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高橋克彦
即身仏《ミイラ》の殺人
目 次
プロローグ
第一章 ミイラの誘い
第二章 湯殿山地獄巡り
第三章 異人はなぜに殺される
第四章 羽黒山狂い旅
第五章 ミイラの告発
エピローグ
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プロローグ
二日降り続いた雨に流された斜面の土が、車幅ぎりぎりの狭い山道のところどころを覆《おお》っていた。水を含んだ粘土質の泥は、慎重に登る4WDのタイヤの溝を埋め、しばしばタイヤを空回りさせる。同乗している四人の作業員たちは、何度か車から降りて、全身に泥を浴びながら車を押さねばならなかった。下では完全に雨が上がったというのに、この山はまだ霧雨だ。東北の秋は早い。紅葉前線もあっと言う間に山を通り過ぎて行く。雨のせいか間近に冬を感じさせる空気の冷たさだ。作業員たちはタイヤが泥に取られるたびに、苛立《いらだ》ちのこもった溜め息を吐《つ》く。どうせこの様子なら現場に辿《たど》り着いてもろくな仕事ができない。と言って、それを説明しても分かってくれない都会の人間が前のシートに腰掛けているのだ。崖に落ちたらちゃんと保険金が貰えるんだろうな、と嫌味たっぷりに一人が言った。その瞬間、本当に車体が傾いた。幸い崖側ではなく斜面の方にだ。ボディが斜面から突き出た岩を激しくこすった。ガリガリと耳障《みみざわ》りな音が車内に響いた。前のタイヤが深いぬかるみに嵌《は》まったらしい。ガクンと車が停まった。やれやれと作業員たちは顔を見合わせた。
「やっぱり、これじゃ無理かなぁ」
助手席の若い男は諦めた口調になった。
「ここまで来りゃ、現場までなんとか登る他に戻る道はありませんよ」
黙々とハンドルを操作してきた運転手が憮然《ぶぜん》とした顔で応じた。あからさまな舌打ちをして作業員たちが車を降りる。飯場から現場までわずか十キロの山道だ。なのに出発して一時間近くが過ぎている。
「とんだ貧乏くじを引いたもんだぜ」
前にまわって車体を持ち上げながら、聞こえよがしに口にする作業員と目があって、助手席の男は肩を縮めた。外に出て手伝おうにも、ドアが斜面に阻《はば》まれて開かない。
「なんだって今頃雨が続くんだろう」
若い男は紅葉のはじまった樹木の隙間《すきま》に覗くどんよりとした雲を恨めしそうに睨《にら》んだ。風が吹いてきた。葉に溜まっていた水滴が揺られていっせいに地面に降り注ぐ。パラパラと車の屋根に激しい音を立てた。
「雪が降ってくる前に砦《とりで》を完成させないと」
「あと一ヵ月ぐらいでしょうかね」
運転手も空を見上げていた。
「この辺りの山なら十一月にもなれば……」
ぬかるみに土を埋める作業は終わった。運転手は作業員に頷《うなず》いてエンジンを吹かした。車がゆっくりと持ち上がって行く。
それから十五分後。
車はようやく現場に辿り着いた。山の斜面を削り、造成して拵《こしら》えた巨大な広場である。正面に基礎工事を終えたばかりの砦の骨組が聳《そび》えている。心配していたような土砂崩れはどこにも見られない。若い男はガラス越しに辺りを眺めて安堵の息を洩らした。それでも枯葉の混じった泥土が一面に広がっていた。脆《もろ》い部分が雨にすくわれたのか、あちらこちらに穴も開いている。表面の土を剥《は》がして粘土層を剥《む》き出しにしたために水捌《みずは》けが極端に悪くなっている。
「少しでも砂利で補強しとけばなぁ」
排水という余計な仕事が増えてうんざりした作業員が、あーあ、と地面に降り立った。長靴の半分まで泥土に沈む。
「ポンプを上げねえと三日はかかるぜ」
「乾かないかな?」
続いて車を降りた若い男が質《ただ》した。
「枯葉が水を吸ってるもんな。もっとも、工事の方ならこの状態でも問題はねえよ。どうせ撮影にはまだかからねえんだろ」
「だけど、この状態じゃ困る。周辺のロケをするのに、広場をベースにする予定だから」
「キャンプでもしようってのかい?」
作業員は笑った。
「また雨が降りゃ、これとおんなじになる」
「雪が降る前に済ませておきたいんです」
「だったら、ポンプだ。どっかに深い穴を掘って水を集めて、そこにポンプを仕掛けりゃ、明日の朝までにゃなんとかなるさ」
「どうして穴を掘る必要が?」
「このままやりゃあ、ホースに泥が詰まる。深い穴を掘って、いったん泥と水に分離しねえと、結局は効率が悪い。お宅さんは下に戻って構わねえ。その車でポンプ運んできて貰う。その間に適当な穴を掘っとくから」
「穴ならあちこちにあるでしょう」
「駄目だ。最低でも一メートルは掘り下げないと。それに、この広場から少し離れたところじゃねえと、掘ってる間に水が入ってくる。掘った後で広場と繋《つな》げるんだ」
若い男も納得した顔で、
「と言うと、広場より少し下りたとこに穴を拵《こしら》えるんですね」
周囲を見渡した。
広場の端にこんもりと盛り上がって土手の役目を果たしている一角がある。その向こうは緩《ゆる》い斜面になっている。その斜面に穴を掘って、土手を崩せば泥土が自然に流れ込んで行くはずだ。幸い土手の手前は大量の泥土で溢れている。理想的な場所に思えた。
若い男は深い泥土を避けて近づいた。
土手に上がると足が軽く感じられる。
土手を伝って斜面に向かった。
表面が雨に流されたらしく、斜面の至る場所に赤い土が顔を覗かせている。その前方に深く抉《えぐ》れているところが見えた。あそこなら穴を掘るにも簡単そうだ。若い男は滑る草に注意を払いながら接近した。
「………?」
奇妙さと驚きの両方が男を襲った。
崩れた斜面の中央に、不気味なものが突き出ていたのである。
「どうした!」
小さな悲鳴を聞きつけて作業員が叫んだ。
「なんだろ……これ?」
泥にまみれているが、若い男には想像がついていた。人間の首なのだ。けれど、怖いからそれを口にはできない。若い男は逃げようとして足を滑らせた。ずるずると体が穴に引き摺《ず》り込まれて行く。若い男は絶叫した。
もがいても蟻地獄のように首に近寄って行く。ゴツンと膝がその首にぶつかった。
「………?」
人間の首の手応えではなかった。明らかに石の硬さだ。若い男の体から力が抜けた。
「大丈夫か!」
慌てて駆け寄ってきた作業員が確認する。
「石の地蔵さんみたいです」
泥まみれの顔で若い男は立ち上がった。
「頭だけ出ていたから人間だと思って」
「なんで地蔵がそんなとこに?」
首を傾《かし》げて作業員が下りてきた。
「ここは何百年も人の住んでない山だぞ」
言われて若い男も気がついた。地蔵など、どこの路傍にも見掛けるので、特に不思議とも思わなかったが、と言って自然に生まれるものではない。だれがなんのために地蔵をこの斜面に埋めたのだろう?
「こいつぁ地蔵じゃねえぜ。阿弥陀《あみだ》様だ」
なるほど、頭に髪がある。
「ついでだ、掘り出してみるか。ここなら水捌《みずは》け用の穴にも都合のいい場所だしよ」
と言うと、土手の上で様子を眺めていた他の作業員が頷いてスコップを取りに戻った。
やはり阿弥陀だった。蓮の台座に腰掛けて静かに瞑想している。大きさはほぼ等身大。その場に居るだれ一人として仏像についての知識に恵まれてはいなかったが、それでも稚拙な彫刻であることは明らかだった。もしかすると大金持ちになるかも知れない、と期待していた作業員たちは失望の色を浮かべた。
「なんだ、こりゃ?」
スコップを台座の下に差し込んで深さを確かめていた作業員が首を捻《ひね》った。
「台座はずうっと続いてるぞ。阿弥陀さんばかりじゃねえんだ。箱みたいなのがある」
その言葉に誘われてスコップの勢いが盛んになった。今度こそ宝の箱に違いない。
やがて──
仏像の全貌が明らかになった。穴の底は二メートル以上の深さにも達している。
「間違いねえな。この中になにかある」
阿弥陀は、高さがおよそ一・五メートル、一辺の長さが五十センチ程度の石で拵えた六角柱の上に胡座《あぐら》を掻いていた。
「小判でも詰まってるんじゃねえか」
一人が笑顔で六角柱を撫《な》で擦《さす》った。
「きっと、盗まれないためのまじないだぜ」
何人かが同意した。これほどのものを人気のない山深くに埋めるには、それなりの理由があるはずだ。
「阿弥陀を持ち上げると二つにできそうだ。阿弥陀がこの箱の蓋《ふた》になってる」
点検していた一人が言うと、作業員は張り切って阿弥陀の台座に手をかけた。
じりじりと阿弥陀が上げられた。
若い男は息を呑んで見守った。
権利はオレにあると心に繰り返しながら。
「こっちに落とすぞ!」
重さに耐えきれなくなった一人が、震え声を張り上げると、全員が力を合わせて阿弥陀を斜面に放り投げた。軟らかな土に阿弥陀の台座がめり込む。作業員たちは肩で息を吐いた。いずれも力自慢の男たちである。石仏は軽く見積もっても百五十キロの重さがあった。
想像した通り、六角柱は空洞になっていた。暗い内部を一人が顔を輝かせて覗き込むと、また木製の蓋が見えた。厳重に荒縄で縛られている。空洞には丸い桶が封じ込まれているのだ。不吉な予感が全員の脳裏を貫いた。
「棺桶じゃねえかね?」
一人が言うと皆が首を振った。
「どう見たって小判たぁ思えねえな」
「けど、これだけ厳重な棺桶だったら、一緒に宝物を入れたってことも」
それに勇気づけられた一人が荒縄に手をかけた。よほど年代が経《た》っていたらしく、荒縄は燃えかすのように楽に千切れた。だが蓋の方はなかなかに頑丈だ。湿った土中に埋まっていたにもかかわらず、内部はかなり密閉が保たれていたと見えて、板も乾燥している。どこにも取っ掛かりがないので、蓋をこじ開けるには手間がかかりそうだ。見ていた一人が苛立った顔でスコップを手渡した。縁にこの先を差し込んで起こせば面倒はない。
「壊れちまうぞ」
いいのか、とスコップを手にして訊《たず》ねる。
「桶がバラバラになったとしても、どうせ石で周りを囲まれてんだ」
男は何度も頷いてスコップを縁に突き立てた。柄を梃《てこ》にして蓋を剥がす。その隙間から細かな塵《ちり》が舞い上がった。男は塵をまともに吸い込んで噎《む》せた。おが屑《くず》に似ているが、魚の腐ったような厭《いや》な臭いがする。パカッと音がして蓋が取れた。勢いで外に飛び出す。
全員が掌で鼻と口を覆った。
ひどい埃《ほこり》だった。
ひらひらと舞っているのは、風化で粉々になった衣服の切れ端らしい。
「………」
埃の収まるのを待ち切れずに作業員二人が箱の縁に手をかけて覗いた。
途端、
二人は同時に悲鳴を上げてのけぞった。
中には体を捩《ね》じ曲げた形の死体が収められていた。歯の五、六本残っている口をカッと開き、死体の顔はまるで空を睨むように上を向いていた。二人の作業員たちは、その顔とまともに対面したのだ。
ぼろぼろの袖からは骨に茶色い皮膚が貼りついただけの腕が出ていた。死体、と言うよりミイラだった。落ち窪んではいるが、ちゃんと瞼《まぶた》も腐らずに残っている。今にもそれが開きそうな不気味さだ。
二人は慌てて土手を這《は》い上がった。
急に恐れを覚えた他の連中も、道具をその場に放り投げて逃れた。
ミイラの顔には何百年ぶりかの光が当てられていた。霧雨がゆっくりゆっくりと肌を湿らせて行く。水分を与えられたミイラは生気を取り戻したかのように見えた。
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第一章 ミイラの誘い
同僚の異動のさよならパーティに出席して、深夜の三時にアパートに戻った名掛亜里沙はさすがに疲れた顔でソファに腰を下ろした。異動と言っても亜里沙の居る女性雑誌のデスクから、となりの部屋の経済情報誌に所属が変わっただけに過ぎない。その気になれば毎日でも会える相手なのに、編集長は宴会好きで、わざわざディズニーランド近くにあるホテルのスイートを借り切ってのさよならパーティを企画したのだ。もっとも、異動した彼女は雑誌編集部に八年も在籍し、女ながらも社を代表する経済誌の副編集長に抜擢《ばつてき》されたのだから、お祝いの価値は充分にある。にしても、真夜中まで続くパーティは辛い。明日は休みなのでいいけれど、タクシーに乗っている間に酒がまわってきた。絶対明日は二日酔いで使い物にならない体だ。深呼吸をしながら亜里沙は電話を眺めた。留守録を示す赤いライトが点《とも》っている。明日にしよう、と一度は思ったが、このままベッドに潜り込めば、朝は必ず頭痛に襲われる。むしろ眠気を我慢して少し起きていた方がいい。のろのろとソファを離れるとキッチンに立ってコーヒー用の湯を沸かした。が、思い立ってガスを止める。インスタントではなく本物のコーヒーをいれようと考えたのだ。コーヒーメーカーに挽《ひ》いた豆と水を入れてスイッチを押す。そうしてようやく留守録のテープを巻き戻した。
「私……ちょっと相談したいことがあったので電話したけど、またするわ。もし十一時前に戻ったら湯殿山ホテルに電話して頂戴……いえ、いいわ。こっちからかける」
懐かしい月宮蛍からのものだった。今では押しも押されもせぬ大女優。だが亜里沙とは大学時代の仲間で、時々電話をし合う仲だ。
〈ふうん、オケイは湯殿山か〉
出羽三山の一つで山形県にある。蛍は山形の出身だから、そこに居ても不思議はない。
ピーという音が聞こえて次に男の声が重なった。今夜は仲間ばかりね。亜里沙は苦笑した。特徴のある長山作治の声だ。長山は流山朔という気取った筆名でミステリーを書いている。やはり蛍と同様におなじクラブに所属していた人間だった。
「真夜中の一時だぞ。てっきり会社で残業かと思って電話してみたが、だれも出ねえ。まさか内緒で不倫でもしてるんじゃあるまいな。オレは朝まで仕事してる。もし今夜中にお戻りでしたら電話をいただきたいもんだね。オケイからさっき電話を貰った。なんだか山形で面倒なことに巻き込まれているらしい。仲間のよしみで相談に乗ってやらなきゃなるめえよ。必ず電話を寄越せ」
ぶっきらぼうに長山は言葉を切った。いつものことで慣れている。テープを切ろうとしたら、もう一つ伝言が入っていた。
また長山だ。
「二時半になっても戻らねえとは珍しいな。お肌のために早寝してるんじゃなかったのかい。それとも旅行かなんかか? こっちはユンケルを飲んで頑張ってるんだぞ。さっきは朝までと言ったが、そろそろ限界だ。四時頃には一眠りする。それ以降なら電話は明日の午後にしてくれ。ひょっとすると明日の夕方から湯殿山に行く。じゃあな」
亜里沙は唖然とした。
なにか蛍の身によくないことが起きたのだろうか。反射的に時計を眺めた。三時半。慌てて長山の番号を押す。呼び出しのベルが鳴った途端に長山が出た。
「よかった。まだ起きてたのね」
「何時だと思ってる。非常識だぞ」
「四時まではいいって言ったじゃない」
「今戻ってきたのか? 相手はだれだ」
「そんなんじゃないわよ。ディズニーランドの側のホテルで同僚の送別会をしてたの」
「怪しいもんだな。三時じゃねえか」
「それより、オケイのことってなに?」
「そっちにも電話をしたとか」
「うん。留守録に入ってた。湯殿山ですって」
「リサが居ないんでこっちに電話がまわってきた。そうそう、リサも今度副編集長に昇格したんだってな。噂を聞いたぜ」
「同僚の異動でポストが空いただけよ」
「まあ、歳も歳だし、副編になってもおかしくない年頃だがね。とりあえずはめでたい」
「オケイがどうかしたの?」
この様子では大したこともなさそうだと安堵しながら亜里沙は訊ねた。
「撮影現場からミイラが発見されたんだと」
「なに、それ」
「だから、その通りの話さ。来年の夏にかけて長期ロケをする予定でいた山の奥の現場でミイラが発掘されたそうだ。新聞にも出たはずだとオケイは言うんだが、あいにく見落としたみたいでオレは知らん」
「私も。じゃあ山形だけの新聞かしら」
「湯殿山にはミイラがたくさんある。向こうじゃ騒ぎになってると言ってたが」
「だと思うわ。即身仏って有名だもの」
「そいつはオレも知ってるよ。行ったことはないが湯殿山のミイラはミステリーの世界じゃ知名度が高い。山村正夫さんが書いてる」
言われて亜里沙も頷いた。『湯殿山麓呪い村』は映画にもなって評判となった。
「最初は映画の宣伝にもなると言ってプロデューサーも喜んでいたそうだが……オケイの話によると、どうも今度のヤツはこれまでのミイラと少し違うらしい」
「違うって……なにが?」
「文献にまったく残ってねえんだとさ。そこんとこはオレも詳しくないが、湯殿山の即身仏ってのは、ほとんど素性がはっきりしているらしいんだな。寺や村を挙げての行事って言うと変だが、それに近い情況で、皆に見守られながら土中|入定《にゆうじよう》したものらしい。飢饉《ききん》や疫病の根絶を祈願して自ら進んでの即身仏志願だから、生き仏と一緒なんだ。村の救世主ってわけだよ。そういう生き仏の記録を村人たちが残しておかないはずはねえ。なのに……今度発見されたミイラにゃ、該当しそうな人物がいっさい見当たらないようだ」
「だったら、即身仏とは違うってこと?」
「そこが問題さ。正式な学術調査はこれかららしいが、山形県警の鑑定じゃ、偶然にできたミイラではなさそうだ。棺桶の中から鉦《かね》も見付かっているし、ミイラを封じ込めていた石像にゃ、空気取りと思われる小さな穴も発見された。即身仏が生きたまま土中に埋められて、死ぬまで鉦を鳴らし続けるって話はリサだって聞いたことがあるだろ」
「ええ。映画で見たわ」
「おまけに湿気から死体を守るように、棺桶の底は上げ底になっていた。空気の取り入れ穴から水が侵入しても棺桶が濡れないような工夫だ。情況を考えれば、百パーセント即身仏に間違いはねえ。にもかかわらず……」
「だれも知らない死体ってわけね」
「村人たちは即身仏とは違う、と言い張っているらしいぜ」
「どのくらい前のミイラ?」
「そこまでは知らん。警察では、たとえ犯罪の疑いがあったとしても、法的には罰せられないほど古い死体だと判断したそうだ」
「洒落《しやれ》た言い方じゃない」
「もちろん公式発表じゃねえさ。現場検証にやってきた人間から、映画のプロデューサーがそれとなく聞き出した見解だ」
「ミイラでも警察が現場検証に来るわけ」
「一応は変死体扱いだからな。工事現場なんかから江戸時代の骨が出てきても、最初の管轄は警察だ。鑑定ではっきり江戸と結果が出て、はじめて学術調査の対象となる」
「ずいぶん無駄なことをするんだ」
「どうして」
「だって、遺跡から出たものなら、わざわざ鑑定なんかしなくたって結果は明白でしょ」
「甘いな。それを狙って遺跡に骨を隠す犯罪者だって居ないとは限らんぜ。無駄なように思えても、警察はあらゆる可能性を念頭に入れてるんだ。それをしないと死体を遺跡に埋める連中がたくさん現われる」
「そうか。さすが推理作家ね」
「常識だよ、そんなこたぁ」
「困った問題って、なによ」
亜里沙は話題を変えた。ずうっと聞いた感じでは蛍と関係なさそうに思える。
「ミイラがだれの持ち物かってことさ」
「だれの? どういう意味」
「さっきから言ってるだろ。ミイラに関しての記録はいっさい残されていない。ってことはそいつがだれかってのも分からねえんだぜ」
「………」
「引き取り手が居ないんなら、死体とて遺失物とおんなじだ。一般的にはそれが発見された土地の持ち主に権利がありそうに思えるが、確実に先祖が埋めたという証拠でもない限り、簡単には行かない。発見者にもそれなりの権利があるし、反対に正当な権利を握っている人間が名乗り出れば、たとえ土地の持ち主であろうと、所有権は主張できない」
「それは分かるけど……」
亜里沙は戸惑いを覚えた。
「ミイラを貰ってどうするの?」
「もちろん、見世物にするのさ」
長山の返事に亜里沙は絶句した。
「バカにしてるが、こいつは結構な金になると思うよ。人間てやつは怖いものを見たがる変な動物だからな。もし、プロデューサーがミイラを手に入れて東京にでも持ち帰れば、話題になること請け合いだ。もともと映画のプロデュースを商売にしてる男なんだ。金にするのにアイデアには困らんだろう」
「なんでプロデューサーなわけ?」
「発見されたのはそいつの持ち山だったんだ。だからミイラは自分のものだと主張してる」
「………」
「プロデューサーの番内信雄って男は湯殿山麓に広がってる仙人村の大地主の息子でな。親が死んで膨大な山を相続した。その一部を売り払って映画製作の金を調達したんだ。仙人村の自然を利用して大掛かりな時代劇を拵《こしら》えようって寸法さ。その関係でオケイが準主役に起用されたらしい。なんと言っても山形県でのオケイの人気は凄いから」
亜里沙にもだんだん分かってきた。
「番内は自分の持ち山の一つを切り拓《ひら》いて、映画の舞台の中心になる砦を建設中だった。その現場からミイラが発見されたというわけ」
「確かにそれなら正当な権利者ね」
「ところが、村人も黙っちゃいねえ。即身仏の記録はなくとも、ミイラは村全体のものだと騒ぎはじめた」
「………」
「埋められた時期が特定されるまでは番内に権利がないと煽《あお》ったやつらが居る」
「ふうん。理由は?」
「番内の先祖がその山を自分のものにしたのは大正に入ってからなんだ。それまでそこは村の入会《いりあい》山と決められていた。つまり仙人村全員に所有権があった山ってことだ。ミイラが大正以降に葬られたものなら番内の所有権を認めるにやぶさかじゃねえが、それ以前なら番内とは無関係のはずだってね」
亜里沙は溜め息を吐《つ》いた。
「蛍が困ってるってのは、そいつを主張してる連中の中に近い親戚が居るせいだ。間に挟まって辛いとさ。オレにゃミイラの所有権争いなんざなんともバカバカしい問題に思えるが、日が経つにつれて対立はエスカレートしてるらしいぜ。番内が面倒になる前に、ミイラを東京に持ち帰る動きを見せたのが原因だ。まったく呆れた男じゃねえか」
「村の人たちはミイラをどうするつもりなの」
「さあね。仙人村は湯殿山の真下にあるわりに即身仏を所有してねえそうだ。となりの朝日村にゃいくつもあるってのにな。口じゃ罰が当たるとか番内を非難してるらしいが、いずれおなじ穴のむじなじゃねえかい。どっかの寺に納めて観光の目玉にする気だろう」
「でも、村人たちは即身仏とは違うって言い張っていると」
「ミイラには違いなかろう。観光客にはどっちでも一緒だぜ。宗教心よりも、死体を見たがって来る連中ばかりさ」
「相変わらず独断と偏見ね」
「しかし……ちょいと興味はある。せっかくのオケイのお招きだ。今の仕事が片付いたら行ってもいいかなと思ってるんだ。怪奇小説をしょっちゅう書きながら、本物のミイラってのをあんまり見ていねえ。ついでに朝日村の即身仏も拝めるしな。一石二鳥だぜ。滞在費は番内持ちって言うんだから断わる理由はねえ。願ってもない話かも知れん」
「なぜ番内という人が滞在費を?」
「物書きは卑しいと思われているんだろ。自前でなんか来てくれるわけがねえと」
「チョーサクを招く目的は?」
「正式な学術調査が三日後にはじまる。そいつにオブザーバーとして参加を要請された。番内と直接話したんじゃねえから、裏の意図は分からんが、物書きが加わってると、宣伝になるとでも計算してるんだろうさ。オケイはそんなことよりも我々に側に居て貰いたいだけだと必死に訴えていたがね」
「我々?」
「最初にリサに電話したと言ったじゃねえか」
「突然言われても困るわ」
「忙しいのか?」
「特に急ぎの仕事はないけど……ポストが変わったばかりだもの。簡単に動けないわ」
「なら、仕事にすりゃいい。今度は湯殿山の即身仏をテーマにして書こう。そうすりゃ文句はあるまい。そろそろ三ヵ月に一度の約束の原稿の締切が近づいてきた」
亜里沙の編集している雑誌ではそのペースで歴史と旅を素材にしたエッセイを長山に依頼している。三十枚程度のものだが、前回に扱った後醍醐天皇と乾坤《けんこん》通宝は読者にもなかなか評判が良かった。最初は毎月の連載のつもりだったのに、歴史で三十枚はきついと言う長山の懇願で、やむなくその形となった。
「副編になっても担当はおまえさんだろ」
「そうだけど……うーん、確かに湯殿山の即身仏は面白そうではあるなぁ」
「湯殿山ホテルは温泉だってよ」
「本当にチョーサクは温泉好きね」
亜里沙は苦笑した。
「タダで行ける取材旅行なんだ。まさか編集長も駄目とは言うめえ。学術調査に参加できるってのも滅多にねえ体験だ」
「弱いところを突いてくるわね。そういう具合にして女の子を口説いているわけ?」
アハハと長山は爆笑して、
「もし行けるんなら、出発は明日に延ばしてもいい。一人なら今日にでも行こうかと考えていたんだが」
「私も今日は無理。月曜に会社に出て編集長と相談してからじゃないと」
「可能性はどうだ?」
「取材だったら平気よ。月曜の午後には出発できると思う。問題は……カメラマンね」
「すぐには都合がつかねえわけだ。もっとも、調査がはじまるのは三日後だ。それに合わせて後で合流しても構わんだろうぜ」
「そうね。その手があるんだ」
「これで決まりだ、急にわくわくしてきやがった。湯殿山まではリサとの二人旅だな」
「まだそんなこと言ってるの」
「そろそろ運命を受け入れたらどうだ。互いに先は短い。二人の関係にケリをつけてもいい時期とは思わんか? 歳を取ると、愛するよりは、愛される方が重要だぞ」
「どうしてそんなに抜け抜けと言えるの。だからちっとも真実味が感じられないじゃない」
「体で気持を表わしたいのはヤマヤマだがね。どう見ても力はリサの方がありそうだ。確証を得てからじゃねえと怖くて襲えねえ。それで必死に掻き口説いているのさ」
「いつまでも続けていなさい。私、なんだか疲れがドッと出ちゃった。もう寝る」
「カメラマンは例のやつか?」
「石川君? そうね。彼がいいかな」
後醍醐天皇の取材で隠岐《おき》・吉野・長野に同行した青年だ。
「知らないヤツよりはあいつがいい。人見知りの性格なんで神経を遣う」
「どこが人見知りなの。チョーサクと会うのが苦手って編集者の方がずうっと多いわよ」
亜里沙は取り合わず、月曜の朝に連絡すると言って電話を切った。
〈また変な取材になりそう〉
やれやれと呟《つぶや》いてコーヒーメーカーを見ると、せっかく拵えたコーヒーが半分の量に減っていた。保温ヒーターのせいで蒸発したのだ。これでは濃過ぎて飲めない。亜里沙は新しく豆をセットしながら、ふと蛍のことを思い出した。ミイラを巡っての所有権争い程度の問題で、なぜ蛍は我々に側に居て欲しいなどと訴えてきたのだろう。もしかしたら口にできない不安でも背後に潜んでいるのではないか? そんな疑惑が胸に浮かんだ。
月曜の昼。上野駅。
自分から待ち合わせの時間を決めておいて、長山は新幹線の発車ぎりぎりの時刻にホームに駆け下りてきた。亜里沙は呆れと安堵で大きく息を吐いた。いつものことだが、こういう相手と一緒の行動は気が休まらない。
「そっちから乗って! すぐに発車よ」
叫ぶと長山は頷いて階段側の乗車口に飛び乗った。それを見定めて亜里沙も乗る。危機一髪だ。亜里沙を待っていたようにドアが閉まる。亜里沙の鼓動が速まった。
「すまねえ。この時間帯だってのにタクシーが渋滞に巻き込まれちまってな」
デッキに長山が姿を見せた。
「間に合ったからいいけど……そんな恰好で学術調査に参加するつもり?」
亜里沙はしげしげと長山を見詰めた。分厚い牛革ジャンパーの背中には大きな鋲《びよう》で両翼を広げたコンドルがデザインされている。膝までのブーツとセットになればまるでカウボーイだ。おまけにジャンパーの下には真っ赤なTシャツ一枚きり。とても四十を過ぎた大人の服装とは思えない。
「おまえなぁ、スーツをビシッと着こなした物書きの方が不気味だぞ」
「第一、それじゃ寒さに耐えられないわ」
「ちゃんと着替えは用意してある。オレだってバカじゃねえさ。そっちこそスーツじゃ大変だ。山に登ることだって有り得る」
亜里沙は肩パッドにタイトスカートのクリーム色の上下を着ていた。
「ミイラは仙人村の公民館に運んであるんですって。山登りの心配はなし」
「へえ。オケイに聞いたのか」
「さっき会社から連絡を取ったわ。山形市に到着する時間を教えたら、そこまで迎えに出てくれるって」
話は席に着いてから、と亜里沙は長山の先頭に立った。
「迎えにって……オケイがかい」
並んだ席に腰掛けると長山が質《ただ》した。
「オケイも気分転換したいみたい。湯殿山ホテルって、まわりになにもないそうなの。早めに出発して買い物をするとか」
「迎えは有り難いが、湯殿山と山形市じゃ相当に遠いぞ。車で一時間以上はかかるはずだ」
「ロケ隊の車だとか言ってたわ。まさかオケイが運転するわけじゃないわよ」
「そうか、なら安心だ」
「それを心配してたの?」
「女の運転は苦手でね。どんな道かは知らんけど、きっと危険な山道だ。ハラハラしながらじゃ景色も楽しめん」
「景色を楽しんでいる余裕があるかしら」
言いながら亜里沙はバッグから二冊の本を取り出して長山に渡した。
「苦労して捜したのよ。お陰で日曜を潰《つぶ》してしまったわ。ちゃんと読んでね」
長山は本のタイトルを眺めた。『日本のミイラ仏』『ミイラ信仰の研究』とある。
「ったく、有能な編集者で涙が出らぁ」
気が乗らない様子で長山はそれをバッグに収めた。
「山形まではせっかくの二人旅だ。ミイラなんて話よりも、互いの無駄だった過去と、明るい未来について語り合いたいもんだ」
「おなかは空《す》いてない?」
「あいにくと胸が一杯で食えそうにねえな」
「じゃあ私はビュッフェに行ってくる。今日は朝からコーヒーだけなの」
「おいおい、それはねえだろ。なにを言ったってリサにゃ通じやしねえ。コーヒーだったらいつでも付き合うよ」
亜里沙に続いて長山も立ち上がった。
「オケイから耳にしたけど……」
亜里沙はサンドイッチとコーヒーを二つ受け取って窓際のカウンターに陣取った。窓の外には穏やかな秋の景色が流れている。
「学術調査には警察も立ち会うんですって」
「へえ、そうかい」
「それが普通なの?」
「知らんな。そもそも学術調査に加わるのは今度がはじめてだ。ミイラの年代がはっきり特定されるまでは警察も慎重に構えているだけのことじゃねえか?」
「考え過ぎかなぁ……」
「なにが?」
「チョーサクはオケイと電話で話してて怯《おび》えた感じを受けなかった?」
「別に……少しは興奮してたが」
「怖いから私たちを呼んだのと違う?」
「怖いって……ミイラがか」
長山はコーヒーを噴き出しそうになった。
「子供じゃあるまいし」
「そういう意味じゃないわよ。なにか事件でも起きそうな予感がするとか」
「かなり険悪な状態だとは言ってたがね」
長山は笑って否定した。
「まさか本気でやり合いはしまい。何十億もの財宝が発見されたってんならともかく、冷静に考えりゃ、たかがミイラだぜ」
「この前は結構なお金になるって……」
「殺し合いするほどの金じゃねえさ」
「………」
「まあ、この目で対立とやらを確認しないうちは、なんとも言えんが……それも調査結果が出りゃ自然に立ち消えになるはずだ。大正以降となったら村の権利はなくなる。遺族でも名乗り出てこない限り、法律的には番内の所有物と判断が下されると思うね。どんなに煽動者が煽《あお》り立てても、無駄な争いさ」
「それ以前と結果が出たら?」
「番内も諦める他になかろう。裁判に持ち込めばどうか分からんが、決着までには相当な金と時間がかかる。どちらにしろ調査が終われば、すべては元に戻る。連中はサイコロを振る前に丁だ半だと喧嘩しているようなもんなんだぜ。振ればあっさりとカタがつく」
「なんだかミイラがかわいそう」
「だよ。今頃は発見されたのを後悔してるに違いねえ。どのみち晒《さら》し者の運命だ。生き仏の道を自ら選んだ即身仏なら、そいつも覚悟の上だろうがな。オレはごめんだ」
「そう言えばミイラになりやすい体ね。本で読んだけど、ミイラになるためには生前から脂肪を落とさなきゃいけないんですって。かなり厳しい生活を強いられたみたい」
「オレは食っても太らねえんだ」
憮然《ぶぜん》として長山はコーヒーを啜《すす》った。
上野を昼に出発して仙台で乗換え、山形の駅に二人が降り立ったのは四時過ぎだった。ホームを照らす陽はもう陰りはじめている。亜里沙は改札口の脇に肩をすぼめて待っている月宮蛍の姿を認めて軽く手を振った。電話では何度も話を交わしているけれど、会うのは三、四ヵ月振りだった。
蛍は心なしか青ざめていた。
まわりに居るだれにも、彼女を月宮蛍と認識している素振りがない。それほど蛍は影が薄かった。いつもはどんなに普通の服装をしていても、必ずだれかに気づかれてしまう。自信がオーラとなって放射されるのだ。
〈風邪でもひいたのかしら〉
亜里沙は少し心配した。寒いらしくてコートの襟を立てている。
「なんだか、やつれちまったな」
頑張って笑顔を見せた蛍に長山は言った。
「もっとも、今の顔の方が色っぽい」
「相変わらずね」
蛍はクスクス笑って二人の手を握った。
「湯殿山ホテルにはなんにもないわ。どうせならこっちでなにか食べて行く?」
「オレたちゃ構わんが……戻りが遅くなっても大丈夫か?」
「仕事なんかできる状態じゃないもの」
「………」
「電話では詳しい話ができなくて……あっちに行く前に説明もしておきたいし」
「ロケ隊の車だって?」
「先に帰したわ。タクシーで行きましょう」
蛍の言葉に亜里沙は首を捻《ひね》った。
「なにがあった?」
さすがに長山も察した。
「私にもはっきりとは分からないの」
「分からないって、なんのこった」
「ミイラが盗まれてしまったらしいのよ」
亜里沙と長山はあんぐりと口を開けたまま顔を見合わせた。
蛍は辛そうな顔をして頷《うなず》いた。
山形市内で食事をするはずの亜里沙たちは、一時間後、山形市と湯殿山の中間に当たる西川町の『出羽屋』の離れに腰を落ち着けていた。ここは東北でもっとも有名な山菜料理の店だ。相当不便な場所にあるのに、駐車場には県外ナンバーの車がだいぶ並んでいた。テレビや雑誌で何度も紹介されるせいで、関東や関西からの客も多いと聞く。
「やっぱりここに決めてよかったわね」
亜里沙はわざとはしゃいだ声で言った。
窓の外の広い庭には灯りが点《とも》されている。
池のまわりに点在する離れから温かな笑いが伝わってくる。途中までの寂しい道を考えれば、まるで嘘のような賑やかさだ。
「さすがオケイね。こんなに混んでいるのに、予約なしで一番いいお部屋に通されるなんて」
「テレビの仕事で何度かお邪魔してるの」
蛍はコート姿のまま茶を啜《すす》った。
「ここは旅館かい?」
部屋に通されるなり手洗いに立った長山が席に戻って蛍に訊《たず》ねた。
「ただの料理屋とは思えねえな」
「泊まったことはないけど……そうね、昔は旅館だったかも知れない」
「なんにしろ、大した店だ。離れの数だって二、三十はありそうだ。山菜料理だけでこれだけの客を呼ぶってのは信じられねえよ」
「今日は珍しくチョーサクのクリーンヒットじゃない。東北に来ているんだから山菜が食べたいなんて口にしなけりゃ、オケイもこの店を思い出さなかったわ。お手柄、お手柄」
「そいつは、食ってからの話だ」
「味は保証するわよ」
蛍は次第に明るさを取り戻した。亜里沙はホッとした。駅でタクシーを拾って以来、実を言うと蛍は終始無言だった。発掘されたミイラが盗まれたらしいと蛍から耳にし、詳しい話を聞きたくてうずうずしていたが、肝腎《かんじん》の蛍がそれでは諦める他なかった。タクシーの運転手が蛍に気づき、あれこれ話しかけてきたのが一番の理由だろう。迂闊《うかつ》なことを言えないと蛍は判断したのだ。
「注文したコースなら山菜が二十品近くもテーブルに並ぶはずだわ。三人前ならこれでも置けないくらいね」
「本当か?」
疑わしい目をして長山はテーブルを見た。畳一枚半は優にある大きさである。
「それでマズけりゃ悲惨だ」
「でも、好きなんでしょ」
「ほとんど食ったことがねえ」
「だって、さっきは」
亜里沙は呆れた顔で見詰めた。
「なにごとも取材のつもりでな。名物が刺身や豆腐料理ってんなら、たとえ食わなくとも味が想像できる。だが、あいにくと山菜ってのを詳しく知らねえんだよ。知らなきゃ、いくらオレでも書きにくい。料理方法も見当がつかん。この目で見ておきゃ、原稿の二、三枚は埋められるってもんだ」
「……ま、いいか。お陰で本格的な山菜料理が食べられるんだもの」
亜里沙は苦笑して言った。どこに行ってもカツ丼とかハンバーグと騒ぐ長山だ。それに較《くら》べたら、むしろ幸いと言うべきだろう。
「念のために鰻《うなぎ》でも頼んでおくかな」
山菜尽しと聞いて不安になったのか、長山は二人に相談した。
「ないわよ、そんなメニューは」
蛍がクスクス笑った。
「今の季節だと、どんな料理なんだ?」
「きのこと芋の子汁でしょうね」
「そうか……それなら大丈夫そうだ」
「任せなさい。チョーサクの分も引き受ける」
亜里沙は胸を張った。
「なんだか仙人にでもなった気分だ」
次々と並べられる小鉢や皿を眺めて長山は情けない顔をした。見ているだけで満腹しそうな量だ。蛍の言った二十は大袈裟《おおげさ》だが、十五、六種はある。その大半がきのこだった。しかも長山に識別できるものは、なめこしかない。料理を運んできた年配の仲居が、皿や小鉢を示して、舞茸、トビ茸、銀茸、ムチ茸、かのか茸、とすらすらと口にするが、もちろん耳からそのまま素通りして行く。亜里沙はそのたびに歓声を挙げて頷いているけれど、どうせ亜里沙にも分かっているわけはない。黄、黒、白、紫といったきのこの鮮やかな色彩に驚いているだけだ。
「しばらくしましたら芋の子汁もお持ちいたしますので、またたび酒もお試し下さい」
仲居は丁寧にお辞儀をして下がった。
「オレはこいつだけで充分って感じだ」
長山はグラスワインを一気に飲んだ。が、それはワインではなかった。山|葡萄《ぶどう》を搾《しぼ》ったジュースである。長山は噎《む》せかえった。
「ものすげえ濃さだな」
「あら、美味《おい》しいじゃないの」
亜里沙は口にして褒めた。
「東京じゃなかなか手に入らないわ」
「酸っぱいものが苦手なんだよ」
ついで長山は酢の物の小鉢を亜里沙に押し付けた。他にも食べられそうにない皿がいくつもある。菊の花とか三葉やセリのように香りのきつい物も駄目だ。きのこだけならまだしも、なぜかそれらと和《あ》えた料理が多い。
「まったく、食通とは無縁なんだから」
押し付けられる皿の多さに亜里沙は呆れて、
「山菜は香りが命なのよ、食べて書くって話はどうなったわけ」
「食わなくても想像ができる。どうせきのこに三葉とかセリの味がするんだろ」
蛍は二人のやりとりに噴き出した。
「馬鹿みたい……こんなに美味しいのに」
亜里沙は長山を無視して食べはじめた。ごま和えを頬ばって、ふくよかなごまの香りが口に広がる、と言ったときには、さすがの長山もバカにした。
「いやしくも編集者としては、もっと独創的な表現が欲しいもんだね。その分じゃ、まったりとしたカツカレーって口だろう」
「こいつと居るといつもこうなの」
亜里沙は蛍に溜め息を吐いた。
「どうせチョーサクには大人の味覚ってものが理解できないんだから。かわいそう」
くるみ和えと茶碗蒸しぐらいにしか箸を付けていない長山を亜里沙は哀れんだ。
「人生の楽しみの半分を知らずに死ぬのよ」
「そっちこそ死ぬ間際になってから、牛丼を腹一杯食いたかったなんて言うタイプさ」
長山は旨《うま》そうにまたたび酒を舐《な》めた。
芋の子汁は長山も気に入ったらしかった。亜里沙と蛍はきのこの食べ過ぎで小椀に一杯しか無理だったが、長山は大盛りにして四杯もお代わりした。
「こいつにメシだけで完璧だ。こんなに旨いもんは滅多にお目にかからねえぜ」
「山形は芋の子汁の本場ですもの」
蛍は安心した顔で頷いた。
「本場と言やぁミイラもそうだ」
長山はようやく本題に入った。
「腹もくちくなったこったし、そろそろ聞かせてくれてもいいんじゃねえか?」
「別に隠していたつもりはないわ」
蛍はゆっくりと茶に手を伸ばしながら、
「私にだって事情が分からないの。盗まれたと知ったのは、ついさっきですもの」
「ミイラは公民館に置いてあったって?」
「ええ。学術調査もそこで行なう予定に」
「見張りはついてなかったのか」
「盗まれるなんて想像できる?」
逆に蛍は長山に質問した。
「まあ……だれも考えねえわな」
長山も認めつつ、
「昔なら薬として高く売れるということもあっただろうが……今じゃ有り得ん。置き物にするってのも、ちょいと不気味だし」
「薬……ミイラが?」
「病いは気から、って言うじゃねえか。生き仏となった人間の骨だぞ。万病に効くと信じたのも当たり前さ。なにしろ、着ていた服まで千切って服《の》んだという話も残ってる。確かに即身仏の骨って保証があるなら、薬屋も高く引き取ったに違いねえ。言わば仏舎利《ぶつしやり》とおんなじだ。人参や熊の胆《い》よりも遥かに大切に取り扱われたはずだ。もし、あればな」
「骨をどうやって薬に?」
「細かく砕いて服むだけ。病に効果があるたぁ思えんが、カルシウムの摂取にはなる」
長山は自分で言って笑いながら、
「まあ、大昔のこった。いくら仙人村が鄙《ひな》びた田舎だって、そんな阿呆は居ねえよ。見張りをつけなかったのも当然だ」
「でしょう」
蛍は首を振った。
「しかし……現実に盗まれた」
「………」
「鍵はどうなってたんだ?」
「してたはずだけど、壊されたみたい。公民館のまわりには民家がないから、どんなに大きな音を立てても平気なの」
「民家がねえだと……東京じゃ想像もできねえ話だな。どれだけ離れてる?」
「一番近い家からだって、車で最低五分はかかるわね」
「なんだってそんな不便なとこに」
「仙人村は広いのよ。役場の周辺に家がいくつか固まっているのを除くと、大半は中心部から車で二、三十分も離れているわ。皆から公平な距離となれば、あの場所が……」
「恐れ入ったね。人里離れた公民館か」
「小学校も側にあるけど、近いと言っても一キロはあるんじゃない?」
「その気になりゃあ、子供にでもできる」
長山は煙草の煙を乱暴に吹き出した。
「鼻唄交じりでもやれる仕事だ」
「盗まれたのが分かったのはいつ?」
亜里沙が代わって質問した。
「私は昼過ぎにホテルを出たから……その後|直《す》ぐだと思う」
「だれがそれに気づいた?」
「先乗りしてきた大学の先生を案内して番内さんが出掛けたそうなの。その前にも村の人たちが行ってたみたいだけど、ミイラは大きな桶に入っていたので……」
「盗まれたと知らなかったわけだな」
蛍はこっくりと頷いた。
「鍵が壊されていたのは分かっただろう」
「しょっちゅうあることですって。村の若者たちが夜中に集まってお酒を飲んだり」
「聞くだけ野暮ってもんか。こんなバカバカしい事件ははじめてだ。まさに、いなかのじけん、だな」
「………?」
「夢野久作の小説さ。解いてみりゃあ、きっと他愛もねえ犯罪に違いない」
「見世物にはなるって言ったわよね?」
亜里沙が長山を遮《さえぎ》った。
「理由はそれじゃない?」
「一発でバレちまうだろうさ。パンダと一緒だぞ。そんじょそこらにある品物じゃねえ。子供が隠し持ってて、五十円かそこらで同級生に見せるってんなら別だが……宣伝をぶった途端に御用と後ろに手がまわる」
「じゃあ……村の人たちは? どうしても番内さんに渡したくなかったとしたら」
「学術調査の結果を待つのが常識じゃねえか。可能性は五分五分だ。わざわざ盗まなくたって、村の物となる公算が大きい。危険を冒《おか》す必要はどこにもないね」
「だったら、有り得ないわ」
「とんでもない裏があるのか……ただの阿呆《あほう》のいたずらか……二つに一つだ」
長山は腕を組んで続けた。
「警察の活躍が楽しみってもんさ。なんだか迷宮入りになるような気がするぜ。連中にとって、もっとも不得手とする犯罪だよ」
蛍と亜里沙も暗い目で頷いた。
タクシーは真っ暗な山道を突き進む。ライトの明りが、時折小さな獣の目を反射させた。リスとかたぬきの類いだろう。最初は物珍しそうに歓声を上げていた亜里沙も、あまりに頻繁となると口を噤《つぐ》んだ。こんな山奥に本当にホテルがあるのか、という疑いの視線を長山にちらちらと送る。国道から湯殿山という標識に従って狭い山道に入り、かれこれ十五分以上は経《た》っている。知らない道は地図で予想しているよりも長く感じるし、不安なものだ。これが地理に詳しい地元のタクシーでなければ、途中で車を停めて何度も道路地図を確認したに違いない。
「白湯温泉を思い出すな……」
長山が闇に目を凝らしながら呟いた。
「あそこも麓《ふもと》の町から宿まで、こういう調子だったぜ。雪はまだだから、まさか雪崩《なだれ》で宿に閉じ込められる恐れはなかろうが」
それを聞いて蛍は辛い顔になった。
その温泉に大学時代の仲間が二十年振りかで集まって旧交を温めた。それだけのつもりだったのに、その宿が雪崩で孤立し、復旧を待つ間に悲しい事件が連続したのである。集まった七人のうち、三人が死んだ。中の一人は蛍の従兄《いとこ》だった。
その白湯温泉もおなじ山形県にある。
「奇妙に山形と縁があるってのか……偶然にゃ違いないが、厭《いや》な予感がするよ」
「厭な予感って?」
亜里沙はゾクッとした。
「予感は予感だ。説明なんぞできん」
「………」
「ホテルと言うからにゃ、バーくらいあるんだろ?」
長山は口調を変えて蛍に訊《き》いた。
「部屋で寂しくビールを飲むのはごめんだ」
「あるにはあるけど……十一時まで」
「まだ八時前だ。それで充分さ」
タクシーは湯殿山ホテルの玄関に到着した。
四階建ての洋風ホテルだが、さほどの大きさでもない。ホテルに隣接して平屋の土産物売り場がある。こちらはモルタルの古い建物だ。そのうら寂れた様子がホテルのイメージにも繋《つな》がっている。ヘルスセンターとビジネスホテルが合体した雰囲気だった。それでも、亜里沙たちの顔が綻《ほころ》んだ。なにもない山道を辿《たど》って、ようやく人間の文化に巡り合ったような嬉しさを覚えたのだ。
「警察の車があるわ」
降りながら蛍は広い駐車場を二人に示した。パトカーが二台並んでいる。
「連中もここに泊まってるのか?」
「今までは日帰りだったけど」
蛍は首を傾《かし》げた。仙人村の事件を管轄しているのは鶴岡署である。車で一時間もかかるので、近い場所とは言えないが、泊まる程度の距離でもない。
「じゃあ、メシでも食って帰るんだろ」
長山は蛍と亜里沙を促した。
長山が玄関の扉を押すと、いらっしゃいませ、と元気な女の子の声がかかった。その声を聞きつけて、ロビーの公衆電話を利用していた巨漢が慌てて振り向いた。長山と目が合う。巨漢はにこにこと坊主頭を下げた。
「タ、タ……」
タコ、と言いかけて長山は、
「なんで山影さんがここに?」
必死で言い繕《つくろ》った。
受話器を耳にしていたのは、白湯温泉の事件を担当した山影哲夫刑事だった。
長山に続いた蛍も亜里沙も絶句して玄関に立ちすくんだ。
山影は電話を切って三人に挨拶した。
「お久し振りでした。まさかこうして皆さんとお会いできるなんて思いませんでした」
「そいつぁ、こっちのセリフだ」
長山はニヤニヤと山影を見上げた。事件以来、長山と山影は親しい間柄となっていた。推理小説を書きながら、警察関係の知り合いの居ない長山が、これ幸いと、ことあるごとに尾花沢署の山影に電話で問い合わせ、指導を仰いできたのだ。短く刈り揃えた坊主頭が特徴で、長山はタコと密かに渾名《あだな》を付けている。
「玄関で立ち話もなんです。風呂にでも入られたら、後で私の方からお部屋に伺います」
「ってと……泊まってるわけだ」
「ええ。蛍さんと入れ違いに着きました。長山さんと名掛さんを迎えに出られたと聞いて楽しみにしておったんですよ」
亜里沙も頷いた。地獄で仏とは大袈裟だが、山影なら安心して居られる。
「それにしたって……」
宿泊カードに記入しながら長山は質した。
「尾花沢って、湯殿山に近かったかい?」
「先月の異動で県警本部詰めとなりました。異動したばかりでご挨拶が遅れて──」
山影は軽く頭を下げて、
「今度の事件に蛍さんが関わっていることは前から知っていたのですが、発掘されたミイラが盗まれたと聞き、担当を自分から上に願ったんです。異動直後でヒマな体でしたし」
