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春信殺人事件
高橋克彦
目 次
第一章 捜し屋
第二章 偽の春信《はるのぶ》
第三章 混 迷
第四章 消えた男
第五章 二世の春信
第六章 錬金術師
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第一章 捜し屋
秋田県、大曲《おおまがり》市。
人口四万前後の小さな町に似合いの、こぢんまりとした駅のホームに電車が滑り込むと、デッキに鮨詰《すしづ》めになっていた乗客が一様に安堵《あんど》の吐息を洩《も》らした。大半が始発の岩手県の盛岡からずっとこの状態で立ち続けて来た乗客だ。僅《わず》か一時間ちょっとの行程だが、乗車率は三百パーセントを軽く超していただろう。トイレのドアも開け放たれ、中に三、四人が入り込んでいるという混雑ぶりは東京のラッシュ以上の酷《ひど》さだった。しかも八月の二十五日。東北といえどもまだまだ夏の真盛り。クーラーの利かないデッキは人いきれでサウナ並みの暑さだった。ほとんど身動きもならず、もちろんタバコも喫えない。その地獄をだれもが無言で堪え続けたのである。
電車が停止してドアが開くと、客は争うようにホームに飛び出た。せっかちに火のついていないタバコを口にくわえながら降りる客も何人か目についた。どの客も額に汗を溜《た》めている。だが、その不機嫌な顔も、ほぼ同時に空に鳴り響いた花火の音で笑顔に変わった。
花火大会はすでに開始されていた。
客たちの足が改札口に向かって速まる。
大曲の花火と言えば全国的にも知名度が高い。この日ばかりは各地から十五万人近い見物客が押し掛ける。なにしろ、ただの祭りのアトラクションなどではない。全国の花火師が一堂に会してその優劣を競う、日本で唯一の競技大会なのだ。しかも今年で六十四回目を数える永い歴史も持っている。ここの花火を見れば、他の土地の花火が色褪《いろあ》せて見える、と言われるほどの規模だ。
〈盛岡でのんびりしてる方が正解だったか〉
まだ明るい空を見上げながら仙堂耿介《せんどうこうすけ》はホームを埋める人波に揉《も》まれるように改札口へ通じる階段を上がった。
多少の混雑は予測していたが、まさかこれほどとは思ってもみなかった。
また遠くで花火の音がした。
人々の目が音の方向に動く。
昼花火なので煙しか見えない。
本大会の開始は夜の七時からで、今は予行演習のようなものだろう。それでも客たちは焦った様子で改札口に急ぐ。耿介は時計を眺めた。五時半。この分では駅前のレストランや喫茶店も満員に違いない。そう思ったら急に腹の虫が疼《うず》きはじめた。盛岡に着いたらなにか旨《うま》い郷土料理でも食べようと、東京からの新幹線ではわざと弁当を買わなかったのだ。今日は朝にコーヒーを飲んだきりだ。
案の定、改札口を抜けると観光客たちが待合室を埋めて駅前にまで溢《あふ》れていた。よく見ると、その一部はトイレの順番を待つ長い列だった。七、八重に蛇行して外にまで繋《つな》がっている。混雑した電車のせいで用が足せなかった連中だ。駅舎内の喫茶室はその列の向こうに位置している。そのドアの前にも空席待ちの人混みが見られた。
耿介は諦《あきら》めて外に出た。
駅前に張られたテントにも人がごったがえしている。土産物や弁当を売っていた。タクシー乗り場には一台の車も見当たらない。交通規制でもしているのだろうか。いや、それよりも、この道路の混雑では車も動けまい。駅前はざっと二千人もの人で溢れている。蟻の行進にも似た人波は駅前から左手の商店街に向かって動いていた。花火大会が開かれる雄物《おもの》川の河畔はきっとその方向に違いない。
耿介はその列とは反対の道に歩を進めた。
〈甘く考えていたようだ〉
混雑からようやく抜け出ると耿介は苦笑した。首筋の汗を手で拭《ぬぐ》う。シャツの襟もぐしょぐしょだ。汗は薄い生地を通して麻のジャケットまで濡《ぬ》らしている。脱ぎたくてもあの電車の中では無理だった。脱いだジャケットを小脇に抱えて耿介は電話を探した。商店街と反対の路地は嘘のように静かだった。
「そちらに盛岡の池田さんがおられると伺って参ったんですが」
ようやく電話口に出た相手に耿介は言った。
「社長さんでしたらウチの主人と一緒に花火を見にでかけましたけど」
「お戻りは何時頃に?」
「さあ……花火の後は主人が接待するとか申しておりましたので……きっと十二時くらいまではこっちに戻らないと思いますよ」
「………」
耿介は思わず舌打ちした。その時間になれば盛岡への臨時の終列車も出てしまう。もともと大曲泊まりも覚悟して来た耿介だったが、この人出では肝腎《かんじん》の宿があるかどうか。たった一時間ちょっとの場所だと、東京の感覚で大曲にまで足を延ばしたのだが、宿がなければまた盛岡に戻る他にない。
「あの……もし急なご用事でしたら」
無言でいた耿介を相手が気にした。
「桟敷をお捜しになってはいかがです?」
「会場に行けば会えるんですか」
「ええ、番号を控えてありますからね。向こうに行って案内所で訊《たず》ねれば分かると思いますが」
耿介は番号をメモし、礼を言って電話を切ると、ふたたび駅前に戻った。電車が到着して二十分が過ぎたというのに混雑はまだ続いていた。人波に従って商店街に向かう。
駅前から少し歩くと、案に相違してガラガラに空《す》いたレストランが見つかった。競技花火の開始があと一時間に迫っている。花火見物が目的ではない耿介は躊躇《ちゆうちよ》なくその店の扉を押した。商店街の真ん中にあるレストランだけあって店内は都会的なインテリアだった。テーブルに置かれたメニューにはスパゲティの種類が八つも並べられ、ソフトドリンクも数多く取り揃えてある。この空腹を満たすには、むしろ丼物《どんぶりもの》の方がありがたい。が、どこを眺めても洋風の料理ばかりだ。耿介は少し考えてビーフストロガノフにパンと黒ビール、そしてバドワイザーを頼んだ。軽い味のバドワイザーで黒ビールを割って飲むのが好みだ。
「お急ぎですよね」
注文を受けて厨房《ちゆうぼう》に声をかけたウェイトレスが直ぐに戻って耿介に確認した。丸顔で人懐っこい笑顔をしている。
「ストロガノフは少し時間がかかりますけど」
「二、三十分なら構わないよ」
「花火に遅れません?」
「仕事で来たんだ。花火はどうでもいい」
ウェイトレスは頷《うなず》いて笑った。足首までの長いエプロンが少女のようで可愛い。
「でも、せっかくですからご覧になって下さい。日本一です。急いで拵《こしら》えます」
「花火の会場はここから遠いのかい?」
「ええ、歩いて三十分くらいかしら。今の時間ならタクシーは無理ですし」
「このお店の人は見ないの?」
「今日だけはタカヤナギも十時過ぎまで店を開いているんです。商店街もたいていは」
ウェイトレスは窓の外に見えるデパートを示して言った。観光客は急ぎ足で通り過ぎるが、地元の主婦らしい女性たちがどんどん店に入って行く。年に一度の安売りでもしているに違いない。
「今夜はどこのホテルも満員だろうな」
「この花火の日だけは半年前の予約でもむずかしいって聞いてます。お客さまはどちらから?」
「東京」
「まだ宿がお決まりじゃないんですか」
「上手《うま》く仕事が済めば盛岡に帰る。あっちには宿を予約してあるんだ」
「こんな日にお仕事なんて大変ですね」
「大曲にとっちゃ年に一度のお祭りでも、こっちにはただの土曜日さ」
「もしかしてテレビ関係のお仕事ですか?」
ウェイトレスは目敏《めざと》くテーブルの濃いサングラスを見て口にした。太い蔓《つる》のイッセイ・ミヤケ。営業マンにはとても見えない。それに白い麻のジャケットとグレイのパンツ。ウェイトレスはマスターに言われてビールを運びながら耿介の顔を見詰めた。刈りあげのヘアーが細い顔の輪郭に似合っている。年齢は三十前後。瞳《ひとみ》がまるで少年のように澄んでいた。それでいて厳しい口許《くちもと》だ。
「こちらははじめてなんですか?」
店がヒマだからだろうが、ウェイトレスは耿介が黒ビールをバドワイザーで割るのを見下ろしながら、また質問した。
「時間がかかるならチーズの盛り合わせを」
耿介が言うと彼女は元気な声で応じた。
東京では考えられない親しさだ。
ウェイトレスから書いてもらった地図を片手に耿介は会場に向かった。しかし、地図に頼るまでもなく、人波はまだ続いていた。橋を渡って川沿いの道を歩く。前方の低い山並みが次第に黒さを増していく。その山の上に巨大な光の花が咲いた。ドーンと体に響く音が少し遅れて届いた。穏やかな川面《かわも》に青や赤の色が反射する。さほどの関心もなかった耿介だったが、やはり心が騒いだ。
風に乗ってアナウンスの声が聞こえる。
大会がはじまったばかりだ。
並んで歩いている人々から感嘆の声が上がる。巨大な花火に続いて四、五十発の花火が連続して夜空に刹那《せつな》の絵を描いた。と同時に耳を圧する拍手と喚声が伝わった。会場が近いらしい。耿介も足を速めた。
やがて河畔を見渡す土手の上に到着した。
耿介は絶句した。
想像を遥《はる》かに超える観客の数だ。
軽く見積もっても東京ドームが五つは造れそうな広大な河畔のすべてを人が埋めている。これほどの人を耿介は生まれてはじめて見た。最低でも十七、八万人は居る。その人間が空に花火が上がるたび、怒濤《どとう》のように蠢《うごめ》く。
河畔の中央には無数のテントが張られ、酒や食べ物が売られている。それだけでも一つの町に思えた。耿介は眩暈《めまい》を感じた。
〈どうやって池田を捜すんだ〉
不可能としか思えなかった。
案内所らしきテントも発見したが、この人混みを掻《か》き分けてあそこに到達するだけで小一時間はかかりそうだった。花火は途切れなく夜空を燃やしている。
「Bの八百番台ならあっちの方」
案内所の人間は花火に負けないような大声で指差した。川岸にパイプで組んだ桟敷が何キロにも亘《わた》って拵えられている。
「行けば番号札がありますから」
係りの男はそう言うと連れて来られた迷子の対処にかかった。耿介は桟敷を目指した。時間はもう八時に近かった。耿介は緊張を取り戻した。こういう状態で相手と対峙《たいじ》するケースはほとんどない。本来なら避けたいところだが、相手が逃げているので、仕方がない。不意を衝《つ》く他にないのだ。
案内所の人間が言った通り、池田の居る桟敷は簡単に知れた。これほどの人間が居ながら、整然としているのが信じられない。
〈あそこか……〉
背後の階段を上がって耿介は頷いた。
縦に三列に仕切られた桟敷の真ん中に四人の男たちが酒のグラスを片手にゆったりと胡座《あぐら》をかいて花火を眺めていた。七、八人は座れる広々とした桟敷だ。その周囲は家族連れや団体客でびっしりと埋められている。
靴を脱ぐと耿介は桟敷に入った。
「池田平吉さんはいらっしゃいますか」
声をかけると返事をして一人が振り向いた。だが、耿介を見て首を傾げた。そのでっぷりとした体躯《たいく》には汗が噴き出ている。
「あんたは?」
「昨夜電話した仙堂です」
名乗ると池田は唖然《あぜん》となった。
「明日にしてくれと言ったはずだ」
「それはないでしょう。今日は盛岡の方にいらっしゃると伺ってでて来たんですよ。一方的な伝言じゃこっちも納得がいきません」
耿介は真っ直ぐ相手を見詰めた。池田は五十代前半。想像通り厭《いや》な感じの男だ。
「そっちの用件だ。俺にも都合がある」
「じゃあ、なぜ昨夜は今日でいいと」
「花火の約束を忘れていたんでね。帰ってくれ。今夜は大事なお客さんと一緒だ」
三人の男がやりとりを見守っていた。
「明日の午後は自宅にいる」
「用は直ぐに済みます。約束をすっぽかしたのは池田さんでしょう。ちょっとどこかで。あなたにとっても決して悪い話じゃない」
「しつこいんじゃねえのか」
一人の男が耿介を睨《にら》んだ。酒がだいぶ入っているとみえて目が据わっている。
「社長さんは明日にしろと言ってるんだぜ」
「あなた方には関係ないことです」
耿介は男を無視した。相手は気色ばんだ。
「この野郎はなんなんで?」
男は池田に質《ただ》した。
「知らん。ただ古い話を聞きたがっている。断わったのに勝手に押し掛けて来たんだ」
そう聞いて男は立ち上がった。
「怪我しねえうちに引き返すんだな」
「喧嘩《けんか》をする気はない」
「社長さんは迷惑だとおっしゃってるんだよ。こんな日にズケズケと現われやがって」
掴《つか》んで来た男の腕を耿介は払った。
「そうかい。やる気か」
男は薄笑いを浮かべて耿介を見据えた。もう一人の若い男も立ち上がった。
「明日は必ずお会いできるんですね」
耿介は諦《あきら》めて池田に念を押した。それを怖《お》じ気と取ってか、池田は返事を拒んだ。
「そうですか。じゃあ、やっぱり今夜のうちに話を聞いてもらう他にないようだ」
耿介は池田のとなりに腰を下ろした。
「この野郎。なんのつもりだ」
男が耿介の脇腹を軽く蹴《け》り上げた。
「あんたには関係ないと言ったはずだ」
耿介はその足を抱えて前に引いた。男はその場に転げた。周囲がざわついた。もう一人の男が空のビール瓶を手にした。女たちが悲鳴を上げて脇に逃れた。
「やるなら迷惑にならないところでしよう」
身構えた二人の男に耿介は言った。
十分も経たないうちに耿介が戻った。池田はギョッとした顔で耿介を見上げた。喧嘩の結果がどうなったか直ぐに察したらしい。
「別に悪い話で来たんじゃありませんよ」
耿介はなにもなかった顔で池田に伝えた。
「二人は?」
池田の側にいた男が訊《たず》ねた。
「酔ったらしくて桟敷の下で休んでいます。五、六分もすれば目が覚めるでしょう」
慌てて男が席を立った。
「電話でも言ったが……孟高《もうこう》の絵など知らん」
だが池田の声は弱まっていた。
「勘違いしているんじゃないですか」
耿介は苦笑した。
「もし、見付けて下さればお礼はします。こっちはただあの絵が欲しいだけなんだ」
「………」
「あの絵が戦前に盗まれたからといって、それを追及しているわけじゃない。あれば相場の値で買いたいと言っているだけです」
「だれから聞いて来た?」
「心当たりがあるんですね」
「その辺りを歩きながら聞こうじゃないか」
池田はまわりを気にして声を低めた。
「相場と言ったが……いくらのつもりだ」
人混みを避けると池田は質した。
「あなたがお持ちですか」
耿介は安堵《あんど》を隠して訊ねた。
「手元にはない。何年も前に売った。しかし、値次第で買い戻すことはできる」
「そっちにはいくらで?」
「あんたは商売人か?」
「捜してくれと依頼されただけです。盗品は裏で流通されるから面倒でね」
「依頼主は?」
「現金取り引きだ。教える必要もないでしょう」
「万が一、こっちの名が世間にでるようなことにでもなれば厄介なんでな」
「その心配は無用です。依頼主もあれを公表する気はない。ただ入手したがっています」
「断わっておくが盗んだのは俺じゃない」
「承知してますよ」
耿介は笑った。日本の初期の洋風画のコレクターとして世間に名を知られていたAの家が火事に見舞われたのはもう五十年も昔のことだ。その時にコレクションの大半が灰になったと信じられていたのだが、つい七、八年前にその中の一点が東北でひょっこりと発見されたのである。焼失したと諦められていた石川|大浪《たいろう》の作品だった。西洋から伝来した油絵の静物を模写したもので、初期洋風画を代表する傑作の一つとして昔から評価の高いものだった。美術界はこの作品の再発見に小躍りした。あれこれと推測がなされ、結局はAの家に使用人として勤めていただれかが火事騒ぎに紛れて何点かを持ち出したのだと結論づけられた。とすれば焼失を免がれた作品が他にまだ存在しているのかも知れない。その予測は当たった。一年もしないうちに、やはり東北から石川孟高の作品が出現した。孟高は大浪の弟で、同様に模写を得意とした。これが契機となって研究者の目が東北に向けられるようになった。だが、騒ぎが大きくなりすぎたせいか、それ以来、ピタリと作品はでなくなった。完全に騒ぎが静まってから耿介に捜索の依頼が舞い込んだ。孟高の作品は二枚が対になっていたはずであり、一枚が持ち出されたからには、必ずもう一枚も現存しているはずだというのがその根拠だった。
もし発見できたら依頼主は千二百万で買うという条件である。耿介がそれをいくらで引き取ってこようと問題はない。九百万で入手すれば耿介には三百万の儲《もう》けとなる。と言っても孟高の相場は高い。絵の上手さよりも稀少《きしよう》価値が相場を支えている。唯一の救いは盗品であるところだった。たとえ時効になっているとしても、盗品とはっきりしている品物はなかなか商売にしにくい。裏から裏へと動き、相場をかなり下回る。その分、捜すのに手間取るが、耿介は話に乗った。
それから二カ月。
紆余曲折《うよきよくせつ》の末に辿《たど》り着いたのが盛岡で建築会社を営んでいる池田平吉だった。池田は大浪の時ばかりか孟高の作品が仙台でのセリにかけられた時にも競り合いのアンダービッター(二番手)として値の吊《つ》り上げに一役買っていた。どちらもその時点では盗品であると発覚していなかったので堂々とセリに出品されていたのだが、洋風画のコレクターでもない池田が双方に入り込んだのは気になった。二作品とも店舗を持たない旅師《はたし》と呼ばれる美術商がセリに持ち込んだもので、来歴を遡《さかのぼ》ることは不可能だった。そこで耿介は直感を基に池田の噂を集めた。そうして池田がAの家に勤務していた一人の男と生まれ故郷が同一であることを突き止めた。後は推測でしかない。しかし、ほぼ疑いのない推測だ。池田が盗品の絵を仕入れて、旅師を利用してセリにかけたのだろう。五十年も前の犯罪で、しかも中央を離れた東北では発覚しないと踏んでの大胆なやり方だ。池田が美術商であったならセリにださずとも顧客を見付けられたはずだが、建築業ではそうもいかない。
「仙台にでた孟高はセリの落ち値が五百万でしたね。あれと対の作品だ。七百万だったらちょうどいい値段じゃありませんか」
耿介は低めから交渉に入った。
「七百だと。相場で買うと言ったろうが」
池田は話にならんと首を振った。
「裏の相場はせいぜいそんなとこですよ」
「一千万じゃないと買い戻せん」
「………」
「それにこっちの手数料も入れて千百だ」
「無理だ。八百が限界です」
池田は五百前後で手放しているはずである。
「他に欲しいものはないのか?」
「まだまだあるわけだ」
「一丘《いつきゆう》が二点。どっちも肖像画だ」
静岡の画家大久保一丘も十九世紀に西洋画の模写を手掛けた絵師だ。少年の画像を多く描き、世に知られている。
「一丘はそんなに高くない」
「あんたが買うわけじゃあるまい。そっちは合わせて六百でいい。交渉してくれんか。話が纏《まと》まったら一割やろう」
「まず孟高を決めてからにしましょう」
「一千万。手数料は我慢しよう」
「八百で駄目ならこの話はなしにする」
耿介は譲らなかった。その口振りから池田が絵を手元に残していると見抜いたからだった。
「八百五十。それがぎりぎりだ」
少し考えて耿介は手を打った。これまでの経費を差し引いても三百以上の儲けとなる。二カ月の働きには充分見合う金額だ。それに、こればかりに関わっていたわけではない。
「名前はなんて言った?」
池田は満足そうに頷《うなず》きながら訊ねた。
「仙堂耿介です」
「いい腕だ。よく俺があいつに絡んでいると分かったな。捜し屋を商売にしてるのか」
「まあね」
「東京にゃ妙な商売もあるもんだ。それで食っていけるのか」
「絵が高くなりすぎましたからね。画廊を通すのがバカバカしいと言う人もいます。それに、今度のような盗品は黙って待っていたら手に入れられる品物じゃない」
「腕っぷしも相当みたいだな」
「裏を歩いていればいろいろとあります」
受け渡しの方法を決めると耿介は池田の誘いを断わって花火に背を向けた。
「上手《うま》くいったか」
昼以上に混雑した電車でなんとか盛岡に戻った耿介がホテルから東京に報告を入れると、藤枝哲司の眠そうな声がしゃっきりとした。藤枝は青山にある『アート・フジエダ』の主人で、耿介をこの仕事に誘い込んだ男だ。もう付き合いはじめて四年になる。
「それで、いつ孟高がもらえる?」
「金次第です。明日でも用意ができれば、夕方には東京に持ち帰れますよ」
「だいぶ儲けたな」
耿介の口調を見抜いて藤枝は笑った。
「七百ぐらいで決着がついたか」
「それじゃとても。相手も相場を承知のやりとりでしたから」
「まあいいさ。こういう仕事はしょっちゅうあるわけじゃない」
「金はどうなります。明日は日曜だ」
「そうか。だったら愁子《しゆうこ》に持たせよう。月曜まで岩手でぶらぶらさせるのも気の毒だ」
「愁子さんに? 千二百万ですよ」
「俺は明日は別の約束がある。大丈夫だ。愁子にはなにも言わん。俺の代わりに耿介が鑑定にでかけたとでも言っておく。本物だったから金が必要になったと言えば疑いも持たんだろう。取り引きの場を見せなければいい」
「日曜でも千二百の金があるわけだ。フジエダも一流の店になりましたね」
「話が決まると信じて準備してたんだ。こっちにも遊ばせておく金はないさ」
「朝の十時まではこのホテルにいます。愁子さんの乗る電車が分かったら迎えにでます」
「東京には明日中に戻ればいい。せっかくだ。愁子になにか旨《うま》いものでも食わせてやってくれ。そのぐらいは儲けたんだろ」
苦笑して耿介は電話を切った。
真夜中の一時だった。
ルームサービスも終わっている。
だが、探せば鮨屋《すしや》程度はあるだろう。
服を脱ぐのに迷っていると電話が鳴った。
「言い忘れていた」
藤枝からだった。
「駒井《こまい》という女性から連絡はなかったか?」
「駒井? いいえ」
「耿介と会いたがっている。あんまりしつこいんでホテルを教えた。ひょっとすると明日にでも彼女から電話がいくかも知れん」
「駒井さんて……もしかしたら『浮世絵世界』の編集に携わっていた駒井みどりですか」
「やっぱり知り合いだったか」
「いや。名前だけです。彼女はだいぶ前にあの雑誌を抜けました。噂を聞いているだけですよ。確か独立して画廊をはじめたとか」
「店の規模はウチとどっこいどっこいの小さなもんだが、客に恵まれていると見えて景気はいい。ほとんど委託販売だから資金繰りに悩む必要もない。羨《うらや》ましい限りだよ」
「なるほど。委託販売はあの雑誌でもやっていた。その部門を独立させたわけだ。『浮世絵世界』はそもそもコレクターを中心にした雑誌でしたからね。その名簿を握って、しかも信用があれば右から左に動かすだけでも食べていけるでしょう。苦労して雑誌を編集しているよりはずっといい」
「それに絶世の美女ときた」
「当時から有名でした」
「鬼に金棒さ。歳は四十近いはずだが、独身だ。スポンサーになりたがっている金持ちがわんさといるぜ。もっとも、すでにそういう相手がいるという噂もある」
「横浜の『ミナト』と違いますか」
「結構知っているじゃないか」
「別に。『浮世絵世界』の陰の社長と目されていました。ただの想像です」
「小さい店と言っても場所が銀座だ。オープンには億以上の金が要る。その保証人になったのが『ミナト』の親父ってもっぱらの噂だ」
「その駒井さんがなんで俺を?」
「詳しいことはなにも聞かされていない。たぶん仕事だろうと思うんだが」
「捜し……ですかね」
「ちょっと妙ではあるな、あの店は浮世絵以外はほとんど扱っていない。耿介の腕は俺が一番承知だが、彼女もその道ではプロだ。わざわざ耿介をアテにすることもあるまい」
「でしょうね。どこになにがあるか、あの人の方がずっとよく知っているはずですよ」
「全国の浮世絵商とも繋《つな》がりがある。まさか耿介の腕を見込んでの引き抜きの交渉でもあるまいが……もし連絡が入ったら後で様子を聞かせてくれ」
「もちろん」
「盛岡にまで連絡をしようってんだ。仕事としたらよほど大きなものだろう」
藤枝との話を終えると耿介はタバコに火をつけた。軽い興奮がまだ続いていた。武者震いのようなものだった。
〈駒井みどり……か〉
八、九年前、耿介が浮世絵を学んでいた二十三、四の頃は互いの立場の違いから明らかな敵と見做《みな》していた相手である。
〈それが……仕事の依頼とはな〉
当時の仲間たちが耳にしたらどれほど驚くことか。一様に駒井みどりへの怒りを口にしながら、その実、仲間のだれもが駒井みどりに対して憧《あこが》れを抱いていたのも確かだった。
〈お互いに浮世絵から離れられないらしい〉
あの頃、駒井みどりも二十七、八の若さだった。『浮世絵世界』の中でコレクター訪問の頁を担当し、その美貌《びぼう》で雑誌を彩っていたのである。もともと『浮世絵世界』は耿介たちの所属していた『江戸美術協会』と反目し合っていた『浮世絵愛好会』が中心となって発行している肉筆と秘画の専門雑誌だった。だからコレクター訪問の頁も大半は秘画が話題となる。秘画を前にして平然としていられる若い女性はそもそも珍しい。そればかりか彼女は映画スターになってもおかしくないほどの美しさだ。白いブラウスがよく似合う清楚《せいそ》な顔立ちで、円い大きな目には常に輝きがあった。性とは遠くかけ離れた印象の彼女が、一見|卑猥《ひわい》などろどろとした世界にいる。五十代以上の人間には駒井みどりがどのように見えていたか分からないが、耿介たちのように二十代前半の者たちには、駒井みどりの存在が眩《まぶ》しく妖《あや》しい花に感じられた。だからこそ憎しみも増した。浮世絵を老人の衰えた性欲の慰みとか、商売としか考えていない汚ない連中の中に駒井みどりがいるという現実に対して、である。耿介も若く、例外ではなかった。彼女が五十を過ぎた、ただの女性であったら、これほど怒りを抱くこともなかっただろう。
彼女が『浮世絵世界』から退いて、画廊をはじめたと耳にした時には、すでに耿介自身も浮世絵の研究から遠ざかっていたが、なぜかホッとしたのを覚えている。会ったことはなくても、駒井みどりは耿介にとっての青春の一部だったのだ。
〈しぶとく生きてたってわけだ〉
藤枝は彼女の店を浮世絵の専門店と言ったが、耿介はその名を知らなかった。恐らく、店売りやオークションにも参加しないで、裏から裏へと仲介する商売なのだろう。だとすれば表面に名も伝わらない。
〈なにをさせようってんだ〉
耿介の胸には不審と期待が交錯していた。
翌日の午後遅く。
無事に池田から孟高の軸を買い取った耿介はタクシーを捕まえると市内のデパートに向かった。愁子と待ち合わせをしている。昼に愁子を駅へ迎えにでて金を預かった時に、二時間後に落ち合う場所を決めたのだ。その六階に落ち着いた鰻屋《うなぎや》があるのを耿介は盛岡のガイドマップで見つけていた。それに、デパートなら愁子も時間|潰《つぶ》しにこと欠かない。
〈こんな作品に千二百万とはな〉
膝《ひざ》に抱えた軸箱は小さくて軽い。自分ならたとえ金があっても買わない。緻密《ちみつ》だが模写の域を超えず、線が死んでいた。江戸時代に描かれた薔薇《ばら》が珍しいというだけのものだ。見る者に見世物的な関心は生じさせても、感動は与えられないだろう。相場はどうあれ、百万でも高いくらいだ。なのにこれに千二百万も支払って平気な人間がいる。いや、千二百万どころではない。藤枝の依頼された金額が千二百万であって、もし入手できれば依頼人は藤枝に仲介料としてそれに一割を上乗せする。合計で千三百二十万。まったく呆《あき》れたものだ。耿介は依頼人と藤枝の交渉に立ち会っていないので、はじめの頃は藤枝がもっと高い金で引き受けているのではないか、と疑ったこともあるが、何度か仕事を重ねているうちに耿介はその疑いを消した。藤枝の温かな人柄に加えて、特定の美術品を捜すとなれば相場以上の金が必要となるのは常識である。そこに藤枝のピンハネが加わっては、結局、作品の入手が面倒になる。どうせ藤枝はなにもしない。それなら耿介に作品が楽に入手できるような余裕を与え、一割の仲介料を依頼人から受け取る方が遥《はる》かに効率的である。たかが一割と言っても、一千万クラスの作品を耿介が月に三点も見つけると、藤枝は仲介しただけで三百万も手にできる。実際は一点三、四千万の作品が多いので、藤枝の利益はその何倍にもなる。下手な小細工をして耿介の信頼を裏切るよりはずうっといい。
一方、耿介は、と言うと利益はまちまちだ。今度のように一点で三百万前後の儲《もう》けになるのは珍しい方で、経費を差し引けば差額が一割にも満たないことが大半だった。何カ月も捜しに手間取って、しかも持ち主との折り合いがつかずに入手できないケースとてままある。その場合に藤枝は依頼人と入手金額の再交渉をし、もし無理となれば一割のキャンセル料を受け取って話を白紙に戻す。もちろん耿介は経費を支払ってもらえるが、どう転んでも藤枝が損をしないシステムであるのは間違いない。その上、運悪く耿介が作品を捜しだすことができなかったときは、藤枝は経費すら支払う責任もない。そういう契約で耿介は仕事を請け負っている。
フリーであり続けるには仕方のない条件だ。
池田の自宅は市の中心からだいぶ遠いと思っていたのに、帰りは渋滞もなかったせいか十分程度でデパートに到着した。
約束の時間には十五分以上も間がある。耿介は六階の飲食フロアに上がった。
鰻屋はフロアの奥まった場所にあった。
まだ愁子の姿はなかった。
耿介は生ビールに鰻の白焼きを頼んだ。メニューにはなかったが、作ってくれると言う。
「あら、早かったじゃない」
五分もしないうちに愁子が現われた。
「ずいぶん買い物したみたいだな」
耿介は愁子の大きな紙袋を眺めて笑った。
「ちょうど夏物のバーゲンだったの。もう盛岡では秋物が中心なのよ。パンツを二枚とサマーセーター。東京ではまだまだ着れそう」
満足そうな顔をして前に座る。
「白焼きはどうだい。なかなかいける」
「私はこのミニ懐石にする」
メニューを眺めて愁子は決めた。
「なんでもご馳走《ちそう》するよ。遠慮は無用だ」
ミニ懐石と言えば高そうだが、ここの店では鰻重《うなじゆう》よりも安い。東京では考えられない。
「気前がいいんだ」
「せっかく盛岡まできてるんだぜ。それに藤枝さんからもご馳走するように頼まれている」
「兄貴からいくらせしめたの?」
「まあ、秘密にしておこう。うっかり白状すると後が怖いからな」
「千二百万の仕事ですものね。じゃあ、お言葉に甘えて茶碗蒸《ちやわんむ》しとティファニーの指輪」
愁子はおどけた口調で言った。
二十五歳なのに、大学を卒業してそのまま兄の経営する画廊に勤めたせいか学生気分がまだ抜けていない。
「飲み物は? 冷酒でも頼もうか」
「私だったらお茶でいい。これからまた何時間も新幹線に乗るんだもの。酔うと厭《いや》だから」
「あんまり飲めないんだっけ?」
「ビール一杯くらいなら平気よ」
「今時の女の子は男よりも飲むぞ」
「きっと我が家の体質ね。兄貴は全然ダメ」
「だな。藤枝さんはいつもウーロン茶かジンジャーエールだ。それで朝まで付き合う」
「飲めないのに、どうしてあんなにバーが好きなのかしら」
「たいていお客さんの接待だろ」
「請求書が届くとうんざり」
「画廊はそれも商売のうちさ。店売りだけでやっていけるとこは滅多にない」
「その分だけ安くした方が喜ぶんじゃない」
「美術品てのは高いところに価値がある。リトグラフなんかは別にして、ほとんどはその作品が世界に一点しかないんだぜ。浮世絵にしてもおなじ保存状態のものはない。値段は売り手と買い手の問題だ。変な言い方になるが、客だって相場よりも安く買うよりは、高いものを買える身分になったと逆に喜んでいる人間の方がずうっと多いんだ」
美術品を投資の対象にする人間が多いことも事実である。だからと言って彼らは安く買っているわけではない。むしろ著名な作家の作品をその時点の相場よりも高く買っている。そういうものは必ず値が上がると見込んでいるからだ。いくら相場よりも格安と分かっていても、連中は新人や評価の低い作品には絶対に手をださない。
「耿介さんはどうして店を持たないの」
愁子は運ばれた料理に箸《はし》を動かしながら不思議そうな顔で質《ただ》した。
「いくらでもやっていけそうだけど」
「お客を相手にするのが苦手なんだ。買う交渉はできても、売れなきゃ商売にならない」
「でも兄貴の仕事だけで食べていける?」
愁子は耿介が画廊の仕入れの手助けをしているだけだと信じきっている。
「鑑定の代理を任せているほどだもの、兄貴も耿介さんの目を信用してるってことでしょ。勿体《もつたい》ないわ。もうちょっと欲を持ったら?」
「こういう仕事をしていながら変に聞こえるかも知れないが……あまり美術の世界に深入りしたくないんだ。どっぷり浸かってしまえば後戻りができなくなる。と大口を叩《たた》いたって、今のところ他に能もないんでね。自分に合った仕事を見つけるまでは、いつでも足を洗えるようにフリーが一番だと思っている」
「耿介さんは何歳になるんだっけ?」
「今年の十一月で三十二だ」
「男の人っていいな。夢を持ち続けられて」
「女の子だって一緒だろう。君の夢は?」
「だんだん遠くなっていくばかり。動物が好きだったから、子供の頃は獣医さんになるって決心してたのに……今は絵本作家になるのが夢かな。でも努力してるわけじゃない」
「君もやっぱり絵が好きなんだ」
画廊で何度となく顔を合わせているが、こうしてゆっくりと話を交わしたことはない。
「それで店を手伝わないかと誘われたの。兄貴は二十年も前から東京に出てて、十五も歳の離れた私はほとんど兄妹《きようだい》という意識もなかったんだけど……東京に出れば絵本が出版できるかも知れないって考えて。甘いわね」
「大学は確か故郷《いなか》の方だったね」
「新潟。両親や姉たちも新潟に」
「なるほど。典型的な新潟美人ってわけだ」
「わっ。耿介さんのお世辞なんてはじめて」
「言葉を知ってるだけで、新潟美人がどういう基準なのか俺には分からないけど」
「新潟には来たことがないの?」
「学生時代に仲間と調査に行った」
「ふうん。どんな?」
「なんでか知らないが、新潟には浮世絵のコレクターがずいぶんいた。昭和三十年頃には新潟の中だけでの浮世絵研究雑誌まで発刊されていた。医者が中心になっていたと記憶してる。その研究会がどうなっているのか、それとコレクションがまだ健在なのか……結局は会も解散していたし、絵も散逸していたが」
「学生時代から浮世絵に興味を?」
「これでも結構真面目な学生だった」
「じゃあ研究者になりたかったんだ」
愁子の言葉に耿介は詰まった。
「違うの?」
「なれたらいいと思っていた程度だな。浮世絵をカリキュラムに含めている大学は少ない。十年頑張ったところで講師になれるかどうかも分からない世界なんだぜ」
「諦《あきら》めたってわけ?」
「一応は未練たらしく何年か大学に残っていたんだが……」
ある事件を切っ掛けに、すっかり嫌気がさしてしまったのである。ずいぶんと世間を賑《にぎ》わしたものだが、七年くらいも昔の話だ。言えば愁子にも記憶があるかも知れない。
「諦めてどこかに勤めたの?」
「なんだい。興信所みたいじゃないか」
「興味があるのよ。謎の人だもの」
「画廊のカタログ製作を中心にしていた小さな出版会社。それで藤枝さんと知り合った。あの人が青山に店をオープンさせたのは……四年前か。最初の企画展のカタログは俺が担当した。なんにも謎なんてない」
「私が東京に出て来た三年前は、もう耿介さん、ぶらぶらしてたわ」
「会社を辞めてそろそろ四年になる。あそこには三年も勤めなかったな。怠け者なのさ」
「耿介さんのお家《うち》ってお金持ち?」
「親父は横浜で坊主をやってる」
愁子はぽかんとした。
「仙堂って珍しい苗字《みようじ》だろ。京都の一乗寺《いちじようじ》の近くに丈山寺《じようざんじ》という寺がある。その中に有名な詩仙堂《しせんどう》って庵《いおり》があってね。四方の壁に中国の三十六歌仙の額が飾られている。ウチの先祖はどうやらその寺と関係があったようだ。宗派も丈山寺と一緒の曹洞《そうとう》宗」
「じゃあ、耿介さんもいつかはお坊さんに」
「兄がとっくに継いでる。形だけは俺も仏教系の大学に入れられたが……たまたまそこに浮世絵の講座が開かれていた。そいつが俺の人生の間違いのもとさ。普通の大学に入って経済でもやっていりゃ、どうだったか」
「仏教大学かぁ。どこかの美大だと思ってた」
「謎どころか、失望させたらしいね」
「油絵の勉強なんかはその出版社で?」
「もともと好きだったからそういう会社を選んだんだ。高校時代は美術部だったし」
「お坊さんなのに?」
「家が寺だっただけで坊主じゃない」
耿介は苦笑した。
「会社勤めじゃなくて、家が横浜にあったら、アパートを借りる必要なんてないと思うけど」
「寺は朝が早いんだぞ。いくら坊主を継がないっていっても叩き起こされる。ましてやフリーの仕事なんて理解してくれない親父だ」
「ホント。午後に電話しても寝てる人だもの」
愁子も笑って、
「食事はいつもどうしてるの?」
「ちゃんと食べてるよ。たいてい外」
「一人で?」
「当然だろ。作ってくれるような女性でもいれば外には出ない。案外家庭的なんだぞ」
「ふうん。独身主義でもないんだ」
「そう見えたかい」
「だって三十二でしょ。相手がいても不思議じゃないわ。なのに――」
「女っ気がまるで感じられないってことか」
それに愁子は素直に頷《うなず》いた。
「君なら三十二にもなって会社にも行かず、毎日ぶらぶらしてる男に興味を持つか」
耿介はニヤニヤしながら訊《たず》ねた。
「今の女の子はしっかりと計算してる」
「そうね。フリーってのは心配よね」
「だからと言って、女の子のために会社勤めをする気はない。どっちを選ぶかとなりゃ、自分の未来を信じる他にないさ」
「今夜はどうするの?」
愁子は唐突に話題を変えた。
「青山の店に顔を出すつもりだったけど、東京で人と会う約束ができた。悪いがこの軸は君が持ち帰ってくれ。そんなに重くない。藤枝さんには明日の朝にでも連絡を入れるよ」
「約束ってもしかして駒井さん?」
「君も知ってたのか」
「最初に電話を受けたわ。なんだか兄貴もどぎまぎしてたみたい。どういう人なの?」
「別に。専門に浮世絵を扱っている店だ。有名な美人だから藤枝さんも緊張したんだろう」
「なぜその人が耿介さんに?」
「さあね。ホテルに今朝電話をもらった。用件は聞いていない。直接会って説明したいそうだ。浅草《あさくさ》ビューホテルのバーで会う」
「美人て……何歳くらいの人?」
「オレよりも三、四歳上だと思ったな」
耿介がそう言うと愁子は緊張を緩めた。
「独身?」
「藤枝さんはそう言っていた」
「兄貴はその人のこと好きなのかしら」
「まさか。会ったことがあるにしても、せいぜい二、三度のはずだ。有り得ない」
「兄貴も四十よ。妹としては焦るわけ」
「もうパトロンもいるみたいだ」
「なんだ、そうなの」
愁子はそれで駒井みどりに興味を失った。
八時前に東京へ着いた。耿介は愁子と上野で別れると浅草に向かった。盛岡では東京との温度差をあまり感じなかったのに、やはり着いてみると相当に違う。改札口からタクシー乗り場まで歩いただけで汗が噴き出た。それでも、この喧騒《けんそう》を見ているとホッとする。
〈愁子に預けたのはまずかったか〉
不安が胸をよぎった。
これまでに品物をだれかに預けたことは一度もなかった。いくら愁子が藤枝の妹だとしても、千二百万の作品である。どういう事情があろうと藤枝に直接手渡すのがプロの仕事だ。それも忘れて愁子が盛岡にやって来るのを幸いに軽々と駒井みどりの誘いに頷いてしまった。どこかに浮わついた気持があったのだ。もし愁子があの軸をタクシーに置き忘れでもしたら、それはすべてこっちの責任だ。ビューホテルが近づくにつれて耿介は後悔の念に襲われた。青山に立ち寄ってからでも構わなかったのである。会いたいと言っているのは駒井みどりの方だ。相手の都合に合わせる必要はどこにもなかった。
〈なにを考えてるんだ〉
自分に舌打ちした。
まるで初恋の女にでも会うような気分でいる。自分でも信じられない。
タクシーに乗り込んだ時の高揚に較べて、降りた耿介の足取りは重かった。
広いロビーには外人の姿が目立った。
約束のメインバーは地階にある。静かなピアノの音が耿介を落ち着かせた。
「お一人さまですか」
ボーイが訊ねた。耿介が駒井みどりの名を口にすると直ぐに通じた。早めにバーで待っているからと言われていたのだ。
ボーイは耿介を奥のフロアに案内した。
「お客さまがお見えになりました」
ボーイが言うと片隅で談笑していた男女が振り向いた。男の方が軽く腰を浮かせた。
「じゃあ、私はこれで」
耿介に会釈しながら立ち去った。
「どうぞ。駒井です」
みどりは耿介にとなりの席を勧めた。
「お邪魔じゃなかったんですか」
みどりの美しさに圧倒されながら耿介は頭を下げた。八、九年前に『浮世絵世界』の頁を彩っていた頃よりも遥《はる》かに輝いている。
「構わないのよ。あなたが来るまでという約束で打ち合わせをしていただけなの」
「仙堂耿介です」
「前からお会いしたいと思っていました」
「………」
「いろんなところであなたの噂を」
「どうせ悪い噂でしょう」
「水割りでよろしいかしら?」
テーブルにはシーバスリーガルがある。
「浮世絵の研究者には見えないわ」
みどりは温かな笑顔で言った。
「研究者じゃありません」
「でも菅谷《すがや》先生の研究室にいらしたのよね」
「ずいぶん昔の話です」
「私のことは?」
「もちろん。駒井さんは『浮世絵世界』の看板でしたから」
「あの当時はずいぶん悪口を耳にしたわよ」
みどりはクスクス笑った。
「まるで戦争してるみたいだったもの」
「でも、駒井さんは我々の憧《あこが》れだった」
「ホントかしら」
「確かに『浮世絵世界』のやり方に反発していたけど、駒井さんだけは例外でした。仲間にもファンがたくさんいましたよ」
「なぜ菅谷先生から離れたの?」
「先生とは関係ありません。俺の事情で」
「優秀な助手だったと聞いたわ」
「だれからそんなことを?」
「当の菅谷先生からよ」
「お付き合いがあるんですか?」
「私も今は『浮世絵世界』から抜けたし、第一、浮世絵愛好会と江戸美術協会にしても昔ほど意地を張り合っていないでしょう」
「菅谷先生が駒井さんと……」
「そうよね。十年前じゃ考えられないか」
みどりも認めた。
「嵯峨《さが》さんと西島先生の亡くなる前は、本当にお互い毎日ピリピリしてて……今から思えば子供の喧嘩《けんか》のようだったわ」
みどりは水割りを優雅に口に運んで、
「古くからの協会のメンバーを愛好会に引き抜いたと言っては大喜びしていたんですもの。なんだか信じられない」
「それは愛好会の方だけでしょう」
協会の方では会員の増減にそれほど大きな意味を感じてはいなかった。
「それが大学で教えている研究者を中心とした会と、美術商とコレクターで結成した会の差よ。会員の数の違いが結局は勝利に繋《つな》がると、馬鹿を承知の上で皆が頑張っていたわ」
「研究に勝ち負けはありません」
「作品にも区別はないわ。健全な版画だけが芸術で肉筆や秘画は認めないという協会の姿勢の方がそれこそ不遜《ふそん》だったと思わない?」
「認めないわけじゃなかった。商売を優先させる美術商たちにとっては版画よりも下に位置づけられる肉筆が納得できない気持も分かりますが、我々は絵の優劣を問題にしていたんじゃない。浮世絵があれほど発展した基本は版画にあったと主張していただけです。どんなに優れた肉筆が何百本と描かれようと、それだけなら狩野《かのう》派や四条《しじよう》派などの本画の亜流程度で終わっていたはずだ。浮世絵の本質は安くて庶民にも楽々と買えた版画にある。研究はまず版画を主体として進めるべきだ。版画の世界では無名に等しい絵師の肉筆を捜して来て、広重《ひろしげ》や国芳《くによし》よりも上手《うま》いから、これまでの研究は間違っていたなんて理屈は本末転倒でしょう。我々は庶民芸術を研究しているのであって、金持ちにしか買えない肉筆に魅せられたんじゃない」
「そういう話って久し振り」
みどりは苦笑した。
「でも、もう時代後れの考えよ」
「………」
「菅谷先生にしても肉筆全集の編集に携わっているじゃないの」
「うるさい人が亡くなりましたからね」
耿介は鼻で笑った。
「嵯峨さんの批判が怖かったという意味?」
「西島先生もです。あの人の肉筆嫌いは有名だった。肉筆全集の編集なんて、たとえ嵯峨さんが亡くなっても、理事長だった西島先生の目が光っている限り無理だったでしょう」
「研究室を去ったのはそれが原因?」
みどりは鋭く見抜いた。
「どうやら図星のようね」
