高杉 良
金融腐蝕列島(上)
目 次 (上)
第 一 章 MOF担の勢威
第 二 章 頭取秘書役
第 三 章 銀行総務部
第 四 章 頭取の娘
第 五 章 不正融資
第 六 章 ゆさぶり
第 七 章 大物フィクサー
第 八 章 定時株主総会
第 九 章 プロジェクト推進部
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第一章 MOF担の勢威
特上のうな重を食べ終えて、楊枝《ようじ》で歯をせせりながら、相原洋介はなにやら意味ありげな上眼遣いで竹中治夫をとらえた。
竹中は身構えるように居ずまいを正した。
相原は緩慢な動作で楊枝を二つに折って重箱に投げ捨ててから、湯呑《ゆの》みに手を伸ばした。
「実は、きみにちょっと話しておきたいことがあるんだ……」
「なんでしょうか」
「あした異動があるよ。本店総務部の主任調査役だ。きみだからオフレコの話をするが、二日前に人事部から話があったとき、わたしは抵抗したんだが、ダメだった。人事部もそうだが、総務部長がぜひ竹中を欲しいと言ってきかないらしいんだ」
竹中は胸がざわついた。
相原の口調から察して、総務部で総会屋対策をやらされる渉外班≠フポストに就くのだろうか――。
相原から昼食を誘われたとき、竹中は厭《いや》な予感がした。
相原が本店人事部付部長から虎ノ門支店長に替わったのは一年前だが、昼食を誘われたのは初めてだった。なにかある、と思わぬほうがどうかしている。
都銀大手の協立銀行では、国内の異動は当日に発令される。海外勤務の場合は一カ月前に内示が出る。協立銀行に限らず、どこの銀行も国内は当日発令が慣習化されている。このことは行員性悪説が前提になっているとみてさしつかえない。神ならぬ人間は誰しも不正、不祥事に巻き込まれる可能性を否定しきれない、というところだろうか。たしかに当日発令なら、悪事を働いていたとしても、隠蔽《いんぺい》工作がしにくいので、露顕する確率は高いかもしれない。
きょうは平成五年(一九九三年)六月三十日水曜日だ。たった一日前とはいえ、事前に上司から異動を伝えられるのは異例である。
しかも、特上のうな重をふるまわれたのだから、身構えて当然だ。
初めに明かしてしまったのでは、せっかくのうな重も喉《のど》を通らないと気を遣ってくれたのかどうか、食事中、相原はやけに機嫌よさそうに世間話をしていた。
竹中のほうは、相原がなにを切り出すのか気になって、うな重を賞味するゆとりはなかった。
六月下旬の定時株主総会直後ないし七月一日は、異動期である。だが、人事がらみの話だとは思いもよらなかった。
しかし、総務部の特殊なポストとなれば、武士の情けで、一日前の内示もありうる。もちろん、このことは上司の性格にもよるが、相原は比較的部下に優しいほうなので、昼食まで馳走《ちそう》して慰めてくれたのだろう。
竹中は無理に笑顔をつくった。
「総務部とはショックです。わたしはなにかエラーをやらかしましたかねぇ」
「そんなことはないよ。きみは一選抜でトップクラスだ」
「トップクラスなんてとんでもない。万一そうだとしたら、いくらなんでも総務部のそのポストはないと思います」
竹中は昭和四十九年三月に早稲田大学法学部を卒業し、同年四月、協立銀行に入行した。当時、総合職なる言葉はまだ使われていなかったが、その年大学を卒業して協立銀行に入行した同期生は約二百人だった。むろん国立、私立の一流大学出身者ばかりである。
竹中は入行して十九年になるが、これまで比較的恵まれた銀行員生活を送ってきた。虎ノ門支店副支店長に就く前のポストは、本店の広報部であった。虎ノ門支店に配属されて丸二年経つので異動は仕方がないが、よりによって総務部とは……。
竹中のきりっと引き締まった顔がひきつれ、吐息が洩《も》れた。
相原も、誘われたように整った顔を歪《ゆが》めて、腕を組んだ。
「きみの前任者がノイローゼになって、半年ももたなかったことは知ってるな。だからこそ後任は、エース格が欲しかったんだろうねぇ。二、三年の辛抱だよ。そうナーバスになるなって」
「世をはかなみたくなります。きょうはわが生涯最悪の日ですよ」
「さあどうかな。多少苦労はすると思うが、その苦労は二倍、三倍になって報いられるんじゃないのか。きみが腐らずに、ここは踏ん張りどころって考えてくれればの話だが……。ナイスガイで、クセもないし、驕《おご》ったところのないきみに、人事が眼をつけたのもわかるような気がするよ」
「察するに、支店長が推してくれたわけですね」
「冗談よせよ。俺《おれ》がきみを手放したくないことぐらい人事はよくわかってたさ。誰だってそうだろう。きみを部下に持てば楽ができるからねぇ。ほんと、相当抵抗したんだぜ。ムダな抵抗だったけどね」
雑居ビルの地下一階にあるうなぎ屋は混んできた。
「相席でお願いします」
若い女店員が二人連れの客を案内してきたのをしおに、相原と竹中は席を立った。
「ご馳走になってよろしいんですか」
「もちろんだ。ただし、きょうの話は内緒だよ。たった一日とはいえ、事前に明かしたことが人事部に聞こえたら、俺は脇《わき》が甘い支店長ってことになって、減点ものだからな」
相原は冗談ともなく言ったが、案外本音かもしれない。
レジで相原はレシートを請求しなかった。
個人的な慰労会のつもりらしい。
七月一日付の人事異動は大幅だった。平成五年は頭取の交代期にぶつかったので大幅にならざるを得ない。この日、午前十時過ぎに支店長から、正式に辞令を伝えられた。
七月一日付をもって次の通り発令がありました≠ニ上書きにあり、二枚目から新任ポスト、氏名、前任ポストを横書きにした部厚い綴込《とじこ》みが、虎ノ門副支店長席に回覧されてきたのは、七月一日の午前十一時過ぎである。人事部長名で発令される人事発令簿を協立銀行では人発≠ニ称している。
総務部主任調査役 竹中治夫 虎ノ門支店副支店長
竹中は昨夜、相原の悪い冗談ということはないだろうか、と愚にもつかないことを考えないでもなかったが、そんなことはあり得るはずがない。
総務部への異動をこの眼で確認したとき、取締役人事部長の高野繁と取締役総務部長の吉岡健を呪《のろ》いたくなった。
事情を知らない若い女性行員から「副支店長おめでとうございます」と声をかけられたが、返す言葉がなかった。
虎ノ門支店は、格上の支店なので、副支店長は三人いる。営業部門二人、業務部門一人。竹中は前者の次席である。竹中の新任ポストがどういう性格のものかは人発≠見れば一目|瞭然《りようぜん》である。竹中以外の総務部の異動との比較で、竹中が特殊株主対策をやらされるポストに就くことがわかる仕組みなのだ。
相原が副支店長席へ近づいてきた。いつになく厳しい表情である。
「きみを本店に持っていかれるとは思わなかった。ショックだよ」
「どうも」
竹中は起立して、低頭した。
「人事はなにを考えてるのかねぇ。俺に事前に相談なしに、きみを動かすとは恐れ入るよなあ」
ここまで言われると、しらける。
しかし、相原は竹中を慰めているつもりと取れないこともない。
「いま、総務付の部長から電話があったが、総務の引き継ぎはとくに必要ないらしい。こっちの引き継ぎをしっかり頼むよ。しかし、総務は大事な仕事だから、ま、ご栄転おめでとう、って言っておこうか」
笑いかけられたが、竹中の表情はこわばる一方だった。
昼前、竹中は人事部参事で同期の水原敬三に電話をかけ、昼食の約束を取りつけた。入行店は異なるが、大学は同じ早稲田の法学部である。
気のいい水原は、虎ノ門支店に近い飯野ビル一階にあるレストランケルン≠ワで出向いてくれた。
店内は混んでいたが、窓際の二人用の小テーブルが確保できた。
竹中はミックスサンドとアイスティー、水原は日替わりランチとアメリカンをオーダーした。
「わざわざ駆けつけてきてくれたところをみると、やっぱり水原人事≠セったのか」
竹中は初めから喧嘩腰《けんかごし》だった。
水原は人懐っこそうなトッちゃん坊や面《づら》を切なそうに歪《ゆが》めた。
「竹中の気持ちは察して余りあるよ。俺も意外だった。上のほうで急に決めたようだ。渉外班≠ノ回す者は、通常一年ぐらい前から眼をつけておくんだが、竹中はリストアップされてなかった。本人の体力とか精神力とか、家庭環境とか、奥さんの性格とか、いろんなことをカウントして因果を含めるんだが……。なんと言っても文字どおり特殊なポストだからねぇ」
「俺はそのすべてをクリアしたっていうわけか」
「そう絡むなよ。どういう事情なのか、俺にはさっぱりわからない。いくらなんでも人事部長はそのへんの事情は知ってると思うが、竹中から電話をもらったとき、それとなく訊《き》いたら厭《いや》な顔をされたので、聞き出せなかった」
「俺は協立銀行なんかに入ったことを後悔してるよ。人事部長と総務部長を呪《のろ》い殺してやりたいくらいだ」
竹中の険しい顔に気圧《けお》されたのか、水原が上体を寄せて、ささやいた。
「ここだけの話だけど、佐藤秘書役が絡んでる可能性があるような気がする」
「秘書役が……」
竹中が低い唸《うな》り声を発した。
水原がいっそう上体を近づけてきた。
「重要な人事に秘書役が関与しないケースはないと言っていいくらい人事部の主体性なんてゼロに近いよ。なんせ頭取心得みたいな人だからねぇ」
「ふうーん」
ふたたび唸り声を発した竹中の表情が、険しさを増している。
食事を摂《と》りながら、水原が言った。
「頼むから腐らないでくれよな」
「ふざけるなよ。これが腐らずにいられるか!」
竹中は自分の声の大きさにきまり悪くなって、照れ笑いを浮かべながらサンドイッチを頬張《ほおば》った。
アメリカンをすすりながら水原が言った。
「バブル経済崩壊後、銀行の傷み方はどこもかしこもひどいことになってるが、当然のことながら銀行員の心も深く傷ついた。バブルにまみれて株やら不動産やらの高値づかみによる投資の失敗で、多重債務に陥り、顧客の定期預金に手をつけた者が協銀だけで何人いるかねぇ。蒸発した者が十数人いるから、その何倍になるか見当がつかないよ。その中には親や親戚《しんせき》縁者に泣きついて、ひそかに自分で始末をつけた者もけっこう多いと思うけど、協銀だけで自殺者が七人もいるのには、いまさらながら、胸が痛むよ。竹中が広報にいたときだから覚えてると思うが、武内事件≠ヘ悲惨だった。あいつはなんにも悪いことしてなかったのに……。言ってみればバブル症候群ってことになるのかねぇ」
「武内昌男……。あいつはほんと可哀相《かわいそう》だったなあ」
竹中も武内昌男の顔を思い出して、粛然とした思いで沈んだ。
武内事件≠協銀マンで知らない者は少ない。
春秋に富む二十九歳の武内が仙台の旅館で首吊《くびつ》り自殺したのは、二年半ほど前のことだ。
東北大学経済学部出身の武内の入行店は仙台であった。体育会系でバスケットボールをやっていたにしては、たくましさが感じられなかった。入行四年目で本部のディーリング部門(資金為替部門)に転勤、ドル、ポンド、マルクなどのディーリングを経験し、七年目に都内の大型支店に転勤した。営業部門の若手のリーダー格として期待されたが、赴任後二年目の秋の某日突然|失踪《しつそう》し、同夜自殺した。その翌日、仙台市内の警察署から、本店総務部に電話で遺体の身元確認の照会が寄せられた。
総務部の課長と当該支店で武内の上司にあたる課長が仙台に急行した。
副支店長が社宅住まいの武内夫人を訪問し、夫人のショックをやわらげようと懸命に努力したが、夫人は茫然《ぼうぜん》自失し、悲しみのあまり涙もこぼさなかった。
生後三カ月の赤子を抱いて、警察署で遺体の確認をしたときの痛ましさは筆舌には尽くし難い。
当時、広報部調査役だった竹中は、総務部渉外班≠ナ顧問をしている警察OBに会い、新聞発表しないよう地元警察工作を依頼した。
アイスティーをストローですすりあげながら、竹中が水原を見上げた。
「お通夜で若い未亡人が肩をふるわせてむせび泣いてる姿が眼底に焼きついているよ。誰を恨めばいいのか、と抗議を込めて泣いていたんだろうか」
「一選抜のエリートと信じて疑わなかっただろうからねぇ。それが自殺したんだもの、発狂しても不思議はないよ」
「俺はあのとき、人事部に問題があると思った。あの支店長と武内じゃあ、ミスマッチもいいところだ。武内は仙台の支店で貸し付けの経験はあったが、地方店と都心の支店では仕事のスピードがまるで違う。しかもディーラーは電話一本で何億もの資金を動かすだろう。妙にプライドばかり大きくなっちゃってるから、わからないことを周囲の人たちに素直に質問できなかったと思うんだ。支店長が審査畑のうるさ型というか慎重派で、通常の貸し出し案件の処理についても厳しくて、なかなかOKを出してくれない。仕事はどんどん溜《た》まってしまう……」
コーヒーカップをソーサーに戻して、水原が言った。
「あの支店長、毎日のように武内を呼びつけて叱責《しつせき》してたらしいよ。支店長に嫌われ、疎んじられてることの惨めさで、武内は『やめたい』って周囲に洩《も》らしてたそうだ」
「子供が生まれて、たしか女の子だったと記憶してるが、普通なら張りきるはずなのに、仕事に追い詰められて、逆に家庭が負担になったかもねぇ」
「人事部に在籍してる俺が言うのも変だけど、ディーリング部門が活況を呈すると、どんどん若手の人材をディーリング部門に投入し、その部門をリストラするとなると、ろくすっぽ教育もしないで営業店に放り出す。協銀だけとは思えないが、考えさせられちゃうよ」
水原は、渉外班≠ナ怒り狂っている俺の気持ちを鎮めるために、武内事件≠持ち出したのだ――。そんなことは百も承知だが、竹中はいっかな平静になれなかった。
この日、竹中は同期の者から慰めとも蔑《さげす》みとも冷やかしともつかぬ電話を何本か受けた。その中に総合企画部主任調査役の杉本勝彦も入っていた。
杉本こそ一選抜のトップを突っ走っている、と竹中は思う。
杉本はいわゆる|MOF《モフ》担である。MOF(ミニストリー・オブ・ファイナンス)、すなわち大蔵省に毎日のように出入りしている都銀のミドルをMOF担と称しているが、彼らの相当部分は東京大学法学部か経済学部の出身者である。都銀でもエリート中のエリートで、ボード(経営陣)入りは間違いなし、若くして頭取候補を自任しているとでもいうか、プライドが背広を着ているような鼻もちならない手合いもいる。杉本はその典型だ。
竹中が杉本と表面上親しくしているのは、入行店が同じ札幌支店だったことと無関係ではなかった。
入行店とは、銀行に入行して最初に配属される支店のことだ。
昭和四十九年当時、独身寮は個室ではなく二人部屋だった。竹中は杉本と同室ではなかったが、同じ釜《かま》の飯を食った仲であることはたしかである。独身時代、二人はテニス、マージャンの遊び仲間、飲み仲間でもあった。
杉本の電話は厭《いや》みたっぷりだった。
「総務だってなあ」
「うん。不愉快っていうか憂鬱《ゆううつ》だよ」
「案外おもしろいんじゃないのか。さっそく歓迎会をやらせてもらおうじゃないの。今夜あいてるか」
「今夜!」
「きょうのきょうじゃいくらなんでも無理か」
「いや、あいてるよ。でも忙しいMOF担が俺なんかを相手にしてていいのかね」
「MOFのやつと飲むことになってたんだが、急用とかで断ってきたんだ。いつも無理を言ってる店なんで、キャンセルしづらいんだよ。つきあってもらえるとありがたいな」
「そうなの。そういうことならお言葉に甘えさせてもらおうか」
「じゃあ決まりだ。六時半に赤坂のはせがわ≠ナ会おう」
「はせがわ=c…。そんな高級料亭とは驚いたねぇ」
「竹中の激励会に相応《ふさわ》しいんじゃないのか」
「さすがMOF担は違うねぇ」
竹中は周囲を気にしながら声量を落とした。
はせがわ≠ヘ初めてだが、場所はわかっていた。虎ノ門支店は官庁を取引先に持つ関係で、支店長は料亭にも出入りしている。
中年の仲居に座敷へ案内された竹中は、その広さに度肝《どぎも》を抜かれた。
三十畳ほどの大広間に朱塗りの大テーブルがしつらえてある。テーブルは掘炬燵《ほりごたつ》式で、上座に二席、下座に一席用意されてあった。
竹中は床柱を背に上座に座らされた。背凭《せもた》れの上に敷かれた座布団の厚さとやわらかさといったらない。座り心地が悪いというべきなのか、よすぎるというべきなのかわからないが、尻《しり》に馴染《なじ》まないことだけはたしかだった。
杉本は竹中より五分ほど遅い六時半ちょうどにやってきた。
身長は、百七十五センチの竹中より五センチほど低いが、負けん気な性格に似合わず、のっぺりしたにやけ面である。よく言えば優男《やさおとこ》で通るかもしれない。しばらく会わなかったが、下腹がせり出し、贅肉《ぜいにく》がついている。ひたいが黒光りしているのはゴルフのせいだろう。
背広のポケットに両手を突っ込んだ横柄な態度で、杉本は竹中を見おろして、えらそうに言った。
「待たせたか」
「いや。いま来たばかりだ。それにしても豪勢なところだなあ。こんな料亭に出入りできるのは副頭取以上と思ってたけど。それとMOF担か」
「銀行局の課長と課長補佐と会食することになってたんだが、よんどころない用事ができたとかで昼前にキャンセルしたいと言ってきた」
「理由は?」
「訊《き》きもしないが、よくあることだよ。こっちの都合なんか考えてくれる人たちじゃないからな」
ビールで乾杯しているときに女将《おかみ》が挨拶《あいさつ》に顔を出した。厚化粧のせいで齢《とし》のころは見当がつかない。首筋にしわのないところをみると、四十代後半から五十代前半だろうか。
「スーさま、今夜はありがとうございます」
「こちらこそ。いつも無理ばかり言って」
杉本は、竹中に眼を流してにやにやしながらつづけた。
「こちら竹中さん。某有力官庁の課長さんです。同期の桜の誼《よしみ》でおつきあいしていただいてるが、今夜はご無理をお願いしてねぇ。竹中課長、この人が有名なはせがわ≠フ女将です」
竹中は呆気《あつけ》にとられた顔で、杉本の口もとを見つめていた。
「よろしくお願いします。協銀さんにはごひいきにしていただいてます」
女将が名刺を出した。
「どうも。名刺を切らしてまして失礼します」
竹中もこの程度の機転は利く。
「竹中課長は学究肌で、宴席にはよほどのことがないかぎり出ないお方ですから、はせがわ≠売り込んでも意味がないかもねぇ」
「まあ、ご挨拶ですこと。このお兄さま、女性にもてそうなご立派なお顔ねぇ」
「それは事実です。同期でも、男っぷりでは一、二を争うってところですから」
「二はないでしょう。一でしょう」
竹中が真顔で言ったので、女将は噴き出しそうになった口を押さえた。
「今夜は一と二がお揃《そろ》いになったんですのね」
「高級官僚っていう人種はどこまで図々しくできてるんだろう」
杉本が調子を合わせた。
ビールの酌をして退出しようとする女将に杉本が言った。
「一時間ほど密談するから、奇麗所は八時過ぎにしてください。もう一人のお客さまも一時間遅れてきますから」
「はい、承知しました。ごゆっくりどうぞ」
襖《ふすま》がしまったのを見届けてから、杉本がビール瓶を竹中のグラスに傾けた。
「けっこう元気そうじゃない。もう少し落ち込んでると思ってたんだが」
「なにを言うか。やけくそみたいなもんだよ。今夜はMOFのキャリアになったつもりで、せいぜい旨《うま》い酒を飲ませてもらおうか」
杉本が脇息《きようそく》に左|肘《ひじ》をもたせかけて言った。
「おまえ、図に乗るなよ。高級官僚は冗談に決まってるじゃねえか。女将は芝居だってことを先刻承知だ。MOF担やって二年になるが、MOF担は頭取と対等だよ」
杉本の人を見下したもの言いに、竹中はカチンときた。
「頭取と対等?」
「気持ちの上ではな。じゃなきゃ、やってられねえよ。官僚の前では、へいこらしなくちゃならない俺の身にもなってくれよ。キャリアだけじゃない。ノンキャリだってそうだ。それなりにプライドを持ってるからな」
「杉本は、いつからそんなべらんめえ調になったんだ。今夜の酒は不味《まず》そうだから、帰らせてもらうよ」
竹中は胸がむかむかしてきたので、本気だった。
テーブルに手を突いて腰をあげた竹中を、両手をせわしなく上下させて、杉本があわて気味に抑えた。
「ちょっと待て! 今夜は大事な話があるんだ」
「大事な話?」
竹中が中腰で訊いた。
杉本がビール瓶を持ち上げた。
「落ち着けよ。とにかく座ってくれ」
竹中は杉本を睨《にら》みつけながら、仕方なさそうに腰をおろして、酌を受けた。そして不味そうにビールを飲んで、今度は手酌でグラスを満たした。
「渉外班≠ナだいぶ頭にきてるみたいだけど、おまえの異動には俺も絡んでる。同期の誼は俺の本音だ。肚《はら》を割ってすべてを話すから、冷静に聞いてもらいたい」
高圧的だった杉本の口調が、少し変わった。
「花のMOF担としては、俺を憐《あわ》れんで慰めたくもなるんだろうなあ。おまえに天と地のような差をつけられて、おまえは優越感に浸ってるっていうわけか。同期は二百人もいるのに、どうしてよりによって俺はこんなポストに就かなければいかんのかねぇ。誰に恨まれたのか知らんけど、杉本が絡んでるとは聞き捨てならんな」
「そんな僻《ひが》んだ言い方するなって。あのなあ……」
杉本は声をひそめて上体を寄せてきた。
「一年間でいいから頭取を徹底的にフォローしてもらいたいんだ」
「新しい頭取を、か」
「違う違う、会長だ。そうだな会長になったんだっけな。しかし、人事権は会長にある。実態はまったく変わらない。新頭取は言ってみれば筆頭副頭取ってとこだよ」
協立銀行は六月二十九日の定時株主総会のひと月前に会長、頭取人事を決定、発表した。三人の副頭取は退任し、専務の斎藤弘が頭取に抜擢《ばつてき》され、頭取の鈴木一郎は会長になった。
鈴木は昭和二十六年東京商科大学(現一橋大学)出身、斎藤は昭和三十二年に東京大学経済学部を出ている。年齢は六十四歳と五十八歳。六歳の若返りである。
「トップの新人事を仕切ったのは誰だか知ってるか」
「もちろん会長だろう」
「たしかに人事権者は鈴木会長だが、会長を動かしたのは佐藤秘書役だよ。いま協銀で会長にものが言えるのは佐藤秘書役だけだ。俺の六年先輩だが、ゼミも同じでねぇ。佐藤さんと俺はツーカーの仲なんだ。佐藤さんは昭和四十三年組のトップだから来年役員になる。斎藤の次は吉井専務だろう。吉井の次は確実に佐藤さんがなる」
「次の次の次はさしずめ、杉本さんっていうわけですか」
竹中は冗談とも皮肉ともつかずに言ったつもりだったが、杉本はけろっと答えた。
「まあな」
竹中がひっくり返るようなゼスチャーをした。
「へぇ。次の次の次の頭取まで決まってるの。ぶったまげたねぇ」
「はっきり言っておくが、俺は頭取を目指して協立銀行に入った。佐藤さんの草履取りをしても必ずなるからな」
杉本は真顔だった。
竹中が茶化し気味に言った。
「いまからそんなに力んでて大丈夫かねぇ。同期の誼《よしみ》で言わせてもらうけど、足を引っ張るやつがゴマンといるんじゃないのか。それじゃなくても、きみは目立つ存在だからねぇ」
杉本は胸をそり返らせて、自信たっぷりに言い放った。
「そんなゴミみたいなやつらは蹴散《けち》らしてやるから心配すんな」
佐藤明夫は鈴木付の秘書役だが、名うての切れ者として銀行業界内で聞こえていた。佐藤と杉本が親分子分の間柄であることも、秘書役とMOF担の関係を考えれば一目|瞭然《りようぜん》である。
「大変な鼻息の荒さだなあ。俺みたいなゴミ組は吹き飛ばされそうだよ」
「おまえを蹴散らしたりは絶対にしない。俺はおまえの面倒を徹底的にみてやるつもりだ」
「絶対に」と「徹底的に」に、やけに力を入れて言われ、竹中の胸のむかつきは倍増した。
「それはありがとう。俺も上昇志向がないとは言わないが、将来の頭取候補の前では小さくなるしかないよねぇ」
竹中は、実際背中をこごめて縮まって見せ、冷笑を浮かべて杉本を見上げた。
「それで、きみは俺をさっそく総務に飛ばしてくれたらしいが、俺もはっきり言わせてもらうけど、きみをぶんなぐってやりたいよ」
杉本は仲居がいつの間にか運んできた先附《さきづけ》≠ニ八寸≠フ料理をぱくついてから、大仰に顔をしかめた。
「おまえはぜんぜんわかってねえなあ。早稲田でボードに入れる確率が低いことぐらいはわかるよな」
竹中の表情が険しくなった。
「ああよくわかる。早稲田を落ちて東大に入ったやつもけっこう多いけどねぇ。きみは俺を莫迦《ばか》にしてるが、たしか杉本も早稲田を落ちた口じゃなかったか」
「余計なこと言わんでいい。とにかく、俺はおまえを最低常務まで取り立ててやろうと思ってる。おまえは三月生まれだったよな」
「うん」
「俺は四月生まれだから、一年俺のほうが先輩とも言える。おまえが俺の子分になっても、おかしくないよな」
バカ野郎! 勝手にほざけ! と竹中は肚《はら》の中で毒づいたが、杉本はふたたび声をひそめた。
「鈴木会長をフォローしきったらの話だが、おまえは二階級特進だ。いいな」
竹中はむすっとした顔をそむけた。
「おまえが特別扱いされてることは、総会後に異動になったことで察しがつくだろうや。渉外班≠ヘ総会の三カ月前に着任し、総会対策を手伝う習わしだが、総会後という点に、佐藤さんや俺の配慮があるわけよ」
「ご配慮ありがとう」
竹中はぶっきらぼうに言って、料理に箸《はし》をつけた。気持ちが混乱し、胸中が泡立って、なにを食べているのかわからなかった。
やたら喉《のど》も渇く。ビールを飲もうとしたら三本の中瓶もグラスも空っぽだった。
「ビールを頼んでくれよ」
竹中の声が聞こえたわけでもあるまいが、タイミングよく仲居がやってきた。
「ビールを二、三本お願いします」
竹中がオーダーし、仲居は膝《ひざ》に手を突いて丁寧に答えた。
「かしこまりました。お料理はどう致しましょう」
「とりあえず、これでいい」
「ところで、もう一人はどなたなの」
竹中が隣席に眼を落として訊くと、杉本はにやっと笑った。
「A新聞経済部の編集委員だよ。田中豊っていう高校時代のクラスメートだが、大学は京都の経済だ。何年か前に財政研究会のキャップをやってた関係で、MOFには強い。その前は日銀の金融クラブだった。できる記者だから竹中も知っといて損はない。けっこうシャイなところもあるしな」
財政研究会は大蔵省にある記者クラブだ。
「ふうーん。新聞記者とつきあって、あんまり得はないような気もするけど……。とくに総会屋を相手にする立場だからねぇ」
「さあどうかな。社会部の記者はわれわれもつきあいづらいっていうか、警戒してるけど、経済部は友達づきあいできるのがけっこういるよ」
「そんな感じもわからなくない。社会部だったら、いくら友達でもこんな席に来るはずないよなあ」
「田中もけっこうプライドが高いから割り勘にしてくれなんて言い出しかねないが、きょうのところは俺にまかせてもらおう。竹中の激励会だしな。田中が来るのはあと三十分後だ」
杉本は眇《すが》めた右眼を見開いて、時計を見た。
竹中も時計に眼を落とした。七時を過ぎたところだ。
広間の近くに冷蔵庫があるらしい。ビールの到着は早かった。
仲居が二つのグラスにビールを注いで退出したのを見届けて、杉本が表情をひきしめた。
「田中が来る前に話すが、鈴木会長のお嬢さんのこと知ってるか」
「いや、知らん」
「知ってるわけがねえよな。実は、大変なことになってるんだ。上のお嬢さんの雅枝さんがヤクザに絡まれちゃってねぇ」
「銀座で画廊を経営してる……」
「うん、三十八歳だ。もちろん結婚してて、亭主も子供もいるが、魔が差したっていうか、ヤクザと男女関係が生じちゃったわけよ」
「いつのこと」
「三カ月ほど前だ。ゴミみたいなチンピラ総会屋にてこずって、ずっこけちゃった中村にはとてもまかせられない」
中村国男は高卒で総務部渉外班≠フ主任調査役までなったのだから、仕事のできる男だった。支店長になってもおかしくなかったが、心身症で脱落し、協立銀行系列の不動産管理会社に出された。
「雅枝さんの相手は本物のヤクザなのか」
「広域暴力団の準構成員ってとこかな」
「そんなのに絡まれたら、俺も心身症になるよ。いや俺なんてイチコロだ。俺にマル暴と対決しろとでも言うのか」
「そうは言わんが、会長に累が及ばない方法を考えてもらいたいんだ。躰《からだ》を張って損はないと思うよ」
それなら、おまえが渉外班≠ヨ行けと言いたいところをぐっと抑えて、竹中はビールを飲んだ。
「三十八にもなる娘になにがあろうと、会長に関係ないとも言えるよねぇ。放っておけばいいんじゃないのか。ヘタに庇《かば》い立てしたり、隠そうとするから、マル暴につけ込まれるんだ。銀行がどんなにバブル経済にまみれたか、うす穢《ぎたな》い組織かとっくに世間に知れ渡ってるんだ。いまさら恰好《かつこう》つけたってしょうがないと思うけどなあ。いっそのこと、週刊誌にリークして書かしちゃえば、ちょっと恥をかくけどコストはかからないよねぇ」
「おまえ、それじゃあ、やけっぱちじゃねえか。エスタブリッシュメントのバンカーのプライドはどこへ捨てちゃったんだ」
竹中は、杉本を睨《にら》みつけるように見返した。
「エスタブリッシュメントねぇ。そんなもの、初めから持ち合わせてないよ。そんな、支配体制の特権意識なんて、俺にはもともとないね。あるのは、きみたち東大出身ぐらいだろうぜ」
「…………」
「俺は多分、きみの期待には沿えんだろうな。俺も一浪して東大に行けばよかったと後悔してるよ。いずれにしても、協銀なんかに入るんじゃなかった。ゆうべはあれこれ考えて一睡もできなかったよ」
一睡もできなかったは大袈裟《おおげさ》だが、寝付きのいい竹中が珍しく眠りが浅かったことは事実である。
「ゆうべ?」
杉本の怪訝《けげん》そうな顔に、竹中はしまった、と思った。
「ここだけの話、支店長からきのう聞いたんだ」
「なるほど。けっこう相原もおまえに気を遣ってるわけだ。あいつはなんにもわかっちゃいないけどな……」
虎ノ門支店長の相原は、佐藤秘書役と同期である。先輩をつかまえて呼び捨てはない、と竹中は思った。相原は慶応義塾大学経済学部の出身だ。
「東大とどういう関係があるんだ」
「東大出身者が渉外班≠ネんていう特殊ポストに就くことはあり得ないだろう。少なくとも過去には一人もいない。協銀に限らず都銀で、東大出たやつが総会屋対策をやらされてるなんて聞いたことないな。東大のプライドが邪魔するのか、プライドが得してるのか知らないが……」
「たしかに東大出には務まらんかもなあ」
杉本がなにか言おうとしたとき、廊下に人の気配がした。
杉本が時計に眼を落としたので、竹中も時間を確認した。七時二十分過ぎだ。
「お連れさまがいらっしゃいました」
仲居の声がした。
膝《ひざ》をついて襖《ふすま》を開ける仲居を押しのけるようにして田中が座敷にずかずかと踏み込んできた。メタルフレームの眼鏡の奥で鋭い眼が光っている。ひとくせありげな顔だ。とてもじゃないが、シャイなどという感じではなかった。
「はせがわ≠ニは豪勢じゃない」
田中は竹中の右隣にどかっと腰をおろした。
杉本が仲居に命じた。
「ビールをあと二本頼む。料理は出してもらうが、しばらくかまわなくていいからな」
「かしこまりました」
襖がしまった。
「早かったねぇ」
「MOF担から情報をもらいたい一心でな」
田中は杉本に返して左側に首をねじり、名刺入れから一枚抜いた。
「A新聞の田中です」
「恐れ入ります。わたしのほうから先に出さなければいけませんのに……」
「きょう付で支店から本店勤務になった竹中。同期のトップだよ」
「ほーう。将来の頭取候補っていうわけか。杉本のライバルだな」
「いや、竹中にはかなわない。俺なんて目じゃないと思ってるよ」
杉本はそう言って、ぺろっと舌を出した。
「MOF担の杉本がそこまで言うとは、相当なもんだ」
「嘘《うそ》ですよ。杉本はおちょくってるんです」
竹中は笑顔で名刺を差し出した。
「旧《ふる》い名刺で恐縮です」
杉本は気を遣っているつもりなのだろうか。上しか見てない男だし、同期以下などそれこそ目じゃないと思っているのだから、同期のトップはあまりにも空々しい。MOF担と総会屋担当の立場に思いを致せば、厭《いや》みにしか聞こえない。
田中も竹中も名刺は横書きだった。
田中の肩書はA新聞東京本社経済部編集委員となっていた。
「虎ノ門支店は名門じゃないですか。今度のポストは本店のどこですか」
間髪を入れずに、杉本が答えた。
「俺と同じ主任調査役で総務部の建て直しに行くんだ。当行の総務部は弱体なんでね。ジャーナリストには関係ないポストだよ。今夜の主賓は竹中で、田中はついでに呼んだまでだからな」
「俺は刺身のつまか。人を呼びつけておいてついではないだろうや」
「ま、半分冗談だけど」
二人のやりとりを聞いていて、竹中は杉本の気持ちが手に取るように読めた。俺を利用しようとしているに過ぎない。
沈みがちな竹中をよそに、杉本と田中の話は弾んだ。
田中がどっぷり山葵醤油《わさびじようゆ》に浸した中トロを口へ放り込んで、くしゃくしゃやりながら言った。
「『SELECTION』のクローズアップ≠ヘヨタ記事だと思ってたが、七〇パーセント、いや八〇パーセントの確率であり得るらしいぜ。大蔵のOBから聞いたんだが、西岡はドン助≠フ覚えめでたいらしいんだ。篠原も買ってるようだから、意外なことになるかもなあ」
「マユツバだな。俺が複数の新聞記者から取材した限りでは、あり得ないという意見が圧倒的に多かった」
『SELECTION』はパワーのある総合誌で、全国紙の経済部、政治部の記者がアルバイト原稿を書く媒体として知られている。質にもよるが、原稿料は単価(四百字)一万七千円〜二万一千円というから記者たちにはこたえられない。
政治家や官僚のオフレコ話が記者のバイト原稿で記事になり『SELECTION』に載るので、スクープも少なくなかった。もっともオフレコ∞ここだけの話≠ヘ、本来的にあり得ないとも言える。他人《ひと》の口に戸は立てられない、とは言い得て妙で、オフレコは建て前に過ぎず、話し手も先刻承知と見たほうが当たっている。
ドン助≠ヘ大蔵省事務次官加藤三郎のニックネームだ。
ドン助≠フ由来は、大蔵省のドンと、マージャンで対手の振りパイで上がったときに「ドーン」と大声を発するため、の二説あるが、仲間うちで若いころからドン助≠ニ呼ばれていたとすれば、後者以外に考えられない。
篠原恭一は同省主計局長。
加藤、篠原の名前ぐらいは竹中も知っていたが、西岡は初めて聞く。
「西岡ってどういう人ですか。大蔵官僚であることはわかりますが……」
竹中の質問に杉本が答えた。
「大蔵省の財政金融研究所長だよ。虎ノ門支店の副支店長にしては抜けてるなあ」
「だって俺は官庁担当じゃなかったし、杉本と違って頭も悪いからな」
「頭取候補が火花を散らしてるな」
田中に茶々を入れられて、竹中はさすがにバツが悪そうにうつむいた。杉本はまるで意に介していない。
「上がりのポストのはずなんだが『SELECTION』が五月号で来年は銀行局長に確実視されている≠ニ書いたんだ。会長も頭取も『SELECTION』を読んでて、毎日、大蔵省でロビイストやってる俺にご下問があったわけよ。俺はまずあり得ない≠ニ答えたが、きのう田中が電話をかけてきて、あり得る≠チて言うんだ。それで、きょう田中とも飯を食うことにしたわけよ」
『SELECTION』五月号のクローズアップ≠竹中は読んでいなかったが、「バブルの始末書」の仕掛人 西岡正久(大蔵省財政金融研究所長)≠フ見出しに続いて次のように書かれていた。
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金融機関やシンクタンクの間で静かなベストセラーになっている冊子がある。題名を「資産価格変動のメカニズムとその経済効果」という。大蔵省の財政金融研究所が出したバブル経済の発生と崩壊を分析したレポートである。
大蔵省の調査レポートといえば、木で鼻をくくった無味乾燥な論文が多い。ほとんど読まれない。無料配布ながら印刷部数五百部というのがこれまでの常識だった。この冊子は常識を破った。財政金融研究所は当初から話題性を見越して通常の倍の一千部を印刷した。ところが一日で蒸発。すぐに一千部を追加した。これもすぐになくなり、さらに五百部刷り増した。わずか二週間の出来事だ。
バブルの原因は経済政策の失敗だ、といわれる。長期間続いた金融緩和や景気回復後に実施した大型の経済対策が、資産インフレを引き起こした。経済政策の責任のかなりの部分を担う大蔵省が、自らの政策の反省を込めてバブル発生のメカニズムと崩壊後の政策を分析した点が、静かなベストセラーの原因だ。「バブルの始末書」ともいうべきこのレポートの仕掛人は大蔵省の西岡正久・財政金融研究所長である。昨年六月、銀行局担当審議官から現在のポストに移った時、思い立った。二度にわたる経済企画庁出向で培ったエコノミストとしての感覚と、金融制度改革やバブルの後始末に追われた銀行局審議官時代の経験が西岡所長をレポート作りに駆り立てた。自己批判ともいえるレポートをまとめるにあたって、大蔵省内には抵抗が強かった。しかし、西岡所長は各局長に根気強く説明、了解を得た。レポートは谷龍太郎東大名誉教授を座長とする研究会が昨年九月から半年がかりでまとめた。メンバーは経済学者とエコノミスト九人。石井光一橋大教授、片塚啓明東大教授や河西泰日本経済研究センター理事長らだ。表向きは研究会報告の形を取っているが、大蔵省の調査報告書であることに変わりはない。
レポートの要点は二つある。マクロ経済政策の面では、バブル発生のメカニズムについて金融政策に経済運営のウエートがかかり過ぎ、財政再建が円高不況に対する財政出動にブレーキをかけたことを指摘している。もう一つの特徴は、金融界とバブルの関係に言及している点だ。金融自由化が銀行を土地や株関連融資に走らせた、との見方に対して「金融機関の自己責任原則、リスク管理の体制が不十分だった」として金融機関の護送船団方式を批判している。さらに、バブル崩壊後の金融システム安定策に関して、「判断を誤った金融機関経営者の責任を明確にすることを前提に」行政に対策の実施を求めている。これはバブルに走った銀行経営者の責任が明確にされていない点を指摘したもので、今後とも経営責任を追及する大蔵省の姿勢を示したものといえる。ここにも、銀行局経験のある西岡氏の影が見える。
西岡氏は東大法学部卒で昭和三十八年入省。三十八年組は高山壮太総務審議官と石野修身証券監視委員会事務局長という二人の文書課長を出し、大村剛経済企画庁官房長を含めて次官候補が複数いるといわれる年次だ。西岡氏は主計畑が長く、防衛担当主計官から経済企画庁計画課長に転じた。一年で大蔵省に帰るはずだったが、当時経済企画庁長官だった近藤鉄雄氏が経企庁官房長人事は大蔵省人事ではない、と反発、安田洋元大蔵事務次官が経企庁官房長を二年務めるハメになったあおりで、大蔵省へ帰るのが一年遅れた経緯がある。大阪税関長の後、銀行局担当審議官を三年務めた。この時、寝技ができる数少ない銀行局幹部として金融界から一目置かれた。省内でも西岡氏の評価は高い。だからこそ、こうしたレポートが可能だったともいえる。
西岡氏は後一年現職に留まると見られるが、来年は銀行局長に確実視されている。バブルの始末書は、次期銀行局長の金融界へのメッセージでもある。
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田中が運ばれてきたばかりの吸い物の蓋《ふた》をあけながら言った。
「俺も実は懐疑的だった。西岡は主計畑だけど経企庁に二度も出向させられてるし、主計局の主査(主計官補佐)時代も防衛と農林担当だったし、主計官のときも防衛担当でトップクラスじゃなかった。ただ、ドン助≠フ覚えめでたいことが事実だとすれば、次期銀行局長説も説得力を帯びてくるんだよなあ。なんせドン助≠ヘ十年に一人の大物次官と言われてる人だからねぇ」
「ううーん」
どっちつかずな返事をして、杉本は腕を組んだ。
「ドン助≠ヘ六月の異動で事務次官に昇格したが、そのドン助≠フ覚えめでたいとすれば、西岡の芽も出てくるわけか。にわかには信じられないが、その可能性も否定しきれなくなってくるねぇ。西岡は、国家公務員試験をトップで合格した秀才なんだし、金融のプロでもあるしねぇ」
「例のレポートで男をあげたことはたしかだよ。大蔵省が経済政策の失敗を認め、同時に銀行経営者にケジメを求めた、あのレポートは読みごたえがあったなあ」
「うんうん」
杉本がにやにやしながらうなずいたとき、田中のポケベルが鳴った。
「ちょっと失礼するぞ。電話をかけてくる」
「電話機を持ってこさせようか」
「いいよ」
話を聞かれるのが都合が悪いのか、田中は中座した。
竹中が手酌でグラスにビールを注ぎながら訊《き》いた。
「例のレポートって、なんのこと」
杉本はにやついて、口についた泡を右手の甲でぬぐった。
「『資産価格変動のメカニズムとその経済効果』だよ」
「そうだろうと思った。それなら新聞記事を読んだ覚えがあるよ」
「忘れもしない。新聞が書いたのは四月七日付の朝刊だ。つまり大蔵省は六日に発表したわけだな」
「凄《すご》い記憶力だなあ。さすがMOF担だけのことはあるよ」
杉本の表情がいっそうゆるんだ。
「ここだけの話、俺は発表の前夜、報告書を手に入れたんだよ。協銀の上のほうは新聞が書く前に報告書の全文を読んでいる。B5判っていうのか、週刊誌大の百ページを超えるけっこうなボリュームだった」
杉本はグラスをテーブルに戻して、右手の親指と人差し指で二センチほどの隙間《すきま》をつくった。百ページ余で二センチは大仰だが、MOF担|冥利《みようり》に尽きる思いが杉本をして、そんな仕種《しぐさ》をさせたのだろう。
「新聞記者の上前をはねるとは、凄いMOF担もいるもんだねぇ」
「MOF担はMOF担でしのぎを削ってるんだよ。大蔵省から、いかに素早く情報を収集するかがMOF担の腕の見せどころだからな」
杉本は小鼻をうごめかせた。
平成五年(一九九三年)四月七日付朝刊各紙は次のような見出しで、いずれも大きく報じている。
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バブルの発生、財政再建が政策制約、大蔵省研究所が反省
バブル発生、大蔵省に反省促す、協調にこだわり低金利続けた
バブル発生、経済政策の失敗だった、大蔵省依頼の研究会、初めて認めた報告書
バブルの責任、銀行経営者はケジメを
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この報告書は、全文百六ページに及ぶが、大蔵省が政策の失敗を認めた歴史的なものなので、以下に要旨を記す。
資産価格変動のメカニズムとその経済効果に関する研究会報告書
1、資産価格の上昇とその要因
(1) 八〇年代後半に生じた資産価格の急激かつ大幅な上昇は、
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@ 八五年九月のプラザ合意以降の急激な円高を契機として金利が歴史的な低水準となり、マネーサプライも高い伸びを示すなど金融が緩和し、しかもそれが長期にわたったこと、
A 金融緩和、大企業の銀行離れ等の金融環境の変化の下で、リスク管理、自己責任原則等の体制整備が不十分なまま、金融自由化が過渡期を迎え、そのなかで金融行動が著しく活発となったこと、
B 長期にわたる景気拡大や円高による国際的地位の上昇の過程で、わが国経済の先行きについて強気の期待が高まり、資金の借り手のみならず、貸手のリスク認識も低下したこと、
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を背景に、企業の設備投資の増勢に加え、大量の資金が株式・土地の市場に流れ込んだために発生したものである。
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(2) この間の経済政策については、以下の問題が指摘される。
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@ 円高の影響については、既に景気後退局面に入っていたため、悲観的な面が強調される傾向が強かった。
A 内需拡大による対外不均衡是正、急激な円高・ドル安抑制という政策目標を達成するため、金融政策にウェイトがかからざるを得なかった面があった。
B 経済情勢の認識から経済政策の効果が発現するまでのタイムラグの存在は、経済政策を判断する上で難しい問題であり、慎重な情勢判断が必要である。
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(3) 今回の景気循環の過程では、わが国経済のストック化の進展を背景に、資産総額の変動がGNPに比肩しうるような規模に達するに至ったことから、資産価格の変動が実体経済の振幅を大きくした点が、通常の景気拡大局面と異なっている。ただし、資産価格上昇の実体経済に与える影響の大きさについては見方が分かれている。
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2、資産価格の下落とその影響
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(1) わが国経済は、九一年以降かなり急速なテンポで資産価格の下落を含む景気の後退に見舞われている。しかしこれは、基本的には八〇年代後半における活況の反動であるとともに、また資産価格の急激な上昇に対する正常化への過程でもある。
(2) このような景気後退は主として実体経済面におけるストック調整による面が大きいが、株価や地価など資産価格の下落が落ち込みを拡大していることが通常の景気後退局面と異なっている。ただし、その影響の程度については見方が分かれている。
また、株価や地価の下落や、これらに起因する金融機関のバランスシートの悪化が人々のマインドに悪影響を与えて、経済の先行きに対する不透明感を強めているのも今回の特徴である。
(3) 金融面では、金融機関の株式含み益の減少と不動産関連融資を中心とした不良債権の大幅増加を招いているが、真剣な取り組みと相当な調整期間が必要であるものの、金融システムの安定性を維持しつつこれに対処することは可能である。
銀行貸出の伸びの低下は、これまでのところ実体経済を大きく制約しているとは言えないが、初めての経験でもあり、今後の動向には十分注意していく必要がある。
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3、資産価格変動の教訓
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(1) バブルの発生と崩壊は、資源配分、所得分配、金融システムの安定性等に悪影響を与えることから、その発生を避ける必要がある。バブルはいずれ崩壊するものであり、その過程で生じる様々な悪影響を避ける基本は、バブルを発生させないことである。
(2) 資産取引が行われる市場に対する規制は過度にわたるべきではない。今回の資産価格の急激かつ大幅な変動の過程で、市場メカニズムに対する人々の信頼が揺らいでいるように思われるが、近視眼的な規制は長期的な観点からは望ましくない結果をもたらす。
(3) バブルの発生を防ぐためには、次のような観点からマクロ政策での適切な運営が必要である。
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@ 国内経済の持続的安定的成長が確保されることによって、初めて国際協調が可能となる。
A 金融政策の運営にあたっては通貨供給量等の量的指標をも金利動向と併せて考慮する必要がある。
B 今日のようなストック化が進展した経済情勢の下では、資産価格の動向にも従来以上に注目していく必要がある。
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(4) 適正かつ合理的な土地利用を目標とする土地政策は、長期的・総合的な見地に立って推進する必要がある。総量規制等の個別対策は、発動のルールを明確化した上で、緊急避難的に実施されるならば、止むを得ない。
(5) 金融機関の不良資産の累増の原因を金融自由化に帰することは適当でない。金融自由化は経済の国際化等により避けられないものであり、金融システムの効率化に資するものでもあるから、今後一層その定着及び推進を図っていくべきである。
その際重要なことは、自由化と不可分の関係にある自己責任原則に基づくリスク管理の徹底である。また、金融システムの安定は、金融自由化と両立する形で行なうべきである。
(6) これまでの日本経済を支えてきた高い技術力、高い教育水準、勤勉な労働者、高い貯蓄率と投資率などが今回のプロセスを経て大きく損なわれたわけではない。今後は、リストラクチャリングを進めることにより、日本経済を新たな安定的成長の軌道に乗せるべく努力してゆくことが必要である。
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田中が長電話から座敷に戻ってきた。
「きょうは寒いくらいだねぇ。梅雨寒《つゆざむ》っていうんだな」
そういえば三人とも背広姿だ。
田中は腰をでんとおろして、おしぼりで顔を拭《ふ》きながら話を蒸し返した。
「『SELECTION』の記事は、スクープってことになるのかねぇ。一年後が愉《たの》しみだよ。いまの寺信《てらのぶ》は史上最悪の銀行局長だから、誰がなっても割りを食うことはないよ」
「そういう言い方だと、田中は西岡を評価してないことになるが……」
寺信とは、大蔵省銀行局長の寺井信夫のことだ。
「そんなことはない。寺信より西岡のほうがましなことはたしかだもの」
「ぜんぜん褒めたことにならんねぇ」
杉本がビール瓶を持ち上げて、田中にグラスを乾《ほ》すよう身振りで促した。
田中はぐっと一気に飲んだ。小ぶりのグラスなので、グラスをあけるのは楽だ。
田中と、ついでに竹中にも酌をしながら杉本が言った。
「『SELECTION』のスクープもどき、田中が書いたのか。それともA新聞の日銀クラブのキャップか。そんな気がしてきたが」
杉本にじっと見据えられて、田中はビールでむせかえった。
「図星だな」
田中は顔を真っ赤に染めて、胸を叩《たた》きながら言葉を押し出した。
「俺も『SELECTION』にバイト原稿を書いていないとは言わないけど、それは濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だよ」
「スクープをものにして濡れ衣ってことがあるか」
「違う違う。俺じゃないよ」
田中は激しく猪首《いくび》を振った。
「原稿料のことを聞くと、俺はおまえが限りなく灰色に見えるよ。スクープ記事は相当はずむって聞いてるけど、ま、西岡が次期銀行局長になる可能性大と上に報告しておくよ」
杉本と田中のやりとりを聞いていて、竹中はいよいよ気が滅入ってきた。
大蔵省の高級官僚を酒の肴《さかな》にして、しかも呼び捨てにしている。いい気なものだ。
こっちの身にもなってもらいたい――。この先どんなことが待ち受けているのか予測がつきかねるが、裏社会の人たちとつきあわなければならないことだけはわかっている。それも、ときには躰を張らなければならない場面に出くわすことも覚悟しなければ――。
竹中は鮎《あゆ》の塩焼を運んできた仲居に日本酒をオーダーした。
「俺も頼む。燗《かん》は人肌でな」
「わたしも」
話を中断して、田中も杉本も同調した。
二人の話が、政治情勢、総選挙問題に変わった。
六月十八日に宮沢内閣不信任案が国会で可決された。小沢一郎・羽田孜ら五十五人の自民党議員が造反した結果である。七月十八日の第四十回総選挙(衆議院議員選挙)の行方に国民の関心が集まっていた。
「田中のご託宣を聞かせてもらおうか」
「自民党が過半数を割ることは間違いないな。これだけは、政治部の記者が口をそろえて言ってるよ。羽田は切れるほうではないが、金丸みたいに悪いことをしそうもない感じだし、顔で得してるから新生党はけっこう取るかもしれない。社会党は理念なき政党っていうか派閥抗争がひどすぎる。厳しいと思うよ。細川の日本新党は追い風が吹いてるんじゃないの」
「ルックスで決まるのかね。新生党実力ナンバーワンの小沢は悪党面じゃないか」
「ものは言いようだけど、小沢は面魂があるとも言えるよな。自民党一党支配体制の終焉《しゆうえん》の幕引きをやりつつある男なんだから、それなりの評価は得られるだろうや。自民党べったりだった官僚が浮き足立ってるが、早くも小沢にすり寄る官僚がいるらしいよ」
田中は鮎を左手でつまむように押さえて、右手でスーッと太い骨を抜いた。見事な手さばきだ。食べ慣れている証拠である。天然の鮎で、焼きたてでなければできない芸当でもある。
養殖の鮎は脂が乗りすぎて、こうはいかない。
杉本の鮎の骨抜きも、そうヘタではなかった。
箸《はし》で身をつついて食べ散らかしているのは竹中だけだ。食べ慣れていないのだから仕方がない。
カボスの酢をしたたらせた鮎を食らいながら、田中が話をつづけた。
「現政権に取り入る官僚の変わり身の早さはいまに始まったことじゃないが、どっちにしても今度の選挙は見物《みもの》だよな。それはそうと小説野党連立政権誕生す≠ヘおったまげたなあ。すごくリアルなんだよ。おまえも読んだんだろ?」
「もちろん読んだ。政治家は全部実名だし、首相官邸と国会議事堂、議員会館が地下のトンネルでつながってる、なんて知らなかったが、事実なのか」
「事実らしい。旧《ふる》い政治記者はみんな知ってたよ」
「ふうーん……」
杉本はおしぼりで手を拭きながら唸《うな》り声を発した。
小説野党連立政権誕生す≠ヘ、有力総合誌の平成五年六月号(五月十日発売)に発表された政治小説である。
「結果的に宮沢政権は解散の途《みち》を選択したが、あの小説が発表されていなければ宮沢は総辞職したかもねぇ。あれを読むと社会党政権の誕生も絵空事とは思えなくなってくるし、社会党委員長の山花が総理になったら内閣がもたないことも教えてくれた。田中じゃないけど俺もぶったまげたよ。黒河小太郎≠ヘペンネームに決まってるが、政治家か政治部の記者以外にあんな作品は書けないよねぇ」
田中がしたり顔でレクチャーした。
「政治家の可能性もゼロじゃない。小沢一郎が怪しいっていう説もあるんだ。もちろん小沢自身があんな洒脱《しやだつ》な文章を書けるはずがないけど、小沢が息のかかったジャーナリストに書かせた可能性も否定しきれないが、ま、その可能性は一、二パーセントだろうな。永田町や霞が関で、上を下への大騒ぎで犯人探しに躍起になってるけど、いちばん疑われてるのはウチの政治記者でいま論説委員の小宮啓三。俺の四年先輩だが、できる男だし筆力もある。小宮ならやるかもしれない。状況証拠をあげると、小宮の親父もウチの政治記者から鳩山一郎元総理の秘書官になった人で、フルネームは小宮小太郎っていうんだ。ペンネームに小太郎≠使ったところがひっかかるわけよ」
「なるほど。しかし政治記者にあれほどやわらかい文章が書けるかねぇ。さっきの話と矛盾するが、本物の作家が書いたってことはないのかねぇ。たとえば石川好。あの人、さきがけから立候補してるから、政治好きらしいし……」
