[#表紙(表紙.jpg)]
高橋克彦
だましゑ歌麿
目 次
願いの糸口
深く忍ぶ恋
青楼十二時
歌麿形新模様
自 成 一 家
はなふぶき
常 陸 帯
いたずら草紙
潮干のつと
[#改ページ]
願いの糸口
寛政二(一七九〇)年八月二十日の夜。江戸を大嵐による高波が襲った。と言っても大川を遡《さかのぼ》っての被害は少なく、海に面した深川一帯が波に呑まれたばかりだったが、その水勢は凄まじく、恐ろしい一夜が明けてみると洲崎《すさき》辺りはほとんどの民家が波にさらわれ、まるで埋め立てをする以前のごみ捨て場に戻されたかのようなありさまだった。洲崎弁天裏手の木場《きば》の材木も多くが海に流出し、それがさらに被害を広げていたのである。波によって陸へ戻された太い材木が床上まで水に浸《つ》かっている家屋に激しくぶつかり倒壊させたのだ。午後にはなんとか雨も小降りとなったものの、今度は大川の濁流が加わって掻き回した。深川一帯を覆った水が膝の辺りまで引けたのは高波から二日後の昼過ぎだった。それまでに確かめられた死者の数は百と少し。尋常な数ではないが、行方の知れない者はその倍もある。大半は泥水に沈んでいるか海へ運ばれてしまったものと思われる。
水の引けた様子を見て深川から逃れていた者たちが戻ってくる。しかし、どうにもならない。ただ、壁が崩れ、屋根を失った我が家を呆然として眺めるだけだった。町方《まちかた》の舟が一昨日《おととい》までは道や畑だったところを盛んに漕ぎ回って死骸を捜している。子供や年寄りの死骸がそうしていくつも水から引き揚げられた。だが、その光景を肝腎の住人たちは死んだ魚とおなじ無表情な目で追うことしかしない。この二日のうちに涙すら涸《か》れ果てているのだ。泥水を掻き分け、崩れかけた家屋に潜り込み、必死でだれかの名を叫びながら捜しているのは、決まって深川の住民ではなく、急を聞いて遠くから駆け付けた縁者だった。
夜までには各々の町内の番屋《ばんや》だった辺りに仮小屋が建てられ、死骸が運び込まれた。この時点で身元の不明なものは、水で膨れている上に潰《つぶ》れた家屋の下敷きとなって識別のむずかしい死骸がほとんどである。特に家屋の流出の酷《ひど》かった弁天近くの久右衛門町の仮番屋の土間にはそうした十五以上の死骸が折り重なるように並べられていた。いや、入り切れないで外の筵《むしろ》に投げ出されている死骸まである。こうなると死骸を綺麗に洗い清めることもできない。顔の泥ばかりを桶の水で乱暴に洗い落としているだけだ。この時節、二日近くも泥水に浸かっていた死骸はすでに腐臭すら放ちはじめている。縁者を捜す者たちは吐き気を堪《こら》えながら目玉の潰れた死骸などを提灯《ちようちん》の明かりを頼りに一瞥《いちべつ》する。認めたくないという気持ちもあるせいか、照合もなかなか捗《はかど》らない。衣類などで判断しようとしても半分以上は丸裸に近い。しかも水膨れの体だから顔が潰れていればそれも当然であろう。
それでも今日のところは一段落がついて、泊まり番の男たちが景気づけの酒と煮物をつついているところに若い提灯持ちを引き連れた恰幅《かつぷく》のいい武士が暗い顔をして現われた。
「この辺りは確かに久右衛門町か」
外の木札を見てのことだろうに、男の目には戸惑いが見受けられた。なにしろまともな家屋が見られず、たいがい瓦礫となっているのだから無理からぬことである。
下帯一つで酒を酌み交わしていた男たちは武士に対して気後《きおく》れもせず頷《うなず》いた。
「女の行方を案じて参ったが……」
男の目は土間に投げられている死骸に向けられた。思わず吐息《といき》する。
「歳は二十六。名はおりよと言って、この番屋の場所が確かなら通りを挟んだ向こうの菓子屋の裏手に家があったはず」
さあてね、と男たちは顔を見合わせた。泊まり番と言っても深川に縁のある者たちではない。武士の足は死骸に向けられた。さすがに武士だけあって肝は据《す》わっている。死骸の中から女ばかりを選び提灯を近付ける。
「わずかしか会っておらぬが……どれも違うらしい。まずは安堵《あんど》した」
武士は一人頷いた。
「これは旦那、ご苦労さまにござります」
のっそりと入ってきた男に皆は挨拶した。月番《つきばん》に当たる南町奉行所の同心である。年頃は三十六、七。精悍《せいかん》な顔立ちをしている。
「そこのお人は?」
同心は小屋の中の武士を認めて男たちの方に質《ただ》した。男たちは首を傾《かし》げる。
「秋田藩の江戸詰めで谷藤と申す者。関わりのある者の行方を案じてまかりこした」
「それはご心配にござりますな。手前は仙波一之進と言います」
仙波も丁寧に頭を下げて応じた。名を聞いて谷藤の目が動いた。承知の名だったらしい。
「すると……お手前が……」
「千一にござるか」
自分で言って仙波は笑った。名との語呂合わせで千に一つも目こぼしがないと恐れられている。今は老中松平定信の命による緊縮政策の真っ最中でなにかと厳しい時世である。職務に忠実であるだけに過ぎないのだが、田沼|意次《おきつぐ》の時代に贅沢に慣れ親しんだ者たちにすれば鬼の手先としか見られていない。
〈なるほど、秋田と言ったか〉
笑顔はそのままに仙波は谷藤を見やった。
先代の藩主佐竹|義敦《よしあつ》公は田沼意次との癒着をなにかと取り沙汰されていた人物だった。本来なら意次と同罪と見做《みな》されて松平政権から糾弾を受けてしかるべき存在であったのに、幸いにもと言うべきか、その義敦公が意次失脚とほぼ時をおなじくして病没したのである。お陰で秋田藩はことなきを得て今に至っているのだが、そういう事情のある藩であれば奉行所の動きに目を配っていても不思議はない。名が伝わっているのも分かる。
「それで……消息の方は?」
「まだなんとも。女の亭主《つれあい》の方は旅に出掛けておったはず。あるいはこのことをまだ耳にもしておらぬやも……それが気の毒でならぬ」
谷藤は心底から案じているらしかった。
「見えないのは女性《によしよう》でござるか」
「この暗さでは住まいのあった場所の見当もよくつかぬ。明日にでもまた出直すといたそう。名はおりよと申してなかなかの美女。この界隈《かいわい》でも知られていた者。もし居所でも知れたときはこの番屋にその旨を残し置いてくだされまいか」
「かしこまってござる。心掛けておきますゆえ吉報をお待ちくだされ」
仙波が請け合うと谷藤は目を上げて、
「噂とはだいぶ違う」
緊張を緩めた。
「いや、噂通りの江戸には似合わぬ野暮な男。融通の利《き》かなさに己れが呆れており申す」
仙波は一礼して話を切り上げた。
四半刻《しはんとき》(三十分)ほど小屋で休息してから仙波はまた配下の菊弥を従えて闇の中に出た。行方不明の者を捜すためではない。夜を狙って潰れた家屋に潜り込み盗みを働く者が横行しているのだ。
「菓子屋の裏手と言ったな」
仙波は谷藤の話を思い出して菊弥に確かめた。菊弥も頷く。
「とすりゃ、あっちだろう。ちょいと様子を見てみるか。先に行け」
仙波は菊弥を先に歩かせた。水はほとんど引けて踝《くるぶし》までの泥となっている。どんなときでも黒|足袋《たび》に草履《ぞうり》が自慢の仙波だが、この泥では閉口する。足袋がぬるぬると滑って泥に転げそうになる。
「旦那、これでやしょう」
菊弥が半壊の店を提灯で照らした。板戸はなくなって店の中に板切れやら奥の箪笥やらが足場もないほどに溢れている。箪笥の引き出しが抜かれているのは家人のしたことだろう。餡《あん》を煮る鍋が泥に浮いているので菓子屋だったと知れるだけだ。
菓子屋は大して覗かずに仙波は裏手に回った。菓子屋が盾となってくれたらしく裏手の家は割合に無事だった。谷藤はここまで来られなかったと見える。この様子を目にすればあれほど案じないに違いない。仙波は中に上がり込んだ。無事なのは外観ばかりで中の様子は思いの外に酷《ひど》かった。襖《ふすま》の半分辺りまで泥水の線が残っている。布団や衝立《ついたて》が倒れた箪笥の下敷きとなっている。
「二階を捜せ。昼にだれかが捜したはずだが、万が一ってこともある」
仙波は命じて奥の部屋に踏み込んだ。
白い紙が異様に散らばっていた。筆や絵の具皿と思われるものがいくつも泥に沈んでいる。絵師の住まいと仙波は想像をつけた。この部屋はどうやら仕事場で、気になるようなものは見当たらない。眺め回していた仙波は苦笑した。無意識に、気になるものを捜していた自分がおかしかったのだ。ここは大水に浸かっただけの家に過ぎない。
「旦那!」
二階から菊弥の慌てたような声が聞こえた。仙波は引き返して階段を駆け上がった。
「こいつを見てくださいよ」
菊弥は畳を照らした。泥の足跡が布団と畳を汚していた。二、三人のものだ。
「これがどうした? 昼にだれかが上がり込んだんだろうぜ」
仙波は鼻で笑って足跡を辿った。足跡は押し入れの前でだいぶ乱れていた。なにかを押し入れから引き摺って出した痕跡がある。足跡がそれで消されていた。仙波は押し入れの中を覗きこんだ。人が隠れていたような隙間があった。床に血の跡らしきものも認めて仙波の眉がぴくぴくと動いた。
「どういうこってございやしょう」
「幸いに家は流されなかったが、大水のせいで女は逃げられなかった。そこに盗みを目論んだ連中が押し入ったってとこだろう。女は階下《した》の物音に怯《おび》えて押し入れに身を隠した。そうとは知らねえ盗人どもがここへ現われて……女を引き出したって寸法だろうな」
「てと……女はどこに?」
「恐らくは顔を見ている。火事や大水に付け込んだ盗みは死罪だ。殺すしかなかろうぜ。と言ってこの家で殺《や》りゃ死骸が直ぐに見付かる。この通り、一帯にゃ夜っぴて町方が出張《でば》っている。俺が盗人なら家から連れ出して離れた場所の泥水に沈める。だれが見ても水に流されて死んだとしか思うめえ」
言いつつ仙波は唇をぎりぎりと噛んだ。
そうに違いないと思うのだが、この状況ではなんともならない。どこを見渡しても泥水ばかりなのだ。女の死骸にしても果たして見付かるかどうか……二百近い死骸を捜しているときに一人の女だけに絞れとは言えない。
〈運のねえ女だ〉
家が流されずに残ったときはさぞかし安堵の胸を撫で下ろしたことだろうが、次にもっと恐ろしいことが待ち受けていたのだ。
〈ん?〉
仙波の目は行灯《あんどん》に向けられた。昨夜のことなら女はむろん行灯を点《とも》していたはずだ。あの心細さの中で女が行灯を消して寝たとは思えない。助けのあるのを願って朝まで点したままにしておくだろう。とすれば盗人らにもこの家に人が居ると分かったに違いない。それを承知で押し入るとは奇妙な話である。仮に女一人と昼に下見していたとしても、騒がれれば危ない。
〈どうなっていやがる〉
布団がこうして敷かれているのを見ても襲われたのが夜中のことと知れる。朝なら水もだいぶ引けていたので女も自力で助けを求めて、その前に家を出たはずだ。
「こいつはなにやら裏がありそうだ」
仙波は顎《あご》に指を当てた。
「ただの盗人とは思えねえの」
「と言いやすと?」
「今|訊《き》かれても俺に分かるか」
仙波は言い捨てて階段を下がった。番屋に戻ってこの家をこれ以上荒されないように言わなくてはならない。
仙波が出て番屋への道を辿っていると、前方から提灯が近付いて来た。相当に慌てているようで提灯が揺れている。泥を撥《は》ねる音からもそれが分かる。間もなく二人の男が仙波の脇を通り過ぎた。二人の息は荒い。立ち止まって二人の行方を目で追った仙波は、菊弥を呼び止めてまた引き返した。直感で二人があの家と所縁《ゆかり》の者と察したのである。
二人の影が菓子屋の角を曲がるのを見届けて仙波の足も速まった。
慌ただしく家に踏み込む物音がする。女の名を呼び続けている。仙波も後に続いた。
階段から下りてきた男と仙波の目が合った。
男はぎょっと階段に立ちすくんだ。
四十やそこらの年配と見える、どこか気弱な風合いの男だった。男の目は仙波の紋付きと刀に動いて、わずかに頷いた。
「おりよは無事でしたか」
いいや、と仙波は無言で首を横に振って、
「この通り家は助かった。あるいは知り合いを頼って逃れているのかも知れねえが、どうも気になることがある。あんたが旅に出ていたという亭主らしいな」
へえ、と男は落ち着かない様子で応じた。
「だれぞが踏み込んだ形跡がある。俺の推量に過ぎねえが、女房はその連中に連れ出されたような気がする」
男は目を丸くした。
「押し入れの中に血の跡も見付けた。大した量じゃねえから鼻血かなんかだろう。しかし、いずれにしろあんたの女房《かみ》さんはそこに隠れていたってことになる。周りはこの惨状だ。気が変になって押し入れに身を縮めていただけだといいんだがな」
「おりよはそんな女じゃねえ」
男は激しく言いつのった。
「この近隣に頼る相手の心当たりは?」
「一人や二人なら……」
「まずそっちを当たってみてくれ。俺は南町の仙波一之進て者《もん》だ。当分は久右衛門町の番屋に詰めている。今の様子じゃこっちも満足のいくような手配もできなかろうが、なんとか相談に乗ろう。もし心当たりを捜して埒《らち》が明かねえときは遠慮なしに訪ねてきな」
男はぼんやりと仙波に頷いた。なにが起きているのか解《げ》しかねている。
「きっと来るんだぜ。今夜のとこはそれだけだ。ぐずぐず話もしていられなかろう」
詳細は後でゆっくり訊けばいい、と仙波は思いながら男の名前だけを質した。
「喜多川歌麿の名で狂歌本や一枚絵を描《か》かせて貰っております」
「喜多川歌麿だと」
仙波は男の顔をまじまじと眺めた。
「知ってくれておいでですか」
「こんなとこに暮らしていたとは思わなかった。そうかい、あんたが歌麿《うたまる》か」
「こっちは弟子の行麿《いくまる》で」
言われて若い二枚目の優男《やさおとこ》が頭を下げた。
「おめえが行麿か。一昨年、朋誠堂喜三二《ほうせいどうきさんじ》の文武の絵を手掛けた野郎だろう」
朋誠堂喜三二作の『文武二道万石通《ぶんぶにどうまんごくどおし》』は松平定信の改革政治を揶揄《やゆ》した洒落本《しやれぼん》で、未曾有の大当たりとなった。その絵を手掛けた行麿の名もお陰で大いに知れ渡っている。無類の筆達者ではあるが妙に生真面目な師匠の歌麿よりも、あるいは行麿の名の方が市中に伝わっているかも知れない。
〈そうか。朋誠堂喜三二は確か……〉
平沢なにがしとか言って秋田藩の留守居役であったことを仙波は思い出した。それで先ほどの谷藤とも繋《つな》がる。朋誠堂喜三二は手柄岡持《てがらのおかもち》の名で狂歌の世界でも知れている。当然、狂歌本を多く手掛ける歌麿とは親しいはずだ。深川の大水のことを聞き付けて谷藤を走らせたのは朋誠堂喜三二だったに違いない。
「歌麿と知れりゃ話は別だ。女房《かみ》さんがあるのも知らなかったが……心配なこったろう。旅先で聞いても江戸にゃ簡単に戻れねえ。さぞかし辛い思いで戻ったことだろうな」
仙波は神妙に頷いて、
「俺も一緒に心当たりを回ってやろう。なんなら番屋の若い者らを走らせてやってもいいぜ。その方が早く知れて安心だ」
「ありがとう存じます」
歌麿は歳も忘れてぼろぼろと涙を溢れさせた。この様子では歌麿も仙波の鬼と変わらぬ噂を耳にしていたらしい。
「一昨年あんたの手掛けた『画本虫撰《えほんむしえらみ》』な」
仙波は歌麿を外に促しながら、
「隠居している親父が感心していたよ。虫や生き物がまるで生きているようだ。俺も見せられてそう思った。その相手と、まさかこんな夜に出会うとは……」
不思議な巡り合いだと思っていた。
「それは嬉しいことで」
歌麿は気もそぞろで仙波に応じた。
歌麿から行方知れずの女房が頼りそうな者の名と住まいをいくつか聞き出した仙波は、久右衛門町の仮番屋に引き返して泊まり番の若い者らを走らせた。真夜中近いが、これには人の命が懸かっている。
「へえ、佐賀町の質屋は山東京伝の実家《うち》か」
仙波は番屋で歌麿に熱い茶を勧めながら頷いた。一通りの当たりがつくまでは番屋で待つようにと誘い入れたのである。どれほど歌麿が女房の身を案じても、この瓦礫と泥の上に真夜中ではどうにもならない。
「霊岸島《れいがんじま》の|銀 (しろがね)町の笹屋ってのは?」
仙波は書き付けに目を動かして訊ねた。
「もぐさを商っている大きな店で。昔から懇意にさせて貰っております」
歌麿はまだ放心の様子で応じた。
「|通 油《とおりあぶら》町の蔦屋《つたや》は遠過ぎる。頼るとすりゃ佐賀町か銀町と思うがな」
歌麿も仙波の推測に小さく頷いた。
「大水のことはどこで知った?」
「今朝、江ノ島で聞きやした」
弟子の行麿が代わりに答えた。
「三日前から出掛けて江ノ島の宿で画会を開いていましたんで」
「女房《かみ》さんと一緒に居れなかったのは気の毒だったが、ものは考えようだぜ。三百人近くが溺れ死んだ。運が良かったと思いな」
「おりよのことを思うと……」
歌麿はがっくりと肩を落とした。二人で死んだ方がましだったとでも思っているらしい。
「心配するな。じきに若い者らが戻る」
仙波の口調は珍しく優しくなった。歌麿と言えば鳥居清長を追い越すに違いないと世評の高くなりつつある絵師だ。恐らくは銭回りも良く、女遊びにも不自由しないはずなのに、女房の行方を本心から案じて涙も隠さない。四十近い男にしては少し情けない。そこが反対に仙波の気に入ったところだった。
「にしても、あんたが深川に住んでいたとは思わなかった。仕事に差し障りはねえのか」
「二年前までは蔦屋の裏手に住まわせて貰っておりましたが……おりよが賑やかな町中を嫌ったもので。幸い版元がしげしげと」
「なるほど。あんたほどの腕がありゃ、どこに居ようと一緒か。いかにも」
仙波は得心した。
「どうせこのご時世じゃ、ろくな仕事もできやせん。田舎回りの画会で日銭を稼ぐなら、江戸のどこに暮らしていてもおなじことで」
歌麿は自嘲の笑いを洩らした。仙波に対する皮肉も込められている。松平定信の経済引き締め政策の槍玉に錦絵がしばしば問題とされて挙げられている。色の制限や豪華な組物《くみもの》の禁止はまだ分かるとしても、遊女の名や廓《くるわ》の店の名を明らかにしてはならないということになると仙波も首を傾げてしまう。それが遊興心を煽るという理由らしいが、どれほどの効果があるものか。むろん幕府の批判はご法度《はつと》で、少しでも怪しい部分があれば直ぐに絶版の処置が取られる。朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』もその憂き目に遭った。
「そう言えば──」
それで仙波も思い出して、
「女房《かみ》さんの消息を案じて、ついさっき秋田藩の谷藤ってお人がこの小屋を訪ねて来たぜ」
歌麿は何度も首を縦に動かした。
「住まいを捜し出せなくて、また明日にでも来ると言って帰《けえ》ったが。秋田藩とは格別な付き合いでもあるのか?」
「留守居役の平沢|常富《つねまさ》さまとはだいぶ以前より親しくさせていただいております」
「朋誠堂喜三二だな」
「今は戯作の筆をすっかりお断ちに」
「秋田藩は目を付けられているぜ」
それに歌麿は曖昧な笑いで応じた。
「なんにしろ案じてくれる者が居るのはありがたいもんだ。あんたの人徳だろう」
仙波は世辞ではなく言った。
若い者たちが相次いで戻ったのはそれから半刻後のことだった。一番頼りとしていた佐賀町も銀町も当て外れだった。
「これは、笹屋さん」
少し遅れて番屋に駆け付けた男の顔を見て歌麿は泣きそうな様子で頭を下げた。
「こんな夜分にわざわざあいすみません」
「なにを言われる。こっちもずっと心配していたのさ。家が流されていないと聞いたんで、てっきりどこかに居なさるもんだと。まさかおりよさんの行方が知れぬとは思わなかった。まったくとんだことになったもんだね」
男は歌麿に声をかけてから仙波に顔を動かして笹屋五兵衛と名乗った。商人《あきんど》にしては貫禄のある男だった。目付きも鋭い。
「こうなると本腰を入れずにゃいられねえの。今夜は無理だろうが明日は人を集めて捜させよう。とりあえず後は俺に預けて、あんたは引き揚げるがいい」
「ここにおります」
「居て貰っても構わねえが、朝まではなにもできねえ。ゆっくり体を休めるがいいぜ」
「そうした方がいい。今夜は店の方に」
笹屋も仙波に頷いて歌麿を口説いた。親しい笹屋の顔を見たこともあって歌麿は同意した。仙波に何度も礼を言って立ち去った。
「よほど女房《かみ》さんに惚れていると見える。気の毒に。この様子じゃ無事とは思えねえ」
仙波の言葉に若い者らも神妙に頷いた。
「茶を啜《すす》ったら、も一遍行くぜ」
仙波は配下の菊弥に言った。
「どこにでやす?」
「歌麿《うたまる》の家だ。なにか見落としがあるかも知れねえ。二、三人、灯りを持ってついて来い」
仙波は脇に置いていた刀を腰に差して立ち上がった。
〈妙だな……〉
上がり込んであちこち調べていた仙波は畳や階段に残されている足跡を見やって首を傾げた。足袋の足跡ばかりなのである。自分がそうなので先程は特に不審を覚えなかったが、この時節、町人はほとんど足袋を履《は》かない。裸足で泥の中を歩き回っている。茶碗のかけらや釘で足の裏を傷付ける心配はあるが、慎重に足を運べば済むことだ。逃げ足のことを考えて盗人たちが足袋を履いていたとも想像できるが、そこまで目端の利いた連中たちなら行灯の点っている家に押し込みはしないだろう。武士の仕業《しわざ》かも知れん、と仙波は思い付いた。第一、盗人であれば、たとえ顔を見られたとしても箪笥や押し入れを掻き回して行きそうなものだ。
〈最初《はな》っから歌麿の女房が狙いで来たのか〉
この大水のどさくさに、それも考えにくいが、どうもそうとしか思えない。
「旦那! 階段の裏にこんなものが」
菊弥が印籠《いんろう》を手にぶら下げて来た。
「立派なもんですぜ。歌麿のもんでしょうか」
「違うな」
手に取って仙波は断定した。
「歌麿は旅に出掛けていたんだ。それなら印籠を持って行くだろう。階段の裏ならしょっちゅう掃除をしている。前になくしたもんでも見付かっているはずだ。こいつは恐らく押し込んだ者が落としたもんに違いねえ」
「盗人がこんなに豪勢な印籠を?」
菊弥は疑った。蒔絵《まきえ》までしてある。
「俺の睨みと一緒だ。こいつはただの押し込みじゃねえと言っただろう」
仙波は印籠の蓋を引き上げた。中は三つの仕切りとなっていて丸薬が詰まっている。掌に転がして匂いを嗅ぐ。
「胃の薬だ。熊の胆《い》も混じっている」
安い薬ではない。仙波は確信を抱いた。
「いってえ、どういうことなんで?」
「ここで見たことは口外するなよ。俺が口にするまで印籠のことは歌麿にも言うな。どうも気に入らねえ。足跡の数から見りゃ押し込んだのは三人。たった一人の女のとこへ押し入る人数じゃなかろう。本当の狙いは歌麿だったのかも知れねえ」
「どさくさに紛れて歌麿を殺《や》ろうとしたんで」
「あるいはな。たまたま江ノ島に出掛けて留守だったのが幸いしたとも取れる」
「だったら歌麿を問い詰めりゃ心当たりが」
「まず女房の行方が先だ」
「熊の胆でしたら薬種問屋を片端から洗って印籠を見せりゃ足がつくかも知れませんぜ。滅多に出る品物じゃねえはずでさ」
「そいつも、も少し様子を見てからだ」
仙波は逸《はや》る菊弥を制した。
「死骸も見付からねえうちからうろちょろもできめえ。騒ぎを大きくするだけのことよ」
だが──
その翌日の昼過ぎにおりよの消息は知れた。久右衛門町からだいぶ離れた高台にある寺に、それと思《おぼ》しき女が居るとの知らせを受けて仙波が歌麿ともども訪れたところ、間違いなくそれは捜し求めていたおりよだったのである。
なにかで強く頭を打ったらしく満足に口も利けぬありさまだったので寺も身元が分からずに困り果てていたのだ。歌麿は熱に浮かされてうわ言ばかり繰り返すおりよと対面して号泣した。だれが見ても三日とは保《も》たない病状であった。さぞかし美しかっただろうと想像される細面《ほそおもて》の白い顔に無残な青痣《あおあざ》がべったりと染み付いている。瞼は腫れ上がり、左目はほぼ失明していた。歌麿はおりよの名を呼びながら華奢《きやしや》な半身を抱きかかえた。医者も制しはしない。どうせ助からないと見ているのだ。泥に汚れた黒髪が哀れであった。おりよは昨日の昼、この寺の近くの藪に倒れていたのを発見されて運び込まれたものらしい。
おりよをしっかりと抱えて泣き続ける歌麿を残して仙波は住職を別の部屋に促した。二間離れて襖を締め切っても歌麿の嗚咽《おえつ》が聞こえてくる。仙波は溜め息を吐《つ》きながら、
「連れて来られたときはどんな様子だった」
住職に訊ねた。
「酷いものにござった。腰布一枚で藪に転がっていたそうにござる。命からがら大水を避けて山に上がって来たのじゃろうな」
「あの頭の傷じゃ自力で歩いては来られめえ。相当に殴られている。なにかにぶつかってできた傷とは違うぜ」
「さようか」
事情を知らぬ住職は目を丸くした。
「見ていねえが体の方も酷えようだ」
「腿や……あそこにも痣や傷が」
住職は言いにくそうに応じた。
「正気を失っておるのを幸いに、どこぞの不埒《ふらち》者がいたぶったのでござろうな」
「そいつらがどっかからか藪に運び込んで弄《もてあそ》んだってことも考えられるが……それなら着物が近くに捨てられていよう。存分にやられてから藪に捨てられたと見るのが正しかろう」
仙波の言葉に住職は口をあんぐりと開けた。
「傷の具合をこの目で見てみてえもんだが、まさか亭主に頼むわけにもいくめえ。傷ってやつを詳しく教えて貰いたい」
「儂《わし》も見たわけではない。手伝いの女どもが体の泥を落としてやったときに見たということじゃが……」
住職は呟くように言って口ごもった。
「あそこが裂けて……尻の穴まで繋がっていたそうな。なんとも哀れでならぬ」
さすがに仙波も色を失った。そこまでとは考えもしなかったことである。熱はその傷から生じたものに違いない。
「腰の骨も外れそうじゃと道庵どのが言っておった。それでよくこの辺りまで逃げて来られたものだと不思議に思っていたが……」
「よほど乱暴に扱われたんだな」
おりよのことを思って仙波はぎりぎりと歯噛みした。鬼の仕業としか思えない。しかも大水のどさくさを狙ってだ。
「今はあの通りだが、なにか聞いちゃいねえか。運ばれてからずっとあの調子か」
「ゆうさん、という名を二度三度」
「歌麿の名前だ。勇助というそうだ」
「さようにござったか……気の毒に」
住職は思わず合掌した。
「笹屋に連れて帰ります」
床の敷かれている部屋に戻ると歌麿は仙波に言った。同行している笹屋も頷く。
「連れて帰るって言ったって無理だろう」
仙波は首を横に振った。動かせば保たない。
「覚悟しております。それなら最期までずっと側についていてやりたいんで」
涙を堪えて歌麿は仙波を見詰めた。この寺にだって頼めば泊めてくれるだろうが、親しい家の方がいいに決まっている。仙波はおりよに目を動かした。血の気がない。
「風呂にも入れてやりとうございます。このままで死なせちゃあんまり可哀相だ」
「風呂なぁ……」
仙波は医者の道庵を見やった。道庵は弱々しく首を横に振った。しかし、仕方ないという顔もしている。
「分かった。戸板と担ぎ手の手配をしてやる。だが……諦めるんじゃねえぜ。あんたが諦めちゃおりよさんも気が抜ける」
「このご恩は決して忘れるものじゃございません。おりよを捜し出してくださってありがとう存じます。お陰で間に合いました」
我慢できたのはそこまでだった。歌麿は両膝に拳を当てながら男泣きした。
「なんでこんな遠くまで来たんでしょうな」
辛い顔をしながら笹屋は仙波に質した。
「真っ暗闇で方角を失ったんですかね」
「それはあとでゆっくり考えよう」
仙波は濁して、
「あんたの名前ばかり呼んでたそうだ」
体を震わせている歌麿の肩を叩いた。
ぼんやりと歌麿は額を上げた。
「ずっとついていてやるがいい。あんたの思いはきっと通じよう。俺も笹屋の方に顔を出させて貰う。これもなにかの縁だ」
「おりよが私の名を……」
歌麿はおりよの細い腕を握り締めた。
六人の男たちがおりよを載せた戸板をそろそろと持ち上げる。住職が布団を貸してくれたので滑り落ちる心配はない。歌麿は何度も仙波に頭を下げて寺を後にした。
仙波はおりよが倒れていたという藪に向かった。寺男が仙波と配下の前に立って進む。
近くと聞いていたが、その藪は寺の背後にあって、振り返ると寺は直ぐに見えなくなった。おりよをここに運んだ連中は、もしかすると寺が近くにあると気付かなかったのかも知れない。とどめを刺さずとも死ぬと見ていたのだろう。寺の者に助けられると思って運んで来たのではなさそうだった。
〈人じゃねえの〉
仙波は無性に腹を立てていた。武士ではないかと思えばさらに怒りが突き昇る。
「ここら辺で」
寺男は藪に踏み入って立ち止まった。細い裏道からだいぶ外れている。やはり仙波の想像が当たっていたらしい。
「よく見付けたな」
「唸りを聞き付けたそうで。あのお人も運がいい。でなきゃ骨になってましたよ」
それはそうだ、と仙波も思った。腰布一枚の白骨では身元など知れるわけがない。無縁仏として葬られるばかりだ。歌麿の側に戻れただけでありがたいと思うべきだろう。
仙波も藪を漕いで入った。
人の形に藪が凹んでいた。半日やそこらおなじ姿勢でおりよが転がっていた証しである。
仙波と菊弥は屈んで周辺を探った。
「お」
仙波は藪の底に落ちている手拭いを見付けた。何人もに踏まれている。鼠《ねずみ》色に染めたものだった。仙波は慎重に広げた。両端に微かだが結び皺が認められた。頬被りをしたもののように思われる。
「この場所ならおりよを運んで来た連中のものだろう。それとも見覚えがあるか?」
仙波の問いに寺男は知らないと応じた。
「滅多な者《もん》が出入りできる店じゃねえぜ」
仙波は手拭いの端に小さく染め抜かれた店の名を読み取って笑った。
「柳橋の料亭、亀清《かめせい》だ」
菊弥も大きく頷いた。八百善や玉屋と並んで名の知れた店である。
「さすがに亀清だな。鼠色一つに染めて模様はなしか。洒落ていやがる。この手拭いを貰える野郎となりゃ限られる」
仙波は手拭いを懐ろに押し込んだ。
「おりよにもしものことがあったときは、この俺が勘弁できねえ。見ていやがれ」
仙波は藪に残った凹みを無言で見下ろした。
手当ての甲斐もなく、おりよが息を引き取ったという知らせを受けたのはそれから三日後の夕刻だった。たまたま奉行所に残っていた仙波は霊岸島にある笹屋五兵衛の店に駆け付けた。おりよは店の裏手の離れに寝かされている。
「これは旦那、早速にありがとうございやす」
ちょうど離れから出て来た五兵衛が仙波を認めて悲痛の面持ちで頭を下げた。離れの前には歌麿の弟子と思《おぼ》しき若い者たちが目を真っ赤にさせて固まっている。歌麿をおりよと二人だけにしたくて出ているのだろう。行麿の涙顔も見られた。
「駄目だったか……熱が引けりゃ持ち直すかも知れねえと聞いてたのにな」
ひっそりとしている離れに目をやって仙波は溜め息を吐《つ》いた。
「も少ししてからの方が……綺麗な着物に着替えさせてやるところでして。旦那にもそっちのおりよさんを見ていただきてえ」
仙波は頷いて五兵衛に従って母屋に向かった。もぐさを商っている店なので線香臭い匂いが庭にまで漂っている。
「歌麿《うたまる》になんと言って挨拶しようかと……それだけを考えながら歩いてきた。まぁ、覚悟はしていたはずだが、気の毒でならねえ」
「そうおっしゃってくださるだけで歌麿も喜びやしょう。仙波さんのようなお方と巡り合ったことを歌麿も感謝しておりやす」
「なに、なんの手助けもしてねえさ」
仙波は縁側から五兵衛の部屋に上がった。
「それにしても、酷いことになった。おりよさんの傷を見て歌麿は死んじまいそうな驚きようでしたよ」
五兵衛は煙草盆を仙波の前に置いて続けた。
「あっしにもなにがなんだか……いってえおりよさんの身になにが起きたんで?」
「そいつはこれからのことだ。傷の具合がどんなか見せて貰えりゃいいんだがな」
無理だろう、と仙波は思っていた。肩や足の傷ならともかく、秘処から尻の穴にかけての裂け傷だ。歌麿が許すはずがない。
「乱暴に扱ったからといってできる傷じゃねえと歌麿が洩らしておりやした。刃物の傷のようでござんす」
「確かか?」
「あっしも見ていねえんで確《し》かとは言えませんがね。歌麿は絵描きだ。目はしっかりしてる。まず間違いありやせんでしょう」
「歌麿にゃ申し訳ねえが、息が絶えておりよさんが見付かった方が動きやすかった。傷も見せて貰えねえとなりゃむずかしい。どうやったらいいもんかと頭を悩ませている」
一応はことの発端からおりよが発見されるまでの次第を細かく記したものを提出してあるのだが、まだなんの指示もこない。
「それはあっしらも一緒ですよ。可哀相だが死んだ者は帰らねえ。ついさっき蔦屋《つたや》さんも顔を見せて困り果てた様子でした。売り出し中の歌麿の名に傷を付けたくねえと、そればっかりを案じていなさるようで」
五兵衛は天井を仰いだ。
「大水で死んだのと殺されたんじゃ大違いだからな。口さがねえ連中が居る」
「下手人を捜す手立てはありますか?」
五兵衛は仙波を見詰めた。
「多少の蔓《つる》は見付けてあるが……どこまで手繰《たぐ》れるか。正直言って約束はできねえ」
それに昨日までは深川の後始末に掛かりっきりだったのだ。仙波の属する市中取締掛は市中巡回と保安が役目で大水とは無縁だが、三百人近くが死んだとあっては本所方だけではとても間に合わない。深川や本所の普請《ふしん》や災害を扱う本所方同心は二人しか配置されていないのである。
「何日か付き合って見た感じじゃ恨まれるような男とも思えねえが……そっちの方の心当たりはあるかい?」
逆に仙波は五兵衛に質した。だいぶ前からの付き合いらしい。
「さっぱりでござんす。あの通り、気の優しい男で口喧嘩さえ滅多にしねえお人でさ」
「おりよさんの方はどうだ? あれほどの美人だ。横恋慕《よこれんぼ》して付け狙っている男の一人や二人居そうだ」
「居たかも知れやせんが……そんな野郎が大水を幸いに駆け付けて来たとでも?」
「まぁ、ちょいと考えられねえわな」
仙波も小さく苦笑いして頷くと、
「おりよさんてのは、どういう素性だ?」
五兵衛を見詰めた。
「なにか訳ありの身だったらしく、生まれや育ちのことを滅多に口にしねえお人でしてね。歌麿とは築地のお屋敷で知り合ったとか。行儀見習いのために腰元奉公をしていたそうで。そのことだけは嬉しそうに教えてくれましたよ。心底、歌麿を頼りとしていやした」
「言いたくなしの訳ありってことは、妾腹とかそういうことか」
「まぁ、だいたいはそうでしょう」
「どなたのお屋敷だ?」
「あっしは秋田の佐竹さまに関わりのあるお人と聞いただけでござんす。蔦屋さんがよく出入りして、歌麿も同行したんでしょう」
「お屋敷勤めか。どうりで品がある」
町方《まちかた》の娘とはどこか違うと仙波も見ていた。
「歌麿も大変な惚れようで。二人で暮らすようになって四年近くにもなるってのに……今後が心配でなりやせん」
「女房が殺されりゃ、だれだっておかしくなる。歌麿一人に限ったことじゃねえが……あの惚れようなら、いかにもそうだろう」
仙波は煙草盆に顔を近付けて火をつけた。
「屋敷勤めは四年も前のこと。まさかそのときの関わりなんぞじゃございますまい」
「だろうな。俺もそう思う」
仙波は五兵衛に頷いた。
支度が整ったという知らせを受けて仙波は離れに出向いた。死骸には慣れている仙波だが、歌麿と顔を合わせるのが少し辛い。
「お待たせして申し訳ございやせん」
歌麿はおりよの枕元で両手を揃えた。
「白粉《おしろい》を塗って痣も隠してやりました。どうぞ見てやっておくんなさい」
言われなくても狭い部屋だ。おりよの死に顔が仙波の目の前にある。仙波は思わず息を呑んだ。死化粧を施されたおりよはこの世のものとも思えぬ美しさだった。歌麿の描く美人そのままである。髪も綺麗に梳《す》かれて黒々と輝いていた。生きているとしか見えない。
「紅や眉を引いてやりました。未練でしょうが、死んだとは思いたくござんせん」
歌麿は涙を堪えた。弟子たちが涙ぐむ。
「生きてるうちに会って話がしたかったな」
仙波が言うと歌麿は微笑《ほほえ》んだ。
「拝ませて貰うぜ」
仙波はおりよに合掌した。歌麿も並んで手を合わせる。その手は震えていた。
「俺のような者が長居をしていりゃ迷惑だろう。顔を見られただけで満足だ。葬式を無事に済ませてからまた訪ねてこよう。とにかく気を落とさねえこったな。この二、三日ろくに寝ちゃいまい。おりよさんが心配するぜ」
仙波は言って枕元から離れた。歌麿は畳に額をこすり付けて仙波を見送った。
「旦那」
五兵衛が離れを出た仙波を追ってきた。仙波の手に重い包みを握らせる。
「なんだ、こいつは?」
「歌麿の気持ちにございます」
「要らねえよ。香典をやるなら俺の方だ」
仙波は突き返した。三両は包まれている。
「それじゃあっしが歌麿から叱られます」
「銭が欲しいなら別のとこを嗅ぎ回る」
「そんなつもりじゃねえんで。それに、旦那は目こぼしの銭を受け取るお人じゃねえのも承知にござんす。歌麿も嬉しいんでさ。ここは歌麿の思いに免じてお納め願いやす」
五兵衛は無理に懐ろへ押し込んだ。
「それじゃ貰っておくが……これは香典だ」
仙波はそのまま五兵衛に戻した。
「香典だよ。香典を突き返すやつぁいなかろう。歌麿にくれぐれも宜《よろ》しく言ってくれ」
へ、と五兵衛はありがたく押し戴いた。
「女房を持つってのも辛いもんだな。歌麿を見てつくづくと思ったぜ」
「奥さまがおありじゃなかったんで?」
「三十俵そこそこの貧乏同心だ。足が弱って動けねえ親父と手伝い女を雇うのが精一杯ってとこさ。月のうち半分は家に居ねえ。毎年、晦日《みそか》になると今年限りでお払い箱になるんじゃねえかとびくびくしてる。そんな亭主じゃ女房も哀れってもんだろう」
「これを機会に……お付き合いくださいまし」
五兵衛は何度も頷きながら言った。
「同心との付き合いは高くつくぜ」
仙波は笑った。たかり、というわけでもないが、同心は大きな店にしばしば出入りして相当な銭にありつく。同心と付き合いのある店には無頼の徒らも寄り付かない。また、なにか揉め事があったときは役に立つ。
「旦那の方がそれでよろしいのであれば」
「冗談だ。俺はそれをしねえのが身上だ。それで女房も貰えねえのさ」
仙波は言って笹屋をあとにした。
仙波がおりよの一件で上役の佐野平太郎から呼ばれたのは四日後のことだった。佐野は本勤の与力で市中取締掛の要の一人だ。市中取締掛は与力六人に同心十二人の編成である。
「あれは、もういい」
佐野は仙波の顔を見るなり言った。
「いい、とは?」
「捨て置けということだ。歌麿の方からも病死という届けが出ておる。こっちで面倒を背負い込むこともあるまい。身元のまだはっきりとせぬ死骸が深川には五十もある。亭主が病死でいいと言うならそれでよかろうに」
佐野は忙《せわ》しない様子で重ねた。
「深入りすれば本所方も面白くなかろう。いかにも不審な点はあるが、三日も過ぎてから死んだ上に、肝心の傷が知れぬでは致し方ない。我らもそれほど暇ではないぞ」
「ご報告いたしましたように何者かが無理に家へ押し込んだ形跡がござります。それでも追いかけてはならぬと?」
仙波は佐野を見詰めた。なにか隠している目をしている。左右に動いて落ち着かない。
「たかだか一人の女がなぶられただけのこと。たとえそれが歌麿の女房であろうとおなじだ。そなたのことゆえ、俺がこう言えば逆に探ろうとするだろうが、よしたがいい」
「つまり……上よりのお指図だと?」
それに佐野は無言で頷いた。
「どういうことでござります? それこそ、たかだか一人の女のこと。どなたが深入りするなとお命じになられて参ったので?」
仙波は詰め寄った。
「知らぬ。支配の原さまがついさきほど俺に言い残していかれた。原さまもなにも事情を聞いておらぬご様子だった」
「すると、支配より上からの通達で?」
仙波には信じられないことだった。
「些細なことに関わるなというだけのことかも知れん。そなたが出した一件のあらましは吟味方の方にも回されておる。そこからお奉行の耳に入ったとも思われる」
「傷が確かであるなら些細なこととは言えますまい。あれは明らかなる殺し。助け出されたのが僥倖《ぎようこう》というものにござります」
「亭主は病死じゃと言うておる」
ぴしゃりと佐野は仙波を遮《さえぎ》った。
「死骸のあらためはこの俺が許さぬ。今はなにを大事とせねばならぬかとくと考えよ。人の驕《おご》りこそが一番の罪科であるとご老中が申されたのを忘れたか。気を緩めてはなるまい。とにかく、捨て置けと俺は言うたぞ。確かに聞いたな」
「は」
「ではいい。俺の前に二度とその一件を持ち出してくるな。俺はもう取り合わん」
佐野は仙波に言って読みさしの書類に目を戻した。仙波は仕方なく退室した。
〈くそっ……〉
仙波は詰所に寄らず奉行所の門を潜《くぐ》って外に出た。奉行所は数寄屋橋内にあるので市中に出るにはその橋を渡らなければならない。
「もし菊弥が来たら、いつものとこに居ると言ってくれ」
仙波は橋番を振り向いて言った。同心らが用いる配下の者たちは橋から中へは入れない。この橋番に伝言や用件を頼む。
橋を渡れば直ぐに山下町や尾張町の賑わいがある。ことに尾張町は呉服屋が立ち並んでいるので華やかな通りだ。もっとも、その賑わいも近頃では松平定信の贅沢禁止の政策によってめっきりと寂《さび》れている。奉行所と近いゆえに尾張町が割りを食っているのだ。
仙波は山下町にある縄暖簾《なわのれん》の部屋に上がり込んだ。部屋と言っても二畳の仕切りである。
一人で冷や奴と大根の煮付けを肴にちびちび飲《や》っていると小半刻(三十分)も待たぬうちに菊弥が現われた。菊弥の暮らす長屋はここからさほど遠くない鍋町にある。二年ほど前から配下に取り立てて小遣い銭をやっている男だ。元は煮売り屋をしていたので市中に詳しい。
「今日はずいぶんとお早いことで」
「おりよの一件は深追いするなとよ」
仙波は猪口《ちよこ》を与えて酒を注いだ。菊弥は嬉しそうに猪口を持つ。二十四の大人だが、あばたが愛嬌を添えて五つは若く見える。
「この二、三日が無駄になったな。俺も上の許しが出てからおめえを動かせばいいものを……とんだ暇潰しになっちまった」
「そりゃまたどういうことで?」
菊弥は正座を崩さず小首を傾げた。
「歌麿が病死の届けを出した。あっちがおとなしくしているものを騒ぎ立てることはねえということよ。深川の問題をほじくり返せば本所方もいい顔をしねえと言ってたが、そりゃあただの口実だ。どなたかが口を挟んで潰しにかかったらしい」
「潰しにかかったと言いやすと?」
「武士の仕業《しわざ》と睨んだことと関わりがあるんだろうな。こうしてこの店であれこれ考えてみたが、そうとしか思えなくなった」
「歌麿はなんで病死と届けを出したんでございやしょうね」
「蔦屋が歌麿の名を惜しんでのことと思われるが……おりよの素性と関係があるのかも知れねえ。だいぶ偉いお人の妾腹らしい。騒ぎを大きくすりゃ、そっちにも迷惑が及ぶ。あるいは口を挟んできたのもそっちの線か」
「そんなに偉いお人の娘だったんで?」
「でなきゃ妾腹の娘がお屋敷奉公できるもんか。どこぞの養女に仕立ててから勤めに出したのさ。親のことなんぞどうでもいいと見ていたが、こうなると探る必要が出て来た」
「ってことは、手を引かねえおつもりですか」
「おおっぴらにゃできねえが、俺なりに続ける気だ。勤めをちゃんと果たしてのことならだれも文句は言うめえ。手が出せねえ相手としても、だれの仕業かぐれえは突き止める」
「そうこなくっちゃ」
菊弥は笑いを取り戻した。
「なにか掴んだか?」
「印籠の方は案外と面倒です。熊の胆を売ってる店で確かめりゃ簡単だと踏んだんでやすが、考えてみりゃ印籠を見せて熊の胆を買う客の方が珍しい。他の薬もごくありきたりの胃薬らしくて先がつかえちまいました」
「印籠そのものはどうだ?」
「大層な出来だと皆がびっくりしてましたよ。しかし、二十年も昔に作られたもののようで。それを手繰るのは無理でやしょう」
聞かされて仙波は唸った。
「亀清《かめせい》の手拭いに脈がありやす」
菊弥は、へへへと笑った。
「ありゃあご老中の贅沢禁止に合わせて亀清が今年の正月に作らせた手拭いでござんした」
「贅沢禁止に合わせた?」
「それで鼠色一色に染め抜いたんでさ。地味に見えても粋《いき》なものを作れると示したかったんでございやしょう。ご老中もずいぶん喜ばれたという話で」
「老中が喜んだというのはなんだ?」
「ご老中のご家中も亀清に出入りしているんでございやす。亀清もそれで作る気になったとか。本数は三百本。ほとんどは出入りのお侍に配ったそうで」
「三百本じゃ厄介だ。それも武士となりゃな」
仙波はさらに大きな吐息をした。
翌日。本来の役目である市中見回りを済ませた仙波は配下の菊弥と落ち合って柳橋に向かった。この橋の袂《たもと》、両国側の広い通りに面して亀清が店を出している。橋を渡れば江戸者が憧れる柳橋芸者で賑わう花街だから仕出し料理の商いも廃《すた》れることがない。格式も高く同心風情の仙波には敷居の高い料亭だ。もっとも、それは客としてという意味であって、見回りと称してなら、ないでもない。同輩の安井才蔵がこの店と昔から付き合っていて、二、三度連れて来られたのだ。
「まずかぁありませんかね」
安井と亀清の繋がりを知って菊弥は案じた。今日来たのはもちろん手拭いの一件だ。亀清から安井、安井から佐野平太郎へと話が直ぐに伝わる。調べを中止しろと厳命されているのだから面倒になりかねない。
「今日のお役目は終わった。たまにゃ鰻で旨い酒を呑みたいだけのことよ。それでなんの咎めがある? 俺やおめえは外で鰻を食ってもいけねえのか」
「だって、あからさまですぜ。鰻だけ食ってハイご機嫌ようってことじゃねえでしょう」
「安井にはずいぶんと貸しがある。亀清から話が行く前に首根っこを掴んでおきゃ心配要らねえ。妙な口出しする男でもねえ」
「それなら安心ですがね。なにも旦那がわざわざ出張《でば》らなくたって……あっしが裏口に回って女どもに訊《き》けば済むこって」
「それじゃ手間隙《てまひま》がかかり過ぎる。馴染みの客をそらんじているのは番頭だ。そいつを部屋に呼び付けて質せば今夜で片が付く」
「安井さまにお頼みするのが無難でやしょう」
「なにを訊いていいか分かりゃしめえ。付き合いが永ぇから、なあなあになる。結局は二度手間になりかねねえさ」
「知りませんぜ。あっしは鰻だけごちになっておりやす」
「銭を払うんだ。身を縮めるなよ」
仙波は笑って亀清の門を潜った。
小さな部屋でいいと言ったのだが二人は十畳もあるところへ通された。羽織に着流し、紺足袋とくれば名乗らなくとも職が知れる。
「これは……仙波さまでございましたか」
挨拶にきた番頭が戸惑いを浮かべた。
「鰻を食いに寄っただけだ。こんな野郎と一緒だ。狭いとこでいいと念押ししたがな」
「ご冗談を。仙波さまを狭いとこへお通しすれば亀清の恥になります」
「安井さんは近頃見えるかい?」
「深川の大水のときに……ご心配くだされて早速にお顔をお見せくださいました」
「そいつはよかった」
「失礼にはございますが、今夜は店《うち》の馳走とさせていただきます。なんでもお申し付けくださいませ。仙波さまのことは安井さまよりたびたびお耳に」
「そのつもりなら安井さんと来る。それに今夜はちょいと訊きてえこともあってな。馳走になりながらあんたを責めるわけにもいかねえさ」
「なんでござります?」
番頭は落ち着かない目になった。
「それこそ冗談だ。鰻が焼けたら少し俺の話に付き合ってくれ」
まだ不安な様子で番頭は引き下がった。
「震えてましたぜ」
「それでいい。これで自分と無縁の話と分かりゃべらべらと喋りだす」
「それにしても勿体《もつたい》ねえような……」
「そう思うなら安井につけ。あいつは手下《てか》を五人も使ってる。もう一人ぐれえ増えてもどうってことはなかろう。五人ともに締まりのねえ腹をしてやがるぜ。食い過ぎでな」
「よしておくんなさいよ」
菊弥は神妙に頭を下げた。
「今の番頭の顔じゃ鯛や鮑《あわび》を客に出しているんだろう。鼠に染めた地味な手拭いが聞いて呆れる。叩けばいくらでも埃が出よう」
仙波は舌打ちした。安井との付き合いがあるから無事でいられるだけである。同輩と縁の深いところにはめったに手を出さない。
仲居が大振りの蒲焼の皿を運んで間もなく番頭がまた部屋に顔を出した。
「正月に配った年玉代わりの手拭いのことだ」
仙波が言うと番頭は怪訝《けげん》な顔で頷いた。
「このご時世に適っているとご老中もたいそうお喜びだったと耳にした」
「思いがけぬお褒めを頂戴いたしました」
「三百本作ったそうだな」
「よくご存じで」
番頭は頷いた。菊弥が仲居たちから聞き出したことは伝わっていなかったらしい。
「お役目のことだから詳《つまび》らかに言うわけにゃいかねえがの、その手拭いがどこのだれだれに渡ったものか教えては貰えねえか」
鰻を頬ばり、努めてさりげなく装いながら仙波は番頭に目を動かした。
「さて……それは」
「なに、店の迷惑にはしねえ」
「手前の一存ではちょいと……あとで安井さまにお伝えするということでは?」
「ここじゃ口にできねえような連中に配ったということかい?」
驚いた顔をわざと仙波は作った。
「いえいえ、そんなじゃござりませんが」
「たかが手拭いのことだ。どうでもよかろう」
「それでお客さまの迷惑となっては……」
「勘違いしちゃいねえか?」
仙波はぎろりと番頭を睨み付けた。
「迷惑を被《こうむ》っているのは、その手拭いを持っていた野郎にいたぶられた方なんだよ」
睨まれて番頭は姿勢を正した。
「喧嘩絡みのさもねえ一件だ。そんなもんに、この店の上得意のお歴々が関わっているはずもなかろう。どうせ下っ端の仕業だ。そのくれえの睨みは俺もつけている。どなたかにくっついてきた下っ端なら客とも言うまい。迷惑にもならねえさ」
「へえ」
「正月のこととなりゃずいぶん前だ。憶えているだけで十分だ。こっちだって一応は訊かなきゃならねえから足を運んだだけでな」
「そうだったんでございますか」
番頭はほっと肩を下ろして、
「と申されましても三百のうち二百近くはご老中さまにお差し上げ致しました」
「そんなにか」
「ご老中さまが店《うち》の手拭いをご改革の手本になさりたいとおっしゃられましたので、主人が残りをすべて進呈したのでござります」
なるほど、と仙波は頷いた。そうなると百本以下に絞られて調べがぐんと捗《はかど》る。
「しかし、それじゃあ年玉が足りなくなっただろうに」
松の内だけでも三、四百の客が押し掛けたに違いない。
「あれは洒落でございます。面白味の分かってくださるお客さまにしか配りませんでした。他のお客さまには鶴亀を描いた組盃の方を」
「さすがに亀清だ。豪勢なもんだの」
仙波はにやりと笑った。
「確か伊勢屋さんに十本、幸四郎さんに三十本、勘十さんに五本、山仁さんに……」
気にせず番頭は数え立てた。呉服問屋、材木問屋、芝居の役者、生糸問屋などなど、たいていが馴染みの名だった。
「町方ばかりだな」
仙波は途中で小首を傾げた。菊弥の聞き込みではほとんどが武士という話だったのに、どこの名も挙がってこない。
「ご老中さまの参られましたのが四日のこと。それ以前の三が日に足をお運びになられるお武家さまの方がお珍しゅうござります」
番頭に言われて仙波は曖昧に頷いた。
「面目ねえこってございやす」
亀清を出ると菊弥はぼりぼりと頭を掻いた。
「いい加減な調べだったようで」
「当たっていなかったわけじゃねえ。三百のうち二百が武士に配られたってのは確かだ。訊ねられりゃ、そう返事するやつがいくらも居るだろうよ。気にするな」
「けど……そうなりゃどうなりますんで」
両国橋に足を向けながら菊弥は首を傾げた。少し遠いが、これから深川へと回る。
「まさかとは思うが……ご老中に繋がりのある者《もん》の仕業じゃなかろうな」
「まさか、でしょう」
「だが、見付けた印籠は十中八九|武士《さむれえ》の持ち物《もん》だろう。伊勢屋とかが浪人を雇っておりよを襲わせたってことも、一応は考えられねえ筋じゃねえが……わざわざそういう連中を頼むほどのことでもあるめえ。第一、それなら正月の手拭いが宙に浮いちまう。なんでいまさら雇い人にくれてやる必要がある? 一番おかしくねえのは、正月にご老中から手拭いを貰った連中さ。大事な手拭いだ。今まで持っていても不思議じゃねえやな」
「そりゃあ、そうかも知れやせんが……」
「ご老中ならお奉行を動かすのも簡単だ」
あっ、と菊弥は唸った。
「筋道はそれできちんと繋がるんだが……」
さすがに仙波は苦笑いして、
「下っ端のしたことに、ご老中ともあろうお人が動いてお奉行まで封じるとは思えねえの」
「そうでやすよ」
菊弥も安堵を見せて頷いた。
「調べは止めろと佐野さまは言ったが……黙っていてもそうなりそうだ。いくらなんでもご老中の周りをうろちょろはできめえ。と言って伊勢屋や山仁を当たるのは時間と銭の無駄になる」
「鼻高屋はいかがで?」
番頭が名を挙げた役者の松本幸四郎の綽名《あだな》を菊弥は口にした。鼻が人の倍も高い。
「役者ならお武家のような立派な印籠を持っていても……」
「下っ端役者にゃ持てねえ宝さ。鼻高屋当人が押し込んだってんなら話は別だぜ」
「やっぱり有り得ねえ」
菊弥は橋番に挨拶して両国橋を上がった。
仙波と菊弥はその場に呆然と立ち尽くしていた。場所を違えたのかとあちこち捜し歩いたが、どうしてもここである。半分崩れかけた菓子屋を見忘れるわけがない。
なのに──
ほとんど無事に残されていた歌麿の家が完全に柱を引かれて倒されていたのである。屋根がそっくりそのまま覆いとなっている。
「なんだか、寒けがしてきやがった」
本当に仙波は襟元を合わせた。
階段の下で見付けた印籠には根付《ねつけ》がなかった。それが外れて印籠が帯から落ちたに違いない。もしかして歌麿の家のどこかに転がっている可能性がある。根付が新しい細工なら彫った職人を捜すこともできよう。そう思い付いて深川まで足を延ばしたのだが……。
「引き倒すんなら、先にこっちをやりやす」
菊弥は菓子屋を顎で示した。周りにも半壊の家がいくらも残っている。
「ただごとじゃありませんぜ」
「よっぽど俺の動きが気になる野郎が居るってことだ。先手先手と読んで潰しにかかっていやがる。家がなくちゃ調べもできねえ」
仙波は深い溜め息を吐いた。
「歌麿《うたまる》はこれを知っておりやしょうか?」
「むろんだ。本所方辺りがでむいて了承を取り付けていよう。倒す前に道具を運び出させる必要がある。どうせ貸家だ。家主が頷きゃ歌麿も文句を言えなかろう。この荒れようじゃ歌麿もここに戻ってくる気はなかろうし」
簡単なことだ、と仙波は言った。
「こうなりゃ、もう一踏ん張りして霊岸島の笹屋まで行かざなるめえな」
ここから霊岸島はほど近い。仙波は菊弥を促して歩きはじめた。なんとも落ち着かない気分である。仙波は道に散っている瓦や板切れを乱暴に蹴り飛ばして進んだ。
「なめた真似をしやがる」
ここまでのこととなれば半端ではない。仙波の頭には老中松平定信の名だけが浮かんでいた。と言うより松平定信に頼み込める側近辺りがこれに関わっているのだろう。
真夜中近い来訪に笹屋五兵衛は目を丸くしながらもにこやかに仙波を招き入れた。
「歌麿の家が取り壊されたのを承知だな」
五兵衛の部屋に通されると仙波は真っ先にそれを質した。五兵衛は頷いた。
「どこのだれがそれを知らせに来た」
「家主の名代でございます。一帯がほとんど流されちまったんで、どうせなら埋め立てのし直しをして土地を高くするとかで……」
「聞いてねえな。そんな大事なことを本所方だけで決められるわけもねえ。そういう話が持ち上がっているのは確かだが、まだ四、五年は先のことになるだろう。代替地をあてがわずにそれをやれば騒ぎとなる」
「あっしも妙だと思いましたよ」
五兵衛は唸って腕を組んだ。
「歌麿があっさりと頷いたってことだな」
「深川にゃ当分足を踏み入れる気がないようで。おりよさんとの思い出があり過ぎる。もともと歌麿の持ち家でもありませんからね。弟子らに荷物を運びに行かせやした。家を見るのさえ辛いらしい。昨日も葬式で当人が死ぬんじゃねえかと思うくらい参っていました。ひょっとして絵描きも止める気じゃ……」
「そんなに酷いのか」
「自然に筆がおりよさんの顔をなぞってしまうんですよ。今までの女の顔は全部おりよさんでしたからね。どうしても思い出す」
「なるほどな。いかにもそうだろう」
「歌麿の家がどうかしましたんで?」
「他も全部引き倒されているんなら不思議はねえがの。前の菓子屋はそのまんまだぜ」
五兵衛はぽかんとした。
「下手人をひっ捕らえて見せると約束したが、すっかり道を塞《ふさ》がれた。肝腎の歌麿が病死と届け出ちまったんで、ほじくり返すのもむずかしい。手を引けと言われてる」
実を言うと歌麿に松平定信のことで心当たるものがないかと質しに来たのだが、それはまずいと思いはじめている。その疑いが歌麿の口から外に洩れれば腹を切らなければならなくなる。
「なんとも腑甲斐ねえ話さ。深川まで足を運んだついでに線香を上げに来た。むしゃくしゃするんで歌麿と酒でも呑みてえと思っての」
「仙波さまの動きを塞ごうとして歌麿の家を取り壊したってんなら……後ろに居るのは並の人じゃござんせんね」
五兵衛はそちらを気にしていた。
「なんでそんなお人がおりよさんを……」
「自分から病死と言ったんだ。この一件は諦めろと言ってくれ」
そそくさと仙波は腰を浮かせた。本当に松平定信が絡んでいるなら仙波の首などいくつあっても足りなくなる。
「ん?」
庭の方から嗚咽が聞こえた。離れに居る歌麿のものだと仙波は気付いた。
「起きているなら線香だけ上げてこよう」
仙波は庭に出て離れに向かった。
嗚咽はさらに強まった。仙波は声をかけて障子を開けた。中は酷いありさまだった。広げた紙に絵の具がぶちまけられている。砕けた絵の具皿が四方に散っていた。
「描いていたのか……」
「描けねえんで……土に埋めたらおりよの顔がちっとも思い出せなくなってしまいやした。おりよがどこかへ行っちまった。それが情けねえ。仙波さん、喜多川歌麿は死にやした」
歌麿は手にしていた筆を二つに折った。
「歌麿が死んじまえば名前も関係ねえ。名前のためにおりよを俺は見捨てちまった。恨みを晴らして貰いたいとおりよが冷たい土の下でいつまでも泣いております。おりよ、勘弁してくれ。おりよ」
歌麿は畳に額を何度も打ち付けた。
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深く忍ぶ恋
愛妻のおりよを失って以来、歌麿がすっかり腑抜けとなっているという噂を、むろん仙波一之進は耳にしていたが、わざと近寄らぬようにして一月《ひとつき》近くを過ごした。絵師ではないからなんの手助けにもならない。それに、事件の方はあれきり暗礁に乗り上げている。なにがあっても老中の松平定信が怪しいとは口にできない立場では心も塞《ふさ》ぐ。歌麿の様子が気に懸かったのは十日ほどのことで、仙波の日常はまた元に戻りつつあった。
今の月番は北町奉行所であるが、それは訴訟の受け付けが北町ばかりということで非番ではあっても同心や与力に休みはない。ことに市中見回りを役目とする者はいつでもおなじだ。仙波は勤務の前に湯屋に立ち寄った。いや、すでに勤務がはじまっていると言ってもいい。同心や与力はいつも滅多に客の居ない女湯の方に入る。そして朝湯で賑わう男たちの噂話に耳を傾けるのだ。板壁一枚の仕切りなので話もよく通る。こうやって仕入れた噂が取り締まりの役に立つ。
だが、あいにくと今朝は仙波と入れ違いに男湯の客たちが出ていって静かになった。仙波はのんびりと熱い湯に体を沈めていた。せっかくなので次の客が来るまで待とうという気になっていた。
「ごめんなさいませ」
湯船の中でうとうとしていた仙波の耳に女の声が聞こえた。首を回すと低い柘榴口《ざくろぐち》を潜ってくる女の白い背中がぼんやりと見えた。暗さと湯気のせいではっきりとは分からないが、声の感じでは若い女らしい。刀掛けに仙波の刀があるのを承知で入ってきたのだから町家の娘とは思えない。この時間に朝湯を使うのはだいたい芸者と相場が決まっている。
「構わねえよ」
仙波は心持ち場所をあけた。女は遠慮しないで湯に浸かった。湯気を逃がさないためにここには窓が作られていない。それでも女の肌の輝きが仙波の目を射った。
「ずいぶんと度胸があるな」
仙波は苦笑した。居ない、というわけではないが、たいていの女は時間をずらす。若い女は珍しい。
「目当てがあってのことか?」
「さすがですねぇ」
女はころころと笑った。
「仙波さまにお会いしたいとおっしゃるお人が……昼に池之端《いけのはた》の茶屋でお待ちを」
女は静かに近付くと真面目な声で囁いた。
「おめえなら出掛けてもいいぜ」
「ご冗談ばかり。女嫌いのくせして」
「俺の本性を知っているのか」
「そういう噂ですよ。女に靡《なび》かないお人だと」
「悪い噂だ。それは初耳だ」
「お返事をいただかないうちはお名前をお口にするわけにはいかないんですよ」
焦《じ》れたように女は仙波を見詰めた。こう間近なら暗くても顔がよく見える。はじめて見る顔だが切れ長の目が艶っぽい。歳の頃は二十三、四といったところだろうか。
「おめえの方の名もか?」
「私は、こうと言います」
「おこうか。覚えていよう」
「お返事の方はいかがです?」
「俺が妙な付き合いを嫌うのも承知だな」
「そういうお話じゃないと思いますよ」
おこうは少し考えて請け合った。
「それならこんな面倒をかけずに奉行所にでも使いを寄越せばよかろう。それとも情婦《いろ》のおめえの眩しい肌を拝ませて俺を羨ましがらせようって魂胆か?」
「そんなお人とは違います」
おこうは憮然となった。
「分かった。おめえの顔が立たないと言うなら会うことにしよう。池之端のどこだ?」
「なかた、というところです。池之端で訊ねれば直ぐに分かると聞きました」
「だれの名を言って行けばいいんだ?」
「平沢さまとおっしゃってくださいな」
「平沢……朋誠堂喜三二じゃなかろうな」
思わず口にするとおこうは微笑んで、
「ご存じでらしたんですか」
安心した口調になった。
「当たるとは思わなかったよ」
仙波もにやにやとした。それ以外に知っている名がなかったからに過ぎない。歌麿や笹屋五兵衛から何度か耳にしている。秋田の佐竹藩の江戸留守居役で平沢|常富《つねまさ》。と言うより黄表紙作者の朋誠堂喜三二や狂歌名の手柄岡持《てがらのおかもち》の方が江戸には知れ渡っている。
〈おりよの一件か……〉
仙波は顎に指を当てて小さく唸った。
「きっとお出掛けくださいましよ」
おこうは念押しして立ち上がった。白い肌が仙波の目の前にある。柔毛《にこげ》がくっきりと見えた。痩せて形のいい腰である。
「おめえにはどこに行けば会えるんだ?」
「柳橋で名を言えばいつでも」
にっこり笑っておこうは湯から上がった。
昼前から仙波は上野の池之端に向かった。店は人に聞かずとも分かった。この辺りの茶屋では大きな構えである。足を踏み入れると姿を見せた女がたじろぎを浮かべた。
「見回りじゃねえよ。安心してくれ」
仙波に女は小さく頷いた。池之端の茶屋はちょんの間の女遊びもさせる。同心を歓迎するわけがない。
「平沢さんという人に招《よ》ばれて来た」
女は安堵の顔をして丁寧に頭を下げた。仙波を池が美しく見える部屋に案内する。平沢の姿はまだない。
「お酒でもお持ちしましょうか?」
「いい。のんびりと待たせて貰う」
仙波は窓際に腰を下ろして池を眺めた。
平沢が一人の男を伴って部屋の襖を開けたのは、それから間もなくだった。
「あんたは……」
平沢に従って如才ない笑いで挨拶をした男には見覚えがあった。
「蔦屋重三郎《つたやじゆうざぶろう》でございます」
仙波は大きく頷いた。笹屋でちらりと見掛けただけで言葉は交わしていないが、垂れ下がった眉が記憶に残っている。歌麿より三つ四つ年長と聞いているので四十一、二のはずだが、もっと上に見える。江戸一番の版元という自信が貫禄に繋がっている。反対に朋誠堂喜三二、すなわち平沢常富は若く感じられた。朋誠堂喜三二は二年前に蔦屋から出版した『文武二道万石通《ぶんぶにどうまんごくどおし》』が発売禁止となっている。それで奉行所に調書が残されていて、仙波はあらかじめそれに目を通して来たのだ。そのときの歳に二を足して五十六と計算したのだが、どう見ても五十前だ。がっしりとした肩幅と狂歌などを詠むとは思えぬ厳しい目付きがそう思わせるのだろう。
「嬉しい誘い方をしていただいて……目の保養をさせて貰いました」
仙波は平沢にとりあえず礼を言った。
「二人とも奉行所は敷居が高い。と言って八丁堀の組屋敷を訪ねるのも憚《はばか》られる。ご貴殿の迷惑にもなろう。それでたった一人になる機会を窺っていた。女風呂の中ならゆっくり話に耳を傾けてくれると思ってのこと」
「ありがたいご配慮にござった」
仙波はくすくすと笑って返した。
「歌麿《うたまる》のことではお世話になりました。ずいぶんと聞いておりやす。歌麿の名を惜しんでしたことが仙波さまのご迷惑にもなったようで、そのお詫びもしたいと思っておりました」
蔦屋は畳に両手を揃えて謝った。
「よしてくれ。変死の届けを出したところで先がどうなったことか……こっちももう気にしちゃいねえんだから」
そこに料理を運んできた女の声がかかった。蔦屋は居住まいを正して仙波と向き合った。
「さ、お一つ」
女が消えると蔦屋は仙波に酒を勧めた。
「俺は茶で結構だ。昼間に酒臭ぇ息で戻ればだれと飲《や》ったか報告しなくちゃいけねえ。嘘をつけば済むことだが、それも面倒だ」
仙波は料理に箸をつけた。
「噂に違《たが》わぬ堅物だな」
平沢は感心した。
「夜ならいくらでも馳走になりますよ。厄介な話の席じゃなければね」
「さて……厄介な話となるかも知れん」
平沢ははじめて笑いを見せた。思いがけず童顔となる。
「さっきの話だが……変死と届けても先が知れなかったという意味は?」
訊かれて仙波は眉を軽くしかめた。
「歌麿の家ばかりが引き倒されたというのも妙なこと。携わっていたご貴殿なれば詳しい事情を承知であろう。あの一件、どうも首を捻《ひね》ることばかりで呑み込めぬ」
「それについてはお答えでき申さぬ」
箸を置いて仙波は首を横に振った。
「では、当方が調べたことを口にしても構わぬか? 迷惑とあれば話さぬが」
少し考えて仙波は了承した。こっちがなにも話さなければ問題はない。
「あれはただの押し込みではあるまい」
「押し込みとも決まっておりませぬ」
仙波は口を早速に挟んだ。おりよは大水を逃れて家から出たことになっている。押し込みの痕跡のある家は壊されてしまった。
「歌麿にはそう言ったと聞いている」
「あのときは確かにそう見ましたが……」
「それでは、おりよどのがふらふらと彷徨《さまよ》い歩いているところを見も知らぬ男どもに襲われて怪我を負わせられたと言うのか?」
平沢は厳しい目に戻して仙波を睨んだ。
「おりよどののことはよく知っている。家が無事であるなら一歩も動かずに歌麿の戻りを待ったはず。だれかに無理に連れ出されたのだ。これを見て貰いたい」
平沢は懐ろに腕を差し入れて小さな布の包みを取り出した。仙波の膳の前に突き出す。仙波は包みを開いた。野晒《のざら》しの髑髏《どくろ》を象《かたど》った根付《ねつけ》が出てきた。目玉の穴のところから蛇が顔を覗かせている。仙波の胸は騒いだ。
「これはなんです?」
分かっていながらも仙波は質した。むろん歌麿の家で仙波が見つけた印籠に結ばれていたはずの根付に決まっている。
「歌麿が家で見付けたものだ。谷藤三右衛門がその前に家を訪れたと耳にして谷藤《あれ》が落としたものと思ったらしい。それで私に通夜の席で返してくれた。だが谷藤は知らぬと言う。そもそも谷藤は家を捜せずに屋敷へ戻った」
仙波も頷いた。谷藤とは番屋で会っている。
「なかなかの細工。並の者では持てぬ。そういう者が、あの大水の夜に歌麿の家を訪れたということになる」
「………」
「となると……気に懸かるのは歌麿を江ノ島の画会に招いた者」
思わず仙波は平沢を見詰めた。
「歌麿をわざと遠ざけておりよに近付いたとも考えられよう」
「大水の方が偶然だったということですか」
「当たっているか外れているか……まだ詳しく調べておらぬが、歌麿の話では高禄の武士が画会の陰に隠れていたと言う」
「どういうことです?」
「歌麿に三幅対《さんぷくつい》の絹本《けんぽん》(掛け軸)を描いて貰いたいが、武家が町絵師に頼むのも気が引ける上に、この時世でそれが世間に伝われば外聞も悪い。それで付き合いのある江ノ島の宿の主人を名前隠しの会主に頼んできたと聞かされたそうだ。歌麿は喜んで引き受けた」
うーむ、と仙波は腕を組んだ。
「そこもとを見込んで正直に申そう」
平沢は蔦屋に目配せした。蔦屋がそのあとを引き継いで仙波に話した。
「去年の夏に倉橋さまがお亡くなりになったことはご存じでございましょう?」
仙波は頷いた。倉橋とは駿河松平公に仕える江戸詰めの用人で倉橋格である。だが平沢と同様に黄表紙を数多く手掛け、恋川|春町《はるまち》の名で江戸の人気を一身に集めた。『金々先生栄花夢』『高慢斎行脚日記』などを筆頭に金持ち連中や武家階級のだらしなさを痛烈に書きまくった。それで世間から大いに持《も》て囃《はや》されたのであるが、一昨年の春に出した『鸚鵡返文武二道《おうむがえしぶんぶのふたみち》』が平沢とおなじく発売禁止の命を受け、半年後に四十六という若さで病死した。
「あれは間違いなくご自害でございます」
それにも仙波は苦い顔で頷いた。ご政道の批判に当たるとして摘発したのは自分たちである。しかし、摘発した途端に恋川春町は奉行所の手から離れたので、その後のことはまったく関わっていない。武士を罰するのは目付の領分で町方奉行所には手が出せないのだ。担当した同僚は上手く逃げられたと悔しがっていたものだが、半年後に病死したとの知らせを受けて複雑な顔をしていた。詰め腹を切らされたことは容易に想像がつく。
「お亡くなりになられる前日に手前の店をお訪ねしてくださりましてな」
「あの本も蔦屋から出したものだったな」
迂闊なことに仙波はようやく思い出した。
「むしろ手前の方に迷惑をかけてしまった、とお謝り通しで……」
蔦屋は一呼吸して続けた。
「その日はご老中さまのお屋敷にお呼び出しを受けてのお帰りでした」
「ご老中からのお呼び出し?」
仙波はぎょっとして蔦屋を見据えた。
「それまでの半年、お家から閉門に近いお扱いをされていたので詫びをしたくてもできなかったのだと仰せで……お優しいお人でした」
蔦屋はしんみりと口にした。
「そのときに……倉橋さまがぽつりとお呟きになられました。ご老中は怖い者らを屋敷に飼っておられる、と」
蔦屋は仙波に言って口元を歪めた。
「気をつけねばなにをされるか知れぬ、とも」
「それが今度のこととどう繋がる?」
「髑髏の根付がいかにも似合う男であった、と倉橋さまははっきり手前に申されました」
仙波は動揺を見透かされぬよう堪えた。
「倉橋さまが病いで亡くなられたとの知らせを頂戴したのはそれからわずかのこと。長く床に伏せっておられたと聞かされましたよ。馬鹿馬鹿しい。私は前日にちゃんとお会いしておりますんで。あれは間違いなくご老中さまからじかにお叱りを受けたゆえのご自害と手前は見ております。お家にご迷惑が及ぶとでも脅かされたんでございましょう」
さすがに仙波は溜め息を吐いた。
「平沢さまからその髑髏の根付をお見せいただいたとき、手前は咄嗟《とつさ》に倉橋さまのお言葉を思い出しました。もちろん、髑髏の根付は世の中に一つ切りってわけじゃござんせんが、手前と関わりの深いお人らにそれが重なるのは不思議だとお思いになりやせんか?」
「歌麿の家の取り壊しについても、役人が関わっているのは確かであった」
平沢が割って入った。
「よほどの力がなければ為し得ぬことであろう。それでこうしてそこもとと腹を割って話し合いをしてみたくなったのだ」
「倉橋どのはともかくとして……」
仙波にはまだ信じられなかった。
「歌麿の女房をなにゆえ襲わせるので?」
「歌麿は人気がございますよ」
蔦屋が大真面目な顔で口にした。
「さもねえことで絵筆を取り上げりゃ皆が騒ぎやす。ご改革にも素直に従わなくなりやしょうね。そこはご老中さまもご承知でしょう」
「脅かして自分から絵筆を捨てるように仕向けたってことかい?」
そこまで細かな策を弄するものだろうか。仙波は何度も首を捻った。
「ご老中はなんとしても手前の店を潰したいんでございますよ。倉橋さまを失い、平沢さまも戯作からお離れになり、この上、歌麿が居なくなっては店が一年と保《も》ちやせん」
仙波は返事に詰まった。それは確かに奉行所の方針でもあった。蔦屋の本が出るたびに丹念な調べが入る。蔦屋の思い過ごしではないのである。仙波からまた一つ吐息が洩れた。
〈どんどんまずいぬかるみに嵌《は》まり込んで行きやがるなぁ〉
池之端の茶屋からの戻り道、仙波の足取りはやたらと重かった。蔦屋《つたや》の話から、どうやら、というより間違いなく今度の一件の裏側に老中松平定信が居て糸を操っていると睨みはついたが、仙波の立場ではどうにもできない相手なのである。松平定信は老中首座の地位にあって将軍補佐役も兼ねている。言わば松平定信自身が法を定めているのとおなじだ。
〈くそっ〉
せいぜい仙波に許されるのは、こうして舌打ちする程度だ。なぜ松平定信ともあろう者が、たかだか町絵師に過ぎない歌麿にちょっかいを出してきたのか、などと考えてもはじまらない。松平定信が陰に在ると分かったからには、すべてを忘れるしかないのだ。仙波とは無縁の世界の話である。
〈しかし……〉
蔦屋の言っていた、松平定信が怖い者らを飼っているという話だけは得心がいかない。そういうお人ではないはずだ、という思いが仙波にはあった。確かに冷徹とも感じられる禁令や定めを次々に発布してきた松平定信であるが、それは賄賂や奢《おご》りに慣れた者たちにとっての厳しさであって、正直に慎ましく生きている者にすれば苦にもならない制約に過ぎない。その政策に頷ければこそ仙波も取り締まりに精を出している。いかにも錦絵における色数の制限や華美な着物の売買の禁止など行き過ぎの気味はあるのだが、それとて一時的なものと仙波は見ている。倹約が当たり前の時世となれば多少の楽しみも許されるようになるだろう。大筋で仙波は松平定信に信頼を置いていた。その印象と蔦屋から耳にした飼い犬云々がどうも結び付かない。
〈俺たちのやり方じゃ、まだまだ手緩《てぬる》いとお思いなのかも知れねえなぁ〉
現に私娼は禁じられているはずなのに、さっきの池之端の茶屋の様子ではその気配がなかった。見回りの同僚たちが目こぼしをしているのである。永年の付き合いがあって、簡単には徹底できないのだ。本当に根本から変えるつもりなら、まず取り締まる側の首のすげ替えから手を付けなければならない。いかになんでもそれは無理だ。曲がりなりにも町奉行所は江戸の治安を守り続けてきた。軸を一気に換えれば揺らいでしまう。したくてもできない焦りが松平定信にはあるのかも知れない。だから思い切った手を打ちはじめたとも解釈できなくはない。膿《うみ》は自分の手で絞り出すのが手っ取り早い。雇われた者たちとて老中首座の地位にある者の命令なら安心してなんでもするだろう。
〈だが……それじゃまずかろうぜ〉
仙波は苦い溜め息を吐いた。
〈それこそ、人の驕りってもんだろうよ〉
だんだん腹が立ってくる。
〈悪口を書かれて蔦屋が憎いか?〉
自分の政策を唯一無二のものと信じ切っている松平定信にしてみれば、そのやり方にけちをつける戯作者《げさくしや》や蔦屋のような版元は愚かしいばかりか悪の元凶にも感じられるだろう。発売禁止や手鎖《てぐさり》では足りぬと思っても不思議はない。と言って死罪にはできない。それをやれば民らに怯えが広がる。そこら辺りに今度の一件の発端がありそうだ、と仙波は思い至った。
〈あんただけの世の中か?〉
そりゃあねえよ、仙波は道に転がっている馬の糞を思い切り蹴飛ばした。
〈あんたはどれほど立派かも知れねえが、皆だって踏ん張って生きてるんだ〉
しかし──
仙波の声が届くわけもない。己れの勤めの空しさを仙波は感じていた。
奉行所に戻り、鬱々とした気分のままなんとかその日の勤務を終える。外に出た仙波の足はいつしか歌麿が仮住まいする霊岸島の笹屋の方角に向けられていた。ひさしぶりに歌麿の顔を拝み、様子によってはどこか静かな場所で呑みたいと思ったのである。
「旦那」
ばたばたと追いかけて来た足音は菊弥のものだった。
「そうか。待たせていたんだったな」
「お忘れだったんで? お珍しい」
「歌麿《うたまる》と呑もうと思ったが、おめえでもいいか。少し付き合え」
「おめえでもってのが情けねえ」
それでも菊弥は喜んで従った。
「ついでだ。一応は歌麿の顔も見てみよう」
仙波は歩きはじめた。菊弥には平沢常富と池之端で会う前に使いを走らせたのだが、今となっては用事もなくなった。
「調べごとができるかも知れねえということでござんしたが、そっちの方は?」
「もういい。今夜は全部を水に流す酒とする」
「へえ……」
「世の中は俺たちがわずかずつでも掃除してると思っていたが……」
「へえ」
「おまえに話しても仕方のねえことだ」
仙波は思い直して無言で足を運ぶ。
「なんだか妙な按配《あんばい》ですぜ」
菊弥は戸惑いながらついて来た。
「どうせなんにもならねえことなら……安井のように気楽に勤めるのがいいかも知れねえ。つくづくとそいつを思ったぜ。今頃、安井は吉原へ向かっていよう。見回りと称して女をただで抱く気だ。旨《うま》い鮨にもありつける」
「やっぱりおかしいやね」
「霊岸島まで歩くのも億劫になった」
仙波は立ち止まった。
「悪いがおめえ一人で行って来てくれ。俺は茅町の村定《むらさだ》で待っている。あすこ辺りなら霊岸島からそんなに遠くねえ。歌麿を誘って貰いてえ。ただし、無理は言わずともいいぜ」
「茅町なら両国でも一緒でしょう」
「呼んでみてえ芸者が居るのよ。柳橋のな」
「ますます奇妙だ」
菊弥は目を丸くした。
「茅町か。なるほど」
仙波は一人頷いた。秋田佐竹藩の屋敷は茅町裏手の福井町にある。柳橋は目と鼻の先だ。それでおこうも平沢常富に可愛がられているのだろう。
村定で刺身を肴に一人はじめていると、やがておこうが現われた。薄暗い風呂の中で見るのとは違って格段に華やかな女だ。
「来られねえかと諦めていたぜ」
「旦那のことだもの。無理をしてでも」
おこうは笑って仙波の脇に座った。
「でも、まさか今夜とは」
「歌麿と呑みてえと思ってな」
「歌麿師匠とお知り合いでしたか」
おこうは、小さく頷いた。
「なんとなく落ち着かねえの。こういう店で呑むなんぞ滅多にしねえ。だが、縄暖簾《なわのれん》じゃ歌麿やおめえに申し訳なかろう。それで我慢して呑んでたのさ。酒の味もしやしねえよ」
「それじゃあたしも今夜はお終《しま》いにして、のんびり付き合わさせていただきます」
「いいさ。その程度の銭はある」
「旦那方がお勘定を持つなんて一度も見たことがありませんねぇ」
仙波は苦笑した。そのように思われている自分らが贅沢を取り締まっている。仕事が半端になるのも当然のことだ。
「平沢さまとはお会いしてくださりましたか」
「ああ、会った。蔦屋重三郎も一緒だった」
「いいお人ですよ。あたしたちを遊ばせてくださいます。あら、ごめんなさい」
仙波が手にした銚子を奪っておこうは盃に酒を注いだ。ほわっと化粧の匂いが伝わった。
「歌麿とも馴染みかい?」
「ええ、お座敷で何度か。でも師匠は奥さまにぞっこんですからね」
「その女房《かみ》さんが死んだことは承知だろ」
「本当にお気の毒なことをしました。どんなに辛かろうと皆で噂しておりました」
「それで今夜は慰めるつもりで招んだ」
「錦絵をお止《よ》しになるという話は確かですか」
「そういう噂も流れているようだな」
