[#表紙(表紙.jpg)]
高橋克彦
パンドラ・ケース よみがえる殺人
目 次
プロローグ
一章 パンドラ・ケース
二章 パンドラ・マーダーケース
三章 パンドラ・マッドケース
四章 パンドラ・バッドケース
五章 パンドラ・ブラッドケース
六章 パンドラ・サッドケース
エピローグ
[#改ページ]
パンドラ・ケース
よみがえる殺人
主な登場人物(喫茶店研究会のメンバー)
トーマこと塔馬双太郎《トウマ・ソウタロウ》……浮世絵研究家
チョーサクこと長山作治《ナガヤマ・サクジ》……ペンネーム流山朔、推理小説家
リサこと名掛亜理砂《ナカケ・アリサ》……文芸雑誌の編集者
テラさんこと寺岡正也《テラオカ・セイヤ》……山形の大病院の経営者
オケイこと築宮啓子《ツキミヤ・ケイコ》……芸名月宮蛍、日本を代表する女優
ユータこと築宮雄光《ツキミヤ・タケミツ》……神官で女優の啓子とはいとこ同士
ダイスケこと吉秋大祐《ヨシアキ・ダイスケ》……製薬会社の課長
パンドラこと半田緑《ハンダ・ミドリ》……12年前に行方不明になる
[#改ページ]
プロローグ
小雪が舞いはじめた。
灰色の空は濃さを次第に増していく。まだ二時をまわったばかりだと言うのに、なんだかいっぺんに夜になりそうな気配だ。六人の男女は遠い帰り道のことを思ってか憂鬱《ゆううつ》そうな顔で、崖に攀登《よじのぼ》っている二人の男を見上げた。全員厚いスキーウェアを着込んでいるものの、足の爪先から冷えが伝わってくる。
予想以上に時間がかかっている。粘土質の柔らかな土だ。簡単に掘れるとタカをくくっていた。土が凍《こお》っていることなどだれの頭にもなかった。穴掘り作業にとりかかって、優に四十分は過ぎているだろう。
「ねえ。もう諦《あきら》めようよ。シャレだって、こんなに苦労するんじゃ興醒《きようざ》めじゃないの」
円《まる》い目をして勝ち気そうな女が苛立《いらだ》ちの声を上げた。手袋で擦《こす》って暖めていた白い頬が冷気のために強張《こわば》っている。それでも艶《つや》のある若い肌だ。二十歳ぐらい。彼女の言葉に何人かが同調した。いずれも若い男女である。年長でも二十五歳を越えていない。彼らは東都大学の学生を中心としたメンバーだった。今春おなじクラブ員四人が卒業する。それを祝って、この東北の山奥にある温泉場に八名が集まってきたのだ。正月十五日。東北はまさしく厳冬の時期である。
「もう少しだ。我慢してくれ」
上で一人が作業の手を緩《ゆる》めず返事をした。下の寒さとは反対に額には大粒の汗が噴き出ている。男は乱暴に汗を拭《ぬぐ》った。
「手伝おうか」
固く凍りついた沼の表面で足踏みしながら一人が言った。足を動かしている方が暖かい。
「ここに三人は無理だよ。大丈夫」
二人が立っているのは沼縁の崖の中腹に皿状に突き出た狭い場所だった。奥は小さな窪になっていて昔から沼の神様が祀《まつ》られている。沼からいきなり二十メートルもの垂直な崖がせり上がっているので、こうして沼の表面に氷が張っていない時期はいっさい近寄れない。もちろんボートでも使えば別だが、ここは船遊びをするほど奇麗な沼でもないし、水面には葦が生《お》い茂り、泳いでいくことも不可能なところだ。だからこそタイムカプセルを埋めるには理想的な条件を満たしている。山奥だから建設工事などで掘り返されたり、上をコンクリートで覆われる心配もない。
「悪趣味だな。仲間で最初に死んだ人間の十三回忌に開くタイムカプセルだなんて……オケイの言う通りよ。もう帰らない?」
別の娘が寒そうに肩を抱えて促した。美人ではないが大柄で健康的な魅力に溢《あふ》れている。
「あと少しだって。中まで土が凍っているわけじゃないから、じきだぜ」
二人は無視して作業を進めた。
「だれか一人は絶対にタイムカプセルを見られないわけだ。確かに悪趣味には違いない」
はじめから気乗りのしない顔で上を眺めていた男が首を小さく振った。
「だれかどころか、全員が見れないかもしれんぜ。核戦争がはじまったりしてさ。そうなりゃ千年後ぐらいに発掘されて案外貴重な資料になったりしてな。なにしろ縮刷の新聞コピーだって入れられているんだし」
隣りにいる男が笑った。
「そんなに重大な記事を選んだわけ?」
もう一人の小柄で髪の短い娘が訊ねた。だれがどの事件を選んだのか分からないが、それぞれにとって一番思い出深い記事を一つ決めて、箱の中に入れることにしたのだ。
「たぶん……驚くよ。だれかとダブリそうな記事はワザと避けたからね。時代をどれだけ予見していたかが後で分かる。オレの真価はそのときに問われるだろう」
「千年後の話よりも……そのときがチョーサクの思い出話にならないといいわね。早死にしそうなタイプだもの」
言いながら円い目の娘が甲高《かんだか》く笑った。
「あたしよ……」
髪の短い娘がポツリと呟《つぶや》いた。
「あたしがきっと最初だわ」
上の二人も聞きつけて作業を中断した。
「やっぱり止さないか?」
気乗りのしていない男は溜め息を吐《つ》いた。
「ヘタをすればこのカプセルに縛られて今後の人生を暮らすことにもなりかねない」
「大袈裟《おおげさ》ですよ。それに、それならもっと意義がある。こいつが埋められている限り互いを忘れることがない」
上の一人が手を軽く振って仕事を続けた。
小雪は本降りに変わった。
ようやく穴が掘られたようだ。二人は側に置いてあったブリキ製の大きな菓子箱を穴に入れると土を被《かぶ》せはじめた。石油缶に似た箱の蓋《ふた》はしっかりとテープで目貼りされている。しかも念入りに油紙で何重にも包まれているから水の心配もない。
「このメンバーじゃ、どうせロクなものが入っていないだろう。開けるのが恐ろしい」
下にいた最年長の男が全員を見渡した。
「別に長期保存の実験なんかじゃないんだからさ。蒲鉾《かまぼこ》とか茹で玉子みたいなヤツを入れたなら今のうちに申し出てくれよ」
まさか、と皆が爆笑した。
「特にチョーサク……おまえのイタズラは度を越している。ホントは検閲したいぐらいだ」
「大丈夫。腐るようなのは入れていない。この前の闇鍋とは違う。信用してくれ」
「当たり前だ」
最年長の男は憮然《ぶぜん》とした顔で頷《うなず》いた。クラブの忘年会で闇鍋の趣向を試みたらチョーサクは男根の形に細工したサラミソーセージを鍋に投げ込んだのである。それに当たったのがオケイで、さすがの彼女も悲鳴を上げた。
「でも……楽しくなるようなもんじゃないのも確かよ。チョーサクさん、不幸の手紙とおなじように考えているんだもの」
大柄の娘がチョーサクを睨んだ。
「未来なんて信じない性質《たち》でね。それにだいたい、そのときに不幸のどん底にいる人間は仲間の十三回忌にも顔をださないぜ。だからシャレは通じる。皆の期待に応えないとな」
チョーサクの言葉に何人かが不安を覚えた。
「終わったよ」
上から二人が滑るように降りてきた。軍手が泥で真っ黒に汚れている。
「こうして集まるのが果たして何年後になるのか……お互いにいい未来だと嬉しいね」
「私はいないわ……残念だけど」
また髪の短い娘が口にした。
「その日は案外近いはずよ」
やれやれと皆は苦笑した。
昭和四十六(一九七一)年がはじまったばかりである。
[#改ページ]
一章 パンドラ・ケース
1
「それで……行くことに決めたんですか」
杉原|允《まこと》は塔馬双太郎《とうまそうたろう》から見せられた案内状を手にして質《ただ》した。塔馬の研究室のソファーには杉原と真向かう形で塔馬と秘書の糸島奈津子《いとしまなつこ》が腰掛けている。きちんと膝を揃えた彼女の脚が眩《まぶ》しい。昭和六十三年。正月早々だと言うのに一方の塔馬は珍しく不精髭を生やしカーディガンをだらしなく羽織っていた。年末から研究室に籠《こも》って書き下ろしの美術評論と取り組んでいる。三月はじめの締め切りには間があるが、大学の授業がはじまると執筆時間のやり繰りもむずかしくなる。編集担当者は杉原だ。陣中見舞いのつもりで訪ねたら奈津子もきていたと言うわけだ。
「しかも東北の山奥ときた。白湯《しらゆ》温泉なんて聞いたこともないな」
「だろうな。観光地じゃない。クラブの仲間の故郷に近い温泉だから一度行っただけで、それきり足を運んだことはない」
塔馬は暗い顔で頷いた。いつもの涼しい目に濁りが漂っている。連日の徹夜で疲れているのだろうか。奈津子は心配そうに見詰めた。
「どのくらい離れているんです?」
「仙台で電車に乗り換えて二時間。それからバスで一時間半。なんだかんだで東京からなら六時間はかかるな。昔は十時間以上だった」
「そんなに……大変ですね」
「クラブって、なにをしていたんです」
杉原の質問に塔馬は苦笑した。
「やはり美術関係ですか」
「君にはおおよそ見当もつかないクラブさ。まあヒマ潰《つぶ》しが目的のようなもんでね」
「映画研究会とか?」
「茶研《さけん》……正式には喫茶店研究会と名乗っていた。あの時代でなきゃ考えられないクラブだな。皆小さなアパートに暮らしていて、喫茶店が唯一の息抜き場所だった。夏なんかクーラー目当てで一日中|馴染《なじ》みの店にいたよ」
「喫茶店のなにを研究するんです」
奈津子が不思議そうに訊ねた。
「別に。ただ名目をつけて集まっていただけ。人数の少なかった割には学部もさまざまだったし、結構変わったヤツが多かったね。月に何度か連れ立ってチョコレートパフェの味較べなんかもした覚えがある。我々が卒業した後は自然に解消したんで、クラブとも言えないさ。なんであんなクラブに加入していたのか、自分でも分からないんだ」
塔馬は恥ずかしそうに首を傾《かし》げた。
奈津子はクスクスと笑った。塔馬にそんな青春があったなど想像もできない。歌麿研究者として評価の高い男である。
「じゃあ流山朔《ながれやまさく》ともそのクラブで?」
杉原は思い出した。推理小説を書いている人間だが、前に塔馬から大学時代の仲間だと聞かされた記憶があった。
「ヤツも行くと返事がきたそうだ」
塔馬は頷いた。チョーサクと会うのは十年振りのはずだ。彼が六年前に本名をもじった流山朔という気取ったペンネームで登場したときは笑ったものだ。本当は長山作治《ながやまさくじ》。昔から変人だったが、今も相変わらず奇行を続けて文壇の問題児となっているようだ。そういう情報は杉原ばかりか、おなじクラブの仲間で文芸雑誌の編集者となった名掛亜里沙《なかけありさ》からも耳にした。堅い雑誌だからミステリーの長山とは直接の付き合いもないらしいが、噂は分野と関係がない。
「それに月宮蛍《つきみやけい》も一緒だぜ」
ええっ、と奈津子は目を丸くした。
「だって彼女は若いでしょ」
月宮蛍はだれでも知っている美人女優だ。今でこそ脇にまわることが多くなったが、三、四年前まではメロドラマで主役を演じ、つい最近も男性雑誌で不倫をしたい女性のナンバー1に選ばれたほどの妖《あや》しい魅力を持った女性である。しかし、塔馬とは年齢が違う。
「彼女はおなじ学校じゃない。いとこがクラブに入っていてね。あんまり美人だったんで特別に入会させた。若いと言ってもオレと二つしか違わないぜ。もう三十八だもの」
「そんな年齢《とし》に見えないわ」
奈津子は驚嘆した。どう考えても三十そこそことしか思えない。
「面白いクラブみたいじゃないですか。月宮蛍まで加入していたなんて……彼女も今度の集まりにくると返事を?」
「ああ。白湯温泉はオケイの故郷だから……案内状を寄越したのは、そのいとこだよ」
「女優になってからは?」
「付き合いはない。苦手な女だった」
塔馬の言葉に奈津子は安堵《あんど》した。
「やたらと興味をそそられる集まりだな。タイムカプセルってのも泣かせますよ。確かに昔は流行《はや》りましたね。まさか塔馬さんまでがやっていたとは思わなかったけど」
「オレの発案じゃない。誤解しないでくれ。オレは終始反対にまわっていたんだぜ」
杉原も笑って頷いた。
「この……亡くなった半田緑《はんだみどり》さんというのは」
杉原は案内状に目を戻した。彼女の十三回忌でタイムカプセルを開けると書いてある。
「本当は行方不明なだけで死亡が確認されているわけじゃない。何年か前に両親が諦めて墓を建てたんだ。それで遡《さかのぼ》って死亡年月日が決められた。蒸発した日付でね」
塔馬もタイムカプセルの件をすっかり忘れていた。案内状が届いてようやくパンドラの失踪が十二年前だったと気がついたぐらいだった。
〈もう、そんなになるんだな〉
塔馬は彼女の陰気な顔を思い浮かべた。
〈パンドラって言い出したのはだれだっけ〉
クラブの会合では普通にミドリと呼んでいたが、男たちの間ではパンドラで通っていた。オケイはメデューサ。そして亜里砂にはマドンナの別名がある。
〈たぶんチョーサクだろうな〉
亜里沙を短くしてリサ。それがモナリザの連想に繋《つな》がってマドンナ。次に男を狂わせる美貌からオケイがメデューサと呼ばれ、最後にミドリの仇名《あだな》が決まった。半田の名字と性格の暗さからパンドラである。もちろん世界の不幸を詰め込んだ箱を象徴するギリシャ神話のパンドラだ。
「なら……生きてるってことだって」
杉原の言葉に塔馬は目をしばたたかせた。
「そりゃあ、可能性もある」
「なんだか残酷な話だわ。仲間だったら信じたいって気持があってもいいんじゃないかな」
奈津子は突き放したような文面に不愉快な感情を抱いた。
「ケリをつけたいヤツもいるのさ。タイムカプセルを開けることで……」
現に塔馬もおなじ思いだった。タイムカプセルの件など忘れていただけにパンドラが怒っているようで落ち着かない。中途半端な死亡認定だったから葬式にも仲間が集まれなかった。そうした思いの仲間も何人かいるだろう。タイムカプセルは理由の一つでしかない。結局、パンドラを偲《しの》ぶ会合なのだ。
「なにを入れたか覚えてますか?」
「………」
塔馬は眉根を寄せた。案内状を貰ってから自分でも考えたのだが、はっきりと思い出せない。なにしろ十八年も前のことなのだ。気乗りもしなかったからいい加減なものを入れたのだろう。それにあの頃は卒業後の進路も決まらず焦っていたはずだ。子供|騙《だま》しの遊びを楽しむ余裕もなかったように思える。
〈ずいぶんオレも変わったな〉
まさか浮世絵の研究をするようになるとは考えてもみなかった。あの時代は自分にとって大きな転換期でもあった。思い出したくもない記憶が山とある。意識的に昔の仲間と会わないようにしてきたのもそのためだ。
〈けれど……今度は〉
避けるわけにはいかない。
「全員が集まるんですね」
「だと思う。月宮蛍までくるんだから」
一番仲の良かったダイスケはどうしているだろう。それとおっとりとした人柄のテラさん。彼はやっぱり希望通り無医村の医者として頑張っているのか? 塔馬は努めて明るい記憶の方に思いを向けた。なにか恐ろしい予感が胸の底にくすぶっていたからだ。
ふと、塔馬の頭にパンドラの言葉が浮かんだ。彼女が失踪したと聞かされたときにも咄嗟《とつさ》に思い浮かべたセリフだった。
……私がきっと最初だわ……
塔馬はゾッとした。
あれはただの偶然だったのか? それともなにかの予言だったのか。
〈タイムカプセルがそのままパンドラ・ケースにならなければいいが〉
諸々の不幸が一挙に箱から噴き出してきそうな怖さを覚えた。まさしくパンドラのために用意された箱なのだ。パンドラがどこかで笑っているような気がする。塔馬はぼんやりと窓の外に視線を移した。小雪がチラつきはじめている。暗い雲が窓を覆《おお》った。
2
三日後の朝。
塔馬双太郎は上野の東北新幹線のホームにいた。意外に閑散としている。少し前に滑り出ていった盛岡行きには乗客の姿がほとんど見えなかった。正月休みが終わったばかりで、雪深い東北に向かう人間など滅多にいないのだろう。塔馬はベンチに腰掛けたままぼんやりとタバコを口にした。間もなく約束の八時半。物書きを仕事にしているチョーサクはもちろん、雑誌社勤めの名掛亜里沙にとっても辛い時間のはずだ。塔馬も必死に眠気をこらえた。興奮で四時間しか寝ていない。
「おひさしぶり……早いじゃない」
背後から軽く肩を叩かれた。亜里沙が嬉しそうな笑顔で立っていた。下から見上げると大きさが際立つ。身長は七十以上ある。鼠色の男っぽいツイードのジャケットスーツに刈り込んだショートヘアが似合っている。
「でも……ないか。トーマとは二年くらい前になにかのパーティで偶然会ったわ」
亜里沙は旅行バッグを塔馬の隣りに投げおろすとベンチに並んで腰掛けた。
「執印画廊のだろ。あのときはこっちも忙しくてゆっくりお茶を飲む時間もなかった」
「頑張ってるみたいね。結婚は?」
「いや。これからもアテはない」
「どうしてなんだろうね。ウチらの仲間っておかしいのかな。チョーサクもオケイも独《ひと》りだし。まあ、私が独りなのは分かるけどさ」
「なんでだ」
「じゃあトーマが考えてくれる?」
塔馬は苦笑した。気はいいが、男勝りの性質だ。亜里沙も笑った。
「学生時代はトーマとオケイが結婚するとばかり思っていたけど」
塔馬は咳《せき》こんだ。
「違ったの? いつか聞こうと思ってた」
「忘れたよ、昔のことなんか。リサこそテラさんと付き合っていたんじゃなかったか」
塔馬はやり返した。亜里沙は暗い顔をした。
「皆、変わっちゃったのよ。テラさん、今は山形で大病院を開いているんですって。あの頃はカッコよかったんだけどな」
「チョーサクは変わっていないらしいね」
「あいつは、むしろ変わるべきよ。今じゃ文壇の鼻|抓《つま》み者だわ。なんだか仲間だったってことも迂闊《うかつ》に口にできない感じ」
「そんなに酷《ひど》いのか」
「まあね。会えば分かるわ」
「噂をすればなんとかだ」
エスカレーターから降りてきた長山が二人を認めて奇声を上げた。レイバンのサングラスに短く刈り込んだ顎鬚《あごひげ》をしている。おまけに丈の長い皮コートに派手な模様入りのロングブーツ。すべてにチグハグな恰好《かつこう》だ。
「見違えたな。これじゃ街で擦《す》れ違っても分からん。リサとは時々ご対面してるがね」
長山は自分のスタイルを棚に上げて塔馬の掌をきつく握った。
「本は読んでる。こうして仲間から二人も物書きがでるとは思わなかった」
「オレは物書きじゃない。ただの研究者だ」
「リサ。おまえんとこの雑誌でトーマに書かせてやれよ。こいつは本物だぜ。才能を見抜けない編集者なんて生ゴミと一緒だ」
亜里沙は呆《あき》れたように肩をすくめた。
「そのうちオレが出版社を紹介してやる。どうやらトーマの方がミステリーの才能がありそうだ。それとも共同でやるか」
「それは賛成ね。だったら少しはまともな小説になるわ。チョーサクの本ってやたらと残酷で悪趣味なだけの殺人が多いもの」
「へえ。それだけ読んでくれてるわけだ」
長山は亜里沙の言葉にも動じなかった。
「どうせ女相手の小説は書かん。嫌われても当たり前だ。悪口には馴れてるよ」
新幹線に乗りこむと長山はバッグからウィスキーを取り出して隣りの塔馬に勧《すす》めた。脱いだ皮コートの下は派手なプリントのシャツだけだった。この季節だと言うのに。
「今度のはネタになるぜ」
長山は紙コップに注いで一人で頷いた。
「ネタって……小説の?」
「ああ。前から若い頃を素材にしてミステリーを書きたいと思ってたんだ。ちょうどいい機会だ。昔の仲間に会えばいろんなことを思い出す。それにタイムカプセルもあるしな」
「それが参加の理由か」
「ついでに人間の変わりようも確かめたい。見たところトーマは皺が増えただけで変化もなさそうだが……一番興味のあるのはテラさんさ。あんな聖人君子はテラさん以外にお目にかかったことがない。聞けば今は大病院の経営者だって話だろ。それでも性格は昔のままなのか……オレには信じられんのでね」
「ダイスケはどうしているんだろう」
「連絡がないのか。案外冷たい野郎だな。おまえさんとは頻繁に連絡を取り合っていると思ってたが……まあ、どっちにしろヤツは小物だ。相応な会社にでも勤めて幸福に暮らしてるさ。親父のように市役所の課長あたりまで出世してりゃ大したもんだ」
「そうか。ダイスケの親父は役人だったな」
塔馬も思い出した。口ではなんのかんのと言いながらチョーサクの方が過去にこだわって生きてきたのかも知れない。
「それにしても……まさかトーマが浮世絵の研究者になるとは今でも信じられん。あの頃、そんな話をしたことがあったっけ」
「どうかな。嫌いじゃなかったが、特別真剣でもなかった。研究は卒業してからだ」
「だろ。まったく不思議な男だよ」
「パンドラのことなんだが……」
塔馬は話題を変えた。
「あのときに妙なことを言ったね」
「あのときってのは?」
「カプセルを埋めたときだ」
前の席にいる亜里沙も振り返った。
「記憶違いでなけりゃ……自分がメンバーの中で一番最初に死ぬと言ったんだ」
「冗談言うな。オレは初耳だ」
長山は声を上げて笑った。
「……かも知れない」
ゾッとしたような顔で亜里沙が認めた。
「十八年前の話だぞ。おまえらはなんでそんな、こと細かに覚えてるんだ」
「あの夜にオケイと二人でハンコを慰めた記憶があるの。まるで自殺でもしそうな雰囲気だったから……それで蒸発したって聞かされたときはヤッパリと思ったもの」
「バカバカしい。それが本当だとしてもパンドラが蒸発したのは五年も経《た》ってからじゃねえか。考えすぎだよ。殺されたって言うんなら話がちっとは面白くなるがね」
「オレたちが卒業した後、パンドラはどうしていたんだ。リサはなにか知ってるかい」
塔馬は訊ねた。おなじ年の卒業生はテラさんと、この場にいる三人で、ダイスケ、パンドラ、ユータは一年下の学年だ。だから疎遠になったのも仕方がない。
「田舎に戻って英語の教師になるなんて聞いていたけど……あれ以来会わなかったし」
「じゃあ岩手に帰ったわけだ」
言いながら塔馬はクラブのメンバーがやたらと東北に関係深かったのに気が付いた。ユータこと築宮雄光《つきみやたけみつ》とオケイはともに山形県。テラさんこと寺岡正也《てらおかせいや》は秋田の出身だった。
〈それで気が合ったのかもしれないな〉
自分が東京生まれなので考えもしなかった。
「チョーサクの生まれはどこだっけ」
「関係ない。もう東京暮らしの方が永いんだ。一応は広島になっているけどな」
「ダイスケは旭川じゃなかった?」
亜里沙が口を挟んだ。
「出身地ごっこは止めようぜ。どうせ鎌倉夫人にゃかなわねぇんだから」
塔馬は長山の言葉に噴き出した。リサが鎌倉出身だったので一時期そう呼んでいたのを忘れていた。立原正秋の長編小説のタイトルから付けられたものだ。
「それにしてもユータのヤツ、よくパンドラの十三回忌を覚えていたもんだ。オレなんかタイムカプセルのことさえ忘れていたってのに。案内状が届いたときは寒気がしたぜ」
本当に長山は肩をすぼめた。
「それに全員の消息もだ」
「ユータなら覚えていて当然よ。ハンコとは同級だったんだから。消息にしてもオケイとはいとこでしょ。ダイスケとも学年が一緒だったから年賀状のやりとりぐらいはあったんじゃないの。テラさんとはおなじ東北出身。チョーサクとトーマは有名人。私のことはオケイを通じて分かるわ」
「オレはチョーサクとは違う」
塔馬は否定した。本を出していると言っても少部数の堅い研究書にすぎない。
「珍しい名前だもの。どこかで一度でも目にすれば同一人物だと分かるはずよ。流山朔なんて妙なペンネームと違ってね」
「その通り。オレもすぐに分かった」
長山も首を振りながら、
「確かにユータならおかしくない。カプセルだってあいつの家の裏山に埋めてある。忘れっこないな。それで安心したよ」
「安心って……なにが?」
「別に。こちらが忘れていた分だけ薄気味悪かったのさ。なにを箱に入れたのかさえ思い出せないんだぜ。そんなのにこだわっているヤツがいたかと思ったら吐き気がした」
「パンドラ・ケースだろ」
塔馬は二人に呟いた。
「実を言うとオレも咄嗟に思ったんだ。あの日のパンドラの言葉を頭に浮かべてね」
「パンドラ・ケース? なるほど。それこそ十三回忌にふさわしい。ますますミステリーになりそうだぜ。ユータは親父の跡を継いで白湯神社の神主になっているんだったな。横溝正史の小説にでもありそうな設定だ」
「よしてよ。もう私たち四十じゃない」
「だから?」
「常識を持ったお付き合いがしたいわ」
長山は笑い転げた。
3
仙台の改札口には吉秋大祐《よしあきだいすけ》が待っていた。
「わあ。懐かしい顔だらけだ」
「おまえダイスケか。貧乏じゃなさそうだ」
いきなり長山は吉秋を抱くと脂肪のついた腹を撫《な》で擦《さす》った。吉秋は軽い悲鳴を上げた。
「酷いな。チョーサクさんは昔と一緒だ」
「オレの本読んでるか」
吉秋はニコニコと笑ってバッグを示した。
「会社の連中からサインを頼まれちゃって。トーマさんのも持ってきたけど」
「セコイ野郎だ。今どんな仕事してる」
「製薬会社に勤めてます」
吉秋は有名な会社の名前を挙げた。その北海道営業所の販売促進課長。部下が十六人もいると言うから、なかなかのものだ。
「テラさんにも山形時代には世話になって」
「今度札幌に行く。ススキノを案内しろよ」
長山は自分のバッグを吉秋に預けた。
「呆れた。まだ先輩のつもりよ」
亜里沙が塔馬に耳打ちした。
「あの調子じゃダイスケだって呑まれるさ」
塔馬は長山に愛想笑いを続ける吉秋を淋しい思いで眺めた。どこかのんびりとして温かな男だったが、営業の厳しさが身についてしまったのか、体の太った割に小さくなった印象を覚える。しかし、それが普通なのだとも思った。
「駅にいるなんて驚いたわ。ユータにも詳しい日程を教えてなかったはずよ」
亜里沙が吉秋に声を掛けた。
「でも三時頃白湯に着くと言ったんだろ。仙台着は逆算すりゃ分かるさ。こっちもおなじ頃に仙台空港に着くんで、どうせなら待ってみようと……」
「オケイやテラさんは?」
「オケイは昨日から戻ってるらしい。テラさんは午後の回診を終えたらタクシーを飛ばして宿にくるって聞いた」
「そうか。おなじ山形県内なんだ」
「と言っても、テラさんのいる町は日本海側で遠い。雪道なら四時間はみないと。到着は七時頃かな。昨日から雪が酷いってユータが心配していた。昼はともかく、危険な道だ」
「その距離をタクシーで。電車がないわけじゃあるまい。偉くなったもんだ」
長山は皮肉っぽい口調になった。
「ベッド数二百近い大病院の院長ですよ。その程度は当たり前でしょう」
「ふんぞり返って姿を見せたら笑ってやる。唄を忘れたカナリヤってとこだ」
「いい加減にしてよ。チョーサクだって似たようなもんじゃない。十八年振りに会った仲間に荷物を持たせるなんて」
「別に。チョーサクさんらしくていいや」
吉秋は気にせず先を急いだ。
電車はガラガラに空いている。四人はボックスに向き合った。ここから仙山線で山形市にでて、そこから奥羽本線に乗換え大石田町で降りる。今度は山道をバスで一時間以上も宮城県方向に戻る。待ち合わせ時間も含めれば白湯温泉まで四時間の旅だ。夏場なら宮城県の古川市から車で向かう方が遥かに便利だが、冬期は一部の区間が雪で閉鎖されている。
「山形からはタクシーにしないか」
暗い空を眺めて長山が提案した。
「どのくらいかかる?」
「時間ですか……一時間程度かな」
吉秋が距離を計算した。
「それなら四人で割れば大した料金じゃない。少しでも早く宿に入った方が利口だ。ユータの心配通り、こいつは大雪になるぜ」
三人は躊躇《ためら》わず同意した。
「雪に閉じこめられるなんてことはないだろうな。あそこは狭い山道一本だけだろう」
長山の言葉に亜里沙も不安を抱いた。
「もっともオレは構わんがね。缶詰には馴れてる。原稿用紙がありゃ仕事に不都合はない」
「自分勝手ね。私は絶対に困るわ。年明けで仕事が山積みなんだから」
亜里沙の言葉に吉秋も真剣な顔をした。
「オレに怒ったってしょうがないさ。別にオレが雪を降らせるわけじゃない。恨むならパンドラにしてくれ」
長山は憮然とした表情になった。
「まったく……こんな田舎に集まることもなかったんじゃないか? ユータが掘り出して東京にでも持ってきてくれれば簡単だったんだ。つくづくバカな約束を交わしたもんだな」
「ホントね……どうしてだれもそれに気付かなかったんだろう」
亜里沙もポカンと口を開けた。
「ケリをつけたかったのと違うかい」
塔馬はポツリと口にした。
「忘れたフリをしているが……忘れたんじゃない。パンドラのことなんて思い出したくもなかった。完全に忘れるには儀式が必要なんだ。東京じゃ意味がない。どうやらオレたちはそのために集まったようだ」
「………」
「パンドラの死に皆が責任を感じてる。なんだかオレにはそう思えてきたよ。パンドラが自殺したのなら、原因は恐らく我々にあったはずだ。それを潜在的に感じているのさ」
塔馬の想像に長山と吉秋は絶句した。亜里沙は険しい目で塔馬を真正面から見据えた。
「しかし……パンドラが蒸発したのはオレたちが卒業してから五年も後の話なんだぜ。それでも責任があるってのかね」
長山は嘲笑した。亜里沙と吉秋も頷く。
「おまえさんだけの問題じゃないのか」
「オレの?」
「理由は分からんよ。トーマがパンドラに対して責任を感じてる理由はさ。ただ、それを我々全体の話にすり替えられちゃ迷惑だ」
「だったら、学生時代にあれほど頻繁に会っていた我々が卒業を境にプッツリと会わなくなったのはなぜなんだ」
「そんなことは知らん。もともとヒマ潰しに集まっていただけで、卒業したら理由もなくなっただけのことじゃないか。その程度の仲間だったのさ。蒸発とはいっさい無関係だ」
「なのにチョーサクは六時間もかけて東北の片田舎にでかけてきた……信じられないね」
「だからネタと言ったろ。皆には悪いがな。十三回忌なんかどうでもいい。だいたいオレはパンドラに関心を持ったことは一度もなかった。陰気な女は腐った魚よりも始末に悪い」
「そりゃないよ」
温厚な吉秋が声を荒げた。
「そんな気持なら可哀相だ。帰ってくれ」
「なんだと……」
「トーマさんの言う通りです。オレだってホントはパンドラが苦手だった。蒸発したって聞かされたときも……なんだか」
吉秋は言葉を詰まらせると下唇を噛んだ。
「言えよ。どうした」
「……ホッとした」
聞くと亜里沙はきつく瞼《まぶた》を閉じた。
「どうしてなのか自分でも分からない。でも、肩の荷がおりたって気持の方が……やっぱり嫌いだったのかも知れません」
「どっちが可哀相な話なんだ」
長山は不愉快そうに睨んだ。
「この十二年間オレはパンドラのことを思い出しもしなかった。ユータから案内をもらったとき、情け無いけど涙がでちゃって……どんなに嫌ってもパンドラはオレを仲間だと思っていた。一日くらいは彼女のためにと……」
「贖罪《しよくざい》のつもりか。くだらん」
「………」
「それこそ思い上がりってもんだ。てめえは何様だと思ってる。一日くらい犠牲にしてもバチが当たるまいってか……甘えるんじゃねぇ。嫌いならどこまでも押し通すんだな」
「よしなさいよ。ハンコがどこかで盗み聞きしてるかも知れないじゃない」
亜里沙は怯《おび》えるように長山の袖を掴《つか》んだ。
「昔からそういう子だったんだから」
口を滑らすと慌てて塔馬を見やった。
「そうだよ。パンドラは皆の重荷だった。だからこそ、皆はその重荷を取り除こうと集まってきた。それでいいじゃないか」
塔馬は締めくくった。
4
白湯温泉に着いたのは二時前だった。
タクシーを使ったお陰で予定より一時間以上も早い。ユータやオケイの家は温泉の近くだ。連絡を入れればすぐに顔を見せるだろう。宿の周囲には屋根から落とした雪が二メートルほどの小山になって一階の窓を塞《ふさ》いでいる。
「正解だったな。大雪になるぜ。ヘタすりゃテラさんこれねぇんじゃないか」
途中の山道も昔に較べると多少は広くなったようだが、右手は切り立った崖だ。視界の利く今でさえ冷や冷やしてきたばかりだ。
「変わりないわ……あの頃と一緒」
長山に続いて車から降り立つと亜里沙は前に三日をすごした宿を懐かしそうに見渡した。
「当たり前だ。これは明治初期の建物だぜ。軽く百年は経っている。たかだか十八年じゃ変わりようもないさ。せいぜい部屋の明りが蛍光灯に取り替えられた程度のもんだろう」
「そうそう。裸電球だったのよね」
宿の前に佇《たたず》んだままの二人のやりとりに塔馬も思い出した。自分の部屋は窓ガラスの建て付けが悪くて吹雪になると隙間から雪の舞い込むところだった。あれは二階の右から二つ目の窓じゃなかったか。見上げるとそこには隙間封じのガムテープが貼られていた。
「入ろう。帳場の人たちがジリジリしてる」
吉秋が皆を急がせた。暗い玄関ホールの中で宿の人間が塔馬たちに頭を下げた。
「驚いたな。この広い宿に我々だけかい」
とりあえず一つの部屋に案内されると長山は茶受けの蕎麦《そば》饅頭のセロファンを引き千切って口にほおばりながら呆れた顔をした。
「温泉ブームだって聞いてきたのに」
「正月休みが終わったばかりよ」
「それほどヒマなギャルもいないか。混浴を楽しみにしていたんだが」
長山はもう一つに手を伸ばした。
「ちょっと……甘いもの好きなの?」
「腹に聞いてくれ。朝から食ってないんだぜ」
「ビュッフェに誘ったじゃないの」
「あいにくお宅らと違って朝に腹一杯食えるような元気な胃袋じゃない。夕方まではコーヒーと酒以外受け付けない」
「毒が入ってたらイチコロね」
吉秋は苦笑した。十八年も会わずにいたのに、まるでいつも会っていたような感じだ。
「ユータとオケイがきたよ」
窓際で外を眺めていた塔馬が言った。
月宮|蛍《けい》が入ってくると部屋はますます陽気さを増した。溶けた雪の雫《しずく》でも付いたのか蛍のニナ・リッチのスーツは肩のあたりが濡れていた。本名は築宮啓子。この土地で神官となっている築宮雄光とはいとこ同士。蛍はサングラスのまま自信に満ちた笑顔で会釈すると中央に腰を下ろした。亜里沙は少し離れて座った。無理もない。蛍は日本を代表する女優の一人だ。透けるような肌が輝いて見える。
「ごきげんよう」
蛍の気取った挨拶に皆爆笑した。
「よせよ。安手の時代劇じゃあるまいし」
長山は蛍の前に進んで胡座《あぐら》をかいた。
「ハハーッて頭でも下げりゃ満足かい」
蛍もプッと噴き出した。
「相変わらずね。おひさしぶり……あんまり会わないもんだから、どんなセリフで決めたらいいのかなって考えてきたんじゃないの」
蛍はソニア・リキエルの黒いサングラスを外《はず》しながら窓際の塔馬に向かって微笑した。
「ユータは毎日これか」
長山は両手を軽く握って上に掲げた。
「それじゃ易者です。神様への尊厳がない」
「なにが尊厳だ。おまえが神主じゃ、神様だって絶望してとっくに引っ越してるさ」
「これだもんな。知らんプリしてチョーサクさんには案内をださなきゃよかった」
「結婚は? 子供もいるんだろ」
「麓の大石田町の方に。だいぶ前から家族がそっちに移っているんです。こちらの白湯神社は言わば出張所のようなもんでしてね。祭礼の日以外は滅多にきません。オレも昨夜《ゆうべ》は啓子の実家に泊めてもらいました」
「何歳の子供だ?」
「十二歳と九歳。どちらも女の子」
「ヨメさんも連れてくりゃよかったのに」
「そろそろ小《こ》正月で忙しくなる。親父だけに任せておくわけにもいかなくて」
「私も子供を見たことがないわ」
蛍が首を小さく振った。
「忙しくて田舎には滅多に帰れなかったし、雄光の家だって白湯を離れたでしょ」
「啓子が戻ったのは十年振りだもんな」
「妙ないとこ同士だ。もっともオレにしても広島のいとこの子供で見てないのがいる」
「それよりも、原作ないかしら?」
蛍は無言でいる塔馬を避けて長山に訊ねた。
「もうマンネリなの。もらう役はいつもワンパターン……たまには違う女を演《や》りたいわ」
蛍は長い髪をゆっくりと掻《か》き上げた。細い指にはめた大きなルビーの光が弧になって目に映った。ピアスも対《つい》のルビーのようだ。
「オレは嫌われてるからな。女子供の喜ぶような作品《もの》はない。テレビ向きじゃないよ」
「でも……汚れ役もいいわね」
「じゃピッタリだ。そんな本だらけ」
亜里沙は平然と長山を見詰めた。
「この人には女性|蔑視《べつし》があるもの。でてくる女は皆、性的にアブノーマル」
「そうなの? 知らなかった」
蛍は長山の本を読んでいないらしかった。
「ちゃんと書いてやるさ。オレのじゃないが『ヒルダよ眠れ』なんてのもよさそうだな」
「それ、どんな本?」
「罪もない主婦がオーブンに頭を突っ込まれて殺されて、亭主が犯人を捜しているうちに、実はその女房が殺されても当たり前の、とんでもないイヤな女だったと分かる話だがね」
亜里沙は露骨に厭《いや》な顔をした。
「まだパンドラにこだわってるの」
「パンドラ? なんのことだい」
築宮が不審な顔で亜里沙に質した。
「なんでもないわ……気にしないで」
亜里沙はニヤニヤと笑い続けている長山から顔を背《そむ》けた。築宮も曖昧《あいまい》に頷いた。
「いよいよ降ってきた。危ないな」
塔馬はまだ到着しない寺岡を気遣った。湿った大粒の牡丹雪が重そうに空から落ちてくる。激しい。この分では積もるのも早い。
「そろそろです。朝に電話して雪の情況を伝えたら午前中の診察だけでこっちに向かうと言っていた。くるのは心配ないけど……」
築宮は一瞬顔を曇らせた。
「問題は明日以降だ。この状態が夜中ずうっと続けば沼まで果たして行けるかどうか」
全員が唖然《あぜん》となった。
「ってことは……無駄足か」
「何日も降り続くってことはないでしょうが」
「だって私たちは明後日《あさつて》の朝帰るのよ」
「しょうがないだろう。そのときゃ」
長山は窓際にきて雪の勢いを確かめた。
「ユータに頼んで掘り出してもらう他に方法はない。まあ、二、三日ならオレは残るぜ」
塔馬も覚悟した。大学の冬休みはまだ終わっていない。
「ダイスケはどうするつもり?」
「日程以外に二日間の余裕は取ってある」
「……それじゃ私も諦めるしかなさそうね。明日がダメなら会社に連絡を入れる」
「ご遠慮なく。勝手にリサの箱を開けて楽しませていただくから」
意地悪く長山は口にした。
「タイムカプセルって言うと……」
蛍は銀のシガレットケースを開けて、
「どんなものを入れたか覚えていて?」
不安げに塔馬から順に見渡した。
「私ってなんにも記憶にないの。怖いぐらい」
「選んだ新聞記事もかい」
はじめて塔馬が蛍と向き合った。
「オケイばかりじゃない。だいたい十八年前って言うとどんな事件があったっけ」
長山がまた口を挟んできた。
「浅間山荘はどうだった?」
「昭和四十七年。我々が卒業した翌年だ。タイムカプセルを埋めたのは四十六年の正月だったはずだから、恐らく三島事件あたりがギリギリだろう。あれは四十五年の十一月」
ああ、と全員が頷きあった。
「そんなに古い話になるのか。三島事件はよく覚えてる。そう言や、まだ学生だった」
「それと三億円事件が四十三年。いまだに記憶にあるんだから、きっとこの二つの事件に皆の興味も集中しているんじゃないか。カプセルを開けても案外失望するよ」
「そりゃどうかね。ここにいる連中はどこかヘソまがりだからな。ワザとくだらん事件を選んでいる可能性の方が強い」
「チョーサクを筆頭にでしょ」
「そう言うリサはどうなんだ。忘れたのか」
亜里沙も渋々とそれを認めた。
「呆れたね。これじゃ楽しみがねぇぜ。入れた当人が忘れるような記事ばかりだ」
「開けて見れば想像もつくだろう。マイナーな事件であればあるほど、選んだ人間の性格や日常が反映しているはずだ。大事件を飛び越えて選んだからには、それ相応の理由があるに違いない。むしろ面白いじゃないか」
塔馬の言葉にそれぞれが動揺を見せた。
「……なるほど。そういうことだ。するとパンドラの選んだ記事が小さなものだったら、あいつの当時の気持も分かるかも知れんな」
「まさか。記事一つでそこまで……」
蛍は眉をしかめながら長山に対した。
「だから、小さな事件だったらだよ。オレたちは大事件を選定基準にしたわけじゃない。あくまでも自分に思い出深い記事という条件だった。とすりゃ個人的な性格が表に現われる。動物好きなら殺人よりもパンダの記事を選んで当然だろう? 別に昭和四十五年までの十大ニュースを選んだわけじゃないんだぜ。パンドラが妙な記事を入れたことも充分に考えられる。それをなぜ選んだか、推理していけば心情だって細かく分析できると思うね」
「なら私たちの記事だって……」
「妙なものならな。ひょっとして大久保清じゃないのか? 野獣に犯されてみたいという願望がオケイの心に潜んでいたりしてさ」
蛍は冷ややかな視線を長山に浴びせた。
「大久保清もカプセルを埋めた後の事件だ」
どうも長山は脱線しすぎる。
「それに大久保清だったら女性が選んで特別不思議じゃない。短絡的に願望とも結びつかんよ。オレが言うのはもっと小さな事件だ」
「分かってる。ちょっと威《おど》かしただけだ」
「厭な人ね。記事なんか見せたくないわ」
蛍は乱暴に言い放つとタバコを喫《す》った。細い指が微《かす》かに震えている。塔馬と長山は顔を見合わせた。亜里沙が小さく笑った。
「心配しなさんな。チョーサクの推理なんていい加減なものよ。ご都合主義だもの」
蛍は自分を取り巻く視線に気付いた。
「昔からオケイを苛《いじ》めるのが趣味だったじゃない。いちいち気にしてたら持たないわ」
「そうだ。オレは今でもオケイを愛しているからな。可愛さ余ってなんとかの口だ」
しゃあしゃあと長山は言ってのけた。
「たとえ毒殺魔でも構わん」
蛍もさすがに苦笑した。
「ついでに言うとリサも好きなタイプだ。人ってヤツは両極端なものに魅かれるらしい」
どれ、風呂に行くか、と長山は吉秋を強引に誘った。亜里沙は呆れて返事もしない。
「パンドラがなにを選んだか……か」
長山たちを見送ると築宮が呟いた。
「なによ。ユータまで」
亜里沙の口調は厳しかった。
「でも……確かにトーマさんの狙いは当たってるぜ。あの頃パンドラは死ぬほど苦しんでいたんだ。それは間違いない」
「パンドラが死ぬほど苦しんでいたって? 理由はなんだい」
塔馬が聞き咎《とが》めた。
「さあ。トーマさんたちが卒業してからはクラブも自然解消しちまって……オレなんかは単純に失恋かなと思ってたけど」
築宮は射るような視線を塔馬に浴びせた。特別な意味が込められている。塔馬は苦笑した。見当違いも甚だしい。
「違うわ。トーマはオケイと付き合ってた。そうでしょ」
亜里沙は蛍に同意を求めた。蛍は急に落ち着かない目になった。
「またその話か。オレは構わんがオケイに迷惑だぜ」
「私が振られたのよ。最初から相手になんかしてもらえなかったの。悔しいけど」
蛍が諦めた口調で告白した。
「だって……何度もデートしたってあなたが言ったじゃない」
亜里沙は譲らなかった。
「嘘だったのよ」
蛍は笑った。亜里沙はポカンと口を開けた。塔馬も戸惑った。
「リサも狙っていたでしょ……」
蛍はペロッと舌をだした。
「………」
亜里沙は無言で耐えた。それでも握った拳は怒りに震えている。
「よしなよ。もう二十年も昔のことじゃないか。いまさら喧嘩してもはじまらん。若い娘じゃあるまいし。お互い中年なんだぜ。トーマさんにだって迷惑だ」
築宮は呆れた顔で諫《いさ》めた。
「迷惑ってこともないけどね。なんだか自分がジゴロにでもなった気分だ。今頃になって言われても……ただ勿体ないって思うだけでさ」
塔馬の言葉に亜里沙も笑った。
「まあ……ユータはパンドラと同級だったんだし、彼女が苦しんでいたってのも間違いないだろう。だが、理由はもっと別のものだ。失恋程度じゃ……と言っても断言はできないが。オレなら有り得ない」
「そうね。ハンコは結構我慢強い性格だったわ」
亜里沙は頷いた。蛍も同意する。
「なにかがあった。それもあのタイムカプセルを埋める直前に……ますますパンドラの選んだ記事が気になるな。そんな状態にあれば無意識に心が反映する」
塔馬は言いながら重い溜め息を吐いた。それを蒸し返してなにになるのか。恐らく互いに厭な思いをするだけだろう。パンドラは内向的で他に友達もいなかった。どういう理由であれ、仲間に関わりのある苦しみに違いない。
「ごめんなさい。また嘘を重ねて」
塔馬が手洗いに立つと直ぐに蛍が廊下を追いかけてきた。
「別に……気にしていない」
塔馬は蛍を見詰めた。蛍は亜里沙にああ言ったが、塔馬は一度も気持を打ち明けられたことはない。
「むしろ光栄だな。オレは君を振った男の第一号ってわけだ」
「でも……好きだったのはホント」
蛍はじっと見上げた。廊下の暗がりに蛍の濡れた目が光った。塔馬は不審を覚えた。
「それは今だって……」
蛍は塔馬の掌を軽く握った。
「あなたに逢えると思ったからここにきたんだわ」
塔馬は首を振った。それも嘘に決まっている。蛍は女優だ。芝居には馴れている。
「悪いが……オレはそれほど自信家じゃない。もちろん、信じたい気持はヤマヤマだけどね」
蛍の顔が屈辱に強張った。
5
寺岡正也が宿に到着したのは、それから一時間もしてからだった。これでパンドラを除いて昔の仲間が全員顔を揃えたことになる。クラブのリーダー格だった寺岡が加わると急に集まりは和《なご》やかになった。
「野口英世ってとこかね」
長山が安心した顔で言った。塔馬や亜里沙も嬉しそうに認めた。なにしろ寺岡は大病院の経営者と聞いていた。だれもが仲間の中で一番変わっただろうと予測していたのだ。なのに目の前には昔と変わらぬ柔和な笑顔がある。服装だって質素だ。わずかに太った点を抜きにすれば、この席の中でもっとも青年の面影が色濃く残されている。相変わらず酒もタバコも駄目だと言ってジュースを頼んだ。それも懐かしい。
「ぼくが山形営業所にいた頃は」
吉秋が得意気に続けた。
「赤ヒゲ先生って呼ばれていましたよ。なんだか嬉しくなって」
吉秋は製薬会社に勤めているのだから医者の噂には敏感だ。
「赤ヒゲか……らしい雰囲気だ」
長山は珍しく素直だった。卒業年度こそ一緒だが、寺岡は医学部だったことと、入学までに二年間のサラリーマン経験があるので年齢は四歳も上である。大学で四歳の差は大きい。さすがの長山も寺岡の前では小さくなっていた。その頃の感覚が今も抜けないのだ。
「なんで地元の秋田で開業しなかったんです?」
塔馬は訊ねた。
「地元と言ってもウチは病院じゃなかったからね。親から受け継ぐ患者もない。どこでもおなじだ。逆に不都合な場合もあるさ。故郷の町に開業するとなれば縄張りを荒らすと古い開業医たちが騒ぎだす。案外面倒な世界なんだよ。無関係な町なら批判も少なくてすむ」
「結構大変なんだな」
「大都市に医者が集中するのはそういう理由もある。狭い町には新しい医者が入っていけない。現実を厭と言うほど見せつけられたよ。大都市なら医者同士の複雑な関係もない。それに、学閥の問題もあった」
「ふうん。たとえば?」
「青森、秋田、岩手、宮城の医者のほとんどは弘前大、岩手医大、東北大の卒業生だ。従って横の繋がりも強い。ウチの大学を卒業した医者なんて滅多にいないぜ。なにか問題が持ち上がるとオレ一人に責任が被せられる。最初は岩手の田舎の病院に勤務医として赴任したんだが……いろいろと厳しい目に会わされてね」
「なるほど。それで山形に」
「先輩が病院を開いていた。そこを頼って」
寺岡は苦でもない様子で言った。
「それにしても酷い雪だ。これじゃ二、三日戻れないかも知れない」
「病院の方は大丈夫?」
亜里沙が心配した。
「オレの他にも医者がいるから患者のことは安心だが……こんな調子で肝腎《かんじん》のタイムカプセルはどうなんだ」
「さっきもユータから聞いたけど」
吉秋が無理らしいと告げた。
「よほど晴れてくれないと……」
「じゃあ諦めるのか?」
「まさか。オレは残るよ。ここまできて手ぶらじゃ意味がない」
長山は笑った。
「トーマもリサもダイスケも、皆パンドラ・ケースを気にしていてね」
寺岡は不審な目をした。長山はこれまでのいきさつを詳しく伝えた。
「パンドラが予言を?」
「予言と言うほど大袈裟なもんじゃないけど……自殺したいとか、あるいは殺されると考えていたのは間違いないと思う。テラさんに心当たりはないかい」
「オレに? なんでオレが」
塔馬の問いに寺岡は憮然とした。
「別に意味はない。全員に聞いても見当がつかないもんだから」
「知らんな。そもそもパンドラとはロクに口を利いたこともないんだ。今度だって皆に会いたくてきただけで、パンドラのためじゃない」
「テラさんにまでそう言われたんじゃパンドラも浮かばれんな」
長山は甲高い笑いを上げた。
「まったく……あいつはどんな気持で仲間に加わっていたんだろうね。もしどこかで生きていれば復讐にくるぜ。こんなに嫌われていたのを知りゃ、いい加減頭にくるさ」
長山は自分を棚に上げて言った。
「いや……嫌っていたとかそういうつもりじゃ。言い方がまずかった」
寺岡は盛んに弁明した。
「もう十二年がすぎたんだ。当然のことだろう。それに卒業以来十七年が経っている」
「十八年じゃなかったかな」
塔馬は指折り数えた。カプセルを埋めたのは確か四十六年の一月。今は六十三年の一月。逆算すれば……。
「これから十八年目に入るんだ」
「忘れてもいいほど永い時間じゃないか。皆にとっては重いことかも知れないが、医者を仕事にしていれば日常で何人もの死とぶつかる。いちいちそれを背負っていたら大変だ」
「………」
「と言って……パンドラをそれと同列にしたのは確かに悪かった」
寺岡はだれにともなく深々と頭を下げた。亜里沙は微笑した。
「謝る必要なんてないわよ。チョーサクなんかもっと酷いことを言ったんだから。小説の材料ですって」
「今のところネタにはなりそうもない。テラさんが金儲け優先の悪徳医者に変貌していたり、パンドラ殺しの証拠でもでてくりゃ別だが……いや、そうでもないか。箱を開けりゃなにが飛びだすか分からん」
蛍は露骨に厭な顔をした。
だれもが疲れていた。
翌日も白湯泊まりだ。その安心があって、その夜は食事を済ませると適当に散会した。築宮も蛍の家に戻った。塔馬は長山とおなじ部屋だ。部屋はいくつも空いている。が、せっかく集まった仲間である。寺岡と吉秋は廊下を隔てた部屋。そしてその隣りにリサは一人。
「風呂に行かんか」
長山が誘った。
「ちょいと話したいこともある」
渡り廊下で繋がれた岩風呂はしんと冷え切っていた。湯気さえがドライアイスの煙のように思える。肩までつかるとぬるめの湯が体の芯を溶かしはじめた。このまま眠りこんでしまいたいぐらいに気持がいい。塔馬は湯船に長い脚を伸ばした。
「熱いか?」
前も隠そうとせず、痩せこけた体の長山が入ってきた。
「話ってのは?」
「ここから裏山が見えるだろ」
長山は顎で窓を示した。雪明りで丘の輪郭が微かに分かる。
「昼にな……テラさんを見たんだ」
「いつだって?」
「だからオレとダイスケがここにいたときさ。もっともそのときゃテラさんだと思わなかった。今だって自信はないが、バーバリーのコートがおなじだったぜ。他に客はいないし恐らく間違いない」
「裏山に向かったのか」
「たぶんな。テラさんが部屋にきたのはそれから一時間も経ってからだろ。それしか考えられん」
「気になっただけじゃないか。この天候なら不思議じゃない」
「じゃあ、なぜそれを隠すんだ」
塔馬は首を振った。
「どうせ行っても一人じゃ無理だ。一時間程度でカプセルを掘り出せっこない。なにか理由があったのなら蓋を開けたときに分かるよ」
「驚かんのか」
長山は意外な表情をした。
「十七年ってのは相当な年月だ。そのときは平気でも、今になれば顔が赤くなるような思い出はチョーサクにだってあるはずだぜ。特にテラさんのような立場にいればオレやおまえより強く感じるかもしれん。大病院の開業にしてもオレたちは理解したつもりだが、テラさんは自分で納得していないんじゃないかな。無医村根絶に生涯を捧げるって、あれだけ情熱を傾けていた人だ。恥ずかしいと思っている可能性だって充分に考えられる」
「なるほど。そういうことか」
長山もあっさり了解した。
「あら……入ってるの」
脱衣場から亜里沙が覗《のぞ》いた。
「どうぞ。大歓迎するぜ」
長山がニヤッと笑った。
「もう互いに恥ずかしいって歳でもなかろうさ。トーマだっている」
亜里沙は少し躊躇《ちゆうちよ》したあとに頷くと、やがて豊かな裸身を晒《さら》した。大柄だが着痩《きや》せするタイプらしい。
「へぇ。お見それしたね。意外と若い体なんだ。鍛えているのか」
「じろじろ見ないでよ」
亜里沙は頬を染めて体を沈めた。
「どうしてリサは結婚しない」
「相手がいないもの」
「オレじゃ駄目か」
「男友達には不自由してないわ。理想の伴侶《はんりよ》に恵まれていないだけ」
「ご挨拶だな。トーマはどうだい」
「朝に振られたばかり」
亜里沙は塔馬を見詰めた。
「でも……仲間っておかしなもんだわ。こうして混浴するなんてはじめて。なんで平気なんだろ」
「そりゃオレたちが信用に値する人格だからさ。幸いオレも女友達に不自由はない。お陰でリサを拝んでも空気程度にしか感じやしない。ここまで到達するのにゃ相当の金と経験を積んだぜ。恥も重ねたけど」
「噂は聞いてるわ。いろいろと」
「噂なんて……まあ、いいか」
長山は湯船から上がった。
「ゆっくりしてこいや。なんだかオレは邪魔らしい」
塔馬が引き止める間もなく長山は風呂から出ていった。
「オレも上がるよ。こういうのは昔から苦手なんだ」
「オケイの話はホントなの?」
「………」
「バカ見ちゃった。テラさんのときだって……」
「テラさん?」
「オケイっていつでもそうだった。自分は好きでもないのに、私が好きだと分かると途端に……」
塔馬は手拭いを頭から被った。
「まあ、いいか」
亜里沙は長山の口調を真似た。
「ユータの言う通り。いまさら怒っても仕方がないもの。初恋談義でもあるまいしさ。これで私もスッキリしたんだ。なんでトーマまでオケイのような娘《こ》が好きなんだろうって本当はがっかりしていたの。チョーサクが振られたのも知ってた?」
いろんな話が噴き出てくる。蛍が寺岡と付き合っていたのも初耳だ。毎日のように顔を合わせていたはずなのに……自分はなにを見てきたのか。過去が急に頼りないものに思えてきた。
「なのに原作が欲しいだなんて、オケイには負けたわ」
「そういう適当な娘《こ》だったよ。正反対に君はのんびり屋だったしな。若い男には君の良さがなかなか分からない。今のチョーサクやオレがそのまま昔に戻れたら君を選ぶさ。恋人ってよりも結婚相手としてね」
亜里沙は息を呑んだ。
「人生ってヤツが二度繰り返せるものなら……まあ、いいか」
どうも口癖になりそうだ。亜里沙は温かな笑顔をはじめて見せた。
[#改ページ]
二章 パンドラ・マーダーケース
1
「よく晴れたもんだ。ピーカンだ」
長山はカーテンの隙間から眺めて眉をしかめた。銀色の雪が朝日に照り映える。暗い部屋の埃《ほこり》が狭い光の束の中をゆっくりと漂《ただよ》う。まるで海の底のプランクトンだ。
「どんどん雪が溶けている。これならカプセルを掘り出せるかもしれんぜ。案ずるよりなんとかだ」
窓の下に築宮が歩いてきた。
「行けますよ。道を確かめてきました。朝食を終えたら向かいます」
長山を見上げる築宮にもホッとした色がある。塔馬も外を覗いた。
〈いよいよだな〉
塔馬はゾクッと肩を震わせた。パンドラはなにを埋めたのか。自分のことよりもそれが気にかかった。
朝食は別の部屋に全員の膳が用意されている。寝不足の目をこすりつつ長山と塔馬が襖《ふすま》を開けると、中にはきちんと洋服に着替えた亜里沙と丹前姿の吉秋がいた。二人は離れた席に座り、すっかり晴れ上がった外の景色を無言で眺めている。亜里沙は塔馬の乱れた髪を見て苦笑しながら隣りの席を勧めた。
「お早う。よく眠れた? 夜中まで話しこんでいたようだけど」
「チョーサクが眠らしてくれないんだ。酒が入ると元気になる体質らしい。横になったのは三時」
「男同士っておしゃべりよね」
二日酔いからか苦虫を噛み潰したような顔で膳の内容を点検していた長山は梅干しを抓《つま》んで口にした。
「まだよ。皆が揃ってから」
「どうせ他は食わん。温泉は好きだが朝が早いのには閉口する。なんでゆっくりできんのかね。八時にメシだなんて地獄も一緒だ」
「私は久し振りにのんびりした」
亜里沙の言葉に吉秋も頷いた。
「とにかく……オレはコーヒーだけで充分だ。あるんだろうな?」
「インスタントだけど、帳場に言えば持ってきてくれるわ」
「じゃあ頼む。それまでに一風呂浴びてくる。体から酒を抜かないと調子が悪い。トーマは?」
「いい」
「強くなったもんだな……おまえさん、学生の頃は付き合い酒程度しか飲めなかったんじゃねぇか」
長山は肩のコリをほぐすように首をまわしながらでていった。
「チョーサクとじゃ大変」
亜里沙がクスクス笑った。
「ずいぶんあいつの声が聞こえたわよ。酒癖も悪いでしょ」
「別に。半分眠ってたから」
吉秋が声を上げて笑った。
「ところでテラさんは?」
「電話です。患者が心配だとか」
この白湯温泉では部屋から直接電話をすることができない。市外はすべて帳場の公衆電話だ。
「それと……さっきユータが顔を出して、朝食を済ませたら裏山に向かうと。雪は溶けたみたいで」
「オレも聞いた。いよいよだな。いいのか悪いのか、判断はつかんが」
「………」
「タイムカプセルなんて開ける必要があるのかな。こうして皆が集まっただけでいいじゃないか」
塔馬は暗い目でタバコを喫った。
「そうもいきませんよ」
背後から声がかかった。いつの間にか築宮が襖の陰に立っていた。
「たった今連絡が入りました。皆さんは当分この白湯に足留めです」
三人は顔を見合わせた。
「昨夜の雪と今朝の暖気のせいで峠の何カ所かが雪崩《なだれ》にやられた。復旧までには二、三日かかるそうです」
「ホントかい!」
塔馬は唖然とした。
「よくあるんですよ。春先に多いんだけど……食料は心配ありません」
「二、三日って……」
亜里沙が不安を浮かべた。
「電話は通じるの?」
「今のところはね。ただ保証はできない。道路が寸断されているから、そこの部分で線が切れればお手上げだ。修理もむずかしい」
「だったら今のうちに会社に連絡しておかないと」
亜里沙は慌ただしく席を立った。吉秋もあとを追って部屋をでる。
「トーマさんはいいんですか」
一人残った築宮は座布団に腰を下ろした。
「仕方がないだろう。幸いオレは急ぎの仕事が入っていない。別に無人島に流されたわけじゃないしな」
「帳場でテラさんに怒鳴られた。こんな集まりを企画したのが悪いと」
「テラさんはそうだろうさ。患者の命を預かっているんだから」
「絶対秘密にしてくれますか?」
築宮は塔馬を値踏みするように下から見上げた。
「これはオレの考えじゃないんですよ。ダイスケから話があって」
「ダイスケ?」
塔馬は眉根を寄せた。昨日の様子では吉秋も今度の集まりが意外だったという口振りに聞こえたのだ。
「これがヤツに届きました」
築宮はポケットから一通のハガキを取りだして塔馬に手渡した。塔馬は一瞥《いちべつ》して寒気を覚えた。
裏にはワープロでたった一行。
パンドラの十三回忌が近づいた
とだけ書かれてあったのである。
「これは……どういうことだ」
「分かりません。住所もワープロで打ってある。でも仲間のだれかがだしたものには違いないですよ」
「チョーサクあたりの悪戯《いたずら》かな」
塔馬の想像に築宮は首を傾げて、
「とにかく、このハガキが届いたんでダイスケが慌ててオレに連絡してきた。届いたのが自分だけと分かったら相当怯えましてね。オレもダイスケに聞かされるまで、今年がパンドラの十三回忌に当たるなんて忘れていたんです」
「妙な話だな。なぜダイスケに」
「気の弱いところをついたのか……あるいはパンドラと同級だったのが関係あるのかもしれません」
確かにありそうなことだ。
「二人で相談して、これは十三回忌を開催しろという意味に違いないと判断したんですが……そいつの目的はなんでしょうか?」
築宮は逆に訊ねてきた。
「さあな。想像もつかん。だしたのが仲間のだれかとしたら、別にダイスケやユータを頼らずとも、本人が集まりを呼びかければいいことだ。なのにワザとこんなまわりくどい方法を選んだからには、自分が発起人になりたくなかったとしか思えない。しかし……その理由となれば」
言いながら塔馬は思いついた。
「唯一考えられることは……」
が、塔馬は躊躇した。
「なんです。教えて下さい」
「なりたくとも発起人になれない人間がひとりだけいるってことさ」
「まさか!」
築宮も気づいて青ざめた。
「まさかな。パンドラが生きている保証はない。また生きているなら別のやり方を選ぶはずだ。彼女は犯罪者じゃない。どこにも逃げ隠れする必要がないんだからね」
「怖くなってきた。パンドラが生きている可能性なんて今日まで一度だって考えたこともなかったですよ。噂通りの人だな。心強いや」
「噂通り? なんだいそりゃ」
「啓子がリサから耳にしたと……事件をいくつも解決したとか」
塔馬は苦笑した。美術雑誌の編集をしている杉原がパーティなどで大袈裟に吹聴しているのだろう。出版業界は狭いから直ぐに伝わる。
「買い被りだぜ。それにたいていは詐欺とか贋作問題でね」
「トーマさんだけが頼りです。絶対になにかが起こる。それは確かだ」
築宮は真剣な口調になった。
「皆はどうした。もうメシが済んだってわけじゃあるまい」
長山が風呂から戻ってきた。
「早いな」
「当たり前だ。朝風呂で体を洗うようなヤボじゃないぜ」
「閉じこめられたよ」
塔馬は長山をじっと見詰めた。
「雪崩で道が塞がれたそうだ」
「へぇ。復旧の見通しは?」
「二、三日です」
塔馬の前にあるハガキをソッと膝で隠して築宮が答えた。
「電気や電話は大丈夫か」
築宮は即座に頷いた。
「なら、どうってこともないさ。最初から二、三日はゆっくりしようと思ってでかけてきたんだ」
長山はコーヒーを捜した。
「頼んでない。リサは慌てて社に連絡しにいった。コーヒーなら付き合うよ。一階《した》に飲みにいこう」
そこには派手なスキーウェアの蛍の姿もあった。寺岡を中心に亜里沙と吉秋もコーヒーを飲んでいる。
「オレがコーヒーを頼んだのに、勝手なヤツらだ」
長山は吉秋に席を詰めさせた。
「面白くなってきたじゃないか。これでようやくミステリーらしくなってきた。クリスティばりだな」
「冗談じゃない。こちらは仕事を抱えている。今日は仕方がないにしても長引くようなら歩いて帰ろうかと相談していたところだ」
寺岡は憮然とした顔で睨んだ。
「無理ですよ。雪崩の部分を迂回《うかい》するためには急な山を登らなきゃ……滑って崖に落ちれば命がない」
築宮は呆れた声で言った。
「しかし、どの程度の雪崩かは分かっていないんだろう?」
「まあ……麓からの連絡だから。それを信用する他ありません」
「見たところ、宿の周辺はなんともない。ダイスケが探ってくると」
「山をなめると危険だ。行くときはオレが役目を引き受ける」
築宮は声を荒げた。
「なんでそうあくせくするのかね。予定が一日延びたぐらいのもんだろうさ。ユータも気にするな。帰りたきゃ勝手にさせろよ。オレは命を賭けてまで雪道を歩くつもりはない」
長山は寺岡たちをせせら笑った。さすがに寺岡も納得したようだ。諦めてコーヒーカップを手にする。
2
「こんなに酷い坂だった?」
深い雪に足をとられながら亜里沙は塔馬を振り返った。肩で息をしている。額には汗も見えた。
「それだけ我々が歳を取ったんだ」
塔馬は笑った。
「リサはこの道を走って上がったんじゃなかったっけ」
「あの頃はね……そうか。悔しいけど、やっぱり歳なんだわ」
「オケイは大したもんだな。ちっとも苦労じゃないみたいだ」
「役者って体力がいるのよ。私たちの鍛えかたとは違うんじゃない」
「ふうん。意外な発見だ」
塔馬は築宮と並んで先頭を歩く蛍の後ろ姿を感心して眺めた。華奢《きやしや》な体のどこにあんな体力が秘められているのだろう。
「この暖気で沼の氷はどうかしら」
「氷は滅多なことじゃ溶けない」
背後から長山が保証した。長山も参った顔だ。もっとも彼の場合は寝不足と空腹が重なっている。
「それにしても……つくづくバカバカしいことをしたもんだ。ワザとこんな面倒な場所に埋めたなんてな」
「これはチョーサクのアイデアじゃなかった?」
「だから怒っているのさ。自分に」
亜里沙は噴きだした。
「オレは大したヤツじゃなかった。それが今日になって分かったよ」
「遅すぎたようね。私なんてとっくに分かっていたもの」
「自分がかい?」
「チョーサクのこと」
長山は亜里沙の尻を思い切り叩いた。甘えた悲鳴を上げて亜里沙が逃げる。その声に蛍が振り向いた。
「よして。子供じゃあるまいし」
蛍は不愉快そうに口にした。
七人は無言で沼の縁に立ちすくんだ。真正面の崖に祠《ほこら》が見える。小さな屋根に雪が被さっている。十七年前、あの祠の側に埋めたのだ。
「よく残ってたもんだな」
長山は溜め息を吐いた。まわりの枯れた景色も記憶のままだ。亜里沙は目頭を手袋で拭《ぬぐ》った。
「なんで私たちだけ歳を取っちゃったのかしら。こんな場所にきちゃいけなかったんじゃないの?」
亜里沙は塔馬の袖を掴んだ。握った指の震えが伝わってきた。
「ここにはハンコがいるわ」
「………」
「きっとどこかで見ているのよ。歳取った私たちをどこかで」
塔馬は亜里沙の肩を抱いた。
「ダイスケ、手伝え。あの時のように二人で箱を掘ってこよう」
築宮が氷を渡った。吉秋も頷いて続く。五人はそのまま縁に残った。
「こうしていると思い出すよ。トーマはこの件に終始反対していた」
長山は両腕を組んだ。
「トーマだけが大人だった」
「違うな。今のオレなら無関心でいる。結局、子供だったのさ」
築宮と吉秋が向こう端の崖に辿《たど》り着いた。腰までの雪を掻き分けながら斜面を慎重に上がって行く。体の重くなった吉秋は何度か滑った。
やがて二人は祠のある浅い窪みに立った。こちらに手を振る。眩しい陽射しが氷に反射して二人はシルエットになった。早速、堅い土を掘りはじめたスコップの音が沼の表面を伝わってきた。
「どうした? 寒いのか」
長山が蛍の様子に気づいた。顔面が蒼白になっている。
「汗を掻き過ぎたようだわ」
足下もガクガクしている。
「本編ならNGね」
蛍は腰を落として膝を抱えた。
「見つかりました!」
吉秋が大声で叫んだ。
それから二十分後。
五人の前に箱が運ばれてきた。
「テラさんが代表者だ」
長山の促しに残りが同意する。
「本当にこの箱なのか」
寺岡は小首を傾げて眺めた。
「なんだか、情け無いね……」
皆も頷く。箱はどことなく安っぽい印象だ。もともと駄菓子を詰めるブリキの箱である。耐久性もそれほどではなかったのだろう。表面が錆《さ》びて汚い。思い出が色|褪《あ》せていくような感傷に全員がとらわれていた。
「ガムテープもネバネバだ」
寺岡がテープの端に手をかけて言った。全員の視線が箱に集中する。
「水が染みてなきゃいいが」
乱暴にテープを剥ぐ。テープが寺岡の皮手袋に巻きつく。ボコンと音がして箱が凹《へこ》んだ。
寺岡は厳重に巻いたテープを次々に剥ぎ取った。どうやら水は箱の中にまで入りこんではいない。
「せっかくだ。ここから後はオケイに栄誉を譲るとしよう」
寺岡は隣りにいる蛍を見上げた。
「女優らしくセレモニーを盛り上げてくれ。オレじゃ荷が重すぎる」
冗談に皆が笑った。
蛍は緊張した顔で屈《かが》みこんだ。
ソロソロと蓋が開けられていく。
「わ。マローネじゃない」
脇から覗きこんでいた亜里沙が真っ先に目に入った防水用の包装紙を認めて歓声を発した。
「あの頃新宿で良く行った店よ」
蛍も懐かしそうに頷いた。
「確か三越の裏だったわね。今もあるのかしら」
「それより中が先だ。そんな思い出話はあとでゆっくりしてくれ」
長山はやれやれという顔をした。
蛍は肩をすくめると丁寧にマローネの包装紙を上から剥がした。
「………」
大小様々な箱が詰められている。全部包装紙が一緒なのでだれのものかは分からないが、間違いなく八個だ。その底に油紙に包まれた角封筒が納められている。中には全員が選んだ新聞記事が入っているはずだ。
「小箱はともかく……記事を見せてくれ。そいつが気になる」
長山は蛍を急がせた。蛍が油紙を開く。十七年も土中にあったというのに封筒は湿気さえ帯びていない。
端を開けると切り抜きが何枚か飛びでてきた。と言っても全部が縮刷のコピーである。蛍は中を確認した。
「ちょっと待って……」
蛍の声がうわずった。
「おかしいわ。どういうこと?」
戸惑いの視線を全員に向ける。
「どういうことって?」
築宮が不安げに質《ただ》した。
「記事が……十三枚あるの」
ザワザワと塔馬の背に鳥肌が立った。亜里沙はポカンとしている。
「そんなわけはない。あの時全員が目の前で一枚一枚入れたはずだ」
「だって……本当ですもの」
蛍が寺岡に記事を突きつけた。
「だれかが後から箱を開いてソッと忍ばせたんだわ。なぜなの!」
蛍は泣きそうな顔で叫んだ。
「八人しかいないのに、記事が十三枚だなんて……」
多すぎる記事を握りしめ蛍は震えた。亜里沙も怖々《こわごわ》と見詰める。だれもが無言でその意味を考えていた。
「目貼りに使っていたガムテープを見せてくれないか。さっきから気になっていた。妙に新しい」
冷静を取り戻した塔馬の言葉に寺岡はテープを拾って手渡した。
「布バンか……あの頃に布バンなんてあったかい?」
あの頃と言うのはタイムカプセルを埋めた昭和四十六年。訊かれた長山は首を捻《ひね》った。
「あった……とは思うんだがね。それは東京の話だ。ガムテープは白湯温泉の売店で調達したんじゃなかったか? こんな田舎じゃどうかな」
「普通の紙テープだったわ」
亜里沙が言い切った。
「重ね貼りができなくて苦労した記憶があるもの。それで縦横念入りに箱を巻いたのよ。ねえ」
言われて蛍も頷いた。
「ユータ。土の状態はどうだった」
「状態って?」
「箱を掘りだした形跡は?」
「さあ……雪で隠れていたから」
「でも、確かに掘りやすかったぜ」
吉秋が付け加えた。
「どうやらチョーサクの喜びそうな展開になってきた。どんな意図かは知らんが、だれかが箱を掘りだしたのは疑いない。しかも、こいつはただの悪戯でもないらしい。問題はこの場所にカプセルを埋めたことを我々の他に何人が知っていたかだ」
「オレは喋っていない。いや……喋ったかもしれんが、詳しい場所までは教えていないはずだ」
長山は即座に答えた。亜里沙も蛍も、そして全員がおなじだった。
「すると、仲間のだれかってことになる。まさか偶然見つけた人間が記事を足したとも思えないしな」
塔馬は全員を見詰めた。それぞれに激しい戸惑いが浮かんでいる。
「とりあえず戻ろうじゃないか。こんなところで議論してもはじまらんぞ。オケイなんて唇が真っ青だ」
寺岡が蛍を心配して言った。
「そうだな。そうしよう」
塔馬は蛍から記事を受けとった。
3
テーブルの上には大小様々な八個の箱が並べられている。大きいと言っても縦横二十センチ以内。小さなものは煙草の箱を二つ重ねにした程度。中には一人一人の青春の思い出が詰められているはずである。
「参ったね。箱に名前を書くぐらいの知恵もなかったなんてな」
長山は苦笑した。なにしろ包装紙がすべておなじだ。その時は見分けがついても、十七年も過ぎた今ではどれが自分の箱か見当もつかない。
「まあ、開けてみりゃ分かるだろうさ。お互い酷《ひで》ぇ記憶力だ」
「自信のあるヤツから開けてくれ」
塔馬は順に促した。
「これ……だと思うんだけど」
吉秋が一番大きな箱を手にした。それでも不安そうに包装紙を破る。全員が静かに見守った。
「あ……やっぱりオレんだ」
蓋を開くなり中からマッチ箱がバラバラとテーブルに散らばった。歌声喫茶「灯《ともしび》」。音楽喫茶「ニュー|ACB《あしべ》」。紀伊國屋書店の3Fにあった「ながい」。コマ劇場向かいの画廊喫茶「カドー」。二幸裏ジャズ喫茶「スティック」。懐かしい「新宿※[#「几の中に百」]月堂」。安田生命ビル地下「トップ」。伊勢丹会館の「バン」。ジャズと店内一杯の柱時計のアンバランスが印象的な「木馬」。「ながい」や「バン」と競って文化人の集まるという噂があった新宿ステーションビル8Fの「プチモンド」。その他に倍以上のマッチが詰まっている。どれもこれも仲間が揃って騒いだ思い出の店だった。
「ダイスケにしては、やるわね」
亜里沙は一つ一つ丁寧に眺めた。
「あの当時はタバコを喫わなかったからマッチなんて集めるつもりにもならなかったけど……涙がでるわ」
「店は今も残ってるのかい」
東京を離れて久しい築宮が懐かしむように亜里沙に質した。
「この頃新宿をゆっくり歩くことなんてないから……『プチモンド』は打ち合わせでしょっちゅうだけど」
「『ながい』は地下に移ったぜ。昔の雰囲気じゃないがね」
長山はマッチを指で弾いた。
「紀伊國屋なら二階にもあったんじゃなかった。今のアドホック側の階段の近くだとおもったわ」
「『ブルックボンド』だろ。たいてい『ながい』に席がなくて、そっちに行ったものさ」
「そうそう、それよ」
亜里沙は何度も頷きながら、
「ダイスケ、これ私に頂戴」
マッチを何個か握った。
「いいよ。こんなに皆から喜ばれるとは思わなかった。大成功だ」
「歳月。それだけのことじゃない」
蛍は無関心な顔で皮肉を言った。
「どうせ三日も眺めれば飽きるわ」
「次はだれが開く?」
塔馬が話を逸らした。どうも蛍は亜里沙に突っかかる。集まった仲間の全員が自分を女王として扱うと信じていたのだろう。なのに昨夜から長山や吉秋は亜里沙とばかり話をしている。それが面白くないのだ。
「これは私のよう」
蛍が横に平たい箱を選んだ。
見守る視線に一本のカセットテープがでてきた。その下の紙には蛍自身によって曲名が細かく記されている。全部で二十曲。すべて昭和四十五年に流行したものだ。
「思い出したわ。暮れに放送したラジオから録音したんだった」
蛍は少し得意そうに言った。
「シングル売り上げのベスト二十じゃなかったかしら。それともレコード大賞だったかな。どうでもいいわね」
蛍はリストをテーブルに広げた。
「黒ネコのタンゴ」皆川おさむ「ドリフのズンドコ節」ザ・ドリフターズ「圭子の夢は夜ひらく」藤圭子「女のブルース」藤圭子「逢わずに愛して」内山田洋とクールファイブ「手紙」由紀さおり「愛は傷つきやすく」ヒデとロザンナ「今日でお別れ」菅原洋一「ヴィーナス」ザ・ショッキングブルー「京都の恋」渚ゆう子「白い色は恋人の色」ベッツィ&クリス「希望」岸洋子「経験」辺見マリ「噂の女」内山田洋とクールファイブ「白い蝶のサンバ」森山加代子「国際線待合室」青江三奈「波止場女のブルース」森進一「命預けます」藤圭子「恋ひとすじ」森進一「男の世界」ジェリー・ウォレス
「まあ……意図は買うがな」
ひとわたり眺めてフンと長山は鼻を鳴らした。煙草に火をつける。
「オケイもただの俗物だったと言うわけだ。それが実証されたという意味では貴重なテープかもしれん」
「どういうこと」
蛍は鼻白んだ。
「くだらんよ。どれもこれも今だってその気になりゃ聞ける曲だぜ。ましてや今はレトロ趣味で、こんなレコードが巷《ちまた》にゴロゴロしてる。もう少しポリシーってのを持ち合わせてもらいたいな。好きな曲を集めたってんならまだしも……第一、聞いてみたいって気持にもならん。あんまり馴染みの曲だらけでな」
「いいじゃないの。オケイの勝手だわ。私は割に面白いと思うけど」
「やめて。リサまで。取ってつけたような慰めなんていらないわ」
蛍は憮然として亜里沙を睨んだ。
「どうせ私は俗物なんでしょ」
「俗物、結構。こんなダサイ青春がオケイにあったと知らされて、むしろ嬉しくなったね。必死で録音したんだろうな。目に見えるようだ」
長山は懲りずに続けた。
「可愛いじゃねえか。そうだろ。今や天下の大女優がさ」
長山はダイスケに同意を求めた。
「いい加減にして」
蛍はテーブルを叩いた。
「あなたにどんな権利があるの」
「権利? オレは誉めてるんだぜ。逆説も分かってもらえんようだ」
「チョーサク」
塔馬は真正面から見据えた。
「もう遊びは充分だろ。パンドラの箱を捜す方が先決だ」
長山は苦笑して蛍に頭を下げた。
「悪気なんかない。本当に可愛い女だと思ったのさ。なんだかテレビで見る近頃のオケイは別人のように感じていたもんだからさ」
「役なんか私とは別物よ」
蛍はそれで少しは機嫌を直した。
「確かにトーマの言う通りだ。我々の箱よりもパンドラが気になる」
長山は残りの箱を眺めた。
「どいつだろう?」
「これじゃないかな」
亜里沙は十センチばかりのサイコロのような箱を手に取って、
「ハンコと私はおなじ部屋だったから……見たような記憶があるの」
塔馬は他の皆に訊ねた。だれも自分の箱だとは言わない。もちろん塔馬のものでもない。パンドラの箱と見做《みな》して間違いはなさそうだ。
「じゃあ、開けていいのね」
言いながら亜里沙は箱を耳元で軽く振った。なにも音がしない。
「綿でも詰まっているみたい」
震える指で包装紙を丁寧に剥がした。白い紙の箱が現われた。
「………」
固唾《かたず》を飲んで皆が箱に集中する。
蓋を開けると、綿に埋まった干涸《ひから》びた木の切れ端のようなものが目に入ってきた。その中心にリングの腐蝕したトパーズの指輪が嵌《は》まっている。石の輝きは失われていない。
「奇麗ね……」
蛍が指輪に目を近づけた。
いきなり蛍は悲鳴を上げた。口許を掌で抑える。吐き気をこらえているのだ。蛍は箱を手で払った。
「どうした!」
寺岡が慌てて箱を拾った。中から指輪が少しはみでている。それを手にとって寺岡も青ざめた。
「いや! 二度と見せないで」
蛍は畳に這いつくばったままその場を逃れた。足が立たないようだ。
「なんだよ。そいつはなんだ」
長山が乱暴に箱をもぎ取った。
一目見て長山も震えた。
指輪には指がついている。
干涸びた小枝と見えたのは、乾燥した人間の薬指だったのだ。根元から切断され、爪らしき痕跡もある。細さからみて女の指らしい。
亜里沙は顔を背けた。
「まさかチョーサクの仕業じゃないんだろうな。もしそうなら許さん」
寺岡は睨《ね》めつけた。
「よしてくれ。いくらオレだって女の指まで切らんよ」
さすがに長山の語尾がかすれた。
「これは……ハンコの指輪よ」
横目で眺めて亜里沙が口にした。
「誕生石だって自慢してたもの」
吉秋がワッと叫んだ。
「だったら……この指は?」
「パンドラの指か!」
長山は恐怖に後じさった。
「落ち着くんだ。冷静になれ」
塔馬は指を子細に点検した。
「どうしてトーマは触れるの」
蛍が怖々と指の隙間から覗いた。
「テラさん……よく見てくれ」
塔馬は指を寺岡の目の前にかざした。寺岡はウッとこらえた。
「こいつは本物かな」
「……?」
寺岡はキョトンとした。
「本物ならパンドラが埋めたはずもない。あの時に指はちゃんとついていたんだからさ」
「なるほど……」
寺岡は何度も頷いた。
「ここに医者はテラさんだけだ。確認してくれ。話はそれからだ」
寺岡は指を受け取った。突然の指の出現に動転していた寺岡も、塔馬に促され職業的な視線に戻った。
「目が弱くなってね」
寺岡は内ポケットから眼鏡を取り出すと指をあらためた。
「ふうむ。むずかしいな」
寺岡は口ごもった。
「本物のように思えるが……パンドラの指じゃないようだ」
「本物! 確かかい」
塔馬ははじめて声を荒げた。おもちゃだと信じていたのである。
「きちんと調べて見なきゃ、なんとも言えないが……男の指だな。しかも相当の歳だろう。女の指と見えたのは肉がついていないせいだ」
「なんでだよ! なんでパンドラがこんな薄気味悪いものを箱に入れたんだ。オレにゃ分からん」
推理小説を仕事にしているくせに長山の肩は大きく震えていた。
「パンドラとは限らんさ」
「………」
「だれかがタイムカプセルを掘りだして記事を足したのは確かだ。そのついでにパンドラの箱を取り替えたということも考えられる」
「冗談じゃないぜ。それならどうしてその犯人にパンドラの箱が分かったんだ。オレなんざ自分の箱だって見分けがつかんと言うのに……」
「残っている箱の包装を調べて見よう。一度剥がした形跡はないかい」
塔馬の言葉を受けて築宮と吉秋が厳重に点検した。二人とも首を横に振る。塔馬は溜め息を吐いた。
「すると……パンドラが埋めた可能性もあるってことか」
「そんなの当たり前だわ」
亜里沙が断言した。
「指はともかく、指輪がハンコのものであるのは確かなのよ。別の人間が後から埋めたなら、指輪を手に入れることができないじゃない」
「どうして?」
長山は興味を抱いたようだった。
「だってハンコは行方不明だもの」
「おまえさん、ミステリーを読んでないと見えるな。指輪なんか簡単に手に入るさ。後から埋めた人間がパンドラを殺した犯人ならな」
「ハンコが殺された!」
亜里沙は泣きそうな顔をした。
「トーマだってとっくに思いついているぜ。違うかい?」
塔馬は暗い顔で認めた。
「はじめは冗談だと思っていたが、他の箱に剥がした形跡がないとなれば……事態は変わってくる。と言って、まだ悪戯じゃないとも断言できない。もしだれかがやったのなら今のうちに言ってくれないか」
「悪戯じゃねえって。変な言い方になるがな、こんな悪質なアイデアはオレ以外に思いつかんよ。そのオレが違うと言ってるんだ」
長山が自嘲《じちよう》めいた口調で言った。
「想像できることは二つある」
塔馬は頭の中を整理した。
「一つはパンドラ自身がなにかの意図を持って埋めたことだ。彼女の性格……ってほどオレは知らないが、ただの悪戯でこんなものを埋めたとは絶対に思えない。とすれば目的があったはずだ。今のところ、それは彼女の失踪と重大な関わりがあると見て間違いないだろう。つまりダイイング・メッセージの類いだよ」
何人かが同意した。
「次は、だれかによってパンドラが殺され、箱がすり替えられたという可能性だ」
「箱はどうやって識別した?」
長山が追及する。
「我々が自分の箱にさえ自信を持てないのは十七年の歳月のせいだ。これがカプセルを埋めて五、六年以内であれば記憶も衰えていない。最初から犯人にパンドラを殺す計画があったとすれば、彼女の箱に目をつけていて当然だろう。特にパンドラの箱はサイコロのように目立つ。識別も楽だったんじゃないかな」
長山は唸った。その通りだ。パンドラの失踪はカプセルを埋めて五年以内のことである。その時に殺されていれば有り得る。
「しかし……犯人なら、こんな歴然とした証拠は残さんだろう。いったいなんの得があるってんだ」
塔馬も素直にそれを認めた。
「結局、最初のダイイング・メッセージに落ち着きそうだ」
塔馬は指から指輪を外した。パンドラはこの指輪を残してなにを我々に伝えたかったのか?
