高杉 良
呪縛(下)金融腐蝕列島U
目 次
第 十四 章 傷 心
第 十五 章 株主総会
第 十六 章 慟 哭
第 十七 章 遺 書
第 十八 章 恫喝
第 十九 章 運命共同体
第 二十 章 人事権者
第二十一章 前会長逮捕
第二十二章 出所祝
第二十三章 濡 衣
第二十四章 闇社会
第二十五章 再 会
エピローグ
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第十四章 傷 心
1
六月二十五日、二回目の尋問を終えて、北野が東京地方検察庁からACB(朝日中央銀行)本館二十七階の秘書室に戻ったのは、午後五時三十五分だった。
北野は、自席で放心したようにぼんやりしている横井繁子に近づいて、声をかけた。
「どうでした」
「わたくしもたったいま帰ったところなんです」
横井はバツが悪そうに手で髪を撫《な》でつけながら、話をつづけた。
「疲れました。ほんとうに、くたくたです」
「そりゃそうでしょう。横井さんは二日連続ですからねぇ。調書は取られましたか」
「いいえ」
「わたしは調書にサインさせられました。気色が悪いっていうか、厭《いや》な気分ですよ」
横井は、察して余りあるとでもいうように強めに二度うなずいた。
「室長は尋問の真っ最中ですねぇ。四時に出頭したんでしょう」
「ええ」
「三時間か、いや四時間はかかるかもしれませんよ」
横井のデスクで電話が鳴った。
「失礼します」
横井が北野に会釈して、受話器を取った。
「はい。朝日中央銀行秘書室でございます」
「専従班の藤木です。佐々木最高顧問のことでご相談したいことがあるんですが……」
「わたくし佐々木最高顧問付秘書の横井ですが、どういったことでしょうか」
「本日午後五時に、特捜部から、あす午後三時に佐々木最高顧問に出頭するよう要請されましたので、その旨お伝えしたところ、そんな必要はないとえらくご立腹なんです。われわれ専従班としては、いかんともしがたいので、秘書室長か秘書役から、執りなしていただきたいと思いまして、電話を差し上げました」
「北野秘書役がおりますので、替わります」
横井が掌《てのひら》で受話器を押さえて、北野に小声で用件を伝えた。
北野に横井から受話器が手渡された。
「はい。北野ですが、ご用件は横井から承りました。佐々木最高顧問と至急連絡を取りまして、その結果を藤木さんにお伝えするようにします」
「よろしくお願いします。佐々木最高顧問は専従班でなんとかしろとおっしゃってますが、われわれは特捜部の窓口に過ぎないことをよく説明してくださいよ」
古参行員の藤木は北野が佐々木の女婿であることをもとより承知している。いくぶん皮肉っぽい口調になるのも仕方がなかった。
北野は、佐々木が在席していることを横井に確認して、最高顧問室へ駆けつけた。佐々木とは久しく会っていなかった。できることなら顔を合わせたくないが、菅野が特捜部から戻っていないのだから、やむを得ない。
佐々木は電話中だったが、手でソファを勧められたので、北野は一礼して、ソファに腰をおろした。
「そうだな。八時には帰れるだろう。うん。食事の用意をたのむ。じゃあな」
箱根の旅館一葉苑《いちようえん》≠フ女将《おかみ》、青木伸枝と話していたのだろう、と北野は思った。
佐々木がデスクを離れて、こっちへ向かってきたので、北野は起立した。
「浩君、しばらくだねぇ」
「どうも」
「忙しいんだろう」
「はい。実はたったいま、東京地検から戻ったばかりなんです」
「きみまで呼び出されたのかね。まぁ、座りなさい」
「失礼します」
北野は耳たぶを引っ張りながら腰を落とした。
「さっそくですが、東京地検特捜部が最高顧問にあす六月二十六日午後三時に出頭するよう要請してきたそうですが」
「そんな必要があるのかね」
佐々木は露骨に顔をしかめた。
北野は佐々木を強く見返した。
「事情聴取する必要があるかどうかを判断するのは検察です。ACB側の判断が優先されることはあり得ません」
「それにしても、わたしが検察に呼びつけられるいわれはないと思うがねぇ」
「わたしは、一昨日と本日の二度も特捜部に出頭させられ、長時間、検事の尋問を受けました。理不尽だと思いましたが、拒むことはできません」
「検事になにを訊《き》かれたのかね」
北野は口もとに苦笑を滲《にじ》ませながら、話すべきか否か思案した。
「わたしのことでなにか訊かれたのか」
佐々木に、苛立《いらだ》った声で促されて、北野は表情をひきしめた。
「おっしゃるとおりです。最高顧問は川上、小田島と親密な関係にあるのではないかと、しつこく訊かれました」
「きみはどう答えたんだ」
佐々木は険しい顔で、語気を荒らげた。
北野の声は落ち着いていた。
「調査委員会のヒアリングで、最高顧問が申されたとおりに話しました」
「特捜部はハネ上がってるな。検察ファッショじゃないか。荒垣さんか石川さんに抑えてもらおう」
荒垣敬も石川真も元総理の大物政治家で、佐々木とは近い仲だった。しかし、両元総理が動く可能性はきわめて薄いように思える。逆にヘタに動けば、特捜部は態度を硬化させるに相違なかった。ACBも佐々木も恥をかくだけだ、と北野は思った。
「お気持ちはわかりますが、そういう段階ではないと存じます。わたしは逆効果のほうを恐れますが」
佐々木は厭な顔をしたが、言い返してこなかった。
「最高顧問には、なんとしても特捜部に出頭していただきたいと存じます。ことを荒だてるのが得策とは思えません」
「久山と今井が出頭すれば済むことだろうが。わたしが検察に呼ばれるのは筋違いも甚だしい」
「検察の出頭要請は強制力があります。ですが、取って食われるわけでもありませんから、検事と向き合って、おっしゃりたいことをおっしゃってきたら、よろしいんじゃないでしょうか」
「わたしは検察の言いなりに、のこのこ出かけるつもりはないからな」
こうなると駄々っ子と変わるところがなかった。
「それに、体調もあまりよくないんだ。不整脈が出てるかもしれんしなぁ」
北野は、いつぞやのゴルフの一件を思い出して、よけいがっかりした。
佐々木が膝《ひざ》を打って、にやりとした。
「うん、そうしよう。病気になるのがいちばんだ。ほんとうに精密検査を受けるつもりだったことでもあるしなぁ。病院で悪いところをほじくり出されるのはおもしろくないが、だいぶガタがきてるから、この際入院するとしよう」
「最高顧問が特捜部に出頭しないことがマスコミに伝わったときのリアクションをお考えいただけないでしょうか」
「病気ならしょうがないじゃないか。医者の診断書を用意すれば、文句はないだろう」
「ほんとうに入院なさるんですか」
そんなに検察が怖いのか、と訊きたいくらいだ。北野は、どうにも佐々木の気持ちを理解しかねた。
「うん」
容疑者でも重要参考人でもないので、検事が病院へ押しかけてまで尋問することはないとしても、男を下げるのは佐々木自身である。佐々木はそのことに気づくべきだ、と北野は思いながら、佐々木の部屋から退出した。
2
佐々木最高顧問室から秘書室に戻った北野は、横井繁子を応接室に呼んで、佐々木が東京地検特捜部に出頭する意思のないことを告げた。
「そんなことがゆるされるんでしょうか」
「入院することによって、とりあえず出頭は回避できますが、退院したら、また呼び出されると思います。一時しのぎに過ぎないと思いますけどねぇ。なにを考えてるんでしょうか。最高顧問の気が知れませんよ」
「わたくしも、信じられない思いです」
横井は一瞬きっとした顔を見せたが、すぐに表情をゆるめた。
「専従班には秘書役から連絡していただけますか」
「ここから電話をかけます。他聞を憚《はばか》る話ですから……。もっとも、こういうことは伝わらないはずはありませんけどねぇ」
北野は、専従班の藤木にごく事務的に、佐々木が不整脈で特捜部に出頭できなくなったことと、あす医師の診断書を届ける旨を電話で伝えた。
電話を切って、北野が横井に言った。
「事実は仮病ですが、二人限りにということで、よろしいですか」
「もちろんです」
「わたしは、これから頭取とあすのスケジュール調整をして、その後、弁護士先生に特捜部の尋問内容を報告しますが、横井さんはもう終わったんですか」
「いいえ。六時半に呼ばれてます」
横井が時計を見ながら答えた。
北野も時計に目を落とした。時刻は午後六時二十分。
行内調査委員会のヒアリングは事実上終了したが、委員の弁護士数人が東京地検特捜部に出頭を求められたACB関係者を対象に尋問内容を聴取していた。
ACBとして、公式に記録に残しておく必要がある、という中山頭取の判断によるが、北野も横井も今夜中に弁護士に報告することになっていた。
その夜、北野が十八階の調査委員会室で顧問弁護士との面談を終えたのは、八時半だが、秘書室に戻ると、ひとり待機していた横井が緑茶を淹《い》れてくれた。
「頭取は八時過ぎにお帰りになりました。七時四十分に専従班の藤木さんから電話がありましたが、佐々木最高顧問が退院され次第、必ず連絡するように、と特捜部から申しつかったそうです」
「ありがとうございます。ということは、いずれにしても出頭はまぬがれないわけですねぇ。だったら、仮病などつかわずに、あす出頭したほうが気が楽なのにねぇ」
「わたくしも同感です」
「最高顧問には伝わってるんですか」
「いいえ。今夜中にお伝えしたほうがよろしいでしょうか」
北野は、横井に訊き返されたが、すぐには考えがまとまらなかった。
「最高顧問は、今夜はどこですか」
「ここのところ、ずっと箱根の旅館ですが」
「入院先と診断書の確認をするためにも、今夜中に連絡しておいたほうがよろしいんじゃないですか」
横井が北野の目を見ながら、うなずいた。
「横井さんは、最高顧問から入院のことを直接聴いてるんでしょ」
「いいえ。あのあとすぐに駐車場までお送りしましたが、なんにも聞いてません。わたくしのほうからお訊きするのも気が引けて……」
「そうなんですか。どっちがいいですかねぇ……」
北野は、佐々木と話したくなかったが、横井の目が「お願いします」と訴えていた。
「わたしが最高顧問に電話しますかねぇ」
「そうしていただければ……」
「わかりました」
北野は自席から一葉苑≠ノ電話をかけた。
佐々木が電話に出てくるまで、北野は三分ほど待たされた。
「もしもし、佐々木だが……」
「北野です。夜分恐縮ですが、今夜中にお伝えしといたほうがよろしいと思いまして」
「早く用件を言いなさい」
不機嫌そうな声だった。
「専従班から東京地検特捜部に、最高顧問が入院するためあす出頭できないことを連絡しましたところ、退院次第、連絡するように申しつかったそうです。退院後、出頭の日時を指定してくると思いますので、よろしくお願いします。それから、医師の診断書をあす中に特捜部に提出したいと思いますが、入院先はどうなりましたでしょうか」
北野は早口で一気に話した。
佐々木の声が激昂《げつこう》した。
「入院先までいちいち検察に報告しなければいかんのか!」
「そう思いますが」
「入院先などまだ決まっとらん。あす中に連絡する」
佐々木は一方的に電話を切った。
「ご機嫌斜めでしたよ。やっぱり横井さんのほうがよかったんじゃないですか」
北野が冗談ともなく言って、顔を上げると、横井も耳に当てていた受話器を置いた。
北野は電話が鳴ったことを気づかなかったのだ。
「どなたからですか」
「室長からです。いま、尋問が終わったそうです。まっすぐ帰宅すると申してました」
「やっと終わったわけですか。四時間以上ですねぇ」
「ええ。最高顧問のご様子はいかがでしたか」
「ご機嫌斜めでした。入院先までいちいち検察に報告しなければいかんのかって、怒鳴られましたよ。わたしは怒鳴られるいわれはないと思いますけど」
横井がひとうなずきして、もじもじしながら言った。
「こんなことを言っていいのかどうかわかりませんけれど、最高顧問は情緒不安定といいますか、いらいらしてて、怖いくらいです。このひと月の間、いろいろなことがありましたから、仕方がないとは思いますが」
「気が立ってるのは、みんな同じですよ。最高顧問は、久山さんや今井さんに比べればまだラッキーなんじゃないですか」
「久山顧問と今井顧問は、やはり逮捕されるんでしょうか」
「多分、そうなると思います」
「お気の毒ですねぇ。きょう佐藤さんが体調をこわして休みましたが、久山顧問よりも佐藤さんのほうが参ってるみたいです」
「そう言えば、佐藤さんの顔を見ませんでしたねぇ。検察の尋問も堪《こた》えたんでしょう」
「わたくしも堪えました。佐藤さんよりわたくしのほうが神経が勁《つよ》いんでしょうか」
北野が時計を見ながら言った。
「横井さん、どこかで食事をしてから、帰りませんか。検察の尋問の内容も聞いておきたいし……」
「もう九時ですが、よろしいんですか」
「かまいませんよ。遅いのはなれっこですから」
「お言葉に甘えさせていただきます。十分お待ちいただけますか」
北野は、横井がロッカールームで帰り支度をしている間に、自宅と、西川≠ノ電話をかけた。
片山と西川≠ナ出前の鮨《すし》を食べたのは一昨日だが、西川≠ネら話をするのに都合がいいし、ほかに適当な店が思い出せなかったからだ。
「おとといと同じように、出前のお鮨を二人分お願いしてよろしいでしょうか」
北野がこわごわ切り出すと、西川の明るい声が返ってきた。
「どうぞどうぞ。お待ちしてます」
3
エレベーターの中で、きりっとした横井繁子のスーツ姿を前にして、北野はきまってるなぁ、と思ったが、口にはしなかった。
「秘書役の歓迎会を、まだしてませんでしたねぇ」
「それどころじゃないでしょう。頭取就任の挨拶《あいさつ》回りでさえ、必要最小限にとどめてるくらいですから」
「ほんとうに、なにからなにまで異常ですよねぇ。ACBはどうなってしまうのでしょうか」
「再生に向けて、力強く歩き始めたとわたしは思ってますけど」
「力強くですかぁ。そんな実感はありませんが。毎日が不安で不安で……。帰るときに、やっと一日が終わった、といつも思うんです」
タクシーがあっという間に銀座七丁目のコリドー街に着いた。
「いまから行く店は西川≠ニいうバーです。出前のお鮨を取ってもらいました。|MOF《モフ》(大蔵省)担の片山に二度連れてこられた店ですが、雰囲気があって良い店ですよ。カウンターだけのポケットマネーで行ける店です。横井先輩をお誘いするには、かったるいと思いますけど」
「とんでもない。わたくしは、赤ちょうちん風な気取っていないお店のほうが好きなんです。下町育ちのせいでしょうか」
「下町って、どこですか」
「下町も下町の小岩《こいわ》です。ご存じですか、江戸川区北小岩ですが」
「わたしの実家はすぐ隣の市川《いちかわ》ですから、よく存じてます」
「そうなんですか」
「階段が急ですから、気をつけてください」
北野はうしろを振り返って、手摺《てすり》をつかみ直した。
西川≠フカウンターに、客は一人もいなかった。
「お茶っ引きで終わってしまうかと心配してたところへ、北野さんから電話をいただいて、ホッとしました」
マダム兼ホステスの早智子からうれしそうに言われて、北野は肩をすくめた。
「まさか。そんなことは」
「そうでもないんですよ。当節不景気ですからねぇ。お客さまが一人もいらっしゃらないことがよくあるんです。ほんと首を吊《つ》りたくなりますよ」
マスター兼バーテンダーの西川は、深刻な話のわりには、目が笑っていた。
「きょうは片山さんはご一緒じゃないんですか」
「いつも片山とつるんでるわけじゃありませんよ。こちら同じ秘書室の横井繁子さんです」
「横井です。よろしくお願いします」
横井は西川夫婦に挨拶してから、北野のほうへ目を流した。
「名前まで覚えていただいて光栄です」
「どういたしまして」
西川が引っ張った声で言った。
「おきれいですねぇ」
「そりゃそうですよ。ミスACBですから」
「北野さん、お上手ねぇ。お世辞とはわかっていても、うれしいです」
「ほんと、おきれいですわ」
「早智子ママと、いい勝負ですかねぇ」
「わたしなんかを引き合いに出して、横井さんに失礼ですよ」
「年齢の差だけでしょう」
「今夜は奢《おご》らせていただきますよ。ねぇ、マスター」
「ううーん、いいでしょう。こうなったら、じゃんじゃん飲みましょうよ」
西川は大仰にアクセントを付けて言った。
「冗談じゃないですよ。たった一組の客に只酒《ただざけ》飲ましてたら、商売上がったりでしょう」
「それもそうですね」
「そうですよねぇ」
西川夫婦はいともあっさり前言をひるがえした。
ビールの中瓶を一本あけたところで、鮨の出前が届いた。
「マスターもママさんも、つまんでください」
北野は西川夫婦に気を遣ったが、二人とも遠慮して、鮨には手を出さなかった。
横井繁子が美しい横顔を北野に向けて、感慨深げに言った。
「バーでお鮨をいただけるとは思いませんでした」
「片山仕込みなんですが、わずか三度目でこういうわがままを聞いてもらえるのは、贅沢《ぜいたく》ですよねぇ」
「まったくおっしゃるとおりだと思います」
北野と横井が二本目のビールを飲みながら鮨を食べているときに、二人ずつ二組の客が立て続けにヘの字型の長いほうのカウンターに並んだ。
「われわれは話がありますから、かまわないでいいですよ」
北野は、西川と早智子に念を押してから、横井に訊《き》いた。
「ビールのあとはなにを飲みますか。わたしは水割りにします」
「わたくしも」
西川が素早くボトルを棚から取って、カウンターに出した。
「サントリーの響=A片山のボトルです。けっこう美味《おい》しいですよ」
「よろしいのかしら。わたくしがボトルをキープします。今夜は、わたくしに歓迎会をやらせてください」
「なにをおっしゃいますか。片山のボトルを空にしたって、文句は言われませんよ。片山には大きな貸しがあるんです……」
北野は、高級料亭とノーパンしゃぶしゃぶ≠ノまつわる貸しのいわれをかいつまんで横井に話した。
笑いながら話を聞いていた横井の面持ちが途中から、こわばった。
「北野さんも片山さんも、検察には苦労させられましたねぇ」
「それはお互いさまでしょう」
「そうですね。わたくしは、ほんとうに自殺したくなりました」
「自殺ですか」
「ええ。だって、検事に秘書室の裏金づくりの元凶呼ばわりされた上に、伝票と支出額の数字が合わないが、説明できなければ、おまえが着服したと見做《みな》す、とまで言われたんですよ」
「横領犯にされたんですか。それはひどい」
「わたくしは昭和六十二年から秘書室のお金を管理してきました。領収書を切ったり、いろんなかたちでお金の動きに関与してきましたが、着服したと決めつけるように言われたときは、頭がくらくらするほど悔しくって、しばらく口がきけませんでした」
「お察しします。わたしも企画部で裏金づくりに関与してるだろうって、言われましたよ」
「秘書室の予算は半期で一億七千万円ほどですが、個別の支出について、根掘り葉掘り訊かれました。たとえば、東京ドームのスウィートルームのチケット代は年間三千万円ですが、チケットの割り振りをどうしてるのかとか……。それから昭和六十二年十月に大物の政治家三人に五百万円ずつ政治資金を払った事実があるのですけれど、ほんとうに政治家に渡っているのか、裏金になってるんじゃないかって、しつっこく訊かれました」
「そんな旧《ふる》いことまで……」
北野は低く唸《うな》り声を発した。
「総務部からの依頼で絵画の購入支出が年間一千万円近く、何年か続いたことがありますが、そのことでも追及されました。わたくしの判断で、購入した絵画など一点もありませんが」
「検察は裏金づくりをしていると決めてかかってますから、始末が悪いですよねぇ」
「接待費、交際費の中で、課税、非課税の区分けをどうやっているのか、と訊かれても、わたくしは答えようがありませんよ。検察は伝票と請求書、領収書を細かくつき合わせてチェックしてるようですから、室長はきっとわたくし以上に大変だったと思いますよ」
北野も横井も、知らず知らずのうちに水割りウイスキーのグラスを重ねていた。
横井は華奢《きやしや》な体型に似合わず、アルコールに強い体質らしい。顔がほんのり染まっているが、言葉遣いも乱れず、姿勢も背筋を伸ばして、しゃんとしていた。
「検事にS≠フことも訊かれたんじゃないんですか」
「ええ。北野さんは、最高顧問が川上さんや小田島さんと親しい間柄だと供述されたんですか」
「いいえ。逆ですよ。わたしは否定しましたよ」
「ひどいわ。北野さんが、最高顧問と二人は懇意にしていると言ってるぞって……」
「なんという名前の検事ですか」
「沢崎検事です」
「わたしとは違いますねぇ。カマをかけられたんですか。ゆるせませんねぇ」
「…………」
「それで、横井さんはなんて答えたんですか」
「懇意にしていた時代もあると思いますって答えました。まずかったかしら」
北野はグラスを呷《あお》って、無理に笑顔をつくった。
「よろしいんじゃないですか。わたしは必要以上にS≠庇《かば》い過ぎたきらいがありますから、ちょっと修正していただいて、ちょうどよかったんじゃないでしょうか」
「それなら、よろしいのですけれど」
「それにしても、S≠ェ出頭要請に応じなかったのは最悪ですよ。特捜部の心証を相当悪くしたと思うんです」
「その点は、わたくしも心配です」
「もう一度電話をかけて、あした出頭するように言いましょうか」
北野は時計を見た。十時を五分回っている。
「それは、おやめになったほうがよろしいと思いますけど」
横井もちらっと時計に目を遣《や》った。
「門限はありますか」
「いいえ。わたくしは独り暮らしですから。北野さんはどうなんですか。そろそろ、おひらきにしましょうか」
「ご心配なく。わたしは大丈夫ですよ。ここのところ、いくらか楽になりましたが、秘書室に替わった当座は外泊が続きましたから、家内も慣れたものです」
「…………」
「口なおしに、ソルティドッグ≠いかがですか」
「いただきます」
横井は、いい返事をして、きれいな歯を見せた。
一組の客を見送って、店に戻ってきた早智子が、横井の隣に腰かけた。
「梅雨どきにしては、今夜はからっとしてるほうですねぇ」
「ええ。ママも、一杯どうですか。なんなりとどうぞ」
「北野さんはずっと水割りですか」
「最後にソルティドッグ≠いただきます」
「わたしも、ソルティドッグ≠いただきたいわ」
「どうぞ。なんでしたら、西川さんも」
「どうも」
早智子が北野の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「まだ密談は終わりませんの」
「終わりました」
北野が、横井と顔を見合わせながら答えた。
4
午後十時二十分過ぎに、北野と横井繁子は西川≠出た。
横井はしっかりしていたが、北野は足もとがおぼつかなかった。
「ちょっと過ごしましたかねぇ。横井さんはお酒が強いですねぇ。びっくりしました」
「父親譲りなんです」
「横井さんのお宅は芦花《ろか》公園でしたね」
「はい」
「タクシーを奮発しましょう。通り道なのでお送りします」
タクシーの中で、北野が長広舌をふるった。
「われわれは検察に攻められてますけどS≠はじめとするACBの先輩たちが、わけのわからぬいかがわしい人たちに与《くみ》してきたことは事実なんですから、咎《とが》めを受けて当然と思わなければいけないんじゃないでしょうか。検事のしつこさや強引さには怒りを覚えますけど、立場立場がありますからねぇ。もとよりACBだけが総会屋などの反社会的勢力に利益供与をしてきたわけではありませんが、小田島への融資は、あってはならないことだったと思うんです。いまACBは社会的制裁を一身に受けてますけど、その代わり、反社会的勢力と訣別《けつべつ》することができましたから透明度が上がり、クリーンになって、ほかの都銀よりずっとましな銀行になれるわけです。さっきACBは再生に向けて力強く歩き始めたって、言いましたけど、負け惜しみじゃありませんよ」
北野はアルコールのお陰でわれながら饒舌《じようぜつ》だと思ったが、どうにも止まらなかった。
「横井さんとはS≠フ関係を含めて同病あいあわれむような仲ですが、胸突き八丁でいまがいちばん苦しいときですけど、頑張るしかないと思うんです」
口をつぐんで、下ばかり向いていた横井が面《おもて》を上げた。
「北野さんはご立派ですわ。最高顧問に立ち向かっていく姿勢もそうですが、頭取に対して堂々とご自分の意見をおっしゃってますし、室長との接し方にしても、ほんとうに頭が下がります。北野さんは若い女性秘書たちの憧《あこが》れの的ですよ」
「皮肉に聞こえますけど。向こう見ずっていうか、後先を考えないところがあるんですよ」
「いいえ。若い女性だけじゃありません。佐藤さんも、わたくしも、北野さんのファンです」
「光栄です」
「佐藤さんは、久山顧問しか眼中になくて、久山顧問を理想の男性像として見ていたようですけれど、その佐藤さんが北野さんのことをやたら褒《ほ》めるんです。久山さんの若いころはきっと北野さんみたいな人だったとか、言ってましたよ」
「久山さんほど気配りする人を知りません。その点、わたしは餓鬼みたいなもので、久山さんの足もとにも及びませんよ。でも、横井さんや佐藤さんは、いろんな人をたくさん見てきたわけですから、そういう人に褒められれば悪い気はしませんよ。励みになります。至りませんが、今後ともご指導、ご教示のほどよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
横井が上体をひねって、頭を下げたとき、急カーブのせいで、躰《からだ》ごと北野のほうへ倒れ込んだ。
横井の胸が北野の右腕にもろにぶつかった。それは驚くほど弾力があった。
「ごめんなさい」
「大丈夫ですか」
北野は、横井を抱き起こした。
「運転手さん、そんなに急がなくてもいいですよ」
中年の目つきの悪い運転手は、返事をしなかった。
タクシーは、首都高速道路四号線を新宿に向けて疾走していた。道路はすいていたが、速度計は九十キロ近辺を指していた。明らかに飛ばし過ぎだ。
三十分足らずで、芦花公園のマンション玄関前に着いた。
「北野さん。降りてください。お茶を一杯差し上げます。ほんの十分か二十分です」
横井繁子の意外な申し出に、北野は口がきけないほど驚いた。
「お話ししておきたいこともあるんです」
「そうですか」
北野はボールペンでタクシーチケットに日時、料金などを書き込んで、運転手に手渡した。
運転手はとうとう最後まで無言を押し通した。
「感じの悪い運転手でしたねぇ。タクシーを乗り換えたほうがよろしいとも思ったんです。この辺はいくらでも拾えますから」
北野は、なんだ、そういうことだったのか、と苦笑を洩《も》らしながら、タクシーを探す目になったが、横井に手を取られた。
「どうぞ。ちらかってますが」
北野はドキッとして、思わず横井の手を振り払った。
横井が北野に背を向けて、玄関のドアをキイで開けた。
三階建てで外壁がレンガの瀟洒《しようしや》なマンションだ。
北野は、横井のあとから階段を昇って行きながら、横井がなにを話そうとしているのか、酔った頭で懸命に思案した。
独り暮らしの女性が深夜、男性をマンションに誘うのは尋常ならざることのように思える。
しかし、なにか重要な話があるとすれば、それも仕方がない。どうってことはない。たいしたことじゃない、と北野は無理矢理わが胸に言い聞かせた。
横井の部屋は二階の205号室だった。偶然とはいえ、桜ヶ丘の賃貸マンションと同じ部屋番号だったことで、北野は今日子の顔を目に浮かべざるを得なかった。妙な暗合に、北野はドアの前でたじろいだ。
「1LDKの小さなマンションですが、交通の便がよくて、ドア・ツー・ドアで一時間はかからないんです。さあ、どうぞ」
「失礼します」
北野はきょろきょろしながらリビングの小さなソファに腰をおろした。
「さすがに、きれいにしてますねぇ。全部フローリングですか」
「はい。二、三日お掃除をしないと、埃《ほこり》が目立ちますから、マメにお掃除をしてるんですよ。ちょっと蒸し蒸ししますねぇ。クーラーをつけます」
ソファの背の白い壁に額に入った二号と四号の版画が二枚掲げてあった。ひまわりと薔薇《ばら》である。
北野はソファから立ち上がって、版画を鑑賞した。
「いい絵ですねぇ」
「木下泰嘉というまだ若い版画家が描いたものです。わたくしこの人の花の版画が好きなんです。大胆な構図で、花を大きく浮かび上がらせてますでしょう。力強くて元気づけられるんです。寝室にも一点あります」
「ふぅーん。寝室の方は、遠慮しときましょう」
「そうですねぇ。北野さん、なにをめしあがりますか。お茶よりも、ブランデーかウイスキーのほうが……」
「ウイスキーの水割りをいただきます。薄めにしてください」
横井が、水割りウイスキーを手早くこしらえた。ウイスキーボトルは、バランタインの十七年ものだった。
チーズとクラッカーの小皿と小粒のチョコレートを入れたワイングラスもセンターテーブルに並んだ。
グラスを掲げながら、横井が言った。
「今夜はほんとうにありがとうございました。落ち込んでいたときに、お誘いいただいて、少し元気が出てきました」
「どうも」
北野が耳たぶを引っ張りながら、掲げたグラスに横井のグラスが触れた。
北野は、横井繁子と入れ替わりにトイレに入って、用を足しながら時計を見た。午後十一時四十分。リビングのソファに戻ると、二杯目の水割りウイスキーがこしらえてあった。
「そろそろおいとまします」
「もう一杯どうぞ」
北野は背広を脱いでワイシャツ姿になっていた。ネクタイを少しゆるめている。
横井はスーツのままだ。
横井が、グラスに手を伸ばしながら言った。
「寝室の版画も見ていただけますか」
大きな目で見つめられて、北野はどぎまぎした。
「寝室に入って、よろしいんですか」
「けっこうよ。どうぞ」
横井はもう腰をあげて、北野に背中を向けていた。
寝室は六畳ほどのスペースで、ベッドメーキングされていた。横井は几帳面《きちようめん》な性分とみえる。
「空気が籠《こ》もってるわ」
横井はひとりごちて、クーラーを入れた。
木下泰嘉の四号の版画はチューリップだった。
横井がベッドを椅子《いす》替わりにして、腰をおろした。
北野はそうもいかない。腕を組んで、版画に顔を寄せた。
「たしかに花の大きさに圧倒されますねぇ」
「ベッドにこんなふうに横になって、この絵を見るんです」
横井がベッドに躰《からだ》を仰向けに倒した。そして手枕《てまくら》をして壁の版画を見上げた。
「こうしてチューリップを見ていると、気持ちが落ち着いて、元気も出てくるんです。高価な版画ではありませんけれど、わたくしにとっては宝物です」
横井が躰の位置をずらして、甘やかな声で北野に呼びかけた。
「北野さんも、どうぞ」
横たわるスペースは充分あったが、北野はさすがに躊躇《ちゆうちよ》した。
心悸《しんき》が亢進《こうしん》し、鼓動が聞こえた。
「早くいらして」
「…………」
「ねえ、早く」
横井は上体を起こして、北野を手招きした。
北野は横井の隣に躰を横たえた。
横井が躰を倒して、目を瞑《つむ》った。
「ああ、いい気持ち。夢を見ているみたい」
「…………」
「抱いてください」
5
睦《むつ》み合ったあとで、ものうげに北野が訊《き》いた。
「話したいことって、このことだったんですね」
「ちがいます。こうしようと心に決めたのは、あなたがトイレに入っているときよ」
「話したいことって、なんですか」
「気持ちが変わったわ。話したくなくなりました」
「ぜひ聞かせてくださいよ。気になって、眠れなくなるじゃないですか」
横井は仰臥《ぎようが》の姿勢で、身もだえするように躰をよじってから、タオルケットを引っ張って、顔を隠した。
しばらく沈黙が続いた。
横井がタオルケットから顔を出して、北野に背中を向けた。
「さっき、タクシーの中でS≠フ関係を含めて同病あいあわれむ仲と、おっしゃいましたねぇ」
「ええ。言いました」
横井繁子は横臥の姿勢を変えなかった。
北野は仰臥していた。
「どういうことですか」
「S≠ゥら、なにか聞いてるんでしょ」
「いいえ。まさか、男女関係ではないんでしょう」
「そうよ。わたくしS≠フ愛人でした。ずいぶん昔のことですけれど」
横井が、北野に背中を向けたまま語り始めた。
「わたくしが短大の英文科を出て、ACBに入ったのは二十五年前です。本店の店舗開発部に配属されました。部長はS≠ナした。おかされたのか、納得ずくだったのか、いまとなってはよくわからないんです。入行して二年目の夏、ホテルで食事を誘われて……」
「こともあろうに部下の女性に手をつけた人がACBの幹部にいたとはショックです」
北野は顔が火照《ほて》った。佐々木のことを非難できた義理ではないと思ったからだ。
「えらそうに言えませんよねぇ。僕もS≠煬ワ十歩百歩ですよ」
「違います。ぜんぜん違いますよ」
横井が躰の向きを変えて、つづけた。
「あなたとS≠ニでは大違いですよ。あなたを誘惑したのは、わたくしのほうなんですから」
「ありがとうございます。気を遣っていただいて。S≠ニは何年ぐらい続いたんですか」
「三、四年でしょうか」
「そんなに。周囲の人たちに気づかれませんでしたか」
「多分。気づかれてたら、頭取になれなかったと思います。いまとは時代が違いますもの」
「横井さんが秘書室に移ったのはいつごろですか。ごめんなさい、検事みたいに、根掘り葉掘り……」
「いいんです。なんでも訊いてください。S≠ェ常務になったときですから、昭和五十二年ごろです。S≠ェ人事部長に話して、強引に」
「僕がACBに入行したのは昭和五十三年です」
「存じてます」
「あなたのほうから、S≠ニの関係を清算したんですか」
「縁談がありましたから。ACBの人にもプロポーズされました」
「当然でしょう。横井さんほどの女性が放っておかれるなんて、おかしいですよ。でも、どうして結婚しなかったんですか」
「S≠ェなんのかんの言って、邪魔をしたんです。あいつは出世しないぞ、もっとましなのを俺《おれ》が紹介してやる、とか……」
「身勝手もきわまれりですねぇ。やきもちを焼くのはわかりますけど。それにしては、S≠ヘ横井さんをよく解放しましたねぇ」
「青木さんと関係が生じたことがあると思います。S≠フ気持ちが青木さんに傾斜したんでしょうねぇ」
「青木伸枝ですか。会ったことあるんですか」
「いいえ。おきれいなんでしょう」
横井は、アクセントを付けた言い方をして、きっとした顔になった。
「昔はきっときれいだったんでしょうねぇ」
北野はことさらに、投げやり口調で言った。
青木伸枝に対する嫉妬《しつと》心は、義母の静子にもある。横井繁子にもそれに近い思いはあるのかもしれない。
「北野さんが秘書役になったとき、複雑な気持ちになりました。いまにして思うと、今夜のことを予感したのかもしれないわ。誘惑しちゃおうって、考えたんじゃないかしら」
「いまにして思うとですか。考え過ぎですよ。成り行きで、こうなっただけのことでしょう」
北野は、横井を食事に誘ったとき、下心があったろうか、と考えていた。あるわけがない――。
北野も横井繁子も、タオルケットをかけていたが、一糸もまとわぬあられもない姿で、ベッドに横たわっていた。
しかし、話に夢中で二人ともそのことを忘れていた。
北野は、横井繁子との房事のあとで、佐々木の話を聞かされるなんて、夢想だにしていなかった。
初めに、佐々木との関係を聞いていたら、自制心が働いていたに相違ない。そんな気持ちにはなれなかったろう。
横井との情事は今夜限りにしなければ、と北野はわが胸に言い聞かせた。
「横井さんは、恋人はいるんでしょ」
「いませんよ。誤解しないでくださいね。S≠ェこの部屋にあらわれたことはありませんし、親戚《しんせき》以外の男性では、北野さんが初めてです」
「ふうーん」
「このマンションを購入したのは、数年前です」
「…………」
「後悔してるのね」
「いや。そんなことはありませんよ。ほとんど夢心地です」
「嘘《うそ》ばっかり。莫迦《ばか》なことをしたって、顔に書いてあるわ」
横井に顔を覗《のぞ》き込まれて、北野は両手で顔をこすった。
「二度と誘惑したりしませんから、安心なさって」
「病みつきになったら大変ですよねぇ」
北野は、なにげなく枕もとに目を遣《や》ると、目覚まし時計の針が午前零時四十分を指していた。
「いけない。もうこんな時間ですか」
「一夜限りなんですから、泊まっていったらいかがですか」
「枕が替わると、よく眠れないんです」
「でしたら、ひと晩、語り明かすなり飲み明かすのも、悪くないと思いますけれど」
「あした、いや、もうきょうですが、総会前で忙しい一日になりそうですから、少しでも寝ておかないと。それに、今夜はホテルに泊まり込みですからねぇ。ワイシャツやら下着やらの準備もありますし」
北野は、萎縮《いしゆく》した下腹部を押さえながらベッドを脱け出し、急いで帰り支度にかかった。
「すっかり酔いが覚めてしまったわ。寝酒を一杯だけつきあってくださらない」
「もう充分いただきました」
「急に奥さんが恋しくなったのね」
「とっくに寝てますよ。僕の帰りを待っててくれるような、そんなしおらしい女じゃないですよ。なんせ、S≠フ娘ですから」
「でも、才色兼備の素晴らしいかたなんでしょ。S≠ェよく自慢してました」
「勝ち気なのは、父親譲りです。しっかりした良い女房とは思いますけど」
「S≠ヘ、お嬢さんのお婿さん候補を人事部長にピックアップするように命じていたことがあったわ」
横井がタオルケットを巻きつけた上体をベッドに起こして、話をつづけた。
「ACBの頭取候補と結婚させたかったんでしょうねぇ。それが、どこの馬の骨とも知れぬ高校時代のクラスメートを娘が勝手に決めてしまって、さぞ怒り心頭に発したんじゃないですか」
北野はネクタイを結び終えたので、ベッドの端に腰かけた。
「たしかに娘婿は俺の目に適《かな》った男じゃなければダメだって、話してたのを覚えてます。年齢も五歳ぐらい歳上がいいとか、いろいろ言ってました」
佐々木が寝物語に、今日子の自慢話を横井に話したことは想像に難くない。
若かりしころの今日子はまばゆいばかりに輝いていた。
ACBに就職が内定したとき、北野は親が悪過ぎると思ったものだが、だからといって今日子を諦《あきら》めることはできなかった。
「まだお話ししたいことがあるんです。リビングに移りましょうか」
「ここでお聞きしますよ」
北野はズボンのポケットに仕舞った時計を左腕に嵌《は》めて、腰掛け代わりのベッドの位置をずらした。
「室長から、わたくしのことでなにか聞いてませんか」
「いいえ」
「七月いっぱいでACBを辞めることにしました。けさ、室長に話したのですが」
「…………」
「疲れました。ACBは懲り懲りです」
「検察の事情聴取が堪えたんですね」
「S≠ニ顔を合わせるのも苦痛ですし」
「でも、免疫ができてるでしょう。いまごろ苦痛になるのは、おかしいですよ。それに、ACBを辞めなければいけないのはS≠フほうです。総会が終わったら、そういう動きが出てくると思いますけど、室長はなんて言ってました。横井さんに辞められるのは困るから、当然、慰留されたと思いますが」
北野にはリップサービスのつもりはなかったが、横井が首を左右に振った。
「秘書は若くなければ……。室長も六月二十七日付で、ポストが替わるようですねぇ。新しい室長に話してくれって、わたくしのことなんか眼中にないみたいでした」
六月二十七日付で、大幅な人事異動があることも、菅野秘書室長が審査部門担当の常務に昇格することも、北野は承知していた。
「ACBを辞めて、どうするんですか」
「外資系の銀行に再就職できそうなんです」
「セクレタリーで」
「はい」
「横井さんなら、カンバセーションはできますし、一級の秘書として外銀でも務まると思いますけど、ACBを辞めるのははっきり採用通知をもらってからにしたらどうですか」
「ありがとうございます」
北野は、横井の辞意を聞いて、言葉とは裏腹に、なにやらホッとしていた。
ありていを言えば、この先、横井と毎日顔を合わせるのは辛《つら》い。
「あなたが辞めたら、S≠ェ寂しがるんじゃないですか」
ひとこと多い、と北野も思ったが、横井は美しい顔をしかめた。
「逆ですよ。厄介払いができて、よろこぶでしょう」
「まさか」
北野がベッドから腰をあげた。
「横井さんは、ここにいてください」
「でも、ドアをロックしなければ」
「ああ、そうですねぇ。でも、僕が帰ってからにしてくださいよ。帰るのが厭《いや》になってもなんですから」
「帰心矢の如しなんでしょ」
「とんでもない。じゃあ、おやすみなさい」
北野は手を振りながら、寝室を出てリビングに移動し、背広に腕を通しながら、玄関へ向かった。
ドアをあけたとき、タオルケットをまとった横井が背後に立っていた。
「もう一度だけ、いらしていただけませんか。今夜ご馳走《ちそう》になったお返しをさせてください」
「どうも」
北野は曖昧《あいまい》にうなずいて、ドアをあけた。
「おやすみなさい」
横井が名残り惜しそうに身をこごめながら小さく手を振った。
タクシーはすぐに拾えた。
「裏を返すねぇ。それはないな」
北野はタクシーの中で、ひとりごちた。
ひとりにしておくのは勿体《もつたい》ないぐらい、いい女だ。断り切れるだろうか。
奇蹟《きせき》的に、身ぎれいにしてきた反動が出なければいいが。北野の気持ちは揺れていた。
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第十五章 株主総会
1
定時株主総会があすに迫った六月二十六日午後四時過ぎ、顧問弁護士を交えた最終打ち合わせ会が役員会議室で始まった。
ACBの出席者は、中山頭取、陣内副頭取ら経営会議のメンバー八名に、石井企画部長、松原広報部長、杉下本店管理部長、早崎総務審議室長、片山企画部次長、そして北野秘書役の十四名。
本番さながらのリハーサルは、すでに二回行なわれた。
第一回リハーサルは六月十六日、午前十時から十五階の大会議室で約百五十人の役職員が参加して行なわれた。
リハーサルを仕切ったのは総会対策プロジェクトチームのリーダー格の松原と早崎の二人だ。
午前九時五十分に、雛壇《ひなだん》の最前列に代表権をもつ中山頭取、陣内、矢野両副頭取、水島、白幡両専務らが着席した。一段高い二列目に常務以下の役員、三列目、四列目、五列目に企画、経理、広報、秘書のスタッフと顧問弁護士が固まって陣取ったが、北野は中山の背後に控えていた。
雛壇を見上げるかたちで、約百二十名の社員株主が整然と着席したが、早崎配下の総務審議室メンバーと旧総務部渉外グループの面々が総会屋役でふてくされたような姿勢で座っていた。
十時ちょうどに定刻を告げるブザーが鳴った。松原が雛壇|袖《そで》のマイクの前に立った。
「ただいまから第三十五期定時株主総会の第一回リハーサルを開催します。特殊株主役に扮《ふん》した面々から激しいヤジや厳しい質問が発せられますが、本番を想定した上での演技ですから、ご容赦願います。それでは、頭取、お願い致します」
中山が緊張した面持ちで起立した。
「おはようございます。頭取の中山でございます。本日はお忙しい中をご出席いただきましてまことにありがたく、厚くお礼申し上げます。ただいまから第三十五期定時株主総会を開催致します。定款第十二条の定めによりましてわたくしが議長を務めさせていただきます。なお、本総会につきましては、開かれた総会と致したく、報道関係のかたがたに対しまして別室でモニターテレビにより公開しております。モニターテレビの映像は、議長席、役員席のみを映しておりまして、株主様の映像は撮影しておりません。なにとぞご理解賜りますようお願い申し上げます……」
中山の声はうわずりがちだった。初体験なのだから緊張するなというほうが無理な注文だが、リハーサルでこれでは、本番が思い遣《や》られる。心配する北野も少しドキドキしていた。
「中山! おまえなにをびくびくしてるんだ! やましいことでもあるのか! もっとしっかり話さんか!」
早くもヤジが飛んだ。旧渉外グループの面々にとって、最後のご奉公でもあったから、気合いが入っていた。ダミ声でドスも利いている。
「小田島がおらんと、ろくに総会もでけんのか!」
二人目のヤジも強烈だった。
中山の顔が朱に染まった。
何回かの打ち合わせで、リハーサルのシナリオは知悉《ちしつ》していたが、総会屋役のヤジや不規則発言までは知らされていなかった。
「ご静粛に願います。それでは本総会にご出席いただいております株主様およびその議決権行使株式数を事務局より発表させていただきます」
事務局の発表をふまえて、中山が「いずれの議案も有効にご決議願えることになります」と発言し、営業報告書について説明し始めたとき、会場から不規則発言が発せられた。
「ちょっと待たんか! その前に小田島と関係した役員は起立しろ!」
総会屋役の旧総務部渉外グループの調査役を議長席の中山が睨《にら》みつけた。
「小田島氏と関係のある役員は、一人もおりません」
「常務以上の役員は一人ずつ起立して、名前を名乗ってから、小田島を知ってるかどうか、小田島と会ったことがあるかどうか、答えろ! おまえからやらんか! 愚図愚図せんと、早くやれ!」
議長席の三メートル前まで進み出た総会屋役に指差されて、中山は照れ笑いを浮かべた。
「参ったなぁ」
「参っただと! でれでれせんと真面目《まじめ》にやれ!」
総会屋役が中山に接近し、背広の襟元をつかんだ。のけぞった中山の眼鏡がずり落ちる。
次の瞬間、北野が中山と総会屋の間に割って入っていた。
