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高橋克彦
星 の 塔
目 次
寝るなの座敷
花  嫁
子をとろ子とろ
蛍 の 女
猫 屋 敷
首継ぎ御寮
星 の 塔
[#改ページ]
寝るなの座敷
バスが急ハンドルを切るたびに私の体は激しく左右に引張られた。遠野に近づいてからやたらとカーブが増えてきたようだ。それだけ山の中にある町と言うことなのだろう。高原を走るバスの窓から見下す感じに狭い盆地が広がっている。宮守《みやもり》という道路脇の表示板を地図で確かめると遠野市に隣接した村と分かった。ここにも結構民話が残されている。朝から降り続いている小雨が地表の熱のために湯気となって立ち昇っている。まるで温泉場のようだ。白い蒸気が村全体をすっぽりと覆い、人の生活の匂いも消している。六本木あたりのカフェバーにたむろしている女の子たちならきっと歓声を上げるに違いない。こんなにロマンティックに見えることも滅多にないのではないか。
〈村を取り囲んだ山が防壁になって、この霧が外に逃げていかないのだ〉
私はポラロイドカメラしか持ってこなかったことを後悔した。こいつは記録や人物写真には便利だが、霧や夕焼けといった微妙な雰囲気までは写しとることができない。もっともプロではないから、たとえ立派なカメラがあったとしても目の前の感動をそのままフィルムにおさめられるかどうか。私は飽かずに景色に見惚《みほ》れていた。白い霧の中から抜けでた宵待草の鮮かな黄色が幻想的だ。
バスの中には数えるほどの乗客しかいない。まだ七月の初め。夏休みには早いし、週末でもないから遠野といっても訪れる観光客は少ないのだろう。それにこの天候だ。激しい降りではないが東北は梅雨の真盛りである。ガイドブックによれば、遠野は自分の足で歩くかサイクリングが似合う町らしい。貸し自転車屋が十軒近くも紹介されていた。車で走るほどの広い町ではないわけだ。その町に、わざわざ雨の季節を選んでくる者は珍しい。
〈だからこそ自然な町の表情が見られるかもしれない〉
へそまがりのようだけれど、どうせ挿絵を描くのなら、観光客の大勢いる時期よりも普段の遠野のたたずまいを見ておきたかった。私の仕事はイラストレーターである。本当はシルクスクリーンの作品だけで勝負したいのだが食うためには挿絵でもマッチのデザインでもなんでも引受けざるをえない。
〈連載は秋からだと言ったな〉
遠野を舞台にしたミステリーの挿絵の話を持ちこんできたのは作者である友人だ。正式な出版社からの依頼とは違うが、これまで彼とはコンビを組んで何度か仕事をしている。自分が手がける公算は強い。早めに取材して無駄ということもないだろう。
〈夏美を誘ってこれたら……〉
どんなに楽しい気分になれただろう。
私は夏美の涙でくしゃくしゃに歪《ゆが》んだ顔を思い浮かべた。一昨日、酔った勢いでラブホテルにまで誘いながら、とうとう夏美を抱くことができなかった。というよりフラれたのだ。夏美は私を兄のような気持で慕い、私はそれを愛だと錯覚していたというわけだ。前に立ちはだかる私を怯《おび》えた目で見上げながら、痩《や》せた肩を小刻みに震わせていた夏美を思いだすだけで胸が痛む。
私はきっと飢えた目つきをしていたに違いない。
〈遊びなら抱けたさ〉
三十を過ぎているという分別が、泣きじゃくっている二十歳《はたち》の夏美から遠ざけた。ましてや結婚を考えている男がいると聞いてはなおさらだ。夏美の幸福を奪う権利など私にはない。けれど私も夏美との結婚を真剣に考えはじめていた矢先だったのだ。
〈いい歳をして失恋旅行かよ〉
自嘲《じちよう》の笑いが洩《も》れた。自分の暗さに我ながら呆《あき》れてしまう。取材にからめているが、都会の喧騒《けんそう》を逃れて静かな田舎にでかけたいと願ったことも事実だった。形だけでも自分の受けた衝撃を自身に納得させたい。そのまま日常に平気な顔で戻りたくなかったのだ。
遠野に着いても雨は続いている。
駅前の案内所で詳細なガイドマップを貰《もら》うと側の喫茶店に入って検討した。この雨では市内巡りがせいぜいだ。曲り家で有名な千葉家やカッパ淵《ぶち》は翌日にまわす。千葉家の近くにドルメン遺跡の続石《つづきいし》があることを知って興味を抱いたが、山の中ではむずかしい。すべては明日の天気にかかっている。
「観光ですか。この雨じゃ大変ですね」
コーヒーを飲み終えた頃合を見計らってサービスに昆布《こぶ》茶を運んできた女の子が笑った。細い目にふっくらとした白い頬《ほお》がまぶしい。
「どこが面白いかな。お勧めの場所はある?」
「さあ、今度、昔話村というのができましたけど……もう行かれました?」
彼女は私の地図を眺めて場所を示した。この店から歩いて五分もかからない。村は名称だけで遠野に伝わる民話のいくつかをスライドやビデオを使って紹介している施設らしい。子供連れには確かに喜ばれそうだが、三十過ぎの男が一人で見て楽しいものだろうか。
「私も行ったことがないんです。友達の話だと市立博物館と似たようなもんだって」
その建物も近い。昔話村と川を挟んで斜め向かいの位置にある。まあ、遠野までやってきて民話にふれないというのも妙なものだ。私はそのふたつともに訪ねることにした。
昔話村は市内の別の場所にあった古い旅館を移し替えたものである。屋号は高善といって「遠野物語」に馴染《なじ》んだ人間であればすぐにピンとくるはずだ。柳田国男が遠野を訪れた際に宿泊した由緒ある旅館である。復元された旅館の各部屋には柳田国男ゆかりの文机や、民話を彼に伝えた佐々木喜善の生原稿や資料が飾られていた。女の子が言っていたスライドやビデオを見せる場所はここではなく、本館に繋《つな》がった酒蔵に設けられている。
〈へえ。すごい部屋だな〉
私は二階の客室の広さに圧倒された。二十畳はある。この部屋に柳田国男ばかりか折口|信夫《しのぶ》までが永く逗留《とうりゆう》していたとパンフレットにはある。まるで殿様にでもなったような気分だったに違いない。出窓のくもりガラスが淡い光を室内に注いでいる。清潔そうで気持のよい部屋だ。他に観光客が一人もいないせいか館内はひっそりとした明治の空気も感じられた。時代は異なっていても彼らとおなじ空間に自分が存在しているという実感が私を包んだ。畳も新しく入替えられたのだろう。青々としたイグサの匂いが漂ってくる。
私は廊下に座りこむとバッグから画帳を取りだして印象をスケッチした。カメラよりもこちらの方があとで参考になる。
「おじさん、上手《うま》いね」
不意に背中から声がかかった。振り向くとおかっぱ頭の六、七歳の少女がスケッチブックを覗《のぞ》きこんでいた。生意気に後ろ手を組んで本物の室内と見較べている。黒い利発そうな瞳《ひとみ》に生気が溢《あふ》れている。赤いスカートから伸びた細い膝頭には擦《こす》ったかさぶたもあった。頬っぺたの赤い元気そうな子だ。
「プロの絵描きさんでしょ」
「プロって……よく言葉を知ってるね」
思わず苦笑した。子供にプロと言われてなにか気恥ずかしい。
「絵が好きなのかい」
少女は少し考えてゆっくりと頷《うなず》いた。
「そうか。君くらいの歳だとマンガだな」
「おじさん、バスに乗ってたでしょ」
「なんだ。君も一緒だったのか」
「日向子《ひなこ》っていうの」
話があちこちに飛ぶ。
「お母さんと遊びにきたのかい」
賑《にぎ》やかな子供連れが館内に入ってくれば気がつきそうなものだが、こちらがスケッチに夢中になっていたせいかもしれない。
「ひとり」
「じゃあ、お家が近くなんだ」
「バスでずうっと遠いところ」
なんだか変な具合になってきた。もしかすると迷子ということもある。うっかりと遠野行きのバスに乗りこんでしまったのか。
「日向子ちゃん──か。ちゃんとおじさんに教えてくれよ。お家の人は君がこんなに遠くまできていることを知ってるの」
「わかんない。ママもいないし」
すると捨て子の可能性もあるぞ。不安そうな顔をしていないところを見ると、遠野に何度かきたこともありそうだが……とにかく受付に連れていかなければならない。私はバッグに道具をしまいこんで立ち上がった。
「いやよ。まだ遊ぶんだから」
少女は私の態度を敏感に察してトタトタと軽い足音をたてながら広い階段を降りていった。その先には受付がある。この様子なら連絡しなくても誰かが気づくだろう。単なる旅行者の私にできることはあまりない。
階下の話声に耳を澄ませたが、なんの物音も聞こえてこない。不審を覚えたのは一瞬だけだ。迷子や捨て子はきっと私の考え過ぎだったのだ。少女はこの昔話村に関係している誰かの身内で、幼いために辻褄《つじつま》の合わない話をしていただけなのだ。
私は少女を忘れて館内を巡った。
市立博物館の方が私は気にいった。と言っても建物や資料の問題ではなく、マルチスクリーンに写しだされる民話の内容である。畳二畳分は楽にある巨大なスクリーンが三面繋げられ、その面上に三つのプロジェクターからスライドが目まぐるしく投影されていく。しかも絵が素晴らしい。ファンタジックで昔話村の小さなビデオなどよりはずっと見応えがある。聞き飽きた話もこのスクリーンに展開されると新鮮な驚きとなって迫ってくるのだ。私は何度も溜息《ためいき》を吐《つ》いた。スライドは一時間おきの上映になっていて、私がこの二階の視聴覚ホールに入ったときはすでに照明が消されていた。だから自分のまわりにどんな人たちが座っていたのかよく分からない。アベックらしい二人連れが背後にいたことは知っているが、画面に魅せられて気にすることもなかった。
スライドが終って場内にほのかな明りがつくと、私はあたりを見回した。七、八人の観光客が満足そうな表情で感想を言いあっている。暗がりで気づかずにいたが、観客席のまわりに柱のようなものがたくさん立っている。その柱に寄添って佇《たたず》む女子高校生の姿がある。
〈しゃれたアイデアだな〉
それは柱の形をしたスピーカーボックスなのだ。下の位置にスイッチがあって、それを押せば四角柱の上部に埋めこまれたいくつかのスピーカーから囁《ささや》くような声で民話が流れてくる仕組みだ。だから民話を聞きたいと思えば耳をスピーカーに押しつけて、柱に寄りかかる姿勢をとらなければならない。柱は何本もあるから音量を大きくすれば互いの鑑賞の邪魔になる。偶然から生まれたアイデアだろうが、ひそひそとした声で語られる民話は、いかにもそれに相応《ふさわ》しい。テーマを選んで私も何本かの柱に耳を近づけた。
堪能したあと、観客席の向こうに「不思議な話」というタイトルを掲げた柱を見つけた。あれを聞いてここは切り上げることにしよう。
おなじことを考えた女性がいた。彼女は柱に近づくと私を認めて微笑しながら、
「よろしければ、ご一緒に聞きませんか」
こちらに否やはない。私はスイッチを押すと柱を挟んで彼女と横に並んだ。
ブーンという低い音がする。電気が入れられた音だ。その静けさの中から彼女の微かな息遣いが私に伝わってくる。妙にドキドキした気分だ。彼女も一人で遠野にやってきた観光客なのだろうか。そう言えば昔話村の入口で傘を目深《まぶか》にかぶった彼女とすれ違ったような気もする。薄明りではっきりしないが聡明な顔立ちの美人だ。
やがてテープの回る音がして老婆の囁く声がした。スライドの女優の声とは違って温かく懐かしい印象がある。私は横の女性も忘れて民話に聞き入った。
──ずうっと昔のことだ。松崎村の寒戸《さむと》というところの家から、めんこい娘っ子がいなぐなったということだ。そりゃ神隠しっつうことで皆してあちこち騒いで探しまわったども、どっこにも姿が見えねえ。そしたら近ぐの川端の梨の木の下に娘っ子の草履がきちんと揃えられでいるのを誰かが見っけだ。これは自分からすすんで家をでるときのしるしだと昔から言われている。せだば(それなら)神隠しではねっちゃ。家の者も仕方なく諦《あきら》めて娘っ子のことを言わなぐなったど。
それがら三十年も過ぎたときのことだ。
びゅうびゅう冷えて風の吹ぐ嵐の晩コよ。
葬式だがなにかがあって、娘っ子がいなぐなった家に親類縁者がいっぺえ集ってたど。そこに汚ねえ身なりした婆様がフラッと入ってきた。顔は皺《しわ》だらけ、体も垢《あか》だらけで、おまけに頭はぼうぼうの白髪だ。こじきバサマこんたらどこに(こんなところに)なんしにきた。家の者がビックリして追っ立てると、婆様は常居(居間)に顔を揃えていた家の者をじっくりと順に眺めては、懐かしそうな声で一人一人の名前を呼んだど。
オラは三十年前にこの家をでだ者だ。今夜は皆が集っているど知って戻ってきた。死ぬ前になじょしても皆の顔を見たくてな。
それを聞いた家《え》の者は腰が抜けるほどビックリした。婆様に言われてよくよく見れば消えた娘に間違いねえ。こったになるまで今までなにしてた、どこで暮らしていた、と皆が面妖《めんよう》がって問うてもさっぱり要領が得ねえ。もう山さ戻る刻限だ。婆様はそう言い残すと、またフラフラと家からでていったと、それはそれは、うれしそうな顔してなあ。
このことがあって以来、この辺では激しく風の吹く騒がしい晩はサムトの婆《ばば》が山から戻ってきそうな夜だと言いあっているのさ。どんとはらい──
短い話だが、奇妙に胸を衝《つ》く。サムトの婆の消えていた三十年がまったく説明されていないのが話のリアリティを生みだしているようだ。また、裕福な暮らしでもなさそうな婆が、どうして山にふたたび戻っていったのか。たった三十年でなぜそれほどに歳をとってしまったのか。こちらでは娘の年齢が省略されているが、昔話村で見たスライドによると失踪《しつそう》した歳は七つと説明されていた。とすれば戻ってきた時点でまだ三十七。今なら女盛りと言ってもおかしくない歳だ。
民話の怖さはそこにある。現代に怪談が生まれにくくなったのは合理性のためだ。きちんと説明がつく話には魅力もなにもない。
「サムトの婆という語感が怖くないですか」
私は隣りの彼女に話しかけた。
「ただの地名なんだろうけど、遠野の婆では不思議な感じがしない。やはりサムトだ」
「松崎って、私の住んでいる町なんです」
「遠野の方でしたか。こんな場所だからてっきり観光客だとばかり」
「民話に興味があるんですの?」
「遠野物語は特別ですよ。他の地方の民話になるとほとんど知らない」
遠野物語にしても挿絵の依頼がなければ改めて読み返すこともなかっただろう。そんなものから離れた世界に生きている。
「じゃあ、挿絵の取材でここに」
私の説明に彼女は関心を持ったようだ。
「よかったらお茶でも飲みませんか。せっかくだから土地の人の話を聞きたいな」
彼女は気軽に了承した。二十三、四というところだろう。東京なら気楽に声をかけることを躊躇《ためら》うほどの美しさだ。
「また会っちゃった」
いきなりズボンの裾《すそ》を強く引張られて慌てた。腰のあたりにさっきの少女のあどけない顔がある。
「なんだ。どうしてここに?」
「日向子の勝手でしょ」
ふくれた顔をしながらペコリと目の前の彼女に頭を下げる。まったく憎めない子だ。
「あなたの?」
「まさか。さっき昔話村で知り合ったばかりだ。近所の子供じゃないかな」
彼女は頷くと姿勢を屈めて少女と向き合った。さすがに女同士だ。すぐに仲良くなる。彼女の質問に日向子も屈託なく答えている。
「困ったわ。やっぱり迷子みたい」
やがて彼女が立ち上がった。
「警察に連れていくのが一番だわ。私たちじゃどうしようもないもの」
一時間後。私たち三人は駅前の喫茶店にいた。ひょんななりゆきから日向子を私が預かることになったのだ。警官が訊ねても親元がまったく分からず、届けもなされていない。とりあえず今夜は警察が日向子を保護する形に話が纏《まと》まりかけたのだが、博物館で知り合った彼女の家が民宿をしていることが分かり、どうせならと私が願いでたというわけだ。
「おかしな関係だな」
無心にオレンジジュースを飲んでいる日向子を見詰めながら私は苦笑した。まったく奇妙な話だ。ついさっきまで見たこともない人間ばかりがこうしてテーブルを挟んでいる。
「信用されたのよ。あなたが」
書類の保護者欄に自分の名前を書いたときの照れくささが今も残っている。
「倭夏子《わかこ》って……とても綺麗な字だな」
警官に促されて彼女が署名するのを横からソッと盗み見たのだ。名前に夏の文字が入っていた偶然に私はドキッとした。
「夏に生まれたんです。倭は日本のことでしょう。意味は単純明快」
「日本の夏か……金鳥蚊取りみたいだ」
私の冗談に倭夏子はふきだした。
「日向子にも意味があるんだから」
ストローをくわえながら日向子が話に割って入った。
「ひまわりなんだって」
顔が輝いている。親から離れているというのに寂しそうな顔を少しも見せない。どういう環境に育っているのだろう。
「民話って怖い話がたくさんあるでしょう。あれ、どうしてなのかしら」
倭夏子が私に訊ねた。
「え。なに?」
「不思議なんです。貧しくて娯楽もない人たちがこしらえたものなら、もっと夢のある楽しい話があってもいいんじゃないかしら」
「作り話ならね」
「違うんですか」
「中には想像で作ったものもあるだろうけど、民話の大半には事実が反映していると思うな。でなきゃサムトの婆なんて生まれないよ。作り話は繰り返しているうちにだんだん合理的な方向に纏められていく。遠野物語が今でも輝きを失っていないのはストーリーに説明不可能な飛躍があるからだ。事実だからこそ合理的な嘘《うそ》の入りこむスキがないんだ」
「じゃあ山の神や人食い鬼も?」
「いた、と思う。もっとも化け物じゃないぜ。なにかの比喩《ひゆ》だと考えられる。たとえば──飢饉《ききん》の際に空腹に耐えかねて死体に手をだした人間がいた、とかね。実際、戦争中に南方で死んだ同僚の肉を食べた兵隊の話も聞く。精神が極限状態におかれて、なにも食べるものがなければぼくたちにもありうる話だ」
山の神は追手を逃れた外国人の宣教師だと説く研究者もいる。確かに山の神の鼻が高く目が青いとか、身長が倍近くもあるというイメージは、そのまま現代においても外国人を説明する言葉にピタリとあてはまる。言葉の通じない外国人と山中で遭遇すれば、すなわち山の神だと単純に考えても無理はない。
「でも……どうしてそれが遠野だけに」
「遠野の場合は人々から記憶が薄れない早い時期に民話が採取されただけのことだよ。特別選ばれた地域じゃない。おなじような話は全国どこにでも残されていたはずだ」
佐々木喜善に匹敵する人物が別の地方にいれば、その町が民話のメッカになっていただろう。問題は土地ではない。あの時期に昔話を採取しようとした発想が大事だったのだ。
「だからと言って遠野の価値が下がるとは思わないけど」
少し言い過ぎた感じがしてつけ加えた。
「実際にここまできてみると、隠れ里なんかは遠野だからこそありうる話だって気もするな。これだけ奥深い山々に囲まれていればマヨイガ(隠れ里)の存在だって信じたくなる」
「マヨイガがですか……なんだか怖い話にだけ関心を持っているみたい」
「マヨイガが怖いかどうかは別にして、不思議な話ってのは印象に残りやすいんだよ。佐々木喜善だって意識的に集めたんじゃないかな。あの人の集めた『老媼《おんばこ》夜譚』や『聴耳《ききみみ》草紙』も読んだけどタイトルを眺めただけでゾッとする話がいくつもある。読む前から内容が想像できる。あれは相当の怪談好きじゃないとできない」
私は思いだしながら伝えた。
蜘蛛《くも》女。娘の骸骨《がいこつ》。歌ひ骸骨。人喰ひ花嫁。母の眼玉。女房の首。墓娘。土喰婆。
「一度でも読めば忘れられない話だ」
「その題名ならほとんどが女の人の話ね」
倭夏子は別のことを考えていたようだ。
「昔は女が怖いと思われていたのかしら」
「女というものは男や家庭に服従することが当たり前だと思われていた時代だから……耐えている分、鬱積《うつせき》や苦労が多かったんだろう。だから怨みも深い。想像すると哀れだな」
倭夏子も頷いた。
「だからお化けになるの? 日向子もそのうちお化けになっちゃうの」
日向子がはしゃいだ。どういう子だ。
「そうよ。お姉ちゃんだって怖いんだぞ」
倭夏子が低い声でおどかした。
「それに、お姉ちゃん家《ち》にはスッゴイ怖い部屋があるんだから。いい子にしないと……」
「どうなるの? ねえ」
「日向子ちゃんひとりでネンネよ」
なんだという顔で日向子は舌をだした。私と倭夏子は顔を見合わせて笑った。
「ところで、それは本当の話なのかい」
私は質《ただ》した。だから怖い話にこだわっていたのかもしれない。
「寝るなの座敷っていうんです」
「寝るなの座敷?……見るなの座敷なら昔話にもあるけど。それとは違うんだね」
なんとなく鳥肌がたった。
「見るなの座敷って、どういう話でした?」
倭夏子に促されて私は簡単に説明した。地方によってパターンは異なるが、大筋は山に迷いこんだ人間が立派な家に辿《たど》りつき歓待を受けたり、その家の娘と結婚する話だ。ところが、その家には「見るなの座敷」と呼ばれる部屋があり、一緒に生活していてもそこだけは絶対に近寄ることが許されない。結局、辛抱しきれずに襖《ふすま》を開けると、極楽のようなパノラマ世界が目の前に展《ひろ》がる。しかし、それは一瞬の幻想で、その家の住人は鶯《うぐいす》となっていずこへと消え去ってしまう。
「不思議な話だわ。隠れ里とも違うみたい」
「鶯ってのがいかにも唐突だ。ここまでくると昔話に事実が反映しているというのも怪しくなってくる。しかも、これは全国的に分布しているんじゃなかったかな」
「そういう明るい話なら助かりますけど」
「冗談じゃあないんだね」
寝るな、というのがどんな情況を指しているのか分からないが、なんとなく薄気味悪い感じだ。
「幽霊でもでるってこと?」
「それが、家のものには被害がないんです」
「………」
「寝るなの座敷があることは昔から言われていたらしいんですけど。親類もそれを知っていたから泊まりがけでくることもなかったし、実際にはその部屋でなにが起きるのか誰も分からない状態だったんです。ところが最近になって民宿をはじめたら、お客さんが……」
「騒ぎだしたってわけだ」
倭夏子が暗い顔で私を見詰めた。
「そんなの迷信だとばかり思っていたんです」
「そうだろうね。で? なにがあった」
「信じてくれますか?」
倭夏子は真顔になった。心なしか血の気が失せている。私は生唾《なまつば》を呑《の》みこんだ。
「電気を消してウトウトしていると、下の方から誰かが潜ってきて冷たい手でお腹を触ったり、枕元で髪の毛をいじったり、布団を飛ばしたり……とにかくゆっくりと眠らせてくれないらしいんです。つい先日も二人の女子大生が泊まったときにおなじような被害にあって……私、なんだか怖いわ」
倭夏子は肩を震わせて話を中断した。窓の外の人通りを眺めている。気持を落ち着かせているのだろう。しばらくして話を続けた。
「友達が夜中にうなされているので隣りに寝ていた子が明りをつけて見たら、その友達の被っている布団が、まるで上に透明人間でも乗っかっているように、人の形に凹んでいたというんです。それに押しつけられてでもいるのか、友達は必死に自分の布団をはね上げようとしています。怖くなってじっと眺めていたら、その凹みがズズッと移動して」
「動いた? 本当に動いたんですか」
「ええ。あとで友達を起こして確かめてみたら、やはり真黒い影が自分の布団の上に乗ってきて髪の毛に触ったと答えたそうです。ちょうどその瞬間を彼女が見たんだわ」
「すごい話だな」
寒気が背中を這《は》う。
「必ずなにかが起きるのなら、その部屋を使わないようにするんだけど……」
「でない場合もあるわけだ」
とすれば霊の存在をキャッチできる人間と、そうでない人間の差なのかもしれない。
「女のお客さんに多いようです」
私は納得した。女性に霊媒が多いこともそれを裏付ける。
「それにしても……家族に被害が及ばないってのは面白いな。気持が悪いことはないのかい。君がその部屋に泊まったことは?」
「もちろん。高校までは私が使っていたんです。卒業して私が仙台の学校にいくようになってから部屋が空いたので民宿に──」
「なるほど。だったら怖いはずもないね」
わざわざ確かめるまでもなく、この口調では最近亡くなった家族もいないようだ。
「今夜はその部屋に泊めてくれないか」
「大丈夫ですか」
「おなじ屋根の下に君がいるんだろ。これで怖いなんて言えば男じゃないさ」
強がりは倭夏子の前だけだ。怖い話は好きでも実際となれば別だ。それでも興味はある。気味が悪くなれば明りをつけて一晩起きていればいいのだ。倭夏子は心配そうな顔をして私を見ている。二人の距離がグンと縮まったような気がした、のは私だけかもしれない。
案内された倭夏子の家はかなりの旧家だった。巨大な萱葺《かやぶき》屋根に小糠雨《こぬかあめ》が音もなく吸われていく。典型的な曲り家。これなら観光客が喜ぶだろう。遠野にきて近代的な旅館に泊まるよりは格段に旅情を満喫できる。まるで自分の家に戻ったように日向子が広い庭を駆けていった。その先に玄関がある。
「今でも馬屋はあるの?」
普段はL字型に曲がった短い方に馬屋が作られている。
「戦後に改築して祖父母たちの部屋にしました……でも、真ん中の土間の一部はそのまま残してあるんですよ」
「もちろん寝るなの座敷は母屋の方だね」
「ええ。今は祖父が亡くなったので両親も馬屋の方に移って、普段は母屋に私一人」
「よく平気だな。これだけ広いと『寝るなの座敷』の話を聞かなくても寂しくなる」
「やっぱり止しましょうよ。今夜はあなたの他にお客さんもいないし」
「さっきは聞き洩《も》らしたけど、なにかを見た客たちは、最初から『寝るなの座敷』だと分かっていてその部屋に泊まったのかい」
「そうね……たいていはそうだわ。自分の部屋があるのに面白がってワザワザ布団を移した人もいたから。でも、どうして?」
「恐怖と想像力が生みだした幻想ってことはないかな。特に女の子ならね。怖いと思っているから夢にでてくる場合もあるよ」
合理性を一番嫌っている自分のはずなのに、今度のケースばかりはそれが真実のように思えた。家族にはまったく見えないというのも自分の家だから恐怖感がないのだ。私は学生時代に合宿をした寺を思いだした。わずかの間に何人が幽霊を見たと夜中に騒ぎだしたことだろう。あれだとて神経が過敏になって作り上げた錯覚だ。それとおなじである。昼にカッパやサムトの婆の話にふれ、夜にこうした古い曲り家に泊まれば、誰でも神経が高ぶる。旅の疲れもきっと関係あるに違いない。
「だといいんだけど……」
倭夏子はホッとした顔を見せた。
「『寝るなの座敷』のことを倭夏子が話しやんしたそうだなス」
人懐っこい笑顔で倭夏子の祖母が囲炉裏《いろり》端に腰を下ろした。囲炉裏の灰の中にチロリチロリと暖かい火が垣間見える。串《くし》に刺した魚を遠火で焼くための炭で暖房用ではない。それでも習慣から私はそれに手をかざしていた。七月といっても雨で肌寒い日だ。私の側で日向子も火を眺めながらウトウトしている。台所から胃袋を刺激するてんぷらの温かい匂いが漂ってきた。倭夏子が母を手伝っているのだ。庭の方からは薪《まき》の燃える微《かす》かな音がする。客が少ない時期は簡単な内風呂で済ませるそうだが、今夜は彼女の父が特別に外の風呂を用意してくれている。
「ぼくも手伝うかな。風呂沸かしは得意です」
自分だけ休んでいる気分で申し訳ない。
「お前さんは客人だもの。遠慮はいらねえ」
老婆はクスクスと笑った。こういう雰囲気は好きだ。子供の頃の我が家に戻った気もする。倭夏子の家族全部に親しみを感じる。
「倭夏子とはどういう知りあいでがんスか」
返事に詰まった。
「上手ぐ気にいられるとええな。んでも、お前さんならたいがいは大丈夫だ」
「……?」
「ザシキ様も喜ぶべ」
なんの話だ? なにか勘違いしている。
「婆ちゃん。囲炉裏の魚に気をつけてや」
倭夏子の声がした。私との会話とは違って彼女の柔らかな東北弁が耳に快い。
「いやだ。お婆ちゃんが気をまわしたのよ」
倭夏子は食事の後片付けをしながら耳たぶを真赤に染めた。囲炉裏のまわりには私と倭夏子しかいない。
「………」
「ザシキ様ってのはなんだい」
倭夏子は盆をおろして私と向き合った。
「どういうわけか家は女系家族なんです。母もそうだったし、祖母も一人娘。だから代々婿養子を迎えてきたのね。今は見た通り継ぐような資産もありませんけど、これでも昔は結構なお金持ちだったんですって。それで入婿を希望する人もいたんでしょう。何人かの候補者から相手を決めるのは当の娘ではなくザシキ様の役割だったんです」
「つまり……寝るなの座敷に泊まってもらって判断をするということ?」
「ええ。なにも起きなければここの家族としてザシキ様が認めたってことになるの」
「それで……実際に君のお父さんも?」
「まさか。父母は釜石で知り合って、結婚してから遠野に戻ってきたわ。そんな迷信を信じる時代じゃなくなっていたもの」
倭夏子は私の反応を面白がった。
「でも、お婆さんの時代まではそれが続いていたんだろう。さっきの感じだとさ」
「そのために家がダメになったと真面目な顔で言うんだから両親が可哀相だわ」
「そうだな。たとえ結婚前にザシキ様の判断を仰がなかったにしても、ここに戻ってきてお父さんに被害がなければ認めたもおなじだ」
「なんだか私よりも信じているみたい」
倭夏子が口許をゆるめた。
「君はどうするんだ。それに従うのかい」
「………」
私は倭夏子の動揺を見逃さなかった。
「連れてきた相手がいそうだな」
「試すつもりなんかじゃなかったわ。ザシキ様なんて信じてはいなかったし……ただ、あとから父のように言われたくなかっただけ。父は私と母にはなにも弱音を吐かないけれど、祖母に言われ続けて自信を失っていることも事実なんです」
私は頷いた。ザシキ様の判断など心の底では迷信だと笑い飛ばしていても、父親の仕事が順調でなかったりすれば、なんとなくそれと結びつけて気も滅入《めい》るだろう。今でも進んで仏滅の日に結婚式を挙げるカップルはいない。あとから後悔するくらいなら、たとえ形式だけでも、好きな相手を寝るなの座敷に泊めようとした倭夏子の気持もよく分かる。
「で……よそう。君の口から聞かなくても結果はだいたい想像がつく」
「ええ。その通りだわ。それがあってから人を好きになるのが怖くなったんです」
その夜なにがあったかは知らないが、男が倭夏子との関係を断ったのは確かだ。
「自分の判断だけで相手を決められないってのは辛いな。まるで封建時代に逆戻りした感じだ。昔の女性の悲しさも理解できるよ」
私なら、たとえなにかがあったとしても倭夏子から離れただろうか。熱い渇望が私の中に渦巻いた。こんな女性とこんな風景の中で一緒に暮らしていけたら、どんなにか豊かな気持になれるだろう。
〈ザシキ様は合格点をくれるかな〉
勝手なことを一人で想像した。
寝るなの座敷は一番奥まったところにあった。八畳ほどの板間で、三方が壁になっている。今夜はここに一人だ。屋根を支える太い梁《はり》からブラ下がっている六〇ワットの裸電球が多少寂し気だが、思っていたよりも不気味な印象はない。ただ、天井がふきぬけになっていて、煙の染みこんだ真黒い萱屋根がまともに見えるのが気になる。低い天井板に慣れた生活をしていると、なんとなく剥《む》きだしの空間に身を晒《さら》しているようで落ち着かない。
「バイバイ」
倭夏子から借りた大きなパジャマの裾《すそ》を引《ひ》き摺《ず》りながら日向子が手を振った。彼女にすっかり慣れて、親子のように見える。彼女と一緒に寝れるのが嬉しくて仕方がないらしい。
「ちゃんとトイレにいってから寝るんだぞ」
なんだかこっちまで親になったようだ。
「仕事をなさるなら、その机をどうぞ」
部屋の隅に足を畳んだ文机があった。
「電気のコードを掛ける鉤《かぎ》がありますから」
なるほど、角の柱に蚊帳《かや》を吊《つ》り下げるような取手がつきでている。コードを伸ばしてこの鉤にかければ机の間近に電球がきて充分な手明りになる。生活の知恵だ。
「もう遅いから寝《やす》んで下さい。布団の方も自分でやるから」
せっかくの機会だ。今日見たものを忘れないうちにメモしておきたい。仕事に没頭すれば部屋の不気味さも頭から離れるだろう。
どれだけ時間が経過したのか。
少し前まで聞こえていた倭夏子の働く物音もまったくしなくなった。自分のペンを走らせる音だけがいやに耳につく。静かだ。都会では深夜でも車の往来の音がとぎれることはない。夜の沈黙がこれほど心休まるものとは思ってもみなかった。仕事が捗《はかど》る。
カサッ……と乾いた音がした。
今の音はなんだ? 背筋に汗がふきでる。怖さから汗がでたのではない。心とは別に体が反応したのだ。電球の明りがしぼむように消えて、また点《つ》いた。私の目は慌しく周囲を探った。背後にも机の下にも変わりはない。
カサ、カサッ。
また聞こえた。
チカチカと点滅を繰り返していた目の前の電球がパアッと輝いてツッと消えた。眩《まぶ》しさに閉じていた瞼《まぶた》裏に電球の残像が白く浮かぶ。
〈停電だろうか〉
それ以外の可能性は無理に押しのける。こんなに広くて古い家なら鼠《ねずみ》の一匹や二匹いてもおかしくはない。この程度で騒ぎだせば倭夏子に笑われる。
私は気持を落ち着かせた。
暗闇《くらやみ》の中、しばらくそのままの姿勢で机に向かっていた。さっき時計を見ておけばよかった。十二時前ならトイレに起きるフリをして様子をうかがうこともできるが、真夜中なら家人に迷惑だ。窓もないので外の様子を確かめることもできない。
膝《ひざ》が痺《しび》れてきた。いつまで待っても電気は点かない。やはり風かなにかで停電になったのだ。屋根が音を吸収するので気づかずにいたが、雨はますます激しさを増しているらしい。私は諦めた。こうして座っていてもラチがあかない。手探りで布団を探すと、そのまま横になった。とても眠れる状態ではないが、布団を目深く被るとホッとした。
〈これじゃあ失格だな〉
自分でもなさけない。たかが風のいたずらや暗闇程度にビクついている。何室か向こうには倭夏子もいるのだ。このまま眠れ。眠ってしまえばすぐに明るい朝になる。私は自分の胸に何度も言い聞かせた。
カサ、カサッ。
はっきり聞こえた。横になっていると音の方向がよく分かった。あれは真上でしている音だ。上手く表現できないが、屋根の萱を束ねている縄になにか小さなものがブラ下がっているような……じっと目を凝らしても、もちろんなにも見えるわけがない。私の耳はレーダーになった。そよとした微かな物音も拾っていく。これまで気にもならなかった雨音が激しく耳を打つ。しかし、怪しい物音はそれきり聞こえなかった。緊張がゆるむ。
私は次第に眠りに落ちていく。
不意に──
脇腹を誰かがくすぐった。
ザワザワと足の爪先から頭のてっぺんまで鳥肌が広がった。思わず布団の中の体をバタバタと動かす。なにも触らない。
〈気のせいか……〉
寒気を堪《こら》えて布団を肩の上まで引き上げる私の耳に奇妙な物音が聞こえた。
トタトタトタ……。
板間の上をなにか小さなものが裸足《はだし》で歩きまわる音だ。ちょうど背中の方面からする。
突然。
被っていた布団が持ち上げられた。いや、誰かが布団の真中を抓《つま》んだのだ。
布団が足許から腰の部分まで捲《めく》られていく。剥《む》きだしになった両足に冷たい空気が触れる。
ゾロリと何者かが私の頬を撫《な》でた。
冷たい魚の腹のような感触だ。
〈なんだ、こいつは〉
喉が強張《こわば》って声にならない。
私は必死に瞼《まぶた》をこじ開けようとした。気が遠くなるのを堪えながら、しっかりと瞠《ひら》いた目で中空の暗闇を睨《にら》むと、なにか白い渦巻きのようなものがゆっくりと漂っていた。
私は声にならない叫びを上げた。
天井近くに漂う渦巻きの中心から、蛇のように細い、一本の白い腕がそろそろと伸びてきて、私の顔を探しているのである。
布団を持ち上げたのもこついか。
これは夢だ。恐怖感が生みだした幻想だと私は震えながら自分に言い続けた。
やはり夢だったのだろうか。
私はフト目が覚めた。体全体にビッショリと汗をかいている他に変わったことはない。それでも、瞑《つむ》っている瞼を開けるには相当の勇気と決断がいる。頭の中では夢だと信じていても、あまりにも鮮明なのだ。
トタトタトタトタ……。
枕元に気配がある。ちょうど頭の上だ。
咄嗟《とつさ》に布団から腕を突きだして空をさらった。私の腕がなにかを掴《つか》んだ。
〈……!〉
堅い木の箸《はし》のようなものである。
私は首を上方に反《そ》らせて目を開けた。
「水コくれねエが。水コ」
十センチも離れていない空間に、私を覗《のぞ》きこんでいる老婆の皺《しわ》くちゃに歪《ゆが》んだ顔があった。私が握っているのは、その老婆が手にしている柄杓《ひしやく》だった。
「一杯でええがらよ。水コくれ」
老婆は私の掌《て》をふりほどいて柄杓をさしだすと、ヘラヘラと笑いながらまたトタトタと壁の中に消えた。
戦慄《せんりつ》で粟《あわ》だった。
なぜ窓もない真暗な部屋で老婆の顔がはっきりと見えたのだ。
目を開けていると闇の片隅からなにかが現われそうな気がする。心臓が苦しい。血液が急速な勢いで体中を駆け巡っているのだろう。鼓動のたびごとに吐き気がした。
私の体は海老《えび》のようにかじかんでいく。
〈水をくれ……ってのはなんだ〉
バカバカしさが恐怖を倍加した。
「ああ──っ。ああ──っ」
引き摺《ず》るような、激しい苦悶《くもん》に満ちた女の泣声がどこからかする。それは身を引き千切られるような絶望の嘆きだ。
私はガバと布団から半身を起こした。
部屋の片隅に両手で頭を抱えて蹲《うずくま》っている女がいた。壁に向かって泣いている。
もんぺを穿《は》いた中年女だ。ほつれたパサパサの髪が指の間からはみでている。
「ああ──っ。ああ──っ」
こちらを向くのだろうか? 怖さとやり切れなさが私を包む。目をよそに転じようにも私の視線は釘《くぎ》づけになっているのだ。
「ああ──っ。ああ──っ」
ボロボロと涙を零《こぼ》しながら女は激しい勢いで壁を何度も叩きつけた。
そして……いなくなった。
私はぼんやりと彼女の消えた空間を眺めていた。ソクソクとした寂寥《せきりよう》感が私を襲う。身内から怖さが次第に遠ざかっていった。
丸めた背中になにかが触った。
「おんぶ。おんぶして」
紐《ひも》のようにか細い腕が首に巻きつく。
ポンとそいつは飛び乗ってきた。軽い。まるで三、四歳の子供だ。首を一巻きして伸び続ける腕が私の腹をくすぐる。
〈ザシキワラシだろ。お前たち……〉
──土淵村|飯豊《いいで》に、今淵某という旧家がある。私の村の瀬川勘助という人の親父、ある時何か用があって行って泊まったことがある。奥と表との間の十畳ばかりの座敷に寝せられたが、夜半に奥座敷から、何かとたとたと歩いてくると思うと、やにわに懐に冷たい手を入れられた。かねてこの家にはザシキワラシがいるということを聞いていたので、それだろうと思うと気味の悪いこと夥《おびただ》しい。そこで体を縮めて堅くなっておると、脇の下をくすぐったり、しまいには腹の方まで撫でたりして、全く始末におえなかった。けれども人に笑われることを恥じて、朝までじっと我慢をしていたが、体はびっしょりと汗まみれになっていた──
──土淵村|字《あざ》火石《ひいし》、長田某という家の座敷に、あるとき家の子供等が、用事があって入ってゆくと、長押《なげし》の処から細い赤い手が一本垂れ下がっていた。それがちょうど三、四歳の小児の手ぐらいで、腕が二尺ほども長く、極めて細く蔓《つる》物のようであったという。子供等は驚いて叫びつつ、家の人と再び連れ立って来て見ると、もう何物もなかった──
──栗橋村|砂子畑《いさこばた》に、清水というかなり裕福な家がある。明治三十年頃の三月。犬松という男が、所用があってこの村へ行き、この家に泊まった。やがて夜半とも思われる刻限に、奥座敷の床の間の方で、何物かの足音がすると思って、ひょっと顔を上げて見ると、一人の坊主頭の丸顔の、小さな老婆が這い出して、自分の寝ている方へやって来る。はっと思うと、その老婆は低い声でけたけたと笑って、隅の小暗い方へ引っ返して行く。そうして這い出して来ては、笑い声をたてて又引っ込み、そんなことを二、三度繰り返してやるので、堪りかねて夜明け頃に、常居の方へ逃げ出して来た。この家のザシキワラシである──
──宮守村字塚沢、太田代某という人の家には、寝られぬ座敷がある。けれども不思議なことには、この家の老爺《じい》さんばかりは寝られたという。去年の秋のころだとか、この家の土蔵の内から、何物か唸《うな》るような鳴き音がし出して、二、三日程続いたが、そのころからその座敷にザシキワラシが出はじめたのである。丈は一尺二、三寸ほどで、座敷のうちをとたりとたりと跳ね廻る。しかしワラシと言えば言えるけれども、色は黒く何だか獣みたいであったと、その家の人は話したという──
……佐々木喜善『奥州のザシキワラシの話』
「バレちゃった?」
背中から小さな首が伸びてきて、私と完全に向き合った。私はワナワナと震えた。
日向子だった。
私はとぎれることのない悲鳴を上げた。
「うなされていたようだったから……」
倭夏子がパジャマ姿を気にしながら私の側にいた。私は荒い息を吐いた。
「日向子は? どこにいる」
「あら、そういえばどこかしら」
私たちは座敷を飛びでた。母屋中を探しまわっても姿はどこにもない。
「ザシキ様がでたかや」
騒ぎを聞きつけて倭夏子の祖母が起きてきた。私は日向子のことを告げた。
「ほう……あのめんこい子がザシキ様だったとはなあ。んだら、倭夏子に付いていたんだ」
私は了解した。私が日向子と最初に出会ったとばかり思っていたが、日向子は倭夏子のあとに従って昔話村まできていたのだ。日向子の住んでいる家はここだ。
「せだば、合格だや。ザシキ様はお前さんがよっぽど気にいったに違えねえな」
「だけど……怖《こわ》い目に遭《あ》いましたよ。これじゃ失格でしょう」
なにが失格だ。倭夏子の気持を無視して、私はまるで試されていた恋人のような気分でいる。
「ザシキ様から逃げてえか?」
「いや。あの子ならもう一度会いたい。威かされた分のおしおきをしてやらなきゃ」
祖母は相好を崩して何度も頷《うなず》いた。倭夏子もクスッと笑った。
「死んだ爺様《じさま》もな……本当はザシキ様を見たんだ。それでもこの家さ来てくれた。子供のいたずらなど可愛いもんだってな。そうした気丈な婿がザシキ様のメガネに適《かな》う」
いつの間にか倭夏子の両親もやってきていた。祖母の話に耳を傾けながらニコニコと笑っている。倭夏子が顔を俯《うつむ》けた。
「倭夏子はめんこい嫁っコになるべな」
土間の方から声がした。
日向子が番傘をさしてそこに立っていた。
スルスルとそのまま天井に浮いて……やがて少女は暗い闇の中に吸いこまれていった。
「うなされていたようだったから……」
目を開くと、側に夏美の顔がある。
「飲み過ぎよ」
「どのくらい眠っていた?」
まだ現実に戻れないでいる。今のは夢だったというのか。ソファーの下に「遠野物語」が転げ落ちていた。だんだんと意識が回復していく。つまり、オレはまだ夏美にフラれていないってわけだ。もちろんラブホテルに誘ってもいなければ、こちらの気持を告白したわけでもない。
「ねえ。それでどうするの?」
「どうって……なんの話だい」
「ヤダ。やっぱり酔ってるんだ。遠野に連れていってくれるって言ったじゃない」
妙に甘えている。夏美も相当酔っているようだ。仲間が側にいることも気にせずに私にしなだれかかってきた。
「秘めごとはご自分の部屋に戻ってからよ」
友人が夏美をからかった。
夏美が酒臭い口唇を私に近づける。
〈これで……いいのか〉
私は戸惑った。結局、夏美にこれまで抱いていたのは自分だけの幻想だったのか。勝手に作り上げた愛ではなかったのか?