「県警本部となりゃ、山形全域の事件を扱う形になるわけだ。そいつぁ山形県警も目が高い。小さな町で酔っ払いの相手をしてる人材じゃねえさ。なんにしてもめでたい」
長山は山影の分厚い掌を握った。
「役職は?」
「相変わらず捜査一課の係長です」
山影は苦笑した。鬼のように厳しい顔も笑うと優しい童顔となる。
「本部じゃ組織の大きさが違う。ご謙遜だ」
「事件のことはもう蛍さんから?」
山影は照れて話を変えた。
「まさかお宅が居るたぁ思わねえんで、迷宮入りになるんじゃないかと心配してた」
長山が言うと、山影も小さく頷いた。
「とにかく今夜は四人で飲まんと。栄転を祝って、皆で徹底的に騒ごう」
「いや……そういうわけにも」
山影は慌てて首を振った。
「部下と一緒なものですから」
「殺しでもあるまいし、今夜ぐらいは」
長山の誘いに蛍も笑顔を浮かべた。
「しかし……ご縁がありますねぇ」
山影は蛍と向き合った。
「こういうご縁はないに越したことは」
言われて蛍も神妙な顔で頷いた。
それじゃ後ほど、と一礼して山影はフロントに姿を消した。中で見守っていた若い刑事は蛍と視線が合ってどぎまぎしている。
「タコが責任者たぁ、運がいいぜ」
三階への階段を上がりながら長山は笑った。どことなくウキウキしている感じだ。
「あいつと一緒なら、お墨付きを貰ったようなもんさ。手掛かりとか捜査の経過も面倒なしに聞かせて貰えるしな。オレとタコが組めば泥棒くらい簡単に突き止めてみせる」
「かえって邪魔になるんじゃない?」
亜里沙は心配した。長山の推理力もまんざらではないけれど、考え過ぎと言うか、妙な方向に引き摺《ず》られる場合が多い。これまでにだって何度かそれで迷惑を被《こうむ》っている。
「お、やっと戻ってきましたね」
階段で手拭いを肩にした男二人と出会った。
「番内さんがお待ち兼ねでしたよ」
蛍は立ち止まって互いを紹介した。ロケ隊の助監督と進行係の若い青年だった。
「彼がミイラを発見した豊君」
蛍が言うと進行係の青年は二人にペコリと頭を下げた。
「先生の本はいくつか読んでいます」
豊の挨拶に長山は鷹揚《おうよう》に構えて、
「後でゆっくり発見の経緯を教えてくれ」
探偵気取りでそれに応じた。
「ロケ隊は全部で何人?」
豊たちが消えると亜里沙は訊ねた。
「撮影がほとんど不可能になったから、だいぶ東京に戻ったわ。出演者で居残り組は私だけ。スタッフもせいぜい七、八人」
「オケイも帰ればよかったのに」
そうすれば面倒に巻き込まれずに済む。亜里沙は本心から思った。
「仙人村には母がたの伯父が居るの。決着がつくまでは仕方がないわ」
長山たちは次の間付きの部屋に案内された。広くて気持のいい和室だ。
「リサは私と一緒の部屋で構わないでしょ」
蛍に、もちろん、と亜里沙は答えた。
「ここにオレ一人かい」
バッグと脱いだジャンパーを畳に投げて長山は早速窓の外を眺めた。窓の外には直ぐ山の急傾斜があって視界を塞《ふさ》いでいる。
「また、幽霊でも出るって言うつもり?」
「なにそれ?」
亜里沙に蛍はきょとんとして訊いた。
「この前、吉野で大騒ぎしたばかり。せっかく苦労して特別室を確保してあげたのに、幽霊が怖いから皆でざこ寝しようって」
「ざこ寝じゃねえよ。ちゃんとリサだけはとなりの部屋に寝さしたじゃねえか」
「冗談でしょ、いい歳して」
蛍は笑いを堪《こら》えた。
「魔界に敏感な性質《たち》でな。普通の場所ならちっとも怖かねえが、吉野とか湯殿山となりゃ別だぜ。不気味な歴史を持ってるとこだ。こんなとこにゃ、必ず地縛霊が居る」
「取り憑《つ》いて貰った方がいいわよ。どんな霊魂だってチョーサクよりは真面目だもの。少しはまともな人間に変わると思うわ」
相手にしないで亜里沙たちは部屋を出た。
長山は浴衣《ゆかた》に着替えると早速一階の大浴場に下りた。無類の風呂好きである。
「おや、もう上がったのかい」
脱衣所には上気した肌の豊たちが居た。
「ヒマなんで一日に四、五回入ってます」
豊は屈託のない笑いで言った。
「ぬるめですけど、いい風呂です」
「風呂はぬるめの方がいい、ってな」
八代亜紀の唄を真似て長山は浴衣を脱いだ。
ガラス戸を開けるとだれも居ない。
長山は気持好さそうに風呂へ身を沈めた。
どこからか賑やかな笑いが聞こえる。
組み上げて拵えた岩の上から湯が静かに溢れて浴槽に注ぐ。穏やかな風呂だ。
いつもの癖で長山は立ち上がると真正面の曇りガラスを思い切り開いた。
四、五人の若い女性の視線をまともに受けて長山はギョッとした。ガラス窓の外は駐車場だった。彼女らは勤めを終えてマイクロバスに乗り込もうとしていた一団だった。
いきなり爆笑が起きた。
長山は慌ててガラスを閉じた。
「やりましたね」
豊が顔を覗かせて苦笑した。
「てっきり谷川でもあるのかと──」
駐車場に面した風呂など想像もできない。
「我々もしました」
「なんでもあけっぴろげにできてやがる」
長山の言葉に豊はアハハと笑って脱衣所から出て行った。
部屋に戻ると電話が鳴っていた。
「今夜は賑やかになりそうよ」
蛍の声は少し弾《はず》んでいた。
「大学の先生も何人かいらっしゃるし、山影さんたちも一緒。あと十五分経ったら皆で四階のバーに集合ですって」
「タコも承知したのか?」
「ええ。番内さんが招待したら喜んで来てくれるとか。初対面の人が多いから都合がいいと思ったんじゃないの」
「あいつはタダ酒となると卑しいんだ」
「そういう人じゃないわ」
「冗談だよ。タコはいいやつさ」
「さっきはなにも言わなかったけれど──」
蛍は言い淀んだ後に、
「山影さんは今日発掘現場に出掛けたとか」
「公民館じゃなくてかい?」
「なにか別の問題があるんだろうかって、番内さんが私の方に問い合わせてきたわ」
「ただの完璧主義者だよ。そんなに深い意味なんかねえさ。まさかミイラが元の場所を恋しがって歩いて帰ったと考えたわけじゃ」
「なんでも茶化すのね」
蛍は呆れたように電話を切った。
バーの名前は山形の特産物から取って『紅花《べにばな》』と言った。十五分が待ち切れずにそのまま部屋を出た長山は店のドアを押した。へえ、と長山は広い店内を見渡した。田舎のホテルのバーにしては珍しいほど瀟洒《しようしや》な雰囲気だった。ましてやこのホテルの客は湯殿山に参詣《さんけい》が目的の年寄り客が大半と耳にしている。かえって客に場違いな印象を与えるに違いない。
「流山先生ですね」
広い店内に一人、ぽつんとカウンターに陣取っていた男が長山を認めて頭を下げた。
「先ほど、お部屋の方にご挨拶に伺ったんですが……番内信雄です」
ロケ隊を仕切っているプロデューサーだ。彼から学術調査隊への参加を要請されている長山にすれば、スポンサーということになる。
〈一筋縄じゃいかねえ野郎だな〉
浴衣に着替えていない番内を見詰めて長山は曖昧《あいまい》な笑顔で応じた。
「どうぞこちらに。まだ少し早い」
番内はカウンターの止まり木を勧めながらカーテンの奥に向かって声を張り上げた。
「今夜は人数が多いんでママもつきだし作りに駆り出されていましてね」
小柄で小太りのママがカーテンから顔を見せた。長山を認めて腕時計を眺める。
「グラスだけ出してくれ。こっちで作る」
番内は苦笑いして頷いた。奇麗に揃えた口髭の間からヤニに汚れた茶色い歯が見えた。
「県警本部の方とお知り合いだったとか」
グラスを受け取って番内は訊ねた。
「日本も狭いもんですなぁ」
「とんだ面倒に巻き込まれましたね」
グラスを貰って長山は乾杯した。
「こっちも甘かったんですよ。ミイラが発見されたときは、しめた、と思いましたが。今じゃ、そのお陰で撮影も中断された。行き掛かりだから諦めていますが、明日は残りのスタッフの半分を帰してしまおうかと」
「この仙人村の出身だとか」
「中学まではここで……高校時代は鶴岡に下宿してましたし、大学は東京。それ以来、ずうっと東京暮らしが続いてます」
「卒業後は映画関係の仕事を?」
「いやいや……ちっちゃな広告代理店をやってます。たまたま親父が金を遺《のこ》してくれたもんですから、好きな映画にでも注《つ》ぎ込んでみようかと思っただけです。ズブの素人ですよ」
「それにしては思い切った金のかけようだ」
「損をしても構わない。失敗すれば会社の経理が赤字になって税金が安くなります。個人の相続税に取られた分を、会社の方で取り戻せる。映画なんて、そういう覚悟じゃないと」
「なるほど……そういう仕組みか」
「どうせなら仙人村の宣伝もしたい。こっちはそのつもりで居たのに、ミイラ騒ぎが起きてから、すっかり評判を落としました。村を食い物にする怪しい男だと……二十何年も帰らなかった人間が、いまさら迷惑だって面と向かって言われましたからね」
「すると……おんなじ世代かな」
「月宮さんと一緒です」
長山は頷いた。蛍は自分より二つ下だ。
「羨《うらや》ましい限りだ」
年下と知ると長山の言葉は粗雑になった。
「その若さで五億の製作費を軽く捻出できるってんだから……」
「実際には私の金はその半分です。あとは銀行から……借金した方が税金対策上有利だと税理士に言われまして。変な仕組みでしょう」
「借りられるだけ羨ましい。物書きに金を貸す銀行はほとんどない。会社と違って明日の知れない仕事だからな」
本当に長山は溜め息を吐いた。
「先生のようにたくさん本を書かれていても」
「銀行のやつぁ読んでねえもの。それに、オレの読者は数が限られているし」
「月宮さんが絶賛していましたよ」
「オケイが褒めてくれても、銀行はサイフの口が堅い。たとえ小さなとこでも支店長に褒めて貰う方がありがたいってもんさ」
番内は呆れたのか肩を揺すった。
やがて店に人が集まってきた。長山と番内はフロアの大きなテーブルに移動した。女性が少ないせいで、蛍と亜里沙が自然に座の中心になる。山影が引き連れてきた三人の刑事たちは、こういう集まりに馴れていないと見えて隅の方に固まった。それを割るようにママが腰を下ろす。全員が揃うと、だいたいを把握している番内が次々に名前と職業を紹介した。番内と蛍を含むロケ隊員が八名、学術調査を担当する大学の助教授と助手が合わせて三名、山影と刑事が四人、そして長山と亜里沙だ。全部で十七人もの大所帯である。
「申し訳ありませんな。部下まで甘えて」
となりに腰掛けている山影がぼそぼそと長山に礼を言った。
「今夜の主役はお宅さ。なんで県警がわざわざこんな山奥まで出張ってきたのか、そいつを知りたくて誘ったんじゃねえかい」
長山は離れた席に居る番内を顎《あご》で示した。
「やつはケリをつけたくて苛々《いらいら》してる」
「現場じゃなければ撮影の再開も差し支えないと伝えてあるはずですがねぇ」
「その現場ってのはどっちの?」
長山はグラスの手を途中で止めた。
「むろん発掘現場です。ミイラが納められていた石棺がまだそのままに。大学の先生たちから発掘状態を保存しておいてくれという強い申し入れがあったとか」
「へえ、それは聞いてなかった」
「発見当時は小雨が降っていたので、やむなくミイラの方は公民館に運んだそうです。石棺なら多少濡れても構いません」
「じゃあ、先生の指示を仰いで公民館に?」
「指示が早過ぎると言いたいんでしょう」
長山は首を振った。
「そこがミイラの本場の強みですな。東京辺りなら大騒ぎするだけで、どういう処置をしていいのか咄嗟《とつさ》に判断ができない。番内さんはこの湯殿山の麓《ふもと》で育っただけに即身仏じゃないかと直ぐにピンときた。それで何体もの即身仏を扱っている朝日村の役場に連絡を取って、専門家の指示を仰いだということで」
「なかなかてきぱきしてる」
「地元では相当に嫌われているようだが」
それだけは山影も小声で言った。
「反対者……ってと妙だけど、番内にミイラを渡さないと叫んでいる連中とはもう?」
「盗み出す理由もちょいと分からないので、挨拶程度に何人かを訪ねたぐらいです」
「だろうなぁ。調査結果が出る前に盗むなんてのは考えられねえ。五分五分なんだし」
「それ以上ですよ。警察医はどれほど新しくても百年近くは経《た》っているはずだと報告を寄越しました。村の連中もそれを聞いています。まあ、警察医と言っても町の開業医に委嘱しておりますんで、骨の専門家ではありませんが……学術調査の結果はだいたいの想像がついていたと思われます」
「むしろ番内が焦《あせ》っていたわけだ」
「意味がないでしょう」
やはり山影も長山とおなじ推理をしていた。あっさりとその可能性を退《しりぞ》ける。
「発見現場まで足を運んだとか?」
そう口にした途端、席が静まった。番内も二人を見詰めていた。聞いていないフリをして様子を窺《うかが》っていたのだ。
「皆がお宅の返事を期待しているようだ」
「いや、ロケ隊の人はご存知ですよ」
山影は苦笑して席を見渡した。
「石棺のことは以前より問題に……」
またか、という顔で何人かが頷いた。
「石棺の問題って言うと?」
「表面に新しい傷がついておったんです」
長山は戸惑いの表情を浮かべた。
「発掘の際のスコップの傷ではありません。鉄の鎖かなにかが巻き付いた痕跡で」
それがどうした、と長山は首を捻った。
「石棺はどこか別の場所から掘り出されて、あの山奥に埋められた可能性が高いという意味です。鎖はクレーン車のものじゃないかと」
あっ、と長山は絶句した。が、
「だけど、信じられんな」
直ぐに首を横に振った。
「ミイラが盗まれたってことより、そっちの謎の方が遥かに不可解だ」
「埋められたとしたら、いつ頃ですか?」
亜里沙が遠くから山影に質した。
「突き止めるのは厄介です。今日私が傷を確認した感じでは、だいぶ新しかった。泥が雨に洗われて痕跡もはっきりとしています。五年や十年という古いものじゃない。ひょっとすると半月前辺りかも」
「バカな!」
番内が吐き捨てるように言った。
「一ヵ月前には砦《とりで》の基礎工事が完了していた。人の出入りも多い。そんな場所をわざわざ選んで隠す間抜けがどこかに居るとでも」
「ですが──」
山影はぐいと身を乗り出した。
「クレーン車としたら道がないとあの辺りまでは上れんのですよ。砦が作られるまで、あの山には道らしいものがなかった」
「掘り出すときには確かにクレーンだったかも知れないが、運ぶのは人の力でもできる」
「理屈はそうでしょうがね。あなたならそうしますか? せっかく簡単なクレーン車があるってのに、二百キロ近い石棺を担《かつ》いで急な坂道を上ろうなんて」
「道がなければ仕方がないさ」
「それなら道のある場所を他に捜せばいいでしょう。この辺りなら候補地に困らん」
「見解の相違だな。道がないからこそあの山に隠したということも有り得る。本気で隠そうとしたらそこまでやる」
山影も詰まった。
「なんでそんな問題が重要ですかね? 隠した理由はどうあれ、問題はせっかく見付けたミイラが消えてしまったことだ。警察の役目はそっちのはずだが」
「それは……その通りですな」
山影は素直に認めた。
「はっきり言って、ミイラなどどうでもいい。ただし、私の汚名はそそいで貰いたい」
番内は悔しそうに続けた。
「盗んだのは私だと言い立てている連中が居る。親切を仇《あだ》で返された気分ですよ。この泥棒騒ぎが解決したら手を引く。ミイラをそっくり仙人村にお預けしてね」
「………」
「そりゃあ、最初に私もはしゃぎ過ぎたと反省している。私の所有地で見付かったミイラだ。単純に私のものだと思っても不思議じゃないでしょう。だが、もう懲《こ》り懲《ご》りだ」
「お宅の悔しい気持も分かるがな……」
長山が二人の間に割って入った。
「山影さんの疑問ももっともだ。調べたくなるのも当たり前ってもんさ。盗まれた理由は、なぜ別の場所から掘り出して埋めたかって問題と直結しているのかも知れん。他に手掛かりがねえんだ。オレでもそうするぜ」
と言いながら長山は山影を見詰めて、
「だが、その程度で県警本部が介入してくるほどの材料とも思えねえ。オケイが絡んでるんで名乗りを上げたとか言ってたが……そいつだって怪しいもんだ。違いますかね?」
「参りましたな」
山影は坊主頭を指で掻《か》いた。
「やっぱり裏があるわけだ」
「石棺を掘り出したと思われる穴を撮影した写真が鶴岡署に郵送されてきましてね」
全員が唖然とした。
「もちろんあの現場ではなく、明らかに違う場所のものです。判断に困って県警本部に指示を仰ぐ報告が寄せられました。まったくなんのつもりであんな写真を届けたのか、想像もできません。なにかの犯罪の予告ではないかと当方では考えた次第で……」
「どんな場所だったんです?」
番内もさすがに真剣な目になった。
「平らな土地だと分かるぐらいで……特定できるような目印はどこにも」
「平らだったら、確かに山とは別だ」
番内は深い溜め息を吐いた。
「なんで石棺の穴と分かった?」
「写真の裏にミイラアナと書いてありました。きちんと定規を使ってね。今度の事件を担当していた刑事宛ての封書なので、そう判断するのが常識と言うものでしょう」
山影は長山の質問に答えた。
「犯罪予告か……」
長山は唸《うな》って天井を見上げた。
「確かにそんな感じだ」
「怖いわ……」
蛍は手で肩を擦《こす》った。
「写真は掘り出したやつが撮影したものに違いない。だったら、どうしてまた埋める必要がある? 隠したいのか、見せたいのか、犯人の気持がさっぱり分からんな」
「同感ですね。異常な心理としか」
長山に山影は頷いた。
「どうやら予感が当たりそうだ」
長山は亜里沙に向かって言った。
「きっとなにかが起こる」
蛍が泣きそうな顔で長山を見詰めた。
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第二章 湯殿山地獄巡り
明け方の五時に亜里沙は目覚めた。
枕許の時計を手に取って亜里沙はまた眠ろうとした。だが、体は疲れているはずなのに目はすっきりと冴え渡っている。お酒を呑み過ぎると逆にこういうことがある。昨夜は十一時に蛍と部屋へ戻って、夜中の一時過ぎまであれこれ話し合った。合計で四時間しか眠っていない計算だ。となりの蛍は静かな寝息を立てていた。朝食の八時にはまだだいぶ間がある。なんとかして眠らないと……だが亜里沙は五、六分も煩悶して眠るのを諦めた。
部屋は幸いスタンドを点《とも》さずとも文字が読めるほどの明るさになっていた。枕許には読みさしの本が伏せられている。長山にも資料として渡した日本のミイラの概説書だ。けれど二、三分も読み進めないうちに本を閉じた。薄暗い部屋の中でグロテスクな写真を眺める気持にはなれなかった。
温泉ならいつでも入浴できる。
それを思い出して布団から起きた。
もう少し経《た》つと朝日が昇ってくるだろう。それを風呂にのんびり漬かりながら眺めるのも素敵なことのように思える。
厚い丹前に着替えてそっと廊下に出た。
廊下は冷え冷えとしていた。
階段の途中に長山の部屋がある。その扉の下から明りが洩れていた。やっぱりお化けが怖いんだ、と亜里沙は苦笑した。ホテルや旅館に泊まるときは必ず明りをつけっぱなしにして眠ると本人から聞いている。本当かどうか知らないが、真夏の寝苦しい夜でも、長山は絶対に布団から足を出さないらしい。妖怪に足を触《さわ》られるような気がするとか。
〈おかしなやつだわ〉
そのくせ、小説の中では相当に不気味な場面を冷静に書いている。想像力が旺盛だから、闇を人一倍怖がるのかも知れない。
長山のことを考えながら風呂場のある一階に下りたら、途中で当の本人と出会った。
「なんだ、おめえ」
おやおや、と長山は笑った。手には罐《かん》コーヒーを持っていた。
「ずいぶん早起きじゃねえか」
「そっちこそ」
「眠ってねえんだ、早起きとは言わない」
「どうして?」
「こっちが訊《き》きたいね。仕事の最中はのべつまくなしに眠たいってのに、ゆっくり眠れるとなりゃ途端に不眠症だ。遠足を明日に控えたガキと一緒だぜ。眠れねえついでに短いエッセイを一つ片付けていた。自分でも呆れる。こういう情況にありながら仕事に没頭できるなんざ、大人《たいじん》としか言い様がねえな」
言いながら長山は亜里沙のタオルを見て、
「風呂ならオレも付き合おう」
また階段を逆戻りした。
「だって、タオルは?」
「今の時間ならだれも入っちゃいめえ。前を隠す必要もない。体はドライヤーで乾かす」
「信じられない人ね」
「夜中に何度も入ってるんだ。体を洗うこともねえさ。それとも手拭いを貸してくれるか。リサが上がるまで風呂で待ってる」
「いやよ。持ってきたらいいでしょ」
「じゃあ、やっぱりドライヤーだ」
「ずぼらなんだから」
「二本買ってきた。一本やる。風呂の中で飲むと面白えぞ。調子がよけりゃ、食道や胃袋の形まで分かる気がする。風呂との温度差なんだろうな。あれも一種の快感だ」
長山は罐コーヒーを差し出した。
「この寒さにアイスコーヒーなの」
「八甲田山で遭難してるわけじゃねえんだ。部屋にゃ暖房が入ってる。第一、罐コーヒーなんぞホットにして飲むほど旨《うま》いもんとは違う。非常食程度のもんさ」
亜里沙は笑った。
想像していた通り浴槽に身を沈めてわずかも経たないうちに、広い曇りガラスが黄金色に染まりはじめた。東向きではないので、開けても朝日は拝めない。だが、荘厳な雰囲気が浴室一杯に漂った。わざと湯を掻《か》き回す。金色の小波《さざなみ》が亜里沙を中心に広がる。事件のことも忘れて亜里沙は束《つか》の間幸福に浸った。
壁を隔てた男湯から長山の唄が聞こえた。
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで──
無粋《ぶすい》な唄、と思ったけれど、きっと長山も黄金に染まっていい気分なのに違いない。
亜里沙は風呂の中で思い切り手足を広げた。ラッコみたいに体を回転させてみた。となりに長山が居なければ歌いたいほどの快さだ。
亜里沙は貰った罐コーヒーを手にするとゆっくりと喉《のど》に流し込んだ。冷たい。温められた体に冷たい芯が作られて行く。快感だった。
亜里沙が風呂場から出ると、目の前に長山の姿があった。肩にタオルをかけている。
「どうしたの、それ」
「だれかの忘れもんらしい。手拭いばかりじゃねえ。浴衣《ゆかた》や帯までだぞ」
釈然としない顔で長山は言った。
「てっきり先客がいるものと思って入ったらだれの姿も見えねえ。便所にでも行ったんだろうと気にもしないでいたが、オレが上がる時間になっても戻らない。妙じゃねえか。よく考えてみりゃ、便所は有り得ねえよな。いくらこの時間だって、廊下を素っ裸で歩くやつぁ居なかろうぜ。忘れ物に違いないと見当をつけて手拭いを借りたが……こんなのを忘れるやつってのも不気味じゃねえか。ミステリーを書いてるオレにも情況がまったく呑み込めん。まさかぐでんぐでんに酔っ払って、裸の王様になったってこともなぁ」
亜里沙も首を捻《ひね》った。
「どうもこっちに来てから、わけの分からんことばかりが続いてる。東京とこっちじゃ常識が異なるのかね。それとも汗を掻いたんで浴衣を着替えただけなのか……」
「そうね、きっとそうよ。まだまだチョーサクの推理も捨てたもんじゃないわ」
「ご挨拶だな」
長山は苦笑いした。
「もっとも、ミステリーを仕事にしてるからって、現実に対応できるかと言えば、アテにゃならねえ。ついこの間、物書き仲間が十人も揃って鬼怒川温泉に行ったんだ」
長山は階段を上がりながら話した。亜里沙も頷《うなず》いた。「嵐の会」という若手ミステリー作家の集まりはよく長山から耳にする。
「一泊して翌日は日光江戸村ってとこに出掛けた。最初は子供|騙《だま》しの遊園地だろうとバカにしてたが、こいつが結構なスケールでね。芝居小屋だとか小伝馬町の牢屋なんかがきちんと復元されてる。けど、そんなのはどうでもいい。問題は忍者屋敷のとなりにあった迷路だ。五分以内で通り抜けりゃ賞品を進呈するとあったんで、皆が張り切った。別にミステリーったって迷路の小説を書いてるわけじゃねえ。だが、世間一般は迷路って言うと推理小説の分野だと思うわな? オレたちもなんとなくそう思った。言わばオレたちゃプロの範疇《はんちゆう》に含まれる。口にこそ出さなかったがプロの違いを一般の客たちに見せつけてやろうと一人ひとりが思っていたはずだ。ところが……まるきり分からねえ。迷路のところどころにはゴールへの道順を暗示するような格言も貼られている。一寸先は闇だとか、灯台もと暗し、とかな。そんなに単純じゃなく、本当はもっと複雑な手掛かりだったが、余裕を持って眺めていたのは迷路に入って五分が過ぎるまでで、それを超えたら仲間の皆が焦《あせ》りだした。あっちをうろうろ、こっちをうろうろ。手掛かりの意味なんぞを考えているヒマもねえ。ただ闇雲《やみくも》に壁に体当たりしたり、壁に右手を当てて最初からはじめたり、そりゃ大騒ぎさ。結局全員が抜け出すのに二十分以上もかかった。そいつだって一人が見付けた道順を、壁越しに聞かされてようやく外に出られたんだ。自分で発見したのと違う。なんとも情けねえものさ。子供や年寄りまでも含めた脱出の平均時間が十五分と説明されたから、オレたちゃ平均以下ってことになる。さすがに呆れて笑ったよ。自分の拵《こしら》えた謎は解けても、人の作った謎となればお手上げだ。そいつがミステリー作家の悲しい実態でね」
「どんな人たちと一緒だったの?」
亜里沙は笑いながら訊《たず》ねた。
「互いの名誉のために口外はしない約束だ」
「チョーサクの迷う方の迷推理には慣れているから驚かないけど」
「気負いが平常心を失わせたんだな。あっしはなんの能もねえただの阿呆《あほう》ですだ、と自分に言い聞かせていれば逆に楽になる」
「そんなことがチョーサクにできる?」
亜里沙には信じられない。
「あっしを今日から阿呆と呼んで下せえ」
どこまで本気なのか長山は重ねた。
全員の朝食が広間に用意されている。
亜里沙は眠い目をこすりながら出掛けた。
結局、風呂から上がって部屋に戻っても蛍の睡眠の邪魔をするわけにはいかなくて、布団に潜って事件のことを考えているうちに眠り込んでしまった。風呂で体が温まったのも関係がある。食事の時間よ、と蛍に起こされたら、すでに彼女は化粧を終えていた。
どのみち普段でも薄化粧しかしない亜里沙は慌てて服に着替えて蛍の後を追ったのだ。
「おはようございます」
広間にはだいたいの顔ぶれが揃っていた。
憎たらしいことに長山も居る。
「今日はご飯を食べるの?」
亜里沙は長山のとなりに座って訊ねた。長山は朝はコーヒーだけでほとんどなにも口にしない男である。だが、珍しく長山の前には温かなご飯が湯気を立てている。
「腹と背中がくっつきそうだ。なにも食わねえでの徹夜に、夜中の風呂の三回が利いた。こんなに朝メシを待ち望んだことはねえぜ。冷蔵庫のピーナツも食っちまったし」
「昨夜は徹夜ですか」
少し離れた場所に居る山影が驚いた。
「どうせ今日は学術調査も中止だろ。肝腎《かんじん》のミイラが盗まれちゃどうしようもない。のんびり部屋で寝転がっているさ」
「発掘現場に行かれる気はありませんか」
「そりゃあ……構わないけど。行っても石の棺を見るだけじゃなぁ。なんか面白いことでもあるってんなら」
「鶴岡署からクレーン車の援軍が来ます。もしかすると石棺の底に年代が刻まれているのではないかと先生に伺いまして」
山影は側に並んでいる大学の助教授に視線を動かしながら伝えた。東京の仏教系大学で宗教民俗学を講義している蓑田《みのだ》という四十を過ぎたばかりの陰気そうな男だ。
「なるほど……そいつは何時頃から?」
「十一時には現場に到着すると思います」
「じゃあ、二時間くらいは眠れる。出掛けるときに連絡してくれたら──」
そう言って長山はご飯の上にフリカケを振った。納豆の匂いが亜里沙にまで漂った。
「面白えだろ。納豆のフリカケなんてのは生まれてはじめてだ。さっき売店で見付けて買ってきたんだ。旨かったら土産にしようと思ってな。安くて珍しがられること請《う》け合《あ》いだ」
「広島育ちでしょ。納豆は平気?」
「東京の大学で貧しい青春を送った連中に好き嫌いはねえよ。仲間の食い残しのカレーライスまで恵んで貰ってたんだぞ。鎌倉のお嬢様育ちのリサにゃ分からん」
「それで痩《や》せてたんだ」
「食い物は腹一杯食えればいい。味にこだわるなんてのは贅沢《ぜいたく》だ。上品ぶって一寸法師のお椀みたいなやつに盛られる懐石料理なんぞは敵だよ。たとえ人からのご馳走でも厭《いや》だね。二万円もありゃあ大衆食堂ならトンカツ定食が三十回は食えるんだぜ。世の奥様族の間じゃランチグルメとか言って、一流レストランで昼メシを食うのが流行《はや》りらしいが、どんなに旨かろうと、夕《ゆう》メシにメザシや湯豆腐を食うんだったら意味がなかろう。それなら平均してカツ丼を食う生活を目指すのが本当だとは思わんか?」
「理屈は分かるけど……」
亜里沙は閉口しながら、
「毎日、カツ丼って耐えられる?」
「男なら皆がそれを望んでいるさ」
ドッと笑いが広がった。
「チョーサクだけよ。第一、今やカツ丼は贅沢な食べ物とは違うんじゃない?」
「昭和の初期の吉原の資料を読んでたら、東北の田舎から売られた女の手記が載ってた。死ぬほど辛いと思って東京に出てきたのに、抱えの店に着いたら、昼メシに親子丼を振舞われた。それを一口食べて泣いたそうだぜ。自分だけがこんなに美味しいものを食べられて田舎の親や兄弟に申し訳がないってな。これを毎日食べられるのなら、体を売ることさえなんでもないと仏さまに自分の運の良さを感謝したとも書いてあった。皆の前だが、オレは泣いた。その気持を失ったら、人間なんぞお終《しめ》えだ。人間は食うために生きてるんじゃねえ。生きるために食うんじゃねえか。カツ丼や親子丼が、人として許される贅沢の限度だとオレは思ってる」
「………」
「五万円のステーキってのを雑誌社の人間に馳走になったこともあるが、確かに旨い。けど五万円なら、この十倍は旨くて当たり前なんじゃねえかと店の主人に言ってやったよ。ここに集まっている客は最低の客だ。てめえは豚を相手に商売してるようなもんだと、本当は言いたかったが……さすがにそれはな」
「なんか今日は変じゃない? 過激だわ」
亜里沙が言うと、
「いや、分かります。ようく分かります」
山影が遠くで同意した。
「近頃のコソ泥はカツ丼くらいじゃ白状《おち》なくなりましたよ。三種の神器だったのに」
「いずれ、まともな時代じゃねえのさ」
長山はお代わりと言って亜里沙に空《から》の茶碗を差し出した。
「まともじゃねえから、妙な犯罪も増える。食うことに一所懸命なやつだったら、ミイラなんて盗むわけがねえからな。ましてや犯罪予告をするはずも……遊びと勘違いしてる」
「でも、こういう時代だからこそミステリーが商売になるのと違う? 生活に余裕がないと、チョーサクの本までは手にしないわよ」
「そいつはミステリー・ハラスメントだ」
長山の言葉に皆は爆笑した。
「そう言えば松本君はどうしたの?」
蛍が空《あ》いている豊のとなりの席を見て訊ねた。松本は今度の映画の助監督だ。
「風呂だと思います。朝から姿を見てません」
同室の豊は応じた。豊はミイラを発見した若い男で、進行係としてロケに随行している。
「居なくても、どうせ仕事はないよ」
番内が自嘲めいた口調で言った。
「この騒ぎが治まるまで映画は中止だ」
「松本君は帰る予定に?」
亜里沙は番内に質《ただ》した。
「いや、あいつと、発見者の豊だけはオレと一緒に残って貰う。他はこの食事が済んだら」
「寂しくなるわね」
蛍が東京に引き揚げる四人のスタッフにこれまでの礼を言った。
「でも、また直《す》ぐに会えるんだから」
何人かが蛍に頷いた。
三十分後。
長山、亜里沙、蛍の三人は豊の運転する車で朝日村に向かった。その前方に蓑田と助手二人が乗った車が走っている。
蓑田たちが朝日村の即身仏を見に行くと聞いて同行を申し入れたのだ。専門家と一緒ならいろいろと都合がいい。
「夜まで保《も》つかね。いよいよ眠くなってきた」
あくびを噛み殺しながら助手席の長山が言った。抜けるような青空で、車内は眩《まぶ》しい。
「無理をせず宿に残りゃよかった」
「一日ぐらい頑張りなさいよ。徹夜には慣れているんでしょ」
「刺激でもあればな……いっそのこと殺人事件でも起きてくれんもんかね。こういうのどかな風景ばかりだと飽きてくるぜ」
「私たちはお花畑を見に行くんじゃないわ。即身仏なのよ。相当に刺激的だと思うけど」
「おまえさんから貰った本のお陰で見飽きちまったのさ。これから行く大日坊って寺にゃ、確か真如海上人の即身仏があるはずだ」
「へえ、隠岐とはずいぶん違うわね」
隠岐の取材の折には、せっかく苦労して集めた資料にほとんど目を通してこなかった。
「まあ、ミイラとなりゃこっちの領分だからな。後醍醐天皇より興味がある」
「真如海上人って、いつ頃の即身仏?」
「なんだ、面接試験みたいだな。天明の大飢饉のときに救済を祈願して土中|入定《にゆうじよう》したってことだから、だいたい二百年くらい前だろ。もともとの坊主じゃなくて、普通の農民だったみたいだぜ。人を殺したんで大日坊に逃げ込んだんだ。当時は即身仏を志願すりゃ、一切の罪が免除されたらしい」
「人を殺したですって!」
山形の出身なのに蛍は知らなかった。
「真如海上人だけじゃねえよ。たいていの即身仏がおんなじようなもんだ。不倫から逃れようとしたり、泥棒だったり。修行を続けていた坊主が即身仏になった例は少ない」
「どうして?」
「さあな。それについちゃ本にも説明がなかった。日本人的な発想で言うと、もともと志を持って修行を続けた坊主が命を捨てるよりは、仏の加護も信じていなかったような悪い人間が一念発起して自ら即身仏を願う方が効果的ではあるぜ。仏教の凄さがより明確に伝わってくる。大酒飲みが禁酒を続ければ偉いもんだと皆から感心されるが、本来飲めないやつが一生酒を飲まなくたって、そいつは当たり前だとだれも驚かねえ。たとえとしちゃ妙かも知れんが、そいつは考えられる」
「恩讐の彼方に、ね」
「そうそう。あれもトンネルを掘るまでは相当に悪いやつだった。人殺しが改心して旅人のために隧道《ずいどう》を何十年も掘ったんで感動されたんだ。あれが良寛さんの仕事なら、ちょいとした美談で済んじまう程度だったろう」
長山は蛍に笑って頷いた。
「どんな殺人を犯したの?」
「大したことじゃねえ。真如海上人は朝日村で生まれて、農業をしていたらしいが、ある日、肥桶《こえおけ》を担《かつ》いで道を歩いていたら役人と擦《す》れ違った。その時に担いでいた桶が揺れて肥が役人の着物を汚した。無礼者ってわけで役人は刀を抜いた。身の危険を察した真如海は道端にあった杭を抜いて応戦した。たまたまその杭が役人の頭を直撃してイチコロさ。どんな事情にしろ農民が役人を殺したとあっちゃ死罪は免れねえ。思い余って真如海は大日坊に駆け込んだ。そして一世行人を願い出た。聞き届けられると、役人の手からは逃れられる。その代わり、もっと厳しい修行が待ち構えているけれどな」
「一世行人……」
「即身仏予備軍の名称だよ。皆が皆即身仏になれるわけじゃねえ。あまりの修行の厳しさに志半ばにして挫折するやつが大半だったようだ。なにしろ女はご法度《はつと》、酒はもちろんのこと、五穀断ち、十穀断ちと言って、穀物のほとんどを口にできなくなる。木の実を中心の食生活なんで木食行《もくじきぎよう》とも言う。その栄養不良の体で水ごりはする。朝から晩まで険しい山道を上がったり下りたり、そいつを千日も続けて、はじめて即身仏の有資格者となれる。もっとも、その段階をクリアすれば、即身仏となる日は自由に選択できたみたいだ。たいていは老衰で体の自由が利かなくなるまで頑張ったようだな。と言っても別に楽隠居をしてるわけでもねえ。十穀断ちは生きている間ずうっと続く。仙人の暮らしだ。そういう一世行人の許《もと》には多くの寄付が集まる。その金で彼らは寺を拵《こしら》えたり、病人を救ったり、数々の善行を重ねた。だからこそ即身仏となった暁にゃ、生き仏と崇《あが》められる」
「一生の十穀断ち……凄いわね」
「そうしないとミイラになれん。脂肪を断つことによって腐りにくい体質に変わる」
「真如海上人って、何歳くらいで即身仏に」
「九十はとっくに過ぎてたはずだ。九十五、六だったかな」
「物凄い長寿じゃない」
蛍は驚いた。
「他の即身仏も案外長寿だった。木食行ってのは体にいいかも知れんな」
それを聞いて運転している豊が笑った。
「そこまで生きていりゃ、即身仏になっても別に惜しい命でもなかろうが、反対に、たとえ即身仏にならずともだれにも文句は言われない立場でもあったはずだ。そんな年寄りに無理をさせようなんて人間は居ない。真如海上人ってのは偉いやつだと思ったぜ。オレにはとても真似のできねえこった。オレならボケたフリをして生き続けるだろうね」
亜里沙も迷わず頷いた。
「天明の大飢饉の救済って言ったけど」
蛍が続けた。
「そんなに酷《ひど》い状態だったの?」
「山形辺りはそんなでもなかったようだが、青森や岩手は悲惨だった。なにしろ人喰いが当たり前だったと言うんだ。今みたいに食い物が余っている時代からは想像もできん」
「人喰いが当たり前!」
蛍と亜里沙は絶句した。
「オレが読んだ菅江真澄の『東北日記』だが、下手《へた》な怪奇小説よりも遥かに不気味だった。あんな時代が現実に存在したなんてな」
乞われるままに長山は詳しく伝えた。
──天明五年八月十日 朝早く出立する。道をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前(西津軽郡森田村)という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、堆《うずたか》くつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに、薄《すすき》や女郎花《おみなえし》のおいでているさまは、見る心持がしない。
「あなめあなめ」とひとりごとをいったのを、うしろの人が聞いて、
「ごらんなさい、これはみな餓死したものの屍です。過ぐる天明三年の冬から四年春までは、雪のなかに行き倒れた者のなかにも、まだ息のかよう者が数知れずありました。その行き倒れ者がだんだん多くなり、重なり伏して道をふさぎ、往来の人は、それを踏みこえ踏みこえて通りましたが、夜道や夕ぐれには、あやまって死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足を踏み入れたり、その臭い匂いをご想像なさい。
なおも助かろうとして、生きている馬をとらえ、くびに綱をつけて屋の梁にひきむすび、脇差、あるいは小刀を馬の腹にさして裂き殺し、したたる血をとって、あれこれの草の根を煮て食ったりしました。荒馬の殺し方も、のちには馬の耳に煮えたった湯を注ぎ入れて殺したり、また、頭から縄でくくって呼吸ができずに死なせるといったありさまでした。その骨などは、たき木にまぜて焚《た》いたり、野をかける鶏や犬をとらえて食ったりしました。
そのようなものも食いつくしますと、自分の生んだ子、あるいは弱っている兄弟家族、また疫病で死にそうなたくさんの人々を、まだ息の絶えないのに脇差で刺したり、または胸のあたりを食い破って、飢えをしのぎました。人を食った者はつかまって処刑されました。人肉を食った者の眼は狼などのようにぎらぎらと光り、馬を食った人はすべて顔色が黒く、いまも生きのびて、多く村々にいます。
弘前ちかくへ娘を嫁にやっていた女があって、この娘が、自分の母はこの年の飢饉にどうしているか会いたいと、道のりは一日のうちにあるいて行けるところなので、夕方ちかく着き、互いに無事をよろこびあった。そのあとで母のいうことに、お前はまるまると肥えているようだ、食べたら、うまさはかぎりないであろうと戯れていうのを、娘は母の空言ではありながら薄気味わるくなって、母の寝たすきをうかがい、ひそかに戸をおし開けて夜の間に逃げ帰ったという話もあります。
このような世間のありさまの恐ろしさは、みな人間のなすわざとも思われません。(中略)今年も先日の暴風に災いされて、農作物が被害をうけました。またも飢饉になるのではないかと案じられます」
と泣きながら語って、別の道に去って行った。この話は真実であろうか。ほんとうにありとあらゆる家はみな倒れ、ある家は骨組ばかりで、柱だけが立っているのを見ながら、過ぎ去った日の惨状をしのんだ。
菅江真澄『東北日記・外が浜風』
内田武志訳──(平凡社刊)
「自分の娘を見て、まるまると太って旨そうだと無意識に考えちまう母親の心が恐ろしくも、哀れだ。もっとも、こんなのは序の口で、家族全部が協力しあって我が家を人肉工場化してたとこもあったそうだ。役人が噂を聞きつけて踏み込んだら大瓶にびっしり人の肉の塩漬けがあった他に、棚には三十八個もの首が並べられていたという。さらに凄い話は、子供が死んで土葬を終えた家族のところに、人品卑しからざる若者が訪ねてきて、あの子を食わせてくれ、と許可を貰いに来たとか」
「ひどい」
「結局は掘り出して焼いて食ったそうだから、親も認めたんだろうよ。恐らく自分たちも他の死体を食っていて、我が子だけはさすがに食えなかっただけなんだろう」
長山の言葉に皆は溜め息を吐いた。
「そんな時代だったから真如海上人も老齢を押して即身仏を決意したんだと思うぜ。生き地獄さながらの現状を見兼ねてさ」
「土中入定って、生きたまま土に埋められるのよ」
亜里沙が蛍に付け加えた。
「中で読経しながら鉦《かね》を鳴らし続ける。どっちの物音もしなくなれば死んだと判断されて正式の墓所に埋葬される。柩は三年三ヵ月は絶対に開封を禁じられる。そうやって三年後に掘り出されて、上手《うま》くミイラになっていれば、そこではじめて生き仏と認定され、寺の本堂に飾られるんだ」
「………」
「伝説によると真如海上人はまだ息があったのに、土地の老婆が哀れと思って空気を取り入れる竹筒に饅頭《まんじゆう》を押し込んだのが死亡の原因らしい。窒息死だぜ。なんともむごい話だ」
蛍は眉をしかめた。
「即身仏ってのは中途半端じゃねえ。偶然腐らなかったから仏として拝もうなんて甘いものとは違うんだ。だからこそ、今度発見されたミイラが問題となってくる。石棺に空気の取り入れ口があったというんだろ。完全に土中入定だぜ。そこまで許される人間なら、真如海のように厳しい修行を積んだ人間のはずだ。けれど、村にはあのミイラの伝説はおろか、正式な墓所に改葬されたフシもない。なんらかの理由で放置されたとしか……資料がまったく残されていねえのは、そこら辺りに理由がありそうだ。わざと資料を抹殺したと見るのが正解じゃねえのか?」
「真似をして普通の人が土中入定をしたということはないのかしら?」
亜里沙の言葉に長山はギョッとした。
「面白え推理だが……それだと今になって掘り返されたり、別の場所に埋められる理由がちょいと分からなくなるなぁ」
それでも長山は何度も首を振って、
「素人の推理にしちゃ鋭い。人の真似をして腹を切って後追い自殺を試みるやつも居る。確かに皆が皆一世行人とは限らんかもな」
亜里沙の考えを認めた。
先導する蓑田の車は朝日村大網の静かな村落に入ると、右手の山道に曲がった。大日坊という案内板が見えた。
長山は明るい景色を見渡した。段丘の多い土地で、あちらこちらに古い民家が見える。
「ミイラが直ぐ側にあるってのは、どんな気分のもんかね。慣れちまって関係ねえか」
「あそこみたい。観光バスが三台も」
亜里沙が前方を指差した。
古い山門の前に大勢の人間が居た。ちょうど寺の見物から戻って乗り込むところだ。
蓑田の車はバスが駐車場から出るのを待っている。車は豊に任せて長山たちは降りた。
「オケイは顔を隠してた方がいいぞ。あの集団に発見されたらサイン攻めになる」
長山は蛍の顔を隠すように前を歩いた。
「山門の見物はバスが居なくなってからにしよう。ったく有名人も辛いもんだな」
「そんな経験はないの?」
蛍は長山に訊ねた。
「あるもんか。よしんばオレと分かったって、薄気味悪くて近づきゃしねえよ。人殺しの小説を書いてる人間なんだぞ」
長山たちの姿を認めて蓑田も降りてきた。
「古い山門でしょう。鎌倉時代のものだと言われております。何度見てもいい」
蓑田は我がことのように自慢した。
「こんなに観光客が多いとは思わなかった」
長山は蓑田と並んで山門を潜った。石畳の参道が真っ直ぐ前方の丘に伸びている。まわりは田畑だ。丘の上に樹木に隠されてはいるが、大日坊の大きな屋根が見えた。山門の古さに比較するとだいぶ新しい。
「この大日坊は本来はもっと山深くに建てられていたんです。地震で地盤が緩んだので、近年になってからこちらに移築を。山門だけは運びましたが、建物の方は新しくして」
長山たちは頷いた。
「真如海上人が入定した場所もそちらに」
「今も残されているんですか?」
亜里沙は蓑田に質した。
「だいたいその辺りだろうと言われているだけで……発掘したところでただの穴ですしね」
蓑田は眼鏡の奥で笑った。
「行けるならあとで行ってみよう。廃墟ってのがやたらと好きなんだ」
「建物はありませんよ。壊れた墓石とか、石段が草に覆われている程度です」
物好きだという顔をして蓑田は長山を見た。
一行は大日坊への石段に辿《たど》り着いた。屋根の真上の鬼板に取り付けられた、丸で囲んだ大の字が威圧するように見下ろしている。
「さすがにわくわくしてきた」
長山は軽快に石段を駆け上がった。
亜里沙たちも後に続いた。
「あら……」
石段を上がり切った境内の右手に土産物屋を兼ねた休憩所がある。その丸椅子に腰を下ろしていた二人の男と目が合って蛍は小さな声を上げた。年配の方の男が近寄ってきた。
「仙人村に住んでいる伯父さん」
挨拶した男を蛍は皆に紹介した。
「昔は造酒屋《つくりざかや》をしてたけど、今は湯殿山の近くにドライブインを……村会議長もしてて」
「千崎《せんざき》完三と言います」
千崎は立派な体躯の持ち主だ。六十過ぎと聞いていたが、肌もつやつやしている。
「どうしてここに?」
「ホテルに電話したらこっちに向かったと教えられたもんでな。おまえはいつも番内の倅《せがれ》と一緒じゃから、ゆっくり話もできん。作家の先生も居ると聞いたから、昼メシは儂《わし》の店で食べて貰おうと思って誘いに来た」
「でも……十一時には戻る約束に。発掘現場に行く予定になっているの」
蛍は少し困った顔をした。
「今更出掛けてどうする?」
千崎は首を傾《かし》げた。
「埋められた年代が判明するかも知れません」
蛍の代わりに蓑田が答えた。
「石棺の底にひょっとしたら年代を刻んで」
「分かったところでどうなるもんでもありゃあせんよ。肝腎のミイラがなくてはな」
千崎はフンと鼻で嘲笑《あざわら》った。
「そんなのは断わればいい」
「駄目よ。担当している刑事さんが知り合いなの。悪いわ」
「いや、ホテルに電話すりゃ大丈夫さ」
長山が割って入った。
「ここの見物は三十分もあれば済む。伯父さんの店に立ち寄っても十一時半にゃホテルに戻れるぜ。タコには先に行っててくれとオレが伝えておく。せっかく迎えに来てくれたんだ。旨いコーヒーも飲みたいしな」
千崎も笑顔で頷いた。
「ぜひ大学の先生方もご一緒に。儂は先に戻ってコーヒーの用意をさせますから。道はこの子が分かっておりますので」
蛍の返事も聞かずに千崎はもう一人の男を顎《あご》で促した。運転手のようだった。
「ごめんなさいね。強引な人なの」
千崎が消えると蛍は皆に謝った。
「好都合さ」
長山は笑って言った。
「あの伯父さんなら、オケイが心配して東京に帰らねえのも分かる気がするな。村会議長ってからにゃ、番内と真っ向から対立してる立場だろ。そっちの意見にも耳を傾けていないと推理ができやしねえ」
「それで誘いを承知したのね」
亜里沙は頷いた。
「傍観者の目で言うと、番内と伯父さんはいい勝負だぜ」
「さっき番内の倅とか言ったけど?」
亜里沙が蛍に訊ねた。
「亡くなった番内さんのお父さんは、伯父のライバルだったってわけ。別に伯父の代からじゃなく、ずうっと前から番内の家と千崎の家は対立していたみたいよ。厭《いや》な話だから詳しい事情は聞いてないけど」
「それじゃあ番内の映画に出演するのも面白くねえんだろうな」
「私は知らなかったんだもの。いちいち親戚にまで出演許可を貰う必要もないでしょ」