「杉本もけっこう言うじゃないの。石川好説もたしかにあるよ。もっと言うと、小宮啓三は池田勇人元総理の流れを汲《く》む宏池会≠担当してたので宮沢総理に近い。小説野党連立政権誕生す≠ヘとくに宮沢を貶《おとし》めてるわけじゃないが、人物描写では宮沢がいっとう秀逸だよねぇ。宮沢に近すぎることを考えると、小宮説は首をかしげたくなるな。しかし小宮は本命かもなあ。対抗が石川、穴がN新聞政治部編集委員の田勢康弘。田勢はスクープ記者でもあるが、筆力も分析力も凄《すご》い。数多《あまた》の政治記者ではナンバーワンかもねぇ。経済記者で俺の右に出る者はいないけどね」
竹中は、田勢康弘の名前ぐらいは聞いていたし、記事を読んだ覚えもあるが、小説は読んでいなかったので、話の中に入れなかった。
しかし、興味津々である。
小ぶりの白磁の銚子《ちようし》と、小さな猪口《ちよこ》がテーブルに並んだ。仲居は気を利かせて、一杯だけ酌をして退出した。
「穴が田勢康弘とすると、さしずめ大穴は小沢一郎っていうことになるわけだね。俺は石川好説を取る。会話が弾んでるもの。ああいう会話は作家しか書けないような気がするねぇ。羽田孜が野《や》に下る≠野《の》に下る≠ニ言ったなんて書いてあったが、あれには笑った笑った」
「あの小説は、山花なんていうなんにもわかってないやつをその気にさせてしまったらしいよ。お笑いもいいとこだな。社会党のアホさ加減はしっかり書かれてるよなあ。どっちにしても選挙の結果が愉しみだ」
「この話も上のほうにしておくか。役員懇談会の話題にはもってこいだろう。今夜は田中から、いろいろ情報もらったねぇ」
「まあな。MOF担の杉本とは持ちつ持たれつっていうわけだ」
ひとり置きざりにされた感はぬぐえなかったが、竹中はさっそくその小説を探して読んでみようと思った。しかし、引き継ぎに追われて、竹中はいつしかそのことを忘れてしまった。
八時過ぎに奇麗所が五人もぞろぞろ集まってきた。
赤坂芸者はババアと相場が決まっていると竹中は聞いていたが、比較的若い妓《こ》ばかりで、しかも美形である。それもこれもMOFおよびMOF担の勢威の然《しか》らしめるところなのか。官僚を騙《かた》っているためなのか、竹中の左右にとびきり美形が二人もついた。
「踊りなんか見る気はないぞ。そろそろ第二部に入ろうよ」
田中は赤坂|界隈《かいわい》の料亭にも出入りしているとみえ、顔|馴染《なじ》みの妓に言った。
「バンド、来てるんだろ?」
「はい。田中さんのために呼んでありますよ。失礼ながら課長さんも歌舞音曲には強くないらしいんです。わたしはそう聞き及んでおりますが、課長、いかが致しましょうか」
杉本がおどけた口調で竹中に訊《き》いた。
「おっしゃるとおりです。無骨者の野暮天でして」
竹中は真顔で答えて、つづけた。
「田中さんはそんなにお上手なんですか」
「マイクを握ったら離さない口ですよ。ご本人は道を間違えたなんて思ってるようですけど、ひとりよがりもいいところでしょう。ま、並っていうところでしょうか」
「並……。冗談じゃねえや。上の上、特上よ」
田中は負けていなかった。
バンドは三十一、二と二十七、八の若い男が二人。色白で顔が似ている。
「あの二人、兄弟よ」
右手の芸者が竹中の耳元でささやいた。
実際、田中はひとりで十一曲も唄《うた》った。ド演歌ばかりである。やっぱり並以上ではなかった。
竹中はあくびを抑えるのに苦労した。
九時二十分過ぎにふたたび田中のポケベルが鳴り、それをしおにおひらきとなった。土産は千疋屋《せんびきや》の果物だった。それもずしりと重たい。
田中は社旗をたたんだハイヤーを待たせていた。田中を送り出したあとで、竹中と杉本がプレジデントの大型ハイヤーに乗り込んだ。
女将《おかみ》と芸者たちが盛大に手を振って見送ってくれた。
走り出したハイヤーの中で竹中が言った。
「こんな立派なお土産をもらっていいのかね」
「いいに決まってるだろう。なんせおまえは高級官僚なんだから」
「さっきは図に乗るな、って言われたが」
「それは言葉の綾《あや》だ」
「これ、おまえが持ってけよ。そっちの小さいほうと交換しよう」
女将が後から乗車した杉本の膝《ひざ》に小さな袋を置いたのだ。
「なにを莫迦《ばか》なことを言ってるんだ。それにこれは昆布の佃煮《つくだに》だけど、ウチのやつが当てにしてるからダメだ」
「ほんとにいいのか」
「いいに決まってるじゃねえか」
「富士見ヶ丘に行ってよろしいですか」
中年の運転手がバックミラーを見上げながら訊いた。
「ああ、そうしてくれ。いや待てよ。上北沢を先にしてもらおう」
「俺は後でいいよ。MOF担さんお先にどうぞ」
「おまえん家《ち》は、甲州街道入ってすぐじゃないの。道順から言っても、そうなるだろう。しかも、おまえは朝が早いけど、俺は適当でいいんだ。MOF担のメリットがあるとすれば、それだけだよ」
「なにをたわけたことを。俺には厭《いや》みにしか聞こえないね」
運転手が訊いた。
「霞ヶ関から高速に乗ってよろしいですか」
「ええ。永福で降りて、上北沢の信号を左折してください。わかりにくいので、近くへ行ったら案内します」
「上北沢何丁目ですか」
「三丁目です。中曾根元総理の邸宅の近くです。わかりますか」
「はい。お屋敷町ですね。だいたいわかります」
運転手と竹中の話に、杉本が割って入った。
「竹中邸もまさにお屋敷だよ」
「冗談よせよ。ウサギ小屋っていうか、なんていうか知らないけど」
「それこそ厭みっていうか、気障《きざ》っていうか」
杉本が右|肘《ひじ》で竹中を小突いてから、また声量を落とした。
「おまえ、急に僻《ひが》みっぽくなったなあ。渉外班≠フ主任調査役といっても、おまえの場合は特別扱いっていうか、特命事項を担当するんだ。チンピラ総会屋を相手にするのとわけが違う。遠からず俺の計らいに感謝することだろうぜ。必ずボードに入れてやるから」
おためごかしを言ってやがる、と言いたいところだったが、竹中はぐっと堪《こら》えて、おどけた口調になった。
「二日前まではそう思わないでもなかったが、夢のまた夢ってとこだろう。ご同情感謝します」
「ほんと二、三年経ったら、おまえは生き返ってるよ。そして、今夜の俺の話を必ず思い出すはずだ」
「ハイヤー乗り回して、料亭に高級官僚や新聞記者を呼びつける人が、なにを言っても説得力ないよねぇ」
「もうちょっと地味な店にすべきだったかもしれねえな。おまえに差をつけられたと取られやせんかと心配しないでもなかったが、竹中はそんなやつじゃないと思ってた。MOF担なんて、おまえらがやっかむほどのポストじゃないよ。言ってみればおつかいみたいなもので、接待ゴルフもやるし、高級料理店にも出入りしてるけど、やってることは、総会屋担当とたいして変わらない。裏社会と表社会の違いはあるが、MOFのやつらもインテリヤクザと変わるところのないような手合いがけっこう多くてねぇ。インテリなるがゆえに始末が悪いとも言える。官庁の中の官庁とか、官僚の中の官僚なんていわれてるし、MOFが巨大な権力を手中にしてることもたしかだし、国家権力を笠に着てるが、使命感のかけらもないくせに、国家を動かしてると思い込んでるやからが多い。西岡は、そんな中で稀《まれ》に見るスジのいい人だと思うが、大蔵官僚の思い上がりは、ほんと救い難いことになってるよ。俺たち都銀のMOF担はあいつらにペコペコしてるけど、腹の中で舌出してる面がないでもない。昼夜を分かたずあいつらのご機嫌とりして、たしかに旨《うま》いめしは食ってるけど、そのうち痛風になるんじゃないか心配だよ」
杉本の口調がいくらかトーンダウンしていた。およそ相手の気持ちなど忖度《そんたく》するほうではない男なのに。こいつ本気で俺を取り込もうとしているのだろうか――。
「俺の僻み根性はもって生まれたものだから、しょうがないよ。莫迦《ばか》につける薬はない。莫迦は死ななきゃ治らないんだ」
「おまえはそう莫迦じゃないと思うけど。少なくとも大蔵官僚よりはましだろうぜ。あいつらは東大法科を優秀な成績で卒業して、国家公務員上級甲種、昭和六十年から国家公務員採用T種になったが、上位でパスして、IQの高さだけは一目置かざるを得ないけど、苦労知らずの偏差値人間に過ぎん」
「偏差値人間はおまえも俺も似たようなものだろう」
「あるいはそうかもしれない。しかし、鍛え方は違うよねぇ。おまえ覚えてないか。入行早々の研修で札束数えさせられたり、チラシの投げ込みやらされたり……。カルチャーショックなんて、MOFのやつらは体験してないと思うよ。入省した途端に上げ膳《ぜん》据え膳で、しかも二十八、九歳の若造で税務署の署長ってんだから、あいつらがどんな思い上がった人間になるか、察しがつくよねぇ。そんなのを相手にしてる俺たちの気苦労も察してもらいたいよ」
次の次の次の頭取を狙《ねら》っているおまえは思い上がっていないのか、と言いたいのを竹中は我慢した。
「たかり体質もかなりなもんだし……。俺も辟易《へきえき》したことがあるんだけど、おまえノーパンシャブシャブ£mってるか」
「いや。なんだそれ」
「新宿|歌舞伎《かぶき》町に十五年も前からあるアダルト割烹《かつぽう》だ。店の名前はろうらん≠チていうんだけど、女性客はオフリミット。手短に言えば個室でシャブシャブか鉄板ステーキを食いながら、ストリップの大股《おおまた》びらきを眺めるっていう趣向だが、下品といえば下品、おもしろいっていえばおもしろい店だ。料亭並みの料金を取られるが、好き者にはこたえられないかもしれない。MOF担でノーパンシャブシャブ≠知らないやつは一人もいないよ。いたとしたらもぐりだ」
「おまえ、MOFの人たちとノーパンシャブシャブ≠ノ入り浸ってるっていうわけか。そういうの嫌いなほうじゃないもんな」
「莫迦言うな。入り浸ってるのはMOFのやつなんだよ。つけ回しを俺たちにしてくる凄《すげ》えのがいるっていうわけだ」
首都高速4号線は渋滞がなく、ハイヤーは永福町の降り口に近づいていた。急に左車線にハンドルを切ったため、惰性で二人は上体をぶつけながら右側へかしいだ。
「申し訳ありません」
「いいえ」
杉本はむっとした顔をしたが、竹中は笑顔で会釈を返した。
「まだ早いから奥方に挨拶《あいさつ》していこうか。きっと新しいポストがお気にめさず、ご機嫌斜めなんだろう」
「余計なことをするな。まだ話してないし、話すつもりもないよ。本店勤務になりそうだとしか言ってないが、まんざらでもなさそうだった。それに水を差すこともないんじゃないのか」
竹中はきつい顔で言ってから、運転席のほうへ上体を寄せた。
「銀行のところで降ります。すぐ近くですから。この先でUターンして、鎌倉街道を行ってください」
「おまえん家《ち》の前まで行くよ。そんな重い荷物持って……」
「いいからいいから。おまえに上がり込まれるのはかなわんしな。運転手さん、悪いけどドアをあけてください」
リアシートの右側に乗っている関係で、運転手にドアをあけてもらわないと、後続車が危険だった。
「今夜は大変ご馳走《ちそう》さまでした。あんな凄い料亭は初めてだから、びっくりしてなにを食ったかよく覚えてないが、またMOF担にたからせてもらうよ」
竹中は、投げつけるように言って、手提げ鞄《かばん》と果物箱を入れた底の広い大きな紙袋を抱えて、急いで歩道に回った。
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第二章 頭取秘書役
翌朝、七時半に出勤した竹中は、デスクに鞄《かばん》を放り投げて、相原の出勤をいらいらしながら待った。
相原の出勤時間は前夜の宴席の有無に関係なく七時四十分である。従って副支店長、課長などの出勤時間もそれより早めにならざるを得ない。
大手都銀の中でも協立銀行のノルマ主義、実績主義による猛烈ぶりはつとに知られていた。女子行員は、事務職、補助職がほとんどで出勤時間も八時半と遅い。
支店の課長は、本店の課長代理、調査役クラスで資格は副参事である。つまり従業員組合に所属していることになる。このため、早朝出勤に時間外勤務手当を付けるべきだと、労働基準監督署から勧告されることもままあるし、組合本部から注意も受けるが、高給を食《は》んでいる手前、そう杓子《しやくし》定規にはまいらない。
もっとも銀行員の側に言わせると、勤務時間と仕事量・密度を考慮すれば、決して高給ではない、と反論したくもなろう。都銀は基礎体力がものをいい、タフな神経の持ち主でなければ務まらない世界でもある。
前夜、竹中が帰宅したとき、妻の知恵子はバスルームで、子供たちは自室に引き取っていた。知恵子は竹中より一つ半|齢下《としした》で、大学は聖心女子大の英文科である。テニスの同好会で知り合った。
まあ美形だし、性格も明るいが、聖心女子大を鼻にかける点が竹中は気にならぬでもなかった。
子供は名門私立女子高校一年の恵《めぐみ》と、名門私立男子中学校二年の孝治の二人。
竹中宅のある上北沢三丁目一帯は閑静な住宅街だ。甲州街道から上北沢三丁目の交差点を左折し、商店街を抜けて踏切を渡り桜並木の通りに入ると、たたずまいが一変する。
五十年ほど昔、一区画二百坪単位で売り出された。知恵子の父方の祖父、神沢孝太郎が購入した。孝太郎は他界して久しいが、知恵子の実父、神沢孝一が相続し、知恵子が竹中と結婚した十年後に、税金対策上、半分の百坪を売却せざるを得なくなった。
残り百坪のうち五十坪が知恵子に財産分与され、竹中がローンを組んで、建坪五十坪の二階家を新築した。底地権は知恵子名義、上物《うわもの》は竹中名義になっている。この時点で、神沢孝一も古家を建て替えたので、外見はあまり変わらないモルタルの二階家が二棟並んでいた。
竹中の義父は六十五歳だが、まだ現役で大手電機メーカー系列会社の会長職にある。義母の達子は還暦を迎えて間もないが、連日近くのテニスクラブに母娘《おやこ》で通っているほど元気だ。
竹中は三人兄弟の末っ子である。一人娘の知恵子と結婚したとき「養子にくれてやったようなものだ」と千葉県市川市で開業医をしている父親は大いに嘆いたものだ。兄は二人とも内科医で、長兄が竹中医院を継ぎ、次兄は大学病院の勤務医だ。
杉本だけはゆるせない。平成五年七月一日の夜を生涯忘れないだろう、と竹中が思い起こしながら歯ぎしりしているとき、当の杉本から電話がかかってきた。
「おまえ、まだ怒ってるのか」
起き抜けのあくびまじりの電話に、竹中は頭に血液が逆流した。
「次の次の次の頭取さん、こっちは忙しいんだ。切るぞ」
「ちょっと待て! まったく度し難いやつだなあ」
怒《ど》を含んだ声が受話器に響いた。
「それはこっちのいうセリフだ。頭取の座を狙《ねら》うと公言して憚《はばか》らない人なんだから、ちょっとは人の気持ちがわかるようになってもらいたいし、相手の立場を思いやったらどうなんだ」
「おまえ、俺《おれ》がはせがわ≠ノ呼びつけたことをそんなに根に持ってるのか」
「とんでもない、眼の保養をさせてもらったり、美味《おい》しい料理をご馳走《ちそう》になって感謝してるよ」
「じゃあ、なんでそんなに突っかかるんだ」
「おまえが渉外班≠ノ俺を推してくれたことだ。そんなこと決まってるだろう。ぜんぜんわかってないねぇ」
「渉外班≠ニいっても、おまえの仕事はちょっと違うんだ。おまえこそ俺の親心がわかってねえじゃねえか」
「親心……。もう親分気取りなのか。俺はきみの子分になったつもりはないし、なろうとも思わない。頭取候補の足を引っ張ることを生き甲斐《がい》にしてもいいとさえ思ってるよ」
話が途切れた。十秒ほど待って、竹中が電話を切ろうとしたとき、「もしもし……」と呼びかけられた。
「俺はおまえを親友だと思ってるからこそ本音を言ってしまったが、頭取候補≠ヘ勘弁してくれよ。そのうち俺の気持ちがわかってもらえると思うが、次の次の次は冗談だよ」
高圧的だった声の調子が変わっていた。
「冗談はないだろう。いま、本音と言ったばかりじゃないの」
「半分本気、半分冗談ってとこか」
杉本は言葉を濁したが、痛いところを突かれても動じるような男ではなかった。
神経のずぶとさ、身勝手さにかけては、同期で杉本の右に出る者はいない。
相原が支店長室に入った。
二階奥にある支店長室は来客用の応接セットを備え、スペースも広々としている。
「支店長と話があるから切るぞ」
「肝心の用件を話すのを忘れるところだった。佐藤秘書役がきょうおまえと昼めしを食いたいそうだ。けさ七時に電話があった」
「えっ!」
竹中は絶句した。実力ナンバー2といわれるほどの辣腕《らつわん》家で超ワンマン、鈴木会長の懐刀的な存在として行内に鳴り響いている。都銀上位六行の中でも佐藤秘書役の名前を知らない者は少ないだろう。
「しかし、予定が入ってるし、こっちの引き継ぎを優先するのが筋と思うけどねぇ」
「なにをたわけたことを。支店長に話してみろ、一も二もなくOKだ。場所はパレスホテルの九階に個室を取ってある。俺の名前を言ってくれ。正午に待ってるから」
返事を待たずに杉本は電話を切った。否《いや》も応もなかった。
支店長室は接客中、用談中以外はいつも開け放たれている。
竹中がノックをすると、相原が書類から顔を上げた。八時から朝礼が始まるので、時間は十分ほどしかなかった。
「ちょっとよろしいですか」
「いいよ」
時計を見ながら相原がソファをすすめた。
竹中はドアを閉めて、ソファに近づき、相原が座るのを見届けてから、腰をおろした。
「失礼します。いま、MOF担の杉本から電話がありました。佐藤秘書役が本日昼に会いたいと連絡してきましたが……」
「佐藤秘書役から……。それはなにをさておいても駆けつけなくちゃあねぇ。杉本も同席するのかな」
「はい。そのようです」
「すると、MOF関係でなにか不祥事でも出来《しゆつたい》したんだろうか」
「さあ」
竹中は首をかしげるしかなかった。
「発令前日、わたしは支店長から渉外班≠フ話をお聞きしました。あのとき支店長は二日前に人事部長から連絡があったとおっしゃいましたが、失礼ながら事実でしょうか」
「もちろん。わたしは人事にいたのでよくわかるが、今度のきみのケースはきわめて異例で、人事部長でさえも、きみを渉外班≠ノ出すことに懐疑的だった。佐藤秘書役が一枚|噛《か》まなければあり得ないと思ってたが、やっぱりねぇ」
「わたしも釈然としません」
「それはお互いさまだ。しかし、多分きみは秘書役に見込まれたんだろう」
「この様子ですと引き継ぎがおろそかになりかねません。そんなことでよろしいんでしょうか」
「支店のほうはわたしと丸山君とでなんとでもなると思うが、きっと難題が持ち上がってるんだろうねぇ。きみも苦労するんだろうなあ」
相原がソファから腰をあげた。
皇居前のパレスホテル九階に、フランス料理クラウン≠フ個室が二室ある。
竹中は十分前に着いて待っていた。十人ぐらいは収容できそうだ。
七月二日は終日降雨が続き、梅雨寒《つゆざむ》だった。
いまをときめく佐藤秘書役との対面を前にして、緊張気味の竹中は三十分も前にパレスホテルに着いてしまった。虎ノ門からタクシーで来たが、道路の渋滞がなくスムーズに車が走ったこともある。
竹中はホテルの館内をぶらぶらして時間を潰《つぶ》しながら、あれこれ考えをめぐらした。
佐藤をわざわざ引っ張り出したのだとすれば、杉本のパワーも相当なものだ。杉本のことだからパワーを見せつけるためにそうしたかったのだろうか。
佐藤の顔はむろん知っているが、竹中は言葉を交わしたことは一度もなかった。佐藤が企画部次長から頭取秘書役になったのは鈴木が頭取になった六年前の昭和六十二年(一九八七年)六月だ。
企画部はMOF担を擁し、大蔵省と頭取のパイプ役的機能を担うほか、常務会事務局でもあり、経営計画を立案する中枢部門である。企画部次長は、主任調査役や調査役のように連日MOF通いをすることはないが、MOF担のボス的存在だ。
大蔵省の銀行局長に直接会えるのは頭取なり担当専・常務だが、首脳陣に同行することはしばしばあるし、銀行局長、審議官、銀行課長など大蔵省高級官僚と首脳陣との宴席に必ず同席する。主任調査役が末席を穢《けが》すこともある。
カミソリ佐藤≠フ異名を持つ佐藤は企画部次長時代にキレ者ぶりを遺憾なく発揮し、当時、専務の鈴木一郎の眼に止まった。
鈴木は、磯野健介(前会長、現相談役)から後事を託されて頭取に就任したとき、秘書役に佐藤を登用した。頭取秘書役は側近中の側近、ブレーン中のブレーンである。
佐藤が頭取秘書役として勇名を馳《は》せた、あるいは策謀家、辣腕《らつわん》家ぶりを見せつけた事例は枚挙にいとまがないが、ここでは二例だけ引いておく。
一つは、平成三年(一九九一年)八月に発覚した「東西信金架空預金事件」=別名「小野ひろ事件」である。
小野ひろは大阪ミナミの料亭江川≠フ女将《おかみ》だが、株式投資にのめり込んだ挙げ句、バブル経済の崩壊によって、巨額損失を被り、その穴埋めに東西信金の幹部と結託して、産銀とノンバンク十社に二千数百億円のニセ預金証書をつかませた。
協立銀行は、東西信金の母体行的存在だ。母体行なる言葉は当時まだ使われていなかったが、協立銀行は東西信金に人員も複数で派遣するなど緊密な関係にあった。
ところが、佐藤がMOF担時代に築いた大蔵省の人脈を駆使し、日本銀行とも連携して巧妙に立ち回った結果、協立銀行のロス負担は小さく、関西の信用金庫が相当な負担を強いられることになった。
東西信金事件で佐藤が協銀サイドの司令塔の役割を担った。
二つ目は、年子の実弟、佐藤敬治を前年の平成四年七月に、梅田駅前支店長から業務本部審査部長に引き上げたことだ。
佐藤敬治は同志社大学を昭和四十四年に卒業した。とかく賢兄愚弟の典型例とみられがちなのも、カミソリ佐藤≠ネるがゆえであろう。
弟を入行させた、と佐藤を謗《そし》る向きもあるが、入行一年生にそんなパワーがあるとは思えない。明らかに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だ。謗られて然るべきは兄弟を入行させた人事部である。
よし佐藤敬治が有能だったとしてもカミソリ佐藤≠ノかなうはずがない。痛くない腹をさぐられたとしても、弁解できないことになる。
カミソリ佐藤≠ェ実弟のために力を発揮するのは、入行して二十年以上も後のことだ。
企画部次長時代に手なずけておいた腹心の大島正雄を人事部副部長に配置し、三年前の平成二年(一九九〇年)七月に小規模支店の支店長から大型店舗の梅田駅前支店長に敬治を抜擢《ばつてき》したのは、佐藤のリモートコントロールにほかならない。
敬治の梅田駅前支店長時代、副支店長以下の支店行員を大幅に入れ替え、戦力アップしたのも、大島たちの計らいだった。梅田駅前支店の業績が上がらぬはずはない。敬治は兄の引きで今年四月に副理事から理事に昇格、兄弟そろって役員直前の資格を得たことになる。
秘書室には佐藤より二年先輩の取締役室長永井卓朗がいるが、行内の誰からも一目置かれているのは佐藤のほうだ。
カミソリ佐藤∞凄《すご》い人≠フイメージが行内に滲透《しんとう》しているので杉本のようにすり寄る者が増え、役員の中にさえも佐藤の顔色を窺《うかが》う者がいるありさまだった。
竹中が胸がドキドキするほど緊張するのも当然である。個室の壁に掛けてある静物画を眺める余裕もなかった。
正午を七分過ぎた。ノックの音で弾かれたように竹中は起立し、ドアの前へ進み出た。
佐藤が入ってきた。三歩後に杉本が続く。佐藤は、竹中と同じ背|恰好《かつこう》で、しかもスリムだった。面立ちは、鰓《えら》が張った分だけいかつい感じがするが、メタルフレームの奥の眼は優しかった。
少なくとも威圧感はなかった。言葉遣いも丁寧だ。にっこり笑って人を斬《き》るタイプと見える。
「しばらくです」
竹中は怪訝《けげん》そうな顔をしてから、腰を折った。
「竹中と申します。よろしくお願いします」
「広報にいた竹中さんでしょ。よく覚えてますよ。お待たせして申し訳ありません。さあどうぞ」
佐藤は皇居の森が眺望できる上座を手で示した。
「いいえ。秘書役がお座りください」
「いいから、どうぞ」
強い口調に、竹中は折れざるを得なかった。
「恐れ入ります」
「杉本さんも、そっちへ座りなさい」
「はい。ありがとうございます」
口数の多い杉本が、借りてきた猫みたいに神妙だった。
ビールをひと口飲んで佐藤が言った。
「政界がおもしろくなってきましたねぇ。会長は、どうやら小沢びいきのようですよ。小沢さんがキングメーカー的な役割を担うことになるんでしょうねぇ。新生党の基本政策がきょうの朝刊に出てたが、PKOの積極参加なんかアピールするんじゃないかな」
自民党を離党した小沢―羽田グループが八項目からなる基本政策を発表したのは、七月一日だ。その中にPKO(国連平和維持活動)や国連災害援助活動などへの積極参加が盛り込まれてあった。
「過去を反省したのも悪くないですよ」
八項目の中に「自民党の中枢に身を置き、自民党一党支配に手を貸す結果となったことに深く反省し、国民の皆様に率直に陳謝する」もあったが、佐藤はこのことを言ったのだ。
けさ、トイレの中で読んだA新聞の二面に出ていたことを竹中は思い出した。
「経済四団体が新生党などの新しい保守勢力を献金の対象とする方向で検討していると新聞が書いてましたが、自民党はショックでしょうねぇ」
竹中の話を聞きながら杉本がジロッとした眼をくれた。むろん、竹中は気づいていない。
「竹中さんは今度の選挙で社会党はどうなると思うの」
「相当苦戦すると思います」
「会長の見通しと同じですよ」
笑いながら佐藤が言った。
フランス料理のフルコースを食べながら、もっぱら政局がらみの話に終始したが、五分の四は佐藤がしゃべり、五分の一は竹中が話した。
おしゃべりな杉本がなぜか沈黙を続けている。
「ところで……」
ナイフとフォークを持つ竹中の手が止まった。
「竹中さんは、鈴木会長が頭取を三期六年でお辞めになると思ってましたか」
竹中はナイフとフォークをステーキ皿に置いて、ごくりと生唾《なまつば》を呑《の》んだ。
「いいえ。あと一期はおやりになると思ってました」
「実力頭取だから誰しもそう思うところでしょうねぇ。某都銀でその昔十八年も頭取を続けて天皇といわれたもの凄《すご》い人もいます。体力的にも実力的にも鈴木さんならあと二期は可能でしょう。反対論も出なかったと思います。しかし、わたしは敢《あ》えて反対しました。きみたちもご存じと思うが、共住金の問題が大変なことになってるんです。遠からず、火を噴くでしょう。そうなったら、国会に呼ばれるかもしれない。鈴木頭取≠ノそんなことはさせられません。会長になっても、人事権者に変わりはないんですから」
共住金とは共和住宅金融の略称で、いわゆる住専の大手である。協立銀行は筆頭株主であり融資シェアもトップの位置にあった。住宅金融とは名ばかりで、実態は不動産融資会社であり、一兆円に及ぶ不良債権を抱え、死に体同然の共住金の処理問題は、協立銀行にとって最大の経営課題になっていた。
「協立銀行中興の祖といわれるお方ですから、来年十二月の七十周年記念を頭取として仕切りたかったと思います。しかし、鈴木さんを傷つけるわけにはいきません」
デザートをパスして、時計を見ながら佐藤が言った。
「ちょっと急いでるので、わたしは先に失礼します。ゆっくりしてってください」
竹中と杉本が同時にナプキンをテーブルに置いて起立した。
ドアの前で、佐藤が竹中の肩に手を置いて笑いかけた。
「渉外班≠フポストにご不満もおありのようだが、便宜的なもので、あなたは格が違います。悪いようにはしません。杉本君との連絡を密にしてください。きみもMOF担みたいなものですよ。期待してます。頑張ってください」
直立不動の姿勢で竹中が答えた。
「はい。頑張ります」
竹中はいとも簡単にたぐり込まれていた。
というより、佐藤秘書役の立場からすれば、竹中を取り込むことなど朝飯前だったろう。
二人でエレベーターホールまで佐藤を見送り、個室に戻って、八つ切りのマスクメロンを食べながらの話になった。
「はい、頑張ります≠ゥ。やっとおまえも年貢を納めたってわけだな」
皮肉たっぷり、厭《いや》みたっぷりな杉本のもの言いに、竹中がむっとした顔で言い返した。
「きみはどう言ってほしかったんだ。佐藤さんの前ではいつもあんなにおとなしくしてるのか」
「議論するときはガンガンやるさ。きょうは俺の出る幕はなかった。おまえに花を持たせたいっていう気持ちもあったしな」
「口の減らないやつだ。もう親分気取りでいるらしいけど、おまえの家来になるつもりはないよ。これだけははっきり言っておく」
「MOF担みたいなもの≠ネんて言われていい気になってるようだけど、あれは秘書役のリップサービスだよ」
「おっしゃるとおりだろう。いくら俺が莫迦《ばか》でもそのくらいわかるよ」
ウエイターがコーヒーとミルクティーを運んできた。ミルクティーをオーダーしたのは竹中である。
ティーカップに、ぶちまけるようにミルクをたっぷり入れて、スプーンでかきまぜながら竹中が言った。
「しかし、秘書役は肝心なことはなんにも話してくれなかったねぇ」
「そうでもないさ。俺との連絡を密にするようにと言ったじゃないか」
「なるほど。おまえとは喧嘩《けんか》してる場合じゃないっていうわけか」
「そのとおり。俺のお陰でおまえもきょうから佐藤さんの子分になったっていうわけよ。この点は恩に着てもらわないとな」
「わかったよ。恩に着ればいいんだろう」
ひとつも恩に着ている言い方ではなかった。
投げやりに言われて、杉本はきっとした顔になった。地がにやけ面だけに、凄みを帯びて厭な顔になる。
「おまえが突っ張ってられるのも、いまのうちだ。俺に目をかけられたことを泣いて感謝する日が必ずくる。とにかく俺とおまえは運命共同体なんだ。このプロジェクトも秘書役と俺とおまえの共同プロジェクトだからな」
「共同プロジェクト?」
「うん。三人限りで対応しなければならない。取締役人事部長も取締役総務部長も知らないことになってる。うすうす知ってる可能性はあるが、知らないほうが彼らも得だろう。かかわりたくない問題だもんな。しかし、秘書役は鈴木会長を守るため躰を張ろうとしている。俺も右同じだ」
「そして俺も右同じってわけね」
「そのとおり。秘書役は話さなかったが、虎ノ門支店の引き継ぎは支店長にまかせて、おまえは来週から本店に来てくれ」
「業務命令か」
「そうだ」
「俺の上司は総務部付の渉外班£S当の部長じゃないのか」
「組織上はそうなるな。名刺の肩書は総務部主任調査役≠セが、実体は秘書役付兼企画部主任調査役付ってことになる」
「だったら、なんで肩書も秘書役付にしてくれないの」
「オープンにできる問題ではないんだ。内々に処理しなければならない」
「秘書役はカネでカタをつけようとしてるのか」
「その判断は難しい。判断はおまえにまかせることになるが、できればカネは使いたくないな。弱みを握られることになるし、つけ込まれることにもなるからなあ。問題は相手の正体がよくわからないことなんだ。まずそれを突き止めることがおまえの仕事になるな」
「マル暴と言わなかったか」
「言ったかもしれないが、それもはっきりしてない。広域暴力団となんらかの関係があるとは思うが……。わかってることは、雅枝さんが正体不明の男とつきあっていること、その男が協銀に融資をさせようと雅枝さんに斡旋《あつせん》を求め、雅枝さんから会長に話があり、会長が佐藤秘書役に相談し、秘書役から俺に降りてきて、専任の担当をおくことを俺が進言し、おまえに白羽の矢が立ったということだ」
「おまえがなぜ俺を推したのか、釈然としないねぇ」
「まだ愚図愚図言ってるのか。行内では佐藤秘書役に草木もなびいてるっていうのに……。おまえの上昇志向を満足させてくれる人だ。おれは、秘書役の一の子分を自任してる。おまえも二番になる可能性があるわけよ」
竹中は思案顔でミルクティーをすすった。
佐藤は鈴木頭取を担《かつ》いで伸《の》し上がり、権勢をほしいままにしている。副頭取や専務でさえも、頭取時代の鈴木に意見がましいことは決して言えなかったが、佐藤は直言できた。副頭取以下がアポイントメントなしに鈴木に面会することはできなかった。
鈴木のスケジュールを把握し、取り仕切っているのは佐藤だけなので、佐藤の許可なしに鈴木に面会できない仕組みになっていたとも言える。このことは鈴木が会長になった現在でも変わらないだろう。
鈴木あっての佐藤が鈴木に忠誠を尽くし、水火も辞せずの気持ちになるのは当然だ。鈴木のために躰を張らなければならないのは佐藤や杉本のはずなのに、汚れ役だけ俺にやらせようというのは理不尽ではないのか――。
だが、ここは勝負どころかもしれない。
頭取秘書役から会長秘書役に変わったが、佐藤のパワーに翳《かげ》りはまったくみられない。次の次の頭取を不動のものにしたと、行内の誰もが見ている。次の次の次は疑問符をつけざるを得ないが……。
「ま、人事を尽くして天命を待つ、の心境にならなければいけないんだろうねぇ」
「そういうことだ。飲み食いの必要があればツケは俺に回してくれていい」
「総務に予算はないのか」
「このプロジェクトに関する限り、そのほうがいいな。MOF担の予算はあってないようなものだから、どうにでもなる。これは佐藤秘書役の指図でもあるんだ」
「…………」
「今晩つきあってくれ。おまえとは裸のつきあいをしておきたいからな」
杉本はでれっと表情を弛緩《しかん》させて、意味ありげににやついた。
「支店の歓送迎会があるかもしれないので、またにしてもらえないかなあ」
「そんなのどうだっていいじゃないか。とにかく俺につきあえよ」
「企画部主任調査役付≠ノ命令するっていうわけか」
杉本はふたたびにたっと笑った。
「幸せな気分にしてやるから」
杉本はホテルの駐車場に専用車を待たせていた。
「虎ノ門支店まで送ってやるよ。俺は大蔵省に行く」
「MOF担は専用車があるのか」
「吉井専務の専用車を借りたんだよ。きょうは一日会議や来客で外出しないからな。もちろんハイヤーを使うこともあるが」
吉井公平は企画部担当専務である。次期頭取有力候補で、佐藤秘書役とも近い。
「きのうから食い慣れないものを食って、腹の調子がおかしいよ。今夜は勘弁してもらえないか」
竹中が下腹をさすりながら言うと、杉本は窓外に顔を向けたまま答えた。
「ダメだ。つきあってくれ」
杉本が険のある顔をこっちへ向けた。
「おまえ、協銀でいちばん忙しい佐藤秘書役ほどの方が昼めしに一時間もつきあってくれたんだぞ。文句を言えた義理か」
「それと今夜と連動するのか」
「まあな。まだおまえに話してないことがあるしな」
「佐藤秘書役にきみとの連絡を密にしろって言われたばかりだし、やっぱり断れないか」
竹中はいまいましいとは思いながらも、多少|媚《こ》びる口調になっていた。
「六時にプレスセンタービルの前で待っててくれな」
竹中が降車するとき、杉本が言った。
竹中はビニールで覆った大きな紙袋を二つも右手に下げて、向かい側が日比谷公園のプレスセンタービルの前で杉本を待った。この日は終日降雨が続き傘を差していたので、しびれるほど右腕に重量感があった。
杉本はハイヤーであらわれた。
待たされた時間は三分。
「なんだそれ」
「私物のゴミだよ。机の中やロッカーを片づけたら、この倍のゴミが出てきた。あと二つは月曜日に運ぶことにした。悪いけど、月曜日の夜は支店の歓送迎会があるから、つきあえないよ」
「阿呆《あほ》ぬかせ。超多忙な俺が三日もおまえにつきあうはずがないだろ。引き継ぎなんかどうでもいい。月曜日から、プロジェクトにかかってもらう。ゴミはトランクに入れろよ」
中年の運転手がトランクをあけてくれた。
首都高速4号線の霞ヶ関口へ向かうハイヤーの中で、杉本がリアシートに深く背中を凭《もた》せて、メモを手渡しながらつぶやくように言った。
「ターゲットは川口|正義《まさよし》。年齢四十八歳。職業は結婚式場経営者だ。ほかに絵画のブローカーのようなこともやってるらしい。それで雅枝さんに近づいたんだろう。生年月日と自宅はメモしておいた。佐藤秘書役が鈴木会長から聞き出したのは以上だが、雅枝さんは川口にすっかりのぼせあがってしまって、なにも見えなくなってるようだ」
「川口正義なんて聞いたことないなあ。警視庁のブラックリストには載ってないの」
「おまえ、まだわかってないのか。そういうこともおまえが調べるんだよ。この話は秘書役と俺とおまえの三人限りで、それ以上は絶対にひろげられない」
じろっとした眼をくれて、杉本が話をつづけた。
「ただ、雅枝さんが鈴木会長のお嬢さんと知ってて近づいたことは間違いないし、三カ月後に融資を求めてきたことにもキナ臭さがある。川口正義の正体を調べることと、川口と雅枝さんを遮断することを考えてもらいたいんだ」
「そんな、冗談じゃないよ。興信所の仕事じゃないの。それに男女関係の生じた二人の間を引き裂くなんていう芸当がどうして俺にできるんだ。ないものねだりみたいなこと言われても困るよ」
竹中は気色ばんで、つい声高になった。
「表|沙汰《ざた》にしたくないから、おまえがやるっきゃないんだよ」
「おどろおどろしいことになってきたねぇ。やっぱり俺はきみを生涯|呪《のろ》い続けることになりそうだな。そんな気がしてきたよ」
「その逆はあっても、おまえに呪われる心配はまったくないね。ま、全力投球してくれ。最初からバラしちゃ、おまえの気合いがゆるむから言いたくないんだが、来年十二月の創立七十周年記念までは、どんなことがあってもオープンにしたくない」
「ターゲットがその点をカウントしてて、そこを突こうとしてたらどうなるんだ」
「鈴木会長は協銀の顔だ。なんとしても守らなければならないのが、俺たちの立場なんだよ。とにかく一週間ぐらいで第一回のレポートを出してくれ」
杉本の命令口調は肚《はら》に据えかねる。竹中は杉本の横顔を睨《にら》んだ。
「ひどいことになってきたねぇ。自殺したい心境だよ」
ハイヤーが西武新宿駅前で止まった。
「三時間後にここに来てもらおうか」
杉本は傘を差してドアをあけた運転手に命じて、車から降りた。
「ノーパンシャブシャブ≠ノ連れてってやろうと思って、六時半の予約を取った。話のタネに一度だけだぞ。おまえはMOFの若いのみたいに病みつきになることはないだろう」
「そんな下品な店に行きたくないねぇ」
「おまえがスケベなことは先刻承知だ」
「独身時代、きみとススキノで悪さをした覚えがないとは言わないが、あんなエネルギーはもうないよ。ノルマ銀行≠ノすっかり脂を抜かれちゃったからねぇ」
「しゃぶしゃぶ食って、眼の保養をすれば元気が出てくるさ。おまえにはひとふんばりもふたふんばりもしてもらわなければならんからな」
「ふん。きのうからMOF担の威力を見せつけられて、落ち込む一方だよ。しかも、同期のMOF担の命令で、総会屋担当以上の厭《いや》な仕事っていうか、わけのわからない仕事をやらされようとしてるんだからねえ」
ごみごみした歌舞伎町の路地の一角にあるビルの地下三階が、目指すろうらん≠セった。
「地下二階もあるが、個室は三階なんだ。二階は大衆的だが、三階はコンパニオンのチップも入れて料亭並みの料金をふんだくられるけど、おもしろい店だし、それなりの価値はあるんじゃねえかな。都銀に限らず、一流の商社なんかも外人客の接待で使ってるらしいから、ノーパンシャブシャブ≠フ名は海外にも轟《とどろ》いてるってことになるわけだな」
そんなことを言いながらずんずん階段を降りて行く杉本の後に重い足取りの竹中が傘のしずくを切りながら続く。
二階に受付があり、若い女が小さなエレベーターで三階の個室へ二人を案内した。
杉本は馴染《なじ》みの上客なのだろう。受付で「やっ」と右手をあげた以外は、言葉を発しなかった。
三階の出入り口からすぐ左手の部屋が予約されてあった。
「ここがいっとういい部屋なんだ。四、五人でくると盛り上がるんだけど、きょうはおまえの慰労会だからMOFのやつを誘うわけにもいかんしなあ」
「なんか暗い部屋だねぇ」
「ここにアダルト割烹《かつぽう》≠チて書いてあるじゃねえか。淫靡《いんび》なムードがいいんだよ」
杉本が立ったまま壁の貼《は》り紙を指差した。
「コンパニオンはどういたしましょうか」
料理の世話を焼く女も若かった。
「二人。マキだかユキだかミドリだかムラサキだか忘れたが、とびきりの逸品をたのむ」
「どう考えてもシャブシャブ屋の雰囲気じゃないねぇ」
竹中が背広を脱ぎながら、四囲を見回した。
六人は座れそうな掘炬燵《ほりごたつ》式のテーブルに向かい合って、ハガキ半分大のプラスチック板に印刷された断り書きを竹中は声に出して読んだ。
「当店は東京都公安委員会より風俗営業料理店(個室)の許可を受けています。テーブルにあるのはケーブルテレビです。ビデオカメラは照度不足で見えません。店主敬白」
裏側を見るとビール無料 キリン一番搾り サッポロ黒ラベル サントリーモルツ アサヒスーパードライ≠ニある。
横長の献立表は料亭、割烹並みだ。
文月の献立
ろうらんしゃぶしゃぶコース
一、前菜 長|芋《いも》りんご和《あ》え
石鯛唐揚粒そばあん掛け
射込み青唐
榎《えのき》と海月《くらげ》くるみ和え
水前寺|海苔《のり》
一、蒸しもの替わり
浅蜊《あさり》のワイン蒸し
一、焼きもの
若鮎の塩焼き
たで酢
一、合肴
エスカルゴのブルゴーニュ風
ハンガリー産フォアグラソテー
アスパラのバター焼き
一、お題
特選 松阪牛しゃぶしゃぶ
一、食事
茶そば又はきしめん
一、水菓子
マスクメロン
[#地付き]割烹  ろうらん
「しゃぶしゃぶ以外は、旨《うま》くないよ。メニューはこけおどしだ」
「なんで天井にウイスキーボトルが逆さにして吊《つ》ってあるんだろう」
「それがノーパンシャブシャブのミソよ。おあとのお愉《たの》しみっていうことにしておこうか」
天井に、シャンデリア風にウイスキーボトルが五、六本ずつ、二カ所にぶらさがっていた。起《た》てば、手が届く高さである。
「まず只《ただ》のビールを飲もうか。竹中はいつもなにを飲んでるんだ」
「サントリーモルツ=Bこいつは飲みつけたら、ほかのビールは飲めないよ」
「へーえ。俺は黒ラベル≠セ。たいして違わないと思うけど」
ミニスカートの食事係が口を挟んだ。
「それでは二本ご用意します」
食事係が室内の小型冷蔵庫から中瓶のビールを二本出して、コップと一緒にテーブルに並べた。
ビールを飲んでいる間に料理が運ばれてきた。
「たしかにこけおどしのメニューらしいねぇ。前菜の味つけは、いまいちだよ」
「いけるのはしゃぶしゃぶだけだって」
竹中が壁の貼り紙を見た。
「越乃寒梅∞八海山∞一ノ蔵∞天狗舞=B美味《おい》しい冷酒ばっかりだねぇ。僕は八海山≠いただこうかな。よっぽど水が良質なんだろうな。それと最高ブランドのコシヒカリ≠使ってるんだろう」
「俺は、冷酒はやめとこう。この店は水割りにしたほうがいいと思うよ」
ウイスキーボトルを見上げながら、杉本はにやけ面をいっそうゆるめた。
「いや八海山≠ノする。おねえさん、お願いします」
「しょうがねえなあ。俺も一杯だけつきあうか」
八海山≠飲んでいるときに、若い女が一人あらわれた。
女優の斉藤由貴を一回り大柄にしたような女で、面も躰《からだ》も申し分ない。色白で髪型はソバージュ。竹中と杉本を左右に見る位置に横座りになって、女が言った。
「ミホでーす。ご指名ありがとうございます。チップはどうしますか」
「店からもらってくれ。一万円のコースでいいぞ」
杉本はミホから竹中へ視線を移した。
「チップは五千円と一万円とあるんだ。こんな美形ばっかりと四十人も契約してるっていうから驚くよ」
ミホが、ブラジャーを外したのでいきなりボリュームたっぷりのオッパイが飛び出した。
黒いコルセット状のもので下から押し上げているせいもあるのか、オッパイの形は見事なものだ。
「パンティを脱がして」
「おまえにやらせてやるよ」
「いや、遠慮する」
ミホは起ち上がり、スカートをまくり上げて、杉本に接近した。
杉本は手慣れたもので、スカートの中に頭を突っ込んで、ピンク色のショーツをゆっくりと下へおろした。
白いミニスカートは紙みたいに薄くてぺらぺらしていたが、ミホはスカートは脱がなかった。
「さっそく水割りをたのむとするか」
「リザーブ≠ニハーパー≠ヘ無料サービスになってますが」
杉本が頭上のボトルを指差した。
「バランタイン≠ェいいな。十七年ものだろ」
ミホがグラスを持って、ボトルに手を伸ばした。小さな機械音が聞こえた。
センサーが作動して下から風が送り込まれ、スカートがまくれ上がって陰毛が露出する仕掛けである。
「タッチはルール違反なんだ。だからよけい欲求不満になって、帰りにこの辺のソープランドで放出しないと気が済まないやつもいるわけよ」
「こいつにも水割りをつくってやってくれよ」
オッパイはつねに丸出しだが、下半身は水割りをつくらせないと見えないのだろうか。竹中はそう思ったが、水割りを飲んでいるときに、度肝を抜かれた。
ストリップ顔負けの大股《おおまた》びらきが始まったのだ。全裸ではないのに、妙に迫力があった。それだけではなかった。テーブルのケーブルテレビに性器が映し出されたのだ。
もっとも肉眼で実物が見えるのだから、ケーブルテレビの迫力はさしたることはなかった。
しゃぶしゃぶを食べながら杉本が講釈した。
「これがノーパンシャブシャブの醍醐味《だいごみ》よ。五千円のチップじゃ、中までは見せてくれねえんだ。おまえ、オチンチン起ってきたか」
「ダメだ。きのうからショックで不能になったらしい。朝起ちもない」
「俺はパンパンに張って、いまにも破裂しそうだよ。羽目を外すときは徹底的に外さなきゃあ。よく学びよく遊ぶ。そうでないと出世できねえぞ」
「渉外班≠ナ、一選抜から脱落したと思ったが、次の次の次の頭取候補が常務に取り立ててやるようなことを言ってたねぇ」
「間違いない。佐藤明夫の次は必ず俺がなる」
杉本が傲然《ごうぜん》と言い放ったとき、ドアが開いた。
「おはようございまーす。マキでーす」
コンパニオンが二人になった。
ショートカットの髪型で、普通の身なりをしていれば、そこらのOLと変わらないが、マキも相当なグラマーである。
ミホとマキが形のよいオッパイを張り合うように露出させて一緒にいた時間は二十分ほどで、後半のコンパニオンはマキが務めた。
「この女《こ》はおまえのインポを治してくれるかもな」
「ウッソー。この人インポなの」
「一過性だと思うが、こいつはそう言ってるよ」
げらげら笑いながら、マキが言った。
「けっこう好きそうな顔してるじゃん」
「おっしゃるとおりで、女は嫌いじゃないが、この人のお陰でインポになっちゃったんだ」
竹中は笑いながら杉本を指差した。
「マキちゃん、さっそくバランタインで水割りをつくってよ」
マキはひとりでショーツを脱いだ。しかもスカートをまくって、「見て」と、竹中の眼前に突きつけたのだ。竹中はのけぞった。
「起ってきた? タッチするわけにも、されるわけにもいかないんだけど」
「いや。無理に起たせることもないでしょう」
水割りを二杯つくったあとで、マキも性器を見せた。
「これ小陰唇。わかる」
竹中は小さくうなずいた。
杉本が臭いを嗅《か》ぐように、鼻をくんくんさせて言った。
「ガキのオチンチンみたいに垂れ下がってるのはほかにないかもなあ」
「そう名器よ。ひろげると、こうなるわけ」
「なっ、凄《すげ》えだろう。これで起たないようじゃ、見通し暗いぞ」
「ああ、見通し暗いようだ」
竹中は、奇怪というか奇形というべきか、変なものを見せられて逆に萎縮《いしゆく》していくような気分だった。
「この人ほんとにインポなのかもね。ショーツをどうしても欲しいと言って、まるめて口の中に入れちゃった人もいるのにねぇ」
マキは不思議そうな顔で竹中を見つめた。
二人がろうらん≠出たのは八時だった。
「どうする? お風呂《ふろ》もサービスしてやろうか」
「いいよ。もう食傷だ」
「ほんとにいいのか」
「うん。俺は電車で帰るから、杉本は好きなようにしたらいいよ」
「じゃあ車を呼ぼう」
杉本は、携帯電話を携行していた。
ハイヤーは近くで待機していたようだ。三分足らずで迎えにきた。
走り出したハイヤーの中で竹中が言った。
「MOF担が寄ってたかってMOFの官僚を悪くしてるような気がしてきたよ。ノーパンシャブシャブ≠ヘ悪ふざけが過ぎるんじゃないのか」
杉本はあからさまに厭《いや》な顔をした。
「おまえ、若年寄みたいなこと言うんじゃねえよ。持ちつ持たれつ。それでいいじゃねえか」
「過剰接待がさらにエスカレートして、感覚が麻痺《まひ》してしまう。それでいいんだろうか」
つぶやくように言って、竹中は口をつぐんだ。
長い沈黙を杉本が破った。
「一週間でレポート出してくれよな」
「約束できないね」
「中間報告でいいんだ。ことは急を要する」
「たとえばの話、俺がサボタージュしたら、どうなる。有給休暇が何十日も残ってることだしねぇ」
「やれるものならやってみろよ。それで、おまえはおしまいだ。佐藤秘書役に睨《にら》まれたらどういうことになるのかわかってるのか」
杉本は凄《すご》んだ。
「頑張ってください」と言ったときの柔和な佐藤の顔が眼に浮かんだ。竹中は「カミソリ佐藤ねぇ」とひとりごちて、ぞくっと身ぶるいした。
「きみは三人限りの話だと言ったが、そんなことは不可能なんじゃないのか」
「どうして」
「だって川口正義が、会長のお嬢さんとのことを吹聴しないという保証はないわけだよねぇ」
「切り札を簡単に切る莫迦《ばか》はいないんだ。カードは切ってしまったらカードじゃなくなる。段平も抜いたら最後、減価してしまう。抜くぞ抜くぞと言ってて抜かないから怖いし、価値があるわけよ。川口正義は利口者に違いない。カードを切るようなヘマはしないだろう」
「会長のお嬢さんのほうはどうかねぇ」
「たしかにこっちのほうが心配だけど、会長の立場をわきまえてれば、暴走することはないと思う。会長にも、川口との間に男女関係が生じたとは言ってないんだ。離婚したいとは言ってるらしい。それで会長は察しがついたわけよ」
「何度も言うけど、きみの家来になるつもりはないが、やるっきゃないか」
「そう。やるっきゃないんだ。特殊任務が終わったら旨《うま》い酒が飲めるよ」
ハイヤーが首都高速4号線の永福町口に差しかかったとき、杉本が言った。
「上北沢へ行ってくれ」
「いや。頭取候補お先にどうぞ」
「まだ宵の口だし、雨が降ってるから、おまえん家《ち》の前まで送ってやるよ」
「重たいゴミもあることだし、じゃあお言葉に甘えるよ」
それがいけなかった。竹中が富士見ヶ丘の杉本のマンションを先にするんだった、と悔やんだのは、わずか十分後である。
杉本が竹中宅に上がり込んできたのだ。
「美人の奥方に挨拶《あいさつ》していこう」
「けっこうだ。あしたはMOFの人とゴルフで早いんだろう」
「まだ九時前じゃない。五分か十分どうってことないよ」
杉本は強引だった。
ブザーを押すと知恵子がドアをあけた。ブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織っていた。
「ただいま。お客さんだよ」
「杉本です。こんばんは」
「あら、杉本さん。お久しぶりです。どうぞどうぞ」
知恵子はショートカットの髪を手で撫《な》でつけながらにこやかに言った。
杉本は結婚式で司会を務めてくれた。若かりしころの杉本は、ぎらぎらしてなくて好感がもてた。
「こんな閑静なお屋敷街で大邸宅に住める竹中は恵まれてますよ。竹中は間違いなく常務にはなりますから、協銀の常務に相応《ふさわ》しいお家ですよねぇ」
「大邸宅なんてそんな。ウサギ小屋ですよ。五十坪しかないんです。建て替える前は邸宅でしたけど」
「五十坪も。ウチのマンションはわずかその半分です。このリビングが値打ちがありますよねぇ。二十坪はあるでしょう」
「ええ。ちょっとしたパーティぐらいはできますのよ。どうぞお座りください」
杉本は壁を背にして長いほうのソファに脚を投げ出すように座った。
「あなた、ウイスキーの水割りでよろしいの」
「アルコールはもういいよ」
「じゃ、せっかくですから、一杯いただきます。こんな美人のホステスは、銀座にもいませんから」
歯の浮くようなお世辞とわかっていても知恵子はうれしそうだった。
「こんな薹《とう》の立ったおばさんつかまえて、杉本も調子がよすぎるぞ」
「いやいや三十代前半で通るよ」
弾んだ声で知恵子が言った。
「こうなったら三十年もののバランタイン≠けちゃいます」
「うん。あけろよ。頭取候補をもてなすにはまあまあの代物だろう」
「もっと安いのでいいよ」
「どうせワイフの親父から回ってきたものなんだ。遠慮することはないよ。もっとも天下のMOF担には珍しくもないだろうけど」
「まあな。高級クラブでルイXIII≠ネんてしょっちゅう飲んでるからな」
知恵子が洋酒棚から焦げ茶色のボトルを取り出し、グラスとアイスボックス、ミネラルウォーターなどをセンターテーブルに並べた。
竹中がレッテルにVERY OLD SCOTCH WHISKY∞AGED30YEARS≠ニ印刷してあるボトルを手元に引き寄せた。
知恵子がおつまみのチーズやナッツを用意している間に、竹中が水割りをつくった。
「奥さん、竹中の栄転を祝って乾杯しましょう」
「ほんとに栄転なんですか。この人、なんにも教えてくれないんです」
「もちろんですよ。わたしが保証します」
「きみが人事部長なら、そんな気になるかもしれないけど、いくらMOF担でもマユツバもいいところだよ」
「ほんとうはどうなんですか」
向かい合う形で、竹中の隣に座った知恵子に見上げられた杉本は、含み笑いをして見返した。
「奥さん、わたしを信じてください。人事部長より何倍も実力者の頭取秘書役≠フ御墨つきですから」
「ふうーん。秘書役が次の次の頭取で、杉本が次の次の次の頭取は確実だけど、僕の常務は話半分、いや話十分の一だ」
「竹中は照れてるんですよ」
「あなた、ほんとに照れてるのね」
知恵子に覗《のぞ》き込まれて、竹中は渋面をいっそうしかめた。
「じゃあ、竹中の栄転を祝して乾杯しましょう」
「乾杯!」
「乾杯!」
竹中だけがむすっとした顔で発声せず、グラスを持ち上げた。
二杯目の水割りを飲みながら杉本が知恵子に訊《き》いた。
「お子たちは?」
「二階で勉強してます」
「上がお嬢さんでしたねぇ。何年生でしたっけ」
「白百合の高一です。演劇部で主役を張ってますから、学校では有名みたいです」
「奥さん似で絶世の美人なんですね」
「ええまあ」
「下はお坊ちゃんでしたねぇ」
「ええ。暁星の中二です」
「きみ、訊かれてもいないのに、余計なことをべらべらしゃべるんじゃないよ。みっともないぞ。主役を張ってるなんて、映画のスターじゃあるまいし。秋の文化祭に出るっていうだけだろうが」
竹中にたしなめられたが、知恵子はあっけらかんとしたものだ。
「いいじゃないの。わたしテニスクラブの仲間にも話してるわ。主役は事実ですもの」
「恥ずかしくて、人前には出せないな」
吐き捨てるような言い方になっている。今夜の竹中には知恵子のはしゃぎぶりが癇《かん》にさわった。
「竹中はシャイだからなあ。奥さん、自慢できる子供を持ってるっていうことは幸せですよ。ウチの坊主は麻布です」
竹中が苦笑しいしい言った。
「みろ、さっそく逆襲された。麻布と暁星じゃ、格が違うよな」
「いや、似たようなものだろう」
「きみん家《ち》の麻布は銀行中に轟《とどろ》いてるよねぇ。奥方のお茶の水も知られてるよ」
「お茶の水も聖心も同格だよ。俺もおまえも才媛《さいえん》の女房に恵まれて幸せだよなあ」
竹中が真顔で言った。
「なんとかシャブシャブの話をバラしたくなってきたよ」
「よせよ。ふざけるな」
「なんとかシャブシャブってなんなの」
「内緒内緒。仕事の話ですよ」
杉本は笑いに紛らせて、グラスに手を伸ばした。
杉本が引き取ったのは十時を回ってからだ。