みどりの言葉に耿介は無言でいた。写楽《しやらく》の贋作《がんさく》事件で浮世絵愛好会のリーダーだった嵯峨|厚《あつし》と江戸美術協会を牛耳っていた西島俊作の二人が相次いで亡くならなければ、耿介にも違う人生があったはずである。事件は解決後も様々な波紋を投げ掛けた。その責任の一端が西島にもあったと分かると、美術協会の中心に食い込んでいた西島の門下生たちは次第に発言力を失い、代わりに西島と同様に大学で講座を持っていた菅谷|清志《きよし》への期待が増大した。菅谷は直ぐに理事長に推され、名実ともに協会の実権を握った。権力志向の強かった西島に較べて、菅谷は地味でおっとりとした性格だった。それが理事長の要職に就いた辺りから少しずつ変わった。肉筆についても、もともと菅谷は理解を示していたのだろう。あるいは両研究会の対立の根本問題を解決しようと考えたのか、菅谷は就任して間もなく肉筆全集の企画を出版社に持ち掛けた。「肉筆は浮世絵の華だ」と声を大にしてである。耿介は衝撃を受けた。もし菅谷が本当にそう信じているとしたら、これまでは西島の怒りを恐れてその気持を隠していたことになる。それとも、対立の解決のための方便に過ぎないのであれば……もっと許せない。版画が基本であると講座の中で菅谷は口が酸っぱくなるほど力説していた人間だった。絵師の研究には肉筆も欠かせない。しかし、あくまでも肉筆は補助だ。その言葉も耿介は記憶している。今さら「浮世絵の華」は酷過《ひどす》ぎる。その上、解説の執筆予定者には耿介の名も加えられていた。編集責任者が菅谷であって、耿介はその研究室にいるのだから当然とも言えるが、菅谷は耿介が肉筆の研究をほとんどしていないことを承知しているのである。なにも書けない、と耿介が訴えたら、簡単な絵師の解説で充分だ、と答えた。それでは単に肉筆を多く収録しているだけで、なんの意味も持たない画集となる。せっかく十巻以上の全集を世に問う機会なのだ。時間をかけて現在の研究の集大成となるべく努力するのが編集責任者である菅谷の務めであろう。他に名を挙げられている研究者も大半は肉筆の研究に重きを置いていない人間ばかりだった。
〈俺も若かったな〉
耿介は内心苦笑した。二十五だった。
菅谷の豹変《ひようへん》が許せなかった。
今の年齢だったら、菅谷の言葉はともかく、短い時間なりにも取り組んで、納得が行けばよしとしただろう。現実にその時菅谷の指示を快く受けた仲間の北田重満は三十四歳の若さで研究界に重要な位置を占めている。あれが自分の人生のわかれ道だった。耿介は拒否をして研究室から身を退いたのだ。
そのすべての発端は贋作事件にある。
「あなたは今でも肉筆嫌い?」
耿介のグラスに酒と氷を足しながらみどりは訊《たず》ねた。
「肉筆と言うより、浮世絵そのものに興味がなくなっちまいましたからね」
「そうかしら」
「どうでもよくなった」
「じゃあ、なぜ今の仕事を?」
「好きでしているわけじゃない。むしろ嫌いになったから、ただの品物として扱える」
「大村さんのところの北斎《ほくさい》だけど」
みどりは真っ直ぐ耿介を見据えた。
大村は千葉在住の浮世絵のコレクターである。
「あれを捜したのはあなたよね」
「それが?」
耿介は緊張を隠して質《ただ》した。
「正直な感想を聞かせてほしいの」
「用件というのはそれですか」
耿介は受け取ったグラスを置いた。
「感想なんて無意味でしょう。俺は頼まれた作品を捜しただけです。価値についてあれこれ言う気はない」
「勘違いしないで」
みどりは笑顔で言った。
「大村さんと今度の用事とは無関係。ただ、仕事を頼む前に確かめたかっただけ」
「………」
耿介はじっとみどりの目を覗《のぞ》いた。
捜した北斎の肉筆は戦前の売り立て以来行方が分からなくなっていたものだった。上野のセリにだされて、当時としては破格の値で決まったものの、所有者の家が空襲に遭い焼失したと見做《みな》されていた。だが幸いにも写真は遺《のこ》されていて、古い北斎の画集にはちゃんと掲載されている。ところが大村はどこからかその北斎が遺されているという噂を耳にし、藤枝に捜索を依頼した。耿介はその期待に応《こた》え、たった二カ月で捜し当てたのだ。
「曖昧《あいまい》になったままだけど、あの北斎が怪しいってことは知っていたんでしょ」
「偽物でしょうね」
耿介はきっぱりと言った。
手掛かりとして渡された図版の拡大写真を見た時から耿介はすでに疑っていた。晩年のものとしても線が弱く感じられた。その指摘はすでに浮世絵愛好会の方からもなされていて、美術協会に属する研究者がその作品について言及するたびに、しばしば物議をかもしていたのである。美術協会側の研究者が肉筆を誉め、愛好会の人間がそれに異を唱えるのは反対のようでもあるが、これも頻繁にある。いくら肉筆が浮世絵の根幹ではないと言っても、そう簡単に無視するわけにもいかない。そこで国立博物館所蔵のものや、公開のコレクションに含まれ、世間的に評価の定まっている肉筆となると安心して持ち上げる。これには、誉めたりしてもさほど危険がないという研究者の心理も加わっている。もし自分の絶賛した肉筆が商売の対象となり、しかも誉めたことで値が何倍にもつり上がり、その上、後で偽物とでも分かれば研究者としての地位すら危うくなる。要するに、売られる心配のない肉筆ならなにを言っても安全だと言うわけだ。研究者として情けないとも言えるけれど、反面、それほど精巧な偽物が肉筆には存在するということでもある。だから空襲で焼失してしまった北斎については警戒しない。国立博物館所蔵の肉筆と同等に安心のできる作品となる。研究者は純粋に好き嫌いを言える。たとえ偽物ではないかと異議を唱えられたところで、白黒写真しか遺されていない作品を見誤ったとしても傷にはならないのだ。
「偽物と分かっていて捜したってわけ?」
みどりは興味深そうに重ねた。
「写真では疑っただけでしたが……本物と対面して直感した。あれは二代|戴斗《たいと》でしょう。まったく同一の構図の作品がボストンにある。北斎だったらおんなじ絵を描かない。弟子の二代戴斗が勉強のために模写したんだと思います。絵の具も紙も古い。最近の偽物じゃないのは確かだった」
「それは大村さんに伝えた?」
いや、と耿介は首を横に振った。
「自分の儲《もう》けのために目を瞑《つむ》ったわけ?」
「鑑定は俺の役目じゃない。俺は捜しを頼まれただけで、それ以上の責任はない。苦労して捜した上に、偽物と分かってのキャンセルまで契約に入れていたら仕事にならない。ましてや古い写真だけをみて頼んで来るような客を相手にしていればね」
「気に入ったわ」
みどりは満足そうに手を伸ばした。
耿介は戸惑いながらその掌《て》を握った。
「大村さんのことだけが気懸りだったの」
「………」
「あれに疑問を持たずに仕事をしているようなら大した男じゃないと思っていたわ。捜し屋なんて、この業界では有名だけど、結局は肉筆の善し悪しも見抜けない男じゃないかと」
「………」
「どこでそんな勉強を? 菅谷先生の下じゃそこまで眼を磨けるわけがないし」
「『浮世絵世界』が切っ掛けでしょう」
「どういうこと?」
「肉筆全集が発刊されはじめたら『浮世絵世界』はここぞとばかりに全集に収録された中で偽物の疑いのある作品をピックアップして特集を組んだ。俺はもう抜けていたけど、やはり悔しかった。けど、残念ながら疑問点もよく分からない。正直言ってあなたたちが難癖をつけているとしか思えないものが大半だった。もしその指摘が正しいなら、俺も最初からやり直さなければいけないと思った」
「浮世絵に興味を失ったくせに?」
みどりは微笑みながら先を促した。
「大学を辞めてから勤めていたところが画廊やデパートの展覧会のカタログを作る会社だった。それで肉筆浮世絵を扱う店にも出入りするようになって……ずいぶんと見せてもらいましたよ。本物はむろんのこと、怪しくて、まともなところには納められない肉筆までもね。俺には完璧《かんぺき》に見える作品でも、そのどこがいけないのか、店の親父さんたちが懇切丁寧に説明してくれた」
みどりはそう聞くといくつかの店の名を挙げた。耿介は頷《うなず》いた。
「あの人たちの仕込みなら確かだわ」
「こっちには商売にする気がないと見て安心して教えてくれたんでしょう」
「仕事は順調にいっていて?」
「なんとか食べてますよ」
「少し調べさせてもらったの」
「へえ」
「と言っても、売り手と買い手の双方から金額を聞き出すことができたのはたった二例だけ。その差額から藤枝さんが手にする手数料を差し引けば、あなたの取り分は平均で二百万。安いとは言わないけど、どちらも捜すのに二カ月はかかっているはずよね。経費も勘定に入れたら……せいぜい七、八十万てとこかしら」
「どなたに売った品物のことを言っているんです?」
さすがにギョッとして耿介は質した。
「それは言えないわ。入手についてはあなたや藤枝さんの存在を口にしない約束で取り引きをしたんでしょ。あなたたちには内密でと念を押された上でようやく聞き出したことなの。私がここで教えたら皆に迷惑をかける」
「………」
「二点で四千万もの品物を扱いながら、いくらなんでも安いと思わない? 間に立っているだけの藤枝さんは三百万以上もあなたの働きで潤っている計算じゃない」
「藤枝さんは税金を払っています。最低でもその三分の一は取られているはずだ」
耿介の扱う品物は裏取り引きのことが多い。だからこそ藤枝のような仲介者が必要となる。たとえば一千万で依頼された場合、藤枝は手数料も含めた千百万の上様宛ての領収書を絵とともに依頼主に渡す。その一方で耿介に約束の一千万を支払い、その絵を得体の知れない持ち込みの客から買ったという形で支払い伝票を切る。つまり、取り引き上は藤枝が一千万で入手した作品を千百万で売ったことになる。藤枝の利益は百万。藤枝はこれをきちんと申告する。もちろん税務署もバカではない。少ない金額なら眼こぼしもしてくれるが千万単位のものになると本当にその金額で買ったかどうかを追及してくる。もし三百万で買った品物を千百万で売ったとしたら八百万の脱税行為だ。だが藤枝が売り手についてばかりか、買い手に関しても知らぬ存ぜぬを押し通せば、結局|諦《あきら》める他にない。下手に藤枝を刺激して、その支払い伝票と領収書控えを破られでもすれば、取り引きそのものが帳簿から消滅し、税務署は一円の税金も徴収できなくなる。提出された日本全国すべての領収書を調べ、藤枝の出した領収書を捜すのは至難の業だ。それよりは申告している百万の利益に対して税金を計算する方が楽と言うものだ。もっとも、こういう不透明な取り引きが年に三、四十もあれば税務署も黙ってはいない。多くても十二、三件で、しかも半分は五、六百万の取り引きなので見逃してくれているのだろう。
「私だって税金くらい喜んで払うわよ。なんにも苦労が要らないんですもの」
「それは、駒井さんが窓口になってくれるという意味ですか?」
「あなたが望むなら」
「お断わりします。藤枝さんで不満はない」
「待ってよ。今の話はあなたが勝手に言い出したことでしょ。私の用件とは違うわ」
態度を硬化させた耿介にみどりは笑った。
「あなたの腕を見込んで捜し出してもらいたい人間がいるの」
「人間?」
「経費とは別に三百万」
「そういうのは本当の探偵の仕事だ」
耿介は呆《あき》れた顔でみどりを見詰めた。
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第二章 偽の春信《はるのぶ》
「そいつはまた妙な依頼だ」
藤枝は二人分のアイスコーヒーを追加しながら耿介を前に腕を組んだ。二人は藤枝の店の近くの喫茶店にいる。画廊では愁子の耳があるのでこちらに席を移したのだ。
「それにしても、まさか、あの春信絡みとは思わなかった」
藤枝はぼりぼりと頭を掻《か》いた。
「一般公開前にガンタ(贋作《がんさく》)とはっきりしちまって物笑いになった品物だからな。安本商事も頭に来てるのは分かるが……なんで今さら仲介者を捜す必要があるんだ? そいつから買ったのは安本商事だろうが。わざわざ耿介を頼らずとも、自分らが一番よく知っているはずだ」
安本商事は年商二千億を超す総合商社だ。商いの中心は高級衣類や装飾品が多い。近頃はテレビの安売り商品にも手を染めている。
「行方をくらましたそうです」
「あれは十二本で七億だったか」
耿介は頷いた。
「その金なら逃げたくもなるさ」
「話はもっと複雑ですよ」
「ってと?」
「あれほど研究者たちが偽物だと主張したのに拘《かかわ》らず、安本商事ではその鑑定に疑問を抱いていた。日本では駄目だからアメリカで調べてもらおうということになった」
「バカな話だ」
「ところが、今度はその仲介に立った人間が春信と一緒に姿をくらました」
「それは聞いてないな」
「業者じゃありません。遠藤|輝夫《てるお》という安本商事と取り引きのある中堅のメーカーの営業部長で、よくニューヨークにでかける人だったとか。絵が好きらしく、向こうの研究者とも懇意だと言うのでうっかり預けたそうです。安本商事では意図的な取り込み詐欺だと警察に訴えたようだけど、警察は認めてくれなかった。本物ならともかく、その時点で偽物と見做《みな》されていた品物ですからね。高給を取っている勤めを棒に振ってまで狙うような作品じゃない。本当に預けたとしても、失踪《しつそう》の原因と春信は無関係だと言われたらしい。まあ、警察じゃなくても、そう思うのが当たり前でしょう。安本商事の側も諦めて訴えを退けた。それで新聞にもでなかった。ところが……」
耿介は言葉を切った。
税金に関わることなので藤枝にはちょっと言いにくい。
「税務署が安本商事に目をつけたというわけですよ。七億で入手した美術品が偽物と分かって資産価値がゼロとなった。安本商事の負債が七億も生じたということになります。それを認めれば税額もむろん大幅に減少する。なのに肝腎《かんじん》の絵が紛失したという報告です。これに簡単に頷く税務署じゃない。取り引きを明確にしない限り認めないという通達がでた」
「なのに売ったやつもとんずら、預けた相手も蒸発ってわけだ」
「下手をすれば手元にない絵のために何億もの追徴金を支払わなければいけない。安本商事が必死になるのも分かる」
「そこまでの話は納得できたが、捜索を駒井みどりに依頼したのは、なんでだ? そもそも、あの春信が怪しいと騒ぎはじめたのは横浜の『ミナト』の親父じゃなかったかね。青木|信三《しんぞう》が肉筆を掲載した『美術新聞』に公開の質問状を出したんだ。そのせいで研究者たちが注目したんだ」
「ええ。それも聞きました」
「だったら安本商事にとって憎い敵だろう」
「蛇の道はヘビってやつです。もし春信が市場にでることになれば、真っ先に彼女に情報が入る。今さら敵も味方もない。捜しだしてくれるならだれでもって気分でしょう。それに、別の仕事でのつきあいもあったそうです」
「三百万も耿介に払うってとこを見ると……倍以上で請け負ったか。したたかな女だ」
「どうします? 返事はまだ保留に」
「俺には関係ないぜ、絵ならともかく、人間となりゃ耿介の気持次第さ」
「一人ではむずかしそうなんです」
「嘘つけ。俺を気にしてるんだろ」
藤枝はニヤニヤした。
「嘘じゃありませんよ。彼女から安本商事には内緒で捜すように言われました」
「そりゃそうだろうな。下請けにだしたと知れりゃ駒井みどりの立場がなくなる」
「関わった人間に直接聞けないとなると、後は駒井さんの情報だけが頼りです」
「不安でもあるのか?」
「俺の仕事をだいぶ調べていたんですよ」
耿介は思い切って口にした。もともと正規のルートには乗ってこない品物を捜すのが耿介の仕事だ。従って裏取り引きが多い。買った方は藤枝の店を通すから、その作品を公開することもできるが、だれから手に入れたかは口外しない約束だ。駒井みどりは、たった二例と言ったが、買い手と売り手の両方を突き止めるには相当の調べが必要だったはずだ。おまけに双方の売買価格まで確認している。こちらの信用調査にしては度が過ぎてはいないだろうか。
「どの品物だった?」
藤枝も眉根《まゆね》を寄せた。
「分かりません。二点で四千万と言っていたから油絵以外なら限られて来ますが」
「肉筆の浮世絵か?」
「たぶん。となると、去年の春章《しゆんしよう》と重政《しげまさ》じゃないのかな。確か春章が二千四百で、重政は千二百だった。藤枝さんの一割を上乗せすれば、だいたい四千になる」
「あれはどちらもおなじ依頼主だったよ」
藤枝は即座に頷《うなず》いた。
「どうやら決まりですね。浮世絵なら駒井さんが調べることも可能だ。しかもあの二点は業者を逆に辿《たど》って捜したものです。彼女にだってその気になれば元の持ち主を突き止めることができる。苦労したような口振りだったけど、案外簡単だったかも知れない」
「耿介の買い取った値まで調べたとは、立派なもんだ。耿介がいくらで仕事を引き受けるのか知りたかったんだろうが……おいおい、ってことは、いつも三百くらい儲《もう》けてるのか」
「駒井さんが教えてくれましたよ。一点平均二百で、経費を差し引けば七、八十だと」
「ほう……そんなものか。それなら健全な商売だ。それでこそ長続きする」
藤枝はしゃあしゃあと言ってのけて、
「とにかく、不安はそれで解消だ。あの依頼主は駒井みどりの店とも付き合いがある。たまたま洩《も》らしちまったに違いない。調査したなんぞはハッタリさ。耳にしたそいつだけを追い掛けるんなら俺にでもできる」
「彼女とはあまり深入りしたくないんです」
耿介は本音を伝えた。
「仕事と割り切りゃ関係ないさ」
「気持の整理がつかなくて……なんと言っても古い因縁がある相手だ」
「らしくねえな」
藤枝は笑った。
「昔のことは忘れたんじゃなかったのか」
「彼女は菅谷先生とも付き合っています。引き受ければ、いつか鉢合わせになることも」
「それも仕方なかろう。狭い世界だ。今まで会わなかったのが不思議なくらいさ」
「藤枝さんが彼女との窓口になってくれませんか。捜しは俺がやります。彼女を通じて安本商事からの情報をもらってくれれば」
「それくらいならお安いごようだがね」
「折半でいいです」
「まさか。そんなには要らんよ」
藤枝は慌てて首を横に振った。
「耿介には儲けさせてもらってる。第一、三百ってのは成功報酬だろ。相手を発見できなきゃ経費だけの仕事だ。むしろ、これまでのボーナスってことで俺が耿介に百五十万をプレゼントしよう。ただし俺は金の持ち合わせがないから、今度の仕事を手伝うことで支払う。それで文句はないな?」
「そんな……申し訳ないです」
「なあに、こっちにも楽しみができた。駒井みどりなら会って損のない相手だ」
「分かりました。じゃあ、駒井さんにそう返事をします。以降の連絡は藤枝さんへ」
「本当に俺への遠慮とは違うんだな?」
藤枝は最後に確認して来た。
耿介は大きく頷いた。
藤枝と会ったその足で耿介は御徒町《おかちまち》へ向かった。
駅から上野|松坂屋《まつざかや》方向に伸びる春日《かすが》通り。これが不忍《しのばず》通りと交差する広い十字路の周辺には古くからの美術店が軒を並べている。画廊の多い銀座や青山とは違ってその大半は古美術を扱う店だ。
耿介は湯島天神《ゆしまてんじん》を左に見ながら坂を上がった。その道を真っ直ぐ進むと、やがて右手に春日局《かすがのつぼね》の菩提寺《ぼだいじ》である麟祥院《りんしよういん》が見えて来る。春日通りの名称の由来になっている寺だ。そこから少し歩いて路地を曲がった直ぐのところに『麒麟《きりん》書房』が古い看板を掲げている。看板と言っても実際に古書の店売りをしているわけではなく、伝統を誇っているという意味だ。明治の初期には東大の学生で賑《にぎ》わったらしいが、客足が次第に遠のくに従って店を閉じ、目録による通信販売と神田《かんだ》の古書会館への出品を商売の中心に切り替えた。高価な古典籍は学生相手ではとても商売にならない。セリで掘り出す眼さえ確かなら、小さな店にしがみついて汚れた教科書を扱っているよりも遥《はる》かに利益が上がる。
白いカーテンの下ろされた店のガラス扉が半分開けられていた。いつもは閉め切ったままになっている。
「こっちだよ」
主人の田中が耿介に気づいて手招いた。
「急に荷物が届いてな。店の方から入れてもらったんだ」
たいてい耿介は裏口からお邪魔する。
「凄《すご》い段ボールだ」
空の棚だけが目立つ店の床には十二、三箱の段ボールが積み重ねられていた。
「関西の売り立てで落として来たんだ。古い地主の蔵から出たもんだ。一括という縛りでな。京伝《きようでん》の読本《よみほん》の揃いがいくつか混じっていたんで、それに目がつられちまったよ。開けて見たらそれほど筋のいいものじゃない。捌《さば》くのはちょいと厄介だろう」
田中は薄くなった頭を手拭《てぬぐ》いでぬぐった。
「まあ、こっから入んなよ。麦茶を冷やしてある。かみさんは買い物だ」
田中は奥に誘った。
「今日でよかった。昨日までは大阪だ」
「忙しいのに申し訳ありません」
「なあに。仕分けはいつでもできる」
古い家だが風通しはいい。裏手の狭い庭にも水が打たれてあった。耿介は遠慮なく胡座《あぐら》をかいた。ここの主人の田中は耿介の父親の許《もと》に出入りしていた人間で、その関係で耿介も中学の頃から田中を知っている。
「だいぶ噂を聞くようになった」
「そうですか」
「そういう仕事で名が広まるってのはかえってやりづらくなるもんだ。売る方も高い値をつけるようになる。地方じゃともかく、東京での業者との取り引きが面倒になって来てるのとは違うかい?」
「東京で捜し出すことは滅多にありませんよ」
「旅師《はたし》にならんのは金の問題かね」
麦茶に菓子を添えながら田中は訊《たず》ねた。
「買いが専門の旅師は成立しないでしょう」
「セリ専門になりゃなんとかなるさ。苦労して客を見つけることもないしな」
「それだと、しょっちゅう地方の会に顔を出さないと……永く続ける気持もないし」
「そう言って気がつきゃ五十さ。耿介さんはいくつになった? 確か三十一か」
「直ぐに三十二」
「あんたは筋がいい。親父さんの方は説得してやろう。店を開いてもやっていける」
「そのうちお願いします」
耿介は苦笑して頭を下げた。
「今日はなんの用件だ。電話じゃ春信がどうとか言っていたが……」
「先月の浮世絵の入札会には?」
「行ったさ。千点を超える規模の大売り立てだったからな。版本《はんぽん》は少なかったが、お客に頼まれた品物もあった」
「取れましたか?」
「とてもとても。主催者の決めた下値が高すぎて手が出せるような品物じゃなかった。三分の二は値がつかなくて不成立だったらしい。話題になっていた写楽なんざ、下値が六千万だ。保存はまあまあだろうが、それに店への手数料を加えて最低でも六千六百万となりゃ、買い手だって二の足を踏むよ。二、三人は狙っていたはずだが、蓋《ふた》を開けて見たら入れ札は一枚もなし。まあ、あれで安心した業者もいるだろうな。七千万近くで売れたとなれば、今後の値に影響が出る。仕入れもそれだけむずかしくなるって勘定だから」
「写楽の下値が六千万か」
耿介は溜《た》め息を吐いた。もともと買える作品ではないので値段に興味を持ったことはないが、耿介が研究室にいた七、八年前は八百万前後が相場だった。単純計算でも年に一千万ずつの値上がりになる。
「北斎の『凱風快晴《がいふうかいせい》』は七千二百万で売れたよ。買った人間がだれかは知らんが、払った金はおよそ八千万だ。昔を知っている人間にとっちゃ気が遠くなるような値段さね」
「ゴッホに比較したら只《ただ》みたいなものでしょう。百億を超すのも普通になった」
「好きでもねえのに、金だけはあるって連中が幅を利かせるようになったからね。それにつられて若い業者も篝《あお》られている。いつまでかは知らんが、これが続けばこの業界もお終《しま》いだ。自分が荷担して上げた相場に自分が首を絞められかねんぞ。引き取ることも考えずに、ただただ仕入れてきちゃ派手な商売をしてる。近頃じゃすっかり客筋が変わったと言って『岩本』の親父さんが嘆いていた。二代目が商社や銀行相手の商売をしてるらしい」
耿介も頷《うなず》いた。『岩本』は神田に店を持っている老舗《しにせ》だ。決して安くはないが、保存のよい幕末期の浮世絵を扱っていて、耿介も昔はしばしば足を運んだものだ。
「なにしろ八千万で北斎が売れる時代だ。二、三万で芳年《よしとし》を仕入れて六、七万にするなんてのはバカバカしくてやっちゃあいられない。それよりは五千万も出して北斎をコレクターから引き出して商社に渡すのがいいに決まっている。理屈はその通りだがねぇ」
「本当に引き取る時が大変だな」
「面白いように話に乗って来るそうだ。商社や銀行は浮世絵のウの字も分からん連中ばかりだ。自分らでも知っている北斎や写楽となれば言いなりの値で手を出してくるとか」
「でも、写楽は不成立だったんでしょう」
「絵が今一つ有名じゃなかったからさ。『凱風快晴』の知名度とは比較にもならん。これが切手にもなってる鰕蔵《えびぞう》だったら簡単に一億はいったろうともっぱらの噂だ。あの勢いなら考えられる。果たして一億でも足りるものか」
田中は苦虫を噛《か》み潰《つぶ》した顔で続けた。
「ウチが扱っている版本なんぞ、写楽と同時代の初代|豊国《とよくに》の揃い物でもせいぜい三、四十万だってのに……呆《あき》れた時代だよ」
「春信も出品されていましたね」
耿介はカタログで見ている。代表作と言われる『座敷八景』ではないけれど、画集にも頻繁に掲載される作品だった。それの下値と成立値を知りたかったのだ。成立していればその値がすなわち相場となっていく。
「あれはどうだったかな」
田中は二階に立った。
しばらくして薄いノートを手に戻った。
「下値が千百。落ち値は千三百八十」
「下値が千百!」
「最近の景気に引っ張られて会主《かいしゆ》が目一杯につけたんだろう。それでも千四百近くになったんだから大したもんだ」
「信じられないな。じゃあ『座敷八景』の状態のいいやつが揃いで出たらどうなります」
「計算では二億近くしてもおかしくない」
異常だと耿介は思った。つい二、三年前まで三千万も張り込めばなんとかなると言われていた作品である。いや、北斎の『富嶽三十六景《ふがくさんじゆうろつけい》』にしたところで全揃い一億の評判を耳にしたのは最近のことのような気がする。それがたった一枚の『凱風快晴』で八千万。もちろん抜きんでた傑作であるから、それが平均値であろうはずはない。だが、浮世絵に詳しくない連中にこの相場を利用したなら二十億で売ることだって可能だ。
「これ以上は有り得ん……とは思うがね」
田中は自信なさそうに笑って、
「このところの肉筆の値上がりを見ていると際限がないようにも思えるな。大阪の帰りに名古屋にも寄って来たが、肉筆即売会の広告を見つけたんで顔を出して見た。普段は洋画を扱っている店らしかった。国芳の美人画に五千五百万の値がつけられていたぞ」
「………」
「版画の二十倍以上だ。こんなことは今まで考えられなかった。洋画の業者が浮世絵にまで触手を拡げてきたせいだ。版画よりは肉筆が高いという常識で値をつけてくる。買い手がいなければ、どんな値をつけようと勝手だが、何点かには赤丸があった。あの値段でも買う間抜けがいるってことさ。ちょっとした若手の油絵でも一千万を超える時代だ。それに慣らされていりゃ、国芳のその値段だって高いとは感じないに違いなかろうね」
「じゃあ、春信の肉筆十二本に七億の値がつけられたって不思議じゃないわけだ」
「あの偽物の春信かね」
「高すぎると思っていましたけど」
「我々の相場じゃ高い。一本千五百万にでもなればいいところだろう。一年前まではな」
「四カ月前で、しかも買い手が安本商事ではその値も妥当なところだと?」
「あれはだれが売った品物だったかね」
「そいつがはっきりしないんです。いずれ教えてもらう約束になってますが」
「教えてもらう?」
「仕事絡みなので……」
耿介は話を濁した。
「まさか捜しの仕事ではなかろうね。それとも安本商事がだれかに転売したとか」
「消えてなくなりました。けど、それは内密にするという条件で」
耿介の言葉に田中は目を円くした。
「安本商事などとは組まん方がいいぞ」
「なにか聞いてますか?」
「安本商事のやり方は徹底しててな。油絵は海外のオークションでしか買わん。反対に日本の古美術品は二つ三つの大手の店を窓口にするだけで、セリにはいっさい関わらん」
「冗談でしょう。そのやり方なら金をどぶに捨てているようなもんだ」
「儲《もう》かり過ぎての税金対策さ。海外のオークションは高くつくが、取り引きがそれだけはっきりしている。日本で二、三千万クラスの絵をいくつも買って伝票を揃えるよりも、印象派ならたった一つで十億や二十億になる。税務署もゴッホ辺りだと高くても当然だろうと簡単に認める。公開のオークションでは裏金の動いている可能性もないしな。金を派手に使うつもりなら海外のオークションが一番だ」
「………」
「日本の古美術については逆にセリを利用せず、大手の店と取り引きする。一流の店なら高くても贋作を掴《つか》まされる不安がない。ところが日本のセリの仕組みは外国と違って業者が中心の取り引きだ。いわゆるオープン方式じゃないんで出品審査も海外ほど厳しくはない。贋作が混じっている場合もままある。眼のない安本商事としたら信用のある大手の店から買うのが安全という理屈だ」
「要するに高くても本物なら損をしないって計算してるわけか」
「眼があれば、あんな春信にひっかかるはずもなかろう。あの会社にとっちゃゴッホも株券と大差がないに違いない。そんな会社と組んでもろくな結果にはならんぞ。美術品が好きで蒐集《しゆうしゆう》しているんじゃない。どんなに高く買ってくれようと儂《わし》なら願い下げだね」
「でも、それじゃおかしいな」
「なにが?」
「詳しくは聞いてないけど、あの春信は個人から入手したとか……今の話が確かなら、安本商事にとって有り得ない取り引きでしょう」
「個人としたら、よほど腕のいいやつに違いないな。あるいは来歴が確かだったとか」
「来歴の確かな偽物ってのはどうですかね」
耿介は腕を組んだ。
来歴と言うのは、間接的に作品の確かさを証明するものである。さまざまなケースがあるが、最も安全と見做《みな》されるのは権威ある画集に掲載されているとか、その作者の大規模な回顧展などに要請されて出品した記録があるものだ。いずれも研究者が真贋《しんがん》をチェックしたことになるので、無条件で本物と判断される。
「なんにしろ、素人にも直ぐに分かる確証がなきゃ安本商事が手を出すもんか。だいたい春信がどんな絵を描いたかも知らん連中さ」
「横浜の『ミナト』とは付き合いがありませんか?」
「『ミナト』の方で儂を相手にしねえよ」
田中はタバコに火をつけた。
「あっちじゃ、古本屋風情がセリに顔を出しやがってとバカにしてるだろう。まあ、格が違うから、そう思われても仕方がない。セリの会主になる店と、そのセリで五万、十万の半端物を目の色変えて買う店だ」
「あそこの親父が最初に春信が怪しいって言いはじめたんでしょう」
「『ミナト』は何十年も前から浮世絵の肉筆を専門に扱ってる店だ。そのぐらいの眼があって当たり前だろうさ」
「商売人が客の品物を贋作だと指摘するってのは道に外れてやいませんか?」
「その辺りの事情は聞いてないが……安本商事が浮世絵に触手を伸ばしたのは、あの春信がはじめてのはずだ。『ミナト』とは付き合いがなかったんじゃないのかい。『ミナト』としちゃ、確かな店からじゃねえと火傷《やけど》するってことを教えたかったのかも知れん。今後は『ミナト』を通すのが無難だってな」
「だれから手に入れたかも『ミナト』は薄々知っていたってことかな」
「恐らくな。たとえば『岩本』辺りが入れたと知ってたら、いくら『ミナト』だって仁義を通すさ。まず『岩本』にそれとなく注意して傷が深くならんうちに引き取らせる」
「いきなり春信が十二本も現われたんで『ミナト』もびっくりしたんでしょう。それで売り主がだれか探ったというところか」
耿介にも裏の事情が見えて来た。
「偽物ってのは変なもんでね」
田中は面白そうに、
「どんなに立派にできていても、だれかが怪しいって言いはじめると、途端にアラが見えて来る。正直言って安本商事が春信を買ったというニュースを目にした時にゃ、写真を見てずいぶん見事な春信だと感心したよ。だが、今度は偽物の疑いがあるって聞いて、あらためて見直したら、いかにも妙な春信だったねぇ。さすがに『ミナト』だと思ったもんだ。汚ない仕事をしてる野郎だが、眼だけは確かだ」
「汚ない仕事?」
「地方回りをしてて耳にしたことはないかい」
「『ミナト』が関係している話ですか?」
耿介は首を捻《ひね》った。
「耿介さんはセリに顔を出さんからな。地方の骨董屋《こつとうや》が最近よく口にする噂だが……」
「………」
「大勢の女どもを使って訪問販売みたいな真似をさせてるらしい」
「なんのです?」
「むろん浮世絵さね」
田中はクックッと痩《や》せた肩を揺すらせた。
「何十年とあの商売をしてる店だ。裏の倉庫にゃ抱き合わせで買わせられた屑《くず》や、保存が悪くて上客にゃ勧められない品物が山と積まれている。セリに出したところで一山いくらにもなりゃあしない。まあ、研究者の参考にはなるかも知れんが、その程度のものさ」
「そいつを……つまり?」
「耿介さんはむろん承知だろうが、浮世絵はおなじものが何枚も遺《のこ》されている。そんな屑の中にも、保存が悪いだけで、画集に掲載されているものと同一の品物をいくらも見つけられる。画集ったって無数にあるからな。昭和のはじめ辺りから勘定したら二、三百冊は出版されてるだろう。展覧会のカタログまで含めりゃ、その倍以上だ。海外の画集を加えたら途方もない数になる。丹念に捜せば十枚に一枚はなんらかの図録に掲載されているのを発見できるよ。浮世絵版画は保存が命だ。たとえ画集に収録されている傑作と同じ図柄であろうと、虫喰《むしく》いがあったり補修の痕跡《こんせき》があればぐんと価値が落ちる。最低二千万はする歌麿《うたまろ》の大首絵《おおくびえ》だって、色褪《いろあ》せしてりゃ十分の一。虫喰いが重なると三十万にもならん場合もある。浮世絵が好きで蒐《あつ》めてるお客さんは当然それを知っている。ところが……」
「買いはじめの人間には分からない」
「ってことさ。おまけに画集に掲載されてると知れば単純に名作だと信じちまう。業者やコレクターには一万でも通用しない品物が、上手《うま》く運べば五十万でも売れるわけだ」
「それは分かるけど、訪問販売ってのはどうかな。石鹸《せつけん》やゴム紐《ひも》みたいに安いものじゃない。手当たり次第に訪ねたところで――」
「そこが巧妙なとこさ」
田中はゆっくりと麦茶を啜《すす》った。
「女どもは、まず相手を絞る。儂の聞いた範囲では地方でボランティア活動をやっている金持ちの奥さん連中がよく狙われているようだ。恐らく、そういう名簿でも握っているに違いないが、女どもは最初に電話をかけて、相手の活動の成果を誉め称《たた》える。そして自分もまた別の地域でおなじような活動をやっている人間だと自己紹介をする。つい、最近、恵まれないアジアの子供たちのためにバザーを開催したらこれだけの収益が上がったとかな。たいていの人間は信用する」
「でしょうね」
「そこで本題に入る。実はそのバザーに浮世絵を無償で提供してくれたお年寄りが居る。自分たちは浮世絵の価値も分からないので、そのまま出品したら、親切なお客がやって来て、高いものもあるから粗末に扱ってはいけないと注意されたのだ、と」
「なるほどね」
耿介は苦笑した。
「びっくりして仲間が東京に持って行き、業者に調べてもらったら豊国とか国芳という有名な浮世絵師の作品がたくさんあった。業者は直ぐに買い取ると言ったが、仲間は安く買い叩《たた》かれると見抜いて持ち帰った。それから自分たちの俄《にわか》勉強がはじまった。画集に掲載されているような名作がいくつも見つかった。お年寄りにその結果を伝えたら、皆さんにお預けしたものだから有効に使ってくれと言われた。と言って自分たちには買い主を捜すアテがない。業者では相場の三分の一にも引き取ってくれない。それでこうしておなじような活動をしている人たちに連絡を取ってみることにした。だれか浮世絵の好きな人に心当たりはないだろうか……」
「電話している本人に売り込んでいるんじゃないわけだ。それなら騙《だま》されるな」
「相手は金持ちの奥さんだ。美術好きの医者や社長の三、四人は必ず知っている。なんとかなるかも知れない、と返事をすれば、一週間後にはその女が現われる。トランクから出された品物は屑ばかりだ。だが、その奥さんには分かるわけもない。女は画集やカタログのコピーを見せて、おなじものでしょうと示す。確かにその通りさ。そのついでに女は美術年鑑の浮世絵の項目を開いて見せる。あれには、その絵師の最高傑作の評価額が、現実の相場よりも倍は高く掲示されている。そうさな、国芳なら八百万くらいと書かれてあるだろう。そいつを知って奥さんが驚くって寸法だ。傑作ってのは画集に掲載されている作品のはずだ。なのに、目の前の女はたった七十万で売ると言っている。他人に紹介するよりは主人と相談して……と欲を出す」
「出来過ぎた話だな」
耿介は溜《た》め息を吐いた。
「嘘は言っておらんよ。おんなじ話を違う県の骨董屋からも聞いた。女どもは一人に売ると、芋蔓式《いもづるしき》に客を紹介してもらって屑を売り捌《さば》いておるようだ」
「バザーで手に入れたというのは本当の話かも知れないでしょう」
「女どもの住所が全部異なる。東京と言うこともあれば、山梨だと説明する女も居る。それに女どもの言葉が嘘だというはっきりした証拠があるのさ」
「へえ……どんな」
「一枚の明治の浮世絵を見せて、これはライデンの美術館で収蔵しているものとおなじだ、と言いながらカタログのコピーを示したそうだ。ライデンの美術館のカタログなんぞ、耿介さんは見たことがあるかい?」
「いや、オランダに行かなければ手に入らないものでしょう」
「主婦が逆立ちしたとこで、眺められるカタログじゃないさ。間違いない。この仕事の裏には知恵をつけている業者が居る」
今度は耿介も頷《うなず》いた。
「情報を得ている骨董屋が寄り集まって話をしてたら、どうも『ミナト』が臭いってことになった。女どもの何人かが、値段を調べてもらった東京の業者として『ミナト』の名を挙げていたってわけだ。こっちもピンと来たね。値段を調べる程度なら東京にはそういう店が五万とある。別に浮世絵の専門業者じゃなくても教えてくれるさ。それなら『ミナト』が日本一かって言うと、まだまだ上がある。よっぽどの繋《つな》がりでもなけりゃ『ミナト』の名が直ぐに口に出るはずはなかろう。きっと客にでも訊《たず》ねられて、うっかり喋《しやべ》っちまったんだよ。たった一つだけ知っている店の名前をな」
「あくどい商売をしてるな」
「まったくさ。女どもは歩合で働かされてるんだろうが……呆《あき》れた手口だ。どうせ倉庫に腐らせている品物だ。『ミナト』にすりゃ半分の歩合を払っても御の字だ。使われている女の方も一枚売って、二、三十万の儲《もう》けになるんなら全国どこにでも足を運ぶ。一人や二人ならタカが知れてるが、三十人も雇えばバカにならん。仮に一人の女が月に二百万の売り上げがありゃあ、『ミナト』の取り分は百万。三十人で三千万が懐に入る」
「女を使って女を攻める……か。売り手も素人なだけに信用されやすい」
「黒幕は『ミナト』だが、こいつはあの親父の考えじゃなかろう。在庫が増え過ぎて頭を抱えていた親父に知恵を授けた人間が別にいるはずだ。男がこんなセコい仕事を思いつくわきゃあねえ。どう見ても女のアイデアだ」
「心当たりでもありますか?」
「『こまくさ』辺りと睨《にら》んでるがね」
駒井みどりの店の名を田中は口にした。
耿介も想像していた名前だった。
「耿介さんは『ミナト』の親父と『こまくさ』の繋がりを聞いてねえかい?」
「噂程度はね」
耿介は曖昧《あいまい》に応じた。
「噂よりは怪しい関係でもないらしいが」
「そうですか」
「親父が惚《ほ》れているのは確かさ。『こまくさ』はそいつを上手く扱っている」
「参ったな」
耿介は笑うしかなかった。
「安本商事の話の仲介者は、実を言うとその『こまくさ』なんですよ」
「それで『ミナト』の話なんぞを持ち出したってわけかい」
田中も苦笑した。
「ここだけの話にして下さい」
「そいつはいいが……『こまくさ』ねぇ」
「こっちにも多少の因縁がある。直接の交渉は避けて藤枝さんを間に立てました」
「そうしな。『ミナト』の親父を手玉に取るほどの女だ。耿介さんにゃ扱いかねる」
「会ったことはありますか?」
「若い連中にゃ、やたら評判がいいようだが、この歳になると危なっかしく見えて仕方がねえ。ありゃあ男を駄目にする女だぜ。耿介さんも気をつけるがいいよ」
「それは大丈夫だ。こっちがその気になっても、向こうが相手にしてくれない。無駄な興味は持たない性質《たち》だから」
「そういうのに構いたがる女もいるのさ」
「危ない気配を感じたら相談に来ます」
有り得ないと思いながら耿介は言った。
〈あったはずだ……〉
上野で映画を観てラッシュをやり過ごし、目黒《めぐろ》駅前のいきつけの店で食事を済ませた耿介が柿《かき》の木坂《きざか》のアパートに戻ったのは九時近かった。
奥の部屋に入ると耿介は片隅に積み重ねられている『美術新聞』を捲《めく》りはじめた。田中と話していて、問題の春信の写真がこの新聞に掲載されていたのを思い出したからだった。安本商事が新発見と銘うって華々しく紹介したものである。どうせ何日後かには藤枝を通じてみどりから十二本全部の写真をもらえる約束になっているが、家にあれば見ておきたい。しかし、半年以上も前の新聞まで保存していたか耿介にも自信がなかった。『美術新聞』は月に三度の発行といっても、その分頁が厚い。半年も溜《た》めると結構な量になる。学生の頃なら浮世絵に関係のある記事は必ず切り取ってファイルしていたが、今ではその情熱もない。直ぐに読み捨ててしまわないのは単なる習慣だ。
が、幸いに残されていた。
その号を手にしてキッチンに戻った。
冷蔵庫には瓶入りのバドワイザーと黒ビールを買い溜めてある。喉《のど》が渇いていたのでバドワイザーだけを取り出して栓を抜いた。そのまま口をつける。一人暮らしは洗いが面倒だ。保存してある食べ物もほとんど食器の要らない冷凍ピザとかインスタント食品だ。
〈なるほど、よく出来ているな〉
新聞には十二本のうち二本が大きく紹介されていた。
鈴木春信は今よりおよそ二百二十年前、明和《めいわ》年間に作画期を持ち、絶大な人気を誇った絵師である。可憐《かれん》な美人絵を得意とし、後に登場した鳥居清長《とりいきよなが》、喜多川《きたがわ》歌麿とともに三大美人絵師の一人として今に評価されている。
健康的で日本人離れした八頭身美人を描いた清長や、妖艶《ようえん》な遊女を画題に選ぶことの多かった歌麿に比較すると、春信の描いた女性には常に少女の純潔さが窺《うかが》われ、不思議の国のアリス的なエロティシズムが漂っている。中国の影響だろうが、手足が極端に小さく描かれていることが少女を連想させるのだ。
歌麿や清長に較べれば春信の知名度は少し低いようだが、それは今の日本人の好みの問題で、外国ではむしろ歌麿を凌《しの》ぐほどの人気だ。我々から見ると中国的な少女も、外国人の目には典型的な日本美人と映るのであろう。小柄で愛らしい少女が彼らの求めてやまない日本女性のイメージである。大柄で開放的な清長の美人画は、我々にとっては憧《あこが》れの存在でも外国人にはありきたりの美人に過ぎない。歌麿についても同様だ。だらしなく胸をはだけて湯上がりの肌に風を送る女や、煙管《キセル》を片手に不倫の恋の清算に悩む女の姿などは彼らの性に合わない。いかにも日本的なエキゾチシズムが外国人の望むものだ。エキゾチシズムと言えば聞こえがいい。これは裏返すと蔑視《べつし》である。
永い鎖国がとかれて日本を訪れた西洋の男たちにとって、日本は天国に思えた。女が男に隷属している社会なのだ。レディファーストが常識の世界に暮らしていた彼らにはまさにドリームランドと感じられただろう。彼らは争うように日本の女性を妾《めかけ》に抱え、金で自由にした。明治のお雇い外国人の時代から、進駐軍の駐留していた戦後まで、この基本姿勢は変わっていない。今の日本人の男が韓国や台湾、東南アジアに足繁《あししげ》く買春ツアーにでかけることと一緒だ。経済力に格差があって、しかも女性が男を大切に扱う。もし、その国に浮世絵とおなじものがあれば、我々だってその国の女性のイメージに近い作品を持ち帰る。むろん底辺には蔑視の隠された、隷属物としての女性のイメージだ。対等の存在とは見ていない。清長や歌麿の作品よりも、春信のものを選ぶ。汚ない言い方になるが、自分の相手をした女はこういう感じだったと記憶に留《とど》めておきたいのだ。現に春信の美人画は当時のお雇い外国人たちによって大量に海外へ持ち出された。美術品としてよりも、彼らの日本の思い出として。