「だな。こいつは面白くなってきた」
「こっちの身にもなってよ」
蛍は少し憤慨した。
拝観窓口で蓑田が名乗ると、女の子は直ぐに分かって住職に伝えた。人の好《よ》さそうな住職が窓口にやってきた。蛍の顔を見て、どこかで会った記憶があると首を捻った。窓口の女の子が蛍のことを説明した。住職はほうほう、と頷いて蛍の掌《て》を握った。
「蓑田先生がご一緒なら、儂のうるさいお喋《しやべ》りはかえって邪魔になりますな。どうぞごゆっくりご覧になって下さい。部屋の方に茶を用意しておきますから、あとでそちらに」
窓口の女の子が苦笑した。どうやら自他ともに認めるお喋りな住職らしい。
「本堂は後回しにして、真如海上人の即身仏を見てしまいましょうか。ここの回廊には即身仏の他にも珍しい仏さまがたくさん集められています。湯殿山で一番見応えのある場所と言ってもいいでしょうね」
蓑田は靴を脱いで本堂に上がり込んだ。
なかなか立派な本堂である。
蓑田の言う通り、本堂には様々な仏像が飾られていた。目を引くのは本堂左手に林立する百近い等身大の菩薩の像だ。それと右手にある真っ黒で巨大な大黒様も迫力がある。
それに目もくれず蓑田は本堂を取り囲む回廊の入り口に向かった。
「なに、これ」
入り口の正面に安置されている小さな観音像を見て亜里沙は一瞬ゾッとした。観音像の腕や頭に人間の髪を細く束ねたものが無数にぶら下がっている。黒い藻に身動きの取れなくなった水死体を見ているような気がする。台座の周囲には髪の束に混じって錆の浮いた夥《おびただ》しい数のヘアピンも……
「血の池観音と言うんです」
蓑田がとなりで言った。
「血の池地獄から救い出してくれる観音なんですが、それを女性特有の生理と結び付けてしまったんでしょうね。女の苦しみを救う観音さまと思われて……髪の毛との関連はちょっと分かりませんが……怖いものを感じる」
「髪は女の命だからでしょうか。命を捧げて」
「ああ……なるほど」
亜里沙の考えに蓑田は頷いた。
回廊を見渡すと、血の池観音ほど不気味ではないが、色とりどりの仏像が廊下に沿って飾られていた。人魚の鱗《うろこ》の肌をして剣を口に呑み込んでいる波分不動や、本物そっくりな赤ん坊を抱えた子安《こやす》観音、白い狐の背に乗って真っ黒な烏の顔をしている飯綱権現《いづなごんげん》、いずれも相当にグロテスクな表情をしている。夜に歩いたらどんなに気味が悪いことかと、亜里沙は想像した。
こういう仏像を眺め続けていたら、きっとミイラもそれほど怖くはなくなる。
まさか、その効果を狙って集められたものではないだろうが、亜里沙には次第に覚悟が生まれていった。
角を曲がった本堂の真後ろのところに真如海上人の即身仏がある、と蓑田が手招いた。
〈ミイラって……結局、死体よね〉
突然、それを思い出して亜里沙の足は少し重くなった。
亜里沙が回廊の角を曲がると、真如海上人の即身仏が飾られてあるとおぼしき辺りには既に長山と蓑田が立って眺めていた。
「どう?」
あんまり怖そうじゃないみたい。お化け嫌いの長山の横顔に特別な緊張のないのを遠くから窺《うかが》って、亜里沙は気が楽になった。
「なんだ二人とも、いい歳してびびったか」
遠巻きにしている亜里沙と蛍に気づいて長山は苦笑した。
「昔見た東京タワーの蝋《ろう》人形の方がよっぽど不気味だぜ。今も飾ってあるかは知らんが」
どうってこたぁねえよ、と長山は手招いた。
「お化け屋敷と違って怖がらせるような仕掛けもしてねえ。あっけらかんとしたもんさ」
亜里沙は窓に沿って接近した。この位置だと飾ってある即身仏が斜めから見える。ガラスに光が反射していた。他の仏像はすべて剥《む》き出しで、その気になれば手で触れることも簡単だが、やはり即身仏だけは大事にしているのだろう。ガラスの中に法衣がちらっと見えた。ケースを覆う赤地に金の刺繍が眩しい錦の垂れ幕が遠目にも鮮やかだ。仏壇と言うよりも天皇の玉座に似た華やかさだった。ケースの前にはお酒や菓子が供えられている。
〈………?〉
即身仏のお顔はまだ見えないが、座禅を組んだ形の腿《もも》の辺りに、なにか茶色いものが目についた。目を凝らして、直ぐに真如海上人の手だと分かった。甲を揃えた両手を軽く前に突き出し、まるで幽霊の腕の形とそっくりだ。蛍もそれを眺めて立ち止まった。しかし、長山の言う通り、頭で想像していたよりは生々しい感じがしない。
亜里沙は長山の後ろに立つと真正面から即身仏を見詰めた。
「どうだい、お二人のご感想は? 乾燥してるわね、なんて洒落《しやれ》は不謹慎だぞ」
自分で言って長山は小さく笑った。
「ミイラと言うより、ほとんど骸骨」
頭蓋骨に茶色の皮膚が貼りついているだけに思えた。目もなく、歯もない。鼻も大きな穴が二つ空いている。人に見られているのが恥ずかしいとでもいうように俯《うつむ》き加減なのが、なんとなく哀れだ。怖さがちっとも感じられないのはそのせいもある。
「法衣を脱がせてみればミイラであることがはっきり分かるんですがね。もともと真如海上人は九十六歳という高齢の上に、十穀断ちで体から脂肪分もまったく失われていたんでしょうし、生きていた時分でも骨に皮といった印象の老人だったんじゃないかな」
蓑田が亜里沙と蛍に説明した。
「額《ひたい》のところに見える白い斑点は?」
蛍も怖さが消えると、逆に観察した。
「黴《かび》です。奇麗にしようとすれば皮膚を剥《は》がしてしまう恐れがあるので、そのままに」
「放っておいて大丈夫?」
「処理してありますから心配は特に。それにこのガラスケースの内部は温度を常に一定状態に調節しているんですよ」
「ずいぶん小さく感じるけど」
長山が蓑田に質した。
「前屈みになっているのと、もともと小さな人だっただけです。たとえミイラになっても骨の大きさに変わりはない。前にインドのゴアでフランシスコ・ザヴィエルのミイラを見たことがありますが、だいぶ大きな人でした」
「フランシスコ・ザヴィエルって……あの有名な宣教師のザヴィエル?」
「ええ。日本へ渡ってくるまではゴアを中心にインドへのキリスト教布教を役目としていたんです。日本では相当な有名人ですけど、実際の日本滞在はわずか二年ちょっと。追放されてからはふたたびインドに戻り、残りの生涯をインドで過ごしました。その関係でゴアのイエズス会の教会に彼のミイラが。聖人をミイラにして保存するのはキリスト教では珍しいことでもありませんから」
「へえ……ザヴィエルってのは今でも顔を拝めるわけだ。ちょいと信じられねえな」
「あげた資料の中にも触れてあったわよ」
「なにが?」
長山は亜里沙を振り向いた。
「ザヴィエルのミイラ。結構有名みたい。湯殿山のとこだけ読んで、関係ない部分は飛ばし読みしたんでしょ。お手軽なんだから……あれも即身仏とおなじ考えなんですか?」
亜里沙は長山を無視して蓑田に問い質した。
「キリスト教では神は一人でしょう」
蓑田は笑った。
「即身仏は、すなわち仏ですからね」
「行って見てぇな。普通の人間とは違うぜ。なんてったって歴史上の人物だ。それのミイラなんて聞いたら体がゾクゾクしてきた。他にあんまり例がねえだろ。こっちが名前を知ってる人間のミイラなんてさ」
「レーニンが居るじゃない」
「あれは最近の話だ」
「脚だけで満足ならカトリーヌ・ド・メディチも博物館で見られるらしいわ」
亜里沙の言い方に長山はギョッとなった。
「メディチって、あの名高い毒殺魔のメディチか。脚だけってのは、どういうことだ」
「フランス革命のときに鉄砲の弾を拵える目的でサン・ドニ大聖堂の王家の墓が暴かれたことがあるんですって。そしたら彼女の死体がミイラになっているのが発見されて、記念というのかしら……脚が切断されて外に持ち出されたとか。ボントワーズ博物館に大事に飾られているそうだから、嘘じゃないと思う」
「世の中にゃ、信じられん話がまだまだあるんだな。メディチなんて伝説のなかの存在みてえなもんだぞ。リサは興味ないかも知れんが、ノストラダムスの名声と深い繋《つな》がりのある女だ」
「ノストラダムス……あの予言者の?」
「同時代なのさ。メディチはイタリアからフランス王朝に嫁いできたんだが、その夫が確かアンリ二世と言った。メディチは大の予言好きで、ノストラダムスの名声を聞くと早速宮廷に呼び出して三人の我が子や夫の未来を占わせた。そのことごとくが的中したのでノストラダムスは予言者としての力を今に信じられている。その予言が当たっていなければ、『諸世紀』だってこれほどブームになってるかどうか」
「どういう予言が当たったわけ?」
蛍も興味を示した。
「三人の子供については、それぞれが皆おなじ玉座に就くであろうと予言した。夫のアンリ二世に関しては死に方を的中させた。ただの病死なら偶然と笑い飛ばせるけど、若い男と一騎打ちの果てに、黄金の兜《かぶと》を槍で射抜かれ、その槍が片目を突き通して脳に達する、とまで具体的に予言したのさ。実際、アンリ二世は酔ったはずみに側近の若い伯爵にゲームの一騎打ちを挑み、防御カバーで覆われた槍で片目を貫かれて死んだ。黄金の兜の隙間《すきま》から一万分の一くらいの確率で槍の先が入っちまったんだな。他の部分だったらカバーのために大した怪我にもならん。そのせいで、まず長男が玉座に就いた。しかし、この長男は病弱で一年ちょっとで死亡。次いで次男が玉座に納まった。ノストラダムスの予言は着々と現実になっていったわけだが、よく考えりゃ、三人の息子がおなじ玉座に就くって予言も並大抵のもんじゃねえだろ。三人目の子供が玉座に就くまでには、上の二人が死ぬか引退するかしてねえと不可能なんだぜ。めでたいようで不吉な予言とも言える」
「そうよねえ」
亜里沙は言われて意味を解した。
「次男のシャルル九世はたった九歳で長男の跡を継ぎフランス王となったが、優柔不断な性質で、政治は摂政となった母親メディチに握られていた。そこに新教徒でもあったコリニー提督というライバルが出現する。コリニーは温厚な人柄でシャルル九世をすっかり信用させた。異教徒征伐のための戦争の必要性を盛んに説き、シャルル九世もその気になった。それを耳にしたメディチは烈火のごとく怒り、コリニー暗殺を決意する。そして実行されたのが聖バルテルミー祭の虐殺として今に聞こえる新教徒大量虐殺事件だ。連中をはびこらせておけばフランスが無駄な戦争に巻き込まれるとの大義名分で虐殺は行なわれたんだが、現実は戦争で死ぬ人間よりも、遥かに犠牲が大きかったんじゃないかと言われている。どれだけの女子供が殺されたのか見当もつかん。セーヌ川が血の色に染まったとか、無関係なパリ市民が二階の窓から投げ出される死体の下敷きになって数えられないくらい死んだとか、道路は足の踏み場もないほど新教徒の死体で埋められたとか……肝腎のシャルル九世は母親のメディチに説得されて殺戮《さつりく》を命じたばかりか、火縄銃で城の窓から逃げ惑う市民たちを撃ち殺していたってんだから呆れた話だぜ」
「残酷な話になると張り切るのね」
亜里沙は長山に厭な顔をした。
「これから先がもっと凄まじい。大虐殺の後、さすがにシャルル九世も自分の罪を感じてか、鬱々として楽しまない日が続いた」
「当たり前だわ」
「それを案じたメディチは懲りずに占師を城に呼び、黒ミサを行なって、国王の鬱病の原因を探ろうとした。少年がその犠牲になった。メディチの目の前で少年は殺され、まだ目玉の動いている生首を祭壇に供えた。すると生首は『よくも酷《ひど》い目に遭《あ》わせたな』とコリニーの声で叫んだ。コリニーの怨霊《おんりよう》が国王に取り憑《つ》いたってわけだ。二十四歳の若き国王はその日から病の床に就き、間もなく死亡する。これでいよいよノストラダムスの予言の成就ってことだな。三番目の子供がアンリ三世として新しく玉座に納まった」
「なんとも陰惨な話ねぇ」
「陰惨てのは表ばかりじゃないんだぜ」
長山は薄笑いを浮かべて亜里沙に言った。
「なんでメディチが毒殺魔と呼ばれているのか、今の話にゃ少しも出てこないだろ」
「………」
「実を言うと長男と次男の二人は病死ではなく、母親のメディチが毒殺したんだろうと言われているのさ」
「どうして!」
「二人のどちらも高熱が続き、毒物反応と思われる斑点が体に見られたらしい。イタリアのメディチ家ってのはボルジア家と並ぶ毒薬と縁のある家系でね、メディチ自身が毒物については相当な知識があった。その彼女が側に居て、毒物反応に気がつかなかったはずはない。メディチ自身が毒を盛ったとしか思えん。現実に彼女は毒で何人かを殺しているし」
「でも、自分の子供よ」
「病弱な子供やノイローゼに罹《かか》っている子供はフランスの王に相応《ふさわ》しくないと考えたせいではないかと今じゃ思われている」
「脚が残っているより、私にはそっちの方が遥かに信じられないわ」
「バカ言え。子殺し、親殺しなんてのは権力争いの世界じゃよくある話だ。日本にだっていくらでも例がある」
「それにしても、よく知っているわね」
蛍が感心した目で長山を見た。
「チョーサクが異常なのよ。人一倍怖がりのくせして、お化けや残酷映画にはやたらと詳しいんだから」
亜里沙の言葉に蓑田たちも頷いた。
「ところで……」
長山はその蓑田に質問した。
「なんでミイラを木乃伊とアテ字に?」
「二重構造になってましてね」
蓑田は微笑《ほほえ》んだ。
「ミイラという音はポルトガル語のミューミアが日本語に変化してなったものです。一方木乃伊は英語のマミーが中国語に直されて生まれた文字なんですよ。したがって、漢字は中国語、音はポルトガル語というわけで」
「ふうん。どっちも日本語とは違うと?」
「ですね。高温多湿の日本では自然のミイラもできにくいですし、ミイラにする習慣もなかった。該当する言葉がないのは当たり前と言ったところでしょうか。ミイラじゃなく、屍蝋《しろう》ならいくらでも例があります」
「なるほど、屍蝋は確かに日本語だ」
「だからこそ即身仏が貴重なんですよ。もちろん燻製《くんせい》の方法を取れば比較的簡単に日本でもミイラが作れますけど……それ以外となればよほど意識的に体の脂肪をなくしておかない限り、腐ってしまいます」
「するってと、リサの推理は外れたな」
長山はニヤニヤ笑った。
「なによ、私の推理って」
「盗まれたミイラさ。一世行人の真似をして普通の人間が土中入定した可能性があるんじゃねえかと言ったろ。先生の話じゃ、その程度の人間が真似したってミイラになれるわけじゃない。やっぱり修行僧だろう」
「でも、まだ見ていませんからねぇ」
蓑田は亜里沙の考えを否定しなかった。
「一世行人の場合でも、掘り出してから仕上げに燻製をすることが結構あるんです。番内さんの話ではミイラはずいぶん肌が黒かったらしい。燻製方法が採用されているのは確かなはずですよ。調査をしてみないとどちらとも断言できない状態です。最初から燻製されたものなら、名掛さんの想像だってまんざら外れているとは……補陀落《ふだらく》渡海にも同行者がたくさんあったんですから」
「補陀落渡海……」
亜里沙は思い出した。それもミイラの資料の中で目にしたものである。平安時代の初期から流行した観音浄土への旅のことで、海の向こうにある観音浄土を目指して死への船出をする。屋形船の中に食糧も持たずに外側から板を打ち付けられて海に流されるのだ。
「同行ってのはどういう?」
長山は首を傾げた。
「多いときは一人の補陀落渡海希望者に十名以上の同行者があったと記録されています。まさか、船に一緒に乗ったとは思えないので、それぞれが別の船で出発したんでしょう。ちょっと考えられないことですが、まあ、意気に感じたとでも言うのか……補陀落渡海は土中入定とは違って、相当派手な見送りをしたみたいなので、ヒロイズムを刺激された人間たちもあったのかも知れません。土に埋められるのとも異なり、ひょっとすると死なないで補陀落に辿り着けると思った人間も中には居たでしょうしね」
「ガイアナの集団自殺みてえだな」
長山の言葉に蓑田は頷いた。
「いずれにしろ大したものさ。皆で死ねば怖くないってことも言えるけど……やっぱり死と背中合わせにゃ違いねえ。覚悟を決めた坊主なら諦められるだろうが、ふらふらと誘われた人間が途中で我にかえったら悲惨だぜ。ポウの『早過ぎた埋葬』と一緒で、打ち付けられた板を必死で剥がそうとして指を血だらけにしたやつも居るだろう。明りや食い物もねえんだし……それぞれの船で想像するだに恐ろしい世界が繰り広げられたんだろうなぁ」
「どうして、そういう気持の悪い想像をするわけ? 考えもしなかったわ」
亜里沙は背筋に寒気を覚えた。
「途中で怖くなって土中入定を放棄した坊主なんてのは居ないのかな?」
「土中入定の場合はそもそも体を衰弱させてからというのが原則なんです。ほとんどは死期を悟って土中入定を決心します。その意味では補陀落渡海よりは条件がいい。補陀落渡海は荒行や十穀断ちとも無縁で、しかも三十代や四十代の僧侶が中心でした。補陀落渡海を希望する僧侶は、こちらの一世行人と同様に相当な待遇を約束されたようですが、六十歳を過ぎても渡海を実行しないと、堕落僧の烙印を押されて寺を追い出されたとか。ミイラとなる修行を必要としない分だけ、苛酷だったと言えるかも」
「追い出される程度なら楽なもんだ。六十まで遊んで暮らせるなら文句はねえさ」
長山は仏罰も恐れぬ言葉を平然と口にした。
「こうなるとミイラが盗まれたのは、つくづく惜しまれる。燻製の度合いや、年齢の推定で、ある程度の情報が得られたわけだよ」
「その通りです」
蓑田も悔しそうに首を振った。
「個人的な興味から言うと、真似をした人間のミイラの方が面白そうだけど」
長山はふたたび真如海の即身仏を眺めた。
「なんで、こんなに苦悶の表情がないもんかな。いくら百近い歳にしてもだ」
「だからこそ生き仏なんじゃない」
亜里沙は神妙に掌を合わせた。蛍も思い出したように拝む。
「悩みがなくていいよ、おまえらは」
長山は苦笑した。
「オレなんぞ、真っ暗なとこに埋められただけで気が狂っちまうぜ。どんなに覚悟を決めたつもりでもな。そこまでの過程も想像しねえで、単純に生き仏ときたか」
憎まれ口を利《き》きながら長山も拝んだ。
そこに窓口の女の子が姿を見せた。
「千崎さんはいらっしゃいませんか?」
女の子は蛍に訊《たず》ねた。
「確か先ほど境内でご一緒では?」
「伯父になにか?」
「お店の方からお電話が入って」
「だったら入れ違いだ。ついさっきドライブインの方に戻って行ったぜ」
長山が答えると女の子は頷いて引き返した。
「伯父さんもこの辺りじゃ名士と見える。もっとも村会議長ってより、実業家として顔が知れ渡っているんだろうが」
「ここまで連絡してくるって、よほどの急用なんだわ。もし忙しいようなら店に立ち寄るのを後に延ばして貰いましょうか」
蛍は長山と亜里沙に相談した。
「どうもオケイはオレたちとあの伯父さんが仲良くするのを厭がってる感じだな」
「別に……山影さんと約束してるのに、長くなって遅れたら迷惑と思っただけ。こっちの都合なんて全然考えない人なの」
「オレは構わんよ。慌ただしくコーヒーを飲むよりは、夜にゆっくり会った方がいいに決まってる。ホテルの中のスナックも嫌いじゃねえが、おんなじ顔ぶれで二晩も三晩も通い詰めるほどのとこじゃねえ。気分転換にドライブインで飲むのも面白そうだ」
長山の返事に亜里沙も同意した。
「じゃあ、ちょっと電話してくるわ」
「けど、今の感じなら、伯父さんもまだ店には到着してねえだろう」
「だから電話で断わるのよ。お互いに忙しそうなので後で連絡すると伝言を」
「コーヒーはちょいと残念な気もするがな」
「コーヒーぐらいなら、この大日坊から少し下がったところに小さなドライブインが」
蓑田は笑って長山に教えた。
「だったら問題は解決だ。まだタコとの約束の時間には早い。立ち寄ってコーヒーブレイクにしよう。先生たちも遠慮なく。亜里沙の勤務している雑誌社の奢《おご》りですから」
「それじゃ申し訳ないですよ」
「オレだってコーヒー代程度は軽く払えるんだが、それじゃ皆が遠慮する。雑誌社持ちとなりゃ、リサの金でもねえ。伝票を出せば戻ってくる。だれも気兼ねなくご馳走になれるという理屈でしょう」
「私がご馳走するわよ」
蛍はクスクス笑った。
「そういう短絡的な考えはいかんぞ」
長山は激しく首を横に振った。
「今度の件はアゴアシを全部番内に恵んで貰ってるんだ。少しはリサの顔も立てないと。金のあるなしを問題にしてるんじゃねえよ。でないとリサがどんどん卑屈になって行く」
皆が爆笑した。
「なにか変だわ」
即身仏の見物を終えて長山たちが本堂の脇にある寺宝を飾ったショーケースを覗いていると、電話を借りに行った蛍が戻ってきた。
「たった今伯父に警察から電話があったんですって。それでこちらに連絡を」
蛍の黒い瞳には不安が漂っていた。
「ミイラでも見つかったのと違うかい」
「それなら言うと思うけれど……」
皆も頷いた。
「店に戻ったら仙人沢の行人塚に来てくれるようにと伝言されているとか」
「仙人沢の行人塚まで?」
蓑田が首を捻った。
「あんなとこでどんな用事が……」
「行人塚って言うと?」
長山は蓑田に質問した。
「ああ、昨夜ホテルに到着したばかりでご覧になっていないんでしたね。仙人沢で荒行をした一世行人たちの骨を纏《まと》めて葬《ほうむ》っているところです。塚と言っても、大きな墓地のようなものですが。湯殿山の参籠《さんろう》所の直ぐ側にあります。泊まっているホテルからだと車で十分程度上がったくらいかな」
「別に気持の悪い場所じゃないわよ」
蛍も付け加えた。
「参籠所だって私たちの泊まっている湯殿山ホテルよりは大きくて新しい施設だし、行人塚の直ぐ下は参拝客の広い駐車場になっていてお土産屋さんや食堂が何軒も立ち並んでいるわ。東京の多磨霊園の方がずっと怖い」
「へえ、ホテルからもっと山奥にそんな賑やかな場所がね。あのホテルが文化の最果てかと決め込んでいた」
「本当は番内さんも参籠所を撮影基地にしたかったらしいんだけど、普通のホテルと一緒だと言っても、やっぱり信者の人しか宿泊しないと聞かされたらしくて……夜中まで打ち合わせしてたら迷惑でしょ」
「行人塚か……なにか事件かも知れんぞ」
長山の目が光った。
「まわりになにもない場所ならともかく、側に立派な施設があるなら、普通はそっちに来てくれと言いそうなものだ。行人塚でなにかがあったとしか思えん」
「山影さんとは無関係かしら」
「こいつは我々も行ってみなくちゃなるめえ。オレの予想が外れてたら、そこの参籠所でコーヒーを飲めば済むこった」
長山は皆を促した。
二台の車は大日坊を後にして、今朝の出発地点である湯殿山ホテルを目指した。徹夜明けと言うのに長山の目は冴え渡っていた。
「タコの乗ってきた車がねえぞ」
ホテルの駐車場を一瞥《いちべつ》して長山は言った。約束の十一時まではホテルに待機していると山影が言っていたはずである。
「ウチのワゴンも見当たりませんね」
運転している豊が心配そうに口にした。
「ホテルに寄って事情を訊いてみますか」
「行きゃあ分かる。ここから十分の距離だろ」
助手席の長山は顎《あご》で山の方向を示した。豊はバックミラーを覗いて蓑田たちの車がついてくるのを確認した。
「あの蓑田って先生も、昨夜《ゆうべ》は生真面目そうで付き合いにくいやつに思えたけど、案外話せる人間じゃねえか。そのうち、ベッコウ縁の眼鏡でも勧めてやらんとな。銀縁はどうも人を遠ざける。眼鏡を替えれば、ちっとは愛嬌のある顔になるだろうよ」
「外観で判断するクセがあるからだわ。昨夜だって私たちは結構先生と話したわよ」
亜里沙は軽くいなした。
「若い頃は人を外観で判断しちゃまずいと自分に言い聞かせていたがね……最近はそうでもねえ。百人のうち八十人は性格がそのまま外観に現われてるぜ。現にオケイだって」
「私? なんのこと」
「リサもそう感じねえか? オケイは白湯温泉の事件以来、服装が落ち着いてきた。それにトレードマークみてえだった真っ黒なサングラスの色もだいぶ薄くなったし……前ときたら、正直言って鼻持ちならないほどきんきらきんに飾り立てていたからな」
ホントね、と亜里沙も認めて、
「今のチョーサクみたいだったかも」
派手なジャンパーを見詰めた。
「オレのことはともかく、オケイは成長したよ。自信が服装を落ち着かせたのさ」
「ありがとう。素直に受け取っておく」
蛍は頬を緩めた。
「その論法で行けば、番内はまだまだだ」
長山は豊や蛍を前に平然と言い放った。
「恰好つけ過ぎている。いくら初対面の人間が集まるからって、宿泊してるホテルのスナックでの飲み会にネクタイしめて来る必要はなかろうぜ。ましてや自分がスポンサーだってのに。ああいう男はなにを考えてるか分かったもんじゃねえ。慇懃《いんぎん》無礼なやつほど、引き際を頭に入れて人と付き合う。オケイを強引に口説いておきながら、金がなくなりゃ、簡単に映画も中止にするタイプだな」
「珍しくないわ。この業界じゃ」
蛍は笑った。
「本篇になると何億というお金が動くもの。人の良さだけでプロデューサーの仕事は……」
「そいつを承知してりゃ結構だよ」
長山は満足そうに頷いた。
車が急なカーブを曲がると、視野に参籠所の古風な屋根が現われた。二階建だが、湯殿山ホテルよりは規模が大きな印象を受ける。
「やっぱりタコの車があるぜ」
長山は広い駐車場に警察の車を見つけた。
「あ、あそこに伯父が」
蛍が参籠所へ向かう坂道に千崎完三の姿を発見して窓から叫んだ。千崎は振り向いて蛍と分かると道を引き返してきた。
「おまえも警察から呼ばれたのか?」
「大日坊で聞いて駆け付けただけ。いったいなにが起きたの?」
蛍たちは車から降りた。
「儂《わし》にもよく分からん。人が殺されたらしい」
「まさか!」
蛍が絶句した。
「儂もまさかと思うがな。第一、関係のない儂がなんで警察から呼ばれなきゃいかんのだ。番内の倅でも殺されたと言うなら分かるが」
千崎は危険なことを口にした。
「行人塚はどこに?」
長山は参籠所の周囲を眺めた。下界は晴れ渡っていたのに、参籠所の周辺には濃い霧が発生している。道を挟んで右手にぼやっと巨大な石塔の影が見えた。千崎が頷いた。目を凝らすと、濃い霧の中に何十人もの影が蠢《うごめ》いている。
「とにかく行ってみよう。あれこれ想像したって意味がねえ。答えは目と鼻の先にある」
長山は坂道に向かった。
「人が殺されたなんて……嘘だわ」
蛍は続きながらそれを繰り返した。
何十人もの影はたいていが野次馬だった。遠巻きにして行人塚を見守っている。長山たちは人垣を押し退《の》けて前に進んだ。警察官が二人立ちはだかった。一人は地元の駐在所に勤務しているらしく、千崎を認めると何度も頷いて通してくれた。山裾に無数の墓碑が立ち並んでいる。周囲は低い石垣で囲まれ、中央の石段付近に山影哲夫の巨体が見られた。となりには番内信雄の肩をすぼめた姿もある。蛍はホッと安堵の息を吐《つ》いた。
「おや……千崎さんとご一緒でしたか」
足音に気づいて振り向いた山影は長山たちを認めて軽い会釈をした。番内は冷たい目で千崎を睨《にら》んだ。千崎は無視して山影に言った。
「呼び出した理由を聞かせて貰えますかね」
「死体《ほとけ》さんを見ていただいてからに」
山影は石段を先に上がった。
「殺されたのはだれなんだい?」
長山は山影と並ぶと小声で訊ねた。
「現場は直ぐ目の前ですから」
山影は真正面の祠《ほこら》を目で示した。山影の部下が扉の前に立っている。祠と言っても中の格子戸の裏にはガラスが嵌《は》められている。
「さっき見てきた大日坊の即身仏の厨子《ずし》にそっくりだな」
あれに屋根を被《かぶ》せればおなじ大きさになる。
「そうです。即身仏を納める祠に似せて拵《こしら》えたものだとか。もっとも、中に入っている即身仏は本物ではなく木の人形ですがね」
「へえ、人形を」
「荒行の所縁の地である仙人沢に即身仏がないのはいかにも残念だと言う声が上がって、せめて人形でも飾ろうと……湯殿山にお参りはしても、即身仏を拝めずに帰る観光客が大勢居るらしいんですな」
言いながら山影は部下に格子戸を開くように指示した。
「ってことは、この祠に!」
長山は思わず後じさりした。亜里沙や蛍は逃げ腰になっている。
「格子戸の鍵が壊されていましてね」
部下によって戸はゆっくりと開かれた。
真如海上人と同様に緋《あか》い法衣を身に纏《まと》った即身仏の人形が眼前に出現した。人形の方が肌に艶があるだけに薄気味悪い気がした。
亜里沙と蛍は同時に悲鳴を上げた。
人形の即身仏におぶさるような恰好で死体が祠の奥に押し込まれているのを二人は見てしまったからである。
「朝から姿が見えなかった助監督の松本昭二さんです」
山影は溜め息とともにその名を告げた。
「どうして! どうして松本君が」
蛍はふらふらっとその場に崩れそうになった。その肩を番内がしっかりと抱えた。
「この位置からだと見えませんが」
山影は千崎の目を見て続けた。
「首の後ろに屶《なた》の刃が食い込んでいます」
「それが儂と関係あるのか」
不審の色を浮かべて千崎は見返した。
「今朝《けさ》は何時に起きられました?」
山影は世間話のように訊ねた。
「………」
「お忘れになられるほど早くに?」
「今朝は店の方に用事があったのでな」
千崎の目は急に落ち着かなくなった。
「ですから何時頃なんでしょう」
「それが事件と関係あると言うのか!」
千崎は怒鳴った。
長山と亜里沙は顔を見合わせた。
「なんの説明もせずに無礼じゃろうが」
「六時頃にあなたが運転なされる車を目撃した人間がおるんですよ。仙人村からこの湯殿山の方向に向かっているあなたの車をです」
「どっちに向かおうと、仙人村は湯殿山の麓だ。そんなことで疑われてたまるか」
「六時というのはちょっとねぇ。あなたが店に顔を出されたのは八時頃と伺っています」
「………」
「ご自宅から店までは車で十五分もかかりません。それが気になりまして」
「だから、それが事件とどんな関係があるかと質問しとるんだ。警察ってのはその程度のことで人を犯人扱いするつもりか?」
「松本さんと会われたのでは?」
「バカバカしい」
千崎はフンと鼻を鳴らした。
「儂は帰らせて貰う。訊きたいことがあれば後で店の方に来てくれ。ただし、そのときは相当に腹をくくって来ることだな。なんの証拠もなく、たまたま朝早く儂が外出した程度のことで犯人に仕立て上げられてたまるか」
「松本さんの手帳にあなたと会見する予定が書き込まれているんですがね」
「そんなバカな!」
千崎は山影の襟首を乱暴に掴《つか》んだ。
「だったら見せてみろ。冗談じゃ済まんぞ」
千崎の額には青筋が立っていた。
「残念ながら今お見せするわけには……鑑識が済むまで証拠物件は現状のままに」
山影は静かに千崎の手を外《はず》した。
「嘘じゃないと言うのか?」
山影が頷くと千崎は途方に暮れた。
「有り得んよ。絶対に有り得ん」
千崎は何度も首を横に振った。
「祠の中からあなたの店のライターも発見されたのですが」
聞いていた蛍が見る見る青ざめた。
「番内さんの話では松本さんは一度もあなたの店を訪ねたことがないはずだと」
「ライターなどだれにでも手に入る。三千円以上のお客には無料でくれているものだ」
「それはその通りでしょうが……場所が場所ですよ。松本さんが店に行ったことがないとしたら、それは恐らく犯人が落として行ったものに間違いありません」
「だれかが儂を嵌《は》めようとしておるんだ」
千崎は番内を激しく睨んだ。
「ふざけるなよ」
番内は拳を握った。
「仲間を殺してあんたを嵌めるだと! 往生際の悪い男だな」
「よして……」
蛍は二人の間に割って入った。
「よしてちょうだい」
蛍はぽろぽろと涙を零《こぼ》して訴えた。
「女のところに行っておったんだ」
千崎は言うとがっくり肩を落とした。
「朝日村に馴染みの女がおる。嘘じゃありゃあせんよ。店に用事があると言って週に二、三回はその女のところを訪ねておる。女房もそれは薄々と感づいておったはずだ。朝日村の飲み屋の女将《おかみ》でテル子と言えばだれでも知っている。なんなら調べてくれ」
「なんと言う飲み屋です」
山影は手帳を取り出して確認した。
「おんなじだ。テル子」
千崎は蛍の視線を避けながら応じた。
「おおやけにせんで貰うと助かる」
千崎は諦めた顔で山影に頭を下げた。
「失礼ですがお付き合いはいつから?」
「もう一年にはなる」
「分かりました。今日のところはお帰りになられて結構です。夕方にでもあらためて伺います。お店の方がよろしいですね」
山影の言葉に千崎はぼんやりと首を振った。
「お店の裏にある小屋から屶が盗まれているのはご存知ですか」
山影は何気なく付け加えた。
「それが……つまり」
千崎は祠の死体に目を動かした。
山影は小さく頷いた。
千崎は泣きそうな顔をして皆を見渡した。
「まあ……冗談じゃねえわな」
それから十五分後、長山と亜里沙、そして蛍の三人は参籠所前の駐車場の食堂に居た。長山は名物の味噌こんにゃくの串を手にしたまま、罐コーヒーを喉に流し込んで続けた。
「最悪だぜ。あれだけ情況証拠が揃っていたら愛人のアリバイ証言も果たして信用されるものかどうか……昨日や今日知り合ったばかりの第三者ならともかく、一年の付き合いとなりゃ親族同様って取り扱いをされちまう。よほどの反証がねえとなぁ」
「でも、どうして伯父が松本君を? せいぜい顔を見た程度の関係でしかないわ」
蛍はそれを力説した。
「ライターや屶にしたって、その気になればだれにでも手に入れられるものだわ」
「理屈はそうだが、積み重なってるってのが厄介なのさ。おまけに松本の手帳にゃ伯父さんと会う予定が書かれてあるらしい。きっと時間も蛍の伯父さんが女と会っていたのと符合するんだろうさ。タコもよほどの確証がない限り手の内は見せねえよ。あいつはあれでかなりの慎重派なんだ」
「ただ約束が書いてあったんじゃないのね。もっと具体的な記述が」
亜里沙が言うと長山も同意しながら、
「ただし、あの驚きは嘘とも思えなかった」
二人に言った。
「村会議長をしているぐらいなんだからポーカーフェイスにも馴れているのかも知れないが……あれが演技だとしたらアカデミー賞もんだぜ。タコを怒鳴りつけたり、困惑したり、怯《おび》えたり……素人の芸じゃねえ」
「あ、山影さん」
亜里沙はイスから腰を浮かせた。山影は蛍に曖昧な微笑を浮かべて店に入ってきた。
「手帳にゃどんなことが?」
となりに座った山影に長山は質した。
「話す分には問題もないんだろ」
「まだ内密に願いたいんですがねぇ」
山影は特に蛍を見詰めて言った。
蛍は請け合った。
「ミイラ謝礼の件、六時、千崎完三とだけ」
「ミイラ謝礼の件!」
三人はほとんど同時に口にした。
「ミイラ謝礼の件です」
山影はもう一度皆に繰り返した。
「ミイラの謝礼だなんて……こいつぁ、ますます困惑の度を極めたな。世の中の裏側に隠された真実が潜んでいるのは承知だが……あんまりケタ外れな真実となりゃ、推理なんぞくその役にも立たねえ。だいたい松本ってのはどういう人間だったんだ?」
長山は蛍に質した。
「どうって?」
「芝居の主役になりそうな男だったかと訊いてるんだよ。昨夜会っただけの印象じゃ、番内の陰に隠れてちっとも目立たねえ感じだった。まさかあいつが裏に秘密を持っているたぁ、これっぱかしも疑わなかった」
長山の言葉に山影も頷いた。
「私も実を言うとよく分からないの」
蛍も小さな溜め息を吐いた。
「もともとの映画関係者でもないし……今度の仕事ではじめて会った人だもの」
「映画関係者じゃない? なんでそういう男に助監督の大役が務まるんだ」
長山は呆れた口調で訊ねた。
「助監督という仕事は監督の代理ってわけじゃないのよ。普通は監督が目を掛けている助手を勉強させるために使うのが一般的だけど、今度の場合は番内さんが監督に頼み込んで松本君をスタッフに加えて貰って」
「………」
「松本君は風景写真を専門とするカメラマンだとか。おなじ山形の酒田の出身で、その関係で番内さんが以前から知っていたらしいの。映画には無縁でも、出羽三山の地理に詳しいのでロケハンの案内役として参加して貰っているうち、だんだんとそういうことに。監督も彼のことを気に入ったみたい」
「そう言えば肝腎の監督はどうなった? 昨日は見掛けなかったようだが」
「ミイラ騒ぎで撮影が不可能になったのよ。忙しい監督なので、問題が解決するまでは東京で待機すると言って、他の出演者たちと一緒に。細々《こまごま》とした仕事はプロデューサーの番内さんさえ居れば大丈夫」
「なるほどね。撮影ができねえのに何十人ものスタッフをホテルに滞在させとくわけにもいかねえだろうからな。金の無駄だ」
「そうですか……松本さんは酒田の出身か」
山影は頷きながら、
「出羽三山にも詳しいとなれば、千崎さんと面識があった可能性だって……」
蛍に確認するように口にした。
「可能性だけなら、どんなことだって言えるさ。その考えを拡大したら、この周辺の人間すべてを疑わなくちゃならない」
長山は山影に釘を刺した。
「しかしですよ──」
遮《さえぎ》るように山影が言った。
「手帳に記録されていた文面の感じでは、二人が知り合いだったとしか思えませんがね。謝礼とあるからには、少なくとも何度か話し合った仲という想像が……」
「本当にやつの筆跡に間違いねえんだろうな」
長山が確かめると山影は曖昧《あいまい》に頷いた。
「なんだい、はっきりしてないわけか」
「筆跡鑑定は無理というもんです」
やがて山影は続けた。
「松本さんは電子手帳に入力してますんで」
それを聞いて長山はあんぐりと口を開けた。
「だが、松本さんの手帳に間違いありません。番内さんや、他のスタッフの人たちからも証言をいただいております。文面が短かったのも表示スペースの問題かと思われます」
「そんなにあっさりと決め付けていいもんかね。筆跡が本人のものと断定できなきゃ、果たして松本が書いたメモかは……」
長山は小首を傾げた。
「もちろん、それは慎重に扱うつもりでおりますよ。けれど、文面に名を挙げられていた千崎さんのアリバイも現在のところ曖昧な状態ですからね。半分半分と見て捜査を続ける以外に方法はないでしょう」
「半分半分のわりにゃ厳しい対応だったよ」
長山は苦笑した。
「ライターの件や盗まれた屶のことは直ぐ千崎さんの耳に入ります。それならばいっそのこと、こちらの手の内をさらしておいた方がフェアかなと思っただけです。千崎さんにしてみても陰でこそこそ嗅《か》ぎまわられていると思う方がずっと厭《いや》な気分のはずだ」
「死亡推定時間は?」
長山は質した。
「正式な解剖結果が出ないうちはなんとも言えませんが、だいたい朝の五時から七時頃の間ではないかと医者が教えてくれました」
「ってと……オレたちがホテルで朝メシを食っている頃にゃ殺されていたわけか。確かに彼は席に居なかった」
「五時だと私が目を覚ましたあたりだわ」
「名掛さんがその時間に?」
山影は亜里沙に視線を動かした。
「なにか気がつかれませんでしたか」
「さあ、別に、でも……」
「でも?」
「言われてみると、なにかの音で目が覚めたような……たぶんドアの開く音です」
「オレの部屋だろ。眠気覚ましに罐コーヒーを買おうとロビーまで降りて行ったんだ」
「………」
「そうそう……変なことがあったぜ」
長山は思い出して山影に伝えた。
「こいつはリサも承知だが、風呂の脱衣場に浴衣《ゆかた》やタオルの忘れ物があった」
「浴衣の忘れ物? なんですそりゃ」
「しかも朝の五時半頃の話さ。妙な忘れ物だと思っていたけど、あれは松本の浴衣だったかも知れんな。死体はちゃんと服を着ていた。きっと松本は脱衣場で服に着替えて、風呂の窓から外に抜け出たんじゃねえかい。五時前だと玄関には鍵が掛かっているし、人目につく恐れもある。こっそり人と会うつもりなら、風呂場から出入りするのが一番安全だ。あそこの窓の外は駐車場だから車に乗るのも簡単にできる」
長山の推理に亜里沙も大きく頷いた。
「そう考えりゃ、手帳のメモも本人の書いたものと判断してよさそうだ。あんまり長時間外に出てるとヤバイんで、ホテルから程近い行人塚を待ち合わせの場所にしたのさ」
「辻褄《つじつま》は合ってきますな。松本さんが、番内さんと対立している千崎さんとおおっぴらに会うわけにはいかない。こっそりとコトを運ぶ気なら、あの時間でないと」
「オケイの伯父さんが犯行時刻に車で、この周辺を走っていたのも確かなんだろ?」
「ええ。六時少し過ぎに参籠所に勤務する女子従業員が国道で千崎さんの車と擦れ違ったんですよ。この参籠所に通じる登山道ではありませんので、即座に決め付けるのは危険だとは思いますが……時間が符合し過ぎていますからね。とても偶然とは……」
「オケイには気の毒だが、この情況を覆《くつがえ》すにゃ、相当な証言でもないと面倒だぜ。今のとこ、話のどこにも矛盾はなさそうだ」
長山は蛍と向き合って溜め息を吐いた。
「謝礼というのを山影さんはどのように解釈していらっしゃるんですの?」
蛍は山影に訊ねた。
「ま、言葉通りです。殺された松本さんが千崎さんのためになんらかの手助けをした。それがミイラ盗難の件と関係あるのは当然でしょうね。その礼金を貰う約束で松本さんはここにやってきたとしか……」
「伯父がミイラを盗んでなんの得が?」
「さあ……それについてはなんとも」
山影は正直に応じた。
「でしたら……例の犯罪予告のような写真を警察に送り届けたのも伯父の仕業だと?」
「いや、そこまではまだ」
「確かに我《わ》が儘《まま》な伯父ですが、人を殺すなんてとても……万事をお金で解決する人です。もし山影さんの想像通りなら、それなりの謝礼を払ってケリをつけたと思いますけど」
蛍もそれだけは力説した。
「話にならねえ金をフッ掛けられた場合でもかい? たとえば一億とか」
長山はじっと蛍の目を見据えた。蛍は返事に詰まった。
「それと……山影センセーは正直者なんで、手帳の文面の意味するものをまったく疑っちゃいないようだが、謝礼と書かれてあったって、そいつをまともに信じるのはどうかな」
「他にどういう解釈ができます?」
山影は身を乗り出した。
「恐喝の場合だって、謝礼と記入する可能性があるってことさ。人間てのは無意識に自分を庇《かば》うもんだぜ、本当は恐喝でも、まさか手帳にミイラ恐喝の件で六時とは書かねえよ。どっかに抵抗があるんだな。万が一他人に見られても厄介だ。金を貰うのは一緒だから、謝礼と書き換えたってことも充分に有り得るとオレは思う。その情況ならなにが起きても不思議はなかろうってもんだろ」
「なるほど、その線もあるか」
山影は腕を組んだ。
「電子手帳が普及したり、ワープロの脅迫状が増えたりで警察も苦労だな。昔は筆跡鑑定が捜査の花形だった部分もあっただろうに、今じゃたいして役に立たないものになっちまった。声だって器械で簡単に変えることができる。指紋を消すのもテレビや小説のお陰で犯人には常識となっている。変な話だが、ミステリーの世界じゃ、アリバイの堅固なやつほどクロに近いと読者が真っ先に想像する。実際の警察はどうなんだい? 前々からあんたに訊いてみたいと思っていた」
言われて山陰は苦笑した。
「現実は小説よりも単純なケースが多いですからねぇ。それに堅固なアリバイってやつもなかなかないもんなんですよ。その気になればいくらでも犯行が可能なアリバイがほとんどです。会議中だったと言っても、トイレに立つ人間が普通でしょう。結局は動機のあるなしを捜査の基本にするので、アリバイは小説ほど重要な問題には……」
「つまりは、最終確認程度ってことかい」
「ええ。だから裁判なんかで問題が起きる。弁護人はまず被告のアリバイを主張してきますからね。幸い、私の扱った事件で冤罪《えんざい》のケースはただの一度も起きていませんが……十年も前の犯罪のアリバイの有無を問題とされたら、こちらも正直言ってどう対処したらいいか。現在担当している事件でしたら、いくらでも対応できるんですが、十年前だと記憶も曖昧になっていて調書に頼る他はない」
山影は苦渋の色を浮かべた。
「我々も人間ですので、捜査に間違いが絶対にないとは言い切れません。だからこそきちんと裏付けを取るまでは滅多に動かない。私はその信念で警察官をやっています」
「だろうな。白湯温泉の事件のときだって、担当があんたじゃなきゃ、オレが誤認逮捕されていたに違いねえさ。本人のオレでさえ、ヤバイと思う展開が続いたからな」
長山の言葉に亜里沙は笑った。
「今だから笑い話だけど、リサやオケイはオレと二人っきりになるのを相当に怖がっていたぜ。あんときゃ、さすがに参った。どんなにオレが説明しても信じては貰えない」
「情況が情況でしたからね。ましてや密室に近い環境でした。冷静な判断力を見失うのも当たり前と言うものでしょう」
山影は話にケリをつけるように食堂のイスから立ち上がった。
「私は鑑識の連中の仕事が済むまで現場に残りますが、皆さんはどうなさいますか」
「この分だと、ミイラの発掘現場の調査は中止ってことに?」
「いや。せっかく鶴岡署にクレーン車の応援を頼んでおりますので……多少時間は遅くなっても今日のうちに行なうつもりです。今頃はクレーン車がホテルに到着しているはずだ」
山影は時計を見て言った。
「だったらホテルに戻って待っている。行くときは声を掛けて貰いたい。オレの部屋か二人の部屋のどちらかに居る」
「分かりました。それでは後で」
山影は食堂から出て行った。
「なんだか長い一日になりそうだぜ。徹夜のせいか余計にそいつを感じるよ」
長山は山影の進む方向に目をやった。まだ霧は晴れない。黒い山の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。そろそろ昼メシの時間だな、と長山は考えて、自分でも驚いた。深い霧のために事件の生々しさが少し薄れている。
そのままホテルに戻る予定でいた長山と亜里沙は、食堂の目の前に停車している『湯殿山本宮行き』のバスを見て気が変わった。バスを利用すれば本宮まで五分と掛からない。蛍も誘ったが、彼女はスタッフたちと一度お参りしているからと断わった。
「だったら、オレたちだけで見てくる。こう事件の連続じゃ、今を逃したら見れないかも知れんのでな。オケイは部屋で休んでいりゃいい。見物だけなら一時間もありゃ」
「じゃあ、豊君に私から頼んでおく。一時間くらいしたら、この駐車場に二人を迎えに来て貰うようにするから」
蛍は傷心の様子を隠さずに言った。血の繋がりはないとはいえ、伯父が警察に疑われているとあっては心が騒ぐのも当然のことだ。
長山は無言で頷くと、エンジンを吹かしはじめたバスに乗り込んだ。亜里沙も続く。
二人が乗って間もなくバスは動きだした。
「オケイも運がない人ね」
手を振っている蛍の姿が霧に消えて見えなくなると亜里沙はしみじみと口にした。
「どこかで今度の事件を予測していたんじゃないのかしら。それでずうっと不安な顔を」
「オレたちにすがってきたのもそれか?」
「昨日も伯父さんと番内さんの対立が心配だと言い続けだったわよ」
「オレがタコでもあの伯父貴をマークする。こいつばかりはどうしようもねえなぁ。推理なんかより先に証拠があり過ぎる」
「謝礼じゃなく恐喝としたら、オケイの伯父さんがミイラを盗んだ確証を松本さんが握っていたと言うわけ?」
「あんまり大きな声で言わん方がいい」
長山は前の運転手を気にして囁《ささや》いた。亜里沙も肩をすくめた。見知らぬ土地なのでうっかりしていたが、ここには千崎の知り合いがたくさん居るはずだ。亜里沙は話を中断して窓の外を眺めた。
バスは急な勾配に差し掛かっている。参道の前方に赤い橋が見えた。霧に包まれて幻想的な風景だ。ただの観光で来ているのなら、どんなに胸が躍ったことだろう。
「湯殿山神社ってのは社殿がねえんだぞ」
長山が言った。
「湯殿山そのものが神社ということでしょ」
「徹夜仕事の合間に資料を捲《めく》って読んだだけなんで、詳しいこたぁ言えねえが、相当に複雑な歴史を持っていたよ。今でこそ出羽三山と纏《まと》めて称しているけど、明治辺りまでは羽黒山と湯殿山との間にゃ、人を殺すほどの対立があったらしい」