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第三章 銀行総務部
二日続きの梅雨寒《つゆざむ》が一転して、七月三日の土曜日、東京地方は朝から抜けるような青空がひろがった。
竹中治夫は午後二時に外出した。
『週刊潮流』記者の吉田修平とパレスホテルのティールームで会うためだ。
竹中が吉田と知り合ったのは、虎ノ門支店副支店長の前任ポスト、広報部調査役時代の初期だから、五、六年前のことだ。
当時、吉田は産業経済社の看板経済誌『帝都経済』の記者であった。
産業経済社社長で『帝都経済』の主幹、杉野良治はマッチポンプ型の取り屋≠ニして経済界、産業界で悪名が高く、鬼のスギリョー≠フニックネームが示すとおり蛇蝎《だかつ》のごとく嫌われ、怖《おそ》れられてもいた。一流企業のトップたちが揉《も》み手スタイルでスギリョー≠フご機嫌を伺うほどだから、それなりに存在感はあったのだろう。
杉野は、企業のトップにインタビューするとき、直接本人に電話するか、広報部長や広報室長を平河町のオフィスビルにある産業経済社の主幹室に呼びつけて、アレンジさせるほど傲岸不遜《ごうがんふそん》な男だった。すべてはカネ次第で、カネのためには手段を選ばない。カネを出すまで『帝都経済』で叩《たた》き、出した途端に掌を返したように褒めちぎる。
政界にも顔を利かせ、現職の総理をパーティに招いて、臆面《おくめん》もなく杉野礼賛のスピーチをさせるほどの鉄面皮だったから、杉野の虚像に怯《おび》える財界人は少なくなかった。パーティで杉野を礼賛する軽い総理も非難されなければならないが、杉野の虚像に怯える財界人も多かれ少なかれ脛《すね》に傷を持っていたとも言える。
協立銀行も、総務部扱いで広告料、調査費、監理費などのわけのわからない名目で、年間二千万円以上のカネを産業経済社に支払っていた。
『帝都経済』は隔週で発行されていたが、協立銀行のケースを出すまでもなく銀行、証券、生保、損保の金融が最大のスポンサーだったと思える。
吉田修平はホットコーナーの金融を担当していたので、竹中は何度も取材に応じているし、飲み食いもしたが、けっこう勉強していて、教えられることのほうが多かった。『帝都経済』の記者にしては明るい性格で信頼感がもてた。取材力、筆力とも抜群で、スクープ記者でもあった。
『帝都経済』の記者は、杉野が凝っている新興宗教を強要されることと、取り屋%I体質が禍《わざわい》して、明るい性格でも暗くなってしまう面がなきにしもあらずだが、吉田だけは暗さに染まらなかった。
後でわかったことだが、クリスチャンの吉田は、筋を通して現世利益を説く変な新興宗教を拒みきったのだから見上げた根性である。
杉野は聖真霊の教≠フ女教祖、山本はなに入れ上げ、財界から掠《かす》め取った膨大なカネの何分の一かを信徒総代として教団に寄付していた。そして究極の宗教、産業経済社の守護神と崇《あが》め奉り、『信仰は勁《つよ》し』なる本まで書いて、誰かれなしに聖真霊の教≠PRしていた。ところが、山本はなの霊験あらたかならざるお告げのいい加減さに、さしもの杉野も見切りをつけたのである。
そのきっかけをつくったのが吉田だった。
命令に従わない吉田を懲戒解雇しようとした杉野は、逆に吉田から手ひどいしっぺ返しを受けることになる。
吉田は「配転命令効力停止仮処分申請書」を裁判所に提出したのだ。あわてふためき、うろたえた杉野は裁判所の和解勧告に従い、吉田に四百五十万円の和解金を出す体たらくであった。このときのお告げも見事に外れた。
しかも、ゴルフ場会員権の乱発事件をめぐるトラブルに巻き込まれた杉野は、お告げに頼って、容疑者をお山と称する聖真霊の教≠フ本部にかくまうが、司直の手が身辺に及びそうになったため、ついに山本はなと袂《たもと》を分かったのだ。
よろこんだのは産業経済社の社員である。
杉野に大恥をかかせて男をあげたのに、吉田はそれを吹聴することもなく、静かに社を去り、『週刊潮流』の記者になった。
いくら拍手|喝采《かつさい》しても、したりない――。
鬼のスギリョー≠ノいたぶられたり、むしられ、しぼられた人たちは、吉田に手を合わせて拝みたくなったに相違ない。むろん竹中もその一人だった。
竹中がふと吉田の童顔を思い出したのは、昨夜、杉本が帰った直後、トイレで放尿しているときだ。
吉田修平なら相談に乗ってくれ、知恵も出してくれるに相違ない――。竹中はすぐに吉田の自宅に電話をかけた。
吉田は留守だったが、夫人が親切に「折り返しお電話を差し上げるように致します」と言ってくれた。
ポケベルで連絡を取ったのだろう。吉田は六分後に電話をかけてきた。そして、きょう三時に会うことになったのである。
京王線、都営新宿線、都営三田線を利用して、自宅から大手町のパレスホテルまで一時間はかからなかったので、竹中は十分ほど待たされた。
ティールームは土曜日にしては混んでいた。
吉田は三時ぴったりにあらわれた。
頭髪をやや短めに刈り、童顔のせいか、まだ大学生でも通りそうだ。吉田が重そうなショルダーバッグを足元に置いた。
「お待たせして申し訳ありません」
「とんでもない。お忙しいのにお呼びたてしまして、申し訳ないのはわたしのほうです」
竹中はレモンスカッシュを飲んでいたが、吉田はアイスコーヒーをオーダーした。
「一時間しか取れないということですから、さっそく用件を話しますが、吉田さんは川口正義という人物をご存じですか」
「川口正義ですか。いやあ……。どういう種類の人ですか」
「横浜で結婚式場を経営してることと、絵画のブローカーをやってることを聞いてます。年商五億円以上の企業でしたら、帝都データバンクと各支店ともオンラインで直結してますから端末を叩けば業績などのデータが立ち所に出てきますが、結婚式場といっても、小規模な個人営業なものですから。実は……」
嘘《うそ》をつこうとしている負い目で、竹中は伏眼になった。
「虎ノ門支店に融資を求めてきたのですが、ちょっといわくがありまして。わたしは電話でも話しましたけど、本店勤務になりましたので、後任にまかせればいいのですが、なにぶんにも貧乏性なものですから心配なんです」
「いわくって、どんないわくですか」
「名前はご勘弁願いますが、某高官なんです。虎ノ門支店は官庁とお取り引きしている関係で、けっこうそんなのが多いんです。マル暴がらみではないと思うんですが……」
「つまり川口正義さんに関する情報が知りたいっていうことですね。協銀の総務部でわかるんじゃないんですか」
「本部に知られたくないんです。バブルがはじけて以来、審査が厳しくなってますが、わたしはあんまり萎縮《いしゆく》するのもどうかと思ってます」
「マル暴がらみかどうかはすぐわかると思いますけど。来週の火曜日まで時間が取れませんが、水曜日以降でよろしければお手伝いできると思います」
「ありがとうございます。助かります」
「川口正義さんの住所を教えてください」
竹中は、杉本から手渡されたメモを便箋《びんせん》に書き取ってきたので、それを小さなテーブルにひろげて置いた。
「住民票を取って戸籍をあげてみましょう」
「吉田さんがご自分で……」
「つきあいのある司法書士に頼むんです。本名、生年月日、本籍がわかれば、前科の有無を調べることは簡単です。マル暴と総会屋関係は警視庁四課の所管ですが、懇意にしているおまわりさんに頼めば、マル暴も企業舎弟もコンピュータにインプットされてるので、一日で調べられます」
吉田は背広を脱いで膝《ひざ》の上に置いた。そしてハンカチで顔と首の汗を拭《ふ》きながら、ウエイターが運んできたばかりのアイスコーヒーをストローですすりあげた。
「あのう、結婚式場と自宅の登記簿謄本もお願いできますか」
「いいですよ」
吉田はあっさり引き受けてくれた。
「水曜日の夜お目にかかれますかねぇ」
「ええ。この程度の調査なら一日でできます。いいですよ」
「七日水曜日の夜七時に、このホテルの地下二階に和田倉≠ニいう店があります。わたしの名前で部屋を取っておきます」
「わかりました」
吉田は白い歯を見せて、にこっと笑った。
竹中はここ二、三日の暗澹《あんたん》とした憂鬱《ゆううつ》な気分が吉田と会ったお陰で、晴れていくような感じになっていた。
七月五日月曜日午前八時に竹中は大手町の協立銀行本店ビルに出勤した。
地上二十四階、地下三階の威容を誇る協立銀行本店ビルは昭和五十五年に竣工《しゆんこう》した。協立銀行系列の関係企業も含めて約四千五百人を呑《の》み込むマンモスビルである。総務部は十三階フロアを占めていた。管理部門、管財部門、渉外部門など人員は約三百人。管理部門の中には運転手、警備要員、保守保安要員、受付要員、全国に点在するゲストハウスや保養所の従業員なども含まれている。
個室組は取締役総務部長と渉外班≠フ嘱託三人の計四人。
嘱託三人は警察関係のOBで、いずれも警部以上、一人は元警視だ。年収七百万円〜八百万円だが、毎日出勤してくるわけではない。個室を与えられているのは、来客が多いし、外聞を憚《はばか》る電話もあるのだろう。
渉外班≠フフロアは壁に遮られた北側の一画にあった。陣容は、総務部付部長の高木浩三、副部長の野田幸一、主任調査役竹中治夫、調査役四名(永田道弘、林紀男、内田勝二、沖野宏造)、女子行員二名(宇野和枝、梅津みどり)の合計九名。嘱託を含めれば十二名である。
取締役総務部長の吉岡健は南側の管理部門に個室があるので、渉外班≠ノ顔を出すことはない。十三階で渉外班≠フフロアだけがよそよそしく暗い雰囲気を漂わせていた。
それは竹中の先入観かもしれないし、偏見かもしれないが、いかがわしい人たちを相手にするため、竹中に限らず、とかく周囲からダーティ・イメージがつきまとうように見られがちであった。
竹中は広報部時代に何度か渉外班≠ニ接触したことがあるので、その暗さを肌で感じていたが、まさか自分がどっぷり浸る羽目になろうとは思わなかった。
杉本の言う特殊任務、特殊プロジェクトなら、渉外班≠ノデスクを置く必要はなかったのではないのか。
たとえば管理部門だって、いっこうにかまわないはずではないか――。竹中は未練たらしくそう思うが、渉外班≠ェ最も秘密を保持しやすい部署であることは認めざるを得なかった。
なぜなら、銀行本来の業務に全く関与せずに、遮断され隔離されている別世界だからだ。
渉外班≠フ出勤時間は八時半で、虎ノ門支店より一時間も遅いことが唯一のメリットであることを初出勤で竹中は認識した。
考えてみれば営業第一線から本店勤務に戻ったのだから当然のことで、広報部時代も八時半出勤だった。
企画部のMOF担は九時半か十時ということだから上には上がいる。しかし一時間の時間差はありがたい。
調査役グループと女子行員のデスクが六つ固まってあり、窓を背に部付部長席と副部長席があるが、竹中は自分のデスクがすぐにわかった。副部長席よりもちょっと固まりに近い窓際のデスクがきれいに片づいていたことと、ポケベルと名刺箱が一つ置いてあったからだ。
八時半に嘱託三人を除く全員が揃《そろ》ったところで、高木が竹中を紹介した。
「主任調査役の竹中治夫さんです。渉外班≠フメンバーの名前はおいおい覚えてください。竹中さんは皆さんとはちょっと違う仕事のようですから、渉外班≠フ戦力としてカウントできません」
「竹中です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
言葉で挨拶《あいさつ》したのは永田だけで、あとの七人は目礼しただけであった。
高木、野田、永田の三人は、数年前から渉外班≠ノ席を置いていた。
高木は地方の国立大学を出ている。野田と永田は高卒だった。
協立銀行では昭和六十年まで、優秀な男子の高卒を採用していたので、総務部は渉外班≠ノ限らず高卒が多い。
高卒の行員は支店勤務が圧倒的多数を占めているが、本店で調査役ポストに就く者は、たとえ渉外班≠ニはいえ相当能力を買われていると見てよい。中には大学卒よりも出世し、支店長にまで昇り詰める行員も存在する。
デスクの前でボケッとしていた竹中は背後から肩を叩《たた》かれて、ぎくっとした。上体をひねって見上げると、高木だった。
「総務部長に挨拶しておいたらどうかな。あとは必要ないからね」
「気がつきませんで」
竹中はさっそくエレベーターホールを挟んで南側のフロアに出向いた。
九時を過ぎたところだが、吉岡は在席していた。
「虎ノ門支店から替わることになりました竹中です。お世話になります」
「よろしくお願いします」
吉岡は起立して、丁寧に頭を下げた。
しかしデスクを離れようともしなかったし、ソファをすすめようともしなかった。
メタルフレームの奥から金壺眼《かなつぼまなこ》を一度投げてきたが、着席して書類に眼を落とした。
竹中は途方に暮れる思いだったが、退散するしかない。
「失礼しました」
吉岡は小さくうなずいただけで、返事はなかった。
九時を過ぎると電話が鳴り始める。初めに電話に出るのは宇野和枝と梅津みどりに限られ、男性は誰も受話器を取らない。
和枝は四十七、八歳、みどりは四十二、三歳だ。二人とも独身である。制服が痛々しく見える年齢だが、口数は少ないし、やっぱり性格は明るくないように思える。
交換台を通してかかってくる電話と、一階の受付からの行内電話の二種類あるが、後者の場合は、直ちに担当調査役が椅子《いす》に着せてある背広を抱えて一階へ降りて行く。渉外班≠ヨの来訪者を十三階のフロアに上げることはあり得ない。一階のロビーで面会する。
アポイントメントの有無に関係なく、来訪者と丁寧に鄭重《ていちよう》に応対するのが渉外班≠フ基本的なスタンスである。
総会が終了したばかりなのに渉外班≠ェかくも多忙とは竹中は夢想だにしなかった。
部付部長から女子行員まで、全員がサンづけで呼んでいることだけは新鮮な感じがした。
調査役同士の横の連絡はほとんどない。私語さえもあまりなかった。
守備範囲が決まっているのだろう。黙々と仕事をこなしている。自分たちでムードを暗くしているような気がしないでもなかった。
連日送り込まれてくるおびただしい郵便物の仕分けも調査役たちでやっている。新聞あり、雑誌あり、パンフレットあり、封書で送りつけてくる檄文《げきぶん》あり。すべてに眼を通しているのは言いがかりや因縁をつける口実を与えないためと思える。
竹中は九時半を過ぎたころ、高木の前に立った。
「水曜日まで虎ノ門支店の引き継ぎに充てようと思います。木曜日の朝に参ります」
「そんなこと断るまでもないですよ。竹中さんは自由に存分にやってください。内容は極秘だそうですが、難しい仕事のようですね。取締役総務部長でさえも、なんのことかわからないと言ってましたよ」
「いずれお話しできることがあるかもしれませんが」
竹中は一揖《いちゆう》して自席に戻った。
ポケベルをベルトに付けるかどうか迷った。ポケベルをあてがったのは杉本に決まっている。押しつけがましいし、いまいましくもあるが、竹中は結局それをベルトに装着した。
竹中は午前十時に虎ノ門支店に顔を出すことを、日曜日のうちに後任の副支店長、丸山市郎に電話で伝えてあった。
三日間では不充分だが、メインの取引先だけでも丸山と二人で挨拶したいと考えたのである。
立つ鳥跡を濁さず、ともいう。本来なら引き継ぎに最低一週間は必要だが、緊急事態が発生したのだから仕方がない。
六日の夜七時を過ぎたころ、ポケベルが鳴った。発信者は杉本に決まっている。
竹中はすぐ電話をかけた。
「もしもし……」
「杉本だけど、いまどこにいるんだ」
「虎ノ門支店だけど」
「おまえ、いったいなにを考えてるんだ。支店の引き継ぎなんて、どうだっていいじゃないか。おまえ、まさかサボタージュじゃないだろうな」
竹中は声量を極端に落として、静かに言い返した。
「ちょっと差し出がましいんじゃないのか。だいたい例のプロジェクトは俺にまかせたんだろう」
「今週から早速取りかかって欲しいと言ったはずだよな」
「承知している。そのために休日も返上していろいろやってるんだ」
「今週中にレポート間に合うのか」
「そのつもりだ。俺なりの流儀でやらせてもらう」
「佐藤秘書役が心配してたが、間に入ってる俺の立場も考えてくれよ。俺の目矩《めがね》違いなんてことにならなければいいが」
「目矩違いねぇ。きみが大先輩に見えてきたよ。とにかくおまかせ願いたい」
言いざま竹中は電話を切った。
「目矩違い」という言いぐさはない。あの野郎何様のつもりだ。MOF担の驕《おご》りというよりも人間性の問題である。あんなやつが頭取になったら、協立銀行を危うくしかねない――。
険しい表情の竹中に、二年後輩の丸山はおろおろした。
「電話どなたですか」
竹中は自嘲《じちよう》気味に照れ笑いを浮かべた。
「MOF担の杉本。いまや俺は杉本の配下にあるらしいんだ。なんだかんだ指図してくるんで頭にくるよ」
「なるほど、杉本さんですか。あの人が肩で風切って歩いてるのは有名ですよ。よく言えば親分肌なんですかねぇ」
「相当無理をすればそうも言えるけど、あんまり友達にはなりたくないな。入行店が同じ札幌で、よく遊んだ仲だけど」
「でもわたしの同期の中にも杉本さんを評価してる者は多いですよ。将来の頭取候補なんて言ってるやつもいます。そういうやつは杉本さんに媚《こ》びを売ってるんじゃないですか」
「へーえ。きみはどうなの」
「わたしなんか相手にしてくれませんよ。あの人は東大至上主義ですから」
丸山は一橋大学の経済学部を出ている。
「そうなると早稲田の俺なんかゴミみたいなもんだな」
「ご冗談でしょう」
「杉本のことは忘れてくれ。俺があいつの子分だなんて言いふらしたら承知しないぞ」
冗談めかして言ったが、竹中は半分本気だった。
「ゴミで思い出した」
竹中は丸山のデスクの下にある二つの紙袋を引っ張り出した。
「さあ行こうか。だいぶ遅刻しちゃったねぇ」
烏森《からすもり》に向かうタクシーの中で丸山が言った。
「お取引先から、竹中さんのことをいろいろ訊《き》かれます。本店総務部でどんな仕事をするのか、とか……。どう答えたらいいのか、難しいですよねぇ」
「渉外班≠ナ総会屋対策をやらされるでいいよ。別に隠すことでもないしねぇ」
「虎ノ門支店にあと一年はいてもらえると期待されてたんじゃないんですか」
「俺なんかよりもっとエース格の丸山が後任なんだから、お取引先の皆さんも安心するんじゃないかな」
「なにをおっしゃいますか」
七時から烏森の焼き鳥屋で、支店の若手有志が二人の歓送迎会をやってくれることになっていた。取引先の昼の会食も含めて、これで歓送迎会は五回目だ。
七日の夜、東京地方は小雨が降った。
竹中はパレスホテル地下二階の和田倉≠フ小部屋を予約しておいた。入り口に小さな暖簾《のれん》がかかった椅子《いす》席である。
広報部時代から使っていたので、ツケが利く。
七時五分前に吉田修平がやってきた。相変わらず重たそうなショルダーバッグを下げていた。
吉田はいつもスーツ姿で、きちっとした身なりをしていた。
「いろいろありがとうございました。お手数をおかけして申し訳ありません」
「いやあ、たいしたことじゃないですよ」
吉田は着席するなり、バッグの中から茶封筒を取り出して、テーブルに置いた。
「前科《まえ》はありません。四課のブラックリストにもありませんでした。つまり、マル暴でもブラックでもないことになります。しかし、普通の庶民じゃないですよ。食わせ者っていうか、あぶなっかしいところは多々あります」
「具体的になにか……」
「横浜の結婚式場も、邸宅も二重、三重に抵当権が設定されてます。絵画投資で穴をあけたんじゃないでしょうか。マル暴に威《おど》かされてる可能性は高いと思います。つまり危ないカネに手をつけたっていうことでしょうねぇ」
「家庭環境はどうでしょうか」
「住民票と戸籍謄本をご覧ください。家族構成は女房と高二の長男の三人で、長女は結婚してます。長男は暴走族でほとんど登校してないようです。川口正義の私生活も乱れてると思いますよ」
「私生活が乱れてる?」
「家に帰らないことが多いようです。シルバーグレーの最高グレードのベンツを乗り回してるから目につくんですよ。近所の人が駐車場にベンツが止まっていないことが多いって、話してました」
「横浜まで行ってらしたんですか」
「ええ。邸宅も見てきました。一億はしないと思いますけど、不動産屋なら豪邸≠チて言うんじゃないですか。もちろんベンツは家にも結婚式場にもなかったです」
着物姿の若い仲居がメニューをひろげて遠慮しいしい声をかけた。
「お料理はいかが致しましょうか」
「会席で、これをお願いします」
星観∞宴∞松籟《しようらい》≠フ三種類あり、各二万五千円、二万円、一万五千円の料金だったが、竹中は宴≠指で示した。
「小瓶だから、サントリーモルツを四本お願いします」
話に夢中で、ビールをオーダーするのも忘れていた。
「いただきます」
「ほんとうにありがとうございました」
ビールをぐっと飲んで、吉田が言った。
「融資はたとえ高官の紹介でもおやめになったほうがいいと思います。担保能力ゼロどころかマイナスですからねぇ」
「おっしゃるとおりです」
「その高官っていうのが気になるんですけど、川口正義をフォローしていいですか」
「ご容赦ください。わたしのクビが飛んでしまいます」
竹中は右手と首を激しく左右に振った。『週刊潮流』にスクープされたら、えらいことになる。
「いくらなんでもクビになるなんてことはないでしょう。おそらく川口正義は、協立銀行以外にも、その高官を通して融資話を持ちかけてると思うんです。竹中さんに迷惑をかけることにはならないんじゃないですかねぇ」
吉田は首をかしげて話をつづけた。
「高官ってひょっとすると政治家じゃないですか。大臣だったら、政府高官って言えますよねぇ」
「いいえ。吉田さん、お願いですから、このことはご放念ください」
竹中は手を合わせて拝むようなポーズを取った。
吉田が川口と雅枝のことを嗅《か》ぎつけたら万事休すである。川口の存在は吉田の好奇心をそそったようだ。そうでなければ、自ら横浜まで足を運ぶとは考えにくい。
吉田の力を借りたことが裏目に出ようとしている――。竹中は必死だった。
「お願いします。わたしに免じて本件はご放念ください。もちろん融資は断ります。七月一日付で本店勤務になったんですが、後任の者にきちっと本件を引き継ぎます。それで終わりです。言いにくいのですが、わたしは総務部の渉外班≠ナ、総会屋対策をやらされることになりました」
竹中は名刺入れから新しい名刺を一枚抜いて、吉田に手渡した。
「名刺の肩書には渉外班≠ニは書いてませんが、そういうことですから、今後なにかお役に立てることもあると思うんです。本件はきょう限りで忘れてください」
「竹中さんがそこまでおっしゃるんなら、引き下がりますよ。なんだか釈然としませんけど」
「ありがとうございます」
料理が運ばれてきた。
吉田はアルコールにめっぽう強い体質である。ビールのあとは冷酒になった。
「あっ、忘れるところでした」
竹中が背広の内ポケットから白い角封筒を取り出して、テーブルに置いた。
「ほんの些少《さしよう》ですが……」
「なんですか」
「お車代っていうか、交通費です」
吉田は童顔をしかめた。
「ご冗談でしょう。お車代なんていただくいわれはありませんよ」
「そうはいきません。こんなことで一日|潰《つぶ》して、只《ただ》ってことはないと思います」
封筒の中に十万円入っている。竹中は家計をまかされていた。知恵子がやりたがらないのだから仕方がない。
十万円の捻出《ねんしゆつ》は容易だった。
「渉外班≠ヘこの程度のことはどうってことはないんです。元へ戻すことは困難ですから、お収めいただけませんか」
「わたしを総会屋と間違えてるんじゃないんですか。『帝都経済』時代だったらポケットに入れてたかもしれませんけど……。今夜ご馳走《ちそう》になってるんですから、これで充分です」
吉田は自尊心を傷つけられたと言わんばかりだった。
「どうしてもダメですか」
「ええ」
「大きな借りができてしまったようですねぇ」
「竹中さんに貸しをつくったとしたら、川口をフォローできないことですけど、この埋め合わせはしていただけると期待して、本件は諦《あきら》めます」
「ありがとうございます」
竹中はもう一度低頭して冷酒の酌をした。
翌朝、竹中は自宅でワープロを叩《たた》いて川口正義に関するレポートをまとめた。
早起きの習慣がついているので、ワープロを叩く時間はいくらでもあった。
八時半に出勤したが、午前中は虎ノ門支店の引き継ぎ関係で、丸山と部下の課長から四度も電話があったので、手持ち無沙汰《ぶさた》ということはなかった。
「副支店長の判断にまかせたらどうなの。僕にいちいち意見を聞くまでもないだろう」
課長の関口の細かさと、気の利かなさに、竹中はむかっ腹で厭《いや》みな言い方もしたが、小声で話しているので誰もこっちを気にしなかった。
竹中は、杉本にこっちから連絡するつもりはなかった。向こうからなにか言ってきたら、レポートを提出するまでだ。
渉外班≠フ面々が昼食で外出することは皆無に近い。全員が二、三人ずつ連れ立って十四階の行員食堂で摂《と》る。
竹中は永田を昼食に誘った。永田は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「わたしと一緒じゃ不都合ですか」
「そんなことはありませんけど」
「いまやらされてる仕事が終われば、どうせ本物の渉外班≠ノ仲間入りするんですから、そう邪魔にしないでくださいよ」
「はい」
永田は竹中より二歳年長だが、四人の調査役の中では人なつっこいところがあるように思えた。メタルフレームの眼鏡をかけている。細い眼が優しかった。
「外へ出ませんか」
「それはちょっと。なるべく行内にいることが原則です。なにがあるかわかりませんので」
行員食堂は混んでいた。
竹中はシーフードのライスカレー、永田はチャーハン。
食事を摂りながら、二人はひそひそ話をした。
「数年前広報部で総会の手伝いをした経験はありますが、総会直後でもけっこう忙しいんですねぇ。わたしは、総会のリハーサルにも出ましたが、本チャンは二回ともシャンシャン総会でした」
「シャンシャン総会の是非は措《お》くとして、渉外班≠ヘ三百六十五日総会対策に明け暮れてますよ。旨《うま》い酒が飲めるのは総会が終わった日の一日だけです。オーバーに聞こえるかもしれませんが、一日たりとも心が安まりません。わたしだけじゃなく、ほんとうに安眠できないんです」
「総会屋のプレッシャーに泣かされているっていうことですか」
「もちろんそれもありますが、役員の女性問題やら、不良債権やら、行員の不祥事やら、トラブルのタネが尽きないってことですよ」
「考えすぎっていうことはありませんか」
「渉外班≠ノ入れば必ずそうなると思います。わたしは丸五年になりますが、末席のときは雑巾《ぞうきん》がけからやりました。先輩の調査役は、ほとんどなんにも教えてくれませんからねぇ。その点、竹中さんはうらやましいですよ。なんか特命事項のようですけど、主任調査役の仕事は高木さんと野田さんで分担してやってるようです。めったにこぼさない高木さんが、佐藤秘書役には逆らえないって、ぼやいてました」
高木は、佐藤と同期である。佐藤に対して屈折した思いがあるに違いない。
「気が安まらないのは、わたしも同じですよ。考えようによってはあなたがたよりもっとシビアな仕事を押しつけられて、腐ってます」
「でも、竹中さんは一選抜のエリートですから、われわれ下々《しもじも》とは違いますよ」
「とんでもない。一選抜が汚れ役をやらされるはずがありませんよ」
「そんな損な役回りなんですか」
「ええ、まあ」
竹中は小さくうなずいて、話題を変えた。
「渉外班≠フ雰囲気はどうして暗いんでしょうか」
「渉外班≠ノは、なにかしらうしろめたいような、白い眼で見られてるようなコンプレックスがつきまとうんです。つきあってる人たちが特殊ですからねぇ。実際、仲のよかった同期の友達が近寄らなくなりました」
「被害者意識が強すぎることはありませんか」
「竹中さんも、そのうちわかってきますよ。渉外班≠ェどんなところか」
「わたしから催促してるみたいでなんですが、歓送迎会みたいなことはやらないんですか。虎ノ門支店では短い間に五回もやってもらいましたけど」
「送別会は一度だけやりますが、歓迎会はありません。わたしのときもそうでした」
「ふうーん。それが渉外班≠フしきたりですか。ところで取締役総務部長は渉外班≠ニ距離を置いてるように思えますが」
「むしろ、渉外班≠フほうが気を遣って、部長を巻き込まないようにしてるんです。部長は行内の調整やらなにやらで忙しい人ですから、渉外関係の厄介なことは上げないように、高木さんや野田さんがブロックしてるんです」
「つまり総務部長が総会屋と会うことはないわけですね」
「もちろんです。右≠熈書き屋≠焜}ル暴とつながってるので怖いですよ」
「右≠チて右翼のことですか」
「ええ。純粋右翼なんてもういません。マル暴とつながってます。書き屋≠ヘ総会屋で、新聞なり雑誌なりを発行している人たちのことを、われわれはそう呼んでますが、ちょっと気の弱い人には渉外班≠ヘ無理ですよ。竹中さんの前任者は、人事部に見る眼がなかったんだと思います。この仕事はタフな神経とタフな体力の持ち主でないと、務まりません。改正商法は悪法だと思います。特殊株主への金銭の授受ができなくなったので、陰《いん》にこもるっていうか、特殊株主と渉外班≠フ関係に緊張感が倍加しました。ちょっと昔は頭取が大物総会屋と酒を飲んだりゴルフをしてたんですけどねぇ。そうした関係をいっぺんに断ち切れって言われてもねぇ」
「お車代もダメなんですか。十万円くらいまでならなんとでもなると思いますけど」
永田は返事をしないで、曖昧《あいまい》に薄く笑った。
「どうなんですか」
竹中がたたみかけたとき、永田のポケベルが鳴った。渉外班≠ヘ二人の女子行員を除いて全員ポケベルを携帯させられている。
「ちょっと失礼します」
永田はスプーンを置き、水をひと口飲んで食堂の出入り口の近くにある公衆電話へ走った。
三分足らずで戻った永田は、「お先に失礼します」と言い置いて、食堂から出て行った。
チャーハンがまだ半分残っていた。
竹中がライスカレーを片づけて席に戻ると、永田はいなかった。ロビーで接客中なのだろう。
竹中が切っておいたポケベルのスイッチを入れた途端にピーと鳴った。
言うまでもなく杉本だった。竹中は席に戻ってから、杉本に電話をかけた。
「食事ぐらいゆっくりさせてもらいたいねぇ」
「俺は四六時中電話を携帯してるぞ」
「MOF担と一緒にしないでほしいねぇ。きみはトップやMOFとの連絡があるから当然だろう。俺は渉外班≠ネんだ」
言い返しながら、永田がポケベルで呼び出されたことに思いがめぐり、竹中は肩をすくめた。
「レポートはどうなった」
「できたよ」
「そうか。いまMOFにいるが、これから昼食を摂《と》るから、そうだなあ、三時にホテルオークラのロビーに来てもらおうか。障子のある奥のほうにいるから」
「わかった」
竹中は、机の上を片づけて外出の仕度にかかった。
ギャラリー・みやび≠見ておこうと思ったのだ。
ギャラリー・みやび≠ヘ鈴木一郎会長の長女、三原雅枝が経営していた。
雅枝の亭主は一流の商社マンだと竹中は聞いた記憶があった。離婚したいと雅枝が言っていることが事実だとすれば、別居状態とも考えられる。
銀座通りに面したギャラリー・みやび≠ヘすぐにわかった。小さなビルの一、二階を占めていた。
たまたま二階は中堅洋画家の個展を開催中だったので、一般客にまぎれて絵を見にきたようなポーズがとれたのは幸いだった。
一階は事務所と画廊だが、ソファで接客中の女が雅枝だった。
眼鼻だちのはっきりした美人である。ドキッとするほど奇麗だ。二重瞼《ふたえまぶた》の眼と頤《おとがい》のあたりが父親似だ。
ジロジロ見入るわけにはいかないが、竹中は女の横顔をひと眼見て雅枝だと確信した。
話が終わったらしい。二人が起《た》ち上がった。雅枝はすらっとした長身で、一メートル六十五センチはありそうだ。
濃いアイシャドウと長い爪《つめ》の真っ赤なマニキュアが眼に沁《し》みた。
眼があったとき、雅枝が会釈した。竹中も目礼した。
竹中はひやかしの客を装って、ほどなく画廊を出た。
竹中が三時五分前にホテルオークラの回転ドアを押して、まっしぐらに奥のほうへ突き進むと、杉本がソファから起ち上がって、手を振った。
ビールでも飲んだのだろう。杉本は赤い顔をしていた。
「待たされると思ったのに、きみが先に来てるなんて珍しいねぇ」
「MOFの若いのとレストランで飯を食って、二十分も前に来てるよ」
「川口についてきょう現在わかったことをメモしておいた。住民票と戸籍謄本、それに結婚式場と邸宅の登記簿謄本も入ってる。読んでもらえればわかるが、ヤクザではないし、前科もないから普通の市民っていうことになるが、私生活は相当乱れているし、絵画投資に失敗して質《たち》の悪いカネに手をつけた可能性があるからヤクザとの接点があるかもしれない。多分にいかがわしい人物であることは間違いないだろうな」
杉本がレポートから顔をあげた。
「短時間でよくここまで調べたなあ」
「MOF担に尻《しり》を叩《たた》かれれば、このぐらいはやらざるを得ないだろう。ここへ来る前にギャラリー・みやび≠ノ立ち寄ってきたが、雅枝さんっていう女《ひと》は相当な美形だね」
「上智大学英文科出の才媛《さいえん》で、鈴木会長は眼の中に入れても痛くないほど可愛《かわい》がったお嬢さんだ。それだけに会長の心痛は察して余りあるよ」
「溺愛《できあい》してるとしても、いい齢《とし》をした大人の色恋沙汰《ざた》に親が介入できるんだろうか。前にも話したと思うが、ましてやわれわれに二人を引き裂くなんてできるはずがないと思うねぇ。それこそヤクザでも使って川口を威《おど》さない限り厳しいんじゃないのか。しかしそんなことをしたら、ヤクザに借りをつくることになるのでそれもできない。手の打ちようがないね」
「川口に対する融資はあり得ないと思うが、雅枝さんの眼を覚まさせることをなんとしても考えなければならない。おまえ、川口にぶつかってみてくれないか。ヤクザじゃないことがわかったんだから、怖気《おじけ》づくことはないものな」
「雅枝さんとご主人は別居してるのか」
「そのようだ」
「子供はどうなってるの」
「中三と中一の女の子が二人いるが、父親のほうが引き取ってて、雅枝さんは南麻布の頭取公邸にいることが多いらしい」
慶応義塾大学の元学長で高名な経済学者である和泉信太郎の旧邸宅を協立銀行が買い取り、改造改修して頭取公邸として鈴木が利用していた。
鈴木は会長になったが、明け渡す気はまったくないらしい。いずれ会長公邸に名称変更されることだろう。
「恋は盲目っていうが、子供も捨てて川口を取るってことは、よっぽど川口に魅《ひ》きつけるものがあるんだろうねぇ」
杉本が腕組みして言った。
「おまえが川口にぶつかったほうがいいのか、俺も判断に迷うところだ。佐藤秘書役に判断を仰ぐから、ちょっと待ってくれ。今夜中に電話をかける」
「川口にぶつかるのはいいけど、総務部主任調査役の名刺でいいのかね。融資話を受けてということにするんなら、虎ノ門支店副支店長の旧《ふる》い名刺を使うほうがいいと思うがねぇ」
「それはない。信用照会で渉外班≠ェ動くことはあり得るよ」
竹中も考える顔になった。
「それなら審査部だろう。信用照会はそのレポートで終わってるわけだから、融資話は使えないかもな」
「とにかく佐藤秘書役にこのレポートをお見せしてから、どうするか決めよう。会社に戻るのか」
「うん」
「じゃあ、車で送ってやるよ」
杉本はソファから起ち上がって、大きな伸びをした。
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第四章 頭取の娘
ここで話は三カ月余りさかのぼる。
三月十五日午後三時ごろ、ギャラリー・みやび≠ノ長身の紳士然とした中年男がぶらっとあらわれた。
この日午後、東京地方はみぞれまじりの雨が降り、肌寒かった。
通常、三原雅枝がギャラリーに詰めている時間は少なかったが、この日は一日デスクワークに充てて在席していた。
ギャラリー・みやび≠ヘ会社組織で従業員は七人。社長の雅枝を含めて八人体制だが、ギャラリーの多くは外商で成り立っている面が少なくないので、社長も外出していることが多いのだ。都銀の頭取が背後に控えているのだから、バブル崩壊後も、絵画ビジネスは比較的順調であった。親の七光がまだ輝いていたことになる。
中年男は、眼は切れ長で大きく、鼻も隆《たか》くて大きい。黒々とした豊富な髪を七三に分けている。渋い二枚目だ。
ギャラリーには女子従業員が一人いるだけで、ほかに客はいなかった。
壁に掲げられた絵画をためつすがめつ時間をかけて、ゆっくりと鑑賞している。
青い山の風景画に男はとくに時間を割いた。東山魁夷の横長四号の小品である。
「やっぱりこれにしましょうかねぇ」
男は右手で顎《あご》を撫《な》でながらつぶやくように言って、背後を振り返った。
いきなりギャラリーに飛び込んできて、絵画を購入する客はめったにいない。しかもギャラリー・みやび≠ノとって、最大の目玉商品である。
女子従業員がうろたえるのも無理からぬことだった。
「少々お待ちください。社長を呼んで参ります」
雅枝は男の後ろ姿を見て、ただ者ではないと思った。ベージュ色のコートがジョルジオ・アルマーニであることがわかったからだ。
「いらっしゃいませ」
「どうも。暖房が利いてますねぇ。コートを脱がしてもらいます」
「どうぞ」
雅枝は背後からコートを脱ぐのを手伝った。
「ハンガーにおかけして」
「はい」
女子従業員は手渡されたコートを事務室に運んだ。
ダークグレーのスーツも、ジョルジオ・アルマーニだった。
雅枝も女子従業員も、きりっとしたスーツ姿であった。
「ひところ一億はくだらなかったと思いますが、三分の一ぐらいになりましたかねぇ。絵画の下落ぶりはひどいことになってますでしょう。泣かされたんじゃありませんか」
「まったく無傷というわけには参りませんでしたが、わたくしどもは幸い絵画に投資する方とはお取り引き致しておりません。ほんとうに絵がお好きな方としかお取り引きしておりませんので、その点は……」
「さようですか。ご立派なご見識です」
ひき結んだ口から白い歯がこぼれた。
「東山魁夷はやっぱりいいですねぇ。みやび≠ニいうギャラリーのネーミングが気に入ったので、飛び込んだんですが、まさかこんな絵にめぐりあえるとは思いませんでした」
「どうぞこちらへ。お飲みものはなにがよろしいでしょうか」
「ミルクティーをいただきます」
「三田さん、お客さまにミルクティーをお淹《い》れして。わたくしはアメリカンをお願いします」
雅枝は男をソファに導き、名刺を出した。
「三原雅枝と申します。よろしくお願い申し上げます」
「ちょうだいします。川口正義です……」
名刺の交換が終わり、二人はソファで向かい合った。
株式会社雅志会館 代表取締役社長 川口正義
「田舎で結婚式場とレストランを経営しております」
「横浜は田舎ではありませんわ」
「なるほど。みやび≠ヘあなたのお名前なんですねぇ。わたくしも雅《みやび》という字が好きで、雅志会館≠ネんていう社名にしました。ところで……」
川口は絵のほうへ眼を投げて、つづけた。
「お値段のほうはどうなってますか」
「二千八百万円でいかがでしょう」
「けっこうです。目録をつくっていただきましょうか。目録と請求書を名刺の住所へ送ってください。すぐ銀行へ振り込みます。絵のほうは、二週間後にわたくしが引き取りに参ります。大切な友達のお嬢さんの結婚祝いなので、わたくし自身が届けたいのです」
「かしこまりました。川口様|宛《あて》でよろしいでしょうか」
「そうしてください」
これが三原雅枝と川口正義の出会いであった。
目録と請求書を郵送した三日後、協立銀行銀座支店のギャラリー・みやび≠フ口座に二千八百万円が振り込まれた。
そして三月二十三日火曜日の十時前に、川口からギャラリー・みやび≠ノ電話がかかった。
「おはようございます。雅志会館≠フ川口と申しますが、三原社長はいらっしゃいますか」
「はい。少々お待ちください」
電話を取った女性は川口を知らなかったが、躊躇《ちゆうちよ》なく三原雅枝に取りついだ。
「もしもし、三原ですが……」
「川口です。おはようございます」
「おはようございます。さっそくお振り込みいただきましてありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそお手数をおかけしました。お近づきいただいて光栄に思っております。よろしければ、きょう昼食をどうかと思ったのですが……」
「うれしいですわ。ただきょうは先約がございます」
「それは残念です。午後、銀座で人に会うことになってたものですから」
「夕食ではいけませんの」
「もちろん結構です。時間がたっぷり取れますから、そのほうがありがたいです。絵のレクチャーをしていただきたいと存じまして」
「どこでお目にかかりましょうか」
「六時にホテルオークラのさざんか≠ナいかがでしょう。個室がお取りできるとよろしいのですが」
「ありがとうございます。六時にさざんか≠ノ伺わせていただきます」
「愉《たの》しみにしています」
「ではのちほど。お電話ありがとうございました」
「どういたしまして」
雅枝は気持ちが浮き立った。
商社マンの夫は、アメリカに出張中だった。
三原家は、上用賀のマンション住まいだが、家事一切をまかせられるホームシッターを雇っていたので、子供たちの食事は問題なかった。
雅枝はこの日は三件アポイントメントを入れていたが、外出中に時計を何度見たかわからない。
雅枝がホテルオークラ本館十一階のさざんか≠ノ到着したのは六時十分過ぎだが、むろん川口は先に来ていた。
英国製らしい紺地のスーツが決まっている。ネクタイの趣味も悪くない。バリーの靴も良かった。気障《きざ》ではなくダンディというか身だしなみの良さを感じた。
関西生まれの夫が、イントネーションを含めて野暮ったかったので、いっそう川口が引き立って見える。
雅枝はラベンダー色のワンピースを着ていた。大粒の真珠のネックレスは、父親から十年ほど前の誕生日にプレゼントしてもらったものだ。ピアスもパールだった。
「お招きいただきまして、恐縮に存じております」
「こちらこそ厚かましくお呼びたてしまして申し訳ございません。やはり個室は取れませんでした。ひと月ほど前からブッキングしておきませんと、なかなか取れないそうです。それと四人以上が原則だと言われました」
「よく存じております。ここの鉄板焼きは世界的に有名ですから」
「早く来てしまいましたので、失礼して先にいただいてます」
川口はドライマティーニを飲んでいた。
「わたくしは、ジントニックをいただきます」
ホテルオークラのさざんか≠ヘ四〜八名の個室が三室と、十一名収容できる個室が一室、計四室ある。個室料は八千円と一万二千円。
大部屋は鉄板七台で四十八席。六〜七名で一台一コーナーということになるが、川口は早めにきて見晴らしの良い席を確保していた。
メニューは松阪コース≠フAとB。Aが一万九千円、Bが二万二千円。
細かく刻んだレタス中心のサラダとスモークドサーモン、フォアグラなどの前菜も美味《おい》しい。鉄板焼きは貝柱、車えび、あわび、そしてメインディッシュは二百グラムのサーロインステーキである。
ほどなくウエイターがジントニックとメニューを運んできた。
「ここの鉄板焼きは美味しいのですけれど、ボリュームが多いことと、ガーリックが利きすぎてますから、あとが大変です」
「どなたかに叱《しか》られますか。失礼かとも思いますが、ミスとお見受けしましたが」
「いいえ。主人も子供もおります」
「お若いから、ミスにしようかミセスのほうがいいかなあって迷ってました。ご婦人にお齢《とし》を訊《き》くのはどうかと思いますが、お子さまがいらっしゃるとなると、二十代っていうことはありませんから、三十一、二ですか」
「正直に申し上げます。三十八歳です」
「それは驚きました。そうなんですか。考えてみますと、三十一、二でギャラリーの経営は無理かもしれませんねぇ。わたくしは四十八歳ですから、ちょうどひと世代違うんですねぇ」
中年のソムリエがワインリストを小脇《こわき》に抱えてやってきた。
川口が雅枝のほうへ首をねじった。
「赤ワインでよろしいですか」
「はい」
「シャトー・マルゴーの59年ものは置いてありますか」
「ほーう」
ソムリエは感に堪えない声を発して、驚愕《きようがく》をあらわすように、あとじさった。
「59年ものをご存じですか」
「ちょっと気障《きざ》ですが、わたくしはワイン通として人後に落ちないつもりです。多分59年ものはホテルオークラと帝国ホテルにしか置いてないような気がしますが」
「恐れ入ります」
上気した顔でソムリエがいったん立ち去った。
「シャトー・マルゴーの中でも、ぶどうの当たり年につくられた59年ものは最高のワインとされていると聞いた記憶があります。十年ほど前にハワイで飲んで以来ですが、今夜はあなたとお近づきになれた記念すべき日ですので、見栄を張らせていただきました」
「光栄に存じます。お気を遣っていただいてほんとうにありがとうございます」
赤ワインのボトルを両手で押し戴《いただ》くように運んできたソムリエが、ボトルを川口に手渡した。
「これこれ。これです。懐かしいなあ。なんの変哲もないボトルですけど、中身は凄《すご》いんですよ。どうぞご覧ください」
ボトルが雅枝に回され、そしてソムリエの手に戻った。
ソムリエは慣れた手捌《てさば》きでコルクの栓を抜き、三十年以上もワインに漬かっていたコルクをカウンター式のテーブルに置いた。
川口がそれを抓《つま》んで鼻に近づけ、二度、三度大きくうなずいた。
ソムリエが金ぐさりで首からぶら下げた金属性の薄いグラスに垂らしたひと雫《しずく》の赤ワインを舌の先でころがしてから、うやうやしく試飲用のワインを川口のグラスに注いだ。
川口は深呼吸をしてから、グラスを眼の高さに掲げて、香りを吸い込みながら、口に含んで眼を瞑《つぶ》った。喉《のど》に落とすまで五秒は要したろうか。
「マーベラス!」
おびただしい眼がこっちに集まってくるほど、川口の試飲儀式は堂に入り、雅枝の口にも唾液《だえき》がたまった。
「さあ、どうぞめしあがってください」
ソムリエも興奮気味で、声がうわずっている。
「乾杯!」
「いただきます」
川口と雅枝はワイングラスを軽くぶつけた。
「美味しい」
雅枝もシャトー・マルゴーを賞《ほ》めた。
鉄板焼きが始まり、二人は前かけをした。
「シャトー・マルゴーの59年ものと鉄板焼き、こたえられませんねぇ」
「ええ。ほんとうに幸せな気分です」
ワイングラスをテーブルに置いて、川口が言った。
「先日みやび≠フネーミングが気に入ったと申しましたでしょ」
「はい。とってもうれしかったわ」
「気に入ったのも事実ですが、変わったネーミングだなあって思ったんです。お嬢さんギャラリー≠ノたまにあるんですよ。ギャラリーは、漢字で二字か、仮名なら四字と相場が決まってますから」
「そんなことまでご存じなんですか。わたくしも、みやび≠開業するときに先輩の画商にそんなことを言われたんですが、みやび≠ェ捨てきれなくて。お嬢さんギャラリーは心外ですけど」
「失礼しました。わたくしも絵画ビジネスを齧《かじ》ったことがあるんです。お嬢さんギャラリー≠ニかおめかけさんギャラリー≠ニか、けっこう多いらしいですねぇ。みやび≠フような大手はあり得ませんが」
「大手」はお世辞である。中堅なら通る。
「おめかけさんギャラリー≠セとお思いになったんですか」
「とんでもない」
川口は表情をひきしめて大仰に首を左右に振って話題を変えた。
「絵に魅《み》せられたり、取りつかれた人はけっこういらっしゃいますよねぇ。わたくしもその一人かもしれませんが、それにしても大会社のオーナー的な社長さんでしたか、会長さんでしたか、サザビーズで競り落とした名画を自分が死んだら一緒に焼いてしまうと言って、物議をかもした人がいましたねぇ。あの気持ちもわからなくはありませんが、ちょっとどうかと思います」
「同感ですわ」
「例のゴッホのひまわり≠ヘいまどのくらいしてるんですかねぇ。おそらく十五億円といったところでしょうか」
雅枝がうなずくのを左眼の端でとらえて、川口は話をつないだ。
「為替の問題もありますが、購入時点で四十三億円でしたか。サザビーズでしたかクリスティーズでしたか忘れましたが、オークションの手数料やら保険料やらをカウントしますと、五十億円は優に超えているはずです。ずいぶん高い買い物だったことになりますよ」
「ただ、わたくしはものは考えようだと思いますわ。ゴッホのひまわり≠ヘ、美術館に飾られて、多くの方々に鑑賞されているのですから、そこを見てあげませんと」
「なるほど。一理ありますねぇ」
絵画ビジネスに関する川口の知識は半端ではなかった。
シャトー・マルゴーのフルボトルを一本あけたが、ほんのり桜色に頬《ほお》を染めた雅枝はコケティッシュな情感を漂わせた。
川口はいくら飲んでも顔には出ない体質らしい。
雅枝はサイコロ状に切ったステーキを半分以上残したが、川口はきれいにたいらげた。最後のチャーハンを雅枝はパスした。川口は半分食べた。
下腹も出ていないスリムな体型だが、川口は健啖《けんたん》家であった。
デザートは席が変わるが、二人は口直しのシャーベットとコーヒーをブラックで飲んだ。
コーヒーをすすりながら、川口がさりげなく言った。
「平山郁夫先生を存じ上げてますが、なんでしたらご紹介しましょうか」
雅枝はコーヒーカップをソーサーに戻した。
手がふるえ、カタカタと音をたてた。
「平山先生をご存じなんですか」
「ええ。ある生保の幹部が平山先生のお兄さんなんです。その方を存じ上げてるものですから……。その生保会社はお中元に扇子を配ってますが、扇子に印刷される下絵は平山先生がお書きになってるんです」
「夢みたいなお話です。ぜひ平山先生の謦咳《けいがい》に接したいですわ。それと扇子もいただければありがたいです」
「平山先生はお忙しい方ですからお安いご用とは申しませんが、なんとか実現できるように取り計らわせていただきましょう。扇子のほうはそれこそお安いご用です。さて、これからどうしましょうか。わたくしはもう少し飲みたい気分ですが、というより、あなたともっとお話がしたいんです。八時半ですが、時間は大丈夫ですか」
「ええ。大丈夫です」
雅枝はコーヒーカップをテーブルに戻して、にこやかに答えた。
本館五階のバー・オーキット≠ナ三杯目のヘネシーXO≠すすりながら、川口が言った。
「月に一度、こんなふうにお目にかかれるとうれしいですねぇ。絵の勉強をさせていただくだけで、大変プラスになります」
「わたくしのほうこそ助かります。よろしくお願いします。川口さんにお会いできたことを神に感謝したいくらいです。次回はわたくしが幹事をさせていただきますわ」
「お世辞でも、そんなふうにおっしゃっていただけて、光栄です。それじゃあ、再会を約して乾杯しましょう」
川口はブランデーグラスを持ち上げて、雅枝のブランデーグラスに触れ合わせた。ブランデーをオーダーしたのは雅枝のほうで、川口はそれに従ったまでだ。
「車が迎えに来てますから、お送りしましょう。車好きでいつもは自分で運転するんですが、飲んだときはおまわりさんが怖いですから、社員に頼んでるんです。お宅はどちらですか」
「上用賀です。遠回りになりますから、わたくしはハイヤーを呼びます」
「上用賀でしたら、ほとんど通り道です。ご遠慮なさらずにどうぞ」
正面玄関を出て、川口は配車係に名前を告げた。
シルバーグレーのベンツが三分ほどで二人の前に止まった。
「お疲れさまです」
若い社員の身だしなみもきちっとしていた。
「ご苦労さま。まず上用賀へ行ってください。わたくしが先に乗りましょうか」
「お言葉に甘えさせていただきます」
先に降りる雅枝が後から乗車した。
走り出したベンツ600の中で、川口が訊《き》いた。
「三原さんは、運転はなさるんですか」
「はい。ただ父が心配性でうるさいものですから、仕事では社員に運転をまかせてます。専用運転手ではありませんけれど。ですから、会食があるときはハイヤーを使ってます」
「失礼ですが車種は?」
「ジャガーです。主人が運転できないものですから、休日はもっぱらわたくしが使ってます」
ベンツが首都高速3号線の用賀出口に差しかかったとき、川口が室内灯をつけて、さりげなく背広の内ポケットからスケジュール・ノートを取り出した。
「三月二十九日に絵をいただきに銀座方面へ出てきますが、無理でしょうねぇ」
雅枝もハンドバッグから小型の手帳を出した。
「あいてますわ。その週は二十九日の月曜日と一日の木曜日の会食の予定はありません」
「じゃあ、二十九日はぜひあけてください。なんでしたら一日もあけておいていただきましょうか」
川口は冗談ともつかずに言って、ノートをポケットに戻した。
二度目の会食は、雅枝が赤坂の割烹《かつぽう》照よし≠ナ川口をもてなした。
川口は絵画以外の話題も豊富で、少壮実業家に相応《ふさわ》しい教養を身につけていた。読書家で、シェークスピアに精通しているのには驚かされた。
「齧《かじ》った程度ですよ」と謙遜《けんそん》したが、四大悲劇のプロットを正確に憶《おぼ》えているのには、雅枝は見直す思いだった。
ゴルフのない休日はテレビの前を離れない夫とは大違いである。
川口は照よし≠ナも帰りがけに「請求書はここへ送ってください」と女将《おかみ》に名刺を出したが、「わたくしの体面はどうなるんでしょう」と、雅枝にきっとした顔をされて、あっさり引き下がった。
三月二十九日、東京地方は春の嵐《あらし》が吹き荒れた。最大瞬間風速三十メートルは、この時期の強風では観測史上二位だと翌日の朝刊が報じていた。
夜になって風はおさまったが、気温が低下し肌寒かった。二人ともコートが役立った。
ベンツの中で、コートを脱ぎながら、川口がささやいた。
「まっすぐ帰らなければいけませんか」
「いいえ。二次会におつきあいさせていただきます」
「きみ、帝国ホテルにお願いします。ホテルの駐車場に入れてください」
「はい。かしこまりました」
ホテルの駐車場にベンツを乗り入れ、雅枝が降車したあとで川口が運転手に小声で指示した。
「キイをもらいましょう。きみは帰ってください。酔いを醒《さ》ましてから帰りますから」
雅枝はコートを着たままだったが、川口はコートをリアシートに置きっぱなしにして、車から降りた。
エレベーターで九階まで直行した。
「こんなところにバーがあるんですか」
「ええ。個室のほうが落ち着くと思ったんです。紳士的に振る舞うことを誓いますから、どうかご容赦ください」
川口はエレベーターホールの前で大仰に最敬礼した。ほかに客はいなかった。
ドアの前で、雅枝は逡巡《しゆんじゆん》した。緊張感で顔が蒼《あお》ざめている。
「さあどうぞお入りください」
スウィートルームだった。
ベッドルームとリビングがドアで仕切られていたので、雅枝の表情にホッとした思いが出た。
川口は三日前に料金が七万五千円のスウィートルームを予約しておいた。
そしてきょう午後二時にチェックインし、昼寝をしたり、テレビを見て時間を潰《つぶ》し、午後五時半にギャラリー・みやび≠フ前にベンツを乗りつけた。絵画の購入はもちろんのこと、二度の食事も、スウィートルームの確保も、すべて計画的に進められている。あと一歩だ――。
スウィートルームに連れ込んでしまえばこっちのものだ。雅枝をたらし込む自信はあった。
抵抗されたら、手籠《てごめ》めにするまでだ。