「なにをするか!」
北野はわれを忘れて、総会屋役のネクタイをつかんでいた。
「演技演技、演技ですよ」
「どうも」
北野もすぐに自分を取り戻したが、バツの悪さといったらなかった。
雛壇の中から、声がした。
「このハプニングは迫真の演技で、見ごたえがありましたねぇ」
石井だった。石井は会場後方に控えている早崎を手招きした。
「ここまでやったほうがいいですかねぇ」
「よろしいんじゃないですか。本番で、中山頭取が特殊株主につかみかかられるようなことは、おそらくないと思います。即逮捕ですから。しかし、万一ということも想定しなければなりません。リハーサルでは北野秘書役が飛び出しましたが、万一の場合はSPが特殊株主を取り押さえることになります」
中山が早崎に訊《き》いた。
「小田島を知ってるかどうかの質問はどうかねぇ。そんな質問は出ないと思うが」
「小田島絡みのいやがらせは充分予想されますから、リハーサルでもやっておきましょう」
早崎は中山から総会屋役に目を転じた。
「きみ、続けてください」
「はい」
総会屋役は、席に戻って大音声《だいおんじよう》を発した。
「中山! 起立!」
中山が仏頂面で腰をあげた。
「おまえは、小田島と面識はあるのか」
「まったくございません!」
「まず名前を言わんか!」
「中山でございます。小田島と会ったことはありません」
中山が座って、陣内が起立した。
「陣内です。小田島氏と会ったことなど一度もない。つい最近まで、名前も知らなかったからねぇ」
「なんだ、その態度は! 立場をわきまえろ! 礼儀正しくやらんか!」
「小田島氏とは面識はございません」
「でたらめ言うと承知せんぞ! おまえ、小田島を知らんのか。飯ぐらい食ったことがあるんだろうや」
「冗談じゃない!」
「おまえ! 態度がでか過ぎるぞ!」
別の総会屋から、ヤジが飛んだ。
「陣内! 真面目にやれ!」
「小田島氏と食事したことなどございません。ごく最近まで名前も知らなかったくらいです」
「矢野です。小田島氏は存じません」
「水島です。存じません」
「白幡でございます。小田島氏と面識は一切ございません」
常務たちも次々に起立して、「存じません」「知りません」「面識はありません」などと答えた。
三人目の総会屋役が質問した。
「千久≠ノ対する巨額融資が不良債権化しているようだが、何故、そんな所への貸出しが増えているのか」
中山は顔をしかめながら、起立した。
「個別企業の質問はご容赦願います。守秘義務との関係もございますので、ご理解賜りたいと存じます」
「千久≠特別優遇してるのは事実なのか。そのぐらい答えたらどうなんだ!」
「取引先の一つに過ぎず、特別優遇していることはございません」
「その答弁は事実に反しないか!」
総会屋役はなおも食い下がった。
中山は木で鼻をくくったように答えた。
「事実です」
「千久≠フ貸出残高について、教えろ」
「個別企業については、ご容赦願います」
「ACBの不良債権はどのくらいあるんだ」
「すでにご案内のとおり約一兆二千億円でございますが、この中には回収可能な債権も含まれております」
「不良債権をふくらませた責任は感じてるのか」
「責任を痛感しております」
「だったら土下座してあやまれ! おい! 陣内! てれてれ笑ってるんじゃねぇ! おまえ、それでも詫《わ》びてるつもりか! 土下座して株主にあやまったらどうだ!」
ヤジが飛び交った。
「お詫びの仕方が足りんぞ!」
「反省が足りん!」
「中山も陣内も、責任取って辞めろ!」
現執行部を庇《かば》う与党的総会屋役も存在した。
「中山も陣内もよく頑張ってるじゃねぇか。表彰ものだろうが」
「そうだ! そうだ!」
中山がヤジに負けないほどの大声を発した。
「ほかの株主様、ご質問ございませんか」
「議長!」
「どうぞ」
「辞任した会長、頭取、専務に対する退職金はどうなってるのか。ACBのために苦労したんだから、払ってやったらどうなんだ」
「なにぶんにも未検討事項でございますので、お答えしかねます」
中山は会場を見回す余裕が出てきた。
「ほかにご質問はございませんか」
「警察庁から相談役として受け容《い》れていることはあるのか!」
「一切ございません」
「昔はあったんじゃないのか」
「相談役で警察庁から当行にいらしたかたは、過去にもございません。当行は相談役制につきましては、のちほど議案として廃止することでお諮りさせていただきますが、今回の不祥事以降、運用を停止しております」
総会屋役が質問を変えた。
「ACBは、大蔵省の接待予算を年間どの程度計上しているんだ」
「わたくしからお答えします。特別に予算を計上していることはございません」
「青天井っていうことなのか」
「情報交換などのために、監督官庁と会食することはございますが、必要に応じてということで、過剰接待はないと聞いております」
「誰も過剰接待とは言っておらん。|MOF《モフ》担の交際費は、どのくらいあるんだ」
「把握しておりませんが、リーズナブルなものだと承知しております」
中山の答弁を聞きながら、北野は思わず片山を探す目になっていた。
片山は、北野の後方に座っていたので、目が合うことはなかったが、北野は片山の仏頂面が目に見えるようだった。
六月十九日の第二回総会リハーサルは、いっそう綿密、念入りに進められた。
第一回は開かれた総会、マスコミ公開を意識し過ぎた結果、社員株主の拍手や議事進行≠ェ極端に抑制された。しかし、怒号や不規則発言で収拾がつかなくなったときのことを考えて、必要最小限の議事進行≠ヘあってもよいのではないか、とする意見も少なくなかった。
その判断は進行役の松原広報部長にゆだねられた。
招集通知書に印刷されてある第三十五期営業報告書も全文、中山頭取が読み上げた。
所要時間を計るためだが、営業概況の説明から始まる報告事項関係で約二十分を要した。この間、二度にわたって、スタッフを含めた雛壇の全員が一斉に起立し、株主に向かって最敬礼した。
中山が不祥事と営業損失に触れたときだ。
決議事項のうち、第一号議案は第三十五期利益処分計算書案承認の件、第二号議案は相談役制廃止に伴う定款一部変更の件、第三号議案は取締役十七名選任の件、第四号議案は監査役二名選任の件、第五号議案は退任取締役および退任監査役に対し退職慰労金贈呈の件となっていた。
従来の総会では、議長が「議案の審議に入らせていただきます」と宣言した瞬間、終了したも同然だった。議案は異議なし∞議事進行≠ニ拍手で、無事終了すると相場が決まっていたからだ。
しかし、ACBは開かれた総会を標榜《ひようぼう》し、マスコミにモニターテレビで公開している手前もあり、議案ごとに質問を受けざるを得ないので、リハーサルでもこの点は時間をかけた。
たとえば第三号議案で、総会屋役に次のような質問をさせた。
「四十人も壇上に並んでるが、取締役は多すぎるんじゃないのか。改選、新任を含めて十七名も選任する必要があるのか、聞きたい」
これに対する中山の答弁はこうだ。
「当行は従来四十名の取締役がおりましたが、八名減らしまして、三十二名体制で業務を執行しております。当行の企業規模ならびに広範多岐にわたる業務執行状況を考えますと現在の経営体制で臨む必要があろうかと考える次第でございます」
総会屋役はこれであっさり引き下がることはなかった。
「業務執行役員制度について検討すべきではないのか。役員は五名の代表取締役だけで充分と思うが」
「業務執行役員制度につきましては、今後の経営課題として検討を進めて参りたいと存じております。貴重なご意見をありがとうございました」
第五号議案でも然《しか》りだった。
「退任する取締役と監査役は全員自発的に退職慰労金を辞退したらどうか。今回の不祥事、赤字決算を考えたら、経営責任上もそれが当然と思うが」
「平均二四パーセントもの大幅な役員報酬をカットしております。どうかそうした事情をご賢察いただきまして、ご理解賜りたいと存じる次第でございます」
与党総会屋役が大声を放った。
「議長一任!」
松原の合図で、社員株主の拍手が起こった。
「株主の皆様のご賛同をいただき、本議案は議決権行使書面を含めまして賛成多数と認められますので、承認可決されました。ありがとうございました。これをもちまして、第三十五期定時株主総会を閉会させていただきます」
第一回は二時間十五分、第二回のリハーサルは二時間三十五分を要した。
2
総会で想定される質問事項をチェックする最終打ち合わせ会が始まって一時間半が経過した。
時刻は午後五時三十分。
中山頭取が進行役の松原広報部長に目を向けた。
「二回のリハーサルはいずれも所要時間が二時間をオーバーしたが、本番でもそんなにかかるのかねぇ」
「あす二十七日の集中日に開催される株主総会は過去最高の二千三百五十社余といわれますが、ACBのマスコミの注目度は断トツと思われますし、数多《あまた》の質問にも丁寧に答弁する必要がありますから、三時間は覚悟していただかないと……」
松原はにこりともせずに話をつづけた。
「社員株主の議事進行∞異議なし≠ヘ、できればゼロにしたいと思ってます。二回目のリハーサルのビデオをチェックしましたが、社員株主の議事進行∞異議なし≠ェ多すぎたことを反省しました。拍手も、一般株主から自然に出ることを期待したいですねぇ。マスコミがモニターテレビで監視していることを肝に銘じておくべきだと思います」
「一般株主からの拍手なんて、ないものねだりだろう」
陣内副頭取の一瞥《いちべつ》を撥《は》ね返すように、松原が初めて頬《ほお》をゆるめた。
「ところが、さにあらずです。ACBのゆくすえが心配で心配でならないOBが、けっこう総会に出席してくれそうなんです。通常なら白紙委任状なんでしょうが、非常時の総会ということで、多忙の中をわれわれ後輩を激励してやろう、と出席の回答を寄せたOBが三十人ほどおります」
「ほう、三十人も。奇特なOBもおるんだねぇ」
陣内が右隣の中山のほうへ首をねじった。
「われわれは俎《まないた》の上の鯉みたいなもので、じたばたしても始まらんでしょう。殺されるわけでもないでしょうが、マラソン総会は覚悟しましょうよ」
「そうねぇ」
中山は、ひとうなずきして、まっすぐ松原をとらえた。
「千久≠フ関係で質問が出るのかねぇ」
「出ると思います。特殊株主で、予告してきているところがありますから」
「参ったなぁ」
中山の憂鬱《ゆううつ》そうな顔を見ながら、北野は中澤が検察の逮捕前日に『中山頭取なら木下社長と訣別《けつべつ》できるんじゃないか』『わたしが懸念していると、中山頭取に伝えてください』と話したことを、中山に話すのを忘れていたことを思い出していた。
中山の口ぶりから推して、千久≠ノ立ち向かおうとする気概が感じられなかった。
『ACBにとって最大の課題』とも中澤は言ったが、中山は千久*竭閧ゥら逃げようとしているのだろうか。
会議終了後、中澤のことづてを中山の耳に入れよう、と北野は思った。
「リハーサルどおり個別企業の問題は答えられない、でいいじゃないですか」
陣内に気楽に言われて、中山は渋面をあらぬほうに向けた。
中山がなにか言いかけたとき、ノックの音が聞こえ、秘書室の若い女性秘書がドアをあけて、こわばった顔をこっちに向けて一礼した。
「失礼します。北野秘書役にちょっと」
女性秘書は、北野に接近し、メモを手渡した。
専従班の藤木さんが至急お目にかかりたいそうです≠ニメモにあった。
北野は顔色を変えて席を立ち、廊下に出た。
役員会議室の前で、藤木が待っていた。
「会議中にどうも」
「いいえ。なにか」
北野は気が急《せ》いて、藤木に用件を促した。
藤木は間延びした長い顔をわずかにしかめて、腕組みした。
「久山顧問と今井顧問に東京地検特捜部から呼び出しがかかりました。久山顧問は、あす六月二十七日午後二時、今井顧問は同日午後三時です」
予期されたこととはいえ、北野は顔から血が引いていくのを覚えた。寒けで背筋がぞくっとした。
「お二人には伝わってるんですか」
「ええ。お二人ともパレスホテルにいらっしゃいました。電話でお伝えしましたが、淡々としてましたよ」
「そうですか。頭取はじめ、経営会議のメンバーは全員この会議に出席してますから、お伝えしておきます」
「…………」
「マスコミに嗅《か》ぎつけられますかねぇ」
「検察から伝わることはないと思います」
「どうしてですか」
「久山顧問は八王子《はちおうじ》で、今井顧問は芝《しば》の別館に出頭を求められてます。要人ということで、特捜部も配慮してるんじゃないでしょうか」
「どうも」
背を向けた北野を藤木が呼びとめた。
「北野さん」
「はい」
北野が振り返ると、藤木は厭《いや》なものでも見るような目をくれた。
「佐々木最高顧問のご容態はそんなに悪いんですか」
「入院したくらいですからねぇ。横井さんがきょう入院先に行ったはずですから、横井さんに聞いていただけませんか」
佐々木が御茶ノ水の医大附属病院に入院したのは、きょう六月二十六日午後のことだ。
「北野さんはお父さんのお見舞いに行かれないんですか」
「行きません。行く時間もありませんし。最高顧問の診断書は、専従班に届いてませんか」
「届きました。特捜部に提出してあります。二週間の入院安静を要するということですが、特捜部の検事に、そんなにひどいのかと訊《き》かれたものですから」
「どうも。連絡ありがとうございました」
北野は、泡立つ気持ちを抑えて、藤木に低頭した。
会議室に戻った北野に、中山が訊いた。
「どうしたの」
「はい。久山、今井両顧問に、東京地検特捜部から、あすの午後出頭するよう要請してきたそうです」
北野の声が掠《かす》れて、聞き取りにくかったのか、中山が訊き返した。
「なんだって、もう一度たのむ」
北野が生唾《なまつば》を呑《の》み込んで、低音で繰り返すと、会議室の空気が一瞬凍りついた。
中山が天井を仰いで、うめくようにひとりごちた。
「来るべきものが来たっていうことか。それにしても、総会当日にねぇ」
「せめて総会の翌日にしてもらいたかったなぁ。検察に、惻隠《そくいん》の情を求めるのは筋違いとは思うが」
陣内は眼鏡を外して、右手で眉間《みけん》をつまむような仕種《しぐさ》をしながら、ひとりごちた。
「ちょっと、よろしいですか」
北野が起立して、発言した。
「専従班の話では、久山顧問は八王子、今井顧問は芝公園の別館に出頭することになっているようですので、検察からマスコミに伝わることはない、とのことです」
「逮捕されたら、どうなるんだ。マスコミに伝わるに決まってるだろうが」
陣内からささくれだった声で咎《とが》めるように言われたが、むろん北野は言い返せなかった。
「まさか即日逮捕なんてことはないでしょう」
「岡田さんの前例もあるからねぇ」
矢野、陣内両副頭取のやりとりを聞いていて、北野の厭な予感が募った。
「久山、今井両先輩のことは気が重いが、いかんともしがたいねぇ。ま、あすの総会を乗り切るために、今夜は体力を温存するとしますか。それでは総会打ち合わせ会を終わります。ご苦労さまでした」
中山が一同を見回して、閉会を宣し、打ち合わせ会は終了した。
北野が時計を見ると六時四十分過ぎだった。
「ちょっと、寄ってもらおうか」
「はい」
役員室を退出するとき、中山のほうから北野に声をかけてきた。
頭取室のソファで、中山と北野が向かい合った。
「陣内副頭取も言ってたが、あす久山さんと今井さんが逮捕される可能性は高いんだろうねぇ。そうなったらお詫《わ》びの記者会見をやらざるを得ないかなぁ」
「はい。三度目ですが、記者会見を要求されることは間違いないと思います」
「どうお詫びすればいいのかねぇ。同じ言葉の繰り返しで、いいんだろうか」
「つい最近まで会長、頭取職にあった人の逮捕ともなれば、マスコミのACBバッシングは凄《すご》いことになると思います。ひたすら頭を下げて、お詫びする以外にないんじゃないでしょうか。言葉もない、というところだと思います」
「きみ、ステートメントを考えておいてくれないか」
「承知しました」
北野は居ずまいを正した。
「先刻、打ち合わせ会で、千久≠フことが話題になりましたが、中澤さんが逮捕される前日、ぜひ頭取に伝えて欲しいとわたしに託されたことがあります。千久≠ニの関係が気がかりだと中澤さんは申され、中山頭取なら木下社長と訣別できるんじゃないか、と期待している、ACBにとって最大の経営課題だとも、中澤さんはおっしゃいました。頭取にお伝えするのを忘れていて申し訳ありません」
中山は激しく表情をゆがめて、吐息を洩《も》らした。
「訣別できるものなら、そうしたいが、相手は相当手ごわいからねぇ。川上も小田島も、ACBにとって呪縛《じゆばく》だったが、千久≠フ呪縛も相当なものだ。千久*竭閧ヘ、中澤さんもそうだが、旧C側は簡単に考え過ぎているきらいがあるような気がするが」
「呪縛ですか」
「旧Aが引きずってきた問題だが、いまやACB全体が千久≠ノ汚染されている。陣内副頭取は若いころ千久≠ノ出向してるから、ノスタルジアめいたものがあるらしい。わたしが千久≠ニ訣別すると言い出したら、それこそ躰《からだ》を張って反対するんじゃないかな。ヘタに動くと、返り血を浴びるだろうねぇ」
「しかしこのまま千久*竭閧放置しておいて、よろしいのでしょうか」
「わたしも、いいとは思わんよ。総会後、木下社長に挨拶《あいさつ》に行くべきだと陣内副頭取は言ってるが、どうしたものかねぇ。頭が痛いよ。千久*竭閧ヘ、いま考える気にはなれないな。総会を乗り切ったら、ゆっくり考えさせてもらうよ。北野の意見も聞かせてもらおうかねぇ」
中山が話題を変えた。
「佐々木最高顧問の容態はどうなの。入院したと聞いたが」
「二週間の安静を要するということですが」
「そう。あすわたしの名前でお見舞いの果物でも病院に届けてもらおうか」
「そこまではよろしいでしょう」
「どうして。入院したことを聞いてて、しらんぷりもできないよ」
北野は「仮病です」と言い出しそうになって、耳たぶを引っ張りながら、その言葉を呑み込んだ。
3
六月二十七日金曜日の早朝、東京地方は抜けるような青空がひろがっていた。梅雨時にしては、空気も乾燥している。
北野は、六時に目覚ましをセットしておいたが、三十分も早めに目が覚めてしまった。昨夜は十一時に就眠した。
夢ばかり見て眠りが浅かったように思えるが、気のせいかもしれない。深酒したが、頭は重たくなかった。
ルームサービスの朝食を摂《と》って、丸ノ内ホテルを出たのは七時二十分。五分足らずで、ACB本店ビルに着いた。
北野は正面玄関の前に立ち、腕組みして、ビルを見上げながら、総会が無事に終えることを祈った。
「おはよう」
振り向くと、総務審議室長の早崎が三人の部下を従えて、北野の背後に立っていた。
「やぁ、おはよう。早いねぇ」
「ひと回りしてきたところだよ。目下のところ異常なしだ」
「ご苦労さま」
北野は後輩の三人と目礼を交わしながら、つづけた。
「あと二時間足らずで、本店ビルは喧騒《けんそう》に包まれるわけだねぇ」
「うん。千人は押しかけるだろうな。通常の二倍ってとこか」
「警備のほうは大丈夫なの」
「警視庁と所轄の丸の内警察署から、二十人の私服刑事が動員されるし、機動隊まで出動してくれるらしいから、万全の警備態勢ってとこなんじゃないかな」
「機動隊?」
北野は甲高い声で訊き返した。
「不測の事態に備えて、本店ビルを警護してくれるんだってさ」
「ふぅーん。ものものしいっていうか、仰々しいっていうか、ちょっとやり過ぎなんじゃないのか」
「法治国家の威信にかけて、警察は反社会的勢力からACBを守ってくれようとしているわけだよ。文句を言えた義理じゃないだろう。反社会的勢力と闘ってるACBを警察は評価してくれてるわけよ」
「なるほど。しかし、デモ隊に包囲されるわけでもないだろう」
「右翼の街宣は、近寄れないだろうな。街宣を締め出す効果はあるんじゃないか」
事実、総会開催中に、機動隊が隊列を組んでACB本店ビルの周囲を巡回し、一般歩行者の目を見張らせることになる。
月光仮面のおじさんは……
スピーカーのボリュームを一杯に上げて、ACB指弾のビラを撒《ま》く、月光仮面姿の面妖《めんよう》な男が出現するに及んで、ACB本店周辺は長時間、喧騒に包まれた。
会場はACB本店ビル一階にある講堂だが、午前九時を過ぎたころから、受付前に長蛇の列ができた。
特殊株主は服装でそれとわかる。これみよがしにクリーム色か白色の派手なスーツをまとっている。爪先《つまさき》の尖《とが》ったエナメル革のシューズを履いているのも一様だ。中にはパンチパーマもいる。
この日、ACBの株主総会に顔を出した総会屋は十三名だった。かれらが列に並ぶことはあり得ない。大勢の株主を押しのけかき分け前方に進み出てくる。
総会屋たちも一般株主同様に議決権行使書を受付に呈示してから、入場する。
警視庁暴力団対策課のベテラン刑事が二人受付で待機していた。
「おうっ」
刑事に声をかけられた大物総会屋がバツが悪そうに応じた。
「どうもどうも」
「どうもって、あんたみたいな大物が、わざわざ来るのかね」
「歴史的な総会を見届けたいと思いましてねぇ」
大物総会屋は頭を掻《か》きながら、のたまった。
「迷惑かけたらいかんぜ」
「静かなもんですよ」
ベテラン刑事と大物総会屋は旧渉外グループ調査役の案内で、肩を並べて会場内へ入った。
午前九時五十分までに中山頭取を除く役員スタッフが所定の雛壇《ひなだん》に着席した。
むろん北野もスタッフの一人だが、椅子《いす》席からはみ出した後方立見席もいっぱいで、人いきれでむせ返るようだった。
十時を告げるブザーが鳴りやむと同時に、進行役の松原広報部長が雛壇の右袖《みぎそで》のマイクの前に立った。
「おはようございます。朝日中央銀行広報部の松原でございます。ただいま十時になりましたので、これより定時株主総会を始めさせていただきます。それでは、頭取、お願いします」
中山が緊張し切った顔で、目礼しながら、雛壇最前列中央の議長席に着いた。
「おはようございます。頭取の中山でございます。本日は、お忙しい中をご出席賜りまして、まことにありがたく、厚くお礼申し上げます。ただいまから朝日中央銀行の第三十五期定時株主総会を開催致します。定款第十二条の定めによりまして、わたくしが議長を務めさせていただきますが、本総会の模様につきましては、開かれた総会と致したくマスコミのかたがたに対して、別室でモニターテレビにより公開致しております。モニターテレビの映像は、議長席、役員席のみを映しておりますので、株主様の映像は映りません。なにとぞご理解賜りますようお願い申し上げます。議事運営につきましてお願い申し上げる次第でございますが、株主の皆様からのご質問につきましては、報告事項ならびに監査役からの監査報告終了後にお受けさせていただきたいと存じますので、どうぞ株主の皆様方のご理解とご協力を賜りますよう、伏してお願い申し上げます。それでは、本総会にご出席いただいております株主総数およびその議決権株式数を事務局より発表させていただきます」
中山は一気にメモを読み上げた。相当な早口である。メモから面《おもて》を上げた中山の表情がこわばっていた。
声も掠《かす》れている。中山が上がっていることはスタッフ席の北野にも痛いほどよくわかった。
北野は、ゆっくり話してください≠ニ書いたメモをさりげなく中山に差し出した。
スタッフの一人が事務局発表をしている最中だったので、北野の動きは誰にも気づかれずに済んだ。
メモに目を走らせた中山が背後を振り向いた。うなずき返してきた中山の表情に心なしか余裕が感じられ、北野は頬《ほお》をゆるめた。
事務局発表を受けて、中山が発言した。
「本総会の目的事項のうち第二号議案、定款一部変更の件の決議につきましては、発行済み株式総数のうち、議決権を行使することができる株式総数の過半数にあたる株式を有する株主様のご出席が必要となります。また、第三号議案の取締役十七名選任の件、および第四号議案の監査役二名選任の件、第五号議案の退任取締役ならびに退任監査役に対する退職慰労金贈呈の件につきましては、発行済み株式総数のうち、議決権を行使することのできる株式総数の三分の一以上にあたる株式を有する株主様のご出席が必要となりますが、ただいま事務局より発表致しましたとおりでございますので、いずれの議案とも有効にご決議願えることになります」
中山はメモから顔を上げて、会場をゆっくり見回した。
中山がいくぶん落ち着きを取り戻した、と北野の目にも映った。
「それでは議事に入らせていただきます。まず会議の目的事項のうち、報告事項と致しまして、平成九年三月三十一日現在の貸借対照表、第三十五期平成八年四月一日から平成九年三月三十一日までの損益計算書および営業報告書の内容につきまして、ご報告申し上げます……」
中山が営業概況を報告しているときに、雛壇の役員、スタッフ全員が起立して、株主に対して黙礼する場面がリハーサルどおり二度あった。
一度目は「今回の不祥事により当行の元役員および現職の役職員が商法違反の容疑で検察当局に逮捕され、社会から厳しい批判を受けております。信用を基盤とし、健全性、公共性を第一義に考えなくてはならない銀行にとりまして、痛恨極まりない事態であり、株主の皆様に多大なご迷惑とご心配をおかけしましたことを、あらためて心よりお詫び申し上げます」のくだりである。
そして、二度目は「当期の決算につきましては、前期を上回る貸出金等の償却、引当てを実施することと致しました結果、まことに遺憾ながら損失を計上致しましたことに対しまして、株主の皆様にはまことに申し訳なく、深くお詫び申し上げる次第でございます」のときだ。
営業報告書を読み上げる中山の声がいっそう落ち着いてきた。
「続きまして、当行が対処すべき課題についてご説明申し上げます。まず、第一はコンプライアンス体制の強化でございます。当行が不祥事の再発防止に万全を期するは当然でございますが、清冽《せいれつ》で透明性の高い経営を長期間にわたり確保することを目指しまして、経営組織の刷新、コンプライアンス体制の向上のために不断の努力を続けてまいる決意でございます。第二は不良債権問題の早期解決であります。厳しい状況下にありますけれども、不良債権発生の未然防止に努めますとともに、発生した不良債権の回収に一段と注力することによりまして、資産構造の改善を早期に実現する所存であります。第三は経営の合理化、効率化の推進でございます。すでに発表致しましたが、人員および店舗の削減を着実に進めまして、コストを大幅に圧縮し、高収益体質を実現してまいります……」
報告事項が終わりに近づくにしたがって、特殊株主の私語やヤジが多くなった。
「議事進行! その辺でいいんじゃないの」
「ご苦労さまでした!」
「お待たせしました。質疑に入らせていただきます!」
中山は、揶揄《やゆ》的なヤジに動じることなく、営業報告書を読み切って、面を上げた。
「それでは、監査役会の監査報告につきまして、監査役からご報告願います。監査役どうぞ」
白髪の男が起立した。
「常勤監査役の広瀬でございます。当行の監査役会は、各監査役から監査の方法と監査の結果について報告を受け、協議致しました。その結果につきまして、監査役全員の合意により、わたくしからご報告申し上げます。第三十五期営業年度にかかわる監査の方法および結果につきましては、お手元の招集通知書に掲載致しました監査役会の監査報告書の謄本どおりでございます。次に本日の株主総会に提出されました議案および書類につきましては、法令および定款に適合しており、指摘すべき事項はございません。以上、ご報告申し上げます」
広瀬が着席し、中山が起立した。
「以上で、報告事項を終わらせていただきます。それでは、ただいまから質疑に移ります……」
北野は生唾《なまつば》を呑《の》み込んで深呼吸した。いよいよ本番である。
4
「ご質問のある株主様は、恐れ入りますが、わたくし議長がご指名申し上げますので、お近くのマイクで出席番号をお知らせいただいたうえ、ご質問ください」
中山が株主席に目を投げて、声を励ました。
「それではご質問のあるかた、いらっしゃいますでしょうか」
何人かの手が挙がった。
中山が、真っ先に挙手した一般株主の中年の男を指差した。
「どうぞ」
「二十七番です。朝日中央銀行の株価は本日九時三十分現在一千五百五十円です。わたしの購入時の株価よりかなり下がったが、株安の原因として膨大な不良債権を抱えていることがあるように思われます。とくに暴力団などの反社会的勢力がからんでる不良債権は回収が困難とされてますが、こうした不良債権はどのくらいあるんでしょうか」
「お答えします。ご案内のとおりすでに当行は不良債権を公表しておりますが、約一兆二千億円でございます」
雛壇で北野は思わずぎゅっと目を瞑《つむ》った。
「暴力団関係の不良債権がそんなにあるんですか」
突然、総会屋が三人も起《た》ち上がった。
「バッカヤロウ! おまえなにやってんだ! しっかりしろ!」
「中山! おまえ、気はたしかか!」
「おい! 陣内! おまえが議長を代わってやれ!」
私服刑事が数人すぐ近くに立っていたが、総会屋の地が出てしまうというべきか、血が騒ぐのか、かれらは中山のミスを見逃さなかった。
「し、失礼しました。ご質問を取り違えました。一兆二千億円は不良債権の総額でございます。株主様のご質問は、当行の不良債権に暴力団がからんでいるものがどのくらいあるか、というお尋ねでございますが、本間常務よりお答え申し上げます」
「中山! ちゃんと謝罪せんか!」
「失礼で済むかってんだ!」
怒号とヤジが飛び交う中で、本間がマイクの前に立った。
「常務の本間でございます。ご質問にお答えします。残念ながら当行にも、暴力団がらみの不良債権がございますが、総務審議室、融資部、あるいは法務部などが連携しまして、反社会的勢力との取引きを一掃すべく内部体制を固めておるところでございます。また、顧問弁護士および警察当局のご協力をいただきまして、法に則《のつと》り適切かつ毅然《きぜん》としたスタンスで対処してまいりたいと存じております。具体的な数字につきましてはお答え致しかねます。なにとぞご容赦ください。以上でございます」
怒号にかき消されて、雛壇の北野たちでさえ聞き取りにくかった。
中山がわめくように声を張り上げた。
「ご静粛に願います。不規則発言を繰り返されますと、ご退場いただくこともございます。ほかの株主様、ご質問ございますか」
「はい。百七十二番です。不良債権の処理策についてお訊《き》きします。担保権の実行あるいは競売《けいばい》等で事業用資産と個人の住宅等の資産の区別がなされていませんが、どうお考えなのでしょうか」
「本間常務よりお答え申し上げます」
「お答え申し上げます。事業用、個人用ということにつきまして特に区別していることはございません。法に則り、適切に対処致しております」
「百七十二番ですが、個人の住宅ローンについては、やむを得ない事情で利払いが滞っているものは競売等について配慮があってもよろしいのではないかと……」
「園田常務よりお答え申し上げます」
「常務の園田でございます。お答え申し上げます。住宅ローンのお申し込みに際しましては、厳正な審査に基づき決定致しておりますが、借入後、やむを得ざる事情によりましてご返済等に支障が生じた場合には、早めに窓口のほうへお越しいただきまして、相談に乗るよう指導致しておるところでございます」
「ほかにご質問を希望する株主様はいらっしゃいますか」
眼鏡をかけた初老の女性が挙手をした。
「どうぞ」
「百六十八番です。テレビのニュースで、総会屋さんですとか右翼の団体のかたがたとおつきあいがあると報道されてましたけれども、それは何人なんでしょうか。あるいは何団体なのでしょうか。具体的な数字を教えてください」
「ただいまの株主様のご質問は、テレビニュースで報道のあった右翼団体等とのつきあいが何件あるのか、というお尋ねでございますが、陣内副頭取からお答え申し上げます」
「副頭取の陣内です。お答え申し上げます。当行は、そのようなつきあいは一切ございません」
陣内の木で鼻をくくったような答弁に、「でたらめ言うな!」「正直に答えろ!」のヤジが一般株主から飛んだ。
「テレビ報道は間違っているということなのでしょうか。ほんとうに、右翼などとのつきあいはないんですか。納得できません」
株主百六十八番の女性は、さかんに首をかしげた。
「もういちど陣内副頭取よりお答え申し上げます」
中山も、陣内の答弁があっさりし過ぎていると思ったらしく、再答弁を促した。
「副頭取の陣内です。お答え申し上げます。当行は、今回の不祥事の反省から透明で清冽な経営を目指しまして、先ほど議長の中山頭取より話がございましたように、コンプライアンス、法律遵守の観点から組織の機能を強化致しまして、全行一丸となって、この種の取引きの防止に傾注致しております。従いまして融資はもとより雑誌の購読、寄付金、物品購入などのつきあいを一切打ち切らせていただきました。すべての営業店を対象に報告を求め、取引きの解消を断行致しました。万一、疑義のある営業店に対しましては検査部がチェックし、指導勧告を行ないます。いま現在、そうしたつきあいは断じてございません。この点は、いささか誇れるのではないかと存じております」
総会屋としては≪かん≫にさわる答弁である。
「いい気になるな!」
「陣内! しゃらくさいことをほざくんじゃねぇ!」
ヤジが飛ぶのも致し方ないところだ。
「ほかに質問はございますか。どうぞ」
中山は株主二百四十七番を指名した。
「相談役制を廃止するということですが、退職金はどうなるんですか」
「お答え申し上げます。相談役が退く際の退職金のお尋ねでございますが、プライバシーにかかわることでございますので、金額等につきましてはご容赦いただきたいと思います」
「開かれた総会の主旨に反しませんか。株主の一人として、その程度は知っておきたいですねぇ」
中山が雛壇《ひなだん》のスタッフのほうをふり向いた。人事部副部長の望月が中山に身を寄せて、メモを示しながら、なにごとかささやいた。
「大変手間取りまして申し訳ございません。事実の確認をさせていただきましたので、お答え申し上げます。相談役に対しまして報酬はお支払いしておりますが、退任に際しての退職慰労金はお支払いしておりません。また退職慰労金の支払い規定もございません」
総会屋の一人が座ったまま両手をメガホン代わりに囲って、怒鳴った。
「中山! この野郎! ふざけんじゃねぇ! 勿体《もつたい》ぶらずに、さっさと説明すればいいんだ! なにがプライバシーだってんだ! 開かれた総会だろうが」
「相談役の報酬はどのくらいか」という株主の質問に、中山は眦《まなじり》を決して答えた。
「プライバシーにかかわる問題でございますので、ご容赦ください。開かれた総会とプライバシーは別の問題でございます。ご理解賜りたいと存じます」
株主百八十一番の初老の男性が質問に立った。
「先ほど監査役のかたが法令および定款に適合しているとおっしゃったが、実際には何人もの役職員が検察につかまってます。新しく役員になるかたも含めて、今回の不正融資にまったくかかわりがないのかどうか心配です。一人一人不正融資に関与しているかいないかを、はっきり答えてください」
総会屋への利益供与、不正融資問題を蒸し返されて、中山は渋面をスタッフのほうに向けて、「どうしたものですかねぇ」と誰ともなしに訊いた。
北野がすぐさま上体を中山のほうへ寄せた。
「常務以上は、質問に応じたらいかがですか。リハーサルでも、これに似たことはやってることでもありますから」
年配の顧問弁護士も目で賛意を表した。
中山はひとうなずきして、正面を向いた。
「お答えします。常務以上の役職役員が一人ずつお答え申し上げます。わたくし頭取の中山からお答え申し上げますが、不正融資にはまったく関与致しておりません」
陣内副頭取、矢野副頭取、水島専務、白幡専務と序列に従い次々に起立して、氏名を名乗ってから、関与していない旨を明言した。
「全員関与していないことはわかりましたが、総会屋は手を変え品を変え攻撃してくると思いますけど、結局いままでどおりつきあうことになるんじゃないですか。それどころかもっと密接な関係になるんじゃないか心配です。その点どうなんでしょうか」
百八十一番はなおも皮肉な口調で食い下がった。
中山は百八十一番を睨《にら》みつけた。
「お答え申し上げます。反社会的勢力とのつきあいは断じて致しません。どんなことがあろうともお断りします」
「三日坊主にならないことを切に祈ります」
突然、アスコットタイの派手な服装の特殊株主が起《た》ち上がって、がなり立てた。
「くだらない質問をだらだらやるんじゃねぇ」
「くだらない質問とはなんですか。開かれた総会なんですよ」
百八十一番が応戦した。
「なんだと! おまえ、俺《おれ》に喧嘩《けんか》売るっていうのか! よし。こうなったら開かれた総会やったろうじゃねぇか。不良債権問題を二日がかりで徹底的にやるぞ!」
「いいぞ!」
「二日でも三日でも、つきあってやるよ」
「総会の新記録を作ろうじゃねぇか」
「まじめにやれ!」
怒号とヤジの渦である。
中山が目いっぱい声を張り上げた。
「ご静粛に願います。不規則発言をされたかたには退場していただきます!」
一瞬、場内が静かになった。中山はこの機をとらえて、「それでは議案の審議に入らせていただきます」と宣した。
「第一号議案は第三十五期利益処分計算書案承認の件でございます。本議案の内容につきましては……」
中山が説明を終えて、「それでは第一号議案につきまして、ご採決をお願いしたいと存じます」と言った瞬間、一般株主席から「異議なし!」、とてつもなく大きな声が飛んだ。眼鏡の中年男はマイクを握っていた。
拍手が起こった。拍手は一般株主席から、社員株主席へとひろがった。
「OBですねぇ」
「中央不動産の香山社長ですよ」
スタッフ席でのやりとりを北野は背中で聞いた。
5
第二号議案の相談役制廃止に伴う定款の一部変更の件も、賛成多数であっさり承認可決されたが、第三号議案の取締役十七名選任の件はスムーズに進まなかった。
「巨額の不良債権と赤字で株主を苦しめてるACBに、十七名も役員を選任する必要があるのか! 非改選者も含めて、いったい何人おるのか!」
「恐れ入りますが、議長が指名してから、発言していただきたいと存じます」
クリーム色のスーツをまとった特殊株主が険しい顔でやり返した。
「七十六番だよ。中山! 恰好《かつこう》つけないで、さっさと答えろよ」
「お答え申し上げます。当行は従来取締役が四十名おりましたが、八名減らしまして、三十二名体制で業務を執行しております」
「三十二名、まだそんなにおるのか。半分に減らしたらどうだ。中山! おまえも辞めろ!」
「貴重なご意見として承ります。それではわたしからお答え申し上げます……」
中山は顔を真っ赤に染めて、早口でつづけた。
「当行の企業規模でございますとか、業容が広範多岐にわたります業務執行状況を考えますと、現在の三十二名体制で臨む必要があろうかと存ずる次第でございます。それでは第三号議案につきまして、ご採決をお願いしたいと存じます。原案に賛成のかたの拍手をお願い致します」
社員株主席、一般株主席から拍手が起こった。
ヤジも怒号も拍手にかき消されたが、中山の「皆様のご賛同をいただき、本議案は議決権行使書面を含めまして賛成多数でございますから、承認可決されました。ありがとうございました」の発言も、スタッフ席に聞こえなかった。
第四号議案の監査役二名選任の件も、異議はなかったが、第五号議案の退任取締役および退任監査役に退職慰労金を贈呈する件は揉《も》めた。
一般株主に拒絶反応があったのだ。
二百七十番のサラリーマン風の男性株主が議長に指名されて、マイクを握った。年齢は四十五、六だろうか。
「第五号議案につきまして発言させていただきます。少し長くなるかもしれませんが、よろしくお願い申し上げます。この議案に対して異議を申し立てたいと思います。率直に申し上げて、反対です。できましたら、この議案そのものを自発的に撤回していただきたいと存じます。もし、それが不可能であるならば退任される取締役および監査役のかたがたが自発的に退職金を辞退されることを希望致します」
二百七十番は、メモから顔を上げて議長席に目を投げた。
「理由を述べさせていただきます。今回退職されるかたがたは、朝日中央銀行に入られて功績のあるかたばかりだと思います。しかし、在任期間中の功労に報いる慰労金ということになりますと、功労ばかりではなかったのではないでしょうか。むしろ、マイナス面のほうが多かったと思うのです。在任期間中にバブルが発生し、不良債権がふくらみ、その結果、今回の決算になったんじゃなかったでしょうか。このことに関して責任があるはずです。こういう決算が出ている状況下で、銀行の論理、身内の論理を押し通すことに、わたしは懐疑的にならざるを得ません。一般常識に照らして、退職慰労金を贈呈することは、はなはだおかしい。この議案を通すことは、社会の反感を買うことにならないでしょうか。ましてや総会屋に対する不正融資に与《くみ》し、社会的批判を受けている銀行として、これでよろしいのでしょうか……」
株主二百七十番は、なぜか感きわまって急に涙声になった。
「わたしは、ACBを支援している者であります。もちろんACBの行員ではありませんが、この銀行の発展を願っています。不祥事はありましたけれど、必ず立ち直ると信じて疑わない者でございます。だからこそ、この銀行のために第五号議案に反対しているのです。この議案を通してしまうと、社会の反感を買い、信頼を失うのではないかと危惧《きぐ》する者です。今回の不祥事をバネに、ACBは再生を目指して血の滲《にじ》むような改革、自助努力をしているはずですが、五号議案はそれに水を差すことにならないでしょうか……。私事にわたって恐縮ですが、わたしの父はACBマンでした。亡くなりましたが、ACBマンであることに誇りをもってました。わたしはこの銀行の社宅で生まれ、育った者ですが、この銀行のサポーターたるを自負しており、これからも貧者の一灯を灯《とも》し続けたいと願っています。ACBのサポーターは株主であり、顧客であります。われわれサポーターのためにも内部の論理ではなく、外部の論理に合うようなコンプライアンスは当然ですし、それ以上に道徳的かつ道義的な面でミートするようなことをしていただきたいと願う次第です。ゆえに、自発的に議案を撤回するか、退任されるかたがたの自発的辞退を期待したいと思います。ありがとうございました」
二百七十番は目尻《めじり》に溜《た》まった涙を手の甲でぬぐいながら、着席した。
拍手が長く続いた。
中山が大きな咳払《せきばら》いを一つしてから、発言した。
「ただいまの株主様のご意見を拝聴致しておりまして、経営の負託を受けている者として、まことに身の引き締まる思いでございます。今回の不祥事、赤字決算の中で、第五号議案をご審議いただくことは大変心苦しく思いますが、すでに平均二四パーセントもの大幅な役員報酬をカットしておりますし、全員が持ち場持ち場で懸命に経営執行努力を行なってまいった者ばかりでございます。中には一度も役員賞与を手にすることなく退任していく者もおります。どうかそうした事情をご賢察いただきまして、ご理解賜りたいと存じる次第でございます」
「議長!」
「どうぞ」
中山は株主六百六番を指名した。これもスーツ姿の中年男だった。
「ふつう社員から役員になるときに退職金をもらってるんじゃないんですか。ですから、こんどのような非常時というか異常時は、退職慰労金は辞退してもよろしいと思います。わたしも、第五号議案には反対です」
「退職金ぐらい出してやれや! ほんのはしたガネじゃねぇか!」
総会屋の不規則発言に意を強くしたわけでもないだろうが、中山は強引に議事を進めた。
「それでは第五号議案につきまして、ご採決をお願いしたいと存じます。原案に賛成のかた、拍手願います」
松原の合図で社員株主から拍手が起き、一般株主の大半も拍手に加わった。
「皆様のご賛同をいただき、本議案は議決権行使書面を含めまして賛成多数でございますから、承認可決されました。以上で本日の議事はすべて終了致しました。これをもちまして、第三十五期定時株主総会を閉会させていただきます。ありがとうございました」
雛壇《ひなだん》の役員とスタッフも起立して、株主席に向かって最敬礼した。
ところが、ACBの総会はまだ終わらなかった。
一般株主席から、「議長、議長!」と絶叫して、挙手をする中年男があらわれたのだ。
「お願いしまーす! 発言させてくださーい!」
ヤジと怒号が渦巻いた。
「総会は終わったんだ!」
「発言させてやれ!」
「質問を封じたら、総会は無効だぞ!」
中山が困惑し切った顔を雛壇のスタッフ席に向けた。
北野は急いで中山に身を寄せた。
「発言を認めたほうがよろしいと思います」
中山は不満そうに顔をしかめて、顧問弁護士のほうを窺《うかが》った。二人の顧問弁護士が顔を見合わせながら、うなずいた。
「わかった。そうしよう」
中山が正面に向き直った。
起立していた役員、スタッフが一斉に着席した。
「それでは一問だけ、質問を受けさせていただきます。手短にお願い致します」
「三百四番です。ありがとうございます」
男は顔を真っ赤にそめて、ハンディマイクを握りしめた。