亜里沙が側で嗚咽《おえつ》をこらえた。
「ダイイング・メッセージか。面白くなってきたが……果たしてあのパンドラにそんな洒落《しやれ》っ気があったのかね。もし本当に殺される予感でもあれば、ストレートに日記でも残しそうなタイプだぜ。それほど気の利いた女じゃなかった」
長山はまだ疑わしい目だった。
「第一、探偵役はだれなんだ」
「………」
「残すには、それなりの効果ってものを考えなきゃいかんだろうさ。英語の読めない人間に英語のメッセージを託しても意味がない。この指輪もおなじだ。間違いなくダイイング・メッセージだとしたら、パンドラも埋める際に、必ずだれかが謎《なぞ》を解いてくれると信じていたってことだろ。だれも解けないメッセージなんて埋める気にもならんよ。確かにオレはミステリーを商売にしてるし、噂じゃトーマも事件をいくつか解決してるようだ。探偵役には困らんがな。しかしそれは今の話だ。あの時点でパンドラにそれが予測できるはずもない。これが推理《ミステリー》研究会かなにかの仲間なら分からんが──オレたちゃヒマ潰しの喫茶店研究会だ。そもそもパンドラとミステリーの話なんか一度もした記憶がねえぜ。『二十歳の原点』とか武者小路実篤の人生論なんかがお得意だったんじゃなかったか? そんな娘がダイイング・メッセージを残しますかね」
「でも……干涸びた指付きの指輪なのよ。どんな鈍感な人間だって凶悪な事件を連想するわ。推理なんて特に必要がないじゃないの」
亜里沙が反論した。
「いや。一理ある」
塔馬は下唇を噛んで頷いた。
「これは、だれかに解いてもらおうと考えて埋めたんじゃなくて、もっと単純な発想かも知れない」
「単純って、悪戯?」
蛍も落ち着きを取り戻した。
「恨みか告発が目的と言うことも」
「どういう意味」
「トパーズはパンドラの誕生石だって言ったね」
亜里沙に塔馬は訊ねた。
「こいつはパンドラが買った指輪なのかい。その辺は覚えてないか」
「そこまでは記憶がないけど、誕生石って普通は恋人からプレゼントされるんじゃないの。だから自慢してたんじゃなかったかしら」
塔馬も首を振った。
「つまり、仲間のだれかがパンドラにこの指輪を贈ったことも充分に考えられるわけだ」
亜里沙はアッと息を呑んだ。
「それを埋めるってことは、二人の関係が終わったという意味だろう。しかも、こういう形で暴露するからには、相当の恨みも含まれている。単なる失恋の嫌がらせにしては度を越している。他の人間には理由が分からなくても、贈った当人には直ぐに分かるような悪意が含まれた指輪かも知れないじゃないか」
亜里沙は不気味さを覚えた。それが事実なら今この場にいる男たちの中に指輪を贈った当人がいるのだ。なのに、それぞれの顔には動揺がまったく見られない。
「付き合っていたのが仲間のだれかとは限らないんじゃない」
おなじ不気味さを抱いたらしく蛍が塔馬に向かって口を尖《とが》らせた。
「だったら、当人に直接送り届ければいいはずだ。わざわざタイムカプセルに埋めたからには、見せたい相手が仲間の中にいるってことさ」
「正解だな。ダイイング・メッセージなんて陳腐な考えより、そっちの方が遥かにパンドラらしい。あいつは生真面目な性格だっただけに、裏切られたり傷つけられれば思い詰める性分かも知れんぜ」
長山は薄ら笑いを浮かべた。
「女ってのは残酷な動物だよ」
「まるで無関係な口振りだな」
寺岡が長山を厳しく見据えた。
「トーマが推理して、チョーサクがそれを認める。するとパンドラに指輪を贈った人間は残りの我々ってことになりそうだ。今の言い方はそういう風に聞こえたがね」
築宮も吉秋も憮然として頷いた。
「別に……相手がテラさんだと思っているわけじゃない」
「酷いですよ。それならオレかユータのどっちかという意味でしょ」
吉秋は詰め寄った。
「はっきりしてるのはオレじゃないってことだけ。それはオレ自身が一番良く知っている。あとは知らん。だれであろうと関心はないね。だいたい相手が男と決めつけるんだって早計ってもんだ。一応はレズの可能性だって疑って見たらどうだい」
長山はニヤニヤと笑いながら蛍と亜里沙を眺めた。
「本気で言ってるの!」
蛍が激しく肩を震わせた。
「なんでそんなにムキになる。冗談だよ。あんまりダイスケが騒ぐんでからかっただけのこった」
「………」
「その意味じゃトーマも怪しい。死体の第一発見者を疑ってかかるのは犯罪捜査の常識だ。それとおなじように、犯人がわざと探偵役を装う場合だってあるんだぜ」
塔馬は失笑した。いかにもミステリー作家らしい言い方だ。
「パンドラ殺しの証拠でもでたってんならともかく、失恋の恨み程度に埋めた指輪なら、その相手がだれであろうと興味はない。ましてや古い話じゃないか。違うかい」
「それは甘い見方だ」
塔馬は静かな口調で言った。
「現実にパンドラは失踪している。指輪一つだったら問題もないが、記事だってだれかに足し加えられているんだ。それをただの偶然とは片付けられないだろう。これには複雑な裏がある。情況的にはパンドラが殺されたと見てもおかしくない」
「けど、おまえさん、たった今指輪はダイイング・メッセージじゃないと言ったばかりだぜ」
「パンドラにとってはな」
「………」
「さっきオレは二種類の考え方ができると言った。パンドラ本人が指輪を埋めた場合。もう一つはだれかがあとでパンドラの箱をすり替えた場合だ。あとの方は、それが直接殺人に結びつく可能性も高い。一方、パンドラが埋めたとなれば……彼女の心理を想像するんだ。確かに殺される予感があったとしても、人間てヤツはそう簡単に自分が死ぬとは思っていない。今にも殺されそうな情況にあれば、タイムカプセルなんかに犯人の心当たりを残す前に、仲間に打ち明けたりして身を守る算段をするさ。タイムカプセルを選んだということは、漠然とした不安だったと見做していいんじゃないか」
長山も同意した。
「その状態では迂闊に犯人を名指しで告発できない。カプセルを開いた時にパンドラ本人が生きている可能性だってあるんだからな。そこで指輪を入れた。これなら自分が殺されなかった場合に言い繕《つくろ》うこともできるし、万が一の時には犯人の手掛かりにもなる」
「ふうむ。これまた正解だ。パンドラ自身にはダイイング・メッセージのつもりはなくても、結果的にはそれとおなじものになるってわけだ」
長山は腕を組んで、
「死体なき殺人の手掛かりがこの指輪に秘められているということか。笑っちゃいられねえな。その推測が正しけりゃ、この中に殺人犯がいるんじゃねえかよ」
それでも長山の表情にはまだ余裕が残されていた。蛍と亜里沙はくしゃくしゃに顔を歪《ゆが》めた。
「昔を懐かしむつもりが、とんだ集まりになっちまったぜ」
「警察に届けなくていいの?」
やがて亜里沙が口を開いた。
「警察? どうして」
塔馬は亜里沙を見詰めた。
「だって……ハンコが殺された可能性があるなら当然の義務じゃない」
亜里沙はもう一度指輪を眺めた。見慣れてしまったせいか、指輪の側に置かれた干涸びた指にもそれほどの怖さを感じなくなっていた。
「どう思う?」
塔馬は長山と寺岡に質した。二人は互いに見やって溜め息を吐いた。
「我々が殺人と主張しても、証拠が指輪と他人の指だけではどうかね。ましてや十七年前の話だ。報告するのは構わんが、警察に痛くもない腹を探られるのはたまらんな」
寺岡は小さく首を振りながら、
「それに、この指だが……どうやら切断されたものじゃないようだ。関節の部分で折られている」
「と言うことは?」
「生きている人間の指を折るってのは相当難儀な仕事だ。もしパンドラが本当にこの箱を埋めたとしたら、恐らく死体からもぎ取ったものだろうな。それも、かなりもぎ取りやすい状態の死体からだ」
「つまり腐りかけた死体だと?」
長山は吐きそうな顔で言った。寺岡は冷静な目で頷いた。
「なら、ハンコじゃないわ」
亜里沙は断言した。
「ハンコはあの時まだ二十一よ。そんな女の子が腐乱死体から指をもぎ取れると思う?」
全員が押し黙った。確かに亜里沙の言う通りだ。自分たちが四十前後の歳になったので動揺も少なくなったが、とても若い女性にはできそうもない行動である。
「しかし……臆病でもなかった」
長山が記憶を辿って言った。
「いつかお化け屋敷に皆で行ったことがあったろ。パンドラは平気な顔で晒《さら》し首を眺めていたぜ」
「それとこれとは別よ」
「まあ……そうだろうな」
長山もあっさりと認めた。
「どっちにしろ……」
寺岡は話を戻した。
「トーマの推理に水を差すつもりはないが、だれかがあとから埋めたとしても指が直ぐに犯罪と結びつくとは限らんさ。そもそも、この指だって人間のものかどうか。猿の指ということだって考えられる」
「テラさんにも識別が?」
「たとえば、だよ。オレには人間の指にしか見えんのだが。獣医じゃないんで、猿の骨がどんなものか知らんのだ。それでもソックリだろうと想像はつく。警察に届けてから猿だと分かれば笑われるのがオチだ」
「猿か……なるほど」
長山は指を手に持って点検した。
「届けるのは、もう少し様子を見てからでも遅くはないだろう。どのみち十七年も埋まっていたんだ。今さら二、三日の遅れは……」
「確かに、どうって問題じゃない」
干涸びた指の臭いを嗅ぎながら長山も賛成した。
「これが新聞記者にでも洩れれば大騒ぎになるんだろうな」
吉秋が蛍と長山を順に眺めた。
「オケイとチョーサクさんが事件にからんでいるんだから」
「オレはそれほど有名じゃねえよ」
長山は笑って指をテーブルに戻すと手を洗いに立った。洗面所とトイレは外の廊下の端にある。だれもが無意識に長山を目で追った。
4
「なんだか気力を失ったわ」
亜里沙が目の前にある小箱を一つ手に取った。三つは開いたが、残りの五個がそのままになっている。
「ずいぶん軽いけど、だれの?」
ぼんやりとした顔で訊ねた。
「そいつはオレのだろう」
濡れた手をズボンに擦りつけながら長山が戻ってきた。
「思い出したよ。くだらんものだ」
長山は箱を取り上げると乱暴に包装を破った。蓋を開ける。軽いはずだ。中からでてきたのは黒いガーターとシーム入りのストッキングだった。女二人は呆れた顔をした。
「なによ、これ。付き合っていた彼女の思い出の品ってわけ?」
露骨に亜里沙は眉をしかめる。
「悪趣味すぎるんじゃない」
「よく見てくれ。新品だぜ」
長山は珍しく照れていた。
「オレの予想じゃ、相当貴重なものになるはずだった。時代を読む力に欠けていたんだな。まったく恥を掻きにきたようなもんだ」
「どうしてこれが貴重なの」
蛍が嘲笑した。こんなものはどこの田舎にも転がっている。
「パンティストッキングが席巻《せつけん》して世の中からこういう優雅な靴下が消えてなくなるとマジに憂えてさ」
いかにも長山らしい選択だ。塔馬はストッキングを抓《つま》んだ。
パンティストッキングが日本で売られだしたのは昭和四十三年。発売当初は贅沢《ぜいたく》品で、値段も四百円した。カラーテレビの放送受信料が四百六十五円。岩波文庫の星一つが五十円。風呂料金は大人三十五円。コーヒーが八十円で飲めた時代の四百円である。それなのにこの商品は大ヒットした。これにはミニスカートの流行も与《あず》かっている。短いスカートからガーターが覗いては恰好が悪い。今に日本はパンスト一色になると長山が予測したのも無理はないのだ。最近になって六〇年代ブームが起こったり、レトロ趣味の影響で古い形式のストッキングが脚光を浴びるなどとは、だれも想像できなかったに違いない。
「タイムカプセルを開いた時期がまずかった。あと三十年も経てば確実に貴重品だぜ。あるいは何十万という値がつくことだって」
悔しそうに長山が呟いた。
「あの頃のパンストって丈夫だったわ。滅多に破れなかったもの」
亜里沙は思い出した。
「私なんか大事に穿《は》いてさ……片方が伝線しても捨てないで取って置いたの。そのうち反対側に伝線が起きる場合もあるじゃない。そうすると駄目な脚を片方ずつ鋏《はさみ》で切り取って二枚のパンストを重ねて穿くの。外からは絶対に分からないわ」
「へえ。鎌倉夫人にもそういう涙ぐましい青春があったとはな。確かに外からは見分けもつかんだろうが、そんな女の子を抱いたら悲しくなるぜ。たすきがけのようなパンストを二枚も脱がせているうちに、自分たちの貧しさを厭と言うほど思い知らされるみたいな気分になってさ」
「やめてよ。なんだか想像して背筋が寒くなった」
「そういうことはなかったのか」
「ありません。もし、そういうことがありそうな時は、ちゃんと新しいパンストを用意するわよ。チョーサクに心配してもらうまでもなくね」
「不意をつかれることもある」
「まったく……変態じゃないの」
「当たりだ。オレは文体には苦労するが変態には困った経験がない」
亜里沙も苦笑した。
「やっぱり日本はそれだけ豊かになったんだ。今の今までリサはいいとこのお嬢だと信じていたからな。それがパンストの重ね穿きときた。まったく泣けてくるよ。今の若い女どもに聞かせてやりたい話だ。大学に通ってロクな英語もできねえくせして、遊んでばかりいやがる。オヤジたちが少ない小遣いで苦労してるってのに、なんであいつらには外国に行く金があるんだ。オレなんかエッフェル塔も見たことがねえんだぞ」
「そんな歳になったの」
蛍は意外だという顔をした。
「チョーサクだって、いい加減な学生に見えたわ」
「それでも本は読んでたさ。少なくとも漫画で資本論は読まんよ」
軽いやりとりを聞きながら塔馬は苛立ちを覚えた。なぜかだれもが現実から目を逸《そ》らそうとしている。目の前には殺人を示唆《しさ》する指と指輪が転がっているというのに。面倒に巻き込まれたくない気持も分かるが、あまりにも不自然だ。十七年という歳月がそうさせるのだろうか。死体がないのも原因かも知れない。
〈それとも……〉
掘り出せば、互いに触れられたくない過去が露呈するのか。
「もう遊びの時間は終わったよ」
塔馬は長山を制した。
「リサ。さっきの記事を全部机の上に広げてくれ。殺人の手掛かりはそこにも必ず隠されているはずだ」
「記事なんかより箱の方が先だわ。まだ半分も残ってるじゃない」
塔馬に促されて新聞記事をテーブルに広げようとした亜里沙の腕を、蛍が掴《つか》んで押しとどめた。
「そうだな。慌てなくたって記事はどこにも逃げていかん」
長山も同調した。せっかく自分の埋めたストッキングから話が弾んでいたところを塔馬に中断されて少し機嫌が悪くなっている。
「パンドラ殺しの証拠らしき指輪がでてきたってのに不見識だと言いたい素振りだが……と言って沈んでばかりもいられんよ。昨日今日の事件じゃねえんだぜ。昔を思い出して笑ってもバチは当たるめえよ」
わざと乱暴な口調で言う。
亜里沙は戸惑った様子で塔馬を見詰める。塔馬も仕方なく頷いた。
「よし。こいつはだれだい?」
長山が手帳程度の平たい箱を取り上げて訊ねた。開けていないのは亜里沙、築宮、寺岡、そして塔馬の四人。長山は順に見渡す。
築宮が手を伸ばして紙を破いた。
「案外面白いと思うんだ」
蓋を開けながら築宮は得意げに笑った。まだ紙に包まれている。
「写真の束みたいだな」
薄い紙を通して微かに色が透けていた。長山は上から覗きこんで、
「コレクションの外国ポルノじゃねえのか。それなら見飽きた」
「ユータの趣味だったの!」
亜里沙は厭な顔をした。
「まさか。チョーサクさんの冗談に決まってるだろ。第一、そんな写真ならもったいなくて」
自分からボロをだした。全員がドッと噴きだした。中から現われたのはごく普通の部屋の写真だった。おなじ部屋を角度を変えて写したものが二枚ずつ。それも八組十六枚。亜里沙は首を傾げながら手に取った。
「あら……これ、オケイのアパートじゃない?」
蛍がギョッとして取り上げた。
「なんだ。こっちは私の部屋だ」
亜里沙は甲高い声で笑った。
「なら……もしかして、あの当時の仲間の部屋ってわけ?」
築宮はしたり顔で首を振った。
「いやだ。チョーサクのヌードよ」
亜里沙が一枚を長山に示した。四畳半の汚い部屋の中央に万年床が敷かれてある。その真ん中にパンツ一枚の長山が胡座《あぐら》を掻きカメラに向けて愛嬌を振り撒《ま》いている。布団の側にはアルミ鍋が一つ。箸の入っているところを見ると、インスタントラーメンでも啜《すす》っていたのだろう。
「こんなのは記憶にねえぞ」
長山はしきりに首を捻った。
「わざと焼き増ししなかったから、きっとそのせいじゃないですか」
「すると、タイムカプセルに埋めるために撮って歩いたってわけか」
「皆を脅かすつもりだったんで、たいていは盗み撮りしたけど、チョーサクさんの場合はスキがなかったんだろうな。だから余計な裸まで写してしまった」
「よく言うぜ。しかし、こいつは凡人のユータにしちゃ秀逸なアイデアだ。そう言えばユータの趣味はカメラだったっけ」
長山は築宮の頭をこづくと懐かしそうに写真に見入った。
「オレも貧しい生活だったよ。この鍋一つで煮炊きしていたもんな」
「でも……ユータって、私の家に遊びにきたことがあった?」
自分の部屋の写真を眺めながら亜里沙は不思議そうな顔をした。
「皆で江ノ島に行ったことがある。確か帰りに寄ったんじゃなかったかね。オレもぼんやり覚えてる」
長山が代わりに答えた。
「あの時に? だって、あれは夏の話よ。カプセルを埋める半年以上も前のことじゃない」
築宮もウンウンと頷いた。
「呆れるわね。用意周到なんだ」
「まさか……一番厄介なリサの部屋の写真があったんで思いついたアイデアさ。他の仲間の部屋なら四、五日で撮影してまわれる」
「だったら、どうして私の部屋の写真なんか盗み撮りしたのよ」
「単純に都会の女の子の部屋に憧《あこが》れていたんだ。リサは鎌倉育ちだろ」
「へえ。ユータはリサに惚れていたってわけか」
築宮は長山に言われて照れた。
「まったく、次から次と怪しい人間関係が浮かび上がってくるな。ユータが惚れていたなんて今の今まで知らなかったぜ」
「そんなんじゃありませんよ」
築宮は必死に弁解した。
「ハンコがいるわ」
ひたすら写真を眺めていた蛍が複雑な顔をして一枚を机に置いた。
簡単な流しのついた六畳の部屋に四人の男女がテーブルを囲んで並んでいる。背後には花柄のカーテンが引かれ、一見華やいだ雰囲気だが、飾りらしきものはそれだけで、他は意外にシンプルな家具ばかりだ。右手に半分ほど写っている勉強机も木目の印刷されたスティール製。本箱も組み立て式の簡便なものだ。誕生日のパーティでもしているのか、テーブルには蝋燭《ろうそく》の立てられたケーキが置かれている。
「これも知らん写真だ」
長山が写真をじっと見詰めた。写っているのは、右から吉秋、蛍、パンドラ、そして亜里沙。
「同級生と女だけが集まった会だった。一応はチョーサクさんたちにも声をかけたと思ったけどな」
吉秋が説明を加えた。
「カプセルを埋める少し前でした。パンドラは十一月生まれなんで」
「パンドラの部屋か」
長山は本箱の本を点検した。棚の隙間が空いた部分には、ぬいぐるみや花が飾られてある。辞典や教科書を除けばめぼしいものがない。直ぐに興味を失って頭を上げる。
「見て! この指輪よ」
亜里沙がパンドラの指に光るトパーズを見つけた。塔馬も凝視する。
「平和そうな顔をしている」
こうしてあらためて見ると幼い顔立ちだ。常に感じていた暗さは微塵も見当たらない。このわずか一、二カ月後に死を予感させるなにかが彼女に起きたのだ。
「パンドラよりもトーマの部屋はないか。下北沢の幽霊アパート」
長山の言葉に全員が笑い転げた。別に本物の幽霊がでたわけではないが、ミイラにソックリの痩せこけた管理人がいたのだ。もとは普通の家だったのを戦後になってアパートに改造したせいで、塔馬の部屋には大きなペチカがそのまま据えられていた。が、もちろん形だけで使えるものではなかった。
「贅沢な部屋だったぜ。十畳なのに家賃はオレの部屋と大差なかった」
「だけどボロボロだったよ。基礎が悪くて床も斜めになっていた」
塔馬の手に蛍が捜して渡す。
「そう。この部屋だ。広いベランダまであった。思えば今のアパートよりもずうっと好きなところだった」
「今もあるのかな、このアパート」
亜里沙が覗きこんで訊ねた。
「とっくに取り壊されただろうな。引っ越し以来行っていない」
「何年前の話?」
「もう十年も昔さ」
大学に入ったのを切っ掛けに家から離れてのアパート暮らし。足掛け十年以上も住んでいた部屋なのに写真は一枚もない。
「皆さんに差し上げます。いい記念になったでしょう」
「あの頃の写真は結構あるのか?」
長山が築宮に質《ただ》した。
「あったら、あとで焼き増ししてくれ。オレはほとんど持ってない」
「本かなにかに使うんですか」
「記憶の手掛かりさ。マジにあの頃をテーマにした青春ミステリーを書こうと思ってるんだ」
「チョーサクの目で見られた私たちって、ちょっとゾッとするわね。そもそもチョーサクって、青春なんて爽《さわ》やかな言葉からはほど遠い生活をしていたんじゃなかった」
「ちゃんと『ドンク』のフランスパンだって食ったさ。『ジロー』のピッツァもな」
その言い方が唐突で亜里沙は腹を抱えた。蛍も笑いをこらえる。
「思い出したわ。ワリカンで行こうと言ったら、嫌いだって言っていたくせにラージを二枚も食べたのよ」
さすがに長山も笑った。
「あの頃はピッツァなんて主食に思えなくてね。ケーキと一緒で、女子供の食うもんだとバカにしていた」
「案外可愛い子供だったのよ。妙にマセた、厭なヤツに見えたけど」
亜里沙は微笑《ほほえ》んだ。
「次はだれだい?」
ずうっと話に耳を傾けていた寺岡が箱を持ち上げて左右に振った。八つの箱の中では一番大きくて重い。
「それは私のだわ、きっと」
亜里沙がクスッと肩をすくめた。
「他になにを入れたか覚えてないけど、クラブの日誌がメインなの」
「日誌? 茶研のか」
長山の目が光った。
「そんなのが残ってるとはありがたいね。オレもずいぶん書いたぜ」
「本物じゃないの。日誌はハンコに譲って卒業したじゃない」
「そうか……ってことは」
「大学祭で研究発表をしたでしょ。その時ついでに小さな雑誌を作ったのを覚えてないかな。私が日誌を中心に纏《まと》めたんだけど」
「ああ、あった、あった」
「私にとっては記念すべき最初の雑誌。ガリ版だったけど今でもあの時の苦労が目に浮かぶわ」
亜里沙は包装紙を丁寧に剥がしながら嬉しそうな顔で言った。
「タイムカプセルの話がでたとき、真っ先に決めたの。ただ、それだけじゃ詰まらないから、冬休み前の最後の会合があった帰りに、目についたものを片端《かたつぱし》から集めて記憶にとどめようとしたんだわ、確か」
「ほう。路上観察のハシリだな。やっぱりリサには編集者の素質があったんだぜ。見直したよ」
蓋が開けられた。
いきなり銀杏の枯れ葉が三、四枚でてきた。大学の正門前に散っていたものだと言う。それと学生食堂のA定食の食券。額面は百二十円となっている。他に三十円の国電入場券。新宿ミラノ座の半券。七百円だから、これはそれほど安くない料金だ。一緒に入っているチラシには「アニメラマ・クレオパトラ」とある。
「これ手塚治虫だったよね」
築宮と吉秋がチラシに見入った。
「本格的な大人のアニメってずいぶん騒がれたもんだけど……すっかり忘れていた、昭和四十五年の暮れだったんだ。もう十七年も前か」
「私も観に行ったわ。だったら『イージー・ライダー』もこの頃じゃない? 掛け持ちで見歩いた記憶があるの。リサとじゃなかった?」
蛍の言葉に亜里沙は頷いた。
「こちとら、もっぱら健さんの『昭和残侠伝』の口だった。池袋の名画座の深夜興行が懐かしいよ。ずいぶん明け方に酒を飲んだぜ。そのまま眠る気分になれなくてな。トーマと誘い合ってよくでかけたもんさ」
「トーマも? 意外ね」
「でもないだろ。あの頃の学生はほとんどそうだった」
「ぼくらも誘われて付き合った。池部良や江原真二郎も良かったな。スクリーンに向かって客席から声が掛かるんだもの。あんな凄い経験はもうできないね。イケベッとかさ」
吉秋もノッてきた。
「弁当を持ち込んだり、ウィスキーを飲みながらだろ。なんであんなことができたんだろう。タイトルがでたり、健さんの名前がでるだけでドウッと拍手が起きるんだぜ」
「花田秀次郎!」
「そうそう。花田秀次郎だ。さすがにチョーサクさんは良く覚えてる」
「死んで貰います、って言葉も流行《はや》ったな。橋本治が東大駒場祭で『とめてくれるなおっかさん』のポスターを描いたのもその頃だ」
「熱気はありましたよね」
少し淋しそうな口調で吉秋は言った。歳を取るのは仕方がないにしても、体力以外の部分で情熱が失われている自分に気づいたらしい。
「そいつはダイスケだけの問題だろうさ。オレは今でも唐獅子牡丹を背負っている気分で生きてるぜ。団塊の世代って簡単に一括《ひとくく》りにされちまうがな、オレは背中に唐獅子を背負っているヤツしか信用してねえ。バンジャケとかトラッドなんぞにうつつを抜かしていたふぬけなんぞは仲間だなんて思ってねえんだ」
乱暴な括り方を長山はする。
「皆、辛くて悲しかったんだよ。それでも、|いつか夜明けがくるそれまでは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、って耐えていたんだ。それがこの程度の世の中でしかねえなんて冗談じゃねえぞ」
「でも……一応は成功したじゃないの。チョーサクが言うのはおかしいと思うけどな。我《わ》が儘《まま》よ」
亜里沙に蛍も頷いた。
「映画も小説も終わっちまったんだよ。ヒマ潰しかガキ相手のものになり下がっちまった。ミステリーを書いてるオレが言うのはいかにも筋違いかも知れんがな。近頃じゃ澁澤龍彦のような天才が死んだって週刊誌は特集一つ組まん。なのにスターの結婚式は視聴率が五十パーセント近くだとよ。いつの間にかそういう時代になったのさ」
「結構真面目に考えていたんだ。その割に小説には生かされてないわ」
長山は苦笑しながら、
「まあ、客商売のつらいところだ」
言い過ぎたと思ったのか話を切り上げて亜里沙の箱の中を探った。
「どれ、雑誌を拝見といくか」
茶色い表紙には亜里沙の丸い字体で「アフター・ティ」とあった。あの頃ではこの程度のタイトルでも気取っているように見られたものだ。
「ほう。意外と頑張って編集してあるな。喫茶店研究会なんてくだらんことをやったもんだと思ってたが、こうして見直すとどうして立派なもんだぜ。トーマの書いてるチョコパフェの研究なんて今の時代の方がウケるんじゃねえかね」
「そんなものが載ってるのかい」
塔馬は珍しく頬を赤らめた。
「モノトーンの美意識を中心に論じているよ。やっぱり浮世絵の研究者になるヤツは違うわな。オレなんざトイレの落書きの考察だもんね」
「そっちの方がそれらしい」
塔馬は頷いた。それなりに長山も筋が通っていたのだ。人間観察の根源を見抜いている。
「テラさんは書かなかったっけ」
長山はページを捲《めく》った。論文はその二つだけで、あとは茶研の日誌からの抜粋が続いている。どこの店のモーニングサービスが安くて旨いとか、新宿の深夜喫茶の地図だとか、ほとんどがどうでもいい内容だ。今なら風俗資料として貴重な部分もあるが、よくまあ飽きずに一年以上もクラブを続けていたものだ。
「長すぎて割愛したのよ。テラさんの論文って確か五十枚以上もあったもの。それも凄い不気味な内容」
亜里沙が記憶を手繰った。
「コーヒーの媚薬《びやく》としての効用と売春宿について論じたんじゃなかった? イギリスの初期のコーヒー店の考察だったと思ったけどな。あんまりむずかしすぎたんで今でも印象にあるわ」
「ほとんど出鱈目《でたらめ》さ。論文と言っても向こうの文献をそのまま訳して短く纏めたものにすぎん」
寺岡はもちろん覚えていた。
「媚薬か。面白そうな内容じゃねえか。さすがリーダーの面目発揮ってとこだ。それにしても聖人のテラさんが売春宿に関心を持っていたとは思わなかった。若い女の死体写真なら見せられた記憶があるけどな」
長山はニヤニヤと笑った。
「あれは解剖学の教科書だ。本箱にあったのをチョーサクが勝手に持ち出したんだ。妙な言い方をするな」
寺岡は不愉快そうに睨むと、
「医者なら当たり前のことだろ」
蛍と亜里沙に向かって弁解した。
「皆そんなことは分かっているさ。聖人にゃ冗談も通じやしない」
長山は笑って日誌に目を戻した。寺岡の頬が微かに引きつっているのを塔馬は見逃さなかった。
「すると、これはどっちの?」
一つを持ち上げて亜里沙が塔馬と寺岡の両方に訊ねた。
「悪いがオレはまったく覚えていないんだよ。なんでかな」
塔馬が苦笑しながら言った。
「乗り気じゃなかったもの。適当に選んだんじゃない?」
塔馬も頷いた。あの頃は卒業後の進路も決まらず、のんびりと遊びを楽しむ気分ではなかった。
「テラさんはどう」
亜里沙は箱を手渡した。重さを確認して寺岡は首を横に振った。
「じゃ、トーマの箱だ」
勝手に亜里沙が包みを破いた。
中からは一冊の分厚いマンガ本が現われた。ヘエと歓声が上がる。
「白土三平の『カムイ伝』か」
吉秋が嬉しそうな顔をして新書判の本を手に取った。『ガロ』に十年以上も連載された長い作品なので、もちろん全部は埋められない。
「トーマにカムイ伝とは、こりゃまた面白い取り合わせだ」
長山も雑誌から目を離して言う。
「まさにオレたちの世代を象徴するマンガだったよな。『あしたのジョー』じゃないってとこが、いかにもトーマらしい。オレなら力石徹との死闘が掲載されているヤツを安易に選んじまっただろう。それともジョージ秋山の『アシュラ』とか『銭ゲバ』ってのもウケるな。いや『デロリンマン』なんかの方が哲学的かもしれん。妙に考えちまって『カムイ伝』は咄嗟にでてきやしないぜ」
「そんなんじゃない。埋めたオレが忘れていたんだ。きっと埋める直前にでも読んでいた本だろう」
塔馬は言いながら思い出した。東京から白湯温泉までの退屈しのぎに上野の駅前の書店で買ったのだ。タイムカプセルなどだれも本気で考えていないだろうと、なにも用意をしてこなかったので、仕方なく読み終えた本を急場|凌《しの》ぎに箱へ詰めた。それでは記憶に残るはずもない。自分だけがなんといい加減だったのか、と塔馬は反省した。
「トーマがマンガをね……」
蛍が吉秋から渡されてパラパラとページを捲った。
「別に不思議でもないさ。あの頃は第何次かのマンガ黄金時代だぜ。大学生が電車の中でマンガを見ているって批判されたり、永井豪の『ハレンチ学園』が猥褻《わいせつ》だって騒がれたりな。オケイだって『少女フレンド』や『マーガレット』に夢中だったじゃねえか。わたなべまさこの『ガラスの城』とか大島弓子とかさ」
「よく覚えているわね」
蛍も首を何度も振った。
「喫茶店研究会なんて裏返せばマンガ研究会みたいなもんだ。どこの喫茶店にもマガジンやサンデーが置いてあった。水、木の発売日を待ち兼ねるようにして通ったな」
昭和四十三年から四十四年にかけてマンガ雑誌は空前の発刊ラッシュを迎えた。マガジン、サンデー、キング、フレンド、マーガレットという先行の五大誌に加えて四十三年にはジャンプ、ビッグコミック、プレイコミック、少女コミック、セブンティーンが創刊され、翌年はチャンピオン、ぼくらマガジンが戦列に参加した。ガロやCOM、ヤングコミック、漫画アクションもすでにあったから、これだけでも十六冊になる。それ以降、少年雑誌に関する限り発行部数は増大の傾向にあるとはいえ、種類そのものは減少を辿っているのだから、本当の黄金時代は四十年代にあったとも言えるだろう。マンガ史に残る傑作の大半がこの時期に集中している。
連載開始の順に挙げると石ノ森章太郎『サイボーグ009』白土三平『カムイ伝』(三十九年)ちばてつや『ハリスの旋風《かぜ》』(四十年)川崎のぼる『巨人の星』(四十一年)手塚治虫『火の鳥』と『どろろ』さいとう・たかを『無用ノ介』モンキーパンチ『ルパン三世』赤塚不二夫『天才バカボン』横山光輝『水滸伝』(四十二年)ちばてつや『あしたのジョー』つげ義春『ねじ式』辻なおき『タイガーマスク』本宮ひろし『男一匹ガキ大将』永井豪『ハレンチ学園』楳図かずお『猫目小僧』浦野千賀子『アタックNO1』(四十三年)滝田ゆう『寺島町奇譚』水野英子『ファイヤー!』ジョージ秋山『デロリンマン』さいとう・たかを『ゴルゴ13』望月三起也『ワイルド7』わたなべまさこ『ガラスの城』真崎守『はみだし野郎の子守唄』(四十四年)手塚治虫『きりひと讃歌』藤子不二雄『ドラえもん』林静一『赤色エレジー』影丸譲也『ワル』水島新司『男どアホウ甲子園』ジョージ秋山『アシュラ』と『銭ゲバ』篠原とおる『さそり』吉沢やすみ『ド根性ガエル』バロン吉元『柔侠伝』小島剛夕『子連れ狼』神田たけし『御用牙』古谷三敏『ダメおやじ』(四十五年)聖悠紀『超人ロック』松本零士『男おいどん』山岸凉子『アラベスク』(四十六年)
マンガ界を代表する大家たちの傑作がほとんどこの時期に含まれてしまう。特に四十五年は凄い。『カムイ伝』『巨人の星』『あしたのジョー』『男一匹ガキ大将』『ゴルゴ13』『ワイルド7』の連載人気はピークに達し、新たに『柔侠伝』『子連れ狼』『御用牙』がはじまった。若者たちは毎週熱い思いで発売を待っていたのだ。
「考えてみりゃ……結構大人のマンガだったよな。だからオレたちも熱中できたんだが」
長山は幾つか数え挙げた。
「『デロリンマン』って、なんだったんですかね。今も分からない」
吉秋が長山に訊ねた。
「ありゃあザ・ロンリー・マンを幼児的に言い換えたもんだと解釈してるがね。孤独な男って意味だろ。奇妙に明るくて不気味だった『パットマンX』の老後さ」
長山の答えに吉秋は唸った。
「オレ……はじめてチョーサクさんを尊敬しました。そうか。パットマンの老後だったんだ」
「よせよ。その程度で尊敬されてたんじゃたまらんぜ」
「そうよ。チョーサクはいつも単純な思い付きで言うんだから」
亜里沙が半畳を入れた。
「でも、ザ・ロンリー・マンって、いいじゃない。人間って結局一人なんだもの。ようやく私もそれが分かる年齢になったわ」
「今頃かね。そりゃ幸せだ」
蛍の言葉に長山は笑った。
「まあ、分からんヤツに較べりゃ大進歩だ。真理を見極めるのに早い遅いの差はないってことだな」
蛍は少しムッとした。
「別に悪気じゃない。心底|羨《うらや》ましいと思っただけだよ。パンドラは恐らくこのタイムカプセルを埋める時点でそれが分かっていたと思うぜ。それで幸せかって言えば逆だろう。間違いのない真理でも、気付かずに過ごせる方が幸福という場合が世の中にはままある。女に嫌われた理由を根掘り葉掘り聞き出そうとするバカもいるが、オレはフラれた時点ですべてを忘れる。自分を苛《いじ》めるのは原稿の上だけでたくさんだ」
「それで懲りないんだ。反省がないんだから当然だわ」
亜里沙に長山はアハハと笑って、
「諸行無常。そう言って欲しいね」
また吉秋は感心した。
「どうやら雪になりそうだ」
話に加わらず窓の外を眺めていた寺岡が呟いた。先ほどまで雲一つなかった空が膠《にかわ》を混ぜたような重い鈍色《にびいろ》に変わっている。沼の縁からカプセルを掘り出して、もう二時間以上が過ぎていた。昔話に興奮して時間や空腹も忘れていたらしい。
「コーヒーでも飲むか。帳場に頼んでくれ。どうせインスタントなら瓶ごと貰った方が簡単だな」
長山に促されて亜里沙が館内電話に手を伸ばした。
「お昼はどうする?」
「また食うのか。ついさっき済ませたばかりだろ」
長山は呆れた顔をした。
「だってそろそろ十二時よ」
「勝手にやってくれ。蕎麦《そば》ぐらいなら食ってやっても構わんが」
「体に悪いんじゃない。チョーサクは朝も食べていないんだし」
亜里沙は本気で心配した。
「それよりもメインエベントが残っている。テラさんがいったいなにを埋めたか。興味があるところだね」
亜里沙は頷いてコーヒーだけを頼むと席に戻った。
「トーマじゃないが、オレも忘れてしまったよ。確か本だと思ったが」
寺岡は最後の箱を手に持った。
「『青の時代』と『海と毒薬』か」
長山が出てきた本を覗きこんで読み上げた。三島由紀夫と遠藤周作のものだった。
「『海と毒薬』の方は九大医学部の生体解剖を扱った小説だからテラさんが執着するのも分かるが……」
『青の時代』は分からん、と首を捻った。塔馬にも意外だった。
「オレにも分からんよ」
寺岡は苦笑した。
「確か光クラブ事件だったな」
長山は塔馬に確認してきた。
東大生でありながらヤミ金融『光クラブ』の社長だった山崎晃嗣が青酸カリ自殺を遂げたのは昭和二十四年十一月二十四日。学生社長のはしりであるとともに、見方によってはサラリーローンやペーパー商法のはしりでもある。彼には学徒出陣で敗戦を迎え、その時に上官の命令で行なった食料隠匿の罪を被り懲役一年の刑に服した経験がある。その為に東大への復学が遅れたが、法学部では最優秀の成績を挙げ、東大きっての天才と呼ばれたほどの頭脳の持ち主だった。それが数多《あまた》の就職口を蹴り、在学中に金融会社を設立したのである。資金は一万五千円。その資金全部を新聞広告に注ぎこみ大々的に融資者を募った。融資者には月に一割三分の利息を払い、貸し付けた金には二割から三割の利息を要求するのだから相当に無茶な話だが、彼の読みは見事に当たり、わずか四カ月もしないうちに銀座に進出、資本金六百万、株主四百名の大会社までに成長した。しかし、栄華は一年も保たなかった。利息制限法に引っ掛かり逮捕されたのだ。釈放はされたものの不安を覚えはじめた融資者たちに厳しい返済を迫られ、その支払い期限の前日に自殺を決行したのである。享年二十七。彼の頭脳と弁舌をもってすれば、いくらでも窮地を脱する方法があったにも関わらず、彼は自らの美学を貫いたのだ。書き続けていた日記の最後には遺書らしきものがあった。
──私の合理主義からは、契約は完全履行を強制されていると解すべきだ……契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうする──
負け惜しみとも思えない。責任逃れに死ぬのではなく、契約を破棄する最良の手段として自らを物体と化す。なんとも潔《いさぎよ》い言葉だ。彼には死の恐怖すらなかったのだろう。世間はそれまで彼をアプレ・ゲール世代の旗手と呼んでいたが、自殺の後はアキレケールと驚嘆した。ほとんど同世代だった三島は山崎の生き方に関心を抱き、彼を主人公にしたモデル小説『青の時代』を翌二十五年に発表して若者の支持を受けた。
「どこに共通点があるのかね」
長山は寺岡を見詰めた。
「よしてくれ。そんな深い意味なんてない。小説を読むのにいちいち理由が必要かい。三島はだれでも読んでいたじゃないか」
長山もあっさりと認めて、
「これが二重人格の『仮面の告白』とか男色を扱った『禁色《きんじき》』だったら深層心理が追求できたのに」
いかにも残念そうな口調で言う。全員が、またかという顔をした。
「トーマも好きだったはずだな」
「オレはだらしない読者だから……『美しい星』や『橋づくし』なんてのが好みだった。本当の愛読者とは言えないだろうさ」
「『美しい星』って例のUFO家族がでてくるヤツか」
まるで宇宙家族ロビンソンのような軽い表現に塔馬はむせた。
5
テーブルの上には十三枚の新聞記事のコピーが展《ひろ》げられている。箱を開けたときとは違って、それぞれの顔には小さな警戒の色があった。塔馬はしばらく全員を観察した。
〈なんでだ?〉
やはり記事には皆の暗い過去が被さっているのだろうか。タイムカプセルを掘り出す前に、選んだ記事を検討することによってパンドラの気持が分かる可能性があるなどと言ったのがまずかったのかも知れない。それはパンドラばかりか全員の記事にも言えることだ。若い頃は安易に選んだ記事でも、今となれば重荷になっていることも有り得る。
〈なまじ、記事が増えた分だけ躊躇《ちゆうちよ》しているんだ〉
これが八枚だけなら嘘をついても直ぐに発覚する。諦めて真実を告白しただろう。しかし目の前には五枚も余計な記事がある。いや、パンドラの分もあるから正確には六枚だ。七人のメンバーに十三枚。自分に不都合な記事を選んだ人間でも平気で別のものを主張できる枚数なのである。塔馬は一番最後に自分の記事を告げる決心をした。箱の中味に関しては忘れていたが、記事を一目見るなり思い出したのである。もし、他のだれかが、それを自分のものだと主張すれば、少なくともその人間だけは嘘をついていると断定できる。
が、その程度は皆も考えているようだった。迂闊《うかつ》なことを言ってボロをだしたくない人間が大勢いるということになりそうだ。塔馬はじりじりと待った。ここで自分が言えば場の空気も変わる。それが分かっていながらできない。
「しかし……よくまあこれだけ別々の記事が揃ったもんだ。てっきり三島事件とか三億円に集中していると思ったぜ。これじゃ事件のオンパレードじゃねえか。見直したよ。オレが思っていた以上に個性的な人々だったと言うわけですな」
茶化し気味の長山の言葉に誘われて笑いが戻った。塔馬もあらためて記事の見出しに目を通した。
長山の言うように記事はバラバラだ。タイムカプセルに埋めたのが昭和四十六年の正月だったのだから、記憶に新しい四十五年の記事が七つも入っているのは当然のことだ。
事件を、起きた年代順に掲げる。
ケネディ大統領暗殺(三十八年)
杉並の少年通り魔(三十九年)
金嬉老事件(四十三年)
三億円事件(同)
和田教授日本初の心臓移植(同)
アポロ月面着陸(四十四年)
渋谷のコインロッカーに嬰児《えいじ》を置き去り(四十五年)
大阪万国博覧会開催(同)
よど号ハイジャック(同)
瀬戸内シージャック(同)
ビートルズ解散(同)
「圭子の夢は夜ひらく」第一回歌謡大賞(同)
三島由紀夫事件(同)
「いかにもって思えるヤツと、まったくわけの分からんものが同居しているぜ……それにしても四十五年はやたらと大事件が重なったときなんだな。翌年の正月に記事を埋めたのが偶然とは思えなくなってきた。やっぱり区切りのいい年は節目なのかね。ここにはないが、安田講堂の攻防ってのもこの年じゃなかったか」
長山がだれにともなく口にした。
「あれは前の年だろう。確かにあれが選ばれてないのは妙な感じだ」
塔馬が応じた。自分自身もテレビに釘付けになっていた記憶がある。
「それだけオレたちが政治に無関心だったということさ。情け無いぜ。喫茶店研究会の軟弱な体質がいみじくも暴露されたというとこだ」
長山は笑って皆を見渡すと、
「こうして眺めていても時間の無駄だ。おまえからゲロしちまえ」
いきなり吉秋を指名した。
「えっ。オレからですか」
吉秋の口許まで運んでいたカップが震えてコーヒーが零《こぼ》れた。
「遠慮しますよ。笑われる」
「じゃあこっちが当ててやる。それも面白いな。どうせ全員が正直に告白するとは限らんわけだし」
長山は意地悪げに仲間を見回すと最後に塔馬を見詰めた。
「今でもパンドラの選んだ記事が事件の鍵を握っていると思っているのか? もっともどんな事件かは分からんがな。殺人の可能性だって塔馬の想像に過ぎんぜ」
塔馬は慎重に頷いた。なぜ長山が突然こんなことを言いだしたのか真意が掴めない。
「オレは得意なんだよ。もともと人間の底に蠢《うごめ》く悪意ってヤツを暴きたてるのが好きでな。それでメシを食っているようなもんだ。だから興味があるのさ。すんなり白状してくれるなら問題はないが、どうやら皆さんは脛《すね》に傷持つ人ばかりらしい。まったく意外だよ。さっきまでは笑っていたが、今は本気だ。言いたくないのならオレが推理してやるさ。商売柄ってヤツだ」
「コロコロ変わるわね」
亜里沙が冷たく言い放った。
「いい役じゃないの。他人の心をあれこれといじくって、自分だけは温かな部屋から一歩もでないつもりなんでしょ。当てにならない推理よりもチョーサクの告白が聞きたいわ」
蛍も大きく頷いた。
「じゃあ、おまえさんはどうだ」
亜里沙はウッと詰まった。
「おかしいとは思わんか? ここに並んでるのは、ごく普通の記事なんだぞ。別にどれを選んだからと言ってなんの問題もあるまい。トーマが欲しがっているのはパンドラの選んだ記事だけなんだ。本当にあいつが殺されたんなら犯人の手掛かりが隠されていることも有り得る。皆が正直に言えば十三枚の記事が六枚に減るんだよ。そうすりゃパンドラの記事の見当もつけやすい。それだけのことじゃねえか。なのに、おまえらはなにを躊躇《ためら》う」
「躊躇ってなんか……」
長山の剣幕に吉秋が声を上げた。
「なんだか自分だけバカみたいな記事を選んだような……今見たら、あんまり大人げないみたいだ」
吉秋は首を小さく振った。
「アポロか?」
「いや……ビートルズ解散」
吉秋は自分で苦笑した。
「カプセルを埋めたのは連中が解散して間もなくだった。高校の頃からファンだったからショックが大きくて。オレ本当に恥ずかしいですよ。こんな記事を自分にとっての重要事件として選んだなんてさ。今じゃまったく聴きもしないんだ。若かったにしろ情け無い気分だ」
「情け無いだと」
長山はジロッと睨んだ。
「言わせてもらえば今のダイスケの方がくだらん。いつからおまえは物分かりのいい年寄りになっちまったんだ。腹がでたのはガードする肉が増えたせいのようだな」
吉秋は必死に耐えている。
「ビートルズ結構。もっとも、もう少しマシな理由で選んだものだと思っていたんで、それが残念だ。あんな時代への批判かと期待したがね」
「いい加減にして!」
亜里沙が激しい口調で咎《とが》めた。
「あんたがいちいちくだらない感想を付け加えるから、だれも正直に言いたくないんじゃない。ダイスケがなにを選ぼうと勝手でしょ。だいたい批判なんて偉そうに言うけど、それこそ知ったかぶりってもんだわ。私は同感よ。じき四十にもなるって大人が相変わらずビートルズだなんて、かえって気持が悪くて」
「ほほう。知ったかぶりか」
「第一、チョーサクがビートルズを好きだったことってあるの?」
「………」
「ないわよね。いつでも彼らには無関心だったはずだわ」
「好き嫌いと理屈は関係ないさ」
「ビートルズが時代へのアンチ・テーゼだったなんて、子供っぽい文化人の幻想にしか過ぎやしない。それをチョーサクは知識として仕入れているだけ。なにも知らないくせに、そういう視点でビートルズを眺めることが正しいと単純に信じているのよ。適当に本を読んでね」
亜里沙の言葉に長山は体を震わせた。むしろ吉秋が戸惑っている。
「聞き捨てならんな。根拠ってものをはっきり聞かせてもらおうか」
「映画も観てないでしょ」
「………」
「私は仕事の必要があって最近見直したの。特に『ハード・デイズ・ナイト』は反吐《へど》がでそう。どうして昔あんな映画に夢中になったのか、自分で自分が厭になったほど。彼らが映画の中で繰り返す悪戯は度を越しているわ。自惚《うぬぼ》れが鼻について見え見え。人気があるから許されていただけで不良よりも性質《たち》が悪いわよ。子供は騙《だま》せても大人は許さない。あの当時の大人たちがビートルズを認めなかったのも当然だと思ったわ」
「相当に手厳しいな」
塔馬も笑った。
「リサは大ファンだったろ」
「だから悔しかったんじゃない。いつも教師たちから注意を受けるたびに、大人には分かってもらえないって反発していたんだから。それなのに、あんなくだらない悪戯ばかりだったなんて……昔はそれが大人への抵抗だと疑いもしないで」
「だけど映画は作り物だ。彼らの本心とは別かも知れない」
「おなじよ。私たちは映画のビートルズを愛したんだもの。つまり彼らの悪戯を認めたって意味だわ」
「悪戯って……たとえば」
「全部よ。彼らが愛しているのは自分たちのことだけで、他の人間の気持なんかどうでもいいの。マネージャーでさえ道具としか見てないわ。ゾッとする冷たいおふざけの連続」
亜里沙は憤慨していた。それを見抜けなかった自分への怒りだろうと塔馬は思った。信じていた人間から裏切られた絶望も加えられている。
「私たちの世代が相変わらずビートルズを神聖視しているのは思い出を壊したくないだけ。大人の目で見直した評論なんて読んだことがないわよ。子供の頃に読んだ小説をいつまでも大事にしてるのと一緒じゃないの。子供だったから楽しかったんだってことを忘れているんじゃない」
「………」
「物分かりのいい大人になったってダイスケを笑っていたけど……近頃じゃそういう大人が少なくなったと思わない?」
「参ったね。その通りさ」
長山は薄笑いを浮かべながら、
「いい歳こいて『ジャイアント・ロボ』だとか『ガメラ』なんぞのビデオを熱心に蒐《あつ》めてるヤツもいるからな。飲み屋に同世代が集まれば必ず昔のテレビ番組の話だ」
「だからと言って勘違いしないで。曲は今でも好きなんだから」
「分かったよ。オレの負けだ。これからは少し大人の会話をしよう」
珍しく素直に長山が撤回して、席はまた和やかなものに戻った。
「オレはアポロだ」
塔馬は口にした。最後まで黙って様子を眺めるつもりでいたが、むしろ今の雰囲気なら言ってしまった方が皆の気持も動いてくる。そう判断したのだ。
「トーマさんがアポロ?」
吉秋が優しい笑顔を見せた。
「大人げない記事の一番手にチョーサクが挙げたヤツさ」
「オレは批判はせんぞ。いっさい余計な口は挟まないことに決めた」
塔馬は肩を揺すらせた。
「その気持は今だって変わらない。こいつは負け惜しみなんかじゃなくてさ。我々が実際に自分の足で月面に立てるような時代がきたら別だろうけど……むしろ前よりも月は遠くになっちまった」
「ホントね。あの頃は十年もしないうちに月旅行が簡単にできるって信じていたわ。こんな田舎でも月の土地を買った人間がいたのよ」
蛍の言葉に皆爆笑した。
「あった、あった。確かに月の土地を売ってたぜ。あの会社はどうなったんだろうな。酷ぇ話だ。世の中もよほどのんびりとして──」
「オレは心臓移植を選んだ」
寺岡が決断したような口調で話を遮《さえぎ》った。中断されてか長山は寺岡を真正面から不機嫌そうに睨んだ。
「医者が医者の記事ってわけだ。こいつは洒落にもならん」
憮然とした様子で言う。寺岡の頬がまた痙攣《けいれん》した。
「なんで一言多いの」
亜里沙が場をとりなした。
「私は立派だと思うわ。予想通りでいいじゃないの。なにか不満でも」
「ねえよ。別に」
長山はタバコに火をつけた。その火が微《かす》かに震えている。
「確実に時代が変わると思ったんだな。移植に関してずいぶんと世間の風当たりも強かったが、オレはあれで医者が神にもなれる存在だと、はじめて思い知らされた。もっとも、こちらは手術が苦手な方だったんで早々と外科は諦めたがね」
最後は呟きに変わった。
「オレのはなんだと思います?」
築宮が長山に訊ねた。機嫌が悪くなったので長山に花を持たせるつもりなのだろう。
「ユータか。どうせロクなもんじゃあるめえ。よしよし」
長山は残りの記事を眺めた。
ケネディ暗殺。杉並の少年通り魔事件。金嬉老。三億円。コインロッカー捨て子事件。大阪万国博。よど号ハイジャック。瀬戸内シージャック。「圭子の夢は夜ひらく」歌謡大賞。三島由紀夫事件。この十枚だ。
「オレの分析によるとだな……ケネディを選ぶヤツは相当な有名願望があるね。それと支配欲とか野望の持ち主ってこともな。まあ単純に言えばドラマティックな事件だから女子供には受ける。残りの三人の中でこの事件を選びそうなのは……」
蛍、亜里沙、築宮を順に眺める。
「チョーサクさんは数に入らないんですか。オレはてっきりチョーサクさんの選んだ記事とばかり」
吉秋が脇から言った。
「オレじゃねえよ。少し推理を楽しませてくれ」
長山は吉秋を無視して、
「まあ、オケイだろうね」
蛍はクックッと笑って喜んだ。
「次に少年通り魔。こいつはちょっとむずかしい。ほとんど記憶に残っていない事件だ。ただし、少年犯罪に強い衝撃を受けるってのは女の方に多いだろう。となりゃオケイかリサの可能性も大きいけど、昭和三十九年の事件じゃいかにも古過ぎる。東京オリンピックの年だぜ。これは関係ない。恐らくだれかが後から混入させた記事だ」
吉秋がなるほどと頷いた。
「金嬉老と三億円、よど号、三島由紀夫は我々にとって馴染みの深い事件だわな。これならだれが選んでも不思議はない。細かい分析をはじめるとキリもないが、金嬉老を重要だと思った人間は事件以外になにか別の理由があるはずだ。事件のスケールから言うとこの四件の中じゃ一番小さい。まず常識的に見て除外される。三億円は完全犯罪願望とも読めるな。よど号もたぶん関係ないよ。それなら安田講堂が入ってなきゃおかしい。政治に我々が無関心だったのは、とっくにお見通しだ。三億円と三島事件だけが保留の線さ」
皮肉な顔で三人を見詰める。
「残るはコインロッカー、瀬戸内シージャック、万博と夢は夜ひらく。女ならコインロッカーに興味を持つってのも分かるがユータじゃな。万博もしかりだ。おまえさんはそんな夢多いタイプじゃなかったよ。シージャックもどうかね」
「そうか。これがチョーサクだ」
亜里沙が断定した。
「生まれが広島だもの。それでよ」
「まあ、最後に答えさせてもらう。しかし、今の言葉で少なくともリサがこいつを選んでいないってことがはっきりした」
長山はニヤニヤした。
「夢は夜ひらくは論外だ。最初オレはトーマの洒落だろうと踏んでいたが、アポロとなれば他に該当者がいなくなる。ただし、洒落じゃなく本気で選んだバカがいるとすれば別物だがな。箱に似たようなカセットを入れただれかだっているんだし」
「私じゃないわよ」
蛍は直ぐに否定した。
「リサもそれほど間抜けじゃあるまい。パンドラもそうだ。死の不安に怯《おび》えていたヤツがまさかな」
「結局オレのはどれなんです」
築宮は苛立った。
「順位をつけると一番は三島事件。続いて三億円。大穴でよど号か。政治に無関心でもカッコ良さを狙って選んだ可能性がある」
「一位が三島事件か」
築宮は溜め息を吐いて蛍と亜里沙の表情をうかがった。
「どう思う? 今の推理」
「私は三億円だと思った」
蛍が首を横に振った。
「この人、三島なんて読まないわ」
「そうね。でもどうかな。読まなくても、あれは衝撃だったもの」
亜里沙も首を傾《かし》げた。
「残念ながら大当たりだ。さすがにチョーサクさんはプロだぜ」
築宮は恐れ入った顔をした。
「どうってことない。三億円を選んだのはオレなんだから」
長山の言葉に皆唖然となる。
「消去法で行けば三島事件で決まりだ。大穴を狙うタマじゃない」
「なるほど、チョーサクさんの三億円は分かるな。それでさっき完全犯罪願望だなんて言ったのか」
吉秋はしきりに納得していた。
「ついでに私のも推理して見て」
蛍が面白がって催促する。
「ええと……削ったのはどれだ」
長山はテーブルの上で分類した。すでに決まったものと除外する記事を右側に置くと残りはあまりない。
「ケネディとコインロッカーと万博とシージャックか。本当に藤圭子じゃねえんだろうな」
蛍は、しつこいわねと笑った。
「あまり世間に関心のなさそうな性格だったからな……ケネディと万博に絞っても間違いなかろう」
長山が反応を見る。
「最初の直観だ。ケネディ」
「割合に簡単だったかしら」
蛍はがっかりしたように頷いた。
「やっぱり有名願望のせい?」
「万博は個人的な興味になりにくい記事だ。そこでコンパニオンでもやっていたと言うなら違うだろうが。さもなきゃ選ばんよ」
推理が次々に当たるので長山は得意そうに解説する。
「これでリサも決定だな。シージャックは違うと言ったし、ケネディはオケイだ。万博もおなじ理由ではじけばコインロッカーしか残らん」
「独壇場ね。まるで」
亜里沙はクスクスと笑う。
「これしかないさ。あれは社会的な問題にまで発展した。編集者を目指していたリサにとっても気になる事件だったはずだと思うがな」
「まあ、いいわ。それで」
亜里沙は負け惜しみとも思える言い方で肯定した。
「すると……パンドラはどうなる」
成り行きを見詰めていた塔馬が質した。なにが残ったのか?