しかし、あわてて仕損じてはならない――。
「なにを召しあがりますか。わたくしは喉《のど》が渇いたので、冷蔵庫のビールを飲みます」
「わたくしもビールをいただきます」
声がうわずっていた。
雅枝は夫以外の男性とスウィートルームにいる自分が信じられなかった。
胸がドキドキするようなスリルとサスペンスに満ちている。アメリカ映画のような速いテンポでドラマが進行しているようにも思える。
眼の前にいる男性はつい二週間前に知り合ったばかりで、素性もよくわかっていなかった。
商社マンの夫に比べてずっと素敵な男性であることだけはたしかだが、スウィートルームとはいえ、客室までついてきてしまったのは軽率だった。尻軽《しりがる》女とみられかねない――。
躰を求められたらどうしようか。大声でわめこう。いや、この男は「紳士的に振る舞う」とのたまったのだから、そこまで直線的に攻めてはこないだろう――。雅枝は度を失って頭の中も胸の中も混乱していた。
ドアの前で佇《たたず》んでいる雅枝に、川口がにこやかに話しかけた。
「コートはお脱ぎになったらいかがでしょうか」
「はい」
川口は手を貸した。雅枝の肩が小刻みにふるえている。
二人はソファで向かい合った。
ビールの小瓶を二人で空にするのに、十分はかからない。
「白ワインが飲みたくなりました。あなたはいかがですか」
「はい」
酔い潰そうっていう魂胆だろうか。照よし≠ナお銚子《ちようし》を五本あけたが、ワインを少々飲んだくらいで、潰れるはずがない。考えすぎかな、という思いで、雅枝の頬《ほお》がわずかにゆるんだ。
川口がルームサービス係に電話をかけた。
「ワインリストを……。いや、シャブリの旧《ふる》いのをフルボトルでください。グラスは二つ。それと、スモークドサーモンとチーズクラッカーをお願いします」
電話を切ってソファに戻った川口は、優しいまなざしを雅枝に注いだ。
「偶然ギャラリー・みやび≠ナあなたにお目にかかったとき、胸がドキドキしました。ときめいたと言い直します。絵画ビジネスには関心がありましたから、銀座の大手の画廊で知ってる所は何軒かありますが、みやび≠ヘ知りませんでした。ですから前言と矛盾しますけれど、ちらっとお嬢さんギャラリー≠ゥなって思ったことはたしかです。あなたがシングルならいいなって、願望めいたものがあったんだろうと思います。みやび≠ノ飾られてあった東山魁夷の小品を友人のお嬢さんの結婚祝いにどうかと考えましたが、ちょっと高価かなと正直迷ったのです。ですからあなたと話してから決心しました。ものは考えようで、自分の絵を親友のお嬢さんにお預けしておく、つまりいつでも眺めにいけると思えば、決して高価ではないんですよねぇ。僕はあなたがミセスだと知って落胆しましたが、でも深草の少将≠きめ込む考えを放棄する気にはなれませんでした」
「あなたはシングルなんですか」
雅枝は勝気さを取り戻して川口をまっすぐ見返した。
川口は伏眼がちに悲しそうな顔をして、しばらく口をつぐんでいたが、面をあげて気弱そうな眼で雅枝をとらえた。
「家内も子供もいます。ただ、多分離婚することになると思います。家内は妙な新興宗教に凝ってしまったんです。娘は嫁いでますし、坊主も高二ですから、僕の気持ちをわかってくれると思うんです。子供たちとはまだ話してませんが、家内とは何度も話し合いました。僕を取るか、宗教を取るかどっちかだと……。家内は、宗教はわたしの命だと言いました。離婚に応じるから財産の半分を寄こせと言ってます……」
川口は顔をしかめて投げやりにつづけた。
「たいした財産ではありませんが、どうせ新興宗教にむしり取られてしまうんでしょう。莫迦《ばか》な女です」
「奥さまが新興宗教に縋《すが》るのは、川口さんに関係はないんでしょうか」
川口は意表を衝かれて、まばたきした。
「ない、とは言いきれないと思います。女性関係もまったくなかったとは言いません。またビジネスにかまけて、家内をないがしろにした面があったかもしれません。しかし、だからと言って、いくらなんでも霊感商法まがいの新興宗教はないと思うんです」
「わたくしには男の身勝手としか思えませんわ。奥さまに同情します」
川口は上体を雅枝のほうへ寄せていたが、ソファに背を凭《もた》せて腕組みした。
「一言もありません」
川口がぽつっと言ったとき、ノックの音が聞こえた。
雅枝がドアをあけた。
「お待たせしました」
若い男のルームサービス係によってワインクーラーに漬けた白ワインのボトルとワイングラス二つ。スモークドサーモン、ナイフとフォーク、チーズクラッカーなどを乗せたワゴンテーブルが室内に運び込まれた。
川口がソファから腰をあげて伝票にサインした。
ソファを椅子《いす》に変えて、二人はワゴンテーブルで向かい合った。
川口はワイングラスを持ち上げて、笑いかけた。
「家庭の話はこの際やめましょうよ。せっかくのワインが不味《まず》くなります。あなたとこうして一緒にいられるだけでも充分幸せなんですから……。幸福感をぶちこわす手はないと思うんです」
雅枝もにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「おっしゃるとおりです」
「乾杯!」
「乾杯!」
ワインをがぶっと飲んで、ワインクーラーから取り出したボトルをナプキンで底を押さえながら、雅枝に近づけた。
雅枝は半分ほど残していたが、「あけてください」と促されてグラスを乾した。
川口は二つのグラスになみなみと白ワインを注いだ。
「僕はギャラリー・みやび≠ノ多少お手伝いできるような気がしてます」
「どうぞよろしくお願いします」
雅枝はグラスをワゴンテーブルに戻して、低頭した。
「わたくし」が「僕」に変わっているのは、親しさを込めているつもりなのだろうか、と雅枝は思った。
雅枝自身は意識していなかったが、そう思うのは緊張感がほぐれてきた証拠である。
「銀行やノンバンクが抱え込んでる絵画は、一説によると一兆円を超えていると言われてます。さっきのひまわり≠フ話じゃありませんけれど、高値づかみをしてますから僕はマーケットが再生するまで、最低十年はかかると見てます。ゴルフコースの会員権も然りですが、バブルのツケというか後遺症が癒《い》えるまで、気の遠くなるような年月を要するでしょうねぇ」
「わたくしもおっしゃるとおりだと思います」
「バブルを発生させ、煽《あお》った人の罪は万死に値するんじゃないでしょうか。わけても銀行の罪は大きいと思います。銀行のおカネの貸し方は異常でした。返済能力など考えずに、やれ土地を買えの、株を買えの、ゴルフ会員権を買えの、絵画を買えのと、ばんばんおカネを貸し込んだわけですから。僕もその度合いはともかく痛い目に遭った口ですが……」
雅枝の表情が変化したのを川口はむろん見逃さなかった。
この女は大手都銀頭取の娘なのだ。顔にそう書いてある、と川口が思った瞬間、雅枝はそれを言葉で表現した。
「銀行の罪はそんなに大きいんでしょうか。よく言われてることですけれど、護送船団方式の大蔵行政と日銀の政策にも問題があったようにも思いますが」
「もちろん行政の責任もありますよ。大蔵省は箸《はし》のあげおろしにまで介入したと言われてますからねぇ。しかし、すべてを行政の責任にしていいのかどうか……。証券会社のビヘイビアもひどかったですねぇ。株の大量推奨販売を財テクと称して、企業や個人に押しつけたわけですから」
白ワインのボトルを突きつけられて、雅枝はグラスを乾した。川口は二つのグラスに白ワインを満たした。
「モラルの低下、人心の荒廃ぶりもそら恐ろしいことになってると思います」
「ええ」
雅枝はあくびを堪《こら》えながら小さく相槌《あいづち》を打った。川口はいつまでこんなおもしろくもない話をつづけるつもりなのだろうか、と怪しんだ。
川口の反応は早かった。
「こんな話をしても気が滅入るだけですねぇ。話題を変えましょう。僕は今夜このホテルに泊まります。あなたは、門限がありますか」
「あら、もう十時だわ。そろそろ……」
「きょう中にお帰りになれればよろしいでしょう。お送りします。二時間もすれば酔いは醒《さ》めますよ。ちょっと失礼します」
川口はトイレに立ち、用を足し、歯を研いてからリビングに戻った。そしてやにわに雅枝の背後に回り、躰《からだ》を沈めて、左手を肩にまわして頬《ほお》ずりした。唇と唇が触れるまでさして時間はかからなかった。
長いキスのあとで、雅枝があえぎ声を出した。
「待ってください」
「待てません」
「トイレへ行かせてください」
雅枝を抱きかかえるように椅子《いす》から立たせて、川口はふたたび唇を求め、ねばっこいキスをしてから、雅枝をいったん解放した。
雅枝がトイレから出てくるまでの長い時間、川口はネクタイを外したワイシャツ姿でドアの前で待っていた。
雅枝はふるえる手で髪や顔を整えながら、懸命に思案した。
深草の少将≠ヘどうなってるんだろう。
わずか三度目で陥落するなんて、バーゲンセールもいいところだ。プライドがゆるさない。冗談じゃないわ。わたしを甘く見ないで。
そう思うそばから、抗しきれるだろうか。どうされてもいい――。身を投げ出したい欲求を制しかねていた。
トイレを出たとき、川口から引き込むように見つめられて、雅枝はホゾを固めた。
川口は雅枝を抱擁したあと、軽々と抱き上げてベッドルームへ運んだ。
川口の愛撫《あいぶ》は、夫の直線的で短絡したものとは雲泥の差があった。濃密で優しく、ときとして猛々《たけだけ》しく。
雅枝は狂おしく身もだえし、何度到達したかわからない。齢《とし》の割りに躰は艶《つや》やかで、乳房も量感があった。川口はたっぷり時間をかけて熟れた女体をもてあそんだ。
川口と雅枝は、四月上旬の十日間で、六度も逢瀬《おうせ》を重ねた。いつも川口がシティホテルを昼間チェックインし、食事の前後にダブルベッドで躰を貪《むさぼ》り合った。川口のタフな体力は雅枝を狂わせるに充分だったし、雅枝の躰も川口を魅《ひ》きつけてやまなかった。
食事は館内のレストランで摂《と》るか、ルームサービスを利用した。二人とも顔が知られているわけでもないので、人眼を気にする必要はほとんどなかった。料金はすべて川口が支払った。先行投資と考えているのだから当然である。
深夜、ベンツで雅枝を上用賀のマンション近くまで送ってから、川口は横浜の自宅へ帰ったが、一度だけ二人でホテルに宿泊した。
バスローブ姿でルームサービスの食事を摂りながら雅枝が婀娜《あだ》っぽい眼で川口を見上げた。
「あさって主人が帰国するので、しばらく会えないと思うの。だから、今夜は泊まるわ。大阪に出張することにしたの。あなた大丈夫?」
「もちろんです。僕はいつもそうしたいと思ってました。以前にも話しましたが、離婚するつもりですから」
雅枝の言葉遣いには狎《な》れが出ていたが、川口の丁寧語は変わらなかった。
「あなたは離婚できる可能性はないんですか」
「不倫してることを主人が知ったら、どう出るかしら」
「僕があなたのご主人でしたら、離婚しますけどねぇ。ご主人だって、適当に遊んでると思いますけど。商社マンなら遊んでないはずはありませんよ。ただし男は身勝手ですから妻の浮気はゆるせないんじゃないでしょうか」
「でも、適当に遊んでる女もいると思うけど。わたしの周囲にはそんなミズがたくさんいるわ」
「あなた自身はいままでどうだったんですか」
「ご想像におまかせします」
「はぐらかされたのか、思わせぶりなのか、ほんとの所はわかりませんが、嫉妬《しつと》に駆られてることはたしかですよ」
川口は真顔だった。というより眉《まゆ》をひそめている。
雅枝は満更でもなさそうに含み笑いを洩《も》らした。
「わたしは尻軽《しりがる》女じゃないわ。あなたに深草の少将≠演じさせなかったことだけは、かえすがえすも残念だけど。プライドをいたく傷つけられたわ」
「申し訳ありません」
川口は膝《ひざ》に手を突いて頭を下げた。
「ところで離婚のこと考えていただけませんか。お子たちのことは、僕が責任を持ちます」
雅枝は水割りウイスキーをすすって、グラスを手でもてあそびながら思案顔になった。
「パパがなんと言うかしら……。お堅いバンカーなんです」
「お父上は銀行家なんですか」
川口は意外そうな顔をした。
「協立銀行の頭取よ」
「なるほど。そうだったんですか。そう言えば思い出しましたよ。バブルを膨らませた銀行の罪は大きい、と申し上げたとき、あなたはきっとした顔をしましたよねぇ」
「そんなことあったかしら」
「お言葉を返すようですが、当節銀行家がお堅いなんてあり得ませんよ。逆に言えば銀行ほど薄汚れた所はないと思います。バンカーも然りです」
「父を侮辱するの」
「いいえ。一般論を言ったまでです」
雅枝は眼をつり上げた。
「父は一流のバンカーで、紳士よ」
「わかりました」
川口は今度も真顔でお辞儀をした。面《おもて》をあげて、川口はまっすぐ雅枝をとらえた。
「一度お父上にお目にかからせてください。僕が誠心誠意、あなたを敬愛していることをお伝えしたいんです」
「もう少し時間をちょうだい。まだ気持ちの整理がついてないわ。ただ、あなたとの関係はずっと続けたいと思ってます。このままでいいと思うけど。パパや主人を傷つけるのは気がすすまないし、こういう関係って、世間によくあることなんでしょ」
川口はむすっとした顔でサーロインステーキに取り組んでいたが、ナイフとフォークをテーブルに置いて、ナプキンで口の周りを拭《ふ》いた。
「たしかに僕は性急すぎるかもしれません。でも、あなたがご主人と合体してることを想像しただけで、やりきれない気持ちになりますよ。僕はずっと前から家内との夫婦関係はありませんからねぇ」
「それを言われると、ちょっと辛いけれど、この一カ月間、主人は海外出張中だったから、接してないわ。あさっての夜あなたをやりきれない気持ちにさせることになるかもしれないけど」
食事後、二人でシャワーを浴びてから、ふたたびベッドで狂おしくもつれ合った。
五月一日からのゴールデンウィークを、川口と雅枝は箱根と伊豆方面へドライブ旅行した。
雅枝は、家族には大学時代の仲間と旅行すると偽り、二人の子供は実母にあずかってもらった。亭主の三原晃は、「ゴルフが三日入ってるし、俺は適当にやるから心配しなくていいよ」と、おおらかなものだった。
バレたらひらき直るまでだ、と雅枝は肚《はら》をくくっていた。
川口に蕩《とろ》かされ、骨がらみにされてしまったのだから、どうしようもないし、もう引き返せない。
二人は夫婦気取りで、ホテルや旅館に宿泊し、辺鄙《へんぴ》な西伊豆の山中にあるゴルフコースで二日間ラウンドを愉《たの》しんだ。
オフィシャルハンディ7の川口は、的確なアドバイスをして、雅枝を驚かせた。
雅枝のオフィシャルハンディキャップは28だが、川口のお陰で初日は51と48、二日目は49と47のスコアでラウンドした。
「アドレスのときにちょっと右肩を引いて脇《わき》を締めてごらんなさい。スライスが出なくなりますよ」
「バンカー越えでないショートアプローチは、ピッチングではダフッたりシャンクする恐れがあるから7番アイアンで転がしたほうがいいと思います。あなたはパッティングの勘が凄《すご》くいいので、パターと同じ感じで打ってみてください」
川口がワンショットごとにアドバイスするような教え魔≠ナはないことも、好感がもてた。
初日は二人だけでラウンドできたが、二日目は別の中年夫婦と組まされた。
雅枝のネームプレートは所属ゴルフクラブのそれを外して、川口雅枝になっていた。
川口が事前に用意したのだ。
川口は若造りなので、充分夫婦で通る。
ホテルの夕食で、雅枝は大いにはしゃいだ。
「あなた、アウトもインも40台なんて生まれて初めてよ。夢みたい」
「スコアカードを二枚もらっておきました。僕がアテストしますから、ご自分のコースに提出したらいいですよ。ハンディキャップを上げるチャンスです」
「ゴルフはお客様との接待ゴルフでいやいややってたんだけど、やみつきになりそうだわ」
「素質がありますよ。パッティングは僕より上かもしれない。パットだけは感性というか勘なんです。3パットが少ないのは、その証拠ですよ」
「うれしいなあ。ねぇ、今度はいつ連れてってくれるの」
「いつでもいいですよ。僕のコースにお連れしましょう」
川口は横浜にある名門コースのメンバーだった。
「あなた、どうしてゴルフが上手になったの」
「僕は義塾の商学部ですが、勉強しないでゴルフばかりしてました。ハンディ4が最高です。大学時代の友達から、慶応義塾大学ゴルフ学部卒ってからかわれてますよ」
川口の話は知的センスもあっておもしろかった。
新聞もろくすっぽ読まずテレビばかり見ている夫の莫迦《ばか》さ加減にうんざりさせられて、雅枝は夫に愛想もこそも尽きる思いにとらわれていた。
寝物語で、川口はこんな話をした。
「ひまわり≠ナ有頂天になった大手損保のトップが、ねんごろな赤坂の芸者にひまわり≠あしらった帯をプレゼントしたんです。くだんの芸者はそれを自慢して仲間の芸者に見せびらかすので、赤坂|界隈《かいわい》ではけっこう知られた話でした。バブル全盛時代の話ですけれど、損保のトップはその高価な帯を会社のカネで作らせた、ともっぱら評判になったんです。公私混同もきわまれりですが、超ワンマンのトップに誰も注意する者がいないんですよねぇ」
「あなた、どうしてそんな話を知ってるの」
「僕は地獄耳なんです」
「あなたも赤坂の芸者とねんごろになった口でしょ。プレイボーイなんだから」
雅枝に尻《しり》のあたりをしたたかに抓《つね》られて、川口は大仰にベッドから転げ落ちた。
「とんでもない! 赤坂でお茶屋遊びできるほど交際費はありません」
乱れた寝間着の襟を合わせながら、川口がベッドに戻った。
「まじめな話、公私混同ぶりのひどさは、損保の社長だけじゃないと思いますよ。旧財閥系の不動産会社の会長で、孫の幼稚園の送迎にハイヤーを使って、ツケを会社に回してるなんていうのもいますからね」
「あなたは、今度の旅行代はどう捻出《ねんしゆつ》してるの」
「自分のおカネです。惚《ほ》れた女のために身銭を切るのは当たり前でしょう」
「そうなの? ほんとに、ほんとにわたしに惚れてるの?」
「もちろんです。お父上が協立銀行の頭取と聞いて、ちょっとたじろぐものがありますが、でも正面から向き合おうと思ってます。絶対に逃げません」
川口は仰臥《ぎようが》の姿勢で虚空を睨《にら》み、決意表明した。
逃げるもなにもない。なんとしても協立銀行から融資を引き出してみせる――。
「うれしいわ」
雅枝が川口にむしゃぶりついてきた。二人はふたたびむつみ合った。
雅枝が南麻布の高台にある頭取公邸で両親に川口の存在を打ち明け、夫と離婚したい、と話したのは六月六日日曜日の夜のことだ。
雅枝はこうなった経緯を一時間ほどかけて夢中でしゃべった。
鈴木はロイヤルサルートの水割りを飲みながら黙って聞いていた。母の竹子は泣いたり喚《わめ》いたり、ほとんど半狂乱だった。
鈴木はスポーツシャツの上にカシミヤのカーディガンを羽織っていた。竹子はブラウスに薄手のセーターを着ている。雅枝はチャコールグレーのスーツ姿だった。
頭取公邸のリビングは広い。旧《ふる》い邸宅を繕い繕い、だましだまし使っているが、経費は協立銀行の丸抱えである。
コックもハウスキーパーも銀行の従業員だ。
「川口という男が離婚できるかどうかもわからんだろう。雅枝も然りだ。雲をつかむような話だねぇ」
鈴木がつぶやくように言った。
「川口のほうは、奥さんが離婚に同意してるから問題ないわ。三原も反対できないと思う。女がいることがわかったの」
川口の入れ知恵で、三原晃の身辺を洗ったところ、六本木のクラブのホステスとわりない仲になっていることが判明した。
興信所の調査報告書を三原に付きつければグーの音も出ないはずだ。けっこう頻繁に会っている。ゴールデンウィークは、どっちもどっちだったのだ。
「ギャラリーなんかをやらせたあなたがいけないのよ。離婚なんて冗談じゃありませんよ。みんな勝手なことばかりして! 子供たちはどうなるの!」
ヒステリックな声を張り上げる竹子に冷たい眼をくれて、鈴木が言った。
「今夜のところは聞きおくことにする。雅枝が冷静になることを祈るのみだ。あしたは朝食会で早いから、寝かせてもらうぞ」
鈴木はソファから腰を上げ、階段を昇っていったが、洗面所で歯を研きながら、どうしたものか思案した。恋に落ちた三十八歳にもなる娘に、なにを言っても始まらないが、相手の男が何者なのか正体だけは把握しておく必要があるかもしれない。しかし、六月二十九日の株主総会を控えて、迂闊《うかつ》な行動も取れなかった。万一、川口正義なる男が総会を視野に入れて、娘を籠絡《ろうらく》してゆさぶりをかけてきたとしたら、えらいことになる。
男女関係ほど厄介な問題も少ない。鈴木自身、常務時代、芸者に入れあげて、危い思いをしていた。竹子が「みんな勝手なことばかりして!」と喚いた中に、鈴木もカウントされていたのである。
鈴木が本店ビル二十一階の会長執務室に、佐藤秘書役を呼びつけたのは六月二十八日の朝だ。会長執務室は三十坪ほどのスペースがある。革製の豪華なソファで二人は向かい合った。
「あすの総会は大丈夫か。妙な動きはないだろうね」
「はい。とくに問題はないと思いますが、なにか」
「実は、上の娘が困ったことになってるんだ」
「上のお嬢さんと申しますとギャラリー・みやび≠経営されている雅枝さんですか」
「うん」
鈴木は娘二人の父親で、雅枝は長女である。
頭取に就任して一年後の五年前に、ギャラリー・みやび≠ェ開業した。協立銀行銀座支店が開業資金を融資したが、御膳立《おぜんだ》てをやらされたのは佐藤である。
「初めは離婚したいと言ってきた。そして今度は融資だ。色恋|沙汰《ざた》は世間によくある話だが、十五億円の融資となると、穏やかではない」
雅枝が雅志会館≠フ拡張等の事業資金と運転資金で十五億円の融資を鈴木に打診してきたのは、昨夜のことだ。
「雅枝がつきあってる男は川口正義という名前だ。慶応の商学部を出て、横浜で雅志会館≠ネる結婚式場を経営してるが、絵画ビジネスで失敗してるらしい。雅枝はその男にのぼせあがってるので、なんにも見えなくなってるが、わたしの勘ではその男は質《たち》が悪いように思える。厭《いや》な予感がしてならんのだ。協銀が弱みを握られていることはないと思うが、いわば娘が人質に取られてしまったようなものだ。なんとかその男から娘を取り返したいが、どうしたものかねぇ。ヤクザが絡んでなければいいんだが……」
「川口正義なる男の素性を調べることは簡単ですが」
「興信所は使いたくないねぇ。ブラックなどに流出しないという保証はないからなあ。なんとしてもスキャンダルにはしたくないんだ」
「わかります。信頼できる男を一人、因果を含めて渉外班≠ノ張りつけましょう」
「そんなことをして、話がひろがらないかね」
「大丈夫です。わたくしにおまかせください」
「渉外班≠ヘ気がすすまんが……」
「秘密保持を第一義的に考える限り、渉外班≠ナ専任事項にする以外にないと存じます」
「警察沙汰も困るぞ」
「よく存じております」
「いいだろう。きみにまかせるよ。よしなにやってくれ。きみなら安心してまかせられる」
佐藤はその日のうちに杉本と綿密に打ち合わせ、竹中治夫をピックアップすることで合意し、人事部に根回しした。
かくして七月一日付の人事異動で渉外班≠ノ竹中が組み込まれることになったのである。
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第五章 不正融資
七月十七日土曜日、寝坊した竹中は新聞を読みながら遅い朝食を摂《と》っていた。
大手ビール会社の会長が総会屋事件で引責辞任したことをA新聞が一面左肩四段見出しで大きく報じている。
二面と八面にも関連記事が載っているが、今年二月から八月にかけてビール会社は総会対策で総会屋に三千三百万円を渡した疑いで十四日、前総務部長ら幹部社員四人が利益供与による商法違反容疑で逮捕された。総会屋側の逮捕者は九人。
前総務部担当の副社長と、現総務部担当の常務も引責辞任したが、ビール会社と総会屋の関係は十年に及び、その間数億円が渡されたとみられているという。
「会社ぐるみ否定≠ヒぇ」
二面の見出しを声を出して読みながら、竹中は部付部長の高木や、永田調査役など渉外班*ハ々の顔を眼に浮かべながら、彼らがどんな気持ちでこの記事を読んでいるか考えていた。
十二日夜の北海道奥尻島の強震、津波による大災害といい、ゼネコン汚職の拡大といい、七月は大事件が頻発している。
竹中自身にとっては、渉外班≠ノ異動したことのほうがよっぽど大事件だったが、プロジェクト≠ノ多少|馴染《なじ》んだせいか、いかにもコンマ以下のちっぽけな事件だったと思うようになっていた。
もっとも、油断するのは早計というものだ。この先、鬼が出るか蛇が出るか、なにが起こるのか予測はつかない。
「あなた、早くしてよ」
テニスクラブへ出かける仕度を終えた知恵子が、新聞記事に気持ちを奪われてミルクティー、トースト、野菜サラダの朝食が進まない竹中に、苛立《いらだ》った言葉を発した。
「さっさと行けばいいだろう。雨が降るかもねぇ」
「だから焦ってるんじゃない。じゃあ、行くわよ。食器は水に漬けといてね」
助手席に母親を乗せたセドリックが発進した直後、リビングの電話が鳴った。
「はい、竹中です」
「杉本だけど、いまゴルフ場だが、ハーフ終わったところなんだ。早く帰れそうだから、晩めしを一緒にどうだ」
「できれば辞退したいねぇ。たまには子供たちと一緒にめしを食わないとね」
いつもながらの高飛車なもの言いに竹中はむかっとした。
「二回目のレポート読ませてもらったが、ニュアンスを詳しく聞きたいんだ。めしはいいから一時間ほど時間をくれよ。四時前に着けると思う」
「…………」
「じゃあな」
否《いや》も応もなかった。杉本の手前勝手な強引さは死んでも治らないだろう、と竹中は思った。
掛け時計を見ると十時四十五分を回ったところだ。
竹中が杉本の指示で川口に会ったのは三日前の七月十四日水曜日だ。杉本の指示というより佐藤秘書役の判断である。杉本は中継者に過ぎない。
「MOF担の忙しい杉本をわずらわせるのもなんだから、俺《おれ》が直接、佐藤秘書役と話すようにしようか」
竹中は婉曲《えんきよく》に言ったつもりだが、杉本は色をなした。
「それはあり得ない。おまえ、自分の立場を考えてみろよ。渉外班≠フおまえが秘書室に顔を出せるとでも思ってるのか」
「便宜的に渉外班≠ノ席を置いてるだけだと聞かされた覚えがあるけど。それと秘書室に顔を出さなくても、話はできると思うがねぇ」
「MOF担の俺だからこそ佐藤秘書役と内緒話ができるんだ。このことは佐藤秘書役の意思でもある。忘れないでくれ」
本店ビル一階のロビーのソファで、二回目のレポートを手渡しながら杉本とそんなやりとりをしたのは昨日の午後二時ごろだ。
竹中は七月十二日の月曜日午前十一時に雅志会館≠ノ電話をかけた。本店ビル一階の公衆電話を利用した。
「協立銀行の竹中と申します。川口社長はいらっしゃいますか」
「少々お待ちください」
電話に出たのは若い女性の声だったが、一分ほどで川口につながった。
「川口ですが」
「協立銀行の竹中と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
「至急お目にかかりたいと存じますが、ご都合はいかがでしょうか。ご指定の場所へわたしが出向きますが」
「よろしければ水曜日に銀座のギャラリー・みやび≠ナお会いしたいと存じますが」
竹中は咄嗟《とつさ》の返事に窮した。川口は計算ずくなのだ。
三原雅枝を担保に、協銀から融資を引き出す腹づもりであることが見え見えだった。
「雅志会館≠ウんにお邪魔してはいけませんでしょうか。ぜひそうさせていただきたいと存じます」
「わたくしと致しましてはギャラリー・みやび℃ミ長の三原さんに同席していただきたいのですが。三原さんに債務を保証していただくのがよろしいと思うのです。わたくしどもはご存じと思いますが、ろくな担保もありませんので」
竹中はここは譲歩せざるを得ないと思った。
「承知しました。十四日水曜日の何時にギャラリー・みやび≠ノ伺ったらよろしいのでしょうか」
「午後三時でいかがでしょうか」
「けっこうです。それでは明後日の午後三時にギャラリー・みやび≠ヨ伺わせていただきます」
竹中は電話を切って、その足で横浜へ向かった。
横浜市内にある結婚式場雅志会館≠フティールームで竹中は協立銀行横浜支店副支店長の岡崎政彦に会った。
岡崎は竹中と同期で、昭和四十九年三月に慶応義塾大学商学部を卒業した。
頬張《ほおば》ったミックスサンドをトマトジュースと一緒に呑《の》み込んで岡崎が言った。
「竹中が渉外班≠ニはびっくりしたよ」
「いちばんびっくりしてるのは当人だよ」
竹中はハヤシライスを食べていた。
ティールームはけっこう混んでいる。
「雅志会館≠ネんていう結婚式場、おまえよく知ってたねぇ。横浜にはホテルや結婚式場はいくらでもあるのに、よりによって雅志会館≠指定してくるとは、なにかあるんだろう」
「どういう意味かわからんが」
「横浜支店は二年半前までここと取り引きしてたが、いまは融資残高ゼロだ。この結婚式場自体は黒字だが、オーナー社長が絵画ビジネスの失敗で二十億円以上のロスを出した。コレと……」
岡崎は右の人差し指を頬にすっとおろして話をつづけた。
「つながってる可能性もある」
「きみの先輩と聞いてるが……」
「やっぱりなにかあるんだな。渉外班≠ノ因縁でもつけてきたのか」
岡崎はメタルフレームの眼鏡の奥から、さぐるような細い眼を竹中に向けてきた。頭髪が薄いので老けて見える。
「ゴルフが上手とも聞いてるけど」
「おっしゃるとおりだ。横浜中央カントリークラブのメンバーで、シングルと聞いたことがある。横浜中央カントリークラブが名実共に一流コースになりきれないのは、マル暴の関係者をメンバーに相当数抱えているためだといわれてるが、川口はゴルフを通じてヤクザとつながったふしがある。先輩には違いないけど、二年で中退してるよ」
「きみが担当してたのか」
「いや。俺が横浜支店に着任したのは二年前だ。切れたあとだよ」
「よく切れたねぇ」
「支店長の英断だな。バブルが弾ける直前だったから借り手のほうが強気だったんだが、ピーク時で十数億円貸し込んだところへ、さらに十億円の融資を要求してきた。担保不足を理由に断ったら、預金を全部引き上げた。しかし、結果オーライだよ。危い所だった。渉外班≠ェ動くような、なにかがあったんだな」
「なにもないとは言わないが、ある線から本部の融資部門にアプローチしてきたんでねぇ」
「そんなところだろうな。実は半年ほど前に、川口が俺に面会を求めてきたんだ」
岡崎は声をひそめて、あたりを見回した。
「絵画を担保に十五億円面倒をみてもらえないかって頼まれたが、もちろん断った。けっこう厭《いや》がらせがあってねぇ。明らかにその筋と思える黒塗りの外車が、何日間も家の前に駐車してあったり、夜中に無言電話が何度もかかってきたり、ひどい目に遭ったよ。支店長も二年半前にまったく同じことをやられたんだってさ」
「警察に通報しなかったの」
「刺激して、かえってエスカレートしないとも限らんからねぇ。しかし本部に飛び火したとは知らなかったよ」
岡崎は深刻に眉《まゆ》を寄せた。
竹中は水を飲んで、無理に笑顔をつくった。
「飛び火なんて大袈裟《おおげさ》な問題じゃないから安心してくれよ。厭がらせが止まったのはいつごろ」
「三カ月ぐらい前だったと思うけど。ここの社長は一見紳士然としてるし、言葉遣いも極めて丁寧だけど、食わせ者であることはたしかだな。ヘタをすると、ここもマル暴に乗っ取られかねない。水面下で、せめぎあいをやってるんじゃないのかな。とにかく本部はかかわらないほうがいいよ。そのために、また横浜支店に向かってくると困るけど」
「日本は法治国家なんだから、そのときは警察の力に頼るしかないと思うけどねぇ。俺と会ったことは内緒にしてもらえないかなあ。支店長に心配させてもなんだから」
「うん。俺も来年役員になれる人を傷つけたくないよ」
「渉外班≠ナ処理できると思うから、絶対口外しないでくれ。俺もきみに会ったことは伏せておく」
「そんな必要はないと思うけど。支店長や俺が苦労してることを本部の上の人たちに知っててもらいたいくらいだ」
竹中が苦笑しながら言った。
「わかった。ただ、当節こんな話は掃いて捨てるほどあるからねぇ。苦労のうちに入るのかどうか」
「まあな。でも渉外班≠ェ動いてることを支店長の耳に入れちゃいけない理由がよくわからんけど」
竹中は思案顔でアメリカンをすすった。
「支店長が過剰反応して、本部の上のほうへ聞こえると、ややっこしくなると思うよ。話を複雑化させるのはできれば避けたいんだ」
「なるほど」
岡崎は納得したらしい。
竹中はホッとした。しかし、三原雅枝がギャラリー・みやび≠経営していることは、協立銀行の内外で、かなり知れ渡っている。岡崎がそこへ思いをめぐらせないことを祈るのみだ。
ギャラリー・みやび≠ナ名刺を交わしたとき、川口はわずかに眉をひそめた。
「失礼ながら竹中さんが総務部の方だとは思いませんでした。当然、融資部なり審査部の方と思っていました。わたくしを総会屋とか、なにか間違えていらっしゃるのでしょうか」
「ご冗談を。決してそんなことはございません」
雅枝も美しい顔をゆがめた。
「でも、たしかにおかしいわねぇ。わたしは銀座支店長か、横浜支店長が来るんだと思ってたわ」
「三原社長を通じて当行の鈴木会長に融資のご依頼がありましたので、特別案件扱いで、わたくしが担当させていただくことになりました」
「それで融資はしていただけるの。父はそんな簡単にはいかないようなことを言ってたけど、なんとかお願いしたいわ」
「事業計画書と会社経歴書を持参したのでご覧ください」
「拝見します」
ワープロで打ち出した事業計画書は五ページで、一読して、作文に過ぎないことが見てとれた。
初めの雅志会館の改修工事費十億円≠フ一行で、投げ出したくなったが、竹中は辛抱強く最後まで黙読した。
会社経歴書は印刷物だった。雅志会館≠フ全景や結婚式場、披露宴会場、レストランなどのカラー写真は豪華である。
竹中も三階建ての雅志会館≠フ実物を見ているので、さほどの違和感はなかった。
しかし、雅志会館≠ヘ二重、三重に抵当権が設定されており、担保能力がゼロいやマイナスなのだから融資実行はあり得ない。
「三原社長が先刻、鈴木会長が簡単ではない、と申したとおっしゃいましたけれど、残念ながらそのとおりです。必要最小限の信用照会もさせていただきました。ご案内のとおり九〇年四月の総量規制の導入で、不動産を対象としたご融資は、逐一当局に報告しなければならなくなりました。結婚式場もその例外ではありません」
竹中は顔をこわばらせて、切り口上で言った。
川口が微笑を浮かべてやわらかく見返してくる。
「わたくしも協立銀行本体から融資が受けられるとは考えておりません。横浜支店に融資をお願いして断られたことはご存じなんでしょう」
竹中がうなずくと、川口は役者の違いを見せつけるように笑いながら話をつづけた。
「一事不再理の原則を持ち出すまでもなく、協銀さんから融資を受けるのが困難なことは重々承知しております」
「あら、横浜支店の話なんて、わたし聞いてなかったわよ」
川口は口を挟んだ雅枝のほうへ首をねじって、顔を見合わせたが、すぐに竹中をまっすぐとらえた。
眼尻《めじり》に少し険が出ている。
「総量規制とおっしゃいましたが、住宅ローン会社といいますか、住宅金融専門会社が総量規制の対象から除外されているのはどうしてなんでしょうか」
「よくわかりませんが、大蔵省にとって不都合な何かがあるんでしょうねぇ。協銀系の住専を含めて社長は大蔵省OBの天下りです。大蔵省のメンツにかけて晒《さら》し者にするわけにはいかんのでしょう。経営危機に瀕《ひん》しているとはいえ、住専が潰《つぶ》れますと金融パニックの引き金になりかねないと懸念しているんじゃないでしょうか。土地、不動産などの価格が反転し、上向くことを期待しているのかもしれませんねぇ。あくまで個人的な意見ですが、わたしは問題の先送りが事態を必要以上にこじらせて、後で高くつくような気がしてなりませんが」
川口はふんという顔を一瞬見せたが、にこやかに訊《き》いた。
「竹中さんはバブル期はどこのポストでしたか」
「広報部です」
「銀行がどれほど悪さをしたか、ご存じないとは言わせませんよ。わたくしも銀行に痛い目に遭ってます。少ない担保なのに借りてくれ借りてくれと、どれほどせっつかれたことか。バブルが崩壊したら、掌を返すように、今度は厳しい取り立てです。それはそれとして、住宅ローン会社は不動産会社なり、建設会社に巨額の融資をしているようですが、協銀さんにひと声かけていただければ、迂回《うかい》融資は可能と思うのです。いかがでしょう」
竹中はこの男どこまで本気なのか、と真意を測りかねた。住宅金融専門会社はいずれも巨額の延滞債権を抱えて身動きがとれなくなっている。協銀にとっても最大の経営課題になっていた。住宅金融専門会社は死に体同然の実質倒産会社である。
「ねぇ。迂回融資なんて難しく考えないで、わたしが債務保証しますから、協銀が直接融資に応じてもらえないの」
雅枝は長|椅子《いす》に並んで座っている川口にしなだれかかって竹中を見つめた。
「三原さんがおっしゃるとおりギャラリー・みやび≠ニ雅志会館≠ヘ運命共同体と考えてます。そういうことですね」
「そうよ」
川口に顔を覗《のぞ》き込まれて、雅枝は艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。
竹中は眼の遣り場に当惑した。
世間知らずのお嬢さんを手玉に取るぐらいのことは、海千山千の川口にすれば朝めし前だろう。それにしても雅枝は川口の催眠術にほとんど放心状態に近い。莫迦《ばか》につけるクスリはないと言いたいくらいだ。川口から雅枝を引き離すことは至難の業だ。
竹中は絶望的な思いに沈んだが、懸命に気持ちを奮い立たせた。
「銀行の論理、銀行の秩序なんかあるんですかねぇ。よろしくご再考いただきたいと存じます。いいご返事を鶴首《かくしゆ》してお待ちしています」
川口は雅枝の腕をふりほどいて、膝《ひざ》に手を突いて低頭した。面をあげた川口の眼が鋭い光を放った。
杉本は午後三時半に竹中宅へハイヤーで乗りつけてきた。
「カミさんが留守だから、なんのおもてなしもできないよ」
「昼めしのときビールを飲んだだけだから、ウイスキーの水割りぐらい飲ませろよ」
竹中は水割りウイスキーは用意できたが、ツマミの存在がわからなかった。
「チーズかなんかないのか」
「どこにあるのかわからんのだ。無理矢理押しかけてきて、贅沢《ぜいたく》言うなよ」
「冷蔵庫の中だろうや」
「それが見つからないんだ」
竹中は煎餅《せんべい》の四角い缶を見つけ出したので蓋《ふた》をあけて缶ごとセンターテーブルに置いた。手がつけられた形跡はなかった。一枚ずつ、あるいは一本ずつ包装されている。
水割りをぐっと飲んで、杉本が切り出した。
「一回目のレポートを読んで、会長は相当安心したらしいぞ」
「安心?」
「だって川口正義がヤクザじゃないことがわかったわけだろうや。会長にしてみればその点がいっとう気がかりだったわけだからな」
「へーえ。しかし、二度目のレポートにあるとおり、その筋の者とつきあってる可能性は否定できないよ。横浜支店のケースをあげておいたが」
「うん。あれを読むと、多少心配になるが、おまえバックにヤクザがついてるとほんとに思うか」
「紳士然としてて、言葉遣いは莫迦丁寧だし、一見そんな感じは受けないが、住専からの迂回融資を要求してくるあたりは、相当したたかだよ。時折見せる厭《いや》な眼つきも気になる。マル暴がバックにいる可能性は高いと思うけど」
「ギャラリー・みやび≠ニ雅志会館≠ヘ運命共同体だって、会長のお嬢さんが言ったというのは事実なのか」
杉本の詰問調に、竹中はきっとした顔で塩煎餅を力まかせに割った。
「それ、どういう意味? 俺のレポートを疑ってるわけなのか」
「そんなことは言ってない。しかし、にわかには信じ難い話だからねぇ。それと……」
杉本はちょっとひるんだが、すぐに傲然《ごうぜん》と胸を張った。
「佐藤秘書役が、おまえが横浜支店の岡崎と接触したことを気にしてたぜ。本件は三人限りが原則だ。秘密保持を最優先しなければならないことはおまえも承知してるはずだよなあ」
竹中は煎餅のかけらを缶に放り投げて、ゆっくり手を払って間を取った。
その点はレポートに入れるか入れざるか迷ったが、川口のほうから触れたので、前者に踏み切ったのだ。
「岡崎がわれわれの意図を察知することはあり得ない。俺はそれほど間抜けじゃないよ」
そう言いきれるだろうか、と自問自答しながらも竹中は断固言い放った。
「ならいいけど、くれぐれも慎重に頼むぞ」
「きみは以前カードは切ってしまったらカードじゃなくなるから、川口は雅枝さんを取り込んだことは口外しないとかなんとか言ってたが、俺はそうは思わない。二人は運命共同体と言ってるんだよ。しかも、雅枝さんは債務保証するとも言っている。横浜支店に融資を求めたことも川口のほうが話したんだ」
杉本が棒状の煎餅をばりっと噛《か》んだ。
竹中は言い募った。
「迂回融資を断ったら、川口は正体を現すだろう。差し当たり、俺が厭がらせを受けるかもしれない。三人だけで対応できるんだろうか。杉本も佐藤秘書役も、考えが甘いように思うねぇ。会長にも肚《はら》をくくってもらう必要があるんじゃないのか」
「おまえが判断すべきことがらじゃないよ」
杉本は煎餅を口に入れたまましゃべったので、言葉が不明瞭《ふめいりよう》だった。
竹中は、川口の厭な眼を思い出して、ぞくっと身ぶるいした。
「融資の件は口頭で断ったが、川口に再考してくれと言われた。彼は図々しく、いい返事を鶴首して待つとも言ったが、文書で正式に断るべきと思うが」
「その判断も秘書役にまかせよう。二人は結婚すると思うか」
「それには両人の離婚が前提だが、川口の女房が応じるのかどうか。それと三原家はどうなのかねぇ」
「お嬢さんは、そのつもりらしい。会長は迷ってるようなんだ。川口正義を信用してるふしもある。ちょっとやそっとでは手に入らない中堅生命保険会社の中元用の扇子を三本も手に入れて、二本を会長公邸に届けてきたんだそうだよ」
「どうして中元用の扇子がそんなに価値があるのかね」
「平山郁夫が原画を描いてるんだよ。川口はそのうち会長のお嬢さんに平山郁夫を紹介すると言ってるらしい」
「その生保会社に川口の知人がいるだけのことだと思うけどねぇ。平山郁夫を紹介するという話は眉《まゆ》ツバだね。ところで、その扇子は川口自身が会長公邸に届けてきたのか。つまり会長は川口に面会したのかね」
「まさか、お嬢さんに決まってるだろう。だけど、扇子が会長の気持ちを川口に引き寄せる小道具にはなったようだ。しかし会長夫人は心身症の一歩手前だっていうから、川口とお嬢さんの結婚はやっぱりあり得ないと思うよ。会長が落胆するといけないので、二回目のレポートは、佐藤秘書役のところで止まってるけど、われわれとしては川口とお嬢さんを遮断させる手をひねり出さなければならないと思うんだ」
「そんなものないと思う。一つだけあるが、それはあってはならないことだ」
「つまり融資に応じるってことだな。川口の狙《ねら》いがその一点にあって、お嬢さんとのことはその方便だと考えれば、手を引く可能性はあるわけだ」
杉本はこともなげに言った。
竹中が呆《あき》れ顔で首をかしげた。
「特別背任罪で司直に告発されたらどうするんだ。川口に弱みを握られることになるから、不正融資は一度で済まない恐れも出てくるよ。佐藤秘書役がそんな莫迦《ばか》なことを考えてるとは思いたくないが……」
「たった十五億円でお嬢さんを取り戻せるんなら、安いもんだよ」
「たった十五億円ねぇ。MOF担をやってると金銭感覚までおかしくなるのかねぇ」
「協銀の不良債権は一兆円以上もあるんだから取るに足らんよ」
杉本はうそぶくように言った。
七月十九日月曜日の朝、私語の少ない十三階北側フロアの総務部渉外班≠焉A総選挙の話題で持ち切りだった。
七月十八日の総選挙で自民党は二百二十三議席にとどまり、過半数を大きく下回った。もはや宮沢喜一首相の退陣は決定的だ。
社会党は百三十四議席から七十議席にほぼ半減、歴史的な惨敗を喫し、55年体制に終止符が打たれた。
新生党五十五、公明党五十一、日本新党三十五、共産党、民社党各十五、新党さきがけ十三、社民連四、無所属三十(自民系十、非自民系二十)が、党派別当選者数だ。
「非自民の野党が連立を組んだときに、惨敗したとはいえ社会党は野党トップなんだから首班になれる資格はあるのかねぇ」
渉外班≠フリーダーである総務部付部長の高木が副部長の野田に訊《き》いた。
「自民が下野しますかねぇ。なんとか過半数を確保するための工作をするんでしょう」
「自民党を割った小沢一郎がどんな剛腕ぶりを発揮するかによるだろう。わたしは自民党の下野はあり得ると思うけど」
「社会党党首の山花貞夫は惨敗の責任を取らなければならない立場ですよねぇ。社会党首班じゃ内閣が持ちませんよ」
二人の話を聞いていて、竹中は六月三十日の夜、赤坂の料亭はせがわ≠ナ聞いた杉本と田中A新聞編集委員とのやりとりを思い出していた。
総合誌に発表された小説野党連立政権誕生す≠ェ現実のものになろうとしている。社会党党首の首班もあり得ないことではない。
二日後の正午前、杉本からの行内電話で、竹中は一階ロビーに降りて行った。杉本はロビーのソファにふんぞり返っていた。
「MOF担でもこんな時間に行内にいることがあるのか」
「緊急事態が生じたんだから、しょうがねえじゃねえか」
竹中の皮肉っぽい口調に、杉本は露骨に顔をしかめた。
「緊急事態って」
「川口に協立リースから融資することに決まったからな。佐藤秘書役から中野社長に電話してある。おまえはすぐ川口に会って、お嬢さんから手を引くように伝えてくれ。それが融資の条件だ。書類の体裁を整えなければならんので、形式的に絵画を担保に取ったらいいと思う。川口の邸宅にも抵当権を設定しろよ」
「あの話は本気だったんだな。佐藤秘書役の気が知れないよ」
「会長の意向でもある」
協立リースは、協立銀行直系のリース会社で、社長の中野信二は、協銀副頭取から二年前に転出した。
「協立リースなら十五億円が不良資産化しても問題はない」
「不正融資を闇《やみ》から闇へ葬れるっていうわけか。大蔵検査も日銀考査も関係ないしねぇ」
「おまえ妙な正義感を出すんじゃないぞ。川口からお嬢さんを引き離せたら、おまえの功績だ」
杉本は大きなあくびをして、話をつづけた。
「協立リースの窓口は中野社長だ。川口と話がついたら、書類を整えて、中野社長のアポを取れ。川口と中野社長を会わせる必要はない。また、おまえが中野社長に余計な話をすることもないからな」
「使い走りをやるのはかまわんが、ほかに方法はないんだろうか。不正融資に加担するのは気が重いよ」
「あるとすればこれっきゃないことは、おまえが言ったことだろうや」
竹中が投げやりに訊いた。
「川口と三原さんの恋愛が本物だったらどうするんだ」
「川口の選択肢は二つあるが、どっちを取るかは火を見るより明らかだろう」
竹中は杉本と別れて、ロビーの公衆電話から雅志会館≠ノ電話をかけた。
川口は不在だった。電話に出た女性から一時に出社する予定だと告げられ、竹中は「一時十分に電話します」と言って、電話を切った。
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第六章 ゆさぶり
むろん竹中の与《あずか》り知らないことだが、実は七月十五日木曜日の午後三時過ぎに、鈴木会長と佐藤秘書役が会長執務室で密談をしていた。
会長執務室も頭取執務室もフロアは同じ二十一階で南側に位置している。スペース調度品などは大差ないが、壁に掛けてある二枚の絵画が変わるだけだ。
鈴木は、従来の頭取執務室を会長執務室にし、会長執務室が頭取執務室に変わった。頭取執務室から見る景色も気に入っていたし、引っ越しも面倒だったので、そうしたまでだ。南麻布の頭取公邸が会長公邸になったことがすべてを物語っている。鈴木は協立銀行の人事権者であり権力者であった。煙たい存在の前会長が相談役に退いた分だけ、鈴木のパワーが強化されたとも言える。
佐藤は、杉本経由で入手した二度目の竹中レポートを鈴木に提出しない肚《はら》を固めていた。
平山郁夫の原画になる扇子を雅枝からプレゼントされて、機嫌をよくしている鈴木に水を差すことはない――。
「いつだったか某大銀行のトップが娘の絵画取引の不正が発覚したために引責辞任したが、あんなのに比べれば、川口は筋がいいよ」
「比較の対象になりません。あの娘はとんでもないはねっかえりですよ。闇《やみ》の勢力と組んで、何百億円という絵画を父親の威光で売りつけて、老舗《しにせ》の商社を倒産させてしまったんですから」
「雅枝がそのとんでもないはねっかえりと張り合って、ギャラリーをやりたいと言い出したことは事実だけどねぇ。雅枝の話では川口正義という男は、絵の目利きもたしかなようだ。パートナーとして損はないようなら、ゆくゆくは結婚まで進んでもしょうがないような気がしてきたよ」
レポートにある横浜支店のことが佐藤の頭の中をよぎった。鈴木の気持ちがずいぶん変化している。
しかし、結婚ともなると、きわめてリスキーだ。川口は横浜中央カントリークラブのメンバー仲間である暴力団幹部と交際している可能性が高い≠ニレポートにあった。
「奥さまのお気持ちはいかがですか」
「あれも川口から扇子をもらって、ちょっと川口を見直したようだ。しかし、離婚には絶対反対だと言っている」
「当然だと思います。川口氏の正体がいまひとつ見えてきません」
「ご多分にもれず、バブルで絵画や株でロスを出してるようだが、結婚式場のほうはペイしてるっていうじゃないか。それを手放すのは勿体《もつたい》ないだろう。わたしとしては助けられるものなら助けてやりたいと思ってる」
「十五億円の融資は実行しましょう。協立リースのトップに因果を含めます」
「なるほど。そういう手もあったねぇ」
「融資を実行すれば、川口氏はお嬢さんを解放するような気がします。会長も人質を取られてるようなものだと以前おっしゃいましたが、川口氏の狙《ねら》いは融資を引き出すことにあったのではないでしょうか」
鈴木が眉間《みけん》にしわを刻んだ。
「人質というのは言葉の綾《あや》だよ。川口に対して固定観念を持ちすぎたかもしれんねぇ。娘が川口に会ってくれとうるさく言ってくる。一度、川口に会ってみるかねぇ」
「融資を実行してからでよろしいでしょう。そこで川口氏がどう出るか、見きわめがつくと思うのです」
「うん」
不承不承、鈴木はうなずいた。明らかに川口を許容している、と佐藤の眼に映った。
七月十九日月曜日午後二時に、竹中は帝国ホテルの談話室で川口と会った。アイスコーヒーをオーダーしたあとで、挨拶《あいさつ》もそこそこに竹中が単刀直入に切り出した。
「運命共同体を解消していただくことは可能ですか」
「難しいご質問ですねぇ。どう申し上げたらよろしいのでしょうか」
「三原雅枝さんとこれ以上かかわるのはやめていただきたいのです。それがご融資できる条件です」
「三原さんの債務保証は不必要なんですか」
「三原さんが個人で十五億円の債務を保証する能力はないと思いますし、川口社長もおっしゃいましたが、協銀本体がご融資することも不可能です。住専を使った迂回《うかい》融資もあり得ません。協立リースからご融資させていただきますが、返済計画の作成等最大限のご努力をお願いしたいと思います」
「わたくしはヤクザじゃありませんよ。借りたおカネを踏み倒すような真似はしません。しかし、とりあえず十五億円あれば雅志会館≠ェ人手に渡らずに済みます。二〜三年は返済を猶予させていただきますが、充分返済していけると思っております」
「つまり、雅志会館≠フ改造工事は考えていらっしゃらないということですね」
「お恥ずかしい次第ですが、おっしゃるとおりです。絵画ビジネス失敗の穴埋めをしなければなりません。資金繰りがどうにもならなかったのです」
「本音をお聞かせいただいたついでにお尋ねしますが、三原雅枝さんへのアプローチは、計画的だったと受け取ってよろしいのでしょうか」
アイスコーヒーが運ばれてきた。
話が中断したが、竹中は川口が厭《いや》な眼をしたのを見逃さなかった。
「それでは、わたくしがあんまり可哀相《かわいそう》じゃあありませんかねぇ」
「下種《げす》の勘繰りとおっしゃりたいわけですか」
「そんな失礼なことは申し上げませんが、これでも絵心は多少はありますから、ギャラリーを覗《のぞ》くぐらいのことはしょっちゅうです。ギャラリー・みやび≠ヨはぶらっと入ったんです。三月中旬の霙《みぞれ》まじりの冷たい雨が降った日でした。東山魁夷先生の小さな絵に見惚《みと》れているときに三原さんから声をかけられました。竹中さんはなにか誤解されてるような気がしますが……」
「誤解ってどういうことですか」
「三原さんとは男女関係はありません。絵画を通じてビジネスライクにおつきあいしていただいているだけです。運命共同体とはそういう意味ですよ」
川口はコーヒーカップをソーサーに戻して薄ら笑いを浮かべて話をつづけた。
「信じていただけないかもしれませんが、これは事実です。わたくしは家庭を壊すつもりもありません。雅枝さんもおそらくそうなんじゃないでしょうか」
竹中は頭の中が混乱した。三原雅枝から直接確認したわけではないが、川口と雅枝に男女関係が生じていないはずがなかった。
川口はシラを切っているとしか思えないが、万一事実なら、融資に応じる必要はないのだ。
「不思議な話ですねぇ。川口さんから雅枝さんを取り返すのがわたしの任務だったんですよ。狐か狸に化かされてるんでしょうか。それとも、川口さんに化かされてるのかもしれませんね」
竹中はアイスコーヒーをすすりながら、川口をひたととらえた。
「なかったことにしたい、ということではないのですか。それなら頭の悪いわたしでもわかりますが」
「いいえ違います。三原さんにご融資で口添えしていただいたということです。三原さんに協力していただけなかったら、雅志会館≠ヘ人手に渡ってました。三原さんは運命共同体≠ニまで、おっしゃってくださった。しかも個人で債務保証するとまで。わたくしの人間性なり、ビジネスマンとしての能力を評価してくださったのだと思います。三原さんは、わたくしの恩人です。絵画ビジネスでは苦労してますので、わたくしなりにギャラリー・みやび≠応援できると思っております。せめてもの恩返しをしなければ、わたくしの気が済みません」
したたかな男だ、と竹中は舌を巻いた。これでは、三原雅枝はまだまだ食い物になる、と告白しているようなものではないか。
えらいものに食らいつかれてしまった、と竹中は思う。
竹中は表情をひきしめて背筋を伸ばした。
「協立リースが川口さんにご融資を拡大することはあり得ないと思います。今回の十五億円限りとご認識ください。お持ちの絵画に担保を設定しますので、どこへ、いつ伺ったらよろしいかご連絡ください。ご融資するために書類上の体裁は整えなければなりませんので」
「いつでもけっこうです。雅志会館≠ノはガラクタしかありませんが、担保などないことはおわかりいただいているわけですよねぇ。口座はどうしましょうか。横浜支店にあることはありますが」
「横浜支店を巻き込むことはできません」
「それではギャラリー・みやび≠フ口座を使わせていただきましょうか」