「発言のタイミングがわからなくて、どうもすみません。わたしはACBの大ファンであります。長年にわたって、二十年以上もACBの株を持ち続けてきました。ACBの株を売却して儲《もう》けようと考えたことなどありません。わたしの人生はACBと共にあり、ACB一筋で、明けても暮れてもACBの発展を願ってきました。ACBはこんどの不祥事で揺らいでいますが、だからといってACBを見限る気にはなれません。ACBの再生を願いかつ信じておりますし、反社会的勢力と訣別《けつべつ》したACBに拍手を送り、あたたかく見守りたいとも思っております。でありますから、ACBの役員、職員のかたがたは、いままで以上に頑張っていただきたいし、粉骨砕身、努力していただきたいと思うのであります。ACBは不祥事によって、預金が流出しているとも聞いておりますが、わたしは周囲の友人知己に対しまして、ACBを応援してくださいとお願いしております。きょうこの総会にいらした株主の中には、わたしと同じような考え方をしているかたがたがたくさんおられるのではないかと思うのです。ACBは、わたしの拠《よ》りどころであり、わたしの人生とリンクしております。ACBの再生と発展を願いまして、わたしの発言を終わらせていただきます。発言の機会を与えていただきまして、ほんとうにありがとうございました」
三百四番の株主は、思いの丈を話さずにはいられなかったらしい。念願|叶《かな》って、満面を輝かせた。
「あたたかい励ましのご発言を賜りまして、身の引き締まる思いでございます。感謝感激でございます。厚く厚くお礼申し上げます……」
中山が二度目の閉会を宣した。
「それではこれをもちまして、第三十五期定時株主総会を閉会させていただきます。長時間ありがとうございました」
雛壇席全員が最後の最敬礼をし、拍手が湧《わ》き起こった。
時刻は午後一時五分。ACBの株主総会は三時間五分を要したことになる。むろん過去最長記録だ。
中山と北野の目が合った。
「最後の発言無視しなくてよかったなぁ。わたしは受けたくなかったんだが、北野の意見を容れてよかったよ」
中山のほうから北野に近づいて、ささやいた。
北野は黙って低頭した。
6
午後一時三十分から始まる取締役会までの合間に、北野は頭取室に呼ばれた。
「五号議案の進め方はちょっと強引だったかねぇ」
中山は相当気にしているとみえ、疲労の色濃い顔をゆがめた。
「しかし、議案を撤回するわけにもいきませんからねぇ。むしろリハーサルよりも、気持ちを込めて丁寧に説明してましたから、あれでよろしかったんじゃないですか」
「それならいいんだが、なんというOBの子息か知らないけど、ああいう発言は胸にぐさっと堪《こた》えるよ」
中山は緑茶をひと口飲んで、話をつなげた。
「最後の発言は、なんだかよくわからないながらも、胸を熱くさせられたよ。それにしても、やっと終わったねぇ。ずいぶん長い総会だったが」
「所要時間は三時間五分です。松原広報部長が三時間は覚悟して欲しいと言ってましたが、そのとおりになりましたねぇ」
「三時間か。疲れるわけだな。モニタールームはどんな具合だったのかなぁ」
「広報部員の話では、おおむね好評のようです。出席者は二百人ほどですが、私語もなく皆さんメモをとりながらモニターを見ていたそうですよ」
中山が空になった湯呑《ゆの》みをセンターテーブルの茶托《ちやたく》に戻した。
「六時から新任取締役と会食する手はずになってるが、日延べしてもらおうかねぇ」
「はっ」
北野は怪訝《けげん》そうに小首をかしげた。
例年、株主総会日の夜、役員懇談会が新橋の料亭で行なわれるならわしだが、今年は自粛することになった。
ただし、十二名の新任取締役を中山頭取が慰労することになっていたのである。
「役員食堂のビヤパーティーぐらいはゆるされるだろう」と中山が言い出して決めたことだ。
「久山さんと今井さんが逮捕されるかもしれないというのに、ビヤパーティーでもないと思うんだ。きょうはそんな気分になれんよ」
「お気持ちは察して余りありますが、予定どおりおやりになったらいかがでしょうか。今夜、逮捕までいくのかどうかわかりませんが、尋問が長時間に及ぶことは間違いないと思います。どっちにしても、頭取には近くのホテルで待機していただかなければなりません。それでしたら、新任取締役と懇談していたほうが気が休まるんじゃないでしょうか」
中山は眉間《みけん》にしわを刻んで、考える顔になった。
「そうか。今夜も帰宅できないわけだな」
「それはどうでしょうか。逮捕がなければ、久山顧問も今井顧問も、遅くとも十時には解放されますから、頭取はお帰りになれますよ」
「十時まで拘束されることを覚悟しなければならないわけか」
「はい」
「わかった。北野の意見に従うとしよう。それはそうと、久山さんと今井さんのアテンドは大丈夫なのか」
「久山顧問につきましては、検察から専従班に電話があり次第、わたしが対応します。今井顧問については、清水が」
清水は、北野より四年後輩の男性秘書である。
「うん、そうか。久山さんと今井さんが事情聴取だけで逮捕がないことを祈るのみだな」
「はい。ほんとうにそう思います」
「お二人は、いまどこにいるの」
「お二人とも、昨夜はパレスホテルに宿泊されましたので、ホテルにいらっしゃると思います」
中山が時計を見ながら、ソファから腰をあげた。
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第十六章 慟 哭
1
専従班の藤木から、北野に電話がかかったのは、六月二十七日午後九時四十分である。
受話器を取ったのは若い女性秘書だが、すぐ北野に替わった。
「はい、北野です」
「藤木ですが、いま特捜部から電話がありました。久山顧問の尋問は間もなく終わるそうです。十時に迎えの車をお願いします」
「承知しました」
秘書室には、北野、横井繁子、佐藤弘子を含めて七人が待機していた。中山頭取がまだ館内にいるのだから仕方がない。
この日午後二時に久山が、三時に今井が特捜部から出頭を求められた。今井は午後九時に尋問を終えたので、清水が迎えに行き、専用車で鎌倉の自宅まで送り届けた。とりあえず今井が即日逮捕をまぬがれたことで、久山も解放されるのではないか、と北野も予期していた。
「ただねぇ……」
藤木は意味ありげに引っ張った声で、つづけた。
「喜んでばかりもいられないんですよ」
「どういうことですか」
「特捜部から久山顧問に二回目の出頭要請がありました。二十八日午後一時三十分です」
「土曜日に」
「ええ。土曜も日曜もありません。検察も必死なんでしょうねぇ」
「わかりました。わたしが久山顧問のお迎えにまいります」
北野は電話を切って、久山付の佐藤弘子に笑顔を向けた。
「いまから久山顧問をお迎えに行ってきます」
「朗報ですねぇ」
佐藤はもう感きわまって、ハンカチを鼻に当てがった。
「それが必ずしも、そうでもないんですよ。土曜日の午後、二度目の尋問があるそうです」
「…………」
「室長に報告して、五分後に駐車場に行きますから、車の手配をお願いします」
佐藤は黙ってうなずき、涙を拭《ふ》いてから、運転手控室に電話をかけた。
北野も電話で役員食堂にいる雨宮秘書室長を呼び出した。
雨宮晴彦は六月二十七日付で選任された十二名の新任取締役の一人である。旧C′nで、昭和四十五年の入行組だ。営業部門の部長から秘書室長になった。
「もしもし雨宮ですが」
「北野です。いま専従班から連絡がありました。そろそろ久山顧問の尋問が終わるということなので、お迎えに行ってきます。土曜日の午後一時三十分に、二度目の出頭があるそうですが、とりあえずきょうのところは……」
「頭取もずいぶん気にされててねぇ。なんにもなくてよかったよ。これからお詫《わ》びの記者会見なんてことになったらたまらないものねぇ」
「ええ」
雨宮の声量がぐっと落ちた。
「ビヤパーティーも盛り上がらなくてねぇ。いらいらしてる頭取のお守りも疲れるよ。やっと解放されるわけだな」
「先送りされただけのことかもしれませんけど」
「厭《いや》なこと言うなよ。でも、そんなところかもなぁ」
「ええ。じゃあ、頭取によろしくお伝えください」
北野は受話器を置くなり、デスクの上の背広をつかんだ。
「北野さん、わたくしもお伴させていただいてよろしいでしょうか」
「佐藤さんのお気持ちよくわかるわ」
横井にも同調されたが、北野は首を振った。
「いや、佐藤さんはお帰りください。久山顧問は今夜はお宅に帰られると思いますよ」
北野は突き放すつもりはなかったが、佐藤に世をはかなんだような顔をされた。
北野が久山の専用車で八王子《はちおうじ》市内の東京地検八王子支部に到着したのは、午後十時五分過ぎだった。
久山は、事情聴取を終えて、待合室でひとりぽつんと待っていた。
「遅くなりまして申し訳ございません」
「いやいや。いま終わったばかりですよ。こちらこそ遅い時間に申し訳ありません」
久山は疲労の滲《にじ》んだ土気色の顔を精いっぱいなごませて、丁寧に挨拶《あいさつ》を返した。
「八代君には帰りの車は要らないと言ったんだが……」
久山は逮捕を覚悟していたのだろうか。あるいは、国分寺《こくぶんじ》の自宅までタクシーを利用するつもりだったとも考えられる。八王子―国分寺間ならそう遠くはない。久山のことだから、八代運転手をわずらわせるのは済まないと考えたとしても、おかしくなかった。
しかし、北野は前者の可能性のほうが高いような気がした。
「長時間の尋問でお疲れになったでしょう。お宅にお帰りになりますか」
「マスコミが家を見張ってるらしいから、ホテルにしましょうかねぇ。それに、あすも、ここにこなければならんのです」
「存じてます。午後一時半に……」
「そうなんですよ」
「あしたも、わたしがパレスホテルにお迎えにまいります」
「せっかくの土曜日にわざわざ来る必要はありませんよ。ゆっくり休んでください」
「とんでもない」
久山がリアシートに納まったのを見届けて、助手席に乗り込もうとする北野に、久山が声をかけた。
「今夜はもう帰っていいですよ」
「いいえ。ホテルまでお伴させていただきます。頭取から、久山顧問のアテンドを厳命されてますので」
「そう。八代君、申し訳ないがホテルから北野君のお宅へ回ってください」
「承知しました」
八代は五十歳前後のベテラン運転手だ。久山付になって十年近い。
北野は黙っていたが、むろん桜ヶ丘の賃貸マンションまで、八代に送らせるつもりはなかった。
車が八王子インターから中央高速道に入ったとき、北野がリアシートを振り向いた。
「久山顧問は、夕食はどうされました」
「検事が、うな重をご馳走《ちそう》してくれました。食欲がなくてねぇ。半分も食べられなかったが……。ところで総会はどうでしたか」
「無事終了しました。三時間五分かかりましたし、ものものしい警備態勢で多少、荒れたという感じはありましたが、予想以上にうまくいったと思います」
「ふうーん。三時間も。中山君、よく頑張ったねぇ」
「はい。健気《けなげ》に一所懸命耐えに耐えまして」
「特殊株主は来てましたか」
「はい。十三名。しかし、かれらが暴れるほどのこともありませんでした。私服刑事が二十名も会場に詰めてましたし、本店ビルの周辺を機動隊が警護してくれましたから、右翼の街宣もなかったようです」
「そう」
久山がシートに背を凭《もた》せて、目を閉じた。
八時間の尋問で、神経を擦り減らし、体力を消耗し切っているのだから、睡魔に襲われて当然、と北野は思ったが、久山は居眠りを始めたわけではなかった。ほどなく煙草を咥《くわ》えたのだ。
「事件が事実と違う方向でつくられているような気がしてならない。これ以上の拡大を防がなければ」
2
久山は目を瞑《つむ》ったまま、つぶやくように言って、北野を驚かせた。
中央高速道から首都高速四号線に出て、大手町《おおてまち》のパレスホテルまで三十五分しかかからなかった。道路が空いているときの高速道路は価値がある。
北野は、車がホテルの駐車場に着く直前、八代に上体を寄せた。
「あした十一時半に、ここの駐車場で待ち合わせましょうか。土曜日で道路が渋滞すると思いますから、少し安全を見ましょう」
「かしこまりました。しかし、一時間見れば充分と思いますよ」
「八王子に早めに着けば、昼食をご一緒してもよろしいじゃないですか」
「はい。お宅までお送りしますよ」
「ご心配なく。まだ電車がありますから」
北野は、スウィートルームまで久山を送った。
「お疲れさまでした。あすの午前十一時三十分にお迎えにまいります。それでは失礼します。おやすみなさい」
ドアの前で挨拶する北野を、久山は名残り惜しそうに見上げた。
「ちょっと、話していきませんか。三十分どうですか」
久山は時計に目を落として、申し訳なさそうに言った。
時計を見ずに北野が答えた。
「はい。よろこんで」
「ありがとう。車は待たせてあるのかな」
「帰っていただきました」
「そう」
久山はかすかに眉《まゆ》をひそめながら、ドアをあけた。
室内はきれいに清掃されていた。
「ビールでも飲みましょうか」
「はい。いただきます」
北野が冷蔵庫から、缶ビールを取り出し、二つのグラスを満たした。
二人はソファで向かい合って、グラスを掲げた。
「今夜はいろいろありがとう」
「いいえぇ。いただきます」
北野は低頭してから、グラスを口へ運んだ。
喉《のど》が渇いていたので、大ぶりのグラスの半分ほどを一気にあけた。
久山はひと口飲んで、グラスをセンターテーブルに置いた。そして、煙草に火をつけた。
「佐々木さん、そんなに悪いんですか」
北野は咄嗟《とつさ》の返事に窮した。
「入院されたと聞いたが」
「たいしたことはありません。久山顧問には正直に申し上げますが、ほとんど仮病です。検察に出頭するのが厭なので、オーバーホールするということなんです」
「不整脈が出たんでしょ」
「それも怪しいものです」
「ふうーん。そういうことだったんですか」
「どうかご内聞に」
「念を押すまでもないでしょう。ただねぇ、佐々木さんが検察になにもかも供述してくれれば、わたしとしても、気が楽になるんだけどねぇ」
「…………」
「けさも、ホテルへ電話をかけてきてねぇ。なにを言わんとしているのかよくわからなかったが、いろいろ心配しているような感じでした。わたしが佐々木さんを貶《おとし》めるようなことをするわけがないのに……」
北野は、胸をドキドキさせながら、さかんに耳たぶを引っ張った。
「佐々木顧問が久山顧問にそんなことを電話で言われたんですか。情けない人ですねぇ。僭越《せんえつ》ながら申し上げますけれど、久山顧問はご自分の名誉を犠牲にされる必要はないと思いますが。調査委員会でも久山顧問にお尋ねしましたが、平成四年十月の川上多治郎氏との会食は、どなたの発意だったんでしょうか。佐々木顧問ということはありませんか」
「ここだけの話として言いますが、お察しのとおりですよ。佐々木さんからやいのやいの言われたんです」
北野はふるえる手でグラスをセンターテーブルに戻した。
「なぜ久山顧問は調査委員会でそのことを証言してくださらなかったのですか」
「佐々木さんの指示に従ったのはわたしです。断らなかったわたしの落ち度ですから」
「しかし、佐々木顧問が川上氏や小田島氏と親密な仲だったことは、知る人ぞ知るなんじゃないでしょうか」
「佐々木さんは、川上氏とのつきあいを続けたわたしと今井君が責任を取れ、という態度なんですよ。おっしゃるとおりとも言えます……」
「責任逃れにほかならないと思いますが」
「どっちみち時効の壁に守られてる人なんだから、守ってあげたらいい、という考え方もできるじゃないですか。誰がなんと言おうと、わたしも今井君も、佐々木さんに引き立てられて、トップに昇り詰めたことは間違いないんです。いわば恩人ですよ。そういう人を貶めることはできません」
久山はふうーと溜《た》め息と一緒に紫煙を吐いて、話をつづけた。
「佐々木さんが検察で、供述してくれれば話は別ですけど、病気になるくらい、検察の尋問を厭《いや》がってる人に、それを期待するのは無理というものでしょう」
北野が耳たぶを引っ張りながら、掠《かす》れ声で訊《き》いた。
「時効になっていないことで、佐々木顧問の罪を立証できることはないんでしょうか。一つぐらいあるような気もするのですが」
久山の表情が動いたように、北野には思えた。
久山は視線を外し、短くなった煙草を灰皿に捨てた。そして緩慢な動作で、二本目の煙草を咥え、ライターを鳴らした。
「なんとも返事のしようがないですねぇ」
「ということは、あるんですね」
「いや……。ま、やめておきましょう」
「話していただけませんか」
「変に気をもたせたような言い方をして、申し訳ない。忘れてください」
久山は咥えたばかりの煙草を灰皿にこすりつけ、グラスに手を伸ばした。
指先が小刻みにふるえていた。久山は動揺している。もう一歩踏み込むべきかどうか、北野は迷った。
「拘置所にいる人たちのことを考えると胸が疼《うず》きます。あの人たちにはほんとうに申し訳ないことをしました。わたしがもっと躰《からだ》を張って頑張れば小田島のような人に乗じられることはなかったのに……」
久山の声が湿り、目尻《めじり》に涙が滲《にじ》んだ。
なぜなのかはよくわからなかったが、北野も込み上げてくるものをもてあましていた。しばらく会話が途切れた。
久山が二本目のビール缶を二つのグラスに傾けているのをぼんやり眺めていたほど、北野は放心していた。
「それにしても、今井君と、わたしの記憶にギャップがあり過ぎてねぇ。困ってるんですよ。今井君はきょうの尋問でも、アサヒリースの迂回《うかい》融資についても、岡田君からわたしと一緒に聞いた、と供述したらしい。それどころか、当時会長だったわたしと頭取だった今井君の二人が指示を出したとも取れる供述をしてるらしいんです。検事同士で連絡を取り合ってるので、わたしの担当検事も、意気込んでねぇ……。でも、わたしは記憶していない。嘘《うそ》をつくな、正直に答えろ、と言われても、記憶にないのだから、どうしようもないでしょう。わたしが小田島氏と親密な仲だったという意味のことも、今井君は供述したらしいが……」
「まさか。検事はカマをかけてるんじゃないんですか。今井顧問が久山顧問を貶めるなんて考えられませんよ」
「うん。わたしの担当は加納という検事ですが紳士的な人で、カマをかけるような人じゃないと思うんだが」
「たしか中澤さんの担当検事も加納検事です。中澤さんも、立派な検事だと褒《ほ》めてました。検事同士のやりとりで、加納検事の聞き違いということはありませんでしょうか」
久山は返事をせずに三本目の煙草に火をつけた。
この夜、北野が久山と別れたのは午後十一時二十分、パレスホテルから桜ヶ丘までタクシーを利用して帰宅したとき、零時を過ぎていた。
パジャマ姿で、CNNニュースを見ていた今日子が北野と顔を合わせるなり言った。
「秘書室の佐藤さんという人から電話があったわよ。十時ごろだったかしら。電話をくださいって。何時でもいいそうよ」
「佐藤さんは、僕の携帯電話を知ってるはずなのに……。遠慮したのかねぇ」
北野は背広の内ポケットから手帳を取り出し、佐藤弘子宅の電話番号を確かめて、コードレスの受話器を手にした。そして、今日子に並びかけるようにソファに腰をおろして、プッシュホンのボタンを押した。
「もしもし、佐藤ですが」
「北野です。いま、帰宅したところです。お電話いただいたそうですが、なにか」
「申し訳ございません。久山顧問のことが心配だったものですから」
「ホテルまでお送りして、四十分ほど話をしましたが、お元気でしたよ。もっとも八時間の尋問で相当お疲れになったと思いますけど。しかも、あす、もうきょうですけど、一時半に出頭しなければなりませんから、大変ですよねぇ」
「逮捕されるんでしょうか」
「わかりません。その点はなにもおっしゃいませんでした。逮捕されるんですかってお訊《き》きするわけにもいきませんしねぇ。きょうは十一時半にホテルへ迎えに行きます。やはり長時間の尋問になるんじゃないでしょうか。なにかあれば、電話しますよ」
「よろしくお願いします。あしたは一日、家におりますから」
「それじゃあ、これで」
「お電話ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
北野は電話を切って、受話器をセンターテーブルに置いた。
ボリュームを落として、テレビを見続けていた今日子がテレビを消した。
「久山さんが逮捕されるの」
「あり得るだろうねぇ」
「父にも、検察から呼び出しがかかったっていうことは、父も逮捕される可能性があるわけ」
「多分大丈夫だろう。事情聴取を怖がって入院するなんて、どうかと思うよ」
「きょう母が病院へ行ったのよ」
今日子はこともなげに言ったが、北野はドキッとした。静子と青木伸枝のバッティングを案じたのだが、すぐに取り越し苦労だと思い直した。相手は超多忙な旅館の女将《おかみ》なのだ。
「お母さん、優しいねぇ」
「愚図愚図してるから、行ってらっしゃいなってわたしが押し出したのよ。落ち着いたら、永福《えいふく》に帰るっきゃないと思うの。あなたは、父と母が離婚したほうがいいと思ってるの」
今日子に覗《のぞ》き込まれて、北野は顔をそむけた。
「冗談よせよ」
「そうでしょ。仲直りするいいチャンスと思わない」
「まぁなぁ」
「父もホテル住まいに飽きたんじゃないの。母の話だと、永福に帰りたいって、ぼやいてたそうよ」
「総会も終わったことだし、それも時間の問題だろう。お父さんがいまの地位にしがみつこうとしない限り、平穏な生活が戻ってくると思うんだけどねぇ。まだまだ未練たっぷりだし、生ぐさい人だから、困るんだよ」
「ACBは父を必要としてるんじゃないの」
「ぜんぜん。ご本人がそう思ってるとしたら、勘違いも、はなはだしい」
にべもない返事に、今日子は頬《ほお》をふくらませた。
3
翌日、午前十時四十分に北野はパレスホテルのロビーから、久山に電話をかけた。
「おはようございます。北野ですが、早くホテルに来てしまいましたが、お部屋にお伺いしてよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ。すぐ来てください」
「それではお言葉に甘えさせていただきます」
久山はスーツ姿で新聞を読んでいた。風呂《ふろ》上がりのせいか、上気した顔は髭《ひげ》も剃《そ》って、昨夜より生気が感じられた。
煙草の吸い殻のあふれた灰皿、空っぽのビール缶、それにグラスが二つ。センターテーブルは昨夜のままだ。
久山が朝食を摂《と》った形跡はなかった。
「朝食はどうされました」
「食べてません。食欲がなくてねぇ」
「めしあがらないと、お躰《からだ》に毒ですし、午後からの尋問に備えていただかないと……」
「うん。八王子で、ブランチを食べましょう。少し早めにホテルを出ればいいでしょう」
「せめて牛乳ぐらいお飲みになったらいかがでしょう」
「お茶をいただこうか。バッグのそれでけっこうです」
久山が指差した冷蔵庫の脇《わき》の棚に、ポット、湯呑《ゆの》み、ティーバッグを載せた木製のトレーが認められた。
北野は、センターテーブルを片づけて、緑茶を淹《い》れた。
「ありがとう」
「いただきます」
湯呑みを茶托《ちやたく》に戻して、北野が訊いた。
「おやすみになれましたか」
「睡眠薬を服《の》んだが、三時間ほどで目が覚めてしまった。ここのところよく眠れなくてねぇ」
「…………」
「新聞が届くのが待ち遠しくて……。届いたのは六時半ごろでしたかねぇ」
久山が座っている長椅子《ながいす》にA、B、Cの三紙が投げ出されてあった。
「どの新聞もACBの総会を大きく扱ってるねぇ。それと、わたしと今井君が特捜部の事情聴取を受けたこともA新聞が社会面で書いてたが、誰がリークするのかねぇ」
「はい。A新聞とD新聞が参考人として事情聴取した模様と書いてましたが、憶測記事の域を出ていないと思います」
「元出版社社長と会食した際に、小田島氏に対する融資が話題になった、と書いてたが、誰かがこれに近い供述をしてるんでしょうねぇ。わたしは、会食中に小田島氏の名前は川上氏から出ていない、と検事に供述しました。川上氏と平成四年十月ごろに会食したことは事実だが、小田島氏に対する融資は、その前にすでに決定していたような気がするんです」
北野が耳たぶを引っ張りながら質問した。
「当時の佐々木相談役から、指示があったわけですね」
「つい、口がすべってしまったねぇ」
久山は苦笑しいしい、背広のポケットから煙草とライターを出して、膝《ひざ》の上に置いた。
久山が煙草に火をつけて、一服するまで、北野にはひどく長く感じられた。
「佐々木さんのことは検事にも訊かれたが、わたしは沈黙を守りました。きょうも、記憶にありませんで押し通すつもりですよ」
「ACB不祥事の元凶的存在の佐々木顧問が最高顧問で居座り続けることは、ACBにとってプラスなんでしょうか。それともマイナスなんでしょうか」
「…………」
「失礼ながら申し上げますが、久山顧問は検察で真実を語るべきだと思いますが」
北野は胸をドキつかせながら返事を待ったが、久山は苦渋に満ちた表情で煙草をくゆらせているばかりで、口をつぐんでいた。
久山の専用車がパレスホテルから八王子に向かったのは午前十一時二十分だが、久山はひとことも口をきかなかった。
久山は窓外を見ていたが、景色を眺めている目ではなかった。
ひっきりなしに煙草を吸っているので、車内が紫煙で充満し、煙草をやらない北野は閉口した。
運転手の八代が気を利かせて、窓を開けたが、騒音がうるさいので、開閉をひんぱんに繰り返した。
十二時十分過ぎに八王子インターを通過し、市内に入った。
北野がリアシートのほうを振り向いた。
「ブランチ、なにになさいますか」
「…………」
「お食事、どうされますか」
返事がないので、北野は声量を強めた。
久山が煙草を灰皿に捨てた。
「そうねぇ。蕎麦《そば》にしましょうか」
「ブランチですから、もう少しボリュームのあるほうがよろしいのではありませんか」
「いやぁ。食欲がないから、ざる蕎麦でけっこうです」
駐車場を備えた蕎麦屋はすぐに見つかったが、店内は満席だった。レジの横に待合室があったが、椅子は一つしか空いていなかった。
「どうぞ」
「ありがとう」
北野に勧められて、久山が腰をおろすと同時に、先客の四人がテーブルに向かったので、北野と八代も座ることができた。
回転が早く、十分足らずで、テーブルに移動できた。
久山はざる蕎麦、北野と八代はとろろ蕎麦を注文した。
「お疲れでしょう」
「そうでもないですよ」
「きょうはどのくらいかかりますかねぇ」
「夜十時までです」
「そんなにかかりますかねぇ」
「昨夜、検事にそう言われました。この土曜と日曜で目処《めど》をつけたいようなことを言ってましたよ。あすも、そんな感じでしょう」
「あしたもですか。大変ですねぇ」
「小菅《こすげ》にいる岡田君や中澤君のほうがもっと大変ですよ。あの人たちをなんとかしてあげたいと思ってるんだが……」
北野と久山が蕎麦屋で交わした会話は、それだけだった。
久山は朝食を摂っていないのに、ざる蕎麦を半分も残した。
その代わりに蕎麦湯を注ぎ足し注ぎ足し、何度も飲んだ。
東京地検八王子支部前で別れ際に、久山が八代に言った。
「帰りの車は要りませんよ。今夜は家に帰りますから」
八代が北野の顔を窺《うかが》った。
北野が八代に代わって答えた。
「十時過ぎにお迎えにまいります」
「北野君、そんな必要はありません。タクシーを拾いますから。あすも、車の迎えはけっこうです。ゆっくり休んでください。きょうはありがとう。ご苦労さまでした」
久山は、北野と八代にこもごも笑いかけてから、二人に背中を向けた。
久山が建屋の中に消えたのを見届けて、八代が言った。
「今夜十時にお迎えに来たほうがよろしいでしょうねぇ」
「もちろんですよ。久山顧問のお気持ちが変わって、ホテルに泊まることもあり得ますし、国分寺のご自宅に帰るにしても、タクシーっていうことはありませんよ」
「承知しました。秘書役はこれからどうされますか」
「いったん家に帰ります。十時にここでお会いしましょう」
「それではお宅までお送りします」
「いや、東京駅でけっこうです」
北野は、助手席に納まった。
4
六月二十八日の夜、東京地検特捜部が久山の事情聴取を終えたのは午後十時三十分だった。二十七、八の両日とも、長時間の尋問が続けられたことになる。
北野は、午後九時にJR東京駅丸の内北口で八代にピックアップしてもらった。多少余裕があったので、国分寺の久山宅周辺を見回った。
家の周りを車でぐるっと一周した限りでは、夜回りの記者もハイヤーも見かけなかった。
「土曜日だからですかねぇ。報道陣の車はいないようですよ」
八代は低速でハンドルを操作していた。
「諦《あきら》めて引き上げたんでしょう。九時半を過ぎてますからねぇ」
助手席で目を凝らしながら、北野が応じた。
路地に駐車している車は一台もなかった。
久山邸は木造モルタルの二階家で、敷地も建坪も五十坪足らずと思われた。大銀行の元頭取・会長にしては、驚くほど地味なたたずまいだ。
佐々木の豪邸とは比ぶべくもなかった。
「久山顧問も安心して、お宅に帰れますよ。行きましょう」
「はい」
八代はアクセルを強めに踏んだ。
八王子支部の玄関前で北野に駆け寄られた久山は、申し訳なさそうに表情をゆがめた。
「どうも、悪いなあ」
「とんでもない。ここへ来る前に国分寺のお宅の周辺を見てまいりましたが、マスコミとおぼしき人たちの車はありませんでした」
「そう、ありがとう。久しぶりに家に帰れますね」
専用車のドアを開けて、待っている八代にも、久山は丁寧に頭を下げた。
「ご苦労さまです」
久山はリアシートに背を凭《もた》せるなり、目を瞑《つむ》った。
室内灯に浮かび上がった久山の顔は、生気がなく、頬《ほお》がげっそりしていた。濃くなった髭《ひげ》が痛々しさを倍加する。北野は胸がふさがった。
八代が北野に訊《き》いた。
「お宅でよろしいんでしょうか」
「はい。お願いします」
車の中で、久山はめずらしく煙草を吸わなかった。煙草を服《の》む気力もないのだろうか、と北野は気を回した。
往路もそうだったが、帰路も久山は無言だった。
車は十五分ほどで久山宅に着いた。
「きみたち、一服していきませんか」
「いいえ、帰らせていただきます。久山顧問はすぐお休みになってください」
北野が門のブザーを押した。
先刻、車の中から北野が久山宅に電話をかけ「五分ほどで到着します」と伝えてあったので、久山夫人はすぐに玄関から出てきた。
挨拶《あいさつ》のあとで、夫人が言った。
「どうぞお上がりになってください。ちらかってますが」
「ありがとうございます。久山顧問は激しくお疲れのご様子ですので、今夜は失礼させていただきます」
北野はむろん固辞した。
「あすは何時にお迎えにまいりましょうか」
「正午過ぎにお願いします」
久山は、八代に答えてから、北野の方へ視線を移した。
「北野君は、あすは休んでください」
北野は返事をせずに、曖昧《あいまい》にうなずいた。
あすは逮捕もあり得る。そんな予感がしてならない――。
北野はあすも久山をアテンドしよう、と心に決めていた。
5
北野と八代が引き取ったあと、久山は風呂に入った。
湯上がりの久山は顔も当たり、血色もよく上機嫌だった。
「ビールを飲もうかねぇ。おまえもつきあわないか」
「いただくわ」
妻の智子《さとこ》は素早くビールとつまみの用意をした。
二人はグラスを触れ合わせて、乾杯した。
「美味《おい》しいなあ。久しぶりに家で飲むビールは格別だよ」
「ほんとう。あなたとビールを飲むのは何日ぶりかしら」
浴衣《ゆかた》の袂《たもと》を気にしながら、久山は智子の酌を受け、そして、智子のグラスにビール瓶を傾けた。
智子はビールをひと口すすって、すぐにグラスをセンターテーブルに戻した。
夫の腕がひと回り細くなったような気がして、辛《つら》い気持ちになったからだ。
顔色は悪くないが、頬はげっそりこけている。
「あなた、少し痩《や》せたかしら」
「体重を測ったわけではないが、睡眠不足と食欲もないから、多少は痩せたかねぇ」
「あなた夕食はどうしました」
「検事と一緒に出前の鮨《すし》を食べたが、あんまり美味しくなかったなあ。殆《ほとん》ど残してしまった」
「お茶漬けでもめし上がりますか」
「そうだねぇ。いただこうか」
久山がビールを飲みながら、壁の掛時計を見上げた。
「十一時十分か。佳子《よしこ》はもう寝たかねぇ」
「まだ起きてるでしょ」
「ちょっと佳子の声が聞きたくなった。電話をかけてみるか」
佳子は久山の長女である。夫の転勤で、大阪暮らしになって、三年ほど経つ。
三度の呼び出し音で、佳子の声が聞こえた。
「お父さんだが、遅い時間にごめんよ。みんな元気にしてるか」
「主人も子供たちも元気ですよ。お父さんはどうですか。お母さんとはしょっちゅう電話で話してるけど、お家に帰れなくて大変ねぇ。いまホテルですか」
「いや。今夜は家に帰ってきた」
「そうなの。よかったわ。元気なのね」
「ああ元気にしてるよ。佳子の声が聞きたくなってねぇ。とくに用があるわけじゃなかったんだ。お母さんに替わろうか」
「ええ。お願い」
久山はコードレスの受話器を智子に手渡した。
「もしもし」
「ああ。お母さん。お父さん元気そうでよかったわ。新聞に出てたけど、検察の事情聴取、大変なんでしょう」
「今夜も遅くまでかかってねぇ」
「お兄さんも心配してたわよ」
「一郎から連絡あったの」
「ええ。けさ、サンフランシスコから電話があったのよ」
「あの子元気にしてるのかしら」
「元気そうだったわ」
長男の久山一郎は国立大学医学部の助教授で、スタンフォード大学に留学していた。
佳子との電話を終えて、ビールを注ぎながら智子が言った。
「けさ、一郎から佳子に電話があったそうですよ。あなたのことを心配してたって」
「そうか。おまえや子供たちにも心配をかけて、ほんとうに申し訳ない。銀行の後輩たちにも……」
久山は絶句して、うなじを垂れた。グラスを持つ久山の手が小刻みにふるえていた。
6
明け方、厭《いや》な夢を見た。北野はうなされたりはしなかったが、目が覚めてしまい、夢のことを考えて、眠れなくなった。
久山の顔は幽霊のように蒼《あお》ざめていた。
「こうして生きながらえてるのが不思議なくらいなんですよ。末期ガンで、内臓という内臓がガン細胞に冒されててねぇ。きょう死んでもおかしくないんですよ」
久山は息も絶え絶えに言って、仰向けに倒れた。
「会長! 会長!」
北野は、絶叫して、久山に取り縋《すが》ったが、久山の躰《からだ》はすーっと消えてしまった。そこで目が覚めたのだが、北野は半袖《はんそで》のパジャマがぐっしょり濡《ぬ》れるほど発汗していた。
夢の中で久山が死んでしまったのかどうかも、なんで「会長!」と叫んだのかもわからなかった。そして時間も場所も曖昧模糊《あいまいもこ》としていた。
北野は心悸亢進《しんきこうしん》が収まるのを待って、トイレに立った。いったん寝室に戻ったが、寝つかれないので、ふたたびベッドから抜け出して、リビングのテレビをつけた。
時刻は六時十三分。
ドアポストを見るとA新聞もC新聞も配達されていた。
北野は胸騒ぎを覚えながらA新聞の社会面を開いたが、久山のこともACBに関する記事も見当たらなかった。C新聞も然《しか》りだ。
ACB関係のニュースが一面で採り上げられることはままあるが、六月二十九日日曜日の朝刊二紙には、一面はおろか経済面にも一行もなかった。
北野はホッとするよりも、厭な予感を募らせていた。
嵐《あらし》の前の静けさ、ということもある。
一方ではマイナス思考に陥りがちな自分を戒める思いもあったが、夢見が悪かったせいか、朝食のときには居ても立ってもいられないほど胸が騒いで仕方がなかった。
今日子も子供たちも、なにを話しても生返事を繰り返す北野に苛立《いらだ》っていたが、そのことさえも北野は気づいていなかった。
「久山さんのことが心配だから、早めに出かけるよ。きょうも帰りは遅いからな」
北野は、九時前に桜ヶ丘のマンションを飛び出した。
国分寺の久山宅に着いたのは十時二十分だが、北野は久山夫人ににこやかに迎えられ、どれほど安堵《あんど》したかわからない。夫人は長袖の白いブラウスに黒っぽいスカート姿だった。髪は引っ詰めで、メタルフレームの眼鏡をかけていた。
リビングのソファに座る前に、北野はあらためて腰を折った。
「申し訳ありません。こんなに早く来てしまいまして……。けさもマスコミの姿がなくて、ようございましたねぇ」
「ええ。免疫ができてしまって、わたしはあんまり気にならなくなりました。主人はそうもいかないようですけど」
「久山顧問はまだお休みですか」
「昨夜三時ごろまで話し込んでしまって。わたしは八時に起きたのですが、よく眠っているようなので、起こさなかったんです」
「お疲れでしたから、久しぶりに帰宅されてホッとされたんでしょう」
「でも、もう起きてると思います。書斎で書き物でもしてるんでしょうか。呼んでまいりましょう」
久山夫人がティーカップを二つセンターテーブルに並べながら言った。
久山夫人が二階へ行ってほどなく、突然悲鳴が聞こえた。
北野はソファから立って、階段の下から声をかけた。
「どうされました」
「北野さーん!」
北野はハッとして、階段を駆け上がった。
書斎の作り付けの書棚にかけた、荷造り用のビニール紐《ひも》に、スーツ姿の久山が首からぶら下がっていた。
「久山顧問!」
北野は声を限りに叫んで、久山を抱き上げた。そして紐を外して、久山を絨毯《じゆうたん》の上に横たえた。
「久山顧問! 久山顧問! しっかりしてください」
北野は夢中で久山の躰を揺すったが、久山の意識は戻らなかった。しかし、かすかに脈打っているように思える。
「救急車を呼びましょう」
われに返った夫人が、久山の頭に枕をあてがい、躰に毛布をかけた。
北野はふるえる手で机上の電話機から受話器を取った。
一一九番はすぐにつながった。
北野は無我夢中だった。久山に跨《また》がり、渾身《こんしん》の力をふりしぼって、両手で久山の胸をマッサージした。
さらに久山の口に自分の口を密着させて、何度も息を送り込んだ。
しかし、久山はぐったりして、反応はなかった。
救急車が門前に到着するまで十分とは要しなかったが、北野にはひどく長く感じられた。
二人の救急隊員は手際良く担架で久山を救急車に運び込んだ。
夫人と共に北野も乗車した。救急車がサイレンを鳴らして国分寺市内の病院へ向かったのは午前十時五十分。
救急車は七分後に病院に到着した。
久山は集中治療室に運ばれ、当直の医師と看護婦が駆けつけた。
久山は瞳孔《どうこう》がひらいており、脳死状態と思われた。
「きわめて危険な状態です。全力を尽くしますが、助かる見込みは少ないと思います」
若い医師が久山を診察したあと、乾いた声で夫人に告げた。
久山が集中治療室で治療を受けている間に、北野は廊下で携帯電話をかけまくった。
中山頭取は在宅していた。
「北野ですが、久山顧問が自宅で首を吊《つ》り、自殺をはかりました」
「自殺! 亡くなったのか」
「いいえ。しかし、脳死に近い状態で、きわめて危険な状態です」
「病院はどこなの」
「失礼しました。国分寺のA病院です」
「すぐ行く」
「はい」
雨宮秘書室長は外出していたが、前秘書室長の菅野常務、石井企画部長、松原広報部長、そして久山付の佐藤弘子とは連絡がついた。
佐藤は、北野が「きわめて危険な状態です」と言うやいなや嗚咽《おえつ》の声を洩《も》らした。
「もしもし……」
「は、はい」
「佐藤さんは、連絡係で自宅にいてください。あとでまた連絡します」
病院から警察に連絡したとみえ、ほどなく二人の私服刑事がやってきた。
久山の病院収容後一時間ほど経過したころ、新聞記者や放送記者が続々と詰めかけ、テレビカメラも繰り出し、病院の玄関付近は騒然となった。
正午過ぎに松原がタクシーで病院に駆けつけてきた。
松原は、むらがる報道陣をかきわけて、警備室に突進してきた。
その場に居合わせた北野に松原が息を切らせながら訊《き》いた。
「久山顧問の容態はどうなんだ」
「予断を許さない状態です」
「救急病院がこんなに混乱してたら、えらいことだぞ」
「ええ。これでは一般の見舞い客が入れません」
「よし報道陣用の控室を用意させよう」
松原はさっそく病院側と交渉して、報道陣用の控室を用意させた。
午後三時以降、一時間ごとに記者会見して、久山の容態を説明するように取りはからったのも、松原ならではの行動力だ。そして、松原は一昨夜と昨夜の久山の様子を北野から詳しく聞いて、そのことを三時の記者会見で明らかにした。
「昨夜、東京地検特捜部の事情聴取が終わったのは午後十時三十分で、久山顧問は十一時前に帰宅されました。秘書の話ではひどくお疲れの様子で、車中ひとことも口をきかなかったそうです。一昨夜も夜十時まで事情聴取が続きましたが、記憶にないことを訊かれて困っている、といった意味のことを秘書に話されたようです」
記者が質問した。
「検察の事情聴取のあり方に行き過ぎがあったとは考えられませんか」
「そういうことはなかったと思います。担当検事は紳士的だったと話していたようです」
「自殺の動機はなんだと思いますか」
「わかりません。事件のひろがりに耐えられない苦痛があったんじゃないでしょうか」
「久山さんのいま現在の容態はどうですか」
「大変危険な状態と聞いております」
松原は四時、五時、六時の記者会見では「危篤状態です」「重体です」と繰り返すのみだった。
報道陣が入れるのは控室だけだったので、集中治療室のある四階の待合室は、水を打ったように静かだった。私語を交わすことさえ憚《はばか》られるほど室内は緊迫していた。
久山夫人、大阪から駆けつけた長女の佳子、中山頭取、陣内副頭取、坂本顧問、菅野常務、雨宮取締役秘書室長、北野秘書役。
そして、北野から自宅待機で連絡係を命じられた佐藤弘子もじっとしていられなくなって、病院に駆けつけてきた。
六時五分前に、眼鏡をかけた中年の看護婦が久山夫人と佳子を呼びに待合室にやってきた。
二人が無言で看護婦に続いて待合室を出た。起立して、二人を見送る北野たちも無言だった。
さっきの看護婦がふたたび待合室にあらわれたのは六時十三分だ。
「ご臨終です。ご遺体との対面はいまから十分後に地下の霊安室でお願いします」
佐藤が肩をふるわせ、ハンカチで口を押さえたが、「ううっ」という嗚咽の声までは遮断できなかった。
北野も堪《こら》え切れずに落涙した。
平成九年六月二十九日午後六時九分に、久山の死が確認された。
六時の記者会見で松原が「依然、重体です。回復を祈るのみです」と話しているときに、北野からメモが入って、松原は久山の死を知った。
「大変残念ですが、久山顧問は本日午後六時九分にお亡くなりになりました。あまりにも痛ましくって……。何と申し上げてよいかわかりません」
松原は何度も言葉を詰まらせた。
集中治療室でも、霊安室でも久山智子は取り乱したりせず、気丈にふるまった。気が張っているせいだろう。涙を見せず、中山頭取や坂本顧問と挨拶《あいさつ》を交わしている智子の姿が、北野の目になんと健気《けなげ》に映ったことか。
「久山顧問を準銀行葬ということでお送りしたいと思いますが……」
「ありがとうございます。お気持ちだけいただきます。故人は生前、社葬とか、銀行葬は勘弁してもらいたいと申しておりましたので、故人の遺志を尊重させていただきます。娘とも話したのですが、近親者だけで執り行なわせていただきますので、どうかご放念くださいませ」
智子は、中山の申し出を固辞した。
久山の遺体はほどなく国分寺市内の青正寺に運ばれた。
この夜七時過ぎに、北野は中山に命じられて、頭取談話をまとめた。
[#この行1字下げ] 衝撃的なご不幸は痛恨の極みであります。久山隆氏は長年にわたり当行の発展に尽くされたかただけに、一連の不祥事に、どれほど心を痛めていたかは、察して余りあります。衷心よりご冥福《めいふく》をお祈り申し上げます。
中山頭取宛の遺書も合わせて公表された。
[#ここから1字下げ]
今回の不祥事について大変ご迷惑をおかけし、申し訳なく、心からお詫《わ》び申し上げます。
真面目《まじめ》に職務を全うしておられる役職員および家族のかたがた、先輩の皆様になんとお詫び申し上げてよいかわかりません。
且、当行の本当に良い仲間のかたがたが逮捕されたことは、断腸の思いであり、身を以て責任を全うすることが私に残された途だと考えた次第です。
逮捕されたかたがたの今後の処遇、家族の面倒等くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
ACBはあなたがたのご努力によって、必ずや昔日の栄光を取り戻すことを確信致しております。
永年のご厚誼《こうぎ》に感謝致します。
[#ここで字下げ終わり]
久山の訃報《ふほう》はその夜遅く東京拘置所に勾留《こうりゆう》されている中澤にも、もたらされた。
加納検事が電話をかけてきたのである。
「今夕六時過ぎに久山さんが亡くなりました。自殺です。縊死《いし》という悲惨な、あまりにも悲惨な結果に、われわれは強いショックを受けております」
中澤は驚愕《きようがく》のあまり、しばらく声を出せなかった。
「もしもし……」
「…………」
「もしもし、聞こえますか」
「はい」
「中澤さんは、わたしの事情聴取の仕方に問題があったと思いますか。わたしはこれでも注意深く、慎重に事情聴取してきたつもりなんですが、わたしに落ち度があったのでしょうか」
「いいえ。そんなことは……。人生観の問題なんじゃないでしょうか。司直の手にかかることが耐えられなかったのだと思います。それと先輩を庇《かば》ったとも考えられますが」