「女絵の顔はいつも奥さまでしたものね」
「おりよのことを知っているのか?」
仙波は口元に運んだ盃を止めて質した。
「師匠とご一緒のことが一度だけ……絵と瓜二つですもの。直ぐに分かりますよ」
なるほど、と仙波は頷いた。
「あんな風に大事にされたんだもの、奥さまも幸せというものですよ」
「死ぬには早い。まだ二十六だった」
「女に年齢《とし》は関係ありません。本当に好いた人と巡り合えたらいつ死んでもいいのさ」
「おめえも若いくせして年増の口を利く。ってえことはまだ巡り合っていねえようだな」
「あたしはこれで貧乏暮らしにも慣れていますよ」
「俺への当て付けか」
仙波はくすくすと笑った。
「安井さまとは大違い。柳橋界隈じゃ南町の千一に胸を焦がしている女が大勢おります」
「いい加減なことを言うな」
「嘘じゃありません。だから今朝だって喜んで引き受けたんだ。でなきゃ男の入っている風呂にのこのこと行くわけが……」
大真面目な顔をしておこうは言った。
「どこでも俺は嫌われる」
「いけ好かない連中たちに、でしょう」
「金があるからって、いけ好かねえとは決め付けられねえだろうよ。蔦屋だって俺が考えていた男とはちょいと違ってた」
本心から仙波は口にした。
「なぜ奥さまをお貰いにならないんです?」
おこうはじっと仙波を見詰めた。
「親父が死ぬまでは気儘にさせてえと思ってのことだが……相手がいねえのも確かだ」
素直に仙波は応じた。こういう風に女と話を交わすのも滅多にない。裸からはじまった付き合いのせいかも知れない。
「押し掛け情婦《いろ》じゃ叱られますねぇ」
仙波は噎《む》せ返った。
「千一があたしの男だと自慢したいんですよ」
「おめえ、よっぽど変わってるぜ」
「どうして?」
おこうはきょとんとした。
「さっきこの店の仲居から聞いた。柳橋一番の売れっ子芸者だと言ってた」
「お仲間の人もたいがい知っておりますよ」
おこうは微笑んで、
「柳橋に顔を見せないのは千一ばかり。旦那はお仲間からも嫌われておいでです」
「だろうなぁ。安井なんぞ俺の葬式の日を何度も夢に見るそうだ。楽しみだとよ」
おこうは噴き出した。
それからしばらくして──
菊弥が伴って来たのは歌麿ではなく笹屋五兵衛だった。
「せっかくのお誘いでやしたが、歌麿は外に出られるような体じゃねえんで」
五兵衛は謝った。
「出られるような体じゃねえ?」
「おりよさんの四十九日が済むまでは五穀断ちをすると言って……」
仙波とおこうは目を合わせた。
「ほどなく四十九日となりやすが……葛湯《くずゆ》なんぞじゃとても体が保ちやせん。うつらうつらと日を過ごしているような具合で」
「腑抜けになったという噂はそれか」
「死んだ者が戻るわけじゃねえからと口を酸っぱくして言い聞かせたんですがね……困ったもんでござんすよ」
五兵衛は頭を下げて仙波から盃を受け取った。おこうは涙ぐんでいた。
「この前なんざ、夜中に飛び起きて寺参りをすると言い出しましてね。おりよさんが生き返ったような気がするんで土を掘り返す道具を貸してくれ、と。いつまでも情けねえ真似をするなと怒鳴りつけてやりましたが」
「五穀断ちのせいだろう。血が足りなくなると幻を見るんだそうだ」
仙波は言って何度も頷いた。
「尋常な死に方じゃねえんだ。思いを拭い切れねえのも分かる。それも知らずに無粋な誘いをした。そこまでとはなぁ」
「昼に蔦屋さんとお会いしたそうでござんすね。そのあとに歌麿を訪ねて来てくれて」
「蔦屋はなにか言っていたか?」
「下手人のことは諦めるしかなかろう、と」
五兵衛は暗い目をして仙波を見据えた。
「なにを蔦屋が口にしたにしろ、こういう場所で言っちゃいけねえぜ」
仙波は釘を刺した。おこうと菊弥が居る。
「それじゃ本当のことなんで?」
五兵衛は仙波の腹を探った。
「歌麿はそれで得心したのか?」
「それが本当なら……得心するしかねえでしょう。鬼の顔になりやした。ずいぶんと永い付き合いだが、あんな顔ははじめて見た」
「なんの力にもなれなくて済まねえな」
仙波は五兵衛の盃に酒を注ぎ足した。
おこうと菊弥は不審の目をしている。
「しかし……本当にそうなんですかね?」
五兵衛は諦め切れない様子で繰り返した。
「蔦屋の言う通りさ。ああいうものがいくつも転がっているたぁ思えねえな」
髑髏の根付が歌麿の家から見付かり、それを持つ男を、自害する前の恋川|春町《はるまち》が松平定信の屋敷内で見掛けたことを言っているのだが、通じたようで五兵衛は大きく吐息した。
「歌麿への脅しだったということで?」
「そのつもりが、おりよさんの顔と体に目が眩《くら》んで、やり過ぎたってことだろう。あるいはおりよさんに正体が割れてしまったか。まさかあそこまで命じたとは思えねえ」
仙波はそう睨んでいた。あの大水もその追い風となった。下手人たちはこれ幸いと大水で死んだように見せ掛けたに違いない。それを聞かされた松平定信が、慌てて一件の揉み消しに動いたと見れば辻褄《つじつま》が合う。
「江ノ島の宿に画会を開けと持ち掛けたお人のことでござんすが……」
「分かっているのか?」
「お話ししても、もう意味のねえことになりますね。互いに忘れることとしやしょう」
「そうだな」
仙波はうつろな笑いをした。五兵衛の様子には含みがある。弱腰を笑っているのだ。
「得心はしても……歌麿は決して忘れやしませんよ。そういう男です」
「刺し違える気じゃなかろうな」
「そんな馬鹿でもありやせん。ご安心を」
五兵衛はにやっと口元に笑いを浮かべた。
〈こいつ、どういう男なんだ?〉
仙波は五兵衛に薄気味悪さを覚えた。もぐさを商いにしているだけの男とは思えない。
「歌麿とあんたはどういう縁がある?」
仙波はまた銚子を差し出して訊ねた。おこうは黙ってやり取りを聞いている。
「鳥山石燕《とりやませきえん》先生のところから歌麿が飛び出して以来、親代わりとなっております」
「歌麿の身内は?」
「栃木におりやすが……親子とは名乗りあえねえ事情《わけ》がありましてね。それでおなじ境遇のおりよさんに惚れたんだと思いますよ」
「歌麿は栃木の出かい」
「と言っても栃木に出掛けたことはねえはずで。歌麿に断わりなしにそれ以上を言えば歌麿が気を悪くしやす。あとのことは仙波さまがお訊ねなすったらようござんす。四十九日を済ませたらぜひ店の方にお出ましを」
「兄妹みてえな夫婦《めおと》だったんだな」
仙波はしんみりと口にした。
「なにがあったか知らないが」
おこうが堪《たま》らずに口を挟んだ。
「あたしの聞いている千一らしくない」
おこうは仙波を睨み付けた。
「それじゃ他の男と変わりないじゃないか」
仙波は返さずに盃の酒を嘗めた。
──書物類の儀、前々より厳重に申し渡しそうろうところ、いつとなく猥《みだ》りにあいなりそうろう。これよりは何によらず行事《ぎようじ》あらためをきつくすべくそうろう。絵本草双紙の類までも、風俗のためにあいならず、いかがわしき事など、もちろん無用にそうろう。一枚絵の類は、絵のみにあれば大概は苦しからずそうろう。もっとも、言葉書きなど添えしときはよくよくこれをあらため、いかがなる品々は板行《はんこう》にいたさせ申すまじくそうろう。右に付き、行事あらためを用いざるものを板行せし者あれば早々に訴え出づべくそうろう。また、あらため方不行き届きか、あるいはあらために洩れあるときは、行事も落度たるべくそうろう──
錦絵の版元や書籍問屋に対してこのような厳しい触れが発布されたのは、歌麿の女房おりよの四十九日の直前であった。
いかになんでもこれはやり過ぎであろう、と仙波は触れ書きを目にして唸った。すべての書籍や錦絵を版下、つまり板にのせて彫る前に検閲するという制度なのである。そうすれば幕政の批判などを前もって取り除くことができる。老中松平定信がいかに黄表紙などにおける己れへの批判を腹に据えかねていたかの証明でもあるのだが、問題は検閲のやり方にある。奉行所辺りに役職を設けて専任の者を置くならまだしも、その予算も人員もないので、版元や書籍問屋の主人たちに行事の役目を押し付けて、自分たちで出板《しゆつぱん》してもよいものかどうかを判断しろと言っている。聞いた限りでは楽そうに思える。しかしそうではない。もし出板されたものに幕政の批判や淫《みだ》らなものが発見された場合は、それを拵《こしら》えた版元だけでなく、検閲した行事も同罪と見做して処罰の対象とする、と布告しているのだ。他人が出板したものの責めを負って財産没収や手鎖《てぐさり》になっては堪らない。行事は月に二人ずつの回り順と定められているようだが、行事を務める者は後難を恐れて、少しでも危ないと見たものは躊躇なしに出板差し止めの判断を下すに違いない。他の店のことだから迷いもない。
〈利口な方法だ……〉
仙波は松平定信の知恵の凄さに呆れた。と同時に松平定信が奉行所に信頼を置いていないことも知った。検閲を奉行所に任せれば必ずその網を潜ろうとする業者が出てくる。彼らは担当の同心や与力を賄賂でもって懐柔するだろう。結果として取り締まりの効果は緩み、それを罰することは幕府側にも責めがあると認めることとなる。そこまで考えた上で、版元らに自主規制を命じたのであろう。
〈恐ろしいお人だな……〉
人の心をどこまで見抜いているか分からない。仙波の脳裏には恋川春町や朋誠堂喜三二らが書いた黄表紙を憤怒《ふんぬ》の形相で破り捨てる松平定信の姿が思い描かれて寒気を覚えた。生真面目な人間と耳にしている。だからこそ、へらへらと遊び惚《ほう》けて無責任に政策を揶揄する戯作者らを断じて許せないのだ。気持ちも分からぬではないが……これは異常な執念とも言うべき触れ書きであった。なにが淫らで、なにが良俗に反する言葉であるか、この触れ書きにはいっさい示されていない。その最終的判断は松平定信一人に委ねられる。行事の役目にある者たちは、松平定信の影に怯えて、さもないことまで細かく気を配るはずである。
〈厭な世の中になっていきやがる〉
松平定信が老中となって改革をはじめた当初には思いもよらない展開となっている。仙波は回されて来た触れ書きを目にしても、さほど気にもしていない同僚たちを横目に露骨な溜め息を吐いて見せた。
「仙波さん、佐野さまがお呼びですよ」
安井がにやにや顔で詰所に姿を現わした。
「なにかお耳に入っているらしい。ここは喧嘩せずに聞き流すのが良策でしょう」
安井は立ち上がった仙波と擦れ違いざま耳打ちした。安井の口からは酒の臭いがした。昼の見回りで料亭にでも出掛けて馳走になったのだろう。仙波より一つ年下だが、腹がでっぷりと肥えて貫禄が付いている。
「亀清の調べのことか?」
「私はなにも言ってはいませんよ。もしそうだったら別の者から聞いたんでしょう」
安井は慌てて否定した。仙波も頷いた。金には汚くとも根は狡猾な男ではない。
「お呼びでしたか?」
廊下で仙波は佐野に声をかけて襖を開けた。
「歌麿《うたまる》のことをまだ追っているそうだの」
佐野は仙波と向き合った。
「追ってはおりませぬ。酷いやつれ様と聞いて気にしておるだけにござります」
仙波は苦笑いした。どこまで知られているか分からぬうちは慎重に応じるに限る。
「蔦屋と上野の出合い茶屋で会ったと言うはまことか? 朋誠堂喜三二も同席したとか」
言われて仙波は耳を疑った。それが突き止められているとは思わなかったのである。
「今日の触れ書きを目にしたはずだ。妙な付き合いはそなたのためにならぬぞ。我らはあの者らを取り締まる側にある」
「そういう話にはござりませぬ。あの者たちは歌麿と身内同然の付き合い。それで事件のことが気になって手前に……」
「余計なことを口にしてはおるまいな」
「職分は弁《わきま》えておるつもりにござります」
仙波はじろっと佐野を見返した。
「そなたならそうであろう」
佐野も即座に認めた。
「亭主の届けによって病死と定まったものをいまさら詮議なすことは許されぬと申し伝えておきました。あの者たちも得心したようで」
「それなら安堵した。それではあらためて申し付ける。今日の触れ書きを携えて蔦屋重三郎、鶴屋喜右衛門、和泉屋市兵衛、丸屋甚八、この四店を回って貰いたい」
「は?」
「行事は月番で交替いたすが、さらにその纏《まと》めとして絵名主を設けることとあいなった。絵名主は三月ずつ、今の四人が交替で一年を務める。この十月から来年の正月にかけては丸屋甚八。それ以降については四人の談合に任せる。その旨をしかと言い含めて参れ」
「行事ばかりでは足りませぬので?」
仙波はさすがに呆れた顔をした。
「万が一、行事の一人が幕政に不満を抱き、おあらためをないがしろにしたらどうなる。出板されるまで我々の目が届かぬでは先が案じられる。それで絵名主を増やした。そなたには今後、絵名主に当たっている者らの世話役を命じる。大事なお役目であるぞ」
「手前ごときには荷が勝ち過ぎております」
仙波は辞退した。
「千一と綽名されるそなたゆえ命じたのだ。そなたに任せるなら安心だ」
佐野は耳を貸さなかった。
「一人一人がこっそりと絹物を纏ったり、贅沢な食い物を並べるなど、実はどうでもよいことだ。大量に出回る黄表紙や枕絵にこそ人を蝕《むしば》む毒がある。こたびの触れ書きほど重き意味を持つものはない。心してかかれ」
仕方なく仙波は頭を下げて引き受けた。
〈少ししつこ過ぎるんじゃねえかい〉
下げた頭の中で仙波は松平定信に毒づいた。
その夕方。
仙波は通油町の蔦屋の店を訪れた。鶴屋も蔦屋と競い合うよう通りの向かいに大きな店を構えている。
薄暗い通りに人の姿はまばらなのに、蔦屋の店内には煌々《こうこう》と明りが灯され、客が集まっている。平台に並べられた黄表紙や店内に吊り下げられている錦絵の華やかな色が夕景の寂しさを紛らわせてくれるのだ。
眼鏡をかけた番頭が仙波に気付いて丁寧に挨拶して奥に居る主人を呼びに行く。
蔦屋が折り返し店に出て来た。
「面倒な役目を押し付けられちまってな」
仙波は苦い顔で蔦屋に言った。
「今日のお触れのことでござんすか」
「ああ。ゆっくりと話がしてえ。できれば鶴屋も誘ってくれれば助かる」
「鶴屋さんならちょうど奥に。同業が集まって談合をしていたところですよ」
「だったらどこかで待とう。皆が一緒じゃやりにくい話でな」
「では近くの店にご案内を。鳥鍋でもつついていておくんなさいまし。談合を早めに切り上げて二人で伺いますから」
「そっちも大変のようだ。呑みながらの話となるなら鶴屋は明日でいい。どうせ和泉屋と丸屋も回らなきゃならねえんだ」
へえ、と蔦屋は不安の色を浮かべた。
蔦屋の手代に案内されたのはこざっぱりとした料理屋だった。鳥を煮る旨そうな匂いが二階に上がる仙波を追いかけてくる。
「ほう……」
通された四畳半の部屋の二枚の襖には見事な女絵が描かれていた。右は縁台に腰掛けて夕涼みをしている女で、左は出窓から半身を乗り出して雪見をしている女だ。どちらも歌麿の筆になるもので、女の顔はおりよに生き写しだった。歌麿は蔦屋の離れに寄宿していたのだから、近所のこの店に絵があっても不思議ではない。仙波はおりよと対面した気分でしばし見惚《みと》れた。狭い部屋だけに圧倒される。女の息遣いまで聞こえるようだ。
「大した腕だな。生きているみてえだ」
仙波の言葉に仲居も頷いた。
「歌麿は女房《かみ》さんを亡くしてから来たか?」
「一度も……」
「きっとこの絵を見るのが辛いんだろうぜ」
仙波にはそんな気がした。
「この部屋だけは鍋を煮てから一人前ずつお持ちすることになっておりますけど」
それでいいか、と仲居は質した。炭を用いれば絵が煤《すす》ける。それへの配慮である。
「まずは酒と香《こう》の物だけでいい」
仙波は座って襖絵を前にした。
蔦屋は四半刻(三十分)も仙波を待たせなかった。なんの話か気に懸かっていたらしい。
「手前や鶴屋さんが絵名主に……」
聞かされて蔦屋は小首を傾げた。奉行所から睨まれ続けの身なので驚きもある。
「監視する側に回されちゃ、これまでのように好き勝手ができまい。蔦屋を封じるご老中の策だ」
なるほど、と蔦屋は唸った。
「その上、新板がどっと並ぶ正月の分の絵名主は丸屋。あすこは蔦屋の商売敵だろう」
「さようで」
「となりゃ、好き放題にあんたのとこの錦絵や黄表紙に口を挟んでくるぜ。ご老中はそこまでお見通しで丸屋を据えてきたのさ」
「………」
「この俺を世話役に付けたのだって、果たしてだれのさしがねやら。睨みを利かせる立場の俺が蔦屋《あんた》や朋誠堂喜三二とつるんでいちゃ示しがつかねえ。そいつを理由にいつでも俺を奉行所から追い出せる」
ますます蔦屋の眉が曇った。
「ご老中は本気だ。下手ぁすると首が飛ぶぜ。そいつを狙って締め付けを厳しくしてるのよ。おりよさんの一件だって、つい先頃まではどこかで疑っていたが、こう重なればたいがい間違いねえだろう。よっぽど悪口を書かれたことが頭にきてると見える。あんたとしてはやられっ放しで面白くなかろうが、ここは当分辛抱するしかなかろう。こんなことが永く続くわけはねえよ。いかにもやり過ぎだ。一年やそこらで皆が音《ね》を上げる」
「辛抱していれば店が先に潰れますよ」
蔦屋は自嘲の笑いを洩らして、
「こんな世の中になってなにを売ればいいんです? うちが何十年と続けて来た吉原の細見《さいけん》も禁止となりやした。狂歌本も黄表紙も危ない。歌麿の女絵も、肝心の当人があんなになっちゃ当分は出せやしません」
「まったくな」
仙波もそれには頷いて、
「それにしてもなんだってご老中はあんたのとこだけを目の敵にするんだ? 俺がこう言っちゃまずかろうが、ご政道をおちょくっている本はまだ他にもある。なのに引っ掛かるのは蔦屋のものがほとんどだ」
「先代の佐竹さまとの繋がりでございます」
あっさりと蔦屋は返した。
「先頃ご病没なされました先代さまは田沼さまと特にお親しい間柄。何度も田沼さまをお屋敷に招いたほどのお付き合いにございました。田沼さまがご失脚召されたときには秋田藩も松平さまの手によってお取り潰しになるのではとの噂まで立ちました。松平さまも恐らくはそのつもりでおられたはず。実際に田沼さまと懇意でいらしたお大名らが幾人も同様の憂き目に……幸いに、と言っては憚られますが、もし先代さまがご存命であったなら、きっと国替えかお取り潰しとなっておりましょう。松平さまも当の先代さまがご病没とあっては無体《むたい》な難詰もならず、沙汰止みとなりました。お陰で手前も命拾いをいたしました」
「命拾い?」
「蔦屋が今のように大きくなれたのは佐竹さまのご尽力によるものでございます。金繰りの大方を佐竹さまに頼って参りました」
「つまり……秋田藩が金を出してあんたと組んで銭儲けをしていたということか?」
「それを松平さまもご承知でありましょう。言わば手前は秋田藩と一蓮托生の身。他の者らが政道を茶化すこととは事情がだいぶ違います。しかも秋田藩のお留守居役平沢さまと組んでとなれば……松平さまの目には田沼さまの恨みを晴らさんとしての謀反とも映りましょうな」
「呆れたもんだ」
仙波は思わず吐息した。
「そこまで知りつつ、なんでそれをやる?」
「仕方ございませんよ。平沢さまがやりたいとおっしゃるものを手前が断わるわけには参りません。それが手前のご恩返し」
「平沢さんが持ち掛けた?」
仙波はぐっと身を乗り出した。
「平沢さまは……先代がどなたかによって毒殺されたとお考えにござります」
思い切った顔で蔦屋は打ち明けた。
「どなたかとは……今のご老中か?」
「その反対に、藩がお取り潰しになるのを恐れたお身内の方々によってお薬を盛られたのではないかとお疑いで」
「お身内がそこまでするか?」
仙波は眉根を寄せた。
「身近にあられた平沢さまなれば、なにかお心に当たるものがあったのでござりましょう。毒殺なされたお人らはお身内でも、元を正せば松平さまのご追及の厳しさを恐れてのこと。平沢さまが松平さま憎しと思われるのも手前にはよく分かります」
「まともじゃ歯が立たねえ相手だから黄表紙で政道批判に出たってわけか」
「自分一人が腹を切れば済むことと笑っておいででしたが……後に続いた倉橋(恋川春町)さまがご自害召され、今度は歌麿絡みでおりよさんが殺され……平沢さまもすっかり落ち込んでおられます。すべてはご自分の蒔《ま》いた種子《たね》と申されましてね」
「それじゃ、最初からおりよさんのことはご老中が怪しいと睨んでいたのか?」
「まさか。例の髑髏の根付が出てくるまでは爪の先ほども疑っちゃいませんでした」
蔦屋は冷たくなった酒を喉に流し込んだ。
「そこまで裏を聞かされても……相手がご老中とあっちゃ手も足も出ねえやな」
これほど自分の小ささを思い知らされたことはない。仙波は泣きたい思いで口にした。
〈妙なことに関わっちまったもんだぜ〉
蔦屋重三郎と呑んでから三日後。仙波は霊岸島の笹屋五兵衛の店に菊弥と二人で向かいながら溜め息混じりで思っていた。たまたま大水の日に応援を頼まれていなければ歌麿の女房おりよの一件に巻き込まれることはなかっただろうし、こうしてまったく無縁な笹屋の店を訪ねることもなかったはずだ。なのにこの二月近い間にいったい何度霊岸島まで足を運んだことだろう。八丁堀の組屋敷から間近の場所とは言え、縁がなければ滅多に足を向けないところに五回近くは出掛けている。その上、今は市中見回りの本業の他に錦絵や黄表紙などの取り締まりの役目の責任を押しつけられているような按配だ。おまけに上司からは煙たい存在と見做されているふしも見られる。自分の本意ではない。事件に足を突っ込んだのは南町に勤める同心として当たり前のことだった。なのに、それが自分をどんどん妙な方向へ運んで行く。同僚たちは自分になにが起きたのかさっぱり分かっていないに違いないが、内心では笑って眺めているだろう。きっといい気味だと思っている。取り締まりの責任を担うとなると本当は羨ましがられる立場なのだが、相手が蔦屋などの版元では面倒ばかりで仕事の旨味がない。老中松平定信の厳しい目が向けられている業種だ。呉服問屋や料亭のように、ある程度目こぼしが認められるものとは違うのだ。癒着は自分の命取りにも繋がる。かすりも得られずただただ神経が疲れる。
同僚がなんと思おうが気にする仙波ではない。しかし、流されながら手も足も出せないでいる自分が情けない。松平定信の方策は清廉潔白な改革と思っていただけに余計怒りがつのる。いや、この程度の裏はどんな時代にでもあったことなのだろう。相手が信じていた松平定信なので失望が大きいだけだ。確かに現行のやり方では蔦屋や朋誠堂喜三二たちを完全には叩き潰すことがむずかしい。彼らの毒がじわじわと広がる前に自ら手を打つしかないと考えても不思議ではない。と無理やり納得させてもみるのだが……では、この自分の仕事はなんなのだ、という空しさが襲いかかる。法とは形だけに過ぎなくて、自分はその形をそれらしく見せている飾りに過ぎないのか? 法で取り締まることができないのは、つまり罪ではないせいだ。その法の頂点にある松平定信が定めを外したことを行なっては国など成り立たない。どんなに世間の顰蹙《ひんしゆく》を買おうと、政道批判をした者は死罪という法を作ればいいのである。陰でこそこそ画策するよりずっとましだ。それができないのは、名を惜しんでいるとしか思えない。天下一の老中であったと後世に名を残したいのだ。汚れに汚れた田沼時代の水を二、三年やそこらで綺麗に戻せるわけがない。それを政策だけで見事に成し遂げたと後世に伝えたいのであろう。そんなのは青臭い餓鬼の望みと一緒だ。
「ちゃんちゃらおかしいぜ」
思わず仙波は口にした。
「へ?」
菊弥は仙波に目を動かした。
「ご老中は麦飯に一汁一菜を守り通しているそうだ。倹約を自らお示しになっているということだそうだが、そんなお人の下に仕えているやつらは気の毒だの。町を歩いて鰻や天麩羅の匂いに堪らない思いをしてるこったろう。それほど旨い食い物が嫌いなら江戸中の料理屋を全部ぶっ潰してしまえばいいんだよ。なくなりゃ食いたくても食えなくなる。目の前にあるのに食うなと言うのは酷だぜ。自分が我慢できるから皆もやれっていうのは話が違う。我慢較べをしているんじゃねえや。自分がそれを実践すりゃ自然と他の皆が従うと思ってござろうが、それならこんな国になっちゃいねえよ。芝居の中でも役者が絹物を身に纏っちゃいけねえと言いやがる。馬鹿な話だ。それよりは当分小屋を閉めさせるのがよかろう。そいつをやれば民らが今の改革を受け入れなくなる。それを案じてのことだろうが、貧乏臭ぇ殿様芝居なんぞだれも見たがりゃしねえ。なんにも分かっちゃいねえのさ」
「お声が大きゅうございやすぜ」
菊弥は人目を気にして耳打ちした。
「おりよはそれで殺されたんだ。半端な禁令のせいだ。蔦屋が憎けりゃ店を潰せば済むこった。人になんと思われようと、自分が正しいと信じていなさるんなら、やってみればよかろうよ。なにも無縁なおりよを殺すことはねえ。歌麿《うたまる》の悔しさが俺にゃ痛ぇほど分かる。あのお人のなさっていることは、田沼さまよりずっと酷《ひで》ぇ。なにが改革だ。貧乏が好きなら一人で勝手にやっていろってんだよ」
「旦那、およしになっておくんなさい」
菊弥は仙波の羽織の袖を引いた。
「怪しい野郎どもが周りをうろちょろしてるとおっしゃったのは旦那じゃねえですか」
「だから聞かせてるんだ」
仙波は鼻で嘲笑った。だれも知らないはずの池之端での蔦屋と朋誠堂喜三二との対面が、わずかのうちに上司の佐野平太郎の耳にまで届いていた。密かに仙波の動向を逐一見張っている者が居るとしか考えられない。
「俺なんぞに構っている暇があるなら、別のことに目を光らせろ。この前の大水でしこたま儲けた材木問屋もあるって噂だ。そっちはどうでもいいことなのか」
仙波は立ち止まって背後に声を荒らげた。だが、怪しい姿は見られない。
仙波は大きな吐息をした。
およそ一月《ひとつき》ぶりに見た歌麿はげっそりと痩せこけて、生気が失われていた。それでもおりよの四十九日を済ませた安堵があるのか、微かな笑いを口元に浮かべて仙波を迎えた。
「外に出ねえか。五穀断ちは止めたと笹屋から聞いた。湯豆腐でも食おう」
仙波は誘った。何日も敷きっ放しの布団が歌麿の後ろにある。掃除もさせないのか黴《かび》と酒の混じった甘酸っぱい臭いが狭い離れに漂っている。これで月代《さかやき》が綺麗に剃られていなければ病人だ。四十九日の法要のために頭だけはきちんとしたのだろう。
「湯豆腐か。それもようござんすね」
歌麿は頷くと重い腰を上げた。足元がふらついている。思わず支えたくなる。
「外に待たしている小者も一緒でいいかい」
「どうぞ。賑やかな方が気が紛れやす」
歌麿はのろのろと羽織を纏った。
「出掛けている間に掃除をさせたがいいぜ。酒の臭いが籠っていやがる。畳もべとべとだ」
「あ、止しておくんなさい」
布団に手を掛けた仙波を歌麿は制した。
「そいつだけはそのままに」
「おりよさんを寝かしていた布団か」
仙波が言うと歌麿は小さく認めた。その布団を片付けずにずっと寝ていたようだ。未練が過ぎる、と感じながらも仙波は布団から離れた。口出しすることではない。
「まずは……お疲れだった」
静かな部屋で互いの盃に酒を満たすと仙波はあらためて歌麿に言った。
「せんだって蔦屋と会った。ずいぶんと案じていたぜ。当分は仕事を止すつもりかい」
「栃木の方でのんびりしねえかと身内から誘われておりやす」
「身内……」
「同然という付き合いですよ。江戸に居ても気持ちが塞《ふさ》ぐばかりでござんす。いつかは出掛けてみたいと思っていた土地なんで……あと十日もしたら出発しようかと考えておりやした。明日明後日でもこっちは構わないんだが、この調子じゃ旅は無理でやしょう」
歌麿は力なく笑って盃を口に運んだ。一気に大ぶりの盃を開ける。
「少しは腹に入れてからにするがいい」
酒をまた注いで仙波は苦笑した。
「ま、湯豆腐じゃ旅の力にもなるめえが」
「ご心配ありがとうござんす」
歌麿は頭を下げて盃を膳に戻した。
「栃木はだれを頼って行くんだ?」
「小間物《こまもの》を商っている釜屋というところで。栃木では知られた店と聞いておりやす。その店の跡継ぎが狂歌をやっていましてね。しょっちゅう商いで江戸に出て来ては手前の関わっていた連に顔を出しておりますんで。通用亭徳成の名で狂歌本も何冊か……」
「なるほど」
「十一も若い男だが、妙に馬が合って今では身内と変わらぬ付き合いを」
嬉しそうに歌麿は口にした。身内同然ではなく本当の身内なのだろうと仙波は思った。親子の名乗りは挙げていないが、歌麿の父親は栃木の者だと笹屋から耳にしている。
「江戸の者は歌麿の新作を目にすることができなくて寂しい思いをするだろうが、仕方ねえな。気晴らしをして元気になって貰うのが大事だ。それに今のような江戸じゃ窮屈な思いをするだけだ。それがよかろう」
「蔦屋の旦那にはがっかりされましたよ。正月の目玉がなくなったとぼやかれやしてね」
「いや、諦めた口調だったぜ。あんたを力づけようとして言ったのさ」
「承知しておりやす。本当はこんなときにこそ踏ん張ってやりたいんだが……描く気が起きねえからどうにも……」
「気にすることはねえさ。どうせ蔦屋も正月は出したくてもろくなものがやれねえはずだ。やれば今度こそ災難となる。そこは蔦屋も心得ていよう。ご老中の改革に相応《ふさわ》しい貧乏たらしい正月になるぜ。詰まらねえ本や大して色を使わずに済む相撲絵ばかりが店頭を飾ろう。裸の相撲取りならご老中も贅沢だと怒りはしめえ。いい世の中になったもんだ」
「蔦屋の旦那は、する気ですよ」
歌麿は暗い目で言った。
「どうぞ目を光らせていておくんなさい」
「やろうと思ったってできねえさ。それを見越しての行事制度だ。そいつを監督する絵名主に選ばれている以上、ちょいとでも妙な真似をすりゃ直ぐにお縄となる。もし行事を通さずに出板でもした暁にゃ有無を言わさずこれになるってことだって」
仙波は首に手を当てて叩いた。
「だからなおさら心配しておりやす」
「分かった。気を付けて見ていよう。俺は絵名主の世話役を命じられている。下手をすると俺にもとばっちりが回ってくる」
「半年やそこらは江戸に戻らないつもりで行きます。あとのことはよろしく」
「そんなに永いのか」
「居れば余計なことを考えますんでね」
歌麿は笑いを見せた。が、その目の奥には冷たい怒りが燃え上がっていた。仙波は曖昧に頷いて酒を勧めた。歌麿はそれも一気に喉へ流し込んだ。酒を楽しんではいない。
「笹屋や蔦屋からどこまで聞いている?」
「その話はよしましょう。仙波さんとそれを話しても互いに愚痴や恨みになるだけです」
歌麿は遮《さえぎ》った。激しい拒否であった。
「兄《あに》さんはここですか」
襖の外から若い男の声がかかって仙波はむしろほっとした。菊弥が立って襖を開ける。
「おお、来たのか」
歌麿は顔を見せた男に笑みを浮かべた。
「たった今お話しした栃木の徳成です」
歌麿は部屋に促して仙波に紹介した。小間物屋の跡継ぎという印象ではない。精悍な体付きに鋭い目が光っている。それに、どことなく歌麿と似ていた。受ける風合いはまったく異なるのに、そんな気がする。やはり血の繋がっている間柄に違いない。
「南町の仙波一之進さまだ。おりよのことでお世話になったお人だ」
「お噂は兄さんよりかねがね。笹屋を訪ねたらこちらと伺ったもので……お邪魔いたして申し訳ございません」
徳成は両手を揃えて仙波に挨拶した。
「旅の相談か」
「へえ」
「歌麿は半年も栃木に引き籠るつもりらしいが、元気になったら江戸に戻るように勧めるんだぜ。こっちも早く歌麿の絵が見てえ」
「分かりやしてございやす」
「まぁ一杯やんな。そろそろ湯豆腐も煮える」
「頂戴いたします」
仙波の差し出した盃を徳成は手にした。
それから一刻後。
またの再会を約して立ち上がった仙波を店先で見送った歌麿と徳成は、ふたたび部屋に戻って酒を注文した。笹屋の離れには冷や酒しか置いていない。外は寒くなっている。
「あんな役人も居るんだね」
徳成は砕けた口調に戻して手酌した。
「なんでこんな席に顔を出した」
歌麿は徳成を叱りつけた。
「仙波さんの目は節穴と違う。ただの小間物屋とは違うと睨んでいなさるだろう」
「それなら笹屋の叔父貴も一緒だ。あっちの方がもっとおっかねえ顔をしている」
言われて歌麿は苦笑いした。
「まぁ、半年は仙波さんと付き合いがなくなる。たいがい心配もなかろうが……俺もとんだ身内を持ったもんだ。おまえの声がしたときは背筋が冷やっとなった」
「どんな顔《つら》をしてるのか見たくなったんだよ」
「仙波さんは本物の武士《さむれえ》だ。仙波さんにだけは迷惑をかけるようなことをするなよ。それをやってはおりよに面目が立たなくなる。親身になってくれたお人だからな。人の情けがこれほどありがたいと思ったことはねえ」
歌麿はしんみりとして盃を口に運んだ。
「しかし、結局は役人で、長い物に巻かれちまう。気の毒なことだと姉さんの位牌に手を合わせるだけしかしてくれねえ」
徳成は歌麿を睨み付けて言った。
「やった野郎たちの見当をつけながら、放り投げてしまったのは確かだろうに」
「相手が相手だ。仙波さんになにができる」
「南の千一もしょせんは飼い犬ってことさ」
「いいじゃねえか。あのお人はおまえなんぞとは違って分を弁《わきま》えていなさる。手も足も出せねえからこそ、俺のことを気に懸けてくださっている。それに文句を言っては罰が当たるというものだ」
「兄さんは悔しくねえのか?」
徳成は泣きそうな顔になった。
「俺は兄さんの辛い姿を見ているだけで死にそうな気分になった。そりゃ、相手が老中なら俺たちの手の届く手合いじゃねえ。けど、泣き寝入りはねえだろうよ。いくら世話になった蔦屋の旦那の言葉だからって、病死と届けたんじゃ姉さんが浮かばれやしめえ。千一のことより俺はそいつが悔しいのさ」
「おりよのことは口にするな!」
歌麿は盃を徳成に投げ付けた。
「おりよには俺の気持ちが通じている。俺がいつ泣き寝入りをすると言った? 分かったような口を利くんじゃねえ」
歌麿の肩は大きく震えていた。
「じゃあ……なにかする気なのか?」
徳成は目玉を見開いて質した。
「栃木で考える。江戸に居ては流されるだけだ。このままで済ますつもりはねえ。一生をかけても松平定信を許しゃしねえ」
歌麿の顔は鬼に変わっていた。
「おりよがいったいなにをした? 俺が目障りと言うなら、俺の腕でもへし折ればいい。あんな野郎の改革なんぞ嘘っぱちだ。この俺が命に代えても潰してやる」
「俺も手伝うぜ。姉さんの仇を取る」
徳成は身を乗り出した。
「なんの恨みがあっておりよを手にかけた。おりよがいったいなにをした」
歌麿はどっと涙を溢れさせた。
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青楼十二時《せいろうじゆうにとき》
寛政三年の正月。月も二十日を過ぎると世間の浮かれた気分もすっかり薄れる。出仕早々に仙波は上司の佐野から呼び出しを受けて嫌な予感に襲われた。正月に並んだ黄表紙や洒落本にすっかり目を通していた仙波は、なんとなく危ないことになりそうだと蔦屋の身を案じていたのである。
「仙波一之進、参りました」
廊下から声をかけると佐野は案外と機嫌のよい様子で部屋に促した。佐野の机の上に見慣れた洒落本が積まれているのを見て仙波は内心で舌打ちした。
「蔦屋と申すは懲りぬ男だのぅ。回されて昨夜から朝まで読んでいたが、いやはや呆れて物も言えぬ。この世の中の窮状をなんと心得おるのか……そなた読んでおるか?」
佐野は笑いを絶やさず仙波の膝の辺りに数冊の本を投げてよこした。仙波は一瞥してから一冊を取り上げた。やはりすべてがこの正月に出板された山東京伝の著作である。しかも三作品とも蔦屋が売り出したものだ。仙波が手にしたのは『錦之裏』と表題がある。吉原の遊女たちを主人公に据え、しかも一般は滅多に知ることのできない昼の暮らしぶりを克明に描いたものだ。それで夜の華やかさに対する意味を持たせて『錦之裏』と題したものであろう。遊女の客を虜《とりこ》にする手練手管や私生活が窺えてなかなかに面白い。
「その顔では読んでおるらしいの」
「他愛のないものと感じましたが」
「猥《みだ》らとは思わなんだか?」
「手前であれば一向に」
「猥らとは、なにも房事をそのまま書き連ねたものばかりを言うのではないぞ。加えて良俗に反するものもいかぬときつく申し伝えてある。いっそう心を引き締めねばならぬこの正月に遊女ごときの暮らしをだらだらと書き綴って、それが許されると思うか? 禁令を出したばかりと申すに、初めての正月にこれでは示しがつくまい。一冊ならまだしも、同工異曲のものを三冊も並べるとは禁令をないがしろにした仕打ち。いかにもこれまでの世では捨て置かれたやも知れぬが、ここで見過ごせば禁令を出した意味がなくなる。儂《わし》はそう見たが、そなたはどう思う?」
佐野は仙波を見詰めて質した。
「そういう意味であるなら、さようにござりましょうな」
仙波は正直に応じた。蔦屋以外の版元は禁令を恐れて艶っぽい本は避けている。春本ではないにしても山東京伝の筆はいかにもねっとりとしたものを感じさせた。
「では儂の裁量で吟味に回して構わぬのだな」
「なぜ手前ごときにご相談を?」
「そなたは絵名主の世話役であろう。もしこれが罪と定まれば見過ごしたそなたにも多少の責めが及ばぬとも限らぬ。それでそなたの考えを訊いてみたのだ。まぁ、この程度ならそなたにお咎めが及ぶことはあるまいが……」
佐野は笑って請け合って、
「吟味に回すと決めたからには蔦屋にもその旨伝えておいてくれ。それと山東京伝のこれまでの書き物も集めて貰いたい」
「これまでのものと申しますと?」
「儂は読んだことがない。読んでみたいだけだ。吟味の際の手助けにもなろう」
「いつまでにござります?」
「明日《あす》明後日《あさつて》のうちだ。早いほどありがたい」
「分かりました」
「歌麿《うたまる》の名を近頃聞かなくなったが」
佐野は思い出したように口にした。
「江戸を離れて栃木に出向いております」
「なにをしに行った?」
「別に。栃木には身内が在る様子。女房の一件で仕事をする気になれぬのではないかと」
「気楽な身分だの。羨ましい話だ」
佐野は鼻で笑って、
「いつ戻るか知らぬが、戻ったときは仕事をする先がなくなっているかも知れぬ」
「蔦屋のことでござりますか?」
「吟味次第によってはな。決めるのはお奉行。果たしてどうなるものやら」
佐野は薄笑いを浮かべた。
「全部がいけねえとおっしゃりますので!」
聞かされて蔦屋はさすがに青くなった。
「吟味に回されると言うだけで、どうなるかは分からん。しかしまぁ覚悟はしとくがよかろう。この俺でさえ読んだときは危ないことになりそうだと案じた。睨まれている身なんだ。なんで張り合うような真似をする?」
蔦屋の奥座敷である。仙波は煙草盆を引き寄せて一服|喫《す》いつけた。
「様子を見たつもりでございましたがね。京伝さんともだいぶ相談してぎりぎりのところに納めたつもりでしたよ……あれがいかぬとなれば、今後は文字手本しか出しちゃならぬということになりましょう」
「他の店はなんとか穏やかに済ましている」
「売れちゃおりませんよ。売れねえ本なら出さない方がいい。紙の無駄となります」
憮然と蔦屋は返して、
「どういう処分になりましょうね」
仙波に訊ねた。
「罪と定まれば発売を禁止されるのは当然として、過料がどの程度になるものか……」
佐野の口振りではだいぶ重くなりそうな感じだったが、罰金で済むなら蔦屋も気にはならないはずだ。問題は山東京伝の方である。恋川春町や朋誠堂喜三二と違って町人の身分では遠慮が要らない。入牢《じゆろう》ということも考えられなくはない。
「まさか、そんなことが」
それを言うと蔦屋は溜め息を吐いた。
「歌麿もあんたから目を放すなと言っていたが……まずい按配になった」
「歌麿がなにを言ったんで?」
「懲りずになにかしでかすと見通していた。京伝の本のことを知っていたんだろう」
「去年の春から頼んでおりましたからね」
「時期が悪過ぎた。禁令が出て二カ月なんだ。ご老中を甘く見たな」
「これにもやはり松平さまの目が?」
「決まってるよ。むしろおりよさんの一件で一刻も早い口封じを狙っていよう。うるさくなりそうな火種は早く消すに限る」
「じゃあ仙波さまにもご迷惑が?」
「俺のことはどうでもいい。たかだか謹慎で済む。のんびりできてありがたい」
「我《わ》が儘《まま》が過ぎました。仙波さまのご迷惑も考えず、この通りにございます」
蔦屋は仙波の前に両手を揃えて謝った。
吟味の末に処分が決定されたのは三月の頭であった。結果はこれまでに例のない重い判決となった。まず山東京伝であるが、『錦之裏』を含む蔦屋発行の三作がすべて発売禁止と同時に版木《はんぎ》の没収となり、これまでに山東京伝が発表したすべての洒落本も売買禁止の対象とされ、五十日の手鎖刑を言い渡されたのである。手鎖刑とは両腕の手首を分厚い板で挟んで拘束するもので、食事と便所以外は外すことが許されない。役人が始終監視につくからごまかしも不可能となる。それが五十日も続けば心身ともに消耗する。考えようによっては入牢よりもきつい。人との面会は勝手とは言え、その格好では誇りが傷付けられる。その上、板の穴で手首が擦れて激しい痛みを伴う。刑を終えても当分は腕の自由が利かない。お白洲で重い板を嵌《は》められると山東京伝はがっくりと肩を落とした。
蔦屋も打撃が大きかった。絵名主の立場にありながら禁令を無視したとして、なんと身代半減《しんだいはんげん》という前代未聞の処分を言い渡されてしまったのである。文字通り財産の半分を没収されることとなった蔦屋は呆然としてしばらく返答すらできなかった。今後は店の間口も半分に減らして営業することも付け足された。明らかなる世間への見せしめである。
責めはこの二人だけに止まらず、本が出板された月の行事や絵名主も、それぞれ当分の営業停止を命じられた。
仙波も覚悟を定めていたが、奇妙に仙波についてはお咎め一つなかった。仙波を罰することは奉行所の見過ごしを認めることになる。それで見送られたのであろう。だが、世話役の役目は別の者へと移された。
〈どこまでも馬鹿にしていやがる〉
罰せられなかったのを仙波はむしろ屈辱と感じた。蔦屋をそこまで追い詰めたからには仙波などどうでもいいということだ。その怒りは何日も消えなかった。
捨て場のない激しい怒りは気力の喪失に繋がっていく。仙波は仕事を休みがちになった。出ても見回りと称して直ぐに外に抜けては風呂屋や茶屋でごろごろと夕刻まで暇を潰す。取り締まりを厳しく行なうことは松平定信のために働くことだ。それがどうしてもやる気を殺《そ》ぐ。それでいながら同心を辞めることもできない。
「出掛けずともよいのか?」
羽織を纏いながらもぼんやりと縁側に腰掛けて庭の花を眺めている仙波に父親の左門が不審の顔で言った。腰を弱めて遠出は無理な体だが庭いじり程度はできる。庭を埋める美しい花や盆栽は左門の楽しみの一つだ。
「藤もそろそろにござるな。今年は駕籠を頼んで亀戸天神辺りまで見物に参りましょうか。何年と見ておりますまい」
となりに座った左門に仙波は笑顔で返した。間もなく手伝いのお光が来る頃合だ。
「儂のことを思ってのことなら遠慮は要らぬぞ。好きにやればよかろう」
「なんの話にござる」
仙波は苦笑した。仕事のことを相談したことは一度もない。
「なんの話かは知らぬが、おまえの迷いぐらいは見抜ける。身贔屓《みびいき》であろうが仕事で失態をするようなおまえでもあるまい。なのにおまえは今の勤めを辞めたがっておるようだ」
左門は茶をいれて仙波に差し出した。
「儂はどうでも構わぬ。隠居の身だ」
「親父どのは今のご改革をどう思われる?」
「儂にはなにも関わりのないことばかりだが……お光は面白くなさそうだの。せっかく楽しみにして出掛けた芝居が途中で幕を閉められてしまったそうな。役者の衣装が派手過ぎると言って役人が舞台に上がり中断させた。終えてから申し渡してもよさそうなもの」
「わざとしておるのでござる。そこまでせねば役者どもは懲りませぬ。木戸銭を払い戻ししなくてはならぬので痛手となり申す」
「おまえもそういう仕事をしておるのか?」
「そこまではいたしませぬが……似たようなものにござりますな」
「お光は贅沢と無縁の者じゃぞ。そういう者たちのわずかの楽しみまで奪うとは」
「禁令がある以上、致し方ありませぬ」
「割り切れぬものなれば迷わぬ理屈」
左門はくすくすと笑って、
「ま、いずれ永くは保つまい。あまりにも細々《こまごま》とやり過ぎる。あの正直者のお光まで、見付からねばいいと思うようになったようだ。そうまでなってはなんの意味もない。人前で鼈甲《べつこう》の櫛を用いてはならぬなど、愚かな定めとしか言えぬぞ。祖母の代から大事に授かったたった一つの宝ということもある。持っているのが金持ちばかりとは限らぬ。禁ずるなら新たな売買を制限するだけでよい」
「そうなれば元から持っていたと言い抜けましょう。身につけることを禁ずれば自然と買わなくなりまする」
つい仙波も反論に回った。松平定信の出す禁令にはいちいち理由づけがなされている。
「いずれは、わずかしかない絹物を取り上げられるのではないかとお光が恐れていた。贅沢を取り締まるのではないのか? 貧しい暮らしの者らまで怯えさせてどうなる」
「古い絹物など没収はいたしませぬ」
「古い新しいをだれが見定める。このたびの禁令はそういうものばかりじゃぞ」
左門はじろっと仙波を見据えて、
「そうなったときは倅《せがれ》が助けるとお光には言ってやった。お光に罪は一つもない」
「それはよく分かっております」
仙波は請け合って腰を浮かせた。
「辛い勤めであるの。迷いがあって当たり前」
左門は刀を手にした仙波の背に重ねた。
南町奉行所に通じる数寄屋橋の袂には同心に仕える小者たちが何人か固まっていた。その中に菊弥も混じっている。菊弥は仙波の姿を認めて小走りに駆け寄って来た。
「なにかあったのか?」
「それじゃたった今のご出仕でやすか」
菊弥は呆れた顔をして、
「大騒ぎとなっておりやすよ。日本橋通の近江屋に盗人の集団が押し込んだんでさ。あっしはてっきり旦那もそちらの方にと──」
「怪我人が出たのか?」
「手代が一人殺されて、怪我で済んだのは三、四人とかという話です」
「ここで待っていろ。詳しく聞いてからだ」
仙波は橋を急ぎ足で渡って奉行所に向かった。表ほどは慌ただしくない。だが、それは市中見回りの同心がほとんど出払っているせいだった。安井がのんびりと机に向かっている。安井は仙波を振り向いて頭を下げた。
「近江屋に押し込みだそうだな」
「五人組だったそうですよ。どうやら浪人者の仕業らしい。となれば|火盗 改《かとうあらため》の仕事になる。皆が出張ったのは絹物の押収でしてね」
「絹物の押収?」
「近江屋が蔵に一杯隠し持っていた。古い品じゃなく、売買を禁じてから仕入れたものと思われます。押し込みが入ってくれたお陰で蔵の検分ができた。近江屋も災難ですな。押し込みが奪った金は六十両。そんな金より絹物の押収の方が辛い。蔵一杯となれば七、八百両にはなるはずだ。運ぶ荷車の手配をこれからしなければなりません。大仕事になる」
「押し込みは浪人者と決まったのか?」
大事な点である。町方奉行所はあくまでも町方の事件の管轄であって、無宿人などによる押し込みとなると担当は|火附盗賊 改《ひつけとうぞくあらため》に動かされる。その早い見極めが肝要だ。でないと互いに譲り合い、下手人をむざむざと取り逃がす結果にも繋がる。
「間違いないでしょう。手代は刀で突き殺されている。長谷川さまの配下の者たちがとっくに近江屋へ駆け付けたという話も耳に」
そうか、と仙波は頷いた。今の火附盗賊改の重職を担っているのは御先手組頭《おさきてぐみがしら》も兼ねている長谷川平蔵である。盗賊捕縛について容赦ないやり口から鬼と恐れられている男だ。
「火盗改がしっかり出向いたとあれば俺が急ぐこともなさそうだ」
と言って絹物の押収の手伝いをする気にもなれない。仙波は気が抜けた顔で安井の前に胡座《あぐら》をかいた。
「妙な世の中になっちまったもんだ。人が死んでるって言うのに、こっちは荷車を手配して絹物運びか。まったくどうかしてる」
「声が大きいですよ」
安井はにやにやとして茶をいれはじめた。
「押し込み連中もそれを承知でやったらしい。近江屋も届けを出さないと踏んだんですな。なのに手代が外へ逃げようとした。馬鹿な手代じゃないですか。それで騒ぎが膨らんだ。静かにしていれば五十両やそこらの金であっさりと引き返したものを……」
「嫌にならねえか? こっちは絹物しか任せられねえんだぜ」
仙波は思わず舌打ちした。
「歌麿《うたまる》が江戸に戻っているのか」
憂さ晴らしに菊弥を伴って柳橋の静かな料理屋で呑んでいた仙波は、掛け持ちの座敷の合間に顔を見せたおこうからその話を聞かされて小さく頷いた。蔦屋が身代半減の処分を受けて以来、なんとなく敷居が高くて蔦屋から身を遠ざけている。だから歌麿の消息も耳に入らない理屈となるのだが、少しの寂しさも感じた。江戸に戻ったら挨拶くらいしてくれてもよさそうなものである。あるいは歌麿も自分のことを一蓮托生と見ているのかも知れない。
「すっかり人が変わったようだと評判ですよ」
おこうは次の座敷の約束も忘れたように腰を落ち着けると仙波に酒を勧めた。
「栃木に半年近くも居たんだ。悲しみも薄れよう。また、立ち直ってくれなきゃ困る」
「それでも、吉原に居続《いつづ》けで毎晩どんちゃん騒ぎは過ぎていましょうさ。描くのは吉原の女と枕絵ばかり。見損ないました。いくら奥さまを亡くしたからと言って、そうでもしなけりゃ憂さを晴らせないんでしょうかね」
「あの歌麿が吉原に居続けだと?」
仙波はおこうを見詰めた。
「惚れた太夫《たゆう》があるわけでもなし。次々に相手を取り替えるので女たちも内心では面白くないに決まってますよ。それでも一枚絵を描いて欲しさに我慢しているんです。店の方も宣伝になるからと言って歌麿師匠を争って招いているとか。それに甘える師匠も師匠だ。男なんて、結局そんなものなんですかねぇ」
「描いたところで出板はむずかしい。まぁ枕絵はもともと裏で売るもんだから行事のあらためとは無縁にやれるが、遊女絵は店や女の名を出してはいかぬ定めとなっている。蔦屋があんなことになったばかりだ。どこの版元も簡単にゃ引き受けねえと思うぜ。いくら歌麿の筆と言ってもな」
「それを師匠に言えるのは旦那お一人。どうぞおっしゃってやっておくんなさいまし。あのままじゃ天下の歌麿もどうなることやら」
「ずいぶん気にしているんだな」
「酒や女で駄目になったお人をこの目でいくらも見ておりますからね」
「また年増の口かい」
仙波は苦笑いした。二十二、三のはずなのにときどき訳知りの口を利く。
「吉原か……すると笹屋から出たわけだ」
会いに行ってみようと仙波は思った。
「どこに行けば見付かる?」
「吉原の大門で訊ねれば直ぐに。あたしもひさしぶりに師匠の顔が見たい。そのうち両国辺りに誘って来てくださいな」
「おめえも一枚絵にしてもらいたい口じゃねえのか? 怪しいもんだな」
「そんな安い女じゃありませんよ」
おこうはむくれた。
「あたしは師匠の贔屓なんだ。吉原なんぞでぼろぼろになってもらいたくない」
「分かった。この足で行ってみよう」
大方の料理は平らげている。盃を膳に戻して仙波は菊弥に目配せした。
「半月も前に戻っていながら水臭いお人じゃござんせんか。旦那にあれほど世話になりながら……おこうさんじゃねえが見損なった」
吉原への道を辿りながら菊弥は舌打ちした。柳橋から吉原に行くには蔵前の通りを真っ直ぐ浅草寺に向かって、境内を突っ切ってから裏|田圃《たんぼ》の道を抜けるのが早い。二人は暗い田圃の先に吉原の眩しい灯りを視野に入れていた。そろそろ酔いも醒めかけている。
「蔦屋がまずいことにならねえようしっかり目を光らせてくれと頼まれた。それがこのざまだ。合わす顔がねえのはこっちだぜ」
「けど、あの程度のことでまさか身代半減に追いやられるなんぞ、だれ一人思いもしませんぜ。旦那に責めはありませんよ」
「いや……危ねえことになりそうだと案じたのは確かだ。そのときに素早い手を打てば、ひょっとしてどうにかなったかも……俺じゃなく安井ならそうしたろう。蔦屋が百両でも持参して佐野さまに差し出せば、吟味に回されなかったことも有り得る。佐野さまがわざわざ俺を呼び寄せて吟味に回していいかと訊ねたのは、そういうことだったのかも知れねえ。だいぶあとになってから気付いた。こんな野暮天《やぼてん》のせいで蔦屋がああなった。まったく、我ながら厭になっちまう」
「旦那はそれをしねえから旦那なんでさ」
菊弥は首を横に振って言いつのった。
「蔦屋だってそれは承知しておりやしょう」
「意味のねえ改革だ。それに対していつまでも俺一人筋を通しても無駄というもんだ。今朝の押し込みにしても、俺たち奉行所の同心は下手人そっちのけで近江屋の蔵にある絹物の押収にかかってる。そんな馬鹿な話がどこにある。明日はその反物《たんもの》を見せしめのために両国橋の袂の河原で燃やすと決まった。押し込みに入られた側が悪いということさ。人が一人殺されているんだぜ。これが続けばだれも奉行所なんぞ頼りにしなくなる」
「勿体ねえことをしやすね」
菊弥は思わず溜め息を吐いた。
「まったくな。糸を紡ぎ出しながら死んでいった蚕《かいこ》の身になりゃ哀れでならねえ」
仙波はしみじみと言った。むろん蚕のことは冗談だが、無駄が過ぎる。
歌麿は扇屋に揚がっていた。格子越しに客引きをする遊女たちも店先に立ったのが着流しの同心と分かれば笑顔を見せるだけで直ぐに目をそらす。仙波と菊弥は広い店の中に足を踏み入れた。賑わっていた店内が一瞬の間に静まる。帳場から番頭がそそくさと仙波のもとへやって来た。
「歌麿が揚がっているそうだな」
へい、と頷きながら番頭は不安を浮かべた。
「ただの知り合いだ。江戸に戻ったと聞いて会いに来た。南町の仙波と言えば分かる。手がすいているようなら酒でも呑みたい」
へへっ、と番頭は笑顔に戻して仲居を呼び付けた。言い付けられて仲居は二階へ慌てて駆け上がった。店に喧騒が戻った。
「これは仙波さん。とんだところで」
酒で顔を赤くした歌麿が、広い階段を危なっかしい足取りで下りて来た。したたかに酔っている。仙波は内心で吐息した。
「いずれご挨拶に伺わなくちゃならないと思いつつ、つい吉原の色香に惑わされちまいましてね。栃木とは大違い。やっぱり江戸は面白ぇ。ささ、ご遠慮なく。女を三、四人揃えて遊んでいた最中で」
「邪魔じゃねえのかい」
「なにを言われる。仙波さんは大恩人。今夜はこの歌麿の奢りとさせてください。扇屋一番の女をお世話いたします」
歌麿は甲高い声で笑った。仙波は菊弥を促して揚がった。ここまで来て戻るのはそれこそ野暮というものだろう。
「こんな店に居続けとなりゃ安くなかろう」
階段の途中で仙波は口にした。
「半年留守にしていても、まだ歌麿の名を忘れちゃいない版元がいくつもありますんでね」
歌麿は濁った目で笑った。
「夏に出すものを描き溜めておりますよ」
「それは結構なことだが……蔦屋がああなったばかりだ。あんたも気を付けねえと」
「そこはちゃんと心得ておりますからご安心を。相変わらず堅いお人だ。今夜はそんなこたぁ忘れて楽しくやりましょう」
歌麿は廊下で手古舞《てこまい》を踊った。まるで別人だった。もっとも、仙波が出会ったのはおりよが行方不明となってからのことなので、陽気な顔を見なかったのも当たり前である。
〈それにしても……〉
違い過ぎる。仙波は気が重くなった。歌麿をここまで変えたのは改革のせいなのだ。
豪勢な座敷に通されて菊弥は身を縮めた。目も艶《あで》やかな遊女が三人居並んで仙波たちを迎えた。遊女付きの新造や禿《かむろ》も加わっているので女ばかり十二、三人も居る。
「こんなじゃどうも落ち着かねえなぁ」
上座の分厚い座布団に胡座をかいた仙波は両脇の遊女を見やって苦笑いした。
菊弥も新造に囲まれてにやついている。
「羽織をお取りなんし」
遊女は笑顔で仙波に言った。
「吉原の女のだれに訊いても仙波さんの名を承知の者はおりませんねぇ」
「だろうさ。滅多にこねえ」
仙波は新造の酌を受けながら歌麿に応じた。
「南町ではだれと言った?」
歌麿は傍らの遊女に質した。
遊女たちは何人かの名を挙げた。安井の名もむろん含まれている。
「どちらも女たちの中じゃ評判の悪い名だ」
歌麿が言うと遊女たちはどぎまぎした。
「気にしなくていい。仙波さんは怒りゃしない。仙波さんはそのお人らとは違うよ」
「先にそう言われたら叱りもできめえ」
仙波の返答に女たちはわっと笑った。
「花扇《はなおぎ》でありんす」
長い煙管《きせる》を手渡しながら左隣の遊女が名乗った。細面《ほそおもて》できりっとした眉をしている。花扇が差し出した腕の袖から香の匂いがふわりと漂ってきた。これが吉原で評判の花扇か、と仙波は一人頷いた。まさに吉原の老舗《しにせ》扇屋の花だけある。無粋な仙波にまでその名が伝わっているほどなのだ。菊弥もその名を聞き付けてまじまじと花扇を見詰めていた。
「仙波さん、今夜は飛び切りの女を世話すると言いやしたが、この花扇ばかりは厄介だ。こっちが決めるんじゃなく花扇の方で選ぶ。なんとも我が儘な女でね。はばかりながらこの歌麿さえ袖にされておりやす」
「嘘ばかり」
花扇はころころと笑って、
「師匠に口説かれたことは一度もござんせん」
「そりゃあ、皆の前で袖にされるのが辛ぇからだ。通を気取るつもりなら、袖にされてもにこにこと笑っていなくちゃならねえ。そんな色恋はしたくねえのさ」
歌麿は鼻で笑って盃をあおった。直ぐに目の前の新造が酒を満たす。
「毎晩招んでくれても、その先はさっぱり」
花扇は仙波に困った顔で言った。
「宝は遠くで拝んでるときが一番いい。手にしてまじまじと見りゃ細かい傷や汚れが目につく。そう自分に言い聞かせて息子を我慢させているのさ。なあ、おい」
股間に目を動かした歌麿に幼い禿たちは笑い転げた。花扇まで噴き出す。
「扇屋から、ここの座敷の襖全部に抱えの遊女をずらり並べた絵を描いてくれねえかと頼まれておりやしてね。それが済むまでは一人も抱かねえことにしやした。抱けばどうしたって情が移る。その情が絵に出やすよ。俺がなにした女だと世の中に吹聴《ふいちよう》してるようなもんだ。この座敷にゃ、それこそありとあらゆるお人らが参りますからね。描き上げた女から順に遊んでやろうと、今はそればっかりを楽しみにしている」
「いけすかねえ師匠だよ」
花扇は本気で睨《にら》み付けた。一つの店では一人の女と決めて通うのが吉原の遊び方だ。
「直ぐそれだ。だからおめえは口説けねえのさ。袖にして笑う気だろう」
歌麿はわざと花扇に呑み干した盃を突き出した。新造が困った顔をする。花扇くらいの花魁《おいらん》になると客に酒は注がない。花扇は新造が手にしていた赤漆の平たい銚子を受け取ってたっぷりと歌麿の盃に注いだ。
「花扇に注がせるなんぞ、お大名でもむずかしい。こりゃあ千両の遊びだなぁ」
歌麿は盃を拝んで呑み干した。
「他に人が居たんじゃねえのか?」
仙波は歌麿に質した。いかになんでも歌麿一人でこれだけ多くの女たちをはべらしていたとは思えない。
「栃木の徳成さんたちが」
新造が口にすると歌麿は睨み付けた。新造は慌てた。仙波が気にすると思って口止めをしていたらしい。
「別の部屋に下がらせたのかい?」
「どうぞお気になさらずに。客なんていう野郎どもじゃござんせん」
「俺なら構わねえぜ。賑やかな方がいい。こう女ばかりだとかえって気詰まりだ」
「そうですか。それじゃちょいと」
よろけながら歌麿は立ち上がった。
「師匠、そんなことは女たちに」
花扇が脇から腰を支えた。
「ついでに厠《かわや》へ寄って来る。仙波さんを退屈させねえように頼んだぜ。この歌麿が世の中で一番大事に思っているお人だからな」
歌麿は花扇を見下ろして言った。
座敷の真ん中をふらふらと歩いて行く。
「酒がだいぶ腹に納まってるな」
「夕方からずっとでありんすから」
仙波に花扇は応じた。
「ああいう歌麿ははじめて見た。酒を浴びるほど呑んでいても乱れはしねえ男だったが」
「昼も酒を側に置いて絵を描いておいでです」
「毎晩あんな調子なのかい?」
「今夜はまだいい方でありんす」
花扇の言葉に皆は苦笑した。
「蔦屋とか霊岸島の笹屋は顔を見せるか?」
「蔦屋の旦那は昨日見えましたよ」
「どんな様子だった?」
「師匠に絡まれて困った様子でしたね」
「なにを絡んだんだ?」
「睨まれている蔦屋の仕事は受けない、と。自分まで手鎖にする気かとたいそうな剣幕で」
「それじゃ喧嘩になるわな」
「蔦屋の旦那も最後は笑って帰られました」
「ああ酔っていちゃ話にもならねえさ」
仙波は少し寂しい気がしていた。蔦屋は歌麿の育ての親に等しい存在である。確かに危ない立場ではあっても他に断わりようがいくらでもあるはずだ。あるいはおりよのことを病死として届けるよう強要したことに対するわだかまりが歌麿にあるのかも知れない。
〈おこうの言った通りだな〉
このままでは歌麿が駄目になる。仙波はどこかに責任を感じていた。
そこに歌麿が三人の男たちを引き連れて現われた。徳成の顔は見知っているが他の二人は知らない。どちらも若くて男の目からもはっとするような美形だった。
「さあ、仙波さんにきちんとご挨拶しろ」
歌麿は三人を仙波の正面に並ばせた。
「徳成のことはご承知でしょうが、他の野郎たちは栃木からくっついて来た弟子でござんすよ。なに、絵の腕なんぞこれっぱかしもねえ。ただ江戸で遊びたい一心で弟子入りを志願して来た馬鹿野郎どもでしてね。こんなのと呑んでいりゃ気が紛れやす」
歌麿に続いて二人が名乗った。まだ筆名は貰っていない。
「おひさしぶりにござんす」
徳成が照れた笑いで仙波に頭を下げた。
「歌麿と一緒に来たのか?」
「へえ。五日やそこらで戻るつもりが兄さんに誘われてついずるずると」
面目なさそうに徳成は頭を掻いた。
「なにを言いやがる。いつでも帰れと言っているじゃねえか。人のせいにするな」
歌麿はぽかりと徳成の頭を殴った。いててと徳成は大袈裟に頭を抱える。
〈見ちゃいられねえな〉
仙波は不愉快さを堪えていた。こういう連中が歌麿を駄目にしていく。安井と一緒だ。周りに小者を多く置きはじめたら、それは必ず堕落へと繋がっていくのである。小者の毒が蝕《むしば》んでいくのだ。
〈見ちゃいられねえぜ、歌麿よ〉
仙波はそろそろ引き揚げ時と思っていた。
翌日は日本橋の近江屋から押収した絹物を燃やす仕事が待っていた。と言っても実際の作業は寄場《よせば》の人足たちに任せてあって、二人の同心はただ立ち会っていればいい。が、嫌な仕事には違いなかった。いくら見せしめとしても贅沢な絹物を山と積み上げて灰にするのだ。自分の物でなくても惜しい。その腹立ちが役人の方に振り向けられる。役目が仙波に押し付けられたのは、押収に気乗りでなかったことへの当て付けであろう。
燃やす場所は人で賑わう両国橋の袂の川原と決められてある。
仙波は反物を積み込んだ五台の荷車を引く人足たちとともに奉行所を出た。数寄屋橋を渡ると野次馬たちがすでに待ち構えていてぞろぞろとついて来る。野次馬の目は筵《むしろ》で覆われた反物からはなれない。
「下手人の目当てはいかがか?」
仙波は並んで歩いている中山格之助という若い男に質した。中山は寄場の人足たちの監視役として火附盗賊改から回されて来た男だった。石川島に無宿人対策が目的で去年から設けられた人足寄場は火附盗賊改の管轄下にある。中山はその火附盗賊改の召捕同心《めしとりどうしん》だと言う。
「近江屋の押し込みの一件にござりますか」
中山は仙波に目を動かした。
「浪人者とか耳にしたが……」
「武士ではありますまい。手慣れた者ども。暮らしに困り果てた浪人らが思い付きで押し込んだものとは違い申す。刀はただの脅かしのつもりで持っていたもの」
「無宿人には間違いないのだな」
「まだまだ続きましょうな。と言うより、押し込みを公にせぬ店が他にありそうな按配。近江屋も人が殺されておらねば口を噤《つぐ》んでおったはず。厄介な世の中となりました」
中山は言って苦笑いした。
「手掛かりは?」
「いずれも張り子の面を被っていて年格好すら定かではござらぬ」
「張り子の面」
「狐やひょっとこの面にござる。どこにでもあるもので大した手掛かりには……」
「五人と言ったか?」
「店に押し込んだ数であって、外にも見張りがあったと思われます」
「その人数で六十両では知れたものだな」
数で割れば十両そこそこのものだ。
「主人の手文庫《てぶんこ》の銭だけでいいとはじめから頭目らしき者が口にしたとか。その程度であれば泣き寝入りすると踏んだのでしょう」
「大掛かりで襲いながらか?」
仙波は首を捻った。
「だからこそ襲われた側も直ぐに銭を差し出します。それを十軒も繰り返せば五、六百両にはなりますぞ。悪い働きではない」
「頭の良さそうな連中だな」
「少なくとも五つや六つは余罪があると見ております。我らも必死で探索しており申すが、たやすくは捕らえられますまい」
それでも中山は得意そうだった。大きな事件を追っているという自負が感じられる。それに引き替え、仙波は高価な焚き火の番人でしかない。
積み上げられた反物に火がかけられると大きなどよめきが起きた。橋の上にも大勢の人垣ができている。
白い煙がたちまち赤く燃え広がる。
仙波は煙から逃れた。妙に生臭い。まるで死人でも燃やしているような臭いがする。炎の勢いが増すと野次馬たちの改革を非難する罵声も大きくなりはじめた。騒ぎが起きぬよう両国界隈の番屋の者たちが取り締まっているのだが、鎮められる状態ではない。
「捨てておけ」
仙波は落ち着きのない菊弥に言った。
「燃えてしまえば治まる。面白くねえのは俺も一緒だ。日本一高い焚き火だぜ」
売値にすれば千両近いと聞いている。
「こいつを衣に仕立てて寄場の人足たちにくれてやればよかろうにな。そうすりゃ絹をこっそりと買う連中の気が殺《そ》がれる」
側に立っていた中山が聞き付けて爆笑した。
確かに無宿人たちの衣が絹になれば、それを真似る者は一人としていなくなる。
「仙波さんは腕が相当に立つそうですね」
中山は焚き火を見ながら言った。
「だれから聞いた?」
「我らの仲間うちでも評判ですよ。南町に置いておくのは勿体ない、と」
「竹刀《しない》を振り回したのは十五年も昔のことだ。今は腰の重しになっているだけのことさ」
「火附盗賊改なら腕を無駄にはしません」
真面目な顔で中山は仙波を見詰めた。
「南町から火附盗賊改に移ったやつは一人もいなかろう」
「お頭《かしら》を動かすことができればむずかしくない。仙波さんにその気があればの話ですが」
「長谷川さまが俺ごときのために働いてくだされるわけがなかろうに」
仙波は苦笑して、
「ま、南町の方が気楽な仕事だ。毎日のんびりと朝湯にもつかっていられる。命のやり取りをするほど若くもねえしな」
「腕が惜しいとは思われませんか?」
「惜しまれるほどの腕と違う。俺ぐれえのやつは世の中にごろごろと居る」
仙波は中山を制して焚き火に目を戻した。いかにも道場では目録を授かり、師範代と腕を競うところまで進んだが、実戦の経験は一度もない。今や刀は飾りに過ぎない。ごろつきを相手にするには十手《じつて》で十分だ。第一、同心と承知で喧嘩を仕掛ける者などいない。
「お頭が欲しいと申されたときは?」
中山はまだ食い下がった。
「そりゃあ……絹の焚き火に当たっているよりは面白そうじゃあるがな」
仙波は小さく頷いた。
「今日お会いできたのはいい機会でした。寄場に時間を取られることが多くなり、同心を増やすことになりそうです」
「はっきり返事したわけじゃねえぜ」
仙波は念押しした。中山も頷いた。
「移れるものなら、その方が旦那の性にお合いだと思いますがね」
見届けて帰り支度をはじめた仙波に菊弥は近付いて話を蒸し返した。人足たちは火の後始末があるので監視役の中山もまだ帰れない。
仙波は中山に後を頼んで菊弥を促した。
「こんな仕事は似合いませんよ」
「火附盗賊改の同心は御先手組から回されるのが決まりだ。どだい無理な相談よ」
「けど、長谷川さまのお口添えがあれば……」
「あるはずもなかろう。御先手組には腕を鍛えている連中がいくらでも居る」
「しかし……さっきの口振りだと」
菊弥は脈がありそうに感じていた。
「それより、近江屋の押し込みの一件だ。もし下手人が武士でも無宿人でもないとすりゃこっちの出番もある。探りを入れる程度なら火附盗賊改から文句は言われねえ。退屈|凌《しの》ぎに少し当たりをつけてみるか」
「また面倒なことになりませんかね?」
「絹物を押収したばかりだ。調べが全部終わったわけじゃねえ。どこから仕入れたのか突き止める仕事が残っていよう。それにかこつけて押し込みを追いかけるのさ」
なるほど、と菊弥も了解した。
「俺から言えば佐野さまも近江屋の吟味を喜んで回してくれる」
「それなら堂々とやれますね」
頷いた菊弥の目が一点に止まった。両国橋の袂に見覚えのある顔が待っていたのである。
「蔦屋じゃねえか。焚き火見物か」
仙波が先に声をかけた。
「こっちこそ驚きましたよ。まさか仙波さんがこれを仕切っていなさるとは……それで立ち去りがたくてお待ちしておりました」
「昨夜は吉原に出掛けて歌麿《うたまる》と会った」
石段を上がって仙波は蔦屋と向き合った。
「そうですってね。私も吉原からの戻りです」
猪牙舟《ちよきぶね》で両国橋近くに着けたところ、この人込みとぶつかったらしい。
「また歌麿を訪ねたのか」
「ちょうどいい。何枚か版下絵《はんしたえ》を預かって来ました。ぜひお目を通してくださいませ」
「蔦屋には描かねえと聞いたぜ」
仙波は蔦屋の抱えている風呂敷に目を動かした。画帖のような大きさだ。
「近頃わざと女どもの前ではそういう口を利くんです。すっかり変わっちまった」
蔦屋はにやにやとして応じた。
「危ないものじゃなかろうな?」
「ですから見ていただきたいんですよ」
蔦屋は少し先の茶屋に仙波を誘った。
版下絵とは版木《はんぎ》に彫る前の絵であって墨線だけで描かれている。それだからこそ絵師の腕が一番に分かる。仙波は次々に並べられる歌麿の版下絵を眺めて言葉を失った。色を重ねられたものより遥かに美しい。
圧倒されて溜め息を吐くしかない。
菊弥も食い入るように脇から見詰めている。
「半年の間に格段に腕を上げました。この艶っぽさは吉原の賜物でしょう」
見慣れている蔦屋でさえ褒めちぎった。
「水茶屋の女か……考えたな」
顔を上げて仙波は笑った。ほとんどが女の半身像である。ぞくぞくとするほどの色っぽさだが遊女とは違うので禁令には反しない。しかも働いている店や女の名を明らかにしていないから、その点でも問題とはならない。
「こいつはなんなんで?」
菊弥がその部分を指で示した。四角い枠の中に妙なものがいくつか描かれている。
「それが歌麿の本当の工夫ですよ」
蔦屋はくすくすと笑った。
「美人画にはいかにも無粋なものでしょうが、そこに女の名と店の名が隠されているんで」
へえ、と仙波は枠に目を凝らした。目の前のものには青菜の束が二つと一本の矢が、沖の見える田圃の空に浮かんでいる。なんとも奇妙な絵としか言えない。
「菜っ葉が二把でなにわ、矢は屋、田圃の向こうに沖が見えましょう。これはおきたと読みます」
「難波《なにわ》屋のおきたですかい」
違いねえ、と菊弥は膝を叩いて、
「そのでんで行くと、こっちの方は……」
別の絵に取り掛かった。枠の上部に鷹がとまっている。その下には海があって丸い島が描かれている。島の側には赤々と篝火《かがりび》が燃え、炎の傍らには白鷺《しらさぎ》が立っている。
「鷹に島となれば高島でやしょう」
菊弥に蔦屋は笑顔で頷いた。
「けど、あとは厄介だ。あかさぎ、とか、ひさぎ、ですかね。それともひどりとか」
「よく見てみな。白鷺は体半分しか描かれちゃいない。そいつは、さぎの半分だから、さ、と読む。篝火の、ひ、と繋げてひさとなる」
「高島屋のおひさってことか」
菊弥は思わず唸りを発した。
仙波も笑うしかなかった。二人ともに江戸ではだれもが承知している存在である。その名が菜っ葉に化けたり白鷺となっている。間違いなく評判とはなるだろうが……。
「こいつはちょいとまずかろうな」
真顔に戻して仙波は首を横に振った。
「でしょうねぇ。禁令を逆手に取った盾突きと見做されましょう。他の版元で別の絵師ならあるいは見逃してもくれやしょうが、うちじゃ危ない。歌麿もそこは心得ていて、この枠の絵を削ってもいいと言ってくれやした」
「だが、勿体ねえ工夫だ」
「そのうち使わせて貰いますよ。禁令に緩みができた辺りをしっかりと見計らってね。なに、店や女の名がなくても、この絵だけで大評判となります。書き込みがいけないと言うのなら、売るときにこの女はどこのだれと教えてやればおんなじです」
「そういう手もあるか」
仙波は声を上げて笑った。と同時に禁令がいかに無意味なものであるかも悟った。抜け道はいくらでもある。
「遊女の場合でも店や女の名を伏せて、しかもいっさい男との絡みを抜きにすればどういうものにござんしょうね?」
蔦屋は確かめるように質した。
「どこのだれとも知れねえ遊女が澄まして立っているだけでも猥らとなりましょうか?」
「それなら別に遊女じゃなくてもよかろう」
「歌麿がやりたがっていましてね。青楼十二時と組物《くみもの》の名まで決めているようで」
「青楼十二時……」
「吉原に居続けている歌麿ならではの組物です。商売をしていないときの遊女らの一日をすっかり絵に仕立てようというんで。それこそ起きてから寝るまでの間のことをね」
「それじゃ山東京伝の『錦之裏』だ」
「あっちは男と女の話です。まるで違う」
蔦屋は薄笑いを浮かべた。
「京伝の仇を取ろうという腹か」
「やっぱりそう取られるんでしょうな」
あっさりと蔦屋は引き下がった。
「これもしばらく様子を見た上のことにいたしやしょう。これ以上身代を削られては江戸に居られなくなります」
「恨みを忘れてはいねえようだな」
「歌麿のことですか?」
「逆らっているものばかりじゃねえか。ご老中に睨まれているんだぜ」
言葉とは裏腹に仙波には笑いが見られた。
「手前の覚悟も見極めているんですよ」
「………」
「他の版元に渡すものは、ごくありきたりの美人画でしてね。手前も今はそういうものの方が気楽だ。うっかりと口にしたら歌麿が怒りはじめました。それからなにかと言えば、睨まれている蔦屋に渡せるようなものは描けないと。手前への皮肉のつもりなんです」
「そういうことか」
「だからわざと危ないところを選んで描いてくる。しかし、この通り、危なさは承知でも出したくなるものばかり。歌麿はさすがに凄い。しみじみと思い知らされました」
蔦屋は版下絵を手にして吐息《といき》した。
「おりよさんが亡くなって、歌麿の絵ががらりと変わりました。これまではただ綺麗なだけだったが、鏡を見るように絵の中の女に血が通っている。指一本にも命がある。どんな思いでこの絵を描いているのか……絵にする女は違っても、歌麿はいつもおりよさんとの暮らしを思い浮かべて筆を遣っているんでしょうね。このおきたをご覧なさい。小さく開けた口元から息が洩れてくるようじゃありませんか。見えない舌まで私には見えますよ」
「歌麿って男が分からなくなってきたな」
仙波も一枚を手に取って言った。
遊女たちの話では絵を描くときも酒を脇に置き、べろべろになっているということだったが、この絵に線の乱れはまったく感じられない。絵師にとって筆は武士の剣に等しいものであろう。もし己れに揺れがあれば、それは必ず剣先の乱れに繋がる。絵師ではないがその程度は想像できた。
歌麿は仙波が思っている以上に強靭な男なのかも知れない。
〈しかし……〉
弱さを隠す人間は珍しくもないが、その反対となるとあまり考えられない。仙波は歌麿の顔を頭に思い描いていた。
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歌麿形新模様《うたまろがたしんもよう》
栃木から戻った歌麿は吉原に居続《いつづ》けで旺盛な仕事を開始した。それまで、ほぼ歌麿を独占していた蔦屋が身代半減の処罰を受けて派手な開板を控えていることも大きい。それで他の版元がここぞとばかりに歌麿へ注文を依頼したのである。半年以上も江戸を留守にしていたせいで歌麿の新作を目にできなかった客たちも飢えていたように飛び付いた。しかも吉原で女たちに囲まれた暮らしをしている成果が絵には如実に表われていた。だれよりも抜きんでた技量だが生真面目、というこれまでの描写ががらりと変わっている。それが客たちに敏感に伝わったのだ。歌麿の絵は店頭に並べられるとたちまち売り切れた。歌麿の作風は華やかで明るい。それが厳しい改革で沈みがちな人々の救いとなったのである。暗い部屋も歌麿の絵を貼り並べた小屏風を飾るだけで気分が上向きとなる。
「たいそうな人気ですよ」
菊弥はまるで自分のことのように得意な顔をして仙波の組屋敷にやって来た。手には歌麿の絵を丸めて持っている。仙波に頼まれて買い集めて来たものだ。
「まあ、上がれ。ご苦労だったな」
仙波は酒の支度の整っている居間に誘った。仙波の父親の左門も笑顔で菊弥を迎えた。
「こりゃ旨そうな煮しめですね」
菊弥の前の膳には他に炒《い》り豆腐と赤飯が並べられている。
「お光のところでなにやら祝いごとがあってな。それでついでに持って来てくれた。だからおめえを招んで馳走してやろうと思ったのよ。俺と親父だけじゃ食いきれねえ」
「旦那もお仲間方と付き合わねえお人ですからね。あっしなんぞと呑んでばかりいる。こっちはありがたいが、寂しくありませんか」
あははは、と左門が笑った。仙波のたった一人の配下なので左門も可愛がっている。
「例のやつもあったか?」
仙波は歌麿の絵を手にした。
「旦那のお名前を口にして無理に出させやした。いくら摺《す》っても間に合わねえ売れ行きとか。版元もほくほく顔でしたよ。歌麿《うたまる》さまさまって顔をしてやがった」
「こいつか」
仙波は細判《ほそばん》の絵を抜き出した。難波屋おきたが茶を運んでいる姿を描いた全身図で、小さい絵の割りには肉感がある。線に力が込められているせいだ。このままでも評判になりそうな美しさだが、それで世間の評判となっているのではない。仙波は絵を裏返した。左門も覗いて思わず唸りを発した。そこにはおきたの後ろ姿が描かれてあるのだ。正面からの絵ではわずかしか描かれていない煙草盆が、こちらだとはっきり描写されている。仙波は行灯の明りに絵をかざして透かし見た。表裏の輪郭がぴたりと一致している。これを輪郭通りに切り取れば、表と裏の両側が描かれたおきたの人形《ひとがた》となる。奇想であった。こんな作品はいまだかつて見たことがない。評判になるのも当たり前であろう。
「新しく高島屋おひさも売り出されるそうですぜ。後ろ姿まで描くとは歌麿も考えたもんですね。しかも両面摺りとは凝っている。前代未聞とはこのことでやしょう」
「こちらも変わったものだな」
別の一枚を手に取って左門が言った。
「没骨法《もつこつほう》を錦絵に取り入れるとは……歌麿という男、やはり只者ではない。こういう工夫もできるのか」
没骨法とは輪郭を描かない墨絵の技法であるが、それは太い筆の墨線だから可能なものであって、線を板に刻む浮世絵ではむずかしい、と言うより輪郭が曖昧となって逆効果となる。版画と肉筆の違いがはっきりとする技法だ。なのに歌麿はそれに挑戦して成功していた。背景の全部を濃い色で塗り潰し、その色と白い顔や淡い着物との濃淡の差を利用して輪郭の代わりとしている。それが今までにない斬新な印象をこちらに与える。女の姿がくっきりと浮かび上がって見える。背景を色で塗り潰すという工夫は別に歌麿が最初ではないが、それをこのような目的で用いたのは歌麿がはじめてであろう。