「それも賛成しかねます。お振り込み先の口座については、ちょっと考えさせていただきましょうか」
竹中は伏眼がちに話をつないだ。
「横浜支店で思い出しましたが、ご融資をお断りしたとき、支店長と副支店長が厭がらせを受けた事実があるそうですねぇ。今回のお取り引きが不調に終わっていたら、わたしが怖い目に遭ってたんでしょうか」
「なんのことですか。わたくしには思い当たることはございませんけど」
「なにかの間違いか偶然でしょう。川口さんはヤクザじゃないから借りたおカネを踏み倒すことはない、とおっしゃいました。わたしはそれを信じたいと思います。担保不足は明白です。むろん借用証は書いていただきます」
「何枚でもお書きしますよ」
「一枚でけっこうです」
川口の薄ら笑いに反発するように、竹中は硬い顔で返した。
午後四時を過ぎたころ竹中のデスクで電話が鳴った。行内電話である。杉本だろう。
「竹中です」
「杉本ですが、すぐ役員応接の5号室に来てください。じゃあ」
竹中は黙って席を外した。杉本の口ぶりから察して、佐藤秘書役が同席しているに違いなかった。
役員応接室は二十階フロアにある。
佐藤と杉本がソファで向かい合っていた。
「どうぞ」
佐藤は、杉本の隣席を手で示した。
「失礼します」
「さっそくですが、川口氏はどんな様子でしたか」
「電話で杉本君におよそのことは話しておきましたが、三原雅枝さんとの男女関係はない、とシラを切るあたり、ちょっとやそっとのタマではないと思いました。三原さんは恩人なので、恩返しに絵画ビジネスで協力したいとも話してました」
「横浜支店の厭《いや》がらせについてはどうなの」
「全面否定です。なんのことかわからないととぼけてました」
「いま、杉本さんにも話してたんですが、実は昨夜、会長公邸に川口氏があらわれたそうです。雅枝さんが強引にお連れしたんでしょうが、会長はすっかり川口氏を信頼してしまったようなんで困ってるんですよ」
竹中は息を呑《の》んだ。
川口から雅枝を引き離すどころか、逆に密着度が強まる一方ではないか。
「会長には離婚、再婚に向けて、最善を尽くしたい、とのたまったそうですよ」
「二枚舌もいいところですねぇ」
「竹中さんの話をぶつけたら、会長は川口氏が雅枝を庇《かば》ってるんだろう、と言ってました。双方の離婚が成立するまでは、そのほうがベターだっていうわけです。弁舌もさわやかだし、頭も切れる、慶応の商科を出てるだけのことはあるとも話してました」
「事実は中退です」
佐藤が整った顔に苦笑を滲《にじ》ませた。
「そのことはまだ会長に報告してないんですよ。横浜支店への厭がらせもそうですが、二回目のレポートはわたしの所でストップしてます。問題はあのレポートを会長に提出するかどうかです。いまにして思うと、提出すべきだったかもしれません。わたしの判断ミスで出し遅れの証文になってしまったのかどうか……」
佐藤は思案顔を天井に向けていたが、考えがまとまらないままに杉本へ眼を向けた。
「杉本さんの意見を聞かせてください」
「いまさらあれを持ち出しても仕方がないんじゃないでしょうか。タイミングの問題ではなく融資に応じることになった以上、意味がないと思うんです」
「竹中さんは?」
「日付を変えて、会長にお見せしてください。融資もストップすべきです。川口正義は明らかに危険人物ですよ。杉本君がわたしに暴力団の準構成員だと言ったことがありますけれど、それも否定できないんじゃないでしょうか」
「あれは、ちょっとオーバーに言ったまでだよ」
杉本が首をねじって、竹中の横顔を睨《にら》んだ。
「住之江銀行の実例を思い出してください。ワンマンの実力会長が藤岡光夫なる地上げ師を信頼して近づけた結果、名門商社が倒産しました。会長の娘が絵画ビジネスを通じて色濃く関与していたことも事実です。懐深く飛び込まれて、抜き差しならなくなったら、どうなりますか。スキャンダルに発展しないとも限りません」
「竹中は被害妄想が過ぎるよ」
「そうならいいけどねぇ」
竹中は左へ首をねじって、杉本を見返した。
佐藤が二人にこもごも眼を遣りながら言った。
「雅志会館≠フレベルなりボリュームからみて十五億円以上に融資額が拡大することはあり得ないでしょう。わたしが恐れるのは、鈴木会長がスキャンダルにまみれることです。わたしも、竹中さんは過剰反応かな、と思わないでもありません。ただ、会長ほどの方が、なんで、あんなに川口氏を買うのか、首をかしげたくなるんです。川口氏は平山郁夫画伯とも懇意にしているらしいし、人脈はかなりのものがあるらしい。モーツァルトでも意気投合したようだが、人は誰でも二面性はあるけれども、横浜支店の一件が事実だとすれば、その落差がありすぎますよねぇ」
「川口が闇《やみ》の勢力とつながりがあるかどうかを調べることは可能と思いますが。協銀の名前を出さず、興信所にわたしが個人的に調査を依頼する手はどうでしょうか」
「個人的にねぇ……。そこまでやらなくてもいいでしょう。第二回目のレポートもいまさらという気がします。二人ともご苦労さまでした」
佐藤がソファから腰をあげた。
竹中の意見は退けられたのである。
「今月はいろいろあったなあ」
杉本が仲居の酌を受けながら、竹中に言った。
七月二十九日の夜、赤坂の割烹《かつぽう》おがわ≠フ座敷で、二人は向かい合っていた。ワイシャツ姿で、杉本はネクタイをゆるめている。
東京地方は二日前にやっと梅雨が明け、一挙に真夏になった。
「野党連立政権の誕生が決定的になったなあ。首班は社会党の党首ではなく、細川|護熙《もりひろ》日本新党党首だけど、社会党から入閣者が出ることは間違いないわけだ。黒河小太郎≠フ小説はほぼ的中したってことになる」
「自民党がついに下野か……」
竹中はグラスを乾して、話をつづけた。
「金丸のヤミ献金による不正蓄財、脱税事件が選挙に影響したんだろうねぇ。三十億円もの金融債やら金の延べ棒やらを事務所の金庫に隠してたそうだが、政界再編のための資金をプールしてたなんていう白々しい言い訳は国民を愚弄《ぐろう》するだけだよ。ゼネコンや運送会社の不正献金が表面化したことによって、自民党が下野するっていうわけか」
所得税法違反の罪に問われた金丸信前自民党副総裁の脱税事件の初公判が、東京地裁刑事八部で開かれたのは七月二十二日午前である。宮沢首相が退陣を表明したのも、同日の午後だ。
「川口に融資した十五億円ぽっちのことで悩むなんてナンセンスだよ」
杉本は、中年の仲居へ流した眼を竹中に戻した。
「おまえはさっき、なんのために渉外班≠ノ在籍したかわからない、無意味だったと言ったが、さにあらずだ。佐藤秘書役の目矩《めがね》にかなったんだからな」
「十何年か後に杉本が頭取になって、俺を常務にしてくれるっていう話か。杉本の頭取は大いにあり得るけど、俺の常務はないよ」
「佐藤秘書役を甘く見ないほうがいい。副頭取や専・常務が一目置く存在なんだからな」
「川口正義から三原雅枝を引き離すことが本来の目的だったのに、川口に手玉に取られて、結果的に二人の仲を取り持ったことになる。十五億円ぽっち、と杉本は言ったが、大変な額だと思うけどねぇ。『資産価格変動のメカニズムとその経済効果』読ませてもらったが、モラルへの影響について言及してたけど、バブルの後遺症で最も怖いのは人心の荒廃だっていう気がしたよ」
竹中が杉本からこの報告書のコピーをもらったのは先週月曜日である。
部厚いコピーを手渡されたときも、杉本はひとこと多かった。
「おまえがこんなもの読んでもしょうがねえんじゃないか」
「そう莫迦《ばか》にするなよ。勉強しておきたいんだ」
竹中は同報告書を熟読|玩味《がんみ》した。
第三章(資産価格の上昇の影響とそれへの対応)の第三節(モラルへの影響)は次のように記述されてあった。
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バブル期には、従来、人々が持っていた価値観とは別の価値観が台頭し、個人、法人を問わず、拝金主義的な風潮が社会に蔓延《まんえん》していたきらいがある。株式、不動産、ゴルフ会員権、絵画などに対する積極的な投機が金儲《もう》けのために行われ、一方では金の価値に対する意識が薄れて、高額な飲食や高額な消費が盛んに行われるといった状況が存在した。
個人に関しては、八五年には五千六百億円であった消費者信用による借入金が八九年には五兆四千九百億円まで拡大するなど借金に対する抵抗感が薄れる傾向が見られた。こうした中で自己破産の件数が八七年の一万一千五十八件から九一年には二万四千六百五十三件に拡大するなど返済に対する責任意識が希薄化するモラルの低下とも言える現象が見られた。
地価の上昇に伴う資産格差の増大や、住宅の取得が困難になったサラリーマン層の不公平感の高まりが、勤労意欲の低下に結びつく可能性について多くの指摘がなされた。より一般的には、社会の投機的風潮が労働軽視に結びつくのではないかと心配する向きが増えた。土地等の相続権争いから訴訟になるケースも増加し、家族関係にも少なからず影響を与えたと考えられる。
法人に関しては、株式や不動産投機のために大量の銀行借入を行った結果、バブルの崩壊により返済不能に陥り、倒産等に至った企業が数多く存在する。九一年度中には九千五百七十五件、負債総額で八兆一千三百八十億円の企業倒産があったが、負債総額の六一・五パーセントは不動産業および財テク倒産が占めている。中には上場企業が不動産投融資や高級絵画投資等の失敗で吸収合併に追い込まれたケースも存在した。こうした風潮について今日では、本来は物を作るべき企業がいわゆる財テクや土地投機といったマネーエコノミー偏重志向に陥り、金融と実物経済のバランスが崩れたとの批判がなされているが、当時の風潮としてはむしろ、財テクは最新の技術を駆使して効率的な資金の運用と調達を行う前向きな企業行動であると考える傾向が強かった。
また一方で資金の貸手である金融機関の行動にも変化が見られた。例えば担保(特に土地)さえあれば返済能力以上の貸付でも行った事実が存在している。更に従来の基準からすると信じられないような巨額の融資が極めて安易に行われた結果、巨額の焦げつきが発生するなどし、金融機関内部の管理体制面の緩みや、こうした融資に関連した役職員のモラルの低下やルールの乱れが指摘されるようになった。また証券会社においても、後に公正な価格形成を損なう恐れの強い行為として問題になった行き過ぎた大量推奨販売が行われるなどの行動が見られた。
また、情報の非対称を利用して利益を得ようとする行為など、市場への人々の信頼を結果的に損なうような行為もみられた。
こうした社会の投機的風潮の中では、一般的に言って、安易に金を儲けようとする風潮から、犯罪や、詐欺や脅迫まがいの行為が増加するが、今回のバブル期についてもゴルフ会員権をめぐり実際のゴルフ場の規模をはるかに超えた会員の募集が行われるなど詐欺まがいの行為が見られたほか、暴力団の絡んだ地上げや株式市場での取引など社会のルールにそぐわない行為が行われた事実が存在している。
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杉本が厭《いや》な顔をして、グラスを呷《あお》った。
「おまえやけに絡むじゃねえか」
「絡んじゃいない。心配してるんだ。いや、川口が協銀の疫病神にならなければいいけど。相当|祟《たた》るような気がする」
「おまえも苦労性だねぇ。佐藤秘書役の判断は正しいよ。融資実行された本日を以《もつ》て、これにて一件落着だ。だからって、竹中を渉外班≠ゥら外すわけにはいかんから、あしたからおまえは本物の渉外班≠チてことになる。ただし、一年で替えてやるよ」
いつから人事部長になったんだ、と言いたいところだったが、竹中はぐっと堪《こら》えた。杉本の増長ぶりは眼に余る。こんなのが将来の頭取候補なんて笑わせるな――。
竹中は無理に微笑を浮かべて皮肉っぽく言った。
「それはありがたいな。杉本が急に大きく見えてきたよ」
「いまごろ気がついたか」
皮肉を皮肉と取らないところが杉本の杉本たるゆえんかもしれない、と竹中は内心|呆《あき》れ返った。
鮎《あゆ》の塩焼きを食べながら、杉本が話題を変えた。
「八月初旬に召集される特別国会で、細川内閣が成立するが、細川はリーダーシップがとれるほどのパワーはないから、小沢が背後で糸を引くことになる。つまりキングメーカーっていうわけだ。MOFに限らず霞が関は一斉に小沢|詣《もう》でを始めたよ。連立政権の誕生によって、自民党時代の族議員の存在感が薄れるから、官僚、わけてもMOFがのさばることになるんだろうなあ。主計局長時代に国際貢献税で小沢と共同歩調をとったドン助≠ヘ仲がいいから、いちばん張り切ってるのはドン助≠セろう」
ドン助≠ヘ加藤三郎大蔵省事務次官のあだなである。
一九九〇年(平成二年)八月からの湾岸戦争で九十億ドル(一兆二千億円)の巨費を投じることを米国政府から迫られた日本政府は時限立法による増税などでこの財源を捻出《ねんしゆつ》した。国際貢献税は恒久的な財源の確保を狙《ねら》った小沢一郎の発想で、加藤三郎主計局長は同調したが、主税局が猛反対し、商工族の実力者、梶山静六も主税局に同調して、これを潰《つぶ》し、幻の国際貢献税に終わった。
「ドン助≠ェ小沢と組んで、なにをやらかすか心配してる大蔵官僚もけっこう多いんだ。MOF担やってるといろんなことが見えるから、おもしろくてやめられねえよ」
「銀行を含めた財界も小沢になびいてるのかねぇ」
「ウチの鈴木会長は、案外小沢を買ってるふしがある。財界総理の平井経済連会長のスタンスはわからないが、小沢に近い財界人はけっこう多いんじゃないかな。それとマスコミで小沢をバックにしてる羽田孜を担いでるのがA新聞にいるらしいよ。財界人に呼びかけて羽田を囲む会≠ネんか作って悦に入ってるらしい」
「まさか先日会った田中編集委員じゃないんだろう」
「あいつはただのオポチュニストだよ。取材力も筆力もそこそこあるけど、大局を見る眼や、先見性なんかあるとは思えんな」
杉本は腕組みしてえらそうに言った。以前は田中を褒めていたのに、二人の間でなにかあったのだろうか。
竹中が思い出したように言った。
「ポケベル返そうか」
「返してもらってもしょうがない。おまえにやるよ。渉外班≠ナ使えばいいだろう」
「じゃあ、そうさせてもらう。調査役はみんな持たされてるからな。俺はあしたから名実共に渉外班≠フ一員になり、杉本MOF担の家来じゃなくなるわけだ」
「阿呆《あほう》! おまえが俺の家来になるのは十年早いよ」
仲居が退出した隙《すき》をつくように、杉本がにやつきながら言った。
「今夜は竹中の慰労会だから、吉原の風呂《ふろ》へ連れてってやろうか。料金は料亭並みの凄《すご》い所だ」
「それには及ばない。お気持ちだけいただいておく」
「電話をかければリンカーン≠ェ迎えに来てくれる。遠慮しなくてもいいんだぞ」
「いや、ほんとにけっこうだ」
竹中は右手を振った。誘い手が杉本以外だったら、受けたろうか。杉本には借りをつくりたくないという気持ちがいまは勝っていた。
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第七章 大物フィクサー
竹中が名実共に渉外班≠フ主任調査役になって五カ月ほど経った。竹中は自分が予想していた以上に渉外班≠ノ融け込んでいることに気づいていた。デスクも調査役陣のブロックの中に入った。
そして顔|馴染《なじ》みの特殊株主、総会屋も増えた。
竹中たちを訪ねてくる総会屋はBクラス、Cクラスで、大物と称されるAクラスが協立銀行本店ビルに足を運んでくることはめったにない。
数年前まで大物総会屋は、大銀行の会長や頭取と会食したりゴルフをしていたが、いつしかお互いに距離を置くようになった。
大物総会屋が高齢化したことや銀行の経営トップも若返ったことと、無関係ではあるまい。
全国に総会屋、総会屋もどきは約二千人存在するといわれている。
しかし、実際に活動しているのは、その一割、二百人前後と思える。これは竹中の実感だが、協立銀行に株付けしている総会屋は約六十人である。協立銀行の株式を一千株保有し、総会に出席できる資格を有している総会屋は約六十人だとしても、それ以外の右≠竍書き屋≠ニのつきあいも渉外班≠フ仕事である。
たった二ページ一枚のタブロイド判月刊誌を年間二十四万円の購読料で送りつけてくる右≠熨カ在するから、恐れ入るほかはない。一匹狼の右≠ナ、右翼を騙《かた》っているに過ぎないとも考えられる。
一匹狼でも右≠ナも書き屋≠ナも、丁寧に応対することが、協立銀行渉外班≠フ伝統であり、流儀である。総会対策費は人件費を含めたら年間十億円は下らない。
ただ、総会屋に対する現金の授与はなかった。信用機構として、法律に抵触する行為は厳に慎まなければならないことは当然である。
商法四九七条の株主の権利の行使に関する利益供与の罪≠ナナワ付きを出したら、それこそ頭取の首も危い。
もっとも不正融資は巧妙に行なわれている。特別背任罪に問われても仕方がない事件に直接関与させられた竹中としては、内心忸怩《じくじ》たる思いを禁じ得なかった。
ついでに言及すると渉外班≠フ交際費がゼロであることに、竹中は驚かされた。ブラックジャーナリズムや総会屋と飲み食いなどのつきあいを一切してはならない、ということになるし、本店ビル以外での面会も事実上、禁じられているに等しい。
平成五年十二月十六日の午前十時を過ぎたころ、竹中は、梅津みどりから話しかけられた。
「夏川企画の夏川美智雄さんとおっしゃる方が受付にいらっしゃってるそうですが、いかが致しましょうか」
「わたしに……」
「いいえ、協銀の然るべき方にお会いしたいと……」
竹中は前後左右に眼を遣った。
高木も野田も在席していたが、四人の調査役は電話に出ていたり、ミニコミ誌を読んでいたり忙しそうにしていた。
「然るべき人ねぇ……」
竹中は、自分がそれに該当するのかどうか訝《いぶか》りながらも席を立った。
夏川美智雄が株付けのリストに入っていないことはわかっていた。
エレベーターで一階ロビーへ降りて、受付で夏川を確認して、竹中のほうから声をかけた。
「夏川さんでいらっしゃいますか」
「ええ」
「どうぞ」
竹中は、ロビーの一画にいくつかあるソファに夏川を導いた。
夏川は年齢は五十がらみ。総髪で、鋭い眼つきをしていた。ゴルフ焼けして顔は浅黒い。紺地のダブルのスーツを着ている。大柄で押し出しは堂々としていた。
「総務部の竹中と申します」
竹中は丁寧に一礼して、名刺を出した。
「夏川です」
名刺の肩書は経営コンサルタント、住所は西神田のオフィスビルだった。
夏川はソファにふんぞり返って、ライターで煙草に火をつけ、咥《くわ》え煙草で切り出した。
「協立銀行さんには柳沢|吉保《よしやす》≠ンたいな凄《すご》い秘書役がおるそうですねぇ」
竹中は苦笑した。「よくご存じですねぇ」と言いたいところだが、そうもいかない。
「秘書役は一人しかいませんから、佐藤のことをおっしゃってるんでしょうか」
「そう。佐藤明夫いいましたかねぇ。副頭取や専・常務を顎《あご》で使うそうじゃないですか」
「そんなことはあり得ません。佐藤はキレ者ですから、やっかみ半分に中傷されるんでしょうか」
「中傷ねぇ」
夏川は咥えたばかりの煙草を灰皿に捨てた。
「はっきり言いましょう。虎ノ門支店で、大物政治家が絡んだ不正融資が発覚する恐れがあることを竹中さん、知ってますか」
「いいえ。わたしは六月まで虎ノ門支店の副支店長をしてましたが、そんな話は知りません」
「ほう。虎ノ門支店の副支店長だったんですか。それなら話が早い。赤坂の割烹《かつぽう》たちばな≠フ経営者はご存じでしょう」
「ええ。立花満子さんなら存じてます。たしかに当行の虎ノ門支店に口座もあるはずです」
「村田重雄さんはご存じですか」
「ええ。二年半前まで虎ノ門支店の営業課長でした。いまは市ヶ谷支店の副支店長です」
「いよいよおもしろいことになってきましたなあ。村田さんが担当したはずですよ」
夏川はふたたび煙草を咥えた。
「不正融資が実行されたのは、九〇年、平成二年です。金額は十八億円。焦げつきになってるはずですわ。もう償却されたかもしれませんよ。大物政治家がおたくの頭取に口利きして柳沢吉保≠ェ仕切ったんです」
村田は高卒だが、仕事はできた。年齢はいま四十四歳で、竹中より年長である。
「わたしが虎ノ門支店に在籍したのは二年ですから、わたしの在籍する以前の話ですが、それにしても到底信じられませんねぇ。仮にそれが事実として、どうして夏川さんはそんなことをご存じなんですか」
「ニュースソースは明かせませんが、ヒントだけ言いましょうか」
煙草の煙がたなびいてくるのを躰《からだ》をかわしてよけながら、竹中は夏川を凝視した。
夏川がにたっと下卑《げび》た笑いを浮かべて言った。
「ご存じのとおり立花満子はふるいつきたくなるようないい女ですよねぇ。それに男を嫌いじゃない。大物政治家も協銀のトップもわたしもみんないい思いをしてるかもしれませんよ」
「協銀のトップと申しますと。できたら大物政治家も特定していただけませんか」
「秘書役に聞いたらいいでしょう。わたしは経営コンサルタントで、総会屋と違いますよ。なんで総務部の主任調査役が応対に出てきたのかわからなかったが、竹中さんが虎ノ門支店の副支店長だったと聞いて、かえって都合がよかった。佐藤秘書役に何度電話をかけても居留守を使われて、出てこないんです。それで押しかけてきたわけですわ」
「佐藤に面会を求めたんですか」
「ええ」
「失礼ですが、夏川さんは佐藤になにを言いたいのでしょうか」
「決まってるでしょう。融資をお願いしたいんですわ」
「それでしたら、神田支店が窓口と思いますが」
「あんた、本気でそんなこと言ってるのか」
夏川は低い声で凄んだ。
「この話を週刊誌に売り込んだら、飛びつくでしょうねぇ。協銀のトップと立花満子がたちばな≠フ前で戯《じや》れ合ってる写真も持ってます。写真誌いう手もありますなあ」
「夏川さんは、経営コンサルタントと承りましたが……」
夏川は怖い眼で、竹中をとらえた。
「恐喝で、わたしを警察に突き出したらどうですか」
「それも一案ですかねぇ。しかし、その前に事実関係を把握させていただきましょうか。それと佐藤の意見も聞いてみましょう」
「それがいい。犯罪が暴かれるのは協銀さんにとって得はないと思いますよ」
夏川は煙草を灰皿にこすりつけて、ソファから腰をあげた。
竹中は夏川を正面玄関まで見送って、ロビーの公衆電話から、市ヶ谷支店に電話をかけた。
村田は外出していた。
十一時半に帰店する、と電話に出てきた女性行員に言われて、竹中は帰店後直ちに本店へ自分を訪ねるように指示した。
村田は十二時五分前に来店し、受付の女子行員が電話をかけてきた。
村田はエリート・バンカーで充分通る折り目正しい紳士で、端整な面立ちだった。
先刻、夏川と向かい合った同じソファがあいていたので、竹中は腰をおろした。
「お呼びたてしてどうも」
「とんでもない。で、なにか」
「ええ。村田さん、この人、ご存じですか」
竹中は名刺入れから、夏川の名刺を取り出して、村田に手渡した。
「ええ」
村田の顔が蒼白《そうはく》になった。
「どういう人ですか」
村田はふるえ声でぼそぼそと話した。
「名刺の肩書は経営コンサルタントになってますが、児玉由紀夫の息のかかった総会屋の端くれです。Cクラスっていうところでしょうか」
「渉外班≠ヘ誰も知りませんでしたよ。児玉由紀夫ならみんな知ってますけど」
児玉由紀夫は、昔の名前で通る$拍ュない大物総会屋として聞こえている。年齢は六十五、六歳だろうか。もちろん協立銀行にも株付けしていた。
「大物政治家の口利きで、虎ノ門支店が平成二年ごろ、立花満子に十八億円融資した事実はあるんですか。わたしの知る限り、ないと思うんですが。少なくともそんな記録を見たことはないんですよねぇ」
「いいえ、事実です」
「佐藤秘書役が関与していることも事実ですか」
「はい。すでに不良債権として償却しました。これも秘書役の指示によるものです。どう常務会で説明したのかわかりませんけど」
「大物政治家と協銀のトップを特定できますか」
「ご容赦ください。わたしの口からは申し上げられません」
「市ヶ谷支店が夏川から融資を求められたことはあるんですか」
「ありますが断りました。それで、わたしはずいぶん怖い思いをしてます」
「たとえばどんなことですか」
「匿名の脅迫状が何通もきてますし、無言電話もありました」
「マル暴がらみなんですかねぇ」
「それはわかりません」
「佐藤秘書役と対応策を検討しますが、あなたの意見を聞かせてください」
「黙殺するしかないと思います」
「夏川は週刊誌に売り込むと言ってましたが、それでも無視したほうがいいと思いますか」
「その判断は、わたしにはできません」
「訊《き》きにくいのですが、立花満子から村田さんにリベートなりキックバックがあったことはありませんか」
村田はハッとした顔で、息を呑《の》んだ。
「その点は大事ですよ。万一、あなたがポケットに入れてるようなことがあったとしたら、夏川と闘えないと思います。佐藤秘書役が連座してることはないんですか」
「ないと思います」
「あなたはどうなんですか」
「ありません」
蚊の啼《な》くようなか細い声だった。リベートをもらった、と白状しているようなものだ。
「それを聞いて安心しました」
竹中の口調が皮肉っぽくなるのは仕方がない。
竹中は行員食堂で五目焼きそばを食べてから、秘書室へ直行した。時刻は正午を四十分過ぎていた。
「総務部の竹中です。至急、佐藤秘書役にお目にかかりたいのですが」
「少々お待ちください」
秘書室の受付にいる若い女性秘書が戻ってくるまでに三分ほど要した。
「佐藤秘書役はあいにく多忙をきわめております。企画部の杉本さんにご連絡ください、とのことですが」
屈辱感で、竹中の声がふるえた。
「秘書役はいらっしゃるんですか」
女性秘書は当惑した顔で、曖昧《あいまい》にうなずいた。
「ことは急を要します。立花満子さんと夏川美智雄さんの問題で、ご相談したいことがあると秘書役にお伝えください。失礼します」
柳沢吉保≠フ野郎! と竹中は思った。渉外班≠フ主任調査役などに割く時間はない、ということだろうが、MOF担の杉本とは無関係ではないか。取締役総務部長を間に入れろ、ということならまだしも、杉本とはどういうことか。
しかし、実質ナンバー2の佐藤秘書役に渉外班≠イときが直接面会することはゆるされないと考えるべきかもしれない。
竹中が自席に戻ってほどなく、杉本から電話がかかってきた。
「秘書役から電話があったぞ。立花満子ってたちばな≠フ女将《おかみ》のことだな」
「そう。MOF担には関係ないと思うけど」
「おまえまだわかってないのか。俺《おれ》をそこらのMOF担と一緒にしないでもらいたいな。佐藤秘書役の参謀でもあるんだ。佐藤秘書役とじかに接触しようなんておまえ厚かましいぞ。立場をわきまえろよ」
「例のプロジェクトは終わったけど、緊急を要することだからねぇ」
「今夜は時間がないが、あしたの夜あけてくれ。久しぶりにめしを食おうや。そのとき話を聞いてやるよ。場所と時間はあとで連絡する。じゃあな」
ガチャンと電話が切れる音を聞きながら、竹中は眼をつり上げて下唇を噛《か》んでいた。
午後四時過ぎに村田から電話がかかった。
「さっきは失礼しました。いまからお目にかかるわけにはいきませんでしょうか」
「いいですよ。お茶でも飲みましょう。受付から電話をかけてください」
「一階のロビーに来てるのですが」
「そうですか。すぐ降りて行きます」
竹中と村田は、本店ビルを出て大手町ビル地下一階のティールームで、ミルクティーを飲みながら話をした。
村田が怯《おび》えたような眼で、竹中を見上げた。
「佐藤秘書役ともう話されたんでしょうか」
「いいえ、まだ話してません。秘書役の判断にまかせることになるんでしょうが、村田さんのサジェッションどおり黙殺するのがいいかな、とわたしも思ってます。夏川は、立花満子さんとごく親しいようなことを言ってましたが、ほんとうのところはどうなんですか」
「立花さんが銀座のクラブでホステスをしていた時代に知り合ったと聞いてますが」
「夏川がけっこう当行の内部事情にも詳しいのには驚きました。佐藤秘書役を柳沢吉保≠ンたいな人と評するあたり、相当なものですよ。徳川第五代将軍の綱吉に重用された側用人《そばようにん》で、権勢をふるった柳沢吉保は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった人でしょう。佐藤秘書役もそんな感じがありますよ。丁寧な言葉遣いなんですが、凄《すご》みがあるんです。夏川が副頭取や常務を顎《あご》で使うとか話してましたけど、顎《あご》で使うはオーバーですが、権力者であることはたしかでしょう。いまや雲の上の人で、われわれ下々はそう簡単に会ってもらえませんよ」
竹中は話しながら、怒りがこみあげてきて感情的になっていた。
村田は心ここにないのか、竹中の話にうわの空だった。
「ところで、なにかおっしゃりたいことがあるんですか」
「…………」
「村田さん」
竹中に少し大きな声で名前を呼ばれて、村田はわれに返った。
「どうぞ、お話しください」
「実は、立花満子さんに十八億円を融資したあとで、ほんのお礼だと言われて一千万円の商品券を受け取ってしまいました。さっきは嘘《うそ》を言って、申し訳ありません。就業規則に違反していることは明らかですが、なんとか依願退職っていうことにしていただけないでしょうか」
竹中は小首をかしげた。村田がそこまで思い詰めていると思わなかったからだ。
「さっき竹中さんからわたしがリベートを受け取っていたら夏川と闘えないと言われて、ほんとうにおっしゃるとおりだと思いました。魔が差したとしか思えません。われながら情けなくて」
村田はほとんど涙声だった。
「一千万円ですか……」
竹中は深い吐息をついた。
村田は神経がずぶといほうだと思うが、ヘタに追及すれば、蒸発したり自殺しかねない行員もいる。
依願退職を求めているのだから、ここは好きなようにさせて、見逃してやるべきかもしれない。
バブルで銀行マンの心も傷んだ。一億円のリベートを取って、口をぬぐっているバンカーだって、存在する。しかし、だからといって一千万円を許容範囲と考えることはできない。
どう対応したらいいのか竹中は迷い、悩んだ。
立花満子に対する十八億円の融資についても背後に大きな問題が隠されている可能性もある。村田は上からの命令に従ったまでだが、一千万円の商品券は断じて受け取ってはならなかった。
夏川が一千万円のリベートの件をつかんでいるかどうかも気になる。
大手の都銀が舞台で一千万円なら新聞ダネになりかねない。
「いま、ふと思い出したんですが、バブル期にはいろんなことがありましたよねぇ。都内の某支店で、村田さんのような遣り手の某課長が地上げ業者と組んで多くの案件を手がけて、トータルで一億円に近い成功報酬を得ていた事件がありました。支店長が海外経験の長いエリートで、国内の経験が乏しいため、チェックが甘くて、営業成績抜群の某課長の言いなり、つまりほとんどフリーパスでしょう。一つの取引先に融資が偏るのは目立つので、その業者と組んで架空会社まで仕立てあげる始末です。本部にも支店にも危いと思った人はいたはずですが、エリート支店長が本部に顔が利くため、注意できなかった。某課長は支店で通りそうもない案件はノンバンクに斡旋《あつせん》してましたが、バブルが崩壊して某課長の案件に延滞が出始めたとき、本部に融資を受けた見返りに金品を要求された≠ニいう投書があったんです。投書者はノンバンクからの延滞の矢の催促に頭に血をのぼらせた取引先でした。人事部と検査部が支店の近くのホテルに某課長を呼び出して何日間かかけて尋問しました。某課長はしたたかというか、ずぶといというか、『儲《もう》けさせてやったんだから、謝礼をもらうのは当たり前だ』とか『ホテルに軟禁状態にするのは人権侵害だ』とかうそぶいたり、騒ぎたてたそうです」
竹中は、面《おもて》をあげようとしない村田に追い打ちをかけているような気がしてきたが、思惑はその反対だった。
「某課長を一日だけ自宅に帰したところ、失踪《しつそう》してしまい、いまだに杳《よう》として消息はわかりません。本物のヤクザになってしまった可能性もあるし、自殺してしまったのかもしれない。銀行に巨額の損害を与えた支店長はもちろん失脚しました。誰も同情しませんよねぇ。こんな話は山ほどありますよ」
村田がうつむいたまま、ぼそぼそと言った。
「その某課長は、私と同じ高卒で一年先輩です」
「協銀で、けっこう知られてる話ですよねぇ。某課長に比べたら、村田さんの罪は軽いですよ。神ならぬ弱い人間が、一千万円の商品券の受け取りを断固拒否できるかどうか。わたしだったらどうしたかなあ」
「竹中さんは絶対に受け取らないと思います」
「さあ、どうですかねえ。ところで、立花満子さんが一千万円の商品券について夏川に話している可能性はありますかねえ」
「それはないと思います」
「でしたら、わたしは聞かなかったことにしましょう。というより、わたし限りで、村田さんも誰にも口外しないでください。わたしにも話すべきではなかったんじゃないですか。協銀マンとして許されないこと、あってはならないことだと思いますが、あなたが依願退職すれば、いっそう問題を複雑にしますし、夏川に乗じられる恐れもあります。ここは村田さんはじたばたせずにどっしり構えててください。依願退職するのはおやめになったほうがよろしいと思います」
「…………」
村田は黙って項《うなじ》を垂れた。
竹中は、依願退職を口にし、切羽詰まった心境になっている村田に同情し、不問に付すことにした。
大物政治家が十八億円のうち、いくらせしめたのか、そっちのほうが問題なのだ。あるいは不正融資自体を憎まなければならない。
不良債権化することを百も承知で川口正義への十五億円融資に加担したわが身を顧みたとき、村田を裁く資格などあろうはずがない。
「わたしも不正融資にかかわったことがあります。それを強要する上のほうに、よっぽど問題があるんじゃないでしょうか。夏川対策はわたしにまかせてください」
「ありがとうございます」
村田は蘇生《そせい》したような思いだったに違いない。
十二月十七日の夜、杉本はなんとたちばな≠指定してきた。時間は七時。
たちばな≠ヘ赤坂通りに面した小さなビルの地下一階と二階にある。ビルの所有者は立花満子だ。バブル期に不動産投資にのめり込んでいた、と竹中は虎ノ門支店時代に聞いた記憶があった。しかし立花ビルには抵当権が設定されていなかった。
竹中は二年ほど前に虎ノ門支店長の相原に一度だけ連れてきてもらったことがあった。
立花満子は四十三、四歳だが、眼も鼻も口も大造りの美人である。銀座で伸《の》していた十年前は水もしたたるようないい女だったに違いない。
何人の男が満子の色香に惑わされたことか。
地下一階にカウンターがあり、小部屋が三つある。地下二階には大きめな座敷が二つ。
襖《ふすま》を外せば、大宴会ができる。くだんの大物政治家も頻繁に出入りして、たちばな≠たまりにしていたのだろうか。惚《ほ》れた弱みもあるかもしれない。
一階の奥の小部屋で、先に来ていた杉本は着物姿の満子を相手にビールを飲んでいた。
「竹中さん、お久しぶりですこと。すっかりお見限りで、敷居が高かったでしょう。たまには顔を見せてくださいよ」
「どうも。よく僕なんかの顔を憶《おぼ》えててくれましたねぇ」
竹中は下座に座った。
「こいつはいま総務部のしけたところにいるから、こんな高級店に出入りできる身分じゃねえよ」
「そのとおり。だからMOF担にたかるしかないってわけだ」
竹中は満子の酌を受けて、一気にグラスを乾した。
「俺はMOFを早く切り上げて三十分も前に来て、ママから取材してたんだ。夏川なんていうチンピラに振り回されることはないぞ。放っておいていいんじゃないのか」
「夏川なんて、銀座に出てたころ、児玉先生のカバン持ちで二、三度お店に来ただけですよ。かれこれひと昔は経つんじゃないかしら」
竹中は二杯目の酌を受けた。
「ふうーん。それにしてはあなたとわりない関係だったみたいな話をしてましたし、融資の話はきわめて正確でしたが」
「冗談じゃないわ。あんな下種《げす》な男。きっとわたしと寝たがってたんでしょ。願望が満たされず、わりない仲なんて強がりを言ってるのよ。竹中さんなら考えてもいいわよ」
満子の流し眼を受けて竹中は顔をしかめた。あけすけな女だ。品性下劣としか言いようがない。化粧の濃いのも気になった。
「協銀さんには、けっこう協力してるのよ。鈴木会長に聞いていただきたいくらいだわ」
満子は意味ありげに言って、竹中に酌をした。
「夏川の話は一応、秘書役に報告しておくけど、あんまり気にしなくていいんじゃないのか」
立花満子の前では話しにくいので、竹中は話題を変えた。
「きのうは田中角栄元総理が死去して、号外が出たし、きょうはA新聞が夕刊一面で、通産大臣が産業政策局長に辞任を促した、って衝撃的な記事を大きく報じてた。産業政策局長っていえば、次の事務次官でしょう。霞が関をゆるがす大事件に発展するような気がするけど」
「たしかに事件だよなあ。斎藤雅史っていう通産官僚の名前ぐらいは俺も知ってるけど、田丸っていう将来のMOFの次官候補が、あいつは生意気だから、小沢と熊谷に仕掛けてクビを取ってやるなんて冗談ともなく酒の席で話してたのを聞いた覚えがあるよ。あの記事は熊谷通産相自身がリークした可能性が強いな。熊谷は国会で公明党議員とのヤラセ質問みたいなこともやってるし、仕組まれた解任かもなあ」
「大蔵省は他省の人事にまで介入するほど増長してるのかねぇ」
「もちろん通産省の内部抗争、権力闘争が根っこにあるんだろうけど、斎藤局長は前任ポストの官房長時代に、国際貢献税をめぐってドン助≠ニ激しくやり合って、ドン助≠ゥら、俺に歯向かうとはけしからん、って思われてるらしいよ。田丸は昭和四十三年入省組のトップで、ドン助≠フ一の子分なんだ」
「聞けば聞くほど大蔵官僚の増長ぶりは目に余るねぇ」
「大蔵官僚は格上なんだからしょうがねえよ。加藤ドン助¥奄゚、MOFは小沢のパワーが十年は持続するって見てるみたいだなあ。MOFに限らず霞が関全体が自民党を袖《そで》にして連立内閣の首魁《しゆかい》である小沢にシフトしてるよ」
「小沢ってそんなに求心力があるのかねぇ。田中角栄ほどの人望はないような気がするが。それと十年も連立内閣を束ねていけるのかどうか」
満子がビールの酌をしながら口を挟んだ。
「わたしも自民党のほうがいいわ。細川首相って変な人よねぇ。料亭はダメでホテルがいいなんて。自民党では龍ちゃん≠ェ一番ね」
龍ちゃん≠ェ橋本龍太郎であるとは察しがつく。ついでに竹中は立花満子に十八億円の融資で口利きしたのは橋本龍太郎ではないかと気を回した。
帰りのハイヤーの中で、竹中は昨日会った夏川美智雄のことを詳しく杉本に話した。
「ふうーん。佐藤秘書役のことを柳沢吉保≠ノなぞらえるとは、夏川ってやつ、けっこう言うじゃねえか」
「そんなことより、週刊誌にリークされて、週刊誌が取材に動き出したときに広報はどう対応するのかねぇ」
「うん。やっぱりおまえから秘書役に話してもらったほうがいいかもなあ」
「俺は遠慮する。きみから話したらいいだろう。柳沢吉保≠フ話も耳に入れたらいいよ」
竹中は突き放すように言った。分をわきまえろ、とまで言われたのだ。
「そんなこと言えるわけねえだろう。直接聞いたおまえなら言えるだろうけど」
「俺は分をわきまえることにした。これは参謀の役目だよ。週刊誌か写真誌か知らないけど、メディアに採り上げられたときに、役員候補の虎ノ門支店長と秘書役は気の毒な役回りになるかもねぇ」
竹中は他人事《ひとごと》みたいに言って、窓外へ眼を投げた。
この夜、竹中は寝入り端《ばな》を電話で起こされた。相手は杉本だった。時刻は十一時半だ。
「いま秘書役と電話で長っ話をしたとこだけど、あしたにでも、おまえに児玉由紀夫に会ってもらいたいんだ。夏川が変な動きをしないように、児玉から釘《くぎ》をさしといてもらいたいんだ」
「あしたって土曜日だよ」
「だからいいんだよ。児玉の自宅は吉祥寺だが、ゴルフに行ってればしょうがないけど、土日のどっちかは在宅してるだろう。本来なら俺が児玉に会うのがいいんだろうが、あしたもあさってもMOFの連中とゴルフが入ってるんだ。夏川の動きを封じるのは早いほうがいいと思うけど」
「児玉は昔は大変パワーのある大物総会屋だったらしいが、俺なんかのペイペイでいいのかね。秘書役が直接、話したほうがいいんじゃないのか」
「いくら相手が児玉でも、秘書役にそんなお使いはさせられないよ。おまえしかいない。な、頼むよ」
「土曜も日曜も在宅してなかったらどうするんだ」
「いいから、電話をかけてくれよ。児玉の電話と自宅の住所を言うから控えてくれ……」
竹中は一応メモしたが、業腹だった。
「俺の出番ではないと思うけどねぇ。柳沢吉保≠お使いに出せないことはわかるが、少なくとも取締役総務部長ぐらいが出て行かないと、児玉先生にヘソを曲げられるんじゃないかねぇ。逆効果にならないか心配だよ。それと、児玉に借りをつくることになるが、むしろ高くつくような気がするけど」
「どっちみち、只《ただ》では済まない。秘書役はどっちが得でどっちが損かちゃんと計算したうえで、児玉を挙げたんだろうぜ。とにかく頼んだからな」
「秘書役は俺を特定して命令したのか」
「もちろんだ」
「柳沢吉保≠ノはさからえないのかねぇ。俺の上司でもないのになあ」
「断っておくが柳沢吉保≠ネんて、間違っても口にしないほうが、おまえの身のためだぞ。おまえが佐藤ファミリーの一員であることを忘れるな」
「寝入り端を起こされて、俺は機嫌が悪いんだ。返事は留保する。一晩考えてみるよ。じゃあな」
いつも杉本のほうから一方的に電話を切られるが、今夜は逆になった。
結局、竹中は翌日の午後、児玉由紀夫に電話をかけた。
「お休みのところ恐縮です。協立銀行の竹中と申しますが、児玉先生はいらっしゃいますでしょうか」
「わたしは児玉だが……」
「さっそくで恐縮ですが、夏川美智雄さんのことで折り入って先生にご相談したいことがございます。差しつかえなければ、これからお邪魔させていただきたいと存じますが」
「いいだろう、すぐいらっしゃい」
やけに大きな声だった。それが急に小声になった。
「初対面と思うが、そうじゃないことにしてもらおうか。名刺は出さないように……」
そして、ふたたび児玉は声高になった。
「昨夜あれだけ話したのに、夏川はまだわかっとらんのか。しょうがないやつだ。じゃあお待ちしてます。どのくらいで来られるかな」
「三時ごろにはお伺いできると存じます」
「そう。じゃああとで」
六十五、六歳にしては声に艶《つや》があった。児玉由紀夫は写真では見ているが、まったく面識はなかった。
「初対面と思うが、そうじゃないことにしてもらおう……」とはどういう意味だろう。昨夜、夏川に会ったような口ぶりだったが、これも意味不明である。
取って食われるわけでもないのだから、当たって砕けろっていうところだろうか。
竹中はスーツにネクタイを着け、バーバリーのコートを羽織って、外出した。空は抜けるように青く澄んでいた。風が頬《ほお》に冷たい。
寄り道して、上北沢四丁目に出店がある東宮≠フ焼き菓子を買って手土産にした。
京王線で上北沢から明大前へ、そして井の頭線に乗り換えて、吉祥寺まで、三十分もかからなかった。地図を見てきたので、児玉邸はすぐにわかった。
門構えも立派である。植え込みも深い。
竹中は門から敷石を眼で追った。玄関まで十メートルはありそうだ。旧《ふる》い二階屋なので、上物《うわもの》の資産価値はゼロだが、敷地はざっと二百坪として時価三億円というところだろうか。
竹中はコートを脱いでブザーを押した。「はい」と女の声がした。
「協立銀行の竹中と申します」
「少々お待ちください」
厚化粧で若造りだが、五十はとうに越えていると思える。ソバージュの髪と泥染めの紬《つむぎ》の着物がマッチしていなかった。
「児玉の家内です。昨夜は主人がすっかりお世話になりました」
これで読めた。児玉は朝帰りだったのだ。夫人のつんつんした感じで瞬時のうちに竹中はそう見て取った。
「とんでもない。こちらこそお引き留めしまして申し訳ありませんでした。ご挨拶《あいさつ》が遅れました。協立銀行の竹中と申します。よろしくお願いします」
「さあどうぞ」
心なしか児玉夫人の態度がやわらかくなった。
「失礼します」
竹中はふかふかしたベージュ色の絨毯《じゆうたん》を敷き詰めた洋間に通された。暖房が利いていた。
「つまらないものですが、ほんのお詫《わ》びの印です」
「まあ、そんなにお気を遣わなくてもよろしいのに。ありがとうございます」
夫人が退出して、スポーツシャツにVネックの白いセーター姿の児玉が顔を出した。
容貌魁偉《ようぼうかいい》とは、このことをいうのだろう。とくに獅子鼻《ししばな》の座り具合いは見事だ。べっこうのロイド眼鏡の奥でギョロ眼が鋭い光を放っている。七、三に分けた頭髪はゴマ塩で豊富だ。上背も百七十五センチはありそうだ。
竹中は居竦《いすく》んで、思わず眼を逸《そ》らした。
「やあ、よく来たな」
部厚い唇が開き、声の大きさにも圧倒された。
ひと昔前、児玉の発するひと声でさぞや総会場はシーンとなったことだろう。
「座りたまえ」
「失礼します」
竹中は長椅子《いす》に腰をおろした。
児玉がにやっと笑いかけ、センターテーブルに両手を突き上体を寄せて、ささやいた。
「うまく芝居をしてくれたようだな。恩に着るぞ。勉強会のあとで、向島の料亭で徹夜マージャンをやって、ひと眠りしてから帰ったことになってるんだ。きみはいいときに電話をかけてくれたよ。カミさん角を出してなあ。メンバーは咄嗟《とつさ》に協銀の山田副頭取、きみ、夏川っていうことにしたからな。そのつもりで」
山田は三副頭取の筆頭で、かつて秘書役を経験していた。
かすかな足音で、児玉はそっとソファに腰を落とした。
夫人が茶菓を運んできた。
「ありがとうございます」
竹中は中腰になって、低頭した。
「夏川が、あれから電話をかけてきたって。あいつもしつこいなあ。失礼の段はわしに免じて許してもらおうか。きのうの勉強会で、わかったと思ってたんだが」
「先生にご迷惑をおかけして申し訳ないと思っております。鈴木もだいぶ気にしてますんで……」
「鈴木君はどう言ってるの」
竹中は手にした湯呑《ゆの》みを茶托《ちやたく》に戻すまで二、三秒間が取れた。
児玉と夏川がつるんでいるかどうか、まだ読みきれないだけに、返事も曖昧《あいまい》にせざるを得ない。
「会長も心を痛めております」
「そうだろうなあ」
児玉は腕組みして、大きな吐息をついた。
「どうぞごゆっくり」
夫人が引き取ったあとで、竹中は意を決して踏み込んだ。
「夏川さんは、当行虎ノ門支店が数年前、立花満子さんに融資した案件についてご不審のようです。表沙汰《ざた》にしたくなかったら、融資に応じろと申されました。先生のご意見を承るのがよろしいと存じまして、厚かましく押しかけて参った次第です」
「やっぱりそのことか。立花は性悪な女だから始末が悪いんだ。あんな女に引っかかるほうがどうかしとるよ。なにが大物政治家だっていうんだ。そこらのあんちゃんと変わらんじゃないか」
「先生は当行の佐藤秘書役をご存じでしょうか」
「知らんなあ」
「…………」
柳沢吉保≠夏川はどこから聞きつけたのか。
「その佐藤がどうかしたのか」
「夏川さんの件を先生にご相談するよう佐藤から申しつかったものですから」
「わしは、不動産屋や土建屋の面倒をみるので精いっぱいだ。ここんところ協銀とはつきあっておらんが、遠からず協銀がらみの話も出てくるだろう。しかし、夏川の口を封じる必要があるぞ。あいつは丸野時代は羽振りがよかったし、肚《はら》では総会屋風情のわしなどを莫迦《ばか》にしてたが、バブルですってんてんだ」
「夏川さんが丸野証券のOBとは知りませんでした」
「勉強不足だねぇ」
「恐れ入ります」
「丸野の外務員を十年ほどやって、丸野投資顧問に移ったが、鳴かず飛ばずだったなあ。夏川がゆすりたかりをやるようになるとは、ご時勢かねぇ」
児玉はごつい右手で湯呑みを口へ運び、緑茶をひと口飲んだ。
「断っておくが、わしが夏川に立花の件を吹き込んだと疑ってるとしたら、見当違いも甚だしいぞ」
「よく存じてます」
「夏川はあっちこっちでわしの弟子だと吹聴してるようだが、夏川が勝手にそう言ってるに過ぎん。わしは、夏川を弟子にした覚えはない」
「そうしますと、先生にお願いするのは筋違いということになるんでしょうか」
「そこまでは言わん。竹中君といったかねぇ」
「はい。申し遅れました。協立銀行総務部主任調査役の竹中治夫と申します」
反射的に名刺を出しそうになった竹中に、児玉が険しい顔で猪首《いくび》を振った。
「総会屋担当かね」
「はい。渉外班≠ナす」
「いつ銀行に入ったんだ」
「昭和四十九年です」
「ひよっことまでは言わんが、調査役を使いに寄こすとは、わしも舐《な》められたものだな。いや、ヤキが回ったということか」
凄《すご》みのある眼光に、竹中は背筋がぞくっとした。
だが、それは一瞬のことで、児玉は口もとをゆるめた。
「いまのは冗談だ。気に入った。きみは見どころがある。袖《そで》振り合うも他生の縁と言うが、焼《や》き餅《もち》焼きのカミさんを黙らせてくれただけでも、感謝せなあならん。女はいくつになっても、焼き餅を焼くようにできてるらしい。困ったもんだ。きみはコレにもてるのと違うか」
児玉は右手の小指を立てて、真顔で言った。
竹中がかぶりを振った。
「女には気をつけろよ。遊ぶんなら素人女はダメだぞ」
竹中は黙って頭を下げた。
児玉が話を蒸し返した。
「立花の件で夏川に手引きしたやつが、案外銀行の中におるんじゃないのか。気をつけることだな。夏川の口は封じてやるが、あいつも素寒貧《すかんぴん》だから、多少のことは考えなならんかもなあ」
「はい。先生のご指示を仰ぎたいと存じます」
あくびまじりに児玉が言った。
「あさって月曜日の午後四時にわしの事務所に来なさい」
「かしこまりました。本日はお休みのところをお時間を割いていただきまして、ほんとうにありがとうございました」
竹中は起立して、最敬礼した。
十二月二十日月曜日、東京地方は終日冷たい雨が降った。竹中は、午後三時五十分に新丸ビル四階にある児玉経営研究所≠ノ児玉を訪問した。
児玉がプロ株主としての活動を停止してからすでに久しいが、ゼネコン(大手総合建設会社)や大手不動産会社の嘱託や顧問をしているので年収三億円は下らないといわれている。新丸ビルに事務所を構えてもなんら不思議ではなかった。
事務所には、事務員が男女一人ずつ二人、常時詰めていた。
男性は三十一、二歳、女性は二十七、八歳だろうか。専用車の運転手を加えれば三人雇用していることになる。
児玉の執務室は応接室と兼用で、豪華なソファの三点セットがしつらえてあった。壁に掲げられた伊東深水の十号の美人画も本物だろう。
「一昨日は大変失礼しました。お言葉に甘えて参上させていただきました」
「挨拶《あいさつ》は抜きにしよう。きみとは気が合いそうだ。友達になれるだろう」
「先生にそんなふうに言っていただいて、まことに光栄です」
緑茶を出した女性事務員が退出するまで、児玉と竹中は雑談していた。
「マージャンはやるのかね」
「はい。並べられる程度ですが」
「そういうことを言うやつに限って、強いんだ。わしも勝率七割を誇ってるがね。マージャンは呆《ぼ》け防止にもってこいだから、週一度は遊ぶことにしてるんだ。きみとは一度やったことになってるから、ほんとうに手合わせせないかんねぇ」
「一度ぜひお手合わせ願います」
「バンカーは高給取ってるからレートも高いんだろう。五百か……。それとも千か」
「そんな高いレートでやったことはありません。百円か二百円です。ニギリやら焼き鳥やらを入れましても、三、四万円の勝ち負けです」
「そら地味だねぇ。わしとやるときは三本は持ってきてもらわんとなあ」
「一本は十万円ですか」
「うん」
「けっこうです。手がふるえるかもしれませんが、一度お願いします」
竹中はリップサービスのつもりだったが、児玉はセンターテーブルに仕掛けてあるブザーを押した。
男性の事務員が顔を出した。
「今週の夜の予定はどうなってる?」
「二十四日金曜日の夜はあいてます。先生があけておくようにと……」
「そうか。土曜日がゴルフで朝が早いから、あけたんだな。善は急げだ。きみ、あいてるか」
竹中は背広の内ポケットから手帳を取り出した。
確認するまでもなかった。クリスマスイブなので、義父母を招き、二世帯で夕食を摂《と》ることになっていた。
「申し訳ございません。先約が……」
「午後サボレないのか。善は急げっていうこともあるからな」
「先生のご命令とあらば……」
「よし決まりだ。赤坂の氷川≠取ってくれ。昼食に弁当を用意させろ。一時から六時まで。そういうことでいいな。あとのメンツは……」
児玉は考える顔になった。
「遊び人はいくらでもおるからなんとでもなる。わしにまかせてもらおう」
心配そうな竹中の顔を見て、児玉はにやりと笑い、右手の人差し指を頬《ほお》にすっとおろした。
「こんなのはおらんから安心しろ」
児玉に顎《あご》をしゃくられて、男性事務員が退出した。
「さてと、夏川の件だが、ややっこしいことになってるぞ」
いよいよ本題に入った。
竹中は緊張気味に、居ずまいを正した。
「川口正義なる男を知ってると思うが」
ドキンと竹中の心臓が音をたてた。
「はい。存じてます」
「ネタ元は川口だ。けさ、夏川を呼んで口を割らせた。児玉由紀夫の名前を騙《かた》ったからには、わしも容赦せん。夏川はのらりくらりかわしてたが、ふざけるな!≠チて大声を出したら陥落した」
ふざけるな!≠ヘ、ガーンと耳鳴りがするほど迫力があった。
「川口とはわしも二、三度ゴルフをしたことがある。あいつは頭が切れるだけに食わせ者だぞ。鈴木君の娘と近いらしいねぇ」
「詳しくは存じませんが、絵画ビジネスで関係があるかもしれません」
「協銀は、川口に融資してるそうじゃないか。川口は前科《まえ》もないし、ヤクザでもないが、ヤクザとけっこうつきあってるぞ。わしもヤクザとつきあいがないとは言わない。当節、ヤクザとのつきあいなしには、やってゆけなくなってるんだ。バブル期に地上げと解体、それに産業廃棄物で、不動産屋も土建屋もヤクザと深くかかわってしまった。不動産屋と土建屋の背後にいるのが銀行と株屋だ。銀行も株屋もヤクザに汚染されてるってことになるわけだ」
竹中は喉《のど》の渇きを覚え、湯呑《ゆの》みに手を伸ばした。
「バンカーのきみには、釈迦《しやか》に説法と思うが、バブルの清算は容易なことじゃないぞ」
「おっしゃることよくわかります」
「川口は鈴木君のお気に入りらしいなあ。南麻布の会長公邸に入り浸ってるそうだから、鈴木君もどうかと思うよ。立花満子の件は、鈴木君自身か鈴木君の娘が川口にうっかり洩《も》らしちゃったんだろう。佐藤とかいう秘書役が鈴木君の知恵袋ってことらしいが、川口と夏川は、夏川が株屋の外務員時代からの旧《ふる》いつきあいだ。夏川のうしろで糸を引いてるのは川口だろう。ヘタをするとヤクザが絡んでこないとも限らんな。わしのようにヤクザに借りさえつくらなければ、なんてことはないが、あいつらチンピラは借りをつくってるに違いないから、面倒なことになるんだ」
「夏川氏は当行に融資を求めてきております。応じざるを得ないということなのでしょうか」
竹中の声が掠《かす》れていた。掌が汗ばんでいる。