「中澤さんの話を聞いて、少し気持ちが楽になりました」
「加納検事には実に紳士的に対していただいてます。ご心配には及びませんよ」
「どうも」
久山の自殺は、加納検事ならずとも検察側に小さからぬショックを与えた。
東京地検が二十九日夜次席検事名で発表したコメントに、衝撃の大きさが示されている。
[#この行1字下げ] ご冥福をお祈りしたい。本件の事件については、解明に支障が生じることは間違いないが、今後も真相解明に努力したい。
7
御茶ノ水にある名門大学の附属病院に入院中の佐々木を北野が訪問したのは、夜九時過ぎのことだ。特別室は切り花や鉢植の花で埋まっていた。検査入院、いや仮病だというのに、なんていうことだろう、と北野は呆《あき》れた。
パジャマ姿の佐々木は、特別室のソファでテレビを見ていた。
折しも、画面に映し出されている在りし日の久山を佐々木が指差した。
「久山も莫迦《ばか》な奴《やつ》だよ」
北野には、気のせいか佐々木の目が笑っているように見えた。
「不謹慎じゃありませんか。久山顧問は最高顧問を庇《かば》って、すべてを一身に背負《しよ》い込んで亡くなったとは考えられませんか」
「お、おまえ、な、なにが言いたいんだ。そんなことを言いにやってきたのか」
佐々木は怒り心頭に発し、口ごもった。
「久山顧問は事件のこれ以上の拡大を恐れたのだと思います。逮捕されて取り調べが本格化すれば、最高顧問を庇い切れなくなる、と考えたとしても、不思議ではないと思いますが」
「おまえ、久山からなにか聞いてるのか」
佐々木のさぐるような目を北野は見返した。
「久山顧問はそんなかたではありませんよ。なにもかも胸にしまって……」
北野は胸が熱くなった。
久山が亡くなって、佐々木が内心ホッとしているとは察しがつくが、北野は「莫迦な奴だ」などと言えた義理か、と言えるものなら言いたいくらいだった。
「久山がわたしを庇ったなんて考えられんな。わたしはそんな悪いことはしとらんよ。要するにあいつは生き恥を晒《さら》したくなかったんだ。検察ファッショに立ち向かう気概もないとは、情けなくて、泣けてくるよ。もう少し骨のある奴だと思ってたんだが」
「久山顧問を悼む気持ちにはなれませんか」
「どういう意味だ」
佐々木はジロッとした目をくれて、テレビを消した。
「久山顧問のお通夜はあす午後六時から、葬儀・告別式はあさって午後二時から、国分寺の青正寺というお寺で執り行なわれます。遺族の方は近親者のみで執り行ないたいという希望でしたが、中山頭取、坂本顧問、それにわたしを含めた秘書室の者が数人、お焼香させていただくことで、了解が得られました。わたしは最高顧問にも、ぜひともお焼香にいらしていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか」
「わたしは病人だぞ。わたしがのこのこ出かけて行くこともあるまい。おまえに香典を持って行ってもらえば、それで充分だろう」
「最高顧問は病人とは思いませんが。検察に出頭するのを回避したかったがための方便の入院なんじゃないんですか」
北野は、ここまで言える自分をわれながら不思議に思った。
「おまえ、ちょっと差し出がましいんじゃないか。おまえの指図は受けん。余計な口出しをするんじゃない」
佐々木は痛いところを突かれて、たるんだ頬《ほお》をふるわせたが、北野は引かなかった。
「二時間か三時間で済むことですから、出席してください。お願いします」
北野は膝《ひざ》に手を突いて、低頭した。
「坂本と中山が出れば充分だ。何度も言うが、わたしは病人なんだぞ。わたしが久山の葬式に出たことが検察に聞こえたら、どうなると思うんだ。よく考えてからものを言いなさい」
「検察に聞こえるはずがありません。仮に聞こえたとしても、立派な心がけだと思うだけのことではないでしょうか」
「とにかく、そんなつもりはない。帰ってくれないか」
「最高顧問は、久山顧問をお参りする義務があると思います。お参りしないと、寝覚めが悪いということになりませんか」
「うるさい奴だなあ。そんなに言うんなら、静子をわたしの名代で行かせたらいいな」
佐々木がベッドに移動したので、北野もソファから腰をあげた。
「最高顧問は、久山顧問に対して申し訳ないというお気持ちだと思いますが」
佐々木は憤怒《ふんぬ》の形相でベッドから起《た》ち上がった。
北野は一歩あとじさった。
「ふざけるな! さっきから妙な言い方をして許さんぞ!」
「…………」
「申し訳ないと思ってるのは久山のほうだろう。テレビがニュースで久山の遺書を出していたが、先輩になんとお詫びしてよいかわからんと書いてるじゃないか。久山は二、三日前に電話をかけてきて、わたしに顔向けできないと言って詫びたんだぞ」
久山によれば、電話をかけたのは佐々木のほうである。久山が佐々木に詫びたなんて考えられない――。
佐々木がドスンとベッドに腰をおろした。
北野が一歩前進して、腰を折った。
「最後にもう一度だけお願いします。あしたお迎えにまいりますので、久山顧問のお通夜に出てください。お願いします」
「断る!」
「あなたの人間性を疑いたくなります」
「なんとでも言え」
「…………」
佐々木はベッドに横たわって、北野に背中を向けた。
「帰ってくれ」
「失礼しました。おやすみなさい」
北野は一礼して特別室を退出した。
病院の通用口から外へ出ると、むんむんするほど蒸し暑かった。北野は背広を脱ぎながら来るんじゃなかった、と後悔した。
JR御茶ノ水駅へ向かって歩いているとき、不意に久山の笑顔が目に浮かんで、涙を誘われた。
久山さん、あなたはなにを言いたかったんですか。真実を語ろうとしたのではありませんか――。
一昨日の深夜、パレスホテルのスウィートルームで、久山とビールを飲みながら話した場面を北野は思い起こしていた。佐々木に関するなにかを語りかけて、結局胸にたたみ込んでしまった。
佐々木が最高顧問で居座り続ける限り、ACBは川上多治郎や木下久蔵の呪縛《じゆばく》から逃れられないのではないか。佐々木をACB本館から排除しなければならない。そうしなければ、久山が浮かばれないではないか。
陣内副頭取や森田常務は、佐々木のしがらみを取り除こうとするどころか、逆に佐々木を担ごうとしているように思える。千久≠ニの関係にしても、中山頭取の姿勢が後退している。
佐々木を排除できれば、中山の姿勢を変えることは可能だろう。
なんとしても佐々木を退治しなければならない。久山の死が、その手がかりを与えてくれることにならないだろうか。
北野の思考は、自動券売機の前で停止した。打つ手がない、手づまり状態だった。
久山の死をムダにしてはならない。ACB再生のために、久山は一身を擲《なげう》ってくれたのだ。
北野は深呼吸をして、硬貨を投入して切符を買った。
中央線の中でも東海道線の中でも、北野はどうしたら佐々木を追放できるかを考えた。佐々木に感情的になり過ぎているのだろうか。仮にも岳父ではないか、俺はエキセントリックだろうか、とふと思って、北野は人知れず苦笑を浮かべた。
「久山顧問、助けてください」
北野は胸の中でつぶやいた。
[#改ページ]
第十七章 遺 書
1
七月四日金曜日の夜十時過ぎに、北野は久山智子からの電話を自宅で受けた。
電話を取ったのは今日子である。
「はい、北野ですが」
「久山です。夜分、恐縮ですが……」
「ああ、久山さんの奥さま。北野の家内です。この度は……。お慰めの言葉もございません。お参りもせずに失礼しております」
今日子は、久山智子とは面識がなかった。
「とんでもない。北野さんにすっかりご迷惑をおかけしてしまい、申し訳なく思ってます。あのう、北野さんはお帰りになってますでしょうか」
「はい。いま帰ったところです。主人に替わります」
今日子の背後に立っていた北野に、受話器が手渡された。
「こんばんは。北野ですが」
「遅い時間にごめんなさい。さっそくですが、実は最前、なにげなく書斎の机の抽《ひ》き出しをあけてびっくりしたんですけれど、北野さん宛《あて》の手紙が入ってたんです。切手は貼《は》ってませんが、住所が書いてありますから、主人は投函《とうかん》するつもりだったんでしょうか」
北野は耳たぶを強めに引っ張った。
「封はしてあるんでしょうか」
「はい。このままお送りしましょうかねぇ」
「開封して読んでいただけませんか」
「なんですか、怖くて……」
「あしたは久山顧問の初七日ですから、お宅にお伺いして、ご霊前にお参りさせていただきます」
「初七日の法要は略式が多いようですが、告別式に間に合わなかった長男が帰国しましたので、午後一時から青正寺で執り行なうことに致しました。ごく内輪ですが」
「出席させていただいて、よろしいでしょうか」
「もちろん、わたくしどもはありがたいと思いますが、お休みに申し訳ありませんわ」
「ぜひ出席させてください」
「佐藤さんがどうしても、お参りしたいとおっしゃって」
「佐藤さんが……。それではわたしも、あすの午後一時に青正寺へ伺います。久山顧問のお手紙は、そのとき、いただきます」
「はい。そうさせてください」
電話を切ったあとで、北野は聞き耳を立てている義母の静子に気付いた。リビングには子供たちはいなかった。
「久山さんが僕に手紙を書いてたらしいんです」
「新聞で中山頭取宛の久山さんの遺書を読みましたが、浩さんにも遺書をねぇ」
「読んでみないとわかりませんけど、遺書と言えるのかどうか。だいぶ前に書いて、投函するのを忘れてたとも考えられますし……」
「久山さんは、もっとおっしゃりたいことがあったんじゃないでしょうか。浩さんに、どんなことを書き遺《のこ》したのか気になります」
北野は返事のしようがなくて、当惑した顔を今日子のほうに向けた。
「お母さんは、お父さんに関することが書いてあるんじゃないか、心配してるわけね。あなた、なにが書かれてても驚かないから、わたしにも、久山さんの手紙見せてちょうだいよ」
「私信だから、そういうわけにはいかないかもな。とにかく読んでから、判断させてもらうよ」
「そんな勿体《もつたい》ぶる必要ないと思うけど」
「勿体ぶってなんかいないよ」
北野は、久山智子との電話のやりとりをもっと慎重にすべきだったと、後悔していた。
コーヒーを淹《い》れながら、静子が北野に訊《き》いた。
「浩さんはどうしますか」
「僕は水割りを飲みます」
コーヒー好きの静子は、豆も自分で挽《ひ》く。
今日子の話では一日に五杯は飲むそうだ。
北野は大ぶりのグラスに、ダブルの水割りウイスキーをこしらえて、ソファに戻った。
コーヒーをすすりながら、今日子が言った。
「あした、わたしも連れてってもらおうかしら」
「やめたほうが無難だよ。お通夜も、お葬式もそうだったけど、ごく内輪で執り行ないたい、というのが未亡人のお気持ちだった。あしたの初七日も、僕が出席するのはありがた迷惑なんじゃないかな」
「佐藤さんは行くんでしょ」
「あの人は特別だよ。長年、久山さんに秘書として仕えて、家族みたいな立場だからねぇ」
静子が食卓から口を挟んだ。
「わたしも一度お参りしたいと思ってたのよ。主人の名代で出席しちゃいけないかしら」
「お母さんの分も、僕がお参りしてきますよ」
北野は、急いで話題を変えた。
「株主総会が終わって八日経つけれど、その後、変ないやがらせがなくてよかったよ」
「警察がパトロールしてくれてるからなんじゃないの」
「子供たちはどう。史歩は学校でいじめられてるってことはないのか」
「ないみたいよ。そのために引っ越したんですからね。正解だったわ」
「うん。きみはよく頑張ったよなあ」
「そうよ。あなたは何日も家に帰ってこないし、北野家が崩壊してしまうんじゃないかと、危機感をもったわ」
北野が気まずそうな顔で、グラスを呷《あお》った。
「塾の英語の先生、まだ続けるつもりなのか」
「なに言ってるのよ。始めたばかりじゃない。本郷台のマンションのローンとこのマンションの家賃を払うために、わたしも働かなければならないの」
「本郷台のマンション、まだ買い手がつかないのか」
「不動産屋は、二千五百万円なら売れるみたいなことを言ってるのよ」
「三千万円を切るか切らないかとか言ってなかったか」
「ええ。でも、二、三日前に電話したら、とっても無理だって」
「足下を見られてるんだな。資産デフレの進行は止まらないが、わずかひと月で五百万円も値下がりするなんて、ひどいよなあ。二千五百万円じゃ、残りのローンも払えないだろう」
「賃貸マンションにする手はないかしら」
北野は思案顔でグラスを口へ運んだ。
遠からず、静子は永福《えいふく》の佐々木邸に戻るだろう。数年後、浩一が大学生、史歩が高校生になったときに、ふたたび本郷台のマンションに住むことは考えられないだろうか。
「不動産屋に当たってみたらどう。このマンションの家賃が十八万円なら、十三、四万ってところかねぇ。どっちにしても、あのまま空き家にしておくのは勿体ないよなあ」
「そうね。二千五百万円じゃあ、手放す気になれないわ」
コーヒーを飲み終えた静子が食卓から、ソファに移動してきた。
「今日子も、あのマンションに未練があるみたいねぇ」
「未練なんてないけど、経済合理性を考えたら、貸すしかないんじゃないの」
「あなたたち、永福に住む気にはなれませんか。あんな広い家に、お父さんと二人だけで住むなんてご免ですよ」
北野は、今日子と顔を見合わせたが、すぐに視線をさまよわせた。
北野がシャワーを浴びて、リビングに戻ったのは午前零時近かった。
静子は寝室に引き取り、今日子はテレビのCNNニュースを見ていた。
「あなた、父が退院したこと知ってるんでしょ」
「もちろん」
「いま、どこにいるかも知ってるんでしょ」
「帝国ホテルじゃなかったかねぇ」
「なにをそらっとぼけたこと言ってるの」
今日子がテレビを消して、長椅子《ながいす》の北野との間隔を詰めてきた。
佐々木は三日前に退院した。入院期間は四日間に過ぎなかったが、もともと検査入院であり、検察の尋問逃れのための仮病だったことを考えれば、よくぞ四日も入院していた、ということになるのかもしれない。
久山の衝撃的な自殺は、さまざまな波紋をひろげ、ACBに対する東京地検特捜部の捜査にも影響を及ぼしていた。
佐々木は、大物政治家に手を回し、自身に対する検察の事情聴取が不問に付せられることを察知するやいなや、即刻退院して箱根の旅館一葉苑≠ノひとまず身を潜めた。
佐々木が秘書の横井繁子に「きょう退院する。しばらく箱根で静養する」と電話をかけてきたのは、七月二日朝のことだ。
同日夕刻、藤木が北野に電話をかけてきた。
「佐々木最高顧問はどうやら無罪放免のようですよ」
「つまり検察は出頭を求めないということですか」
「ええ。久山顧問が亡くなって、いちばん得したのは佐々木最高顧問かもしれませんねぇ」
「今井顧問はどうなるんでしょうか」
「佐々木最高顧問のようにはならないんじゃないですか。きのうも検察に出頭しましたが、時間の問題だと思いますけど」
藤木は、逮捕とまでは言わなかったが、今井の逮捕は避けられないだろう、と北野も諦《あきら》めていた。
しかし、今井は七月五日現在、まだ逮捕されていなかった。
「父は、厚かましくも、一葉苑≠ナ静養するって、母に電話をかけてきたわよ」
「いつ」
「三、四日前よ」
「よく黙ってたねぇ」
「それはこっちの言うせりふでしょ。あなたがいつ言い出すか待ってたのに」
「…………」
「母は、あれでも相当落ち込んでるのよ。でも、家出してきた母に文句を言えた義理でもないのよねぇ。七十過ぎて色恋でもないでしょ、ほんとうに静養なんだから、割り切りなさいって母には言ったんだけど」
「久山さんは、ACB事件のこれ以上の拡大を回避するために、死を選んだのだと思うが、事実、沈静化する方向に向かっているような気がするんだ。お父さんに対する検察の事情聴取も不問に付せられることになったのは、その証拠と言えるんじゃないかな」
「母が、父が久山さんのお葬式に行かなかったことをすごく気にしてるのも、わかるわよねぇ。父は、久山さんに救われたようなものなんでしょ」
「そういう面もあるかもねぇ」
「だからこそ、あなた宛《あて》の久山さんの遺書のことが、母は気になってならないのよ」
「そんなに気になるんなら、見せてあげるよ。きっと儀礼的なもので、たいそうなことが書いてあるとは思えないけどねぇ」
そう言いながらも、北野は耳たぶを引っ張って、少し胸をドキドキさせていた。
2
初七日の法要は一時間ほどで終了した。
控の間で、久山智子が白い封書を北野に差し出した。
北野はそれを押し戴《いただ》いた。
「旧住所になってますねぇ。最近、引っ越したばかりなんです」
「昨夜、佐藤さんから伺いました。わたしも名簿を見て北野さんに電話したのですが、つながらなくて、佐藤さんに電話で確かめたんです」
「失礼しました」
「なにをおっしゃいます」
「ここで開封して、奥さまにも読んでいただきましょうか」
北野は、正座している智子のほうへにじり寄った。
智子は黒い半袖《はんそで》のワンピース姿だった。北野は濃紺のスーツに、地味なネクタイを着けていた。
だだっ広い部屋の中は二人だけだった。
「どうか、あとでお読みになってください。辛《つら》い気持ちになりますから」
突然、智子がぼろぼろ涙をこぼした。
通夜でも、葬儀・告別式でも、初七日の法要でも涙を見せなかった智子が、北野の前で涙にくれている。
嗚咽《おえつ》が慟哭《どうこく》に変わり、智子はいつまでも肩をふるわせていた。
「取り乱しまして。おゆるしください」
智子はハンカチを口に当てて、喘《あえ》ぐように言った。
取り乱したのは、北野も同じだった。
ハンカチで目をこすりながら、北野が声を押し出した。
「お手紙はあとで読ませていただきます。それでは失礼します」
「北野さん、本日はほんとうにありがとうございました」
境内に出ると、佐藤弘子が北野を待っていた。佐藤も、目を赤く腫《は》らしている。
佐藤は、通夜でも葬儀・告別式でもよく泣いた。
北野が忍び泣いている佐藤の姿を目にするのは、これで三度目だ。
「国分寺駅までタクシーで行きましょうか」
「はい」
青正寺からJR国分寺駅まで徒歩十分足らずの距離だが、うだるような猛暑の中を歩く気にはなれなかった。
「それにしても暑いですねぇ」
「ええ」
「真夏日が何日続いてるんですかねぇ」
空車のタクシーに出くわすまでの二、三分の間の暑さといったらなかった。
手に持っている背広が汗でべたべたしていた。北野はポケットの手紙が気になって仕方がなかったが、タクシーの中で開くわけにもいかず、少しいらいらしていた。
タクシーの中で、佐藤が訊《き》いた。
「昨夜、久山顧問の奥さまから電話がありまして」
「ええ」
「ずいぶん、急いでいるようでしたが」
「…………」
「秘書役はさっき奥さまとお話ししてましたけど、なにか」
「たいしたことじゃないですよ。先週の検察の事情聴取のことで、ちょっと」
北野は口から出まかせを言ったが、手紙のことを佐藤に明かすわけにはいかなかったのだから、仕方がない。しかし、嘘《うそ》をついてる負い目で、北野は取り入る口調になった。
「奥さん、泣いてましたよ。ずっと涙を堪《こら》えてたんでしょうねぇ。それとも、悲しみがつき上げてくるころなんでしょうか」
「奥さまがお可哀相《かわいそう》です」
佐藤の目から涙があふれ出た。
3
北野が分厚い封書の封を切ったのは、JR中央線の快速電車が中野駅を発車してからだ。
江古田《えこだ》に住んでいる佐藤弘子が、中野駅で降りてくれたのだ。
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この手紙を書くことが正しいことなのか間違っているのか、いまだに判断しかねています。
しかし、佐々木氏が最高顧問で居座り続けることは、ACBにとってプラスなのかマイナスなのか、というあなたの問いかけに対して、曲がりなりにも回答すべきではないか、と考えてペンを執った次第です。つまり、私はお察しのとおり、後者の見方をしています。正確に言えば、プラスもあるしマイナスもあろうけれど、よりマイナスのほうが多いのではないか、佐々木氏の存在が新生にとって邪魔になるのではないか、と考えたわけです。
平成四年十月十八日付で佐々木相談役が川上多治郎氏に宛てて差し出した手紙のコピーを同封しました.私の意のある所を、お汲《く》み取りいただければと存じる次第です。このコピーは、川上氏から、私に郵送されてきたもので、小田島サイドに対する融資の継続、融資枠の拡大を要求する川上―小田島グループに口実を与えるものとなりました。実力者の佐々木相談役が確約したのだから融資を速やかに実行せよ、と川上氏は私に迫ってきたわけです。もちろん、会長として断固拒否することは不可能ではありませんが、佐々木先輩を傷つける選択肢は取れませんでした。
いまさら、このコピーを持ち出すことは恥の上塗りであり、出し遅れの証文とも取られましょう。ですから、申すまでもなくあなた限りにしていただかなければ、私の立場はありません。ただし、あなたがコピーの存在を認識している旨を佐々木氏に対して伝えることは一向にかまわないと存じます。
もとより頭取、会長時代に小田島サイドへの融資を拡大した私の責任は重大です。
責任の全てが私にあることも、承知しております。私が犯した罪は万死に値します。佐々木氏の呪縛《じゆばく》を断ち切れなかった私の弱さがACB不祥事を招いたことは否定しようがありませんが、だからこそ佐々木氏の呪縛の断絶をあなたに託す気持ちに傾斜しつつある現在の心境をご賢察いただければと思う次第です。
当然のことながら、あなたがコピーと私の手紙を、黙殺してもなんらさしつかえはありません。あなたの判断におまかせするということです。
この一カ月余の間、ACB丸は暴風雨の中を漂流し、転覆の危機さえも予感しました。そんな中にあって、あなたが示された果敢な行動に、私はどれほど勇気づけられたか知れません。
また、あなたが私のような者を心にかけて励ましてくださったことをどれほど嬉《うれ》しく有難く思ったことでしょう。感謝感激致しております。
あなたがたの若い力を確信したとき、私はこの世を去ることに一点の疑念も持ちませんでした。
私なりの責任の取り方、けじめのつけ方が皆さんにどう受け留められるか判りませんが、私としては、この選択肢しかありませんでした。
永い間、本当にご厄介になりました。厚くお礼申し上げます。さようなら。
平成九年六月二十九日
[#地付き]久山 隆 拝
北野 浩 様
[#ここで字下げ終わり]
久山の達筆は、知る人ぞ知るだが、北野が久山の肉筆を見るのは初めてだった。
途中で何度も目をこすった。涙で文字が滲《にじ》んで読めなくなったからだ。
読み終わって、人目も憚《はばか》らず、北野は泣いていた。
北野は、涙と汗でぐしょぐしょになったハンカチで洟《はな》をかんだ。そしてふるえる手で久山の手紙を封筒に仕舞い、佐々木が川上多治郎に宛《あ》てた手紙のコピーを読んだ。
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謹啓 胆石で御不快の由、案じて居りましたが、無事手術を終えられ、退院なさったと承り、安堵《あんど》致して居ります。衷心より御慶《およろこ》び申し上げます。
掛け替えの無い御大切な御大切な御身体、呉々《くれぐれ》も御大事になさって下さい。川上先生には御国の為にまだまだ御尽力して戴《いただ》かなければなりません。
先生は国家にとりましても国民にとりましても貴重な宝物で御座居ます。御自愛の程、切に切に御願い申し上げる次第で御座居ます。
扠《さて》、先生が御心配になられて居りました小田島敬太郎氏に対する当行の御融資の件、久山に厳重に命じておきましたので、どうか御安心なさって戴きたいと存じます。
審査部門に御融資の継続、拡大につきまして異論があるやに聞き及んでおりますが、私が胸を叩《たた》いて確約致して居るのですから、全く問題は御座いません。
小田島氏は、先生の愛弟子《まなでし》だけありまして、予々《かねがね》有為の人材と確信致して居りましたが、先日|拝眉《はいび》の機会を得て、御意見を拝聴致しまして、その思いを強く致しました。
大證券会社が小田島氏に一目も二目も置かれて、便宜を図るのも、蓋《けだ》し当然の事と肝に銘じた次第で御座います。
平成四年十月十八日
川上多治郎 先生
[#地付き]佐々木英明 拝
追伸
川上先生の快気祝いを早急に催すよう久山と今井に伝えておきましたので、御時間を頂戴《ちようだい》致し度く、よろしく御願い申し上げます。
[#ここで字下げ終わり]
毛筆による川上宛の佐々木の手紙も、達筆だが、たかが大物フィクサー、元大物総会屋を国家、国民の宝物とは、あいた口がふさがらない。具体的に佐々木が川上にどんな借りがあるのか、知らないが、這《は》いつくばうばかりの追従、へつらいに、北野は胸がむかむかした。
川上は、佐々木の手紙のコピーを久山に郵送して、小田島向けの融資の実行を迫ってきたと察せられる。佐々木が胸を叩いて確約した案件を久山が反対し切れるわけがない――。
この手紙のコピーが白日の下にさらされたら、佐々木はどうなるのだろうか。平成四年十月なら、時効(五年)になっていないのだから、佐々木は窮地に陥る。特別背任罪で逮捕されることもあり得る。
北野は、中央線の快速電車が終点の東京駅に到着したのも忘れて久山の手紙とコピーに心を奪われていた。
久山は、コピーの取り扱いについて、俺《おれ》にまかせる、と言っている。しかし、佐々木に司直の手が及ぶことを久山が望んでいるわけではない。
だが、久山は佐々木が最高顧問としてACBに居座り続けることは、新生ACBにとって邪魔になる、と明言している。
これこそが久山の遺志なのだ。この手紙は久山の遺言ではないか。重く重く受け留めて然《しか》るべきではないのか。
そうだ、このコピーは佐々木を追放する決め手になる。そうしなければ、久山の死がムダになってしまう。
ACBのドンで、不祥事の元凶たる佐々木を引きずり降ろすことが、俺の使命なのだ。いかな佐々木といえども、コピーを突きつけられたら降参するに相違ない――。
北野がここまで考えて、ふと窓外に目を遣《や》ると、東京駅を折り返した下り快速電車は、御茶ノ水駅にさしかかっていた。
北野は封書を背広の内ポケットに仕舞い、あわててシートから立ち上がった。
4
北野が下り線から上り線ホームへ移動した直後に、電源を入れたばかりの携帯電話が振動した。
片山だった。
「やっとつながったな。久山さんの初七日に行ったって。今日子さんから聞いたよ」
「うん。お寺と電車の中では携帯の電源入れてなかったからねぇ」
「初七日の法事なんて、あんまり聞かないけどなぁ」
「お葬式に間に合わなかったご子息が帰国したんで、そういうことになったらしいよ。ああいう痛ましいことだったから、未亡人としても丁寧に弔ってあげたかったんじゃないか」
「まぁ、そうなんだろうなぁ。それにしても、おまえは律儀っていうか、面倒みがいいねえ。ACBから久山さんの初七日の法事に行ったのは、北野だけなんだろう」
「佐藤女史と二人だ。ところで、なにか用か」
「おまえ、いまどこなの」
「御茶ノ水駅のホームだけど」
「久しぶりに、会おうか」
「わざわざ出てくるのか。暑いぞ」
「夏なんだから暑いのはしょうがないよ。一時間後にパレスホテルの和田倉≠ナ会おう。天ぷらでも食おうか」
「わかった。いま三時四十分だから、四時四十分だな。電車が来たから切るぞ」
北野は、相変わらず強引なやつだ、と思いながら携帯電話を切って、背広のポケットに仕舞った。
一刻も早く帰宅して、シャワーを浴びたかったが、片山に押し切られてしまった。これから一時間も、どこで時間を潰《つぶ》せばいいのか。北野が東京駅|八重洲口《やえすぐち》の構内にあるサウナ風呂《ぶろ》を思いついたのは、電車が東京駅に着いてからだ。
汗を流している間に、身につけている物一切を洗濯してもらえるはずだ。
北野は駅のホームから、自宅マンションに電話をかけた。
浩一が出てきた。
「お父さんだけど、お母さんに替わって」
「出かけてます。買物だと思いますけど」
「じゃあ伝えて。一時間後に片山と会うことになったから、帰りは八時過ぎになると思う。食事は要らないよ」
「はい。わかりました」
浩一は、近ごろ他人行儀と思えるほど丁寧語を話すようになった。
変声期はとうに過ぎたが、急に大人びてきたような気がする。もっとも、北野が浩一と対話する機会は殆《ほとん》どなかった。
クリーニングの所要時間の関係で、北野がパレスホテル地下二階の和田倉≠ノ着いたのは、ちょうど五時だった。片山はカウンター席の隅に座っていた。ほかに客はいなかった。
「莫迦《ばか》に遅いじゃないか」
「申し訳ない。サウナ風呂で時間を潰《つぶ》したのはいいんだが、洗濯で時間を取られてしまったんだ」
「サウナか。水風呂もあるんだよな。ちくしょう、水風呂に入りたいなぁ」
「ものすごい暑さだろう」
「ああ驚いたよ。タクシーの中でラジオを聞いてたら、東京は三十七度七分とか言ってたぞ。越谷《こしがや》は四十度だってさ」
「夏の法事は辛《つら》いよなぁ」
「おまえ、お通夜もお葬式にも出たらしいじゃない。初七日まで行くことないのに」
「そうかもしれないけど、ACBで誰も顔を出さないっていうのも、寂しいっていうか、久山さんに申し訳ないじゃない。それに、俺は凄惨《せいさん》な現場を見てるしねぇ」
「まぁなぁ。北野の立場上、しょうがないか」
北野は、今日子が片山に久山の手紙のことを話してしまったのか、気になったが、そんな様子はなかった。今日子はそんな軽はずみな女ではない――。
生ビールのグラスをぐっと傾けて、片山が手の甲で口のまわりの泡をぬぐった。
「|MOF《モフ》担、クビだってさ」
「ふうーん。で、どこへ行くんだ」
北野はグラスをカウンターに置いて、片山のほうへ首をねじった。
片山はグラスを呷《あお》って、「もう一杯ください」と、着物姿の仲居に大声を放った。
「おまえ、聞いてるんだろう」
「いや、聞いてない。七月十日付で大幅な異動があるとは聞いてたが、中身までは知らないよ」
「人事部付だ」
「人事部付」
鸚鵡《おうむ》返しに言って、北野は小首をかしげた。
「昨夜、石井さんから引導渡された。MOF担で忙し過ぎたから、少しゆっくりさせてやろうと思って、とかなんとか言ってたけど、口は重宝なものだな。まぁ、左遷だよ」
「まさか。だけど片山が人事部付で首のすげ替えをやるっていうのもねぇ」
「人事部付で、静かにしてろっていうことだろ。仕事なんて、あるわけないよ。肩書は主任調査役とでも付けておけってさ」
片山は投げやりに言って、グラスを呷った。
「ふうーん。しばしの息抜きなら、悪くないじゃないか。そのうち片山に相応《ふさわ》しいポストを与えられるに決まってるんだから」
エリート街道を驀進《ばくしん》してきた片山としては一抹の寂しさがあるかもしれない。しかし、片山が忙し過ぎたことも、ACBのために躰《からだ》を張って頑張ってきたことも事実であり、ここらでひと休みさせてやりたいと石井は考えたに相違なかった。片山が一選抜から外れることなどあり得ない。
「頭取の側近中の側近の、北野ならではの余裕の発言だな」
「片山、冗談にもそんなこと言うもんじゃないよ。秘書役なんて、つまらない仕事だし、俺の柄でもない。一年でクビにしてもらいたいと思ってるよ」
不快感をあらわにする北野に気圧《けお》されて、片山は口をつぐんだ。
「紅衛兵とか四人組とか、言われてるが、どっちにしても俺たちは割りをくうかもしれない。だが、ひとまず片山を企画本部から外して、風当たりを少なくしてやろう、という石井さんの深い読みは、間然するところがない、と俺は思う。片山のことだから、よくわかってると思うけど」
「そうだな」
片山はぽつっと言って、ビールを呷った。
「石井さんと松原さんと俺の三人で、片山の歓送会をやろう。なんなら、頭取にも声をかけようか」
「…………」
「そうだ。頭取に一席もたせる手だな。中山体制を作ったのは、誰がなんと言おうと俺たち四人なんだから」
「中澤さんという強力な後ろ盾があったからできたんだけどな」
「遠からず中澤さんは保釈されると思うし、実刑もせいぜい数カ月だろう。間違いなく執行猶予付きだろうから、夏休みにゴルフをやろうよ。出所祝いにゴルフを所望されたこと覚えてるだろう」
「もちろん忘れるわけがないよ。だけど中澤さんはいつ保釈されるかねぇ」
「間もなく保釈されると思うけど。片山の異動のこと、石井さんと話していいか」
「いいだろう。口止めされたけど、北野は別だよなぁ」
「別ってこともないが、ゆるされるんじゃないか。ついでに松原さんにも、話しちゃおう。歓送会とゴルフの相談は早いほうがいいよ」
「おまえにまかせるよ」
片山がにこっと微笑《ほほえ》んだ。
えびの天ぷらが揚がってきた。
北野は輪切りのレモンをしぼって、塩を付けた、片山は大根おろしをたっぷり入れた天つゆに漬けて、えびを食べた。
「今井さんはどういうことになるのかねぇ。片山、弁護士からなにか聞いてないのか」
「きのう石井さんから聞いた限りでは、来週初めに、逮捕されることは間違いないらしいよ」
「久山さんが亡くなって、今井さんが救われるっていうことにはならないのかねぇ」
「検察はそんなに甘くないよ。久山さんが亡くなって救われたのは、S≠セけだろうや」
「うん」
北野は、久山の手紙と佐々木が川上に宛《あ》てた私信のコピーを片山に見せてしまいたい衝動に駆られた。
そうすることによって、片山との相互信頼関係なり連帯感は深まると考えられるし、片山の意見を聞きたい気もしないではない。だが、久山を裏切ることになるのは明白である。それ以上に仮にも岳父である佐々木の面子《メンツ》は丸潰れではないか。
いくら片山でも、話してはならない。北野は辛うじて、衝動を抑えた。
二匹目のえび天を食べ終えた片山が言った。
「陣内さんや森田さんが、S≠フ顔色を窺《うかが》ってるのは気になるよなぁ。S≠フ発言力がこれまで以上に強くなることを察知してるわけよ」
「冗談じゃない。そんなふうにはならないよ。案外S≠ヘ最高顧問を降りるかもしれないぜ。久山さんの死を厳粛に受け留めたら、辞任する選択肢しかないと思うけど」
「なにを阿呆《あほう》なこと言ってるんだ。S≠ェそんなタマかってんだ。それこそ北野がいちばん知ってるはずだろうや。殺しても死なない怪物だぞ」
またしても、北野は話してしまいたい衝動に駆られた。それをビールと一緒に喉元《のどもと》へ押し戻して、北野が言った。
「殺しても死なないねぇ。そうかもしれないが、俺《おれ》はS≠セって、いろいろ思いは複雑なんじゃないかって気がするんだけど」
「S≠ノ限って絶対にあり得ない。おまえはロマンチストだから、そんな夢みたいなことが言えるんだろうな」
北野が天つゆの器に大根おろしを多めに入れて、割り箸《ばし》でかきまわしながら話題を変えた。
「千久≠フことどう思う」
「どう思うって言われてもなぁ。どうにもならないんじゃないのか」
「中山頭取の腰が引けてるのが気になるよなぁ。陣内副頭取が、総会が終わったから千久′w《もう》でをすべきだと、さかんに頭取をけしかけてるらしいんだ」
「なるほど。そんな感じはわかるよ。陣内さんは千久≠ノ弱いからなぁ。で、中山さんは、その気なのか」
「挨拶《あいさつ》ぐらいいいだろうっていうから、俺は必死に押さえてるんだけど、陣内副頭取の引力のほうが強いからねぇ。頭取、副頭取、ひょっとすると専務を含めた代表取締役五人が雁首《がんくび》そろえて、来週あたり千久′wでにのこのこ出かけていくかもなぁ」
「千久≠フ呪縛《じゆばく》は、根が深いからなぁ」
「頭取が拒み通せば、執行部の体制にひびが入ることになりかねない。しかし、中澤さんは千久≠ニの訣別《けつべつ》が最大の経営課題だと、ことあるごとに言ってたよねぇ。頭取も辛《つら》いところだろうが、決断してもらいたいと思うんだが」
北野は、蓮根《れんこん》の天ぷらを口へ放り込んだ。
片山もさそわれるように、蓮根を箸《はし》でつまみ上げた。
「結局、千久≠ヘ先送りすることになるんじゃないか」
「そうなるとACBの再生はおぼつかないってことになるぞ」
北野は吐息まじりに言って、グラスを口へ運んだ。
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第十八章 恫喝
1
北野が片山と別れて、帰宅したのは午後九時を過ぎていた。
シャワーを浴びて寝室へ戻ると、白い封書がベッドの枕元に置いてあった。
北野は舌打ちした。迂闊《うかつ》だった。スーツをベッドの上に脱ぎっ放しにしたまま、バスルームに飛び込んだ後で、今日子が寝室に入ってきたと思える。
久山の手紙とコピーが今日子に読まれたことは間違いなかった。
北野はバスローブをパジャマに着替えた。ランニングとパンツでリビングに行きたいところだが、義母の手前そうもいかない。義母が同居するようになって、窮屈になったことはたしかだった。
北野がリビングに顔を出すと、今日子と静子が食卓でコーヒーを飲んでいた。
「片山さん、なにかあったの」
「人事部に替わることになったんで、いろいろ打ち合わせがあってねぇ」
「へぇ。片山さん人事部長なの」
「部長はいくら片山でも、早すぎるんじゃないか」
「でも、栄転なんでしょ」
「まあな」
「片山さん、同期のトップなんでしょ」
北野は返事をしなかった。うわの空だったのだ。
冷蔵庫からウーロン茶のPETボトルを取り出しながら、北野はそれとなく二人を観察した。
今日子は仕方がないとして、義母に手紙とコピーを読まれるのは、なんとしてもまずいと思ったからだ。
静子がやさしいまなざしを北野に向けてきた。
「暑い中をご苦労さまでした。久山さんのお手紙はどうですか」
「頭取宛《あて》の遺書とほとんど同じですよ。ちょっと違う点は金、土と夜遅くまでおつきあいしましたから、そのことを気にされてて。さすが気配りの人だと感服しました」
北野はあらかじめせりふを用意しておいたので、とまどうことはなかった。
ウーロン茶の入ったグラスを持って、ソファに腰をおろすなり、北野はリモコン送信機でテレビの電源を入れた。
静子とこれ以上話すとボロが出そうなので、テレビに気持ちを集中させようと思ったのだ。
静子が自室に引き取ったのを待っていたように、今日子が長椅子《ながいす》に並びかけてきた。
「読んだわよ」
「無断で私信を読むとは、呆《あき》れたやつだなぁ」
「そうかなぁ。読んでくださいと言わんばかりにスーツが放り投げてあったじゃない」
「お母さんに話すんじゃないぞ」
「当たり前でしょ。母が読んだら、それこそ自殺しかねないわ」
「…………」
「片山さんに見せたの」
「見せなかったし、おくびにも出さなかった。久山さんを裏切れっこないよ」
「ショックだったわ」
「うん」
「あなたどうするつもりなの」
「どうするって」
「父に見せるの、見せないの」
「どうしたものかねぇ。きみならどうする」
「迷うところねぇ。娘の立場に立てば、あれを突きつけられたときの父を想像すると、なんだか可哀相《かわいそう》で……。強気な父がどんな顔をするのかしらねぇ」
「知らない。身に覚えはないって、シラを切るんじゃないか」
「まさか、父の字であることはあなただってわかるでしょ」
「うん」
筆まめな佐々木は、海外出張するたびに今日子に必ず絵葉書を書いてよこした。
残りのウーロン茶を飲み乾して、北野が今日子のほうへ首をねじった。
「手紙にもあったが、久山さんの意のある所を汲《く》んであげるべきだと僕は思う。つまり、親父《おやじ》さんが最高顧問で居座り続けるのは、ACBにとって好ましからざることだと久山さんは判断しているわけだから、久山さんの遺志を尊重するのがいいんじゃないかねぇ」
「あなたも、そう思ってるんでしょ」
「まぁ、強いて言えばねぇ。不祥事の元凶と目されても仕方がない面もあるからねぇ」
今日子は口惜《くや》しそうに下唇を噛《か》んだ。
「久山さんじゃないけど、親父さんにはプラスの面だってあるに決まってるが、旧体制の象徴みたいな人だから、ACBを去ってもらうのがいいと思うよ」
「父が川上多治郎という人に出した手紙のコピーが、その決め手になるのね」
「親父さんがあくまでも今の地位にとどまると主張したら、それまでだよ。ACBには親父さんを担ぐ勢力も根強く存在することでもあるしねぇ」
「父が久山さんの遺志に背くとは思えないわ」
「親父さんに、ご自身の手紙のコピーを見せたいと思うが、賛成してもらえるか」
北野は、今日子の胸中に思いを致して、辛い気持ちになった。しかし、ここは引けないところだ。強い口調になるのも仕方がなかった。
ふたたび下唇を噛んでいる今日子を目の端にとらえて、北野が言った。
「あした箱根に行ってこようと思うんだ」
「わかったわ。父がACBを辞めたら、母の所へ戻ってくるしかないかもねぇ」
「僕もそんな気がする」
「昨夜、母が永福で一緒に暮らしたいようなことを言ってたけど、あなた、どう思ってるの」
北野は虚を衝《つ》かれて、すぐには返事ができなかった。
いままで佐々木の存在を意識するあまり、距離を置くことに腐心してきたが、佐々木がACBを去れば、重しが取れて、気が楽になることはたしかだろう。ここは譲歩すべきかもしれない、と北野は思わぬでもなかった。
「英《すぐる》さんの気持ちはどうなのかなぁ」
佐々木英は、今日子の実兄で商社マンだ。
「わたしたちが永福で両親と住むことを願ってるわよ」
「だったら、考えてもいいよ」
「ほんとに」
今日子が声高に言って、北野の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「いままでかたくなであり過ぎたからねぇ」
「信じられないわ」
「親父さんがACBから去ってくれることが前提だけど、永福の家はそろそろ建て直す時期なんじゃないのか。二世帯住宅を新築することについては、検討に値すると思うけど」
「母がどんなによろこぶか……。母の夢が実現するかもしれないわけねぇ」
「浩一と史歩の意見も聞いたらいいね」
「子供たちは賛成に決まってるわよ」
今日子の表情が急に明るくなった。久山の手紙と、佐々木の手紙のコピーでショックを受けたあとだけに、北野もなにやらホッとしていた。
もっとも、北野は手紙もコピーも今日子に隠し通そうと思っていた。そうであったら、自分の心象風景は変わっていたろうか。いともあっさり、永福のことで譲歩していたとは思えない。今日子に手紙とコピーを見られたのは、迂闊だったが、結果的に怪我《けが》の功名になったとも考えられる。
今日子の穏やかな横顔を見ながら、結果オーライだな、と北野は思った。
「わたし、シャワーしてくるわ。あなた、寝ちゃ、ダメよ」
甘えたような今日子の声を聞いて、北野は照れ隠しに顔をしかめた。
2
翌日、遅い朝食後、北野は外出した。昨夜のうちに、銀行で会議があることにしよう、と今日子と口裏を合わせていた。
土日の会議は珍しいことでもなかったので、静子に怪しまれずに済んだ。
北野は、十時四十六分横浜発のJR東海道線小田原行きの湘南《しようなん》電車に乗車した。
電車が小田原に着いたのは十一時五十五分。
タクシーで仙石原《せんごくばら》の一葉苑≠ヨ向かったのは正午だった。
北野はタクシーの中で、五月十七日に一葉苑≠ノ乗り込んだときのことを思い出していた。
あの日は、往路の電車の中でも、身ぶるいが止まらないほど緊張していた。小田原駅ホームの売店で缶ビールを買い、一杯ひっかけてから、タクシーに乗ったことを覚えているが、きょうはやけに落ち着いていた。
タクシーの中で、北野は佐々木の手紙のコピーを繰り返し読んだ。
久山の手紙は背広の内ポケットに入れなかった。久山の私信を佐々木に見せることは、信義にもとるからだ。
タクシーが一葉苑≠フ玄関前に横づけされたのは、午後零時五十分。昼食時だが、北野は遠慮しなかった。
北野を離れに案内したのは、前回と同じフロント係の小坂だった。
浴衣《ゆかた》姿の佐々木は、ひとりで赤ワインを飲みながら、テレビを見ていた。
「お休みのところ、申し訳ありません」
「うん。退屈してたから、話し相手ができてよかったよ」
佐々木は機嫌がよかった。
「きみも、一杯やりなさい。そこのグラスを取りなさい」
「はい」
北野は、佐々木が指差したサイドボードから、ワイングラスを取って、ソファに戻った。
佐々木が二つのグラスに八二年もののシャトウマルゴーのボトルを傾けた。
「よく来てくれたな」
「どうも」
佐々木が、掲げたグラスをぶつけてきたので、北野は低頭しながら、それを受けた。
「いただきます」
北野は三分の一ほども一気に喉《のど》へ送り込んだ。
「どう。これ、いけるだろう」
「はい。美味《おい》しいです」
「体調はだいぶよくなったよ。ワインが旨《うま》いのは、その証拠だろう」
北野は耳たぶを引っ張りながら、こわばった顔でうなずいた。これから、佐々木に話さなければならないことを思うと、胸がドキドキした。
「この分だと、来週からACBに行けるんじゃないかな」
佐々木はにやっと笑って、グラスを呷《あお》った。
北野は、いっそう重たい気分になった。
さかんに耳たぶを引っ張っている北野を上目遣いでとらえながら、佐々木が二つのワイングラスを満たした。
「静子や今日子に、わたしがワインを飲んでたなんて言いつけるんじゃないぞ」
「もちろんです」
「わたしは病人なんだから、臥《ふ》せってたことにしてもらわんとな」