私は夏美に体を預けたまま考え続けた。
〈こうしてオレは夏美と一緒になるのか〉
私のかたくなな態度に夏美が気づいた。
「どうしたの。分かってもらえないの」
夏美が耳許で囁《ささや》いた。
分かりたくない。
私は「遠野物語」を拾うとソファーから立ち上がった。何人かが怪訝《けげん》そうな目で私を見る。
〈倭夏子に会ってみるまでは……〉
夢なのだ、という諦めと同時に、この世界のどこかには必ず倭夏子がいるという確信が私の中にあった。そして日向子もだ。
私は──夏美を残して部屋をでた。
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花  嫁
「青森県の三戸《さんのへ》郡って、確か君の生まれ故郷だったよな」
ぼんやりと眺めていたテレビのスイッチを切ると、私はキッチンの方代《まさよ》に声をかけた。彼女は三十分ほど前から本と首っぴきでハッシュドビーフに挑戦していた。デートのときはたいてい外で食事をするのだが、たまにはこうして私のところで料理も拵《こしら》えてくれる。
「そうよ。それがどうかした?」
痩《や》せた背中を向けたまま方代が言った。
「鬼の伝説が多いんだ」
「なあに?」
「『日本昔ばなし』だよ。見ていたら君の故郷の話だ。なんだか薄気味悪い話だったぜ」
「………」
「|食わず女房《ヽヽヽヽヽ》の変形みたいだけど、鬼がその正体だったってのは珍しいね」
サラダ用に野菜を刻んでいた方代の腕の動きが一瞬止まった。リズミカルな包丁の音がとぎれると荒い息遣いが聞こえてきた。そのままじっと立ちすくんでいる。
「迷信よ。そんなの」
やがて方代は低い声で決めつけた。
「そりゃそうだろ。ただ面白いと思ってさ」
「田舎をバカにしないで」
私は少し怯《ひる》みながら新聞を取り上げた。テレビ欄に目を通すとクイズ番組にリモコンのチャンネルを合わせた。理由は分からないが、怒らせてしまったらしい。なんとなくこの話題は避けた方がいいと感じたのだ。タレントのくだらないジョークに私が笑い声をたてると、方代は再び料理にとりかかった。
「ところで、石川のヤツがさ……」
「………」
「もういい加減に身を固めたらと言うんだ」
「………」
「オレもそろそろ三十だし、なんとか君ぐらいなら食わせていけるよ。石川に仕事をまわしてもらえば広いアパートも借りられる」
「あの人の紹介なら、どうせスーパーの広告写真でしょ。無理しなくていいわ。私は今のままで充分なの。あなたは好きな街の風景を撮ってちょうだい」
喜んで抱きついてくるとばかり思っていたのに、方代は簡単にいなした。
「いや。オレは決めたんだ。もうガキのようなことを言っちゃいられない。逆に制約がある方がホントに撮りたいものが見えてくる。君が心配することじゃないさ」
「いいのよ。あなたを縛る気持はないわ」
方代は仕事の手を休めずに答えた。
「じゃあ……遊びだって言うのか?」
私は愕然《がくぜん》とした。こちらだって何日も考え抜いての結論だ。自慢じゃないが親の酒屋《みせ》も継がず三十近くになるまで我儘《わがまま》を通してきた自分が、生まれてはじめて夢を犠牲にしたのだ。方代も当然|結婚《それ》を望んでいると信じていたからだ。二人は一週間に三日も愛し合っている仲なのである。その方代の口からまさかこんな意外な言葉を聞こうとは思わなかった。彼女が遊びたい盛りの二十歳《はたち》前後の娘なら話も分かる。けれど普通二十六と言えば真剣に結婚を意識する年頃に違いない。
「オレのことなら大丈夫だ。責任とか、無理に自分を偽っているんじゃない」
方代の自分に対する気持が遊びだとは絶対に思えなかった。家庭的で素直な女だ。きっと私の将来を案じてくれているのだろう。
「君が本当に必要なんだ。君さえ良ければ明日にでも両親を訪ねて──」
「私の? 駄目よ。結婚なんてできないわ」
「なぜ。どうして駄目なんだ!」
方代の返事はなかった。私は無性に腹立たしさを覚えた。
「だいたい、こんな大事な話をしているってのに背中を向けたままってのはどういうことだ」
キッチンに飛びこむと、私は堅く強張《こわば》らせている方代の肩に手をかけて強引に体の向きを変えた。
「………」
振り向いた彼女の目から溢《あふ》れた涙がエプロンに滴り落ちている。私は動転した。
「理由《わけ》を聞かせてくれ。なにか言えない事情でもあるんだろ」
戸惑いながら彼女の肩を乱暴に揺さぶった。方代は堅く口唇を噛《か》んで顔を背け続けた。冗談じゃない。泣きたいのはこっちだ。くやしさと屈辱で私の足はガタガタと震えた。
方代と結婚のことで行き違いがあってから一週間がすぎた。あれ以来方代と会っていないどころか、完全に彼女は私の前から姿を消してしまったのである。それが分かったのは一昨日のことだった。大人げなく何日も連絡を取らなかった詫《わ》びもかねて私はその夜、方代のアパートを訪ねた。もし、彼女が望まないのであれば今のままの付き合いでも構わない。急いで結論をだす必要もないのだ。それを話し合うつもりだったが、方代の部屋の明りは消えていた。いつもならとっくに仕事を終えて戻っている時間だ。私は妙に気になって仕事先のカメラ店に電話を入れた。そして……彼女がそこを辞めていたのを知ったのだ。しかもそれは喧嘩の翌日のことだった。
その現実に私は極度に困惑した。
眠れない夜をすごした私は、昨日の朝早くアパートをもう一度訪ね、彼女が四日も前に引っ越したことを管理人から聞かされた。私は気が狂いそうだった。なにが原因なのかさっぱり分からない。フラれたと無理に自分に思いこませようとしたが、どうしても納得がいかない。世の中にこんな理不尽な話があるものだろうか。付き合いこそ一年に満たないが二人は互いに求め合っていたはずだ。近頃では生活の一部とさえなっていたのである。
〈絶対、方代を捜しだしてやる〉
このままでは自分が駄目になりそうだ。自惚《うぬぼ》れているわけではないが、方代が自分を愛していたことだけは確かだった。理由も突き止めずに諦《あきら》めてしまえば、一生悔いが残る。私は方代が最後に見せた涙を愛ゆえだと信じていた。
〈と言っても……〉
今になって私は、方代に関してなにも知らされていなかったことに気がついた。互いの不安と寂しさを埋めることだけで精一杯で、過去や環境などに気を配る余裕もなかった。わずかに覚えているのは彼女の故郷程度のものだ。学生時代の友人が青森県の弘前の出身で、一度だけ家に遊びに行ったことがある。その彼と方代のイントネーションが似ていたのが付き合いの切っ掛けになった。
〈三戸郡の△△村だったな〉
まさか故郷に帰ったとも思われないが、実家を捜し当てれば方代の居所が分かるに違いない。それしか他に方法がないのだ。一日悩み抜いたすえに私はその結論に達した。
バスは急斜面の山道を喘《あえ》ぎながら登る。
道の片側は目も眩《くら》むばかりの深い峡谷だ。柔らかな紅葉のために恐怖感が多少薄れているものの、落ちればもちろん命はない。バスの運転手の話では、あと一カ月もすれば雪で道が塞《ふさ》がれて交通が遮断されると言う。十和田市からおよそ一時間半。それでも目的地に着くわけではない。バスの終着地点からさらに徒歩で二時間ほど山に入って、ようやく△△村に達する。十和田市で道順を確かめるまで、まさか方代の故郷がこれほど辺鄙《へんぴ》な場所だとは考えてもみなかった。
今から山に入れば十和田市に帰るバスの最終にはもう間に合わない。よほど明日にしようかと迷ったが、上手《うま》くいけば方代の家に泊めてもらえるかもしれないし、最悪の場合でもバスの終点の村まで戻ってくれば何軒かの民宿もある。後先のことは考えないことにした。前方に広がる山々にはすでに午後の陰《かげ》りも見られた。私はじりじりした。
「あんた、どこに行きなさる」
バスを降りるなり迷わず山を目指した私に背後から甲高い声がかかった。十和田市からずうっと一緒だった可愛らしい老人だ。終始ニコニコと笑いながら私のことを眺めていた。
「△△村を訪ねようと思っているんですが」
「あの村の人間じゃなかろう」
「ええ。知り合いがいるんです」
「知り合いじゃと。嘘じゃな。あの村の連中はだれとも付き合わん」
「ホントですよ。もっとも、今はその女《ひと》がいるかどうかは分かりませんが」
「村の連中はあんたが訪ねてくるのを知っておるのかね?」
「いいえ。連絡したくても家が分からない」
「ふうむ。それなら行かん方がいいぞ」
老人は真面目《まじめ》な口調で言った。
「連中は前もって連絡をせん限り、役場の人間と週に一度の郵便配達人以外は滅多に村に入《い》れん。せっかくだが諦めるんじゃな」
「バカな。それじゃまるで八つ墓村だ」
私は苦笑した。いまどきそんな閉鎖した村のあるはずがない。可愛らしいように見えたのは老人性痴呆のせいだったのだ。
「疑うなら、この村のだれにでも訊《たず》ねてみればよかろう。これまでにも何人かが△△村に入って見えなくなっておる」
私はさすがにゾッとした。冗談とは思えぬ真剣なまなざしだったからだ。
「どういうことです? 見えなくなるとは」
「村のことを知らんで町から山菜採りにやってきた人間が山に踏みこんで姿を消した。警察もあの村の土地だと分かるとロクな捜査もせんで引き上げる。捜しても無駄だと最初から諦めておるんじゃ」
「………」
「あんたが信じなさらんのも無理はないが、現にウチの村の人間でさえウッカリと迷いこんで鉄砲を射たれたことがある。熊と間違えたと謝ったそうじゃが……」
「なんで入村を拒んでいるんです」
「分からん。だれにも分からんことじゃ」
私は……溜息《ためいき》を吐《つ》いた。別に信じたわけではないが、気勢をそがれたのは事実だ。
「悪いことは言わん。ここで朝まで待ちなされ。明日はちょうど配達日じゃ。その男と一緒に行けば話ぐらいは聞いてくれるじゃろ」
私はじっと老人を見詰めた。性質《たち》の悪い民宿の客引きでもなさそうだ。私は素直に老人の忠告にしたがった。気弱い方でもないつもりだが、勇気を無理に示す必要はない。それに△△村に入れたとしても、その様子では自分を泊めてくれそうな家が簡単に見つからないだろうと思ったからだ。
「なんであそこの人たちは△△村のことになると黙りこくってしまうんですか」
道路脇にバイクを無造作に置いて山道を歩きはじめた配達人と肩を並べながら私は訊ねた。配達人と言っても郵便局に勤めているわけではない。村の人間で局から委託料をもらって手紙や新聞を運んでいるだけだ。昔からある便利屋という職業である。荷台に乗せてもらえたのは二十分ばかりで、あとは狭い丸木橋が進路を阻んでいたのだ。彼はいつもこの場所で徒歩に変えるらしかった。ここから村までたっぷり一時間はある。
「なにも爺《じ》様は話してくれんかったか」
「ええ。捜している女《ひと》のことを訊ねてみても、△△村にはその苗字の家が大半だと言うばかりで……」
「嘘じゃなかろ。ワシも一軒一軒まわったことはない。関守の家に新聞と手紙を纏《まと》めて届けるだけだからな。どこがだれの家なのか住んでいる連中でなきゃ分からん」
「関守さんて方が村長ですか」
その質問に彼は少し戸惑いながら笑った。
「△△村の入り口にある家でな、昔から関所のような役目を勤めているんで、そう呼んどる。苗字はあんたの捜している家とおなじだ」
「へえ……今でもそんな時代がかったことを」
「人がいなくなる噂《うわさ》ぐらいは耳にしたろう。忠告しておくが関守のところに着いたら口が裂けてもそんなことを訊《き》くんじゃないぞ」
「本当なんですか。その話」
私はまだ半信半疑だった。
「失踪《しつそう》に村の人間がからんでいる噂があるなら、なぜ警察が真剣に捜査しないんです」
「さあな。それは警察に聞いてくれ。とにかく明治の昔から△△村は除《よ》け地と定まっている。こちらが干渉せんかわり、向こうからもなにもしかけてはこん。その関係をだれも壊そうとは思っておらんのでな」
「それにしても、ひどい山奥だ」
私の頭上には鬱蒼《うつそう》とした樹々が覆い被さるように太い枝葉を広げていた。陽射しが遮られているためなのか足元の細い道はじめじめと湿っぽい。粘土質の土が靴にからみつく。
「いったいなにをして生計を立てているんです。いまどき炭焼きってことも……」
「なにもしとらんよ。あそこの一帯全部が生活保護を受けて暮らしている」
「まさか! 冗談でしょう」
私の中に昨夜からくすぶっていた「隠れ里」のイメージが一挙に崩れた。生活保護世帯が集まった隠れ里など、この世にあるものか。
「本当だ。毎月一回役場の人間が金を届けにやってきている」
「不思議な村だな。それでいながら外部の人間とはほとんど交流がないんですか」
「交流はあるさ。町に買い物にでかけたり、若い者が家をでて勤めにでたり……村によそものを入れないだけだ」
「それで鉄砲で威《おど》かされたりするわけだ。なにか知られたくない秘密でもあるのかな」
「この辺りまできたら、あまり滅多なことは言わん方がいいぞ。村の連中がどこで見張っているか分からん」
真面目な顔で彼は私に言った。
本当に方代はその奇妙な村で生まれ育ったのだろうか。私は首を何度も振った。彼女はごく普通の女だった。短い付き合いだが違和感を抱いたことはこれまで一度として……。
〈そう言えば妙な反応があった〉
私は方代との最後の夜を思いだした。
「鬼の伝説ってのを知っていますか?」
彼は私の言葉にギクリと立ち止まった。
「知っとる……どうせ作り話だ。そればかりじゃない。この辺りには奇妙な話がたくさんある。キリストの墓ってのも近くの戸来《へらい》にあるしな。今じゃすっかり有名になって観光客までくる」
「なるほど。テレビでみたことがありますよ。そうですか。この近くだったのか」
それなら鬼の伝説よりも荒唐無稽な話に違いない。しかし、現実にその周辺には外国人に似て鼻高で青い目の人々がいるらしい。それで気がついたのだが、方代もどちらかと言えば日本人離れをした顔立ちだった。
小さな峠《とうげ》を越えたところが△△村だ。
細い川に沿って狭い平地が伸びている。古い小さな萱葺《かやぶき》屋根が二十軒ほど。それが村のすべてだった。典型的な過疎の村である。
私たちは無言で山を下った。村の領域に入りこんだら余計なことを言うなと彼から釘《くぎ》を刺されていたのだ。大袈裟《おおげさ》な感じだが私はその意見にしたがった。次第に村が近づいてくる。聞かされていた話の割合に特別どうという印象はない。秋のおだやかな陽射しを浴びてまわりの山々は輝いていた。ミレーやゴッホが眺めたら喜びそうなのどかな風景である。失われた古い景色を眺めているような気分にとらわれた。萱葺屋根のせいよりも、むしろその上にテレビのアンテナが一本も立てられていないのが原因かもしれなかった。ポツンとひとつ離れた場所にトタン屋根の家が見えた。あれが関守と呼ばれている家なのだろう。
「人が立っていますね」
戸口に二人の男の姿があった。
「やはりどこかで見張っていたな」
配達人は平気な顔で呟《つぶや》いた。
「その若い者はだれだ?」
年嵩《としかさ》の男が声を張り上げた。手には旧式の猟銃がしっかりと握られている。どうやらこれまでの話に誇張はなかったようだ。
「村の人の知り合いらしい。方代さんっておるじゃろ。今日は兎捕りでもするのかね」
彼は馴《な》れた感じでのんびりと応じた。
「方代の? そんな話は聞いとらんぞ。それがなにしにきた」
「戻っていませんか? 急にアパートを引っ越してしまったものだから、居場所を」
「知らん。悪いがこの村は昔からよそものを入れないしきたりになっている。このまま帰《けえ》ってもらいてえ」
「住所だけでいいんです。彼女の両親にはきっと連絡があるはずだ」
「方代の引っ越しなんぞは耳にしてねえ」
私は必死で食い下がった。
「村に入るなと言うならここで待ってもいい。せめて確認だけでもお願いしますよ」
「あんたさんもくどい人だな。方代が連絡しねえでいなくなったと言うなら、あんたと会うつもりがなくなったと言うことじゃろうが。ワシはそう聞いとるでよ」
「じゃあ、いるんじゃないですか!」
相手は自分の失言に一瞬たじろいだ。
「いや。前もこんなことが何度もあった。あんただけが方代の男じゃねえ」
私はなにを言われたのか咄嗟《とつさ》に分からなかった。私ひとりが方代の男じゃない?
「どういう意味なんだ。説明してくれ」
「飽きたっつうことだべよ。お前《めえ》も実際物分かりの悪い男だな。いい加減に諦めろや」
側にいた若い男が鼻を鳴らした。
「お前《めえ》なんぞとは身分が違うんだ。帰《けえ》れ」
「なめるな! 威《おど》かせばすむと思っているのか。オレは今までの男と違うんだ」
私は激昂《げつこう》した。いい若い者が働きもしないで生活保護を受けているのも気に入らない。
「どう違うんだべな」
若い男はせせら笑った。配達人が慌てて私の肩を脇から抑えつけた。
「方代に会わせろ。会うだけで我慢する」
「しつこいヤツだなや。とっつぁん、ちゃんと麓《ふもと》まで連れて帰《けえ》れよ。今度現われたらどうなるか分かってるな」
若い男は配達人に顎《あご》で指図した。
「どうなるんだ。山菜採りのように殺すのか」
ピクッと年嵩の男の眉《まゆ》が動いた。
「余計なことばかり知ってるヤツだな」
若い男の指先が猟銃の引き金にかかった。
「方代様もくだらねえ男をひっかけたもんだ。どうする? 村さ連れて行くか」
「帰《けえ》してやれ。とっつぁんが気の毒でねえか。また警察を騒がせるばかりだでよ」
配達人が何度も頭を下げた。さすがに私も今度は体が震えた。こいつらは本気だ。猟銃相手ではどうしようもない。
「なんであんな連中を放って置くんです」
帰る途中の山道で私は怒りをぶつけた。
「放って置けば案外気のいいヤツらだ」
「なにが気のいいヤツらだ。危うく殺されるとこだったんですよ。見てたでしょう」
「なにも見なかった。あんたも無事なんだ。これ以上関わらん方がいい。女も忘れろ」
「勝手なことを言わないでください。オレはもう一度行きますからね」
「本当に……殺されるぞ」
彼は立ち止まると私を睨《にら》んだ。
「ヤツらは村に入ったことを他のだれかが知っている場合は絶対に手をださん。だから役場の人間やワシが安全なんだ。内緒で行こうなんて思うな。間違いなく殺される」
「そこまで分かっていながら……皆はなにを恐れているんです。警察が駄目なら新聞社にでも事情を話して──」
「新聞か……試しにやってみればいい」
彼はホッホと笑いを洩《も》らした。
「もちろんそのつもりです。弘前で友人が新聞の取り次ぎ店をしている。彼に頼めばきっと記者にでも連絡してくれるはずだ」
「まあ、やってみれば分かる。そしたら諦めもつくじゃろう」
彼は安堵《あんど》したような顔をすると歩きはじめた。私は慌ててあとを追いかけた。どこかで連中に見張られているような肌寒さを感じる。
「△△村? なんでお前がそこにいるんだ」
斎藤は悲鳴に近い声を上げた。
宿に戻ると私はさっそく弘前の彼に電話を入れたのだ。
「△△村じゃない。その麓《ふもと》の村だ」
「どっちでも構わん。理由《わけ》を教えろ」
どうもいやな反応だ。私はそれでも方代のことからはじめて今日までのいきさつを詳しく伝えた。まだ連中への怒りが治まらない。
「忘れて東京に戻れ。△△村の連中に関わるとロクなことにならん」
斎藤は即座に結論をだした。
「お前もなにか知っているんだな?」
「知らんよ。だから恐ろしい。山菜採りの件ははじめて耳にしたが、戦後だけでもその村の出身者がからんでいると目された迷宮入りの殺人事件が二件起きているんだ。村の結束が堅くて互いのアリバイが常に成立する。警察でもその村を管轄している署に転任が決まると出世を諦めるほどなんだぜ。その期間に手柄など立てられるわけがない」
「よほど問題のある村なんだな」
「新聞社に取り次いでも無駄だ。今までだって△△村の名前が記事になったことは一度もない」
「行方不明者が何人いてもか?」
「そうだ。お前が新聞社に出向いて説明しても確証がないと突っ撥《ぱ》ねられるだけだ。△△村は昔からそういう扱いになっている。関わりあいになるのを心配しているのさ」
「まさか! いまどきそんな話があるか」
斎藤の返事はなかった。私は諦めて電話を切った。斎藤は最後に何度も東京へ戻れと繰り返したが、その気はない。
「やはりワシの言った通りだったろう」
部屋に帰った私の顔を眺めて配達人が察知した。私を気にして残っていたのだ。
「△△村の古いことを知っている人はいませんか。郷土史家とかそういう人です」
「そしてどうする」
「分かりませんよ。ただ、あの村にはなにかとんでもない裏がありそうだ。除け地になっている理由が知りたいんです」
「意味がなかろ。それを調べたからと言って捜している女《ひと》に会えるわけもなし……」
「このままでもおなじだ。お願いします」
私は彼に頭を下げた。戦う相手を知らなくては攻め手が決まらない。
「教えてやったらどうじゃ。怖さが分からんから、こうしていつまでも諦めん。仕方がなかろうぞ」
昨日の老人が暗い廊下に立っていた。
「目の前にいるのが一番詳しい人間じゃ」
私は配達人をじっと見据えた。
ある山の中の村に一郎と二郎と三郎の兄弟が住んでいた。あるとき一郎は裏の大根畑に泥棒がくるので見回りにでかけた。すると畑の中になんだかピカピカ光るものが見えた。おっかなびっくり近づくと「おぶさりたい、ののり、抱かさりたい、ののり」と化け物が大根を抜いてわりわりと食っていた。化け物は一郎に気がつくと「おぶさりたい、ののり」と寄ってきた。一郎はおっかなくなって家に戻った。次に二郎が正体を見届けようと勇んで行った。しかし、やっぱり化け物が「おぶさりたい、ののり」と手の届きそうなところまでくると、真っ青になって逃げ帰った。三郎が最後に行った。もうだいぶ夜も更けていたが、光る化け物はまだ「おぶさりたい、ののり、抱かさりたい、ののり」と大根を食っていた。そこに行って三郎は「おぶさりたければおぶされ、抱かさりたければ抱かされ」と叫んだ。すると三郎の背中に五十貫目もある重さのものがデガッと乗ってきた。三郎は村一番の背負力の強い男であったから、後ろに手をまわして家に持ち帰った。暗い道も光りもののために明るくなった。家の戸口に降ろそうとしたが化け物はなかなか降りない。そこで三郎は台所の柱にそいつの頭をぶちつけた。ゴーンと音がしたが、それでも離れない。諦めて座敷の大黒柱に力一杯ぶっつけると、それは三郎の背中をサッと離れて畳の上に転げ落ちた。それは見る間にザクザクと砕けて大判、小判が座敷一杯に盛り上がった。
一郎、二郎、三郎のマタギがいた。ある日獲物の取りっこをしようと山に入り、三つの道で兄たちは左右に別れ、三郎は真ん中の道から奥に進んだ。夕方までかかって兄は兎一羽、二番目は四羽とって、待ち合わせの道まできたが、いつまで待っても末の三郎が戻ってこないので、二人は捜しに真ん中の道を上った。日が暮れて木の下で寝ていると、神様が二人の夢の中に現われて「背高殿が喰いにくるが、どこを射っても堅くて無駄だから鏡のような目を射って退治しろ」と言う。目を覚まして見ると直ぐ前に大入道が恐ろしい目を光らせて立っている。背高殿というのはこいつだなと思って、二人は聞かされた通りに目を狙って射つと、今まで光っていた目が消えて大入道はいなくなってしまった。翌日、血の痕《あと》をたずねて行くと、大きな洞窟《どうくつ》の中で大蜘蛛《おおぐも》が苦しんでいた。体中は鉄のように皮が堅かったという。三郎の行方は分からない。
山で仕事中に嫁を天狗《てんぐ》にさらわれた男がいた。兄たちは諦めろと三郎をしきりに慰めたが、どうしても諦めきれない。皆が寝静まるのを見計らって三郎は山に入った。「かかあ帰《けえ》ってこ」呼ばいながら奥に分け入ると大きな洞窟があった。なにやらその中から人の声がする。「人臭ぇじゃ。ちょこっと見張ってこ。人ひとりいれば穴の入り口の上さ赤い花ひとつ咲いてる」大きな声に送られてでてきたのは三郎の嫁だった。三郎は喜んで嫁に近づいた。連れて逃げようとすると嫁は「鬼の嫁にされたからには家には戻れねえ」と泣いた。「だれか外にいるんでねぇか」ズルリズルリと体を引摺《ひきず》って光るものが奥から近づいてきた。嫁は機転を働かせると三郎を二千里走る車に押しこんで後ろから「子供が生まれたら届けるから育ててけろ」そう言い添えると嫁は穴に戻った。やがて一年もしたら三郎の家の前に小さな瘤《こぶ》を頭に生やした鬼の子供が捨てられていた。三郎はその子供の知恵のお陰で村一番の長者になったと言う。
……青森県三戸郡の昔話より
「それが△△村とどんな関係が?」
正直なところ私は面食らった。
「その鬼の子供が△△村を拓《ひら》いたと言われている。これらは一見別々の話のように思えるが、本当はひとつの話だよ」
「実話だって言うんですか……冗談じゃない」
私は寒気を抑えながら彼を見詰めた。実話だとすれば、どう解釈しろと言うのだ。これなら今|流行《はや》りのエイリアンだ。
一瞬ゾクッと震えた。
堅い皮膚で覆われた大蜘蛛のイメージがそのまま映画のエイリアンと重なった。光りものとはなんだ? 二千里走る車とは? 入り口の赤い花とは赤外線の警報装置のライトではないのか? 次々に想像が広がった。
「すべて三郎が主人公ってのも不気味だな」
握る掌《て》にじっとりと汗が噴きでた。
「ワシらはあの村にまだその『光りもの』が住んでいると信じておる。連中はそれを隠すためによそものを村に入れないんじゃとな」
老人が上目づかいに私を見た。
「だけど……彼女のことはどうなります。光りものなんてオレには関係がない。姿を消した理由にはなりませんよ」
「ワシらの知らない別の事情があるんだろうな。村に戻っているのは間違いない」
「除け地になったいきさつは?」
「明治のはじめにこの東北は大|飢饉《ききん》に襲われた。その頃は今と違って交通も不便じゃった。我々の村までは、たまに県からの援助の食糧が届くこともあったらしいが、夏ならまだしも、冬にあの山道を越えて食い物を届けようとする者はひとりもおらんかったそうだ。へたをすればこちらが迷って死ぬ。どうせ多少の援助をしたとて何日かの命を長びかせるだけだ。そういう勝手な理屈をつけて連中の配給を着服し、言わば見殺しにしたのだ。春になって気持に余裕がでてきても、だれひとり村のことを口にする者はいなかった。怖かったんだろうな。△△村がどうなっているかを想像するのが……分からんわけではない」
「………」
「それでも確かめずにはいられない。雪解けを待って何人かが村を目指した。そして恐ろしい事実が分かった」
私は生唾《なまつば》を呑みこんだ。
「△△村の連中は全員無事に暮らしていたのだ。ひとりとして死んだり弱っている者がいない。食糧をもらっていたこちらの村では三分の一の人間が死んだというのに」
「なぜ生きていられたんです?」
「それがどうしても不思議だ。あそこには満足な畑もなければ食糧を貯めこむだけの余裕もない。噂が軍に伝わって医者がやってきた。連中は軍といえど村に入ることを拒んだ。結局この村まで何人かがやってきて診察を受けることに話が決まった。それでもなにも分からん。ただ、連中は普通の人間に較べて腸が細くて長いのが特徴だったそうだ」
「なんでそんなことが分かるんです」
「食い物の消化時間が倍以上もあったと聞いた。だから食い物も少なくていいんだろう」
「………」
「ひとりならともかく、診察した全部がそうだったんだからな。鬼の村だと言われだしたのはそれ以来だよ。向こうはもともとからだが、こちらでも罪の意識が重なって付き合わんようになった。警察が介入せんようになったのはワシにもよく分からん。たぶん他の理由があったに違いないと睨んでいる」
「他の理由? たとえば」
「戦争前までは軍の人間がよくこの村に滞在していたものだ。彼らがなにを目的にしていたかは秘密事項だったが、狙いは△△村だったと見て疑いない。△△村の墓場はどこにあるのか、とか、今でも土葬かとしきりに気にしていた。きっと村の連中の死体を欲しがっていたんじゃ。診察のとき、なにかに気づいたんじゃろうよ。そして実際何人かは山に入って行ったが、それきり戻らん。軍もずいぶん捜索した。しかし、無駄だった。それがあって、あの村には手出しをするなと警察に軍が通告でもだしたんじゃないのかね」
「薄気味悪い話だな。死体を欲しがったというのは解剖するためなんでしょうね」
私は「光りもの」の存在を信じはじめていた。この地方に伝わる昔話を素直に解釈すればその結論に達する。機械の故障かなにかが原因で不時着したエイリアンが△△村の人間に助けられたのだ。そして村の女と交わり鬼の子供を産ませた。体を引き摺っていたり、畑で途方に暮れているイメージはケガでもして動けないという意味ではないのか? 体中が鉄のような皮だという描写も、宇宙服だとすれば理解ができる。そこで村人たちは山の洞窟に運び看病した。現在でも村の連中がよそものを入れないのは、まだ光りものがその洞窟にいるからなのだろう。洞窟が空であれば、もうだれに隠す必要もない。
〈方代とオレは身分が違うと言ったな〉
すると方代はその「光りもの」の末裔《まつえい》ということになるのか? いや、違う。ヤツはそんな単純な意味で言ったのではない。子孫と言うなら、あの村の全員に共通するのだ。あれは方代に対しての特別な表現だった。まるで選ばれた者でもあるような……。
〈選ばれた者? もしかすると〉
方代は光りものの世話をする役割を与えられたとは考えられないか? ただ私の前から姿を消すのが方代の目的なら故郷に戻る必要がないのだ。おそらく鬼の花嫁に選ばれて村に戻されたのだ。そうに違いない。
私の胸は熱くなった。もはや一刻の猶予もならない。猟銃で威かした二人の苛立《いらだ》った態度から推しても、その日は間近に迫っている。どこかに閉じこめられた方代が必死に私の名前を呼んでいる、ような気がした。
私は深夜に宿を抜けだした。明るい時間に村に侵入すれば発見されるのが目に見えている。方代がどこに監禁されているのか見当もつかないが、村に潜入できればなにか手掛りにぶちあたるかもしれない。漆黒の山道を急ぎながら、私は自分のどこにこれほどの勇気が隠されていたのかと我ながら驚いた。こんなに方代を愛《いと》しいと思ったのもはじめてだった。方代のひかえめな歓喜の声と白い裸身が頭に浮かんでは消えていく。たとえ見つけられても、彼女と一緒に死ねるなら悔いもない。東京にひとり戻って生き続けたとしても、人間の一生などタカが知れている。テレビを見て笑い、仕事に苦しみ、なにかを食べ、酒を飲み、そして死んで行く。その程度のことなら、方代と引き替えにしても惜しくはない。私はひたすら彼女を思い山道を歩いた。
関守のトタン屋根が白々《しらじら》とした夜明けの光りを浴びて刃物のようにギラついている。あれを越えれば村に一直線だ。私は足音を殺して近づいた。まだ太陽は山裾《やますそ》に上ったばかりだ。家の中に人が起きている気配もない。私は息を呑《の》んで窓ガラスの下を通り抜けた。
「今なら殺せたぞ」
突然、背後から嘲笑《あざわら》う声がした。心臓が割れそうに痛んだ。昨日の若い男が銃に狙いをつけて家の陰に立っていた。張りつめた糸が切れてガタガタと私の膝が崩れた。
「お前《めえ》もなかなかの根性だな。まさかくるめえと思っていたのによ」
「方代に会わせてくれ。それだけでいい」
私は恥も忘れて哀願した。戦う気力など私のどこを捜しても失われていた。
「せめて顔を見てから死にたい」
「お前《めえ》、本気で殺されると思ってたのか」
若い男は苦笑して銃口を下におろした。
「どうせロクでもねえ噂をあっちのヤツらに吹きこまれたんだべ。鬼だとかよ」
「違うのか?」
「そったな話がいまどきあるわけがねえべ」
「じゃあ、なんで村に人を入れない」
「オラだちを見捨てたヤツらとなんで仲良く付き合わなきゃなんねえ? 鬼は向こうだ」
なるほど。混乱しながらも納得した。
「その証拠に方代にも会わせてやる。お前《めえ》の度胸が気に入った。年寄りには内緒で連れてきてやるから、ここでおとなしく待つんだ」
若い男はガラス戸を開けて私の肩を押しこむと村の方に急ぎ足で消えた。
私はしげしげと家の中を見渡した。家具らしいものがほとんど見当たらない。漁師の番小屋のような感じだ。本当にこの家にあの男が暮らしているのだろうか。私は再び疑問を抱いた。なんと説明されても、ここは見張り用の小屋としか考えられない。昨日の威嚇《いかく》も口先だけのものだとはとうてい思えなかった。
「静一さん……やっぱりきてくれたのね」
私を確認するなり方代は駆け上がって抱きついてきた。方代の涙が私の頬を濡《ぬ》らす。
「オラは遠慮するでよ。三十分で話をつけろ」
若い男は目配せすると立ち去った。
「黙って戻ってきてごめんなさい」
見張りの男が消えるのを見届けて、方代は私の肩に細い腕を強くからませた。熱い息が私の耳朶《じだ》をくすぐる。甘い体臭だった。
「それより、なにがあったんだ。もう理由を話してくれてもいいだろう」
私は方代の腕をソッと外した。なにかが違う。前の方代とは感じが違っていた。
「本当は一年前に父が亡くなっていたの。それで母だけがこの村に残されて……私はひとり娘だから家のためにどうしても婿養子を取らなければいけなかったんです」
「婿? 突然だな」
「相手も親戚の間で何年も前から決められていたわ。覚悟していたけど……あなたと出会って村に戻る決心がつかなかっただけ……でも結婚を申し込まれてようやく諦めがついたの。あなたにも継ぐ家があるし、どんなに望んでも、私の我儘《わがまま》でしかないもの。写真の夢を捨てさせてまで、こんな寂しい村で私と一緒に暮らしてくれとはとても言えなかった」
「………」
「もう式の日取りも決まったわ。お願い。私をこれ以上苦しませないで」
方代の目からボロボロと涙が零《こぼ》れた。
私は……きつく方代を抱きしめた。空涙などだせる器用な女じゃない。最初の想像通り方代は私の将来を案じて身を引いたのだ。私の気持を察してか彼女は安堵《あんど》したように体を預けた。私は方代の口唇を求めた。
「騙《だま》されるんじゃないぞ」
戸口から激しい声がかかった。振り向くと配達人が銃を構えて方代を睨《にら》んでいた。
「この村には何十年も死人がいない。そいつの親父だってピンピンしてるはずだ」
方代はブルブルと震えた。配達人は胸ポケットから写真をとりだすと私に投げてよこした。相当古い。画面がセピアに変色している。
「端っこの男を見ろ。右端だ」
配達人は方代に注意しながら叫んだ。私はぼやけた写真を眺めた。十人ほどの男女が古い宿屋の前に並んでいる。右の端には昨日私を威かした年嵩《としかさ》の男が写っていた。それがどうかしたのだろうか? 私は顔を上げた。
「そいつは明治十五年の写真だ。昨夜《ゆうべ》聞かせた診察のときに撮影したもんなんだ」
ザワザワと背中に鳥肌が立った。なぜ百年以上も前の写真にあの男が写っている?