「この中にあるんだろうよ」
長山が記事を抜き取る。
少年通り魔。金嬉老。万博。よど号。シージャック。藤圭子。
「妙なものばかり残ったもんだ」
長山も小首を傾げた。
「ついさっきまで、記事を混入させたヤツは悪意でやったとばかり思っていたが、こうして眺めると、やはり単なる悪戯かも知れんぜ。少年通り魔とか藤圭子とか万博とかさ。どう考えてもふざけて入れたとしか思えんじゃないか。事件らしきものはよど号とシージャックだけだ」
「もし……皆が嘘をついていなければね。確かにそれは言える」
塔馬は大きな困惑を覚えた。
「重大事件という観点に立ちゃ、パンドラの選んだ記事はよど号、シージャック、金嬉老の順になりそうだがな。現にダイスケがビートルズを選んだり、トーマがアポロを選んでいるんだ。事件のとらえ方は人それぞれってことだ。この六枚の中から突き止めるのは厄介な仕事だぜ」
「得意の推理でも駄目ですか」
吉秋は残念そうに長山を眺めた。
「問題はダイイング・メッセージという点にある。単に事件を選んだものならパンドラの性格を下敷きにしてギリギリまで絞りこむこともできるだろうさ。ところが手掛かりに残したとなりゃ話は別だ。好き嫌いとは関係なしに記事を選んだ可能性が高い。よく新聞の文字を切り抜いて脅迫文を作成するケースがあるだろう。あれと一緒だ。犯人は必要な文字を無造作に拾っている。好きな記事から選んでいるわけじゃない。そんなものに推理は通用しない」
皆が納得した。
「じゃあ、この六枚全部を手掛かりだと思って取り組んだら?」
あっさりと亜里沙が言った。
「それなら突き止める手間もないんじゃないの。記事に犯人とおなじ名前やなにかがあるのと違う?」
「なるほど。急がば回れか」
塔馬は何度も頷いた。
「やって見る価値はありそうだ」
「待ってくれ……」
長山が記事をザッと眺めた。
「名前と言っても、どの程度の重要性を持った名前かね? たとえばこのよど号を見ると、事件の第一報なんて乗務員の名前しか掲載されていない。石田機長とかな。そういうレベルまで落として点検するわけか」
「いや、必要ないはずだ。それなら事件じゃなくても構わなくなる。名前を示唆する単純な手掛かりだとしたら、恐らく事件の重要人物との類似性でしかない」
「だろうな。じゃあ、万博やよど号は無関係だ」
「でも主犯はだれだっけ?」
亜里沙が念を押す。
「そのぐらいまでは、たとえ記事になくても考えてくれると思うんじゃないかしら。私ならそうするわ」
「確かリーダーは田宮高麿だ。何年か前にテレビで連中の元気な姿が紹介されていたよ」
寺岡が直ぐに思い出した。
「そうそう。その名前だ」
「なら関係ないみたい」
亜里沙はようやく矛先《ほこさき》を緩めた。
「瀬戸内シージャックは……と。あるある。川藤展久か。こいつも我々とは似ても似つかん名前だな」
「場所はどうするつもり」
蛍が冷たい顔で長山を見る。
「広島で事件が起きたと書いてあるわよ。チョーサクの出身地」
蛍の指差した見出しのとなりに広島と大きく印刷されていた。長山を除いた全員が互いに顔を見やった。
「おいおい。冗談じゃねえぞ。だったらわざわざシージャックなんてセコい事件を選ばなくても原爆があるだろうよ。ただの偶然だ」
この反論はなんとか通じた。
「まったく……危ねぇヤツらだ」
それでも長山はホッとしている。
「お次は通り魔に行くぜ。あ、こいつも違う。少年Aとしかでてない」
「被害者の方はどうなの?」
「自供した九件はすべて傷害。それに小学生ばかりだから全員名前はなし。土地まで含めるんなら犯行のあった杉並区と逮捕した野方署」
「パスしてよさそうだ」
塔馬が先を促した。
「金嬉老もおなじだろ。事件は静岡の清水署管内で起きている。旅館の名前は『ふじみ屋』。二十人の人質をとって籠城しているが」
「人質までは関係ないわよ」
亜里沙は首を横に振った。
「残るはこの歌謡大賞の記事ばかりだ。どうせ無駄だとは思うが、他の歌手の名前も読み上げてみるかい。昭和四十五年度、歌謡大賞が藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』新人賞は辺見マリ『経験』と野村真樹『一度だけなら』放送音楽賞に内山田洋とクールファイブ『噂の女』菅原洋一『今日でお別れ』ちあきなおみ『四つのお願い』森進一『銀座の女』そしてドリフターズの音楽活動全般に対してとなっている。まあ、だれも該当しないわな」
「今日でお別れ……って、なんとなくハンコの気持と似てない?」
蛍が気づいて口にした。
「それならレコード大賞の記事を選んだはずだ。藤圭子を頭にした記事を持ってくるのは不自然だぜ」
「ああ。この年のレコード大賞は菅原洋一だったわね。思い出した」
蛍もそれで引き下がった。
「つまるところ、どの記事を当たっても食い付く餌はないってわけだ。どれかに犯人の手掛かりが秘められているにしても名前じゃねえな」
「職業はどうなのかしら?」
蛍がまた思いついた。
「職業? どういう意味だい」
「たとえば推理作家が事件の解説をしている記事なんてのは?」
「バカ言うな。あってもオレとは関係ねえよ。パンドラがこいつを埋めたのは十七年前だぞ。オレが大学を卒業したばかりの話だ。なんとしてもオレを犯人にしたいらしいな」
「そうね。職業も無理だわ」
蛍は気にせず頷いた。長山は不愉快そうにタバコをふかした。
「こうなればお手上げね。やっぱりハンコの記事を突き止めてみないことには分析も不可能よ」
亜里沙は重い溜め息を吐いた。
「でも本当にこの記事の中に手掛かりがあるんですか。なんだかどうでもいい記事としか思えないけどな」
吉秋は塔馬と向き合った。
「それじゃあ、いったいだれが、なんの目的で五枚の余計な記事を足し加えたかだ。悪戯じゃないとすればパンドラの記事を混乱させる目的としか思えない。犯人はパンドラの選んだ記事を心底恐れていたに違いない。こうして平和に話し合っているから怖さも感じられないが、必ずここに犯人がいる。一緒になって悩んでいるフリもしているんだ。そうやって腹の底で嘲笑っているのさ」
ゾッとしたように吉秋は肩をすくめた。蛍は目を伏せている。
「薄気味悪いってのは同感だがな。力んでみても埒《らち》はあかんぜ。たった今確認した名前にしても、この六枚の記事の中に間違いなくパンドラのものがあるって前提の上だろ。もしだれかが嘘をついてパンドラの記事を選んでいればどうなる。あるいはおまえさんのアポロがパンドラの記事ってことも有り得るんだぜ。なんてったって自己申告だからな。残念ながら嘘を暴《あば》く方法はない」
長山は上唇をゆっくりと嘗《な》めた。
「ここに集まってるのはガキじゃねえんだ。嘘をつくには相応の理由があるんだろうよ。穏やかな討論を重ねたってだれも白状しないさ」
「確信を持っているんだな」
塔馬はじっと長山を見詰めた。
「当然の推理だよ。トーマの言葉通りに犯人がいるんなら、少なくともそいつは嘘をつく。百分の一ならオレもとやかく言わんが、わずか七分の一の確率なんだ。犯人がパンドラの記事を自分のものだと偽っている可能性はすこぶる高い」
「十三分の一でしょう」
吉秋が口を挟んだ。
「記事は十三枚あるんだし」
「まったく呆れた脳ミソだよ。そのうちの五枚は犯人が入れたものなんだぞ。しかも残りの八枚のうち一つは自分が選んだ記事だ。あとは七枚しかない。トーマは混乱が目的だと言ったが、それよりもパンドラの記事を自分のものだと騙せれば、より安全になる。オレが犯人ならそれに賭けるね。対象は七枚きりだ」
塔馬も唸った。
「オレたちはパンドラの残した手掛かりがなんであるか知らない。しかし、犯人なら身に覚えがあるだけに見当もつけやすい。どう考えたって不利な情況さ。この六枚の記事の中にパンドラのものが入っている確率は恐らく五十パーセントもないよ」
「なら、無駄ってことですか」
吉秋は落胆して記事を眺める。
「もう探偵ゴッコは止そうじゃないか。嘘つきが何人いるか分からん状態で謎なんか解けっこないよ。だいたいパンドラ殺しにしても確証があるわけじゃなし。トーマの豊かな想像力のお陰でスリリングな時を過ごしたと思えばいい」
長山の言葉に蛍も同調した。次いで吉秋も頷く。寺岡も亜里沙も。
「ユータはご不満かね?」
拳を握ったまま唇を閉じている築宮に気づいて長山が声をかけた。
築宮は塔馬を盗み見た。この集まりが一通の不気味なハガキによって企画されたことを長山は知らされていない。それを築宮は皆に告白しようと言うのか。塔馬は目で合図を送った。まだ早い。それはますますの混乱をもたらすだけだ。
「別に……それで皆が良ければ」
築宮は分かったようだった。
「それで決まり。もうパンドラの件は終わりにしようぜ。これだけ悩めばパンドラも本望だろう。立派な十三回忌になったじゃねえか」
長山はそれだけ言うと立ち上がって手拭いを肩にひっかけた。
「ちょっと……またお風呂?」
「せっかく温泉にいるんだぜ。ダイスケ、おまえもつきあえ。風呂に浸《つか》れば少しは腹もひっこむだろう」
「昨日も一緒だった」
吉秋はうんざりとした顔をしながらも素直に従った。
「この山ん中でどうせ大したものはなかろうが、今夜は派手にやろう。ようやく体調が戻ってきたよ」
わがままな言いぐさに寺岡が苦笑した。塔馬は静かに見送った。
「あいつはさすがに推理作家だけのことはあるな。鋭い点をつく」
寺岡は二人が消えると口にした。
「と言うよりも煙《けむ》に巻かれたって感じよ。一人で騒いで勝手にいなくなっちゃうんだから。あの性格だけは昔から変わらないわね」
亜里沙も立ち上がった。空気が動いて香水の微かな香りが漂った。疲れたので部屋で一休みすると言う。
「さてと……オレは病院に連絡してみるよ。この雪じゃ明日も戻れそうにない。いろいろと入院患者の指示をだしておかんとな。医者はこれがあるから厭になる。どこにいても仕事から離れることができん」
「私も家に戻って出直すわ。着替えないと風邪でもひきそう。久し振りの運動で汗を掻《か》いたみたい」
寺岡と蛍が続いて、部屋には塔馬と築宮だけが残された。
「打ち明けた方が正解でしたよ」
築宮はそれが言いたくて残ったのだ。塔馬はコーヒーを新たに拵《こしら》えると築宮にも勧めた。
「このままじゃ茶番だ。ダイスケとトーマさん以外は、この集まりがオレの発案だと思っている。だからのんびり構えているんだ。あのハガキを見れば笑いなんか吹き飛びます」
塔馬も頷いた。
吉秋に届いた一通のハガキ。それにはワープロでたった一行、パンドラの十三回忌が近づいた、と不気味な言葉が印刷されてあったのだ。怯えた吉秋が同級の築宮に相談し、今度の集まりに繋がった。塔馬も築宮からその件を聞かされるまで、単純に彼らが昔の約束を律儀に守ったのだと疑いもしていなかった。
「ハガキの文面からして、投函した人間はパンドラの失踪に疑惑を感じているに違いありません。それをはっきりとさせるためにこの集まりを開かせようとしたんでしょう? だったら今の情況に満足するはずがない。このまま終わらせるわけがないですよ。ひょっとするとその人間は疑惑どころか、犯人の心当たりさえあるのかも知れません。他の仲間がアテにならないと分かれば直接行動にでることだって……」
「まさか──とは思うがな」
塔馬は腕組みをした。
「チョーサクさんの態度は不自然だと思いませんでしたか?」
「………」
「探偵役を気取っているけど、やたらと茶化して話をそらせていく」
「犯人だとでも?」
「少なくともハガキをだした人間じゃないことは確かでしょう」
「不自然と言えば不自然だが……あいつの推理にごまかしは感じられなかった。だから皆も納得したんだろう? 作為的に筋道を曲げているとは思えないな」
「だったら怪しい人間が一人も」
築宮は困惑した。
「どうかね。チョーサクも言ったように、皆が記事の件で躊躇《ためら》ったのは事実だろ。どんな理由か分からんが嘘は相当に含まれている」
「オレは正直に言いました」
築宮はムキになった。塔馬は軽く聞き流した。数え上げればキリがないほど皆の告白には疑問がある。しかし今それを訊ねても仕方がない。パンドラの件と関係ない嘘を追及しても意味がないのだ。
「とにかく、様子を見てみよう。本当にユータの想像通りハガキをだした人間がウズウズしてるんなら、別の展開もあるさ。今の情況でオレたちが焦っても空回りだ」
「手遅れになってもですか」
「なにが手遅れ?」
不意に襖が開いて亜里沙が笑顔を見せた。目の粗《あら》いセーターに着替えてタオルを手にしている。長山が上がってきたら交替に風呂にでも行くつもりなのだろう。
「テレビをつけたら大雪警報ですって。山間部ってこの辺よね。予報じゃ五十センチ前後らしいわ」
「じゃあ、ますます復旧がむずかしくなるな。人の出入りの少ない温泉よりも町の方が大事だ。除雪車が全部そっちに回されてしまう」
「こんなことって毎年?」
「滅多にないよ。五年か十年に一度の大雪じゃないかな」
「もう私も諦めたわよ。矢でも鉄砲でも持ってこいって気分」
亜里沙は座布団に腰をおろした。
「四、五年分の休暇をいっぺんにとったと思えばなんでもないもの。今夜はカラオケでもやらない」
亜里沙の声は弾んでいる。さっきまでの緊張が嘘のようだ。
「コーヒーでも飲むか?」
塔馬の言葉に亜里沙は頷いて、
「ねえ。手遅れってなんのこと」
築宮に訊ねた。
「もし……パンドラが殺されていて仲間の中に犯人がいるとしたら」
「まだ、その話を」
亜里沙は露骨に厭な顔をした。
「仮にだよ。だれだと思う?」
「いやよ。仮にでもごめんだわ」
「だけど……指輪の件といい記事のことといい、こいつが尋常じゃないってのは分かるはずだ。もし殺人鬼が仲間にいればオレたちだって危ないんだぜ。手遅れにならないうちに突き止められるもんなら」
「呆れた。トーマもおなじ?」
塔馬は曖昧《あいまい》に笑った。
「だったら言うけど……一番怪しいのはユータよ。あんたが招集しなければだれもこんな山奥にこなかったわ。切っ掛けを作った人間だけが除外されるなんて思わないでね」
塔馬は苦笑して築宮を眺めた。さすがに憮然とした顔をしている。
「あるいはハンコが殺されたとしても……この十七年間私たちになにも起きなかったわ。なのに今さら襲われる理由がどこにあって? ハンコには悪いけど、このまま忘れてしまう方がいいのよ。いつまでも関わっていると、それこそ危険じゃない」
「案外冷たいんだな。パンドラとはもう少し仲がいいと思っていた」
「冗談じゃないわ。ハンコが現実に苦しんでいるなら別だけど……復讐ごっこにまで付き合うヒマがないってこと。記事を調べても結局ヒントさえ見つからなかった。もうこれ以上振り回されたくないの」
それが偽りない気持だろう。塔馬は築宮の肩に手をやった。パンドラ殺人事件は塔馬や築宮の頭の中の産物でしかない。なにか新たに起きない限り、このまま葬られても仕方のないほど稀薄な根拠だ。塔馬はそのなにかが起きないよう心から願った。
[#改ページ]
三章 パンドラ・マッドケース
1
白湯温泉に仲間が集まって三日目の朝になった。
塔馬は遠くで襖《ふすま》の開けられる微かな音に目覚めた。向かいの亜里沙の部屋だ。夜半に吹き荒れていた吹雪もすっかり治まったようだ。カーテンを透かして淡い光が差し込んでいる。隙間に見える窓ガラスに張りついた霜も暖気で溶けはじめている。穏やかな朝だ。雀のはしゃいでいる声も聞こえた。塔馬は伸びをした。枕許の腕時計は七時半。
そろそろ帳場から朝食の用意が整ったという電話がかかってくる頃合だが、となりにいる長山は高鼾《たかいびき》だ。それでも塔馬の起きだした気配を敏感に察して布団を頭まで被《かぶ》る。どうせ朝食は食べないからゆっくり寝かせておいてくれと昨夜長山に頼まれている。仕事柄なのか夜には滅法強い代わりに朝は苦手らしい。
〈電話が鳴ると可哀相だな〉
その前にこちらから帳場に連絡してやるか。風呂に入りかたがた顔をだしておけばいい。塔馬は静かに布団を抜けだすと手拭《てぬぐ》いを手にした。
〈………〉
ぐっしょりと濡れている。これは長山のものだ。すると眠っている間に長山は風呂に出掛けたのだろう。まったく風呂の好きな男だ。
塔馬は苦笑すると自分の手拭いをとって次の間の襖を開けた。
〈ん?〉
スリッパの側に白い紙が落ちている。塔馬は拾い上げた。
ふくしゅうはこれからだ
塔馬は緊張した。新聞から切り抜いた文字を貼って作ってある。復讐という漢字はなかったとみえる。
〈なんでこの部屋に?〉
それとも他の部屋にもこれが投げ入れられているのか? いや、亜里沙にも同様の脅迫文が届けられていれば先に騒いでいたに違いない。恐らくこの部屋だけのはずだ。塔馬は困惑を覚えた。まるで見当がつかない。復讐というからには、パンドラの件だと想像もつくが、彼女に恨まれるほどの人間関係でなかったことは自分が一番よく知っている。
〈となれば……〉
狙いは長山なのか? それもどうか。長山が朝に弱いことはだれもが承知だ。長山よりも自分が先にこれを見つける確率の方が遥かに高い。塔馬はもう一度紙を改めた。
〈なかなか手強《てごわ》い相手だな〉
切り抜き文字は飯粒で糊付けされていた。売店で糊を買ったり帳場で借りたりすればアシがつくと警戒しているのだ。
〈つまり……本気ってわけだ〉
塔馬は身震いを禁じ得なかった。脅迫が怖かったのではない。得体の知れない相手からの脅迫文ならこれほど恐れもしないだろう。相手が仲間のだれかだと分かっているから震えるのだ。どの顔を思い浮かべてみても、皆明るくて他意のない連中ばかりだ。しかし、その平和な顔の裏側に少なくとも二人は別の顔を隠し持っていることになる。殺人者の顔と脅迫者の顔を……。
塔馬は悩んだ。
この脅迫文を長山に示せばいいのか、をである。塔馬は部屋に戻ろうとして、……やめた。自分の胸に納めておこうと決意したのだ。長山に見せれば必ず大騒ぎになる。もしかするとそれが脅迫者の狙いなのかも知れない。ここで見て見ぬフリをすれば脅迫者の方が逆に焦りだす可能性もある。チェスと一緒だ。作戦の分からぬ手を仕掛けられたら、こちらも奇手を打って様子を眺める。脅迫文を握り潰すのは特別な奇手とも思えないが、考える余裕ぐらいは生まれてくるだろう。
とりあえず塔馬は階下《した》で新聞を調べて見ることにした。文字を切り抜いたとなれば帳場前に吊るされているファイルからとしか思われない。確かあれには一週間分が保存されていたはずだ。
暗い階段を下りていくと亜里沙と出会った。もう洋服に着替えて、手には洗面道具を抱えていた。
「風呂じゃなかったのか」
「トーマの部屋は大丈夫? 部屋の洗面台の水が凍っていたわ」
それで下りてきたのだ。亜里沙の表情に特別な変化は見られない。やはり脅迫文は届いていないらしい。
「こんなに暖かくなったのにね」
「夜の間に一度凍れば滅多に溶けないぜ」
「そっちは、お風呂?」
「電話で起こされればチョーサクが可哀相だから帳場に言いにきた。ついでにコーヒーでも飲もうかと」
「だったら付き合うわ」
亜里沙は踵《きびす》を返した。
「なんなのそれ……習慣?」
亜里沙は塔馬の抱えてきた新聞のファイルを認めて笑った。
「雪で閉じこめられているんだもの、新聞配達なんてきやしないわ。一昨日からそのままよ」
「テレビ欄さ」
コーヒーを啜《すす》りながら開く。
「先週のおなじ曜日を見ればだいたい分かる。地元のニュースの時間帯が知りたくてね」
亜里沙は頷いた。
〈………〉
やがて塔馬はファイルをとじた。丹念に見たつもりだが欠けた分は一ページも見当たらない。
〈どうも不思議だな〉
この新聞でないとすれば犯人は最初から脅迫文を用意してきたことになるが……それなら別に飯粒でなくても構わないはずだ。糊からアシがつく危険もない。なのにワザワザ飯粒を使う人間などいまどきいるわけがない。やはり脅迫文はこの宿で作成されたと見るのが妥当だ。
〈温泉にくる途中で買ったのか〉
それなら有り得る。旅行の暇|潰《つぶ》しに新聞を買うのはごく当たり前の行為だ。それが捨てられずカバンにでも入っていれば……。
〈もっとも考えられるのは……〉
一人でやってきた吉秋だ。寺岡や築宮は車で温泉まできたのだから一応除外してもいいだろう。長山や亜里沙も同様である。新幹線のホームから行動をともにしてきたのだ。彼らがどこかで新聞を買ったという記憶はない。たとえその前に新聞を買っていたにしても、最初から脅迫文を作成する意図でもない限り新聞は手に持っているのが普通だ。また脅迫文を作る気持があれば糊もあらかじめ用意してくるに違いない。
〈あとはオケイだな〉
彼女の場合は実家がこの温泉の近くなので新聞も簡単に手に入る。しかし、糊がないとは思えなかった。
〈やはりダイスケか〉
塔馬は暗い気持に襲われた。考えれば最初のハガキも吉秋だけに届けられたものだ。疑われたくないと思えば真っ先に自分を被害者にする。初歩的な嘘だ。
「どうしたの?」
亜里沙が不審な顔で訊ねた。
「別に……」
「昨夜も遅くまで起きていたみたいね。何度も廊下を歩く物音で目が覚めたわ。吹雪の音が怖くて眠れなかったせいもあるけど」
「オレは早く寝たよ。チョーサクは仕事をして起きていたようだが」
「仕事? あんなにお酒を飲んだあとで書けるものかしら」
「短い原稿だと言っていたがね」
「長さと関係ないわよ。だからいい加減な文章になるんだわ。書いてもこの状態じゃ送れっこないのに」
「なんだか閃《ひらめ》いたと叫んでたぜ」
「じゃあ、うるさかったのはチョーサク一人きりなんだ」
「そんなに酷《ひど》かったのか」
「廊下を行ったりきたり……よほど注意してやろうかと思ったほど」
昨夜は疲れていたようだ。窓ガラスを叩く風の音に紛れて長山の立てる物音が気にならなかったのだ。
「よう……二人とも早いな」
二階から寺岡が腫《は》れぼったい目をさせて下りてきた。
「天気になったじゃないか」
「だけど雪の量も多いわ。この分じゃ今日も開通は無理のよう」
「ダイスケはどうしてる?」
塔馬はさり気なく訊いた。
「知らんよ。まだ寝てるんだろ」
寺岡は欠伸《あくび》を堪《こら》えた。
「おなじ部屋じゃなかったのか」
「あいつがうるさがってさ。一昨日の夜も明け方に病院から連絡が入った。それで昨夜は別の部屋に移ると……話さなかったか?」
そう言えば聞かされたような気もする。ますます吉秋が怪しい。寺岡と一緒の部屋なら脅迫文も作れないので部屋を替えたのかも知れない。
「あのう……」
帳場でおかみが受話器を握ったまま三人に声をかけた。
「吉秋さまはお目覚めですか」
「まだ眠っていると思うけど」
「ずうっとお出にならないんです」
亜里沙の言葉に応えた。
「オレが見てこよう」
塔馬は頷くと吉秋の部屋番号を確認して二階に上がった。
「いなかったぜ」
塔馬は駆け足で戻った。
「なら風呂じゃないのか……そう言えばさっき部屋で顔を洗っていたときに廊下を歩く音がした」
「だってここには私とトーマがいたのよ。階段を下りてくれば分かると思うな。こっちが気づかなくても声をかけそうなもんだわ」
「反対側の狭い階段の方が岩風呂には近い。まあ、そのうち顔を見せるよ。食事を楽しみにしてるヤツだ」
そうねと亜里沙も笑った。
「風呂を見てくる」
塔馬は真剣な顔だった。
「部屋の布団の上に脱ぎ捨てられた丹前があった。昨日の朝食の時には丹前姿だったはずだ」
亜里沙も思い出した。
「人間ってのは滅多に習慣を変えない生き物だ。朝風呂なら服に着替えるとも思えない。ひょっとすると宿を抜け出したんじゃないかな」
「まさか! この雪だぞ」
寺岡は首を横に振った。
「第一、抜けだしたところでどこに行く。道は全部|塞《ふさ》がれているんだ。それほどバカな男じゃあるまい」
「とにかく岩風呂を確かめるのが先決だ。リサはオケイの家に電話をしてみてくれ。あそこにはユータも泊まっている。あるいはなにか相談にでかけたのかも知れん」
「そうよ。絶対それだわ」
亜里沙は安堵した顔で頷いた。
五分後。
三人は困惑の顔を突き合わせた。
宿のどこを捜しても吉秋の姿が見えない。蛍の家にもいなかった。
「靴も見当たりませんようです」
おかみが心配そうに加わった。
「やはり外にでたんだろうな」
寺岡も認めざるを得ない。
「あの足音がダイスケのものなら、まだ遠くに行っていないはずだ。足跡だって残っているんじゃないか」
「残念ながら勘違いだよ」
塔馬は否定した。
「そのだいぶ前からオレとリサはここに陣取っていた。ダイスケが靴を取りにきたのは帳場に人気《ひとけ》のなかった真夜中しか考えられない。それなら仲間が起きだす頃まで待っている理由もないだろ。宿を抜けでたのは夜明け前さ」
「真夜中の物音はそれだったんだ」
亜里沙が納得した。
「何時頃か覚えてないか?」
「無理よ。真っ暗だったもの」
「オレは音なんて聞いてないぞ」
寺岡は初耳だと首を傾《かし》げながら、
「もし真夜中なら厄介だ。吹雪で足跡が消されちまっている」
「足跡なんてどうでもいい。問題はダイスケが無事かってことだ」
塔馬の言葉に寺岡と亜里沙は重い溜め息を吐《つ》いた。
「チョーサクを起こしてくるよ。あるいは真夜中にダイスケと顔を合わせているかも知れない」
そこに築宮が飛びこんできた。
「ダイスケがいなくなったって」
築宮は厳しい顔で塔馬を睨んだ。
「だから言ったじゃないですか」
「まだ、なんとも言えない。恐ろしくて逃げだした可能性もある」
「ちょっと待って」
亜里沙が目を丸くした。
「恐ろしいってのはダイスケが身の危険を感じていたってことなの……まさか。どうかしてるわ」
「………」
「それなら最初から集まりに参加しなきゃいいじゃないの」
「箱を開いてから怖くなったんだ」
「ダイスケの選んだ記事はビートルズだったのよ。怖くなるなんて、そんな話が信じられると思って?」
「ダイスケが嘘をついていないという保証があればね」
「間違いよ。絶対に」
「だったらどうしてダイスケは宿から姿を消したんだ。逃げるにはそれなりの理由があるはずだ」
「朝から賑やかなこったな。なにか面倒でも起きたのかい?」
長山が階段の途中に立っていた。不愉快そうに寝不足の目を向ける。
「ダイスケがいなくなったんだ」
思いがけない返事が戻って長山は唖然《あぜん》とした顔で塔馬を見返した。
「真夜中に抜けでたらしい」
「抜けでたって……おい、冗談はなしだぜ。この雪じゃどこにも行けっこねえだろうが。どうせ便所で唸《うな》ってるさ。昨夜《ゆうべ》は腹の調子が悪いなんて言ってたからな」
「調子が悪い? いつの話だ」
「一時頃じゃなかったかね。風呂にあいつが入ってきたよ」
それでも心配顔で長山はソファーに腰を下ろした。
「なにか他に話したか?」
「さあ……よく覚えてねえな」
長山は曖昧《あいまい》に濁した。
「オレはただの飲み過ぎだろうと気にもしないで先にでた。あいつは腹を温めるとか言って残った。それきり見てねえ」
「その後も起きていたんだろ?」
「オレかい? そうだな。三時ぐらいまでは仕事をしていた」
「風呂には?」
「行ったよ。寝る前に体を温めようと思ってね」
「どっちの階段を使った」
「風呂に近い方さ」
「するとダイスケの部屋の前を通ったわけだ。明りはどうだった」
長山は少し考えて首を振った。
「ついてなかったようだ。思い出したよ。ヤツの部屋の入り口の襖が少し開いていた。それでチョイと覗《のぞ》いたんだ。真っ暗だったんでそのまま風呂に下りたのさ」
どうやら吉秋が宿をでたのは一時から三時までの間らしい。恐らく風呂の帰りに帳場にまわって自分の靴を取ってきたのだ。そして脅迫文を作成し、それを我々の部屋の入り口に投げ入れた。そこまで考えて塔馬は首を捻《ひね》った。長山はその後に風呂へでかけている。自分でさえ簡単に見つけた紙だ。もし紙があれば長山も気づいたはずだ。
〈脅迫文はダイスケじゃないのか〉
不審と不安が渦巻いた。
ふくしゅうはこれからだ
あの言葉はなにを意味しているのか? あるいは吉秋を殺すという予告ではなかったのか?
屈託のない吉秋の笑顔が塔馬の脳裏をよぎった。脅迫者の顔と言うよりも被害者としての顔の方がふさわしい。あの吉秋にパンドラを殺したり、犯人を威《おど》かすだけの度胸があるとは思えない。
〈だが、それならどうしてダイスケが狙《ねら》われる必要がある?〉
犯人でもなく、脅迫者でもないとすれば、殺される理由がなくなる。
「村の男たちにも頼んでみます。皆様方だけでは不案内でしょうから」
おかみが電話に走った。
「その通りよ。話し合っているヒマなんかないわ。早く捜さないと」
亜里沙が立ち上がった。
「今頃、道に迷っているかもしれないじゃない」
亜里沙の顔は真っ白だった。
「捜索って簡単そうに言うがね……いったいどこを当たりゃいい」
長山は首を小刻みに振った。
「真夜中に抜けでたんなら、もう六時間以上が経っているんだぜ。吹雪のせいで足跡もないときた。百人も動員したって発見の望みはないさ。大丈夫。ダイスケに運がありゃ麓に辿《たど》り着く。連絡を待つ方が正解だ」
「なに言ってるの、道路は雪崩《なだれ》で完全に塞がれているのよ。麓になんか着けるわけがないじゃない」
亜里沙がきつい目で睨んだ。
「それは車の場合だろ?」
長山は嘲笑って築宮に確認した。築宮は無言で頷いた。
「たとえ雪崩で道が塞がれていても人間ならその雪を越えて行ける。もちろん多少の危険は覚悟しなきゃならんが、注意して渡れば可能だ」
亜里沙は唖然として長山を見やった。道が閉ざされたと聞いたときから、歩きも無理なのだと頭から思いこんでいたのだ。
「じゃあ、いつでも帰れたわけ?」
騙《だま》された気分だ。
「まったく……おまえさんはなにも知らんと見えるね。そりゃ帰れますよ。麓までの二十キロを歩く根性があればな。この深い雪道なら一時間にせいぜい二キロだ。女の足なら十二時間はかかる」
「そんなに!」
「オレたちゃ、そんな苦労をしたくねえから開通を待っていただけだ。車ならたった一時間だものな。ダイスケは北海道生まれなんで、雪道にも馴《な》れているんだろう。あいつなら七、八時間で行けると踏んだんじゃねえか。さっきは驚かされたが、冷静に考えりゃ深刻な情況じゃない。あと二時間もすれば元気な電話がかかってくる」
「だといいけど……」
亜里沙は少し安心した。
「スキーはあるんですか?」
塔馬がおかみに訊ねた。
「ええ。裏の倉庫に五、六台は」
「調べて下さい。ダイスケはスキーが得意だったはずだ」
「裏って……岩風呂のとなりかな」
長山におかみは頷いた。
「そいつだ。確かスノーモービルもあったはずだ。ここの御主人が点検していたのを風呂から覗いた」
「だったら、あれを使って──」
おかみは慌てて玄関から走りでて行った。築宮も続く。
「スノーモービルか……あれに乗れば雪崩も関係ない」
塔馬は溜め息を吐いた。
「やっぱり、ありませんでした」
築宮が息を弾ませて戻った。
「ダイスケは逃げたんです」
築宮の顔にも安堵《あんど》があった。塔馬と同様に他の心配をしていたのだ。
「どうします? このままご連絡を待っていればよろしいのですか」
おかみは戸惑いを浮かべている。
「雪崩の箇所はどの辺《あた》りなんです」
塔馬が確認した。
「ここから三キロほど下った崖のところと聞いていますけど……」
「だったらスキーを借りてそこまで行ってみよう。それさえ無事に越したと分かれば心配はない」
「それもそうだな」
長山も賛成した。
「と偉そうに言っても、オレはスキーができんのだよ」
「恥ずかしいがオレもだ」
寺岡が笑った。広島出身の長山はともかく、雪国育ちの照れがある。
「ケイコの家にもモービルがあったはずだ。二人は乗れますよ」
「運転は簡単か?」
「車よりはね。雪崩の箇所まではなんとか行けるでしょう」
それで決まった。塔馬と築宮はスキーを借り、長山の運転するモービルに寺岡が同乗する。亜里沙は宿で連絡待ちだ。
2
想像以上の積雪だったらしい。
塔馬のスキーは二十センチも雪に埋まった。暖気のせいでベトついた雪が板の底にくっついて瘤《こぶ》になる。塔馬と築宮は何度も立ち止まっては雪をこそげとった。
「オレたちが先にまわって道をつけようか。少しは楽になるぜ。これなら歩きとあまり変わらん」
ゆっくりとモービルで続く長山が苛立《いらだ》って叫んだ。宿を出発してすでに二十分が過ぎていた。平地で三キロと言えば目と鼻の距離である。
「危険です。道路幅がどこまでなのか、まるで見当がつかない」
築宮は首を振った。ガードレールは雪で完全に埋まっている。一見平板な道に見えても崖にせりだした吹き溜まりの可能性がある。そこを重いモービルが通ればどうなるか。
「崖を転げたら一巻のお終いだ」
「山側を慎重に進むさ」
「あと少しの辛抱です」
築宮は無視した。雪の怖さはよく知っている。事故が起きてからでは取り返しがつかない。
「吹雪はいつ止んだんだい?」
塔馬が築宮に訊いた。
「さあ。風の音が治まったのは明け方の四時頃でしたね……それが?」
「ダイスケの乗ったスノーモービルの轍《わだち》の痕がまったく分からない。本当にこの道を走ったのなら、かなり早い時間のはずだ。もちろん北海道の人間だから雪に不安はないにしても、知らない山道だぜ。三時から四時って言えば真っ暗だ。なんであいつはそんなに急ぐ必要があったんだろう? 六時ぐらいまで待っても別に支障はないと思うがね」
「なるほど。わざわざ吹雪《ふぶ》いている夜中を選ぶ必要はないか」
築宮も首を傾《かし》げた。
「でも……運転してでたのはダイスケに間違いありません」
築宮は疑問を振り切って進んだ。
「物凄いもんだな……」
塔馬は目を見張った。雪崩部分の上に積雪が重なって二メートル以上の壁が道を塞いでいた。築宮は手前の斜面を攀登《よじのぼ》って規模を確認した。
「幅は三十メートル近い。これなら自力で開通するのは不可能だ。除雪車がきたって一日じゃ無理です。雪崩がここだけならいいんですが、この様子なら他にも起きているんじゃありませんか」
「ダイスケの手掛かりはどうだ?」
長山がモービルから声をかけた。
「なんにも……無事に越えたということでしょう。道が塞がれているだけで、上は固くなっています」
「なら一安心だ」
長山はポケットからタバコを取り出すと美味《うま》そうにふかしながら雪に包まれた山々を見渡した。眩《まぶ》しい陽射しが寝不足の目に痛い。
「……ありゃなんだ?」
直射を避けて足下に移した長山の視界に銀色の鈍《にぶ》い光が飛びこんできた。十五メートルほど下のなだらかな斜面に赤い枝のようなものが突き出ている。輝きはその枝の根元から発せられていた。全員が長山の示す方向を凝視する。
「……!」
どうやらスノーモービルのハンドルのようだ。四人は互いに不安な顔を見合わせた。
「ダイスケだな……」
長山の声はうわずった。
「あのバカが……」
あとは言葉にならない。あまりにあっけない結末だ。場所が離れているためか現実感も伴わない。転げ落ちた痕跡も見えないほど斜面は静かで平らかだった。しばらく四人はモービルを見詰めた。
「こうして見ていたって……」
ようやく築宮が口を開いた。三人は我に戻った。長山は指を焦がしそうな短いタバコを振り捨てた。
「スキーならあそこまで行ける」
築宮は震えを隠して言った。
「よせ。ヘタすりゃダイスケの二の舞いだぜ。戻って警察を呼ぼう」
「連絡したって直ぐにはきてくれません。モービルにロープがある。それを腰に縛って行けば安心です。放っておけばダイスケが可哀相すぎますよ」
築宮は訴えた。長山は塔馬を振り返った。塔馬も頷く。
たとえ築宮が行っても吉秋が無事なわけはない。モービルを覆っている雪の量から見ても事故に遭ったのは何時間も前のことだ。
「オレも行こう。二人なら片方が滑っても一人が踏ん張れる」
「どこにいるんだよ!」
築宮は叫びながら必死で吉秋を捜しまわった。広い範囲を掘り返してみたがモービルの周辺に姿が見当たらなかったのだ。塔馬はモービルをなんとか雪の上に引き摺《ず》りだした。荷台には吉秋の荷物がある。
〈衝撃で吹き飛ばされたのか〉
塔馬は立ち上がった。きっと吉秋は雪に埋まっているのだろう。この様子では死体の発見もむずかしい。
「トーマさん!」
築宮がロープを強く引っ張った。
「あそこ……あそこです」
築宮の声はかすれていた。塔馬は慌てて築宮の視線を辿《たど》った。七、八メートル下の斜面の雪がうっすらとピンク色に染まっている。その中心から二本の足が蝸牛《かたつむり》のようにでていた。弾《はじ》かれた勢いでどこかに怪我をして血が流れたのだろう。
むごい死体だ。塔馬は唇を噛んで嗚咽《おえつ》を耐えた。死体の手前に小高い吹き溜まりがある。だから上の道からは見えなかったのだ。
「早くだしてやりましょうよ」
築宮が泣き声で斜面に向かった。
〈あいつには子供がいたっけ?〉
あとに続きながら塔馬はふっと思い浮かべた。聞いた覚えがないところを見れば、いないのだろうか。もしそうなら、それだけがせめてもの慰めだ。まだ三十九歳。子供を遺して死ぬには若すぎる。
「そっちを頼みます」
促されて雪から突き出た右の足を持つ。冷凍魚のような感触でさすがに腕が震えた。小太りの体型なのに足首だけは細い。塔馬はタイミングを計って思い切り力をこめた。吉秋の重い体が雪からゆっくりと引き上げられていく。堅く握り締めた拳《こぶし》が現われた。そして太い腕が、そして曲がった肘《ひじ》が──
わっ、
と築宮が乱暴に腕を離した。
吉秋の体は雪上に投げだされた。塔馬は反動で前につんのめった。転がって吉秋の死体と肩を並べる。ごろんと吉秋が上に被さってきた。塔馬は死体を抱えながら悲鳴を堪え続けた。固まりかけた血が滴《したた》ってどろりと頬を伝った。全身が総毛立《そうけだ》つ。
吉秋には首がなかった。
築宮は塔馬を助けることも忘れて吐いている。塔馬はなんとか起き上がった。死体を抱えた感触がまだ腕に残っている。寒気が足下から背骨を真っ直ぐに走り抜けた。
〈首は……首はどこにある?〉
事故のせいだと思ったが、この雪では首が切断されるような情況にない。辺りには裸木さえないのだ。
塔馬は吐き気と戦いながら吉秋の首なし死体を調べた。
〈刃物で切ったんだ〉
切断面が奇麗過ぎる。
〈いったい、なんのために〉
首を切り取って死体の身許を分からなくさせたり、別の死体を使って本人が死んだと思わせる方法はあるが、これはどう見ても吉秋だ。行きずりの人間相手ならともかく、仲間の目をごまかせるほどソックリな死体を調達できるわけがない。
〈恨みとしか考えられんな〉
それも相当な恨みに違いない。やはりパンドラ殺しと関係があるのだろうか。
「どうした! なにがあった」
心配した長山が上で叫んでいる。
返事をしようと口を開けた途端に猛烈な吐き気が塔馬を襲った。
「首が切られてるだと!」
上がってきた塔馬と築宮の報告を受けて二人は絶句した。
「それじゃ……殺しってことか」
「まさか……勘違いだよ」
寺岡は信じなかった。
「かまいたちでもナイフとおなじ傷になる。オレが見てこよう」
「スキーじゃないと無理です」
なんとか平静に戻った築宮が弱々しい口調で寺岡を押しとどめた。
「かまいたちで首が取れるとは思えない。第一、肝腎《かんじん》の首がどこにも見当たらないんだ。恐らく別の場所にでも捨てられたんじゃないか」
塔馬の言葉に長山と寺岡は眉をしかめた。
「なんで首を切ったんだよ」
長山もおなじ疑問を抱いた。
「恨みとしか……きっとパンドラの殺され方となにか関わりがある」
「おなじように首を切られたってことか? 穏やかじゃねえな」
長山はゾッと肩をすくめながら、
「となりゃ復讐って線か」
考えられないと首を振った。
「ダイスケにパンドラは殺せっこねえよ。考えすぎだぜ」
「あるいはダイスケが犯人を知っていて、逆に殺されたとも想像してみたんだが……それなら首を切り落とされる理由がなくなる。まさか犯人は推理小説を面白くするように無意味に切り取ったわけじゃなかろう」
「理由はあるさ。絶対に」
長山は警戒するような視線を三人に浴びせた。
「とにかくトーマの不安は的中したわけだな。悪いがオレはこの件から抜けさせてもらうぜ。宿に戻ったら歩きで山を下る。まだまだ命は惜しいんでな。この調子じゃ次にだれが狙われるか分かったもんじゃねえ」
「それはオレが許さん」
塔馬は厳しく言った。
「こいつは殺人事件だ。しかも仲間の中に犯人がいる可能性が強い。警察のきちんとした取り調べが済むまで、勝手な行動は慎んでくれ」
「殺される危険があってもか」
「チョーサクはミステリーを仕事にしているんだろ。そのぐらいは分かっていそうなもんだがな」
「分かってるさ。本の中ならな」
「なにか思い当たることでも?」
塔馬は不審を覚えた。いつもの長山らしくない。本当に怯えている。
「論理的な犯人なら怖かあねえよ」
「どういう意味だ」
「オレにはどう考えてもダイスケが殺される理由が納得できねえ。ひょっとすりゃ犯人は無差別に相手を選んでいるのかも知れんのだぜ」
「………」
「犯人が狂ってりゃ、こちらがどんなに清廉潔白であろうと安心なんかできるわけがなかろう」
塔馬は唸った。
「しかし……逃げると立場が悪くなるんじゃないかね」
寺岡が口を挟んだ。
「不安は分かるが……警察は真っ先に疑うだろうな」
築宮もそれに同意した。長山は落ち着かない目になった。
「我慢してくれ。互いに仲間と離れないようにしていれば危険も避けられる。それに、もう犯人の目的は完了したのかも知れない」
「まるでおまえさんは犯人じゃねえような言いぐさだな」
それでも長山は塔馬に信頼のこもった笑顔を見せた。
「それよりダイスケは?」
築宮が塔馬に質《ただ》した。
「まさか、あのままってことは」
現場保存の大事なことはだれも知っている。だが仲間としては辛すぎた。警察が今にでもくれば別だが、このままでは明日以降になる。
「幸い医者のテラさんもいるんだ。ロープで引き上げて連れて帰ろう。放って帰りゃ人間じゃねえよ。ダイスケだって恨むさ。真夜中に首なしの幽霊が宿をほっつき歩くぜ」
長山の精一杯の友情だった。
塔馬にも異存はなかった。位置は血の染みこんだ雪で分かる。死体の形もどうせ雪から引き上げたために変わっている。いまさらの現場保存にどれだけの意味があるか分かったものではない。
「警察にはオレが責任を取ろう」
寺岡もそれを勧めた。
「しかし……問題は運ぶ方法だ」
塔馬は斜面を見下ろして頭を悩ませた。たとえ吉秋の死体をこの道まで引き上げたとして、宿までは三キロも離れている。背中に担いで行くのも少し躊躇《ためらい》があった。吉秋は八十キロ以上もある男なのだ。と言ってスノーモービルで乱暴に引き摺って行くわけにもいかない。
「トーマとユータはダイスケの体を引き上げといてくれ」
相談すると長山は言った。
「その間にオレはテラさんを宿に置いてくるよ。そうして戻ってくりゃモービルの助手席にダイスケを積めるだろう。それしかない」
「いや……テラさんにはなんとかこの場に残っていて欲しいんだ。警察に後から文句を言われないようにするためには医者がいた方が……」
「なるほど。そりゃ言えるな」
「それならオレがチョーサクさんを宿に置いてきます」
築宮が名乗りでた。塔馬は同意した。帰りは一人が死体を乗せたモービルを運転し、二人がスキーで続かなければならない。スキーができるのは塔馬と築宮だけで、医者の寺岡も外せないとなれば、その方法しかなくなる。
「だけど、テラさんにモービルの運転ができるのかい?」
長山の問いに寺岡は頷いた。
「じゃあ、オレは宿から警察に殺人の連絡を入れておこう」
「そいつも……テラさんにお願いした方がいいんじゃないですか」
築宮が長山を止《とど》めた。
「どうせこの雪崩で警察も直ぐにはきてくれないし……だったらテラさんの説明の方が伝わりやすい。それにテラさんは山形県の名士だから」
「だろうな」
塔馬もおなじ意見だった。
「多少警察への報告が遅れてもおなじだよ。それにチョーサクからの連絡だと警察も余計な刺激を受けるんじゃないか?」
「なんでだ」
「現実にはどうか分からんが、推理小説じゃミステリー作家は警察のライバルだと思われているようだ。テラさんの方が無難だろう」
寺岡も苦笑して引き受けた。
「それよりもチョーサクは女たちの気持を鎮める役目にまわってくれ。それと、宿のおかみと相談してダイスケを安置する場所も決めておいてもらわないと」
長山は素直に従うと築宮の運転するモービルに乗りこんだ。
「往復に四十分もかかりませんよ。今度はオレたちのつけた道もあります。万が一のためにスコップなんかも持ってきますから」
築宮は軽く手を振ると見る見る塔馬たちの視界から遠ざかった。
「さてと……ロープをかけてくる。テラさんはここで待っていてくれ」
ロープを肩にして塔馬は斜面を慎重に滑り下りた。ゆるやかと言っても間違えれば谷に転げ落ちる。吉秋の死体も深い雪のせいで途中に引っ掛かったのだ。
二十分後。ようやく死体が上まで引き上げられた。寺岡は医者だけあって吉秋の無残な体を眺めてもさすがに動じなかった。じっくりと体や切断された傷口を点検する。
「ほとんど同時だな」
寺岡は手についた血を念入りに雪で洗い流しながら言った。
「なにが?」
塔馬はタバコを勧めた。寺岡は受け取ると美味《うま》そうに喫《す》って、
「殺されたのと首が切られたのがだよ。あるいはこいつが死因だ。体のどこを見ても他に刺し傷一つない」
「殺されたのは何時頃だと思う?」
「明け方だろうとしか言えんな。解剖すればもう少し時間も特定できるとは思うがね。残留体温を計ろうにも、この通り長い間雪に埋もれていたんだ。表面がカチカチだ。極端に暑すぎたり寒すぎれば死亡推定時刻にも大幅な狂いが生じる」
「凶器の見当は?」
「ナタのような鈍器じゃないことは確かだ。小刻みに切られている。包丁かナイフか……恐らくそんなものでゆっくりと切られたんだろうな」
「しかし……生きたままの首を切断するってのは大変な作業だぜ」
寺岡も認めた。
「やっぱり、殺してから首を切り落としたのさ」
「なんのために……死体の身許をごまかそうとでも?」
「さっきから悩んでいる」
塔馬は応じながら首を振った。
「時間も特定できないとなれば、どこで殺したかも曖昧になるな」
「どうして? ここじゃないのか」
寺岡は不審な目で見詰めた。
「違うだろう、とは思うけど……証拠があるわけじゃない。昨夜から明け方にかけては猛吹雪だった。もし犯人がここでダイスケを殺したとするなら、相当厳しい環境の中で作業を進めなければいけない。確かに雪が血の痕跡を覆い隠してくれる利点はあるが、オレならやらないね。別の場所で殺して運んでくる方がずうっと楽だ」
「すると……宿の中で」
「まさか。宿なら血の処理が面倒になる。少し離れた場所かな」
「だが、時間は特定できんのだ。あるいは吹雪も治まっていたと……」
「流れた血はどうなる? 晴れていれば痕跡も残るさ」
寺岡は、なるほどと頷いた。
それから十五分後に築宮が戻ってきた。モービルにはスコップやら毛布が積みこまれている。
「リサはどうだった?」
築宮と二人で吉秋の死体を毛布に包みこみながら塔馬は訊ねた。
「半狂乱でした。チョーサクさんは殺されたと伝えただけで首のないことは教えていませんから……見せない方が親切でしょうね。いくら男勝りだと言っても無理ですよ」
「オケイは?」
「宿にいます。あいつはなんとか耐えている。映画なんて仕事をしてると、やっぱり違うんですかね。まあ昔から度胸のあるヤツだったけど」
「だけど……パンドラの箱から干涸《ひから》びた指がでたときは泣き叫んでいたじゃないか」
「思いがけなかったからでしょう。今回は覚悟もあったろうし」
「………」
「首を切断した理由なんですが」
「なにか分かったかい」
「凶器が直ぐに分かる傷でもついたんじゃないですか。それを隠すために首を切ったということは?」
「たとえば、どんな凶器だ」
「さあ……ただの直感です」
「いい狙いだな。確かに」
塔馬は唇を噛んだ。一見グロテスクで恨みとか復讐を咄嗟《とつさ》に想像させるが、犯人にはもっと現実的な理由があったのかも知れない。
3
「とんでもないことになったぜ」
モービルの音を聞きつけて宿の外にでていた長山が走ってきた。
「ついに電話が不通になった」
塔馬たちは顔を見合わせた。
「警察はテラさんに任せるとして、とりあえずダイスケの女房に伝えようってことになったんだ。そしたらウンともスンとも言わねえ。朝までは確かに通じていたんだ。リサも電話でオケイを呼びだしたからな」
「吹雪がやんだというのに?」
「いや。それは有り得る。電話線に大量の雪が付着して、その重みで切れる事故はしょっちゅうだ。吹雪とは関係ない。問題はどこが切れたかだ。宿の引きこみ線だけなら、他の民家は大丈夫だろう」
寺岡が言った。
「試してみたよ。オケイの家も通じなかった。恐らく峠のどこかで線が切断されたらしい」
「………」
「つまり、お手上げってことさ。これで警察への連絡もパアだ」
「最後に電話を使ったのは?」
築宮が質した。
「おかみの話じゃリサだろうと……あれは八時頃かね」
塔馬は時計を見た。間もなく十二時になろうとしている。
「どうする? 危険を冒して山道を下《くだ》るか。モービルは無理でもスキーならなんとかなるだろう。三、四時間で麓まで着けるかもしれんぜ。それとも……様子を見るかだ」
長山は塔馬に決断を促した。
「二人じゃないと危険ですよ。スキーならオレとトーマさんだ」
「今から出発じゃどうかな。無事に麓に着いても戻りは夜になる。警察も身動きがとれない。ここは明日まで待った方が」
寺岡が築宮を遮った。
「それに……もし切断された電話線が麓に近ければ午後にでも開通する可能性だってあるんだ。これ以上心配を増やすこともあるまい」
いかにも慎重派の発言だ。死体を引き上げたばかりでヘトヘトに疲れていた塔馬はそれに同意した。とても二十キロの山道を行き来する自信はない。下りはともかく、それをまた上がってくるのは不可能だ。
「それで決まりだな。じゃあダイスケの死体を宿に入れてくれ」
長山は築宮に指示した。
「おかみさんの好意に甘えることにした。今夜は部屋で通夜をして、明日になったら車庫に移す。宿では構わんと言ってくれたが、そこまで迷惑をかけるわけにもいかんだろう」
「通夜となれば……」
築宮は躊躇《ためら》った。
「毛布からだすんですか」
枕をさせるにも首がない。
「リサやオケイが心配だな」
「仕方がないだろう。まさかこのまま畳に投げだして置くわけにゃ」
「いや。やっぱり毛布からだすのは止そう。きっと女たちには耐えられない。この上に布団をかけてもダイスケにオレたちの気持は通じるさ」
塔馬の言葉に築宮は安堵した。
玄関に運びこまれた死体に首がないと聞かされて亜里沙と蛍は絶句した。衝撃で亜里沙は膝から崩れこんだ。慌てて蛍が肩を支える。
「どうして!」
亜里沙が怖々と毛布を見ながら震え声で叫んだ。
「ダイスケがなにをしたって言うのよ。酷いじゃない」
「………」
「首はどこに?」
「見つからない。どこか別の場所にでも捨てられたんだろう」
「なんてことをするの! そんなの人間のすることじゃないわ」
亜里沙は大粒の涙を零《こぼ》した。
「本当に事故じゃないのね」
蛍は塔馬に確認した。
「間違いなく殺人だ。テラさんが傷口を見てくれた。包丁のようなもので切られたらしい」
「話はあとだ。とにかく部屋に運んでやろう。リサたちは布団を敷いてくれ。暖房はいらない」
事務的な口調で寺岡が命じた。言われたリサも頷いた。
「こういうときに医者の有難さが身に染みるな。情け無いが、こうしてダイスケの重さを腕に感じただけで震えがきてるんだ」
長山が塔馬の耳元で囁《ささや》いた。
「テラさんなら首を切り落とすにも怖さがなかったかも知れん」
塔馬はゾッとした。
「早く足を持ってくれ」
ロビーに上がった寺岡が長山を急《せ》かした。今の言葉が聞こえたのかも知れない。塔馬は表情を窺《うかが》った。特別な変化はない。
〈それにしても……〉
もし寺岡が犯人なら、首を切り落とすなど面倒な方法をあえて選ぶものだろうか。医者であれば睡眠薬を常備していることも考えられる。吉秋を眠らせてから窒息死させる方がずうっと簡単だ。いや、それだと解剖で直ぐに発覚する。しかし、だからと言って首を切るとは思えない。他の人間に比較して首を切るのに怖さが少ないと言うだけでは、疑う根拠としてあまりにも弱すぎる。
医者以外の人間が行なった残虐殺人なら世間にゴロゴロしている。
「トーマも手伝ってくれ」
必死で足を抱えながら長山が弱々しい声をだした。額には大粒の汗が浮かんでいる。寝不足と二日酔いのツケがまわってきたに違いない。
「こんなに死体が重いもんだとは思わなかった。前に、女が殺した男をトランクに詰めて宅配便で大阪に送る話を書いたが、ありゃあ嘘だな。寝室から玄関までも運べやしねえ。きっとバラバラ殺人のほとんどは便利さが理由だぜ。殺してから人間の重さに気づくのさ」
怖さを紛らわすためにか長山は部屋までの廊下を話し続けた。
三十分後。
全員が塔馬の部屋に集まった。
「正直言って……」
塔馬は慎重に話を進めた。
「ダイスケがなぜ殺されたのか、オレにはさっぱり見当がつかない。首が切られた理由もね」
「………」
「だが、これがパンドラの事件と関わりのあることだけは事実だろう。昨日までは遊び半分でいた人間も、これからは気をつけてくれ。チョーサクも言っていたけど、犯人は無差別に仲間を狙っている可能性だってあるんだ。こんな言い方は嫌いだが今は相互監視する以外に防ぐ方法が見つからない」
「まだこんなことが続くと言うの」
蛍が怯《おび》えた口調で一人一人に問いかけの視線を送った。この中に吉秋を殺した人間がいる。
「私は関係ないわよ」
長山は苦笑しながら、
「命乞いしたって通じる相手じゃねえよ。常識もな。ダイスケなんぞは恐らく一番の善人だったはずだぜ。あいつを恨むヤツなんていねえさ。それが殺されたとなりゃ、あとはだれが狙われても不思議はねえ。せいぜい気をつけるこった……もっともオケイは実家にいるんだから多少は安全かも知れんがね」
「………」
「でも、ねえか。泊まっているユータが犯人なら、危険は倍になる」
「よしてくださいよ。なんでオレがダイスケを殺すんです」
築宮は唇を震わせた。
「招集をかけたのはおまえさんなんだぜ。忘れちゃ困るな」
「その件だが──」
塔馬は口を挟んだ。
「ユータじゃないんだよ」
長山はポカンと口を開けた。
「ダイスケにハガキが届いた。パンドラの十三回忌が近づいた、とだけ書かれたハガキがね」
「それでヤツが怖がって連絡してきました。切っ掛けはあいつです」
「つまり……ダイスケは脅迫されていたってことか。なんでそんな大事なことを話してくれねえんだ。だったら殺されても不思議じゃねえ」
長山は声を張り上げた。どこかに安堵の色も混じっている。
「理由はあったんだよ。オレたちには分からん理由がな。それなら無差別殺人とは限らんぜ」
「まだ、ある」
塔馬は長山を制した。
「これも隠していたが……今朝、そこの襖の下にこの紙が落ちていた」
全員がテーブルに置かれた紙を怖々と覗きこんだ。
「……ふくしゅうはこれからだ……なにこれ!」
読み上げて蛍が泣き声を上げた。
「ダイスケの殺人を予告したものだと思う。いや、そう信じたい。もしこれがダイスケを殺したあとに書かれたものなら、犯人は次の殺人を考えているってことになるからな」
「どっちが先だ?」
長山が青ざめた顔で言った。
「これが置かれたのはチョーサクが寝てからオレが起きるまでの間だ。ほとんどダイスケが殺された時間と差がないんじゃないか」
亜里沙は恐怖に顔を強張《こわば》らせた。
「あの……」
襖の外からおかみの声がした。
「一応お食事を用意しました。こんな状態ですから簡単なものですが」
全員が互いの顔を見やった。思えば朝からなにも口にしていない。
「食欲はないけど」
亜里沙が首を横に振った。
「せっかく準備してくれたんだ。少しでも腹に入れた方がいい」
寺岡が皆を促して立ち上がった。
「こうして全員でカレーライスを食ってると、あの頃を思い出すよ」
長山が続けた。
「よく、合宿ってのをしたじゃないか。なんで茶研に合宿が必要だったのか分かんねえけどな……それでもダイスケの拵えたカレーの味は今でも忘れんよ。じゃがいもがたっぷり入ったドロドロのヤツでな。最初は閉口したが、卒業の頃にはすっかり馴れちまった。確かこの宿にきたときもダイスケが作ってくれたんじゃなかったか。ユータの家の台所を使わせてもらってさ」
「私も手伝ったわ」
亜里沙も覚えていた。
「ユータの家はどうなったの」
「もちろん今もあるよ。祭礼があるときにしか使わないから相当傷んできたけど……そのままだ」
「人間てヤツは若い頃に食った食い物をいつまでも引き摺るって言うが本当だな。なにを食っても、昔の味が忘れられん。脂ぎったナポリタンも懐かしくて頼むんだが、どうも今の味は上品すぎるぜ。たまに田舎へ取材にでかけて古い味に出会うとやたらに嬉しくなる」
「カツ丼だって食わなくなった」
寺岡も同意した。
「そうそう。オレなんかカツ丼が日本で最高級の食い物だと思ってた。毎日カツ丼の食える生活を夢に描いていたもんだよ。ステーキなんぞは軽薄な外国かぶれの好むもんだと軽蔑していたからね」
「負け犬の遠吠えでしょ」
蛍が笑った。
「冗談じゃねえ。今だって滅多に食わん。ときどきレストランに入っても、せいぜいハンバーグさ。あんなのに高い金を払う気がしない。なのに七つ八つのガキがとなりの席で平然とヒレステーキやエスカルゴとか注文しやがると無性に腹が立ってな。もしオレの子供ならぶん殴ってやるとこだ。オレでさえエスカルゴなんて三、四回しか食ったことがねえんだぞ。他人の生活に興味はないが食い物に関してだけは別だ。前に講演先で接待を受けていたら、向かいの席で小学生がしゃぶしゃぶを食っててな、それも半分ほどで残しやがって、今日の肉は霜が少ないね、ときた。席を蹴立てて往復ビンタを食らわしてやりたくなったぜ」
「よして。ダイスケが死んだというのに……笑えないわ」
亜里沙がピシャリと言った。
「じゃあ……ダイスケの首の行方でも話題にしてりゃいいのか」
長山は憮然《ぶぜん》として亜里沙を見た。
「皆、忘れてえんだよ。せめてメシを食ってるときぐらい考えなくてもバチは当たるまい。今頃ダイスケの女房や家族はヤツが殺されたことも知らずにのんびりとテレビでも眺めてるだろう。それを思うとオレだってやり切れない気分なんだ」
吐き捨てるように長山が言う。
「子供はいたのか?」
塔馬は築宮に訊ねた。
「五年生の女の子が一人」
「可哀相な話だな」
塔馬の呟きに亜里沙がボロボロと涙を零した。
「首を見つけてあげて。あんまりだわ、それじゃ」
「現場付近はちゃんと捜したんだろうな。見逃しってのはないかい」
長山が確認してきた。
「少なくとも十メートルの範囲内に血の痕跡はなかった。深い谷底に落ちていれば絶望だが……あるいは別の場所に捨てられた可能性も」
「どっちだと睨んでる?」
「切断した理由によるね」
長山も頷いた。
「復讐か凶器の問題だな」
「なに、それ」
亜里沙が塔馬を見詰めた。
「復讐だとしたら首を切断することで目的は完了する。だったら発見されても構わないわけだ。ところが首に犯人や凶器を特定するような傷が残って、それが切断の理由だとすれば、犯人は必死で首を隠そうとするだろう。テラさんには前に話したが、切断現場にしたって、あそこじゃないと見ている」
「じゃあ、この宿で殺されたということだってあるの!」
「解剖で殺害時間がもっとはっきりすればな。もっとも、テラさんの意見じゃむずかしいそうだ。何時間も雪に埋まっていたんだから……」
「最後にダイスケを見たのは本当にオレなのか?」
長山が全員を見渡した。
「リサが物音を聞いたそうだよ」
塔馬の言葉に長山は正確な時間を訊ねた。亜里沙は首を傾《かし》げて、
「分からないわ。いちいち時計なんか見ないもの。でも……電気を消す前に見たときは一時頃だったから、その後なのは確かよ」
「一時って言うと、オレとダイスケが風呂に入っていた頃か。それからオレが先に戻って、次に三時頃にまた風呂にでかけた。リサの聞いたのはオレの足音かも知れんな。部屋が向かい合ってるから足音も響く」
「でも……それはチョーサク一人だったんでしょ。なら違うわよ」
「どういう意味だ」
「低いから聞き取れなかったけど、話し声のような気がしたの。まさか夢遊病者はいないでしょうね」
塔馬の目が光った。
「情況から見ると風呂に残っていたダイスケとだれかが合流して戻ってきたか、反対にダイスケと共謀して宿を抜けだそうとしていた感じか」
「あれは……近づいてきた物音みたい。階段のギシギシと軋《きし》む音が先に聞こえたもの」
「それが事実なら、そのときダイスケと一緒にいた人間が犯人だ」
長山はジロッと寺岡を見た。
「よせよ。オレじゃない」
「論理的に言うとそうなるぜ。トーマはオレのとなりで眠っていたし、物音を聞いたのはリサだ。オレは仕事中となりゃ……残りはテラさんしかいなくなる」
「バカな。オレは疲れて眠りこんでいた。第一、リサの話だって確実じゃない。話し声のようだっていうだけじゃないか。そんなことを言うならチョーサクにもチャンスがあるんじゃないかね。仕事をしていたと言うが、そいつはだれが証明する」
「………」
「それに……悪いが、あの岩風呂は外からも出入りができる。宿にいた者だけを疑うのは片手落ちだよ」
「私まで疑ってるの!」
蛍が青ざめた。
「ダイスケ一人が入っている風呂になんか絶対行かないわよ」
「別にオケイを疑いはしない。チョーサクの好きな論理ってヤツを延長して説明しただけだ。こいつは動機や感情を無視して機械的に推理している。そこまで言うなら……リサの証言が確かなものだという証拠も欲しいな。物音を聞いたのはリサ一人だ。もしリサが犯人で、アリバイ作りの嘘をついていたらどうなる」
寺岡は激しく言い切った。
「二人部屋だから安心しているようだが、トーマとチョーサクが組んで殺したという可能性だってあるんだぞ。身勝手な推理はたくさんだ」
「………」
「なぜオレがダイスケを殺す? ダイスケはずうっと山形営業所にいたこともあるんだ。オレとはしょっちゅう仕事で会っていたよ。もしパンドラのことでオレが復讐を考えていたとしたら、とっくに殺している。今頃になってわざわざ脅迫のハガキなんかを出す必要があるのかね」
長山は返事に詰まった。
「それは……違うんじゃないか」
塔馬が口を挟んだ。ギョッとして寺岡は塔馬と向き合った。
「なにが違う」
「テラさんは……何度もダイスケと会っていたから、いまさら殺さないと言うが……恐らく今度の殺人は見せしめだよ。もし犯人がダイスケを殺したいと思っていても、肝腎の住所が不明だったら今回のような機会を絶好のターゲットにするだろう。その場合、テラさんの論理は通用する。ヤツの住所を知らなかったオレとかリサ、チョーサクに嫌疑がかかっても仕方がない。けれど、犯人はダイスケに脅迫のハガキをだしている。つまり、居場所を知っていたってことだ。いつでも殺せたはずじゃないか。なのに放って置いたのは、見せしめのためとしか考えられん。仲間が集まっているところで殺したかったのさ。それなら、前に何度も会っていることが嫌疑から外される大きな理由にはならない」
「トーマもオレを疑うのか」
寺岡は拳を握り締めた。
「論理。論理にすぎないよ。テラさんの言う通りなんだ。オレはオレ自身の行動にしか責任が持てない。たった今の論理にしたって、犯人がダイスケにハガキを送ったことを重視すると、彼の住所を知らなかった人間は犯人でなくなるが……チョーサクとリサが知らなかったというのを証明するものはなにもない。犯人だったらもちろん嘘を言うに決まっているからな」
「そこまで考えりゃミステリーなんぞは成立しないぜ」
長山が呆《あき》れ顔で言った。
「だから世の中には冤罪《えんざい》事件が絶えない。人の嘘を見抜くのは至難の業だ。ましてや罪に関わる可能性が少しでもあれば必死になる」
「ハガキをだしたのが犯人だと断定していいのかしら」
亜里沙が塔馬に質《ただ》した。
「分からん。ふくしゅうはこれからだ、と書いたのが犯人だとしたら、ハガキも犯人のものだと推定できそうだがな。そいつだって今のところなんとも言えない……調べて見たが、切り抜き用に使った新聞はこの宿のものじゃないらしい。帳場にある綴じ込みは完璧に揃っていた。犯人が最初から用意してきたものか……それとも」
「別の新聞を入手できる人間ってことだな」
長山は築宮と蛍に目を動かした。
「やれやれ今度はオレたちか」
築宮は首を何度も横に振った。
「そんなの、いくらでも用意してこれるでしょう」
塔馬も頷くと、
「どこまでいっても堂々巡りさ。パンドラのことだって、本当に殺人があったのかも不明なんだぜ。とりあえず自分が犯人じゃないと分かっている人間は、他のだれをも疑ってかかることだな」
塔馬の言い方に長山は苦笑した。
「今夜はおまえさんと別々の部屋に眠らせてもらおう。まったく呆れた探偵だ。なんの解決にもならん。人が良すぎて追及の矛《ほこ》先が鈍るからじゃねえのか」
「でも……チョーサクが探偵になるよりは、ずうっと安心よ。あんたは好き嫌いで判断するもの」
亜里沙が揶揄《やゆ》した。
「まさか。好き嫌いで通るなら、真っ先にオケイを犯人に仕立てあげるさ。女優が犯人なんてのはいかにも読者が喜びそうな犯人像だ」
「溝口正史……ね」
蛍にもそのジョークが通じた。横溝との勘違いは別にして。
4
二時間がすぎた。
それぞれは今夜の通夜を前にして午後を自由に過ごしていた。無言で顔を突き合わせていると疑いだけが頭に広がってくる。亜里沙は蛍に誘われて築宮と一緒に彼女の家に向かった。線香や蝋燭《ろうそく》の準備のためだ。
塔馬は長山と薄暗い岩風呂に体を浸《つ》けていた。かなり高い位置にあるはずの窓ガラスが半分まで雪で覆われている。溶けた雫《しずく》が屋根から雨垂れのようにキラキラと落ちてくる。ぬるめの湯に体を預け、規則正しい雫の音を耳にしていると眠ってしまいそうだった。吉秋が殺されたというのに、この静けさはなんだろう。塔馬はぼんやりと天井を見上げた。湯が動いて長山が上がった。濡れ手拭いを腰に巻いてゴツゴツした床に身を横たえる。
「正直なところを聞かせてもらえないかね」
「………」
「復讐って線はむずかしいと思うんだ。どんなにダイスケが脅迫されていたと聞かされても、あいつがパンドラをどうかしたとは考えられんのさ。オレの見立てじゃ、人畜無害の典型だぜ」
「犯人が勘違いして殺したとでも」
「そこが分からねえんだよな……だいたい、ダイスケが脅迫されていたってのは事実なのか?」
「ハガキは確かに見た」
「ダイスケが直接おまえさんに?」
「いや。ユータから」
「本当なのかね。事実ならダイスケも相当な役者だ。オレには怯えの色をまったく見せなかった」
塔馬は湯の中で冷や汗を掻いた。もし長山の想像が当たって、すべてが築宮の作り話なら事件を最初から考え直さないといけない。
「まったくの嘘だとは信じられないね。オレがダイスケにそれを問い質すこともあるだろう。それなら直ぐに嘘がバレる」
「バレても構わんだろうさ。ダイスケを殺す前なら冗談で済む。遊びなんだと説明されりゃお終《しま》いだ。それにおまえさん、その件はユータに口止めされていたんだろ」
塔馬は唸った。
「結局、単純な事件じゃねえのか。招集したのはユータなんだし……パンドラとも一切関係のない殺人かも知れんのだぜ」
「首を切ったのは?」
「復讐に見せかけて動機をごまかす魂胆だ。よくよく考えてみると、ユータがこの宿に泊まらないってのも不自然だ。いくら従妹《いとこ》のオケイの家が近くにあったとしてもな」
「圏外に逃れるためだと?」
長山は頷いた。
「今までの推理の中じゃ一番論理的に思えるが……圏外に逃れる利点よりも、他人の家に泊まる不便さの方が問題だ。宿ならだれかに見咎《みとが》められても風呂とかトイレに起きたと言い訳が利く。オケイの家から夜中に出るのを見られたら最後だぜ」
「なるほど。その危険は高い」
「ユータが犯人で、もしオレがユータなら自分の家を使う。そのままだって言ってたろ。それならだれも怪しみもしないし、出入りも自由だ」
そのとき、母屋の方から激しい悲鳴が聞こえた。ビクンと長山は飛び起きた。声の方向を確認する。
「だれの声だ」
「おかみさんじゃないのか」
慌てて塔馬も湯を飛びでた。帳場から階段を上がる何人かの足音らしいものが耳に響いた。
「悲鳴は二階だな」
長山は素早く脱衣所で浴衣《ゆかた》に着替えると走った。塔馬も後を追う。二人は近い階段を駆け上がった。二階に着くなり暗い廊下で三、四人の使用人たちが必死におかみを鎮めている様子が目に入った。おかみは年甲斐もなく泣き叫んでいる。
「どうしたんです!」
不吉な予感がする。彼らの立っている場所は吉秋の死体を安置している部屋の前だ。襖が半分ほど開いている。塔馬の声に何人かが同時に部屋の中を指差した。しかも指だけでだれも中を見ないようにしていた。いったいなにが起きたのか?