仙波も溜め息混じりに頷いて最後の一枚に目を移した。これもまた息を呑むほどの作品だった。女の胸元から上だけを大きく描いたものだ。役者絵《やくしやえ》にはときどき見られるが美人画ではこれまで一度として見たことがない。全身図が普通で、大きくしても腰から上の半身図がせいぜいだ。美人画の美しさの多くは着物や帯の華麗さによりかかっている。胸元から顔ばかりだとその美しさに頼ることができない。顔の表情が唯一の命となる。よほどの腕がなければのっぺりとした絵になってしまう。隈取《くまど》りなどで派手にしている役者の顔とは違うのだ。それに対する挑戦としか思えない。そして、歌麿は見事に成功していた、胸元に覗かれる白い襟に施された緻密な空摺《からず》りにも唸らせられる。雲や雪の描写によく用いるもので、色を使わず凹凸《おうとつ》だけで表現する技法だが、白地に白の模様がくっきりと浮き出ている。描かれている女の豊かな暮らしぶりがこれで如実に伝わってくる。
「禁令の対象とはならぬのか?」
三枚をしげしげと見較べて左門は案じた。菊弥も頷いた。あまりにも贅沢な絵だ。
「禁じられているのは猥らなものと色を何色も用いた贅沢なものにござるが……この三枚はどれにも当て嵌まりますまい。背景を色で塗り潰したとて、用いる色が多くなければ問題とならず、空摺りはそもそも絵の具を必要とせぬもの。両面摺りに至っては、一枚の紙をむしろ無駄なく使っておるとの言い訳がたちましょう。贅沢と映るのはすべてが工夫によるものでござる。これを禁令の違反に当たるとして取り上げるのは厄介。どれを取っても禁令に触れてはおりませぬ」
仙波は苦笑しつつ左門に応じた。
「どう見ても歌麿の勝ちにござりますな。ご老中だとて咎めはできますまい。それをやるつもりなら禁令そのものを変えねばならぬ理屈。なにかあるたびに変えていれば禁令の縛りが弱まりましょう」
「そこを狙って歌麿がわざと工夫してきたものかの。だとすれば偉い男だ」
「そういう男にござる。しかもこれらをすべて蔦屋以外の版元より出していることも先を見ての策と思われます」
「どういう意味じゃ?」
「空摺り、背景の地潰し、大顔絵《おおかおえ》、両面摺り、それぞれの工夫を別々の版元で一つずつ行なっておりましょう。これで咎めがなければ後は心配がなくなり申す。手前の勘にござるが、しばらくこれで様子を見守り、無事に済めば次はこのすべてを組み合わせたものを蔦屋より出板するつもりと見ました」
なるほど、と左門と菊弥は頷いた。
「他で許されたものであれば我らとて蔦屋を取り締まることはできぬ道理。それをしてはご政道の横暴と世間に映りますぞ。歌麿と蔦屋はそうしてこれまでの恨みを晴らすことができまする。これらを皆組み合わせたものならさらに評判を呼ぶは必定。蔦屋が力を取り戻せばご老中の負けとなりまする」
「そこまで歌麿の恨みは強いのか?」
頷きつつ左門は質した。
「歌麿は絵師にござる。自分にできる復讐は絵でしか果たせぬと考えておるはず」
「その気概が人らにも伝わっておるということだの。線の強さはその思いのせいであろう」
左門は感心した顔で絵に見入った。
「しかし……そなた歌麿のことがなぜそれほどに気になる?」
「別に気にはしておりませぬが」
「絵名主の相談役から外れたというに、わざわざこうして買うことはあるまい。あの者たちとは縁が切れたはず」
「ご心配は無用にござります」
「心配などしておらぬ。歌麿や蔦屋のことが羨ましいのであろう」
「まさか」
「町人でありながら己れを貫こうとしておる。そなたの考えが当たっておればのことじゃがな。そういう者が近頃少なくなった。儂がそなたでも気になって仕方ない」
言って左門は笑った。
「恐らくご老中も蔦屋や歌麿のことが気になるのでござりましょうな。逆らってばかりおりまする」
「同心は一代限りの抱《かか》えで力など持たぬ身であるが、それだけに主も持たぬ。主があるとすれば、それは将軍さまやご老中ではなく民であると心得ねばならぬぞ」
左門は仙波を見詰めた。
「民を取り締まるために奉行所があるのではない。民を守るためにあるのじゃ」
「………」
「同心とはそういうものだと儂も父から教えられた。それを肝に銘じて勤めに励んだ。今の世こそそれを忘れてはなるまい」
「心得ましてござる」
「どうせ跡継ぎもなければなにをしたとて気になるまい。儂とて隠居の身だ」
「罷免《ひめん》になっても構わぬと?」
「仙波の家名など知れたもの」
左門は呑気に言って酒を口にした。
「火附盗賊改からのお誘いのお話は?」
菊弥が口を挟んだ。
「親父どのにはまだ話しておらぬ」
「火附盗賊改?」
左門は怪訝な顔をした。
「有り得ぬことゆえお話し申し上げませなんだ」
「有り得ぬことじゃろう」
左門も仙波に頷いた。
「寄場に手を取られて人員を増やすそうです」
「だとしても町方からは引き上げまい。御先手組にいくらでも若い者たちがおる」
「旦那の腕をお見込みになってのことです」
菊弥が言い添えた。
「あっちにもだいぶご評判のようで」
「だれからの話だ?」
「召捕同心の中山という者が打診を」
仙波はそのときのことを伝えた。
「奇妙な話だな。召捕同心程度の立場では口にできぬことだ。それならだいぶ上の方でそれが検討されているということであろう。それをうっかりと口にしたとしか思えぬ」
「そうでありましょうか?」
「そなたなら口にするか? そなたが思っていたところで引き抜けるわけがない。上の話を耳にでもしておらぬ限りやらぬさ」
確かに、と仙波も首を縦に動かした。
「そなたが火附盗賊改にか……むしろ似合いのお役目かも知れぬぞ」
左門は口元を緩めた。
翌日の夜は勤番《きんばん》に当たっていた。当直の勤番は二人で、たまたま安井と一緒だった。
気の合う部分の少ない二人だが、将棋だけはどちらも好きでさす。あとはたまに仮牢の見回りをしていればいい。
真夜中近くに門番が駆け込んで来た。
「なにが起きた?」
「またこの前とおなじ押し込みのようです」
二人は腰を浮かせた。特に近江屋の一件を預かっている仙波としては聞き捨てならない。
「場所はどこだ?」
「尾張町の伊勢新という小間物《こまもの》問屋とか」
「目と鼻の先じゃねえか。ふざけやがって」
数寄屋橋を渡れば直ぐの店だ。仙波は舌打ちした。その店の人間もよく知っている。
「怪我人はどうだ?」
安井は門番に質した。
「そこまでは。今知らせがあったばかりです」
「分かった。とにかく駆け付ける」
仙波は門番に菊弥も呼ぶように言い付けて支度にかかった。一人は残らなければならない。そうなると行くのは自《おの》ずと定まる。安井も心得ていてのんびりとしている。
「火附盗賊改もやって来ましょうが、そのときは適当にして引き下がるのが利口ですよ」
安井は張り切っている仙波に声をかけた。
「あの店は仙波さんと付き合いがある。蔵のあらためも適当でいいでしょう。近江屋みたいな騒ぎにすることもない。火附盗賊改が駆け付ける前に隠させるという手もある」
「どういうことだ?」
「この前は火附盗賊改と同時に駆け付けたので手が打てなかったらしい。火附盗賊改はご老中直属のようなものですからね。絹物を見逃すわけがないでしょう。隠してやりたくても無理だったそうです」
「なんで火附盗賊改がご老中直属となる」
仙波は安井を睨み付けた。
「寄場の建議をご老中に出したのは長谷川さまじゃありませんか。それが通って寄場は火附盗賊改の管轄となった。長谷川さまはご老中に取り入ろうとしていると評判ですよ。ご老中も火附盗賊改を頼りとなされている」
「それで近江屋が見せしめにされたのか」
「ま、絹を隠し持っていたのは確かですから、見せしめとも言えないでしょうがね」
「………」
「伊勢新の蔵にはなにがあるか……鼈甲や金細工があるのは間違いないでしょう。押し込みもそれを承知でやったに違いない」
「そりゃそうだろうな」
「付き合いがあってやりにくいのであれば私が出向いても構いません。そうしますか」
「いや、いい」
仙波は安井を断わって部屋を出た。
押し込みのことではなく気が重い。火附盗賊改も老中の息がかかっているところなら移ったとしてもおなじことになる。もっとも、今はどこだって老中の言いなりだ。驚く話ではない。仙波は気を取り直した。
「ご苦労さまです」
伊勢新の前にはもう菊弥が待っていた。菊弥の住んでいる長屋はここから近い。
「火附盗賊改はまだだな?」
「へい。南町奉行所が目の前なんで真っ先に奉行所の方へ駆け込んだとか」
軽い当たりをつけたようで菊弥は応じた。
「怪我人は?」
「番頭が腕を切られたそうです」
「押し込みなんぞに構わなきゃいいものを。無駄な怪我をするだけだ」
「それが……帰り間際に押し込みの方でいきなり切りつけてきたそうですぜ」
店に入りかけた仙波の足が止まった。
「なにもしねえ相手にか?」
菊弥は頷いた。
「解《げ》せねえの。奪った銭の高は?」
「三十五両ってことで。不景気なんですね。それで腹立ち紛れに襲ったんじゃねえですか」
「何人で押し入った?」
「四人と聞きました。それで三十五両なら甲斐がねえ。番頭も割りを食ったもんで」
「どうも気に食わねえ押し込みだな。自分から騒ぎを大きくしてるようなもんだ。いくら不景気でもこの身代だ。三十五両ぽっちなら奉行所に駆け込みやしねえ。怪我人が出たんでやむなく届けたんだ」
「それを狙ってわざとしたとでも?」
「考えられねえことだが、そうとしか思えねえじゃねえか」
首を傾げた仙波の耳に大勢が駆け付ける足音が聞こえた。ぎょっと仙波は闇に目を凝らした。奉行所の連中とは違う。
「火附盗賊改のお人らですよ」
「なんでこんなに早く知れたんだ?」
仙波は思わず地面を蹴り付けた。
「これは仙波さん」
手下を引き連れた火附盗賊改の一人が伊勢新の店の前に立つ仙波と菊弥の姿を認めて声をかけてきた。近江屋から押収した絹物の処分に立ち会った召捕同心の中山だった。仙波と聞いて他の二人の同心も立ち止まる。
「たまたま今夜は勤番に当たっていてな。近江屋の一件の吟味も俺が預かっている。おなじ下手人らしいと聞いて出張《でば》ったんだ」
仙波は中山に説明した。
「ご苦労に存じます」
「それにしても早い。南町はここから目と鼻の先だが……さすがに火附盗賊改だな」
「知らせが入りました」
「伊勢新の者からか?」
「でありましょう」
それに菊弥は小さく首を横に振った。仙波は軽く目配せして菊弥を制すると、
「火附盗賊改が来たとなれば俺はのんびりさせて貰おう。手口を聞いたばかりだが、どうやら一緒のようだ。となるとこっちの出番は少ない。俺も今到着したところさ」
仙波は潜《くぐ》り戸《ど》を顎で示した。中山より年配の同心たちが会釈して店に入る。手下らも続いた。捕物をするわけでもないのに十人近くを引き連れている。
「やはり縁がありますね」
中山は素直に喜んでいた。
「火附盗賊改の手際を見せて貰おう」
仙波は中山を促した。中山も中に消える。
「伊勢新の者は駆け込んでおりませんぜ」
菊弥が仙波に耳打ちした。
「南町にだけとはっきり言ってやした。いってえだれがあんな遠くまで知らせに……」
火附盗賊改の役宅となっている長谷川平蔵の屋敷はこの伊勢新から見ると城を挟んでちょうど反対側に当たる。
「押し込んだ野郎どもよ」
仙波の言葉に菊弥は目を丸くした。
「どうやらそういうことらしい。押し込みの狙いは手前らの銭の他、火附盗賊改を呼び寄せて蔵の検分をさせることにありそうだ。こんな世の中だってのに、しこたま儲けている商人《あきんど》がよほど腹に据えかねていると見える」
「なるほど。義賊を気取ってるわけですかい」
菊弥も大きく頷いた。
「銭を取らねえなら見所はあるが、がっちり銭をせしめていながら義賊気取りは笑わせる。気に入らねえ野郎どもだ」
仙波は鼻で嘲笑《あざわら》った。
「火附盗賊改のお人らはそいつに気づいていねえようですね」
「だろうな。まさか押し込みが自分で盗みを通達するなんぞ考えられねえさ」
「さすが旦那だ。大した読みだ」
菊弥は感心した。
「しかし……伊勢新はそれほどあこぎな商売をしちゃいねえぜ。それも腹が立つ」
もっと悪い連中はいくらでも居るはずだ。仙波は舌打ちしながら店に足を踏み入れた。
遠慮なしに店の検分をはじめている火附盗賊改を不安な様子で見守っていた主人が仙波を認めて救いを求めるように近付いた。
「どうなりますんでございやしょう」
主人は深い溜め息を吐いた。
「蔵に相当なものを隠しているのか?」
「そんな大層なものは……ご禁令が出される前に仕入れていたものでございます。売ってはならぬとのご通達でそのまま蔵に」
「仕入れ台帳がちゃんとあれば心配ねえよ」
「三年も前のものとなればそれも……しまっておいても腐らぬ品物でございますから」
主人は困惑の色を浮かべた。いかにもその通りだ。鼈甲の櫛や珊瑚《さんご》のかんざしはいつまでもしまっておける。反物《たんもの》と違って流行《はや》り廃《すた》りがない。仕入れに余裕のある店なら安い値のとき大量に買い付ける。
「火附盗賊改は贅沢物の摘発と無縁だが、あの連中が見つけた物をこっちが知らぬふりもできねえ。可哀相だがそのときは覚悟してくれ。台帳もねえ品物となりゃ、本当に三年前か今年こっそり買い付けたものか決められなくなる。顔馴染みの俺が請け合ったとこで果たして上が認めてくれるかどうか……」
仙波に主人は頷きつつ、がっくりと肩を落とした。
「その顔じゃ台帳洩れの品物がだいぶあるようだな」
へえ、と主人は認めた。その主人を番頭が呼びに来る。耳打ちに主人の顔が強張《こわば》った。
「いよいよ蔵の検分か?」
仙波に主人は暗い顔で頷くと立ち去った。
「お奉行所の方からご連絡を?」
番頭が仙波に訊ねた。
「火附盗賊改にか? いいや」
「主人は正直者で通っております」
「知ってるよ。なんで台帳を作らねえんだ」
仙波の方が憮然として言った。
「こんな世の中になるとは思いませんでした」
番頭も吐息して主人を追いかけた。
押し込みのあらましを仙波が手代《てだい》らから聞いているところに中山が現われた。火附盗賊改の連中は蔵の検分に熱中している。これでは役目が反対だ。
「仙波さんと馴染みの店のようですが……」
言いにくそうに中山は口にして、
「蔵の奥深くから禁令に触れる櫛や帯留《おびど》めなどが大量に見付かりました。見付けた以上は南町のお奉行にご報告せねばなりませぬ」
「古い物と違うのかい?」
「店の主人もそう申してござるが……禁令が緩《ゆる》むのを待って売るつもりで残し置いたとか。この禁令はさようなものではござるまい。売ってはならぬと申したからには処分するのが当たり前。それを実行しておる店も多い」
「そりゃ、高ぇ食い物なんぞは蔵にしまっておかれねえからな」
仙波は苦笑した。扱う品物にもよる。
「ま、主人も覚悟していたようだ。俺に遠慮はなしにしてくれ」
「それを聞いて安堵いたしました」
「だいぶ手慣れた連中らしい。面で顔を隠している他に口にも含《ふく》み綿《わた》かなんかしていたみてえで、よく聞き取れなかったそうだぜ」
「近江屋のときと同様です」
中山は頷いた。
「それで大事なことを二言三言口にするだけだ。素性を周到に隠していやがる」
「長居もしておりませぬ。押し込んで手近の銭を奪うと直ぐに消える。相手が刀を持った四、五人では手出しもできますまい。似た手口がありそうなものと思いましたが……」
「今のところはさっぱりか?」
「わずかの銭で引き揚げているところを見れば、田舎者かも知れませぬな。三、四十両でも大金と満足しておるのでしょう」
中山はのんびりと構えていた。今度は一人が腕を切られたばかりで死人が出ていない。
「しかし、だいぶこの店のことを調べ上げている。裏庭の塀を乗り越えて主人の寝間近くの板戸をこじ開けているんだぜ。どの程度の分限《ぶげん》か承知していたはずだ。三十両やそこらで満足するとは思えぬが……どうも奇妙だ」
「ここは南町と近い。急《いそ》ぎ働《ばたら》きとなってもおかしくはありませんよ」
「かも知れんがな」
仙波はあっさりと引き下がった。
「いずれ、明朝には南町による新たな検分をお願いいたします。我らはそろそろ……」
「分かった。番屋の者らを呼び付けて朝まで蔵を見張らせておこう」
「だいたいの分量は控えました」
中山は念押しした。余計な温情をかければ仙波の迷惑となるという意味だ。
「火附盗賊改も楽な仕事じゃねえな。盗人や火事の見回りの他に蔵の検分か」
皮肉のつもりだったが中山は微笑《ほほえ》んだ。
「間に合わなかったよ」
奉行所に戻った仙波は安井に報告した。
「駆け付けたと同時に火附盗賊改が現われた。あれじゃなんの手も打てやしねえ」
「それはまたどうして?」
安井も驚いていた。
「結局、蔵に隠してあった品物が見付かった。俺が思っていたより量が多い。番屋の者を頼んで蔵の見張りをさせているが……近江屋とおなじことになりそうだ」
「額の目安は?」
「売値にすれば千両にはなろう。ほとんどが三年以上も前に仕入れたと聞いていたが、火附盗賊改を多少怒らせた」
「とは?」
「禁令が緩むのを待っていたと応じた。その通りには違いなかろうが、間抜けな返答だ」
あははは、と安井は笑って、
「それでは逆撫《さかな》でする。灸《きゆう》を据えられますな」
「まったくだ。正直過ぎるのも考えもんだ」
「では明朝に品物の押収を?」
「手配を頼む。反物と違って櫛や帯留めの小間物だ。荷車は一台で足りよう」
疲れた顔で仙波は羽織を脱ぎ捨てた。
押収に立ち会わぬつもりだったが、やはりそういうわけにはいかない。翌日は慌ただしく過ごした。伊勢新の店の者たちの仙波に対する冷たい視線も気にならないではなかったが、それより、詰まらぬ仕事をしているという苛立ちの方が強い。なんとかけりをつけて次の日に出仕すると間もなく佐野が顔を見せた。顎で自室へ誘ってさっさと消える。
やれやれと仙波は腰を上げた。佐野の用件はろくなことがない。
「伊勢新の押収はすっかり済んだか」
「まだ書面は途中にござりますが」
仙波は入ると直ぐに訊かれて応じた。
「そなたのことだ。付き合いがあるからと言っても手加減はせなんだと思うがの……」
「はあ、そこは気をつけましたつもりで」
「儂もそう信じておる」
「なにか?」
「橋番《はしばん》に投《な》げ文《ぶみ》をした者がおる。伊勢新とつるんだ者が押収を仕切っていてはご政道が守られぬのではないか、と」
「馬鹿な。話にもなりませぬ」
仙波は取り合わなかった。
「近江屋に較べて運び出した荷が少ないと見てのことであろう。荷車一つにもならぬ」
「かんざしや帯留めにござりますぞ。総額となれば近江屋を凌《しの》いでおりましょう」
「そうか。なるほどな」
佐野も得心した顔で頷いた。この様子では内心なにを思っていたか想像できる。
「しかし、いずれにしても顔馴染みのそなたではこの先なにを言われるか案じられる。だれかと代わるのが安心だ。そなたとて気詰まりのはず。安井辺りがよかろう」
「代わるのは構いませぬが、投げ文ごときで動かされては奉行所の体面が……」
「厳しく対処していると世間に示さねばなるまい。いかにも投げ文の通りだ」
「………」
「近江屋のこともまだ片付いておらぬのか」
「迷惑が及ぶと思ってか反物の仕入れ先をなかなか口にいたしませぬ。台帳を元に調べを進めておりますところで」
「手緩《てぬる》いのではないのか?」
「と申されましても禁令の後に仕入れたものでない限り罪にはなりませぬ。売りさばいたという証しもなし。難儀しております」
「いつものそなたらしくない」
佐野は仙波を見詰めた。仙波は黙って頭を下げた。調べなどしていない。押し込みの方を追う口実としているだけであった。
「馴染みの店ではまずいと言って外された」
仙波は安井に引継ぎを頼んだ。
「ついでに近江屋の方もな」
「それはまたどうして?」
「口を割らぬなら呼び出して拷問でもしろという勢いだった。押し込みに襲われたのは近江屋なのに、それをするわけにゃいかねえさ」
「佐野さまもお焦《あせ》りなんですよ。どちらも本来は我らの仕事。火附盗賊改の報告を得て押収にかかるのでは奉行所などなくても構わぬ理屈。これではさもない目こぼしもむずかしい世の中となって参りましたな。幸い手前と付き合いのある店はまだ襲われておらぬのでぼろが出ておりませんがね」
安井はにやにやとして囁いた。
「俺は伊勢新に手加減してきた気はねえぜ。禁令の最中に派手な商いをしていたら、むろん踏み込んでいたさ」
「不運と思うしかありませんよ。どこの店だって多かれ少なかれ禁制品を隠し持っている」
「だが……あの真面目な商売が自慢の伊勢新に千両もの品物が眠ってるとは思わなかった」
それは近江屋とて同様である。仙波が聞き込んだ限りでは悪い評判のない店だった。押収した絹物の大半は恐らく禁令前に仕入れたものだったに相違ない。昔からの得意客に懇願されて仕方なく売ったという主人の言葉にも嘘は感じられなかった。
「今度の押し込みは今までの連中とはちょいと違うみてえだな」
「と言いますと?」
安井は小首を傾げた。
「普通の押し込みなら狙わねえ店を襲っているということさ。まぁ、あれ以上の大店《おおだな》となれば使用人の数も多い。戸締まりも厳重だ。手頃と言えば言えようが……どうもしっくりこねえ。盗人にも三分の理と言うぜ。たいていは盗んでもいい相手を選ぶ。この江戸にはそんな店がいくらでもあろうに」
「火附盗賊改が押し込みを雇っているという推量はどうです?」
安井の言葉に他の者たちも噴き出した。
「あんまり到着が早過ぎる。あれは我々が店と組んで覆い隠すのを防ごうとしてのことじゃありませんかね。なにしろ早過ぎる」
それには皆も真面目な顔で頷いた。
「火附盗賊改には蔵の検分の権限がねえ。だから軽い押し込みをさせて、そいつに便乗してるという推量か?」
「そうです。贅沢品を摘発したところで公《おおやけ》には火附盗賊改の手柄となりますまいが、ご老中さまはお喜び召されます。押収しての処分はなによりの見せしめ。長谷川さまへのご信頼が強まりましょう」
「厭な推量をする男だな」
仙波はさすがに苦笑いするしかなかった。
「外れていますかね?」
「近江屋じゃ人が死んでいる。まさかそこまで火附盗賊改がするとは思えぬな」
「ですが……この二件で押収額が千六、七百両に達します。南と北の双方で一年を頑張っても追い付かぬ額です。それは必ずご老中のお耳に届いておりましょう。火附盗賊改の働きによるものである、とね。長谷川さまのご出世がお約束されたようなもの」
皆は唸って顔を見合わせた。
「長谷川さまはそういう意味では頭の働くお人という噂で」
「だれからそんな噂を耳にする?」
「吉原や両国の料亭に出入りしていれば自然と聞こえてきますよ。仙波さんは堅いですからね。上のことにはまるで関心もない」
「火附盗賊改ってとこはそういうとこか」
仙波は煙管《きせる》を取り出して煙草を詰めた。
「それにしても、だったらなおさらのことあくどい店を襲えばよかろうに。やっぱりただの当て推量に過ぎねえよ」
仙波は言ってまずそうに煙草を喫《す》った。
ひさしぶりに仙波は蔦屋を訪ねた。たまたま市中見回りで|通 油《とおりあぶら》町の近くをぶらぶらしていたからなのだが、人恋しい気分の夕べでもあった。蔦屋の店先の明りと賑わいを見るだけでも沈んだ気持ちが晴れる。
のっそりと店先に立った仙波と菊弥の影を認めて迷惑そうな目をした番頭だったが、それが仙波と分かると笑顔に変わった。
「こっちに来たついでだ。いるかい?」
番頭は直ぐに頷いて奥へ手代を走らせた。
「景気がよさそうだな。なによりだ。蔦屋にゃ身代半減もどこ吹く風ってことか」
「お陰さまで贔屓にさせて貰っております」
番頭は客たちに愛想笑いしてから応じた。
「どうぞお通りを」
手代が戻って二人を案内した。客を掻き分けて奥へ向かう。店の後ろの部屋は読本《よみほん》や錦絵の束で埋め尽くされている。その紙と墨の匂いがつんと鼻を衝く。蔦屋の住居部分は細い土間の先にある。中庭に出ると縁側に蔦屋が立っていて二人を迎えた。
「お珍しい」
「暇なんだよ。こっちはその気でも、次々に役目から外される。市中を当てもなく歩いているだけだ。今日は馬喰《ばくろ》町まで来たんでな。客のようだが邪魔じゃなかったのか?」
部屋にその気配を見て取って仙波は質した。
「どうぞご遠慮なく。今度|店《うち》から出すことになった絵師でしてね。その打ち合わせをしてたところです。もう終わりましたから」
蔦屋は仙波と菊弥を中に促した。
仙波が先に入った。背中を見せていた男が仙波を振り向いて頭をぴょこんと下げた。仙波と同年代に見える。立派な蔦屋の座敷にはそぐわない不精髭と伸びた月代《さかやき》だった。それでも体付きはがっしりとして堂々とした印象だ。貧しい身形《みなり》だがそれを少しも恥じている様子はない。無頓着なのであろう。
「それじゃ、あっしはこれで」
男は蔦屋が席に戻ると腰を浮かせた。
「ま、そう言うな。なにか旨い物でも食いに出よう。この仙波さんも気になさるお人じゃない。よろしゅうございますね?」
蔦屋は仙波に目を動かした。
「俺はいいが……仕事なら茶だけで帰るぜ」
「面白い男でして。お引き合わせいたしたいんでさ。今までは西村屋さんや鶴喜さんが主で、店《うち》とは縁がなかったが、これからは大々的に売り出そうと思っております。役者絵の細判《ほそばん》だけじゃなかなか芽が出ない。この春朗(後の北斎)にゃ気迫がある。そいつを生かすにはどうしても大判じゃないと」
春朗と聞いて仙波は頷いた。勝川派の絵師で、歳の割りには蔦屋の言う通りちっとも芽が出ずにいるが、黄表紙の挿絵を多く手掛けていて仙波は役目柄よく承知している。
「春朗の名をご存じでしたか」
蔦屋は驚いた。
「取り締まる側に居るんだ。一応は目を通す。役者絵の方はあまり見ていねえが、ずいぶん丁寧な絵を描くもんだと感心してた。それでいて確かに小さく纏まっちゃいねえ」
「それはどうも」
春朗は照れた笑いを浮かべた。
「この仙波さんはな、絵名主の相談役を務めていなさった。歌麿《うたまる》とも付き合いが深い」
蔦屋が春朗に教えた。春朗も頷く。
「役者絵ならなにを出したところでお咎めの気遣いはねえ。それは楽しみだ」
「役者絵より美人画や風景画を描かせたら奇妙な味が出るんじゃないかと睨んでいます」
蔦屋は自信あり気に口にした。
「どうせ勝川派を破門されたことだし、お家芸の役者絵にこだわることもない」
「破門になったのか?」
へえ、と春朗は屈託のない笑いを見せた。
「それで仕事がなくなりましてね。版元が勝川派を気にして春朗を切り捨てました。それを耳にしたんで私が名乗りを……」
「それなら確かに役者絵はやりにくい。大判でやれば勝川派の連中も騒ぐに違いねえ」
役者絵は鳥居派と勝川派の専業のようなものだ。破門された春朗が大々的にやれば必ず横槍が入るはずである。
「しかし……あんたもとことん好きだな」
仙波は蔦屋を見やって苦笑した。
「なにがです?」
「逆らうことがさ。下手すりゃ勝川派と喧嘩になろう。いくら役者絵とはあまり縁がない店にしろ、やりにくくなるのは目に見えている。勝川を率いる春章と言えばこの世界じゃ大物だ。まったく肝が据わっている」
「春朗の天分を信じているからですよ。この男はいずれ歌麿にも負けぬ絵師となります。その程度の目はあるつもりでしてね」
「風景画なんてのが売れるのか?」
仙波は首を捻った。面白いものとは思えない。清長が何点か描いていたが漢画の真似としか感じられなかった。
「だからこそ取り組ませてみたい。言ってはなんだが、この春朗には後がない」
あははは、と春朗は笑った。
「どうせ駄目なら、人がやっていないことを存分にさせてみたいと思っているんです」
「蔦屋にこれだけ見込まれたら本望だろう」
仙波が言うと春朗も頷いて、
「歌麿さんが没骨法で美人画を手掛けましたが、あれはやっぱり風景画の方がすっきりとする。そういうのはやってみてえですね」
物怖《ものお》じせずに口にした。
「画帖を持参しました。見てみますか?」
蔦屋は傍らの画帖を仙波の前に差し出した。仙波は手に取って捲《めく》った。仙波は唸った。執拗に海の波ばかりを描いている。荒れ狂う波、白砂に静かに寄せる波、舟が分けてできた波、高波の連なり、岩に砕ける怒濤、それらが捲るごとに現われる。まるで画帖が湿り気を帯びているような気さえする。春朗は仙波の驚愕を食い入るように見詰めていた。その視線が頬に突き刺さるようだ。
「こいつは……大したもんだな」
仙波にはそれしか言えなかった。気迫がひしひしと伝わって圧倒されるのだが、これが商売に繋がるかどうかとなると分からない。
「葛飾《かつしか》の田舎に引っ込んでおりましてね。注文もないんで海に出掛けてはそういうことだけをやっている。女房や子を抱えているってのに頭は自分の絵のことばかりだ。昔の歌麿もそうでしたよ。しかし、なにしろこんな絵だ。手前だって直ぐに売れるとは思っちゃおりません。五年は手助けをするつもりで」
「これじゃいけませんか?」
春朗は心残りの顔で蔦屋に言った。
「いけないね」
蔦屋はぴしゃりと遮った。
「これはあんたの名が江戸中に広まってからやる仕事だ。当分は我慢して私の言う通りのものを描いてくれ。その約束ができないと言うならこっちも手を引くしかない」
「美人画なんぞ描いたことがねえ」
「あんたほどの腕があればなんでもやれる。小器用に使おうってんじゃない。だれも踏み込んだことのない風景画だ。まずは春朗の名を知らしめてからじゃないと無駄になる」
「よほどの見込みと見える」
仙波は蔦屋の言葉で察した。
春朗が風景画で大成できると見ていればこそ先行きを大事にしているのである。まだ馴染みの薄い風景画で最初につまずけば二度と手掛けられなくなってしまう。無難な美人画で名を大きくするのが肝要だ。
「お任せいたします」
春朗は蔦屋の前に両手を揃えた。
「京伝さんとも組んで貰うよ」
蔦屋はこともなげに口にした。
「手鎖を解かれたら来年の新版に取り掛かってくれると約束してくれた。京伝さんの新作となれば世間が騒ぐ。腕の見せ所だ」
「山東京伝のものに俺が挿絵を……」
春朗は目を丸くした。
「そうと決まれば前祝いに吉原にでも出掛けましょうかね。少しはこの春朗にも柔らかい線を会得《えとく》して貰わないと」
「女と酒は嫌いな性質《たち》で」
春朗は首を横に振った。不精髭や薄汚れた着物を気にしてのことと思ったが、そうでもないようだ。
「葛飾への戻り道だろう。子を何人も作っておきながら女嫌いは通用しないよ」
「金のかかる遊女なんぞ……」
「私が払うんだ。おまえさんの銭じゃない」
蔦屋は呆れた顔で春朗を見詰めた。
「歳はなんぼになる?」
歌麿は蔦屋から引き合わされると、とろんとした目を春朗に向けて質した。二人並んだ春朗と歌麿はまさに陰と陽だった。歌麿は綺麗に髷《まげ》を整え、香の匂いの漂う着物を身に纏っている。春朗は煮しめたような衣類にふけの目立つ髪。新造たちも酒を注ぐとき以外はあまり春朗に近付かない。
「三十二で」
ぼそっと春朗は応じた。
「なんだ、そんなに若えのか」
三十七の自分と同年代だろうと見当をつけていた仙波は春朗をあらためて見やった。
「俺が三十二のときと言えば七年前だ」
歌麿は小さく頷いて、
「蔦屋の旦那に拾われた辺りだ。ですね」
「そうだな。おなじ年頃だった」
蔦屋も思い出したように言った。
「まぁ、頑張りなよ。おまえさんのことはちょくちょく蔦屋の旦那から聞かされていた。役者絵で無駄な回り道をしてるな。なにが合ってるのかおいらにも分からねえが、勝川をおん出たことは幸いさ」
「こっちから出たわけじゃねえんで」
春朗は自嘲しつつ頭を掻いた。
「いや、要らねえよ」
春朗は新造が盃に酒を足そうとするのを制した。二杯程度しか呑んでいない。
「呑めねえなら口をつけるのも嫌なはずだが」
仙波は首を傾げた。顔も赤くなっていない。
「くせになっても手前《てめえ》で呑めるだけの甲斐性がねえ。それなら最初《はな》っから遠ざけるのが一番と決めておりやすんで」
遊女や新造たちはころころ笑った。
「今夜は旦那さんの奢りでありんすよ」
新造は親身になって酒を勧めた。
「酒の匂いをさせて戻りゃ女房に気の毒だ。俺の道楽のために我慢させている」
春朗は厳しい目で銚子を押し返した。
仙波と蔦屋は思わず目を合わせた。
絵を描くためだけに生きているのだろう。
さすがに蔦屋だと仙波は思った。絵師を見抜く力がある。この男ならいつか必ず芽を出すに違いない。
「春朗さん、今度いつ新作が出るのさ」
新造の一人が砕けた口調で質した。遊女が嫌な顔をする。
「きっと買うよ。どんな絵か知らないけど」
皆はどっと笑った。
「おかしな野郎でしょう」
飯だけを平らげて立ち去った春朗のことを蔦屋は苦笑して言った。その飯だとて蔦屋が鰻か鮨にしろとしつこく勧めたのに漬物と大根の煮しめでいいと言い張ったのだ。酒と一緒で旨い味を覚えるのが怖いのだと言う。そうすればそれが食いたいばかりに、しなくてもいい仕事を受けることになる。
「ご老中が聞いたら涙を流して喜ぶような男だな。偉いもんだ」
仙波の本心だったが、皆は冗談と思ったようで爆笑した。
「しなくてもいい仕事と言ったって、そもそも今の春朗にろくな仕事はありませんよ。選んでいる余裕なんぞなかろうに」
「あれはやっぱりものになる」
歌麿は真面目な顔で呟いた。
「あんな野郎は生まれてはじめてだ。旦那がああいう男を育てる気になったのが嬉しい」
「そうかね」
蔦屋は満更《まんざら》でもない顔をした。
「世の中は馬鹿ばっかりだ。酒の勢いで描いたおいらの絵なんぞを喜んで買う。あの野郎はさぞかし悔しい思いでいるでしょうよ」
「馬鹿じゃあねえさ」
仙波は歌麿を遮った。
「馬鹿じゃねえからあんたの絵を買うんだ。ご政道に真っ向から喧嘩を仕掛けてる。そいつがだれにも分かっているのさ」
「そんなつもりはございやせん」
ふらふらと歌麿は腰を上げて、
「ちょいと厠に」
急に酔った顔をして出て行った。
「歌麿は春朗の絵を見てるのか?」
仙波は蔦屋に訊ねた。
「それどころか春朗の名はそもそも歌麿から教えられたものでしてね」
「春朗のことをか?」
意外だった。まるで無縁の顔をしていた。
「歌麿の絵とは真反対にある。もしかして嫌われているかも知れないので、ここはどこまでも蔦屋《てまえ》が見付けたことにしろ、と。歌麿は春朗と一度も会っておりません。どんな暮らしをしているかも知っちゃいませんでした。五、六枚の絵を見ただけだ。勝川から離れたなら蔦屋が抱えちゃどうだと……ちゃちな役者絵を見せられて、こいつのどこがいいんだろうと首を傾げましたが、実際に会ってみたらあの画帖ですよ。春朗の腕より歌麿の目の凄さを突き付けられた思いでしたね」
遊女たちも大きく頷いた。
「抱えると決めたので歌麿に会わせに」
「なるほど、そういうことだったのか」
「そうそう、近々うちの店から歌麿の新作が出ます。できたらお届けいたしましょう」
「雲母摺《きららず》りでも使った大顔の美人画か?」
「歌麿からでも耳にしましたか?」
図星だったらしく蔦屋は驚いた。
「そう睨んでた。他の店から様々な趣向を小出しにしたやつを試しに披露して、それにお咎めがなきゃ全部を使った派手なやつを蔦屋から出す気じゃねえかとな」
「歌麿に負けぬ眼力ですな」
蔦屋は唸ったあと苦笑いした。
「心配ねえよ。安心して出しな。これで蔦屋にだけお咎めがいきゃ世間が承知しなかろう。歌麿とあんたの考え通りになる。ご老中がどんな顔でそいつを眺めるか……その顔を見られねえのが残念だ」
「考えだなんて……手前どもは禁令に触れぬものを必死で工夫しているだけのことです」
蔦屋は否定した。こういう場所で松平定信への挑戦であるなどと口にはできない。
「歌麿は遅いな」
話を逸《そ》らすように蔦屋は遊女に口にした。
「きっと徳成さんのところへでも」
「あの男はまだ江戸に居るのか」
仙波は呆れた。
「他の店に居続けでありんす」
「栃木の金持ちと聞いたが、それでもよく銭が続くもんだ。春朗の爪の垢でも服《の》ませてやりてえ。度が過ぎよう」
それに遊女も笑って頷いた。
「手前もそれを気にしておりましてね」
蔦屋は苦々しい口調で、
「吉原に居ながら、徳成と二人で品川の遊廓まで足を延ばしたりするとか。馬鹿馬鹿しい」
「女目当てでか?」
「徳成に付き合わされているんでしょうな」
蔦屋は歌麿の放蕩を案じていた。
五月も中旬となれば江戸にはそろそろ暑い風が流れはじめる。井戸で冷やしたところてんや水羊羹が旨くなる時節だ。隅田川の川開きもこの月の末からとなる。花火が似合う夏が間近い。もっとも、なにもかも贅沢と取り締まられるこの時世では派手な花火は期待できない。夜を一瞬だけきらめかせ、一発何両という打ち上げ花火は贅沢の最たるものだろう。だからこそ江戸っ子の気分に合うのだが、たかだか絹物を裏地にしていたというだけで引っ張られる世の中では無理、と皆も諦めているのである。打ち上げられるにしてもしょぼくれた小玉に違いない。そんな花火を見るくらいなら家で布団を被って寝ている方がいい、と気炎を上げる者もいる。贅沢は金持ちのすることで、自分たちとはもともと無縁だ、と嘲笑っていた者たちも花火が取り止めになるかも知れないという噂には怒りをつのらせた。無料《ただ》の楽しみさえ松平定信は奪い取ろうとしている。
「そろそろ底が見えてきたようだの」
左門はひさしぶりに乗る舟に上機嫌な様子で言った。川風が四方から左門を撫でつけて心地好い。青空がまた今日は美しい。
「なんのことです?」
仙波は流れる川面から目を左門に動かした。
「ご改革じゃよ。耳に入ってくるのはご老中に対する悪口ばかり。去年の今頃は世の中がだいぶ公平になったと喜んでおる声が勝っていたのに今年は違う。田沼さまの仕切られていたときの方が面白かったとお光までが憚りなしに口にする。花火がご老中の首を絞めた。まだどうするか決めてはおられぬようだが、はっきり取り止めとなれば民らは必ず騒ぎを引き起こそう。と言うて例年通りというわけにはいくまい。花火は一晩で千両がとこ飛ぶ。それを許しておきながら、さもない贅沢を取り締まってはご政道が立つまい」
「だいぶの縮小とはなりましょうが、取り止めにはせぬということにござる」
「それでは襟にだけ絹物を用いたとて構わぬ理屈とならぬか?」
うへっ、と二人のやり取りを聞いていた菊弥が笑った。
「遊女屋に絹のふんどしを誂《あつら》えて乗り込んだ男が通達で捕らえられたというではないか」
「そんなこともありましたな」
「小玉ばかりの花火とはそういうものだ。近江屋と伊勢新の押収の一件だとて民らは不愉快に感じておる。なかなか評判のよかった店のようだの。役人とつるんで銭儲けしている者らは他におる。そちらを見逃して、押し込みに入られた側を逆に処罰するとは呆れたものだ。奉行所への憤懣が増しておるぞ」
「承知ではありますが……あれは致し方なきことにござった」
「火附盗賊改が関わっていたからか?」
仙波は頷いた。
「火附盗賊改こそ押し込みの詮議を第一とせねばならぬのに……世も末だ」
「誹謗の落書が増えております。手前の役目はそれを消して歩くのが大方となりました」
冗談でもなく仙波は言って苦笑いした。
「おこうさんですぜ」
菊弥が両国橋の先の船着き場に待っているおこうの姿を認めて手を振った。おこうの住まいする柳橋はあの船着き場の裏手だ。それであそこから拾うことにしていた。
「なかなかの美形じゃな。おまえにしてはよく見付けた」
左門はおこうを眺めて微笑んだ。
「ただの知り合いにござる。親父どのを連れて堀切の花|菖蒲《しようぶ》を見に行くと言ったら、ぜひにとせがまれただけのこと」
「嫌いな男には頼むまい。ましてや儂のような者が一緒と知りながらな。あれはおまえに惚れていよう。嬉しそうな顔をしている」
「余計なことは言わんでくださいよ。私はあの女になんの気持ちも……」
「それなら断わればよかろう。だいたい、無縁の女に今日のことを洩らしはすまい」
「親父さまの方が遥かに眼力に長《た》けてまさ」
菊弥はげらげらと笑った。
「お邪魔いたします」
舟が着くとおこうは笑顔で乗り移り、真っ先に左門へ丁寧な挨拶をした。菊弥のにやけた顔はまだ元に戻らない。
「どうかして?」
「こいつはこういう顔なんだ」
言って仙波は菊弥を睨み付けた。
舟はまた隅田川をゆっくりと遡る。全村が花菖蒲で埋められた堀切村はこの上流に位置している。近くはないが舟で真っ直ぐ行ける場所なので花菖蒲の季節となれば江戸の人間が大挙して押し掛ける。仙波が足腰の衰えた左門を連れ出すつもりになったのもこの足の便のよさのせいだ。組屋敷の側から舟に乗り、花菖蒲が咲き乱れる地に一歩も歩かずに辿り着くことができる。
「たいそうな人出ですねぇ」
おこうは広い川のあちこちに同様の舟が上流を目指しているのを眺め回した。
「お弁当をお持ちしました」
おこうは重そうな手提げを差し出した。どれ、と左門が蓋を取って確かめる。
「こりゃ旨そうだ。玉子焼きに鮒の甘露煮とはありがたい。どちらも好物でな」
「仙波さまからお聞きしたんです」
「なるほど、なるほど」
左門は仙波を見やって口許《くちもと》を緩めた。
「どうせ馴染みの料亭に作らせたもんだろう」
おこうは仙波にぺろっと舌をだした。
「料亭ならもっとありがたい。近頃は滅多に外で食わなくなった。気が利く娘御だ」
左門におこうは素直に喜んだ。
「この一之進は己ればかり外で飲み食いして土産一つ持って帰らぬ」
「見回りの途中です。折りをぶら下げて歩くわけには参りませぬでな」
「こういう男だが、よろしく頼む。なんでか女に縁がない。儂など十四の頃から女遊びをしていた。堅いのは母親に似たのであろう」
「それが余計な口というものにござる」
仙波は左門に舌打ちした。
「歌麿《うたまる》師匠も今日は花菖蒲見物だとか」
笑いながらおこうは言った。
「それはまた奇遇だな」
「私が嬉しがって皆に吹聴《ふいちよう》していたら蔦屋の旦那が、それなら一緒の日にしよう、と」
「なんだ、おめえのおしゃべりのせいか」
「歌麿師匠が見たいとおっしゃっていたんだそうです。でも……本当に来てるかどうか」
「歌麿か。そうなればよいがの」
左門はますます喜んだ。歌麿の絵が好きなのは仙波より左門の方である。
「場所は承知か? 堀切は広いぜ」
せっかくなので左門に会わせてやりたい。
「木母寺《もくぼじ》門前の植半にはきっと立ち寄ると。そこに問い合わせれば師匠方の様子が知れると思いますけどね」
木母寺は堀切村の手前にある。梅若塚が境内にあるのでいつも見物客で賑わっている。ついでなので仙波も立ち寄ろうと考えていた。境内の間近まで舟が入れるのだ。その門前に店を構えている植半は蜆《しじみ》料理で名高い。
「花菖蒲の後に寄ってみよう。先に蜆飯と汁で腹を一杯にすりゃ、おこうの弁当が食えなくなる。だいぶ銭を張り込んだんだろ」
仙波におこうはにっこりとした。
「こういう場合は贅沢と言わん。人の心だ。それがご老中には分かっておられぬようだ」
左門はしみじみと口にした。
左門を支えて舟を下り、低い土手を上がると目の前には鮮やかな緑の中に紫の花菖蒲が一面に咲き群れていた。左門は声を発した。船頭も心得ていて、特に美しい場所を選んで船着き場を決めたと見える。
「心配ない。腰がしゃんとなった」
左門は仙波の腕を払ってさっさと歩きはじめた。花菖蒲の甘い香りが仙波たちを包み込む。江戸で売られる花菖蒲のほとんどがここで栽培されている。隅田川の水がこの低地に幾筋も流れ込み、花菖蒲の栽培に適した湿地を形成しているのだ。浮き浮きとした左門の表情を見るにつけ仙波の頬も緩んだ。
「面白いお方にございますねぇ」
「親父か? 足腰の弱い分、口が達者だ」
仙波はおこうに目をやった。
「いい気持ち。やっぱり来てよかった」
おこうは大きく伸びをした。
左門と菊弥はだいぶ前を歩いている。菖蒲畑の中には大勢が腰から下を隠して散策していた。湿地の中に板の道をつけている。
「見る限り紫の花菖蒲だ。こんな贅沢はなかなか味わえねえな。ご老中もこいつばかりにゃ気付かなかったらしい。一本一本は知れた銭だ。それで見過ごしたんだろうが……こういう楽しみはまだまだ残されている」
「上野や御殿山の桜の木を残らず伐り倒そうとしたというのは本当?」
「いくらご老中でもそこまではできねえさ」
花見の季節の直前に飛び交った噂だ。江戸っ子は花見に銭をかける。あちこちの花を追いかけては派手な酒盛りをする。それを松平定信が嫌って、近隣の桜をすべて伐り払えと命じたという噂が広まった。ありそうなことと皆は案じた。奉行所に居る仙波たちでさえ、もしやと思ったほどだった。だが、結局は巷《ちまた》の噂に過ぎず、無事に花見ができた。もちろん酒の持ち込みや葭簀《よしず》茶屋の制限などはきつく言い渡されたが、それほどの騒ぎとはなっていない。
「一度転がると、全部が悪い方に行くもんだな。今度の花火もどうなることか」
「花火のない川開きなんて」
おこうは眉をしかめた。
「旦那」
あたふたと菊弥が戻って来た。
「あっちに見えるのは春朗さんですぜ」
菊弥の指差した先に小さな人影が見える。画帖を広げて花菖蒲を描いているらしい。
「江戸も狭いもんでさ。まるで江戸中の知り合いがこっちへ転居したような具合だ」
「春朗は葛飾だ。江戸とは言うめえ」
仙波は笑って春朗の方へ足を向けた。
「蔦屋が春朗のことも呼んだのさ。堀切は江戸と葛飾の真ん中辺だ」
その仙波の想像は当たっていた。春朗は近付いたのが仙波と分かっても特に驚きはしなかった。蔦屋から耳にしていたのだろう。この広い花菖蒲畑で出会ったことだけが珍しい。
「歌麿も来ているそうだな」
「ついさっき木母寺の方へ向かいましたぜ。あっしはもう何枚か描いてからと……」
「どれ、見せてくれるか?」
春朗は頷いて画帖を仙波に預けた。春朗の足が泥で汚れている。板道から泥の畑に入り込んだに違いない。
「なんとも上手ぇもんだが……ちょいと丁寧過ぎねえか?」
花弁の複雑な捩《よじ》れまで克明に描き込んである。おこうも脇から覗いて驚嘆した。
「悪い癖だ。自分でも承知だが、どう線が繋がっているのか気になって仕方ねえ」
春朗はぼりぼりと頭を掻いた。
そこに左門が追い付いた。仙波は左門に画帖を見せた。左門は目を丸くした。
「歌麿の『虫撰《むしえらみ》』に負けぬな。いや、上かも知れん。こんな絵ははじめて見た」
「異国の絵の真似をしてみたんで」
春朗は満更でもない顔で応じた。
「いかにも。それで従来の没骨法とも違う。銅版の趣がある。司馬江漢以外にこの描法を会得しておる者がいるとは思わなかった」
「絵がよっぽどお好きなんで?」
「暇な身だからな」
仙波が代わりに返した。
「大したものだ。江漢は真を写すと豪語していたが、これを見れば正《まさ》しく頷ける。しかし……」
左門は言葉を切って、
「この花菖蒲ではまだ買う者がおるまい」
「どういうことで?」
春朗は怪訝な顔をした。
「本物の花菖蒲の方が安く手に入る」
あ、と春朗は虚を衝かれた顔をした。
「いくらも見たわけではないが、異国の絵は珍しき光景を描いたものが多かった。真を写すと言うても、真に勝るものはない。手近にあるものなれば、それで用が足りよう。滅多に見られぬものこそ、真に写し取ってみせることが大事ではないのか? 桜の枝の傍らにそっくりな桜の絵を飾る者は少なかろう」
「参りやしたね」
春朗は陽気に笑った。
「まったくその通りかも知れやせん。江漢先生の絵がちっとも面白くねえのはそれだ。江戸の名所なんぞ見慣れている。真を写すと言ったところで、しょせん絵は絵でしかねえ。薄っぺらな景色だ。そう思ったのは、こっちがよく承知の場所だったせいかも知れねえや」
「だが、見たくともなかなか見られぬものをそなたの筆で写し取れば話は別となる」
「たとえばどんなものでやしょう?」
大真面目に春朗は左門に質した。
「さてな……儂ならこの通りの足腰で遠出がままならぬ身。東海道や諸国の名所が見てみたい。物なれば銭にあかせて取り寄せることもできようが、山や海はそうもいくまい」
「そうか、そういうことでやすか」
春朗の目が輝いた。
「親父のことだ。あまり当てにするな」
「とんでもねえ。おいらもそれは薄々と考えてたことで。ありがてえご託宣ですよ」
春朗は左門に深々と頭を下げた。
今日は親父の日だ、と仙波は思った。毎日を組屋敷に閉じ籠り切りで、訪ねて来る客も滅多にいない。だが、かつては江戸きっての同心と目された人間である。その眼力が今も生きている。仙波は嬉しくなった。
「今後はお屋敷の方をお訪ねしても構いやせんか? 蔦屋の旦那のお陰でこれからはしょっちゅう市中へ出掛けることになりそうで」
春朗は仙波と左門に願った。
「親父が喜ぼう。泊まってもいいぜ」
市中と葛飾の往復はきつい。それに春朗の真面目さが仙波の気にも合っている。
「それにしても蔦屋たちはだいぶ早くにやって来たのか?」
仙波はまだ真上にある陽を仰いだ。
「四半刻(三十分)前に見えたばかりですよ」
「なのに木母寺へ逆戻りか」
「妙な野郎どもの目が気になると言ってね。こっちはせっかくなんで居残った」
「妙な野郎ども?」
「またぞろ目をつけられたのかも知れねえと落ち着かねえ様子だったが……去年の夏辺りに店先をうろちょろしてた野郎どもとか」
夏であるなら歌麿の女房おりよが殺された辺りのことだろう。つまりは松平定信の息のかかった連中ということになる。
「この前の雲母摺りの大顔絵《おおかおえ》が癇《かん》に障ったってわけか。咎め立てができねえんで脅しをかけに現われたという寸法だ。まったく──」
汚い手を用いてくる。それが老中の仕業と思えば情けない。
「その連中の姿を見たか?」
「この人混みだ。おいらはなにも」
春朗は呑気に構えていた。裏の事情を知らなければ当然である。
「俺は先に木母寺に行ってみる。親父を頼んだぜ。ゆっくり見物させてくれ」
仙波はおこうと菊弥に左門を任せて土手へと駆け出した。春朗も慌ててついて来た。
「錦絵問屋の蔦屋と歌麿《うたまる》が上がっていると聞いて来たが」
客で賑わっている植半に飛び込んで仲居に質すと直ぐに頷いた。仙波と春朗はその女に案内されて二階の座敷に向かった。
「これはお揃いでしたか」
蔦屋は仙波と春朗を見やって頷いた。居るのは蔦屋と歌麿の二人きりと思っていたが、その二人の間に秋田藩留守居役平沢|常富《つねまさ》(朋誠堂喜三二)の端正な顔もあった。平沢とはひさしぶりの対面である。
「妙な野郎どもを見掛けたと聞いたが?」
仙波は三人ののんびりとした様子を見て少し気が抜けた。
「あんな連中が居てはろくろく話もできません。それで花菖蒲見物は切り上げて酒を呑むことにしたんですよ。別に逃げたわけじゃ」
蔦屋は苦笑いして応じた。
「まだこの辺りに居るのか?」
「でしょうな。この店に上がったことは承知のはずですよ。きっとどこかに」
「何人だ?」
「二人。どうせ下っ端だ。あんなやつらに関わってもしょうがない。仙波さんも気にせずにいてください。脅かしのつもりかも知れないが、慣れておりますよ」
蔦屋は手を叩いて酒を催促した。
「気に食わねえのさ。なにが出てくるか知れねえが、とっちめてやる気で来た」
「それをやれば仙波さんまでどなたかに睨まれてしまいましょう」
「覚悟の上だ。あんまりやり方が汚え。うんざりしてきたぜ。手が出せねえと踏んで舐めてかかっていやがる。そいつらの目印は?」
「言うより描く方が早い」
歌麿が蔦屋に目配せして画帖を広げた。筆を取り出して紙を睨む。間もなく歌麿の筆が動いた。さらさらと進めて行く。蔦屋と平沢が脇から覗いて大きく頷く。よほど似ているのだろう。だてに遊女らの似顔を描いていない。やがて歌麿は筆を止めた。
「こんなものでしょう」
一度眺めてから歌麿は画帖を渡した。
「なるほど、大したもんだな」
「と言うと?」
歌麿は怪訝な顔をした。
「こっちの痩せた野郎には俺も見覚えがある。近江屋の押収物を燃やしていたときに見掛けた。そのときに気になったんだから、もっと以前にも見掛けていたんだろうな。嫌な目付きの男だと思っただけだったが……そっくりだ。よくここまで描ける。右の肩が心持ち下がっているのもおんなじだ」
「あのときなら、手前と会った日ですな」
蔦屋は思い出したように口にした。
「そうだ。吉原に歌麿を訪ねての帰りと言っていたぜ。恐らくそのときもこいつがくっついていたのさ。こいつならなにをしでかすか知れねえ男だ。目が死んでいる」
言って仙波はしげしげと絵を見詰めた。その特徴さえ歌麿はわずかの線で捕らえている。もう一人の小柄な男もこの絵の通りなら危ない。肩が盛り上がり、腿も張っている。相当に鍛えていると見ていい。百姓仕事なら上半身に偏る。それにこの男も右の肩が落ちている。となると──
「二人とも武士だろう」
仙波は断じた。
「なぜそれが?」
蔦屋と春朗が同時に質した。
「武士はいつも左の腰に重い刀をぶち込んでいる。それに体が馴染んでいる。刀がねえときは自然に右の肩が下がる。普段は刀があるから真っ直ぐになるのさ」
なるほど、と春朗は喜んだ。
「裏にあるお人を思えば、こういうやつらを使っていても不思議はねえが……迂闊に手出しをしねえで幸いだった。この腕の張りから見ても相当な使い手に違いない。下手をすれば大怪我をしていたぜ」
仙波の言葉に蔦屋と歌麿は顔を見合わせた。
「その者たちの仕業ではないのか?」
平沢が口にした。おりよのことを言っている。歌麿の目が暗く光った。下手人が武士らしいのは見当がついている。
「うかうかとそういう者をまた近付けてくるとは思えませんがね」
仙波は首を横に振った。仙波の動きがうるさくなったと見たゆえに調べの邪魔をしてきたのだ。尻尾を掴まえられるような真似をするわけがない。根は一緒でもおりよの一件とは無縁の連中と思われる。平沢も納得した。
「いずれ放っておくつもりでした。相手が武士であろうとご心配なく」
蔦屋は仙波に酒を勧めた。
「禁令さえ守ればやつらとてなにもできやしませんよ。それに、近頃は禁令の裏を掻い潜るのが面白くなってきましてね。正面から逆らうよりずっと楽しみがある」
「またなにか企んでいるのか?」
自信に満ちた蔦屋の笑顔に仙波は訊ねた。
「歌麿の考えついたことです」
「今度はなにを描く?」
「ごく普通の作品《もの》ですよ。三枚続きの美人画で、両国橋の下の船遊びを描かせます」
蔦屋はにやにやとした。聞かされていたらしく平沢も笑いを堪えている。
「それでお叱りを頂戴しますかね」
「文句など出るわけがなかろう。それだけのことならな。裸の女でも混ぜれば別だが」
「そんな野暮はしませんよ」
「分からねえな。なんの趣向だ?」
「それを出したあと、一月を待って今度は両国橋の上の賑わいを描いた三枚続きを出そうと思っております」
「………」
「それからまた一月後に両国橋の真上に咲いた花火の三枚続きが出ることになる」
あ、と仙波は目を丸くした。その三種類を下から順に重ねれば、両国橋での花火見物を描いた縦横九枚の大画面が出現することになる。襖半分ほどの大きさになろう。
「しかし……そりゃあ……」
まずかろう、と仙波は思った。三枚以上の組物は贅沢だと禁じられている。
「たまたま上と下が綺麗に繋がるだけのことで、しかも月変わりの売り出しとなれば揃い物と見做されません。禁令にも一度に三枚以上のものはいけないとあるだけですよ。下の三枚を買った客が上の三枚を買うとも限らない。三枚しかないものを六枚の組物と言う者は一人も居ない」
「確かに理屈じゃあるがな……」
仙波は腕を組んで唸った。
「九枚となりゃ目立ち過ぎる。あまりにあからさまだ。せめて橋の上と下だけにするがいい。花火は余計だろう。今年の花火をどうするかで騒ぎが持ち上がっている。そいつへの当て付けとも勘繰られるぜ」
「当て付けです」
悪びれず歌麿は笑った。皆も爆笑する。
「しかし──」
蔦屋は真顔に戻して、
「仙波さんのご忠告となれば手始めは上と下だけの六枚でやるしかなさそうだ。それが通れば次はもっと派手にやれる」
仕方なく歌麿も承知した。
「まったく、危ない工夫をする。だから妙な連中が目を光らせるんだ」
言いながら仙波も内心では歌麿の奇想に舌を巻いていた。こういう時期のことでなければ江戸中を仰天させていただろう。いや、こういう時期だからこそ思い付いた考えとも言える。すべては歌麿の復讐心から生まれたものだ。いかに松平定信の鼻を明かすかに歌麿の思いが注がれている。
〈とうとうこっちに回ってきたか〉
二日後の夕刻。仙波は見回りの途中でその気配を感じ取った。蔦屋や歌麿と同席したことで矛先《ほこさき》が自分に向けられたのだろう。仙波は菊弥を先に帰らせて一人となった。思い切って誘いをかけてみようと考えたのだ。
仙波は狭い路地に入ると裏手の空き地に急ぎ足で向かった。音を立てて小便をする。小便をしながら背後に聞き耳を立てる。草を踏む二人の足音が遠くに聞こえた。なんのつもりで路地に入ったか確かめに来たのだ。
「俺の陰茎《まら》の大きさが気になって来たのかい」
そのままの姿勢で声をかける。二人の足音が乱れた。逃げ出そうとして止まる。気付かれたからには覚悟を決めたようだ。
「ちょいと待ちな。まだ半端だ」
仙波はゆっくりと小便をし終えた。
「俺をどこのだれか承知の上だな?」
振り向くと歌麿が描いた通りの二人がのっそりと草むらに立っていた。あんまり似ているのでおかしくなる。
「少し様子を見てと思ったが……手を引け」
小柄な男が仙波を睨んで言った。
「貴様まで殺《や》るつもりはない。詰まらぬ者でも同心には違いない。あれこれ面倒になる」
「そうかね。同心ごとき簡単に始末をつけられるお人に仕えているんじゃねえのか」
「………」
「今のは取り消そう。俺はなにも知っちゃいねえ。あんたらが何者かも知らん。ただ小便の途中に襲って来た妙な無宿人を片付けただけだ。あとで武士と分かっても俺には関わりのねえことさ」
薄笑いを浮かべて仙波は羽織を脱ぎ捨てた。
「貴様、やり合う気か?」
意味を察して二人は呆れた顔をした。
「うるせえんだよ。あちこちぶんぶんと飛び回る。後ろにだれが居るか知らねえが、おめえらの死骸さえ隠せば問題なかろう。ほとほと飽きてきた。後ろに居る野郎はよっぽどしつこいぜ。なんの力もねえ俺なんぞを追いかける暇があるなら他のことをしやがれ」
「本気のようだな」
小柄な男はもう一人に目配せした。頷いて痩せた男は懐ろから短刀を抜いた。小柄な男の手にも短刀が握られている。
「いつもはもっと長いものを振り回していように……それでは気の毒だ。と言って手加減する気はねえ。おめえらに恨みはねえが、おめえらを雇っている者に腹が立つ」
「後悔するぞ」
「なににだ? 笑わせるな」
仙波は最初から刀を抜いた。同心となってはじめてのことである。二人はさすがにぎょっとした。それでも数を頼って間合いを詰めてくる。仙波が思っていた以上に腕が立つ。
「歌麿の女房はだれが手にかけた?」
むろん相手はなにも答えない。
「同心風情と舐めてかかって貰っちゃ困る。武士の格好をした者を殺すわけにゃいかねえが、無宿人なら遠慮は要らねえ。どこからでもかかってこい」
仙波は腰を低くして身構えた。痩せた男が奇声を発した。と同時に小柄な男が地を蹴った。攪乱の攻めである。仙波は小柄な男が空中にあるうちに痩せた男へと詰め寄った。痩せた男は慌てて後退した。普通は空中にある敵に気を取られる。その隙に仙波の胸元へ飛び込む算段だったらしい。仙波の背後に小柄な男は着地した。仙波は二人の間から素早く抜けて睨み付けた。道具が短刀とは言え挟まれれば分が悪い。
「貴様、なかなかやるな」
小柄な男は一瞬のうちに噴き出た汗を手の甲で拭いながら新たに身構えた。
仙波の方も汗を拭いたい気分だった。信じられないほどの身軽さだ。もし背後に回られた瞬間に短刀を投げ付けられていたらと思えば寒気がする。仙波の逃れたのが敵の思惑よりも早かっただけに過ぎない。正面から投じられたものなら受ける自信はあっても背中に目があるわけではない。
そこに何人かの男たちが駆け付けた。騒ぎを聞き付けて現われたのである。無宿人同士の喧嘩なら遠巻きにしたはずだが、一人が同心と分かって手助けに回ったのだろう。
「くそっ!」
小柄な男は躊躇も見せずに反転した。痩せた男も仲間とは反対の方角に走る。仙波は痩せた男を追った。ここで取り逃がせば誘い込んだ意味がない。痩せた男は振り向きざま仙波に短刀を投げ付けた。真っ直ぐ飛んで来る。仙波は辛うじて弾いた。逃げる男との距離が広がる。その影は路地にと消えた。
「くそっ!」
次に叫んだのは仙波だった。仙波は安堵した様子の男たちをじろりと睨み付けた。本気で刀を抜きながら逃がしたのははじめてだ。
「なにがあったんで?」
天秤棒を手にした男が仙波に質した。
「いきなり襲って来たのさ。こっちもなにがなんだか。物騒な世の中となった」
仙波は刀を鞘《さや》に納めた。
戻った仙波から経緯を聞かされて左門は口をあんぐりと開けた。
「おまえから誘ったと言うのか」
「まさか取り逃がすとは思わぬこと。一生の不覚にござった。しばらく道場から遠ざかっておるゆえ勘も鈍りました」
「相手は二人とは申せ、よほどの者たちだな」
仙波の腕を知っている左門は吐息した。若い頃は二十人を続けて打ち負かしたほどの技量である。滅多には引けを取らない。
「あの者どもは手前の素性を知っております。親父どのにも迷惑が及ぶやも知れませぬ」
それもあって失態を打ち明けたのだ。
「いくらなんでも八丁堀の組屋敷を襲う愚か者などおるまい。それに、相手にとってもそなたを殺せなんだは失態。正直に上の者に報告いたすとは思えぬな」
「でござろうか?」
「金で雇われておる者であったとしたらなおさらだ。知らぬふりをしてそなたの様子を見よう。この痩せ首を賭けてもいい」
そう言われればそんな気もする。仙波はやっと笑いを取り戻した。
「それにしても、なにゆえ急にそんな気持ちとなった? おまえらしくない」
「手前は近頃唯々諾々と務めに励んでおります。そういう己れがなにやら馬鹿馬鹿しくなりました。降り懸かる火の粉を幸いに、己れを変えることができるのではと思いました」
「呆れた理屈だの。ただの退屈か?」
「退屈とは少し違いましょうが……まぁ、大局で申せばそういうところかも」
仙波は煙管を手にして煙草を詰めた。一服すると、なにやら笑いが込み上げてきた。
「これで後戻りはできなくなり申した。お陰ですっきりとしましたぞ。相手がご老中と思えばこそ身を縮めておりましたが……なにも知らぬふりでぶつかれば案外面白いことになるかも知れませぬ。いかにご老中とて、なにも咎めのない手前をどうこうできぬはず」
「咎めはないか?」
「清廉潔白、融通利かずの男と評判の手前ですよ。親父どのとは違いますでな」
「ぬけぬけと」
左門は笑った。
「まともなことさえ貫けば、まさか死罪とはなりますまい。悪くて罷免。今の手前の務めなど、どうせそれと変わりござらぬ」
「好きにやるがいい。それでいい」
嬉しそうに左門は頷いた。
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自 成 一 家
仙波は思い付いて霊岸島《れいがんじま》町の笹屋五兵衛の店を訪ねた。五兵衛は商談中とかで、わずかの間だが待たされた。やがて奥へ通される。
〈ん?〉
廊下から歌麿の起居していた離れが見える。懐かしく目をやっていたら、その部屋の障子の隙間から覗いているだれかの目とぶつかったのだ。障子がすっと閉じられる。
〈今のは確か……〉
通用亭徳成の顔だったような気がする。笹屋とは身内のような口振りなので離れに世話になっていても不思議はないが、慌てて顔を隠したのが気になる。こっちが嫌っているのを徳成の方も承知なのだろう。歌麿をだしにして遊び歩いている道楽者だ。まだ江戸に居たとは思わなかった。
「ずいぶんとお珍しい」
五兵衛は仙波と菊弥を笑顔で迎えた。
「店の前に荷車が並んでる。景気よさそうだ」
「それだけ世の中がきつくなったということでござんすよ。灸《きゆう》でも据えて体を早めにしゃんとさせなきゃ食っていかれません」
「そうでもなかろうが……まぁ、知り合いの店が繁盛してるってのは悪くねえ」
「仙波さまのお噂は歌麿《うたまる》からしょっちゅう耳にしております。三、四日前も一緒だったとか。花|菖蒲《しようぶ》の見物でしたか」
「妙な野郎どもに付け狙われたって話は聞いたか?」
「さてね。そっちの方はまだ」
「去年の夏に蔦屋《つたや》や秋田藩の平沢さんの周りをうろついていた連中だ。またぞろ目を付けて脅しにかかってきたらしい」
「さようでござんすか」
五兵衛は舌打ちした。
「一昨日そいつらとやり合ってな。町の連中の余計な手助けが入ったお陰で取り逃がした」
「やり合ったと言うと召捕りで?」
「俺の周りまでうろつきやがった。ただのごろつきと違う。武士だ。しかしそういう怪しい格好ならなんとでも理由がつけられる。思い切って仕掛けたんだが失敗さ」
仙波は苦笑いした。
「危なくはありませんかね?」
「こっちも覚悟を決めたよ。それで来た」
「と言いますと?」
「おりよの一件を最初からやり直す」
「………」
「歌麿を江ノ島に誘って、江戸を留守にさせようとした野郎が居たとか言っていただろう。手はじめにそいつから攻める」
「なんで今になって?」
五兵衛は眉をしかめた。あれから十カ月近くが過ぎている。
「ご老中の汚えやり方に腹が据えかねたと言えば聞こえはいいが……正面切って喧嘩しちまったからには、こっちも前に進むしかなくなった。黙っていても向こうがまた俺の命を狙ってこよう。先にこっちが抜き差しのならねえ証しを手に入れりゃご老中の矛先も緩む。まともな勝負にゃなるまいが、放っておけばどんどんこっちの手が詰まる」
「その動きは直ぐに伝わりやす。ただじゃ済まなくなりましょう」
「だから俺も急いでいる。だれが江ノ島の一件の陰に居る?」
「それが……」
五兵衛は言葉を詰まらせた。
「あのときは確《し》かと睨んだものの、どうも外れていたようで。簡単に尻尾を掴ませるような連中じゃありませんよ。手前なりに調べたんですがご老中とはなかなか……」
「繋がらなかったのか?」
「よっぽど多くの者を間に入れているんでございやしょう。相手がお武家ではこちらもそれ以上つっこめやしません」
仙波は唸った。それは仙波も同様だ。足を運んだのが無駄となったらしい。
「歌麿もようやくおりよさんのことを吹っ切ることができたようですね」
五兵衛は話を変えた。
「近頃は仕事に精をだしはじめやした」
「徳成だったか。あの男とも遊び歩かなくなったらしいな」
「ええ。まぁ陽気な男ですから歌麿も気晴らしにはなったでしょう」
「せっかく立ち直ったのに、寝た子を起こすようなことにもなりかねねえか」
歌麿とは無縁に調べを進めるしかない。
「徳成も栃木に戻りましたし、歌麿も当分は仕事に熱中しやすでしょうよ」
「ほう……徳成は帰ったのか」
仙波は五兵衛を見詰めた。
「なにか隠していやがるな」
店を出て通りを歩きながら仙波は言った。
「あの笹屋の旦那がですかい?」
「俺は徳成らしい野郎を見たぜ。離れに潜んでいやがった」
「まさか。嘘をつく理由はねえでしょう」
「笹屋は商談中だと言ってただろう。としたならその相手と廊下で擦れ違わなくちゃならねえ。五兵衛の部屋は一番奥だ。店の者を相手のことなら待たせはしなかろう。なのにだれとも会わなかった。ってことは徳成があの部屋に居たんじゃねえのか?」
「なんで徳成のことを隠すんで?」
「そこが謎だな。もっとも、俺が見たのはわずかの隙間からだ。あいつが徳成だったかどうか断言はできねえ」
「そうですよ。どう考えても隠す必要のねえ男でさ。挨拶して引き下がればいいことで」
「それにもう一つ、例の江ノ島の一件だ。見込み違いの一点張りで名前を明かさなかった。俺が派手に動きそうなんで迷惑が自分に及ぶのを恐れただけかも知れねえが……前の五兵衛とはだいぶ違う。無駄足と思ったが、もっと妙なものにぶつかったかも知れん」
しかし仙波にもそれ以上の考えが浮かばない。仙波は頭を巡らせた。
「三日ほど休みを願い出て江ノ島見物とでも洒落込もうか」
「画会を開いた宿を調べるんで?」
「五兵衛が教えてくれなきゃ、一からこっちがやるしかなかろう。どうせ江戸に居ても大した仕事があるはずのねえ身だ」
「大旦那お一人お残しで大丈夫でやすか」
「娘っ子じゃあるまいし」
「例の連中たちのことですよ」
「同心の組屋敷を襲う度胸はねえさ。むしろ危ないのはこっちだ。江ノ島に向かったと知れば好都合とばかりに追って来る」
「………」
「それもこっちの狙いだ。言ったはずだぜ。はじめたからにはやり合うしかねえ。気が進まねえなら俺一人で行って来る」
「行きますよ。勝手に決めねえでください」
菊弥はむくれた顔をした。
「はっきり江ノ島と言ったからには目の前の宿だろう。知れた数だ。天下の歌麿が画会を開いたんだ。だれに聞いても直ぐに分かる。戻りは鎌倉の大仏でも見てくるか」
「ついこの前は花菖蒲見物で今度は江ノ島か。本当に暇な身となりましたねぇ」
「まったくだ。上役だとて壁の落書消しのために俺の願いを拒みはしなかろうぜ」
仙波は自嘲の笑いを洩らした。
あっさりと許しを得て仙波は翌々日の未明に江戸を出発した。江ノ島は遠い。普通は戸塚に一泊し、次の日に鎌倉の七里ヶ浜を通って江ノ島を目指すのだが、物見遊山とは違う。戸塚を越えた藤沢まで一気に歩き、脚の具合によっては今日のうちに江ノ島に入ろうという目算である。菊弥も煮売り屋を長年やっていたので脚はいたって強い。
こういうときでも同心は特別な旅支度をせず着流しに雪駄で行く。決まりではないが、そういうものだと仕付けられている。草履とは違うからきつい行程となるのも覚悟の上だ。
「藤沢までだと休まずに六刻(十二時間)はかかりますよ」
高輪の大木戸を潜ると菊弥は言った。
「それなら昼をちょいと過ぎた辺りに着くな」
「休まずにゃいられません。いくら旦那でも無理だ。どうしても藤沢には夕刻になる」
「そこから江ノ島はどのくらいだ?」
鎌倉経由でしか行ったことがない。
「まず一刻も見れば十分で」
「じゃあ行くしかない。わずか一刻のところで足踏みも癪《しやく》だ。この天気ならなんとかなる。だてに見回りで脚を鍛えちゃいねえ」
「その雪駄でやすからね。運びが重くなる」
「こいつだって三十年も履き慣れている。人のことより手前の心配をしろ。それに薄暗くなってからの道の方が敵もでやすい」
「幽霊みてえなもんですね」
あはは、と仙波は笑った。
藤沢と江戸の真ん中辺りに当たる川崎の茶屋で二人は休息した。六郷の渡しを無事に渡ったので、あとは遮るものはない。
「ここまで二刻ちょいとで来られたとは驚きだ。この様子じゃ八ツ刻(午後三時)にゃ間違いなく藤沢に着きましょう。あっしの方が息が上がりましたよ。旦那はお奉行所から離れても飛脚で十分に食っていけまさ」
「詰まらねえことを言うな」
仙波は渋い茶で焼き団子を頬張った。餅は直ぐに力となる。外歩きが日常なので汗もあまり掻かない。爪先が多少疲れただけだ。雪駄を持ち上げて歩いているせいだ。
「連中の姿は見掛けねえようですが」
「気付かれるようなへまはしねえ。この間で懲りていよう。行き先の見当がついているなら駕籠で先回りもできる。第一、この東海道で真っ昼間から襲う馬鹿はいねえよ」
「そりゃそうだ。危ないとしたら藤沢からか」
「山道があるってんだろ。楽しみだ」
「手強い相手なんでしょう?」
「腕が分かればなんとかなる。もっとも、二人以上で来られたら厄介となるぜ。そのときは逃げるが勝ちだ。そっちも俺の心配などせずに江ノ島を目指せ」
「二人以上で来ましょうか?」
「なんとも言えねえな。この間の失策を取り戻す気なら二人で来ると思うが……」
むろん断定などできない。
「見張られてるかも知れねえってのは、なんとも嫌な心持ちでござんすね」
「おめえもそういう仕事をしているくせして」
なるほど、と菊弥は神妙な顔をした。
藤沢には思ったよりも早く着いたものの、さすがにくたびれている。だがここまで来て諦めるわけにはいかない。宿場の店で蕎麦を食い、半刻ほど脚を休ませてから気力を振り絞って江ノ島への道を辿る。山道と聞いていたが緩い坂道に過ぎない。東海道と違って人通りが少ないだけである。
「のんびりと行こう。なにがあってもこの分じゃ夕刻までに江ノ島を拝める」
二人の背後には富士山がくっきりと見えている。格別な上天気だ。
「大旦那も富士をもう一度間近でご覧になりてえとおっしゃっていました」
「そうか?」
「春朗に言ってましたぜ。どうせ景色を描くなら富士の山だと。富士はどうも面白くねえと春朗は苦笑いしていました」
「だろうな。だれが描いても一緒だ。面白くとなれば苦労する」
「甲斐の方から見たりすりゃよかろうと」
「親父がか? 余計な口だ。自分が見たいだけのことだ。春朗を目の代わりにしようとしてる。確かに春朗の腕なら見た通りそのままだろうが……困ったもんさ」
「けど、甲斐の方から見た富士山なんてのは滅多にお目にかかりませんからね。珍しい」
菊弥は立ち止まって富士を眺めた。ようやくゆっくりと景色を見ていられる。
「おめえ、生まれはどこだった?」
「総州の銚子です」
「代々そこか?」
「死んだ親父は陸奥の南部(岩手県)の者《もん》でした。行ったことはありませんが先祖の墓もそっちにあるそうで。南部は遠い」
「なんで南部から銚子に?」
「食い詰めたんでしょう。銚子じゃ醤油の樽作りをやってました。あっしは十三のときから江戸に奉公に出てそれっきり江戸暮らし」
「銚子にゃたまに帰るのか?」
「ここ五年ばかし御無沙汰ですねぇ。旦那の下で働くようになってからはますますだ」
「俺のせいにするな。帰ってやれ。おふくろさんは元気なんだろ」
「便りがねえのが互いに無事な証しでさ。兄貴もおりやすから心配はしてません」
「おふくろさんの方が案じているだろう」
「どうだか。ついこの間まで煮売り屋をやってた倅《せがれ》だ。見限っておりましょう」
「折り合いでも悪いのか?」
「兄貴とちょいとね。ですから旦那と大旦那の仲のいいのを見てると羨ましくなりやす」
「四十近いってのに餓鬼扱いだからな。親父のせいで女房も貰えねえ」
「おこうさんはどうなんです?」
「同心が芸者と一緒になるのはむずかしい」
「奉行所を追い出されるかも知れませんよ」
「そしたらおこうの方で見限る」
「そういう女《ひと》と違いますよ」
「おめえも親父のような口を利きやがる」
仙波は制してまた歩きはじめた。尾行されている気配はまったく感じられない。
江ノ島を正面に見る宿には夕刻前に辿り着いた。歌麿が画会を開いた宿である。なかなかに大きい。黙っていても二人は江ノ島と向き合う立派な部屋に通された。江戸の同心であることは格好を見ただけで知れる。
「あとで主人と話をしてえんだがな」
案内の女に言うと緊張の顔で頷く。
「大した用件じゃねえ。歌麿が以前にこの宿に滞在して画会を開いたそうだが、もしあるならそのときの絵を見たいだけだ」
女は笑いに戻して引き下がった。
早速に風呂に入って旅の汗を流す。菊弥が仙波の背中を丹念に洗った。さっぱりして部屋に戻ると膳の支度が整っていた。酒もたっぷりと頼んである。遊び女も抱えているはずだが、さすがに遠慮してか打診してこない。
一息ついていたところに主人が現われた。女から聞かされていたようで軸を何本か若い者に持たせている。
「歌麿とは知り合いでな。ここで画会を開いたことも当人から聞かされた。それで江ノ島に来たついでに見てえと思ったのさ」
主人は頷いて軸を次々に鴨居にぶら下げた。見事な江ノ島風景が目の前に並ぶ。仕事も忘れて仙波は見入った。歌麿のことだから美人を配しているが、主体は風景である。あまり錦絵では見られないだけに新鮮だ。花や虫を緻密に描ける腕を持っているのだから不思議ではないが、風景は息衝《いきづ》いていた。
「せっかくなんで叱られるのを覚悟で景色をお頼みしたんですよ。今では手前の自慢です」
主人は得意そうな顔で説明した。
「自成一家……か」
歌麿の落款《らつかん》の下に押された印を読み取って仙波は一人頷いた。己れ一人の力で一家を成す。つまり歌麿の自信の表われである。
歌麿の強さをまた知らされた思いがした。
「まあ飲《や》ってくれ」
ずらりと鴨居に吊された歌麿の江ノ島風景を肴《さかな》に仙波はまた呑みはじめた。宿の主人も上機嫌で仙波の酒を受ける。
「歌麿《うたまる》が去年の夏にこんなとこまで足を運んで画会を開いたとは思わなかった。耳にしたのはつい最近でな。女房を亡くして半年ばかり歌麿は栃木の方に引っ込んでいた。それでなかなか顔を見られなかったのさ」
雑談のように仙波は話を進めた。絵を説明する主人の様子を眺めて、そのやり方がむしろ早道と思ったのである。
「お気の毒なことでございました。この宿にいらしたときのことですよ」
「なにがだ?」
「お住まいが洪水で流されたと知らせが入ったのがです。師匠も仰天なさって……直ぐに駕籠を用立てて差し上げましたが、あの大水のせいで奥さまが病いに罹られたとか……」
「画会はあの洪水の辺りだったのか」
仙波は初耳の顔で吐息した。
「うちにお泊まりいただいたのはわずか三日ばかり。その三日のうちにこれほどのものをお描きになるんですからね。冥加《みようが》なことにございました。こんな田舎の宿にゃ勿体《もつたい》ない」
「歌麿はいつも絵となると真面目になる」
「さようで。私はもっとわがままなお人と思い込んでおりました」
「じゃあ、それまで会ったことはねえのか」
「ええ。お名前はむろん承知でしたが」
「それじゃ、なんで画会なんぞが開けた? 江戸でも滅多にやらねえはずだがな」
「間に入ってくれた人がおりましてね。画会といっても形をつけるだけのことだと頭を下げられました。こっちに損はなし。あの師匠がそれで江ノ島まで足を運んでくださるなら文句のあろうはずがございません。二つ返事で引き受けました」
「なんの形だ? 奇妙な話じゃねえか」
「さるお旗本に師匠の絵のお好きな方がいらっしゃるとか。と言って町絵師のものをおおっぴらに買うわけにはいかないんだそうで。私らにはどうでもいいように思えますが、そういうものなんでございましょうねぇ」
「まぁ、あるかも知れねえな」
「それで江戸から遠く離れた場所で描かせようということになったとか。その場でさらにお旗本とは無縁の者が購《あがな》えば外にはいっさい洩れませぬ。師匠の方もそれだけ慎重な手順なれば察して洩らしはしなかろう、と」
「つまり枕絵ってことか」
主人はぼりぼりと頭を掻いた。目の前に居るのは取り締まる側の同心である。もっとも、買った相手が旗本なら手出しができないことも承知の上で洩らしたことだろう。
「歌麿の方も江ノ島ならのんびりと描けるってわけか。なるほど、いい考えだ」
「十二枚一揃いで十五両とか耳にいたしましたよ。さすがに師匠でございますな」
聞いていた菊弥は目を丸くした。十五両なら一年を遊んで暮らせる金だ。
「それなら歌麿も喜んで足を運ぶ。江戸へ戻ったらそいつをネタに奢《おご》らせてやろう」
仙波は枕絵のことなど気にしない顔で笑った。主人も安堵の様子で頷く。
「間に入ったってのはだれのことだ。歌麿の知り合いならだいたい俺も知ってる」
「話を持ち込んできたのは戸塚の近勘《きんかん》さんでございますが……向こうも江戸の同業の付き合いから頼まれたと申しておりましたよ」
「近勘とは?」
「呉服店を営んでおります」
「江戸の同業ってのも呉服屋だな」
「ええ。確か日本橋に店を構える近江屋さんとか。ずいぶん世話になっているそうで」
「近江屋!」
思わず仙波は声高となった。
「ど、どうかいたしましたんで」
主人はどぎまぎした。
「つい先頃、絹物を蔵に隠していて挙げられた店だ。それで驚いたんだ」
主人は曖昧に頷いた。それは耳に入っていなかったらしい。
「近江屋の主人が絡んでいたのか?」
仙波は念押しした。
「いいえ、ご主人じゃありません。若い衆の……名は忘れましたが、番頭さんに次ぐお人だとか聞いております」
うーむ、と仙波は唸った。思いがけない繋がりであった。近江屋は大所帯だ。使用人も四、五十人は居る。押し込みに殺された手代が今の男と同一であるかはまだ断定できない。だが、もしそうと定まればどうなるのか? ただの偶然とはとても思えない。
〈笹屋が言い渋ったのはこのせいか?〉
もしかするとあの押し込みの狙いはその男の口封じにあったのかも知れない。笹屋もそれに気付いて怖じ気に襲われた可能性がある。下手につつけば殺されるのは我が身と恐れたのではないのか?