「あんたに見せてやろうと蔵から捜しだして気がついた。他にも知ってる顔がある。慌てて宿屋に行ったらあんたの姿がない。ここだと思ってあとを追いかけてきたんだ」
私はもう一度写真の隅々に目を通した。
悲鳴を上げたかった。
真ん中に、方代が暗い目をして立っていた。
「なんなんだ、こいつは」
私は思わず恐怖から写真を振り捨てた。方代がじっとその写真の行方を目で追った。写真とおなじ目だ。私は方代を突き放した。
「こいつらは死なないんだ。だから外の人間と長く付き合うことができない。自分だけ歳をとらなければ疑いを持たれるからな。それがこいつらの秘密だ。あんたと結婚できない理由もこれで分かったろう」
「まさか、そんなの嘘だよ!」
「軍がこいつらの死体を狙《ねら》ったのもそれが目的だ。思った通り、この村の連中は光りものと一緒になった娘の子孫というわけだ。女から離れろ! オレが射ち殺してやる」
「嘘だ! もう止してくれ」
私は配達人に叫んだ。あれほど睦《むつ》み合っていた方代が百歳を越える女だとは、どうしても信じられなかった。私は同意を求めて方代を振り向いた。方代は普通の──。
「面倒なじじいだね」
方代はくぐもった声で静かに笑った。
「せっかく静一だけは助けてやろうと考えたのに……お前のお陰で帰せなくなったよ」
「このとっつぁまもだな」
戸口に若い男を先頭にして武装した五、六人の村人たちが現われた。ガラス窓の外にも何人かの女子供の姿が見える。
「短けえ命を粗末にするもんでねえぞ」
若い男は配達人の腹に銃口を向けた。
私はひとり暗い洞窟に押しこめられた。
しばらくすると例の若い男に引き立てられて配達人が洞窟に連れてこられた。なんとか無事だったらしい。男がいなくなると私は側に寄って具合を訊ねた。
「あんたには申し訳ないことをしちまった」
配達人は私の声に気づくと暗がりの中で謝った。元気な様子にホッとした。互いに後ろ手に縛られて自由が利かない。洞窟にはじめじめとして息の詰まる臭いが漂っている。
「ワシさえ余計な手出しをせねば……きっと帰らせてもらっていたに違いない」
「生活保護ってのも……逆に村の不思議さを目立たせないためだったんじゃないかな」
私はひとりで考えていたことを彼に伝えた。ほとんど作物がとれない土地で生き続けていれば、いつかは不審を抱かれる。貧しさを装うなら他人の注意を引くこともないのだ。
「古代の人々は長生きだったと本で読んだ覚えがある。確かアダムとイブも千年以上は生きていたと聖書にあったはずだ」
方代のことを思えば、その話もまんざら嘘じゃないような気がしてきた。
「あんたは知っとるか……この地方のことをエデンの園だと主張した人がいるんだよ。十和田湖の近くにある迷《まよ》ヵ平《たい》がそれだと言う。ここは昔から林檎《りんご》の産地だからな」
私は頷《うなず》いた。信じるかどうかはともかくとして、オカルトに興味を持っている今の若い世代には決して珍しい説ではない。それと関連づけられてキリストの墓の存在がとらえられているのだ。例の宇宙人の姿だと言われている遮光器土偶も青森県から出土している。それぞれの謎《なぞ》が私の中でひとつに繋《つな》がった。
「ここは神の住んでいる村だったんです」
「だったらその神はどこにいる?」
配達人が不安気な声で言った。
「この洞窟にいるんじゃなかろうな」
次第に目が暗闇に馴れてきた。私たちは恐る恐る洞窟を見回した。岩肌がぬらぬらと鈍い光りを放っていた。私から少し離れた場所に黒い土のようなものが盛り上がっていた。
「土じゃない。服だ。服の山だ」
なんであんな場所に服が脱ぎ捨てられているのか……私たちは同時に気づいた。
「軍の連中のものだ。オレたちもああなる」
私は絶望した。このまま私たちは死ぬまでこの洞窟に放って置かれるのだ。
「方代って女は……よほどあんたに惚《ほ》れていたんだろうな」
唐突に配達人が呟《つぶや》いた。私は耳を疑った。
「あの涙だけは嘘に見えんかった。もし、ここにヤツらがきたら頼んでみるがいい」
「頼む? なにを」
「この村であんたがあの女と一生暮らす気があれば、まさか命をとるとは言わんだろうさ」
「………」
「それが助かるたったひとつの方法だ」
「あなたはどうなるんです?」
「ワシか? ワシは無理じゃろう。あんたのように若くもない。諦めるのも簡単だ」
「オレだっておなじだ。どうすれば百歳以上の女と暮らしていけるってんですか。オレが愛していたのは普通の方代なんだ。怯《おび》えながら生きて行くのはごめんですよ」
「殺される方を選ぶと言うのか?」
配達人が戸惑った口調で質《ただ》した。
「ヤツも言っていたじゃないか。短い命を粗末にしてどうなる。もう一度考え直せ。ヤツらだって気持はオレたちと変わらん」
「おかしいな……おかしいじゃないか」
いまさら方代の涙が本物だと言うぐらいなら、なぜさっきはあれほど彼女を真剣に殺そうとしたのだ。村の連中がこなければ確実に発砲していた男だ。それも今度の原因だ。
「引き替えにオレの説得を引き受けたのか」
「そうじゃない。オレはあんたを案じて……」
「嘘だ。あの化け物たちにたぶらかされたな」
そもそもこの男さえ現われなければ、嘘にも気づかず、方代を諦めて東京に戻っていたかもしれないのである。私はカッとなった。
「あんたには悪いが化け物と一緒になる気はないんだ。この山の中に静かに隠れているだけならともかく、ヤツらは人殺しだぞ」
私は服の山を顎《あご》で示した。
「それが平気なら、あんたが頼めばいいさ」
配達人の形相が変わった。
ブツッと音がして縄が千切れた。配達人はゆっくりと立ち上がる。
「そんなに私が嫌いになったの」
配達人の髭面から方代の声がした。
配達人は自分の髪を両手で掴《つか》むと左右に引っ張った。ズルリと音がして顔が真ん中から裂けた。中に……方代がいた。
昔、小間物売りのケチな男がいて「女房が欲しいが、飯食わないのはいねえか」と常々思っていた。その噂をどこかで聞きつけたのか、ある日その男のところに美しい女が訪ねてきて「飯食わねえほどに、女房にしてくだせえ」と言った。男は怪しみながらも承知した。女は本当に良く働いて、本当に飯も食わない。しかし、どうしたわけか米櫃《こめびつ》の米がいつの間にやらグングン減っていく。どうもおかしい。男は不思議に思って、ある日仕事に行くフリをして家に戻り、天井の梁《はり》に隠れて下を覗《のぞ》いていると、女房は俵からのっさりと米をとりだし、米をのろっと洗い、大釜に飯を炊きはじめた。それから味噌をたんと持ちだして鍋に一杯の味噌汁を拵《こしら》えた。その次に戸板を一枚外して、台所の上がり口に敷き、煮えた米の飯を片っ端から大きな握り飯にして並べた。今度は髪をバラバラに解きはじめたので、男はビックリして見ていると、頭が二つに割れて大きな口があった。女はその口の中に、拵えた握り飯をどんどと放りこみ、汁を柄杓《ひしやく》で流しこんだ。「ハア、こいだば人間じゃねえ。鬼婆だ」男は魂消《たまぎ》った。
[#地付き](後略)
旅の途中で山道に迷いこんだ娘がいた。すると明りが見えたので娘は一夜の宿を頼んだ。中から婆さまがでてきて「実はこの家の兄弟は鬼だから泊められねえども、分からないように泊めてやる」と言って物置に案内してくれた。夜中に鬼が戻り「人臭いじゃ、どっかに人っこ隠れているな」と騒いだが、幸いその夜は見つからずにすんだ。朝に婆さまが物置にやってきた。「今二人の鬼はでかけたども、途中で出会うと大変《てえへん》だで、これを被っていけ」と物置に吊《つ》るしてあった婆皮《ばつきや》を手渡した。「これはオラが八百八のときに脱いだ皮だ。大事な宝物だども仕方がねえ。鬼に掴まったら町に買い物に行くと言えばええ」娘は礼を言うと婆皮の髪を割って中に潜りこんだ。そのお陰で娘は無事に里に辿《たど》りついた。
……青森県三戸郡の昔話より
方代は配達人の皮を脱ぎ捨てた。
私は恐ろしさに悲鳴を上げることもできなかった。
配達人は皮を剥《は》ぎとられるために私と別々にされたのだ。私さえ承知すれば方代は許してくれるつもりだったのだろう。
私は暗がりに逃げ場を求めた。頬が湿った岩肌に触れた。ヌルッと岩が逃げた。
「……!」
なにか粘っこいものが岩全体に貼《は》りついていた。岩が溶けるように地面に流れる。ゼリー状のそれは私の足にからみついた。
「それが、かつての私たちよ」
方代がゆっくりと私に向かって言った。
「そうして毛穴から入りこむ。やがて細胞と同化し、その人間は死なない体になる。二百年もすぎればその人間の中は完全に私たちとおなじになり、皮を脱いで別の体に移る。私たちの結婚とはそのことを意味するの」
方代は私に近づいてきた。
「私は前に花嫁として選ばれた。そして……今度はあなたが私の花嫁になるんだわ」
方代は長い髪に両手を伸ばした。
「やめろ! なんでも言うことを聞くよ。それだけはやめてくれ」
私は恐怖に後じさった。食わず女房の不気味なシーンがありありと私の脳裏に浮かび上がった。皮の裂けるメリメリという厭《いや》な音がした。方代の髪がバサバサと落ちた。
「よすんだ! よしてくれ」
「苦しくないのよ。あなたは今のままで、私があなたの中で生きる。それを私たちは望んでいたんじゃなかったの?」
裂け目は額まできていた。
洞窟の中がぼんやりと明るくなった。方代の頭の裂け目から淡い光が洩《も》れだした。
〈光りもの……〉
方代は私の首筋を裸の足でしっかりと押さえこんだ、真上から私を見詰める。
方代の笑顔が二つに割れた。
[#改ページ]
子をとろ子とろ
「そりゃあ嬉しいけど……悪くないの?」
熔子《ようこ》はちょっと躊躇《ちゆうちよ》した。小首を傾《かし》げるとショートヘアが扇子のように広がった。
「休暇が簡単にもらえるなら構わないぜ。こっちはアシ代を浮かせようなんてケチな料簡《りようけん》で部長に提案したわけじゃないんだ」
ぼくは熔子にしつこく言い聞かせた。
「なんてったって君はウチの局の看板アナなんだからね。君が関係ない人間と結婚するんならどこからも文句はでないだろうけど、相手はこのぼくだ。今の忙しい時期に二人が揃って休暇願いをだしたらどうなる?」
熔子のDJ番組の担当ディレクターとして失格だと言われる。新婚旅行まで待てないのかと余計な陰口も叩かれるだろう。
「でも、仕事にからませたら、もっと悪口を言われるじゃないの。なんだか厭《いや》だな……私はあなたの休みの日に一日だけ付き合ってと頼んだだけなのに」
「映画やドライブなんかとはわけが違う。秋田にでかけるのに一日ですむわけがないさ。ぼくだって君の両親にはきちんと挨拶《あいさつ》したい」
第一、もう企画は通っていた。間もなく夏だ。熔子自身が聞き手になって怖《こわ》い話をいくつか音に拾ってくればシーズンの目玉になる。それは、どの地方の話でもいいわけだし、たとえ熔子の故郷であっても構わないわけだ。取材となれば三、四日は会社も認めてくれる。彼女の両親に会う機会はいくらでも作れる。
「東北ってのは民話の宝庫だからね。君の故郷にだってたくさん伝わっているんだろ」
「でしょうね。興味を持ったことはないけど」
「決まりじゃないか。割り切ってしまえよ。いい仕事さえしてくりゃ、だれからも文句はでない。どうせ夜はヒマなんだからゆっくり結婚式の相談もできるし、まさに一石二鳥だ」
ようやく熔子も話にのってきた。
「技術さんはだれに決めているの」
「ぼくさ。声を録《と》る程度ならぼくにでもできる。つまり、二人だけのキャラバンだ」
熔子の顔が急に明るくなった。
「意地悪ね。最初からそれを話してよ。だったらこんなに悩まないですんだわ」
「そのくらい日数があれば……例のお母さんのことだって、手掛りが掴《つか》めるかも」
「どうかな。はじめは結婚前にどうしても会いたい、と思ってたけど……もう、どうでもいいの。育ててくれた両親にも悪いし」
熔子は視線を伏せた。口では強がりを言っているが、本心は実の母親に会ってみたいと願っているに違いないのだ。
「本当に連絡がないのかい。お父さんの妹さんだったんだろ。君を産んだ母《ひと》は」
「前に噂《うわさ》を聞いたきり……ぜひにって頼んでいたらとっくに会えていたかもしれない」
それも前に聞いた。そのときは熔子の方が母を拒んだらしい。高校に入学したての頃だというから多感すぎたのだろう。
「せっかくだから手伝うよ。心を軽くしておけば、その分主婦業にも迷いがなくなる」
熔子はクスクスと笑いを洩《も》らした。
その翌週ぼくたちは秋田に向かった。
秋田県といっても熔子の生まれ育った田舎は十和田湖に近い町だから東北新幹線で盛岡まで行き、そこから高速バスに乗った方がずうっと早い。それでも東京から六時間だ。バスに乗り換えると熔子は饒舌《じようぜつ》になった。戻るのは二年ぶりだと言う。熔子は窓から眺められる山々を示しては丁寧に名前を教えた。
「若い連中は君が戻ることを知ってるの」
「いいえ。どうして?」
「悪いけど、こんな山の中だろ。君は相当の有名人じゃないのかな。違うかい」
熔子のラジオ番組は全国にネットされていて聴取率も高い。人気タレントが毎週のようにゲスト出演しているから彼女自身の知名度もかなりある。若い連中はスターと対等に話せる熔子に対しても強い憧《あこが》れを持っていた。ましてや熔子が育った土地の中・高校生となれば、その心情もだいたい察しがつく。恐らく町長や担任の教師よりも熔子を誇りに思っているはずだ。
「せっかくだから故郷での歓迎ぶりも収録してこようか。案外面白いかもしれない」
「いやよ。仕事はもうたくさん」
「怖い話が簡単に聞ければいいんだけどな」
「急に弱気になったのね。ずいぶん調べたんでしょ。張り切ってたじゃないの」
「そりゃ、本には載ってたけど……生の声で話してもらわなきゃ意味がないよ。都合よくそんな人が見つかるかな。それが不安なんだ」
熔子も頷《うなず》いた。けれど彼女はぼくの仕事だと思っているから平気な顔だ。
「あとで焦らないためにも、早いうちに仕事を終えてしまいたいな。そうすればのんびりと君の両親にも会っていられる。人脈は君が頼りなんだ。君のおじいちゃんって町の役場なんかにも顔が利《き》くって言ったな」
「心配性ね。だったら取材なんてくっつけなきゃよかったのに。いまさらズルいわ」
「楽そうに思えたんだ。遠野物語が生まれた土地だからな」
「あれは岩手よ」
「おなじさ。隣りの県じゃないか」
「呆《あき》れたな。それでよく企画が通ったわね」
「部長だってぼくと同程度の認識しか持っていない。東北はどこでも一緒だよ」
「しらないわ。私はあなたが捜してきた人に会って話を聞く。ただのアナなんだから」
「なんとかなるだろう。こうして東北の深い山を眺めているだけで自信が戻ってきた」
「都会人の偏見よ。普通の山じゃない」
それでも熔子は失笑した。
高速道路を降りてすぐの停留所には熔子の弟が迎えにでていた。その後ろに何人かのセーラー服の女の子がかしこまっている。
「怜史《れいし》君だね。お世話になります」
挨拶を終えると怜史はぼくのふくらんだ機材バッグに真っ直ぐ手を伸ばした。
「ちょっと。私の方は?」
「姉さんはオレより力があるからな」
女の子が子犬のような歓声を上げた。
「話が聞きたいんだってさ。うっかり姉貴のことをしゃべっちまったんだ」
怜史は照れたような、得意そうな顔をした。
「あとで家の方にいらっしゃい。分かっているんでしょ。明日の夜はきっといるわ」
やったぁ、と一人が躍り上がった。
ぼくたちは怜史の車に乗りこんだ。
「あの子たちだけで勘弁してよ。結城さんはウチに正式な挨拶に見えられたんだから」
珍しく熔子はぼくの姓を口にした。
「二十三にもなるってのに、あんな若い子たちと付き合ってるわけ?」
「姉さんの勘違いだよ。バスを待っている間に知り合っただけだぜ」
「だって家も分かってたんじゃないの」
「たいてい知ってるさ。このへんじゃ」
ぼくは姉弟のやりとりを幸福な思いで耳にしていた。一人っ子のぼくには経験がない。
車は賑《にぎ》やかな町並みから外れると山の方に入った。青々とした田が続く。真正面に大きな家が見えてきた。長い縁側に嵌《は》められたサッシが光っている。平屋だが建坪だけで二百坪はありそうだ。銀のトタン屋根が眩《まぶ》しい。
「想像はしてたけど、凄《すご》いな」
「仕事に車が必要ならオレが手伝いますよ。勤め先にも断わってあるんです」
「ありがたいね。レンタカーを借りてまわろうかと思っていたんだ」
怜史の車なら道案内もいらない。
「これは遠いところをわざわざ」
車の音を聞きつけて中から熔子の母親がでてきた。ウィンドブレーカーにGパンというぼくの若い恰好《かつこう》に少し安心したようだ。熔子の口からぼくが九つ違いの三十五歳の男だと聞かされて年上すぎると反対したらしい。
「一応、宿はおとりしましたけどな……ウチにお泊まりになればよろしいのに」
ぼくは丁重に断わった。ガキじゃないんだ。その程度の分別は心得ている。家族だって熔子と水入らずで話したいこともあるだろう。
その夜。ぼくは怜史に送られて遅くに宿へ着いた。旅行疲れの体に酒が利いている。
「じゃあ、明日は九時頃にきます」
すっかり打ち解けた怜史が手を振った。熔子の祖父の紹介で何人かの物知りと会う約束を交わしている。部屋に案内されるとぼくは上機嫌で敷かれてある布団に寝転んだ。皆、気持の温かな人間ばかりだ。あれで熔子が養女だなんて信じられない。どうやら大役も果たしたようだ。あとは仕事さえうまくいけば……それだって手応えはある。ぼくはバッグを開けて、もらってきた印刷物を手にとった。この地方に伝わる民話だけを纏《まと》めた本で、町役場が刊行したものだ。熔子の祖父もからんでいたらしく協力者の欄に名前が掲載されている。三百ページ近い。採話されている数も二百を越えている。これなら怖い話の十や二十は間違いなく探せるだろう。今夜のうちにピックアップしておいて、明日はそのへんを訊《たず》ねればいい。
一時間後。ぼくは首を捻《ひね》った。
一行一行丹念に見たわけではないが、怖い話などひとつもない。どれもこれもがありきたりの動物の報恩譚や法螺《ほら》話だ。その内容もぼくが東京で調べてきた民話から一歩も抜けでていない。地名を直しているだけで、すべてがどこかの地方の話を踏襲《とうしゆう》したものなのだ。
〈どういうことなんだ?〉
逆に薄気味悪かった。
〈それにしても……怪談がないってのは〉
おかしい。民話の本を何冊か眺めればだれにも分かる。怪談は民話の主要テーマだ。鬼や幽霊が登場してこそ民話も生きてくる。もし、この本が民話のパターンを踏襲したものなら、なおさら加えられていて当然である。
〈意識的に削ったのかな〉
だが、なんのために? どうせ作り話じゃないか。だれに迷惑がかかるものでもないのだ。一人の著者のものなら本人の趣味の問題だろうと片付けられるが、十人以上もの人間が関係している本では、ありえない。恐らく全員が納得して怖い話を削ったのだ。
〈ふうん。こっちの謎《なぞ》の方が面白そうだ〉
ぼくはあらためて頁を捲《めく》った。
ふたつばかり継子殺しの話を見つけた。結末がハッピィエンドになっていたので見落としたものらしい。と言っても、やはり怖い話とは呼べない。残酷なだけである。
昔、松子、梅子という仲のよい姉妹がありました。松子は死んだ母さんの娘です。梅子は今の母さんの娘です。今の母さんは松子がにくくてたまりません。毎日水|汲《く》みや掃除など辛い仕事ばかり言いつけ、がみがみ叱《しか》ります。あるとき、村の父さん方が上方参りの相談を致しました。母さんは「ねえ父さん、上方参りだば必ず行くもんだ。ご利益でみんな幸福になるはで」とすすめました。いよいよ旅立ちすることに決まったので母さんは嬉しくてたまりません。きっと父さんの留守に松子を殺してしまおうという心です。父さんの旅立った晩のことです。母さんは村の若者二、三人を家に呼んで、夜おそくまでお酒を飲みながら何かこそこそと相談しております。
松子は昼の疲れでぐっすり眠ってしまいました。梅子は眠ったふりして、すっかり話を聞いております。相談は松子を殺すことでした。次の朝、梅子はこっそり「姉さん、今日姉さんは箱に入れられて山奥に埋められるのよ。だが姉さん心配するな。箱の隅こに小さい穴こあけておくはで、その穴こからこの線香を折ってこぼして行ってけれ。おら次の朝早く、姉さんを助けに行くはで」「梅子ありがとう」と後は涙で松子は何も言えないのです。やがて箱はつくられ、若者が二、三人きました。母はついぞない優しい声で松子を呼んで「松子お前こんどとてもよいところへ行くのよ。さあ早くこのカゴにのれ」と良い着物をきせたり、お菓子を与えました。
若者は箱をかついで山奥へ行きます。松子は線香を折って落としてゆきました。その晩、母さんは「気持がさっぱりした」と言いながら、酒を飲んでぐっすりと眠ってしまいました。真夜中に梅子は起きました。月夜で、まるで昼のように明るいのです。
母の寝息をうかがって外にでました。折れた線香を頼りに山奥に行くのです。ちょうど夜が明けた頃、新しい土を盛り上げたところに着きました。ここだなあと思って盛り土に口をつけて「姉さん」と高く呼びました。ずっと底の方から低い声で「ああい」と返事がするので「ああ、よかった。まだ生きている」と懸命に掘ります。指からは血が流れております。また「姉さん」と呼んだら、こんどはよほど近くで「ああい」
……秋田県の昔話「後《あど》母さん」より
梅子は松子を無事に助けだし故郷を捨てて二人で逃亡する。旅から戻ってきた父親は姉妹の行方を求めて全国を彷徨《さまよ》い歩き、ついに盲目になってしまうが、再会した姉妹に名前を呼ばれると奇跡が起きて目が開く。その上、すっかり改心した母親は温かく迎えられ、めでたし、めでたしという具合だ。
もうひとつの「太郎、二郎」という話も継母が先妻の子を殺そうとする方法が異なっているだけで、兄弟が村を捨て他国に逃げていくまではまったくおなじパターンである。ただ、こちらはもっと残酷で、どんな策を弄《ろう》しても兄弟が力を合わせるために失敗を続ける母は、ついに山伏の助力を願うのだ。わざと重い病気を装い、平癒|祈祷《きとう》にやってきた山伏の口をかりて「母を救うためには兄の太郎の生肝を食わせなければならぬ」と二郎をそそのかす。半信半疑の二郎は兄を山に誘い、鳥を鉄砲で射って生肝を持ち帰る。すると母は喜んで急に元気になる。嘘を見破った二郎は山にとって返し、そのまま太郎と逃げるのだ。結局は父親が後に二人と巡り合い、改心した母と仲睦まじく暮らしたと説かれるが、どちらも後半部分は明らかな付け足しに思える。
〈こいつは間引きの一種かもしれないな〉
この話だけはあまり類型を見ない。継子譚もいくつか読んだが、そのほとんどが母の正体を鬼婆にしていた。普通の女は珍しい。
「ホントね。あなたの言う通りだわ」
宿の喫茶室で粉っぽいコーヒーを飲みながら熔子も頷いた。
「間引きの可能性はともかく、怖い話がまったくないってのは、むしろ異常だよ」
ぼくは昨夜考えついたことを熔子と怜史に伝えた。これは、逆に怖い実話がたくさんあるからではないか。話とはそういうものだ。平和だから今はスプラッタムービーが流行する。本当に怖いことが現実にあれば、人間は明るい話をしたがるだろう。葬式の最中に幽霊話をするヤツがいないのとおなじ理屈だ。
「分かるけど……じゃあ、この町には人に言えないような怖いことがあるっていうの?」
熔子はさすがに憮然《ぶぜん》とした。
「このままじゃ番組にならないんだよ。多少強引でも話をそこに持っていきたい」
「どうすればいいの」
「この民話集に関係した人間に片っ端から当たろう。なぜ怖い話を削除したのか、君が理由を訊《たず》ねるんだ。きっとなにかが見えてくる」
「おじいちゃんにも? 厭《いや》だな。話は聞くけどテープには録《と》らないでね」
「約束するよ。番組には使わない」
「怖いっていえば……昨夜《ゆうべ》、変な夢を見たの。布団や畳から舞い上がった粉埃《こなぼこり》が私のまわりをグルグルまわって襲ってきたわ。黒い人間の形になって布団に覆い被さってくるのよ」
「夢判断で言うと、それは姉さんの願望だな。寂しかったんだろ」
側にいた怜史が茶化して言った。
ぼくたちは町役場にでかけた。広報課を訪ねると奥から若い男が笑顔で現われた。その背後に緊張した面持ちの老人が二人並んでいる。二人は体を直角に折り曲げて挨拶した。
「インタヴューは応接室で構いませんね。あそこなら静かです」
名刺を渡すと男はさっさと歩きはじめた。
「おじいちゃんはなんて説明したんだい。なんだか大袈裟《おおげさ》な感じだな」
ぼくは熔子と小声で笑いあった。
「町長は会議があるものですから」
応接室の椅子を勧めて男は謝った。
「そんな。こちらが恐縮します」
「連絡をいただいて喜んでおりました。町のPRになることですし……案内が必要でしたらどこにでもお供します」
困ったな、と思った。別にこっちは宣伝番組のつもりじゃない。ただ、怖いもの好きの若者を狙っているだけだ。きっと熔子の祖父が拡大解釈したに違いない。
「熔子ちゃんの番組は毎週楽しみに聞いています。町の人間ほとんどがそうですよ」
「まあ、あれは遊びの番組なので……」
その程度は釘《くぎ》を刺しておかないと。
「それで? 民話のなにがテーマなんです」
「怪談です。そろそろ夏ですし。彼女が故郷に戻るついでに面白い話でもないかと」
「怪談? あの、幽霊やなんかの」
聞いていた老人二人に明らかな戸惑いが見られた。互いに暗い視線を交わしている。やっぱり裏になにかありそうだ。
「民話ならウチで刊行した出版物がありますけどね。そんな話は確か……」
「読みました。怖い話はひとつもない」
「でしょう。弱ったな。この方たちはあの本に協力してくれた人たちなんです。あれ以外の話となると、ちょっと厄介ですね──」
広報係は眼鏡を外して眉根《まゆね》をつねった。
「削った部分はなかったんですか」
「削る? まさか。纏めたのは私です。怪談話は面白いから実際にあれば載せますよ」
広報係の口調に嘘はなさそうだ。すると纏める以前の段階に箝口《かんこう》令でも敷かれていたのか。ぼくは老人たちの表情を垣間見た。彼らはぼくの視線に出会うと目配せをして弱々しく立ち上がった。
「帰《けえ》りますだ。どうやら儂《わし》たちには用もなさそうだはで。ほかの人を当たってけろ」
広報係の強い引き止めにもかかわらず二人は何度も頭を下げると部屋からでていった。
「まいった。さっきまでは熔子ちゃんに会えるのを楽しみにしていたのに」
唐突な態度に広報係は首を捻《ひね》った。
「聞き書きの人選はどなたがやったんです」
「ほとんど大村源右衛門さんです。熔子ちゃんのおじいさん。元の大庄屋さんですから」
ぼくは唖然《あぜん》とした。昨夜は一言もそれに触れなかった。不審が渦巻いた。
「皆さんにはいつも大村さんのお宅に集まってもらってテープをまわしました」
「それは、どちらからの発案ですか」
「もちろん大村さんの好意ですよ。こちらから頼める筋合いじゃないですからね」
ぼくは……それ以上の追及を避けた。熔子と怜史を前にして口にはできないこともある。
「じゃあ……そのときの人選に洩《も》れた方でだれか心当たりがあれば教えてください」
「さあてね。簡単に心当たりと言われても急には……ああ、そうか。紫水館の旦那なら知っているかもしれない。車で一時間ほど離れた温泉場でホテルを経営しているんですが、この町の出身者です。あの人なら詳しいはずですよ。昔は郷土史を調べていましてね。髪は真っ白だけど六十前の元気な主人ですよ」
「だったら父とおなじくらいね」
熔子はぼくの意図にも気づいていない。
「往復二時間なら充分だわ。話を聞いても午後早くには戻ってこられるし」
「いや。せっかく町を案内してくれると言うんだ。そっちはあとにしよう。カラ振りになるといけないからぼくが今夜にでも取材しておくよ。面白ければ明日録音する」
「今夜って? どうするの」
「そのホテルにぼくが泊まるのさ。一番簡単だろ。つまらない話だったら朝に戻ってくる」
「だったら私も行こうかな」
「君は昨日の女の子と約束があるんじゃないか。ファンの期待は裏切らない方がいい」
熔子はぼくのGパンをつねった。
「それじゃ神社や城跡でもご案内しますか」
「ここは浮島跡と言いまして」
古城の本丸跡から町の鎮守《ちんじゆ》である大日堂に向かう昔の表参道を辿《たど》って歩いていると広報係が立ち止まった。鬱蒼《うつそう》とした杉林の中だ。
「あそこに小さい沼が見えますでしょう」
ぼくは頷いた。下に見える沼は馬蹄《ばてい》のようにいびつな三日月の形をしている。
「もとは丸い沼で、真ん中に浮島が漂っていたと言うんです。現在は島が根付いてあんな形になっていますが……当時でも珍しかったんでしょう。吉凶の占いの場所として使われていたらしいんですね。前に沼の水を浚《さら》ったら古銭がたくさんでてきたそうですよ」
「占いって、どうやるのかな」
「投げこんで表か裏かを見るんじゃないですか。方法までは資料に残っていなくて」
「それなら沼の泥に沈んで表裏が分からなくなりませんか。きっと別のやり方だろうな」
ぼくは興味を覚えて沼に近づいた。
「ついでに占っていこうか」
ぼくはポケットから十円玉をとりだすと静かに沼に沈めた。水面は一見穏やかに見えるが、どこからか水が強い勢いで湧《わ》いているらしい。十円玉はフワッと斜めに傾いて思いがけないほど遠くに運ばれていった。
「なるほど。これかもしれませんね」
広報係も面白がって試した。今度はぼくのものとは反対の方に流されていく。底に落ちると沼底の黒い砂が小さな水煙を立てた。
続いて熔子が水に沈めた。
十円玉は沈みかけると、もう一度水面に戻された。よほどの水流だ。渦に巻きこまれたのか、その場でクルクルまわる。ぼくたちは固唾《かたず》を呑んで見詰めた。やがて、それはゆっくりと振り子のような大きな動きを見せて底に沈んでいく。相当深い場所だ。底についたと思った途端、黒砂がモクモクと吹き上がってきて、みるみる水面に広がった。沼は、まるで煤《すす》を落としたようだった。
「なんなの、これ」
熔子はぼくにとりすがった。今にも泣きだしそうな顔になった。
「なんでもない。なにかの加減で水流が底の砂を押し上げたのさ。偶然だ」
慰めたものの、その説得がどれほど空虚なものかぼく自身が一番感じていた。
紫水館には夕方早くに到着した。
怜史は自分の車で送ると再三言ってくれたが、ぼくは遠慮してバスを利用した。熔子を早めに家に戻したかったからだ。彼女は沼の一件がこたえたと見えて軽い吐き気を訴え続けていた。熱もないし大したことはなさそうだ。ゆっくりと休めばおさまるだろう。
通された部屋は清潔で明るかった。
「ご主人はいらっしゃいますか」
ぼくは茶を運んできた女性に名刺を渡すと取材を申しこんだ。けれど、熔子の番組であることだけは隠した。役場の広報係の紹介と聞いて彼女はすぐに納得した。
「ご主人の都合のいい時間で結構です」
主人は八時すぎに部屋へ顔を見せた。なるほど、年齢を聞いていなければ相当の高齢に思える。日焼けした人懐っこい笑顔だ。白い口髭の奥には丈夫そうな歯が並んでいた。
「私などでお役にたちますかどうか」
抱えてきた何冊かの本をテーブルの上に重ねながら主人は丁寧に挨拶した。熔子の祖父が関係した民話集もその中に見える。
主人は目の前に座るとマイクをセッティングするぼくの動きを目で追いかける。本当にぼくの想像が当たっていれば熔子にインタヴューはさせられない。したがって番組にも使えないのだが、形の問題ではなく、ぼく自身の興味から録音しておきたかった。テープがまわりはじめると主人は姿勢を正した。
「お聞きしたいのは怪談なんです」
ぼくはいきなり訊ねた。
「このへんなら怖い話がたくさんあるんじゃないかと期待してきたんですが、町役場で刊行された本にはほとんど収録されていませんね。それで、あの本とは関係のない人にお聞きした方がよさそうだと思いまして」
「怖い話ですか、さて、どうでしょう」
「ご主人なら知っているはずだと広報係の方が教えてくれました。なのに、どうしてあの本にはかかわらなかったんですか」
「それは……人選を依頼された大村さんと私の個人的な問題です。何年も行き来がなくて」
「できあがった本の感想はいかがでした。ぼくがこんなことを言ったら叱られるかもしれませんが、なんとなく中途半端な感じだ」
主人は無言で頷くと静かに笑った。
「悪いけど個性がなさすぎる。どれもこれもありきたりの話だ。継子殺しだけは別ですけど、あとは全部類型的なものに思えました」
「継子殺し? 松子梅子だな……なるほど特別か。大村さんがそれを聞いたらなんと思われますかね。あれだけはうっかりと見逃したんでしょう。あなたの見方は当たっている」
「見逃したと言いますと?」
「人選ばかりじゃない。大村さんは話も選んだんです。町の印象を悪くしないように」
「まさか……民話とは関係ないでしょう」
遠野物語の中にも不気味な話や悲惨な物語がいくつも含まれている。だが、それが理由で遠野のイメージが悪くなった話は聞かない。
「まあ、ほかに別の理由があったかもしれませんがね。あの人がそれを行なったのは間違いないことです。年寄りたちはどうも大村さんから町の悪口を言うなと口止めをくらったらしいんですな。役場に話す前に必ず内容をチェックされたという噂も聞きこみました。おっしゃる通り余計な心配ですよ。だからあんな個性の乏しいものに仕上がった」
主人は苦々しい口調で批判した。
「だれの反撥《はんぱつ》もなかったわけですか」
「もちろんですよ。皆、昔から大村さんには世話になってきた連中ばかりです。それに、民話なんて本当はどうでもいいことですからね。外の連中は面白がっているだけで、自分たちの生活には関係がない」
そんなものかもしれない。たとえ怪談をいくつか知っていても、駄目だと拒絶されればあっさりと諦めるだろう。それで自分の立場がなくなるという性質のものじゃない。
〈しかし……あの老人たちの反応には〉
怯《おび》えもまじっていたような気がする。
ぼくは正直にそのときの印象を伝えた。
「なにか隠していた、と言われるんですか」
主人は明らかに戸惑っていた。
「さっぱり理由《わけ》が分かりません。噂を単純に信じておりましたが、これは考えていたよりも深い事情が裏にあったのかもしれませんね」
「ぼくもそう思います」
「ひょっとすると、あれかな?」
主人はポツリと呟《つぶや》いた。
「でも、民話とは無関係のはずだし……」
「なんです? 教えて下さい」
「町で七、八年前に騒がれた事件がありましてね……といっても殺人なんかじゃなく、二十歳前の娘が父なし子を産んだだけの話です」
主人は少しの躊躇のあと続けた。
「男に責任をとらせようにも、肝腎の娘の方が父親の見当がつかないくらい大勢の男と関係しておったというんだから、呆れはてたお粗末です。その情況で後先も考えず子供を産もうとする神経がそもそも分からない。親にも内緒にし出産届けもださずに一ヵ月も放っておいたんですね。おもちゃのように可愛がってはいたらしいんですが、結局、軽い風邪をこじらせて死なせてしまったわけです。はじめのうちは隣近所にも親の家に預けたとかごまかしていたようですが、とうとう噂が警察まで聞こえてしまった。それが、あなた、子供はどうしたと問いつめられて、とんでもないことを白状した。車に乗せて山の中に生ごみのようにポイと捨ててきちまったと言うんですね。場所はどこかと訊ねてもいっこうに要領を得ない。第一、娘には罪の意識がないんですから、酷《ひど》い話じゃありませんか。自分が産んだ子供なんだから自分の勝手だ、と信じきっている。なぜ、他人にとやかく言われなければならないのか、と逆に警察官の方がくってかかられた。これにはさすがに驚いたそうですよ。いまどきの若い者はどうなってるんだと嘆いておりました。テレビや週刊誌にもとりあげられて町は大騒ぎでした」
「それが……どういうふうに?」
今度の件と繋《つな》がるのだろう。
「役場が本をだしたのは六年前です。その事件の記憶が残っていたあたりなので、それを連想させるような話は避けるのも当然でしょう。昔からそうした町だったとわざわざ外に宣伝する必要はない。きっとそれです」
「昔から? つまり間引きですか」
「その程度なら別に。東北ならどこの県にでもある話です。現に本には松子梅子の話がちゃんと入っているじゃありませんか」
「間引き以上の話ねぇ。考えられないな」
「捨てたという子供の死体が結局発見されなかったのが原因ですけれど……町中に根も葉もない噂が飛びかいましてね」
主人は一瞬口ごもった。
「蟠桃《ばんとう》にされたんだと年寄りたちは信じておりました」
「バント? なんです、それは」
「嬰児《えいじ》の燻製《くんせい》です」
ぼくは吐き気がした。
「燻製って……それを、どうするんです」
「薬研《やげん》で細かく刻んで薬にします。不老長寿の妙薬として江戸の昔から重宝されたものです。名前の由来は孫悟空の話にでてくる六千年に一度実を結ぶ桃からのようですから、漢方薬の一種でしょう」
「本当の話なんですか?」
とうてい信用できる内容じゃない。
「昔から私は体が弱い方でして……実際に祖父からそれを服《の》まされたことがあるんです」
主人はじっとぼくの目を見詰めた。