「はい」
「こないだ静子が病院に見舞いに来たときに話しとったが、保土ヶ谷《ほどがや》の賃貸マンションに住んでるんだってねぇ。永福に来んかね」
「お母さんからも、そう言われました」
「庭に自分たちの家を建てるもよし、いまの家に一緒に住むもよし。いつまでも賃貸マンション住まいっていうこともなかろう」
「ありがとうございます」
北野は無理に笑顔をつくった。
本題に入るきっかけをつかみかねて、北野は少し焦っていた。
佐々木がトイレから戻ってきた。
起立して佐々木を迎えた北野が、腰をおろして、居ずまいを正した。
「本日はお父さんにお話ししたいことがあって参上しました」
「話したいことって、なにかね」
「ACBの最高顧問を辞任していただきたいのです。このことは久山さんの遺志でもあります」
北野は佐々木から目を逸《そ》らさずに一気に言ってから、耳たぶを引っ張った。
佐々木は、すさまじい形相で哮《たけ》り立った。
「なんだと! 前にもそんなことをほざいたが、ふざけるんじゃない! 身のほどを知らんにもほどがあるぞ! なにが久山の遺志だ。久山がそんなことをわたしに指図できるはずがない」
「お父さんが平成四年十月十八日付で、川上多治郎氏に差し出された私信のことを思い出してください。小田島敬太郎氏に対するACBの融資の継続と融資枠の拡大を確約されたはずですが」
佐々木が、たるんだ頬《ほお》をふるわせて、喚《わめ》いた。
「なんだ! それはなんのことだ!」
「川上氏は、お父さんの手紙をコピーして、久山さんに送り付けて、圧力をかけたのです。小田島氏に対する融資の継続についてACB審査部門に反対論が台頭し、当時の久山会長と今井頭取は、取り扱いに悩まれましたが、お父さんが川上氏に融資の継続と枠の拡大を確約したため、反対論を抑え込まざるを得なかったと思われます」
「たわけたことを。そんな話、聞いたことがない。おまえ、わたしを陥れようとして、いい加減な作り話をして、許さんぞ!」
北野は、ワイングラスをセンターテーブルに戻して、背広の内ポケットから、コピーを取り出した。
「お忘れのようですから、ちょっと読ませていただきます……」
北野は、うわずりがちな声を抑えるために低音を押し出すように努めた。
コピーを読んでいる途中で、佐々木がやにわに起《た》ち上がって、北野に襲いかかり、コピーをひったくった。
佐々木は髪ふり乱して、力まかせにコピーを引き裂いた。
「なにをするんですか! 恥ずかしいとは思わないのですか」
「おまえは、わたしがそんなに憎いのか! こんなものまで持ち出して……」
佐々木はコピーを北野に投げつけて、ソファにどすんと腰を落とした。
そして、肩で息をつきながら、阿修羅の形相で北野を睨《にら》みつけた。
北野は散乱したコピーを拾って、センターテーブルに置いた。
「このコピーは、もう一通保管してあります。ですから、お父さんに差し上げますよ」
咄嗟《とつさ》に思いついた嘘《うそ》だが、北野は気が咎《とが》めることはなかった。
「このコピーの存在を検察が知り得たらどういうことになるんでしょうか」
「検察は知ってるのか。久山は話してたのか」
佐々木は脅《おび》えた目を気弱げにしばたたかせた。
「久山さんは、お父さんを守り切って、亡くなられたんです。このコピーの存在を知ってるのは、わたしと今日子だけですから、ご安心ください」
「おまえ、そんなものを今日子に見せたのか」
「今日子が勝手に見てしまったのです。この点は、迂闊でした。お詫《わ》びします」
北野は頭《こうべ》を垂れた。
佐々木がワインをすすりながら、北野に目を流した。
「今日子はなんと言ってるんだ」
「お父さんがACBを静かに去ることを願ってます」
3
「失礼します」
女性の声がした。
青木伸枝だった。白い大島紬《おおしまつむぎ》の着物姿だ。風情がある。えりあしのあたりから色香が匂《にお》うように立ちのぼってくる。
「北野さま、ようこそお出でくださいました。ご挨拶《あいさつ》が遅れて申し訳ございません」
伸枝は畳に手を突いて、丁寧に挨拶した。
北野がソファから起ち上がって、腰を折った。
「お邪魔してます。突然、押しかけまして、どうも」
「お父さま、お元気になられて、ようございましたねぇ。ご心配されましたでしょう」
「ええ」
北野はぎこちない微笑を浮かべた。
伸枝が正座したまま、佐々木に目を流した。
「佐々木先生、お食事どうなさいますか」
「わたしは要らんが、浩君はどうなの」
「わたしも、けっこうです」
「ワインをもう一本たのむ。それと、水となにかつまみをもらおうか」
「承知しました」
「わたしのほうはかまわんでいいからな。仕事のことで込み入った話をしてるので、誰も入れないでくれ。気が散っていかん」
佐々木は、伸枝が顔を出したことも、うっとうしいと言わんばかりに、仏頂面で言って、「じゃあ」と手を払った。
伸枝は婉然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。
「失礼いたしました。北野さま、ごゆっくりどうぞ」
北野は、伸枝に一揖《いちゆう》して、ソファに腰をおろした。
伸枝が退出し、ほどなく若い女性従業員が栓を抜いた赤ワインのボトル、グラス、水差し、チーズ、スモークドサーモン、蒲鉾《かまぼこ》などを運んできた。
佐々木が新しいボトルを右手でつかんだ。
北野はワイングラスを引き寄せた。
「もう充分いただきました」
「もう少しつきあいなさい」
佐々木がボトルを突き出したので、北野はワインを受けざるを得なかった。
佐々木は自分のグラスにもなみなみとワインを注いだ。
「久山は、きみになにを書き遺したのかね」
「…………」
「わたしに見せなさい。持ってるんだろう」
「いいえ」
「わたしには見せられないっていうのか」
北野は耳たぶを引っ張りながら、考える顔になった。
「いかがでしょう。中山頭取|宛《あて》に辞表を出していただいた後に、久山さんの手紙をお見せするということで」
「遺書を見せるほうが先だろう」
「お見せする性質のものではないと思いますが、久山さんの手紙も、このコピーも、すべてなかったことにしてもいいと思います。ですから、久山さんの遺書というか手紙の処分もお父さんにおまかせします。ぜひとも辞表の提出を先にお願いします」
北野はうなじが痛くなるほど長く低頭していた。
面《おもて》を上げると、佐々木は険しい顔でワインを飲んでいた。
「きみに、こんなに嫌われるとはなぁ」
「違います。そういうことではありません。お父さんが最高顧問でACBにとどまっている限り、もろもろの呪縛《じゆばく》、たとえば千久《せんきゆう》≠フ呪縛などを断ち切れないと考えているだけのことです」
「きみ、千久≠ニの取引関係を断ち切れると思ってるのか。だとしたら甘いな。だいたいACBと千久≠ニの関係をつけたのは、牧野さんだよ。千久≠ノは大きな借りもある。ACBと千久≠ヘ運命共同体で、わたしの存在がどうのこうのなど、とんちんかんな解釈だ」
「いずれにしましても、お父さんはACBを静かに去るべきだと思います。こういうことを言わなければならないわたしの辛《つら》い立場をご賢察ください」
北野はふたたび膝《ひざ》に手を突いて、うなじを垂れた。
佐々木は苛立《いらだ》って、ワインをがぶ飲みした。ラッパ飲みしかねない苛立ちぶりである。
それもそうだろう。思うにまかせぬことなど、そうそうなかった。なにごとも可ならざるはなし、で押し通してきた。
それが、娘婿の若造にACBを去れ、とまで言われているのである。
この野郎! ふざけやがって! ぶっ殺してやる! と佐々木は思って当然だった。
佐々木が怒りと、もどかしさを抑えに抑えて、うめくように言った。
「ACBはわたしを必ず必要とするはずだ。坂本たちと同列の顧問ということで残るのがいいと思うが」
「それはないんじゃないでしょうか。久山さんの遺志に反します。繰り返しますが、お父さんがACBを去ることは、今日子の意思でもあるんです」
佐々木が勢いよくボトルを傾け過ぎたため、ワインがグラスからこぼれた。
「おおい! 誰かおらんか!」
佐々木は大声を放ったが、応答はなかった。
北野がタオル状のハンカチで、センターテーブルを拭《ふ》いた。
佐々木がグラスをくくっと呷《あお》った。
「きょうおまえが俺《おれ》に会うことを、中山は知ってるのか」
「とんでもない。なにをおっしゃいますか」
「だったら、中山の意見を聞きたい。陣内の意見も聞いてみたいな。さっそく電話をかけるか」
佐々木は中腰になった。呂律《ろれつ》もあやしくなっている。
北野は起ち上がって、佐々木の両肩を押さえつけた。
「お父さん、落ち着いてください。中山頭取と陣内副頭取に久山さんの手紙のことや、ここにあるコピーのことを知らしめる必要があるんですか。オープンにして、よろしいのですか」
北野はいっそう声を励ました。
「まだわかっていただけないんですか。でしたらどうぞお好きなようになさってください。わたしはわたしの考えで行動させてもらいます」
北野は、センターテーブルのコピーをわしづかみにして、背広のポケットにねじ込んだ。
「失礼しました。帰らせていただきます」
北野は、佐々木に会釈して背を向けた。
「待て! 待て! おまえ待たんか!」
佐々木は走り寄って、北野の背広の袖《そで》をつかんだ。
「まぁ、座れ。まだ話は終わっとらんじゃないか」
「もう話すことはありません」
「とにかく座ってくれ」
こんどは佐々木が北野の肩を押さえつける番だった。
佐々木は、北野がソファに座ったのを見届けてから、長椅子《ながいす》に腰をおろして、苦しそうに息をついた。
水を飲んで、深呼吸をしてから、佐々木は寝そべるような姿勢で、北野を見上げた。
「何日か前に陣内と森田が病院に見舞いに来てくれたが、千久≠ニの関係などでわたしに指導してくれと言っとった。中山はなにを考えてるか知らんが、千久≠ニの関係がこじれていることを陣内たちは心配してたぞ。千久≠ニの関係を修復するためにも、わたしの出番だとばかり思ってたんだが……」
佐々木が作り話をしているとは思えなかった。陣内や森田が佐々木に接近しようと考えたとしても、不思議ではない。久山の死が、佐々木のパワーを増幅させた、とする見方すらあるのだ。
しかし、久山も記していたが、新生ACBにとって、佐々木が邪魔になることは明々白々ではないか。ここは譲歩してはならない――。
北野は耳たぶを引っ張りながら、佐々木を睨《にら》み返した。
久山のデスマスクを目に浮かべることによって、北野は怒りを募らせた。
佐々木が北野の視線を外して、おもねるように言った。
「最高顧問の肩書は偉そうに見えて、わたしもちょっと面映《おもはゆ》いんだ。最高を取って、坂本と同じただの顧問ということなら、ゆるしてもらえるかね」
「あり得ません」
にべもない北野の返事に、佐々木は頬をふくらませた。
「いま、この場で辞表を書いていただけませんか。わたしが中山頭取にお届けします」
「な、なんだと」
「わたしも、自分のことが心配になってきました。気持ちが抑えられなくなるんじゃないか心配なんです。どこへ駆け込むかわかりませんよ」
「お、おまえ、お、俺を脅迫するのか」
「久山さんがどういうお気持ちで亡くなられたか考えてください」
「中山に慰留されたら、どうするんだ」
北野は返す言葉がなかった。佐々木が慰留されると本気で思っているとしたら、笑止千万である。
「さっきも言ったが、陣内は、わたしを頼ってる。中山だって、そうかもしれないじゃないか」
北野は舌を巻いた。呆《あき》れるほどしたたかな精神力の持ち主なのだ。ACBのドンと言われるだけのことはある――。
「慰留されることはないと、わたしは思います。しかし、あり得るかもしれませんね。わたしがお父さんの立場だったら、慰留されてとどまるようなことはしませんが、どっちにしても、いま考えることじゃないような気がしますけど」
≪かん≫にさわるもの言いであることは百も承知だが、北野は胸がむかむかしていたので、どうにもセーブできなかった。
「わかった、わかった。あす、中山に辞表を出す。それで文句はないだろう」
佐々木は、言葉を投げつけて、ふてくされたように長椅子にごろんと躰《からだ》を倒した。
「ありがとうございます。これで、まっすぐ帰宅できます。お父さんが辞表を出すことによって、出処進退に誤りがなかったことが語り種《ぐさ》になると思います。お母さんも今日子もよろこばれるんじゃないでしょうか」
「余計なことは言わんでいい」
佐々木は横臥《おうが》の姿勢を取って、北野に背を向けた。
「失礼しました」
北野は、離れから退出した。時計を見ると五時五分前だった。
四時間も、ねばったことになる。ねばった甲斐《かい》がある、と北野は思った。
北野は、フロントで小坂にいとまを告げると、「ちょっとお待ちください。社長がご挨拶したいと申してます」と引き留められた。
「さっき、お目にかかりましたが」
「申し訳ありません。すぐまいりますから」
「それでは、トイレをお借りします」
北野は、猛烈に尿意《にようい》を覚えていた。
スッキリしてフロントに戻ると、青木伸枝が待っていた。
「長居しまして、どうも」
「とんでもない。あのう、いつぞやは奥さまにお見えいただきまして、恐縮致しました。おきれいでいらっしゃるわ。佐々木先生もお幸せですねぇ。奥さまにくれぐれもよろしくお伝えください。つまらないものですけど、奥さまに」
「困ります」
「そんなたいしたものではございません」
北野は伸枝から、平べったい角張った包みを入れた紙袋を押しつけられた。
「それでは遠慮なく、いただきます。ありがとうございました」
「お車を用意してございます。お暑いですから、どうぞお使いください」
「かさねがさね申し訳ありません」
北野は一葉苑≠フ大型乗用車のリアシートに背を凭《もた》せながら、伸枝は佐々木の心を惹《ひ》きつけてやまないのではないか、佐々木は永福と箱根を行ったり来たりするのだろうか、などといらぬことを考えていた。
4
小田原駅のホームで上り電車を待っている間に北野は自宅に電話をかけた。
「はい、北野です」
今日子の声だった。
「僕だよ。いま小田原駅だ」
「ずいぶん長かったのねぇ。こっちから電話をかけるのもなんだし、いらいらしてたのよ。父の様子はどうだったの」
「いいのか。お母さんは……」
「母は史歩と金魚|掬《すく》いに行ってるわ。そろそろ帰るころかしら」
「ACBから去ることを同意してくれたよ。辞表を見なければ、結論が出たことにならないが、多分大丈夫だろう」
「ふぅーん。さしもの父も久山さんの遺書で降参したわけね」
「しかし、まだわからんよ。全面降伏っていうわけじゃないからねぇ。もうひと波乱ありそうな気がしないでもない。佐々木ファンもけっこう多いからねぇ。慰留する人だっているだろうし……」
「まさか。いくらなんでも、それはないでしょ。いちばん父を慰留する可能性のある人はもうこの世にいないのよ。それどころか、その久山さんに見限られたんだから……」
「うがったことを言うなぁ」
「母が帰ってきたみたい。夕食は要るんでしょ」
「うん。じゃあな」
携帯電話が切れた直後に、掌《てのひら》の中で振動した。
「もしもし、北野さんですか」
「はい。北野ですが」
女性の声だった。
「横井です。いま、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
北野はドキドキしながら、携帯電話を右耳に押し当てた。
「三十分ほど前に佐々木最高顧問から電話がございました。あす十一時に、千久の木下社長と面会することになったので、十時半に東京駅に専用車を回すように手配しろ、ということでした」
「千久本社に木下社長をお訪ねするっていうことですね」
「そう思います。ご自分でアポをお取りになったんでしょうねぇ。佐々木最高顧問、おかげんはすっかりよろしいのでしょうか」
「ワインを飲んでましたから、体調はいいんじゃないですか。実は一葉苑≠ナ佐々木最高顧問と長話をしたんです。もちろん内緒ですけど」
「北野さんにお電話してよろしいのかどうか迷ったんですが……」
「電話をいただいてよかったですよ。横井さんだから申し上げますが、佐々木最高顧問から呼び出されたわけではなく、わたしのほうから強引に押しかけたんです」
「…………」
「木下社長に面会を求めたということは、気持ちが揺れてるからなんでしょうねぇ。わたしも、家内も、これ以上老醜を晒《さら》してもらいたくない、最高顧問を辞めるべきだっていう意見なんです。それで、一葉苑≠ノ押しかけたんですが、われわれの意見を容《い》れてくれそうな気配だったんですけどねぇ」
「佐々木最高顧問がご自分からお辞めになりますかしら。わたくしには考えられませんが」
「うーん。どうなんですかねぇ。ただ、なんで木下社長なんでしょうか。木下社長に相談するなんて、どうかしてますよ。最悪です」
「木下社長は、佐々木最高顧問の味方ですし、影響力もありますから、佐々木最高顧問としては仕方がないと思いますけど」
「往生際が悪くて、困った人ですよ」
北野は落ち着きを取り戻し、饒舌《じようぜつ》になった。
「いま、どこにいらっしゃるんですか」
「JRの小田原駅です」
話が途切れた。五秒ほど待って、北野のほうから呼びかけた。
「もしもし」
「はい」
横井の声量が極端に落ちた。
「もしもし、聞こえますか」
「はい。聞こえます……。いまからお目にかかるわけにはいきませんか」
北野は口にたまった唾液《だえき》を呑《の》み込んだ。咄嗟《とつさ》には返事ができず、こんどは横井繁子のほうが呼びかけてきた。
「もしもし」
「はい。実はきょう中に石井部長と片山次長と込み入った話をしなければならないんです。申し訳ありません。近日中に横井さんの歓送会を佐藤さんと二人でやらせていただきます」
今夜、石井と電話で話そうと思っていたことは事実だったので、気が咎《とが》めることはなかった。
「二人だけでお会いするのは、いけませんか」
「そう思います」
「いちど、先だってのお返しをさせてくださいませんか」
「お気持ちだけいただきます」
「そんな……」
「お電話ありがとうございました。電車が来ましたので、失礼します」
北野は急いで携帯電話の電源を切った。
横井が、佐々木と木下の面会を俺《おれ》に告げることなど、通常はあり得ない。俺に逢《あ》いたいがために、秘書の立場を逸脱したとしか思えない――。逢瀬《おうせ》を求められて、まんざらでもない、という思いがないと言えば嘘《うそ》になるし、きっぱり拒絶したものの、勿体《もつたい》ないような気もしていた。
ましてや、横井繁子は七月末にはACBを辞職する身である。緊急性があると言えばあるにせよ、わざわざ携帯電話をかけてきた横井の胸中を思うと、申し訳ないような、やるせないような気持ちになる。
北野は、「色男ぶって、笑わせるな」とひとりごちて、頭の中の横井の顔を振り払った。
それどころではない。問題は佐々木対策、千久¢ホ策だ。
北野は、午後六時二十三分小田原始発の上り湘南電車の中で、どうしたものか思案した。
佐々木は悪あがきをしようとしているとしか思えなかった。
千久≠味方につけて、居残りを画策しようとしているとしたら、ゆるせない。
カードはわがほうにあるのだから、もう勝負はついたも同然ではないか。
まてよ千久≠ノ辞任の挨拶《あいさつ》をしに行くだけのこととは考えられないだろうか。案外そんなことかもしれない。
ACBを去っても、佐々木は有償の非常勤役員や顧問職が十指に余るほどあるのだから、小遣い銭にこと欠くはずがない。
しかし、それだけで甘んじていられる男ではなかった。
俺ほどの男が、とつねに思っている。自信の塊のような男が、閑職にとどまっていられるだろうか。
ここまで考えて、北野はなにやら莫迦莫迦《ばかばか》しくなってきた。
明朝一番で、中山に、佐々木最高顧問が辞表を出す可能性があること、そのときはお世辞にも慰留してはならないことを伝えて、あとは様子を見るだけだ、と北野はとりあえず考えをまとめた。
ワインの酔いがいまごろ回ってきて、北野は睡魔に襲われていた。
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第十九章 運命共同体
1
佐々木の専用車が京橋にある千久本社ビルの玄関前に横付けされたのは、七月七日月曜日午前十時四十五分のことだ。
見覚えのある女性秘書が受付で佐々木を待ち受け、応接室に案内した。
「木下はただいま接客中ですので、少々お待ちいただけますでしょうか」
「ええ。十一時の約束ですが、ちょっと早めに来てしまって、すみませんねぇ」
「とんでもございません」
女性秘書はいったん退出したが、ほどなく冷たい麦茶を運んできた。
「ただいま、木下にメモを入れました」
「ありがとう」
佐々木は応接室で二十分ほど待たされたが、無理に時間をあけてもらった手前、文句を言えた義理ではなかった。
社長室の豪華なソファに佐々木を迎えるなり、木下が言った。
「顔色もいいし、病み上がりとは思えませんねぇ」
「入院中はご丁寧にお見舞いをいただきまして、ありがとうございました」
「病院へ伺うつもりだったが、もう退院したと聞いて、呆気《あつけ》に取られましたよ」
「お騒がせしまして、どうも……」
木下が緑茶をがぶっと飲んで、湯呑《ゆの》みをセンターテーブルの茶托《ちやたく》に戻した。そして、切れ長の鋭い目で佐々木をとらえた。
「ところで、急用って、なんですか」
「久山があんなことになって、わたしとしてもACBにこのままとどまるのは、潔《いさぎよ》しとせんのですよ。はっきり言いますが、辞任するつもりです」
「辞任する」
「ええ。老兵はただ消え去るのみですよ」
「なにが老兵ですか。ACBのドンが、なにをおっしゃるか。もって回った言い方しないで、どういうことなのか率直に話しなさいよ。なにか魂胆でもあるんでしょうが」
佐々木は、木下のさぐるような目を見返せなかった。
「参りましたなぁ。魂胆なんて、ないですよ。若い者の邪魔になるだけですからな」
木下が脂《あぶら》ぎった赭《あか》ら顔をしかめた。
「中山があんたに出てゆけがしの態度を取ってるんですか」
佐々木は思案顔で天井を仰いだ。
「あの若造、ちょっと図に乗ってるのと違いますか。佐々木さんを袖《そで》にするなんて、冗談じゃあないですよ」
佐々木が投げ出し気味にしていた脚を縮めて、上体を起こした。
「このわたしを袖にするなんてことはないですよ。木下社長は、中山に含むところでもあるんですか」
「別に含んでなんておらんよ。一度も会ったことがない男に、含みようがないじゃないの」
「えっ。一度も会ってない……」
佐々木はピンとくるものがあった。
「中山が、木下社長にご挨拶《あいさつ》してないなんて、信じられませんよ。千久さんはACBにとって、大切なパートナーであり、両社は運命共同体じゃないですか。あいつは、いったいなにを考えてるんですかねぇ。陣内もちゃんと中山を補佐せんで、しょうがないやつですよ」
「陣内は二、三度、ここへ来てますよ。中山を連れてくるようなことを言ってたがねぇ」
「たしか陣内は若いころ、千久さんに出向させてもらったんじゃなかったですか」
「陣内とか森田とか、生きのいいのを出してもらって、重宝させてもらいましたよ」
「陣内と森田は、いまやACBのエース格ですよ」
「中山なんていうのは知らんですなぁ。わたしが顔も知らんような男が、ACBの頭取になるとはねぇ」
木下は口の端をゆがめて、吐き捨てるように言った。
ACBの歴代トップは、なにはさておいても頭取、会長に就任するやいなや千久′w《もう》でをするのがしきたりだった。
中山がACBの頭取に就任して、ひと月半ほど経つが、いまだに木下に挨拶していないとは――。
陣内が、中山の姿勢が不可解だとぼやいていたのは、このことだったのか。まさか、そこまでとは、と佐々木は呆《あき》れ返った。
そう言えば、きのう、北野が千久≠フ呪縛《じゆばく》うんぬんと話していた。それこそ若造のたわごとと聞き流したが、佐々木は北野が秘書役であることに思いを致して、中山が北野の進言に影響されているかもしれない、と気を回した。
北野は俺《おれ》の娘婿だ。北野の背後に俺が存在していることで、中山が北野を必要以上に大きく見ているに相違ない――。
佐々木は胸の中で自問自答して、ひとうなずきした。
「中山の首に縄を付けてでも、木下社長の前に引きずってきますよ」
木下が緑茶を飲んで、本題に戻した。
「そんなことはどうでもいいですよ。それより、あんた、ほんとにACBを辞める気なんですか」
「ええ。久山だけが犠牲になってるようで、寝覚めが悪いじゃないですか。わたしは久山に殉じるのがいいと思うんです」
「あんたは久山君の恩人じゃないですか。久山に殉じるはないでしょう」
「それはそうだが、ニュアンスはそんな感じですよ……」
佐々木も湯呑みを口へ運んだ。
「実を言いますと、家内と娘に泣かれましてねぇ。わたしがACBにとどまっているのは、世間体も悪いし、恥ずかしくてしょうがないらしいんですわ」
「女子供がなにを言おうが、取りあわんに限りますな。まだ隠居する歳でもないでしょうが」
「木下社長のご意見はありがたいと思いますが、ACBを外野席から見るのもいいんじゃないですか。きょう中山に辞表を出すつもりです」
木下が両手で湯呑みをもてあそびながら言った。
「あんた、いまACBと千久は運命共同体と言いましたなぁ」
「ええ」
「どうです。ほんの思いつきだが、千久に来ませんか」
佐々木は思わず頬《ほお》をゆるめた。このことを自分のほうから切り出さずに、木下に言わせることはできないものか、と思案をめぐらせていたのである。
「千久のシニアアドバイザー、最高顧問ぐらいじゃ役不足もいいところだが、ウチとACBを運命共同体と考えれば、まぁ我慢できないこともないでしょうが。暮らし向きの一切合切の面倒をみさせてもらいますよ。個室、専用車、秘書も、もちろん付けます。ACBみたいにはいかんが、精いっぱい遇させてもらいますよ。あんた、庭いじりと孫を相手に毎日を過ごすほど枯れておらんでしょうが」
「おっしゃるとおりです。わたしもまだ生臭いほうでねぇ。しかし、これでもまだ千久さんのためにお役に立てるかもしれませんよ」
木下が大仰に何度もうなずいた。
「佐々木さんほどの大物をスカウトできれば、千久の格も上がるっていうものです」
木下は赭ら顔をいっそう赤く染めて、話をつづけた。
「あんたに千久に来てもらえるんなら、ACBの最高顧問を辞めるのは大賛成ですよ」
木下はACBから中堅、若手社員を出向させていることを、社内で「人質を取ってる」と広言して憚《はばか》らなかった。
佐々木は、人質中の人質ではないか。佐々木はまだまだ使える。佐々木を最高顧問で迎えることで、運命共同体が磐石《ばんじやく》になると、木下は踏んでいた。
「箱根山≠フほうはどうなの」
木下は軽口をたたいて、ニタッとした。
「箱根山≠フためにも、まだまだ枯れるわけにはいきませんな」
佐々木はしれっと言い返した。
2
佐々木が木下と昼食を共にして、ACB本館ビル二十七階の最高顧問室に入室したのは午後一時二十分だ。
駐車場受付からの電話連絡で秘書室の横井繁子が緑茶を淹《い》れて、最高顧問室に顔を出した。
「陣内がおったら、至急呼んでくれないか」
「かしこまりました」
陣内は会議中だったが、中座して、押っ取り刀で駆けつけた。
「おめでとうございます。お元気になられて、なによりです」
「うん。割り合い丈夫にできてるようだよ。不整脈も一過性で、内臓はまあまあらしい。ちょっと座りなさい」
佐々木にソファを勧められて、陣内は佐々木の前に腰をおろした。
「さっそくだが、中山は木下さんのところへまだ挨拶に行ってないらしいじゃないか。きょう木下さんに呼ばれて、めしを食ったが、怒ってたぞ。きみが付いてて困るじゃないか」
「申し訳ありません。頭取には再三再四、木下社長にご挨拶するよう言ってるんですが、総会が終わるまでということで……」
「総会が終わって十日も経つじゃないの」
「今週中には必ずお連れしたいと思います」
「中山にわたしからも話そうか」
「いや、わたしにおまかせください」
「中山に会わなならんから、話しておくよ」
「なにか」
「うん。ACBを辞めさせてもらおうと思ってなぁ」
陣内は鋭角的な顔を怪訝《けげん》そうに、斜めに倒した。
「中山に辞表を出すことにしたよ」
「どういうことですか」
「ACBは、きみたち若い人にまかせるよ。わたしは煙たがられてるから、みんな清々するんじゃないか」
「なにをおっしゃいますか。久山さんが亡くなり、今井さんの逮捕も迫っているというのに、最高顧問がお辞めになったら、われわれは誰を頼りにしたら、よろしいんですか。冗談にも辞めるなどとおっしゃらないで、いただきたいですねぇ」
佐々木がにやにやしながらたるんだ頬をさすった。
「きみだから話すんだがねぇ、木下社長がどうしても千久の最高顧問で迎えたいってきかんのだよ。ACBと千久とは運命共同体みたいなもんだから、わたしが千久に行っても、そう違和感はないんじゃないのかね。一歩下がって、外からACBを眺めさせてもらうのもいいだろう」
陣内は口がきけないほどびっくりしていた。
佐々木が千久の最高顧問に就くことをいったい誰が予想したろうか。しかし、陣内は、佐々木をスカウトしようとしている木下の狙《ねら》いがわかるような気がしていた。
中山が千久≠ニ距離を置こうとしていることに、木下は危機感を覚えているに相違なかった。
佐々木を抱き込もうとしている木下の目のつけどころは、さすがというほかはない。
だいたい、千久≠フ呪縛から解かれると中山が考えているとしたら、甘すぎるのだ。千久が沈めば、ACBも沈む。ACBと千久は文字どおり運命共同体なのだ。
佐々木のACB最高顧問辞任と、千久の最高顧問就任はもはや動かせない、と陣内は瞬時のうちに結論づけた。
「ショックです。ショックですよ」
陣内はうめくように言って、絶句した。
「厄介払いができたと思う者だっておるだろう」
陣内は眉間《みけん》にしわを刻んで腕組みし、黙って首を左右に振った。
佐々木に呼びつけられた横井繁子が秘書室に戻ってくるなり、北野のデスクの前に立った。
「佐々木最高顧問が頭取に至急お会いしたいとおっしゃってますが……」
「五時半まで詰まってますが、どうしたものですかねぇ。押し込むとすれば三時からの白幡専務との面談をやりくりするしかないかなぁ」
北野は、中山頭取のスケジュール表を見ながら、つぶやくように言って、白幡付の女性秘書を手招きした。
「村田さん。ちょっと」
横井が自席に戻り、村田美樹と入れ替わった。
「白幡専務に、三時の面談を三時十五分に変更するように伝えてください。三時四十分までの時間は変えられないので、十五分の短縮をお願いするっていうことです。佐々木最高顧問との用談が終わり次第連絡するということでどうでしょうか。十五分以内に必ず終わるように頭取に話しておきます」
「かしこまりました」
村田が秘書室から出て行くのを追いかけるように、北野も席を立った。頭取室で石井企画部長と用談中の中山に、佐々木の申し出を伝えなければならなかったからだ。
佐々木が辞任する可能性のあることを、北野はまだ中山に伝えていなかった。中山が多忙で、その時間がなかったのだ。
北野は、頭取室のドアをノックする前に時計を見た。午後二時十三分だ。二時半には、来客の予定が入っている。
北野は、横井から、佐々木と陣内副頭取が面談したことを聞いていた。横井はなにかにつけて、北野に接近してくる。気がつくと、じっとこっちを見ていることもあった。情緒不安定になっているようにも思える。
四半世紀も勤続したACBを間もなく去るのだから、それも当然だろう。考え過ぎ、思い過ごしかもしれないが、北野は横井のまなざしが気になっていた。
「はい」
北野は、中山の応答を聞いてからドアを開けた。
「突然、申し訳ありません。佐々木最高顧問が至急、頭取にお会いしたいと言ってきましたので、三時から十五分だけ、お時間をいただきたいのですが」
「へえ、佐々木さん、もう出てきたの」
「はい」
「用件はなんだろう。北野に心当たりはないのか」
「最高顧問を辞任したい、ということなんじゃないでしょうか」
中山と石井が顔を見合わせた。
「まさか」
「ええ」
北野は、石井の隣に腰をおろした。
「失礼します」
中山が北野を見据えた。
「なにか根拠でもあるのか」
「義母も家内も、辞任することを強く望んでますし、わたしもそうですが、久山顧問が亡くなって、佐々木最高顧問の心境に変化が生じたとしましても、不思議ではないと思いますが」
石井が口を挟んだ。
「わたしは席を外したほうがいいんじゃないか」
北野が答える前に、中山が言った。
「かまわんよ。話を続けてもらおうか」
北野は耳たぶを引っ張った。
「はい。辞めるべきなんじゃないか、と考えてるような感触を得ております。とにかく、三時に佐々木最高顧問に会っていただけませんか。辞表を出すようでしたら、受理していただきたいと存じます。僭越《せんえつ》ながらあえて申し上げますが、慰留めいた言葉は口にしないほうがよろしいと思いますが」
中山が石井に目を向けた。
「にわかには信じられんような話だねぇ。あの佐々木さんが、自ら辞めるなんて言うだろうか」
「しかし、ほかならぬ北野の話ですからねぇ」
北野が耳たぶを引っ張りながら言った。
「ついでにお耳に入れますが、佐々木最高顧問は本日午前十一時に、千久本社に木下社長を訪問しています。辞任の相談、あるいは挨拶《あいさつ》、そんなところではないでしょうか。それから午後一時半ごろでしたか、陣内副頭取を呼んで、三十分ほど話をしてます」
中山が顔をしかめた。
「ふぅーん。佐々木さんは木下社長と会ってるのか。厭《いや》な予感がするなぁ」
「どうしてですか。朗報と思いますが」
「それならいいが」
中山が時計に目を落として、話をつづけた。
「とにかく三時に佐々木さんの部屋に出向けばいいんだね」
「お願いします」
「わかった」
「失礼しました」
北野は、片山のために一席設けて欲しい、と中山に言いたかったが、そんな雰囲気ではなかった。中山と石井の話は、まだ終わっていないようだ。
北野は、片山の人事部付への異動と、かれの慰労会を中山頭取主催で行なうことについてまだ石井に話していなかった。
中山と石井が目の前にいるのだから、いまなら話が早い。だが、不謹慎のそしりをまぬがれないだろう。
北野が頭取室にいた時間は五分足らずだった。
頭取室はまだ二十六階の旧常務室のままで、二十七階に移っていなかった。
北野が秘書室に戻ろうとエレベーターに乗って、二十七階で降りると、横井繁子がエレベーターホールで待ち受けていた。
北野はドキッとした。
「佐々木最高顧問から催促の電話がございました。三時ということでよろしいでしょうか」
「ええ。頭取が三時に佐々木最高顧問の部屋に出向きます。時間は十五分以内でお願いします」
「あのう。今週どこかでお時間いただけませんでしょうか」
「先日も電話で言いましたが、片山のことで石井部長と意見調整しなければならないので、ちょっと予定を立てにくいんですよ」
「わたくしを避けてるのね」
横井はなんともいえない目で、北野を見上げた。
北野は耳たぶを引っ張った。
「避けるなんてとんでもない。来週、佐藤さんと三人で会食しましょう」
「北野さんと二人で……」
「それはやめたほうがいいですよ」
「どうしてもいけませんか」
「佐々木最高顧問が辞任することになるかもしれません。横井さん限りにしてください」
北野は、横井の質問には答えずに、話題を変えた。
「そんなこともあって、今週はガタガタすると思うんです。とにかく来週、ゆっくりお目にかかりましょう。横井さんは佐々木最高顧問のお守り役で苦労されたから、一席でも二席でも設けさせていただきます」
北野が事務的な口調になるのは仕方がなかった。
横井は硬い顔で一礼して、北野に背中を向けた。
3
午後四時二十分に石井企画部長から北野秘書役に電話がかかった。
「頭取と佐々木さんの対決の結果は聞いてるのか」
「いいえ。十二、三分で頭取室に戻られましたが、すぐ白幡専務が入り、いまは接客中です」
「じゃあ、たいしたことはなかったのかねぇ。一大事なら、北野を呼ぶだろう」
「分刻みの過密スケジュールですからねぇ」
「千久≠ェらみと聞いて、わたしも厭な予感がするんだけど、なにかあったら連絡してくれないか。夜の予定はないから、よかったら、そのへんで一杯やろうか」
北野は思わずにやっとして、受話器を左手に持ち替えた。
「いいですねぇ。積もる話もありますので、ぜひ」
「じゃあ決まりだ。帰りがけに電話をかけてくれ」
「承知しました」
北野が受話器を戻して、横井繁子の席に目を遣《や》ると、視線がぶつかった。横井は視線を外さなかったが、北野は笑顔をつくって、目礼し、すぐにデスクの頭取日程表に目を落とした。
午後六時四十分まで、呼び出しはないだろう。不祥事|出来《しゆつたい》後、外部との宴席は自粛しているので、中山も七時には退行するはずだ。
もっとも、中山もまっすぐ帰宅することに抵抗感のある世代だから、頭取室で、雨宮や北野を相手に水割りウイスキーを飲みながら雑談することもままあった。
六時四十五分に、中山から北野に呼び出しがかかった。
北野の顔を見るなり、中山がしかめっ面で言った。
「厭な予感が的中したぞ」
「はあ」
北野は耳たぶを引っ張りながら、ソファで中山と向かい合った。
「失礼します」
「北野のご託宣も当たってたが、考えようによっては、もっと悪い結果になったとも言えるな」
「どういうことですか」
中山は背広の内ポケットから白い封書を取り出して、センターテーブルに放り投げた。
上書きに辞表≠ニ墨書されていた。まさしく佐々木の自筆である。
「なにか不都合がありますか」
「ある」
中山は短く答えて、いっそう顔をしかめた。
「木下社長から最高顧問で千久に迎えたいと熱烈コールがあったそうだ。熱意にほだされてOKしてしまったので、そのつもりで辞表を受理してもらいたい、と言われたよ」
「そんな……」
北野は絶句した。顔がひきつれ、胸苦しさを覚えた。
「わたしの一存ではなんとも申し上げようがないので、とりあえず辞表はおあずかりするが、取り扱いについては、経営会議に諮らせていただく、と言って引き下がってきたが、勝負はついてるな。完敗だ」
「完敗ですか」
北野の声がうわずった。
「対千久$略で、中澤さんや北野たちが主張してる強い手は打てないっていうことだよ。佐々木さんも両社は運命共同体だと繰り返し言ってたが、今週中に木下社長のところへご挨拶に行くことを約束させられたよ」
「…………」
「北野がここへ来る前に、陣内君が電話をかけてきた。今夜、食事をしたいそうだ」
「お受けしたんですか」
「断る理由がないだろう」
「木下社長にご挨拶に出向くのは仕方がないと思いますが、千久≠ニ距離を置くスタンスは取れないものでしょうか」
「佐々木さんを人質に取られてしまった現実を考えてくれないか」
北野は、打ちのめされて、一敗地にまみれたボクサーのように、うつろな目を中山に向けた。
北野は耳たぶを引っ張りながら、かろうじて態勢を立て直した。
「川上―小田島の呪縛《じゆばく》を断ち切るために、ACBは相当な犠牲を強いられました。千久≠ヘ反社会的勢力ではありませんが、今後千久≠ニどうかかわっていくかは、ACBにとって最大の経営課題になると思います。現状維持は最悪の選択肢です。全面撤退は不可能としても、縮小する方向を目指すべきです。さしあたって、出向者を引き上げるぐらいはあってもよろしいんじゃないでしょうか。佐々木最高顧問を人質と考えるんなら、それでチャラとも言えます。わたしは、人質と考える必要はないと思いますが」
中山は時計を見ながら、苛立《いらだ》った声で言った。
「北野、時間がないぞ。この続きはあしただ」
「あすの夜、片山の慰労会をやりたいのですが、ぜひとも頭取にご出席願えませんでしょうか」
「千久≠ニ関係があるのか」
「いいえ。ただ、石井部長、松原部長にも声をかけたいと思いますので、なんでしたら、話題にしてもよろしいかと……」
「それはまずいな」
中山は厭《いや》な顔をした。
北野は引かなかった。
「かつての紅衛兵≠フ話もたまには聞いていただきたいと存じます」
「片山については、いろいろあるからねぇ」
「いずれにしましても、あしたの夜、お時間をいただけますか」
「それはいい。しかし、片山は外したほうがいいな」
中山は佐々木の辞表≠手にして、ソファから腰をあげた。
「陣内君に、頭取公邸に来てもらうことにしたんだ。陣内君が先に着いてもいいように、電話をかけといてくれないか」
「奥さまはご存じなんですか」
「いや。それどころじゃないよ。電話する時間もなかった。じゃあ、頼んだぞ」
北野は、中山のデスクから、駐車場受付に電話をかけて、配車の手配をした。そして、中山が退出したあとで、頭取公邸を呼び出した。
中山夫人が直接電話に出てきた。
「秘書役の北野ですが」
「ああ北野さん、お元気そうねぇ。その節はお世話になりました」
「とんでもない」
北野は、中山の引っ越しの手伝いに駆り出された。夫人はそのときのことを言ってるのだろうが、引っ越し業者がすべてを仕切って、北野はほとんど役に立たなかった。
「さっそくですが、頭取はいまお帰りになりました。陣内副頭取と、公邸で食事をなさるそうです」
「あら、陣内さんが見えるの。もう少し早く連絡していただきたかったわ」
「申し訳ありません。急に決まったものですから。陣内副頭取のほうが早くそちらに着くかもしれませんので、よろしくお願いします」
「食事はお鮨《すし》でいいのかしら。そうもいかないわねぇ。ありあわせの物でなんとかしますわ」
中山夫人は明るい性格で、気の置けない人だった。美形だが、鼻にかけるところはまったくない。
「よろしくお願いします」
「北野さん、いつまで公邸住まいを続ければよろしいの」
「公邸はおいやですか」
「なんだか気づまりで。伸び伸びできなくて。子供たちも早く家に帰りたいと言ってますのよ」
北野は返事のしようがなかった。
4
頭取室からエレベーターホールに向かいながら、北野は携帯電話で石井と話した。
「五分で退行できますが」
「わたしもいいよ。じゃあ五分後に通用口で会おう」
「承知しました」
北野が自席に戻ると、秘書室はまだ十人ほど残っていた。雨宮室長も在席している。
「頭取はいまお帰りになりました……」
北野は、雨宮のデスクに両手を突いて、上体を寄せた。
「陣内副頭取と公邸で会食するそうです。副頭取のほうから、会いたいと言ってきたらしいですよ」
「なんの密談かねぇ」
雨宮も上体を乗り出して、声をひそめた。
「さぁ」
北野は千久≠ェらみ、佐々木がらみと察しはついていたが、時間がなかったので、小首をかしげるにとどめた。
北野は屈《かが》めていた背筋を伸ばして、普通の声に戻した。
「企画部長に食事を誘われてますので、お先に失礼してよろしいですか」
「石井によろしく言ってね」
「お伝えします」
北野は、横井繁子の視線を背中に感じていた。だからこそ、聞こえるように話したのだ。
通用口の受付の前に石井のほうが先に来ていた。
北野は手ぶらだったが、石井は大きなソフトアタッシェケースを提げていた。
「神田《かんだ》の錦町《にしきちよう》にちょっと気の利いた店があるんだ。タクシーで五、六分かな」
「きょうも暑いですねぇ。真夏日はいつまで続くんでしょうか」
北野は背広を脱ぎながら、石井の後に続いた。
タクシーはすぐに拾えた。
「近くて申し訳ありませんが、錦町河岸を目指してください」
タクシーが走り出した。
「竹橋《たけばし》安田ビルの九階に四季交楽然《ぜん》≠チていうレストランがあるのを知ってるか」
「いいえ」
「レストランといっても、和食と洋食と両方あるんだ。和食のほうはレストランとは言わんよなぁ。割烹《かつぽう》っていうとこだな」
「錦町河岸でしたら、歩いても行けますねぇ」
「うん。暑くなければ、散歩にちょうどいい距離だよ……」
石井は、北野のほうへ首を回して、左手で肩をつかんだ。
「どうだった」
「千久≠ニS≠ナすか」
「うん」
「その前に片山の話をさせてください。一杯飲んで、片山のことを忘れちゃったら、可哀相《かわいそう》ですから」
「片山と会ったのか」
「ええ」
石井はリアシートに背中を凭《もた》せて、腕を組んだ。
「いつ会ったの」
「おととい、土曜日の夕方です」
「あの暑い日に……。わたしが片山と話した翌日じゃないか。片山は相当カリカリしてたろう」
「そんな感じでした。パレスホテルに呼び出されたんですが、ふてくされてたというか、投げやりっていうか」
「片山の気持ちはよくわかるよ。片山にはなんの落ち度もない。運が悪いとしか言いようがないんだ」
タクシーは、錦町河岸に近づいていた。
石井が運転手のほうへ上体を寄せた。
「広瀬ビルの前でけっこうです」
後から降車した石井が料金を払った。
信号を渡って、ガソリンスタンドの隣が目指す竹橋安田ビルだった。
「小ぎれいなビルですねぇ」
「築五、六年じゃないかな」
二人は、奥のエレベーターホールの前で背広を着けた。
「地の利は抜群ですねぇ」
「なんかのパーティーで……、たしか会費制の出版記念パーティーで一年半ほど前に来たのが最初だ。そのあと友達に和食をご馳走《ちそう》になった。きょうで三度目だよ。洋食のほうを予約しておいた」
九階は最上階で、ワンフロアを然≠ェ占めていた。
エレベーターホールと受付、クロークを間に挟んで、向かって右手は洋食部門、左手が和食部門になっていた。