脇《わき》の下も汗でびっしょりだった。
「わしの名前を騙ったことと、融資話をチャラにできればいいが、わしもそれほどうぬぼれるわけにもいかんだろう。目下のところはヤクザは絡んでいない、と夏川は言ってたが、川口と夏川は、協銀をまだまだしゃぶれると踏んでいる。そのためには手段を選ばんだろう。ヤクザの手を借りる可能性もあると見なければならんだろうな」
「協銀は彼らにしゃぶられるほど甘くはありません。先生のお力添えで、ヤクザと手を切らせることは可能なんでしょうか」
「できない相談だな。わしも、あいつらのために、ヤクザに借りをつくる気にはなれんよ。きみは、毒を以《もつ》て毒を制することはできないか、とわしに問うてるわけかね」
「いいえ。そこまでは……」
「しかし、ヤクザを抑えられるのは、警察とヤクザ以外にない。表に出せる話じゃないとすれば、ヤクザを使うしか手はないんじゃないのか」
「鈴木が肚《はら》を固めてくれさえすれば、表に出せると思いますが」
「鈴木君にそんな肚はないだろうな。あったらめっけものだよ。おととい訊《き》き忘れたが、きみは誰の使いでわしの家に来たんだ。佐藤とかいう知恵袋か」
竹中はうなずかざるを得なかった。
「やっぱりなあ。わしの読み筋どおりだな」
「夏川氏と面会したのはわたしですが、そのとき融資額については触れてません。先生には具体的な数字を言ってるんでしょうか」
「いや。言っとらん」
「融資に応じなければ週刊誌か写真誌にリークすると威《おど》されましたが……」
「それはない。せっかくのカネ蔓《づる》を安売りするわけがないよ」
「川口と夏川が一体だという話を、先生からお聞きしたと佐藤に報告してよろしいのでしょうか」
「もちろん、かまわん。ついでに川口と手を切れと、鈴木君に進言しろって、わしが言ってたと話したまえ」
「ありがとうございます」
「きょうはこれまでだ。金曜日の十二時半にここへ来たらいいな。それまでに川口と夏川の本音を引き出しておくと約束してやる」
「よろしくお願いします。失礼ですが、氷川≠ヘわたくしどもにセッティングさせていただくわけにはまいりませんでしょうか」
MOF担の杉本にツケを回せば済むことだ。
「まったく失礼なやつだ」
「申し訳ありません」
「いいか、三本用意してこいよ。それ以上負けた分は、免除してやろう」
児玉は高笑いして、ソファから起《た》ち上がった。
竹中の報告を聞いて、杉本は大いにうろたえた。
その夜九時に、竹中はホテルオークラのロビーに呼び出されたのである。
杉本は顔色を変えて、公衆電話に走った。
二十分ほどで、杉本がロビーのソファへ戻ってきた。
「あしたの朝八時に、役員応接室に集まれってさ」
「わかった」
「MOFの若いのを三人、銀座のカラオケバーに待たせてるけど、おまえ一緒にどうだ」
「遠慮するよ。歌なんか唄《うた》える心境じゃないよ。それに疲れたよ。児玉先生と斬《き》り結ぶのも楽じゃないからな」
「俺を銀座で降ろして、このハイヤーで帰れや。俺も帰りたいけど、MOFのキャリアを二次会に連れ出すのは、けっこうしんどいんだ。ちょっと取材したいこともあるしな」
「MOF担もそれなりに大変なんだねぇ」
「ただ料亭やノーパンシャブシャブで遊んでるわけじゃねえぞ」
杉本は電通通りの日航ホテル前でハイヤーから降りた。
翌朝、竹中は八時五分前に通用口で守衛に行員証を提示して、本店ビルの館内に入った。早朝出勤者もけっこう多い。地下一階のエレベーターホールで何人かの知った顔と会釈を交わした。
早出の女性秘書が役員応接室の七号室を教えてくれた。
佐藤も杉本もすでに来ていた。二人が向かい合っていたので、竹中は二人を左右に見る形で、ドア側のソファに座った。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
佐藤のほうが丁寧だった。
「朝早くお呼びたてして、申し訳ありません。竹中さんは児玉先生と意気投合したそうですねぇ」
佐藤とはずいぶん会っていないのに、気味が悪いほど愛想がよかった。にっこり笑って人を斬るタイプであることはとうにわかっている。
しかし、竹中は柳沢吉保≠フ野郎! と思ったことをすっかり忘れていた。
「秘書役の言いつけで、児玉先生に会ったまでです。たまたまタイミングがよくて、土曜日と月曜日に二度会ってもらえました」
「児玉氏は大物フィクサーとして隠然たる力を持ってる人ですから、大事にしないと。鈴木会長もご無沙汰《ぶさた》してるから、近々一席もたないといかんかな、と話してましたよ」
「ぜひそうお願いしたいと思います。実は、二十四日の午後、児玉先生にマージャンをつきあうように言われました。渉外班≠ナはオープンにできませんから、なにか理由をひねり出して、早退させてもらいます」
「そうねぇ。ここにいる三人限りにしないとねぇ。それにしても川口氏と夏川氏がつながっているとは驚きました。二人とも同じ川の字がつくにしても、話ができすぎてますよ。会長も信じられないって連発してましたよ」
「川口と夏川がつながってることを突きとめたのは、竹中の大手柄だよ」
「協銀には柳沢吉保≠ェいるそうですね、と夏川に言われたとき、川口の存在に気づくべきでした」
杉本がしかめた顔を小さく振ったが、もう遅い。
「柳沢吉保=c…。わたくしのことですか」
「ええ」
「わたくしもずいぶん買い被られたものですねぇ。歴史上の人物と一緒にされれば悪い気はしませんよ」
佐藤の眼は笑っていなかった。
「竹中さん、どう対応すべきと思いますか」
「昨夜からずっと考えていたのですが、川口と夏川を切り離すためにも、夏川には断固たる態度で臨むべきだと思います。会長のお嬢さんも、川口の背後にマル暴がいると聞けば眼が覚めるんじゃないでしょうか。そもそも川口に融資したことが重大な錯誤だったことになります。これ以上、犯罪行為を拡大させることはない……」
「犯罪行為ですか」
「そう思います。不正融資だったわけですから」
佐藤は厭《いや》な眼で竹中を見た。その眼を杉本に転じた。
「杉本さんの意見はどうですか」
「会長を守るために、秘書役はぎりぎりの判断を下されたのです。また、それは会長の意思でもあったはずです」
杉本はきつい眼で竹中をとらえた。
「竹中、青くさいこと言うなよ。不正融資とはなんだ。言葉を慎んでくれ」
「それ以外に言葉があったら教えてもらいたいねぇ。きみは川口とも夏川とも対峙《たいじ》してないから彼らの本質がわかってないんだ。わたしは二人と会って、話もしている。二人ともヤクザと変わるところがない」
ノックの音が聞こえた。さっきの女性秘書が緑茶を運んできてくれたのだ。
「ありがとうございます」
喉《のど》が渇いていたので、竹中は心から礼を言った。
「どういたしまして」
女性秘書は丁寧に挨拶《あいさつ》を返してきた。
三人ともすぐに湯呑《ゆの》みに手を伸ばした。
竹中はごくりと喉を鳴らした。熱からず温《ぬる》からず、湯加減も間然するところがなかった。
竹中がいちばん早く湯呑みをセンターテーブルに戻した。
「川口と横浜支店とのやりとりに触れたレポートを会長に見せていただけなかったのが残念でなりません」
佐藤が薄く笑って湯呑みを置いた。
「結果は変わらなかったでしょうねぇ。雅枝さんを人質に取られてしまってたんですよ。会長に対するわたくしの気持ちをわかってもらえませんか。ヤクザが絡んでいる可能性はたしかに否定できないが、確証はないんですよ。お嬢さんのことで心を痛めてる会長に、追い打ちをかけるようなことができますか。わたしは川口氏と夏川氏がコンタクトしているらしいとは話しましたが、それ以上のことを耳に入れる必要はないと思ってます。それと、川口氏への融資は不正とは考えていません。彼は返済すると約束してます。竹中さん、あなたが書類を揃《そろ》えたんでしょ。きちっとしてるじゃないですか」
「秘書役は夏川に対しても融資を実行するとおっしゃるんですか」
「立花さんへの融資の件を表に出すことは断じてできません。ここは児玉氏にお願いして間に入ってもらいましょう。金曜日まで待たないで、一両日中に児玉氏に会ってください。ふっかけられる前に、こっちから提案するのがいいと思います。三者に一億円ずつ、三億円融資しましょう。児玉氏はダミーの会社をいくつかお持ちのようですから、児玉氏の指定する口座に振り込むようにします。形式的に担保は取ってください。書類の作成は竹中さんにお願いします。融資のほうはわたくしにおまかせいただきたい。児玉氏は、快諾してくれると思いますよ。川口氏と夏川氏を抑えるための三億円は決して高くないと思いますけど」
佐藤はゆったりした動作で、湯呑みをいったん膝《ひざ》の上の両手に乗せてから、口へ運んだ。
ひと口すすって、茶托《ちやたく》に戻すまでの動作もひどく緩慢だった。頭の中でなにかを考えているからだろうか。
竹中はじれったくなった。怒りも手伝ってつっかかるような口調になった。
「渉外班≠ノ組み込まれているわたしが本件でこれ以上お手伝いするのは困難です。児玉先生との接触も辞退させてください」
「お、おまえ、なんてことを」
佐藤が杉本を手で制した。
「わたくしはねぇ、小野ひろ事件でも、協銀のために相当頑張りました。住専問題も含めて、不良債権の圧縮にどれほど人事を尽くしているか、皆さんに聞いてみてくださいよ」
佐藤は右手をぐるっと回してから、話をつないだ。
「それもこれも、協銀の中興の祖であられる鈴木会長の全面的なバックアップがあればこそ、できることです。三億円を惜しんで鈴木会長を傷つけたり、貶《おとし》めるようなことができると思いますか。竹中さん、ここは冷静になってください。そしてわたくしに力を貸してください。あなたを頼りにしてるんですから。お願いします。ここだけの話ですが、立花満子さんに融資した件は会長も多少かかわってるんですよ。会長は身ぎれいな人ですから、自分のポケットに入れたりはしませんが、政治家とのつきあいなどでなにかと物入りなんです。汲《く》んであげてください。週刊誌や写真誌はそれほど恐れる必要はありませんが、融資の件は絶対に漏洩《ろうえい》させてはなりません。この点は肝に銘じておいてください」
佐藤は膝に手を突いて小さく頭を下げた。
「竹中、おまえ秘書役にここまで言わせて、身に余る光栄とは思わんのか」
「光栄とは思いますが、方法論としてこれでいいんでしょうか」
「金曜日まで待っててごらんなさい。十億円ぐらいはふっかけてきますよ。いまや児玉氏も同じ穴のムジナと考えるべきなんです。十億円ふっかけられたら、三億円では収まりませんよ。児玉氏の目矩《めがね》にかなった竹中さんに、児玉氏の懐に飛び込んでもらうのが、いちばんいいんです」
所詮《しよせん》竹中は、佐藤の敵ではなかった。かなうわけがないと言うべきであろう。
応接室を出たところで、佐藤が杉本を呼びとめた。
「杉本さん、ちょっと。協銀でわたくしを柳沢吉保≠ネんて言ってる人がいるんですか」
「とんでもない」
「さっきはあんなふうに言いましたが、竹中さんに釘《くぎ》をさしておきなさい。光栄すぎますよ」
「よく言ってきかせます」
「あとで結果を報告してください」
着席するなり、竹中に杉本から電話がかかった。
「拗《す》ねてないですぐ動いてくれな。柳沢吉保≠ヘひとこと多かったぞ。秘書役はけっこう気にしてる様子だったからな」
「へーえ。言行不一致じゃないの」
「二度と口にするなよ」
「わかったよ。ついでに児玉先生にも念を押しておこうか」
「余計なことするな。三本の返事、待ってるからな」
電話が切れた。
「なにが三本だ」
竹中はひとりごちた。
時刻は八時四十分。渉外班≠フフロアはまだ閑散としていた。
竹中は重たい気分で児玉邸に電話をかけた。
夫人の声だった。
「もしもし、児玉ですが」
「協立銀行の竹中です。朝早く申し訳ございません。先日は大変失礼致しました。勝手ばかりしまして、先生と奥さまにご迷惑ばかりおかけし申し訳なく思っております」
「よろしいのよ。そんな気になさらなくて。主人が無理強いしたことはわかってますのよ。今度は断ってくださいね。徹夜でマージャンなんて、いい齢《とし》してどうかしてますよ。いつかも宅でそんなことがあったんです。わたくしも嫌いじゃないんですのよ。メンバーが足りないときにぜひお願いしたいわ」
「いい加減にせんか……。よこせ」
児玉の声が聞こえ、受話器を遠ざけたくなるような胴間声に変わった。
「竹中君か。児玉だが、どうした」
「こんな時間にどうも」
「いいから用件を話さんか」
「至急、先生にお目にかかりたいのですが。夏川氏に接触していただく前に、わたくしどもの考えを先生にお伝えしたいのです。三十分ほどお時間をいただけませんでしょうか」
「きょうは来客が続いてるが、昼の時間ならいいぞ。事務所に十二時二十分に来てもらおうか。蕎麦《そば》でも食おう」
「ありがとうございます。それでは本日十二時二十分過ぎに事務所のほうへ伺わせていただきます」
「時間厳守で頼む。早く来てもらっても困るぞ」
「承知しました」
児玉と電話で話しているときに渉外班≠フ顔ぶれが揃《そろ》った。
竹中は、高木と野田に説明しておく必要があると考え、二人に声をかけた。
「高木さんと野田さん、ちょっとよろしいですか」
「いいよ」
「どうしたの。いつもより早いみたいだねぇ」
高木と野田が、部付部長席前にあるソファに並んで座った。
「ええ。ちょっと気になることがありまして」
竹中は、夏川美智雄の名刺をセンターテーブルに置いた。
「先週の金曜日にこの人が訪ねてきました。虎ノ門支店に不正融資がある、なんて言い出すんで、聞いてみたら、わたしが在籍したときよりはるか以前の話なんです。市ヶ谷支店の村田副支店長が営業課長で在籍してた時代の話なので、彼に確認したところ政治家の口利きでたちばな≠ニいう赤坂で割烹《かつぽう》店を経営している人に融資した事実があるということでした。要するに夏川の狙《ねら》いは、協銀をゆさぶって、カネを引き出したいということのようですが、村田さんは、相手にするな、という意見です。しかし、二流か三流か知りませんけど、夏川が総会屋であることには変わりありません。株付けしてくる可能性は大いにあります。村田さんによれば夏川は児玉由紀夫氏の息がかかっているということなので、念のため児玉氏と接触したいと思いますが」
「児玉先生には昔、当行もずいぶん世話になってます。山田副頭取が秘書役の時代につきあってるし、鈴木会長とも懇意にしていた。お二人に話しておかなくていいんですか」
野田が高木のほうを窺《うかが》った。
高木が発言する前に、竹中が言った。
「児玉由紀夫氏はもうOBですよ。プロ株主として活動はしてません。わたしが会って、夏川を抑えるように話してきます。いま電話でアポも取りました」
「ほう。もうアポが取れたんですか」
高木と野田が顔を見合わせた。
「児玉氏の自宅に電話をかけました。よっぽど虫の居所がよかったんでしょうか。新丸ビルの事務所で昼食をご馳走《ちそう》してくれるそうです」
センターテーブルの名刺を手にとって、高木が言った。
「この夏川なる男は何者なんですか」
「ひと昔前は、丸野証券の外務員として兜町で鳴らしたそうです。その後、丸野投資顧問に移籍し、いまは経営コンサルタントを名乗ってますが、総会屋です」
「竹中さんにおまかせしましょう。株付けしないように願いたいものですね」
「児玉先生によくお願いしてきます」
新規の株付けに渉外班≠ェことのほか神経を尖《とが》らせるのは、必ず相手側になにか狙いがあるからだ。
三本≠フ提案を児玉はあっさり呑《の》んだ。
「わしにまで一本は協銀も気張ったもんだなあ」
「先生にはわれわれの先輩が大変お世話になってますし、鈴木や山田がすっかりご無沙汰していることへの償いやら、もろもろの思いを込めております。川口氏と夏川氏を抑えていただくためにも、お力添えのほどよろしくお願い致します」
「わかった。期待を裏切るようなことはしないと約束しよう」
「口座をご指定くだされば、ご融資ということで振り込ませていただきます。ご融資の形式は整えさせていただきますので、印鑑証明とか形式的な質権設定とか事務が繁雑になりますが、ご容赦ください」
「そんなことは百も承知だ。しかし、金曜日のマージャンで手を抜いたりはせんからな。これはこれ、それはそれだ」
児玉は、鼓膜が破れるのではないかと思われるほどの豪傑笑いをかまして、急に真顔に戻った。
「川口と夏川から念書を取っておく。金曜日に渡す。印紙も貼《は》っておくし、印鑑証明も用意させる」
出前の天ざる蕎麦を馳走になって、三十五分で、竹中は事務所を辞去した。
竹中は帰りがけに、児玉のごつい手で肩を叩《たた》かれた。
「カミさんがえらくきみを気に入ったらしいぞ。マージャンのメンバーになってもらいたいようだ。レートは百円でママゴトみたいなもんだが、婆さんたちのペットにされるのもかなわんわなあ」
平成五年十二月二十四日金曜日を生涯忘れることはないだろう、と竹中は思う。
児玉に呼ばれたマージャンのメンバーは芸能プロダクションの社長と、フリーの経済ジャーナリストで年齢は両人とも五十歳前後だった。名前は小田政彦と島村芳太郎。
竹中は二人の名前も顔も知っていた。竹中以外はいずれも有名人だ。
児玉が竹中にルールを説明した後で言った。
「ちょっと下品なルールだが、一度やったらやめられないぞ」
持ち点が一万二千点で二万点返しだから、トップに二万四千点のボーナスがつく。
賭《か》け金は千点千円。ハコ点という持ち点が一人でもマイナスになったら一ゲームは終了する。ハコ点はマイナスが倍になり、トップに加算される。ニギリと称する個人戦は一万円。トップになれば、それだけで三万円だ。
ゲームは開始早々、児玉が二万《りやんまん》≠四枚そろえて「カン!」と叫んだ。
ドラ牌《ぱい》は一万《いーまん》≠セったが、その隣の牌をめくったら一万≠ェ出た。
「やった! 一人四万円! これはキャッシュだぞ!」
座敷の襖《ふすま》がびりびり振動するほど児玉の胴間声と豪傑笑いがいつまでも続いた。
「先生、いきなりそれはないでしょう」
「幸先悪いなあ。こんなの初めてですよ」
ぶつぶつ言いながら、小田と島村が財布から四万円出して、児玉に手渡した。
「竹中君、四万円出さんか」
「どういうことですか」
「一万≠ェドラ牌だろう。これがダブってるからカンをすると二万≠ェ八枚になる計算だ。一枚五千円で五八《ごは》・四十《しじゆう》。つまり四万円っていうわけだな。これはキャッシュが決まりなんだ。早く出せ」
初めの説明にはなかった。クレームをつけてつけられないことはない。しかし、竹中は児玉にさからう勇気はなかった。
「下品なんていうレベルじゃないですよ。やらずぶったくりじゃないですか」
こわばった笑いを浮かべて、それだけ言うのが精いっぱいだ。
「三本で足りない分は免除してやるからな」
「冗談じゃありません。莫迦《ばか》にしないでください。女房を質に置いても払いますよ」
冗談言っている間はよかったが、高い手がテンパイしてて、誰かにリーチをかけられたときなど、膝《ひざ》がしらのふるえを制しかねるほど竹中は緊張した。
竹中のその夜の負け分は合計十一万円。
児玉は独り勝ちで八十万円ふんだくった。
「どうしても止《や》められませんよ」
「ちょっと帰せませんねぇ」
小田と島村に攻められて、竹中は十時までマージャンをつきあわされた。自宅に電話をかけることを忘れるほど頭に血をのぼらせた竹中は、帰宅後、知恵子にどれほど怒られたことか。
十一万円も痛かったが、二、三日子供たちにも口をきいてもらえなかった。
児玉の知遇を得たことは、竹中にとってはるかにプラスをもたらした。竹中は後年そのことを実感するが、正月休みに児玉から家庭マージャンを誘われ、マージャンを終えて食事を摂《と》りながら、日本酒を飲んだあとで、児玉は竹中を洋室へ誘った。
ロイヤルサルート≠フ水割りを飲みながらの話になった。
児玉は大島|紬《つむぎ》の着物姿で、竹中はスーツだった。
児玉が着物の袂《たもと》から、白い角封筒を引っ張り出して、ぽんとセンターテーブルに放り投げた。
「お年玉だ。なにも言わずに受け取ってくれ」
手に取るまでもなく、目分量で百万円だとわかった。
「いただけません。お年玉にしては過分です」
「たった百万だぞ。わしがひと晩で八十万円稼いだことを忘れたのか」
「しかし、意味が違います」
「たとえバンカーとはいえ、こんなはした金でうろたえるようじゃ大成せんぞ。きみには世話になったからお礼のつもりもある。百万円では僅少《きんしよう》と思ったくらいだ。わしの顔を潰《つぶ》さないでくれ」
「どうかおゆるしください。これをいただいたら、わたしは組織人としてもバンカーとしても失格です。なんと言われましても、先生に出入り禁止だと言われましても、お受けするわけにはまいりません。どうかわたしの立場をご賢察ください」
「おまえ、わしに恥をかかせる気か。一度出したものを元へ戻せると思ってるのか」
「申し訳ありません」
「ふざけるな! 舐《な》めた真似をすると承知せんぞ!」
竹中は耳を押さえたくなった。
「早くしまえ。例の一億円でわしのほうが借りをつくってしまった。わしの立場も考えてくれ」
「滅相もない。先生のお陰で川口氏と夏川氏が沈黙してくれたのですから、先生へのお礼の仕方は足りないと思ってるくらいです」
「どうしても受け取れんというのか」
「お気持ちだけいただかせてください。組織として不正に加担することが決していいこととは思いませんが、だからこそ個人の立場は厳格であるべきだと考えます。このお年玉をいただいてしまいましたら、わたしは正真正銘の三流バンカーになってしまいます。先生におまえの顔を見たくないと言われましても、わたしの気持ちは変わりません。組織人でなければよろこんでいただきますが」
竹中は涙がこぼれそうになった。
児玉は腕組みして、天井を睨《にら》んでいた。
十数秒間がやけに長く感じられたが、竹中は首が痛くなるほど低くうなだれていた。
「竹中も頑固だなあ。わしにここまで抵抗できるとは見上げたやつだ。ま、おまえの立場に与《くみ》するとするか。釈然とせんが、わしの負けだ」
児玉は部厚い封筒をつかんで袂にしまった。
「ありがとうございます。先生のご恩は忘れません」
竹中はどれほどホッとしたかわからない。
児玉はかえって機嫌よくなった。薄気味悪いくらいだ。
自分はためされたのだろうか、と竹中は気を回した。
竹中のグラスが氷だけになった。
児玉はごつい手で器用に水割りウイスキーをこしらえてくれた。
「川口と鈴木の娘はいまどうしてるか知ってるのか」
「いいえ。川口氏が二枚舌の詐欺師であることだけは承知してますが、彼のことは思い出したくもありませんし、関心を持たないことにしてます」
「そうは言っても気にしてるんじゃないのか」
「…………」
「気になると顔に書いてあるぞ。川口も鈴木の娘も、それぞれのつれあいに反対されて離婚できず、鈴木の娘は別居して、恵比寿《えびす》のマンションで独り暮らしだ。子供たちは亭主が引き取ったらしい。というより子供が母親より父親を取ったということになるな。川口は通い夫《づま》っていうわけだ。家庭を壊しても川口にたらし込まれたほうが幸せだと鈴木の娘は思ってるんだろう。男女関係の摩訶《まか》不思議なところだな。鈴木君はそんなふしだらな娘を不憫《ふびん》に思ってるらしい。溺愛《できあい》しすぎて、なにも見えなくなってるんだろう」
「会長は川口氏を八つ裂きにしたいとは思わないんでしょうか」
きっとした顔の竹中をにやにやしながら児玉がとらえた。
「川口を八つ裂きにしたいのはきみのほうだろう」
水割りウイスキーを喉《のど》に流し込んで、児玉が話題を変えた。
「それはそうと、日本はなにもかも、どこもかしこも傷んでしまったなあ。この国は沈没してしまうんじゃないか心配になってくるよ。きみはジャーナリストじゃないから話すんだが、経世会は腐りきってる」
「金丸事件のことですか」
「金丸は莫迦《ばか》だから、金庫に割引債や金塊を隠してたが、竹下はそんなレベルじゃない。知恵者の竹下はスイスとアメリカの銀行に膨大なカネをシフトしてると聞いたことがある。アメリカの分はCIAに把握されてるらしいから、竹下はアメリカに弱みを握られている。首ねっこを抑えつけられてるようなものだ」
「先生にどうして、そんな凄《すご》い情報が入ってくるんですか」
「ゼネコンのトップから聞いた話だ。そのトップはほめ殺し≠フ話も詳しくしてくれたが、いろいろ裏があってねぇ」
昭和六十二年(一九八七年)十月六日早朝、自民党幹事長竹下登が、東京・目白の田中角栄元首相の私邸を訪問し、門前で最敬礼した写真が同日のA新聞夕刊に掲載された。衝撃的な写真は竹中の眼底にも焼きついている。
四国の右翼団体皇民党≠ェ「カネ儲《もう》けのうまい竹下登を総理に!」と拡声器で吠《ほ》えながら、街頭宣伝車で国会周辺を執拗《しつよう》に回ったほめ殺し≠ノ手を焼いた経世会・竹下派は、八方手を尽くしたが、ほめ殺し≠ヘ止まらず、金丸が中尾弘元代議士に頼み、東京佐川の渡辺社長につないで稲川会の石井会長が解決した。
皇民党側は竹下氏は田中元首相の恩を裏切ったのだから田中氏に謝罪すべきだ、と条件をつけた。
竹下の田中邸早朝訪問はこうした背景があった、と世間一般には認識されていた。
「裏があると言いますと……」
「皇民党にほめ殺し≠仕掛けたのは中尾なんだよ。しかも中尾は中曾根にヘッジしたというか、中曾根の意を体して、仕掛けたんだ。中曾根はほめ殺しが抑えられないようでは困る≠ニ竹下に言ったらしい。そして、中曾根は安倍、宮沢、竹下の自民党後継総理候補者の中から竹下を指名した。中曾根は竹下からいくらもらったのかねぇ。十億や二十億じゃないだろう。竹下がカネをスイスやアメリカの銀行にシフトしてる話と、中曾根から竹下に政権が移行したときに巨額のカネが動いた話はタブーだ。ジャーナリストがこのことを知って記事にしたら、確実に刺客を放たれるだろう。中尾がうろちょろフィクサーをやったことはいろんなやつが知ってるが、マッチポンプまでやってたことは案外伝わってないようだ。一時ヤクザに命を狙《ねら》われて、某ゼネコンの本社ビルに逃げ込んでたこともあるんだ」
竹中が生|唾《つば》を呑《の》み込んでうわずった声で言った。
「竹下元首相の秘書、たしか青木伊平といったと思いますが、自殺してますねぇ」
「竹下を守るためには、その選択肢しかなかったんだろう」
児玉は口へ運びかけたグラスをセンターテーブルのコースターに戻した。
「いま思い出したが、N新聞政治部編集委員の田勢康弘が一年三カ月ほど前にコラムで竹下派の解散こそ政治改革≠チていう見出しで、おもしろい記事を書いてたなあ」
「その記事でしたら、わたしも読んだ記憶があります。政治記者は大物政治家の言いなりになって、大物政治家の都合のいい記事しか書かないと思ってたのですが、あの記事は印象に残りました」
竹中は詳しく憶《おぼ》えていたわけではなかったが、田勢は平成四年九月二十八日の朝刊の二面コラムで次のように書いていた。
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〇…検察も罪なことをしたものだ。今後、「普通の人」が出頭命令を拒否し、「上申書で」といったら、どうするのだろうか。検察にも言い分はあるのかもしれないが、「法の下の平等」は絵空事だったか、というのが国民感情だ。
東京駐在の知り合いの米人記者が「外国人ジャーナリストとして、こんなにおもしろいことはない」と興奮気味に話す。
「なにしろ、与党の黒幕、多額の黒いカネ、ヤクザ、それになによりも、政治家と検察の間にさえある談合。日本を象徴する材料がすべてそろって、これでおもしろい記事が書けないほうがおかしい」
〇…検察に対する不信感が残ったという意味で、今回のスキャンダルはこれまでのどのスキャンダルとも違う。汚れた政界に唯一、鉄槌《てつつい》を加えられるのは検察、と思っていた多くの国民の胸に上申書問題は深い傷となって残るだろう。
金丸氏は上申書の中で「報道陣に自宅を監視されたため、出たくても出られなかった」とか「今回の件を反省し、政界浄化、政治資金の明朗化に努める」などと述べていると伝えられる。本当だとすれば何か重大な勘違いをしているとしか思えない。
政治家として最低の義務は、法治国家を守ることであり、法の前には個人の感情などを斟酌《しんしやく》してもらえるような余地はない。また、今回のスキャンダルの本質を考えれば、反省して政界浄化に努めるなどということで、済まされるようなものでもない。
たしかに五億円は現行法体系では罰金二十万円の政治資金規正法違反でしかない。しかし、東京佐川急便の渡辺(広康)元社長に運輸行政を抑えてもらいたいとの意図があったことは想像に難くなく、国民の目には本質的には「汚職」と映る。
しかもその背後に暴力団が存在し、その力を借りて内閣が誕生していたことが明らかになっては、もはや、金丸氏がいかに心を入れ替えて、政界浄化に取り組むといっても、だれも耳を貸さないだろう。
〇…大事なことは、今回のスキャンダルを、いつものように政治改革論議にすり替えてしまわないことである。もはや「政治にはカネがかかるのだ」というようなレベルで議論すべき事態ではない。何億円もの裏ガネを動かして恥じない政治家の根性そのものをたたき直さなければどうにもならない。
五億円は竹下派議員約六十人へ流れたという。当然のことながら、もらった人たちは猫をかぶっている。世間では「カネ丸もうけ」などという冗談まで流行している。こんなことをしてまで、派閥を維持する意味が、一体、どこにあるのか、と思う。
おそらく、政権を意のままにし、人事や利権を竹下派ですべて握ってしまおうということだろうが、政治家としての誇りというものは、とっくにどこかへ忘れてきたのだろうか。
〇…政治は日に日にだめになって行く。その最大の原因は竹下派の存在にあるといっても言い過ぎではあるまい。竹下派にも人材はいるし、国を憂えている人もいる。しかし、暴力団の力を借りて政権を取ろうとするような集団なら、ただちに解散すべきだ。
ここ数年、政界は竹下派の人間関係だけが最大の関心事というような状態が続いてきた。その結果、野党も、またわれわれマスコミも批判精神がマヒしてしまったきらいがある。党内の批判ばかりか、野党の批判をも抑え込んでしまうようなある種の恐怖政治が展開されてきた。
国民は竹下内閣誕生の陰に暴力団が存在していたことを永久に忘れない。この事実の前にはどんな政治改革も説得力を持たない。いま金丸、竹下両氏がすべきことは、竹下派を解散するとともに、自らの責任を明らかにすることだ。
いまはだんまりを決め込んでいる宮沢首相にもできることはひとつある。どうせ、任期はあと一年、これまで世話になった竹下派「経世会」の葬式≠出してやることだ。
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ついでながら平成六年(一九九四年)三月に刊行された『政治ジャーナリズムの罪と罰』の中で、田勢は竹下登はなぜ田中邸を訪問したか≠フ小見出しで、次のように事件に肉薄している。
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一九八七年十月六日早朝、自民党幹事長竹下登氏は、東京・目白の田中角栄元首相の私邸を訪れた。総裁選出馬のあいさつとともに、「いろいろご迷惑をかけた」と詫《わ》びるのが目的といわれた。A新聞は夕刊一面と社会面に写真入りで「竹下氏の田中邸訪問、また門前払い。出馬前の関係修復困難に」と報じた。
他の各紙も扱いの大きさに違いはあっても、おおよそ似たような記事を載せている。Aは翌日の朝刊でも触れ、三面の特集記事の中で「『気配りの人』といわれる性格も手伝って療養中の(田中)元首相に弓を引いたイメージは何としても薄めておきたかったのだろう」と好意的な解説を載せた。
しかし、当時の夕刊を注意深く読み返すと、突然の訪問に当惑した女婿の田中直紀氏はこう述べている。
「竹下氏の来訪は、田中家として一切確認していない。いったん訪問取りやめを伝えてきておいて、こういう行動をとった真意は不可解であり、竹下氏への不信感を強めさせた」
田中直紀氏はここで竹下氏の「真意」に疑問を投げかけている。たしかにその前日、竹下氏は田中家に近い保岡興治《やすおかおきはる》氏(二階堂グループ事務局長)に電話し「田中元首相に立候補のあいさつをしたいと思っていたが、田中家側が遠慮してもらいたいということなので、やめることにした」と伝えている。
なぜ、一晩で「気が変わった」のか。中曾根首相との会談が予定されているもっとも多忙な日の早朝、なぜ目白へ出掛けたのか。直紀氏が首をかしげた「真意」は五年後に明らかになる。それも東京佐川急便事件に関する東京地検特捜部の取り調べの中でである。
調べによると、四国の右翼団体「日本皇民党」が「カネもうけのうまい竹下登を総理に」などと街頭宣伝車で国会周辺を回ったいわゆる「ほめ殺し」に手を焼いた竹下派では、議員を四国に派遣したりして抑えようとした。これが失敗に終わったため、金丸氏が東京佐川の渡辺社長に依頼、渡辺社長が暴力団稲川会の石井進会長に頼んで、抑えた。この過程で皇民党側は、竹下氏は田中元首相の恩を裏切ったなどとして、田中氏への謝罪を条件にした。
判明した事実を当時の状況と重ね合わせると、合点がいく。竹下氏には金丸氏の代理としてか、小沢一郎氏が同行している。田中邸の前で待ち受け、田中邸に取り次ごうとしたのは、佐川急便との関係が深いといわれた長谷川信参院議員(新潟県選出)であった。
突然の訪問、それも早朝にもかかわらず、Aは田中邸の前で竹下氏の写真を撮って、紙面に載せている(Tテレビもその場面を撮影している)。ということは竹下氏が訪問することを事前に察知していたということにほかならない。実は直前にA、T両社にタレ込みの電話があったのである。電話の主がだれなのかは不明だという。事前に知っていたということは、なぜ、目白へ行かねばならないかという竹下氏の「真意」についても疑問は抱いていたはずだ。
しかし、Aはその線での追跡取材をした形跡はない。「気配りの人」という解説記事で終わりにしている。つまり、五年後に検察の取り調べで明らかにならない限りは、この話は永遠に闇《やみ》に葬られるところだったのである。
渡辺元社長は取り調べに対し、中曾根氏が竹下氏に対し「あれ(ほめ殺し)が抑えられないようでは困る」と述べ、後継総裁指名に関しこの問題の解決を条件として示していたと供述した(T新聞の報道)という。渡辺元社長と中曾根氏の元秘書だった渡辺|秀央《ひでお》代議士は同郷でもあり親密な関係だったといわれ、渡辺・竹下関係にはこうした人間関係が背景にあるという見方が有力だ。
そうなると、自民党後継総裁にまつわる中曾根指名は一体なんだったのか、という疑問が湧《わ》いてくる。なぜ中曾根氏が「竹下」と指名したのか。なぜ「安倍」でも「宮沢」でもなかったのか。あれから何年も過ぎているのに、政治ジャーナリズムはその真相に迫っていない。
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「経世会が二つに割れましたが……」
「小沢も、竹下や金丸と五十歩百歩だろう。経世会はみんなカネ儲《もう》けがうまいんだよ。その中でも竹下は別格だが」
「細川首相にリーダーシップは期待できませんかねぇ」
「小沢の傀儡《かいらい》政権になにが期待できるんだ」
児玉は水割りウイスキーをごくっと飲んで、部厚い唇をひん曲げた。
「わしも危い橋を渡ってきた。塀の内側に落ちなかったことが不思議なくらいだ。政治家を非難できた義理かと言われたらそれまでだが、政治家は汚れすぎてるな。ヤクザの介在をゆるした中曾根と竹下は晒《さら》し首にしてやりたいくらいだが、高級官僚が政治家に媚《こ》びを売り、すり寄りすぎるのも見るに忍びない。大蔵、通産の高官が自民党を袖《そで》にして小沢の顔色を窺《うかが》ってるが、寄り合い世帯が長続きするはずはないよ」
「先生は政治家とはどなたとお近いんですか」
「とくに近いのはおらんが、派閥の領袖《りようしゆう》とは通り一遍のつきあいはあるよ。残念ながら人材不足は否めないな。大分県知事の平松守彦あたりがもっと若いときに政治家を志向してればおもしろかったんだが、あの男も齢《とし》を取りすぎた」
竹中が水割りウイスキーをひと口飲んで話題を変えた。
「いつでしたか先生はバブルの清算が大変だと話されましたが、最後は銀行が尻《しり》ぬぐいしなければならないと思うんです」
「うん。尻ぬぐいとも言えるが、身から出た錆《さび》で、自分のケツを自分で拭《ふ》くとも言えるんじゃないのか。バブルを膨らませたA級戦犯は大蔵省と銀行だろう。政治家もA級かねぇ」
「そう言われても仕方がない面はありますが、証券も生保も、金融機関はすべてA級なんじゃないでしょうか。バブルを煽《あお》ったマスコミや評論家も然りです。帰するところ、一億総参加っていう感じがします」
「まったくなあ。アメリカ合衆国の国土は日本の国土の二十五倍だが、日本の地価が上昇しすぎて、アメリカ全土と日本全土は等価、いや、アメリカを二つ買えるなんて莫迦げたことがいわれたが、全員熱病にかかってたようなものだな。だが、わけても銀行の罪は大きいぞ」
「都銀、長信銀、信託の二十行は潰《つぶ》さない、っていうのが大蔵省の基本的な方針のようですが、先生はどう思われますか」
「競争原理が働いて、潰れるところが出てきてもしょうがないとわし自身は考えてるが、大銀行が倒産したときにどんな影響が生じるのか見当がつかんので、迂闊《うかつ》なことも言えんのかねぇ。それと長年染みついた護送船団から抜け出すのは容易じゃないだろうねぇ。ただ、これだけは言えるが、メインバンクとか銀行系列などとおこがましいことを銀行が言えなくなった凄《すご》い時代になった。益出し益出しをやったお陰で、含みのない株を四・九パーセント保有してる程度で、メインバンクでもなかろう。しかも債権の取り立てに血眼になって、総量規制を盾に貸し渋りは目に余る。大小とりまぜて土建屋と不動産屋だけでもパンク寸前なんてのがゴロゴロしてるよ。昔は潰れそうな会社をメインバンクは必死に支えたものだが、いまはあっさり突き放してしまう。日本全体で不良債権というロスが何十兆円あるか知らんが、株価も土地も当分下がることはあっても上がることはないと考えたほうがいいから、ロスは膨らむ一方だろう」
「わたしも、先生と同じ意見です。放漫経営で潰れる銀行が出てきてもおかしくないと思ってます」
「協銀はどうなんだ」
「協銀の体力は都銀の中でも一、二でしょう。協銀が潰れたら、それこそ日本全体が沈没してしまいますよ」
「その余裕が、護送船団方式を否定するわけか」
「いや、一般論です。いくら信用機構だからといって銀行だけは潰さないなんていう論理は世界に通用しないんじゃないでしょうか。問題は潰し方です。一般預金者の保護は必要ですし、できるだけマイルドな方法を取るべきでしょう。それと金融システムそのものまで破壊してしまうことは断じてできないと思います。産業の血液を止めてしまうわけにはいきませんし……」
竹中は話を途中で打ち切った。児玉がソファに背を凭《もた》せて鼾《いびき》をかき始めたからだ。
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第八章 定時株主総会
五月の連休明けから渉外班≠フ緊張感はぐんと高まる。
定時株主総会招集通知書は、総会日の二週間前までに株主に発送しなければならない。
決算期が三月の上場企業は六月二十九日に総会日が集中するが、協立銀行は六月十四日付で招集通知書を発送することになっていた。
決算期である三月末のひと月前に特殊株主の株付け状況が、証券代行機関の信託銀行から報告されるが、新規に株付けしてきた特殊株主は七名だった。もちろん、その中に夏川美智雄の名前はなかったが、七名は渉外班≠ノとって、きわめて厄介な存在である。
直ちに顧問の警察OBに連絡し警視庁四課に照会すると、いずれもプロ株主としてリストアップされていることが判明した。
必ずなんらかのアクションがあると考えなければならない。
ところが五月の連休明けまで、新規に株付けしてきたプロ株主の動きはみられなかった。
そのうちの一人、沢崎正忠が突然五月九日月曜日の午後一時に協立銀行本店にあらわれたのである。
沢崎は通常サイズより二回りは大きいこけおどしの名刺を受付で示した。
「沢崎という者です。協銀の株主ですが、総務部長さんに面会したいのですが」
「少々お待ちください」
受付の女子行員は慣れたもので、渉外班≠呼び出した。
宇野和枝が電話を取り、主任調査役の竹中に話をつないだ。
五人の調査役の中で、主任調査役の竹中が比較的心身共に余裕があることを二人の女性は見抜いていた。飛び込みプロ株主を竹中に振ってくるのはそのためだ。
「いいですよ。わたしが会いましょう」
竹中は背広を着ながらエレベーターホールに向かった。
最近の総会屋はパンチパーマの一見ヤクザ風が少なくなった。ヤクザも然りで、外見はリクルート・ファッションのサラリーマンっぽいのがほとんどで、一般人と見分けがつかなくなった。沢崎もそんな感じだった。年齢は三十七、八だろうか。
「総務部の竹中です。部長が席を外してますので、わたしがお話を伺わせていただきます。どうぞ」
ロビーのソファで二人は名刺を交換した。
沢崎は単刀直入に用件を切り出した。
「協銀に島田泰次さんという常務がいますよねぇ」
「はい。ニューメディア・ベンチャーなどの営業を担当してます。島田がなにか」
「銀座六丁目にホワイトツリー≠ニいうカラオケバーがあるのを知ってますか」
「いいえ」
「白木育代っていうママが島田さんの愛人で、二人はホワイトツリー≠フ共同経営者です。それが証拠に、島田さんは毎晩のように一人でホワイトツリー≠ノ来てますよ。ときにはスポンサーを連れてくることもあるが、協銀は役員の副業を認めてるんですか」
「会長や相談役が他社の監査役や社外重役に就いているケースはあります。名誉職といいますか、名義貸しみたいなものですが」
「現役の常務がクラブを経営して悪いということはないんですかねぇ。しかも愛人との共同経営ですよ。外聞を憚《はばか》るのと違いますか」
「それが事実なら、銀行の役員として軽率だと思います。脇《わき》が甘いというかモラルの問題でもあると思いますが、プライベートなことなので銀行として対応するには限度があります」
「わたしが協銀に株付けしたのは、総会でこのことを訊《き》きたかったからです」
「総会でですか。低次元の話ですから、どうかご容赦願います。プライバシーの侵害ということにならないでしょうか」
沢崎の細い眼が不気味な光を放った。
「一事が万事でしょう。銀行は社会の信用機構などときれいごとを言いながら、やってることはうす穢《ぎたな》いことばっかりだ。島田常務の件は絶対にゆるせない。襟を正してもらうためにも徹底的にやるつもりです。プライバシーの侵害ということならそれで争ったらいいでしょう」
竹中は憂鬱《ゆううつ》になった。沢崎の狙《ねら》いは正義感に根ざすものとは思えないが、放置していいのかどうか。
「プライバシーの侵害は言わずもがなでしたから撤回します。徹底的にやるとおっしゃいましたが、沢崎先生以外にも当行の株主で本件をご存じの方がいらっしゃるんですか」
「わたしだけです。しかし、協銀の反省が足りなければ、横の連絡を取らせてもらいますがね」
「まず事実関係を確認させていただきます。そのうえで、先生ともう一度お話しする機会をお与えください」
「三日以内に電話してもらいましょうか。誠意ある回答を期待してます」
「はい。お約束します」
この程度は、小競り合いのうちで、よくある話だ。
五月下旬の決算役員会までは前哨《ぜんしよう》戦で、六月に入るといよいよ本戦である。高木や野田は、総会を「戦争」と言って憚らない。
総務部、企画部、経理部、広報部など全行的に組織をあげてプロジェクトチームが設置されるのも六月初めである。
前哨戦で沢崎のような飛び込みがあったとき渉外班≠フ調査役は、一人で対応しなければならない。ことがらの性質上、上司に相談したり、同僚の意見を聞くことは許されないからだ。女性がらみの問題は調査役の責任で対応するのが原則である。
たまたま運悪く竹中が悪い籤《くじ》を引いてしまった、ということができる。
ツイてない、とわが身の不運を嘆いても始まらない。渉外班≠フ調査役に付いて回る問題なのだ。
竹中は、沢崎正忠が前科はないし、グループに属していない一匹狼であることも、すでに把握していた。ただし、暴力団とのつきあいはあると警察OBの顧問は言っていた。
竹中は、直ちに島田に面会を求めた。まず廊下に島田付の女性秘書を呼び出した。
応対に出てきた若い女性秘書に竹中は切り口上で言った。
「総務部の竹中です。総会の案件で、島田常務に至急お目にかかりたいのですが。できれば本日中にお願いします」
「島田常務は外出中ですが、ただいまスケジュール表を見て参ります」
二分ほどで女性秘書は戻ってきた。
「午後五時から十分か十五分でしたら時間がございます」
「けっこうです。それでは五時に参ります」
竹中は五時までに四人の特殊株主と面談した。資料の請求やら、協立銀行が公表している一兆二千億円の不良債権の数字に誤りはないのか、などの質問を受けたが、いずれも前哨戦の部類である。
気がついたら渉外班≠フ調査役五人全員がロビーで接客中などという事態もある。
総会屋同士が顔見知りで、目礼を交わしている場面もあった。
五月と六月は渉外班≠ノとって書き入れ時なのだ。
役員は担当部門のあるフロアに個室を与えられていた。島田の個室は六階の南側である。
「総会案件ってなんだ。時間がないから早くしてくれ。茶はいらんからな」
島田が時計を見ながら言った。接客中だったのだろう。女性秘書がセンターテーブルの湯呑《ゆの》みを片づけていた。
島田は昭和三十八年三月に京都大学経済学部を卒業して、同年四月に協立銀行に入行した。
アクが強いが遣り手の営業担当常務として聞こえている。ひたいがゴルフ焼けして黒光りしていた。
島田は竹中がなかなか切り出さないので、いらいら貧乏ゆすりを始めた。
女性秘書が退出するまで話せるわけがない。
「きょう午後一時に沢崎という新手のプロ株主があらわれました。銀座にホワイトツリー≠ニいうカラオケバーがあるそうですが、白木育代なるママと常務が懇意にしていて、お二人は共同経営者である、ということは銀行の役員としていかがなものか、と言ってきたのです」
竹中は島田をまっすぐとらえて一気に言った。
島田の顔がみるみる険しくなっていく。
「おまえら渉外班≠ヘ一年に一回のお祭のために、そんな岡っ引きみたいな真似までするのか」
「一年に一回のお祭」も「岡っ引き」も聞き捨てならない。島田は痛い所を突かれて、頭に血をのぼらせたのだ。竹中は努めて冷静をよそおった。
「お言葉ですが、大変心外です。渉外班≠ヘ総会対策で三百六十五日明け暮れています。気の安まる日は一日たりともありません。常務は誤解されてるようですが、沢崎という男が総会で問題にしたいと言ってきたのです。事実無根とは存じますが、念のためにお尋ねさせていただきたいと思いまして」
「ホワイトツリー≠ノは四、五回行ったことがあるが、それだけのことだ。ママと男女関係もないし、共同経営者なんて、でっちあげもいいところだ。その沢崎という総会屋を名誉|毀損《きそん》で訴えてやりたいくらいだよ」
「それだけ伺えば充分です。ぶしつけなことをお尋ねして失礼しました」
竹中はソファから起立して一揖《いちゆう》した。
「ちょっと待て。ホワイトツリー≠フいまの話は渉外班≠ナ話題になってるのか」
「いいえ。沢崎に会ったのはわたしだけですから、これ以上ひろがることはあり得ません」
「ふうーん。きみは高卒だったかねえ。高卒にしてはしっかりしてるが」
「…………」
「昔、広報におったように覚えてる。高卒ってことはないよなあ。それにしても、なんで渉外班≠ネんかにおるのかね」
竹中は返事をしなかった。
野田や永田の高卒組が島田と接触していたら、どんな気持ちになったろうか。
竹中は渉外班≠フ苦労も知らずに、人を見下す島田をゆるせなかった。
しかも野田や永田の仕事ぶりは、大学出に負けていない。いや凌駕《りようが》していると思えるほど頑張っている。
ここは反論しない手はない、と竹中は思った。
「わたしは常務のように一流大学ではありませんが、一応大学を出てます。しかし、渉外班≠フ高卒出身の人に仕事ではかないません。彼らは非常に優秀ですし、仕事にプライドも持ってます。組織を守る、銀行を守ることに徹する。それを使命と考えているからこそ、ヤクザな総会屋と向き合えるんだろうと思いますし、躰《からだ》も張れるんじゃないでしょうか。プライベートな問題でも総会屋は容赦なく突いてくる可能性がありますからホワイトツリー≠フ問題は総会のリハーサルで質問させていただきます。事実無根とおっしゃるんなら、リハーサルの前にご自分で総会屋と話をつけてください」
島田は顔色を変えた。
「なに! ホワイトツリー≠フ問題をリハーサルで質問するだと。そんな真似をしてみろ、絶対ゆるさんからな」
「総会のリハーサルは常務も何度も経験されてると思いますが、渉外班≠ヘ総会屋の立場になりきって、協銀を攻撃します。わたしも広報に在籍したことがあるので、わかってますが、ゆるすもゆるさないもないと申し上げておきます」
竹中は優位に立っている自分を意識した。
初めのうちこそ声がうわずったが、最後は冗談っぽく言えるほど余裕が出てきた。
「お、おまえ俺にブラフをかけるのか。含むところでもあるのか」
「はい、あります。渉外班≠見下す態度は、それこそゆるせません。しかし、リハーサルの質問はあくまでも組織を守るためです。常務に恥をかかせるためではありません」
「わかった。総会のリハーサルまでに、必ず身の潔白を証明してみせる」
「ぜひそうお願いしたいと思います。わたしも、できたら『ホワイトツリー≠愛人と共同経営しているのは事実か』なんて質問したくないですよ。それに常務に恨まれたくもありませんし。それではよろしくお願いします」
「うん」
島田は仏頂面で生返事をした。
「俺《おれ》にここまで言うのが渉外班≠ノおったとはねぇ。きみのことは覚えておこう」
島田は逆にブラフをかけてきた。実力常務の俺に盾突いていいのか、と言いたいらしい。しかし、負けてなるものか、と竹中は思った。
「よろしくお願いします」
竹中はもう一度頭を下げて、退出した。
島田が沢崎を抑えられるかどうか見ものである。
六階から十三階へ戻るまでに、竹中は快感が不快感に変わっていくのを明確に意識した。
鈴木会長の娘の不行跡を隠蔽《いんぺい》するために、不正融資に加担した自分の立場に思いを致したのである。
それも十八億円が確実に不良債権化し、まかり間違えば背任罪で手がうしろに回りかねないのだ。
露見する恐れもなしとしない。もっとも、形式は整っているので、万一露見したとしても言い逃れできるだろうが、島田を総会リハーサルで恥をかかせられる義理か、という声が天から聞こえてくるような錯覚にとらわれていた。
エレベーターの中でも、トイレで放尿しているときも、自分に無性に腹が立った。やりきれない気持ちである。だが自己嫌悪に陥ったら前任者同様、心身症で潰《つぶ》れてしまう。
それもこれも組織を守るため、銀行を守るため、と割り切らなければ、やってられない。
そうわが胸に言い聞かせてはみたものの、不快感はなかなかぬぐいきれなかった。
それにしても、いきり立った島田の様子から察して、沢崎の指摘は多分事実なのだろう。
共同経営者が事実で、沢崎に証拠をつかまれていたら、島田は窮地に立つ。
島田みたいな傲岸不遜《ごうがんふそん》な男のために躰を張るいわれはないとも思う。万一、総会で、沢崎がひと暴れしたらどうなるか。
島田に恥をかかせるのも悪くない。しかし事前に沢崎を抑えられなかった渉外班≠熬pをかくことになるのだ。それどころか協立銀行全体のイメージダウンに直結する問題だ。ここは悩むところである。
竹中はなかなか考えがまとまらなかった。
島田は、この夜十一時過ぎにホワイトツリー≠フ白木育代に電話をかけた。
「十一時過ぎにマンションに行くからな」
「あら、お店には来てくれないの」
「うん。一人で店に行くのはどうも気がすすまんよ。これからは自粛しなければいかん」
「いまさらなによ」
「とにかく、なるべく早く来てくれ。相談したいこともあるんだ」
青山の賃貸マンションが白木育代の住まいである。約三十坪の3LDKで、家賃は五十万円。
島田は週最低一度は宿泊する。島田がホワイトツリー≠フ開店資金の一部を負担したことは事実だった。千五百万円を貸し付け、借用証もつくり、月額五十万円返済させている。もっとも、五十万円はマンション代で相殺されてしまう。
いわば、若い女体に千五百万円投資したようなものだ。育代は美形だし、いい躰をしている。島田は千五百万円をバブルが弾ける前に、手持ちの株を処分して調達した。保有していれば半値になっていたところだ。
二人がわりない仲になったのは、四年ほど前、島田が取締役になった直後で、当時育代は赤坂のクラブのホステスだった。
島田はバスローブ姿でテレビを見ながらリビングで水割りウイスキーを飲んでいた。
「急に大阪へ出張することにしたから、今夜は泊まるからな」
「うれしいなあ。シャワーしたの」
「ああ」
「わたしもシャワーしようかな。けっこう汗かいてるから」
育代は島田の前でイブニングドレスを脱ぎ、下着を剥《は》いで、裸体をさらけ出した。バストといい、くびれたウエストといい、ヒップアップぶりといい、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするプロポーションだ。
いつもなら育代の挑発に、たちまち高まるはずなのに、この夜島田の下半身はいじけていた。
取引先との宴席で、したたかにビールやら日本酒を飲んだこともいけなかったが、渉外班≠フ一調査役の出現に、縮み上がっていたのである。
「早くシャワーしてこいよ」
「うん」
向かってこない島田に、育代は怪訝《けげん》そうに首をかしげてから、バスルームに消えた。
そして濡《ぬ》れた髪にバスタオルを巻きつけたバスローブ姿の育代が顔色を変えたのは、三十分後だ。二人は長|椅子《いす》に並んで座って、話をつづけた。
「銀行の中に、俺を嵌《は》めようとしてるやつがいるのかねぇ。代表権を持てる六専務の中に、入れるかどうか微妙なところだからなあ」
「なに弱気なこと言ってるのよ。副頭取は間違いないって言ってたくせに。常務になったのはいちばん早かったじゃないの」
「沢崎とかいう総会屋が、渉外班≠フ調査役にどんなふうに話したのか、もう少し詳しく聞くんだったよ。宴会なんか遅刻してもよかったんだ」
「でも、お店に四、五回しか来てないなんて、いくらなんでも白々しいわよねぇ。あなた月に五、六回は来てるから、協銀に回した請求書も十枚じゃきかないと思うわ。調べられたらすぐバレちゃうわよ」
「渉外班≠ヘそこまではやらんよ。おまえとの仲が終わるわけじゃないから安心しろ」
「あなたねぇ、そのおまえはやめたほうがいいと思う。お店でおまえなんて言うから、わたしがあなたの女だって、みんなにバレちゃうんじゃない」
「銀行のやつを連れて行ったときに、おまえって呼んでるか」
「呼んでるわよ。不用意だわ」
「そら、いかん。俺としたことが……」