「よほど貴重なものだったらしくて小さな瓶に入っておりましたよ。真っ黒い粉だったと記憶していますが、和紙にひとつまみとると脂のようなものがじわあっと滲《にじ》んで広がりましてね。子供心にも不思議なものだと思いました。七つ八つの頃ですから、昭和のはじめにはまだそんなものがあったんですね」
「気持が悪くはなかったですか」
「そこが分からないんです。やはり私も子供だったんでしょうか。それとも、幼い頃から存在を聞かされていたので、薬なんだという認識しかなかったのかもしれない……今考えると怖い話です。どうしてあんなものを平気で服《の》めたんでしょうかね」
主人はゾクッと身震いした。
「お家の方も薬売りに騙《だま》されていたんじゃないかな。猿とか犬の可能性だって──」
「違いますよ。いくら昔でも薬売りが扱えるような品物じゃない。作っていた連中に直接分けてもらうんです。自慢になりますが私の祖父は田舎では珍しい勉強家でして、漢方薬の知識も充分に持っていました。その祖父が手に入れてきたものなので本物のはずです」
「じゃあ、この辺りに作っていた人が」
「そうです。昔はあの町の山奥にそういう連中が住んでいたんです。現在は車も簡単に入って行ける場所で電気も通じていますが……当時は人も滅多に行けないところだった。祖父は私のために無理してくれたんですよ」
「嬰児の燻製か……」
「生まれ育った子供よりは胎児の方が効能もあると聞きましたが。実際はどうだか」
安達ヶ原だ。ぼくは咄嗟《とつさ》に連想した。不老長寿の薬として生命の象徴とでも言える胎児を用いるのは、過去に結核患者へ鯉の生き血を飲ませたりしたのと発想に変わりがない。
「焼き方は……平らな土に米ぬかを厚く敷き、胎児をのせて、さらに米ぬかを盛って泥土で覆う。その上に薪《まき》を積み上げて火をつける。山で炭焼きを生業としている人間でしたら造作もない作業だったでしょう」
淡々とした口調がなんとも怖かった。
「噂の根源は娘の出身地に関していた。つまり、その村落に実家があったんです」
「でも、まさか自分の子供までは……」
「なんとも言えませんですよ。捨子が平気な母親なら、薬にするのも一緒でしょうから」
「それは売買の対象になっているんですか」
「今は聞きませんが、祖父の話では当時の町長の給料よりも遥かに高い値段でしたね」
「数も限られていたんだろうしな」
「それが結構作られていたらしいんです。もともと間引きも日常的な土地柄でしたし、子おろしを専門とする産婆と結託して近在から材料を集めていたようなんですな」
ぼくは溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「恐らく……流れ者あたりにでも知恵をつけられたんでしょうな。自分たちが殺すわけじゃない。死んだ子供を金に換えるだけだと言われれば罪の意識も薄らぐ。それで病気の人間を助けることができるのなら死んだ子供も浮かばれる、などと説明されてごらんなさいよ。その気になるバカもでてくる。なにしろ昔は木の根を齧《かじ》って飢えを凌《しの》いだと伝えられるほどの貧しい村落だったんです。生きるためには仕方のない部分もあったのかもしれませんがね──だからと言って行為を認めるつもりはありませんよ。私どもがこうして恐れるほど、果たして彼らが残酷な仕打ちをしていると自覚していたかどうかです」
それは考えられる。意識していたらとても続けることはできないだろう。
「それを言うなら、間引きをする親の方がもっと冷酷だという論理も成り立ちますしね。第一、犯罪だと思っていたら町の人間も決して連中と付き合いはしなかったでしょう」
主人は話をくくった。
「確かに……それなら町の人たちが必死で隠そうとした気持も分かるな。厭な話だ」
昔のことだと割り切るのもむずかしい。
「特に大村さんならそうでしょう……春江さんをあんな目に遭わせた人なんだから」
主人はうっかりと口を滑らせた。春江とは確か熔子の実の母親の名だ。
知らないフリをしてぼくは追及した。
「男を町から追いだし、子供をむりやり堕《おろ》させたんです。家の名誉のためにだけ……」
熔子が生まれる前にもそんな話があったのか。ぼくはあんぐりと口を開けた。
「これは聞かなかったことにして下さい。知っている人間は町にあまりおりませんので」
主人はぼくの驚愕《きようがく》を見ると言いすぎたと感じたのかテープを気にして念を押した。
「その娘さんはその後どうなったんですか」
「元気でいます。今は少し離れた町で一人暮らしをしていますがね。親の仕打ちを恨んで家を飛びでたんですな。当然でしょう。いくら身分が違ったとはいえ生木を割《さ》かれるようにして別れさせられたんだから」
話しぶりから主人が母親の居場所を知っているのは間違いない。ぼくは体が震えた。熔子に伝えたらどんなに喜ぶだろう。
電話が鳴った。主人は気軽に受話器をとった。間もなく、その横顔が青ざめた。しきりにぼくを見詰める。なにが起きたのだろう。
「酷《ひど》いじゃないですか」
受話器を乱暴に置くと主人は言った。
「あんたが大村さんのところからきたとは思わなかった。どういう魂胆です」
「別に……ぼくは大村さんと特には」
「熔子さんの具合が悪くなったそうだ。家に戻っていたんだね。弟からの連絡ですよ。今までの話はなかったことにしてもらいます」
主人はテープレコーダーに手を伸ばした。ぼくは慌てて遮《さえぎ》った。必死で弁解に努める。しばらくのやりとりのあと、主人はようやくぼくに他意がなかったことを認めてくれた。逆にぼくは熔子の祖父の行動に不審を抱いていたのである。
「番組にも使いません。お陰で大村さんの奇妙な態度にも納得ができました」
主人は安堵《あんど》の表情になった。ぼくは熔子の気持を伝え、母親の居場所を訊ねた。むしろ春江に同情を覚えていた主人はあっさりと彼女のことを教えてくれた。テーブルに紙を広げて簡単な地図を書く。黒く塗り潰《つぶ》した場所から棒を引っ張り「春」と記入した。
「あの人がやっている店です。二階が住まいになっている。熔子ちゃんの番組も欠かさず聞いているそうだ。喜びますよ」
主人は自分のことのように結んだ。
ぼくは頭をさげるとタクシーを頼んだ。熔子の容態が気にかかる。
「紫水館にはなんのためにでかけた」
玄関に飛びこむと熔子の祖父が立ちはだかっていた。後ろで怜史が困った顔をしている。
「あの男はロクなもんでねえ。それを承知で行ったんなら敷居はまたがせねえぞ」
言葉こそきつかったが、祖父の瞳の奥底には不安と虚勢の両方が潜んでいた。
「役場の人の紹介です。別に意味なんかありません。それより熔子は大丈夫ですか」
呼び捨てに気づいて、しまったと思ったが、この際どうでもいいことだ。ぼくは祖父を無視して怜史と彼女の部屋に向かった。
「どうした。熱でも上がったのかい」
「中毒じゃないかって医者には言われたけど……口から癲癇《てんかん》のように泡を噴いてさ」
「中毒? それで今は」
「少しおさまった。びっくりしたよ。部屋中を転げまわるんだもの。なんだか姉貴だと思っても薄気味が悪かった」
頭に描いて背筋が寒くなった。昼の占いが咄嗟《とつさ》に浮かんできた。
「戻ってくれたのね。よかった」
襖《ふすま》を開くと熔子が弱々しい笑顔を見せた。母親が側につきっきりで看病している。
「元気そうに見えるよ」
母親は怜史の腕を引っ張って席を外した。
「またなのよ。怖いわ」
「またって? なにが」
「遊びにきた女の子を庭先まで送って戻ってきたら、玄関の脇に積んであった除草剤の袋が崩れてきたの。ケガはしなかったんだけど破れた袋から粉が噴きだしてきて……あとは分かんない。それが口に入ったらしいの」
「粉か……」
「おかしいでしょ。崩れるはずなんかないのに。もう厭だわ。早く東京に戻りたい」
「原因がはっきりしているんだったら気にする必要はないさ。それに、明日は会わせたい人がいる。楽しみにして眠ればいい」
「だれ? まさか……」
「見つけたんだ。元気でいるらしい」
熔子の目から涙が溢《あふ》れた。ぼくは熔子の頬にくちづけした。頬は涙の味がした。
熔子がぼくの後ろにいるのを見て春江はドアの側から奥の部屋に慌てて逃げこんだ。
「帰って下さい。お願いだから」
春江はカーテンで体を隠して泣いた。
「母《かあ》さん。私が分かるの」
思いがけない反応に熔子は声を震わせた。静かに名乗りあげるつもりだったのだ。
「分かっていたのなら、どうして一度も連絡をとってくれなかったのよ」
熔子は乱暴に靴を脱ぐと部屋に入ってカーテンをレールから引き千切った。春江はその場に蹲《うずくま》った。痩《や》せて可哀相な肩だ。
「どうして。答えなさい。どうして」
熔子は春江の肩を強く揺さぶった。
「できないよ。おまえを置いてでたんだもの」
春江は泣きじゃくった。ぼくは熔子の腕を春江から引き剥《は》がした。熔子もボロボロと涙を零《こぼ》していた。ぼくは熔子の顔を上げさせると低い整理ダンスを示した。テレビの脇に熔子の写真が飾ってある。グラビアを切り抜いたものだ。その裏側には玩具のようなトランジスタラジオが置かれてある。熔子の番組を聞くためにだけ買ったものに違いない。
「許してあげよう。お母さんだって君のことを思って毎日暮らしていたんだ」
熔子が春江に抱きついた。
その瞬間。地鳴りのような振動が部屋を襲った。熔子の写真が畳に落ちてガラスが割れた。ぼくは柱に掴《つか》まった。掛け時計が外れて落ちてくる。熔子と春江は抱き合ったまま畳に伏せた。蛍光灯の吊り金具の一方が切れて斜めに傾いた。上に積もっていた埃が舞い落ちて二人の背中を白くした。地震だろうか。ぼくは窓を開いた。違う。下の通りにはのんびりと立ち話に興じている女性たちがいる。揺れはこの部屋だけなのだ。振り返ると熔子の体は真っ白だった。埃がどんどん天井から降りてくる。熔子は激しくむせた。呼吸困難に陥っている。熔子は必死に救いを求めた。春江が背中を懸命に擦《さす》っている。
「これか! 君が言っていたのは」
熔子が恐怖の目で何度も首を振った。
「どういうことです。熔子になにが!」
春江は母親になっていた。
「母さん。苦しい。息ができない」
熔子は春江の胸にとりすがった。体に痙攣《けいれん》がきている。そのとき……。
熔子の口から別の声が聞こえた。
「母さん。私を飲ませて。お願い。私を飲ませてあげて……熔子は助からないわ」
ザワザワとぼくの体全部に鳥肌が立った。
「できないよ。そんなこと」
「熔子まで死なせていいの」
ぼくは二人から離れた。春江は憑《つ》かれたように立ち上がると隣りの寝室に走った。急いで戻った春江の手には小さな瓶が握られていた。黒い粉が半分ほど入っている。
「よすんだ! やめなさい」
ぼくには、それがなんであるのか分かったような気がしたのだ。駆け寄ってとりあげようにも体が言うことを利かない。だれかが背中からぼくをしっかりと抱えている。
春江はキッチンからグラスを持ってくると粉を水に混ぜた。それは前に見た沼の水に似ていた。ぼくは絶望と恐怖に怯えた。
熔子がそれを飲み干した途端、あれほどの揺れが嘘のように静まった。埃もおさまった。体の自由が急に利いた。押さえが緩んだ反動でぼくは前につんのめった。春江は小刻みに体を震わせながら熔子を眺めていた。熔子は畳にうつ伏せて静かな呼吸をしている。
「知ってましたか。あれのことを……」
春江は座りこんだ姿勢のまま訊ねた。
「いや……今だって信じたくない」
「なにが起きたんです。私には……」
憔悴《しようすい》しきった表情でぼくを見上げる。熔子の意識はまだ戻らない。だが心配はなさそうだ。穏やかな呼吸を繰り返している。
「話を聞かせて下さい。熔子が町に戻ってから毎日これが続いていたんです」
「それなら……あの子はやはり熔子のことを羨《うらや》んでいたんでしょうね」
「あの子って?」
「熔子の姉です。今の声もきっと……」
「じゃあ、その瓶の中味は」
「あの子が入っておりました」
ぼくはその場にひざまずいた。
「そうですか。紫水館で私のことを……」
春江はすべてを了解した。
「父親の源右衛門さんに結婚を反対されてお子さんを中絶なさったこともうかがいましたが……女の子さんでしたか」
「私が若すぎたんです。まだ十九でしたから反対されたのも当たり前です。父親は町にフラリと現われた画家の卵で……私が親でもおなじ方法をとったかもしれません。性根はいい人でしたけれど父に一喝されただけで縮み上がってしまうような弱いところもありました。できた子供のためにも一緒に逃げようと訴えたのですが、諦《あきら》めてしまって……結局、もらった金と引換えに自分から進んで町をでていったんです。はじめは意地でも子供を産んで育てるつもりでおりましたが、そんな男の子供を産んでも苦労するばかりだと説得され続けると気持も傾いていきましてね」
「………」
「あとは父のいいなりに……町では目立つので山に入れと言われ、産婆さんもその土地の人を頼みました。相当のお婆さんでしたが若い頃から経験を積んでいて腕は間違いないと父は断言しました。そして……あの子をとりあげてもらったんです。六ヵ月で、ちゃんと女の子だと分かりました。今思うと、どうしてあの子の処置を人任せにしてしまったのか……それだけが辛いんです」
春江は瓶を両手に包みこんだ。
「その後、私は家を飛びだしました。納得して中絶した私が一番悪いんです。自分で分かっていても六ヵ月で殺されてしまった子供のことを考えると父が憎くて……とてもおなじ屋根の下に暮らしていることはできなかった。知らない町を転々として、気がついたときには三年がすぎていました。気持も荒《すさ》み、疲れきっていたときに熔子の父親と出会ったんです。真面目な病院の職員で、水商売をしている私のことを本気で思ってくれて……同棲《どうせい》じゃなくきちんと入籍をするためにも家に連絡をとるように勧めてくれました。その頃には熔子がお腹に入っていたので私も覚悟を決めて家に戻りました。父母は私など諦めていたらしくて、あっさりと結婚を認めてくれたのです」
「………」
「これであの人さえ事故に遭わなければ、今頃は親子三人で暮らしていたはずです」
「熔子のお父さんは死んだんですか」
「私は母の引き止めもあって結婚準備のために家で暮らしておりました。そこに連絡が届いたんです。凍った道で滑ったトラックにはねられて、本当にあっけなく」
よくよく運がない。ぼくは首を振った。
「熔子は四ヵ月でした。父は籍を入れる前でなによりだったと再びおなじことを言いだしたのです。正直言って私には、もう考える力も残っていませんでした。あの人を失った衝撃の方が強くて子供のことまではとても……あんな恐ろしいことだと分かっていながら、私はまた承諾してしまいました。一人で暮らした三年間はあまりにも惨めで寂しかった。戻ってみてはじめて家のありがたさを痛感したのです。このままもう少しゆっくりしていたい。そんな甘えもありました。それには、どうしても子供を産むわけにはいきません。父に懇願されると、三年も家を飛びだしていた私が、これ以上の我儘《わがまま》を親に言える道理がない、と本心から思うようになったのです」
春江は熔子を気にして様子を確かめた。
「私は山に入りました。前とおなじ産婆さんを頼って……その家で私が偶然目にしたものは……地獄そのものでした」
「………」
「蟠桃のことは町の言い伝えとして聞いておりました。でも……まさか、自分の子供がそれになっていたなんて……その家の棚にはラベルの貼られた小さな瓶が隠されるようにして並べてあったのです。黒い粉がそれぞれに入っていました。ラベルには日付が書きこまれ、四ヵ月とか八ヵ月の文字も側にあります。心臓が止まりました。直観で私には分かったのです。必死で棚を探しました。そして……あの子を見つけたんです」
ぼくは春江を直視できなかった。
「日付は三年前。そのすぐ下に六ヵ月・女という文字を確認して私は恐怖に身動きができなくなりました。瓶を掴むと裸足《はだし》のまま山から夢中で逃げだしました」
「………」
「気がついたのは病院のベッドです。山道に倒れていた私をだれかが運んでくれたらしく、あの子の入った瓶も脇の机にちゃんとありました。安堵《あんど》して名前を告げ、家に連絡をとってもらいました。もう、中絶はしないと決心もしています。恥をかかされたと激怒していた父も、瓶を見てすべてを悟りました。父は知らなかったと土下座して私に謝りました」
「それで熔子が生まれたんですね」
「ええ。産んだあと私がノイローゼにならなければ、ずうっと育てておりましたでしょう」
「ショックが残るのも当然だな」
「お乳をやろうとしたり、熔子を抱き上げると、決まって吐き気や得体のしれない震えが襲ってくるんです。しまいには熔子の側にいるのさえ怖くなって……」
姉の嫉妬《しつと》だ。ぼくはゾクッとした。
「病院に入って様子を見ることになり、熔子は結婚したばかりの兄夫婦に預けることにしました。二年ほど入院して家に戻っても、熔子が側にいればおなじ症状に襲われます。すっかり育てる自信を失って……私はまた家を抜けだしてしまったんです」
「お母さんも辛かったでしょうね……」
ぼくは心底、春江に哀れみを覚えた。春江の責任ではない。母の愛を求め、熔子の幸せを妬《ねた》んだ姉のせいなのだ。その姉だとて……。
「本当に熔子は何日も苦しめられて?」
ぼくは頷いた。嘘をついても仕方がない。春江は畳を何度も叩いて泣いた。
「どうしてなのよ。私はいつもおまえと一緒だったでしょう? いつになったら母さんを許してくれるの。熔子を憎むくらいなら私を殺してちょうだい。熔子とは関係ないわ」
「違いますよ。お母さん」
ぼくは突然思い至った。
「熔子を救ったのはお姉さんじゃないですか」
「……?」
「本当に熔子を恨んでいたのなら救いはしない。お姉さんの願いは自分を熔子に飲んでもらうことだったんです」
「飲んでもらう? どういう意味です」
「熔子が危険な状態だったからお母さんは素直に姉さんの頼みを実行した。もし、熔子がなんでもなければ、どんなに頼まれても姉さんを飲ませることはしなかったはずですね」
春江は怪訝《けげん》そうにぼくを眺めた。
「むしろお姉さんは熔子と一緒に生きたいと思ったんじゃないかな。お母さんのことも、熔子のことも許したからこそ、愛されている妹の中に入って自分も愛されようと願ったんです。きっとそうですよ」
「本当でしょうか。あの子は私を許して……」
「熔子の顔を見てやって下さい。眠りながら笑っている。そう思いませんか。こんなに幸福そうな顔はぼくもはじめてです」
ぼくたちは熔子を飽かずに見ていた。あとで熔子からなにが起こったのか聞かれるかもしれない。そのときにぼくはどこまで聞かせてやればいいのか……姉のことを包み隠さずに伝える必要があるのかどうか迷った。
「熔子にはなにも言わないでおきましょう。ぼくたちだけが知っていればいいことだ」
春江は熔子を愛している。ぼくと同様に。それは結局、熔子の中にいる姉を愛することになる。春江は必死で涙をこらえた。
眠っている熔子の指が動いた。畳にひとつずつゆっくりと文字が書かれていく。
「ご・め・ん・な・さ・い」
文字を読み終えた春江が熔子の指をしっかりと握った。春江の嗚咽《おえつ》は、いつまでも止むことなく続いた。
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蛍 の 女
「なにかあったのかい?」
午前の講義を終えて久し振りに『ウインズ』に顔をだすと、店はまるで台風でも直撃したかのように乱雑に散らかっていた。コーラやジュースの空き缶があちこちに転がっている。ボックスには見たことのない二人の男がいる。
「先生……酷《ひど》いことになっちゃったわ」
ママが私の姿を認めて苦笑した。
「喧嘩の後片付けか」
「泥棒よ。さっき店にでてみたらこの始末」
「泥棒──それにしちゃ乱暴なやり方だ」
私は首を傾《かし》げた。店の売上げを狙《ねら》ったとしても、ここは店舗だけで、ママの自宅は別のところにある。金目のものはない。
ボックスの男が私に関心を示した。
「刑事さんよ……こちらはウチの御馴染《おなじ》みさんで、教育大学で教えている方です」
ママは私を紹介した。私は様子を訊《たず》ねた。
「へえ。結局なにも盗られたものはないわけだ……壁の絵だって複製だしね」
「バカにしてるわ。それなら黙って帰ればいいじゃない。こんなに散らかしちゃって……イヤがらせのつもりかしら」
「はらいせでしょう。目論見《もくろみ》が外れてね──間違いなく流しの犯行ですよ。新幹線がきてから、この手の犯行が増えています」
年配の刑事はあまり気乗りのしない口調で言った。私も頷《うなず》いた。店の事情を多少でも知っている人間なら、狙うはずがない。
「これでも被害届をだす必要があるのかしら──フロアを目茶苦茶にされましたけど」
床全体にコーラやジュースを撒《ま》き散らしたシミができている。
「もともと酷い状態だったぜ。これで新しいのと取替える決心がついただろう」
私はママをからかった。それにしても、これで捕まった泥棒は割が合わない。
「盗まれたものが分かったのよ」
翌日、店に顔を見せるなりママが私に言った。店内には天城をはじめ見知った顔が二、三人いた。全員カウンターに腰かけてママを囲んでいる。泥棒の話をしていたのだろう。
「隠し金庫でもあったってわけ?」
私も皆と並んで腰かけながら皮肉を言った。
「それが──落書き帳なの」
私は思わず噴きだしそうになった。
「この店に置いていたヤツか──そりゃママの勘違いだよ。泥棒じゃなくて、誰かが持ちだしたんだ。いくらなんでもそれはないさ」
「だって、それしか考えられないもの。女の子は間違いなく一昨日の夜に本箱にしまったって言うし、失くなったのが分かったのは昨日の午後なのよ。その間のお客って先生と刑事さんを含めて何人もいないわ。昼休みで学生さんたちが店にきたときには、すでに失くなっていたんだから」
ママはふくれた顔をした。確かにそれならおかしい。客が互いの連絡やウサばらしのために書き散らしたノートだ。あんなものに興味を持っているのは若い人間だけだ。大人の客は滅多に手にとることもしない。
「だから──泥棒は若い人間だな。それをママに説明していたところなんスよ」
天城が相変わらず口ごもった口調で私に言った。下口唇を噛《か》むクセのせいだ。会うたびにいつも注意しているが絶対に直らない。それに、また一段と顔の色が濃くなっている。山歩きでもしてきたのだろう。営林署に勤めていて、仕事で盛岡にでてくると、たまに店にやってくる。歳もとうに三十を過ぎたはずだが、まだ独身でいる。
「先生もそう思わないスか」
「本当に盗まれたのが落書き帳だけだとすればね……それで? 被害届は」
「だしてないわよ。怒られちゃうわ」
「その方がいい。何日かたってひょっこり本箱に戻るなんてこともありえるよ。絶対に泥棒の仕業とは限らんからね」
私は信じていなかった。気紛れにしても妙な話だ。ないと騒いだ学生本人が、その前にカバンに入れたという可能性の方が高い。
「とにかく、顔見知りの犯行じゃないんだから、無関係のノートを盗みだすってことは考えられない。犯人がいくら若い人間だとしても、他人の落書きに興味はないだろうさ」
「それは、心理学的な解釈ですか」
車のセールスをしている鈴木が納得した顔で訊ねた。私は大学で心理学を教えている。皆、それを知っている。
「そんなに大袈裟《おおげさ》なもんじゃない。常識的な判断でね──本当に落書き帳を盗んでいったものなら、逆に説明がむずかしくなる。そういう犯人の心理には興味を引かれるね」
「そうだな。もう少し調べる必要がありそうだ。届をだして発見されたんじゃ恥をかく」
「ださないって言ったでしょう」
鈴木の言葉にママが笑った。
「刑事さんはなにか言ってきた?」
「別に……昨日もすぐ帰ったから」
「張合いがない事件だものな。オレが刑事でも翌日には忘れちまう」
鈴木はイスから腰をあげながら言った。天城も一緒に席を離れた。
「なんだ。君も帰るのかい」
「ええ。これから山に戻らなきゃならないんスよ。出張は今日で終わりです」
口唇を噛みながら天城は言った。
「これからって──君のいるところは結構遠いんじゃなかったか。確か釜石って……」
「ここから三時間……夜だと少し早いかな」
天城は屈託のない笑顔で答えると、気軽に手を振って鈴木と店をでていった。
「彼は昨日も店にきたんだろう?」
「天城さん? いいえ、三週間ぶりじゃないかしら。どうして?」
「盛岡にきていたら当然、顔を見せたのかなと思ってさ。彼はママのファンのようだから」
「まさか。遊びにきているわけじゃないもの。それにあの人、女嫌いって評判よ」
「誰から聞いたんだい。そうは見えないがな」
「前に一緒にきた上司の人が教えてくれたわ。どんなにいい話を持ちこんでも、写真も見ないうちに断わるんですって。結婚する気がないみたいね。故郷に好きな人でもいるんじゃないかって彼をからかってたけど」
「なるほど……彼はどこの出身なんだっけ」
「山科《やましな》村だったかな。酷い田舎みたい」
私は思いだした。東北には過疎地帯が珍しくはないが、山科村は中でも有名な村である。人口は二百人足らず。中学校はもちろん、小学校すら近隣の町に行かなければならないほどだ。近隣といっても歩いて二時間はかかる。ほとんどが林業で、家も山の中に建てられているらしい。電気だって怪しいものだ。景色がいいから観光客は結構行く場所だが、人の住むには不便なところだ。
「あそこじゃ、待ってる娘もいないだろう。若い者は皆外にでてしまう」
「そうよね──やっぱり女嫌いなんだわ」
「違うよ。そういうタイプじゃない。オレの専攻は心理学だぜ。彼は間違いなくママに惚《ほ》れてるな。だから見合いを断わってるんだよ」
「仮にママが泥棒だとしたら……」
「なによ、突然」
「仮にだよ。いくら盗むものがないからって、落書き帳を持って帰るかい?」
私は少し気になりはじめていた。二杯目のコーヒーを注文しながら訊ねてみた。
「内容にもよるわね。偶然好きな人の住所が書いてあったり、ポルノっぽい文章があれば面白いと思うんじゃない。最近の若い子は平気でそんなのを書くんだから」
「だけど、それは中を読んでからの話だろう。盗みの最中にそんな余裕があるかな」
「あ、そうか。じゃ、知ってたのかな」
「最初からノートの内容を知ってるほどの犯人なら、この店の状態もある程度分かっているだろう。夜中に忍びこんでも金目のものがないくらい知っている。それはありえない」
「そうね──すると、やっぱり落書き帳は今度のこととは関係がないのかしら」
「そう考えるのが自然だが……犯人の興味を引くことが中に書かれてあったのかな」
百万分の一の確率だが、泥棒の最中に落書き帳に気づき、開いてみたら偶然なにかにぶつかった。それはないだろうか。
「たとえば?」
ママは首を傾《かし》げた。
「主婦売春の連絡先とか、率のいいアルバイトの情報とかさ」
ママは声をあげて笑った。
「ずいぶんケチな泥棒じゃない。アルバイトは分かんないけど、売春はないわよ……ウチの落書き帳はもっと真面目《まじめ》だわ。学生がほとんどなんだから」
さすがに私も頷いた。
「まあ、落書き帳を読んでみれば分かるだろう。盗難説はそれからだな」
「読むって……ああ、そうか、先生にコピーを作ってあげたんだ」
喫茶店の客を対象とした落書き帳は心理学のテキストとして最良のものだ。書き手の本音がでているから性格を掴《つか》みやすい。何年か前から私は意識的に落書き帳を眺めるようになった。親しい店の場合は頼みこんでコピーをとらせてもらうこともある。最初はわけもなく警戒されたが、私が心理学を専攻していることが分かると安心して作ってくれるのである。『ウインズ』だけでなく、他の何軒かのコピーも持っていた。
私は部屋に戻ると『ウインズ』の分を探した。二年分だから結構な分量だ。ノートにして十二冊分はある。失くなったのは店にだしてあった最近の三冊だと聞いている。ここ二週間に関してはまだコピーをとっていないが、前に読んで大体の内容を覚えている。
〈大したことは書いてなかったな〉
私は紛失した分を選びだすと、のんびりと読み始めた。ほとんど他愛ない落書きだ。
バイト先で知り合った妻子ある男性との恋に苦しんでいます。車を買ったから誰か一緒にドライブに行かないか。また授業をサボって『ウインズ』にいる。金がない。アイスクリームの美味《おい》しい店を見つけました。セックスってなんなの? 彼ったらいつでも私にそれだけを要求します。もてる男には真実がない、つきあうならオレのような男を選べ。詩集を自費出版しました。興味ある方は連絡下さい。女性大歓迎。バカ、見え見えなんだよ。君たちは青春を浪費している。反省すべきだ。青春は苦しむためにのみ存在する。もっと考えなければいけない問題が我々にはあるはずだ。この文章書いたヤツをオレは知っている。学部で一番もてないKだ。ヤツは若ハゲに毎晩悩んでいる。ネェ、彼女。ディスコに行かないかい。優しいお姉さん、ボクの友達になって慰めて下さい。当方、十七歳の孤独な若者です。なんたってエーチャンが最高だぜい。ロックだけが神様よ。いいえ、お客様が神様です(ウインズママ)。皆さんの溌溂《はつらつ》とした発言に驚くやら、楽しいやら、オバさんも仲間に入れてくれますか? もちろん大歓迎です。今度お店にきたら気軽に声をかけて下さい。ウインズって素敵な名前。また彼との思い出ができてしまいました。ここはモーテルじゃありません。モーテルってモテる男が利用するホテルのことですか。その通りです。たまにはモデルも利用してるようです。
なんだかまともに読むのがバカバカしくなってきた。若者の意識調査とでも割切ればそれなりに面白いが、泥棒の興味を引きそうな部分は一つもない。ほとんどが匿名で、鬱憤《うつぷん》を晴らしている感じだ。ノート二、三ページにわたって日記風に身辺を綴《つづ》っている若者もいた。若者の苦悩は充分に伝わってくるが、それにしてもつまらない日常だ。泥棒が食指を動かす内容とはとうてい思われない。
〈やはり泥棒とは無関係か〉
私は次第に飽きてきた。目は文字だけを無意識に追っている。
コピーを捲《めく》る私の手が止まった。クロスワードのようなものがある。いや、囲まれた箱の中に全部文字が埋められてあるから、それとは違う。なにか暗号のようなものらしい。
〈なるほどM生が書いたものか〉
M生とはこの落書き帳で何度か目にした名前である。上になにやらメッセージがある。
──ついに小生は告白する。それは蛍の女との悲しくも美しい出会いなのだ。小生が君たち女の子と世俗的な恋を避け続けているのは、この思い出があるからだ。これを読んでいる君、ディスコなどで知り合うような安直な恋ばかりせずに、小生のような美しい思い出を作りたまえ。若さは二度と戻ってこない。オッと忘れるところだった。小生は今年も夏になると蛍の女に会いに行く。そこには輝くばかりの美しい女がいる。小生のくるのをひたすら待っているのだ。疑うのなら連れて行ってもいい。ただしこの謎《なぞ》を解いてからだ。無理だろうな。君たちのノウミソ抜きの頭じゃ解けやしない。漢字も読めない君たちだ。平仮名にすればよかったかな。結局、今年も一人で行くことになるだろう──
どこまで本気なのか見当がつかない。のろけなのか、自分を相手にしてくれない女の子に対する苛立《いらだ》ちなのか、それも曖昧《あいまい》だ。どうせ謎だって意味のないものに決まっている。
それに、なんとなくイヤミな文章だ。私は前に遡《さかのぼ》ってM生の書いたものを読み返してみた。結構|辛辣《しんらつ》なことを冗談混じりに記してある。若者に特有な誤字も比較的少なかった。自分の頭の良さに酔っている感じだ。
〈同世代に対する蔑視《べつし》を持っている〉
過保護世代の典型的なタイプといっていい。自分以外に興味を持てないのである。私はふたたび暗号に戻った。暗号を解かせたいためばかりに上の文章は書かれている。それは間違いがない。
山べ旨い鶴実し
がそ汝が濃霧つ
のら臼み覗き身
北流そ棚分見る
もいのがも嘘降
るかわの血と蝉
意味のないものだと思っていても、解けないものは気になるものだ。私はしばらく落書き帳の検討を忘れて、この暗号に没頭した。
〈むずかしいわけはないんだが〉
どうせヒマ潰《つぶ》しに短時間で作ったものだろう。私はタカをくくっていた。今どき小生などと平気で書く神経も笑わせる。蛍の女などと気取って書いているが、これだってホテルで会った女性というゴロ合わせに違いない。
結構厄介な代物だった。あれこれと文字を動かし、一時間ほど真剣に取組んで私は諦《あきら》めた。仲間うちで決められた読み方でもあるのかもしれない。あけた穴から文字をのぞくグリルのようなものを使う暗号ならお手上げだ。少し癪《しやく》だったが、このM生という男、これで案外キレる人間なのだろう。ただの過保護青年ではないかもしれない。暗号よりも私は作った男に興味を抱いた。
「どう? なにか分かって」
ママは私を認めると大声をあげた。昼休みで学生たちが大勢集まっている。店内が騒がしい。知っている学生も何人か混じっていた。
「泥棒とは関係がないようだな。まあ、仮にあったとしてもくだらない理由だろう」
「そう、でもホッとした。気にしていたのよ」
「あの暗号は知ってた?」
「ああ、あれね。店の子も挑戦したわよ。結局答えは分からずじまいだったけど」
ママの声に店の女の子が頷いた。
「解答がないクイズなんてすぐに飽きちゃうじゃない。私はバカバカしくてはじめから解くつもりもなかったけど」
「ふーん。何人かは挑戦したわけだ。なのに、作った本人は絶対に答えを言わないんだな」
それならやはりいい加減な問題だったのか。
「違うのよ。本人がパッタリと店にこなくなっちゃったの。そのうち顔をだしたら聞いてみようと思っていたところ」
「なんだ。それは残念だな。実はオレも気になってね。答えを聞きたいと思っていたんだが、こないんじゃ仕方がない」
「不思議なのよね。三日に一度は顔をだしていたんですもの。病気でもしているのかしら。大学にはちゃんと行ってるの?」
ママは思いついてボックスに陣取っている何人かに声をかけた。
「知らねえよ。誰もヤツとは付き合いがねェもの。でもここんとこツラは見ねェな」
乱暴な口調で一人が答えた。学内で見た顔だ。するとM生とはウチの学校の生徒だったというわけか。
「あれを書いたのは誰だい」
「松山ですよ。たぶん、先生は知らないんじゃない。学校でも目立たないヤツだし」
「どこの学部だろう」
「皆、数学科のブラックホールって呼んでましたけどね。ネクラのカタマリだから。今どきひとり旅が趣味なんて情けないスよ」
何人かがけたたましい笑いをした。数学科なら心理学を専攻している人間はあまりいない。それにしても、こんな生徒たちが教師になっていくことを考えると少しゾッとした。
「誰も読みはしないのに、セッセと書くこと自体がイヤミですよ。自分じゃウケてると思ってたんじゃないですか」
髪を染めた別の学生が鼻で笑った。
「よほど皆から嫌われていたようだな」
学生たちが帰ると私はホッとしてママに言った。なんとなく不愉快な気分だ。
「そうね、いつも一人できていたわ。今の子は極端だけど確かに友達はいなかったみたい」
「それで、隅っこで落書き帳を相手にしていたわけだ。あの痩《や》せた髪の短い男かい?」
ママは頷いた。それなら私も何度か見かけた覚えがあった。ブツブツとひとりごとを言ってはノートに向かっていた。自閉症じゃないか。そう思ったこともある。
「信じられないな──彼があんな饒舌《じようぜつ》な文章を書く男だなんてね」
小生と書いた几帳面《きちようめん》な文字を私は思いだした。孤独の裏返しに違いない。ありもしない夢想に耽《ふけ》っていたのだろう。
「結局……蛍の女も松山の幻想か」
「蛍ね……そう言えば、皆ずいぶん笑ってたわ。彼にピッタリだって」
私はやり切れない思いだった。彼の気持は痛いほど分かる。自分だって学生の時分は友達がいなかった。その辛さを本を読むことで紛らしてきたのだ。彼の文章にわけもなく反発したのは、私とおなじ匂いを敏感に感じとっていたからに違いない。誰も読みはしない文章をコツコツとノートに綴《つづ》っている彼の姿を想像すると胸がつまった。
「松山でしたね……休学願いはでていないようですが、ずうっと休んでいます」
教務室に用事があったついでに私は松山のことを訊ねてみた。職員は必修科目の出席簿を開いて確かめた。
「いつ頃から休んでいますか」
「三週間前から連続して欠席しているようです。やっぱり病気かもしれない。その前は真面目に一日も休んでいませんから」
私は住所を教えてもらうとそこをでた。自宅ではない。アパートに一人住いをしている。本当に病気だとすれば可哀相だ。一人も友達がいないで布団にくるまっているのかもしれない。関係はないが妙に気になる男だ。
〈余計なことだと思われるだろうな〉
ドアを何度かノックしてみたが返事がない。どうやら中には誰もいないようだ。
「松山なら何日も帰ってないよ」
隣りの部屋の若い男が音を聞きつけて顔をだした。まだ五時前だというのにパジャマを着ている。夜の仕事なのだろうか。男はうさんくさそうな顔で私を見つめた。
「集金かなんかかい?」
「学校のものですが、ずうっと無断で欠席しているものですから気になって」
「ああ、大家も気にしてるよ。荷物はあるようだからそのうち帰ってくると思うけどね。実家の北海道にでも帰ったんじゃないの」