日本にはあまり愛好者のいない初期の浮世絵が、海外では高く評価されているのも、あるいは春信の影響かも知れない。
春信は初期から黄金時代への橋渡しをした絵師なのだ。
それを理解するとしないでは、相当な差が生まれる。菱川師宣《ひしかわもろのぶ》によって創始された初期版画の集大成が春信だと言っても過言ではない。春信に興味が湧かなければ、その前の時代にもさほどの関心が持てなくなる。反対に春信を頂点と捉《とら》えるなら、当然その周辺に目が行きわたるという結果になる。初期版画の研究者は圧倒的に外国人で占められているのだ。日本人は春信の活躍した明和年間から二十年離れた寛政《かんせい》年間を浮世絵の黄金期と見倣《みな》し、その代表絵師である歌麿を軸に興味を広げて行く傾向にある。一つの時代を形成した春信までは手が届くが、その先にまではなかなか触手が伸びて行かない。創始者の師宣の存在は別格として、師宣から春信に至るおよそ百年の間に名を馳《は》せた鳥居|清信《きよのぶ》・清倍《きよます》親子、奥村|政信《まさのぶ》、奥村|利信《としのぶ》、西村|重長《しげなが》、石川|豊信《とよのぶ》、鳥居|清満《きよみつ》たち巨匠の名をいったいどれほどの日本人が知っているだろうか。いずれも浮世絵の世界に新たな潮流を生み出した天才たちである。春信さえも四十近くになるまで彼らの名声の陰に隠れて不遇をかこっていた。
もし春信が明和のはじめに巻き起こった絵暦《えごよみ》の大流行という幸運と巡り合わなければ、恐らく生涯二流絵師で終わっていたはずだ。絵暦とは文字通り絵と暦とを組み合わせたものだ。ただし、暦の上に絵が描かれているといった単純な構図ではない。一見、なんの変哲もない絵の中に巧みにその年の暦が隠されているものである。
当時の暦は『大小』と言って、今のように三百六十五日を細かく表示したものではなかった。大の月は三十日、小の月は二十九日。その年は大と小の月がどれに該当するかを示すだけである。これは月の満ち欠けによって毎年決められた。月が地球を一回りする周期はだいたい二十九日と半。これが一カ月となる。けれど半分という日があっては困る。そこで三十日を一カ月とする大の月と、二十九日を一カ月とした小の月を考案した。二つを平均すれば二十九・五日。基本的にはこれで辻褄《つじつま》が合う理屈だ。
だが、地球は太陽の周りを公転している。その周期は三百六十五日。もしすべてを大の月にしたところで一年に五日も足りない。月の満ち欠けを中心にして単純に暦を作成していけば、季節がずれていくのである。暦の上では真冬なのに、道端にはひまわりが咲いているなどということにもなりかねない。その上、季節によって月の周期も微妙に変化する。一年十二カ月の大小を季節に合わせて決定するには今の我々が想像する以上に複雑な計算が必要だった。大の月を四カ月連続させたり、甚だしい時は閏月《うるうづき》を加えて大調整を施した。閏の三月となると、正規の三月に引き続いて新たな三月がまるまるはじまるのである。六九二年|持統《じとう》天皇の代に暦法が制定されてから、太陽暦に代わった一八七二年(明治五)までの千二百年の間に大小がきちんと交互に繰り返された年は驚くべきことに、たった一度しかないのだ。
その状態では新たな年の大小を知ることだけが重要で、他は瑣末《さまつ》な問題となる。従って暦も味気無いものになる。細長い紙に大と小の月を縦に並べただけである。
味気無い割合に暦は年中利用するものだ。
そこに金持ちの数奇者《すきもの》たちが注目した。
なんとか工夫ができないものか、と。
一年中飾って飽きない暦が欲しい。
彼らはアイデアを競って暦を試作した。だが絵は専門家ではない。そこで浮世絵師に依頼する。著名な絵師は自分の仕事が手一杯で金持ちの道楽にまでは付き合ってくれない。仕方なく、かどうかは不明だが、実力はあっても人気が今一つだった春信に口がかかった。春信は張り切って期待に応《こた》えた。なにしろ金持ちの道楽だ。金に糸目がつかない。競争だからどんどん製作費用もエスカレートする。
その過程で浮世絵にとって画期的な新技法が誕生した。いわゆる多色摺《たしよくず》りだ。筆で色を塗るのではなく、すべての色を木版を使って印刷することが可能となったのだ。それまでにも二色や三色の印刷技術は完成されていたのだが、紙の強度や商品として採算が取れない等の難点が立ちはだかっていて、それ以上の技術が停滞していたのだ。春信は背景までも色で塗り潰《つぶ》すことによって多色摺りの長所を最大限に発揮させた。これには依頼した人間たちも驚愕《きようがく》したことだろう。春信の作品はこれまでの浮世絵と一線を画して「錦絵《にしきえ》」と呼ばれはじめた。まるで錦のようにきらびやかな絵、という意味である。
春信は絵暦の世界から離れて独自の作品を描くようになる。もちろん値段は高い。最低でも従来の五倍以上はしたと記録にはある。分かりやすい譬《たと》えで言うなら白黒テレビの世界にカラーテレビが登場したのと同一の衝撃だったに違いない。人々は争って春信の作品を買い求めた。あっと言う間に春信は頂点に上り詰めた。浮世絵の世界にも追随者が増大した。
明和二年の絵暦ブームの到来から春信が亡くなる明和七年までの僅《わず》か六年の間に、彼は実に六百枚を超える作品を発表した。人気がいかに凄《すさ》まじかったかを証明する数字だ。それにしても四十六の享年は若すぎる。過密な仕事による過労死でもあったのだろうか。
春信が普及させた錦絵は、以降、浮世絵の基本となる。春信の出現によって浮世絵は本当の黄金時代を築きはじめるのである。
耿介は引き出しからルーペを取って来ると写真の隅々にまで目を通した。
〈田中の親父さんの言う通りだ〉
贋作《がんさく》と思って眺めれば確かに春信の持ち味とはちょっと違う感じもする。縁側に浅く腰を下ろして夕涼みをしている娘の表情には少女を通り越した女の色気が漂っていた。だが、決して下品ではなかった。春信らしくないというだけで、線には迷いも見られない。
〈問題はこいつだった〉
耿介は女の持つ団扇《うちわ》にルーペをかざした。
役者絵の描かれた団扇で、そこには春章の名が小さく書き込まれている。勝川《かつかわ》春章は春信の時代から人気のあった絵師で役者の似顔絵を得意としていた。北斎は最初この春章の門に学んだ。確定はしていないが、春章はまた春信と同様に大坂《おおさか》の西川|祐信《すけのぶ》と繋《つな》がりがあったとも想像されている。春信は祐信の弟子で、一方の春章は祐信の隠し子という推定だ。ともに研究者の林|美一《よしかず》氏が唱えている。真偽はともかく、春信の版画には、この肉筆とおなじように春章の団扇絵を画面の中に描いているものが存在する。他人のものを自分の作品中に小道具として用いるのはあまり例がない。親しい関係にあったとみるのが自然だ。その意味では、肉筆に春章の団扇絵が描かれていても不思議ではない。
が、そこに重大な傷が発見された。
団扇に描かれた役者は三代|大谷鬼次《おおたにおにじ》で、安永《あんえい》三年に中村座で演じられた時の鬼王《おにおう》の役ではないのか、と『ミナト』の青木より疑問が投げかけられたのだ。
安永三年では妙なことになる。春信が没して四年が過ぎている計算だ。
研究者の調査によってそれが実証された。手本に用いたと思われる瓜二《うりふた》つの春章の版画が確認されたのだ。色遣いも似ている。時代も当時の芝居番付と照らし合わせてみた結果、疑いはなかった。明らかに肉筆の中の団扇に描かれているのは安永年間の大谷鬼次である。とっくに死んでいる春信が彼の演じた鬼王を見られたはずはない。
こうして春信の肉筆はあっさりと贋作であるのが証明されてしまった。贋作者は情況証拠を付け加えるつもりで春章のオリジナルをそっくり引き写し、逆に墓穴を掘ったということになる。
同様に他の十一本も贋作と判断された。
どんなに安本商事が本物だと頑張っても通用はしない。線がまったく同一の上に、その十二本は『十二カ月のうち』と題された連作だったのだ。研究者ならずとも、だれもがそう思う。写真が公表された二枚を除いて、他の十本は陽の目を見ることなく、ふたたびいずこかに消えてしまった。
〈安本商事が固執したのも分かるな〉
田中は安本商事に眼がないと笑っていたが、見事な作品である。発覚した一本については諦《あきら》めるにしても、もしかして他の十一本は、と安本商事が期待をしたとておかしくはない完璧《かんぺき》さだった。もし、団扇絵というケアレスミスさえ犯していなければ、あるいは今でも真贋の論争が続いていたかも知れない。
〈あの会社も運がない〉
公表した二本が別の作品だったら違う展開になっていただろう。
〈だが、いずれ一緒か〉
早いか遅いかの問題だけで、十二本全部が一般公開された時点で結果はおなじになる。
〈この手で触れてみたい〉
耿介は久し振りに興奮を覚えた。贋作としても、いつの時代に拵《こしら》えたものか、あるいは肉眼で見る線はどうなのか。そもそも十二本揃いの贋作が非常に珍しい。どんなに苦労して描いても一点が偽物と発覚すれば今度のようにすべての努力が無駄となる。普通はそんな危険を避ける。耿介の知っている範囲では、襖絵《ふすまえ》や画帖《がちよう》を除くと、多くても三幅対までだった。贋作者は自信があるからこそ十二本もの連作を手掛けたのだ。
耿介は何本目かのバドワイザーの栓を抜いた。たとえ依頼主がだれであろうと、必ずこいつを捜し出してやる、と耿介は決めた。
勝負を挑む感覚に近い緊張が漲《みなぎ》った。
翌日の午後。
耿介は銀座の資生堂《しせいどう》パーラーで藤枝と向き合っていた。朝に青山の店へ電話を入れたら銀座の同業者の店にでかけたと愁子から聞いたので、連絡を取ってもらって待ち合わせをした。話がはじまると藤枝は、
「安本商事に売ったやつを捜す? おいおい、おまえさんの頼まれたのは春信を片手にとんずらしたやつの方じゃねえか」
呆《あき》れた口調で問い質《ただ》した。
「どうやら、ただの偽物騒ぎじゃ収まらないような気がして。安本商事が個人から買い入れするとこじゃないのは知っていますか?」
「絵画に手を出しはじめて、まだ日が浅いからな。安全策だろ」
「二、三百万の品物ならともかく、七億ですよ。いくら安本商事だって慎重に対処する。ましてや浮世絵を買うのはあれがはじめてだったそうです。研究者に付き合いがなくても、出入りの美術商に意見を聞くぐらいは常識でしょう。なのに安本商事はあっさりと買った。店という信用もない個人からね」
耿介の言葉に藤枝も頷《うなず》いた。
「そいつがどうしてもひっかかるんです。絵には疑いをさし挟む余地のない保証があったとしか思えない。だったら、なぜあんなに簡単に見破られてしまったのか……仕事の解決には繋がらないかも知れませんが、それをすっきりさせておかないと考えが進まない」
「いかにも。言われりゃその通りだ」
「だいたい、どっちも行方不明ってのが普通じゃない。偽物が発覚して逃げたってのは、いかにもそれらしい理由だけど」
「二人の失踪《しつそう》には関係があるとでも?」
「だから調べてみたい。一人を追いかけるよりは、二人の方が楽です」
「そいつは逆と違うかい。二兎《にと》を追う者は一兎をも得ずってことわざもある」
「手掛かりが多ければ別ですが、今度は少し厄介な仕事になりますから」
「まだ先方から詳しい話も聞いてないんだぞ。耿介にしちゃ珍しく弱気なご発言だな」
「警察が何カ月も捜して発見できない相手ですよ。春信を持って逃げた男には家族からの捜索願が出ているはずだ。それでいまだに行方が分からないんだから……たった一人の俺になにができるって言うんです? 正直言って自信はまったくありません」
「そうか……うっかりしてたぜ、いつものように耿介が軽く捜し当てるもんとばかり」
「絵とは別だ。人間には足があるんです。骨になっていれば顔の見分けもつかなくなるし」
「死んでるってのか」
「失踪と自殺は重なってもおかしくない」
「引き受けろと勧めたのは俺の早トチリだったかもな。絵が絡んでいたんで、いつもの仕事とおんなじだと呑気《のんき》に構えたが……」
藤枝は目に不安を浮かべて、
「発見したものの、死体じゃゾッとしねえ」
「まあ、仏さんには慣れていますから」
「そうか。おまえさんの実家は寺だった」
「それでも、相手が死んでいたら手掛かりがそこで跡絶《とだ》えてしまう。安本商事の依頼は人捜しだけですけど、最終的な狙いは春信を取り戻すことでしょう。相手が死人なら税務署に証言してくれるわけがない。結局、取り戻すしか方法がなくなる」
「別勘定にしてもらわんと割が合わんな」
「無理ですよ。それを言ったら、じゃあ人捜しは中止して春信を見つけてくれと切り返してくるに決まっている」
「それも道理だ」
藤枝は笑って首を振った。
「むしろ知らんぷりして続けるのが正解か。死人でも契約は成立する。その上で俺が安本商事から新規の契約を取ってやるよ」
「安本商事は春信を盗んだ相手が生きていると確信を持っているんだろうな。でなきゃ、最初から春信をと言ってくるはずです」
「どうかね。これで相手が死んでいるかも知れないって口にするのは厭《いや》なもんだぜ」
「安本商事に直接質問できないのは辛《つら》い。駒井さんが途中で嘘を挟む可能性もある」
「嘘を挟む?」
「結局は安本商事の脱税に関係した問題じゃありませんか。売り手もいないとなれば七億の値だって怪しいものだ。駒井さんだって安本商事から固く口止めされているに違いない。それを我々に全部正直に打ち明けるとは思えない。嘘はつかないまでもポイントを隠す程度は」
「考えられる。下手すりゃ脱税の証拠を握った俺たちが恐喝しないとも限らんからな」
「興信所を頼らなかったのもそれが一番の理由じゃないですか。弱味を握られると後が怖い。ひょっとしたら俺の仕事をしつこく調べたのもそれと関わっているのかも。規模こそ違うが我々も裏の仕事をしている。釘《くぎ》を刺《さ》したつもりなんだ」
耿介が言うと藤枝は顔色を変えた。
「その推理が当たっていそうだ」
やがて藤枝も頷いた。
「やっぱり一筋縄じゃいかん女だ。こいつは今からでも断わるのが利口かも知れん」
「やります。たとえ彼女からの情報が得られなくてもね。意地でも捜してやる」
「意地は結構だが、情報が期待薄となりゃ、どうやって捜す」
「とりあえず彼女に頼んでみて下さい。安本商事に春信を売った人間のことを知りたい」
「関係ないと突っ撥《ぱ》ねられたら?」
「関係ないからこそ、それについては正直に教えてくれる可能性があります。安本商事が春信を買ったのは周知の事実です。今さら隠すような問題じゃないはずだ」
「駒井みどりを通り越して安本商事の担当者に直接|訊《き》く方法もあるぞ」
「上手《うま》い手がありますか?」
「雑誌社の人間に同行して取材のフリをしたらどうだ? そうして入手の経緯を聞き出せばいい。耿介は向こうに顔を知られていない。たいがい大丈夫さ。その程度なら無理を聞いてくれそうな記者を知っている」
「取材に応じますかね」
「安本商事が春信の紛失を世間にひた隠ししているのが狙い目だ。真贋《しんがん》特集の企画の段階だと言って面会を申し込めば、向こうだって簡単には断われんだろう。無下に拒否をすりゃ、かえって不審を持たれる。一応は取材を承知した上で、それらしい嘘をつこうとする」
「駒井さんにバレたら面倒になるな」
耿介はさすがに逡巡《しゆんじゆん》した。
「なら、あいつ一人で行ってもらうか。それなら駒井みどりに伝わってもごまかせる」
「どこまで説明してです?」
「安本商事に春信を売ったと思われる人間が、東北に現われて同様の手口で油絵を捌《さば》こうとしている、とでも言えば充分だろう。それで、どんな素性の人間か詳しく知りたいと頭を下げりゃ、張り切って調べに行くと思うね。その男と接触したのは安本商事だけなんだから」
「どこの雑誌社の人です?」
「芸潮社《げいちようしや》。檜山《ひやま》という男だ。歳は耿介よりも三つ四つ上だったかな。頭も切れる」
耿介は頷《うなず》いた。芸潮社では『美術芸潮』という総合美術雑誌を発行している。
「他人を巻き込みたくない気持も分かるが、嘘の混じった情報に惑わされるよりは、その方がいいぞ。初手で道を誤れば修正が厄介だ。やつがそれ以上の関心を持たんように俺がなんとかはぐらかす。任せてくれ。やつなら本物の記者だし、取材のプロだ。きっと耿介の知りたい情報を手にして帰るよ」
「じゃあ、駒井さんの前では売った人間に関して我々がいっさい興味を持っていないフリをしていて下さい」
「分かった。こっちは春信を持って逃げた男についてだけ情報を要求すればいいんだろ」
「なるべく早く手掛かりが欲しいんですが」
「山ちゃんには今日にでも連絡を取る。上手く運べば明日か明後日《あさつて》には話が聞けるさ」
藤枝は請け合った。
「それと……」
耿介は話題を変えた。
「愁子さんはどこまで知っているんです」
「今度の件かい」
「電話で、駒井さんの仕事ねと言われました」
「これまでの仕事と違って俺が情報の窓口となりゃ、駒井みどりからもウチに頻繁に連絡が入ってくる。ある程度は愁子に事情を説明しておかないと留守の役目が果たせない。心配ない。人捜しとなれば立派な仕事だ。ヒマを見込まれて耿介が頼まれたんだと説明したら納得してたぞ」
「なるほど。人捜しなら立派な仕事か」
耿介は苦笑いした。
「愁子は耿介に惚《ほ》れてるんじゃないのか」
いきなり藤枝は言った。
「なんです、突然」
「駒井みどりをやたらと気にしてたからさ。ありゃあ耿介の身を案じてるんだぜ」
ニヤニヤと藤枝は耿介の顔を観察した。
「ま、不肖の兄の言葉だが、愁子は悪くない女だ。あれでなかなか料理も上手い」
どこまで本気なのか藤枝は笑った。
「駒井さんを気にしているのは他の理由です。藤枝さんの嫁さんにどうかと」
「俺の?」
「盛岡でそんなことを言っていた」
「妹に将来を心配されたらお終《しま》いだな」
「一応は似合いのカップルでしょう。藤枝さんもなかなか渋い二枚目だもの」
俳優で言えば若林豪《わかばやしごう》に似ている。
「薄汚ない夫婦ができあがるぜ。脱税の得意な画商と女狐なら確かに似合いだろうがね」
「藤枝さんは違いますよ」
「一緒さ。分は心得ている」
藤枝は真面目な顔をして伝票を取り上げた。
待ちに待った連絡が三日後に藤枝から入って、耿介は指定された新宿の喫茶店に出向いた。店の入り口近くに藤枝の姿を見つけた。藤枝は同年代の男と話し込んでいた。目が合うと男はくだけた感じの笑いを見せた。
「東北を荒らし回っているやつは、安本商事に春信を売り込んだ男とは別人だとさ」
藤枝は席に着いた耿介が自己紹介する間も与えず口にした。そっちについてはケリがついたから余計なことは言うな、という目配せをする。耿介は頷いて檜山に名乗った。
「あれはなにか裏にある」
互いに紹介を終えると檜山は藤枝との話を続けた。
「今さらなんの目的で春信を調べる必要があるんだって、しつこく追及されてね」
「そりゃあ自慢できる話じゃない」
「電話を入れた時から妙だった。仕入れの担当者が出張中だとか、その春信は大阪の支社に保管してあるとか……こっちがなんにも訊いていないのに弁解ばかりだ。絵が見たいんじゃなく、売り手が最初から偽物と分かって持ち込んだのか、本物と信じていたのか、そこのところを知りたいだけだと言ったら、ようやく面会が許された。なにを心配したのか、さっぱりわけが分からんよ」
「耿介にもさっきの話をしてやってくれ」
藤枝は話をそらせた。
「東北などにその男が現われるはずはないよ」
檜山は断定した。
「安本商事に春信を売った男は外人なんだ」
耿介はぽかんとした。
「安本商事と付き合いのあるメーカーの営業部長からの紹介だったそうだ。美術が好きな人間でニューヨークによく仕事で行く人間だったとか」
それなら、春信を持って逃げた遠藤輝夫と同一人物に相違ない。耿介が藤枝に視線を動かすと、藤枝も小さく首を振った。
「ことが偽物絡みなんで安本商事はそのメーカーの人間の名前を教えてくれなかった。今でもそのメーカーとは取り引きがあるようだから、仲介した営業部長には罪がないと判断したと見える。いや、そればかりじゃない。持ち込んだ外人も本物と信じていたはずだ、と」
「ずいぶんと鷹揚《おうよう》な態度だよな」
藤枝は鼻で笑《わら》った。
「本物と信じられる根拠があったんですね」
耿介の目が光った。
「マイヤー・コレクションに入っていた春信なんだよ」
「すると、メトロポリタン美術館の?」
耿介は意外な話に戸惑いを覚えた。アレックス・マイヤーは今から七十年ほど前に繊維産業で財を成した人間だ。原料である絹の取り引きの関係から日本とも繋《つな》がりが深く、当時の著名な親日家の一人である。儲《もう》けた金のほとんどを美術品の蒐集《しゆうしゆう》に費やし、特に日本の肉筆コレクションは名高かった。だが、紡績産業の衰退とともに会社は凋落《ちようらく》の道を辿《たど》り、現在では見る影もない。コレクションの散逸を恐れたマイヤーは遺言でそれらをニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈した。が、いざその時が来てみたら、コレクションはものの見事に解体されていたのである。遺族は本人が生活資金のために売り払ったと主張した。遺言書は亡くなる五年も前に作成されたものだった。遺族の主張を覆す証拠はなにもない。メトロポリタンには全体の二割にも満たない作品が寄贈されたに過ぎなかった。
それでもかなりの数に達した。
日本の肉筆は浮世絵も含めて百本を数える。そのどれもが傑作に値するものばかりだ。肉筆の真価が認められていなかった昔だからこそ蒐集できた作品である。寄贈品がこれでは、闇に消えたものの中にはもっと優れた作品があったに違いないと研究者は嘆息した。実際、それから今までの間にマイヤー・コレクションから流れたものと思われる名作が続々と発見されている。
「マイヤーとなったら安本商事が信用したのも不思議じゃないな。マイヤーのもので怪しい評判が出たのは一度もない。よっぽど優秀な鑑定家をブレーンにしていたんだ」
「間違いなくマイヤーだとしたらでしょう」
藤枝に耿介は言った。
「それは間違いない」
檜山が説明した。
「収蔵品リストにちゃんと写真入りで掲載されている。この目で見せられて来た」
「マイヤーのリストがあるんですか」
「マイヤーが亡くなる十五年前に纏《まと》められたものでね。その後も蒐集が続けられただろうから全部とは言えないが……分厚いものだ」
「それにあの春信が」
「小さい図版だったが確かにおなじだった」
檜山は保証した。
「あのマイヤーでも騙《だま》された品物だ。安本商事が偽物と見抜けなかったのも当然だね」
「持ち込んだ外人と言うのは?」
「マイヤーの縁者だったらしい。一族がコレクションを隠したという噂は、事実だったんだな。だから安本商事も入手に関しては口外しないでくれと念を押された。偽物と分かったんで俺にはその事情を……もちろん、記事にはしないという条件つきでさ」
「だとしても……」
耿介にはまだ不審が渦巻いていた。
「非公開の個人コレクションですよ。いくら筋がいいと言っても贋作《がんさく》が混じっていないとは限らない。単にマイヤーが持っていたというだけのことじゃないですか。安本商事が鑑定に出そうともしないなんて」
「メトロポリタンが鑑定済みのものだった」
「……?」
「マイヤーはだいぶ前からメトロポリタンに寄贈する意思があったようだ。特に日本画のコレクションについてはね。それでメトロポリタン自身に鑑定をさせていた。どういう約束がなされたものかは知らないが、そのリストにMの記号が記されているものがあった。たいていが後になってメトロポリタンに寄贈された作品だ。遺族もそれを知っていて、それらに関しては多少遠慮したものと想像される。それさえ渡せばメトロポリタンもうるさくは追及しないと判断したのかも知れない。あの十二本の春信にもその記号がある。現実に、持ち込んだ縁者もMはメトロポリタンのことだと断言したそうだ」
「だれが鑑定したか分かりますか?」
「リストの序文を当時のメトロポリタンの東洋部長が書いている。恐らく彼だろう」
檜山はメモを取り出して名を教えた。初期浮世絵の研究者として世界に名の聞こえた人物だった。それなら申し分がない。今生きている下手な鑑定者よりはずっと信用が置ける。安本商事もそう考えて当たり前だ。
「彼でも見誤った春信を『ミナト』があっさりと見破った。やはり浮世絵は日本が本場なんだな。あらためてそれを感じたよ」
檜山は感心した顔で付け加えた。
「運もあります」
耿介は反論した。
「きっと彼は全体の雰囲気で判断を下したと思いますよ。それで団扇絵《うちわえ》を見落とした。もし十二本が一度に公表されていたら『ミナト』でもあれに目が留まったかどうか。たった二本だったので隅々の点検ができたんです」
なるほど、と檜山も頷《うなず》いた。
「売った外人の名前と住所は?」
藤枝が檜山に質《ただ》した。
「そこまでは無理だった。仲介したメーカーの営業部長に訊《き》けば分かると思ってこっちも深追いを避けた。なあに、捜せば簡単に見つけられるさ。安本商事と繋がっているメーカーの部長で美術好きとなれば手掛かりは充分だ。二、三日で突き止める自信はあるよ」
「いや……もういい」
藤枝は即座に断わった。その男が蒸発していると檜山が知れば面倒になる。
「名前や住所が分かったところでアメリカまで行く用事もないしな。その外人だって今度の一件で懲りているだろう。意図的に贋作を持ち込んだんじゃないと分かればいいんだ」
「君は菅谷さんの研究室にいたそうだね」
檜山は耿介と向き合った。
「どこかであのリストが手に入らないかな」
「……」
「安本商事にも頼んでみたが貸してくれない。ちらっと眺めた程度でも有名な美術館に収まっている作品がいくつかあった。俺にも分かるぐらいなんだから専門家が見たらもっと捜し出すだろう。ちょいと面白い企画ができそうだ。マイヤーから出たものとは知らずに飾られている作品もあるはずだ。それらの写真を世界の美術館から借り受けて一堂に集めれば、幻のマイヤー・コレクションが誌上に再現できる」
「コピーなら安本商事だって――」
「それも頼んだが断わられてしまったよ。どこか心当たりがないかな」
「リストはいつ頃に出版されたんです?」
「亡くなる十五年前と言ってたから……だいたい四十年は昔じゃないかい」
「きっと私家版だろうな」
「アメリカの図書館にでも問い合わせる他にないかな?」
「だと思います。研究書や画集なら海外のものも菅谷先生の研究室にはだいたい揃えられているんですが、個人コレクションのリストとなると……ましてや時代が時代ですからね。恐らく日本ではむずかしいでしょう」
耿介が言うと檜山は失望の色を浮かべた。
仕事があると言って檜山が帰ると藤枝と耿介の二人は同時に溜《た》め息を吐いた。
「まさかアメリカ人とはな」
耿介は唇を噛《か》んだ。
「行くわけにはいかんぞ。経費は払うと約束しても、アメリカとなりゃ別だ。請求すれば耿介が売り手に興味を持っていることが直ぐに駒井みどりにバレちまう。といって耿介の持ち出しってわけにもいかん。百や百五十は消えちまう。諦《あきら》めるしかないぜ」
「それより、檜山さんが心配です。相当に関心を抱いたようだ。あの調子なら蒸発した営業部長を捜そうとするんじゃないかな」
「マイヤー・コレクションなんて、想像もしない餌《えさ》がぶら下がりやがったからなぁ」
「春信の写真はどうなりました?」
耿介は催促した。駒井みどりから預かったと電話で聞いている。藤枝はバッグから大きめの角封筒を抜き出してテーブルに置いた。
「大したもんだよ。安本商事じゃなくても手を出すとこがいくらもあったはずだ」
耿介はそれに頷きながら中の写真を膝《ひざ》の上に展《ひろ》げた。すべて四つ切りのカラーだった。
「凄《すご》いですね」
次々に捲《めく》って耿介も唸《うな》った。
「これが偽物だって言うんだから……怖くなって来た。浮世絵は専門じゃないが、こいつがセリにでも出たら間違いなく買いだね。鑑定なんかなくても絵だけで立派に勝負できる。写真と本物じゃ違うかも知れないが、艶《つや》もいい。色に濁りがまったく感じられん」
色の濁りは贋作を見抜くポイントの一つだ。贋作者は本物を下敷きにして描く場合が多い。その絵師になりきって想像で描くよりもアラが見えにくいからだ。特に日本画は時代考証がむずかしい。よほど風俗を調べておかないと不自然な絵に仕上がる。武家の婦人のはずなのに、遊女しか結わない髪形をしていたり、その時代にはまだ流行していない市松《いちまつ》模様の着物を身に纏っていたりの類《たぐ》いだ。どんなに腕があっても、この勉強には手間がかかる。だから勢い本物からの模写が多くなる。本物と言っても国宝や重要美術品クラスだと、それが原因でバレる確率が増えるから、少しはアレンジを加える。おなじ年代に制作された何点かの図版を集め、巧妙に組み合わせる。背景の風景には時代考証も不要だ。こうやって細かいところに時間をかけるので、どうしても色に濁りが生じる。本物は二日か三日で描かれたのに、偽物は描きはじめて終了まで一カ月もかかることがあるのだ。乾いた絵の具に、また絵の具を重ねると、おなじ色でも艶がなくなってしまう。本物を前にすると偽物は途端に色褪《いろあ》せて見える、とはよく言われる言葉だが、実際にその通りなのだ。偽物に共通しているのは線の弱さよりも濁りである。だが、素人が一点を目の前にしている限り、この濁りは絶対に見抜けない。歌麿なら歌麿の本物や偽物を何百と眺めた眼だけが感じ取ることのできる濁りなのだ。
「春信の肉筆はむずかしいんですよ」
耿介は写真から目を離して言った。
「模写しようにも本物が少ない。版画の仕事で手一杯だった絵師ですからね。肉筆の注文にはとても応じ切れなかったんでしょう。俺の知っているのでは二枚の扇面絵の他に三点くらいかな。もちろん扇面絵にしても、本来は八枚組だと想像されているし、肉筆も三、四十本は手掛けたでしょうが、あいにくとまだ未発見なんです。春信の肉筆の偽物があまり出回っていないのは、そこに理由がある。肉筆の線と版画はまったく別物だ。版画を模写するわけにもいかない。けれど五、六点しか現存していない肉筆を模写すれば直ぐに偽物だとバレてしまう。本物は少ないだけにいろいろな画集に掲載されています。比較されたら素人にも一発ですよ」
「そんなに珍しいのか」
「田中の親父さんは一年前の相場なら業者値段で一本千五百万とか言っていましたが、やはり稀少《きしよう》価値がある。一年前でもその倍で買う人間を見つけるのに苦労しないはずだ」
「模写ができないとなれば、想像で描くしかない。そうか、それで色が濁ってないんだな」
「まあ……そういうことでしょうね」
「なんだい、そうじゃないのか?」
「想像にしては細かい絵だと思いませんか」
耿介は思い切って口にした。
「普通なら考えられないですよ。模写じゃない偽物はたいていラフに作られている。一点や二点ならともかく、全部が緻密《ちみつ》だなんて」
「なにが言いたいんだ?」
「………」
「まさか本物だなんて言い出すなよ」
「団扇絵の問題があるからなぁ」
耿介は深い息を吐いた。
「耿介の眼でもそんなによくできてるのか」
「俺の眼なんて知れています。ただ……」
「ただ?」
「春信の偽物を作ろうとする贋作者《がんさくしや》が存在するってことが信じられないだけです。騙《だま》しに成功すれば確かに大きな商売だけど、稀少価値があるだけに鑑定のチェックも厳しい。あの『ミナト』にしても、春信の肉筆なんて有り得ないという先入観で眺めたからこそ問題点が発見できたんだと思います」
「団扇絵《うちわえ》の描かれていた一本以外は本物って可能性はどうだい」
藤枝は身を乗り出して来た。
「十一本の本物を参考にあれを描いたという想像はできないかね。連作が欠けていたんで補充したのさ。完揃いと不揃いとでは評価がまるで異なるのはこの世界の常識だろ。たった一本を足し加えることで売り値が倍に跳ね上がるとなりゃ、危ない橋を渡りたくもなるってものさ。手本は十一本もあるんだ、腕のしっかりしたやつを見つければ……」
耿介は藤枝に言われて腕を組んだ。
「マイヤーがどれほどの眼を持っていたかは知らんが、全部が偽物ならともかく、十二本の中の一本だけとなれば……見逃しても」
「おかしくありませんね」
耿介は何度も首を振った。
「面白くなって来た。こいつは三百万ぽっちの仕事じゃないぞ。もし蒸発した営業部長が自殺でもしてて春信の行方が分からなくなっていたらどうする? 耿介の受けた仕事はそこまでだ。安本商事から離れて独自に春信を追い掛けても文句は言われない」
「それで?」
「見つけるんだ。その後で本物の証拠を突きつけてやれば、必ず高額で買い戻そうとする。安く見積もっても一億は堅いな」
「一億ねえ……」
桁外《けたはず》れの金額に耿介は苦笑した。
「蒸発した男の名と住所を聞いて来た。もっとも、一億になるならアメリカに行っても構わん。金は俺が引き受ける」
「それくらいは俺でもなんとかなりますよ」
「やつはアメリカにもう一度鑑定に出すと言って持ち出したんだ。本当にアメリカにでかけた可能性だってある。警察が何カ月もかけて捜し出せんのが、そもそも妙な話さ」
頷《うなず》きながらも耿介はここ一週間の進展を思い浮かべていた。春信は贋作なのか? それとも本物だったのか? 男の蒸発した理由に春信が関わっているとしたら、本物の可能性が高いような気もする。だが、推測ばかりで一歩も前に進んでいない。
〈自分の足で動いてみる他にないな〉
まだ耿介の頭には春信を売ったアメリカの男がひっかかっていた。しかし、今の情況では蒸発した男が先決だった。
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第三章 混 迷
二日後、耿介は札幌《さつぽろ》に飛んだ。
春信を持って蒸発した遠藤輝夫の家を訪ねての旅だった。遠藤はビデオデッキなどに用いる精密機械のメーカーの営業部長として東京本社に勤務していたが、手腕を買われて二年前に札幌支社から吸い上げられた人間だった。北海道生まれで現地採用。それが本社の営業部長に抜擢《ばつてき》されたことでも遠藤の能力が知れる。会社側は手頃な社宅も用意していたのに、遠藤は断わって単身赴任をした。遠藤は札幌に家を新築したばかりだったのだ。受験期を控えた子供があるそうだから、それも原因の一つだったのだろう。
が、仕事の能力とは別に評判はよくない。特に女遊びに関しては相当なものだ。遠藤は転勤を機会に何年かの自由を得たかったのではないかとも思える。仕事柄と言えばそれまでだが、遠藤は毎晩のようにクラブに出入りしていた。当然、朝帰りも多い。妻の目が光っていては少しやりにくいことだ。
〈こんなやつが……〉
美術好きだったとは信じたくもないが、駒井みどりから預かった遠藤のデータには趣味が美術館巡りとはっきり記されてあった。しかも東京の美術大学を卒業している。専攻は商業デザイン。なのに地元に戻って精密機械の会社に就職したところをみれば、絵の才能は営業の手腕ほどにはなかったことになる。勉強が嫌いで美術大学を選んだ口だ。
耿介の乗ったジャンボは爽《さわ》やかな秋の空を切るようにして千歳《ちとせ》空港に舞い降りた。
千歳から札幌までは電車で一時間。予約していた駅前のホテルの部屋に荷物を置いて耿介は外に出た。遠藤の妻との約束にはまだ二時間近くも余裕があった。なにか用事があって夕方でないと家に居ないらしい。耿介は駅で市内の地図を買い求め、地下の喫茶店に入った。記念でもないが耿介はよく地図を買う。自分が町のどの辺りに居るのかを確認していないと気になる性質《たち》だ。
遠藤の家がある南区|川沿《かわぞえ》という場所は市の中心からだいぶ離れていた。札幌の奥座敷と言われる定山渓《じようざんけい》温泉に向かう道の途中だ。
〈タクシーだな〉
バス路線もあるが当てにはできない。のんびりできると思っていた耿介は慌てた。もう一時間とちょっとしかなかった。ラッシュにでも巻き込まれたら時間に遅れてしまう。
なんとか二十分前に川沿に辿《たど》り着いた耿介は、大きな通りに面したレストランに入って時間を潰《つぶ》した。遠藤の家はここから歩いて五、六分だろう。耿介は電話をかけた。遠藤の妻は家に戻っていた。
「今どちらですの?」
想像よりも遥《はる》かに若々しい声だった。
耿介は店の名を告げた。
「そこなら私の方で伺います」
「それでは申し訳ないです」
「まだ子供たちが帰って来ないので」
耿介は直ぐに承知した。見知らぬ男をだれも居ない家に招くのは不安なものだ。
耿介は奥の席に移動した。レジの側の席では遠藤の妻も人目を気にするに違いない。
五分も待たずに遠藤の妻らしき女性が姿をみせた。店内には耿介の他に数組の客が居るだけだ。彼女は耿介に頭を下げた。
眼鏡をかけた真面目そうな女性だ。
三十七、八だろうと耿介は踏んだ。
遠藤は四十四歳だ。そのくらいならちょうどいい歳の差だ。
「東京からですの?」
耿介と真向かった彼女は質《ただ》した。
「なにか主人のことでも?」
分かったのか、という目をした。嘘をついている目ではなかった。この目を見たくてわざわざ足を運んだようなものである。
「仙堂さんは主人とどういう?」
「面識はありません。ご主人を捜して欲しいと頼まれただけです」
「あの……電話ではびっくりしてなにを訊《き》いたらよいのか分からなかったんですが……どちらからの依頼なんでしょう?」
「安本商事の石崎さんをご存じですか」
下手に隠しても仕方がない。
「ウチの店と懇意にしていただいています」
ここで耿介は嘘をついた。彼女には前もって自分が『こまくさ』の人間であると伝えてある。石崎は安本商事で美術品の輸入を担当している男だ。彼女が耿介を飛び越えて石崎に連絡を取るとは思えないが、万が一の時でも『こまくさ』の名を使っていれば安全だ。それを聞いた石崎とて、駒井みどりがだれかを代理にしたとしか考えないだろう。
「安本商事の石崎さん……」
遠藤の妻はしばらく考えて、
「仕事のお付き合いの方でしょうか?」
反対に訊《たず》ねた。
「仕事もそうですが、どちらかと言えば美術仲間です。趣味が一緒だったのでご主人とは会社を離れても行き来があったとか」
「主人にも心配して下さる人がいらっしゃったんですね。居なくなって二カ月だと言うのに。近頃では警察の方からも連絡がほとんどなくなりました」
「警察に任せているばかりでは、いつまで経っても埒《らち》があかない。ぼくにできるかどうか分かりませんが、やってみるつもりです」
「ぜひお願いします」
遠藤の妻は目に涙を溜《た》めた。
「あの……それでお礼の方は?」
「奥さまとは関係ありませんよ。これは石崎さんから頼まれたことですので」
「じゃあ、私から石崎さんにお礼を。本当は私もどなたかに頼みたいと思っていました」
「石崎さんは今ヨーロッパです。二カ月は戻りません。それでぼくがこうして札幌まで」
遠藤の妻はその嘘も直ぐに信用した。
「ご主人は……姿を消される少し前にアメリカに行くとおっしゃられていたそうですが」
「さあ……仕事で半年に一度はニューヨークにでかけていましたから、そうかも知れません。私は聞いていませんでしたけど」
「最後にご自宅に戻られたのはいつです」
「居なくなる一カ月ほど前でした」
一カ月なら春信を安本商事から預かる前の話だ。これも関係なさそうだ。
「ご主人と親しかった方はどなたでしょう」
「東京のこととなるとほとんど私には……こちらには高校の同級生も居ますが、主人は滅多に会わなかったはずです。ただ一人、大学時代の友達が千葉に居て、その人とはたまに飲んでいるような話を。家に戻れば年賀状がありますから住所も分かります。でも……それは警察の方にもお教えしました」
「その人にも連絡がなかったんでしょうね」
「と思います」
「札幌にはお戻りになられなくても、電話はどうだったんです?」
「ええ。居なくなる前の日も話しました」
「なにか変わったところは?」
「普通でした。長男の英語の成績を気にしていた程度です。だから今でも信じられなくて。でも主人がどこかで生きていることだけは確かだわ」
「なにか証拠でも?」
「カードで銀行から時々引き落としているんです。最初は腹が立ちました。でも、それを解約したら主人が困ると思ってそのままに」
耿介は唖然《あぜん》とした。それなら重要な手掛かりとなる。
「カードだったら調べるとどこで引き落としたか分かります。銀行に訊ねてみましたか」
「それがいつも違う場所なんです。東京とか静岡とか。十日ほど前は名古屋でしたわ」
「暗証番号は単純なものですか? 例えばご主人の誕生日だとか家の電話番号とかの」
「主人の母の誕生日です」
「それは珍しいな」
「主人がいつも忘れるものですから、母から私が叱られて……それで私が勧めました」
「ご主人に間違いないでしょう」
耿介も頷《うなず》いた。他人に簡単に突き止められる暗証番号ではない。唯一考えられるとしたら愛人だ。だが、それはすでに駒井みどりが調査済みだった。関係のあった女は何人も居るようだが、遠藤は深入りしない男らしかった。女との関係を自慢する人間でもあったので、他に隠し女が居たとも思えない。
「姿を消された原因にお心当たりはありませんか? ぼくも一応は会社の同僚の方に訊ねてみたんですが、仕事にもミスがない。大事な取り引きが纏《まと》まる直前だったそうです」
「家の問題では絶対ありません。私が愚痴さえ零《こぼ》さなければ満足していた人でした。仕事の悩みでもなければ女性問題でしょうか」
「違います。奥さまの前で失礼な話かも知れませんが、それも調べました」
「………」
「どこにも理由が見つからないとなると……石崎さんが小耳に挟んだというアメリカ行きの話が関係あるかも」
耿介は話を戻した。
「ご主人の使っていらした住所録とか手紙の類《たぐ》いは現在どちらに?」
「全部持ち帰って来ました」
「ご迷惑でなければアメリカ関係の住所だけをリストアップしていただけないでしょうか。警察が調べていないのはその線しかない。手紙については奥さまの判断にお任せします。美術関係と思われるような人物が発見できましたらお教え願いたいんです。石崎さんの話ではニューヨークに美術関係の親しい友人が居たとか。その人物を捜して問い合わせたらなにか情報が得られるかも知れません」
「分かりました。今夜にでも」
頷いた彼女に耿介はホテルの名を伝えた。
「警察以外でご主人のことを訊ねて来た人間は居ませんか?」
耿介は最後の質問をした。
「仙堂さんがはじめてです」
「電話でも?」
「主人の会社の方とは時々連絡を取っておりますが……それがなにか?」
礼を述べて耿介は伝票を引き寄せた。
遠藤の妻とは店の前で別れた。簡単にタクシーが拾えると思ったが、目の前の道を通過するのはトラックと自家用車だけだった。
五、六分道端に立ちすくんで耿介は諦《あきら》めた。店でタクシーを呼んでもらう他にない。引き返そうとした耿介の側に店の駐車場から出て来た車が接近して来た。
「乗んな。ホテルに戻るんだろ」
車の窓から見知らぬ男が声をかけた。運転席には若い男が乗っていた。耿介は後じさってナンバーを確認した。レンタカーだ。
「別に取って食おうってんじゃねえや。ちょいと忠告しておきたいことがあるだけさ」
男は歯を剥《む》き出して笑った。
「後から店に入って来た連中だな。遠藤の奥さんを見張っていたのかい」
耿介は運転席の男の顔を記憶していた。
「乗んなよ。話は車ん中でもできるぜ」
男は後ろのドアを開けた。
「断わったら?」
「さあね。別にどうってこたぁねえよ。後で忠告を聞いてりゃよかったと後悔するだけさ」
「あいにくと後悔はしない性質《たち》なんだ」
耿介はドアを乱暴に蹴《け》り上げた。
車から誘い出すのが狙いだった。
「そうかい。じゃあ仕方ねえな」
男は運転席にいる若い男に顎《あご》で命じた。
車はゆっくりと耿介の側を離れた。
「てめえの素性を探り出すのは簡単だ。また会おうぜ。近いうちによ」
男は片手を振って夕闇に消えて行った。
〈なんだ、今の連中は?〉
耿介は呆然《ぼうぜん》と車を見送った。
連中は耿介の泊まっているホテルの名も恐らく耳にしている。確かにこっちの素性を突き止めるのは簡単に違いない。
〈襲って来るって意味か?〉
だが、なんのために?