ことは羽黒山と湯殿山の開山縁起に関係している。羽黒山では出羽三山の開祖を崇峻《すしゆん》天皇の第一皇子の蜂子皇子としている。蜂子皇子は聖徳太子の従弟に当たる人物だ。本来は父の跡を継いで天皇となるべき人であったのに、蘇我氏によって崇峻天皇が殺害されたために朝廷から追われた。羽黒山縁起によると従兄の聖徳太子の勧めにより仏門に入り、なおかつ都を離れて東北に逃れたという。蜂子皇子は諸国を流浪の果てに出羽の国に辿り着いた。そのとき、皇子の目の前に三本足の大烏が出現し、羽黒山への道案内をした。ここを安住の地と定めた皇子は烏の羽の色にちなんで山の名を羽黒山と命名し、次いで、月山、湯殿山にも修験の道場を開いたとある。
だが、湯殿山では開祖を空海に求めている。
どういう経緯かは不明だが、空海が日本海を船で酒田目指して旅をしていたところ、海中に大日如来を示す梵字《ぼんじ》が光り輝いた。空海はただちに船を停め、そのまま陸に上がり、梵字の教えた方向を辿った。やがて、到着したのが湯殿山の大網である。空海はここで四十九日の護摩行を続け、仙人沢のある梵字川を遡《さかのぼ》り、ついに八大金剛童子の出現を見た。こうして空海は湯殿山に真言の寺を建設した。
どちらも古い伝説に過ぎず、普通なら他愛もない縁起と片付けられそうな話であるが、江戸時代になり出羽三山の信仰が盛んになるにつれて、この開祖伝説は重要な意味を持ちはじめることとなった。社殿を持たず、山そのものが神体であった湯殿山は道も険しく、参拝者が簡単に訪れることのできない場所であったが、それだけに霊験《れいげん》あらたかな山として人々の注目を集めるようになったのだ。それまでは羽黒山から月山、湯殿山と順に巡り歩いていた信者が、湯殿山奥の院だけを参拝しても効果は同一であると主張する湯殿山の寺の宣伝に煽《あお》られて、急激に数を減らした。羽黒山側は焦りを覚えた。参拝する信者は今の観光客と同様に莫大な金を山にもたらす。それが羽黒山を通り越して湯殿山の奥の院参りだけで済まされてしまえば、経営が成り立たなくなる。羽黒山側は湯殿山の四つの寺を、もともとは開山縁起にもあるように羽黒山の末寺であると幕府に訴えた。末寺であるからには、湯殿山も羽黒山の支配下に置かれるのが当然であり、収入のすべてもまた羽黒山の管轄に任せるべきである、と。それに対して湯殿山は空海の開山によるもので、羽黒山とはいっさい無縁であると四つの寺は真っ向から否定した。その違いの根拠として湯殿山の四つの寺が前面に押し出したものが土中入定の即身仏であった。当時、空海は土中入定したとの伝説が生まれていた。それに倣《なら》って湯殿山には一世行人がおり、即身仏の実例もある。こう主張されては羽黒山の分が悪い。羽黒山には即身仏の習慣がなかった。羽黒山と湯殿山とはまったく無縁であるとの判断が幕府より下され、一件は落着したかに見えた。だが、天台宗に与《くみ》し、強大な勢力を誇っていた羽黒山としても簡単に引き下がるわけには行かない。判定は下されても、湯殿山奥の院は羽黒山、月山と繋がる聖地の一つなのだ。縁起を否定されることは信仰の原点を危うくされるのと同一である。羽黒山は執拗《しつよう》に訴訟を続け、その対立がやがて殺人にまで発展した。幕府が判定を下したはずなのに、相変わらず山伝いに湯殿山に入ってくる羽黒山の人間に対して、湯殿山側が入山を牽制する立て札を立てた。これに端を発して羽黒山の修験僧たちが湯殿山奥の院の番人小屋を襲い、一人を鉄砲で撃ち殺した。こうした争いが、なんと百五十年以上にもわたって繰り広げられたのである。
即身仏はこの背景によって無理に製造されたと見る研究者も居る。
全国に強大な勢力を誇る天台宗の傘下にある羽黒山の圧力に対抗するには、いついかなる難癖をつけられても、古来より湯殿山が真言の宗派に属していたというはっきりとした証拠を持ち続けていなければならない。その証拠の一番が即身仏だった。即身仏を定期的に生み出している限り、世間は湯殿山を紛れもない真言の寺と認めてくれるのだ。空海に帰依《きえ》した真言の寺は全国に無数にある。が、そのほとんどに即身仏の習慣はない。湯殿山に集中している理由は、つまり羽黒山との対立が原因であったと見るのが正解であるのかも知れない。
しかし、この対立も明治になって新政府が敢行した神仏分離令によってあっさりと崩れた。神の山とされる湯殿山の奥の院は明らかに神道に属するものであり、四つの寺が神道に切り替えない限り、奥の院の支配権を剥奪するという通達が発せられたのである。それは羽黒山も同様だった。羽黒山はいち早く神道に改宗し徹底した廃仏|毀釈《きしやく》を断行したが、湯殿山は揺れ動いた。四つの寺は湯殿山の裏口に二つ、表口に二つあった。即身仏を持っているのは表口の大日坊と注連寺。これまでの経緯から言っても、この二つの寺はおいそれと神道に切り替えるわけには行かない。即身仏は空海に殉死した人間と見做《みな》しても決して過言ではない。そういう歴史を持つ寺が、いかに奥の院の支配権を失う危機だとしても、改宗しては人の道にも外れる。結局、表口の二つは真言の寺の立場を貫き、裏口の二つの寺が神道に切り替えることになった。裏口はそのまま羽黒山に繋がっている。奥の院の支配権は羽黒山神社に委ねられることとなり、裏口の二つの寺は羽黒山に併合された。永年の宿願を羽黒山は争わずして手に入れる結果となったのだ。
「じゃあ、今の出羽三山神社と即身仏とは直接の関係がないわけね」
「厳密に言うとそうなるな」
長山は複雑な顔で頷いた。
「対立が生み出した即身仏かぁ」
亜里沙は溜め息を吐いた。
「それが本当ならかわいそう」
「だからこそ真如海上人の顔に苦悶の表情が見られないのが恐ろしい。苦しんでいる人のために死ぬと言うなら、自分でも納得できる部分があるかも知れねえが、対立の犠牲とちょっとでも考えたらお終いだ。怒りで修行もなにも忘れちまうぜ。オレならそうさ」
「チョーサクを見直したわ。ずいぶん資料を読み込んでいるじゃないの」
「ミイラはオレの仕事の範疇に含まれると言っただろ。資料を読むのもそんなに苦じゃない。それだけのことでね」
「芭蕉が湯殿山に来て詠《よ》んだ句も知ってる?」
「目にしたが……忘れた」
「語られぬ湯殿にぬらす袂《たもと》かな」
亜里沙はゆっくりと口にした。
「そうそう、語られぬ湯殿にぬらす、だ」
「湯殿山のご神体については、見ても絶対に口外しちゃいけないそうだけど……今でもそうなのかしら」
「まさか。女陰に似た岩だと資料にはちゃんと説明されてあったぞ。もっとも、写真は掲載されていなかったようだが……ひょっとすると撮影は禁止になっているかも」
「ご神体って、公開禁止のところが多いじゃない。なんだかわくわくするわね」
「江戸時代までは女人禁制の山だったんだ。いい時代だと感謝しないとな」
長山の言葉に亜里沙は首を振った。
バスは本宮入り口に到着した。上に続く石段があるだけで、ご神体の岩は見えない。
「ここからまだ遠いんですか?」
亜里沙は降り際に運転手に訊ねた。
「あの石段をいったん上がって、少し下ると本宮です。歩いて五、六分ですから」
亜里沙は礼を言って降りた。
滝の音が聞こえた。バスの駐車場の待合室の裏側から激しい湯気が上がっている。滝壺でもあるのだろう。
長山はもう石段を歩いていた。亜里沙は足速に長山の後を追った。一緒のバスに乗っていた年配女性の団体客が石段脇に立つ巨大な石碑の前で早速記念撮影をしている。
「歩いて五、六分ですって」
追いついた亜里沙は言った。
「田舎の五、六分はアテにゃならねえからな。前に吉野でえらい目に遭ったじゃねえか。二十分とか聞かされて一時間近くも山道を歩かされたぞ。あれ以来信じないことにしている」
「本当に直ぐですよ」
擦れ違った老人が笑って長山に教えた。
広い石段はじきに狭い山道に変わり、そして急な下り坂となった。駐車場のある方向に戻る形で斜面に石の階段が拵えられている。
「吉野とおんなじだ。だいぶ高さがある」
霧が視野を塞《ふさ》いでいるので底はぼんやりと霞んでいる。
狭い階段で二人は何人もの観光客と擦れ違った。そのつど皆が丁寧に挨拶をしてくれる。おなじ信者同士という感覚だ。
「リサはよく平気で挨拶ができるな。オレぁなんだか照れ臭くて……こんにちは、なんざここ何年と使ったことのねえ言葉だ」
「どうして? 向こうから言ってくれるんだもの、素直に返せばいいじゃない」
「いい人間を装っているみてえで嫌いなんだよ。相手のことじゃねえぞ。こっちがだ。こんにちは、って笑顔が似合う柄じゃねえさ」
「おかしな人ねぇ」
「社会生活に適応できなかったから、物書きの道を選んだ。挨拶やヨイショに抵抗のない性格なら、そのままサラリーマンを続けてる。締切がない分だけ、どんなに楽な仕事か分かりゃあしねえ」
「確かにチョーサクなら部下に持ちたくないタイプよね。なまけもののくせして、理屈だけは振りかざす人なんだから」
「ご挨拶だな。故郷の広島に戻って貿易会社に勤めていた時分にゃ、これでも有能な社員だったんだぜ。器の小さい上司に代わるまでは結構張り切って仕事をしていたんだ。その前の上司は契約さえ纏めれば、たとえ遅刻しても休んでも文句はいっさい言わなかったのに、個人的な服装の趣味から言葉遣いまであれこれと注意を受けるようになってな。こいつの下に居たらダメになると悟って会社に辞表を叩き付けて東京に舞い戻った。オレの小説の中で殺されるタイプのやつには、大なり小なり、その上司の風貌や性格が反映されている。自分の価値観を人に押し付ける厭な男だったよ。それでも、風の噂じゃ専務に昇格したとか。あいつが部下の総スカンを食らって追い出されたとでも言うなら、オレの判断も間違いじゃなかったと自慢できるんだが、世の中は甘くねえなぁ」
「作家になってから会ったことは?」
「ねえよ。見たくもない顔だ」
二人は石段をだいぶ下った。谷の底も見えている。起伏の大きな渓流がある。梵字川の源流に違いない。川の流れに沿って視線を動かすと、いくつかの黒い屋根が霧の海から頭を覗かせていた。その少し先にもうもうと湯気を噴き出している岩場がある。
「あそこにきっとご神体の岩があるのね」
「上手くできてるもんだ。階段のどこからも死角になっていやがる。たとえ晴れていたって湯気ばかりで見えやしねえぜ」
長山の足は速まった。
谷の底に着いて小さな橋を渡ると二つの小屋があった。一つは屋根の架かった待合室のような構造だが、もう一つには窓口があって二人の神官が腰を下ろしている。御祓《おはらい》所という大きな木札が掲げられていた。その脇に本宮に通じる囲いの道がある。二人は先客たちに倣って御祓所に向かった。
「ここで御祓を済ませたら、この護符を足下の小川に流して下さい。それから向かいの小屋で裸足《はだし》になって本宮にお参りを。写真の撮影はいっさい禁止となっております」
亜里沙は頷くと二人分の御祓料を支払った。わずか一、二分で御祓は終了した。神官は亜里沙に二枚の護符を手渡した。
「裸足にならなきゃいかんのか」
護符を流すと長山は面倒臭そうな目で小屋を覗いた。ベンチがいくつも並んでいる。その下に無数の靴があった。靴の中には靴下が丸めて押し込まれている。
「パンティストッキングは見当たらねえな。脱衣場もないようだし、そこまでは厳密じゃなさそうだ。リサは靴を脱ぐだけで充分さ」
「厭らしいわね。それを確かめていたの」
「もっとも、濡れるのが厭だったら脱いだ方がいい。囲いの道も噴き出す湯気でびしょびしょだ。今は面倒でも、結局脱がないといかん結果になるんじゃねえか? オケイが来たがらなかった理由はきっとこれだぜ」
「少しくらい濡れても平気。タオルが置いてあるわ。薄いストッキングくらい直ぐに乾く」
亜里沙は靴だけを脱いだ。石畳がひんやりとする。小石が足の裏に痛い。こんな感じは子供の頃以来のような気がする。
「夏ならともかく、この時期に裸足はきついな。リューマチに罹《かか》りそうだぜ」
大袈裟《おおげさ》な言い方を長山はした。
囲いの目隠しが取れると二人の眼前にはいきなり湯殿山のご神体である霊岩が現われた。霊岩の前では神官が祈祷をしている。圧倒される雰囲気だった。二人は神域に裸足の足を踏み入れた。地面には霊岩の頂上から湧出した熱い湯が溢《あふ》れ、冷え切った足を温めてくれた。なんとも言われぬ心地好さだ。
「想像してたより凄いな」
長山は霊岩を見上げて亜里沙に耳打ちした。温泉の成分による作用なのか、岩肌がらくだ色にぬめぬめと輝いている。形は奇麗な三角だ。この形だけでも神の宿る岩と信仰されて不思議はない。
「女陰岩と聞いて楽しみにしていたんだが、むしろオレには乳房に見えるな。色といい形といい、こいつぁ湯殿山のおっぱいだぜ」
「雪の季節ならもっと凄いでしょうね。ここだけは雪も積もらないで……」
「湯殿山に冬籠《ふゆごも》りして修行を続けていた僧たちにとっちゃ、ここは極楽にも等しい場所だったに違いねえ。女みたいにあったかい存在だったんじゃねえか」
長山に亜里沙も同意した。
長山は霊岩に近寄って岩肌に手を触れた。
熱い湯が手の甲を覆う。
湯がクッションになってか、岩肌は柔らかく感じられた。まさに人の肌の感触だった。
亜里沙も長山のとなりで岩に触れた。
「気持いい。来た甲斐があったわ」
「湯殿山って……つまりは風呂場の湯殿か」
長山はようやくそれに気がついた。
「まさしく自然の湯殿だぜ、ここは」
長山は幸福そうに岩肌を撫《な》で続けた。
「語られぬ湯殿にぬらす袂かな……やっぱり芭蕉って上手いわねぇ」
「柔らかき乳房に触れる湯殿かな、ってのはどうだい。今思いついたんだが、なかなかのもんだろ。我ながら名句だぜ。俳句の才能もあるのかね。忘れないようにリサも覚えておいてくれ。今度のエッセイに書く」
「柔らかき乳房に触れる湯殿かな……か。感じは出てるけど芭蕉の凄味には及ばないわ」
「そりゃ俳聖と比較されたら勝負にゃならねえ。お、もう一つできた。人知れず湯殿に流す涙かな、ってのはどうだ」
「なにそれ」
「一世行人たちの心を表現したんだよ。世間では自分たちを強靭《きようじん》な精神の持ち主だと思っているらしいが、こうして温かなご神体を真冬に拝んでいるとなぜか涙が溢れる、って意味のつもりだがね。本気で俳句と取り組もうかなぁ。次々に句が浮かんでくる。小説よりはずうっと楽そうだ」
「まあ、短い分だけチョーサクの悪いところが見えにくいという利点はあるわね」
「褒め言葉と|承 (うけたまわ)っておくよ」
長山は満足そうに頷いた。
二人が本宮見物を終えてふたたび参籠《さんろう》所の駐車場に戻ったのはそれから三十分後だった。広い駐車場には大型の観光バスが何台も並んでいた。
「まだタコたちは頑張っているぜ」
行人塚の辺りに野次馬の影が見える。
バスを降りると豊の運転する車がゆっくりと二人に接近してきた。
「待ったかい」
時計を見たら約束の一時間よりもだいぶ過ぎている。二人は車に乗り込んだ。
「さっきホテルに石川さんというカメラマンから電話がありました。新幹線の電話らしくて。午後の四時頃にはホテルに到着すると」
亜里沙は頷いた。まさかこういう情況になるとは思わなかったので、雑誌の取材のつもりで馴染みの石川に声を掛けたのだ。
「あいつも驚きやがるだろう。今度はいきなり松本の死体とご対面だぜ」
「昨日のうちに断わればよかったわ」
「昨日じゃ無理だったさ。殺人が発覚したのはついさっきなんだ。リサの責任じゃねえ。温泉にでもゆっくり漬かって貰って、明日にでも東京に帰せばいい。こうなりゃ取材どころじゃなかろう。もっとも……あいつは事件とは無関係なんだから、大日坊とか注連寺の即身仏を撮影して貰う手もあるな。せっかく呼び寄せておきながら一日で帰しちゃ勿体《もつたい》ない」
「そうね。そうする。湯殿山の景色もいいし」
亜里沙は笑顔で言った。
「これは、まだ警察に話していないんですが」
豊がとなりの長山に視線を動かした。
「松本さんはそのまま逃げる予定でいたんじゃないでしょうか」
「逃げる? どうして」
「松本さんの荷物がきちんと整理されてボストンバッグに。ぼくとおなじ部屋なので」
「………」
「いつもは髭剃《ひげそ》りとか本などを部屋のあちこちに放り投げて置く人でした。どう考えてもホテルを出る準備としか。松本さんは居残り組に入っていましたからね。荷物を整理する必要もないはずです」
「千崎から金を受け取ってドロンを決め込むつもりでいたのかな」
「情況はその通りですけど……なんだか信じられないんですよ。あの人とぼくはたいてい一緒に行動していました。ミイラの盗みの手助けをする時間はとてもなかったと思います」
「山影さんにも話したことなんで、いずれ皆の耳にも伝わると思うが、手助けをしたとは限らない。反対に恐喝していた場合もある」
「恐喝! そういう人じゃないです」
「皆そう言うんだ。あの人に限ってとな。しかし、現実は想像よりも遥かに怖いもんだぜ」
「………」
「荷物を纏《まと》めていたってのは尋常な行動じゃない。そいつを考えただけでも、やつになにか秘密があったのは確かだろうさ。その上、朝の六時に外出したのも間違いねえ。いい人間か、恐喝者か、そこまではなんとも言えないがね。まともな振舞いとはちょっとなぁ」
「警察に話すべきでしょうか?」
「話さなくたってタコは気づくよ。彼の荷物を今夜にでも調べるはずだ。整理されたバッグと、物入れ代わりにしていたバッグの差は直ぐ見抜く。松本が犯人として疑われているならともかく、殺された人間なんだ。今さら、逃亡の意思があったか否かってことがはっきりしても大した問題じゃない」
「松本さんのメモのことは聞いてる?」
亜里沙が運転席に身を乗り出して訊《き》いた。
「ええ、さっき月宮さんから」
「電子手帳なんてまだ珍しいわよね」
「スタッフ全員が持っていますよ」
「………」
「聞いていませんか? この仕事に入る前に番内さんから全員が貰ったんです」
「番内から貰った?」
「スケジュール把握が凄く簡単になります。一人ひとりが別々の仕事を持っている会社ならどうか分かりませんが、映画は全員の共同作業の典型ですからね。番内さんと監督が二人で立てた計画表を全員の手帳にコピーした上で預けられました。その基本スケジュールに個人個人がそれぞれの予定を書き込む。最初は戸惑いましたけど、実に便利です。全員が書き込んだやつを、今度はすべて番内さんと監督の手帳にまたコピーして」
「ふうん。面白いアイデアだな」
「でも、オケイは知らなかったわ」
亜里沙は首を傾げた。
「スタッフだけです。出演者の予定まで我々が知る必要もありませんので。それは番内さんの管轄になっていました」
「結構高いんだろ。スタッフだけと言っても相当の数になる」
「役者のギャラやセットの製作費に比較したら微々たるものでしょう。纏め買いをするとかなり安くなりますしね」
「余っていたら欲しいもんだね」
長山は冗談でもなく口にした。
「じゃあ、どうして松本さんの手帳と直ぐに分かったのかしら。皆とおなじ手帳でしょ」
「個人的なメモが入力されていれば持ち主は簡単に見当がつきます。映画関係以外の予定なら番内さんや監督に報告する義務もありません。ぼくらにしてもそこまで要求されたら、過剰管理だと反発する」
「当然だな」
長山は頷いた。
「デートの日付まで把握されたら厭になる」
「オケイの様子はどう?」
亜里沙は気になっていた点を質した。
「伯母さんに訊きたいことがあるとか言って、さっき仙人村の方に。発掘現場の調査には行かないからよろしくとお二人に伝言を」
「伯母さんて……千崎の奥さんかい」
「ええ。なかなかの美人ですよ。一度ホテルに訪ねてきたことが」
「一人でアリバイを確かめようって魂胆か」
長山は重い息を吐いた。
「下手に動けばますます不利になるってのにな。手帳の内容とか、目撃者の件は口外するなとタコからきつく言われてるんだ。もしオケイがそれをうっかり喋ったら、もっと千崎の立場を悪くする。素人はこれだから困る」
長山の不安は亜里沙にも伝わった。
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第三章 異人はなぜに殺される
ホテルで遅い昼食を終え、長山たちが警察の車に先導される形でミイラの発掘現場に向かったのは三時近かった。すでにうっすらと陽は陰りはじめている。長山と亜里沙は激しくバウンドするワゴン車の中で何度となく肩をぶつけ合った。道は想像以上に悪い。
「この前の雨で酷《ひど》くなったんです。それに資材を積んだ大型のトラックが日に何十回と行き来をしたので。もう少しの我慢ですから」
前の席に番内と並んで腰掛けている豊が長山を振り向いて言った。運転手は別の男だ。
「凄い場所にセットを組む気になったもんだな。経費が何倍にもかさむ」
笑いながら長山は番内に言った。
「まず道路から作るとなりゃ……大事業だ」
「今はどんな田舎にも電話線とかテレビのアンテナが立っていますからね。本格的な時代劇を撮影するつもりなら、このぐらいのことをしないと……もっとも、自分の持ち山なので決心がついたというだけでしてね。他人の土地に道路を作る気にはなれない」
「だろうな。この道は撮影が終わった後も、なにかに利用する気なんだろ?」
「いや、今は特になにも」
「砦《とりで》のセットが残るじゃねえか。いっそのこと山賊ペンションとでも名付けて宿泊設備にしちまえばいい。映画の舞台に使ったと宣伝すりゃ結構バカなギャルたちがやってくる」
長山のアイデアに亜里沙も頷《うなず》いた。
「それをするには工事を根本からやり直さないと。立派に見えてもセットですから。水も出ないし、トイレや風呂の設備もない。第一、部屋らしくなっているのは二つか三つ程度で、他は屋根が架かっているのがせいぜいです」
「そんなもんか」
「いくら映画のメイン舞台と言っても、セットに何億もかけられんでしょう。黒沢映画とウチじゃ比較にもならない」
「しかし、取り壊すのは勿体《もつたい》ねえな」
「流山さんが出費して下さると言うのならペンションに建て直しても構いませんがね」
「昨夜も言ったろ。物書きに金を貸す銀行はほとんどないって」
「よろしかったら私がお貸ししても」
「あんたが?」
「共同経営も面白いかも知れませんね」
「まあ……やめとこう。これで結構世の中のギャルも賢いからな。映画の舞台とか山賊ペンションと名付けたぐらいでわんさか集まってくるとも思えねえ。温泉でもないし」
番内は呆れた顔で振り向いた。
「チョーサクの無責任さも極まれり、って感じね。平気で正反対のことを言うんだから」
「自分のこととなりゃ慎重にもなるぜ」
亜里沙に長山は平然と言った。
「人間てのは自分に火の粉が降りかかってこねえ限り、いつだって高みの見物さ。どんなに悩んでいる相手から相談されたって、結局は他人事だ。死んだ松本君にゃ悪いが、こうしてペンションの話をしていられるのも、そういうことなんだよ。葬式の席で笑顔で挨拶してる弔問客同士をよく見かけるが、あれだって家族にしてみりゃ、いい気分じゃねえ」
「自分でペンションのこと言い出して」
亜里沙は苦笑した。
「ホームズとかポアロなんて名探偵はさぞかし冷たい性格なんだろうなぁ。どんな事件に遭遇しても冷静と言えば聞こえがいいけど、結局は他人事なんで推理ができるのと違うかい? 一緒に泣いたり同情してたら眼鏡が曇るのが当たり前ってもんだぜ」
「チョーサクの場合は眼鏡がピカピカでも犯人を当てられないじゃない」
「あんな単純な犯罪はタコで充分。名探偵を必要とする情況じゃなかろう。それよりはミイラがなぜ盗まれたかって問題の方にずっと興味があるね。加えてミイラの正体だ」
「単純と言うと……やはり千崎の仕業だと」
番内が長山に確認した。
「二人は正反対の立場に居たんだ。その二人に約束があったってことが最大のポイントだ。オケイにゃかわいそうだが、タコだってとっくにそう睨《にら》んでいるさ」
「愛人のアリバイ証言があってもですか?」
「その言い分をまだ聞いていないんで、なんとも判断のしようがねえけど……警察はなかなか信用しねえと思うぜ。家族と同様の扱いをするはずだ。好きな男を守るためなら女は平気で嘘をつく。第三者の証言が出てこないうちは千崎の嫌疑も晴れないだろうな」
「第三者の証言はむずかしいでしょう」
「それが真実なら、もともとこっそり行動していたに違いねえ。隠れて女と付き合うのも怖いよ。万が一のときにこういう結果になる」
「千崎が犯人なら、ミイラを盗んだやつも千崎ってことでしょうね」
「ああ。自動的にそうなる」
「だったら、やつの周囲を捜索すればミイラが発見されるかも」
「なるほど、それは理屈だ。タコにそいつを教えておこう。ドライブインの倉庫かどこかにミイラを隠している可能性もある」
「人の出入りの激しいところに?」
「他に心当たりがあるとでも?」
「いや、そう思っただけです」
番内は呟《つぶや》いた。長山も小さく頷いた。
車はやがて山の中腹の広場に辿《たど》り着いた。真正面に巨大な要塞が聳《そび》えていた。基礎工事を終えたばかりで、まだ骨組みに板を張った程度でしかない砦のセットだが、ちょっと見には堅牢な建物に思える。
「こんなのを建てる気になりゃ、確かに電子手帳も目じゃねえな」
車から降りながら長山は豊に言った。
「映画ってのも無駄な金をかけるもんだなぁ。板張りのセットと言ったって、これじゃあ三、四千万がとこは軽く吹っ飛ぶ」
長山が立ちすくんで見上げていると、そこに山影がやってきた。
「石棺はあの土手の向こうの斜面に」
山影は指差した。土手に立てた細い棒にロープが張られている。
「石棺にチェーンを巻いて引き揚げるには少し時間がかかります。皆さんはそれまで砦の中で休憩なさっていて下さい。板の間がありますよ。風も防げます」
「石棺とやらをちょいと覗いてこよう」
長山は土手に向かった。結局全員が長山に続いた。ワゴン車に後続してきた蓑田や助手たちも車から降りた。
「足下に気をつけて……乾いた枯葉に見えても、その下は泥水になっています」
現場には二度目の山影が長山たちを案内する形で土手に上がった。
「ほう……想像していたよりも大きい」
斜面に無造作に放置されている石の阿弥陀《あみだ》像を認めて蓑田が声を上げた。その像の直《す》ぐとなりには石の棺が暗い穴をぽっかりと覗かせていた。降り続いた雨のせいか、穴の底が光っている。雨水が溜まっているらしい。
「いつ埋めたかってのは、石棺のまわりの土の様子で調べられるんじゃねえのかい? 最近埋めたもんなら土だって柔らかいはずだ」
長山は山影に言った。
「肝腎《かんじん》のまわりの土が発掘の際に取り除かれてしまいましたからね。それに雨が染み込んで……もともと粘土質なので特定はどうも」
山影は悔しそうな顔で斜面を見下ろした。
「これは、本格的な生身入定のようだ」
蓑田が助手たちに呟いた。
「生身入定?」
山影は耳にして質《ただ》した。
「ミイラとなる結果は同一でも、目的が即身仏とはまったく異なるものです。このミイラに関する資料が発見されていない以上、もちろん断定はできませんが、湯殿山系列の即身仏とは無関係という可能性が強いですね」
「ミイラにも系列があるわけですか」
山影は唖然とした。
「なんと言っても場所が湯殿山の麓《ふもと》の仙人村なので、石棺に納められたミイラが発見されたと電話で聞いたときだって、湯殿山にはそういう特殊なやり方もあったのかと思った程度でしたけどね……いくらなんでも、これほど立派な阿弥陀の石像は拵《こしら》えないでしょう。即身仏は土中入定した後、三年|経《た》ってから掘り出すのが決まりとなっています。神格化されるのはそれからなんですよ。言うなれば土の中に居るときはまだ仏になれるかどうか分からない存在に過ぎない。棺桶の風通しをよくしたり、腐らないような工夫は施すにしても、ここまでの扱いはしないと思います」
「すると、このミイラは?」
「ですから生身入定の方じゃないかと」
「………」
「五十六億七千万年後の世界に出現すると言われる弥勒《みろく》菩薩のことは知っていますね」
蓑田は山影の戸惑いを無視して続けた。
「釈迦の生まれ変わりである弥勒菩薩の下生《げしよう》によってすべての暗黒世界は救われる。本当の浄土がこの世に築かれるのです」
山影も曖昧《あいまい》に頷いた。
「それを信じる人間ならば、その浄土をなんとかこの目で見たいと思うのも当然ですね。しかし、我々人間の命は限られている。どんなに頑張ったって百年ちょっとがせいぜいだ。五十六億七千万年なんて歳月は無限にも等しい。そこで生身入定をして、体を腐らせることなく保ち、五十六億七千万年を待つという考え方が生まれました。肉体さえ滅びなければ、やがて弥勒菩薩の力によって甦《よみがえ》り、浄土を見ることができるという考えです。ついでに言いますと、入定という言葉も単純に死を意味するものではないんですよ。座禅を組んで修行することです。生身入定とは、座禅で無我の境地に入り、そのまま肉体だけをこの世に残し、心を仏に預けると言いますかねぇ……普通の死とはまったく違う」
蓑田は言葉を切って山影の反応を確かめた。
「お恥ずかしいが……とんとその方面については不案内で……そこまで伺っても、まだピンときませんよ」
「もっと簡単に説明するなら、弥勒信仰から生まれたミイラはただの仏弟子(阿羅漢)に過ぎず、湯殿山の即身仏はすなわち仏ということです。これは小乗仏教と大乗仏教の根本的な相違なんですよ。釈迦一人を仏陀と認める小乗仏教では、どんなに修行を積んだ聖者とて仏弟子の一人でしかない。けれど釈迦もまた修行によって仏陀となった人間だと解釈する大乗仏教、つまり空海の広めた密教では、だれでもが修行次第で悟りを開き釈迦とおなじ仏陀になれる可能性を持っている。自分自身が仏陀であれば弥勒菩薩の出現を待つ必要もないし、仏に頼ることもないわけでしょう。即身仏になるのを目的とする土中入定に阿弥陀の加護を受ける必要はどこにも……」
「なるほど、そういう意味でしたか」
山影はようやく得心がいった。
「湯殿山の即身仏はすべて空海の思想を受け継いでいますから、弥勒信仰とはまったく別物です」
「すると弥勒信仰によるミイラも日本にはあるんですね?」
「ええ。新潟県の寺泊町の西生寺というところに祀《まつ》られている弘智法印のミイラがそれです。また、弥勒信仰とは関係ないようですが、薬師如来や阿弥陀如来の石棺に納められてミイラとなっている僧侶も福島と茨城に」
「東北に多いのは偶然でしょうか?」
山影は質した。
「やっぱり湯殿山の即身仏に影響を受けているんだと思いますよ」
蓑田は山影に頷いた。
「湯殿山の即身仏とは無関係か……」
二人の話を聞いていた長山は口にした。
「これでますます正体が分からなくなってきやがった。いくらどっかから運んできたミイラだと言っても、まさか福島や新潟からトラックに積んできたわけじゃなかろう。絶対にこの近辺に埋められていたミイラだぜ。なのに湯殿山と関わりがねえとはな」
「本当に皮膚が真っ黒だったですか?」
蓑田は後ろに立っている番内に訊《たず》ねた。
「ですね。酒田の海向寺で見た即身仏みたいな感じに全体が黒ずんでいた」
番内はミイラを発見した豊にも同意を求めた。豊もそうだと頷いた。
「漆《うるし》を塗ってもいないのに、それほど黒ずんでいたとなれば、燻製《くんせい》の方法で拵えたミイラとしか思えないが……」
蓑田は首を捻《ひね》った。
「それがなにか問題でも?」
山影は聞き咎《とが》めた。
「弥勒信仰のミイラであるなら、石棺に納めてそのままのはずです。目的はあくまでも本人が五十六億七千万年後の世界に甦ることですから、人に見せるために特別な手を加えることはほとんどありません。燻製だけを根拠とするなら即身仏の可能性が高くなる。と言って即身仏なら燻製にした後、ふたたび土中に戻すとは絶対に考えられない」
全員が顔を見合わせた。
「なにか秘密が隠されたミイラなのかも知れませんね。盗まれた理由《わけ》もそのへんにあるんじゃありませんか。どうも宗教的な問題ではなさそうだなぁ」
「宗教的な問題じゃないとしたら?」
「それはむしろ流山さんの領域でしょう」
蓑田は笑って山影に言った。
「この謎には想像力の逞《たくま》しい人じゃないと解答を出すことができない。私には矛盾だらけのミイラとしか言い様がないです」
「石棺の底に、その謎を解き明かす手掛かりでも彫られていればいいんだが」
山影は石棺を見詰めた。
クレーン車の作業員がようやく現場に到着してチェーンを斜面に運んできた。
「新しく石棺についた鎖の傷ってのは、ちゃんと写真に撮影してあるんだろうな?」
乱暴に石棺を扱っている作業員を眺めて長山は不安を覚えた。
「昨日のうちに済ませました。ご心配なく」
山影は長山に請け合った。
「それじゃ、お言葉に甘えて石棺が広場に引き揚げられるまで砦の中で休憩させて貰おうかな。大勢がこの斜面に居たら作業の邪魔にもなるってもんだ」
長山は言うと亜里沙を促した。斜面の下から冷たい風が這《は》い上がってくる。今の様子なら三、四十分は手間取りそうだった。
「ふうん……これがセットの実態か」
長山は砦の奥の部屋に案内されると失望した感じで見回した。山賊の砦という設定なので山小屋風に丸太を組んで拵《こしら》えた殺風景な部屋だ。しかも片側は土間だ。撮影に都合のいいように作ってあるのだろうが、これでは風雨を凌《しの》げる程度の空間に過ぎない。靴を脱いで上がった板間は隙間《すきま》から入り込んだ砂塵でザラザラしていた。明りもないので妙に寒々とする。尻を床に下ろすとひんやりとした。
「まるで荒れ果てた道場ってとこだな」
長山は豊を見上げて笑った。
「まだ道具も入っていませんし、内装もこれから手を入れる予定です」
「いつの時代の話なんだ?」
「江戸時代の初期です。豊臣の残党狩りを命じられた若い武将が敵の娘を好きになって、小さな独立国家を建設する筋立てに──」
「あんまり大雑把な説明をせんでくれ」
豊の言い方に番内が苦笑した。
「それじゃいかにも詰まらなさそうだ」
「コッポラの『地獄の黙示録』の日本版かい」
長山の言葉に番内はニヤニヤして、
「やっぱり分かりますか?」
臆面もなく質した。
「まさか当たるとは思わなかったぜ。ずいぶんと安易な発想じゃねえか」
「豊の説明が悪いんです。筋はもっと複雑に作ってあります」
「そうあって欲しいね。いくら日本にゃ金が余ってると言ったって、ドブに捨てるような遣い方はごめんだぜ。人の金でも気になる」
長山の皮肉に番内はさすがに眉をしかめた。
「外国映画の真似をしなくても、真剣に捜せば世界に通用する原作が日本でも見付かるはずだ。その努力もしねえで、やれ企画が通らねえだの、言葉の壁があるだの、日本にゃ金を出すスポンサーが居ないだの、屁《へ》理屈ばっかりつけていやがる。お宅のことじゃねえよ。お宅は自分で金を出しているんだ。オレの言ってるのは別の連中のことさ」
「………」
「日本にゃアメリカの映画会社を買収できるほどの金を持っている会社もあるんだ。スポンサーが居ないとは言わせねえ。スポンサーをその気にさせるアイデアを持った映画人が居ないってだけのことじゃねえかい。ちょっと前は忍者を主人公にしたアメリカ映画が大当たりしたが、あんときほど情けねえ思いをしたことはなかったぜ。だいぶ前の『ショーグン』のときもそうだ。時代設定も目茶苦茶で、内容も大したもんじゃなかったのに、アメリカではブームになった。あれよりも感動的で面白いドラマはいくらでも作れる。なのにそれがなぜアメリカ人に受けないのか。そこの研究をしてみるべきだったんだ」
「それは……確かに言えますね」
番内も素直に認めた。
「じゃあ、どんな映画を作ればいいの?」
亜里沙が意地悪く長山に質問した。
「たとえばチョーサクの原作?」
「オレの書いてるのはホラーでも日本的な怪談が大半だからな。宗教観が別なんで世界にゃ受けないさ」
「案外冷静に分析しているのね」
「まず外国人を主人公に据えることだな。日本にも世界に通用しそうな役者は結構居るが、下手くそな英語じゃダメだ。それならいっそのこと外国人を起用して、舞台を京都にする。伏見稲荷に暮らしているアメリカの貿易会社の社長一家という感じだな。そこにルーマニアから逃れてきたドラキュラが宇治の平等院を棲家としていて、舞妓の血だけを狙っている。社長の末娘がなぜか舞妓の修業をしていて、犠牲者となる。父親は怯《おび》えてアメリカに戻ろうとするが、若い後妻の母親は、会社の幹部でありながら、普段は生け花と切腹の教授をしている日本人の娘に相談する。娘の父親は元はサムライだ。娘もその関係で忍術の修行も積んでいて、腕が立つ。母親と日本人の娘は協力してドラキュラとやり合う。だがドラキュラはゴジラを操る魔力も持っていた。そこで窮地に陥った娘は、相撲取りの仲間に応援を頼み、富士山の裾野で百人の力士が並んで腹を切る。この必死の祈りが通じてゴジラは消滅し、最後には娘とドラキュラの決闘となる」
皆はあんぐりと口を開けた。
「なんだか頭が痛くなってきた」
亜里沙は|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を揉《も》んだ。
「香港のキョンシー物なんてのは、結局そんなもんだぞ。だから世界に通用する。日本も同様だ。世界のやつらは日本をそれくらいにしか理解してねえって。だったらそいつを逆に利用してやれば満足する理屈だろうよ」
「だけど、あんまり酷いストーリーだわ。富士山の裾野で百人の力士が切腹するシーンなんか想像するだけで吐き気がしてきた」
「アメリカ人と似たサラリーマンが腹を切っても、ちっとも面白くはなかろう」
「宇治の平等院に潜むドラキュラですか」
番内だけは感心して長山に頷いた。
「さすがに流山さんですな。案外そんなものかも知れない。検討の余地はある」
「本当に作ったら非難が集中しません?」
亜里沙は真面目に番内に訊ねた。
「ま、今のは極端だがよ」
長山は笑いながら、
「リドリー・スコットの監督した『ブラック・レイン』だって高倉健のアパートは妙な具合だったぞ。狭い六畳間に提灯《ちようちん》や刀が飾ってあったり、健さんが大真面目で書道をやってたりな。あんな日本人はどこにも居やしねえ。オレたちゃ笑ったが、そいつは観ている我々よりも当の健さんが一番感じていたはずだ。もちろん監督のスコットに説明もしただろう。だが、結局あの映像になったってことは、その説明や抗議が通らなかったということだ。世界の人間には、あの方が日本人の部屋らしく感じられる。そっちを大切にしたのさ」
亜里沙に向かって言った。
「真実を伝えることと、評価とが合致しねえ場合がままある。ヨーロッパナイズされた豊かな日本なんて外国人は見たくもねえし、知りたくもねえ。オレたち日本人にとっちゃ悔しい限りだが、それが現実だ」
長山はポケットからタバコを取り出すと火をつけた。そのまま立ち上がって土間に下りる。土間にはスタッフたちが灰皿代わりに用いていた空き罐が置かれていた。
「もう間もなく陽が沈みそうだぜ」
長山は小窓から外を覗いて口にした。
「いよいよです」
山影の部下が顔を見せた。待ち兼ねていた長山は張り切った声で応じて広場に向かった。
「ずいぶん薄暗くなりましたね」
寒そうな顔をして山影が振り向いた。クレーン車の太い腕がシルエットとなって土手の斜面に伸びている。チェーンの巻き取られる音が響いていた。長山と亜里沙は山影と並んで土手に立った。作業員たちが石棺の下に見えた。石棺はすでに一メートルばかり地面から浮いている。蓑田と二人の助手は滑りそうな斜面を慎重に下りて石棺に接近すると、手にしている懐中電灯で石棺を点検しはじめた。
「どうです?」
やがて山影は蓑田に声をかけた。蓑田は小さく首を横に振った。なにも収穫はなかったようだ。山影は落胆の色を隠さなかった。
「鶴岡署に頼んでも手掛かりはゼロか……」
「そうでもねえようだぜ」
長山の目が光った。足速に斜面を駆け下りる。山影は戸惑いながらも続いた。長山は石棺の側に立つと蓑田の肩を乱暴に引いた。
「それ以上地面を荒らさないように」
「はぁ?」
「石棺の真下の土に足跡が見えた。ひょっとすると皆のものじゃないかも知れん」
言われて蓑田は地面を照らした。
確かにくっきりとした靴の足跡が地面に二つ刻まれていた。蓑田は柔らかな地面を選んで自分の足跡をつけると比較した。大きさが一回り違っていた。二人の助手も試す。今度はどちらも靴底の刻みが異なる。
「皆もやってみてくれ」
顔を輝かせて山影が作業員たちにもおなじことを命じた。五人の作業員が地面に思い切り靴型を刻む。山影は屈《かが》んでそれぞれを石棺の下にある足跡と較べた。
「どうやら、だれの靴跡でもなさそうだ」
顔を上げた山影の声は弾《はず》んでいた。
「最初から石棺の底にあったものだと断定してよさそうですな。大いなる手掛かりですよ」
「石棺を埋めたやつの足跡ってわけだ。穴を掘ったときについたんだろう。その上に石棺が覆い被さっちまったんで消えずに保存された。粘土質の土が幸いしたぜ」
「早速、鶴岡署の鑑識に連絡を取って今夜中にも型を採取します。長山さんが見付けてくれなければ危うく見逃すところでした」
山影は長山に礼を言った。
「なあに、たまたまオレの立っていた位置から底が見えただけさ」
長山は珍しく謙遜した。
「靴跡ぐらいで犯人が突き止められますか」
番内が上から地面を覗き込んで言った。
「特別な靴でもない限りむずかしいんじゃ」
「そいつぁ認識不足ってもんさ」
長山は笑った。
「昔はいざ知らず、今は相当に研究が進んでいるんだぜ。警察の捜査とどれだけ関係あるかは分からんが、東京の大学には足跡を見ただけで年齢、体重、体の特徴までピタリと当てる先生が居る」
「まさか」
「本当さ。実際にオレもその先生に頼んで足跡を鑑定して貰ったことがあるんだ」
番内と亜里沙は互いの顔を見やった。
「テレビで縄文人の足跡を鑑定してるその先生を見てな……なんでも青森の方で縄文時代のたんぼ跡が見付かったとか。その地面に何百もの足跡も発見された。その石膏《せつこう》型を持ち込まれた先生が、どんどん男と女に仕分けしたり、年齢別に分類してるのを眺めて興味を持ったんだよ。百五十五センチが平均身長とか、縄文人は前屈みの姿勢だったとか自信を持って鑑定している。ホントか嘘かオレでなくても知りたくなる。ミステリーの素材にも使えそうだ。それで編集者に頼んでオレのを見て貰うことにした。なんにもデータを与えず石膏に取ったオレの足型を研究室に持ち込んだら、どんぴしゃりの結果が出たよ。年齢は四十前後の男。身長は百七十から七十五。体重は五十キロ程度の極端な痩《や》せ型でO脚。おまけに足の筋肉が運動不足気味で機敏な行動が苦手。世の中にゃ恐ろしいやつが居るもんだと呆れたね。三万だか五万だかの足跡とその人間のデータを集めて研究した結果だと聞かされたが……まさに足博士の異名を取るだけのことはある。足跡を見られただけでO脚とか運動不足を見抜かれるたぁ思わなかった。あの調子なら縄文人の分析も間違っていねえはずだ」
「そういう人が実際におるんですか」
山影も知らなかったとみえて唖然とした。
「もっとも、その場合は裸足の足跡だぜ。靴跡となればどうか分からん。それでも体重や身長程度は簡単に言い当てると思うね。男女の別も恐らく大丈夫だ。なんなら、試しにオレが頼んでやろうか。石膏型を余分に拵えてくれりゃ明日にでも仲介した編集者に送るよ。警察のメンツもあるだろうから無理にとは言わんがな」
「そうですね。考えておきます」
山影は苦笑した。
「もしその気がありゃあ、ついでに我々の靴跡も石膏型に取っておいた方がいい。おんなじ条件の土につけた足跡がたくさんあれば、たとえ靴跡でもかなり正確な分析ができる」
「そうか。体重の差によって凹みの深さも異なりますからね。それはいい考えだな」
山影もそれには即座に頷いた。
「と言って、まさか皆さんの足型をいただくわけには……こちらの人間だけで充分です」
「たった一つの足跡からそこまでねぇ」
話に耳を傾けていた蓑田は唸《うな》った。
「迂闊《うかつ》なことはできないものだな」
しみじみと口にして足跡を眺めた。
「上手《うま》くいったら事件は解決ってこと?」
亜里沙が長山に訊《き》いた。
「その鑑定を裁判所が証拠として採用するかは分からん。あくまでも情況証拠扱いってとこだろう。だが、犯人の身長や体重の予測がつけば捜査の幅がぐんと狭まるのは確かだ」
そうです、と山影も保証した。
一時間後。
長山たちは湯殿山ホテルに戻った。石棺はそのままクレーン車が仙人村の公民館に運んで行った。石棺の詳しい調査は明日、蓑田がする予定になっている。
「さすがにくたびれたな」
車から降り立ってホテルのドアを開くと、ロビー脇の喫茶室から馴染みの顔が現われて長山に懐かしそうな笑顔を見せた。
よう、と長山は石川に軽く手を上げた。
「何時に到着したの?」
亜里沙は反射的に時計を見た。五時を少し過ぎている。
「二十分くらい前です。山形からもっと近いと思っていたんですけど……ホテルの人から聞きましたが、大変な事件に巻き込まれましたね。なんでいつもこうなるのかな」
つい三ヵ月ほど前に後醍醐天皇絡みの事件を一緒に追いかけた経験のある石川は、そう言いながらも好奇心を隠せないでいた。丸顔に似合った円い目が輝いている。
「温かいコーヒーでも飲もうぜ。結局、朝から罐コーヒーばかりだ。蓑田先生もどうだい」
長山は他の連中も誘った。が、蓑田や番内たちは丁重に断わって部屋に戻った。
長山と亜里沙、石川だけが喫茶室に入った。
「ふうん、カレーライスもあるのか」
メニューを眺めて長山は悩んだ。
「あと一時間ちょっとで夕食よ」
「昨日の出羽屋とおんなじ山菜尽しじゃあるまいな。そいつを心配してるんだ」
「昨日の出羽屋かぁ」
亜里沙は溜め息を吐《つ》いた。
「なんだか遠い昔のような気がする」
「だよ。いろんなことがいっぺんに重なりやがった。オレなんぞ昨日から一睡もしてねえんだ。昨日の朝に東京を出て以来、かれこれ三十数時間だぞ。二十四時間戦えますか、どころの騒ぎじゃねえや」
「一睡もしていないんですか」
石川は目をますます円くした。
「動きまわってるんで、なんとか眠らずに済んでいるがね。今夜だって夕《ゆう》メシを終えたらタコに付き合ってオケイの伯父貴のやってるドライブインに行かなきゃならん。どこで限界が来るか楽しみだ。眠気と戦うってのも一種の快感だな。自分でも感心してるんだ」
「カレーなんて食べたら吐くわ」
「どうして?」
「きっと胃も弱っているもの」
「だからこそ慣れた食い物がいいのさ。食いつけねえ山菜なんぞを腹に入れたら、かえって体調を崩す。汚え話かも知れんが、取材旅行の途中で下痢になったときにカツカレーを食って治した経験がある」
「信じられない胃袋ね」
「体調なんてのは気のもんだ。やっぱりカレーを食っておこう。その方が安心する」
長山はカレーとコーヒーを注文した。
「じゃあ、月宮蛍さんの伯父さんという人が怪しいと睨まれているんですか」
長山と亜里沙から経過を聞かされて石川は小声で確認してきた。
「アリバイを主張してるがね」
カレーを頬ばりながら長山は囁《ささや》いた。
「そいつの裏付けを取りに今夜行く」
「蛍さんは今どこに?」
「伯父貴の家に出掛けている。オケイも気が気じゃなかろう。タコの睨んだ通りならオケイにも迷惑が及ぶ。できることならオケイの手助けをしてやりてえが、今の情況じゃむずかしい。せめて足跡が伯父貴と似ても似つかぬものなら救いもあるんだが……そいつだって土手で指図をしていたかも知れねえし。よっぽどの反証でも持ち出さんとなぁ」
「他に犯人らしい人間が居ないんですね」
「ああ、酷《ひど》く単純な情況なのさ」
「オケイもツキがないわ。伯父さんがただの人ならともかく、村会議長だなんて……テレビや週刊誌の恰好のターゲットじゃない。明日には大勢の記者が仙人村に──」
「タコは滅多に口にはしないはずだ」
「時間の問題よ。記者もバカじゃないもの」
「どうすりゃいいってんだ?」
長山は亜里沙を見詰めた。
「はっきりとした証拠が見付かるまで、せめて私たちだけでもオケイの言葉を信用してあげようよ。それが仲間でしょ」
「オケイの言葉?」
「あの伯父さんはなんでもお金で解決する人だって言ったわ。私もそう思う。カッとなって人を殺すような人には見えなかった」
「……」
「このままじゃオケイ一人が孤立しちゃうじゃない。オケイの気が済むまで協力してあげるのが私たちの役目と違う?」
