5時間50分という最低教習時間を参考にすれば、1万数千円から2万円というところだったと思われる。それが以後学科代も実技代も着々と値上がりし、70年(昭和45年)には「入所料」も新設されて、最低教習料金は全額で3万9600円にまで跳ね上がり、71年には入所料、学科、実技それぞれの単価値上げで4万4400円になった。
72年(昭和47年)からは学科が27時間、実技が30時間と大幅に教習時間が増えたこともあって、最低教習料金は一気に5万6600円になった。73年(昭和48年)には路上試験の義務づけなどがあって6万1800円になった。この年、筆者は免許取得のため故郷・仙台市郊外の教習所に通ったが、10回目ぐらいの実技教習で教習官とけんかになり、貴重な貴重な数万円をドブに捨てた。まったく、あの年は本当に何をしてもうまくいかない年だった。
それはさておき、74年(昭和49年)以後は94年(平成6年)まで、さほど大きな制度変更はなかったのに、最低教習料金は毎年5000円から1万数千円の幅で値上がりしていく。75年(昭和50年)9万4300円、80年14万1685円、85年17万4650円、90年(平成2年)20万6490円、94年27万5810円という具合である。そして95年(平成7年)、実技が31時間に、学科が37時間に増やされると、最低教習料金は29万5230円になった。その後は毎年数千円ずつ小幅に値上げされ、98年(平成10年)には31万1105円になった。
不思議な話だった。確かに人件費は毎年上がっていただろう。しかし、この98年(平成10年)段階で70年(昭和45年)の数字と比較すると、銀行員や公務員の大卒初任給は4・5倍から5倍になっているに過ぎない。運転免許代(最低教習料金)は7・8倍だ。また70年を100とする98年の物価指数は317・2で、様々な商品やサービスの平均価格はその28年間で約3倍になっているに過ぎなかった。「自動車教習料」の値上がりぶりは突出していた。
ある自動車教習所では値上げの理由を以下のように述べている。
「基本的にはカリキュラム内容の充実に伴って値上げしてきたということができると思います。例えば94年(平成6年)には、学科・実技の時限数の増加分だけでなく単価も上げましたが、それは法律改正で『高速道路教習』や運転シミュレーターを使った『危険予測教習』、『応急救護措置教習』が義務づけられるなど教習内容でも新たに付け加えられたものがあり、対応する設備を揃え、人的要件などを満たすためにお金がかかったためでした」
93〜94年(平成5〜6年)に教習所では1台数百万円のシミュレーターを買い、応急救護措置教習用に新たに独立した部屋を設けるため、1校で3000万円規模の資金を使ったという。で、そもそも法律で敷地の広さとか教習官の数、車の台数、教習時間1コマの時間まで事細かに制約されている教習所には、あまり経営のフリーハンドがない。必要資金を単価値上げで補っていくしかないのだという言い分だった。
となると、やはりこの間の運転免許代値上げの元凶は公安委員会〜警察庁ということになるのだろうか。その行政側は、高すぎるという一般人の声、規制緩和をという経済界の声などに応える形で、90年代早々にオートマ限定免許の導入(91年11月)、98年(平成10年)12月には学科を6時限減したほか、優良運転手制度による更新年限の5年への延長など、総体として運転免許費用を下げる施策を実施している。それらの施策の効果か、小売物価統計の最低教習料金は99年(平成11年)、調査開始以来初めて前年を下回り29万5800円あまりになった。それでも高すぎる、交通事故をなくすには運転免許取得費用を上げるのではない別のやり方があるだろうにと思うのは、筆者だけではあるまい。
1950年代の教習所の教科書。実は55年頃まで各教習所がそれぞれ独自に教科書を作っていた。しかしその後は、教習所協会などが設立され、そこで教科書が作られるようになり、現在では出版社が発行している教科書を使用している。
(写真・資料提供/小金井市・尾久自動車学校)
昭和30年頃の教習所。普通車の教習車はフォード、シボレー、スチュードベーカーなど。
【出典】
『小売物価統計』(総務省統計局)
初任給
揶揄の対象「団魂の世代」命名の裏側には、高初任給の我らに対するひがみがあった?
初任給の目安として、かつては「銀行員・大卒初任給」がよく使われた。しかし銀行業界は、“給料もらいすぎ”批判を避けるためか、何かと話題になりやすい初任給は安く設定し、2年目からバカ高くしているという噂もある。そこでここでは、日経連(日本経営者団体連盟――“労務担当”の経済団体とも言われる)が毎年調査し公表している、「従業員500人以上の企業の初任給平均」で見ていくことにする。
1952年(昭和27年)から2000年(平成12年)までの初任給を見て、まず驚くのは、大卒初任給(基本的に文系事務職)が1万円から20万円とちょうど20倍になっていることだ。その間物価のほうは約7倍にしかなってない。これは、(ものすごく荒っぽい言い方になるが)賃金が実質3倍になったことに等しい。ちなみにその間、中卒初任給は5500円から14万円(現業系)と約25倍に、高卒初任給も約6800円から16万円(事務系)と23倍に伸びている。とりあえずありがたいことではないか。
戦後の初任給の上昇は「中卒者」から始まった。50年代後半のことである。その頃中学を卒業する世代は、生まれたのが太平洋戦争末期から敗戦直後。戦争のために出生率が落ち込んだ時期で、その数は前後の世代に比べてかなり少なかった。一方、ちょうど始まりかけていた「高度成長経済」は大量の若年労働者を必要としていたから、中卒の少年少女の就職は空前の売り手市場となった。彼らは“金の卵”と呼ばれた。
中卒初任給の上昇は、すぐに高卒や大卒の初任給を押し上げた。大卒初任給は58年(昭和33年)に1万3467円となって以降、右肩上がりに上昇を開始する。上がり方に弾みがついたのは61年(昭和36年)頃から。前年に総理大臣になった池田勇人首相が「所得倍増―月給2倍計画」を開始し、その経済政策が成功して日本経済が持続的な拡大期に入ったためだった。好況期の求人増の中、高卒や大卒の就職者が底を打った64年(昭和39年)には、大卒初任給は2万1526円と初めて2万円を超えた。そして68年(昭和43年)に3万290円と初めて3万円を超えると、69年から75年までは毎年前年比10%以上ずつ伸びていく。
実額で見ていこう。70年(昭和45年)4万961円、72年5万4001円、73年6万3499円、74年8万2629円、75年9万1272円。68年(昭和43年)からたった8年の間に、3倍である!