男は面倒くさそうに話した。
「大学ってとこは結構親切なんだね──それとも授業料でも滞納したか」
言い終えると男は肩を揺すらせて笑った。自分の冗談がよほど気にいったらしい。
「いつからいないんです」
「さあ、いるかいないかはっきりしない野郎だからな。二、三週間前じゃないか?」
剥《む》きでた歯がヤニで真黒だった。
「厭《いや》だわ。どうしたのかしら」
ママが私の話に顔を曇らせた。
「念のために彼の田舎にも連絡をとってみたんだが、そっちにも戻っていない。しょっちゅう長い旅行をするんで特に心配もしていないようだが……どうも気になるな」
「あれと関係があるの?」
「なんとも言えない。偶然だとは思うが……彼が犯人だったというのも理屈に合わないし」
あとで自分の書いた文章が厭になったとしても、断わって破り捨てれば用が足りる。金が目的だとすれば、夜には狙わない。
「やっぱり無関係としか思えないね」
私の言葉にママはホッと顔を緩めた。
「そのうち現われるさ。それこそ蛍の女にでも会いにでかけたんじゃないのかい」
何日かが無為に過ぎた。『ウインズ』にもあれ以来顔をだしていない。九月は学会のシーズンである。今年はウチの大学が教育シンポジウムの開催校になっていて、その下準備で結構忙しい。松山のことを思いだしたのは委員会で数学科の講師と席が隣り合わせになったときだ。
「松山ね……」
若い講師は一瞬笑いを噛みころした。
「名物男ですよ。他の皆と規格が合わないんだな。真面目すぎて面白味に欠ける。教師は頭の良さだけでは務まりませんからね」
「なにか問題でも?」
「できないヤツをぼくが可愛がるんで不満を持っていたらしい。学長に直訴されましてね。もちろん問題にもならなかったが……幼児性と老獪《ろうかい》さが同居してるって言えばいいかな。頭は非常にいい。しかし、ぼくは厭だな。ああいう男に教えられる生徒が気の毒だ。成績でしか人間を判断できない」
それはあんたの余裕だ。私には松山の気持が分かるような気がした。他人に溶けこめない人間は自分の能力に頼る他はない。成績だけがよりどころなのだ。教師になって自分の存在を認めてくれる人間が増えていけば自然に癒っていく、それだけのことなのだ。
「ずうっと休んでいますよ。なにがあったか知らないが。お陰でクラスは明るくなりましたね。松山がいたんじゃ授業がやりにくくて仕方がない。こっちの揚げ足をとることだけに熱心な男だから……」
それだって寂しいからしていることだ。
「なにか変わったところはなかったかな」
私は腹立ちを抑えながら訊ねた。
「別に……こっちも興味はないし」
「暗号なんかはどうです?」
「ああ、それで松山のことを? あいつの暗号好きは有名ですよ。いくつか作ってぼくにも持ってきました。あいつはぼくが関係している旅行同好会にも所属していたから……解く気にもならないんで放っておきましたけど。蛍がどうとか言っていたな」
落書き帳に書いた暗号と同じものに違いない。興味を持ってくれると思って作ってきたのだ。それを無視されたので落書き帳に書いたのだろう。
私は部屋に戻るとふたたび暗号を引張りだした。確かに迂闊《うかつ》だった。松山の旅行好きは前にも学生から耳にした。ノーヒントで顧問教師に見せたことを考えれば旅行が関係している可能性がある。
〈どこかにヒントがあるはずだ〉
最初にそれを見つけなければならない。
私はビールの栓を開けると、途中で買ってきたフライドチキンを肴《さかな》に暗号と取組んだ。
私は松山の心理を考えた。彼は子供のように頭の良さを自慢したいのだ。説明されれば思いがけないほど簡単な暗号に違いない。
〈だが、それはオレのような旅行嫌いの人間にも解けるものだろうか〉
それが問題だ。しかし、落書き帳に書いたところをみれば解けそうな気もする。客が全部旅行好きとは限らない。彼はあれを書くことによって友達を求めていたのだ。解答を聞きにきた人間に説明するのに、わけの分からない地名を使ったら興味を持たれなくなる。
〈地名……か〉
それは我ながらいい線だ。時計の針はすでに十時をまわっている。部屋に戻って二時間が過ぎていた。と言ってウチには地名に関した書物が一冊もない。調べようにも手掛りがなさすぎる。
「ノウミソ抜きの頭か……」
私は声にだして呟《つぶや》いた。ビールは三本目に手がついている。少し酔いもまわっていた。
ここだけ他の部分から浮き上がっている。なぜノウミソという文字だけをカタカナにしなければならない? 彼の性格なら漢字で書きそうなものだ。現に松山自身が平仮名じゃないと読めないのかと若い連中を皮肉っているのに。
〈平仮名になおしてみろという意味かな〉
私は思いついて全文を平仮名に換えた。
やまべうまいつるみしがそながのうむつのらうすみのぞきみほくりゅうそたなぶみるもいのがもうそふるかわのちとせみ
余計に意味は分からなくなる。けれどこのやり方でよさそうだ。あの講師に電話でもしてみるか。そうも思ったが結局やめた。せっかくここまで分かったのだ。できるところまで自分で解いてみたい。
ぼんやりと平仮名を眺める私の目に突然、長野の地名が浮かび上がった。暗号では汝が濃霧と続いていたので分からなかった。これは地名を使った暗号の可能性が強い。長野が見つかったのは絶対に偶然ではないはずだ。私は常に旅行カバンの中に入れてある時刻表をとりだしてきた。照合すると次々に地名が発見された。私は分かった分をメモした。
山辺《やまべ》うまいつるみ滋賀《しが》そ長野う陸奥《むつ》のらうすみのぞきみほくりゅうそ田名部《たなぶ》み留萌《るもい》の蒲生《がもう》そ古川《ふるかわ》の千歳《ちとせ》み
私は溜息を吐いた。どうやら間違いはない。それでも、どうしても分からない部分が残っている。私は諦めて講師に連絡をした。
「うまいつるみ、のらうすみのぞきみほくりゅうそ……この中に地名が入っているかということですね。なるほど。ありますよ。少し調べてみます。あとでこちらから」
彼はしばらくして連絡をよこした。
「最初は舞鶴か鶴見。次の部分には羅臼《らうす》と及位《のぞき》、最後が北竜《ほくりゆう》でしょうか」
「及位? 珍しい地名だな。羅臼と北竜ってのもあまり聞かないね」
「及位は山形にあります。難解な地名として逆に有名ですよ。あとはどちらも北海道」
私は納得した。松山の故郷は北海道だ。
私は礼を言うと電話を切った。
うまい鶴見、う舞鶴み、メモに書きこんでみて、私は最初の方を消した。松山がノウミソ抜きと書いた意味が分かったからだ。彼は暗号を複雑にするため地名の間にノウミソの文字を挟んだ。それを抜けばいい。
これで完全に地名ばかりになる。
山辺・舞鶴・滋賀・長野・陸奥・羅臼・及位・北竜・田名部・留萌・蒲生・古川・千歳
〈どういうことだ〉
私はしばらく眺めて、そして解読した。背中にザワザワと鳥肌がたった。松山はたぶん殺されたのだ。それは確信に近かった。理由はなんだ。私は叫びたかった。なぜ松山を殺さなければならない。
最前から急に降りはじめた横なぐりの雨が窓にぶつかり激しい音を立てている。私は必死で眩暈《めまい》と戦っていた。
数日後。私とママは天城の運転する車に乗って山科村に向かった。久し振りの休暇と聞いてママが彼を誘ったのである。ママははしゃいでいた。サンドウィッチやコーヒーを詰めこんだポットも用意して、すっかりハイキング気分だ。私も山科村ははじめてだ。
「田舎にはずいぶん帰ってないのかい」
私は楽しそうに運転する天城に訊《き》いた。
「いや、一年前までは山科村の近くで働いていましたし……ときどきは帰ってますよ」
「家族は元気なの?」
「誰もいないス。家が残っているだけでね」
天城は少し寂しそうな表情をみせた。
「皆とっくに死んじまって──家が売れれば村とも関係がなくなるんだけど、誰も買う人がいないしね。それで何度か戻っては空気を入れ替えているんスよ」
車は一時間ほど走ると舗装のない山道にかかった。ここからまだ一時間以上も山の中に入っていかなければならない。振動が尻に伝わってくる。忘れていた感触だ。
「大変なところだな。この道ならバスなんかも通らないだろう」
「夏場は走っています。観光客が結構乗ってきますよ。キャンプ場があるんです」
「君の口唇を噛むクセだが……今は止した方がいいぜ。この振動じゃ噛み切ってしまう」
私は本気で心配した。話している私の声までが車の揺れに合わせて震えている。
「大丈夫です。馴《な》れてますから」
天城は愉快そうにハンドルを叩いた。
「もう少し行けば見晴らしのいい丘に着きます。景色のいいところで休憩しましょう」
「ママはどこが見たいのかな」
草原に腰をおろしながら天城が訊ねた。手には渡されたポテトサンドを握っている。
「どこでもいいわ。別に知らないもの」
「オレの方は結構調べてきたぜ。村から近いか遠いか分からんがね」
私は天城の顔を見ながら言った。
「村の中ならしれています。どこですか」
「確か蛍ヵ淵って言ったな」
「蛍ヵ淵……そんな場所はない」
天城は慌てて否定した。顔には脂汗が浮きでている。私は無視して続けた。
「馬ヵ淵。通称蛍ヵ淵。馬がはまって死ぬほど広くて深い淵なそうだ」
「……なるほど……馬ヵ淵のことですか」
天城はしどろもどろの口調になった。
「行ってもつまらない場所です」
「蛍の名所だって本には書いてあった。シーズンになれば何十万匹の蛍が飛びかって幻想的な雰囲気だそうだ」
「シーズンって、今じゃないの。そんなところがあるのなら行ってみましょうよ。蛍なんて何年も見たことがないわ」
ママが嬉しそうな声で叫んだ。
「蛍なんて見てもしようがないスよ」
天城は汗を拭《ふ》きながら反対した。
「帰りが遅くなる」
「いいわよ。こんなチャンスは滅多にないんですもの。せっかくここまできて見ないで帰る法はないわ。ね、先生」
「オレは場所を知らない」
「つまらない場所だと言ったばかりじゃないか。知らないわけはない」
天城は返事をしなかった。ママもその態度に妙な感じを抱いたようだ。これまでの天城の様子と少し違う。私は思いきって話した。
「蛍の女ってのは、君とどういう関係だ?」
ママが呆然《ぼうぜん》として私を見つめた。
「ちょっと待って──それなんのこと」
「松山が書いていた女のことさ。彼女は実在したんだ。ママの店に泥棒に入ったのは天城君だよ。彼が落書き帳を盗んだんだ」
「まさか! どうして、どうしてよ」
ママは私の腕を強く掴《つか》んだ。掌《てのひら》がベットリと濡《ぬ》れている。小さな震えが伝わってきた。
「嵌《は》めたんですか……」
天城が諦《あきら》めた様子で口にした。
「ママには関係ない。君をそれとなく誘うようには仕向けたけどね」
「そうスか。それじゃ怒れないな」
天城の目は静かだった。
「松山はどうした。殺したのか」
「ええ。仕方がないスよ」
ママが怯《おび》えて私の腕をギュッと握った。
「大丈夫だよ。彼はそんな人間じゃない」
私は努めて冷静に話した。
「蛍の女は君の恋人だったのか?」
「いや……死んだ妹です。不憫《ふびん》なヤツでした」
天城は一瞬声をつまらせると私を見つめた。涙がうっすらと浮かんでいた。
「話を聞かせてくれないか。オレにはどうしても君の気持が理解できないんだ」
山科村は呪《のろ》われた村です。いや、オレを含めた四十人ばかりの一族が呪われていると言った方がいい。我々の先祖は隠れキリシタンだったそうです。仙台の方から逃れてきてこの山の中に落ち着いた。こんなことは世間によくあることなんでしょうが、もし、弾圧されずに町に住んでさえいれば我々のような人間は生まれることがなかったはずだ。それを考えるとたまらないんです。
なにしろこんな山奥です。追手もこない代わりに新しい人間も入ってこない。逃げてきたのは六家族だったんですが、三百年も経つうちに血が混じりあって、ほとんど近親|相姦《そうかん》のような状態になりました。まさか実の兄妹が一緒になることはなかったでしょうが、腹違いの間では結婚が頻繁に行なわれたらしい。その状態が明治まで続けられたんです。どんなに悲惨なことか分かるでしょう。昭和になるとさすがにそれがなくなり、死産や病弱な子供が生まれることも少なくなりましたが、三百年の歴史は簡単に消え去るものではない。先祖の弾圧された恨みや呪いが我々の中に血となって残されてしまったのです。
「暗血症」ってのを聞いたことがありませんか。血の色素が普通よりずっと黒いんです。皮膚が黒いわけじゃないから、どうってこともないような気がしますが、口唇とか瞼《まぶた》の裏側とか、皮の薄い部分では凄《すご》く目立つんですよ。人間の肌に色の差があるように、病気ではないから生活には支障がありませんが、その代わり一生そのままです。妹はその暗血症でした。今まで黙っていましたがオレもそうなんですよ。一族は共通して口唇を噛むクセを持っています。強く噛み締めれば血液の循環が止まって口唇が白く見えますからね。学校に通って大勢の人間と接するうちに自然と身につけてしまうんです。放っておけば、ホラこの通り段々と口唇が紫に変色してくるんです。
治癒する方法はありませんが、この症状をなくす方法はあります。子供を作らなければいいんです。昭和の初めに医者が祖父に言ったそうです。でも、実際にオレたちが生まれたわけだから、実行はできなかったんでしょう。産めよ殖やせよの時代だったんで、そんなことも忘れたんでしょうか。健康にはまったく関係がないので兵隊としては役に立つ。父はそう言って笑っていましたが、この歳になって祖父や父の気持が分かるようになりました。最初から子供ができないのなら諦めもつくが、できたのを諦めるというのはむずかしい。だからといって親を責めるつもりにはなれません。寂しいんですよ。こんな山の中に夫婦二人だけで暮らしているということが。
オレと妹がまわりにいることで両親は最初のうち、ずいぶん慰められもしたでしょう。でも、学校に上がるようになるとそれは激しい責め苦に変わりました。毎日友達にいじめられてくる我々の姿を見て、両親は後悔したようです。子供たちに罪はない。自分たちの寂しさから無駄な苦しみを背負った子供を作ってしまったとね。
妹と一緒になって母は毎日泣いていました。母が首をくくったのは妹に初潮があったときです。「許してけれ。子供は産んでわがね」遺書にはそれだけが書かれてありました。これから先、妹の女としての苦しみを見つめていく自信が母にはなかったのかもしれません。
オレと妹は母の死体にすがって約束しました。オレたちの時代で終りにする。二人とも結婚はしない。絶対に子供は作らないと。
天城は声をつまらせた。ママは泣いていた。
〈それで結婚を拒否していたのか〉
私は頷きながら天城を見た。無意識に口唇を噛んでいる。直視できなかった。天城は気を持ち直すと話を続けた。
決して美しい娘ではありませんでしたが、妹は愛嬌《あいきよう》のある子でした。名前はケイコと言います。六つ違いですから生きていれば二十六歳です。母が亡くなった後、三年も経たないうちに父が死んで、オレたち二人だけが残されました。オレは高校を卒業して町への就職が決まっていたのですが、幼い妹の面倒を見てやらなければなりません。父が残した山を継ぐことにしたのです。
二人だけの生活が何年か続きました。今思えば、あの頃が我々にとって一番幸せな時だったのでしょう。妹は中学をでて、隣町の職業学校に入学が決まりました。それを終えたら、二人でこの村をでて都会に住もうと約束もしました。互いに生きていく技術を身につけて、助け合っていこうと夢を見ていたのです。ところが、その矢先──妹は汚されてしまいました。真夏の暑い夜です。家の近くの蛍ヵ淵に一人ででかけていた時のことです。月の明るい晩でした。妹は淵に体を沈めて月光を頼りに泳いでいました。誰もこの辺りまでやってくる人間はいません。前にも何度かそうしたことはあったのでしょう。警戒心も持たずに蛍と戯れていたのです。そこに三人のハイカーが現われました。近くにキャンプを張っていた若い連中です。ケイコが口ずさんだ歌声を聞きつけて淵まで確かめにきたのです。どんなことになったか想像がつきますね。家に辿《たど》り着いた妹の体は傷だらけでした。裸のままで山の中を逃げかえってきたのです。もちろんオレは連中を必死に探しまわりましたが、彼らはとっくにキャンプを畳んで逃げ去ったあとでした。
それから妹は変わりました。オレの顔を見ても怯える始末です。すっかり人間恐怖症になってしまったのです。これでは学校に通わせるわけにはいきません。可哀相な話ですが、オレはむしろその方が妹のために良いのではないかと考えもしました。これから先大人になるに従って妹は恋もするでしょう。そのときになって苦しむことに較べれば、このままの方がずっと楽だ、とね。
半年も経つうちに妹の心も癒えたように思われました。あとから考えるとオレがそう思っただけで、妹の本心は分かりません。妹は町に働きに行きたいと言いだしました。親戚の者が住込みの仕事を世話してくれたのです。そこは町でも有名な医院で、夜学にも通わせてくれるというのです。オレも了承しました。そんな条件がなければ、いくらオレでも町にだすことはしません。
三年が無事にすぎました。妹は真面目に学校にも行っていたようですし、こっちの仕事も順調で、なにも問題はなかったのです。
そんなある日、オレは突然医院から呼びだしを受けました。妹がそこの浪人中の息子を誘惑したというのです。先生と奥さんは飼犬に手を噛まれたとカンカンです。まともな娘ならともかく……先生はそう言いました。オレは皆の見ている前で妹を殴りつけました。悔しくて、泣きたい気持でした。側で息子はそれをじっと見ています。妹を庇《かば》ってくれるだけの気概もない、おとなしい青年でした。だから妹も好きになったんでしょう。
泣き喚《わめ》く妹の腕を引き摺《ず》るようにして家に連れ帰りました。リップクリームを買ってくれたそうです。いつも口唇を噛んでいるので、これをつけると口唇が荒れないと言って……。
辛い気持でした。妹は十八です。誰を好きになっても構わないじゃありませんか。でも、オレはそれを言ってやることができない。好きになっても相手を不幸にするだけだ。それが分からないのか。泣きじゃくる妹にそう言い聞かす他ないのです。
妹はそれからずっと家にいるようになりました。ときどき二人で町に食料品や衣類を買いにでるだけで、家に閉《と》じ籠《こも》りっきりの生活です。十八から二十四までの六年間……若い娘がそうした毎日をすごして平気だなんてありえない話です。ところがオレはそれを見抜けなかった。なまじ顔を見ているだけに気がつかないでいたのです。
二年前のことです。町に用事があってでたついでに喫茶店に立寄りました。すると、後ろにいたハイカーたちが妙なことを話しているじゃありませんか。蛍の女がどうしたとか……聞耳を立てているうちに体がブルブルと震えました。夏の蛍のシーズンになれば蛍ヵ淵に女が現われて男を誘うというのです。土地の娘が夜に水遊びにやってきてキャンプの若者を誘惑する。そんな内容です。
不安がオレの胸の中をよぎりました。確かにその時間ならオレも帰りが遅い。その間妹が家でなにをしているのか、まったく分かりません。言われてみれば妹は夜に外にでるのが好きでした。暗がりだと口唇の色も目立ちません。普通の娘とおなじような気持になれるのです。耳を塞《ふさ》ぎたい気分でした。
妹のことに間違いはありません。
蛍ヵ淵という場所も納得できます。妹の頭の中からは昔の記憶が消え去ってはいないのです。蛍の季節になれば厭でも思いだします。女の気持がどんなものかオレには見当もつきませんが、禁じられていただけに欲望が逆に強まったのか──妹は蛍に誘われるように淵にでかけては、見知らぬ男たちに体を与えていたのです。蒸し暑い夜は誰だって気がおかしくなります。普通の兄なら叱りつけて、家から追いだしもしたでしょうが、それだけはできなかった。そんな妹が哀れで仕方がなかったのです。
妹も寂しかったんだと思いますよ。夜の闇の中で普通の女として男に愛されたい。その気持はオレ自身も持っているのです。責めることはできない。気がつかないフリをして見守る他はない。それがそのときの結論でした。
去年の春です……妹はオレに子供ができたと告白しました。正直、いつかはそんなこともありえると思っていました。どうせ父親の知れない子供です。中絶すればいいと覚悟はしていたので、それほど驚きはしませんでしたが、妹は産むと言ってきかないのです。オレは呆《あき》れました。それならこれまで耐えてきた意味がない。間違ってできたことは仕方がない。オレが病院について行ってやる。バカなことは考えるな。必死になって諫《いさ》めました。ところが妹は意外なことを言いだしました。はじめから子供だけが欲しくて男と接していたと言うのです。オレは愕然《がくぜん》としました。気でも違ったのか。何度も殴りました。妹は目に一杯涙をためて、オレのなすがままにされています。兄ちゃんには面倒をかけねぇ、子供ができたら二人で生きていく。頼む、見逃してけれ。お腹の子は絶対に普通の子だと言い張るだけです。もちろん妹の言葉に根拠があるわけじゃない。しかし、そうやって何日も言いあいを続けているうちに、オレも段々とそんな気になってきました。妹が普通の子に賭《か》けるのも分からないじゃありません。
神様がいるのなら、妹の切ない心情も分かってくれるはずだ。次第にオレも子供の運に賭ける気持に傾いていきました。
しかし──世の中はそんなに甘くなかった。生まれてきた女の子は暗血症でした。
妹が子供と一緒に蛍ヵ淵に身を投げたのは一ヵ月後です。
「蛍の女にしたくない」
淵の側に書置きが残されていました。
夜にしか美しさを認められない、という意味なのか、自分とおなじ運命を繰り返させたくなかったのか、妹も辛かったんでしょうね。
その一言に妹の人生が凝縮されているような気がしました。不思議と悲しみは湧《わ》いてきませんでした。これでいい。これで妹もやっと楽になれる。骨になってしまえばもう関係がない。好きな男と一緒になれるな。子供もいっぱい産んで……幸せになれるよな。オレは本気で考えていたんです。
葬式をすませるとオレは村を離れました。そして一年後にあの落書き帳にぶつかったというわけです。ヒマ潰しのつもりで捲ったノートに「蛍の女」の文字を見つけたときの驚きがあなた方に分かりますか?
頭に血が上りました。前のような話だけを耳にしたのなら、オレも許せたかもしれません。だが、あれだけは許せなかった。冗談じゃない。妹がどんなに苦しんでいたか知りもしないで、なにが謎だ。なにが一緒に連れて行くだ。忘れていた怒りが突然噴きあがりました。妹の体だけが目的で村にやってきた連中を片っ端から殺してやりたいとさえ思ったんです。それが全部あの学生に集中してしまったんですよ。彼だけが妹と関係した男じゃないと分かってはいたんですがね。
店の女の子にそれとなくアパートを聞きだすと、彼を誘いだし車に乗せました。店で何度か顔を合わせてきたので、それほど警戒はされませんでした。
殺した後、急に不安がつのってきました。オレと学生を繋《つな》げる落書き帳をそのままにしていたのです。いつかは学生の失踪が発覚します。そのときに落書き帳を警察が調べないとも限りません。その前に手に入れなければならない。かと言って日中はむずかしい。客の目があります。町に住んでいれば何度かチャンスもあるはずですが、出張のついででは無理です。思いあまって店に忍びこむことにしました。単純な泥棒の仕業にみせかけたいと思ったのです。店を荒せば、そっちの方にだけ目が動いて落書き帳のこともうやむやになるに違いないと踏んだのですがね……。
10
話し終えると天城はうなだれた。
「君は妹さんを愛していたんだな」
私は溜息を吐いた。
「たった一人の妹です……」
いや、そんな意味じゃない。だが、私はその言葉を飲みこんだ。そして、たぶんママにも似ていたのだろう。
「どうしてオレのことが?」
「落書き帳のコピーを持っていた。松山の作った暗号を解いてみたら分かったのさ」
「コピーか……オレのしたことは無駄だったわけだ。なにが書いてありました」
「読んでみるかい」
私はポケットから二枚の紙をとりだすと天城に渡した。片方には解いた文字がある。
「なるほど。これならオレが関係しているとすぐにバレてしまいますね」
天城は苦笑した。私は頷きながら、
「松山の死体はどこに?」
「蛍ヵ淵。石に結びつけて沈めました」
妹の復讐《ふくしゆう》のつもりだったのだろう。それとも蛍の精にでもなった妹に男を捧げようとでもしたのか。何十万匹の蛍が飛びかう淵の水面に白い裸身がたゆたっている。私の頭にそんな幻想が浮かんだ。その裸身はゆっくりと水の上に起きあがると闇に溶けこみ無数の蛍になって夜に消えていく。
「蛍か……妹さんに会いたかったな」
天城が嗚咽《おえつ》を洩らした。肩を震わせている。私は彼をそのままに車に戻った。気のすむまで泣けばいい。ママがあとに続いた。
「暗号にはなんてあったの?」
「山科村の蛍ヵ淵、とあるだけさ。地名の頭の文字だけを読めばそうなる」
「それがどうして天城さんと?」
「暗号がただの遊びにしても、店の常連にその過疎地の出身者がいるってことが不思議じゃないか。これが山科村じゃなく大都会なら偶然だと思っただろうが、あらためて考えてみると彼には偶然が多すぎる。松山が店にこなくなったのが泥棒に入られる三週間前。泥棒事件のときも彼は出張で盛岡にきていた。どんな理由か知らないが、彼が落書き帳を狙って店に押しいったのはピンときた……生真面目な彼がそこまでやるってことはよほどの事情だぜ。松山は殺された。咄嗟《とつさ》に感じた。そう考えるとすべてに辻褄《つじつま》が合う。だが決め手がまったくない。そこでママを利用させてもらった。ママの誘いなら乗ってくると思ってね。あとは見ての通り、蛍ヵ淵を口にしたら解決だ。彼の話を聞いていたら、謎を解かない方がよかったんじゃないかとも思ったよ。しかし、殺された松山だって可哀相なヤツだからね。天城君が考えていたほど悪気はなかったに違いない」
ママは何度も頷いた。
「問題は彼がこれからどうするかだ。間違いなく我々を町まで送ってくれるとは思うが」
「もちろんよ。彼はそんな人間じゃないわ。先生もそれを信じて話したんでしょう」
「心理学的にはね……彼は殺人鬼じゃない」
言いながら私は暗号をとりだして眺めた。松山はどんな思いでこれを作成したのだろう。恐らく、たった一度の蛍の女との甘美な出会いを胸に浮かべながら作ったに違いない。
〈どちらも孤独な人間同士だったのだ〉
私は目を瞑《つむ》ると二人の魂に祈った。
11
五年後。
私はすっかり開発の進んだ山科村をふたたび訪れた。温泉が発見されて、今では恰好《かつこう》のリゾート地として大手の観光会社がペンションを建設したりホテルが林立している。私は東北の高校教師たちの研修に講師として招かれていた。シンポジウムが終ると若い女性教師たちが私を散歩に誘ってくれた。
「蛍ヵ淵という伝説の場所があるんです」
私はドキッとして振り向いた。
「パンフレットに書いてありました。昔この村に暮らしていた美しい娘が蛍に恋されて淵に身を投げたというんです。その娘は蛍になって若い男たちを誘っては淵に沈めました。怖いけど、全身にびっしり蛍が纏《まと》いついた娘って綺麗だったでしょうね」
私の顔は青ざめていたに違いない。
「民話です。本当の話じゃありません」
女性教師たちはころころと笑った。
私はそのパンフレットを眺めた。
別に出典は書いていない。観光会社が天城の事件を聞きこんで作り変えたのだ。こうすれば死体の投げられた不吉な場所も民話の美しい舞台として甦《よみがえ》る。旅の思い出を彩る材料に変わるのだ。利口な考えだ。
〈民話の中には、こうして作られた話もずいぶんあったんだろうな〉
私は不思議と怒る気持にならなかった。
天城の妹が蛍の女としていつまでも語り伝えられていくのなら、むしろ嬉しいことだとさえ思っていたのである。
[#改ページ]
猫 屋 敷
いやな旅になりそうだった。
電車の窓の外には重苦しい雲が空を埋め、三十分前から降り続いている雨がガラスを斜めに伝っていく。冷たいガラス窓に額を押しつけながら私は後悔しはじめた。
まったく、いやな旅になりそうだ。
こんな気分は私だけではないらしい。
東京から一緒に乗りこんできた団体客もなんとか気分を盛り上げようと車内販売の売り子が顔を見せるたびにからかっている。若い売り子は酔っ払った中年の客たちの卑猥《ひわい》な冗談に顔を赤らめながら狭い通路を通っていく。さすがに尻を触る客はいないが、それに近い。
どうして日本人には電車の旅となると昼でも関係なく酒を飲む人間が多いのか。まるで休日が一度もない忙しい体のようだ。自分たちは旅行を楽しんでいる気分だろうが、少しはまわりの迷惑も考えればいいのだ。私は次第に腹が立ってきた。酒は嫌いでもないが、連中のようにところ構わずという飲み方は絶対にしない。第一、あんなに酔ってしまっては肝腎の目的地に到着しても観光などする気にもなれないはずだ。酒臭い空気が三列離れた私の席にまで漂ってきた。つまみに広げているイカの燻製《くんせい》の匂いと混じり合って、なんとも生臭い。こちらの憂鬱《ゆううつ》がますます強められていく。
私は苛立《いらだ》ちを忘れようとバッグからゲラの束を取り出した。二ヵ月後に出版予定の短編集の初校ゲラだ。こんな気分では丁寧に読むこともできないが、少なくとも憂鬱だけは解消させることができそうだ。できるなら旅をこの場で中止して東京に戻りたい。福島なんかにいって自分にどんな得がある? 私は自分に訊《たず》ねた。むしろ事実と分かればもっと苦しむだけだ。小説の題材なんかに使える話でもない。まったく個人的な問題なのだ。
私は今度の旅の端緒となった従兄の酔っ払った顔を思い浮かべた。なるほど、あいつもあの夜はしたたかに酔っていた。だから無意識に酔っ払いを疎《うと》んじていたのかもしれない。
「なんでこんなに薄気味悪い小説だけを書くんだ。おまえの小説はいつも人殺しだらけじゃねえか。それも残酷な殺し方でさ」
岩手から何年ぶりかで東京の私のアパートを訪ねてきた従兄の明雄は、手にしていた私の本を乱暴に閉じた。だいぶ酒が入っている。
「本を読むたびに気持悪くなる」
私は苦笑した。言葉こそキツイが明雄とは仲がいい。年齢も二つしか違わないので故郷《いなか》では兄弟とおなじ付き合いをしてきた。
「あなた。よしてよ。せっかく本を貰《もら》っているのに、純一さんに悪いじゃないの」
側にいた美江子が私を気にして夫の腰を揺すった。明雄の親友の結婚式が東京であって、二人は夫婦で招待された。そのついでに一人暮らしの私の部屋に泊まりにきたのである。
「別に……明雄の悪口にはもう馴《な》れっこになっている。気持悪いってことは、ちゃんと本を読んでくれている証拠だものね」
美江子は安心したように頷《うなず》いた。
「だから……」
明雄は美江子を無視して、なおも続けた。
「今日はおまえの本心を聞かせてくれ」
「なんだよ。本心ってのは」
「残酷な話を書くのは趣味なのか?」
私は曖昧《あいまい》に笑った。どうも今夜の明雄は普通じゃない。飲みすぎだろうか。
「前から気になっていた……それに、あの隅に転がっている猫の野郎だ」
明雄は酔っ払いを嫌ってさっさと部屋の隅に逃げだしたピーコを憎々しげに睨《にら》んだ。ただのノラ猫だが、拾って二ヵ月になる。ピーコは自分の話だと分かったのか首を少し起こして私を眺めた。夜なので黒目が大きい。
「このことは叔父貴《おじき》に話してあるのか?」
明雄の目はすわっていた。
「いや……オレはもう三十だぜ。なんで猫のことを田舎にまでいちいち報告する必要がある? どうせ親父は東京にこないさ」
私は呆《あき》れて明雄を見据えた。親父の極端な猫嫌いは承知だが、そこまで明雄に干渉される筋合いはない。こちらの勝手だ。
「おまえはなんにも知らねえんだな」
明雄は首を横に振った。
「絶対に猫だけは駄目だ。それがオレたち真壁一族の昔からのしきたりなんだよ」
思わず失笑した。言うに事欠いて真壁一族のしきたりとはあまりにも大仰な言いぐさだ。
「こいつばかりは冗談と違うぜ」
明雄は真剣な顔をした。
「オレたちは猫に祟《たた》られている。だから何代も猫を飼ったことがない。嫌いだという理由じゃないんだよ。嘘だと思うなら今すぐにでも叔父貴に電話をしてみろ。なんて言われるか。捨てろと命令されるに決まっている」
私は戸惑って美江子に視線を移した。が、彼女も暗い顔をして頷いた。
「二人ともどうなってるんだ。たかが子猫だぜ。いまどき祟りだなんて子供でも笑うよ」
寒気を覚えながら明雄に酒を勧めた。こんなときには酔い潰《つぶ》して眠らせてしまうに限る。
「酒はいただきますがね」
明雄はグラスを差しだした。
「今夜にでも猫は捨てろよ。こんなのと一緒じゃ泊まる気にもならん」
私はさすがにムッときた。
「祟られている理由《わけ》を聞かせてくれ。それに納得しないうちは……じゃなけりゃホテルにでも泊まるんだな。二ヵ月も育てているんだ。簡単に捨てるわけにはいかない」
「本当に聞いたことがないの?」
美江子は怯《おび》えた顔で私を眺めた。
「なんだよ。美江子さんまで。気持悪い」
「私は別に祟りなんて信じているわけじゃないけど……昔から君子危うきに近寄らずって言うじゃない。親戚が皆猫を厭《いや》がっているんだから、わざわざ純一さんが飼わなくても」
「わざわざじゃない。可哀相なんで拾ってきただけだ。ピーコはオレに感謝してるさ」
私はピーコを膝に運び上げると喉《のど》を撫《な》でた。ゴロゴロと言いながら目を細めて私にすがる。
「こんなのが祟るはずもないだろ」
「知らんぞ。オレは」
明雄は酒を一気に呷《あお》った。
「とにかく叔父貴にはオレが報告しておく。あとは二人で結論をだしてくれ」
「だから、祟りってのはなんなんだ!」
私は声を荒げた。
「あなた。話してあげたら? これじゃ純一さんだって怒るのが当たり前だわ」
「しかし、叔父貴がこいつに話さなかったのはなんか考えがあるんだろうさ。勝手にオレが喋《しやべ》っちまえば叱《しか》られる」
また大袈裟《おおげさ》な言い方をする。
「聞いたことは親父に言わない。約束する」
「じゃあ、叔父貴の猫嫌いはなにが原因だと思っていた?」
「不潔だからと……猫は外からノミやダニを運んでくる。家は病院だからな。患者さんのまわりをウロウロされたんじゃたまらない」
「なるほどね。ちゃんと立派な理由をこじつけられたわけだ。それで叔父貴もそれ以上の説明をしなくてすんだんだな」
「………」
「おれの親父はただのサラリーマンだ。子供の頃にオレがノラ猫を拾ってくるたびに適当な理由を見つけられなくて困っていたよ」
「やっぱりノラ猫を?」
「当たり前だ。子供は皆動物好きだからな。何度も拾ってはその日のうちに捨てられた。悲しい思いをしたもんさ」
私は少し真剣に聞く気になった。
「そしてとうとう親父から聞きだした。一族がなぜ猫を恐れるかという秘密をね」
「………」
「それ以来猫を飼おうと考えたことは一度もない。祟りを本気で心配したんじゃない。親父たちがそれほど怖がっているものを、あえて飼うつもりにならなかっただけだ。おまえだって話を聞いていたらそうなったはずだ」
明雄は落ち着いた口調に戻っていた。
「さっきの話を蒸し返すようだがな」
明雄は唐突に話題を変えた。
「なんでそんなに人殺しに関心がある?」
「だって……オレの仕事はミステリーだぜ。人殺しを書くのは当然じゃないか」
「その程度はオレにも分かる。問題はどうしてあんなに残酷な描写をしなければならないかってことだ。女のあそこにナイフが突き立てられて殺されていたり、子供のバラバラ死体が見世物小屋から発見されたり、異常だと自分でも思ったことはないのかい?」
私は返事に詰まった。確かに当たっている。特別に必然性のない場合でも私はやたらと残虐な死体を設定するクセがある。殺人現場を見たことがないから、逆にリアリティをだそうとして描写が綿密になるのだ。ただ転がっている死体ではありきたりになってしまう。
「それだけじゃねえだろう。なんだか面白がって書いているようだ」
明雄は私の返事に首を振った。
「子供の頃の恐怖感かな」
私は五歳のときに死体解剖を間近で見たことがある。その頃親父は田舎の県立病院で院長をしていて、私は誰にも叱られないのを幸いに病院を遊び場にしていたのだ。そんなある日、友達と鬼ごっこをしていて逃げこんだ手術室でいきなり死体と出会った。いや、最初はそれがなんだか分からなかった。赤いざくろのようなものが目の高さにある。二人の医者と三、四人の看護婦の驚愕《きようがく》した視線を浴びて、子供ながらに理解した。それは酒乱の夫に鉈《なた》で頭を割られた女性の、パックリと開いた脳の部分だったのである。私は泣きだしてその場に蹲《うずくま》った。もちろんあとで親父からこっぴどく怒鳴られたが、二十五年すぎた今でも、あの恐怖がどこかに残っている。それを払拭《ふつしよく》しようとして、もっと残酷な場面をわざと創造しているのかもしれない。なにしろ自分の残酷趣味は子供の頃から続いている。怪談映画を見たり、残酷な死体の写真集を眺めたりと、まわりからは奇妙な人間だと思われてきた。そのすべては五歳のときの恐怖を克服しようとする無意識の行動だったのではないか?