「いらっしゃいませ」
支配人だろうか、蝶《ちよう》ネクタイの長身の中年男が二人を迎えた。
「石井さま、ようこそおいでくださいました」
「お世話になります。こちら支配人の加藤さん」
「北野です。よろしくお願いします」
「恐れ入ります。加藤でございます」
名刺を出そうとする加藤を石井が押しとどめた。
「名刺はいいですよ。わたしと同じで表通りを大手を振って歩けない口ですから」
「おっしゃるとおりです。お騒がせして申し訳ございません」
「なにをおっしゃいますか」
石井も北野もACBのバッジを着けていた。
北野は襟のバッジを押さえながら、いつぞや小田原へ向かう湘南《しようなん》電車の中で、そっとバッジを外したことを思い出していた。ACBは再生に向けて一歩を踏み出したのだ、いじけてはならない、とわが胸に言いきかせて、北野がバッジを着け直したのは、新執行部が誕生してからだ。
石井が立ち止まって、左手のロイヤルルームを手で示した。
「ここで七、八十人のパーティーができるんだ。料理が美味《おい》しかったのを覚えててねぇ」
「部長も食通とは思えませんけど」
「どういう意味だ」
「深い意味はありませんよ。気の利いたお店をご存じなんで、びっくりしたんです」
「秘書役をもてなすには、まぁまぁの店だろう。さぁ、行こうか」
奥のコートドール・ルーム≠ヨ加藤が案内した。
二方が硝子《ガラス》になっている明るい部屋で、皇居の森が展望できた。これ以上の借景は望むべくもない。
「その辺で一杯にしては、豪勢ですねぇ」
「お互い、明けても暮れてもACBの再生のために、身を挺《てい》して頑張ってるんだから、このぐらいは許されるだろう。内緒話をするには、ここは絶好の場所だしねぇ。久しぶりに北野とゆっくり話したかったんだ」
加藤が退出し、童顔の若いウェイターが水を運んできた。
「お飲み物はいかが致しましょうか」
「ビールをください」
「小瓶になりますが……」
「とりあえず二、三本……。サッポロの黒ラベル≠お願いします」
「かしこまりました」
ビールの乾杯をするなり、石井が表情をひきしめた。
「片山は、ほんとツイてないよ。もっとも、MOF担というMOF担はどこもかしこも横並びで、逆風がきつくなる一方だろうが、片山たちに責任があるわけでもないのにねぇ。陣内副頭取が、片山は危ない、企画部から外すべきだと頭取に進言したことはたしかだよ」
然≠フフランス料理は、和風にアレンジされ、すべて箸《はし》で食べられるのがミソだった。
蛸《たこ》のマリネキャビア添え∞車海老《くるまえび》のガレット仕立て=Aトマト、レタスなど季節のサラダ≠フ三品が運ばれてきた。
北野も石井も、話に夢中で、舌鼓を打つゆとりはなかったが、料理長が腕によりをかけた逸品ぞろいだ。
「内務官僚タイプの厭《いや》みな人ですよねぇ。陣内さんは片山の功績はゼロだとでも言うんですか」
北野が突っかかるように言って、トマトを口の中へ放り込んだ。
石井が苦笑を洩《も》らした。
「陣内―森田はセットと考えたほうがいいかもねぇ。森田さんは、中山執行部の誕生に参加できなかったことが、根にあるかもしれない。ずるがしこい人だから、陣内さんに急接近したわけだ。あの大声で、中山会長∞陣内頭取≠セとか、どこかで吠《ほ》えたらしいよ。たしかに中山頭取が必要以上に、陣内副頭取に気を遣ってるような感じもあるしなぁ」
北野は黙ってうなずいた。思い当たるふしはいくらでもある。いま、頭取公邸で二人が会食していることをさっそく石井に話さなければならない。だが、片山問題が先だ。
「森田さんは自分で勝手にずっこけといて、根にもつなんて噴飯物《ふんぱんもの》ですよ」
北野は手酌でグラスを満たして、話をつづけた。
「片山をくさらせる手はないと思います。片山は誰がなんと言おうと次代を担うエースですよ。片山の歓送会を頭取主催でお願いしますって、さっき話したら、厭な顔をされましたが、片山に約束しちゃった手前、引っ込みがつきません。部長からも頭取にお願いしてくださいよ」
石井がグラスを乾したので、北野はボトルを持ち上げた。
「あと、二、三本追加していいですか」
「もちろん」
北野が中腰になったとき、童顔の若いウェイターが顔を出した。ウェイターは気を利かせて、廊下に出ていた。
北野が空の小瓶を指で示した。
「ビールをお願いします」
ウェイターは一礼して引き下がった。
「頭取主催って、どういうこと」
「頭取は石井部長、松原部長、片山とわたしの四人を一度ぐらい慰労しても、よろしいんじゃないですか」
「なるほど、そういうことか……」
石井はしかめっ面で、料理を食べ始めたが、考えがまとまったとみえ、箸を置いた。
「頭取を困らせるのはよそう」
「つまり反対なんですね」
「…………」
「片山の立場に立ったら、中山頭取って、なんて冷たい男だと思うでしょうねぇ」
ビールが運ばれてきた。二つのグラスを満たして、ウェイターはすぐに退出した。
「きみの気持ちはよくわかるよ。北野らしい思い遣《や》りに、脱帽もする。だが、ここはよく考えてくれないか。頭取の立場をだ」
「なにか不都合がありますか」
北野は一気にビールを乾した。
石井もさそわれるようにグラスを呷《あお》った。
「四人で会う分にはプライベートで、こっそりっていうこともできるが、頭取が入ったら、そうはいかない。こそこそするわけにはいかんだろう」
「なんでこそこそしなければいけないんですか」
「われわれは紅衛兵≠セったよねぇ。出る杭《くい》は打たれるっていうが、やっかまれても仕方がない立場だ。つまり目立つ存在なんだよ。必要以上に、静かにしてて、ちょうどいいんじゃないのか」
「自然体でいいと思いますけどねぇ。必要以上にこそこそする必要なんてないと思いますけど。わたしは、雨宮室長に、石井部長に食事を誘われたって、わざわざ断ってきましたよ」
ちょっと違う。横井繁子を意識した結果だ。北野は顔が赭《あか》らむ思いで、耳たぶを引っ張った。
「冷製白桃のスープ≠ナございます」
ウェイターは料理をテーブルに置くときに、必ず料理名を口にするが、北野は上の空だった。
石井はウェイターに気を遣って、会釈した。
「わたしは誰にも断らなかった。こそこそしてるつもりはないけどね」
ウェイターが退出してから、石井が話をつなげた。
「片山の歓送会だか激励会は三人でやろう。頭取をわずらわすことはない」
「片山はがっかりするでしょうねぇ。わたしの立つ瀬なんてどうでもいいですけど、あんなにACBのために頑張った片山を突き放すなんて、信じられませんよ」
「心配するな。片山は、ちょっと休むだけだよ。わたしが保証する」
「人事部付っていうのは、仕事をするなっていうことですよねぇ。サラリーマンにとって、これほど辛《つら》いことはありませんよ」
北野はスプーンでわけもなくスープをかきまぜながら、石井を睨《にら》みつけた。
石井がやさしく北野を見返した。
「片山の件はこんなところで勘弁してくれないか」
「勘弁できませんよ。片山のどこが悪いんですか」
北野は真顔で言って、スプーンを放り出した。
石井が表情をひきしめた。
「さっき頭取とも話したんだが、検察は、大蔵省と銀行のもたれあいにメスを入れようとしている、という陣内情報が正確だとしたら、片山の逮捕もあり得るって、頭取は心配していた。わたしは、いくらなんでも、それはないでしょう、と申し上げたが、陣内さんは頭取に五〇パーセントの確率であり得るって言ったらしいよ」
北野が耳たぶを引っ張りながら、訊《き》いた。
「情報源はどこですか。ガセネタっていう気がしますけど。片山が捕まったら、森田常務だって捕まるんじゃないですか。むろんACBだけじゃないですよねぇ。どこのMOF担もみんな逮捕されるっていうことになりませんか」
「たしかな筋としか、頭取も聞いてなかったが、ACBに限らず、MOF担に対する検察の事情聴取が本格化することは、どうやら間違いないんじゃないか。ACBは、検察にごっそり資料を押収されてるから、逃げ隠れできないよ」
「片山はすでに、何度も事情聴取を受けてますけど」
「まだまだ続くし、頻繁に行われると大変だから、人事部付に回ってもらわざるを得なかったんだ。しかし、どういう結果になろうと、片山は守るよ」
「取り越し苦労、過剰反応だと思いますけどねぇ。あるいは森田さんの意趣返しってことはありませんか」
そう言いながらも、北野は不安感が胸の中でじわじわ広がるのを制しかねていた。
検察の強制捜査、岡田副頭取、中澤専務らの逮捕……。
なにが起きても不思議ではない。
「わたしも、杞憂《きゆう》に終わることを願ってるよ。森田さんの意趣返しがあるとすれば、ターゲットはわたしだろう。遥《はる》か後輩の片山を相手にするとは思えないが」
「いや。わたしはそうは思いません。あの人は裏表があり過ぎるように思えます。油断ならぬ人ですよ」
「そうナーバスになるな」
「中澤さんの歓送会のときのことを思い出してくださいよ。いくらなんでも遠慮する≠ヘないでしょう」
北野は、感情的になり過ぎているかもしれないと思わぬでもなかったが、どうにもブレーキが利かなかった。
5
ウェイターが鱸《すずき》の洋風薄造り≠テーブルに並べた。
「本題に入っていいか」
「いや、まだまだ……」
石井がテーブルに肘《ひじ》を突いて、仏頂面で北野を見上げた。
「まだわかってくれないのか」
「頭取を巻き込むことはしません。その点は了解します。三人で片山を慰労することだけは早急にお願いします。それと、ゴルフもお忘れなく」
「前者はいつでもいいよ。しかし、後者はまだ見通しがつかないじゃない」
「もちろん、中澤さん次第ですけど……」
とがめるような北野の視線に気付いたウェイターが退出した。
「保釈は時間の問題なんじゃないですか」
「そう思うけど、今井さんがまだどうなるかわからんし、すぐっていうこともないんじゃないか」
石井はいらだって、早口になった。
「片山の件はこれぐらいにしよう。それで、どういうことだったんだ」
「事態はきわめて深刻です」
北野は顔をゆがめて、吐息をついた。
「どう深刻なの」
「佐々木顧問は頭取に辞表を出しましたよ」
「えっ!」
石井がビールをがぶがぶっと飲んだ。
「信じられんなぁ。北野はさっきそんなふうに予言したけど、驚いたねぇ。しかし、どうして深刻なんだ」
「千久に最高顧問で迎えられるそうですよ」
「ほんとか」
「木下社長からの熱烈コールですって。自分から売り込んだんじゃないですか」
「それはどうかねぇ。ACBと千久じゃあ、同じ最高顧問でも格が二|桁《けた》違うぞ」
「それは二カ月前までの話ですよ」
北野はビールを飲んで、投げやりな口調でつづけた。
「われわれは、大手を振って歩けないほど肩身の狭い思いをしてるじゃないですか」
「だけど、ACBは腐っても鯛《たい》だよ。S℃≠ヘ何を考えてるんだろう」
「久山さんがあんなことになって、図々《ずうずう》しく居座り続けられるわけがないんです。おととい片山が殺しても死なない怪物とか言ってましたけど、久山さんの死をなんとも感じていないとしたら、人間じゃないですよ」
「頭取、なんて言ってた」
「考えようによっては、もっと悪い結果になった……たしかそんな言い回しでした」
石井は、腕組みして目を瞑《つむ》った。
「S≠ヘ、ACBと千久≠ヘ運命共同体とか、のたまったそうですが、冗談じゃないですよ。千久≠ニの関係を正常化しない限り、ACBのあしたはないも同然です」
「…………」
「死に体《たい》のS≠ヘ人質たり得ません。カウントする必要はまったくないと思いますが」
やっと、石井が目を開けた。
「そうもいかんよ。北野は勇ましくて立派だけど、そう甘くないぞ」
「石井部長までなんですか。しっかりしてくださいよ」
「大きな声を出さなくても聞こえるよ」
「すみません」
北野は、耳たぶを引っ張りながら、胸をドキドキさせていた。
カードを見せようか、と考えていたのである。石井は信頼できる。石井ぐらいには、久山の遺書≠フことを明かしてもいいのではないか。そうしなければ、千久≠フ呪縛を断ち切れない。佐々木を、カウントする必要のないことを理解させるには、それしかないかもしれない――。
北野がトイレに立った。尿意《にようい》も催していたが、頭を冷やしたかったからだ。
然≠フトイレは、エレベーターホールの脇《わき》なので、奥のコートドール・ルーム≠ゥら、けっこう距離がある。
絨毯《じゆうたん》を敷き詰めたトイレまでの廊下を歩いているときは、石井に、佐々木の手紙の件を話してしまおうという思いのほうが勝っていたが、放尿しているときに気持ちが変わった。
「そんな莫迦《ばか》な。俺《おれ》としたことが」
北野は、最後のしずくを振り切って、ひとりごちた。久山の遺書≠焉A佐々木の手紙も石井に明かしてよいはずがない。それこそ男がすたるというものだ。液状|石鹸《せつけん》で入念に手を洗いながら、鏡に映った自分の顔と対面して、北野は内心ぎょっとした。顔が尖《とが》っている。険のある顔だ。
無理に笑ってみたが、目が険しい。こんなに人相が悪かったとは……。ショックだった。
それにしても、奸智《かんち》にたけた佐々木にかなうはずがなかった。俺などものの数ではない。佐々木にとって敵であるはずがないのだ。
最前、中山頭取が「もっと悪い結果になった」と言ったが、悔しいけれど当たっている。佐々木と木下に手玉に取られたのだ。
トイレを出て、歩きながら、加藤支配人に声をかけられたが、北野はろくすっぽ返事もしなかった。加藤は笑顔を消さなかったが、むろん北野の目に入ってはいなかった。
コートドール・ルーム≠ノ戻って、ウェイターから冷たいタオルを手渡されたが、北野は機械的に顔と手を拭《ふ》きながら、千久¢ホ策、佐々木対策で手詰まり状態にあることを認識せずにはいられなかった。
「このあと、まだ料理は出るんですか」
石井の質問にウェイターがにこやかに答えた。
「鮑《あわび》のグリエ肝ソース≠ニ特選前沢牛のステーキ≠ご用意しております」
「ステーキも」
「ボリュームは少のうございますので、召し上がっていただけると存じます」
「ふうーん。質量共に満足できますねぇ」
「ありがとうございます」
石井が、北野をいたずらっぽい目でとらえた。
「白ワインを飲もうか。せっかくのフランス料理、和風にアレンジされてるけど、こんなご馳走《ちそう》にビールだけっていうのも、なんだか勿体《もつたい》ないじゃないか」
「ええ。でも、よろしいんですか」
北野は料金が心配になった。
石井はにこっと相好《そうごう》を崩した。
「ここは、ま、リーズナブルなほうだから、心配ないよ。わたしにまかせておけって」
北野は黙ってうなずいた。
「ワイン・リストをお願いします」
「かしこまりました」
ワイン・リストは、ルーム内に備えてあった。
石井はワイン・リストを十秒とは眺めていなかった。
「ラロッシェのシャブリ≠お願いします」
中級ワインだ。端《はな》から決めていたのかもしれない。
ウェイターが退出したあと、石井が上体をぐっと北野のほうへ近づけてきた。
「頭取にご馳走になろうや。松原と片山の分までとは言わんけど、われわれはACBのためにこんなに一所懸命になってるんだから、このぐらいは許されるだろう」
「あぁ、そういうことですか」
「サインは、北野がするんだぞ。さっきは名刺を出すなと言ったけど、加藤支配人に名刺を出しといてくれな。ワインで気が変わった。北野に一席設けるつもりだったが……」
「わたしは割り勘だと思ってました」
「冗談だよ。初めから頭取に回すつもりだったんだ」
「頭取に話すのは、どっちですか」
北野が突き出した右手の人差し指を行ったり来たりさせながら、真顔で訊《き》くと、石井も真顔で答えた。
「北野に決まってるだろう。ただし、わたしに知恵をつけられた、でいいよ」
ウェイターが石井のワイングラスにシャブリ≠注ごうとした。
「試飲はパスします。適当にやらせてもらいますから」
「それでは一杯だけお注ぎします」
石井はウェイターを退出させてから、ワイングラスを掲げた。
「じゃあ、二度目の乾杯だ」
「どうも」
北野もワイングラスを口へ運んだ。
「乾杯っていう気分じゃないね。なんだかヤケ酒みたいな感じだよ」
石井が一気にシャブリ≠半分ほど飲んで、グラスをテーブルに戻した。
「頭取が陣内副頭取を公邸に呼んだとは驚いたなぁ。さっきわたしが頭取となにを話してたか知ってるんだろう」
「頭取からなにも聞いてませんが、千久≠ェらみですか」
「うん。それもある。千久≠ェほとんどだった」
「千久≠ェなにか要求してきたんですね」
「うん。千久≠ェ仙台で開発中のマンションを百戸購入しろ、と陣内副頭取にふっかけてきた。四十一階建て総戸数三百八十戸の高層マンションだが、来春完成予定らしい。六月末現在で四分の一も売れてないらしいんだ。仙台支店の社宅用に百戸購入しろっていうわけよ」
「莫迦莫迦《ばかばか》しい。冗談にもほどがありますよ。仙台支店に、いったい何人いるんですか。全員入居しても、まだ余りますよ」
北野は呆《あき》れ顔で、話をつづけた。
「いくら陣内副頭取が千久≠ノ弱腰でも、ノーに決まってるでしょう。ACBは危急存亡の秋《とき》ですよ。株主総会をやっと乗り切ったところじゃないですか」
「陣内副頭取もさすがにっていうか、大事件の渦中でもあり、もう少しお時間をいただきたいで先送りしてるが、頭取はゼロ回答で押し通すつもりだった……」
「だったって、もう過去形なんですか」
「そう揚げ足を取るなって……」
石井は冗談ともつかずに言ったが、急に表情をひきしめた。
「だからこそ、今夜のトップ会談が気になるんだよ。きみも先刻承知と思うが、中山会長∞陣内頭取≠ネんて公言して憚《はばか》らない人もいることだしねぇ。しかも、佐々木さんを人質に取られてみろ。千久≠フ要求は、もっともっとエスカレートしてくるぞ」
北野は唇を噛《か》んで、ワインを呷《あお》った。そして、腰をあげ、ナプキンを叩《たた》きつけるように椅子《いす》に投げつけた。
ワイン・クーラーから取り出したボトルを二つのグラスに少し乱暴に傾けながら、これではきのうの佐々木の態度と変わるところがない、と北野は思った。
石井がグラスに伸ばしかけた手を引っ込めて、腕組みした。
「佐々木さんがどうして、最高顧問を辞める気になったんだろうか。不思議だよなぁ」
「ACBより千久のほうがましだと思ってるんじゃないですか」
「それは絶対にない。何度も言うが、ACBは腐っても鯛だよ。あしたの朝、頭取が北野にどんな顔でどんなことを話すか、見ものだよ」
「…………」
「陣内副頭取と二人がかりで最高顧問の辞任を慰留することも、あり得るぞ」
「万一そうだとしても、一度出した辞表を引っ込めるほど恥知らずとは思いませんけど」
「恥知らず」
石井が疳高《かんだか》い声で訊き返した。
「ええ。わたしだったら、それこそ恥ずかしくって自殺したくなると思います」
言いながら、北野の目が潤んだ。
在りし日の久山の笑顔を思い出していたのだ。
さようなら
遺書の最後の言葉が久山の声で聞こえてくる。
涙がこぼれそうになった。北野はナプキンで口のまわりを拭《ふ》く振りをして、目をこすった。
6
翌七月八日の朝、北野は八時前に自席に着いた。
「おはようございます」
八時十分に横井繁子があらわれ、北野に向かって、いつもと違う莫迦丁寧な挨拶《あいさつ》をした。
「おはようございます」
北野は会釈を返しながら、耳たぶを引っ張った。十分後にもっと驚かされたのは、横井が北野専用の湯呑《ゆの》みを運んできたことだ。
若い女性秘書を押しのけたに相違なかった。
「横井さんに淹《い》れていただいたお茶は、さぞや美味《おい》しいでしょうねぇ」
差別発言と取られかねないが、北野は笑顔をつくって、湯呑みに手を伸ばした。
横井はにこりともしなかった。
「七月二十日で辞めますので、せいぜいサービスさせていただきますわ」
「歓送会、ぜひやらせてください。なんなら差しでもいいですよ」
北野が冗談ぽく言うと、横井はげんきんにも、にこっと微笑《ほほえ》んだ。
「ぜひ、そうお願いしたいですわ。秘書役とは佐々木最高顧問の誼《よしみ》もございますから」
「来週、なんとか時間を作りましょう」
北野はみんなに聞こえるように、声高に言って、湯呑みを口へ運んだ。
八時三十分に中山頭取が出勤した。北野はすぐ頭取室に入った。
「おはようございます」
「おはよう」
中山は仏頂面だった。
「雨宮は来てるか」
「はい。なにか」
「いいから呼んでくれ」
「はい。その前にちょっとよろしいでしょうか」
中山はいい顔をしなかった。
「申し訳ございません。五分でけっこうです」
北野は分不相応に強引だった。
「佐々木顧問の辞表は受理されるのでしょうか」
「慰留する。陣内君と二人がかりで、ひれ伏してでも、慰留するつもりだ。昨夜、陣内君とそういうことでコンセンサスが得られたから、きみもそのつもりで」
石井の予感が当たった。北野もあり得るとは思っていたが、佐々木がどう出るか――。
「久山顧問はどんなお気持ちで亡くなったんでしょうか」
「感傷に浸ってる場合じゃないぞ。千久≠ノ佐々木さんを取り込まれたら、どういうことになると思うんだ。頭のいい北野にわからんとは思えんがねぇ」
「一度出した辞表を引っ込めるとは思えませんが。実は、義母と家内が辞任を強く望んでおります」
中山は露骨に顔をしかめて、言い放った。
「女子供に口出しされるとは、北野も見かけによらんなぁ。それを抑えるのが北野の役目だろうが」
中山はじろっとした目を北野にくれて、つづけた。
「辞表はなかったことにすればいいんだよ。ACBで知ってるのは、三人だけだろう」
「秘書室長と企画部長には、話してしまいました」
「案外口が軽いねぇ。雨宮と石井には、わたしから口止めする。二人とも、軽々に話を広げているとは思えないからな」
中山は厭《いや》みたっぷりだった。
「申し訳ありません」
北野は低頭して、耳たぶを引っ張ってから、中山をまっすぐとらえた。
「始めに木下社長と佐々木顧問の合意ありきだと思いますが。あの木下社長が簡単に引き下がるとは考えられません」
「だから、佐々木さんにも木下社長にもひれ伏さなければならんわけだろうが。少しはわたしの苦衷も汲《く》んだらどうなんだ」
中山の声がいっそう苛立《いらだ》った。
「いいから雨宮を呼んでくれ」
「かしこまりました」
北野は引き下がらざるを得なかった。頭取交際費で昨夜、石井と飲んだことを切り出せる雰囲気ではない。中山の機嫌のいいときに話そう。いや石井にまかせたほうが無難かもしれない。昨夜、頭取公邸で陣内と会食した中山の意図はよくわかった。
北野と入れ違いに頭取室に入室した雨宮は十分足らずで秘書室に戻ってくるなり、北野を手招きした。
「ちょっと」
「はい」
二人は応接室に入った。
「頭取の姿勢が劇的に変わったぞ。千久≠ニ対決的なスタンスは取れない、ということだ。代表取締役五人に、佐々木最高顧問を交えて、会食をしたいから、至急セッティングしろとさ。昼でも夜でもいいそうだ。予定をキャンセルしてでも、最優先で千久≠フアポを取るように命じられた。それから、佐々木最高顧問が見えたら、直ちに連絡するように言われたぞ」
「ふうーん」
北野が溜《た》め息とも、唸《うな》り声ともつかぬ声を発してから、首をさすりながら苦笑まじりに言った。
「頭取にもう嫌われましたか。秘書役になってまだ二カ月にもなってませんけどねぇ。首を洗って待たなければいけませんか」
雨宮も吐息を洩《も》らした。
「きみ、なにもかもわかってるじゃないか。陣内副頭取が、北野は逆効果を狙《ねら》ってるのか、パフォーマンスのつもりなのか、佐々木最高顧問に対して、エキセントリックなんじゃないかと言ったそうだぞ」
「いよいよクビですかねぇ」
「まさか。そんなことは絶対にない。しかし、陣内副頭取にすり寄れとはあえて言わないが、多少は顔色を窺《うかが》うところもないとねぇ」
「ご心配をおかけしまして申し訳ありません」
北野はソファから起《た》ち上がって、雨宮に最敬礼した。真顔だった。
雨宮がしみじみとした口調になった。
「わたしは北野の気持ちを理解してるつもりだけど、陣内副頭取は、いまや一方の雄《ゆう》だからねぇ。無理矢理かれに嫌われることもないだろう」
「ええ」
北野がソファに腰を落とした。
「ただ、千久¢ホ策をしくじりますと、ACBはほんとうに沈没しかねないと思うんです。そのためには、それこそ誰かが捨て石になる覚悟をもちませんと。わたしが佐々木顧問の虎の威を借る狐になっても……。ちょっと、たとえが違いますかねぇ」
北野はふたたび長嘆した。
雨宮がむすっとした顔になった。
「佐々木顧問じゃない。佐々木最高顧問だろう。そういう点も直す必要があるんじゃないのか。きみのシャイなところっていうか、必要以上に気を回すところは買うけど……」
雨宮は途中で笑い出した。
「俺《おれ》の負担を重くしないでくれよ。さっそくだが、千久≠フ電話、教えてくれ」
「はい」
北野が背広の内ポケットからノートを取り出して、千久本社の電話番号を確かめた。
雨宮が数字をメモした。
「ここから、千久≠フ秘書さんに電話する。佐々木最高顧問のこと、横井女史に話しといてくれ」
「承知しました。失礼します」
北野は、低頭して退出した。
北野が秘書室の自席に戻って、横井を呼び、小声で訊《き》いた。
「佐々木最高顧問の本日のスケジュール、聞いてますか」
「昨日お帰りになるときに、午後二時にお見えになるとおっしゃってましたが」
「来客かなにか」
「いいえ。聞いてません」
「頭取がお目にかかりたいそうです。最優先でお願いします」
横井は素直だった。
「はい。かしこまりました」
「どうも」
北野は、横井を自席に戻し、椅子《いす》を窓側に半回転させて、腕組みした。陣内副頭取に連絡すべきかどうか。陣内のことだから、黙ってても佐々木のところへ駆けつけるだろうが、秘書の立場を考えれば、当然事前に連絡すべきである。厭なやつだが、副頭取室へ出向くべきかもしれない。中山頭取の顔を立てることになるのだろうか。
窓側に向けていた椅子を元に戻して、北野は胸の中でつぶやいた。『冗談じゃない。いまさら取って付けたような真似《まね》ができるか。陣内にすり寄る必要がどこにあるのか』
北野は厳しい表情で、陣内付の女性秘書を手招きした。
「陣内副頭取に、二時ごろお時間をいただきたい、と伝えてください。頭取からの伝言として、お願いします」
「はい。お伝えします。いま接客中ですが、二時に会議が入ってますので、メモを入れたほうがよろしいでしょうか」
「ええ。そうして」
北野は、横井の視線を頬《ほお》のあたりに感じたが、目線を返さずに、ふたたび椅子を回して、腕組みした。佐々木がどう出るだろうか。辞表の撤回はあり得ないはずだが――。
北野は時計に目を落として、ハッとした。午前九時を過ぎていた。十五分ほど経ったのに、雨宮秘書室長はまだ席に戻ってこなかった。
北野は黙って席を離れた。
応接室のドアを軽くノックして、そっと躰《からだ》をすべり込ませた。
雨宮は電話中だったが、北野に気付いて、軽く左手を挙げてから、ソファをすすめた。
「おっしゃることはよくわかります。会食につきましては後日あらためてということにさせていただきますが、今週中になんとか木下社長にご挨拶《あいさつ》するお時間だけでもいただけませんでしょうか。ご挨拶が遅れましたことにつきましては、中山も大変気にしておりましたが今井顧問の件がございましたので、ちょっと遠慮致してしまい、大変申し訳なく思っております。秘書室長として重々反省致しております」
「大将に伝えておきますよ。大将もメチャ忙しいからきょう中に連絡が取れるかどうかわからないけど、陣内さんなり森田さんに連絡しますよ。ACBさんとウチの仲で、取締役秘書室長がわざわざ入ることもないでしょうが」
「恐れ入ります。ご挨拶の件、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。お忙しいところを長時間、お時間を頂戴《ちようだい》致しましてほんとうにありがとうございました」
「じゃあ」
「失礼致しました。ごめんください」
雨宮は電話中、二度三度お辞儀を繰り返した。雨宮が受話器を戻して、しかめっ面で北野の前に座り、脚を投げ出した。
「参ったよ」
「どうされました」
「最初電話に出てきたのは女性の秘書だったが、だいぶ待たされてから、山際副社長が出てきた」
「ナンバー2ですね」
「うん」
「高飛車に、なにを血迷ってるのかって、こうなんだ。今井前会長が逮捕されるかもしれないっていうときに会食でもないだろうって、皮肉たっぷりにのたまわった。だから何度も木下社長にご挨拶だけでもさせてくださいって頼んだんだけど、今週は時間がないって、木で鼻をくくったような返事だった。まったく、ひどいもんだよ」
「佐々木顧問……」
北野がきまり悪そうに言い直した。
「最高顧問を人質に取って、テキは意気大いに上がってるわけですね。多分、木下社長と山際副社長は綿密に打ち合わせしたんでしょうねぇ」
「まぁなぁ。五、六分、いや、もっと待たされたかもしれない。しかも、陣内さんなり森田さんに連絡しますよ、ときた。千久≠ニのつきあいは気骨が折れるよ」
ノックの音が聞こえた。
北野が応答した。
「どうぞ」
中山頭取付の女性秘書が顔を出した。
「あのう、頭取が室長と秘書役をお呼びですが」
北野が小首をかしげた。
「矢野副頭取はどうしました」
「昼食をご一緒にされることになりました」
「そう。緊急性は矢野副頭取のほうがあると思いますけどねぇ」
「北野、そういうことを言うなって」
雨宮がソファから腰を上げた。
7
雨宮と北野がふたたび頭取室に入ったのは、九時十二分過ぎだ。
中山は厳しい顔で二人を迎えた。
「雨宮から聞こうか。木下社長の返事は」
「今週は木下社長の時間が取れないそうです。山際副社長にいろいろ皮肉を言われました」
「なんだって」
「今井前会長が逮捕されるかどうかってときに、会食でもないでしょうっていうわけです」
中山の顔が険しく尖《とが》った。
「ふぅーん。そう言われたら、おっしゃるとおりとしか言いようがないよなぁ」
「ご挨拶のお時間だけでも、と食い下がったんですが、難しそうです」
雨宮が北野の顔をちらっと見て、話をつづけた。
「いま、北野とも話したんですが、最高顧問を人質に取ったつもりになって、強気になってるんじゃないでしょうか」
「わかった。千久′w《もう》では、向こうの返事待ちっていうわけだな。会食は、お世辞だよ。言ってみただけのことだ」
中山は顔に似合わず、けっこう負けん気の強いほうだ、と雨宮も北野も思った。中山が天井を見上げながら、北野に訊いた。
「佐々木さんは、どうなの」
「横井さんに確認しましたところでは、二時に見えることになっているそうです。とくに予定は入っていないということでしたので、横井さんに時間を取るように申しつけましたが」
中山は天井から目をおろして、むすっとした顔でうなずいた。
「最高顧問の居場所はわかっておりますので、わたしが直接……」
「そこまではいいだろう」
「先に最高顧問が木下社長と連絡を取りますと、話がややっこしくなりますので、そうさせていただけませんでしょうか」
中山は三秒ほど間を取って、勝手にしろ、という顔で言った。
「北野にまかせるよ」
「ありがとうございます」
頭取室を退出し、秘書室に向かいながら、雨宮が言った。
「いいのか。最高顧問に、きみが電話して」
「もちろん、横井女史の了解は取りますよ。女史の顔を立てないとあとが怖いですから」
「もうすぐ辞めていく人に、そんなに気を遣う必要はないよ」
北野は耳たぶを引っ張りながら、雨宮に気付かれないように顔をしかめた。
「そんなことより、最高顧問の神経を逆撫《さかな》でしないように気をつけたほうがいいぞ」
「はい。注意します。陣内副頭取にも二時にあけるように伝えてしまったものですから」
「なるほど、そういうことか。しかし、なんだって千久≠ネんだろうねぇ」
北野も雨宮も思いは同じだ。誰だって、あの佐々木が未上場の知名度の低いデベロッパーに鞍替《くらが》えするなんて、不思議でならないだろう。久山の遺書≠思うにつけ、北野は涙腺《るいせん》がゆるむ。そのときは、人相は少しはましになるだろうか。
千久¢ホ策は容易ならざることになってきた。
横井女史対策≠烽る。私的には、これがいちばん厄介な問題かもしれない。
瞬時のうちにあれこれ考えて、北野は大きな吐息を洩《も》らした。
「溜《た》め息が出るのはわたしも同じだ。ACB丸が暴風雨の中から脱《ぬ》け出せるのはいつのことやら。今井逮捕≠熕h《つら》いよなぁ。今週はしんどいことになるぞ」
「ええ」
「ちょっといいか」
応接室の前で、雨宮が足を止めた。
雨宮がソファに座るなり背広を脱いだので北野もそれにならった。
雨宮が低い姿勢で北野を見上げた。
「陣内副頭取と森田常務のことを頭取の耳に入れなかったけど、よかったのかねぇ」
「よろしいんじゃないですか」
「しかし、あとでバレるかもなぁ」
「千久≠ヘおかしいですよ。陣内さんか森田さんに連絡する、は非常識過ぎます。お二人に色がつき過ぎてることはもともと露呈されてますけど」
雨宮の頬《ほお》がいくらかゆるんだ。
「どうする。最高顧問に電話するのか」
北野の返事が一拍遅れた。
「はい」
「じゃあ、わたしは席に戻るぞ」
雨宮は気を利かせているつもりなのか、背広をつかんで応接室から出て行った。
北野は横井に断るほうが先かなと思いながらも、応接室から一葉苑≠ノ電話をかけざるを得なかった。三十秒足らずで、佐々木の声が聞こえた。
「なにかね」
「おはようございます」
「挨拶はいいから、用件を言いなさい」
きつい言葉のわりには、声は尖っていなかった。
「頭取と陣内副頭取が二時にお目にかかりたいと申しております。お時間いただけますでしょうか」
「ふぅーん。いったいなにかね」
「存じませんが、お時間、よろしゅうございますか」
「わかった。いいよ」
「ありがとうございました」
「ほかになにかないのか」
「はい」
「中山からなにか聞いてるんだろう」
「…………」
「もしもし、おい!」
佐々木の声が苛立《いらだ》った。
「はい。失礼しました。千久のことでしたら、お聞きしました」
「それで、おまえの感想は」
「一万九千人のACBマンが嘆くと思います。ACBのトップだったかたが、一般には知られていない千久の顧問なんて、あり得るんでしょうか」
佐々木は激昂《げつこう》した。
「おまえ、わたしに庭いじりでもしてろって言うのか!」
「そんな失礼なことは申してません」
「おととい、それに近いことを言わなかったか」
「記憶にありませんが」
『青木伸枝という生き甲斐《がい》があるじゃないの』と北野は胸の中で毒づいていた。
「中山にも陣内にも言い聞かせておいたが、ACBと千久は運命共同体だ。若造のおまえの考えは甘いっていうか、浅いっていうか、話にならん。おまえは、俺《おれ》を舐《な》めてるよ」
「最高顧問に、わたしの気持ちをご理解いただけないのは、残念でなりません」
「おまえの顔など二度と見たくない。今日子のつれあいじゃなかったら、ACBにいられなかったろうな」
「なんとも申し上げようがありません。それでは二時によろしくお願いします。失礼致しました」
北野のほうから電話を切った。それも少し乱暴に。
自席に戻るなり、雨宮のほうから話しかけてきた。
「どうだった」
「OKです。その後、連絡を取ってるふしは、ありませんでした」
北野は普通の声で、ひとこと、ひとこと区切って話した。
こっちを見ずに耳をそばだてている横井を意識していることは、明瞭《めいりよう》だった。
「どうも」
北野は、雨宮に軽く手を挙げてから、横井を手招きした。
「横井さーん」
「はい」
「すみません。ちょっと」
横井が席を離れた。北野はぐっと横井のほうに上体を寄せて、ひそめた声で言った。
「ゆきがかりで、応接室から最高顧問に電話をかける羽目になりました。間違いなく二時に見えるそうです。よろしくお願いします」
「はい。かしこまりました」
横井は美しい顔を微笑《ほほえ》ませながら自席に戻った。
北野が、秘書室長席の前に立った。
「頭取にメモを入れておいたほうがよろしいですかねぇ」
「そのほうがいいよ。最高顧問の確認が取れたことを、陣内副頭取には、きみが伝えたらいいな」
命令口調である。
さからえるわけがなかった。
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第二十章 人事権者
1
七月八日午後三時に、佐々木が最高顧問室に入った。一時間の遅刻で、秘書室は大混乱した。
中山と陣内が駆けつけたのは、その十分後だ。
「おそろいで、莫迦《ばか》に仰々しいんだねぇ」
「恐れ入ります」
「失礼します」
中山も陣内も、ワイシャツ姿の佐々木に最敬礼した。
「立ってないで、座りなさい」
「失礼します」
「失礼します」
二人が二度目の最敬礼をして、ソファに腰をおろした。
「それで、なんなの」
陣内のほうが切り出した。
「昨夜、中山君と五時間も話したのですが、最高顧問の辞表は絶対に受理できないということで意見が一致しました。というよりも、ACBがガタガタしているときに、最高顧問にお辞めになられますのは、なんとしても辛《つろ》うございますし、最高顧問は、われわれを見捨てるのか、と中山君が言い出し、わたくしもまったく同感なので、土下座してでも辞表を撤回していただきたい、ということで、参上した次第でございます」
「伏してお願い申し上げます」
二人が同時に起立して、三度目の最敬礼をした。
「株主総会の議長を六年やらせてもらったが、逆にこんなにお辞儀をされたのは生まれてこの方、初めてだよ。まぁ座りなさい」
「失礼します」
「失礼します」
「きみたち、わたしの立場も考えてもらえないかね」
中山と陣内が顔を見合わせた。
「いったん出した辞表を引っ込める莫迦がどこにいるか。出したり引っ込めたりできるわけがなかろうが」
「ぜひとも、なかったことにしていただきたいと存じます」
「きみ!」
佐々木が、ピストル状にした右手の人差し指を中山の胸に突きつけて、浴びせかけた。
「それなら、なぜ、きのう辞表を持ってったんだ。受理したも同然じゃないか!」
「いいえ。おあずかりすると申し上げました」
「あずかるなんていうのは、ダメだ。わたしの顔に泥を塗ったも同然だよ」
中山の顔が朱に染まった。言いがかりもきわまれりではないか。
「お言葉を返すようですが、わたしは受理できませんと申し上げました」
「だったら、置いていくのが筋だろう」
「申し訳ございません。わたしの落ち度でございます。なにとぞ、お許しいただきたいと存じます」
陣内が中山を咎《とが》める目で見た。
「中山君、まずかったなぁ。最高顧問のおっしゃるとおりですよ。わたしだったら、絶対にあずかったりしなかったと思うけどねぇ」
中山は、懸命に笑顔をつくった。
「副頭取に一本取られたねぇ。おっしゃるとおりとしか言いようがない。わたしとしたことが、恥ずかしい。なんて愚かなことを……」
ここまで打ち合わせをしていたわけではなかった。陣内の調子のよさに、中山はキレる寸前だったが、ここは我慢のしどころだ。いくらなんでも、佐々木の前で逆上するわけにはいかない。それにしても、陣内のしたたかさに、中山は頭がカッカしていた。
バイパス手術をしているわりには、陣内の心臓はどうなっているのだろうか。
しかし、仲間割れしてはならない、と中山はわが胸に言い聞かせた。
「最高顧問にお許しいただけないようでしたら、わたしは陣内副頭取に辞表を出します。なりたくて頭取になったわけではありません。たしか陣内君にも、受けてくれと懇願されたはずです。いっそのこと、陣内君と交替しましょうか」
「きみ、それはないだろう。そんなことが世間に通るはずがないよ。それこそ、ACBを貶《おとし》めるだけじゃないの」
この莫迦、皮肉もわからないのか、と思いながら、中山は唇をひん曲げた。
ノックの音が聞こえ、横井繁子が最高顧問室に冷たいウーロン茶を運んできた。
横井はことさらに、ゆったりした動作で大ぶりのグラスをセンターテーブルに並べた。
佐々木がいきなりグラスをつかんで、ごくっと喉《のど》を鳴らした。
「いずれにしても、出した辞表を撤回するほど、わたしは愚かではない。こう見えてもシャイなんだ。恥をかかせないでくれ」
中山が低頭してから、きつい目で佐々木をとらえた。
「わたしの不用意な行為はいくえにもお詫《わ》びしますが、最高顧問にどうしてもお聞き届けいただけないようでしたら、わたしも辞めます」
「きみ、それはないよ。なにを考えてるんだ」
陣内は高飛車だった。これではどっちが頭取かわからない。
中山と陣内が火花を散らした。
「きみが頭取になればいいじゃないか」
「なにを莫迦なこと言ってるんだ。しかも、最高顧問の前で」
三人とも興奮していて、横井の存在を忘れていた。
横井は、先刻運んだ湯呑《ゆの》みが執務デスクの上にあるのに気付いて、そっとデスクに近づいた。
「いっそのこと中山は会長になったらどうなの。陣内頭取≠ナいいじゃないの。A≠ニC≠フバランスがおかしくなってるから、そうしたらいいんだよ」
佐々木の高圧的なもの言いに、中山の顔がひきつった。
佐々木はかさにかかって、攻めたてた。
「わたしの辞任は動かせない。置き土産に中山会長∞陣内頭取≠この場で、決めたらどうかね」
やっと横井が退出した。誰も気付かなかった。
中山がコースターを引っ付けたままのグラスを口へ運んだ。そしてウーロン茶をがぶっと飲んで、音を立ててグラスをセンターテーブルに戻した。
「陣内副頭取、それでいいのか」
「冗談冗談。最高顧問は冗談をおっしゃってるんですよ」
頭の切れる陣内は、頭取を受けるのなら、再生の方向が見えてからだ、と端《はな》から思っていた。バイパス手術で、心臓のほうは大丈夫だ。
預金の流出が続いている。ACB再生の目処《めど》がつかない限り、頭取は損な役回りだ、と計算していた。
「陣内、あながち冗談でもないぞ」
「最高顧問、どうかこれ以上、中山君をいじめないでくださいよ。中山君が可哀相《かわいそう》です」
恩着せがましい陣内のもの言いに、中山はささくれだっていたが、鼻で嗤《わら》った。
陣内が中山に流した目を佐々木に向けた。
「いかがでしょう。とりあえず仕切り直しということに致しまして、わたくしに免じて、少しお時間をいただけませんでしょうか。辞表≠ヘ、しばらく中山君にあずからせてください。今井顧問の逮捕が迫っていることでもありますし……」
「一時休戦ってことだな。しかし、期間を区切ろう。ひと月でどうだ」
「けっこうです」
答えたのも陣内で、中山はあとから小さくうなずいただけだ。
陣内にしてやられた、と中山は内心おもしろくなかった。しかし、案外こんなところがとりあえずの落としどころかもしれない。
辞表をあずかってしまったのは迂闊《うかつ》だった。そのことの負い目もある。問題の先送りに過ぎないことは百も承知だが、佐々木の気持ちが変わらないとも限らない。
実際、中山の表情にホッとした思いが出ていた。
陣内が猫撫《ねこな》で声で言った。
「最高顧問、甘えついでに、この際ですからお願いしますが、先刻、雨宮に泣かれたんですけれど、木下社長のアポが取れなくて困ってるようなんです。なんとかお力添えいただけませんでしょうか」
「わたしからもお願いします。もっと早く木下社長にご挨拶《あいさつ》すべきだったと反省してます」
二人とも起立して、大仰に腰を折った。
佐々木がジロッと中山を見た。
「きのうも言ったが、木下君に挨拶もしてなかったとは、呆《あき》れてものも言えんよ。運命共同体であることの認識の欠如としか思えんな」
中山は黙って下を向いていた。
「銀行に来る間に、木下君と会ってきたが、要するにヘソを曲げてるんだよ。大きな借りをつくっちゃったねぇ」
「頭が痛いですよ」
陣内がすかさず迎合した。
中山は唇を噛《か》みしめていた。
「あすにでも、わたしが木下君の時間を取ってあげるから、代表取締役五人で、挨拶してきなさい。中山、会食なんてとんでもないぞ」
「恐れ入ります」
「もうこのへんでいいだろう。陣内、二十分後に北野を呼んでくれないか。この場の雰囲気も伝えたらいいな」
「承知しました」
中山と陣内が最高顧問室を退出した。
「きょうのところは、こんなところでしょうがないだろう。昨夜も話したけど、佐々木さんを千久≠ノ人質に取られたら、えらいことになるぞ」
「うん。だが撤回してくれるかねぇ」
「わからん。五分五分、いや、辞表を撤回する可能性のほうが低いかもなぁ」
「佐々木さんを口説き落とせるのは、きみだけだよ」
「冗談よせよ。二人がかりで、泣き落とすしかないな」
陣内は肩をそびやかし、対照的に中山の足どりは重かった。
二人が退出したあとで、佐々木は千久の木下社長に電話をかけた。木下は在席していた。
「どういうことになりました」
「仕切り直しですよ。陣内と中山に泣かれてねぇ。でも、ひと月の先送りです」
「白紙撤回なんて、許しませんぞ」
「もちろんですよ。今井のことやらなにやらありますから。それと、わたしに免じて中山の挨拶を受けてくださらんか。代表取締役五人をあす差し向けます。よろしくお引き回しください」
「中山に言いたい放題言ってよろしいか」
「どうぞどうぞ。木下流でなんなりと言ってくださいよ」
「じゃあ、あんたの顔を立てて、朝八時に来てもらいますか。ほんとそれ以外に時間が取れんのです」
「六時でも七時でもいいですよ」
「こっちが保《も》たんよ」
「そうねぇ。じゃあ、そういうことで」
「わかった。いいでしょう」
2