戦後のベビーブーム世代が大学を卒業し、就職したのはまさしくその時期だった。彼らは後に“団塊の世代”と命名され、上の世代からも下の世代からも揶揄の対象となる。理由の一部はその世代が担った「全共闘運動」などにもあるが、「お前ら苦労もしないで最初から高い給料もらいやがって」というひがみもあったものと思われる。
78年(昭和53年)以降、初任給の上昇率は3%前後と「低成長」になった。高度成長経済が73年(昭和48年)の石油ショックで終止符を打たれてからの初任給上昇は、石油ショックを機に物価が暴騰したことによるものだった。物価と賃金の調整局面はようやく終わったのである。以後92年(平成4年)まで初任給は毎年ほぼ3〜5%ずつ上昇。77年(昭和52年)に初めて10万円を超えていた初任給は、79年には11万2525円、81年12万4822円、82年13万1498円、85年14万4541円、87年15万2630円、89年(平成元年)16万5102円と2〜3年で1万円ずつ上がり、バブル末期の90年からその崩壊直後の92年までは毎年1万円ずつ上がって、92年の大卒初任給は19万1266円となっていた。
振り返ってみると、「就職」や「初任給」という意味で団塊の世代に次いで幸せだったのは、この70年代後半から90年代初めの15年間ほどの大卒者たちだったのではないか。企業は幹部候補生を求めて大卒者の“青田刈り”に走り、そのため日経連が音頭を取り、毎年ある時期までは採用活動を行わないという「就職協定」を結ばなければならないほど、採用競争が激化した時代だった。バブルに浮かれていた時期には、「内々定」を出した学生を「協定解禁日」に「内定拘束」し、しばらく他社への就職活動をさせないために海外に連れ出す都銀もあった。就職活動のために訪れた企業から支給される「交通費」だけで、アルバイト代をはるかに超える「収入」になったと豪語する学生もいた。
人事採用担当者は、90年代中頃以降、少子化のために若年労働者が決定的に不足する時代が来ると信じ込んでいたのだ。筆者らのように「就職雑誌」の仕事をしていたライターも、若干の好不況による変動はあれ、企業の旺盛な採用意欲は長く続くと見ていた。
全ては間違いだった。
バブル崩壊による担保土地の不良資産化、金融機関の破綻、銀行の貸し渋り、1ドル80円台まで進んだ円高による輸出不振、工場の海外逃避……。採用意欲は冷え込み、就職戦線は“超氷河期”“超買い手市場”に突入した。初任給は、93年(平成5年)に前年比2・2%伸びて19万5463円になって以降、伸び率はコンマ数%台という情けないほどの低率となって、現在まで微動だにしない。それでも、97年(平成9年)に額面は20万61円と20万円を突破した。まあこれだけ景況が悪いと、今のところ下がらないだけでもよしとしなければならない情勢である。
このまま初任給が停滞する事態が普通になるのか、あるいは現在はほんの10年ほど続く異常事態に過ぎず、やがて回復するのか、それはわからない。ただ、深刻な顔をして、このままでは日本という国が“破産”するとかダメになると語る、想像力豊かな人たちの話を信じ込むこともないだろう。デフレ・スパイラルのおかげで、ここ5年ほど物価は上がっていない。20万円あったら、けっこうな暮らしができる時代なのだ。大企業に就職できた幸せを噛み締め、初任給で、親に何をプレゼントするかでも考えてもらいたいものである。世の中には、50を過ぎるまで、年収(確定申告課税対象収入)が500万円を超えたことがない人だっているんだぜ(泣)。
懐かしい紙の給料袋。この頃は毎月現金を手渡しでもらっていたので、奥さんに渡す前に少し抜いておき、自分の懐を温めていた人は多かったはずだ。
(写真提供/日本信販〓)
現在の給料明細。すべて銀行振込になってしまったおかげで、お金を抜くこともできず、奥さんにすべて牛耳られてしまったかわいそうなお父さんが急増した。
【資料提供】
日本経営者団体連盟
高橋孝輝プロフィール
1951年、宮城県仙台市生まれ。1975年、東京大学教養学部中退。劇団や研究所などを経て、ライターに。雑誌では、ハイテク一般、放送、放送技術、テレビドラマ、デジタル化、通信、通信技術、中小企業と海外投資、消費者問題、教育、パソコンとインターネットを主な取材執筆分野としている。主な著書に『日本の産業─メカトロニクス』『日本の産業─コンピュータ』(曜曜社)、『ハイテク商品考現学』(メトロポリタン出版)などがある。
あのころコレはいくらだった?
値段が語る、僕たちの昭和史
高橋孝輝
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平成13年9月14日 発行
発行者 松村邦彦
発行所 株式会社 主婦の友社
〒101-8911 東京都千代田区神田駿河台2-9
KOKI TAKAHASHI 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
主婦の友社『あのころコレはいくらだった? 値段が語る、僕たちの昭和史』平成13年10月1日初版刊行