塔馬と長山は顔を見合わせた。
塔馬は恐怖を抑えながら走った。襖の隙間から吉秋の体を覆う布団が見えた。目を布団に這わせる。
「……!」
思わず塔馬も悲鳴を上げそうになった。
「う」
塔馬の背中越しに室内を覗きこんだ長山が慌てて口許を掌で押さえた。我慢しきれずに長山は吐いた。廊下に逃れる。それにつられて何人かの使用人たちも汚物を撒《ま》き散らした。
死体の枕許には、塔馬を睨むようにカッと目を開いたままの吉秋の首が立てられていたのである。
〈まったく……どういう魂胆だ〉
塔馬は眩暈《めまい》を覚えた。背中でわめいている長山の声も遠くに聞こえる。
〈狂っているのか?〉
犯人は吉秋の首を二度の楽しみが目的で切断したのか? この様子ではそうとしか思えない。凶器や殺害方法が特定されるのを恐れていたのではなかったのだ。次々に推測が外れる。
塔馬は必死に首を凝視した。
血液はほとんど流れ出てしまったのだろう。畳は大して汚れてもいない。気のせいか吉秋の円い顔が痩せて見える。まるで猿のようだ。
〈むごいことをする〉
首の安定を保つためにか、切断面が新たに広げられていた。後頭部の生え際の辺りから喉仏にかけて斜めにスパッとやられている。
塔馬の目から涙が溢れた。
5
亜里沙と蛍は二度の衝撃に口も利《き》けないでいた。部屋に入るのを恐れるかのように寺岡と塔馬の仕事を遠巻きにしている。フラッシュの光が部屋から洩れるたびに辛い顔を見合わせた。
「こんなもので充分かね?」
寺岡がカメラのファインダーから目を離した。吉秋自身が皆との記念写真を撮影するために持参したカメラだ。まさか、こんな使われ方をされるとは夢にも思わなかったはずだ。
「首の切断面も撮影しておいた方がいいんじゃないか。明日はなんとしても麓と連絡をとるつもりだけど、猛吹雪にでもなれば不可能だ。警察がいつ来てくれるか分からない。できる限り記録を残しておかなきゃ」
寺岡は頷くと首に手を触れた。ヒョイと無造作につつくと首は重い音を立てて畳に転がった。塔馬の心臓は激しく痛んだ。赤い肉が剥《む》きだしになる。特別表情も変えずに寺岡は何枚かシャッターを切った。医者の残酷さがこれほど明瞭に伝わってきたのははじめてだ。フラッシュが暗い部屋を一瞬真昼に変え、首の残像が瞼《まぶた》の裏に浮かぶ。
「気持は分かるがな……」
厭《いや》な顔をしていたに違いない。寺岡が苦笑しながら塔馬を見上げた。
「仲間だなんて考えていたら何事もできんよ。まだ撮るか?」
塔馬も納得しながら、
「面倒だろうが体の方もこの際一緒に撮影しよう」
「毛布をほどいてか……構わんが我々だけじゃ時間がかかる」
寺岡は廊下で待つ長山と築宮に声をかけた。築宮が顔を見せる。現場を荒らさないように二人だけで撮影すると申し合わせていたのだ。築宮と長山は寺岡に促されて入ってきた。
「気分は治まったかい?」
寺岡が長山を心配して訊ねた。
「なんとかな。さっきは突然だったんで心の準備がなかっただけだ」
思えば長山は死体さえ見ていない。雪から掘り起こし毛布にくるんでそのまま宿に運び入れたのだ。
「もし、辛いんならユータだけで大丈夫だぜ。三人でやれる」
塔馬の言葉に長山は逡巡《しゆんじゆん》した。落ち着かない視線も吉秋の首の方には絶対に動かさない。ミステリーを書いている割合に度胸はないようだ。それとも逆に想像力が豊かすぎて恐怖が倍加しているのか。反対に築宮は平然と構えていた。昔は気の小さな人間だと考えていたが……神社では葬式もやる。医者と同様、死体は見馴れているのかも知れない。
「やっぱり止《よ》すか。また吐いたりすりゃ皆に迷惑だ」
珍しく弱音を吐いて長山は部屋から引き下がった。
「現場がここじゃない以上、撮影しても役には立たんと思うがね」
「体の方の切り口が目的だ。確か真っ直ぐだったと思う」
築宮も塔馬に同意した。
「このままじゃ首と胴体をピッタリ繋《つな》ぎ合わせることができない」
「それが重要かね? さっきのトーマの説明通りで疑問はないさ」
寺岡は首を傾《かし》げた。
「首ってヤツは皆が思っている以上に安定が悪い。復讐が目的で、しかも威《おど》かすつもりなら立てておきたくなるだろう。ゴロンと投げ捨てられていたんじゃ効果が薄くなる。だから見上げるような形になるよう首の後ろの肉を斜めにこそげとった。問題はないよ」
「そう思っていたけどね」
「けど? なんだ」
「だったら、どうしてこの場に切り取った肉が落ちていないんだ。犯人が後片付けをしたとも考えにくい」
「そりゃあ……別の場所で試して見たんだろうさ。この部屋でそんな作業をしていれば危険が大きい。だれが入ってくるかも分からんからな」
あっさりと寺岡は言った。なるほどと塔馬は頷いた。確かにその見方は当たっている。
「それなら写真はいいんですか?」
痺《しび》れを切らしたように築宮が言う。
「いや。無駄でもやろう。どれだけの部分が足りなくなったか確認しておかないと……後では面倒だ」
塔馬はかけてある布団を外した。胴体をくるんでいる毛布にはしっかりとロープが結ばれている。屈《かが》むと塔馬は堅い結び目をほどきはじめた。築宮も一緒に作業にとりかかる。上から寺岡のフラッシュが飛んだ。
二重の毛布を外すと血なまぐさい臭いが塔馬の鼻をついた。凍っていた血が溶けはじめている。下の毛布はベトベトだ。さすがに築宮も顔を背けた。
「首を頼む」
塔馬が寺岡を促した。
「互いの切断面を合わせて見てくれ」
寺岡は直ぐに首を抱えた。
「だいたい四センチか……前の部分はほぼ一緒だが、後ろはそのくらい足りない。思っていたよりも多かった」
塔馬は寺岡をそのままにさせてカメラをとるとシャッターを切った。ファインダーから見える小さな光景は、さほど怖いものではなかった。むしろ滑稽にも思える。そのギャップが反対に悲しい。吉秋は本当に死んだのだ。塔馬の胸に悲痛がこみ上がった。
通夜は変則的なものになった。
亜里沙と蛍が怯えて死体のある部屋に一歩も入れない。現場保存にもなるからと塔馬も了承し、となりの部屋で行なうことに決めたのだ。怯えるのも当然だろう。胴体の側には生首が添えられているのだから。線香を手にした長山にも安堵の色が浮かんでいる。
「犯人はいつ首を運んだのかな」
築宮が口にした。
「どうせアリバイを確認しても無意味だ。皆、二時間は自由に過ごしていたんだ。たとえ首をどこかに隠していたって、ゆっくり持ってこれる」
寺岡が諦めた口調で首を振った。
「オレたちゃ一緒にいたよな」
長山が塔馬に視線を送った。
「ずうっとか?」
寺岡が確認してくる。塔馬は否定した。互いにトイレに立ったり、長山がコーヒーを飲みにでたりしたので厳密なアリバイとは言えない。
「そっちはどうだった?」
寺岡は次に築宮を眺めた。
「一時間半は三人一緒だけど……その前の三十分は別行動。こいつは先に」
と従妹の蛍を顎《あご》で示す。
「家に戻って……オレはリサが支度するのを階下で待っていました。帳場前のイスに腰掛けてね。残念ながらだれの姿も見かけなかった。そういうのはアリバイって言わないんでしょう」
「私だっておなじよ」
亜里沙も認めた。
「つまり、だれにも時間はあったということさ」
「そういうテラさんはどうなんだ」
長山は不愉快そうに質した。
「ずうっと一人だったはずだ。だれのアリバイも完璧なものじゃねえが、一番余裕のあったのはあんただろ」
「別に否定はしない」
寺岡は静かに笑った。
「もう考えるのもほとほと億劫《おつくう》になった。アリバイなんてものは、犯人の予測がついてからはじめて重要な意味を持ってくる。予測もできない状態でアリバイを云々しても仕方がない。もし真夜中に事件が起きれば、チョーサクはその時間に眠っていたと主張する全員を疑ってかかるつもりか?」
「それとこれとは違うさ。ここには容疑者が六人しかいない。完全なアリバイを持っていれば容疑者から外すことができる。それを言っているんだ」
長山は挑戦的な目で睨《にら》んだ。
「勝手にしてくれ。どうしても犯人に仕立て上げたいのなら、それでも構わんよ。聞こえないフリをしていたが、昼前にもトーマになにか言っていたな」
寺岡は吉秋の死体を宿に運び入れたときのことを言っている。医者の寺岡なら首を切り落とすのにも抵抗がないはずだと長山は囁いたのだ。
「そうしてトーマに余計な印象を吹きこんでおいて、自分はいかにも死体を怖がっているフリをする。気づかれんように自分の喉《のど》に指を入れて吐くなんてのはだれにもできるんだ」
「やめてよ、二人とも!」
亜里沙が叫んだ。
「どうかしたんじゃない」
「面白いな。あれはフリだってのか」
長山は亜里沙を無視して言った。
「こいつは面白いことを聞かされた」
「私も……そう思ったわよ」
黙って聞いていた蛍が冷笑した。
「あんまりチョーサクには似合っていなかった。それとも見掛け倒し?」
長山は頬を紅潮させた。
「てめえらは分かってねえんだ!」
蛍が剣幕にビクンと体を震わせた。
「テラさんはな……」
長山は一瞬|躊躇《ちゆうちよ》して、
「記事のことで嘘をついてるんだぞ」
寺岡の顔が急速に強張った。
「なんでそれが分かった?」
塔馬は穏やかな口調で訊ねた。
「簡単なこった。心臓移植の記事はオレが埋めたものでね」
寺岡はあんぐりと口を開いた。それは他の皆も同様だった。
「だって──チョーサクは自分で三億円事件を選んだと……」
亜里沙は詰め寄った。
「しょうがねえだろうよ。こっちが正直に告白する前にテラさんが言っちまったんだからな。もっともオレも好都合だった。てっきり今の時代にゃ心臓移植が当たり前の治療になってるはずだと睨んでいた。それで先見の明を狙ったつもりが大外れさ。笑われる覚悟をしていたところにテラさんが自分の記事だと言い張った。これ幸いと皆の記事を確認してな……残った中から適当に選んだ。そいつが三億円だった」
「テラさん……そんなの嘘よね」
亜里沙は怖々と質した。
「嘘じゃねえ。あんときから怪しいと睨んでたんだ」
「あんたは黙って!」
亜里沙が寺岡の目を覗く。
寺岡は深々と溜め息を吐いた。
「まさかチョーサクのヤツとは」
肩が小刻みに震えている。
「いまさら弁明しても取り返しがつかんかも知れないが……嘘をつく気じゃなかったんだよ。本当はオレが三億円なんだ」
ヘッと長山が嘲笑《ちようしよう》した。
「いかにも都合が良すぎる話だぜ」
「全部を聞いてからにしよう」
塔馬はその先を急《せ》かせた。
「あの頃のオレは三億円事件に憧《あこが》れていたんだ。しかし、決して犯人がカッコいいとか考えたんじゃない。あの金がオレにあれば念願の地域医療もできる。そんな単純な理由だった……実際に開業できた今となれば、どうとも思っちゃいない。結局、事件よりも金額に気持が動かされていたのさ。だからその件で妙な誤解をされるのは迷惑だった。なにしろチョーサクときたら選んだ記事で当時の気持が分かるとか、くだらんことを言っていたからな」
「………」
「オレの気持が分かるもんか。すべてを犠牲にしても構わんと思っていたオレの気持なんかが」
亜里沙が小さく頷いた。
「そしたら、心臓移植の記事があったんだ。どう見ても仲間が当時に選んだものとは思えなかった。だれも医学に関心を持っていなかったのはオレが一番良く知っている。こいつはきっと後から混入された記事だと判断した。それならオレが自分のものだと偽っても大丈夫じゃないか? この記事だったらだれもが納得する。妙な詮索をされずに済むんだ。それで咄嗟に……」
寺岡はだれにともなく頭を下げた。
「信用してくれとは言わんよ。嘘をついたのはオレなんだから」
「他意はないわよ」
亜里沙が同調した。
「そんなつもりなら皆の告白を待って最後にいえばいいんだもの。記事は何枚も余っていたんだし、だれにも嘘だと見抜かれはしない。違う?」
蛍もそうだと頷いた。昔から寺岡は女性に信用が厚い。
「どうってことのない嘘だわ」
「けれど……嘘には違いない」
塔馬は冷たく言い放った。
「あのときは冗談で皆に記事のことを聞いたわけじゃない。パンドラの選んだ記事を突き止めるのが目的だったはずだぜ。テラさんの嘘に他意があったかどうかは関係ないんだ。一人でも嘘をついたと分かれば、もう、すべてが無意味だ。悪いがテラさんにはその自覚がなかったんじゃないのか。それとも……パンドラのことよりも、自分への他愛のない詮索が問題だったとでも言うのかい」
寺岡は口ごもった。
「パンドラ、パンドラって言うけど、本当に殺されたという証拠はなにもないのよ。そんな言い方は……」
蛍が弁護にまわった。
「ダイスケは殺された」
塔馬は蛍を制した。
「それを忘れてはこまる。今度の殺人を復讐と見るなら、パンドラもまた殺されたと見るのが常識だ。だから曖昧な点をそのままにしておきたくない。嘘を見逃せばいつまで経っても解決には繋がらないんだぜ」
蛍は抗議を引っ込めた。
「他に嘘をついている人間はいないんだな。本当に信じていいんだろ」
塔馬の厳しい視線に合うと亜里沙と蛍は顔を軽く伏せた。
「ここまでくると電話の件も怪しくなってきた。あるいは犯人が切断したということも充分に──」
「なんのために!」
築宮が唖然と塔馬を見詰めた。
「復讐を成就させるためには警察の介入が邪魔だったとは思えないかい」
「………」
「いくら雪崩で道が閉ざされていたって、殺人事件となれば警察も放ってはおかない。道が無理ならヘリコプターを利用してだってくるだろう。そうなれば今後の動きがとれなくなる。それを心配したんじゃないか」
「今後の動きって……」
蛍が分かりきったことを訊ねた。
「これから確認に行く。もし想像通りに電話線が人為的に切断されたものなら、覚悟しないといけない」
「覚悟って……」
また蛍だ。
「犯人は次も殺《や》る気ってことさ。それも今日明日中にね」
蛍は耳を塞いだ。
「だったらオレがモービルで調べてきますよ。雪崩で塞がれた地点まで調査してくればいいんでしょう。わざわざ何人もで行かなくったって」
築宮が腰を浮かせた。
「待ちな。そいつは困るんだ」
長山が低い声でとどめた。
「昼にもトーマが言ったはずだ。自分以外のだれをも信用しちゃならねえってな。悪いが一人じゃまずいんだよ。もしユータが犯人で、電話線は自然の事故だと報告されたらどうなる? トーマとオレも行く。三人で調べよう」
「一緒にでかけちゃいかんか?」
寺岡が長山を見上げた。
「女二人がそれでいいと言うなら」
長山は皮肉な視線を送った。
「なんのこと?」
亜里沙が不審な顔で問い質す。
「まったく呑気《のんき》なもんだな。女同士は麗しい信頼関係に結ばれているってわけだ。羨《うらや》ましいね。二人きりで残っても別に平気ってことだろ」
亜里沙と蛍は顔を見合わせた。
「それで三対三にしたつもりだぜ。オレにはだれかと二人きりになる勇気はねえよ。たとえ相手が恋するリサの場合でもさ」
長山は薄笑いを浮かべて二人を見下ろした。亜里沙と蛍は急に不安な目になった。長山の冗談を笑い飛ばそうとしてできない。
「どうする。ご決断は?」
「オレが残るよ。それでいい」
寺岡が仕方なく頷くと、蛍はホッと頬を緩めた。亜里沙は憮然とした表情で蛍の横顔を眺める。
「じゃあでかけよう」
塔馬が長山と築宮を促した。
夕闇の足取りは早い。まだ明るさの残っていた時間にでたのに、わずか二十分もしないうちに互いの顔が見分けのつかないほど暗くなった。電話線を辿る懐中電灯の光が星を捜すように空に伸びている。
「予測が外れたかな」
塔馬が呟いた。宿からかなり離れても電話線に異状が見られない。間もなく雪崩の箇所だ。そこから先が切断されたのなら、少なくとも犯人の仕業ではなくなる。
「事実は小説よりも奇なり、ってことか。オレもあんまりタイミングが良すぎると疑ってたがね」
体の震えを堪えながら長山が言った。雪が凍りかけている。酷い寒さだ。塔馬のスキーが雪を踏み締めるたびに固い音を立てる。
「しかし、なんでこんなに電話線が細いんだ。今時見たことがねえ」
長山が呆れた口調で見上げる。
「その気になりゃ女どもにだって簡単に切れそうだ」
「回線が少ないから。宿以外に電話を引いている民家は七軒しか。これ以上増えることもありませんしね。十何年も前の古い電話線です」
築宮は笑って進んだ。
「こちら側じゃなかったわけだ」
それから四十分後。戻ってきた塔馬の報告を受けて寺岡は安堵とも不安ともつかぬ複雑な表情で頷いた。
「テラさんもやはり?」
「当然さ。まあ、世の中には偶然がつきものだけどな」
「とにかく……これで一安心ってことじゃないの。ホッとしたわ」
蛍がクシャクシャな笑顔で言う。
「相変わらず物事がお分かりじゃないようだな。なんで安心なんだよ」
長山はフンと鼻を鳴らした。
「電話線の切断が犯人の仕業と分かったら今後の犯行意図が明白になるってだけで、別に危険がゼロになったわけじゃない。例の犯行宣言の紙がある限り、情況は一緒さ」
蛍は怯えた顔に戻ると、すがるようにとなりの塔馬を見詰めた。
「残念ながら長山の言う通りだ。むしろ面倒が倍加したよ」
「どういうこと?」
「正直に言うと……もし電話線の切断が確認されたら、今度こそ犯人の見当がつくんじゃないかと期待していたんだ。切断された時間は朝の二時間前後に特定されていた。部屋に首を運んだりするのは僅かの時間でできるが、電話線となれば歩きも含めて最低でも三十分はかかる」
「なるほど。アリバイのあるなしが突き止めやすい。確かに惜しいことをしたぜ。しかも今度は眠っていたなんてのが通用しない時間帯だ」
「面倒ってのは?」
長山の皮肉を無視して寺岡は塔馬に訊ねた。
「今後は外部に協力者のいる可能性も考慮に入れる必要がある」
全員が唖然とした。
「もちろん想像にすぎないが……偶然てヤツが嫌いなんだ」
「しかし──まさか」
寺岡は青ざめた顔で続けた。
「もし犯行の目的がパンドラの復讐だと言うなら……我々仲間の他にだれが考えられる?」
「金で動く人間はいくらでも」
「それは理屈にすぎんだろう。コトは殺人だぞ。いくらなんでも」
亜里沙や蛍も同意した。
「頼まれた相手は殺人が起きていることを知らないかもしれんのだぜ。たとえば……そうだな、仲間のだれかが帰りたがっているから引き止めるために二、三日連絡を取れないようにしたい、とか。かなり悪質な悪戯《いたずら》だけど、金額次第によっちゃ引き受ける人間もいるだろう」
「こういう理由はどうだ」
長山が割って入った。
「久し振りに仲間と休日を楽しみたいが、電話連絡を受けると気持が落ち着かん。いっそのこと電話が入ってこないように……でないと入院患者の容態が気になって」
「まだ懲りないの!」
いきなり長山の頬に亜里沙が平手を食わせた。
「あんたって最低だわ」
その亜里沙を逆に当の寺岡が制した。首を何度も横に振る。
「チョーサクにはなにを言っても無駄だ。最後に分かるよ。オレはもう気にしていない。よしてくれ」
「だって──あんまりだもの」
「記事の件で嘘をついたオレの方が悪い。疑われて当然さ」
見ていた塔馬は溜め息を吐いた。
「リサこそ冷静になったらどうだ」
打たれた頬を軽く擦《さす》りながら長山は舌打ちした。
「おまえさんにゃ推理も関係ねえ。テラさんを庇《かば》うのは、単純に信用してるだけだろ」
「………」
「ダイスケが殺された時刻にゃ寝ていた。首が運ばれたときにもアリバイなし。記事では嘘もついている。おまけにトーマの推察通り、外部に協力者がいるってことは……だな」
長山は少し間をおくと、
「この宿から近いところに面倒を引き受けてくれるほどの馴染みがいるって意味だ」
「それが?」
「ここは山形なんだぜ。おまえさんにゃ適当な相手がいるのか? 鎌倉育ちのおまえさんによ」
亜里沙はようやく理解した。
「そういうこと。いくら、頼み事をなんでも聞いてくれる友人がいたって、東京や鎌倉じゃしょうがねえだろ。咄嗟に間に合うわけがねえんだから。な、トーマさんよ」
長山はニヤッと塔馬に笑った。
「すべての条件を満たしているのは目の前にいるテラさんだけだ。好き嫌いの問題で言ったんじゃねえ。オレは命が惜しいからな。必死に推理を組み立てているのさ」
亜里沙は呆然と長山を見やった。
「トーマもおなじか?」
寺岡が屈辱に身を震わせながら訊ねてきた。蛍も心配そうに見守る。
「可能性はだれにもある」
「なんだと!」
長山は驚愕した。
「脅迫のハガキがダイスケに届いていたということは計画的犯罪に間違いない。それなら、あらかじめ協力者をこの近辺に配置しておくことも充分に有り得る。チョーサクやリサが山形に関係なくたって、それで疑惑から外れるとは思わんでくれ」
「それじゃ、なんのための推理だ」
「あらゆる可能性を言ったまでさ。まだ今のところ容疑から外される人間はいないようだ」
塔馬は冷たく言い渡した。
長山はタバコを乱暴に引き抜くと不愉快そうな顔で火をつけた。
「ちょうだい」
蛍もタバコに手をつけた。他の三人はぼんやりと宙を睨んでいる。
〈どうも分からないな〉
観察していた塔馬は首を傾《かし》げた。だれの表情にも怯えがそれほど認められない。まるで狙われる不安をいっさい感じていないようだ。身に覚えがないからだろう。ということは復讐が終わったのか? それならばいい。塔馬は痛切にそれを願った。
6
塔馬は一人風呂に向かった。
今夜は築宮も蛍も部屋にいる。塔馬の提案で全員が一つ部屋で眠ることにしたのだ。こうすれば危険もない。風呂やトイレに立つときも必ず一人ずつ。残された人間たちは、だれかがあとを追わないように互いに監視するというわけだ。
〈疲れがでてきた〉
湯に体を沈めながら塔馬は目を瞑《つむ》った。もう真夜中である。明日は早くから麓にでかける予定になっている。少しでも眠っておかないと体力に自信が持てない。だが、眠るつもりはなかった。信じられるのが自分だけだとしたら、自分が監視役になる他はない。睡魔と戦いながら布団を被っていたが、とうとう我慢しきれずに起き上がった。風呂にでも入れば眠気もふっとぶだろうと思ったのだ。ところが、その微かな物音にも全員が敏感に反応した。だれもが眠ってはいなかったのだ。それも当然だ。となりの部屋には吉秋の無惨な死体がある。目を瞑れば吉秋の姿がいやでも思い出される。それとも互いが、信じられるのは自分一人だと思っているのか。
〈人間てのも情けないもんだ〉
どこまで話し合っても、他人の奥底が分からない。確実なのは自分の心だけなのだ。その自分の心でさえときとして信用できない場合すらあるのだから……。
ふうっと体の力が抜ける。
抗《あらが》いきれない睡魔が襲った。
「トーマさん。起きてますか」
襖を開けて吉秋が顔を見せた。
「リサさんが起こしてこいって」
「うるせえな。飲みすぎでこちとら頭がガンガンしてる。メシならいらねえよ。も少し寝かせてくれ」
「チョーサクさんじゃない。トーマさんだけでいいんです」
吉秋が困った顔をする。
あれ。こいつは夢なんだ、と塔馬は思った。死んだはずの吉秋が、まだ少年の顔で笑っている。
「今、おりていくよ」
それでも塔馬は返事をした。吉秋は死んでいなかったのか。ま、どうでもいいことだ。リサがなんの用事だろう。塔馬はそのとき階下の亜里沙と向き合っていた。側には寺岡の姿もある。二人とも若い。
「トーマは就職する気があるの」
厭なことを聞いてくる。
「なんかやりたい仕事があるのか」
寺岡が席を勧めた。
「オレも心配してるんだ。ウカウカしてると本当に行き場をなくしちまうぞ。チョーサクはあの通りの調子者だからなんとかするだろうが」
「こっちもなんとかする」
「もし、その気があるならオレの仕事を一緒にやらんか。もちろん当分は開業のアテもないが、四、五年もすりゃメドがつく。それまで適当に食い繋ぐ方法ぐらいなら見つけられると思うんだ」
リサもそれを勧めた。
「一緒にやる仕事って?」
「事務を任せたい。信用できる人間に助けて欲しいのさ」
まったく、こいつらは子供だな。塔馬は苦笑した。学生気分で物事を軽く判断している。
「メドって、どんなメドだ。そっちの方は知らないけど、開業がそんなに早くできるとは思えないぜ。いくらテラさんでもな。別に親父さんが医者でもないんだろ」
「大丈夫だ。信用してくれ。トーマを裏切るような結果にはしない」
「悪いけど……オレには不向きな仕事だよ。数字を睨んでいるだけで頭がクラッとする」
やりたいことは決めていた。けれど、それを言うつもりもない。風俗史の研究などと言っても現実的な寺岡には笑われる。
「そうか。やっぱり病院ができ上がってからじゃないと説得力も少ないらしい。分かった。そのときにトーマにその気があればきてくれ」
結局、それから七、八年後には病院を作り上げたんだから大したものだ。塔馬は寺岡の若い顔を眺めて感心した。と同時に夢の中の若い自分は、寺岡を夢のようなことを言う男だと呆れて眺めている。過去の自分と今の自分を交錯して考えていながら特別違和感もない。
「パンドラなんかに向いた仕事のようだ。真面目だしさ。むしろ彼女を誘ってみたらどうだい」
彼女は絶対に人を裏切らない。
「妙な誤解はやめてくれ」
寺岡は即座に首を振った。
頷いた塔馬の瞳にパンドラの姿が映った。階段の途中で話を立ち聞きしている。寺岡は背中をむけているので彼女に気づかない。
「リサにもそう言われたよ。悪いがオレの欲しいのは事務員じゃない。それならいくらでも替わりがいる」
へえ。案外冷たいことを言うんだな。あの頃はこの冷たさが自分に見抜けなかったというわけだ。パンドラが二階に走って行く。可哀相に。
「当たり前だ。オレでもパンドラなら御免こうむりたい」
いつの間にか塔馬の前には長山がいた。そのとなりには築宮が……。
「あいつの顔を見てるだけで病院が暗くなっちまわあ」
長山はニヤニヤ笑った。
「でも、酷い言い方だ。テラさんを見損なった」
築宮は憮然としていた。そうだよな。オレもなんだか信じられない気分だった。塔馬はその場面を上から見下ろしながら築宮に同意した。
「バカ野郎! 死ぬぜ」
長山の叫び声で我に戻った。その拍子に塔馬の体は湯に沈んだ。鼻から湯が入った。慌てて身を起こす。
「遅いと思ってきてみりゃ、このザマだ。これ以上面倒を起こすな」
噎《む》せ返りながら塔馬は長山を見上げた。ドテラ姿のままホッとした様子で手を差しのべている。
「なにかあったのか?」
その言葉に長山は苦笑した。
「無事でなによりだ。ここでトーマに死なれりゃどうなる」
「パンドラとテラさんは付き合っていたのかな?」
「なんだ、そりゃ……まだ寝ぼけてやがる。早く湯から上がれ」
「そんなに親密な仲だったかい」
塔馬はふたたび呟いた。
今のは夢というより、古い記憶が甦《よみがえ》ったような気がする。寺岡に誘われたのも事実だった。亜里沙もあの場にいたのだ。
〈どんなメドだったんだ?〉
思えば相当な自信だった。
医者にとって開業はそんなに簡単なものなのだろうか。分野が違うから寺岡の開業のいきさつに関して興味を抱いたこともないが、家業が医者でなかったばかりに大病院の勤務医としてくすぶっている人間の話はよく耳にする。寺岡は幸運な部類に入るはずだ。特に金持ちだったという印象もない。
〈開業資金はどこから? そのいきさつを知っていそうな人間は……殺されたダイスケぐらいだった〉
製薬会社勤務なら噂も耳にしていただろう。塔馬は唸った。
「どうした。いい加減にしてくれ」
長山は湯の中に立ち尽くす塔馬を薄気味悪い思いで見詰め続けた。 ind[#改ページ]
四章 パンドラ・バッドケース
1
電話のベルが遠くで鳴っている。三回、四回、五回、六回……どうしてだれも受話器をとろうとしないのだろう。塔馬は耳を塞《ふさ》ぐように布団を頭から被《かぶ》った。呼び出し音が小さくなる。それでも八回、九回、十回……なんてしつこい音だ。ここは東京のアパートだったか? 一瞬塔馬の記憶が曖昧《あいまい》になった。ここはどこだ。暗がりの中で目を開けた。布団から首を出したのと亜里沙がゴソゴソと這って受話器を取り上げたのは一緒だった。
「食事の用意ができたって」
目が合った塔馬に亜里沙が欠伸《あくび》を噛み殺した顔で言った。
ぼんやりと塔馬は頷いた。となりには長山が布団に潜っている。築宮がこめかみを揉みしだきながら挨拶を送ってきた。蛍もいる。
「もう九時だ」
枕許の時計を腕に巻いて塔馬は苦笑した。今朝は六時に起きる予定になっていたのだ。
「テラさんは?」
入り口付近に眠っていたはずの寺岡の姿が見えない。亜里沙は不安な様子で口にした。
「トイレかなんかだよ」
まだ頭がスッキリしない。寺岡から貰った睡眠薬のせいだ。夜中の三時を過ぎても、緊張のためにだれも寝つかれなかった。それで寺岡が睡眠薬を全員に与えた。もちろん躊躇《ちゆうちよ》がなかったわけではない。しかし、全員が疲れきっていた。たとえ犯人がこの場にいたとしても、まさかこの部屋では犯行に及ばないだろう。長山がそう言って飲むと亜里沙が続いて薬を手にした。そして結局全員が……二、三錠の睡眠薬を飲んだ程度で直ぐに眠れるわけでもないのだが、それから五分も経たないうちにあちこちから深い寝息が聞こえた。長山の言葉が心理的な不安を取り除かせたのだ。それを確認して塔馬も睡魔に身をゆだねた。
「早く朝食《めし》をすませて麓に向かわないと……天気はいいです」
窓際にいた築宮がカーテンを乱暴に押し開いた。長山の体が布団の中でもぞもぞと動く。
「本当にトイレかしら」
亜里沙が寺岡の布団を確かめた。
「すっかり冷たいのよ」
「じゃあ風呂だろ」
うるさそうに長山が寝返りを打った。布団から額だけを出して、
「心配するなって。一番狙われる危険の少ねえヤツなんだから」
相変わらず寺岡を疑っている。
「だけど……気になるじゃない」
亜里沙の言葉に塔馬は立ち上がった。風呂を確認すればすむことだ。待って、と亜里沙もついてきた。
廊下に出ると斜め向かいの寺岡の部屋の襖《ふすま》が少し開いていた。早めに起きて顔でも洗っているのか。
「テラさん、いる?」
塔馬は声をかけて覗《のぞ》きこんだ。
「………」
部屋は奇麗に片付けられていた。洋服入れのコートも見えない。
「逃げたんだわ!」
亜里沙は声高になった。築宮が慌てて部屋から飛び出してくる。
「バッグや服がないの」
泣きそうな声で亜里沙が言った。
〈またか……〉
頭痛が塔馬を襲った。
〈もう、推理もなにもあったもんじゃないな〉
「これで決まったようなもんだぜ。ヤツは殺されるのを恐れて逃げたんじゃねえ。このオレに犯人だと図星を指されたんで、皆を薬で眠らせておいて脱出を図ったんだ」
長山が安堵《あんど》した顔で言った。
「バカな野郎だ。自分からでっかい尻尾を出しやがって」
「それは……どうかな。たとえ麓まで辿《たど》り着けても、もしチョーサクの推理通りなら病院にも戻れないだろう。我々の連絡で直ぐに警察の手がまわる。よほど切羽詰まった情況ならともかく、証拠はまだなに一つないんだぜ。どんなにチョーサクが怪しいと言い張ってもね。それが分からないテラさんとも思えない。慌てて逃げ出す段階じゃないさ。やはり犯行を恐れて逃亡したという見方の方が……」
塔馬は考えを言った。亜里沙も賛同した。
「それより、一人で麓の警察に事件を報告しに行ったということだって考えられるじゃないの。私たちが眠りこんでいたからリーダーとして責任を感じたってことは?」
蛍の言葉を長山は嘲笑った。
「そいつはおまえさんの願望だろうが。現実はもっと厳しいさ」
「………」
「リーダーなんて意識がヤツにあるもんか。嘘がバレた時点でこちらも信用してねえしな」
「だから、なおさらよ。ここでテラさんが警察を連れてくれば今までの嘘も帳消しになるわ。犯人ならそんなことをするはずがないもの」
亜里沙も心を動かされたように頷いた。塔馬を盗み見る。
「阿呆じゃねえのか」
タバコを灰皿に押し潰《つぶ》しながら、
「ガキの遊びじゃあるめえし、警察を連れてきたぐらいで信用されると思ってるのか。警察ってのはそんな甘いもんじゃねえ。ヤツが犯人でなけりゃ、どんな怪しい態度をとっていたって心配はねえよ。その反対に犯人なら、警察を自分で連れてこようが関係ねえ。まあ、陪審員制度のあるアメリカなら多少の効果も期待できるだろうがな。ここはあいにくと日本なんだ」
長山は舌打ちした。
「こいつはホームルームなんかの糾弾ごっことは違うんだぞ。おまえさんがどれほどの人気スターだと言ってもな、それでヤツを嫌疑から外そうなんて思う警察官はいやしねえ」
「そんなこと言ってないわ!」
蛍は甲《かん》高い声で叫んだ。
「こっちだって、もうたくさんなんだ。じゃあ、ハッキリ教えてくれ。犯人はだれだ。それほどヤツを庇《かば》うからには見当がついてるはずだ」
蛍は詰まった。
「オレか? トーマか? それとも従兄《いとこ》のユータか? 男はあと三人。出鱈目《でたらめ》言っても三分の一の確率だ」
「………」
「どうせオレだろうが。トーマはこの通りの公平な男だし、ユータは幼|馴染《なじ》みってヤツだ。遠慮はいらねえぜ。前から分かっていたさ」
蛍は亜里沙の袖を掴《つか》んだ。
「そいつが不愉快だってんだよ。皆はオレを先入観で見てると言いたげだが、オケイやリサこそヤツを先入観で眺めてるんじゃねえのか」
「チョーサク。もう止そう」
塔馬が頷いた。
「どうせテラさんはモービルを使って逃げたに違いない。この天気なら痕跡が残っている。そっちを確認する方が先決だ」
「確認? そんな必要があるのか」
「万が一ってこともある。ひょっとすればダイスケと同様に」
「殺されたってのか」
長山が笑った。
「首を賭けるぜ。天地がひっくり返ったって、それだけはない」
「ユータ。付き合ってくれ」
塔馬は無視して築宮を促した。
「勝手にしろ。オレは御免だ」
長山はタバコに火をつけた。亜里沙も行くと言って立ち上がる。
「おいおい、それでいいのか」
「スキーぐらいできるわ」
「じゃねえよ。オケイが怯《おび》えてるようだぜ。殺人鬼と信じてるオレと部屋に二人きりじゃ怖いとさ」
蛍がひきつった笑いを見せた。
「まったく信用を失ったもんだな。もっとも、昔から信用されてるとは思ってもいなかったがね」
「ユータと二人で大丈夫だ」
塔馬は亜里沙の肩を軽く叩いた。
2
宿を出て三、四百メートルも進むと狭い峠道にさしかかる。ここまではなんとか除雪されているが、どうせ途中は雪崩《なだれ》で通行止めだ。道をつけても意味がないのだろう。うずたかく積もった雪が道を覆っている。
「どういうことですかね」
築宮が先を眺めて首を捻《ひね》った。確かにモービルの轍《わだち》がずうっと向こうまで続いている。しかし、今朝のものではなさそうだ。昨夜三人で電話線を調査したときの痕跡に思える。その証拠に轍は電信柱と近い場所を走っていた。それよりも新しい轍はどこにも見られない。
「テラさんはスキーができないと話していたし……まさか歩いてとも」
築宮に塔馬は首を振った。
「この道以外に方法は?」
「そりゃあ、山を越えれば行けますけど……よほどの土地カンがないと」
「裏山はどうだ。例のタイムカプセルを埋めた沼の方だ。狭い道があったな。あれは宮城県に通じているんだろ。前に聞いたぜ」
「無理でしょう。たとえ通じていても、最寄りの村までは五十キロ以上もあります。自殺行為だ」
「だったら、やはり歩きだ。轍を踏んで行けば足跡も残らない」
「雪崩の箇所まではそれで行けるでしょうが……その先は腰まで積もった雪道です。テラさんは永年山形に暮らしている。その程度は分かっていると思いますよ」
「考えるよりも行動だ。そこまで行ってみりゃ分かる。もう妙な推理は止めにしたんだ」
塔馬は雪を蹴って進んだ。
「ユータの言った通りだよ」
雪崩で塞がれた箇所に上って先を見通した塔馬は納得した。麓に通じる細い道にはだれの足跡もない。振り返って斜面に視線を注ぐと、吉秋の死体を発見した辺りの雪に鮮やかな血の名残りが見られた。遠目には美味《おい》しそうなイチゴシャーベットのようにも思える。道にいる築宮もぼんやりとそれを眺めている。
「戻ろう。あるいは宿の近くに隠れているのかも知れない」
「隠れて? なぜです」
「知るか。本当はもっと厭《いや》な想像さえしているんだぜ」
「じゃあ、テラさんは次に狙われるのが自分だと……それで皆に薬を」
「理屈ではそうなるが」
「違うんですか」
「どうも気にいらんことがある」
「………」
「昨夜観察した限りじゃ、テラさんにはまったく怯えた様子はなかった。危険を予知していれば、態度に少しはでそうなものだ。あれが演技なら大したもんだよ」
「オレはどう見えました?」
「ユータばかりじゃなく、だれにも特に……あるいはこれで復讐も終わりかと思ったほどさ」
「内心はビクついていました。こちらの身に覚えはなくとも、無差別に狙《ねら》っていたなら安心できない」
「………」
「あの嘘だってチョーサクさんがスッパ抜かなけりゃ」
「そうかも知れんな」
築宮の言いたいことは分かる。塔馬は何度も頷くと出発した。
宿に戻った塔馬の報告は長山たちを唖然《あぜん》とさせた。
「殺されたのよ!」
亜里沙が青ざめた。
「隠れていやがるんだ。そうしてチャンスを待っているんだぜ」
長山は信じなかった。
「この宿は外から自由に出入りができる。ヤツの狙いがだれかは分からんが、そいつが一人になるのをじっとどこかで見ているのさ」
「この寒さの中でか? コート一枚じゃ半日も保たない」
「気休めは止《よ》してくれ。これも計画のうちなら、そっちの準備だって万全かも知れんじゃないか。風さえ防げれば暖はいくらでもとれる」
「どこかに潜んで機会を待つのと、なに食わぬ顔で仲間に加わっているのと、どっちが有利だと思う? 一度姿を隠せば警戒が強まる。もしテラさんに声をかけられれば、だれだって疑うだろう。それよりは今のままの方が狙いやすい。違うか」
塔馬は珍しく声を荒げた。
そこに築宮が戻ってきた。民家を当たってモービルがなくなっていないか調べてもらっていたのだ。
「全部ありました。宿のスキーも減っていません。テラさんは歩いて宿を抜け出したんです」
塔馬は溜め息を吐《つ》いた。
「信じられないけど……こうなると歩きで山越えをしたとしか」
「わざわざ道のないところをか」
塔馬は否定した。
「麓への連絡は中止だ。朝食をすませたら皆で付近を捜そう」
塔馬の提案を長山は渋々認めた。
「どうしてこんなことになっちゃったの。なんでなのよ」
塔馬の後ろからついてくる亜里沙が苛立《いらだ》ちの混じった口調で訊く。
「骨休めのつもりだったのに」
「オレに言われても仕方がねえな」
最後に続く長山が応じた。築宮と蛍の二人は別の方向を捜している。
「それにしてもアテはあるのか」
長山が塔馬に叫んだ。
「裏山に行ってもしょうがないぜ。隠れるような場所はどこにも」
「隠れ場所は確かにないが、死体だったら庇《ひさし》も無用だ」
「へっ」
長山の笑い声が響く。塔馬は黙々と前に進んだ。タイムカプセルを掘り出すために全員でつけた細い道が確保されている。
〈ん?〉
塔馬は道に佇《たたず》んだ。
〈あの後に吹雪があったはずだ〉
その吹雪の夜に吉秋が殺された。
〈なのに、なんで歩いた跡がある?〉
細い道だ。少しの積雪でも半分は埋められてしまう。ましてや吹雪ともなれば……それとも、この道は村人たちも利用するのか?
「なんなの?」
亜里沙が不審な顔を覗かせた。
「だれか最近通ったんだよ」
塔馬は説明した。
「カプセルを掘ったときに道はなかった。村の連中も行き来していないってことだ。とすれば……」
「テラさんって意味ね」
塔馬は無言で先を急いだ。不吉な予感がまた塔馬を襲う。
「気をつけろよ。手負いの獅子はなにをするか知れたもんじゃねえ」
長山も声だけは勇ましい。
ようやく沼の縁に辿り着いた。
凍った沼の表面が暖気で鏡のように輝いている。塔馬は注意深く周囲を見渡した。寺岡のものらしい真新しい足跡が氷の沼に向かっていた。そこから先は足跡が消えているので方角は掴めない。塔馬はタイムカプセルが埋められていた祠《ほこら》に視線を動かした。遠くてよく見えないが、なにか黒いものが小さな祠の上に置かれてあるようだ。
「なんだ、ありゃ」
長山もそれに気づいた。雪の反射を避けるように掌を額にかざしている。亜里沙は背伸びした。
「行って見よう」
「厭よ。私は行けないわ」
亜里沙がガタガタ震えた。
「二人とも分かっているんでしょ」
「分からねえよ。オレは目がいけねえんでな。リサには見えるのか」
「きっと……首だわ」
背筋が冷たくなった。
「だれの?」
「テラさんに決まってるじゃない」
長山は塔馬を振り向いた。
「オレもそう思う」
「ヤツが殺されちまったら……犯人がいなくなる。自殺ってんなら分かるがよ。そんなわきゃねえ」
長山は大声で喚くと氷の沼に歩を進めた。何度か足を滑らせながら走る。塔馬も慌てて後を追いかけた。
「有り得ねえよ。絶対に」
長山は並んだ塔馬に言い続けた。
3
走り続ける塔馬の胸騒ぎに呼応するように、晴れ上がっていた空に黒雲が広がりはじめた。見る見る青空を埋め尽くす。風に乗って大きな牡丹雪が舞い出した。
「待ってくれ!」
長山が背後から苦しそうな調子で叫んだ。まだ沼を半分も渡りきっていない。振り返ると、また転んでいる。これで二度目だ。
「やっぱり首か?」
倒れたままの姿勢で訊ねた。
塔馬は祠の屋根を見やった。少しは近づいたが、まだ断定できる距離ではない。
「テラさんの首と決まれば……もちろん、だれかが運んだんだろうな。まさか、テラさんが一人でやってきて、切り取った自分の首を屋根に載せられるわけがねえ」
長山の言葉に塔馬も頷いた。
「となりゃ、沼の縁にあった足跡はテラさんのものじゃねえかもしれんぜ。犯人の足跡ってことも」
「それがどうした?」
「バカ野郎。だったら、この雪で消えちまうじゃねえかよ」
塔馬は唖然とした。確かに長山の言う通りだ。
「どうする? このまま首の確認に行くか、それとも戻って足跡を頭に刻みこんでおくか……」
「もう遅い。見ろよ。沼の上についている我々の足跡だって消えかかっている」
塔馬は背後を顎《あご》で示した。
「それに……今までのことを考えると犯人にスキはない。足跡が残るのも計算済みに違いない。あるいはテラさんの靴を履いてきたかも……」
「どうしてだ?」
「首らしきものは見えるが、祠の側に胴体が見当たらん。きっとテラさんは犯人と一緒にこの沼にきたんじゃない。首だけ運ばれてきたのさ」
長山は唸《うな》った。
「ダイスケと一緒だな。ダイスケの場合は胴体が先だったが、今度は首が最初か」
「パンドラの死に方と関係あるんだろう。それ以外に考えられない」
長山もそれに同意した。
「足跡は諦《あきら》めよう。首が大事だ」
塔馬は祠に向かった。
「酷《ひで》えことをしやがる……」
祠のある崖に辿り着いて見上げた長山は絶句した。
屋根から突き出た千木《ちぎ》の尖端に寺岡の首は刺されていた。それで転がり落ちなかったのだ。祠の屋根や周辺に血痕はほとんど見られない。やはり塔馬の想像通り、首の切断現場は別の場所だ。崖のところどころに犯人が攀登《よじのぼ》った形跡が見られる。しかし、その形跡すら降り積もる雪が覆おうとしていた。激しい横殴りの雪は寺岡の顔半分も白くしている。塔馬は無言で崖を登った。馴染みの眼鏡がないせいか、寺岡の顔はまるで別人に思えた。
「なにをしてる?」
首に近づいて、切断面を真下から見詰める塔馬に、長山は薄気味悪そうな声で質《ただ》した。
「今度は犯人も焦ったようだ」
「……?」
「切断面がぐじゃぐじゃだ。ダイスケのときとは大違いだよ」
「なんともないのか?」
まともに視線を注がないようにして長山が崖を上がってくる。それでも前に吉秋の首を見ているので恐怖感は少なくなっているらしい。長山は祠の後ろにまわると犯人の足跡を捜した。凍った地面だ。直ぐに諦めた様子で塔馬と向き合う。
「もう限界じゃねえか?」
「なにが?」
「二度目だぜ。もう我慢ができねえよ。オレはオリるぜ」
長山は唾を呑みこんで続けた。
「テラさんが犯人じゃねえと分かったら、怖くなってきた。もう犯人のアテなんぞねえ。だれを想像しても怖くなる。オケイやリサが包丁を振り下ろしている姿を考えるだけで体中に寒気が襲ってくるんだ」
「オレは信用してるのかい?」
「こんな情況で妙なことを言わんでくれ。トーマが犯人ならオレはどうすりゃいい。遠慮しておまえさんを外したんだぜ」
本気で長山は怯えた。
「安心してくれ。オレじゃない。それに遠くからリサも見ている。もし犯人だとしても襲わんさ」
苦笑しながら塔馬は沼の縁でこちらを眺めている亜里沙を示した。長山も安堵したように頷いた。
「とにかく……これ以上危ない橋は御免だ。事件の解決なんぞは警察に任せて山を降りよう。宿に戻ってこなきゃならんから朝早くじゃないと出発できなかったが、麓まで降りるんなら午後からでも充分だぜ」
「二つの死体を宿に預けて、自分たちはさっさと逃げるのかい」
「仕方がねえだろ。犯人の狙いは宿のおかみたちじゃねえんだ。多少気味が悪くても、危険はない。問題はオレたちの命なんだぜ」
「狙われそうな不安でも?」
「ねえよ。けど、ここまでくりゃ安心もできん。理屈が通用する相手とも限らんだろう。むしろオレが犯人になりたい気分だ。それなら襲われる気遣いがねえもんな」
「逃げれば安全か?」
塔馬は長山を見据えた。
「犯人はこの土地から離れられない地縛霊《じばくれい》じゃないんだぜ。手もあり足もある。二人も殺して……まだ足りないと言うんなら東京でも犯行を続けるさ。逃げてもおなじだ」
長山はギョッとした。
「東京でも続く、だと」
「当然だろうね。条件がいいから殺したわけじゃないだろう。そんなことは子供にだって分かる」
長山は少し考えて、同意した。
「となりゃ、どうする?」
「午後に出発だ。もう猶予はできない。警察にだけは報《し》らせないと。そして明日また宿に戻ってくる」
「せっかく麓に到着しても?」
「こっちは逃げたくっても、警察が認めてくれないぜ。チョーサクもミステリーを仕事にしてるんだろ」
「そうか……当たり前だな」
長山は諦めた。
「問題はテラさんの首だ」
塔馬は首を凝視した。口が半開きになって紫色の舌が覗いている割に、平和な表情をしている。瞼《まぶた》がしっかりと閉じられているせいだ。塔馬は寺岡の顔にかかった雪を払い落とした。触れた肌は氷よりも冷たく固い。まるでブロンズだった。
「二度目の殺人となれば……このままにしておいた方がいいかも知れない。警察のためにもな」
「オレもそう思う。殺されたテラさんには気の毒だが」
長山は寺岡の首に合掌した。塔馬も無言で掌を合わせた。
「こんなことになるんなら……喧嘩なんてするんじゃなかったよ。オレはテラさんが犯人だとばかり」
しんみりと長山が言う。
「なにが推理だ。ミステリーを続けていく自信を失ったぜ」
それは塔馬もおなじだった。口にこそ出さないでいたが、夢をきっかけにして寺岡の言動に疑惑を覚えはじめていた矢先のことである。
「体はどこにあると思う? 首が目的なんだから、不要な体はどっかに捨ててあるはずだ。宿からそんなに離れちゃいまい。違うかね」
「首が目的?」
長山に塔馬は問い返した。
「おいおい。そいつはさっきトーマから言い出したことだぞ。飾るために首だけを運んだとな。現実にダイスケの首も死体の側に置いてあったし、今度はこれだ。ダイスケの場合は、オレたちが最初に胴体を発見しちまったんで順序が逆になったが」
そうだろうか。確かに首を見るまでは安易に想像していたが……。
「また余計なことを考えてやがる。手口が一緒じゃねえか。切断面の違いなんぞは些細《ささい》な問題だぜ」
長山は塔馬の肩を叩くと、
「リサが心配してるようだ。戻ってこの件を報告してやらんとな。女どもはテラさんの信奉者だった。首を持ち帰らずに済んでホッとしたよ」
なるべく寺岡の首を見ないように崖を滑り降りた。塔馬はもう一度首をあらためた。どこにも傷はない。これも吉秋の場合と同様だ。
〈ん?〉
塔馬は祠の脇に屈みこんだ。古びた扉が風に煽《あお》られて微かに開いている。前にきたときは錆《さ》びた鍵が掛かっていたはずだ。その鍵がない。塔馬は祠の下を捜した。鍵はほとんど雪に埋まった状態で落ちていた。
〈犯人の仕業か〉
塔馬は慌てて扉を開くと薄暗い内部を覗きこんだ。
〈………〉
朽ち果てた木片と小石が散らばっている他に別状はない。念のために腕を差しいれて探ったが、これと思われるものは見当たらなかった。
〈あ……〉
塔馬は声を上げるところだった。目の前でギシギシ音を立てている扉の裏側に刃物で刻んだ文字があったからだ。しかも真新しい。
ツギモオトコダ
ゾッと背筋が凍る。
「どうした? なにがあった」
立ち尽くす塔馬に長山が下から声をかけた。
「犯人は……まだ殺《や》る気だぜ」
4
泣きじゃくる亜里沙の肩を抱きかかえながら宿に戻ると、ロビーには蛍と築宮の姿があった。二人は亜里沙の様子ですべてを察した。
「それじゃテラさんも……」
首だけと聞かされて蛍はその場に失神した。築宮が頬を打つ。蛍は目を開くと築宮にしがみついた。
「嘘よ。あの人が死ぬなんて」
蛍の頬を大粒の涙が伝った。
「なんで殺したのよ!」
その視線が長山を射る。
「いい加減にしやがれ。そんなたわごとに付き合ってるヒマなんかねえんだ。思いたきゃ、勝手にしろ」
長山の頬が瞬時に引きつった。
「こちとら、気が立ってるんでな。今ならこの宿だってぶっこわせそうな気分だぜ。ユータ、その女を黙らせろ。本当に殺したくなってきた」
蛍は恐怖に後じさった。
「じきに出発だ。皆で山を降りる。警察に連絡しねえと、まだまだ殺人は治まらねえぜ。呑気《のんき》に言い当てっこしてる場合じゃねえんだ」
「なにがあったんです!」
築宮が声を荒げた。
「オレから説明しよう」
長山を制して塔馬が応じた。
だれの目にも不安と緊張がある。蛍は塔馬が話し終えるとロビーのソファーに背中を深く沈めて、イライラとタバコを喫《す》い続けた。真っ白な頬だ。落ちた吸殻が膝を焦がしても気づかない。亜里沙が掌で払った。蛍はぼんやりと礼を言う。
「次も男だ、とあったんですね」
築宮が震え声で質した。男はもう三人しか残っていない。塔馬は静かにタバコを手にした。喫いたい気分でもないが、心が騒ぐ。
「なんで相手をはっきり書かねえんだよ。楽しんでいやがる」
苛立った目で長山は見回した。
「そんな威《おど》かしにのるオレかよ。ふざけるんじゃねえぞ」
「あんたなの?」
亜里沙が驚いた口調で言った。
「なにがだ?」
「次に殺される相手。なんだか狙われるのが分かってる感じだわ。身に覚えがあるの?」
「バカ言うな。覚えがあるなら、とっくに宿をおサラバしてる」
長山は憮然《ぶぜん》として答えた。
「予告を信じていいのかな」
亜里沙は今度は塔馬に訊ねた。
「男だなんて……油断させるつもりじゃない?」
「それは、犯人に聞いてくれ。どんなつもりで扉に刻みこんだかオレにはさっぱり分からない。チョーサクの言いぐさじゃないけれど、ここにきて名前を書かないってのは、相当陰湿な犯人だ。あるいはリサたちの油断を狙っているかも知れない」
「筆跡はどうなの?」
蛍が気づいたように叫んだ。
「今度は新聞の切り抜きとは別よ」
「ペン書きじゃねえんだぜ」
うんざりした顔で長山が言う。
「まるっきり特徴はなかった。しかもカタカナだしな。薄汚えヤツだ。なにもかも計算ずくさ」
そこに宿のおかみが温かなコーヒーを運んできた。長山は受けとると両手でカップをくるんだ。
「本当に出発なさるんですか」
降りしきる外の雪を眺めておかみは心配気に塔馬を見詰めた。
「ご迷惑ばかりかけます」
塔馬は深々と頭を下げた。
「そんなことより……危険じゃありませんですか。この大雪では道幅も分からなくなって」
「だけど、行かなくちゃ」
築宮がおかみを遮った。
「これ以上の犠牲を出すわけには。それに、殺されるのをじっと待つぐらいなら事故で死ぬ方が楽だ」
「一人は残れるわね」
唐突に蛍が口にした。
「そうでしょ。なにも全員で行く必要はないじゃないの」
その言葉に残りの者たちが顔を見合わす。
「その通りだがね……」
長山は肩をすくめて、
「まあ……いいか。人気スターに雪中行軍は気の毒ってもんだ。間違って谷にでも落ちりゃ全国のファンが嘆き悲しむからな」
「それならチョーサクが残って!」
蛍は激しく眉《まゆ》をつり上げた。
「その顔を見ているのがイヤなの」
長山はポカンと口を開けた。
そのとき、バケツが転げるような物音と同時に二階の廊下をけたたましく走る足音が響いた。犬の吠え声に似た押し殺した悲鳴も混じっている。ビクンと全員が立ち上がった。
「あれは……」
従業員の声だとおかみが言う。
足音は階段を駆け降りてきた。転げ落ちるような恰好《かつこう》でモップを手にした年配の男が現われた。
「ま……また」
男はロビーに座りこむなり二階をわなわなと指差した。額に脂汗が浮かんでいる。膝もガタガタだ。
「どうしたの!」
おかみが駆け寄った。
「………」
喉《のど》を詰まらせて男は噎《む》せた。男は乱暴にモップを廊下に叩きつけた。自分でも苛立っている。おかみが肩を揺する。
「あの部屋に……また」
うわずった声で言うと、男は汚物をロビーに吐き散らした。
「あの部屋って……」
塔馬はピンときた。むろん吉秋の死体を安置している部屋だ。そのまま二階に走る。築宮も必死でついてきた。
「いやよ! もう」
悟って亜里沙が髪を掻《か》き毟《むし》った。
階段を上がると、目の前にバケツがある。流れ出た水に足をとられて築宮が滑った。塔馬は無視して急いだ。問題の部屋の襖が小さく開いている。少しの躊躇を振り切って塔馬は部屋に入った。血の臭いが塔馬の鼻をつく。
〈なんてこった〉
吉秋のすぐとなりに、寺岡の首なし死体が並べられていた。この部屋は昨夜から出入りがない。朝に寺岡を皆で捜しまわったときも、まさかと思って見逃した。いつから寺岡の死体がこの部屋にあったか確認のしようがない。
〈となれば……〉
だれにも可能性があったということになる。塔馬は臍《ほぞ》を噛《か》んだ。
バタバタと築宮が入ってきた。ウッと叫んだきり築宮も呆然《ぼうぜん》と寺岡の死体を見下ろした。
塔馬は屈《かが》みこんで寺岡の胴体を調べた。バーバリーのコートが全体に湿っていた。血のせいではない。裾を捲《まく》るとそれはズボンや背広にまで及んでいる。一時的に死体を雪の中にでも隠しておいたのだろう。塔馬の目がとなりに移った。吉秋の首が枕許に据えられている。二つの胴体が仲間のものでなければ耐えられるはずのない無惨な光景だ。あらためて恐怖に襲われる。微かな膝の震えを塔馬は必死に抑えた。
「ユータ。廊下を確かめてくれ。血の痕でも見つからないかい?」
築宮は廊下に出て見渡した。
「駄目です。さっきの従業員が奇麗に掃除をしてしまったみたいで」
「仕方がないな……ちょっと手伝ってくれないか。どうやら背中を刃物で刺されているようだ」
塔馬は築宮と二人で胴体を軽く斜めに傾けた。まず直径二十センチばかりの、畳に染みこんだ血痕が目に入った。コートに目をやると背中に狭い破れ目が数箇所見られた。心臓の真後ろだ。ここをメッタ突きされたに違いないが、それぞれの傷の深さや角度はコートの上からでは分からない。その他に目立った外傷はないようだ。塔馬は元に戻すと死体の時計を確認した。頑丈なロレックスだ。持ち主に必要がなくなっても元気に動いている。ガラスを意図的に割られでもしない限り、滅多なことでは壊れない。
「推理小説のようにはいかないな」
塔馬の苦笑に築宮も同意した。
「もっとも、解剖すれば犯行時間もはっきりするだろうが」
「でも……全員が眠っていたし」
築宮は悲観的に首を振ると、
「それより、警察への連絡ですが」
「………」
「オレ一人で行ってきます」
「この吹雪をついて!」
「だから一人の方が……悪いけどスキーのできないチョーサクさんが一緒じゃ時間がかかりすぎる。と言ってチョーサクさんを残せば女二人を連れて行かなくちゃならない。ますます厄介になります……でも今度は三人を置いていけば」
塔馬も頷いた。蛍は長山を信用していない。厭がるに決まっている。
「トーマさんも残ると言うなら女たちだって安心するでしょう」
「危険じゃないか?」
「オレはこの山で育ったんですよ。この程度の吹雪なら自信がある」
塔馬は腕を組んだ。確かに築宮の言う通りかも知れない。
「今から出発すれば遅くても四時前には麓に到着します。雪崩の箇所があそこだけなら今夜中にも宿に戻ってこれる可能性だって」
「それじゃ、そうしてもらおう。ユータなら警察も信用するしな。ただし無理はするなよ。三人目の犠牲者だけはだしたくない」
塔馬は肩を叩くと築宮を促して部屋から出た。襖を閉めながら現場をしっかりと瞼に焼きつける。階下にいる長山や亜里沙たちを呼んで見せるつもりはなかった。これ以上怯えさせる必要もない。
「雄光なら絶対だわ。上手《うま》くいけば二、三時間で降りられる」
出発した築宮を玄関先で見送って蛍が保証した。
「あのままトンズラってわけじゃなかろうな。頼むぜ」
長山の悪い癖だ。蛍は取り合わずに宿に入った。全員が続く。
「さてと……ユータが警察を連れて戻ってくるまで、オレたちゃなにをして時間を過ごせばいい? まさかトランプや麻雀ってのもな」
「よしてよ。こんなときに」
亜里沙はソファーに腰掛けた長山を不愉快そうに睨んだ。
「じゃあ、また犯人の当てっこか。それこそ無駄ってもんだ。残念ながらオレは睡眠薬のお陰でなにも知らん。頭の上を象が跨《また》いでも気がつかん状態だったんでな」
長山はせせら笑った。
「テラさんが殺されたんで、すっかり推理の情熱を失ったよ。もう、どうでもいいんだ。オレは自分の命を守ることだけに専念する。パンドラなんて、もともと関心すらなかったんだぜ。いまさらそんなヤツの復讐だって言われてもピンとこねえよ。悩むだけ無駄だ。復讐、結構。どうぞご勝手にって気分さ。この際、断言しとくがな、オレは一切関係ねえし、身に覚えもねえ。もし、オレが殺されることがあったら、この事件はパンドラを隠れ蓑にした無差別殺人だと警察に主張してくれ」
長山は塔馬を見詰めた。
「私にだってないわ」
亜里沙は憮然とした。蛍も頷く。
「こいつはマーダーケースなんかじゃねえ。バッドケース。すなわちひでえ間違いなんだ。なんかのな」
「しかし……テラさんは逃げ出そうとしていた。もちろん単純な恐怖からとも推察できるが……あるいは身に覚えがあったかも知れない。だったら間違いとも言いきれないよ」
「そいつだ!」
長山が膝を打った。
「ダイスケもテラさんも、宿から逃げ出そうとして殺された。問題はそこにあるんじゃねえか?」
「どういう意味?」
亜里沙が首を傾げた。
「復讐を図っている犯人にも相手が分かっていないってことさ」
「………」
「だからハガキや切り抜きの脅迫状で我々を威かしておいて、逃げ出そうとするヤツを殺す。よく考えて見ろよ。本当に犯人が復讐する相手を分かっていたら、今までにいくらでも機会はあったはずだ。肝腎の相手が不明なんで、皆が集合するチャンスを狙ったんだ」
全員が唖然とした。
「理屈なんかねえのさ。今朝トーマが見つけた脅迫文だって、根拠はなにもない。あれに怯えて逃げようとするヤツを殺す計画なんだ……まったく危ないところだぜ。トーマに言われなきゃ逃げるつもりだった」
長山は額の汗を拭《ぬぐ》った。
「犯人が復讐する相手を知らないなんて、まさか……とは思うけど」
亜里沙は半信半疑の顔で言う。
「じゃあ、次も男だ、という文句にも特別な意味はないと?」
塔馬は訊ねた。
「恐らく、犯人は相手が女じゃねえと見当をつけているんだろう」
それに関しては曖昧になる。
「ここまできて、次の目標を名指しできねえのが、その証拠だよ。はじめは犯人が陰湿なヤツで、てっきり楽しんでいやがると想像していたがな。目標が犯人自身にも分からなきゃ、名指しは無理だ。違うかね」
蛍は大きく頷いた。長山の話を信じるというよりも、信じたいという気持が明らかだ。
「トーマは殺人が東京でも続くと言ったが、これで終《しま》いさ。こんな閉じこめられた情況にあるから、犯人も簡単に目標を確認できるが、東京じゃ無理だ。言わば、オレたちゃふるいにかけられたのと一緒なんだぜ」
「だったら……逃げないで、じっと耐えていればいいってこと?」
「多分な。怯えの色さえ見せなければ犯人にも見当がつかん。もしそれでも続ける気があるなら、残り全員を殺す他に方法がなくなる。いくらなんでも、それは無謀ってもんだ」
「冗談じゃないわ」
亜里沙が肩をいからせた。
「それが本当なら、ダイスケやテラさんは意味なく殺されたことになるかも知れないじゃない。そんなのってある? 酷《ひど》すぎるわ」
「本当に復讐に値する人間だったかも知れん。そいつはこの場で判断する問題じゃねえぜ。現実にオレたちゃ二人のように逃げ出そうとしなかった。身に覚えがねえからさ」
「何度も逃げようとしたわよ。トーマが止めたからでしょ」
長山は詰まった。
「とにかく……」
塔馬は二人を制した。
「ユータが警察と戻ってくれば一応危険はなくなるんだ。それまで……厭な言い方になるが、互いに気をつけよう。特に自由行動は避けるように。夕方までは部屋に入らず、このロビーで過ごそう。ここなら宿の人たちもいる。迷惑しているのはオレたちじゃない。この宿の方がずっと大変なんだ」
「私は家に戻っちゃいけない?」
蛍が不服そうに質した。
「包丁でも研ぐのか」
ズケッと長山が言った。
「いいわきゃねえだろ。この宿は外からの出入りが自由だ。家に戻ったと見せかけて、こっそり忍びこんでこれるんだぜ。小便でもしてるところを背中から襲われたんじゃ目も当てられねえ」
蛍は真っ青になった。
「用事があるなら構わないが、直ぐに戻ってきてくれ。その間、我々はロビーで待っているよ」
「トーマも私を疑っているの!」
「前に言ったはずだ。今はそういう段階じゃない。分かってくれ」
塔馬の説明に蛍は了承した。それでも大きな瞳には屈辱がある。蛍は立ち上がると玄関に向かった。
「服を着替えてくるだけ。それから少し化粧もね。トイレで襲われるのが怖かったら、行ってきてよ。チョーサクが戻るまでここにいるわ」
蛍は真っ直ぐ長山を睨んだ。長山は首を振った。蛍が出て行く。
「分裂症みたいなヤツだな。泣いたり怒ったり、一貫性がねえ」
「当然よ。あんたをまともに相手にしていればね。包丁でも研ぐのか、なんて洒落《しやれ》にもならない。昔からそうだったけど、人を怒らせるのが趣味? 少しは反省して」
亜里沙はさかさまにくわえた長山のタバコを乱暴にむしり取った。その拍子に唇の皮が剥がれたらしい。長山は小さく叫んで唇を舐《な》めた。
「傷の痛みなんかより、もっと痛いものがあるんだから」
「そりゃねえだろう」
滲《にじ》む血を指先で確かめて長山は呆れた顔をした。
5
それから四時間後。
外はすっかり暗くなっている。ロビーには厨房から夕食を用意する匂いが漂ってきた。蛍はうんざりした顔で厨房の方を見やった。もう六時だ。食事時には違いないが食欲が湧かないらしい。亜里沙は黙って目を瞑《つぶ》っている。
「天ぷらか……」
昼食を抜いた長山が口にした。
「天ぷらは、精進料理だよな」
だれも答える気にならない。
そのとき、突然電話が鳴った。
ビクンと亜里沙が飛び起きた。
「通じたのよ!」
間違いない。ベルは帳場の中で何度も鳴り響く。厨房で手伝っていたおかみがエプロンで掌を拭いながら慌てて戻ってきた。塔馬たちも駆け寄る。受話器を取り上げたおかみに明るい笑顔が浮かんだ。
「築宮さんです。無事に麓に到着したと……塔馬さんに」
塔馬はカウンター越しに受話器を受け取った。
「これから直ぐに向かいますよ」
久し振りに聞く電話のせいか、築宮の声は弾んで聞こえた。
「どうして電話が通じた?」
「麓に降りる途中で切断箇所を見つけました。町に近い場所だったんで警察に着いてから一番に電話局へ連絡を取ったんです。工事の人間が出払っているとかでグズグズ言っていましたが、警察が殺人にからんでいると説明したら迅速に……そちらは大丈夫なんでしょう。まさか、またなにかあったなんてことは」
「なんとか無事だ。それで宿には何時ごろ到着する?」
「そんなにかかりません。幸い雪崩はあそこだけでした。と言っても積雪が酷いんで除雪車の先導になりますが……二時間もあれば充分に」
「除雪車程度じゃ、あの雪崩部分はむずかしいんじゃないか」
「ですから、車はそこまでです。後はスキーで向かいます。皆、スキーが得意な人間ばかりですから」
「何人でくる?」
「さあ。最低でも五、六人だと思いますが……なぜです」
「おかみが気にしてるんだ。今の時間なら食事の用意もしないと」
「なるほど。ちょっと電話を代わります。警察でも訊きたいことが」
少し間を置いて別の声がした。
「どうも。山影と言います」
築宮から聞いた話の全部を信用しているわけではないらしい。山影の調子には疑いも含まれていた。塔馬は事件の経過を繰り返した。
「了解しました。これまでは仕方がないとして、今後は現場保存に心がけて下さい。私どもが到着するまで絶対に部屋には入らないように」
「ええ。それと……これは厚かましいお願いなんですが」
「なんです?」
「吉秋と寺岡の死亡を家族に警察から伝えてもらえませんでしょうか」
今となっては気が重い。
「無論です。義務ですから」
山影は検視官を含めた七人で行くと最後につけ加え、電話を切った。
「あと二時間の辛抱だ」
塔馬が振り返ると亜里沙が泣きそうな顔で頷いた。
「電話ってのは命の綱だな。こんなに嬉しい思いははじめてだ」
長山も珍しく上機嫌だ。
「会社にかけていい? きっと皆が私の所在を捜しまわっているわ」
亜里沙が帳場に入った。皆がはしゃぎまくっている。
「私は家に戻って電話を──マネージャーも心配しているだろうし」
蛍は塔馬の返事も聞かず宿を飛び出して行った。
「まるで事件が解決したような騒ぎだな。まあ、分からんでもないが」
「これからが大変だ。電話の感じだけで判断はできないけど、山影って男は結構厳しそうだ。言葉にも地方|訛《なま》りがない。覚悟をしといた方がよさそうだ」
「買い被りだぜ。オレとトーマで分からんものが簡単に解けてたまるもんか。動機すら白紙の状態だ」
長山は嘲笑った。
「ゆっくりお手並み拝見といくさ。まさか拷問はせんだろう。理屈の言い合いなら負けはしない」
「挑発するような態度だけは慎んだ方がいい。無駄な疑いを招くばかりだ。オケイやチョーサクが関係していると知れれば地元の新聞社も駆けつけてくるだろう。仲間うちならチョーサクの冗談も分かるが」
「分かってるって。おまえさんはまったくの苦労性だな。分裂気味のオケイといい勝負だ。警察と本気でやり合っても意味がねえのは先刻ご承知さ。それより、安心したら途端に腹が減ってきやがった。ちょいと催促でもしてこよう」
長山は気軽に厨房に向かった。
「あら、チョーサクは?」
電話を終えた亜里沙が見渡した。
「食事の催促。元気なヤツだよ」
「きっと週刊誌の記者がくるわ」
「なんで?」
「ウチと系列会社なの」
亜里沙は女性週刊誌の名前を辛そうに挙げた。
「しょうがないさ。今もチョーサクに言ったばかりだ。オケイも関係してるとなりゃ皆が飛びついてくる。こいつは殺人事件だからな。スキャンダルと違って隠そうとしても隠しおおせる事件じゃない。リサが気にする必要はない。どのみち明日一杯には日本中に知れ渡る」
「おかみさんが話してたけど、捜査の担当は山影さんて言うんでしょ」
「ああ。それがなにか?」
「怪物らしいわ。町では有名なんですって。この宿にも何度か慰安会とかで泊まりにきて」
「怪物ってのはどういう意味だ」
「署長でさえ頭が上がらないそうなの。お酒を飲めば二升は軽いそうだし、頭も相当にキレるみたい」
やれやれ、それでは長山と似合いのタイプだ。塔馬は嘆息した。
6
玄関先でスキーを乱暴に脱ぎ塔馬たちに向きあった山影哲夫は巨漢に相応《ふさわ》しい不敵な面構えをしていた。ギョロリと辺りを見据える目には自分が確認したものでない限りいっさい信用しないような強情さも感じられる。年齢は四十一、二歳。スキー帽の下は短く刈り込んだ坊主頭だ。
「捜査の指揮は当分私が預かることになりました。捜査一課と四課を兼任しております」
役職は係長だが、階級は警部補。
「四課と言えば……マル暴か」
長山は体格を眺めて納得した。
「尾花沢は小さな署でして……係長とは言っても私の下には二つの課を合わせても四名しかおりません。今夜は総動員です」
「入り口で立ち話も……中へ」
塔馬が促した。山影の背後に控えている警察官たちの肩に雪が積もっていた。事件のための緊張か頬が強張《こわば》っている。あるいは塔馬の肩越しに顔を覗かせている蛍のせいかも知れない。視線が蛍に集まっていた。それに気づいて蛍は柔らかく微笑んだ。山影はその笑顔を無視して、
「首はそのまま沼の祠《ほこら》に?」
「ええ。手をつけていません」
「だったら、そっちが先だ。このまま雪が朝まで続けば面倒になる。どなたか現場まで案内していただけませんか」
てきぱきしている。塔馬は前に進んで名乗りを上げた。
「オレだけで充分だよ」
続いた長山を塔馬は制した。
「お食事の用意をしてありますが」
宿のおかみが山影に挨拶した。
「ありがたい。後で御馳走になる」
塔馬は腕の時計を見た。夜の九時だ。築宮の電話では警察官たちは夕食も取らずにこちらに向かったはずだ。相当空腹に違いない。