「でも銀行の人はみんなあなたの部下で、あなたのゴマすりばっかりだし、総会屋に近づくわけはないわねぇ。ユカかも。あの子の客に、沢崎っていう名前の人がいたような気がする……。うん、たしかにいたわ。遅い時間に二度か三度来てる」
「俺とバッティングしてるか」
「多分……」
ユカは、歩合制のホステスだったが、三カ月前にホワイトツリー≠辞めて、別の店に移った。
齢《とし》は二十五歳。けっこう戦力になっていたが、島田に色目を使ったので、育代がクビにしたのだ。
島田の女好きはほとんど病気に近い。育代に内緒でユカと一度、と島田も思わぬでもなかった。
「ユカなんかと寝たら殺すわよ」
頭のいい育代は、島田にそう言って歯止めをかけてある。
「犯人はユカか。おまえがあの子に焼《や》き餅《もち》なんか焼くから、こういうことになるんだ」
「なに言ってんの。その気充分だったくせに」
「俺があんな小便臭い女《こ》と寝るわけねえだろう」
「でも喧嘩《けんか》してる場合じゃないわよ。どうするか考えなくちゃ。ユカはこのマンションにも来たことあるし、あなたとわたしの関係もよく知ってるから、ちょっとやばいわ」
「渉外班≠ノひと頑張りしてもらうしかないな。総会屋の頭を撫《な》でてもらうしかないよ。総会が終わるまで自粛するぞ」
「お店に来ないっていうこと」
「行くけど、ひとりじゃ行かない。ここに泊まるのはリスキーだ。おまえを抱きたくなったら、昼間なんとか時間をつくって来るからな」
島田はいじいじ悩むタイプではなかった。気持ちの整理をつけるのも早い。育代をベッドに押し倒していた。
翌朝、九時半に竹中は島田に呼び出された。
「きのうの件、沢崎の話をもう少し詳しく話してくれ。どうもホワイトツリー≠ナ会ったことがありそうなんだ。名刺までは交わしてないが」
「一見紳士然としてますし、言葉遣いも丁寧でした。年齢は警視庁四課で調べましたら三十九歳でした。前科はありませんが、三流経済誌の記者上がりです。マル暴とのつきあいはあるようです」
「ホワイトツリー≠ノ四、五回しか行ってない、と言ったことは訂正する。手ごろな店なんだ。ハイヤー待ちで、遅い時間に一人で行ったこともある」
協立銀行では代表権を持たされる専務以上は専用車が付くが、常務の送迎はハイヤーである。
「毎晩のように一人で行っている、と沢崎は言ってました」
「ふざけるなよ。だいいち身が持たんだろうや」
「もちろんおっしゃるとおりです。共同経営が事実無根なら問題はないと思いますが」
「売り上げに協力してることが共同経営なら、そう言われてもしょうがないけど、総会で質問するっていうのは厭《いや》がらせで、できるわけないだろう」
「常務に沢崎が個人的に含むところがあって、恥をかかせてやろう、と考えていたとすれば、強引に不規則発言をする可能性はあります」
「渉外班≠ナなんとか手を打てないのか」
「利益供与はあり得ませんし、私的な問題に渉外班≠ェ関与するのもいかがなものでしょうか」
「だったら、なんでご注進に及んだんだ」
島田の表情が尖《とが》った。
「総会がらみの問題はすべてお尋ねするなり、ご注意を申し上げることになってます。沢崎に事実無根と伝えて、ピリオドを打ちたいと思います。あとは出たとこ勝負ですが、与党の総会屋さんに沢崎を抑えるよう依頼するケースも考えられますけれど、話が拡大するので得策ではないと思うのです。私的な問題には、個人的に対応していただくしか手はありません」
竹中は突き放すように言った。ひと晩考えて、それしかないとの結論に達したのだ。
島田に隠蔽《いんぺい》しようのない弱みがあれば、自分で沢崎と対峙《たいじ》すればいいのである。
「俺が沢崎に電話をかける。名刺を見せてくれ」
「そうしていただくと助かります。どうぞ。差し上げます」
竹中は沢崎の名刺をあらかじめポケットに入れていたので、それを島田に手渡した。
島田が沢崎とどう接触し、どう話したかわからないが、沢崎は渉外班≠ノ連絡してこなかった。沢崎が総会にあらわれなかったら、現金をつかませたとしか思えないが、島田のことだから、調査費などで捻出《ねんしゆつ》するかもしれない。
五月十五日日曜日の朝、竹中は起き抜けにトイレでA新聞を見て、仰天した。
一面トップで世紀の大スクープを放ったのだ。
大蔵・農水省が密約∞農林中金へ日銀融資∞信連・農協の支援図る∞一〇〇〇億円程度か∞昨年、住専再建策の一環≠ネどの大見出しが躍っている。
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深刻な経営不振に陥っている住宅金融専門会社(住専)の再建策をめぐり、住専に五兆五千億円を融資して経営不安を抱える農協系金融機関のために、日本銀行が農林中央金庫に公定歩合による低利での支援融資をすることが、約束されていたことがわかった。昨年二月、大蔵省と農林水産省の担当局長が交わした秘密の「覚書」に明記されており、支援融資額はすでに数百億円から千億円程度にのぼったとする関係者もいる。「覚書」には、このほかにも、貸出金利の減免について農協系金融機関を有利に扱う条項が含まれており、異例の密約を背景に、農協の特別扱いが取り決められていたことになる。
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以上は前文(リード)で、本文は次のとおりだ。
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覚書は、住専最大手の「日本住宅金融」(本店・東京)の再建支援策に関するもので、その後この覚書は、住専各社の支援策にも適用された。日住金への融資のうち、設立の中心になった都市銀行などは金利ゼロ、農協系は四・五%まで金利を減免することなどが柱で、その部分は住専などから対外発表された。覚書の日付は昨年二月三日で、大蔵省の寺井信夫銀行局長と、農林水産省の眞木武志経済局長(現・農林水産審議官)との間で結ばれた。両局長の印鑑が押されており、日銀も調整に加わっていた。
覚書には「住専に対する農協系統の金利減免は、農協系の体力からみて非常に厳しいものであることを踏まえ、日銀は農林中金に対し、必要な資金の融通を行う」と記されている。
農林中金自体の経営内容に問題は少ないが、傘下の都道府県の信用農業協同組合連合会(信連)や単位農協の一部は、赤字になるなど経営不振に陥り、住専への融資の金利を減免すると、さらに打撃を受けるとみられていた。農林中金は、信連などの経営不振の面倒をみなければならない立場であるため、農水省が農林中金への日銀支援を求めたとみられる。日銀貸し出しは、日銀と取引がない信連には直接できないため、農林中金に対して行い、農林中金が信連の支援をする形になったとみられる。
政府・日銀による緊急支援融資としては、日銀法二五条に基づいて大蔵大臣の許可を受け事実上無制限に貸し出しを行う「日銀特融」があり、一九六五年の山一証券の救済の際に発動された。今回は、これにはあてはまらないが、大蔵省銀行局長名で秘密の文書をつくり、個別金融機関の名前に言及する形を取っているだけに、救済色が強く極めて異例だ。
これまで「特融」でなくても、日銀がごくまれに通常の「日銀貸し出し」を増やし、金融機関の支援をすることはあった。日銀貸し出しは、金融市場で金利を調節する手段として、銀行などに対し日常的に行われているが、低利の公定歩合で貸すため、金融機関がその資金を運用すれば、確実に利ザヤが取れる。
また、公表された住専再建策では、農協系金融機関に適用される四・五%の減免金利は十年間固定することになっていた。ところが、覚書では金利について「金融情勢の変化によって、農協系統の経営に大きな問題が生じた場合、(大蔵、農水)両省で協議し、責任を持って対応する」と明記されている。
こうした問題について、日本銀行幹部は「覚書があるのは知っているが、日銀が農林中金に行っているのは、通常の金融調節で特別なものではない」としている。
大蔵省・寺井信夫銀行局長の話 覚書があることは認めるが、内容は明らかにできない。
農林水産省・眞木武志農林水産審議官(前経済局長)の話 覚書は、あるともないともいえない。
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竹中はトイレから出てきて、杉本のにやけ面を眼に浮かべながら、手と顔を洗った。
負け惜しみの強い杉本のことだから「とっくに知ってたさ」ぐらいのことは言いかねないが、いくら遣り手のMOF担でも敏腕記者にかなうわけがない。
A新聞のスクープは翌五月十六日の朝渉外班≠ナも話題になったが、企画部や広報部、いやどのフロアも騒然としていることだろう。農協および農林中金の政治力なりパワーを見せつけられたかたちだが、背後で政治家が暗躍した可能性をA新聞は同日付のコラムで示唆していた。
有力政治家、大物政治家のほとんどが農林族であることを考えれば、それは充分あり得る、と竹中は思う。
隣席の永田が話しかけてきた。
「住専問題は総会屋が突いてくるでしょうねぇ。リハーサルで質問しない手はないと思うんですけど」
「そうですねぇ。ただ、いまだに大蔵省の方針が出てませんから、答弁のしようがないというのが正直なところなんじゃないですか」
「大蔵省はなんで方針を出せないんでしょうか」
「住専のトップは、協銀系も含めてほとんど大蔵省のOBですから、まずこの人たちが辞任しないことには、大蔵省としてもやりにくいんじゃないですか」
「でも、問題の処理を先送りしてきた大蔵省の罪は大きいと思うんです。資産デフレはとどまるところを知らないほど凄《すさ》まじいことになってるので、損失はどんどん膨らんでるわけでしょう」
「おっしゃるとおりです。六月か七月の人事でMOFの銀行局長が代わりますが、新局長がどう出ますかねぇ。官僚は泥を被らない人種だから、先送りしたくなるところでしょうけど……」
竹中は、大蔵省財政金融研究所が昨年四月にまとめて発表したレポート「資産価格変動のメカニズムとその経済効果」の内容と西岡正久所長の名前を思い出していた。同レポートは護送船団方式を含めて、大蔵省が自らのバブル発生で経済政策の失敗を認めた画期的なものだ。西岡が銀行局長に就任すれば、先送りせずに住専問題に取り組むのではないか――。そんな予感がする。
永田が大蔵・農水省が密約≠蒸し返した。
「それにしても、現銀行局長はひどすぎますよねぇ。先送り≠ニ密約≠ナ悪名を後世に残すんじゃないでしょうか」
「寺井銀行局長だけに責任を負わせるのは気の毒だけど、結果的にそのとおりですよ。ただ密約≠フほうは、農林族の政治家が圧力をかけ、大蔵省がそれに屈したということですかねぇ。このことは農林中央金庫の政治力が、都銀が束になってもかなわないほど強いっていうことを示しているわけでしょう。A新聞もちょっと書いてましたが」
農林中央金庫は、農協(農業協同組合)信用事業部門の最上部機関である。昨年(平成五年)三月末時点の農協の貯金量は六十三兆円だが、このうち四十四兆円が都道府県の信連(信用農業協同組合連合会)に集まり、信連から二十七兆円が農林中金に吸い込まれる。農林中金はこの膨大な資金を運用して得た利益を信連、農協に還元する仕組みだ。
二人の話を聞いていた内田が口を挟んだ。
「住専問題も不良債権問題も、総会の主要テーマになることは間違いないでしょう。それと変額保険も突っ込まれると思いますよ」
五月十六日付で、渉外班≠フ調査役が五名から七名に増員された。総会に備えて臨時の発令だ。例年より二週間ほど早い。
総務部法務担当の池口清彦と、市ヶ谷支店副支店長の村田重雄だ。村田は竹中の後任で、総会当日の六月二十九日付で渉外班≠フ主任調査役になる。竹中の場合はハプニングだが、村田は一年前から人事部に目をつけられていた。
総会日は六月二十九日なので、池口は四十五日間渉外班≠ノ張りつけられる。それだけ渉外班≠フ仕事量が増えていることを示している。
渉外班≠ヘ部付部長を含めて九人体制になった。女性事務員を加えれば十一人だ。それでも連日残業が続く。
電話帳≠ニ称する想定問答集の作成は、半年前から作業が始まっていた。三千項目に及ぶ問題点を本店はもとより国内三百五十店、海外三十店の支店を含めて洗い出すために、アンケート用紙の発送が一月から行なわれるのだ。
渉外班≠ヘ一両日中に六月二十九日の総会日に向けてスケジュール表を作成するが、企画部、広報部、経理部などを含めたスタッフ関係者の会議だけで五回、役員と渉外班≠セけの会議を三回、役員とスタッフの合同会議を二回こなして、いよいよ本番さながらのリハーサルを二回実演する。
二十二階の大会議室は五百人収容できるが、リハーサル参加者は約百五十人。ときには怒号が飛び交うこともある。
部付部長の高木が総会対策プロジェクトチームのリーダーである。本来なら取締役総務部長か、総務部門担当常務の役目だが、株主代表訴訟の対象になる取締役に累を及ぼさないための配慮と言える。
第一回リハーサルは六月十五日水曜日に行なわれた。午前十時十分前に、雛壇《ひなだん》の前列に代表権を持つ会長、頭取、専務らが着席した。一段高い二列目に常務以下の役員、企画、経理、広報のスタッフ、そして顧問弁護士、公認会計士などが陣取る。
雛壇を見上げるかたちで、前方に約百二十人の社員株主が整然と着席し、その後方に野田以下の渉外班≠ェ、ふてくされたような姿勢でバラバラに座っていた。
十時ちょうどにブザーが鳴り、高木が雛壇|袖《そで》のマイクの前に立った。
「ただいまから第百十七回定時株主総会の第一回リハーサルを開催しますが、特殊株主役の面々から厳しい質問やヤジが発せられますけれど、あくまで特殊株主の攻撃から銀行を守るための演技ですから、ご容赦いただきたいと存じます。それでは議長の斎藤弘頭取から当期の営業報告%凾ノついて報告します」
「おはようございます。株式会社協立銀行頭取の斎藤弘です。本日はご多忙の中を第百十七回定時株主総会にご出席を賜り、まことにありがとうございます……」
斎藤にとって総会議長は初めての経験だけに、リハーサルにもかかわらず声がうわずり、しかも早口なので、聞き取りにくかった。
「当期の世界経済情勢をみますと、米国経済は……」
「斎藤! おまえなにを怯《おび》えてんだ! やましいことでもあるのか! もっとしっかり話さんか!」
不規則発言の主は野田だった。サビ声でドスが利いている。野田も永田も、林も内田も総会のために発声練習などで鍛えている。
斎藤の報告は約二十分要した。
「てめえ! 収益状況の数字に粉飾はねえのか! 不良債権を約一兆二千億円と言ったが、住専はどうなってんだ! 株主に舐《な》めた真似すんじゃねえ!」
内田が大音声を発する。
「議事進行!」の社員株主の大合唱に、内田は席を立って小走りに雛壇に詰めよった。その後に沖野が続く。
「おい! てめえ! こんな大事な質問してるときに居眠りしてるとはどういう料簡《りようけん》だ!」
沖野が指差したのは、島田常務だった。島田は後方雛壇にいたが、連夜の疲れでつい船を漕《こ》いでしまった。
島田は、十日ほど前、竹中に電話をかけてきた。
「ホワイトツリー≠フ件はすべてクリアしたから安心してくれ。沢崎も誤解を認めてくれたからな」
沢崎にいくらつかませたのか知らないが、抑え込みに成功したらしい。それで安心したわけでもあるまいが、居眠りを指摘されて、バツが悪そうに顔をゆがめた。
沖野の追及は容赦なかった。
「てめえ! おみおつけで顔を洗って出直してこい! ベンチャービジネスの担当とか聞いてるが、毎日のんだくれてんじゃねえぞ。危いベンチャーに無理な貸し出しをしてるんじゃねえのか! はっきり答えてみろ!」
「議事進行!」
「うるせえ! 島田に答えさせろ!」
俺が沖野に振り付けていると島田に疑われても仕方がない、と竹中は思い、眼を瞑《つぶ》りたくなった。
斎藤が「島田君、お答えして」と発言を促した。
「当行は有望なベンチャービジネスとのお取引関係が都銀他行に比べて多ございます。この部門は順調に育っており、無理な貸し出しをする必要も理由もございません」
「それで居眠りしてたっていうのか!」
「恐れ入ります」
「議長! 変額保険のトラブルが各支店で続出してるが、協銀に重大な落ち度はないのか!」
林の質問に、斎藤は「担当専務の石山からご説明させていただきます」と、前列の右端に眼を遣った。
石山が薄くなった後頭部に手を遣りながら起立して、マイクを握った。
「当時はお客さまにとりまして大変有利な保険商品という認識がございまして……」
林は血相を変えて、石山のほうへ突進した。
「なんだと! てめえ! それで年寄りに変額保険を奨励したっていうのか!」
石山はうろたえた。変額保険に関する銀行側の立場はあくまで受身でなければならない。
「生命保険会社から勧められたのでファイナンスをつけたに過ぎません」と答えれば済むものをひとこと多かったため、石山は収拾がつかなくなり、立ち往生である。
「変額保険を有利な商品なんて寝とぼけたことを言ってて協銀の専務が務まるのか! おい! 斎藤! こんな専務は即刻クビにしろ!」
「議事進行!」に救われたが、石山も島田同様、満座の前で恥をかかされたことはたしかである。
「会長の鈴木に訊《き》きたい!」
竹中はここは存在感を示さなければならないと思った。
「てめえは、くだらねえ経済誌に出すぎるんじゃねえのか。とくに『帝都経済』の杉野良治と昵懇《じつこん》の仲らしいが、スギリョー≠ヘ取り屋≠ナ聞こえてる! いったいいくら払ってるんだ!」
鈴木はむっとした顔をした。
「わたしは杉野さんと特別親しいわけではありません。秘書から連絡を受けて、杉野さんのインタビューに応じたり、取材に応じているだけのことです。そのためにおカネを払っていることはあり得ません」
「ウソこけ! こないだも雑誌のカバー写真に出てたが、只《ただ》ってことがあるか! てめえの出たがり屋、目立ちたがり屋は死ぬまで治らんだろうが、そんなに出たかったら俺たちが発行している一流誌にも出ろってんだ!」
雛壇からも、社員株主からも失笑が洩《も》れた。
竹中はリハーサル終了後、高木から「意表を衝いたおもしろい質問だった」と褒められたが、つね日ごろから不愉快に思っていたことなので、多少は溜飲《りゆういん》を下げた。杉野は、竹中の広報部調査役時代から、現在に至るも広報部を無視して、直接、鈴木に電話をかけてくる。
第一回リハーサルの所要時間は一時間足らずで終了した。
島田が竹中にスーッと近づいてきて、ジロッとした眼をくれた。
「さっきの俺に対する厭《いや》がらせは、きみの入れ知恵か」
「冗談よしてください。しかし、こちら側から見てまして常務の居眠りは相当目立ちましたよ。沖野さんが発言しなかったら、わたしが注意したと思います」
「…………」
「沢崎は招集通知がきておりませんでしたが、ほんとうに大丈夫なんでしょうねぇ」
「ああ、絶対に心配ない。協銀に株付けしたことを後悔してるだろう」
島田はもう一度竹中をジロッと見て、離れて行った。
この日午後四時過ぎに竹中は杉本からの電話を受けた。
「おまえ総会のリハーサルで会長を怒らせたらしいなあ」
『帝都経済』のスギリョー≠フ件だと竹中はぴんときた。
「会長だけじゃない。島田常務からも睨《にら》まれたよ」
竹中は周囲を気にして小声で話した。
「佐藤秘書役に俺から注意しておくように言われたが、あんまり世話を焼かせんなよ。会長が『帝都経済』の杉野良治さんと親しいことを総会屋が問題にするわけがねえだろう。おまえ、なに考えてんだ!」
杉本は公衆電話から電話をかけてるらしい。
雑音が入るのはそのためだが、声を張り上げて本気で怒っている。
「れっきとした総会屋が言ってきたんだよ。じゃなければ、いくらリハーサルでも思いつきでああいう質問はできないよ……」
竹中は咄嗟《とつさ》に嘘《うそ》を言った。こうなったら後へは引けない。
「しかし会長が気にしてるってことは、なにがしかの効果はあったわけだよねぇ。会長が『帝都経済』に出すぎることを苦々しく思っている協銀マンはけっこう多いと思うけどなあ。本気で会長がリハーサルの俺の質問に腹を立てたとしたら、裸の王様に限りなく近づいているっていうことになってしまう。だとしたら寂しいよねぇ」
「なんていう総会屋が言ってきたんだ」
「それをぺらぺらしゃべるようじゃ渉外班≠ヘ務まらない。会長がどうしても総会屋の名前を明かせとおっしゃるんなら、考えないでもないけど」
万一そんなことになったら、児玉由紀夫にでも知恵を借りるしかない、と竹中は思ったが、この件はそれだけのことで終わった。
二回目のリハーサルは総会の二日前の六月二十七日月曜日午後三時から行なわれた。新任取締役候補も雛壇に並んだ。
スタッフも全員雛壇の背後に控えた。
その中に佐藤明夫秘書役と相原洋介虎ノ門支店長の顔もあった。佐藤は取締役秘書室長に、相原は取締役営業本部第三部長に就任する。
議長の斎藤頭取は前回とは別人のように落ち着いていた。
質疑応答で不良債権問題と変額保険問題に時間を割き、支店レベルの融資に伴うトラブルなども一つ一つ採り上げた。
その中で野田が血相を変えて、斎藤に迫った場面が竹中の印象に残った。
「おい! 斎藤! てめえ不良債権を一兆円以上も膨らませて、株主に迷惑をかけて、責任を取る気はないのか! おまえの前任者がユニバーサルバンクを目指すなんて大|風呂敷《ぶろしき》をひろげた咎《とが》めをいま受けてんだろうや。申し訳ないと思うんなら、土下座して謝れ! てれてれ笑ってんじゃねえよ! 土下座して株主に詫《わ》びんか!」
「協立銀行は都銀の中で業務純益はトップクラスで、よく頑張ってるぞ! 土下座しろとはなんだ!」
竹中は今回は与党の総会屋に回って大声を張り上げた。
「おっしゃるとおり」
林が両手をラッパにして、合の手を入れた。
二回目のリハーサルは二時間を費やした。さすがに攻めるほうも守るほうも疲労|困憊《こんぱい》である。
総会日の前夜七時に、渉外班≠ヘ新橋の一杯飲み屋に集合し、不味《まず》いビールと不味い酒を黙々と飲んだ。
みんな口をきく気にもなれないほど疲れきっていた。
九時に散会。
高木が最後にひとことだけ挨拶《あいさつ》した。
「あしたはいよいよ決戦です。万遺漏なきを期し、地道に積み上げてきた一年間の成果を存分に発揮すれば、なにが出ようと怖れる必要はありません。今夜はゆっくり休んでください。朝七時までに出勤するように」
高木と野田は、大手町のパレスホテルに宿泊した。町田と立川が二人の住まいだが、交通機関に万一支障が生じたときを想定して、ホテルに泊まるのだ。
竹中は気が高ぶってなかなか寝つけなかった。「ゆっくり休んでください」と言った高木も然りだろう。渉外班¢S員が夜中に何度も眼を覚まし、とろとろ浅い眠りで朝を迎えることになる。
竹中は六月二十九日水曜日の早朝六時四十分に本店ビルに着いた。曇り空だが、降雨の心配はなさそうだ。
高木と野田は六時半に来て、本店ビルの周囲をゆっくり一周し、警備員たちと挨拶を交わし、協立銀行≠フ看板が無事なことを確認する。本店出入り口は通用口以外、シャッターがおろされていた。
大会議室や控室の隅々から、トイレやエレベーターに至るまで丹念に点検して歩く。
八時半までにスタッフ全員が揃《そろ》った。各自の持ち場をチェックし、九時には持ち場に着く。
マイクのテスト、モニターテレビのテストなどが行なわれる。
出席者は議決権行使書を本店一階の受付と会場の出入り口で二回呈示しなければならない。会場の受付には招集通知書を持参しなかった出席者のために、同通知書が置いてある。
招集通知書はタテ二十六センチ、ヨコ十五センチ、三十二ページで横組みに印刷されてあった。
株主各位≠ニある上書には第百十七回定時株主総会招集ご通知≠ノ続いて、次のように記してある。
拝啓 ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。さて、当行第百十七回定時株主総会を下記のとおり開催いたしますので、ご出席くださいますようご通知申し上げます。
なお、当日ご出席お差し支えの場合は、書面によって議決権を行使することができますので、お手数ながら後記参考書類をご検討くださいまして、同封の議決権行使書用紙に賛否をご表示いただき、ご押印のうえ、ご返送くださいますようお願い申し上げます。
敬具
以下、1日時、2場所、3会議目的事項と続く。
3には報告事項=第百十七期(平成五年四月一日から平成六年三月三十一日まで)営業報告書、貸借対照表および損益決算書報告の件∞決議事項=第1号議案 第百十七期利益金処分計算書承認の件 第2号議案 取締役十九名選任の件 第3号議案 監査役一名選任の件 第4号議案 退任取締役および退任監査役に対し退職慰労金贈呈の件≠ニある。
九時過ぎに約二百人の社員株主が会場の前方に整然と着席した。
九時半ごろから法人や個人の一般株主が会場に入場してくる。
竹中以下、渉外班≠フ調査役はモニタールームで入場者をチェックしていた。
特殊株主が画面に映ると、担当の調査役がモニタールームから飛び出していく。
檜垣一生があらわれたときは竹中の当番だった。檜垣は書き屋≠ナ、筆が立つほうだ。
金融関係のミニコミ誌を発行していた。協立銀行は広告料も含めて年間五百万円近く出している。
「檜垣先生、おはようございます」
「おう」
檜垣は顎《あご》をしゃくった。
総会屋は年齢に関係なく「先生」と呼ぶならわしだ。檜垣は三十四、五歳のはずだ。頭髪を短く刈り込んでいる。眼つきも悪い。
「どうぞこちらへ。お茶でもめしあがってください」
別室へ導いて、茶菓でもてなす。栗《くり》まんじゅうと最中《もなか》が用意されてあった。
「檜垣先生にご質問していただくことがありましたでしょうか」
「ああ、ちょっとな」
「先生、ご勘弁くださいませんか。威《おど》かさないでくださいよ」
「心配すんな。ちょっと挨拶に顔を出しただけだよ。これから極債銀のほうへ行く」
極債銀とは極東債券信用銀行のことだ。
檜垣は緑茶を一杯飲んで、引き取った。
竹中はエレベーターホールまで檜垣を見送った。エレベーターがしまったあと、フーッと溜《た》め息《いき》が洩《も》れた。
用意されている別室は三室。
協立銀行の総会に出席した特殊株主は六人だった。竹中は沢崎があらわれるんじゃないかと気を揉《も》んだが来なかった。島田常務は自信たっぷりだったが、万一ということもある。
ホワイトツリー≠ネどを暴露されたら、たまったものではない。
沢崎の欠席が島田の身の潔白を証明したことにはならないが、なんらかの妥協が成立したのだろう。
会場の隅々に私服のガードマンが十数人立っている。若い行員と間違えられそうだ。私語もなく、ものものしく異様な雰囲気である。
野田はスタッフの一員として雛壇の後方に待機していた。
十時十分前に鈴木会長と斎藤頭取が入場し、並んで着席した。
進行役の高木が十時を告げるブザーが鳴るのを待って、雛壇に向かって右側の袖《そで》で、マイクの前に立った。
「大変お待たせ致しました。ただいまから株式会社協立銀行の第百十七回定時株主総会を開催させていただきます。まず議長の代表取締役頭取の斎藤弘よりご挨拶《あいさつ》および第百十七期営業報告書、当行の現況等についてご報告させていただきます」
斎藤に合わせて、雛壇の全員が起立した。
「おはようございます」
斎藤にならって、一斉にお辞儀をした。
「本日はお忙しい中を株式会社協立銀行の第百十七回定時株主総会にご出席くださいまして、まことにありがとうございます」
ここで二度目の最敬礼があって、斎藤以外は着席した。
「協立銀行頭取の斎藤弘でございます。議長を務めさせていただきます。よろしくお願いします。まず第百十七期の営業概況からご報告させていただきます。当期の金融経済情勢は……」
すべて招集通知書に書かれているので、大抵の株主はすでに読んでいて、退屈きわまりない。
十分ほど経ったところで、「おい! 斎藤! ちょっと待て!」と、大声を張り上げた男がいた。
「おまえは株主に対して謝罪しないのか! 土下座して謝れ! 不良債権と変額保険でどれだけ人を泣かせれば気が済むんだ!」
「この野郎! ふざけやがって! 土下座しろ!」
三村隆と山中正孝の二人だ。右≠フ特殊株主で、広域暴力団とも近い。年齢は四十二歳と三十八歳。
「議事進行!」
「議事進行!」
大合唱に二人の声がかき消された。
「こんなふざけた総会、阿呆《あほ》らしくてやってられるか!」
二人は議長席三メートル手前まで近づいてから、向きを変えたので、取り押さえにガードマンが集まるまでもなかった。
モニタールームでは渉外班¢S員が椅子《いす》から起《た》ち上がって、固唾《かたず》を呑《の》んでモニターを食い入るように見入ったが、時間にしたら数十秒のハプニングだった。
「参ったなあ」
三村と山中を担当している永田は顔面|蒼白《そうはく》である。
「ペラの月刊誌を二部から三部に増やすように要求してきたんです。一部に減らすように上から言われてるのを頑張ってるんです、と断ったら、これですものねえ」
「おい! おまえら! 協立銀行におカネを預けると、おカネを取られてしまうよ。いまのうちに預金を全部おろしな! こんな銀行、取り付けで潰《つぶ》しちまったほうが日本のためだ!」
二人は悪態をついてから、後方に下がった。そしてそのまま出口へ向かい、会場を後にした。
モニタールームの竹中たちが緊張した場面は、これだけだった。
「ただの厭《いや》がらせで、頭取が危害を加えられたわけでもないし、この程度で済んでよしとしなければ」
竹中は永田を慰めたが、質疑はまだ終わったわけではなかった。
一般株主であらかじめ文書で質問内容を通告してきた者が二人存在し、議長が質問を許可し、担当副頭取と担当専務が回答した。一つは不良債権問題、一つは変額保険問題に関する質問だが、石山専務は本番で揚げ足を取られることはなかった。リハーサルの成果である。
「ほかにご質問はございませんか……。それでは議案の審議に入らせていただきます」
議長がこう宣言した瞬間、渉外班≠ヘ緊張感から解放される。
永田を除いて、モニタールームの調査役たちは笑顔で握手を交わし合った。
議案は「異議なし」で進行するに決まっているからだ。
協立銀行の株主総会は無事に終了した。所要時間は四十七分だった。
この夜七時に赤坂の割烹《かつぽう》大友≠フ一室で渉外班≠ヘ旨《うま》いビールと旨い酒を飲んだ。
「乾杯!」
「乾杯!」
渉外班≠ェ高級店で会席料理にありつけるのは年一度だけだ。そのために月三千円ずつ積み立てている。
乾杯のあとで、高木が言った。
「竹中さん、ご苦労さまでした。あなたにはもう二、三年渉外班≠ノいてもらいたかったが、初めから一年と決まってたみたいですねぇ」
「特命事項とかなんとか妙な入り方で、皆さんにご迷惑ばかりおかけしました。貴重な体験をさせていただき感謝してます」
「特命事項については、まだ時効にならないんですか」
野田の質問に、竹中は苦笑いを浮かべた。
「ええ、まだちょっと」
「MOF担の杉本さんと連絡を取ってたようですが、MOFになんか関係あるんですか」
野田は食い下がってきたが、こればかりは口が裂けても話せない。
「勘弁してください」
「村田さん、なんだか元気がないみたいですねぇ」
高木が斜《はす》向かいに座っている村田にビールの酌をしながら声をかけた。
「わたしに渉外班≠ェ務まるかどうか心配で心配で……」
「わたしでも務まったんですから、村田さんなら問題ないですよ」
竹中は、村田の右隣に座っていたので、村田の背中を左手で軽く叩《たた》いた。いい気なものだ、と思わぬでもない。渉外班≠ノ配属されたときのショックは筆舌には尽くし難い。
だが、村田の神経は相当ずぶとい。村田が心身をむしばまれる心配はゼロだ、と竹中は思う。一千万円≠フツケが回ってきたと考えれば気も軽かろう。
村田が躰《からだ》ごと竹中のほうへ向きを変えて、ささやくような小声で言った。
「その節はほんとうにありがとうございました。あのとき竹中さんに助けていただかなかったら、どうなっていたか……」
村田は正座して居ずまいを正し、竹中に向かって畳に手を突いてお辞儀をした。
「ご丁寧にどうも」
竹中は正座こそしなかったが、上体をひねって会釈を返した。
村田と竹中は単に挨拶を交わしているに過ぎない、としか他の者には見えなかったが、二人だけの秘密が隠されていた。村田は竹中に感謝せずにはいられなかったのだ。
「それにしても、わたしが竹中さんの後任に就くなんて夢にも思いませんでした。不思議な気がします」
膝《ひざ》をくずして、村田がしみじみとした口調で言った。
竹中が村田と自分のグラスにビールを注いだ。
「頑張ってください。乾杯!」
「ありがとうございます」
グラスを持ち上げた村田の眼がうるんでいた。
しょげかえっていた永田も元気を取り戻して、竹中に酌をしながら言った。
「今夜は竹中さん、村田さんの歓送迎会でもあるわけですからねぇ。こういうことはめったにありませんから、お二人ともツイてますよ。それに二人とも昇進ですよねぇ」
竹中の新しいポストは六月二十九日付で新設されたプロジェクト推進部副部長である。
本店の次長、副部長は支店の副支店長や本店の主任調査役よりも格上だから昇格には違いない。職位は副部長で昇格したが、身分は参事で変わらなかった。古参の副部長と新任の部長が副理事である。
「プロジェクト推進部なんて、誰が考えたのかネーミングは立派ですけど、債権の回収と不良債権の処理をやらされるんですよ。渉外班≠謔閧烽チと怖い人たちと向き合う必要があるかもしれない。渉外班≠ェ懐かしい、渉外班≠ノ戻りたいなんてことになるんじゃないか心配ですよ」
竹中はこのときは冗談のつもりだったが、プロジェクト推進部≠フ仕事の過酷さ、苛烈《かれつ》さぶりは想像を絶していた。
高木が竹中の酌を受けて、ビールをひと口飲んだ。
「MOF担の杉本君が企画部の次長になったが、これ以上行内を肩で風切って歩かれるのかと思うと、ちょっと厭《いや》ですねぇ。竹中さんは同期で仲がいいみたいじゃない」
杉本も六月二十九日付で企画部主任調査役から同次長に昇進した。
佐藤明夫を後追いしている。次のポストが頭取秘書役なら、まさに、次の次の次の頭取なんてこともあり得ないことではない。
竹中はかすかに眉《まゆ》をひそめた。
「入行店が札幌で同じだったんですけど、とくに仲がいいわけじゃないですよ。おっしゃるとおり、杉本の尊大な態度は気になります。同期の中でもあいつぐらい目立ちたがり屋はいません」
「杉本さんは佐藤秘書役、いやきょうから取締役秘書室長ですか、あの人の腰巾着《こしぎんちやく》ですよねぇ。というより、あの人の覚えめでたいっていうところですか」
永田が口を挟んだが、杉本の突出ぶりは渉外班≠ナも有名なのだ。
杉本に屈辱感をげっぷが出るほどたっぷり味わわされている竹中は、家来≠フ話が口を突いて出そうになったが、相槌《あいづち》を打つにとどめた。
新旧を含めて渉外班¥\一人の宴席なので、話題が分かれるのは当然だ。宇野和枝、梅津みどりの紅二点もむろん同席していた。
二人は総会会場受付を守備していた。
和枝は竹中の右隣に、そしてみどりは和枝の右隣に並んで座っている。
みどりが和枝に話しかけた。
「総会が揉《も》めなかったのは、村山内閣の誕生と関係あるのかしら」
「どうして」
「だって、どうしたってみんなの関心はそっちに向けられるんじゃないかしら」
竹中は、杉本なんかにかまけたくなかったので、紅二点の話題に加わった。
「総選挙で大敗した社会党の党首が総理大臣とは、ほんとびっくり仰天だけど、一年以上も前に正確に予測してた人がいるんですよ」
「えっ!」
「誰ですか」
和枝とみどりが同時にオクターブの高い声を発したので、みんなの眼がこっちに集まった。
「N新聞政治部の田勢康弘という編集委員です。総合誌の九三年六月号に小説野党連立政権誕生す≠黒河小太郎のペンネームで発表したんですが、作者が田勢康弘さんという人であることがわかりました」
竹中は、ひと月ほど前にこの話を児玉由紀夫から聞いたのである。児玉はかなり以前からこの事実を知っていた口ぶりだった。ただ児玉は田勢と面識はないらしい。
「凄《すご》い新聞記者がいるものですよねぇ」
「田勢康弘の名前はN新聞でよく見ますよ。竹中さんがおっしゃるとおり、たしかに凄い記者ですよねぇ」
高木も話題に参加した。グラスを乾して高木が話をつづけた。
「大蔵省はパニックでしょう。小沢一郎に深入りしたドン助≠ヘどうなっちゃうんですかねぇ」
「十年に一人の大物次官という触れ込みですから、もう一年続投するんでしょ。官僚の鉄面皮ぶりは政治家といい勝負ですよ。ただ、下野したときの自民党をさんざん袖《そで》にしたことのツケは大きいと思います。大蔵省に限らず霞が関全体がパニックはともかくショックを受けてることは間違いないでしょう。武村正義が大蔵大臣になって、ドン助≠ニどういう顔してコンビを組むんでしょうか」
「竹中さん、それは細川政権時代の武村官房長官と大蔵省がしっくりいっていなかったという意味ですか」
「ドン助@ヲいる大蔵省は武村を無視しきって、細川も武村と家庭内離婚みたいな関係だった、とMOF担から聞いた憶《おぼ》えがあります」
野田が話に割り込んだ。
「小沢一郎っていう人は、結局度量がないっていうか狭量というか、所詮《しよせん》リーダーシップのとれる政治家じゃなかったっていうことになりますよねぇ。社会党を怒らせ、さきがけを敵に回して、死んだと思った自民党の息を吹き返らせちゃったんですから」
竹中が口の中のトロの刺身を始末して言った。
「タナボタで政権に就いた村山内閣を自民党はしゃかりきになって支えるんでしょうが、ひとたび与党になって旨いめしを食ってしまった社会党は、この味が忘れられないわけです。そうなると社会党色はどんどん薄れていく。そのうち融けて消えちゃう可能性もあるんじゃないですか。ただ、経世会が後退したことはよかったと思うんです。金丸といい、竹下といい、橋本といい、小沢も同じなんでしょうけど、経世会はカネに穢《きたな》すぎますよ」
竹中は児玉から聞いたほめ殺し≠ノまつわる話を披瀝《ひれき》したくなったが、ビールと一緒にぐっと胸に呑《の》み込んだ。
少数与党に転落した羽田政権はわずか二カ月の短命内閣で終焉《しゆうえん》、平成六年六月二十九日に発足した村山内閣は一年半ほど命脈を保つことになる。
ひとしきり村山内閣の話題で持ち切りだったが、ビールから冷酒の八海山≠ノ変わったところで、二度目の乾杯になった。
ぐいのみで、ぐっとやった野田がしみじみとした口調で言った。
「美味《おい》しいねぇ。こんな美味しいお酒を飲めるのは今夜だけですねぇ。今夜ぐらいはぐっすり眠れるでしょう」
「ほんとにそうだ。旨いなあ」
高木の口吻《こうふん》にも実感がこもっていた。
六月二十九日の夜、竹中が帰宅したのは十一時近かった。
シャワーを浴びて、リビングでテレビを見ているとき、電話が鳴った。
「竹中です」
「おっ帰ってたか。いまハイヤーの中なんだ」
杉本だった。お互い一杯機嫌だったが、竹中のほうはすぐに不愉快になった。
「俺が言ったとおりになったろう。一年で渉外班≠卒業させたんだから、おまえも俺の力量を再認識したことだろうぜ」
「杉本人事部長心得≠ノお陰さまでとか、ありがとうって言いたいところだけど、プロジェクト推進部がどういうところか知ってるのか」
「気に入らんみたいな口ぶりだなあ」
「掃溜《はきだめ》か痰壺《たんつぼ》か知らないが、相当ひどい部らしいよ。渉外班≠フほうがまだましかもしれない」
「ふざけんなよ。部長は永井取締役だよ。四十人もの大部隊で文句を言えた義理か」
「副部長は七人もいる。横浜支店の岡崎も入ってるのには驚いたよ。ま、それだけ債権回収のプロジェクトが多いってことだろうが。おっしゃるとおり部長は取締役秘書室長だった永井さんだけど、秘書室時代の永井さんは影が薄かったねぇ」
「佐藤さんのパワーが絶大だったから、誰だって霞《かす》んじゃうさ」
「佐藤さんに弾き飛ばされたってわけか」
「肩の荷が降りて永井さんは張りきってるよ。プロジェクト推進部の副部長はやり甲斐《がい》のあるポストだと思うな。竹中をはじめ、けっこういいのを揃《そろ》えてるじゃないの」
杉本は企画部次長に昇格して喜色満面、余裕 綽々《しやくしやく》だった。
「きみのような一選抜は一人もいないよ。プロジェクト推進部の新設も佐藤さんの発案か」
「もちろんだ。人事部長、企画部長と周到な根回しをしてたよ。佐藤さんはあれでけっこう気を遣う人だからなあ」
「きみは企画部の次長になってもMOF担には変わりはないのかね」
「毎日MOFでロビイストをしなくてよくなったが、担当はMOFだけじゃない。企画部は経営全般を見る銀行の中枢部門なんだ。常務会の事務局は企画部だからな。常務会には俺も出席することになる。もちろん発言権はないけど」
「いよいよ次の次の次の頭取が見えてきたってわけか」
「まあな」
ハイヤーがトンネルの中に入ったのか、電話の雑音がひどくなったので、竹中は電話を切った。
二分後にふたたび杉本から電話がかかった。
「あのなあ、今夜仕入れた話だけど、MOFの銀行局長に西岡が就任するぞ。多分七月一日付だろう。いつだったか話に出たが、一年前の『SELECTION』の記事はドンピシャリだったわけだ。あの時点で、あそこまで書けるのは、ニュースソースがドン助≠ゥ、篠原主計局長以外に考えられないよ」
「ふうーん。ドン助℃≠ヘどうなるの」
「辞めるはずがねえよ。武村大蔵大臣でも居座るだろうな。相当ぎくしゃくすると思うけど」
「西岡さんは、住専問題を片づけるつもりだろうか」
「MOFの課長クラスの話では相当な決意らしいぞ。これ以上先送りはできないし、自分が銀行局長の時代に処理しなければ、MOFは世間から指弾される。ま、鼎《かなえ》の軽重を問われると考えてるんだろうねぇ。退路を断って臨むっていうんだから、現銀行局長の寺井とはえらい違いだよ」
「きみの取材力も相当なものだねぇ。ついでに訊《き》くけど、A新聞がスクープした大蔵・農水の密約≠ヘ事前に知ってたのか」
「もちろんだ。誰にも口外してないけど」
杉本は間髪を入れずに答えた。
予想したとおりだったので、竹中は噴き出したくなった。
親分の佐藤にも話さなかったのか、と訊きたいのを竹中は堪《こら》えた。
「世紀の大スクープだよねぇ。密約を永遠に埋もれさせずに世間一般に教えてくれたんだから、合併のスクープなんかよりよっぽど価値があるよ。それを事前に知っていたという杉本もたいしたもんだねぇ」
「近日中に一杯やろうや。じゃあな」
きまりが悪くなったわけでもなかろうが、杉本のほうから電話を切った。
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第九章 プロジェクト推進部
十三階北側の暗いフロアから七階南側の明るいフロアに変わって、圧迫感、閉塞《へいそく》感のようなものはなくなった。竹中は営業本部プロジェクト推進部に異動して、そんな感じを持ったが、仕事の内容は厳しかった。
不良債権および不良債権化しつつある利払いが六カ月以上とどこおっている延滞貸付金を含めた問題案件をプロジェクト推進部に集めて、債権を放棄するか、償却するか、その方法は破産処理にするのか等々、ぎりぎりの判断を求められるのだから、担当者は身の細る思いになって当然である。
支店レベルで貸し込みすぎて、動きがとれなくなっている案件も少なくない。
協立銀行が公表している不良債権は一兆二千億円だが、延滞利払いが六カ月以上で回収不能に陥っている総延滞貸付金は軽く三兆円を超えることが、プロジェクト推進部に移って、竹中は掌握できた。
プロジェクト推進部で処理する案件は大口債権に限られていたので、竹中が関与した川口正義や児玉由紀夫の分は含まれていなかった。
これら小口の不良債権や協立銀行直系のノンバンクなどの不良債権をカウントしたらどうなることか。
おそらく途方もない数字に膨らむだろう。ざっと五兆円というところだろうか。
竹中班≠ヘ、課長五名、女子事務員一名の七名で構成されていたが、課長のうち三名は対外的な肩書でインフレ課長だ。実質は課長代理である。部長の永井からアトランダムに与えられた案件の中で、最も難しそうな株式会社キャッツアイと協産ファイナンスは竹中自身で担当することにした。
課長は中林信三、遠藤秀一、実質課長代理は田辺誠、木下修、奥村昇。課長二人は昭和五十三年と五十四年に入行した。三人の課長代理は五十年代後半に入行した。五人とも一流大学を出ている。部員の全員が個別に複数の案件を抱えさせられるが、竹中は管理者でもあるから、仕事量は多かった。事務の女子行員は花田美佐子で二十六歳。
すべての不良債権に暴力団、右翼、総会屋、金融ブローカーなどが絡むとは限らないが、絡むケースのほうが圧倒的に多い。
竹中は七月五日火曜日の午後二時に新丸ビルの児玉事務所へ出向いた。
もちろん電話でアポを取ってのことだ。職掌柄なにかと児玉を頼りにする場面が生じそうな予感があったので、児玉に新任の挨拶《あいさつ》をしておこうと思ったのだ。
この日、東京の最高気温は摂氏三十五度三分、ずっと真夏日が続いていたが、猛烈な酷暑の中を協銀本店ビルから新丸ビルまでわずかな距離を歩いただけで、竹中は汗でぐっしょりになった。
背負《しよ》ってきた背広がべたべたしていたが、背広に腕を通し、ネクタイのゆるみも整えて、竹中は事務所のドアをノックした。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。お待ちしてました」
女性事務員に竹中は児玉の執務室へ案内された。
「この暑いときに、よく来たなあ」
「とんでもない。お忙しいところを申し訳ありません」
「あしたから当分夏休みを取ることにした。いいタイミングだったな。箱根の強羅《ごうら》に小屋があるんだ。東京よりはいくらかましだろう。カミさんと二人だけだが、料理人の管理人がおるから、めしの心配はないんだ。よかったら遊びにこんか。家庭マージャンでもつきあってくれよ」
「ありがとうございます」
「背広を脱いだらいいな」
ソファをすすめながら児玉が言った。
児玉はワイシャツ姿だった。
「失礼します」
竹中は着たばかりの背広を脱いで、ソファに置いた。
「ところで、きょうはなんだ。表敬訪問だと秘書に言ったらしいが」
「渉外班≠ゥら本店の営業にポストが替わりましたので、ご挨拶に参上しました」
竹中は新しい名刺をセンターテーブルに置いた。
「営業本部プロジェクト推進部=Bふうーん。不良債権の処理班だな。楽はできんなあ」
児玉はさすがに肩書だけで、竹中の仕事の内容を言い当てた。
「先生のおっしゃるとおりです。今後、先生にお力添えをお願いすることもあろうかと存じます。くれぐれもよろしくお願いします」
「うん。わしの出番があるかもなあ。きみに頼まれたらいやとは言えんだろう。土建屋、不動産屋関係に限らず、わしのテリトリーは広いからな。具体的な案件でなにかあるのか」
竹中は、協産ファイナンスの名前を出そうかと一瞬迷ったが、キャッツアイを先に片づけたかったので、首を左右に振った。
「具体的なテーマはこれからですが、推進部は四十人の大部隊ですから、なにが飛び出してくるかわかりません」
「いちばん始末が悪いのはノンバンクとゼネコンだな。ゼネコンの場合、大手五社は、ま、体力もあるし受注残もそこそこあるが、それでもみんなアメリカの不動産あさりで痛い目に遭ってるから、その清算、整理で大変だよ。中堅以下は軒並み銀行管理会社みたいなもんだ。銀行が支えきれなくなったらお手上げだな」
「ゼネコンは大手も中堅もバブル期にゴルフ場の開発に狂奔しました。そのほとんどが工事の途中で放り出されたままになってます。このロスまでは到底銀行は支えられないと思いますけど」
「施工主が工事代を支払えないから工事をストップせざるを得ない。バブル以前もバブル期も、ゴルフ場は錬金術の最たるものだった。会員権が一千万円なら、一千万円札を印刷してるようなものだったが、ただでさえ飽和状態なのにこれ以上ゴルフ場を造成して、どうするってんだ。会員を五万人も集めた阿呆《あほう》がいるが、あの茨城のゴルフ場は一応完成したから、それでもましなほうかもなあ」
「ゴルフ場についていえば、造成地の払い下げを認めた自治体に重大な判断ミスがあると思います」
「そのとおりだ。いまゼネコンの世界で、ひでえことになってるのは、下請けいじめだ。下請けは一次も二次も、しぼられ泣かされてるよ。首を括《くく》ったやつもいるし、行方をくらました者もいる。悲惨なことになってるよ。ゼネコンのほうは無い袖《そで》は振れないってひらき直ってるが、暴力団にはけっこうカネが流れてる。このカネを止めたら最後、殺されちゃうから、銀行もゼネコンも暴力団、企業舎弟は優先せんわけにはいかんのだ。ピストルや鉄砲持ってるやつには勝てんわなあ」
残りの冷たい麦茶を飲み乾して、竹中が言った。
「ゼネコン関係は、いくらなんでも推進部では扱いきれません。不動産までですよ。ゼネコンを支えるのか、突き放すのかを決めるのは、トップの高度な政治判断だと思います」
「ゼネコンと不可分の関係にありながら、解体屋と産業廃棄物処理業者は有卦《うけ》に入ってるよ。この世界は暴力団の専売特許で常人の考えの及ぶところではない。手出しできない仕組みになってるんだ。番外地っていうのか、無法地帯っていうのか」
「解体屋のそんな感じはわかります。虎ノ門支店で、小さな建設会社の融資を担当したことがあるんですが、旧《ふる》い小さなビルの解体経費がべらぼうだったとこぼしていたのを聞いたことがあります。一応、解体経費はどのくらいか見積もりを出しますが、なんだかんだと尤《もつと》もらしいことを言って二倍以上に膨らんだということです。解体のことは解体屋以外に踏み込めない世界ですから、反論しようがない、言いなりになるしかないんでしょうねぇ」
「よく知ってるじゃないか。そのとおりだよ。これがでかいビルになったらどうなると思う。地上げによって、まずサラ地にするためのカネがすぐに何億円になってしまうんだ。ウラの社会は横でつながってる者たちが多いので、数グループが首を突っ込んでくる。こいつらの介入料がまた莫迦《ばか》にならんのだ」
「農業などの一次産業や、鉄鋼や化学など、素材産業の二次産業や自動車や家電の組み立て産業にヤクザが介在してるとは思えませんが……。いや、産業廃棄物があるから、工場ベースではあり得ますねぇ。いずこもヤクザ社会に汚染されて身動きが取れなくなってるような気がします。いつだったか先生がおっしゃってましたが、ほめ殺し≠フ話は総毛立つような怖い話です。官僚もヤクザと無関係ではないかもしれません」
「ほめ殺し≠フ話は忘れろよ。竹下の話をきみにしたのは迂闊《うかつ》だった」
児玉の眼が光を放ったが、一瞬のことですぐに破顔した。
「プロジェクト推進部できみが消されることはないと思うが、なにかあったら言ってきなさい。大抵のことならお役に立てるだろう。協立銀行に昔ずいぶん助けてもらってるからなあ。昭和五十七年の商法改正にわれわれは大恐慌をきたした。あのときは息の根を止められると思ったものだ。法律が施行される直前まで、前倒し、前倒しで、相当な利益供与をしてくれたのは当時管理部門の担当常務だった鈴木君と秘書役の山田君だよ。いちばん気前よかったのは協銀だったなあ」
児玉と話していると時間の経つのを忘れる。
警視庁四課のブラックリストに載っている元大物総会屋だが、案外警察にもコネがあるのかもしれない。
株式会社キャッツアイは、産興信用金庫が極東債券信用銀行(極債銀)、協立銀行などの支援を得て、平成二年(一九九〇年)四月に設立されたインベストメント(投資)業務を主体とした金融会社である。
当時の産興信金理事長は、極債銀のOB、志木勉で、志木が極債銀にキャッツアイの設立計画を持ちかけたのは、バブル経済に陰りが見え始めた平成二年二月のことだ。
志木は大蔵省関東財務局理財部に働きかけて、二カ月後にはキャッツアイの設立に漕《こ》ぎつけた。
関東財務局理財部のバックアップなくしてこれほどのスピード設立は考えにくい。
資本金(払い込み)は五億円。出資比率は産興信金一〇パーセント、極債銀、協銀など大手五行各五パーセント、証券、生損保なども出資に応じた。
平成二年三月に、産興信金の志木理事長名で協銀の鈴木頭取(当時)宛《あて》に寄せられた「インベストメント業務を主体とした新会社」の設立について≠ニ題するレターが、いま、竹中の手元にある。
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拝啓 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
平素は格別のご高配を賜り有り難く厚く御礼申し上げます。
さて、この度、産興信用金庫では三年後の創立七十五周年に向け、金融自由化の新時代にあって従来の信金イメージを払拭《ふつしよく》した都市型総合金融サービス機能をもつ地域金融機関をめざして、このほど三か年中期計画を策定致しました。
今般計画致しました新会社は産興グループが飛躍するための核となる機能をもつものと位置づけておりますので、当金庫と一体であると考えて運営する所存でございます。
つきましては誠に恐縮に存じますが、貴行におかれましても、出資会社としてのご参加など格別のご支援、ご協力を賜りたく、ご配慮のほどよろしくお願い申し上げます。
[#地付き]敬具
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そして、新会社の概要などが付されているが、本社所在地は千代田区九段、業務内容は@ベンチャービジネスに対する投融資業、A知的所有権等の金融活性化に係る業務、B経営相談業務、C金銭貸付業および信用保証業務、D金銭債権および手形の割引・買取ならびに管理業務、Eリース業、F有価証券および譲渡性預金の保有ならびに売買業務、G投資顧問業務、H不動産の売買、仲介、管理および利用業務、I前各号に付帯または関連する一切の業務、となっている。
信用金庫業界、初の総合金融子会社≠ニマスコミが囃《はや》したほど立派な業務内容である。
志木は、記者会見で「金融のコンビニエンスストアをつくる。六年後には上場を狙《ねら》う」と胸を張った。
その上、大蔵省関東財務局のお墨付きとくれば、大手銀行が出資をしよう、融資もしよう、となるのは必定だ。
協銀は、極債銀の九十億円に次ぐ七十億円をキャッツアイに融資した。
当然のことながら、常務会の承認案件であり、鈴木頭取が決裁した。
キャッツアイが銀行、証券、生損保などから集めた資金は三百六十億円に達した。
実態のないペーパーカンパニーであり、総合金融業も絵に画《か》いた餅《もち》に過ぎなかったことは、ほどなく明らかになっていく。
キャッツアイの設立時のことを、竹中はよく憶《おぼ》えている。広報部の調査役だったからだ。
だからこそ、この案件を担当したとも言える。
『帝都経済』の敏腕記者、吉田修平が広報部に竹中を訪ねてきたのは、平成二年十二月上旬のことだ。
『帝都経済』はいかがわしい経済誌だが、吉田は童顔に似合わず、丁寧な口調ではっきりものを言う男だったから、竹中は好感をもっていた。
「協銀さんはキャッツアイに融資したんですか」
「はい。もう旧聞に属する話ですよ」
「やっぱりねぇ。出資した銀行や生損保は軒並みやられてますよ。旧相和銀行生き残り組の中でブラック人脈の代表格と目されている持丸龍介がキャッツアイに深入りしています。それとファイナンスタイムス社社長の大屋雄一、ご存じなんでしょ。札付きのワルですよねぇ。志木も相当なワルですが、要するにそういう連中がキャッツアイなんて妙ちくりんなインベストメント会社をつくって、甘い汁を吸おうっていうことですよ」