「あの……私はそろそろ。帳場の方にやりかけの仕事がありますもんですから」
主人はなにかしらを察した様子で言うと立ち去った。
「どう思う?」
仙波はぼんやりとしている菊弥に質《ただ》した。
「とんでもねえ話を聞き込みやしたね」
「まず見込みに間違いなかろう。殺された手代ってのが歌麿を江ノ島までおびき寄せた野郎に違いない。その糸を手繰《たぐ》ればご老中にまで繋がる。それを恐れて火がつかねえうちに消しにかかったんだろうな。笹屋もそこまで突き止めて手を引くしかねえと諦めたんだ」
「すると伊勢新の方はどうなります?」
頷きつつ菊弥は小首を傾《かし》げた。
「あれもおりよさんとの一件と関わりが?」
「そっちは多分ごまかしだ」
「ごまかし?」
「近江屋の一件をただの押し込みに見せ掛ける手だよ。おなじ手口でやれば狙いが銭に過ぎねえと俺たちに思い込ませることができよう。実際、今のとこ押し込みの線で追いかけている。まさか手代を殺すのが目的だったとはだれも思いやしねえ」
「なーるほど」
菊弥はぽんと膝を叩いた。
「前々から妙だと思ってたんだよ。伊勢新じゃ抗《あらが》いもしねえ番頭が斬りつけられている。そいつだって近江屋での手代殺しに首を捻られねえようなまやかしだ。どこでも簡単に刀を抜く連中だと思わせてえのさ。近江屋のときは|火附盗賊 改《ひつけとうぞくあらため》が出張った。それで伊勢新のときも火附盗賊改に調べさせようとしたと考えりゃ辻褄が合ってくる。連中ならおなじ手口だと直ぐに見抜いて押し込みと決め付ける」
ぎりぎりと仙波は歯噛みした。
「戸塚の近勘に立ち寄って名前を突き止める必要がありますね。もし一緒だったら……」
「俺とおめえが得心するだけで、どうにもならねえよ」
仙波は苦笑いした。
「なんでです? そいつを火附盗賊改にでも教えてやれば調べが変わりましょうに」
「変わるわけがなかろう。まさか裏に居るのはご老中だと火附盗賊改のやつらに言えやしねえ。やつらは手柄を取った気で上に報告しよう。それがご老中に伝わればそれで終わりだ。俺みてえに何人かが調べから外されて打ち切りとなる。ばかりか、そいつを突き止めたのはだれだってことになって、俺とおめえの首が飛ぶ。そいつは賭けてもいいな」
「そんなバカな話がありますかい!」
「あるからこうして俺が苦労してる。戸塚に立ち寄るのは考えもんだ。寄れば次はその近勘も命を狙われかねねえ。むしろ江戸での調べの方が安全だろう。近江屋のだれかに戸塚の近勘と付き合いの深い手代の名を聞けば済むこった。殺された野郎だと確かめられりゃそれで決まりだ。それより……明日は間違いなく例の二人が襲ってこよう。俺が江ノ島になにを訊きだしにきたか見当をつけてるに違いない。そっちの方を心配しろ」
「鎌倉の大仏見物どころじゃなくなりやした」
菊弥はぶるっと体を震わせた。
「それにしても……近江屋と繋がるとは」
仙波にはまだ信じられなかった。
「歌麿や蔦屋はこれを知っておりましょうか」
「知らねえんだろうな。前に池之端《いけのはた》で聞かされたのとはだいぶ話が違う。裏にご老中が居ると承知なだけだ。笹屋が歌麿を案じて、わざと教えていねえんだろうよ」
「けど……手代なんぞがどこでどうご老中さまと繋がっているんでございやしょう」
「潜らせていた子飼いの野郎かも知れん。近江屋辺りで目を光らせておけば江戸中の呉服問屋の様子が知れる。そういう連中を何人も使っているという噂を耳にしたことがある」
「そんなさもねえことまでご老中が?」
「そんなお人だからこそ細かい禁令なんぞを次々にだせるのさ。鷹揚《おうよう》に構えている大名にゃとてもできねえ改革だ」
「恐ろしいお人にございやすねぇ」
菊弥はしみじみと口にした。
「心配しろと言いながら……」
菊弥は鎌倉街道を避けて戸塚への寂しい山道を選んだ仙波に呆れていた。擦れ違う者などほとんどいない獣道《けものみち》に近い。
「これじゃ襲ってくれと頼んでるようなもんだ。命がいくつあっても足りませんぜ」
「誘う他に手があるか? まともな調べが通じる相手じゃねえんだぜ。となれば派手に掻き回して敵を土俵に上げるしかなかろう。手を引けると言うなら俺も多少は考えるが……もう互いに後戻りはできねえ身だ。あっちが許しはしめえ。尻尾を巻いて江戸をふけるしか方法がねえ。なんなら、おめえは銚子のおふくろさんのとこにでも戻るか?」
仙波はのんびり山道を歩きながら言った。
「なんでこんなことになったんですかね」
菊弥は曇り空を仰いだ。
「大水の手助けなんぞに出ていなけりゃ……」
「無縁で諾々とご老中の飼い犬となって禁令を押し付けてる方がよかったか?」
「そんなこたぁ言っちゃおりません」
「俺は面白くて仕方のねえ気分さ。こんな下っ端同心をご老中が気にしてると思えばな。まぁ、俺の名までご老中の耳に入っているかどうかは分からねえが、うろうろ裏を嗅ぎ回っている野郎が居るぐれえのことは聞いているだろう。その騒ぎをもっと大きくしてやる。あっちがまともに仕掛けてこねえのが俺にも幸いだ。無宿人のふりをしている野郎どもならいくらでも好きに片付けられる。悔やむのはあっちの方だ」
「そりゃ、二人やそこらだけで済むならあっしだって踏ん張って見せやすが……どこでけりがつくか知れねえ相手でやすよ」
「その相手がいよいよお出ましだ」
仙波は立ち止まった。前の道に痩せた男が切り株に腰掛けて待っていた。背後から小柄な男が藪を掻き分けて出て来る。菊弥は仙波の脇にぴったりくっついた。
「ほう、今度は大山詣での講中に化けてのご登場か。てめえらも好きだな」
菅笠に白い半纏《はんてん》を羽織った旅姿だ。笠には月島講と大きな文字が書かれている。大山詣でとなると滅多に怪しまれない。
「杖にこういうものも仕込めるからな」
痩せた男は薄笑いを浮かべてぎらりと引き抜いた。細身の仕込み杖であった。小柄な男も抜いて近付いて来る。
「どいていろ。かえって邪魔だ」
仙波は菊弥を藪に促した。
「そのまま山を駆け上がれ。俺が明日中に戻らぬときは江戸を捨てて逃げろ」
「へ、へぇ」
菊弥は震え声で頷くと藪に走った。二人の目が菊弥を追う。が、動かない。あくまでも仙波一人が狙いと見える。
「貴様、己れが惜しくはないのか?」
小柄な男が呆れた顔をして口にした。
「この道を選んだのは誘いだな?」
「てめえらの住まいを教えてくれたら、次は羊羹でも手土産にして遊びに行くよ」
「江ノ島でなにを知った?」
「そっちが知ってることだ。無駄なことを話してるひまはねえ。こっちがなにを訊いたとて答えねえくせして、笑わせるな」
仙波も腰の刀を抜いた。
「場合によっては仲間に加えてもよい」
「仲間だと! 見損なうな。こっちは何代も十手持ちだ。どんな世の中になろうとそいつだけは曲げる気がねえ。いいからかかってきなよ。山道でくたびれて歩くのも億劫だ。そっちから来てくれ」
誘われるように痩せた男が踏み込んだ。仙波は片側の渓谷を背にしてその刀を受け止めた。この位置ならもう一人に攻め込まれる心配はない。痩せた男は受け止められた刀に腕の力を込めた。仙波はじりじりと後退する。だが仙波には余裕があった。この前は短刀だったので勝手が違っただけだ。生かして捕らえるという気持ちも躊躇に繋がっていた。しかし今日は別だ。道場の試合とおなじ気分で臨んでいる。確かに腕は並以上だが、自分の方が上という自信がある。
反対に仙波はゆっくり刀を押し上げた。相手に動揺が浮かぶ。相手はぱっと離れた。勝負は今である。一気に踏み込むと刀を一閃させて男の背後に抜け出る。
「な、なに!」
痩せた男は自分の腹に広がった血を認めて仰天した。振りが鋭かったので痛みをさほど感じなかったのだろう。
「浅くしてやったが、それ以上暴れると傷が広がるぜ。直ぐに腕の力も抜けよう」
痩せた男とは距離を置いて仙波は笑った。小柄な男は仙波と仲間を交互に見やる。
「仲間を見殺しにする気か? 早く戸塚辺りに駆け込んで医者に診せねえと死ぬぞ」
仙波は小柄な男と対峙した。痩せた男はよろよろと山道に膝をついた。血が下半身を染め上げていく。小柄な男の目は落ち着かなくなった。明らかに逃げ道を探している。
「見捨てる気らしいな。それで仲間とは恐れ入った。そういう仲間に俺を招いたのか」
立場は一気に逆転していた。
「てめえの方はきっちりと殺す。生き証人はあいつ一人で十分だ。歌麿の女房の仇をここで取らせて貰おう」
「我らではない! 別の者たちだ」
「俺にゃどうでもいいんだよ。仲間ならおんなじだ。いちいち詮議も面倒だ。てめえらとおなじやり方で攻めてやる」
そのときどこからか甲高い笛が鳴り響いた。小柄な男は安堵を浮かべた。まだ味方がどこかに潜んでいたらしい。なにかの合図のようにも聞こえる。小柄な男は反転して痩せた男に駆け寄った。痩せた男は気力で腰を上げる。その心臓を狙って小柄な男は刀を突き刺した。瞬時の出来事だった。仙波は唖然とした。小柄な男は刀をそのままに山道を江ノ島の方に向かって駆け下りた。速い。
仙波は慌てて痩せた男に走った。だが、もはや手遅れだった。意識がなくなっている。
「くそっ!」
またもやの失態である。まさか仲間を刺し殺して逃げるなど想像もできないことだ。
〈しかし……なんだって?〉
もう一人は陰に隠れて見守っていたのか。三人であればこっちもきつかったはずである。仙波は思わず溜め息を吐《つ》いた。
「旦那!」
派手に藪を掻き分けて菊弥が現われた。
「逃げろと言ったはずだ」
足元の死骸から目を放して仙波は菊弥に舌打ちした。
「旦那一人残して逃げられやしませんよ」
「残ったところで藪から覗き見してるだけじゃありがたくもなんともねえ」
「そこは心意気ってもんでしょう」
無事と分かって菊弥も軽口を叩いた。
「死骸を谷に捨てる。足の方を持て」
仙波は菊弥に命じた。
「いいんですかい?」
「いいも悪いもねえ。まさか担いで江戸へ持ち帰ることもできなかろう。それとも無縁塚でも拵《こしら》えろってのか?」
「せっかくの手掛かりじゃねえですか」
「懐ろはあらためた。二分ばかり入った財布があっただけだ。髷《まげ》を形見に切り落とす付き合いでもねえ。いいから持て」
仙波は痩せた男の両肩を持ち上げた。菊弥も仕方なく足を抱える。二人は声を合わせて死骸を谷に放り投げた。死骸は崖を転がり落ちて見えなくなった。
「あ、財布の方は?」
思い出したように菊弥は崖を覗いた。
「俺の懐ろにあるよ。今夜はこの銭で仏の供養をしてやろう」
「しかし、ひでえ仲間だ。とどめを刺して逃げるなんぞ人のすることじゃねえですよ」
「俺にも油断があった。まさか他に仲間が潜んでいるとは思わなかったぜ。それなら最初《はな》っから三人でかかってくりゃいいものを……連中のやることはどうも読めねえな。俺に姿を見せたくねえ理由《わけ》があったのかも知れん」
「どんな理由です?」
「顔見知りってことも有り得る」
「まさか! 冗談はよしてください」
「奉行所にだってご老中の息のかかった人間が送り込まれていよう。確実に俺を殺せればいいが、取り逃がせば後が厄介となる。それを案じて陰に隠れていたとも思われる」
言われて菊弥は愕然となった。
「となればどうなります?」
「互いにどうにもなるまい。これは裏の出来事だ。今のとこ、さしたる心当たりもねえが、側に敵の目が光っていると見た方が腹もくくれる。今後は気が抜けねえ。用心しなよ」
「どなたでやしょうねぇ」
「安井じゃねえのは確かだな」
仙波は言って苦笑いした。
「ご老中直々のお声がかりとなりゃ必ず横柄な態度となって外に表われよう。我慢芝居のできる野郎と違う。それに同心はしょせん一代抱え。出世とも無縁だ。そいつを餌にするなら与力以上さ」
「与力の旦那ですか……」
「佐野さまってのもちょいとな……俺の直属の上役だ。こんな回りくどいことをしなくても他に楽な方法がいくらもある。北町のお人かも知れねえ。顔程度ならたいてい承知だ」
「こう言っちゃ、なんですが……旦那は変わりやしたね」
「そうかい」
「まるで別のお人でさ。なんかこう……凄味と言うか……ちょっと、おっかねえ」
「捨て鉢になったんだ。喧嘩犬と一緒さ」
仙波は声を上げて笑うと、
「呑気にしていりゃ殺《や》られる。受けて立つしかねえじゃねえか。おめえも今日からは危ねえな。長屋を出て俺のところに寝泊まりしろ」
へい、と菊弥は喜んだ。今の江戸で同心の組屋敷ほど安心な場所はない。
「親父もおめえが来れば退屈|凌《しの》ぎになる」
「洗濯でも水汲みでもなんでもやります」
「作男に雇うんじゃねえんだ。親父の将棋の相手をして貰うだけでも助かる」
「こんなときに将棋なんぞ……」
「張り切ってみたとこで、敵が仕掛けて来るのを待つしか手がねえ身だぜ。まぁ、一人死んだからには動きも慌ただしくなろうがよ」
「うっかりと外も歩けなくなりやしたね」
「と言って仕事を休むこともできねえ。女房やガキの居ねえのがこうなると幸いだ。そいつらを人質にされたら面倒になった」
「大旦那がおられますよ」
「あんな足腰のよろよろした年寄りをさらうわけがなかろう。それに、親父はあれで結構腕が立つ。襲った方が悔やむことになる」
仙波は山道を戸塚目指して歩きはじめた。戸塚から賑やかな東海道に入ってしまえば襲われる気遣いもない。
「打つ手がねえとおっしゃいやしたが、襲って来た連中は無宿人に身をやつしているだけで、ご老中のご家中の者じゃありませんかね。その方がご老中も安心して使えるはずだ」
「違うな。武士《さむれえ》にしては髷が短い。だいぶ前から武士の禄を食《は》んでいねえと見た。掌の竹刀《しない》だこも柔らかくなっていた。三、四年は道場から遠ざかっていよう。それに無縁の者を銭で雇う方が後腐れもねえ」
「そこまで調べておられやしたんで」
菊弥は感心した。
「無宿人のことなら中山に訊けばなにか分かるかも知れねえな」
仙波は思い付いた。歌麿が描いた二人の似顔もある。中山は江戸市中にはびこる無宿人を取り締まる火附盗賊改だ。もしかすると消えた小柄な男の居場所に心当たりがあるかも知れない。
「火附盗賊改には関わらねえときめたんじゃありませんか?」
「いくらでもごまかしようがある。なにも押し込みとくっつけなくてもいい。近頃目障りだから、ちょいと引っ張ってみてえと言えば中山も別段不思議とは思うまい」
菊弥も頷いた。
「それに、ちらっと見ただけなんで確かとは言えねえが、逃げた野郎の胸倉に刺青《いれずみ》のようなものがあった。心の臓の辺りだ」
「無宿人と言っても元はお武家でしょう?」
菊弥は目を丸くした。
「武士を捨てるにはよほどの覚悟がいる。もう二度と戻れねえと自分に言い聞かせるつもりで体に墨を入れたんじゃねえのか」
「肝の据わった野郎のようですね」
敵なのに菊弥は少し見直した顔で言った。
「仲間を平気で殺すやつだ。武士の心なんぞとっくに捨てている。あいつはもう獣だぜ」
それだけに侮れない相手でもある。
二人が江戸の八丁堀同心組屋敷に戻ったのは夕刻だった。たった二日で江ノ島を往復した二人を左門は呆れ顔で迎えた。さすがに二人もくたびれ果てた様子で畳に胡座《あぐら》をかいた。通いの手伝いのお光は、まさか仙波が戻るとは思わずに左門一人の食事を拵えて帰ってしまった。そこは仙波も心得ていて、途中で天麩羅を買い、鰻の丼を三つ屋敷の方へ届けるように手配して来た。
「天麩羅と鰻は食い合わせが悪い」
そんなことも知らぬのか、と左門は眉をしかめた。仙波は鼻で笑って、
「親父どのは鰻ばかりを食えばよいことにござろう。こっちは昼に団子を二串食ったきり。汗で体の水気も取れ申した。食わずにはおられぬ心持ちにござる。今日の様子ではそれだとていつまで食えるものか」
仙波は途中で敵に襲われて一人片付けたことを報告した。
「もっとも、手前は腹を浅く裂いただけで、とどめを刺したのは仲間ですがね」
「山道で腹を裂かれては、いずれ無事では済むまい。峰打ちにはできなんだのか」
「親父どのと違ってこっちはまだ命が惜しい。本気でかからねば危ない相手にござった」
それなら仕方ない、と左門も頷いた。
「ところが、藪にもう一人が隠れておりましてな。どうやら手前に顔を見せたくなかった様子。どう思われます?」
「一人が倒されても出て参らなかったのか」
「さよう。声も発しませぬ。笛の合図ばかり」
「そなたと顔見知りということであろう」
あっさりと左門は返した。
「もはや半端では済みませぬぞ。今夜から菊弥を我が家に泊めることとしました。親父どのも一人では出歩かぬようにしてくだされ」
「それではお光も当分休ませた方がいいか」
「お光に手出しするとは思えませぬが……この菊弥は料理もなかなかやり申す。なにせ煮売り屋をしていた男。やってくれるか?」
「あっしなんぞでよければ」
菊弥は承知した。どうせ味噌汁と米を炊く程度のことでしかない。
「もしものときになにか使えるのか?」
左門は菊弥に質した。
「棒を担いで商いをしておりましたんで、棒を振り回すことぐれえならなんとか」
「では明日から槍を教えてやろう」
左門は嬉しそうな顔で言った。
「いまさら間に合いますまい」
仙波は苦笑いして遮《さえぎ》った。
「少しでもやれば違うものだ」
「なれど、槍を手にして市中を歩くわけにはいきませぬ。この屋敷を襲うはずもなし。結局は無駄というものにござりましょう」
「武芸とは腕を鍛えるものではない。目録まで頂戴しながらそれも分からぬか」
左門は仙波を睨み付けた。
「心構えが変わる。そうなれば路傍の竹竿とて槍と同等に扱えよう」
菊弥にその腕も心構えもない、と言い掛けた仙波だったが止めた。このように張り切った左門の顔を見るのはひさしぶりだ。
「親父の稽古は厳しいぞ。覚悟するんだな」
仙波は菊弥に言った。菊弥の目は鴨居に掛けられている長い槍に注がれていた。
「槍などむずかしくはない。重さに慣れるだけが一苦労。煮売りで鍛えておるなら半日やそこらで会得する。道場で一年程度学んだ剣には十分に通用しよう」
「そんなにたやすいもんですか?」
菊弥は信じられない顔をした。
「そこから先がなかなか上達せぬのも槍の不思議なところだ。一之進ほどの腕の者には間違っても勝てぬ。剣の達人は世に山ほどおろうが、槍の名人となると滅多に名を聞かぬ」
「自分がそうだと言いたいんだよ」
仙波はくすくすと笑った。しかし外れてはいない。足腰が弱くなった辺りから左門は槍の稽古を重ねるようになった。槍は杖代わりにもなる上に動かずとも敵と戦える。左門に勝てる相手は江戸でも少ないはずだ。しかも最近は二本の槍まで楽々とこなす。
「まぁ、半日じゃいくらなんでも無理だろうが、二、三日振り回していりゃ格好がつこう。気張って親父に鍛えて貰うんだな」
そこに鰻の丼が届いた。仙波の腹がぎゅうっと鳴った。
翌日の昼に仙波は菊弥を走らせて中山と繋ぎを取った。幸いに中山は役宅に詰めていて、夕刻の待ち合わせを快諾した。仙波は歌麿の描いた似顔を懐ろに押し込んで両国に出向いた。そこの小料理屋が約束の場所だ。菊弥は槍の稽古があるので組屋敷に戻っている。
仙波の方が先に到着した。仙波はおこうを呼ぶことにした。芸者が一緒なら中山も大した用件ではないと思うに違いない。
「おひさしぶりですね」
おこうは直ぐに駆け付けた。
「何日も過ぎちゃいねえだろう。まぁ、こっちもあれからいろいろとあったんで一月《ひとつき》やそこら経ったような気分だがな」
仙波は笑ったあと今夜の用件を伝えた。
「おめえはなにも知らぬふりして酒の相手をしてくれ。暑気払いをしねえかと誘っただけなんだ。そのついでに近頃気になる野郎の噂を持ち掛けるという寸法だ」
「お仲のよろしいお人なんじゃ?」
なぜそんな手間隙《てまひま》をかけるのか、という顔でおこうは首を捻った。
「二度だけ会ったきりの男さ」
「それなのによく誘いを受けましたね」
「向こうも暑気払いとは思っていなかろう。俺が火附盗賊改に移る気になったと見ているに違いない。最初に誘ったのはあいつだ」
おこうは得心した様子で頷いた。
仲居が中山の到着を告げた。間をあけずに中山が笑顔で現われた。おこうに目を動かしてその笑いがさらに柔らかくなる。
「こういう店には不慣れでしてね」
中山は羨ましそうに仙波と向き合って、
「汚い船宿とか場末の店に詰めるばかりです」
「俺もそうさ。今夜は格好をつけた」
中山はおこうの酌を受けながら笑った。
「そろそろだと思いますよ」
「なにがだ?」
「異動の一件です。上役たちが仙波さんの名を口にしているのを小耳に挟みました。まだ仙波さんの方にはなにも?」
「まったく聞いてねえな」
「そうですか。私はまた仙波さんがその噂でも耳にしての誘いかと……」
「奉行所詰めの同心が火附盗賊改に組み込まれたことなんぞ聞いたことがねえ。御先手組《おさきてぐみ》にいくらでも腕の立つ者がいるはずだ」
「腕が立っても裏の世界に詳しい者でなければ役立たぬ勤めです。なのに今はやたらと騒ぎが増えている。それで奉行所から招くのが一番だと見たのでしょうね」
「そうなると喜んで受けなきゃ罰が当たりそうだな。こっちも本音を言えば下らねえ仕事ばかりで辟易してたところさ。わずかの銭を強請《ゆす》り取った野郎まで追わなきゃならねえ」
「それこそ勿体ない話ですね。仙波さんほどの腕を腐らせておく方が信じられない」
「どうやら無宿人のようなんだが……ついでだ。ちょっと見て貰えないか」
思い出したように仙波は懐ろから畳んだ紙を取り出して中山に手渡した。
「俺も早く片付けてしまいたい。隠れ場所でも知れれば明日にでもお縄にしてやる」
「これは上手い似顔じゃないですか」
中山は驚いた。それはそうだろう。書き殴りに近いものでも歌麿の筆である。
「奉行所は腕のいい者を雇っている」
「ってことは……」
仙波は中山の言い方に気付いて膝を進めた。
「見覚えがあるってことだな」
「痩せた男の方は一度|寄場《よせば》に入ったことのある男です。名は忘れましたが確かだ。以前は武士だったらしいと分かって二、三日で解き放されました。もう一人の男の方は正体が今一つ分かっておりませんが、寿の字とか仲間内で呼ばれている男でしょう。似ている」
「寿の字」
「胸にその字を刻んでいると聞いています」
「そいつだ、間違いねえ」
仙波は思わず声高となった。
「この男たちがわずかな強請りをしでかしたと言うんですか?」
中山は小首を傾げた。
「居場所の見当はつかねえか?」
気にせず仙波は問い詰めた。
「痩せた男の方なら寄場に調べ書きが残っているはずです。それを見れば今の住まいの見当もつくんじゃありませんかね」
言われて仙波は頷いた。男は死んだが、住まいを探れば手掛かりの出てくる可能性もある。仙波はなんとか調べてくれるよう中山に頼んだ。中山は簡単に承知した。
仙波が中山と会った夜。
江戸にまたまた例の押し込みが現われた。
狙われたのは上野の広小路に店を構える菓子舗、東雲《しののめ》だった。さっぱりとした甘みの求肥饅頭《ぎゆうひまんじゆう》と小ぶりのどら焼きが評判の店である。
菓子屋は朝が早い。と言うより真夜中から餡《あん》や飴《あめ》の仕込みにかかる。さすがに通りに面した店の戸は閉じているが、頻繁な出入りのために裏口は開けている。不用心には違いないのだが厨房には職人らが十人以上も詰めて汗だくとなっている。こんなところへ押し込みが入るなどだれも想像しないだろう。江戸中のどこの菓子屋も一緒だ。
その隙を見澄まして押し込みは開いた裏口から堂々と厨房に姿を見せた。気配に気付いた一人が振り返る。黒装束に張り子の面を被っている男たちを認めて悲鳴を発した。他の職人らの手が止まる。
「騒ぐな。見た通りの押し込みだ」
狐の面を被っている男が短い刀を引き抜いて菓子作りの大きなまな板に突き立てた。他の四人の仲間が素早く四方に散って逃げ道を全部塞ぐ。その手慣れた様子が恐ろしい。
「主人《あるじ》は?」
言われて四十ばかりの主人が進み出る。
「なかなか旨ぇどら焼きを作るな。銭が溜まって笑いが止まらねえってとこか」
主人は慌てて首を横に振った。
「手近にある銭だけでいい。こいつらに怪我をさせたくねえなら早くしろ。大事な職人だろう。ちょいと腕の筋を切れば旨い菓子も二度と作れなくなるぜ」
本気らしい脅かしに主人は転がるように帳場へと向かった。道を塞いでいた一人が身軽に避けて主人を通す。
「てめえら、なんでこの店を!」
職人の一人が毒づいた。
「かつかつの商いだ。どら焼きを五百も売ったとこで儲けなんぞ知れている。五人も雁首《がんくび》を揃えながらみみっちい押し込み野郎だぜ」
「それより煮詰まりそうな鍋を火から外しちゃどうだ。餡が焦げ付きそうだ」
狐の面の男は笑って職人らを促した。何人かが大鍋を火から下ろす。
「その、かつかつの商いってやつが気に食わねえのよ。いろいろと工夫しているそうだな。砂糖がいけねえってんで粟《あわ》から取った水飴ってのはこいつか?」
狐の面の男は傍らに置かれてある鍋を覗き込んだ。淡い黄金色の水飴ができている。これを砂糖に混ぜて用いているのだ。だから単価を抑えられる。それでこの一年のうちに東雲は職人を倍も抱える店となった。
「みみっちいのはどっちだ。砂糖がねえと言うなら大した工夫と褒めてもやろうが、世の中にゃ腐るほどあるんだぜ。菓子は甘さが本分だろう。こんな世の中でなけりゃこの店なんぞ評判にもなるめえよ」
狐の面の男は水飴の鍋を乱暴にひっくり返した。水飴が土間に溢れる。
「てめえらのような店が増えて名代《なだい》の店が潰れる。皆に馴染んだ味を落とすわけにゃいかなかろう。壺屋や虎屋はそれで餡菓子を休んでいるんだ。そこに付け込んで稼ぐとは、てめえらこそ菓子を駄目にする野郎どもさ」
「さては同業か!」
「同業から嫌われているのも承知らしいな」
甲高く笑って狐の面の男はまな板に突き立てていた刀を手にした。
「同業なら銭なんぞよりてめえらの腕の筋を全部駄目にしてやるよ」
ぞっと職人たちは後退した。
そこに主人が銭の包みを持って戻った。
「いくら入ってる?」
「二十両ちょっとしか」
「かつかつの商いにしちゃ上出来だ。それで引き揚げてやろうが、余計な騒ぎにゃしねえ方が店のためだ。蔵も見てきた。砂糖の袋が山と積まれている。東雲は評判を取るために粟の水飴と称して、本当は砂糖を使っていると噂をばら撒いてやる」
「本当に水飴を混ぜてるんで」
主人は必死で訴えた。職人たちも頷く。
「役人がそいつを信用するかどうかだな。砂糖をたっぷり使いながら安く売ればご禁令に触れることになる。店も潰されよう」
主人はがっくりと肩を落とした。
押し込みたちは未明の町に飛び出た。職人らが追って来ないのを確かめて、それぞれの方角に散る。狐の面の男は黒装束の帯を解いた。裏は目立たぬ縦縞となっている。いや、そちらがもともとの表地である。縦縞に戻すと狐の面を懐ろに押し込んでのんびりと歩きはじめた。男は暗がりから呼び止められた。
「これは兄貴」
男は呼び止めた男に従って暗い路地に入った。路地にはまだ夜が残っている。
「奉行所と火附盗賊改には?」
「とうに走らせました。どっちも朝方には駆け付けて来るはずでさ」
「睨み通り砂糖を蓄えていたんだな」
「たっぷりとね。本当に水飴を作っていたが、あれじゃ言い逃れがむずかしい。火附盗賊改の方はきっと信用しませんぜ」
「そろそろ瓦版屋も動かすとしよう」
「そりゃあ面白ぇ」
「三つも続けりゃ十分だ。半月は江戸を離れていろ。あとは俺が上手く運ぶ」
言った男は、しっと口に指を立てた。だれかの足音が近付いて来る。こんな時間なら木戸番辺りの見回りであろう。二人は暗がりに息を潜めた。提灯《ちようちん》の明りが路地の入り口のところで止まった。二人の居るのに気が付いたと見える。兄貴分は押し込みを働いた男の首筋に腕を回して抱き寄せた。顔と顔を近付けて口を吸う。兄貴分の下ろした腕が相手の股間をまさぐる。提灯が寄って来る。
「てめえら……なにしてやがる」
抱き合っているのが男同士と分かって見回りの男はじりじりと後退した。
「薄汚ぇ野郎どもだ。陰間《かげま》茶屋にでも行きやがれ。この糞ったれ」
見回りは言い残して立ち去った。
「間抜け野郎はそっちだ」
押し込みを働いた男はくすくす笑った。
「嫌な心持ちだ。おめえの口を吸うなんぞ」
兄貴分は唾を吐き出した。
出仕して早々に仙波は押し込みのことを聞かされた。近江屋と伊勢新を襲った連中の仕業と思われたので安井は真夜中に叩き起こされて上野の東雲へ出張っているらしい。仙波に連絡がなかったのは外されているからだ。
「また火附盗賊改と先陣争いか」
耳にして仙波は唸るしかなかった。
「東雲って店の評判は?」
「よいそうですよ。どら焼きが旨いとか」
やはり夜明けに招集されて眠そうな顔をしている橋本が応じた。若い同心である。
「砂糖を減らしているに拘わらず甘いというので店には客が絶えないそうです。しかし、その評判も今日まででしょう。火附盗賊改がお調べに駆け付けたとき、店の者らが総出で蔵の砂糖を運び出している最中だったとか。やましいことがなければ砂糖を隠しはしない。損を覚悟で安く売り出していたんですな。評判さえ取ってしまえばあとはなんとでもできる。菓子屋の商売などそんなものです。老舗《しにせ》が苦しんでいるのを幸いに思い切った手を打っていたんでしょう。砂糖を普通に使えば旨いに決まっている。工夫が自慢の店のようでしたが、とんだ工夫じゃありませんか」
「そういうことなら押し込みの訴えをして来たのは東雲の店の者じゃねえってことだな」
「ええ。そこがどうにも分からない。東雲の方は同業の者の仕業だと言い張っているそうです。銭を奪うのが狙いじゃなくて、店を潰すのが目的に違いないとね」
「これまでと手口が一緒だ。それなら近江屋を襲ったのも菓子屋ということになろう」
笑って仙波は否定した。橋本も頷く。
仙波が上役の佐野に呼ばれたのはそれから四半刻《しはんとき》(三十分)もしないうちだった。
顔を出すと佐野は黙って目の前に促した。
なかなか話を切り出さない。
「なにか? そろそろ見回りの時間ですが」
「年番方《ねんばんかた》の今村さまからお呼び出しがあってな。さきほどまで話をうかがっていた」
年番方とはすべての与力の頭に立つ者である。町奉行に次ぐ位置にある。
「そなたの話だ」
「手前の? なんのことにござります」
「しばらく奉行所を離れて火附盗賊改の要員に加われとの仰せであった」
佐野も首を捻りながら伝えた。
「知っての通り火附盗賊改は昨年より寄場も管轄しておる。それで途端に手が足りなくなった。加えて押し込みが続いている。今回限りということらしいが南と北の市中見回り役より何人かを貸して貰えぬかと長谷川平蔵さまから打診があったそうな」
「………」
「なにを調べてのことかは分からぬが、南からは仙波一之進が欲しいと名指しであったとか。お奉行も長谷川さまよりのお頼みであればと了承なされておられる。期限を一年と限ってのことゆえ御先手組の屋敷に移り住む必要はない。通う場所が奉行所から火附盗賊改の役宅に変わるだけのこと。まことに異例のことであるが、この乱れた世であれば致し方あるまい。承知してくれるな?」
「断わればいかがあいなります?」
「それは知らん。今村さまにご相談申し上げねばならぬ。気が乗らぬのか?」
「なんとも。考えてもおらなんだ話ゆえ面食らっておるだけのことにござります」
「面食らっておるのは今村さまとてご同様であろう。これまでなにかとそなたを役目から遠ざけて参った」
佐野はにやにやと笑った。
「今村さまが手前を?」
「面倒ばかり起こす者と言うてな。年番方となるといかにも四方に気を遣う。そなたのような者は扱いにくい。儂《わし》はそれゆえにこそ今の世に大事と申して庇《かば》ってきたつもりであったが……力が及ばんかった。そこにきてこの名指しだ。さすがに火附盗賊改はよく見ておる。断われば今村さまが喜ぶだけじゃぞ」
うーむ、と仙波は唇を噛み締めた。目の前の佐野が庇い続けたというのは話半分にしても、今村ほどの立場にある者が関わっていたというのが衝撃であった。
「その話、喜んで務めさせていただきます」
仙波は両手を揃えた。今村が敵と分かってはもはや奉行所で身動きが取れないと悟ったのである。どんどん外されるばかりだ。来年は見回りからも遠ざけられて御赦《ごしや》掛り辺りにでも移されかねない。御赦掛りとなれば罪人の罪の軽減を検討するだけで、まったく世間とは関わりがなくなる。そうなる前に火附盗賊改に異動するのが賢明というものだ。
「いつからのことでござります?」
「そなた次第だ。火附盗賊改の方は直ぐにでも欲しいらしい。そなたなれば市中のことに明るい。それを頼んでのことであろうな」
「では上野の押し込みの一件に駆け付けても構わぬのでござりましょうな」
「たった今からか」
さすがに佐野は目を丸くした。
「どうせならその方が火附盗賊改の仕事に早く馴染みましょう」
「長谷川さまにご挨拶申し上げてからの方がよくはないか? でしゃばりと思われかねぬ」
「なれば今日のところはまだ奉行所の同心として出張り、火附盗賊改のやり方を見届けます。どうかそのお許しを」
「そういうことなら問題なかろう」
佐野はほっとした顔で頷いた。
仙波は菊弥を引き連れて上野を目指した。菊弥はやたらと張り切っていた。火附盗賊改となるとおなじ小者《こもの》でも幅が利く。
「喜んでばかりもいられねえぞ。親玉の長谷川さまはご老中の機嫌取りに熱心なお人らしい。どこに移ったところで一緒だ」
「けど、これで壁の落書消しなんぞというけちな仕事をしねえで済みやす。旦那にはどうしたって似合いませんよ。その上、火附盗賊改の仕事は押し込みの探索だ。これで堂々と裏を探れるってもんじゃありませんか」
「新参者の俺にどこまで任せてくれるもんか……連中もそれなりに調べを進めていよう。しばらくは身を縮めているのがよさそうだ」
やがて仙波と菊弥は東雲を捜し当てた。店の前には砂糖を積み込んだ荷車が何台も並べられている。場所が人通りの多い広小路ということで野次馬も相当に出ている。
「なにをやってやがる!」
仙波を同心と見て人込みの中から罵声が上がった。それに呼応する声が広がる。
「肝腎の押し込みはそのままで、また押収かよ。てめえらはどっちの味方だ!」
気にせず仙波は潜り戸から中に入った。店は雑然としていた。隠し帳簿でも探したのだろう。主人らしき男がぼんやりと帳場に座って役人たちの動きを見守っている。砂糖の袋がどんどん外に運ばれて行く。
「どうしたんです?」
安井が仙波と分かって奥から現われた。
「火附盗賊改の連中は?」
「さっき引き揚げました。怪我人は出なかったものの、やはりおなじ下手人らしい。面を被った五人組です。奪われた銭は二十両。菓子の商いで二十両とは大したものだ」
安井の言葉に主人はおどおどとなった。
「それより、まずくはないですか?」
安井は小声で耳打ちした。
「これが佐野さまに聞こえれば──」
「許しを貰って来た。俺は近々火附盗賊改の方へ手助けに回ることとなった」
「本当ですか!」
安井は仰天した。そんな話はこれまで一度として聞いたことがない。
「火附盗賊改も結局は押し込みに手を焼いて頭を下げてきたってことなんですかね?」
「人手が足りないだけだろう。上の方もついでにうるさい野郎を差し出したということさ」
「仙波さんを見込んでのことですよ」
安井は羨ましそうな顔で言った。こういう事件になると奉行所はいつも半端な立場に追いやられる。
「外の野次馬がやたらとうるさいな」
「我らがまるで押し込み扱いです」
安井は笑った。
「女子供の楽しみまで潰す気かと……砂糖をごっそりため込んでいたのはこっちなのに」
「確かに水飴を半分混ぜておりました!」
主人は泣きそうな顔をして安井に訴えた。
「嘘なんかじゃございません。砂糖が蔵にあったところで罪にはならないはずで」
「だったらなんで蔵から運び出そうとしたんだ! 堂々としていりゃよかろう」
安井の一喝に主人はうなだれた。
「ま、詳しく話を聞かせて貰おう」
仙波は安井を制して主人を店の奥へと促した。安井も文句は言わない。これが火附盗賊改のご威光だと仙波は思っていた。
菊弥も顔見知りの小者らの鼻をあかしたような顔で仙波に従った。
二日後。仙波は四谷にある火附盗賊改の役宅にはじめて顔を出した。役宅と言っても、それはすなわち御先手組頭長谷川平蔵の自宅である。特別な役所が設けられているわけではない。ただし組頭の屋敷となれば相当に大きく、与力の十人に同心五十人が詰める程度の座敷はいくらでもある。御先手組のすべては本来若年寄の支配下に置かれているのだが、この火附盗賊改の頭を加役として任じられると、その人間は特別扱いとなり、城への出仕も免除されるばかりか、老中の直接支配下に変わる。それだけに出世の糸口と目されていた。だが忙しさは尋常ではない。わずか六十人で江戸の凶悪事件と向き合わなければならない。出世はしたいが面倒は引き受けたくない、というのが大方の思いであったに違いない。火附盗賊改の頭に任命されて喜びとする者は少ない。当初は一年やそこらで任期を持ち回りとしていたものが、今は五年十年が当たり前となっているのもそこに原因がある。望む者が滅多に居ないのである。その上、奉行所のごとく予算が分配されるわけでもない。加役料として四十人|扶持《ぶち》が与えられる中から工面しなければならないので組頭の持ち出しが当たり前だった。極端なことを言うなら手柄を立てた配下らへの報奨金も頭の自腹ということになる。楽ではない役目なのだ。
〈八丁堀から四谷ってことになると……〉
結構きつくなるな、と仙波はようやく辿り着いた役宅の門前で舌打ちした。毎日では行き帰りでくたびれてしまいそうだ。御先手組の組屋敷はこの近くに固まっているから平気だろうが、こっちは違う。同行して来た菊弥も苦笑していた。
「おめえはこの門前で待っていろ。今日は挨拶ばかりだ。さして時間は取られめえ」
仙波は門番に名を告げた。門番にも仙波のことが伝わっていたようで直ぐに通される。
「お待ちしていました」
中山が玄関口まで迎えに現われた。
「お頭が奥で楽しみに待っておられます」
「いきなり長谷川さまにご挨拶か?」
「奉行所とは違いますからね。こちらは所帯が小さい。たった六十人ですよ。寄場に十人を割かれているんで今は五十人」
町奉行所の方は南北合わせるとだいたい三百近くの与力と同心の数がある。もっとも、市中見回りなど、直接に事件を扱う人間の数で見るならさほど変わりがない。
「どうも気が重いな。余計者じゃねえのか」
中山一人だけが迎えに出て来たので仙波はあまり歓迎されていないのではないかという気がした。
「たいてい出払っているんです。三件も押し込みが続いたというのにろくな成果を上げることができないでいますからね。瓦版も名指しで我らに怒りをぶつけています。そろそろ目星をつけないと厄介になりますよ」
中山は眉をしかめて吐息した。
「面倒なときに移されたな」
「面倒なときだからこそお頭も奉行所の方に手助けを頼んだんです」
「北町の方からもだれか来ると聞いたが?」
「そちらの方はまだ。南町と違って名指しではありませんでしたから。人選に時間がかかっているんでしょう」
「買い被りだと思うぜ。俺より裏の世界に通じている同心はいくらでも居る。五人やそこらでの手助けなら気楽だが、たった一人となると滅入って来る」
それは仙波の本音だった。
やがて二人は奥の部屋に達した。
「南町の仙波一之進が参りましてござります」
庭に面した廊下から中山は声をかけた。
「参ったか。遠慮せず入れ」
長谷川平蔵の低い声がした。中山が障子を開けた。仙波はその場で平伏した。
「よく来てくれた。噂は聞いている。千一という綽名のこともな。千に一つも目こぼしがないとは頼もしい。そういう者こそ我らの任務に相応《ふさわ》しい。まず顔を上げろ」
長谷川平蔵は笑って部屋に通した。
「恐れ入りましてござります」
綽名まで知られていたと分かって仙波は身の縮む思いがした。仙波は額を上げて長谷川平蔵と向き合った。鬼と恐れられているだけに厳しい目付きではあったが、どことなく人懐っこい印象も受ける。ふっくらと太った肉付きのせいであろう。思っていたより小柄だ。髪には白いものも混じっている。
「瓦版を読んだか?」
「はい」
「ひどいものだな。蔵の改めがしたいばかりに火附盗賊改はわざと押し込みを捨て置いているということらしい。押し込みがあれば調べは当たり前のこと。その折りに絹物や鼈甲《べつこう》が見付かれば見過ごしもできまい。瓦版屋もそこは承知の上で煽っておる」
「御意《ぎよい》」
「そなたはその方面に顔が利く。このままにしてはご改革の妨げにもなりかねぬ。来た早々ですまぬが自粛するように話をつけて貰いたい。町方と違って我らには手出しが厄介な者ども。だが、そなたであれば……」
「心得ましてござります」
その程度のことなら簡単だ。
「ご老中とてご不快に思われておられよう」
長谷川平蔵は苦々しく言い放った。
「他の役目についてはこの中山と脇田の両名に任せてある。しばらくは行動をともにいたせ。なにはともあれ心強い」
平伏して仙波は辞去した。
「どこまで承知のことだか……お頭はいつもああやって配下の者を調べ抜くのか?」
早速石川島の人足寄場に出向くことにして中山と外に出た仙波は苦笑いした。菊弥も二人のあとに従う。
「なにをご承知でしたんで?」
菊弥は様子を知りたくてうずうずしていた。
「あの分じゃなにもかもだろう。俺が絵名主の相談役を務めていたのも知っていた」
「わざわざ手助けを願うからには不思議でもありませんが……私も驚きました」
中山は正直に応じた。
「ありがたいことだが……その割合にゃ詰まらねえ仕事初めだ。瓦版屋に脅しをかける程度ならなにも火附盗賊改に移らなくてもできる。そこがちょいと情けねえな」
「今日が初日でしょう」
中山はくすくすと笑った。
「もう一人の脇田というお人は?」
「それこそ近頃では寄場に詰めきりです。同心の中では最年長です。お頭の信頼も篤《あつ》い」
「すると俺も当分は寄場勤めか?」
「八丁堀からも近い。押し込みなどで捕物となるときは総出となりますが、平常はそういうことになるんじゃありませんか? 私も三日に一度は寄場を担当していますし」
結局は寄場の手が足りぬことからの補充に過ぎなかったかと仙波は失望した。しかし、物は考えようでもある。四谷の往復という面倒がなくなる上に、寄場ならある程度自由に動ける。今関わっている一件を追いかけるには都合がいい。
「そうそう、この前仙波さんから頼まれた無宿人についての調べですが……押し込みで忙しくなってそのままです。脇田さんに言えば書き付けを出してくれるはずですからご自分で目を通されればいいでしょう」
「そうしよう。これからは好きにやれる」
「しかし、奉行所を離れたらその一件とも無縁になるのでは?」
些細な強請《ゆす》りとしか聞かされていない中山は首を傾げた。
「これで付き合いがいろいろとあってな。片付けてやらねえと義理が悪い」
「無宿人でない限り我らは滅多なことができません。そこはご承知おきください」
「反対に無宿人ならなんでもできるということだろう? そこが奉行所とは大違いだ」
中山は仕方ないという顔で笑った。
「今夜はその脇田さんを誘って固めの盃《さかずき》とするか。おこうの酌でな」
「いいですね。おこうさんは美人だ。脇田さんもきっと喜びますよ」
「押し込みの方はまださっぱりか?」
「少なくともこれまでの江戸に似た手口の押し込みは見当たりません。上方の者でもないでしょう。それなら言葉で分かる」
「だが、手慣れた手口だ。今度が最初の仕事とは思えねえな」
「ですから江戸周辺を洗っている最中です。甲府や高崎辺りから出張って来た一味かも」
「それにしては念入りな調べだ。江戸に必ず手引きしている仲間がおろう」
「でしょうね」
「押し込みの直後にいつも知らせが入る。あれについてはどう見ている?」
「さっぱりです。店や近所の者でもない。もし仲間割れなら押し込む前に垂れ込みがありそうなものだ」
「瓦版じゃねえが、奉行所の中にもひょっとして火附盗賊改が雇った押し込みじゃねえのかと疑っているやつが居るぜ」
「怪しいと睨んでいた店の蔵を検分するためですか」
中山は失笑して、
「それならもっと怪しい蔵がいくらでもありますよ。むしろ目をつけていなかった蔵ばかりです。検分にかかってからこっちの方が驚いたくらいでね」
「それはそうだろうな。どうせやるなら大きな獲物がいくらでも転がってるか」
「白木屋に押し込みが入ってくれれば面白い。蔵の三つ四つに絹物を隠しているはずです。近江屋など遥かに真面目な商売をしている」
「その近江屋で思い出したが……殺された手代が居たろう」
「吉太郎という男です」
「奉行所の方の調べではさほど抗いもしねえのに殺されたようだが、どうなんだ?」
「最初から押し込みと喧嘩腰だったみたいですね。状況はよく分かりません。吉太郎が先に口出ししたのか、押し込みの方が吉太郎を気に食わなかったのか……それがなにか?」
「他の二件の押し込みでは人死にが出ていねえ。派手に抗ったと言うならともかく、なんとなく胡散《うさん》臭い。もしかしてその吉太郎って手代が手引きした仲間じゃねえかと思ってな。邪魔になっての口封じということも」
中山は立ち止まって唸った。
「それは考えられますね。吉太郎は子飼いの手代とは違います。確か一年前辺りに他の店から移って来た男と聞きました」
「移ったばかりで目星が大きく外れりゃ恥となる。この睨みに頷けると言うならそっちに任せよう。吉太郎のことを調べて見るがいい。上手く手繰《たぐ》れたときは押し込みを芋蔓《いもづる》式に召し捕ることができよう」
「さすがに仙波さんだ。面白い睨みです」
「ただし当分は内密に調べるがいいぜ」
「分かりました。任せてください」
中山は張り切った顔をして頷いた。
その笑顔を見て仙波は少なくとも中山は今のところなににも無縁だと判断した。火附盗賊改は奉行所以上に老中の力が及んでいる。だれが味方か敵か簡単には識別できない。
人足寄場と言うと牢屋と同等のようにも感じられるが制度上はまるで違う。牢屋送りとなった者が赦免間近となったとき、無宿人はまた直ぐに罪を犯す心配があるので幕府の方で住まいと職を与える方法を採ったのが寄場のはじまりである。厚生施設と呼ぶのが当たっている。寄場の中での暮らしは比較的自由で、働きに応じた賃金も貰える。ただ、赦免されたわけではないから柵で囲われ、役人の監視が付いている。そこから逃れた者は死罪という厳しい掟だったから、中に押し込まれている者たちにすると牢屋と変わりがなかったかも知れない。人足の他に大工や左官など寄場の外で働く仕事も多かったので世間の甘い風に触れることになる。ある意味では牢屋にじっと押し込められているより残酷だ。なにしろ監視の手も足りない。その気になれば逃げることもたやすい。だからこそ幕府は逃亡者に対して厳罰を科したのだろう。その処罰の重さを自主規制の道具に用いたのだ。さすがに後年になると死罪は重過ぎるという批判が相次ぎ、その状況により遠島《えんとう》、入墨、百叩きの上解き放ちということになったが、この時点では死罪しか有り得ない。心の弱い者はむしろ入牢のままの方を喜んだと言う。寄場に居るとどうしても逃げたくなってしまうのだ。役人の側も預かっているのが赦免間近の者たちなので乱暴には扱わない。だが一歩でも外に逃げれば斬り捨てる。まことに不思議な場所でもあった。
「今度南町奉行所の方から手助けに来てくだされた仙波さんだ。脇田さんとここの管轄になるだろう。ご挨拶申し上げろ」
中山は寄場の門番所の者たちに紹介した。その正面に役所がある。寄場に押し込められている者たちは役所の左手の門から出入りする。中山はさっさと役所に上がった。
廊下の格子窓を通して広い寄場を見渡すことができる。炭団《たどん》を拵えたり紙をすく作業場に多くの男女が働いていた。その作業場を囲むように立ち並んでいるのが収容者たちの暮らす住まいだ。こうして見る限りはどこにもある長屋と変わらない。四方を囲んでいる高い柵が異様なだけである。
「仙波さんをお連れしました」
中山はがらんとした部屋の戸を開けた。十二畳の板間に小さな机が四つほど並べられていて、さっぱりとしている。人手が足りないとだれにでも分かる。その端の机に、たった今まで居眠りでもしていたのか、ぼんやりとした顔の脇田が座っていた。
〈ここで俺になにをしろって言うんだ〉
仙波は途方に暮れた。
「仙波です。お役目ご苦労さまです」
「なにもしとらん」
脇田も心得ているようで憮然とした様子で仙波に返した。
「人手は確かに足りんが……それはなにか不穏があった場合のこと。いつもはこうしてぼんやりと作業場に目をやっておれば済む。張り切ってここに参ったのであれば気の毒と言うしかないな。それでも同心はいつも二名顔を揃えていなければならぬ。あんたが来てくれたお陰で皆も退屈な役目から離れることができよう。喜んでおったぞ。常駐が二人になれば本来のお役目に専念できると言ってな」
「すると手前は皆さま方が働きやすくなるように移されたのでござりますか」
「ここに回されたからにはそうじゃろう。ここで学ぶことなどなにもない。儂など鼻毛もすっかり抜いてしまって風邪に罹りやすくなった。今は顎の髯《ひげ》にかかっている」
仙波はげらげら笑った。面白そうな男である。中山は長谷川平蔵の信頼が篤いと言ったが、この調子では怪しいものだ。
「二月《ふたつき》に一人ぐらいは逃げる。半年のうちにたいがい捕らえられて死罪となる。もともとは大した罪を犯した者ではない。哀れなことよ。長く勤める仕事ではないぞ。と言うても手柄を立てねばここから滅多には動かされまい。あんたも詰まらん籤《くじ》を引いた」
「脇田さん、もうその辺で」
中山は困った顔をした。反対に仙波はにこにことして脇田に頷いた。
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はなふぶき
その夜、仙波は脇田と中山を誘って両国に繰り出した。仲間となった固めの盃である。
「ほら来ましたよ」
中山は廊下から伝わるおこうの賑やかな笑いを聞き付けて嬉しそうに脇田に言った。
「柳橋で一番という評判だそうです」
「町方は役得があっていいの。こっちは縄付きの女しか見ておらん。あんたよっぽど運がないぞ。これからは退屈な日々となる」
脇田は仙波に同情した。菊弥も苦笑した。本来は同席させる立場でもないのだが、おなじ屋敷に住まわせているので脇田と中山の了解を得て末席に座らせている。
おこうが部屋を探し当てて入って来た。顔をゆっくりと上げたおこうに脇田は目を細めた。想像以上に美しかったと見える。
「仙波さんにべた惚れなんですよ」
中山は羨ましそうに教えた。
「本当かね?」
脇田がずけっと訊いた。おこうは頷いた。
「どこがいい?」
おこうはにっこりと微笑んだ。
「いや……儂は今日会ったばかりでな。この人のことはなにも知らん。他意はない。女子《おなご》の目の方が確かなことがある」
「今日から火附盗賊改に移った」
脇田を制して仙波は言った。
「寄場に詰めることになった。こちらは脇田さんだ。半日で気が合ったよ」
おこうはあらためて脇田に挨拶した。
「なるほど、お内儀のようだの」
「そういう付き合いの女じゃありません」
仙波は困った顔で脇田を見やった。
「本気でそういうことを言うのが憎らしい」
おこうは仙波を軽く睨んだ。
「嘘じゃねえから仕方ねえさ。おめえをこうして呼ぶのだって、他に芸者を一人も知らねえからだ」
「そうなんですか?」
中山は信じられない顔をした。
「嫌いなら呼びはせぬ。まだ若いな」
脇田は中山を笑った。中山も頷く。
「世間の方が旦那の心をお見通しだ」
菊弥の言葉に脇田はげらげら笑った。
「それより、蔦屋《つたや》さんがお誘いでした」
「蔦屋が? なんのことだ」
仙波はおこうの酌を受けながら質した。
「今まで蔦屋さんのお座敷に。歌麿《うたまる》師匠もご一緒ですよ。仙波さまがお見えだと聞いて是非にもお誘いするよう頼まれたんです」
「この店の中か?」
「別の料亭の方に」
「歌麿と知り合いなのか?」
脇田は驚いた顔で言った。
「いつまでその店に居るんだろうな?」
あとで顔を出すつもりで仙波は口にした。
「どういう付き合いなのだ?」
脇田は興味津々だった。
「手前は絵名主の相談役を務めておりましたので。よければご紹介いたします」
「よし、参ろう、参ろう」
脇田は張り切った。
「珍しいですね。いつもの脇田さんとは違う」
中山は脇田のはしゃぎように呆れた。
「娘らがこっそりと歌麿の絵を買い求めておる。会ったと言えば親を見直そう」
もう脇田は腰を浮かせていた。
蔦屋たちが遊んでいるのは両国でも指折りの料亭だった。広い廊下に中山は唸りつつ二階への階段を上がる。
蔦屋たちの居る部屋は賑やかだった。芸者の三味線や太鼓の音が派手に洩れている。こっちの人数のことは先に伝えてあるので遠慮は要らない。仙波が襖《ふすま》を開けた。
「大勢で押し掛けたぜ」
仙波に蔦屋は陽気な顔をして中へ誘った。人数分の席がすでに拵えられている。
「なんともはや……豪勢なもんだの」
男は蔦屋と歌麿だけで芸者は七人。脇田は上座を固辞して仙波をそこに押し付けた。
「おいでくださると伺ってから呼んだんですよ。二人きりで芸者の踊りを見物したって面白くはありませんからね」
蔦屋は脇田と中山に名乗ってから言った。
「さすがに江戸一の蔦屋だな」
「身代半減《しんだいはんげん》となってから江戸二十ぐらいに引っ込みました」
蔦屋は自分で口にして大笑いした。
「今夜はなんだったんだ?」
仙波はとなりの歌麿に訊ねた。
「吉原にも飽きてきたんで箱根にでもしばらく遊びに出掛けようかと思いまして」
「その別れの宴というわけか」
「江戸はいろいろと面倒にござんすから」
見張りが周りをうろちょろしていることを歌麿はほのめかした。そのうちの一人を仙波が片付けたことはまだ知らないでいる。
「箱根はいいな。吉原で染み込んだ女の脂が綺麗に落ちよう」
芸者たちはころころ笑った。
「そちらこそ今日はなんのお集まりです?」
蔦屋は仙波たちを見回した。
「まさかと思っていたんで話さないでいたが、今日から俺は火附盗賊改に鞍替えした」
蔦屋と歌麿は顔を見合わせた。
「俺の腕を見込んでのことと張り切って出仕したが……思惑外れだ」
「と言いますと?」
歌麿は怪訝《けげん》な顔をした。
「寄場に回された。この脇田さんに聞いたら退屈でしょうがないお役目らしい。ただ役所に詰めて炭団作りや下駄作りを見ているだけの仕事だとさ。近頃押し込みが続いている。こんなときに寄場に人を割かれては勿体ねえ。それで常勤の同心が欲しかったんだろう」
「そうあからさまに言われては、永く勤めている儂の立場はどうなる。まるでこの世で一番の役立たずと言われているようなものだぞ」
脇田はおどけた口調で言った。芸者らは噴き出した。
「しかし……私も実は不思議に思っておりました。なにゆえ脇田さんがずっと寄場に……」
中山は小首を傾げた。
「なに、寒空に走り回ったり、何日も安宿に籠って動きを見張るお役目よりずっといい。手柄を立てたところで同心では先がない。そなたとていずれおなじ心持ちになるさ。明日からはこの仙波氏がずっと一緒ゆえ長い話もできる。毎日だれかが交替で参るよりは楽しみが増えた」
「長い話を楽しみにされても迷惑」
仙波は苦笑いした。
「なにかちょこちょこと描いてはくれぬか」
脇田は歌麿に頭を下げて願った。
「二人の娘らがときどき買っておるようだ」
「お幾つでいらっしゃいます?」
「十六と十四だ」
「芝居の方はお好きで?」
「儂か?」
「お嬢さま方のことでございますよ」
歌麿はくすくす笑った。脇田は即座に頷いて二人ともに松本幸四郎の贔屓《ひいき》だと応じた。
「白地の扇と道具を持ってきてくれ」
歌麿は店の者に頼んだ。
「鼻高幸四郎を描く気かね?」
蔦屋は察して言った。
「歌麿の役者絵とは趣向だな。見たことがねえ。脇田さん、娘さんらが大喜びします」
仙波の言葉に芸者らも大きく頷いた。
「私も楽しみだ。いずれ美人画はいっさい駄目だと言われないとも限らない。歌麿の役者絵となりゃ大当たりする。その気になったか」
蔦屋は商売人の顔に戻っていた。
「昔はよく描きましたがね」
「昔と今では腕が違おうに。美人画にしても清長さんの真似をしていた頃じゃないか」
「遊びのつもりだ。仕事にゃしませんよ」
仲居が持って来た扇を手にして歌麿は蔦屋に念押しした。蔦屋も仕方なく頷く。
やがて歌麿は細い筆先を選んで描きはじめた。特徴のある鼻から筆を進める。脇で覗いていた仙波は舌を巻いた。その鼻だけで幸四郎と分かる。目玉や口までが見えるようだった。さすがに歌麿と言うしかない。
歌麿は真剣なまなざしの蔦屋に気付いて筆を止めた。少し考えてからへの字に結んだ幸四郎の薄い唇を描き足した。仙波が頭に描いていた通りの唇だった。蔦屋も唸った。
「これでよしときましょう」
歌麿は小脇に歌麿筆と書き添えて扇を脇田に手渡した。蔦屋は目を丸くした。
「どういうことだい?」
「これ以上描けば箱根にごっそりと仕事を持っていかなきゃならなくなりそうでね」
「そっくり!」
脇田の広げて見せた扇を眺めて芸者たちは声を上げた。おこうも驚いている。鼻と口だけなのに、だれが見ても幸四郎だった。歌麿はわずか二度ほど筆を動かしたに過ぎない。虫や花などを克明に描いた観察力が似顔にも生きている。幸四郎を幸四郎たらしめている大きな鼻と横に広がった薄い唇だけで表現したのである。
「こいつは大したもんだが……商売にゃできねえな」
蔦屋は深い溜め息を吐いた。
「今のところ役者絵をやる気はねえんで。まだまだしなきゃならねえ仕事がある」
「だから腕を見せなかったのか」
「旦那の目が怖くてね」
「だが……こういう役者絵もあるんだな。思い付かなかった。こうまで鼻を大きくされちゃ幸四郎も迷惑だろうが、いかにも幸四郎でしかねえ。こいつを取り入れりゃ今までにねえ役者絵が出来上がるよ」
芸者たちも蔦屋に同意した。役者絵は女たちの目がなによりの頼りとなる。
「春朗にやらせてみるか」
「春朗には気の毒な話だ」
歌麿は首を横に振った。
「あいつはもっと凄い絵を作りかけている。似顔なんぞで筆を荒させちゃ可哀相だ」
「江戸中に名が知れ渡ってもかい?」
「そんな欲を持っている野郎ならとっくに知れ渡っていますよ。口はばったい言い方に聞こえましょうが、おいらを越えるとしたらあの春朗しかいませんよ。だからこそ旦那に野郎の面倒を見てくれるようにお頼みしたんで」
「分かった。春朗には好きな仕事をさせよう」
蔦屋はあっさりと諦めた。
「その代わりおまえさんの弟子なら?」
「本気でこういうおかしな似顔を手掛けるとおっしゃるなら本職じゃねえ方がいい」
歌麿も閉口した顔で返した。
「どうせ顔だけのことでしょう。本職はどうしても上手く纏め上げちまう。旦那が描いた方がよほど面白いものになります」
「そんな簡単なものじゃないだろう」
蔦屋は歌麿が乗り気でないと分かって引き下げた。
「腕のいい彫師がついていれば心配ねえ。下手くそな線でもまっとうに仕上げてくれる。顔の部分だけを取り換えて売る役者絵が罷《まか》り通っている世の中じゃありませんか。どんなに面白い絵でも肝腎の役者が売れていなけりゃ絵も数が出ねえ。そういう詰まらねえ世界だ。そういうとこを掻き回す気なら思い切り妙なことをやってみるのが手でさ」
なるほどな、と蔦屋も真面目に頷いた。
「脇田と申せば治五平のことか?」
左門は仙波が戻ると奥から起き出してきて今日の出仕の様子を問い質した。脇田が同僚となったと伝えたら名を口にしたのである。
「ご存じの名でしたか」
「当代一の槍の使い手であろう」
「当代一は親父どのだったはず」
仙波は笑った。
「冗談ではなく本当のことだ。なんであれほどの者が寄場で暇を持て余しておる?」
「ご挨拶にござりますな。手前も明日からはそこに腰を据えねばなりませぬ」
「長谷川さまから疎《うと》まれておるのか?」
「中山の話では信頼が篤いということでしたが……初対面ゆえなにも知りませぬ」
「二十年も前のことになるが、道場で立ち会ったことがある。儂は木刀で向こうは槍。恐るべき腕であった。忘れられぬ」
「別人ではござりませぬか?」
「御先手組の脇田治五平。おなじ名の者が二人も居るとは思えぬ。歳は今なら四十五、六か。眠そうな目をしていたが踏み込むときはまるで違う顔となる」
「では間違いなさそうです」
仙波は思わず吐息した。人は見掛けによらないとはまさにこのことであろう。
「儂が槍を学ぶようになったのも治五平と立ち会ってからだ。よき者の下についたな」
左門は喜んで菊弥に酒の支度を頼んだ。
「折りを見て治五平を案内してくれ。儂の槍がどの程度のものか確かめてみたい」
「あののんびりとしたお人が槍を……」
「槍の腕は見た目に知れぬものじゃ。刀と違って滅多には持って歩けぬ。火附盗賊改こそ適任であろうに……役所詰めとは辛かろう」
「辛そうには見えませなんだ」
「礼を尽くして付き合うがよい」
「ただの子煩悩に見えました。二人の娘らのために歌麿の絵を所望してござる」
「そう言えば子連れを承知で婿入りしたとか耳にした覚えがある」
「ご自分のお子ではござらぬので?」
「詳しくは分からぬが……それこそ長谷川さまの縁筋の|女性で《によしよう》はなかったかの。武芸一筋の男だ。女には縁がなかったらしい」
「では信頼の篤いのも当然のこと」
「暇なところとは申せ寄場は長谷川さまの建議によって設けられたもの。それで治五平を配したのであろう。そこに預けるからにはそなたも見込まれたというものだ」
「そうとは思えませんがの」
「そうでなければそなたの見極めが目的か」
「………」
「いずれ大した男だ。世が世なら槍一本で大名にもなれたに違いない」
「親父どのがそこまで言うなら確かでござろう。手前の目が足りませんでした」
「覇気のない者と映ったか」
「少しは」
「儂もそう見て侮《あなど》った。一瞬のうちに向こうの槍が儂の喉元まで伸びていた。隙だらけに思えたが……二十年過ぎてもあの悔しさが胸につかえている。腕が同等であれば刀は槍にかなわぬと知らされたのもあのとき」
「中山がその腕を知らぬのは解《げ》せませぬ」
「腕など滅多にひけらかすものではない。自慢する者はさもない者と決まっておる」
「親父どのはたいそう槍自慢をなされる」
あははは、と左門は笑って菊弥が注いだ酒を旨そうに嘗《な》めた。
「得難い助太刀じゃぞ」
「果たして味方となってくだされるかどうか。手前の好き勝手にはさせてくだされますがな」
「例の無宿人の調べはできたか?」
「半年ほど前の住まいでしかござらぬが」
「そこから手繰ればなにか掴めよう」
「明朝、出仕の前に立ち寄って見る所存」
「あれきり怪しい気配はなしか?」
「手前は感じませぬが歌麿はそれを嫌って江戸をしばらく留守にいたすそうです」
「ご老中もしつこいお人じゃの。また歌麿の絵が江戸で見られなくなる」
仙波も暗い顔で頷いた。
仙波は菊弥を従えて新橋の袂《たもと》の金六町に向かった。この町の裏手に江ノ島付近の山道で死んだ男が半年前に暮らしていた長屋がある。
仙波はとりあえず番屋を訪ねた。
「これはご苦労さまにござります」
番屋に詰めていた若い男が仙波の服装《なり》を見て慌てて飛び起きた。まだ朝が早い。
「裏の太兵衛長屋のことだがな」
仙波は手近の縁台に腰を下ろして質した。
「又三郎という男を知ってるか?」
それが寄場に記録されている名である。
「へえ。またなにかやらかしましたんで?」
「ってことは今もここに居るのか」
てっきり居場所を変えていると思っていたのに、それは少し意外だった。
「と思いますが……そう言えば近頃とんと見掛けませんね。留守勝ちのようで」
「案内してくれ。それと、又三郎と日頃付き合いのあるやつが居たら聞きたいことがある」
「おなじ長屋の者でも遠巻きにしていたようですぜ。なにしろ昔はお武士《さむれえ》だったとか」
「出入りしていた者を知りてえんだ」
「分かりやした。差配にでも当たってみます」
なにやら分からぬが重要なことらしいと察して若い男は張り切っていた。早速仙波の先に立って裏長屋を目指した。
「直ぐに解き放たれたとは言え寄場上がりの男だ。番屋で目を配ってはいなかったのか」
「ほとんど昼間は居ねえ野郎ですんでね。町内を出たあとのことは知りません」
「長屋での評判はどうだった?」
「付き合いがなきゃ評判も立ちませんよ。なにをやらかしたんですか?」
「又三郎より、つるんでいた野郎の行方を探している。まさかこの長屋に潜んでいるとも思えねえが、念のために来てみただけだ」
「戻ってはいねえはずです。この十日は姿を見ちゃおりません」
「引っ越したわけじゃねえんだな?」
「それなら差配から通達がありましょう」
やがて仙波たちはごみごみした長屋の路地に入り込んだ。女たちが井戸端で顔や歯を磨いている。こんな朝早くからの同心の出現に目を丸くした。逃げるように消える。
「ここでさ。やはり留守のようで」
頷いて仙波は菊弥に目配せした。菊弥は建て付けの悪い戸を乱暴に開けた。腐った食い物の臭いが外に広がった。気にせず菊弥は踏み込んだ。だれの姿もないのを確かめてから仙波を呼び込む。仙波と番屋の男も入った。
「こいつぁひでえや」
あまりの散らかりように番屋の男は呆れた。薄い布団が投げ捨てられている。その周りには割れた丼などが転がっている。
「だれか来て荒して行ったんだ」
布団に泥の足跡がついているのを見付けて仙波は苦笑した。予測していたことである。
「菊弥、丹念に探せ。丼を踏み潰したところを見れば夜中に忍び込んだに違いない。この薄い壁じゃ派手な動きもむずかしい。きっとなにか見落としがある。俺は番屋で待つ」
仙波は命じて若い男を促した。菊弥一人の方がやりやすいと判断したせいもある。
「荒したとこで金目の物はねえでしょうに」
若い男は首をしきりに傾げた。
「小太りの男と組んで仕事をしている。そういう男を見掛けてねえか女たちに当たれ」
仙波は若い男に頼んで一人で戻った。
しばらく待つと菊弥が顔を見せた。
「なにか見付けたか?」
「例の手拭いがありました」
得意そうな顔をして菊弥は懐ろから鼠地《ねずみじ》の手拭いを取り出した。歌麿の女房おりよが放置されていた場所に落ちていた手拭いと同一のものである。両国の料理屋の亀清《かめせい》が去年の正月に年玉として贔屓客に配った品物で、その大半は老中松平定信の手に渡っている。よほど大事にしていたと見えて手拭いは亀清の熨斗《のし》紙に包まれたままだった。
「これで間違いなく野郎どもがご老中と繋がったというわけだな。寿の字とかいう男の手掛かりはまったくなしか?」
「そいつはまだですが……荒しに入ったのはどうやら昨夜《ゆうべ》のようですぜ」
「昨夜だと? なんで分かる」
「煎餅《せんべい》布団の泥が半乾きなんでさ。昨夜は小雨がぱらついていやした。それで草履が濡れたんでやしょう」
「目の付け所がよくなったじゃねえか」
仙波はにやっと笑うと長屋に向かった。昨夜のこととなれば面白くなって来る。又三郎の書き付けを仙波が調べたと知ってのことであろう。となるとやはり火附盗賊改にも老中の犬が紛れているということだ。
「どういうことなんですかね?」
菊弥は不審を口にした。
「殺されて直ぐに部屋を荒したというなら分かりやすが、なんで昨夜まで放っておいたのか。ここはバレねえと甘く見ていたんでしょうか。それにしてものんびりしてやがる」
「その手拭いはどこにあった?」
「野郎の柳|行李《ごうり》の中です。着物の間に挟まってやした。それで見落としたんですぜ」
「見落としたのは手前《てめえ》の方かもな」
「へ?」
「直ぐに分かる」
仙波はどかどかと踏み込むと狭い部屋の片隅に置かれてある行李を持ち上げて畳に中身をぶち撒けた。ろくな物は入っていない。黴《かび》臭い衣や薬の袋が散らばった。元は武士らしいと思わせる筆箱が目立つ程度である。
「この櫛《くし》は高そうだ。鼈甲だぜ」
美しい牡丹《ぼたん》が一面に彫られている。
「かみさんの形見かなんかじゃ?」
「違うな。俺の勘だが、こいつは歌麿《うたまる》の女房のおりよの差していた櫛に違いねえ」
「まさか! なんでそいつがここに」
菊弥は目を丸くして、
「第一、そんな危ねえ物なら真っ先に探して持ち去りましょう。そんなヘマをするような連中とは思えませんよ」
「そういう連中がなんで何日もここを放っておいたんだ? おめえの言った通りさ。もともとここにゃ大した手掛かりがなかったんだろう。こんなちんけな長屋だ。下手な騒ぎにするよりは捨て置くつもりだったのさ」
「じゃあ、なんで昨夜《ゆうべ》?」
「気が変わったとしか思えねえな。俺が近々ここを当たると見抜いてのことだ。考えてもみろ。真夜中で暗いとなりゃ、あちこち荒すより行李や道具を持ち出すのが簡単じゃねえか。そのまま川にでも捨てるのが安心というもんだぜ。訴える又三郎は死んでいる」
あ、と菊弥は口を開いた。
「この手拭いの臭いを嗅いでみろ」
仙波は手拭いを菊弥の鼻に押し付けた。
「これがなにか?」
「去年の正月に貰ったもんだぜ。この行李に押し込んでいたものなら黴の臭いが手拭いに移っているはずだ。なのにこいつにゃさしたる臭いが感じられねえ」
「そう言やそうだ……」
「危ない物を取りに来たんじゃねえ。反対に危ない物を置きに来たんだよ」
「なんのためにです?」
「俺に見付けさせるために決まっていよう」
「………」
「まだ分からねえのか。この行李から例の手拭いが見付かったとなりゃ俺が勢い付いてさらに探す。そしてこの櫛が出て来るという寸法だ。又三郎の暮らしにゃ似合わねえ櫛だ。洗えばおりよの持ち物と知れる。そうなったらおりよを殺《あや》めたのが又三郎だったと決まる。それで一件落着となろうに」
「なーるほど」
菊弥はようやく筋道を理解した。
「俺がこの手で見付けた証左だ。うっかりすりゃ引っ掛かるところさ。この又三郎が歌麿の周りをうろついていたのも確かだ。見張りの役目を忘れておりよに手出ししただけのことかも知れねえと頷きたくもなる」
「死んだ野郎に全部の罪を被せようとしたってわけですね。汚ねぇ真似しやがる」
「なかなか頭のいいやり方だ。こいつを見付ければ俺も安心して引き揚げる。そっちにばかり気が行って他は見逃しちまうだろう」
「………」
「荒したように見せ掛けて、その実は大してここに手をつけちゃいなかろう。床下や屋根裏まできちんと調べ上げろ。刀の見当たらねえのが不思議だ。いかに武士を捨てた男でも刀は滅多に手放さないもんだ。留守をしがちな身なら泥棒|避《よ》けにどこかへ隠していよう」
「旦那は本当に凄ぇお人だ。いかにもってやつでさ。お任せくだせえ」
菊弥は土間に下りるとでかい水甕《みずがめ》の蓋を開けた。水はほとんど入っていない。残りを土間に流して水甕を持ち上げて運ぶ。それを逆様にして踏み台にすると天井裏の板を外した。
「慣れていやがるな」
仙波は苦笑いして見守った。
「梁《はり》になにか吊してありますぜ」
屋根裏を覗いた菊弥は声を発した。
「間違いありやせん。刀を包んだ風呂敷で」
「潜り込んで下ろせ。肩を貸そうか?」
「なに、どうってこともありやせん」
菊弥は身軽に屋根裏に飛び上がった。
菊弥は風呂敷包みを抱えて飛び下りた。
「結構重い」
菊弥は仙波の前で包みを解いた。中からは真っ先に白装束が出て来た。さすがに仙波は胸を衝《つ》かれた。死ぬときだけは武士に戻って果てるつもりだったと見える。もっとも白装束は古着屋も引き取りはしない。それで仕方なく残しただけとも思われる。
「位牌ですよ」
白装束に包まれるような形で立派な位牌が現われた。又三郎の両親と想像される名が連ねられていた。一月の間に前後して亡くなっているところを見れば流行《はや》り病いかも知れない。又三郎が家督を相続する前のことなのだろう。それで養子に出されてしまったと考えれば又三郎の人生が見えてくる。
「気の毒なことをしちまった」
「旦那が殺《あや》めたんじゃねえでしょう」
「それはそうだが……道を間違えずば立派に武士を貫けた野郎だったかもな」
「印籠《いんろう》です。根付《ねつけ》もちゃんと」
菊弥は取って仙波に手渡した。桔梗《ききよう》の家紋入りの印籠だった。根付には可愛らしい兎が彫られている。象牙の立派なものだ。
「こんな物を持ちながら髑髏《どくろ》の根付を他に買うとも思えねえ。やはり歌麿の家に押し込んだのは又三郎とは別人だ」
仙波は印籠と根付を懐ろにしまった。
「巾着《きんちやく》もありますぜ」
重かったらしく菊弥は驚いた。
「どれ」
仙波は畳に銭を広げた。小判が三枚に小粒銀まで混じっている。全部を足せば六両近くにもなる。大金だった。菊弥は吐息した。
仙波は小判を包んでいた紙を手にして眺めた。仙波に薄笑いが浮かんだ。
「なにが書いてありますんで?」
仮名しか読めない菊弥は首を捻った。
「この銭を貰うときに反古《ほご》の紙に包んで持ち帰ったんだろうな。十五、六年前に中村数馬という者が病いで当分の休みを願い出た書き付けだぜ。まったく嫌な按配になって来た」
「と言いますと?」
「だれに宛てての願いだと思う?」
「さて……ご老中さまですか?」
「長谷川平蔵さまだ」
げ、と菊弥は身を強張《こわば》らせた。
「火附盗賊改の役所から出た反古紙さ」
「そんな……嫌な冗談だ」
「反古紙はどこの役宅にも積んである。だれでも好きに反古紙を持ち出せようが……いずれ火附盗賊改の役宅で又三郎がこの銭を受け取ったことだけは確かだろう。俺が昨日又三郎の記録を調べたのだって火附盗賊改の者なら簡単に突き止められる。睨みは確かと思うぜ。俺とおめえは敵のど真ん中に足を踏み入れたってわけだ」
面白そうに仙波は高笑いした。
「こうなると俺を火附盗賊改に移したのも怪しくなってくる。奉行所の役人なら火附盗賊改も迂闊にゃ手出しがならねえ。しかし、自分らのとこに巻き込んでしまえば簡単だ。配下にしてしまえば動きを封じられよう。今度みてえに間近で監視もできる」
「まったく……冗談じゃねえですよ。それじゃ歌麿の女房を手にかけたのも火附盗賊改のどなたかってことになりますんで?」
菊弥はぶるっと身震いした。
「お頭の長谷川さまはご老中直接の支配下にある。ご自分は嫌であろうと、ご老中から頭を下げられれば断わることができねえ」
「そうすりゃやっぱり近頃の押し込みも全部火附盗賊改の仕業《しわざ》ということで?」
「そこまではどうかな。中山が言ったように、そのつもりならもっと別の店を狙いそうなもんだ。火附盗賊改がこれと睨んでいる店とはだいぶ違っているらしい」
「じゃあ……あの殺された手代の一件はどうなりますんで? あれは仲間による口封じとしか思えねえじゃないですか。理屈から言うなら火附盗賊改が関わっていることになりやす。どうにも頭が痛くなってきた」
「火附盗賊改と言うが、むろん全部が関わってはいなかろう。自分らじゃ手が足りねえから又三郎や寿の字なんて野郎を銭で雇ってるんだ。腕が欲しいのとは違うぜ。火附盗賊改の方が遥かに腕が立つ。現に中山はなにも知ってはいねえようだ。あれが狂言だとしたら大したもんだ。そういう男とは思えねえ」
「脇田さまはいかがで?」
「そこがむずかしいところだな。又三郎の書き付けを探してくれたのは脇田さんだ。たった一枚の書き付けだ。なくしたと言われてもおかしくはねえ。それに脇田さんは歌麿の一件が起きる前から寄場の方に動かされている。半分以上は無縁と見てもよさそうだが……」
「なにかお疑いでも?」
「親父から耳にした槍の腕さ。その腕を見事に隠し通している。だったら腹の底だって隠すのが得意かも知れん。ここは疑ってかかるのが大事かもな。信用して悔やむよりはいい」
「寒気がしてきましたよ。世の中ってのは恐ろしいもんだ。もし脇田さまが旦那の睨み通りのお人としたら、どの顔《つら》下げて歌麿と一緒に酒を呑んでいられるんです? 最後にゃ肩を組んで酒のやり取りをしてましたぜ」
「俺も信じたくはねえさ。信じたくはねえが、やっぱり俺一人でやるしかねえと思いはじめた。俺はこのまま寄場に行くが、おめえは鼈甲の櫛を持って笹屋に走ってくれ。親代わりになっている五兵衛ならこの櫛がおりよの持ち物かどうか分かる。そいつをまず確かめてみねえことには何事もはじまらねえ」
「その後はどうします?」
「とりあえず寄場に戻れ。俺が訊ねたときは正直に櫛のことを口にしろ。なにも言わなかったときは、適当に世間話をして合わせろ」
「脇田さまを信用なされたときは櫛の一件をお知らせしてお手助けを願うということですか。すっかり承知いたしやした」
菊弥は合点すると櫛を手にして飛び出た。
「こちらでしたか」
番屋の若い男が入れ違いに顔を見せた。
「屋根裏にこんな物があった。銭もだいぶある。当分は番屋で預かっていてくれ」
印籠と反古紙だけは懐ろに隠したまま仙波は若い男に言った。
「昨日はすっかり馳走になった」
脇田は仙波の顔を見るなり上機嫌で言った。
「あの歌麿《うたまる》の扇子を持ち帰ったら、今朝は娘らに大喜びされての。歌麿と飲んだと話して聞かせたら目を丸くしておった。寄場では名の知れた盗賊らも回されて来ぬ。これで少しは見直してくれたらしい」
「あ、それは手前が」
茶の支度をはじめた脇田に仙波は慌てた。立場が逆である。
「いいの、いいの。ささやかな礼と思ってくれ。銭のことなら相談にも乗ってやれぬが、体を使うのはなんでもない。第一、ここは滅多にすることがない。濃いめが好きか?」
「では今日だけ甘えさせていただきます」
「中山が来ておるぞ」
茶碗を差し出して脇田は教えた。
「そなたと瓦版屋を回るようお頭からきつく命じられて参ったらしい」
「手前も今日辺りは果たそうと思っておりました。一人の方が気楽でござりますがな」
「昨日、お頭がご老中よりお呼び出しを食らったそうな。さすがに近頃の瓦版は目に余る。ご政道の批判を瓦版ごときにされては堪《たま》らぬ。あからさまなものであれば手も打てようが、きゃつらも巧妙じゃ。なかなか太い尻尾を出さぬ。そのお怒りがお頭に向けられる。さらにはこっちへ飛び火するというわけだ」
脇田は苦笑いして茶を啜《すす》った。
「それにしても……三件も押し込みが続いたと言うにさほどの手掛かりも得られぬとは腑甲斐《ふがい》無い。書き立てられても仕方ないの」
「なにゆえてこずっておりますので?」
「寄場に島流しとなっている儂にはよく分からぬが……ただの押し込みには恨みが関わっておらぬ。それでなかなか絞りにくいのと違うか? 呉服屋、小間物《こまもの》屋、菓子屋では互いの繋がりもない。こういう押し込みはなかなか珍しい。たいていは似た店を狙うものだ。それに大した銭を奪っておらぬ。三十両やそこらを五、六人の仲間で割れば知れたものであろう。その程度の銭を懐ろにしている者はいくらでも居る。使ったところで目立つまい。小者らの聞き込みにも引っ掛かってこぬというわけだ。恥を打ち明けるようだがの、火附盗賊改の手柄の大半は仲間割れからの密告によるものがほとんどだ。与力と同心合わせて六十人しかおらぬではとても手が回らぬ」
脇田は自嘲の笑いをした。
「蔵の検分などせずに捨て置けばこれほどの騒ぎにはならなかった。さほどの押し込みではない。火附盗賊改が騒ぎを自ら大きくしたようなもの。勇んで駆け付けたものの、さしたる手掛かりも得られぬゆえに腹立ち紛れもあって蔵の検分をしたのであろうな」
「脇田さんほどのお人をお頭はなんで寄場に」
仙波は小首を傾げた。
「罪人とはいえ、人を斬り過ぎた」
脇田は口にして吐息《といき》した。
「真剣の立ち会いとなると気が抜けぬ。儂の悪い癖でな……儂が斬ると若い者らにも力が入って無駄な殺生が増す。それでお頭は召捕りの際に儂を外すようになったというわけさ」
「槍の腕のことは父より耳にしております」
「仙波……」
脇田は眉根を寄せて、
「すると仙波左門どのがそなたの?」
「覚えていてくださりましたか」
「そなたの腕は左門どの譲りか。いかにも」
脇田は得心のいった顔で頷いた。
「隠居召されてだいぶ経つと思ったが」
「足腰は弱まりましたが口は達者にござる」
あははは、と脇田は笑って、
「槍や刀の腕などもはやなんの役にも立たぬ世となった。そなたと儂がこうして寄場で無宿人の世話をしておるのがよい証拠。なんとも詰まらぬ世となったものじゃ」
見回りの時刻らしく立ち上がった。
「手前が見て参りましょう」
「よいよい。中山が直ぐに来る。あやつの便所《はばかり》は永い。ここで待っておればいい」
脇田は笑顔で出て行った。
どうにも分からない人物である。
「あ、どうも」
中山は陽気な顔で入って来た。
「昨夜は飲み過ぎました。なのに朝早くからお頭に呼び出されて……腹の具合が悪い」
この時刻に四谷から佃島の寄場に来るには相当な急ぎ足だったに違いない。中山の黒|足袋《たび》が土埃で白くなっている。
「お呼び出しなら俺の方にしてくれればいいものを」
「まだ遠慮があるんですよ。私にならなんでも言えます。移ったばかりの仙波さんに仕事が遅いとは口にできません」
言いながら中山は懐ろから瓦版を取り出した。仙波に手渡す。
「これは?」
「昨日出たものです。ご老中の目におとまりになって、お頭に酷《ひど》くご不快をお示しになられたそうです。確かに酷い」
仙波は瓦版に目を通した。狐面を被った押し込みが刀を突き出している絵が真ん中に描かれている。押し込みの紋には火という一文字が見える。一読して仙波は唸った。稲荷《いなり》は火除けの神でもある。火除けの役目を担うのは狐だ。すなわち火附盗賊改と稲荷の狐は一緒だと言いたいらしい。それが刀を抜いて押し込みを働いているのだと暗に言っている。神の仕業なのでだれも押し込みには逆らえない。氏子は蔵に隠してある物をその前に貢ぎ物として捧げるのが一番と結んである。
「どこのだれが出したものやら……売り物ではなく、街角の用水桶の上に積まれていたそうですよ。それでは咎めようがない」
「これじゃお頭がかんかんになるわけだ」
「狐面はたまたまのことでしょうが、それを火除けの稲荷に結び付けるとは考えたものだ。なかなか頭がいい」
中山はにやにやとしていた。
「だれが出したものか知れねえんじゃ俺だって文句のつけようがない。どうしろと言うんだ。お頭のお怒りは分かるがな」
「それでも素人が出せるものではありません。この絵師にしてもなかなかの腕です。二度とこういうものが出回らぬようきつく申し渡しておけとのお言葉で」
「次に出したら容赦しねえということか」
「私たちだって頑張っているんですよ」
「瓦版屋の仕業とは思えねえな」
仙波は眉を曇らせた。
「なんでです?」
「連中はいつでも儲けのために危ない橋を渡る。いかにもこの程度のことは書きそうだが、無料《ただ》で配りなんぞはしねえさ。そういう気概なぞ持っていねえ。これは押し込みに乗じてご老中の評判を落とそうと企んだ者らの仕業だな。紙も瓦版ならもっと安い物を使う。読んだら捨てる物に勿体ねえ」
「なるほど、そう言われればそうだ」
中山は感心した様子で紙を指で揉んだ。
「何枚くらい市中に出回った?」
「二千枚やそこらは配られたと思います」
「それなら錦絵の版元がきっと絡んでいよう。この大判の紙を二千枚調達するのは厄介だ。紙問屋から足がつく心配もある。俺なら蔵に紙を溜め込んでいる錦絵の版元と組む」
仙波の頭には咄嗟《とつさ》に蔦屋の顔が浮かんだ。が、蔦屋とは昨夜会っている。そんな素振りは微塵も感じられなかった。
「錦絵の版元はどれだけあるんです?」
「名の知れた店だけでも五、六十はある。びら絵を出す店まで数えれば四百はあろうな」
「四百! それじゃ大変だ」
「本気でかからねえ限り突き止められはしなかろう。瓦版屋を締め付けたとこで簡単に収まるかどうか。一応は瓦版屋を回ってみるが、期待はしねえようにとお頭へお伝えしてくれ」
「困りましたね」
中山は嘆息した。
「今は菊弥を待っている。あいつが現われたらぼちぼち回るとしよう」
仙波は中山の分まで茶をいれた。
菊弥が戻ったのは半刻後のことだった。
菊弥は仙波の顔を窺《うかが》った。目の前に脇田が居る。仙波は菊弥を促した。菊弥はにっこりと笑ってから膝を進めた。
「やはりおりよさんの持ち物で」
菊弥は自分の手柄のように胸を張った。
「何の話だ?」
脇田と中山は仙波に目を動かした。
「昨日調べていただいた又三郎の一件にござる。今朝ほど出仕の前に金六町の長屋に出向いて行方を探り申した。すると、何者かに家を荒された形跡がござった。又三郎の姿はどこにも……手前も番屋の者立ち会いにて調べたところ、又三郎の柳行李の中から不釣合な鼈甲の櫛を見付けたというわけで」
「その又三郎がなにかしたのか?」
脇田は怪訝な顔をした。
「些細な強請《ゆす》りとしかそなたから聞いておらぬ。そんなことではなさそうだの」
「歌麿の女房が昨年の夏、例の大水のときに殺されましてござる」
脇田と中山は顔を見合わせた。二人とも昨夜その歌麿と一緒に酒を飲んでいる。
「奉行所への届けは病死となりましたが、その女房を捜し当てたのは手前。男どもに家からさらわれ、凌辱の果て藪に捨て置かれており申した。場所が場所ゆえに手前は見ておりませぬが、その女房のあそこが刃物で切り裂かれていたということで」
若い中山は絶句した。
「なにしろあの大水の夜のこと。調べも儘《まま》ならず……そこに病死と届けられては手を引くしかござらぬ。なれど手前一人は密かにその一件を追いかけており申した」
「それに又三郎が関わっておるのか?」
「又三郎は歌麿や蔦屋の周りを昨年の夏辺りからうろちょろしていた男。それで行方を探し回っていたのでござる。あやつを問い質せばなにか得られるはず」
「おりよと言うのが歌麿の女房の名かい?」
「さよう。そのおりよの櫛があそこから」
仙波は脇田に頷いた。
「下手人が定まったということですね」
中山は拳を握り締めた。
「しかし……病死なのであろう」
脇田は顎に指を当てた。
「届けがそうなっていては又三郎の手配ができまい。奉行所も無宿人となると動きがむずかしい。どうするつもりだ?」
「どうにも」
仙波は苦笑いして、
「こうなれば又三郎と寿の字と呼ばれる男らをしつこく追い回すしか手がありませぬな。二人はいつもつるんでおりまする。どうせろくでもないやつら。別の罪科《とが》で挙げることができましょう。捕らえたら拷問《いたぶり》にかけて必ず白状させてやりまする」
「なんで歌麿は病死と届けを?」
中山は苛立った。
「どうせ下手人など見付からぬと判断してのことと思われる」
仙波はじっと中山を見詰めた。
「とは?」
「蔦屋と歌麿は周りをうろついている又三郎たちをご老中の手の者と睨んでいたようだ」
中山は見る見る青ざめた。
「馬鹿な。なんでご老中が!」
「ご政道に逆らった黄表紙《きびようし》を出し続ける蔦屋の動向を探っていても不思議ではない。むろんご老中は監視を命じただけに過ぎまい。だが、それが真実であれば下手人などとうてい見付からぬ。逆らっても無駄と悟ってことを荒立てなかったのであろう。町の者らではご老中にとても盾突けぬ」
「由々《ゆゆ》しきことではござりませぬか」
中山から血の気が失せていた。
「手を引け。悪いことは言わぬ」
脇田は冷静に見ていた。