〈忠告と言っていたな〉
この問題に深入りするな、ということだ。今の情況で考えられるのはそれしかない。
〈連中は遠藤の帰るのを見張っているのか〉
それが正解に思えた。
「遠藤の家が監視されているって!」
電話の向こうで戸惑っている藤枝の顔が見えるような気がした。
「いったい、だれが?」
「それが分かれば苦労はないです」
耿介は備え付けのボールペンの頭で苛々《いらいら》とテーブルを叩《たた》いた。
「忠告だと言ったんだな」
「あいつらはチンピラですよ。上からの指示をもらうまでは単独行動が許されないんでしょう。口だけは威勢がよかったけど、こっちの誘いに乗ってきませんでしたからね」
「おまえさんも根性があるよ」
「車に乗せられてしまえばもっと怖い。中で喧嘩《けんか》になって運転手がハンドルを誤れば命の保障もない。それよりはあの場の方が」
「理屈ではそうだろうが……やくざみたいな連中を相手によくやるぜ」
「安本商事じゃないのは確かだな」
「見張っているのがか?」
「たまたま俺が訪ねた日に、連中も偶然かち合ったとは思えません。きっと毎日のように見張っているはずだ。もし安本商事がそれを命じているんなら、駒井さんにも教えておく。札幌の家は自分たちが受け持つとね。でなきゃ無駄に駒井さんが動く結果になる」
「しかし……安本商事以外となれば見当もつかんな。狙いはやはり春信か?」
「そいつがポイントです。ひょっとしたらサラリーローンの取り立て屋とも考えましたが、遠藤の奥さんも店の中で連中の顔を見ている。取り立て屋なら遠慮はしない。これまでに何度も家に押し掛けているでしょう。奥さんが平気な顔をしていたところを思えば、そういう連中じゃありません。残るは犯罪絡みか春信しかない」
「犯罪の線も薄いだろう。使い込みをしていたようでもなし、あの規模のメーカーなら汚職に縁があるとも思えん」
「遠藤は麻薬の密輸にでも関係していたわけじゃないでしょうね。それならあの連中が出て来るのも分かる」
「アメリカによく行くからか」
藤枝は笑った。
「いくらなんでも小説の読み過ぎさ」
「遠藤の女好きが災いしたってことも考えられますよ。遠藤は新宿辺りでもよく遊んでいたと言うんでしょう。やくざの美人局《つつもたせ》にひっかかって威《おど》かされたとしたら」
「それで密輸に荷担して、挙げ句の果ては麻薬を盗んで逃げたとでも?」
「順調な会社を捨てて蒸発するには、相当の理由があるはずです」
「にしても密輸はちょいとな」
「すると最後は春信だ。だんだんと絞っていけば、あの春信は本物ってことになりそうだ。確証も持たずに鑑定の前に持ち逃げするとは思えないし、ああいう連中がうろうろするのも偽物では有り得ない」
「遠藤が売り捌《さば》きを依頼したんじゃないか。カードで金を引き落としてるのから推理しても遠藤が金に困っているのは明白だ」
「やくざじゃなく業界の連中だと?」
「外見からはやくざと見分けのつかん連中がごろごろしてる。業界の人間ならあの春信がだれの持ち物かよく知っている。盗品なら自分たちが盗んでも構わないという理屈だ」
「そうか……それが一番すっきりとする解釈ですね。口の割りに弱腰だったのも納得できます。思い切って連中の車に乗ってみるべきだったかな。もっと確かな判断ができた」
「いよいよ三つ巴《どもえ》になって来たか」
「安本商事はなにを考えているんだろう」
「なにって?」
「遠藤の奥さんに一度も接触していない。とても本気で捜しているとは思えません」
「………」
「警察に訴えたというのも怪しいものだ。訴えが提出されれば警察も一応は奥さんに事情を聴取する。そうなると奥さんが安本商事の存在を知らないってことは有り得ない。なのに安本商事に関してはまったく初耳のようだった。警察から聞かされていない証拠です」
「駒井みどりに余計な不審を持たれるのを恐れてそう言ったのかも知れん」
「でも税金対策のことを考慮に入れたら、盗まれたと世間にはっきりさせるのが最良の策ですよ。あの会社は矛盾だらけだ」
「それよりどうするつもりだ? 遠藤の家にも手掛かりがなかったとしたらお終《しま》いだ」
「奥さんからの吉報を待つしかないです。こっちも正直言ってなにがなんだか……」
「手伝うことはないかい?」
「子守唄《こもりうた》でもお願いします。今夜は寝つかれそうにない」
「冗談が言えるうちは大丈夫だ」
藤枝は陽気な声で電話を切った。
電話が来るのを知っていてじっと待つのは辛《つら》いものだ。耿介はルームサービスで夕食を終えるとテレビを見て時間を過ごした。が、もちろん野球にも熱中できない。
遠藤の妻が泣きそうな声で電話をよこしたのは九時過ぎだった。
「どうしました?」
「主人が急に怖くなって」
遠藤の妻の口調には怯《おび》えが感じられた。
「主人はアメリカに行っていました」
「はぁ?」
「仙堂さんの言った通りなんです。持ち帰った主人の荷物から手紙や住所録を捜していたらパスポートが見つかりました。夕方に言われたことが気になったので開いてみたら、間違いなく主人はアメリカに」
「いつ頃のことです?」
「姿を消す一週間前に出国して、たった三日で戻って来ています」
「一週間前にアメリカへ!」
だとしたら春信を預かった直後だ。耿介の胸は騒いだ。腕に鳥肌が立った。
「前日に電話があったと教えましたよね」
「はい」
「あの時、主人はアメリカに行って来たことなど私にひと言も口にしませんでした。主人は隠していたんです。驚いてさっき主人の会社の方に確かめました」
「………」
「その四日間、主人は休暇を取って札幌に帰ったはずだと……どういうことなんでしょうか。仕事でもないのにアメリカまで。その上、私にまで嘘をつくなんて……」
遠藤の妻は泣いていた。
「アメリカについての手掛かりは?」
耿介は落ち着かせながら質《ただ》した。
「ニューヨークとおっしゃったでしょ」
「そうです。そこに友人が居ると」
「パスポートに住所と名前が書かれたメモが挟まれていました」
「それにニューヨークの住所が!」
「メイヤーさんとでも読むんでしょうか」
「マイヤーです。それに間違いない」
耿介の声が狭い部屋に響いた。
自分の心臓の高鳴りさえ分かった。
「教えて下さい。その人物を捜せば、ご主人のこともきっと分かります」
耿介はボールペンを握って促した。遠藤の妻は自信なさそうな声でアルファベットを一つずつ読み上げた。
ガイ・マイヤー。
それが十二本の春信を日本に持ち込んだ男の名前だった。
耿介はその名をしっかりと頭に刻み込んだ。
東京に戻った仙堂耿介は浜松町《はままつちよう》でモノレールから山手《やまのて》線に乗換え、神田で降りた。須田町《すだちよう》に失踪《しつそう》した遠藤輝夫の勤めていた精密機械メーカーの本社がある。札幌を発《た》つ前に耿介は会社に電話を入れて、遠藤とおなじ課の人間とコンタクトを取っておいたのだ。不審を持たれないように、それには遠藤の妻の了解を得て、彼女の名を用いた。妻の代理人となれば会社とて無下には扱えない。
神田駅のコインロッカーにバッグを預けて耿介は歩いた。約束の時間にはまだ充分な余裕がある。十分もしないうちに会社が見つかった。五階建ての小さなビルだが、新しい。ビデオデッキなどに用いる精密機械を拵《こしら》えているらしいから、近年になって業績を伸ばした会社に違いない。工場は日野《ひの》市にあって、この本社のメインは営業部である。
会社の真向かいに、大きな喫茶店があった。
会社で立ち入った話はなかなか聞けない。
耿介は喫茶店に入ると電話をした。
早めに着いたので、と説明したら、相手はこっちに来ると言った。狙い通りだった。
午後の三時。店はがらんと空《す》いている。
「仙堂さん?」
五分も待たずに二人の男女が姿を見せた。
「上原君は部長直属の部署にいました」
自分は前田と名乗って耿介の前に腰を下ろした。耿介とあまり歳の差が感じられなかった。おなじで三十二、せいぜい三、四といったところだ。これで本社の営業課長。部長だった遠藤でさえ四十四歳。本当に若い会社だ。上原|聡美《さとみ》の方は二十四、五に見える。
「あの若さで部長とは凄《すご》いですね」
いかにも遠藤と顔見知りだったように耿介は言った。二人は即座に頷《うなず》いた。
「第三営業部はウチの最前線ですから。部員は皆若い。部長が蒸発して参ってますよ。それこそ二十四時間態勢でバリバリやっていた人だったんで……緊張の糸が切れたんじゃないかと……最低でも月に二回は海外出張を命じられていましたからね。あれじゃ、逃げ出したくもなるでしょう。会社の犠牲だ」
「でも、徴候はなにもなかったとか」
「それは奥さんに対してだけでしょう」
前田は首を横に振って言った。
「蒸発とはっきりしたのがいつだったか忘れましたが、こっちはてんやわんやだった。四日間の休暇を取った後は、電話連絡だけで一度も会社に顔を見せなかったんですからね。おかしくなったんじゃないかと皆が心配していた。部屋に連絡を入れても留守だったし」
「休暇の後は一度も会社に?」
初耳だった。耿介は唖然《あぜん》となった。
「あの……」
聡美がおずおずと訊《たず》ねた。
「蒸発する前に奥様へ部長がお電話したとか」
「ええ」
「それは、いつだったんですか?」
手帳を確認して耿介は教えた。
「じゃあ、風邪も嘘だったんだわ」
聡美は暗い顔で続けた。
「休暇が終わった翌日に部長から連絡があって……風邪なのでもう二、三日休むと」
「………」
「その次の日にも電話がありました。それきり私は部長と話していないんです。翌日は土曜で会社は休みでした。蒸発じゃないかと騒ぎはじめたのは月曜のことです」
なるほど、と耿介は頷いた。遠藤が休暇を取ってアメリカに行ったのは日曜である。パスポートによれば日本に戻ったのが三日後の水曜日。木曜と金曜は会社に電話を入れて休みの連絡だけ。そして日曜の夜に札幌の自宅に電話をして、そのまま姿をくらませた。
〈つまり、一週間はだれも遠藤を見ていないってことか〉
耿介は溜《た》め息とともに二人を眺めた。聡美は視線が合うと顔を少し伏せた。
「休暇中に部長がアメリカに行ったという話は本当ですか?」
前田が耿介に質問した。遠藤の妻がそれを会社に問い合わせてくるまで、前田は遠藤が札幌に帰ったとばかり信じていたらしい。
「パスポートにちゃんと記入されています」
疑いはない。
「でも、なんの用事なんだろ?」
前田は不思議そうに耿介を見詰めた。
「頻繁にでかけていたんでしょう?」
「そりゃそうだけど……個人的な用事で行くなんてちょっと考えられませんよ」
前田の言葉に聡美も同意した。
「女性関係の可能性はどうです?」
耿介が言うと聡美の顔色が変わった。やはり、と耿介は思った。さっきから聡美の様子に軽い不審を感じていたのだ。
「香港とかだったら分かるけど……アメリカまで女と旅行するとは思えないな」
「でしょうね」
直ぐに耿介が頷くと聡美も安堵《あんど》した。
「遠藤さんは安本商事と懇意でしたね」
耿介は矛先を変えた。
「あの偽物の春信の一件ですか?」
前田は苦笑した。
「仕事絡みで部長が預かったものなら、我々にだって相談があったはずですよ。直接の担当者がいるんですから。警察でも部長とは無関係だと……偽物を持ち逃げしてどうなるって言うんです? 部長はずいぶん美術には詳しい人だった。確かに安本商事が言うように鑑定家を知っていたかも知れませんがね」
「預かっているはずはないと?」
「言いたくはないが、安本商事の作り話じゃないですか? 安本商事が警察に訴えたのは部長が居なくなって一カ月も過ぎてからなんです。おかしいですよ。そんなに大事なものなら、どうして直ぐにウチに言ってこなかったんです。営業マンが毎日のように安本商事に顔をだしている」
「向こうでは、購入の際にも遠藤さんが関わっていたと説明しているようだけど」
「ホントですか!」
前田は愕然《がくぜん》とした。
「はっきり遠藤さんの名前をだしているわけじゃない。取り引きのある精密機械メーカーの部長の紹介で春信を入手したと」
「だれが聞いてもウチの部長じゃないか」
酷《ひど》い話だ、と前田は拳《こぶし》を握りしめた。
「まんざら嘘とも思えないふしがある」
耿介は続けた。
「売ったのがニューヨーク在住のアメリカ人だってのは間違いない。その人物らしい名前と住所を書いたメモが遠藤さんのパスポートに挟まれていました」
「………」
「遠藤さんは内密でやっていたんですよ」
「じゃあ……噂は本当だったのか」
「噂?」
「安本商事へ引き抜きの噂がね」
「遠藤さんに?」
「我々は、まさかと笑っていました。大事な得意先なので我慢はしていたが、部長は安本商事のやり方を嫌っていた。しょっちゅう部長から悪口を聞かされたもんです。だから、その噂を耳にしたときは皆で笑って……」
「どこからでた噂なんだろう?」
「部長がよく使っていたクラブのホステスからです。接待以外にも部長と安本商事の人間が頻繁に会っている、と」
悔しそうに前田は口にした。
「結局、なんにも知らなかったってことか」
前田は冷めたコーヒーを飲み干した。
「特定の女性を警察が捜しているそうです」
耿介はわざとそれを言った。聡美の目がびくんと怯《おび》えた。そしらぬふりで耿介は、
「あまりに手掛かりがないので警察も常套《じようとう》な方法しか思いつかないんだろうな。相当に派手な女性関係だったと聞きましたが、会社ではどうだったんです?」
「会社の女の子に手をだすヒマはなかったと思いますがね。ただの遊びと割り切っていた」
「遊びの方は調べがついているでしょう。警察が気にしているのは会社の方だ」
聡美はますます落ち着かなくなった。
この辺りで充分だろう。明日にでもあらためて連絡を取れば、必ず聡美は告白する。前田に気づかれぬうちに耿介は話を切り上げた。
二人が立ち去った後も耿介はしばらく店に残った。聡美がなにか言いたそうな目をしていたからだった。
案の定、五分もしないで聡美は戻った。
「困るんです」
席に腰を下ろした聡美はいきなり言った。
「困るって?」
「私……なにも関係ないわ」
「けど、遠藤さんとは関係があった」
耿介が言うと聡美はあっさりと認めた。
「警察が会社に来たら……私」
「大丈夫さ。ぼくから事情を説明しておく」
聡美の顔色が明るくなった。
「その代わり正直に教えてくれないか」
「………」
「そういう関係だったらなにか聞いてるね」
「会社に連絡があったのは嘘。休暇が三日しか認められなかったので、後の二日は電話連絡が入ったことにしろと部長から言われて」
「いつ?」
「アメリカに出発する前に」
「嘘をついてしまったんで、もう後戻りができなくなったわけだ」
それで遠藤の行動が曖昧《あいまい》になってしまったのだ。耿介は納得した。
「部長が蒸発したのはアメリカから戻った日だと思うわ。私その日、アパートの方に」
「行って確かめたんだね」
「ええ。そういう約束だったから」
「それは水曜の夜?」
「いいえ、金曜」
「なるほど。そのための嘘だものな」
「絶対に金曜には戻ると言っていたのに」
「部屋には入った?」
耿介の問いに聡美は躊躇《ちゆうちよ》の末に首を振った。
「どうやら遊びじゃなかったらしい」
目くらましのために遠藤は他の女との関係を吹聴《ふいちよう》していたのに違いない。二十四、五にしては落ち着いた女性だった。
「アメリカに行った目的は?」
それには聡美も首を横に振った。
「聞いてないのかい」
「どうして連絡をくれないのかしら」
聡美は苛立《いらだ》った顔で言った。
「私にもなにがなんだか分からない」
「安本商事との繋《つな》がりはどうだい?」
「絵なんて一度も見ていません。そんな話を部長がしたこともなかった」
「よほどの秘密だったんだな」
「引き抜きの噂も絶対嘘。威《おど》かしていたのは知っているけど……部長が安本商事と手を組むなんて考えられない」
「威かしていた?」
「なにか弱みを握っていたみたい。それで安本商事もウチには強気にでてこれなくて」
「だったら引き抜きも有り得るさ」
「………」
「自分の会社の人間にしちまえば面倒がなくなる。単純な理屈だ」
「でも、その誘いには乗らなかったと思うわ。そのせいで業績を上げて本社の営業部長になった人ですもの。安本商事に移るよりは今の会社の方がずっと待遇だって……」
耿介は困惑した。調べれば調べるほどに遠藤という男が見えなくなっていく。彼女の話が真実なら安本商事に春信の仲介をするはずもなければ、絵を預かるわけもない。しかし、遠藤がニューヨークにでかけたのも事実だ。ただの偶然とは考えられない。
「どういう人だったんだ?」
「部長?」
「奥さんも真面目でいい人だ」
「不良よ。そこが好きだったの」
聡美は急に悪魔のような笑いを見せた。
「男の人たちは皆、部長を嫌っていたわ。男には分からないんじゃないかな」
「女遊びの噂も聞いていたんだろ」
「女が好きになって当たり前の人よ。よく二人で美術館に行ったわ。きっと今もどこかの美術館の中でぼんやりと絵を眺めているかも」
「どんな絵が好きだった?」
「マグリット」
「なるほど。女子供を誑《たぶら》かすには適当だ」
珍しく耿介は嫌味を言った。
「女にも分かっていないのさ。男が嫌う男ってのがどんなやつかをね」
耿介は伝票を手に立ち上がった。
「札幌まで行きながら、たった一晩でお戻りとは、いかにも勿体《もつたい》ない話だな」
顔を見せた耿介に藤枝哲司は笑った。記帳していた帳簿を引き出しにしまってフロアの方を顎《あご》で示した。事務室の二つの椅子の上には箱入りの絵が山と積まれていた。
「愁子さんはもう?」
常設展示しているフロアに客の姿はない。耿介は中央のソファに腰を下ろした。狭い展示フロアだ。五十号前後の作品なら八点も飾れば三面の壁が一杯になる。けれど、青山という場所を思えばこれも仕方がない。もともと藤枝は店売りよりも外商を中心としている。
「府中《ふちゆう》まで絵を預かりに行ったよ。明後日《あさつて》から個展なんだ。小品が多いから運搬は楽だが、その代わり事務室が占領されそうだ」
「展示作業を手伝いましょうか」
「いや。明日の予定だ。個展を開く本人が順序を決めたいそうだ。愁子が戻れば今日は店を閉める。ひさしぶりに飲むか」
「ジンジャーエールしか飲まない人に付き合って貰《もら》うのは悪い」
「じゃあ三人でメシでも食おう。今度の件は愁子も承知だ。隠す必要はない」
「安本商事ってのはなんなんです?」
耿介はタバコに火をつけながら、
「やたらと辻褄《つじつま》の合わないことだらけだ」
「どういうこった?」
「ただの噂ですがね。遠藤はなにか安本商事の弱みを握っていたらしいんです」
「弱み?」
「それを利用して業績を上げたとか。それで札幌の営業所から本社に招かれたんですよ。取り引き高をぐんと伸ばしたんでしょう」
「ふうん。そういう野郎だったのか」
「遠藤が居なくなったので取り引きが半減したとか。もちろん、それには安本商事の主張している春信の問題も絡んでいるそうですが」
「失踪《しつそう》を幸いに、取り引きを減少させたと?」
「遠藤と関係のあった女子社員はそう信じているようでした。会社との縁切りの材料に春信の絵を持ち出して来たのではないかと」
「まさか」
「安本商事の嘘を確かめようにも、肝腎《かんじん》の遠藤が行方不明では反論のしようがない」
「そんなに甘くはないさ。理由なんかなくても、縁切りはできる。遠藤が春信と関わっていたのは確実だ」
「そりゃそうです」
耿介は頷《うなず》いた。
「遠藤のパスポートにニューヨークの人間のメモがあった。それは間違いない」
「だったら、なにが不審だと?」
「真剣に絵を捜そうとしていない感じがする。警察に訴えたのも遠藤が姿を消して一カ月が経ってからだと言うし……いくら脱税絡みだと言っても不自然ですよ」
「自分たちでこっそり捜していたとは?」
「だとしたら無能過ぎる」
「無能?」
「俺ならまっさきに女を当たる。今日のことは偶然かも知れませんが、その気になれば彼女を探り当てるのは簡単だったと思いますよ。直属の部下で、隠し事の上手な女性じゃない。なのに、彼女が安本商事から接触を受けた気配は少しも受けなかった」
「なにか重要な事実を掴《つか》んでいるのか?」
「彼女がですか?」
「直接聞くだけが手段じゃあるまい。下手に接触すればまずいと判断したのかも」
うーん、と耿介も詰まった。
「よほどの情報を得ていりゃ別だがな。たとえば……その女が遠藤の行方を承知だとか」
「それはないですね」
「絵についてもなにも知らなかった」
「ええ」
「だったら調べがついても放っておくさ。むしろ静かに監視している方が可能性もある。遠藤が連絡を取って来ないとも限らんだろ」
「安本商事はちゃんと知っていると?」
「と思うな。なんなら駒井みどりにそれとなく探りを入れてみよう。安本商事から依頼された駒井みどりにしても、まさか耿介が遠藤のことをそこまで詳しく調査するとは考えてもいなかったんじゃないのか。その女が無関係と調べがついたんで教える必要がないと」
「俺が頼まれたのは遠藤捜しなんですよ。関係のある女を探るのは常識だ。そこまで調べていたなら最初から教えてくれても……」
「そうカッカしなさんな。結局は安本商事も駒井みどりも持ち札を場に晒《さら》す気がなかったということさ。確かに調査結果を教えて貰わんと二重手間かも知れんが、と言って、おまえさんはその結果を信用したかい? どうせ耿介のこった。無関係と分かっていても、その女に接近して自分で確かめるんじゃないか」
「まあ……でしょうね」
「ほらみろ。なら一緒だよ」
藤枝は苦笑いして、
「それより、他に手掛かりは?」
「全然。遠藤はアメリカから戻って、そのまま姿をくらましてしまったらしい」
「そのまま? だれにも会わずにか」
「ええ。こうなると春信が本物だった可能性はますます強まりましたね」
「………」
「遠藤はアメリカに鑑定に持って行って、本物という確証を掴んだんじゃありませんか。それで安本商事に絵を返す気がなくなった。本物と決まれば七億の価値がある。裏で叩《たた》き売ったとしても二億は堅い。会社を捨てても二億なら損な話じゃない。ほとぼりを冷まして家族に連絡をとればいい。キャッシュカードの引き落としだって元気でいることの証明に使える。遠藤は美術に明るい人間だった。その程度は考えるでしょう」
「二億の現金か……俺でも悩むところだな」
「あるいはアメリカですでに買い手を見つけたとも……絵がなければ安本商事に顔を出せやしない。失踪原因はそのどちらかです」
「そうなると……やはりアメリカに行って確かめるしかなさそうだ。遠藤は間違いなくガイ・マイヤーって男を訪ねたんだ。その足取りを追えばなんとか展開も見えて来るだろう」
「言葉ほど簡単じゃありませんよ。ガイ・マイヤーにはむろん安本商事も必死でコンタクトを取ったはずです。安本商事はガイ・マイヤーの住所を承知だったと思う。なのに、絵の捜索に失敗したということは……」
「そいつも消えちまったと?」
「そう考えるのが自然でしょう。そもそもガイ・マイヤーの所有していた春信を安本商事に仲介したのは遠藤だった。その時点で遠藤にも相当なリベートがマイヤーより支払われたんじゃないかな。ところが、偽物という評判が立って遠藤は慌てた。偽物なら七億もの金を返さなければならない。遠藤はマイヤーと相談した。マイヤーは、もっと確実な鑑定をつけるからと言って、遠藤に春信をアメリカまで運ばせた。そこまではいい……」
耿介は、ふと言葉を切った。
「どうした?」
「その先がよく分からなくなった」
「………」
「本物とお墨付が出て遠藤は意気揚々と日本に戻る。その途中で欲が生まれたり、遠藤が買い手を見つけたとしたら、マイヤーとは無関係になる。マイヤーが姿を消す必要はなくなりますね」
「だな。そういう理屈だ」
「安本商事がマイヤーと連絡を取って事情を聞いたとしたら変なことになる」
「どういう風に?」
「安本商事は春信が本物だと知ったはずです。それなら脱税逃れどころじゃない。もっと真剣に春信を捜そうとするんじゃ? 所有者はもともと安本商事なんだ。こそこそと捜す必要はありませんよ。売り払われてしまう前に全国の美術商に通達するのが常識でしょう」
「だったら、安本商事は知らないのさ。あれが本物だとはな。ガイ・マイヤーも逃げて連絡が取れなかったに違いない」
「なぜマイヤーが逃げるんです?」
「そりゃあ……本物という鑑定が出なかったからじゃ? 七億の金を払いたくなくてさ」
「やはり春信は偽物だったと?」
「それしか考えようがないぜ」
「マイヤーが逃亡したんで、遠藤も責任を逃れるために蒸発したということですか?」
「なるほど。そういうことも考えられる」
「その場合に、はっきり偽物と分かった絵を持って遠藤が逃げるとは思えないな。十二本の軸となれば結構かさばる。アパートにでも置いて行くのが自然てものです。なんの価値もない作品なんですよ」
「なにが言いたいんだ。おまえさんの話を聞いてると頭が混乱して来るぜ。本物と言ったかと思えば、今度は偽物。そしてまた本物かも知れん……いったいどれが本当の話だ」
「矛盾を並べただけです。偽物では有り得ない。かと言って本物ならマイヤーの失踪《しつそう》の理由がなくなる。マイヤーが逃げていないのなら、今度は安本商事の対応が妙だ。こいつにはどこかにとてつもない嘘があるんだ。でないと全部が繋《つな》がらない」
「だからニューヨークに行って確かめるのが先決さ。こっちであれこれ悩んでいても解答はでない。いつもの行動派はどうした」
堂々巡りをしている耿介に藤枝は呆《あき》れたように助言した。
「詰まった時は動くしかない。そいつはおまえさんがいつも口にしてることだ」
「ですね。こうなりゃ行く他にないか」
「駒井みどりには内緒にした方がいいんだろ」
「そうして下さい。それこそ、まだ手の内を晒す段階じゃない。これ以上妙な嘘を重ねられたらこっちが混乱するばかりだ」
「おまえさんが思うほど大した嘘とは思えんのだが……俺も頭が回らなくなったとみえる」
藤枝は溜《た》め息を吐いて、
「二億の金に目が眩《くら》んで男が逃げた。そういう単純な図式じゃないってわけだ」
「遠藤が生きてるってのが謎の一つです」
「………」
「殺されたというならもっと楽ですけど」
「姿をだれも見ていないってんなら、それも分からんぞ。キャッシュカードでの引き落としなんざ、だれにでもできる」
「暗証番号が面倒です。遠藤の母親の誕生日だと聞きました。ちょっと他人には……」
「へえ。それは確かに厄介だな」
「仕事を引き受けたのを後悔していますよ。やっぱり人間捜しはむずかしい」
「下手すりゃニューヨークも無駄足になるかも知れんな。こっちも不安になって来た」
藤枝はそれでも笑顔を見せて、
「ニューヨークだったら、まさか札幌みたいに一日二日で戻るってことはねえよな」
「ついでにメトロポリタンでもゆっくり見物して来ます。せっかくの機会だ」
「それじゃ、俺も仕事を頼みたい」
「仕事?」
「いつもの仕事じゃない。ニューヨークに小さな画廊を開いている昔馴染《むかしなじ》みが居る。そいつの店を訪ねて版画を何枚か仕入れて来て欲しいんだ。品物と値の交渉は耿介に一任する。浮世絵はおまえさんの専門だ。俺が見るより遥《はる》かに信頼が置ける。時々カタログを送って貰《もら》うが、なかなか面白いものがあった」
「余計な心配はなしにして下さい。アメリカに行く金ぐらいは蓄えていますから」
耿介は藤枝の意図を察して断わった。
「こっちも金があり余ってるわけじゃない。耿介だから頼むんだよ。純粋に金儲《かねもう》けだ。おなじ浮世絵でも向こうと日本じゃ相場の違うものがある。それを選んで来て貰いたい」
「たとえば?」
「金余り現象の盛んな日本なら有名絵師のものとなればなんでも高く売れるさ」
「清長や歌麿ですね。相場が異なると言っても、決して安くはないと思うけど」
「買い値が一千万でも、こっちで千五百万で売れれば立派な商売になる。まあ、その場合は契約だけを結んで来てくれればいい。カタログでは保存状態が分からん。それで今までやつと取り引きをしていなかったんだ」
「分かりました。その程度ならなんとか」
「手数料は買い値の五パーセント」
「いいんですか? 本当に歌麿や清長なら一千万近い。それじゃ悪いな」
「その温かい気持があるなら、うんと買い値を叩いてくれ。結構あくどい野郎だ。だいぶ儲けを上乗せしてるに違いない」
苦笑して耿介は請け合った。
藤枝や愁子と食事をして耿介が部屋に戻ったのは九時過ぎだった。いくつかの留守録の中に駒井みどりの声が入っていた。もし十時までに戻ったら、まだ仕事で店に居残っているので連絡が欲しい、とあった。連絡の窓口は藤枝に頼んで、直接交渉は避けるようにしている。軽い躊躇《ちゆうちよ》の後に耿介は受話器を手にしてプッシュボタンを押した。
「今日、遠藤の会社を訪ねたそうね」
通じると駒井みどりはいきなり言った。
「どうして分かったんです?」
「安本商事を担当してる営業マンが、会社にやって来て話したそうよ。遠藤の奥さんの依頼というふれこみで訪ねたんでしょ。それを聞いて安本商事が焦ったのね。身内が頼んだ探偵よりも先に遠藤を見つけてくれと念押しの電話が入ったの。探偵の名を確認したら仙堂耿介って言われて、こっちも苦笑したわ」
「遠藤の奥さんに本名を名乗ってしまったんで……もし会社の方で奥さんに問い合わせた場合に嘘ではまずいと思ったんです」
「じゃあ、遠藤の奥さんの依頼もホント?」
「そういうことにしてあるだけです。一応奥さんには了解を得てありますが」
「一任した以上、君のやり方に文句をつける気はないけど……少し派手過ぎるわ」
「人捜しならそれが当たり前でしょう」
耿介は軽く応酬した。
「会社関係や遠藤の家庭は安本商事もとっくに調査済みなの。それで埒《らち》があかなかったから私に依頼があって、絵の情報を捜査の中心に据えたのよ。藤枝さんにも伝えたはずだわ」
「調査の見落としだってありますよ」
「もしかして上原聡美のこと?」
電話の向こうで駒井みどりは笑った。
「どうせ無駄足だったでしょ。あの娘《こ》はなにも知らないわ。遠藤はしたたかなんだから。奥さんにも打ち明けていないのに、小娘なんかに秘密を洩《も》らすもんですか」
「どうも分からないな」
「なにが?」
「そこまで調べていて、俺になにをしろと言うんです? ここ何日か無駄の繰り返しだ」
「もう音を上げたってわけ?」
「そうじゃない。おなじ調べるにしても無駄をしたくないんです。なぜ上原聡美の存在を教えてくれなかったのかと」
「会社は無関係だと言ったじゃないの」
「確かにそうだろうけど……」
「じゃあ、他になにを知りたいの? 質問には答えて上げられるわ」
「ガイ・マイヤーについては?」
苛立《いらだ》って耿介はわざと質問した。藤枝と二人でマイヤーに自分たちが興味を抱いていることを当分は秘密にして置こうと決めたばかりだ。だが、それを確認しないではニューヨークに行っても無駄足となる可能性がある。
「その名をどこから!」
駒井みどりは一瞬言葉を失った。
「こっちにもこっちのやり方がある。質問はただ一つです」
「なに……」
「遠藤が失踪した後、安本商事はガイ・マイヤーとコンタクトを取ってみたんですか」
「取ろうとしたんだけど……」
駒井みどりは途端にうろたえた。
「できなかった?」
「………」
「どうしてです? 彼も消えたんですか」
「殺された……らしいの」
耿介は絶句した。
「私にもよく分からないわ」
「らしいってのは妙だな」
「安本商事が接触しようとしていた矢先に身許《みもと》不明の死体がセントラル・パークで……顔を潰《つぶ》されていたとか」
「それがガイ・マイヤーだと言うんですか」
「買い取りの時に何度も会った安本商事の美術担当者が新聞で特徴を見て間違いないと」
「………」
「だれだってすき好んで殺人事件に巻き込まれたくはないわ。ましてやアメリカの事件でしょ。安本商事は知らん顔して撤退したの」
「冗談じゃない」
耿介は声を荒《あら》らげた。
「そんな大事な話を隠しといて遠藤を捜せってのは目茶苦茶ですよ」
「安本商事が遠藤の取り込み詐欺の訴えを素直に撤回したのもそれが原因だわ。警察に本気で動かれればマイヤーの事件との関連が発覚する恐れもあるでしょ。大騒ぎになるもの」
「当たり前だ。あんたらは狂っている」
「………」
「安本商事はマイヤーを殺したのが遠藤だと睨《にら》んでいるに違いない。だから遠藤は日本に戻って失踪《しつそう》した。それで辻褄《つじつま》が合って来る」
「欲しいのは春信よ。殺人事件に安本商事は関わりを持ちたくないだけ」
「それで……俺ってわけだ」
吐き捨てるように耿介は言った。
「俺なら裏街道を歩いている。汚ない仕事を押し付けるには絶好の人間でしょうからね」
「なにを怒っているのよ」
駒井みどりは甲高い声になった。
「脱税を頼んだわけじゃない。殺人犯を逃亡させろとも言っていないわ。どこが汚ない仕事だと言うの? あなたは捜し屋じゃない。もっと汚ない仕事をたくさんしているはずだわ」
「お断わりだ。俺はオリさせて貰《もら》う」
「待って……きちんと説明させて」
「充分ですよ。今の説明でね」
耿介は乱暴に受話器を置いた。
〈冗談じゃない〉
置いてもしばらく怒りは静まらなかった。
電話が激しく鳴った。
耿介はベルを十回数えて取り上げた。
「そっちに行くわ。必ず部屋に居て」
駒井みどりはそれだけ言って電話を切った。
〈どういうつもりなんだ?〉
駒井みどりは酷《ひど》く慌てている様子だった。
〈あるいは……もっと別の裏が?〉
耿介の眉間《みけん》に深い皺《しわ》が刻まれた。
「オリる? なんだよいきなり」
電話をすると藤枝は戸惑った。
「駒井みどりが俺のアパートまで来るって言うんです。藤枝さんにも立ち会って貰いたいんですけど」
「だから、なんでそうなった?」
「ガイ・マイヤーが死んでいました」
「………」
「犯人は恐らく遠藤でしょう。それを承知で安本商事や駒井みどりは俺に遠藤の行方を」
「死んだってのは確かなのか」
「だと思います」
耿介は駒井みどりから聞いた話をそのまま繰り返した。
「けど、身許は確認されてないんだろ」
「マイヤーじゃないかも知れないと?」
「安本商事は単純にマイヤーの失踪とその死体を結び付けただけかも知れんぜ。アメリカの事件では詳しい情報も得られん。そう簡単に認めていいもんかね?」
「偶然が重なるとは思えませんよ。よほど死体の特徴が合致していたんでしょう」
「なんだか妙に逃げ腰だな」
藤枝は笑った。
「それとも……駒井みどりに嘘をつかれていたのが面白くなかったか」
「逃げ腰なんかとは違う」
「遠藤の行方はどうでもいい。我々の狙いは春信のはずだった。駒井みどりと手を切るのは構わないが、それを忘れんでくれ」
「続けろと言うんですか?」
「本物なら七億だぞ。簡単にゃ諦《あきら》められんさ」
「………」
「手を切るのも正解かも知れん。そうなれば安本商事を気にせずに春信を捜せる」
「殺人事件が絡んでいても?」
「俺や耿介が犯人ってわけじゃない。警察を恐れる必要はなかろう」
「偽物の可能性だって強くなっている」
「どうして?」
「遠藤がマイヤーを殺した動機です。偽物を押し付けられたと知ってカッとなったのかも知れない。それが一番自然な解釈だ」
「だが、おまえさんは絵の写真を眺めて本物の可能性があると言った」
「それは認めますがね」
「俺の信用するのは耿介の眼だ。手に入れて結論が出るまでは夢を追いかけてみようぜ」
藤枝に言われて耿介は迷った。
「今から俺が仕事の依頼人だ。失敗しても責任は持つ。アメリカに行って来てくれ」
「それだと駒井みどりを騙《だま》すかたちになるな」
「なにを甘いことを言ってる。世の中なんてのはこんなもんだ。手札を隠してた駒井みどりに責任があるんだぜ。耿介の怒りは当然さ」
「完全に手を引くならともかく、駒井みどりを断わって捜しを続けるとなると……」
「キャンセルに自信がないってんなら俺が断わってやろう。アパートに行くよ。ただし、ウチから目黒までだと一時間以上はかかる。駒井みどりを引き止めて置いてくれ。それまでは適当に話をごまかしていりゃいい」
藤枝の住まいは井《い》の頭《かしら》公園の近くだ。
「彼女の方は銀座の店からだから、あと二、三十分で着くはずです」
時計に目をやって耿介は言った。
「それよりも、耿介は説得に応じているふりをして、マイヤーの情報をもっと入手するんだ。駒井みどりと手を切れば後が面倒になる」
「電話で啖呵《たんか》を切ったばかりだ。あんまり期待はしないで下さい。態度を急に変えれば駒井みどりだって妙だと勘繰りますよ」
「せめて年齢や背格好ぐらいは突き止めておかんと捜せやしねえぞ」
「住所が分かっているんです。行けばなんとかなるんじゃないかな」
「捜すのはおまえさんだ。耿介に不安がないってんならそれでも構わんがね」
それじゃ、と藤枝は話を切り上げた。
チャイムが鳴ったのは二十五分後だった。
気の重い顔で耿介はドアを開けた。
「飲みましょう。そこで買って来たわ」
駒井みどりは包装されていないジャックダニエルズを耿介に手渡した。
「氷くらいはあるわね」
「どうぞ。汚ない部屋だけど」
耿介はみどりを招き入れた。
「凄《すご》い本箱じゃないの。さすがだわ」
片面の壁を本箱が天井まで埋めている。その大半は美術書だ。みどりは勧められたソファにも腰を下ろさず本箱を眺めた。
「本当に、どうして君が浮世絵を止めたの。菅谷先生はいつでも研究室に戻って欲しいと」
振り向きながらみどりは言った。
「つまみはチーズぐらいしか」
「私が用意するわ。案外料理好きなの」
「料理好きでも材料がなけりゃ無理でしょう」
キッチンについて来たみどりに耿介は笑って冷蔵庫のドアを開けて見せた。自分でも呆《あき》れるほどにガランとしている。瓶のバドワイザーと黒ビールの他にチーズやラズベリージャムの瓶を除けば食べ物はほとんどない。
「奇麗なものね。なにか買って来た方が早いみたい。近くにスーパーがあったわ」
「お腹が空《す》いているんですか?」
「ぺこぺこ」
「配達のピザは取れるけど」
「あれは脂っこくて苦手なの。いいわよ。私が行って来る。どんなのが好き?」
「俺はさっき食べて来たばかりです」
「この様子じゃ、いつも外食でしょ。体に良くないわ。せっかく道具が揃っているのに」
みどりはさっさと靴を履いて出て行った。
〈妙な人だな〉
耿介はおかしくなった。電話であんなやり取りをした相手とは思えない。部屋にはみどりの甘い香水の薫りが残っていた。
「さっきはごめんなさい。反省してるわ」
グラスを合わせてみどりは謝った。
「汚ない仕事をたくさんしてるだなんて……君が怒るのも当たり前よね」
「別に。本当のことだ」
「私もよく聞かされていないの。マイヤーのことだって、安本商事の立場になったら当然だろうと安易に考えていたし」
「なんで遠藤捜しを引き受けたんです?」
「遠藤が必ず春信を売りに出すと信じたからよ。それなら直ぐに情報が入る。引き受けたと言うより、付き合いのある安本商事が困っているようなので私から言い出したかたち」
「なるほどね。ところが遠藤は一向に春信を捌《さば》こうとしない」
「ええ。そこに君の噂を耳にして」
「………」
「ウチの店の支援者が横浜の『ミナト』ってことは、もちろん知っているんでしょ?」
言われて耿介は頷《うなず》いた。
「春信が偽物だと見抜いたのは青木だわ」
青木信三が『ミナト』の主人の名だ。
「言わば、私が間に挟まれてるってわけ。青木は私が安本商事と付き合いはじめているのを知らなかったのよ」
「付き合いがあっても、なくても、偽物は偽物だ。駒井さんが責任を感じることじゃない」
「理屈はそうでしょうけど」
弱々しくみどりは笑った。
「実際はそんなに単純じゃなくってよ」
「………」
「君だって偽物と分かっていても買い手に黙っている場合があると」
「こっちが売り込んだ品物とは違う。買い手から捜してくれと頼まれたものだ。それが本物か偽物かは俺に関係ない問題ですからね。あなただってそうでしょう。売ったのはマイヤーで、仲介者は遠藤。たとえ偽物と指摘したのが『ミナト』でも気にする必要はない」
「三億の仕事が纏《まと》まりそうな情況でも?」
「安本商事との間にですか」
「北斎の三幅対の肉筆を里帰りさせる段取りがついているのよ。菅谷先生の紹介でね。この際だからはっきり言います。私は他人の持ち逃げした春信なんてどうでもいいの。ただ、この問題がこじれて青木の責任を被《かぶ》せられるのはごめんだわ。世間では私と青木の繋《つな》がりを変な目で見ているようだけど、ただの支援者というだけで『こまくさ』は独立採算の店よ。それは安本商事も知っている。だからこそ、私が春信を捜して突き返してやりたかった。『ミナト』ともこれで縁を切るつもり」
「菅谷先生が仲介を?」
耿介にはそっちの方が気になった。
「先生が春に海外の美術館が所蔵している浮世絵の調査にでかけたのは知っているわね」
「来年から全集が出版される予定だとか」
「その時の土産よ。美術館に納められていない北斎の肉筆をフランスで見つけたの。なんとか日本に里帰りさせることができないかと先生から相談を受けて……思い切って安本商事に声をかけたら簡単に話に乗って来た」
「安本商事はやたらと浮世絵に興味を持っているんだな」
「私は知らなかったけど、その裏では春信を買い取る契約が進行中だったのね。春信と北斎をコレクションに加えれば相当に充実する。安本商事の方もそう計算したんだわ」
「確かにその状態じゃ辛《つら》い。話が途中ってことは、逆に契約が延びたんでしょう」
「ええ。春信が偽物だったと知って安本商事も肉筆には慎重になったの。菅谷先生の保証があると主張しても、春信の問題にケリがつかない限り購入は延ばさせてくれと」
「その北斎には鑑定がついていないんですか」
「五月に先生が案内されてフランスにでかけて眺めて来たわ……いい品物だった」
「先生もだいぶ積極的なんだ」
「今さら隠しても仕方ないわね。君だって感づいているでしょうけど……先生には相当の謝礼を払う約束に。別に怪しいお金じゃない。発見者は先生ですもの」
「出版社が全部の費用を持った取材旅行じゃないですか。発見者なんて笑わせる」
「でも、先生から教えて貰《もら》えなければ私は存在さえ知らなかった。堅いことは言わないで」
「そういう付き合いはいつからなんです?」
「菅谷先生と?」
「今度が最初じゃなさそうだ」
「君には関係のない話だわ」
みどりは視線をそらせてグラスの氷を見詰めた。軽くグラスを揺する。
「どっちが誘ったことです?」
「さあ……どっちとも言えないわね。先生に直接伺ってみたら?」
みどりは口許《くちもと》に微笑を浮かべた。
「北田さんの金回りのいいのもよく耳にする」
北田重満は耿介と同様に菅谷清志の研究室で助手をしていた先輩である。耿介は研究室を去ったが、北田は残り、今では菅谷の片腕として浮世絵研究界で重きを成していた。
「君って不思議な人間だわ」
みどりは軽い溜《た》め息を吐いて、
「私は君のしている仕事と菅谷先生たちのしていることに大差はないと思うけど」
耿介は苦笑して頷《うなず》いた。自分では絶対に違うと信じているが、他人にはそう映るだろう。
だが、これで耿介も決心がついた。
自分の利益のためだけに駒井みどりがこの件に関わっていると知ったからだ。としたら藤枝の言う通り対等の立場になる。
「マイヤーを調べてみようとは一度も思わなかったんですか?」
耿介は話を元に戻した。
「アメリカまででかけて?」
みどりは首を横に振った。
「女一人で行ってどうなるの? それに安本商事だってマイヤーについては蒸し返すなと」
「その死体がマイヤーだと安本商事はよほどの確信を抱いているんですね」
「年齢が四十代前半で、身長が一メートル六十センチ。アメリカ人にしたら凄《すご》く小柄な体型だわ。その死体が発見される前日に安本商事の人間がマイヤーとメトロポリタンのレストランで会う約束をしていたらしいの。死体はメトロポリタンのあるセントラル・パークで発見されたのよ。疑問がある?」
「さっきその話を聞いた時は、咄嗟《とつさ》に遠藤が殺したんじゃないかと考えましたがね」
みどりの話の間に耿介は矛盾に気づいた。
「安本商事がマイヤーに接触を図ったのは、当然のこととして遠藤が失踪《しつそう》した後なんでしょう? だとすればおかしいですよ」
「………」
「遠藤が殺したとしたら失踪前のはずです。なのにマイヤーは安本商事が訪ねるまでちゃんと生きていた。遠藤は安本商事の動きを知って、またアメリカに行ったということですか? 口封じのためだとしたら、マイヤーは遠藤の隠れ場所を知っていたとしか思えない。そうなると遠藤とマイヤーは仲間だ。仲間なら、のこのこと安本商事の誘いに乗ってマイヤーが姿を見せるとも考えにくい」
「本当ね。言われてみると変だわ」
「仲間でないのなら遠藤にも口封じをする必要がなくなる。これには裏がありますよ」
「どんな?」
みどりは膝《ひざ》を乗り出した。
「マイヤーは安本商事の追及を避けるために自分の身代わりを立てたんじゃ?」
「死体が別人ってこと!」
みどりは目を円くした。
「顔が潰《つぶ》されていたと言ったでしょう。そうなると小柄という特徴がモノを言う。第一、遠藤がアメリカにまた行けたはずがない」
「………」
「東京の遠藤の部屋にはパスポートが残されていました。やつはずうっと日本に居る」
「じゃあ安本商事が騙《だま》されていると?」
「だと思います。マイヤーが生きている可能性の方が強いと思いますね」
「それじゃ、ふりだしじゃないの」
みどりは呆然《ぼうぜん》として耿介を見詰めた。
「手を引く方がいい」
耿介は言った。
「菅谷先生が保証している北斎なら安本商事以外にも買い手はたくさんいるでしょう。なにも無理して厄介な仕事に関わる必要は……」
「そうね……考えてみるわ」
みどりは暗い顔をして頷いた。
「とても手に負えそうな話じゃないもの」
「それでこっちも安心した。喧嘩《けんか》をせずに仕事をキャンセルできる」
「やっぱり断わる決心だった?」
みどりは妖《あや》しい目で耿介に迫った。瞼《まぶた》にほんのり赤みがさしている。空腹のところに濃いウイスキーを飲んで酔いが回ったらしい。口調も少し怪しくなっていた。
「私と君とはいいコンビになれそうだけどな」
「………」
「好きな人でも居るの?」
「どうしてです?」
「居ないみたいね。女の匂いがしない部屋」
「女の方で相手にしてくれない」
耿介は急に胸の騒ぎを覚えた。どんなに鈍感でもみどりが誘っているのは分かる。みどりの瞳《ひとみ》は耿介の目から離れなかった。
「君は素敵よ。最初からそう思っていた」
「信用すると失望しますよ」
みどりは笑顔のままイアリングをいじった。外れそうになっていた。酔いのせいかみどりはイアリングを床に落とした。前屈《まえかが》みになって床に腕を伸ばす。胸元が大きく開いて形のいいバストが見えた。わざと見せている。
「俺が拾いますよ」