「そいつは構わんが……」
長山は腕を組んで、
「タコと対立するってのがなぁ」
嘆息を洩らした。
「朝に会ったばかりの伯父貴よりはタコの方がずうっと信用できる」
「山影さんが目撃者ってわけじゃないわ。その目撃者にしたってオケイの伯父さんが松本さんを殺した現場を見たのでもないし……ライターや屶《なた》の件だってそうでしょ」
「分かったよ」
長山は仕方なく頷いた。
「確かにオケイ一人じゃかわいそうだ。電子手帳のメモにしても、松本の自筆じゃねえ限りなんとも言えねえ。ぎりぎりまでオケイの味方になってやるとするか」
「具体的にはどんな作戦で?」
石川が身を乗り出した。
「そうさな……伯父貴が犯人じゃねえとしたら、例のテル子とかいう女が鍵だ。警察もとっくに接触してるだろうが、タコが側に居ないとこで会いたいね。それも、できるだけ早くにだ。リサはドライブインにその女が来ると思うかい?」
「どうかしら。どうしてもアリバイを主張するつもりならオケイの伯父さんが呼んでいると思うけど……大勢の人間が揃っているとこに呼ぶとはちょっと考えられないわね」
「だろうな。女の方にしても迷惑な話さ。逮捕状でも出たってんなら別だが、今の段階でそこまでするとは思えん。伯父貴も昼は怯えていたようだけど、犯人でなければ必ずアリバイが実証されると自分に言い聞かせているはずだ。そいつが自然な反応だぜ。犯人にされるのも厭《いや》。愛人が発覚するのも困る。そのジレンマで今夜辺りは動きが取れない。警察の動きを見て判断するつもりに違いない」
「だったら、逆に今夜その女性がドライブインに顔を見せたら怪しいってことに?」
石川は気がついた。
「だな。あらかじめ準備されたアリバイの証言者という可能性が強くなる」
「それは山影さんも気がつくかしら?」
心配そうに亜里沙は長山に質した。
「タコは海千山千のプロだよ。その点だけで犯人と決め付けはしねえと思うが、心証的にはクロに傾く。そいつは疑いねえ」
「オケイが余計な知恵を授けていなければいいんだけど」
「………」
「一刻も早く警察の疑惑を拭い去るために、その女性にアリバイの証言を頼んでなんかいやしないわよね。逆効果になるわ」
「ったく……オケイならやりそうだぜ」
長山は慌てて立ち上がった。
「夕《ゆう》メシはキャンセルだ。タクシーを頼んでオケイを捜そう。余計な作戦をしていないと分かればそれでいい。宿に戻って何食わぬ顔でタコと一緒にドライブインに行く。女が来なければ、伯父貴の訊問はタコに任せて我々は朝日村に向かいテル子って女に会う。もしリサの言ったような知恵を授けていた場合は、ドライブインに女が現われないように阻止しないといかん。そのときは朝日村に直行だ」
「チョーサクはたった今カレーを食べたばかりだから平気でしょうけどね」
「夕メシのキャンセルがご不満かい?」
「冗談よ。食欲なんてないわ」
「オレも弁当を三時頃食べました」
石川は張り切った声で腰を浮かせた。
「皆にはなんと言って外に出るの?」
亜里沙は了解しながらも長山に訊ねた。
「いくらでも理由はつけられるだろうさ。カメラマンの石川君に明日からの単独取材の段取りを教えるために村を一回りしてくるとでも言えば信用するさ。ついでに大日坊の山門の夜間撮影をすると付け加えろ」
「それなら大丈夫そうね」
頷いて亜里沙は喫茶室を飛び出した。
「タクシーなんて簡単に来ますか?」
石川は首を傾《かし》げた。
「車を借りられたらオレが運転しても」
「残念だがオケイの伯父貴の家やドライブインがどこにあるか知らない。朝日村のテル子って店の場所もな。タクシーを頼む他に方法はあるまい。仙人村だってタクシーの一台や二台はあるさ。せいぜい二十分も待てばここまでやってきてくれるだろう。このホテルを離れたら最寄りの公衆電話を利用してオケイの伯父貴の家に連絡を取ってみる」
「さすがにいろんなことを考えてますね」
「リサの前じゃ、ああ言ったが、なるべくタコとは正面から敵対したくねえ。できることなら水面下の動きをしたいんだよ。リサにしろオケイにしろ、女は分別が足りないんで苦労させられるぜ。庇《かば》いたい気持も分かるが、警察を敵にまわすとロクなことにゃならん。お陰で今夜も当分寝られそうにねえなぁ」
言って長山は苦汁を呑み込んだ。
「こんな想像が当たったって、ちっとも嬉しかねえぜ。ったく、警察を舐《な》めてやがる。放って置いたらどうなってたか……」
長山は月宮蛍の伯父の家にタクシーが停まると、慌てて玄関から飛び出してきた蛍の痩せたシルエットを眺めながらぶつぶつと呟いた。途中の公衆電話から蛍を捜してここに連絡を入れたら、蛍は案の定、朝日村のテル子という女性に伯父千崎完三のアリバイ証言を頼んでいた。それが逆に藪蛇《やぶへび》となる公算は大きい。長山は一喝して、それを取り止めるように伝えた。だが、蛍はテル子の証言に自信を抱いていた。それで蛍を途中で拾い、とりあえずテル子の話を聞いてみることにしたのだ。もし、重大な反証と判断できたら、山影のところに連れて行こうとの計画である。しかし、長山はあまりその証言に期待はしていない。それが今の呟きに反映されている。
「あら……」
開けられたドアから乗り込もうとした蛍は、助手席に腰掛けている石川に視線を動かして曖昧な笑顔を見せた。
「カメラマンの石川君」
亜里沙が心配しないでと付け加えた。
「この前の事件のときも一緒だった仲間。さっき湯殿山ホテルに到着したばかりなの。事情はだいたい説明したわ。彼と写真撮影の打ち合わせをすると言ってホテルを抜け出てきたの。じゃないと山影さんが変に思うでしょ」
蛍は頷きながら亜里沙のとなりに座った。タクシーは直《す》ぐに朝日村を目指して動いた。テル子という女性が経営している居酒屋はこの近辺ではだいぶ有名らしい。
「もう会ったのか?」
亜里沙の肩越しに長山は小声で訊ねた。
「電話で話を聞いただけ。でも嘘じゃない」
「入れ違いにならなきゃいいんだが」
「大丈夫。また電話を入れたわ。ちゃんとお店で待っていてくれるそうよ」
「その……伯母さんは、どうなんだ?」
「どうって?」
「どこまで知っているんだよ」
長山は運転手の耳を意識して言葉を濁した。
「まだ、ほとんどなにも……言えないわ」
「それでよくその女性に連絡が取れたな」
「別の部屋から電話したのよ。店の名前は分かっていたし……簡単じゃない」
「反応は?」
「なにも知らないようだった。最初は伯父とのことも必死で隠そうとしていたし……だからこそ嘘じゃないとピンときたのよ。伯父が彼女の家を訪ねたのは朝の六時十分頃ですって。参籠《さんろう》所から朝日村の彼女の家までは、どんなに急いでも二十分はかかる。松本君の約束の時間に伯父が参籠所に居なかったことがこれではっきりしたじゃないの」
「やれやれ、根拠ってのはそれだけか」
長山は深い溜め息を吐いた。
「松本が何時に参籠所に居たか、そいつを見ている者は一人として居ないんだ。約束が六時と手帳にあったって、実際は五時半から待っていたかも知れんのだぞ。そいつは残念だが伯父貴にも言える。どちらもたまたま早く待ち合わせの場所に着いたという想像も充分に考えられるじゃねえか。その場合なら六時前に伯父貴が現場を離れることも可能なんだ。その程度の証拠を持ち出してもタコは鼻で笑うだけさ。きちんとした解剖結果が出るまでは、どんな話も通用せんよ。やっぱり中止させといて正解だったぜ。取り返しのつかない結果に繋《つな》がるところだった」
「……」
「松本が五時半頃にはホテルを抜け出していたこともはっきりしている。このオレが風呂でやつの浴衣《ゆかた》を目撃しているんだぞ。六時前に参籠所に居た可能性は大いにある」
「いつもと変わらない様子だったと……」
「そんなものがなんの証拠になる」
長山は苛立《いらだ》った口調で蛍を制した。
「甘いよ……実際」
庇おうとした亜里沙も言葉を呑み込んだ。
「どうしても伯父を信用してくれないのね」
蛍は悲しそうに長山を見詰めた。
「信用しようとしてるとこだ。オケイのためにもなんとか手助けがしてぇ。けどそいつと今度の証言とは別物だ。嘘を言ってねえだろうなんてオケイの勘だけじゃ無駄ってもんだぜ。それで済むなら警察も必要がねえ。殺しの時間が六時以降とはっきり断定でもされない限り、今の証言に一文の価値もない。アリバイをはじめから用意していたと勘繰られるのが関の山だろう。かえって心証を悪くする」
運転席を気にしているつもりだが、長山の声は次第に荒くなった。亜里沙はそっと長山の腕を揺さぶった。バックミラーに好奇心を丸出しにした運転手の目が映る。乗っているのが女優の月宮蛍なのでなおさらなのだ。長山も頷いて話を中断した。
「砦のセットも見てきたわよ」
亜里沙はわざと話題を変えた。
「オケイはどういう役?」
「さあ……まだそこまでは」
「だってそろそろ撮影に入るんでしょ」
「まだ脚本《ホン》が完全にできていないのよ。今度のロケは風景の部分と宣伝用のスチールを撮影するのが目的なの。脚本が未完成でも雪のシーンは今からでないと一年を無駄にするでしょ」
「その段階であれだけのロケ隊! 映画ってずいぶんお金と時間をかけるのね」
「番内さんは素人だから、逆にそれが当たり前と思っているのね。急《せ》かされて作っている映画が大半なのに……でも、いいことだわ」
「未完成でも、シナリオは読んだかい?」
長山が訊ねた。
「いいえ。でも、粗筋《あらすじ》は番内さんから。なかなか面白そうな内容だった。舞台が生まれ故郷の山形ってことも魅力だったけれど、粗筋を聞いて出演するつもりに……」
「そういうケースはよくあることなのか?」
「脚本を読まずに契約するってこと?」
長山は蛍の質問に頷いた。
「そうね……私に限って言えば初めてかしら。だけど、脚本を読んで引き受けても、その脚本が撮影までに大幅に変更される例はしょっちゅうなのよ。結果的には脚本を読まずに引き受けたことと一緒だわ。まるで違う内容になっているのも珍しくないもの」
「どうしてそうなる?」
「プロデューサーが企画を通すために、とりあえず脚本の形にするケースが多いのよ。脚本がなければスポンサーもなかなか動いてくれないじゃない。お金のアテができてから脚本を練り直したり、酷い人になると、全然違う原作を持ち込んできたり……番内さんの場合は自分がお金を出す側だから、そういう心配がなかった。そういうこと」
「なるほど……粗筋を説明するだけでいいわけか。ある程度は納得ができたがね……」
長山は首を小さく振ってタバコに火をつけた。亜里沙はその顔を覗き込んで、
「なにか不審でもある?」
「いくら自分が製作すると言ったって……何億もの金だぞ。人の金を動かすなら、自分の生活の安泰のために、とりあえず話を決めちまおうとするのも分からないわけじゃねえが……自分の金となったら、もう少し慎重になるのが普通じゃねえかい。自分にその気がある限り、映画はいつでも作れるんだ。だったら、最低でもシナリオを完成させるまでのんびり構えて居るんじゃねえかな。なんでドタバタと慌てる必要がある? いかに雪のシーンを今年中に撮影しときたいにしてもだ。どうも番内の行動にゃ首を傾げたくなるよ」
「相続税のためとか聞いたわ」
蛍は特に不審も抱かぬ口調で言った。それは長山もホテルのバーで耳にしている。
「税金に取られた分を、会社の経費の方で取り返すんだって笑っていたけど……」
「そうかも知れんが……ま、常人には絶対に思いつかん発想だわな。そういう発想をする人間の割合にゃ、言うことが平凡だぜ。あいつは結構チマチマしてる。税金対策なら映画で儲ける必要もあるまい。なのにミイラを宣伝に使えると思ったなんて言いやがる」
亜里沙と蛍は苦笑した。どんな人間でもあの情況にあればそう考えてもおかしくない。
「結局は金を持たぬ者のひがみか」
長山も笑ってタバコを揉み消した。
「貧乏人にゃ金持ちの考えが分からん。父親の遺産の山をちょいと売っただけで簡単に何億もの金が入ってくるんだからなぁ……こっちなんぞ、三ヵ月も徹夜続きでうんうん唸ってようやく二百万がいいとこだ。宅地解放を政府に訴えたくもなるよ。どだい、国民の八割以上が中流意識を持ってるってバカな話がどこにある? 見た目の豊かさにごまかされているだけじゃねえか。本当は六割近くが下層階級なんだぞ。金持ちは結果を見ながら嘲笑《あざわら》っているに違いねえさ。東南アジアや中国の給料が日本の十分の一以下だと言っても、日本の金にして百万もありゃあ立派な家が建つそうだ。その十倍の一千万で日本に家を建てられるかい? とてもじゃねえが無理だ。東京の都心ならその十倍出したって三十坪のウサギ小屋がせいぜいだろうよ。単純計算したって東南アジアよりも十倍貧しい。食い物とか電気製品が簡単に手に入るから、なんとなくごまかされているだけなんだ。インスタントラーメンをあてがわれて満足してる情けねえブタと一緒さ。それで中流意識なんぞは、おかしくて涙が出るね」
「どうしたの、急に」
亜里沙は呆れた顔で言った。
「腹が立ってきたのさ。原始時代にゃ、山なんてもともとだれのものでもねえ。そいつを売って相続税の心配をしている野郎にな」
「チョーサクだって生活の心配がない人じゃないの。そういう人がそれを言っても……」
「オレは努力してんだ。物書きになるまでについちゃ、たくさんの人間を涙させるだけの苦労話にこと欠かねえぜ。一個のインスタントラーメンを三つに割って一日を凌いだ経験もある。穴の開いた靴を履《は》いて、砂利道を避けて歩いた辛さなんぞは、お嬢様育ちのリサには一生分からんだろう。ましてやそれを発見されねえように、靴とおなじ色の靴下を穿《は》いていた恥ずかしさはな」
「それは……学生の頃?」
「そうだよ。おまえらとワイワイ騒いでいた頃のことだ。海水浴に皆と江ノ島に行った帰りに鎌倉のリサの家に寄ったことがあったろ。靴を脱ぐのがあのときほど厭なことはなかったぜ。リサの部屋にはステレオもあった。おまえは決して厭なやつじゃなかったが、どこかでおまえを憎み出したのは確かだ。こんな女には一生オレの気持が分からないはずだと思ってな。ついでだから告白すると……何度かおまえさんを襲ってやろうかと画策した」
「なにそれ!」
亜里沙はのけぞった。
「幸せからどん底に突き落としてやりたくてさ。しかし、勇気が出なくて諦めた」
「怖い人ねぇ」
「死ぬまで白状すまいと決めていたんだが」
長山は真面目な顔で呟いた。
「襲わなくてよかったよ。それをしてりゃ、こうしておまえさんと今も付き合ってはいられねえ。互いに分かりあうことなく離れ離れになっちまっていただろう」
「今だって分かりあっていないわ。ますます分からなくなったみたい」
「チョーサクは愛の告白をしてるんだわ」
蛍が微笑《ほほえ》んで亜里沙の膝を叩いた。
「いい話じゃないの」
「どこが……こいつ変態よ」
亜里沙は思いきり長山の靴を踏んづけた。
「これで分かっただろう?」
長山はニヤニヤして言った。
「人の心の裏にある気持は当人以外には分からんものだ。どんなにいい人間のように見えても、陰では恐ろしい犯罪を企んでいる場合もあるってことさ」
「おあいにくさま。あの頃のチョーサクに似合いの考えだわ。だれもチョーサクのこと、いい人間だなんて考えもしなかったもの」
亜里沙の言葉に長山もさすがに噴き出した。
「これじゃあオレの告白も逆効果だったみてえだ。オケイの言うように、襲いたいって思う裏側には深い愛が隠されているんだぞ。そいつも分からねえような野暮天と見える」
「皆の前で言うからじゃない?」
蛍は笑って、
「チョーサクこそ女の心を分かっていないわ」
「そうかね。正直言ってリサにはどんな手も通用しねえ。ヤケになって口にしただけさ」
蛍ばかりか石川も運転手も爆笑した。
車は朝日村の中心部に近づいていた。
想像していたよりも遥かに賑やかな町並みだった。落合という朝日村の中心には近代的なホテルまで建てられている。
「仙人村とはえらい差だ」
ホテルの眩《まばゆ》いシャンデリアを窓越しに覗きながら長山は羨《うらや》ましそうに言った。
「こんなに近いんなら、湯殿山ホテルなんて辺鄙《へんぴ》なとこより、こっちに泊まりたかったぜ。まわりにゃ飲み屋も結構ある。オレはまた湯殿山ホテルがこの近辺で一番都会的な場所とばかり思ってたよ」
「近いと言っても、ここからだと砦のセットまで四十分はかかるわ。チョーサクのように二、三日なら我慢できても、毎日の往復となるとキツいもの。お酒を呑むのは仕事と関係ないし。諦めなさい。どうせ何日かすれば東京に戻れるわよ。せっかく山形に来たんでしょ。都会的なホテルに泊まっても意味がないじゃないの」
「そりゃその通りだがね」
長山は諦め切れない顔でいつまでもホテルの明りを見詰め続けた。
「テル子って店はもう近いのかい?」
「じきです。看板が見えるでしょう」
長山に訊かれて運転手は前方を示した。
目の前に民家からポツンと離れてプレハブの小さな店が見えた。赤いネオンに白くテル子の文字が浮き上がっている。縄暖簾《なわのれん》にスチールのドアがいかにもちぐはぐだ。クラブ的なイメージで拵えたのだろうが、結局居酒屋に方針を変えたという感じだ。
「おかしな店だな」
店の前にタクシーが停まると長山は笑った。
「潰《つぶ》れたスナックを買って改装したんです。もとは別の場所に店を開いてました」
運転手が弁解するように説明した。
「じゃあ、儲かってるわけだ」
「ええ。カラオケも揃ってますしね。仙人村からも若い連中が大勢呑みに来てます」
「美人かい?」
「さあ……好き好きでしょう」
笑いながら運転手は、どうするかと長山に訊ねた。場合によっては仙人村にUターンすると前に伝えてある。
「ちょっと待っていてくれ。用事は十五分やそこらで終わると思うんだが……それ以上になりそうなら出てきて連絡する」
「一時間でもお待ちします。こっちもどのみち仙人村に戻りますんで。そのときはメーターを倒してコーヒーでも呑んできます」
長山は頷いて車から降りた。
店の扉には本日休業の板が掛けられていた。
だが、車のドアの音を聞きつけて、中から扉が開けられた。鏡餅のようにほっぺたを膨《ふく》らませた女が不機嫌そうな顔を出した。蛍を認めて陽気な表情に変わる。年齢は明るく染めた髪と膨らんだ肌のせいで若く感じられるが、四十七、八といったところだろうか。毛足の長い真っ赤なセーターにぴっちりとした黒いスカート。体に似合わぬ小さな足に銀色のサンダル。典型的な田舎のバーのホステスタイプの女性だった。
「入って」
思いがけない人数に戸惑っていた様子の彼女は、じろじろと窺《うかが》っている運転手の視線を気にしてとりあえず店内に誘った。
「ボトルがぶら下がってるから気をつけてよ」
言われて長身の長山は思わず身を縮めた。入り口の天井から店内にかけて五、六十本のボトルが吊り下げられていた。どうせ東京辺りのバーボンハウスのインテリアでも真似したのだろうが、紐の長さが一定なので少しも面白く感じられない。ありきたりの国産ウィスキーの空きボトルのせいもある。赤いカウンターの上には地酒の一升瓶まで何本か吊られていた。長山はさすがに苦笑した。
「一人で来るのかと思ってた」
ボックス席を勧めながらテル子は細いタバコをくわえた。指に紫のマニキュアが目立った。
「やっぱ、テレビよりいいわね」
テル子は蛍に向かって笑顔を見せた。
「千崎さんがいつか連れてきてくれると約束したんだけど……聞いてた?」
蛍は微笑のまま首を横に振った。
「なにか呑む? 店に出てきたばかりなんでまだ暖房が利《き》いてないのよ」
「水割りでも貰おうか」
長山はぞんざいな口調になった。
「皆、私の古い仲間なの。彼は推理小説を書いてて、彼女は雑誌社に勤めているわ。そしてこの石川君はカメラマン」
「ふうん……やっぱり東京から?」
蛍の紹介にテル子は興味を示した。
「ママ一人で店をやってるのかい」
長山が訊ねた。これくらいママという言葉が似合わない女将《おかみ》も居ないと思いながら。
「客ったって一日に十四、五人だもんね」
酒の用意に立ちながらテル子は笑った。
「それでもこの村じゃいい方なのよ。最近じゃ放って置いてもカラオケやってくれるから体が楽だわ。『麦畑』もあるわよ」
陽気な言い方に皆は顔を見合わせた。蛍が店に来たので興奮しているのかも知れない。
「警察の方からなにか問い合わせは?」
亜里沙が背中に質問した。
「あったわ。簡単なものだったけど。正直に話したらそれでお終い」
こともなげに応じる。
「この調子じゃ三、四十分はかかるな」
長山が口にすると石川は了解して運転手にそれを伝えに席を立った。
「ホテルの喫茶室に居るので用件が終わったら連絡してくれと」
間もなく戻った石川は長山に言った。
「私もタクシーに乗れるかしらね」
ボトルと氷を持ってきたテル子は質した。
「こういうときって、警察が迎えに来てくれるもんじゃないの?」
「今日は行かなくてもいいんだ」
長山の言葉にテル子は首を傾げた。
「まだ犯行時間が確定していない。明日か明後日には結果が出る。そのときで大丈夫」
「千崎さんを疑うなんてバカじゃないの」
テル子は大きな声で笑った。
「あの人にそんなことができるわきゃないわよ。あれで気が小さいんだから」
テル子は手早く人数分の水割りを拵えて、乾杯と言いながらグラスを合わせた。
「その……この際なんで失礼を顧みず訊ねるんだけど──千崎さんとはいつから?」
「家に訪ねてくるようになったのは──」
言ってテル子は真正面の蛍を気にした。蛍は構わないと先を促した。
「店の資金援助を頼んだときから」
「じゃあ、つい最近か」
「でもないわよ。もう一年にはなるもの」
「その前は?」
「馴染みのお客の一人。あ、これ言わないで」
テル子はペロッと舌を出した。
「あの人、案外やきもち焼きなの」
「その様子じゃずいぶんモテるんだろ」
長山は肉感的な体を眺めた。唇の脇の大きな黒子《ほくろ》も考えようによっては色っぽい。都会の若い連中にはどうか知らないが、年寄りには好かれるタイプだ。白い肌もふっくらとして、指で押せば包まれてしまいそうだ。
「結婚は?」
亜里沙が訊ねた。
「興信所みたいね……居たわよ、亭主ぐらい。十年ほど前に東京へ出稼ぎに行ったきり戻ってこないけど……どうせ女に騙《だま》されたに決まってる。今頃はどこかの飯場暮らしでしょ。あっちが悪いのに、子供ができなかったから亭主の家を追い出されてさ。女は損だわ。義弟《おとうと》夫婦にたんぼを譲るために私が邪魔になったのね。涙金を大袈裟《おおげさ》に振り回すんで、叩きつけて出てきちゃった。たんぼったって、雀の額ほどのちっちゃなものなのに」
「猫の額」
長山は訂正した。
「それよりちっちゃいの」
テル子は意にも介さず鼻で笑った。
「二人の仲は有名なのかい?」
「千崎さんのこと?」
「スポンサーってのは知れ渡ってるんだろ」
「まさか。それなら商売がやっていけなくなるじゃないのよ。私目当てで通ってくれているお客がほとんどなんだから」
「本当かねぇ。若い客も多いと聞いたぜ」
「冗談よ。でも、たいていは知らないはずだわ。あの人の方が隠していたから。立場が立場でしょう。前の店にはしょっちゅう顔を出していたけど、この店になってからは月に一、二度程度だもの。人目につかない時間を見計らって家の方に訪ねてくるだけだから。それも用事を済ませるとさっさと帰る人だし」
聞いて蛍は顔を赤らめた。
「手当てはちゃんと貰ってるわけだ」
長山は平気な顔で質問した。
「利息代わりよ。借りたお金はきちんと返しているわ。少しずつだけどさ」
テル子はそれについては否定した。
「厭じゃないのか?」
「別に……嫌いな人じゃないし。銀行は貸してくれないもの。ありがたいと思ってるわ」
「世の中がママみたいな女ばかりなら余計な苦労もせんで済むのに。どうやら勘違いしてたようだ」
長山の視線が途端に柔らかくなった。
「なによ、勘違いって」
「こっちのことだ」
まさかひひじじいと金の亡者の女と思い込んでいたとは口にできない。
「千崎さんは六時十分頃に訪ねてきたと聞いたが、時間は確かなんだろうね」
「絶対よ。テレビに映る時間を確かめたんだから。上に時間が出てるでしょ」
「帰ったのは?」
「七時ちょっと過ぎ。いつも通りだったわ」
「他に証言者は……いねえわな」
「当たり前じゃない。カーテンを開けてするほどスケベじゃないわよ」
「新聞配達とか電話は?」
テル子は即座に首を横に振った。
三十分後。四人はふたたびタクシーで仙人村を目指していた。
「収穫はなしね」
亜里沙は失望の息を吐いた。
「大ありさ。あの女が嘘を言ってないのを確認できただけで来た甲斐はあった」
「………」
「人を騙せるような女じゃねえぜ。これで六時過ぎの犯行と決まれば嫌疑は晴れる」
「私たちの間ではね」
亜里沙は続けた。
「他に証人は居ないのよ。警察が信じてくれるかどうかは別の問題だわ」
「いや、あの程度の関係なら、たとえ男と女の繋がりがあったとしても、家族の証言とは別個のものと見做《みな》される。タコもそう判断するに違いない。そいつは保証するよ」
「だと安心だけど」
蛍が安堵の色を浮かべた。
「それにしてもチョーサクを見直したわ」
亜里沙が微笑んで、
「あんまりズケズケ訊《き》くから、怒るんじゃないかと心配したのに、あの人、すごく素直にいろんなことを話してくれたじゃない」
「ああいうタイプは得意なのさ。キャバレーで何十人と経験してる。下手《へた》に丁重に扱うよりゃ乱暴に口を利く方が心を開く。紳士だとかえって警戒されるぜ」
「じゃあ、地のままでよかったんだ」
「またそれかよ。あれでも演技してたんだぞ」
「伯母の方がずうっと美人よ」
蛍は、分からない、と言った。
「だってな。豊から耳にしてる。ま、男ってのはそんなもんだ。女はダイヤとブルーフォックスの毛皮さえ手に入れりゃ、スーパーの安いTシャツなんぞに関心を失うだろうけど」
「ひどい比喩ね」
「ちょっと違ったか……どんなに旨くてもカツ丼だけじゃ生きられねえってことさ。たまにゃライスカレーも食ってみたいじゃねえか」
「普通はステーキと蕎麦《そば》って言うわよ」
「オレはどっちもあんまり好きじゃねえんだ」
聞いていた亜里沙は笑いを堪《こら》えた。
「最初は趣味の悪い女だと思ったが、なかなかのもんだ。派手な化粧を洗い落としてシンプルな服に着替えさせたら、ゆったりした印象のおばちゃんになるはずだ。子供が居たらいい母親になったんじゃないか」
「そうね。明るい人だった。苦労してるのに」
蛍も認めた。
「あんな彼女に嘘の証言は頼めんさ。言いにくいが、あの伯父貴の器量じゃ無理だよ」
湯殿山近くにある千崎の経営するドライブインには、山影たちの見慣れた車の他にパトカーが一台駐車していた。
ドライブインの裏手には従業員と立ち話をしている警察官の姿も見える。
「なにかあったみたいですね」
運転手が心配そうに呟いた。
「厭な予感がするぜ」
長山は慌ててタクシーから飛び降りた。
なかなか立派な建物だ。ロッジ風の巨大なスレート屋根に青い月明りが反射している。
「どうしたのかしら?」
蛍は外から店内を窺った。山影と相対して中央のテーブルに腰を下ろしていた千崎が気配に気づいて入り口を振り返った。その目と蛍の目が出会った。千崎は蛍を認めるとくしゃくしゃに顔を歪《ゆが》めた。蛍は急いだ。
「また事件が起きたの?」
「儂《わし》にもなにがなんだか……」
千崎は泣きそうな声で言った。続いた長山と亜里沙にも頼りない会釈《えしやく》をする。
「あの長靴が見つかりましてね」
山影がイスから立ち上がって言った。
「この店の物置に隠してありました」
「長靴って……あの発掘現場についていた足跡かい?」
「鑑定に出すまでもなく同一のものと……靴底の刻みがまったく一緒です」
と言って山影は手帳に書き写していた足跡のスケッチを長山に示した。
「なんで物置なんかを?」
「凶器の一つである屶の盗まれた場所なので、手掛かりでもないかと詳しく調べておったんですよ。そしたら古タイヤの後ろに泥の付着した長靴が押し込まれるように」
「儂は知らん。それを何度も説明したんだが」
千崎は長山にすがるように主張した。禿《は》げ上がった額には汗が噴き出ていた。
「物置には鍵がない。その気になればだれだって長靴くらいは……」
「このまま警察へ?」
長山は厳しい目で山影に質した。
「まさか。事情を伺っているだけです」
「だろうな。よしんば長靴が発見されたところで、松本殺しとは直接の関係がない。それを聞いて安心したよ」
「第一、足の文数が違います。小さくて千崎さんの足では履けません」
山影の意外な言葉に長山たちは唖然とした。
「それと……殺しの現場があの参籠所近くの祠《ほこら》じゃないことが、鑑識の正式な報告で分かりました。先ほど鶴岡署から電話があって」
長山はあんぐりと口を開けた。
「まあ、それはこちらも薄々感じていましたがね。屶で首を切った割りに出血量がずいぶん少なかった。死因は絞殺だそうです」
「なるほど……それでさっき屶を凶器の一つだなんて言ったわけだ」
「どう思われます?」
山影は長山に質問した。
「犯人はなんで二重手間になるような真似をしたんでしょう。首を絞めて殺したら、そのまま現場に放り投げておけばいい。なのに、わざわざ祠に運び、ご丁寧に首に屶を振り下ろした。なにか特別な意味があるとしか」
「見せしめってことかい?」
「それも一応は考えられますね」
「首を切り落として身許を分からなくさせようとしたのかも知れんな。ところが邪魔が入って途中で止めたという推理も成り立つ」
「いかにも」
「祠に運んだのは、逃走する時間が欲しくて隠したのと違うかい? 殺害現場が参籠所の駐車場辺りだったら自然な発想だ。あんなところに捨てて置いたら、三十分もしねえうちに発見されて大騒ぎになる。首を絞めたのも説明がつくじゃねえか。たとえ死体を上手く隠しても、駐車場に大量の血が流れていれば結果はおなじになるぜ」
「でしたら車に乗せて、もっと遠い場所に捨てた方が安心じゃありませんか。あの山の中を歩いてきたとは思えませんよ。十中八九、犯人は車を利用していたはずです」
「でもないさ」
長山は得意そうに鼻をぴくぴくさせた。
「バスで来ていた犯人なら車がなくて当然だろ。それじゃあ死体を運べない」
「あの時間にバスは動いていません」
「前日に来ていた可能性は?」
言われてぽかんとした山影は、
「つまり……参籠所の泊まり客だと」
ようやく長山の言葉の意味を解した。
「湯殿山ホテルから参籠所までは、歩いて行ける距離だ。したがって松本が行くのはたやすい。一方、オレの推理通りに犯人がバスで来て参籠所に宿泊していたら、殺しても簡単にゃ逃げられねえ。麓に下りるバスは早くとも八時か九時だろう。それまでなんとか死体を隠さにゃなるめえよ。オレが犯人なら、とにかく殺人の痕跡を残さないようにして、数時間は見つからないとこに死体を隠す。下手すりゃ参籠所に足留めを食らっちまう。だが、それだけでもまだ不安だ。運悪くバスが出発するまでに死体が発見されればお終いだ。そのためには犯罪を別の方向に逸《そ》らしておく知恵も必要だな。警察の嫌疑が別の人間に向くようにエサをバラ撒《ま》いて置けばどうだい?」
長山の解釈に蛍の顔が輝いた。
「そこまで計画した犯人なら、あらかじめこのドライブインから屶を盗んだり、ライターを入手するさ。残酷に屶を振るって復讐のように見せかければ、警察もそっちに注意が動く。その隙《すき》に悠々と逃げられるってわけだ」
「ううん」
山影は唸って、
「驚きましたな……まさか、そういう可能性があるとは……一度も考えなかった」
「参籠所の宿泊客は調べてないんだろ」
それに山影は悔しそうに頷いた。
「殺そうと計画を練った犯人なら、松本の置かれている情況も当然知っていたはずだ。千崎さんを犯人に仕立てれば、警察も納得するというぐらいは分かっていたと思うぜ」
「有り得ます。それは充分に有り得る」
山影は興奮の色を隠さなかった。
「千崎さんのアリバイはともかく、この人なら車で行動していたんだから、そんな面倒は必要なかったと思うね。そいつは山影さんがたった今言ったことだ。松本の死体を車に乗せて、どっかの山奥にでも捨ててしまえばいい。復讐でもないんだから、人に発見させる意味もなかろうよ」
「冴えてますな」
山影は大きく頷いた。
「早速部下を参籠所に向かわせます。昨夜の泊まり客を全部当たってみましょう。もし、その中に松本さんと少しでも繋がりのある人間がいたら追跡調査を……」
山影は入り口近くに居た部下を手招いた。
「聞いていた通りだ。偽名の可能性もあるから身許確認は慎重にやるんだぞ」
二人の部下は頷いて店を飛び出した。
「これで一挙解決かも知れないわね」
亜里沙が声を弾ませた。
「やっぱりミステリーを仕事にしているだけのことはあるわ。あっさりと謎を解いてしまうんだもの。私なんて絞殺と屶の繋がりがまるで分からなかった」
「そいつは宿泊客の調査待ちだ。オレは可能性の一つを言ったに過ぎん。実を言うと、その解決とミイラの盗難がどう関わってくるのか自信はねえよ。長靴についちゃお手上げだ」
長山の言葉に千崎の顔が曇った。
「もし、千崎さんを嵌《は》めようとする男が居るとしたら、番内が一番怪しいやつだぜ」
やがて長山が口にした。
「あいつなら足跡の一件も承知だ」
「でも……そんなことって」
蛍は激しく首を横に振った。
「だよな。どんなに憎んでいたって、仲間を殺したりはしねえだろう」
長山は直ぐにそれを取り消しながら、
「番内はどうしてる?」
山影に質した。
「ホテルに居ると思います」
「じゃあ、あれ以来別行動を?」
山影は頷いた。
「一応はアリバイを確認しといた方が今後のためにもよさそうだ。タイミングよく長靴が出過ぎた感じがするよ。もし、外出していたと分かったらマークする必要もある」
「ちょっと有り得ないと思いますがね」
山影は躊躇《ためら》った。
「どうして?」
「あの人がミイラを盗んだというならまだ分かりますが……あの長靴は埋めたときにつけられたものなんですよ。もし長山さんの想像が正しいとしたら、番内さんはミイラを埋めた時点から関わっていたことになります。じゃないと長靴の入手は不可能ですからね」
「………」
「となると……番内さんは自分でミイラを埋めて、自分でそれを発見して、自分でまたそれを盗んだということになりませんか?」
長山は少し考えて同意した。
「盗むくらいなら発見しなければいいし、発見するぐらいなら、わざわざ埋めなければいい。そういう理屈になるでしょう。それとも、それにもさっきのように合理的な説明ができますかね。だったら話は別だが」
亜里沙や蛍も頷いた。
「最低でも番内さんは埋めたときとは無関係のはずです。とすれば長靴の件とも関わりは」
「こいつはオレの考え過ぎだったか」
長山も素直に山影に従った。
「だんだんとトーマの好きな展開になってきやがった。あいつはこういう不条理が得意なんだよ。オレは無理でも、あいつなら番内を犯人に仕立て上げられる」
「とんでもない探偵役ね」
亜里沙は呆れ返った。
「理屈が通ればいいってもんじゃないわよ」
「冗談だって……ったく、洒落《しやれ》も通じねえ」
「塔馬さんですか」
山影は懐かしそうに頷いた。塔馬双太郎とは三ヵ月前に起きた後醍醐天皇絡みの事件で青森県の黒石市まで行動をともにした。そのときの思い出が山影の頭に浮かんだ。鋭いが、どこかのんびりとして心の温まる男である。
「今夜にでも電話してみるか」
長山は思いついて亜里沙に言った。
「皆が揃っていると分かりゃ来るかも知れんぜ。オケイの他に山影さんも居る」
「困ったときのトーマ頼みかぁ」
それでも亜里沙は嬉しそうに見えた。
「どうせ大した事件とは思わんだろうが……久し振りにゆっくり呑める。ついでに山影さんの栄転祝いもしちまおう」
「昨夜していただきましたよ」
「いいことは何度してもいいんだ。今夜だってそのつもりだぜ。千崎さんの事情聴取が終われば、もう仕事でもあるまい」
「事情聴取の段階でもありませんよ」
山影は苦笑して千崎と向き合った。
「どうも、長山さんたちに側に居られるとやりにくいですな。これでは茶番になる」
冗談でもなく山影は坊主頭を掻《か》いた。
千崎完三への事情聴取が長靴の発見から思わぬ方向に逸《そ》れて、誰もが中途半端な思いを胸に、ひとまずは湯殿山ホテルに戻った。全員がヘトヘトに疲れていた。ホテルの玄関に辿り着いたのは夜の八時半。前日から一睡もしていない長山はさすがに顔色が冴えない。靴を脱ぐ動作も少しもたもたしている。それでも長山は続いてきた山影を振り向いて三十分後に四階のスナック『紅花』で落ち合う約束をした。山影は長山の体調を案じていったんは断わったが、強引な誘いに苦笑で応じた。
「保《も》つの?」
ロビーで山影と別れて部屋への階段を上った亜里沙は長山を気遣って言った。蛍も石川も心配そうに頷く。
「意識|朦朧《もうろう》ってとこだな。リサの声も遠いとこから響いてくるぜ。こういうのが好きでね」
「眼の下に隈《くま》ができてるわ」
「タコの本音を探っておきたい。それに参籠所の聞き込みに行った連中もそろそろ戻ってくるはずだ。明日の朝になりゃ番内も一緒だからな。まさか、その前で結果を聞くわけにもいかねえだろうよ。仕事の徹夜と違って、眠くなりゃ失敬すりゃいいんだ。楽なもんさ。それに、こういう状態だとかえって興奮して眠れねえ。も少し酒を入れるのが正解だ」
「あんた、絶対長生きしないわね」
「百まで生きて、他人に糞尿まみれのパンツを替えて貰いたかぁねえよ。六十まで生きられりゃ御の字だ。オレの仕事にしたって六十がいいとこだ。いくら定年のねえ世界と言っても八十過ぎのじいさんが書く残酷ミステリーなんぞ、薄気味悪くてだれが読むもんか。売れなきゃ定年と一緒さ。上手く別の方向に転進できりゃありがたいが、歳に似合った盆栽小説とか民謡小説ってのも、ちょいとむずかしそうだしな。歳に欲はない。あっさりと死なせてくれるなら、いつでも結構」
長山は三人にうそぶいた。
「即身仏を前にしたら、締切に追われている自分がなんだか情けなくなっちまったぜ。東京に戻ったら、また五十枚の短編が待っている。こっちじゃ人が殺されたってのに……」
「なんだか支離滅裂ね」
「大事なことがたくさんあるような気がしてきたのさ。なのに、頭のどっかには締切って意識が胡座《あぐら》を掻《か》いていやがる。トーマの野郎が羨ましくなってきた。どうしてもあいつをこの湯殿山に呼びつけてやる。のんびり浮世絵なんぞを眺めている場合じゃねえんだ」
「私が連絡するわよ」
亜里沙は、やれやれと溜め息を吐いた。
「チョーサクの電話じゃ無理みたい」
亜里沙の呟きに蛍も笑って同意した。
それから三十分後。
冷たい水で顔を洗い、丹前に着替えた長山は四階のスナックに足を運んだ。
「お先に飲《や》っていましたよ」
やはり丹前姿の山影が笑顔でグラスを掲げた。カウンターには他にだれも居ない。店内が広々、と言うよりも寒々として見える。声を聞きつけてママが厨房から顔を覗かせた。
「昨夜は久し振りに楽しかったわ」
「嬉しかったんだろ。客が二十人近くも居て」
「さすが推理小説の先生」
ママはころころ笑ってグラスを用意した。
「日本酒でよろしいですか?」
山影が長山に質した。
「オレはビールにしよう。山影さんのペースに合わせて日本酒を呑んだら倒れちまう。この人は二升ぐらい軽いんだぜ」
長山の言葉にママは目を丸くした。
「尾花沢では怪物君と呼ばれていた」
「店を開けといてよかった。あんまりお客さんが来ないんで今夜は早終《はやじま》いしようかと……」
「他の皆さんは?」
山影が話を逸らして言った。
「トーマに電話を。今頃は湯殿山がどんなに面白いとこか二人で必死に説明してる。あと三十分もすれば顔を出すはずだけど」
「さっきより顔色が良くなりましたね」
「暖房のせいかな。参籠所に行った連中はまだ戻ってないのかい?」
「いや、ついさっき戻ってきました」
山影は曖昧な微笑を浮かべた。
「その様子じゃ、どうやら収穫はなしか」
「残念ながらね。もっとも、簡単な調べなので結論は出せません。明日になったら改めて確認調査を命じるつもりでおりますが……今のところ怪しい人物は一人も発見できずに」
「向こうの泊まり客は何人ぐらい?」
「青森と金沢からの団体客を除けば十一人。いくらなんでも団体客の中に居るとは思えんですよ。青森と金沢では松本さんとの接点も考えられない。これは除外しても……」
山影と目が合って長山も首を縦に振った。
「団体客以外の十一人のうち老人を含む家族連れが二組、合わせて九名です。残りの二人は東京からの若いアベックですが……これも特に不審な感じはなかったらしい。参籠所の人間が頼まれて二人の写真を玄関前で撮影してやったと言うんですから……」
「となると……客じゃないかも」
「参籠所に勤務している人間ですか?」
「条件は一緒だろ。夜勤していた人間なら、松本を殺しても直ぐには逃げられん。なんとか死体の発見を遅らせようとするはずだ。持ち場を離れられないから松本を仕事場の近くまで誘い出したという想像だって成り立つ。この土地の人間だったら番内と千崎の確執も承知。むしろ客より可能性がありそうだ」
「念の為にそれも調べさせました」
山影は笑って続けた。
「ああいう宿は朝が早いので、なかなか忙しいんですよ。それぞれに決められた仕事があります。複数の証言で夜勤の人間のアリバイが成立しています。駐車場で殺して祠に運ぶだけの時間はとても作れません。それに、地元の警官に信用のある人間ばかりです」
「その線も駄目となりゃ……見当違いか」
「鮮やかな推理とは思いましたがね」
山影はグラスの酒を一気にあおった。
「明日の昼辺りには解剖の細かい報告が届く予定です。すべてはその結果待ちだ。犯行時刻が何時何分とまで決まるとは思えませんが、それである程度絞れることを期待するしか」
「絞れるって……千崎完三かい?」
「だとしたら簡単過ぎる。そいつは長山さんもご承知でしょう」
「千崎は違うよ。首を賭けてもいい」
「私もこういう立場じゃなければ、あっさりと除外したいとこですがねぇ……」
山影はニヤニヤして言った。
「それにしても、ミイラはどこに消えちまったんだ。殺しのせいでそっちはさっぱりだ」
長山は苦虫を噛み潰すように口にした。
「もう、この世にはないかも知れませんな」
「処分されてしまったとでも?」
「これだけの騒ぎになれば、迂闊《うかつ》に出すわけにもいかんでしょう。盗んだ動機は分かりませんが、もう利用価値はない。下手に隠しておくよりも処分した方が安全ですよ」
「利用価値ね……確かにその通りだが」
「違いますか?」
山影はじっと長山を見詰めた。
「裏にはもっと複雑な事情があったかも」
「たとえば?」
「前にオケイから耳にしたけど……ミイラの発見直後に警察が簡単な調査をして、百年ほど前の死体だと鑑定したのは確かかい?」
「ええ。ミイラとは縁の薄い医者の鑑定ですから正式な見解ではありませんがね。最低でも百年は経《た》っているんじゃないかと」
「それは皆も聞いたわけだ」
「皆と言いますと?」
「番内とか村の連中さ」
「だと思います。公民館に運んであったのを医者に見て貰ったんですから」
「百年前ってえと明治の中頃だろ」
「ですね」
「番内の先祖がミイラの発見された山を自分のものにしたのは大正に入ってからだ」
「………」
「こいつが七、八十年前のミイラと言われたんなら微妙なとこだが、最低でも百年となりゃ話は違うぜ。大正までにゃ二十年以上の隔たりがある。たとえ簡単な調査にしても、そいつを耳にしたほとんどの人間は、所有権が村にあると思ったんじゃねえのかい?」
「かも知れませんね。私でもそう思う」
「放っておけば村の所有物と決まる物を盗み出すとは思えねえな。それが常識だ」
「では盗んだ人間は番内だと?」
「普通ならそれで決まりだろうが……」
長山は腕を組んで天井を見上げた。
「盗んでどうなるもんでもねえよ。映画の宣伝にも使えんし、嫌疑が集中するのだって承知のはずだ。こいつが資産のすべてを傾けても悔いのない絶世の美女ってんなら話は別だがね。ミイラと心中する気にはならん。あの程度の物で犯罪者の道を選ぶとはなぁ」
「同感ですな」
「どう見ても裏になにか他の理由があったとしか考えられねえ。所有権とか映画の宣伝なんて下らねえ動機とは別のさ」
「なるほど」
「松本殺しの犯人がだれかって問題は後回しにして、あの電子手帳に書かれてあった文面をまともにとるならば、ミイラを盗んだのは千崎を中心とする村の連中ってことになる。だが、情況的に言って村の人間がミイラを盗む必然性はまったくない」
「………」
「それでも、なおかつ盗んだと仮定するなら」
長山はビールのグラスを軽く揺らした。
「学術調査を恐れたってことだろうな」
「いったいなぜ?」
「なぜ、が分かれば苦労はないさ。それでも、蓑田先生やオレたちが到着した日に盗まれたのは偶然じゃねえような気がする。ひょっとしたら村の連中は学術調査ってのを大袈裟《おおげさ》に考えていたのと違うかい? ちょいとミイラを調べただけで名前が分かったり、死因が特定されたりするんじゃねえかと」
「死因……」
山影の目が鋭く光った。
何気なく口にした長山もハッとした。
「しかしなぁ──」
やがて長山は苦笑して、
「百年前のミイラがどんな死に方をしたって、今の我々にゃちっとも関係がねえぜ」
「我々には無縁でも、そいつを気にする人間が居ないとは断言できませんよ」
山影はこだわった。
「だが……村の連中はミイラの身許にまったく心当たりがねえって言ってるんだろ。だったら死因がなんだろうと平気だろう」
「嘘をついているのかも知れません」
「村の全員がかい?」
「………」
「そいつはちょっと怖い想像だ」
「所有権を主張したのも、ミイラを闇から闇に葬るつもりだったと仮定すれば」
「まさか学術調査が行なわれるとは思わずにか」
「ええ。それを主張して経費を提供したのは、番内さんです。番内さんが言い出さなければ案外すんなりと村の持ち物になったかも」
「村の物だと言い出したのは千崎かい?」
「いや、千崎さんはたまたま村会議長という立場にあるので交渉の中心になっているだけで、実際に煽動しているのは雲海和尚です」
「雲海? 初耳だ」
「仙人村一番の大きな寺の住職ですよ。仙雲寺と言って真言宗だとか」
「真言宗てと大日坊とか注連寺と一緒だな。即身仏と関わりのある宗派だ」
「そうです。ところが仙雲寺には、湯殿山の麓でありながら即身仏がない。そういう記録もいっさい残されておらんのだそうです。だから最初は発見されたミイラを即身仏とは無縁のものだと力説しておったのに、いつの間にか所有権は村にあると口にしはじめた。即身仏とは無縁でも、ミイラを飾れば観光客が群がってくると踏んだに違いありません。昨日の昼にちょっと話を交わしただけに過ぎませんがね。いかにも欲深そうな印象を受けましたよ。まあ、私がこんな先入観を持っちゃいかんのでしょうが」
「何歳くらいの坊主だい?」
「千崎さんとそれほど変わりがありません」
「寺ならミイラを欲しがるのも道理だ」
「番内さんの家も元は寺だったとか」
「へえ……」
「元といってもだいぶ前ですよ。口振りでは五、六代も前でしょう。例の廃仏毀釈のときに整理された寺とか聞きました。あれは明治のはじめですか」
「落魄《おちぶ》れた家が、よく大地主になれたもんだ。その時代じゃ寺の財産を処分したって二束三文にしかならん」
「いったんこの仙人村を捨ててアメリカに移民したんです。成功して大正年間にふたたび村に舞い戻った。番内さんが村の連中から煙たがられている理由は、その辺りにあるんじゃありませんか」
「そのときの確執が今に持ち越されているってわけかい……信じられねえ話だ。それにしてもアメリカで成功した先祖が、なんで好きこのんでこんな田舎に戻ったんだろうなぁ」
「生まれ故郷は特別ってことですよ」
「番内にしても、東京で成功してるってのに、妙なこだわりを持っていやがる。他人の目から眺めりゃ、どうってことない土地だぜ」
「長山さんにはありませんか?」
「広島にか? ねえって言うと嘘になるが、別に余生を広島で過ごしたいとは思わんな。あんまり広島も素材にしてねえし。原爆のお陰で妙に書きにくい。読者の広島に対するイメージが強すぎる。あんな町を舞台に怪談を書きゃ、直ぐに原爆と結び付けられてしまう。書かないから思いも薄れる。その程度の関係だ。いまさら故郷に錦を飾りたいとも思わんね。だから番内みてえなやつを見ると、ホントかねと皮肉のひとつも言いたくなる」