前後するが、横井繁子が秘書役席の前に立ったのは、午後三時三十七分だ。
「秘書役、ちょっとよろしいでしょうか」
「いいですよ」
「ここではちょっと」
横井は真顔だった。
「最高顧問のことですね」
「はい」
「じゃあ、応接室で」
北野はしかめっ面で腰をあげながら、雨宮と目礼を交わした。
応接室のソファで、横井が両手で顔を覆った。
「どうしました」
「頭取があんまりお気の毒で……」
横井はこんどはハンカチを顔に当てた。ほんとうに涙ぐんでいる。
「どう可哀相なんですか」
「お辞めになるかもしれません」
横井が涙ながらにつづけた。
「最高顧問が辞表を撤回しなかったら、ご自分もお辞めになるとおっしゃって……」
「そのぐらいのことは、駆け引きとして、おっしゃっても不思議じゃないですよ」
「でも、あんなにあしざまに最高顧問と陣内副頭取から言われましたら、ほんとうにお辞めになるかもしれませんわよ」
「そんなに険悪でしたか」
涙はすぐに止まったが、横井の目のまわりがアイシャドウで乱れた。
「最高顧問は中山会長∞陣内頭取≠ナどうか、ともおっしゃってました」
「顧問の立場で、よく言いますねぇ」
「もっと、いろいろお話ししたいのですけれど、今夜はダメですか」
北野を見上げる横井の目が潤んでいた。
「来週にしましょう。さっき電話で石井企画部長と話したんですが、今週は相当ガタつきますよ。貴重な情報、ありがとうございました」
北野はにこやかに言って、ソファから腰をあげた。
横井繁子が顔を直して席に戻ってきたのは、北野より十分以上もあとだ。その間に、北野は横井の情報を立ち話で雨宮に素早く伝えた。
「どういうことになるのかねぇ」
「まったく見当がつきません。辞表の撤回がないことだけは、はっきりしていると思いますけど」
中山から雨宮に、陣内から北野に呼び出しがかかったのは、午後四時五分過ぎだ。二人は一緒に秘書室を出た。
「逆はわかるけどねぇ」
「わたしは頭取に嫌われましたから」
「それは過剰反応だよ。少しは陣内副頭取の顔色を窺《うかが》ったんだろうな」
「ぜーんぜーん。ごく事務的に用件を伝えただけです。一日に二度も、陣内副頭取に呼びつけられるとはツイてませんよ」
「ま、照れてるんだろうが、北野のことだから心配してないよ」
頭取室と陣内副頭取室は、同じ二十六階で、廊下をへだてて、斜め向かいにあった。北野は、雨宮と顔を見合わせながら、ドアをノックした。
陣内は、ソファにふんぞり返っていた。
手でソファをすすめられたので、北野は一礼して、腰をおろした。
「中山君に助け船を出したよ」
「はぁ」
北野は小首をかしげた。
陣内は時計を見ながら、にやついた。
「そりゃあそうだ。まだ聞いてるわけないよな。中山君もどうかと思うよ。辞める、は佐々木最高顧問と刺し違えるつもりがあるにしても、大袈裟《おおげさ》だし、あまりにも芝居がかってるよ」
北野が耳たぶを引っ張りながら訊《き》いた。
「最高顧問は辞表を撤回されたんでしょうか」
「きみ、その耳をさわるの、やめた方がいいぞ」
北野は顔が赭《あか》らんだ。自分でもこの癖はわかっていたが、注意されたのは初めてだった。今日子にも読まれているだろうか。気をつけなければ、と北野は思った。
「失礼致しました」
耳たぶに行きそうになった左手がさまよった。
ふたたび陣内の目が時計に落ちた。
「いまから十五分後に最高顧問に会うように」
「承知しました」
腰を浮かしかけた北野を陣内が手で制した。
「ちょっと待て。少し話していけよ」
「はい」
「最高顧問は、北野が可愛《かわい》くてしょうがないんだ。きみがプライドの高いACBマンであることは、わたしも認めるが、もう少し肩の力を抜いて、自然体になったほうがいいんじゃないのか。ひねくれてるように見る人もいるからねぇ」
「副頭取にご注意されましたことを肝に銘じておきます」
陣内は鷹揚《おうよう》にうなずいてから、助け船≠フ一件を北野に増幅して話した。
「つまりそういうことだ。ひと月間で、最高顧問のお気持ちをなんとしても変えさせたいと思ってるが、北野も加勢してくれよ。中山君は頼りになるような、ならないような、ちょっと心もとないからねぇ」
北野は返事のしようがなかった。ここは馬の耳に念仏を決め込むしかない。耳たぶを引っ張らないことだけに気持ちを集中させよう――。
「北野の進言は効くぞう。最高顧問にお会いしたら、わたしにそう言われたと伝えてもいいからな」
冗談じゃない、と北野は思ったが、無表情をよそおった。
「ところで、北野はどう考えてるの。最高顧問が千久≠ノスカウトされそうなことを」
「最高顧問の気が知れない、としか申しようがありません」
「そうだろう。それなら必死に慰留しろ。死んだ気で、やるんだ」
それもあり得ないが、北野は曖昧《あいまい》にうなずくしかなかった。
「そろそろ時間だぞ」
陣内に催促されて、北野はソファから腰をあげた。
「いいな。うまくやってくれ」
北野は黙って低頭し、退出した。
午後四時二十分に北野は最高顧問室に入った。
ソファで新聞を読んでいた佐々木が唐突に訊いた。
「陣内はなんて言っとった」
「なんとしても最高顧問を慰留したいので、おまえも力を貸せという意味のことをおっしゃいました」
「それでどうなの。座って」
「失礼します」
北野はソファで佐々木と向かい合った。耳たぶに行きそうになる左手の扱いに苦労する。
「わたしの立場なり、最高顧問に対する気持ちは変えようがありません」
佐々木が血相を変えて、言い放った。
「まったく、おまえっていうやつは可愛げのないやつだ」
「電話でもおまえの顔など二度と見たくないと、おっしゃいました。ほんとうに申し訳ない気持ちで一杯です」
「だったら、嘘《うそ》でも慰留したらどうなんだ。もっとも、わたしの気持ちは変わらんがね。おまえを呼んだのは、ほかでもない。老婆心として言うんだが、おまえ千久に出向せんか。取締役か常務で、取り立ててやるぞ」
「…………」
「実は木下君もその気になってるんだ。さっきも鍛えてやると言っておった。千久は出世コースだぞ」
北野は、左手の扱いをもてあましていた。
「お断りします。ましてや最高顧問が、千久に移られるとしましたら、あり得ないと思います」
「あり得ないだと。サラリーマンが人事異動に文句を付けたときは、辞めるときだろうが」
「わたしは秘書役を拝命して、まだ二カ月にもなりません。そのことをカウントしていただきたいと存じます」
「おまえは秘書役の柄じゃない。気配り不足も甚だしい」
「重々承知しております」
北野は、気配りの人だった久山の笑顔を目に浮かべ、遺書≠ノ思いを致して、目頭が熱くなった。
「秘書役も千久出向も出世コースは変わらん。わたしが動けば決まりだが」
危うくこぼれそうになった涙を見せまいとして、北野は低く頭《こうべ》を垂れた。
「どうだ。一考に値すると思うが」
北野がハンカチで、ひたいと目を拭《ふ》いて、きっとした顔を佐々木に向けた。
「行内で、こういう言い方をしてはならないと自戒してきましたが、あえて申し上げます。今日子の亭主の立場で、お父さんに、あえて申し上げます。お父さんがわたしを千久に飛ばすおつもりなら、ACBを辞めます」
「辞めてどうするんだ」
「いまなら転職可能です。中小企業なりベンチャーでしたら、転職できると思います」
「一橋大学の自信か。辞めたいやつは辞めたらいいんだ。中山も、そんなことを言っとったが、わたしに盾突いたら、絶対に容赦しないぞ」
ノックの音が聞こえ、横井繁子が緑茶を運んできた。湯呑《ゆの》みを置かれたとき、北野は丁寧に礼を言った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
横井を見る佐々木の目が好色そうに、やにさがったのを北野は見のがさなかった。
「ま、そんなに厭《いや》なら、断るかねぇ。いい話だと思うが」
「お心遣いありがとうございます。その件はどうかご容赦ください」
「明朝、陣内、中山たちが木下君に挨拶《あいさつ》に行くことは聞いてるか」
「はい。陣内副頭取からお聞きしました」
「わたしのパワーを少しは思い知ったかね」
横井がドアの前で一礼したので、北野も軽く頭を下げた。
「はい。もともと厭というほど存じてます」
陣内の言い回しは、自分が木下のアポを取ったととれるようなニュアンスだったが、佐々木のほうが事実だろう。
「あとひと月この部屋におるが、なにか文句があるか」
「いいえ」
「お許しが出たわけだな」
佐々木が薄く笑った。
カードがわが手中にあることに、佐々木はようやく気づいてくれたらしい、と北野は思った。
3
七月九日も真夏日だった。久山が自殺した六月二十九日も蒸し暑かったが、あれ以来十日以上も、真夏日が続いていた。
東京地方の梅雨はまだ明けていなかった。平成九年(一九九七年)は異常気象も含めて、世の中全体が狂っているように思えてならない。
頭取公邸から京橋《きようばし》の千久本社に向かう頭取専用車プレジデント≠フ助手席に膝《ひざ》をそろえたかしこまった姿勢で座っている北野は、感慨に耽《ふけ》っていた。
この朝、七時過ぎに北野は東京駅で頭取専用車にピックアップしてもらい、麻布《あざぶ》の頭取公邸に七時三十分に着いた。
中山頭取、陣内副頭取、矢野副頭取、水島専務、白幡専務のACBの五代表取締役が公邸と各自宅から、京橋の千久本社に向かうことは、昨夕決まっていた。
「北野君も同行したらいいね」
最高顧問室で佐々木と話しているときに、陣内はわざわざ顔を出して、北野に命じた。
北野が最高顧問室を退出したとき、陣内はそのまま部屋に残った。佐々木と陣内がよからぬ密談をしたことだけはたしかだろう、と北野は思いながら自席に戻ったものだ。
「おはようございます」
「おはよう」の挨拶後、北野が公邸門前で中山に躰《からだ》を寄せた。
「きのう最高顧問から千久に出向したらどうかと打診されましたが、お断りしました」
「冗談だろう。誰かもそんなことを言ってたが」
「それがそうでもない様子でした」
中山はあからさまに、不快感を顔と声に出した。
「佐々木さんも、生臭過ぎる。もうちょっと枯れてもらわないと、やりにくくってしょうがない。あれでもシャイと思ってるらしいが」
北野は噴き出したくなった。
「シャイですか。殺しても死なないと思ってる人のほうが圧倒的に多いと思いますが」
「千久のこと、北野はまんざらでもないのか」
「とんでもない。命令されたらACBを辞めます。そう最高顧問にも申し上げました」
「そう。どっちにしても、一年は秘書役をしてもらわんとね」
中山は、にこりともせずに言って、運転手がドアを開けて待っているプレジデント≠ノ近づいた。
朝七時台の都心の交通量は極端に少ない。プレジデント≠ヘ、信号待ち以外はすいすい走行している。
中山は新聞を広げていた。
北野の感慨が続く。
日本で一、二を争う都市銀行の本店に検察の家宅捜索が入ることを予想した者など、今年初めの時点ではACBに一人もいなかった。いるはずがない。経済界、産業界も然《しか》りだろう。それどころか、一億二千万人の日本人でACB事件を予言した人は、一人として存在しなかった。
たしかにバブル経済で、拝金主義が横行し、日本列島全体の腐食が進んだ。むろん、腐食したのは、銀行、証券、生保などの金融界だけとは限らない。たしかに、金融界の腐敗ぶりは尋常ならざるものがあったといえるが、経済界も産業界も、そして政界、官界の堕落ぶりも、目に余る。
いま、こうして頭取秘書役として、千久に向かっている自分が不思議でならないが、バブル期にもっと危機感をもつべきだった自身をかえりみたとき、北野は恥じ入り、穴があったら入りたいぐらいの気持ちになる。
眼底に焼き付いている久山のデスマスクが頭の中をよぎった。
銀行界のトップで、まともな感覚の持ち主は、久山だけだったとの思いに駆られる。目頭が熱くなりそうになったが、佐々木の顔を目に浮かべることによって、抑えられた。わが岳父を含めて、のうのうと生き恥を晒《さら》しているトップのなんと多いことか。大銀行のトップは、OBも含めてどいつもこいつも恥を知らなさ過ぎる。恥を知らないにも、ほどがある。
それにしても、ACB事件の渦中に、千久′w《もう》でをするACBの上層部も情けない。
北野がちらっとバックミラーを見上げた。
中山はまだ新聞を読んでいた。この人は、ましな方だ。千久≠ノ対して、抵抗を試みようとしていることはたしかなのだから。
しかし、腰が引けてきている。雨宮秘書室長がいみじくも言っていた。「頭取の姿勢が劇的に変化した」と。
北野がふたたびバックミラーを見上げた。
中山はまだ新聞を読み続けていた。俺《おれ》と口をききたくないので、そうしているのだろうか、と勘繰りたくもなってくる。
陣内の策謀ぶりも気になる。だが、佐々木の存在こそが最大の禍根なのだ。
佐々木が千久の最高顧問とは――。泣けてくる。佐々木にしてやられた。目下のところは、それこそ佐々木の虎の威を借る狐の陣内に、中山は振り回されている。千久′wでがACBの行内に知れ渡るのは時間の問題だ。必ずOBにも伝わる。やがてはマスコミにも。
陣内が手柄顔に吹聴《ふいちよう》するに決まっているからだ。
佐々木辞任の先送りも、ほどなく行内に伝わるとみて、さしつかえあるまい。
行内の求心力が中山から陣内に移行する可能性も否定できない。
北野がここまで考えたとき、中山が中年の運転手に話しかけた。
「早く着き過ぎないか」
「はい。少し回り道します」
北野が運転手に補足した。
「五分前ぐらいに千久本社に着くのがよろしいと思いますよ」
運転手は、先刻承知と言いたげにうなずいた。
プレジデント≠ヘ和田倉門付近を速度を落として、走っていた。
中山が新聞をたたんで、北野に話しかけた。
「おととい石井と一杯やったらしいねぇ」
「はい」
シートベルトが窮屈だったが、北野は上体を後方へ無理にねじった。
「そんなこと、わたしに直接言いなさいよ。きみは秘書役なんだからなぁ」
気の回し過ぎかもしれないが、中山は厭《いや》な顔をしていた。
「申し訳ありません。片山のことで頭取に失礼なこと申しまして、きまりが悪かったものですから」
「片山のことは、陣内の考え過ぎのような気がしないでもない。石井も言ってたことだが」
「わたしもそんな気がします」
北野は少しホッとした。
中山は別の新聞をひろげようとしたが、途中で動作を止めた。
「しかし、なにが起きても不思議じゃないからねぇ。変な話、佐々木さんのことにしてもそうだよ。きみだって、予想もしなかったろう」
「おっしゃるとおりです。最高顧問はもう少しプライドの高い人だと思ってました」
「佐々木夫人と奥さんには、ちゃんと話してくれたんだろうねぇ」
北野は曖昧《あいまい》にうなずいたが、話せるわけがなかった。
「ひと月後におかしなことにならないようにせんとねぇ」
「はい」
「ちゃんと話して、説得してくれなければ困るぞ」
「はい」
「ACBにとってどっちが得か損かの簡単な問題じゃないか」
「はい。おっしゃるとおりです」
「陣内に替わってもらうのも悪くないがね」
中山は心にもないことを言って、窓外に目を向けた。
中山が心おだやかであるはずはなかった。陣内に対して、含むところがあって当然である。中山会長∞陣内頭取≠阻止したい、と考えている点では、北野も同じだった。
「頭取、冗談にもそのようなことをおっしゃらないでください」
「だったら、まず奥さんの気持ちを変えることだな」
「はい」
それはない、と思いながらも、北野は素直な返事をした。
運転手には、なんの話か理解できないはずだが、いずれわかるに相違なかった。
佐々木を退治しなければならない。千久へ行かせずに、退治する方法を北野は懸命に思案した。勝負はこれからだ。負けてなるものか。
耳たぶをさわりそうになった左手を膝の上に戻して、右手もこぶしにした。そして、ぎゅっと力を込めた。
4
中山頭取らACBの代表取締役五人が千久本社の役員応接室に集合したのは、午前八時五分前だ。陣内副頭取だけは余裕綽々《よゆうしやくしやく》だったが、あとの四人は顔がこわばっていた。いまや故川上多治郎に替わって、ACBの黒幕的存在と目されている木下社長とは初対面なのだから、緊張するなというほうが無理だ。
北野は一階受付の前にあるベンチで待機していた。八時ちょうどに中年の女性秘書が五人を社長室に案内した。
「ACBのお歴々がおそろいで。こんな田舎会社に朝早くお呼びたてして、恐縮ですなぁ」
言葉とは裏腹に、木下の態度は横柄で、一揖《いちゆう》もしなかった。
「お忙しい社長にご無理をお聞き届け願いまして、ほんとうにありがとうございます。感謝感激致しております」
中山が最敬礼し、四人がそれにならった。
木下に手でソファをすすめられ、木下の向かい側の長椅子《ながいす》に中山と陣内、左手に矢野、右手に水島と白幡が腰をおろした。
木下が、陣内に目を遣《や》った。
「佐々木さんのお坊ちゃんはどうしたの。来てるなら、呼びなさいよ」
「よろしいでしょうか」
「当然だろう。佐々木さんの名代みたいなものでしょうが」
「恐れ入ります」
陣内は、中山のほうをちらっと見ただけだった。
中山は表情を動かさなかった。
木下がドアの近くに佇立《ちよりつ》している女性秘書に、大声を放った。
「おい。わかったな」
「はい。お呼びしてまいります」
当然のことながら北野は遠慮した。というより抵抗した。
「のちほど木下社長にご挨拶《あいさつ》だけはさせていただきます。そのつもりで参りました」
「そうおっしゃらずに、お願いします」
「筋が通りません。わたしは秘書役に過ぎないのですから」
「木下だけではありません。中山頭取も陣内副頭取も、北野さんをお呼びになってます」
「いや、どうあってもご勘弁ください」
女性秘書は泣き出しそうな顔で、恨めしげに北野を見上げた。
「わたしはどうしたらよろしいんですか。このままでは社長室に帰れません」
北野は首を左右に振ったり、腕組みしたり、溜《た》め息をついたり、天井を見上げたりして、迷いに迷い、悩みに悩んだすえ、女性秘書の顔を立てた。
名刺の交換が終わっていた。木下の前のセンターテーブルに四枚名刺が並べられてあった。
陣内に手招きされて、北野は控えめに、ソファのほうへ進み出た。
「木下社長にご挨拶して」
名刺を出してよいものか、いけないのか、迷いながら、北野が木下に向かって低頭した。
「秘書役の北野と申します。木下社長にお目にかかれまして、光栄に存じます。よろしくお願い申し上げます」
「なかなかの男前じゃないか。佐々木さんのお嬢さんを泣かせたらあかんよ。だが浮気の一つや二つできんようじゃ、男じゃないよな。佐々木さんを見習えとまでは言わんがね」
木下は下品な冗談を飛ばした。
北野は、横井繁子の顔を目に浮かべて、つい耳たぶを引っ張ってしまった。声を立てて笑ったのは陣内一人だった。あとの四人は、かすかに口もとを動かした程度だ。
「きみ、名刺をお出ししなさい。木下社長に失礼じゃないですか」
陣内に叱《しか》られて、北野はあわてて名刺を差し出した。
「失礼致しました」
木下は起立して、名刺を受けた。そして自分の名刺を北野に手渡した。
「わたしは、北野君の覚えめでたくないようだが、よろしくな」
びっくり仰天したのは中山だ。陣内はにやにやしていたが、矢野も水島も白幡も驚愕《きようがく》しきった顔で、目線をさまよわせている。
木下は、中山たち四人に名刺を出さなかったのだから、無理もなかった。中山に対する木下の当てつけがましい態度は、計算ずくだった。
緑茶が運ばれてきた。
中山は、木下へのせめてもの反発のつもりか、最後まで湯呑《ゆの》みに手を伸ばさなかった。
木下が湯呑みに伸ばしかけた手を北野に向けた。
「立ってないで、矢野君の隣に座ったらいいね」
「お気遣いありがとうございます。わたしはこれで失礼させていただきます。所用もございますので」
木下が濁声《だみごえ》で命じた。
「いいから座りたまえ」
「きみ、お言葉に甘えたらいいよ」
陣内が中山のほうを窺《うかが》いながら、迎合すると中山もひとうなずきした。
北野はソファに座らざるを得なかった。
「申し訳ありません。失礼します」
木下が湯呑みをセンターテーブルに戻して、中山と陣内にこもごも目を遣った。
「十日付で役員の担当替えをやると聞いてるが、今井君まではよく相談に来とったけどねぇ」
「ご報告が遅れて、申し訳ございません」
陣内は低頭したが、中山はわずかに頭を動かしただけだ。
「たしか森田君は経営会議のメンバーじゃなかったかね」
「はい」
こんどは中山が返事をした。
「あの男は専務、いや副頭取にしたらいいね。声も大きいし、度胸もある。紳士ぞろいのACBには珍しいタイプのトップになれるんじゃないかねぇ。佐々木さん以来の大物トップになると、わたしは見てるんだが」
中山は顔色を変えた。
「木下社長のご意見はご意見として承っておきます」
早口になったのは、泡立つ胸中を抑制できなかったからだ。
「それじゃあ、イエスなのかノーなのかわからんじゃないか」
白幡が顔を上気させて、上体を木下のほうへ寄せた。
「僭越《せんえつ》ながら申し上げますが、森田君はつい先だって常務に昇格したばかりでございます。三階級特進は、ACBの歴史にございません。その点をどうぞ、ご勘案あそばして……」
中山が、よくぞ言ったといいたげに、大きくうなずいたが、次の瞬間、中山も白幡も顔から火が出た。
「中山君は何階級特進なんだね。たしか常務、それも中以下だったと記憶してるが……」
木下は皮肉たっぷりに指を折りながらつづけた。
「常務の上位、専務、副頭取、頭取。四階級特進じゃないか」
険のある木下の目が、北野に向けられた。
「クーデターで誕生した政権≠セから、しょうがねぇけど、森田の副頭取は誰が見ても文句はなかろうが。言ってみりゃあ、二階級特進に過ぎんよ」
クーデターと言われれば、否定できないかもしれない。しかし、森田のことで、ここまで木下に言われる筋合いはない、と思いながら、北野は強い目で木下を見返した。
木下の目はセンターテーブルの名刺に落ちていた。
「白幡君と言ったかねぇ。あんただって、クーデターでもなかったら、どうなってたかわからんよ」
中山と白幡だけではなく、五人ともすっかり立場を失念して、木下に言いたい放題言われていた。
「中山君も然《しか》りだ。多少は実力もあったんだろうが、間違って頭取になったと思うくらいで、ちょうどいいんだよ。森田の昇格にケチを付けられた義理かね。笑わせちゃいかんよ」
白幡がふるえる手で湯呑みを口へ運び、ぬるくなった緑茶をひと口飲んだ。
「お言葉ですが、A≠ニC≠フバランスもございます。旧行意識にとらわれるなと、お叱りを受けることは重々承知致しておりますが、現実問題として、そういうこともございます」
声はうわずり気味だが、木下と陣内以外はみんな控え目にうなずいた。北野は白幡を見直していた。旧朝日銀行と旧中央銀行のしがらみに、とらわれていない人がいたとすれば、北野の知る限り、久山と中澤の二人だけだ。
久山は他界し、中澤は小菅《こすげ》の東京拘置所で囚《とら》われの身である。二人とも、笑顔が素晴らしくきれいだった――。
「阿呆!」
白幡に対する木下の罵声《ばせい》で、北野の感慨は一瞬にして、吹き飛ばされた。
木下がごつい右手のこぶしで、ドーンとセンターテーブルを叩《たた》いた。
湯呑みが茶托《ちやたく》の上で、ガタガタ震え上がり、中山の前の緑茶がこぼれた。
木下が、凄《すご》みのある目を白幡から中山に移した。
「いつまでA≠セC≠セ言ってんの。だからACBはいつまで経っても、合併銀行の枠から出られんのだ。検察の強制捜査にしてもそうだが、ダメ銀行のサンプルに成り下がってしまったじゃねぇか」
中山が白幡の擁護にかこつけて、木下にわずかながら、あらがった。
「森田を含めて、経営会議のメンバーに常務が三人おります。木下社長は三人とも専務なり、副頭取に昇格させろと、おっしゃるんでしょうか」
「誰もそんなことは言っとらん。森田は別格だろうが。陣内君、わたしの言ってることは間違ってるか」
陣内は、木下に指差されて、面くらったが五秒ほど考えて、おもむろに答えた。
「わたくしは、木下社長のご意見に賛成ですが、中山頭取の立場もございます。白幡も申しましたが、残念ながらA≠ニC≠フバランスも考えなければなりません。合併銀行の辛《つら》いところでございます」
木下がしかめっ面で、声量を落とした。
「きみまでなんだね。それじゃあ旧A≠ニ旧C≠ェ全員卒業せんことには、どうにもならんということじゃねぇか。森田を昇格させないようだったら、わたしは二度と相談に乗らんぞ」
木下が中山の胸板に右手の人差し指を突きつけた。
「もっとも、きみは端《はな》から、わたしなんか眼中になかったらしいが」
「ご冗談を。そんなことは決してございません」
「図星だろうが。顔に書いてあるじゃねぇか」
「恐れ入ります」
「能力のある者を取り立てるのが、ACBの人事政策だったはずだ。佐々木君などはとくにその点に留意してたように思うが……。どうなの。森田を副頭取にするの、しないの」
「そういう方向で、検討させていただきます。頭取もわかってますよ。森田は、企画部長も無難にこなしましたし、証券担当としても立派にやってます。きみ、そういうことでいいだろう。木下社長がこんなにおっしゃってくれてるんだから」
中山は、木下の前で副頭取から、きみよばわりされる覚えはない、と思い返事をしなかった。終始うつむき加減の矢野と水島は、さっきから、ひと言も発言しなかった。貝になっていなければ、絶対に損なことはたしかだ。
中山が人事権者になり切っていないことだけは、誰しもなんとなしに理解できた。
それにしても、千久≠ノ対する畏怖《いふ》心を厭《いや》というほど見せつけられたことだけは、たしかである。
木下が左腕を目に近づけた。
北野も時計に目を落とした。時刻は午前八時三十二分。中山が腰を浮かした。
「そろそろ、おいとまします。本日は……」
「ちょっと待て」
木下がむっとした顔で、つづけた。
「まだ終わってないぞ。十日付で森田君が副頭取に昇格することは合意が得られたらしいが、もう一つ大切な用件があるのをうっかり忘れるところだった」
「なにか」
「陣内君、なにかはないだろう。忘れてもらっちゃ困る」
「は、はい」
陣内は明らかに失念していた。森田のことは、事前に佐々木からも、木下からも聞いていなかったのだ。内心、かなり周章気味だった。合意が得られたことになるのかどうかも、疑問符を付けたいくらいだが、木下にここまで言われたら、従わざるを得ないだろう。
それが運命共同体の現実だった。もろもろの弱みを握られているのだから仕方がない。
あとで、中山がどう出るだろうか、と陣内は思いをめぐらせていた。
昨日、佐々木からも森田の昇格問題についてはなにも聞かされていなかった。森田にかこつけて、木下がACBとの力関係なり、存在感をACBの新執行部に見せつけたことは間違いなかった。
「忘れてもらっちゃ困る」と言われても、ピンとこなくて当然だ。
木下が濁声を無理にやさしくした。
「北野君、千久に出向する気になってくれたかね」
北野は厭な予感を募らせていたが、そのとおりになった。
「光栄に存じますが、ご容赦ください。昨日、佐々木最高顧問からも、木下社長のご好意につきまして、お話を承りましたが、なにぶんにも秘書室に移りましてから、まだ二カ月も経っておりませんので……」
「佐々木君から、そんなふうに聞いとらんぞ。千久で鍛えてやってくれと頼んできたのは、佐々木君のほうだ。きみ、わかってねぇのか」
またしても、木下の目に凄《すご》みが出た。
北野は、胸に痛みが走ったと錯覚したほど木下の右腕が一直線にこっちに突き出された。
「きみは岳父の威光をかさに着て、肩で風切って歩いてるらしいじゃねぇか。よからぬ料簡《りようけん》だな。人間増長しちゃあいかんよ。クーデターだの、紅衛兵≠セのとチヤホヤされて、天下を取ったような気持ちになるのもわからんじゃないが」
木下の目が陣内に向けられた。
「秘書役って、そんなに偉いのかね」
「木下社長、そうおっしゃらずに、北野をあったかい目で見てやってください。なんだかんだ言っても、北野は五十三年組のエース格ですよ」
「それは、親の七光もあるんだろうや。ウチの倅《せがれ》にも、いい気になるなって常々注意してるんだが、あれがこの子に……」
木下が北野を指差してつづけた。
「ぴりぴりしてるらしいぞ。佐々木君も、わたしと同じで、身びいきするほうではないらしいが、周りが佐々木君を意識して、この子を腫《は》れ物にさわるように扱ってるのと違うかね。だから、ウチで鍛え直してやると言っとるんだよ。いわば親心だ」
北野は『腫れ物にさわるような扱いを受けてるのは、千久≠フ息子のほうだ』と、胸の中で言い返したが、なんとか顔に出さずに気持ちを抑えられた。
「木下社長に、肩で風を切って歩いていると見られているとしましたら、若気の至りといいますか不徳の致すところとしか申しようがありません。深く反省します」
「そういう言い方が、生意気なんだよ」
木下は、北野に向けている右手の人差し指を激しく上下させた。
北野は、うなじが痛くなるほど、しばらく低頭を続けた。なんと言われようと、聞き流すしかなかった。
「千久で仙台の高級マンションでも売りまくる気概をもたんかね。ACBさんは百戸ほど買ってくれるらしいが……」
陣内が揉《も》み手スタイルで敏感に反応した。
「その問題は、中山君にまだ話してませんので」
木下は険しい形相でなにか言いかけたが、中山が話題を元に戻した。
「北野はまだ出せません。一年はわたしのお守りをしてもらいませんと。陣内副頭取、まさか承諾しちゃったわけじゃないんでしょう」
中山は陣内に対する皮肉も込めていた。
「陣内君、あんたの意見はどうなの。佐々木君は、あんたが賛成してるような口ぶりだったぞ」
「木下社長のご好意も、佐々木最高顧問のお気持ちも痛いほどよくわかります。わたしも若いころ千久さんで鍛えられて、どれほど腕を研《みが》かせていただいたかわかりません。わたしが北野だったら、ありがたくお受けしますけど……」
陣内は右手で頬《ほお》をさすりながら、微妙な言い回しで、木下寄りであることを示した。
「陣内副頭取、それはない。北野が潰《つぶ》れてしまう」
木下が厭な目で、中山をとらえた。
「ひっかかる言い方だねぇ。ACBは、ちょっと揺れてるが、今井逮捕≠ナきっと幕引きになるよ。若いのを甘やかしちゃ、いかん。ACBは人材の宝庫なんだ。北野秘書役の代役は掃いて捨てるほどおるだろうや」
「森田の専務への昇格につきましては承知しました。北野はご容赦ください」
中山は膝《ひざ》に手を突いて、低頭した。どさくさに紛れて、一格下げたのは中山も隅に置けない。森田と北野の件は、これが結論になった。
北野は、わが身にかかわることで、中山が木下に屈伏しなかったことを、どれほどありがたく思ったかわからない。
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第二十一章 前会長逮捕
1
一昨日まで続いた猛暑が嘘《うそ》のように七月十一日金曜日の東京地方は降雨で、最高気温も摂氏二十四度と低かった。
真夏と梅雨が逆になった。
この日の夕刻、朝日中央銀行の今井史朗前会長が商法違反容疑で東京地検特捜部に逮捕された。
テレビ、新聞などのカメラの放列の中を今井を乗せた車が東京拘置所に入る光景を、北野はテレビニュースで一度だけ見たが、不思議なことに、岡田前副頭取や中澤前専務の逮捕シーンのときほど衝撃を受けなかった。
今井逮捕が時間の問題と見られていたことや、これで幕引きと、どこかに安堵《あんど》感めいたものがあるせいだろうか。もっと言えば、総会屋の小田島に対する迂回《うかい》融資を事前に承知していたことを、行内調査委員会に対して明らかにした今井は、逮捕されて当然という思いもあった。
このことは北野に限らずACB全行員の共通認識と考えて、さしつかえない。
中山頭取の記者会見が午後八時からACB本店ビル十五階の大会議室で行なわれた。
ステートメントをワープロで打ち出したのは北野である。
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前会長の逮捕という事態に立ち至り、言葉もありません。
信用を旨とし、高い公共性を有する金融機関にとりまして、経営の最高首脳にあった者が逮捕されましたことは、きわめて重大であり、遺憾でございます。
当行の株主、取引先、預金者の皆様、そして世間の皆様に深くお詫《わ》び申し上げます。
事件解明のため、検察ご当局の捜査に全面的に協力すると共に、当行と致しましても実態解明の努力を今後も続ける所存でございます。
当行は再発防止を期して、経営組織の刷新と業務運営全般の総点検に全力で取り組んでおります。全役職員が一丸となりまして、失われた信用・信頼の回復に向けまして、全身全霊を傾け、懸命に努力致しております。
わたくしは清冽《せいれつ》な経営を行なうべく、先頭に立ちます。朝日中央銀行が必ず再生することをあらためて皆様にお誓い申し上げます。どうかご理解賜りたいと存じます。
本日は、夜分にもかかわらず、お集まりいただきまして、ほんとうにありがとうございました。
[#ここで字下げ終わり]
ワープロを打ちながら、北野は虚《むな》しさと、うしろめたさがないまざった奇妙な思いにとらわれたものだ。
たしかに、今井逮捕で総会屋利益供与事件は山を越したかもしれない。
だが、個人預金の流出、取引企業のACB離れ、地方公共団体、公共機関の取引停止の拡大。
大蔵省の行政処分も、厳しいものが予想される。片山のことも気がかりだ。
それ以上に『佐々木―千久=xがらみの呪縛《じゆばく》との闘いが、ACBにとって最大の経営課題に浮上してくると考えなければならない。
今井逮捕で幕引き、などと考えては、絶対にならない――。
中山の記者会見でも、報道陣の質問は辛辣《しんらつ》だった。
「ボーナス時期にもかかわらず、個人の定期預金の流出が続いてるようですが、六月の数字を教えてください」
「この際、問題融資案件を全部公開したらどうですか。小田島案件だけじゃないんでしょ」
「ACBは清冽な経営を標榜《ひようぼう》してますけど、看板倒れになるんじゃないですか」
これらの質問に、中山はひきつりそうになる顔を懸命にゆるめる努力をしていたが、六月だけで二千五百億円もの個人預金の解約を明らかにせざるを得なかった。
「問題融資について」は「洗い直している最中」でかわした。
「清冽な経営」の質問には、「懸命に努力致すしかありません」と答えた。
左隣の早崎総務審議室長が補足した。
「反社会的勢力との絶縁につきましては、確実に実行致しております。警察と緊密に連絡を取り合っておりますが、目下のところ、反社会的勢力から攻撃された事実はございませんけれど、われわれは身を挺《てい》して頑張るしかないと思っております」
北野は、石井と並んで、報道陣の後方に控えていたが、顔を見合わせながら、二人とも深い吐息を何度も洩《も》らしていた。
北野が石井に躰《からだ》を寄せて、小声で訊《き》いた。
「部長の頭の中は、千久¢ホ策で一杯なんでしょう」
「まだ頭の片隅にある程度だ。経営全般に目配りしなければならない立場だからねぇ。ノイローゼにならないのが、不思議なくらいだよ」
「あやうく千久に飛ばされるところでした。頭取のお陰で、間一髪セーフでしたが」
「うん。千久¢ホ策は複雑きわまりない。きみは、首を突っ込まないほうがいいかもな」
「部長、本気ですか。然≠ナの蒸し返しみたいな話ですけど」
「本気だよ。北野のやることは、佐々木最高顧問の慰留だけだよ」
北野はむすっとした顔で言い返した。
「部長だからはっきり言いますけど、そんなつもりは、さらさらありませんから」
「わたしは今夜、丸ノ内ホテルに泊まる。北野もつきあえよ。話したいこともあるんだ」
「わかりました。自分の分はシングルを取ります」
記者会見が終わりに近づいていた。時刻は午後九時二十分。
「頭取は、公邸に帰るんじゃないですか。目下のところ、マスコミに気付かれてません。ホテル住まいと思われてるんじゃないですか」
北野が紙袋を提げて石井が宿泊している丸ノ内ホテルのツインルームに入ったのは、十時二十分過ぎだった。
「食事はどうした。わたしは食べたけど」
「頭取室で、水割り一杯とコンビニのサンドイッチとおむすびを食べました」
「頭取がコンビニの弁当をねぇ」
石井は感慨深げだ。過去、ACBの頭取でコンビニの弁当を行内で食べた人がいるとは考えにくい。
「松原さんと早崎が一緒でしたけど、コンビニのサンドイッチもおむすびも、けっこういけますよ」
「誰が買ってくるの」
「気の利く女性秘書もいますからねぇ」
石井から個人名を訊《き》かれずに済んだので、なんとなく北野はホッとした。横井繁子と佐藤弘子の二人が、気を遣ってくれたのである。
横井と佐藤は、雨の中を買物に行った。
「きっと久山さんの涙なんじゃないかしら。ずっと暑い日が続いて、きのうは、ほとんど曇空だったのに、きょうになって終日雨ですもの」
「そうかもしれないわねぇ。久山さんが亡くなって、今井さんが逮捕されて、なんとなくこれで終わったような気分になってる人が多いみたい」
「久山さんがお亡くなりになって、ホッとしてる人もいるみたいねぇ」
「誰のこと。はっきり言っていいわよ」
「わかってるくせに……。亡くなられた久山さんのことを犬死だとか、事件をうやむやにしてしまった、とか陰口をたたく人がACBにたくさんいるのよ。許せないわ。悔しくて、悔しくて」
佐藤は肩をふるわせて、泣きじゃくった。傘と手荷物で、涙を拭《ふ》けない。
「この雨は、あなたの涙もあるのねぇ」
夜でよかった、と思いながら、横井ももらい泣きしていた。
北野の耳に二人の泣き声が聞こえていたら、号泣していたに相違ない。
2
浴衣《ゆかた》姿の石井が、袖《そで》をたくしあげながら、言った。
「ビールでも飲もうか。北野と一戦交えるには、ビールぐらい飲まないと」
北野が背広をベッドに放り投げた。
「レスリングをやろうっていうわけでもないと思いますけどねぇ。一戦交える、はないでしょう」
「きみは言い募るから、怖いよ」
北野が顔をしかめながら、冷蔵庫から、ビールを二本取り出した。サッポロ黒ラベル≠フ小瓶だった。
ソファで向かい合って、グラスを触れ合わせ、ビールを一口飲んで、北野が言った。
「検察も、ひどいもんですねぇ。岡田さんと中澤さんが、きょう起訴されましたけど、今井逮捕のタイミングに合わせたんでしょうか」
時刻は午後十一時を過ぎた。
ビールを飲みながら、石井が北野に答えた。
「多分、シナリオはできてたんだろうな」
「今井さんは、検察の事情聴取で、ほとんど吐いちゃってるんでしょうねぇ」
「うん。ただ、久山、今井逮捕を総会前か当日やられなかっただけでも、よしとしなければね」
「別に鶴首《かくしゆ》して待ってたわけじゃありませんけど、今井逮捕が予想より遅れたのは、どうしてだと思いますか」
「久山さんの自殺と無関係とは思えないな。ACBを毒した元凶は、S℃∴齔lとは思わないけど、考えようによっては、久山さんも今井さんもS℃≠フ犠牲者とも言えるのかねぇ。元を糺《ただ》せば合併を実現させた牧野さんにも問題があったとも言えるよ。それとA≠ニかC≠ニか言いたくないけどC¢、の今井さんはA¢、に気を遣い過ぎたっていう見方もある。前にも話したかもしれないが」
「久山会長―今井頭取時代に、お二人が記者会見なんかで、一体感をことさらに出そうとしてたことは事実ですよ」
北野の腰で携帯電話が振動した。しまった、と北野は思った。
「ワイシャツや下着の着替えを持って出勤するのはいいけど、帰れないんなら、電話ぐらいしてよ」
と、今日子に念を押されたことを思い出したのだ。
「はーい」
「横井ですが」
「ああ、どうも」
北野は、飛び上がらんばかりにびっくりして、ソファから離れた。
「いま、どちらですか」
「丸ノ内ホテルで、企画部長と話してるところです」
「ごめんなさい。こんな時間に」
横井の声はやけに甘やかだった。
「コンビニのおむすびも、サンドイッチも美味《おい》しかったですよ。頭取も旨《うま》いねぇって言ってました」
「前会長が逮捕された夜に、不謹慎かとも思ったのですけれど、あしたのご予定はどうなってますの」
「S≠ェらみで、なにかありますか」
「はい。ございます」
「じゃあ、なんとか考えます。今夜はホテルに泊まりますが、あしたは多分家にいると思いますから、電話をください」
「ありがとうございます。何時ごろがいちばん、よろしいかしら」
「どうなんですかねぇ。適当でいいですよ」
「それでは午前十時に携帯≠ノかけさせていただきます」
「わざわざお電話ありがとうございました」
「おやすみなさい」
電話中、北野はずっと耳たぶを引っ張っていた。
「横井女史だな」
「ええ。S≠ェらみで、同病あいあわれむ仲ですからねぇ。いろいろ心配してくれて」
北野の心臓はまだ音を立てていた。
「気が利く女性秘書とは、横井女史のことか」
「佐藤さんと二人です。九時過ぎに、雨の中を二人でコンビニに行ってくれたんですよ」
北野は手酌でビールを飲んだ。サッポロ黒ラベル≠フ小瓶が三本目になっていた。
「S℃≠ナ思い出したが、おとといの水曜日はご苦労さま。記者会見場では話せなかったが、火曜日の夜、遅い時間に頭取から電話をもらってねぇ。佐々木最高顧問と陣内副頭取が北野を千久に出したがってるが、どうか、って訊かれたよ」
「そんなことになったら、即ACBを辞めると頭取に申し上げましたけど」
「それも聞いた。北野は、ほんとうにACBを辞めちゃうと思うか、と訊かれたから、間違いない、と答えておいた」
「頭取は、本気でわたしを千久に放り出すつもりだったんですかねぇ」
北野は、顔色を変えていた。お陰で横井の顔が頭の中から消えていた。かわりに怒りが込み上げてきた。
「陣内さんの入れ知恵もあるんだろうが、佐々木さんと北野を取り替えられないか、と考えたみたいなんだ」
「人質の問題ですか」
「うん」
「わたしに、人質の価値なんかないでしょう。そんなことを考えてるようじゃ二流頭取になってしまいますよ」
「そうとんがるなって」
北野が険しい顔でネクタイをゆるめ、ワイシャツを腕まくりした。
「これが怒らずにいられますか」
「千久≠フS℃<Xカウトはなんとしても阻止したいからこそで、頭取に他意はない。片山がずっこける可能性もあるし、北野に辞められたら、松原とわたしの立つ瀬はない。人事部長も珍しく頑張ってくれてねぇ。三者の間を電話が飛び交って、頭取を説得したんだよ」
石井はたんたんと話している。
「それで、わたしのクビがつながったわけですか。ご配慮感謝します。衷心から感謝申し上げます」
北野は、真顔で低頭した。
「頭取は千久≠ノ対して、ファイティングポーズを取ろうとしてるが、千久≠ノ対する上層部、特に旧A¢、の畏怖心はもの凄《すご》いからねぇ」
「S≠烽サうなんでしょうが、多分陣内さんも、森田さんも、弱みを握られてるんでしょうねぇ。バブル期は、なんでもありでしたから」
北野が右手をワイシャツのポケットに突っ込んで、話をつづけた。
「森田さんが千久≠ノどれほどつかまされて、ポケットに入れたか知りませんけど、半端な額じゃないと思うんです」
石井は小さくうなずいた。
「それは、たしかにあり得るな」
「そんなのが代表取締役ですからねぇ。ACB上層部の人材払底はひどいことになってますよ」
「副頭取にしなかっただけでも、めっけものだよ。しかし、ミドルには優秀な人がたくさんいる。北野を含めてな」
北野は苦笑いをして、小首をかしげた。
「そういうのを取って付けたようなって言うんじゃないんですか。千久≠ノも言われましたよ。おまえの代役は掃いて捨てるほどいるだろうって」
「…………」
「考えてみますと、久山―今井時代は、総会屋への不正融資がなかったら、けっこうよかったんじゃないですか。お二人のお人柄もあるんでしょうけど、役員もミドルも、若手も言いたいことが言えましたもの。雨宮秘書室長に、少しは陣内副頭取の顔色を窺《うかが》えって、言われました。もちろん、わたしに気を遣ってくださってることはわかるんですが、頭取を含めて、みんなが陣内さんに振り回されてるような気がしてならないんです」
石井が腕組みした。浴衣《ゆかた》の裾《すそ》が乱れ、毛臑《けずね》が露出した。
「たしかに陣内さんは気がかりな存在だし、みんな必要以上に顔色を窺っているふしもある。いまは危機感がバネになってるが、落ち着いてきたときに、ACBのダイナミズムが低下しやせんか心配だねぇ」
「わたしを千久に放り出そうとしたことを根にもつわけではありませんけど、中山頭取をわれわれは過大評価してたような気がしてならんのですが。リーダーシップの欠如を部長もご心配なんでしょ」
石井が腕組みをほどいたついでに、浴衣の裾を直した。
「そこまでは、どうかねぇ。感情論というかきみの神経過敏と思いたいところだが……」
「部長に、言い募るから怖いって、前にも言われましたが、自分でも多血質であることは認めます。しかし本気で、わたしを千久に放出しようとした頭取に気はたしかかって訊《き》きたいですよ。池田前専務がいくら千久フロントの社長になったとしても……」
千久フロントは千久グループの一社である。池田は当初、千久の副社長に就くはずだったが、木下の一存で変更された。
石井が北野を流し目でとらえ、茶化すように言った。
「やっぱり、根にもってるんだ」
「ほんのちょっとですけどね」
北野は右手の人差し指と親指で、わずかな隙間《すきま》をつくり、冗談めかして言った。