「まあ、それなら少しは分かるがな」
明雄は安堵《あんど》したように頷いた。
「とにかく気をつけた方がいい。オレやおまえにはそういう血が流れているんだから」
ゾッとした。
血が流れている? どういうことだ。
「広島に親父たちの従兄がいることは?」
「知らない。はじめて聞いた」
明雄はヤレヤレと溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「おまえは親父たちに親戚がいないってことを一度でも不思議に思った経験はないのか」
私はあんぐりと口を開けた。なんでだろう。自分でも不思議だ。明雄が従兄のように、親父にも従兄がいておかしくない。なのにこれまで一度としてそれを考えたことはなかった。あるいは子供の頃に聞いて、いないという返事を鵜呑《うの》みにしていたのか。
「たぶん、そうだろうな。ウチの親父と違って叔父貴はあらゆることを隠そうとしたんだ。それなら曾祖父《ひいじい》さんのことだって……」
「知らんよ」
私は急に不安に駆られた。
「まったく呑気《のんき》な男だ。物書きなら自分の家系ぐらい興味を持ちそうなもんだ。親父たちは木の股《また》から生まれたわけじゃねえだろう。祖父さん、曾祖父さん、そしてその前と代々|繋《つな》がっているはずだろ」
「だって……墓がないじゃないか」
岩手には祖父の骨を納めた新しい墓があるだけで、先祖代々という墓はない。
「それで納得していたのか。想像以上にアホな男だ。ガキだって不審を持つぜ」
「………」
「先祖の墓はあるよ。福島にな」
私は呆然《ぼうぜん》として美江子に確認した。美江子も静かに頷いている。
「そこには曾祖父さんから以前の先祖の骨が埋められている……はずだ」
「はずってのは、なんだい」
「行ったことがねえんだ。親父から堅く禁止されていてさ。真壁一族のタブーだよ」
私は軽い眩暈《めまい》を覚えた。これは明雄の冗談に決まっている。いくらなんでも、こんな話を私が聞かされていないわけがない。
「本当みたいよ。義父《とう》さんがこの人に話していたのを私も側で聞いていたから」
美江子は真顔で言った。
「先祖になにがあったと言うんだ。え。なんで親父がオレに隠す必要があるんだよ」
「不安だったのさ。子供のおまえが妙に死体に興味を持ったりするから」
「………」
「おまえが親父たちの叔父さんとおなじ殺人者になるのを恐れたんだ」
「あなた! よしなさい」
美江子が悲鳴を上げた。
ザワザワと鳥肌が立っていく。
「昭和のはじめというだけで年代は知らん」
明雄は首筋に流れる汗を手拭《てぬぐい》で乱暴に拭《ふ》きとりながら話を続けた。
「絶対にオレから聞いたと叔父貴には言わんでくれよ。オレがどやされる」
明雄は念を押してきた。私も頷く。
「祖父には二人の弟があった。一人は若い頃に北海道に渡って消息不明だ。と言っても事件が起きるまでは連絡があったそうだから、自分で付き合いを断ったんだろう。そして、もう一人の弟、つまり親父たちの叔父さんに当たる人だが、これがとんでもない大事件を引き起こした。もともと鬱《うつ》病だったらしくて学校を卒業しても仕事につかず、岩手の病院に勤務していた祖父を頼って二年くらいはブラブラしていたようだ。ウチの親父はその頃小学生だったので、結構遊んでもらった記憶があるという……」
明雄は言葉を切った。顔に躊躇《ちゆうちよ》がある。
「どんな殺人をしでかしたんだ?」
私は急《せ》かした。
「東京の印刷会社に就職してな……結婚もして子供も生まれた。なのにその翌年の夏に玉の井の娼婦《しようふ》を殺したんだ。理由は分からない。叔父も警察に掴《つか》まる前に自殺した。鬱病が再発したと新聞には書かれたそうだけれど、真相はいまだに謎だ」
フーンと私は頷いた。近い親戚に殺人者がいることは確かに薄気味悪いけれど、その程度の事件なら大したものではない。
「殺し方がな……残酷だったんだ」
「………」
「死体の陰部を包丁で抉《えぐ》り取って犬に食わせたそうだ。現場近くの犬の皿に半分残っていたと聞いたぜ。体の方は二階の窓から運びだして上野の不忍池《しのばずのいけ》に捨てた。バラバラに切り離した女の首を石で潰してさ」
「ホントかよ!」
「昭和初期の猟奇事件として有名なんだそうだ。おまえは聞いたことがないか?」
明雄は逆に質《ただ》してきた。ミステリーを商売にしているから、あるいはと思ったのか。
「阿部定なら知ってるけど……」
「調べてみな。きっと分かる。真壁なんていう苗字は珍しいから直ぐだよ」
明雄はグラスを飲み干した。美江子が新しい水割りを作る。もう七、八杯目だ。結婚式でも飲んできたはずなのに今夜は強い。私に秘密を教えることで興奮しているのだ。
「猫となんの関係があるんだ?」
「その叔父さんが女を殺したと故郷に連絡が入ったときに、猫の祟りだと噂《うわさ》が立った」
「なんで?」
「親父たちの曾祖父、つまりオレたちにとっては四代前の先祖になる人だが、福島の山の中で相当大きな干物問屋を営んでいてさ」
明雄の話はあちこちに広がる。
「なにしろ扱っている品物が品物だろ。鰹節《かつおぶし》やスルメだとか、どれも猫の好物だ。蔵のまわりに猫が集まって仕方がない。今と違って密閉された蔵じゃない。風通しをよくするために屋根の下には隙間《すきま》がある。匂いが外に出たんだろうな」
なるほど。私にも話が見えてきた。先祖は猫から商売用の品物を守るために猫を捕えて殺したというわけだ。明雄は頷いた。
「それも五匹や十匹じゃない。賞金をだして近所の子供たちに猫狩りまでさせたってんだから……最低でも、二、三百は殺している」
厭《いや》な話だ。私は吐き気を覚えた。
「奥さんが異常な猫嫌いだったことも関係あるようだな。屋敷の庭から毎日のように猫の悲鳴が洩《も》れてきたそうだ。いたぶれば他の猫が怖がるとでも思ったのかね」
「………」
「そのうちに家業が傾いた。いくら猫が商売物に手をだすとはいえ、やり方が残酷だと思われたのさ。そんな店から誰も買わなくなる。先祖は慌《あわ》てて庭の隅に猫塚を建立して供養したが、もう間に合わない。借金が重なってその先祖は首をくくった。それからだよ。猫の祟りだと言われはじめたのは……」
私はなんとなしにピーコを見下ろした。ピーコは耳を立てて明雄の話を聞いている、ように思えた。目を半開きにしたままで。
「いちおうは女を殺した叔父で祟りもやんだようだが、それまでにも親戚中で、若くして自殺したのもいた。まあ、自殺なら外聞が悪い程度で済んだが、殺人者をだしたとなれば話は別だ。間もなく曾祖父さんが亡くなったのを契機に福島の屋敷とは皆が縁を切った。本家が潰れたんだから墓参りをする人間もいない」
「なら結構親戚がいるんだ」
「だろうな。ウチの親父が覚えているだけでも広島とか長野とか……広島にいる親父の従兄というのが、女を殺した叔父さんの子供だと聞いている。もう五十過ぎだろう」
「その屋敷は今もあるのかい?」
私の問いに明雄は暗い顔をして答えた。
「さあ。昔は猫屋敷と呼ばれていたそうだが」
「………」
「祟りとは思わんが……ウチの家系に残虐性を好む血が流れているのは間違いない。そもそも猫をそんなに殺したってことが異常だよ。その先祖の血がオレにも、おまえにも伝わっている。お互いに気をつけないと」
明雄は本箱に並んでいる私の本をぼんやりと眺めて言った。そのどれにも無惨な死体がぎっしりと詰まっている。私は不安を覚えた。明雄の話が事実なら、親父が隠したのも納得できる。親父は私に女を殺した叔父の影を見ていたのではないか? 親父が私の本を読まないのは、息子の書いた本という照れだけではなかったのかもしれない。私の心の中に潜んでいる残虐性を恐れていたのだ。
間もなく新幹線は福島に着く。先祖の屋敷があったのは、そこからバスで一時間半。まったくの山の中の小さな町だ。私はゲラの束をバッグに納めるとタバコに火をつけた。
〈本当なのか?〉
明雄から話を聞いて半月が経つというのに私にはまだ真相が分からない。図書館にでかけて昭和初期の猟奇犯罪を調べてみたが玉の井の娼婦が殺されて不忍池に投げこまれた事件など、どこにも見つからなかった。明雄が年代を間違えているのか、それとも明雄の親父がわざと事件の起きた場所を違えて教えたのか。その方が可能性としては強い。岩手に近い仙台とか青森の事件なら刺激が強すぎる。それで離れた東京の話にスリ替えたと考えれば辻褄《つじつま》は合う。自分に子供がいたとしても、そういう伝え方をするだろう。田舎の事件なら東京の新聞を漁《あさ》っても意味がない。親父や伯父に確かめれば簡単だが、なんとなくそれは躊躇《ためら》われた。明雄との約束よりも、それが事実なら、三十年もヒタ隠しにしてきた親父の、私への不安とまともにぶつかることになる。異常性格者ではないかと息子の私を疑っていた親父の不安とだ。互いにそれを認めることは辛《つら》すぎる。やはり自分自身の力だけで事実を確認する他に方法はない。思い切って福島を訪ねる決意を固めた。明雄の話した通りの旧家ならたとえ屋敷が残っていなくても記録程度はどこかにあるはずだ。墓だって直ぐに見つかる。
バスに乗り換えても雨は止まない。どんよりとした雲が前方の山を覆っている。町はあの山の向こうだ。運転手に聞いたら今はまったくの過疎の町だと言う。現にバスの乗客も少ない。私を加えてわずか四人。路線廃止が検討されているのも当然だ。岩手に永年暮らしていて田舎の風景には馴《な》れているつもりだが、まさかこれほどの寂しい田舎とは想像もしていなかった。先祖が暮らしていたという懐かしささえ湧《わ》いてこない。
「町のどちらまで?」
彼女の方から声をかけてきた。
福島から一緒の若い女の子で、実を言うと最初から気にかけていたのだ。田舎には珍しい都会的な顔立ちで、原宿や六本木からそのまま戻ったようなセンスをしている。しかし、もちろん旅行客ではない。
「町に旅館はあるよね」
私は彼女の隣りに移動した。
「観光旅行じゃないんでしょう?」
彼女は旅館と聞いて不思議そうな顔をした。町に旅行客など滅多にこないのだろう。私が誰かを訪ねてきたと信じこんでいた顔だ。
「旅館は一軒だけあるけど……今は営業していたかしら。確か食堂部だけじゃなかったかな」
食堂部とはまた古めかしい言い方だ。
「頼めば泊めてくれっぺ」
離れた場所から年配の男が声を上げた。皆が私に関心を持っている。私は礼を言った。
「それで……なにしに?」
私はいい澱《よど》んだ。もし明雄の言う通りの先祖なら町の人々に不快な印象を与えていることも考えられる。その子孫だと話せば毛嫌いされることだって……。
「民話や伝説を調べている。友達が福島の出身で、こっちには鬼の話が多いと聞いたから」
鬼に関しては嘘ではない。彼女は素直に頷いた。私は名刺を渡した。ペンネームなので真壁とはどこにも書いていない。
「猫屋敷ってのがあると言ってたけどね」
その言葉に乗客たちの顔が集中した。
「そんな話……いったい誰から?」
彼女は私を詰問するように見詰めた。
「なんで? まずいことでも聞いたかな」
私は必死でごまかした。
「別に……それは私の家のことなんです」
思わず逃げる姿勢になった。
「庭に古くから猫のお墓があって」
私は悲鳴を上げたかった。
一時間後。
私は史子《あやこ》と並んで町を歩いていた。本当に寂しい町だ。夕闇の迫った狭い通りには人一人見えない。家には明りが点《とも》されているから食事の時間かもしれない。ようやく上がった雨が、今度は靄《もや》に変わって道路を真っ白く覆っている。幻想的だが薄気味悪い。私たちは濃い靄を掻《か》き分けるようにして坂を登った。町を見下ろす小高い場所に猫屋敷はある。
「いいのかな。オレなら旅館でも」
迷惑をかけるという気持よりも、本心は気味が悪かったのだ。誘われたときは嬉しかったが、こんな靄に包まれていると、明るい日中にでも出直したくなってくる。
「お母さんも突然で驚くだろうし」
史子は広い屋敷に母と二人で住んでいる。
「大丈夫よ。お客が好きな人だから」
こうなれば腹をくくる他はない。史子や母親が猫屋敷とどんな関係にあるかも詳しく聞いていない。乗客の好奇の目を前にして質問するのをはばかった。まさか親戚とも思えないが、史子の母なら私の先祖のことも少しは耳にしているだろう。それとなく聞きだす機会もありそうだ。
「着いたわ。古い家だけど我慢してね」
私の前には大きな扉が立ち塞《ふさ》がっていた。古びた表札には真壁の文字が微《かす》かに読み取れた。やはり明雄の話は真実だったのだ。史子が重い扉を押し開くと、暗い庭から生臭い風が漂ってきた。気のせいかもしれない。
「おかしいな。いないのかしら」
玄関で史子が何度声をかけても母親は姿を現わさない。史子は首を傾《かし》げながら私をさっさと家に上がらせた。古い屋敷だ。庭の荒れようから見て中も酷《ひど》いと想像していたが、廊下は綺麗に磨かれている。奥はどれだけ広いのか見当もつかない。ずうっと廊下の脇に襖《ふすま》が続いている。
「この応接間で待っていて。母を捜してくる」
私はポツンと一人部屋に残された。
私は部屋を見渡した。昔風の洋間だ。壁には二枚の男女の古い肖像画が飾られてある。男の方はどことなく親父や伯父に似ている。あるいはこれが私の曾祖父なのだろうか。女の方は史子にソックリだった。絵の隅には年代が小さく書かれている。私は薄暗いシャンデリアの明りを頼りに目を近づけた。明治十八年とある。私は男の顔を見た。どう考えても五十代だ。とすればこの男は明治よりも三十年も前に生まれた計算になる。
〈だったら……猫を殺した先祖だ〉
曾祖父が明治のはじめ生まれなのは聞かされて知っている。
〈すると、こっちは猫嫌いの奥さんか〉
美しい顔をしているが冷たい印象だ。
「どうしたの?」
史子が直ぐ後ろに立っていた。深い絨毯《じゆうたん》のために足音が聞こえなかったのだ。
「この人たちは? ずいぶん古い絵だけど」
私は知らないフリをして訊ねた。
「私のご先祖さま。似てない?」
史子は笑って額の前に立った。瓜《うり》二つとまではいかないが髪形をおなじにすれば……。
「先祖返りじゃないかってよく言われるの」
私は曖昧に頷いた。血の濃さは知らないが史子と私が親戚なのはこれで確かめられた。
「お母さんは? 外出でも」
「いたわ。奥で電話してたの。用事を頼まれたので町へ戻るけど、母にはあなたのことを伝えておいたから心配しないで。久し振りのお客さんで喜んでいたわ。着替えをしてからこっちにくるはずよ。じゃあね」
それだけ言うと史子は私の返事も聞かないで部屋をでていった。史子の紹介なしで母親に会うなど、なんともバツが悪い。私は溜息を吐くとソファーに腰を下ろした。
やがて五分も経ってから母が現われた。
「………」
私は思わず絵と見較べた。史子どころの騒ぎではない。彼女は絵から抜けでたようにおなじ顔をしていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや。あんまり似ているので」
私は額の汗を拭った。
「あなた……ひょっとして良介伯父さんと関係のある方じゃありませんの?」
彼女は祖父の名前を突然口にした。
「やっぱりそうなのね。史子から聞いたときにおかしいなと思いました。猫屋敷なんてこの町以外の人は知らないはずですもの」
「良介は私の祖父です」
「それなら……ええと、誰々だったかしら」
彼女は伯父たちの名前を何人か挙げた。父は五人兄弟だ。私は諦《あきら》めて父の名を伝えた。
「そう、嬉しいわ。こうして訪ねてくれるなんて。やっぱり広島から移った甲斐があった」
「広島!」
「そうよ。あなたのお父さんとは従兄同士」
私は後じさりした。目の前の彼女は例の女を殺した叔父の一人娘なのだ。
「会ったことはないけど……いつも母から皆さんのことは聞いていましたのよ。私には他に一人の兄弟もいなかったし」
彼女は寂しそうな顔でソファーにかけた。私は少し落ち着きを取り戻した。別に彼女が殺人者というわけではない。むしろ犠牲者とも言える立場の人間だ。親戚付き合いも拒否されてひっそりと暮らしていたに違いない。
「この屋敷にはいつから?」
私は訊ねた。
「十五年も前かしら。祖父の墓参りのついでに訪ねたら誰も住んでいなくて……主人を亡くしたばかりだったので祖父の菩提寺《ぼだいじ》の住職に勧められるままに引っ越してきたんです」
彼女は自分たちを見捨てた親戚を恨んでいるようには思えなかった。私は安堵《あんど》した。
「私たちの話は聞いているんでしょ」
彼女は確かめる様子で私を見詰めた。私は曖昧に頷いた。
史子はなかなか戻らなかった。私は芳枝に勧められて夕食を馳走になり、風呂にも入って、今はこうして温かな寝床にいる。この部屋は先祖が使っていた書斎だと言う。客間の方は黴《かび》臭くてと芳枝はこちらに布団を敷いた。私にはむしろありがたい。ここにはたくさん古い本が揃《そろ》っている。永年の習慣で本を読まないと眠れない性質《たち》だ。それにまだ十時前である。どんなに疲れていても眠れる時間ではない。史子も間もなく戻るだろう。
私は本箱から二、三冊を選んで布団に戻った。この地方の伝説を集めたものだ。小説の材料になるかもしれない。読み耽《ふけ》っていると時間の経つのも忘れてしまう。
〈へえ……この町には八百比丘尼《はつぴやくびくに》の伝説があるのか。珍しいな〉
八百比丘尼とは人魚の肉を食べたために八百年の寿命を得て全国を彷徨《さまよ》った比丘尼のことだ。若狭の国の出身とされているが佐渡にもおなじ伝説がある。いずれにしろ海岸に近い場所に多くて、福島の山の中に話が残っているとは思わなかった。明治時代に書かれた本なので真意を掴《つか》まえにくい部分もあるが、どうやら八百比丘尼が全国を彷徨った果てにこの町に住んだという内容だ。これまであまり興味を持ったことがなくて、単純に海岸にでも流れ着いた人魚を食べたとばかり信じていたが、意外なことに人魚は干物だったらしい。それも八百比丘尼本人が見つけたのではなかった。彼女の父親が山に迷いこんだら異郷の人間と巡り合い、まったくの別世界に連れていかれたと説明されている。そこで一口でも食べれば寿命の延びる人魚の干物を与えられ、無事に家に戻された。帰宅を喜んだ娘が父親を布団に寝かしつけ、着物を片付けようとしたら、その袖から人魚の干物を見つけた。事情を知らない娘がそれを食べて八百歳の寿命を得るようになったのである。しかし、まわりの人間が歳をとったり、死んでいくのに娘は若いままだ。周囲から怖がられるようになり、やむなく全国を彷徨うはめになった。こうして場所を転々とすれば歳をとらないことも世間に発覚しない。八百比丘尼は源氏平家の盛衰をまのあたりに見、それを後の人々に伝えるのを喜びにしたと言う。また一説には食したのは人魚ではなく干したアワビとも言われている。あるいは八百比丘尼の好物が誤解されて伝わったものだろう、と本文は結ばれていた。
〈妙な話だな〉
私は背中に薄ら寒いものを覚えた。人魚なら海岸で掴まえたという話にするのが自然だ。わざわざ山の中に舞台を移す必要がない。しかも干物とは念の入った話である。おまけに貰った本人じゃなく娘が食べたとなれば……小説を書く立場で言わせてもらえば、なんともリアリティの薄い情況設定だ。それだけに事実なのではないかとも思える。異郷の人、とか、別世界というのは宇宙人やUFOを意味しているのではないのか?
つい最近もアラスカ上空で巨大なUFOが目撃されたと大騒ぎになったばかりだ。今では宇宙人の実在もそれほど荒唐無稽な発想ではなくなった。ただの作り話ではなく八百比丘尼は実在した可能性がある。現実の人間となれば、伝説が残っている場所に彼女が実際にきた可能性だって……私はあれこれと想像した。頁を捲《めく》ると古い書きこみがあった。
〈ん〉
私は掠《かす》れた文字を読んだ。
なぜヨシは儂《わし》を夫に選んだのか?
なぜヨシはいつまでも若いのか?
髪の毛が逆立った。
これは猫を殺した先祖が書いたものではないのか? 私は慌てて本の奥付を確認した。明治二十四年。その上に購入年月日が記されている。絶対に間違いない。インクの色が書きこみとおなじだった。曾祖父もその頃は二十前後のはずだが、その当時に結婚していたとしても、まさか妻を「なぜいつまでも若いのか」とは書かないだろう。自分だって若いのである。
〈ヨシってのはあの絵の人だな〉
吐き気が襲った。芳枝があの絵から抜けでたようにソックリなのを思い出したからだ。名前も似ている。
〈冗談じゃないぜ〉
広島からきたと言うのだって怪しい。歳をとらないのを隠すために、自分を見知っている人間が死ぬのをどこかで待っていたのではないか? 誰もいないと確信を抱いてふたたびこの町に舞い戻った。そのときに不審を持たれないように広島の親戚だと偽る。そうすればまた何十年かは安住の地が得られる。
〈しかし……史子はどうなる〉
芳枝とおなじで彼女も歳をとらないのか。
今度こそ体全体に寒気が走った。
芳枝は……史子に化けているのだ。
そうすれば適当な時期に芳枝が亡くなったことにして、史子のまま生きていかれる。親子だから顔が似ているのは当たり前だ。世間も不審を持たない。一人でその土地にいるよりは、二人のフリをしていれば倍の時間をおなじ土地で暮らしていける。転々とするのに嫌気がさして彼女が自然に身につけた知恵に相違ない。
私は布団の中で震えた。
彼女の狙いは干物だったのだ。
八百比丘尼伝説に人魚とアワビの干物が登場するのは偶然ではない。本にもあったように彼女は干物が好物なのだ。もしかすると八百比丘尼の体はなまものや穀類を受けつけない体質に変わったのかもしれない。それで干物問屋を営んでいた先祖に目をつけた。ここには好物の干物が山のようにある。きっと結婚を持ちかけたのは彼女の方だ。何年も暮らしているうちに先祖は彼女に愛情がないことに気づき、こんな書きこみを残した。
そう考えると謎が解けていく。恐らく干物ばかりを食べている彼女の体や着物からは魚臭い匂いが漂っていたことだろう。どこにいくにも猫がつき纏《まと》い……それで……。
〈猫を殺すように頼んだというわけだ〉
そんな彼女と、しかも八百比丘尼ではないかと疑問を抱きながら暮らしていれば頭がおかしくなるのも不思議ではない。先祖はもともとの残虐|嗜好《しこう》ではなく、彼女のために狂わされたのだ。猫塚を建立したのだって、本心から罪を恐れていたと考えられる。
〈子孫に何人かの自殺者や鬱病がでたのは〉
私とおなじように芳枝の秘密に気づいたからではないのか? 百年以上も前の話なのに私でさえこんなに震えている。もっと芳枝と身近に接していた人間であれば自殺でもしたくなる。下品な想像だが、私には娼婦を殺した叔父の残虐行為も理解できるような気がした。芳枝に恐怖を持てば持つほど、芳枝が憎くなる。好物の干物だって忌《い》まわしいものに変わっていくはずだ。鬱病の絶頂にいるとき娼婦の陰部を見れば……私は吐き気がした。殺人者の叔父もまた犠牲者だったのだ。
「純一さん……まだ起きてる?」
襖の外から笑いをこらえているような史子の声が聞こえた。いや、芳枝か。
生臭い匂いが感じられた。
「母が読みさしの本を忘れたと言って……私にとってきてくれって。入っていい?」
「それはオレが読んでるよ」
私の返事に史子はしばらく無言でいた。
「どんな本?」
史子は震えた声で訊ねた。
「八百比丘尼が書かれている本だろ」
襖を通して史子の動揺が伝わった。
やがて史子は立ち去った。
私は後悔した。あんなことを言えば私が彼女の秘密を知っていると告白したもおなじだ。次はどんな態度でくるか分からない。
私は布団から起きだすと服に着替えた。
こんな家には一刻たりともいられない。反対側の襖を開けて廊下にでた。板戸に体が通るだけの隙間《すきま》を作る。
不意に。
細い腕が私の肩を掴んだ。
振り向くと芳枝がいた。冷たい目で私を睨《にら》んでいる。
「なにをしているの?」
生臭い息が私にかかった。
「あなたには猫の匂いがするわね」
芳枝は私の服に鼻を近づけて匂いを吸った。
「本当に私の血をひいた者かえ?」
芳枝は下から私を見上げた。暗がりに芳枝の顔が青白く見えた。私は悲鳴を上げて庭に逃げだした。芳枝も追いかけてくる。
もう少しだ。あの土塀を越えれば外にでられる。私は必死で走った。
そのとき、私は石に躓《つまず》いた。したたかに砂利に顔をぶつけた。一瞬気が遠くなる。芳枝の駆けてくる足音が耳に響いた。
〈ああっ〉
恐怖の叫びを上げたのは一緒だった。
芳枝が私の直ぐ側で立ちすくんでいる。
私は目を疑った。そんなことはありえない。私と芳枝の足元には何百匹という猫が群れ集まっていた。じりじりと芳枝を屋敷の方に追いやっていく。私は唖然《あぜん》とその不気味な光景を眺めた。機会は今だ。私は立ち上がると土塀に向かった。目の前に黒々とした石碑が建立されている。暗闇で文字は読めないが、私にはもう分かっていた。
そこには必ず「猫塚」と刻まれているはずである。
私を救った猫たちの霊が眠っている塚なのだ。
[#改ページ]
首継ぎ御寮
これ以上の運転は危険のようだった。
私は諦《あきら》めて通過したばかりのガソリンスタンドにUターンした。夕暮れの近づいた見知らぬ山道を、その上チェーンもなしに走る勇気はない。行くには行けても帰りに雪で閉じこめられる可能性が高い。それこそ無謀と言うものだ。頭上を覆っている雲が間もなく大量の雪を降らせることは永年の経験で分かっている。平地ならともかく、私の向かう村は標高七百五十メートルの高原にある。土地の人間に様子を訊《たず》ねて麓《ふもと》の町に泊まるか、車を預かってもらってバスでも使う方が安心だ。
「いらっしゃい」
威勢のいい声を張り上げて二十五、六の男が直《す》ぐに走りでてきた。吐く息が白い。
「寒いスね。満タン?」
寂れたスタンドだ。道路地図では村の先は行き止まりになっていた。このスタンドを利用する車など数も知れている。小さな事務所の窓ガラスに貼《は》られてあるエンジンオイルのポスターも陽に焼けて色が抜けている。強張《こわば》った笑顔でオイルの缶を手にしているのは、近頃まったく見かけなくなったアイドル歌手だから、十年も前のポスターに違いない。
「東京から? わざわざ」
品川ナンバーを認めて男が訊ねた。
「道、間違えたんでねえの」
男はニヤニヤ笑った。私がついさっき通過したのを店の中から見ていたのだ。
「いや。村に行くんだが道の状態が分からなくてね。雪も降ってきそうだし……どんなもんだろう。チェーンなしで平気かな」
「村って……なにしに?」
私の質問には答えず男は逆に訊ねた。
「ちょっと知人を訊ねてね」
それ以上は言いたくない。
「新聞記者か……あんた」
男は露骨に厭《いや》な顔をした。丸い目に敵意が表われている。私は戸惑った。
「記者ならまずいのかい」
こういうときは反応を見るのが得策だ。
「違う……みてえだね。いくら物好きでも東京からくるわけもねえか」
「なにか事件でも?」
「別に……ガソリンはどうする」
視線が急に落ち着かなくなった。私は興味を覚えた。この男がなにかを隠しているのは子供にでも分かる。
「満タンだ。ついでにトイレを借りるよ」
私は車から降りた。冷たい風が包む。事務所の窓には『温かいコーヒーをどうぞ』と貼紙が見えた。私は男に目で訊ねた。男は仕方なさそうに頷《うなず》いて事務所に導いた。
「待ってくれ。こっちが済んだら直ぐ行く。コーヒーったってインスタントだどもよ」
私は男からカップを受け取った。インスタントでも匂いには大差がない。昼間に青森のドライブインで飲んだきり五時間が過ぎていた。一日に最低十杯は飲むほどのコーヒー党だ。そろそろ禁断症状がではじめる頃だった。
「いいカップを使ってるじゃないか」
ボーンチャイナだ。一客三千円はする。
「客商売だから。姉貴が買ってくれた」
男は得意気に幼い笑顔を見せた。
「店はいつも君一人で?」
「そりゃそうさ。客は一日に十人足らず。ギャルなんて雇う余裕はどこにも」
「客のほとんどは村の人間ってわけだ」
「ああ。皆大事な得意先。ウチが潰《つぶ》れりゃ困るのはオレよりも村の連中なんでセッセと通ってくれる。コーヒーを飲むためにきてくれる娘もいるよ。もっともあと半月もすりゃこの店だって春まで休業だ。雪で道がなくなる」
「じゃあ村は大変だろう」
「月に一度天気を見計らって雪上車でガソリンを運ぶ。どうせ車が使えねえんで大した量じゃない。オレはその間オヤジの店で手伝いさ。町には大きなスタンドを二つ持ってる」
だんだん分かってきた。この男は要するに家族の持て余し者なのだ。それで売上げにもならない町外れの店を任されている。
「村にはどのくらい家があるんだ」
「二十……七軒だな。全部顔|馴染《なじ》みだ」
先ほどの敵意もどこへやら、男は打ち解けた口調で答えた。三十リッターも商売できたので満足しているのか。呑気《のんき》な若者だ。
「ずいぶん少ないな。人口は?」
「さあ。この時期は出稼ぎにでているオヤジたちもいるし……百二十人ぐらいかな」
「守屋って家を知ってるかい」
「守屋のだれ? 二十軒近くもあるんで」
「桐美《とみ》という、君とおなじぐらいの娘がいる。三ヵ月前まで東京に勤めにでていた」
「桐美!」
男は蒼白になった。視線を膝に伏せる。
「やはり知り合いか……戻ってるんだろ」
「どういう関係なんスか」
恐る恐る私に訊《き》いてきた。
「会ったこともない。妹と学校が一緒でね。仲が良かったのに手紙をだしても返事がもらえないから様子を見てきてくれと頼まれた。ちょうど青森に仕事があったついでにな。重い病気にでも罹《かか》っているんじゃないか?」
この程度の嘘でも簡単に通じた。男はなるほどと安堵《あんど》の頷《うなず》きを繰り返す。
「そりゃご苦労なこった。わざわざきてもらって申し訳ないけど……桐美は死んだぜ」
それも知っている。が、私は驚いたフリをして見せた。この目で実際に確認するまではだれも信用できない。
「会社の方にも連絡したって聞いたけど」
「いつ頃死んだって?」
「もう一ヵ月半にはなるんじゃねえの」
「そうか。妹が会社を訪ねたのはその前だ。辞めたと聞かされたきり、その後は勤め先に連絡もしていなかったんでね」
「学校って言うと新宿の?」
「あの服装学院だ」
これで男は完全に信じた。
「なら訪ねても意味はないが……せっかくここまできたんだ。線香の一本でも上げて帰りたい。知り合いなら伝えてくれないか」
「そりゃいいけど……村は今カリカリしている最中だから。保証はできねえな」
「カリカリしてる? さっきの新聞記者の件となにか関わり合いがありそうだ」
「それこそ桐美のことでさ」
私は首を傾《かし》げた。
「死んで一ヵ月半も経つってのに、やたらと調べ回って……村中が迷惑してるんだ」
「ほう。死因に不審があったとでも」
「狐|憑《つ》きだってさ。笑わせる」
「狐憑き? なんだそいつは」
「そうだろ。いまどき狐憑きなんて呆《あき》れた話だ。あれじゃ桐美も浮かばれねえよ。ただの病気だってのにイタコや親になぶり殺されたなんて世間に騒がれりゃな」
「病気で死んだんじゃないのか」
男はゆっくりと頷いた。
「それにしても……狐憑きとはな」
「オレは知らねえが、なんでも戦後間もなくあの村で騒ぎがあったそうだ。女が三人も殺されて。全部狐憑きってことらしいけど……まただってんでテレビまできた。まったくヒマな連中だ。それであんたも同類だと……」
「分かったよ。それじゃ確かに迷惑だ。本当はこの店にチェーンでも置いてあれば借りて行こうと思っていたんだが、諦める他なさそうだ。家族によろしく言っておいてくれ」
「待ちなよ。まだ聞いてもみねえで諦めるのは早いんじゃないの。ガソリンを一リッターでも買ってくれりゃ大事なお客さんだ。オレから頼めばなんとかなるかも知れねえ」
案の定、私が身を引くと男は乗ってきた。それが駄目でも知らないフリをして村に行こうと決めていたのだ。私は損害保険の調査を仕事にしている。一ヵ月前に守屋桐美の勤めていた会社の金庫から四千万の給料が盗まれ、その件で彼女を追いかけてきたのだ。桐美は経理にいて金庫のナンバーを知っていた可能性がある。事件の直前に彼女の死亡通知が会社に届いていたのも引っ掛かった。同僚の間では真面目《まじめ》で明るい娘という評判だが、人間の裏側になにがあるのか知らない私ではない。犯罪者は常に普通の人間から生まれるのだ。死亡通知すら私は疑っていた。あんな黒枠のハガキなど簡単に作れる。
〈しかし……〉
この様子では死亡も事実なのだろう。新聞記者やテレビ局が動いたとなれば、まさか嘘とも思えない。背後で彼女を操《あやつ》っていた人間がいないとも限らないが、私は半分諦めていた。村に行くのは単なるけじめに過ぎない。青森くんだりまで出張して、スタンドの兄《あん》ちゃんの話だけで戻れば子供の遣いだ。
「おかしいな」
電話を何本かかけて男は首を捻《ひね》った。
「どこもでない。いないわけは……」
「彼女の家もか」
「あそこに電話はねえ。隣り近所に連絡をとってみたんだけど……ああ、もしかすっと桐美の四十九日かも知れねえ。そんな話を四、五日前に聞いたよ。きっとそうだ」
「かえって好都合だ」
私の言葉に男は目をしばたたいた。
「訪ねても追い返されはしないさ」
線香を上げて戻ってくればいい。泊まる覚悟だったので明日の積雪を心配したが、それなら今夜中に麓《ふもと》の町まで帰ってこられる。
「オレも行く。桐美んとこの父親には世話になってるし、顔をだすつもりでいたんだ」
「店の方はいいのか」
男は心配するなとカップを片付けて暖房の電源を切った。私にしても異存はない。
村には男の4WDで向かった。もうスノータイヤに履きかえている。山に入ると道路は想像以上に酷《ひど》かった。もちろん舗装もなし。急カーブの多い道でノロノロ運転しかできない。大した距離とも思えないのに、たっぷり四十分は過ぎているだろう。心細いような黄昏《たそがれ》だ。紫色の闇がじわじわと溶けこんでくる。昔からこの感じは苦手だ。心臓がザワザワと不安に騒ぎだす。夜になってしまえば途端に安心するのだから、自分でも理由が分からない。閉所とか高所恐怖症のように、黄昏恐怖症というのもあるのだろうか。この時間が近づくと私はたいてい喫茶店や本屋に入って暗がりまでやり過ごすのだ。なにか子供の頃にでも原因があるのかも知れない。
〈厭な雰囲気だ〉
私は後悔しはじめた。ただでさえ黄昏が嫌いだというのに、道の両端には魚の骨が刺さっているような黒い裸木が続いている。狐憑きなどと妙な話を聞かされたお陰ですっかり気持が滅入ってしまった。自分の車だったら確実にUターンしたに違いない。
「まだかい。ずいぶん遠いな」
「じきだ。あの角を曲がると明りが」
「こんな山奥によく人が住んでるもんだ」
「この辺じゃ隠れ里で有名な村だけど」
「へえ。なんだかオレには東北全体が隠れ里って感じだがね。麓の町だって変わりがない」
男はアハハと笑った。
「お定まりの平家伝説かい」
「でもないス。もっと古いはずだ。箱神さまは千年も前の年号があるって聞いてるし」
「箱神さま? なんだいそりゃ」
「神社も作れねえような貧しい村なんで、ちっちゃな箱に神様を入れて一年交替でお守りしている。それこそ今年は桐美の家が年番に当たっているんじゃなかったかな」
「どんな神様を祀《まつ》ってるんだ」
「さあ。そればっかりは教えてもらえねえ。貧しい村ってのも怪しいと思うんだ。神社を作る気がないだけだとオレは睨《にら》んでる」
「狐憑きと関係あるのかね」
「なんとも言えねえスね。あんたもあんまり追及しねえ方がいいぞ。箱神さまのこととなりゃ大真面目だ。ヘタすりゃ怪我するよ」
真剣な顔つきで私を見詰めた。
「別に興味はない。大丈夫さ」
私は苦笑した。まったく東北というところにはとてつもない風習が残っている。
「ほら。あれだ。見えてきた」
カーブを曲がると黄色い明りがポツリポツリと目に入った。箱神さまなどと聞かされたので、てっきり萱葺《かやぶき》屋根の鄙《ひな》びた村落を頭に描いていたが、ごく普通の民家が固まっている。テレビのアンテナが、まるで悪魔除けの十字架のようで頼もしい。いつの間にか私は怖い方へと想像を膨《ふく》らませていたのだ。
「村には五陵と守屋のマキしかねえ」
「マキ……ああ、親類のことか」
「守屋の方がずっと数は多いのに、村を仕切っているのはいつでも五陵だ。大昔からそうだと聞かされてきたよ」
「五陵ってのも変わった苗字だな」
「あんたオレの苗字知ってっか。田子《たこ》ってんだぜ。五陵ぐらいは珍しくもねえさ」
「生業は? この山なら農業も無理だ」
「でもない。高原野菜って言ってさ、レタスや大根なんかは下よりもいいものが作れる。米ばっかりが農業じゃないしね」
そんなものかと私は納得した。昔なら兎とか鹿も捕獲できたのだろう。こちらが思うほど不便な土地でもなさそうだ。
「どうなっちまったんだ?」
男はグルリと家を一回りした。四十九日を営んでいるはずの桐美の家に明りがない。二、三百メートル離れた隣りの家にも人の気配がいっさい感じられないのだ。
「別の場所でやっているんじゃないか」
私は考えを言った。桐美の家はあまりにも小さい。村全体が親戚だと言うなら法要に参加する人数も相当なものだろう。この家では詰めこんでも三十人が限度だ。
「だって葬式はここでやったと聞かされた。四十九日の方が盛大ってのはねえさ」
男は不安そうな顔をした。
「なんだか、おっかねえな」
「なにが? 考え過ぎだよ」
私は鼻で笑うと玄関に近づいた。
「なんだ。ここは他の家だぜ」
玄関の脇には五陵と表札がある。男も慌《あわ》てて確認した。ガタガタと震える。
「冗談じゃねえ。ここは絶対に桐美の家だぞ。引っ越ししたなんてオレは聞いてねえ」
「だから、最近だろう。表札が真新しい」
「新聞記者がうるさくてスか」