「それでそなたが奉行所から移されたわけも分かった。その程度で済んだのを幸いとせねばなるまい」
「知らぬ顔をせよと申されますか!」
中山は心外の顔で詰め寄った。
「ご老中がまさかとは思うが……ここにこの仙波どのが回されたとなると分からぬ。真実としたなら諦めるしかなかろう。ご老中はお頭ですら手の届かぬお人ではないか。我らごときになにができる? この世にはできることとできぬことがある。いくら気張ったところで大水を防ぐことはできまい」
「………」
「哀れな話ではあるが、町絵師の女房が殺された程度では無理だ。ご老中の座にあられる限り手など出せまい」
中山はがっくりと肩を落とした。
「なんで半端な話をしましたんで?」
二人きりになると菊弥は耳打ちした。中山は歩きはじめたらまた腹痛に襲われたようで茶屋の便所に駆け込んでいる。
「又三郎に銭を渡して操った者が火附盗賊改の中に居ると知れば脇田さんだってあんなのんびりとしたことを言わなかったと思いますぜ。ここまで来たら又三郎のこともはっきりお伝えなさった方が……」
「まだ早い。俺は火附盗賊改に移ったばかりだ。脇田さんは信用できそうだが、あっちが俺のことをどこまで承知か……仰天してお頭にでも報告されたらまずかろう。今はあれで十分だ。脇田さんの言う通りよ。結局はなにもできやしねえ。ここで二人を巻き込んでもどうにもならねえことさ。だったらこれまで通り一人でやるしかなかろう」
「じゃ、なんで櫛のことを?」
「又三郎のことを調べてくれたのは脇田さんだ。それきり知らぬ顔をしていりゃ妙なもんだろう」
「あっしはてっきりお仲間になってくれるものと……」
そこに中山が意を決した顔で戻った。
「寿の字の居場所の見当がつきそうです」
中山は挑むように仙波に言った。
「両国の見世物小屋に寿の字の仲間が居たはずですよ。前に耳にしたことがあります」
「やる気なのか?」
「ご老中はともかく」
中山は小声にして、
「手を下した者たちをそのままにはしておけない。本当の解決にはならないかも知れませんが、許しておけない連中だ」
「そんなことを便所で考えてたのか」
仙波と菊弥は笑った。
「お手伝いします。あそこまで聞かされながら身を引いては恥となる」
「本気なんだな?」
仙波は中山の目を覗き込んだ。中山は負けじと仙波を睨み返した。
「又三郎はもう死んでるぜ」
「は?」
「先日、あの二人に道中を襲われてな。又三郎の死骸は江ノ島近くの谷底にある」
さすがに中山は目を丸くした。
「斬り付けたのは俺だが、浅手だった。とどめを刺して寿の字が逃げ去った」
「なんでさっきはそれを?」
「深入りすれば後戻りはできねえぜ。相手はご老中なんだ。こっちにその気はなくてもなにが起きるか分からねえ」
仙波は中山にまた覚悟を問い質した。
茶屋を出ると中山は無言で両国の方角に足を向けた。それが覚悟の表明と見て仙波は中山の肩を叩いた。中山は両国の見世物小屋を訪ねて寿の字の居所を突き止める気でいる。
「根性があるな。こういう男がまだ今の世に残っているとは思わなかったよ」
「仙波さんこそご老中が裏に関わっていると承知で去年の夏からこの一件を追いかけていたんでしょう。仙波さんとは妙な縁でずっと繋がっている。ここで尻込みしたら死んだ親父に叱られましょう。どうせ独り身」
言いながら中山は立ち止まると、
「すると……先日仙波さんから聞かされた近江屋の手代吉太郎の一件……あれもなにか関わりがあるので?」
「少しは調べがついたか?」
仙波は道路脇の小さな神社の境内に誘ってから中山に質した。道で立ち話のできる問題ではない。
「押し込みの手引きの役目を果たしていたとはとても思えませぬが、不思議と役宅の記録には詳細が残されておりませぬ。殺された側ゆえ近江屋の主人の聞き書きで簡単に済ませたものにござりましょうが……一年前に雇われるまでどこでどうしていたものやら」
「やっぱりな」
「なにか心当たりでも?」
「おりよが殺された大水の日……歌麿《うたまる》はその何日か前から江ノ島に出掛けていて江戸を留守にしていた。江ノ島の宿からの声掛かりで画会を開いていたのさ。その画会の仲立ちをしたのが近江屋の吉太郎」
「まことの話にござるか!」
中山は絶句した。
「しかと確かめたわけじゃねえんだが、近江屋の手代だったのは間違いない。菊弥の聞き込みによれば吉太郎はしょっちゅう外回りで江戸近隣の同業のとこへ出掛けていたそうだ。とすりゃほぼ睨みが当たっていよう」
「どういうことなんです? 私にはなにがなにやら分からなくなってきました」
「あの押し込みは近江屋以来一人も殺していない。わずかの銭を奪って消えるだけだ。それが気になっていたのさ。吉太郎はたまたま殺されたんじゃなくて、吉太郎を殺すのが押し込みらの目的じゃなかったのかとな」
「………」
「一件だけなら俺と同様の睨みをする者もでてこよう。それで同様の面を被り、さもねえ店に押し込んだ。そうすりゃやはりただの押し込みの仕業で、吉太郎は運のなかった男ということになろう」
中山は唸った。
「火附盗賊改に直ぐに連絡が入ったのも、恐らく連中が自らしたことだ。わずかの銭なら店の方でだんまりを決め込む心配もあろう。それじゃ押し込みをした意味もなくなる」
「つまり、歌麿の一件の口封じが目的の押し込みだったということでござりますか」
「きっとな。まさか仲間がおりよを殺すなど思わず吉太郎は身分を隠さずに画会の仲立ちをしたんだろうよ。それが後になってまずくなってきた。俺が首を突っ込んであれこれ裏を探りはじめたのさ。もし吉太郎が俺に引っ張られでもすりゃ危なくなる。こっそりと殺せばよさそうなもんだが、そうなると調べは町方の俺たちに回される。押し込みなら火附盗賊改の管轄だ。ご老中はいくらでも抑えることのできる火附盗賊改の方が楽だと考えたんじゃねえのか?」
「いくらなんでもご老中がそこまでなされるなど……たかが町人一人のことですぞ」
「普通の大名なら俺もまさかと思うぜ」
仙波は苦笑いした。
境内には蝉《せみ》時雨《しぐれ》が降り注いでいる。
「町人がなにをしようと関わりのねえ暮らしをしている。しかしご老中は別だ。町方の改革こそ急務と見てさまざまな手を打っているお人。黄表紙や洒落本も自ら目を通されると聞いている。そういうものがいかに人の心を動かすかお見通しなのさ。だからこそ蔦屋なんかを気に懸ける。蔦屋が身代半減になったのを見ても、その背後にご老中の目が光っていたのは間違いないはずだ」
「………」
「だが、そのことが世間に知れ渡ればどうなると思う? たとえ噂話にしてもそいつが広まって将軍さまのお耳にでも入れば終《しま》いだ。まだ罪を犯しておらぬ者を四六時中見張らせてたってのも尋常じゃねえが、殺しまで見逃したとなれば罷免されるに決まっている。それでご老中も慌てたんだろうな」
「それで口封じにござるか……」
中山は嘆息しつつも得心の顔をした。
「火附盗賊改の中にも今度の一件と相当に深く繋がっている者が居そうだ」
「となれば不思議ではありませんね」
中山は泣きそうな様子で応じた。
「こいつを見ろ。又三郎のところで見付けたものだ。この紙に小判が包まれていた。天井裏に隠されていたんでだれも気付かなかったらしい」
仙波は懐ろから取り出して中山に渡した。
眺めて中山の紙を持つ指が震えた。
「これは……」
「火附盗賊改の役宅から出た反古紙だろ?」
「なぜこのことをもっと前に……酷いですよ。これを見せられていたら果たして……」
「手助けする覚悟も鈍ったか?」
「あまりにも辛過ぎます。同僚を追い詰めることになるじゃありませんか」
がっくりと中山は肩を落とした。
「ここまで打ち明けたからには後戻りは許さん。覚悟を見極めたからこそ話したんだぜ」
仙波はきつい目で中山を睨み付けた。
「だったら、例の瓦版が当たっていることに。押し込みだって無縁とは言えない」
「ご老中もそこまでは頼めなかろう。後始末の方は命じたかも知れんが、押し込みに入った連中は別に雇った口と睨んでいる」
中山はさすがに安堵の色を浮かべた。
「吉太郎の記録がいい加減だってのも、それで納得がいく。その調べをしたのはだれなんだ? その辺りが怪しい」
「前田さんと大塚さんでしたが……どちらもお務めには厳しく臨まれる人たちです」
「ご老中のご命令となれば断わることもできまい。これまでの忠勤なんぞ今度のこととは無縁だ。当分は油断は禁物だぞ。だれのことも信用するな」
「明日からどんな顔をして役宅に詰めればいいんです? 仙波さんは寄場勤務だから気が楽でしょうがね」
中山は本当に困った顔をしていた。
中山が少し脅しをかけると見世物小屋の男は寿の字の居場所をあっさりと告げた。中山の気迫に怯えたのである。
「なかなかやるな」
肩を怒らせて歩く中山に仙波と菊弥はにやついた。この半日でずいぶん変わっている。
「ぐずぐずしていれば取り返しがつかなくなります。どうせ無宿人だ。召捕る理由など後でいくらでも見付けられる」
「捕らえても火附盗賊改の牢に入れるのは考えものだぞ。こっちの狙いが発覚する」
「寄場はどうです?」
「調べもせずに勝手はできなかろう。召捕りは諦めろ。首尾よく居たとしても締め上げるだけでいい。どうせ全部を裏で始末しなけりゃならぬ相手さ」
「殺すということですか?」
中山は暗い目をして仙波の横顔を見やった。
「相手次第だ。素直に白状すればそれなりに手を考えてやってもいいが……あの男は違う。仲間に平気でとどめを刺す男だ」
仙波は顎に掌を滑らせて剃り残しの髭を探っていた。朝が早かったのでいい加減に顔を当たっている。何本か見付けて抜き取った。
「あの寺じゃねえですか?」
菊弥が顎で示した。そうらしい。あの寺の裏長屋に寿の字が潜んでいる。
「逃げるときは裏庭から寺の墓地へと走ろう。おまえさんは墓地の方から回ってくれ。俺と菊弥とで長屋に踏み込む」
段取りを決めて仙波と菊弥は長屋に向かった。中山は寺の門を入って行く。
「中山の旦那はどうなんですかね?」
「腕のことか?」
「寿の字は強いんでござんしょう?」
「中山よりはな」
「だったら危ねえ。一人じゃ心配だ」
「こっちも直ぐに追い付く。まさか一太刀で斬られることもなかろう」
寿の字も逃げる方に気を取られているはずだ。仙波は安心していた。
「長屋の五軒目と言ったな」
どぶの臭いのする長屋の路地に入って仙波は様子を確かめた。この時間だとほとんどが留守にしているようで静かだ。
仙波はこっそりと近付いて耳を澄ませた。なんの物音もしない。戸に手をかける。一気に開けて仙波は中に突入した。菊弥も慌てて続いた。菊弥は薄暗がりで仙波の背中にぶつかった。仙波は立ち尽くしていた。
「くそっ……また後手になっちまったか」
仙波は上がりかまちを蹴り飛ばした。
菊弥は部屋の中を覗き込んだ。
寿の字の死骸がそこに転がっていた。
「裏から出て中山を呼べ」
仙波は憮然とした顔で菊弥に命じた。
「こういうことだ。敵はどんどん口封じを強めていやがる。この狭い中で腹を一突きだ。油断していたとしか思えんな。この男、相当に腕が立った。簡単には殺せぬ」
中山が来るまでに手早く死骸を検分した仙波は立ち上がった。
「酒臭い茶碗も転がっている。昨夜のことだ。又三郎のところからこっちへ回って殺したのかも知れん。これですっかり手掛かりを失ったぞ。敵もそれだけ慌ててるってことだろうが……容赦のないやり口だ」
「昨夜という決め手は?」
「これだけ血が流れてる。いくら呑気な長屋でも二日も経てば血の臭いに気付こう。それに寿司折りにくっついている飯粒がさほど固まっちゃいない。まず当たっているはずだ」
「確かに」
中山も飯粒を指で潰してみて頷いた。
「菊弥、表の見張りに立て。俺たちはなにか手掛かりがねえかあらためる」
「番屋にゃどうします?」
「こっちを済ませてからだ。場合によっちゃこのまま引き揚げる。その方がよさそうだな」
「知らせずにですか?」
「俺たちがこいつを届ければ厄介の種子《たね》にもなりかねん。放っておいても明日には長屋の連中が気付いて騒ぎ出す」
頷いて菊弥が外に出ると二人は血を踏まぬよう気を配りながら仕事をはじめた。そこは二人とも手慣れている。
「この寿の字も武士だったので?」
箪笥の中に隠されていた大小を見付けて中山は呻《うめ》きを発した。
「武士ってのも困り者《もん》だな。生涯、刀を捨てることができねえ。もっともこいつの場合、刀を腰に差していなくても体付きで分かった。よほどの鍛練を積んでいる。人相書きを手にして江戸の道場を当たれば裏の繋がりが知れるとは思うが……銭で雇われただけなら昔のことが手掛かりになるかどうか……」
「どっちが誘ったんでしょう?」
「又三郎とこいつのことか? 腕や口の利きようから見て寿の字の方だろう。又三郎は寄場送りになっている。そういう男が居ると火附盗賊改のだれかから耳にして、寿の字が仲間に引き入れたんじゃねえのかの」
「寿の字の噂はだいぶ前から火附盗賊改に伝わっていました。確かに危ないことをさせるには都合のいい男。もしもご老中から銭で雇える腕の立つ男を探せというご命令でもあれば私も寿の字に目を付けます」
火附盗賊改との関わりを中山も今では疑っていないようだった。
「印籠はどうだ?」
箪笥を掻き回している中山に仙波は質した。
「ありますよ。さっき見掛けた」
別の引き出しを開けて中山は取り出した。寿の字の持ち物にしては地味な印籠だった。象牙を玉にした根付がぶら下がっている。
「印籠がどうしたんです?」
「おりよが襲われた夜、歌麿の家に印籠が転がっているのを見付けた。煙草入れならともかく、町人は滅多に印籠を持ち歩くまい。又三郎と寿の字はおりよ殺しとは無縁とそれで見当を付けていた。ここに印籠があればますます確かとなる。又三郎もちゃんと隠し持っていた。印籠をいくつも持っているやつは居るが、二人にはそんな余裕もなかろう」
「そうでしょうね」
中山は印籠を開けた。中には薬が詰まっている。持ち歩かぬまでも使っていた証拠だ。
「根付も野晒《のざら》しの髑髏を刻んだ珍しいやつでな。目玉から蛇が出て来る仕掛けだ」
「髑髏の根付!」
中山はぎょっとなった。
「心当たりでもあるのか?」
「お頭が作らせて配った物では?」
「………」
「十二、三年も前のことです。私が火附盗賊改に回される前のことなので詳しくは聞いておらぬのですが……大捕物があったときに報奨としてお頭が二十人ほどにおなじ根付を与えました。それが髑髏。お頭は鬼と綽名されております。それでわざと髑髏を刻ませて与えたのだと聞きました」
「見たことがあるか?」
「何人かは今も身に付けていますからね」
「貰った連中の一人がおりよ殺しに関わっている。それだけは確かだぞ」
「しかし……」
中山は途方に暮れた目をして、
「それをどうやって調べます? 今もそれを持っているか問い質すなんて私にはできませんよ。二、三人ならともかく二十人も居る。中には本当になくした人もおりましょう。そう言われたら引き下がるしかありません」
「それはその通りだが……」
「お頭とて持っています。その上、どなたも私にとっては大|先達《せんだつ》ばかり」
「吉太郎の調べに関わった二人はどうだ?」
「歳から言うと前田さんは頂戴していても不思議ではありません。大塚さんの方は八、九年のはずなので貰ってはいないと思います」
「とりあえず前田さんとやらから手をつけるしかなかろう」
「気が進みませんねぇ……生真面目でおとなしいお方。女を襲うなど有り得ない」
「火附盗賊改は人の顔を見て決めるのか?」
「そんなことはありません。この三、四年ずっと眺めての判断です」
中山は激しく首を横に振って、
「その状況であれば仙波さんが怪しむのも当たり前でしょうが、私には大事な同僚です。こっちの身にもなってください」
「放っておくわけにはいかねえぜ。敵の足元にも火がついていよう。気が付いたときにはその首が胴体から離れているってことにもなりかねねえ。そっちがやりにくいと言うなら俺がなんとか当たってみよう」
「また腹の具合がおかしくなってきた」
中山は眉をしかめた。
「ますます剣呑《けんのん》なことになって参ったの」
言葉と違って左門の顔には面白がっているような笑みが見られた。たまたま泊まりがけで訪れていた春朗も寿の字が殺されていたと耳にして唸ってばかりいる。
「寿の字を殺すより、そなたの命を縮める方が後腐れなさそうに思えるが……それについてはどう思う?」
左門は仙波に酒を注ぎながら質した。
「うるさく動き回るそなたさえ葬れば口封じの必要もなくなるはず。火附盗賊改に出仕しておる者を殺《あや》めれば騒ぎが大きくなると言うのであれば、そもそも江ノ島で襲うまい。その程度のことを揉み消す力は持っていよう」
「確かに……それは考えませんでした」
仙波も首を傾げた。
「もはやそなた一人では済まぬと悟ったのであろうな。儂や菊弥はともかく、中山にも伝わったと見ておるのだ。そなたが死ねば次は中山が引き継ぎ、中山を倒せば今度は脇田というように際限がなくなる。それで寿の字を亡き者とするのが簡単と見たのであろう。と同時に、これ以上深入りすれば寿の字とおなじ目に遭うとの警告ともとれる」
「そこまで承知の親父どのが、なにゆえ春朗に打ち明け召された。困るのは春朗ですぞ」
仙波は申し訳なさそうに春朗を見やった。聞いたからにはただでは済まなくなる。
「勘のいい男だ。堀切の菖蒲見物のときからとっくに気付いておる。手助けしたいと言うておる。それでだいたいを伝えた」
「手助け?」
「そなたと菊弥は動きがむずかしい。願ってもない申し出であろう。春朗は信用できる」
「信用は無論でござるが……下手をすりゃ死ぬかも知れねえぜ」
仙波は左門から春朗に目を動かした。
「まんまと親父の口車に乗りやがって……関わったところでなんの得にもなりやしねえ」
「別に誑《たぶら》かしたわけではない」
左門は苦笑いした。
「贅沢とは無縁の暮らしだが……ご老中の改革は押し付けがましい。もともと気に食わなかったんですよ。色数にまで口出しされるこたぁねえや。ご老中は絵がお好きという噂だったが、果たしてどうだかね。版元はともかく、おいらたちは銭と関わりなしに絵を考える。そこに口を突っ込んでくるなんぞ余計なことだ。赤い花を青くしろって言ってるようなもんでしょう。それが嫌なら赤い花を描くなって理屈だ。そこまでご老中が偉いのかね」
春朗がさらに続けた。
「ご老中ならそれができるんだろうね。椿を描きてえときに馬の糞を描いて満足なされるに違いねえ。色を減らせってのはそういうことでさ。そんなお人に絵が分かるわけがねえ。全部が全部まやかしのご改革でやしょう」
仙波も頷いた。
「今はどんな禁令が出たとこで、だれも驚きゃしねえ。裏に回りゃなんでも叶うとだれもが承知してますよ。そんな禁令になんの意味があるってんで? 得意顔してるのはご老中お一人だ。だったら早く止めさせるがいい。内心じゃ江戸の皆がそう思ってるくせして、だれも逆らいやしねえ。なんと言っても八代将軍さまのお孫に当たるお人だ。おいらでいいなら手伝いますよ。もう飽き飽きだ」
酒の勢いもあってか春朗は並べ立てた。
「葛飾《かつしか》に戻らずともいいのか?」
仙波は念押ししてから、
「しばらく様子を探って貰いたい者が居る。だが火附盗賊改の一人だ。歳は取っているが侮れば危ないぞ。できるか?」
「様子を見る程度ならなんとか」
「前田という者だ。今のところその男が一番怪しい。どこでだれと会って、どんな動きをするか……逐一知りたい」
「銭はこちらで用意する。火附盗賊改の役宅に近い長屋でも借りるのがよかろう」
左門が言い添えた。この仙波の家に寝泊まりしていれば敵に必ず気取られる。
「それと……昨日市中に出回った瓦版を目にしているか?」
仙波は春朗に質した。春朗は頷いた。
「それをどこのだれが刷ったものか突き止められねえかの?」
「言われずともすでに訊ね回ってみましたよ。どうも瓦版屋の仕事とは別らしい」
「俺も錦絵の版元と睨んでいる。餅は餅屋だ。俺が探るよりおめえの方が早く目鼻がつくんじゃねえのか?」
「まぁ……できるかどうかやってみましょう」
「二つもでは無理であろう」
左門は首を横に振った。
「前田の方は夕刻からで構いませぬ。日中はどうせ役宅の中。中山が見張りまする」
「そういうことか」
左門は得心した顔をして、
「菊弥、酒が足りなくなった。表で買って来てくれ。少し腹も減ったな」
その菊弥が慌てた様子で戻った。
「また例の押し込みが出たそうです」
「なんで分かった」
仙波は腰を浮かせた。
「安井の旦那と暗がりで顔を合わせやした。奉行所からお呼び出しがあったそうで」
「場所は?」
「馬喰《ばくろ》町の薬問屋だとか」
「よし。俺も行く」
仙波は刀を手にした。
「菓子屋の次は薬問屋か。おかしな押し込みだの。まったく……わけが分からぬ」
左門は菊弥から酒の詰まった瓶子《へいじ》を受け取って吐息した。
翌日の夕方。
寝不足の顔で仙波は中山とともに両国の縄暖簾《なわのれん》に姿を現わした。奥の小部屋で待っていた春朗が仙波たちに声をかける。
「なにも頼んでねえのか」
「酒は飲《や》りませんからね。一人で飯をかっこんで待つってのも様子が悪い」
春朗は菊弥も含めた三人の席を拵えた。
「遠慮しねえで煮染《にし》めと焼き魚でも食ってりゃいいものを。妙なとこに堅い野郎だな」
仙波は笑って羽織を脱ぎ捨てた。
「そのまんま寄場の方に出られたんで?」
「馬喰町の調べが長引いたからな。寄場なら昼寝もできる。少しは寝たよ」
「ご苦労さんなことで」
「それより、こいつだ」
仙波は懐ろから紙を取り出した。これを見て貰いたくて春朗を呼び出したのである。
「火の用心……ねぇ」
春朗は素早く目を走らせて苦笑した。この場合の「火」とは火附盗賊改を意味している。近頃江戸の町の蔵に火がやたらと燃え広がって、大事なお宝がごっそりと灰になるので物持ちは用心しろという文章が細長い札の下にびっしりと書き連ねられている。札の上には判じ絵らしきものが描かれていた。白い髭を生やした鼠が大きな団扇《うちわ》で燃えている炎を煽っている奇妙な絵だ。春朗は首を捻った。
「こんな場所で大きな声は出せねえがな」
仙波は困った顔をして、
「年老いた鼠ってことだろう。つまり『老ちゅう』すなわちご老中さ。ご老中が煽って火附盗賊改を蔵の検分に駆り立てているって按配だ。ふざけやがって」
「なるほど、よくできてる」
春朗はげらげら笑った。
「笑いごとじゃねえ。これがご老中の耳にでも入りゃどうなるか。とんでもねえことになったと火附盗賊改の連中は青ざめてる」
「こいつはどこで?」
春朗も真顔に戻して訊ねた。
「押し込みに襲われた薬問屋の蔵の壁にべたべたと貼られていた」
「すると……押し込みの仕業で?」
「こっちの睨みが大外れってことだな。押し込みはひょっとしてご老中の仕込みじゃねえかと疑っていたが、まるきし反対ということになる。疑いをそらす手だとしても、ここまではやるめえ。それに……この絵といい文面といい、一昨日の瓦版と似ている。だれがあの瓦版を出したのか、そいつを突き止めりゃ押し込みにも繋がりそうだ。それでおめえに見せようと思ったんだ。当分はこっちの調べに掛かりっきりになってくれ」
前田のことは中山に言うな、と目で合図しながら仙波は頼んだ。
「だったら……あの手代のことはどうなりますんで? 口封じの殺しじゃなくなりましょう。たまたま殺されたということに?」
春朗は怪訝な顔をした。
「そこがむずかしいとこさ。今度の薬問屋でも些少の銭を奪われただけで怪我人は一人も出ていねえ。なんらかの目的で吉太郎が殺されたとしか思えねえが……」
仙波は腕を組んで眉をしかめた。老中による口封じでなければ他に理由が思い当たらない。
「しかしまぁ、これで遠慮なしに押し込みを挙げることができます。昨日仙波さんから教えられたときは冷や汗を掻きましたからね」
中山は安堵を浮かべていた。同僚を追い詰める結果となるのを案じていたのである。
「まてよ……」
春朗は札に目を戻して、
「この字癖は見た覚えがあるような……」
「知っているやつか?」
「文字に覚えがあるだけで筆耕にゃさほど知り合いがおりやせんがね」
春朗は必死に考え込んだ。筆耕とは瓦版や錦絵の文字を専門に書く仕事だ。慣れた者でなければ美しく仕上がらない。彫師が彫りやすいような文字にする技術も要る。当然字癖も出る。春朗は若い時分に彫師の修業も積んでいるので他の人間よりは見分けがつく。
「瓦版の字とは違いやす。むしろ洒落本の筆耕を多く手掛けているやつの仕事だ」
「そんなことまで分かるものなのか?」
中山は感心して札に目をやった。
「字癖もそうですが、こいつは漢字を書き慣れている。瓦版にゃむずかしい漢字が滅多に出てこねえ。たまに出てくると、どうしてもそこだけ浮き上がって見えるもんです。そこにいくと読本《よみほん》や洒落本を多く手掛けている筆耕は違う。間違いねえですよ。これは一流どころの仕事でやしょう。そんじょそこらの瓦版屋じゃ抱えきれねえ職人だ」
春朗は断言した。それに仙波も頷いた。
「第一、札にするにゃ勿体ねえような紙だ。これは案外とあっさり突き止められるかも」
「絵の方はどうだ?」
「わざと下手に描いているんじゃありませんかね。相当な腕だ。鼠の尻尾ってのは結構むずかしいもんです。こういうとこに腕が出る」
「心当たりはどうだ?」
「三十人はおります」
なんだ、と仙波は失望した。
「無理ですよ。力を入れた仕事なら別だが、この程度の絵じゃ分からねえ。けど、反対に言うならこの広い江戸でもたった三十人しか居ねえということになりまさ」
「そりゃ確かにそうだろうが……三十人をいちいち当たっている暇はねえ」
「この絵描きも押し込みの一味でしょうね」
春朗の言葉に仙波は顔を上げた。
「もちろんでしょう。この札が広まれば当の絵描きもそれを知る。こんな札だ、お咎めを受ける前に必ず名乗り出ましょう。そこを手繰ればだれの注文か直ぐに知れる。押し込みも馬鹿じゃねえや。仲間以外にこんな危ない仕事を頼みやしねえ」
「それはそうだな」
「としたなら妙な話だ」
「なにが妙だ?」
「言ったじゃありませんか。三十人のうちに入る絵描きだとね。そんな野郎なら押し込みなんぞをしなくても十分に食っていけますぜ。はばかりながらあっしも腕だけで言うなら江戸でも三十人のうちに入りやしょうが、あいにくと運の巡り合わせでなかなか食えねえで居る。けど、そんな野郎はこの江戸でおいら一人きりだ。他の連中はちゃんとしてまさ。三十人のうちに入っていりゃ年に四十両やそこらは楽に稼げましょう。旦那のお話じゃ押し込みの一人頭の稼ぎはせいぜい五両やそこらってことだ。それなら地道に錦絵を描いている方がいいって理屈になりますよ」
「よほどの理由《わけ》でもなきゃ仲間にならねえってことだな」
「でしょうね。人を殺しての押し込みとなれば晒し首と相場が決まっている。四十両以上を稼ぐ人間が手を出すとは思えねえ」
「ご老中のやり方に恨みを抱いている絵描きについちゃどうだ?」
「おいらも昨夜《ゆうべ》口にしたばかりですがね」
春朗はぼりぼりと頭を掻いてから、
「しかし、その程度じゃ動かねえ」
「だろうな。押し込みとなりゃ別だ」
頷きながら仙波の頭の中では歌麿の顔が浮かんでは消えていた。まさか、とは思う。だが、歌麿にはそれだけの恨みがあるはずだ。
〈瓦版のことにしろ……〉
蔦屋と組めば簡単にできる。蔦屋もまた老中を心底憎んでいよう。
〈しかし……〉
あの連中に押し込みなどができるだろうか。できたとしても、なぜ押し込みなのかという疑問が残る。
「どうかしましたかい?」
春朗が押し黙った仙波を見詰めた。
「この札を蔦屋に見て貰えばどうかと考えていたのさ」
仙波はごまかした。思い付きばかりで口にできる段階ではない。
「蔦屋の旦那でしたら分かるかも」
春朗も首を縦に動かした。
「歌麿《うたまる》は箱根に湯治に行くとか言っていたな。蔦屋も一緒に出掛けたんじゃねえのか?」
「今日は店におりましたよ。ここへ来る途中に店の方へ顔を出してみたんで」
「それじゃ明日でも行ってみよう」
「蔦屋はどうなんです?」
中山が膝を叩いて仙波に言った。
「なにがだ?」
仙波はわざととぼけた。
「蔦屋なら瓦版やこの札を作れるのでは?」
「そりゃ、作れるだろうが……」
「蔦屋は身代半減の恨みがある。押し込みもそれを承知で作らせたのではないですか。蔦屋なら我々に届けはしない。蔦屋が禁ずれば絵師も口を噤《つぐ》む。有り得ますよ」
少しは仙波もほっとした。中山は押し込みと蔦屋を一緒には考えていないらしい。
「蔦屋の旦那は人に頼るような真似をしやしねえでしょう。やるなら店の仕事で喧嘩を仕掛ける。それを続けてきた人だ」
春朗は否定した。仙波も大きく頷いた。蔦屋はそういう男だ。だからこそ身代半減にまで追い込まれたのである。
「今日だって歌麿の兄《あに》さんと来月出す絵の打ち合わせをやっていた。そっちでまたなにやら仕掛ける気のようだった」
「歌麿がまだ江戸に居るのか」
昨日辺りに箱根へ出掛けたと思い込んでいた仙波は嫌な心持ちになった。
寄場の勤めをほどほどに切り上げて蔦屋を訪ねようと思っていたところに中山が顔を見せた。小雨模様で肌寒い午後だった。
「お頭は相当なおかんむりです」
中山は途中で買って来た揚げ饅頭を仙波と脇田に勧めながら苦笑いしていた。
「この倹約のご時世では古い油を用いているのではないか? 腹下しが頻繁なそなたでは危なかろうに」
脇田は饅頭を鼻先で嗅いでから頬ばった。
「うむ、なかなか美味い」
「でしょう。つい先頃まで揚げ饅頭など店で扱ってはおらなかったのに、今はたいがいの菓子屋に置いてあります」
中山も一つをつまんで口にした。本来なら皮が固くなって売り物にはできなくなった饅頭であるが、食い物を粗末にするなという触れが出てから揚げ饅頭に仕立て直す店が増えたのだ。それが結構な人気となっている。
「お頭がおかんむりとは?」
仙波は中山に訊ねた。
「例の薬問屋に貼られてあった札です。やはりご老中にまで伝わったようで、昨夜お呼び出しがあったとか。お二人が羨ましい。今朝は皆がお頭の部屋に集められて長いご叱責を頂戴しました。こちらにも言い訳ができません。これだけ続いていると言うのに、いつも後手後手のありさまですからね。今日からは他のことをすべて捨て置いて押し込みの一件に専念しろとのことです。むろん我らとてそのつもりでおりますが……なにしろ利口な連中たちだ。どこをつついていいものやらさっぱりです。参りました」
中山はまた饅頭をつまんだ。
「狙われた店程度のものなら江戸に千軒やそこらありましょう。前もって見張ることもできない。それに場所も見事に散らしている。仲間割れによる密告はおろか、裏の世界にもそれらしい噂がまるで聞こえてこない。こんな厄介な捕物は火附盗賊改に加わってはじめてのことです」
「これから蔦屋に行く。付き合うか?」
「構いませんが、夕刻からは仙波さんのための宴会があります」
「俺の宴会?」
「お頭も参られます。それを伝えに来たんです。四谷の料理屋で川魚が美味い」
「ありがたいが、そんな暇があるのか?」
「叱責の後はたいてい飲むこととなる。それがお頭の癖だ。それで皆の気持ちが和む」
脇田は笑って仙波に教えた。
「数は十二、三人のものですが、前田さんや大塚さんも見えるはずです」
「その二人がどうかしたのか?」
脇田は怪訝な顔をした。
「お二人は最初から今度の押し込みの調べに携わっておられるとか。会ってじっくりと話を伺いたいと中山に頼んでおったので」
仙波が代わりに応じた。
「前田さんも近頃は昔の生彩がない。だからこそこれほど手間取っておるのだろう」
困った顔で脇田は口にした。
「まだ脇田さんにはなにも打ち明けていねえ」
寄場を出てから仙波は中山に言った。
「話せば抜き差しのならねえところに脇田さんを追い詰めることになる。俺たちだけで十分だ。そう心得ていてくれ」
「ですね、私も迂闊《うかつ》でした」
「こっちも今はなにがどう繋がっているのか見えなくなってきた。いずれは脇田さんに相談を持ち掛けるとしてもまだまだ早い」
「的が絞られている上での忙しさであれば苦にもなりませぬが、ただ振り回されているばかりです。疲れだけが溜まる一方ですよ」
「四谷と寄場の往復も多いからな」
雨が傘に当たる音がしなくなったので仙波は畳んだ。中山もそうする。
「歌麿《うたまる》は箱根ですか。羨ましい商売だ。筆と紙があればどこでも仕事になる」
「どこに居ても仕事ができるまでになるのが大変なんだ。いつでも仕事を回して貰えるように版元の間近に引っ越す絵師も居る」
「そういう者ゆえご老中も目を光らせていたわけですね」
「民らがなにに動かされるのか見抜いておられるのさ。どれほど人気があったところでしょせんは町絵師。普通はそう考えて相手にもしなかろう。松平さまなればのことだ」
「それだけ民の暮らしに精通なされておられるご老中が、なぜかほどに厳しいご改革を遂行なされたのでありましょう」
「精通しているばかりで、民の側には立っていねえのさ。戦さの折りに敵の内情を丹念に調べ上げるのと一緒だよ。結局は武士が立ち行くようにする改革に過ぎぬ。田沼さまのときに世の中がおかしくなったのは町人らの力が増大したせいだと睨んでおいでだろう。朱に交われば赤くなるってやつだ。武士の権威を取り戻すには、武士よりも町人の力を衰えさせるのが簡単だ。そいつに気が付かれて、どこを攻めればいいかお考えなすったんだろうな。武士にとってはまことにありがたいご改革だが……大本で間違っている。民らがあってこその武士だ。根が弱まれば樹が枯れる」
「確かに」
中山も同意した。松平定信が老中に就任して間もなく実行した札差《ふださし》への締め付けがそれを如実に物語っている。旗本や御家人たちは代々にわたって札差たちから高利の借金を重ねている。それが武士の暮らしを逼迫《ひつぱく》させていたのは事実だ。松平定信は一気にその解決を図った。と言ってもすこぶる乱暴なやり方である。五年前より古い借財についてはいっさい白紙に戻し、債権とは認めない。それ以降のものは利息を大幅に下げ、しかも返済を長期にあらためる。札差の都合などお構いなしの一方的な通達であった。発布当初、多額の借財から解放された武士たちは松平定信を生き神とまで褒め称えたものだが、二年以上が過ぎた今、むしろその政策を迷惑と感じはじめている。一夜にして百二十万両近い債権を失った札差らが武士たちに新たな借財をさせてくれなくなったのである。もともと低い禄で細々と暮らしていた武士らはたちまち生活に窮する結果となった。多額の借財が減ったとは言え、その金が戻ってきたわけではない。それ以上借りられなくなる方が辛いことになる。反対に武士の体面を守ることができなくなり、御家人株を売って武士を止める者や、一家揃って内職に精を出さねばならぬ羽目となった者も多い。
「贅沢な品物の売買を禁ずれば商いの額が減って商人の力が弱まるというのも理屈には違いないが、乱暴な理屈だろうさ。全部が全部頭の中で捏《こ》ねくり回したものに過ぎん。この二年、なんとか保ったが、そろそろ限りがきてる。これ以上続ける気なら力で無理に押さえ付けなきゃならなくなるぜ」
仙波は言って溜め息を吐いた。
「来てたのか」
通された部屋に春朗の姿を認めて仙波はとなりに腰を下ろした。
「この雨で退屈な思いをしてたんで」
「春朗から聞きましたよ。中山さままでご一緒とは、例の札が手前に関わりあるとお睨みですか」
蔦屋はにやにやしながら仙波を見詰めた。
「まさか。あんたならもっとまともな喧嘩を仕掛けてくるはずだ。俺たちも暇なのさ」
「それで安心しました。いくらなんでもそんな真似はいたしませんよ」
「この札だ。まずじっくりと見てくれ」
仙波は懐ろから札を出して手渡した。蔦屋は鼠の図柄の意味を春朗から耳にしていたらしく、目にするなり苦笑した。
「大変なものですな。これでは火附盗賊改の皆さまが驚き召されたのも無理はない。春朗から聞いていた以上の代物です」
「半分は当たっているだけに始末が悪い。火附盗賊改は押し込みの探索より店の蔵の検分の方に力を注いでいるように見える。役目の一つゆえ致し方ないのだが、世間はそう考えまい。ひょっとして本当のことではないかと勘繰るやつも出てこよう」
「これがもしご老中さまの耳にでも入ればどうなりましょうな」
「もう入ったよ。昨夜お頭の長谷川さまがご老中に呼ばれて散々だったそうだ。幸い札のことはあまり他に伝わらぬようにしてあるが……どこまで隠し通せるものか。市中にまで広がればご老中の進退も危うくなろう。まったくふざけた押し込み連中だ」
「この字癖に見覚えはありませんか?」
春朗は蔦屋に質した。
「さてね……そう言われれば見た字のようでもあるな」
蔦屋は首を捻って考え込んだ。
「喉まで出掛かっているんだが、どうしても浮かんでこねえんで。これは瓦版屋なんぞが使える筆耕と違いましょう。崩し字を見たって相当な書き手と睨みましたがね」
「お武家の手とは違うか?」
「だいぶ版下の字に慣れている。でなきゃこれほど細かな字はむずかしい」
「それもそうだな。慣れた字だ」
蔦屋も認めた。
「これだけの腕を持つ筆耕はどれだけ居る。それを教えてくれればあとは我らがやる」
仙波は蔦屋に詰め寄った。
「無理です。ざっと二百人やそこらはおりましょう。名を挙げろと言われても、こっちだって困り果てます。手前の店と付き合いのある者であればなんとかなりますが、版元がいくつあるか知らぬ仙波さまでもありますまい。庇《かば》う気で言っているんじゃありませんよ」
二百人と聞いて仙波は唸った。
「紙についてはどうだ?」
気を取り直して仙波は質した。
「上等なものです。これなら雨に濡れても滅多に破けたり色落ちがしない。こんな札なんかに用いるものじゃございません。こっちの方から攻めるのが楽そうですね。紙が真新しい。つい最近に仕入れたはずだ。わずかの量なら突き止めるのが厄介でしょうが、もし大量に買ったものなら紙問屋を探ればきっと道が見えますよ。こいつは枕絵とか摺《す》り物に使う贅沢な紙だ」
「なるほど枕絵の紙か」
市販の錦絵よりずっと厚みのある紙だ。仙波は大きく頷いた。
「しかし……それだと紙問屋も滅多に口を割らないのではないですか?」
中山は言って舌打ちした。枕絵の発行はむろん厳重な処罰の対象となる。それを承知で紙を売ったと分かれば問屋の方もただでは済まなくなる恐れがある。
「敵もそれを狙ってのことかも知れん」
仙波は眉をしかめた。なぜ瓦版や火の用心の札にこんな立派な紙を用いたのか不思議だったが、いかにも中山の言う通りだ。高い紙である。商売になるから問屋は喜んで売るが、なにに使うかだいたいの見当はつく。あとの迷惑を恐れて売った先のことは断じて口を噤《つぐ》むに相違ない。
「だとすれば我々の仕事の裏によほど詳しい者が押し込みの中に居るということですな」
蔦屋は腕を組んで暗い顔をした。
「先々を読んでいることになりますよ」
「絵師の心当たりはどうだ?」
紙問屋もむずかしそうだと分かって仙波はそこに望みを託した。
「春朗の見立てだと、これだけの絵を描けるやつは江戸に三十人も居ないそうだ」
「そこのところは手前には……いくらも居そうに見えますがねぇ」
「そりゃ蔦屋の店が一流どころしか相手にしていないからでござんしょう」
春朗は笑った。
「この店で錦絵を出させて貰っている絵描きたちならたいていのことはやれます」
「うちに出入りしているだれかの仕業だと」
蔦屋はぎょっとした顔で春朗を見やった。
「そういう意味じゃ……相当な腕の野郎だと言っただけでさ」
「押し込みをしなきゃならんほどだれも暮らしに困ってはいなかろう。歌麿辺りなら軸物を三、四本も描けば二十五両は稼げるんだよ。私にはまともな絵描きが加わっているとはとても思えんね。腕を持ちながらどこかを破門されたやつとかじゃないのかい」
「それじゃおいらのことだ」
春朗は爆笑した。春朗は勝川春章のところから破門されている。それでまともな仕事にありつけないでいる身だ。
「どうも手詰まりだな」
仙波と中山は顔を見合わせた。時間を費やす気なら一つずつ潰していくことができるだろうが、のんびりとはしていられない。
「絵描きよりはこの洒落を思い付いた人間を絞り込むのが早いかも知れませんね」
蔦屋は札に目を戻した。
「絵描きとは別人と思うか?」
「よほどの頭です。狂歌師の才がある。もし絵もこの人間の手になったもんであれば、数が限られて参りましょう。手前も狂歌師連中とは付き合いも多い。そっちの方を少し当たって見ましょう。もっとも、狂歌をやるお人らは暇人が多い。暇人というのは暮らしにゆとりがあるってことですからね」
「銭に困っての押し込みじゃねえのかもな」
仙波は呟いた。
「銭が欲しい連中の仕事とは思えなくなってきた。仮にこの紙を使って、大量の瓦版を作るとすればどれだけ銭がかかる?」
「枚数によりますが……ざっと十五両はかかりましょうね」
「十五両もかけて、一つの店で奪う銭は二十両かそこらだぜ。しかも五、六人で分け合う。そんな押し込みがどこにある。やつらの狙いは今のご改革潰しと見た」
「………」
「ご改革に付け込んで私腹を肥やしている連中はいくらでも居る。そいつらの店をなぜ襲わねえのかと奇妙に思っていた。どうせ銭を奪うならその方が気が晴れる。民らも義賊と崇《あが》めてくれようぜ。そういう店は用心してるのも確かだろうが、あの連中の手際の良さを思えば、やってやれねえ仕事じゃねえさ。なのになんでああいう真面目な店ばかりなのか。ずっと首を傾げていた」
「私にも分かりませんね」
蔦屋は眉根を寄せた。
「蔵に贅沢品を隠していたということだが、それはずっと以前からの品物だ。俺の知っているのは伊勢新ばかりだが、そういう悪さのできる主人じゃねえよ。台帳がねえんで鼈甲の櫛や簪《かんざし》は奉行所に没収となったが、俺はそう見ている。世間もあの主人の人柄を承知だ。だからこそ火附盗賊改や奉行所への中傷が膨らむ。なんでもっと悪い連中をそのままにしておくんだ、とな」
「本当でしょうか」
中山は唖然となった。
「どれほど裏を探っても狙われた四軒の店の評判は悪くねえ。売ることができねえから蔵にしまってあるだけだ。そいつをごっそりと奉行所が取り上げればどうなる? 民らの怒りはご改革を進めたご老中に向けられるという理屈になろう。ご老中とて隠したくても押し込みとなれば手が出せぬ」
日頃の疑念が仙波の口からどっと出た。
蔦屋を出て四谷の料理屋に向かう途中、中山はしばらく無言だった。約束の時間が迫っていて急ぎ足ということもあるのだが、いつものおしゃべり男とは思えない。
「由々しきことですよ、これは」
やがて困惑した顔で中山は言った。
「銭欲しさの押し込みなら、これはまぁ当たり前のことです。人の物を盗んでまで贅沢な暮らしをしたいという性根は許されるものではありませんがね、それでもそういう気持ちが人の中に潜んでいるのは分かります。しかし……今度の一件、仙波さんの睨み通りの理由だとしたら大変なことだ。そもそもこのご改革がなければ起こり得ない押し込みじゃないですか。言わばご老中が元凶。それをご老中の支配下にある我々火附盗賊改がどうやって裁けると言うんです? しかも我々だとて内心では今のご改革が目に余るものだと感じている。我々と押し込みとの間にさほどの隔たりはありません。どうすればいいのか、ほとほと困り果てました」
「おまえさんもご改革の反対派か」
「なにをいまさら。そうだからこそ仙波さんの手助けに回ったんじゃないですか。役目柄断じて口を慎んでいただけで町の者らの憤慨は当然のことと思っています」
「そうかね。最初に会った辺りは蔵の検分に結構張り切っていたように見えたぞ」
「このご改革に付け込んで銭儲けしている店と信じて疑わなかったんですよ。そういうやつらが一番汚い。今となっては見抜けなかったのを恥じています。近江屋はいかにも実直そうな主人夫婦でした。けれど、そういう顔をして陰で悪事を働く者をこれまで何十人と見ている。弁解になりますが……」
「いや、そいつはそうだ。顔や言葉で分かるなら易者を役人にすればいい」
「なんだかすっきりした。こんなことは他のだれにも言えない。例の札差の借財の一件のときだって内心では義憤を覚えていたんです」
「なんでだ?」
「死んだ親父はそれこそ生真面目な人間でしてね。武士が町人から金を用立てて貰うのを頑なに拒んでいた。それで母親は人に言われぬ苦労を……親父が病いに倒れたときは悲惨でしたよ。私はまだ十一の歳だったのでなんの頼りにもならない。縁者も私の家の貧しさを承知だから付き合いも薄い。夜明けから真夜中まで母は内職の仕立物に精を出して親父の薬代を都合していました。半年も寝込んでいた親父が亡くなったときは……なんとも情けない話ですが、ほっとしました。これで母が苦労を重ねずに済むと思ってね。母は私と違っていつまでも泣き暮らしていましたが、あんな思いはもうたくさんだ」
「………」
「けれど母はいつも言っていました。あれほど頑張ったのだから親父もきっと喜んで旅立ってくれたはずだ、とね。だれにも迷惑をかけず身軽な気持ちで親父は墓に眠っているに違いない。ですが……あの札差への通達がなされたとき……母は悔しさに泣きました。なんで呑気に遊び暮らしていた者たちにご老中は手を差し延べるのかと私に詰め寄って泣いた。あのとき札差から銭を用立てて貰っていたら親父は死なずに済んだかも知れない。そういう思いが爆発したんです。体が半分の軽さになるまで踏ん張った自分の努力がすべて無駄となった気がしたんでしょう。母が言うように私は他の者すべてが遊ぶ金欲しさに借財を重ねていたとは思いませんが、やはり理不尽なことだと思いました。借財を一気に解消してやれば武士が立ち直ると見てのことでしょうが、借財をせずに水粥を啜って耐えていた武士たちのことを忘れている。そういう武士だってたくさん居るんです。それなら借財をしていれば楽だったとだれもが感じたはずですよ。そして本当の武士が減って行く」
「減ってはおらぬさ。おまえが居る」
珍しく仙波は胸を詰まらせた。
「偉い親父さんとおふくろさんだな。本当にその通りだ。ご老中は政事《まつりごと》を全部帳簿の上で綺麗にしようとしてるだけだ。人がどんな思いで暮らしているか考えもしない。美味いものが食いたいのは当たり前のことさ。そいつを贅沢だと言って禁ずるのがおかしい。悪いことだとは思わねえから人は禁令の裏で食おうとする。自分が稼いだ銭なんだ。なにに使おうと勝手だ。しかし罪であるのも承知している。その瞬間からだれもが悪人となる。ご老中のご改革はつまりそういうことだよ。子供でさえきょろきょろと辺りを窺いながら砂糖菓子を慌てて食っていやがる。あれを見てるとやるせなくなるぜ。しかもこっちはそれを取り締まる側だったんだからな」
「気が付いているのは我らだけです。このまま捨て置くのがいいのでは?」
「押し込みをか?」
「捕らえたところで……それが本当ならご老中はろくな詮議もせずに押し込みらの口を塞《ふさ》いでしまいましょう」
「そいつを考えながら歩いていたのか」
「役目を外れたことではありますが……私はどうも気が向きません。いつもと違って怒りを感じなくなりました」
「俺の読みが当たっているかどうか、捕らえてみなきゃ分からんだろう」
「たぶん当たっているでしょう。確かに盗んだ銭では割に合わない。盗み以外に目的があるなら例の瓦版や壁に貼った札としか……騒ぎを大きくしてご老中の進退を危うくする考えと見るのが正しいと私も思います。町人は政事に一切関わることができない。そうなればこういう手段しかありません」
「むしろ続けさせてご老中が罷免されるのを待つのがいいってことか?」
「果たしてそこまで追い詰めることができるかどうかは疑問ですがね。そういう目的だからこそ手掛かりが得られないのと違いますか。だれもが押し込みを庇っているんです。なんの密告もないなんてあまりにも異常ですよ」
「それは言える」
「紙問屋も絵師も筆耕もすべてを承知の上で自ら手助けしているのかも知れません。そうなると押し込みは江戸の民全員とも言い換えられます。皆の気持ちを代弁している」
うーむ、と仙波は唸った。
「襲われた四軒の店は今まで以上に繁盛しているそうです。どうせ買うならあの店でと皆が言い合っているとか。それだってご老中への批判と一緒ではないですか。次に襲われる店があるとしたなら、その店は押し込みに喜んで銭を出すでしょう」
「まさかそこまではな」
仙波は笑った。
「冗談ではありません。例の菓子屋など客の列が絶えぬらしい」
「本当に奇妙な押し込みだ。福の神と同じか」
「さすがに近江屋は手代を殺されているので感謝はしておらぬでしょうが……客が押し掛けているのは確かです」
「だからと言って押し込みを見逃すようなら役人でなくなる」
「………」
「俺はいつ辞めてもいい覚悟だからおまえが見逃せと言うならそれでも構わないがな。おまえのような男まで辞めさせたら、それこそ世の中は真っ暗になろうぜ」
「買い被りです。私は未熟者です」
「いい役人になろう。お頭がおまえになにも洩らさないのは頼りにならないと見てのことではなかろうよ。先を大事に考えてくれているせいに違いない」
「そうでしょうか」
中山は照れた笑いをした。
「反対に言うなら、やはりお頭はおまえに口にできぬようなことをしてると言うことだ。寄場にしてもだ……この何日か様子を見させて貰ったが、遠巻きにしていたときとはだいぶ違う。罪の軽い無宿人は牢屋に押し込めるまでのことじゃねえ。だから寄場を拵えてそこに移し、まともな仕事を覚えさせる。立派な考えだ。これまではそう思い込んでいたが、あれは反対だ。押し込められている者たちの調書を眺めれば直ぐに分かる。今までなら二十叩きやそこらで牢から解き放たれていた連中がほとんどだ。なにも半年やそこら寄場に閉じ込めて置く必要もない。あれなら牢屋を増やしたのと変わらぬ。軽い罪で引っ張って寄場送りにすりゃ、重罪の裁きをつけたのとおなじさ。そうやって危ない野郎どもを町から一掃する。縄暖簾で一度だけ無料《ただ》食いした男が一年近くも出られずにいる。そんな馬鹿なことが考えられるか? それでもし逃げれば首を刎《は》ねられる。その上、自分の食い扶持は自分で稼がなきゃならぬ仕組みだ。まったく都合のいいやり方を思い付いたもんだ。お頭の考えということだが、恐らくはご老中がお考え召されてお頭の口から進言させたものだろう。ご改革の根本とそっくりだ。悪いことをするやつらを取り除けば悪は消えてなくなるということだな。これまでの御法では些少の罪では長く閉じ込められねえんで寄場を思い付いたんだろうよ」
「それについても薄々は首を傾げておりました。無宿人どもも寄場送りになる方を嫌がります。いつ出して貰えるか分からない。我らにすれば喜びそうなものと考えておりましたのに……」
中山は吐息した。
「解き放っていいものか決めるのはお頭一人に委ねられている。三月《みつき》の牢屋送りで済む者を十年でも縛り付けることができる。それなら最初から十年にすればよさそうなものだが、さすがに酔っ払って暴れただけの者を十年にはできまい。よく考えた仕掛けさ」
「それで寄場の人員が増える一方です。もしそれもご改革の一つであったとしたなら恐ろしい。私は今日まで疑いもしなかった。無料食いをするような者は、牢を出るとまたおなじことを繰り返しますからね。改悛《かいしゆん》させるのは正しい道だと思い込んでいた」
「とっくに悪いことだと承知してるさ。一年も寄場で鍋の直しをさせられていればな」
「連中はなぜそれを我らに訴えないんです。見回りのときにいくらでも口がきけます」
「訴えればさらに出るのがむずかしくなる。愛想笑いするしかなかろう。嫌な想像だが、わざと外に連れ出しているってことも考えられる。もし連中が外でなにかしでかせば火附盗賊改に責めが及ぶ。まだ安心がならぬと見ているからこそ寄場に閉じ込めておくんだぜ。そういう心配をしないわけがない。なのに三、四十人を小者の二、三人に預けて平気な顔だ。逃げろと言っているようなもんだろう。逃げれば今度こそ重罪人だ。見付けた途端に殺すことができる。それを狙ってのことではないのか? 寄場の方が島流しより恐ろしいって無宿人らが口にするのはそのことだ」
「私はとんでもない役目に関わっていたようです。なんだか心が塞いできました」
「それがご老中のご改革の怖いところなんだ。最初はだれにもありがたい改革に思える。いいことだとだれもが頷く。だが、ご老中の手をつけたことは、これまでだれもがまずいと知りながらなおせなかったことなんだ。人の性《さが》ってやつと深く繋がっていることばかりだ。無駄とは知りつつ人は綺麗な着物を着たがるし、金銀の細工物を欲しがる。たまには自分の暮らしと無縁な派手な芝居も見たかろう。人である以上、仕方のねえことなのさ。それを禁じられたら生まれた甲斐もない。俺はもともと贅沢には興味もないが、それは俺が決めることで、人に決められるものと違う」
「その通りです。ご老中は間違っている」
「俺も気が重くなってきたよ。こんな話をしたあとで、どうやってお頭の酌を頂戴すればいいんだ」
「行かないわけにはいきません。今夜は仙波さんを歓迎する宴です」
「分かっているから辛い」
そろそろ四谷が近い。仙波は苦笑した。
料理屋の二階の座敷にはすでに七、八人が顔を揃えていた。火附盗賊改の役宅である長谷川平蔵の屋敷から近い場所にある店だ。とっくにはじめていたようで部屋には陽気なざわめきがあった。
「おお、二人ともまずはこっちへ参れ」
平蔵が手招きした。皆も神妙になる。
「直ぐに寄場の方へ出仕して貰ったゆえ挨拶を済ませておらぬ者もあろうが、これが南町から預かった仙波一之進だ。脇田の話では相当なつわものらしい。出仕して日も浅いと言うに、ぶらぶらと好き勝手に出歩いている」
皆は爆笑した。その脇田の姿はまだ席に見当たらない。寄場からなので遅くなる。
「ご老中さまのきついお言葉もある。いずれ召捕方に加わって貰うことになろうが、しばらくは我慢してくれ。腕の立つそなたと脇田に任せておればなにが起きても安心」
言って平蔵は自分の盃を仙波に差し出した。仙波はそれに注がれた酒を飲み干して返した。平蔵も仙波の注いだ酒を旨そうに飲んだ。
「瓦版の一件だが、どうなった?」
平蔵は親しみの籠った口調で訊ねた。こんなことは奉行所では考えられない。少ない所帯とは言え、奉行に等しい地位にある。
「一応はあちらこちらに釘を刺しておきましたが……瓦版屋のしたこととは思えませぬ。あの者どもは儲からぬ仕事には手を出しませぬ。銭を取らずに撒き散らすことなどいたしますまい」
「ではだれの仕業と見る?」
皆が仙波の返事に注目した。
「まだ皆目見当もつきませぬ」
皆は大きく頷いた。
「蔦屋にも出掛けたそうだな」
「あれは別に睨みのあったことでは……蔦屋なれば紙や絵師のことでなにやら手掛かりが得られるのではと考えただけにござります」
「蔦屋もなにも知らぬと言ったか?」
「同業の者が裏に絡んでいるかも知れぬとは申しましたが、それ以上のことは……」
「あの男、食わせ者だ。睨みがあって近付いたのであるなら構わぬが、みだりに手の内を明かしてはならぬ。そなたは知らぬことゆえ致し方ないが、蔦屋の動きはだいぶ前から我らが探っておる。そなたが妙につつけばそれを悟られる恐れもある」
「なにを探っておりますので?」
「あんな不敵な真似をする者は江戸にも滅多におるまい。そなたもおなじ睨みかと思って鋭い者と見たが……それとも親しく付き合っているせいで目が曇っておるのか?」
「恐れながら……」
背筋にぞくっとしたものを覚えながら仙波は返した。
「承知しておるゆえに蔦屋ではないと睨み申しました。憚《はばか》りながら蔦屋であれば陰に回るような喧嘩を仕掛けますまい。だからこそ身代半減にまで追い詰められたので。手前は一年近い付き合い。性根を見極めておるつもりにござります」
「大塚、仙波はそう言っておるぞ」
面白そうに平蔵は口にして大塚を側に呼び寄せた。はじめて見る顔だが、丸顔で柔和な印象を受ける男だった。
〈これが前田と組んでいる大塚か〉
仙波は内心を隠して笑顔を見せた。
「蔦屋は見当違いと言うておる」
平蔵は小さく肩を揺すらせて大塚を見やった。大塚は顔色一つ変えずに、
「そうあって欲しいものですな。蔦屋が張本人であれば、またぞろご改革が追い詰めたと市中の騒ぎとなりましょう」
薄笑いを浮かべて続けた。
「我らとて好きで蔦屋を探っているのではない。蔦屋なら陰に回っての喧嘩などせぬとそなたは申すが、それならそれで結構。なれど、瓦版や貼り札が蔦屋なれば簡単に作れることも確か。他の版元はご改革を神妙に受け入れている。睨みを付けたとて不思議ではあるまいに。別に蔦屋一人に絞っておるわけではないぞ。付き合いがあると言うだけであっさりと信じ込むそなたの方が手前には分からぬの」
席に居並ぶ者たちも頷いた。
「奉行所勤めの者たちにとって、店との付き合いは格別なものらしい。盆暮れの付け届けで大層羽振りのいい者もおるとか。そなたはそういう者でないと噂を耳にしておるが、火附盗賊改に回されたからには店との関わりをこれまで以上に慎んで貰わねば困る。火附盗賊改は奉行所と異なり、大罪を扱うところ。温情などが罷《まか》り通る役目とは違うぞ」
「温情で申したのではござらぬ」
さすがに仙波は憮然となった。
「半減となったとて蔦屋の身代はまだまだ衰えておりますまい。わずかの銭欲しさに押し込みを働くわけがなかろうと存ずる」
「銭が目的とは限らぬ。例の瓦版はご老中さまと我ら火附盗賊改を名指しで槍玉に挙げておる。恨みとも取れように。我らを右往左往させて溜飲を下げておるのだ」
「はて?」
仙波は怪訝な顔をした。
「憚りながら、ご改革をおはじめになられたご老中さまについては、いかにも逆恨みをしておらぬとは限りませぬが、火附盗賊改にはなんの恨みがありましょうや? 恨むのであれば発禁を命じた奉行所に対してと心得まする。それとも手前の知らぬところで火附盗賊改が蔦屋を絞り上げてでもおりますので?」
「馬鹿な。そんなことはしておらぬ」
大塚は憤慨した。
「でござりましょうな。無宿人や火附け、盗賊の取り締まりが役目であって錦絵の版元などとは無縁のはず。それは蔦屋とて承知。なのに恨みを抱くなど考えられませぬ」
「ご老中さまへの恨みばかりで十分だ」
「そうであれば、死罪を覚悟で押し込みを働かずとも、いくらでも手があり申す。ご改革に異を唱える者らの言を集めて市中にばら撒いたとて結果はおなじことになりましょう」
大塚は唸った。
「ろくに裏を調べず、瓦版なれば錦絵の版元、版元とくれば蔦屋と繋げただけのことのように手前には感じられますが……」
仙波に言われて大塚は舌打ちした。
「むろん勘どころを利かせるのが大事。そのことで責めているのではござらぬ。しかし蔦屋は頭のよい男。まこと下手人であるなら、己れに直ぐ結び付けられるような瓦版や札を安易には用いますまい」
「仙波の勝ちのようだな」
平蔵は笑い声を発した。
「いちいちもっともな理屈じゃ。押し込みの狙いもまだ恨みと決まったわけではない。瓦版一つで蔦屋に絞るのは無理かも知れぬ。探りはほどほどにするがよい。十五人しかおらぬ召捕方のうちそなたと前田が蔦屋に縛り付けられていては勿体ない。小者に任せて別の方面にも手を広げるのじゃな」
ははっ、と大塚は平蔵に頭を下げた。
「寄場で遊ばせておくのは惜しくなった」
平蔵は仙波に目を戻して、
「押し込みのことでなにか思い付いたときは遠慮なしに儂に申せ。やはりそなたは儂らとは違う目で見ることのできる者らしい」
「無宿人に怪しい動きを見せておる者は一人もおらぬのでござりますか?」
「ない、と言ってもよかろうな。こんなことも珍しい。両国や浅草辺りに網を広げておけばたいがい妙な噂の一つや二つ聞こえてくるものだが……すべて押し込みには繋がらぬ。手慣れた者らに間違いないが、江戸では一度も仕事をしたことのない連中であろう。無宿人との関わりもないとしか思われぬ。その上、よほど結束が堅い。最初に人を殺したせいで、いずれも捕まれば死罪と覚悟しているのであろう。あの殺し……思えば奇妙。むしろ手下らに後戻りができぬと示さんとしてのことではないのかの。殺された手代はさほど騒ぎもしなかったと聞いておる」
曖昧に仙波は頷いた。殺された吉太郎が老中か火附盗賊改の手の者であったのはほぼ疑いがない。それについての疑念を逸《そ》らそうと図って口にしたように仙波には思えた。
「鬼という評判だったが……」
平蔵の印象はずいぶんと違う。散会となって中山と夜道を涼風に吹かれながら仙波は口にした。面倒見のいい親父と感じられた。
「容赦のないのは罪人に対してです。わずかの罪でも見逃しはいたしません」
「それでいながらご老中の悪だくみには諾々と従うというわけか。呆れたものだな」
「正しいと信じているのでしょうね。お頭も質素な暮らしを貫いておられるお人ゆえ」
「そうか? 俺の耳にした話ではご老中を手蔓《てづる》に出世を望んでいるということだったぜ」
「力がなくてはなにもできません。それもお頭の口癖。せっかく追い詰めた獲物でもご府内から一歩でも出られれば手出しができなくなります。その悔しさを何度となく味わっております」
「関八州《かんはつしゆう》見回りがそのために居よう」
「当てにできぬからこそ言うておるのです。その枷《かせ》を外すにはご老中のお力が……」
「自分の欲のためじゃないってことか」
「そう思いますが……」
少し自信を失ったように中山は言った。
「本気でご老中の改革がいいと思っているんなら始末に悪い。人の罪を憎みながら、自分はちっとも悪いことをしているとは思っちゃいねえ。かえって面倒だ」
「………」
「よくもまぁそういう二人が揃ったもんだ。銭で動いているなら攻めようもあるが、そうなると忠言も通じないってやつだ。正しい改革に抗う者の方が悪と決め付けていよう。世の中を悪に染める蔦屋なんぞ島流しにしたところで当たり前ってわけだな」
「そこまではどうか……」
「無宿人や押し込みだけじゃ物足りなくなったか。世の中にゃお頭の腹に据えかねる悪人がごろごろしてる。奉行所の連中はそういう野郎どもとつるんでいるように見えて仕方ねえんだろう。ご老中の改革は渡りに舟というもんだったに違いない。結局は武士《さむれえ》の理屈だ。武士が一番と思い込んでいるから疑いも持たねえのさ」
仙波は吐息した。
「脇田さんは見えられませんでしたね」
困った顔で中山は話を逸らした。
「あの人も真面目な人だ」
仙波はぽつりと呟いた。
「まさか脇田さんも信用ならないと?」
ぎくりと中山は足を止めた。側を流れる堀から蛙の声が急にはっきりと聞こえる。
「召捕方から外されて暇な寄場に移された人と見ていたが、寄場はお頭にとってどうやら大事な場所らしい。ついさっきも寄場を腕の立つ脇田さんに任せていれば安心だと口にした。それに脇田さんは俺の動きをあれこれお頭に伝えているようだ。寄場からの戻り道に役宅へ顔を出しているんだろう。脇田さんのお内儀はお頭の縁続きとか言ったな?」
中山は小さく頷いた。
「信用できる人間なればこそお頭は俺を脇田さんの下に回したのかも知れん」
「しかし……あの脇田さんが……」
中山は泣きそうな声になった。
「いつも呑気にしているじゃないですか」
「寿の字の一件にしてもだ……脇田さんなら先回りができる。寿の字が殺されたのは俺とおまえと脇田さんが歌麿《うたまる》や蔦屋と飲んだ夜のことだ。その昼に俺が寿の字の行方を探し歩いているのを脇田さんは承知している。寿の字が俺に捕まればまずいと思ったのかも知れん。飲んだ帰りに寿の字のところへ立ち寄ったことは十分に考えられる。それに……又三郎の隠れ家も脇田さんは知っていた。その調書を俺に見せてくれたのは脇田さんだからな。俺より先に出掛けておりよの櫛や手拭いを置いてくるのは簡単だろう」
「なんで脇田さんが歌麿の女房の櫛なんかを持っているんです!」
「だれかが持っていたのを置いたということも考えられる。なにもおりよ殺しに脇田さんが関わっているとは言っちゃいねえよ」
「お頭辺りからの命令ですか?」
「本当に脇田さんの仕業なら、まぁそういうことになるだろうな。脇田さんに命じることのできる人間は限られる」
「だったら歌麿の女房を殺したのが我らの仲間の一人だとはっきりするじゃないですか」
「そんなことは前から言ってるはずだ」
「お頭までそれを承知だなんて……」
中山は絶望した顔になった。
「江ノ島のこともそう考えれば辻褄《つじつま》が合う」
「なんのことです?」
「物陰にもう一人が潜んで居たと教えただろう。あのときなんで最初から三人で襲って来なかったのか。又三郎と寿の字で間に合うと見たんだろうが、危なくなったら普通は手助けに飛び出て来る。なのにさっさと引き揚げを命じた。俺はひょっとして奉行所に関わっている顔見知りじゃねえかと睨んでいたが、脇田さんでも一緒さ。あの頃はもう火附盗賊改に移ることが定まっていた。上の根回しが済んでいたんだ。そうなると直ぐに俺は脇田さんと顔を合わせることになる。間違いなく俺を殺せればいいが、もし取り逃がしたときは厄介となろう。それで撤退したと見ればどうだ?」
「私にそれを訊ねられたって……」
「脇田さんは寄場の監視役。又三郎が寄場送りになったとき顔を見知っている。又三郎を銭で雇うとしたら脇田さんほど都合のいい人間は居なかろう。そもそも、いかに元は武士と言っても又三郎が十日やそこらで寄場から解き放たれたのは妙だ。脇田さんやお頭の許しがなければ出られまいに」
「それは……その通りです」
「脇田さんは又三郎のことなんぞすっかり忘れてしまったような物言いだったぜ。そんなに古い話でもなかろう。おまえでさえ歌麿の描いた似顔絵を見て即座に寄場に居たことのある男だと断言した。毎日監視を務めていた脇田さんが忘れるとは考えられん」
「………」
「髑髏の根付はどうだ? 古参の脇田さんならお頭から頂戴しているはずだな」
諦めて中山は頷いた。
「全部が全部仕組まれていたということだ。俺の腕を頼りに火附盗賊改へ引き抜いたんじゃねえ。うろちょろして目障りだったんで自分の懐ろに抱え込み、しかも暇な部署でありながら、しっかりと目の届く脇田さんに預けたというわけだ」
「それで……どうするつもりなんです?」
不安な面持ちで中山は質した。
「とりあえずは脇田さんに気取られねえやり方で、こっちの推量が当たっているか確かめるしかねえだろう」
「そんなことができますか?」
「いつもならそんな面倒をせずに相手を締め上げるんだが、それをやれば身が危うくなる。どこまでお頭の息がかかっているか分からん。火附盗賊改を二十人も相手にしちゃ命がいくらあっても足りなかろう。だが、疑いをこのままにしてはいられねえ」
「確かに」
「と言って肝腎の方法がな……なかなかむずかしい」
「私は仙波さんと知り合ったのが禍《わざわ》いのように思えてきました」
中山は肩を落として口にした。
「脇田さんにはこれまでずっと世話になったと言うのに……辛いです。このまますべてを忘れてしまいたい気分です」
「なんの罪もない歌麿の女房を殺した仲間と分かってもか?」
「それを言われるともっと辛い」
「俺も脇田さんが嫌いじゃない。だからこそ早いうちに決着をつけたいのさ。こんな疑いを持ちながら毎日顔を合わせるのは気が滅入る。なにをすれば俺の話に得心する?」
「それは……やはり寿の字らとの繋がりです。それを殺《あや》めたのが脇田さんと決まれば……」
「ああいう連中だ。仲間が他に居てもおかしくはないな」
仙波は腕を組んだ。
「適当なやつを銭で雇って揺さぶりをかけて見るか。寿の字からいろいろと聞いていると言って脇田さんを呼び出せばどうだ?」
「もし当たっていればその男も殺されます」
「では寄場に書状《ふみ》を届けさせよう。それなら相手がだれか突き止められまい。そうして近くの神社にでも誘い込む。足を運べば思い当たることがあると白状したようなものだ。俺たちは遠くでそれを見守っていればいい」
「無縁であったとしても寿の字と関わりがあると分かれば出向く可能性があります。それが火附盗賊改の仕事ではありませんか」
「俺が側に居るんだぜ。そうなら書状のことを必ず俺に打ち明ける。俺が言っているのは、こっそりと出掛けたときのことさ」
「それなら疑いは強まりますね。仙波さんが寿の字を探っていたと知りながら抜け駆けはしないでしょう」
「まてよ……」
仙波の目が闇に光った。
「寿の字が殺されたという知らせはまだどこにも届いていねえな」
中山も頷いた。二人は死骸をそのままにして引き揚げたのである。一日やそこらで長屋の住人が見付けて奉行所に知らせると見ていたのだが、その様子はまだない。よほど付き合いのない男だったのだろう。
「今頃は届けられているかも知れんが、まだ死骸があそこに投げ捨てられているとしたら面白いことになる。その死骸が消えれば殺したやつの方が慌てよう」
「待って下さいよ。脇田さんに詳しい話をしていないとは聞きましたが、寿の字の死骸を見付けたことも黙っていたのですか!」
「ああ」
「ああ、って……それならだいぶ前から脇田さんを怪しんでいたとしか……」
中山は戸惑いを見せた。
「信用してるのはおまえ一人だ」
仙波は平然と応じて、
「これまではいいように扱われてきたが、今度はこっちが仕掛ける番だ。脇田さんが無縁なら寿の字が死んだとは思っておるまい。そこら辺りに仕掛ける工夫がありそうだ」
「死骸を奪うというわけですか」
「あの程度の血なら死んだかどうか決め付けられぬ。敵は口封じをしたつもりだろうが、生きていればまさに生き証人となる」
仙波は中山を促して寿の字の隠れ家を目指した。これから行けば真夜中となる。
作業小屋の見回りを終えて戻ると広い執務室には脇田が思案気な顔で胡座《あぐら》をかいていた。
「妙な書き付けを投げ込んで行った者がおる」
脇田は仙波の前に突き出した。
「上書きには儂の名があるが……いったいなんのことやら」
「拝見いたします」
仙波は複雑な思いでその書き付けを手にした。菊弥に頼んで仲間に届けさせたものだ。
「これは……寿の字からのものですな」
驚いた顔を作って仙波は唸った。
「夕刻に近くの稲荷に参れとあるが……どういうことかさっぱり分からん。寿の字はそなたが追いかけていたはず。儂とそなたを取り違えたものかも知れん。心当たりは?」
脇田は探るように仙波へ質した。
〈考え過ぎだったか……〉
安堵と失望の混じった吐息が出た。もし脇田が睨み通りの者であったとしたなら書き付けをこうして見せるわけがない。殺したはずの寿の字が生きていると知れば、必ず誘いに乗って、また仕掛けるであろう。
〈だが……〉
安心はできない。こちらの罠《わな》と見抜いた可能性とてあるのだ。
「寿の字となにがあった? 忙しさに取り紛れて忘れておったが、確かそなたと中山が寿の字の隠れ家を見付けたとか申していたの」
「関わりになってはまずいと思って伏せておりましたが……なにやらあの隠れ家で血腥《ちなまぐさ》いことが起きた様子……我らがそれを報告いたせば別の面倒にもなりかねぬと見て捨て置きました。知らせずともいずれ長屋の者が気付いて番屋に駆け込むに違いないと」
「どういうことだ?」
脇田は首を傾げた。
「夥《おびただ》しい血が畳に染みてござった。しかも新しいもの。よほどの深手と見てござる」
「死骸はなかったのか?」
「少なくとも部屋の中には……裏庭も一応あらためてござるが、人目についてはまずいと考え、即座に引き揚げ申した。あるいは床下辺りに投げ込まれていたとも考えられまする」
うーむ、と脇田は考え込んだ。
「襲われたのは寿の字と決め付けておりましたが、この書き付けを見れば無事らしい。となれば仲間割れとも思われますな。部屋には酒を酌み交わした気配もござった。喧嘩の果てに寿の字が刺して逃げたのかも」
「だとしても、なんで儂に会いたがる?」
「それは手前にもとんと。寿の字と会って問い質すしかありますまい」
「本当に参ると思うか?」
「書き付けを届けたのは寿の字の方。参らぬわけがなかろうと存ずる」
「そなたも同道してくれぬか」
「二人と見れば姿を見せぬかも知れませぬ」
「そのときはそのときだ。儂は寿の字などと無縁。誘われるいわれなどない」
「しかし……手前は捕らえとうござる。せっかく寿の字の方から近付いてくれ申した」
「………」
「中山と二人で先回りして稲荷の物陰に隠れておりましょう。ここは誘いに乗ったふりをしてお出掛け下されませぬか。あやつは手前の追っていることの裏を承知の者。捕らえて拷問《いたぶり》にかければ必ずそれを吐きまする」
「なんの罪で捕らえるつもりだ? いかに我らは火附盗賊改と申せ、闇雲に捕らえて拷問にはかけられまい」
「長屋の血の一件で名目は立ちましょう。責めは手前が引き受けますほどにお手助けを」
仙波は脇田に頭を下げた。
「分かった。夕刻には稲荷に出掛けてみよう」
仕方なく脇田も頷いた。
よかった、と中山は寄場の門を出るなり口にして満面に笑みを浮かべた。
「脇田さんに限ってそんなことをするわけがない。これでもう気にせずにやれる」
「まだ半々だ。安心は早い」
仙波は意地悪い口調になった。
「なんで半々なんです? 脇田さんが寿の字を手にかけたとしたら、仙波さんに相談を持ち掛けてはきませんよ。こっそりと出掛けて寿の字の命を狙う。仙波さんもそれを目論んで書き付けを届けさせたんじゃないですか。この結果でも疑わしいと言うなら、それは仙波さんの邪推としか言えません。脇田さんが怪しいと決め付けているだけだ」
少し憤慨して中山は言い返した。
「脇田さんは百戦錬磨のお人だ。それをうっかりと忘れていた。あれほどのお人なら寿の字の死んだのを間違いなく見届ける。一緒に酒を飲んでいたってことは余裕があったことにもなる。そこにあの書き付けが届けばどうなる? 死んだ者が書き付けを届けるわけがなかろう。だれかの罠と勘繰るに決まっているさ。問題は、だれが罠を仕掛けてきたかということになるが……その判断がつきかねて俺に探りを入れてきたのかもな。死骸が見当たらなかったと応じたら、なんとも複雑な顔をしていたぜ。そうなると寿の字の仲間が脇田さんを強請《ゆすり》にかかったとも考えられる。それで俺を誘ったのかも知れん。俺が一緒なら強請の男も今日のとこは引き揚げる。そうして次の連絡を待てば一緒だ。とりあえずは俺の仕掛けた罠じゃなかったと分かるわけだ」
「まったく……切りがない」
頷いて中山も暗い目に戻した。
「すると二人で寿の字の死骸を必死で運び出したのも無駄働きだったということですね。家に戻ったら母が臭いと言って騒ぎましたよ。腐りかけた死骸の臭いが染み込んでいた」
「無駄働きにはせぬさ」
仙波は苦笑いして、
「すでに菊弥に命じてある。寿の字の仲間のふりをした男が稲荷に現われる。我々が物陰で見張っていることを脇田さんは承知。俺の睨み通りだったとしても、いきなり切り付けはできまい。かと言って我々に捕らえられればこれまでのからくりが発覚する恐れがある。その板挟みでなにかぼろを出さんとも限らん。しかし、無縁の場合はのんびりと構えて我々にすべてを預けよう」
「あまり心地好い試しではありませんね」
中山は眉をしかめた。
「やっぱり仙波さんは相当に脇田さんを疑っているらしい。これで脇田さんが無縁で、試されたと分かれば激怒します」
「なにか気に入らねえんだよ。書き付けを届けてから俺にそれを見せるまで半刻《はんとき》以上はあった。その間、俺は作業小屋の見回りに出ていたが、その気になれば目と鼻の近さだ。俺が脇田さんの立場で、まったく無縁なら直ぐに声をかけて相談する。それが引っ掛かっているんだ」
「人それぞれでしょう。わざわざ呼び寄せて相談するほどのことでもないと見たかも知れません。どうせ見回りから戻るんですからね」
「それも有り得る」
仙波も認めて、
「だから半々と言った。だが、ここでもう一押ししなきゃ、それこそ昨夜の苦労を無駄にする。なんとか白黒をはっきりしねえとな」
「私は思い過ごしと見ましたね」
「だったらこっちも嬉しい。それも俺の本心だ。脇田さんを敵に回すのと味方にできるのとじゃ天と地ほど違う」
仙波は言って稲荷の鳥居を潜《くぐ》った。
だが──
それに思わぬ邪魔が入った。
稲荷の物陰に陣取って間もなく、境内に菊弥ともう一人が慌てて駆け込んで来たのである。名を呼ばれて仙波と中山は飛び出た。
「お役宅からのお呼び出しですぜ」
菊弥は困った顔で告げた。もう一人はその知らせを携えて来た男だった。
「これから召捕りがありまする」
男は中山に言った。
「中山さまが寄場に行かれたと知って、どうせ迎えに出るなら仙波さまもとお頭が申されました。直ぐに役宅の方に」
「俺もか」
仙波は中山と顔を見合わせた。
「大捕物のようにござります」
「分かった。先に戻っていろ」
中山は頷いて男を行かせた。
「参ったな。約束の刻限にはまだ早い」
仙波はぼりぼりと頭を掻いた。だが長谷川平蔵の呼び出しで、しかも召捕りの御用とあっては従わないわけにはいかない。
「まさか脇田さんが仕組んだわけじゃなかろうな? 俺たちを稲荷から追いやって好きにやるつもりかも知れん」
「いかになんでもそこまでやるとは……」
中山は首を横に振った。
「今日は取り止めだ」
仙波は菊弥に言った。
「脇田さんにはここに無駄足を運んで貰うしかなかろう。頼んだ野郎には稲荷に絶対近付くなと言っておけ」
菊弥は何度も頷いた。
「相手が姿を見せなければ今度は脇田さんが妙に思いましょう」
中山に仙波も軽い舌打ちをして、
「それなら俺が脇田さんにも言う。次の連絡があるまで知らぬふりをしよう、とな。なにしろ今夜は俺たちが居なくなる。脇田さんが無縁なら了解してくれよう。菊弥、おめえは残って脇田さんの動きを見張れ。それでも稲荷に向かうようなら怪しい」
「捕物の方の助っ人はいいんで?」
残念そうに菊弥は口にした。
「俺にまで声がかかったということは手強い相手とお頭が見ているってことだ。少しばかり槍の稽古をしたっておぼつかねえ」
仙波は一蹴した。
「しかし……昨夜の宴席では召捕りが近いという気配もなかったが……」
「いつものことです。垂れ込みがいつどこから舞い込んでくるか分かりません。勘が働けばお頭は即座に繰り出して捕らえる」
「ひょっとして例の押し込みか?」
「行ってみなければなんとも……お頭は召捕りの直前まで詳細を口にされぬことが多い」
「あの押し込みだったら辛い捕物になるかも知れん……」
「なんでです?」
「あるいは見知った野郎を捕らえることになるんじゃねえかと思ってな」
「だれのことです?」
「口にするのは止めとこう。出たとこ勝負だ」
仙波は諦めた顔をして歩きはじめた。
「二年前に姿をくらましたくちなわの銀蔵が一味を従えて江戸に舞い戻っているらしい」
皆が用意を整えて庭に集まると平蔵が縁側に姿を見せて伝えた。平蔵も皆と同様に鉢兜と薄い鉄の胴巻で身を守っている。
「くちなわの銀蔵にござりますか」
何人かが意外な声を発した。
「深川の船宿に六、七人で逗留しているようだ。確かな密告ではないが、賭けてみることにした。手口は異なるが、その人数であれば例の押し込みと合致する。外れたとしても銀蔵なれば捕らえる名目に事欠かぬ」
「銀蔵の仕業ではありますまい」
何人かが頷いた。
「銀蔵はわずかの銭で我慢いたしませぬ。むしろ押し込みに便乗するつもりでは? 我らが手薄となっているのを承知のはず」
「まこと銀蔵かどうかも分からぬゆえ今夜は数を集めた。この人数でまず船宿を取り囲んでから踏み込む。向こうが手出しをするまで断じて刀は用いるな。一両日様子を見てからとも考えたが、銀蔵はすばしこい男。もし見張りに気取られでもすればまた取り逃がす」
平蔵は念押しすると出動を命じた。
〈くちなわの銀蔵か〉
仙波にもむろん馴染みの名だった。二軒の大店《おおだな》に押し入り、それぞれで三百両以上の銭を奪い、合わせて三人を殺している。火附盗賊改は結局捕らえることができなかった。なんとも腑甲斐無いものよ、と感じたのを仙波は思い出した。もっとも、用意周到だったのも否定できない。銀蔵は手下を半年も前からそれらの店に潜り込ませ、金の隠し場所や逃げ道を入念に見定めておいて踏み込んだのである。そして続けざまに二軒を襲うと、ふっつりと姿をくらました。恐らく上方にでも逃れたのであろう。そうなると火附盗賊改も手が届かない。
〈違うだろうな〉
そうした連中が二年ぶりに戻って、二、三十両の仕事に手をつけるはずがない。だが、密告が正しければ大捕物となる。馬で先頭を進む平蔵に早足で従いつつ仙波は軽い身震いを覚えた。中山も無言で歩んでいる。
「思ったより大きな宿だの」
平蔵は船宿を遠目にして苦虫を噛み潰した。それに庭も広そうで囲むには骨が折れる。こちらの数は小者も合わせて二十五人。少なくとも一味は六、七人と言うのだから踏み込む数もそれに合わせる必要がある。となると二十人足らずの包囲網だ。しかも小者の十二人が当てになるかどうか……全部を取りこぼしなく捕らえるのはむずかしそうである。
平蔵はてきぱきと指図をはじめた。
「仙波、そなたは裏手の舟留めを固めてくれ。庭にも三、四人踏み込ませるゆえ川までは逃れられぬと思うが、もしやということもある。一人で心配ないか?」
「そこまで逃れて来た場合には斬り捨てても構わぬ理屈となりまするか?」
「致し方あるまい。銀蔵の一味でなくとも我らの下知《げち》に逆らうからには裏のある証拠」
平蔵は許した。
仙波は裏手に回ると大きな舟留めを点検して回った。七、八隻が舫《もや》っている。いざというときは舟を繋いでいる綱を断ち切ればいい。それで敵も舟が使えなくなる。
〈さてと……〉
舟留めへの出口が見える場所に陣取って仙波はのんびり待ち構えた。そろそろ平蔵が正面から乗り込む頃合である。銀蔵たちの腕がどれほどのものか知らないが、二、三人なら案ずるまでもない。仙波は刀身を三寸ほど引き抜いて指を握りに馴染ませた。ほとんど腰の飾りにしかなっていなかった刀だが、このところやたらと抜く用件がある。
闇に騒ぎが持ち上がった。
激しく階段を上り下りする音や怒号が響き渡った。仙波は宿に目を動かした。二階の窓から飛び下りる影がいくつか見えた。屋根瓦の割れる音もする。さすがに仙波も落ち着かなくなった。どうやら十人近いらしい。
庭を走る気配がある。
「来るな」
仙波は思わず声にして刀を抜いた。板塀を乗り越えて三人の影が目の前に下り立ったのはそれから間もなくだった。
仙波は手近の舟の綱を切って回った。舟を蹴って川に押し流す。
「くそっ、待ち伏せか!」
三人は流れて行く舟を悔しそうに見送ると仙波を取り囲んだ。
「浪人者か?」
手にしている刀を見て仙波はぎょっとなった。三人はじわじわと囲みを縮めた。
十一
〈なんでこんな連中が……〉
反対に仙波は狭い渡し場に追い詰められた形となって内心で舌打ちした。舟を流してしまったので逃れるには川へ飛び込むしかない。
〈くちなわの銀蔵の一味と違うな〉
浪人者が仲間に加わっているなど一度も耳にしたことがなかった。だが、だれであろうと火附盗賊改の囲みと知りながら刀を抜いて逃亡を図った連中である。板塀の向こうの庭の中から派手な斬り合いの音が聞こえる。これでは手助けが駆け付けて来そうにない。仙波は覚悟を定めて三人と向き合った。
逃げるには辛い場所だが、逆に戦うには好都合な場所でもあった。この狭さでは一人ずつしか踏み込んで来られない。敵もそれを悟ったらしく渡し場から川端へと後退した。
〈なかなかやるな〉
仙波は小さく吐息した。そうなればこちらも逃亡を牽制する形で道へ出ると見たのだ。
仕方なく仙波は一気に土手へ駆け上がった。
斬り合いに慣れている連中らしいのは腕に震えがないのを見るだけで分かる。仙波は必死で心を鎮めた。こっちの動転が見透かされれば敵は容赦なく襲って来るだろう。敵も仙波の腕がどれほどのものか見定めているのだ。道場でなら楽に戦える相手と感じたが、実戦となると油断がならない。しかも三人。まともなやり方なら間違いなく地面に転がるのは自分の方だ。
〈しかし……〉
なんだってこの連中はさっさと逃げようとしないのだろう。完全な包囲と見て、たった一人の自分のところを突破するしかないと見たのかも知れないが、焦りがあまり見られない。それが不思議だ。
〈いかん、いかん〉
仙波は余計な考えを振り切った。試合のときはなにも考えず竹刀《しない》の動きばかりに集中しろと常に言い聞かされてきた。その基本をすっかり忘れている。仙波は三人の切っ先をじっくりと見つめた。次第に落ち着きが戻る。
「どうしてもやると言うんだな」
仙波は正面の男に低く質した。
「これまでになにをしでかしているか知らんが、火附盗賊改を敵にしても構わんということか。それなら遠慮はせぬ」
「たった一人で勝てると見ておるのか」
正面の男は鼻で笑った。
「貴様ぐらいは道連れにできるさ」
仙波も笑って前に足を進めた。とりあえず正面の男しか仙波の頭にはない。この男が纏めと見当をつけている。心の揺れはいつの間にか薄れていた。一対一と思い込めば道場の試合と変わらない。
「こやつ、相当にできる」
右脇の小柄な男が案じて口にした。
「三人だ。負けるわけがない」
「だろうな。だが一人は殺す。おまえだ」
仙波は切っ先を正面の男に突きつけると、
「夜盗に身を堕《おと》した武士なんぞに敗れちゃ俺の名が廃《すた》る。俺が引導を渡してやるよ」
「見損なうな!」
左の若者が激怒の形相で突進して来た。仙波には願ってもない形となった。若者が前に出たので残りの二人は動きが取れない。
「はうっ」
仙波は迷わず右に躱《かわ》した。足速に真っ直ぐ飛び込んでくる相手の攻撃は突きか上段からの振り下ろししかない。横への払いをするつもりなら腰を屈めて迫る。だから仙波も難無く逃れられたのだ。仙波は突きの体勢のままの相手の脇を擦り抜けざま、隙を逃さず刀を下から上へと思い切り払った。手応えが確かにあった。脇腹から背中にかけて斬り裂いたはずである。若者はどうっと前に転がった。仲間の二人は驚愕して仙波から離れた。悶《もだ》えていた若者の呻きがやがて聞こえなくなった。
「野口!」
小柄な男は震え声を発した。
「仕掛けてきたのはそっちだ。悪く思うなよ」
手加減などできる状態ではなかった。仙波は後味の悪さを覚えつつ、また身構えた。
「おのれっ」
小柄な男が闇雲に刀を振り回して斬り込んできた。気持ちが乱れている。
「落ち着け!」
その仲間の叫びも聞こえていない。仙波は後退すると見せ掛けて仲間から切り離した。これで二人に挟まれる形は避けられた。
こうなると小柄な男だけを相手にすればいい。仙波に余裕が生まれた。一人ずつなら自分の腕の方が上なのは分かっている。
「貴様! よくも野口を」
刀が風を切って仙波の鼻先をかすめた。鋭い振りだった。仙波に冷や汗が噴き出た。まともに受ければ刃こぼれしてしまう。仙波は峰を下に持ち替えた。厚い峰で受け、そのままの勢いで顔面辺りを粉砕するしかないと判断したのである。相手が鋭い振りを頼りとしているのは明らかだ。
暗闇で峰を下に握り直したことに気付かぬ相手は仙波の誘いに乗って奇声を発しながら地面を蹴った。頭上で一閃する。
ぎいいん!