笑って山影も頷いた。
「本当に故郷を愛しているんなら、他にいくらでも表明する方法があるだろうさ。母校に充実した図書館を建設して寄贈するとか、役場に育英基金を設けるとか……映画を作るよりは遥かに安上がりで、地元にも喜ばれる。映画じゃ、どんなに撮影の舞台にしたところで、銅像を建てちゃくれまい。あいつのエゴに過ぎんと言われても仕方がねえな」
「なかなか手厳しい」
「自分が愛している土地だから、世間に美しさを紹介したいだけで、住んでる人間のことはどうでもいいんだろう。そういうのも世間じゃ郷土愛って呼ぶのかね」
「………」
「トーマの偉さはそこだ。やつは浮世絵を愛してるが、自分の為に浮世絵を利用しねえ。どんなにギャラが高くても、浮世絵が誤解されそうな仕事はあっさりと断わる。反対に浮世絵の価値を高める仕事だったら、たとえ無料でも引き受ける。それで浮世絵がトーマに感謝状を贈ってくれるわけでもねえのにさ。自腹で故郷を舞台にした映画を作ろうとする番内の気持と似ているような気もするけど、やっぱり違うぜ。トーマが番内の立場に居たら、おなじ映画でも歴史や風土に根ざしたドキュメンタリーを手掛けるだろうな。あわよくば金儲けも、なんて発想は浮かばんはずだ」
「あの人なら、きっとそうでしょうね」
「まあ、もともと金に縁のねえやつだから、欲がないとも考えられるけど。なまじオレみたいに中途半端な収入があれば、預金通帳が気になって夜も眠れやしねえ。減らすまいと必死になるあまり、魂まで売ってポルノまがいの小説なんぞも平気で書いちまう男だよ」
長山の言葉に山影は楽しそうに笑った。
「あら……今夜はたったこれだけ?」
セーターに着替えた亜里沙が体半分をドアから覗かせて言った。その後ろに風呂へ出掛けていた石川の丸い笑顔が見える。
「風呂上がりのビールは旨《うま》いぞ」
長山は石川にグラスを掲げた。熱い風呂だったらしく、石川は上気した顔をしている。
「オケイはどうした?」
長山はカウンターに並んだ亜里沙に訊ねた。
「番内さんから呼び出されて。明日以降の打ち合わせじゃないかしら。疲れたのでお酒は遠慮するって言ってたわ」
「だらしねえやつだ」
「それより、トーマから面白い話を聞いたの」
亜里沙は少し興奮していた。
「ミイラの正体についてなんだけど」
長山と山影は顔を見合わせた。
「異人殺し?」
亜里沙から言われて山影は首を捻った。
「異人と言うと……外人のことですか?」
「別に外国人の意味じゃなく、その地域にとっての異人、つまりよそ者です」
「それが、ミイラの正体だと?」
ますます山影は面食らった。
「なーるほど。異人殺しか」
長山は何度もとなりで頷いた。
「それだけで分かりましたか?」
山影は唖然とした目を長山に向けた。
「さすがに塔馬双太郎だぜ。とんでもねえことを思いつくもんだ。確かに……この奥深い山ん中じゃ、それが行なわれてもおかしかぁねえ。村の連中が隠したがるのも、それで立派に理由がつく。ったく、トーマってやつの脳みそを調べてみたいもんだぜ。なんで最初にそいつに頭が回らなかったのか……我ながら情けねえ。ミイラってのにごまかされてポイントを見落としていたんだ」
長山は悔しそうに拳を握った。
「私にも分かるようにご説明願えますか」
山影は苛立った様子で口にした。
「説明もなにも、その通りの話さ」
長山は少し間を置いて続けた。
「今と違って江戸時代は極端な閉鎖社会だった。簡単に移動できる車や電車がなかったという理由も、無論そのひとつにゃ挙げられるだろうがね。それより肝腎なことは、日本を細かく仕切っていた藩体制にある。藩は独立経済を維持するため、重要な基盤である農民の逃散《ちようさん》を恐れて外部との接触を堅く禁じたり、よそ者の侵入に神経を尖《とが》らせた。養蚕や、それこそこのスナックの名前になってる紅花《べにばな》なんかの技術を盗みに、他の藩からスパイが入り込まねえとは限らないんだからな」
山影は戸惑いながらも頷いた。
「だから、当時の旅行には、今の我々の想像もつかねえような面倒がともなった。藩内の移動ならともかく、たとえ五百メートルでも他藩に足を踏み入れるとなりゃ、厳重な審査を経た通行手形が必要となる。しかも目的地からちょっとでも外れたコースを取れば、即座に訊問だ。今みたいに他藩の中に自藩の領事館のような機関もねえんだぜ。たとえ役人に捕まったって弁解してくれる人間もいないわけだよ。通行手形は命の保障と一緒だ。雨に濡れて文字が見えなくなっても再発行はしない。旅人は薄い紙切れの手形を破ったりしないよう二枚の板にしっかりと挟んで、そいつを油紙で何重にも包んで、紐で首にぶら下げた。そうして決められた街道だけを歩いていたってわけさ」
「………」
「けれど、手形があって主要街道を辿る分にゃほとんど問題はねえ。よく時代劇なんぞを見てると商人や女たちが駕籠《かご》かきや追剥《おいは》ぎに襲われる場面が頻繁に登場するけど、実際には皆無に近かったみてえだぜ」
「すると、治安のよさは昔からですね」
「あくまでも主要街道の中ではな」
長山はニヤニヤ笑った。
「脇道となりゃあ話は別さ」
長山は身を乗り出して言った。
「現実には通行手形を持たねえ旅人も大勢居る。そいつらは検問所を避けて脇道に入る。そうなると藩もそいつらの生命の保障はしねえし、たとえ殺されたとしても、積極的な捜査をしなかったようだ。言わば勝手に入り込んできた連中なんだから」
「なるほど」
「そいつらがどういう連中かと言うと……手形を許可されねえんだから、まともな人間じゃねえわな。もっとも、まともじゃねえってのは、当時の概念で、今なら分からんがね。やくざはともかく、修験僧とか六部《ろくぶ》と呼ばれた巡礼たちを、まともな人間じゃねえなんて口にすると叱られる……それに、鳥追いなどと呼ばれた芸人たちも含まれる」
「ああ……そういう連中か」
山影はいかにもと頷いた。
「我々は今の概念で、そういう連中を貧しかったと想像しがちだが……これもテレビとか小説による誤った知識でね」
「そうなんですか」
「よく考えてみりゃ分かるだろう。今と違って全国共通の郵便局とか都市銀行がないんだぜ。おまけに巡礼や修験僧は芸人のように日銭を稼ぐこともできやしねえ。いくら贅沢《ぜいたく》とは無縁の旅と言ったって、一年や二年を放浪して歩くには相当な資金が要る理屈じゃねえか。最低でも今の金にして二、三百万の金は身につけていたはずだ。でなきゃ必ずどこかで野垂れ死にしちまう。巡礼の全員が自殺願望であるわきゃねえんだから」
それには亜里沙も石川も頷いた。
「怪奇小説の素材に昔話をよく使う。その中に巡礼の死を扱ったものが結構あるんだ。たいていは悲惨な物語だが、よれよれの衣服で貧しかったと信じていた巡礼の遺品をあらためて見ると、杖や枕に小判や黄金が仕込まれていたって話もたくさん出てくる。常識的に考えると、それが当然だろうな。宿代の他に病気で倒れることも有り得る。相当な予備金を用意してねえと旅が続けられねえ」
「襲うには絶好のターゲットだと?」
山影もだんだんと読めてきた。
「手形を持っていねえ六部たちなら、たとえ殺して金品を奪ったところで、大した捜査も行なわれねえ。家族にしても、自分の身内が日本のどこを彷徨《さまよ》っているかも知らねえ。それじゃ捜索願いも出せないさ。仮に出したとしたってまともに取り扱ってくれたかどうか。伝説や昔話にゃ、そうした殺人のことが、それこそ掃いて捨てるほど見付かるぜ。もっとも、肯定的な話としてじゃなく、そうやって金持ちになった家が、やがて被害者の六部や按摩《あんま》の祟《たた》りで没落したという説明だがね」
「なんとも……怖い話ですな」
「昔話の中に『こんな晩』と分類される物語たちがある。すでに夏目漱石が『夢十夜』で書いてしまった素材だから使えないが、そりゃ恐ろしいもんだぜ。下手なホラーなんて顔負けの怖さだ」
「それも異人殺しと関係が?」
山影ばかりか亜里沙も興味を持った。
長山は話を思い出しながら伝えた。
「話の分布はほぼ全国にまたがっているようだが、圧倒的に東北が多い。基本パターンは雨の降りそうな淋しい晩に、金を持っている旅の六部や按摩が、街道を外れた野中の一軒家に泊まるところからはじまる。宿を貸した貧しい夫婦も最初は客を歓待しているんだが、相手が大金を持っていると知ると、途端に欲心が湧く。酒を飲ませて酔い潰し、眠ったのを見澄まして屶で首を落としたり、あるいは大石で顔を潰して殺しちまう。その奪った金を元手にして夫婦は商売をはじめ大成功する。恵まれなかった子宝もできて万々歳ってとこだが、たったひとつ不幸な点は、生まれた子供の目が不自由だったり、口が利けなかったりすることだ。それでも不自由な子ほど可愛い。大事に育てて五、六年が過ぎた頃……雨の降りそうな淋しい晩さ。ぐっすり眠っていた子供がむずかって泣き出す。しょんべんがしたいらしい。外の厠《かわや》は面倒だし、庭でさせちまえと、男親がその子を背負って庭に出る。いまにも雨になりそうな厭《いや》な晩だ。思わず暗い空を眺めていると、目が見えなかったり、口の利けないはずの子供が、一緒に空を見上げていて……」
長山は少し間を置いて、
「こんな晩だった……と耳元で囁くんだ」
亜里沙はゾクッと肩をすぼめた。
「お前がオレを殺した晩は……とな」
「………」
「言うなり、その子供は見る見る大きくなって、殺した六部になる。そうして父親を闇の中に引き摺《ず》り込んでしまう」
長山は亜里沙の反応を見て薄笑いした。
「後半の怪談部分はともかく、強奪目的で殺された旅人の代表格は六部や按摩だったということさ。薬の行商や物見遊山の旅人となりゃ身許がしっかりしてるから迂闊《うかつ》に手が出せねえ。けれど六部や按摩なら……」
「厭な話だわ。本当なのかしら」
亜里沙は溜め息を吐いた。
「それが事実としてもですよ……」
山影は首を捻った。
「それと、今度のミイラが繋がりますか?」
「異人殺しには、もうひとつのパターンがある。トーマが言ったのはそっちの方だ」
「もうひとつ?」
「神に対する犠牲だ。飢饉《ききん》とか疫病が流行して村が危機におちいると、当時の民衆は村のシャーマンに占って貰った。その場合に神憑《かみがか》ったシャーマンは、たいてい神への犠牲を要求した。だが、おなじ村の人間では具合が悪い。うまく解決がつかなければシャーマン自身の命も危うくなる。それで、とオレは睨んでいるが、異人殺しが命令された。それだと失敗してもあんまり文句は言われない。託宣が下った瞬間から三番目に村を訪れた旅人を殺して村の辻に埋めろ、とか、満月の晩にやってきたよそ者を捕らえて川に沈めれば必ず日照りが治まる、とかな」
「まさか!」
山影は絶句した。
「トーマもそう言わなかったかい?」
長山の言葉に亜里沙は小さく頷いた。長山は満足気に首を振り下ろして、
「そう見做せば、いろんな謎に答えが出るってもんだろ。殺された人間が諸国を彷徨《さまよ》い歩いている六部なら、きっと栄養状態もよくなかったはずだ。五穀断ちをしてた湯殿山の一世行人とあんまり変わりがなかったんじゃないかい? つまりはミイラに加工しやすかった体質とも言える。他の土地ならともかく、この一帯は即身仏のメッカだ。シャーマンがそれを命じたとて、ちっとも不思議はねえぜ。村を救うために、何月何日に訪れた六部を殺し、即身仏にしろと命じたことは、そんなに飛躍した想像でもなかろうさ」
聞いて山影は額の汗を拭いた。
「しかし……そういう経緯で拵えた即身仏なら、おおっぴらに拝みもできねえわな。下手すりゃ村全体を挙げての異人殺しが発覚しちまう。そこで即身仏を石の阿弥陀像に封じ込めて拝んだ。そう解釈すりゃ、蓑田先生の言ってた矛盾にもちゃんと解答が出る」
山影は大きく相槌を打った。
「飢饉か疫病か、理由はなんだか知らねえが、とにかくその危機は去った。即身仏の役目も終わる。となれば、いつまでも阿弥陀像を飾ってはいられねえ。発覚しないうちにどこかに埋めてしまうのが安心だ。そうしてミイラは土の中に隠された。この想像が当たっているなら、村の連中がミイラについて知らぬ存ぜぬを通したことや、学術調査を恐れた理由も明白になってくる。いくら自分たちとは無関係と言っても、直接の先祖の犯罪を明らかにされるのは敬遠したいところだろう。ミイラにどんな痕跡が残っているか知れたもんじゃねえんだからな。ひょっとするとスキやクワの傷が付いているかも知れねえ」
「確かに……辻褄《つじつま》は合います」
山影は長山の説に感服したようだった。
「トーマは……村のどこかで道路工事でもしていなかったか、って」
亜里沙が電話でのやりとりを伝えた。
「人柱の場合は村の中心とか、出入り口に埋めるケースが多いんですってね」
「そうか……それで道路工事のことを」
長山は直ぐに理解した。
「道路工事の最中に埋めたミイラが発見されて、慌てて山奥に隠したと睨んでるんだな」
「道路工事なら仙雲寺の周辺で何ヵ所もやっておりましたよ」
山影が即座に重ねた。工事の事実を知って残りの全員が互いの顔を見やった。
「村の中心とは呼べない場所ですが」
山影は慌てて付け加えた。
「また仙雲寺の登場か」
「仙雲寺って、なに?」
「ミイラを欲しがっている坊主の居る寺さ」
長山は亜里沙に説明した。
「こいつぁトーマの推理がドンピシャリかも知れんぞ。役者も揃ってきた」
長山の眠気はとうに吹き飛んでいた。
「雲海って坊主なら、寺の近くで発掘された石棺の中になにが入っているかも承知だったに違いねえ。そこで慌てて石棺を番内の持ち山に隠した。工事の最中なのでクレーン車もある。ことは簡単だ。なぜ番内の山か、という謎は残るが、これだって単純にクレーン車が入って行ける道がつけられていたという理由に過ぎねえかも知れんぜ。砦のセットの基礎はすでに作られていたんだし、そこから離れた場所なら、まさか掘り返されると思っていなかったんじゃないかね」
長山の推理はどんどん膨らんだ。
「すると……例の写真はどうなります?」
頷きながら山影は質した。
「そいつぁ……」
と長山は詰まった。
「あれは明らかになにかの予告です。まさか雲海和尚が送ってきたとは思えませんね」
「じゃあ、工事関係者で雲海を恨んでいるやつの仕業だ。それとも……警察にいったん証拠の写真を送りつけておいて、それをネタに雲海を恐喝しようとしてる人間が居るのかも知れねえな。その写真にゃミイラアナと書いてる他に、なんの手掛かりも見当たらなかったんだろ。もし告発なら、もっと正確な情報を書き入れるはずだ。その辺りが怪しい」
「長山さんにかかれば、どんな事件も快刀乱麻ですな。昼にあの鮮やかな推理を耳にしたばかりなのに、今度は別の展開で解き明かす」
「こいつはトーマの推理だぜ」
長山は謙遜した。
「トーマはミイラの正体について可能性を教えてくれただけよ。和尚さんの存在も知らないし、写真のことも言い忘れたわ」
「じゃあ、オレの手柄かね」
長山は亜里沙と向き合った。
「反対。チョーサクが先走るようで不安なの。そんなに簡単な事件かなぁ?」
「トーマだってきちんと情報を得たらオレとおんなじ結論に達するはずだ」
長山はちょっと不機嫌そうに返した。
「明日がお楽しみね」
「てと? トーマが来るのか」
「これだけ揃っていたら同窓会みたいなもんだなって……午後遅くには間違いなく」
亜里沙に言われて長山は喜びながら、
「あいつも物好きな野郎だぜ。ま、到着するまでには事件も解決してると思うがな。明日の朝に仙雲寺に出掛けて雲海って和尚をとっちめれば、だいたいの展開が読めるだろうさ」
笑った長山の丹前の袖を山影が強く引いた。
「ん?」
長山は山影を振り向いた。山影は無言で店のドアの方向を顎《あご》で示した。ドアから大柄な男が顔を覗かせて店内を窺《うかが》っている。
「あれが雲海です」
小声で山影に囁かれて長山はドキッとした。亜里沙と石川も青ざめた顔でドアに目を移す。雲海はカウンターに陣取っている山影の特徴ある坊主頭を認めて破顔した。
「儂《わし》の噂をしとったのはあんたでしたか」
雲海は薄笑いのまま皆に近づいてきた。断わりもなく山影のとなりに腰を下ろすと、手を差し出して山影の手を強く握った。
「今夜はどうしてここに?」
山影は冷たい口調で訊ねた。
「あんたに会いに来たんですよ。そしたらこっちだと聞かされて……廊下にまで聞こえましたぞ。明日の朝に寺に訪ねてくるとか」
雲海はじろじろと長山たちを見詰めた。
「千崎から聞いておる。小説家の先生と雑誌社の人じゃろう。千崎を庇ってくれたそうじゃが……どうやら味方でもないらしいの」
雲海のダミ声を聞きつけて、厨房に入っていたママが挨拶に出てきた。馴染みらしい。
〈もしかすると彼女が雲海に電話を……〉
それを想像して長山は冷や汗を掻いた。湯殿山ホテルは仙人村と関係がない。そう思って安心していたが、考えてみると車で二十分と離れていないとなり村なのだ。雲海と知り合いの者はいくらでも居るに違いない。
「で、私にご用件とは? もし憚《はばか》るようなことであれば部屋の方で伺いますが」
山影は時計を見ながら言った。九時半をとっくに回っている。都会ならまだしも、この田舎では真夜中に近い時間だ。
「番内の小倅《こせがれ》に誑《たぶら》かされてはならん。それだけをあんたに言っておきたくての。昨日の昼はまさかこんな大事件が起きるなどと思わんかったものだから見逃しておったが……あいつは食わせ者だ。あんなのと宿が一緒では、あることないこと吹き込まれるに違いない。もちろん警察が公平なのは信じておるが……騙《だま》されてからでは取り返しがつかんのでな」
「とは穏やかじゃありませんな」
「儂や千崎の悪口をずいぶん聞かされておるのと違うかね? 村を食い物にしておるとか、他人の財産を横取りして太ったとか」
「いや……それは初耳です」
山影が睨むと雲海は慌てて口を噤《つぐ》んだ。
「そういう噂が流れておるのですか?」
山影は意地悪く質した。
「正直に言おう。儂と千崎と、亡くなった番内の親父とは若い頃からの喧嘩相手じゃ。と言っても、常に番内が仕掛けてきた喧嘩じゃったがな。しかも喧嘩の原因は儂たちにあるのではなく、親が仇敵同士だったからという理屈でじゃぞ。まったく呆れたもんじゃないかね。今の世の中に通る道理じゃない。こっちはなんとも思っておらんのに、儂が村長選に立とうとすると、金の力を使って悪質な妨害に出る。千崎が議会で村の小学校を改修しようと決めれば、建築業者と癒着した工事だと騒ぎ立てて潰す。村の発展のことよりも、番内には儂らの邪魔をすることだけが生きがいだったんじゃ。あの小倅も、ずうっと村に居て眺めておれば父親の理不尽な妨害じゃと分かったはずだが、いかんせん、若い時分から村を離れておった。それで本当のことをなにひとつ知らんのだ。親が死んだのも儂らに責任があると思い込んでおる。今度、村に戻ってきたのにしても、果たして映画だけの理由かどうか……戻る早々、幼馴染みに儂と千崎とを社会的に葬るとかぬかしおったらしいからの。あの親にしてあの倅あり、じゃよ」
「番内さんは苦労した大人ですよ」
山影は苦笑して、
「十三、四の子供ならともかく、あの年齢に達したら、ことの善し悪しを冷静に判断できると思いますがね。たとえ村に居なかったとしても、どちらが悪いかぐらいは──」
「儂が嘘をついていると!」
雲海は突然声を荒げた。
「世の中にはどんなに大人になっても理屈の分からん阿呆がおるもんじゃ。そんなに憎ければ墓の中に入って儂と千崎の先祖を殺せばよかろう。儂らを恨むのは筋違いというもんじゃありゃせんかね。それがすでに誑《たぶら》かされておるってことだ。村のだれに聞いても構わん。あの番内の親父さえ居なければ、村はもっとましになっていたはずだ。自分の生活さえ安泰なら村がどうなってもいいという身勝手な人間じゃったよ」
雲海は派手にカウンターを叩いた。
「本当にましな村になっていたかね」
いきなり番内の声が響いた。いつの間にかドアの側に番内が立っていた。
「戦時中に人身売買まがいのことをやっていたあんたを村長にさせまいとした親父のどこが悪い。一割も建築費をピンハネしようとしていた工事を暴いてなにがいかん。それでこっちを変人扱いとは……大した人格者だな。墓に入って復讐しろだと! オレが殺したいのはあんたらだよ。どうせ本当のことを警察に言われるのが怖くて様子を確かめに来たんだろうが。誑かしてるのはあんただ」
「小僧!」
雲海はイスから立ち上がった。
「儂を舐めるとタダじゃすまんぞ」
「こういう糞坊主なんですよ」
番内は呆れたように長山に言った。
その顔に雲海の振り撒《ま》いたウィスキーがかかった。番内はすかさず飛び掛かった。
「よしなさい!」
山影は番内の襟首を掴《つか》んで引き離した。
長山はグラスを片手にその場を逃れて修羅場を見守った。
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第四章 羽黒山狂い旅
翌日の午後遅く。
長山は冴《さ》えない顔をして喫茶室でカラオケの歌詞カードを眺めていた。もちろん歌うためではない。置いてある新聞や古い週刊誌を読み尽し、退屈しのぎに手に取ったのだ。亜里沙や蛍は石川を連れて即身仏の撮影交渉に出掛けている。この情況で撮影とは少し呑気《のんき》な気もするが、せっかくプロのカメラマンを東京から呼び寄せておいて仕事をしないのも勿体《もつたい》ない。蛍が一緒なのは、山形県内での彼女の知名度を利用するためである。長山は塔馬双太郎を待つという理由で断わった。実際はそのときひどい二日酔いで車に乗る気分ではなかった。三人を送り出し、ふたたび布団に潜り込んで、目が覚めたらすでに午後の二時近かった。四時間以上も眠ったことになる。もっとも昨夜布団に入ったのは二時。朝食のために八時に起こされたので六時間しか睡眠を取っていなかった。それに四時間がプラスされたところで、それまでの二日間の徹夜を考えれば、まだまだ足りない計算だ。中途半端に眠ったせいか頭痛がまだ残っている。
〈そろそろか〉
長山は壁の時計を見上げた。亜里沙の話では三時頃に塔馬が到着するはずだという。時計はすでに三時を十分も過ぎている。
それにしても……
静かなホテルである。のろのろと起き出して喫茶室に陣取り、一時間以上が経《た》つというのに、一人の客も来なければ、ロビーを隔てたフロントに電話の音もしない。都会のホテルと異なって、真昼に出入りする客は滅多にいないのだろう。喫茶室のウェイトレスも暇そうにテレビの音を低くして見ている。
「コーヒー、もう一杯」
長山は空のカップを高く持ち上げて言った。そんなにして見せなくてもいいのだが。
「カラオケにはまだ時間が……」
頷《うなず》きながらウェイトレスは長山の歌詞カードを気にして念を押した。
「歌わないさ」
長山は苦笑して本を閉じた。
「本当に今日は満室かい?」
「ええ。東京からテレビ局の人とか週刊誌の記者さんたちが……夕方でしょうけど」
「物好きなもんだよな。現場にいるオレがこんなにのんびりしてるんだ。連中は蛍がまた事件の渦中にいるってんで興味を持ったんだろうが……ったく、暇としか言い様がねえ」
長山の言葉に彼女は曖昧《あいまい》な笑いを浮かべて、
「昨夜は大変だったとか」
「和尚と番内の喧嘩のことか」
「私は通いですから詳しいことを……」
「あの喧嘩は、どっちもどっちだよ。どっかで呑んできたと見えて、和尚の方は最初から喧嘩腰だったがね……番内もそれを承知で煽《あお》った。側に警察がいたから強気になったのさ。グラスを二、三個とフロアやソファを酒で汚した程度だ。大した喧嘩じゃねえ」
「和尚さんの酒癖の悪いのは有名です」
「ちょいちょい来るのかい」
「千崎さんたちとご一緒に」
「この辺りじゃ、気の利いたバーってと、あの『紅花』ぐらいしかなさそうだしな」
ウェイトレスは頷いた。
「二人の評判は?」
「和尚さんと千崎さんですか?」
「ま、言いにくいわな」
困った顔をした彼女を見て長山は笑った。
「この近辺じゃ実力者なんだろうし」
そこに車が駐車場に入ってくる音が聞こえた。長山は首を伸ばして玄関を眺めた。ガラスを通してタクシーが見えた。塔馬の横顔がチラッと目に入った。
「コーヒーをもうひとつ。着いたらしい」
長山はイスから立って玄関に迎えに出た。
タクシーから降りる塔馬と目が合った。
長身に端正な顔立ち。こうして眺める限り、とても浮世絵という古いものを研究している学者とは思えない。長山は陽気に手を振った。
「忙しかったんじゃねえのか?」
長山は塔馬からバッグを受け取った。
「山影さんまで一緒なら来る他ないさ」
塔馬は疲れた様子も見せず上がった。
「トーマが着くまでに事件を解決しとこうと思ったんだがな……寝不足の上に二日酔いでダウンだ。名探偵が倒れたお陰で事件も小休止ってとこさ。リサやオケイは即身仏のある寺に行ってる。タコはあちこち情報探しだろう。番内は殺された松本の死体を引取りに来た家族を案内して昼から鶴岡に向かった。夕方にゃ全員が戻ってくる。それまでに風呂にでも入りゃあいい。夜はテレビや週刊誌も来てうるさくなりそうだ」
「またか」
喫茶室に落ち着いた塔馬は厭《いや》な顔をした。ウェイトレスが二つのコーヒーを運ぶ。
「異人殺しの仮説を聞いたぜ」
長山はブラックを啜《すす》りながら、
「タコも納得してたようだ。今頃は道路工事の関係者を当たってるはずだ。トーマは知らんだろうが、雲海って坊主のいる寺の側で道路工事をやってる。ミイラが埋められていたとしたら、そこが一番怪しい。雲海と番内の親父は仇敵同士だった。いろいろと謎が繋がってるよ。鶴岡署に届けられたミイラ穴の写真は、雲海を面白くねえと思ってる工事関係者が、恐喝のために仕組んだ作戦じゃねえかと睨んでるがね」
長山はこれまでの経過を細々《こまごま》と伝えた。
「そう単純な事件でもなさそうだ」
塔馬は小さく息を吐いた。
「登場人物のほとんどを知らないんでミイラについてだけ考えたが……そういう複雑な人間関係が裏にあるなら、異人殺しも的を外れたものだったかも知れない」
「なんでだ?」
「もし本当に雲海和尚が最初の発見に関わっているとしたら、わざわざ番内たちのロケ現場の近くに運んで埋めるより、自分の寺の墓所に隠してしまうのが簡単だ。墓に死体があるのは当たり前だろ。それに、自分の管理する墓所なら今回のように他人に発掘される心配もなくなる……最初に他の人間が見付けた場合でもおなじさ。その工事現場が寺の側なら、必ず雲海和尚に報告する。死体は確かに警察の管轄だろうが、坊主はもっと身近だ。つまり、常識的に言って、寺の側の道路工事で発見されたということは考えられない」
「なるほど……理屈ではあるな」
「道路工事をやっていたとしたら、もっとロケ現場に近いとこだと想像していた。まさか道路脇に放ってもおけなくて、近所に山へ上がる道のあるのを幸い運んだ、とさ。寺が側にあったならそういう面倒はしないはずだ」
「またこっちの勇み足だったらしい」
長山は素直に認めた。
「昨日の電話では情況が見えなかったので、思いつきを言ったに過ぎない」
塔馬は続けた。
「村にそういう古くからの確執があるなら、中には番内の父親に味方した人間だっていただろうね。和尚にも敵がいるんだ。もし和尚が妙なことを企んだとしたら、必ず噂になる。山影さんの耳に入らないとは思えないな」
「それじゃあフリダシかい?」
「褒《ほ》めるわけじゃないが……」
塔馬はニヤニヤして言った。
「オレの推測より、チョーサクが展開した参籠《さんろう》所の犯人説の方がずっと現実に即していると思うよ。異人殺しは撤回する」
「残念ながら参籠所の件は無駄だった。どう探っても犯人らしいやつは見当たらねえ」
「となれば……ミイラにもっと重大な秘密が隠されているんだろう」
「もっと重大な秘密?」
「異人殺し程度なら雲海和尚もさほど慌てるはずがない。世間に発覚したところで、実際には大した問題でもないさ。けど、もっと別の秘密があって、しかも、そいつが番内の先祖と関係あるなら、わざわざ山に埋めたのも分かる。番内を陥《おとしい》れるのが目的でね」
「だったら、なんでミイラを盗むんだ?」
「盗んだ犯人は和尚たちじゃなく、その陰謀に気づいた番内と仮定したら?」
あっ、と長山は唸《うな》った。
「今までの情況では圧倒的に番内に分がない。番内は映画の宣伝のためにミイラを欲しがっていた。けれどミイラの所有権は村にありそうだとも分かっていた。そのミイラが盗まれたなら、だれだって番内が怪しいと睨む。だが番内は子供じゃない。だれにも直《す》ぐに想像がつくような愚行は犯さない。普通のミイラならもちろんそうだろう。盗んだところで映画の宣伝には使えないんだからな」
「………」
「しかし、ミイラが学術調査されて、親とか先祖の秘密が暴露されると知ったら、そうも言ってはいられないさ。疑われることを百も承知で調査を阻止しなければならない。万が一捕まっても、ミイラを処分した後なら、映画の宣伝に利用したかったと言い訳すれば済む。もちろんなにがしかの罪には問われるだろうが、それで先祖の旧悪の暴露については防げるんだ」
「ちょっと待てよ。それなら別に番内じゃなくてもいいのと違うかい。この村のだれかの先祖のことと仮定すりゃ」
「その可能性はもちろんいくらかある」
「番内を疑うにやぶさかじゃあないが……ミイラに秘密があったとして、そいつを即座に番内の先祖に結び付けるのは飛躍ってもんだ」
「だったら逆に質問しよう」
「………」
「今のところミイラの身許が突き止められる可能性は?」
「さあ……そいつは面倒だろうな。石像の中にゃ手掛かりがなかったと言うし、文献にもなにひとつ残っちゃいねえ。それこそ、親族でも名乗りを上げない限り……」
「学術調査ではどうだ?」
「死因は分かるかも知れねえが、身許までは無理さ」
「それなら、たとえだれの先祖であろうと問題ないはずだ。どんな結果が現われようと、自分さえ口を噤《つぐ》んでいればだれにも知られない。危険を冒してまで盗む必要はない」
「番内の場合は違うとでも?」
「証拠はなくても相当な噂になるだろうな。なにしろ発掘現場は番内の持ち山なんだ。ミイラに殺人の痕跡でも発見されたら、きっと雲海和尚や千崎が騒ぎ立てるに決まってる。番内の先祖の仕業だとでもね」
「けど、ミイラは百年くらい前のものだと分かってる。その当時、あの山は村の共同所有地だった。そう簡単にはいくまい」
「オレが番内に敵対する側にいたら……どこかに隠していたミイラを、番内の先祖が山を所有した時点で移し変えたと主張する。そこを映画のセットを拵《こしら》えていた番内が偶然に掘り当てた。慌てた番内はとりあえず近くの斜面に移動させた。それを、またまた番内の部下が知らずに掘ったに違いない、とさ」
「いかにも……説得力はある」
「そういう噂が村中に広まって、しかもミイラにも殺人の形跡があったとなれば……少なくとも映画の撮影はむずかしくなる。言わばミイラは、ばば抜きのジョーカーと一緒だ。番内だってバカじゃない。最初はミイラが出てきて宣伝になると喜んだかも知れないが、山影さん辺りから、ミイラが最近埋められたものと聞かされて不安になったんじゃないかい? 自分を陥れる罠《わな》だと察知しても不思議じゃないさ。いくら運搬に都合のいい道路があったからと言ったって、人の大勢出入りするロケ現場へ無意味に埋めるわけがない。突き詰めていけば、ミイラは発見させられるために埋められたという結論に達する」
「それはオレも同様に推理したんだがね」
長山は悔しそうに頷きながら、
「その目的までは思いつかなかった。確かに……番内を陥れるにゃいい方法だな」
「異人殺しの犠牲となったミイラでは番内を陥れることができないはずだ。本当にこの想像が当たっているなら、ミイラと番内の先祖をダイレクトに繋《つな》げるなにかが隠されていたんだと思う。番内もそれに気づいて……」
「盗んだと言うんだな」
長山に塔馬はゆっくりと頷いた。
「物事には何通りもの解釈ができるもんだなぁ。ミステリーを書いてるのが厭になってきた。小説ん中じゃ探偵が理路整然と事件の謎解きをするが、実際にゃ、おなじ手掛かりで別の解釈がいくつも存在するに違いねえ。正直言うと、さっきまでは単純明快な事件とばかり信じていたんだぜ」
「………」
「ただし、だ」
長山は小首を傾《かし》げて、
「そうなると殺された松本はどうなる? 千崎が犯人じゃなさそうなのは確実だ。松本の電子手帳に書いてあった、ミイラ謝礼の件、だって嘘と睨《にら》んでる。その意味から言うと、ミイラを盗んだのが番内ってトーマの推理には大賛成なんだがね……もともと電子手帳は番内が配ったものだ。やつなら簡単に手帳に細工もできただろう。自分を罠に陥れようとした千崎や雲海を逆に嵌《は》めようとするのも分かる……しかしだ」
「………」
「いくらなんでも仲間を殺しはしめえ」
「だろうな」
「だよ。有り得ねえさ」
長山はそれを強調した。
「こちら立てれば、あちらが立たず。まさにその典型の事件じゃねえか。最初にミイラを埋めたのはだれか? 発見されたミイラを盗んだのはだれか? 松本を殺したのはだれか? その上に、ミイラの発掘現場の写真を警察に送りつけた阿呆《あほう》までいる。警察の役目は殺人犯を逮捕するのが一番だろうから、ひとつの謎と取り組めば足りるが、こちとらはそうもいかん。名探偵でござる、と名乗りを上げたからにゃ、全部の謎に答えを出してやらんとな。ったく頭が痛えや」
「名乗りを上げたって?」
塔馬は苦笑して訊《たず》ねた。
「別に宣言したわけじゃねえけど。一応はリサやタコに大見得を切った」
「プライドというわけだ」
「けどまあ、ミイラを埋めたやつは千崎と雲海と見做《みな》して大丈夫そうだな。千崎の店の物置から長靴も発見されたことだし……こいつだけは動かんだろう。ミイラを盗んだのは番内か……今のところトーマの推理が当たってるような気がするよ。問題は松本殺しだ。こいつばかりはどっちに転ぶか分からねえ。勘では番内って気もするが……それじゃ世間も納得しちゃくれまい」
「そりゃそうだ」
塔馬は肩を揺すらせた。
「いっそ、もう一人くらい殺されねえかね。そうすりゃデータも増えるってもんだ」
「ぶっそうなことを言う」
「冗談だ。小説じゃねえんだから、そう上手《うま》く運ぶわきゃねえよな。横溝正史の小説みてえに四百枚の中で五、六人も死ねば、中学生にだって探偵が務まる。生き残ってる美人がたいてい犯人なんだから。もっとはっきり言うと、殺しが起こる前から犯人の見当がつく。それであんなに面白く作るなんて、人間業じゃねえぜ。何度か真似して書こうとしたけど、頑張っても無理だった」
塔馬は大声で笑った。
「オレたち物書きにとっちゃ大問題なんだぞ」
長山はその笑いを遮《さえぎ》って、
「あの人のお陰で、意外な真犯人てのが書きにくくなっちまった。か弱い女を犯人にしただけで、真似だと思われちまう。と言って、いかにも犯人らしいのが、本当に犯人だったとなりゃ、面白くもなんともねえ。その上、あの人の本で大量殺人に慣れた読者は、連続殺人じゃねえと満足しねえ。どんなに動機に凝ってみたところで、地味な小説だと敬遠されるのがオチだ。皆がそれで四苦八苦してる」
「ミステリーも大変なんだな」
塔馬は頷いた。
「原稿でも苦労させられて……現実もこの通りだ。捜査に関わってりゃ、今後の参考になると思って居座ったつもりなのに、かえって物書きの自信を失いそうだ」
「山影さんはどう見ている?」
「あいつは頷いてばかりさ。昨日の昼はオレの推理に興奮し、昨夜は異人殺しと聞かされて目を丸くしてた。疑問点は鋭く突っ込んでくるけど、創造性はゼロ。暴力団同士のドンパチや聞き込みには適した男だが、こういう事件にゃ向いてねえんだろ。頭はまあまあなんで、他人の推理を分析する力はある。もっとも、それでいいのかも知れんぜ。警察官が妙な推理だけをひねくりまわしていたら危なくてしょうがねえ。確実な証拠が見付かるまでは白紙でいてくれるのが一番だ」
長山は言ってコーヒーを口に運んだ。その視線が玄関に動いた。
「噂をすれば……タコが戻った」
塔馬は振り向いた。ガラスの扉を力なく押して山影が入ってくる。塔馬が声をかけると山影は嬉しそうに坊主頭を下げた。部下の姿は見えない。
「どうやら今日も収穫はなしか」
長山は軽い舌打ちをして席に誘った。
「地獄で仏という感じですよ」
山影は塔馬のとなりに腰を下ろした。
「そいつぁ挨拶だな」
長山がコーヒーを追加しながら言った。
「聞き込みはまだ続けていますが……工事関係者を当たった限りでは、工事の最中にミイラが発見された可能性はほとんどありません。三、四人ならともかく、作業員は三十人もおるんです。しかも、仙人村の出身じゃない者が半分以上を占めている。雲海和尚が口止めしようとしても無理でしょう。今度こそはと期待しておったんですがねぇ」
「雲海にゃ会ったかい?」
「番内さんの悪口ばかり聞かされてきました。他に耳寄りな話はなにも……その足で役場にもまわってみましたが、千崎さんの息がかかっていると見えて、だれの口も堅い。どんなに番内さんが仙人村を故郷と思っていたところで、現実は厳しい。たいていが番内さんに批判的でした。故郷を捨てた人間という認識でしてね。あれを知ったら映画なんか拵える気もなくしてしまうでしょうな」
「本人だけが空回りしてるってわけか」
「そういうことです」
「ま、好かれるタイプじゃねえさ」
「長山さんもお嫌いのようだ」
「たった今トーマから新たな推理を聞かされたんでね。ミイラを盗んだやつはやっぱり番内らしいぜ」
「すると異人殺しの件は?」
「潔く撤回するとさ。そいつを聞いていりゃ工事関係者も当たらずに済んだのに……昨日の参籠所のことといい、こっちの余計な推理のせいで山影さんに面倒をかけてるようだ」
「仕事ですから構いませんが……盗んだ犯人が番内さんとは、どういう根拠なんです?」
山影の問いに塔馬は説明を繰り返した。
ルルルとフロントの電話が鳴った。
鳴り続けてもだれも出ない。
ウェイトレスが急いで走って取った。
「あの……山影さんは?」
ウェイトレスがフロントから訊ねた。
山影は、頷いて立ち上がった。
「きっと鶴岡署からでしょう」
だが──
受話器を受け取った山影の顔に、見る見る緊張が広がった。塔馬と長山は顔を見合わせた。山影はしばらく絶句した後、直ぐに現場へ向かうと大声で叫んで電話を切った。
「どうした! なにかまた事件でも」
長山は反射的に腰を浮かせた。
「殺しです」
山影は悔しそうにカウンターを叩いた。
「いったいどうなっちまったんだ!」
「だれが殺された?」
「朝日村のテル子が殺されました」
「まさか! 冗談だろ」
長山はあんぐりと口を開けた。
「テル子さんて……千崎のアリバイの?」
塔馬も唖然としながら訊ねた。
「冗談じゃねえ! なんであの女が殺されなきゃならねえんだよ。昨夜、店に行ってきたばかりなんだぜ。頑張ってる女なんだ」
長山の目にうっすらと涙が浮かんだ。
「とにかく、行きましょう」
山影は二人を急《せ》かした。
「ご苦労さまです」
車から山影が降りると、テル子の家の前に立っていた警察官が挨拶した。古い小さな家を取り囲むように野次馬が群がっている。まだ五時前だ。野次馬のほとんどは主婦と年寄りだった。長山は睨むように眺めた。
「ただの物盗りの仕業と思われますが、仙人村の事件の証人と聞いておりましたので一応ご報告をせねばと」
警察官は山影に言った。
「ただの物盗り?」
山影は不審な目で問い返した。
「タンスや引き出しが荒らされております。犯人は留守の間に忍び込み、物色していたところに被害者が戻ったものと想像されます」
「そのように見せ掛けたんだ」
山影は信じなかった。
「タンスの衣類などに飛び散った血痕が見られます。犯人が後から開けたものとは考えられません。被害者が昼に留守にしていたのも確認済みです」
言われて山影は唸った。
「見せて貰おう。詳しい話はそれからだ」
山影は戸惑いを押し殺して中に入った。塔馬と長山も続いた。狭い玄関に入るなり、廊下に食《は》み出たテル子の足らしいものが見えた。ムッと血の匂いもする。長山は必死で吐き気と戦った。いきなり白い足を見たせいで、少しは恐怖が薄れている。昨日の昼に松本の死体を見て、あるいは慣れたのかも知れない。
「ご苦労さん」
山影は足を見ても平気な様子で部屋に急いだ。中からそれに応じる声がする。
「お二人はそこで少しお待ち下さい。現場保存の必要があるかも知れませんので」
「分かった」
長山はホッとした声で返した。
五、六分して山影が二人を手招いた。
「やはり物盗りとしか思えませんな」
失望した口調で山影は言った。
長山は恐る恐る部屋を覗いた。
テル子は仰向けに寝ていた。片目だけが天井を見詰めている。確かに外出していたのだろう。身に纏《まと》っている短いコートが血にまみれていた。合成皮革の派手なコートだ。太い首のために最初は分からなかったが、顎《あご》の下に深い切り口が見えた。よほど激しく血が噴き出たらしく、血痕が壁にまで飛び散っている。長山は壁の血痕を辿《たど》った。一部がタンスを汚していた。半開きの引き出しの下着類にも点々と黒い染みが見られた。年齢のわりにピンクや黒の下着が目立つのは水商売のせいだ。
「かわいそうにな……」
長山は死体に合掌した。まさかこの自分にまで下着を見られる運命にあったとは、想像もしていなかったに違いない。
「引き出したタンスの下には血痕が見られない。明らかにタンスは開けられていた。殺してからそう見せ掛けたのではありません」
テル子自身が開けたのではないのも明白だった。タンスばかりか鏡台や押し入れまで、あらゆるところが開いていた。窓際に置かれた大きなベッドの袋状の枕カバーさえ、物色された形跡が見られた。
「現金や預金通帳を隠す人間もおりますよ」
長山の視線に気づいて山影が言った。
「独り暮らしの女だ。おまけに店もそこそこ繁盛している。狙われても不思議はないが」
「偶然にしてはでき過ぎている」
塔馬が山影の代わりに続きを口にした。
山影は大きく頷いた。
「犯人はどこから侵入したんだ?」
長山は部屋を見渡した。
「おそらく裏口からと」
警察官が答えた。
「ガラス戸が外から割られていました」
「ガラスの嵌まった扉か。不用心だな」
「この村では何年も強盗はありません」
警察官は弁解するように言った。
「なにが狙いだったと思われますか?」
山影が塔馬に質した。
「きっと山影さんの想像と一緒です」
「金じゃありませんね」
「でしょう。もっと別のものだ」
「昨日までの事件と関係あるんでしょうな」
「それしか考えられませんよ」
塔馬の返事に山影も満足した。
「犯人がなにかを探している途中に被害者が戻ってきたとしたら……ひょっとして目的のものがまだこの家に残されているという可能性もある。いや、むしろその確率の方が高い。見付けたら、さっさと逃げたはずだし、途中でも、人を殺した後では落ち着いて探せるわけがない。現場検証を急がせて家探しをしてみます。台所を除けば二間だけの小さな家だ。畳を全部引っくり返したってタカが知れてる。四、五人でやれば二時間もかからんでしょう。まさかベッドの脚をくりぬいて隠しているとは思えません」
山影は張り切った。
「店の方に隠していることもあるぜ」
長山が思いついた。
「泥棒を心配するのは、たいてい夜さ」
塔馬が否定した。
「真夜中にだれも居なくなる店に大事なものを隠すわけがない、絶対にこっちだ」
「お言葉だが、こっちだって夕方から深夜までだれも居ねえんだ。不安は五分五分だろう」
「五分五分じゃない。眠っているときに側にあるのと、ないのじゃ雲泥の差だ。それが人間の心理とは思わないか?」
なるほど、と長山も納得した。
「私はこのまま残りますが、お二人はどうなさいますか? どんなに急いでも現場検証にはまだ相当に時間を取られます。ここは我々に任せてホテルに戻られた方が。なにか見付かったら直ぐに連絡を入れます」
山影はテル子の死体を気にして言った。
ホテルに戻った長山は喫茶室に亜里沙と石川の姿を認めた。昼とは違って室内は七、八人の男たちで賑わっている。一目で報道関係と知れる連中だった。亜里沙は長山と目が合うと弾《はじ》かれたように店から出てきた。
「嘘なんでしょ?」
塔馬への挨拶もそこそこに亜里沙は小声で長山に質《ただ》した。ホテルを出るときに亜里沙にメモを残したのだ。テル子が殺されたらしいとだけ記した簡単なものだ。
「ここじゃあまずい」
長山は目配せして、
「部屋で待ってる。オケイは?」
「この調子だもの。部屋に閉じ籠《こ》もる他にないじゃない。さっきは大変だったのよ」
「オケイも連れてきてくれ」
それで事実と分かったのか、亜里沙に動揺が浮かんだ。腕が震えている。
「どうして……どうしてなのよ」
必死で声を抑えたつもりだろうが、それに何人かが振り向いた。塔馬と長山はその視線を無視してロビーを通過した。亜里沙と石川が慌てて追ってくる。
「流山先生」
四人は階段で呼び止められた。喫茶室に居た一人が階段の下で見上げている。
「ご迷惑でなければ、夕食の後にでもインタヴューをお願いできませんでしょうか」
「悪いが……迷惑だ」
長山は笑顔で応じて階段を上がった。
長山の部屋から電話をすると、直ぐに蛍が飛んできた。塔馬が長山のとなりに居るのを見て、蛍はくしゃくしゃな笑いを浮かべた。
「テル子の死体を二人で見てきたよ」
長山は全員が揃うと口にした。
「まさかと思ったんだがな」
「だれがテル子さんを!」
蛍が大きな声で訊ねた。
「私たちのせいなのね?」
「なんでだ?」
「私たちが証言を頼みに行ったから」
「それとは関係ねえ。彼女はオレたちが発見した証人じゃねえんだ。警察もあの時点ですでにテル子と接触していた。その前ならどうか知らんが、いまさらそれが原因で殺されるわきゃあねえよ。ミステリーの読み過ぎだぜ」
「だったらどうして?」
「部屋が荒らされていた。犯人の目的はテル子の持っていたなにかにある。それを探してるとこに運悪くかち合ったんで殺されちまった。情況を見る限りじゃ、そうだ」
「あの人がなにかを?」
蛍と亜里沙は怪訝《けげん》そうに顔を見合わせた。
「それも今度の事件と関係あるの?」
亜里沙が塔馬に質した。
「狭い地域で昨日に続く殺人だ。しかも彼女は事件の関係者でもあった。これを偶然の強盗殺人と見做すには、逆にかなりの反証を用意する必要があるだろうな」
塔馬の説明に亜里沙たちは頷いた。
「だが、タコは……」
長山は言い添えた。
「まだ、そのなにかがテル子の家に残されていると睨んでる。家探しをする気だ。運よく発見されても、そいつになんらかの結論が出るまで、警察ではテル子の事件をゆきずりの強盗殺人として報ずる構えだ。そうすりゃ犯人も安心して妙な動きは取るまい。難関はここに集まってる報道の連中だが、幸い、連中は昨日の松本殺しに関してさえ満足な情報を得ちゃいまい。オケイの伯父貴が疑われている程度は承知でも、そのアリバイの証言者の名までは知らんさ。警察とオレたちが口を閉ざしていれば、二つの事件を繋げて考える者はいないはずだ。絶対に口外するんじゃねえぞ。これはタコとの約束だ」
「私は大丈夫だけど……」
蛍は不安そうに訴えた。
「伯父が自分から言い出しそう。記者たちはきっと伯父に会いに行くわ。伯父も無実を主張するために、たった一人の証言者が殺されたと記者たちに言いつのると思うの」
「よほど追い詰められなきゃ、自分から口にしねえと思うがなぁ。ただの証言者ならともかく、彼女とは愛人関係にあったんだぞ。テレビや週刊誌に言えば全国に伝わる。それほどバカでもねえだろうさ。殺人の嫌疑は薄らいでも、名誉や地位を失っちまう」
それもそうね、と蛍は首を振った。
「第一、そんなに長い期間じゃねえ。せいぜい二、三日のこった」
「山影さんがアリバイを信じているようだと教えちゃいけない? それなら安心するわ」
「ま、嘘じゃなさそうだからな。構わんが、余計なことはいっさい他言無用だ」
長山も仕方なく認めた。
「番内さんはどうするつもり?」
蛍は思い出した。
「やつはテル子の存在を知っていたか?」
長山は首を捻《ひね》った。千崎がアリバイを主張したとき、番内も側に居ただろうか?