「こりゃあ酷いもんだ」
崖下から伸びた懐中電灯の明りが祠の屋根にある寺岡の首を捕《と》らえると、山影は大声を上げた。他の警察官たちにもどよめきが広がった。懐中電灯の明りも震えている。
「あの開いた扉の内側に刃物で刻んだ殺人予告があるんですな」
扉は風に煽られカタカタと不気味な音を立てている。
「くだらん小説が横行し過ぎている。なにが予告殺人だ。いかにも都会の人間が思いつきそうな手口です。悪戯《いたずら》にもほどがある」
山影は不愉快そうに唾を吐いた。
「地方でも推理小説は読みますよ」
塔馬は苦笑して言った。
「たとえ読んでも、こういう洒落っ気はないですよ。洒落っ気なんて言えばホトケさんに気の毒だが……頭にくれば猟銃でズドン。せいぜい農薬を牛乳に混ぜる程度ですかね。首を切り落として祠に飾るなんてのは……この仕事に入って二十年近くになりますが、今回の事件がはじめての経験だ」
山影は部下を崖に登らせた。
「しかし……やり甲斐はある。県警本部に報告したら連中もブッ飛んでいました。おまけに郷土の誇りの月宮蛍まで関係している。それに長山さんは推理小説を書いているとか」
「流山朔という名前は?」
塔馬の言葉に山影は少し考えて、
「本の方はさっぱりで……だが、どこかで耳にした覚えはありますな」
直ぐ後ろにいた警察官が得意そうに長山の書いた小説の題名をいくつか挙げた。長山がこの場にいればさぞかし喜んだだろう。
「気味悪い話ばかりを書く人です」
部下は余計な感想をつけ足した。
「たとえば、こういう設定のか?」
山影は笑い声で質して、
「それでは、長山さんを信用しますか。一番怪しまれそうな犯行をするとも思えん。むしろ犯人は長山さんに罪を着せようとしたとも考えられますな。それなら分かる。だったら田舎の人間も外すわけにはいかん」
「その裏だってあるでしょう」
塔馬は意地悪く口にした。
「もちろん。それは長山さんとゆっくり話し合ってから判断させてもらいますよ」
山影は塔馬との話をあっさり打ち切った。一筋縄ではいかない人間のようだ。山影は崖を見上げて祠に到着した部下に声をかけた。
「首の両方からライトで照らせ。その状態で何枚か写真を撮影する」
闇の中に白く浮かび上がった寺岡の首はまるで悪魔のように思えた。
「祠に意味はあるんでしょうかな」
山影がぼんやりと呟いた。
「十七年前にタイムカプセルを埋めた場所です」
「タイムカプセル?」
山影が甲高い声で聞き返した。警察と同行した築宮も、連続殺人を報告しただけで、そこまでは詳しく説明していなかったらしい。
「学生時代にクラブの仲間が集まってタイムカプセルを埋めました。だれか仲間が死んだ場合、その十三回忌に開くという条件でね」
「十三回忌! 冗談でしょう」
山影は呆れた口調になった。
「それで、だれの十三回忌でした」
「正確には十三回忌と言えるかどうか。半田緑という仲間が蒸発して今年が十三年目に当たるんです。我々はパンドラと呼んでいた」
「これでますます複雑になった」
「………」
「蒸発と言っても……皆さんはその方が死んだものだと考えておられるんでしょうな」
「ええ。事件は彼女の復讐が目的ではないかと……集まりのキッカケとなったのは最初に殺された吉秋の元に届いたハガキでした」
「そいつも聞いておらん」
山影は唸った。
パッ、パッとフラッシュが飛ぶ。祠の両脇に立つ二人の警察官が背後の崖に大きな影を作る。明るさに思わず目を瞑《つぶ》った塔馬の瞼に寺岡の首の残像がいつまでも残った。
「冬は苦手です。特に雪国はね。どんな犯罪の痕跡も分厚い雪が被《おお》いつくしてしまう。それに我々警察官も人の子だ。雪の夜は温かい炬燵《こたつ》にでも入って酒を飲みたくなる。手足が冷え切ると頭の回転も鈍くなる」
山影は肩の雪を払い落とした。
宿に戻るとロビーには全員が揃って塔馬たちの帰りを待っていた。
「食事の前に死体を片付けてしまおう。もう案内は不要です」
山影は皆に軽い会釈を交わして二階へ向かって行った。塔馬は長山のとなりに座った。
「ヤツはどんな塩梅《あんばい》だった?」
警察官たちが視界から消え去るのを確認して長山がタバコを勧めた。
「得体の知れない人物だな」
一言で塔馬は説明した。
「人柄は悪そうじゃないけどね」
「切れるタイプか?」
「青竜刀という感じだ。刃物自体の鋭さより、勢いでぶつかってくる」
「体型は確かにカミソリじゃねえ」
「怪物の噂もあるらしい」
「そいつはさっきおかみから聞いたよ。山形警察署で問題があって、こっちに回されたそうだ」
「へえ。どんな問題だって?」
「どうやら暴力団がらみのようだ。詳しくは知らんが相当、連中からマークされていたということだぜ。恐らく、大した証拠もないのに組長でも引っ張ったんだろうさ。それで上が心配して遠くに避難させたと、まあ、そんな事情じゃねえのか」
ありそうな話だ。塔馬は頷いた。
「ってことは一課の経験が浅いってことさ。ヤーサン相手のドンパチにゃ馴れているかも知らんが、今度のような高級な犯罪には不向きな人間だろう。解決の期待は薄い。やがて県警本部からも人がくる。今夜のところは用心棒代わりってとこだな」
「でもない。彼は張り切っている。きっと今夜は寝かしてくれない」
「そんなことは構わんよ。ただ、問題はいつオレたちを解放してくれるかだ。誤解のないように言っとくがな、オレは彼氏が愚鈍なのを期待してるんじゃない。くだらん疑いをいつまでも持たれて、ここに足留めされやしないかと心配してるんだ。もう今夜で四日目なんだぞ。いくら正月で締切がないって言っても、それほどヒマな体じゃねえんだ」
「四日か……」
塔馬はあらためて思った。まだたったそれだけしか時間が過ぎていない。そのわずかの間に二人も仲間が殺されてしまったのだ。
「私もそろそろ限界だわ」
蛍が言った。
「マネージャーが心配して……明日の昼には弁護士を連れて駆けつけるはずよ。それまではなるべく警察との接触は避けるようにと」
「なにを考えてるんだ」
長山もさすがに唖然とした。
「そんなのが通用するとでも」
「マネージャーが言ったの」
「どこまでもガキだな。あんなタコみてえな男にそんな理屈は通らん。第一、あいつはオケイを見向きもしなかった。恐らく、オケイがなんたるかも知らんのだろうさ」
「知ってはいたよ。一応はな」
塔馬が補足した。
「部下の中にはチョーサクのファンもいた。安心してくれ」
ほう、と長山は頷くと、
「とにかく、だ。オレはヤツに意思表示をしておく。ヤツがオレを重要参考人と見做《みな》した場合は別にして、オレは明後日にはこの宿をでる。新聞記者なんかに取り囲まれて時の人なんかにはなりたくねえからな」
「それは私もおなじ。迷惑だわ」
蛍は眉をしかめた。
「春から大きなドラマがはじまるってのに」
「私もできるなら明日にでも戻りたい。仕事が気になって」
亜里沙が溜め息を吐いた。
「拘束はできんさ。オレたちにゃ仕事があるんだ。無理強いされたら訴えるまでだ」
「まだなにも言われちゃいない」
塔馬は苦笑いした。
「言うよ。あのタコは」
長山は断言した。
「仲間の中に犯人がいるのは疑いなしだ。それが百人もいりゃ諦めもするだろうが、わずか五人なんだぞ。推理なんぞより威しでオトそうとする。そういうタイプだ」
「明後日は……無理だろうな」
塔馬の言葉に築宮も同意した。
「人が二人も殺されている。どんなに事情聴取が順調に進もうと三、四日は必要だ」
「そうですよ。諦めてください」
「神社はヒマそうだしな」
長山は築宮を睨みつけた。
「それにユータなら麓の住人だ。足留めが半月に及んでも平気だろう」
「それより……明日の夕方には吉秋の奥さんと親父さんがくるそうだ」
山影から聞かされた話である。それを耳にして亜里沙と蛍は口を噤《つぐ》んだ。長山は首を激しく振った。
「会いたくねえな。いったいどんな顔をして迎えればいいんだ」
珍しく狼狽《ろうばい》している。
「ダイスケの女房は犯人がオレたちの中にいるって思いながらくるんだぞ。オレにゃ耐えられん」
「テラさんの方はどうなの?」
蛍が質問してきた。
「病院の事務長がくる。司法解剖が必要なんで引渡しは二、三日先になるらしい」
「厭だ。厭だ。暗い話ばかりだぜ。ユータ、おまえはダイスケの同級生なんだ。信頼も少しはあるだろう。応対はおまえがやれ」
「冗談じゃない。身勝手すぎます。こっちだって気が重いのはおなじじゃないですか」
築宮は長山の言い様に憤慨した。
「ふざけるな! もともとはおまえの呼びかけで集まったもんじゃねえか。幹事はおまえだぞ。ダイスケの女房もそう思ってくる」
「………」
「神主の肩書きが泣くぜ。違うか」
「分かりました。責任は取ります」
築宮は小さく肩を揺すらせた。
三十分後。
ようやく山影が降りてきた。
「二階にはまだ上がらんでくださいよ。指紋の採取やら廊下の血液反応やらと、仕事の最中でして」
山影は塔馬の前に腰を据えた。
「どうせ今夜は寝かせるつもりもないんじゃありませんかね」
長山が皮肉な目で訊ねた。
「皆さんの協力によります。こちらも生身の人間ですから、徹夜はしたくありません」
頭に手をやると山影は思い出したようにスキー帽を脱いだ。ますます顔が円く見える。
「それにしても、酷い事件ですな」
おかみが運んできた茶を旨そうに啜《すす》りながら、山影は油断ない視線を皆に注いだ。
「自己紹介をしていただけますか」
亜里沙を見詰める。亜里沙は慌てて名前と会社名を告げた。山影の目がとなりにいた蛍に止まった。蛍は名乗らずに微笑んだ。
「本名の方までは知りませんので」
山影は冷たく蛍を促した。
「築宮啓子。仕事は……俳優です」
蛍は屈辱に耐えた。
「映画は何本も観ております。実際の方が遥かに美人ですね」
山影の言葉に蛍の頬が輝いた。
「ああ、長山さんは結構です」
声を出しかけた長山に山影は頷いた。三人いる男の中で二人とはすでに馴染みだ。
「ところで……」
長山がおずおずと切り出した。
「我々にも都合があるんですがね」
「そうでしょうな。皆さんお忙しい方ばかりなのは承知しています」
長山はホッとした。
「だったら話がしやすい。できれば早めに終えていただいて東京に戻りたいんです」
「終える、とは?」
「事情聴取です。我々に逃亡の恐れがないことははっきりしている。もし不審があればいつでも向こうで呼び出しに応じます」
「なんではっきりしていると?」
山影は面白そうに長山を眺めた。
「はっきりしてるじゃないか」
長山は憮然として声を荒げた。
「逃げれば自分で犯人だと認めるようなもんだ。もしオレが犯人だったら、あんたらがここにくる前に逃亡している。今この場にいるってことは、今後も逃げないってことだ。そんなのは子供にだって分かる」
「なるほど。確かな理屈だな」
本気で山影は感心した。
「けれど……こちらにも一応の手続きがありましてね。もちろん、よほどの事情でもあれば、延期もやぶさかではありません。ただしその場合でも、こちらの署に出頭してもらうことになります」
「だからどのくらいかかるんです」
「事件の大きさから見ても……最低二日はこの宿にとどまっていただきたいものですな。解剖結果がでるのもその頃ですので」
「二日か……」
長山もなんとか納得した。
「月宮さんもそれで構いませんか」
蛍も頷いた。
「さてと……それでは早速皆さんのお話を聞かせていただきますか」
山影は帳場から顔を覗かせているおかみに声をかけた。
「悪いが一階で空いている部屋を用意してくれないか。暖房も入れて。そうだな。簡単なことだから最初に従業員の話から訊こう。従業員には明日の仕事がある」
おかみが承知すると山影は塔馬に向かった。
「先程の話ですが……タイムカプセルに埋められていた品物と新聞記事をこちらに預けてもらえませんか」
「なんで!」
長山が大声を上げた。
「後でお返しします。それと、ハガキと切り抜きで作った脅迫状もお願いします」
山影は有無を言わせない口調で言った。長い夜になりそうだった。
7
「正直なところを聞かせてもらえませんですかね」
山影は振り向くと笑顔で塔馬に奥の席を勧めた。その目が軽く充血していた。さすがに疲れがでてきたのだろう。宿の従業員や蛍、亜里沙と尋問をはじめて、最後の塔馬の番がきたのは深夜の三時だった。灰皿には長山が喫《す》ったらしいタバコの煙が燻《くすぶ》っている。塔馬は取り上げて火を揉み消した。
「皆さんに話をうかがえばうかがうほど、混乱してくる。なんで、こんな風になってしまったんです」
山影は溜め息を吐くと、
「酷く単純な事件にも思えるし、反対に奥が深そうな感じもしてくる」
「………」
「ちょん切った首の飾り方から考えると、確かに復讐のための見せしめという線が濃厚なんですが……見せしめってヤツは、狙う相手にその意味が充分に伝わってこそ効力を発揮する。ところが……どなたに聞いても心当たりはないらしい。もちろん私に隠していることも有り得ます。しかし、二人も現実に殺されているんですぞ。その上に、あの祠の扉に刻まれた殺人予告もある。口で嘘をついても、動揺は必ず顔に表われてくるはずだ。そう思って皆さんを観察したんですがね……長山さんから先ほど面白い意見を聞きました」
「犯人にも狙う相手が分かっていないという推理ですか」
「そうです。まさか、と笑いましたが……まさか、でしょう?」
山影は探るように質した。
「人を二人も殺しておいて、そんなことは有り得んですよ」
重ねてくる。
「首を飾った意味か……」
塔馬は別のことを考えていた。確かに山影の言う通り、わざわざ首を飾ったのには一つの解釈しかない。この連続殺人が本当にパンドラの復讐だと言うなら、パンドラは首を切り落とされて殺されたのだろう。だが、そうなると塔馬が密《ひそ》かに考えていたパンドラ殺しとは、かなり様相が異なってくる。
「なにか?」
眉を寄せた塔馬に山影が訊ねた。
「大したことじゃありません」
「それでも結構です。どんな些細な疑問でも聞かせてください」
「パンドラ……半田緑の仇名《あだな》ですけど。実を言うと私は彼女が殺されていないと考えていたんです」
山影は絶句した。
「そんなはずは……長山さんや築宮さんから聞いた話では、そもそも半田さんが殺された可能性があると言い出したのは塔馬さんだと」
「そうです」
「だったら……考えを撤回したと」
「いや。前からおなじです。私は間違いなくパンドラが殺されたとは言いましたが、違う意味でした」
「どうも分かりませんね」
「八割以上の確率で自殺だと思っていたんです」
「自殺!」
「それなら殺人と呼べないかも知れませんが、自殺の原因に我々の仲間が関係していれば、殺したも一緒でしょう。復讐を企む人間がいても決しておかしくはない」
「なるほど。それはその通りだが、自殺の根拠はどこに?」
「どこにも」
塔馬は苦笑した。
「ただ……殺人を簡単に受け入れたくなかっただけです。けれど、現実に吉秋の許に復讐を示唆《しさ》するハガキが届いた。ただの悪戯じゃないとすれば、パンドラの死に仲間が関わっていた可能性が高い。恐らく仲間の言動がきっかけでパンドラは自殺したんじゃないかと……」
山影は納得した。
「だからこそ、二人が殺されても疑問は持たなかった。自殺した原因を突き止めるのは容易なことじゃありません。一人の自殺に十人以上の人間が関わりあっている場合もある。つまり、そういう事件だと……」
「それでいいじゃありませんか」
山影は首を捻《ひね》った。
「お陰で筋が読めてきた」
「反対ですよ」
塔馬は首を横に振った。
「首を切ったのが、見せしめなら、パンドラは確実に殺されたことになります。すると、不思議な問題が起きてくる。自殺の原因に二人以上の人間がからむのはよくある話だ。ところが殺人となればどうか……パンドラはか弱い女性だったんです。何人もかからなきゃ殺せない相手じゃなかった。よしんば、なにかの都合で吉秋と寺岡が彼女を殺したとしますね。二人なら、まだ納得もできますが、今度の犯人は他にも共犯者がいると我々に告げている。次も男だと。するとパンドラは三人の男によって殺された理屈になります」
「………」
「三人の男に殺されるほど恨まれるってのは……どうですか?」
「うーん。聞いたこともないな」
山影も頷いた。
「財産を狙われるくらい金持ちでもなかった。と言って、三人の男を手玉にとるほどのプレイガールでもない。保険金目当ての犯行なら死体を警察に発見させるはずです。第一、もっとも不可思議な点は……首を見せしめに用いたところにある」
山影はまた不審な目をした。
「パンドラの死体は発見されていないんです。なのに首を切って見せしめにするってことは、今回の犯人もまたパンドラの死体をどこかで見たという推理が成り立ちますね」
「でしょうな……でなきゃ意味なく首を切るとも思えません」
「じゃあ、なんで犯人はパンドラの死体を発見したときに警察に届けなかったんでしょうか。届ければ自分の手を汚さずとも、警察が復讐を果たしてくれる。無理をして自分が犯罪者になる必要はどこにもない」
「なにか事情があったのでは」
「たとえば?」
「たとえば……自分もまた犯罪者の立場にあったとか」
「それなら名前を伏せて電話連絡をすれば済む。自分が発見者だと名乗りでることもないでしょう」
「いやいや、私の考えはですな……その人間も殺しに関わっていたと」
「仲間割れという意味ですか……」
「それなら死体も見ているし、警察にも報告ができん。下手をすれば自分も捕《つか》まるんですから」
塔馬は考えこんだ。予測もしていなかった答である。
「すると……パンドラ殺しには最低でも四人の仲間がからんでいたと」
「とは限らんですよ。三人の仲間で殺して、一人が裏切る。もう二人殺されたわけですから、残りの一人がパンドラ殺しの犯人であり、また今回の犯人でもある。祠に刻まれた予告の文字は、皆さんを、と言うよりも捜査を混乱させる目的だったと考えることもできます。なるほど……いけそうだ。それで、皆さんに心当たりのないのも分かる。あとは犯人だけが残っているに違いない」
山影は一人で頷くとテーブルからお絞りを取って顔を丸く拭《ふ》いた。
「だったら、切り張りした脅迫状が私の部屋に投じられていたのは、どう解釈するんです。私か長山が二番目に殺されたというなら別ですが、現実に生きている以上、脅迫の意味はほとんどなかったわけだ」
「いくらでも解釈はできます。塔馬さんなら隠さずに皆へ伝えてくれると思ったのが一番でしょうな。殺す相手に直接届ければ握り潰されてしまう危険が大きい。犯人は復讐だと全員に教えたかったんじゃありませんか。それともう一つ。長山さんか塔馬さんが犯人の場合ですね」
あっさりと山影は口にした。
「まあ、あくまでも仮定の話と受け取って聞き流してください。もし、長山さんが犯人なら、自分が脅迫されていると皆に思わせておく方が便利ですよ。警察に対してもね」
山影はじっと塔馬を見詰めた。
「最後の可能性としては、犯人が宿にいる人物だと思わせておきたかったとも考えられます。なにしろ真夜中に脅迫状が投じられたのは疑いがない。いくら外からの出入りが自由だとしても厄介だ。万が一、従業員にでも見咎《みとが》められれば言い訳が利かない。脅迫状なんて、いつでも投じられるわけですから、もし宿にいない蛍さんや築宮さんが犯人だとすれば見つかっても安全な昼間を狙うでしょうな。それが常識というもんです。しかし、上手く運べば嫌疑から外されることだって……」
塔馬は山影の推理に舌を巻いた。
「ありとあらゆる推測が可能だということにすぎません。恐らく、この謎なんかは犯人が捕まってみれば他愛のない問題になると思いますよ」
山影は笑うとポケットからタバコをとりだして、
「長山さんは一日に八十本は喫うそうですよ。大丈夫なんですかね」
少し余裕を取り戻したようにゆっくりと火をつけた。
「個性があって楽しい人たちばかりだ。仕事を忘れてしまいそうです」
「アリバイは必要ありませんか」
塔馬は逆に質した。
「疑問があればこちらから再度確認させていただきますが、今のところ問題はありません。どちらの犯行時間も曖昧な情況で訊ねても仕方がないでしょう。どなたに訊ねても互いの証言は得られないようで……」
山影は肩を揺すらせて笑った。
「アリバイのないことを蛍さんは酷く気にしておられましたが……それほど心配なさらないようにと塔馬さんから伝えておいてください。アリバイとはその人間が犯人では有り得ないことを実証する手段であって、アリバイがないからと言って、すなわち反対に作用するものではないんですよ。ご安心なさるようにと」
「分かりました。それで皆もホッとするでしょう」
「全員にアリバイがないとは……まあ、珍しいケースでありますが」
皮肉もちゃんと忘れない。
「ところで……半田さんが殺されたと思われる頃のことですが、ええと昭和五十一年かな」
山影は矛《ほこ》先を変えてきた。
「覚えていらっしゃる限り、塔馬さん自身と他の方たちの動向を教えていただけませんかね」
「私は東京でブラブラと」
「ブラブラとは? 具体的に」
山影の眼が厳しくなった。
「亡くなった歌麿研究者の岬義輝先生について風俗史の勉強をはじめていた頃です。弟子と言っても、先生は在野の研究者だったので研究室もない。それで私も定職がなく、いろんなアルバイトをして生計を」
「どういう?」
「画廊が主です。どうせやるなら美術に関係した分野の方がと。地方まわりの展覧会の企画なども」
「今の大学にはいつ頃から」
「六、七年前です。美術評論でなんとか食べられるようになってから舞いこんできた話で……」
「他の仲間との接触は?」
「ほとんどなかった。もちろんオケイが女優になったり、長山が作家になったのは知っていたけど」
「会うつもりもなかった……と」
山影は追及してきた。
「オケイが女優になったとき、こちらはブラブラしている時期でした。そんな状態で会っても自分が惨めになるだけです。それに、彼女とはそれほど親しい仲でもなかったし」
「長山さんとはいかがですか。長山さんが作家になられたのは五、六年前ですよ」
「別に理由はありません。なんでかな。考えたこともない」
塔馬は自分でおかしくなった。こういう質問をされ続けると、なんだか自分が怪しい人物に思えてくる。
「どなたにうかがっても、大学を卒業して以来、仲間と会ったことがないとおっしゃる」
「茶研なんて、いい加減なクラブだったんです。若かったから集まっていただけで、運動部のような強い繋《つな》がりもない。いまさら仕事や興味の別々な仲間と会っても仕方がないという感じはありましたね」
「なのに今回は全員が揃った」
「だからパンドラの十三回忌のせいです。仲間の繋がりとは別物だ」
「会わなくとも仲間の所在ぐらいは知っておられたんでしょう」
「分かっていたのはオケイや長山の他に雑誌の編集をしている亜里沙程度のものです。彼女とは仕事の関係で何度か会っていましたからね」
「殺された吉秋さんと寺岡さんに関してはほとんど?」
「と言っていいでしょう。寺岡がどこかで病院を開業しているのは亜里沙から耳にしていましたが……吉秋に関しては北海道にいることさえ」
「お手上げだな」
山影は腕を組んだ。
「それでしたら、今の私の方が塔馬さんよりも詳しくなった。それぞれにうかがいましたんで」
「なにか不審な点は?」
「なんにも。十二年前東京にいらしたのは塔馬さん、名掛亜里沙さん、そして蛍さんの三人。長山さんは広島で貿易会社に勤務しておられた。築宮さんは神主になられるために京都の学校に再入学していたとか」
へぇ、と塔馬は頷いた。長山と築宮の件は初耳だった。
「寺岡さんは山形市内の大きな個人病院に勤務医として働いていた。これは築宮さんから聞かされた話で」
「………」
「吉秋さんはその当時仙台です。製薬会社のプロパーだったとか。山形営業所に配属されたのは七、八年前ということで、北海道には二年ほど前に移られています」
メモを見ながら山影は言った。
「ところが……肝腎の半田緑さんのこととなると、どなたも知らないと言い張る。出身地の岩手で教師をしていたんじゃないか、と名掛さんが教えてくださっただけでね。消息を知っていたとなれば疑われるとでも警戒しているんでしょうか」
山影は眠そうな目で眺めた。
「殺されたとしても……いったいどこで殺されたのか。死体がなければ捜査のしようがありませんな」
「………」
「明日にでも岩手県警に照会して半田さんの実家を訪ねてもらうつもりです。消息を断った時点での勤務先がはっきりすれば、少しは見当がついてくるかも知れません」
山影の口調にはどこか冷たいものが混じっていた。
「半田さんが蒸発なさったと聞かされたときに、仲間のどなたも彼女の実家に問い合わせをしなかったんですね。皆さん、それを聞き流しておられる。もし、そのときに実家に連絡をとっていてくだされば彼女の勤務先もこの場で明確になっていたはずです。私には理解ができん」
「しかし……それならどうしてパンドラの失踪を知ったのかな」
塔馬は唇を噛んだ。確か仲間のだれかから手紙を貰った記憶がある。
「吉秋さんでしょう。半田さんとは同級生だったとか……吉秋さんは実家に連絡をとっているらしい。それで築宮さんが知り、蛍さんが知り、名掛さんが知り、と広まっていったんです。その意味では一人だけは連絡をとったことになりますがね」
「てっきり他の連中も実家に問い合わせていたとばかり」
塔馬はうなだれた。仲間としてあまりにも恥ずかしい。
「そんなに厭な女性でしたか……」
山影は切りこんできた。
「……殺したくなるほどに」
「………」
「皆さんを咎《とが》めているんじゃない。大事な問題なんです。私には今度の連続殺人よりも、そちらの方が不思議に思えてならんのです。仲間が失踪したと聞けば、真っ先に家族に問い合わせるのが普通ですよ。心配する必要がないくらい半田さんは嫌われていたことになるんじゃありませんか。なのにいまさら復讐ってのも変ですな。復讐するほど、だれが半田さんを愛していたと言うんです」
山影の言葉は熾烈《しれつ》だった。
「当時、半田さんとつきあっていた人間に心当たりはありませんかね」
山影は核心に触れてきた。塔馬は無言で首を横に振った。
「今度の連続殺人の目的が彼女の復讐であるなら、その犯人は彼女と相当親しい関係にあったと考えざるを得ない。関心もない相手のために命を張るバカもおらんでしょうよ」
山影の目が厳しいものに変わる。
「想像でも結構です」
「残りの人間にはいません」
塔馬は曖昧な言い方をした。
「残りとは……生存者という?」
「パンドラが愛していたとすれば、相手は寺岡だったはずです……そして、反対にパンドラを愛していた男は吉秋だったと思います」
山影は唖然《あぜん》とした。
「まさか……冗談がすぎる。どちらも復讐された側の人間ですぞ」
話にもならんと山影は睨んだ。溜め息を吐きながらタバコをふかす。
「庇《かば》う気持も分かりますが」
「庇うつもりはない」
塔馬はまともに向き合った。
「だったら……犯人は愛してもいなかった半田さんのために、彼女が愛していた寺岡さんを殺し、彼女を好きだった吉秋さんを殺したと?」
山影は執拗に繰り返した。
「ということになるでしょうね」
それしか答えようがない。
「もう少し協力してもらえる方だと期待しておったんですがな」
苛立った口調で山影が続けた。
「半田さんは殺されたと皆さんに言いながら、私の前では自殺の意味だったと覆《くつがえ》す。復讐だと言い張っておきながら、今度は犯人の該当者が一人もいないと断言される。失礼だがあなたの話は矛盾だらけだ。正直言って失望しました。それなら、質問を変えさせていただきます」
「………」
「今度の殺人が復讐に見せかけた犯行の場合……寺岡さんと吉秋さんに恨みを持っていそうな人物の心当たりはどうです」
「………」
「半田さんの件は忘れて、です」
「さっぱり……見当もつかない」
山影はフンと鼻を鳴らした。
「嘘じゃない。私は二人とほとんどつきあいがなかったんです。どこに住んでいるかも知らなかった」
「現在の話じゃありません。学生時代のことを訊ねているんです」
「それこそ……まさかでしょう。二十年近くにもなる古い恨みが原因で二人も殺す人間がどこにいますか。逃亡して居場所が掴《つか》めなかったというならともかく……その気になれば捜しだせた相手だった」
山影も詰まった。
「復讐が見せかけなら……原因は古い過去じゃない。最近のはずです」
しばし無言のあと山影は頷いて、
「宿に皆が集まってから……なにか諍《いさか》いや気になることは?」
「それも……別に」
「じゃあ、突発的な犯行も無理か」
山影は組んでいた腕をほどくと拳で円い頭を何度も叩いた。
「皆にもおなじ質問を?」
「ええ。特に女性たちは、恨みの心当たりどころか、二人とも殺されるような人間じゃないと力説していましたね。なにかの間違いだと……」
顔を上げた山影には苦渋の色が見られた。塔馬も静かに頷いた。
「さっぱり分からん。二人を殺して得をする人間がいるとも思えんし」
「………」
「長山さんはさすがに推理作家らしく、犯人はゲームを楽しんでいるんだと主張しましたが……小説でもあるまいし、その程度の理由で首を切り取るわけがないでしょう。あれが見せしめの復讐じゃないとしたら、どう考えればいいのか……」
山影の言葉はおなじところをグルグルと回りはじめた。
「失礼します」
襖《ふすま》の外から声がかかって、若い警察官が入ってきた。
「殺害現場が確認されました」
「寺岡さんだな」
山影は振り向いた。
「どこだった?」
「岩風呂の渡り廊下から外にかけて少量の血痕が……恐らく、その場所で背中を刺されたものと。下着を分厚く着込んでいたので血もそれほど飛び散らなかったんでしょう」
風呂と宿を繋ぐ狭い渡り廊下には外と出入りのできるドアがある。寺岡はそのドアから逃げようとしていたのだろう。そこを犯人に背後から襲われたのだ。
「鑑識の方で岩風呂を調べてみたら洗い場から大量の血液反応がでました。首の切断はそこで……」
「分かった。直ぐ行こう」
山影は立ち上がると、
「あなたも行かれますか」
塔馬を誘った。
「と言っても、いまさらなにがあるわけでもない。尋問は終了です。お手数をかけました」
山影は頭を下げて部屋をでた。塔馬も続いて廊下を急いだ。
「風呂場ってのは面倒だな。ここの汚水は脇の谷川に直接流れるように作られていましてね。ありとあらゆる痕跡が消えてしまったはずです」
追いついた塔馬に山影は言った。
「それでコートが濡れていたんだ」
塔馬は納得した。
「あれだけ背中を刺されながら衣類がさほど汚れていなかったところを見ると、犯人はてきぱきと仕事を進めたんでしょうな。首を直後に切断したんで血がそちらの方から外に流れでたんですよ」
三人は岩風呂に到着した。明け放たれたガラス扉から湯気がもうもうと外に吹きでている。廊下との温度差が激しいためだ。脱衣所から中を覗くと二人の人間がいた。
「なんだ、その恰好は」
山影は呆れた。二人は肌着だけの姿で床に這いつくばっていたのだ。
「窓が開かないんです。そこのドアだけじゃ服に湯気がまわって」
「湯を止めてもらえばいいだろう」
「こんな時間にですか」
時計を見ると間もなく四時だ。従業員はとっくに眠っている。
「まったく……とんだ醜態をお目にかけてしまって」
山影は頭をボリボリ掻いた。
「仕方ない。続けろ」
塔馬は苦笑して風呂場に入った。
8
「いかにも田舎の警察らしいな」
長山が嘲笑《あざわら》った。尋問が心配だったと見えて、長山は眠らずに塔馬の戻ってくるのを部屋で待っていたのだ。二人の声を聞きつけてか向かいの部屋の亜里沙も起きだしてきた。短い丹前からはみでた脚が少し艶《つや》っぽい。さすがに眠そうな目だ。
「どうした。もう四時だぜ」
「興奮して寝つかれないの」
亜里沙は欠伸《あくび》をこらえて二人の間に腰を下ろした。
「逆にコーヒーでも飲むか。ポットのお湯もぬるくなっただろうが」
亜里沙は嬉しそうに頷いた。おなじ宿に警察官がいるせいか、昨日までの不安が薄らいでいるらしい。長山との会話にも甘えがある。
「首の切断場所は風呂場だそうだ」
「………」
「もっと前に聞かされていりゃ、入りになんか行かんのに」
「行ったの!」
「尋問が済んで直ぐにな。渡り廊下にゃ警察官がウロウロしてたが……あいつらも人が悪い」
「そのときはまだ風呂を調べていなかったんだろう」
「見当はつくだろうよ。まあ、知らないお陰で汗を流せた。聞いたあとなら入る気にもならん」
長山は笑いながらカップに湯を注いだ。コーヒーの温かな香りが部屋中に漂う。亜里沙は両の掌でカップを受け取った。塔馬の掌も冷たい。夜明け前は気温が一番低いときだ。
「美味《おい》しい」
亜里沙はしみじみと口にした。
「これで……終わったのよね」
塔馬に同意を求める。
「リサが犯人でなきゃな」
長山はニヤッと笑った。
「少なくとも殺される危険だけはなくなったと見ていい。犯人以外の人間にとっては事件も終了だ」
「でしょう」
亜里沙も頷く。警察が到着するまでの亜里沙だったら、今の言葉にも激しく食ってかかったはずだ。それだけ安堵《あんど》が大きいのだろう。
「それにしても油断ならん男だ」
長山はポツリと呟いた。
「あのタコだよ。どこまでオレの話を真面目に聞いているんだか……妙にのらりくらりと攻めてきやがる。頭の形ばかりがタコじゃねえぜ。気性もタコに似てるんじゃねえか」
「みものだったろうな」
「なにが?」
「チョーサクと山影さんの対決さ。さぞかし形而上的会話が飛び交っただろうと思ってね」
「よせよ。結構シビアなやりとりだったぜ。あいつがどれほどの男か見極《みきわ》める必要もあったんでな」
「油断ならない──か」
塔馬もそれを認めた。
「パンドラはだれとつきあってたんだ。リサは知らねえか?」
長山が真顔で訊ねた。
「知らないわ。ハンコって秘密主義者だったもの。テラさんを好きなのは感づいていたけど……」
「へえ。そう言えばトーマもそんなことを話してたっけ。風呂で寝ぼけて溺《おぼ》れかけたときさ」
「でも、実際にはつきあってなかったと思う」
「そうか。テラさんと怪しかったのはリサだった。これほど確かな根拠はねえってことだな」
「私だって、そんな関係じゃなかったわ。皆が勝手に想像してただけ」
亜里沙は即座に否定した。
「ダイスケはパンドラが好きだったんじゃないか?」
塔馬は二人に確認を取った。
「そりゃないだろう」
長山は信じられない顔をして、
「仙台から山形までの車中でダイスケがなんて言ったか忘れたのか。ヤツはパンドラが蒸発したと分かったときにホッとしたってオレに白状したんだぜ。それで贖罪《しよくざい》のつもりで今度の集まりに参加したとな」
亜里沙も思い出した。
「しかし、それは嘘だった。ダイスケがここにきたのは不気味なハガキをもらったからだった。第一、山影さんの話によると、パンドラの実家に連絡を取って蒸発を確認したのはダイスケだったそうだ」
「………」
「もしパンドラを嫌っていたら、連絡なんかすると思うか?」
「確かに……その通りだな」
長山も仕方なく頷いた。
「器用な嘘がつける男とも思えんがね。まだまだ観察力が足らんか」
「山影さんはその話をだれから聞いたの? ダイスケがハンコの実家に連絡を取ったなんて初耳よ」
亜里沙は首を傾《かし》げた。
「リサはパンドラの蒸発をどうやって知ったんだい」
「オケイ……じゃなかったかしら」
「チョーサクは?」
「ハガキをもらったと思ったな。差出人は忘れちまった。あのタコにもそう返事をしといた」
「すると山影さんに伝えたのはオケイかユータのどちらかだ。オケイの尋問が最初だったんだから、恐らくそれを話したのはユータだな。もしオケイなら次のリサにも確認程度はしていたと思う」
「だろうね。ユータならそれを知っていても不思議じゃねえ。ハガキの件で相談したように、同級ならいろんなやりとりがあって当たり前だ。やはりダイスケはパンドラに好意を抱いていたってことになりそうだ」
「なんだか信じられない」
亜里沙は軽い難色を示した。
「もう時効だから言うけど……」
亜里沙は躊躇《ちゆうちよ》のあと、
「卒業直前にダイスケからラブレターをもらったことがあるの」
長山はアハハと笑った。
「それで信じたくねえのか。まったく純粋なお姉さんだ。私以外の女に目をくれちゃイヤよってわけだ」
「そんなんじゃないけど……」
「その口振りじゃダイスケをフッたんだろうが。簡単じゃねえか。それでパンドラに乗り換えただけさ。男なんてそんなもんだ。ダメとなりゃあっさりと見切りをつける」
「そうなの?」
亜里沙は塔馬を見詰めた。
「人にもよるけど……」
「そうに決まってるって。パンドラならまさかフラれやしねえと思う。痛手を癒すには恰好の相手だよ」
「酷い言い方」
亜里沙はムッとした。
「せっかくの思い出をブチ壊すようで悪いが……そんな調子じゃダイスケのヤツ、オケイにも言い寄っていたのと違うか。オレの印象じゃだいぶ参っていたように思えたがね」
「もう止さないか」
塔馬が制した。
「今度の事件とは無関係だ」
「でもねえよ。復讐という線を重視するなら、あの当時の人間関係を徹底的に洗い直す必要がある。今までは殺された二人に共通点なんてねえと思ってたが、パンドラにとっちゃ二人とも重要な人間だったわけだ。本当にダイスケがパンドラとつきあってたかどうか確かめるべきだな。明日一番にユータに訊いてみよう」
「ユータは知らないんじゃない」
「なんでだ」
「だって、ユータはハンコがトーマとつきあってたと信じていたもの。ダイスケから耳にしていたら、そんな想像なんて有り得ないわよ」
塔馬も苦笑した。長山はそのとき風呂にでかけていたので知らないはずだが、宿に着くなり亜里沙と築宮の三人でパンドラの蒸発の原因をあれこれと話していたら、塔馬に対する失恋の可能性を築宮が口にした。もちろん誤解である。
「なるほど。ってことはオケイも同様か。ユータとは従兄妹《いとこ》同士だ」
知っていればなにかの機会にでも話し合っていそうなものだ。長山は舌打ちすると肩をすくめた。
「オレたちゃ、まるで無駄な会話をしているのかもしれん。十七年前なんてのは気が遠くなるほどの年月だぜ。自分の気持だって忘れたってのに、人のことはなおさらだ」
「私たちにさえ見当がつかないんだもの、山影さんには無理よ」
「どうかな。データ不足でも競馬に勝つことはある。むしろ我々の方が仲間の性格を知りすぎているためにマイナスになることだって」
「そりゃ言える。この十七年の間に仲間がどう変わったかなんて互いに知りやしねえ。なのに、相変わらず昔の印象を頼りにするのは危険というもんだ。変わっていない方が逆に不思議なくらいなんだ」
「そうかしら。チョーサクは昔のままよ。善人になったとは思えない」
「喜んでいいものかね」
長山はコーヒーを飲み干した。
「トーマもそう。のんびりして、あったかいのはそのまま」
「えらい違いじゃねえか。偏見がありすぎらあ」
「チョーサクもそう思わない?」
「まあな。トーマに関しては認めるよ。それに信頼できる男になった」
「なんだ。それじゃまるで若い頃は頼りない人間みたいじゃないか」
「本当ね。私もそれを言おうと思っていたの。今のトーマの方があの頃よりずっと素敵になったわ」
「よしてくれ。寒気がする」
「オレもだ。どさくさまぎれに愛の告白たぁ呆れた女だ。リサも素敵になったよ。ついでにオレも便乗させてもらおう。マジだぜ」
亜里沙はどぎまぎした。
「オレも甘い男だ。ついさっきまではリサとオケイに殺人鬼と思われていたってのに、直ぐ許しちまう」
亜里沙はこらえきれずに笑った。事件が起きてから久し振りに耳にする開放的な笑いだった。新しい朝が明けようとしている。
[#改ページ]
五章 パンドラ・ブラッドケース
1
疲れた、と思う。
たった一週間程度しか東京を離れていないのに、まるで何年も旅行にでかけていた気分だ。新幹線の窓から池袋サンシャインビルの明りが霞んで見える。ときおり視界に入ってくるE電の混雑もまた懐かしい。
「おかしなもんだ。これだけ慌ただしそうなのに、山奥の温泉場よりは遥かにのんびりとした気分だぜ」
となりで長山も外を眺めていた。
「来週の週刊誌が楽しみだ。全部で八誌もきやがった。あんまり大袈裟《おおげさ》なんで、ひょっとしたら売名行為を企んだオケイの仕業じゃねえかと疑ったほどでね」
「彼女が自分から週刊誌に声をかけたとでも?」
「違うよ。連続殺人の方さ」
「まさか。呆《あき》れた想像力だな」
塔馬は噎《む》せ返った。警察から意外に早く解放されて、東京に戻れたせいか、長山はいつもの調子に戻っている。
「まあ、いくらなんでも有り得ねえとは思うがな。なんだか嬉々として取材に応じているオケイを側で眺めていると勘繰りたくもなるぜ。まるで映画のヒロイン顔負けだ。正月のせいでゴシップ記事が少ねえところにきて、あの騒ぎだ。記者たちの興奮も分からないわけじゃないがね。マネージャーなんか最初の不安もどこへやら、今朝なんか浮き浮きしてやがった。さすがにオレと廊下で擦《す》れ違うときは鼻唄をやめたが……」
塔馬は失笑した。
「冗談じゃねえぞ。今度の事件で得をしたのはオケイばかりだ」
「チョーサクもなにか頼まれていたじゃないか」
「バカ野郎。頼まれたってドキュメンタリーなんぞ書くもんか。あいつらはオレが犯人の可能性もあると踏んで狙《ねら》ってるんだ。殺人犯の手記となりゃ雑誌も売れる。子供じゃあるめえし、そんなのはお見通しだ」
「それも……考えすぎだろう」
「甘いんだよ。この業界はトーマが思っているほど温かくはねえぜ。女優はどうか知らんが、物書きの代わりはいくらでもいる。信頼よりも話題の方が優先される冷てえ世界だ」
「もし犯人じゃなかったら、書いたらどうだい」
「おまえも……残酷な男だよ」
長山は大声で笑った。
「しかし、それもそうだな。あのときゃカッとなって断わったが、これだけ話題になったものを見逃す手はねえか。なるほどね」
長山は考えこんだ。
「テレビからも話がきている」
へぇ、と塔馬は長山を見た。
「それも一本や二本じゃねえ。まったく呆れ返った国だよな。オレはまだ重要参考人の一人なんだぜ。それを連中は忘れたフリをして、ワイドショーの中で事件を解説してくれとさ。見え見えじゃねえか。連中は賭けていやがるんだ。万が一オレが犯人として逮捕された場合、嘘の証言でかためた殺人鬼とかタイトルを被《かぶ》せて再放送できると期待してる。まあ、そんな番組ならオレだって見たいし、企画する気持も分かるがね」
長山は笑顔を見せた。
「許せんと思っていたが、再考の余地はありそうだ。おまえさんも一緒にでてくれる気があるなら引き受けてもいいぜ。ギャラも交渉する」
「こっちはごめんだよ。作家だったら洒落《しやれ》で済むだろうが、大学はそうもいかんさ」
塔馬は慌てて断わった。
「そうかね。それこそトーマが犯人として検挙されん限り、大学も迂闊《うかつ》な処分はできんはずだぜ。無実の人間を辞めさせればあとが面倒だ」
「それはその通りだが……派手に動いて大学側を刺激したくない。後々の人間関係に響いてくる」
長山は納得しながらも、
「あんまりいい商売じゃねえな。本だって部数を刷ってくれんだろう。責任ばかり多くて辛い世界だ。もっともオレだってベストセラーがあるわけじゃねえけど」
「金じゃない。好きな仕事だから、こんなことで辞めたくないだけだ」
「基本的にはオレだっておなじなんだ。人を殺すのは原稿用紙の上で充分さ。騒がれて知名度を上げようなんてのは下種《げす》の勘繰りも甚だしい」
「なんだい。そりゃ」
「言われたんだよ。あのバカなマネージャーにな。先生の本は今頃売れていますよ、って」
「無神経なヤツだ」
「だからオケイのマネージャーが勤まる。あのヒスには閉口したぜ。泣いたり笑ったり怯《おび》えたり。琴姫七変化を地でいったようなもんだ。やっぱり役者の才能はあるんだな」
「そろそろね」
二人の背後から亜里沙の声がかかった。もう下車の支度をしている。並んだ席がなかったので彼女は別の車両に座っていたのである。
「食事は? もう八時になるけど」
亜里沙は別れ難い顔で訊ねた。この一週間というもの、ほとんど全時間を共に過ごしてきたのだ。
「つきあおう。トーマは?」
長山は頷きながら塔馬に訊ねた。
「オレもいいよ。もしかすると駅に知り合いの編集者がきているかも知れないが……二人さえよければ」
「美術現代の杉原さん?」
亜里沙が言い当てた。塔馬と杉原が親しいのは前から知っている。
「だれでも構わん。今夜は洋食だ。和食は温泉で食い飽きた。ピザとヒレカツのデラックス路線でいこう」
「トンカツのどこが洋食なのよ」
「ヒレってとこがさ」
長山は笑って亜里沙に真ん中の席を勧めた。大宮で降りた客の席だ。
「空いてたら教えにきてくれればよかったのに。一人で退屈してたの」
「せっかくゆったりとしたんだ。まあ、面倒なのが一番だったがね。女を呼びに行くのも恰好《かつこう》が悪い」
「週刊誌の記者はこなかった?」
「ここにかい? いや」
「この混雑だから諦《あきら》めたのね。ビュッフェでコーヒーを飲んでたら話しかけてきたのよ。席が一つしかとれなくてカメラマンと交替で座っているとかって言ってた。オケイとの関係をしつこく聞かれて参ったわ」
「じゃあ芸能週刊誌か」
「若い頃の仲間が揃っている写真を持っていないかって。あったとしてもウチの関係の週刊誌に渡すわよ。こちらにその気はないけど」
「高く売りつけてやればいい。トーマとも話し合ってたが、こいつは滅多にない金儲けのチャンスだぞ」
「別に話してない」
塔馬はクスクス笑った。
「オケイを見習うべきだった。あれほど仕事が忙しいなんて言いながらまだ白湯に残っていやがる。テレビや記者連中が滞在している間は現場にいる方が得だと踏んだのさ」
「地元の事件だから警察に協力したいと言って帰りを延ばしたんだぜ」
「そんなのは信用できん、と、おまえさんの顔にも書いてある」
亜里沙も笑い転げた。
「残れば警察への心証も違うしな。オレを見るタコの目付きは、明らかに逃亡を心配している感じだった」
「だったら残ればよかったのに」
亜里沙は皮肉を言った。
「世の中にゃ、裏の裏を考える連中もいるんだよ。忙しいはずのこのオレがだ、事情聴取が終わっても現場に何日も居残っていりゃ、証拠|湮滅《いんめつ》が目的じゃねえかとか、不安が原因だと勘繰るヤツもでてくる。特にあのタコはそのタイプだ。一刻も早く東京に戻りたいとタコに言ったからにゃ、その通りの行動をせんとな」
「いろんな心配をするのね」
「断言するがな、あのタコはオレを一番怪しいと睨んでるはずだぜ。ミステリーでもあるまいし、女の細腕で二人も殺せるわけがねえと予断を持っている。男は三人だ。トーマはこの通りの柔和な人間だし、ユータにゃ綿密な連続殺人を引き起こせるほどの頭がねえときた。引き算すりゃ直ぐに答がでる。おまけにオレは残酷趣味をひけらかすミステリー作家ときたよ。オレがタコでも流山朔を犯人に指名するね」
ひとごとのように笑った。亜里沙は急に不安な目をした。
「心配するなって。オレが犯人じゃねえのは、なによりもオレが承知なんだ。むしろ誤認逮捕された方が面白くなると期待さえしてるぜ」
亜里沙は曖昧《あいまい》な笑顔で頷いた。新幹線は地下ホームに繋《つな》がるトンネルに入った。反対側の黒いガラス窓に亜里沙の笑顔が映った。気のせいか塔馬にはひきつった顔に見えた。
2
ホームには杉原允と糸島奈津子の二人が肩を並べて待っていた。
「彼女は?」
窓越しに見て長山が訊《たず》ねた。
「研究室の仕事を頼んでいる」
「秘書の娘《こ》か。羨ましいね。あんな美人が側にいりゃ独身も平気だ」
「そういう女の子じゃない。第一、彼女に熱心なのは杉原君の方」
「ふうん。彼氏も独身か」
「いい青年よ。おっちょこちょいだけど。トーマとはいいコンビ」
亜里沙が補足した。
「青年? って歳でもねえだろ」
塔馬も笑った。太った体型と地味な服装のせいで、いつも四十過ぎに見られるが、実際は三十五。
「その歳で独身じゃ危ねえな。もっとも他人のことは言えん口だがね」
「彼女はいくつなの?」
亜里沙は何気なく訊ねた。
「二十三、四だったはずだ。歳のことは真剣に聞いた覚えもない」
「若いわね。眩《まぶ》しいくらい」
塔馬を見つけて明るく手を振っている奈津子を眺め亜里沙は呟《つぶや》いた。
「若い頃は、あんなだったな」
「え」
「リサだよ。思い出した。気は強いが結構可愛い娘だったぜ」
長山は軽く亜里沙の肩を叩いた。
二十分後。五人は上野広小路のドイツレストランに腰を落ち着けた。バイオリンとピアノの生演奏で歌う若い女性の「リリー・マルレーン」を聞いていると、あの|血腥 (ちなまぐさ)い事件が嘘のように思えてくる。赤いテーブルランプの明りが温かい。
長山は特に上機嫌だった。奈津子が自分の本の読者と知ったせいだ。
「それだけ詳しいところを見ると、昨日今日に読んだみたいだが……まあ、ヤボはよそう。どんな情況であれ、数少ない読者には違いない」
奈津子は俯《うつむ》いた。図星と見える。
「ぼくは前から好きです」
杉原は力説した。
「塔馬さんと仕事をしていれば推理小説そこのけの事件に巡り逢いますからね。今度だってそうだ。不吉な予感は前からありました」
「ほう。どんな風に」
「別に……ただの勘です」
ビールが運ばれてきた。長山は一つだけの黒ビールを自分で取ると、
「とにかく乾杯しようぜ。無事に生き残れたお祝いをしないと。僭越《せんえつ》ながら今夜はオレの奢《おご》りだ。どんどん飲《や》ってくれ。ザワークラウトやジャーマンポテトなどと遠慮は無用だ。なんならメニューを一品ずつ全部頼もうか。これだけ人数がいればなんとかなるだろう」
どっと笑いが起きた。
「いいなあ、それ。一度やってみたかったんですよね」
杉原が真面目な顔で言う。
「君は夕食をどうした?」
塔馬は杉原に訊ねた。
「食いましたよ。一応は」
「ようし。気にいった。いまどきの若い連中には根性がねえ。酒も満足に飲めねえし、食い物に関しても中途半端だ。オレの若い頃は人の勘定だと分かりゃ、たとえ湯豆腐でも死ぬほど食ったもんだ」
長山のセリフに塔馬は危うくビールを吹きだしそうになった。
「あれは、なんのときだっけ?」
「ホントの話なんですか」
奈津子が目を丸くした。
「比喩じゃないよ。それで熱をだして病院に運ばれたんだから」
「お豆腐で?」
「豆腐にはニガリが入っている。二丁や三丁なら平気だが、この大先生はなんと三十丁近くも一人で平らげたんだぜ。鬼神が乗り移ったと仲間が囃《はや》したてたもんだから調子に乗ってさ。一週間は大学を休んだな」
「行けるわけがねえ。寒気が止まらずアパートで震えてた」
長山は自慢そうに頷いた。
「それでも痩せているのよね」
亜里沙が不思議な顔をする。
「痩せの大食いってな。なにを食っても太らねえ。砂糖を抜けば痩せるって言うだろ。それなら反対にすりゃ太るもんかと一時期は砂糖をオブラートに包んで服《の》んだこともある」
「羨ましい話だ」
杉原は心底嫉妬の目をした。
「トーマに言わせりゃ、オレの腹の中には腸とおなじ太さの虫が住んでいるんだとさ。そいつがオレの代わりに全部の栄養を消化してくれているんだそうだ。まったく、顔に似合わず不気味な想像をするヤツだ」
「気持悪い。ホント?」
亜里沙が塔馬を肘《ひじ》でつつく。
「忘れたよ。そんな話」
「言ったよ。オレも真剣に悩んでテラさんにまで相談に行った」
寺岡の名前がでて場が白んだ。
「死ねば……お終《しま》いだな。テラさんより長生きするとは思わなかった」
長山はなんとか繕った。
「新聞にでてましたけど……電話線がだれかに切られたというのは本当なんですか」
杉原が塔馬に質《ただ》した。
「らしい。タイミングがよすぎたんで我々も想像していた。恐らく植木用の柄の長い鋏《はさみ》でも使って切断したんだろうと警察は見ている」
「共犯者がいたってことか」
「はじめは殺人が目的とも知らずに金で雇われた人間じゃないかと考えていたんだが……その程度の関係だったら、殺人と報道された時点で警察に自首してくるはずだ。いまだにそれがないところを見れば、殺人を承知で協力したと思う他はない」
「よほどの関係なんでしょうね」
塔馬も大きく頷いて、
「恋人とか家族とか……じゃないと今度は強請《ゆす》られる危険もでてくる」
「おたくらは怖くないのか?」
長山が杉原と奈津子を見詰めた。
「オレたち三人は目下のところ凶悪な連続殺人の重要参考人なんだぜ。なのに一向平気な顔だ」
「そりゃあ……塔馬さんとは永いつきあいですから」
「トーマは分かるが……オレとリサとはほとんどつきあいがねえ」
「塔馬さんの態度で分かります。二人が危険な人物だとしたら、ぼくと奈津子君を食事に同席させるわけがない。今夜のところは安全だと塔馬さんは思っているわけでしょ」
「この男は……」
長山は絶句した。
「バカだか利口だか見当もつかねえな。今夜のところは、ときたぜ」
それでも苦笑して、
「一生安全な男だよ。ただし男に対してはな。彼女にゃ自信がない」
長山はカチンと奈津子のグラスに自分のそれを合わせた。
「ヒマがある限り、トーマの研究室には顔をだすことにしよう」
「本気にしないでね。悪口と冗談だけが生き甲斐の男なんだから。それとワルぶるのにも必死。根は案外可愛い人間なの」
「いつから母親になった?」
長山は亜里沙を睨《にら》んだ。
「誉めているんじゃないか。大進歩に見えるがな」
塔馬は笑って制した。
「それよりも……例のタイムカプセルからでてきた新聞記事はどうなったんです。十三枚もあったとか」
杉原はうずうずしていた。
「本物は警察に預けてあるが、コピーはもらってきた。ここにあるよ」
「見せてください」
「構わんだろ?」
塔馬は長山と亜里沙に了承をとった。二人は仕方なく同意した。
ケネディ大統領暗殺(三十八年)
杉並の少年通り魔(三十九年)
金嬉老事件(四十三年)
三億円事件(同)
和田教授日本初の心臓移植(同)
アポロ月面着陸(四十四年)
渋谷のコインロッカーに嬰児を置き去り(四十五年)
大阪万国博覧会開催(同)
よど号ハイジャック(同)
瀬戸内シージャック(同)
ビートルズ解散(同)
「圭子の夢は夜ひらく」第一回歌謡大賞(同)
三島由紀夫事件(同)
杉原と奈津子はタイムカプセルにあった十三枚の新聞記事のコピーを手に取って熱心に読み進めた。
「本当にこんなものが今度の事件の手掛かりになるんですか?」
杉原は首を捻《ひね》りながら最後の一枚をテーブルに戻した。どれもこれも当たり前、と言うか、これだとピンとくるものがない。まさかビートルズの解散が理由で連続殺人が起きるなど有り得ない話だ。
「今度の犯人と言うより……この記事にでてくる犯人じゃない?」
奈津子が杉原に呟いた。
「どういう意味だい」
塔馬は聞き返した。
「手掛かりだとしたら、単純なものじゃないかと思っただけです。この事件の犯人は全部分かっているんですか。もし未解決だったら、亡くなった半田さんは、その真犯人を知っていて記事を残したことも……」
塔馬と長山は顔を見合わせた。
「それでパンドラが殺されたってことか。確かに……そういう理由なら犯人だって殺そうとするわな」
長山は何度も頷いて、
「しかし、ちょっと考えられんぜ。この記事の中で犯人が存在するとなりゃ、まずケネディだが……オズワルドは射殺されたし、他に真犯人があったとしても日本じゃねえだろう。第一、昭和三十八年ならオレたちゃ十五、六だ。あとはザッと眺めて……三億円かね。それ以外の事件はすべて解決してるはずだ」
「三億円か……」
殺された寺岡が自分の選んだ記事だと告白したものだ。
「有り得んさ。オレたちの仲間が貧乏だったのは嘘じゃねえ。そいつはトーマだって承知だろ。もし三億円に仲間のだれかが絡んでいたとなりゃ、絶対に分かるよ。それほどバカじゃねえ。断言できる」
塔馬も同意した。三億円事件に関してはよく皆と飲んでは話題にしたものだ。その時のやりとりに不審を感じた仲間でもいれば、必ずしこりとなって記憶に残っているだろう。
「少年通り魔はどうなんです」
奈津子は固執した。
「少年Aと書いてあるだけで名前は分かりません。年齢も十七歳。三十九年の事件ですから……生まれは昭和二十一、二年」
「オレたちと一緒だ」
長山は笑った。
「けど、君は世の中の仕組みを知らんと見えるな」
「……?」
「高校二年でそれだけの大事件を起こせば、間違いなく高校は退学になるし、最低でも三、四年は少年院に送りこまれる。そういう人間が我々とおなじペースで大学に入れると思うか? 検定試験を受けたところで順調に行って二十一、二で大学受験ってとこだろう。その時、我々は皆が三、四年生だったんだぜ。ユニークな推理だが、成り立たない。それに男たちの出身地はトーマを除いて全員が地方だった。君がトーマを疑うと言うなら別だがな」
奈津子も納得した。
「楯《たて》の会に入っていたヤツもいなかったはずだ」
塔馬は補足した。
「たとえ、いたとしても、そいつの発覚を恐れてパンドラの命は狙わんだろう。ナチスとは違うんだ」
「楯の会って……ああ、三島由紀夫が組織していた怖い団体ですね」
「その程度の認識でしかねえか。君はいったい何年生まれなんだ?」
長山は目を丸くした。
「三十九年です」
「じゃあ事件のあった年は、まだ六歳ってわけだ。なるほど、それなら楯の会を知らないのも当たり前だ」
「………」
「怖いのひとことで片付けられりゃ三島が泣くぜ。まあ、切り落とされた三島の首の写真だって新聞に載ったし、あの制服を見りゃ、子供心に怖いと思ったのも仕方がねえな」
「首の写真が!」
奈津子はゾッとした顔で長山を見詰めた。
「その新聞に写ってるだろ。そうか、コピーなんで写真が真っ黒だ。ええと……ここだ。この左下に岩みたいなものが二つ並んでる。手前が三島のものだったはずだ」
奈津子は長山に示された部分を凝視した。輪郭もよく分からないが、首だと教えられると気味が悪い。
「首か……」
塔馬は眉をひそめた。
「いかにもな」
長山もおなじことを思いついたらしく、拳でテーブルを叩いた。
「なんなの?」
亜里沙が二人を交互に眺めた。
「今度の殺人さ。三島事件を再現したんじゃねえのかい」
あっと亜里沙が絶句した。
「まさか……な」
塔馬は首を振った。
「死体の情況が似ているだけで、三島事件と我々が無関係なのははっきりしている。偶然だよ」
「分からんぞ。ここにある記事の中で首と関係あるのは三島事件ただ一つだ」
「だが、どんなことが考えられる? たとえだれかが三島の思想に共鳴していようと、隠すような問題じゃなかったはずだ。それをパンドラが暴露したって意味がない。やはりテラさんたちが首を切られたのは、パンドラの死因に繋がりがあると見るのが自然じゃないか。無理だよ」
「おまえさんは、そうやってなんでも否定する。ミステリーなんてのは小さな手掛かりからはじまるものなんだぜ。古い写真の片隅に写っている子供の帽章から三十年前のおどろおどろした猟奇殺人の真相を暴いたりな。トーマのように理詰めで話を進めりゃ面白くもなんともねえ」
「これは小説とは違う」
塔馬は苦笑した。
「違わねえよ。確かに小説が極端だってことは認めるが、今度の事件はまともな推理じゃ間に合わん。現にあのタコにしたって匙《さじ》を投げたじゃねえか。全員にアリバイなし、動機の見当もゼロ、おまけにあの雪のせいで手掛かりもなしときた……もっとも、容疑者はわずか五人しかいねえ。江戸時代のように拷問が許されるんなら三日もしねえ間にあっさり犯人が割れた事件かも知れんがな。その意味じゃタコにとっても不幸な時代だぜ。ヤツがかみそり半蔵なら早速オケイをだるまころがしにかけて悲鳴を上げさせていたとこだ」
「だるまころがし?」
亜里沙は聞き返した。
「知る必要のないこった。あとで『御用牙』でも捜して読みな」
長山はニヤッと笑った。女責めの秘術を紹介する気はない。
「と言うわけでだ……この事件の解決には通常の科学捜査も役立たん。オレたちが東京にいて、殺された二人が山形だったと言うんならアリバイの確認も重要になってくるが、残念なことに我々は全員が死体の側にいた。そもそもオレとトーマという優秀な探偵役がライブの状態で事件の渦中にいたんだぞ。それで犯人の見当がつかなかったんだ。あとからやってきたタコに解けるもんか」
「相当なライバル意識ね」
亜里沙は呆れた顔をした。
「当然だ。放っておきゃオレが犯人にされちまう。どんな些細《ささい》な手掛かりでも一応は調べてみないとな」
「差し当たっての方針は?」
塔馬は質した。
「楯の会の名簿でも当たるさ。編集者に相談すりゃなんとか見つけだしてくれるだろう。トーマの言う通りあんまりアテにしてもいねえが、のんびりと原稿なんかを書けるような気分じゃないんでね」
「あとは……なにかあるかな」
亜里沙も考えこんだ。
「リサは嘘をついちゃいないんだろうな。頼むぜ」
「なんの嘘?」
亜里沙は長山に向かった。
「記事の件だよ。オレはトーマと違って、この記事にそれほど重大な鍵が含まれてるとは思えなくなってきたが……オレやテラさんが嘘をついたように、他の仲間も嘘をついていたとなりゃ考え直す必要がある」
「………」
亜里沙は答えなかった。その瞳に明らかな逡巡《しゆんじゆん》が見える。長山はじっと無言で亜里沙の言葉を待った。
「もう……いいわよね」
やがて亜里沙は諦めたような顔で頷くと、
「金嬉老事件だったの……」
消え入りそうな声で告白した。
「金嬉老……ね。そいつは意外な展開だが……なんでまた嘘なんかをつく必要があったんだ?」
長山は戸惑った。
「別に問題もねえだろうさ」
長山は塔馬に同意を求めた。
「私の父親が韓国人でも?」
亜里沙は塔馬の目を覗《のぞ》いた。
「誤解しないで。別に皆を偽っていたわけじゃないの。今は会社の人たちも知っているし、父親の血が私に流れていることを誇りにも思っているわ……でも、十七年前は違った。子供の頃からずいぶん友達に苛《いじ》められ続けで怖かったのね。それで大学では隠し通そうと決めたの。正直に言っても、なにもプラスになんかならない。とっくに経験済みだもの」
亜里沙は塔馬たちを見据えた。
「最初は小さな嘘のつもりだったのに、皆と一緒にいるうちに、なおさら言えなくなって。こんなに仲のいい友達に嫌われたら生きて行けないような気がして」
「………」
「でも、記事だけは無意識に選んでしまった。タイムカプセルを開く時には笑って告白できるだろうと思っていたわ。たとえ隠したいと思っても私がそれを選んだのは隠しきれないことでしょう。なのにあの箱には十三枚も記事が入っていた。それが気持をグラつかせたのね。この十三回忌が終われば、皆とはまた会わなくなる。だったらなにも告白する必要なんかないんだって……」
「………」
「ごめんなさい」
「別に……謝ることはないさ」
長山はしどろもどろになった。
「泣きそうな顔はよしてくれ。リサにゃ似合わんよ。そんな顔を見てると愛《いと》しくて結婚を申し込みたくなっちまわぁ」
亜里沙は微笑《ほほえ》んだ。胸のつかえが取れたのか大粒の涙がつたった。
「ありがとう。あんたって本当に友達だったんだ」
「お友達程度の認識じゃ不満だが。おい。おまえさんもなんか言ってやれ。オレなんぞよりはトーマの温かい言葉が欲しいんだろうぜ」
塔馬は呆れて手を振った。
「これだ。だから女が寄りつかねえんだ。難攻不落のリサを口説き落とす絶好の機会だってのにな。ちょいと愛してるとか耳元で仄《ほの》めかせばイチコロだ。勉強が足らん」
どこまで本気なのか分からない人間だ。それでも亜里沙は楽しそうな笑い声を上げた。杉原や奈津子も笑いをこらえている。
「とにかく……」
塔馬は切りだした。
「リサまでが嘘をついていたと分かれば、記事の再検討が急務だな」
「頑固な野郎だ」
長山はビールをあおった。
「ま、こいつの顔を見りゃ分かる。リサを信頼してる目だ」
塔馬は長山を無視してバッグから手帳を取りだした。タイムカプセルを開けた直後に仲間が主張した記事を書きこんである。その後、寺岡と長山、亜里沙が訂正したので、ずいぶんと様相が異なった。塔馬は新たにそれを書き加えて皆に示した。
※事件 *最初 *訂正
ケネディ(蛍)(……)
少年通り魔(……)(……)
金嬉老(……)(亜里沙)
三億円(長山)(寺岡)
心臓移植(寺岡)(長山)
アポロ(塔馬)(塔馬)
コインロッカー(亜里沙)(……)
大阪万博(……)(……)
よど号(……)(……)
シージャック(……)(……)
ビートルズ(吉秋)(吉秋)
夢は夜ひらく(……)(……)
三島由紀夫(築宮)(……)
「ダイスケとテラさんは殺されてしまったんで、これ以上の真実を突き止める方法はないが……」
「オケイとユータの訂正部分がないのは……つまりトーマが最初の告白を信じていないってことか?」
長山はメモを眺めて言った。
「それにしても、あんまり変化は見られんようだ。こいつで犯人を捜すのは不可能だぜ。データが不足しすぎている」
長山は興味を失った。
「犯人は我々仲間の入れた八枚の記事の他に五枚を紛れこませた。狙いはパンドラの記事を不明にするためだ。犯人の気持になって考えてみたんだが、その場合なにを手掛かりにして記事を選ぶかと言えば、恐らく年表や事典に違いない。新聞をコピーするにしても正確な日付を知らないと厄介だ。まさか暗記しているとも思えないからな。次には、なるべく有名な事件を選ぶだろう。それだと我々の記事とダブる可能性がでてくる。ますます混乱が見こまれるというわけだ」
「だったら、最初からおなじ記事を五枚加えればいいだろう。面倒もねえし、目的が完全に果たせる」
「犯人にはきっとパンドラがなにを選んで入れたか、ある程度の想像ができたんじゃないのかい。たとえば仮に三億円の犯人だったとするぜ。その場合、パンドラが選んだ記事は三億円の記事だと見当がつく。そこに混乱を目的として三億円の記事を五枚も足し加えれば逆効果になる。余計に目立つんだよ。頭のいい人間なら三億円の記事を一枚にして、他の四枚は別のものを入れる。均等にバラ撒《ま》けば作為が目立たない」
「ふうん。理屈ではあるな」
長山も感心して頷いた。
「ってことは、どうなる?」
「年表を調べて、しかも有名な事件となれば限られてくる。杉原君」
塔馬はメモを杉原に手渡した。
「この中から君が考える重大記事をちょっと選んでみてくれ。常識でいい。君の個人的な体験は抜いてだ」
「ええと……」
杉原はザッと目を通した。
「ケネディ。三億円。万博。それによど号と三島ですかね。アポロもそうですが、塔馬さんを信じて外しました」
「ありがたい相棒だ」
長山は肩を揺すった。
「ほとんどオレの考えと一致する。九十パーセント以上の確率で、それらの記事を犯人が混入させた可能性は高いと思う」
塔馬は珍しく断言した。
「すると……オケイやユータも嘘をついたことになりそうだ」
長山は薄い唇を噛んだ。
「でないと不自然だろう。二人の告白を信用するなら、残りの少年通り魔とか、夢は夜ひらくの記事を犯人が入れたという結果になるからね。犯人は真剣なんだ。そういう余裕はなかったはずだぜ」
「こんな大事な話をなんでもっと早く教えてくれねえんだ。二人が目の前にいりゃオレが嘘を暴いてやったのに。慎重すぎるにもホドがある」
長山の言葉に亜里沙も頷いた。
亜里沙の選んだ記事が嘘だったと本人からの告白を聞いたばかりなのに、今度は塔馬に蛍と築宮のものまで怪しいと示唆されて杉原と奈津子は困惑した。
「つまり……全員が嘘の告白をしたってことじゃありませんか。あ、塔馬さんは本当だろうけど」
杉原は溜め息を吐いた。
「ダイスケがいるよ。ヤツはビートルズの解散を選んだと言ったが……あれは確かだろう。チョーサクに威《おど》かされてヤツが一番最初に答えた。あの時点ではウソをつくのがむずかしい。他のメンバーのデータがなさ過ぎる。なのにアッサリとビートルズだと認めた。もし嘘を言うつもりなら我々の反応を窺《うかが》いながら口にするはずだ。それに、あの記事はかなり特殊なものだ。犯人が後から混入させた可能性も薄い。ダイスケの選んだ記事じゃなければ、他の仲間が入れたってことになる。なのに、だれも嘘だと騒がなかった。疑惑を広げるなら、あの場にいなかったパンドラの記事という憶測も成り立つが……まさかな」
「でもねえぞ」
長山の目が輝いた。
「オレたちゃダイスケがビートルズのファンだってことを知っていた。だからヤツがあの記事を選んだのを疑問にも思わなかったが……そいつはパンドラだって一緒だろうさ」
「………」
「分からねえかな。トーマはパンドラの記事がダイイング・メッセージだと言ったはずだぜ」
塔馬も頷いた。
「だったら、記事によって相手を簡単に指摘できるようなもんじゃないとその役目を果たせんわけだ。この十三枚のコピーを見てみろ。だれがどれを選んだにしろ、意外性のなかったのはダイスケのビートルズだけだった。違うかい?」
「そうね。その通りだわ」
亜里沙も即座に認めた。
「ビートルズとくりゃ──仲間の皆が直ぐにダイスケを連想する。まさにダイイング・メッセージには適当だな。ダイスケは十三枚の中にあの記事があるのを発見してパンドラが入れたものだと直感した。だから躊躇《ちゆうちよ》なく自分のものだと主張した。考えても見ろよ。ダイスケは一番最初に殺されている。ってことはパンドラ殺しに深く関わっていた証拠だぜ。パンドラがダイスケを告発していたってのは有り得ると思わんか」