鉄と鉄とがぶつかり合って激しい火花が散った。刃こぼれした鉄片が仙波の頬に突き刺さる。痛いより熱い。しかし仙波は踏み止まった。堪えるのが精一杯だった。地面を蹴った相手の勢いに負けて、撥ね返すどころではない。仙波の踵《かかと》が湿った地面に食い込む。
「あやっ!」
仙波は刀を押し戻した。その瞬間、相手の刀が割れた。ぎんっ、と折れるというより割れた音を立てた。急に自分の腕が軽くなる。狙ったわけではないのに仙波の刀は抑えを失って相手の額を直撃した。刃の側ではないとは言え、峰は額に深々と食い込んだ。夥《おびただ》しい血が噴出して仙波の顔を襲った。
仙波は慌てて食い込んだ刀を外しにかかった。が、離れない。もう一人の男が察して駆けてくる。仙波は相手の腹を蹴り付けた。ようやくその反動で刀が外れる。相手は血反吐《ちへど》を溢れさせながら仰向けに倒れた。額を割られたときから意識をなくしていたのである。
「くそっ!」
仲間二人を失った男はさすがに動転の声を放った。草履《ぞうり》を脱ぎ捨てて裸足《はだし》となる。
「もはや勘弁せぬ」
「なんのことだ。襲ったのはうぬらだぞ」
仙波は息を整えつつ見やった。囲んだのは確かに自分たちだが、有無を言わせず仕掛けてきたのは三人の方である。
「貴様の腕を侮っていたらしい。だが、俺の方が上だ。運で勝っただけのことよ」
相手は慎重に間合いを詰めてきた。
「もう逃げられぬ。諦めろ。宿の騒ぎも静まった。じきに仲間がここにやってこよう」
「その前に貴様を地獄へ道連れだ」
気にせず相手は迫った。いかにも倒した二人とは格段に腕が違う。仙波はじりじり後退した。二人とやり合った疲れもある。腰ががくがくとして定まらない。腕も重くなっていた。一度握っている指を放して柄《つか》を持ち替えたいところだが、その指にも感触がなくなっている。柄巻きに食い込むほどがっしりと握っていたせいだ。こんな状態で勝負するには相手が悪過ぎる。木刀での試合でも三人以上と続けざまにやり合ったことはない。口先だけの無宿人を相手にするのとはわけが違う。
〈これが限界か……〉
仙波は半ば諦めていた。てっきり立ち去ると見たのに相手も死ぬ気らしい。そうなれば自分に分がないのは明白だ。宿の方は治まったようなのに、この三人が逃れたのを知らぬのか庭の声も聞こえなくなった。
〈それなら……〉
なにもかも忘れて挑むしかない。仙波は吐息を一つして突きの形を取った。相手は右に構え直して避ける姿勢を取る。
「俺は仙波一之進と言う」
「墓でも建てて貰いたいのか」
相手は薄笑いを浮かべた。
「名乗る気はねえのか」
「名などとっくに捨てている」
「それじゃ倒してからあらためるしかねえな」
「せいぜいほざけ」
相手は一歩踏み込んでみせて仙波を誘った。
ぐっと仙波は抑えた。抑えて、相手の気が緩むのを待つ。相手は退いて間合いを取るべきか悩んでいるらしかった。爪先にその躊躇が感じられる。正面から突くつもりだった仙波は迷いながら飛び出した。仙波は頭から相手の足元に転がった。自分でも思いがけない攻めだった。いや、攻めとは違う。恐怖心が体を縮めたとしか言えない。待っていた相手の刀が仙波の髷《まげ》の上を空振りした。仙波は必死で刀を払った。切っ先が相手の腿をすぱっと切り裂いた。相手は傾きながら刀を突き立てた。辛うじて仙波は横に逃れた。ごろごろと土手を転がって攻撃を避ける。相手はどこまでも追ってくる。傷付いた脚とは言え、やはり相手の方が速い。
〈終わりか……〉
立ち上がる余裕さえない。このままではどうしようもない。
と思った瞬間──
仙波の体が宙に浮いた。なにが起きたのか分からなかった。
仙波は冷たい川に落ちていた。慌てて半身を起こす。水は腰までしかなかった。相手も躊躇なく川へ飛び込んできた。
しかし、これでまた五分と五分。
「しつこい野郎だな」
仙波はほとほと呆れた。腿の傷はだいぶ深いはずである。仲間の仇にしても尋常ではない。
「てめえが盗っ人の頭というわけじゃなかろう。命を捨てることもあるめえに」
「今はこの勝負が面白い」
水を押し退けて相手は接近した。仙波は刀を水に沈めて見えなくした。それでなくても闇が見えにくくしている。仙波は右手の握りを解いて左手だけで刀を持った。それが相手には気取られていない。
激しく水を掻き分けて右に回り込む。
相手も追ってきた。
仙波は水の中で思い切り伸ばしていた左手を持ち上げた。刀の切っ先は相手の喉元近くまで達していた。相手は仰天した。右に握っていると見て間合いを読み違えたのである。仙波はさらに左腕を突き出した。切っ先は相手の喉を抉《えぐ》った。わずか斬り裂いた程度だが、致命傷となる。相手は自分の刀を捨てると喉を押さえた。血が指の隙間から噴き出す。
「き、貴様……」
その叫びは直ぐに聞こえなくなった。相手はゆっくりと川に倒れ込んだ。水《みず》飛沫《しぶき》が仙波の顔にまでかかった。
静かに男の死骸が流れて行く。
それを引き寄せる余力は仙波にない。水を吸った衣が重くて身動きができない。
仙波は水の中で立て膝をついた。
三人を相手にして勝ち残ったなど自分でも信じられない。全部が運だったとしか思えなかった。戦いを反芻《はんすう》しても、よく分からないのである。最初に若い男が一人で斬り込んできてくれたのが運の分かれ目だ。じわじわと三人が間合いを詰めてきたら防ぎようがなかった。仙波は気力を振り絞って水から立ち上がると、何度も滑りながら土手に上がった。このまま寝てしまいたいほどくたびれている。本当に仙波は土手にしばらく転がっていた。
耳に土を踏む何人かの足音が聞こえる。
まさか敵ではないだろう。
敵であったとしても仙波にはもはや抗う気力などない。
「仙波さん!」
中山の声と分かって仙波は安堵した。薄目を開けて確かめる。中山が三、四人の小者を引き連れて駆け寄ってきた。
「無事でしたか……」
泣きそうな顔で中山が仙波を見下ろしていた。仙波は頷いて半身を起こした。小者たちにも笑顔が浮かぶ。
「三人とやり合った。一人は川に流れた。もう二人の方はどうだ?」
「どちらも絶命しています」
「くちなわの銀蔵とは違ったらしいな。こんな浪人者が混じっているとは聞いていねえ」
土に胡座《あぐら》をかいて仙波は言った。
「とんだ見込み違いでした。この船宿が賭場になっていたんです。一財産巻き上げられた者が腹癒《はらい》せに銀蔵が居ると垂れ込みを……」
「するとあの浪人者は雇われの用心棒か?」
「分かりませんが、恐らくそんなところでしょう。まさか裏に逃げたとは思わなかった。小者ばかりと見て我々も油断しました」
面目なさそうに中山は謝った。平蔵の側に居て船宿の主人を問い詰めていたと言う。
「他に裏のある連中だろう。でなきゃあんなに必死で刀を振り回しちゃこねえ」
重い腰を上げて仙波は二つの死骸の検分にかかった。ざっと懐ろをあらためた限りでは身元を明らかにするものが一つも見られない。
「若いやつの名は野口と言っていた。それだけじゃ突き止めるのもむずかしそうだが……船宿の主人に質せばなにか知れるだろう」
「しかし……武士を三人倒すとは」
中山は何度も溜め息を吐いた。
「命のあるのが不思議なくらいさ。火附盗賊改に回されたのを悔やんでいる」
「なんにしろ凄い。見たかった」
「二人ならこいつらも逃げただろうぜ。俺一人だったんで囲みを破れると踏んだんだ」
仙波は苦笑いした。
「あのお三人は夜になってからはじめて顔を見せたお人らで」
船宿の主人は仙波に怯えた顔で応じた。
「おまえが雇った連中じゃねえと?」
「とんでもございやせん。近所の船頭らを集めてのちっちゃな賭場にございやす。ご浪人を三人も雇うようなもんじゃ……」
「すると賭場の客か?」
「少しは遊んでおられやしたが……」
「隠したって直ぐに分かることだぜ」
仙波は睨み付けた。主人は青ざめながらも激しく首を横に振った。
「もうよい。子細は役宅にて問い質す」
戻りの支度をはじめた平蔵が現われて仙波と中山に声をかけた。当てが外れて平蔵にも疲れの色が見える。
「捕らえた無宿人の四人ばかりを残し、他は解き放て。船頭らはどうでもいい」
平蔵は不機嫌な顔で配下に命じた。
「はじめにきちんと用向きを口にしたのであろうな?」
平蔵は仙波を冷たい目で見据えた。
「刀を抜いていたと言うのもまことか?」
「それゆえ舟の綱を断ち切りましてござる」
「他の者らはわずかの抗いで済んだ。どうにも分からぬ。なぜ手加減せなんだか?」
「でなければ手前が死んでおります」
「賭場で遊んでいただけの浪人者を三人も手にかけたとあってはあとがうるさい。必ずや裏のある者どもであろうが……身元が明らかにならぬとなれば面倒ばかり残る」
「斬り捨てても構わぬとのお言葉で」
「分かった。儂にも責めがある。この始末は儂がつけよう。そなたは忘れろ」
「調べは無用と言うことで?」
仙波はその言葉に眉をぴくりと動かした。
左門は真夜中に拘わらず仙波の戻りを寝ずに待っていた。火附盗賊改に移ってはじめての大仕事と言ってもいい。結果を気にしていたのだろう。捕物のことは先に帰った菊弥から耳にしている。
「浪人者三人を斬り捨てたとは穏やかではないの。無事に済んだは目出度いことだが、さすがに火附盗賊改の仕事はきつそうだ」
その割りにはにこやかな顔で酒を勧める。
「どうもお頭の様子が解せませぬ。斬っても構わぬと命じたのはお頭」
「くちなわの銀蔵の配下であればの話であろう。面倒になったとお考えになっても不思議ではなかろうが……まぁ、疑うつもりになればそうとも取れる」
「そう、とは?」
わざと仙波は質した。
「お頭がそなたを襲わせたということじゃ」
「やはり親父どのもそのように」
「分からんぞ。なんとも言えぬ。もしもそうであれば巧妙なお人だの。捕物の最中に殺されたとなればだれも文句はつけられぬ。まことくちなわの銀蔵であったなら疑いもせぬが、さもない賭場であったのが気に懸かる。しかもその浪人者の正体も知れぬ。半々と言うところじゃの。これだけ押し込み騒ぎが続いていては、お頭が垂れ込みを頼りにするのも分からぬではない。些細な動きも見逃しはすまい。罠とは決め付けられまいに」
「浪人者の始末もお頭がご自分で付けられると申されました」
「それも当然であろう。斬り捨てても構わぬと命じておきながら、そなたの責めにはできまい。お頭はむしろ庇ってくれたのかも」
「そこがむずかしい判断にござりますな」
仙波は苦い顔をして杯を口に運んだ。
「浪人者の素性を確かめる手はないのか?」
「一人の名が野口と分かっているばかりで他はなに一つ。はじめてあの船宿に姿を見せた連中だと主人も申しておりました」
「火附盗賊改と知りながら襲うとはよほどの理由《わけ》があるに相違ない。その者らはおまえと承知で襲って来た様子だったか?」
「そこはなんとも……いきなり斬り合いとなりました」
「殺された寿の字も浪人崩れ。寿の字との繋がりでも出てくればお頭の仕組んだ罠と定めてよかろうが……今の話だけでは無理じゃ。今夜は初手柄と割り切って祝うしかあるまい」
「祝う気分にはなれませぬ」
「一夜にしてそなたの名が火附盗賊改に鳴り響いた。ようも凌《しの》いだものよな」
「まったくで」
菊弥もにこにことした。
「もう一つ解せぬのは……」
仙波は小首を傾げて、
「罠としたらあまりにも動きが早過ぎるような……恐らくは寿の字の一件でお頭が慌てたとしか思えませぬが、それを手前と中山が仕掛けたのは今日の昼のこと。捕物の召集があったのはそれから二刻と過ぎておりませぬ。脇田さんは一歩も寄場を出てはおらぬはず。お頭に使いを出した様子も見られませなんだ。手前も気にして見張っておりました」
「別の見張りがおるかも知れん」
「にしても、寿の字の詳細は掴めますまい。奇妙な動きをしたとしか思わぬと存ずる。その程度のことであそこまで思い切った手を打ってくるとは……」
「であるならやはり罠とは違うのであろう。二刻で寄場と四谷の往復はきつい。仮に脇田どのがなんらかの方法でお頭に伝えたとしても、即座に捕物の段取りを整えて寄場のそなたに召集をかけねば間に合わぬ理屈じゃ」
「でございましょうな」
「疑心暗鬼はすべてを取り込む。これが続けばなにもかも信用できなくなるぞ。それよりは明日のことをどうするかだ」
「こちらも少し様子を見るのがいいのでは」
「それはそなたの考えで構わぬが、寿の字の死骸はどうする? いつまでも裏の小屋に放り込まれては迷惑。幸い菊弥がおるからお光に家の手伝いを頼まずに済んでいるが、あの臭いは隠されぬ。そのうち騒ぎが持ち上がる」
「別の場所に埋め戻すのがよろしいかも知れませんな。今夜にでもやるか」
仙波は菊弥に言った。しかめっ顔《つら》で菊弥も頷く。それでも間近の小屋にあるよりは心が軽くなる。
「どこに隠すより我が家の小屋が安心なのは確かだが……まったく奇妙な策ばかり思い付く。死骸を運んで来たときは呆れたぞ」
「脇田さんが今一つ分かりませぬ。それも悩みの種子。寿の字からの呼び出しを受けても平然としており申した」
「悪い男ではないはずだが……それとて当てにはなるまい。ご老中のご改革が正しいと思い込んでおれば罪の意識などあるまいからな」
それに仙波も大きく頷いた。
「少し間抜けのふりをするのも大事じゃ。今度の一件、もし本当にお頭の仕掛けたことなら危ない。そなたが疑っていると分かれば別の者を雇って襲わせよう。三人で駄目なら次は五人。そうなっては防ぎようがない」
「………」
「やれるかどうか分からぬが、浪人者の素性は春朗に探らせる。あの者は裏に通じておる」
「ではお任せいたします」
「そう言えば今夜蔦屋の使いが参った」
思い出したように左門は口にした。
「歌麿《うたまる》が箱根に出掛けるので別れの宴を開きたいと言ってきた。儂も招かれた」
「いつでござる」
「明日の夜だ。おこうも来るそうな」
「明日なれば大丈夫と思いますが」
「たまには気晴らしをしよう。おこうを見ていれば心楽しくなる。あれはいい娘だ」
「娘という歳ではありますまい」
「そなたのような無粋な男には勿体ない。おこうがおまえに惚れているらしいのが不思議でならぬ」
「また呑気なことを」
仙波は思わず吐息した。
翌日の夕方。
仙波は寄場から真っ直ぐ両国に出向いた。
左門は先に菊弥が案内しているはずだ。
〈しかし、なぁ……〉
今日一日、ずっと脇田の様子を眺めていたが、どうにも判断がつかない。脇田は仙波の言葉通り神社に足を運ばなかったらしい。その上、昨夜の手柄を脇田は手放しで喜んでくれた。自分が仕掛けた罠であったとしたら多少は顔に表われそうなものである。
〈見込み違いとしたらどうなる?〉
その先の見当がまるでつかない。
思案顔で人込みの中を歩いていた仙波を呼び止める声がした。振り向くとおこうが嬉しそうに手を振った。
「なんです、むずかしそうなお顔で」
「おまえもこれからか?」
「まさか。こんな身形《みなり》で席に出られるもんですか。直ぐに着替えて伺います」
おこうはさっぱりとした衣を着ている。宴席で見るより若い。確かに娘だ。
「親父が心待ちにしていたぜ。ひさしぶりにおこうの顔が拝めるってな」
「私も。仙波さまよりずっと楽しい」
「ご挨拶だな。こっちは面倒を抱えっぱなしで笑い顔なんぞ忘れちまったよ」
「昨日は大変なお手柄だったとか」
「なんでそれを知ってる?」
仙波は足を止めた。
「仲間内では評判ですよ。私も鼻が高い」
「評判だと? だれが広めた」
捕物騒ぎについては周辺の目があるので隠しもできないが、だれが浪人者を殺《あや》めたかは外に洩らさないことになっている。
「南町のお人から耳にしたとか」
「しょうがねえな」
仙波は溜め息を吐いた。賭場には商家の者も多く出入りしていたので南町に後処理を頼んでいる。恐らく安井辺りが聞きつけて吹聴したものだろう。船宿の者に仙波は名を明かしていないが、向こうは最初から仙波のことを知っていたとも考えられる。深川界隈は仕事でしばしば見回っていた場所だ。
「昨日の一件はまだ裏が取れていねえ。下手な騒ぎになりゃ厄介だ。それ以上広めねえように口止めしといてくれ」
そうですか、とおこうは素直に頷いた。
座敷の襖を開けると皆が笑顔で迎えた。上席で歌麿と並んでいる左門も困った顔をしている。蔦屋は自分のとなりの席を勧めた。
「大変なお働きだったようで」
「お頭からその件は口にするなと言われている。向かって来たんで仕方なくやり合ったが、果たして殺すまでの相手だったかどうか」
仙波の返答に蔦屋は意外な顔をした。
「言っても聞かぬ連中だった。やらねばこっちがやられる。俺にすりゃただそれだけのことだが……連中の身元次第によってはただじゃ済まなくなろう。とんだ藪蛇《やぶへび》さ」
「しかし火附盗賊改と承知の上で襲ったとあれば非は明らかでござりましょう」
「くちなわの銀蔵の一味でもあの賭場に居ればそれで済むだろうが……しょぼくれた賭場でな。それに二十五人もの数で踏み込んだ。それも問題とされよう。勇み足だよ」
「さようにござりましたか」
蔦屋は複雑な顔をした。
「押し込みが続いて火附盗賊改はぴりぴりしてる。普段なら確かな裏を取ってから踏み込む。滅多にあんな失策はすまい」
「それでも浪人者三人と一人でやり合って勝ったのは間違いないんでございやしょう?」
歌麿が質した。
「なんとかな」
「江戸では堀部安兵衛以来のことだと快哉を叫んでいる者までおりますよ」
「冗談じゃないぜ」
仙波から冷や汗が流れた。そこまでとなるともはや噂を消すなど不可能である。
「押し込みも仙波さんのようなお人が火附盗賊改に居ると分かっては鳴りを静めましょう」
「だといいが」
仙波は歌麿を真っ直ぐ見詰めた。
「おこうはまだか」
蔦屋は酌に現われた仲居に訊ねた。
「おこうなら表通りで会った。直ぐに来る」
代わりに仙波が教えた。
やがておこうも姿を見せて賑やかな席となった。おこうが舞いを披露する。きびきびとした舞いだった。片足を上げて一瞬静止する形がぴたりと決まって動かない。左門はいつまでも拍手を贈った。
「武芸に通じるものがある」
舞い終えて酌に回ったおこうに左門は感心した顔で言った。
「槍を学ぶ気はないか?」
「よせよせ。親父はそうやって家に招いて酒の相手をさせる気だ」
「菊弥などより筋がよさそうだ」
うへっ、と菊弥は頭を掻いた。
「槍は剣よりもしっかりと腰を据える。舞いにも無駄とはなるまい」
「これ以上勝ち気になっては客が寄り付かなくなりましょう。おこうにも迷惑」
二人の真面目なやり取りに歌麿は苦笑した。
脇田からの使いが駆け付けたのはそれからしばらくしてのことだった。仙波は廊下に出て用件を聞いた。
「押し込みが出たと言うのか」
それで酔いが急速に醒める。今夜の酒宴の場所は一応脇田に知らせていた。左門と菊弥も一緒なので家にはだれも居なくなる。なにかことが起きたときは連絡がつかない。
「役宅から仙波さまにも馳せ参じるようにとのご命令にござります」
「場所と店は?」
「本石町の古着屋で」
「それなら大して離れちゃいねえな」
頷いて仙波は使いの者を帰した。
「おこう、済まねえが親父に駕籠を頼んで家まで送り届けるよう言ってくれ」
席に戻った仙波はそれから菊弥を促した。
「せっかくの席だが中座しなくちゃならねえ用件ができた」
「また押し込みかなにかで?」
蔦屋は頷きつつ質した。
「おなじ連中かどうかまだ分からんが、わざわざのお呼び出しってことはそうなんだろう」
「ご苦労なことで」
「俺も歌麿のようにのんびり湯にでも浸《つ》かりたい気分だよ」
仙波は笑って座敷を後にした。
〈ってことは、歌麿の睨みも外れか〉
急ぎ足で向かいながら仙波は苦笑するしかなかった。今夜の宴席のことは昨日から決まっていた。もし歌麿が押し込みに絡んでいるとすれば延期を命ずるに違いない。
〈近頃頭がよく働かなくなった〉
それでも安堵した部分もある。
〈考えてみりゃ、歌麿の裏を少しも取っちゃいねえ〉
ただ漠然とした疑いを持っていただけに過ぎない。調べるのがなんとなく躊躇されたところもあるが、いつもの自分らしくないと仙波は思った。疑われていた歌麿こそ迷惑というものであろう。
〈これで歌麿が箱根に籠っている間に押し込みがまた起きれば無縁と定まる〉
今度こそ遠慮なしに動けるはずだ。
「なんだって古着屋なんですかね?」
ようやく酔いが薄れたらしく菊弥が言った。
「古着屋こそご改革のいいとばっちりだろうぜ。人の着古したもんでも絹や錦は禁制に触れる。蔵にゃそういう品物が唸ってる。そこを押し込み連中は突いて来たんだ。古着でも商売になるのは絹や錦。つまりは古着屋という商いそのものがいけねえとご老中が言っているようなものさ」
「なるほど。これで古着屋が潰されようもんなら江戸の人間が黙っちゃいねえ。ご老中のやり方次第じゃ火がつきますよ」
「お頭がどう判断なされるかだな。蔵に山と積まれている絹や錦を見ては放っても置かれまい。と言って捨て置けば今までのやり方が間違っていたと世間に示すようなもんだ。どうすりゃいいか頭を悩ませているだろう」
仙波の足はさらに早まった。
「奉行所も駆け付けております」
菊弥が高提灯《たかちようちん》を見付けて言った。
「戸口を固めていらっしゃるのは安井さまでしょう」
仙波も認めて声をかけた。
「いろいろとご活躍でありますな」
安井は相変わらずのにやけた顔で挨拶した。
「人使いが荒くてくたびれる。こっちはひさしぶりに親父たちと飲んでいたところだ」
「祝いの酒でござるか。あやかりたい」
「まかり間違えば俺の葬式に出ていたさ」
わははと安井は笑った。その安井の笑いが妙に懐かしかった。
「入れてはくれねえのか?」
「まだ火附盗賊改の調べが済んでおりませぬ」
「蔵の検分でもやっているのか?」
「さようでござろうな。二度手間にござるよ。どうせ我らがやらねばならぬこと」
安井は待つのが飽きた顔で言った。
仙波は古着屋の戸口を潜って中に入った。菊弥も続く。
「お待ちいたしておりました」
火附盗賊改に所属する小者たちが仙波の姿を認めて丁寧な挨拶をする。昨夜の捕物ですっかり頼もしく見られているようだ。
「だれとだれが出張《でば》っている?」
「大塚さま、谷岡さま、中山さまです」
頷いて仙波は奥に向かった。中山も居るならなにかとやりやすい。その中山が奥の部屋で店の者たちを集めて尋問していた。中山は仙波に目を動かして中座した。
「ご苦労だったな。こっちも慌てて両国から飛んで来た。歌麿《うたまる》と飲んでいたところだ」
「歌麿と一緒だったんですか」
中山は意外な顔をした。
「箱根に出掛ける別れの会だ。蔦屋が開いた。まだ皆で飲んでいるだろう」
「それは気の毒なことをしました」
「そっちが押し込みに入ったわけじゃなかろうに。こういうことなら仕方ねえさ」
「お呼びだてする気はなかったんですが……」
中山は困った顔で言った。
「なにか俺に関わることか?」
察して仙波は中山を見詰めた。
「また前回のような札を残して行きました」
中山は座敷に引き返すと一枚の札を手にして仙波に突き出した。前よりは大きい。
「なんだこりゃ?」
札には唄が記されていた。
とんとん殿さま、どちござる
本宅女郎衆の帯買いに
帯もよいが地もよいが
締めてみたればしなしなと
たたんでみたればふくふくと
納戸のすみに置いたれば
姉御に取られてお腹立ち
そんなにお腹が立つならば
銭屋の銭でも上げましょう
かねやの金でも上げましょう
それでもお腹が立つならば
白馬一匹あげましょう
赤馬一匹あげましょう
それでもお腹が立つならば
嫁にゆくとき
箪笥、長持、みんな上げよ
「問題は下の段の方です」
中山は仙波の目が上の段に書かれた唄から離れないのを見て指で示した。横長に描かれた絵を挟んで下にも唄がある。
あんたがたどこさ、先手《さつて》さ
先手どこさ、四谷《ようつや》さ
四谷のだれさ、せんばさ
せんばさんには狸《かしら》があってさ
それを領主が鉄砲を吹いてさ
突いてさ、斬ってさ
それを狸がちょいと隠す
「これは……俺のことか?」
目を通して仙波は唸った。子供の遊び唄をもじったものだ。元歌にも確かせんば山という言葉が出て来る。それで思い付いたものに違いない。仙波の上に居る狸とはもちろん長谷川平蔵のことで、元歌の猟師をもじった領主は白河藩主である松平定信を示している。その領主が鉄砲を吹く、すなわち法螺《ほら》や嘘をつくという意味で、それに操られた仙波が突いたり斬ったりしたということなのだろう。そしてその失態の始末を長谷川平蔵がこっそりつけたとしか読めない。
「こいつは……参ったな」
仙波は何度も読み返して苦笑いした。
「我々が思っている以上に押し込み連中はこっちの内情に詳しいということです。仙波さんのことは外に洩らすなとお頭は命じられました。なのにどうしてこんな唄を……」
「でもねえよ」
「と言いますと?」
「今日の昼にはその噂がだいぶ広まっていた。蔦屋や歌麿も先刻承知だったぜ。面目のねえ話だが南町が洩らしたのかもな。それにあの界隈は南町に俺が居た時分にしょっちゅう見回っていた場所だ。俺の顔と名を承知の者があの船宿に居たとしても不思議じゃなかろう」
「市中に昨夜の捕物の噂が?」
「おこうも知っていた。となれば大方が知っていると見て間違いなかろう」
「大事な手掛かりになると睨んだんですがね。そうなると絞り込みはむずかしい」
中山は消沈した。
「この絵の中の男が俺ってことになりそうだが、なんとも酷い醜態《ざま》だ」
仙波と思《おぼ》しき男が布で目隠しをして刀を派手に振り回している。足元にはすでに二人の武士の死骸が転がっていて、残ったもう一人は両手を合わせて命乞いをしている。なんの意味も分からずに頭の狸に操られて人殺しをしているという図柄だ。その背後ではでっぷりと肥えた狸が胡座をかいて見守っている。さらにその後ろには太い鉄砲を空に放っている白兎が控えている。白兎はすなわち白河藩の白だ。もっとご丁寧なのは白兎の耳の穴が耳栓で塞がれていることだろう。兎は長い耳であらゆることを聞き分ける賢い動物とされているが、自分の用いる鉄砲の音を嫌い、しっかり塞いでいるので世の中の不平不満も届かない。恐らくはそんな意味だろうと仙波は思った。相変わらず洒落のきつい連中だ。上の段の唄とて、じっくりと眺めれば痛烈な改革批判と取れる。ここまできたらなんでも取って行けと腹をくくっている唄だ。自分らが押し込みに入って銭を奪いながら、こういう札を残すとは呆れたものである。
「怪我人と奪われた銭は?」
「いつも通りです。怪我人はなし。銭はわずか八両」
「八両……五、六人で押し込んでか?」
「ええ」
「それこそご苦労なことだ。これで連中の狙いは火附盗賊改に蔵の検分をさせるのと、こういう札をばら撒くためと定まったな。蔵の検分はどうなってる?」
「大塚さんと谷岡さんが行なっています。私もちらりとあらためましたが、絹や錦の衣が山と長持にしまわれてありました」
「古着屋なんだ、当たり前だろう」
「裏で売っていないとも限りません。禁令に触れる品物は店から遠ざける定めです」
「大店《おおだな》ならそれもできようが……この程度のとこじゃ無理ってもんさ」
「承知ですがね……我々がこうして見付けたからには捨て置けません。これまではすべて没収しています。ここだけを許すわけには」
「まぁそうだろうな。なんで今度はお構いなしだと騒ぐやつも出て来る」
「蔵の方に行ってみますか?」
「いや、腹が立つだけだ。二人も居て指図してると言うなら余計なことだろうぜ」
仙波の目は札に戻った。
「お頭はこれを承知か?」
「まだです。お見せするのが辛いですよ。今回は店の前にもばら撒いてありました。小者らに命じて拾わせましたが……全部は無理でしょう。野次馬らに拾われたものもあるはずです。とても隠しはできません」
「俺もこんな不様《ぶざま》なやつは知り合いのだれにも見せたくねえ。親父など笑い転げるだろう」
中山はくすくすと笑った。
「しかし……白兎とはよく考えた。兎はいつも善玉と相場が定まっているが、まさにあのお人は兎のつもりでご改革を進めていよう」
「昨日の噂が今日の昼には市中に広まっていたとしてもですよ……こういう刷り物はそれほど簡単に作れるものなんですか?」
中山は首を傾げつつ質した。
「それは確かに簡単じゃなかろうな。こいつはどうしたって昨夜のことを耳にしてからじゃねえと作れねえ。これは蔦屋に訊いてみるのが一番かも知れぬ」
「蔦屋にこれを?」
中山は案じ顔をして、
「お頭は口外を禁じるかも知れませぬ」
「隠しはできねえと言ったばかりだぜ」
「それは致し方ないとしても、お頭の承認なしに見せて構わぬものかどうか」
「だから早いうちに見て貰いてえのさ。せっかくの手掛かりだ。責めは俺が受ける」
「まだ蔦屋はその店におりましょうか?」
中山は頷いてそれを訊《き》いた。
「菊弥、走って店に行け。蔦屋が帰らずにいたら引き止めておくんだぜ」
へい、と菊弥は駆け出した。
「この札は預かっていいんだな」
「何枚もあります。残念ながらね」
「俺を呼んだのはだれだ?」
「私です。仙波さんの名があったもので」
「それなら大塚さんらに挨拶をする必要もねえ。俺は両国の店に居る。そっちも片付いたら来てくれ。一刻《いつとき》ほどは待っていよう」
「片付くかどうか……蔵の検分に手間取りそうです。相当な量でしたからね」
「たいがいにしてやらねえと外で待っている南町の連中が辛かろう」
釘を刺して仙波は店を出た。
「もう済んだので?」
安井が戸口の中を覗いた。
「まだだが、もうじきのはずだ」
「今度も妙な札が残されていたとか」
遅れて駆け付けたせいで南町は詳しい状況をほとんど聞いていないようだった。
「昨夜の捕物の噂が町に伝わっている。あれは南町から流れたものじゃなかろうな」
「とんでもない。船宿からにござろう」
安井は即座に否定した。
「火附盗賊改に移ったら押し込みを専《もつぱ》らに追えると思ったが……もっと見えなくなった。南町の方はなにか掴んでねえかい?」
仙波は気軽に口にした。
「気になることはいくつかありますがの」
「あとでゆっくりと聞きたい。明日の夜に屋敷の方を訪ねてもいいか?」
「夜ならいつでも。ひさしぶりに将棋でもやりますか」
「それもいいが……まぁそのときだ」
笑って仙波は安井と別れた。
店はもう門を半分閉じていた。夜も更けている。だが見上げた二階の座敷の明かりはまだ点《とも》されていた。さっきまで飲んでいた部屋である。この分だとまだ残っているらしい。
店の方も笑顔で迎えた。
「もう一人火附盗賊改の仲間が報告に現われることになっているんだが、いいかい?」
店の番頭は一刻後と聞いても頷いた。火附盗賊改の名を出されたら滅多に断われない。仙波も承知の上で口にしたのである。
「なんだ、おめえも来てたのか」
広い階段を下りて来た春朗を認めて仙波は声をかけた。
「留守で連絡がつかねえとか聞いたが?」
「さっき戻って、慌てて駆け付けましてね」
「親父とは会ったか?」
「入れ違いでした。おこうさんとも会っていませんよ」
「こんな夜中に駆け付けるとは律義だ」
一緒に階段を上がりながら仙波は笑った。
「普通はもう帰ったと思うぜ」
「どうせ暇な身でさ。散会してたときにゃ両国の見世物小屋にでも泊めて貰おうと……」
「菊弥からなにか聞いたか?」
「また妙な札が出てきたとか」
「まったく、妙な連中さ」
仙波は座敷の襖を開いた。広い座敷に蔦屋と歌麿がちょこんと固まって飲んでいる。
「なるほど、藤八《とうはち》五文奇妙! というやつだ」
薬売りの口調を真似て春朗は喜んだ。
「これが仙波さんですか」
蔦屋は声にして笑った。
「そんなことより、昨夜の今日だ。これを作るにゃよほど手間がかかるのと違うか? 瓦版でも二日かかると聞いた覚えがある。たったの半日で拵えるのは難儀だろう」
「上半分と下半分は板が違いやす。恐らく上の方は前々から板に彫っていたんでさ。そいつを一枚にくっつけたとしたなら手間は下の半分で済みましょう」
春朗の言葉に蔦屋も同意した。
「なんでそんなことが分かる?」
「上と下の唄の筆使いを見てくだせえ。別々の筆《て》だ。版下の字は一人が書くものと決まってまさ。筆使いが違うなんてのは有り得ねえ。上の唄はもじりもねえ。いつか使おうと考えてあらかじめ彫っていたもんでござんしょう」
そう言われれば微妙に書体が異なっている。さすがに餅は餅屋だ。
「下半分だけなら急げば半日。昼までに版下が出来上がっていりゃ夕方には刷れます。と言っても百枚やそこらの話でしたらね。瓦版は七、八百枚を刷る。それでどうしても二日がかりになるんで」
「一枚にくっつけるのは面倒がねえのか?」
「たやすいことで。両方の板の端を綺麗に削って、にかわで貼り付けるだけのこった。どうせ板は横に置いて使う。よほど力でも込めねえ限り二つに割れる心配はありません」
春朗はあっさりと応じた。
「また無駄足か。半日で拵えるにゃ、よっぽどの手蔓が要るんじゃねえかと睨んだが……」
仙波は吐息した。どこまでいっても手掛かりとはならない。しぶとい連中である。
「いや……そうじゃねえかも」
春朗は札を手に取ると目を近付けて細かく調べた。あちこちに目が動く。
大きく息を吐いて春朗は札を膝に置いた。
「どうした? なにか分かったのか?」
「上の唄の方でやすが……こいつは以前にだいぶ刷った板のようですぜ」
どれ、と蔦屋も手にして眺めた。
「確かに。文字のかすれが目立つな。春朗の睨み通りかも知れん。文字が太く見えるのも馬連《ばれん》で擦られて線の角が円くなったせいだろう。少なくとも三、四百は刷っている」
「どういう意味だ?」
「蔦屋の旦那のおっしゃった通りですよ。これは以前に使った板をそのまま流用したに違いねえってことで。たぶん狂歌本かなにかに用いた版木《はんぎ》でやしょうね。でなきゃこんな遊び唄なんぞ書きやしねえ。今の時世にぴったりだったんで版木を割るかして使ったんだ」
「すると……どっかの版元が持っていた版木ということか?」
「でしょう。この唄の載っている狂歌本を捜し出せば版元も知れやす。その版元の身近に押し込みの仲間が居ると見て間違いはねえはずだ。こいつは面白くなってきた」
春朗は張り切った。
「しかし、捜し出せるかどうか」
歌麿は首を捻った。
「狂歌本には自家本も多い」
「も一つ気になるとこがある」
春朗は気にせず口にした。
「この遊び唄だ。この唄はおいらも知っているやつだが……ところどころ文句が違ってる。おいらの知ってるやつにゃ白馬とか赤馬なんてのが出てきやせん。なんででしょうね?」
「そう言われりゃそうだな」
仙波も幼い頃を思い出して頷いた。
「そんなのが手掛かりになりますかい?」
菊弥は言って遊び唄を口ずさんだ。
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|常 陸《ひたち》 帯《おび》
翌日の午後。
仙波は四谷の|火附盗賊 改《ひつけとうぞくあらため》役宅で頭の長谷川平蔵と向き合っていた。二人の間には例の札が置かれてある。
「こうなっては、だれが洩らしたかを詮議したとて意味がない。先夜の捕物のことは市中に広まった。さて……どうすればいいものか」
平蔵は舌打ちして仙波を見詰めた。仙波はただ平伏するしかなかった。それを考えるのは頭の仕事であって仙波が口を挟むことではない。一緒に呼ばれていた中山も困った顔で札に目を落としている。
「しばらくは謹慎して屋敷に籠れ」
やがて平蔵は言った。
「そなたに責めのあることではないが、これ以上余計な噂が広がってはご老中のご迷惑にもなりかねぬ。儂《わし》も今夜辺り必ずお呼び出しを受けるに違いない」
「しばらくと申されますと?」
「儂がよいと言うまでじゃ。斬り捨てた浪人どもの身元もまだ知れぬ。むしろここは捨て置くのがいいかも知れぬな。なにも身元を突き止めて騒ぎを大きくすることはなかろう」
「………」
「せっかくそなたを借り受けながら、かようなことになったのは残念。そなたは頼りになる者と見ていた。押し込みの狙いとてそなたが言うた通りであろう。あやつらはご老中の改革に桿《さお》差している。今後の調べはそなたに任せようと思っていた。儂も痛手だ。しかし……致し方ない。そなたも堪《こら》えてくれ」
「手前なれば構いませぬが……浪人どもの調べを打ち切るというのは少し……」
乱暴ではないかと仙波は思った。
「ほとぼりが冷めるのを待つだけじゃ。さほどの科人《とがにん》でもない者を斬ったとなると火附盗賊改の動きがままならなくなる。今は押し込みを捕らえるのが大事。もし身内でも現われて騒がれれば厄介なこととなる。死骸は調書ばかりにして無縁塚に葬ってしまおう」
威圧的に平蔵は口にした。つまりは闇に葬るという意味だ。調書など好きに書ける。
「それより、札を蔦屋《つたや》に見せたそうだの」
「は」
仙波は中山に目を動かした。中山は首を縮めて自分の告げ口であるのを認めた。
「蔦屋が面白いことを申したとか。別にそなたを責めてはおらぬ。それで押し込みを捕らえることができるならありがたい」
「札の上段に記されていた遊び唄の版木は、恐らく以前に出された狂歌本辺りに用いられたものであろうと……それを突き止めれば、重要な手掛かりになるものと存じます」
「自家本が数限りなくあるそうではないか。突き止められると思うか?」
「大きな狂歌の連を当たれば僥倖《ぎようこう》に巡り合えるやも知れませぬ。むろん当たっても見ずに軽々しく言えることではありませぬが」
「中山、そなたがやれ」
平蔵は中山を見詰めて言った。
「仙波は今日より謹慎の身。だが重大な手蔓《てづる》だ。仙波の手足となって働け」
「承知つかまつりました」
張り切って中山は頭を下げた。
「お頭に進言したな?」
二人きりになると仙波は苦笑いした。
「蔦屋に見せたことをお頭から言われたときはひやっとしたぜ」
「今朝、仙波さんに謹慎を命ずることになるかも知れないとお頭に言われたんです。それで昨夜の一件を打ち明けるしかないと……手掛かりを掴んだのは仙波さんですからね。ここで謹慎となれば回り道になる。勝手な真似をして済みませんでした」
「いや、お陰でこっちも助かった。それに、あのお頭の様子では蔦屋への疑いも晴れたらしい。いろいろとほっとした」
「謹慎と言っても名ばかりのことです。代わりに私が動きます。なんでも言ってください」
「脇田さんのことは当分見送りだな。脇田さんも変に思うだろうが、こっちが動けないんじゃ諦めるしかない」
「寿の字の死骸はあのまま小屋に?」
「親父にごねられて移したよ。いかにもあの臭いじゃ文句を言われる」
「どこに移したんです?」
「近くの寺の適当な墓に埋めた。寺に死骸があるのは当たり前。我ながらいい考えだ」
「なんだか無駄になってしまいそうですね。あんなに苦労したのに」
「それも仕方ねえな。俺たちの仕事はいつもそんなもんだ。狂歌本のことも、果たして本当に重要な手掛かりになるかどうか……南町に安井という男が居る」
「知っています」
「あいつにも手助けを頼むといい。あいつは狂歌をやっている大店《おおだな》の主人らと懇意にしている。繋ぎとなってくれよう。俺からだと言えば断わるまい」
「昨夜も少し口喧嘩になりました」
「安井とか?」
「我々のやり方に不満を抱いているようです。喧嘩をしたのは大塚さんですが」
「こずるいやつだが悪い男じゃねえよ。いざとなれば同心の勤めを果たす。押し込みを捕らえたいのは一緒だ。南町も我々に負けず押し込みの裏を探っている」
「分かりました。そのうち連絡を」
「謹慎てのははじめてのことだが……菊弥は動かしても構わねえものかの」
「大丈夫でしょう。仙波さんさえ屋敷に籠っていればそれで名目が立ちます」
「このまま二年も外へ出られなかったりしてな」
「まさか。せいぜい半月やそこらです」
中山は笑った。
「たった今からの謹慎となると、寄場《よせば》に立ち寄るのも無用ということか?」
「脇田さんも薄々は察しているはずです。明日にでも私から報告しておきますよ」
「そうしてくれ。わずかで謹慎となっては面目なくて顔を合わせられぬ」
そこに大塚が入って来た。大塚は仙波を見て薄笑いしながら、
「謹慎とは大物の証し。火附盗賊改に在る者にとっては恥にあらず。そう心得よ」
「そうです。本当にそうだ」
中山は素直に大塚の言葉に同意した。
「南町の安井と口論になったとか?」
仙波は笑顔で応じつつ質《ただ》した。
「あの者とは親しき付き合いか?」
「十年来、おなじ職務にござる」
「あからさまに我らを誹謗する声が聞こえた。それで喧嘩となったが……職分を弁《わきま》えておらぬ。蔵の検分も余計と言いおった。そもそも奉行所がもっとしっかり目を配っておればこういうことにはならん。ご禁制の品物が隠されておるのは分かりそうなものではないか。押し込みはそこをついて来ているのだぞ」
「お言葉にござるが、もっとあくどい店が他にいくらでもあり申す。押し込みはわざとそういう店を避けておりまする。狙われているのは評判のいい店ばかり。火附盗賊改の名を貶《おとし》めるのが押し込みの魂胆」
「分かっていても、現にご禁制の品物を蔵に見付けた以上は見過ごせまい。奉行所の者らはしばしば目こぼしをしてやると聞くが、火附盗賊改は違う。我らは命を張っておる」
「それは手前とて承知。なれど蔵の検分は奉行所に預けても大事ありますまい」
「今言うた目こぼしが許せぬのだ。我らが関わった以上は諦めて貰うしかない」
仙波は引き下がった。無駄な言い合いだ。
「それにあの男、火附盗賊改を見返すつもりなのか、押し込みの一件を探っているようだ。それも我らを馬鹿にしている」
「安井はそんな熱心な男にはござらぬ」
さすがに仙波は笑った。
「そうだとすれば、たまたま垂れ込みでも耳にしただけにござろう。小者《こもの》を何人も抱えている男。裏には精通しており申す」
「出過ぎた真似だと言っておいてくれ。奉行所の手は借りぬ、とな」
大塚は鼻を膨らませて仙波に言った。
「そう言えば、安井はなにか俺に話したいことがあるとか。今夜それを聞く約束だった」
「謹慎の身で南町の人間と会うのは……」
「分かっている。屋敷が近い。親父にでも行って貰うさ。心配はかけぬ」
仙波は帰り支度をはじめた。
「菊弥にしょっちゅう顔を出させる。あれは版元にも顔が利《き》く。役に立つはずだ」
「私もこの足で蔦屋の店に」
「簡単に見付けられるとは思わんが、人には運てやつがある。そいつを信じろ」
「よほど面白い狂歌なら人の頭に残っておりましょうが、耳慣れた遊び唄となるとむずかしそうですね。江戸で作られたものとも限りません。それに年代も不明……」
「だから信じるしかねえんだ。最初から諦めていりゃ運も近寄っちゃこねえ。たとえ捜せなくても、派手に動いて見せりゃ敵にそいつが伝わることもある。敵が慌てて尻尾を掴ませねえとも限らん」
「しかし……敵だって簡単には尻尾が掴まれないと見てあの遊び唄を」
「せめて五日は江戸を歩き回ってから言え。火附盗賊改は地味な働きが苦手か?」
「そんなことはありません。ただ、江戸だけでこの十年に五千冊近い狂歌本が出ていると蔦屋から聞いては……」
中山は深い吐息をした。その面倒は仙波も重々承知している。その五千冊とてどこかにごっそり集められているのではない。狂歌の連を回り歩き、こまめに繙《ひもと》くしかない。もし江戸以外の出版物であれば無駄足となる。それを中山は小者《こもの》も含めて二、三人で当たらなければならない。
「蔦屋は三、四百冊の狂歌本を持っていると言った。蔦屋は狂歌本の版元としても名高い。上手く運べばそこで見付けられるかも。弱音は蔦屋を済ませてから言うんだな」
「明日は屋敷の方へ報告に行きます」
中山も気を取り直して頷いた。
「謹慎とは仙波家はじまって以来のことだな」
左門は聞くなりげらげらと笑った。
「つまりは仙波家一番の大物ということになる。似顔絵も描かれた。もはや思い残すことはなかろう。大したものではないか」
「いかにも世間のほとぼりを冷ます策にはござろうが、手前の深入りを防ぐために講じたものとも考えられまする。笑ってばかりもいられますまい。例の浪人どものことも闇に葬るとお頭は明言なされました」
「もしお頭の仕掛けた策だったとして、失敗したからには迂闊なことができまい。また襲わせてしくじりでもすれば反対に命取り。謹慎は確かに利口な封じ手と言えるな」
「のんびりとしておられまするな」
「倅《せがれ》の身が安泰となったのだ。喜ばぬ親などおるまい。このところ忙《せわ》しなかった。少しは家に居てごろごろすれば別の道も見付かる。謹慎と言っても、それはそなたばかり。中山が探ってくれるのであるなら一緒だ」
「頼りないことを言うておりましたぞ。いかにもたやすい仕事ではござらぬが……」
「それにしても、よくお頭が中山をそなたに付けてくれたものだの」
「こたびの手掛かりはあくまでも押し込みを絞り込むもの。ご老中やお頭の動きとは無縁にござる。押し込みを捕らえたいのはお頭も同様。それで頷いたのでござろうな」
「そういうことか」
左門も得心しながら、
「あれほど慎重にことを運んで来た押し込みが、古い版木を用いるとは愚かな真似をしたものだ。よほど急いだものか、調べられても発覚せぬとの確信あってのことだろう。そなたはどっちと思う?」
「急いだのでは?」
「なんのために?」
「それは押し込みの方の都合ゆえ」
「押し込みを一日遅らせたとてさほどの不都合はあるまい。一日余裕があれば新しい版木を用意することができる」
「すると……自信にござろうか?」
「普通はそうとしか取れぬ。これでもし版木が簡単に突き止められたなら話は大きく変わるぞ。押し込みにはどうしても昨夜でなければならぬ事情があったのだ。たとえば江戸を出る船に乗り込むとか……」
「江戸を出る!」
それは一度も考えたことのない推測だった。
「江戸を逃げるつもりであれば古い版木も気軽に用いよう。発覚した辺りには江戸におらぬ。押し込みもこの短い間に五件だ。もう十分と見たのかも知れぬ」
「菊弥、直ぐに中山を捜して今の親父どのの言葉を伝えてくれ。上方に向かう船を当たらせるんだ」
「だとしてももはや間に合うまい。船の出るのは昼とだいたい決まっておる」
腰を浮かせた菊弥を左門は制した。
「なんでそれを昨夜のうちに教えてくださらなかったので?」
仙波は左門を睨み付けた。
「気付いたのは昼になってからだ。版木の一件にしても朝に聞かされたのじゃぞ」
「参りました。親父どのの方が冷静に見通しているらしい。押し込みが江戸をふけるなど考えてもみなかったこと」
「それに、なぜわざわざそなたの名を出したものか……あれは元歌のせんば山に引っ掛けたものであろうが、問題はどちらが先かということだ」
「と言いますと?」
「たまたまあの遊び唄にせんば山があるのでそなたに引っ掛けたのではなかろう。そなたの名からあの唄を思い出したと見るのが正解のはず。となると押し込みはそなたをだいぶ気にしていることになる」
「でありましょうな」
「いつからそなたがそれほどまでに恐れられる存在となった? 寄場に回されてろくな働きもしておらなかった男ではないか。名が伝わったとしたなら例の捕物しかない。札が作られたのはその翌日だぞ。いくらなんでもそこまで気にするものかの? 押し込みらはもっと以前よりそなたの名を承知だったとしか思えぬ。そこが不思議でならぬ」
「………」
「そなたの身近に押し込みらの目が光っている。そうとしか考えられまい」
「思い当たる者がないわけではござらぬが」
「歌麿《うたまる》か?」
あっさりと言われて仙波は汗が噴き出た。
「親父どのはなぜそのように?」
「身近でご老中にそれほどの恨みを抱いておる者など滅多におるまい」
「なれど歌麿は昨夜我らと同席しておりました。宴はその前よりの約束。もし歌麿が関わっておるのなら延期を命じるのでは?」
「それに歌麿はそなたに恩義を感じている。あのように札で揶揄《やゆ》はすまい。そうは思うが……狸ばかりで分からなくなった」
左門は眉根を寄せた。
「箱根に出掛けるぐらいなら急ぎの旅とは言いますまい。一日遅らせれば済むこと。やはり無縁と見るのが正しいのでは」
「だといいがな。歌麿を捕らえたくはない」
左門に仙波も大きく首を縦に振った。
「安井さまはまだお戻りじゃありません」
菊弥が帰って仙波に知らせた。今夜会う約束をしていたのだが謹慎を命じられたので代わりに左門が行くことにしている。支度に取り掛かっていた左門は舌打ちして、
「もはや夜も遅い。そなたならともかく、儂となれば安井の妻女も気を遣う。日をあらためて明日以降とするのが礼儀じゃろう」
仙波に言った。頷いた仙波はそれを伝えにふたたび菊弥を走らせた。
「支度が無駄になったわい」
腰をさすりつつ左門は胡座《あぐら》をかいた。
「相変わらず痛みますか?」
「痛みにはとっくに慣れたが、鍛えておらぬゆえ少し歩くだけで腿の筋が張る。我ながら情けない。働けぬ武士など、まさに無駄飯食らいと言うもの」
「その代わり口はますます達者となられた」
「歌麿のことじゃが……」
左門はそこに話を戻した。
「あの男も狂歌を詠むのではなかったか?」
「さて……存じませぬ」
「確かそんな気がした。歌麿は蔦屋が出した狂歌絵本の絵を多く手掛けておる。狂歌の連に加わっていても不思議ではない。儂の記憶に間違いがなければ蔦《つた》の唐丸《からまる》の筆名が歌麿の用いているものではなかったかの」
「蔦の唐丸……」
「そうじゃ。蔦屋にそれこそ蔦のようにからまっているという洒落であろう。きつい洒落と苦笑した覚えがある。さほど上手い歌ではなかったが、あれは歌麿に違いない」
「すると……ますます歌麿への疑念が増して参りますな。蔦屋や春朗は例の札の文案を拵《こしら》えた者は必ず狂歌の心得があると見てござる。絵の技量も相当なもの。今の話がまことであれば、どちらも歌麿一人で手掛けられましょう。となると……歌麿のご老中さまへの恨みを知った連中らが巻き込んだということも」
仙波の心は沈んだ。
「ご老中に関わることじゃぞ。いかに歌麿とて滅多には恨みを口にすまい。それにご老中配下の者が周りをうろちょろしているのも承知。妙な連中が近付いて誘えば罠と見る。簡単には話に乗るまい」
「なるほど」
仙波は首を縦に動かした。
「よほど信用しておる者からの誘いでなければ仲間には加わらぬ。女房を殺されているのだ。ご老中の恐ろしさを知っておる」
「信用できる者からの誘いにござるか……」
「たとえば秋田藩留守居役、平沢|常富《つねまさ》どのなどはどうじゃ?」
「平沢さんですか」
仙波は唸った。平沢は朋誠堂喜三二《ほうせいどうきさんじ》の名で出版した黄表紙が筆禍となって危ういところまで追い詰められている。今は主家から固く文筆を禁じられている身だ。この改革に理不尽さを感じているのは疑いない。しかも歌麿とはごく親しい。
「もしあのお人から相談を持ち掛けられれば手助けに回るのではないか?」
「それはその通りかも知れませぬが……いかになんでも平沢さんがやりましょうか?」
「分からぬぞ。武士であればなおさら尋常の手立てではご老中のご改革をひっくり返せぬと分かっておるに違いない。いかにも戯作を得意とする者の仕業《しわざ》のようにも見える」
「平沢さん一人で済むなら考えられぬでもありませぬが、万が一露顕した場合は藩にも責めが及びます。留守居役と言えば重職。それが分からぬ平沢さんとは思えませぬ。腹を切る程度では済みますまい。藩が潰れます」
「それはそうだな」
左門も頷いた。
「やる気であるなら、その前に藩と無縁の身となろう。平沢どのではなさそうだ」
「妙な思い付きはやめてください」
仙波は額に噴き出た汗を拭った。
「一瞬、信じかけました」
「そうなると儂の知っている範囲では蔦屋しか残らなくなる」
「蔦屋は意地のある男。身代半減《しんだいはんげん》された恨みは商売で返そうとする」
「だろうな。儂もそう見る」
「結局はふりだしにござりますな」
「でもない。平沢どのでも蔦屋でもないとしたら、あとは歌麿が残る」
「………」
「だれかに誘われたのではなく、歌麿が首謀者ということは考えられぬか?」
「本気で言っておられますので?」
さすがに仙波は眉をしかめて、
「押し込みはよほど手慣れた連中にござる。その連中を歌麿が銭で雇ったにしても、永くは統率が取れますまい。歌麿はただの絵師。必ず取り分を巡って騒ぎとなりましょう。歌麿が絡んでいることはあっても、それはやはり札の作成に限られるはず。それ以上に関わっているとはとても思えませぬ」
「では儂らの知らぬ者が歌麿の背後に控えているということじゃな。知らぬ者なら推量の働かせようがない。地道に裏を探るしかない」
「歌麿と決まったわけではござらぬ」
仙波は念押しした。怪しいのは確かだが、結び付ける実証はなに一つない。
「しかし、そなたの身近に押し込みの連中が潜んでいるのは疑いなかろう。他にこれと思い当たる者がおるか?」
左門は歌麿への疑いを捨てなかった。
「歌麿を捕らえるのは辛いと言うたはず」
左門は仙波を見据えて、
「儂の睨みが外れているならそれに越したことはないが、もし当たっているときは、これ以上押し込みを重ねぬよう抑えてやらねばなるまい。火附盗賊改も馬鹿ではない。そのうち歌麿に的を絞って参ろう」
「見過ごすということにござるか!」
「これでご老中がご改革の紐を緩めるようにでもなれば大手柄。江戸のだれもが喜ぶ。歌麿を縄にしたとて意味がない」
「それでは役目がなりますまい」
「だれもがまともに役目など果たしておらぬ時世ではないか。どうせそなたも謹慎の身」
「いつもの親父どのの言葉とも思えぬ」
「女房を殺されたのじゃぞ。儂が歌麿の立場であってもおなじことをするかも知れん」
「なれど……人も一人死んでおりまする」
「ご老中の手先がな」
あ、と仙波は口を開けた。
「そういうことだ。これまで、なにゆえあの手代ばかりが殺されたのかと首を捻っておったが、もし歌麿の仕業であれば理屈にかなう。歌麿はあの手代が仕組んだ罠によって江ノ島まで誘われ、その留守中に女房が殺された。それを突き止めたとしたら、憎んでも余りある相手であろう」
仙波は唸るしかなかった。
「本当に箱根へ出掛けたものか……ここは春朗にでも言いつけて箱根の様子を見に行かせるのが良策かも知れん」
「まだ信じられませんな……歌麿にはご老中の目が光っておるのですぞ。それを掻い潜って押し込みを働くなど可能でござろうか」
「その辺りのことは儂にも分からぬ。じゃが火附盗賊改はむしろ蔦屋を怪しいと見ていたのではないか? 歌麿を見張っていた寿の字らは死んだ。歌麿の周辺が手薄になったとも考えられる」
「もう一つ……」
仙波は苦々しい顔をして、
「歌麿なればなぜ手前を貶めるような真似をしたのでござろう」
「儂にも謎だ。そなたに恩義を感じているのは脇から見ていても分かる。あるいはそなたに疑われるとでも案じて先手を打ったものか……それが当たっていそうだな」
「謹慎の身がもどかしくなって参りました。ここに来て屋敷を一歩も出られぬとは」
菊弥ではとても用が足りない。と言って中山にすべてを任せることもできない。中山も押し込みを縄にしたくないと口にしていたが、下手人の目星がついては話が別である。
「歌麿とそなたの間に立てる者となれば蔦屋ぐらいしかおるまい」
「蔦屋にはまだ火附盗賊改の目が……」
「すると……おこうかの」
「おこうになにができると申されます」
仙波は苦笑いした。
「歌麿はそなたへのおこうの気持ちを承知であろう。知らぬはそなただけだ」
左門はにやにやとして、
「おこうにはまだだれの目も向いておるまい。歌麿もおこうなら気を許す。もしものときはおこうに頼むのが一番だ」
「勘弁してくだされ。おこうまで巻き込みたくはありませぬ」
「それはおこうが好きと言うことか?」
「こんなときになにを言われる」
仙波は左門を睨み付けた。
春朗が訪ねて来たのは間もなくだった。
「夜更けに申し訳ありやせん」
春朗は恐縮した顔で言った。
「両国や浅草を歩いているうちに宿へ戻るのが億劫になりまして」
「泊めるのは構わぬが、その顔ではなにか掴んだようだな」
左門は察した。
「例の遊び唄にございやすよ」
話は遡《さかのぼ》る。
今朝から春朗は自分なりの手蔓を手繰《たぐ》って狂歌に詳しい人間たちを訪ね歩いていた。蔦屋の言うように自家本まで含めれば、この十年だけでも五千冊は狂歌本が出版されているはずだ。自家本となると売り物ではないから、そのむずかしさもある。見るためには好事家を順に訪ねるしかない。まさに気の遠くなるような面倒であるが、それでも取り掛からない限り一歩も前には進めない。覚悟を決めて春朗は両国と浅草界隈に足を向けた。その辺りの料亭や大店の主人ならたいてい狂歌をやっているし、金持ちなので本も蒐《あつ》めている。春朗も小遣い稼ぎに狂歌本の挿絵を手掛けたことがあり、何人かと面識がある。貧乏な身形《みなり》でも、その紹介を得られれば会ってはくれる。そして夕方までにだいぶ調べを進めた。見ることができたのは四百冊ほどだろうか。一日の成果としてはまあまあだが、先細りに近かった。どんどんおなじ本が増えていく。たった今訪ねたところでも百五十冊のうち、はじめて見るものは二十冊もなかった。この調子では先が思いやられる。もちろん、例の遊び唄が掲載された本など見付からない。
〈本当に江戸で出版されたものと違うかも知れねえな〉
見たのはたかだか四百冊でしかないが、春朗はそんな気がしてきた。よほど売れるものでない限り版元は版木を残すことをしない。残す理由は評判が良かったときにもう一度その版木を用いて刷り増すためで、一回きりと判断すれば躊躇なく削り直し、別の作品の版木とするのである。分厚い板なので三、四回は軽く使い回しが利く。現に一枚絵の場合でも売れない春朗の版木など、今はどこにも残っていないはずだ。大事に保存されるのは歌麿や清長といった人気絵師に限られる。手間隙《てまひま》をかけた一枚絵の版木でさえそうなのだから、文字ばかりの版木など真っ先に削られる。十年も残されるわけがない。様子見にせいぜい半年、版木を乾かすことも兼ねて蔵の棚にしまわれる程度であろうか。となると必然的に例の唄の載せられた狂歌本は古くてもこの一年以内に出されたものとなる。一年以内のものであれば今日の四百冊の中に半分前後が含まれていたと思われる。
〈それでもなかったんだからな〉
江戸の出版物でない可能性が増大する。だからこそ押し込み連中も簡単には発覚しないと見て大胆に用いたのではないのか?
〈となりゃ、俺一人の仕事じゃねえや〉
春朗は溜め息を吐《つ》いた。文字だけの本であるならどんな城下でも作っている。そのすべてをあたるなど、どだい無理というものだ。たった一日で弱音を吐くのではない。江戸ではあの程度の版木が残されないという判断によるものだ。何年か彫師の修業を積んだ春朗ゆえに分かることだった。経験の浅い彫師は何度も削り直した薄い版木を与えられることが大半である。
〈あんなどうでもいい遊び唄が評判になったなんて、江戸じゃ聞いていねえ〉
しかし、文字のかすれ具合を見ると、だいぶ刷ったようでもある。
〈そもそも狂歌本でねえかも知れねえぞ〉
自家本の狂歌本ならせいぜい刷って百冊やそこらだと今日の何人かから耳にしている。それでは馬連《ばれん》で版木の山が潰れるわけがない。あのかすれ具合は少なくとも七、八百枚は刷らないとできないものだ。
〈狂歌本でなければなんだ?〉
春朗は困惑した。
〈こいつはうっかりしていた〉
下の段が狂歌だったので、当然のごとく上もそうだと見做《みな》していたが、思えばただの遊び唄でしかない。
「全部が無駄になるってことか……」
春朗は声にしてがっくりと肩を落とした。
途端に腹の虫がぎゅうっと鳴った。
春朗は遊び仲間の居る見世物小屋が近くにあるのを思い出して足を向けた。小屋に行けば食い物にありつける。縄暖簾《なわのれん》で一人食うよりは気晴らしにもなる。
春朗は裏から回って汚い楽屋に入った。春朗と分かると小屋の連中は歓迎した。春朗が小屋に出入りするのは芸人たちの軽い身のこなしに興味を抱いているからである。それを紙に写し取るのはなによりの勉強となる。
「近頃ちょいちょい顔を見るね」
舞台から下りて来た竿乗りの留蔵が春朗のつまんでいた饅頭に手を伸ばした。
「あんたらはいろんな場所《くに》を回ろう?」
春朗は思い付いて楽屋に居る者たちに質した。旅回りの者がほとんどである。
「とんとん殿さま、どちござる、本宅女郎衆の帯買いに……って唄を知ってるよな」
全員が頷いた。
「帯もよいが地もよいが、締めてみたればしなしなと……」
春朗が続けて口ずさむと皆も合わせた。
「たたんでみたればふくふくと、納戸のすみに置いたれば、姉御に取られてお腹立ち、そんなにお腹が立つならば、銭屋の銭でも上げましょう、かねやの金でも上げましょう」
春朗はそこで歌うのをやめた。小屋の者たちはそのままあとを受けて、
「それでもお腹が立つならば、嫁にゆくとき、箪笥、長持、みんな上げよ、まずまず一貫かしました」
どっと笑った。子供の頃を思い出したらしい。皆嬉しそうな顔をしている。
「だろ? その間に白馬だとか赤馬ってのは挟まってこねえ。それでもお腹が立つならば、白馬一匹あげましょう、赤馬一匹あげましょうって歌ってるやつを耳にしたが……江戸以外じゃそのように歌うのかい?」
「さてな……白馬と赤馬ねぇ……」
留蔵はまた最初から反芻した。やはり出てこない。
「栃木の辺りじゃそう歌いながら馬の格好をして踊るんだよ。尻を振ってさ」
足芸の女が言った。
「栃木だけのことなのか?」
春朗は目を光らせて女に問い質した。
「ちょっと待て!」
仙波は慌てて春朗に口を挟んだ。
「今なんて言った? あの遊び唄は栃木だけに限られる。そう言ったのか」
「足芸の女の話ですとね」
春朗は仙波の剣幕に気圧《けお》されながら頷いた。
「栃木か……これはまた剣呑《けんのん》なことになったの。動かせぬ証しとなりそうだ」
左門も思わず大きな溜め息を吐いた。
「栃木がどうしましたんで? なにか繋がるようなことでもありますか」
春朗は左門と仙波を交互に見やった。
「まだ口にはできねえ。おめえを信用しねえってことじゃねえ。知らない方が身のためってこともある」
仙波に左門も首を縦に振って、
「まずは確かめるのが先だ。足芸の女ばかりの口では心許無い。もしそれが真実《まこと》であれば版木も栃木から出たものと見做せるのではないのか?」
「たぶんそうだと思います」
「行って探って貰えぬか?」
「栃木まででやすかい」
「一之進は本日より謹慎の身となった」
「そりゃまたどうして?」
春朗はあんぐりと口を開けた。
「とにかく屋敷から一歩も出られぬこととなった。頼りにできるのはそなたしかおらぬ」
「栃木に行くのはたやすいことですが……まったく知らねえ土地ですからね。果たしてお役に立てるかどうか。狂歌本でもなさそうです。となると一日やそこらじゃ……」
「なんとしても突き止めねばならぬ。栃木と定まれば絞り込める的がある」
「あ」
春朗もようやく気付いたらしく蒼白となった。歌麿が栃木に半年ほど出掛けていたのを思い出したに違いない。
「言わずともよい。今は腹に納めておけ」
左門は春朗を制した。
「しかし……そんなことは考えられねえ話でしょう。なんでまた……」
「儂らも信じられん。だからこそしっかりと裏を取る必要がある。その白黒がつくまでだれにも口にしてはいかんぞ」
「言ったところでだれも信じません」
春朗は吐息した。
「偶然とは言え、春朗がこれほど簡単に栃木と結び付けたのだ。火附盗賊改もおっつけ探り当てるに相違ない」
「いや、それはまだ大丈夫と思います」
春朗は左門に保証した。
「江戸にある狂歌本全部を当たったところで見付かる気遣いはないはずで。押し込みもそれを承知で流用したんでしょう」
「なれば当分は目を付けられる心配もないか」
「お縄にする気はないんで?」
左門の言葉で春朗は察した。
「これでご老中のご進退が極まれば手柄は押し込みたちのもの。町の者が喜ぶ」
「ですよ。悪いのはご老中の側だ」
春朗は安堵の笑いを見せた。
「親父はその証拠を突き付けて押し込みたちにこれ以上騒ぎを起こさせねえようにする気なのさ。もう十分だろう」
「なーるほど」
春朗はぽんと膝を手で叩いた。
「このこと、我らだけの秘密じゃぞ」
左門はきつく念押しした。
「蔦屋の旦那はどうなんで? そうなると、やはり多少は関わっているんでしょうかね」
「蔦屋は無縁と見た」
仙波は断言した。
「相談に乗るような蔦屋ではない。それはあの者とて承知のはず」
「それでますます安心しました」
「なんでだ?」
「今のとこ蔦屋以外においらの絵を刷ってくれる版元が……ご改革が緩められても仕事がねえんじゃ結局は飢え死にしましょう」
左門と仙波は笑った。
「それにしても菊弥は遅いな」
思い出したように左門は言った。安井の屋敷はそんなに離れていない。噂をすれば影が差すというやつで、そこに菊弥が駆け足で戻った。暗い顔をしている。
「どうした?」
仙波は問い質した。
「門前で安井さまのお屋敷をこっそりと窺っている野郎が居たんでさ。この暗さで姿や形もはっきりしておりやせんが、なんとなく嫌な心持ちだ。そいつが引き揚げるまで屋敷に近付けなかったんですよ」
「こんな真夜中に奇妙な真似をする」
「でございやしょう? 声をかけりゃこっちが危ない。背筋が凍りましたぜ」
「それを安井の家には知らせたか?」
「へい。気丈夫なお内儀さまで、同心の屋敷に泥棒に入る間抜けはおるまいと笑っておいででした。まぁ、いざとなれば周りはすべてお仲間。確かにその通りですがね」
「引き返して我らに知らせればいいものを」
左門は舌打ちした。
「そんな呑気な状態じゃ……草履《ぞうり》の足音を気取られただけで殺されそうな気がしやした」
「大声を上げればよかろう。ここは同心の組屋敷なのじゃぞ。情けない」
「相手はお武家でございやすよ。もしこっちの勘違いのときはただじゃ済みません」
「なんで武士と分かる」
「鞘《さや》の触れ合う音がしやした」
菊弥は得意そうに仙波に言った。
「これから南町へ走って安井を探せ」
仙波は菊弥に命じた。
「なんとなくどころじゃねえぜ。そいつは安井を待ち伏せしていたに違いない。安井の身が案じられる。もし勤番で役所に居たら怪しい野郎がうろついていたと伝えろ。それと、どんな時刻でも構わねえから俺を訪ねてくれるように言ってくれ」
承知して菊弥は外へ飛び出た。
「なんで安井が危ない?」
左門は首を傾《かし》げて訊ねた。
「安井がなにか掴んだことを火附盗賊改の大塚が感付いております。押し込みのことなら問題ありますまいが、もしご老中に関することであれば大塚らがなにをしでかすか……」
「そこまではすまい。安井は同心じゃぞ」
「手前とて同心。何度も襲われており申す」
「安井とそなたでは関わりが異なる」
「安井が突き止めたことにもよりましょう」
うーむ、と左門は唸りを発した。
「そんなことにでもなったら、おいらたちはいったいだれを信用すりゃいいんで?」
春朗に二人は答えられなかった。
嫌な予感はしばしば的中する。
菊弥は結局安井を捜し当てることができずに疲れた様子で戻った。安井は夕刻には奉行所を出ていた。それきりどこへ行ったか見当がつかない。菊弥は安井が使っている小者らの長屋を訪ね、一緒になってあちこち当たったようだが、それでも無駄だった。
「朝を待つしかありやせん。ひょっとして吉原辺りにいらっしゃるのかも。大門が閉じられているので今夜はもう無理です」
「俺と約束してたんだ。言い出したのは安井の方だぜ。忘れて吉原に行くわけがなかろう」
仙波は信じられなかった。と言って確かにこの時刻ではどうにもならない。
「安井の屋敷は見て来たか?」
「門がまだ開いておりやした」
つまり帰宅していないということだ。安井はあれで律義な男で、なにか起きて戻れないときは小者を屋敷に走らせる。
「見張っていた怪しい男のこともある。さぞかし気にしているに違いない」
仙波は安井の女房のことを思った。
「どういたしやしょう」
「おめえの言った通り朝を待つしかねえさ。無事なら朝に奉行所へ出仕しよう」
「お見えにならねえときは?」
「奉行所が放っちゃおかねえ。同心が消えたんだ。必死になって行方を突き止める」
「ご心配ですね」
春朗が起き出して来て二人に頭を下げた。
「やっぱり今度の一件の絡みでしょうか」
「としか思えねえな。なにを突き止めたか知らねえが、安井の野郎、余計なことに首を突っ込んだもんだ。あいつらしくもねえ。よっぽど火附盗賊改の横槍が頭に来ていたと見える。それで鼻を明かしてやろうと考えたに違いねえが……慣れないことをやりゃ足元をすくわれる。気にせず呑気にしてりゃよかったんだよ。馬鹿野郎だ」
仙波は安井のにやけた丸い顔を思い浮かべた。その笑いをもう二度と拝めない気がしてならない。
〈くそっ〉
直ぐにでも飛び出して探し回りたい気分だが、それも許されない。
仙波は苛々と煙管《きせる》に手を伸ばした。
安井はやはり奉行所には現われなかった。
菊弥が昼に奉行所へ出向いてそれを確かめて来たのである。
「夕方までは様子を見るということですぜ。昨日の今日ですから無理はありませんが。安井の旦那の手下連中はあちこちを……辰吉って野郎の姿も見当たらねえとか」
「安井にくっついていたのか?」
「らしいです。いよいよ危ねえ」
「安井の小者連中ならなにか承知ってこともある。何人かをあとで俺のところへ案内してくれ。ただし、こっそりとだ」
「心得ております」
「死骸はもう見付からねえかも知れねえなぁ」
言って仙波は目を瞑《つむ》った。
「まだそうと決まったわけじゃ」
「安井は無断で奉行所を休む男と違う。小者が一緒ならなおさらだ。いくらでも連絡のしようがあろう。生きていてくれりゃありがたいが、そいつはこっちの気休めだろう」
「………」
「同心の死骸が出てくりゃ面倒になる。反対に、出ねえうちは奉行所も体面があって派手な騒ぎとはすまい。殺《や》った側も承知だ」
「分かりませんねぇ」
菊弥は珍しく仙波を睨み付けた。
「なにがだ?」
「旦那は火附盗賊改のどなたかがやったことだとお睨みなんでございやしょう?」
「十中八九はな」
「なのにこの謹慎を守るおつもりなんで?」
「それとこれは別だ。謹慎を命じられた以上は従わなくちゃならねえ。間抜けな改革と思っていても、禁令を破れば牢屋送り。それとおなじことだぜ。外をうろついているのを見咎められりゃ、翌日には切腹のお達しが届く」
「旦那の動きを封じたんですぜ」
「かも知れん。だが仕方ない。だからおめえや春朗を頼りとしている」
「じれってえや。あっしらじゃなんにもできやしませんよ。つくづくと身に染みた」
「安井に釘を刺しておくんだった。そいつが悔やまれる。恐らくあいつはなんにも知らねえで敵の懐ろ深くに飛び込んじまったんだ」
「安井は同心の勤めを果たした。そう思うてやらねば無駄死にとなってしまおう」
左門が襖《ふすま》を開けながら言った。
「謹慎のこととて、もしも儂への迷惑を案じておるなら無用にいたせ。隠居願いという手もあるぞ」
「隠居願い?」
「隠居した身にはもはや謹慎も無縁。火附盗賊改や奉行所の同心でもなくなるが、好き勝手に動き回れる」
「それはあまりにも乱暴な策。隠居の身となってはなにも果たせませぬ」
「いよいよというときのことじゃ。そうなればお頭とて上司ではなくなる」
「………」
「なにが大事かということよ。その覚悟であればたいていは乗り越えられる」
「親父どのは隠居の身ゆえお気楽だ」
「だからこそ言うたのだ。縛られるものはなに一つない。この腰さえ丈夫なら栃木にじゃとて行ける。それが残念だの」
「春朗さんはもう出掛けたんで?」
菊弥が口を挟んだ。
「ついさっきな。ろくな旅支度もせずに向かった。五、六日はかかりそうだと言っていたが、あの男なら目端《めはし》が利く。その半分で突き止めて来よう。栃木では彫師の数も知れている。自信ありそうな顔をしていた」
左門は菊弥に茶を所望した。
「配下に加えれば春朗ほど役立つ者はおるまい。絵師ゆえ見たものをそのままに伝える腕もある。小屋者とも親しい」
「間もなく隠居となるやも知れぬ手前では雇う銭もおぼつきませぬ」
「それはそうだ」
左門はげらげら笑った。
「おられますか」
中山の声が玄関口から響いた。
「当たり前だ。謹慎の身だぞ」
「これは失礼」
中山も苦笑して上がり込んだ。
「安井のことを聞いたか?」
「は?」
中山は怪訝《けげん》な顔で仙波のとなりに座った。
「安井の姿が消えた。安井の小者らが市中を探し歩いている。昨夜から戻っておらぬ」
「どういうことなので?」
「無事であればいいが……無断で居なくなるなど安井には有り得ぬ。それに、昨夜は安井の屋敷の様子を窺っていた者もある」
「………」
「武士らしいというばかりで正体は知れぬ。まだ奉行所は本気で動いていないようだが、このままだと嫌なことになりそうだ」
「面倒ばかり続きますね」
中山は首筋の汗を拭った。
「来たのは例の版木の一件か?」
「昨日はあれから蔦屋を訪ねて三百冊ほどの狂歌本を調べました。捲《めく》るだけのようなものですが……指がざらざらになりましたよ。考えていたより厄介な仕事です」
「その顔じゃ当て外れのようだ」
「蔦屋が隠していることも考えられます」
「目当ての本をか」
「まさかとは思いますがね。あれだけ探して見付けられないと疑いたくもなってくる」
「たった三百冊で音《ね》を上げたか」
仙波と左門は苦笑した。
「五千冊を見るには三、四十近い狂歌の連を回らなければならないそうです。今日もこれから二つの連を訪ねる約束をしている。その間にまた押し込みでも出ればと気が気じゃありません。お手伝い願えませんか?」
「俺が出るわけにゃいかねえさ」
「この屋敷に本を運ばせます。私もここに詰めて二人でやれば半分で終わります」
「ずぼらなことには頭が働くな」
「一刻も早く突き止めたいんですよ。屋敷を出ないのであればお頭も許してくだされましょう。その願いは私の方から」
「お頭がいいと言うなら構わんが……」
「五千冊の本をこの屋敷にな……」
左門も途方に暮れた顔をした。無駄な仕事になると分かっているので当然だろう。問題の手掛かりは栃木にある。
安井の行方は二日が過ぎても知れなかった。奉行所も失踪と見做し、おおっぴらにではないが小者らを使って足取りを捜している。仙波も一緒に江戸を走り回りたい気分だったが、謹慎の身では諦めるしかない。その代わり、菊弥を頻繁に南町に行かせて小者らの調べを早く耳に入れるようにしている。
「また荷車が表に停まった」
音を聞き付けて左門はうんざりとした声で仙波を促した。狂歌本に囲まれていた仙波も溜め息を吐いて重い腰を上げた。今朝からこれで何度目だろう。そのたびに荷車一杯に積み込まれた狂歌本がどさっと置かれて行く。特に自家本は装幀に凝り、大型に加えて上質の紙を用いているので重みがある。それが三十冊も結わえられていれば運ぶのも苦労だ。最初は玄関脇の小部屋と決めたものの、もうこれ以上は入らない。
「中山も気が利かぬ男にござるな。一度に届けられてもどうせ調べられませぬ。この屋敷の床を破る気と見える」
別の小部屋に運ばせる指図を済ませた仙波が呆れ顔で戻った。男らが本を両腕に抱え、左門に挨拶して縁側を歩いて行く。
「雲行きが怪しい。玄関口に置かせるわけにもいくまい。どれほど届くか知れぬが、よくぞこれだけの本が作られたものだな」
左門も狂歌本の山の間に埋まっている。
「まだ千七、八百というところでござろう。明日明後日にはこの倍も届けられますぞ。中山は我が家に寝泊まりするつもりのようにござったが、これでは寝る部屋もなくなる」
漆塗りの立派な本箱に納まったものも多いのでさらに場所塞ぎとなる。足の踏み場もないというのはこのことだ。さっきまで座っていた場所に仙波は尻を落とした。
部屋と荷車とを三、四度往復して男たちは立ち去った。
「どうせあるはずもない。無駄な仕事と見ておったが、これほどの狂歌本を目にする機会は生涯あるまい。そう思えばよい暇潰しとなる。そなたのように捲るだけではなんのためにもならんぞ。指がささくれるだけじゃ」
「相変わらず呑気なことを」
「歌麿《うたまる》の狂歌名が蔦の唐丸とそなたに教えたような気がするが……」
「さようです」
「儂の勘違いであった。何冊かを読んでいるうち分かった。蔦の唐丸は蔦屋が用いているもの。歌麿は筆の綾丸と名乗っておる。唐丸が会主となって纏《まと》めた狂歌本があったぞ。いかに道楽が過ぎても歌麿がそこまではすまい。あちこち捜したら唐丸は錦絵の版元と書いてあるものを見付けた。これもじっくり読んでこそ分かったこと。そなたも気乗りせぬ顔で捲るのではなく、筆の綾丸の名を丹念に捜せ。絵では分からぬ歌麿の真意が見えてくるかも知れぬ。そなたはせっかちでいかん」
「女房が死んでからの狂歌ならともかく、それ以前のものではあまり意味がありますまい。狂歌を詠む者はたいがい|政 (まつりごと)になにかしら不満を抱いておりましょう。歌麿にそういう歌を見付けたところで格別な意味とはなりませぬ」
「それはそうだが、そういう目的をいくつか決めてやらねば、とても続けられるものではない。無粋者とはそなたのことだな」
「ないと承知で続けられている親父どののお気持ちの方が手前には分かりかねますぞ」
「中山の手前もある。やらねばなるまい」
「やはり栃木のことを中山に打ち明けるのは止した方がいいと?」
「生真面目な中山のことだ。歌麿の仕業と決め付ける。まさかお頭に直ぐには伝えまいと思うが、なんとも言えん。打ち明けるとしたら春朗の調べが済んでからのことじゃ。それまでは知らぬふりをするしかない」
「結局は全部に目を通さねばならぬということですな」
「じゃからこそ仕事を捨てて楽しめと言うたのじゃ。狂歌はもともと面白いもの。これを読み通せばそなたも狂歌師として世に出られるかも知れん。五千冊も読んだ者など広い江戸でも滅多におるまい」
「親父どのには負ける。なに一つ無駄にはいたさぬ。腰が弱まってから槍の稽古をはじめられたのもその表われ。頭が下がり申す」
「それにしても、おなじ本がいくつも混じっておるのはどうにかならんのか?」
「致し方ありますまい。選ぶには中山がすでに目を通していなければならぬ理屈。七、八人より借り出しておるのですから当たり前のことにござる」
「小者に手分けして調べさせようにも小者らは字が読めぬ。中山の苦労が知れるわ」
左門は仙波に茶を所望した。
「謹慎をいいことにこき使われますな」
仙波は笑って立ち上がった。
菊弥が一人の男を伴って戻ったのはそれから半刻《はんとき》後のことだった。安井に使われていた小者で、仙波もよく見知っている。仙波は嬉しそうに読みさしの本を閉じて縁側に出た。部屋が散らかっているのもあるが、他人の使っていた小者を屋敷に上げることはしない。
「寛次と言ったか」
名を言われて寛次は笑顔を見せた。
「まだなんの手掛かりもねえようだな」
「心配で飯も喉を通りやせん」
寛次は確かにやつれていた。
「気の毒だが覚悟はしといた方がいいぜ。安井は黙って姿をくらます男と違う」
「承知しておりやす」
「あいつは俺になにか言いたそうにしていたが……近頃何を調べていたんだ?」
縁側に胡座をかいて仙波は質した。
「それが……あっしらにも皆目。旦那は小者のあっしらにそれぞれ別の役割を命じられるお人でしたから」
仙波は頷いた。そうすることで秘密が余計なところにまで広がらなくなる。何人も使っていればそれに一番気を遣うのだ。
「辰吉と出歩くことが多くなっておりやした。たぶんその一件だとは思いやすが」
「辰吉はなにか口にしていなかったか?」
「もっぱら近江屋を探っておりましたようで」
「近江屋なぁ」
仙波はゆっくりと頷いた。近江屋のことは押収した絹物を見せしめに燃やして処分したことでけりがついている。押し込みに関しては火附盗賊改の領分だ。安井がいまさら首を突っ込む問題ではない。
〈結局は俺のせいだったか……〉
渋る安井に近江屋の裏を調べるよう頼んであった。それが面倒に繋がったのだろう。安井は恐らく押し込みに殺された手代の素性を突き止めたに違いない。それが老中松平定信に繋がる確証を得たのではないかと仙波は想像した。
「辰吉は独身《ひとり》者か?」
「さようで」
「辰吉の住まいは洗って見たか?」
「いいえ、まだで」
そんな必要があるのかという顔をした寛次に仙波は重ねた。
「菊弥と二人で行け。住まいにゃろくな手掛かりもなかろうが、近所のやつを当たれ。大仕事だったはずだ。得意|顔《づら》してなにかを口にしているかも知れん」
「口外は禁じられておりやす」
「だから仲間のおめえたちには言わねえのさ。この菊弥のことも、それで何度叱ったか知れねえ。無縁の野郎どもに口を滑らす」
うへっ、と寛次も頭を掻いた。身に覚えがあったと見える。
「呑み仲間を捜し出せ」
二人は張り切って出て行った。
「あまり当てにはできぬな」
聞いていた左門は顎に指を当てた。
「辰吉は確か酒好きと覚えております。手をこまねいておるよりは探って見るのが大事」
「それは間違いない。上手く手掛かりでも得られればよいがの。近江屋となればそなたも平気ではいられまい」
「安井に探りを頼んだことを忘れておりました。どうせ頼りにはなるまいと……」
火附盗賊改に移って安井と離れたことも関係している。まさかそのまま続けていたとは思いもよらないことだった。
「よほどの確証であろうな。手代にそなたが目を付けていたことは敵も薄々と承知のはず。その程度のことであれば安井を殺しはすまい。そなたはなぜ深追いしなかった?」
そっちの方を左門は問い質した。
「佐野さまに外されましてござる。押し込みの件についてはいっさい触れるなと」
「そして間もなく火附盗賊改へ異動か」
左門も得心した。
「隠居願いについてでござりますが」
仙波は両膝を揃えて左門と向き合った。
「もし安井が近江屋のことで殺されたと分かったときは……」
「願い出ると申すか」
「知らぬ顔をしてはおられませぬ。手前が安井を殺したようなものにござる」
「好きにするさ」
左門はにっこりと微笑んで、
「一代抱えの同心の家名などないに等しい。どうせそなたは出世とも無縁の身。儂は存分に武士の暮らしを楽しんだ。そなたがよいと言うなら儂に文句のあろうはずもない」
「そのお言葉、身に沁《し》みましてござる」
仙波は深々と頭を下げた。
「おこうがどう思うかじゃな」
「またその話ですか」
「武士でなくなったそなたに果たしてついて来てくれるものか。それがちと残念じゃ」
「その前に死ぬかも知れませぬ。同心でなくなればだれも遠慮しますまい」
「それはそなたが選んだ道。儂はおこうに仕えられての楽隠居を頭に描いておったのよ」
「鬼のような父親にござりますな」
仙波に左門は大笑いした。
それから半刻後。
菊弥と寛次は鍛冶《かじ》橋近くに位置する南大工町の裏長屋に足を踏み入れた。辰吉の住まいは寛次が知っている。
どぶの臭いのあまりしないこざっぱりとした長屋だった。安井に仕える小者は金回りもいいという評判がこの長屋で知れる。
寛次は井戸の周りで立ち話している女たちに挨拶をした。
「辰吉さんなら二、三日留守にしてるよ」
太った女が寛次に言った。
「承知だ。頼まれて荷物を取りに来たのさ」
寛次は女たちに混じって話を交わした。安井の行方が知れなくなったことは洩らさないようにしている。辰吉のことも一緒だ。
「しょっちゅう辰の野郎とつるんでいる呑みすけ仲間が居たろう」
「松太郎さんかい?」
「そうそう、松って名だった。そいつにも伝えてえことがあるんだが、今日は?」
「朝に仕事場に出掛けたきりさ。でも、そろそろ戻る頃合だね。簡単なことなら伝えてやってもいいよ」
「辰のとこに居る。戻ったのを見掛けたらそう言ってくんねえ。しばらくは待つ」
寛次は陽気に頼んで菊弥を促した。
二人は辰吉の長屋の戸を開けた。盗まれる物などなにもないのでだれでも入れる。それに日中はいつもだれかが表に居る。
「捜すったって、見た通り布団と行李《こうり》が一つきりだ。あとは徳利と茶碗だけよ」
苦笑して寛次は万年床を隅に片付けると行李をあらためにかかった。
「なんにもねえなぁ」
脇から覗いていた菊弥も頷いた。
「松太郎の戻りを待つしかねえ」
寛次はごろりと横になった。
「覚悟しといた方がいいと仙波の旦那はおっしゃったが……」
寛次は探るように菊弥を見やった。
「なにか知っちゃいねえのか?」
「一昨日の真夜中に安井さまのお屋敷を覗き込んでいた野郎が居てな」
「………」
「俺が見た。そいつを仙波の旦那に申し上げた。それで心配なさっている」
「うちの旦那が狙われていたってのかい」
寛次は起きて胡座をかいた。
「武士《さむれえ》のようだったぜ」
「旦那は人に恨みを買うようなお人と違う」
「狙われるにゃ恨みばかりと限らねえさ」
「そいつに襲われたかも知れねえと?」
「どうかな。俺にゃなんとも言えねえ」
「ひょっとして火附盗賊改か?」
「なにか心当たりでもあるのか?」
「やたらと連中に突っ掛かっていたからさ。旦那にしちゃ珍しいことだ。こっちも見ていてはらはらした」
「仙波の旦那は火附盗賊改だ。余計なことは言わねえ方がいい。いずれ旦那がからくりを突き止めてくださる」
「もしものときはおめえの口利きで小者に加えちゃ貰えねえもんかの」
「仙波の旦那のか?」
「銭が欲しいのと違う。無縁になりゃ敵討ちもできなくなる。おいらたちにとっちゃ面倒見のいい旦那だった。奥さまにもずいぶん世話になった。このままじゃ済まされねえ」
「そういうことなら間に立とう。うちの旦那もきっと喜んでくださるさ」
頷いたところに松太郎が現われた。
「おひさしぶりだね」
松太郎は寛次に言って上がり込んだ。
「まだ内密にして貰わねえと困るが……辰の野郎の消息が知れねえ。うちの旦那と一緒に三日前から姿が見えなくなった」
聞かされて松太郎は絶句した。
「皆で手分けして捜してる最中だが、おめえに心当たりはねえよな」
「どこに行くとも聞いちゃいねえ。旦那と一緒なら旅と違うのか?」
「それなら必ずお届けがある。どうも辰が探っていたことと関わりがあるらしい。そいつについちゃなにか聞いてねえか?」
「近江屋のことかい?」
その返事に寛次と菊弥は目を合わせた。やはり自慢話でも聞かされていたらしい。
「どんな話を耳にしてる?」
「殺された手代のことだよ。名前は忘れたが、元は武士《さむれえ》のようだとか。いくらなんでもお武家が呉服問屋の手代にはなるめえ。笑ったらむきになりやがった。必ず身元を探ると言って賭けをした」
「まさか、そんなことは有り得ねえ」
寛次は戸惑っていた。
「お奉行所でもきちんと手代の身元を調べ上げたはずだ。聞いてねえぜ」
「だろ。なのに辰の野郎は言い張った。どうやら裏には恐ろしいお人が居るとさ」
「だれのことだ?」
「口が裂けても言えねえとぬかした。その口振りじゃあ……」
言おうとして松太郎は口を噤《つぐ》んだ。
「だれと睨んだ?」
寛次はきつい目で睨み付けた。
「辰が言ったわけじゃねえぜ。こっちもなんとなくそう感じただけのことでよ」
「だからだれなんだ?」
「お奉行さまさ」
仕方なく松太郎は言った。寛次は唖然として、それからぶっと噴き出した。
「お奉行のこと、どう思われます」
菊弥を寝間に下がらせてから仙波は左門に質した。
「そなたとて、そう見ていたのではないのか」
「それは、薄々と承知しながら見過ごしているという意味にござった。ご老中のご威光にはお奉行とて逆らえますまい。しかし、菊弥の報告によれば、どうやらその程度では済まぬ関わり。まことにござろうか?」
「姿を消した辰吉がしかと口にした名ではない。すべては松太郎とか言う者の憶測じゃ」
「殺された手代の身元を洗うよう手前が安井に頼んだのはだいぶ前のことにござる。ある程度のことは直ぐに分かったはず。安井の家はここと目と鼻の先。なにも言ってこぬゆえ、頼みを忘れたものと思い込んでおりました。安井が言ってこなかったのは、あまりにも恐ろしい裏があったからと思えませぬか?」
「それがお奉行絡みゆえと申すか?」
左門は眉根を寄せて仙波を見詰めた。
「安井のことは永く付き合って承知しております。もしご老中が背後にあると分かれば、諦めて手を引きましょう。お奉行などとは較べものにならぬお人。安井はことがお奉行止まりと見ていたに相違ありませぬ」
「それ以上を見抜けぬ男か?」
左門は首を傾げて、
「お奉行ほどの者を動かせるのは限られる。安井とて馬鹿ではあるまい」
「歴然たる証しを見付けたのでございましょうな。それでお奉行の仕業と凝り固まった考えに至ったとしか思えませぬ」
「どんな証しであると見る?」
「むろん殺された近江屋の手代の身元に関することでござろう。近江屋の調べには安井も多少首を突っ込んでおりました。調べ書きにも目を通していたと思われます。それが吟味方に回され、ときにはお奉行の目にも触れまする。安井が不審を抱いたとしたなら、その辺りとしか考えられませぬ。手代に関する調べ書きが改竄《かいざん》されていたのでは? しかも明らかにお奉行の手によってでござる」
「むずかしいな」
左門は吐息した。
「そうだとしたら、すでに不審を抱かれぬよう直されているに違いない。安井を殺したからには、そこは周到に行なう。もはや証しを手に入れることなどできまい。第一、今のそなたではなにもできぬ。火附盗賊改に異動したばかりか謹慎の身じゃ。菊弥ごときでは吟味方の保管する調書を手にすることもできぬ。中山も無理じゃぞ。常日頃張り合っている火附盗賊改に手助けなどしてくれぬ」
「吟味方にはいくらも仲間がおりまする」
「だからこそ直されてしまったに違いないと睨んだ。そなたの行動など見透かされている」
「このまま諦めるしかないと?」
「北町の方はどうかの?」
左門は仙波の目を見詰めた。
「北町にござるか」
仙波は唸った。ほとんど付き合いがない。南町と北町は月交替で市中の見回りや訴訟を扱っているのだが、外回りを専《もつぱ》らとする同心は内役と違って横の繋がりがない。だいたい、月交替と言っても仕事が休みになるわけではないのだ。北町が月番に当たっているときは南町の門を閉ざして訴訟の吟味などを行なっているのである。仙波が北町の奉行所に足を運んだのは数えるほどしかなかった。
「押し込みは北町の月番のときにも繰り返されておる。となると南町の調書の写しが北町の依頼で作られておるやも知れぬぞ」
あ、と仙波は口を開けた。
「おなじ下手人であるのは明白。近江屋への押し込みは南町の月番のときであったが、北町は当然その調書を欲しがるに違いない」
「有り得ます。北町のこととなるとお奉行さまも手が届きませぬ。むろん改竄してからの写しにござろうが、それ以上はもはや捨て置くしかありますまいな」
仙波の体が熱くなった。
「問題は、どうすれば北町の調書を読むことができるかじゃ」
「そのくらいのことならなんとかなりましょう。北町に勤務する者なれば好きにできます」
「だれか心当たりがあるか?」
「安井の女房どのの兄が北町の内役を」
「おお、そうであった」
左門はぽんと膝を叩いた。