耿介は立ち上がってみどりの側に行った。テーブルの下にイアリングが転がっている。腕を伸ばした耿介の頬に触れ合うほどのところにみどりの唇があった。
「私じゃ迷惑?」
耿介は無言でその唇を引き寄せた。みどりは自分から床に横たわった。耿介はみどりが押し入れて来る薄く滑らかな舌を吸った。つんとしたバストが鼓動とともに波打っている。
「そのつもりで来たの」
みどりは小悪魔のように片目を瞑《つむ》った。
「藤枝さんが来る」
耳たぶを軽く齧《かじ》りながら耿介は囁《ささや》いた。
「どうして……」
吐息に身を捩《よじ》らせてみどりは質《ただ》した。
「まさかこうなるなんて思わなかったから。今は約束を悔やんでいる」
クスクスとみどりは耿介の腕の中で笑った。
「馬鹿な人ね。女が部屋に行くと言ったのよ。もっと頭を働かせなさい」
「女性にかけては自信がない」
「じゃあ、今夜はお預け?」
「人に見せる趣味はないんだ」
アハハとみどりは笑って耿介の首筋にしがみついた。耿介はみどりのスカートの中に指を這《は》わせた。みどりは同時に耿介の股間《こかん》に軽く触れた。
「良かった。君も本気みたい」
みどりは満足そうに言ってパンツの上から強く握った。耿介はみどりから離れた。
「もう来るの?」
「そろそろだ。髪を直した方がいいよ」
「今の車の音がそうかしら」
みどりも立ち上がった。
「今夜は泊まっていこうかな」
「藤枝さんはなかなか帰らないさ」
「アメリカに行くつもりでしょう」
耿介は返事に詰まった。
「図星ね。油断がならないんだから」
みどりが耿介にまたキスをした。
「駄目よ。だったら私も連れて行って」
「………」
「春信はどっちなの?」
「どっちと言うと?」
「本当に偽物だったのかしら」
「写真しか見ていない。判断はできない」
「やっぱりそういうこと」
みどりは耿介の腕を取って自分の胸の上に当てさせた。
「だから君が好きなの。私の勘が当たったわ」
みどりの髪は香水の花束のようだった。
耿介はその髪に鼻を埋《うず》めた。
そこにチャイムが鳴った。
二人はドアに視線を動かした。
「知らないふりをしていればいいのね」
みどりはずるそうに先回りした。
「明日の夜、また会える?」
「どこに行けば?」
「最初に会った浅草ビューホテルのバーはどう? 八時。でも念のために六時に電話を」
「店の方にですか?」
「部屋も予約しておくわ。子供じゃないもの」
みどりはそう言って耿介を促した。耿介は唇をハンカチで拭《ぬぐ》ってドアに向かった。
「お邪魔しますよ」
姿を見せた藤枝はソファにかしこまっているみどりと顔が合うと陽気な挨拶《あいさつ》をした。
「こちらこそ。来るんじゃないかと思っていたわ。仕事のキャンセルの話ですものね」
「もう済んだのか?」
藤枝は怪訝《けげん》そうに耿介を見詰めた。
「話は白紙に戻ったが……」
二人でみどりをタクシーまで送って部屋に戻りながら藤枝は言った。
「なんか感づいてる顔だぞ、ありゃあ」
「当然でしょう」
ドアを開けて耿介は笑った。
「彼女もプロですよ。春信に可能性があるのは分かっているはずだ」
「可能性って……本物のかい?」
「今度の件に関しては『ミナト』と無縁のようでした。むしろ迷惑してると」
「どうかな。駒井みどりの言葉だけを信じるわけにはいかん」
「彼女も手を引く気はないようです」
「砂糖に群がる蟻だな。俺たちも含めてさ」
ソファに腰を下ろすと珍しく藤枝はウイスキーの蓋《ふた》を捻《ひね》った。耿介のグラスの中身を捨てて、底に薄く注いだ。氷と水を加える。
「飲むんですか?」
「この夜中に追い出すなんて言うなよ。今夜は泊めてくれ。なんだか疲れた」
「大歓迎だけど……藤枝さんが飲むとはな」
「これくらいの量なら睡眠薬代わりだ」
「俺も付き合います。朝まででもね」
「よせよ。寝るつもりで作ったんだ」
藤枝はちびりちびりと口をつけた。
「マイヤーは死んでいないかも知れません」
耿介の言葉に藤枝は噎《む》せた。
「電話じゃ死んだと言ったぜ」
「ニューヨークの知り合いって人は永く住んでいるんですか?」
「もう十二、三年にはなる」
「協力を頼んではまずいですか?」
「まずくはないが……金次第だな。若い頃一緒に苦労した男だ。たいていのことなら引き受けてくれると思うがね」
「死体なら苦労はないけど、消えたアメリカ人を捜し出すのは面倒です。こっちは右も左も分からない。町に慣れるまでが大変だ」
「やつも商売人だ。勘が鋭い。そこのところは注意してやってくれ」
藤枝は少し考えて了解した。
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第四章 消えた男
十日後。
耿介はニューヨークのど真ん中に居た。
夕方にホテルに着いて真っ先にしたことは藤枝から紹介された大岩|基《もとい》への電話だった。
大岩の開いている画廊はマンハッタン島のトライベッカ地区にある。地図で確認したら中心よりだいぶ離れている。美術家たちが集まって有名になったソーホー地区やチャイナタウンに隣接した、いわゆる下町である。家賃高騰のせいでソーホーには住めなくなったアーチストたちが移動して、トライベッカも文化の町になりつつあると藤枝から聞かされた。
ようやく通じた電話に元気な声が響いた。大岩だろうと思いながらも耿介は英語で用件と名前を告げた。
「もう着いたのか」
やはり大岩だった。耿介と分かって日本語でまくしたてた。藤枝から国際電話を貰《もら》っていると言う。それなら話は早い。
「どこのホテルだい。迎えに行くよ」
「ヒルトンです。場所は――」
「聞かなくても分かる。張り込んだな。そこならなにをするにしても便利だ。日本語だって通じるんじゃなかったか?」
「ええ。なかなか眺めもいい」
「分かった。一時間後だ。着いたら部屋に連絡する。番号は?」
「どうせ大岩さんの店に行くなら、こっちがタクシーを拾っても構いませんよ」
「着いた早々仕事でもあるまい。せっかくの客だ。今夜は顔合わせだ。なにか旨《うま》いものでも食おう。どんなのがいい?」
「なんでも……日本食でもいいです」
「へえ。珍しいね。着いたばかりでか」
「日本では洋食が多い」
大岩は大声で笑った。
「部屋の方に行く。待っていてくれ」
陽気な男らしかった。部屋番号を教えて電話を切ると耿介はタバコを口にくわえカーテンを開けた。四十六階建ての近代的なホテルだ。耿介の部屋は三十八階。とてつもない高さのはずだが、高層ビルの林立するニューヨークの中心だけあって三十八階程度ではそれが感じられない。
セントラル・パークとは窓の向きが違うのか見えなかった。
「大岩だ。よろしくな」
ドアを開けた耿介に大岩は手を差し出した。小柄だが精悍《せいかん》な筋肉をしていた。ラフなジャケットが良く似合う。藤枝よりも二つ若いと聞いて来た。となると三十八。耿介とは六つ違いだ。
「どうします?」
「まだメシには早い。部屋でビールでも飲みながら話を聞こう。見本も持って来たよ」
大岩は平たい風呂敷《ふろしき》を持ち上げた。
「若い画家にデザインさせた風呂敷だ。洒落《しやれ》で拵《こしら》えてみたら結構売れてね。女たちがスカーフ代わりに買って行く。今じゃすっかりウチの店のトレードマークさ」
「見本て、版画ですか?」
「明日まで待ち切れなくなった。保存は悪いが歌麿もある。珍しい図柄だと思うがな」
頷《うなず》いて耿介は椅子を勧めた。大岩はベッドの上で風呂敷を解いた。耿介は冷蔵庫からビールを取り出して大岩に手渡した。
〈試そうって魂胆か〉
耿介も見抜いていた。商売人同士ではよくある。相手の眼の善し悪しを知ることがこの商売の基本なのだ。どんなに優れた作品でも、相手がその価値を見抜けない人間では値の競り合いもできない。ダンピングや吊《つ》り上げをどこに設定すればいいかも分からなくなる。初対面の相手と大きな取り引きをする場合には、頻繁にこの試しが行なわれる。方法は人によって様々だが、普通は優良品と偽物、そして駄作の三点を見せることが多い。それによって相手の眼の幅を読み取るのだ。
「どうだい。なかなかのもんだろ」
大岩は七枚の版画をベッドに展《ひろ》げた。
耿介は目敏《めざと》く歌麿を取り上げた。
晩年の大首絵だったが丁寧な直しの痕跡《こんせき》があった。虫喰《むしく》いの穴を塞《ふさ》ぎ、唇の朱にもムラがある。陽に焼けて色落ちしたものに筆で色を足し加えたのだろう。全体に色が薄い。耿介は裏を調べた。色が抜けていない。次いで窓の明かりに歌麿を透かした。裏から眺める。色にほとんど変化はなかった。明らかな偽物だ。本物ならばたとえ表面が色褪《いろあ》せていても、こうして陽にかざせば紙に染み込んでいる絵の具が鮮やかな色を再現するはずである。
「確かに偽物にしちゃよくできていますね」
最初から色を薄くして意図的に拵《こしら》えたものだ。虫喰いも線香で作ったに違いない。
「藤枝が信頼してるだけのことはある」
それ一枚だけで大岩は他の版画を包んだ。
「一発で見抜いたやつはほとんどいないよ。たいていは唇の色差しでごまかされる。直しだろうと先入観を持ってその先は見ない」
「何人にも試しているんですか」
「まあ、洒落だよ。どうせ売るなら好きなお客に渡したいからな。明日が楽しみだ」
悪びれずに大岩はビールを飲んだ。奇麗に刈り揃えた口髭《くちひげ》に泡がついた。
「何日の予定だい?」
「さあ……こっちも知りたい」
「人捜しとだけは聞いてるが……わざわざ日本から来るとこをみるとよほどのことだろ」
「藤枝さんのお客が偽物を掴《つか》まされたんです」
耿介は二人で相談した嘘をついた。
「藤枝さんが問い合わせたら姿を消していた。半々の仕事ですよ。浮世絵の仕入れのついでにその男を捜してみてくれと。大事なおとくい客のためにもケリをつけたいんでしょう」
「こっちで買ったのか?」
「ええ。しかも個人からね」
「欲を出したってわけだな。ギャラリーを通じてなら滅多なこともねえのに」
大岩は簡単に信じた。
「で、住所は?」
言われて耿介はメモを見せた。
「ブルックリンか。この番地だと恐らくブルックリン美術館の近くだろう。ニューヨークでも古い建物が多く残されている地域だ」
「そうです。俺も地図で調べて来ました。美術館の西側に当たる」
「美術館は危ねえんだよ」
「危ない?」
「もの欲しそうな目で展示物を眺めていると、必ず声をかけて来るやつがいる。掘り出し物があると言ってね。きっと騙《だま》された客ってのも、ブルックリンでひっかけられたのと違うかい? あそこのエジプト美術は世界的に有名だから日本人観光客もよく行く。日本人の好きなのはモナリザを除けば印象派とエジプトのミイラだからな」
耿介は苦笑した。
「とにかく明日案内しよう。ブルックリンなら俺の店にも丁度いい。チャイナタウンを抜けてマンハッタン橋を渡ればブルックリンだ」
大岩は立ち上がった。
「本当に日本料理でいいのかい? それなら『嵯峨野《さがの》』って店がある。五番街と四十四ストリートのぶつかった辺りだ。近くには高島屋と東京書店があるんで、なにかと都合がいい。客をよく連れて行く店だ。つまみも多いから酒を飲むには手頃なとこだ」
「冷ややっこに冷酒もいいですね。ニューヨークならその方が洒落ている」
「アメリカにだって結構旨い食い物はあるぜ。悪い評判が立ち過ぎてるだけだ。リトル・イタリーに行けば本場のイタメシも食える」
「ニューヨークでもそんな言葉が?」
「俺はロビンソン・クルーソーじゃねえよ。商売の関係で三カ月に一度は東京に行く。日本で安い芳年や国貞《くにさだ》なんかを仕入れて来るのさ。歌麿や春信だけを扱えるんなら文句はねえがな。さすがにこっちでも仕入れ値が高くなって品数が薄くなる。間抜けな日本人が倍もふっかけている芳年なんかを買って行くぜ。ありゃあ、どういう感覚なのかね。神田辺りに行けば簡単に手に入るはずだ」
「知らないんですよ。浮世絵はどこで買えるのかとしょっちゅう聞かれます。海外に出ると懐かしさから日本の店を覗《のぞ》く。けど、日本で浮世絵を扱っている店には入らない。何百万もするものばかりだと怖がっているんでしょうね。それこそ芳年なら三万くらいのものだってたくさんあるのに」
「妙な時代になったもんだ。近頃じゃ浮世絵に関する限り、客の半分が日本人観光客だよ。日本人は金持ちになったとつくづく実感する」
「アメリカで眺めると役者絵なんかもエキゾチックに見えるんじゃないですか?」
「かも知れないな。しかし、日本人がエキゾチックを喜んでどうするつもりだ?」
「日本人は日本人でなくなっている。鮨屋《すしや》のカウンターに座るのがトレンディな時代なんです。まるで外国人と一緒だ。俺だって洋食っぽいものだけ食べていますよ。女子高校生の間に骨董《こつとう》ブームがあるのもそれだ」
「へえ。そいつは知らなかった」
「古い煙管《キセル》だとか根付《ねつけ》を蒐《あつ》めて自慢しあっている。安物ですけどね。瀬戸物の火鉢を捜していると言って来た中学生の女の子が居たそうです。業者が呆《あき》れていた」
「それがウチの店にも若いOLが来るんだな。なんだか情けねえ世の中になったもんだ」
大岩は耿介の着替えが済むと促した。
『嵯峨野』は落ち着いた店だった。
外国人が多少目立つ程度で、日本の店とまるで変わりがない。耳に入る言葉のほとんどが日本語である。耿介の冷酒が進んだ。
「一週間程度の日程なら、観光客の八割が日本料理店に一度は来るそうだぜ。ニューヨークにゃ百軒を超す日本料理店がある。ラーメン屋だけでも相当なもんさ。『どさん子』は確か十軒近くあるはずだ」
「味よりも英語から解放されたいんでしょう。こういう店だと安心して話ができる」
「そうかね。かえって俺にはうるさい感じだ」
「あんまりこういう店には?」
「いや。来るよ。客の接待でな。アメリカ人も日本人の案内だと安心するらしい。鮨や天ぷらは有名だが、他の料理は知らん。メニューを見てもちんぷんかんぷんだ。誘うと喜んで接待に応じる。こことブロードウェイ近くの『串友《くしとも》』って店をよく利用するんだ。串焼きは肉だからアメリカ人の客も抵抗がない」
大岩は耿介に酒を注いだ。
「藤枝さんとは?」
「銀座の画廊で苦労した仲だ。俺は日本美術を扱いたかったんで店を辞めたが……あの人はよく頑張ったよ。青山に店を持つのは並大抵のことじゃない。分野が違ってしまったんで東京に行ってもあまり会う機会はないが」
「東京の入札会には?」
「時々な。今じゃ日本の方が高い値をつけるんで参加しても意味はなくなった」
「だったら『ミナト』も知っていますね」
「青木の親父さんには目をかけて貰《もら》っている。あそこの蔵には手頃な品物があるからな」
「他人じゃない気分ですよ」
耿介は苦笑いした。
「当然『こまくさ』も知っていますよね」
「みどりさんか。彼女も来るんだろ」
「来る? ニューヨークにですか」
「そういう電話を貰ったぜ。一週間ぐらい前だったかな。着いたら連絡すると」
耿介は内心舌打ちした。
藤枝は浮世絵の世界に疎い。だから初歩的なミスを犯したのだ。ニューヨークで浮世絵を専門に扱っている店なら、日本の業者と馴染《なじ》みなのは当然のことである。隠密《おんみつ》行動のつもりが、これでは筒抜けになってしまう。
〈大岩には協力を頼まない方が無難だ〉
耿介は決めた。
「塔馬双太郎《とうまそうたろう》を知ってるな」
大岩は話を変えた。
「ええ。歌麿を研究している」
「あの人もニューヨークに来てるぜ」
「ふうん。そうですか」
「親しくはないのかい」
「名前だけです。有名な人ですからね」
「素っ気ないじゃないか」
大岩は笑った。
「せっかくだ。紹介しようか。ニューヨークでの出会いってのもおつなものさ」
「塔馬さんは仕事で来ているんでしょう」
「らしいね。『美術芸潮』の檜山って男と一緒だった。取材かなにかだろう」
「檜山さんもニューヨークに!」
さすがに耿介は声を大きくした。
「どこに泊まっているんです?」
「知り合いだったのか」
「取材って……詳しく聞いていませんか」
耿介は焦った。檜山は事件に関心がなくても、幻のマイヤー・コレクションには興味を抱いている。四十年以上も前にそのカタログが編集されていたのを知って、分散したマイヤー・コレクションを雑誌に再現したがっていたのだ。あるいはどこかでそのカタログを入手したのかも知れない。それで塔馬双太郎を伴ってメトロポリタンを訪れた可能性は充分に考えられた。
〈心配が現実になったか……〉
これも藤枝のミスである。安本商事から情報を引き出すために、藤枝が知人である檜山に探りを入れて貰ったのだ。それが結果的には檜山をも巻き込む形となってしまった。
「レキシントンと聞いている。ヒルトンに較べたら格はちょいと落ちるが、長期滞在には向いている。半月は居るとか言っていた。ここからそう遠くない。電話してみようか」
耿介は躊躇《ちゆうちよ》の末に断わった。やはり藤枝と相談する必要がありそうだった。
「しかし、塔馬双太郎ってのも大した男だな。一昨日《おととい》は知らん顔して掛けていた二代歌麿をピタリと言い当てられたぜ。慌てて壁から外した。あんなのを菅谷先生に見られたらこっちの恥だ。まさか簡単に見破られるなんてな」
「菅谷先生……」
「みどりさんが案内して来るとさ」
耿介は頭が痛くなった。なんでこう日を選んだように皆がニューヨークに集まるのか。
〈冗談じゃないぜ〉
一刻も早くホテルに戻りたかった。だが、日本とニューヨークでは十四時間の時差がある。こちらの夜八時は日本の朝十時だ。昼出勤の藤枝はまだ店に出ていないだろう。
〈出直した方がいいんじゃないか?〉
本気で耿介は思った。
菅谷とみどり、そして檜山の居る時では自由な行動が取れない。
「天ぷらを追加しようか。食えるだろ」
大岩は呑気《のんき》な顔をしていた。
十一時になるのを待って耿介は電話をした。直ぐに出た藤枝に耿介は手短かに伝えた。
「駒井みどりばかりじゃなく檜山までがそっちに行ってるってのか!」
「絶対にマイヤー・コレクションですよ。例のカタログを入手したんじゃないですか」
「見つかるわきゃねえだろ。日本にあるもんか。偶然だよ。やつの担当は浮世絵じゃない」
「マイヤーは浮世絵以外にも蒐集《しゆうしゆう》していました。檜山さんが興味を持つのも当たり前です」
「それでどうするつもりだ?」
「大岩さんが塔馬さんを紹介してくれると」
「参ったな。あいつがそんな連中と関わり合っているとは思わなかった。迂闊《うかつ》だったな」
「隠すのはむずかしいですよ。大岩さんはきっと俺のことを彼女にも――」
「教えるだろうな。と言って口封じを頼めば今度は大岩が興味を持ちはじめる」
「でしょうね。こっちも打つ手がない」
「いっそオープンに行く手もあるぞ」
「気にしないでやれと?」
「それしかあるまい。最初に捜した方が勝ちってことさ。檜山は殺しが絡んでいるのを知らんし、駒井みどりは、なんと言っても女だ。大した動きもできんだろう。むしろ大岩に白状して巻き込むのも正解かもな。七億の春信なら三人で分けてもお釣りが来る」
「出直すって方法もあります」
「アメリカ往復の旅費を無駄にする気かい。そいつはいくらなんでも勿体《もつたい》ない」
「分かりました。藤枝さんがそれでいいと言うなら問題はない。俺も気が楽になった」
「にしても、駒井みどりはなんだって菅井先生をアメリカに連れ出したんだ?」
「………」
「まさか、すでに発見して鑑定を頼んだわけじゃあるまいな?」
「それは考えられません」
「気が進まんだろうが、菅谷先生にも会うんだ。敵の動きを知るのも大事だぜ」
藤枝は無理に押し付けた。
「いい機会かも知れん。前にも言ったように、こういう仕事をしていればいつか必ず出会う相手だ。耿介のためにもなると思うがね」
「とっくに覚悟してましたよ」
耿介は電話に向かって頷《うなず》いた。
翌日の朝九時。
耿介はホテル・レキシントンのロビーのソファに腰を下ろしていた。泊まっているヒルトンからこのホテルまで、碁盤の目のようになっているニューヨークの町割りで言うと縦に五本、横には六本ほど離れている。だが、一丁の長さがだいぶあるので、歩きにはきつい。地図で確かめた時には十五分と見当をつけていたのだが、その倍近くはかかった。
「おはよう」
ロビーの向こうから檜山が耿介を見つけて手を振った。となりには痩《や》せて背の高い男が立っていた。塔馬双太郎に違いない。耿介はソファから立ち上がって一礼した。
「地球は狭いな。ニューヨークで会うなんて」
檜山が言うと側の塔馬は笑って、
「とりあえずビール、ってのとおなじレベルの挨拶《あいさつ》だね。もう三人くらいに君はそれを口にしてるぜ」
「そうですか? 自分じゃ気がつかない」
「塔馬双太郎です。話は檜山君から聞いてる」
塔馬は取り合わず耿介に軽く会釈した。頭に描いていたよりも気さくな笑顔だった。耿介も名乗った。
「朝メシは? こっちはまだなんだ」
檜山が訊《たず》ねた。
「食べて来ましたけど、コーヒーなら」
「じゃ、外に出よう。このホテルの朝メシには飽きてしまった。旨《うま》くて安い店が外にはいくらでもある」
檜山はさっさと歩きはじめた。
「仙堂君って、珍しい苗字《みようじ》だが……七、八年ほど前に江戸美術協会の機関誌にマス・メディア論を寄稿したのは君だったよな」
塔馬は自信なさそうに質《ただ》した。
「あんなのを覚えて下さってるんですか」
耿介は少し驚いた。耿介が唯一発表した論文と言っていい。それから一年後には菅谷の研究室を離れたのだ。
「気にしていたのさ。あれからちっとも君の名前を見掛けなくなったんでね。なかなか面白かった。楽しみな人だと思っていたよ」
「止めたんです。研究の方は」
耿介はつい挑戦的な口調になった。
耿介にとっても塔馬双太郎は気になる存在だった。江戸美術協会にも浮世絵愛好会にも属さず、一匹狼のままで浮世絵の研究を続けている。しかも大学で教えている男だ。この世界にあって珍しい。羨《うらや》ましいと思う反面、常に嫉妬《しつと》を感じていた。それが反発にも繋《つな》がっている。悪い噂を聞かないのも理由の一つだった。自分とは正反対の道を歩んでいる。
「亡くなった津田良平君を知ってるかい」
肩を並べて歩きながら塔馬は言った。
「西島先生のところに居た人でしょう」
むろん知っている。間接的にはその津田が関係した事件のあおりを食らって今の自分があるのだ。江戸美術協会の総会などでも何度か言葉を交わしたことのある男だ。
「なんだか似ている」
塔馬は耿介の横顔を眺めて続けた。
「彼は遥《はる》かにシャイだったけどね」
「自殺だったとか聞いてますけど」
「もう一年以上にもなる。惜しい男だった」
「俺とおなじくらいの年齢でしょう」
「君は何歳になる?」
「今年で三十二です」
「だったらそうだ。ほとんど一緒のはずだ」
「自殺の原因はなんだったんです?」
「津田君の潔癖さがああいう結果になった。お互いに厭《いや》な世界に生きてると思うだろ」
「広重暗殺説、読みました」
「あれは津田君の説だ。俺は彼の仮説を文字にしただけにすぎないぜ」
「後書きにもそうありましたね」
「品物を捜す名人が居ることは時々耳にしていたが……あの仙堂君とは思わなかった。どうして菅谷先生のとこを離れたんだい」
「厭な世界だと言ったばかりじゃないですか」
耿介は苦笑してその話を避けた。
「菅谷さんは変わったからね」
敏感に察してか塔馬も頷いた。
軽食堂の堅い椅子に三人は腰掛けた。ハンバーガーの肉を焼く匂いが食欲をそそる。
耿介も誘われて一つ頼んだ。檜山はそれにアップルパイも注文した。
「やたらと旨い。クセになりそうだ」
檜山は勧めたが耿介は断わった。
「さてと……そろそろお互いの質問時間にしようじゃないか」
大きめのコーヒーカップに口をつけながら檜山はニヤニヤ笑って、
「君も当然マイヤー・コレクションの件でやって来たんだろ」
「リストは手に入れたんですか?」
耿介の問いに檜山は首を横に振った。
「じゃあどうして?」
「半年後の大型企画に決まったのさ。マイヤー・コレクションを通じて絵画の流出問題と寄贈品に頼る美術館の在り方を考える。取材は早目にしておくのが楽だ。リストもメトロポリタンだと保存してあるんじゃないかと安易に考えて無謀にも決行したというわけだ」
「すると、メトロポリタンにも?」
「なかった。古い話だからな。美術関係の書籍を扱っている古書店を回ろうかと相談していたところでね。ここの市立図書館にもない」
「確かにリストは捜すのに厄介だ」
「それにしても――」
塔馬が割って入った。
「当のメトロポリタンにないとは呆《あき》れた話じゃないか。必ずあると檜山君に保証したのは俺なんだよ。責任を感じている」
「なんとか安本商事を拝み倒してリストを借り受けます。どうぞご心配なく」
「あれがないと企画は成立しなくなる」
「その場合はメトロポリタン特集にでも企画を変更しますから、塔馬さんは気にしないでじっくり絵を眺めて下さい。どっちかと言うと塔馬さんと一緒の仕事がしたくて立てた企画ですからね。アメリカに来てしまえばこっちのもんだ。後はどうにでもなる」
「俺だって文句はないさ。こういう仕事ならいつでも大歓迎だけど」
「こっちより、そっちに興味がある」
檜山は耿介と向き合った。
「安本商事に春信を売ったというアメリカ人を捜しに来たんだろう?」
「………」
「それ以外に君が来る理由は考えられない。君は捜し屋を商売にしている」
「まあ、そういうことです」
「見つかったのかい」
「昨夜到着したばかりですよ。昼からその住所を訪ねてみるつもりでね」
「安本商事に仲介したメーカーの営業部長が蒸発していた」
檜山はそう言ってじっと耿介を見詰めた。
「もっと裏を探ってみようと思ったが、この企画がとんとん拍子に具体化したんで尻切《しりき》れとんぼになっちまった」
「………」
「君と藤枝さんが動いてるとなりゃ、ただの人捜しとも思えないな。安本商事の対応も妙だったよ。例の春信は大阪に保管してあるとか言ってたけど……塔馬さんは蒸発した営業部長が春信を持って逃げたんじゃないかと」
檜山に言われて耿介は塔馬に目を移した。
「しかも、春信そのものにも裏がありそうだ。はっきりした偽物なら盗む理由がない」
「反対だよ」
塔馬は小さく首を横に振ると、
「最初に春信が本物かも知れないと疑っていたから、持ち逃げの可能性があると言ったんだ。持って逃げたから本物だと推理したわけじゃない」
檜山の説明に苦笑いした。
「本物だという根拠はなんです?」
耿介は真っ直ぐ塔馬の顔を睨《にら》んだ。
「春信の肉筆は珍しい。見つかれば必ず大騒ぎとなるはずだ。当然細かい部分までチェックされるだろう。それは贋作者《がんさくしや》だって承知の上さ。だとしたらアラが目立たないようにラフな線を用いるのが普通だ。あんなに緻密《ちみつ》に描いてなんの得がある? 危険を増大させるばかりで意味がない。しかも十二本をいっぺんには出さないさ。小出しにして世間の反応を確かめる。それから推しても、あれが意図的に拵《こしら》えられた偽物じゃないのは明らかだと思う。考えられるのは春信と同時代に描かれた肉筆に手を加えたものってことだね。それだと確かに春信の作品としては偽物になるが、厳密に言うと偽物じゃない。それなりに価値が出てくる。だれが描いた作品かを突き止めることによって面白い結果になるかも……」
「本当に春信が描いたという可能性は?」
頷《うなず》きながらも耿介は質問した。
「それもないわけじゃないな。団扇《うちわ》の中に描かれた不自然な役者絵は近年になってからのいたずらとも考えられる。そうなるとあれを偽物と見做《みな》す根拠は全部ふりだしに戻る」
少し考えて塔馬は答えた。
「それは……初耳ですよ!」
檜山は唖然《あぜん》となった。
「だれかの作品を直したとしか教えてくれなかったじゃありませんか。あれが本物の春信となれば大スクープだ。意地悪だな」
「今思いついたんだよ。仙堂君がわざわざニューヨークに現われた意味も加えてさ」
「………」
「その価値があると信じて君はアメリカまでやって来たんだろ。本物を裏付ける証拠でも握っているんじゃないのか?」
「これから捜すんです」
観念して耿介は白状した。
「証拠はなにもない。ただ、俺も塔馬さんとおなじ推理をしていましてね。そのためにはなんとしても春信を発見しないと……写真では団扇の中の絵がいつ描かれたかはっきり突き止められない。見つけてX線にでもかければ簡単に分かる。足し加えたものなら、その下に別の絵が描かれているはずです」
「春信はこのアメリカにあるんだな!」
檜山は腰を浮かせた。
「まだなにも分かっていない」
耿介はコーヒーを口に運んで、
「嘘じゃありません。蒸発した遠藤という男とニューヨークの男は親しい仲だった。それだけを手掛かりにやって来ただけです」
「菅谷さんが来るというのは偶然かい?」
塔馬もそれを承知していた。
「少なくとも俺とは無関係です」
「地球も狭くなったもんだな」
塔馬は檜山をからかうように言った。
「ニューヨークでそんな偶然があるとは」
「ここ七年ほどは会ったこともない」
耿介は自分でもおかしくなるほど力説した。
大岩のギャラリーはハドソン川に近いビーチ・ストリートにあった。元は倉庫だったらしい古い建物の一階に三つの小さなギャラリーが入っている。右端の磨《す》りガラスに浮世絵のローマ字が大きく記されていた。ドアの脇には写楽を模倣した巨大な看板絵が掲げられている。紛れもない大谷鬼次だが、変な印象を受けるのは外人の筆によるせいかも知れない。看板の下の部分に英語のサインが認められた。
耿介は中に入った。客はだれも居ない。
電話をしていた女の子が耿介に気づいて軽く手を上げた。アルバイトの子だろう。ジーンズにTシャツという軽装だった。
「大岩さんは?」
電話を慌てて切ってフロアに現われた、そばかすだらけの女の子に耿介は訊《たず》ねた。日系に見えるが日本語は話せない。
「直ぐ戻るわよ。仙堂さんね」
女の子は中央の椅子を勧めた。
「あなたのために昼食を買いに出たの」
「ピザだろ。リトル・イタリーにほっぺたが落ちるくらい美味《おい》しいピザ屋があると」
「ほっぺたが落ちる?」
直訳したのだが通じなかったらしい。
「神の奇跡としか言えない美味しさだってさ」
耿介が言うと女の子は笑った。
「コーヒーでいい?」
耿介は頷きながら壁面に飾られてある作品を見渡した。見慣れている浮世絵のはずなのに、どこか違う。竹で拵えた額縁のせいだとやがて気づいた。オレンジっぽい壁の色も関係している。妙に中国的な雰囲気が漂っている。恐らく大岩はわざと演出しているのだ。
正面の中央は歌麿の三枚続きが場所を占めている。|『相州鎌倉七里浜《そうしゆうかまくらしちりがはま》』と標題は読めた。版元は鶴屋《つるや》。幕府の検閲の印である極印《きわめいん》はどこにも見当たらなかった。制度がはじまったのは寛政三年からだ。とするとその前に描かれた作品ということになる。歌麿がもっとも充実した仕事をして人気が急上昇しはじめた頃のものである。染みも目立ち、保存は決してよい状態ではないが、なによりも力が感じられた。女たちの表情ものびのびとしている。
〈七百万以内なら買いだな〉
耿介は近寄って点検した。直しはほとんどなかった。額から外して見ないことには裏打ちがあるかどうかは分からない。だが、画面がピンと張っていることを思えば補強の裏打ちがされていると見做して良さそうだった。
〈五百万か〉
裏打ちがあるかないかで値に差が生じる。ただし、平凡なものや幕末期の作品となれば裏打ちもさほど気にされない。裏打ちが云々《うんぬん》されるのは、それだけ価値が認められている証拠の一つでもある。傑作だからこそ多少の傷も問題となるのだ。
「六万ドルだぜ」
戻った大岩が耿介の背中に声をかけた。手には大きなピザの箱を抱えている。
「八百四十万か……いい値ですね」
「まあ、業者値段てこともある。いくらでもご相談に乗りますがね。そいつは後だ」
大岩は金屏風《きんびようぶ》で仕切った事務所に誘った。
「あんたはラッキーだ。アメリカ一|旨《うま》いピザが食える。こいつを食うと東京のピザがまるで味つけした雑巾《ぞうきん》みたいに思えるぜ」
「でかい箱だ。それで一人前ですか?」
最低でも直径が五十センチ以上はある。それを大岩は二つ買って来ていた。
「まさか。一つで二、三人前さ。でかけたついでに買ったんだ。冷蔵庫に保存しておける」
大岩は笑って一つを開けた。凄《すご》いボリュームだった。具が縁から落ちそうなくらい山と重ねられている。厚さはおよそ二センチ。
「チーズの量を見たらダイエットを志している人間はきっと目を回すぜ。これを半月も食い続けたら確実に十キロは太る」
カッターで切って大岩は勧めた。耿介は具の零《こぼ》れ落ちるのを掌《てのひら》で庇《かば》いながら口に運んだ。ピザの生地が抜群に旨かった。歯応《はごた》えがいい。
「これで十二ドルだ。日本円だと千七百円前後か。安くはないが、日本で同じ材料を使って売ろうとしたら三千円はかかるな」
「三千円なら安い。宅配ピザは軽くそのくらいしますよ。それこそ雑巾みたいなのが」
噛《か》んだトマトの味が口一杯に広がった。
「夕方にみどりさんが店に来る」
大岩は唐突に言った。
「今日の夕方!」
「商売の方は後にして人捜しの方を片付けてしまおう。五時には戻っていないとまずい」
「いいです。一人で行くつもりだった」
「その予定でこの子を頼んだんだ。そこに居ない可能性が強いんだろ。あっちこっち動き回らなきゃならんかも知れん。俺の車があった方がいいさ。気にするな。これもサービスの一つってことさ。いい歌麿だったろ」
大岩はポンと耿介の肩を叩《たた》いた。
三十分後。耿介は大岩の運転する車の助手席に座っていた。マイヤーがそこに居ないのは承知している。だから大岩の好意を受けたのだ。隠したところで駒井みどりが現われれば大岩にも情報の洩《も》れる確率が高い。場合によっては藤枝の提案したように大岩を仲間に引き入れてもいいと耿介は覚悟していた。
「遠回りになるが、どうせならブルックリン橋を渡るか。少しは観光気分が味わえる」
「映画で何度も見ていますけどね」
「あんたはまったく自然体だな。ニューヨークがはじめてとは思えないよ」
「観光するのは大金持ちになってからと決めている。ビルを見ても一緒でしょう。買い物の趣味もないし。藤枝さんの妹さんからティファニーで指輪を買って来てくれと頼まれましたが……それは最後の日でいい」
「ま、東京とおなじさ。METやMoMAだけは別だがな」
METはメトロポリタン。MoMAは近代美術館の愛称だ。
「ガキの頃に美術の教科書で眺めていた傑作がごろごろしている。浮世絵の肉筆だってどれほど所蔵してるか分かったもんじゃねえぜ。常設展示してるのは百分の一にも満たないって聞いてる。あれらに較べたら東京の国立博物館なんぞは屁《へ》みてえなもんだ」
「マイヤー・コレクションについて噂を耳にしたことはないですか?」
耿介が言うと大岩はギョッとした。
「噂の種類にもよるな」
慎重に問い質《ただ》して来た。
「たぶん想像通りの噂でしょう」
耿介は笑った。
「皆が集まって来たのはそれかい?」
「みどりさんはそうだ」
「俺もドジだな。そう言えば昨夜見せられた名前はガイ・マイヤーだった。ケチな騙《だま》しだと先入観を持ったせいで結びつけなかったぜ」
大岩はハンドルを拳《こぶし》で叩いた。
「どこまで知っています?」
「安本商事だろ。仲介したという男も顔だけは覚えている。時々店にもやって来た」
「遠藤という名です」
「そうそう。生意気な野郎でな。買いもしねえくせして知ったかぶりをしやがる。アメリカ人を案内しては購入の相談に乗っていたんだ。まさかやつが藤枝さんの客だとでも?」
「絵を持ち逃げしました」
「安本商事からかい?」
「ガイ・マイヤーの名はどうして?」
「それこそみどりさんから問い合わせがあったのさ。二カ月ほど前だ。春信が偽物だったと騒がれてて、間もなくだろう。春信は偽物だったが、なんと言ってもマイヤーと血の繋《つな》がりのある人間だ。ひょっとしたら他に品物を持っているかも知れないから接触してみてくれないかと……ちょっと待てよ……昨夜の住所とは違ったぜ。俺が教えられたのはホテルだった。長期滞在者とかで、留守の場合もそのフロントで連絡が付くはずだと」
「正確にはいつ頃です?」
耿介の問いに大岩は思い出して言った。
「マイヤーが死んだ直後ですね」
「マイヤーが死んだ!」
「本人かどうかは知りませんけどね。みどりさんはそれを承知の上で大岩さんに念押しを依頼したんだ。もちろんマイヤーは行方不明だった。そうでしょう」
「ああ。そう伝えたよ」
憮然《ぶぜん》とした顔で大岩は首を振った。
「住所が違っている……か」
耿介は唇の渇きを覚えた。ブルックリンの住所は遠藤のパスポートに挟まれていたものだ。もしかするとこれが本当の住所なのかも知れない。ホテルを窓口にしたのは安本商事を信用させる手口だった可能性がある。
〈としたら……〉
この住所は安本商事も駒井みどりも知らない。もし、セントラル・パークで発見された死体が偽装であれば、今もマイヤーはこの住所に暮らしているとも考えられる。
「俺も一口乗せて貰《もら》いたいもんだね」
大岩もそれに気づいたらしい。
「殺しが絡んでるとなりゃヤバいぞ。日本と違ってこっちは人殺しが日常茶飯事だ。ボディガードも必要になって来る」
そう言って大岩はシートの下から拳銃《けんじゆう》を取り出した。小型だがもちろん本物だった。
「こういう商売をしてると危険はつきものだ。ちゃんと許可は取ってある。腕も信用しろ」
「急にハードボイルドになっちまった」
「マイヤーが偽装殺人の犯人なら、数十分後には撃ち合いって展開も有り得るだろうよ」
その通りだ。耿介はゾッとした。なにも知らずにマイヤーを訪ね、それが当人だったとしたらそれも充分に想像できる。すでに一人を殺している男なのである。
「そろそろブルックリンだ。どうする?」
「コンビを組むのが正解のようだ」
耿介の言葉に大岩は白い歯を見せた。
捜し当てた建物は相当に老朽化していた。表面に貼った煉瓦《れんが》もだいぶ剥《は》がれている。
「ここに間違いなさそうだがな」
車を降りた大岩は首を捻《ひね》った。
「七億もの大金を手にした人間が居残ってるたぁ思えない。ハーレムよりボロだ」
「一時的な隠れ家に使用したのかも」
二人は石の階段を上がった。郵便受けが暗い廊下に並んでいた。それぞれの脇に呼び出しのベルもついているがボタンはたいてい壊れていた。なんの役にも立たない。
「あったぜ!」
郵便受けにガイ・マイヤーの名が見られた。
「信じられねえな。震えがきやがった」
「二階だ。とにかく行ってみるしかない」
耿介は逆に冷静になった。捜し屋を何年か続けている経験の差だ。
「ドアから離れて声をかけるんだぞ」
薄暗い階段を上がりながら大岩は注意した。
「いきなりズドンも有り得るからな。こんなとこに住んでいるやつに友達はいねえさ。訪ねて来るのは警察かヤバい相手だとマイヤーの方でも知っているだろう」
耿介は頷《うなず》きながらも作戦を練っていた。
軽くドアをノックした。返事はない。
「東京から来ました。遠藤さんの伝言を預かっているんですがね」
少し離れて様子を窺った。変化はなかった。
耿介はふたたびドアを叩《たた》いた。
中はしんとして人の気配が感じられない。
耿介は何度かマイヤーの名を繰り返した。
「ずうっと留守よ」
廊下の奥の部屋から派手な下着だけの女が顔を覗《のぞ》かせた。廊下に居るのが二人の日本人と知ってか乱暴にドアを閉めた。耿介はそのドアをノックした。ドアチェーンを取り付ける音がして、それから少しドアが開いた。若くはないが色気のある女性だった。夜の商売をしている感じだ。隙間から黒い下着が丸見えでも平気な顔で居る。
「いつから留守にしているんでしょうか」
流暢《りゆうちよう》な英語に女の警戒が緩んだ。
「だから、ずうっとよ。引っ越して来てから顔も見たことがないわ。どういうこと?」
「引っ越して来たのはいつです?」
「三カ月も前だわ。なにかやったのね?」
「三カ月も部屋がそのままに?」
「前払いしてあるとか聞いてるわよ。この時代に景気がいい男じゃない。怪しいと睨《にら》んでたけど……ねえ、なにをしたの?」
「管理人は一階ですね」
耿介は礼を言って大岩を促した。
「あんたたちはどういう関係かね」
太った管理人は耿介たちを見詰めた。
「勝手に上がって貰っちゃ困る」
「そろそろ旅行から戻った頃だと思って。ガイに絵を預かって貰っていたんですよ」
耿介が言い訳している間に大岩は二十ドル札を管理人の手に握らせた。途端に管理人は愛想がよくなった。二人に椅子を勧める。
「日本の方なら心配もないが」
狸め、と耿介は苦笑した。
が、そういう意味ではなかった。
「契約に見えられたのも日本の方だった。マイヤーさんはそういう仕事を?」
耿介はドキッとして大岩と顔を見合わせた。
「契約に来たのは遠藤さんだったかな。俺は日本に居たからよく知りませんが」
「名前は忘れてしまった。もう半年にもなるんだよ。私らとしては前払いをしていただいているから文句はないが……そうかね。やはり知り合いなんですな」
「ガイは一度も戻っていないんですね」
「部屋に荷物を入れたきりで顔を見たことも」
「その荷物の中に預けた絵があるはずだ」
「特徴は? 三日に一度掃除に入っているので、だいたい荷物は知っているつもりだが」
「ちょっと見せて貰えればありがたいけど」
「それはきまりで認められていない」
素早く大岩がまた二十ドルを押し付けた。
管理人は困ったようにしながら、
「ま、私が立ち会えば構わんだろう。しかし、絵があったとしても持ち出しはせんように。本人の承諾がないと私の責任になる」
「あると確認するだけで充分です」
耿介はしっかりと請け合った。
錆《さ》びた鍵をガチャガチャさせるのを耿介はもどかしい思いで見守った。ようやくドアが開いた。耿介は管理人に続いて入った。閉め切っていた部屋は蒸し風呂のようだった。黴《かび》の臭いがつんと鼻を刺す。
「これだけかい?」
狭い部屋にベッドと作り付けの衣裳箪笥《いしようだんす》と机。床の真ん中には食器類や本などを詰め込んだ段ボール箱が三つ置かれている。その他にベッドの上には二個の大型トランクが並べられているだけだった。
耿介は大型トランクを調べた。
「鍵がついてて開かんよ」
管理人が制した。彼も何度か確認したのに違いない。耿介は重さを量った。軽い。恐らく衣服でもしまってあるのだろう。第一、両方ともに軸が収まる大きさではなかった。
次いで耿介は段ボール箱を点検した。食器はすべて安物ばかりだ。だが新品が多い。それはラジオや洗面道具にも共通していた。
〈隠れ家にするつもりで用意したのか〉
そうとしか思えなかった。
〈ん?〉
耿介の袖を大岩がそっと引いた。大岩は本の詰まった箱を調べていた。
「マイヤーのリストってのはこれじゃねえか」
大岩は日本語で囁《ささや》いた。
慌てて耿介は目を移した。雑誌やペイパーバックの底に隠されるように古ぼけた本が見えた。活字を目で追って耿介も頷いた。
「後で来よう」
それも日本語で大岩は言った。
「管理人となにか話していてくれ。その隙に窓の鍵を外す。ここは二階だ。簡単に忍び込めるさ。こいつが欲しいんだろ」
「この管理人なら金でなんとかなるんじゃないかな」
「こっちの腹を読んで吊《つ》り上げて来るさ。もう四十ドルもやっている。充分だろう」
「泥棒は危険だと思うけど」
「この町は世界一治安が悪いんだ。泥棒なんぞにゃ皆が慣れている。となりの部屋で殺しがあったところで、関わりを恐れて知らんぷりしてる連中ばかりだ。本泥棒ぐらいどうってことはねえ」
「これで納得したかね」
日本語で話し続けている二人に不安を感じたらしく管理人が促した。
「この衣裳箪笥にはなにも?」
耿介は管理人の視線を自分に集めた。大岩がそっと窓に接近した。素早くロックを外す。耿介は管理人の開けた箪笥に首を伸ばした。
出直すつもりだったが、外に出ると広い通りに人の姿はほとんどなかった。ロックを外した窓は暗い路地に面している。その真下も昔はなにかの店舗だったようで窓のない壁だ。大岩はそれを見極めると、しばらく様子を見ようと言い出した。あの路地に車を入れ、屋根を梯子代《はしごが》わりにすれば簡単に侵入ができる。
アパートから離れた場所に車を移動させて二人は待った。十五分もしないうちに管理人が出てきた。買い物のようだった。大岩は管理人の姿が小さくなると車を発進させて路地に停車させた。だれにも見咎《みとが》められない。
「俺が行きますよ」
見張りを頼んで耿介が外に出た。大岩と耿介では身長が十五センチも違う。背の高い方が二階の窓からの侵入には都合がいい。
「ゆっくり捜して来い。部屋に入ってしまえば安全だ。なんか分からんがリストの下にはアルバムみたいなものもあったぜ」
「その間に車の先を道路側に戻しておいた方がいい。五分もかかりませんよ」
耿介はマイヤーの部屋のとなりの窓を確認した。カーテンが下がっていて人の気配はなかった。二階に居るのは反対側のあの女だけかも知れない。安心して耿介は車の屋根に昇った。簡単に窓の縁に手が届いた。引上げ式の窓だ。上に押して隙間を作る。耿介は懸垂の要領で窓にぶら下がると腕に力を込めた。片手で窓の隙間を広げる。ひっかかって面倒だったが、人の入れる隙間ができた。耿介は素早く体を潜り込ませた。
本の詰まった箱が目の前にある。
物音を立てないように上の本を取り去る。やがてリストが現われた。大岩の言った通り、その下に大型のアルバムらしきものがあった。耿介はパラパラと捲《めく》った。心臓が高鳴った。
〈こいつは……〉
掘り出し物だ。
他にないかと箱の底まで確かめた。が、後はただの小説だった。床の本を箱に戻し、リストとアルバムを小脇に抱えて窓に近づく。目の合った大岩が大丈夫と首を振った。耿介は外にぶら下がると窓を元通りにして地面に飛んだ。急いで車に乗る。大岩はなにもなかったように車を静かに動かした。
「やったな!」
振り向いてもアパートが見えない位置に来て大岩ははしゃいだ。シートの上で跳ねる。
「春信の写真が貼ってありましたよ」
「そのアルバムにかい」
「団扇《うちわ》の中に絵が描かれていない」
「団扇? なんだいそりゃ」
事情を知らないらしく大岩は首を傾げた。
「俺の想像が当たっていたんです。これでニューヨークまで足を運んだ甲斐《かい》があった」
「そいつはめでたい。祝杯もんだぜ」
大岩にもその興奮が伝わった。
「遠藤とマイヤーがつるんで軸に細工をしたんでしょう。遠藤が中途半端に浮世絵に詳しかったのが逆に災いしたんだ。これで春信の軸が本物という可能性が増して来た。あの団扇絵の謎が解決すれば、偽物の根拠が一気に崩れてしまう。遠藤は念押しのつもりで本物を偽物にさせちまったんだ」
「なんでそんな馬鹿なことを?」
「遠藤は本物だと信じていなかったんですよ。春信の肉筆が珍しいのを承知していたんでしょうね。持ち主のマイヤーもいかがわしい人間だったんじゃないのかな。それでつい余計な手を加えてしまった。春信と春章が密接な関係にあったのはたいていの画集にも説明されている。それで研究者を騙《だま》し通せると思ったんだ」