「同感だわ」
亜里沙は何度も首を振った。
「だとすると──ダイスケだけに脅迫状が届いたのも分かるじゃない。ダイスケが宿を逃げ出そうとしたのも確かなんだし。絶対よ」
亜里沙は塔馬を見詰めた。
「そんなに単純な事件かね」
塔馬は腕を組んだ。
「辻褄《つじつま》は合う。それは認めるが」
「なにが不足なんだ。オレがあっさりと解いたんで面白くねえか」
長山は冷笑した。
「ダイスケが怯えていたのも間違いはねえ。パンドラ殺しに関しては見当もつかねえが、ヤツがその首謀者だったのは疑いなしだ……ちくしょう。オレもとんだドジを踏んだもんだ。そいつが分かっていりゃダイスケを唆《そそのか》したりするんじゃなかった」
「唆す?」
塔馬は聞き咎《とが》めた。
「テラさんの件でな」
「だから……どういうことだ」
「別に。オレの選んだ心臓移植をテラさんが自分のだと主張したんで、こいつは裏になにかあると睨んでいたのさ。それでダイスケを風呂に誘ってテラさんの様子をあれこれと聞きだした。トーマやリサだってオレがテラさんを怪しんでいたのは承知だったはずだぜ」
「それで?」
「あんないい医者はいねえとか、まさに絶賛ばかりさ。腹が立ったんで嘘の件をバラした。そんなに信用してるんなら手前《てめえ》があの嘘つきに直接確かめてみたらどうだ、とな」
「………」
「今思えば……二人はグルだったというわけだ。バカバカしい。むしろオレの口から嘘が発覚しそうになったんでダイスケはビビっちまったんじゃねえか。そんな顔だったぜ」
「どうしてそれを隠していた」
塔馬は歯噛《はが》みした。
「テラさんの尻尾を掴むまではと、オレの切り札にしていたのさ。どっちにしろ今となりゃ大した問題でもなかろう。怖い顔をするなよ」
塔馬は考えこんだ。
「すると……蛍さんと築宮さんの嘘は事件と関係ないことに?」
奈津子が長山に訊ねた。
「だろう。たとえ嘘でも、くだらねえ理由に決まってるさ」
「なにを選んでいたんですかね」
杉原はコピーに目を落とした。だいぶ範囲が狭められてきた感じがする。犯人が混入したと想像される五枚の重要記事は、ケネディ、万博、よど号、三島……。
「三億円はどうなりますか?」
十三枚の中ではいかにも犯人が混入させたと思われる記事だが、殺された寺岡が自分のものだと告白している。これを外せば残りの一枚の追及が厄介だ。アポロは塔馬が選んでいるし、心臓移植は長山のものだ。
「そいつも恐らく嘘じゃねえか」
長山が断定した。
「テラさんは信用できんよ。無難な記事を選んだ可能性がある」
杉原も頷いて三億円を外した。次に塔馬のアポロ、長山の心臓移植、そして亜里沙の金嬉老を抜くと、
「この五枚ですね」
テーブルには杉並の少年通り魔、渋谷のコインロッカー、瀬戸内シージャック、ビートルズ解散、「圭子の夢は夜ひらく」歌謡大賞、の記事が残った。
「こいつにダイスケ、パンドラ、テラさん、オケイ、ユータを割振りしていきゃいいわけだ……まず、パンドラのビートルズは大丈夫だな」
無造作に長山は脇へ除ける。塔馬は首を捻りながらも無言で眺めた。
「こっからが難問だ。簡単そうなところから攻めていくしかない。ダイスケは音楽好きだった。ビートルズの記事だと言われてもオレたちゃ疑いもしなかった」
長山は歌謡大賞を抓《つま》み上げた。
「異議は?」
塔馬は横目で見る。
「まあ……他の人間が選んだとは思えないな。そのメンバーならダイスケという線は有り得る」
長山は満足そうに記事を外した。
「コインロッカーの記事を選ぶ心理はどう解釈できる?」
長山は席を見渡した。
「前にリサがこいつだと言った時にゃ、社会の歪《ゆが》みみたいなものに対する怒りだと納得したが……もっと深い裏がありそうだ。だれのものにしろ、その人間はこの記事を選んだのを必死で隠そうとしたんだから」
長山はニヤッと笑った。
「そいつは、この記事から余計な想像をされたくなかったんだぜ」
「だって……」
亜里沙は笑って否定した。
「仲間のだれにもコインロッカーに子供を捨てた人間はいないわ」
「当たり前だ。それなら大騒ぎになっている。比喩だよ。比喩」
「………」
「この記事に心を動かされるヤツは過去に子供を見捨てたとか、堕胎した経験があるんじゃねえか」
全員が絶句した。
「まあ、もっと良心的な想像をするなら、その本人が親から捨てられたとかな。しかし、オケイやユータの親は今も生きている。テラさんは聞いていないが、少なくとも学生時代にゃ元気だったはずだ」
「そうよね」
亜里沙が同意した。
「半田さんはどうなんです」
杉原が問い質した。
「恐ろしい想像だけど、もし堕胎の意味がこの記事に隠されているとしたら、それこそダイイング・メッセージになりませんか」
「話を複雑にするなって」
長山は杉原を睨んだ。
「パンドラに関する限り保証する。あいつを孕《はら》ませようとする人間は滅多にいねえよ」
言いながら長山は不安そうに塔馬を眺めた。どうしてもパンドラの選んだ記事をビートルズにしたいらしい。でなければ推理がパアだ。
「だろ?」
塔馬と亜里沙は顔を見合わせた。そうだと断定できないほどパンドラの記憶が失せている。
「第一、それじゃダイイング・メッセージの役割を果たさんぜ。本人同士の問題だからな」
「なるほど。そう言えばそうだ」
杉原は引き下がった。
「十中八、九、こいつはオケイの選んだものさ。天下の大女優が若い頃に堕胎したと世間に知れればイメージダウンだ。必死で嘘をつく気持も分かるじゃねえか。もしテラさんやユータならそこまで隠そうとはせんだろう。確かに厭《いや》な記憶にゃ違いねえが、殺人まで起きてるってのに」
「かも知れない」
亜里沙も暗い顔で認めた。
「ダイスケが殺されて、その犯人を突き止める手掛かりがこの記事にあるってことはトーマが何度も口にしたわ。よほどの事情がないと……」
「なにか思い当たる点でも?」
塔馬は軽い不審を覚えた。亜里沙の表情に戸惑いがない。
「そうじゃないかな、と感じたことがあったの。ずうっと昔よ。オケイが喫茶店のトイレにハンドバッグを忘れて……」
それを知らずに亜里沙が入った。だれかの忘れ物だろうとレジに届けたら、仲間のものではないかと言われた。仲間たちはすでに店をでていた。そこでバッグの中味をあらためたら、蛍の学生証と一緒に産婦人科の通院カードが入っていたのだ。さすがに悪い気がして蛍にはなにも言わずにバッグを渡したが、蛍はそれとなく言い訳をはじめた。
「なんと?」
長山は真剣な目で訊ねる。
「貧血が続くから増血剤をもらっているんだって……でも、それなら産婦人科じゃなくても」
「決まりだ。きっと術後の経過でも悪かったんじゃないか」
「そのときにオケイからトーマと付き合っていると聞かされたわ」
奈津子は顔を強張《こわば》らせた。
「必死に相手を隠そうとしたのね。それで咄嗟《とつさ》にトーマの名前を」
亜里沙は奈津子を安心させた。
「テラさんじゃなかったのか」
長山は突っこんできた。
「かもね。オケイがテラさんに憧れていたのは確かだったし」
「オレたちの知らないところで、いろんなドラマがあったと見える」
長山の言葉に塔馬は苦笑した。
「それが事実なら……よくもまあ二人とも白湯温泉じゃ他人のフリをし続けられたもんだぜ」
「他人よ。二十年も前の話だもの」
「子供まで堕ろしておいてか」
「案外男の方がこだわるのね。てっきり反対だと思ってた」
「オレの話だよ。テラさんがどう考えてたかなんてのは分からん。しかし、一度でも寝りゃ自分の女だと思うんじゃねえのかい。テラさんに未練は感じられなかった。別れ話を持ち出したのはテラさんに違いない」
「自分の女だなんて……汚い言い方はよして。だから嫌いなの」
「反省しよう」
長山は素直に撤回した。
「とにかく、これでオケイの分は片づいた。残りは二枚きりだな」
「通り魔とシージャックですか」
杉原はコピーを手にした。
「どっちがどっちでもよさそうなもんだけど……どれどれ。分析するにはきちんと把握しておかんと」
長山は通り魔事件の記事を杉原から受け取って読み返した。
「犯人が逮捕された三十九年ってのはオリンピックのあった年か。そっちに浮かれて、こんな大事件の記憶が薄れたのかも知れん。殺人じゃないんで見逃されがちだが、相当に悲惨な事件だぜ。狙われたのは九人とも小学校高学年の少年たちだ。ほとんどが下腹部を肥後守で切られている。しかもカミソリ魔のように擦《す》れ違いざま女の尻を切るような犯行じゃない。ナイフで威かしては人気《ひとけ》のない場所に連れ出して襲っている。たいていは軽い怪我程度で済んでいるようだが、一人の子供はあの部分を完全に切り取られているんだ。想像しただけでゾッとする。しかも、犯人は快感を覚えていたってんだから……異常としか言い様がない。こんな記事を選ぶってのは、どういう神経かね。ひょっとすると十三枚の記事の中で、こいつが一番薄気味の悪い事件だ」
長山は記事を投げ出した。
「犯人の少年は取り調べの時に、怪我を負わせた程度じゃ死刑にならないから平気だと笑っていたそうだ」
「ホントか! ひでえ話だ」
塔馬の説明に長山は呆れた。
「山影さんから聞いたよ。彼も記事に興味を持って調べたらしい」
「死刑にならねえ……か。そこまで計算しての犯罪とはな」
「切り裂きジャックを真似て、警察への予告状も出しているんだ。典型的な愉快犯と見ていい」
全員が重い息を吐いた。
「二人のうち、どっちかしら」
亜里沙が不安な顔で言った。
「切るってことから考えるとテラさんかね。神様みてえな医者がこんな記事を選んだと知れれば都合も悪かろう。選ぶ背景にゃ潜在的な犯罪願望も含まれているようだ」
「怖いわ」
亜里沙は青ざめた。
「もう一つ」
長山は少し躊躇《ためら》ったあと、
「この記事を選んだ人間にはホモセクシュアルの傾向がある」
全員が無言で首を振った。
「そういうことさ。別にオレが詳しい説明をしなくとも皆はとっくに感づいていた。それはこの記事を選んだ人間も同様だったはずだ。若い頃には何気なく選んだつもりだったんだろうが、今となれば怖くなった。正直に告白すれば仲間から妙に勘繰られる恐れがある。嘘をつく理由としちゃ充分だ。もっともホモセクシュアルがなぜ恥ずかしいのかオレにゃ分からんがな。プラトンもそうだったし、別に恥じる必要はない。女を相手にするよりは男同士の方がずうっと互いを分かりあえる」
「………」
「けど、そいつはオレの感じ方だ。人によっては隠したいと思っても不思議じゃないね。ましてや地位のある立場にいればな」
「やっぱり……テラさん?」
「独身だったろ。そう考えるのが自然ってもんだぜ」
「オケイとの関係はどうなる」
塔馬が遮《さえぎ》った。
「両刀使いってのがある」
長山は嘲笑《あざわら》った。
「だったらユータでも構わないことにならないか」
「そりゃあ、その通りだが……現実に結婚して子供までいる男と、四十を越してるのに、まだ独身の男とじゃ軍配はこっちに上がる」
「我々だって独り身だ。それでもホモセクシュアルとは関係ない」
「それを言っちゃあ、お終《しま》いだ。オレはあくまでもテラさんとユータを比較してるだけだ。おまえさんともあろう男が冷静さを欠いてるな」
塔馬も詰まった。その通りだ。二人を今の状況で眺めれば長山の見方は大きく外れていない。
「これで残りの一枚も決定だ。シージャックはユータの記事さ。なんで今夜はこんなに推理が冴《さ》えているのかね。現場から離れて気持に余裕がでてきたせいかも知れん」
「でも、事件の解決とは無関係」
亜里沙は肩を落とした。
「ダイイング・メッセージがダイスケを示していたってだけじゃないの」
「だけって……情けねえお言葉だ」
長山は首をすくめた。
3
亜里沙と長山とは上野で別れ、続いて新宿で中央線に乗る奈津子に手を振ると、塔馬と杉原は地下通路を潜って西口方向に向かった。
「まだ十一時前か」
京王線に乗るつもりだった塔馬は小田急線のホームに向きを変えた。
「どこに行くんです?」
杉原は一緒に並んだ。
「下北沢に行ってみる」
「これから? なにがあるんです」
「学生時代に暮らしていたアパートがあるんだ。そいつが今も残っているかと思ってさ」
「物好きだな。今から行けば電車がなくなってしまいますよ。明日にでも出直せばいいじゃないですか」
杉原は呆れた顔をした。
「第一、あったところで、他人が住んでいれば部屋にも入れない」
「外から見るだけさ」
塔馬は気にせず歩いた。
「待ってくださいよ、ったく」
杉原も諦めて続いた。
「別に君はいいんだぜ」
「そういうわけにはいきません。塔馬さんは保護観察の身だ」
「君の方が必要に見えるがな」
ビールの飲み過ぎで杉原の足取りは少しふらついている。
「下北沢に朝まで営業しているスナックがあります。美術好きのママがいましてね。どうせこんな時間ですし、帰りのことは気にせずに、ちょっと寄りませんか」
「そりゃ……いいけど。君は確か」
明日は早い仕事があると……。
「平気ですよ。せっかく塔馬さんが無事に生還してきたってのに。地獄の果てまでつきあいましょう」
杉原の声が大きくなっている。
久し振りの町だった。
改札口をでて右手が北口。その広い階段を降りるとピーコックが見えた。毎日のように自炊の買いだしに通ったスーパーマーケットだ。百円均一セールが名物で、亜里沙や蛍までもがそれを知ると学校帰りに遠征してきたものだ。その向かいには食品市場の細い路地が昔ながらに暗い口を開けていた。塔馬は奥を覗きこんだ。もちろん店は閉まっている。画材屋や薬屋の看板が懐かしい。
白百合書店がある。その正面には確か肉屋があったはずだが、今は大きなビルになっている。その商店街を抜けて行くと、やがて広い通りにぶつかる。右に折れれば神田にも負けない大きな古書店があるはずだ。ペットショップは今もあるのだろうか。よく退屈しのぎに店先で猫たちを眺めた記憶がある。そしてその先には踏切があって、越えるとオデヲン座が……この界隈を長山たちと彷徨《さまよ》った。しかし、塔馬は左に折れて閑静な住宅街を目指した。昼は大勢の若者で賑わう下北沢も、夜ともなれば寂しい町並みでしかない。
「この辺りは高いんでしょうね」
古い建物を値踏みしながら杉原がついてくる。
「こっちには、あまりきたことがないな。さっき話したスナックがあるのは駅の反対側なんです」
住宅街を四、五分進んで、塔馬は立ち止まった。
「あった……」
あのままだ。昔のままに洋館が残っている。と言っても壁の一部は剥がれ落ち、窓ガラスも大半が割れていた。今はアパートとして使っていないのだろう。明りも見えない。塔馬の胸に記憶が甦った。この中に自分の生活があった。いろんな夢を見続けていた頃の自分の暮らしが。なのに、どうして一度もここを訪ねて見るつもりになれなかったのか。それが不思議だった。
「入れそうですよ」
杉原が塔馬の袖を引いた。
「扉が半分壊れている。ロープが張ってあるだけで……」
「しかし……まずいんじゃないか」
塔馬は躊躇した。
「まわりには人家もないし……平気ですよ。空き家に忍びこんでも大した罪にはならない。もし警察に捕まっても、実際に塔馬さんはここに住んでいた人間ですから。事情を説明すれば許してもらえると思いますがね。大丈夫。ぼくが責任取ります」
杉原は気軽に庭に入りこんだ。
「どの部屋でした?」
「玄関を入って右側の二番目。もともとは応接間だった部屋でね」
塔馬も諦めて扉を潜った。
埃と黴《かび》の臭いが鼻をついた。廊下も腐ってあちこちに大きな穴が開いている。人が住まなくなってだいぶになるようだ。懐かしさとせつなさが塔馬の胸にこみ上げてきた。
「変なところに住んでいたんだな。アパートとは思えませんよ」
杉原は暗い廊下を見渡した。
「医者の家だった。ご主人が亡くなったんで東京を引き払った。それでアパートに改造して学生たちに安く貸してくれたのさ。管理人がこの玄関側の部屋に暮らしていて……大家さんの顔は一度も見ていない。管理人ってのがミイラのように痩せて陰気な人間でね。長山はここを幽霊アパートと呼んでいたよ。はじめは学生ばかりだったが、次第にいろんな人間が集まるようになって……ホステスや漫画家の卵もいた。なにしろオレはここに十年もいたんだぜ」
「そんなに?」
杉原は首を傾げた。
「塔馬さんは東京の出身ですよね」
「ああ」
「なのに……どうして?」
「別に理由《わけ》なんてないさ。親から離れて自由に暮らしたかっただけだ」
塔馬は廊下に上がった。靴を履いたままというのが気にかかる。けれど、この土埃ではしょうがない。
「酷いな。こんなところにまで上がりこんでいやがる」
杉原が管理人室のドアに蛍光塗料で描かれた髑髏《どくろ》のマークを示した。暴走族の旗印だろう。
「きっと女の子でも引っ張りこんだに決まってますよ。ガラスを破ったのもその連中に違いない」
杉原はとなりのドアを開いた。塔馬の部屋だ。塔馬の心が騒いだ。
「すごい部屋じゃないですか。ペチカが備えられている」
「形だけのな。そこは本箱にして使っていた」
塔馬は部屋を覗きこんだ。寒々としている。白壁はいくつもの髑髏のマークで埋められていた。
「十畳はありますね。羨ましい」
「記憶に残っているのは……ペチカと出窓の木枠だけだ」
塔馬はゆっくりと眺めた。まるで当時の面影はない。ドアを入って左側に簡単なガス台があったはずなのに、後の住人が取り外したのか、ガス管の痕跡すらなかった。天井から吊り下がっている壊れた蛍光灯も見覚えのないものだ。塔馬の暮らしていた頃には、古いとは言え、優雅なシャンデリアが輝いていたのだ。
「ここには皆が遊びに?」
杉原が質した。
「下北沢の人気が高まりはじめた頃だ。ほとんど毎日のようにだれかは遊びにきていた。ここだとなにをするにも便利なんでね」
「月宮蛍もですか?」
「いや。女性は滅多に……」
それでも年に三、四度はきていただろうか。
「どうも塔馬さんの学生時代ってのが想像できないんですよ」
「それはお互いさまだ」
塔馬は苦笑しながら、
「行こうか」
杉原を促した。これ以上ここにいれば辛くなる。
杉原の馴染みのスナックで軽く飲んで、タクシーでアパートに戻ったのは真夜中の二時近く。着替えの元気もなく綿のように疲れ切った体をソファーに横たえていると電話のベルがけたたましく鳴り響いた。
「オレだよ。遅い帰りだな」
長山の声がした。
「下北沢に立ち寄ってきた」
「へぇ。あのアパートかい」
「まだちゃんとあった。もう取り壊し寸前だったけど」
「懐かしいな。あのままか」
「外側はな。中は見る影もない」
「だろうさ。マサコやモンブランは今も健在なのかね。ここんとこ下北沢はお見限りだ」
マサコは南口の忠実屋の裏手にあるジャズ喫茶。モンブランは井の頭線西口改札前にある喫茶店。共によく仲間とでかけた店だ。
「マサコのママは亡くなったと聞いている。店は続いているだろうが」
「ふうん。知らなかったな」
長山はしんみりとした。
「エラ・フィッツジェラルドみたいに太っていて陽気なママだった」
塔馬も電話口で頷いた。
「明日にでも行ってみるよ。なんだかトーマやリサと会ったお陰で、やたらと昔が懐かしい。歳だぜ」
それは塔馬もおなじだ。今度の集まりがなければ、昔のアパートを訪ねる気持にもならなかったはずだ。
「で? 用件は」
「思いだしたことがあってな」
「………」
「ダイスケと一緒に風呂へ入った時のこった。あれこれとテラさんの評判を聞いたと言ったろ」
「それで?」
「てっきり誉め言葉だと思っていたんだが、どうやらダイスケはテラさんの金回りのよさを疑っていたようだった。そんな気がする」
「別に不思議でもないだろう。たとえ赤ひげ医者だって、噂通りの大病院なら金に不自由はしない」
「病院を作る前の話だ」
長山は力説した。
「こっちは詳しくもないが……テラさんは勤務医だったんだぜ。ダイスケに言わせると普通のサラリーマンよりは楽だって程度の給料らしい。実家が病院でもなきゃ開業はおぼつかないと言うんだな。だからテラさんはすごい。そいつがダイスケの言い分だが、その半面、首を捻《ひね》ってもいた。機材もバカ高いし、たいていは借金だらけでオープンする。開業して二、三年は、そのツケが薬屋にまわされてくるのが普通だってのにテラさんの場合は支払いも順調だったと言っていた。オレたちも承知のように、テラさんの家はそれほど金持ちでもなかったはずだ……おまえさんならこの話どう思う?」
「なんとも言えないね。たとえ勤務医だって、いくらでもアルバイトの口があるんじゃないか。テラさんは独身なんだし、その気になって働けば病院ぐらい……」
「張り合いのねえ男だ」
「もちろん、想像ならいくらでもできるけど」
「オレの言いたいのはそれだけじゃねえんだ。もしダイスケとテラさんがグルだとしたら、なんでダイスケが首を捻る必要がある? なんでもツーカーの関係じゃねえのかい」
「二人がグルって言いだしたのはチョーサクの方だ」
「だから……ことによっちゃ撤回の必要がでてきたってことさ」
「調べれば解決する」
「なにを……」
「テラさんの金だよ。一番たやすいのは山影さんに説明して調査を任せる方法だが……」
「そいつはやりたくねえな。だいたいあのタコはオレからの頼みなどまともに取り合っちゃくれんさ」
「個人ではむずかしいぜ。病院の権利証書でも見られれば、ある程度の見当もつくと思うが……もし借金で建てた病院なら、銀行やどこかの抵当権がきちんと設定されているだろうし。それ以外の手段となれば人間関係をこまめに当たってみる他に」
「そいつも無理だ。東京ならともかく、山形なんだぜ」
長山は溜め息を吐いた。
「変な対抗意識は捨てて山影さんに頼むのが先決じゃないか。実を言うとテラさんの金に関してはオレにも思い当たることがあるんだ」
「どんな?」
「タイムカプセルを埋めに白湯温泉にでかけた時のことさ。あの時点ですでにテラさんには病院を開業するメドがついていたらしい。事務長として手伝わないかと誘われた」
「妙な話だな。そいつは正式な依頼だったのか?」
「まあ、そんな感じだったな。その時期がくるまでアルバイトかなにかで暮らしていてくれと」
「時期ってのは?」
「三、四年先」
「冗談じゃねえぜ。卒業したばかりの若僧がなにを言いやがる。ましてやアルバイトで食い繋げなんぞはとんでもねえ言いぐさだ。もし病院ができなきゃ、みすみすトーマの人生を狂わせるようなもんじゃねえか」
「けど……病院はできた」
塔馬は続けた。
「その話を引き受けなかったのは、こっちに別の道があったからだ。あの時はまだ就職も決定していなかったし、目標がなければテラさんの話に乗ったと思うね。つまり、それだけテラさんの言い方には自信が感じられたんだ。また、チョーサクの言うようにテラさんて人は無責任な性格でもなかった。他の会社に勤めるなってことは……絶対に面倒を見るって意味だった。少なくともテラさんはそう信じていただろう」
「根拠があったというわけだ」
「と思うね」
「金だな。やはり」
塔馬も同意した。それ以外に考えられない。ダイスケの話と今の話を繋げれば不審な金が浮かんでくる。
「パンドラはテラさんの弱味でも握っていたのと違うかい?」
長山はやがて口にした。
「だが、そうなると例の新聞記事がますます謎めいてくるな。てっきりダイスケを指し示すビートルズの記事がパンドラのもんだと信じていたのに……他の記事にテラさんを指摘するものがあると思うか?」
「心臓移植はどうだ」
「おまえさんも人が悪くなったもんだな。あいつは間違いなくオレが選んだ記事だ。絶対に嘘じゃねえ」
「それ以外って言うと……医者を示唆するものは特にないな」
「だろ……まあ、金とくりゃ三億円が真っ先に浮かぶけど……テラさんがあの犯人であるわきゃねえよ」
長山は当惑した口調で、
「泥沼だ。どこまで行っても行き詰まる。テラさんの怪しい金とパンドラの告発は無縁ということかね。オケイの堕胎といい、オレたちゃ余計な膿《うみ》を絞りだしているんじゃ……」
「山影さんにはオレから伝える。今度の殺人とあるいは無関係かも知れないが……テラさんの金の出所を明らかにしておかないと、いつまでも堂々巡りだ」
「違いない。トーマに任せる」
「あんまり安心はするなよ。まだ復讐が完了したとは限らない」
「そいつなら心配はねえ。明日の夜からカンヅメだ。担当の編集者にしかオレの居場所は分からん。それでも突き止めて殺しにくるヤツがいたら……どこに逃げてもおなじだぜ」
笑って長山は電話を切った。
〈寺岡の怪しい金か……〉
はじめて動機らしい動機が浮かび上がってきた。病院を建設するとなれば最低でも億という金が必要だ。そのすべてではないにしても、かなりの資金が寺岡の手元にあったと思われる。いったいどこから? しかも、それがパンドラと関係したものなら、金は寺岡の卒業前に入手されていたはずである。それも卒業直前|辺《あた》りに……塔馬は記事のコピーをふたたび手に取った。
〈卒業直前の事件となれば……〉
「圭子の夢は夜ひらく」と「三島事件」しかない。どんなに子細に眺めても寺岡との繋がりは発見できそうになかった。
〈まてよ……三島の本名は?〉
寺岡に似てはいなかったか? 塔馬は文学辞典を本箱から抜いた。
〈平岡|公威《きみたけ》……か〉
塔馬は苦笑した。たった一字、ここまでパンドラが仕掛けたとは思えない。塔馬は天井を仰ぎみた。
眠れないまま塔馬はブランデーグラスを手にするとベッドの上に新聞記事のコピーを広げた。
〈まてよ……〉
寺岡は遠藤周作の『海と毒薬』と三島由紀夫の『青の時代』をタイムカプセルの中に埋めていた。
〈あれは偶然なのか?〉
塔馬は知らなかったが、もし寺岡の三島好きを他の仲間の大半が承知であるなら、寺岡告発の材料に三島の記事を使える。ちょうど吉秋がビートルズと直結しているように。
塔馬は時計を眺めた。
まだ長山は眠っていないだろう。
ダイアルをまわすと長山はすぐに受話器を取った。
「どうした?」
「テラさんの三島好きは知っていたかい?」
「いや……ああ、そう言えば三島の本を入れていたっけ。なるほど」
「チョーサクも知らなきゃオレの考えすぎだ。もういい。おやすみ」
「なんだ。人を起こしておいて、その言いぐさはねえだろ」
「眠っていたのかい」
「ちょいとソファーでな、布団に横になる余裕はない。こんなことなら温泉に残っていた方が楽だった」
「大変なんだな。物書きってのも」
「そんなことより、なんの話か説明して欲しいね。夜中の三時だぞ」
「どうせ眠れないんで、記事を絞っていたんだ。やはり三島事件はパンドラが選んだものじゃないらしい」
塔馬はパンドラの選んだ記事が昭和四十五年の後半以降に限定される可能性と、三島由紀夫の本名まで調べたことを長山に伝えた。
「有り得る。パンドラの握っていた弱味がテラさんの金だとすりゃ、間違いなく卒業直前のあたりだ。それよりも前ってことはないさ。テラさんの金まわりがよくなかったのはオレたちだって知っている」
「しかし……また袋小路に突き当たったよ。三島事件でないなら残りは『圭子の夢は夜ひらく』しかない」
塔馬の言葉に長山は笑いながら、
「今度は藤圭子の本名でも調べてみなきゃいかんのじゃないか」
「まさかな。頭が痛くなってくる」
「まあ……こいつがミステリーの世界なら、大胆な解決もあるけど」
「どんな?」
「裏側だよ。パンドラの握っていた弱味が秘められている記事は、まったく別のもんで、その裏側にたまたま藤圭子の歌謡大賞受賞の報道が掲載されていたってわけだ。たとえば……本当の記事の方にはテラさんの名前がはっきり書かれているから、あえて裏側の記事を入れた、とかさ。これでも告発には変わりがないだろ。パンドラがそうした手のこんだやり方をしたのには、テラさんへの愛が深く関係している。もし裏切った場合には即座に脅迫の材料にもなる。なかなかよさそうなアイデアだぜ。今度小説に使ってみよう」
「さすが小説家だな」
塔馬は唸《うな》った。
「冗談だよ。そんな高級な頭がパンドラにあるもんか。第一、テラさんの名前が新聞に載っているはずもなかろう。あの時点で名前を新聞に挙げられるような犯罪者なら医者にもなれっこねえさ」
長山は失笑した。
「もちろん犯罪者としてテラさんの名前があるとは思ってない。だけど新聞に名前が掲載されるケースはいくらでも考えられる。読者欄に投稿しているとか、あるいは同姓同名のスポーツ選手が活躍しているとか」
長山も考えこんだ。
「そもそも、あの記事一つだけが浮き上がっていたんだ。犯人が混入させた記事でないこともはっきり断言できる。そしてパンドラの告発していた相手にしても、今じゃテラさんの可能性が強くなった」
「ちょっと待った。そうすると記事の再検討が必要になってくるぜ。オレは告発の相手をダイスケだとばかり信じてビートルズの記事がパンドラの入れたものと考えてたが……」
長山はしばらく無言のあと、
「ビートルズがダイスケの告白通りにヤツの選んだ記事となりゃ……パンドラの分が歌謡大賞になってもおかしくはねえな。コインロッカーはオケイだろうし、少年通り魔は恐らくテラさんだ。シージャックと歌謡大賞の二枚にユータとパンドラが残っているわけだから……うん。まったくおかしくはねえよ」
長山は納得した。
「告発の意味を持たせるつもりならあんな記事であるはずがない。きっとチョーサクの推理は大正解に近いんじゃないか。あの違和感がはじめから手掛かりだったのさ」
「誉められて悪い気はしないがね。けど、投稿記事とか同姓同名程度じゃ告発の材料として、ちっとばかり弱いんじゃねえか。そんなもので怯《おび》える人間がいるとは思えんな」
「………」
「ましてや、裏側の記事にする必要だってなかろうよ。オレたちにゃ思いもかけない記事が裏にあるのか、そうでなければ、歌謡大賞に隠された意味があるかのどちらかだ」
「だろうな」
塔馬もそれを認めた。
「調べるのは簡単だぜ。新聞にゃ縮刷版がある。明日にでも歌謡大賞の裏側を確認してみるんだな。ここであれこれ想像したって仕方ない」
塔馬も頷《うなず》いた。切り抜き記事には新聞名が書きこまれていないが、図書館にでかけて三、四紙を当たれば分かるはずだ。おなじ報道でも記事の組み方や見出しが異なる。
「結果が知れたら連絡をくれ。夕方からはカンヅメでホテルにいる」
長山はホテルの名を言った。
「いいのかい。もしオレが犯人なら居場所を教えたことになる」
「抜かりはねえさ。フロントにタコへのメッセージを預けておく。オレの居場所を知っていたのは編集者とトーマ一人だけだとな」
長山は笑って電話を切った。
〈裏側の記事か……〉
それが進展なのか後退なのか、まだ分からない。が、なにもしないでいるよりは遥かに気が楽だ。塔馬はようやく眠気を覚えた。
4
翌日。
塔馬は起きだすとコーヒーを飲んだきりで図書館にでかけた。と言っても十二時近く。ここ数日の疲れが溜まっていて目覚めたのは十一時すぎだった。体の節々も痛い。
「新聞の縮刷版を見たいんですが」
貸し出しカウンターで訊ねると、相手は必要な年代を質してきた。
「昭和四十五年度の歌謡大賞の記事を捜しているんです」
「かようたいしょう?」
相手は一瞬戸惑った顔をしたが、やがて何度も頷いた。
「年末に決定したんで、記事になったのは四十六年のはじめかも」
「じゃあ十二月と一月の分ですね」
「ここには何種類の縮刷版を揃えてあるんですか?」
「縮刷版は三大紙だけですけど。他に日経と赤旗はマイクロに収めて」
朝日、毎日、読売で充分だろう。塔馬はそれだけを頼んだ。
間もなく相手は六冊の縮刷版を重そうに抱えて戻ってきた。
「外への貸し出しは禁止です」
塔馬は受け取ると閲覧室に向かった。学生たちが受験勉強に忙しい。
二十分後。
塔馬は溜め息を吐いた。
確かに歌謡大賞の記事は見つけたが、タイムカプセルに埋められた記事は三紙のどれでもなかった。コピーには歌謡大賞の他に別の記事の一部が見える。その記事が手掛かりになると思っていたのに……。
〈スポーツ紙ってことはないよな〉
それならもっと歌謡大賞の記事を大きく扱っているに違いない。
カウンターに戻ると塔馬は念のため四十五年十一月の縮刷版を借りだした。三島事件の記事を確認したかったのだ。目的の記事はすぐに見つかった。切られた首が掲載されているのは朝日新聞である。
〈これで犯人の混入させた記事がはっきりしないものかな〉
塔馬はふと思いついた。塔馬の想像では三島事件、三億円、よど号、ケネディ、万博の五つが犯人の仕業だ。それが確かなら、五枚とも朝日新聞からのコピーである可能性が強い。わざわざ別の新聞にする必要などどこにもないのだ。
〈徹底的にやってみるか〉
幸い十三枚の切り抜きコピーは手元に用意してある。事件の正確な日付も記事にちゃんと書いてある。縮刷版を借りる手間が面倒なだけで、あとは単純な作業だ。
塔馬はとりあえず三億円やよど号から調べて見ることにした。
そして一時間後。
塔馬は確信を持った。
予想通り五つの記事はすべて朝日新聞からのものだったのである。
〈面白いことになってきた〉
新聞を調べているうちに塔馬は仲間たちの性格と新聞の好みの問題について思い当たったのだ。興味のある事件の切り抜きをしろと言われたときに、たいていの人間は馴染みの新聞を頭に浮かべるはずである。読売新聞を購読している人間が、切り抜きに関してだけ朝日新聞を用いるとは絶対に思えない。自分が興味を持ったのは馴染みの新聞の記事であるはずだからだ。とすれば、その記事が切り抜かれた新聞を突き止めることによって、だれが選んだかある程度の想像はつく。たとえば吉秋と築宮は共にジャイアンツの大ファンで、新聞は読売しか取らないと聞いた覚えがある。一方、寺岡は朝日新聞の信奉者だった。
〈もっとも……学生時代はそうだったということで、今もダイスケやユータが読売一辺倒とは限らない〉
それは寺岡に関しても言える。
〈だが……〉
学生時代に選んだ記事にはその考えが通用する。塔馬はまたカウンターに走って縮刷版を借りた。十三枚全部の出典を確かめて見るのだ。
塔馬の勘は当たった。切り抜きからは面白い結果がでた。
朝日新聞。
三島事件、三億円、よど号、ケネディ、万博、瀬戸内シージャック、金嬉老。
読売新聞。
ビートルズ解散、少年通り魔、コインロッカー置き去り。
毎日新聞。
心臓移植、アポロ月面着陸。
不明。
圭子の夢は夜ひらく。
〈なんとも……〉
鮮やかな結果だった。もっと早くに気づいていれば嘘も簡単に見抜いていただろう。寺岡は最初に心臓移植だと主張したが、それは毎日新聞の記事だ。朝日を購読していた寺岡には不自然と言う他はない。朝日新聞の中で該当するものを選ぶとなれば……五大事件を外すなら瀬戸内シージャックと金嬉老。金嬉老は亜里沙が自分の記事だと告白した。つまりシージャックが寺岡の記事となりそうだ。その上に吉秋がビートルズの記事を選んだことも確実になった。すると築宮の記事は少年通り魔と決まる。蛍のコインロッカーも正解のはずだ。蛍は築宮の従妹なのだから読売新聞に馴染んでいたのも飛躍した想像ではない。
〈これでパンドラの埋めた記事は歌謡大賞と決まったな〉
塔馬は満足の息を吐いた。
しかし、意外な結果でもある。なぜ寺岡は瀬戸内シージャックに興味を覚えたのだろう。しかも二度まで嘘を重ねて、自分がこの記事を選んだことを必死で隠そうとした。あれはそれなりに印象深い事件なのだったから正直に告白されても、だれもが不審を抱かなかったに違いない。
〈ユータの少年通り魔もそうだ〉
長山の指摘したように、この記事の背景にホモセクシュアルへの願望があるとするなら隠そうとする気持も分からないわけじゃないが。
〈結局、表面の付き合いでしかなかったということか〉
寺岡や築宮の心の奥底に潜むものまでは理解ができなかったのだ。
〈まあ、今はそれが問題じゃない〉
問題はパンドラの記事だ。
〈なんでこいつだけが?〉
特殊なんだろう。三大紙以外からの切り抜きとなれば出典を突き止めるのは容易な仕事ではない。たとえ仲間に訊いても、パンドラが当時どんな新聞を購読していたか正確に覚えているわけがない。また、運良くそれが突き止められたとして……縮刷版が発行されているかどうか。
塔馬はパンドラの記事を睨《にら》んだ。
「ここまできたって言うのに」
思わず声がでた。
まわりの学生たちが振り向く。
〈ん?〉
歌謡大賞の記事のとなりに別の記事の一部が見える。それに地名らしきものが読み取れた。これまでは気にもせずにいたが、あるいは重要な手掛かりになるかも知れない。
〈チャリティコンサート・陸中川〉
そこで記事はとぎれている。文面から察して陸中川が地名の全体か一部であるのは明らかだ。
塔馬は立ち上がると書架から地名辞典を捜して席に戻った。残念ながらこの図書館には簡便なものしか置かれていない。それでも陸中という項目だけは掲載されていた。
〈岩手県ほとんど全域と秋田県の一部を示す古い国名か……〉
塔馬は頷いた。岩手県はパンドラの故郷。そして秋田県は寺岡の生まれ育った場所だ。
〈こいつは地方紙だったんだ〉
だが、どちらの県のものか?
塔馬は次に大きな日本地図を借りだした。慌ただしく閲覧室と書架を行き来する塔馬を貸し出し係の男は不審な目で追いかけていた。
テーブルにまず岩手県の地図を広げ慎重に点検していく。十五分後、今度は秋田県に取りかかった。
〈どうして、ないんだ?〉
隅から隅まで目を皿のようにして調べたつもりなのに、陸中と冠された地名はどちらにも見当たらない。もちろん索引にもである。
〈もう、改名されたってことか〉
パンドラがこの記事を埋めたのは二十年近くも前の話だ。ひょっとすると、そういう古臭い地名が捨てられて別の地名に変更されている可能性だってありそうだ。
〈となりゃ面倒だな〉
もっと大きな図書館に行かないと調べがつかないかも知れない。
「さっきからなにをお調べです」
地図を書架へ戻しにきた塔馬に貸し出し係はたまりかねて訊ねた。
「古い地名が知りたくて」
「地図の索引には?」
「陸中と頭につく地名を捜しているんですが、索引には見当たらない」
「ああ、陸中ね」
「吉田東伍の地名辞典でもあれば簡単に捜せると思うんだが」
「むしろ時刻表の方が──」
男は意外なことを言った。
「全国のおなじ地名を区別するために駅名には昔の国名を残していますよ。地図よりはずうっと楽です」
「そうか! うっかりしていた」
塔馬は礼を言って書架に走った。
「あった!」
時刻表を持つ塔馬の指が微かに震えた。恐らくこれに間違いはない。岩手県の北上と秋田県の横手とを結ぶ北上線の真ん中あたりに陸中川尻という駅名がある。地図と突き合わせて見ると岩手県の和賀郡湯田町。
〈岩手の新聞だったのか〉
やはり、という気もする。パンドラは白湯温泉に岩手の実家から直接やってきたはずだった。そのときに実家で購読していた新聞の記事を切り抜いて持ってきたのだ。それはまさにパンドラにとって絶望に値する記事でもあったに違いない。パンドラはそのせいで自分が殺される予感に怯えはじめたのだから。
5
〈岩手にでかけてみる他はないか〉
塔馬は腕組みした。この結果を山影に伝えれば、もちろん喜んでパンドラの埋めた新聞を捜し出してくれるだろう。しかし、まだ新聞にどんな秘密が隠されているのか見当もつかない。もしそれが原因で他の仲間に迷惑をかける結果になれば……やはり自分一人でやるしかない。
〈地方紙ならたとえ東京に支社があってもむずかしいだろうな〉
縮刷版が作られているなど期待もできないし、ましてや新聞の現物保存などかさばりすぎる。第一、岩手の新聞らしいと分かったきりで、肝腎《かんじん》の紙名すら不明の状態なのだ。やみくもに岩手に行っても無駄だ。
「見つかりましたか?」
時刻表を調べることを示唆してくれた貸し出し係の男が、書架の前に立ちつくしている塔馬を見かけて声をかけてきた。塔馬は頷《うなず》きながら、
「どこかに地方紙をたくさん揃えている図書館はありませんか」
ついでに訊ねてみた。
「さあ……先ほど陸中とおっしゃっていましたね。すると東北の新聞でもお捜しですか」
男は興味を抱いたようだった。
「岩手です」
「新聞名は?」
「それが……分からない」
「うーん。それさえはっきりしていれば、わざわざ別の図書館でなくてもウチで間に合うんですがね」
「ホントですか!」
塔馬は耳を疑った。
「岩手の新聞でしたら、恐らく岩手の県立図書館がマイクロ化しているはずです。新聞名と日付が確かなら電話で申し込むと、折り返しファックスで原寸コピーがもらえます」
「そうか。そういう手があったか」
塔馬は何度も頷いた。
「岩手ではどのくらい地方紙が発行されているもんでしょう」
「種類ですか。お待ちください」
貸し出し係は面倒な顔一つ見せずに書架に向かった。案外簡単にパンドラの記事を捜し出せるかも知れない。塔馬の胸が騒いだ。
「発行部数の一番多いのは岩手日報です。それに岩手日日とか」
間もなく貸し出し係は分厚い新聞年鑑を重そうに抱えて戻ってきた。示されたページには岩手県に本社のある新聞社の名前が並んでいる。
「大した数じゃなさそうだ」
これなら昭和四十五年度の歌謡大賞の記事が掲載されている紙面をすべて送ってもらってもさほどの金額にはならない。そしてパンドラの埋めた新聞を突き止めたら、あらためてその新聞の全部のコピーを頼めばいい。塔馬はそれを男に依頼した。
「とりあえず全部の新聞から、歌謡大賞の記事がある紙面だけを送ってもらえばいいわけですね」
「すみません。面倒なお願いで」
「これが仕事ですから。どしどし利用してください。ただし、少し時間がかかると思います」
塔馬は了承した。たとえ二時間待たされたとしても、岩手に行くことを考えれば苦にもならない。
名前を呼ばれてカウンターに急ぐと貸し出し係の前に四種類の新聞コピーが揃えられていた。
「他の新聞は昭和四十五年の時点でまだ発行されていなかったそうです」
塔馬はその場で記事を確認した。
〈どういうことだ!〉
塔馬は眩暈《めまい》を覚えた。四紙のどれもがパンドラの埋めた記事とは異なっている。有り得ない。
「大丈夫ですか?」
塔馬の顔色を窺って貸し出し係は心配そうな口調で言った。
「想像が外れていました」
塔馬は苦笑した。
「どうやら岩手の新聞ではなかったらしい。お手数をかけまして」
塔馬は礼を言った。これでまたふりだしだ。陸中川とは地名でなかったのだろう。
「朝日や読売の地方版という可能性はいかがなんです?」
落胆した塔馬の背中に貸し出し係が声をかけてきた。
「地方版?」
「全国紙の中に地方で編集した何面かを挟みこんでいるんです。そうしないと地元の記事が薄くなって、だれも買ってくれませんから」
それはもちろん知っている。が、塔馬はすぐに否定した。
「歌謡大賞は地方記事とは性格が違うでしょう。もし全国紙の地方版だとしたら、陸中川なんとかという岩手の駅名とおなじ紙面に、歌謡大賞の記事が並んでいるわけがない」
「迷惑でなければ、その記事のコピーを見せていただけませんか」
貸し出し係が言う。どうやら意地でも突き止めてやる気分になったらしい。塔馬はコピーを取り出した。
「確かにあなたの言われる通りだ。この記事と岩手の地名が一緒の紙面にあるのは有り得ない。やはりこれが岩手の地名だとしたら地方紙としか思えませんね」
貸し出し係も諦めた。
「まあ、念の為に三大紙の地方版を捜してもらおうかな。どうせ無駄骨になるとは思いますけど」
塔馬は貸し出し係の顔を立てた。
二十分後。
塔馬はカウンターに呼ばれた。貸し出し係は笑顔を隠さずに、
「ありましたよ!」
「まさか」
「この通り。おなじ記事です」
記事を差し出す声はうわずっていた。塔馬は乱暴にコピーを奪った。
〈信じられない……〉
なぜ地方版に歌謡大賞の記事が掲載されているのか……。
「藤圭子って岩手で生まれているんですね。それで本紙の記事とは別に地方版でも扱ったみたいです」
貸し出し係も不審を抱いて先に目を通していたようだ。
「まったく……お礼を言わなきゃ」
やはり陸中川は陸中川尻駅のことだった。その駅の構内で若者たちがエレキギターのチャリティコンサートを開催するという記事がとなりに掲載されている。食い入るように紙面を見詰める塔馬を貸し出し係の男は満足そうに眺めた。
「この日の全部のコピーをお願いします。一面から最後まで」
塔馬の肩から力が抜けた。
6
「さすがですね」
塔馬から新聞を突き止めたと聞かされて杉原は目を丸くした。塔馬の研究室である。図書館をでて大学に顔を出すと、杉原が奈津子相手にコーヒーを飲んでいたというわけだ。奈津子は塔馬の分のコーヒーを沸かしている。
「ところが……またまた泥沼だ」
塔馬は新聞のコピーをテーブルに放り投げた。
「二度も読んだが、これだとピンとくる記事がまったく見当たらない。どうなっているのかな」
「だれかと似たような名前も?」
「ああ。結局、特別な意味なんてないんじゃないかと失望していたところさ。骨折り損だ」
杉原は新聞に目を通した。
「けど、地方版の記事だったなんて塔馬さんじゃなければ捜せない」
「オレじゃないよ。親切っていうか有能な貸し出し係がいてね」
塔馬は奈津子からカップを受け取った。奈津子もソファーに腰かける。
「たとえば……この記事なんてどうです。若い男が何日も前から行方不明になっていますけど」
「暴力団がらみの殺人の疑いがあるってヤツだろ」
「ええ。なんとなく怪しい感じだ」
「盛岡の若者が行方不明になったのとパンドラにどんな関係があるってんだ。ましてやテラさんとさ」
「でも、年齢を見るとほとんど半田さんと同世代じゃないですか。ひょっとしたら知り合いだったかも」
塔馬は呆れた。
「確かにパンドラも盛岡の出身だがね。同世代だからって互いに知り合いだろうとは恐るべき想像だぜ。盛岡だって広いんだ」
奈津子も失笑した。
「それに暴力団とパンドラってのもかけ離れすぎだ。パンドラは普通のサラリーマン家庭に育っている」
「そうかな。他の記事に較べたら、こいつだけが意味深ですよ」
杉原はこだわった。
塔馬はもう一度その記事を確かめた。奈津子も脇から覗く。
行方不明と報じられているのは盛岡市の仙北町のアパートに一人住まいだった山本文夫という二十三歳の男である。記事では控え目な表現をしているが、山本は定職も持たず、市内の麻雀荘や競馬場に入り浸っていたらしい。暴力団関係の人間だと記事は匂わせている。盛岡市郊外に暮らす両親から山本の失踪届けが出されたのは姿を見かけなくなって二十日目。アパートは荒らされた様子もなく、また失踪する理由もない。金銭上のトラブルや喧嘩が原因で殺された疑いもあるとして、警察が捜査に乗り出した、とある。
「よくある話だ」
塔馬は首を振った。
「でも……塔馬さんはこの新聞に秘密があると睨んでいたんでしょう」
「………」
「だったら地方版の紙面にしか関係がないと思うんです。全国共通の記事なら、わざわざこんな手間をかけなくとも……」
「パンドラの家で購読していた新聞だったとすれば、そうとも限らないよ。彼女は実家から白湯温泉にやってきたんだからね。それしか新聞がなきゃ仕方がないだろ」
「そうか……理屈だな」
「まあ、そう悲観したもんでもないぜ。瓢箪《ひようたん》から駒ということだってある。年齢が似ているという繋がりもあるしな。どうせ手掛かりはないんだ。少しこの事件を追いかけてみようか。もしこの男が本当に殺されていたなら、岩手の新聞を追って調べれば分かるはずだ。ただし図書館に頼んでコピーをもらうのは厄介だ。いつの新聞にこの事件の後追い記事が掲載されているか、まるで見当もつかない。あるいは一年後に死体が発見されているかも知れないし。それでもやるかい?」
「一年後となりゃ大変ですね」
杉原はさすがに躊躇《ちゆうちよ》した。
「その前に山本に関する情報をできるだけ集めるのが肝要だ」
塔馬は便利な方法を教えた。
「行方不明なら他の新聞にも記事がでているに違いない。何種類もの新聞を揃えてみれば詳しいデータが集まる可能性がある。そこでパンドラとの微かな繋がりでも発見できたら徹底的に後追い調査をする。それなら大した労力にもならないだろう」
杉原はポンと膝を叩いた。
「その程度だったら明日にでも調べがつく。やってみましょう」
張り切った顔で杉原が言った。
そこに電話のベルが鳴った。
奈津子が受話器を取る。
「流山先生です」
やれやれ。ホテルにカンヅメだとか、忙しいという割合には頻繁に連絡をしてくる男だ。塔馬は苦笑を浮かべながら受話器を耳に当てた。
「今、駅前にいるんだ」
長山の声が耳に響いた。
「どこの?」
「ここのだよ。下北沢を歩いたついでに足を延ばしたんだ。いるならこれから行く。待っててくれ」
「カンヅメじゃなかったのか」
「夕方からな。なんだか一人でいると落ち着かん。メシでも食おう」
それだけ言うと電話を切った。
「ここにくるそうだ」
塔馬は振り向いて二人に伝えた。
「あ、そう言えば名掛亜里沙さんからも昼前に電話がありました」
奈津子が思い出した。
「なにか急用でも?」
「さあ。用件は特に……」
長山も亜里沙も寂しいのだ。塔馬は何度も頷いた。
「タコが電話してきやがって」
顔を見せるなり長山が口にした。
杉原と奈津子が挨拶する。長山は杉原を認めると、
「よほどヒマな会社と見える」
いつもの軽口に戻った。
「コーヒーはいいよ。お茶にしてくれ。喫茶店を三軒まわってきた」
奈津子にも声をかけた。
「山影さんが、なんだって?」
「逃げてやしねえかと心配なんだろうさ。オレがでたらホッとした様子だったぜ。トーマのとこには?」
「朝から図書館にでかけていた」
「アパートにいなきゃ、この研究室にかけてくるだろう。やっぱりオレのことだけをマークしてやがる」
長山は不愉快そうに舌打ちした。
「用件はそれだけだったのか」
「一応は捜査の経過報告かたがたって言ってたがね。なんでオレに報告しなきゃならねえんだ。コロンボを気取ってオレを安心させときたいんだろうが……その手にゃ乗らん」
「なにか新事実は?」
「あるもんか。オケイが昨夜あの温泉で記者会見したそうだ。どういう神経なんだか。おかしくなるぜ」
長山は嘲笑った。
「オケイは明後日東京に戻る。そいつにくっついてタコもくるとさ」
長山は茶を受け取った。
「塔馬さんが半田さんの埋めた新聞を捜し当てましたよ」
杉原の言葉に長山は唸った。
「それで? 記事の裏にはどんなものがあったんだ?」
「なにも……そこにある」
長山は新聞を手にした。
「全国紙の地方版か……こんなのをよく突き止めたな」
感心しながら新聞を丹念に見る。
やがて長山は目を上げた。
「またもや推理が外れたか……てっきりどこかにテラさんの名前でも書かれてあると思っていたがね」
塔馬も頷きながら、
「その行方不明の記事はどうだい。杉原君が怪しいと睨んでいる」
「こいつか……まさかな。パンドラと暴力団じゃあまりにも……」
と言いつつ長山は眉間に皺《しわ》を寄せた。なにか思い出したらしい。
「あの文集はどうしたっけ?」
「文集? 茶研のかい」
「リサがカプセルに埋めていたヤツさ。あれもタコが持ってるのか」
「もちろん。全部そのまま警察に預けてきた。それがどうした」
「あんまり懐かしいんで、じっくりと読んだんだよ。そしたらパンドラの書いた日誌も収録されていた」
「………」
「まだパンドラがクラブに入りたての頃らしくて、自己紹介めいた部分が大半だったが……その中に」
「その中に……」
「高校までしか行けなかった男友達さえいるのに、自分は大学に進学させてもらいながら喫茶店でブラブラしている。こんな自分が厭になるとか……いかにも甘っちょろいガキが書きそうな文章が挟まっててな」
それがなんだと言うのだ? 塔馬は苛立った。
「だから……その高校時代の男友達ってのが学歴社会に絶望してヤクザに転落したわけよ。新宿の深夜喫茶で声をかけられたらしいんだ。はっきりヤクザと書いてあるわけじゃなかったがね。会社に勤めているようでもなく、派手な服装だったとくりゃ、それしか考えようがなかろう。クラスでも一、二番に頭が良かった男らしくて、それがパンドラには二重のショックだったというわけだ」
塔馬は絶句した。
「その男が山本文夫かも!」
杉原が緊張した。
「文集に名前はなかったか?」
「英語の頭文字だったような気がする。確かな記憶はない」
「まさか、とは思うが……そいつだけは早めに調べた方がよさそうだ。山影さんに電話して訊ねてみよう」
「あいつに情報を洩らすのか」
長山は不服そうな顔をした。
「もし……Yとあれば……」
どうなるのか。それは塔馬にもまるで予測がつかなかった。
「ちょい待ち」
長山がパチンと指を鳴らした。
「タコなんかに大事な情報を洩らす必要なんてねえよ。電話を借りる」
長山はバッグからアドレス帳を取り出すと番号を調べてまわした。
「どこなんだ?」
塔馬は戸惑いの声を上げた。亜里沙がタイムカプセルに埋めた茶研の機関誌は参考品として山影に預けてきた。編集した本人の亜里沙ですら一冊も持っていない雑誌である。
「大学の図書館さ。前に調べ物があって訪ねたんだが、卒業生が拵《こしら》えた本なんかをだいぶ保存していた。あるいはオレたちの雑誌だって」
電話が通じた。長山が名乗ると相手には直ぐに分かったらしい。
「『アフター・ティ』という雑誌なんだけど……何冊も発行したわけじゃない。たった一冊なんだ。もしそちらにあるようだったら折り返し電話をくれませんかね」
長山は送話口を押さえて奈津子に研究室の番号を質《ただ》した。
「これでよし」
電話を切ると長山は席に戻った。
「期待してくれ。個人的なもんなら別だが、クラブ関係の本だったらたいてい残してあるそうだ」
それから十分もしないうちにベルが鳴った。長山が自分で取る。やはり大学の図書館からだった。
「見つかりましたか」
長山は電話口で笑った。
「それじゃあ……また面倒なお願いになるけど……半田緑という名前で書かれてある部分だけをコピーしてファックスで送ってもらえませんかね。確か三、四カ所しかなかったと思うが……番号の方は……」
長山は塔馬から聞きだした事務局のファックス番号を伝えながら振り向くと、親指と人差し指で丸を作って塔馬たちに結果を知らせた。
「なかなかの名探偵ぶりだ」
杉原が塔馬に耳打ちした。
「届きました」
事務局で待機していた奈津子が頬を上気させて戻った。手には五、六枚の用紙をしっかり握っている。
「こいつだ。間違いねえ」
長山は奈津子から受け取って一枚を選ぶと塔馬に示した。
「頭文字はなんとある?」
「Bだ……Yじゃない」
長山は失望した顔で口にした。
「A君ってなら、適当な頭文字を使った可能性もあるが……他にA君がいなくてB君と書いてありゃ具体的な感じだ。馬場とか別所とか、そういう名前だったんじゃねえか」
長山は溜め息を吐くと塔馬にそのコピーを手渡した。
「考えりゃ当たり前だな。山本文夫なんてヤクザとパンドラが知り合いだったなんて偶然は百万分の一の確率より低い。オレの早トチリだ」
「でもない……」
塔馬はコピーから目を上げた。
「文夫という名前なら友達同士の間でブンちゃんと呼ばれていたことも有り得る。そいつがパンドラの頭にあればB君と書くのも……」
「なるほど、ブンちゃんか」
長山の目が輝いた。
「もしそれが本当なら……パンドラと山本文夫は相当に親しかったはずだ。ただの知り合いなら山本のYを使うだろうからね」
塔馬は断言してパンドラの記した日誌に目を戻した。
七月七日
今夜は七夕です。こんなスモッグで汚れた東京の空でも二人の恋人たちは逢えるのかしら……固くなったドンクのパンをミルクに浸して「アッポしましまグー」を見ていたら、アッポちゃんが織姫になった夢を見て奇麗な夜空の中で、いつもは意地悪なグーと仲良く歌っていました。この番組が好きで私はいつも朝の授業に遅れてばかり。でも今夜は私もグーと一緒にいつまでもいたいな。
でもって……夜の八時から新宿の喫茶店探訪です。みなしごハッチも最後まで見たかったし、今夜のスタ千にはジミー坊やがでると番組欄にあったので、本当は九時にしてもらいたかったのに……待ち合わせの甘党本陣小松屋は閉店時間が早いので仕方ありません。抹茶アイスとバニラアイスが二つも入れられているみつ豆を食べていたら、東京に暮らしている実感が湧いてゴキゲン。三十分くらい話しこんでいたら店に長い髪にサングラス、パンタロンの似合う女の子が入ってきました。カルメン・マキに似ていると思ったら本人だったみたい。だから東京ってスゴイと思ってしまいます。
彼が「気狂いピエロ」を見たいと言うので新宿文化に何日までか調べにでかけたら、もう六月中で終了でした。もしまだやっていたら土曜日にでも行こうねと約束したのに残念。だけど私は趣味じゃないから、それほど残念でもないかな。
と……すごく楽しそうなことばかり並べていますが、本当はこの夜とても衝撃的な出会いがありました。中学の二年先輩だったBさんと深夜喫茶でバッタリ会ったんです。彼は私を見つけると驚いた顔でとなりの席にやってきました。短く刈った頭に銀色のサングラス。そして派手なアロハシャツ。とても昔のBさんとは思えません。彼は他の学校にも評判になるほど優秀な生徒だったのに家庭の事情から工業高校に進み、大学進学を諦めたと聞いていました。東京にいることも薄々耳にしていましたが……まさかこんなにも人間が変わってしまうなんて。Bさんは仕事も辞めて今はブラブラしていると私に笑いました。でもケントを喫《す》っていたり、腕にしているオメガの時計や本物の金のように見えるブレスレットを眺めていると信用はできません。それに大きな指輪まで嵌《は》めて。私にはなんとなく今のBさんの生活が見えてきました。彼も生活環境さえよければきちんと一流大学に進み、今頃は一流の企業に就職できたはずです。すべてが彼の責任ではないと思いました。なのに、なんの才能も頭もない私がこうして大学にまで行かせてもらえて、勉強もしないでみつ豆を食べたり、深夜喫茶でコーヒーを飲んでいたりしているのです。なんだか自分がとても恥ずかしくなりました。Bさんはもうじき故郷の盛岡に戻って店を開くと言いました。なんの店かは教えてくれませんでしたが、きっと私と、同席していた彼への精一杯のプライドだったのだと思います。
Bさんと別れた後、私は複雑な思いでした。お金はあるようだけど、Bさんの青春はきっと辛いことだらけに違いありません。深夜喫茶には悲しい人間が大勢います。
「二年先輩か……」
塔馬は読み終えると計算した。この日誌は昭和四十五年のものだ。となればパンドラは大学の三年。ストレートに入学したはずだから二十一歳。その二つ上なら二十三。山本文夫もこのとき二十三なのだ。
「深夜喫茶には悲しい人間が大勢います……ときたよ。相当無理して辻褄を合わせたもんだな」
長山は覗いて笑った。
「まあ二十歳前後の娘の文章ならこんな程度だ。真面目で面白味のねえ性格がそのまま反映している。これでも本人はひょうきんなつもりなんだぜ。パンドラの口からゴキゲンなんて言葉を聞かされりゃ背筋に寒気がくるってもんだ。もっとも、ハッスルとかモーレツなんて書かれるよりゃマシかも知れんがな」
長山は嘲笑った。
「同席していた彼ってのは?」
杉原が塔馬に訊ねた。
「きっとテラさんじゃないかな」
「だろうね。これまでの話を総合するとテラさん以外に考えられん。それにしてもなんでこういう文章を読みながら、昔はパンドラに彼氏がいるってことを考えてもみなかったのか不思議な気分だ。どうせ嘘に決まっていると無視したのかね。それともパンドラと付き合っている男がいようと、気にもしなかったのか。まさか女にモテモテのテラさんがパンドラの彼氏だなんて思いもよらない」
長山は自分に納得させた。
「指輪をしている男か」
塔馬は呟いた。
「あの時代なら珍しいかもな。ブレスレットなら流行してたが……」
「そういう単純な意味じゃない」
塔馬は長山を遮った。
「パンドラが埋めていた指輪との関連を考えていたんだ」
長山は絶句した。
「そうか! また一つこの男との共通点が見つかったというわけだ」
「じゃあ……」
杉原は身を乗り出した。
「あのタイムカプセルからでてきたという干涸《ひから》びた指が──」
「この男の指ではないかも知れない。しかし、なんらかの関係はありそうだ。もし……テラさんがこの男の失踪に関わり合っていたとしたら、指輪を見ただけでパンドラがなにかを知っていると気づくんじゃないかい。告発の効果としては充分だな」
「大した想像力だよ、まったく」
長山が笑った。
「ないない尽しから、とうとうそこまで推理を広げたか……話としちゃ面白いが、そいつはどうかな。指輪が告発に使えると思うってのは、パンドラも共犯者ってことだぜ」
「どうして?」
「だろうよ。でなきゃ指輪に特別な意味なんて持たせられんさ。タイムカプセルに指輪と記事を埋めた時点で山本文夫の死体は発見されていないんだぞ。行方不明の記事が掲載されたのは年末だ。それから一週間もしないうちにタイムカプセルは埋められた。もし、その間に山本文夫の死体が発見されているなら、パンドラは必ずそっちの記事を埋めたはずだ。ダイイング・メッセージとしての重さが違う。なのに行方不明だけを報じる新聞を選んだからには、パンドラは山本文夫の死を確認できなかったという推理が成り立つ。その状態では指輪が殺人と関係あるかなんて、だれにも分からん。本当にパンドラが指輪を告発に使ったんなら彼女も殺しに一役買ったのさ」
「………」
「共犯者じゃない限り、指輪の意味するものなんて分からんはずだ」
「だが……」
「その通り。パンドラが共犯者であるわけがない。それならタイムカプセルなどとまわりくどいやり方を採るより、いくらでも方法はある。自分も共犯なら告発そのものがナンセンスになってしまう。だから指輪の件と殺しを繋《つな》げるのは無理だ」
「違うんだよ」
塔馬は苦笑した。
「山本文夫がテラさんに殺された疑いが深まったからこそ、パンドラは指輪を埋めるつもりになったんじゃないかと考えたんだ」
「どうも分からんな」
長山は小首を傾《かし》げた。
「あくまでも想像だが……パンドラは故郷に戻って山本文夫の失踪を報じる記事を目にした。最初はなんとも思わなかったに違いないが、そのうちパンドラはテラさんが持っていた指輪を思い出した。ひょっとしたら、訪ねたテラさんのアパートででも見かけたのかも知れない。なんとなく山本が指にしていた指輪に似ていた。そこで疑惑が生じる。もしかしたらテラさんが山本を殺して奪い取ったものじゃないかとね。けれどそいつを直接問い質すわけにもいかない。本当に疑惑通りならパンドラ自身の命も危ない。そういう態度はテラさんにも伝わっていただろう。パンドラは身の危険を感じはじめた。これが原因で殺されるようなことにでもなればとパンドラは焦った。そこで山本文夫の失踪を告げる記事が含まれた新聞の一部と自分の指輪を埋めることに決めた。テラさんが犯人でないなら後で何とでも言いつくろえる。だが、テラさんが山本殺しの犯人で、しかも自分すら殺された場合、この新聞と指輪は有力な手掛かりとなる。その段階でパンドラは山本文夫の死体が近いうちに発見されると信じていたんじゃないかな。指輪が抜き取られた山本の死体がさ」
長山は下唇を噛んだ。
「長山の言うように、当時では男の指輪は珍しい。だからこそパンドラにも強烈な印象として残った。そいつと似たような指輪をテラさんが持っていれば……怪しむのも当然だ」
「魅力的な想像ではあるがね」
長山は何度も首を振った。
「どうやってそいつを実証して行くつもりだ? こいつはそもそもオレの冗談からはじめられた仮説なんだぜ。パンドラが歌謡大賞の記事そのものに関心を持っていただけなら、全部の想像が無駄骨になっちまう。タコに教えてやってもどこまで真剣に取り上げるか分からんぞ」
「一つ一つやってみるだけさ」
塔馬はきっぱりと言った。
「まず山本文夫の出身校を探り当てる。パンドラの卒業した中学と別のところなら、それで推理もお終《しま》いにしよう。B君と山本は他人だったってことになるからね」
今度は塔馬の働く番だった。
「奈津子君。悪いが事務局にもう一度行ってきてくれないか。あそこには全国の中学・高校のリストがあったはずだ。盛岡市内の中学ならせいぜい二十もあればいい方だろう。リストアップしてきてもらいたい」
奈津子は頷いて出て行った。
「全部に問い合わせるつもりか」
長山は呆れた顔で言う。
「パンドラの卒業年度は計算すれば簡単に分かる。その年の卒業アルバムでも捜してもらえば五、六分でカタがつくよ。どんなに運が悪くても彼女の中学を突き止めるのに一時間はかからない。それが分かれば、今度は二年上の卒業アルバムを調べてもらって山本文夫の名前を確認するだけだ。養子にでも行って名前が変わっていれば厄介だけど……新聞を見た感じじゃそのままだろう」
「たまげたね。おまえさんにゃ探偵の素質がある。オレなら山本文夫の事件を詳しく報道している新聞を捜す程度しか思いつきやしねえ」
長山は頼もしそうに見やった。
「女子中学は無視していいな」
奈津子が持ち帰ったリストに目を通して塔馬は順に電話をかけた。そのつど、なぜ卒業生のことを調べているのかと質問を受けたが、塔馬は大学の同級生名簿を作成していて、現在は行方の分からない彼女の実家の住所が知りたいのだと説明した。幸い五本目の電話相手がパンドラの卒業した中学だった。
「ついでにお聞きしたいんですが」
塔馬は興奮を鎮《しず》めながら言った。
「二学年上の卒業生に山本文夫君がいるはずなんです。二人は結婚しているはずなので、あるいは彼の住所が分かれば……」
相手は簡単に信じた。少しお待ち下さいと言って電話口から離れる。やがて二、三分もしないうちに相手は戻ってきた。卒業アルバムにある生徒名簿を捜しているようだ。
「ありますよ。これは古い地名なんで、ここに連絡しても手紙は届かないかも知れませんね」
塔馬は喉《のど》の渇きを覚えた。
やはりパンドラと山本文夫はおなじ中学の生徒だったのだ。
杉原と奈津子が歓声を上げた。
「もはや偶然とは言えねえな」
長山も認めた。
「パンドラの埋めた記事とおなじ紙面に、たまたま昔馴染みと思われる男の失踪記事が掲載されていた。そっちの方が偶然すぎる。意図的にパンドラが埋めたものだと解釈していいはずだ。だからと言って仲間と無関係な記事を埋めるはずもない。仲間というのは、この場合彼女の付き合っていたらしいテラさんを示す。テラさんも山本を知っていた可能性がある。三段論法で行けば山本の失踪にテラさんが関わっていた確率は非常に高い。恐らくテラさんの不審な金の出所と、この失踪事件にも繋がりがある。とうとうそこまで到達したってわけだよ」
長山は塔馬の掌を握った。
塔馬も頷きながら握り返した。
7
翌日の早朝。
がらがらに空いている東北新幹線の自由席に塔馬と杉原は並んで腰掛けていた。明日の午後には山形から蛍と一緒に山影が上京してくる。どうしてもそれまでには東京に戻っていなければならない。なんとも忙しい日程だ。たった一日の調査で山本文夫に関してどれだけの情報が収集できるか……それでも、パンドラと彼がおなじ中学の出身と分かっては放ってもいられない。白湯温泉での連続殺人の謎はすべてそこに集約されている。たった三時間の旅だと言うのに、塔馬にはそれすらもどかしい気分だった。窓に流れる景色さえスローモーションのように見える。
「しかし……君も物好きだな」
塔馬は二個目の駅弁の紐を解きはじめた杉原に呆《あき》れた顔をしながら、コーヒーを口に運んだ。
「あるいは日帰りになるかも知れないんだぜ。仕事とも無縁だし」
「ヒマなんですよ。第一、塔馬さんが窮地に立っているとなりゃ見過ごすわけにも行きません。それに、上手《うま》くすると今日にも真犯人の手掛かりが見つかるかも。本音を言うと昔から探偵ごっこが好きでしてね。これでもボーイスカウトに入っていたんです。ワクワクして昨夜は眠られなかった。美術界につきものの詐欺事件なんかじゃなくて、今度は本物の殺人事件の追及ですからね」
「ボーイスカウトとは初耳だ」
塔馬は杉原の太った体をしげしげと眺めた。
「本当は少年探偵団に入りたかったんだけど……中学の頃まで、実際にあると信じて疑わなかった。BDバッジも集めていました」
「怪人二十面相かい」
塔馬は苦笑した。
「塔馬さんは渦中にいるから深刻でしょうがね……脇で見ていると、今度の殺人事件は相当に刺激的だ。二十年近くも前に埋めた新聞記事が発端になっていたり、殺された二人の首が飾られていたり」
塔馬も頷いた。
「しかも、現場は雪崩《なだれ》によって自然の密室と化していた。いかにも怪人二十面相の世界そのものです」
「その割には登場人物が平凡すぎるぜ。まあ、チョーサクだけは変わっている方の部類だけど」
「考えようによっては山本文夫もそうじゃないですか。ヤクザなんて、まったく予測もつかない人物が突然姿を現わしたという感じです」
「推理が当たっていればな」
「なんだ。まだ信じていないんですか。昨日はあれほど……」
「十中八、九は間違いないと思うんだが。もし、想像通りにテラさんの不審な金の出所が山本文夫だとした場合……山本はそれだけの金を何で手に入れたかという問題が持ち上がってくる。なにしろ大きな病院を建設できるほどの金なんだぜ。生半可な額じゃないのは確かだ。山本がどこかの会社を経営していたり、金融業者でもあったなら別だけど」
「なるほど。山本は二十三歳の無職の若者にすぎない」