「それで安井が力を得たのであったな。北町に身内があれば年中顔が利く。安井との付き合いを望む商人《あきんど》らが増えたのもそれじゃった」
「女房どのも亭主の仇を取るためであるなら必ず兄者どのを掻き口説いてくれるはず」
「いかにも。それは確かじゃ」
「明朝にでも女房どのをここへお呼びして手前からお頼みいたします」
「こちらの頼みごとだ。儂が参って願う」
左門に仙波も頷いた。
「北町と言われて思い付きましたが……」
仙波は一つ間を置いた。
「なんじゃ?」
「北町のお奉行は初鹿野《はつかの》さま。ご老中が今の改革をなされる以前より北町のお奉行を務めておられます。しかと調べてみなければ断言できませぬが、なにゆえ我らの月番のときにやたらと面倒が重なるのかと仲間がずっと零《こぼ》しておりました」
「どういう意味じゃ?」
「北町の月番のときはさしたる騒ぎがこれまで起こらなかったということにござる。ただの巡り合わせと笑っておりましたが、ひょっとするとご老中の力の及んでおるのは南町のお奉行だけなのでは?」
「………」
「いかにご老中であろうと、南と北、お二人のお奉行を懐ろに取り込むのは厄介な話。ことに初鹿野さまは頑迷で融通の利かぬお人との噂を耳にしておりまする。そういうお人なればこそ永く北町を任せられているのでござりましょうがな」
「初鹿野さまはなにも知らずにいると?」
「十分に考えられまする。だからこそ蔦屋の身代半減の措置や山東京伝の手鎖《てぐさり》など、世間に騒がれそうな問題はすべて南町の月番の際にお命じになられたのと違いますかな。北町とて南町が裁定したことには滅多に口を挟んでは参りませぬ」
「であれば、ご老中も賢いお人じゃ」
左門も大きく頷きつつ、
「北町と南町とで緩急が生じる。締め付けるばかりでは町の者らも耐えられぬ。確かに支配は南町一つで事足りる。なにも、こうるさい初鹿野さまを口説き落とす面倒もないわけじゃの。南町の池田さまお一人で用が済もう」
「本当にそうであるなら……」
「そうであるなら?」
「今の世でご老中に敵対できるお方は初鹿野さま、ただお一人」
「まさか」
左門は首を横に振って、「お奉行ではご老中に勝てぬ」
「お奉行の下には江戸の者すべてが従いましょうぞ。そういう世の中となりました。それをもし初鹿野さまご自身がお気付き召されれば、ただのお奉行ではなくなります」
「それをそなたが気付かせると言うのか?」
「この謹慎の身ではどうにもなりませぬ。安井が殺されたかも知れぬのに、ただこうして家の畳を尻で温めているばかり。隠居願いを出すしかないと心に決め申したが、ご老中が相手ではそれもどこまで通じるか……死を恐れはいたしませぬが、無駄死にでは安井にとっても意味のないこと。悩んでおりました」
「気持ちは分かるが……」
左門は天井を仰いで、
「北町のお奉行をどうやって動かせると言うのだ。そなたはたかだか火附盗賊改の同心に過ぎぬ。礼を尽くして訴えたところで滅多に耳をお貸しくだされまい。歌麿《うたまる》の女房の一件から押し込みに至るまで正直に伝えなくては、たとえだれであろうと頷かぬ。頑迷なお人であるならなおさらだ。ご老中と対決する前に、まずは歌麿を捕らえて押し込み騒ぎを鎮めようとする。そなたの考え通りになどいくまいよ。無理な相談というものだ」
「でありましょうか」
「頑迷ということはな……慎重ということだ。よほどの証しを目の前に並べ立てられでもしなければ心を動かしはすまい。ましてや相手がご老中となればご政道の浮沈にも関わる。民の暮らしを守る立場にあるお奉行が簡単に動かれてはこちらも迷惑。儂やそなたのように気軽には決められぬ」
「それではどうすればよいので?」
「………」
「手前と親父どのではもはやなに一つできませぬぞ。こうしてあれこれ裏を想像するだけにござろう。せいぜい歌麿の女房を手にかけた者を突き止め、それを殺すことぐらいしか……歌麿ですらもっと大きなことをはじめておりまする」
「押し込みが歌麿と定まればな」
「ごまかされますな。親父どのも歌麿の仕業とはっきり睨んでおられるはず」
「お奉行は……無理だ」
左門はそれだけを繰り返した。
「尋常の手段が通じぬとあれば、別の手立てを考えまする」
「どんな手立てだ?」
「否応なしに初鹿野さまを引き摺り出せばよろしかろう。初鹿野さまとて、お身を守るためとあればやむなくご老中に刀を向ける」
「いったい、なにを考えておる」
左門は呆れ果てた。
「まだなにも。手立てはこれからじっくりと考える所存。手前の進退は初鹿野さまのお心一つにかかっておるような……そんな気がして参りました」
「この屋敷を一歩も出られぬ身でありながら北町のお奉行を動かすなど……そなたもついに頭へ血が上ったようだの」
「かも知れませぬ。こうして毎日を親父どのと二人きりで過ごしていればおかしくもなります。無理を承知で取り組むつもりで」
「我が子ながら恐ろしき者じゃの」
左門の溜め息は本心からのものだった。
二日後の夜。
仙波の屋敷に蔦屋が現われた。蔦屋が自ら出向いて来たのではない。菊弥を使いに出して仙波が招いたのである。
「中山さんからお聞きしておりますよ。だいぶご苦労をなさっているようで」
いまや座敷から廊下にまで食《は》み出ている狂歌本の山を見やって蔦屋は苦笑した。かれこれ三千冊を超えているらしい。蔦屋もこれほど多くの狂歌本を目にするのははじめてだ。
「中山さんはいらっしゃらないので?」
「今夜は折り入っての相談があったので中山を帰した。飽きていたところで中山も喜んでいたぜ。まったく退屈な仕事さ。熱心に読んでいるのは親父どの一人。狂歌が性に合っているとか。狂歌師にでもなる気かの」
「遅過ぎましょう。狂歌本の出版には厳しい目が注がれておりますよ。うちでもこの三月《みつき》は手を出しておりません。狂歌本を出せるのは安寧《あんねい》な世の中という証しです。本当に危なくなれば狂歌本なんぞなんの役にも……」
「それは確かだ。狂歌を眺めて笑っていられた時代がやたらと懐かしい」
「なにかよほどのご用件と見えますな」
蔦屋は先回りして促した。
「家に閉じ籠っているのがこんなに辛いもんだとは思わなかったぜ。まだたった四、五日のことだが、息が詰まって死にそうだ」
「でございましょうねぇ」
「安井も一向に見付からねえ。捜してやりてえが、なんにもできねえんだ」
「お察し申し上げます」
「こいつを見てくれ」
仙波は今日の夕方に手に入れたばかりの書き付けを蔦屋の前に放り投げた。安井の女房が兄から預かったと言って持ってきたものだ。
「押し込みに殺された近江屋の手代の身元調書だ。写しだがな」
「これがなにか?」
蔦屋は怪訝な顔をして目を通した。
「この近江屋については俺も少し調べに加わった。直ぐに外されちまったが……そのときにちらりと耳にした手代の身元とまるきし違う。こいつは南町から北町へと回されたもんだが、ただの写し間違いとは思えねえ。合っているのは年格好と名前だけだ」
「私にはなんのことやら……」
「南町の吟味方までは、調べが足りないにしても、一応はまともな調書が上がったはずだ。それを南町のだれかがそっくり書き替えたということさ。殺しの一件については調べのいっさいが火附盗賊改に移された。あとは南町のだれ一人にもこの調べ書きは用がなくなる。書き替えたところで滅多なことじゃ発覚しねえ。やったやつは、そこまで承知の者だ。恐らく北町へ写しを回す必要があって、厄介ごとが起きねえよう、手代の身元を改竄したんだろうな。いかにもこの調書にゃなんの不審もねえ。北町も手代をあらためて探ろうなんて思わねえはずだ」
「だれがそんなことを?」
「調書はだれでも見ることができる」
「………」
「しかし、持ち出して改竄するとなればむずかしい。借り出しの届けを吟味方に提出する必要がある。それを辿ればだれが直したか一目瞭然だ。安井はこの一件を追いかけていたのさ。借り出したやつが居たなら、とっくに突き止めていよう。だが、安井はつい最近まで分からなかったらしい。つまり、借り出した人間が居なかったということだな」
「ってことは……」
蔦屋は仙波を真っ直ぐ見やって、
「吟味方のどなたかがこれを?」
「それも違う。北町へ回す写しはどんなものでもお奉行が目を通される決まりだ。そこで改竄が発覚すれば切腹もんだぜ。お奉行が目にすると分かっていながら直しをするほど度胸のある者は居ない」
「なんとも分かりませんねぇ」
蔦屋は困惑していた。
「直したのはお奉行だということさ」
蔦屋は目を円くした。
「多いときはお奉行が写しを預かる。翌日にはそのまま北町へと渡される。ここまでの改竄はお奉行にしかできねえ。わずかのことなら仮に吟味方が直してもお奉行が気付かぬ場合とてあろうが、こいつは別だ。そっくり変わっている。安井もそれに気付いたんだ。と言ってお奉行に問い質しはできめえ。それでこっそりと裏を当たっていたんだろうな。そして手代が元は武士らしいと突き止めた」
「手代が武士ですと!」
蔦屋は絶句した。
「ご老中が潜り込ませた男だろう。そいつが陰で手引きして歌麿を江ノ島へ誘った」
ますます蔦屋は仰天した。
「南町のお奉行がご老中とつるんでいたとしたら、もはや俺たちにゃ勝ち目がねえ。悪いが、手を引くしかなかろうぜ。勇んではみたものの、尻尾を巻くしかねえ。情けない話だが、それを言いたくて呼んだのさ」
「………」
「今度ばかりは見過ごすしかねえよ」
仙波は蔦屋の前に両手を揃えて謝った。
「はらわたが煮えくり返る思いだが、どうにもならねえ。ご老中は南町のお奉行と火附盗賊改両方にがっちりと守られている。なにをしたって途中で握り潰される」
仙波の吐息は蔦屋にそのまま移った。
「俺の力で世の中をひっくり返せるもんなら命を捨てるにやぶさかじゃねえが、庭先を照らす線香花火にもなりゃしねえよ」
「失礼にござりますが……」
蔦屋はじっと仙波を見据えて、
「愚痴や泣きごとを言うためだけに手前を招いたので?」
「腑甲斐ねえ話さ」
「手前になにかできることは?」
「いやいや、迷惑をかけちまう」
「いまさら水臭い。こうなっては一蓮托生にござりましょう。及ばずながら手前にできることなればお手伝いいたします」
「下手をすりゃ牢屋送りで済まなくなる」
「………」
「しかも……手をつけりゃ後戻りができねえ」
「駆け引きがお上手ですな。商人《あきんど》なみだ」
蔦屋はにやにやとして、
「男と生まれたからには後に引けぬように話を運ばれる。よござんす。牢屋送りを覚悟の上でご相談に乗りましょう」
「危ない橋を承知でお奉行が調べ書きに手を加えたのはなんでだと思う?」
仙波はここぞとばかりに膝を進めた。
「北町は管轄外ゆえにでございましょうね」
「救いの道はそこさ」
「………」
「お奉行でも手が届かねえってことは、北町にご老中の力が及んでいねえ証しとなる」
なるほど、と蔦屋も顔を輝かせた。
「もしもの話だが、北町のお奉行初鹿野さまをこっちに引き込むことができりゃ対等の勝負を挑めるかも知れん」
「できますか?」
「まともな訴えじゃもちろんむずかしい。相手はご老中だ。初鹿野さまも我が身が大事。これまでだって南町の強引なやり方を見て見ぬふりしてこられたお人だ」
「なにか手立てを用意しておられるので?」
「押し込みのお陰で撒き札の力を骨身に染みるほど知らされたぜ。俺がこうして謹慎を命じられたのだって撒き札のせいだ。そいつを俺たちも使わせて貰う」
「撒き札で訴えたところで、いまさら初鹿野さまが動きはいたしますまい。ご老中への怨嗟《えんさ》は巷に溢れております。それを知りながら見過ごしておられるお方」
「そいつは他人事《ひとごと》だからさ。しかし、自分のこととなれば違う」
「自分のこと?」
「初鹿野さまがご老中の手先となって陰でいろいろとやっているとの噂をばら撒く」
「………」
「むろん出鱈目だ。出鱈目なればこそ初鹿野さまはむきになって裏を探る。手繰った糸が俺の方に繋がるよう仕向ける。そうすりゃ黙っていても初鹿野さまが俺に近付いてこよう」
「命取りになりましょうに」
蔦屋は呆れた。
「俺は謹慎の身とは言え火附盗賊改なんだぜ。真正面から召喚はできねえさ。それだけの度胸があるなら今まで目を瞑りはしねえ。面倒を恐れてこっそりと接近してこよう。そう睨んでの大芝居。駄目なときは潔《いさぎよ》く諦めて腹を切る。俺一人で罪をおっ被《かぶ》る」
「そこまでのお覚悟ですか」
蔦屋は唸った。
「乗ってくるまでにゃ三、四度の撒き札を繰り返さねえとな。どうしてもあんたの手助けが要る。あっさりと裏が割れるような芝居じゃ無駄となる。と言って撒き札は一人じゃ作れねえ。迷惑を承知の頼みごとだ」
仙波は蔦屋の前に両手を揃えた。
「幸い火附盗賊改は今度の押し込みが撒いた札が蔦屋とは無縁と見ている。それもあんたに頼もうと思い付いた理由の一つだ。前が無縁なら次も無縁と普通は見做す」
「ご老中や手前を身代半減にした南町を誹謗するならともかく、北町相手では敵も手前の仕業とはなかなか思わぬでしょうな」
蔦屋はにっこりと微笑んだ。
「話に乗ってくれるのか!」
「面白そうな趣向じゃありませんか。どうせ先行きの知れぬ世の中。商人は賭けの才覚も必要でしてね。この勝負はいけそうです」
「この通りだ。恩に着る」
仙波は深々と頭を下げた。
「どんなもんでも口を挟まずにやる彫師や摺師《すりし》を抱えているつもりです。そっちから足がつく心配はご無用に願います。ただし枚数にもよりますがね。あんまり多いと関わる人の数も増える理屈になりますから」
「北町の奉行所周辺に撒くだけだ。百枚やそこらで間に合う」
「それなら問題はありません。一人の摺師が片手間にやれる仕事だ」
「絵は要らねえ。文案の方は俺と親父で考える。なるべく早く出してえんだがな」
「すべては仙波さん次第。文案を頂戴できれば一日やそこらでこちらにお届けしますよ」
「明朝には菊弥に持って行かせよう」
「蔦屋の屋号を入れられぬのが残念ですな。これは手前の一番大事な仕事になりそうで」
「そう言ってくれるとありがたい」
「にしても北町のお奉行とは……仙波さんも思い切った策を選んだものですね」
「窮鼠《きゆうそ》猫を噛むってやつだよ。俺じゃ土俵にも上がれねえと悟ったまでさ」
「謹慎はいつまででござります?」
「下手すりゃ一生となろう」
仙波は半分本気の顔で笑った。
「引き受けてくれたか……」
左門は複雑な顔で何度も頷いた。これで前に進むしかないと思ったのだろう。仙波は気付きながらも左門に重ねた。
「蔦屋のためにも、この一件だけは我ら三人の秘密とするのが肝要。せいぜい菊弥どまりとせねばなりますまい」
「むろんのことだが、札を撒くのは菊弥一人で足りるか?」
「百枚程度であればなんとか。北町奉行所周辺の板塀などに貼らせます」
「そなたは謹慎。儂はこの足腰。まさか蔦屋にさせるわけにもいかん。人手が足りぬのが痛いの。これ一度きりのことではない」
「春朗が戻ればあの者も。それがぎりぎりにござる。中山には打ち明けられませぬ。万が一発覚いたせば間違いなく切腹もの」
「蔦屋もよく承知してくれた」
「あるいは歌麿《うたまる》のことを薄々と感付いておるのやも知れませぬな。歌麿が箱根に出掛けてから押し込みがぴたりと鳴りを鎮めました。無縁と言い張ったところで歌麿がもし捕らえられれば蔦屋もただでは済まなくなりましょう。親代わりのようなもの。その前にご老中をなんとかできるものならと考えても不思議ではありますまい」
「蔦屋への監視の目はどうなのじゃ?」
「近頃は張り付けておらぬはずです。お頭も手前と蔦屋の付き合いをご存じ。蔦屋であれば手前を貶《おとし》めるような札を撒きますまい。あれで疑念がすっかり晴れたと思われます」
「それを言うなら歌麿も同然と思うが……なにゆえあのような札を撒いたものかの」
左門に仙波も顎に指を当てて頷いた。
「お頭の読みがどれほどかは知らぬが、甘いかも知れぬぞ。あの札は逆の狙いと見ておるかも。鬼と呼ばれておるお人のことだ」
「逆の狙いとは?」
「そなたの名を出して中傷いたせば、たいがいは恨んでいる者の仕業と見做す。それで蔦屋への疑いが晴れたと言ったばかりではないか。それを狙ってのことと深読みすれば、反対にそなたと親しい蔦屋が怪しいこととなる。だれが考えてもそなたが名指しされたのは唐突であろう。そこになんらかの意味を求める者とて出てくる」
「お頭も監視を緩めるふりをして、さらにその目を厳しくすると?」
「断じて有り得ぬとは言えまい」
仙波の背筋を寒気が襲った。
「まぁ、この屋敷が見張られているとは思えぬがな。わずかの失態も切腹に繋がる」
「確かに甘かったかも知れませぬ」
仙波は額の冷や汗を拭った。
「案ずるな。蔦屋の身に監視がついていたとしても、この屋敷でなにを相談したかは分からぬはず。蔦屋には今後の手助けを約束して貰っただけで十分。百枚でいいなら春朗で間に合う。あの者は彫師の修業を積んでいる」
「いかにも、そうでござりました」
仙波は大きく頷いた。
「文字を読み取れる程度なら摺師に頼まずとも我らにもやれる。蔦屋にはしばらく様子を見ることにしたと伝えればよい」
「なぜ蔦屋に相談する前にそれを教えてはくだされなかったので?」
「そなたが蔦屋と会っている間に思い付いたことだ。分かっていれば先に言う」
「この屋敷内でとなると中山に知れますな」
「菊弥の長屋に春朗を移せばいい。中山を巻き込んでは気の毒と申すもの」
「それなら手前も一安心」
仙波は安堵の顔に戻した。
ちょうどその頃、春朗は栃木の町をあちこち訪ね歩いていた。訛りこそ違うものの、春朗の身形《みなり》はとても小粋な江戸者とは思えない。不精髭も相俟《あいま》って春朗はすっかり町の空気に馴染んでいた。三月《みつき》も暮らしている者のように感じられる。もっとも、賑わいは縦に長い一本町なので二日もうろつけばだいたいが頭に入る。江戸から見て町の左側を流れる巴波《うずま》川を目当てに歩けば迷うことはない。
歌麿がこの栃木にやって来て、長い間逗留した家が下町で大きな小間物問屋を営む釜屋であることは承知している。その当主の喜兵衛の跡継ぎが、ときどき商売ついでに江戸に出て狂歌を詠む通用亭徳成なのだ。だが、まさかそこを訪ねるわけにはいかない。春朗は歌麿への疑いを胸に隠して栃木まで出向いたのである。春朗は絵師であることも伏せて西横町の小さな宿に腰を据えていた。小さな町であるが栃木は日光に通じる場所なので通行は多い。本通りの宿屋は格式の高いところばかりだ。小汚い格好では目立ち過ぎる。
「お帰り」
なんの手掛かりも得られぬまま宿に戻ると年老いた番頭が狭い帳場から笑顔で迎えた。宿には肥料の仕入れ先を捜しに足を運んだと言ってある。
「どうだったい?」
「どうも割が合わねえようですよ。舟で江戸までとなりゃ船賃がかさむ。よっぽど安くして貰わねえと商売にゃならねえ」
「どうせ日光見物のついでだろう。それに、悪いがあんたのその格好じゃなぁ」
「信用ならねえってわけだ」
春朗はげらげら笑って、
「そいつは確かだ。こっちは店と店とを繋いで間を掠《かす》め取ろうって魂胆だからね」
「ここは将軍さまのご領地。景気の悪い店はないよ。また出直すんだね」
「釜屋に歌麿がずっと逗留してたと聞いたが、本当かい?」
春朗は出された茶を啜りながら訊ねた。
「本当だ。半年ほど居たんじゃなかったかね」
「なんであの歌麿が? 信じられねえな」
「江戸じゃだいぶ名が売れてるらしいね」
「だいぶどころか、江戸の自慢さ」
「と言ったとこで町絵師だろう」
番頭は鼻で笑った。この町には日光との関わりで多くの文人|墨客《ぼつかく》が訪れる。大名の御用絵師の長期逗留も珍しくはない。
「画会かなんかを開いたのかい?」
「開いたはずだが、町絵師のものなんぞ買う物好きはなかろう」
「勿体《もつたい》ねえ話だ。歌麿の描いた絹本《けんぽん》だったら軽く十両はする。田舎者はそれだから困る」
「十両!」
番頭は目を円くした。側で働いていた下働きの娘も仰天の顔をする。
「大名お抱えの絵師のやつなんぞ堅苦しくて面白くもなかろうってもんだ。二、三年もしてみねえ。なんであのときに買わなかったかと悔やむに違いねえよ」
「そんな大層な絵描きがなんでここへ半年も居る。冗談が過ぎるぜ」
番頭はくすくすと笑った。
「江戸で食い詰めたから釜屋を頼って来たんじゃねえのか」
「そんなら俺と一緒に江戸へ行くか? 錦絵問屋の店先にゃ歌麿ばかり吊されてる」
うーむ、と番頭は唸って、
「とてもそういう風にゃ見えなかったね。毎日ぶらぶらと川っ端をうろついていた」
「女房が死んだと聞いてる。それで栃木くんだりまで出向いて気晴らししてたのさ」
「いかにも勿体ねえことをした」
「半年も居れば釜屋以外に出入りしたとこがあるだろう。知らねえかい?」
「聞いてどうする?」
「もしそこに歌麿の絵があって、安く買い叩くことができりゃ銭儲けになる。江戸へ持っていきゃ倍にも売れるだろう」
「肥料は諦めて歌麿ってわけだ」
「手に入れることができりゃ礼を弾む」
春朗は膝を進めた。もし歌麿が例の遊び歌の版木を栃木で入手したものなら、それなりの付き合いがあったところと睨んだのである。
「十両もすると言ったが、おまえさんに買う銭があるのかね?」
「手付けを打って江戸に走るさ。間違いなく儲かる話だ。買い手を先に見付けて銭を引き出してくる」
「人のふんどしばかり当てにしていやがる」
それでも番頭は話に乗った。
「上町の近竜寺なら持っていると思うね。釜屋の菩提寺さ。画会もそこで開いたと聞いた覚えがある。歌麿もしょっちゅうそこへ」
「寺にか? なんの用事がある」
「寺の用事は墓参りと決まっていよう」
「だれの墓参りだよ?」
「知らんが、縁者には違いない。歌麿は釜屋の縁戚だと皆が言っていた」
「なるほど。そういうことか」
「近竜寺の和尚は坊主に似合わぬ風流人でな。それで気が合っていたのかも知れん。いずれにしろ何本かは持っていよう。一本やそこらは銭次第では手放すやも」
「明日にでも早速出掛けてみよう。この宿の遠縁の者だと言って乗り込んでもいいか?」
「それは困る」
「この格好じゃ信用してくれまい。門前払いを食わされたらそっちの銭にもならねえぜ」
「………」
「心配するなって。絵を持って江戸へ逃げるわけじゃねえ。絵は銭と引き換えだ。宿の迷惑にゃしねえと約束する」
「儂の名でいいなら出しても構わぬ」
春朗は喜んで頷いた。これでこちらの素性を隠して寺に出入りができる。
「それにしても、あんな慮外者《りよがいもん》の絵が高く売れるとはなぁ。世の中は分からねえ」
「慮外者? なんのこった」
「ガキの時分は手の付けられねえ野郎だったと、この近辺じゃもっぱらの噂でな」
あの泰然自若としている歌麿と話が結び付かず春朗は耳を疑った。
次の日、春朗は近竜寺を訪れた。
泊まっている宿の番頭の遠縁を装って和尚に面会を求めたのだが、そんな手間も要らなかったらしい。春朗はあっさりと庫裏《くり》へと通された。なかなか大きな寺で本堂からは若い坊主らの読経の声が聞こえる。
「旅の途中なもんで失礼な格好を……」
春朗は汗で薄汚れた襟を正して和尚に頭を下げた。田舎の坊主とは思えない品がある。
「日光へのお参りかの」
「縁を頼りに栃木に泊まってみたら歌麿《うたまる》がこの町に長く逗留していたと耳にいたしまして」
「歌麿の知り合いか?」
「とんでもねえ。歌麿は江戸一番の人気者にござりやす。実を申せば手前も多少絵を齧《かじ》っておりやして……できるんなら間近に歌麿の描いたやつを見てえもんだと……それでお邪魔したという次第にございやす」
「江戸ならいくらでも見られように」
和尚は怪訝な顔をした。
「錦絵と違って絹本となりゃお大尽でもなきゃ拝めません」
それを言うと和尚の顔が綻《ほころ》んだ。
「滅多に画会も開かねえ。じかの筆捌《ふでさば》きを見た者はあまりいねえはずで。こいつは一日逗留を延ばしても見てえもんだと……」
「それなら釜屋を訪ねる方がよかろう。寺にもあることはあるが、わずかのものだ」
「この身形《みなり》じゃ敷居が高うござんす」
和尚はなるほどと微笑んで、
「江戸で名の広まっているのは承知していたが、わざわざ噂を聞き付けて見に来る者があるとは……勇助も大成したものじゃ」
若い坊主を呼び付けて絵の支度を命じた。
「勇助さんてのは歌麿のことで?」
「幼い時分にこの寺へ寄宿していたことがある。僧になるよう勧めたが、結局は江戸で絵師になると言って寺を飛び出た。手の付けられぬ暴れ馬での。先がどうなるかと案じていたものじゃが、見事に貫いた」
「釜屋さんと縁戚だとか聞きましたが、なんでこの寺に寄宿しておりましたんで?」
「いろいろと事情《わけ》がある。勇助は釜屋の先代の身内が江戸の女性《によしよう》に産ませた子じゃ。いずれは栃木に引き取るつもりでおったそうだが、父親はその前に亡くなった。それで女性も暮らしに窮して勇助一人をこの栃木へ……じゃが釜屋とて家に入れるわけにはいくまい。身内の血筋と言うたとて己れの子ではない。父親の墓がこの寺にある関わりから当寺が預かることとなった。勇助が十二やそこらの辺りであったかの。この近辺の者ならだれでも知っている」
「江戸じゃ確か『百鬼夜行』で知られる鳥山|石燕《せきえん》先生の血筋と伝わっておりますが」
「勇助の父親も江戸へ商いに出るついでに石燕先生に就いて絵を学んでおった。女性ともその画塾で知り合ったと聞いておる。詳しくは聞いておらぬが、石燕先生と縁続きの女性だったとか。それで石燕先生が勇助の親代わりとなってくれたはず」
「それじゃ歌麿の画才は親譲りってことですかい。二人とも絵をやってたってことで?」
「だろうな。血は争えぬ」
そこに若い坊主が四、五本の軸を抱えて戻った。和尚は鴨居に吊させた。
「こいつぁ……」
寺に相応《ふさわ》しく極彩色の花鳥図である。その色彩の眩さに春朗は息を呑んだ。歌麿の腕は『画本虫撰《えほんむしえらみ》』で十分に承知していたものの、肉筆だとさらに精緻で線が生きている。本来の役目も忘れて春朗は吊されている絵に没入した。背筋を伸ばしたくなるほどの出来栄えであった。線ではだれにも負けないという自信があったはずなのに、ただただ圧倒される。特に春朗の目は翼を小刻みに震わせているかわせみの図に魅入られていた。下を流れる清流の描写も見事である。透けた水の中に小魚たちがのんびりと遊んでいる。
「訪ねて来た甲斐があったかの?」
いつまでも溜め息ばかり吐いている春朗に和尚は笑って質した。
「錦絵なんぞ問題にゃなりません」
春朗は打ちのめされていた。
「絵を続ける気持ちがすっかり潰されましたよ。こんな絵描きは歌麿以外に二人と現われねえでやしょう。信じられねえ腕だ」
「勇助がそれを聞けば喜ぼう。しかと口にはせなんだが、このご時世では絵描きをやめるしかないと覚悟していたようでな」
「歌麿が絵描きをやめる?」
春朗は和尚に顔を向けた。
「女房を亡くしたことと、今のご改革のせいであろう。江戸の様子はよく分からぬが、なにを描いても役人の目が注がれるとか」
「まぁ、それはその通りでしょうがね」
「この寺に坊主の空きはあるかと真面目な顔で訊きおった。空きはないが、絵描きの仕事ならあると応じた」
「この寺に絵描きの仕事が?」
「絵と呼べるものでもないがの。御仏の事跡や経典を分かりやすく説いて本に仕立てては近隣に配っておる。さすがに勇助も苦笑いしておった。いかにもこれほどの才をそれに使わせては勿体ない」
「本を出しているんですか」
「江戸の者に見せるほどの出来ではない」
「ずうっと出していらっしゃるんで?」
「十五年にはなるかの。年に二冊ほどゆえ三十冊近くにはなる」
「是非拝見させてください」
「子供騙しの詰まらぬものじゃぞ」
「これも仏縁というもので」
胸の高鳴りを隠しながら春朗は頼み込んだ。
春朗が大いなる証しを手にして江戸へ戻ったのはそれから二日後の夕のことだった。
「話を聞きたいのはやまやまじゃが、まず汗を流してからにせよ。まるで汗の固まりが屋敷に舞い込んだようじゃ」
左門は庭に盥《たらい》の用意をするよう菊弥に言い付けた。春朗の首筋には真っ黒な垢の輪ができている。休まずに日中を歩いて来たせいだ。春朗は素直に従って庭に出た。
「中山さんは帰られたのかい」
春朗は下帯一つになって菊弥に訊ねた。
「近頃じゃすっかり飽きられたようで。そいつも無理はねえ。黴臭い本と朝から晩まで睨めっこじゃ、たまにゃ休みたくもなるってもんだ。長丁場と覚悟なさったようですぜ」
「大層な本の山だが、半分は済んだのかい」
盥に自分も水を張りながら春朗は言った。
「どうだかね。旦那と吐息のつき通しだ」
「今夜でそいつも終わるぜ」
「じゃ、栃木で見付けたんですね」
「自慢じゃねえが無駄足はこれまで踏んだことがねえ」
「なるほど、無駄足は絵ばかりってわけだ」
「きついことを言いやがる」
春朗は笑って菊弥に水をぶっかけた。
「ご苦労じゃった」
仙波の浴衣に着替えて、さっぱりとした顔をしている春朗に左門はあらためて礼を言った。仙波もにやにやとして見ている。
「その按配では証しを持ち帰ったらしいの」
「これをご覧になってくださいまし」
春朗は一冊の薄い本を左門と仙波の前に得意そうに押し出した。
「『わらべうた考』か」
左門は手にして表題を口にした。
「歌麿兄いの親父さんの眠っていなさる寺の和尚が五、六年前に出したもんです」
「歌麿の親父が眠っている寺とは?」
「歌麿兄いは栃木の出とお思いでございやしょうが、そいつは親父さんが栃木のお人ってことですよ。相当なわけありでござんした。栃木に女房と子もある親父さんが江戸に出て、石燕師匠のとこで絵を学んでいるうちにおふくろさんとできちまったようで。いずれは母子ともども栃木に迎える約束をしてたそうですが、その前に病いで死んじまった。おふくろさんは一人で育てきれず、後先のことも考えずに栃木へ歌麿兄いを……結局向こうの親族も持て余して寺へ預けたってわけで」
「わずかの日数でよくぞ調べ上げた」
左門は目を円くした。
「和尚があれこれ教えてくれたんで。栃木じゃ知られた話のようでした。歌麿兄いも面白くなかったと見えて栃木じゃだいぶ荒れたらしい。あの暴れ者《もん》がよく出世したもんだと昔のことを知っている連中が驚いていました」
「歌麿が暴れ者だと? 嘘だろう」
仙波は春朗を見詰めた。
「近辺じゃ札付きの悪だったと評判で。おふくろさんに捨てられたも同然の格好で栃木に追いやられ、身内にも邪魔者扱いされりゃ無理もござんせん。もっとも、札付きの悪と言ったところで十三、四のガキのすることだ。さもねえ喧嘩程度のことでやしょう」
「であろう。悪い男ではない」
左門も同情した様子で頷いた。
「江戸で名を成してからは栃木の身内も兄いのことを喜んで迎えるようになったらしいが、兄いにとっちゃ親父さんの墓のあるその寺が実家のようなもんでやしょう。半年の逗留のうち二日に一度は訪れていたとか」
「この本はそこで出されたものなのじゃな」
左門は得心して本を捲った。
その指が直ぐに止まった。
仙波も脇から覗き込んだ。
「まさにあの唄にござりますな」
仙波は思わず唸りを発した。
「引き較べちゃいませんが、例の撒き札はこいつの版木をそのまま流用したんだと思います。栃木の片田舎で五十やそこらしか刷られていねえ本だ。その版木を使ったとこで足がつく心配はねえと踏んだに違いありませんよ」
春朗は膝を進めて力説した。
「これまでに拵えた版木が寺の蔵にごっそりしまわれているってことで。唐渡りの絵手本なんかも蔵にあるって聞きました。それなら歌麿兄いが蔵に出入りしてもおかしくはねえ理屈でしょう。そのついでに版木を何枚かくすねて来たのと違いますか?」
「わざわざ栃木から版木をな……」
左門は小首を傾げた。
「誂《あつら》え向きの面白え唄だ。ご改革を小馬鹿にするにゃ打って付けのもんじゃござんせんか。版木なんぞ軽いもんでさ。また彫り直す手間を考えりゃ盗みだして不思議じゃありません」
「しかし、あの版木はだいぶ刷った痕跡があると言わなかったか?」
それで線が太くなっていると聞いた記憶が仙波にはあった。
「本に仕立てたのは五、六十のようですが、唄や経文なんぞは何度か抜き刷りを繰り返しているそうです。そっちは若い坊主から聞き出しました。地元の遊び唄なんで、こいつもおなじように刷られていたと考えられます」
「………」
「面倒な話より撒き札をここに」
春朗は仙波に頼んだ。仙波は部屋から撒き札を手にして春朗へ渡した。春朗は本の唄と見較べた。文字の大きさは同一である。
「ここんとこを見てください。彫りをしくじって文字の線が欠けていやしょう。撒き札の方も一緒だ。これではっきりしやした。歌麿兄いが盗んだものかはともかくとして、おんなじ版木なのは首を賭けてもようござんす」
仙波と左門も頷くしかなかった。おなじ箇所に同一のしくじりが生じるなど有り得ない。
「これで押し込みは歌麿の仕業と定まったの」
十中八九思い描いていたことだが、左門の言葉に仙波はやはり重い吐息をした。
「あっしが江戸を留守にしている間に押し込みの方はどうなりましたんで?」
春朗は仙波に質した。
「幸い、と言うか、あれきりだ。歌麿は箱根に出掛けている。親父どのが睨んでいるように歌麿が押し込みの頭目としたら押し込みもなくて当たり前だな」
「一党の見当もつきやした」
春朗は仙波から左門へと目を動かした。
「徳成だろう。それに歌麿が栃木からわざわざ連れて来た門人が何人か居たはずだ。吉原で引き合わせられたぜ。あいつらは絵の門人なんかじゃなかったというわけさ。押し込みを企んで栃木から同行させた連中と見た」
仙波は辛い顔で応じた。
「笹屋五兵衛も怪しいと睨んでおりやす」
「なにか栃木で耳にしたか?」
「どうやら笹屋も釜屋とは遠縁に当たるそうなんで。釜屋の先々代は近江から栃木に移って来たらしいんですが、笹屋も近江の出。三代くれえ前は先祖が一緒のようですよ。その繋がりから歌麿兄いの世話を……笹屋はしばしば栃木にも足を運び、釜屋と親しく付き合っていると聞きやした」
「縁戚ぐれえのことは見当を付けていた。それだけじゃ怪しいとは言えめえ」
「人助けのつもりかどうか、笹屋は好んで栃木のあぶれ者を江戸に連れ帰っては自分の店で働かせているそうですぜ。評判を気にする店が多いってのに立派なもんだ。本当に真人間にする気なら偉い話だが」
「裏の商売でもしてるって言うのか?」
「そう勘繰りたくもなりますよ」
うーむ、と仙波は唸った。歌麿や徳成が押し込みと判明したからには、その庇護者の立場にある笹屋もまた関わっていると見てもおかしくはない。
「最初《はな》っから連中に誑《たぶら》かされていたってことか。参ったぜ」
「そなたを誑かしていたというわけではなかろう。そなたの方がたまたま近付いて行ったということだ」
左門は歌麿のために弁明した。
「笹屋をしばらく見張れ」
仙波は菊弥に命じた。
「もぐさ屋にしちゃいかにも派手な暮らしぶりだった。若い者の数も多い。例の押し込みにゃ手慣れたとこがある。ひょっとすると笹屋こそが押し込みの軸かも知れん。歌麿が昔からそいつをやっていたとは思えん。笹屋もおりよの一件についちゃ頭に来ていた。歌麿を哀れと思って手助けしたのと違うか?」
「その線であろうな」
左門も仙波の推測に同意して、
「いずれにしろ歌麿にこれ以上押し込みを続けさせるわけにはいかんぞ。この証しを手にしたからには歌麿とて言い訳がなるまい。ここはおこうに頼んで箱根まで出向いて貰うしかないか」
「おこうさんを箱根にですかい!」
春朗は目を剥いた。
「そいつは危ねえ。あっしが参りやす」
「そなたではもっと危なかろう。あの歌麿なればおこうに手出しはせぬ。話ぐらいは聞いてくれると見た。そうすれば我らの思いが伝わる。それに、そなたには他に頼みたいことがある。首を長くして戻りを待っていた」
「頼みとは?」
「これだ」
仙波は懐ろから一枚の紙を出して見せた。
春朗は行灯《あんどん》に近付けて文字を読み取った。
「こいつはいったいなんなんで?」
「北町のお奉行初鹿野さまに喧嘩をふっかける。そいつを紙に刷ってばら撒くつもりよ」
「正気なんですかい? 知れりゃ獄門ものだ」
春朗の額には脂汗が噴き出ていた。
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いたずら草紙
中山が珍しく浮かぬ顔をして仙波の屋敷に現われたのは二日後の昼のことだった。
「なにがなにやら……ここのところ鳴りを潜めていたと思えば……」
中山は仙波に懐ろから紙を抜き出して吐息とともに手渡した。
「なんだこれは?」
「また連中が撒いたものです。火附盗賊改の役宅の前に撒き散らすとは舐めた真似を……お陰で朝からお頭のお小言をたっぷりと食らいましたよ。まったくなんの気やら」
「役宅を狙ってのことだと?」
仙波は呆れた顔で中山を見詰めた。
「察するに北町奉行所の周辺にも。関わりのあることなので小者をやって調べさせました。だいぶ慌てている様子が感じられたとか」
「北町奉行所と関わりのある話か?」
仙波は手にしていた紙に目を走らせた。
仙波が拵えたものなので読まずとも分かっている。しかし仙波はたっぷり時間をかけて眺めた。唸りや吐息も混ぜて見せた。
「いかにも北町のお奉行のこととしか読めぬな。それにまた俺の名も出ている」
「お奉行の初鹿野さまのことはご存じで?」
「いや。お名前だけはむろん承知だが」
「生真面目なお人と耳にしておりまする。いかになんでも本当の話とは思えませぬが、この書きぶりではなにか掴んでいるようにも思えます。この前はお頭を揶揄し、今度は北町。民らにこの噂が広がればどうなるか……」
中山は暗い目をした。
「鹿の悪行」と大書された文字が嫌でも目に入る。真ん中には清流の水を旨そうに飲んでいる鹿の絵が描かれ、流れの底には夥《おびただ》しい小判が沈んでいる。なんでもない絵のように見えるが、清流は「白河の清き流れ」を下敷きにしているもので、つまりは白河藩主松平定信を意味し、小判の味の染み込んだ水を飲んでいるのは北町奉行初鹿野のことであると本文を読めば分かる仕掛けとなっている。
仏の信頼を受けて北山に住まいを与えられていた鹿が居る。その役目は北山から一望できる江戸の町の様子を逐一仏に報告することであったが、近頃はすっかり怠け癖がついてしまった。その原因は北山に流れ込む小判の川にある。その水を飲み続けていると、どういうわけか善悪の判断がつかなくなるのだ。江戸の民らの窮乏も仏が行なっている世直しに見え、怨嗟《えんさ》の声も仏を崇める読経に聞こえる。鹿が報告しないと仏にも江戸の窮状が伝わらない。さすがに仏も不審に思って鹿を極楽に呼び出して問い質した。その鹿の姿を見て仏は仰天した。鹿の目玉は小判色に濁っているばかりか、首から下は馬に変わっていたのである。馬と鹿が一緒になって馬鹿と成り果てたのだ。仏は嘆き悲しみ、ご自分で小判の川の源流を探られた。そこには白兎とせんば山に巣くう大狸が居て、民から盗み取った小判をせっせと川に投じていた。馬鹿と成り果てた鹿は兎と狸の味方に回り、驚いている仏を川へ突き落とし、殺してしまった。
「まったく、ふざけた話だな」
仙波は苦笑いした。
「笑いごとではありません。お頭のお叱りは手前に一番強く向けられております。頼りにならぬ者だと怒鳴られてしまいました」
「ここまで狂歌本を調べても見付からぬとなれば江戸で出したものじゃないのかも知れん。やるだけはやった。おまえに責めはなかろう」
「となると十日近くも無駄働きをしたことに。押し込みのなかったのがせめてもの救いです」
中山は菊弥の出した茶を啜った。
「しかし……なんだって撒き札ばかりを。それがどうにも解せませぬ」
「銭目当ての押し込みじゃねえとしたら、もう十分だと考えたのかも知れぬな。火附盗賊改も市中に目を光らせている。無理して危ない橋を渡ることはない。撒き札程度なら隙を見計らってやれる」
「これまでとは紙も違い申す」
「なるほど」
仙波は紙を指の腹で揉んだ。
「押し込みがふっつりと途絶えたことを考え合わせれば、これは別の者の仕業ということも有り得るのでは?」
「押し込みに同調する輩《やから》の仕業だと?」
「お頭のお考えです。なにを書いても押し込み連中に押し付けることができますからね」
「それならもっとはっきりしたことを書こう。初鹿野さまのことも名指しすりゃいい。お頭がだれを睨んでのことか知らぬが、もし蔦屋辺りと見当をつけているなら外れだな」
「………」
「蔦屋が恨んでいるのは南町の方さ。それに蔦屋ごときが北町のお奉行の裏を知るわけがない。この俺でさえ初耳の話だ」
「確かにそれは言えますね」
中山も得心の顔で頷いた。
「やはりお頭は蔦屋から目を放していなかったと見えるな」
中山が帰ると左門が顔を見せた。
「聞かれていましたか」
「あの分では蔦屋がこの屋敷に参ったことも伝わっていよう。蔦屋に手助けを頼んでおればどうなったことか。冷や汗が出た」
「即座に別の者の仕業と見破るとは……お頭だけのことはありますな」
「火附盗賊改の役宅までは余計じゃったか」
「いや、北町奉行所ばかりでは初鹿野さまを追い詰めることができ申さぬ。噂が火附盗賊改にまで伝わったと思わせるのが大事。火附盗賊改の立場ではお奉行に手出しできぬと申せ、初鹿野さまのお心は必ず乱れまする」
「お奉行がどう出るか……撒き札一枚では心許ない。と言うて、今の中山の様子では慎重に運ばねばなるまい」
「お頭の目が手前にも?」
「襖の陰で声だけを聞いておったが、どこかよそよそしさが感じられた」
「中山にでござるか?」
「目の見えぬ者の方が人の心をよく読み取ると言うではないか。屈託のない笑いを見せられれば、ついごまかされてしまう」
「中山に限って……」
「今後もなに一つ打ち明けぬのが中山のためでもあるぞ。お頭に怒鳴られて蔦屋との関わりを探るよう命じられただけやも。それなら間に入って中山が辛くなるばかりじゃ」
「それは重々承知」
「次はなんの手を打つ?」
「新たな撒き札をと考えており申したが、しょせんは出鱈目。それは初鹿野さまご自身が一番に知っておられること。重ねれば反対に捨て置かれる心配が出て参り申した」
「かも知れぬな」
「寿の字の死骸を用いるというのは?」
「どのように使う?」
「懐ろの巾着に例の反古紙《ほごがみ》を畳み込んでおきまする。火附盗賊改の役宅から出た反古紙であるのはお頭の名があるので一目瞭然。体に彫られた寿の入れ墨で身許も直ぐに知れるはず。なにゆえ寿の字の懐ろに火附盗賊改から出た反古紙があるのか、初鹿野さまも首を傾げられましょう。その裏を知りたいと思えば間違いなく手前のところに」
「なんでそなたと関わりがあると思うのだ」
「手前の名をはっきりと記したものを、おなじ巾着に忍ばせておきまする」
「馬鹿な! なにを考えておるのじゃ」
「お奉行は保身に長《た》けたお人。死骸の巾着に火附盗賊改の反古紙と火附盗賊改に出仕する手前の名を記した紙を認めれば、断じて公にはいたしますまい。下手に公として配下の者らに裏を探らせれば抜き差しならぬ事態に追いやられぬとも限りませぬ。お頭の後ろにご老中があるのはご承知のはず。しかし、なにゆえ関わりのない死骸を持ち出してきたかとご不審を抱かれるのも確か。そうなれば攻め場所は手前しかござらぬ。手前がお奉行ならそういたしますぞ」
「臭い物には蓋ということもある。手には乗らず闇に葬ることとてあろう」
「そのときは弱みを握ったも同然。今度こそ撒き札に初鹿野さまの洗いざらいを」
「どうしてもその手しかないと申すか?」
「謹慎で外に出られぬ以上、餌を大きくして獲物を引き寄せるしかありませぬ。相手はお奉行。よほどのことをせねば」
「万が一、初鹿野さままでご老中とつるんでいたらどうなる? そこまでやれば逃れる道はない」
「覚悟を何度申せばご安心召されるので?」
「………」
「南町はすでにご老中に牛耳られており申す。火附盗賊改もしかり。加えて北町までもとなれば江戸は死んだもおなじ。手前がこれからなにをしようとご老中にはかなわぬ理屈にござろう。たった一つの灯りと思えばこそ初鹿野さまに賭けておるのでござる」
「とんだ倅を持ったわ。やはり女房を早く持たせるべきであった。簡単に命を捨てよる」
それでも左門は笑いを見せて、
「あの腐った死骸を見ねばならぬお奉行もお気の毒と言うもの。嫌なことを思い付く」
大きな吐息をした。
「問題は死骸のありかをお奉行にどうやって伝えるかでござる」
「そなた、南町のお奉行にお妾のあるのを知っておるか?」
左門はにやりとして質した。
「それは薄々と耳に」
「北町の初鹿野さまとて儂に較べればまだまだお若い。お妾の一人や二人はおろう」
「でありましょうが……」
「そなたが南町のお奉行のことを承知なら、安井の女房の兄とて初鹿野さまのことを知っておるはず。亭主の仇のためであれば女房も働いてくれる。きっと聞き出してくれよう」
安井の義兄は北町に勤務している。
「迷惑にはなりませぬかの?」
「女にも覚悟があるものじゃ。南町は近頃すっかり安井のことを捨て置いておる。悔しい思いをしておろう。安井のためじゃと頭を下げれば頷くに違いない」
「そしてお奉行が妾宅に出掛けたときに?」
「むしろ留守を狙って文《ふみ》でも投げ込むのがよかろうな。女は怯えてお奉行に見せる」
確かに、と仙波も大きく首を動かした。
その翌日の夜更け。
春朗と菊弥はひっそりと静まりかえった本舟町に足を踏み入れた。八丁堀から舟を使い、間近の日本橋の手前に着けたのである。そうして裏道を辿れば番屋の者に見咎められることもない。
「舟宿の裏手は広い屋敷ばかりだな」
春朗は黒板塀の連なる裏道に入ると意外な口調で言った。呉服店の並ぶ駿河町の裏手にも当たっている。いずれにしろ裏道なので滅多に通ることはない。
「たいていは名の通った金持ちの別宅ってやつだ。それも駿河町のね」
「目と鼻の先に妾を囲ってるのか」
春朗は呆れた。
「通いに無駄な時を取られずに済むってことでさ。そこは商人《あきんど》。することにそつがねえ」
「周りが全部そういう屋敷なら妙な噂を案じることもねえってわけだな」
春朗は納得した。
「しかも、ここなら北町のある呉服橋にも近い。行き帰りに立ち寄るにも都合がいいってもんだ。恐らくはお親しく付き合っていなさる呉服屋にでも頼んで借りたんでやしょう」
菊弥に春朗は頷きつつ、
「それで生真面目とは笑わせる」
「お奉行なら妾くれえ当たり前でしょう」
「禁令が聞いて呆れるぜ。妾ほど無駄なものはなかろうに。取り締まる側の奉行がそれじゃどうにもならねえ。妾は鼈甲《べつこう》の櫛なんぞ差して贅沢な暮らしをしてるのよ」
「声がでかすぎる。まず屋敷を捜すのが先だ」
菊弥は春朗を制して奥へと進んだ。左側の屋敷で、塀から大きく枝を突き出した二本の松が目印と聞かされている。屋敷は直ぐに見付かった。菊弥が腰を屈める。春朗はその背中に飛び乗って塀越しに中を覗いた。淡い明りのついている部屋が見えた。庭に面した部屋だ。妾の寝所と見て間違いない。
「板戸を閉めていねえ。お奉行が見えているのと違うか?」
春朗は飛び下りると不安な顔をした。泊まることはないだろうと見当をつけて夜更けを選んだのである。
「そいつはまずい。出直しやすかい?」
「それも面倒だ。障子なら礫《つぶて》で穴が開く。こっそりと近付いて縁側に面と文を置いてから遠くで礫を投げりゃ逃げる時間がある。向こうも妾の家でことを荒立てやしめえ」
「あんたもうちの旦那に似て乱暴だ」
「こっちは食う物にも困ってる身だぜ。こんな暮らしを見ていりゃ腹も立つ」
「逃げるときに一人で塀を越えられるかい」
「なに、門の閂《かんぬき》をはずして飛び出る。騒ぎで屋敷の者が駆け付けるとしても庭の方だ」
平然と応じて春朗は菊弥を促した。菊弥はふたたび腰を屈めた。春朗は勢いをつけて背中を踏むと塀に飛びついて攀登《よじのぼ》った。身軽に庭へ着地する。太い松の根に身を隠して見守ったが気取られた様子はない。春朗は藪が体に触れぬようにして寝所を目指した。さすがに心臓が高鳴っている。奉行ともなれば妾のところとは言え一人で泊まることはしない。二人やそこらの配下を従えていよう。それらに捕らえられれば首を落とされる。
寝所間近で春朗は耳を澄ました。
話し声は聞こえない。
どうやら女は一人で本でも読んでいるようだ。体をわずかに動かす音がする。
〈お奉行に囲われていりゃ盗人も平気ってことか〉
春朗は安堵の笑みを洩らした。
それならそれでやりようがある。春朗は懐ろから用意の狐面を取り出すと被った。足を忍ばせて縁側に上がる。中の女はまだ気付いていない。障子に手をかけて体半分ほど開けた。女はぴくんと上半身を反らせた。右の腕を慌てて布団から引き出す。春朗は思わず笑った。女の枕元に広げられているのは枕絵だった。指で自分を慰めていたのだろう。それで咄嗟に叫ぶこともできなかったと見える。
「心配《しんぺえ》するな。お奉行さまに用がある」
「こ、今夜は……」
泣きそうな目で女は言った。なにが起きているのか分からないらしい。
「返事はいい。こいつを渡してくれりゃいいのさ。狐面が押し掛けたと伝えろ」
春朗は畳んだ文を出して女の目の前に投げた。女は何度も頷いた。
「お奉行さまの味方のつもりだ。屋敷の者は呼ぶなよ。騒ぎが大きくなればお奉行さまのご迷惑となろう。俺が訪ねて来た証しに、この面はここへ置いて行く」
春朗は障子を閉めると面を取り、縁側に投げ捨てて門を目指した。騒ぐと思ったが女の悲鳴は上がらなかった。春朗は閂をはずして外へ飛び出た。菊弥が待っていた。二人は無言で裏道を駆けた。
「よくなにも起きなかったもんだ」
角を曲がってから菊弥が言った。
「なかなか美《い》い女だったぜ。くそ腹が立つ」
春朗は舌打ちしながら夜を駆け抜けた。
苛々として仙波は待ったが無為に日ばかりが過ぎて行く。三日が経っても初鹿野からはなんの連絡もない。果たして誘いに乗って寿の字の死骸を目にしたのかも不明である。寿の字の死骸は近くの寺の墓地に埋めてあるのだが、迂闊に近寄れば危ない。初鹿野の配下が見張っている可能性がある。ここは根較べと決め込んで菊弥と春朗にはいっさい接近するなと言い聞かせてあるのだ。
「暗いうちから起きていたようだの」
朝焼けを眺めていると左門が起き出してきて縁側に並んだ。
「甘い考えだったやも知れません。こっちの一人芝居。北町のお奉行ともなれば、やはり簡単には動いてくれませぬな。今日は菊弥を寺に行かせようかと。この分では死骸も無視されたとしか思えませぬ」
「根較べと申したはそなたであろうに。三日やそこらでは分からん。初鹿野さまには痛い腹がないのじゃ。狙いがなににあるのかじっくり見極めておるのじゃろう。心配するな。死骸についてはきっと検分したはず。妾の家に押し込まれれば、探らずにはおられぬさ」
「それで動かぬとあれば、ますます気が塞がりますな。親父どのが言われたように臭い物には蓋と見たのかも。こうなればまた北町の前に新たな札を撒くしかなくなりました」
「うるさい蠅と見做されては終いじゃ。下手をすれば敵に回してしまう。寿の字の身許を探るにしても二日はかかろう。それを思えば三日などそれほどの日数ではない。せめてもう二日は我慢せよ」
「一日が五日にも感じられまする。なにもできずこうして庭を眺めているばかり。伝馬町と変わりませぬ」
「そんなことでは隠居暮らしに耐えられまいの。半刻も庭を眺めている暇があるなら味噌汁でも作ってみるがいい」
「そういたしますか」
笑って仙波は腰を上げた。菊弥の米を研ぐ音が聞こえる。
昼前に中山があたふたと飛び込んで来た。よほどの事態のようで部屋に上がり込んでも中山は肩で息をしていた。
「押し込みとは違うんだな?」
仙波の問いに中山は何度も顎で応じた。
「とんでもないことです」
ようやく息を整えて中山は口にした。左門と菊弥も中山を囲んでいる。
「前田さんの門前に莚《むしろ》で巻かれた死骸が投げ捨てられていたんですよ」
思わず仙波と左門は顔を見合わせた。
「夜のうちのことです。莚には木札が結ばれていて、お頭の名がそれに」
「つまり……お頭宛てということか」
「呉服橋のたもとに投げ捨てれば騒ぎが大きくなります。それで側近とも言うべき前田さんに目を付けたんでしょう。前田さんの屋敷なら簡単に近付けます」
「だれの死骸なんだ?」
「それが……だれのものやら」
「見ず知らずの人間か?」
「と言うより分からないんです。上半身から顔まで、すっかり皮が剥ぎ取られている」
仙波は耳を疑った。
「本当です。役宅の庭に運んで来たのを私も見ました。肉は腐り果て、腸《はらわた》が食み出ている。あれは死んでからだいぶ経った死骸でしょう。あれなら皮も楽に剥げたはずです」
仙波と左門は同時に吐息した。目線を軽く合わせる。左門も仙波と同様に寿の字の死骸ではないかと見ているようだった。
「なにか文のようなものは?」
「どこにも見当たりません。ひょっとすると門前まで運ぶうちに落ちてしまったものかも知れませんがね。死骸だけ置かれてもこっちにはなにがなんだか……」
「真っ裸だったわけじゃあるまい。衣や所持品はどうなんだ?」
「大当たりの真っ裸なんですよ」
中山は苦笑いした。
「体付きや年頃の見当は?」
「………」
中山に逡巡が浮かんだ。
「どうした?」
「私の知っているうちでは……例の寿の字という男に似ているような」
「この俺がやったとでも思っているのか」
仙波は思わず鼻で笑った。
「そんなわけはありませんよね」
中山は安堵の顔で額の汗を拭った。
「当たり前だ。寿の字の死骸をお頭に送り付けてどうする? 仮に俺がお頭の動きに不審を抱いていたとしてもだぞ、そうなればむしろ寿の字の死骸は大事な証し。あっさりと手放すわけがなかろうに」
「それを聞いて肩の力が抜けました」
「お頭はなんと見ている? まさか寿の字らしいと口にしたんじゃなかろうな」
「言いません。なんで言えるんです」
中山は口を尖らせて、
「お頭はただの嫌がらせであろうと見ております。古い死骸をどこかから掘り返し、火附盗賊改の腑甲斐無さを嘲《あざけ》る腹ではないかと」
「騒ぎにはしないと?」
「火附盗賊改の恥を晒《さら》すようなもの。皆に口封じを命じた上で埋めさせてしまいました」
「そんな馬鹿な話があるか!」
仙波は顔色を変えた。寿の字の死骸であるなら明らかに殺された傷が残っている。いくら腐っていたとは言え火附盗賊改が見逃すはずはない。
「じっくりと検分した上でのことか?」
「お頭と前田さんのお二人で」
「お頭はそういうお人なのか? この前の浪人者の一件でも深入りを避けた。そんなことでお役目が勤まるのか?」
「私も少し首を傾げてはおりますが、火附盗賊改は名だたる悪党が相手。なにを仕掛けてくるか知れたものではござりませぬ。いちいちまともに取り合っていては足元をすくわれます。なんの魂胆か知れぬうちは放っておくしかありませぬ。たぶんそのようにお考えかと。埋めたと言うても役宅の庭。必要があればいつでも掘り出すことができます」
「ではなんで慌てて知らせに来た?」
「だから……私はてっきり寿の字の死骸だと」
中山は身を縮めた。
「案じてくれたのはありがたいことだが、俺は火附盗賊改を見損なったぜ。魂胆がどうの、裏がどうのと言うが、結局は逃げとしか思えねえの。でなきゃ、わざと知らぬ振りをしてるかだ。いずれにしろ役目を捨てたも同然だ」
「寿の字でなければ……あとはお頭の申された通り嫌がらせとしか思えません」
「皮を剥ぐってのは相当なことだ」
中山は押し黙った。
「よくそんなことで今まで勤めを果たしてこられたもんだ。鬼という綽名《あだな》が泣こう」
「仮にもお頭です。それ以上は……」
中山は苦々しい顔をした。
「見ての通り俺は毎日をぶらぶらと過ごしている。世の中からすっかり遠のけられちまったよ。おまえも俺なんかのところへ来るよりは押し込みの噂でも聞き歩くんだな」
「お頭の厳命です」
「狂歌本のことなら諦めるしかないとそっちも頷いたではないか。それで厳命とは?」
「謹慎をきちんと守られているかどうか」
「守っているから腹が立つのさ」
「もうしばらくは堪えてください。撒き札に何度も仙波さんの名が出てはお頭もお許しをなかなか……」
中山はひたすら頭を下げた。
「親父どのの推察が当たっているような気配」
中山が帰ると仙波は頭をぼりぼりと掻いた。月代《さかやき》が伸びてきている。外に出ないと分かっていては律義に剃る気にもなれない。
「なんでそう感じた」
「中山は死骸をしっかりと見たはずでござる。腸が食み出ていたと言い申した。それならむろん刺し傷も見えたに違い申さぬ。だからこそ寿の字のものと見当をつけたのでござろう」
「なるほど」
「なぜそれを手前に言わぬのか……気付かぬふりをして手前の様子を確かめに参ったとしか思えませぬな」
「それできつく当たったのか」
「信用してきた己れに腹が立ったのでござるよ。あるいは本当に寿の字の死骸ではないのかも知れませぬ。それなら中山に謝らねばなりませぬが……無縁の者の嫌がらせなど有り得ぬことのように思われます」
「寿の字であるなら、紛れもなく初鹿野さまの仕業ということになろうぞ」
それに仙波も小さく頷いた。
「なんの目的あってのことかの」
「それこそ臭い物には蓋としか。懐ろに火附盗賊改の反古紙と手前の名が記された紙切れを見つけて身震いしたのでござろう。知らぬふりをして差し戻すゆえ、これ以上巻き込むなと伝えたつもりにござりましょうな」
聞いていた菊弥は大きく首を縦に振った。
「ではなぜ三日も捨て置いた? 戻すなら直ぐの方がよい。第一、死骸のありかを知らせたのは押し込みと信じていよう。それを火附盗賊改に突き出すは筋が違う」
「関わりのあるのはお頭と手前。それなれば火附盗賊改で処理せよということでは?」
「皮を剥ぐ理由が分からん」
「見る者には寿の字と分かります。ましてやお頭宛てに届けられたもの。他の者に余計な邪推をさせぬ工夫かとも取れまする」
「そなたも理屈だけは一人前じゃの」
左門はくすくすと笑って、
「いかにもと聞こえるが、だとしたらこっそりとお頭を呼び寄せ、死骸を見せれば済むことであろう。そもそも死骸を送り付けただけでは初鹿野さまのしたこととお頭に伝わらぬ。巻き込むなと脅したとて、相手がだれか分からぬでは意味がない」
「他にどんな目的が考えられます?」
「儂にも分からぬゆえ質したのじゃ」
「さほどの裏もなく、ただ突き返せば済むと見たのではありますまいか」
「それが当たっていそうじゃな」
「結局は頼りにならぬお人にござった。この様子では新たに札を作ったとて無駄と言うもの。まったく……情けない」
仙波は八方塞がりとなって嘆息した。
「儂は最初《はな》からお奉行を味方にできるなどと思わなんだが……世の中とはそうしたものよ。だれも火中の栗など拾わぬさ」
「手前もこれで諦めがつき申した。中山すら頼りにできぬかも知れぬとあっては致し方なし。明日は隠居願いをお頭に」
「届けると申すか」
「もはや未練などござらぬ」
「隠居願いを出すには跡目の名が要る」
「どうせ一代抱えが定めの同心職。手前限りで潰しても構わぬと親父どのは申された」
「それはいいが……」
「辞めると申せば文句はありますまい」
「とうとうこうなったか」
むしろさっぱりした笑いを左門は見せて、
「この屋敷にも居られなくなるぞ。菊弥、今度はそなたの厄介になるやも知れん」
菊弥は恐縮した。
その真夜中、仙波の屋敷の門を派手に叩く音がした。門前で張り上げる声も聞こえる。
「儂にござる。川崎の与八郎にござる」
仙波は慌てて玄関に急いだ。布団に入っていた左門も寝間着姿で現われた。川崎の与八郎とは左門の義弟である。妻のおまちが亡くなってからはすっかり疎遠となって、二年に一度ぐらいしか顔を合わせることがない。
「なんの用じゃろうな?」
戸惑いつつも左門は庭から門に回った菊弥に開けるよう命じた。与八郎は菊弥に夜分の訪問を詫びてから玄関に入って来た。後ろには荷物運びの男を従えている。
「これは与八郎どの。いかがいたした?」
「所用があって深川まで参ったのでござるが、話が片付かずこの夜更けとなってしまい申した。この時刻では宿もままならず……」
近隣に響く声で言い立てる。
「分かった、分かった。とにかく中へ入られよ。玄関先で立ち話する刻限ではない」
閉口して左門は与八郎と供の者を促した。
二人はほっとした様子で頭を下げた。
「深川までの用事とは?」
「薬の仕入れにござるよ。どうしても見付けて帰らねばならぬものがござって」
与八郎は川崎で薬屋を営んでいる。
「夜明けには発ちまする。江戸で頼れるお人は左門どのばかり」
「遠慮は無用。まだ寝ずに起きていた」
左門は菊弥に寝所の支度を言い付けた。
居間に入ると与八郎は供の者を上座に勧めた。左門と仙波は供の男に目を動かした。男は端座して頬の手拭いを解いた。身形《みなり》こそ貧しいが、髷《まげ》はきちんと整えられている。しかも武士の髷だった。与八郎より年上であろう。
「どなたじゃ?」
左門は与八郎に訊ねた。
「庭の板戸は閉じられてござろうな?」
与八郎は小声で質した。左門は頷いた。
「深川に所用で参ったと申したのは嘘でござる。万が一見張りでもあればと案じてのこと。それでわざと声を立てて名乗りを……」
与八郎はにやっと笑った。
「こちらに頼まれてのことか?」
「どうしても一之進どのに内密で会いたいと申されてな。儂と一緒なれば怪しまれぬということらしい。それで昼に川崎の方へお使いが……儂でお役に立てばとお引き受けした」
「では……まさか」
左門は悟って身を強張らせた。
「儂がだれか承知と見える」
供の男は面白そうにして、
「承知ということは、やはりそなたらの仕組んだことじゃの。でなければ想像もつくまい」
ははっ、と二人は男の前に平伏した。
「北山の間抜け鹿じゃよ」
じかに名乗られるとまた冷や汗が仙波の首筋に噴き出る。信じられない。北町の奉行である初鹿野が一人で現われたのである。
「ここなうつけ者!」
初鹿野は仙波を怒鳴りつけた。
「同心の身分でなにを企んだ! 女一人の屋敷に踏み込むとは恥を知れ!」
仙波は平蜘蛛のごとく両手を揃えた。
「儂の恥にもなることゆえ見逃したが、その心根が許されぬ。腹に据えかねて参った」
「幾重にもお詫び申し上げます」
仙波はひたすら謝った。初鹿野の真意がなににあるのか掴めない。
「そなたも武士なら斬罪より切腹を望もう。むろんその覚悟あって儂を間抜け鹿呼ばわりいたしたのであろうな?」
「覚悟はとうにできておりまする」
「企みの子細は親の左門も承知か?」
「承知にござります」
左門は額を上げて応じた。
「なれば子細はあとから左門に問い質す。そなたは今より腹を切れ。儂が見届ける」
仙波は初鹿野を見詰めた。
「得心いたせば動かぬでもない。なれどその前にそなたの命が所望」
初鹿野は冷たい目で言い放った。与八郎は思いがけない展開に動転していた。
「なにをしておる。覚悟があると言うたのはそなたじゃぞ。駆け引きなど儂には通用せぬ。即刻に腹を切れ。病いによる急死と儂が始末をつけてやるほどに安心しろ」
初鹿野は冷たい目で急《せ》かした。
「覚悟はいたしておりますが……」
動ぜず仙波は初鹿野と向き合って、
「たった今のお約束、嘘にはござりませぬな。手前の腹と引き換えに我が父よりことの子細をしかとお聞き届けいただきたい」
「それは承知。なれど手助けは別のこと。なんの話かは知らぬが、得心できぬときは捨て置く。悪事には荷担できぬ」
初鹿野は鼻で笑って、
「武士の覚悟とはそうしたものであろう。この期《ご》に及んで見苦しい。おのれのしでかしたことだ。まずはその責めを受けよ」
「捨て置く、と言われましたな」
仙波は睨み付けた。
「人に腹を切らせておいて、あとは知らぬと言うことにござるか」
「やはり覚悟云々は駆け引きか」
「駆け引きだと!! ふざけるんじゃねえ」
仙波は怒鳴って胡座をかいた。
「駆け引きはてめえの方じゃねえか。腹が立ったなら、なんで堂々と北町へ召喚しねえ。こそこそと頬っかむりして現われたのは我が身可愛さのことじゃねえのか? 俺を下手につついて火附盗賊改を敵に回しゃ厄介の種子。それでこっそり始末をつけに来たのよ。それでも一人でやって来たのは褒めてやってもいいが、そんな手前《てめえ》の都合に合わせて腹を切るほど俺は甘かぁねえぜ。どうせ同心は辞めるつもりでいた。そうなりゃそっちも遠慮は要らなかろう。あらためて俺を白洲に引き出すんだな。長谷川平蔵のことなんぞ気にしねえで、どんな罪にでもすりゃあいい。武士を辞めりゃ斬刑も切腹もおなじこと。文句言わねえで受けてやるよ。ただし、その前に言いてえことを全部腹から吐き出してやる。手前《てめえ》にゃ無縁のことでも、ご老中や長谷川の悪事が世間に伝わりゃ穏やかじゃあるめえ。知らずに居たと世間に通るもんかどうか、そいつぁちょいと見物だな」
「一之進!」
左門は珍しくおろおろとなった。
「手助けをしっかりと約束しねえなら、こっちも腹は切らねえ。それこそ無駄腹だ。のうのうと高みの見物を決めこんでいた野郎の口車に乗る俺じゃねえ。男の意地で覚悟を見せてもいいが、手前なんぞにゃ勿体ねえよ。たとえ相手が小物であろうと、死なせる気なら手前も覚悟をつけやがれ。聞いた以上はあとに退けねえことが世の中にゃあるんだぜ」
「一之進!」
左門は泣きそうな顔で制した。
「一人で現われたは好都合。手前をここでばっさりと片付けてもいいんだ。同心風情のとこで北町の奉行が殺されたとはだれも思うめえ。その方が俺も後腐れがなくていい。それをやらねえのが俺の覚悟だ。さっさと帰って捕方《とりかた》を差し向けるがいいぜ。これ以上ぐずぐずしていやがると刀を抜きたくなる」
本当に仙波は刀に手をかけた。左門は青ざめて肩を落とした。取り返しがつかない。
「仙波一之進……噂以上の者だな」
黙って言わせていた初鹿野はくすくすと肩を揺すって、
「千に一つの目こぼしも許さぬか。儂を殺すとはよく言った。見上げた十手者《じつてもの》よな」
何度も頷いた。
「なるほど、儂に分が悪い。ここはそなたの屋敷。腕もそなたの方が上であろう。切腹を命じた儂が殺されたとて不思議ではないの。それをやらぬのが覚悟。いかにも得心した」
仙波は怪訝な顔で見返した。
「腹を本気で切ろうとしたなら止めるつもりでおった。それ以外にそなたの覚悟を試す思案がなかった。許せ。この通りだ」
初鹿野は仙波に軽く頭を下げた。
「覚悟を知ってどうする気だったと?」
まだ不審の目で仙波は質した。
「手助けを望んだのはそなたであろう。撒き札で間抜け呼ばわりしたのは儂を土俵に誘い出す腹だと直ぐに分かる。あいにくとまだそこまでは間抜けではない」
「なにゆえ札を撒いたのが手前だと?」
「死骸の懐ろにそなたの名を記した紙を見付けてからだ。調べさせたらそなたは謹慎の身と言う。長谷川どのとつるんでの芝居かとも考えたが、そなたはつい先頃南町より火附盗賊改に移った者。あのお人はそれほど簡単に人を信用するお方と違う。となれば自ずと答えが出て参る。そなたと長谷川どのとの間には反目があると見た。殺されたと見られる男の死骸の正体も寿の字と申す武士上がりの無宿者。裏にどんな事情があるか知らぬが、これが長谷川どのに無縁でないのも想像がつく。それで思い切った策を講じた」
初鹿野の言葉に仙波と左門は膝を進めた。
「皮を剥いで長谷川どのにお届けした。どう出るか知りたかったのじゃ。ところが長谷川どのはことを荒立てず捨て置いた。いやしくも火附盗賊改に届けられた死骸。儂の確信は強まった。あの死骸は長谷川どのにとって迷惑なものだったと見える。迷惑なものをご自分から儂に掘り出させるわけがない。死骸のありかを儂に知らせて来たのはそなたであろうと見当がついた。としたなら札を撒いた者とて……短い間の重なりだ。これは儂を戸惑わせ、誘い出す手ではないかと見当をつけた」
「恐れ入ってござります」
仙波は額を畳に擦りつけた。
「ただの恨みからのことであれば無視するつもりでいた。それでそなたのことを探らせてみたのだが……堅い男との噂ばかりで悪い話は少しも出てこぬ。かと言ってあまりに間が開けば、またぞろ嫌な目に遭わぬとも限らぬ。それで思い立った。長谷川どのと敵対しておるのであれば屋敷に見張りが付いている心配もあろう。だから面倒な真似を……」
「まだ敵対はしておらぬつもりにござりますが、見張りはあるやも知れませぬな。当方は屋敷を出られぬ身ゆえ、しかとは分かりませぬ」
「寿の字はなんで殺された?」
初鹿野は仙波の代わりに胡座をかいた。
「巾着に入れておいた火附盗賊改の反古紙は、もともと寿の字の仲間だった男の手にあったものにござる。それに銭を包んで屋根裏に隠してありました。察するに火附盗賊改のだれかから銭で雇われていたのでござりましょう」
「雇ってなにをさせていた」
「手前が知っておるのは蔦屋や歌麿《うたまる》の見張り。そして手前の命を」
「狙って来たと言うのか」
「江ノ島で襲われました。一人はそこで片付けたものの寿の字の方は取り逃がし……ようやく江戸の居所を突き止めて踏み込んだところ、一足違いで殺されていたというわけで」
「口封じということじゃな」
「それしか考えられませぬ。あの二人がだれに雇われてなにをこれまでして参ったのか、それを調べ上げれば必ずご老中に繋がると見ておりましたゆえ残念でなりませぬ」
「ご老中がどう繋がる」
冷静な顔で初鹿野は訊ねた。撒き札で散々言っていることなので驚きは見られない。
「ご改革の邪魔となりそうな者にあらかじめ目星をつけて脅し付け、それでも聞かぬときはこっそりと始末を」
「馬鹿なことを申すな!」
初鹿野はさすがに慌てた。
「なんの必要がある。ご改革に反すればご老中が手を下さずとも南町や北町の手で取り締まることができる。無意味なことだ」
「なればお奉行は恋川|春町《はるまち》に本気で手出しができると仰せにござりまするか?」
「なんのことだ」
いきなり言われて初鹿野は眉根を寄せた。恋川春町はだいぶ前に筆禍の重みに耐えかねて自害して果てている。
「恋川春町は倉橋どのと申されて駿河松平さまのご家中。ご改革を揶揄した罪で黄表紙はいかにも発禁の処分となり申したが、ご当人にはさしたるお咎めがなかったはず。歴《れつき》とした武士が相手では奉行所も手が出せませぬ」
「………」
「間もなくご自害召されてさぞかしご老中も安堵なされたことでございましょうな。ご老中とは無縁と言えぬ駿河松平さまのご家中よりご改革に反する者が現われては大迷惑」
「まさか、ご老中が倉橋どのを殺《あや》めたと?」
「腹を召される前日に倉橋どのがご老中のお屋敷に呼び出しを受けたそうにござります。その場に火附盗賊改のだれかが立ち会っていたのも確か。帰り道に倉橋どのは蔦屋に立ち寄り、別れの挨拶めいたことを口になされたとか。殺めたとは言いませぬが、詰め腹に追い込んだのは疑いござりませぬ。藩のお取り潰しのようなことでも言われたのでは?」
「確証あってのことか?」
初鹿野は詰め寄った。
「それを探っている最中に手前が襲われ、襲った寿の字が殺されましてござる。その上、手前が南町から火附盗賊改に異動を命じられたのはその直後。今思えば、手前を間近に置いて監視の目を強める手立てとしか……」
「謹慎もそれと繋がっておるのか?」
「と心得ます。浪人者を用いて二度目の襲撃にしくじったからには派手な動きは禁物。それで手前を遠ざける策を選んだものと」
「寿の字の死骸をそなたが預かっていたのはいかがなわけじゃ?」
「遺憾ながら南町にもご老中の息のかかった者がある様子。寿の字の殺されたのは南町の月番の最中。ろくな調べもせずに物盗りの仕業とされかねませぬ。死骸を隠せばどうなるかと考えて移しましてござる」
「南町のだれが関わっておる?」
「近江屋の押し込みをご承知でございますな」
むろん、と初鹿野は頷いた。
「殺された手代の吉太郎と申す者……以前は武士でござりますぞ」
「武士が手代になったじゃと!」
初鹿野は絶句した。
「南町でもそこまでは突き止めておりませなんだが、その者の調べ書きを北町に回す際に改竄したお人がおりますので」
「改竄など有り得ぬことであろう。回すものは必ず奉行が目を通す。そこで気付かぬほど愚かではない。ましてや大騒ぎとなっている押し込みに関わることではないか」
そこまで口にして初鹿野は顔色を変えた。
「池田どのがやったと言うのか?」
初鹿野は南町奉行である池田長恵の名を挙げた。仙波と左門は無言で吐息した。
初鹿野はもっと大きな溜め息を吐いて、
「参るのではなかった」
憎々しげに仙波を見やった。
「とんだことに巻き込んでくれたな」
「ではお手助け願えますので!」
左門が顔をくしゃくしゃにさせた。
「まことであるなら後戻りできまい。ただし、そのほとんどがそなたらの推量であろう。それではまだまだ北町を動かすことなどできぬ。そもそも儂にはなんで近江屋に武士上がりの者が手代として入り込んでいたかも分からぬ。それもご老中の命じられたことか?」
「長い話となりまするが」
「構わぬ。どうせ夜明けまでこの家を出られぬ。そう言って訪ねたのだ」
初鹿野は笑って、
「済まぬが茶をくれ。喉が渇いてならぬ」
仙波は頷いて菊弥に茶の支度を命じた。
「ただならぬことじゃな」
やがて初鹿野は腕を組んだ。深川の大水の日からはじまる詳細を伝えた仙波も冷たくなった茶で喉を潤した。
「歌麿の女房のことは初耳であった。その歌麿を江ノ島に誘い出したのが近江屋の手代となると、いかにも怪しい。つまりはご老中が息のかかった者らを江戸のあちこちに潜らせておるということだな?」
「と思われます」
「それは町方の役目をないがしろにしたも同然。ご改革を徹底させたいというご老中のお心とて分からぬではないが、それをやってはご政道の意味がなくなる。民らに知れればどうなる? 身近に監視の目があると分かれば身を縮めよう。それはお上が民らを信用しておらぬこととなる」
「御意」
「ばかりか、うるさくなりそうな者を脅して封じるなど……歌麿を揺さぶったのは民らの騒ぎを案じてのことじゃな」
「些細なことで歌麿を罰すれば民らはご改革を悪法と見做しましょう。歌麿は民らに好かれておりまする。と申して放っておけば蔦屋と組んでなにをしでかすか。危ない芽は摘み取っておくに限ります」
「ご老中はご自分のなされていることに自信を持っておられる。と言うて……」
初鹿野は天井を仰いだ。
「ただ、いかになんでも歌麿の女房を殺せとまでは命じられなかったはず。息のかかった者らの勇み足としか。そこになにも知らぬ手前が割り込んだゆえに面倒がはじまったのでござりましょう」
仙波の言葉に初鹿野も同意したものの、
「南町、火附盗賊改の双方がご老中の下にあっては難問過ぎる。総目付に話を持って行ったとしても果たしてどうなるか……よほどの証しがないうちは突き返されよう。そなたの苦しい立場は承知いたしたが、儂にどうせよと言うのだ? さような大事となれば儂も迂闊には部下を動かすことができぬ」
「南町の安井は死に損にござりますか?」
仙波はじろりと見詰めた。
「いったい押し込みはどう関わっておる?」
初鹿野は首を傾げて質した。歌麿が押し込みの頭目であるとの推量は仙波もさすがに隠し通した。それで初鹿野も話が今一つ繋がってこないと見える。
「撒き札の揶揄から察するに相当に裏を承知の者らと考えられまする」
「であろうの」
「それを思えば我らの味方。敵の敵は味方という理屈になりまする」
「その者らがあるいは確かな証しを手にしておるやも知れぬということだの」
「あるいは」
「その顔では押し込みをだいぶ追い詰めているのではないのか?」
「追い詰めていたとしても謹慎の身では……」
「北町にそれを任せる気はないか?」
「お言葉なれど、北町が捕らえたと伝われば即座に火附盗賊改が引き取りに参ります。そうなっては結果が明らか。場合によってはその日のうちに打ち首となるやも」
うーむ、と初鹿野は唸った。押し込みの管轄は火附盗賊改なのだから拒みはできない。
「しばし考えさせてくれ」
初鹿野は額に噴き出た汗を拭った。
「儂の立場では押し込みを許すわけにはいかぬ。いかに確かな証しを持っていたとしても見逃すことはできぬぞ」
ははっ、と仙波は頷いた。
「それにしても謹慎の身でよくぞ知恵が働いた。長谷川どのが恐れるのも当たり前。ここは儂も負けずに頭を絞らねばなるまいな」
初鹿野は苦笑いを交えて言った。
「なにとぞ、なにとぞお力添えを」
左門は仙波に代わって涙ながらに訴えた。
おこうは宿の裏手から下りて行ける小さな滝の前に佇《たたず》んで、飽かずその音を聞いていた。周りの緑を映す滝壺の色も美しい。この箱根の山中は秋が近い。仙波から頼まれた役目も忘れておこうは季節の移ろいを楽しんでいた。
「いくら宿に近いと言っても、一人じゃ物騒だな」
いきなり間近で声をかけられておこうはびくんと振り返った。直ぐうしろの岩にのんびりとした顔で歌麿が腰を下ろしていた。
「おどかさないでくださいよ」
「見惚《みと》れていたんだ。絵になる。目に刻み付けておこうと思ってね」
「少しも気付きませんでした」
「そりゃ、この水音だからな」
「半月以上も逗留とは、よっぽど箱根が気に入られたんですね」
「今の江戸なんぞ窮屈なだけだ。それより驚いたのはこっちさ。宿に訪ねて来てくれりゃいいものを、こんな場所に呼び出しとはね」
「私の方も五人で来ております。その者たちに歌麿師匠を追いかけて箱根に誘ったと誤解されてはご迷惑が及びましょう」
「おいらの方は構わねえよ。柳橋一のおめえさんと浮き名が立てば果報というもんだ」
「ご冗談ばかり」
おこうは微笑んだ。
「江戸は変わりがねえかい?」
「仙波さまがよろしくと申しておられました」
「謹慎はどうなった? 三日前の蔦屋からの便りじゃ相変わらずのようだったが」
歌麿は煙管にたばこを詰めて吹かした。青白い煙が歌麿を包む。
「一緒ですよ。不精髭を生やしてお屋敷でごろごろなさっておいでです」
「たまたま来たわけじゃなかろう?」
歌麿の顔は笑っていたが、見透かした目だ。
「仙波さまからお預かりしてきたものが」
おこうは懐ろから薄い本を取り出した。一瞥しただけで歌麿は苦笑した。なんであるか分かったらしい。
「栃木の寺で出したもんだ」
「お渡しすればそれで用が足りると……」
「珍しい本だぜ。よくそんなものを仙波さんが持っていた」
「それに……当分は箱根でご静養なされるのが一番とおっしゃっておられました」
「それだけかい?」
「ええ。確かにお渡ししましたよ」
おこうは歌麿に本を預けて一礼した。
「なんだ、つれねえの。こっちにはいつまで居る?」
「明後日の朝には戻るつもりです」
「それじゃ明日はひと騒ぎしよう。おまえさんが来ていると聞き付けておいらの方が宿に押し掛けたとなりゃ迷惑にもなるまい」
「連れの皆が大喜びします」
おこうはまた頭を下げて先に坂道を上がった。歌麿は参った顔で見送った。
宿に戻り、座布団を枕に歌麿が畳に寝転んでいると徳成が顔を見せた。
「妙な按配になった」
歌麿は起き出して胡座をかいた。
「どうやら仙波さんにゃすっかり見抜かれていたらしい」
「まさか。兄《あに》さんの深読みだ」
「おこうの用件はこれだった」
歌麿は手元の本を徳成の前に投げた。徳成はぎょっとした。
「なんでこいつを!」
「おこうはなにも知らぬ様子だった。なんで仙波さんがこういう真似をするのか……ずっと考えていたんだが、どうにも分からねえの」
「脅しをかけてきたんじゃ?」
「当分は江戸に戻るなとも言っている」
「知っていながら見逃すということかね」
「そうとしか取れねえが……」
信じられないことでもある。
「しかし、どうしてこれが突き止められたのか……目の前になきゃ笑い飛ばすとこだ」
徳成は本を手にして吐息した。
「大事な証しをこうして返してよこしたってことは、やはり見逃すつもりなんだろうな」
歌麿はゆっくりとたばこを喫った。
「本はいくらでも栃木の寺にある。と言ってもおいらが手を回して本を全部燃やしちまえば面倒になる。その程度は仙波さんも承知のはずだ。こんなことは手紙でも済むことだ。わざわざ証しを見せ付けるまでもなかろう」
「確かにね」
徳成も頷いた。
「つまりは、こいつを証しとして使う気がねえってことよ。その上で江戸に戻るなと言っている。ひょっとしておいらたちの身を案じてのことじゃねえのか?」
「火附盗賊改の役人がかい?」
「江戸を留守にするまではなにも気付いちゃいないように見えたが……」
「けど、直ぐその後に謹慎となったんですぜ。屋敷に閉じ込められてなにが分かるんで?」
「そこがおいらにも分からねえ」
歌麿は新しくたばこを詰めた。
「こうなりゃ、こっそりと江戸に舞い戻り、仙波さんと腹を割って話すしかねえかの」
「そいつは危ねえ。兄さんからはっきりと口にすりゃ、どっちも後戻りできなくなる」
徳成は反対した。
「戻るなってのは、ほとぼりを冷ませという意味でもなかろう。おいらたちがなんのために押し込みをやらかしたか、そこまでも見抜いているのと違うか? なにかやらかすつもりでいるような気がする」
「兄さんがあの旦那を頼りになさる気持ちは分かりますがね。同心程度でなにができるってんです? ましてや外にも出られねえ身だ」
「だからこそ本音を知りてえ。元はと言えばおりよのことからはじまった。おいらが巻き込んだようなもんだぜ。本気でなにかしでかす気なら、放ってはおかれめえ。こっちだって命を捨てた身だ」
「なんでそれほどあの旦那のことを……箱根に身を潜めたのも、あの旦那の身を思ってのことじゃねえですか。もう十分でしょう」
「十分じゃねえさ」
歌麿はじろりと徳成を睨み付けて、
「町絵師風情のことに命を捨ててくださる武士《さむれえ》がどこに居る? そいつを忘れちまったらおいらはただの押し込みだ」
「………」
「万が一捕まって拷問にかけられたとしてもおめえや笹屋の伯父貴の名は断じて出さねえから安心しな。おいらが頼み込んだことだ」
「兄さんの恨みだけではじめたんじゃねえや」
徳成は憤慨した。
「そんな情けねえことを言わねえでくれよ」
「いずれにしろおいらは江戸へ戻るぜ」
歌麿の心は定まっていた。
そして翌日の真夜中。
歌麿は一人で江戸に現われた。箱根の宿には小田原見物にでかけたことにしている。仙波と話を済ませたらその足で箱根に戻るつもりだった。仙波がわざわざおこうを頼んで言ってきたにはそれなりの理由があろう。
仙波の家を訪れたことはないが、場所は知っている。徳成に命じて見張らせたことがあった。まだ仙波がどういう人間であるか分からなかった頃のことだ。
八丁堀の組屋敷の並ぶ路地に踏み込んで間もなく、歌麿はぴたりと足を止めた。この真夜中だというのに蕎麦の屋台が出ていた。むろん客など一人も居ない。役人には夜も昼もない。だからこういう店が出ているのかと最初は頷いた歌麿だったが、釜から派手に湯気が上がっているのを見て不審が生まれた。客のないときは蓋を閉じて炭を減らさないようにするものだ。商売に慣れていないとしか思えないが、八丁堀ともなると簡単には屋台店を出せないと聞いている。ここから仙波の家は目と鼻の位置にある。なにやらうさん臭い。
そこに一人の客が姿を見せた。ぼそぼそと話し込んでいる。客と主人が交替した。主人は屋台を任せて立ち去った。
〈やっぱりな〉
歌麿は物陰で息を吐いた。
恐らくは長谷川平蔵が見張らせているものだろう、と歌麿は見当をつけた。深川の船宿を包囲したどさくさに紛れ、三人の浪人者を使って仙波を襲わせたのは長谷川平蔵以外に有り得ないと歌麿は見ていた。むろん老中松平定信の差し金には違いないが、他の者ではあの宿にあらかじめ浪人らを潜ませておくことができない。反対に仙波によって殺された三人の身元調べを火附盗賊改が曖昧にしたことでも知れる。それで歌麿は焦ったのである。放って置けば仙波は必ず殺される。自分が蒔いた種子で仙波を死なせるわけにはいかない。歌麿は必死で頭を働かせた。そして思い付いたのがあの撒き札だった。仙波が長谷川平蔵に操られて無実の浪人たちを手に掛けたと広めれば、逆に遠ざけられると踏んだのだ。仙波の名が江戸に広まれば長谷川平蔵も迂闊には手出しできなくなる。その読みは的中した。長谷川平蔵は仙波をとりあえず謹慎とする策に出た。これで当分は安心と見て箱根に引き籠っていたのだが、長谷川平蔵の手は緩んでいなかったと見える。
〈しつこい男だ〉
それでこそ鬼と呼ばれる。歌麿は足音を殺して路地裏に回ると仙波の家を目指した。低い垣根を飛び越えて庭に忍び込む。庭から門前を窺ったが、だれの姿もない。仙波の寝所の見当をつけて歌麿は板戸を小さく叩いた。そのままじっと待つ。仙波が部屋の灯りを消したままで静かに板戸をあけた。この分では仙波も見張りのあるのを承知らしい。歌麿は安堵して暗がりから顔を覗かせた。身を強張らせた仙波だったが、直ぐに手招きした。歌麿は細い隙間から入り込んだ。なにごともない顔で仙波が板戸を閉じる。
「なんで戻った!」
居間に案内して仙波ははじめて声を上げた。気配に気付いて左門と菊弥も現われた。歌麿と分かって左門はにやにやとした。
「おこうさんから聞きましてね」
「なにをだ?」
「押し込みの一件ですよ」
「嘘をつけ。おこうにゃなにも教えちゃいねえ。勘の働くおこうでも、まさか天下の歌麿が押し込みの頭目とは思いもしめえ」
「よく栃木からあの本を」
「春朗が捜し出してきたのさ」
「なんで栃木と知れました?」
「あの遊び唄な。栃木の辺りでしか歌わねえ文句が混じってた。そこで何年か過ごしたあんたはそいつが当たり前と思ったのさ」
「なるほど、それは迂闊でしたね」
「まったくだ。栃木と決まれば絞られる。厄介な彫りや刷りをこっそりと仕上げるにゃ相当な手蔓が要る。いずれ素人じゃなかろうと踏んでいた。文案や絵まで人任せとなればどうしたって隠し通せなくなろう。だいぶ早い時期からあんたじゃないかと睨んでいた」
「それはお人が悪い」
歌麿は爆笑した。今の言葉で仙波がずっと見逃してくれていたのが分かったのである。
「人が悪いのはどっちだ。さんざんぱら俺の悪口を並べやがって。お陰でこのざまだ」
「申し訳ありません。そうすれば仙波さんにちょっかいを出すやつが居なくなるだろうと」
「俺へのちょっかい?」
「浪人どもは最初から仙波さんのお命を」
「なんでも承知と見える」
仙波は苦笑いした。
「つまりは俺とお頭を引き離す方策か?」
「それで急がなければならなくなりました。うっかりと有りものの版木を使ったのもそのせいでしてね。まさかあれから足がつくとは」
「これは礼を言わねばなるまいぞ」
左門は陽気に肩を揺すって、
「いかにも、あのまま進めばどうなっていたか分からぬ。安井すら殺す相手だ。今頃はその首が繋がっておるまい。謹慎の身ゆえ見張り程度で済んでいる」
「それにしてもあんな醜男《ぶおとこ》に描くことはなかろう。喜んだのは親父とおこうだけさ」
「その通りに描けば仙波さんに近い者の仕業と知れましょう」
「それはそうだ」
左門はぽんと膝を叩いた。
「栃木の版木を持ち出さずとも歌麿のしたことと推量できたはず。あれほど詳しく一之進のことを書きながら、似顔がまるで異なるのは奇妙。なるほど、親しければこそ似ても似つかぬ顔としたか。まだまだ浅かったの」
「なんで見逃してくださるんで?」
「殺したのが近江屋の吉太郎一人だからだ」
「………」
「あいつがあんたを江ノ島の画会に引っ張り出したんだろ?」
歌麿は無言で頷いた。
「元は武士であるのも突き止めている。そんな野郎が呉服屋の手代になるわけはねえ。ご老中の手先と見て間違いなかろう。おりよさんの恨みを晴らしたということだな?」
「さようです」
歌麿はあっさりと白状した。
「押し込みの狙いもご老中のご改革潰し。撒き札の方が眼目と睨んだ。俺とあんたの仲だから見逃したのと違う。それは俺たち役人がしなくちゃならねえことだよ。民らがこれほど苦しんでいる。だれ一人としてご改革を喜んじゃいめえ。だったら俺たち役人が命を張って守ってやらなくちゃなるめえに。こういうときのために代々禄をいただいてきたんだ。俺がどうして押し込みをお縄にできる? ご政道を最初にねじ曲げたのはご老中だ」
歌麿は涙を溢れさせながら聞いていた。
「も少しでもまともな世の中なら、この場であんたに縄をかける。罪は罪だ。お白洲であんたも言いてえことを好きに言えばよかろう。死罪になるかも知れねえが、あんたほどの男の言い分なら世の中も動こう。しかし……火附盗賊改があれじゃ無駄死にだ。まともな裁きもなしに獄門送りとなろう。俺はもう同心をやめる気なのさ。役人でいることに嫌気が差した。十手を返上すりゃ、あんたをお縄にする務めもねえ」
「箱根から戻るなと言ったのは?」
「わずかだが望みが出てきた。だれとは言われねえが、ご老中にご改革を諦めさせることができるかも知れねえ。もう余計なことはするなという意味だ。たった一人を動かせば世の中を変えられる。そいつをあんたがやり遂げたってことだな」
「まことにございますか?」
「世の中が変われば押し込みも義賊になるぜ。義賊は奉行所もお縄にしたくねえ。捕まる義賊は、結局は銭目当ての野郎だったということだ。そこは奉行所も心得ている。二年もすぎりゃ追わなくなる」
それに左門も首を縦に動かした。
「けれど、おりよを手にかけた男をまだ突き止めてはおりやせん」
「火附盗賊改のだれかだ。そいつは必ず俺が捜し当ててみせよう。俺に手助けができたと知ればきっと慌てて尻尾を出す」
「ありがとうございます」
歌麿は仙波の前に両手を揃えて男泣きした。ぼたぼたと涙が落ちて畳を濡らす。
「当たり前のことをしているだけだ」
仙波の方が戸惑っていた。
「おかしなことになりました」
本当に中山は途方に暮れた目で仙波と向き合った。差し込む夕日が畳を照らしている。
「嫌な知らせか?」
「北町奉行所が仙波さんに是非とも話を聞きたいとお頭に申し入れて来たんです」
「北町が一之進になんの用事じゃ?」
同席していた左門が眉根を寄せた。
「その……古い話となりますが、近江屋の押し込みに絡んでのことです」
「近江屋? いまさらなんじゃ?」
「こちらも困惑しております。北町の言い分では南町より北町に申し送られた調べ書きに明らかな改竄の跡が見られた由」
「それを俺がやったと言うのか?」
仙波は厳しい目で中山を睨み付けた。
「あの一件に仙波さんはどう関わって?」
逆に中山が質した。
「関わっていたのは当初だけで、途中から安井に替えられた。そいつはおまえも知っていよう。俺に手を引かせたいと思っていたご老中の差し金に決まっている」
「安井さんが引き継いだわけですね」
中山は何度も頷いた。
「安井も改竄なんぞするわけがねえさ。まだあの頃は呑気に構えていた。第一、それをやって安井になんの得がある。やった者があるとしたら、安井より上の者の仕業だ」
「死人に口なしというやつです」
中山は了解した顔で言った。
「南町では担当していた安井さんが行方不明のために改竄の経緯が不明と応じたそうです。そこで北町では仙波さんがなにか承知ではないかと目星をつけたんでしょう」
「改竄の話を耳にしたのは今がはじめてだ。どんな風に改竄しているのかも知らん」
「それはこっちもです」
「俺に目星をつけるより南町を探るのが先だろうに。安井のこともあれきり放ってある。そんなだから撒き札で悪口を書かれる」