「すると遠藤とマイヤーは安本商事を最初からペテンにかける気だったんだな」
「マイヤーのリストもありますからね。浮世絵に疎い安本商事を納得させるには充分だ」
気がついて耿介はリストを捲った。リストの方の写真はどうなっているのだろう。
やがて耿介は目的の頁を見つけた。
春信の十二本の肉筆がすべて掲載されていた。四十年も前の印刷なのでもちろん白黒だ。
「なるほど。これじゃ分からない」
団扇を持っている女の写真を目にして耿介は頷《うなず》いた。写真は縦横がそれぞれ六センチと二センチ。構図が分かる程度で細かな部分はほとんど潰《つぶ》れている。団扇の中がどうなっているかルーペで確かめても無理だろう。
「けど、真っ白って、感じでもないな?」
運転しながら大岩も覗《のぞ》いた。
「なにか描かれているようだぜ」
「となると……これを白く塗り潰して春章の役者絵に直したんだ」
「なにが描いてあったんだろうな」
大岩は車を停めてリストの中の写真を見詰めた。ダッシュボードに手を伸ばしてルーペを取り出した。仕事柄持ち歩いているらしい。
「駄目だ。役者絵じゃなさそうだと言う程度しか分からん。これじゃ安本商事も気がつくはずはねえよ。違うと分かって眺めてもこの程度なんだから」
大岩はルーペとリストを耿介に手渡した。
「遠藤たちにとっては都合の悪い絵だったのかも知れない。だからそれを白く塗り潰した。そう考えるのがもっと正解だな」
耿介は確信を抱いた。
「だが、リストを点検すれば団扇の中が白紙でないのも分かる。それであれこれと考えて春章の役者絵を描いたんですよ。下手に風景なんかを描けばボロがでる。その点、春章の役者絵なら模倣ができる。一石二鳥じゃないですか。これですべての謎が解けた」
「そうか。完璧《かんぺき》だな。模倣の上手《うま》い野郎はこのニューヨークでも簡単に見つけられる」
「最初から偽物と信じて安本商事に遠藤が仲介したとしたら逃亡するのも当たり前だ。遠藤とマイヤーの二人は七億もの金を安本商事から騙し取ったんだから」
「セントラル・パークの殺しもますます偽装の線が濃くなったじゃねえか」
「どうかな」
耿介の頭は目まぐるしく回転した。
「マイヤーはどうしてあのアパートに姿を現わさないんだろう。契約を結んだのが遠藤だってのはほぼ間違いない。ってことは一番安全な隠れ家のはずですよ」
「もっと高級なとこに引っ越したのさ」
「衣類や食器はともかく、リストやこのアルバムを放って行くとは思えない」
「………」
「本当に殺されたのかも」
「だれに?」
「もちろん仲間割れしか考えられない」
「しかし遠藤は日本を離れていないと」
「そこにトリックがあるんじゃ?」
「パスポートに出入国のスタンプがあるだろ。なかなか厄介だと思うがな」
「あれだけ警察が捜しても行方が突き止められない。アメリカに隠れていると考える方が遥《はる》かに自然だとは思いませんか」
「七億の金を独り占めしてかい」
耿介は頷いた。
「やつの仕業だとしたらどうするつもりかね」
「なにをです?」
「春信の肉筆だよ」
「………」
「遠藤はあれを偽物だと信じている。下手に持っているよりは処分した方が安全だ。と言って迂闊《うかつ》に売り捌《さば》くとアシがつく。あんたが遠藤の立場ならどうする?」
「燃やすか捨てちまう」
「いくら偽物でもあれだけの作品だぜ。燃やすにゃ抵抗があるはずだ。どこかに隠してほとぼりの冷めるのを待つんじゃねえか?」
「それも考えられる」
「野郎は七億の金と春信の二つを持っているのさ。本物とも知らないでな」
「二つ合わせると……」
「十四億って計算だ」
大岩は舌舐《したな》めずりをした。
「あんたの推理が当たってくれればありがたい。遠藤がこの町に居て欲しいよ」
「十四億か……天文学的な数字だな」
耿介は思わず深い溜め息を吐いた。
「けど……手掛かりは皆無だ」
耿介は現実に戻った。
「マイヤーのアパートに遠藤が姿を現わすとは思えませんからね」
「そいつはゆっくり検討しようぜ。俺はまだ十四億の夢に浸っていたい気分なんだ」
大岩は笑って車を発進させた。
「偽造パスポートってのを良く耳にするけど、実際には映画みたいに簡単なものかな」
耿介は呟《つぶや》いた。
それがないと遠藤はふたたびアメリカに入国できない理屈だ。パスポートを部屋に残したのは日本に潜伏していると思わせるための見せ掛けだったとも想像できる。
「どうかね。簡単にできるんなら入国管理局も意味がなくなる。やっぱりスパイ映画の世界だけだろうよ。新聞を騒がせているのはパスポートを持たない密入国だ。遠藤が偽造パスポートを持っていたとしたらよほどのコネがあるってことになりそうだ」
「推理が当たっているかいないかはすべてそれにかかって来る」
「一番簡単なのは紛失届けだ。落としたことにでもすりゃ再発行してくれる」
「その程度は警察だって調査したでしょう。安本商事にしても抜かりはない」
「それならお手上げだ。一般市民の俺たちに調べようはないな。推理を信じて遠藤捜しに切り替えるか、マイヤーを続けて追い掛けるか、二つに一つだ」
「消えた男がどっちか分からない……か」
「あんたはこの町に来てまだ二日目だぞ。そんなに焦ることもなかろうさ」
大岩は陽気な声で耿介の横顔を見やった。
「リストとアルバムで今日は満足しよう」
耿介も苦笑して頷いた。
[#改ページ]
第五章 二世の春信
大岩のギャラリーは夕方から華やかな歓迎パーティの席と化した。
耿介と大岩がブルックリンよりギャラリーに戻ったら、思いがけずそのフロアに塔馬と檜山が待っていたのである。塔馬たちは耿介の調査の結果がどうなったか気になってやって来たのだと言う。
大岩は適当にごまかして話を駒井みどりと菅谷清志の方に持っていった。おなじ浮世絵研究者として塔馬は菅谷と付き合いがある。美術雑誌の編集者である檜山もみどりと菅谷の両方と知り合いだった。それで急遽《きゆうきよ》、歓迎パーティをしようと話が纏《まと》まった。画廊のフロアほどパーティに都合のいい空間はない。もともと壁面は奇麗な絵で飾られているし、床に余計な調度品もない。脚の高いテーブルを置いて酒とオードブルを用意すれば終《しま》いだ。その上、パーティ好きな人間の多いアメリカではできあいのオードブルを売っている店があちこちにある。話が決まって三十分後にはすべての準備が整った。コンパニオンには大岩の店でアルバイトしている女の子の友達を二人頼んだ。二人とも夕方までの勤務らしく、それを終えたらこっちに駆けつけると言う。一人は片言だが日本語も話せるらしい。皆が日系の女の子たちだ。
時間は五時半。そろそろみどりと菅谷がやって来る。大岩はドアに閉店の札を掲げた。
「びっくりするだろうな」
壁際に移動した椅子に腰を下ろして耿介と並んでいた檜山は、テーブルの上の色とりどりのオードブルを眺めながら言った。
「ここなら気兼ねなく飲める。下手な店に行くよりは安心できるね」
「今夜は他に用事がなかったんですか?」
「夜はいつもヒマを持て余していた。君を誘ってライブ・ハウスにでも行こうかと塔馬さんが言ってたくらいだぜ。『スイート・ベイジル』って有名な店が七番街にあるんだ。本物のジャズが聴ける」
「塔馬さんがジャズを?」
耿介は歌麿の三枚続きを前にして大岩と話し込んでいる塔馬の横顔を見詰めた。
「あの人がなにに興味を持っているか、実を言うと俺にも全貌《ぜんぼう》が掴《つか》めなくてね。歌麿を専門にしてるのは承知だけど、そもそも風俗史の方から浮世絵に手を染めた人だろ。君や菅谷先生から見れば塔馬さんは浮世絵畑の人ってことになるんだろうが……洋画や民俗学にも滅法強い。ヨーロッパの宗教美術の第一人者の橋本|利晴《としはる》さんを知っているかい?」
「もちろん。名前だけですが」
「あの橋本さんが呆《あき》れていたよ。二人にウチの雑誌で対談して貰《もら》ったんだが、橋本さんの方が汗をかいていた。それでウチの編集長が塔馬さんを見直したってわけさ。ウチは『美術現代』なんかと違って浮世絵を滅多に扱わない。それでこれまで疎遠だった」
「そうか。確かに塔馬さんは『美術現代』に書くことが多い」
「あそこの杉原って編集者が塔馬さんといいコンビなんだ。今度塔馬さんと二人でニューヨークに行くって教えたら本気で怒っていたぜ。俺が紹介した橋本さんに早速原稿を頼んでおきながら身勝手な男だ」
「どこで勉強をしたのかな」
「それはそっくり君に返したい言葉だ。塔馬さんが感心していた。枠を越えた研究者になれる素質を持っているとか……なにか原稿を頼んでみてはどうかと勧められている」
耿介は檜山に囁《ささや》かれて胸が熱くなった。
だが戻るには道を外れ過ぎていた。
「なんで君はそう突っ張っているんだ?」
檜山は首を傾げた。
「研究じゃ食べて行けませんよ」
「………」
「食べて行けない仕事じゃ仕方がない」
「理屈はそうさ。理屈はね」
檜山も首を振り続けた。
「塔馬さんは大学で給料を貰っているからのんびりやっていける。幸運な人だ」
「だれだっていきなり大学で教えられるわけじゃない。あの人だって苦労はしたさ」
「三十二にもなってゼロからやり直せと言われても無理です。俺には捜し屋が似合いだ」
「だったらそれでも構わないが……塔馬さんは君が考えているような人じゃないぜ。そいつが朝から気になっていたんだ」
檜山が言い終えた時、店のドアを押して駒井みどりが艶《あで》やかな姿を現わした。駒井みどりは素早く顔ぶれを眺めて、それから笑った。
「どうしたの? ここは本当にアメリカよね」
みどりは檜山に会釈した後、耿介に手を振った。
もう他人ではなくなっているのに、それを少しも感じさせない笑いだった。
次いで塔馬の笑顔に出会うと、
「塔馬双太郎……信じられない」
駆け寄って塔馬に握手を求めた。
「いつかゆっくり話したいと思っていた人なの。パーティでは挨拶《あいさつ》したことがあるけど」
みどりはとなりの大岩に言った。耿介はドアに目を転じた。恩師だった菅谷とまともに視線が合った。耿介は立ち上がって頭を下げた。菅谷は七年ぶりの再開を大袈裟《おおげさ》に喜んだ。
「元気そうじゃないか」
菅谷は耿介の顔をしげしげと見上げた。
「先生こそ。だいぶお顔が円くなりましたね」
「お体の方も、と言いたいんじゃないか」
菅谷の言葉に全員が笑った。
本当に……菅谷は豚のように肥えていた。
雑誌で顔写真を見ることはしばしばだったが、体型の方は分からなかった。あの頃と比較したら十五キロは太った感じだ。
「楽しみにしておったよ」
菅谷は耿介に言った。
「ニューヨークで君に会えるかも知れんと彼女から聞かされてな。まさか着いた早々とは」
耿介は不審を覚えた。みどりに視線を移すと、みどりも慌てていた。
ニューヨークに自分が来ることはみどりも感づいていた。それは問題ない。だが、自分が菅谷を避けているのを知っているはずのみどりが、なぜそんなことを菅谷に言ったのか。
〈菅谷先生と会わせてどうする気だ?〉
いずれなにか目的があるのだろう。
耿介は厭《いや》なものを感じた。
「今夜はお二人の歓迎パーティです」
雰囲気を察して大岩は陽気に叫んだ。
「君がそんなに買ってくれるなら、これのことをよろしく頼む」
菅谷は塔馬に言った。耿介は苦笑いした。
「誘っても私のところに戻る気はなさそうだ。このまま埋もれさせるには忍びない」
「研究は自分の性に合わないと悟ったんです」
耿介ははっきり断わった。
「北田君は頑張っている。あれにできることが君に勤まらんはずはなかろう。才能は君の方が遥《はる》かにあると思うがね」
塔馬もそれに頷《うなず》いた。女の子が三人のところに冷酒のお代わりを運んで来た。アメリカには日本酒を置いている酒屋もある。
「来年は海外の美術館の収蔵品を中心とした全集の企画がある。君にやる気があるなら紹介しようじゃないか。北田君は英語がからきし駄目だ。その点君なら……」
「ご迷惑をかけるだけです」
それに、一般的な解説など書く気にもなれなかった。あんなのは現役の学生にだって書ける。出版社自体がそういう初歩的な解説を求めているのだ。むずかしい解説はむしろ妨げとなる。絵が美しければそれでいいと単純に考えているのである。それが北田のように可もなく不可もない研究者を育てる結果に繋《つな》がる。他の分野では決して有り得ないことだ。なんの研究成果もなく、一般論しか言わない研究者は淘汰《とうた》されるのが普通だ。
〈その意味では……〉
塔馬双太郎は違う。塔馬が画集の解説をしているのを見た記憶がない。と言って難解な論文調の文章を書くわけでもない。ユニークな視点から歌麿をはじめとする浮世絵師たちと歴史の関わりを解き明かす。もし一匹狼という立場に居なければ、塔馬は確実に研究界のトップに躍り出た男に違いない。国立博物館を筆頭に全国の浮世絵関係の美術館の学芸員の大半は、亡くなった西島俊作や目の前の菅谷清志の息のかかった人間ばかりだ。画集の編纂《へんさん》にはその美術館の協力がないと不可能である。当然、出版社は解説の執筆依頼をそこの学芸員に頼まざるを得なくなる。美術館というバックを持たない塔馬に解説の役割が回る機会はほとんどゼロに等しい。そのせいで世間的な知名度は低い。研究者は塔馬の才能を認めていても、よほどの愛好家でもない限り塔馬双太郎の名を知らない。菅谷の名を百人が知っていたら、塔馬はせいぜい一人か二人という程度だろう。しかし、
〈商売人たちはこの人を……〉
もっとも評価している。浮世絵を扱っているどこの店に行っても塔馬双太郎の書いた本が彼らの用いる参考資料の棚に並んでいるのを耿介は見ていた。北田のものも画集なので一応は飾ってあるが、それは絵を調べるために使われるだけで、解説などだれも読んでいない。プロの目は怖いほど厳しい。
「ウチの店に来てくれないかと誘っているんです。先生からも頼んで下さいませんか」
みどりが話に割り込んで来た。
「商売をしながらの研究者はむずかしいね」
菅谷は、どうかなと首を捻《ひね》った。
「食い扶持《ぶち》の心配はなくなるだろうが……」
「今でもなんとかやり繰りしています」
耿介はつい冷たい口調になった。
実際に、月に平均すれば五十万は稼いでいる。
「昔の仲間が心配しておるぞ」
菅谷はじろっと耿介を睨《にら》んだ。
「先生にはご迷惑をかけていないつもりです」
「君はそう思っているだろうが……私の研究室に居たのはたいていが知っている」
「悪い仕事でもないでしょう」
塔馬が笑って間に入った。
「仙堂君のお陰で陽の目を見る作品もある」
「金で引き受けるのはちょいと問題だな」
菅谷は不愉快そうに口にした。
「だいたい今度の件にしても……」
菅谷はそう言って口を噤《つぐ》んだ。
「結果的にはおなじになる。もしあの春信が本物と証明できれば大変なことですよ。下手な研究よりもずっと価値がある」
塔馬の言葉に全員が青ざめた。
それぞれが胸に隠していた問題なのだ。
「君もそれで来ているのか」
菅谷はやがて塔馬に質《ただ》した。
「どういうことかね?」
菅谷はみどりを厳しい目で見詰めた。
「私は……知りません」
みどりは戸惑いを見せた。
「二股《ふたまた》をかけているなら私など不必要だ。この塔馬君の方が適任だろう」
菅谷は乱暴に酒の入ったグラスをテーブルに置くと帰り支度をはじめた。
「待って下さいよ。それじゃ大人気ない」
塔馬は菅谷を引き止めた。
「こっちは春信と無関係の仕事で来ているんです。今朝仙堂君から耳にしたばかりだ」
菅谷は怪訝《けげん》そうに振り向いた。
「マイヤー・コレクションの取材です」
檜山も補足した。
「分かった。今の言葉は取り消そう」
菅谷は溜《た》め息とともに頷《うなず》いて、
「どうも旅の疲れが出ておるようだ。悪いが今夜は失礼させて貰《もら》う。また明日にでも会おうじゃないか。春信のこともね」
塔馬と耿介に握手を求めた。
「私は『北野《きたの》』に滞在しておる。朝にでも電話をくれたまえ」
耿介に言った。耿介は承知した。
「ヒルトンの方に連絡するわ」
みどりは耿介に囁《ささや》くと菅谷の跡を追った。
二人が消えると全員が苦笑し合った。
「どうも藪蛇《やぶへび》になっちまったな」
場を戻すように大岩は皆に酒を勧めた。オードブルはまだだいぶ残っている。女の子たちははしゃいで大皿に取り分けた。
「二股ってのはどういう意味だろう」
塔馬は小首を傾げた。
「すみません。俺のことで」
耿介は素直に頭を下げた。
「なあに、こっちも少しカチンとなったんだ。菅谷さんの厭な噂を聞いていたせいだ。業者と親しく付き合っている彼が君のことを云々《うんぬん》するのは筋違いってもんじゃないか」
檜山も側で大きく首を振った。
「自分だけはまともな金だと思っている。前に『美術現代』の杉原君から耳にしたことだが、菅谷さんは業者のカタログにも推薦文をたくさん書いているそうだ。画集や研究書を読まない人間に正しい情報を伝えるのも研究者の務めだと豪語してね。たった五、六枚の推薦文に三、四十万も貰って、それで研究者の態度が貫けるのなら、それはそれで大したものだがな……ほとんど提燈持《ちようちんも》ちの文章だ」
「知っています」
業者は菅谷の江戸美術協会理事長という肩書きが欲しいのである。それを菅谷も知っていて互いに利用している。耿介はうなだれた。
「昔はあんな人じゃなかった」
塔馬は酒を静かに口に運んで言った。
「けど、君に戻って貰いたいと願っているのも事実だろう。惜しいと思っているのさ」
「塔馬さんも春信が本物だと信じているってわけだ」
大岩が思い出したように口にした。
「だったら俺たちの味方ってことだな」
大岩は意味あり気に笑った。
「この際、協同戦線もありじゃねえかい」
耿介は無言で大岩を見詰めた。
「十四億なんだ。まだまだ取り分はあるさ。この広いニューヨークでなにができる? 三人寄れば文殊の知恵って言うぜ」
むろん耿介にも異存はない。が、藤枝に相談せずに決めるのは問題があった。大岩は耿介の困惑を見抜いて、
「藤枝さんにゃ俺が説明しよう。日本でのんびり構えている人には分からん情況もある」
任せろ、と胸を張った。
「十四億ってのは穏やかじゃないな」
塔馬が話の纏《まと》まったのを察して訊《たず》ねた。
「マイヤー・コレクションのリストを見つけ出しました」
耿介は少し得意そうに言った。
檜山は愕然《がくぜん》となった。
「とんでもないものを手に入れたな」
事務室のテーブルの上に展げたリストとアルバムとを交互に見較べながら塔馬も興奮の色を隠さなかった。
「このリストの方の団扇絵《うちわえ》をなんとかもっと大きくして見る工夫はないかい」
普通の倍率のルーペでは限界がある。
「大きくしてもぼやけるだけですよ」
耿介は無駄に思えた。
「ぼやけてもだいたい見当がつく。どうやら人物には間違いない」
「そうですか?」
「達磨《だるま》みたいに俺には見えるけど」
「なるほど。そう言えばそうだ」
目というものは恐ろしい。今まで見当もつかなかったものが、塔馬に言われて眺めると、それらしい輪郭となって浮かんで来た。
「それと、ここにも」
塔馬は縁側に座る女の左上を指で示した。
「ただの汚れかも知れないが……こっちの写真では白い雲だ。ひょっとしてこれもなにかを消した痕《あと》じゃないのかい?」
慌てて耿介はルーペを動かした。確かになにかが描かれている。だが、ルーペで見ても豆粒より小さい。耿介はカラー写真の方を確認した。塔馬の言うようにその部分には白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
「これは明らかに夕涼みの絵だよな」
塔馬が言った。
「夕方に白い雲はちょっと不自然だ。これも作為的に元の絵を潰《つぶ》したと見て疑いはない」
全員が頷いた。
「しかも、その不自然さを押しても潰さなければならないほど重要な部分だったんだ」
塔馬の言葉に全員の興味が増した。
「複写して引き伸ばせばどうです?」
檜山がいいアイデアを出した。
「それでいいのなら……」
大岩の目が輝いた。
「ここに性能のいい接写レンズがある。被写体に一センチまで近づけるやつだ。あれをカメラに取り付けて覗《のぞ》けば引き伸ばしとおなじだ」
大岩は机の引き出しからカメラを捜して持ち上げた。手早くレンズを交換する。リストを電気スタンドの真下に展げると大岩はファインダーを覗いた。
「どうだい?」
塔馬が椅子から腰を浮かせた。
「……自分で見た方がいい」
ファインダーから目を離した大岩の顔には明らかな困惑の表情が見て取れた。
塔馬は唸《うな》ったままリストに釘付けとなっていた。やがて耿介にカメラを手渡した。
逸《はや》る気持を抑えながら耿介はファインダーに目をつけた。あまり近過ぎて焦点が直ぐにブレる。カメラを持つ自分の指が震えているのだ。耿介は焦った。心を落ち着かせて団扇を捜す。不意に――男の顔が見えた。
達磨の上半身だ、と最初は思った。
が、違った。
どう見ても西洋人の顔に思える。頭が円いので達磨と勘違いしただけだ。第一、白い髭《ひげ》を生やしている達磨など居ない。
次いで耿介は女の左上にレンズを向けた。なかなか目的のものが見つけられない。
〈こいつか〉
と思ったのと驚愕が同時に耿介を襲った。
〈こんな馬鹿な!〉
耿介は吐き気を覚えた。
ファインダーの中には十字架を掲げた教会の円屋根がはっきりと姿を現わしていた。
耿介は目を上げて塔馬を眺めた。
塔馬もゆっくりと頷いた。
「遠藤が消したがった理由も分かるな」
やがて塔馬は言った。
「常識を遥《はる》かに超えたもんだぜ、こいつは」
口にして塔馬は腕を組んだ。
「こんなのを春信が描くと思うかい?」
塔馬の質問に耿介も自信を失った。
「マイヤーは疑問を持たなかったんですかね」
檜山が不思議そうに呟《つぶや》いた。
「それも謎だ。いくら四十年前のことと言っても、アメリカでは春信の研究が進んでいたはずだ。これに疑問を持たないとは思えない。なのに……メトロポリタンも保証している。頭が痛くなって来たよ」
「たしかに奇妙な絵だが、そんなに重要な問題かね。本当に春信が描いた可能性だって……」
大岩は塔馬に向かって言った。
「この時代にキリスト教の教会なんかを描いたらどうなると思います?」
耿介が代わりに応じた。
「それこそ直ぐに逮捕されちまう。いくら肉筆で人目につくことが少ないにしても、常識を持った人間がすることじゃない。それでも描くとしたら、明らかな隠れキリシタンだ」
「隠れキリシタン!」
大岩は目を円くした。
「まあ、その可能性はありませんよ」
耿介は大岩の言いたい言葉を遮って、
「春信は確かに資料の少ない絵師だけど、それが事実だったなら、片鱗《へんりん》くらいは絶対に伝わっているはずだ。これまでにだれもそれを指摘した人間は居ない。裏付ける証拠は皆無だ。七百枚以上の版画を見ても徴候は見られない。無関係と断言してもいい」
「すると、これは春信じゃねえと言うのかい」
「塔馬さんの言う通り、こんな明らかな証拠があるのに、どうしてマイヤーやメトロポリタンが見逃したのか……その方が不思議だ」
「連中は日本の事情をよく知らなかったんじゃないんですか。アメリカ人にとっては当たり前の絵だ。うっかり見逃したとも」
「メトロポリタンはそれほど甘くないさ」
塔馬は檜山の考えを即座に否定した。
「なんらかの根拠があったんだぜ。偽物だとしたら、こんな奇妙な絵を描くもんか」
大岩はまだ本物だと言い張った。
「贋作者《がんさくしや》はもっとまともなことを考える」
「だろうな」
塔馬もそれには同意した。
「こっちも偽物とは言っていない。はじめの想像が当たっていたってことさ。春信と同時代のだれかの絵に細工が施されたんだろう。そうなると春信ではなくても本物と言える」
「じゃあ、そのだれかがこの妙な絵を?」
「興味津々だよ。あの時代にこんな挑戦的なものを描いて……しかも相当な腕達者だ。研究者の立場から言うと春信の本物偽物って問題よりもずうっと魅力的な素材だ」
「………」
「と同時に、なぜこれが春信として通用していたかの謎も加わって来る」
「偽物となれば価値はどうなるかな」
大岩はこだわった。
「描いた絵師の評価によって違う。それは商売にしている君の方が承知のはずだ」
「それがだれか分からんでは値段のつけようもない。だいたいの見当でもいい」
「あの時代は春信一色だったんだ。勝川春章も鳥居清長も一筆斎文調《いつぴつさいぶんちよう》も磯田湖竜斎《いそだこりゆうさい》も鈴木|春重《はるしげ》も、ありとあらゆる絵師が春信の作風を真似て描いていた。実力のある絵師であればあるほど模倣の腕も優れていた。こんな写真を眺めただけで特定はできない」
「そんな大物を想定してるとなりゃ話は別だ」
大岩の目が輝いた。
「春章や清長と決まれば春信とそれほど評価に差はない。なるほど、そういう意味か」
「もう一度カメラを貸してくれ」
塔馬はなにか思いついて今度はカラー写真の方を一枚ずつ丁寧に調べた。
「こういうのは君の方がプロだな」
塔馬は大岩にカメラを渡した。
「落款を確認してくれ。元の名を消して春信と直してあるかどうか……俺にはその痕跡《こんせき》が少しも感じられない」
頷《うなず》いて大岩は写真と向き合った。
やがて――
「もちろん断言はできないが……ウブな落款のようだ。後《あと》落款としたら信じられない腕だぜ。絵を詰めた感じでもない」
乱暴なやり方だが、本物の落款を切り取って別の部分に偽の落款を書くテクニックもある。そうなると直しの痕跡も無関係だ。
「考えられることは三つの場合だ」
塔馬は少し考えて言った。
「絵師が最初から署名をしなかった。それにだれかが春信の名を書き足した。次に、だれかが春信の名をかたって描いた。最後は本当の春信だった……この三つさ」
「署名をしないというのは不自然だな」
檜山が最初の仮説に異を唱えた。
「あの教会の絵のためさ。万が一発覚しても無署名だと心配がない。充分に考えられる」
塔馬の説明に皆が頷いた。
「次のやつも有り得ますね。自分の名よりも春信の名の方が何倍も高かったでしょう」
耿介が支持した。そのケースはよくある。
「最後のやつはさっき否定したんじゃ?」
春信が教会の絵を描くなど絶対にないと聞かされたばかりだ。大岩は首を傾げた。
「本当の春信は二人居るんだぜ。君も知っているはずだ」
塔馬の言葉に大岩は絶句した。
「司馬江漢《しばこうかん》! やつが居る」
自分で言って大岩は唸《うな》った。
「司馬江漢……またの名を二世春信」
塔馬はゆっくりと口にした。
「彼なら当然のごとく春信と署名する」
「すると!」
耿介は閃《ひらめ》いた。
「マイヤーやメトロポリタンは間違っていなかったということかも」
「もし司馬江漢だったとしたらね」
塔馬もやはり気がついていた。
「彼は本当に春信だったんだ。初代と二代の違いはあるが、春信と書いて嘘じゃないさ」
耿介は拳《こぶし》を強く握りしめた。
「むろんマイヤーもメトロポリタンもこれが初代の春信ではなく二代の春信であると分かっていたのさ。だが落款は明らかに春信となっている。今だと春信と表記した後にかっこで括《くく》って二代と書き添えるのが普通だが、昔はまちまちだった。豊国がいい例だ。豊国は全部で五人居る。前の人間が亡くなってから名前を継承するんだから、常にその時代に豊国は一人しか存在しない。後の研究者が間違いを犯さないように自分は何代目の豊国であると書きはしない。だれでも単に豊国と署名しているだけだ。しかし、我々には混乱が付き纏《まと》う。下手に何代と記してミスを犯すよりは、こちらもただ豊国と表記する方が楽だ。それでも間違うよりはましだろ。研究の進んでいなかった昔は特にそうだった。画面にある署名を優先する。春朗《しゆんろう》が北斎の前名なのは常識なのに、外国のカタログを見ると春朗としか書いていないケースをよく見掛けるぜ。あの場合はあまりにも常識的だからわざわざ北斎と説明する必要もないと考えているんだろうがね……なにも知らない素人が見たら北斎と同一人物とは思わないはずだ」
「画面の署名を優先する……か」
檜山は納得したように首を振った。
「このリストが市販を目的としたものなら、もう少し表記を考えたかもしれない。だが、これは私家版の目録じゃないか。自分が二代だと分かっていればそれで済む。メトロポリタンにしたところで、春信には違いないから注意をしない。それですべてに合理的な説明がつくぜ。司馬江漢なら教会を描いても不思議じゃないしね」
「本当ですか!」
「日本ではじめて銅版画の制作に成功した人間だ。西洋についての知識も豊富な男だった。俺の説明なんかより自分で本を捜して読んでみた方がいい。ニューヨークには紀伊國屋《きのくにや》書店もある。どうせ夜はいつもヒマで困っているんだろ。こういう切っ掛けでもないと司馬江漢を真剣に調べる気にはならないだろう」
「早速捜して読んでみます」
檜山は苦笑しながらも頷いた。
「司馬江漢か……えらいとこに話が移っちまった。体が震えてきやがった」
大岩は自分の頬を抓《つね》って、
「話の持ち掛けようによっちゃ七億どころの騒ぎじゃねえぜ」
皆に言った。
「江漢はそんなに高くない」
「だから話の持ち掛けようさ」
大岩は耿介を制した。
「確かに浮世絵師としての評価は低い。日本で最初の西洋画家と言っても、アメリカやヨーロッパの連中にすればなんの価値もない存在だ。それで江漢の市場価格がなかなか上がらなかった。浮世絵の価格はずうっとヨーロッパやアメリカの評価が基準になっていたからね。だがそいつは今までの話さ。今の市場価格は日本が牛耳っているんだぜ。相場ってのは品物が動いてこそ決まるんだ。俺の記憶してる限り、江漢が公開のオークションに出品されたのはここ五、六年ないはずだ。ってことは相場がないも一緒だよ。おたくらは浮世絵じゃないんで疎いかも知れないが、江漢の西洋画の肉筆は日本ではべらぼうに高い。浮世絵の何十倍もする。洋画のコレクターはたいていそれを知っている。アメリカでは無理でも、日本でなら絶対に高く売れる。洋画のコレクターは浮世絵のコレクターと違う。金の感覚が桁外《けたはず》れだ。ゴッホ一枚に百億以上の金を払って平気な連中なんだぜ」
「洋画のコレクターを標的にね」
塔馬は複雑な笑いを浮かべた。
「西洋画の先駆けの江漢だからこそ値がつく。見方によっては春信も目じゃない」
「確かに持ち掛け方次第だな」
塔馬も認めた。
「でも、あれは完全な日本画だ。言葉で言い繕っても洋画とはまるで違う」
「それこそ認識不足ってもんだ」
「なにが?」
「一人の人間の果たした仕事に区別はできんということさ。むろん傑作と駄作の差はある。しかし、日本画と西洋画の区別はどうかね。俺も含めて浮世絵に関係してる人間は、江漢を浮世絵から西洋画に転向した絵師だと考えがちだが、世間的には西洋画家として名が通っている。浮世絵は若い時分の手慰みでしかない。それだけに、その時代の傑作が発見されれば大騒ぎになること請け合いだ。日本画だからと言って評価が下がるなんてことはない。ゴッホの習作時代の作品が安いのは、画風が異なるからじゃない。下手だからだよ。まあ、それでも稀少《きしよう》価値で相当なものだが」
「まるで見つけてしまったような言い方だな」
塔馬は呆《あき》れた。
「取らぬ狸の皮算用もそこまで徹底されると見事なものだ。税金の心配もした方がいい」
言われて大岩は噴き出した。
「違いない。すっかりその気になった」
ぼりぼりと頭を掻《か》きながら大岩は大きな溜《た》め息を吐いた。
「遠藤のくそ野郎め、もし燃やしてなんかいたらただじゃおかねえ」
大岩は苛々《いらいら》とグラスに酒を注いだ。
その真夜中。
耿介はみどりを抱いていた。ヒルトンのシングルは東京のホテルに較べてゆったりとしている。壁も厚い。だがみどりの喘《あえ》ぎの大きさが気になった。それには塔馬たちに対しての後ろめたさも加わっている。自分が厭《いや》な男だと突きつけられているような気もした。
「迷惑だったみたい」
上になったみどりは耿介の目を覗《のぞ》いて笑った。奇麗なバストだ。下から見上げるとそれがはっきりとする。耿介は気持をみどりの体に集中させた。みどりのなめし皮のような肌にびっしりと汗が浮かんでいる。痩《や》せた腰を両手で支えると掌が滑《すべ》るほどだ。みどりは自分から腰を動かした。ニューヨークに居るということがみどりを開放させている。が、反対に耿介は萎《な》えていくのを感じた。
「駄目よ」
体でそれを察したみどりは耿介にしがみついて唇に舌を差し込んで来た。
「もう少しだけ……もう少しなの」
汗で濡《ぬ》れたみどりの髪が耿介の額にへばりついた。なんだか堪《たま》らなく痒《かゆ》い。
「ごめん」
耿介のものがみどりから外れた。みどりは手を伸ばして握った。耿介はされるままにした。だがそれは萎えたままだ。
「いっちゃったの?」
みどりは耿介の耳に甘えた声で囁《ささや》いた。
「さっきね」
耿介は嘘をついてベッドから離れた。
みどりはそのまま横たわっている。俯《うつぶ》せの姿勢で息を整えていた。可愛い尻《しり》の奥の秘処が丸見えだ。濡れて光っている。とても年上とは思えない若い体だ。
「ホントに迷惑だったみたいね」
みどりはくるりと体を反転させた。耿介は腰にバスタオルを巻いて窓際の椅子に腰を下ろした。外の明かりが眩《まぶ》しい。照明灯がまわりを取り囲んでいるようなものだ。すべて高層ビルの窓明かりだ。耿介はタバコを喫った。
「明日からはレキシントンに移るんだ」
耿介はみどりに言った。
「どうして?」
みどりは全裸のままで耿介の膝《ひざ》に腰掛けた。耿介のタバコを抓《つま》んで喫う。
「ずうっと安い。それだけ」
「じゃあ、こうして会えないってこと?」
意地悪ね、とみどりは煙を吹き掛けた。
「先生はなんの目的で来たんです?」
耿介は質問した。
「言ったでしょ。君とこういうことになった以上、なんとしても先生と仲直りをして貰《もら》いたかったの。アメリカなら邪魔も入らないし」
「………」
「それだけじゃないわよ」
みどりは笑った。
「そのついでに仕事の方もね。先生はアメリカのコレクターとお付き合いがあるわ。紹介して貰えれば往復の旅費ぐらい直ぐに取り戻してみせる自信があるもの」
「先生は春信にも関係している」
「もし発見できたら安本商事へ渡す前に時間をかけて鑑定して下さいと頼んであるの。それを塔馬さんが変な風に言ったものだから誤解したんだわ。鑑定眼を信用しないで塔馬さんにも依頼してあると思ったのよ」
一応の辻褄《つじつま》は合っている。
が、信用するつもりはなかった。
「どうかしたの?」
みどりは耿介の首に腕を巻いた。
「私と君はパートナーじゃない」
みどりはバスタオルの上から耿介のものをまさぐった。耿介のものは意思と無関係に動いた。みどりはバスタオルを毟《むし》り取ると屈《かが》み込んで口に含んだ。舌を優しく転がす。
「どうして笑うの」
みどりは耿介の視線に気づいた。
「好きでもない男にこんなことはできないわ。君は違うかも知れないけど」
みどりはぼろぼろと涙を零《こぼ》した。
「私は一人で生きて来たのよ。もう耐えられそうにないの。だれかと一緒じゃないと」
みどりは耿介の膝に顔を埋《うず》めた。
本心だと思った。涙に嘘はない。
だが、それは淋《さび》しさについてだけだ。春信のこととは関係がない。
それでも耿介はみどりを抱きたいと思った。
ただ獣になればいい。
淋しさを癒《いや》すには体の疲れが一番の薬だ。
耿介はみどりの腕を掴《つか》んで持ち上げた。
椅子の上に向き合った形でみどりを抱いた。
みどりはしゃくり上げながら耿介のものを受け入れた。
〈今夜できっとお終《しま》いだろうな〉
俺は本当に厭な男だ、と思った。
朝のうちに仙堂耿介はヒルトンから塔馬双太郎と檜山の滞在しているホテル・レキシントンへと移った。ヒルトンのようなマンモスホテルに較べるとロビーの雰囲気もだいぶ落ち着いている。フロントで訊《たず》ねると部屋はまだ空いていなかった。とりあえず荷物だけを預けて耿介は檜山の部屋に連絡を入れた。
「塔馬さんはとっくにでかけたよ。午後にメトロポリタンで合流する約束になってる」
ロビーに下りて来た檜山は言った。
「菅谷先生には?」
喫茶室の椅子に向かい合うと檜山が訊ねた。
「一応連絡を取りました。メトロポリタンで顔を合わせるかも知れませんね。先生も午後からあっちに行くと。全員が専門家だから当たり前ですが、どうもおなじ場所ばかりだ」
「みどり女史とも話を?」
檜山は単純にその名を付け足しただけなのだろうが、耿介は言い澱《よど》んだ。駒井みどりとは朝までおなじベッドに居たのだ。
「塔馬さんはどこに?」
耿介は話をそらせた。
「直ぐ近くさ。日本総領事館。新聞を読んで来るとか言っていたが」
耿介は頷《うなず》いて目を外に向けた。総領事館はレキシントンの斜め向かいのブロックにある。
「それから、これは返しておこう」
檜山はマイヤーのリストを手渡した。コピーをしたいと檜山に言われて貸したものだ。
「昨夜《ゆうべ》部屋に戻ってから塔馬さんと二人でじっくり検討してみたんだが、これはどうやらマイヤーのコレクションがピークに達したときに作成されたもののようだな」
「そうですか」
「メトロポリタンに寄贈されたもの、それに世界の美術館や個人コレクションに吸収されたものがほとんど収録されている。これから以降はマイヤーも大したものを蒐集《しゆうしゆう》できなかったんじゃないか。経済的に限界だったのさ」
「じゃあ、珍しいものは?」
「ない。世の中に知られていなかったのは例の春信くらいのものだろう。まあ、これで逆にウチとしては特集が組みやすくなった。メトロポリタンを中心にして世界の美術館や個人コレクターに連絡を取って掲載許可さえ貰えれば誌上にマイヤー・コレクションを簡単に再現できる。これも君のお陰だ。リストが見つからなければ企画がどうなっていたか分からない。安本商事は頼んでも見せてくれそうになかったからな」
「運が良かっただけです。こっちも着いた早々にリストを発見できるとは思わなかった」
「君の腕さ。さすがに捜しのプロだと塔馬さんも驚いていた。もっとも……マイヤーのコレクションの充実ぶりにはもっとびっくりしていたようだったが」
「傑作揃いってことですか?」
「ああ。偽物とか駄作と思われるやつがまったく見当たらない。どんなに優秀なコレクションでも半分以上が二流品との混合というのが普通だってのに……リストに収録されている作品の九割以上が今では傑作として評価の定まっているものだ。よほど眼が肥えていたんだろうな。信じられない男だ」
「リストを作成するときに二流品と目されるやつは外したんでしょう。メトロポリタンも監修の一端を担っていたわけですし」
「そうじゃないよ」
檜山は即座に否定した。
「当時としては二流以下の評価しか与えられていなかったものも相当に混じっている。リストは四十年前に作られたものなんだぜ。この四十年の間に評価が高まったのさ。つまりはマイヤーに先見の明があったということだ」
「………」
「マーデン・ハートレイとかアーシル・ゴーキーの作品がちゃんとリストにはあった。今でこそアメリカの二十世紀絵画の巨星として評価が定まっているが、四、五十年前では奇を衒《てら》った美術の徒花《あだばな》としてしか理解されていなかった。我々もゴーキーやハートレイの作品がマイヤー・コレクションに含まれていたのは承知だったが、これまで、てっきり彼らの評価が高まってからマイヤーが蒐集したものとばかり考えていた。それが四十年前のリストに掲載されているなんて……驚きだぜ。金にあかせて蒐集したんじゃない。新しい才能を見抜く眼を持っていたってことだ」
檜山に言われて耿介はリストを捲《めく》った。これまでは春信の部分にだけ興味が集中して他の頁をゆっくり眺めていなかったのだ。
耿介はやがて溜《た》め息を吐いた。檜山の言う通りだった。いくら現代絵画に疎い耿介でも、その質の高さは直ぐに分かった。大部分がなにかの画集で目にしたものばかりだった。
「こんなことって有り得ますかね」
「塔馬さんとおんなじことを言うんだな」
檜山は耿介の言葉に苦笑した。
「事実は小説よりも奇なり、さ。これを再現したらマイヤーの名は何倍にも高まる」
檜山の興奮とは裏腹に耿介は軽い不安に襲われていた。確かに塔馬も思ったように、これほど傑作揃いのコレクションは一度として見た記憶がなかった。日本美術の理解では世界でも有数と言われたフェノロサのコレクションだとて現在の目で眺めれば半数近くは偽物と二流品で占められているのである。まさに異常としか思えなかった。とてつもない男だ、とマイヤーを認めるべきか……それとも、これにはなにか裏があるのか……耿介の背骨を寒気が走り抜けた。
「塔馬さんはなにをしに行ったんです?」
急に塔馬の動向が気になった。
「だから新聞を読みに行くと」
「日本の新聞ですか?」
「だろ。もう一週間も日本を離れている」
檜山はこともなげに答えた。
耿介と檜山は約束の時間には一時間も間があるのを承知でセントラル・パークのメトロポリタン美術館に向かった。耿介の不安はまだ収まらずにいたが、壮大なメタロポリタンの正面玄関の前に立つとそれは次第に薄れていった。代表的な収蔵品の大半は画集で見ることができると言っても、やはり本物とは比較にならない。特にエジプトの神殿をそっくりそのまま移築した空間などは写真では絶対に再現不可能なものだ。その感動を味わえると思っただけで耿介の胸は弾んだ。
広い石段を上がってエントランス・ホールに足を踏み入れると、円い生け垣を取り囲んだベンチが真正面にある。その右手奥には、まるでデパートのように広いミュージアム・ショップ。吹き抜けのドームの構造をしているホールには何百という人々の声が反響していた。東京国立博物館の閑散としたホールと違って、ここにはバザールにも似た喧騒《けんそう》があった。さすがに大英博物館と双璧《そうへき》をなす美術館だけある。耿介は圧倒された。
「まだ来てないとは思うけど」
檜山は左手のギリシャ・ローマ美術が展示してあるフロアに足を向けた。その奥に塔馬と待ち合わせているカフェレストランがある。
「こんなに無造作に陳列してて大丈夫かな」
簡単に手を触れられる剥《む》きだしの彫刻を横目にして耿介は呆《あき》れた。その気になれば倒して粉々にすることもできる。作品と観客を隔てる紐《ひも》さえないのだ。日本では考えられない。
「じっくり見るつもりなら三日はかかると言われている美術館だ。それだけ収蔵品が膨大だってことさ。一つ一つの価値が薄れるのも当たり前だ。ここの二階にはギリシャ・ローマ時代の絵壺《えつぼ》がそれこそ数え切れないくらい並んでいる。よく見ると素晴らしい絵壺だが、あれだけあるとどうでもよくなる。美術記者の俺がこんなことを言うと叱られそうだが、結局は好きな作品の五、六点しか記憶に残らないんじゃないかい。なにしろ、うんざりするほど物が揃っている」
「ですね。品数の少ない骨董屋《こつとうや》での方が反対に品物を丁寧に眺める。明治の『赤絵《あかえ》』なんて、普通じゃ見る気もしないのに、田舎に行くと結構真剣に手に取って見たりする」
耿介の言葉に檜山は笑って、
「ちょいと捜して来る。待っていてくれ」
レストランの中に入って行った。
耿介がポンペイから移築された貴族の家の寝室を覗《のぞ》いていると檜山が戻って来た。
「やはりまだだ。どうする? 案内しようか」
「日本美術のコーナーは何度も見ているんでしょう? 一人で見て来ます」
「ならこのレストランで合流だ。俺はヨーロッパ絵画でも見てこよう。広すぎて見ていない場所がいくらもある。迷ったら館の人間に道を聞いた方が早い。十分も歩いているうちに自分がどこに居るのか分からなくなる」
ヨーロッパ絵画も日本美術も二階に展示されている。檜山は途中まで耿介を案内して別れた。耿介はエントランス・ホールを見下ろすバルコニーに飾られている極東美術を眺めながら中国美術のフロアを一巡し、隣接した日本美術ギャラリーに辿《たど》り着いた。足早に回ったつもりだが三十分が経過していた。
細長いが広い空間である。幽玄さを演出しているのか、外の展示室に較べて照明がぐんと落とされている。スポットに照らされた仏像が神秘さを醸し出している。ここには静けさが漂っていた。耿介は安らぎを覚えた。
見ている客にも日本人が目立つ。
外国まで来て自国の美術を眺めるとは少し不思議な感じもするが、それが日本人だ。
彼らはアメリカを代表する美術館で日本の作品が大切に扱われているのを見て満足している。美術を眺めに来たのではない。彼らは日本人である誇りを得たいがために足を運んでいるのだ。
〈塔馬さんだ〉
耿介は肉筆浮世絵の前に佇《たたず》んでいる塔馬の姿を認めて近寄った。塔馬は振り返った。
「檜山君とは会ったかい?」
「ホテルから一緒に来ました。時間が早かったのでヨーロッパ絵画を見てくると」
「君はここがはじめてだっけ?」
塔馬は歩きながら言った。
「塔馬さんは?」
「アメリカは今度で二度目。七、八年ほど前に一カ月滞在した。飽きるほど見たつもりだったが陳列替えを頻繁にするんで見飽きない。ただし今回は肉筆浮世絵が少ないようだな。せっかくやって来たのに残念だろう。マイヤーのコレクションは一点も飾られていない」
「肉筆は日本でも見慣れていますから。エジプトの神殿の方に本当は興味があります」
「それだったらこの壁の向こうだ。一階から吹き抜けになっている。そこのエレベーターを使えば簡単に行ける。見るかい?」
塔馬の誘いに耿介は従った。
二人はデンドゥールの神殿の移築されている大広間に入った。耿介はあまりのスケールに度胆を抜かれた。しかも明るい部屋だ。総ガラス張りの温室の中に神殿が建っている。
「居ながらにしてエジプトの凄《すご》さを肌で感じられるんだ。アメリカの人間が羨《うらや》ましい」
塔馬は神殿を一回りしてベンチに腰を下ろした。エアコンが利いていて快適なのだが、背中だけは外からの陽射しで灼《や》けるように暑い。まるでエジプトに居る気分だ。
「来た甲斐《かい》がありました。ガイドブックを読んで、これだけは見ようと思っていた」
「そんなに好きならエジプトに行けば?」
「人工的だから興味が湧くんです。砂漠にある神殿にはそれほど……こんな巨大なものが建物の中に復元されているなんてね」
「なるほど。分かるような気がする」
塔馬も頷《うなず》いて神殿に目をやった。
「飾られることで神殿が美術品に進化する」
「そうか。そうかも知れない」
逆に耿介は塔馬に教えられた。
二人はしばらく無言で神殿を見詰めた。
「昨夜リストをじっくりと点検してみたよ」
やがて塔馬が口にした。
「檜山さんからさっき聞きました」
「なにか気にいらないんだよな」
塔馬は苦笑混じりに言った。
「と言って怪しむ根拠はなに一つない。俺の考え過ぎだろう。いくらなんでもそこまで先を読んで実行するとは思えない」
「どういうことです?」
「笑われるだけだから言わないよ。俺の悪いクセでね。でき過ぎた話に遭遇すると眉《まゆ》に唾《つば》をつけてみたくなるのさ」