「現実に金を所持していたとするなら、そいつがまともな金じゃなかったのは確かだろう。そこまではいいさ。問題は、その事実をテラさんがどうやって知ったかだ。山本はパンドラの日誌にゃいかにも金回りが良さそうに書かれてはいるがね。と言って、オメガの時計をしている程度で殺しを考えるほどテラさんもバカじゃないはずだ。昨日はあまりにもパンドラと山本がダイレクトに繋がったんで疑問も持たなかったが」
「寺岡さんは半田さんよりも大人だったから、山本の景気のよさの裏側にあるものを見抜いたんじゃ?」
「かも知れない……恐らく、そうなんだろうな」
塔馬も自分に言い聞かせるように何度も頷いた。
「とりあえずなにからはじめます」
盛岡に着くと杉原が訊ねた。東京の天気とは反対に空はどんよりと曇っている。今にも雪が降りそうだ。手袋をしていない指がかじかむ。
「警察、といきたいところだが……パンドラがらみとなれば、山形の山影さんに伝わる恐れがある。できるだけ警察は避けたい」
「すると図書館で新聞捜しですか」
杉原はうんざりした顔を見せた。山本の失踪を告げた記事の日付は分かっていても、その後追い記事を捜すとなれば面倒だ。一カ月以内に死体でも発見されていれば楽だが……下手をすると未解決の場合だって有り得る。それなら延々と新聞を調査しなければならない。二人で手分けしても一日で片付くかどうか。
「記事によると山本文夫の家族は盛岡市郊外に住んでいた。もちろん十八年も前のことだから現在もそこにいるかどうか分からんが」
杉原は塔馬の言葉に相槌《あいづち》を打つと手帳を取り出して調べた。山本の父親の名前をメモしてきている。
「住所は紫波《しわ》郡の都南《となん》村となっています。運がよければ電話帳に名前があるかも知れないですね」
杉原は電話帳を捜して走った。東京に較べれば嘘のように薄い。都南村の電話加入者で山本の名字は三十にも満たなかった。指で辿《たど》っていた杉原がウッと息を飲みこんだ。
「これですよ。仙太郎なんて名前がゴロゴロ転がっているわけがない。恐らく父親に違いありません」
塔馬も覗きこんだ。
「どうします?」
「幸い、山本文夫とオレは年代も一緒だ。東京時代の友人というフレコミで電話をしてみよう。家族に情報を得るのが一番早い。もし死体が発見されているなら、後で図書館にでかけて記事を捜せばいい」
「簡単に会ってくれますかね」
「なんでだ」
「警戒されるんじゃないかな」
「なんのために? 山本文夫の失踪は十八年も前のことだよ。いまさらなにを警戒するってんだ。むしろ懐かしがってくれるさ。それに、こちらは山本文夫が失踪したことさえ知らない。単純に彼に会いたくて岩手までやってきたんだ」
「そうか。そういう設定なら」
杉原は納得した。
ダイアルをまわすと、ベルの音がしばらく続いて、やがて若い女性が受話器を取った。
「山本さんのお宅でしょうか」
「はい。山本です」
「こちらは塔馬と申しますが……文夫君はいらっしゃいますか」
「文夫と言いますと?」
相手は明らかに戸惑っている。
「山本文夫君です。確か二十年ほど前に盛岡に戻ったはずなんですが」
「もう一度おっしゃってください」
驚愕《きようがく》がその声にはあった。塔馬はゆっくりと繰り返した。相手は慌てて別の男と電話を替わった。
「もしもし。私は文夫の父親だが」
「塔馬と言います。東京では文夫君と親しくさせてもらって」
「文夫になんのご用ですか」
「いえ。たまたま盛岡にくる用事ができたので、久し振りに文夫君の顔を見たくなっただけです」
「ああ。それじゃひょっとしてT電機の方じゃありませんか」
「え、ええ。私も文夫君と同様、早くに会社は辞めましたけれど」
塔馬はホッと息を吐いた。なんとか嘘が通じたらしい。会社の同僚と聞かされて父親の態度は途端に柔らかくなった。あるいはヤクザの仲間だと思っていたのだろう。
「あなたのお名前は息子から聞かされておりませんでしたので連絡もできなかったのですが……文夫はとっくに亡くなりましてね」
「いつ頃のことなんです」
少し間合いを計って塔馬は訊ねた。
「ずいぶん昔です。もしかしたらご存知と思いますが、息子は会社を辞めた後、妙な連中の仲間になって」
「それは……耳にしていました」
「ごたごたに巻き込まれたらしく、殺されてしまいましたんです」
塔馬は溜め息を吐いた。分かっていても、実際に父親から口にされると、こちらの嘘も重なって辛い。
「伺《うかが》って構いませんか。これもなにかのご縁です。できれば線香の一本も上げて帰りたいんですが」
「文夫もきっと喜んでくれるでしょう。ぜひそうしてください」
父親の声は涙ぐんでいた。塔馬は道順を聞くと受話器を置いた。
「話の様子じゃ山本の死体が発見されていたようですね」
杉原が質してきた。
「T電機に勤めていたそうだ」
返事の代わりに塔馬は呟いた。
「そう言えば山本は工業高校の卒業だった。不思議でもないか」
「それにしても塔馬さんは嘘が上手《うま》い。なんだかドキドキしました」
「こっちもさ。どこまで嘘をつき通せるか自信がない。電話の感じじゃ人のよさそうな親父さんだ」
塔馬はバッグを手にすると目の前のタクシー乗り場に歩いた。目印は東京方面に向かう国道沿いにある大きなスーパーマーケット。その手前の道を左に入って突き当たりの美容室のところで山本仙太郎は待っているはずだ。
「あの人だな」
車が左にまがると、遠くに見える美容室の前でお辞儀をしている小さな人影が目に飛び込んだ。ずいぶん前から待っていたに違いない。話では駅からここまで二十分ぐらいだと聞かされたのに、渋滞と雪道のせいで倍はかかっている。
「山本仙太郎でございます」
車から降り立った塔馬の掌を文夫の父親はしっかりと握った。短い髪の半分以上は白髪だった。小柄で枯れた木のように痩せた老人だ。
「遠いところをわざわざ」
父親は杉原にも頭を下げた。
「塔馬双太郎です。彼は東京で美術雑誌の編集をしている杉原君と言います。今度、盛岡の博物館を取材にきたついでに文夫君を思い出して」
「ありがとうございます。さきほど電話にでたのは文夫の弟の嫁で」
さ、どうぞと父親が先を進んだ。狭い路地は固まった雪のためにツルツルして歩きにくい。
「もしかして半田緑という女性のことはご存知じゃありませんか」
何気なく塔馬は質問した。
「半田……ああ、あの緑ちゃん」
父親はニコニコと笑顔になった。
「ウチがこっちに引っ越す前は市内におりましてね。半田さんのお宅とは近所だったものですから……そうですか、あの緑ちゃんともお知り合いでしたか。それはお懐かしい」
やはりパンドラと山本文夫とは密接な繋がりがあった。塔馬と杉原は互いに暗い目を合わせた。
「緑ちゃんはお元気ですか?」
「それが……行方不明なんです」
その言葉に父親の顔は強張《こわば》った。
「きっと結婚でもして、ご主人の転勤かなにかであちこち動いているんじゃないでしょうか」
さすがにパンドラもまた殺された疑いがあるとは口にできなかった。父親はすぐに納得して首を振った。
「いつ頃でしたかね。文夫が東京から戻って間もなくでした。緑ちゃんが旦那さんになるらしい人と一緒に文夫を訪ねてきたことが……」
塔馬は緊張した。
「その頃の文夫は仕事もせずに遊んでいるばかりでしたから……ああいう立派な人と付き合ってくれれば安心だと思ったもんですよ」
「立派な人。つまり半田君の連れてきた相手のことですか」
「お医者さんだったと覚えている」
間違いない。寺岡だ。
「半田君と文夫君は、互いに家を訪ね合うほど親しかったわけですね」
「いや。引っ越してからはほとんど行き来も……なんで文夫のような人間のところに緑ちゃんや、あんな人が会いにきたのか。同級生からも息子は見放されていましたんでね。金子さんぐらいのもんだったな」
「金子さん……」
「文夫の中学から高校にかけての友達です。今は市内で設計事務所を開いて手広くやっています」
「その方をご紹介願えませんか」
「それは簡単ですが……」
父親は路上に立ち止まった。
「実は……今年の夏に昔の同僚が集まる会を計画しているんです。文夫君のことをできるだけ詳しく皆に伝えたいと思いまして」
苦しい言い訳だが、父親は目を潤《うる》ませてウンウンと頷いた。
山本の家では家族揃っての歓待を受けた。T電機時代の写真が貼られた古いアルバムを持ち出されたときは少し慌てたが、家族は最初から塔馬を疑っていないのだから特別な不審も持たれずにすんだ。山本の死体が発見されたのは十年前だと言う。死体は岩手県から秋田県に通じる山道の藪《やぶ》の中に捨てられ、完全に白骨化していた。失踪直前に施していた歯の治療痕の一致が身許確認の唯一の決め手となった。
「それじゃあ死因も特定できなかったんじゃありませんか」
杉原が割って入った。
「殺されたのだけは警察も認めておるんです。右手の薬指が刃物で切り取られておりました。まあ……そんなことが得意な連中の仕業じゃなかろうかと。どこで手に入れたのか、男のくせして息子はでっかい指輪を嵌《は》めていましてね。警察でも有力な手掛かりと見做《みな》したのか、あちこちの質屋や宝石商を当たってみたらしいんだが……それきりですよ」
塔馬の想像は当たっていた。
「塔馬さんもあの頃は府中に?」
父親は話を変えた。
「いや。自宅から通っていたので」
山本文夫の会社がどこにあったのかも、むろん知らない。
「刑務所は今もそのままですかね。一度、息子のいる寮を訪ねて東京まで行ったことがありますよ。確か、競馬場の反対側でしたな」
塔馬は曖昧《あいまい》に応じた。そろそろ潮時かもしれない。これ以上長居をしていればボロがでる。鮨《すし》を取るからと言う父親の親切を振り切って、塔馬はタクシーを頼んだ。
「あつかましいお願いですが、文夫君の写真を一枚お借りできませんでしょうか。東京の仲間たちにも見せてやりたいんです。複写をしたら必ずお返ししますので」
父親は気軽に承知した。塔馬はなるべく顔のはっきりしている写真を選ぶとアルバムから外した。
「大変な収穫だった」
市内に戻って喫茶店に落ち着くと杉原は興奮を隠さずに言った。
「寺岡さんが山本文夫を殺したのは確実です。あのタイムカプセルに埋められた指輪に関しても謎が解けました。半田さんは山本殺しを知っているぞと告発していたんですね」
「昼飯をすませたら図書館に行ってみよう。殺しだったら詳細な記事が掲載されている。発見されたのは十年前の夏だと言ったな」
塔馬の言葉に頷きを繰り返しながら杉原が立ち上がった。
「ちょっと会社に連絡を入れてきます。ついでに塔馬さんの研究室にも電話して奈津子君に状況を知らせておきましょう。長山さんも気にしているに違いない。これまでの結果は教えて構わないんでしょう?」
「チョーサクにかい。いいよ」
塔馬は入れ違いにやってきたウェイトレスに二人分のコーヒーとカレーを注文した。
「妙なことになってますよ」
間もなく席に戻った杉原の顔には不安と興味の両方が見られた。
「山影さんが午後に盛岡までくるそうです。県警本部に連絡するようにと伝言があったそうです」
「だれに?」
「奈津子君に決まってるじゃないですか。朝早くに電話がきたらしい。塔馬さんが盛岡にでかけたと聞いて焦ったんだな。まさか逃亡したとまでは思っていないだろうけど」
「山影さんが盛岡に……」
ここまできたら下手な隠し立てもできない。塔馬は覚悟を決めた。
8
山影が盛岡にくると聞いて塔馬は予定を変更した。最初は図書館で山本文夫の記事を検討して、それから山本の友人だった金子に連絡をしようと考えていたのだが……山影と合流してしまえば金子とコンタクトを取るのがむずかしくなる。警察官と同道では下手な嘘もつけない。
山本の父親から教えられた番号をまわすと、都合よく金子真一は自宅にいた。金子は難色を示しながらも会うことを了承してくれた。山本の父親から連絡を受けていたらしい。
「この電話はどこから?」
金子は訊《たず》ねた。塔馬は喫茶店の名前を伝えた。市内の中心にある。
「そこなら歩いても行けます。私の家にきてもらうよりは簡単だ」
二十分後には着くと言って金子は電話を切った。電話の背後では賑やかな笑い声が聞こえた。親戚でも集まっているのだろう。
「さきほどは失礼しました。あまりにも唐突なお話だったもので」
塔馬と杉原が渡した名刺を眺めると金子は安心した顔で笑った。額こそ薄く禿《は》げ上がっているが、スキー焼けか健康的な色艶だ。
「で……ブンちゃんのなにが知りたいんです。もっとも、友人だったと言っても古い話ですからね」
金子は酸《す》っぱそうなグレープフルーツジュースを一気にあおった。
「盛岡に戻ってから彼はなにをしていたんですか。仙太郎さんの話ではブラブラしていたとしか」
「まさにその通りでしたよ。あなたは文夫の同僚なんでしょう。だったらこっちが聞きたいくらいだ。ヤツは東京じゃどんな暮らしをしてました? ゴルフのプロだったというのは本当なのかな」
「ゴルフのプロ?」
「やっぱりね。どうせ嘘に違いないと睨んでいました」
金子は辛そうに笑った。
「失踪したと分かったときも、警察では必死に東京の友人関係を探ったらしいんですが……結局、なにも掴《つか》めなかったそうです。あいつの生活は謎のままだ」
「謎と言うと?」
「金ですよ。まったく信じられないほど金を持っていましたね。もっとも、二十三、四にしてはという意味ですが……でもないか。ヤツが競馬をやっていたのは二十年近くも前の話ですから。たとえ今の私でも競馬の一レースに三十万の金はとてもじゃないが注ぎ込めやしない」
「一レースに三十万も!」
杉原が絶句した。
「そればかりじゃありません。ヤツは下手なくせして麻雀も好きでね。毎日のように雀荘に入り浸っていました。金払いがいいからプロのカモにされて……私も誘われて付き合ったことがありますが、とても私らの勝負できるようなレートじゃなかった。そりゃ、たまには勝ってもいたんでしょうが、ほとんど巻き上げられていたはずだ。そうそう、いつだったか一晩で五十万負けたのを見た覚えがある。相手は二人組で、最初からヤツのふところを狙ったとしか思えませんでしたが。まったく、側にいるこっちの方が動転しちまいました。二十歳に毛が生えたぐらいの若者に当時の五十万ですからね」
「へえ」
二人は溜め息を吐いた。
「それがあいにくと土曜の夜から日曜にかけての勝負だった。彼らは仙台の人間で、どうしてもその日のうちに帰ると言う。なんとか金を都合しろとヤツに詰め寄ってきた。銀行も閉まっているし、どうするつもりだろうと心配していたら、ちょっとアパートに戻ると言って、三十分後には全額を揃《そろ》えてきたんです。しかも、その上に倍の五十万の金を積んで、すっからかんになるまで勝負を続けよう、と。ホッとするよりも、唖然《あぜん》としました。私の給料が五万にも満たない頃だったから……それでなんとなくヤツが怖くなってしばらくは疎遠に」
「金の出所は特に教えてくれなかったんですね」
「だから、ゴルフだと。ヤツは月の半分は東京にでかけていた。なんでも箱根のゴルフ場にヤツを可愛がってくれるオーナーがいて、その人の紹介で賭《かけ》ゴルフをやっているんだと聞かされました。負けた場合はそのオーナーが貸してくれるんで心配なくプレーができると言っていましたがね。この歳になってみると、そんなバカな話がと思うんだが……あの頃は私も若かったし、ゴルフってものもよく知らない。金持ちの道楽だから、そんな話もあるのかと半分は信用していたんです」
「実際の腕はどうでした?」
「知りませんよ。やりたくても、こんな田舎じゃ賭をする相手がいないと。遊びのゴルフはしないと日頃から言ってもいましたし。そもそも、ヤツがクラブを持っているのすら見た記憶がない。まあ、レーサーを目指していたこともあったから運動神経は悪くない方だとは思うけど」
「不思議な話ばかりですね」
塔馬の言葉に金子も頷いた。
「第一、ゴルフなんてそんなに上達が早いもんですかね。おそまきながら私も十年ほど前からはじめていますが、なかなか腕があがらない。同僚のあなたを目の前にして失礼だとは思いますが、T電機の新入社員の給料程度で頻繁にゴルフ場通いができるものか? 当時と今では情況もだいぶ違う。大名遊びと言われていた頃の話ですよ。それもずうっと疑っていた。どうですか?」
「でしょうね。都内にある練習場ぐらいなら別だろうけど……箱根まででかけて賭ゴルフをするだけの余裕はないと思います。営業で接待ゴルフに明け暮れていたら、あるいは」
「ヤツは工場の技術者として入社したんですよ」
同僚のくせしてなにを言っているのかと金子は塔馬を睨みつけた。
「彼は盛岡で店を開くと言って会社を辞めたと覚えていますが」
塔馬は矛先《ほこさき》を変えた。
「確かに戻った当初はそんなことを言っておりましたね。昔からバイクが好きだったんで、そうした店を」
案外まともな店だ。てっきり水商売だろうと見当をつけていた塔馬は妙な気がした。
「レーサー志望というのも、それじゃオートバイの方なんですね」
「府中でも飛ばしていませんでしたか。わざわざ盛岡からバイクを運んで行ったはずだけど」
「私は寮じゃなかったから」
「テクニックもそうだが、改造にかけても凄い技術をもっていました。そのバイクだって中古品を組み合わせて拵《こしら》えたもんです」
「ふうん。大したものだ」
「もともと頭がよかった。機械科の星と言われた男だったのに」
「………」
「どこで人生を狂わせてしまったのか……あの金が賭ゴルフじゃなかったとすれば、他は後ろ暗い金としか思えない。まあ、賭ゴルフだって公明正大なものとは言えないが」
金子はさすがに苦笑した。
「会社を辞めたのは何年頃でしたかね。ええと、盛岡に戻ったのが四十五年の夏頃でしょう?」
「その一年前ぐらいのはずだな。一年以上も勤めずにブラブラしてたのかと皆が呆れましたから」
すると四十四年のはじめだ。山本文夫の年齢から逆算すれば、T電機に入社したのは四十年。四年ちょっとで会社を辞めたことになる。退職金にしても微々たるものだ。とうてい一年も遊べる金のはずはない。
「若い頃は呑めた口だったのに、盛岡に戻ってからはピタリと酒を止めて……それだけは感心しました」
「ほう。一滴もですか」
「そのくせ酒場は好きでね。麻雀を終えると、よく一人ででかけていたみたいです。私と一緒のときでもジュースやコーラだけを頼んで、店が閉まるまで頑張っていた。なのに、女の噂も特に聞かなかった。妙な男としか言い様がないですな」
「………」
「そうそう……」
金子はなにかを思い出した。
「ヤツが殺されたと分かって、直後のことですが……やはりT電機の同僚だったという男女が訪ねてきた」
「男女?」
パンドラと寺岡だろうか。だが、そんなことは考えられない。
「ブルーフィルムを預かっていないかと私に詰め寄るんです」
金子は意外な話をした。
「彼らの説明では文夫がその仕事に関わっていたそうです」
「だけど……なぜあなたに?」
「その女がヤツに乱暴されてフィルムに撮影されたと言うんですね。それが大量に関西方面に出回っているらしい。そのオリジナルを文夫が持っているはずだから、友達のおまえなら見たことがあるだろうと」
「ブルーフィルムか」
「ありませんよ。一度だって」
金子は激しく否定した。
「勘違いに決まっている。確かに東京から戻ってからの文夫はワルだったが、そこまで落ちていたら私にも分かります。警察は信用したようだが、私は今だって信じていない」
「警察が信用したとは?」
「その男女はいろんな人間に当たったらしくて、ヤクザ仲間にたちまち噂が広まりましてね。その売買を巡《めぐ》って文夫が殺されたんだろうと警察では判断した。彼の親父さんから聞きませんでしたか? だろうな。辛くて、言える話じゃないか」
「男女の身許は?」
「まさか。乱暴された女が自分の名を正直に言うわけがない。同僚なら心当たりでもありますか?」
金子は逆に質問してきた。塔馬は首を横に振った。途方もない話が次々と出てくる。
「告白しますとね……私がその話を信じなかったのには理由があった。ヤツはヤクザとも顔馴染みだったし、あるいはブルーフィルムも入手できるんじゃないかと思って紹介を頼んだことがあったんです」
金子は声を潜めた。
「あっさりと断わられました。ヤクザに頼むのはたやすいが、連中と一度でも縁ができれば骨までしゃぶられるってね。もし、ヤツがフィルムを持っていたら、そんな説教じみた話をせずに渡してくれたと思いますよ。ヤツはそっちとは無関係だ」
塔馬も頷きながら、
「最後の質問になりますが……半田緑という女性と寺岡正也の名前をご存じじゃないですか」
「なんでテラちゃんの名前を!」
「知っているんですね」
「彼は今どこにいるんです」
金子は懐かしそうに訊いた。
「たった半月程度の付き合いだったけど、いい人間だった。文夫のアパートに泊まって、よく三人で遊んだもんだ。医者の卵のくせに気取ってもいなくてね。会いたいな」
「死にましたよ」
塔馬は冷たく言い放った。
やり切れない思いだった。寺岡は山本文夫の金を狙ってスキをじっくりと窺《うかが》っていたのだ。
それから二時間後。
塔馬と杉原は県警本部の直ぐ側にある産業会館ビルの喫茶室にいた。ここは有名な小岩井牧場が経営しているパーラーだ。この近所にある図書館を訪ねる前に山影の伝言通り県警本部に連絡を入れたら、あいにくとまだ到着していず、塔馬の方から時間を指定し、双方ともに待ち合わせに便利な場所を教えてもらったというわけだ。堅苦しい警察で山影と会うのは少し気が重い感じもした。
「どうもお待たせしました」
五分遅れで山影は相変わらずの巨体をふたりの前に現わした。さすがにスキー帽は被《かぶ》っていない。
「事情を説明していただけるんでしょうな。それが楽しみでわざわざ盛岡まで足を伸ばしたんです」
山影は人懐っこい笑顔で言った。
「この写真を見てください」
塔馬はいきなり山本文夫の写真を山影の前に突き出した。
「誰です。こりゃあ?」
戸惑った顔で山影は手にした。
「見たこともない顔だな」
「十八年前に寺岡が殺した男です」
ウッと山影は呻《うめ》いた。
「ちょっと待ってくださいよ。冗談は言わんでください。あんたはなにを言ってるんだ」
山影の頬が引きつった。
「きちんと順序だてて説明してもらわんと、わけが分からん」
「どこかに見覚えがないですか」
塔馬は無視して続けた。
「だから、知らん人間だと」
「昭和四十三年頃の話です」
ますます山影は混乱した。
「なにかの事件と関連が?」
「ええ。絶対に見覚えのある顔のはずです。たとえ警察官でなくても」
「………」
山影は真剣な目付きになった。ハンカチをポケットから取り出して坊主頭に浮いた汗を何度も拭《ぬぐ》う。
「我々が調べ上げた事実をいくつか並べてみます」
塔馬は試すように口にした。あまりにも信じられない仮説に到達して自分でも半信半疑の状態である。
「この男は山本文夫と言って工業高校の機械科出身で、オートバイマニアでした。改造も得意としていたそうです」
山影は熱心に耳を傾けた。
「昭和四十年、卒業と同時に東京のT電機に入社。勤務地は府中にある工場です。四十四年の春に退社するまで、やはりおなじ府中の寮で四年間を暮らしています」
塔馬は山影の反応を窺った。
「退社してからは一年を職のないまま東京で過ごし、翌四十五年に郷里の盛岡に戻りました。盛岡でも特に職を捜すわけでもなく、殺されるまでの毎日の大半は競馬場や麻雀荘で費《つい》やしていたらしい」
「組に所属していたのでは?」
山影は指摘した。山形でマル暴を管轄しているだけのことはある。
「付き合いはあったみたいですが、どこの構成員でもありません」
「じゃあ、バクチかヒモだ」
「どちらでもない。バクチではカモにされていたし、女関係はまったくと言えるほど浮かんでこない」
「それで毎日をブラブラと?」
「しかも、二十三の若さで競馬に何十万もの金を使ったり、アパートに百万という金を隠してもいる」
「本当の話ですか!」
山影は耳を疑った。
「いったいどれだけの金を所有していたのか見当もつかない。新聞記事によると、山本はエメラルドの指輪も嵌《は》めていた。当時の金額で二百万相当のものだとありました」
「とんでもねえ野郎だな」
山影は呆れた。
「その金を狙って寺岡が近づいたのは間違いないはずです。前にも山影さんに話したと思いましたが……不審を持たれていた寺岡の病院建設資金のほとんどは山本から奪ったものだと想像されます」
「知らんな。初耳だ。寺岡さんが怪しい金を? どうしてそんな重大なことを教えてくれんのですか」
山影は愕然となった。殺された側の人間なので詳しい調べもして見なかったようだ。
「その話は後にしましょう。今はこちらの方が重要だ」
塔馬は抗議を遮った。
「病院を建設できるだけの金となれば半端な額じゃない。当時にしても億に近い金だったと思われる」
「億ですと! そんな金をなんで工場勤めの若僧が持っているんだ」
「導かれる結論は一つしかない」
「………」
「昭和四十三年の暮れに府中でなにがありました?」
「四十三年……府中」
考えていた山影の頬に赤みが差した。握り拳《こぶし》が大きく震える。
「だが……まさか」
「その、まさかですよ。我々は偶然に三億円事件の真犯人に辿《たど》り着いたんです。それしかありません」
山影は微かな悲鳴を洩らした。
9
「そう考えると謎がすべて解ける」
タバコを指に挟んで無言でいる山影に、塔馬はゆっくりと声をかけた。
山影は、ああ、とぼんやりとした目を向けた。衝撃で心なしか顔色が青い。無理もない。警察官にとって三億円事件は最大の屈辱であると同時に、最大の闘志の対象でもある。それが、あっさりと塔馬から口にされ、しかも十八年も前に犯人が殺されていたとあっては……信じたくないという気持の方が勝って当然だ。
「謎……と言いますと?」
山影は気を取り直して訊ねた。
「タイムカプセルに埋めた新聞記事に対する寺岡の嘘についてです」
「謎なんてありましたかね」
「これも後で詳しく説明しますが、寺岡が埋めた本当の記事は瀬戸内シージャックだったんです」
「シージャック? だって、あなた方の話では三億円だと……」
「そうです。寺岡は一番最初に心臓移植が自分の記事だと主張し、それが長山の告白で嘘と知れると、次に三億円だったと覆した。その後に殺されてしまったので、本人の口から聞くわけにはいかないが、あらためて分析をしてみたら、シージャックの記事だけが残った。なんで寺岡がそんな妙な嘘をつき続けたのか、今まではどうしても分からなかった。シージャックが今度の事件と無関係なのは誰にも明らかだ。寺岡が最初からそれが自分の入れた記事だと正直に言ってもなに一つ問題はない」
「でしょうな」
戸惑いながらも山影は頷いた。
「ところが……寺岡が山本殺しの犯人であり、しかも山本が三億円の犯人と分かれば、事情は違う。パンドラは寺岡が山本を殺したことを知っていて、そいつを告発した記事を埋めていたんですからね」
「………」
「寺岡の身になって考えてごらんなさいよ。山影さんならどうします」
「半田さんによって告発の記事が埋められた可能性があると知った時点でですか。まあ……簡単なのはその記事を盗み出し、別の記事とすり替えてしまうことでしょうな」
「しかし、パンドラが埋めたのは直ぐにソレと分かる単純なものじゃなかった。歌謡大賞の記事です」
塔馬はその記事から手繰《たぐ》って山本に辿り着いた経緯を詳しく伝えた。山影は興味深く耳を傾けた。
「恐らく……寺岡もはじめは山影さんの言ったように、記事のすり替えを狙ったと思います。しかし、それがどれであるのか分からなかった。間違えて別の記事を抜いてしまえば後になって他の仲間が騒ぎ出す。埋めたはずの自分の記事がないんだから、かえって藪蛇《やぶへび》になる」
「なるほど。すり替えが面倒だと分かって、逆に余計な記事を入れたというわけだ。そいつは、もちろんあらかじめ用意してきたんですな」
「きっとね。そう何度も訪ねてこれる場所じゃない。すり替えが不可能な場合も想定してきたに違いない」
「ええと……先ほどの説明だと、混入させた記事はなんでしたっけ」
「ケネディ、三億円、万博、それによど号と三島事件」
「他のものは分かるが……三億円の記事を入れたってのは?」
「あれだけ有名な事件なんだ。仲間の何人かが選んでいる可能性も大きい。その時は枚数が増えれば増えるほど混乱が生じるでしょう。けれど実際はひねくれた仲間ばかりで、誰一人として三億円の記事を選んだヤツはいなかった。それが誤算だ」
山影は納得した。
「ここから、話は現代に飛ぶ」
塔馬は続けた。
「蓋を開けて見たら記事は十三枚。寺岡の狙い通り混乱が生じた。が、落ち着いて記事を眺めていると、混入させた時には気づかなかった告発らしきものを寺岡は発見した」
「告発らしきもの?」
「心臓移植の記事ですよ。あれは医者と深い関わりがある。寺岡はこれこそパンドラが自分を名指ししている記事に違いないと悟った。このまま見過ごして、これがパンドラの埋めた記事と知れれば、やがては医者である自分に仲間から疑いの目がむけられてくるのも必定だ。寺岡は咄嗟《とつさ》に判断すると、それは自分が埋めたと真っ先に主張したんです。医者が医学関係の記事を選んだって、なんの疑惑も持たれない」
「そうか。心臓移植を医者である自分への告発だと勘違いして……有り得ますな。私でもそう考える」
「けれど、運悪く、それは長山が選んだ記事だった。長山の厳しい追及を受けると、今度は三億円が自分の記事だったと撤回した。あれは寺岡自身が後で埋めたものだから、他人とダブる心配はない。しかも、三億円を自分の記事と言い張れば、パンドラの選んだものと誤解されることもないんです。まさに一石二鳥のアイデアじゃないですか」
山影と杉原は同時に唸《うな》った。
「結果的には、それが墓穴にも等しい嘘に発展する。彼がシージャックを選んだ背景にどんな理由があったかは知らないが、それよりも三億円の記事を隠す方が寺岡には重大だったという意味になりますから」
「確かに……そうとしか取れん」
「ここに殺された山本という男がいる。パンドラはその犯人を寺岡と信じ、告発した。寺岡はその告発が三億円事件に関わっていることを必死に隠そうとした。三つの事実を繋げれば子供にだって分かります。寺岡が殺した山本文夫は、疑いなく三億円事件の犯人だったんだとね」
「理屈では……そうなるが」
山影は額の汗を拭って、
「三億円は単独の犯行じゃない」
「だから、山本が殺されると直ぐに共犯者が登場してきたでしょう」
「本当ですか!」
「山本がブルーフィルムを売り捌《さば》いていたと噂を流した連中です」
「その彼らが三億円の共犯!」
杉原も声を荒らげた。
「発売前ならともかく、関西にフィルムが大量に出回っているというのに、いまさらオリジナルを回収してどうなります? その気になればオリジナルじゃなくてもコピーは可能だ。取り返しはつきません。山本に乱暴されたなんて、いかにも騙《だま》されてしまいそうな話だけど……連中の狙いは噂を流すことだけにあった。山本が歳の割に大金を持ち過ぎていたのを警察から勘繰られないようにするためです。ブルーフィルムなら警察も信用しますよ。それに、裏の世界なら確認のしようがない。そのいざこざが原因でヤクザに殺されたと納得もするでしょう。連中は山本への不審が飛び火して、自分たちにまで累《るい》が及ぶのを避けるためにわざわざ盛岡まできたんです」
山影は絶句した。
「山本はブルーフィルムに関心がなかったと友人が断言しています」
「ちくしょう。そういうことか」
山影は拳でドンとテーブルを叩いた。唇が激しく震えている。
「もう一度山本の写真を!」
山影は塔馬からもぎ取った。
「似ている。モンタージュにソックリだ。なんてこった。こいつが十八年も前に殺されていたなんて」
悔しさに肩を揺すらせた。
「酒場が好きだったのに、一滴も呑まなかったのは……口を滑らしてしまうのを警戒したんじゃありませんか。あの頃の三億円の犯人は世間から英雄扱いされていましたから」
「それにしても……どうして山本が捜査対象から外されたのかな。仕事先といい、土地勘といい、当然リストアップされていい人間なんだが。おまけにバイクにも乗れる。あの事件は何万人もの警察官が投入されているんですぞ。考えられん」
「もちろん調べられたはずです。ボーナス支給の日時が洩れていたことから、T電機関係者のほとんどが事情聴取されたと覚えていますが」
「事情聴取とまではいかないでしょうが……徹底的な聞き込みは行なったと聞いておりますよ」
「その程度なら、よほど怪しいと見做されない限り、アリバイでも成立していれば対象から外された可能性だって……なにしろ、あれだけ頭のいい犯罪を考えた連中だ。捜査が自分たちに及ぶことも予測して、互いにアリバイを主張したとも……」
「互いにアリバイをか」
山影の目は真剣だった。
「ちょいと電話をしてきます。あなた方はここを動かんでください」
「どこに電話を?」
「県警本部にね。殺されたのが十八年前でも、死体の発見は僅か十年前だ。山本殺しの捜査を担当した人間を見つけられると思います。たとえ異動していても県内だ。どんなに遠くても車なら今日中に行ける」
「それじゃ、徹底的に!」
「当たり前です。三億円と聞いて見過ごす警察官なんぞいません」
山影は興奮した顔で走った。
「もう時効ですよね」
杉原は塔馬と向き合った。
「捜査だってできないでしょうに」
「人の心には時効がないさ。だから山影さんは警察官でいられる」
塔馬は電話をかけている山影の逞《たくま》しい背中をじっと見詰めた。
それから一時間後。
塔馬たちは盛岡から高速道路で三十分ほどの距離にある花巻温泉の案内事務所にようやく辿り着いた。
「佐々木です。遠いところを」
椅子に腰かけて職員と話しこんでいた恰幅のいい男が挨拶した。六十間近と言うのに若い。警察を二年前に退職して、現在は警備会社に勤務している。山本事件の捜査担当だった人間だ。山影は塔馬と杉原を丁寧に紹介した。
「ロビーにでも行きますか。ここで|血腥 (ちなまぐさ)い事件の話もなんだから」
佐々木は若い女子職員を気にして三人を誘った。こちらも好都合だ。
「しかし、驚きましたよ。今頃になって山本文夫の名前を聞かされるとは思いませんでしたな」
ロビーの椅子を勧めながら佐々木は戸惑いを隠せないようだった。
「いったい、なんの事件なんです」
もちろん山影も電話では三億円のことなど口にしていない。山影と塔馬は交互に概要を伝えた。佐々木の顔色がその都度青ざめる。
「とうてい信じられる話ではありません。が、そう考えないことには山本の不可解さに答がでない」
山影は話し終えると付け加えた。
「三億円か……やはりな」
佐々木は意外な反応を示した。
「やはり、とは?」
「殺されてから知ったことですが、盛岡に戻った山本に関して本庁から申し渡しが届いておったんですわ」
「申し渡し! 三億円がらみで」
山影は緊張した。
「アリバイがあるとかで、捜査対象から外されたらしいんですが、要注意人物としてマークするようにと。まあ、あの頃は要注意人物が何百人にも及んでいた時期でもあったし、誤認逮捕の問題でも騒がれたことがあったでしょう。県警としては、まさか岩手に犯人がいるとは思えなかった。監視を続けて新聞にでも嗅ぎ付けられれば社会問題にもなる。きっとそんな恐れもあったと思いますよ。それで、山本がなにか問題を起こすまでは泳がせておこうという判断を」
「分かりますな」
山影は何度も頷いた。
「確かに金は持っていた。それは報告書を見ても明らかでした。が、山本に確固たるアリバイがある以上、別件で迂闊《うかつ》に引っ張るわけにも行かなかったようですな。内偵では実際に賭で五、六十万という勝ちもおさめていたらしい。不審な金だと一概に決めつけるわけにも……私は山本のギャンブルを、金の出入りを曖昧《あいまい》にするための偽装ではないかと睨んでおったんですがね」
その言葉に塔馬も同意した。
「そのことを山本が殺される前から知っておれば、捜査も別の方向に動いたんでしょうが……私は三億円の件を知らずに担当した。その上、死体が発見されたのは失踪から八年後のことですし、不審な金もブルーフィルムの利益と分かりましたので」
佐々木は言い澱《よど》んで、苦笑した。
「あの頃は現実感がありましたよ。少なくとも三億円よりはね。むしろ東京ではブルーフィルムの裏商売を知らずに山本を疑っていたんじゃないかと署員が話し合ったほどです」
「アリバイの内容は聞いていましたか? 書類にはなにも?」
塔馬は質した。
「当日、会社を休んで女友達と箱根までドライブに出かけていたそうです。古い記憶なんで私もはっきりとは覚えておりませんが……そのドライブの途中で事故をやって松の木をへし折った。山本はそのまま逃げ帰ったんですが、目撃者がいて通報された。そいつが発覚するまで山本は曖昧な証言を繰り返していた。それで要注意人物と睨まれて……」
「箱根か。また箱根ときたか」
塔馬から山本のパトロンが箱根にいたという噂を聞かされているので山影は直ぐにピンときた。
「目撃者ってのが曲者《くせもの》だ。現場から逃げたというなら、そこは人通りのない場所だったに違いない。もし目撃者が仲間ならなんとでも言える」
「ついでに自分のアリバイも成立しますしね。その目撃者だっておなじ時間に箱根にいたことになります」
塔馬たちの推測に佐々木は目を丸くした。
「最初はアリバイを否定する。そうして頃合を見計らって事故を持ち出してくる。会社を休んだのと、事故が重なっているから、隠していたのも当然だと皆が納得する。なかなか上手いやり口に思えます。麻雀や映画くらいなら誰も信用しない」
山影は断定した。
「あの事件の最中に、箱根でT電機の社員が事故だなんて……偶然にしてはできすぎだ。ここまで情況証拠が重なるってことは……」
「私も同感ですね。殺されたのが肝腎の山本だったので、我々の捜査が行き詰まったんです。山本が生きていれば必ずどこかで尻尾《しつぽ》を出していたに相違ない。それは保証する」
佐々木も請け合った。自分の捜査に関して割り切れないものを持っていたのだろうか。何度も頷いた。
塔馬たちは新花巻駅で車を降りると、そのまま新幹線に飛び乗った。山影も一緒の席にいる。
「盛岡まできた甲斐があった」
山影は杉原からコーヒーを受け取ると軽い吐息をしながら、
「これで事件解決のメドがついた」
「問題はパンドラの気持です」
塔馬はたゆとう湯気を見詰めた。
「寺岡が三億円犯人を殺したと薄々感づいていながら……なんであんなまわりくどい告発をしたのか」
「………」
「よほどテラさんを愛していたんだな。あるいは自首を促していたのかも知れない。だから他の仲間には分からない方法で……」
塔馬はパンドラが哀れに思えた。
「しかし……最初に殺された吉秋さんは三億円とどんな関係があるんです? 山本殺しの共犯とは、とても思えんのですがね……」
山影は新たな謎にぶつかった。
「首を切断したのも謎のままです。まったく頭がいたいことだらけだ」
「首か……本当ですね」
「検死をした人間も首を捻《ひね》っておりましたよ。切断が直接の死因ではない。なのに体には致命傷になるほどの傷が一切見られない。解剖結果から判断するに、首の後ろから錐《きり》のようなもので刺されたんじゃないかということでしたが……そいつを確認しようにも、その部分が斜めに切り取られている。まあ、間違いないんだと思いますがね」
「首の後ろを錐のようなもので!」
「簡単に殺せるらしい。『必殺仕掛人』の藤枝梅安もそうじゃなかったですか。それなら血も出ない」
「その部分の肉がなくなっていた」
塔馬はぼんやりと繰り返した。
10
明日の約束を交わして山影と杉原の二人に別れを告げた後、塔馬は思いついて上野駅から長山に電話をかけた。まだ九時前だ。あるいは家にいないだろうと半分|諦《あきら》めていたのに長山は直ぐに受話器を取った。
「案外、真面目なんだな。酒でも呑みに出かけているとばかり思った」
「昨日から今日の午後にかけてホテルに缶詰だったんだぜ。寝不足でフラフラだ。外に出る気力はねえ」
「そうか。だったら明日にしよう」
「冗談だよ。本当言うと仕事がまだ終わっちゃいないんだ。三十枚渡したんでヤマは過ぎたがな。明日の昼までに十枚書けばいい。ホテルじゃ落ち着かないのと、資料が必要になったんで家に戻った。おまえさんは今どこにいる?」
「盛岡から帰ったばかり。さっきまで山影さんが一緒にいたよ」
「あのタコと! どういうこった」
「そいつも明日話す。どっちみち山影さんが朝に連絡をするはずだ。オケイを交えて皆と会いたいらしい」
「なにか分かったんだな」
「想像通りだった。やはりテラさんが山本を殺していたのさ。しかも、山本は三億円の犯人と言うわけだ」
塔馬に言われて長山は絶句した。
「ダイスケ殺しに関しても妙なことに気がついたよ。ゆっくりと今晩にでも整理してみる」
「バカ言うな。そんな重要な話だったら仕事どころじゃねえ。真っ直ぐアパートに帰るのか?」
「そのつもりだけど」
「それじゃ時間を見計らってアパートに行く。だいたい一時間も見れば充分だろう。リサも連れて行く」
「リサも? 居場所は分かっているのかい。こんな時間だぜ」
「男遊びでもしてない限り簡単に見つかるさ。部屋で待っててくれ」
それだけ言うと電話を切った。
それから一時間後。
着替えを済ませたばかりのところにチャイムが鳴った。ドアを開けると長山と亜里沙が立っていた。
「三億円って本当なの?」
亜里沙は真っ先に口にした。
「まず入ろうや。こんな場所で三億円の話をすりゃ近所迷惑になる」
長山が亜里沙の背中を押した。
「なかなかいい部屋じゃないか」
靴を脱ぎながら長山は室内を見渡した。二人ともはじめてだ。
「迷わなかったかい」
「おまえさんに書いてもらった地図があったからな。ポイントを上手《うま》く掴んであるって、タクシーの運ちゃんも感心してたぜ」
長山は上がりこむと塔馬の本箱を点検した。さすが物書きだけある。
「コーヒーでもいれようか」
「水割りにしてくれ。今夜はもう仕事を諦めた。徹底的に飲《や》る」
「わたしも。ソーダはある?」
塔馬は頷《うなず》くと用意にかかった。
「杉原君は一緒じゃなかったのか。てっきりいるもんだと思った」
長山が背中越しに声をかける。
「上野で別れた。予定よりも早く帰れたんで会社に寄って行くと……それより、よくリサを見つけたな」
「今は雑誌の校了時期だ。それにあの事件のせいでリサも何日か会社を休んだし、仕事が山積みされているはずだと見当をつけて電話をしたら一発さ。女盛りだってのに、まったく味気ない生活をしてるもんだ」
「女盛りは十年も昔のことよ」
亜里沙は苦笑した。
「だろうね。女ならトーマの手伝いをするとか、もっと気がまわる」
「ごめん。お客のつもりでいたわ」
「いいよ。これで終わりだ」
塔馬はウィスキーの用意を整えると、冷蔵庫からサラミとチーズを取り出してテーブルに運んだ。
「南部|煎餅《せんべい》ってのもあるけど」
「南部煎餅?」
「岩手の名物さ」
「知ってるよ、そんなこたぁ。そいつをどうするんだ?」
「杉原君から教えられた。醤油煎餅にバターを塗ると、酒の肴《さかな》にいいらしい。しきりに勧めるんで新幹線の車内販売で土産《みやげ》に買ってきた」
「大した余裕だぜ。テラさんが殺人者って突き止めたのに、南部煎餅とはな。タコもさぞかし呆れたろう」
それでも二人は食べてみると頷いた。適当な大きさに割った煎餅に亜里沙がバターを厚く塗る。
「なるほど、こいつはいける」
口に入れて長山は首を振った。
「チーズクラッカーよりは遥かに旨い。クセになりそうな味だ」
「そろそろ話を聞かせてよ」
亜里沙が苛立った顔をした。
「そう急《せ》かすなって。こっちもトーマの話を聞きたくてうずうずしてるがね。心の準備ってもんがある。一杯|飲《や》ってからだ。リサもそうしろ」
長山は高々とグラスを掲げた。
「とんでもねえ話だ」
塔馬の永い話が終わると長山は深い溜め息を吐いた。徹夜明けに酒が入ったためか珍しく顔が赤い。長山はグッと一息に呷《あお》って亜里沙にグラスを突き出した。
「どうした? 拵《こしら》えてくれ」
長山は亜里沙の横顔を見詰めた。
「間違いないのね」
亜里沙が塔馬に確認する。
「私たちが白湯温泉でタイムカプセルを埋めた時は、もう、その山本文夫という男を殺した後だったの?」
「ああ。だからテラさんには病院を建てるメドがついていたんだ」
「そんなことって……」
亜里沙の口許が歪《ゆが》んだ。
「テラさんは普通だったじゃない。人殺しになんて見えなかったわ」
亜里沙は嗚咽《おえつ》をこらえた。
「いつものように冗談を言って」
「当たり前だ。顔や態度で分かるなら警察なんて要らねえよ」
長山は鼻で笑った。
「第一、オレたちゃテラさんとパンドラが付き合っていたことすら見抜けなかったじゃねえか。だろ」
亜里沙は悄然《しようぜん》として長山を見た。
「恐らくテラさんがパンドラに上手く言い含めたんだろうさ。その一方じゃオケイとも付き合っていた素振りがある。そいつを考えただけでも分かりそうなもんだぜ。ヤツは犯罪者の素質があった。それは確かだ」
「でも……たった一度喫茶店で同席したくらいで山本がお金を持っていると見通したわけ?」
「山本はパンドラの幼馴染みなんだぞ。いくらでも情報を仕入れることができたさ。山本が機械科出身でT電機に入社したってこともな。今ならだいぶ時間も経っちまったが、テラさんが新宿で山本と出会ったのは三億円事件が起きて一年半しか過ぎていない頃だ。当然、その場の話題にでも出たかも知れんぜ。オレたちだって相手がT電機の元社員で、しかも府中工場に勤務していたと知れば必ずなにかを聞くよ。パンドラは幼馴染みだから疑いもしなかっただろうが……テラさんにゃピンとくるものがあったんじゃねえか。それでわざわざ盛岡を訪ねて山本に接近したのさ。山本は山本でパンドラの恋人と知って安心しただろうし……なにしろテラさんはあの通りの穏やかな性格だ。たいていの人間は信用しちまう。だれも仮面に気づかん」
「だからと言って……人を殺してまでお金を奪おうなんて」
「テラさんがカプセルに埋めていたものはなんだった?」
長山は亜里沙の目を覗《のぞ》いた。
「三島由紀夫の『青の時代』と遠藤周作の『海と毒薬』だ。どっちも読んでみりゃ分かるが、底辺に流れているのは選ばれた者の傲慢《ごうまん》さがもたらした悲劇だぜ。特に三島の本はドストエフスキーの『罪と罰』の展開に似ている。犯罪は発覚しない限り罪ではない。強者が弱者を食うのは当たり前のことなんだ。山本が無駄な金を持ってバクチや贅沢《ぜいたく》に費やすくらいなら、自分がそいつを奪って病院を建設する方が遥かに有意義なことだと本気に思ったんだろう」
長山の意見に塔馬も同意した。
「むしろ正義を行なったという気分じゃなかったのかね。社会の不正を除き、新たな道徳を樹立するには、選ばれた人間によって、法律さえ超越した行動が許されなければいけない。まさにラスコーリニコフのセリフと一緒だ。山本文夫は『罪と罰』で殺された質屋の婆さんさ。それならテラさんの動揺も少ない」
「だったら……パンドラが自首を促しても無駄ということか」
塔馬は苦い酒を喉に流しながら、
「今の話で思いついたんだけど」
長山と亜里沙に向き合った。
「シージャックの記事だよ」
「………」
「あの犯人は狙撃隊によって射殺された。しかもテレビ中継の間にだ。オレたちには、なんとも|血腥 (ちなまぐさ)い事件だとしか感じられなかったが、テラさんにしてみりゃ他人事じゃなかったのと違うかい? それまでの警察は、たとえどれほど残虐な犯罪でも犯人を一応は人間扱いしてきた。しかし、それにつけこんで金嬉老とか、よど号などの人質事件が頻発した。警察としても今後の犯罪防止のためには手荒な行動も辞さないという態度を見せつけておく必要があった。言わば見せしめの効果も狙ったんだと思うんだ。実際、オレたちはあれを見て、日本の警察にもアメリカ並の狙撃隊があるってことを知らされたんだから、効果は絶大だったわけだ。ところが、テラさんにすりゃ死活問題だ。山本殺しを決意した頃には、まだシージャックの記憶がまざまざと残っていたに相違ない。殺人が発覚し、裁判もなしに殺される恐怖がテラさんを襲ったんじゃないかな。インテリの弱さはそこにある。世間への言い訳も許されず、ただの殺人犯として抹殺されるのが一番怖かった。だとするなら、テラさんがあの記事を選んだ理由も納得できるような……」
「正解だ。だから正直にシージャックを選んだとは言えなかったのさ。そこからいろんな想像をされるのを嫌ったんだろう。まったく……手掛かりは最初から転がっていたってことだよ。情けねえ」
「仕方がない。あの時には山本文夫の存在すら知らなかったんだから」
「でもないさ。オレはテラさんが記事の件で嘘をついていたのをちゃんと分かっていた。その上、あの二冊の本を見たら、ヤツの犯罪者的素質を見抜いて当然なんだ。山本のことはともかく、少なくてもパンドラの失踪とは繋《つな》げて見るのが当たり前じゃねえか。オレの中にゃテラさんへの反感がいまだに残っていて、そいつが勘を鈍らせたのさ」
「反感?」
「嫉妬だったんだろう。学生の頃から苦手な男だったぜ。あの笑顔を見ていると自分が醜い人間のように思えて仕方がなかった。それでヤツに関しては欠点を見つけても割り引いて考えるクセがついた。オレの嫉妬がそう思わせるだけなんだってな。こっちの目の方がおかしいんだと無理に言い聞かせてきた」
「それで突っ掛かっていたのか」
塔馬は了解した。
「ダイスケの野郎は疑問も持たずに赤ひげ医者だと誉めちぎりやがる。ますます自信を失ったぜ」
「それでダイスケをけしかけたの」
亜里沙が顎を上げた。
「ああ。赤ひげがなんで嘘をついたのか訊いてみりゃいいってな。どうせオレが問い質《ただ》したって無駄だ」
「そして……ダイスケが風呂に残ったというわけだ」
塔馬はあの夜の記憶を辿《たど》った。
「テラさんが入れ替わりに風呂にきたってことはないかな?」
「オレと交替にか。有り得るさ。リサが真夜中に廊下を歩く二人の気配を感じたって言ったろう。オレはいつも一人だった。ユータは宿にいなかったわけだし、単純に考えればダイスケとテラさんしかいねえ」
「ダイスケが入っているところにテラさんがやってきた。ダイスケはテラさんを信用していた。そこで何気なく記事の嘘を指摘する。後でチョーサクが嘘だと告発した時のテラさんの驚きは本物だった。それから想像するに……ダイスケはチョーサクの名前を出さずに、そいつを話したんじゃないのかな? ダイスケは気配りが得意な性格だったから、それが原因でテラさんとチョーサクが喧嘩にでもなればまずいと思ってさ。ひょっとしたら心臓移植が自分の選んだ記事のような気がするとでも」
「あり得るわね。ダイスケらしいわ」
亜里沙も認めた。
「そいつはオレが言い出したことだろうが。とっくに検討済みだぜ」
長山は今更という顔をした。
「しかし……その後にテラさんが殺されたんで撤回した。そうだろ」
「ああ。不承不承な。本人が殺されちまっちゃ諦める他はない」
「ところが……そうでもないんだ」
「………」
「勝手に信じこんでいるだけさ」
「なにを?」
「二つの殺しが連続殺人だと」
「へっ。いったいなにを言い出すかと思ったら」
長山は取り合わなかった。
「ってことは、オレたちの仲間に二人も殺人者がいるという意味になる。いくらなんでも考えられん。殺しってのには相当な勇気が必要だぞ。なんの根拠があるってんだ」
「殺人者は二人もいるじゃないか」
塔馬は言い切った。
「テラさんが山本を殺したのは確実なんだ。一方、テラさんがだれかに殺されたのも確実だ」
「しかし、そいつは詭弁《きべん》だぜ。確かにテラさんが殺人者なのは認めるがね。十八年も前の話だ。今度の事件とは切り離して考えるのが……」
「じゃあ訊くが、チョーサクの言う連続殺人の根拠は?」
「手口の同一性と脅迫文だな。仮にテラさんがダイスケを殺したとしたなら脅迫文がまったく意味を失うとは思わんか? あの脅迫文はパンドラの復讐を宣告したもんだ。テラさんがそれをするはずがない。パンドラを死地に追いやったのは当のテラさんなんだぜ。復讐に見せかけてダイスケを殺したという線も有り得るが、それも不可能だ。脅迫文はあらかじめ用意されたものだった。もしテラさんの狙いがダイスケだったらあんな面倒な計画を立てるもんか。北海道に行って、こっそりと殺せばいい。風呂での話が原因だと力説するトーマの推理は穴だらけさ」
「手口の同一性は崩れた」
塔馬は少しも動揺しなかった。
「どちらも首を切られていて? オレにゃ一緒にしか見えんがね」
「ダイスケは首の後ろを錐《きり》のようなもので刺されたそうだ」
「ほう。なるほど」
それがどうした、と長山は見た。
「テラさんは背中をナイフでメッタ突きだ。首が切られているのでごまかされているが、手口は極端に違うと言っていい。そもそも首の登場の仕方だって違っていただろう」
「首の登場の仕方?」
「ダイスケの場合は首が後から出てきた。テラさんは首が最初だ」
「だから?」
「首を切断した動機が別だってことだよ。もし同一の犯人ならダイスケの首も我々の目につきやすい場所を選んで飾っていたはずだ。その方が復讐という意味合いも強まる」
「……理屈ではあるな」
長山も考えこんだ。
「ダイスケ殺しの犯人は首を見せたくなかったんだ。首を見せれば直ぐに犯人と疑われるような証拠が残されていたとは思えないか?」
「だが、後にしろ、出てきた首にはなんの手掛かりもなかったぜ」
「肝腎の部分を切り取ったからさ。オレは首が転げないように斜めに肉を切り取ったとばかり考えていたけど、実はあそこに錐で刺された穴があいていた。しかも、たった一突きで殺した穴がね。まあ……たとえオレたちがその傷を見ても、咄嗟《とつさ》に犯人の目星がついたかは分からんが、検死の医者にはバレる可能性があると恐れたんじゃないかな」
塔馬は言葉を切って二人の反応を窺った。
11
「刺された傷の角度とかで犯人の身長が割り出せるってことか?」
直ぐに長山は推理作家らしい反応を示した。
「それも考えられないわけじゃないけど……ダイスケがどこで殺されたかもはっきりしていない情況では無理だろうな。もし雪の上なら十五センチくらいの誤差が簡単に生じてくる。ダイスケか、あるいは犯人が吹き溜まりにでも上がっていればさ」
塔馬は首を横に振った。
「錐で一突きとなりゃ……男女の判断もできねえよな。刺すのにそれほど力が必要とは思えねえし」
長山の視線が宙を彷徨《さまよ》う。
「ダイスケの着衣には乱れた様子がまったく感じられなかった。犯人が殺してから服を着せていれば、どこかにぎこちなさが残るはずだ」
「だから?」
亜里沙も首をひねった。
「殺されたときにダイスケは分厚い防寒服を着こんでいたってことさ。丹前姿や入浴中なら首の後ろもむきだしになっているが、ジャンパーじゃ、そうもいかない。きっと襟《えり》で隠されて、見え難くなっていたに違いないんだ。それなのに犯人は軽々と急所を探り当てている。その証拠にジャンパーの襟に刺された穴は一つも見つからなかったじゃないか」
「そういうことか!」
長山の頬が痙攣《けいれん》した。
「確かにオレたちなら盲滅法に後ろから突き刺すよ。力任せに襲うしか方法はない。襟にも当然刺し傷がつくはずだわな」
「オレたちって?」
亜里沙は戸惑った。
「オレやトーマやリサだよ。リサは首のどこを刺せば人間が簡単に死ぬか知っているのか?」
長山は手を伸ばして背後から亜里沙の細い首を鷲掴《わしづか》みにした。
「だいたいは分かっていても、ポイントとなりゃあやふやになる。それが普通ってもんだ。ましてや首の半分以上が襟で隠されているんだぞ。なのに犯人は躊躇《ちゆうちよ》なく急所を狙っている。よほど人間の体に熟知しているとしか考えられんじゃないか。その通りだぜ。ダイスケ殺しの犯人はテラさんだったんだ」
亜里沙は絶句した。話の推移から薄々感じていたことだったが、やはり断定されると衝撃が襲った。
「よしんば百歩譲って、犯人がテラさんに罪を着せようと計画したもんなら、錐の穴が開いたダイスケの首をこれ見よがしに放置していたに違いない。わざわざその部分の肉を切り落とすわけがねえさ」
「だったら、どうして後になって首を出してきたのかしら。隠し続ければ問題もなかったのに」
「半分はリサやオケイのせいだよ」
「半分?」
亜里沙は塔馬を見詰めた。
「首のない死体ではあまりにも可哀相だとリサたちは泣いた。それに、我々の勘違いも重なった。首を切断されたのはパンドラの殺され方に関係があると勝手に解釈して、いかにも復讐だと納得してしまった。テラさんとしては最後まで首を出さないつもりだったんだろうが、タイミングよく脅迫文も登場してきたことだし、復讐と皆に信じこませた方がなにかと便利だ。錐の穴さえごまかせるんなら、むしろ首を出すのが自然だと思ったんじゃないか。どうせ吹雪で警察が来れないことも分かっていた。医者はテラさん一人きりだ。多少の肉を削っても不審は持たれないはずだとタカをくくったのさ」
「そういや、首を安定させるために肉を削ったに違いないとか、したり顔してオレたちに説明してたな」
長山は思い出した。
「ハンコの復讐とは無関係だったというわけね」
亜里沙は溜め息を吐いた。
「風呂場でダイスケから記事の嘘を追及されて、このまま放って置くと疑惑が仲間全体に広がるとでも心配したんだろう。ダイスケは製薬会社に勤めている。彼が心臓移植の記事を選んでも不思議じゃない。まさかそいつがチョーサクから出た話とも知らずに、ダイスケの口さえ封じてしまえばカタがつくと思った」
言いながら塔馬は長山を気にして視線を外した。その推理が正しければ、吉秋を死に追いやった責任のいくばくかは長山にある。長山は辛そうに水割りを嘗《な》めた。
「犯人のテラさんが殺されてしまったんで、二人の間にどんな相談が持ち上がったか定かじゃないが……恐らくテラさんは宿を抜け出そうとダイスケを誘ったんだと思う。タイムカプセルからは干涸《ひから》びた指が出てきたり、復讐を匂わせる妙なハガキがダイスケに届いていたんだから、多少の薄気味悪さを感じていたには違いない。ダイスケは簡単に誘いに乗った。二人は頃合を見計らって宿を出るとスノーモービルが置いてある小屋で落ち合った。殺されたのは十中八九、あの小屋の中だ。はじめはモービルを運転しているダイスケの首を背後から錐で刺したと考えたんだが、それじゃモービルの制御が利かなくなって危険が大きい。やはり死体にしてからモービルで現場まで運んだと見るのが正解だよ。錐をそのまま刺していれば血も流れない。現場に到着するまでには時間も経っているだろうし、首を切断したって大して出血もしないだろう。また、たとえ血が流れても、人目につかない場所を捜すことができる」
「ちょいと待ってくれ」
長山が口を挟んだ。
「推理にケチをつける気持はないがね……なんでテラさんはそんな面倒をしてまでダイスケの死体を運ぶ必要があったんだ? 小屋の中で殺したなら、そこで首を切って放り投げてもいいんじゃないか。それほどのメリットがあるとは思えねえな」
「事故に見せかけたかったんだ」
「首を切っておいてか! そりゃねえよ。たとえタコでも見抜くさ」
長山は笑った。
「あの現場を思い出してくれ。吹雪のせいで吹き溜まりがあちこちにできていたが、ほとんど切り立ったような崖だった。ダイスケの死体が途中に引っ掛かっていたのは偶然、というよりも幸運に近い。これが夏なら完全に谷底まで落ちている。テラさんはそれを狙ったのさ。あそこからモービルごと突き落とせば、死体は下まで真っ逆様だ。吹雪が死体を埋めて、たとえ捜索が開始されても滅多には発見されない。時間が経てば腐敗も進むし、切断の痕跡も見分けがつかなくなる。首がないのだって、落ちる途中で千切れたんだと判断されるんじゃないかい?」
「まあ……春あたりまで死体が発見されなければの話だ」
「発見されるか、されないか。あくまでも賭けにすぎないが、それでも明らかに殺人と分かる首なし死体を小屋に置いておくよりは、試すだけの価値がある方法だぜ。もちろん、テラさんに最初からダイスケを殺す計画があったなら、もっと安全なやり方を選んだに違いないけど……風呂で殺害を決意して数時間も経たない情況じゃ、せいぜいあの程度の知恵しか頭に浮かばない。それにテラさんには山本文夫を殺した時の経験もある。あれにしたって山奥に死体を捨てただけなのに八年も発見されなかった。人間てのは失敗を思い知らされない限り、いつまでもおなじやり方を選ぶもんだ」
「なるほど、山本と一緒か」
長山は納得した。
「ダイスケの姿が見えないと分かった時、我々は咄嗟にヤツが逃げたと思った。そして、次には現場で事故を直感した。これでダイスケの死体が簡単に見つからなければ、今だって事故死をしたヤツの死体があの山のどこかに埋まっていると信じていたはずだ。その意味ではテラさんの狙い通りに運んでいたわけさ」
「あの真夜中に吹雪が重なっていたんじゃ、死体が谷底まで落ちたかどうかの確認も難しかっただろうよ。悪運が尽きたって感じかね」
長山は空のグラスを振った。氷がクルクルとまわる。
「もっとも、途中に引っ掛かっていると分かっても、テラさんにゃ、どうしようもなかったかもしれんな。スキーでも履いていなけりゃ、あそこまで降りていけねえんだから」
長山はグラスを亜里沙の目の前に置いた。亜里沙は頷いてウィスキーを注ぐ。これで五、六杯目になる。
「しかし……厄介な事件だ」
「厄介とは?」
「じゃねえか。山本殺しにしても、ダイスケ殺しにしても、肝腎のテラさんが死んじまっているんだぜ。オレが犯人だという手記でも残されているんなら別だがな。こんな解決じゃあミステリーの読者は納得してくれんよ。少なくともオレは書かん。現実の事件てのはこんなものかね」
長山は自分で言って苦笑した。
「山本殺しに関しては山影さんが証拠集めをしてくれる。病院建設の際にテラさんがどれだけ自己資金を持っていたか……そいつを探り出せば必ずウラが取れる」
「ダイスケに関しては?」
長山は意地悪い目をして、
「今となりゃどうでもいいが……確かテラさんにはアリバイがあった」
「ないわよ。一人で眠っていただけなんですもの」
亜里沙が否定した。
「そいつはオレやトーマも一緒さ。リサにだって言えることだ」
「そのアリバイは崩せると思う」
塔馬は顔を上げた。
「ダイスケが姿を消した朝……オレは部屋に投げ込まれた脅迫文を見つけ、そいつの調査のためにロビーに降りて行った。てっきりロビーに置いてある新聞から切り抜いて拵えたものだと思ってね」
「………」
「その途中リサと階段で出会った」
「そう。階下《した》まで顔を洗いに行っていたのよ。それで私も付き合ってコーヒーを飲んだんだわ」
亜里沙が直ぐに応じた。
「理由はなんだっけ?」
「理由って……」
「洗面台なら部屋にもある。わざわざ一階に出かけなくてもいいだろ」
「ああ。凍っていたのよ。話さなかった? 大した理由じゃないわ」
「聞いたよ。だから不思議に思っていたのさ」
「なにが?」
亜里沙は不安な目をした。
「リサのことじゃない。テラさん」
「………」
「テラさんの部屋はリサの隣りだ。風向きといい条件はまったくおなじのはずだった。なのにテラさんは洗面台の水が凍ったとは一言も口にしなかった」
「そうね……どうしてかしら」
「前に北海道にいる友人から耳にした話だが、北国では水道の凍結を防ぐために元栓を締めるそうだよ。東京に暮らしていると水道の水が凍るなんて想像もつかないけど……」
「それならテラさんが元栓を閉めたんだろうさ。ヤツは東北生まれだ。それでなんの疑問もない」
長山は、なんだという顔をした。
「ところが──二階の洗面台には元栓がない。となれば、テラさんの部屋はリサの部屋に較べて格段に温かかったという理屈になる」
長山は面食らった。
「おなじ時間に布団に入ったはずだぜ。それに、部屋が冷凍庫のような寒さならともかく、あの夜は少し暖気があった。本当に眠ったのなら石油ストーブを消すとは思わないか?」
「だろうな。石油ストーブをつけっぱなしじゃ気になって眠れんよ。不完全燃焼で中毒の恐れもある。オレたちの部屋だって消しただろ」
「寒さに馴れていない我々ですらストーブを消して寝た。テラさんなら絶対そうする。なのに、実際は水道が凍らないほど部屋が温められていた。答は簡単だ。テラさんは水道が凍る明け方まで眠らなかった。あるいは、明け方にストーブをつけて体を温める必要があったのさ」
「まったく……」
長山は唖然と塔馬を眺めた。
「まったく、その通りだ。吹雪をついて死体運びをしてくりゃ体を温めたくもなるだろうさ。もしかするとストーブをつけたまま外に出たのかもしれんな」
「この程度ならアリバイの反駁《はんばく》には薄いと思うが……少なくとも情況証拠の一つぐらいには数えられる」
「なる、なる。もともとテラさんがダイスケ殺しの犯人だと言い出したのはオレなんだ。ヤツが次に殺されていなきゃ、とうに見抜いていた」
「すると……あの脅迫文を拵えたのはだれなんだろう?」
亜里沙は逆にゾッとした。復讐はこれからだ、と書かれていたのが吉秋の殺人を示したものでないなら、それは当然、次に首を切られた寺岡への復讐を誓ったものになる。
「偶然にしても怖いじゃない? おなじ時間に殺人を決行していたテラさんに対して、殺人予告が出されていたなんて」
「確かにそうだ。オレたちは事情が飲み込めないんで安易にダイスケ殺しと結び付けたが……テラさんにしてみりゃ気が狂いそうだったに違いない。しかも電話線がだれかに切られて陸の孤島になっちまった。じわじわと責められる思いがしただろうよ。よく平気な顔で通せたもんだ」
「だから……だれなの?」
亜里沙の顔は紙のように白く見えた。塔馬と長山はこうして共に犯人捜しの推理をしている。すると、残りは蛍と築宮しかいない。だが、それを口にするのは怖かった。
「さあてな……」
長山も口ごもった。
「証拠もないのに名指しはできねえだろうさ。常識で言えば二人のうちどっちかになりそうだがよ。ただし……ユータにあれほどの犯行ができるとはな。別にパンドラとも恋仲じゃなかったようだし。軽い同情ぐらいで簡単に人は殺さん」
「じゃあ……オケイ?」
「そいつも疑問だ……オケイのテラさんに対する信頼は芝居とも思えなかった。殺人予告を出しておきながら、あんな態度を取れる人間がいるなんて、とうてい信じられん」
長山は何度も首を振った。
「いくら女優だってな……第一、オケイは演技派じゃねえよ。それなら今頃落ち目にもならん。ちょいと可愛い顔をしていたから監督たちに目をかけられただけの話だ」
「パンドラの復讐をするというタイプでもないな」
塔馬も認めた。
「復讐は見せかけじゃねえのか? だったらオケイにゃテラさんを殺す動機がありそうだ」
「どんな?」
「堕《お》ろした子供さ。あれが事実で、相手がテラさんだとしたら、殺す動機にならないもんかね。オケイも一応は大女優だ。スキャンダルを嫌って当然だろう?」
「今さら二十年も前のことで?」
亜里沙は呆れた。
「まあ……弱いのは承知さ。だが、そうでも考えんと埒《らち》があかん。それじゃ、こういうのはどうだ。仕事が落ち目になってきたんで、オケイもノイローゼになった。思うのは二十年も前に堕胎した子供への後悔ばかり。あの子が生きていれば立派に成長して自分の支えになっていたはずだ。それを厳しく拒《こば》んだテラさんが憎い。私の幸福を奪ったのは、すべてテラさんだ。なんとなく小説にでもありそうな動機じゃねえか」
「その程度の想像力でよく今まで生き延びてこれたもんだわ」
亜里沙は相手にしなかった。
「トーマはどう思うの?」
「どちらとも……実を言うとオレが悩んでいるのは他のことなんだ」
「他のこと?」
「犯人がテラさんを最初から復讐の対象にしていたなら……なぜ二十年近くも待ったんだろうか。それが最初からの謎であり、今になっても解けない謎だ。そいつを解くのが先決のような気がしないかい?」
12
翌朝。
塔馬は枕許に響き渡る電話のベルで起こされた。頭がガンガンする。長山たちが帰って、ベッドに潜りこんだのは午前四時。塔馬は受話器を取り上げながら嵌《は》めたままの腕時計を見詰めた。八時半。急に吐き気がこみ上げてきた。盛岡までの旅の疲れに水割りを十杯以上も飲んだのだから胃が完全に参っている。
「もしもし……」
「塔馬さんですか」
山影の大きな声が頭に反響する。
「これから白湯温泉に同行を願います。宜《よろ》しいですか」
「白湯温泉!」
塔馬は耳を疑った。こんな朝っぱらからなんの話をしているんだ? それとも、こっちの耳がおかしくなったんだろうか。
「できたら長山さんと名掛さんには塔馬さんの方から連絡を取って下さるとありがたいんですが」
山影は有無を言わせず重ねた。
「あの……今日は白湯からオケイが戻ってくるんじゃなかったですか。それで昼過ぎに全員がどこかで落ち合おうと……山影さんが言い出したことですよ」
「それどころじゃありません。蛍さんはあちらで待機しております」
山影の話はあちこちに飛ぶ。
「なにがあったんです!」