「居たじゃない」
亜里沙は呆れた。
「松本さんの殺された場所の前で山影さんが問い詰めたのよ。オケイの伯父さんは、嵌《は》められたと言って番内さんに飛び掛かろうとしたわ。昨日の昼の記憶もないわけ?」
「そう言や、そうだった。番内もテル子のことを知ってるとなりゃ厄介だ。あいつの口から記者連中に洩れる」
「番内がオケイの伯父さんの窮地を救おうとするならな」
塔馬は笑って、
「そういう人間なのかい?」
「どっちかと言えばその反対だろう」
「だったら心配ない。アリバイの証言者が殺されたと分かれば、たいていの人間はそのアリバイが真実だったと思うものだ。記者たちに教えて、番内が得することはなにひとつない。敵に塩を贈るような人間じゃないとしたら、黙って傍観を決め込むさ。側に居る身内のオケイがなにも言わないのに、わざわざ救いの手をさしのべる必要もないだろ」
「ご説、ごもっともだね。余計な心配だった。どのみち、明日の朝まではニュースにもならねえ。それまでには家探しも終わっちまってるはずだ。今度こそ収穫があるように皆で祈ろうぜ。明日、明後日には事件を解決して乾杯したいとこだな」
その朗報は三時間後にもたらされた。
ついにそれらしきものを発見した山影は、電話連絡ももどかしく、そのままホテルへ車を走らせてきたのだ。
だが、朗報であるか、ないかは人それぞれの判断だった。
「とんでもねえものが出てきやがった」
長山は大きな息を吐いた。
テーブルの上にはキャビネ大の写真が一枚置かれてある。塔馬をはじめ、全員が何度となくその写真を確認した。
「犯人の狙いは、もちろんこいつに違いねえさ。これ以外になにが考えられる?」
長山は自分に言い聞かせるように言った。
「どうしてテル子さんがこんなものを……」
亜里沙にはとても信じられなかった。
それは、鶴岡署に送り届けられた、例のミイラアナの写真と同様のものなのである。しかも、こちらの写真の方が届けられたものより広い範囲をカヴァーしている。穴の周囲には特徴のある樹木や白い土壁も見えた。これなら場所の特定も可能に思える。
「どこで見付けた?」
長山が山影に訊《き》いた。
「壁に貼ってあった一枚物のカレンダーの後ろに挟まれてありました。少し表面が膨らんでおったんです。単純なだけに発見されにくい。犯人も、こんなに大事なものを無造作に挟んでいるとは思わなかったんでしょうよ」
長山は首を振りながら、
「それにしても、写真を送ってきた犯人がテル子だったとはなぁ……人は見掛けによらんもんだぜ。正直そうな女に見えた」
重ねて溜め息を吐いた。
「まだ速断はできんでしょう」
山影は慎重に断定を避けて、
「写真の後ろを見て下さい」
「後ろ?」
長山は言われて裏返した。
アッ、と全員が息を呑んだ。
「前に届いた写真とおなじに定規を使って書いた文字です。これを見て思わず体が震えましたよ」
山影の言葉に長山も青ざめた。
仙雲寺
羽黒山
水子塚
そこには、その三行の文字がはっきりと記されていた。
「どういう意味ですかね? 意味は分からないが、不気味じゃありませんか。最後の水子塚ってのが、そう感じさせるんでしょうが」
山影は塔馬に意見を求めた。
「仙雲寺というのは?」
「お聞き及びじゃないですか? 仙人村にある雲海和尚の居る寺です」
「羽黒山とは無関係なわけだ」
塔馬は唸った。
「正式な名称は知らないけれど……」
蛍がおずおずと口を挟んだ。
「羽黒山に水子をたくさん祀《まつ》っている場所があるわ。寒気がするくらい気持の悪いとこ」
「羽黒山の水子塚……」
塔馬の目が光った。
「仙雲寺より羽黒山水子塚、と読むのかも知れない」
「なにが?」
亜里沙は首を傾げた。
「ミイラがさ。ここから掘られて、ここにある、と解釈するのが自然じゃないか」
それだぜ、と長山が身を乗り出した。
「仙雲寺より羽黒山の水子塚か……」
長山は繰り返して写真の裏側に記された文字を見詰めた。
「すると……」
やがて長山は矛盾に気がついた。
「またまたおかしなことになるじゃねえか」
塔馬の顔に視線を動かした。
「トーマは発見されたミイラを村の公民館から盗んだのは番内だと言ったろ」
「だな……確かに矛盾する」
塔馬も長山に頷いた。
「なにが矛盾するの?」
亜里沙は二人を交互に見やった。
「ミイラが仙雲寺から掘り出されて、あの番内の持ち山に埋められ、それがふたたび羽黒山の水子塚に運ばれたとするなら、だ……だれがそこに運んだかという問題さ」
「番内さんじゃまずいわけ?」
「まずいだろうよ。それなら、そのことを知っていて隠していたテル子は番内と共犯になっちまう。テル子はオケイの伯父貴の愛人だぞ。言わば番内にとっちゃ敵だ。敵同士が実は味方ってこともあるけど、今回に限ってはちょいと考えられん。もし番内とテル子がつるんでいたとしたら、千崎さんのアリバイを警察に主張するわきゃねえさ。実際には千崎さんにアリバイがあっても、来なかったと力説するに違いない。それで千崎さんは苦境に立たされる。番内の復讐には絶好の機会だったはずだぜ」
亜里沙も頷いた。
「そこから推すと、番内とテル子にゃ協力関係がなかったと取れる。すると矛盾が生じてくる。なぜテル子がミイラの行方を知っているのか、という矛盾がな。テル子が知っていたなら、当然千崎さんも承知していたと考えられる。だったら、なんで千崎さんは警察にそれを言わねえんだい? 普通の情況じゃねえんだぞ。たとえアリバイがあったって、自分が松本殺しの嫌疑をかけられているんだ。ミイラを盗んだのは番内で、そのミイラは羽黒山にあると教えればいいじゃねえか。そうすりゃ松本の手帳にあった、ミイラ謝礼の件にしても、嘘だと直ぐに証明できる。愛人とのアリバイなんぞを持ち出さなくても、警察は簡単に信用してくれるよ」
「でしょうね」
山影は首を大きく振った。
「導かれる結論はひとつさ」
長山は得意そうに続けた。
「ミイラを盗んだのは番内じゃない。おそらく千崎さんか雲海和尚のどちらかだ」
言われて蛍は肩を落とした。
「けど、テル子がこの写真を大事に隠していたとこを見ると、きっと雲海の野郎だな」
長山は蛍を安心させるように、
「仲間割れとか万が一のために、千崎さんは証拠の写真をテル子に預けていたんだろう。それを知った雲海が焦って写真を奪い取りに出掛けた。そこにテル子が戻って殺された。千崎さんならテル子を殺す必要がないどころか、殺すと自分のアリバイの証人をも失うことになる。間違っても手にかけることは」
だろ、と塔馬に同意を求めた。
「今の情況ではそう取らざるを得ないね」
塔馬も頷いた。
「なぜ雲海和尚がミイラを盗まなければならなかったかの疑問は残るけど」
「疑問はこの際忘れようぜ」
長山は乱暴なことを言い出した。
「ひとつが進展すると、必ず謎が増える。そうなると今度はミイラを仙雲寺からだれが掘り出したのかって謎が生まれるのは分かってるよ。それも雲海としたら、せっかく自分の目に届く範囲に埋めていたミイラを無駄に移動させたことになる。そいつが番内を陥れる目的だったら、学術調査を前に盗むわけはねえ。まさに矛盾のオンパレードだ。こうなりゃ下手《へた》な考えはやめだ。この写真を手掛かりに雲海をとっ捕まえるのが早い。山影さんお得意の拷問でもやって雲海に自供させるのがてっとり早いってもんさ」
「怖い冗談ですな」
山影は苦笑して、
「理屈は通りますが、この写真一枚で雲海和尚を逮捕するのはむずかしいですよ。本当にミイラでも見つければ別でしょうけどね」
「ミイラアナが仙雲寺と決まってもかい?」
「検事も逡巡《しゆんじゆん》すると思います。ミイラが仙雲寺から掘られたというだけで、雲海和尚と結び付ける証拠はなにひとつありません」
「別件逮捕って手がある」
「なんの別件ですか?」
「なんでも構わんじゃねえか。この写真がテル子のとこに隠されていたってことは、明らかに雲海の犯罪を示している。それ以外の推理ができると言うなら伺いたいね」
「テル子が千崎さんに内緒で証拠を隠していたとは考えられませんか? その場合は千崎さんにも犯行の可能性が」
「ない」
と長山はきっぱりと言い切った。
「テル子はそういう女じゃねえ。本気で千崎さんを庇《かば》っていたぜ」
「お言葉ですが」
山影の目は険しいものに変わった。
「テル子がこれとほとんど同一の写真を鶴岡署に送ってきたのをお忘れではないでしょうね。あれが脅迫の伏線だとしたら、テル子は相当にしたたかな女です。口では千崎さんを庇いつつ、千崎さんに恩を売ったとも……もちろん、恐喝の値段を引き上げるためです」
「………」
「そうなると千崎さんだって穏やかじゃない。アリバイの証言者といえども、そういう女ならいつ証言を翻《ひるがえ》すかも分からない。秤《はかり》にかければ、とりあえず証拠の写真を奪ってからと考えても不思議ではありませんよ」
山影の言葉に長山は唸った。
「あの写真はだれが撮影したと思います?」
塔馬が笑って山影に質した。
「テル子が脅迫の材料に使おうとしていたなら、当然彼女でしょうね」
「いつ?」
「そりゃあ、千崎さんが掘り出したあとに決まってますよ」
「じゃあ、その場に彼女もいたわけだ」
塔馬の言い方には余裕があった。
「穴をそのままにしてはおけない。もちろん、千崎さんは直ぐに穴を埋めたはずです。となると、それを撮影した彼女も共犯ということになりませんか? 共犯者の恐喝では大した威《おど》かしにはならない。ましてやミイラを盗んだ程度の写真を材料に恐喝したところで、千崎さんにどれだけの効果があるか……」
「なるほど」
「素直に取ると……残念ながらチョーサクの推理しか成立しなくなる」
「残念ながら、ってのは気になるね」
長山の苦笑に塔馬は、
「ひょっとすると我々は常識外れの事件に遭遇しているのかも知れないぜ」
真面目な顔をして口にした。
「起きる事件すべてが辻褄《つじつま》の合わないものばかりだ。形としては平凡な展開に見えるけど、全部に論理の統一がない。その都度《つど》その都度犯人の像があちこちに揺れ動く。今の情況では容疑者の全員が犯人じゃなくなるよ」
「………」
「これで現実に羽黒山の水子塚からミイラが発見されたら、ますます困惑の度を極めるな」
「そう意味してると解いたのはおまえさんなんだぞ」
長山はさすがに呆れた。
「自分で推理した通りに運べば、逆に困惑するってのはどういう理屈だ」
「辻褄の合わないことがまた増えるだろうね。ただし……犯人の目星はつく。問題は、犯人がなぜそんな愚行を繰り返したのか、その謎だけは残ってしまうがな」
「だれを睨んでる?」
「ミステリーのセオリー通り、今のところは秘密にさせてもらうよ。これ以上、ああだこうだと仮説を並べても仕方がないさ。ミイラが発見されなければ、こちらの推理は根底から意味をなさなくなる。もし、当たっているとしても、動機が皆目見当つかない。そういう状態でいたずらに名前を挙げたくないんだ」
「私はなにをすれば?」
山影は諦めた口調で訊ねた。
「このミイラアナと一致する場所が仙雲寺にあるかどうか確認して下さい。それと、明日は羽黒山に出掛けて水子塚の調査を。むろん我々もご一緒します。あとは雲海和尚、千崎さん、番内さんの今日のアリバイだ」
「ひとつだけ教えてくれ」
長山が割って入った。
「その仮説ではすべての犯罪が一人の引き起こしたものなのか? それとも何人かの犯行が複雑に絡み合っているのか?」
「一人だよ」
言われて長山は、うーんと唸った。
「オレにゃとうてい解けそうにない難問だ。すべてを一人に被《かぶ》せようとすりゃ、謎のひとつひとつに相当な飛躍を加えんとなぁ」
山影も亜里沙も石川も頷いた。一人、蛍だけは暗い顔になった。塔馬が犯人の名を口にしないのは伯父の千崎を疑っているせいだ、とでも思い当たったのだろうか。
「あの連中はどうする?」
長山は階下の記者たちを思い出した。
「連中は我々の動きに神経を尖《とが》らすはずだ。山影さんと行動をともにすりゃ、連中だって金魚の糞みたいにくっついてくる。はぐらかすつもりなら陽動作戦でも取らんと」
「私たちが引き受ける他にないわね」
亜里沙が蛍に言った。
「幸い、トーマの存在はそれほど気にされていないようだし……関心はオケイよ」
「明日は番内と絶えず一緒にいてくれ」
塔馬は蛍に伝えた。
「千崎さんや雲海和尚のことを知られてもまずい。番内なら一緒にいても自然さ。リサたちもホテルでのんびりしてるんだな。羽黒山にはオレとチョーサクの二人で行く。山影さんとは現地で合流することに」
「石川君だけは連れて行って」
亜里沙が頼んだ。
「せっかくだから羽黒山の写真を撮影してきて貰いたいの」
「だな。かえって記者連中をごまかせるかも知れんぜ。こいつののほほんとした顔を見りゃ、まさか捜査たぁ思わんだろうさ」
長山は石川の人懐っこい顔を顎で示した。
「何時に合流しますか?」
山影は懐から手帳を取り出した。
「山影さんには仙雲寺の調査もある。我々は先に行っていますが、合流は昼の一時頃ということで……場所はどこにします?」
「水子塚がよろしいでしょう。観光客でもありませんしね。他の場所で待ち合わせても仕方がない。鶴岡署にも連絡を取って人数を揃えて行きます」
山影は張り切った。
「そうと決まれば宴会だ」
長山は冷蔵庫からビールを取り出した。
「トーマの歓迎会を派手に開催したいとこだが、今夜は『紅花』で騒ぐわけにもいかん。記者連中があの店に集まってるだろう。オケイの身内が疑われているってのに、酒を呑んでりゃ、恰好の週刊誌ネタにされちまう。酒が足りんな。お宅やリサの部屋からもビールやワンカップを掻《か》き集めてきてくれ」
長山は石川と亜里沙に命じた。
「私は今夜は遠慮します」
山影は笑って断わった。
「そりゃねえだろ。つまみはねえけど、一応は山影さんの栄転祝いだ。トーマはそれを楽しみにわざわざこんな山奥に来たんだぜ」
長山は強引に引き止めた。
翌日。
塔馬と長山と石川の三人は遅めの朝食を済ませると三十分後にタクシーを呼んで羽黒山に向かった。亜里沙の睨んだ通り、記者たちは蛍の動向ばかりを気にして塔馬たちの動きにはまるで興味を抱いていない。芸能関係が大半で事件記者でないのが幸いしている。きっと彼らには事件の解決よりも、渦中にいる蛍の涙の方が遥かに大事なことなのだ。
「女子供ばかりがテレビを見てる時代だからかも知れんが……マスコミもずいぶんと骨がなくなっちまったもんだ。近頃じゃ警察の後追い報道がせいぜいで、テレビや週刊誌の大スクープってのにとんとお目にかからねえ。もっとも、捜査員の数が違うんで、それも当たり前か。本社のある東京ならまだしも、こういう場所に七、八人の記者を投入できねえわな。一人や二人なら、どうしたって警察や中心人物をマークする他にない」
「残念そうな口振りだな」
塔馬は長山をからかった。
「オレが記者なら我々をマークするぜ。オケイに探りを入れたところでどうなる」
「そのお陰でのんびりやれる」
「それが阿呆だって言うんだ。人が二人も殺されたってのに、オレたちが羽黒山に行くと聞いても疑問さえ抱かん。雑誌の取材と分かって納得したんだろうが、それにしても間抜けじゃねえか。自分たちも取材で来てるんで、取材がすべてに優先すると勘違いしてるんだ。いくらオレが勤勉な物書きだとしても、こんな場合に仲間のオケイを放って取材にゃ行かんよ。少し頭を働かせれば分かりそうなもんじゃねえか。一人や二人は必ずしつこく食い下がってくると踏んでたんだがね」
憮然《ぶぜん》としている長山に塔馬は目配せした。運転手の目がチラチラとバックミラーに動く。事件に興味を持っているのだ。下手なことを口にすれば、それが記者たちに伝わらないとも限らない。タクシーには無線もあれば、また、記者のだれかがこのタクシーを後で利用することだって考えられる。
「こっちに注意を引きつけて、オケイを楽にしてやろうと思ってたのに、バカばっかりで、せっかくの知恵も無駄になった」
長山は機転を働かせて場を繕《つくろ》った。
石川もそれを察したらしく、
「羽黒山にフィルムは売ってるかなぁ」
調子外れな質問を運転手にした。本人は取材のリアリティを出したつもりだろうが、フィルムを用意していないプロのカメラマンの方がかえって妙に思われる。だが、運転手は素朴にそれに応じた。
その頃、山影は仙雲寺の入り口にいた。
「この木と土壁の染みが目印だ」
同行した部下の一人に写真を預ける。
「おそらくこの寺を囲っている壁のはずだ。こっちが雲海和尚と時間を潰している間に周辺を一回りしろ。きっと寺の内側だろう。壁は斜面の墓場の方にまで続いている。急いで歩かんと二、三十分はかかるぞ。見つけたらここで待機していてくれ」
山影の部下は頷いて山門から別れた。
「我々はジグソーパズルのピースを集めているだけという感じですね」
残った一人の部下が山影に言った。
「事件がどう転ぶか想像もつきません」
「塔馬さんは常識外れの事件だとさ」
「でも、ここんとこずうっと空振りですよ」
山影の部下は怪しんだ。
「これで羽黒山もアテ外れとなれば……」
「責任はオレが取る」
山影は部下の言葉を遮った。
「いつでも完全とは言っていないが、塔馬さんの推理がこれまでに外れた例はない。こちらになんの考えも浮かばん以上、今は塔馬さんの推測を追いかけてみる以外に……駄目なら駄目で幅が狭まる。メンツなどにこだわってる場合じゃないぞ。どのみち、容疑者の数は限定されている。アリバイを質すのは当然のことだ。和尚にしっかりしたアリバイが確認できれば、塔馬さんの推理がどうあれ、こちらは圏外に和尚を外すだけさ」
部下は安心したように頷いた。
「昨日の夕方どこにいたかじゃと?」
庫裏《くり》に上がり込まず、本堂の階段に腰を下ろしていた山影に雲海は、
「どういう理由か聞かせてもらわんうちはこちらも答える気はないの」
不愉快そうに言って睨みつけた。だが、その目の奥には不安が認められた。
「ご存知じゃありませんか?」
山影は意地悪く訊ねた。夕方の事件なので朝刊にこそ報道されていないが、となり村の殺人事件は耳に届いているはずである。
「なんで千崎の女が儂《わし》と関係ある?」
「ご迷惑とは存知ますが、関係者のすべてにアリバイを確認しておるものですから」
「儂が関係者の一人だと言うのか」
「弱りましたな」
山影は坊主頭をぼりぼりと掻いた。
「もちろん無理にとは申しません。もし、おっしゃれない事情でもおありでしたら」
「妙な言い方はせんでくれ」
雲海の頬がぴくぴくと痙攣《けいれん》した。
「事情など別にありゃあせん」
「………」
「言えば誤解されるに決まっておるからだ」
「誤解? なぜです」
「昼過ぎから朝日村に出掛けておった」
雲海の目が急に落ち着きを失った。
「どなたかとお会いに?」
山影はわざと冷たく言った。
「嵌められたんじゃよ」
「嵌められた?」
「テル子から伝言を貰っての」
山影と部下は思わず顔を見合わせた。
「なんのことか分からん。儂も直接電話に出たわけじゃない。公衆電話だとか言って伝言を口にして切ったそうじゃ。なにしろ情況が情況じゃからな。テル子も儂と電話などで長話をしてはまずいんじゃろうと疑いもせんかった。それで三時に朝日村のホテルへ」
三時と言えば犯行時間と目される頃だ。
「むろん彼女は来なかったんでしょうね」
山影は皮肉な目で見据えた。
「二時間ほど待って、腹を立てて戻った。よっぽど家を訪ねて怒鳴りつけてやろうかとも思ったが……万が一テル子の家をあんたらが監視していればと思って。嘘じゃない」
「テル子さんとはどういうご関係で?」
「だから無関係と言ったはずだ」
雲海は額に青筋を立てた。
「千崎と一緒にテル子の店には何度か行ったことがある。千崎の女じゃったから、親しく口も利いた。じゃがそれだけだ」
「伝言だけでよく行く気になりましたね」
「困っておるのかも知れんと思ってな。千崎とは昔からの付き合いだ。その千崎の女からすがってこられれば断わることもできん」
「ホテルと言えば、喫茶室ですか」
「儂の名で部屋を予約してあった」
辛そうに雲海は告げた。
「受付の人間は覚えとるだろうが、喫茶室じゃないから、あんたらは信用してくれまい」
「なぜ部屋などを?」
「内密で相談したいと言われたんじゃぞ。喫茶室では人目が多い。儂とて噂になるような場所であの女と会うわけにはいかん」
「ホテルの部屋の方が噂になりませんか?」
山影は厳しい口調で返した。
「やはり信用せんようだな」
雲海は山影の目を覗き込んだ。
「儂は嵌められたんだ。そうに決まっておる。おそらく番内の小倅《こせがれ》の仕業だ」
「アリバイは立証できないということですね」
雲海の言葉を山影は無視して、
「じゃあ、お伺いしますが、和尚さんはテル子さんの相談とはなんのことかと?」
「テル子の誘いじゃない。番内だ」
「そうではなく……彼女をお待ちの間は、あれこれとご想像なさっていたんでしょう」
「それは分からん」
「普通は考えるものですがねぇ」
「千崎を庇うのが辛くなったのかも知れんと」
雲海はボソッと口にした。
「もしかしたら千崎が朝にテル子の家を訪ねたのは嘘かと思ったんじゃ。それをあんたらに突き止められそうになったのではとな」
「なるほど。それでどういう解決を?」
「解決?」
「そこまでご想像でしたら、解答の方もご用意なされていたんじゃ?」
「警察へ正直に言わせるつもりじゃったよ」
「それはありがとうございます」
山影は口許に笑いを浮かべて言った。
「細かな点は後ほど詳しくお伺いします」
「それは……警察でという意味か?」
「あくまでも形式上のことです。重要な証言ですので調書の作成の都合が……」
「警察など困る」
雲海は慌てた。
「嘘じゃない。儂は部屋におったんだ」
「千崎さんにそのことはお話しに?」
「いや……」
雲海はどぎまぎした。
「本当に嵌められたとしたら、です」
山影は低い声で雲海に発した。
「失礼だが、やましいお気持があったからとしか私には思えませんな。女性にホテルへ誘われるというのは不自然なことですよ。たとえ人目が気になっていたとしてもです」
山影の推察は図星だったらしい。雲海は青ざめた顔でわなわなと震えた。
「伝言は間違いなくテル子さんでしたか」
「男の声だったそうじゃ。頼まれたとか」
目を伏せるようにして雲海は答えた。
「よく分かりました」
頭を下げて山影は切り上げた。
「あのまま引っ張ってもよかったんじゃ」
長い石畳を歩きながら部下が囁《ささや》いた。
「あの和尚のことだ。アリバイ工作でもされるとまた面倒になります」
「そうしてどんどんボロを出すんだ」
構わん、と山影は笑った。
「それにしても、ああも見事にアリバイがないとは……千崎が楽しみになってきた」
「番内だって同様でしょう。鶴岡に松本の家族を案内して行って、ついでに町をぶらぶらしていたという程度のアリバイですからね。番内が高校時代を過ごした町なので、その懐かしさは理解できるとしても……」
「今のところ証言者はゼロだからな。鶴岡の連中がどこまで裏を取れるか」
「鶴岡と朝日村との距離は、たった十四キロです。その気になれば、殺しをしても一時間で往復できますよ。ヤツが町をふらついていたと主張しているのは二時間。充分な時間だ」
「嫌疑から外されないというだけだ」
山影は部下に教えた。
「我々が予断を持つのは許されん」
その言葉に部下は頷いた。山影が若い頃にそれで小さなミスを犯し、尾花沢署に異動させられたことは先輩から耳にしている。山影が暴力団抗争を担当していて暴れ猪《しし》と渾名《あだな》されていた時代のことだ。一触即発の状態に神経を尖らせていた山影は、些細《ささい》な組員同士の喧嘩を材料に双方の組へ踏み込んだ。拳銃が大量に持ち込まれたという噂を信じたためだ。その情況では信じても当たり前だったと先輩たちは言うが、結果として収穫はなかった。前々から山影の攻撃的な捜査を危ぶんでいた署の上司は、それを理由に異動を命じた。もっとも、これには暴力団が山影の命を狙っているという噂も重なっていたようだ。山影自身はそれについて一言も口にしないので、実際はどうなのか部下にも判断ができない。
「どうやら見つけたらしいな」
山門の陰に待つ部下を眺めて山影が言った。部下の顔には軽い興奮が認められる。その背後にはのどかな仙人村の景色が広がっている。仙雲寺は丘の上なので眺めは最高だ。
「墓所の端でした。土壁が途切れる辺りです。掘り返した痕跡がはっきりと。あの感じではせいぜい一ヵ月以内のものですよ」
「睨んだ通りか」
報告に山影は満足した。ミイラを納めていた石棺の傷の新しさから、山に埋められたのは一ヵ月前後のことだと判断していたのだ。
「どうしますか?」
「今日はこのまま引き揚げる。穴になにかがあるわけじゃない。和尚とて穴の痕跡を隠すことはできんさ。もう少し様子を見てからの方がいい。下手に追い詰めて和尚に妙な行動を取られてもまずい」
「死ぬという心配ですか?」
部下は笑った。そういう男には見えない。
「犯罪に関わること自体が、すでに異常なんだ。一般の人間が殺人事件に巻き込まれる確率を考えてみりゃあいい。我々は仕事だからある程度の平静を保っていられるが、事件の関係者は一生に一度あるかないかの情況に立たされているんだ。経験がないので、必要以上に我々を怖がったり、つかなくてもいい嘘をつく。その中にあっては、なにが起きても不思議はない。数えたことはないが、百の殺人事件があるとしたら、その関係者にかなり多くの自殺者がいるはずだ。子供が犯人と分かって首をくくる親とか、配偶者や恋人を殺されて世をはかなんだ人間とかな。殺人は必ず周囲に多大な影響を与える。雲海和尚とて決して例外ではないぞ。今頃はさっきの我々の訊問を反芻《はんすう》して怯《おび》えているだろう。それに穴のことを重ねればどうなる? 確かに捜査にとっては効果的かも知れんが、と同時に和尚を追い詰める結果に繋がる。我々の仕事は山狩りとは違う。それでたまたま真犯人を捕らえることができたとしても、褒められた捜査とは言えんだろうな」
二人の部下は深く頷いた。
「小説なんかでは犯人と探偵役が丁々発止《ちようちようはつし》とやり合って嘘を見抜いたりするようだが、そんな推測より、たいていの嘘は証拠で崩せる。それが我々の基本だ」
「時間をかけても事実を集めることですね」
部下の言葉に山影は、
「若い頃はそれが分からなくてな。なんだか、かったるいような気がしたものさ」
と、にっこりと頷いた。
「こいつぁ、賑やかなとこだ」
タクシーが羽黒山神社の広大な駐車場に辿り着くと、窓から覗いて長山は嬉しそうに言った。駐車場を囲むようにたくさんの土産物屋やレストランがある。普通の店とは異なり原色の目立つけばけばしい品物が店頭に並べられているので、まるで祭りの夜店だ。駐車場にも観光バスが何十台と連なり、それに乗ってきた客が店に群がっている。
「もっと霊験《れいげん》あらたかな場所だと思ってたよ」
長山は元気にタクシーから降り立った。帰りは山影の用意する車に乗せてもらう約束になっているので、石川は重い撮影機材をトランクから下ろした。
「アテが外れたんじゃねえのか?」
長山は塔馬の横顔を眺めて笑った。
「こんなに人がいるところじゃ、ミイラなんぞを隠すのは厄介だ」
「観光客は明るい日中だけのことさ」
「もう少しで昼になる。早めにメシを食っておかんとレストランが一杯になるぞ」
「腹は減っていない」
塔馬の後ろで石川も頷いた。
「ま、コーヒーでも飲もうや。せっかく渋谷や新宿の雑踏を思い出したんだ。明るいパーラーみたいなとこで雰囲気を味わいたい」
「チョーサクも妙な男だ」
塔馬は苦笑して、
「こっちは東京のゴミゴミした気分を忘れたくて山形に来たというのに」
「そりゃあ滞在日数の差だ。この三、四日で五十人ぐらいの顔しか拝んでねえよ。トーマは大学でたくさんの学生に囲まれてるだろうが、こっちの仕事は、言わば密室だ。一週間に二、三人の編集者としか口を利《き》かねえこともある。それで人混みがやたらと懐かしくなるのさ。昔は穴蔵のような喫茶店が好みだったけど、今は賑やかな店に自然と足が向く」
塔馬の返事も無視して、長山は大きな土産物屋の二階にある喫茶店を目指した。
喫茶店で三十分を過ごして塔馬たちは月山、羽黒山、湯殿山の三神を合祭する社殿に向かう広い参道を上がった。参道の両側には太い幹を張った杉が生い茂り、陽射しを遮っている。参道の途中にも土産物屋が店を張り、観光客が道に溢れているので寂しさは少しも感じられないが、深夜に一人では歩きたくない。
「なんだ。こんな奥にも駐車場があるよ」
だいぶ上がったところに広場があった。社殿の巨大な鳥居が目の前に聳《そび》えている。
「どうせならこっちに入れてくれれば歩かないで済んだのに」
長山は悔しそうに広場を睨んだ。が、長山が言うほど歩いていない。下の駐車場からここまでせいぜい十分だ。
「一般用のものじゃないみたいです」
石川が案内板を見つけて言った。お祓《はら》い車両専用の駐車場とある。
「この人混みを分けて上がってくるのかね」
長山は参道を振り返った。
「まさか。別の道があるんでしょう」
石川が笑った。
「ってことは、人目を避けてここまでは来れるってわけだ。今もここにゃ車が一台も入っていねえ。その道はたいていガラ空きだろう。夕方辺りを選んでその道を利用すりゃ、簡単にミイラを運んでこられる。それなら少なくとも可能性は出てきた。この参道をミイラ担《かつ》いでえっちらおっちらじゃ、いかにも大変だろうと考えてたんだ。人目も心配だが、薄気味悪くてしょうがねえじゃねえか」
それに塔馬も頷いた。
「オケイの話じゃ水子塚は合祭殿の手前だ。参道を横切って、この博物館の裏手にまわれば見咎《みとが》められる心配もなさそうだ」
長山は駐車場と向き合った歴史博物館を顎で示した。近代的で立派な建物である。片流れの屋根の丸みが美しい。博物館の裏手には鬱蒼《うつそう》とした林が広がっている。
「この小屋はなんだい?」
長山は博物館の前にある萱葺《かやぶき》屋根の三角小屋を眺めた。手前に説明が書かれている。
「へえ。芭蕉が泊まった山小屋を再現したもんだとよ」
長山は興味深げに中を覗いた。見掛けより内部は広い。中央には囲炉裏が切られ、それを囲む形で板間が設けられていた。屈《かが》んで歩かなければならない天井だが、居住性は決して悪くなさそうだ。
「『奥の細道』に目を通しても、なかなか旅の実感までは理解できねえが、こうして山小屋を再現されると苦労が分かるな。記念だ。一枚撮影してくれ。トーマも来いよ」
長山は石川に頼むと板間に腰を下ろして、短冊を書いている真似をした。
「ようやく観光気分になってきた」
なられちゃ困る、と塔馬は笑った。
合祭殿は圧倒される大きさだった。
さすがに出羽三山の総本山だけはある。屋根を除いた社殿のすべてに朱が塗り込まれ、見上げている顔に赤が反射するほどだ。石川は使命に目覚めたと見えて盛んにシャッターを押している。
「リサが悔しがるだろうぜ。足下《あしもと》まで来ながら見物ができねえなんてな。日頃の心掛けの問題としか言い様がねえよ」
長山は奮発してさいせん箱に千円を入れた。
「なにか拝んだかい?」
塔馬はニヤニヤして訊ねた。
「ささやかなことさ。一生のうち一度でいいから蕎麦《そば》をたっぷりつゆにつけて食いたい」
相変わらず長山は冗談を言って、
「そろそろ約束の時間だ」
水子塚の方向に視線を向けた。
長山の背にざわざわと寒気が広がった。
どこか観光気分だった気持が瞬時にして冷めていく。水子塚は蛍の言った通り、不気味な場所だった。
「水子の供養だけじゃないな」
塔馬は何千という卒塔婆《そとば》の文字を読み取って呟《つぶや》いた。塔馬たちの立つ狭い広場に真向かう斜面すべてに卒塔婆がびっしりと林立している。そればかりか塔馬たちの背後には小さな墓が幾重にも……だが、怖いのは墓や卒塔婆の数ではなかった。墓や卒塔婆に被《かぶ》せられた衣類である。墓をまるで人間の体のようにして肌着やシャツ、背広、セーター、産着《うぶぎ》、マフラーなどが着せられていた。中には傘が被せられた墓まである。濡れさせまいとする親心なのだろう。
「こんなのは、はじめてだぜ」
長山はしみじみと言った。
その視線が小さな墓の前に供えられた玩具の宇宙銃とリモコンカーを見詰めている。
「たまんねえよ」
四、五歳の男の子を失った親の辛い気持が伝わってくる。
「どうして人間ってやつは、こんなに悲しいことを思いつくのか……他人にまで辛さを押しつけなくてもいいじゃねえか」
そう言って長山は銃の供えられた墓に掌を合わせた。石川が逃さず撮影する。
「間違っても、今のは使うなよ」
長山はギロッと石川を睨んだ。
「どうせヤラセだと思われちまうのがオチだ」
石川は素直に頷いた。
「こういう気持の親たちだと、雨や嵐の日はこの場所が気になるんだろうな」
長山はゆっくりと見渡した。
いくつかの墓の脇に折り畳みの傘が置かれてある。長山は一人頷いた。
「オケイが辛がるのも当たり前だ」
長山は塔馬に言った。蛍が若い頃に中絶したことを二人は知っている。
ここに来れば否応《いやおう》なしにそれを思い出す。
十分も待たないうちに山影が到着した。
山影もここははじめてだったと見えて、落ち着かない目になった。
「よほどの確証がない限り発掘は……」
社務所に寄ってきた山影が伝えた。
「塚と言うのでもっと簡単に考えてました。俗称でも水子塚とは言わんと聞きましたがね。神社では単に供養塔と……」
「他の場所ってことかい?」
長山は不審を抱いた。山影は首を横に振り、
「そうは呼ばなくても羽黒山の中で水子と関係あるのはここだけなので間違いありません」
「俗称でも水子塚と呼ばない……」
塔馬はじっとその意味を考えた。
「神社の方で嫌っているのさ。現にオケイだって水子塚と言ってたし、写真の裏にも」
「でしょうね。あまり気分はよくない」
山影も長山の言葉に同意して、
「それはともかく、厄介になりました。応援も頼んでありますが、埋められた場所が明確じゃないと無理です。あちこち掘り返してみるわけにはいきません。これほどの広さだと不可能じゃ……」
山影は舌打ちした。
「せっかく仙雲寺でミイラの穴を確認したってのに……ここで行き止まりか」
「発見したのかい!」
長山の顔が明るくなった。
「トーマの推理が当たったわけだ。となると、こっちも可能性は高いぞ」
「どこを掘ればいいんです」
うんざりした顔で山影は周囲を眺めた。
「供養塔の周辺でしょう」
塔馬は断定した。
「この中では発見されにくい」
「発見されにくい?」
長山が唖然として訊き返した。
「ミイラは発見されるのを待っている」
予言者のように塔馬は呟いた。
[#改ページ]
第五章 ミイラの告発
ミイラを埋めてあると思われる供養塔周辺の探索は山影の部下と鶴岡署の警察官に任せることにして、塔馬たちは山影とともに羽黒山神社の駐車場前のレストハウスに待機した。供養塔のまわりは草深く、普通の恰好では入るのがむずかしいという事情もあったが、山影から雲海や千崎たちのアリバイの有無について説明したいと言われたのが一番の理由だ。
「雲海がテル子の電話に誘われてホテルに行っただと……」
長山は聞かされて呆れた。苦笑しながらコーヒーのブラックを口に運ぶ。なかなか旨《うま》い。昔と違って今は味の地域差が感じられなくなった。よほどの田舎でもない限り、ちゃんとした豆を使っている。
「証人は?」
塔馬は特別意外でもなさそうに訊《たず》ねた。
「ここに来る途中、ホテルに寄ってみました。フロントの人間は確かに二時過ぎに雲海がやってきた、と。五時頃にチェックアウトしています。ただし、その間はホテルのだれ一人として和尚の姿を見ていません。部屋に居たと主張していますから当然でしょうが……ホテルには裏口もあります。その気になればいくらでも抜け出ることが可能でしょう」
「二時から五時って言うと、テル子が殺された時間とどんぴしゃりだな。正確な犯行時間はいつだったっけ」
長山が山影に言った。
「三時から三時半の間です。和尚の言葉が本当なら我々がテル子の死体を検分していたときに、あのホテルに居たわけです」
「番内のアリバイは?」
塔馬が先を急がせた。
「松本の家族に付き添って鶴岡に出掛けていました。ただし、二時より四時過ぎまでは自由行動を取っています。高校時代を過ごした町なので懐かしくなって散歩をしていたと本人は言っておりますがね。今のところ証言者は一人も……鶴岡と朝日村は近接している。嫌疑から外すわけにはいきません」
山影の言葉に塔馬も頷《うなず》いた。
「残りは千崎ですが……」
「その顔じゃ、千崎もありそうにねえな」
長山は溜め息を吐《つ》いた。
「と言うより、分からないんですよ。朝から姿を隠していましてね。テル子が殺されたので報道陣が押し掛けてくるとでも考えたんでしょう。午前中にドライブインに立ち寄り、夕方まで戻らないと従業員に言い残してどこかへ。まだテル子と千崎の関係は外に洩れていないので心配はないはずなんですが」
「本人にすりゃ落ち着いてもいられねえさ。ま、千崎にテル子を殺す動機はない。たとえアリバイがなくとも問題はなさそうだ」
「確かに、アリバイは曖昧《あいまい》みたいでした」
「………」
「従業員にそれとなく質《ただ》したら、昨日の午後は一度も姿を見ていないと。議会もありません。けれど家は留守にしていた」
「ったく……揃いも揃ってたぁ、このことだ。どこまでも絞る手掛かりが掴《つか》めねぇ」
長山は舌打ちしながら、
「それでも仙雲寺にミイラを掘り返した穴が確認された。昨日までに較べりゃ大進歩さ。これで水子塚からミイラが発見されでもしたら、一気に事件の様相が変わる。この二つを材料に雲海を問い詰めれば、やつだってのらりくらりとしてはいられねえはずだ」
「やっぱり雲海が犯人なんですか?」
石川が長山の目を覗いた。
「入り乱れている謎の一つや二つに関わっているのは疑いがない。ただし……話がどこに転がるかは自信が持てねえな。一連の事件の動機がなににあるのか、ここまできてもさっぱりだ。ちょうど後醍醐天皇絡みの事件と正反対だぜ。あっちは動機らしいものが最初から目の前にチラついてたのに、肝腎《かんじん》の事件がちっとも進展しやがらねえ。オレたちが常に事件に先行する形だったろ」
石川は思い出して首を振った。
「なのに今度は推理が追いつかんほど事件が先行する。小説みてえにじっくりと事件のデータを分析する時間でもありゃあ解ける問題かも知らんが、こう毎日のように大事件の連続じゃお手上げってもんだ。おまえさんはトーマと同様に途中参加の組だから、まだ混乱も少ねえようだが、オレと山さんとでこれまでにどんな推理をしてきたと思う? 番内だ、千崎だ、いや参籠《さんろう》所の宿泊客だ、はたまた雲海だ……ただの思いつきじゃなく、それなりに頭を絞っての結果なんだぞ。そのときはこれで決まりと思っているのに、新たな事件でその推理が簡単に覆《くつがえ》される。考えるのさえ無駄なことのように思えてきたよ」
「………」
「結局は動機の分からなさがすべての原因なんだろうな。松本とテル子を殺して得をする人間が居るか居ないか……それすら見当もつかん。この状態で推理をしても犯人像を突き止めるのは不可能なんじゃねえかい」
「でも三人の中のだれかなのは確実なんでしょう?」
「通り魔でもあるまいし、たいていの事件は最初から容疑者が何人かに絞られている。三人なら多過ぎるぐらいのもんさ。といって三人を勾留してとっちめてみるわけにもいくまい。ガキの喧嘩とは違う。確証がない限り三人も一人も一緒だ」
「じゃあ、ミイラの穴の発見でようやく雲海和尚だけは訊問の口実ができたと?」
「それなら世間も納得するだろうさ」
だろ、と長山は山影に言った。
「まあ、そういうことでしょうね。少なくとも勇み足にはならんはずです」
山影も認めた。
「我々が一番気にかけなければならないのは、事情聴取が世間に与える悪印象です。警察に呼ばれたと知れただけで、その人間は信用を失います。だからなるべく大袈裟《おおげさ》な形で証言は取りたくない。こちらだって歯痒《はがゆ》い場合もありますが……人権を守るのが基本だ」
「特に今度の三人はうるさそうだし」
長山はニヤニヤ笑って、
「村会議長と寺の住職と映画のプロデューサーだぜ。迂闊《うかつ》に引っ張れば噛みついてくる」
「役職や肩書きとは無縁です」
山影はきっぱりと言った。
「冗談だよ。その程度は分かってる」
「私としてはもう少し進展を見てから雲海和尚の訊問を手掛けたいところですがね」
「泳がせておきたいって意味かい」
「今の段階では和尚に嘘をつかれても反論する物証がこちらになさ過ぎる。一度帰してしまえば、次が面倒になるんです」
「気持は分かるが……ぐずぐずしてるといつまでも埒《らち》があかねえぜ」
「雲海和尚はなぜ五時頃までホテルにうろうろしていたんでしょうね」
山影は長山を真っ直《す》ぐ見詰めた。
「そいつが躊躇《ちゆうちよ》の原因か」
「さっさと逃げればいいじゃありませんか」
「それこそ怪しまれるだろうさ」
長山は笑い飛ばした。
「犯行時間の直前に朝日村を訪れ、直後にチェックアウトすりゃ、言い訳がむずかしい。その程度は子供にだって分かる。一刻も早く現場から姿をくらませたいはずだと想像するのは山さんが捜査する側の人間だからさ。もし雲海が犯人だとしたら少しも不自然じゃねえ。むしろ当然の行動だと思うね」
「長山さんは雲海のアリバイが嘘だと」
「でき過ぎって感じは拭い切れねえな。テル子を殺した犯人があの写真を狙っていたのは確実だ。そして……今のところ、あの写真が見つかって窮地に立たされてるのは雲海しか存在しない。こうまで事件が複雑になってさえいなけりゃ山さんだって素直に……」
「それはその通りですが」
山影は頷きながら塔馬を見やった。
塔馬は曖昧な微笑を浮かべていた。
「分かりました。ここが片付いたら早速雲海和尚を呼び出します」
山影は決心した。
そこに部下の駆け寄ってくる姿が見えた。
「どうやら収穫があったようです」
部下の様子を眺めて山影は腰を浮かせた。
「夜まで覚悟していたんだが……案外簡単な場所だったと見えますね」
山影が手にする前に長山が素早く伝票を奪い取った。山影は恐縮して頭を下げた。
供養塔から五、六メートル離れた草藪《くさやぶ》の中に明らかな盛り土が見られた。上が落ち葉で隠されていたせいで直ぐには発見できなかっただけらしい。盛り土のまわりを四人の警察官が囲んでいた。
「この位置なら許可を貰えるだろう」
山影は満足そうに頷くと社務所に部下を走らせた。全山が神域なのでよほどの確証でもないと発掘許可が下りない。
やがて山影の部下は一人の年配の神官をともなって戻った。山影は挨拶した。
「あの草藪の中です」
山影が警察官たちの居る位置を示すと、神官は軽く首を振った。問題はないという感じだった。
「後先になりますが、発掘許可願いは明日にでも。今日中に済ませてしまいたいんです」
山影の言葉に神官は頷いた。
「じゃあ取り掛かってくれ」
山影は警察官たちに命じた。
「慎重にな。埋められているのはおそらくミイラだ。スコップで傷つけんようにしろ」
その大きな声が聞こえたのか、山影たちの背後からざわめきが起きた。大勢の警察官が居るのを知って集まった野次馬たちである。
「立ち入りは禁止だ。遠ざけろ」
山影は側の部下に耳打ちした。
わずか四、五分も経たないうちに警察官たちは目的のものにぶつかった。柔らかな土の中に黒いビニールが一部現われている。ゴミ袋と思われた。一人の警察官がしゃがんでビニールに触れた。手応えがあった。
「間違いないようです」
警察官の顔に興奮が広がった。
「きっと肩か頭の部分と思われます」
「後は手で穴を広げて抜き出せ。その状態なら面倒もなさそうだ」
何度も頷きながら山影は叫んだ。
「やっぱりゴミ袋だな」
次第に姿を現わす黒いビニールを眺めて長山は言った。
「これだと持ち運んでいたって特に見咎《みとが》められもしねえだろう。水分の失われたミイラなら重さもせいぜい七、八キロだ。おまけに猿みてえに小さい。大型のゴミ袋にそっくり納まっちまう」
「そればかりじゃないさ」
塔馬は作業を見守りながら、
「袋を二、三枚重ねて用いれば完全な防水にもなる。雨が降っても安心だ」
「なるほど。事件が一段落したら掘り出して安全なとこに移そうとしてたわけだな」
「なかなか周到なやり方だよ」
「写真はまずいんでしょうね」
石川が二人に低い声で訊ねた。
「こちらに協力していただけるのであれば一向に構いません。私の方でも記録が欲しい」
山影が石川を振り向いて笑った。
「ただし、少しの間ネガをお借りすることになるでしょうが」
石川は喜んで約束した。早速カメラを手にして草藪に足を踏み入れる。
「これで本当のゴミだったりしたら目も当てられんな。とんだ恥晒《はじさら》しだぜ」
長山は不安を吹き飛ばすように笑った。
半分ほど引き上げられた袋に石川のフラッシュが飛ぶ。袋はところどころが突き出ていた。きっと肘《ひじ》や肩に違いない。
二人の警察官が両手で袋の四箇所を持った。少しずつ上に引っ張る。残りの警察官が穴の土を掌で掻く。思いがけないほど大きな音をさせて袋が土から抜けた。
「よし。袋は破けそうにないな」
それを確認すると山影は神官に袋を開封する場所の手配を頼んだ。袋の形状からも中にミイラが入れられているのは明らかだった。まさかこの草藪の中で袋を開けるわけにもいかない。破損箇所があることも想定すれば、やはり部屋の方が安心だ。
「どんなとこでも構いませんか?」
「畳は汚れるので新聞紙を敷いて下さい」
「では博物館の控え室の方へ」
神官は頷いて山影たちを先導した。
野次馬の数は四、五十人に膨らんでいた。二人の警察官の抱える黒いビニールの袋を薄気味悪そうに見詰めている。
塔馬や長山も控え室に新聞を敷くのを手伝った。ほとんど部屋半分を新聞で埋めて、ようやく山影は廊下に待っていた警察官を招き入れた。袋には黒い土が付着している。部屋の中央に袋が置かれた。石川が写真を撮り続ける。ファインダーを通して眺めることで恐怖を忘れようとしている感じだ。
「蓑田さんを連れてくりゃよかったな」
長山が思い出した。
「せっかく専門家が居たってのに」
「どうせ証拠として仙人村に持ち帰ります。今夜はホテルで鑑定して貰えますよ」
「無理だ。ホテルには報道陣が待ち構えている。大騒ぎになるぜ」
「じゃあ、駐在所にでも預けましょう。先生にはそこに足を運んで貰って」
言いながら山影は袋を開けるように指示した。警察官が袋の上部を丁寧に鋏《はさみ》で切った。神官から借りたものだ。
緊張が部屋に漲《みなぎ》った。
石川の連続シャッターの音だけが響く。
横に入れた鋏を今度は縦に使うと、袋がバサバサと蕾《つぼみ》が開くように広がった。
狭い部屋に溜め息と唸《うな》り声が重なる。
完璧なミイラがそこに出現した。
「こいつぁ……」
長山は絶句して、
「どう見たって即身仏だぜ。大日坊で見たやつとまったく同一だな。肌が黒光りしているのは燻製《くんせい》の方法を施したもんだろう」
「すると生身入定とは別ということに」
山影も頷きながら言った。湯殿山の即身仏とは系列の異なる弥勒《みろく》信仰を基盤とする生身入定では、死体に燻製などの手を加えることは絶対にないと蓑田から聞かされている。
長山と山影の戸惑いをよそに塔馬はミイラに近づくと子細に観察した。
本当に小さい。
子供の体のようだ。
だが残されている歯は紛れもなく大人のものだ。落ち窪んだ眼窩《がんか》にはちゃんと瞼《まぶた》も腐らずについている。だが、その奥の目玉はどちらも失われている感じだった。ボロボロの衣服から食《は》み出ている腕や足は異様なほど痩せていて、骨に皮膚が張りついているだけに見える。うっかりと触れれば簡単に折れそうだ。
「あ、それ以上は」
衣服を捲《めく》ろうとした塔馬に山影が後ろから声をかけた。
「蓑田先生とご一緒の方が安心でしょう」
塔馬は頷いてミイラから離れた。
「どうだい、感想は」
浮かない顔の塔馬を見て長山が訊ねた。
「普通過ぎる」
塔馬はぽつりと呟《つぶや》いた。
「もっと明らかなものだと想像してた」
「明らかと言いますと?」
「殺された痕跡でもあるんじゃないかと頭に描いていたんですがね」
塔馬は山影に向かって苦笑した。
「例の異人殺しの仮説か?」
「まあね。異人殺しとは少し別だが」
「まともなミイラで当て外れか」
「蓑田先生の鑑定に期待する他にないな。表面からではどこにも不審が見られない」
塔馬は悔しそうにミイラを見下ろした。
「なにを期待してたんだ?」
「まだ口にできる段階じゃない。お陰でこちらの仮説にもぐらつきが出てきたところさ」
「ミイラがこの羽黒山に埋められていると見抜いたのはおまえさんだぞ。なのに肝腎のおまえさんが悩むってのも妙な話だ」
長山は大きな溜め息を吐いて、
「持って帰りゃ今度は蓑田先生が頭を悩ますに違いねえなぁ。あの先生はこのミイラを納めていた阿弥陀の石棺を見て、絶対に即身仏じゃねえって断言したんだから」
でしょうね、と山影も同意した。
それからおよそ三時間後。
塔馬たちは湯殿山ホテルに戻った。報道陣の数が朝よりも増しているのは駐車場の車の列でも察せられる。長山の姿を認めて喫茶室に居た何人かがロビーに注目した。だが、連れが塔馬と石川と分かると関心を失った。
「ずうっとどちらに?」
喫茶室から番内が現われた。親切にも報道陣の相手をしていたらしい。
「じきに晩メシだろ。話はそのときだ」
報道陣を気にして長山は遮った。
「オケイとリサはどこに居る?」
「ついさっきまでここに。記者会見をさせてくれとうるさいもので、私が同席してなんとかさばきました。今は部屋の方へ」
「記者会見……ご苦労なことだ」
「千崎が姿を隠したのを知っていますか」
番内は声を潜めて長山に言った。
「こちらは大変だったんですよ」
「どういうこったい?」
「記者が千崎とテル子の関係を突き止めましてね。カメラを持って千崎の家やドライブインに押し掛けた。ところが所在がまるで掴めない。警察も千崎の行方を捜しているとドライブインの従業員から耳にした連中が、それではと蛍さんに会見を申し込んできた」
「記者連中が千崎とテル子の繋がりに……そいつぁ面倒になった」
長山は部屋への階段を上がりながら言った。
「もっとも、気づかれていねえと思っていたのは本人ばかりで、二人の関係は有名みたいだったからな。ちょいと探れば一発だ」
「山影さんたちの居所は知りませんか」
番内は探るような目を長山に注いだ。
「ミイラを発見したぜ」
階段の周囲にだれの気配もないことを確認して長山は番内に教えた。
「今まで一緒だったんだ」
番内はさすがに絶句した。
「羽黒山の水子塚でした」
塔馬が場所を説明した。
「水子塚……あんなところから」
「行ったことは?」
「もちろん。だいぶ前ですが」
「ついでにミイラ穴も確認できた。あんたの山に埋められる前は仙雲寺にあったんだ」
長山が付け加えた。
「やっぱりそうでしたか」
それには当然という顔で番内が頷いた。
「千崎を追いかけるのは見当違いってもんさ。オケイにゃ気の毒なことをさせちまった」
「すると雲海が怪しいってことに」