「リストが偽物かも知れないと?」
「君はどう思う?」
「………」
「君も一応は怪しいと感じたわけだ」
「塔馬さんの対応を耳にしてからです」
「偽物だとしたら作ったのはガイ・マイヤーか? 遠藤も関係している可能性もあるが」
「でしょうね。それ以外に有り得ない」
「だとすれば甚だしい矛盾が生じる」
「矛盾?」
「彼らはあのリストを偽造することによって春信が本物であると世間に信用させようとした。でなければリストを偽造するメリットがまったくない。しかし、そうなるともっと大きな謎が生まれる。例の団扇絵《うちわえ》だよ。あの団扇絵の存在が春信の信憑性《しんぴようせい》を支える最大のポイントだ。彼らにとっても今度の贋作《がんさく》の目玉だったはずだぜ。なのに、どうしてリストにその写真を掲載しなかったんだ? わざわざ手直しする前の写真を掲載するなんて、正気の沙汰《さた》とは思えんね」
あっ、と耿介は目を円くした。
「その気になってルーペで見ればはっきりと違いが分かる。幸い安本商事は気付かなかったようだが、あまりにも単純なミスじゃないか。常識的に言ってもあれほどの手間をかけて拵《こしら》えたリストにミスがあるとは考えにくい。やはりリストが先にあって、それをマイヤーと遠藤が巧みに利用したとしか……」
「ですよ。俺もそう思います」
「推理を進めればそれしかない。無駄な憶測はそれこそ時間の無駄だと頭から追い出そうとしているんだけど……どうも悪いクセだ」
塔馬は苦笑いした。
「さっきは領事館に行って新聞を調べて来た」
「なにをです?」
「君はガイ・マイヤーらしき人物がセントラル・パークで殺されたと言ったが」
塔馬は言葉を切って耿介を見据えた。
「どんなに遡《さかのぼ》ってもそれらしい記事を発見できなかった。俺が調べたのはニューヨーク・タイムズだ。不審なら君も調べてみたまえ」
「マイヤーに関する記事がない?」
耿介はさすがに絶句した。
「記事にもならなかった事件を安本商事はどうやって知ったんだろう」
塔馬は厳しい目をして耿介に質《ただ》した。
「しかし、みどりさんは顔を潰《つぶ》されて殺されたのが小柄な男だったと」
「だからさ。その情報源はどこなんだ?」
「………」
「彼女だって安本商事の人間からそう聞かされただけに過ぎないはずだ」
「安本商事が嘘をついたということですか」
「あるいは安本商事自身がマイヤー殺しに関係しているか、だな。それだと確かに安本商事は前線に顔を晒《さら》すのを警戒する。別の人間に春信の捜索を依頼して不思議じゃない」
「でも、安本商事にはマイヤーを殺す理由なんて何一つありませんよ。騙《だま》されていたと分かって殺したとでも? 個人の取り引きだったらそれも有り得るでしょうが……大企業がその程度で人を殺すなど考えられない」
耿介の反論を塔馬も率直に認めて、
「十二本の春信という現実が目の前になければ……すべてが法螺話《ほらばなし》だと思いたくなるぜ。俺たちは幻想に踊らされているんだとさ」
ベンチから腰を上げた。そろそろ檜山がレストランで待っている時間だ。
「領事館には新聞が保存してあるんですね」
塔馬の調査を信用しないわけではないが耿介も確認してみようと思った。塔馬とて完全ではない。見落としの可能性もある。ましてやわずか二、三時間|捲《めく》っただけなのだ。塔馬は恐らく殺人という見出しを目当てに捜したに過ぎないはずである。英字新聞の社会面の見出しは地味な上に見にくい。一日を費やす覚悟でかからないとむずかしい。
〈それでも発見できなかったら……〉
事件の全体を考え直す必要がありそうだ。
「大岩君に会う予定は?」
ミュージアム・ショップの混雑に巻き込まれながら塔馬が振り返った。
「今日は特に約束していませんけど」
「昨日の興奮ぶりなら彼も真剣に司馬江漢と取り組んでいるに違いない。もう専門家なみの知識を仕入れたんじゃないか」
「そんなに簡単に資料が手に入りますか」
昨日の今日である。
「国連本部の近くにジャパン・ソサエティ・ギャラリーという美術館がある。日本の美術や映画を中心に紹介しているところだ。古書なら別だが、あそこには美術関係の書籍や雑誌を取り揃えた図書館が併設されている。大岩君もプロだ。もちろん承知しているだろう。見物にでかけたが、最近公開された映画のビデオまで棚に並んでいたよ」
「まったく……ニューヨークにはなんでもあるんですね。日本のことは日本でないと分からないなんて呑気《のんき》なことは言われない」
「なにしろとてつもない儲《もう》け話だ。大岩君も必死で情報を集めているはずだぜ。その成果を拝聴しに行くのも面白いな」
どうせ夜はヒマなんだし、と塔馬は笑った。
メトロポリタンから戻ると耿介は塔馬たちと別れて領事館へと出向いた。大岩との約束は夜の七時と決めてある。まだ充分に新聞を調べる余裕はあった。メトロポリタンで菅谷と駒井みどりには会えなかった。が、大岩は二人にも夜に会う予定になっていると言う。知り合いが少ないので大岩の店が自然に中心となるのだ。不思議なことに日本ではあれほど避けていた菅谷についても耿介は次第に気にならなくなった。互いに引き摺《ず》っているものがアメリカでは薄れているのだ。
領事館の窓口で用件を告げると相手はまじまじと耿介の顔を見詰めた。一日の間におなじ用件で訪ねて来た人間が二人だ。同一人物ではないと分かって相手は首を捻《ひね》った。
しばらく待つと相手は重そうに新聞の束を抱えて現われた。
「とりあえず半月分です。日曜版は雑誌くらいの分量ですからね。必要ならまだ続きを持って来ますよ。その方が読むにも楽だ」
耿介も頷きながら新聞を受け取った。耿介はマイヤーが殺されたと思われる日を中心に二カ月分を読みたいと頼んだのだ。
〈しかし……〉
半月でこれでは一日でも無理だ。休憩室のテーブルの上に置くと三十センチ以上の厚みがあった。タバコに火をつけながら耿介は萎《な》えた気持を叱るように勢いよく頁を捲った。
そうして一時間半が経過した。
指の腹がインキのために真っ黒になった。
それでも目的の記事は発見できない。塔馬が一度調べたものだという意識があるせいか、どうしてもなおざりになる。結局は耿介とて殺人、事故、変死、セントラル・パークという事件に関係ありそうな見出しだけを捜す結果となった。記事をいちいち読んでいたら頭が混乱してくる。
二時間で一カ月分は調べ尽くした。
このまま続けるべきか中止するか耿介は迷った。マイヤーが死んで一カ月以降となると駒井みどりが大岩にマイヤーへの接触を依頼したのと重なってくる。その時点で彼女はすでに安本商事よりマイヤーの死を耳打ちされていたのだ。大した分量でなければついでに調べる気持にもなったが、耿介はさすがに疲れて来た。それよりはもう一度これまでの記事を再点検する方が大事に思える。耿介は覚悟を決めて新聞を逆の日付から遡った。
〈ん……〉
耿介の目が片隅の小さな記事に止まった。『日本人観光客か』という見出しだった。耿介は一読して胸の騒ぎを覚えた。マンハッタン島の突端、バッテリー・パークの水辺に日本人観光客と目される死体が打ち上げられたという記事である。死後一カ月前後は経過しているようで死体は原形を止《とど》めないほどに腐乱しているが、衣類や靴が日本の製品であると言う。身長は百七十センチ。身許《みもと》を示す遺留品は意識的に除かれている。検視の結果では推定年齢四十歳。首を絞められて海に投げ込まれたものらしい。
〈四十歳で百七十センチか〉
遠藤輝夫と合致していた。
〈だが……〉
そんなことが有り得るだろうか。冷静に考え直して耿介は首を横に振った。遠藤は日本で生きているはずなのだ。金持ちと思われている日本人観光客が強盗に襲われるケースはしばしば耳にする。耿介は舌打ちした。こちらの焦りが生んだ想像に過ぎない。
それでも耿介は念のために窓口に向かった。死体が日本人という可能性があれば領事館に警察から照会があったに違いない。
記事を示して訊《たず》ねると相手は即座に頷《うなず》いた。
「まだ解決していませんよ」
「ということは日本人じゃないと?」
「いや。日本人なのは確かです。腕時計のカレンダーが漢字の曜日でした。他の国の人間ならそういう時計をしない。それで警察も確証を持って問い合わせて来たんですが……該当者がまったく発見できなかった。こちらも家族や知人からの照会がなければ把握のしようがありませんからね。旅行代理店からもそれらしい報告は受けておりませんし」
「それきり?」
「だと思いますよ。私は聞いていない。あなたはなにか心当たりでも?」
「もっと詳しい人はいませんか?」
「担当した人間が……今日は居たかな」
相手は電話のプッシュボタンを押した。
十分後、耿介は担当者と向き合っていた。若くて頭の回転のよさそうな男だった。
「小さな国だったら調査の方法もありますが、アメリカのように広くて日本人観光客が何百万と来るところではお手上げです。旅券の滞在期限が切れていれば自動的にパスポートナンバーがコンピューターに明示されますが、それは観光客と確定している場合ですよ。学生ですとかアメリカで働いている場合は、たとえ行方不明でも何年間かは分かりません。結局は心当たりのある人から報告をいただかないと……警察は観光客だと先入観を持っていたようだったが、日系人も漢字のカレンダーの時計をする」
「歯の治療とか、死体の特徴は?」
「最近に行なったと思われる差し歯が。上の前歯が四本ずらっと。それと奥歯にサファイアの埋め込み歯根がありました。これも日本人である根拠だったようです。相当の金持ちでなければやらない治療だと言うんですがね」
相手は苦笑しながら言った。日本では特別珍しいものではない。
「お知り合いの可能性はありますか?」
「直接知っていたわけではないので……家族に連絡を取って確認してみます」
「なにか分かりましたらご連絡下さい」
相手は自分から席を立って一礼した。
〈五時か……〉
耿介は時計を見て計算した。日本時間では朝の七時。遠藤の妻はまだ家に居るだろう。
だが、早朝から厭《いや》な話を聞かされる遠藤の妻を想像すると気が重くなった。
〈ま、遠藤じゃあるまい〉
問い合わせても別人だと返事が戻るはずだ。耿介はそう考えることで辛《つら》さを追いやった。
耿介は領事館を出てホテルに戻ると早速電話をかけた。これだけのホテルだと日本にも直接ダイアルができる。
「この前お伺いした仙堂です」
やっと出た遠藤の妻に耿介は名乗った。
「今ニューヨークに居るんですよ」
「まあ、嘘みたい」
本当に声が近い。都内の公衆電話と一緒だ。
「ご主人についてなんですが、持病をお持ちとか、そういうことはありませんか?」
「なぜですか?」
「その場合だと病院に照会してみる方法もありますので……虫歯が痛んでいたって程度でも手掛かりにはなります。今、アメリカでの行動を探っているんです。日本人の行く病院となれば限りがありますからね」
耿介はさりげなく話を進めた。遠藤の妻は納得した様子だった。
「持病は特に……肝臓も丈夫な方だと思います。歯だって全部治療しました。それこそ外国で痛んだら治療費が高くつくからと」
「外国と日本を頻繁に往復する人なら切実な問題でしょう」
「ええ。東京に転勤が決まると直ぐに前歯もほとんど新しい差し歯に取り替えて。営業マンは人と会うのが商売だからと言って」
耿介の胸がズキンと痛んだ。
「今は本当の歯と見分けがつきませんから。俺もだいぶ治療してますよ。歯が抜けてしまっても人工の歯根を埋める方法がありますし」
耿介は嘘をついた。
「主人もそう。あれ、ずいぶんお高いのよね」
遠藤の妻の言葉に耿介は軽い眩暈《めまい》を覚えた。
〈あの死体は遠藤だったんだ〉
吐き気が急に襲って来た。
ホテルのロビーで待っていると約束の時間より少し遅れて大岩が迎えに来た。
「車に全員は無理なんで菅谷先生とみどりさんを先に店に案内して来た」
大岩は遅れた理由を述べてタクシーに誘った。案内された店は運転手に申し訳ないと思うほど近かった。さっき耿介が訪ねた領事館のとなりのブロックにある。ホテルから歩いても五、六分。『新橋《しんばし》』という名の店だ。ニューヨークの日本料理店の中では老舗《しにせ》らしい。
「お待たせしました」
小部屋の襖《ふすま》を開けて大岩が先に入った。菅谷はもうビールを飲んでいた。
「しゃぶしゃぶのコースを人数分頼んだわ」
みどりは菅谷のとなりに移って塔馬たちの席をあけた。塔馬が菅谷の正面に座る。
「焼き鳥の店とラーメン屋には行ったけど、こういう高級な料理屋ははじめてだね」
塔馬が檜山に言うと、
「肩が凝って嫌いだと言ったじゃないですか」
「君と二人だけでしゃぶしゃぶを食べても面白くなさそうだからな。金の無駄だよ」
全員が笑った。
みどりは塔馬たちにビールを注いだ。
「司馬江漢に乾杯」
みどりは悪戯《いたずら》っぽい目でグラスを掲げた。
耿介と塔馬は唖然《あぜん》として顔を見合わせた。
「バレちまったんだ」
大岩は済まなそうに頭を掻《か》いた。
「ごまかせると自信を持っていたんだが、江漢の日本での最近の相場を知りたくて彼女にそれとなく質問していたら見抜かれた。女を騙《だま》した経験に乏しいんでね。逆に追及されて白状しちまった。今夜はお詫《わ》びのしるしだ」
大岩は耿介たちに頭を下げた。
「いずれバレていたわよ。あのリストを手に入れたんですってね。さすがだわ」
みどりの言葉に耿介は詰まった。彼女には欺《あざむ》かれていたという悔《くや》しさが見られない。
「例の団扇《うちわ》の中に教会や西洋人の顔が描かれていたというのは間違いないのかね」
菅谷は耿介の目を見据えて質《ただ》した。
「時間があったら今夜にでもお見せします」
耿介の代わりに塔馬が応じた。
「菅谷さんは初期浮世絵の第一人者だ。そこまでの手掛かりがあれば見当もつくでしょう」
「君はもちろん江漢の描いた聖パウロ像を見たことがあるんだろうな」
「ええ、画集の図版ですけどね」
塔馬が答えると、待っていたように大岩が傍らの風呂敷《ふろしき》をほどいて画集を取り出した。頁を捜してテーブルの上に展《ひろ》げた。身を乗り出して覗《のぞ》いた檜山が、あっと息を呑《の》んだ。
「団扇の絵とそっくりじゃないですか」
耿介も頷《うなず》いた。団扇の絵を見たときから似ていると思っていたが、こうして聖パウロ像を目の前にすると、まさに瓜二《うりふた》つである。頭が禿《は》げて白い髭《ひげ》を生やしているのも一緒だ。
「君たちが見ておなじと言うなら、やはり十二本の肉筆は江漢のものと見做《みな》して間違いはなかろう。江漢なら春信の模倣に長《た》けている。西洋画に移行する前の作品だったら春信と勘違いされてもおかしくはない。そこに目をつけて贋作者《がんさくしや》が春信に仕立て上げたわけだ。最近の浮世絵の高騰で欲が出たんだな。馬鹿な連中だ。江漢だってそれなりに評価が高い。小細工をしなくても、あれほどの傑作なら二、三億で取り引きができただろうに」
「逆ですよ」
大岩が遮った。
「先生も浮世絵を中心に考えていらっしゃる。江漢は春信の倍でも売れます。油絵のコレクターたちを相手にすればね。先生方は最近の浮世絵の高騰を勘違いなさってますよ。北斎が高くなった、写楽が十倍になったと呆《あき》れているようですが、あれは浮世絵の価値が正当に認められたんじゃありません。油絵のコレクターたちが浮世絵のオークションに参加しはじめたからなんです。彼らから見ると浮世絵はあまりにも安すぎた。ゴッホ一枚を買う金で北斎の『赤富士』が千枚も買える。それに気づいて一人が触手を伸ばしたら追随する者が出てきて、たちまち十倍二十倍となった。その証拠に浮世絵はなんでも高くなったわけじゃない。汚れ物や傷物はたとえ北斎の作品であろうと、相変わらず百万前後で取り引きされている。浮世絵全体の値動きならこういう価格差は絶対に有り得ない。油絵のコレクターの目にかなう品物だけが高騰しているってことです。確かに先生の言われるように浮世絵の世界では江漢の評価は春信の半分以下でしょう。だが、油絵のコレクターたちにとっては春信よりも江漢の名の方が遥《はる》かに価値がある。現にこの画集は日本美術全集の中の一冊です。江戸の洋風画を纏《まと》めたものですが、江漢はこの画集の中心として扱われています。この全集にはもちろん浮世絵の巻も三冊加えられている。けれど春信にはどれだけ頁が与えられていると思います? せいぜい二、三十頁がいいところだ。江漢はその三倍。論文も加えたら五倍以上にもなります。恐らく北斎や歌麿にも匹敵する。日本美術史の流れで見れば江漢はそういう位置に居る。間違いなく油絵のコレクターたちはその観点で江漢を認識しているはずだ。たとえ西洋画でないとしても、江漢の作品とはっきりすれば先生たち浮世絵畑の人が驚くような値がつくこと請け合いです。春信なんて目じゃない」
大岩の説明に菅谷は唸《うな》った。
「どの程度の値がつくと思う?」
やがて菅谷は大岩に訊《たず》ねた。
「春信で七億だったら……十五億の値がついても驚きませんね」
「それはまた……途方もない額だな」
菅谷は絶句した。
「ルノアールの小品に十億の値をつけるコレクターがこの世に何人も居ます」
「捜し出す自信はあるのかね?」
「あれが江漢のものだとはっきりすれば」
大岩は薄笑いを浮かべた。
「店なんかそっちのけでアメリカ中を駆け回る覚悟でいます」
「しかし……あれは安本商事のものだよ」
「世間に知られぬように裏で売買する方法はいくらでもありますよ。馬鹿正直に安本に返す必要がありますか?」
「それでは私が困るわ」
みどりが慌てて口を挟んだ。
「あなたはアメリカにいるから平気でしょうけれど、私は日本で商売しているのよ。信用を失えばその日からやっていけなくなる。よかったら私に任せて。安本商事はあの春信に保険をかけているの。盗まれた事実がはっきりすれば安本商事も損にはならない。そうしてケリをつけてから改めて相談しましょう」
「まるであの軸が手元にあるような相談だな。見つけてからでも遅くはないよ」
塔馬の苦情にみどりも笑った。
「盗まれた事実をはっきりさせると言っても」
耿介は首を捻《ひね》って、
「偽物のままでは保険会社だって簡単に盗難を認めはしない。むしろ偽物と発覚したので盗難騒ぎを引き起こしたと勘繰るだろうな」
「だから、あれが江漢の作品だと皆で証明すればいいんじゃないかしら」
「………」
「春信よりももっと価値があると分かれば盗難の動機にも納得がいくはずだし、安本商事とも交渉がしやすくなるわ。発見したら利益は折半と持ち掛ければきっと承知する」
「折半? 冗談じゃないぜ」
大岩は反対した。
「だったら別行動でも構わないわよ。私はそうする。そもそも安本商事から依頼されたのは私だってことを忘れないでちょうだい。あなたは裏で売買が可能だと言うけど、あれが江漢の作品と証明されずに売れると思う? あなたの力では無理だわ。ここに居る菅谷先生とか塔馬さんの保証がなければね。偽物のままでは一円にもなりはしない」
大岩は押し黙った。
「商売にするためには、あれが江漢のものだと世間に公表しないと」
「分かったよ。折半と言っても、安本商事は保険金を受け取るんだから、我々の取り分は十五億の半分と解釈していいのかい」
「それからがあなたの腕の見せどころね。裏の取り引きなら売値が分からない。十五億で売っても、安本商事には六億でしか売れなかったと報告すれば、三億しか渡さなくて済む」
みどりの言葉に大岩は顔を輝かせた。
「十二億を俺たちで山分けか。悪い話じゃないな。東京の藤枝さんを加えても一人に二億近いぞ。しかも正当な商売だ。盗まれた品物を捜し出して、持ち主の許可を得て売買する。どこからも文句がきやしない」
大岩は興奮の面持ちで皆にビールを勧めた。
「江漢だと証明できるでしょうか?」
みどりは心配そうに菅谷に質《ただ》した。
「品物がなくてはむずかしいでしょうね」
みどりが重ねると、菅谷は笑った。
「リストに写真が掲載されているのならなんとでもなるさ。江漢が隠れキリシタンだった可能性は研究者のほとんどが胸に抱いていた疑惑の一つだったろうからな。証拠がないので触れていなかったに過ぎない。むしろ江漢の謎が解明されたと頷《うなず》くに相違ない」
「そんなに有名なことでしたの?」
「北斎が隠密《おんみつ》だったとか、広重が暗殺されたなどという仮説と比較すればね」
菅谷は塔馬をからかうように言った。
「現実に江漢は聖パウロの像を模写して常に持ち歩いていた。それは江漢自身が『西遊日記《さいゆうにつき》』という書物の中で告白している。油絵がどういうものであるか、その見本として長崎までの旅行に携帯したと説明してあるが、それなら別に聖パウロの像でなくても構わなかったはずだ。むしろ普通の風景画の方が見本には適切だと思わんかね。外国の人間の肖像画なら、どれだけ上手《うま》いのかも曖昧《あいまい》になる」
耿介も大きく相槌《あいづち》を打った。塔馬も真顔で聞いている。
「あれは、万が一隠れキリシタンの疑いがかけられた場合の隠れ蓑《みの》だろう。日記は公開するものではないだけに正直に記していると見做《みな》される。後々のことを考慮に入れて、あの像は見本であると書きしるした。確か……」
菅谷は塔馬と向き合って、
「君の書いた『広重暗殺説』の中にもうそういう部分があったね。広重は勤皇思想の持ち主で、それに所縁《ゆかり》の神社を訪ねていると」
「甲府の酒折《さかおり》の宮です。勤皇思想の先覚者だった山県大弍《やまがただいに》が創建した神社です。広重は甲府への旅の途中でわざわざその社を訪れ、旅で知り合った若い姉弟に誘われて見物したと日記に書き遺《のこ》している」
「そんな危険な場所を訪ねたのに、日記に証拠を遺したのは?」
「証人が居たからですよ。幕府が神経を尖《とが》らせている神社に幕臣だった広重が内密で訪ねたと後で知れれば大問題となる。その危険を犯してまでも広重はそこに行きたかった。それで他人に誘われた形をとって訪れた。しかし、それを日記に書いておかなければ逆に不審を抱かれる元となる。痛し痒《かゆ》しの結果です」
「それとまったくおなじだよ」
菅谷はみどりに向かって言った。
「江漢が聖パウロの像を肌身離さず持ち歩いていることは周知の事実だったんだ。なのに、その事実を日記に隠せば疑いの原因となる。そこで江漢は油絵の見本であるなどと不自然極まりない嘘を日記に記入した。そればかりではない。江漢はしばしばキリスト教について人に話していた形跡がある」
「そんな資料が遺っているんですの!」
みどりは目を円くした。
「これも聖パウロの像を上手くごまかしたのとおなじやり方でね」
菅谷は、やはり江漢の著わした随筆集『春波楼筆記《しゆんぱろうひつき》』を引き合いに出し、その中でキリスト教について言及した箇所を丁寧に伝えた。正確をきすためにここには原文を示す。
――貴賤《きせん》上下共に学ぶべきものは聖人の道なり。只《ただ》、論語、大学を幾遍もくりかへし読むべし。仏の教は学ぶべからず。異端の教へなり。八宗、九宗共に本源の起《おこり》は、西洋の天主教なり。釈迦《しやか》これに基く者なり。天正《てんしよう》の頃、信長切支丹《のぶながきりしたん》を信用して、近江《おうみ》の国に南蛮寺を建て、宗法を弘めしに、その教に曰《いわく》、天地の始まらざる無量劫《むりようごう》の時、天帝、天地日月を造り、後に衆生《しゆじよう》を生じ、天帝これを憐《あわれ》み、末の世になりては、人智の私を以《もつ》て、欲の為に迷ひ苦しむ。これを「ハラデイス」と云ふ安楽世界に導き給ふ教なり。この世は仮の世。この世にて難行苦行して、首切られ、重き罪を受くといへども厭《いと》ふべからず。たちまち安楽世界へ産《うま》れ、天帝の憐みを受け、無量劫が間、死すると云ふ事なしと教ふるなり。これ釈迦の須弥《しゆみ》を立て、地獄極楽の方便と同じ。又、禅宗の悟りと云ふも基くところは同じ事にて、只、譬喩《ひゆ》方便を打ち貫き、天地の虚空より、人間万造皆現れ、またもとの虚無に帰ると云ふ究理を知り暁《さと》す事なり。まことに異端の教なれば、常人はかつて学ぶべからず。もしこの悟りを学ばんとならば、六十余にして学ぶべし。壮年の者学ぶ時は、天壌の廃物となるべし――
「不思議な言い方とは思わんかね」
菅谷は座をゆっくり見渡した。
「確かにはじめはキリスト教を否定している。そして仏教もだ。そればかりか仏教はキリスト教から派生したものだとさえ断言している。次いでキリスト教の説明をするんだが、どこが悪いのかまったく分からない。だれが読んでもキリスト教の素晴らしさを訴えているとしか思えない。人間は必ず神によって救われるから安心しろと言っているようなものだ。それでいて結論は異端の教えだと繰り返す。ただし六十歳を過ぎたら信仰も構わない。滅茶《めちや》苦茶な論理としか言いようがないね」
「取って付けたような気がするのは、逆に最初と最後の部分ですわね。無理が感じられる」
みどりも頷いた。
「江漢がキリスト教についてなにも知らなければ滅茶苦茶な論理が生じて不思議でもないが、言った通り、彼はきちんとキリスト教の本質を把握している。禅の悟りや仏教の地獄極楽がキリスト教を踏まえた概念だと見抜くには相当の勉強が必要だったはずだ。第一、この部分だけでは大した矛盾に気付きもしないが、おなじ本の中で江漢は仏教の素晴らしさを何度となく訴えている。実際、江漢は仏教の信者だった」
「おかしな話だわ」
「江漢は仏教がキリスト教とおなじものだと説いているのだよ。だから仏教を信仰することはキリスト教を信仰するのと同一になる」
塔馬までもが唸《うな》った。
「人によってはこじつけに過ぎないと思われるだろう。しかし、そう考えないと理屈に合わない。本当に江漢がキリスト教を邪教と見做していたら、それから派生した仏教を信仰するわけがないじゃないか。これは明らかに幕府の目を意識した文章だな。最初にキリスト教は異端であると書いておきさえすれば、間抜けな役人を騙《だま》せると思ったに違いない。頭の働く人間だったら文章の裏側にあるキリスト教|礼讃《らいさん》まで読み取ってくれるはずだと」
「素晴らしいわ」
みどりは何度も首を振った。
「情況証拠はまだある」
菅谷は満更でもない顔で、
「君のやり方で言うなら……」
塔馬と向き合った。
「旅の目的は常に重要な問題が隠されている。違うかね」
「長崎への旅になにか秘密があるとでも?」
「丹念に『西遊日記』を再読してみたまえ」
菅谷は勝ち誇ったようにビールを飲んだ。
「彼にとっての長崎とは、浦上《うらかみ》と平戸《ひらど》だったんだ。長崎に接近した彼は真っ先に浦上に向かった。これは本道ではないと江漢も文中で断わっている。つまり、わざわざ遠回りして浦上経由で長崎に入ったということだ」
耿介は塔馬を盗み見た。塔馬は熱心に菅谷の言葉に耳を傾けている。
「江漢はしばらく長崎に滞在した後に、旅の本当の目的地であった平戸を目指して船に乗った。平戸は当時、蘭書を数多く蒐集《しゆうしゆう》していた松浦静山《まつらせいざん》の支配下にあった。江漢の目的はその蘭書の閲覧にあったと想像されているんだが、なぜか日記にはその感動がまったくと言っていいほど見当たらない。それにも拘《かかわ》らず江漢は平戸に二カ月近くも滞在した」
菅谷は言葉を切って塔馬を見詰めた。
「肝腎《かんじん》の長崎には一カ月しか居ない。この事実を見ても江漢の目的が平戸にあったのは疑いないことじゃないかね。君の意見は?」
「でしょうね。長崎よりも平戸の方が江漢には大事だったという結論になる」
「じゃあ、なんで平戸について詳しいことを江漢は書いていないんだ?」
「危険過ぎて書くわけにはいかなかった」
塔馬は菅谷の考えを認めた。
「そうさ。書けるはずがない。平戸は隠れキリシタンの島なんだ。江漢はそこで隠れキリシタンの連中と接触していたんだ」
みどりと檜山はあんぐりと口を開けた。
「浦上と聞いてもピンとこないのか?」
菅谷は、やれやれと舌打ちした。
「浦上天主堂はキリスト教にとって日本で最も重要な教会だよ。あの丘で二十六人の殉教者が処刑されている。それを記念して建てられた教会なんだ。江漢の訪ねたときは、むろん教会などあるはずもないが、隠れキリシタンにすれば聖地にも等しい場所だった。そこを江漢は真っ先に訪れたというわけだ」
さすがにみどりは青ざめた。
「江漢がどこでキリスト教を学んだか……まったく資料は残されていない。しかし、彼は春信の家に出入りしていた頃、例の平賀源内《ひらがげんない》の門下生でもあった。そのお供をして鉱山の調査にもでかけている。特に東北地方のな。君たちは知らないだろうが、隠れキリシタンの大半は鉱山の従業員として身を潜めていたと言われている。藩や幕府も人手欲しさに見て見ぬふりをしていたようだ。奥深い山の中なら信仰が広まる恐れも少ない。そんな場所に蘭学に興味を抱いていた江漢が行けばどうなるか。隠れキリシタンの連中はマリアやキリストを描いた絵も所有していただろう。もちろん宣教師が持ち込んだ油絵だ。日本で最初に油絵を手掛けたのは源内と言われているが、彼がその技術をどこで習得したのかまったく伝わっていない。あの時代では長崎しか考えられないのに、源内がその時期に長崎を訪れた事実はないのだ。本人も秘密にしていた。もしかすると東北の鉱山で油絵と巡り合ったのではないかと私は想像していた。隠れキリシタンの存在を考慮に入れれば荒唐無稽《こうとうむけい》な想像でもなくなる。源内と行動を共にしていた江漢も当然、西洋画法を会得する。と同時にキリストの教えもだ。源内はしたたかな男だったからキリストの教えにそれほどの影響を受けなかっただろうが、江漢はまだ若い。神の下ではすべての人間が平等であるというキリストの教えは新鮮な衝撃を与えたに違いない。彼の随筆に目を通していると、根底に流れているのはキリスト教的平等思想だと分かる。それもかなり早い時期からな」
「江漢が春信と名乗って描いた浮世絵には、はっきりと遠近法が用いられていますものね。西洋画法をすでに学んでいた証拠です」
みどりも付け足した。
「江漢は春信の二世を許されたほどに初代春信の線を熟知していた。彼が相当に早い時期からキリスト教に興味を抱いていたということも推察できる。あの時代にあって、あの十二本の肉筆を描けた絵師は江漢しか存在しない。もし、あれが偽物だとしたら、春信の絵の中に教会を描き添えるような愚かな贋作者《がんさくしや》は居ない。すべての点で江漢の作品だと証明されるというわけだ」
大岩は菅谷に拍手を送った。
耿介も久し振りに興奮を味わった。
「どうしてその考えを今まで発表なさらなかったんですの? 今度の作品が発見されなくても仮説としては充分成立するような……」
「研究の基本は証拠だよ。証拠のない仮説はなんの意味も持たない」
菅谷はじろっと塔馬を睨《にら》んだ。
「たとえ百の情況証拠を揃えられても、北斎が隠密《おんみつ》であると告白した文章でも発見されない限り、私だったら軽々と発表はせんね」
菅谷は口許《くちもと》に笑いを浮かべた。
「我々は引き下がる他になさそうだ」
塔馬は檜山に言った。
「菅谷さんのコメントが新聞に発表されただけで世間は納得する。残念ながら俺の役目はなにもない。たまたまニューヨークに居合わせたというだけで分け前を貰《もら》うのは泥棒みたいなもんだぜ。こうしてしゃぶしゃぶをご馳走《ちそう》してもらうのだって申し訳ないくらいだ」
「謙遜《けんそん》でしょう」
みどりは微笑んだ。
「あなたが先生の仮説に同調してくれればもっと確かなものになるわ。それほどの援軍なのよ。塔馬双太郎の名前の重みはね」
みどりは上機嫌で塔馬にビールを注いだ。
「君は江漢捜しで居残るつもりか?」
塔馬は耿介に質《ただ》した。
「長期戦となれば無理です」
耿介は首を横に振った。
「マイヤーの手掛かりもとぎれてしまった。ましてや、安本商事との交渉が成立するまでは下手に動くと藪蛇《やぶへび》になる。日本に戻りますよ。また出直す他にありませんね」
耿介が言うと大岩も頷《うなず》いて、
「抜け駆けはしないから安心しな。遠藤もあれほどの騒ぎを引き起こした品物を簡単に売るわけにゃいかん。まだ二、三カ月は手元に保管してるさ。それまでの間にマイヤーの足取りもメドがつくようにしておく」
耿介の肩をポンと叩《たた》いた。
「リストは貸して貰えるのか?」
菅谷は耿介に言った。
「それがないとコメントもできんぞ」
「『美術芸潮』と約束があるんですよ」
塔馬が耿介を制して説明した。
「檜山君があのリストをもとにマイヤー・コレクションを再現する企画を……見せるだけなら今夜にでも。リストは安本商事も持っている。事情が変わったんだから彼女が頼めば貸してくれるんじゃないかな」
「心配いりません。必ず借りられるように」
菅谷にみどりは請け合った。
「だったら日本に戻ってからで充分だ。わざわざホテルに立ち寄ることもないな」
憮然《ぶぜん》とした顔で菅谷は塔馬に断わった。
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第六章 錬金術師
『新橋』から歩いてホテルに帰った耿介たち三人は、胸の騒ぎを抑えることができずにホテルのバーに腰を落ち着けた。だれもが黙々としてグラスの酒を飲み続けた。なにか口にするのが怖いのである。特に耿介はそうだった。頼んだつまみが来ないうちに耿介はバドワイザーを三杯も飲み干していた。耿介の額に汗がびっしりと噴き出ているのを見て塔馬がハンケチを無言で差し出した。
「すみません」
耿介は乱暴に汗を拭《ぬぐ》った。
「問題は、これからどうするかだ」
塔馬は耿介を現実に引き戻した。
「夕方話し合った推理にほぼ間違いないんじゃないか? 君が簡単に認めたくない気持も分かるが……磁石の針はすべてそこを指している。悩むより行動で確かめる他ない」
塔馬に言われて耿介は目を瞑《つむ》った。信じたくない。だが、それ以外に解答はなかった。
「と言っても……厄介ですね」
檜山は溜《た》め息とともに天井を仰いだ。
「告発するにしても物的証拠が皆無だ。あのリストだって、あれだけではなんの証拠にもならない。やっぱり品物を発見しないと」
「無理さ。江漢の軸はもう二度と我々の前に姿を現わさないだろう」
塔馬に耿介も頷《うなず》いた。犯人の狙いはそこにあったのだ。今では確信を持って言える。
「とにかく、遠藤のことだけは早く解決しないといけない」
塔馬は二人に言った。
「知れれば警戒されますよ。犯人は遠藤の件が発覚していないんで安心している。警察が動きはじめると別の手を打つかも……」
「そのままにはできないぜ」
塔馬は檜山を叱った。
「奥さんの気持になってみればいい。知った以上は教えてやるしかない。たとえ我々の手札を晒《さら》す結果になってもな」
「………」
「だが、ここはアメリカだ。ひょっとしたら騒ぎを最小限に食い止めることができるんじゃないかい。昨日今日の事件とは違う。警察は死体の身許《みもと》が確認されただけで満足するかも。奥さんにも事情を打ち明けて警察に余計なことを話さないようにすれば……四、五日は新聞に記事が掲載されない可能性がある」
「なるほど。遠藤は仕事でアメリカに来ていて強盗に遭遇したんだと思い込ませられたら、新聞もそれほど関心を持つとは思えない」
「四、五日は無理でしょう。死体が遠藤と確認されれば領事館にも連絡が入る。アメリカの新聞は興味を持たなくても、そのニュースは領事館から日本の新聞社のニューヨーク支局に流れます。遅くても死体の確認から二日後には日本の隅々にまで伝わりますよ」
耿介は暗い顔で続けた。
「奥さんに事情を打ち明けると言っても、アメリカの警察は馬鹿じゃない。なぜ何カ月も行方不明だったのにアメリカの領事館に失踪《しつそう》届を出さなかったのかと追及します。上手な嘘のつける女性じゃない。安本商事のことや、例のパスポートのことを白状しちまう。警察は驚くでしょうね。入国していないはずの男の死体がニューヨークで発見されたんだから。当然、入国管理局も捜査に乗り出す。騒ぎを抑えるなんてとても……」
「やっぱり、心を鬼にしてもうしばらく伏せて置く方が正解じゃないですかね」
檜山は塔馬に言った。
「冷たいかも知れませんが、遠藤は身許不明のまま何カ月も放って置かれたんです。それが半月延びたところでおなじでしょう」
「だめだ。仙堂君の調査でそれが遠藤の死体であるのは九十九パーセント確かだとは思うが、奥さんに確認して貰うまでは、どこまで行っても我々の推測でしかない。我々にとっても必要なことなんだ」
「それにしても……」
檜山は腕を組んだ。
「どういうトリックなんだい? 遠藤は偽造パスポートでも用いてアメリカに来たのか」
「アメリカから戻った遠藤の姿をだれ一人として見ていません。また舞い戻ったと言うより、日本に戻らなかったと考える方が」
「じゃあ、パスポートが遠藤の部屋に残されていたのは? 遠藤の奥さんだって顔こそ見ていないが電話でやり取りしたんだろ」
「日本に戻ったと見せ掛けるために犯人が遠藤のパスポートを奪って彼のアパートに」
「そうじゃないさ」
塔馬は首を横に振った。
「それは遠藤も合意の上のトリックだ。もしその前に遠藤が殺されていれば、会社にも連絡ができないし奥さんとも話せない。犯人が強引にパスポートを奪ったんじゃないよ」
「キャッシュカードの問題があるぞ」
檜山は思い出して耿介に言った。
「暗証番号が面倒なものだったとか。本人でなければ引き出せやしない。やっぱり、こいつは単純に偽造パスポートでアメリカに逃げたと解釈するのが自然じゃないかな」
「いつ?」
塔馬はニヤニヤして檜山に訊《たず》ねた。
「遠藤の死体は何カ月も前から水に沈んでいたんだぜ。なのにキャッシュカードの引き落としはつい最近まで行なわれている。まさか遠藤の幽霊がやったとでも?」
檜山は唸《うな》った。
「遠藤を殺した犯人がカードを用いて引き落としをしているとしか考えられない。遠藤が生きていると思い込ませるためにね。死体が遠藤だと確認する必要があるってのはそのことだ。本当に遠藤なら、キャッシュカードの件も犯人の偽装と断定できる。となると殺しの日時も特定される。彼は日本に戻らなかったんだから渡米して数日後ってとこだ。遠藤が最後に話した相手は奥さんだろ?」
耿介は頷いた。
「恐らくその直後に首を絞められたのさ。遠藤は信じられなかったに違いない。キャッシュカードの暗証番号まで教えて、完全に信用していた相手だったんだろうから」
「つまり……」
檜山は頭を整理して塔馬に確認した。
「遠藤はアメリカに居て、自らの失踪を装ったということですか?」
「失踪を装うつもりならば、もっとそれらしい話を電話で奥さんとしただろう。数カ月留守にするが子供の面倒は頼む、とかね。だが遠藤は一切匂わせていない。せいぜい帰国が一週間程度延期になったと考えていただけじゃないのか? しかし、会社の出張ならともかく、休暇を利用しての渡米だ。遠藤も滞在が長引くことを予測して、欠勤した場合は風邪だと報告するように部下の女の子には手を打っておいた。けれどアメリカ行きを教えていない奥さんに対しては不安があった。知らずに会社へ電話でもされたらすべてがバレる恐れがある。それでニューヨークから電話を入れて、あたかも日本に居るように装ったんだよ。アメリカからは直接ダイアルができる。自分から言わない限りだれにも分からない。よくあるアリバイ作りだな。だが、犯人はそれを待っていた。会社ばかりか奥さんまでもが遠藤が日本に居ると信用している。後は上手《うま》くキャッシュカードの暗証番号を聞き出し、殺した上でパスポートを奪い……」
「さっきは強引に奪ったのではないと」
檜山は些細《ささい》なところにこだわった。
「奪ってから犯人がアリバイを偽装したんじゃないと言ったんだ。アリバイを遠藤自身が拵《こしら》えたのを見届けた上で殺したって意味さ」
「それで?」
檜山は先を促した。
「犯人は奪ったパスポートを遠藤のアパートに戻した。それには何日も前に日本に帰国したというスタンプも押されている。パスポート本体の偽造は大変だけど、入国のスタンプ程度だったら簡単に作れる。その上でキャッシュカードで金を引き出せば……だれでも遠藤が日本に居ると信じるだろう。そして春信を持ち逃げした犯人だと主張する」
「安本商事もあくどいやり方をしやがる」
檜山は唇を強く噛《か》み締めた。
「七億の保険金が入る他に、会社の弱みを握っている遠藤を抹殺することができる。ほんのちょっとした決心をすればいい」
「遠藤も遠藤だ。なんで安本商事の誘いに乗ってアメリカまで?」
「殺そうとしている相手にはどんな破格の条件でも呈示できるさ。恐らく安本商事のニューヨーク支店長の椅子でも約束したんじゃないか。そのための下見となれば遠藤も渡米を会社に内密にする。安本商事は言葉巧みに奥さんが心配しているといけないから連絡をしろと促したに違いない。もちろんアメリカに居ることは絶対秘密にしてね」
「そのパスポートの中にガイ・マイヤーの住所を書いたメモが挟まれていた……」
耿介は重い溜め息を吐いた。
「君は罠《わな》に嵌《は》められて、この世に存在もしない人物をずうっと追いかけていたのさ」
塔馬の言葉に耿介は頷《うなず》いた。それはすでに夕方の段階で塔馬とともに出した結論だった。
だが、あまりにも辛《つら》い想像でもあった。考えすぎであって欲しいと念じながら耿介はあの店に足を運んだのだ。安本商事がそれだけの嘘をつくには今一つ動機的に弱いような気がした。だが、みどりの口から七億の保険金の話が出てすべてに納得がいったのである。
しかも、プラスの十五億。二十二億のためなら人はなんでもする。
「菅谷さんの仮説ですがね」
美術編集者の顔に戻って檜山が言った。
「あれはホントに研究者のだれもが疑っていた問題だったんですか? 私は初耳です」
「だろうね。君は邪教を禁じた幕府の弾圧の凄《すご》さをあまり知らないようだが、江戸時代にキリスト教の聖者を日本人が描いたケースは皆無に等しい。残されているのはほとんどが弾圧政策が採られる以前のものだ。江漢が唯一無二の存在と言っても過言ではない。だれが考えても怪しいと思うさ。けれど確たる証拠もないのに研究者が断言できやしない。ただ……菅谷さんの論理は明確だったね。俺は聖パウロ像の存在だけで江漢が隠れキリシタンじゃないかと想像していただけだったが、実際にあれだけの情況証拠があるとは思わなかった。菅谷さんには悪いけれど、あの人の力を見直したよ。論文にはしていなくても持論として何度か口にしていたんだろう。でないと、ああすらすらとは出て来ない」
「だったら、それが発表されれば研究者の大半が支持にまわりますね。皆が疑っていたのなら確実だ。江戸美術協会の理事長という肩書きもある人ですし」
「そのためにも急がないと」
塔馬は明らかな焦りを見せた。
「立場が立場だ。下手をすると津田君が絡んだ写楽の贋作《がんさく》事件どころの騒ぎじゃないぞ。あの時は幸い、と言うか、当事者の西島さんが亡くなっていたので新聞やテレビも遠慮があったみたいだが……今度はそうもいかない。大企業の派手な美術品購入に関してマスコミの目が厳しくなっている。事件の全貌《ぜんぼう》が知れればここぞとばかりに斬り込んで来る」
「叩《たた》かれないと懲りない世界じゃないですか」
耿介は冷たく言い放った。
「そのせいで津田良平が死ぬはめになったと塔馬さんは悔しがっていたはずだ」
「………」
「なにも急ぐことはない」
耿介の言葉に塔馬は眉《まゆ》をひそめた。
「遠藤の殺されたのがはっきりしたら日本の警察も動き出す。当然、春信を持ち逃げされたと訴えた安本商事にも警察は関心を持つ。最初は騙《だま》されるかも知れないが、いずれ時間の問題でしょう。特に七億の保険金を受け取ったと発覚すればね。俺たちが犯人を名指しする必要がどこにあるんです? 利用された人間に罪はないと塔馬さんは言うかも知れないが、俺に言わせたらおなじ穴のむじなだ。結局は金に目が眩《くら》んだってことだ。俺はそういう世界が厭《いや》で飛び出た男です。むしろ騒ぎが大きくなって取り返しのつかない情況にしてしまえばいいんだ」
「西島先生の門下生たちがどうしているか君は知っているのか?」
塔馬はじっと耿介を見据えた。
「大して関係もなかったのに、事件のあおりを食らっていまだに研究の世界から見捨てられている。真面目な研究者も大勢居たんだ。君だってそうじゃないのか、あの事件さえなければ今頃は……」
「よして下さい。俺はもともと真面目な研究者になれない人間でしたよ。事件はただの切っ掛けに過ぎない」
「世の中には真面目な研究者にしかなれない人間もいるんだ。君みたいに裏街道を歩く勇気もなくて、商売の才能にも恵まれない人間がな。菅谷さんがこれに関係していないのなら俺もどうでもいい。しかし、このままでは菅谷さんが失脚する。それは同時に菅谷さんのまわりに居るかも知れない若い真面目な研究者の一生を奪うことでもあるんだ。そういう人間は百人のうち、たった一人ってことも有り得る。それでも我々には守ってやる使命があるんじゃないか?」
「使命?」
「浮世絵にはなんの罪もない。その浮世絵に一生を賭《か》けようとしている人間だって居る。俺は津田良平を失ったことを死ぬほど悔やんでいるんだよ。もう二度とあれを繰り返したくない。今ならまだ間に合う。菅谷さんには俺から決着をつけるように勧告する。君の言うように金があの人を変えたんだ。あの人が分かってくれて、理事長を退陣すれば……」
「俺も同感だな」
檜山が割って入った。
「最初は君のことを業者と同列にして見ていたが、今度一緒に動きまわってよく分かった。君は浮世絵が本当に好きなんだ。金のために働いているのとは違う」
「だから?」
「菅谷さんの一人の責任で充分じゃないか。人間が犯した罪に浮世絵を巻き込む必要はないさ。むしろ騒ぎになる前に犯人を告発し、浮世絵の世界がそんなに甘くはないことを世間に知らしめる方が大事だぜ。これほど巧妙な詐欺がおおやけになれば、株券を買うような安易な気持で浮世絵に手を出す企業が減る。研究者も業者との癒着を避けるようになるはずだ。それ以外になにを望むつもりだい?」
「菅谷先生が勧告に素直に従うと?」
耿介は塔馬に質《ただ》した。
「詐欺の全貌を詳しく説明すれば自分の立場を察知する。結局は理事長という肩書きを利用されていたんだってことをさ。それに菅谷さんだって薄々知りながら付き合っていた。現実に業者に頼まれて安易な鑑定書を出したことだってあるだろう。そこに犯人たちがつけこんだ。我々が要求しなくたって、必ず後進に道を譲ると思う」
「いつ打ち明けるつもりですか。ぐずぐずしてると明日|明後日《あさつて》にでも発表しますよ」
「リストがなければ発表は不可能だ。日本に戻って安本商事からリストを預けられるまでは安全ってことさ」
「それでさっきは断わったんですね」
檜山は感心した。
「一つだけ分からないことがあります」
耿介は遠藤の家を見張っていた連中について話した。あれはどこの手先だったのか?