塔馬は胸騒ぎを覚えた。築宮でも殺されたと言うのだろうか。塔馬は苦笑した。そんなことは絶対に有り得ない。白湯温泉には蛍の関係でまだ大勢の記者たちが泊まりこんでいる。そういう情況で新たな殺人などとうてい不可能だ。
「温泉の近くの崖下で女性の飛び込み死体を発見しました」
「………」
「今朝です。もしもし……」
山影の声が大きくなった。
「今度の事件と関係があるんでしょうか?」
塔馬はベッドの上に正座した。激しい脈搏《みやくはく》が受話器を握る指にも伝わる。塔馬は吐き気をこらえた。
「顔が目茶目茶に潰《つぶ》れておるらしくて身許が分かりません……しかし、場所から考えて当然関連があるものと……あるいは当初から想像していた共犯者の可能性が」
「分かりました。長山たちには早速連絡を取ります。山影さんは何時の新幹線に乗る予定ですか?」
「十時半に新幹線の改札口ではいかがです。もしお二人の都合が悪い場合は塔馬さんお一人でも」
「私は大丈夫です」
塔馬は電話を切った。
まだ頭がすっきりしない。ベッドから飛び出すと洗面所の冷たい水で顔を乱暴に洗った。脚が微かに震えている。塔馬は喉に指を突っ込むと腹の中に残っているウィスキーを吐き出した。苦しさに涙が滲《にじ》む。まったく、なんという展開だ。床のタイルの冷たい感触がじわじわと頭に伝わってくる。鏡に映った自分の顔をしばらく眺めた。吐いたせいか血の気が失われている。ここ何日かの間に痩せたようだ。うっすらと伸びた髭が歳を感じさせた。
〈もう青春は終わっちまったよ〉
なぜかパンドラの淋し気な顔が瞼《まぶた》に浮かんで、塔馬は彼女に呼びかけた。涙が止まらない。もうなにもかも終わったのだという気がした。
五分前に改札口に到着した。山影の隣りには亜里沙の姿がある。
「長山さんもこられるんですね」
山影が安堵《あんど》の顔を見せた。
「くるはずです。切符の方は?」
「十一時の電車ですから。じゃあ私が纏《まと》めて買ってきます」
山影は荷物をそのままに改札口の目の前にある窓口に向かった。
「どういうことなの」
亜里沙は怯《おび》えを隠さなかった。
「身許不明の女性だなんて」
「昨夜言ったろ。なぜ二十年近くも経ってからパンドラの復讐が開始されたのか……」
「それが今度の飛び込みと?」
「それしか考えられない」
「ちゃんと説明して」
「長山がきてからだ」
塔馬は首を振るとポケットからタバコを取り出した。ライターがない。亜里沙が気づいて火をつけた。
「タバコ喫《す》ったんだっけ?」
「喫うわよ。なんにも見ていないのね。白湯温泉で何度もトーマから火をつけてもらったじゃない」
「そうだ……忘れてたよ。こんな調子じゃ昔のことを忘れて当たり前だな。なのに自分の記憶だけは確かなんだと信じこんでいる」
塔馬は煙を吐き出した。
「私、寝不足でフラフラ。トーマなんてもっと厳しいわね。昨日は盛岡日帰りの強行軍だったんだから」
「一年分の旅行を済ませたみたいだな。けど今度で終わりだろう」
「だといいけど」
亜里沙は心配そうに口にした。
「きた、きた。珍しく時間通りじゃない? よく起きたわね」
長山が亜里沙に手を振った。
「酷《ひで》えもんさ。なんと言って担当に言い訳すりゃいい? 昼までに原稿を渡す約束だったんだぜ。これじゃ確実に雑誌に穴が空《あ》く」
「書けなかったの? 戻ったら徹夜して書き上げるって」
「オレを殺す気か。昨日は徹夜明けに水割り十二杯だぞ。それで書けたら化け物だ。まあ……警察の呼び出しじゃ雑誌の方も諦めてくれるはずだがね。こちらの一身上の問題だからな。遠い親戚の法事だとか、そんな見え透いた話とはわけが違う」
長山は山影の姿を捜した。
「タコは?」
「おりますよ」
戻った山影がポンと肩を叩いた。
「びっくりした。あんまり意地悪はしないで欲しいもんだ」
長山はどぎまぎした。亜里沙は必死で笑いをこらえた。
「長山さんの姿をお見かけしたので一便早めました、あと八分で発車します。急ぎましょう」
山影は三人を促した。
車内アナウンスが聞こえてくるのを待ち兼ねたようにして四人はビュッフェに出かけた。
「詳しいことは私もあまり聞かされておらんのです」
山影は長山の質問攻めに辟易《へきえき》した顔で首を横に振る。
「本当に自殺かな」
「ああ。それは確かです。顔が潰れているのは岩壁にぶつかったせいで死因とは直接関係ありません。凶器による外傷も発見されていませんですしね。雪に残っていた足跡はその女性一人のものらしい。これで他殺だとしたら……ミステリーですな」
「足跡が一つか」
長山も納得した。
「もう一杯コーヒーをくれ」
「サンドイッチでも頼んだら? 昨夜から食べていないんでしょ。いくら習慣だって体に悪いわよ」
亜里沙は本気で心配した。
「トーマも一緒だぜ」
「タバコの量が違うもの。喫い続けじゃない。もう十本は……」
「うるさい女だね。こんなのと暮らせば逆に体を壊しそうだ」
長山は取り合わなかった。
「心配するなって。胃薬や吐き気止めなら持ってるよ」
「あったら私にも戴けませんか。こっちも朝の六時半に起こされて」
山影は長山に言った。
「昨夜は私も若い頃の仲間と少し飲みましてね」
「酒豪という噂を聞きました」
「いやあ……大したことは」
「どのくらい?」
「さあ。数を勘定していなかった。二本はいかなかったと思うが」
「一升瓶で二本!」
塔馬たちは呆れた。四人の中で一番元気な顔をしている。
「これからは飲んだ量を自慢げに言うのを止めよう。なんだか不気味な感じになってきた。この人は化け物《もん》だよ。ぬらりひょんだ」
長山は溜め息を吐いた。口調に親しみが含まれてきたようだ。
「さっきの話を聞かせて」
亜里沙が塔馬の袖を引いた。
「トーマにはなにか分かっているみたい。そうなんでしょ?」
「分かっているとは?」
山影は身を乗り出した。
「行って確かめれば済むことです。ここで推理を話しても意味はない」
「そりゃないぜ」
長山は煙を鼻から吐いた。
「昨夜《ゆうべ》っからトーマの推理を聞かされ続けなんだ。オレは正しいと信じてるがね。確証がなさ過ぎる。ここはちょうどいい機会じゃねえか。もしおまえさんに今度の死体についても考えがあるんだったら、是非とも聞かせてもらいたいな。そして、そいつが現場で確かめられたら、それこそ今までの推理の実証ってことになるんじゃないかい? もちろん、その推理はダイスケ殺しの犯人をテラさんと見做《みな》してのこったろ」
「寺岡さんが吉秋さん殺しの犯人ですと! いったいなんでそんな推理が成り立つんです。寺岡さんは二人目の犠牲者じゃないですか」
山影は声を荒くした。ビュッフェの従業員も仕事の手を休めた。
「話しちまえよ。もう芝居も大詰めなんだ。これ以上の殺人は起きるわけがない」
長山は塔馬の腕をこづいた。
「なぜパンドラの復讐が今になってはじめられたのか……」
塔馬は長山と向き合った。
「チョーサクだって少しは考えてみたんじゃないのか」
「分からんね。さっぱりだ。単純に十三回忌を待っていたとは思えないが……お手上げだ」
「犯人はいつからテラさんがパンドラの失踪に関わり合いを持っている人間だと分かっていたんだろう」
「さあ……質問の意味が掴めねえ」
残りの二人も頷いた。
「じゃあ言い方を変えよう。犯人はダイスケ殺しの犯人がテラさんだったと知っていたかどうか」
「そいつは……不可能だろうさ。オレとおまえさんが頭を絞って、ようやく結論に達したんだ。あの時点ではテラさん本人以外に犯人だなんて分かりっこないと思うがな」
「するとだ……犯人はたとえダイスケが殺されなくてもテラさんの命を狙っていたと思わんか?」
「だろうね。まさかダイスケの復讐をしたとは考えられん」
「そこなんだよ」
塔馬は三人を見渡した。
「犯人は……我々が白湯温泉に集まる前からテラさんをターゲットにしていたという推理が成り立つ」
「それなら分かる」
長山は首を振った。
「おかしいと思わないか?」
「なにが?」
「ダイスケに届いたハガキさ。あれはどう考えても揺さぶりとしか」
「………」
「テラさんの命を狙っていた犯人が、今さらダイスケを通じて我々を揺さぶってどうなるんだ? さっさと殺してしまえばいいだろ」
「確かだな。理屈に合わんぜ」
「テラさんがどこにいるのか犯人が知らなかったとは言わせない。医者ならいくらでも調べようがある。ましてや復讐するほどの恨みがあればどんな方法を使っても捜し出す」
「けど、ハガキは出した」
「殺すつもりはなかった。それしか解釈はつかないよ」
「殺すつもりはないだと?」
「予告殺人なんてのは小説の中だけの話だ。現実にそんなことがあってたまるもんか。犯人は気弱なダイスケに揺さぶりをかけ、仲間を集めてタイムカプセルを開けることによってテラさんの気持が変わるんじゃないかと期待していたのさ。本当に殺意があったなら、もっと前にテラさんは死体になっていた。それは絶対に断言できる」
「………」
「山本殺しはすでに時効となっている。警察だって動いてはくれまい。だから自供を促すしか方法は……」
「待ってくれ! すると犯人はテラさんが山本を殺していたのも承知だったと言うのかい?」
「無論だよ」
長山たちは顔を見合わせた。
「そもそも、こいつはパンドラの復讐ではない。山本殺しの告発だけが目的だったんだ」
「………」
「もしリサが犯人で……テラさんが山本を殺し、しかもパンドラをも殺したと知っていたらどうする?」
「私じゃないわよ」
「分かってる。仮にだ」
「私だったら許さないわ……殺すとまでは考えないと思うけど、警察に言うんじゃない? 時効だって関係ないわよ」
「チョーサクなら?」
「金に困っていりゃ強請《ゆす》るかもしれんな。奇麗事は言いたくない。けど殺そうとは思わんよ。パンドラがオレの女房だったら分からんがね」
「それが当然の反応だろう。なのに犯人は強請《ゆす》りもしなければ、警察にも伝えなかった。それがずうっと頭に引っかかっていた。今朝になって身許不明の女性が自殺したと聞かされるまで、何度頭を抱えたか分からない。だけど、やっぱりオレの直感は正しかったと思うんだ」
「直感? どんな」
「仲間のパンドラが死んでいなければ、残りは時効になっている山本殺ししか材料はない」
あっ、と全員が呻いた。
「それならオレだって警察に言うのを躊躇《ためら》うかもしれん。パンドラが殺されたってんなら別だが、山本という男とは縁も所縁《ゆかり》もないんだから」
「大胆過ぎるんじゃねえかね」
長山は唇を震わせた。
「どうして? なら犯人はなぜパンドラが殺されたと知りながら、その死体さえ警察に報告しなかったんだい。死体を見ていなければ復讐なんて思いつくものか。人間てヤツはいつだって希望を捨てないもんだぜ。もしかしてパンドラが死んでいるんじゃないかとオレも想像したことはあったが、その半面でどこかに生きていると期待していた。確実な証拠でも見せられない限り、いつまでもパンドラは宙ぶらりんのままオレたちの心の中で生きていたさ。復讐を誓うなんてとても……本当にパンドラの復讐を考えたヤツがいたら、そいつはテラさんが確実にパンドラを殺した証拠を握っていたはずだし、死体だって見ている」
「その通りよ。当たっている」
亜里沙は同意した。
「なのに強請《ゆす》りもしなかったし、警察にも言わない。トーマの想像通りだわ。犯人がパンドラの死体をみたわけがないわよ」
「パンドラは生きていたのさ。犯人は彼女の口から直接山本殺しの一件を耳にしたに違いない。だが、そいつはとっくに時効となっている。恐らくパンドラはテラさんを愛していて、何度か命を狙われる危険を経験しても自分の口から警察に告発できなかったんだろうな。それでなんとか自首を促《うなが》そうとしたんだよ」
「なるほど……読めてきた。もしあくまでもテラさんがシラを切った場合、タイムカプセルの品物をネタにして、オレたちに推理をさせようと目論んでもいたんじゃないかい」
長山が興奮した声で言った。
「それもあっただろうな。犯人がそれとなく推理を導けば、やがて山本殺しに繋《つな》がっていく。それでも結果はおなじだ。幸い仲間には好奇心の強い人間のアテもある」
「そのための十三回忌かよ」
「テラさんの自供ですべてが丸く治まるはずだったんだ。ダイスケさえ殺されなければ、すべてが」
塔馬は苦い顔をした。
「責任を取ってパンドラは死んだんだ。いや……あるいはテラさんへの後追い心中なのかもしれない」
「いやよ! じゃあ、その身許不明の女性ってのが……」
「パンドラだと思う。必ずね」
塔馬の声は暗く沈んでいた。
[#改ページ]
六章 パンドラ・サッドケース
1
白湯温泉が近づくにつれて亜里沙の顔には怯《おび》えの色が広がった。恐怖の何日かから逃れて、ようやく気持が平常に戻りつつあった矢先だ。五日も経たないうちにまた引き戻されることになろうとは想像もしていなかった。しかも、飛び込み自殺をした女がパンドラらしいと塔馬に聞かされている。肩をくっつけるようにして前方の山道を睨《にら》んでいる長山の目にも緊張が感じられた。
首筋に触れるとべっとりとした汗が噴きでていた。タクシーのヒーターが利きすぎているようだ。拭《ぬぐ》い終えたハンカチを長山が無言で亜里沙から取り上げた。長山の額にも汗がびっしりと浮かんでいた。
「暑いな。息が詰まる」
長山はウィンドウを少しだけ開いた。冷たい風が亜里沙の髪の中を素早くすり抜けた。ふうっと息を吸いこむ。緊張はまだ解けない。もうじき雪崩《なだれ》のあった場所に差しかかる。その斜面には吉秋の首なし死体が転がっていた。その角を曲がれば、あっという間に白湯の宿だ。亜里沙は激しい後悔に襲われた。もう二度と見たくないと思った宿だ。口実を拵《こしら》えて断わればよかった。顔の潰《つぶ》れた死体など耐えられそうにない。ましてや、それが本当にパンドラなら。
〈どこで生きていたの?〉
亜里沙はパンドラの物静かな顔を頭に思い描いた。平凡な子だったと思う。真面目に学校に通い、仲間の冗談にもただ頷《うなず》いてばかりの、どこにでもいる平凡な娘だった。なのにそれがつまらないと敬遠され、暗いと仲間から疎《うと》んじられた。
「先輩、ちょっと付き合って」
瞑《つむ》った亜里沙の目にパンドラの羞《はにか》んだ笑顔が現われた。
「ペンダント買いたいんだけど……なんだか恥ずかしくって」
パンドラは視線を外した。
「どんな?」
「二つを合わせるとハートになるペンダント」
「やだ。古いわよ、そんなの」
真ん中でぎざぎざに割れたハートのペンダントを恋人同士が半分ずつぶら下げるのは、流行がとっくに終わっていた。よほど田舎の高校生だって馬鹿にする。
「売ってないでしょうか」
「それより……恋人いるの?」
「………」
「ダメよ。そんなの。もしいたとしても、かえって嫌われるわ。男って縛られるのを厭《いや》がるんだから」
パンドラは戸惑いを見せた。それきり諦《あきら》めたようだったが、贈る相手はきっと寺岡だったのだろう。
〈ごめんね〉
亜里沙は涙をこらえた。パンドラは可愛い世間知らずだったのだ。
「やっぱり許せねえよな」
長山が隣りで呟《つぶや》いた。
「パンドラはヤツのために十二年も姿を隠していたんだ。なのにテラさんはのうのうと生きていたなんて。赤ひげ医者なんぞと呼ばれてな」
「………」
「殺されて当たり前だ」
亜里沙と塔馬は応じなかった。
「なぜ半田さんは五年も待ったんですかね……」
助手席にいる山影が首を捻《ひね》った。
「待ったと言うと?」
長山が繰り返す。
「でしょう? 十七年前に埋めたタイムカプセルに告発の記事を入れたということは、もちろん、その時点で寺岡さんの犯罪に気づいていたことになる。なのに半田さんの失踪は十二年前だ。その五年間は盛岡に暮らしていたわけですよ。そこがどうしても分からない。命を狙《ねら》われる危険性があったなら、なぜ直ぐに行方をくらまさなかったのか」
「告発の記事を埋めてはみても、パンドラの方でも絶対的な確証を掴《つか》んではいなかったんじゃありませんかね。山本の死体も発見されていなかったわけだし。指輪程度の証拠では弱い。単純に盗んだ品物かもしれませんしね」
塔馬は説明した。
「すると、また妙なことになる。山本の死体が発見されたのは十年前です。それまでは失踪する理由がなくなるんじゃ?」
「寺岡の開業がその頃なんです」
塔馬は補足した。
「死体が発見されていなくても、立派な病院を建てたと知れば、確証を得たのも一緒じゃないですか。二人は恋人同士だったんだから、病院のオープンにパンドラが顔をだしたと想像してもおかしくない。そこで疑惑を口にしたとしたら……」
「なるほど。確かに命の危険を感じるかもしれませんな」
オープンの日付をさっそく確認しますと山影は頷いた。
「哀れな女だよ」
長山には怒りさえ見られた。
「直ぐに警察に言えばよかったんじゃねえか。あんな阿呆のために自分が蒸発する必要がどこにある? ばかやろうが」
「愛していたのよ」
「ヤツにそんなのが通用するか。平気でダイスケまで殺す野郎なんだ。もし、殺されずにいたら、オレがこの手で首を絞めてえとこだ。地域医療が聞いて呆《あき》れるぜ。たとえ人を殺しても、片方で人助けをすりゃ許されるとでも思ってるのか」
長山は拳《こぶし》を強く握った。
「パンドラと結婚して、小さな診療所でも開いた方が、あいつにとっては遥かに幸福な人生だったんだ。ばかやろうはテラさんも一緒だぜ」
「チョーサクって……変わったわ」
亜里沙はしみじみと眺めた。
「そうかね」
「嫌味じゃなくなったもの」
塔馬は苦笑した。
「ちょっとの間に成長したみたい」
「おまえさんはもっと成長したよ。今じゃオレのおふくろのような言い方をしやがる。ここ十日ほどで二十は歳をとったんじゃねえのか」
亜里沙は涙ぐんだ。
「冗談だよ」
「じゃないの」
亜里沙は首を横に振った。
「トーマやチョーサクと仲間だってこと……誇りに思えてきたんだ。いいヤツじゃないの、あんたたち」
2
宿の前にタクシーが停まると、中からカメラを抱えた記者たちが待ち構えていたように取り囲んだ。
「通してください」
フラッシュを気にせず山影が睨みつけた。カメラは長山に集中している。長山はニコニコしてみせた。
「オレが真犯人だよ。そう報道してくれ。告訴の楽しみがあるからな」
ドッと笑いが広がる。
頃合を見計らったように蛍が登場した。宿で待機していたらしい。しっかり化粧して、若々しい服装だ。蛍の背後にはマネージャーもいる。
「死体は?」
山影は側の部下に訊《たず》ねた。
「部屋に運んであります」
「見よう。この記者さんたちにはなにも発表しておらんのだろうな」
「はい。検死は終了しましたが」
「分かった。案内してくれ」
山影は塔馬たちを促した。
「元気そうじゃねえか」
長山は並んだ蛍に低く口にした。
「今や時の人だからな」
「テレビは見た? こっちじゃ民放が少ないから全部は見れないの」
「おまえさんの下手《へた》くそな芝居なんぞ見たくはないね。犯人だったらもっと面白いのにと視聴者の半分以上が思ってるさ。あんまりやり過ぎるとマイナスだ。そいつをマネージャーの間抜けに言っときな」
「なによ!」
蛍が激怒した。
「オケイ、よしなさい」
亜里沙が袖を強く引いた。
記者たちのフラッシュが飛ぶ。
「死体はハンコなのよ」
耳元で囁《ささや》かれて蛍の顔が引きつった。笑顔に戻そうと試みて、そのまま凍りつく。記者たちが騒いだ。
「来いよ。今度こそちゃんと見るんだ。いつだって怖がってばかりで、なんの役にも立ちやしねえ」
苦々しい口調で長山は叫んだ。
「確認は女たちの役目だぜ」
「厭よ! ハンコだなんて」
蛍は記者の存在を忘れて泣き声を上げた。若いマネージャーが慌てて走り寄って蛍の肩を抱いた。
「おめえは引っこんでろ。こいつはオレたち仲間の問題だ」
長山はその腕を乱暴に剥《は》がした。ビデオカメラがまわっている。塔馬はハラハラした。
「長山さん……行きませんか」
山影が笑顔で誘った。
「きっとあの人も皆さんを待っているでしょうよ」
山影は視線を部屋に注いだ。
「身許が判明したんですか!」
記者が何人か山影に詰め寄った。
「まだです。まだですよ」
山影は無視して先に立った。
「酷《ひど》い……」
顔を覆っている白い布を山影の部下が捲《まく》ると、亜里沙は絶句した。吐き気がこみ上げてくる。顔などと呼べる状態ではなかった。あらかじめ山影から聞かされていなければ悲鳴を上げていたに違いない。
「これじゃあ分かりませんね」
塔馬も目を逸らした。気味が悪かったのもあるが、なんだかパンドラを冒涜《ぼうとく》しているような気分に襲われたのだ。蛍は両手で顔をしっかりと覆っている。
「身長はどうです?」
山影は質問した。髪形や肉のつき方は変わっても、身長だけは変化がないはずだと思う。
「こんな感じだった」
長山が爪先まで眺めて言った。
「なんか特徴を覚えてないか?」
長山が亜里沙に訊ねた。
「何度も一緒に風呂に入ったことがあったはずだぜ。思い出してくれ」
「急に言われても」
亜里沙には拒否したい思いがあった。あまりにもむごい死体だ。
「先輩、背中流します」
パンドラが裸で入ってきた。この宿の岩風呂だった。亜里沙には小柄なパンドラの裸がありありと思い出された。いかにも東北の出身らしく真っ白で肌理《きめ》の細かな肌だった。
「羨ましいな」
亜里沙の体を眺めてパンドラが口にした。亜里沙は鏡に映るパンドラを覗《のぞ》いた。大きくはないが、形のいい乳房がピンと張りだしている。
「大人と子供みたい」
「そんなことないわよ。男って、きっとハンコの方が好きじゃない? 私はアマゾネス。チョーサクなんて私を男だと信じてるもの」
亜里沙は鏡に言った。パンドラは右手に石鹸《せつけん》をつけたタオルを握り、左腕は肘《ひじ》のところで曲げている。不自然な姿勢だ。ちょうど脇腹の辺りを隠しているように見える。
視線に気づいてパンドラはますます体を横に捻った。
「どうしたの?」
「子供の頃の火傷《やけど》の痕《あと》が……ずうっと気にしていたからクセになって」
「別に目立たないじゃない」
「皮膚を移植したんです。でも、そのつもりで見ると……」
パンドラは脇腹を見せた。確かに皮膚が少し引きつっていた。
「私、大学に入学するまで男の人と付き合ったことがなかったんです。この傷を見られるのが怖くて」
「なんでもないわよ。肌が白いから逆に気になるんだわ。七難隠すってことで我慢してもらったら?」
その冗談にパンドラは微笑しながら安堵《あんど》したように頷いた。
「じゃあ、今はだれかと?」
亜里沙は訊いた。そんな言い方に聞こえたのだ。
「ううん。だれも」
パンドラは慌てて背中を擦《こす》った。
「どうした?」
長山が亜里沙を見詰めていた。
「火傷の痕があったわ……」
亜里沙は呟いた。
「左の脇腹の辺りに」
「ホントですか!」
山影は何度も頷くと、
「辛いでしょうが確認を」
塔馬や長山に視線を送って部屋をでるように促した。脇腹なら上半身を剥きだしにしなければならない。
「お一人の方がいいですか。私どもも廊下にでて構いませんよ」
亜里沙は少し考えて首を振った。もしパンドラならだれにも見られたくないに決まっている。それが感傷に過ぎないことは亜里沙も分かっていた。病院に運ばれて解剖となれば厭でも裸身を晒《さら》すことになる。それでも……せめて今だけは。
「検死を終えて……一応、下着だけは体に覆って置きましたが」
若い警察官が続けた。
「シーツを捲れば直ぐに見えます」
「分かりました」
亜里沙は唇を噛んで嗚咽《おえつ》をこらえた。可哀相に。
「オケイはどうする?」
長山の問いに蛍は震えた。
「リサ一人じゃ辛かろう」
「大丈夫。オケイはどうせ火傷のことを知らなかったんだもの」
全員が部屋をでると亜里沙は死体と向き合った。顔には警察官がふたたび白い布をかけてくれている。
「ハンコなんだよね」
亜里沙は死体に、と言うよりも自分の勇気を引きだすために呟いた。恐る恐るシーツを捲る。出血が酷かったのだろう。タオルで拭《ふ》かれた痕跡があった。痩せた肩の辺りには折れた骨が飛びでていた。墜落する途中で体が岩に激しくぶつかったに違いない。肘も奇妙に歪《ゆが》んでいる。亜里沙は湧いてくる涙と戦った。薄い染みの広がった胸が痛々しい。学生の頃に較べて、なんと悲しい歳のとり方だろう。亜里沙は硬直している肘を体から離した。脇腹が見える。だが、そこも流れた血で見分けがつかない。亜里沙はハンカチを使って丁寧に擦った。
〈………〉
やはりパンドラだった。
亜里沙は号泣した。
「間違いなかったようですね」
廊下にでた亜里沙の肩に山影がそっと掌を置いた。
「さっそくご家族にも連絡します」
言うと若い警察官が帳場に走って行った。
「さぞかし辛い思いをするでしょうよ。諦めていた娘さんが十二年も生きていたと分かって……しかもこんな状態で知らされるんですから。もちろん、皆さんの気持もおなじだろうが。お察しします」
山影は塔馬たちを順に眺めた。
「そう言えば……築宮さんがいらっしゃいませんね」
言われて塔馬も気がついた。
「昨日から町に下りているの」
蛍が思い出したように言った。
「ちゃんと連絡が行っているのかしら。このことを知らないんじゃ」
「したはずです。おかしいな」
山影は首を傾《かし》げた。
「ちょっと確認してきます」
山影は帳場に急いだ。
「オケイはコインロッカーだったんだろ?」
唐突に長山が蛍に訊ねた。
「………」
蛍の顔が強張《こわば》った。
「推測通りか。今となっちゃ仕方がねえが……皆が正直に言ってりゃテラさんが殺される前に警察に突きだせたかもしれねえぜ。そうすりゃパンドラだって死なずにすんだ」
「テラさんを突きだすって?」
蛍はますます怯えた。
「堕ろした子供の父親はテラさんだったんじゃねえのかい?」
蛍は震えながら耳を塞いだ。
「こんな推理が当たっても、ちっとも面白くはねえよ。なんだか泣きたい気分だ。なあ、トーマよ」
本当に長山の目には涙が溜《た》まっていた。
3
「面倒が起きたようです」
塔馬たちが揃《そろ》って帳場に顔をだすと、山影は受話器をもとに戻して緊張の面持ちで振り返った。
「今、麓の消防団に連絡を……我々だけでは手がまわらない」
「ユータになにか!」
「朝のうちに自宅をでたと。もうかれこれ六時間が過ぎている。この宿に向かったはずだと奥さんがおっしゃってるんで……あるいは途中で事故に遭った可能性も」
車なら町から宿まで三十分もかからない。
「おなじ山道を我々だって登ってきたんです。事故ならガードレールが破損しているとか、なんらかの痕跡が残っていると思いますが」
塔馬は真っ直ぐ山影を見た。
「念の為です。あるいは……」
「逃げたとでも?」
塔馬の問いに山影は頷《うなず》いた。
「どうして! なぜ逃げるの」
蛍が叫んだ。築宮とは従兄妹《いとこ》同士だ。当然の反応だろう。
「簡単な引き算じゃねえか」
長山は呟いた。
「殺されたかもしれないじゃない」
蛍はおろおろとした。
「復讐がまだ終わってないなら」
「終わったんだ」
塔馬は蛍の肩に掌を置いた。
「オケイは朝から大勢の記者たちに囲まれてアリバイがある。そしてオレたちだって、たった今まで山影さんと一緒だった。仲間のだれにもユータは殺せない。だから彼の姿が見えないのは事故か逃亡かのどっちかでしかないんだ。飛び込み自殺を知らないならともかく、警察から連絡を受けて承知の上なんだよ。その情況で他の用事に時間を割くなんて考えられるかい。また万が一そうだとしたら、必ず連絡を寄越している」
塔馬は静かに説明した。
「それは……犯人って意味?」
蛍は塔馬を見上げた。
「前にも言ったと思ったけど、オレは偶然を信用しない性質《たち》でね。事故の可能性がゼロとは言わないが、こんな時にそいつが重なるとは思えない。ユータは意識的に身を隠した。そう見るのが自然だろ」
蛍は首をうなだれた。
「となれば、理由はなにか」
「………」
「まさか殺されるのを恐れたわけはない。この宿には警察官をはじめ大勢の記者連中がいる。目下のところ日本で一番安全な場所と言ってもいいだろうね。この環境で犯罪を計画する人間はいない。突き詰めて行けば、ユータがテラさん殺しの真犯人で、協力者だったパンドラの自殺を知って逃亡したとしか……」
聞いていた山影も同意した。
「なんのために? なぜテラさんを殺さなきゃならないの。あいつにはそんな義理がないわ。ハンコとだって大した付き合いじゃなかった」
蛍は必死で否定した。
「後戻りができなくなったのさ。どういう事情でユータとパンドラが巡り合ったか知らないけど……きっと最初は、威《おど》かす程度でテラさんが自首を決心すると信じていたんだろうな。ところが事態は思わぬ方向に動いていった。自首どころか、テラさんはダイスケまで殺した。ユータとパンドラの二人はテラさんを甘く見ていたに違いない。あの学生時代の柔和なテラさんが、そのまま歳をとっただけだと思いこんでいたんだ。山本文夫を殺したと言っても、ヤツは犯罪者だった。罪もない人間を殺したのとはわけが違う。そいつに二人は騙《だま》されてしまったんだよ。おまけに赤ひげ医者という評判も聞いている。これがヤクザのような人間相手なら、自首を促すなんて甘い行動はとらなかったと思うけど……」
山影は何度も首を振った。
「ダイスケが殺されて、一番ショックを受けたのはパンドラとユータだったはずだぜ。彼らは直感的にテラさんが犯人だと分かっただろうからね。そこでゲームを中止すべきだったんだ。いや……違うな」
塔馬は言葉を切った。
「ダイスケが殺されたと分かった時には、電話が不通になっていた。麓にいたパンドラとも連絡がつかず、全部の責任がユータに被《かぶ》さってきたというわけか……」
「ちょっと待てよ」
長山の目が光った。
「ユータなら電話が不通になる前に利用できたかも分からんぜ」
「………」
「ダイスケの死体を運び上げるためにロープや毛布を用意しただろう。あの時ユータは一人でオケイの家に戻ったんだ。そこから電話すりゃ、宿にいるオレたちには知られん。電話が不通になった時間は今でも曖昧《あいまい》な状態だ。その時にパンドラと相談して切断を任《まか》せたと考える方が遥かにスッキリする。あのタイミングのよさはただもんじゃなかったよ」
「つまり……チョーサクとユータが宿に戻った時には、まだ電話が不通になっていなかったということか」
「たぶんな」
「だったら、どうして直ぐ警察に連絡しなかったんです!」
山影は唖然《あぜん》とした。
「ユータが止めたんです」
「築宮さんが!」
塔馬は思い出した。塔馬と寺岡が現場に残ることに決め、長山に警察への報告を依頼したら、築宮は寺岡の方が警察に信用されると強く力説した。まさか電話が不通になるとは思わなかったので塔馬も賛成した。医者からの説明の方が分かりやすいはずだと納得したのだ。
「なるほど。そういう事情か」
山影は唸った。
「ユータなんぞ、まったく疑っても見なかったよ。あの時点じゃテラさんしかマークしていなかったもんでな。考えりゃ不自然な話だぜ。詳しい報告はテラさんに任せて、とりあえずは殺人の連絡をってのが常識人のとる行動だわな。すっかりユータの口車に乗せられちまった」
長山は悔しそうに眉をしかめた。
「いずれにしろ二人は動揺した。こうして我々が想像する以上に強い衝撃を受けたに違いない」
塔馬は続けた。
「山本殺しとは事情が異なる。今度は仲間を殺したんだから。テラさんはもう昔のテラさんじゃない。保身のためには平気で人を犠牲にする人間に変わっていた。そいつをはっきりと知らされた思いがしただろう」
「………」
「読みの甘さに二人は絶望した。と言って、今さらオレたちに告白するわけにもいかないだろうさ。それじゃあダイスケは無駄死にだ。テラさんを庇《かば》い続けてきたパンドラの好意が、結局はダイスケをも殺してしまったことになる。慙愧《ざんき》に堪えないって気分だったんじゃないか?」
「確かにな……ダイスケの殺されたあとに、ユータからそんな告白をされたら絞め殺していただろうよ。ましてやパンドラが生きてるなんて聞かされりゃな。殺したテラさんが一番悪いのは承知だが、ユータとパンドラを許せたかは疑問だ」
「二人だってそれは分かっていたと思う。警察にも仲間にも告白ができないとなれば……道は一つだ」
「………」
「責任をとってダイスケの復讐を実行する他はない。放って置いても警察がテラさんを犯人と突き止める保証はどこにもないんだ」
塔馬の言い方に山影は苦笑した。
「少なくともパンドラならそう思ったんじゃないですか。現実にテラさんの犯した山本殺しは二十年近くも発覚せずにきたんですよ。その上、ダイスケ殺しの手掛かりとして扱われるハガキや脅迫状は二人が拵えたものなんです。自分たちが告白しない限り、捜査が誤った方向に行くのは目に見えている」
「ううん。一理あるな。その段階で私が捜査を担当したとしても、寺岡さんを疑ったかどうか。寺岡さんと吉秋さんは医者と薬屋の関係で密接な繋《つな》がりがあったようですからね。復讐の意思があれば、もっと前に殺していたはずだと、捜査対象からあっさり除外することだって……脅迫状を目の前にしながら、殺人の動機がそれとはまったく別物だなんて、普通は考えもせんでしょう。たとえ記事の件で寺岡さんに嘘があったと聞かされておってもです」
山影は素直に認めた。
「二人はテラさんを殺す決心を固めた。もう方法がないんだよ。もし、ここで見逃せば、ますますパンドラは窮地に追いこまれる。ダイスケまでも躊躇なく殺したテラさんだ。必死になってパンドラを捜しはじめるだろう。余裕を与えるのは危険なんだ。先手を打たないと逆に二人とも殺される可能性すらある」
仲間に対する責任と言うよりも、自己防衛の方にウェイトが置かれていたこともありえる。だから吉秋の死体に似せて寺岡の首を切り落としたのではないか? そうすれば双方ともおなじ事件と見做《みな》され、捜査を混乱させられる。塔馬の推理に蛍を除く全員が頷いた。
「鮮やかなもんだよ」
長山は軽く息を吐いた。
「いつからユータが怪しいと睨んでた? 昨日今日じゃあるまい」
「いや……筋道はそうだろうと思っていたが、そこに当て嵌《は》まるXがだれなのかは自信がなかった」
塔馬は長山と向き合った。
「X? 犯人のことか」
「パンドラが生きているんじゃないかと思いついた時点で、だいたいの展開は読めた。一応の方程式は完成していたんだ。しかし、犯人の名前となれば別だ。ユータの逃亡を知らされるまでは、そこにだれの名前を代入しても不自然な状態じゃなかった。式は解かれる」
「オレでもか!」
長山はあんぐりと口を開いた。
「リサやオケイはともかく……オレはパンドラに同情はしねえぜ」
「前のチョーサクならな」
塔馬は温かな笑顔を見せた。
「昔のままのチョーサクなら、オレも簡単にX候補から外したよ。だけど、今は別だ。今のチョーサクを見てると、わざとパンドラを嫌っているフリをしていたんじゃないかと勘繰りたくもなるさ。喧嘩相手同士が実は共犯だったという話はミステリーにたくさん登場するだろ。どちらかと言えば最大の候補だったな」
塔馬はクスクス笑った。
「呆れた野郎だ。それじゃ今の今までオレを容疑圏内に?」
「からかわれてんのよ」
亜里沙が噴きだした。
「目を見たら分かるじゃない」
「油断ならねえヤツだ。心臓が飛びだすかと思った」
「トーマの言う通りよ。この頃ちっともパンドラの悪口を言わなくなったもの。疑われて当たり前だわ」
「そうかね」
長山は小首を傾げた。
「だれをXに代入してもおかしくないが……やっぱりユータだろうと見当はつけてた。招集をかけたのも、ハガキの件をオレに教えてくれたのもユータだった。それに、なんと言っても地元の人間だ。自首を促す程度の狙いなら、東京でだって構わないはずなんだ。ユータに頼んでタイムカプセルを掘りだしてもらえば済む。なのにわざわざ白湯を舞台にしたってことは……」
「リサやオケイでもなくなる」
長山があとを締めた。
「単純な事件じゃねえか。ダイスケ殺しに関しては最初から睨んでいた通りテラさんだったし、テラさん殺しは、会を招集したユータ。解いて見りゃドンデンもねえ。なんでこんなに複雑になったのか……」
「パンドラの復讐だと思いこまされたからだろうね。ダイスケやテラさんがパンドラ殺しに関わっていると信じてしまった。山本の一件が分からなければ、今だって動機を突き止められないで苦しんでいたはずだ。それに……過去も邪魔をした」
「過去……」
「先入観と言った方がいい。オレたちはダイスケやテラさんの性格をなまじ知りすぎていた。これが赤の他人だったらもっと別の見方ができただろう。ユータだってそうだ。オレたちはもうあの時代とは違う人間なんだ。残念だがそれを認めないと」
「そいつは……どうかな」
長山が口を挟んだ。
「事件を解決したのは過去の記憶じゃねえか。互いに相手の気持を誤解していたってことはあるがよ。皆があの時代を鮮やかに記憶していたのは確かなんだぜ。それだけ大事な記憶だったんだ。そいつを覚えている限り、オレたちゃどこも変わっちゃいねえさ。人間が変わるのは、過去を捨てようとする時だ」
亜里沙はうんうんと頷いた。
「パンドラはずうっとテラさんを愛して暮らした。ユータだって過去を大事にしていたからパンドラに付き合った。でなきゃ、面倒に巻きこまれるのを恐れてオレたちや警察に相談しろと勧めていただろう」
「………」
「テラさんだけが過去を捨てた。つまりは大人だったというわけだ」
「大人か……なるほど」
「皆がおなじように大人になっていたら、そもそもこんな事件は起きなかった。そんな気がするよ。子供の中に、たった一人、テラさんという大人が混じっていたから……」
長山の言葉に蛍が泣いた。涙が溢《あふ》れて頬をつたった。亜里沙がその肩を優しく抱いた。山影は沈痛な思いで蛍を見守った。寺岡が蛍の恋人だったことは塔馬から耳にした。そして、その寺岡を殺したのは従兄の築宮だ。記者連中たちは面白おかしく蛍を責めたてる記事を書くだろう。
電話が鳴り響いた。
山影は受話器を取り上げた。
「……私がそうです」
電話に応じている山影の表情が直ぐに厳しいものに変わった。
「『北の城』って言うと……国道から少し入ったところでしたな」
山影は手元の紙にメモした。
「変わった様子が見られないなら、そのまま包囲していてください。私どもは三十分もあれば。もし不審な行動に移った場合はお任せします」
山影は電話を切った。
「ユータですね!」
「モーテルで車が発見されました」
山影は緊張した声で伝えた。
「消防団からの連絡です。まさかこんな時に女性と一緒ということも考えられんですな。車は朝の十時頃にやってきたそうです。こちらにむかうつもりが、気が変わって……」
山影は皆を急《せ》かせた。
「……やはり、消防団に踏みこんでもらった方がいいですかね」
「自殺ということも!」
塔馬は靴を履きながら見上げた。
「責任は私がとります。消防団に連絡して確認してもらいましょう」
山影はパトカーの無線を手にすると麓の警察を呼び出した。
パトカーは雪道を慎重に下る。塔馬と長山は山影と一緒の車だ。亜里沙と蛍は後ろの車に乗っている。それに続いて記者たちのチャーターしたタクシーが何台も尾《つ》いてくる。
「これで半分だぜ」
長山は夕闇が忍んできはじめている谷底を見下ろしながら呟いた。
「ダイスケ、テラさん、パンドラ、そしてユータだ。たった十日の間に仲間が半分も死んだよ」
「まだ決まっちゃいない」
塔馬は目を瞑《つむ》った。消防団から連絡がくるまでは、あれこれ想像しても仕方がないのだ。
「2号車どうぞ、2号車」
雑音|混《ま》じりの無線が入った。山影は無線をひったくった。
「死体を確認しました。現場に急行してください。どうぞ」
「了解……」
山影はなにも聞かずに無線を切った。タバコをくゆらせる。厭な幕切れだ。そう考えているに違いない。塔馬と長山も無言で前を見詰めた。
4
塔馬たちが現場の「北の城」に到着した時には、すでに物見高いやじうまが大勢集まっていた。白湯温泉は深い山の中の一軒宿だ。あれだけ世間を騒がしているのだから、やじうまたちも本当は白湯の方に興味を持っているのだろうが、警察も神経を尖《とが》らしているし、簡単には近寄れない。そこに町の側のモーテルで関係者が自殺したらしいとの噂を聞けば、駆けつけるのが当たり前だ。
塔馬と長山が車から降りても、ひそひそ声で遠巻きにしていただけだったのに、続いて到着した蛍の姿を認めると、どよめきが起きた。ビデオカメラを担いだ報道関係者が到着するに及んで、やじうまたちの私語はますます高まった。
山影は築宮の死体がある棟を消防団員から聞かされると、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「扉を破って入った時には、完全に事切れておったそうです。薬ぐらいだったら少しは望みもあったんでしょうが……喉を刃物で切った」
戻ると塔馬たちに伝えた。
「一番奥まった棟です。まだ死体はそのままにしてあります。室内は血だらけの状態で……ご覧になりますか。我々も顔は見知っていますから確認の必要は特に……そうか、蛍さんは築宮さんの親戚でしたね」
山影は蛍に視線を動かした。
「行きます。今度ばかりは」
蛍は健気《けなげ》に先頭に立った。塔馬も続く。長山も亜里沙も向かった。
縄を張った棟の前には警官が直立不動の姿勢でいる。
「遺書がありました」
山影たちの足音を耳にして、部屋の中から若い刑事が顔を覗かせた。
「写真はまだですんで、室内を荒らさないようにしてください」
刑事は蛍に言うと入れ替わりに棟からでた。血が入り口のところにまで流れている。さすがに蛍は入室を躊躇《ためら》った。青ざめた顔で塔馬を振り向く。塔馬と長山が上がった。
「ユータ……」
折り曲げた膝を浴衣の紐でしっかりと縛り、ベッドに転がっている築宮の死体があった。両脚を紐で縛ったのは不様《ぶざま》なところを見せたくなかったからなのだろうか。
──パンドラが死んだ。十二年前にじゃない。今朝死んじまった──
塔馬一人だけに残された築宮の遺書の書きだしはそうなっていた。分厚い。築宮は覚悟を決めて、このモーテルに潜むと何時間もかけて遺書と取り組んだに違いない。筆使いにはかなりの乱れが見られた。塔馬は文面に目を走らせた。
──オレのところに警察から連絡があったように、きっと今頃はトーマさんにも報告が届き、あるいは白湯に向かっている時間かも知れない。本当はトーマさんに会って、直接言いたいこともある。けど、それをやれば未練が残る。まだ発見されていないだけかも分からないが、パンドラは遺書も書かず、無言で死んでいった。あいつの気持を思えば、男のオレが今さら未練などと言ってはいられない。責任は全てオレにある。裁判を待つまでもなく、ダイスケやパンドラを死なせてしまった責任は全部オレにあるんです。
トーマさんはどこまで分かっているんだろうか。もちろん、崖から飛び下りたのがパンドラってことは、この手紙を読んでくれている時点で承知だと思う。警察の連絡では岩に顔をぶつけたらしく、身許が不明だと聞かされたが……仲間なら分かるよな。どんなに会っていなくても、パンドラの小さな体を見れば皆がきっと思い出してくれるはずだ。四十近いってのに相変わらず子供臭くて生真面目なヤツでさ。オレは好きだった。若い頃にはさほどとも思わなかったのに、今のパンドラは本当に可愛い女だった。もう目茶苦茶な文章になってる。これじゃなにがなんだかトーマさんにも分からないだろう。パンドラとは三カ月ほど前に仙台の店で再会しました。それから今日までオレは彼女を仙台のアパートに囲って面倒を見てきた。こう書けばどんな店にパンドラがいたか想像できますね。彼女の体はボロボロになってたが、心は昔のままだった。最初はただの同情のつもりだったのになんとなく女房に言いそびれてしまったことが、結局はこんな結果になっちまったんだと思うと、オレは自分が情けない。なんであの時に仲間の皆に連絡し、パンドラの苦しみを救ってやれなかったのかと、そいつだけが心底悔やまれて……オレはこの世の中で一番卑怯な人間だ。汚い下種《げす》だ。仲間のはずなのに、いかがわしい店で出会ったために女房にも言えず……いや、この期に及んで嘘はやめます。オレは自分の欲望のためにだけ、パンドラの存在をだれにも隠し続けた。弱い立場にいた彼女を善意を装って弄《もてあそ》んでいたんだ。正直言って、最初のうちはパンドラの過去など、どうでもよかった。もちろん、いろんなことを聞きだしたりもしたけど、それだって大した理由からじゃない。ただの寝物語にすぎなかった。
ところが一カ月、二カ月と時間が経つにつれて、オレはだんだんとパンドラにのめりこんだ。他の女に較べて彼女が奇麗な女だったわけじゃない。それどころか反対だった。十二年も逃げまわっていたせいで、体の張りも失い、すっかり痩せこけ、骨に薄い皮がへばりついているだけのような脚には、栄養失調でできたたくさんの瘍《かさ》の痕まであった。店でも客から敬遠されているような状態だった。それでも……オレは彼女を手放せなくなった。パンドラが好きでオレと過ごしているんじゃないのは薄々感じていた。なのに、誘えば厭な顔一つしないで布団に入ってきたのは、生活費を運んでくるオレに対しての感謝でしかなかった。もはや寝ることは彼女にとって、なんの意味もないことだった。そのくらい彼女は辛い人生を過ごしてきたんだ。パンドラはオレが寝る素振りを見せず、酒を飲みながら昔話をはじめると、本当に嬉しそうな顔で付き合った。特にテラさんの思い出話になると、まるで別人のように目を輝かせて笑い転げる。テラさんが原因でこんな辛い目に遭ったというのに。オレは次第に嫉妬を覚えました。目の前にいるパンドラをオレはいつでも抱ける。だが、パンドラはオレを愛していない。拒否されれば諦めもついただろうに……だんだんテラさんが憎くなってきた。テラさんはパンドラを利用しただけだと何度言い聞かせたか分からない。なんでそんな男のために、いつまでも犠牲になっているのかとね。こう書けば、いかにもパンドラのことを思っての言葉に聞こえるけれど、本心はそうやってパンドラの胸の中からテラさんを追いだしたかっただけだ。オレは会うたびにテラさんの悪口を言った。
ここまで書いた分を読み返していたら、重要な問題を書き落としていたことに気がついた。これは山影さんに再調査してもらえば事実がはっきりすると思うけど、テラさんは四十五年に一人の男を殺している。パンドラの話では山本文夫という幼馴染みらしい。三億円事件となにか関係があるはずだと聞いたが、オレには正直言ってよく分からない。テラさんはその男を殺して開業資金を手に入れた。その事実を知った彼女は身の危険を感じ、我々の前から姿をくらませたと言う……テラさんの突然の成功を思えば、本当のような気もするし、パンドラの考え過ぎのような気もした。
オレは嫉妬のあまりに、いつもその話を持ちだし、警察へ出頭して事件の再調査を頼むべきだと繰り返した。そうすればテラさんに命を狙われているという妄想からも逃れることができる。妄想じゃないとパンドラはそのたびに泣いた。それに、自分が納得して姿を消したのに、今さらそうすれば、何年も苦労してきた意味がなくなるとも……テラさんを殺人者と知りながら、それを自分一人が庇《かば》い続けているという気持が、彼女の心の支えになっていたのかもしれません。いつかはテラさんが自分の居場所を突き止め、口封じに殺しにくるんだと信じることで、パンドラはテラさんとの繋がりをいつまでも持ち続けていられたんだ。オレはそいつに気づき、テラさんを諦めさせるには、事実をはっきりさせる他にないと思った。殺人が本当ならテラさんも逮捕され、彼女の心も吹っ切れるに違いない。しかし、彼女が警察に証言しないのはこれまでの態度でも明らかだった。オレはパンドラを必死で説得し、テラさんに自首を勧めるのが仲間としての思いやりだと言い張った。これにはパンドラも心を動かした。あの人もきっと辛い思いで生きているはずだ、とパンドラは頷きました。
なにか効果的な方法がないかと話し合っているうちに、パンドラはタイムカプセルを思い出した。あれを皆で埋めた時は山本文夫が失踪した直後だったので彼女にもテラさんへの疑惑と不安があったらしく、牽制の意味も含めて、殺人を示唆する記事や指輪を入れたと言う。しかもご丁寧に干涸《ひから》びた猿の指に嵌《は》めてです。この猿の指もパンドラがテラさんから貰ったものだと聞きました。あの頃、幸福を運ぶ兎の手というのが若者の間で流行しましたね。インディアンのまじないかなんかだと記憶していますが、テラさんは二人の未来を願って大学の標本室から猿の指を折ってパンドラにプレゼントしたんです。外国に三つの願いをかなえる猿の手という小説があって、兎よりも利き目があるとテラさんは言ったらしいんですが……その猿の指も含めて、指輪の意味はテラさんにしか分からないはずだとパンドラは断言しました。それで二人とも決心がついた。
十三回忌の時期は間近だった。全員が集まったところで、妙な脅迫状でも現われたら、テラさんはどう思うだろう。しかも、タイムカプセルには指輪と新聞記事がある。どんな人間でも怯えるはずだ。殺人の事実を知っているぞと威《おど》かされれば、耐えられずに仲間に告白するんじゃないか? それが二人で考えた筋書きでした。また、告白しない場合でも目の前には殺人の事実に繋がる有力な手掛かりが転がっている。トーマさんやチョーサクさんなら疑問を抱いて暴いてくれるかもしれない。パンドラはそれにも同意した。実際はこれまでの生活にケリをつけたかったんだと思う。いったん話が進んだら、むしろ積極的に動いた。
オレはダイスケにハガキをだし、あいつから連絡のくるのを待った。案の定、折り返し電話があった。
あとは仲間を白湯に集めるだけだった。とんとん拍子に話は纏《まと》まり、全員が揃った。パンドラは麓の町に待機させ、密接に連絡をとることにした。きっと自首を決意させるまで二日もかからないはずだ。そう思っていたけれど、タイムカプセルを開けて見たら、新聞記事がなんと十三枚に膨らんでいた。こんなことをするのはテラさん以外にない。その時はじめてオレはテラさんの殺人を確信した。もちろんオレはパンドラに報告した。彼女も戸惑った。どうすればいいのか悩んだ。とにかく一日だけ様子を見ようと結論がでた。予定通りに脅迫状をトーマさんたちの部屋に投げ入れ、チョーサクさんとトーマさんの好奇心をくすぐることにした。テラさんの様子を見て、自首を促すのは無理じゃないかとオレは危ぶんでいた。この時点で冗談だったと皆に謝ればよかったと後悔しています。あと一日、あと一日様子を見ようと二人で結論をだしたのが間違いだった。ダイスケが無惨にも殺されてしまった。なぜ無関係なはずのダイスケが殺されなければならないのか……しかし、犯人の見当は直ぐについた。むろんテラさん以外にいない。もしかしたらダイスケは山形営業所時代にテラさんの秘密を探り当てていたのか? それで殺されたとしたら辻褄《つじつま》は合う。だがとんでもない間違いには変わりがない。テラさんは脅迫者を勘違いして殺したことになる。オレがテラさんを無理に追い詰めるような真似さえしなければ、ダイスケは殺されるはずがなかった。死にたい気分だった。
死体が発見されて直ぐパンドラに報告した。彼女も絶望した。自分たちの甘さがダイスケを殺した。パンドラは警察に言おうと主張したが、そうすればオレとパンドラの関係が世間に明るみに出る。オレは必死で拒んだ。それにオレはテラさんを許せなかった。ダイスケはオレの親友だった。そいつを殺しといて平気な顔をしているテラさんが……パンドラに頼んで電話線を切ってもらうことにした。そうしてスキを窺《うかが》ってテラさんをこの手で殺す。それしかダイスケの責任はとれない。幸いテラさんはオレとパンドラが繋がっていようなどとは微塵も疑っていない。だが、オレにも躊躇《ためらい》があった。いくらダイスケの復讐とは言え、簡単に人は殺せない。もしテラさんが卑劣にも逃亡を企てさえしなければ、結局殺せずにいたでしょう。
テラさんは逃げようとしていた。全員に睡眠薬を与え、自分も服《の》んだフリをして掌に吐きだした。注意して観察していなければ見落としてしまいそうな自然さだった。オレも服む真似をして布団の中で様子を見守った。テラさんは皆が寝静まったのを確認して服を着はじめた。なぜ逃げる必要があるのか? 最初は分からなかった。逃げたいのはこちらの方だった。けれど、だんだんテラさんの心が見えてきた。殺人者だからこそ殺人者の存在を恐れる。自分が人を殺せるなら、他の人間だって自分を平気で殺せるかもしれない。そう考えたに違いない。テラさんに復讐者の見当がついていれば、ダイスケのように殺してしまえる。が、あの時点で仲間のうちのだれが復讐者なのかテラさんには予測がつかなかったと思う。警察に疑われることより、テラさんはそれを恐れていた。オレには勇気が湧いてきた。こちらが優位に立っているという気持が殺人を決意させた。部屋を抜け出したテラさんを追ってオレは続いた。昼にテラさんを殺そうと考えた時からナイフは用意していた。思った通りテラさんは裏口からスキーの置いてある小屋を目指そうとしていた。こちらに背中を向け、前屈みになって靴を履いていた。ダイスケを殺された恨みを言ってやりたかったが、まともに顔を見たら殺せなくなる。目を瞑《つむ》って何度も背中を刺した。
自首するつもりだった。
なのにオレはまたその勇気を失った。こんな男など殺して当然だ。幸い返り血も浴びていない。これをおなじ復讐のように見せかけることができれば……ふと思いついた。ダイスケとおなじに首を切り落とし、その場に復讐と思われるような証拠を残しておけば、警察もあるいはごまかせるかもしれない。ただの未練でしかないのに、オレはその考えが捨てられなくなった。そこにパンドラがいたら、自首をする勇気を失うこともなかったはずです。
オレはテラさんの死体を風呂場に運び入れ、首を切断した。血が流れなくなったのを確認し、胴体を小屋の裏側に隠して首だけを沼に運んで行った。もうこれ以上の説明は不要ですね。あとは秘密もない。麓の警察に殺人を伝えると言ってオレは山を下り、その前にパンドラに電話を入れて、早くこの町から逃げるように促した。オレがテラさんを殺したと知ってパンドラは泣いた。てっきりオレのために泣いてくれたとばかり思っていたけど、今考えるとテラさんを失った悲しみの方が彼女にとって大きかったような気もする。それでわざわざ白湯に戻って崖に飛び込んだんだと想像しています。ただの自殺なら仙台のアパートでもいい。
そっとしておけば良かった。
テラさんなんかと張り合わず、そっとオレだけが愛していれば良かった。そうすれば、こんな結果にはならなかった。
女房や子供がありながら、いまだにこういう気持を抱いている自分が恥ずかしい。警察に自首するつもりはありません。情けない男だと笑ってください。刑務所に閉じこめられながら、家族の辛さやパンドラのことを思って生きていくのは、とても耐えられそうにないのです。
パンドラは皆に会いたがっていました。それもあって彼女はケリをつけようと決心したんです。もう言い残すことはなにもありません。ご迷惑をおかけしました。くれぐれも皆に謝っておいてください──
5
「刑務所に閉じこめられながら、家族の辛さやパンドラのことを思って生きていくのは、とても耐えられそうにねえか……どこまでも甘えたヤツだったな。そんなこたぁ、犯行にとりかかる前に思いつきそうなもんじゃねえか。だから普通の人間は犯罪を恐れる。たとえどんな理由があったにしろ、人を殺しといてこの言いぐさはなかろうよ。パンドラの方が遥かに大人だ。遺書も残さねえであっさりと崖から飛び下りてしまいやがった……パンドラの不幸はテラさんを恐れて逃げまわったことじゃない。ユータと巡り合ったことだ」
すべてから解放されて東京に戻る新幹線の中で長山が言った。手には塔馬に残された遺書がある。もうこれで読むのは何度目だろう。特に築宮とパンドラとの繋がりは、だれにも思いがけない告白だった。
「オケイはどうなるんだろうね」
窓の外を眺めていた亜里沙が口にした。蛍だけはまだ白湯温泉に残っている。従兄の築宮が自殺したので事件が片づいても東京へ帰るわけにはいかない。
「辛い立場さ。あれだけ悲劇のヒロインを演じてきたんだ。真犯人が従兄と分かって、世間の同情をいっぺんに失った。当分は仕事などできやしねえ。いくらテレビの世界がいい加減だと言っても、世間の評判を落とした女優にゃ用がない。ひょっとすると女優生命もお終《しま》いだ」
亜里沙も暗い顔で頷いた。それは当の蛍も分かっていたようだ。駅まで見送りにきた蛍の顔が瞼《まぶた》に浮かんでくる。人の目があるので必死に辛さを抑えていたようだが、手を振った蛍の目は死んでいた。立ち直るには少し時間がかかるに違いない。
「しかし……あいつも成長したよ」
長山は塔馬に遺書を返しながら亜里沙に言った。
「ユータが犯人だと発表されて、記者やカメラがオケイに集中したろ。逃げなかったもんな。あれだって今後への計算かもしれねえが……オレならどうだったかね。きっと耐えられんと思うんだ。根性があるぜ」
「私も見直した」
「盛岡から駆けつけたパンドラの両親に対してだってきちんとした詫びをいれた。オケイも今度の事件はユータにすべて責任があると認めたんだろう。死体にとりすがるユータの女房を慰めたのもオケイだった」
長山はゆっくりと煙を吐いた。
「妙なものだよ。年齢の積み重ねが人を徐々に変えていくんじゃない。たった一瞬、たった一つの出来事がそれまでのすべてを栄養にして別の人間に拵えるんだ。オケイを見てると、そんな気がした。あいつはいっぺんに歳をとったが、今までとは違う花になった。もしオレがプロデューサーなら、あいつを使う」
亜里沙は顔を和らげた。
「チョーサクの小説だって変わっていくんじゃない。成長ならチョーサクが一番だわ」
「オレの場合は退化って言うんだ。ミステリーを商売にしてる人間から毒が抜けたら飯の食い上げだぜ」
それでも長山は笑いながら、
「トーマはやけに静かじゃねえか」
隣りの塔馬をこづいた。
「今度ばかりはおまえさんにほとほと感心したよ。本気でミステリーを書いてみる気はないか? いくらでも紹介する。美術評論を仕事にしてるわけだし、原稿にゃ抵抗がない」
「現実だけでたくさんだ」
「………」
「前にも殺人事件に関係して自殺した女性を知っているが……事件の後にはいつもやり切れない思いばかりがつのる。チョーサクには悪いが、人殺しの話なんてのを考えているよりは古伊万里の色や歌麿の絵を眺めている方がずうっといい」
「そりゃ、そうかもしれんさ」
長山は苦笑して頷いた。
「だれだってそうなんだ。なんとか生きていかれるんなら、絵や本だけを読んで毎日を過ごしたい。もっともオレの場合はそいつに酒と女が加わるから情けないけどね」
亜里沙がアハハと笑った。
「オレたちゃどうなるのかな」
長山は真面目な顔をした。
「どうって?」
亜里沙は首を傾《かし》げた。
「仲間の半分が死んだ。これから顔を合わせるたびにそいつを否応なしに思い出す。今は互いに前線から戻った気分で高揚してるが……一カ月も経てば厭な思い出にしかならねえと思うんだ。だんだんと会うのが辛くなっていく。違うかい?」
「なによ、急に。そんなことを今考えたって仕方がないじゃない」
亜里沙は無視した。目を瞑《つむ》ると吉秋の円い顔や寺岡の笑顔が現われてきた。パンドラや築宮も側に並んで見える。不思議とだれに対しても恐怖や憎しみを感じなかった。ただ、仲間を失った寂しさだけがある。
耳の奥底に物悲しい旋律が流れはじめた。自分自身が頭の中で歌っている。寺岡を考えていたら無意識に浮かんできた曲だった。
「フール・オン・ザ・ヒル」
呟いた亜里沙に長山は怪訝《けげん》な顔をした。亜里沙は頬を赤らめた。
「ビートルズの曲名なの」
「丘の上の阿呆……か」
亜里沙は小さく首を振った。寺岡はまさしくそれだったような気がした。いろんな野望を持って自分の丘だけを守っていた。そして白湯温泉という別の丘で、それを崩そうとする仲間を殺したのだ。自分が世の中で一番賢い人間だと思いこんで……。
〈あいつはだれの言葉にも耳を貸さない。皆が自分より愚かだと知っているから。だれも自分とは違う。そう思いつつ、丘の上の愚か者は沈む夕日を見詰めながら、大地の回転を心で感じとっている〉
頭でメロディをなぞりながら、亜里沙は歌詞の意味を考えていた。
車内にも夕日がさしこんでくる。
〈青春は終わったよ〉
塔馬の言葉が実感を伴って亜里沙に迫ってきた。
〈だけど……まだ生きていかなきゃならないもの〉
突然に涙が溢れた。死んだ四人は大人になりたくなかったのだ。そう思うことにしよう。四十だってのに大人になりたくなかっただなんて、あんたたちおかしいわよ。また出直していらっしゃい。
亜里沙は嗚咽《おえつ》をこらえた。
[#改ページ]
エピローグ
三カ月後。
小さなレストランを借りきってのパーティに出席するため塔馬は夕方から新宿にでかけた。
もう暦の上では春だ。会場に近い西口の改札口をでると明るい軽やかな服を纏《まと》った女性の姿が目立った。塔馬は腕時計を睨《にら》むと急ぎ足になった。パーティ開始までにあまり余裕がない。今頃地下広場の中の喫茶店では杉原と奈津子が首を長くして待っているだろう。約束の時刻から二十分も針がまわっている。
「よかった」
喫茶店の前に立っていた奈津子がホッとした顔で頷いた。
「杉原君は?」
「中でお勘定を……どうせ塔馬さんが着いてもコーヒーなんて飲んでいる時間はないから店をでることに」
話していると杉原が顔をだした。
「ふうん。いいネクタイだな」
塔馬は上から下まで眺めた。杉原は服装などに興味を持ったことがない男だった。なのに今日はジャケットばかりか靴までが真新しい。
「この前の日曜、奈っちゃんに選んでもらったんですよ。驚かすつもりだったんで塔馬さんには内緒にと」
「どうりで若い恰好《かつこう》だと思った」
「派手すぎますかね」
「いや。似合ってる。意外だけど」
「イッセイ・ミヤケですよ。なんだかジャケットが歩いてるようで」
それでも杉原は満足そうだった。
「とにかく急ごう。ここからなら歩いて十分だ。ギリギリだぜ」
三人は地上に向かった。
「何人くらいの集まりですか?」
歩きながら杉原が訊いた。
「三十人程度って聞いた。ほとんどが編集者らしい。受賞パーティでもないんだから、そんなもんだろ」
「二十冊記念か……流山さんは作家になって七、八年でしょ。なかなか順調なペースじゃないかな。年に三冊平均てのは大変ですよ」
「本人はパーティなんか照れくさいと最初は断わったそうだが……」
「いやな事件をふっきるためにはちょうどいい機会です。あれ以来、塔馬さんの研究室には一度も?」
「電話では何度か話してる。筆が進まないと、いつも愚痴ばかりだ」
杉原と奈津子は笑った。
「よう。こっちこっち」
扉を押すと奥の席についていた長山が塔馬を隣りに手招いた。用意されている席の三分の一がまだ空いている。塔馬は見渡した。くると聞かされていた蛍と亜里沙の姿がない。
「オケイはちょっと遅れると店に連絡が入っていた。リサはきてる。化粧でも直しにでかけたんだろ」
長山は杉原や奈津子にも親しい笑顔を見せて適当な席を勧めた。
「元気そうだな。電話では締切に追われて参ってる感じだったのに」
「そりゃそうさ。今夜は原稿が遅いって怒る連中が皆ここに揃ってるんだぜ。溜まってる仕事を気にしてチビリチビリ呑む必要はねえ」
どっと笑いが広がった。
「冗談だよ。今日に合わせてここ何日か頑張った。どうせならとことん呑みたかったんでな。それでまあ、和《なご》やかなパーティになってるってわけさ。明日からは四、五日休める」
そこに亜里沙がやってきた。
「オケイのこと聞いた?」
「いや。たった今着いたとこ」
「チョーサクの本が映画になるんだって。それでオケイを主演に指名したそうよ。美談だと思わない」
「よせよ。映画ってのは蓋を開けて見るまで分からんもんだ。撮影に入ってからでも中止になることがあるんだぜ。こっちも半々の気持だったんで気軽にオケイを頼んだだけさ。どうせなら知ってる人間の方が失敗しても諦めがつくと思ってな」
長山は慌てて首を振った。
「オケイが嬉しそうに電話をくれたわ。チョーサクにはあんなに迷惑をかけたのにって……」
「あいつは終始オレを犯人だと決めつけていやがった」
また笑いが起きた。
「けど、いい勉強にはなったんじゃありませんか。編集部内じゃ犯人の心理描写にやたらとリアリティがでてきたと評判ですから」
編集者の一人が言った。
「人でも殺せば、もっとよくなるって意味に聞こえるがね」
長山は相手をからかった。
「山影さん!」
扉を押して姿を見せた山影に気がついて亜里沙は立ち上がった。
「おひさしぶりです」
山影は巨体を揺すって近づいた。
「オレが呼んだんだよ。ミステリーを書いていながら、実際の刑事とはあまり付き合いがない。せっかく馴染みになったんだからさ。途中で自信のない部分にぶつかると、直ぐに山形に電話して彼に聞いている」
「チョーサクって……転んでもただでは起きないの典型だわね」
亜里沙は懐かしそうな目をして自分の隣りの席を勧めた。山影は反対側の杉原を認めると手を上げた。杉原とは盛岡で一緒に行動している。
「そろそろはじめてもいいぜ。後はオケイがきてないだけだ」
長山が幹事の編集者に言うとさっそくビールが運ばれてきた。長山とは古い付き合いの編集者がグラスを掲げて乾杯の音頭をとる。二十冊は人間の成人式だと思ってくださいと締め括ったのが塔馬には印象的だった。長山も殊勝に聞いている。乾杯が終わると会は賑やかになった。
「オケイはあれからずうっと実家にいたんだそうですね」
亜里沙が山影に質《ただ》した。
「ええ。ずうっとと言っても一カ月ぐらいですが……東京へ戻られる日は大変でした」
「大変? どうして」
「見送りの人間が駅に溢れまして」
「………」
「蛍さんはあの町の出身でも、これまでほとんど戻られてはこなかったでしょう。それが一カ月以上も滞在したものだからファンが急増しましてね。あの人に対する同情かも知れないが……いや、違いますな。生身のあの人に接した人間が惚れたんですよ。今では町長を中心に後援会を作ろうという動きにまで発展して」
亜里沙は嬉しかった。蛍は何度か電話をよこしたが、一度もその件は聞かされていない。前の蛍なら田舎の後援会なんて、と言いながらも必ず口にしていたはずだ。
「オケイにそんな話があるなら滅多な悪口も書かれんな」
長山も耳を傾けていた。
「なによ、悪口って」
「書きはじめたんだ」
「………」
「あの事件をだよ。もっともミステリーをメインにするつもりはない。殺人はあの通りに進行するが、オレの書きたいのはオレたちの青春だ。そんなのがオレの柄じゃないのは百も承知だがね……やっぱり覚えているうちに書き残しておきたくなったんだ。皆と会って、いろんなことを思い出したぜ。オレが嫌味なガキだったってのも思い知らされたしな」
「じゃあ私たちのことを……」
「まずいかね」
「別にまずくはないけど……心配だわね。チョーサクと私が恋人だったなんて嘘はよしてよ」
「主人公はトーマだ。もうプロローグだけは書き終えた。皆の承諾を得られたら本格的にとりかかろうと思って……実は持ってきた」
長山はバッグから六、七枚の原稿用紙をとりだした。
「もちろん名前は変えるし、場所も変える。だけど仲間との思い出だけはそのままだ。読んでみてくれ」
長山は塔馬に手渡した。亜里沙も脇で一緒に読みはじめた。
──小雪が舞いはじめた。
灰色の空は濃さを次第に増していく。まだ二時をまわったばかりだと言うのに、なんだかいっぺんに夜になりそうな気配だ。六人の男女は遠い帰り道のことを思ってか憂鬱《ゆううつ》そうな顔で、崖に攀登《よじのぼ》っている二人の男を見上げた。全員厚いスキーウェアを着込んでいるものの、足の爪先から冷えが伝わってくる。
予想以上に時間がかかっている。粘土質の柔らかな土だ。簡単に掘れるとタカをくくっていた。土が凍《こお》っていることなどだれの頭にもなかった。穴掘り作業にとりかかって、優に四十分は過ぎているだろう。
「ねえ。もう諦《あきら》めようよ。シャレだって、こんなに苦労するんじゃ興醒《きようざ》めじゃないの」
円《まる》い目をして勝ち気そうな女が苛立《いらだ》ちの声を上げた。手袋で擦《こす》って暖めていた白い頬が冷気のために強張《こわば》っている。それでも艶《つや》のある若い肌だ。二十歳ぐらい──
「これ、オケイだわ。そうでしょ」
亜里沙が長山に確認した。
「あのタイムカプセルを埋めた時のことじゃないの」
「よく覚えているもんだな」
塔馬も感心して頷いた。
「本当にオケイってこんなセリフを言ったんじゃなかった?」
「私がどうかした?」
いつの間にか蛍が側にいた。明るい笑顔だった。奈津子が蛍を間近で見て、うっとりとした。それほど今夜の蛍は輝いていた。
「よかったね」
亜里沙が蛍の手を握った。
「なんのこと?」
それでも蛍はしっかりと亜里沙の手を握り返した。奈津子が席から立ち上がって拍手した。
掲載誌 週刊文春 一九八七年十月八日号〜一九八八年七月二十一日号
単行本 一九八八年十一月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成三年八月十日刊