男もようやく我に戻った。
「しかし……それでもおかしいな」
男は横手に回ると窓ガラスから中を覗《のぞ》きこんだ。私も脇から懐中電灯で照らしだす。部屋は引っ越したばかりの家とは思えないほど生活の匂いに溢《あふ》れていた。
「ほれ見ろ。桐美の服がかかっている」
男は壁を指差した。桐美の服と私に言われても仕方がないが、本当らしい。
「あれを着てコーヒーを飲みにきた」
「………」
「帰るべ。こんなとこ見られたら……」
男の口調には怯《おび》えがあった。
そのとき──。
私の耳に賑《にぎ》やかな笑いが響いた。ずうっと遠くの笑いだ。私は耳を澄ませた。川向こうに見える大きな屋敷に煌々《こうこう》とした明りがついている。笑いはそこから伝わってきたようだ。また聞こえる。どうやら宴会らしい。
「あそこは?」
「五陵の本家だ。なにしてるんだ?」
「恐らく彼女の四十九日さ」
「お晩です。田子だども」
入り口に停まったエンジンの音を聞きつけたらしく、男が奥に挨拶する間もなく三、四人の男たちが飛びだしてきた。皆、酔って真っ赤な顔をしている。男たちは田子の後ろにいる私を認めてギョッと体を強張らせた。
「なんだ……おめえさんは?」
「桐美の知り合いってことで」
「桐美の? 聞いてねえぞ」
「いや。この人じゃねえ。妹さんが学校で友達だったみてえだ。手紙をだしても返事がこねえもんだから、この人が青森にきたついでに様子を見てきてくれと……」
男たちは顔を見合わせた。
「心配ねえって。桐美のことは話して聞かせた。線香の一本も上げたいってんでオレが案内しただけだ。確か今日が四十九日って聞いてたもんだから。構わねえべ。わざわざ東京からきてくれたんだし」
「東京だと! 嘘じゃあるめえな」
男たちは互いに驚愕《きようがく》の顔を見合わせた。しかし、顔|馴染《なじ》みの田子の言葉で信用したらしい。彼らの態度が急に柔らいだ。よほど新聞記者に悩まされたのか。本家に報告すると言って一人がバタバタと奥に走った。まさかこんな大袈裟《おおげさ》な場面に遭遇すると思わなかった私はハラハラした。手紙の件は嘘っぱちだ。親がいれば直《す》ぐにバレる。が、案に相違して私は丁重に受け入れられた。だれかと勘違いされたのかも知れない。彼女だって東京に手紙のやりとりをする友達の一人や二人いても不思議ではないのだ。
黒光りのする長い廊下を伝って突き当たりに大広間があった。女たちが銚子《ちようし》を持って走り回っている。私が姿を見せるとざわめきが一瞬にして消えた。台所の方からも四、五人の女が顔をだして突然の客を無遠慮に覗《のぞ》いている。広間に集まっている人間の数は少なく見積もっても六十人。それでも畳には余裕がある。私はしばらくその場に立ち尽くした。
「遠慮なくこっちにお上がんなさい」
上座にいる白髪の老人が手招いた。その膳の前に席が設けられている。
「田子の席はそっちだ」
一番下座に新しく膳が作られていた。
「よく案内してくれたの」
老人は田子に深々と頭を下げた。私は彼と視線を合わせた。広間のどこを見渡しても線香を上げるような仏壇がない。これがこの村のしきたりなのだろうか。田子も不審気な視線を私に戻した。まるで結婚式である。
「どうした。遠慮は無用じゃぞ」
老人はふたたび私に声をかけた。ここまできて躊躇《ちゆうちよ》も意味がない。私は満座の好奇の視線を全体に受けながら老人の前に座った。
「鉄蔵……せっかく娘のためにこうして遠いところを訪ねてくださったんじゃ。おまえからもきちんと礼を言わんかい」
老人は隣りにいる痩《や》せた男を叱った。紋付き羽織で畏《かしこ》まっているが、酒がかなり進んでいるようだ。目がとろんと濁っている。これでは手紙のことをだれかが訊ねても要領は得なかったはずだ。桐美の父親は座布団からおりると私に頭を下げた。
「こたびは、恐縮でがんした」
それだけが精一杯だ。父親は照れたような笑いを浮かべて、また頭を下げる。
〈なんだ、この親父は?〉
娘の四十九日だというのに。
「田子も一緒に泊まっていけばよかろう」
老人は下座にいる彼に声をかけた。
「親父さんの方には儂《わし》から話しておく」
田子は戸惑った目で私を見る。
「客に酒を飲まさねえわけにはいかんからの。泊まっていけ。朝に山を下りればいい」
田子は頷いた。私も構わない。むしろ好都合な誘いだ。桐美の家のことといい、この大宴会といい、あまりにも謎が多過ぎる。給料泥棒のこととは別に興味が疼《うず》いていた。
「おめえさん桐美と会ったことは?」
父親の問いかけに私は首を振った。
「この村一番の娘でな。それで箱神さまにも気にいられたんじゃ」
「鉄蔵! うぬは酔い過ぎじゃぞ」
突然老人の掌《て》が鉄蔵の頬に飛んだ。憤怒の色が老人にあった。鉄蔵はぶたれた勢いで隣りの席にまで転げた。
「そんなこっては五陵も返上だの」
それを聞いて鉄蔵はワナワナと震えた。
「お許しくだせえ。もう二度と……」
鉄蔵は畳に額を擦《す》りつける。私は唖然《あぜん》としてことの成り行きを眺めた。私に気づいて老人は苦笑した。穏やかな顔に戻っている。
「動転しておってな。たった一人の娘を亡くしたもんで……わけの分からんことを言う」
「いや分かります。可愛い娘さんだったんでしょう。会社でも評判が良かった」
「会社? 会社も訪ねられたのか」
「え……ええ。近くですから」
なにが近くだ。私はヒヤッとした。
「線香は上げないんですか」
矛先《ほこさき》を変えると老人は頷いた。
「死んだ者は帰らん。哀しむよりも、こうして喜んでやる方が供養になるでの」
なるほど。そんなものかも知れない。
「田子からなにか聞いてはおらんか」
「と言いますと?」
老人は私の目をじっと覗きこむ。必死で耐えたつもりだったが簡単に悟られた。
「狐憑きとは……愚かな話じゃ」
老人はふっと溜息《ためいき》を洩《も》らした。
「儂《わし》らの村が里から離れておるんでバカにしとるんじゃ。村にはちゃんと電話もあればテレビも映っておる。世間のことをなんにも知らんと思ってるのじゃろうが……いまどき狐憑きなどあるわけがなかろう。確かにイタコを商売にしとる婆さんはいるが、この青森ならさほど珍しいことでもない。医者がおらんから手当が間に合わなかっただけでな。それを狐憑きのなんのと……迷惑じゃ」
私も同意した。もっともな言い分である。
「村の真ん中に作った公民館に行ってみればよい。町よりも本が揃っておる。ここは四ヵ月は雪に閉じこめられるでな。村には勉強家が多い。町の人間よりもずうっとだ」
「医者がいないってのは大変ですね」
「これまでは不便もなかったのじゃ。一週間に一度ずつ日赤の医者が巡回してくれておる。桐美も早めに診察しておれば、あるいは助かったかも知れん。それを鉄蔵の阿呆《あほう》が……」
老人はジロッと桐美の父親を睨《にら》んだ。
「娘の熱を知りながら畑仕事に追いやりおって……このたわけめ」
父親は首をすくめた。
「とうとう熱でのぼせて畑から急な沢に転げ落ちてしまった。哀れな死に様よ」
私は納得した。その傷を見せられて医者が首を傾げたのだろう。それでイタコが狐を追いだすために娘をいたぶったと……事情を聞かされればなんでもないことだ。私は老人に勧められるままに杯を重ねた。
酒宴はそれから二時間も続いた。九時を過ぎると、さすがに賑《にぎ》やかだった村の連中も老人に暇乞いの挨拶をして次々に帰って行った。
「戻られませんでしたね」
私は気になっていたことを訊ねた。
「なんの話かの?」
「お隣りの方です」
老人の左の席が空きっぱなしだ。右には主役の鉄蔵が座っているのだから、左も会の中心人物の席だと睨んでいたが、いっこうにそれらしい人間が姿を見せない。はじめから欠席なら気にもしないが、その膳には箸《はし》のつけられた痕《あと》があった。私たちがやってくるまで間違いなくだれかが座っていたはずなのだ。
「あんたがくる前に帰った」
老人は私の目を避けるようにして言った。桐美の父親も私に注目している。帰り支度をしている何人かが立ち止まった。
〈まずいことでも訊いたのか?〉
なんとなく背筋が冷たくなった。老人の目の奥底に警戒の色を見たからだ。
「鉄蔵の親戚の者でな。弘前から駆けつけてくれたが、夜の山道は危険じゃと言って早めに席を抜けたのじゃ。のう」
皆がいっせいに頷いた。
〈なぜ、見え透いた嘘をつく?〉
それなら必ずどこかで私たちと擦れ違ったに違いない。山道は一本だけだ。が、深入りは避けた。私には関係のない話だ。都会に永年暮らしていると他人の嘘にも平気になる。
「そろそろ仕上げじゃ。客人にうんと冷やしたものを持ってきて差し上げろ」
老人は安堵《あんど》したのか奥に叫んだ。
酷い目覚めだった。
布団から起きようとしても頭が釘《くぎ》で枕に打ちつけられているみたいに重い。部屋の雨戸が閉められて真っ暗だ。第一、布団に潜りこんだ記憶すらないのである。こんな二日酔いははじめてだ。手足も痺《しび》れて感覚がない。私は必死で頭をもたげた。クラクラする。雨戸の隙間《すきま》から細い明りが腰の辺りに差しこんでいる。なんとか半身を乗り出して腕の時計を狭い明りにかざした。十一時。酷い。
最後に勧められた酒は白く濁っていた。もしかするとあれがいけなかったのか。自家製のドブロクということだったが……それにしても醜態だ。田子もおなじように参っているのだろうか。私は苦笑しながらタバコを探した。暗闇にも目が馴れてきた。背広は遠くの鴨居《かもい》にブラ下がっている。すると服も脱がせてもらったのだ。ズボンの吊り方が私とは違う。まったく情けない話だ。背広のポケットは諦《あきら》めて枕許に置かれたバッグに手を伸ばす。こちらにもタバコを入れてある。
ドキッとした。
だれかがバッグを開けたのだ。ファスナーは完全に閉じられていた。前々から噛み合わせが悪くて、いつも十センチぐらいを残して閉めているのである。私は青ざめた。泥棒の心配ではない。バッグの中には会社でコピーしてきた桐美の履歴書が入っている。それを村の人間に見られれば……。
〈この頭痛は偶然なのか?〉
恐ろしい想像だが、あの酒には睡眠薬のようなものが混入されていたのではないか。
まさか、と私は笑った。理由がない。ファスナーにしても、開いているのに気づいただれかが気を利かせて閉めただけのことかも知れない。バカげた想像だ。警戒しているなら最初から私を泊めるなどと言わないだろう。
「お目覚め?」
隣りから若い女の声がかかった。
「すみません。寝過ごしたようで」
「開けてよろしいのかしら」
私は慌てて丹前の前を合わせた。
入ってきたのは恐ろしく美しい女だった。眩《まぶ》しい朝の光を背中から受けて、まるで黄金の中に立つマリアのような……女を誉《ほ》める習慣がないので、この程度の貧しい表現しかできないが、これまで私が出会ったどの女よりも美しい。私はゾクッと震えた。しかも纏《まと》っている着物が凄《すさ》まじい。まるで時代劇だ。こんなのはなにかで見たことがあるぞ。そうだ。前に外国人を案内して観に行った能でだ。二人静とかいう能楽だった。それに登場する女の衣裳とソックリだ。派手な地模様の小袖《こそで》の上に麻で誂《あつら》えた薄物を纏っている。
「どうかなさいましたか?」
女は私の戸惑いを見抜いて首を傾げた。背中まで伸ばした黒髪がそろりと流れる。通った鼻筋と歯並びの見事さに私は見惚れた。
「あんまり綺麗な人だから」
正直な感想だ。女は柔らかく笑った。
「ご迷惑だったんじゃないかな。鼾《いびき》が酷いんで同僚からいつも注意を受けている」
隣りは居間らしい。もし、ここで彼女が寝起きをしていたらと私は心配した。
「静かにお寝《やす》みでしたわ」
彼女は妖《あや》しい笑顔を見せながら、
「お食事の支度をさせましょう」
「彼はどうしました?」
「とっくに山をおりて……仕事を終えたら迎えにくるそうです。構いませんわね」
妙な感じだ。彼女の口調には逆らえない力があった。私はぼんやりと頷いた。体がだるくて仕方がない。田子のことなど本当はどうでもよくなっていた。彼女さえいれば……。
「昨夜は会わなかったんでしょう? 面目ないが布団に入ったのも知らない。もし失礼なことでもあれば謝ります」
「三十二歳。男盛りですのね」
彼女は私の歳をピタリと当てた。
「客人はお目覚めですかな」
襖《ふすま》の向こうから嗄《かす》れた声がした。老人のものだ。襖が開くと老人が冷たい廊下に両手をついて頭を下げていた。
「お食事の用意をなさい。このお方は山菜が特にお好きだから」
唖然とした。なにがなんだか分からない。あるいは昨夜彼女と話でもしたのか。
老人はチラリと私の顔を盗み見た。まるでおぞましいものでも眺めるように。いや、違う。同情の混じった哀れみだ。
「では御寮《ごりよん》さまにもお食事を?」
老人は恐る恐る口にした。
「私の分は作らなくても……食事はまだ無理のようです。白湯《さゆ》だけを」
顔を上げた老人の目が一点で止まる。必死であらがうのだが目は離れない。私はその視線を辿《たど》った。彼女の首に巻いてある包帯だ。先ほどまでは逆光のせいで着物の一部としか見えなかったのだ。
「申し訳ないが……食事は結構です。どうも飲み過ぎたみたいで」
吐き気がこみ上がってきた。
一時間後。
私は外にでた。頭痛と吐き気はまだ治まらない。冷たい空気を吸えば少しは気分も落ち着くだろう。それは彼女も勧めてくれた。
〈妙なことになったな〉
と思いつつも、私の頭は彼女で一杯だった。会社に連絡をする気にもならない。現実に戻りたくないのだ。どうせ東京のアパートに帰っても侘《わび》しい独り暮らし。調査が長引いたとあとで報告すれば済む。今日一日はすべてを忘れてのんびりしよう。このまま彼女と別れれば悔いが残りそうだ。なぜかは知らないが、彼女も私に好意を抱いているようなのだ。
〈ん……あれは〉
桐美の父親だ。田子に教えられた家からでてくる。やはりあの家だったのだ。
〈じゃあ五陵の表札は?〉
昨日の老人も変なことを言った。五陵も返上だとか。まるで肩書きのような口調で。
〈肩書きか!〉
確かにそんな感じだった。この村の姓は階級を表わしたものではないのか? 詳しくは知らないが一般に姓が義務づけられたのは戸籍の制定された明治からと聞いている。と言って、それまでに姓に該当する呼び名がなかったかと言えば信じ難い。名乗ることを禁じられていただけで、人々は互いに屋号という形の姓を持っていた。田の中にあるから田中とか、山田のように。田子も恐らく農業に従事していた名残りに違いない。環境や仕事内容が姓に変化したとなれば、それは肩書きとも似ている。実際に本家とか孫家という姓も日本には存在する。上下関係に厳しい村落であれば充分に考えられる話だ。
〈守屋ってのは……〉
なにかを守る家の意味ではないか? なにかとは無論五陵を指す。田子の話では大昔から五陵の家が村を仕切っていたという。では五陵とはなにか……たぶん御寮《ごりよん》さまのことだ。御寮さまに繋《つな》がる家系が村のステイタスなのだろう。五陵や守屋が姓の他に肩書きを意味するものなら桐美の父親が五陵となったのもおかしくはない。事情は不明だが、世の中に出世はあり得ることなのだ。たとえ戸籍上では守屋でも、彼はこの村において五陵と名乗ることを許された。そう解釈すれば昨夜の表札の件も、あの大宴会も辻褄《つじつま》が合う。
〈四十九日というよりも出世披露か……箱神さまに気にいられたとも話していたな〉
それが出世と関わり合っているのは確実だ。うっかりと口を滑らせたときの老人の怒りから見ても疑いない。次第に一本の筋が見えてきた。桐美の家は箱神さまの年番だと田子が言っていたではないか。
〈箱神ってのはなんだ?〉
こればかりはとても想像できない。神様などとは無縁の生活を送っている。
〈公民館に本があると言ったな〉
私は思い出した。調査となれば多少の自信もある。
公民館は無人だった。ガラス扉を押して声をかけたが、だれの気配もない。廊下はしんと冷え切っている。事務所らしきものもない。用がある人間は勝手に出入りしているのだろう。村の人間の絆《きずな》の強さを感じた。確かにこれほど狭い村なら泥棒もできない。田舎ならずとも昔はたいていの家の玄関が半開きになっていたものだ。鍵《かぎ》は都会文化の産物だ。
私は靴を脱ぐと上がりこんだ。廊下を挟んで右手は広い板間。太鼓やのぼりがあるところをみれば祭りなどの稽古場に使用しているのか。左には畳の小部屋が三つ並んでいる。なにもない。私は奥に進んだ。扉を押すと十二畳ばかりの書庫になっていた。天井まで届くスチールの本箱がびっしりと聳《そび》えている。自慢しただけあって、やはり相当の規模の蔵書だ。入り口の小さなテーブルの上にノートが置いてある。貸し出しノートだ。これも自己申告制。ザッと眺めると結構むずかしそうな本も読まれている。
〈………〉
思わず息を呑んだ。ノートに守屋鉄蔵の名を発見したのだ。時期は十月の中旬。桐美が発病した前後だ。本のタイトルは──。
〈日本の憑きもの……〉
ザワザワと寒気が体中を襲った。
なんでこんな本を借りる必要がある? 私は恐怖を必死で鎮《しず》めた。この本はここに戻されているのか? 本棚は割合きちんと分類されている。十分後。私は「村関係」とラベルの貼られた棚にそれを見つけた。怖さが急速に膨《ふく》らんでいく。どうして憑きものの本が村関係なのか? だれか教えてくれ。
寒さに指を震わせながら目次を繰った。
ただの伝承を採取した書物ではなく、これは憑きものを地方ごとに分類した堅い研究書のようだ。ますます昨夜の鉄蔵の印象とかけ離れていく。目次には島根とか大分の実態などと書かれてある。青森の例が掲載されていると睨んでいた私の勘は外れた。どこにも青森の文字はない。憑きものの呼び名も全国まちまちで、オサキ・クダ・イズナ・犬神が有名らしい。オサキとクダは狐のことだ。イズナはイタチに似た小動物で、憑きものと異なって、未来予言をする動物として珍重されていたという。憑きものに分類されているのは、イズナから予言を受ける際に術者が、いわゆる神憑《かみがか》ったような状態におちいるからである。ちょうど症状が狐憑きに似て混同されやすいと説明されていた。犬神は狼憑きと安易に考えられそうだが、正体は地鼠《じねずみ》とある。
〈ん……〉
パラパラと本文を捲《めく》っていた私の目に薄い鉛筆の痕が飛びこんできた。あるいは鉄蔵がつけたものかも知れない。
〈冗談じゃないぜ〉
私は冷や汗を拭《ぬぐ》った。線の引かれた部分の小見出しには狐憑き発見法とあったのだ。
──狐憑き発見法ということがある。つまり何とも得体の知れぬ病人が出た場合に、それが憑きものによるものかどうかを験《ため》してみる方法であって、いうならば診断法である。秩父の倉尾村では、墓の苔《こけ》をとってきて、病人に知れないように布団や枕元に置くと、オサキ憑きならば非常にいやがるからすぐわかるといい、野田市では万年青《おもと》の葉をとってきて入れればよいという。隠岐《おき》の島前《どうぜん》では、何でも足の多いものを恐れるから干蛸《ほしだこ》を布団の下にいれておけばいいという。島根県の出雲地方では、黒焼きを発見法に利用するむきがある。真黒い粉末で、それをほんの少しずつ食物の中にかくしておくが、それでもすぐ悟って「やれ汚い、共食いさせた」といって騒ぎ出す。そういわないのは狐憑きではないといっている。いよいよ真性の憑きものに違いないときまったものを落とすのにもいろいろの方法がある。普通にいわれているところでは、近親や近所の者が集まって、縛ったり叩いたりして威嚇《いかく》をする、松葉や唐辛子や硫黄などを燻《いぶ》して煙で攻める、問答によって理詰めにする、そして降参すれば、狐の好きな赤飯や油揚げなどを与えて追い返すという順序であるが、これにはなおいろいろの薬物を利用するむきもあり、鍼《はり》や灸《きゆう》による場合も多かった──
どうも分からない。まともに考えると鉄蔵は桐美の症状に疑いを抱き、狐憑きかどうかを判断するためにこの本を借りだしたとしか思えないが……それが原因でうっかりと娘を責め殺したとすれば、五陵に出世などできるわけがない。むしろ村の人間に告発される可能性の方が高いのだ。
〈待て、待て〉
違うページにも鉛筆で印しがつけられている。福と予言をもたらす外法厨子《げほうずし》について江戸期の随筆から引用したものだ。
──予が隣家に毎年相州よりイタコ来りけるが、往来の事を語るにあたらずという事なし。あるとき、袱紗《ふくさ》包みを忘れ置きたり。開きて見るに、二寸|許《ばか》りの厨子に、一寸五分程の仏像ありて、何仏とも見分けがたく、他に猫の頭とも言うべき干しかたまりし物一ツ有。ほどなくかのイタコ大汗になりて走り来り、袱紗包みを尋ねける故、即ち出し遣し、さて是《これ》は何仏なるぞとたずねければ、是は我が家の法術秘密の事なれども、今日の報恩にあらあら語り申すべし。是は今時の如《ごと》く太平の代《よ》にはいたしがたき事なり。この尊像も我まで六代持ち来れり。この法を行わんと思う人々、幾人にても言い合わせ、この法に用いる異相の人を常々見立て置き、生涯の時より約束をいたし、其人終らんとする前に首を切り落とし、往来しげき土中に埋め置事十二月にて取出し、髑髏《どくろ》に付きたる土を取り、言い合わせたる人数ほどこの尊像をこしらえ、骨はよくよく弔《とむら》い申す事なり。この像はかの異相の神霊にて、是を懐中にすれば、いかようの事にても知れずという事なしと言う。これなん、世上に言う外法つかいというものなるべきか──
私は溜息を吐いた。
箱神の正体はこの外法厨子のことではないのか? 私はあちこちと本を捲った。
〈あったぞ〉
イズナ憑きの分布という地図を見たら青森県は三ヵ所がマーキングされていた。地名こそ伏せられているが、位置から見てその一つがこの村を指しているのは疑いない。今も読んだようにイズナは狐憑きとは違う。未来予測という意味では外法とおなじだ。その上、箱神から受けるイメージは、まさに厨子そのものではないか。現にこの村にはイタコもいるのである。村人たちは代々その信仰を絶やさずにきたのだ。
しかし、それは吉凶紙一重の世界とも言える。予言を得ることによって福も授かるが、反対に自分の魂を神に預けなければならない。まさに悪魔との契約にも等しい。鉄蔵は箱神の年番に当たったことを利用してなにかを企んだのではないか? 私は先ほどの貸し出しノートを調べた。やはり鉄蔵の借りた本は他にもあった。どうせ今度も村関係の棚だろう。探すと簡単に見つかった。
近年のものではない。古い写本だった。ミミズがのたくったような文字に私は失望した。読める部分はホンのわずか。ところどころに稚拙な絵も挟まっている。村の由来を記したものらしい。やがて私の目は一枚の絵に釘付けになった。小高い丘に苔蒸した石塔が二つ。横の文字は私にもなんとか解読できる。
〈御寮さま首塚……大宮京之輔墓〉
どういうことだ。彼女も確か老人から御寮さまと呼ばれていた。この村では代々女性の方が権力を握っているのだろうか。それにしても首塚とは気味が悪い。今もこの墓は残っているのか? 棚を探すと村の絵地図がでてきた。なんだ、この公民館の直ぐ裏手に首塚は位置している。行ってみれば説明板でも立てられているかも知れない。私はもう引き返せないほど深みに嵌《は》まっていた。
私にもし霊を感じ取る能力があれば、絶対にこの場所には近づかなかったはずだ。いや、なくても普通の人間ならさっさと逃げだす。途中は鬱蒼《うつそう》とした繁みになっていて、古い墓石が見え隠れする。丘全体が村の墓所なのだ。震えながらも登っているのは私の意思ではない。丘に一歩踏み入れた途端に体が先へ先へと勝手に動いていくのだ。まるで海の底を歩いてでもいるように実感が伴わない。不意に私の足は繁みに向いた。なにかによって筋肉が完全に支配されている。私の目前には真新しい卒塔婆《そとば》が立てられていた。俗名・守屋桐美。分かっているよ、と私は呟《つぶや》いた。私の頭の中で脳がドロドロに溶けていく。そうなんだ。こうして桐美の墓を見るのは、ずうっと前に決まっていたことなんだ。私にはすでに恐怖もなくなっていた。桐美の卒塔婆の前の土は掘り返されている。ああ、なんだか酷くだるくなってきた。土なんてどうでもいいさ。どうせ桶《おけ》はからっぽなんだ。私はぼんやりと桐美の棺桶を上から覗《のぞ》きこんだ。
喉の奥の悲鳴が正気を誘った。
桶の中には丸裸の田子が蹲《うずくま》っていた。
しかも田子は腐った頭蓋骨を両手で抱えていたのである。長い髪の毛がまだ半分も張りついているヤツだ。田子の頭もまた山刀でざっくりと割られていた。私はヘタヘタとその場に座りこんだ。私を支配していた力がフッと抜けていく。これは夢なのか?
「そいつは桐美の首じゃよ」
背後から嗄《しわが》れた声がかかった。
老人を中心に山刀を手にした三、四人の男たちが私を静かに取り巻いていた。彼らの脇に置かれた戸板には肩の付け根から腕を切り落とされた鉄蔵の無惨な死体がある。
「儂らも迷っておるんじゃ……もうなにがなんだか分からんでの」
老人は泣きそうな声を上げると男たちに命令した。二人が私の肩を抑えこみ、一人が山刀の柄で私のみぞおちを激しく突いた。息が止まる。私は暗闇に転げていった。
どれだけ時間が過ぎたのか……
私は目覚めた。全身が氷のように冷え切っている。体の自由が利かない。結んでいる掌さえひらけないのだ。胸が苦しい。どんなにもがいても駄目だ。この圧迫感はどこからくるのか。突然、私の目隠しが外された。
目の前に泥だらけの靴があった。
私は首まで土に埋められているのだ。
ああ、黄昏《たそがれ》がまた迫ってくる。
紫の闇が忍び足で丘を上がってくるのだ。
「気がついたようじゃの」
老人は近づくと、しゃがんで私の顔を覗きこんだ。薬臭い息がかかる。
「なんでこんなことに?」
私の声は哀願に近かったに違いない。
「鉄蔵のせいじゃ。鉄蔵が首継ぎ御寮を招いてしもうた。もう後戻りはできん」
「首継ぎ御寮?」
「儂らの守り神さまじゃ。千年も祟《たた》りを恐れて守り通してきたというのに……あの阿呆のために村は終《しま》いじゃ。取り返しがつかん」
老人は涙を零《こぼ》した。
「はっきりと教えてくれ。このまま殺されたんじゃ行くところにも行けない」
「この丘の上に御寮さまの首塚がある」
「………」
「御寮さまは都の左大臣・大宮京之輔さまの奥さまじゃった。儂らはそのお二人に仕えておった郎党の子孫なのじゃよ。不幸なことに京之輔さまは政変に巻きこまれ、無実の罪を着せられて無惨にも打ち首となった。美人の誉れ高かった奥さまは屋敷を取り囲んだ敵を凌《しの》いでなんとか都を抜けだしたものの、京之輔さまをお慕いするあまり、自ら命をお断ちになられたのだ。必ずこの世に甦《よみがえ》って祟りをなすと申されてな………儂らの祖先たちはその首を抱えてこの東北の山奥に逃げこんできた。いつか無念を晴らそうと、その一心だけで土を喰い草の根を噛んで生き長らえた。丘には御寮さまの首を埋め、となりに京之輔さまの墓標を立てもした。じゃが、御寮さまのお怒りはそれで治まりはしなかった。怪異が村に相次ぎ、とうとう祖先たちは奥さまの御霊《ごりよう》を封じこめることに決めたのじゃ。血の繋《つな》がる者でもおれば、まさかそこまではせんかったじゃろうが、祖先たちはただの使用人に過ぎぬ。ここで暮らしておる間に戦乱とは無縁の人間になっておった。と言って大きな神社を作ることもかなわぬ。奥さまは逆徒に連なるお方なのじゃからの。それで箱神さまとなられた。呪いを封じるためには形代《かたしろ》を拵《こしら》えねばならぬ。祖先たちは首塚を掘り起こし奥さまの髑髏に被った土で仏を作り、その首を切り離した。理由は分からん。そうしろと勧めた修験者でもあったのだろう。じゃが、それ以来御寮さまは静かになられたのじゃから、まんざら根拠のない方法でもなかったはずじゃ」
御寮とは御霊のことか。ゾッとした。
「しかし、何百年も経《た》つうちに御寮さまを吉と思う連中もでてきた。彼らは年番に当たると密かに仏の首を継ぎ、再来を願った。村の歴史では三度御寮さまが出現なされておる。神憑りが狐憑きと似ておるところから、この村にはあらぬ噂も立つようになった……それでも、これまでの御寮さまは軽い方じゃった。三度と言われるが、あるいは祖先たちの勘違いかも知れん。本当に御寮さまが出現したなら、この世は終りじゃ。村が無事に続いてこれたわけがない」
「すると……今度の御霊が?」
「鉄蔵は桐美を生贄《いけにえ》にしたのじゃぞ」
「………」
「密かに首を継ぎ……あろうことか仏の背中に桐美の名前と生まれを書きこんだ。娘の体を御寮さまに与えたのじゃ」
むごい話だ。
「もっと早くに気づいておれば……儂らが鉄蔵に不審を抱いたときはもう遅かった。桐美には御寮さまが半分とり憑いておったのじゃ。鉄蔵はそれを狐憑きか御寮さまか確認するため本を片手に試しておる最中だった。儂らは驚愕《きようがく》した。もし御寮さまが桐美の体に甦れば取り返しがつかん。可哀相だが儂らには桐美を殺すことしか方法がなかった。天井まで飛び上がる桐美を箒《ほうき》で殴りつけ、とうとう皆でなぶり殺しにしてしもうた」
「………」
「沢から転げ落ちたことにして医者はごまかしたが、やはり世間の目はうるさかった。しかし、これで御寮さまだけは防げたと安堵しておったのじゃ。桐美の首も念の為に切り離しておいたからの」
恐ろしい。私はガタガタと震えた。
「ところが……御寮さまは現われた。首のない桐美の体に乗り移り、ご自分の首を継ぎ足されての……今でもあの恐ろしさが忘れられん。真っ裸のまま儂の家の扉をホトホトと叩いて入ってこられた。生前は小柄なお人じゃったと見えて、桐美の首とは多少のズレがあった。もう儂には逆らう力などなかった。御寮さまは儂に命じて村の者を招《よ》ぶようにと申された。やがて都から京之輔さまが戻られる。つつがなきようお迎えするようにとな」
「京之輔が!」
「あんたのことじゃよ。昨夜の宴会はあんたのために開かれていたんじゃ」
バカな。そんなバカな。
「儂の隣りには御寮さまが座っておられた。田子があんたを案内してくることも御寮さまはすべてお見通しじゃった。儂らは半信半疑でおったが、定刻通りにあんたが現われると、もう御寮さまの言葉を信用する他にない。命令通りに二人を酔い潰し、田子は殺した。田子が村にきたことなどだれも知らん。そうであろうが?」
私は頷いた。
「京之輔さまは私が分からぬらしい、と御寮さまはいたく嘆かれておいでじゃった。桐美や田子を見せて古い恨みを思い出してもらわねば……ともな」
私は気が狂いそうだった。東京から青森に向かった瞬間から私の運命は定められていたのである。
「だが……この筋書きは御寮さまのもんじゃないぞ。御寮さまがあんたと組んでなにを目論《もくろ》んでいるのか儂らは知らねえ。恐らく、ろくでもねえこったろう。あんたはまだ気づいておらんようだから気の毒な気もするがの。どうせそのうち正体を現わすんじゃ。御寮さまの話では、こうして穴に埋めておけば前世を思い出すはずだと言っておったが……儂は決めたんじゃ。桐美、田子、鉄蔵と短い間に儂らは三人も殺してしもうた。こんなことが許されるはずもなかろう。もう御寮さまの言いなりにはならん。あんたを殺して御寮さまに立ち向かう。それしか方法はない」
やめろ。狂っているのはおまえの方だ。
私は絶叫した。
老人は笑うと若い男から山刀を受け取って刃の輝きをゆっくりと確かめた。
私の頭の中で糸がプツンと切れた。
「こんな黄昏であったよ」
私の中でだれかが話している。
「私が首をはねられた夕べは……」
私は首に食いこむ冷たい刃の感触をはっきりと思い出した。ギリギリと骨を立ち割っていく重い刃の冷たさを。
老人は恐怖に怯《おび》えた。かざした山刀に躊躇がある。幽《かす》かな笑いが林に響き渡った。男たちは蒼白になった。辺りを見回す。
紫の宙空に彼女が漂っていた。白い薄物がふわふわと風になびいている。
「思い出されましたか……」
か細い声で彼女は私を見下ろした。
うん、と私は微笑《ほほえ》んだ。
その瞬間、老人は私の首を目がけて山刀を振り下ろした。ザクッと肉が音を立てた。
彼女は空からヒイッと苦痛の声を上げる。怒りの風が林を揺さぶった。
山刀はやはり厚い。骨の砕かれる鈍い痛みを覚えながら、私は京之輔であったことを知り得て満足していた。
黄昏も死にはふさわしい美しい時間だ。
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星 の 塔
岩手県和賀郡S村。仙台から向かうと北上で秋田県の横手行きに乗換え、陸中川尻駅で降りてバスで一時間。地図の上では大した距離でもないが、十一時に仙台を発《た》って到着したのは午後の三時近くだ。
「村とも縁ができたねぇ」
寂《さび》れたバス停には花田の従弟の保久《もりひさ》が傘を片手に待っていてくれた。私より二つ年下の男で、この村の中心にある寺の住職を務めている。まだ三十二の若さなのに、太った恰幅《かつぷく》のせいか、いかにも貫禄がある。五、六人しか乗客のいないバスは私一人を降ろして盛岡方面に消え去って行った。
「評判いいよ。今度の連休には東京から四十人の団体がくる。役場の連中もぜんぶあんたのお陰だって喜んでいる。オレも紹介した手前、鼻が高くてさ」
保久は傘を差しだして歩きはじめた。彼の寺は停留所から歩いて五分。参道には両側に鬱蒼《うつそう》とした樹木が生い茂っているので、立派な雨除けになる。傘を畳むと私は古い杉の匂いを嗅《か》いだ。仙台のような都会に暮らしていると、やたらに自然の匂いを大事に思うようになる。ただの感傷だろうが。
「鬼柳のどこって言った?」
保久が振り向いて訊《たず》ねてきた。
「詳しい住所は聞いていない。相手は君とオレの関係を知っているらしくて、夕方この寺に迎えにくると電話で言ってたよ」
「まあ、村のほとんどがオレたちの付き合いを知ってるからな。なら、いい。会えばどこのだれか直ぐに分かる。小さな村だ」
「小さくはないだろう。確か村としちゃ日本一の広さだって前に聞いたぜ」
「縦断する道路の長さがね。なにしろ村の端から端まで車でブッ飛ばしてもたっぷり二時間近くはかかる。縦に細長い村なんだ。広さとは関係ない」
「だけど……相当なもんだ」
私は参道の坂道から村を見渡した。岩手を貫く二本の山脈に挟《はさ》まれるようにして一本の道がどこまでも続いている。その道路沿いに村が広がる。以前に五百メートルもある寺の裏山に登ったことがあったが村の両端は霞んで見えなかった。
「小さいってのは土地じゃない。住んでいる人間の数さ。寺もウチを含めて四つしかない。たとえ顔を知らない子供でも、屋号や、じいさん、ばあさんの名前を聞けばたいがいは分かる。ましてや鬼柳なんて場所は村でも辺鄙《へんぴ》なところだ。あんまり家もないしな」
もっと辺鄙な場所があるのか。私は保久の言い方に苦笑をこらえた。この周辺だって私にすれば充分過ぎるほど辺鄙に思える。
「化け物がでるんだぞ」
保久は大真面目《おおまじめ》な顔で言った。
「もっとも、幽霊ぐらいなら寺にもでる。そんなのに驚いてちゃ住職が務まらんけど」
保久は甲高い声で笑った。
「あんたがくるってんで、今夜は宴会の用意をしておいたんだが……迎えは何時頃かな。連絡先が分かりゃ明日にズラしてもらおうと思っていたんだ。助役を筆頭に役場の企画課長なんかも顔をだすって張り切ってるし」
「大袈裟《おおげさ》なのは苦手だな」
「でもない。あんたが復元してくれた小学校が人気を呼んで、この冬は観光客が何倍にも増えた。実際いいアイデアだったよ。役場で企画した『豪雪体験ツアー』だって、あの宿泊施設があったからこそなんだぜ。去年までは一軒の宿屋もなかったんだ。まさにあんたは村の救世主さ。遠慮するこたぁない」
その小学校はこの参道からも見える。老朽化して廃校となった大正時代の建物だったが、あまりにも雰囲気がよかったので宿泊施設としての再利用を私が提唱したのだ。もちろんそのためには最新の暖房設備を入れたり、結構な費用もかかる。だが潰《つぶ》して新たなホテルを建設するよりは遥かに安くつく。村はその案に乗り気になって私へ図面作成を依頼してきた。仙台での仕事ぶりを評価してくれたのだ。設計技師と言っても、民家を移築して喫茶店に直したり、レンガ造りの古い銀行などの修復を私は得意としている。村との仲介の労を取ってくれたのが目の前にいる太田保久。高校時代の大親友花田の母方の従弟だ。ちょうど一年前の春に私は花田と一緒にこの村を訪れ、保久の寺に三日ばかり滞在し、山登りや山菜採りを楽しんだ。彼の寺には充実した民俗資料館もあるので、古いものが好きな私は直ぐに保久と打ち解けた。
「あのプラネットが契機になって村起こしの機運も高まってきたしな」
保久は立ち止まるとホテルの屋根を見下ろした。屋上のバルコニーには小さな天文台まで作られている。私のアイデアだ。都会の人間は美しい星空に飢えている。S村のように大気の澄んだ場所にくれば必ず星を間近に感じたくなるはずだ。と言うより、これは個人的な趣味でもある。私は設計した喫茶店にはたいてい星空を眺められるよう天井に工夫が施されている。もっとも、仙台では星が何日見られるか保証の限りでもないが。
「スノウ・プラネットだなんて、最初は気恥ずかしい名称に思えたんだが……今じゃ村の年寄りたちまで自慢そうに口にする。あのネーミングのせいで確実に二、三割は泊まり客が増えている。今年の夏は『星の降る里』というコピーのポスターを作成して県外に配るそうだ。こいつもあんたのアイデアだな」