「まだ口外はしないでくれ。今夜は蓑田先生に頼んでミイラを鑑定して貰う。記者連中にそいつを感づかれると厄介だ。ミイラとなりゃ絵になると踏んで騒ぎが持ち上がる。鑑定どころじゃなくなるさ」
「ミイラは今どこに?」
「村の駐在所。山影さんはそっちで待っている。晩メシを済ませたら蓑田先生をオレたちが案内する約束でな」
「私も同席しますよ」
「あんたまでとなりゃ目立ち過ぎる。明日になったらミイラをここへ持ってくる。今夜は学術調査とは違う。村の連中にも内緒のことなんだ。あんたにゃ悪いが記者連中の牽制役を引き受けてくれないか。鑑定の結果いかんによっては、そのまま雲海の寺を訪ねることにもなりそうだ」
「ミイラの状態はどうでした」
「ほとんど完璧だった。三枚のビニール袋に包まれていたんでね。明日見れば分かる」
やっと番内も納得した。
塔馬たちが戻ったと知って蛍と亜里沙が長山の部屋に顔を見せた。蛍は憔悴《しようすい》していた。
「まだ伯父さんの居場所は掴めないのか」
長山は二人に座布団を勧めた。
「運転手も一緒だから心配はしていないけど」
それでも蛍は肩を落として口にした。
「動転したんだろな。自分のアリバイの唯一の証言者でもある愛人が殺されたんだ。警察や記者が押し掛けてくるのは目に見えている。姿を消したくなる気持も分かるぜ」
「大丈夫。もう直ぐ連絡があるわよ」
亜里沙も頷いて蛍の肩を叩いた。
「上手く行けば今日明日に事件は解決する」
塔馬の言葉に蛍は顔を上げた。
「想像通りミイラを発見した。例の穴も仙雲寺とはっきりした。山影さんの興味はとっくに雲海和尚の方に向いている。伯父さんに連絡してあげても構わないんじゃないか」
ギョッとして蛍は塔馬を見詰めた。
「朝に電話したのと違うかい?」
塔馬に言われて蛍は頷いた。
「テル子さんが殺されても、松本殺しに関しては山影さんが伯父さんのアリバイを信用しているらしいことを教えたいと言っていたものな。そのついでに昨日のアリバイでも聞いたんだろう」
蛍は辛そうに頷いた。
「それじゃ、蒸発を唆《そそのか》したのはオケイか」
長山は唖然となった。
「なんだってそんなバカな真似を」
「伯父は酷く慌てていたわ。今度もアリバイを証明してくれる人間が居ないと……いくら山影さんでも認めてくれないと思った。その時点で私は他のだれのアリバイの有無も知らないし……直ぐに逮捕されてしまうんじゃないかと不安を感じて」
「それで逃げろと?」
「言い出したのは伯父の方。少し警察の様子を見てからにしたいと。報道陣がこの村に来ているのも承知だったし……もし疑いが集中するようだったら自分から出頭すると言って。でも……私も引き止めなかったから、責任は私にあるわね。ごめんなさい」
蛍は皆に深々と頭を下げた。
「どこに居るんだい」
塔馬は静かに訊ねた。
「山形市のホテルに」
「だったら連絡した方がいい。駐在所に居る山影さんに電話するように言うんだ。居場所さえはっきりすれば山影さんだって余計な想像をしないさ。このまま放って置けばいたずらに疑惑を増すばかりだ」
蛍は塔馬にこっくりと頷いた。
「それにしてもよくオケイの仕業だと」
長山が塔馬に質した。
「ただの勘だよ。オケイが伯父さんに電話すると聞いていたから。電話した上で伯父さんが行方不明になったとしたらオケイがのんびり記者会見なんかをしているわけがない。普通は逃亡の責任が自分にあると心配するさ。必ず我々にだって真っ先にそれを言う」
「聞いてみりゃ当たり前の推理に違いないが」
長山は首を振りながら蛍に向かって、
「それで伯父さんは昨日どこに居たんだ」
「教えてくれなかったの」
「オケイにもか!」
「ただアリバイがない、とだけ」
「そいつぁ妙だ。よほどの事情がありそうだ」
長山は腕を組んだ。だから蛍も不安を感じて千崎の行動を見逃す気になったのだろう。
「水面下の行動がやたらとありやがる。十中八九オケイの伯父貴は事件に巻き込まれているだけだと信じていたが、こう不可解な行動が重なってくると、タコだって……」
長山の嘆息に亜里沙も頷いた。
「単純に身内のオケイには言いたくないことだったのかも知れないさ。山影さんにまで隠すようなら問題だがね」
「どんなことが想像できる?」
「神様じゃないから分からない」
塔馬は苦笑した。
夕食を済ませると塔馬たちは土産を買うふりをして、渡り廊下を伝ってホテルの売店に向かった。広間に蛍が残ったせいで報道陣も特に塔馬たちの行動に気を配っているフシはない。売店からはそのまま外に出られる。早めに食事を済ませた石川が塔馬と長山、そして亜里沙の靴を玄関から運んできていた。
「蓑田先生たちは?」
靴に履《は》き替えながら長山は石川に訊《き》いた。
「もうタクシーに乗って待っています」
玄関から離れた場所に二台のタクシーが停まっているのが見えた。
「上出来だ。だれにも感づかれちゃいねえ」
長山は自分のアイデアに満足した。
「一時間もすりゃ連中が慌てるぜ。これだけの人数が宿から姿を消すんだから」
「どうかな。酒を呑みに麓《ふもと》のドライブインにでも出掛けたと考えるだけじゃないかい」
「私たちは部外者扱いだもの」
亜里沙も塔馬に頷いた。
「でもねえさ。呑みに出ると言えば、二人や三人が必ずついてくる。連中は想像力がない代わりに行動力は人並み以上だよ」
四人はそっと売店から抜け出た。
玄関ロビーにはだれの姿もない。それでも四人は足音を忍ばせてタクシーに近づいた。
「村の駐在所まで」
蓑田を乗せている運転手に長山は言った。
「これは警察の仕事なんだ。もし、後で報道関係者になにか訊ねられても、我々の行き先は他言無用にしてくれ」
長山の言葉に運転手は真面目な顔で応じた。
「上手くまいてきたようですね」
駐在所に到着すると車の音を聞きつけた山影が外に出てきて真っ暗な道を確認した。後続のライトは見えない。
「食事中を邪魔して悪かった」
駐在所の中では五、六人の警察官たちが丼にラーメンを汁代わりにして食べていた。
「カツ丼か。こっちの方が旨そうだ」
長山は羨《うらや》ましそうに覗いた。ホテルの食事は豪勢だが山菜料理がメインで長山はほとんど箸をつけていない。
「田舎のカツ丼です」
山影は自分の丼に蓋をした。
「だから旨そうだ。薄い肉に分厚い衣、それにしょっぱめでたっぷりのつゆがカツ丼ってもんだ。近頃のカツ丼は上品すぎて別の食い物って気がする。具とメシを別々にしてる店もあるからな。カツをつまむとぽたぽたとつゆが零《こぼ》れて情けねえったら」
「ミイラはどこに?」
蓑田が長山の無駄口を遮った。
「この奥の部屋に。どうぞ」
警察官たちには、そのまま、と伝えて山影は蓑田と助手を奥の部屋に上げた。
「狭い部屋なので我々はこちらで待機しております。なにかありましたら」
山影はガラス障子のところで言った。
「リサも拝んできたらどうだ」
長山に言われて亜里沙も上がった。
「千崎さんから連絡はありましたか?」
塔馬が山影に質した。
「どうしてそれを?」
「オケイも承知のことだったのさ」
長山は勝手に椅子を持ち出して座った。
「で、千崎のアリバイは?」
「雲海とおなじケースですよ」
山影はうんざりした顔で舌打ちした。
「鶴岡で女と会っていたそうです」
「どこの女だい?」
長山は不審の目で見上げた。
「商売女のようです。名も本当かどうか」
「いい加減なことを言いやがる」
長山はフンと鼻を鳴らした。
「それが結構|信憑《しんぴよう》性があるんです」
山影は溜め息まじりに、
「仙人村に村役場の新築計画がありましてね。二つの建設会社が受注を巡って暗躍しておるという噂です。その一方からの接待だったと千崎さんは主張しておるんですよ」
「接待って……つまり女か」
「田舎にはよくある話です。多少の賄賂よりは遥《はる》かに効き目がある。選挙のときなんかでもこの手の接待がしばしばだ」
「それでオケイには言えなかったわけだ」
長山は納得しながらも、
「だったらアリバイは成立するだろう」
山影に言った。
「業者の接待がバレると思って最初は隠し通そうと思ったらしいんですが……ことは殺人事件ですからね。思い悩んで業者に連絡したところ、相手に知らないと突っぱねられた」
「そりゃ業者にとってもヤバイからな。贈収賄はされた方よりも、した方が罪が重い」
「どうも本当みたいです。そう言われてみると千崎さんも業者の顔を一度も見ていないことに気がついた。いつもは業者と待ち合わせてから女を紹介されていたのに、今回はホテルの名と時間を教えられただけで」
「いつもと違うってのも酷い話だ」
「収賄の一種とも思っていないようです。以前には村議の何人かが揃って女性を紹介されたこともあったとか。信じられないでしょうが、それを平気で口にしておる議員も居るそうです。もちろん、酔った上での話だが」
「とんでもねえ野郎どもだな」
「村議はたいてい名誉職ですからね。その程度のメリットはあって当然と見ている。視察と銘打った業者の招待旅行には女がつきものらしい。金じゃないという安心もある」
「すると……その気になればだれかが業者の名を騙《かた》って千崎さんを呼び出すことも」
塔馬は身を乗り出した。
「ええ。可能でしょう。千崎さんがその業者に肩入れしていることは皆が知っている。嵌《は》められたに違いないと千崎さんも力説しています。当然、番内さんにね」
「番内が千崎を嵌めてどうする?」
長山は不愉快そうに質した。
「テル子殺しの罪を被せるのが目的だと」
「どんなにアリバイ工作に成功したところで、大事な証言者を千崎が殺すはずはなかろう。それは番内も承知さ。有り得ねえよ。それを目的で番内が千崎さんを嵌めるなんてのはな」
「でしょうね。私もそう思う。思うんですが、千崎さんの話が嘘とも思えなくて」
「女を突き止めるのはむずかしいのかい」
「時間をかければあるいは……二、三日ではとても無理です」
「本当なら、つくづく馬鹿な男だぜ。こんな時期に女の誘いに乗るたぁ」
「だからこそ行ったんでしょうな。精神状態が穏やかじゃないときこそ女に溺れる」
「ひょっとして雲海の罠《わな》じゃねえのか」
「………」
「間違っても千崎がテル子の家にやってこねえようにさ。村から遠ざけておけば安心だ。そうしてゆっくりとテル子の家を捜す。ついでに千崎のアリバイも曖昧にできるんで一石二鳥だ。どっちも女絡みってのがそもそも怪しい。一人の人間の発想にゃパターンがある」
「確かに、私も雲海和尚のアリバイとやけに似た話だと戸惑っておったんです」
「面白い説だけど矛盾もあるな」
塔馬は笑った。
どこに矛盾が、と長山が訊《き》き返そうとしたところに亜里沙が顔を見せた。
「どうした?」
緊張の色を認めて長山は訊ねた。
「殺された可能性があるんですって」
「ミイラがか」
長山は立ち上がると部屋に入った。
蓑田の前には慎重に衣服をぬがされたミイラが胡座《あぐら》をかいていた。助手がライトを照らして首筋の辺りを調べている。
「殺されたってのは?」
長山は蓑田のとなりにしゃがんだ。
「ここを見て下さい」
蓑田はミイラの腹部を指で示した。
「槍《やり》で突いたような穴がありました」
長山が覗くと助手がライトの明りをそこに向けた。いかにも丸い穴がある。
「鼠やウジ虫ならもっと広い範囲に穴が見られるはずですよ。おそらく間違いない。この位置なら骨にも損傷がある。レントゲンで調べたらはっきりすると思います」
「このミイラが殺された……」
「直ぐに燻製を施して衣服を着せたんでしょう。それで傷が隠されてしまった」
「すると異人殺しか」
「脚がほとんど萎《な》えています。推定年齢は七十歳前後。異人とは思えませんね。こういう旅人が居たとはとても想像できない」
「この村の人間だと?」
「それはなんとも……ミイラにしてからだったら、どこからでも運べます。私の言っているのは、作製時に旅人ではなかったはずだと」
「この村にゃミイラの伝承が一つもない」
「けれど紛れもない即身仏です」
「参ったね、こりゃ」
長山は困惑した。
「でも、ねえか」
直ぐに長山の目が輝いた。
「この事実を雲海が承知していたとすりゃあ学術調査を恐れて盗むのも当然だぜ。なんてったって自分とこの墓所に埋まっていたミイラなんだからな。そいつに殺しの痕跡が認められれば穏やかじゃねえさ」
「なら、最初に掘り返して番内の持ち山に埋めたのはだれだい?」
塔馬が弱点を突いた。
「例の写真が明らかに雲海と千崎の犯罪を示しているとチョーサクは言ったが、その推測に間違いなければ、掘り返したのは雲海と千崎ということになる。学術調査を恐れるくらいなら、最初からそんな面倒はしない。彼らが盗んだとしたらこの傷とは無縁の理由だ」
「………」
「勘違いしないでくれ。オレは別の理由で彼らがミイラを盗んだと言うつもりはない」
「どういうことだよ」
「盗んだのは彼らじゃないと信じている」
「だったら……番内か」
「それ以外に考えられないね」
「その推理は昨日の昼にも聞かされたが、テル子が殺されたことで白紙に戻ったはずだろ。写真の裏にはミイラの隠し場所がちゃんと書かれてあった。つまりは盗んだ人間と、その写真を所有していたテル子には繋がりがある。番内とテル子を結びつけるのは不可能だ」
長山は激しく否定した。
「その上、写真にはもともとのミイラ穴の位置まで記入されていたんだぞ。それがなにを意味するか分からないわけじゃあるまい。番内が公民館から盗んだ犯人だとしたら、最初に仙雲寺から掘り返したのも番内って結論になる。それなら、たった今トーマがオレに言った疑問と一緒じゃねえか。残念ながら無理な推理はトーマの方だよ」
「さっきの矛盾についてだが」
塔馬は笑って長山に言った。
「一人の発想にはパターンがあるという論理は正しい。明らかに雲海和尚と千崎のアリバイには共通したものが感じられる。だが仮に雲海和尚が千崎を陥れようとしたものなら、雲海和尚もまた自分のアリバイが怪しまれても構わなかったという理屈になる」
「なんでだ?」
「おなじようなアリバイなんだ。片方が信用されて、もう片方だけが疑われるなんて有り得ないじゃないか。千崎を窮地に追い込もうとするなら、自分もおなじ窮地に立たされる。反対に自分が安全なら、千崎だって一緒さ。ちょっと考えれば分かることだ。オレが雲海だったら下手なアリバイは用意せず、部屋で昼寝していたとか、ごく自然なアリバイを主張する。テル子に誘われてホテルに行ったなどと危ない橋を渡るような真似はしない」
「自然なアリバイ……」
「まさに番内はそれじゃないか」
塔馬は断定した。
「おまけに雲海と千崎は似たような形で呼び出されている。どう考えても番内が二人を同時に窮地に追い込むための手段としか思えない。おそらくそれが正解だ」
「バカな! なんで番内がテル子を殺す」
「殺すつもりじゃなかったんだよ。彼にはもっと別の目的があったのさ」
塔馬は平然と長山を見詰めた。
翌日の昼前。仙人村の公民館。
玄関の前には人の出入りを阻むように警察の車が三台横づけにされている。付近の道路は報道陣の乗ってきたタクシーや中継車で埋められていた。公民館は民家からだいぶ離れているというのに、野次馬も集まりはじめている。記者たちはたびたびガードの警察官とやり合った。無理もない。彼らにはこの中でなにが行なわれるのか、まるで見当がつかないのだ。けれど、失われたミイラが羽黒山で発見され、この公民館に運ばれたという情報は得ている。月宮蛍を筆頭に、昨日一日行方をくらましていた村会議長の千崎、そして番内や雲海和尚までもが揃って招集をかけられていることで、記者たちも今日が事件のヤマであることを感じ取っているらしかった。
大方の関係者が中に入って三十分後に塔馬と長山とが車で到着し、警察官に挨拶しながら玄関を潜《くぐ》るのを認めて記者たちは訝《いぶか》しんだ。蛍の仲間で物書きの長山はともかく、塔馬の役割を彼らはまるで知らない。
塔馬が広間に顔を見せると、山影がホッとしたようにとなりの席へ招いた。広間の中央にはミイラが置かれていた。それを取り囲む形で番内、千崎、雲海、蛍、亜里沙そして蓑田や豊たちが腰を下ろしていた。それぞれに緊張の色が浮かんでいる。
山影は席に着いた塔馬と長山の顔を窺《うかが》った。長山は満足そうに頷いて見せた。
「では……ご説明いただけますか。皆さんも先ほどから相当に苛立《いらだ》っておられるようで」
「その前に自己紹介してくれって顔だぜ」
長山は雲海が塔馬を睨《にら》んでいるのに気づいて苦笑した。
「確かオケイの伯父貴とも初対面だろ」
言われて塔馬は手短に名乗った。
「それじゃあ足りなかろう。トーマはこの事件を解決するためにやってきた男でね。これまでにいくつもの難事件を手掛けている。山影さんが一目も二目も置いているやつさ」
「どうせ下らん推測をしとろうが」
長山の言葉に雲海はフンと鼻を鳴らした。
「脛《すね》に傷持つ人間は辛いね。言われる前から自分を名指しされると思い込んでるようだ」
「茶番をする気なら帰らせて貰う。それで文句があるなら正式な逮捕状を持参して寺にまで来い。だいたい、外の連中はなんだ。断わりもせんで勝手にカメラを回しおってからに……あんたも」
と山影を下から睨《ね》めつけて、
「覚悟をしとくんだな。この責任はきっちりと取って貰うぞ。証拠もなしに犯罪者扱いするとは……儂《わし》を捕らえるというなら、やってみるがいい。こっちも死ぬまで戦ってやる」
「いつ犯罪者扱いをしました?」
山影は低い声で遮った。
「ミイラを発見して事件の関係者にお集まり願うのは、当然のことではありませんか?」
「儂がなんで事件の関係者なんじゃ」
「ミイラはもともと仙雲寺の墓所に埋められていたものです。あなたは知らなかったとおっしゃいましたが、土地の所有者には違いない。それを普通は関係者と言うんです。もしこのことで精神的な圧迫を受けたとお考えでしたらご自由に。訴えても構いません」
山影の迫力に雲海は押し黙った。
「例の女は捜してくれておるんでしょうな」
不安な面持ちで千崎が口を挟んだ。
「あんたらは簡単に信じてはくれんだろうが、嘘はついておらん。テル子が殺されたとき、儂は間違いなく鶴岡のホテルに居た」
「そうじゃ。儂も千崎も番内に嵌《は》められたんじゃ。なんでそいつが分からんのじゃ」
雲海が顔を真っ赤にさせて力説した。
「じゃあ訊くがな」
番内が堪《こら》え切れずに怒鳴った。
「あの女がミイラの隠し場所を裏に書いた写真を持っていると、なぜオレが知ってるんだ。知ってたら、殺すなんて手間をかけるより警察に教えるさ。それで全部にカタがつく」
「おまえがテル子と組んでいたんじゃろ」
「オレがあの女と?」
番内は雲海に哄笑した。
「ボケもそこまで進めば大したもんだよ。テル子はこの千崎のアリバイの証言者だぞ。オレがあの女と組んでいたら、千崎を助けるような真似をさせると思うか。ふざけるな」
「それなら千崎の仕業か」
雲海は千崎の襟首を掴んだ。
「こいつは儂の寺にミイラがあるのを!」
千崎の顔が見る見る青ざめた。
「承知だったとおっしゃるんですな」
山影は薄笑いを浮かべて雲海に確認した。
雲海は掴んだ腕を小さく震わせた。
「でしたら、なぜ最初からそれを言っては下さらなかったので? 不思議な話だ。あなたと千崎さんは番内さんの持ち山からミイラが発見されても知らぬふりを続けられた」
「おなじミイラとは思わなかったんじゃ」
雲海は覚悟した様子で言った。
「そうでしょうかね」
山影は嘲笑《あざわら》った。
「ミイラはあちこちに転がっている代物とはわけが違う。たとえ番内さんの持ち山から見つかったとしても、一応は自分の寺のミイラを確かめるのが当たり前というものだ。そして……調べれば直ぐにこのミイラが仙雲寺から掘り出されたものと分かったはずです。あの周囲の土が掘り返されているんですからね」
「………」
「なにか言えないような事情でも?」
「面倒を……恐れただけじゃよ」
雲海はがっくりと肩を落とした。
「墓を荒らされたのは知っておった。それが番内の持ち山から見つかるなど、むろん罠《わな》に決まっておる。下手に騒げば番内がどんな手を打ってくるかも分からん。そう千崎と相談して、しばらく様子を見ることにした」
「罠を仕掛けられる覚えがあると言うんですな。でなければなにも恐れる必要はない。ミイラはあなたの寺の墓所にあった。言わば正当な所有者のはずでしょう」
山影の言葉に雲海は怯《おび》えた。話せば話すほど立場が悪くなって行く。
「それは……番内が儂らを恨んでおるじゃろうと思って……親父の復讐かも知れぬと」
「ミイラとどんな関係があるんです」
山影はナイフで抉《えぐ》るように重ねた。
「最初のホトケならともかく、あれは百年以上も前のミイラだ。どうしたらあれを用いて復讐が果たせると言うんですかね」
山影に質されて雲海は額の汗を拭いつつ、
「儂の思い違いだったかも知れん」
「とは?」
「番内の罠だと主張したのは千崎だ。儂もあのときはそうかと思ったが……よく考えてみれば、あんたの言う通りだ」
「儂が嵌めたとでも言うつもりか!」
今度は千崎が慌てた。
「貴様を嵌めてなんの得がある」
「ならばテル子の家に写真があったのはどう説明する気だ。番内の肩を持つ気はないがの、こやつの言うのも筋が通っておる。番内とおまえの女が組んでいたとは思えん。としたなら、ミイラを儂のところから盗み出したのは貴様しかいなくなるぞ」
「なんのために儂が盗んで番内の山に埋めなきゃならん」
「番内の仕業と見せかけて儂を失脚させる目的だったんじゃあるまいな。貴様ならやりかねん。儂が次の村長選に立つのが怖かったんじゃろうよ。貴様も狙っておるのは承知だ」
「そうか……それが本心か」
千崎は額に青筋を立てて、
「その言葉はそっくり貴様に返してやる。これまで貴様のような生臭坊主を庇《かば》い立てしてきた儂によくそんな口が利《き》けたもんだ」
「いい加減にして!」
蛍が甲高い声を上げた。
「二人とも恥ずかしいとは思わないの」
「こいつは儂を人殺し呼ばわりしたんだぞ」
千崎は雲海に喚《わめ》き散らした。
「記者たちが外で聞き耳を立てていますよ」
山影が苦笑すると千崎は口を噤《つぐ》んだ。
「まあ、これでだいぶすっきりしたじゃないですか。こちらもいろいろと納得できたというものです。いろいろとね」
厳しい目に戻して山影は、
「だが、まだミイラの由来は聞いておりません。ついでにお教え願えませんか」
雲海を真っ直ぐ見据えた。雲海はその視線を躱《かわ》して俯《うつむ》いた。
「ミイラが即身仏ではなく、殺された後に燻製処理を施されたのははっきりしている。もちろん、あなたの黙秘はそのことに関係があるんでしょうね」
「殺された!」
番内の声がうわずった。
「どうしてそうと分かったんだ?」
「槍で突かれたと思われる傷が衣服で隠されていたんだ」
塔馬が番内に説明した。
「ミイラには虫に食われた穴もある。専門家の蓑田先生じゃなければ、だれもが見落とすような刺し傷だった。君が最初に見たときに分からなかったのも当たり前だろう」
塔馬に言われて番内はミイラに近づいた。蓑田も側に寄って傷の位置を示した。番内は確認して何度も頷いた。
「満足そうだね」
塔馬が口にすると番内は振り向いた。
「千崎さんも雲海和尚も動転している。これですべてが君の思い通りになったわけだな」
「なんのことだ?」
「君と同様に、一見してミイラになんの痕跡も認められなかったときは混乱したよ。ほとんどがこちらの予測通りに運んでいたのに、肝腎のミイラになにも発見できなければ推理は根底から崩れさる。蓑田先生が傷を見つけてくれたときはホッとして力が抜けた。ちょうど今の君のようにさ」
「………」
「これからどう展開するんだろうな」
塔馬は微笑を浮かべて続けた。
「それもだいたいは想像がつく。殺されたミイラが発見されたとなれば、ただの即身仏よりも大騒ぎになる。テレビや雑誌がこぞってこの謎に取り組むだろう。そうなればいずれこのミイラの身許も判明する。いくら百年以上前の犯罪とは言え、そこまで大騒ぎになってしまえば、その子孫とてのんびりとはしていられなくなる。社会的制裁を受けるのは確実だ。自分が犯した罪でもないのに、子孫はそれが原因で失脚する可能性もある」
「オレが仕組んだとでも言うのか」
番内はせせら笑った。
「だったらテル子の家から出た写真は?」
「羽黒山神社の脇にたくさんの卒塔婆が立てられていますね」
塔馬は千崎と雲海に訊いた。二人は頷いた。
「あそこはなんという場所です」
「羽黒山の供養塔のことじゃろ」
雲海が言うと千崎も首を縦に振った。
「写真の裏には水子塚とありました」
塔馬の言葉に二人は首を傾《かし》げた。
「この辺りの人はそう呼ばない。それは羽黒山の神官からも耳にした」
「そうなの?」
蛍が眉根を寄せた。
「オケイが勘違いしたのさ。あそこには子供の玩具なんかも供えられている。それで水子塚に違いないと思っただけなんだ」
塔馬はその視線を番内に向けた。番内は平然とした顔で塔馬を睨み返した。
「ミイラが水子塚から発見されたと、ぼくは君に教えたはずだな。君は直ぐに頷いた」
「あの場所をそう呼ぶと蛍さんから聞いていたんでね」
「重要なのはだれから耳にしたかじゃない。君もあの場所を水子塚だと勘違いしていた点だよ。だからそのまま写真の裏に水子塚と記入した。千崎さんや雲海和尚なら絶対に供養塔と書く。オケイの勘違いしていた呼び名が記入されていたってことは、そのまま犯人を特定する重要な手掛かりとなる。君が水子塚と聞いて直ぐに頷いたとき、ぼくは君の犯罪だと確信した」
「オレとテル子って女が仲間だとでも?」
「部屋が荒らされていれば、人は十中八九なにかを捜していたんだと思い込む」
「………」
「だが、反対の場合も有り得るんだ」
塔馬の言葉に番内はたじろいだ。
「君は写真を彼女の家に隠しに行ったのさ」
千崎と雲海は互いの顔を見合わせた。
「泥棒が入ったと知れば彼女は慌てて警察に知らせる。その報告は直ぐにこの山影さんにも届く。事件の関係者の家に泥棒となれば、警察だって慎重に捜査する。そのときに例の写真が発見されて、しかもその裏に記入されている通りの場所からミイラが見つかったらどうなると思う? 今度ばかりは千崎さんだって言い訳が利かない。他の場所ならともかく、愛人の家なんだからな。隠し場所としては適当なところだ。その上、千崎さんと雲海和尚のアリバイを不明瞭にしておけば、一石二鳥じゃないか。警察は仲間割れと見て、雲海和尚を追及するだろうし、千崎さんについては、万が一にもその時間に彼女の家を訪ねる心配もなくなる。これでテル子さんを呼び出せば、あとは楽に彼女の家に忍び込むことができる。その予定だったのに……不幸にもテル子さんが家に戻ってきた。君も後戻りができなくなったんだろうな。この事実が警察に知れればお終いだ。何日か前なら出来心だったで済んでも、松本さんまで殺してしまった君にはそれができなかった。顔を見られた以上、殺す他に方法がなかったんだ」
「松本君も番内さんが!」
蛍は絶句した。
「写真に小細工をし過ぎたよ。仙雲寺から羽黒山の水子塚とはな。千崎さんや雲海和尚を陥《おとしい》れるためにはそこまで手の内をさらけ出さないと無理だってのも分かるが……実際にミイラが仙雲寺の墓所から掘り出されたと確認されたからには、そのミイラを盗んで羽黒山に埋めたのも同一人物だと告白しているようなもんなんだぜ。別の人間が公民館から盗んだとしたら、それを羽黒山に埋められるわけがない。ってことは公民館から盗んだのも君の仕業と決まる。君の仕業なら、松本さんが電子手帳にミイラの謝礼の件で千崎さんと会うなどと書くはずがない。ましてやミイラの盗難にいっさい関わりのない千崎さんが松本さんを殺す理由もなくなるってものさ」
「オレにも松本を殺す理由などない」
「長靴の鑑定結果が出ましたよね」
塔馬が山影に訊ねた。
「推定体重や文数が松本さんのものとほとんど合致したそうです」
「お聞きの通りだ。ミイラを仙雲寺から掘り出してロケ現場に埋める作業はとても君一人ではできない。恐らく松本さんに頼んで手伝って貰ったものだろう。金の問題でこじれたのか、それとも、君がせっかく掘り出したミイラをまた盗んだりしたものだから、松本さんは怖くなって手を引こうとしたのかも知れないな。その気持も分かる。君の発想は常軌を逸している。仙雲寺から苦労して運んだミイラを自分の持ち山に埋め、それを簡単に発見させて、今度は公民館から盗み、ご丁寧に警察へ発掘の証拠写真を送りつける。普通の人間にはとうてい理解ができないさ」
「オレにもお宅の話が理解できんね」
「君はひたすら事件を派手にしたかったんだ。百年前の犯罪ではどんなにしても千崎さんや雲海和尚を破滅にまでは追いやられない。だから社会に制裁させる方法を選んだ。そのために作る気もない映画のセットを拵《こしら》え、オケイや大勢の俳優たちを集めた。その舞台の中でミイラが発見されれば全国ネットのテレビ局や週刊誌が飛びついてくる。もっとも……君の計算では事件もそこで終了する予定だったんだろ。観客の見守る大舞台の中でミイラの入った石棺が披露される。そのミイラに明らかな殺人の痕跡が認められて、ますます世間の関心が集まる。そうなればあとは放って置いても自然にテレビ局や雑誌社がミイラの謎を解き明かし、結果的に千崎さんや雲海和尚が窮地に立たされて行く。そのつもりでいたのに、いざ蓋《ふた》を開けてみたら、肝腎のミイラに殺人を示唆するものが見当たらない。君も相当に戸惑ったはずだ。おまけに今度は千崎さんや雲海和尚が合法的な反撃に出てきた。たとえミイラが君の持ち山から発見されたとしても、百年以上も前なら村全体に入会権が許されていたと主張してね。殺人の証拠もないままに鑑定されて所有が村に移行してしまえばすべては無駄となる。君は悩んだ末に、もう一度ミイラを盗むことにした。そうすれば世間の興味が疼《うず》く。発見だけでは警察も積極的に関知しないが、盗難となれば事件に絡んでくる。そうなるとミイラが目の前になくても結果は一緒だ。なぜ盗まれたのか、だれのミイラだったのか、最低でも半月は騒ぎが続くに違いない。騒ぎが静まりそうになれば、いかにも謎めいた写真を警察に送り、また新たな火種を作る。そこまではなかなか感心できる作戦だよ。君は自分の手をほとんど汚すことがなく二人を追い詰められるんだから。だれだって、自分が埋めたミイラを自分が発見して、その上にまた盗むなどとは想像もしないだろうからね。君は安心して警察にミイラの身許を示唆する手掛かりを与えることができるわけだ。松本さんさえ離反しなければ、今頃は千崎さんたちが週刊誌などで先祖の罪を糾弾されていたんじゃないのか」
「まったく恐れ入った想像力とはこのことだな。なに一つ証拠もなしに、よくそれだけの話を思いつくもんだ。それほどの頭なら千崎や雲海を犯人に仕立て上げるのも簡単だろう」
番内は薄笑いを浮かべて否定した。
「君もまさか事件がこんなに大きくなるとは想像できなかったんだろうね」
塔馬は残念そうに首を横に振った。
「証拠は朝に手に入れてきた」
ギョッとして番内は目を剥《む》いた。
「最初から殺人計画を練っていたら、あんな初歩的なミスを犯すわけがない。君はなんの変哲もない写真だから油断したんだろうが」
それを聞いて番内から血の気が失せた。
「警察の注意を引こうとしてキャビネ判にまで引き伸ばしたのも失敗だったな。サービスサイズにしていれば、今はたいてい機械が自動的にプリントする。それなら目立つ心配もなかった。おまけに人物写真ならまだしも、ただの穴を写したやつをキャビネ判に頼めば、写真屋の方だって不審を抱く。それに気づいて昨夜からこの村はもとより、鶴岡や酒田の写真屋に問い合わせて貰ったら、早朝に連絡があった。鶴岡の店だ。チョーサクと二人で出掛けてきたよ。ずいぶん急いでいたらしく、その日のうちにできないかと交渉したそうじゃないか。主人は客が何度も時計を眺めるもんだから時計の細部まで記憶にとどめていた。文字盤にジュエリーが配置されている贅沢《ぜいたく》なロレックスだったと断言していた。君とおなじ時計だ。顔なんかよりもずっと確かな証言だと思うが……主人はもう一度会えば必ず見分けがつくとも言っている」
これでさすがに番内も観念した。
「いつから疑っていたんだ?」
番内はそれを気にして訊ねた。
「チョーサクから松本殺しの鮮やかな推理を聞かされたときだったかな」
「そんなに早くかよ!」
長山の方が驚いた。
「チョーサクの推理は九割以上当たっていたんだ。松本殺しは決して見せしめじゃなかった。千崎さんに罪を被せる目的の他に、現場から逃走する余裕が必要だったのさ。だから死体を祠《ほこら》の中に隠した。その展開からチョーサクは犯人が車を使えない情況にあったと睨んだ。車があればそこに死体を捨てて置くより、運んで山の中にでも放った方が安全だ。そうして参籠所の泊まり客が怪しいという結論に達した。だが調査結果はことごとく白と出た。千崎さんはその朝、車に乗っていたのを目撃されている。雲海和尚にしてもあんな早朝に仙人沢の行人塚に出向くためには車がないと不可能だ。そこまで推理できたらもう一歩じゃないか。絞り込んだ三人の中で行人塚に歩いて行けた人間が一人居る。それが湯殿山ホテルに泊まっていた彼だったんだ。チョーサクたちは例のパラドックス、自分が掘り出して、自分が発見して、自分が盗むという矛盾にぶち当たり、彼を容疑圏内から外した。あのときに矛盾の方を解明するつもりになりさえすれば、おなじ結論が出たはずだ」
「ちくしょう。言われればその通りだ」
長山は悔しがった。
「山さんもオレも一度はそいつを検討したんだぜ。だが、どうにも有り得んような気がしてあっさりと諦めちまった。そのうちにテル子殺しが重なったんで混乱の渦さ」
「逃亡の恐れはないようだが」
山影が部下に目で合図すると、二人の警察官が番内の両脇に腰を下ろした。
「手錠はかけんのか!」
千崎が怒りに声を震わせた。
「こいつは二人も殺した男だぞ」
「本人も覚悟しているようなのでね」
山影はじろりと千崎を見やった。
「あんたらも覚悟しといた方がいい」
番内はふてぶてしく笑った。
「マスコミはなんでオレがあんたらを嵌《は》めようとしたのか興味を抱くだろうからな。あんたらにとっちゃ事件はこれからが本番だ」
番内はそう言って哄笑した。
「お陰さまですっかり吐きました」
その夜。長山の部屋に皆が集まっていたところに、番内を鶴岡署に移送した山影が戻ってきた。さすがに肩の荷を下ろした感じだ。
「私は明日から何日か鶴岡泊まりです。あとは地元の警察に預けても構わんのですが乗りかかった舟というやつです。記者連中が鶴岡に移って宿も静かになりましたな。今夜はゆっくり皆さんと呑める。皆さんも明日は東京にお帰りなんでしょう」
山影は亜里沙からビールを注いで貰うと、旨そうに呑み干して笑顔を見せた。
「ミイラの秘密は?」
塔馬が新たに注ぎながら質した。
「塔馬さんの睨んでいたように番内の先祖でした。と言っても、番内がそう信じているだけで、ミイラに名前が書かれているわけじゃない。そこが一番の問題だったんです」
「彼らの先祖にどんな事件が?」
「番内の家がもともとは寺だったことをご存知ですね。湯殿山近くにあって、なかなか由緒正しい寺だったそうです。事件のあった当時の住職はもちろん番内の先祖で、受光和尚と呼ばれた人だったとか。七十二歳で亡くなったと言うんだから高齢でしょう。家族皆が仙人村に残っていればあんな事件も起きなかったはずだと番内は言うんですが……明治の五、六年頃に受光和尚一人を置いて寺の跡取りだった長男家族がアメリカに出掛けた」
「そんな時代にアメリカ?」
「私も信じられなかったですよ。だが事実です。明治新政府が東北の不穏分子を一掃する目的で積極的な移住政策を取ったらしいんです。横浜の貿易商を仲介として会津藩や南部藩の士族たちがこぞってアメリカやブラジルに。酒田や鶴岡からも何家族か移住しているそうです。国賊の汚名を被せられて生きるよりは新しい生活を求めたんでしょうがね」
塔馬は頷いた。
「番内の家系は武士ではありませんが、その移住団に誘われた。坊主は移住団にとって大事な心の支えです。最初は躊躇《ちゆうちよ》していた番内の先祖も、とりあえずアメリカの情勢を見てからと決意した。だが高齢の受光和尚はとても連れて行けない。そこで身の回りの世話を若い修行僧に頼んで出発した。その修行僧というのが……千崎さんの先祖です」
山影は蛍を気にして口調を低くした。
「留守中になにがあったのか分からない。けれど出発して半年もしないうちに仙人村からアメリカに手紙が届いた。受光和尚が亡くなったという知らせです。高齢のせいもあって家族は別に疑いもしなかった。それにアメリカにようやく馴染みはじめた頃でもあり、長男は寺の仏事いっさいを任せる旨の返書を送った。あの当時のことですからね。手紙を受け取ったときは、すでに亡くなって一ヵ月以上が過ぎていたんでしょう。今更戻っても仕方がない。そうして一年後に長男だけがいったん帰国を果たしてみたら、情勢が一変していた。廃仏毀釈の波がこの小さな村にも押し寄せ、中途半端な寺はどんどん潰されていた。番内の先祖の寺は歴史もあったのに、正当な跡継ぎが不在ということで真っ先に槍玉に上げられていたんです。その上、協調しないとどちらも潰されるという名目で、敵対していた仙雲寺の住職がいつの間にか経営に食い込んできていた。アメリカでの生活に自信を持ちはじめていた番内の先祖は、様々な疑惑を抱きながらも廃寺に踏み切った。これには仙雲寺の強い勧めもあったようです」
山影はビールをあおって、
「番内の先祖はアメリカに戻ると、今度は何年か後になってブラジルに移住した。そちらの方が移民の数も多かったんですね。寺の他に農園の経営も手掛けて大成功をおさめた。そのままブラジルに暮らしていれば問題もなかったのに、老齢になるとやはり故郷が恋しくなって、ふたたび仙人村に舞い戻った。戻ってみたら、小さな寺に過ぎなかった仙雲寺が立派に復興していて、しかも自分の寺の修行僧だった千崎が大きな食料品の店を開いている。最初は時の流れだと喜んでいたらしいんですが、そのうち妙な噂を耳にした。廃仏毀釈で潰されそうになっていたのは自分の寺ではなく仙雲寺だったという噂です。仙雲寺は歴史も新しく、檀家の数も少ない。そこに都合よく受光和尚が亡くなり、しかも仙雲寺に即身仏があるという噂まで広まって、運よくその難から逃れたんだ、とね。父親の死についてはともかく、仙雲寺に即身仏があるなどとは初耳だった。単純に興味を持って仙雲寺にそれを問い合わせたら、仙雲寺は慌てた。なんの言いがかりかと凄い剣幕だったそうです。と言っても、これは番内の言葉で実際は分かりませんよ。この話とて七十年以上も前のことなんですから。番内はこれを父親から聞いたとか」
塔馬たちは頷いた。
「疑惑というやつはいったん生じると、とことんまで突き止めたくなるものです。番内の先祖はあれこれと調べはじめて、ついに自分の父親は仙雲寺の陰謀によって殺されたんじゃないかと思い至った。そこで墓を掘り起こしてみたら骨が見当たらない。受光和尚は若い頃に湯殿山で修行をしていた人で、骨と皮ほどに痩《や》せていた。ミイラに拵えるには理想的な体だったんです。直感てやつも恐ろしい。番内の先祖は仙雲寺にあるという噂の即身仏は自分の父親に違いないと信じた。この周辺の寺にとって即身仏はすなわち免罪符なんですよ。どんな小さな寺であろうと、即身仏さえあれば廃寺から免れることができる。たとえ即身仏の伝承が残っていなくても、現実にあれば結果は一緒です。だがミイラはそんじょそこらにあるものじゃない。作ると言っても条件がむずかしい。それ相応の体じゃないと。しかし……受光和尚なら簡単です。肉親はアメリカに行ってだれも居ないし、寺なら多少のことを行なっても見咎《みとが》められる心配もない。千崎の先祖さえ巻き込めれば、これほど好都合の素材はありませんね。おまけに殺すことでライバルの寺の存続を危うくさせられる。一つの寺が潰れれば、その分、仙雲寺に檀家が移動して収入も増える。廃寺寸前にまで追い詰められた仙雲寺にとって、これほど魅力的な誘いは滅多にありませんよ」
「………」
「番内の先祖は警察に訴えた。ところが、三十年以上も時間が過ぎています。確たる証拠でもあればともかく、ブラジルから戻ったばかりの人間の告発では警察も動かなかった。仙雲寺と千崎の先祖もその三十年の間に力を蓄えておったんです。村の人間たちも彼らの味方にまわった。村を捨てた人間よりは、現実の繋がりの方を守ろうとしたんでしょう。その上、仙雲寺の即身仏についても噂ばかりでだれも見た者が居ない。拵えてはみたものの、殺人の証拠がミイラに現われているので公開できなかったのだと番内の先祖は力説したそうですが……結局、すべてがうやむやのまま、番内の先祖と千崎や雲海和尚の先祖との対立だけが残った。以来、何十年にもわたってその関係が続いたというわけです。ところが……百年後の今になってついに番内が仙雲寺に眠っているミイラを突き止めた。実際は亡くなった番内の親父さんが突き止めたそうですがね。死に際に教えられたとか。親父さんも告発したかったんでしょうが、仙雲寺の墓所に埋められているのでは迂闊《うかつ》に手が出せない。ごり押しすれば逆に訴えられる。そいつを覚悟の上で盗み出し鑑定を頼んだところで百年以上も前の事件です。それで仙雲寺が潰れるわけはありませんよ。せいぜい自分たちの溜飲《りゆういん》が下がる程度だ。しかし番内は許せなかった。なんとかして二人を葬りたいと思った。頭を絞って捻《ひね》り出したのが、あの計画です」
「………」
「盗んだミイラをいったん自分の持ち山に埋めて、第三者に発見させる。そうして騒ぎを大きくすれば雲海和尚も打つ手が面倒になります。自分の寺に埋められていたミイラだと主張しても、鑑定は避けられない。また知らぬ顔を決め込むつもりなら、番内が自分で金を出し、本格的な鑑定をする。その場に蛍さんや長山さんのような有名人が立ち会ってくれればテレビや雑誌も取り上げる。そうやって抜き差しならないところまで話を大きくした上で百年前の犯罪の可能性をマスコミに吹き込めば、彼らだってただじゃ済みません。村会議長ではいられなくなるし、仙雲寺も潰れる可能性があります。テレビや週刊誌は無責任にあれこれと書き立てますからね。雲海和尚も村長の夢を捨てざるを得ない」
「そこまでで終わっていればな」
塔馬は溜め息を吐いた。
「まったくです。番内だってそれでケリがつくはずだと信じていた。だが、雲海和尚たちはもっと上手《うわて》だった。村の所有権を主張して仙雲寺とは無関係にミイラを処理しようとした。番内は慌てました。てっきりミイラに殺人の痕跡があると思っていたのに、それすらも見当たらない。これで何事もなく鑑定が終了し、村の所有と決まれば、二度と告発ができなくなります。番内はまたまた知恵を絞った。鑑定をさせず、所有も曖昧な状態にしたまま、ミイラの謎だけをあおる。世間はこの事件に注目し、マスコミもあれこれ取材に飛び回るでしょう。その段階で百年前の事件との関連を示唆することに成功したら、結果はおなじですからね。そのつもりでいたのに、今度は協力者の松本が脅迫しはじめた。口止め料として三千万を用意しなければ仙雲寺から掘ったのも、公民館から盗んだのも番内だと警察に密告すると言ったそうです。番内は松本をなだめすかし、とりあえず逃げろと促した。けれどホテルには私たちも泊まっている。どんな早朝でも、車のエンジンを吹かせばだれかに見咎《みとが》められる。番内は松本に知恵を授けた。自分が今夜のうちに参籠所の駐車場に車を入れておくから、おまえは風呂場からそっと宿を抜け出し、いったん参籠所に向かってそこから車を使え、とね。そうすれば見つかる危険も少なくなります。松本はその言葉を信じて従った。番内はその足で千崎の店に行き、屶《なた》を盗み帰った。どうせ松本の口を封じるなら千崎に罪を被せてやろうとの狙いと、松本殺しにそれらしい理由をつける必要があってのことです。意味もなく殺されれば、疑いがストレートに自分に降りかかってくる。逃亡の時間稼ぎと言うよりも、事件を曖昧にするのが一番大事な問題だったんです」
「その時間に千崎のアリバイが不明瞭なのを番内は承知していたのかい?」
長山が質した。
「朝の五時にアリバイが確実な人間を捜す方が大変ですよ。たいていは自宅で眠っている時間です。家族の証言がアリバイとして認められにくいのは長山さんもご承知でしょう。番内とて、てっきりそうだろうと信じてあの罠を仕掛けたんです。もっとも、千崎がテル子の家に通っていたのは知っていました。ひょっとしてそれと重なればありがたいと思っていたのも事実だったらしい」
「なるほど、どのみち罠は成立する」
長山は苦笑して頷いた。
「ですが……」
山影は続けた。
「松本を殺したために、事件の関心は肝腎のミイラから現実の方へと転換してしまった。長山さんや私たちが必死になっているのを側で眺めていて番内は焦った。この調子ではミイラの謎よりも、先に自分の犯行が発覚してしまうかも知れない。そう考えて例の写真をテル子の家に隠す計略を思いついた。あくまでも本筋をミイラに戻すのが目的です。この辺りから、塔馬さんもおっしゃっていたように番内は後戻りができなくなっていた。自分の身を守るためにも、なんとか千崎や雲海和尚に罪を被せなければいかんと……」
「バカな野郎だぜ。腐るほど遺産があったんだ。三千万くらい松本にやっちまえばよかったのに。そうすりゃまだ冗談で済んだ」
「脅迫ってのは永遠に続くんです」
山影は長山に言った。
「彼は最初から映画を作る気がなかったの?」
蛍がそれを確認した。
「持ち山に砦《とりで》のセットを建設したのは、舞台を派手にする必要があった他に、道路をつけるのが目的だったんですよ。ミイラが重い石棺に納められているのは父親から聞かされていたらしい。それを山の中腹まで運ぶには、どうしても車の通れる道を作らないといけない。映画撮影のためだと言えば、だれにも不審を抱かれませんからね。有り余る金を相続できたからそれが実行に移せた。ただし……それだけの理由で番内が百年以上前の先祖の復讐に踏み切ったとは信じておりません。もっと裏があるはずです。今日の訊問ではそれしか白状しませんが、必ず落としてみせます」
「裏がある?」
亜里沙が首を捻《ひね》った。
「ちょっと耳にした噂ですが、仙人村には中央の大手企業が資本を投入するリゾート計画が持ち上がっておるとか。なんでも、八百億円を超すプロジェクトなのだそうです。番内の仕事は広告代理店だ。もちろん、この噂は耳にしているでしょうね。だが、旨い汁にありつこうにも、仙人村は千崎と雲海の二人が牛耳っている。と言って彼らと協調もできない」
「なるほど、それが本当の狙いか。ミイラの件で二人を葬ることに成功すりゃ、反対に番内が同情される。堂々と村に戻れるってわけだな。仕事の経験から言っても、そのプロジェクトに村の代表として選ばれる公算は大きい。自分の山を高く売りつけることだって簡単なもんだ。それで全部に合点が行くよ。番内は殊勝な男じゃねえ。いくら多過ぎる遺産を手にしたって、それで先祖の恨みを晴らすようなタマじゃねえさ。だからこそテル子や松本を平気で殺せたんだ」
長山の言葉に蛍はゾクッと肩をすぼめた。
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エピローグ
仙台始発のガラガラに空いた新幹線に塔馬たちは腰を落ち着けた。石川は事件が解決した安堵からか、やたらとカメラのシャッターばかり押している。どうやらそのファインダーが塔馬と蛍に集中しているようなのを見てとって時々長山は嫌味を言った。蛍も昨日は辛い思いをしたようだが、番内の本当の狙いが復讐と見せかけた千崎や雲海和尚の追い落としらしいと分かって余裕を取り戻している。
「あの二人はどうなるもんかね?」
久し振りにのんびりとコーヒーを味わいながら長山は塔馬に訊《たず》ねた。
「当座は大変だろうが……人の噂も七十五日さ。ミイラの謎が解明されないうちに番内の罪が発覚した。番内は自分の罪を軽くするためにも復讐だと言い続けるだろうけど、リゾート計画の利権絡みについては、黙っていてもマスコミが嗅《か》ぎつけるよ。オケイには悪いが、これで仙人村も健全になる。千崎さんや雲海和尚も自然にリゾート計画から遠のかざるを得なくなるに違いない。その意味では番内の復讐が果たされたのと一緒かな。先祖の殺人の汚名を被せられるより、現実はそっちの方があの二人にとっては痛そうだ」
「あんなちっぽけな村に八百億だっけ? まったく日本て国もどうかしてんじゃねえのか。レジャーランドやゴルフ場を拵《こしら》えて、その側にマンションとか建て売りの別荘を百も並べるとか聞いたが、ふざけた話だぜ。東京の土地が高すぎるからこんなバカなことが罷《まか》り通る。東京じゃ無理なんで田舎の別荘に夢を託させようってんだろ。なんかで読んだが、日本の土地の評価額を全部足せば、その金でアメリカ全土を四つも買えるそうだ。政府も土地政策に本腰を入れてくれねえと、全国の田舎が都会人のレジャーランド化しちまうぜ」
「なんか、自分の恨みのようだな」
塔馬は笑った。
「そのお陰で番内みてえに自分の田舎を食い物にしようとする人間が増えるのさ。これが進むと、本当に比喩じゃなく、小判を敷き詰めた土地に米を植えるって情況になる。農家はどんどん土地を手放すだろうよ」
長山は窓の外に広がる田畑を眺めて言った。
「ミイラなんぞもロマンじゃなくなる」
「あのミイラはどうなるのかな?」
亜里沙が塔馬に訊ねた。
「鑑定して番内の先祖と認められた場合は燃やしてくれと番内が頼んでいるそうだ。もちろん仙雲寺だって引き取ることはできない。きっと番内の願い通りになるはずだ」
「即身仏とは違うからな」
長山も頷いた。
「それにしても、雲海和尚の先祖はなんでせっかく拵えたミイラを世間に公開しようとはしなかったのかね。ただ墓所に埋めたきりじゃ努力の甲斐もなかろう」
「当時は殺人の痕跡がまだはっきりと分かったんじゃないのか。ミイラは廃寺を免れるための道具に過ぎなかったんだから、それを使わずとも目的が達せられれば、あえて公開する必要もない。ただし、欲もあって保存したんだろう。二、三十年もすれば傷も目立たなくなると計算してね。なのに思いがけず遺族がブラジルから帰国してすべてが無駄となった。いったん殺人の疑いがかけられたものを公開するわけには行かない。燃やしてしまえば面倒もなかったのに、あの重い石棺に納めてしまったために、それもできなくなった。掘り出すには人数を頼まないと……そうすりゃ番内側に知られる危険もあるからね。自分の寺の墓所を幸い、そのままにし続けたのさ」
「仙雲寺は爆弾を抱えたまま百年を過ごしたってわけだな」
長山はすべてに納得して首を大きく振った。
塔馬も穏やかな笑顔でコーヒーを口にした。
苦味がなんだか新鮮だった。
事件はいつもこうして苦味を残して終わる。
単行本 一九九〇年七月 実業之日本社刊
新書判 一九九五年十月 実業之日本社刊
〈底 本〉文春文庫 平成十年二月十日刊