吉田の話を聞いて、竹中は動顛《どうてん》した。
「仮にも大蔵省関東財務局が裏書きしてる会社ですよ。にわかには信じられませんねぇ」
辛うじて言い返したものの、竹中は不安になった。吉田は弱小経済誌の中ではスクープ記者として聞こえていたから、いい加減な話とは思えない。
「関東財務局の理財部長だった松野晴彦と次長だった村中良隆がキャッツアイにたかり放題たかってるっていう噂《うわさ》もあります。彼らは、ポストは替わりましたけど、MOFのキャリアも落ちたもんですよ」
「吉田さん、まさか書くわけじゃないんでしょ。一流経済誌の『帝都経済』の名折れですよ。ルーマ(噂)に過ぎないかもしれませんし」
一流経済誌などと歯の浮くようなお世辞を言われて、吉田は逆に顔をしかめた。
「そんな皮肉を言わないでくださいよ。もっともウチの主幹は協銀さんの頭取に、けっこう親しくしていただいてるようですけど」
「…………」
「ウラが取れたら書くつもりですが、みんな逃げ回って、取材拒否ですから、どうなることやら。ところで協銀さんはキャッツアイにいくら融資したんですか」
「さあ、五億かそこらじゃないんですか。よく知りません」
この時点で、竹中は融資額をつかんではいなかった。十億円か二十億円ぐらいかなと踏んでいたが、それをさらに縮小して答えた。
吉田は何度も首をひねった。
「もっと多いと思いますよ。極債銀は一説によると百億円と言われてます」
「そんなにですか。ちょっと疑問符をつけたくなりますけど、ま、極債銀は産興信金の親会社みたいなものですから、あり得るんですかねぇ」
「とにかくご注意申し上げておきますが、キャッツアイなんかに深入りしないほうがいいんじゃないですか」
「ご意見は承りました。必ず上に伝えておきます」
竹中は吉田の話を広報部長に伝えたが、業務部門、営業部門に届いたのかどうか。
吉田修平は平成四年三月に『帝都経済』の記者を辞めた。
『週刊潮流』の記者としてスカウトされた、と協銀虎ノ門支店副支店長の竹中に電話をかけてきたので、竹中は一度夕食を誘った。
烏森の焼鳥屋でビールを飲みながら聞いた吉田の話も竹中は忘れられない。
「キャッツアイはいよいよひどいことになってますよ」
「でも吉田さんは『帝都経済』で書かなかったじゃないですか」
「書けるわけないですよ。こともあろうにスギリョー≠ヘ持丸龍介の応援団長やって、去年の秋から今年にかけてゴルフ会員権を売りまくった人ですもの。応援団長っていうより、利害が一致して、お互い大|儲《もう》けしたっていう話ですけど」
「どういうことですか」
「協銀さんも、二口買わされたはずですけど」
「そんな話知りませんよ」
持丸龍介は、西伊豆高原クラブの創業社長である。ゴルフ場をメインに温泉付きのホテルとコテージ、プール、テニスコートなどを備えたリゾート・クラブだが、鬼のスギリョー≠アと杉野良治は会員権を三千八百万円で二百口も企業に押し売りして、一口五百万円、十億円のコミッションフィーをせしめた。
杉野は永年親交のあるコスモ銀行名誉会長の大山三郎をかき口説いて代表理事に担ぎ出し、名だたる財界の大物たちで西伊豆高原クラブに理事会を組織し、理事会を看板にして、企業に高額会員権を強要したのだ。
その後、西伊豆高原クラブの会員権は暴落し、理事会も世間体を憚《はばか》って解散してしまったという。ほとんど詐欺と変わるところがない。
スギリョー≠フあくどさは、音に聞こえたワルの持丸の上前をはねたほどだから、誰にも真似はできない。
「そんなことがあったとは知りませんでした。それがキャッツアイの話とどう結びつくんですか」
「西伊豆高原クラブに融資した百五億円がコゲつきそうなんですよ」
「高額会員権で大儲けしたという話と矛盾しませんか」
「それは事実ですけど、持丸はあっちこっちでリゾートやゴルフ場の開発を進めてたんです。西伊豆高原クラブに融資された資金が流用されてたわけでしょう。キャッツアイから融資された百五億円は、極債銀の飛ばし≠フ可能性もある、と産興信金でアンチ志木派の幹部が話してました」
「つまり不良債権の飛ばし≠ナすか。極債銀が西伊豆高原クラブに融資してた分が、そっくりキャッツアイに移動したというわけですね」
「西伊豆高原クラブは事実上、死に体で、利払いにもこと欠き、利払いのために産興信金が不正融資を繰り返している。このままではキャッツアイも産興信金も遠からず倒産するんじゃないですか。協銀がキャッツアイにいくら融資したか知りませんが、ドブに捨てたと考えたほうがよさそうですねぇ」
あれから二年四カ月経つが、キャッツアイ案件をよもや俺が担当するとは――。竹中は妙なめぐり合わせだと思う反面、七十億円という巨額な融資額をたった七十億円と頭の隅で考えている自分に腹が立った。
バブルの後遺症としか言いようがない。頭の中が狂っているのだ。
「こんなものが頭取に宛《あ》てて送り付けられてきたが、怪文書の類《たぐい》だけど、協銀のキャッツアイ向け貸出額は事実だ。産興信金関係者の内部告発なんだろうが、読んだら意見を聞かせてくれないか」
永井が竹中のデスクに文書を置いて、個室に戻った。七月八日金曜日の夕刻のことだ。
竹中はワープロで打ち出した週刊誌大二ページの文書に眼を走らせた。
告 発
大蔵省関東財務局松野晴彦、同村中良隆、大屋雄一(ファイナンスタイムス社)、産興信用金庫志木勉等は平成二年四月に株式会社キャッツアイを設立した。
この会社は何の実績もないペーパーカンパニーであるが、関東財務局と産興信金の信用を巧みに利用し三百六十億円を集めた。しかし当初から返済する考えなど全くなかった。したがって全額焦げ付いている。
[#ここから1字下げ]
主要資金提供先=極東債券信用銀行九十億円、協立銀行七十億円、芙蓉《ふよう》信託銀行五十億円、ヤマト銀行、東邦長期信用銀行、日本産業銀行、東京信託銀行、東都銀行、住之江火災、帝都生命、芙蓉火災各十億円。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
同資金の主な不正流用先は次の通りである。
一、株式会社西伊豆高原クラブ=百五億円不正融資した。この会社は債務超過の実質倒産会社である。代表者は旧相和銀行のブラック人脈の一人持丸龍介。この資金は極債銀の不良債権の飛ばしとされ、この処理に当たって三億円がリベートとして関係者に流れている。しかも利払いがストップすると不正が表面化するため、産興信金は名義借り不正貸出五億四千万円を実行し、西伊豆高原クラブの利息に充当、恰《あたか》も同社が正常に運営されているかのように不正操作を行っている。
二、株式会社ファイアットファイナンス=八十八億円流用。同社も債務超過、倒産状態で返済の見込みはない。代表者木原力はジャバラミシン株買い占めの一人。
三、第一エンジニアリングシステム株式会社=七十七億円を流用している。大赤字で実質倒産会社。
四、ナショナルエステート株式会社=五十八億円。回収は不可能。
五、株式会社シンコー不動産=三十九億円を不正融資、実質倒産会社で回収不可能。
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キャッツアイの設立に深く関与した大屋は産興信金から数億円を取得している。また関東財務局の松野、村中は浅草のみやこどり=A赤坂の千代桜=A銀座の蘭≠ネどの高級料亭、高級クラブで数千万円を費消している。
竹中は一読して、ほぼ事実ではないかと思った。
取締役プロジェクト推進部長室のドアは、会議や接客中以外は開放されている。
竹中は告発文書を手にして、席を立った。そして、開いているドアをノックして、永井が書類から面をあげてから、入室した。
永井は、取締役秘書室長から横すべりした。秘書室長時代は後輩の佐藤秘書役に振り回されて、精神衛生上好ましからぬ状態だったと思える。佐藤のプレッシャーから解放されて、さぞやホッとしているに違いない。陽性な性格で部下にも気を遣うので、人望があった。面高で柔和な感じを与える。
「座ってくれ」
「失礼します」
竹中はドアを閉め、永井がデスクを離れてソファに腰をおろしてから、向かい合った。
「きょう午前中に、産興信金の関野という担当理事と会ってきました。前任者はキャッツアイの設立に関与したが、自分はまったくタッチしていないので、事実関係はわからないが、産興信金に責任はないと思うって逃げを打ってました」
永井がセンターテーブルの文書を指差した。
「ここに書かれてることが事実とすれば、キャッツアイの大口融資先は、いずれもいかがわしいものばかりだねぇ」
「ええ。わたしが広報部にいるときに、協銀はキャッツアイに出資し、融資もしたのですが、七十億円も貸し込んでるとは知りませんでした。部長はご存じでしたか」
「鈴木頭取に、MOFの高官から直接電話がかかってきたんじゃなかったかな」
「この告発文書に名前が出ている関東財務局の人ですか」
「いや、本省のもっと上の人だったと思うが。詳しいことは佐藤君が知ってるよ。頭取がらみの話は彼が一手に扱ってて、相談を受けたこともなかったからねぇ」
永井はしかめっ面で話をつづけた。
「担当常務と、副頭取の根回しも佐藤君がやってたよ。常務会で、筋のいい案件だと頭取が発言し、誰も反対する人はいなかった」
「広報部時代、キャッツアイは詐欺みたいなものだ、という意味のことをあるジャーナリストから聞いた覚えがあります。そのときはもちろん融資実行後でしたが、西伊豆高原クラブに対する巨額融資が極債銀の不良債権の飛ばし≠セったとすれば、極債銀と産興信金が仕組んでそれをMOFが支援したことになりますねぇ」
「しかし、初めから詐欺を企《たくら》んだのだろうか。極債銀もキャッツアイに九十億円融資しているわけだし」
「極債銀になんらかの複雑な事情があって操作する必要が生じたのかもしれませんが、キャッツアイの融資先が問題企業ばかりであることを考えると、キャッツアイは極債銀と産興信金、それにMOFを巻き込んだ悪質なノンバンクということになりませんか。つまり初めに飛ばし≠りき、問題融資先ありきだったと思うんです。それを当時の頭取が筋がいい案件なんて本気で思ってたとしたら、理解に苦しみます」
「まさか、キャッツアイの融資先がわかってたわけじゃないだろう。MOFの口車に乗せられたっていうことかねぇ。それとキャッツアイが設立当初からペーパーカンパニーだったのかどうか」
「その点はもう少し調べてみます。極債銀の話も聞いてみたいし、MOFの責任も追及しないことには、引き下がれませんよ」
「大屋雄一や持丸龍介の背後に暴力団が控えていると考えなければいけないと思うんだ。あんまり無理をしないように」
「しかし犯罪行為ならば刑事罰で処置すべきですよ。あるいは七十億円のうち少しでも回収するために、キャッツアイを破産処理するしかないと思います」
「だが協銀だけで決められない。とりあえず、極債銀の意向をさぐってみたらどうだ」
「はい。やってみます」
竹中は、極債銀が不良債権なり不良債権化しつつある問題案件を営業十部に集中していることを、産興信金の理事から聞きつけていた。
しかも同行営業十部は、昨年四月に新設されたという。協立銀行のプロジェクト推進部に匹敵するが、極債銀のほうが一年以上も対応が早かったことになる。
営業十部の部長は山崎正博という男だ。
自席に戻って電話でアポイントメントを取ろうと考え、極債銀に電話をかけたが、山崎は席を外していた。
「キャッツアイの件でご相談したいことがあるんですが、担当の副部長さんはいらっしゃいますか」
電話に出た山崎付の女性事務員は、「少々お待ちください」と言って、メロディに変わった。同じメロディを三分ほど聞かされてやっと男性の声になった。
「もしもし、お待たせしました。副部長の酒井と言います。キャッツアイを担当してますが、なにか……」
「協立銀行プロジェクト推進部副部長の竹中です。キャッツアイの件で一度ご意見を承りたいと存じまして」
「承知しました。来週の月、火は立て込んでますんで、水曜日の午後でしたら時間が取れますが」
「けっこうです。十三日水曜日の午後二時にお伺いします」
「わたしのほうからお訪ねしましょうか」
「いや、わたしが伺わせていただきます」
「それではそういうことでよろしくお願いします」
電話を切ってから、竹中は企画部次長の杉本に行内電話をかけた。
杉本は在席していた。
「十分ほど話せないかなあ」
「相当忙しいが、ま、いいだろう。すぐ来てくれ」
企画部のフロアは十九階の南側にある。
応接室のソファで、杉本はふんぞり返って竹中の話を聞いていた。
「キャッツアイという怪しげな投資会社に、協銀は七十億円も貸し込んでいる。キャッツアイは平成二年四月に設立されたが、設立に深く関与したのが関東財務局の松野と村中と言われている。この二人はいまどこにいるのかねぇ」
「松野は昭和四十二年、村中は四十六年の入省だが、二人とも日本にいないよ。松野はアメリカ、村中はイギリスにいる。二人とも外務省に出向して大使館の公使をしてるよ。問題児を海外に脱出させるのはMOFの常套《じようとう》手段なんだ。たとえばの話、ノーパンシャブシャブに入り浸って、写真誌に撮られた山岸という五十五年入省のキャリアは、ハーバード大学の客員研究員で留学中だ。山岸はできる男で田丸が可愛《かわい》がってた。それをやっかんだ山岸の同期のやつが、怪文書を写真誌に送り付けたんだ」
「怪文書は通産省だけじゃないのかね」
「官界も政界並みにドロドロしてきたなあ。通産省が産政局長の追放劇で怪文書の先鞭《せんべん》をつけたわけよ。田丸は主計局の総務課長で次官候補の実力者だから、田丸に目をかけられた山岸が同期からやっかまれるのは仕方がないかもなあ。五十五年組は二十三人いるが、キャリアの出世レースも熾烈《しれつ》だから、足の引っ張り合いをやるわけよ。俺は田丸と相当親しいから、あいつに次官になってもらいたいと願ってるが、つきあいがよくて遊び人のあの田丸が、山岸のことを脇《わき》が甘いって心配してたくらいだから、山岸が羽目をはずしすぎたことはたしかだな。宴会で裸踊りをやっちゃうようなくだけたやつでねぇ」
ノーパンシャブシャブの光景が眼に浮かんだ。竹中は頭をひと振りして、話題を元へ戻した。
「キャッツアイに松野と村中が関与したことを杉本は知ってたわけ」
「ああ。佐藤さんから聞いた覚えがある」
「当時の鈴木頭取にMOFの高官から電話でキャッツアイの件をよろしくみたいなことを言ってきたらしいねぇ」
「それは聞いてないぞ。ためにする話なんじゃないのか」
「…………」
永井の名前は出せないが、永井が作り話をするとは考えにくい。
「バブル期はいろいろあったからなあ。ほじくり出したらきりがないだろうや」
「ほじくるのがプロジェクト推進部の仕事だよ。ワシントンDCやロンドンに行くわけにもいかんし、MOFの責任を追及することは無理かねぇ」
「松野、村中が日本にいても無理だな。MOFのキャリアが関与しましたなんて認めるはずがないし、おそらくその証拠もないだろう。おまえ、キャッツアイはへたに突っつかないほうがいいかもな」
「そうはいかないよ。極債銀と産興信金の犯罪行為は指弾されて当然だろう。松野と村中のことが聞きたかったんだが、お手間を取らせて悪かった」
竹中がソファから腰をあげた。
七月十三日水曜日の午後二時に、竹中は紀尾井町の極債銀本店ビルに、営業十部副部長の酒井を訪ねた。
営業本部営業十部副部長≠ニ営業本部プロジェクト推進部副部長≠フ肩書のある名刺を交換して、応接室のソファに着席するなり、竹中は本題に入った。
「さっそくですが、極債銀さんと産興信金さんは親密な関係にあるようですねぇ。実質的には親会社と思いますが、だとすればキャッツアイは孫会社ということになるんでしょうか」
酒井実はメタルフレームの眼鏡を両手でずり上げて、薄く笑った。
「キャッツアイの融資先について当行に責任はないのか、とおっしゃりたいわけですね」
「はい。キャッツアイは極債銀さんと産興信金の肝煎《きもい》りで設立されたのだと思いますし、産興信金も、キャッツアイも、極債銀さんのOBがトップです。客観的に見て、そう言えると思いますが。西伊豆高原クラブの場合は、極債銀さんの不良債権の飛ばし≠ニする説もあります」
「産興信金の理事長とキャッツアイの社長が当行のOBであることは認めます。しかし、ただ単にそれだけのことで、当行を辞めた人のことまで当行が責任をもたなければならないいわれはないと思いますよ。当行に責任はない、とはっきり申し上げておきます」
「道義的責任もお認めにならないんですか」
「道義的責任ねぇ」
酒井はつぶやくように言って、天井を仰いだが、相変わらず薄ら笑いを浮かべていた。
「ゼロではないかもしれませんけど、まあ、わたしはさほど深刻に考えたことはありません。ただし、当行のトップがどう考えてるかはわかりませんけど。それと西伊豆高原クラブの不良債権の飛ばし≠フ件ですが、各方面にばらまかれている怪文書にはそんなことが書いてありましたが、それを言うならナショナルエステートはどうなるんでしょうか」
「はあ。どういうことですか」
「ご存じないんですかあ。ナショナルエステートは協銀さんの不良債権の飛ばし≠ナしょ。その点が怪文書から脱落してたので、あの怪文書に協銀さんがかかわってるんじゃないかと勘繰ったくらいです。ま、これは冗談ですけど」
竹中は内心うろたえた。ナショナルエステートが協銀の取引先とは知っていたが、飛ばし≠ェ事実なら、不良債権のボリュームはともかく、西伊豆高原クラブで四の五の言えた義理か、と思われても仕方がない。また、そんなことも知らないで、プロジェクト推進部の副部長が務まるのか、と酒井の顔に書いてあるような気がして、思わず眼を伏せていた。
「百五億円と五十八億じゃ比較になりませんよ。問題は極債銀さんがキャッツアイの処理の仕方をどう考えてるかです」
「キャッツアイをどうするかは、産興信金の考えることで、当行がリーダーシップをとれるものでもないし、そんなつもりもありません。当行も協銀さんも同じ被害者ですよ。産興信金の傷み方も想像以上のものがあるようです。第二の東西信金になる恐れなしとしません。小野ひろ事件で東西信金が解体されたときの協銀さんの対応ぶりはお見事でしたねぇ。関西の信金関係者は協銀さんにしてやられたと、協銀さんを恨んでるようですが、そう言えば小野ひろに偽造預金証書の知恵をつけた東西信金の支店長は協銀のOBでしたよねぇ」
厭《いや》みな言い方である。しかも酒井は終始薄ら笑いを消さなかった。
「当然お読みになってると思いますが、コピーしときましたので差し上げます。どうぞもう一度お読みになってください。協銀さんのしたたかさぶりがよくわかりますよ」
酒井は用意していた『財政金融事情』なる専門誌のコピーを竹中に手渡して、腰を浮かした。
竹中は打ちのめされたような思いで極債銀を後にした。酒井に役者の違いを見せつけられたような気さえしてくる。
竹中は帰りのタクシーの中で、酒井にもらった専門誌のコピーを読んだ。むろん、かつて読んだ記憶がある。
特集 東西信用金庫の解体・合併
産銀、協立銀行の責任のとり方
社会的責任と道義的責任
大きな見出しにゴチック体の前文が続く。
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日本産業銀行の五〇〇億円の支援に対して、協立銀行は買収費用一五〇億円の負担――東西信用金庫の支援では、合併の一方の当事者である協立銀行の負担が、合併の当事者ではない産銀よりも小さいという異例の救済劇となった。両行はどのような経緯で東西信金支援にかかわり、どう負担のバランスがとられたのか。
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本文は以下のとおりだ。
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次元が違う
今回明らかになった東西信金救済構想で金融界やマスコミが大きな関心を寄せたのは、関係当事者の対応だ。とりわけ注目が集まったのは、産銀と協立の責任のとり方だった。
ある大手銀行の企画担当者は「協立の対応は株式会社として立派ではあるが、世間の常識からすれば『実質負担なし』はどんなものか」と協立の対応に疑問を投げかける。
「協立の負担が足りない」とする意見の根拠は、協立が東西信金に対して多数の役職員を送り出していることなどから、東西信金への経営責任が問われて然るべきだ、というものだ。直接の経営責任がないとしても、偽造預金証書発行に直接関与した支店長が協立出身であったことから、協立の道義的責任が「実質負担なし」ですまされるのか、という声も金融界には少なくない。
一方、「産銀がもっと負担するべきではなかったか」という声もある。こちらの意見は、今回の救済がそもそも小野ひろの事件に端を発することに重きをおいた考え方だ。大阪の金融界や東西信金の顧客の間では、偽造預金証書事件の印象が強いためか産銀の対応に不満を示す向きが少なくない。
しかし、当事者の両行ではこうした外野の声≠ノ迷惑顔。「そもそも、産銀と協立の負担の多寡を比較して論ずること自体がおかしい。今回の救済について、産銀、協立では、それぞれかかわり方が異なっており、違う次元の問題だ」――今回の東西信金への支援決定について、両行は口をそろえて、それぞれの事情で支援を決定したことを強調する。「産銀に比べ協立の負担が少ないのではないか」などといったマスコミの論調に対し、不快感すら示している。
経営責任はない
今回の東西信金の救済策において産銀の負担は協立のそれを大きく上回る。東西信用金庫の偽造預金証書を担保とする貸付債権残高の七〇%を放棄、さらに、協立が立て替えることになる八〇〇億円の同信金の負債のうち五〇〇億円を負担する。五〇〇億円の具体的な負担方法は今後詰められることになるが、低利融資などの方法で一〇年間にわたって実質五〇〇億円の支援が行なわれることが決定している。これに対して協立の合併吸収費用は約一五〇億円と見積もられている。大阪府下の信用金庫に譲渡した残りの五店舗と数十人というスリムになった東西信金を買収する費用である。
こうした一見アンバランスに映る負担は、偽造預金証書事件に端を発した今回の問題への両行のかかわり方の違いが反映されている。
産銀の今回の支援は、小野ひろ事件に対する「社会的責任」(村西常務)から決定されたものだ。東西信金の事実上の解体にまで発展した今回の問題は、一個人の架空預金証書偽造事件にその源をたどることができる。小野ひろに対し、産銀は多額の金融債を販売、それを担保に融資するというかかわりをもった。このこと自体法的な責任があるわけではないが、「救済に協力することが信用回復に寄与するものと考えて支援することを決定した」(村西常務)。民間金融機関として、どこまで支援すべきかという議論もあったが、黒川頭取の国会への参考人招致にまで至った社会的責任の追及に対し、「具体的な行動を示す」(同)ことで信用回復の一助としたいという考えが働いたようだ。
一方、協立では、今回の問題に対して、「深いかかわりはない」(佐野専務)との意識があった。小野ひろ事件に対しては直接関与していないからだ。同行には、偽造預金証書を担保に融資をした銀行やノンバンクとは、今回の問題に対するかかわり方が根本的に違うとの思いがあったわけだ。東西信金に役職員を送り出していること、事件の舞台となった支店の支店長が協立のOBであったことなどから、同行に対して道義的責任を問う声もあるが、これに対し同行は「資本関係はなく東西信金に対する経営責任はまったくない」と明言、早くから「子会社を救済する感覚では支援しない」ことを明らかにしていた。
事実、協立からの東西信金への人材派遣は、同信金の要請に基づく再就職であり、経営テコ入れのための業務出向とは異なっている。
したがって、最終的に救済機関とはなったものの、同行には今回の問題の当事者であるという意識はなかった。いわば、預金保険機構の資金援助の受け皿として名前を貸しただけの合併となった。
つまり、小野ひろ事件の社会的責任から支援を決定したのが産銀であり、あくまでも信用秩序の維持の観点から協力することにしたのが協立である。両行がそれぞれの事情から今回の救済で担った役割に対する評価は「これから世間が下すこと」(金融筋)になろう。
社会的責任果たす
[#地付き]本産業銀行常務取締役  村西慎平
東西信用金庫支援の問題は小野ひろの偽造預金証書事件と深くかかわっている。この事件で、当行は、結果的に世間を騒がせ、当行の信用さらには金融界全体の信用を傷つけた。このことに対し、当行は社会的責任を強く感じており、これまで信用回復に全力をあげて取り組んできた。東西信金問題は、金融界にとって最も重要な「信用秩序の維持」にかかわるものであり、この問題の解決に協力することが信用回復に寄与するものと考え、今回の支援を決定した。
今回の負担は経営的にみて重いものであり、民間金融機関としてどこまで支援すべきであるかという真剣な議論の末に決定したことだ。ただ公共性、中立性を特色としている当行としては、東西信金の救済において、社会的責任を果たすために具体的な行動をすることが、長い目でみてプラスになると考えた。
協立銀行との合併については、やはり信用金庫など協同組織金融機関と都銀の通常の形態での合併は、規模や体質などの違いから無理があるということではないだろうか。その点で、今回の救済では東西信金の職員と取引先のほとんどが、地元の信用金庫に引き継がれることになったのは、職員、取引先の意向に沿ったものといえよう。
[#地付き](談)
信用機構の一員としてぎりぎりの協力
[#地付き]立銀行専務取締役  斎藤 弘
今回の東西信用金庫の救済策については、当行の実質的な負担はほとんどない。ただ、まったくゼロというわけではなく、合併に伴い当然に買収費用がかかる。その額は五店舗の営業権五〇億円と不動産が一〇〇億円で計一五〇億円と見積もっている。これは高い買い物とみるか安い買い物とみるかといったような話ではない。当行としてはかねて主張しているように、今回の事件にはまったく無関係であり、かつ東西信金の経営にもまったく関与していないが、信用機構の一員として、信用秩序の維持の観点から、ぎりぎりの協力をしたわけだ。
一方、当行が一時的に立て替えることとなる八〇〇億円の債務については、日本産業銀行、全国信用金庫連合会、預金保険機構で負担されることになる。
三者の対応についても、それぞれの立場から、全体のスキームのなかで、当行同様、信用秩序維持の観点から協力されたと認識している。
いずれにせよ、現段階では救済策の大枠が決まっただけであり、現在決まっていることは、当行は大阪府下の信用金庫に割り振られた残りの五店舗と数十名の職員を引き受けるということだけだ。五カ店をどうするかは、今後の統合的店舗戦略のなかで検討してゆきたい。また、その他の詳細は今後詰められることとなる。
[#地付き](談)
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ナショナルエステートは、池袋にある不動産会社である。
池袋支店の取引先だった。
竹中は自席に着くなり険しい顔で池袋支店に電話をかけた。
「プロジェクト推進部の竹中ですが、副支店長の堀田君をお願いします」
堀田は竹中より二年後輩だ。
「堀田は外出しております。四時に戻ることになってますが、いかが致しましょうか」
「いま、三時半ですねぇ。席にいますから、折り返し電話をかけるようにお伝えください」
「かしこまりました」
池袋支店の女性行員との電話を終えて、花田美佐子に「部長室にいるから、電話があったら、呼んでね」と言い置いて席を外した。
「部長はナショナルエステートなんて会社、知ってましたか」
「うん。告発文書のキャッツアイの大口融資先にあったねぇ」
「その程度ですか」
竹中はちょっぴり安心した。もっとも、秘書室長を含めて管理部門が永く、三十代前半の若いころしか営業部門で経験のない永井と自分を比較しても始まらない。永井のプロジェクト推進部長はミスキャストとする見方をする者も少なくないのだ。本人はそうは考えていないだろう。
むしろ後輩の佐藤の顔色を窺《うかが》わなければならなかった秘書室長より、よっぽどましなポストと思っているかもしれない。
「それ以上なにかあるのかい」
「池袋支店の取引先でしたキャッツアイがナショナルエステートに融資した、飛ばし≠セと極債銀のやつに言われて、がっくりして帰ってきたところですよ。そんなことも知らないのか、っていう顔をされて、その上、例の怪文書だか告発書だかにその点が書かれてないのは、協銀が怪文書の発信源にかかわっているからじゃないかと思ったなどと、言いたい放題言われました。不良債権の飛ばし≠フ事実関係を至急確認しますが、事実だとすれば、極債銀の責任を追及できる立場なのかどうか、考えちゃいますよ」
永井が間の抜けた質問を発した。
「極債銀はどうやってそんなことをキャッチできたのかねぇ」
「産興信金とツーカーの仲でしょう。いくらでも情報は入ってきますよ。極債銀と産興信金はグルですからねぇ。キャッツアイの設立に参加し、飛ばし≠烽竄チた協銀もグルだと思われてるかもしれませんよ。その上、あてつけがましく、こんなものまでよこしました」
竹中が専門誌のコピーをセンターテーブルに置いたとき、ノックの音が聞こえ、花田美佐子の顔が覗《のぞ》いた。
「副部長、池袋支店の堀田さんからお電話です」
「失礼します」
竹中は、永井の前を離れて自席で受話器を取った。
「もしもし……竹中ですが」
「堀田です。お電話をいただいたようですが、なんでしょうか」
「ナショナルエステートはきみの担当ですか」
「いいえ。わたしの前任者が担当してましたが、いま現在はほとんど取り引きはありません」
「キャッツアイのことは知ってたの」
「多少のことは前任者から聞いてます」
「不良債権の飛ばし≠ノついてはどう」
「それらしきことは……。本店営業本部の指示で、ナショナルエステートに貸し込んだみたいですねぇ。当時第五営業部の島田部長から池袋支店長に話があったようですよ」
営業本部第五営業部はゼネコン(総合建設会社)、大手不動産関係を担当する部門である。
島田は、取締役第五営業部長から常務取締役になり、担当も変わった。そして六月二十九日付で代表権を持つ専務取締役に昇格した。あの島田が関与していたとは、皮肉なめぐり合わせである。
「きみの前任者は塚本だったよねぇ」
「はい」
塚本貞夫は、昭和四十九年に入行した。竹中と同期である。
六月二十九日付の異動で、第三営業部課長から副部長に昇進した。
「ありがとう。塚本から話を聞きます」
竹中は塚本と電話で話した。
「ナショナルエステートの件で、教えてもらいたいことがあるんだが、いま大丈夫か」
「いいよ」
「本店営業本部の指示で池袋支店との取り引きが始まったんだってねぇ」
「うん、そうだった。いま、協産ファイナンスの社長になってる秋山宏さんが池袋支店長の時代に、いまの島田専務から話が持ち込まれたんだが、秋山さんは頭取の意向だと話してたらしいよ」
「ふうーん。キャッツアイにナショナルエステートの不良債権を飛ばしたのも、頭取の意向ってわけか」
「もちろん、そういうことだ」
「不良債権の飛ばし≠ヘ、珍しくもないのかねぇ。第五営業部はどうなの。そんなのが多いのか」
「ま、ご多分に洩《も》れずいろいろあるよ。竹中も大変なんだろうが、火だるまのゼネコンや不動産会社を抱えてる五部も大変だよ」
「キャッツアイも、協産ファイナンスも、俺が担当させられてるが、就任早々、飛ばし≠フ処理をやらされるとは思わなかったよ。キャッツアイの設立時のことは覚えてるか」
「ああ。初めからブラックがフィクサーみたいなことをやってて、妙な感じだった」
「ブラックって、ファイナンスタイムスの大屋雄一のこと?」
「うん。産興信金の志木理事長を焚《た》きつけて、二人で相当悪いことしたみたいだよ。MOFも一枚|噛《か》んでたな」
「極債銀も悪事に加担したのかねぇ」
「証拠はないが、当然あるんじゃないのか」
「だけど、協銀もナショナルエステートの不良債権の飛ばし≠ネんかをキャッツアイにやらせてたんじゃ、あんまり大きなこと言えないよな」
「池袋支店がおかしなことをした事実はないぞ。その点は誤解しないでもらいたいな」
「飛ばし≠ヘ不正じゃないのかね」
「エステートが四十四億円を返済してきたときに飛ばし≠フ認識なんてわれわれにはなかったよ。あとでキャッツアイのことを知らされたんだ」
「キャッツアイは、設立当初からペーパーカンパニーだったのか」
「いや。九段のオフィスビルに営業部隊があったと聞いてたけど……。いまはナショナルエステートからキャッツアイが担保に取ってたビルに移転したが、常勤役員が一人、女性事務員が一人いるだけらしいよ。キャッツアイなんて、もう箸《はし》にも棒にもかからない、どうにもならない会社だろう。逆さに吊《つ》っても鼻血も出ないんじゃないのか」
「産興信金と極債銀をゆさぶっても、意味はないかねぇ」
「どっちとも腐ってるよ。いつ潰《つぶ》れてもおかしくないのと違うか」
「忙しいところをいろいろありがとう」
「そのうち一杯やろうや」
「うん。じゃあ」
電話を切って、竹中は頬杖《ほおづえ》を突いて考え込んだ。
島田と会う必要はないだろうか。厭《いや》な顔をされるだけだろうが、看過するのはいかにも口惜しい気がする。
背後から肩を叩《たた》かれた。
振り返ると永井だった。
「これなら以前読んだよ」
永井は部長室に呼びつけることもあるが、プロジェクト推進部のフロアに出てきて、部員に指示を与えたり、意見を聞くことがしばしばあった。
雑誌のコピーが竹中のデスクに置かれた。起立しかけた竹中を制して、永井は空いている椅子《いす》に腰をおろし、竹中のデスクに躰《からだ》を寄せた。
「極債銀が産興信金を救済合併するとでもいうのかねぇ」
「まさか。極債銀にそんなパワーはありませんよ。きょう会った極債銀の酒井という男が、関西の信金が協銀にしてやられたと怒ってるとか話してました。ところで飛ばし≠フ件は事実です」
「キャッツアイに七十億円融資して、五十八億円を飛ばし≠ナ振り替えたとすれば差し引き十二億円か。被害軽微と言えるのかねぇ」
「このまま引き下がるのは業腹ですけどねぇ」
「ペンディングにしたほうがいいかな」
永井は腰をあげて、椅子を元の位置に戻して、個室に引き取った。
五時半に杉本から竹中に電話がかかってきた。
「キャッツアイの件は諦《あきら》めたほうがよさそうだぞ」
「諦めるってどう諦めるの」
「秘書室長に言わせると、だいたいキャッツアイをプロジェクト推進部に持ち込んだ営業本部長はどうかしてるってことになる。MOFやアウトローも含めていろいろ複雑に入り組んでるらしいから、竹中の手に負える代物じゃないそうだ。ヤブ蛇にならないように気をつけることだな」
いつもながらのことだが、杉本の高飛車な言い方に竹中はむかっとした。
営業本部長は、代表取締役専務の根岸誠一郎に委嘱されていた。
「いや、諦めるつもりはない。アウトローであろうとなんであろうと、法的手段を粛々と進めるつもりだ」
「おまえ莫迦《ばか》に威勢がいいけど、怖い目に遭ってもいいのか。それもおまえだけならいいけど、会長や頭取に累が及んだら、どうするんだ。いいな、俺の言うことを聞けよ。そのほうがおまえの身のためだ」
「なんだかヤクザに威《おど》されてるような気がしてきたよ。逆にファイトを掻き立てられるから、人間っておかしなもんだねぇ」
「冗談言ってる場合か。キャッツアイは筋が悪すぎる。とにかくギブアップしろ」
電話がガチャンと切れた。
かつて常務会で「筋のいい案件」と頭取が発言したらしいが、逆に「筋が悪すぎる」とは、どうなってるのか。
杉本はまだ親分気取りだが、ふざけた野郎だ――。竹中はだんだん肚《はら》のむかつきがひどくなってきた。
「竹中、ちょっと」
永井に手招きされて、竹中は部長室に向かった。
「いま、根岸専務から電話があった。キャッツアイは、静観するようにっていう指示だ。会長になにか言われたのかねぇ」
「わたしにはいま企画部の杉本が電話で諦めろって言ってきました。佐藤秘書室長が動いたんだと思います」
「なるほど。佐藤君ねぇ。なんにでも首を突っ込みたくなる性分は死ぬまで治らんだろうねぇ。あの男が権力者になったときの協銀はどうなっちゃうんだろうか」
「いまでも権力者ですよ」
「そういう次第だから、とりあえずキャッツアイは、ドロップしよう」
「なんだか釈然としませんけど」
「根岸専務に、OKしちゃったんだ。わたしに免じて、堪《こら》えてくれよ」
永井は切なそうに顔を歪《ゆが》めた。
「問題の先送りは極力回避し、結論を急ごう。不良債権の処理は決断を要するが、優柔不断はロスを膨らませるだけだ」
竹中は部下にそう指示していたが、キャッツアイは先送りの典型例となった。いずれにしても債権放棄の可能性が強い。資本金の一パーセント以上の債権を放棄する場合は取締役会の承認事項である。一億円以上で、資本金の一パーセント未満の債権を放棄する場合は常務会で決裁する。キャッツアイの融資額は七十億円だから、協立銀行の資本金四千八百三十億円の一パーセント以上に相当する。従って前者の適用になるわけだ。
プロジェクト推進部の竹中班≠ェ不良債権を回収する方針を出して、永井部長の承認を得た案件は、常務会の決裁を得て、法的手段などの措置を講じることになる。
たとえば担保物件のビルを売却して融資額の一部を回収することになった場合、債務者が当該ビルの競売に応じれば問題はない。しかし、債務者との交渉が失敗し、任意の売却ができない場合には、抵当権の実行による競売とならざるを得ない。ただ、これには費用も時間もかかり、かつ、執行妨害を目的とする占有屋の存在もあって、スムーズに物件が処理されるわけではない。また、仲介屋グループの存在も厄介な問題だ。
しかも仲介屋グループは二、三にとどまらない。物件の規模にもよるが、蜜《みつ》に群がる蟻のように、数グループが仲介を申し出てくるケースがほとんどだ。
ある大手不動産会社が都心のさるビルの売却について検討している段階で、すでに仲介屋が出現するといわれるほど、仲介屋の情報収集力はぬきん出ている。仲介屋は百パーセント企業舎弟で、暴力団とつながっていると考えてさしつかえない。
不動産会社の幹部に、仲介屋への情報提供者が存在するとしか思えないほど、仲介屋の動きは素早く、かつ的確である。彼らは横の連絡も緊密に行なっているから始末が悪い。
仲介の名乗りをあげただけで、実際はなんら行動をせずに、ビルの売却代の六パーセントの仲介料をせしめるという。これは不動産売買の慣例で、売る側と買う側から三パーセントずつ、売買往復で六パーセントがルール化していることによる。
仮にビルの売却代が十億円とすれば六千万円、五億円なら三千万円、一億円なら六百万円。その仲介料が複数のグループに渡るのが実情である。
バブル経済期に地上げや旧施設の解体、産業廃棄物の処理などを通じてヤクザ社会は、とくに不動産、ゼネコン分野に深く浸透、浸食し、いまや銀行も不良債権の回収でヤクザ社会のターゲットにされてしまったことを、プロジェクト推進部に異動してきて竹中はいやというほど実感していた。
部下が担当した案件で仲介屋を排除したときの恐怖も体験させられた。
「ぶっ殺してやる!」
「夜道に気をつけろよ!」
ドスの利いた声でこんな厭《いや》がらせ電話が銀行にも自宅にもかかってきたし、夜中の無言電話も経験した。無言電話を含めて、自宅への厭がらせ電話は四回だが、いずれも遅い時間で竹中自身が受話器を取ったので、家人に気づかれずに済んだのは物怪《もつけ》のさいわいであった。
しかし、この程度は序の口に過ぎない。それを竹中はほどなく思い知らされることになる。
竹中が協産ファイナンスの社長、秋山宏に電話でアポを取って、面会したのは七月二十日水曜日の午後三時である。
協産ファイナンスの本社は池袋東口のオフィスビルにあった。
秋山は昭和三十八年の入行組だが、池袋支店長を最後に協立銀行を辞職して、平成五年四月に大産ファイナンスに転職した。平成六年四月の株式店頭公開を一年後に控えて、経営陣を強化したいので協力して欲しい、と創業社長の大津栄一郎から、メインバンクの協立銀行に話が持ち込まれたのである。
大津はまず山田副頭取に面会した。山田と面識があったからだ。当時の社名は大産ファイナンスだった。
挨拶《あいさつ》のあとで山田が言った。
「御社はノンバンクの中では大変健闘してますねぇ。経済誌が書いてましたが、丸野証券の肩入れは相当なものらしいじゃないですか。店頭公開は間違いないでしょう」
「恐れ入ります。ところでどなたか適当な人を推薦していただけませんでしょうか。出向なんてことじゃなく、大産ファイナンスに骨を埋めるつもりで来ていただきたいですねぇ」
「すると、待遇は副社長っていうことになりますか」
「いや、社長でお迎えします。わたしは会長で少し楽をさせてもらいたいと思ってます」
「ほーう。社長ですか。あなたのほうで、目星をつけてる者はいるんですか」
「池袋支店長の秋山さんはどうでしょうか。ガッツもあるし、人柄も抜群です。あの人なら、後事を託す気になれますよ」
「弟さんは大丈夫ですか。なかなか遣り手だと聞いてますが」
「あれは副社長止まりですよ。トップマネジメントは無理です。進め進めの突撃隊長ですわ」
義弟の石水晃三は大産ファイナンスの専務である。
山田は、社長と聞いて取締役クラスを考えた。秋山では勿体《もつたい》ないような気がしないでもなかった。しかし、秋山が協立銀行で役員になれるチャンスはない。大津が秋山を指名してきたのだから、反対して話をこじらせるのもどうか、と判断した。
どこの都銀も、退職を余儀なくされる行員の再就職先の確保に汲々《きゆうきゆう》としているのが実情だ。昔は売り手市場だったが、いまはその逆で買い手市場である。企業側の資金調達方式が多様化した結果、銀行の力が相対的に低下したということができる。
「秋山さんでご異存はありませんか」
「もちろんです。秋山にはわたくしから話すよりも大津さんが直接お話しいただくのがよろしいと思いますが」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
大津は、直ちに秋山を大産ファイナンスの社長室に呼び出した。
「お呼びたてして申し訳ありません。実は、あなたに、当社の社長になっていただきたいと考えてるんです」
大津の思いがけない申し出に、秋山はびっくりした。
「あなたに来ていただければ願ったり叶《かな》ったりです」
ここまで言われて、秋山は大いに気持ちが動いた。
大津は昭和十八年生まれで平成五年当時五十歳。叩《たた》き上げの創業社長である。
秋山は青山学院大学の経済学部を出ている。協立銀行では東大、一橋大、京大など一流国立大学出身者でなければ役職役員にはなかなかなれない。
私大出は相当頑張って、ヒラ取《とり》止まりであろう。秋山自身、一選抜で池袋支店長になったわけではなかった。同期ですでにボードに入っている者もいた。大型店の池袋支店長になれただけでもめっけものと思わなければならない、と秋山は考えていた。
大津とは年齢も同じ五十歳だった。人生の節目を迎えて、思いがけずスカウトの話が飛び込んできたのである。
「秋山さんなら協銀さんで専務までいくでしょう。しかし、大産ファイナンスは伸び盛りの会社です。社長として株式の店頭公開を果たし、さらに東証一部上場を目指して、わたしと二人三脚で引っ張っていくのも男のロマンがあるんじゃないでしょうか」
協立銀行で秋山が池袋支店長止まりであることを先刻承知で、「専務までいくでしょう」と、見えすいた追従を言うのだから、相当なタマだ。お世辞とはわかっていても、秋山は悪い気はしなかった。
「わたしのような者に、声をかけていただいて大変感謝してます」
「秋山さんだから三顧の礼でお迎えするんです。いくら協銀さんでも、ほかの方でしたらちょっと考えちゃいますよ。協銀さんには出資もしていただいて、協立の協の字をいただいて協産ファイナンスに社名を変更したいと思ってるんです。この点も含めまして、ぜひいいご返事を聞かせてください」
「二、三、先輩に相談して、お答えさせていただきます」
秋山は、山田副頭取に相談した。
「いい話じゃないか。実は大津社長からわたしに話があったよ。ぜひもらいがかかったってことになるねぇ。大産ファイナンスの資本金はいくらだったかな」
「発行済で八億円です」
「五パーセント取得すれば四千万円か。店頭公開を控えてるんだから、出資のほうは話が旨《うま》すぎるくらいのものだが、協立の協については、変にこだわる人もいるから、常務会に出さんほうがいいかもしれないな。専売特許でもあるまいし、勝手につけたらいいんだよ」
万一、山田が引き止めてくれれば、役員の目があるということになる。一縷《いちる》の望みがなかったと言えば嘘《うそ》になる。しかし秋山が予想したとおりの返事だった。
こうして、秋山は平成五年三月三十一日付で、協立銀行を辞職し、四月一日付で大産ファイナンスに転職した。
大産ファイナンスの臨時株主総会が同日開催され、即日秋山の代表取締役社長就任が決定した。大津は代表取締役会長になった。そして、社名も協産ファイナンスに変更、協立銀行の出資も決定した。
平成五年三月期の協産ファイナンスの決算は、五月下旬の決算役員会で収入四百八十七億七千万円、経常利益五十八億円、配当三割と決定、発表された。店頭公開を一年後に控えて好業績を誇示したことになる。
ところが、秋山が知らないところで、協産ファイナンスは抜き差しならないドロ沼に足を踏み入れていた。
平成五年三月期決算は明らかに粉飾決算で、協立銀行を引っ張り込むための見せかけだったことが、一年三カ月後に秋山の知るところとなった。
店頭公開どころではなかった。内実は火の車だったのである。
営業担当副社長、石水晃三の暴走が、協産ファイナンスを窮地に追い込んだと言えよう。石水は四十二歳。どう見てもヤクザには見えなかった。
千葉県に共鳴興産なる不動産会社が存在するが、大産ファイナンス時代に共鳴興産グループに融資した八百五十億円が不良債権化していたことを、社名変更後も大津と石水は秋山にひた隠しにしていたのだ。
石水が暴力団、関州連合の準構成員であることなど秋山は知る由もなかった。共鳴興産は、関州連合直系の不動産会社である。
共鳴興産の社長、荒又寛がバブル崩壊の兆しが見え始めたころ、石水を共鳴興産に呼びつけて、巨額の融資を持ちかけた。
「千葉の土地はまだ値上がりする。思いきって買っておこう思っとる。一千億円ほど都合してくれんか。細《こま》いことは船川常務と話してもらいたい。おまえに一〇パーセント現金《げんなま》でキックバックしてやるわ」
船川|美子《よしこ》は三十七歳。銀座のクラブでママでもやっていたほうが似つかわしいほど妖艶《ようえん》な女だった。
「船川は空屋《あきや》だ。おまえ、可愛《かわい》がってやれや」
「社長のお下がりですか」
「阿呆《あほ》ぬかせ。わしは会社の商品には手をつけん主義や」
石水と美子に男女関係が生じるのに時間はかからなかった。
「社長には内緒にしてね。お願いよ」
「当たり前や」
本音かどうかわからないが、美子は真顔だった。
週に一度、美子が商談を名目に上京し、石水と都内のホテルで密会した。
そうして、わずか一年足らずで、八百五十億円もの融資が大産ファイナンスから共鳴興産に実施された。
土地を担保に取るのは当然だが、その価値は五分の一に満たないもので、不正融資以外のなにものでもない。
秋山が、共鳴興産の件を知らされたのは、平成六年七月上旬である。
それも財務部長の安藤茂から、そっと耳打ちされたのだ。
秋山はさっそく、会長室に駆け込み、石水も呼んで詰問した。
「共鳴興産との取り引きの実態を明らかにしてください。それと会長は、実態をご存じだったんですか」
「石水にまかせてた。わたしの油断だ」
「共鳴は悪い話ではないと思いますけど」
「共鳴は関州連合直系の不動産会社ですよ。それがどうして悪い話じゃないっていうことになるんですか」
「担保も取ってるし、関州連合の直系なんてわたし知りませんけど。社長、誰から聞いたんですか」
石水はそらっとぼけた。
「協立銀行の力を借りて、とりあえず共鳴興産との取引関係の実態を洗い出したいと思います。会長、そういうことでよろしいですか」
「よろしくお願いする」
大津は殊勝に頭を下げたが、石水はふてくされたように、脚を投げ出して、そっぽを向いていた。
秋山は後任池袋支店長、水谷洋平を訪ね、善後策を協議した。
本店営業本部プロジェクト推進部を中心に審査部も加わり、竹中をリーダーとする十人のプロジェクトチームが調査に乗り出した結果、共鳴興産グループに融資した八百五十億円の大半は関州連合に流れていることが判明した。千葉県で買い漁《あさ》った土地の時価による評価額も百億円に満たないこともわかった。
プロジェクトチームの調査は、税務署の調査並みに厳しいものがあった。書類、資料、帳簿、営業日誌、入金、送金、資金繰りなど広範囲にわたってチェックし、分析したのだ。
当然のことながら協産ファイナンスが大口債権者になっているのは共鳴興産にとどまらなかった。
株式会社ノースジャパン約三百億円、株式会社中国民報社約二百十億円、株式会社ナショナルエステート約百十億円、株式会社ニッコウキャピタル約八十五億円など合計約二千二百億円に及んだ。いずれも債権回収が困難な問題企業ばかりである。
一方、取引金融機関は約五十で、協立銀行、共和住宅金融など協銀グループで約一千億円を融資、その他金融機関から約一千二百億円を協産ファイナンスは借り入れていた。
協立銀行から調査報告書を見せられたとき、大津が石水を会長室に呼んで言った。
「石水、これで念願の店頭公開はできなくなったな。リスク情報の開示でダメになる」
「いや、諦《あきら》めるのはまだ早いですよ。一つだけ手があります。共鳴向けの八百五十億円の債権をわたしの知ってる複数の会社に引き受けてもらいます。いわゆる不良債権の飛ばし≠ナすけど、あっちこっちでやってることですよ」
株式の店頭登録に執念をたぎらせていた大津は石水の意見を容認した。むろん秋山のあずかり知らないことだ。
秋山はとうに店頭公開を断念せざるを得ないと判断していたが、平成六年八月上旬にこの延期を公表するに留《とど》めた。
秋山は憔悴《しようすい》しきって、頬《ほお》がげっそりこけ、頭髪がすっかり白くなっていた。
「参ったよ。協立銀行とわたしは、大津と石水に嵌《は》められたんだ。この会社は死に体同然で、わたしが入社する前からすでにおかしかった。入社して一年以上も、情報がまったく入ってこなかった。社長とは名ばかりで、役員会も定期的に開かれない。大津と石水の二人だけで会社を動かしてたわけだが、海千山千の大津が石水に騙《だま》されてたんだから驚くよ……」
秋山が竹中を相手に三十分ほどこぼしつづけたあとで、訊《き》いた。
「ところでプロジェクト推進部の方針は出たの」
「社長もおっしゃいましたが、死に体同然の協産ファイナンスも遠からず倒産をまぬがれないと思いますが、その前に共鳴興産を協産ファイナンスが第三者破産申請して、可能な限り債権の保全を図る必要があると思います。共鳴興産以外にも、第三者破産申請を要する融資先はあるでしょうが、協立銀行はコアバンクとしての責任を果たさなければなりません。金融機関との調整が焦眉《しようび》の急になると思います」
「わたしはすぐにでも辞任したいが……」
「お気持ちはお察ししますが、いましばらくご辛抱ください。社長にはまだ頑張っていただかなければなりません」
「…………」
「石水副社長の責任は重大です。特別背任は確実視されますが、大津会長と早急に意見調整していただけませんか。石水氏の存在はいろんな意味で邪魔になると思いますが」
「うん。わたしもあいつを警察に突き出したいと思ってるよ」
秋山は、大津に協銀の意向として、石水の処分を求めた。大津は反対しなかった。
「石水を特別背任で告発することも考えましたが、女房に泣かれましてねぇ。身内から縄付きを出すのもなんだから、勘弁してやることにしましたが、九月三十日付で辞任させることにしました」
大津は秋山にそう言ってきたが、すでに何十億円ものリベートをせしめている石水は、これ以上協産ファイナンスに未練などあろうはずがなかった。
八月下旬に、竹中が二度目に秋山と会ったとき、秋山はいっそう憔悴し、眼の周りに黒ずんだ隈《くま》ができていた。
「共鳴興産の不良債権飛ばしが発覚したよ。書類を作るのに三週間もかかったそうだ。竹中君、ここに書類一式のコピーがある。協銀の顧問弁護士、会計監査法人に見せて、至急意見を聞いてくれないか。わたしは不良債権の飛ばし≠ヘ撤回したほうがいいと思うんだ。大津会長は店頭公開できるんなら、方便としてゆるされるんじゃないかと言ってるが、店頭公開はもはや不可能だ。いつまで夢を見てれば済むのかって怒鳴ってやったが、わかったのかどうか」
「死に体の会社が株を公開して、投資家を騙すなんていう発想がまだあるんですか。ただの紙クズになることは明瞭《めいりよう》です。信じられませんよ。さっそくプロジェクト推進部として対応しますが、わたしも共鳴興産関係の不良債権の飛ばし≠ヘあり得ないと思います」
「ところがニッコウキャピタルなど数社と契約に調印してしまったというんだ」
「社長も署名したんですか」
「まさか。代表取締役会長名でやった。書類一式の中に契約書のコピーも入ってるよ」
「ニッコウキャピタル自体、不良債権を受け入れられる能力はないんですよ。いつ潰《つぶ》れてもおかしくない会社です」
三日後に、竹中はふたたび秋山に面会した。
「債務引受各社との不動産売買契約および金銭消費貸借契約に不備な点が多く、契約は無効というのが結論です。債務者が契約を不履行した場合には、担保不動産を代物取得し、本契約が終了する≠ニいう条項がありますが、ニッコウキャピタルなどは、協産ファイナンスに担保として差し入れてる不動産を購入する意思はもともとないわけです。金銭消費貸借契約に関する債務負担についても然りです」
「わかった。ただ、大津会長は協立グループ以外の金融機関に対して、契約締結後に不良債権の飛ばし=Aすなわち債権の移し替えが完了したことを書類で提出してしまってるんだ。どうやって撤回するのかね」
「社長が頭を下げて回るしかないと思います」
「会長の尻《しり》ぬぐいを、蚊帳《かや》の外にいたわたしがやらなければいけないのか」
「なんなら会長にやってもらったらどうですか。自分で蒔《ま》いたタネなんですから、自分で刈り取ってもらうのがいいと思います」
しかし、大津にそれを拒否されて、秋山は共鳴興産グループ関連債権についてのお詫《わ》び≠ニ表記した詫び状≠関係金融機関に送付したのだ。
詫び状≠ヘさまざまな波紋を呼んだ。大半の金融機関は率直な秋山社長の態度を評価したが、架空の取り引きで融資を引っ張った協産ファイナンスと、コアバンクの協立銀行を非難する金融機関も少なからず存在した。
詫び状≠ェ負債となって、金融機関の融資引き上げを協銀は抑えられなくなった。
それだけではない。死に体の協産ファイナンスに対して百五十億円の支援融資を実行せざるを得なくなった。
[#地付き](下巻に続く)
角川文庫『金融腐蝕列島(上)』平成9年12月25日初版発行
平成11年12月5日8版発行