「遠藤が本当に失踪《しつそう》したんだと君を信用させるために犯人が仕組んだんだ。ずうっと監視していたんじゃない。その日だけだよ」
「あの日だけ、ね」
塔馬の言葉通り、どこまで行っても磁石の針は一人の人物を指し示していた。
「菅谷さんが江漢の発表を拒めばどうなりますかね……相当に慌てるだろうな」
檜山の呟《つぶや》きに塔馬の目が光った。
「なにか?」
「そうなると安本商事の頼みの綱は俺と仙堂君しかなくなる。焦ってまた接近して来るぞ。罠を仕掛けるチャンスはあるな」
「どんな罠です?」
「それをこれから三人で考えるのさ。遠藤のことも公表されれば必ず浮き足立つ。冷静さを失って簡単に餌へ食らいつくかも」
塔馬は興奮した面持ちで言った。
五日後。
耿介と塔馬たちはおなじ便で日本に戻った。三日前にニューヨークまで死体の確認にやって来た遠藤の妻も一緒だった。
空港には藤枝の姿があった。断わったのに夜が遅いからと言って車で迎えにやって来てくれたのだ。
遠藤の妻は日本に着くとようやく緊張の糸がほぐれたのか、嗚咽《おえつ》を洩《も》らしながら耿介たちに礼を言った。彼女は空港に隣接したホテルに泊まって、朝一番の便で札幌に帰る。
三人は藤枝の車に乗って東京に向かった。
「妙なことになっちまったな」
遠藤の妻の前では終始無言だった藤枝が助手席に座っている耿介に声をかけた。
「まさか遠藤が死んでいたなんて……ま、おまえさんは最初っからそんなことを言っていたっけ。大した直感だよ」
「駒井さんとは会いましたか?」
駒井みどりと菅谷は二日前に帰国した。
「電話連絡だけだ。俺にはなにがなんだかさっぱり分からん。大岩から四、五日前に電話を貰《もら》ったんだ。その時はだいぶ景気のいい話だったがな。あの春信が本当は江漢だと証明されたとずいぶん張り切っていたぜ。なのに昨日の駒井みどりの話じゃ菅谷さんが現物を見てから判断したいと言い出したとか。研究者ってのも弱気なもんだよ。彼女も仕方がないと諦《あきら》めていたがね。実際、絵を入手していねえうちから皮算用したって意味がない。いい夢を見させて貰ったと思うしかないな」
「じゃあ江漢捜しは中止ですか」
「江漢と実証されなきゃ春信の偽物のままだ。そんなのが商売になるか? そいつが分からない耿介じゃあるまい。それに、肝腎《かんじん》の遠藤が殺されたとあっちゃ危な過ぎる。君子危うきに近寄らず、さ。またしこしこと小商いに戻るしかないよ。塔馬さんの協力でも得られるってんなら話は別だけど」
藤枝はバックミラーを覗《のぞ》いた。
「塔馬さんは……駒井みどりと大岩さんを外すんだったら考えてもいいと」
耿介が言うと藤枝はギョッとした。
「どうして?」
「藤枝さんは日本に居たから情況を見誤っているんですよ。あの二人はコンビです」
「まさか、なんでだ?」
藤枝は不審の色を浮かべた。
「ややこしい話なので落ち着いてから説明するつもりでしたが……あの二人は安本商事と組んでいるとしか思えません。プロが自分の狙っている品物の相場を同業者に気安く訊《き》くなんて有り得ない。なのに大岩さんは駒井さんに江漢の話をした。すべては、あの春信が本当は江漢であったと菅谷先生に証明させるためです。本物だと菅谷先生が請け合えば世間が納得する。そうなると遠藤が盗んでもおかしくない品物になる。保険会社が納得すれば安本商事は七億の金を労せずして受け取れる。税金問題だなどと言っていましたが、本当の狙いはそれだった」
「………」
「俺は盗難を実証するために雇われたってことですよ。もともと盗まれていない品物をね。俺も藤枝さんも嵌《は》められていたんです」
「駒井みどりにか?」
「仕掛人は安本商事。連中はそれと同時に会社の弱みを握っている遠藤の抹殺も考えた。藤枝さんには悪いけど、その手引きをしたのは大岩さんでしょう」
「大岩が殺しに関連している?」
「我々は遠藤のニューヨークでの足取りを掴《つか》んで来たよ」
塔馬が後ろの席から言った。
「遠藤が泊まっていたホテルを捜し当てた」
「どうやって?」
「遠藤は直接ダイアルで奥さんに電話している。まさか個人の家からしたとも思えない。それで部屋から直接ダイアルできるホテルを片端から当たった。そういうホテルはパスポート呈示を原則としているので偽名は使えない。七、八軒捜しただけで簡単に見つかった」
「なるほど……それでなにか?」
「遠藤はフロントに貴重品を預けていた。トラベラーズチェックと数枚の版画」
「版画?」
「どこかで買ったものだろう。アメリカの画家の作品だ。だが、問題はそれじゃない。その貴重品を包んでいたものさ」
「………」
「この風呂敷に包まれていた」
塔馬はバッグから一枚の風呂敷《ふろしき》を取り出した。藤枝は後ろに視線を動かした。
「大岩の店で売っているオリジナルの風呂敷だよ。それが分かったから警察には届けずに我々が頂戴《ちようだい》して来た。奥さんも一緒だったのでホテルの方も直ぐに渡してくれてね」
「だから大岩と遠藤が会っていたと?」
藤枝は苦笑した。
「遠藤は何度もアメリカに行っている。たとえ大岩の店の風呂敷だとしても、以前に買ったものかも知れない。その程度のことじゃなんの証拠にもならんさ」
「それはこっちも百も承知だ。だからこそ警察に内緒で持って来たんだぜ」
藤枝は明らかに戸惑った。
「証拠にはならないが、推理を働かせると大岩が安本商事の手先となっていたのは間違いない。警察には興味がなくても、大岩にはこの風呂敷が気になるはずだ。そこが付け目だ」
「罠に嵌めるってことか?」
藤枝も察した。
「時と場合によっては」
「ってと?」
「マイヤーのリストも偽物に違いない。よくできていて、まだ穴を発見できずにいるが、偽物だったら必ずどこかにミスがある。時間さえあれば捜せると思うよ。あのリストには何百枚という作品が収録されている。ちらっと眺めた程度では断言できないが、その一点一点について絵のアリバイを確認すれば絶対に不自然な部分がいくつか出てくるだろう。リストが作成されたことになっている四十年前にはマイヤーの所有ではなかったという絵がね。贋作者《がんさくしや》たちはメトロポリタンと世界に分散したマイヤー・コレクションの写真を集めてあのリストをでっち上げたんだ。むろん絵の来歴を調査した上で不自然な作品は削っただろうが、完璧《かんぺき》とは限らない。もし、そいつを発見できたら……」
「できたら?」
「こっちの勝ちじゃないか。安本商事と大岩、そのどちらの弱みも我々が握ることになる」
「………」
「冗談ですよ」
真顔で考えている藤枝に耿介は笑った。
「俺たちの狙いは安本商事を追い詰めることです。強請《ゆす》る気はない。安心して下さい」
「ちょいとマジになったぜ。その二つがあれば二、三億は引き出せる」
「だから、それを駒井みどりに藤枝さんの口から匂わせて貰いたいんです。強請りと分かれば安本商事もバタバタする。どんなボロを出すかも分からない。はっきり言って俺にも塔馬さんにもリストの穴を発見する自信はまるでありませんよ。半年とか一年の猶予があれば別だけど、一カ月やそこらじゃ無理だ。証拠がない以上、こういう荒療治をしてみる他にない。こっちが手間取っているうちに大岩のアリバイとか強固なガードを張られる恐れもあります。もし、安本商事が俺たちの言葉を信じて交渉に乗ってくれば………自分から犯罪を認めたということになるでしょう」
「分かった。引き受けよう。みすみす金儲《かねもう》けを見逃すことになるが、最初から嵌められたと知っては許すわけにいかん。リストの穴を発見したふりをして、買い取る気はないかと持ちかければいいんだな」
藤枝は察しが早かった。
「リストはアパートの本箱の裏にでも隠して置きます。もし万が一俺が交通事故にでも遭ったら警察にリストを渡して下さい」
「安本商事が襲うとでも言うのか?」
「遠藤は殺されているんです。一人も二人もおんなじだと連中は考えるかも知れない」
「まさかとは思うが……確かにその通りだ」
藤枝も首を振った。
「酷《ひど》いことになったもんだ。責任は俺にもある。勘弁してくれ。こんな結果になるなら仕事を勧めるんじゃなかったよ」
「連中だって我々の動きを察知しているかも知れない。明後日《あさつて》の札幌行きは中止した方が無難じゃないのか」
塔馬は心配そうに耿介に言った。
「札幌になんの用事だ」
藤枝は怪訝《けげん》な顔で耿介を見詰めた。
「遠藤の葬式。これもなにかの縁なので奥さんに出席すると約束を」
「呆《あき》れた男だな。まあ、それも耿介らしいってとこさ。人が大勢集まる場所なら大丈夫」
藤枝は笑って請け合った。
二日後の夜。
明かりの消えている耿介の部屋のドアがそっと開かれた。耿介ではない。その男は部屋の照明のスイッチに手を伸ばし、そして、考え直した。用意して来た懐中電灯をつける。男は靴を脱ぐとキッチンを通り過ぎ、奥に入った。天井までの本箱が部屋の壁面を埋めている。男はレースのカーテンを透かして外を覗くと部屋の片隅にある電話を手にした。手袋をしている指でプッシュボタンを慎重に押す。
「俺だ。今入った。そのまま道路を見張っていてくれ。もし見掛けたら電話を……俺は念のために少し様子を見る」
電話を切ると男はソファに腰を下ろしてタバコを喫った。気持を落ち着かせている。男は懐中電灯を本箱に当てて点検した。ほとんどが美術書である。大型の画集や雑誌もあるので割合に整理されていた。一服しても変化がないのを確かめて男は立ち上がった。本箱に手を伸ばし適当な本を選んで抜き取る。音をさせないように床に重ね、その裏を覗《のぞ》く。男は軽く調べた後に、足下の本を元へ戻そうとして、止めた。躊躇《ちゆうちよ》がなくなると男は次々に本を抜き取っては床に展《ひろ》げた。一列、二列と本棚が空になっていく。
十五分も経つと部屋の床は山と積まれた本で一杯になった。
男の目が暗闇の中で輝いた。
本箱の裏に目的のものを発見したのだ。耿介が本の背後に隠していたマイヤーのリストである。男は満足そうにそれを手にした。
「後片付けもお願いしなきゃな」
不意に男の背中に声がかかった。
男はギクッとして振り向いた。
「となりの部屋の押し入れで待っていた」
声は耿介のものだった。
「夕方からこうして二人でね」
耿介は部屋の明かりをつけた。
耿介の脇には塔馬も立っていた。
男は唖然《あぜん》として二人を見詰めた。
「君ともあろう策士が、ずいぶんあっさりと罠《わな》に嵌《は》まったもんだな。てっきり安本商事の人間を送り込んで来るとばかり……まさか藤枝哲司本人がリストを捜しに来るなんて」
「覚悟の上だったよ」
藤枝は苦笑してソファに腰を下ろした。
「わざわざ耿介から電話があって、万が一の場合に備えて部屋の鍵を郵便受けに置いて行くって聞かされた時にゃ、半分以上は罠だと思ったさ。こいつは気付かれたなってね」
「だったらどうして?」
耿介は愕然《がくぜん》となった。
「気付かれたものなら時間の問題だ。今夜をごまかしても、いずれ逃れられん。他の人間に頼んでもおなじことだろう。反対に、耿介が間抜けで、まだ俺を信用しているのなら他人の力を借りない方がいい。こいつは俺が考えた仕事だ。自分でケリをつけるのが筋だ」
藤枝は手袋を脱いでタバコに火をつけた。
「電話していた相手は?」
塔馬は目の前に座った。
「とっくに想像しているんじゃないかい」
「駒井みどり?」
耿介が言うと藤枝は笑って頷《うなず》きながら、
「ちょっと離れた路地に車を停めている」
「すべては君の考えだと言ったな?」
塔馬は繰り返した。
「そうだ。彼女は協力者に過ぎん。許して貰《もら》えるならこのまま帰してやりたい。警察に出頭するのは俺一人で充分だろう」
「罪を全部|被《かぶ》る気か?」
「被るもなにも、実際にアイデアをだしたのは俺だぜ。彼女も大岩も俺が雇ったんだ。まだ一円の金にもなってない。それで二人を警察に突き出すなんてのは酷な話ってもんだ」
「安本商事に売った金があるじゃないか」
塔馬は嘲笑《あざわら》った。
「あれは見せ掛けの売買さ。俺の狙いは江漢に仕立て上げてからの商売だ。でなきゃ安本が話に乗って来るわけがない。連中は保険金の七億が貰えるってんで協力したんだぜ」
「話を順序立てて聞かせて貰おう。たいがいは分かっているつもりだが」
「話せば見逃してくれるとでも? 厭《いや》だね。あんたが想像しているなら、その通りだ。現実に俺は罠に嵌められてここに居る。いまさら説明しても意味がなかろう」
「遠藤を殺したのは?」
「安本商事に決まっているさ。殺しにまで手を染めたら後戻りができん。たかが金のために人を殺すほど生活にゃ困っていないぜ」
「だったら話は別だ。本当に安本商事から金を貰っていないとしたら詐欺も未成立となる。幸い、あの春信は偽物のままだ。保険会社も安本商事に支払いを拒否している。だれも損をしていない。今なら間に合う」
「間に合う?」
「犯してもいない犯罪に対して罪を問われる必要がどこにある? 安本商事は別だぞ。連中は遠藤を殺したんだ。それは逃れられないだろうが、殺しの動機は詐欺と関わりない。連中は君の計画に便乗して会社の弱みを握っている遠藤を殺した。裁判でもそれが実証されるだろう。君が遠藤を殺せと指示でもしていない限り、さほどの罪にはならんはずだ」
「なんで俺が遠藤を殺せと言う必要があるんだ。確かに耿介に足取りを追わせるために、架空の話じゃなく、実在の人間をアメリカ辺りで失踪《しつそう》させろとは言ったがね。でないと耿介に直ぐに嘘が見抜かれる。俺としては安本商事のだれかがその役目を引き受けるもんだと信じていた。半年も身を潜めていれば保険会社も盗難を認める。ましてや江漢の本物と証明されりゃな……なのに安本の連中は俺のアイデアを盗みやがったのさ。パスポートやキャッシュカードを利用して、その犯人が日本に戻ったと信用させることができたら警察にも行方が掴《つか》めなくなる。それなら邪魔な遠藤を殺しても発覚しないと考えたんだろうよ。安本の人間じゃなく、取り引き先の男がその役目を引き受けることになったと聞かされた時には、ちょっと不審を覚えたが、まさかそいつを殺そうと連中が思っているなんて俺に分かるわけがない。金につられて引き受けた馬鹿がいるんだと思った程度さ。ところが……」
「仙堂君の調査が進むにつれて安本商事と遠藤の関係がだんだん分かって来た」
塔馬の言葉に藤枝は頷《うなず》いて、
「ひょっとしたら、と心配してたが……遠藤の死体が確認されて、さすがにビビッたよ。連中は俺が想像していたよりも怖い野郎たちだった。遠藤殺しの記事を見て、みどりは手を引こうと言って来た。このままだと俺たちまで殺される。俺も同感だ。それで自分でケリをつけるためにリストを引き上げに来た。大岩も今頃は店を畳む準備をしているはずだ」
「なるほど。それで覚悟って言葉を」
「殺されるよりは警察に掴まった方がいい。あの殺しの記事が出たお陰で安本商事はてんやわんやだ。そのうち本気で俺たちの口封じを考え出すかもな。こういう情況で耿介やあんたに信じて貰えるなんて虫のいいことは考えちゃいないが、リストを取り返しに来たのは耿介の身を案じてのことだ。本気で安本商事を罠に嵌めようなんて思っていたらそっちの身も危ない。証拠のリストがなければ耿介も諦《あきら》めて警察に任せるだろうと……みどりも耿介が深入りするのを心配してる。あいつは耿介に惚《ほ》れたらしいな」
耿介は唐突に言われてどぎまぎした。
「突っ張っているが、頑張っているだけさ。あいつは必死で『ミナト』と縁を切りたがっていたんだ。けど一億以上の借金の保証人に『ミナト』の親父がなっている以上、どこまで行っても縁は断ち切れん。いくら裏金のある世界だと言っても、一億もの利益を生むには何年もかかる。若い頃はそれでも夢を持っていただろうが、歳を重ねるに従って不安が募って来たのさ。このまま永遠に『ミナト』の親父の玩具《おもちや》として暮らすのかと……」
「………」
「そこに安本商事との繋《つな》がりができた。連中はみどりが『ミナト』と関係があると知って儲《もう》け話を持ち掛けて来た。献金の代わりに浮世絵を使いたいって話さ。政治家たちも今の浮世絵ブームを耳にしている。しかも北斎クラスの有名絵師の大作を十本というどえらい仕事だ。とても簡単には数を揃えられないとみどりが応じ兼ねていると、連中は真偽はともかく、研究者の保証が得られた品物だったら引き受けるって言い出した。どうせ贈る相手は浮世絵についちゃ素人同然の政治家たちだ。本物か怪しいかの区別がつくわきゃない。研究者さえ認めれば問題がないんだ。その上、隠し財産だから世間の目に触れる恐れもない。みどりはそこまで考えて俺に相談を持ち掛けて来た。ニューヨークの大岩と組めないか、とな。彼女としては『ミナト』と組みたくなかったんだ。もちろん、他の浮世絵業者とも組むわけには行かない。それを知れば『ミナト』の親父が激怒する。それでニューヨークの大岩ってわけだ。しかし、ヤバイ話を大岩と電話だけでやり取りするってわけにはいかんさ。みどりは俺と大岩が親しいことを知っていた。これでトリオが出来上がった」
藤枝は気が楽になったのか饒舌《じようぜつ》になった。耿介は冷蔵庫からバドワイザーを三本取って来ると塔馬と藤枝に預けた。藤枝は直ぐにプルトップを引くと一気に篝《あお》って噎《む》せた。ほとんど飲めない男である。
「どうせなら偽物を作ろうと俺は提案した」
藤枝は口のまわりの泡を拭《ぬぐ》って続けた。
「世間に晒《さら》されない絵ならお誂《あつら》え向きじゃねえか。豚どもには似合いの絵だぜ。政治家は絵が分からんと笑ってる安本商事にしたっておんなじだ。最初は安本商事まで騙《だま》してやれと思ったが、いろいろと検討しているうちに政治家が信用できなくなって来た。確かに隠し財産かも知れんが、金に困って連中がいつ売りに出すかも分からん。そうなるとヤバい。その時点で人目に晒される。そうなりゃ偽物ってことが発覚する危険もある。糸を手繰られて最後には俺たちのところまで……偽物を作るつもりなら、絶対に表面には出せない情況を同時に拵《こしら》える知恵が必要となった。これにはだいぶ時間を取られたな」
藤枝は自分で言って笑った。
「到達したアイデアが盗品ってやつさ。しかも保険金まで支払い済みの品物なら、政治家たちだって売り払うわけにはいかん。下手をすりゃ保険金を受け取っている安本商事との繋がりが発覚して政治生命を失うだろう。そういう情況を作るのに成功すれば俺たちは安泰ってわけだ。その絵は死蔵される。ただし、それには安本商事を巻き込む必要があった。俺の作戦ではどうしても最初は偽物だと世間に信用させることが大事なんだ。本物だと保険会社や警察も真剣に捜査を開始する。偽物なら盗む動機も稀薄《きはく》になるし、保険会社も裁判で勝てるから安心する。そのためには安本商事も納得ずくじゃないと無理だ。本物だと信じていれば偽物と分かった時点で俺たちを告訴するに違いない。そこでまた一苦労だよ」
藤枝はタバコにまた火をつけた。旨《うま》そうに煙を吐く。塔馬はじっと見詰めたままだ。
「俺は天才じゃないかと思ったね。これまでにも詐欺|紛《まが》いの商売はいくつかして来た。それでも今度のアイデアは完璧《かんぺき》だった。それを実行する人材にも事欠かない。盗みを実証してリストという手掛かりを入手させるには仙堂耿介という捜しのプロが居る。本物だと実証してくれる研究者には菅谷って大物が控えてるんだ。順序が逆になったが、江漢のアイデアはみどりから出たもんだ。江漢が隠れキリシタンじゃないかと菅谷がしょっちゅう酒の席で口にするのを耳にしていて、それを利用できないかとみどりが持ち掛けたのさ。隠れキリシタンの証拠のようなものを画面にさり気なく書き加えれば菅谷がきっと関心を持つだろう、とね」
「それは俺たちも想像していた」
塔馬は頷いた。菅谷の理路整然とした説明はその場で思い付くようなものではない。何度も口にしていたからこそのものだ。
「難関は品物を世間に公開せずに写真だけで話を進めることさ。まあ、これも安本商事と組むことで簡単に解決できたがね。持ち主である安本商事が一般公開の前に写真を何枚か美術新聞に発表しても決して不自然じゃない。その段階で実物を見なくても偽物と発覚すれば、後は闇に葬ることができる。盗まれた後はもう二度と研究者の目に触れないんだ。ここまで考えたら自然に偽物のアイデアが生まれる。だんだんと俺たちの夢が膨らんだ。安本商事には保険金をそっくり進呈するという条件で協力だけを頼む。菅谷の実証によって江漢の本物と認めさせることに成功し、保険金も無事におりたら、それを改めて保険金とおなじ額で引き取って貰う約束だ」
「そんな条件を安本が呑《の》んだのか!」
塔馬は信じられないという顔をした。
「安本商事は無料で江漢というお墨付のついた肉筆を十二本も手に入れることができるんだぞ。しかも推定価格十五億の品物をな。ちょいと説明しただけで直ぐに乗って来た。連中にして見れば江漢が本物と認定されない限り引き取る義務はない。たとえ保険金が入らなくったって、もともと一円の金も損していないんだ。最初は俺たちが無償で品物を預けるんだからな」
「なぜ安本商事を巻き込む必要が? 藤枝さんやみどりさんがアメリカで発見したことにして新聞に発表してもおなじだ。自分たちで保険金をかけて盗まれたと偽ればもっと金になる。安本商事を頼る必要がどこに?」
耿介は首を捻《ひね》った。
「俺たちに七億もの絵を購入する金があると思うかい? それが知れれば税務署が目をつける。世間だって業者値段ってのを知っている。七億と言っていても、せいぜい二億程度で買ったんだと噂する。それに高額の保険をかけて、盗まれたと騒げば警察も動くよ。これは七億もの金を支払って当然な存在があってこそ成立する詐欺なんだ。だいたい、俺とみどりが仕入れた品物が偽物と知れれば、今後の商売ができなくなるぜ。売る時にも面倒が起きるさ。盗まれたと騒いだ俺たちがどうして江漢を売買できる? 欲を捨てるのが贋作《がんさく》の基本てものさ。七億でも多すぎるくらいだ。一人頭二億ちょっとだろ。それでみどりは『ミナト』の親父から解放される」
「リストを拵えたのは大岩か?」
塔馬は先を急《せ》かせた。
「世界に分散しているマイヤー・コレクションだったら、写真を集めるのも簡単だ。マイヤーは没落して家族の行方も定かじゃない。耿介が本気になってマイヤーの末裔《まつえい》の行方を捜そうとする前にリストを発見させれば面倒も起きん。そこまで考えて着手した。大岩とみどりにはマイヤー・コレクションの再現を頼み、俺は江漢の贋作を作らせた。そいつの名前は言えない。若手の日本画家にはオリジナルの才能はなくても、人真似の才に長《た》けたやつがごろごろしてる。世間にそれ本体を公表するつもりなら絵の具や表装も吟味しなくちゃならないが、写真だったらそれほど気を配らなくていい。縮小されるんで線も引き締まる。ルーペで見た程度では絶対にバレやしないぜ。俺は十二本の出来を見て、一番いいやつに例の聖者の顔と教会を描かせた。それを一度写真に撮影し、次にそれらを消させた。そしてまた撮影だ。最後に春章の役者絵を、消した上に書き足して終わり。それが春信の偽物という大事な手掛かりとなる」
「………」
「リストには聖者と教会のある作品を小さな写真版として掲載し、消した痕跡《こんせき》のあるものはアルバムの体裁にして残す。これならどうしたってオリジナルの作品に手を加えたと信じるだろう。そこまでやり遂げてから、完成品の肉筆を新聞に発表させた。後は言わなくても分かるんじゃないか?」
「その新聞を持って駒井みどりが『ミナト』の親父のところにご注進となったわけだ」
塔馬に藤枝は頷《うなず》いた。
「『ミナト』の親父はみどりから団扇《うちわ》の中の役者絵が怪しいと聞かされて喜んだ。自分の手柄にしようと、早速新聞社に教えたのさ。まさか自分の女に利用されてるなんて思いもしなかったに違いない」
「前からおかしいとは思っていたんだ」
耿介は口を挟んだ。
「俺と藤枝さんしか知らないはずの仕事の支払い額を彼女は承知だった。いくら調査に費やしたからと言って、裏で動いている金をあそこまで正確には把握できない。それに札幌の遠藤の家を訪ねたときだって……俺と藤枝さんの秘密だったはずなのに、連中はちゃんと先回りしていた」
「ま、こっちにもいろいろとミスはあったさ。最大の失敗は……山ちゃんの好奇心だな。ガイ・マイヤーの存在を耿介に信じ込ませるために檜山を利用しようとしただけだったけど、ヤツも関心を持った。それにしても、まさか塔馬双太郎を動かしてニューヨークまで足を運ぶとは思わなかったぜ。あんたが関係してくるとはこっちも想像していなかった。耿介は俺とはツーカーの仲だ。あんたさえ居なければ耿介だってここまで俺を疑いもしなかったに違いない。そうじゃねえか?」
言われて耿介も認めた。第三者の目で塔馬が事件を考えたので藤枝の行動の不審さが明らかになったのである。
「パスポートにマイヤーの隠れ家を書いた紙を挟み、そこを訪ねた耿介にリストを発見させる。耿介の才能なら必ずアルバムとリストの写真を見較べて真相に辿《たど》り着く。あの春信は初代じゃなくて二世の春信だったんじゃないか、とな。それを菅谷が補強する。それで完璧のはずだった。菅谷がそいつを世間に公表すりゃ、俺たちは安本商事から金を受け取り、安本商事は江漢の本物と言って政治家に贈れる。盗品であるのは明らかだが、一本の評価額が二億もするものを拒む野郎はいねえさ。喜んで受け取ってすべてにケリがつく。これで安本商事が遠藤を殺してさえいなきゃ完全に成功していただろう。あんな連中をアテにした俺たちが悪いってことだな」
「なぜ俺を巻き込んだ。大岩が誘わなければ俺は知らずに帰っていたかも」
塔馬は藤枝を見詰めた。
「リストがメトロポリタンにないのをあんたが不思議に思うんじゃないかと深読みしてね。それなら巻き込んでリストを一緒に見せた方がいい。檜山が興味を持った以上、裏でこそこそと動かれるよりは側に置いている方が手の内を見やすいと判断したんだ。大岩はああいう男なんで心配したがな。嘘は地味な方がいい。あいつは派手に騒ぎ過ぎる。それもあんたらに勘繰られる結果となった。違うかね」
「金を独り占めしたがっている割には簡単に彼女を仲間に加えたりしたからな。リストのありかを仙堂君に教えたことだってタイミングが良すぎた」
「マイヤーの隠れ家を借りたのは?」
「安本商事の石崎に頼んだ」
藤枝は耿介に答えた。
「隠れ家には大岩が案内する。大岩じゃまずいさ。俺たちは偽物に専念するしかなかった。マイヤーの実在を裏付けることとか、春信を盗む役割は安本商事に任せた。それでこんな結果になったんだよ。全部を俺が仕切っていたらこんな失敗には……」
「だろうな」
塔馬も認めた。焦らずに時間をかけていればきっと成功したはずだ。彼らは一円の価値もない偽物を七億もの金にすることができたのだ。まさに錬金術師としか言い様がない。特に、写真だけで勝負できる方法を思い付いたことには戦慄《せんりつ》を禁じ得なかった。偽物として世間の興味を失わさせてこそ可能な方法である。どんなに業者と癒着している研究者でも写真だけでは保証しない。盗品であるから現物の調査は諦《あきら》めるしかないと研究者が思うところに油断が生じるのだ。
「遠藤が握っていた安本商事の弱みってのがどんなものか聞いていますか?」
耿介は質《ただ》した。いかに好都合な状態だったとは言え、殺人には相当な決断が要る。
「今にして思えば……偽ブランド品だろう。安本商事は外国から高級毛皮や美術品を大量に輸入していたが、と同時に偽ブランド品も、それを承知で香港から入れていた。もちろん本社で扱うことはせずに、北海道に窓口の別会社を作って危険を分散させていたようだ。バッタ屋や旅師《はたし》からそういう噂を耳にしたことがある。まあ、あの手の商社には珍しくもない話さ。遠藤は札幌の人間だと言ったよな。きっと地方のデパートなんかで開催したセールに顔をだして気付いたんじゃないのか。俺の聞いた噂では毛皮の品質保証のマークまで偽造しているってことだった。ひょっとすると遠藤はそのマークを拵《こしら》えた会社でも突き止めたのかも知れん」
「会社ぐるみの犯罪とは違うと思う」
塔馬が二人に割って入った。
「今後の捜査で明確になるだろうが、恐らく偽ブランドについては安本の直接の担当者が会社には内密でやっていたことじゃないかい。安本商事の信用を利用すればなんでもできる。特に今のデパートの商法なら簡単だ。委託販売ということだったらデパートはたとえそれが偽物であっても平気で扱う。万が一お客から訴えられても、それはデパートの責任じゃなく、業者の方に押し付けることができるからな。安本商事の担当者がそれらの品物の中に偽物を混ぜても知らんふりだ。地方の小さなデパートなら美術品に詳しい人間が少ない。業者に信用があり、デパートの信用も重なれば客は騙《だま》される。そこを狙ったんじゃないのか? 安本商事が会社ぐるみで偽ブランドや美術品を扱っていたとしたら、遠藤を金の力で黙らせることもたやすい。殺しにまで発展するわけがない。間違いなく美術担当者一人の問題だったと思うね。確か石崎だったか。遠藤がこのままだと自分の犯行が会社に露顕すると恐れて一石二鳥の行為に及んだと……」
「かも知れん。石崎って野郎は派手な暮らしをしている男だからな」
藤枝も頷いた。
「その辺りは警察が解決してくれる。犯人と動機は直ぐに割れるだろう。これで遠藤の奥さんも安心するはずだ」
塔馬はケリをつけるように言った。
「電話をかけていいかい」
藤枝は耿介に言った。
「愁子に別れの挨拶《あいさつ》をしないとな」
「………」
「あいつはまったく無関係だ。こんな兄貴だからって、あいつまでもそんな目で見ないでくれ。俺が刑務所に入れば、あいつが頼るやつが居なくなる。できたら……」
「仙堂君が留守を守るさ」
塔馬が代わりに言った。
「さっきも言ったように、まだ君たちの犯罪は成立していないぜ。あの春信は本当に偽物だったんだ。今の時点ではどこにも嘘がない。俺たちと菅谷さんが騒がない限り、問題にもならん。詐欺未遂なら執行猶予がつくかも知れん。ましてやその相手が人を殺したり、政治家とつるんでいる商社だとしたらな。いい弁護士を紹介しよう」
「菅谷は騙されたと知って騒ぐさ」
「もう話がついている。菅谷さんだって自分の名誉のためにも訴えはしない。理事長も辞任した。研究生活に戻りたいと言っている」
「保険金を騙し取ろうとした会社だが……少し前にルノアールを相場の三倍で買い取ったとこだ。たった一枚に四十億だぜ。あいつらが相場を狂わせている。本当に絵の好きな人間が買えなくなっているんだ。自分で言うのも変だが、あの会社から七億を掠《かす》め取ったって罪の意識は感じないだろうと思ったよ」
藤枝は残りのビールを飲み干した。
「駒井みどりを庇《かば》いたい気持は分かるが、彼女も一緒に警察へ連れて行くんだな。自分から名乗れば心証も良くなる」
「助けるわけにはいかんかね。みどりには辛《つら》すぎる。あいつを助けられるんなら俺の刑期が三倍に延びてもいいんだ。あんたたちさえ黙っていてくれたら、俺はなんとしてでも口を割らない自信がある。俺はあいつを『ミナト』から解放してやりたかったんだ。俺が考えなきゃ詐欺なんてやらなかったはずだ」
「好きなのか?」
塔馬は真顔で質した。
「あいつを助けられると信じたから頑張った。みっともねえ話さ。互いにいい歳をしてよ」
藤枝は耿介と視線が合って目をそらした。
「あいつがだれと寝ようと関係ない。俺はあいつが好きだし……耿介も好きだよ。大人だなんて陳腐なことは言わんでくれ。自分でも分からねえのさ。そんな耿介を利用している。みどりだって俺が知恵を授けなきゃ……」
藤枝は突然|嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。
耿介は涙を必死で堪《こら》えた。藤枝は自分とみどりの関係を知っているのだ。
「警察に行きましょう」
背後から声がかかった。
三人はビクンとして振り返った。
玄関ドアのところにみどりが立っていた。
みどりはぼろぼろと泣いていた。
「明かりが点いたから心配になって……ずうっと話を外で聞いていた」
みどりは藤枝に微笑んだ。
「もう怖くないのよ。あなたと一緒だもの」
「………」
「私はあなたをずうっと捜していたんだわ」
みどりはその場に泣き崩れた。
それを見て塔馬は耿介に目配せした。
「藤枝さん」
うなだれている藤枝に耿介は言った。
「愁子さんのことは心配ない。みどりさんと一緒になれる日が来たら、今夜のことも笑い話さ。それを信じましょうよ」
言い終えると耿介は塔馬を促した。
「……?」
怪訝《けげん》そうに藤枝は二人を眺めた。
「メシを食って来ます。昼から押し入れの中だったんでパンしか食べていない。一時間したら戻ります。その間に二人で結論を」
藤枝は床に両手を揃えた。
「そんなヒマがあるんならみどりさんを」
耿介は玄関の床に座り込んでいるみどりの肩を抱き起こした。香水の甘い香りが漂った。
「ごめんなさい」
みどりは耿介に細い腕を差し出した。
耿介はしっかりとその手を握った。
か弱い女の手だった。
そういう女性《ひと》に戻ったんだ、と感じて耿介は無性に嬉《うれ》しかった。それがただ一つの慰めだった。塔馬に促されて耿介は部屋を出た。
「俺も菅谷先生のように浮世絵の世界に戻れますかね?」
耿介は塔馬に口にした。
「君はとっくに戻っていたよ。自分でそれに気付いていないだけさ」
塔馬は耿介の肩を軽く叩《たた》いて笑った。
耿介の目から思わず涙が溢《あふ》れた。
自分を知った涙だった。
本書は一九九六年五月に光文社文庫から出された作品を角川文庫に収録したものです。
角川文庫『春信殺人事件』平成14年5月25日初版発行