「まったくです。だらしない」
「なにを言ってこようが俺は今は火附盗賊改。南町とは無縁だ。お頭はどうお考えだ?」
「火附盗賊改に移られてからのことであれば北町の申し出など撥《は》ね除《の》けるのですが……それ以前のこととなるとむずかしいようで」
「取り調べに応じろと言うのか?」
仙波は憮然となった。
「取り調べという大袈裟なものではありません。安井さんのことで聞きたいことがあると」
「それを奉行所じゃ取り調べと言うんだ」
「書面で応じても構わぬとは思いますが……」
中山は困った顔で仙波を見詰めた。
「謹慎はどうなる?」
「むろん今夜限りで謹慎の方も」
中山は懐ろから長谷川平蔵の許し書を取り出して仙波の前に差し出した。
「筋書きはもう決まっているようだな」
「北町のお奉行からの正式な申し入れとなれば闇雲に拒むこともできません。それでお頭は仙波さんが無縁と見極めたらこれを、と」
「無縁と見極めたら、か」
仙波は舌打ちしながら笑った。
「関わりがありそうなときはどうする?」
「それは……分かりません」
中山は返答に詰まった。黙って引き揚げて報告しろとでも言われていたのだろう。
「それにしても北町はどうやって改竄を突き止めたんだ? 南町に保管してある調べ書きと突き合わせて見ねえ限り分かるまい」
「北町に安井さんのお身内がおられるとか」
「ああ。義理の兄のはずだ」
「そのお人に安井さんの使っていた小者が訴えて参ったようです」
「小者程度じゃ調べ書きを見られまい」
「私も分かりませんが、北町のお奉行が頷けばどんなこともやれますよ。調べを進めているうちに改竄の件が浮かんで来たのでは?」
「意気込みは買うにしても、南町に言いくるめられて俺に目星を付けてるようじゃ知れたものさ。なんの裏も知らぬということだろう」
「でしょうね」
「話次第によっちゃ、こっちも腹の内をぶち撒けてもいいが……まさかお奉行|直々《じきじき》の取り調べということはなかろう。下手を打てばこっちの身が危うくなる。ここはのらりくらりと躱《かわ》すのが無事というやつか」
中山も頷いた。
「これで南町にも戻れなくなった。俺が怪しいと北町に吹き込んだやつが居ると見ていい。火附盗賊改に尻尾を振って出て行ったやつだと思っているのさ」
「………」
「謹慎してみてつくづくと悟ったぜ。牢屋に押し込まれているより辛い。なにはともあれ北町には礼を言わなきゃならんな。これで明日からは風呂屋にも行ける」
「ご苦労さまでした」
「お頭にも礼を申し上げてくれ。火附盗賊改に迷惑をかけるようなことはしない、とな」
「承知いたしました」
中山ははじめて安堵の笑いを見せた。
「初鹿野さまもお知恵が働く」
中山が帰ると左門は上機嫌だった。
「改竄のことはお頭も承知のはず。そこを突いてこられれば迷う。しかもそなたが南町に出仕していた頃のこと。南町の方とて知らぬと突《つ》っ撥《ぱ》ねる。そなたを召喚したとてだれも不思議とは思うまい。見事な策じゃ。これでそなたは明日より自由の身」
「それより、手前には中山の態度が……」
「気に入らぬか?」
「北町にすべてをぶち撒けるかと口にしたときに揺らぎが感じられました」
「儂にはさほどにも思えなんだが……そなたが謹慎を命じられたことで気持ちが揺れたのは確かであろう。結局我らの立場ではご老中に勝てぬ。それをしみじみと感じたのやも。中山は母者《ははじや》と二人切りの暮らし。そなたのように好き勝手はできまい」
「好きにやれと言うたのは親父どのでござる」
仙波は苦笑いした。
「それにまだ若い。一生を捨てることになるかも知れんのだ。迷いは当たり前じゃぞ」
「明日は寄場に出掛けて脇田さんに挨拶でもして参ろうかと思っております」
「なんの挨拶じゃ?」
「近頃とんと脇田さんの噂を聞きませぬ。こちらが考えていたほどにお頭とは通じておらぬような気がして……」
「明日は北町に出頭せねばなるまい」
「その前に立ち寄る所存。遠回りとなりますが少し江戸の町を歩いてみたくなり申した」
「まだお頭の見張りがついていようぞ」
「ついていたとて、おなじ火附盗賊改の者を訪ねてなんの問題もありますまい。朝湯でさっぱりとしてから参りますかな」
仙波は張り切っていた。
「謹慎が解けたと伝われば歌麿《うたまる》も箱根から戻って来るのではないか?」
「かも知れませぬな」
「なんとしても手伝わせてくれと言っていた。そなたとともに死ぬ気のようじゃった」
「初鹿野さまも手前をこうして召喚したからには心が定まったご様子。明日からはこちらが仕掛けて参る立場となりました。どこをどう攻めるか……面白くなりそうで」
「そなた一人のために何人もが振り回される。ほどほどにせぬといかんぞ」
「安井を失って、それは身に沁みてござる」
仙波は真面目な顔で返した。
翌日の朝。仙波は鼻歌を唄いながら湯に浸かっていた。この時刻、女湯は仙波以外にだれも居ない。盥の湯で汗を取っていたこれまでを思うと極楽だ。いつもは湯が芯まで染み渡る前にさっさと湯船から上がる仙波だったが、額から汗が噴き出るまで体を沈めていても飽きない。謹慎で鈍《なま》った体が生き返る気分となる。のぼせを心地好く感じながら仙波は柘榴口《ざくろぐち》から洗い場に出た。溜め水の冷たさがありがたい。桶を枕に仙波は広い洗い場に大の字となって寝転がった。
目を瞑ってうとうととしていると洗い場の戸が開いた。仙波は眠ったふりを続けた。脱衣場に十手と刀を掛けてあるので男が入っているのは承知のはずである。それを気にせず入って来るのは年増女か玄人《くろうと》だ。
「お休みですか」
おこうの声と分かって仙波は身を起こした。おこうは着物を纏ったまま戸口から顔を覗かせていた。
「でしたら二階でお待ちしていますよ」
おこうはそそくさと戸を閉めて下がった。
〈妙な女だな〉
仙波はにやにやとした。おこうと最初に出会ったのはこの風呂である。あのときは平気な顔で湯船に入って来たのに、今はまるで仙波の裸を見るのが照れ臭そうにしていた。
仙波は手拭いで軽く汗を取ってから着替えると直ぐに二階へ上がった。おこうは座って茶を飲んでいた。
「いつ江戸に戻った?」
目の前に胡座をかいて仙波は質した。
「一昨日の夕方です。昨日お伺いするつもりでいましたがあいにくと用事が重なって」
「箱根はどうだった。湯はいいだろうが行き帰りがくたびれる」
「ほんと。すっかり足が痛くなりました」
おこうは白い足を出してさすった。
「俺にも茶をくれ」
「済みません。気が利かなくって」
「家に寄って来たのか?」
「ご謹慎が解けたそうですね」
「それでさっそく風呂さ。この二十日の垢がさっぱりと取れた気分だ」
「鬚《ひげ》を当たって差し上げましょうか?」
「そいつぁありがてえな」
素直に仙波は喜んだ。女に剃って貰ったことなど滅多にない。おこうは洗い場から道具を運んで戻った。ここの方が明るい。
「私も人の顔を剃るのははじめて。動かないでくださいよ。こっちが怖い」
おこうは慎重に剃刀《かみそり》を使った。おこうの顔が間近にある。化粧の甘い匂いが仙波を幼い頃の気分に戻してくれた。母親にこうして髷を結って貰っていた。おこうの袖が時折り仙波の耳や首筋に触れる。それも懐かしい。
「ここを凌いで生き残れたらの話だが……」
仙波はそこで言葉を途切らせた。
「なんです?」
鏡に映っているおこうは美しかった。
「いや、なんでもねえよ」
「変なお人ですねえ」
「おめえ決まった男は居るのか?」
「見ていりゃ分かりそうなもんでしょう」
「分からねえから聞いている」
「返事次第では旦那が貰ってくれるとでも」
おこうは剃刀の手を休めて鏡を覗いた。
「俺じゃ苦労しよう。あの親父が一緒だ。二年やそこらで死ぬと思って楽しみにしていたが、近頃は逆に元気になった」
「ひどい。言い付けますよ」
それでもおこうは微笑んだ。
「親父はおめえのことが好きでな。それで張り切っているのかも知れん。礼を言う」
「旦那はいつもそれですね」
「なんのことだよ」
「ご自分のことはさっぱり」
「だから苦労はかけたくねえと言っただろうに。俺の方にゃ文句はねえさ」
おこうはびっくりした顔になった。
「鬚が半端だ。先にこっちをやってくれ」
どぎまぎして仙波も急《せ》かした。女にこんなことを口にしたのは生まれてはじめてだ。
「鬚のことなんか……私でいいんですか?」
おこうは泣きそうな目で質した。
「文句はねえと言ったろ。二度と言わせるな」
耳のほてっていくのが自分にも分かる。
「こんな顔じゃ町を歩きもできねえ」
おこうは涙をぼたぼたと零《こぼ》しながら何度も頷いて剃刀を使った。その刃が揺れている。
「なんだよ。危ねえの」
「腕が震えてるんです」
おこうは涙を拭って言った。
おこうと別れて仙波は寄場を目指した。
仙波の足はどこか浮わついていた。まさかあのおこうが泣くとは思わなかったのである。
〈こっちをしっかりと片付けてからだ〉
そう言い聞かせるのだが、胸に熱いものが込み上げてくる。
「旦那!」
慌てて菊弥が追いかけて来た。
「そうか、おめえが居たな」
菊弥が風呂屋の近くの茶店で待っていたことまで仙波は忘れていた。
「通り過ぎて行ったときは驚きましたぜ」
「風呂でのぼせた」
「いつもの旦那じゃねえみたいでさ」
「ひさしぶりの江戸の風だ。変にもなろう」
仙波は気を取り直した。
「なにしろ二十日ですからね」
「この馬糞臭ぇ風がたまらねえの。牢屋から解き放たれたやつらの気持ちが分かる」
「いっそのこと北町に移るってわけにはいかねえもんでしょうかね」
「そいつぁいくらなんでも無理だろうな。それに俺も初鹿野さまの配下となるよりは今のままの方が対等にやれる」
「なるほど、そりゃそうだ」
菊弥も得心した。
「けど旦那もしぶとい。こうして肩で風を切って歩ける日が来るたぁ思いませんでした」
「まったくだな。運がいい」
「運じゃねえでしょう。他のだれが北町のお奉行さまを動かすことができるってんで? 仰天とはこのことでさ」
「町中《まちなか》だ。声がでけえ。気をつけろ」
仙波は菊弥を叱った。
「北町の戻りには蔦屋にも寄る」
「旦那のお顔を見りゃ大喜びしましょう。おこうさんも戻っている頃合ですぜ」
「おこうとはたった今会ったばかりだ」
「どこでです?」
「親父に聞いて風呂屋まで来た。箱根から帰った挨拶だ。そうだな、蔦屋の都合がよけりゃ両国辺りで飲むか」
「そうこなくっちゃ」
「親父も連れて行こう。祝いをしたところで奇妙とは思われまい」
仙波も弾んでいた。頬をくすぐる秋風のせいもある。
仙波たちは寄場の門を潜った。
門番が仙波と知って笑顔で迎える。
「これは珍しい。よく訪ねてござったな」
役宅からちょうど出て来た脇田が声を張り上げた。相変わらず陽気な笑いである。
「どちらへ?」
「なに、大した用件でもない。他の者でも足りる。耳にしてはおらなんだが謹慎が無事に許されたらしい。よかった、よかった」
脇田は仙波の手をしっかりと握った。
「よろしければ昼飯でもご一緒に」
「むろんお供いたそう。祝いに馳走いたす」
「あ、いや、そんなつもりでは」
「儂はそなたの上司じゃぞ。遠慮は要らぬ」
脇田はそのまま仙波と菊弥を促した。
〈さて……どうなるか〉
仙波は脇田と並んで歩きながら思った。
静かなところでゆっくり話がしたいと言って脇田は仙波と菊弥を鰻の店に案内した。二階に上がって座敷で向き合う。鰻を捌《さば》いて焼くまでの繋ぎに酒と腹の邪魔にならない程度のつまみが何皿か出される。
「遠慮なく馳走になります」
仙波は脇田の酒を杯に受けた。
「謹慎は何日に及んだ?」
「二十一日にござる」
「それで済んだなら骨休みのようなもの。なにも様子が変わらぬと見えるに、よくぞそれでお許しが得られたな。儂など四月《よつき》以上も放って置かれた。寄場が案外むずかしいとお気付きになられなければ今でも謹慎のままだったかも知れん」
「脇田さんも謹慎を?」
「お頭の得意とする罰だ。火附盗賊改の中での謹慎となるとだれからも文句は付けられぬ。外には病いの届けを出す」
困った顔で脇田は杯を干した。仙波が注ぐ。
「謹慎となった理由《わけ》は?」
「お頭の提唱召された寄場の制度にある。はじめは罪の軽い者を寄場に移すと聞いて頷いたものだが、そこから罪人をいつ解き放つかについて明瞭でない。あくまでも寄場を預かる火附盗賊改の判断にかかっていると言う。それはおかしいと反対した。罪を言い渡されて牢屋に押し込められたときに、おおよその年数が定められている。それを勝手に引き延ばしてはお裁きなど無意味となろう。お頭は改悛の情のない者を世に戻しては民のためにもならぬと力説召されたが……それを言いだせばきりがない。あまりに手荒くやれば火附盗賊改に責めが回ってくる。そう進言したのだが、間もなく謹慎を命じられた」
「それは災難でござったな」
「災難は寄場に回される者らの方さ。当初は牢屋から出られて嬉しそうな顔をしていたが、じきに不満をつのらせる。寄場の役人に逆らえば一生出られぬこととてある。逃げればたちまち極悪人扱い。わずかの脅し程度でお縄となった者が寄場で何年も過ごさねばならなくなることとてあるのだぞ。それを罪人らも分かって収拾がつかなくなった。そこでお頭は儂の謹慎を解いて寄場勤務を申しつけた。当分は締め付けを緩やかにせねば治まらぬとお気付き召されたのだろう。儂なれば罪人の身内からの賄賂も受け取らぬ」
「賄賂にござるか」
「出るか出られぬかは役人の心次第。牢屋よりはっきりとしている。大きな声では言えぬが、そうして早く抜け出た者が何人も居る。お頭も承知しておられたはず。と言ってご自分が任じた者であれば処分もできまい。寄場自体もお頭の考えで作られたもの。明らかにすればご自分の首を絞める結果に……」
仙波は大きく息を吐いた。
「お頭は生真面目なお人。それは間違いない。だからこそ儂も従っておるのだが……寄場は失敗であった。賄賂を受け取った者とて、もともとはそういう男にあらず。しかし、目の前に小判を積まれ、若い女をあてがわれれば心が揺らぐ。そもそも牢屋で罪を贖《あがな》ってきた者のことであるからな。改悛の情ありとお頭に報告するだけでよい。罪を目こぼしするのとは別だ。責めることなどできまい」
「そう……かも知れませぬな」
「はじめから押し込みをする者は滅多におらぬ。たいがいは牢屋上がり。お頭はそこから寄場を思い付かれたのだ。怪しいと睨んだ者をいつまでも寄場に押し込めておけば盗賊の数が減る」
「奉行所の裁きを手緩《てぬる》いと感じられたのでござりますな?」
「どれほど危ない者と見ても喧嘩や脅しをかけたぐらいで島送りや獄門にはかけられまい。半年や一年で放免される。お頭はその見極めを火附盗賊改がしようと考えられた。極悪人を何千と見てきた火附盗賊改であれば、それができると思われたのであろう」
「………」
「疑心暗鬼でしかない。極悪人ほど正体を隠すのに巧みだ。当初の目論見はことごとく外れた。お頭も近頃では以前ほど寄場に顔を見せなくなった。儂に任せ切りの有様。これではいつまでもつか分からぬの」
脇田の言葉は本心からのものに思えた。
「少し勘違いしておりました」
「お頭のことか?」
「脇田さんですよ」
「なにを勘違いしていたと?」
「まさか寄場に反対なされていたとは……謹慎のことも初耳です」
「火附盗賊改の恥にもなること。だれも口にはいたすまい。中山がしばしば寄場に顔を見せるのも、お頭が儂を案じてのことだ」
「案じるとは?」
「儂まで賄賂を受け取るようになっては寄場を潰さねばならなくなる。儂の女房はお頭の遠縁に当たる。それほど心配であるなら外せばいいものを……実直な橋本と菅原が銭で揺らいだ。お頭も辛い立場にある」
うっかりと脇田は口を滑らせた。橋本の名は知らないが、菅原という男は病いで休んでいると聞いた覚えがある。
「潰すわけには参るまい。ご老中がたったお一人で認可召されたようなもの。ご老中にもご迷惑となる。内心ではお頭もご老中も寄場を重い荷物と感じられているに相違ない」
「中山が脇田さんの監視役と申されましたが」
仙波は慎重に質した。
「あれもお頭に似て堅い男。お頭に心酔しておる。賄賂を許すわけがない。見張り役にはうってつけであろう」
脇田は笑って応じた。
反対に仙波は背中に冷や汗を感じていた。堅い男であるのは確かだが、長谷川平蔵に心酔していたとは思わなかったのである。その中山を前にして仙波はさんざん長谷川平蔵への疑いを口にしてきた。
「あの若さで見事な働きをしてきた。命を惜しまぬ。何度か盗賊の仲間としてもぐり込んだこともある。あの通り呑気な顔だ。盗賊らも火附盗賊改とは見抜けなかったのだ」
「信じられませぬな」
仙波ばかりか菊弥もぽかんとしている。
「この頃は見ておらぬが、お頭より拝領の根付《ねつけ》がその証し。滅多な者には与えられぬ」
「根付……」
「儂もだいぶ前に頂戴したがの。そのときはお頭の歳祝いの返しに配られたものに過ぎぬ。中山が頂戴したのとは重みが違う」
「どんな根付にござる?」
「髑髏《どくろ》を象《かたど》ったものじゃ。骨となるまで正しき心を失うなという意味が込められておる」
「中山が髑髏の根付を……」
「見せられたことはないのか?」
「いっこうに」
それだけ言うのがやっとだった。髑髏の根付を持つ者が歌麿の女房おりよを手にかけたのは間違いない。それを中山に問い質したとき、中山は知らぬふりを通した。あらぬ疑いがかからぬように話を逸らしたとも取れるが、怪しい振る舞いである。
「拝見いたしたいものでござるな」
仙波は脇田を見詰めた。
「大事な品ゆえ屋敷にしまってあるが、いつでも見せよう。見事な細工で顎の骨と目玉が動く。二両やそこらはする品物」
脇田は動揺も見せずに頷いた。
「ぜひお願いいたします」
仙波は軽く頭を下げた。
「そう言えば寿の字と申す無宿人のことだが」
脇田は思い出したような顔をして、
「あれからなんの音沙汰もない」
「さようにござるか」
寿の字の名を騙《かた》って呼び出しをかけたのは仙波なのだから音沙汰のないのが当然だ。
「まったくなんのことやら」
脇田は舌打ちした。
そこにようやく鰻が運ばれてきた。だが、仙波の食欲はすっかり失せていた。
その夕方。仙波は蔦屋と連れ立って両国の賑わいの中を歩いていた。菊弥は左門を案内して約束の店にとっくに着いているはずである。今夜は謹慎の解けた祝いをする。
「一緒では目立ちませぬか?」
蔦屋はしきりに見張りの目を気にした。
「どうせ知れることだ。俺とあんたの仲だ。祝いの席に呼ばぬのがかえっておかしかろう。これからはこそこそしねえことに決めた」
「なにかありましたので?」
「知らぬが安心ということもあるが……例の押し込みの正体を突き止めた」
蔦屋はぎょっと立ち止まった。
「歌麿《うたまる》の仕業だ」
仙波の耳打ちに蔦屋は呆然とした。
「心配するな。お縄にする気はねえ。今はこっちも一蓮托生。おなじ相手を敵にしてる」
「どうして歌麿の仕業と?」
「いろいろあるが、当の歌麿が俺の家にやって来てすっかり打ち明けた」
「いつのことです?」
「三日前の夜だ。箱根からこっそり戻った。当分は下手に動かぬよう言い付けた。しかしあの男のことだ。俺の謹慎が解けたと知れば箱根の山から下りて来よう」
「やはり歌麿が絡んでおりましたか」
蔦屋はがっくりと肩を落とした。
「そっちもそう睨んでいたのか?」
「押し込みまでとは思ってもみませんでしたがね。様子が妙だとは……」
「あんたの力を当てにしなかったのは迷惑になると案じてのことだ」
「私の方は銭で済んだが、歌麿はおりよさんを殺されている。恨みの強さが違って当たり前。なんとも迂闊なことで……」
「知っていたら手助けしたか?」
仙波は蔦屋を見詰めた。
「分かりません。歌麿を前にしてみないと」
「ここでこのまま別れてもいい」
仙波は低い声で言った。
「だいたい全部のからくりが見えてきた。あとは真正面からやり合うだけだ。巻き込みたくはねえ。好きにしてくれ」
「間に合いますまい」
蔦屋は口元を歪めて笑った。
「それに歌麿は私の身内も同然の男。仙波さんお一人にお任せはできませんよ」
「勝つ気じゃいるが……喧嘩は水ものだ。どっちに転ぶか分からねえぜ」
「こっちの商売もおなじです。ご老中さまのご改革が続く限り明日にでも潰されかねませんよ。ましてや歌麿を失っては蔦屋の先など知れている。つまりはおなじ方角に流れている水ということでしょう」
「………」
「なにをすればいいんです?」
「そいつはまだだ。だが、そういう気でいるなら今夜は面白いお人に引き合わせる」
「どなたで?」
「会っての楽しみにすればいい。芝居好きのお人でな。やたらと化けたがる」
「そのお人が我々の手助けを?」
「あっちももう抜けられねえ身さ。気の毒に」
仙波は面白そうに笑った。
店に上がって二階の襖を開けると皆が仙波を拍手で迎えた。左門、菊弥、おこう、それに春朗である。
「中山さんはこの祝いには?」
蔦屋は言いつつ席を眺めた。膳の用意されているのは他に二つしかない。仙波と蔦屋のものだろう。
「中山は呼んでねえが……来るかも知れん」
仙波の言葉に暗い顔で頷いたのは菊弥一人だった。左門は神妙な顔で居る。
「どうしたんです? お祝いでしょう」
おこうは皆の杯に酒を注いで回った。
「おこう、おめえの国はどっちだった?」
「なんです、いきなり」
おこうはきょとんとした。
「仕事を休んで国に戻っているわけにはいかねえか?」
「………」
「その顔じゃ無理な相談か」
「無理ですよ。箱根で遊山《ゆさん》してきたばかりじゃありませんか」
「だろうな。抱え主も承知すまい」
「なにがはじまるんです?」
「相手次第だ。ゆるゆると追い詰める気ではいるが、あっちは一気に仕掛けてくるかもな。おめえは無縁にしてきたつもりだが、知られ過ぎている。離れて暮らしているんで心配だ。守ってやることができねえ」
仙波に左門も大きく頷いた。
「大丈夫ですよ。私にはたいてい三味線持ちの若い衆がついておりますからね」
「そんなやわな連中じゃねえぜ。やると決めれば平気で人を殺す」
「そうじゃ。三味線持ちなど役に立たん」
左門は仙波に重ねた。
「私なんかを襲ってどうなるんです?」
「こっちの弱みにされる。おめえの命と引き替えに手を引けと言われるかも知れねえ」
「だったらどうすればいいんです?」
おこうは真面目な顔となった。
「そいつをさっきから考えているのさ」
仙波は腕を組んだ。一番簡単なのは今夜にでもおこうを縛り付けている銭を抱え主に払って屋敷に連れ帰ることだが、それで無事に済むという保証はない。
「へい、お待たせ」
陽気な声が襖の外からかかった。がらりと開けて飛び込んで来たのは派手な身形《みなり》をした幇間《ほうかん》だった。斜めにひょっとこの面を被り、踊りながら銚子を手にしてがぶ飲みする。
「ちょいと、なんなのよ」
おこうは呆れた。笑って左門が制する。
「俺が呼んだんだ。たまにゃどんちゃん騒ぎをやらかそうと思ってな。二十日間の憂さ晴らしだ」
仙波はにやにやとして幇間の踊りを眺めた。
「おこう、三味線を弾いてやれ。音でもなきゃ照れ臭くなるだろうぜ」
「あんた、はじめて見る顔」
おこうは幇間をまじまじと見詰めた。三味線を弾く気にもならないほど下手な踊りだ。
「もう十分にござります」
立ち上がって廊下の様子を確かめてから仙波は踊りを止めない幇間に囁いた。
「くたびれたぞ」
幇間はどたっと畳に尻をついて荒い息をした。おこうは目を丸くした。蔦屋も不審の目を幇間に注いだ。
「まさかそのようなお姿で現われるなど」
左門は必死で笑いを堪えていた。
「この前は荷運び。まったくお好きであられる。楽しんでおられましょう?」
「この格好が料亭では怪しまれまい。好きに出入りができる。席に居たとて当たり前」
幇間は満足そうに応じた。
「どなたなので?」
我慢できずに蔦屋が左門に質した。
「北町のお奉行、初鹿野さまじゃ」
蔦屋は仰天した。初鹿野は笑っている。
「嘘でござりましょう?」
おこうは震えて仙波の裾にすがった。
「よいよい。今夜は幇間の鹿介で構わぬ」
初鹿野は上機嫌だった。
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潮干のつと
仙波が南町での公文書改竄の罪で北町奉行所から正式に告発されたのは二日後のことだった。本来なら奉行所の仮牢にそのまま留め置かれるところなのだが火附盗賊改の同心となるとそうはいかない。仙波はふたたび自宅謹慎を命じられて戻された。今後は奉行所の徒目付《かちめつけ》も加わって取り調べが進められることとなる。最終的な処罰は徒目付によって決められる定めだ。
夜になって中山が駆け付けた。
「なにゆえこんなことに?」
中山は憔悴しきった仙波と向き合うなり悲痛な顔をした。
「こっちが知らぬ存ぜぬを通したからだ。本当のことだ。それしか言い様がなかろう。だが北町にゃふてぶてしい態度と映ったんだろうな。なにかよほどの証しを握っているのかも知れん」
「なんの証しにござります?」
「知るか。誓って言うが俺は無縁だ。証しがあるとしたなら南町のだれかがでっち上げたもんさ。北町も手の内を明かさねえんで見当もつかん。こうなりゃ白洲でやり合うしかねえ。幸い牢屋送りにゃならねえようだから耐えられる」
「そのことですが……」
中山は視線を伏せて、
「ついさっきお頭のところへ北町の初鹿野さまより使いが参りました」
「奉行から?」
「火附盗賊改を罷免してはくれぬかという打診の由」
「徒目付の介入を嫌ってのことか?」
「と思われます。徒目付の判断によっては南町の怠慢も責められることに。なるべくなら北町ですべてを済ませたいと仰せだとか」
火附盗賊改の同心は御先手組《おさきてぐみ》に属した御家人なので、たとえ罷免されたとて徒目付の扱いとなるが、仙波は違う。本籍はあくまでも町奉行所の同心であって、そちらは一代抱えの職だ。火附盗賊改を罷免され、南町からも籍を外されてしまえば武士ではなくなる。徒目付が口を挟む問題ではなくなるのだ。
「汚ぇやり方だな」
仙波は拳で自分の膝を叩きつけた。
「どこからも無縁にして俺一人に罪をおっ被《かぶ》せる気だ。こいつぁ北町と南町が組んでの芝居じゃねえのか?」
「………」
「あるいはお頭もつるんでいるかも知れねえ」
「そんなことはありませんよ!」
中山は激しく首を横に振った。
「だったらお頭はなんと応じた? どこまでも俺を火附盗賊改として扱うと言ったか?」
「それは……まだ分かりません」
「やましいことがなけりゃ拒否しよう。返答を延ばしたってことは俺を疑っているか保身を考えているってことさ。もし俺を疑っているんなら、おまえにでも命じて真偽を突き止めようとする。そいつを頼まれたか?」
中山は押し黙った。
「前から言っていたはずだ。お頭が怪しいとな。ご老中と組んでこの江戸を掻き乱している。あの撒き札にある通りだ。お頭は俺を邪魔者と見做していよう。火附盗賊改に引き抜いたのだって俺の腕を見込んでのことじゃねえ。身近に置いて縛り付ける腹だった。三人の浪人の一件も裏はどうだか……どさくさに紛れて俺を消す気だったかもな」
「まさか! いくらなんでも」
「だったらあの浪人らの素性をなんで洗わねえ。おまえは永いことお頭の下に居る。信じたくねえ気持ちは分かるが、お頭が危ねえことに手を染めているのは確かだ。寿の字らを使っていたのもお頭と今じゃ睨んでいる」
「………」
「改竄の疑いが出たのを幸いに俺を始末する気と違うか? 改竄の罪は重い。同心でなくなりゃ死罪を言い付けるのも簡単だ。半端な謹慎を続けさせるよりずっといい。堂々と俺の首を刎《は》ねることができよう。ひょっとしたらお頭が拵えた筋書きかも知れんな。でなきゃ南町のことが北町に筒抜けになるはずもねえ。わざと伝わるように仕向けたのかも」
「お頭は本当に知りません」
悲鳴のように中山は言いつのった。
「なにも知らねえのはおまえの方さ。こうなりゃお頭に思い知らせてやる」
「と言うと?」
「一蓮托生とは思うが、もしかして北町は今度のことに無縁ということも有り得る。今日までは口を堅く閉ざしてきたが、明日からの取り調べでなにもかも話すってことさ。歌麿《うたまる》の女房のことから順を追って聞かせれば頷くやつが出て来ねえとも限らん。江ノ島の山中にゃ寿の字がとどめを刺した仲間の死骸がまだ転がっている。そいつが証しとなろう。谷底に転げ落としたのは俺だ。あのときは慌てていたんで懐ろを探る暇もなかったが、もしその死骸からお頭とを結び付けるものでも見付かれば大騒ぎとなるぜ」
仙波はにやりと笑った。
「ご老中とお頭、それに南町がつるんでいちゃ、どうしたって勝てやしねえ。地獄への置き土産だ。こっちも覚悟をつけている」
「私には……なにがなんだか」
中山は途方に暮れた目をした。
「近江屋でただ一人殺された手代もご老中の命によって潜り込んだ男と見極めがついている。元は武士《さむれえ》だ。北町がその気になりゃ身元を楽に洗い出せるだろう。それで俺の言っていることがまんざら嘘でもねえと分かってくれよう。北町はこいつを表沙汰にはするまいが、証しを揃えて大目付へ訴えることぐれえはするはずだ。むろん俺の勘が当たって北町と南町がつるんでいなけりゃの話だがな」
「元は武士という確証が!」
「安井はそれを追いかけていたんだ。手代の身元と江ノ島山中の死骸とが重なればたいていは頷く。ご老中がそこまでしてご改革の邪魔をする連中を闇に葬っていたと知りゃ、いくら将軍さまでもお許しにはなるまい。それと引き替えなら惜しくはねえ身ということだ」
仙波は高笑いした。
「恋川春町についても嫌な噂を聞いている。自害する前日にご老中のお屋敷に呼び出しを食らったそうだ。そこでどんな話があったか俺は知らんが、引導を渡されただろうことは餓鬼にだって分かる。おまえには辛い話なんで今まで内緒にしていたが、その場には火附盗賊改のだれかが同席していたらしい」
「だれです!」
「髑髏の根付をぶら下げていたというだけで正体は分からん。だが、髑髏の根付はお頭の側近でないと持っていないと言ったな」
がっくりと中山は肩を落とした。
「脇田さんじゃないかと睨んでいる」
ぼんやりと中山は顔を上げた。
「これほどの大事だ。お頭にしても迂闊な者に相談はできまい。脇田さんのお内儀はお頭の遠縁。腕も立つ。そんなとこだろう」
「私はどうすればいいんです?」
中山は膝を進めた。
「知らぬ顔でいてくれ。あとは俺と北町の腹試合。北町までご老中の一味のときは無駄死にとなろうが、おまえに迷惑をかけるような真似はしない。全部を俺が背負い込まねえと親父の身まで危うくなろう」
「知らぬ顔と言われても……仙波さんを失えば私に打つ手などありません。死ねば終わりですよ。焦らずに別の道を考えてください」
「他にどんな道がある? 自宅謹慎と言っても、すでに北町に拘束された身だ。お頭が罷免すれば明日にでも牢屋に入れられる。同心や岡っ引きが牢屋送りとなればどうなるか知らねえおまえでもなかろう。牢番がちょいと耳打ちするだけで翌朝は死骸となる。それを避けるにゃ必死でご老中の罪を訴えて北町の仮牢どまりにするしかなかろう。牢屋で殺されても悔いはねえが、ご老中をこのままにして死ぬわけにはいかねえんだよ」
「罷免をさせぬようお頭にお頼みします」
「そんな力がおまえにあるのか?」
仙波はぎろりと中山を睨み付けた。
「お頭はそうやって俺を殺す気なんだぜ。おまえが言ったところで頷きはすまい」
「しかし……ご老中のことを洗いざらい話すと言えばお頭とて……」
「それに頷いて俺の罷免を考え直すってことは、お頭が己れの罪を認めるってことだ。そんな馬鹿な真似はしねえさ」
「………」
「ここを凌いだところでだな」
仙波は中山を見据えて、
「お頭の手が緩むわけじゃねえんだ。もっと厳しくなるばかりだ。北町に頼るのは賭けに違いねえが、唯一の道でもある。今度のことは仏が授けてくれた策だと思ってるよ。それで死んだとて自分が決めたこと」
「分かりました」
中山は首筋に浮いた汗を拭って頷いた。
「いよいよ大詰めじゃの」
中山が消沈した様子で立ち去ると、奥の部屋から左門が暗い顔で現われた。
「聞いていてはらはらしたぞ。あまりにも打ち明け過ぎる。あのすべてがお頭の耳に入ると思えば落ち着かぬ。ただの監視役であったなら中山も気の毒じゃ。お頭とそなたの間に立ってさぞかし動転したことであろう」
「ただの監視役ではありますまい」
仙波は確信した顔で返した。
「改竄に手前が無縁のことは中山が承知。少しでも手前の側に立っているならお頭にそれを力説したはず。あっさりと罷免のことを口にしたのはお頭寄りという証しにござる。それでついこちらもむきになり申した」
「なるほどな。そうかも知れん」
左門も認めた。
「としたなら相当にしたたかな男じゃの。近頃までまったく見抜けなんだ」
「思えば最初に声をかけてきたのも中山。火附盗賊改とはまだ無縁であったゆえ疑いもなしに中山と付き合い申したが……迂闊と言えば迂闊。あの頼り無さにすっかり騙されていたというわけで」
「いまだに信じられぬ気もする」
屈託のない中山の顔が左門の目に浮かぶ。
「脇田さんの話によれば腕もだいぶ立つとか。あの若さで手柄も多いそうにござる。盗賊の仲間に潜り込むのを得意とするとも聞きました。よほどの度胸がある証拠」
「さもありなん。あそこまで正体を隠し通せる男だ。尋常ではないぞ」
「問題は中山がどこまで今度のことに関わっておるかでありましょうな。嫌な予感がして参りました」
「歌麿の女房のことか?」
「そこまでは、と思いまするが、中山が髑髏の根付を授かっているのも確か。女にはあまり心を動かさぬ者と見えますが、我らをここまで見事に欺き続けた男。真実の姿など想像もできませぬ」
そこに菊弥と春朗が慌ただしく戻った。
「旦那! とんでもねえことが分かりやした」
菊弥は青ざめていた。
「やっぱり食わせ者《もん》だったか」
仙波に菊弥と春朗は大きく頷いた。
「いずれにしろ急がなきゃならねえ」
仙波は着替えの用意に立った。
夜を徹して仙波たちは歩き続けた。春朗は旅慣れしているようで提灯《ちようちん》を持つ腕にも揺れは感じられないが、菊弥は遅れ気味だった。朝から江戸を走り回っていたので、その疲れも加わっている。だが、休んでいる暇はない。あれだけ中山に吹き込んでいる。長谷川平蔵は必ず江ノ島山中の死骸の始末を命じるに決まっている。北町が動いてからでは遅い。来るとすればあの山中に居合わせた謎の男しか有り得ない。寿の字も死んだ今となっては死骸の捨て場所の見当がつくのはあの男一人だ。
中山をわざと煽《あお》ったのは、あの男の誘い出しが狙いだった。死骸の懐ろなどとっくにあらためている。
戸塚を過ぎて江ノ島に通じる山道に入ると間もなく、仙波は二人の男に呼び止められた。待ち合わせていた初鹿野の腹心である。
「怪しい連中は?」
「まだ見掛けており申さぬ。反対の鎌倉街道から山道に入っておるのかも」
若い一人が仙波に応じた。
「そろそろ夜が明ける。急がにゃなるまい。待ち伏せを気取られたら無駄足だ」
挨拶もそこそこに仙波たちは山道を駆けるように辿った。
「谷底を捜すんだ。向こうも結構な人数を繰り出して来よう。刀を腰に差した連中は少なかろうが油断はできねえ。言い訳のならねえ場所だ。敵は俺たちを殺しにかかる」
仙波に皆は頷いた。
「数にもよるが、十人以上のときは藪に身を潜めて道には出て来るな」
仙波は春朗と菊弥に言った。
「こっちも槍の稽古は積んでいますぜ」
菊弥は不満そうに返した。
「敵の小者は刀を持っていねえおめえたちを取り囲む。俺も気になるだけだ」
仙波に菊弥と春朗は頷いた。
まさかのときの目印にしていた二本松が目についた。その先の少し広い道のところが死骸を投げ捨てた場所である。手前からこっそりと近付いた仙波は人の気配のないのを確かめて皆を呼んだ。眩《まぶ》しい太陽が江ノ島の海に上がりかけている。寝不足のせいか目玉を刺すような輝きに感じられる。
「本当に来るもんですかね」
山道を見下ろす藪に腰を下ろした菊弥は、ようやく安堵の顔をして仙波に質した。
「来ねえはずがなかろう。死骸に火附盗賊改との繋がりを示すものでもありゃ命取りだ。北町が本気でこいつに取り組んでいるってことはお頭が一番に承知している。俺が全部をぶちまけるってことを中山から耳にすりゃ慌てる。とりあえずすることは死骸の始末しかねえ。これが外れたら俺も終わりだ」
「けど、とっくの昔に始末したってことはねえんですかね?」
菊弥に皆はぎょっとした。
「ねえな。あの死骸は俺にとってもまずいものだった。とどめを刺したのは寿の字だが、俺の刀痕も残っている。お頭も俺が自分から死骸のありかを口にするとは思ってもいなかったはずだ。放って置けば骨になる。わざわざ取り戻すこともなかろう」
仙波の言葉に初鹿野の腹心たちも頷いた。
「噂をすれば影が差すってやつだ」
仙波は七、八人の男たちが山道を上がって来るのを認めて思わず菊弥の肩を叩いた。
「武士は一人にござりますな」
初鹿野の腹心が笑みを洩らした。
「あいつが藪に身を潜めていた野郎か」
まだ遠くて顔がよく見えない。
「だ、旦那!」
菊弥が仙波の袖を引いた。
「中山だったとはな……」
仙波はさすがに吐息した。小者らを率いて来た武士はまさに中山だったのである。
「そういうことか……やつとは前から知り合っている。だから顔を出すわけにゃいかなかったのよ。それでからくりが発覚する」
仙波はまた溜め息を吐いた。
「嫌だよ……怖くなってきた」
以前にこの山中で襲ってきた謎の男の正体が中山と分かって菊弥は身震いした。中山とはずっと行動を共にしている。
「中山の旦那とやり合うんで?」
「騙していたのはあいつだ。この様子だと歌麿《うたまる》の女房を手にかけたのも中山だな」
仙波は立ち上がった。
「勝てますかい?」
「だましゑ夜叉《やしや》か。いかにも中山を言い当てた綽名だ」
それは菊弥と春朗が突き止めてきたものだった。火附盗賊改の中にだましゑ夜叉と呼ばれて盗賊たちから恐れられている者が居る。だましゑとは絵に仕掛けを施しているもので、さかさまにしたり、横から眺めれば別の絵が現われる。女の顔の中に男の顔が隠されていたり、仏が実は鬼であったりと、意外性を狙った作品が多い。そこから名付けられた綽名で、さらに夜叉がつく。中山は盗賊の群れにこっそりと潜り込むのを得意としていた者だ。ひょっとしてだましゑ夜叉と恐れられている男が中山ではないかと仙波は思い付き、菊弥と春朗に探らせたところ、正しく推測が的中したのである。だましゑ夜叉の正体を知った者はたいてい斬り殺されているので確証こそ掴めなかったものの、春朗の描いた中山の似顔に何人かが頷いたと言う。
「あの者がだましゑ夜叉であると!」
初鹿野の腹心たちは顔を見合わせた。噂は二人も耳にしている。だが、実在するとは思ってもいなかったようだ。盗賊たちを疑心暗鬼に追い込むために火附盗賊改がわざとその名を広めているという噂も同時に流れていた。
「正体が知れ渡れば盗賊どもから命を狙われる。それで火附盗賊改が逆の噂を広めていたんだ。俺もつい昨日までは眉唾もんだと睨んでいた。火附盗賊改にそれらしい男は一人も居なかった。だが、中山なら有り得る。それで菊弥たちに調べさせたのさ」
仙波は言って藪から山道へと向かった。
中山たちは谷底の方ばかり眺めていて仙波には気付いていない。
〈まさにだましゑだな〉
仙波は中山の背中を遠目にして吐息した。
仙波に同調して松平定信への義憤をまくしたてたこともある。盗賊どももあの笑顔を見れば騙されてしまうだろう。あの華奢な体で剣の達人であるなど思いもしない。仙波も脇田から聞かされなければ腕が立つなど想像もしなかった。寿の字の死骸を運び出すときでさえ及び腰だったのである。しかも火附盗賊改の中ではいつも新参扱いをされている。その割りに長谷川平蔵にたびたび呼び出されている。その奇妙さに早く気付いていれば正体の見当がついたかも知れないが、自分もそうであるように長谷川平蔵もまた中山の頼り無さを愛しているのだと決め付けていた。人の懐ろに易々と入り込んでくる男だ。
正体を知った今だとて、あの中山と刀を向け合うのはどこか躊躇がある。だが、中山が謎の男であるのは疑いなかった。この場所を承知しているのは謎の男しか居ない。目印の多い場所ならともかく、この広い山中だ。代理に中山を寄越すとは思えない。北町奉行所が動く前に死骸を始末しなくてはならないのだ。本人が必ず足を運ぶ。
〈よくも嵌《は》めてくれたもんだぜ〉
仙波は刀を引き抜いて駆け足となった。
さすがにその気配は中山に伝わった。
斜面を振り向いて中山は苦笑した。その目の前に仙波は躍り出た。初鹿野の腹心たちも続いて小者らを威嚇する。小者らは仰天して中山の背後に逃れた。どうやら火附盗賊改の小者ではないらしい。中山が銭で雇った者たちであろう。
「罠でしたか」
困った顔で中山は頭をぼりぼりと掻いた。
「仙波さんほどの人が懐ろをあらためずに死骸を捨てるはずがない。どうも妙だとは思いましたよ。それでも確かめずにはいられませんからね。こちらの負けです」
「にやけている場合じゃねえぜ。この二人は初鹿野さまの配下だ」
「知っていますよ。二人ともかなりの腕だ。北町とつるんでいたというわけですか。さすがに仙波さんだ。どうやって謹慎中の人が初鹿野さまをお味方に引き入れることができたのか……敵ながら天晴《あつぱれ》と言うしかありません。そこがどうしても見抜けずに罠に嵌められました。お頭もきっと驚かれましょう」
「だったらおとなしく縄につくか? どうせご老中やお頭を罪にすることはできねえ。せいぜいご改革を中止させる程度のことになる。洗いざらい初鹿野さまの前で打ち明けると言うなら、そっちも武士らしい死に様がある」
「ありがたいお誘いですが、できませんね」
あっさりと中山は返した。
「仙波さんの前では言いたくないことが山ほどあります。それを聞けば仙波さんだとて私を許しはしない」
「おりよのことか?」
「年増女に迷うような私では……しかし、あの場には居ました。小者らの乱暴も見過ごした。迂闊でした。あそこまでやっては反対に歌麿や蔦屋を刺激する。顔を見られたからには殺すしかないと思ったんです」
「刀を使ったのはおまえか」
「首を斬り落とせば簡単だったんですが、それだと武士の仕業と知れますからね。あとが面倒になります。そのせいで歌麿の女房には辛い思いを長引かせてしまいました」
「よくそれで歌麿と酒が呑めたな」
むらむらと仙波は怒りを覚えた。淡々と話す中山の口調が恐ろしい。
「あんな者は世の中の塵芥《ごみ》ですよ」
「………」
「小者らが女房に乱暴するのを見過ごしたのは、あの贅沢な暮らしぶりを知ってのことです。箪笥には銀細工や鼈甲の櫛が詰まっていた。くだらぬ女絵に十両も払う馬鹿が居る。言ったでしょう。私の父は薬を買う金がなかったばかりに死にました。武士がそうして死んでいる。なのに歌麿はなんです? 世の中になんの役にも立たぬ絵を描いて持《も》て囃《はや》されている。あんなやつらを一掃するご改革こそ国を救うものだ。仙波さんこそおかしい。あなたは道をはき違えている。武士でありながら、なぜ武士の道を貫かぬのです?」
「その武士《さむれえ》だって米の飯を食わなきゃ死んじまうだろうぜ。なにが武士の世の中だ! 手前《てめえ》じゃなに一つできねえくせして威張りくさっていやがる。青臭ぇことを並べるな! いかにもおまえの親父さんは立派な武士だったかも知れねえが、そこまで追いやったのは結局上の連中の仕業じゃねえかよ。町人たちゃ、武士と関わりなく地道に稼いで頑張ってるんだ。そいつを恨むのは筋違いってものよ。歌麿が贅沢に暮らしてなにが悪い? 親父の腑甲斐無さを他人のせいにするんじゃねえ」
「あんたは本当に救いがたい男だな」
中山は頬を痙攣《けいれん》させて言った。
「いざというとき町人になにができます? 己れの欲でしか動かぬ者たちに大事を任せられると思っておるのですか? 守るべきは武士の暮らし。それをあなたは分かっていない。絹物が着られないと言って騒ぐ町人らに本心から同情しているとしたなら、あんたは大馬鹿者だ。もう少し道をわきまえていると思っていましたよ」
「絹物を着られるようになるのが人の励みってもんだ。五十まで働いて餓鬼の頃と暮らしが一緒じゃ、だれも働かなくなるだろうぜ。ご老中やお頭は出世を果たした身だ。だから人の欲も薄くなる。それで無理な改革を平気で押し付ける。おまえこそ馬鹿だ。そいつを正しいご政道と思い込むなんぞはな」
「謹慎をお頭に願ったのは私です。お頭のご命令通りに早く殺せばよかった」
「寿の字を殺したのもおまえか?」
「いつまでもあなたが歌麿の女房のことにこだわっていましたからね」
中山は薄笑いを浮かべた。
「いずれあなたに居場所を突き止められる。それなら早く手を打って、ついでに歌麿の女房のことを寿の字に押し付けようとしたんですが……あれは上手くいかなかった」
「寿の字の隠れ家を聞き出したのはおまえだったな。さすがに火附盗賊改と感心したもんだったが、仲間なら当たり前か」
「どうです? 許す気が失せてきたでしょう」
「まったくだ。ずっとこけにされ続けていたというわけだ。脇田さんを俺が寿の字の名で呼び出して探ろうとしたときも、都合よくお頭からの召集があって流れた。あれは脇田さんが今度の一件と無縁だということを悟られまいとしてやったことだろう。おまえとしては俺が脇田さんを疑い続けている方が都合よかったんだろうからな」
「それもありますが……お頭は面倒になられたんですよ。あなたが脇田さんを疑うのを恐れたのではなく、脇田さんがなにか勘繰るのを案じたんです。あの人は堅い。だから浪人を使って殺すことにした。強いとは耳にしていたものの、三人を相手に負けなかったのだから大したものです。私もあとでお頭に叱られました。なぜ様子を窺って浪人らの助太刀に回らなかったのかとね」
「………」
「銭であの三人を捜してきたのは私です。私の見誤りでした。あの三人にあなたが勝てるとは思わなかった。安心してわざと離れた場所に居たんです」
「刀を抜け」
仙波は身構えて中山を促した。
「ここでべらべらと喋ったのは俺たちを殺す自信があるのか、死ぬ気なんだろう」
「どっちでしょうね。自分にも分からない」
中山は微笑んで刀をゆっくりと抜いた。
「だましゑ夜叉というのもおまえだな?」
「あなたも相当なだましゑじゃないですか」
「………」
「私にも訊ねたいことがあります」
「なんだ?」
「押し込みの正体」
仙波は押し黙った。二人きりなら言うところだが側には北町の人間が居る。
「そういうことですか」
中山は察した顔になった。
「だましゑが三人も揃ったことになりますね」
「互いに退くに退けねえ立場となったな」
仙波はじりじりと間合いを詰めた。
「俺一人に勝負させてくれ」
仙波は中山を包囲する形を取った初鹿野の腹心たちに言った。腹心たちは不安な目をしつつも遠巻きの態勢となった。死骸を捜しに来た小者たちの大半はすでに逃れている。
「死ねばおふくろさんが泣きはしねえか?」
会ったことはないが母子二人きりの暮らしをしている。
「火附盗賊改のお役目に就いてから覚悟はできているでしょう。あなたとは考えが違うかも知れませんが、私は自分のしたことを悔いていない。ご老中やお頭に動かされてしたのではありません。無益な町人どもを制裁してなにがいけませんか? 母も喜んで私の死を受け止めてくれるはずです」
「罰せられねえのは罪がねえってことさ。そりゃ俺だって頭にくることは何度もあったが、それが根本の道理だ。そいつを役人である俺たちが外せば全部が崩れる。人はな……そういう縛りの中で生きているんだぜ。だからこそ人で居られるんだ。おまえは綽名の通り夜叉となったんだ」
「ご老中もそれをおっしゃいましたよ」
中山はくすくすと笑った。
「鬼とならねばこの世は建て直すことができない、とね。ご老中も恨まれるのをご承知です。ご老中の藩内には安達ヶ原の鬼婆が暮らしていた岩窟があるそうです。あの鬼婆は主君の遺児の病いを治すために人の生き肝を狙ったとか。その鬼婆の思いをご自身に重ねられておいででした。腐ったものを取り除かない限り世の中は元に戻らない」
「人殺しの腕を見込まれただけさ」
仙波は冷たく言い放った。若いだけに老中から声をかけられて舞い上がったのだろう。
「俺はますますご老中が憎くなった。武士のためなら町人なんぞどうでもいいってことだな。それで藩主とは笑わせる」
「命惜しみに見えますよ。いつまでもくだらぬ話を。仙波さんらしくない」
中山は正眼に構え直した。ぴたりと決まっている。仙波の身も強張った。どこにも隙がない。ここまでの腕とは思わなかった。仙波を倒したところで初鹿野の腹心たちが残っている。普通は迷いが出る。
仙波は左手で十手を引き抜いて両腕を広げた。中山は怪訝な顔をした。
「なんの真似です?」
「こけにされたが、おまえにゃ恨みがねえ。しかしこの十手は許さねえぜ」
「相変わらずだな」
中山は嬉しそうに笑った。
その隙を逃さず仙波は踏み込んだ。中山も容赦なく刀を用いた。仙波は刀と十手の二つで中山の真正面からの攻めを受け止めた。それでも仙波の腕が押される。刀だけでは受けきれなかったに違いない。冷や汗がどっと噴き出す。数歩後退する。中山もそのままついて来た。仙波が自分から刀と十手を外すのを待っている。これも仙波の見込み違いだった。
〈くそっ〉
仙波は崖に追い詰められた。深い谷底が見えている。中山の目も谷底に動いた。押す力に一瞬の躊躇が生まれた。共に転げ落ちる心配をしたのだろう。仙波は中山を押し戻しつつ腹を蹴りつけた。中山は不意を衝《つ》かれて前屈みとなった。仙波は十手だけを外して間近にある中山の顔面に叩きつけた。中山は悲鳴を発して仙波から離れた。仙波は追った。中山の額から流れた血が右目を完全に塞いでいる。片目では間合いが掴めない。振り払った中山の刀に勢いはなかった。
仙波は刀を立てて受け止めると十手を振り下ろした。左の肩を直撃する。骨の砕ける重い手応えが伝わった。さすがに中山も逃げ腰となる。なぜ形勢が逆転したのか信じられない顔だった。喚《わめ》きながら中山は突きの姿勢を取った。これだと片目でも的を外すことはない。仙波はその胸元を狙って十手を投じた。鉄の十手である。しかも突きの態勢では避けることができない。まともにみぞおちを襲ったらしく中山の足が固まった。息が止まったようで動きがままならない。仙波は刀を両手でしっかり持つと突進した。
仙波が横殴りに払ったのと中山がふらりと前に飛び出したのは同時だった。仙波の刀は中山の腹を深々と斬り裂いた。血が破裂したごとく噴き出した。
「お見事……」
中山は笑顔を見せて崩れた。
「自分から腹を出したな」
「どうせ負けと思いましたからね……腕など落とされて苦しむよりはずっといい」
「おまえ一人で背負い込む気か!」
「歌麿の女房の父親は浪人とは言え武士だったそうです……そんな世の中って……」
中山はがっくりと頭を垂れた。
「それでおりよが憎かったのか……町人の女房になったおりよが」
仙波は思わず嘆息した。
「母に預けているものが……安井さんのことも……なんだか眠い」
顔を上げた中山の目から涙が滴《したた》り落ちた。
そうして中山は絶命した。
翌日の昼過ぎに仙波は中山の家を訪ねた。質素だが掃除の行き届いた家だった。仙波は菊弥と春朗の二人を外に待たせて門を潜ると声をかけた。直ぐに返事が戻って中山の母親が現われた。名乗ると母親は一瞬暗い目をした。それでも笑顔に戻して、
「どうぞ奥の方へ」
仙波を促した。なぜ中山が同行していないのか訊ねもしない。
「倅はお役目で命を落としましたか」
座敷で向き合った母親は真っ先に言った。
毅然とした母親であった。
「どうしてそれを?」
「珍しくそう言って出て参りました。よほど厳しいお役目と覚悟していました」
唸って仙波は懐ろに手を入れると財布を取り出して母親の前に置いた。死骸は北町奉行所が預かっている。正式な検死書を作ってからでなければ火附盗賊改に戻せない。そこで病死とでもされて届けられれば曖昧となる。
「理由《わけ》あって二日ほどはこの屋敷に戻されぬこととなりましたが……立派な最期。短い付き合いにござったが、生真面目な男にござりました。火附盗賊改はきついお役目とは申せ、残念でなりませぬ」
「仙波さまのことはよく倅から……ご厚情、ありがたく存じます」
母親は涙を堪えた目で頭を下げると、
「倅より預かっているものが」
と言って立ち上がった。その足元はさすがにふらふらとしていた。襖を閉めて廊下に出た母親の抑えた嗚咽《おえつ》が聞こえた。手にかけたのは自分なだけに胸を衝かれる。だが、そのことは数人を除いて秘密とされる。表向きは盗賊の召し捕りの際に命を落としたことになるはずである。
「お待たせいたしました」
母親は書状を手にして戻った。
「これは?」
「倅が密かに探索していたことをしたためたものとか。万が一のときは仙波さまが訪ねて参られるのでお渡しするようにと。倅はお仲間の皆様にも内密の仕事が多かったようで、これまでにも何度かこうした書状を……いつもは無事に戻って破り捨てておりましたのに」
母親は一度書状を胸に押し当ててから仙波に渡した。母親の気持ちを思うと目の前で開いて筆跡を見せてやりたいところだったが仙波は無言で懐ろに入れた。中山はやはり罠かも知れぬと半分以上は察していたのだろう。死ぬ覚悟で家を出たに違いない。それにしても、なぜ自分宛てに書状を残したのかが分からない。なにが書いてあるかを確かめるまではだれにも見せるわけにいかない。
「まるで兄のように慕っておりました」
仙波は母親を見詰めた。
「叱られてばかりだと。父親を失ってからは倅は剣術の稽古の毎日。仙波さまのようにお強い人は見たことがないといつも口にして」
「そうでしたか」
なんだか泣きたくなった。もっと前に知り合っていれば別だったはずだ。
「近頃はなにか思い詰めている様子でした。お役目がむずかしいところに差し掛かっていたのでしょう。それでもお頭さまが倅ごときを頼りにしてくだされて……悔いは一つも」
「またあらためて参ります」
仙波は姿勢を正して両手を揃えた。
〈馬鹿なやつだ……〉
我慢しきれずに茶屋の二階に上がって書状に目を通した仙波は涙を堪えた。死ぬまでの身は武士として長谷川平蔵に仕える立場であるが、死ねば一人の中山格之助である。そういう書き出しですべての罪を打ち明けている。歌麿の女房おりよのことから寿の字の殺害に至るまで克明に説明していた。安井を手にかけたのも中山であった。大塚から安井の調べが進んでいるのを耳にし、長谷川平蔵に知らせたら即刻にその命令が下されたのである。安井と小者の死骸は八丁堀近くの寺の無縁塚の下に埋められてある。これは仙波が寿の字の死骸を埋めたのとおなじ考えだ。仙波を真似て行なったものと見える。この通りの場所から安井の死骸が掘り出されたら長谷川平蔵ももはや言い逃れができない。中山の筆癖はいくらでも付き合わせることができる。火附盗賊改に中山の提出した書類がたくさん残っている。火附盗賊改の前は御先手組に出仕していたので、そっちでも見付けられるだろう。
〈馬鹿なやつだぜ……〉
寿の字や安井を手にかけたからには、生きている間は許されないと考えてこういう書き置きをしたためたのだ。自分を兄のように慕っていたという母親の言葉は本当だったのかも知れない。謹慎を長谷川平蔵に願って仙波を遠ざけた理由も、殺したくなかったからだと想像される。こちらはずっと信用していたのだから隙はいくらでもあった。
「いってえ……なんの書き置きで?」
目を通す間、神妙に甘酒を飲んでいた菊弥が質した。春朗も膝を進める。
「北町に走って人を頼んで来い。安井の義理の兄貴にも声をかけろ。確かめて貰う」
「ってことは安井の旦那のあり場所が?」
「俺たちの目と鼻のとこだ。王圓寺の無縁塚の下に埋められている」
聞かされて菊弥は目を円くした。その寺なら日に何度か前を通り過ぎる。
「安井もだらしねえ。そんなに近くに居たのなら幽霊にでもなって女房に知らせりゃいいものを。毎日の読経《どきよう》ですっかりいい気になっていたんだろう」
「それも中山の旦那がやったんで?」
「そうだ。おめえが真夜中に安井んとこの門前で見掛けたのは中山さ。帰りを待ち構えて王圓寺の境内にでも誘ったんだろう。ここは地元だ。まさか殺されるとは思いもしねえ」
「あのときに顔を確かめていりゃ」
菊弥は悔しがった。
「そうすりゃおめえも一緒に寺の土の下さ。声をかけずに戻ったのが幸いしたぜ」
ぶるっと菊弥は首を縮めた。
「これで終わりってことで?」
春朗は仙波を見詰めた。
「たいがいの者が相手ならそうだろうが……ご老中じゃどうかな。初鹿野さまは中山の死骸一つで長谷川さまやご老中の首根っこを掴まえることができたとお思いらしいが、果たしてその通りに運ぶかどうか。中山一人に罪を押し付けられたんじゃ堪らねえ。歌麿《うたまる》のこともある」
仙波に春朗も頷いた。
「長谷川さまとご老中はまだ俺が北町とつるんでいるとは知らぬはずだ。ここはもう一芝居打つという策もある」
「どんな芝居で?」
「中山が死んだということも知るまい。この書き置きを見ると、さすがにお頭も発覚を恐れて中山しか使っていなかったようだ。なんで江ノ島から戻らぬのかやきもきしていよう。そこに付け込む隙がある。春朗、おめえは水の泡まで紙に写し取るほどの腕だ。これだけの分量がありゃ筆癖を似せるのもむずかしくはなかろう」
仙波は中山の書き置きを見せた。字として見るなら面倒だが、模様と考えればやれないこともない。春朗は頷いた。
「今の話は取り消しだ」
仙波は菊弥に言った。
「お頭に安井の死骸を掘り出して貰おうぜ。そこを取り囲めば、いくらなんでも覚悟を決めよう。中山や安井の死骸をただ並べて見せたところでお頭が相手じゃ心許無い」
「中山の旦那の筆を真似て誘い出すってことですか!」
菊弥は青ざめた。
「江ノ島で死骸を見付けられずにいるうち北町の連中が現われて仕方なく逐電したと書けば信用するだろう。顔を見られた恐れがあるから当分は江戸に戻れない。となると安井の死骸が気に懸かる。今のうちに掘り出して安全なところへ移し替える方がいい。それだけを書く。俺はこれから北町に籠城だ。お頭もきっと俺の動きを確かめる。北町の仮牢に閉じ込められていると知れば間違いなく中山からの書状と思い込む。万が一、中山が捕らえられ、白状したとしたら俺が牢屋に入っているはずがなかろう」
「お奉行さまが頷いてくれましょうか」
「来なければ明日にでも北町が掘り出せば済むことだ。火附盗賊改の役宅を訪れて談合するより王圓寺の境内の方が早い。そいつは初鹿野さまも承知。俺に任せろ」
仙波は菊弥に請け合った。
暗くなるのを待って仙波は初鹿野らと共に北町奉行所を出た。春朗が苦労して拵えた書状は夕刻前に長谷川平蔵へ届けてある。昼は人目があるので掘り出すとすれば今夜か明日の夜だ。ただ、だれと繰り出して来るかが問題である。まさか長谷川平蔵が手を汚すわけがない。これまで火附盗賊改の者らに打ち明けていないとしたら松平定信の手助けを願う可能性があった。そうなることを仙波たちも望んでいる。白河藩の人間が一緒のところを囲めば老中と長谷川平蔵との繋がりが明白となる。そしてそれはいかにもありそうなことに思えた。もともとは老中の命令によってはじめたことである。火附盗賊改の部下を使うよりは老中を巻き込んでおく方が安心できる。
「そうなると長谷川どのは姿を見せぬかも」
初鹿野は案じていた。
「白河藩の連中が来れば心配ありませぬ。掘り出していたのが安井の死骸と知れれば大目付も必ず調べに回りましょう。それを脅しの材料《ねた》にすればお頭とて終わりと察します」
仙波に初鹿野も首を縦に動かした。
「しかし、安井と申す者も気の毒な目に遭った。行方が知れぬことは聞いておったが、まさか己れの屋敷の近くに捨てられているなど」
初鹿野は馬の背から仙波に言った。仙波と初鹿野の配下らは従って歩いている。
「それより、今夜参るか分かりませぬ。お奉行には無駄足となるやも」
同行を望むなど思ってもみなかったことだ。
「これまでは甘く考えていた。南町の同心まで殺《あや》めたとなると一大事。これ以上見過ごせば幕府の先行きとてどうなるか……なんとしても今夜か明日で決着とせねば」
初鹿野は言って舌打ちした。
王圓寺には菊弥と春朗が待っていた。本堂を借りる手筈を調えている。仙波たちは中に上がり込んだ。無縁塚は裏手の奥なので寺の者に気取られずに入ることができる。
「来るとすれば真夜中だろうが今から交互に見張りに立て。墓地には近付くな。庫裏の屋根に上がれば無縁塚が見える。知らせを受けたら二手に分かれて挟み撃ちにする」
仙波は菊弥と春朗に命じた。まず菊弥が出て行った。そろそろ肌寒い時節に差し掛かっている上に風が強くなっている。屋根での見張りはきつい。
「ご苦労なことだの」
春朗が入れた茶で体を温めながら初鹿野は労《ねぎら》った。
「そなたはなんでここまで関わった?」
「性分でございます」
春朗は頭をぼりぼりと掻いて、
「若い時分に縁切りして家を飛び出てしまいましたが、親父は幕府の御用を勤めております。もう十年も会ってはおりませんが」
「幕府の御用とは?」
初鹿野の目に警戒が浮かんだ。
「表向きは仏師を仕事に……」
「どういうことだ?」
仙波も初耳で、問い質した。
「それ以上はお許しを」
春朗は口を噤《つぐ》んだ。初鹿野と仙波は目を合わせた。奉行所に関わる者であるなら口にするだろう。考えられるのは忍草《くさ》しかない。正体を隠して市井の動きを探る役目の者が江戸には昔から何十人と配置されている。その報告は城内のお庭番を通じて、直接将軍の耳に届く。それゆえに細かなことは報告されないが、諸大名や旗本らにすれば最も恐るべき存在であるのも確かだ。
「重要なことだ」
初鹿野は膝を前に進めた。
「断じて他言はせぬ。それはお庭番ということであるのか?」
「どうぞその話は……お忘れくださりませ」
春朗はひたすら両手を揃えて願った。
「そなたとて義憤を覚えたからこそ仙波の手助けに回ったのであろう」
「親とは無縁の身にござります」
「それでは済むまい。こたびのことをなんと心得る。我らが相手としておるのはご老中。尋常な手立てでかなうお人ではない。もしも大目付まで味方としていたときは潰される。なれどお庭番なれば……公方さまにご老中を通り越してお耳に入れることができよう」
「親は手前のことなど信用いたしませぬ。第一、それほどの力が親にあるなど……」
「正体を口にできぬのは当然じゃが……これは我らの保身で言うておるのではないぞ。下手をすれば幕府が滅びる。ご老中は勘違いなされておる。|政 (まつりごと)とはそういうものではない」
「………」
「民を守ってこそ国が成り立つ。噂を公方さまのお耳に入れてくれるだけでよい。公方さまは賢きお人。だからこそ生真面目なご老中をご信頼遊ばしておられる。噂を耳にいたせば大目付に命じて真偽を突き止められようとするであろう。もし……我らの力が及ばぬときは頼む。それが唯一の救いの道」
初鹿野は春朗に頭を下げた。
「しかし……親が手前の言葉など……」
春朗は嘆息した。
「儂で構わねば、会って訴える」
そこまで初鹿野に言われて春朗は天井を仰いだ。春朗自身は親の仕事がそれほど重要なこととは考えていなかったらしい。奉行所の同心や岡っ引きと変わらぬ役目だ。将軍直属となってはいても、目通りができるわけでもない。城勤めのお庭番を通じて報告が伝わるに過ぎない。だが、確かに報告が届くことは届く。途中で揉み消されることはない。
「承知いたしました」
春朗は決心を定めた顔を上げると、
「いまさら合わす顔もございやせんが、そのときはなんとか親に……」
初鹿野は喜んで春朗に頷いた。
「道理で筋がいいと思った。血だよ」
仙波はいくつも証しを見付け出した春朗に得心の顔で言った。
二度目の見張りに出た菊弥が足を忍ばせて本堂に戻ったのは真夜中だった。その様子で皆は緊張した。
「何人だ?」
「五人です。数を揃えて一気に掘り出すつもりなんでしょう。皆、腰に刀を差してますぜ」
「お頭はどうだ?」
仙波は小声で質した。
「この暗さじゃ数を確かめるのが精一杯で」
「五人は難儀だな」
こっちは初鹿野を含めて武士が四人。初鹿野はまさか頼りにはできない。
「あんたらは外から回ってくれ。俺が一人で踏み込む。あとは運次第だ」
仙波は初鹿野の腹心二人に指図した。
〈ただの連中じゃなさそうだ〉
物陰からしばらく様子を眺めた仙波は、襟首から腕を差し込むと腋の下の汗を拭った。大小を腰にしているのに、ほとんど物音を立てない連中ばかりだ。そうして鍬を用いるのは腰がしっかり据わっているという証しである。
〈お頭も半信半疑だったようだな〉
だから腕の立つ者ばかりを送り込んで来たとしか思えない。仙波は辺りを窺った。長谷川平蔵の居る気配はない。
〈やるしかねえの〉
初鹿野の腹心二人が背後を固めた頃合と見て仙波は刀をこっそり引き抜いた。話が通じる相手ではない。一気に飛び込んで峰打ちで足の骨でも砕くだけだ。どこの何者であるかは捕らえてから訊くしかない。
枯れ葉を踏む自分の足音に身を縮めながら仙波は接近した。男たちは背を向けている。
「御用だ!」
叫んで仙波は躍り出た。男たちはさほどの驚きもなく振り返った。一人を目掛けて仙波は刀を振り回した。咄嗟に相手は持っていた鍬で防いだ。仙波は舌打ちした。峰打ちでなければ鍬の柄ごと相手の膝下を叩き切っていたはずである。相手も刀が弾かれたのを見て驚いていた。男たちはいっせいに刀を抜いた。
「神妙にしろ!」
初鹿野の腹心たちも飛び込んで来た。
「これで全部か」
敵の一人が仙波たちの数を見て笑った。
「たった三人で来るとは……侮られたものよ」
それに男たちも笑って頷いた。腕に相当な自信がある者たちと思われる。
「その心意気に免じて尋常な勝負をしてやりたいところだが……生かして返すわけにはいかぬ。罠に嵌まったのはうぬらも同様だ」
相手は懐ろから短筒を取り出した。
「二連発だ。二人を倒せば残りは一人。どう見ても我らの勝ちだな。ここは八丁堀。助けを呼んだとて構わぬぞ。だが、あいにくと大方は召し捕りで出払っていよう」
短筒の先を仙波に向けて男は哄笑した。
「手配済みってわけかい」
一瞬にして噴き出た汗が首筋から背中に滴る。仙波は後退しながら毒づいた。
「貴様ら、武士の道の立つご改革になにゆえ逆らう? やはり同心風情は武士と違うか」
「白河藩の者か?」
「あの世でじっくり考えろ。長谷川さまは中山のことを気に懸けておられたが……どこに囚われておる? 北町の仮牢か」
じわじわと仙波を追い詰めて質す。初鹿野の腹心たちもこれでは手出しができない。
「どうやら死んだと見えるの。生きておるなら中山を盾とする。それで我らも一安心」
躊躇なく銃口が仙波の胸に向けられる。
仙波も覚悟を決めた。この銃声を耳にすれば初鹿野も察して寺から逃げ出すだろう。仇は初鹿野が取ってくれる。
「大した落ち着きだ。俺も狙いやすい」
相手の指に力がかかった。
しゅるしゅるしゅるっと縄の滑るような音が闇に聞こえた。男に動揺が生じた。その瞬間、男の腕が引かれた。白い縄が男の腕に絡み付いている。短筒から炎が噴き出た。弾丸は仙波を大きく外した。すかさず仙波は踏み込むと相手の胴体を横殴りにした。返した刀で踝《くるぶし》の辺りを叩きつける。男は絶叫を上げて地面に転がった。峰打ちだが踝の骨を砕かれては堪らない。片足で逃れようとする男の腿を今度は切っ先で払う。手応えがあった。男は悶絶して膝から崩れた。仙波は後ろから羽交い締めにすると二本の刀を奪って闇に投じた。自害されては意味がない。仙波は首の後ろを刀の柄《つか》で殴りつけて気絶させた。
なにが起きたのか察したのはそれからである。振り向いた仙波の視野に四人の男を囲む八、九人の黒い影が認められた。
「なんとか間に合いやした」
仙波の側に近付いて笑顔を見せたのは歌麿だった。黒装束に身を包んでいる。
「おめえ、なんでここが?」
「ついさっき箱根から戻って、ご挨拶に伺いやした。そこで左門の旦那から今夜のことを」
「助かったぜ。今度ばかりは諦めた」
「おりよの仇を取ってくれたそうで」
歌麿は仙波に微笑むと、
「それでこっちも思い残すことはねえや。存分にやらせて貰います」
新しい縄を手にして振り回した。鉄の分銅《ふんどう》でも結ばれているのか、縄は唸りを発した。一人の男を狙って縄を飛ばす。縄は男の首にぐるぐると巻き付いた。歌麿はぐいと引いた。男は必死で堪える。縄を緩めると男は反動で転がった。二人の男らが襲う。一人は間違いなく徳成だった。仙波がさっきの男を殺さなかったのを見ていたのか、徳成たちは刀を奪うと首に巻き付いている縄を用いて手早く縛り上げた。
「なんだ、菊弥か」
仙波は徳成と組んでいる男に気付いて苦笑した。春朗の姿もある。
残りは三人だ。仙波は初鹿野の腹心たちの援護に回った。すっかり逆転している。
「何者らにござる?」
初鹿野の腹心たちは喜びながらも歌麿らとは思わずに首を傾げた。
「二人も召し捕れば、あとは殺したっていい」
それに応ぜず仙波は間合いを詰めた。敵は完全に動転している。短筒を持っていたのが纏めだったに違いない。気力の萎《な》えた構えで防戦に回った。仙波は下段の構えのまま突進した。擦れ違いざま刀を持ち上げる。ずどん、と音を立てて相手の右腕が付け根から落ちた。腕には刀が握られていた。男は呆然と自分の腕を見下ろしている。それから傷口を押さえて暴れ回った。血が仙波の顔を濡らす。春朗が男の腰に飛び付いて押し倒した。歌麿の手下も春朗の加勢に回る。
仙波は刀の血を袖で拭った。
激しい斬り合いの音が続いている。残った二人が初鹿野の腹心二人とやり合っているのだ。仙波は勝負の行方を見守った。手助けするほどの状況ではない。腕は対等でも勢いはこちらのものだ。そしてその通りの結果となった。敵の一人は肩に深手を負い、もう一人は腹を裂かれて絶命した。初鹿野の腹心の一人も指の二本を失っている。それで手加減ができなかったのであろう。
すべてが片付いて仙波たちはその場に尻餅をついた。だれもが肩で息をしている。
「菊弥、お奉行にお知らせしろ。そのついでに組屋敷に走って安井の女房を案内してくれ。騒ぎをできるだけ大きくするんだ。ここから安井の死骸が出て来たことをはっきりさせる」
へい、と菊弥は勇んで尻を上げた。
「俺たちは人が来る前にこいつらを寺のどこかに移そう。その死骸も一緒だ」
仙波は縄で縛られている男たちを顎で示して春朗に命じた。歌麿の手下たちも従う。捕らえられた男たちの口には舌を噛み切られぬよう手拭いが押し込まれている。
半刻後。
仙波は泥だらけの手で本堂に戻った。初鹿野が寺の用意した火鉢の側に居る。
「終わったか」
「間違いなく安井と小者の死骸にござりました。安井のお内儀が煙草入れで確認を。あの体付きなら手前にも分かりまする」
「泣き声がここまで聞こえた。女房のものか」
「まさかこんな近くに眠っていたとは……そのせいでしょう。気丈なお内儀にござる」
「一人だけ引き立てて参れ」
初鹿野は腹心の一人に言った。
やがて二人の腹心は纏めの男の両肩を抱えて初鹿野の前に引き連れた。両足が使えなくなっているので自分では動けない。
「手拭いを取ってやれ。話にならん」
「しかし……それでは」
腹心は初鹿野に逡巡を見せた。
「死ぬならそれでもよい。まだ他に三人を捕らえてある。どうせ白河藩の者と分かれば我らも手出しができなくなる。ここで死んで貰った方が少しは溜飲が下がると言うもの」
初鹿野は冗談でもなく口にした。纏めの男の顔に不安が浮かんでいた。まだ目の前の男がだれであるのか知らずにいる。
「奉行所は大名家に手出しがならぬ。それをやれるは大目付ばかり。まったく愚かな定めじゃの。そこを見越して長谷川どのはご老中に下駄を預けたのであろう。いつも保身の術に長《た》けたお人。ここでご老中を巻き込んでおけば責めを一人で負う心配もなくなる。しかし……今度ばかりはご老中とて呑気にしてはおられまい。南町の同心の死骸のありかをなにゆえ白河藩の者らが承知していたのか。そなたらをこの北町の初鹿野がじきじきに取り調べることはできぬが──」
その名を聞いて男は動揺した。
「調べ書きを徒目付に届けることはできる。長谷川どのがご老中を頼ったところを見れば、大目付には鼻薬が利いていても、武士の行状を監督する徒目付にはまだ手を回しておらぬのであろう」
なるほど、と仙波も頷いた。
「徒目付はなにも知らぬゆえ徹底して調べる。そなたが舌を噛んだとて差し支えない。この短筒が動かぬ証し。藩の家紋の刻まれた短筒を与えるなど、ご老中も迂闊な真似をなされた。北町が関わっていることは薄々気付いていたかも知れぬが、まさか儂までとは思わなんだらしい。罠としても仙波の同心仲間が三、四人と侮ったのではないのか?」
初鹿野の言葉に男はがっくりと肩を落とした。
「中山がすべてを打ち明けた書き置きも儂の手元にある。それにはご老中と長谷川平蔵どのに命じられてさまざまな殺しを請け負ったことが明瞭に記されてある」
男はまた顔を上げた。
「この初鹿野、命を捨てるつもりになれば公方さまにその書き置きと短筒を差し出すこともできるぞ。そうなってはいかにご老中であろうと罷免は避けられまい。白河藩のお取り潰しも有り得る。ただの脅しと思うか?」
初鹿野は短筒を弄びながら笑った。
〈大したお人だぜ〉
仙波は舌を巻いていた。こういう人間を相手に罠を仕掛けたと思えば寒気がする。
「儂が案じているのはご老中や長谷川どのの先行きではない。この国のことだ。ご改革とて度を過ぎぬものなら国のためになると心底思うておる。それをご老中自らが汚し召された。これが世間に伝われば民らはもはや武士のことなど見限る。打ち壊しや一揆が相次ぐようになろう。そうなっては取り返しがつかぬ。ここはご老中ご自身の手で道を元に戻していただきたい」
男はぼんやりと初鹿野を見詰めた。
「ご老中のお覚悟次第では今度の一件を北町の初鹿野が揉み消すと申しておる」
男は初鹿野から仙波に目を動かした。
「白河藩を潰すより、もっと大事なことがあるってことだよ。膿《うみ》を出しても江戸の人間は喜びやしねえ。皆が得心できる改革なら国のためになる。そこを考えろってことだ」
「そなた一人はこのまま帰してやる」
初鹿野が続けた。
「明日にでもお屋敷に伺う。ご改革をどの程度まで緩めるべきか今夜熟考する。それを書き連ねるゆえ、そこにご老中のご署名を願いたい。それができぬと言うときは徒目付に残りの者らを証しとともに引き渡す。これ以上の悪あがきは無用じゃぞ。いかにご老中のお力とて北町奉行所を取り囲んで襲いはできまい。公方さまのお膝元じゃ」
「………」
「死ぬ気と見たが……それもよかろう。そなたが藩邸に戻らずに果てれば儂は徒目付に任せるだけのこと。そなたが白河藩を潰す」
男は進退極まって悔し涙を流した。
「死ぬならご老中に伝えてからにしろ。決めるのはご老中。そなたごときの勝手にされてはご老中も迷惑であろう」
「承知つかまつった」
男は初鹿野の前に平伏した。
「さて……」
男を大八車に乗せて白河藩邸まで送り届ける手配を済ませた初鹿野は仙波と向き合った。
「手助けに駆け付けた者らは何者じゃ?」
「駆け引き上手のお奉行に迂闊なことは……」
「なんのことじゃ?」
「あの者らが現われてくれねば面倒になっておりました。今頃は安井と並んで土の中」
「じゃから労うつもりで訊いておる」
「ご老中と長谷川さまをお許しなされると申すなら、押し込みの罪など知れておりまする」
「………」
「殺した手代はご老中の手先。騒ぎを引き起こしたのも、そもそもはご改革の理不尽さを世間に訴えるため。世間は義賊と褒めそやしております。根源を捨て置いて義賊を獄門に架けてはさらなる不満の種子となりましょう」
「押し込みの連中か」
察して初鹿野は苦笑いした。
「他に余罪はござりませぬ。ご老中に掛け合ってはいただけませぬか? 火附盗賊改が探索を諦めればそれで終わりとなります」
長谷川平蔵に松平定信がそれを言えば済むことである。仙波は両手を揃えて頼んだ。
「余罪がないのは確かじゃな」
「この首を懸けても」
「仕方なかろう。配下らも死なずに済んだ」
吐息して初鹿野は請け合った。
「聞いたか!」
仙波は本堂の外の濡縁《ぬれえん》に控えているはずの歌麿たちに叫んだ。
「安心して今夜のところは引き揚げていいぜ。このお奉行ばかりは信用できるお人だ」
弾んだ足音が聞こえて消えた。
「ばかり、と言うのが余計じゃが……まだ分からぬぞ。ご老中が素直に頷いてくだされるかどうか。明日はそなたも同道いたせ」
初鹿野は仙波に言った。
「ご老中のお屋敷にござりますか!」
「長谷川どのも必ず同席いたしておろう。そなたも自分でけりを着けねば気になろうに」
「手前などがご一緒しては……」
仙波は珍しく躊躇した。
「なに、儂も死出の旅路の道連れが欲しい。ご老中は生真面目なお人。それだけに儂の申し出を潔しとせぬかも知れん」
「そういうことであるなら喜んで」
仙波は気を引き締めて承知した。
「仙波さん」
本堂を出た仙波は暗がりで呼び止められた。歌麿が太い木の陰から現われた。
「待っていてくれたのか」
「今夜は飲み明かしたいと思いまして」
「それもいいな。親父も楽しみにしていよう」
仙波は歌麿と並んで歩いた。
「明日は私もお供を」
「聞いていたのか。だが、無理だろう」
「ここまで来て仙波さんを死なせるわけにゃいきません。死ぬなら一緒と決めました」
「ありがてえがよ……死ぬと決まったわけじゃねえ。おこうにも女房にすると約束した」
「旦那、そいつぁ本当の話なんで!」
後に従っていた菊弥は春朗と目を合わせた。
「それは目出度い。おこうさんも目が高い」
「からかうんじゃねえぜ」
仙波は歌麿の脇腹を小突いた。
初鹿野の乗る馬の手綱を曳いて仙波は松平定信の屋敷を訪れた。到着を知って門前に駆け付けた藩士たちは、現われたのが初鹿野と仙波の二人だけと分かって目を円くした。北町奉行ともなれば常時十人以上の供揃えで行動する。特に今日は尋常の会見ではない。
大胆さに気圧《けお》された様子で藩士たちは初鹿野に頭を下げると中へ案内した。
二人は広間に通された。初鹿野は落ち着き払った顔で手炙《てあぶ》りを引き寄せ、煙管を取り出すとゆっくり喫いつけた。仙波の方は緊張が取れない。敵として争ってはきたものの相手は老中である。閉めた襖の裏側には藩士が何人も潜んでいる。合図一つで命はない。
若侍が慇懃《いんぎん》な口調で定信の来席を伝えた。
側近二人を従えて定信が姿を見せた。
「苦しゅうない。頭を上げよ」
定信は仙波に言った。仙波は低頭のまま定信を見やった。怜悧な顔立ちだった。藩主とは思えぬ地味な衣を身に纏っている。手炙りも用意されているのは客用ばかりで、定信の傍らには置かれていない。
「余計な話はせぬことといたそう。意見書が先じゃ。これへ」
定信は初鹿野を促した。初鹿野が懐ろから取り出すと側近が手にして定信に差し出す。定信は一つ吐息してから目を通した。仙波も出発前に読まされているが、なかなかに厳しい要求であった。今の禁令の重さを十とするなら、四ぐらいまでに引き下げろと訴えている。初鹿野の意見書は幕政の行き過ぎを批判したものであり、禁令の一つ一つについて細かく触れてはいないが、これにもし定信が頷けば江戸は一挙に活気を取り戻す。
「そなたの意見の他になにも書かれておらぬ」
定信は意外な顔をして初鹿野を見詰めた。中山を用いての策謀や恋川春町の一件など、気にしていたことがいっさい省かれている。
「ご署名を頂戴いたしやすいようにしてござります。その意見書にお頷きくださればおなじこと。それにも書いてござりますが、手前とて改革の大事なことは百も承知。そこをぜひともご考慮いただきたいと存じます」
「警告程度で民らが従うと思うか?」
定信は案じた顔で初鹿野に質した。
「それこそ我ら奉行所の役目。いかに見せしめとは申せ、街角で娘の絹物を剥ぎ、あるいは芝居を中断させては民らの不満がつのるばかり。説諭で足りることが山ほどありまする。もはや民らとて肝に銘じてござりましょう」
「分かった。もう言うな」
定信は仕方なく笑って、
「喧嘩をせねばならぬと覚悟していたに、そなたがここまで配慮してくれたからには首を縦に振るしかあるまい。そなたがきちんと目を配ってくれると申すのであれば口は挟まぬ。儂は大局に専念いたそう。言い訳に聞こえるかも知れぬが、そなたのような役人がおると分かって安堵した。承知しておったなら儂が自ら手を下さずともよかった。先の世はすべて田沼どのに操られていた者どもばかり。信ずるに足る者が少なかった。と言うて見極める時間もない。それで無理な手段を」
初鹿野に小さく詫びを入れた。
「ご署名は?」
「ここで書く。改革はこのまま続けるが、禁令に関しての扱いはそなたの判断に委ねる。そう念書してよいのじゃな」
「異存はありませぬ」
初鹿野は定信に両手を揃えた。
「さらにもう一つ」
初鹿野は頭を上げて、
「例の押し込みについてでござりますが」
「どうかしたか?」
「巷《ちまた》では義賊と持て囃されております」
「そのようであるの」
さすがに定信は嫌な顔をした。
「幸いに近頃とんと働いておりませぬ。噂では上方に逃れたという話も」
「さようか。上方にな」
「このまま見逃すべきと心得ます」
「なんでじゃ?」
「あの者らの狙いがご改革の批判に端を発しているのは明らか。民らもそれで義賊と喝采を叫んでいるのでござります。それを捕らえ、有無を言わさず獄門送りとなせば厄介の種子《たね》となりましょうぞ。場合によっては幕政を揺るがしかねませぬ。人の噂も七十五日。ここは放置召されるのが賢明な策かと」
定信は無言で苦虫を噛み潰した。
「押し込みの殺《あや》めし手代は、確かご老中の命によって潜り込んでいた者であるとか」
初鹿野は重ねた。
「それが民らに聞こえては面倒なことに」
「長谷川に言おう」
定信は頷いて初鹿野に返した。
「本当に江戸におらぬのであるなら探索は今日限りで打ち切りとさせる」
仙波もほっとして頭を下げた。
「仙波一之進と申すはそなたか」
定信は仙波に目を動かした。
「なるほど図太い面構えをしておる。そなたのことではいろいろと苦労させられた。鬼の平蔵すらままにならず愚痴をこぼしておった。今の世に珍しく骨のある者。どうじゃ、儂に仕えてみるつもりはないか?」
「白河藩にでござりまするか」
仙波は仰天した。
「そなたのような者こそ欲しい。負けたわ」
「ありがたきお言葉なれど」
仙波は即座に断わった。
「手前は十手者の勤めこそ己れの本分と心得ておりますれば」
「十手者とはなにか?」
「十手者は一代抱え。ゆえにかりそめの武士。まことの武士にあらずば民にもあらず。なればこそどちらの楽しみも、また苦しみも分かり申す。十手者は人という字のように二つの道を一つに繋げる役目と父に言い聞かされてござります。その勤めをこの歳まで続けて参りました。いまさら武士となっても戸惑うばかり。なんの役にも立ちますまい」
「人の字のごとく二つの道を繋ぐ、か」
定信は指で大きく膝に書いて頷いた。
「そういう者が……今も居たか」
定信の目から涙が溢れた。
「民らのためにも、そなたを儂が引き取るわけにはいくまいな。よくぞ申してくれた」
定信は仙波に深く頭を下げた。仙波は慌てて額を畳に擦りつけた。
「初鹿野どの、この者を好きに働くことができるよう手助け願いたい」
「承知してござります」
初鹿野は定信に請け合った。
辞去する途中、仙波は通り過ぎた小部屋から呼び止められた。開いている隙間より長谷川平蔵が目配せした。仙波は初鹿野に断わって小部屋に戻った。
「やられたの。運の強い男だ」
平蔵は薄笑いで仙波と向き合った。
「中山の遺骸は今日にでもお戻しいたします。一刻も早く母者のもとへ」
「格之助は強かったであろう」
「惜しい者を失いました」
「我が倅のように思っていた。それが格之助には仇《あだ》となったかも知れん。格之助にはあの世で謝る。儂が死なせてしもうた」
「腹を召されるおつもりでござりまするな」
淡々とした平蔵を見て仙波は察した。
「なれどその必要はござりますまい」
「………」
「中山が一人でことを収めましてござる。ご老中もご得心なされてご署名を。ここでお頭が腹を召されては別の騒ぎとなりまする」
「ご老中のお心次第」
平蔵は覚悟の笑いを見せた。
「今日は初鹿野さまがお待ちであれば、いずれまたご挨拶を」
仙波はようやく笑いを浮かべた。
「会うことがかなえば酒を飲もう」
平蔵はいつもの顔に戻して仙波を送った。
座敷に笑いが絶えない。
次々に人が揃うたび歓迎の拍手が鳴り響く。すでに席にあるのは初鹿野とその腹心二人、仙波父子と菊弥、春朗、蔦屋の八人だった。あとは歌麿と徳成を待つばかりである。
「お奉行をお待たせするとは、歌麿《うたまる》もだらしない。どなたのお陰で今宵の席にのんびり出られると思うておるのかの」
左門は機嫌よく蔦屋の酌を受けている初鹿野を気にして仙波に耳打ちした。
「なにか祝いの品を持ってくるとか」
春朗が代わりに謝った。
「おこうも現われぬ。おこうは裏でなにが起きていたのか知らなんだにしても、他の席から抜けて来られぬとは情けない。そなたの人徳のなさがこれで知れたわ」
左門は仙波を鼻で笑った。
そこに仲居が歌麿の到着を知らせた。
「遅くなりました」
歌麿は黒紋付を纏っていた。礼服ではあるが、この場にはそぐわない。
「祝いの品の支度に手間取りました」
歌麿はにっこりと笑って手を叩いた。襖が大きく開かれた。木遣《きやり》の唄が廊下から聞こえる。仙波たちは顔を見合わせた。
徳成が羽織袴で広間に入って来た。
「なんの真似じゃ?」
左門は呆気にとられた。
だが、徳成に導かれる形で現われたおこうを認めて左門はあんぐりと口を開けた。おこうは眩《まばゆ》いばかりの白装束だった。大きな綿帽子の中におこうの恥ずかしそうな笑顔がある。
「これは……なんとしたことぞ?」
左門が歌麿に質した。
「さきほどおこうの身を綺麗にして参りました。今日からは自由の身。この歌麿からの礼にござります。仙波さまにはなにとぞご遠慮なくお受け取りいただきたく」
歌麿は仙波の前に平伏して願った。
「余計なことをしやがって」
仙波は照れた顔で歌麿を睨み付けた。おこうを女房にすると言ったので先回りしたのである。菊弥と春朗は歓声を発した。
「こやつ……親に黙ってそういう仲となっておったのか」
左門は仙波の膝を扇子で叩いた。
「まだ仙波さまのご返事を伺っては……」
歌麿は左門を制して仙波に訊ねた。
「返事もなにも……おこうがその気になっていりゃ仕方ねえさ。この通り、俺より親父が喜んでいやがる。ここで臍《へそ》を曲げりゃ無粋ってもんだろう。ありがたく頂戴しよう」
仙波は歌麿に心底からの礼を言った。顔を上げたおこうの目から涙が滴り落ちた。
「そうと定まれば手前と徳成は明日にでも栃木へと旅立つ所存」
歌麿は仙波に両手を揃えて言った。
「明日とは急な話だ」
「一年は戻らぬ覚悟。それがお世話になった皆様への歌麿の心と思し召しくだされ」
歌麿はにっこりと笑った。押し込みのほとぼりを冷ますつもりなのであろう。
「そういうことであったか」
すべてを見抜いて初鹿野は頷くと、
「別れの杯を取らす。一年を栃木で過ごしたら必ず江戸に戻って参れよ。歌麿のおらぬ江戸は江戸と言わぬ。そなたの絵にこそ江戸がある」
歌麿を手招いて杯を勧めた。
「それより先にお奉行さまの方からお二人に固めの杯を。仲人役はなにとぞお奉行さまに」
歌麿はおこうを前に促した。
「なるほど。こうして仲人を請われたからには儂とて仙波の後見とならねばなるまい」
初鹿野は仙波を見やって、
「明日には呼び出すつもりでいたが、今宵がよかろう」
襟を正して目の前に控えさせた。
「仙波一之進、北町奉行の名をもって明日よりそなたを北町の吟味方与力筆頭に任ずる」
「一之進が吟味方与力に!」
仙波よりも左門の方が驚いた。しかも吟味方与力筆頭と言えば奉行の補佐を務める年番与力に匹敵する重職である。奉行所でも与力、同心合わせておよそ百五十人のうち上から数えて五番目くらいに位置する。俸禄も同心などとは比較にならない。なにしろ常に供を五人は従えねばならぬよう義務づけられている。
「ご老中の側近にと望まれたそなた。この程度では満足いかぬであろうが、儂にできるのはそれがせいぜい。受けてくれるか?」
「望外の幸せに存じまする」
仙波は慎んで任命に応じた。
「大変なことじゃぞ。そなたごときに勤まるか? 眩暈《めまい》がして参った」
左門は酒を銚子ごと飲んだ。慌てて喉に流し込んで噎《む》せ返る。
「仙波家はじまって以来の出世じゃ。この堅物が出世できるなど……世の中は分からん」
左門はおこうに背中をさすられながら泣き笑いした。菊弥も涙ぐんでいる。賄賂とは無縁の暮らしで小者一人を雇うのが精一杯だった仙波なのである。
「おこう、そなた幸せ者だの」
蔦屋はしみじみと口にした。
「歌麿に先を越されてしまったが、花嫁道具はこの蔦屋が用意してやろう」
「よしてくれ。それなら俺があまりにも腑甲斐ねえ男のようじゃねえか。おこうの道具を揃える程度の銭は蓄えてある」
仙波は断わった。
「それでは手前の気が済みませぬ。子飼いの歌麿に負けたと伝わっては蔦屋の恥」
「だったら頼みがある」
仙波は蔦屋に言った。
「春朗が親父さんと仲違いのままなのは世の中に名が出ていねえせいだ。蔦屋の力で春朗を売り出してくれ。そうすりゃ胸を張って親父さんとも会えるようになろう。俺の小者として暮らしが立つようにしてもいいが、この春朗のことだ。絵描き以外の道は考えちゃいなかろう。機会さえ与えてくれりゃ春朗が自分の腕で道を開く」
「確かに。最初は小判の名所絵でもと考えておりましたが……歌麿が留守をする穴埋めに大首の女絵でも手掛けてみるかい?」
蔦屋は春朗に質した。
「女絵は苦手だが……大首をやらして貰えるなら踏ん張ってみます。新しい女絵をね」
春朗は気負い込んだ。
「ほどほどにしてくれよな。でねえと俺が栃木から戻ったときにどこからも相手にされなくなっちまう。おめえは景色を描くのに才がある。そう睨んで旦那に引き合わせたんだ」
歌麿はにやにやとして春朗に酒を勧めた。ほとんど飲まない春朗も歌麿の酒を受けた。春朗が北斎と名を改めて風景画で江戸中にその名を広めるのはまだまだ先のことである。
「変わり映えのしねえのはおいらだけだ」
菊弥は笑いながら酒をあおった。
「でもなかろう。槍はだいぶ上達したぞ」
左門の奇妙な慰めに皆は爆笑した。
「与力ともなれば屋敷も広くなる。おこうも人手が足りぬはず。今後も屋敷で暮らせ」
「つまりは……やっぱり今とおんなじだ」
菊弥は気付いて口を尖らせた。
「菊弥さん、頼りにしています」
おこうに言われて菊弥は、うへへと頭を掻いた。仙波はくすくすと笑っていた。
初出誌 『週刊文春』平成九年十一月十三日号から十年十一月十九日号
単行本 平成十一年四月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十四年六月十日刊