保久の説明に私は少し心配した。降る里とは、故郷とのゴロ合わせで、ホテルの設計理念として私が役場の連中たちに説いたものだが、私の作った言葉ではない。好きな歌のタイトルなのである。まあ、いいか。どうせ今夜か明日には企画課の人間とも会えるだろう。その時に伝えればいい。むしろそれがきっかけとなって、それを歌っているあがた森魚の野外コンサートでも開催できればもっとプラスになる。面倒なことは考えないことにした。
「不思議な話だごと」
保久の母親は私の説明に首を捻《ひね》った。
「そんたな立派な屋敷が鬼柳にあるかね」
「立派とは限らねえぞ」
保久は笑った。分厚い一枚板のテーブルの上には彼の母が用意してくれた漬物や菓子がズラリと並んでいる。喫茶店もないこの村では客人をこのようにして迎えるのだ。
「立派だべさ。わざわざ弘野さんに修理を頼むってんだから。この辺なら大工で済むもの」
「別荘でも建て直すつもりじゃねえが。鬼柳の辺りは景色もいいがらな。盛岡の不動産屋でも入りこんでいるのと違うか。弘野さんの直した学校の評判を耳にしてよ。そったなとこだべ」
保久も母親とでは訛《なまり》がでる。
「別荘なんてあったかね」
皺《しわ》の目立つ痩《や》せた掌で急須の葉を替えながら、母親は食い下がった。
「昔から聞いたこともねえなぁ」
「昔はねえべさ。今の話だ」
「だども……修理となりゃ古い建物ってことじゃないかね。おかしな話だよ」
「だから……迎えにくりゃ分かるって。おふくろの心配する問題じゃねえ」
はいはい、と母親は厨房《ちゆうぼう》に消えた。
「いつまでも子供だと思ってるんだ」
保久は苦笑した。
「本当に辺鄙な場所らしい」
私も頷《うなず》いた。
「ウチの檀家がないんで付き合いもないが、確か七、八軒しか家がないはずだ」
「案外ある方じゃないのかい」
この周辺にしろ三、四十軒しかない。
「鬼柳は広いぞ。山も入っているから……そうだな、新宿区の倍くらいは軽くある。その広さに家が七、八軒なんだぜ」
「なるほど。そいつは寂しい」
保久も東京の大学を卒業している。歌舞伎町に馴染《なじ》みの店がいくつもあったと言うからなまぐさ坊主の典型だ。酒もすこぶる強い。
「柳が鬼に見えたと言うほど怖い場所でな。オレもあんまり行ったことがない」
「それで、さっき化け物がでると」
「死んだ祖父から聞かされた話さ。祖父は郷土史家のはしくれだったんで、この村の伝説や民話を調べていた。本堂の脇の部屋に祖父が集めた史料が揃《そろ》っている」
「夜にでも見せてもらおう。オレもそっちの方は嫌いじゃない」
「佐々木喜善に会ったというのがなによりも自慢の祖父でね。材料を提供したこともあったそうだ」
「佐々木喜善って……ああ、柳田国男に遠野物語を紹介した人物か」
「喜善が書いた『和賀郡の昔話』って本もあるんだよ。子供の頃に祖父から読ませられたきりで詳しい話は忘れたけど」
「ふうん。それなら村起こしの材料にもってこいじゃないのか。遠野だけを民話のメッカにしておく手はない。プラネットで民話を聞く集《つど》いでも開けば? PR次第で若い女の子なんかがどんどんやってくる」
「そうだな。民話の里か。また役場の連中が喜ぶぞ。そのうち名誉村民の話まで持ち上がるんじゃないか」
「名誉村民なんかより美しい嫁さんでも紹介してくれる方がありがたい」
「オレはともかく、あんたならいくらでも相手がいるだろうさ。顔の善し悪しを言ってるんじゃないぞ。こんな村じゃ嫁のきてがない。深刻な問題だ。村の娘たちは高校を卒業すると都会にでたがるし。青年会の課題でね」
「農家の仕事はきついからな」
私は熱い茶を飲み干した。
それから一時間後。春の陽がとっぷりと暮れかかっていると言うのに、肝腎の迎えがやってこない。私が寺に到着したのを確認する電話さえかかってこないのだ。しかし、こちらもあまり気にしないことにした。都会の感覚でいると無駄な苛立《いらだ》ちがつのるだけだ。せっかくのんびりとした村にいる。今夜は歓迎の宴会もあるし、むしろ連絡のないのは好都合と思わなければならない。私はその準備や連絡に忙しい保久に頼んで民俗資料館の鍵を貸してもらった。開館時間は四時までなので受付のおばさんもとっくに帰っている。
〈やっぱり気味が悪いな〉
鍵を開けて真っ暗な土間に足を踏みこむなり寒気がした。けれど教えられた電気のスイッチを入れると不安はなくなった。明るい蛍光灯が次々についていく。民俗資料よりも私はこの建物が好きだ。ここはもともと保久の寺の庫裏《くり》だった家なのだ。古くなって建替えの必要に迫られたときに、保久の親父がこの場所に移動させ民俗資料館とし、住まいを新築した。だから昔ながらの囲炉裏《いろり》もあれば、台所には樋《とい》で引きこんだ清水も流れている。展示物ばかりか、建物そのものが民俗資料なのである。私は靴を脱ぐと上がりこんだ。
みしみしと床がたわむ。土台が弱くなっている。シーズンになると大勢の観光客が訪ねてくるから傷《いた》みも早い。居間に掘られた囲炉裏には炭が燃えているように見える照明が使われている。他愛もない仕掛けだが、いかにも暖かな雰囲気だ。その炭のまわりには串《くし》に刺した作り物の鮎が立てられている。よくできているものだ。
私は一瞥《いちべつ》すると奥の客間に進んだ。そこには床の間を利用して人形芝居用の小さな舞台が拵《こしら》えられてある。保久の祖父が趣味で蒐《あつ》めた佐渡の木偶《でく》人形のコレクションも側に飾っていて、その素朴な味わいが気に入っていた。私は丹念に人形を眺めた。のろま人形と呼ばれているんだったな。おどけた人形の顔を見ているうちにようやく思い出した。この前はどうしてもその名称がでてこなかった。しかし、のろま、と言うわりには鬼女とか幽霊とか無惨な人形も多い。チカチカと真上の蛍光灯が点滅した。母屋の方で過重電圧にでもなったのか。ちょうど鬼女の顔が割れる仕掛けを手に取って試していたところだったのでゾッとした。人形の背中に二本の紐《ひも》が垂れ下がっている。今は鬼女の顔だが、このどちらかの紐を引くと若い女の顔に変身する。演者は両方の腕に人形をはめているから、紐は口を使って引っ張る。力をこめて紐を引くと、鬼女の腰から下の衣裳が血の色に変わった。なかなかのからくりだ。きっと退治されたときの表現なのだろう。佐渡の人形なので村のPRに使えないのが残念だ。いつの間にか私はこの村の人間に近くなっているらしい。
「弘野さまはおいでなさりますか」
入り口の方から抑揚のない低い声が聞こえた。あまりに耳元で囁《ささや》かれたような気もしたので空耳かと疑ったほどだ。
「鬼柳からお迎えに参じました」
私は急いで入り口に戻った。ここの蛍光灯も忙《せわ》しい点滅を繰り返している。
「………」
私を認めて頭を下げた男の異様な風体に思わず息を呑《の》みこんだ。鍔《つば》が丸く反《そ》り返った黒い山高帽を両手で胸にあてがい、服装はフロックコート。まるで明治の世界からそのまま抜けだしてきたような恰好だ。おまけに鯰髭《なまずひげ》まで生やしている。私を迎えるのに紋付きでは大袈裟と考えてこうなったのだろうが……噴きだしそうになるのを必死でこらえた。
「早速ご同道くださりませ」
年齢は六十近く。こういう慇懃《いんぎん》な口調が似合う人間も珍しい。さしずめ執事というところか。私を招いた家はよほどの旧家と見える。
「寺の方を訪ねられたんですね」
分かりきっていることを私は質《ただ》した。でなければ私がこの資料館にいると相手に知れるはずもない。男は無言で頷《うなず》いた。
「じゃあ、今夜の予定も?」
「承知してございます。お手間はとらせません。今夜のところは建物をご覧になっていただくだけで……無事にお戻しいたします」
「そうですか。だったら保久にちょっと話してきますよ。どのくらいかかりますか」
「宴会までには必ず。それはすでに私が申し上げて参りました。これにお車を──」
男は外に合図した。夕闇の中にライトがついた。だいぶ古いタイプのフォードだが、遠目にもピカピカに磨かれている。
〈まあ、いいか。建物を見るだけならなにも荷物を持っていく必要がない〉
私は靴を履《は》いて外にでた。
運転手が車のドアを静かに開ける。まったく気持がよくなるほどのしつけだ。この村では貴賓扱いをされている。まんざらでもない。仙台では無名に近い存在だというのに。
乗りこんだフォードのソファはふかふかだ。高いガソリン代を払っても、この満足には代えられない。私もいつか高級車を購入できるような身分になろう。運転手つきとまで考えられないところが情けないけれど。
時間は五時。昼と夜が溶け合う時間にフォードはゆっくりと動きはじめた。
「ずいぶん離れた場所だそうですね」
しばらくして私は助手席にいる男に声をかけた。これもしつけなのか、前の二人ともずうっと無言でいるのだ。
「時間は気になさらずに」
男はミラーで私を覗《のぞ》いた。
「いや。そんな意味じゃないけど」
「山道に入りましたらお車を乗り換えます」
「車を? よほど狭い道なんですね」
「駕籠《かご》でなければ……私どもはいつも歩いておりますが。今夜は用意をしてあります」
「駕籠ねえ。はじめてです。嬉しいけど、なんだか申し訳ない気分だな。歩くのは平気ですから、帰りはご心配なく」
相当の山奥だろうか。それで宴会に間に合うとは……少し信じられない。現にフォードに乗ってから軽く三十分が過ぎている。保久から言い聞かされた時間は七時。そろそ現地に到着してくれないと、本当に建物をチラッと眺めただけで帰らなければいけない。
車は脇道に入った。どんどん山に向かって進んで行く。舗装が直ぐに途絶えた。クッションのいいせいか振動も楽々吸収する。空を走っている感じだ。まわりには人家の明り一つ見えない。ときどきヘッドライトの視界に動物の目が光っては消えた。狐か狸だろう。私は時計を気にしながら前方の闇を睨《にら》んでいた。もうじき六時。せっかく楽しみに集まってくれる人たちをあまり待たせたくない。あと十分以内に到着しなければアウトだ。
「着いたら電話をお借りします」
その言葉と同時に車が停止した。
「ここから先は駕籠で……」
男が振り向いて言った。ホッとした。いくらなんでも駕籠で二、三十分はかからないに違いない。この老人にも歩ける距離だ。
窓越しに外を見ると家紋の入れられた提燈《ちようちん》を手にした四人の男が立っていた。その後ろに置かれてあるのは時代劇なんかで見かける大名駕籠だ。溜息《ためいき》が洩《も》れた。私を歩かせるわけにはいかないと無理をしたのだ。確かにこの狭い道ではどんな小さな車でも上がっていけない。好意は分かるが、こんなのに自分だけ乗るのも気が引ける。
「ご遠慮なく。夜道は危のうございます」
男がドアを開けて私を急《せ》かした。
「乗ったことがないんです」
私の返事に男たちは笑った。
「普通にお座りください。それだけで」
私も覚悟を決めた。それに興味もある。体を屈《かが》めて中に潜り、胡座《あぐら》を掻《か》いてしまえば意外に広く感じられる。男が音を立てないように駕籠の扉を閉めた。三方に格子があるので通気もいい。ふわっと尻が持ち上がった。尻が左右に流されるようで安定が悪い。しかし、それにも直ぐに馴《な》れた。
〈この村には、まったく面白いものがたくさん残されている〉
都会の女の子たちが喜びそうなものばかりだ。そう言えば民俗資料館にも二つの古い駕籠が天井から吊《つ》り下げられていた。車のない時代にはごく当たり前の道具だったのだ。
四人の男たちの呼吸を合わせる掛け声を耳にしているうちに眠気が襲ってきた。なんとも心地のよい乗り物だ。
「お屋敷でございます」
はっと目を開けると、男が扉の外で私を覗きこんでいた。目が笑っている。
「よくお眠りのようで」
一瞬のつもりだった。なのに時計を見ると十五分が過ぎている。今から折り返しても宴会には間に合わない。電話で連絡をする他にないな。諦《あきら》めて私は駕籠から降り立った。
一面の霧だった。
その霧の中に私は絶句しながら立ちすくんだ。巨大な長屋門の向こうに八重の塔を中央に備えたコの字形の二階屋が、すべての視界を埋め尽くすように広がっていたのである。
塔には地面から湧《わ》いた霧が、まるで太い蛇のように巻きついていた。
「お嬢さまでございます」
宙に止まった私の視線を辿《たど》って、男が耳打ちした。塔の最上階の窓から私を見下ろしている女がいる。もちろんこの距離で、しかも暗い明りの下にいる女の顔など見分けられるわけもない。が、風にそよぐ長い髪が印象的だ。彼女が顔をだしている窓の上には時計が飾られてある。針が六時十五分を示すと、どこからか低い鐘が鳴った。大した音でもないのに、その音で微《かす》かな共振がはじまった。それは次第に私のいる門にまで拡大する。古い門の屋根から土埃《つちぼこり》が舞い下りた。
「これでございますよ」
男がはじめて不安そうな顔を見せた。
「もう何年もこれが続いて……」
「時計の鐘を止めればいかがです」
簡単な問題に思える。
「それが……鐘がどこにあるのか手前どもには分かりかねるんでございます」
そんな馬鹿な。私は失笑した。
「もちろん、時計のネジを止めれば鐘も鳴らなくなるでしょう。しかし、それはできませんのです。この時計が私どもの命ですので」
「そうか。鐘の方はなにかの仕掛けで自動的に打たれるようになっているんですね」
男は頷いた。それなら分かる。恐らく鐘はあの塔のどこかの部屋に隠されているのだ。ところが特別な理由で扉が閉ざされてしまった。しかも、あまりにも古い時代のことなので、家人のだれもが場所を知らないというわけだ。鐘の音を防ぐには時計を止める方法しかない。なのに時計は止められない。
「最上階は危なくないかな。なんだかグラグラしているように見えるけど」
私は彼女を見上げた。
「大丈夫でございましょう」
馴れているのか、男は請け合った。
まったく凄《すご》い屋敷だ。永年この仕事に携わってきたが、これほどの造作は見たことがない。太い梁《はり》や桟に至るまですべて丸木から切りだしたものだ。いかに山の中で材料にこと欠かないとは言え、現代にこの家を再現しようとすれば十億はかかる。むろん土地抜きの値段でだ。いや、八重の塔を忘れていた。あれも含めれば二十億か。和賀郡ではかつて金が掘れたという話もあるから、あるいはその関係者の屋敷だったのだろうか。長い廊下を案内されながら私は眩暈《めまい》を覚えた。この建物の修復を本当に任せてもらえるなら金もいらない。設計者|冥利《みようり》とも言える仕事だ。それに構造も少し変わっている。ちょいと見には分からない勾配《こうばい》や歪《ゆが》みがわざと作られている。その危ういバランスが心を躍らせる。建物が生き物であることを私ははじめて実感した。修復を手掛ければその秘密を手に入れることができるかも知れない。
もう十五分が過ぎたのか、またあの鐘が鳴り響いた。外ではさほど感じなかった共振が、廊下にいると逃げだしたくなるほどだった。両脇の壁土がパラパラと音を立てて剥《は》がれ落ちる。これでは堪《たま》ったものではない。
奥の応接間の前には二人の女性が姿勢を正して私を待ち受けていた。洋服こそ着ていても、雰囲気は昔の御女中そのままだ。うやうやしい表情で私に頭を下げる。
「お嬢さまがお待ちです」
私も慌《あわ》てて両足を揃えると頭を下げた。
「……どうぞ」
中から鈴のような声が聞こえた。
一人が扉を開ける。廊下に眩《まばゆ》い部屋の明りが広がった。アールヌーヴォー風の優雅なシャンデリア。ロココの長椅子。デコのテーブル。四方の壁は真紅に金|刺繍《ししゆう》のクロス。派手でチグハグなはずなのに不思議な調和がある。調和はきっと目の前の女性が作っているのだ。彼女の輝きの前にはすべての装飾が地味に見えてしまう。年齢は二十二、三。
「匂《かおり》さまでございます」
男が脇で紹介した。私も名乗る。きっと上滑《うわすべ》りした声だったに違いない。三十四にもなるってのに、なんて醜態《ざま》だ。
「直せそうですの?」
彼女は笑顔で私の手を握った。
「鐘の問題さえ片付けば。お屋敷は基礎がしっかりしていますので。問題は──」
「………」
「塔の方でしょう。外から眺めただけでもかなり傷みが酷《ひど》く、危険な状態かと」
「塔が大事なのです。屋敷はすべて取り壊すようになっても……塔だけはなんとか」
「お屋敷と分離しても構いませんか。それでしたらなにか方法があるかも知れません」
彼女は目を丸くして私を見た。
「そんなことができますの?」
「ええ。構造を確かめて見ないと断言はできませんが。それが可能なら鐘の共振も防ぐことができるはずです」
御女中たちも安堵《あんど》の息を洩《も》らした。
「やはりお嬢さまのお言葉通りでしたな」
男が相好を崩して頷いた。
「時間がないので……早速にでも塔の内部を見せていただきたいのですが」
私は彼女に頼んだ。本当は宴会など忘れていた。ただ、彼女の前にいると息苦しいほど圧倒されるのだ。あまりにも美し過ぎる。
「それでは……私が」
彼女はするりと私の脇を抜けて廊下にでて行った。御女中や男も続く。
廊下の暗がりの奥に見える塔の扉には重そうな南京錠がかけられていた。彼女は胸元の大胆に開いたブラウスの襟《えり》に細い腕を差しこむと銀色の鍵を取りだした。ネックレスにしていたらしい。家人にも立ち入りが禁止されているのか。扉が開けられると塔を支える巨大な心柱が目に入った。階段、というよりも緩やかで幅広のスロープが心柱を巻くように二本、左右から上に伸びている。左右?
「上りと下りが別の道なのです」
ああ、と私は了解した。螺旋《らせん》が屋上まで続き、今度はその道と入れ子のような下りの螺旋に変わる。珍しい造りだが世の中に皆無というものでもない。実際に会津若松の飯盛山にはおなじ構造の『さざえ堂』と呼ばれる塔が現存している。私は嬉しくなった。さざえ堂は好きな建物の一つなのだ。
「ここにも途中に抜け道があるのかな」
「よく……ご存知ですのね」
彼女は警戒した視線を送ってきた。
「会津のさざえ堂はそうです。何ヵ所かに反対側のスロープに抜けるトンネルがある。なんのために作っているのか分かりませんけどね。一応は下りるスロープへの近道だと説明されているけど、途中で飽きたらわざわざ反対側に行かずとも、そのスロープを逆に下りればいい。抜け道には仏像が飾られていたから、なにかのおまじないのようなものかも知れないな」
「あそこは時計塔じゃありません」
彼女はにっこりと微笑《ほほえ》んで中に進んだ。男たちもついてくるかと思ったのに、彼らは当然のように扉の外にいる。私は少しの躊躇《ちゆうちよ》のあとスロープを上がった。妙に空気が重い。最上階の部分まで窓がないせいだ。私は慎重に足を運んだ。階段ではないので足を躓《つまず》かせる心配はない。こうして外の壁に軽く手を這《は》わせていれば……となると、あの鐘は部屋に封じこまれているのではない。きっとこの太い柱のどこかに隠されている。音が大きいので鐘も大きいと単純に考えていたが、心柱に空洞を作れば小さな鐘でも不可能ではない。心柱なので塔全体にも影響がでる。そいつは充分に有りえる。どうやら厄介な問題になりそうだ。空洞を探して穴を開ければ共振も少なくなる。しかし、それでは鐘の音が聞こえなくなってしまうだろう。それでも構わないと言うなら明日にでも応急処置を施せるが、先ほどの彼女の様子ではむずかしそうだ。
上に行けば行くほど呼吸が苦しくなる。スロープの勾配もきつい。暗がりの中に彼女の白いブラウスが浮かぶ。いくら馴《な》れているとは言え、怖くはないのだろうか。
「抜け道に気がついて?」
彼女が上から声をかけてきた。
「いや。反対側の壁を伝っているから」
「各階にありますのよ。触って御覧になられたら? 狭い穴です」
促されて腕を伸ばした。冷たい心柱の手触りに思わずドキッとした。木肌よりも金属の感じだ。銅板で全体を補強しているのかも知れない。探ると狭い穴が見つかった。さざえ堂と異なり、こちらは人一人が腹這いになって辛うじて通れる程度の穴だ。
「まだよ。上に登ってから」
彼女は潜《くぐ》ってみようとする私の気配を悟ると声をだして押しとどめた。両肩を入れたところで私は体を戻した。無理に屈んだせいか吐き気が襲ってきた。
「だから言ったじゃありませんの」
彼女はクスクスと笑った。笑いが塔の内部に反響する。これなら共振もするわけだ。
「上にはなにがあるんです?」
大体の構造は頭に入った。鐘のありかも見当がついたし、私は早くこの塔からでたくなった。日中ならともかく、この時間に楽しめる場所ではない。夜景にしても、こんな山奥では香港や函館というわけにはいかない。
「星よ。あなたの好きな」
どうしてそんな趣味を知っている?
「だから天文台を拵《こしら》えたんでしょう?」
戸惑っている私に彼女は重ねた。なるほど、そういうことか。あのホテルを見たから彼女は修復を依頼してきた。当たり前の話だ。
「星が掴《つか》めるくらい」
彼女はゆっくりと上がって行った。
これほど綺麗な星空ははじめてだ。
私は感動に涙を零《こぼ》しそうになった。満天の星が塔を取り囲むようにどこまでも広がっている。視界を遮《さえぎ》るものはなに一つない。すべてが濃い紫の夜空だ。乳色をした天の川が滔々《とうとう》と空から大地に注ぎこむ。白鳥座は遠い故郷を目指してはばたき、その旅立ちをことほぐように琴座は音楽を奏でる。カシオペアの王冠は空を支配し、オリオンは牡牛に真向かう。光の劇場だ。私は酔いしれた。
「なんでオレは星に魅かれるんだろう」
「星が……故郷だから」
彼女は私の隣りで呟《つぶや》いた。
「私とおなじように」
その言葉に私は泣きたくなった。なんだか自分がとてつもない悲しみを背負って生きてきたような気がした。悲しみは、無駄に似ている。無駄な人生だった、と感じた。こうして星を眺めていさえすれば、他になにも求める必要はない。隣りにおなじ思いで星を眺めてくれる人さえいれば……。
「私はあなたを待っていたんです」
私は匂《かおり》を引き寄せてくちづけした。星がそうさせたに違いない。私たちの上で夜空がゆったりとまわった。振りまわした傘から雫《しずく》が飛び散るように無数の流れ星が空を駆ける。
〈溺《おぼ》れる。夜空に……〉
今度こそ本当の眩暈《めまい》が私を襲った。
どうやって帰ったのか思いだせない。匂と時計塔の屋上で星を浴びながら裸で抱き合ったまでは記憶にある。そのあと二人で塔を下りて、途中でふざけて抜け道をいくつか潜り抜けた。そのたびに激しい頭痛と吐き気を感じたが……あれで記憶がおかしくなったのだろうか。とにかく、私は保久の寺の前に立っている。立っているからには、またあの男にフォードで送られてきたのだ。匂はまた明日の夕方に迎えをよこすと屋上で約束してくれた。そうあって欲しい。私にはあの屋敷までの道が皆目分からない。村の人間たちはうるさいから今夜のことは内緒にしてくれと懇願されたが、それも承知だ。たった一夜で匂と結ばれたなど保久にも話せない。時間はどれだけ経ったのだろう。寺の駐車場には車が一台も見当たらない。往復だけで三時間。塔には二時間近くもいたのだから酷い話だ。村の連中が呆《あき》れて帰ってしまうのも当然だ。
保久になんと言い訳をしたらいいのか。
それにしても……匂は妙なことを言わなかったか? 私さえなにも口にしなければ、村のだれもが訊《き》かないはずだ、と。あるいは、それだけの力をもっている旧家なのかも知れない。いわゆる暗黙の了解というヤツだ。
「よう。どこに行ってた。資料館に姿が見えないんで心配してたぜ」
明るい玄関の扉を開けると巨大な薬缶を手にした保久がのんびりした顔で現われた。
「これか? 役場の連中は大酒飲み揃いなんで銚子《ちようし》じゃ間に合わん。こいつで燗《かん》をつけようと思って倉から探しだしてきたとこだ」
「まだ宴会をやってるのか」
「おいおい。寝ぼけやがって。宴会までには一時間以上も間がある。役場の若い女の子たちもくるって連絡がきたよ。あんたの顔を拝みたいそうだ。羨《うらや》ましいね」
そんな馬鹿な。私は唖然《あぜん》とした。
「なにをぼんやり突っ立っている。時間があるから風呂にでも入ったらどうだ? 酒を飲んでしまえば億劫《おつくう》になる。どうせ迎えなんかきやしないよ。きても明日に延ばしてもらえばいいだろう。そうしろ」
「迎えがこなかった?」
私は腕の時計を見た。五時半を針は示していた。ザワザワと寒気が体を走る。
「なんだよ。おかしな人だな」
保久は本気で心配した。
「鬼柳って……向こうの方向か?」
私は保久に辿《たど》った道を指差した。
「ああ。そうだけど?」
「行った……ような気がするんだ」
保久は笑い転げた。
「車でも一時間以上はかかるぜ。あんたがクラーク・ケントなら別だがね」
保久はもう取り合わなかった。割り切れない思いで私も靴を脱いだ。靴の爪先にうっすらと白い粉がついている。剥《は》がれた壁土だ。
悲鳴を上げたかった。
私はやはり鬼柳の屋敷にいたのである。
あのくすんだ八重の塔が聳《そび》える屋敷に。
「気分でも悪いのか」
怪訝《けげん》そうな顔をして保久が覗きこんだ。
こんな状態で宴会にでても満足な応対ができるわけもない。生半可な返事を繰り返しているうちに、役場の連中たちは私を諦めて勝手に飲みはじめた。保久が準備したカラオケセットの前から離れない人間もいる。宴会は果てしなく続きそうだった。虚《むな》しい。すべてが虚しいように感じられる。私はトイレに立つフリをして外にでた。空はどんよりと曇っている。無性に匂が恋しい。あれが私の夢でないことは体が一番に覚えている。
「いい大人が溜息なんか吐くなよ」
保久が薬缶を持って後ろにいた。
「都合も聞かずに宴会を設定したオレも悪かった。もうしばらく我慢してくれ」
「それとは無関係だ」
私は謝った。保久のせいではない。
「まださっきのことを?」
保久は呆《あき》れた顔で私を見詰めた。
「あんたらしくもねえな」
「こいつを見てくれ」
私は胸のポケットから手帳を取りだすと頁を捲《めく》った。それを見つけて保久に手渡す。
「なんだい、こりゃあ?」
保久は手帳を家の明りにかざした。
「変な塔だ。新しいアイデアか?」
「さっき訪ねた場所さ。帰りの車の中で忘れないように簡単な図面を起こした。そんな気がして手帳を探したら、本当にあった」
「まさか。冗談だろう」
「行ったんだよ。この時計塔に」
私の言葉に保久はブルッと震えた。
宴会が終ると保久は私を二階の小部屋に誘った。祖父の書斎だったらしい。三方の壁にはびっしりと古い本が並べられている。
「詳しい話を聞かせてくれ」
保久は灰皿を探してタバコを喫った。
「このままじゃ気になって眠れない」
私は覚えている限りを伝えた。匂には口止めされていたが、黙って胸に納めておくには、あまりにも奇妙な体験過ぎた。
「他の人間だったら……信用しねえぜ」
やがて保久は呟《つぶや》いた。
「オレだから信じてくれると?」
「違う。違う。聞き手の問題だ。オレにゃ心当たりがあるんだ。そういう話だったら」
心当たり? 唖然とした私を無視して保久は本箱を探しはじめた。一冊の本を抜く。
「こいつだ。昼にも話しただろう」
和賀郡の昔話を纏《まと》めたものだ。保久は目次を拾って、その項目を私に突きつけた。
「じいさんは……お隠れさまと呼んでた」
「お隠れさま……」
鬼柳村に扇田甚内という人があった。ある朝早く起きて南羽端山の上を見ると、そこに若い女が立っていて甚内を手招きした。甚内は不審《いぶか》しく思って、見ぬ振りをして過ごしていたが、こんなことが二三日続いたので、何だか様子を見たいと思って、ある朝その沼のほとりへ行ってみると、齢頃《としごろ》二十ばかりの容貌佳《みめよ》い若い女が、私はあなたと夫婦になる約束があるから、私の家へ来てくれと言って笑いかけるその様子は、実に此世に類のないようなあでやかさであった。甚内もそう言われると思わぬ空に、心をひかれて、吾《われ》ともなく女のあとについて二三十歩ほど歩むかと思うと、はや見たこともない世界へ行って、山のたなびき、川の流れ、草木のありさま常と異なり、景色がめっぽうによろしい。そのうちに此所《ここ》が吾家だという家に着いて見れば、男などは見えず、美しい女達が大勢いて、今お帰りかと皆が喜び、吾主《あるじ》のように敬愛する。甚内も初めの程は変でならなかったが、遂には打ち解けて、その女と妹背《いもせ》の契《ちぎ》りをも結び大分の月日を送っていた。だが月日の経つにつれて、どうも故郷の妻子のことが、とかくに胸に浮かんで仕方がない。そのことを女に話すと、女はいたく嘆いて、家のことは決して案じなさるな。お前が居らぬ間に私が有徳富貴にして置いたから、いつまでも此所にいて給われと掻《か》き口説いて困る。けれども一旦とにかく帰って本当の暇乞いをして来て、心置きなく夫婦になろうということになって、やっと許しが出て甚内が家へ帰ることになった時、女が、必ず我々の様子を人に語ってくれるな、語ったらもう二度と逢《あ》われぬと泣き、また心もとなさよと言っては泣く。それをやっと納得させて家へ帰った。吾家へ帰って見ると、ただの一ヵ月ばかりと思っていたのだが、三年の月日が経っていたとて、親類一族集まって、村の正覚寺の和尚まで招《よ》んで、自分の法事をしている真っ最中であった。そしてほんにあの女が言った通りに自分の居らぬうちに、前よりずっと身代もよくなっていた。集まっていた人々は驚き怪しみ、何処《どこ》へ行ってなすったと口々に問い質《ただ》した。水戸へ、仙台にと初めの程は言い紛らしたが、どうも辻褄《つじつま》の合わぬ話ばかりである。あとで女房にうんと恨まれて、遂々実を吐くと、その言葉を言い終わるや否や、甚内の腰が折れて気絶した。その後は不具廃人となった上に、以前の貧乏になり返ってつまらぬ一生を送った。
……佐々木喜善『和賀郡の昔話』より
「こんなのは……ただの昔話だろう」
私は背中にうすら寒いものを覚えながら保久に本を戻した。どうかしている。
「甚内ってのは、実在していた。じいさんが若い時分に直接その老人から聞いた話でな」
「年寄りの作り話に決まってるさ」
「じいさんは、その屋敷跡も見つけたんだ」
保久は立ち上がった。また本箱を探す。
「こいつだ」
ポンと私の膝に古ぼけたノートを投げてよこした。掠《かす》れた文字で採取帳と読める。
「表紙にゃ何年となってる?」
「大正四年」
「となりゃ、じいさんが二十歳ぐらいの頃だ。昔話にいかれて、村のあちこちを歩いていた時分だよ。喜善に教えた話もそのノートにいくつか記録されているはずだ」
私はノートを捲った。細かい文字がびっしりと並んでいる。几帳面な性格だ。
「どれどれ」
保久は私からノートを取り上げた。
「ここを読んで見てくれ」
私は示された頁に視線を落とした。
──お隠れさま屋敷。
南羽端山中に怪しき廃墟あり。広大なコの字にて部屋数五十もありたりと思うに、すべて瓦礫《がれき》の山となす。吾、案ずるに、これ甚内翁より耳にせしお隠れさま屋敷にあらんや。吾、ただの一度としてこの山中に村人の住まいす屋敷のこと聞かず。奇怪なる廃墟に倒れおりたる朽ち果てし巨木あり。こは翁の口にせし時計塔の残骸なるか。怪しきぞ──
「時計塔!」
私は目をつり上げた。
「本の方には一行もなかった」
「削られたのさ。昔話に時計がでてくりゃムードがなくなる。違うかい」
「しかし……どういうことなんだ」
「幽霊だろうさ。それ以外に説明なんかつかんよ。あんたがお隠れさまのことを知らないのは間違いない。なのに、あんたの話はオレが子供の頃にじいさんから聞かされたのとおんなじだ。特に時計塔の部分がな」
「幽霊! まさか」
背筋が強張《こわば》る。
「本物のわけはないだろ。たとえお隠れさまが実在したとしても、この通り屋敷は廃墟となっている。この事実は動かん」
「ずいぶんはっきり言うんだな」
「もちろん。この廃墟ならオレも行ったことがある。今じゃ有名な場所だ」
私はあんぐりと口を開いた。
「よしんば、お隠れさまが別の山奥におなじような建物を作って住んでいるとしても、時間はどう説明する? あんたの姿が見えなくなったのはせいぜい二、三十分のもんだぞ」
「それじゃ、仙台への依頼の電話はどう説明する? あれも幽霊の仕業《しわざ》だと」
「明日になれば別の人間が迎えにくるんじゃないのか。偶然さ」
「絶対に違う! 幽霊なんかじゃない」
私は思わず声を荒げた。
「本にも書いてある。一ヵ月だと思っていたのに三年が過ぎていたとな。あの屋敷は時間が妙なんだ。きっと塔の心柱の抜け道が関係しているんだ。そうとしか考えられない」
私は必死で保久を説得した。幽霊と決まればもう匂と会うことができなくなる。
「時間が無関係……」
保久は呆然《ぼうぜん》として私の目を見た。
「悪いが、信じられんね」
直ぐに保久は首を振った。
「そんなSFめいた話より、オレには幽霊の方が現実的に思える。ずいぶんとこの目で見てきたからな。じいさんの幽霊も見たぜ。この部屋でだ。昼寝をしていたら、この机で本を読んでいたじいさんが笑って丹前《たんぜん》をかけてくれた。五年も前に死んでるってのに。あとでそれに気づいてゾッとしたが、そのときゃ少しも怖くなかった」
「彼女の手触りも残っている」
「珍しくない。夢でもよくあることだ」
自信のある言い方に私は言葉を失った。
「明日も迎えにくるって言ったんだな」
私は力なく頷いた。
「そっちの方が問題だぜ。牡丹燈籠《ぼたんどうろう》のようにならなきゃいいけどね」
「………」
「効果があるか保証もできんが……朝になったら屋敷跡に行ってみよう。こんないい加減な坊主の経でも、役に立つかもしれん」
私は……うなだれた。
保久の運転する車は脇道に入った。寺を出発して四十分。昨夜の記憶と一致する。ここから山道を二十分も登れば車の通れない狭い道にさしかかる。
「その通りだよ。やっぱりお隠れさまの幽霊に間違いなさそうだ」
保久は薄気味悪い顔で頷いた。
「あんただったら、基礎を眺めただけである程度の構造も見当がつくんだろ」
「どうかな。昨日の屋敷とおなじだとか、違うってぐらいは分かるはずだが」
「一晩中考えてみたんだが、お隠れさまはあんたに屋敷を復元してもらいたかったのと違うかい。それででてきたとなりゃ話も分かるじゃねえか。もっとも、幽霊に理屈をつけても仕方がないけど」
保久は笑った。さすが坊主だけある。
「そろそろ車じゃ無理だ」
いつの間にか道が狭くなっていた。
保久は車を止めた。
「おい」
降りるなり私は地面を指差した。
「タイヤの跡だな。ここでUターンしている。意見なんぞは言いたくないね」
保久は無理に笑うと先に立った。
ここだ。ここに間違いない。
私は広い草地を駆け走った。
まわりの丘や樹木にも記憶がある。長屋門があった場所には短い草に埋まって塀の基礎が並んでいる。確か屋敷の玄関はこの門から三十メートルほど歩いたところにあった。自分の歩幅で計ると、直ぐ目の前にその痕跡が見つかった。三和土《たたき》に使われていたらしいタイルの破片が散らばっている。これにも見覚えがある。するとこの真正面に時計塔が聳えていたはずだ。私は視線を動かした。保久の祖父がノートに記していた巨木はもうどこにも見えない。だれかが運んだか、完全に朽《く》ち果ててしまったのだろう。
〈匂……〉
胸が苦しくなった。本当にあれは幽霊だったと言うのか。私はウロウロと屋敷跡を歩きまわった。玄関から入る。左に廊下を辿《たど》るといくつもの部屋が並んで、角にぶつかる。そこをまた左に折れると、突き当たりが匂のいた応接間だ。匂はこの位置で私を迎えた。真上にシャンデリアが輝き、私はここの椅子に腰を下ろした。やがてまた匂に案内されて玄関の側まで戻る。そうだ。これが時計塔だ。扉が開いて私はスロープを右から上がった。
〈ん〉
私の視線は妙なものを捕らえた。
二、三十メートル向こうの草地になにか埋まっている。あれは……
私は胸騒ぎを抑えて歩み寄った。
時計だった。
巨大な丸時計が土から一部だけを覗かせていた。縁はすっかり腐蝕《ふしよく》して無数の穴があいている。涙が溢《あふ》れた。あの鐘が塔と屋敷とを崩壊させたに違いない。私は間に合わなかったのだ。あんなに匂が怯《おび》えていたのに。あんなに頼りにされていたのに……
私の後ろで読経の声が聞こえた。
保久が掌を合わせている。
一ヵ月後。
私はさざえ堂の中にいた。
まだ匂への未練を捨てきれないでいる。保久の読経が効を奏したのか、あれ以来匂の迎えはなかった。しかし、助かったとは思わない。私は死んだも同様の毎日を過ごしている。匂の笑顔が忘れられない。
たとえ幽霊でもいい。もう一度あの声を聞きたい。
ぼんやりと私はスロープを上がった。途中に抜け道がある。思い出を辿るよすがに、私はその穴を潜った。
「匂!」
目の前に彼女が立っていた。
「どうして……」
あんなに会いたいと望んでいた彼女なのに……私の体はブルブル震えた。
「直してもらおうとあなたを招んだけど……あの時代に引き止めておくことはできなかった。だからすべてを諦めたの」
匂は羞《はにか》んだ笑顔で続けた。
「時計塔が壊れる前に、時の抜け道を何度も潜ったわ。あなたの時代にくるために」
「………」
「もう私の戻る場所はない」
匂は不安そうな目で私を見上げた。
「ここなら必ず会えると思って……」
「………」
「星は……今も綺麗?」
「綺麗だよ。君と一緒に見られるんなら」
私は匂の肩を腕の中に包みこんだ。
「一生をかけても、君にまたあの時計塔を拵えて上げよう。時間を動かすのは無理だろうが……二人で星には近づける」
匂はにっこりと微笑んだ。
初出誌「週刊小説」
寝るなの座敷 昭和61年8月8日号
花嫁 昭和61年11月14日号
子をとろ子とろ 昭和62年3月6日号
蛍の女 昭和62年5月29日号
猫屋敷 昭和62年9月4日号
首継ぎ御寮 昭和63年1月8日号
星の塔 昭和63年4月15日号(お隠れさま怖い・改題)
単行本 昭和63年7月実業之日本社刊
〈底 本〉文春文庫 平成四年三月十日刊