「頭取の苦衷も察してやれよ」
「ご本人からも、まったく同じことを言われましたよ。この話は初めてじゃないと思いますが」
「わたしが、佐々木さんの慰留だけを考えろって言った意味、わかってくれたか」
北野は不承不承うなずいた。
気持ちが平らになってみると、あのとき中山頭取は俺《おれ》のために、躰《からだ》を張ってくれたとも言える。千久≠フ無理難題のつけ方、傍若無人ぶりを思うにつけ、むかむかしてくる。
石井がグラスを乾して、北野に訊いた。
「テレビ見るか」
「よしましょう。精神衛生上よくないですよ。なんにもわかってないニュースキャスターの話なんか聞いても、得るものはありませんよ」
「それもそうだな」
石井がトイレに立った隙に、北野は今日子に電話をかけた。
時刻は午前零時に近い。今日子が電話に出た。
「いま、丸ノ内ホテルで、石井さんと話してるところだ。起こしたか」
「ううん。気持ちが高ぶって、とても眠れないわよ。テレビニュースで、母も浩一も興奮して、まだリビングにいるのよ」
「史歩は」
「あの子は寝たみたい。誰に似たんだか、けっこうずぶといところがあるみたいよ」
北野は声をひそめた。
「まだ話が終わらない。ホテルに泊まるからな。あしたも遅くなると思う」
「土曜日なのに」
「危急存亡の秋《とき》じゃないか」
「わかったわ。夕食は」
「どうなるかねぇ。電話するよ。じゃあな」
水を流す音が聞こえたので、北野は急いで電話を切った。
「奥方に電話したのか」
「ええ」
「そろそろ寝るか」
「まだ、よろしいんじゃないですか」
「飲みたりないのか」
「女房も義母も、息子までが、気が高ぶって、まだ起きてるそうですけど、わたしも、もうちょっと飲まないと眠れそうもありません」
「まったく同感だ」
「ワインでも、飲みましょうか」
「いいな。俺がサインするよ」
石井がにやにやした。
神田錦町《かんだにしきちよう》、四季交楽然≠フ飲食代の件をむろん北野も思い出していた。
「その節はどうも。頭取に水臭いみたいなことを言われました」
「千久≠フことで、頭取も気が立ってたから、しょうがないよ」
「然≠ナ飲んだのと同じワインにしましょうか」
「いいだろう。まぁまぁだよ」
「つまみはどうしますか」
「チーズ、クラッカーぐらいかねぇ」
「はい」
北野がルームサービス係に電話をかけて、ソファに戻った。
「今井さんの逮捕、どう思いますか」
「きみの意見を先に言えよ」
「自業自得としか言いようがないと思いますけど。S≠フ呪縛《じゆばく》に自分のほうからとらわれちゃったわけでしょ」
「ちょっと厳しいような気もするけど。あたらずといえども遠からずかねぇ。久山さんについてはどう。死人に口なしで、胸を撫《な》でおろしてる人もいるようだけど」
「おっしゃる意味はよくわかります。何度も話したような気がしますけど、S≠セと特定しても、一向にかまいません」
石井はバツが悪そうな顔で、コップに手を伸ばした。
「事件の拡大を止めようとして、S≠ネんかの犠牲になった久山さんの無念なお気持ちを思うと……」
北野の目から涙があふれ出た。どうにも、堪《こら》え切れなかった。
「北野が、こんなに泣き上戸《じようご》とは知らなかったよ」
声をあげて、泣き出した北野に、石井は辟易《へきえき》した。
「きみは、凄惨《せいさん》な自殺の現場を見てるからなぁ」
「も、も申し訳ありません。と、と取り乱しまして」
言葉にならなかった。
「泣きたいときは泣いたらいいよ。不思議だな。わたしは、小菅《こすげ》の中澤さんを思い出して涙がこぼれてきた」
石井がタオルを取りにバスルームに入った。
北野は泣けて泣けて仕方がなかった。
口が裂けても、遺書のことは、話してはならない。それがいっそう悔しくてならない。
初めのうち、北野はタオルで目をこすりながら、ラロッシェのシャブリ≠飲んでいた。
「おい、北野、いつまでも過去にとらわれるのはよそうよ」
「はい。あんまりめそめそするのは、いけませんよね」
「やっと元気が出てきたな」
石井はにこっと笑いかけて、浴衣の袖をたくしあげた。そして、二つのワイングラスを満たした。
「千久≠フ横ヤリで、森田さんが専務になるとはねぇ」
「実は副頭取にしろって言い出したんです。頭取はよく頑張ったんじゃないですか。千久≠フ蹂躪《じゆうりん》を許している限り、ACBのあすはないと思います」
「何度も言うが、千久*竭閧ノ、首を突っ込むんじゃないぞ。S℃≠フ気持ちを変えることが北野の使命と思え」
「石井部長がそんなに、ダラ幹になってしまうとは……。嘆かわしい限りですよ。わたしは、秘書役です。頭取に意見を言える立場なんですから、ACBと千久を運命共同体とする敗北主義に陥ってはならないって、言い続けるつもりです。申し訳ありませんが、S≠フ慰留なんて、これっぽっちも考えてませんからね」
「きみは、言い募るから参るよ。それとも気が立ってて、たわごとを言ってるのか。この程度で酔っぱらうはずもないしなぁ」
言い募る、はこれで二回目だ。北野はわずかに首をすぼめた。
石井が真顔で、話をつづけた。
「いま啼《な》いた烏《からす》がもう笑うっていうことならいいんだけどねぇ。千久*竭閧ヘ根が深い。頭取の苦衷を察するのも、秘書役の役目だぞ。よく考えたらいいな」
北野が反論しようとしたとき、携帯電話が振動した。北野は緊張した。中山頭取に違いない、と思ったからだ。
「はい。北野ですが」
「俺だよ」
「なんだ、片山か」
「声を覚えててくれたから許してやるが、なんだ、はないだろう」
「そう絡むなって。頭取かと思って緊張して損しちゃったよ」
北野も口の減らないほうだった。
「いま、どこにいるんだ」
「丸ノ内ホテルのツインルームで、石井部長と話してるところだ。よかったら、来ないか」
「冗談よせよ。あと五分で家に着く。ところで、頭取に一席もたせる件はどうなったんだ」
北野は携帯電話を左手に持ち替えながら、どう答えていいか思案した。
「頭取が、夜の宴席を自粛してるからなぁ。まだ話してないんだ。とりあえず紅衛兵℃l人でどうかねぇ。経費は頭取にもってもらうとして」
「わかった。飲むほうはどうでもいいけど、朗報があるぞ」
「朗報」
「うん。中澤専務が来週中に保釈されるらしいぞ。検察に近い筋の情報だから間違いないと思うけど」
「朗報も朗報、凄《すご》い朗報だよ。さすが辣腕《らつわん》の|MOF《モフ》担だけあるよ」
「バカ野郎! なにがMOF担だ。いまは人事部付だよ。じゃあなぁ。石井さんによろしくな」
電話が切れた。
片山の呂律《ろれつ》は、北野以上に怪しかった。
石井がぺろっと舌を出した。
「わたしも、片山に因果を含めるのを忘れてたよ。ところで朗報ってなんなの」
「中澤専務が来週中に保釈されるそうです」
「起訴がきょう十一日だから、早いほうかねぇ。片山の情報収集力はまだ錆《さ》びついてないんだ」
「ええ」
「ただ、片山はこれからが、辛《つら》くなるかもねぇ」
「逮捕もあり得るっていう意味ですか」
「それも否定できない」
「頭取はガセネタかもしれないとおっしゃってましたが」
「わたしもそう思うけど……。とにかく中澤さんの出所祝いのゴルフ、なるべく早めにやろう」
「お願いします」
北野も、小さな欠伸《あくび》を洩《も》らした。
3
翌朝、七月十二日の土曜日、八時過ぎに北野は石井のツインルームでルームサービスの朝食を摂《と》った。二人ともワイシャツ姿だった。
「全紙が一面のトップなんだろうなぁ」
「そう思います。経済面、社会面も動員してACBバッシング一色ですよ」
北野はA新聞、石井はC新聞をすでに読んでいた。
東京地検、朝日中央銀行・今井前会長を逮捕
審査の反対覆し総会屋に融資
元出版社社長と会食 迂回《うかい》の契機に
岡田前副頭取ら起訴
ACB、情報公開が急務
来るべきものが来た
信用回復へ険しい道
パートナーは自殺、背景熟知の元トップ
組織ぐるみの犯罪
A新聞の一面、経済面、社会面の大見出しを拾っただけでも、この凄さだ。
経済面に掲載された中山頭取のお詫《わ》びの記者会見はきわめて重大、言葉もない≠フ一段見出しで、ベタ記事扱いに過ぎなかった。
C新聞も然《しか》りだ。あとでわかったことだが、B紙もD紙もE紙も、似たり寄ったりだった。
「検察にいくらもらったのって訊《き》きたいくらいですよ」
「いくら叩《たた》かれても弁解の余地はない。それが、ACBの立場だよ」
二人とも、食事がほとんど喉《のど》を通らなかった。昨夜のヤケ酒も堪《こた》えている。
水を飲みながら、石井が訊いた。
「頭取からなにか言ってきたか」
「いいえ。愚痴を言われても、どうしようもないですしねぇ。部長のほうにはなにか」
「頭取から七時過ぎに電話があった」
北野はミルクティーでむせかえりそうになった。秘書役を差し措《お》いて、と思って当然だ。
石井が、北野のしかめっ面を上目遣いでとらえた。
「無理もないんだよ。S℃≠ェらみだから、北野をわずらわせたくなかったんだろう。早朝、陣内副頭取が、頭取に電話をかけてきたそうだ。S℃≠ェ陣内さんに電話をかけてきたらしいよ。大物政治家を使う手をなぜ考えなかったのかって。今井逮捕はまぬがれたはずだとか言ってたらしいが、陣内さんも、それはないよっていう意見だったらしい」
「莫迦莫迦《ばかばか》しい。いまさら、なにをバカ言ってるんですか。S≠ヘ以前にも、そんなことを言ってましたけど、顧問の立場で差し出がましいにも、ほどがありますよ。頭がおかしいとしか思えませんよ」
北野は秘書役として、疎外感を覚えずに済んだ。S≠ェらみ、千久≠ェらみでは、今後も頭取のほうから意見を求められることはないかもしれない。だが、黙っているつもりはさらさらなかった。
「そう言えば、松原からも電話があったよ。早崎たちとパレスホテルに泊まったんだって。週刊誌、月刊誌と、ACBバッシングはまだまだ続くんだろうけど、こんなときに広報部長なんかやらされて、ツイてないって、こぼしてたが、要するにACBマンはみんな、情緒不安定になってるんだよ。七人も司直の手にかかり、つい最近までトップだった人が逮捕されたら、それも当然だろう」
「松原さんは、ツイてないと言いながら、俺《おれ》の出番だと思ってるんじゃないですか。修羅場に強そうですし」
「きみ、よく見てるじゃないか。今井逮捕で落ちるところまで落ちたっていうか、これからが再生本番だと松原は思ってるかもしれない」
「わたしは、千久*竭閧含めて上層部の危機感の欠如が心配です」
「千久≠フことは忘れろ。きょうは早く帰ってS℃&v人と、北野令夫人をS℃∴ヤ留で味方につける工作をやってもらいたいな」
石井が真顔で言った。北野はすぐさま切り返そうと思いながら、口をつぐんでいた。
石井が話題を変えた。
「昨夜、北野はなんであんなに泣いたんだ」
「恥ずかしいです。情緒不安定としか、言いようがありません」
「久山さんが亡くなってなかったら、ACBはどういうことになってたのかねぇ」
「やめましょう。久山さんのことは……」
北野は涙腺《るいせん》がゆるみそうになったので、右手を激しく左右に振った。
北野が丸ノ内ホテルをチェックアウトしたのは、石井より一時間ほど早い十一時だった。石井が「ちょっと読みたい資料もあるから、正午のチェックアウトぎりぎりまでねばるよ」と言って、北野をツインルームから送り出したのは十時前だった。さいわいというべきか、石井と話している間、北野の携帯電話は振動しなかった。
電源を切っておくなり、シングルルームに置いてくれば問題はないが、非常時なので、携帯≠ヘ手放せなかった。
もし、今日子が電話をかけてきて、機械音の『留守番サービスセンターに接続します』などと聞こうものなら、ひと騒動まぬがれない。「あなたが父と同じような真似《まね》をしたら絞め殺してやるからね」と今日子に凄《すご》まれたのはつい二カ月ほど前のことだ。
ジャスト十時に、横井繁子が携帯≠ノ電話をかけてきた。
「はい。北野です」
「おはようございます。いま、よろしいでしょうか」
「いいですよ。石井さんと食事をして、いまシングルルームに戻ってきたところです」
「よかったわ。昨夜から、ずっとドキドキしてて……」
「お互いさまですよ」
「ほんとに」
「ええ」
「いまから、用賀《ようが》のマンションに来ていただけますか」
北野の下半身がうずうずした。北野が横井とわりない関係になったのは、六月二十五日の夜だから、まだ十七日しか経っていなかった。
年齢のわりには、躰《からだ》の線が崩れていなかった。惜しげもなく裸体をさらけ出したのは、プロポーションに自信があったからだろう。
睦《むつ》み合っているときの激しい身悶《みもだ》えぶりにしては、よがり声は低かった。
「アアアアッ、ウーッ」
三十分ほどの間に、極点に達したうめき声を北野は何度も聞いた。
そのたびに下腹部に熱湯がほとばしる。吸着力も凄かった。三十分も保《も》ったのは今日子には悪いけれど、頭の隅で今日子の躰と比較していたからだろうか。アルコールのせいもあったかもしれない。
北野は、不倫感覚が、身も心も狂わせたとしか思えなかった。
「ホテルオークラで逢《あ》いませんか。二時間あれば来られるでしょう」
「はい。そんなにはかかりませんけど」
「じゃあ、十一時半に本館五階のロビーでお待ちしてます。奥のほうの障子の前がわかりやすいと思います」
「はい」
「じゃあ」
北野は携帯電話を切った。
さざんか≠フランチタイムぐらいなら身銭を切れる。問題はそのあとだ。
北野は、横井の躰に思いを馳《は》せていたので、ほんとうに下半身が勃起《ぼつき》していた。
どうしたものか。
突然、佐々木の顔が目に浮かんだ。しかも、横井を見たときの、やにさがった好色そうな目も。
下半身が途端に萎《な》えた。
だが、惹《ひ》きつけあってやまない躰を拒絶できるだろうか。とてもそんな自信はなかった。
ま、昼食から先は、出たとこ勝負でいくしかない。
北野は、時計を見た。時間はまだたっぷりある。
もう一度、シャワーを浴びるために裸になった。二度目のシャワーで、またしても横井の躰を思い出して、北野の下半身が元気を取り戻した。これを鎮めるにはやるっきゃないか。
ウラを返すというが、その程度は許されるはずだ。
佐々木を見習え、とまでは言わなかったが、千久≠ノ妙なけしかけられ方をしたことが脳裡《のうり》をかすめた。北野の心身がせめぎあいを続けていた。
4
丸ノ内ホテルから外へ出ると小雨が降っていた。気温は摂氏二十一、二度だろう。湿度が高いので、少し蒸し蒸しする。北野がタクシーで、虎《とら》ノ門《もん》のホテルオークラへ向かったのは、午前十一時十分過ぎだった。土曜日の都心は、渋滞はないので、十分ほどでホテルオークラの正面玄関に着いた。
北野はドアのほうを気にしながら、横井繁子をロビー奥のベンチで待っていた。
傘は、しずくが落ちるほどではなかったので持って入った。汚れたワイシャツと下着を入れた紙袋もソファの横に置いた。
横井があらわれたのは十一時三十二分。地味なグレーのスーツ姿で、真珠のネックレスを着けていた。傘は、傘立てに置いてきたのかショルダーバッグと布製のブリーフケースを持っていた。
「お待たせして、ごめんなさい。遅刻しちゃって」
「僕も、いま来たところです。遅刻のうちに入りませんよ。さざんか≠ヨ行きましょうか。ご存じでしょ」
「はい。本館の十一階でしたかしら」
「わたしは二度目です。中澤さんを囲んで、石井さん、松原さん、片山の五人でランチを食べました。忘れもしません。六月二十二日の日曜日でした」
「中澤さんが逮捕される前日ですね」
「ええ」
ダイニングルームで、横井は少しはしゃいでいた。しかし、ゆかしさをそこなわない抑制ぶりは、さすが一級のセクレタリーだけのことはある。
北野のほうはそわそわしていた。気持ちが揺れているのだから無理もない。
アルコールは、二人でサッポロ黒ラベル≠フ小瓶二本にとどめた。ランチを食べ終わって、ミルクティーを飲んでいるときに、横井がそっと左手を北野の膝《ひざ》に置いて、ささやいた。
「チェックイン、わたくしがしましょうか」
北野はうろたえて、耳たぶを引っ張っていた。頬《ほお》が朱に染まった。
「まだ早いかしら。オーキッド≠ナ、少しおしゃべりしましょうか」
オーキッド≠ヘ、フロントと同じ五階にあるバーだ。
「そうしますかねぇ」
返事もぎこちなければ、顔もこわばっていた。
オーキッド≠ナ水割りウイスキーを飲みながら、横井が北野の膝に手を触れた。
「わたくし、うれしくて。舞い上がってます」
「…………」
「来週まで待てなかったわ。生理が始まりそうなの。だから恥を忍んで、携帯≠ノ電話したんです」
たった一度とはいえ、躰を交えてしまったから、狎《な》れが出るのは仕方がないと思いながらも、北野は少し気持ちが臆《おく》していた。
だが、ここまで言わせて、据膳《すえぜん》を食わなかったら、男じゃない。いや、男の恥だ。
しかし、丸ノ内ホテルのシングルルームでシャワーを浴びていたときの、心のときめきも、下半身のむらむらもなかった。
やにさがった佐々木の顔を終始目に浮かべていたからだ。
「昼のアルコールは効きますねぇ。野暮天《やぼてん》丸出しで申し訳ありませんが、S℃≠ニここへ来たことあるんですか」
「ご想像におまかせします」
「つまり肯定したわけですね」
「意地悪」
横井は、恨めしそうな目で北野を見上げた。
「無粋ついでに言いますけど、横井さんは、二度と誘惑しない、って僕に言いましたよねぇ」
「ええ。覚えてます。今度はあなたのほうから誘われたと認識しているつもりですけど。ですから、さっきうれしくて舞い上がっている、と申し上げました」
横井は、つんとした横顔を見せて、つづけた。
「そういうふうに解釈しては、いけなかったんですか」
「僕が横井さんを誘惑したって、おっしゃりたいわけですか」
「違うんですか」
横井は、北野をちらっと見上げて、ふたたび横顔を見せた。
北野は、水割りウイスキーのグラスを口へ運んだ。
頭の良い女だ。話していて、退屈しない。
横井が住んでいるマンションのリビングのたたずまいまでは記憶にないし、あのときは室内を眺め回す余裕などなかった。覚えているのは、木下泰嘉の花の版画だけだ。書棚はあったはずだ。横井はどんな本を読んでいるのだろうか。
北野は、グラスをテーブルのコースターに戻した。
「横井さんに、めろめろになりそうな予感がない、と言えば嘘《うそ》になりますけど、やっぱりS≠フことはひっかかります。横井さんを見るときの舐《な》め回すようなS≠フ目が眼底にこびりついて離れません」
「厭《いや》な眼ですよねぇ。つきあわんか、と言われたことは何度もあります。でも、青木伸枝さんと別れてからにしてください、とわたくしは申し上げてます。わたくしにも意地と誇りがありますよ」
「S≠ェ青木伸枝と別れたら、よりを戻すこともあり得るわけですね」
「あなたって、どうしてそんなに意地悪なの」
横井は憂い顔で、北野を小さく睨《にら》んだ。
「S≠ニよりを戻すなんて絶対にあり得ません。青木さんと別れようが別れまいが、関係ありませんよ」
「さすが横井さんです。賢明な判断ですよ。しかし、どうして、あなたほどの女《ひと》がS≠ネんかに……」
「ふた昔も前のことを思い出せと言われましてもねぇ。まだ、小娘でしたし。以前にも申し上げましたけれど、あのころのS≠ェ輝いて見えたんでしょうか。いまの北野さんみたいに、仕事ができて上に向かっていく気魄《きはく》もあったんじゃないかしら」
「S≠フようなドンと比較されて、光栄です」
北野は、首を右側にねじって、笑いながら頭を下げた。
「わたくしを莫迦《ばか》にしてるのね。それとも、昔のバカ女のサンプルだと思っていらっしゃるのかしら」
「とんでもない。あなたは素晴らしい女性ですよ。しかし、残念です。魔が差したとしか言いようがないんでしょうけど、S≠ネんかに……」
北野はグラスを呷《あお》った。
「結婚する前に、女房がS≠フ娘であることを、けっこう気にしたんですよねぇ。S≠熏。日子に、結婚の相手は親にまかせろ、と言ってたようですけど。いつかも、そんな話をしましたが、親の言うことを聞くような娘じゃなかったと思いますけど。人生ってどこでどうなるのか、不思議ですよ」
「今日子さんと結婚したことを後悔してるんですか」
「いいえ。後悔してません。ACBに入行したことは後悔してますけど」
「そうよねぇ。わたくしみたいな年増《としま》に誘惑されることもなかったわけですから」
横井は絡むような言葉とは裏腹に、にこやかに言って、水割りウイスキーをすすった。
「ACBに入行して、よかったと思うことの一つは横井さんとめぐりあえたことですよ。あなたと、こうして話してるだけでも、心がときめきますもの」
「お上手ねぇ」
「僕が心にもないことを言う男に見えますか」
横井は、北野に覗《のぞ》き込まれて、両手で頬を包んだ。
答えに窮するほどのこととも思えないが、横井は返事をしなかった。
来《こ》し方、行く末にでも思いを致しているのだろうか。
ホテルオークラでのS≠ニの情事の場面を頭の中に呼び戻したのだろうか。
二人は、しばらく口をつぐんでいた。
北野が二杯目の水割りウイスキーをオーダーした。
土曜日の午後のせいか、ホテルオークラのバーオーキッド≠ヘけっこう混んでいた。二人は奥のシートに並んで座っていた。
「お宅でごちそうになったときにも言いましたけど、病みつきになったら大変です」
「浮気でよろしいじゃないですか」
横井の瞳《ひとみ》が濡《ぬ》れていた。
北野は表情をひきしめて、声をひそめた。
「浮気が本気になったら、どうするんですか」
横井繁子の顔が輝いた。
「わたくしはうれしいわ。あなたの家庭を壊すような愚かな女ではないつもりですけど」
「横井さんは、自分の快楽、性欲しか求めない近ごろのバカ女とは違います。素晴らしい女《ひと》です。のめり込んで、引き返せなくなったら、家内と別れるしかないと思うんです」
「おっしゃる意味がよくわかりませんが」
「S≠フことを聞いていなかったら、確実に、そうなったと思います。S≠フことなんか聞きたくなかったですよ」
「あなたが同病あいあわれむ仲だとおっしゃったからです。でも、この期《ご》に及んで、なんでS≠フことを話題にしなければいけないのでしょうか」
「自分でも、自分の気持ちがよくわかりません。ちょっと失礼します。トイレに……」
オーキッド≠フ前がトイレだった。
北野は用を足してから、洗顔した。
鏡に映った自分の顔と対面しながら、ふと久山の温容を目に浮かべた。目頭が熱くなった。
『俺《おれ》はなにを考えてるんだ。しかも、前会長が逮捕された翌日に』
北野は胸の中でつぶやいた。そして、意を決して携帯電話で、片山宅を呼び出した。
片山が出てきた。
「北野だけど、二十分後に俺の携帯≠ノ電話をかけてくれないか」
「どうしたんだ。今井逮捕のことでなにか……」
「とにかく頼む。石井企画部長と別れたばかりだよ」
「わかった。いいよ」
北野が横井の隣に戻った。
「わたくしは生身の人間です。気持ちなんてしょっちゅう変わります。たしかに二度と誘惑しないと言いましたけれど、訂正します。あなたを誘惑したいと思ってます」
熱いまなざしが北野にそそがれた。
「トイレでふと久山さんのことを思い出してしまって。きのうも、石井さんと話していて、いつから泣き上戸になったんだ、と言われました」
北野は、佐々木の顔を目に浮かべることで、泣かずに済んだ。
「人間なんて、みんな自分本位ですよねぇ。ほとんどの人は自分のことしか考えないんじゃないでしょうか。だから自分以外の人のことを二割か三割思い遣《や》る人は立派だと思うんです。そういう人間にならなければ、と僕は常々思ってるんですけど、とてもとても。身勝手で、わがままで」
「なにがおっしゃりたいの」
「久山さんのことです。久山さんは八割は他人のことを思い遣る人だったんじゃないでしょうか。いわば神に近い人です」
「あなたも、神様になりたいの」
「とんでもない。小心者で俗物ですよ」
「それなら、わたくしの気持ちを少しは考えていただけませんか。一割、他人のことを思いやる努力をしてください」
「子供が中三と小五です。子供がいなかったら、このまま突き進んでいたと思います」
ちょっと嘘っぽいと思う一方で、本音もある、と北野は思った。
「あと一度だけ。わたくしの気持ちを汲《く》んでください」
「やめましょう。それで横井さんが、僕を許せないとおっしゃるんなら、どんなペナルティでも受けます」
「あなたって、やっぱり神様なのね」
横井がつんとした口調で言ったとき、携帯電話が振動した。
「はい。北野です。あっ片山……」
「いったいどうしたんだ。なにかあったの。俺がらみの話でもあるのか」
「とにかくすぐ会おう。五分後に俺のほうから電話する」
電話を切って、北野は横井に深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。僕が相当無理をしていることはおわかりいただけたと思います。いま、ACBは危急存亡の秋《とき》です。またお目にかかれれば、と思います」
横井の目尻《めじり》に涙が滲《にじ》んでいた。悔し涙だろうか。恨みの涙もあるだろう。
5
北野は、横井繁子と別れて、ホテルオークラの人目の少ないロビーの隅から、片山に携帯電話をかけた。
「お騒がせして悪かった。ちょっとトラブルに巻き込まれそうになったが、片山の力を借りるまでもなさそうだ。いまホテルオークラにいるが、まっすぐ家に帰るよ」
「まったくひと騒がせな男だなぁ。今井がらみとは察しがつくが、そうなると元MOF担の俺も無関係とは思えないから、ちょっと緊張してたんだが……。トラブルってなんなんだ」
「俺が過剰に反応し過ぎただけだ。いずれにしても、片山には関係ないから安心してくれ。そのうち、話すよ。いや、話すまでもない瑣事瑣末《さじさまつ》なことだ」
「この時期、秘書役も大変だなぁ」
「おっしゃるとおりだ。一日も早く辞めたいよ」
ちょっと大仰だが、北野は秘書役を受けたことを後悔している面がないとは言えなかった。もっとも、断り切れるわけはなかったが。佐々木―千久¢ホ策をめぐって、中山頭取との関係が微妙になっているだけに、先が思い遣られるし、辛《つら》く厳しい局面が続くと考えなければならない。横井繁子の色香にふらふらした自分が、滑稽《こつけい》に思えるくらいだ。いまは、それどころではない。
「おまえは直言|居士《こじ》だし、媚《こ》びないところがいい。そこを中山さんに買われたんだよ。こういう時期の頭取秘書役として、嵌《は》まり役だよ」
こっちの気も知らないで、と北野は思った。しかし、片山の口調には、いま置かれている彼我の立場の違いをふまえて、羨望《せんぼう》の思いを滲《にじ》ませていたが、厭《いや》みや僻《ひが》みは感じられなかった。
「なんなら、どこかで会おうか」
「片山の顔を拝みたい気がしないでもないけど、きょうはやめておこう」
片山の声がくぐもった。
「今井さんは、検察になにもかも供述しちゃうんだろうなぁ。そうなると、俺も危ないかねぇ」
「もう、とっくに供述してるだろう。トップの犯罪だから、最高刑の九カ月の実刑はまぬがれないような気がするけど。もちろん、執行猶予が付くとは思うが」
「大銀行のトップが刑事被告人とは泣けてくるよなぁ」
「総会屋への迂回《うかい》融資は、弁解の余地がないが、銀行のトップで今井さんよりもっともっと悪いことしてるのは、山ほどいると思うけどねぇ。ACBは丸野証券事件がらみで、バレてしまっただけとも言える」
「くどいようだけど、ほんと、どっかでお茶でも飲まないか」
「ううーん」
北野は一瞬迷った。
「神経が疲れて参ってるから、家に帰らせてもらうよ。昨夜、ほとんど寝てないんだ」
「そうか。じゃあ、中澤さんとの出所祝いまで待つか」
「そこまで待たなくてもいいだろう。今週、なるべく早めに会おうよ」
北野は片山に気を遣った。片山はピンチに立たされている。
「そうだな。情報交換したいしな」
片山の声に張りが出てきた。
東京地検特捜部の逮捕後、検事の本格的な取調べに対して、今井はあっさり罪を認めている。
後日、商法違反の公訴事実についての罪状認否で、今井史朗被告人は、あらまし次のように供述している。
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一、朝日中央銀行が長年にわたり抱えていた病巣を、自浄作用により勇気をもって処理し得ず、その結果、部下の役員、行員が刑事訴追を受けるという事態をまねいたうえ、朝日中央銀行に対する社会の信頼を失墜させたことに対して、重大な責任のあることを痛感し、深く反省しております。
二、公訴事実記載の事実関係については間違いありません。ただ小田島敬太郎に対するアサヒリースからの融資については、朝日中央銀行が法的な保証を行なったわけではないので、当時これが犯罪になるとは明確に意識していたわけではありません。この点に関しては、裁判所のご判断を仰ぎたいと考えております。
[#ここで字下げ終わり]
公訴事実についての罪状認否に関する今井の証言に対して、評論家の酒田真は、通信社の求めに応じて次のようなコメントを出した。
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罪状認否で今井前会長が罪を認めたことは、大銀行のトップとして異例のことだ。とかくトカゲの尻尾《しつぽ》切りで終わってしまうことが多い中で、起訴事実を争わなかった同会長の姿勢は評価できる。今井氏はいま、なぜ「しがらみ」「呪縛《じゆばく》」を自らの手で断ち切れなかったかと慙愧《ざんき》の念に堪えないだろう。先輩を庇《かば》っているふしも見受けられるが、今井氏が罪を認めたことによって、この事件が歴代トップの犯罪であったことが立証された。朝日中央銀行は、この事件を機に闇《やみ》の勢力との関係を断ち切る努力をしているが、総会屋に利益供与しているのは、朝日中央銀行だけではない。この事件を他山の石とすることが、銀行業界全体に求められている。
[#ここで字下げ終わり]
今井は平成九年七月十八日、鶴田検事の取調べに対して、供述調書に署名指印した。
[#ここから1字下げ]
職業 無職
氏名 今井史朗
昭和七年三月十五日生(六五歳)
右の者に対する商法違反被疑事件につき、平成九年七月十八日、東京拘置所において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げて取り調べたところ、任意次のとおり供述した。
平成六年九月下旬ころの大蔵省大臣官房金融検査部による検査(いわゆるMOF検)が行なわれていた時に、私は岡田勝久専務と水谷喜之取締役から、朝日中央銀行から小田島敬太郎への融資に関連した報告を受けたことがありましたので、その経緯をお話しします。
平成六年八月下旬から九月下旬にかけて当行ではMOF検が行なわれていましたが、その検査もほぼ終了に近づいた九月下旬ころ、岡田専務と水谷取締役が頭取室の私のもとに、そのMOF検の概況報告に来てくれ、その時に、小田島敬太郎への融資の検査結果についても、簡単に報告してくれました。
水谷取締役からは、まず資産査定の「分類率」、つまり、大蔵省の査定によるところの全貸出金に対する不良債権額の割合が、当行において一応の目処《めど》と考えていたところの一〇パーセントを超えて、一一パーセントに達しそうであること、このように分類率が高くなった理由は、当行がメイン・バンクになっているノンバンクが抱えている不良債権の一部を当行自体の不良債権として査定されるにあたり、プロラタ、つまり当該ノンバンクに貸し出している全銀行について、各貸出債権額に応じてこれを割り振るのではなく、いわゆる母体行主義、つまり、メイン・バンクに重点的に割り振る方法が採られたために、当行がメイン・バンクになっているアサヒリース、朝日中央ファクタリングなどへの融資のうち予想以上に多額の債権が第二分類から第四分類までの査定、つまり不良債権としての査定を受けることになったものであることなどの報告を受けました。
さらに、水谷取締役から、私に対して、やや得意気な表情で、川上多治郎氏の口ききで始めた小田島敬太郎への融資については、大蔵省の検査官から、大きな問題として指摘されることなく済んだ旨の報告がありました。
平成四年十月に、川上氏から久山会長と頭取の私に小田島敬太郎への証券投資資金融資の要望があった時に、小田島敬太郎への融資の返済が滞っていることは、すでに総務から報告を受けていましたが、川上氏の強い要望に抗し切れず、審査、融資、総務の各部門に融資を実行する方向で検討するように指示しました。
私は、その結果、三田ビルディング名義|宛《あて》の迂回融資が開始され、その後、この融資が継続していることも了解していました。
三田ビルディング名義宛融資については、三十数億円が第四分類に査定されたとの報告を受けていたので、平成七年一月ごろ、債権償却手続きを迅速に進めて欲しいと指示しました。
[#ここで字下げ終わり]
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第二十二章 出所祝
1
片山の声が弾んでいた。無理もない。東京拘置所に勾留《こうりゆう》されている中澤前専務から葉書をもらったのだから。
人事部付の片山から、秘書室の北野に電話がかかってきたのは、七月二十二日火曜日の午後三時過ぎのことだ。
「中澤さんから葉書をもらった。どうしようか」
「どうするって」
「忙しいんだろう。読もうか」
「見せてよ。すぐ秘書室に来てもらえるか。いまなら大丈夫だ。応接室で少し話そう」
「いいよ」
雨宮取締役秘書室長は外出していた。中山頭取は接客中だ。
気になってならなかった横井繁子の視線は、もうない。七月二十日付で退職した。
片山は、北野と目が合うなり、偉そうに手招きした。
北野は、笑顔でデスクを離れた。二人ともワイシャツ姿だ。
官製葉書で宛名は、朝日中央銀行人事部・片山昭雄殿。差出人は、中澤正雄で、住所は葛飾《かつしか》区|小菅《こすげ》一ノ三五ノ一のA
「懐かしいなぁ。中澤さんの肉筆に間違いないね」
「冗談よせよ。あったりまえじゃない。俺《おれ》に気を遣ってくれたところが、中澤さんらしいところだよ」
「葉書だから、片山の手元に届くまでに、ACBでも、読んだ人がけっこういるはずだ。堂々としているところが凄《すご》いよなぁ」
北野は文面を黙読した。細かいボールペンの楷書《かいしよ》で、びっしり書き込まれていた。
[#この行1字下げ] 貴君たちに激励会をしていただいてから、早ひと月近くになりました。私は心身共に元気です。ご安心下さい。次々に予期せぬ出来事が発生し、ご心痛ご苦労はいかばかりと案じております。貴君がいま、辛《つら》い立場にあることも承知しています。しかし、逆境が人間を研《みが》くことも事実です。貴君がACBのために、どれほど頑張ったかを知らない人はいません。貴君はいつも俺がやらねば、の意気に燃え、気概に富み、嫌なことにも逃げませんでした。今回の件は論外ですが、ACBには長所も多々あったはずです。いまACBは未曾有《みぞう》の危機に直面していますが、このピンチを切り抜けねばACBの未来はありません。石井君たちの優れたバランス感覚で、ACBのカジ取りをしっかりとお願いします。貴君たちのような後輩に恵まれた私は幸福な男です。出所祝いを楽しみにしています。三君に呉々《くれぐれ》もよろしくお伝え下さい。この部屋で『ハラスのいた日々』を再読しました。人の心の優しさが身に沁《し》み、また涙です。お体をお大切に、ご活躍を祈っています。(7/20)
北野は目頭が熱くなり、しばらく言葉を発せなかった。
片山も泣いていた。
「中澤さんから、葉書をもらった片山がうらやましいよ」
「本来なら石井さんに出すべきなのになぁ。俺はさっき、女房に電話してこの葉書を読んでやった。MOF《モフ》担がどうのこうの言われたり、書かれたりして、女房はナーバスになってるから、うれしかったんだろうなあ。泣いてたよ。絶妙のタイミングで、中澤さんは葉書をくれたわけよ」
片山が右手の甲で涙をぬぐって、せぐりあげた。
「女房孝行ができたな」
「うん」
「石井さんと、松原さんには、見せたのか」
「ううん。北野だけで、いいだろう」
「なにを、莫迦《ばか》な」
「石井さんにやっかまれないかねぇ」
「石井さんはそんな人じゃないよ。松原さんも然《しか》りだ」
二人の声が少し落ち着いてきた。
「頭取にも読んでもらおう」
北野の涙腺《るいせん》がまたゆるんだ。
ふと、久山の温顔を目に浮かべてしまったからだ。
「鬼の目にも涙だな」と北野は片山を茶化したが、『ハラスのいた日々』=中野孝次著・文春文庫=を押しつけられた一人でもある。
北野も胸を熱くした記憶があった。
[#この行1字下げ] 一匹の柴犬《しばいぬ》が、子のない夫婦のもとにやってきた。家に連れてこられたその日から、抱かれて冷たくなったあの日まで、もうひとりの家族≠ニした十三年の歳月をえがき、愛することのよろこびを、小さな生きものに教えられる≪新田次郎文学賞≫に輝く愛犬物語。――ハラスはいまも、私たちの心に生きている。
文庫のカバーの惹句《じやつく》だが、勾留《こうりゆう》中に再読して、涙|滂沱《ぼうだ》した中澤の姿を目に浮かべて、北野は片山を揶揄《やゆ》したことを後悔した。
中澤から北野の自宅に電話がかかったのは七月二十二日の夜十時過ぎだ。
「やっと出所しましたよ」
「えっ、いつですか」
「おとといです」
「きょう片山から葉書を見せてもらいましたが、七月二十日とありましたけど。住所も、小菅になってましたが」
「保釈されたことをおおっぴらにするのが、気恥ずかしくてねぇ」
そんなはずはない。たしか、消印もKATSUSHIKA≠ノなっていた。
東久留米《ひがしくるめ》の自宅にせずに、わざわざ東京拘置所の住所を記し、拘置所近くのポストに葉書を投函《とうかん》したのは、片山に対する励ましといたわりのメッセージであることを中澤は強調したかったからに相違なかった。
中澤の思い遣《や》りの深さ、心のあたたかさに北野は身がふるえるほど感動した。
「片山が大変よろこんでました。さっそく、わたしに見せびらかしに、やってきましたよ」
「ふうーん。そうなると、石井君も、松原君も、読まされた口かな。きみのあと、石井君と松原君にも電話をかけますが、片山君がよろこぶような内容でしたかねぇ」
「『ハラスのいた日々』をわたしも、再読しようと思ってます」
「片山君に文庫本をもらったのは、一年ぐらい前でしたかねぇ」
「中澤さんが、企画本部長を委嘱《いしよく》されたときですから、もう少し前かもしれませんね」
「ところで、出所祝いをさっそく催促しようと思って、きみに電話したんですよ」
「はい。心身共にお元気とありましたが、暑い時期のゴルフでよろしいんですか」
「わたしは鳥取の山猿です。 きみなんかと鍛え方が違いますから、暑かろうが寒かろうが関係ないですよ。早いほどベターです。きみたちの顔が早く見たいしねぇ」
「ありがとうございます。石井さんと相談して、可及的速やかに出所祝いをやらせていただきます」
「この騒ぎで、みんなゴルフどころではなかったと思うが、憂さ晴らしに、こんどの土曜か日曜にさっそくどうですか」
「承知しました。わたしは大丈夫です。どこのコースにするかわたしにおまかせいただいて、よろしいでしょうか」
「もちろん、けっこうです。目立たないところなんて考えずに、名門コースで堂々とやりましょう」
「いま、ふと思ったのですが、東松山でもよろしいですか。暑いですけど、中澤さんのお宅から近いので」
「東松山、いいじゃないですか。素晴らしいコースですよ」
「それと、中澤さんをピックアップさせてください」
「ご心配なく。自分の車で行きますよ」
「そうおっしゃらずにお願いします。中澤さんに聞いていただきたいこともあります。ぜひとも、わたしに運転手をやらせてください。お願いします」
「それじゃ、お言葉に甘えましょうか」
「ありがとうございます」
これで、もう決まったようなものだ。石井も片山もなにはさて措《お》いても出所祝いのゴルフに参加するはずだ。
松原をどうするか。松原はゴルフが苦手だった。
2
七月二十七日日曜日の早朝、東京地方は曇空だった。
北野は朝六時前にブルーバード≠ナ|保土ヶ谷《ほどがや》・桜ヶ丘のマンションから、東久留米《ひがしくるめ》市の中澤宅に向かった。
北野の運転歴は約二十年だが、無事故、無違反である。けっこう飛ばすほうだが、スピード違反で白バイに捕まったことはなかった。運が良いとしか言いようがない。
ブルーバード≠ヘ約一時間で東久留米市の中澤宅に着いた。
築十数年、三十坪ほどの二階屋で、猫のひたいと言われても仕方がない庭もあるが、敷地は三十数坪だろうか。
中澤夫人は飾り気のない気さくな人だった。
「おはようございます」
「おはようございます。主人はわざわざお迎えに来ていただくには及ばないのにって、申してましたよ。自分で運転するのが好きなんですよ」
「しかし、東松山までの通り道ですから」
「おはよう」
中澤が半袖《はんそで》のスポーツウェア姿で、玄関から出てきた。キャディバッグは北野がトランクに積み込んだ。
「おはようございます。暑くなりそうですねぇ」
「照りつけられるよりは、いいですよ。北野君に運転手をしてもらうなんて、申し訳ないなぁ」
「いろいろ内緒話もしたいんです。それに、助手席に話し相手がいないのは眠くなったときに辛《つら》いですから」
「わたしに運転させてもらいましょうか」
「とんでもない。専務≠ノはナビゲーターをお願いします」
「東松山は、何度も行ってるから、その点はおまかせいただこう」
「行ってきます」
「気をつけて」
中澤は夫人に軽く手を挙げただけだ。
ブルーバード≠ェ発進してから、助手席の中澤が言った。
「北野君、専務≠ヘ困るなぁ」
「どうも」
「昨夜、岡田さんと話したんだが、二人とも検察に自宅まで家宅捜索されて、マスコミにさんざん叩《たた》かれたでしょう。俗に言う臭いめしを食う羽目にもなった。勾留中に、岡田夫人にも女房にも、知人、友人からもらう電話や手紙は『あなたのご主人は絶対に悪いことはしていない』という内容ばかりだったらしい。それならなぜ、逮捕されたり、希代の悪人みたいに、叩かれたりするのかわからない、相手は慰めてくれてるつもりなんだろうが、逆に、それが辛くて悲しくて、やりきれなかったって、女房同士で話したらしいが、留守をあずかる二人の意見が一致して、二人ともそれがいちばん励みになったというから、変な話ですよねぇ」
「しかし、奥さまたちのお気持ちもわかるような気がします。検察に対する不信感というか、検察ファッショを憎むお気持ちなんじゃないでしょうか」
北野は、前方とバックミラーに神経を集中させながら、話をつづけた。
「事件の真相、事件の根っこはなんなのか、それを知りたい、という思いも強いんじゃないでしょうか。勾留されたかたがたよりも、家族のかたがたのほうがよっぽど辛いし切ないと思うんです。それと岡田さんも中澤さんも、本音といいますか、心の底の底では、逮捕、勾留される覚えはない、と思っていらっしゃったんじゃないでしょうか」
中澤は微笑を洩《も》らしたが、返事をしなかった。
岡田は、中澤より十日ほど早く保釈された。
保釈金は二人とも一千五百万円、意外というべきか、銀行からの借入金で調達したという。
「中澤さんは裁判で争うおつもりですか」
「わたしは、罪を認めるつもりです。最高刑でも懲役九カ月でしょう」
「そんなに重いんでしょうか。五カ月か六カ月、執行猶予付きは当然ですが。われわれミドルクラスの中には、最高裁まで争うべきだし、ACBはバックアップすべきだとする意見もありますが」
「それにかかるエネルギーなりコストなりを考えると、合理性はないような気がしますけどねぇ。月四十万円からの経費がかかるそうですから」
中澤が首を左右に振ったが、北野は気付かなかった。
ブルーバード≠ェ、所沢ICから関越《かんえつ》自動車道に入った。時刻は七時二十分。
東松山カントリークラブは、北野の大学時代のゼミの先輩がメンバーで、北野も何度かプレーしていた。メンバーの紹介で、ビジターだけでも日曜日にプレーができるのはありがたかった。
その名のとおり松の木ばっかりで、ほかの木は一本もなかったような印象さえある。変化のあるコースのレイアウトも素晴らしかった。
一度だけ腕に自信があるのか、教え魔のキャディが付いて、不快感をもった記憶もあるが、総じてキャディの躾《しつけ》も行き届いていた。
最も印象に残っているのは、食事の美味《おい》しさと割安感である。
松原にも一応は声をかけたが、よんどころなき所用で来られなかった。
石井と片山は、電車で来ることになっている。
関越自動車道はすいていた。
「佐々木最高顧問がお辞めになることはご存じでしょうか」
北野が本題を切り出した。
「聞いてます。千久に迎えられるそうですが、中山君はきみの慰留に期待してるような口ぶりでしたが」
「頭取と話されたんですか」
「もちろん。要路には電話で出所の挨拶《あいさつ》をしましたよ」
「…………」
「それで慰留のほうはどうなってるの」
「中澤さんですから、つつみ隠さずすべて話をさせていただきますが、わたしは慰留するつもりはまったくありません」
ハンドルを握っている北野は前方に目を凝らしていた。その横顔が尖《とが》っているのを中澤は不思議に思った。
「中山君の言っていることにも一理あると思うけどねえ」
「はい。しかし、頭取の人質論≠ヘおかしいですよ。意味があるとは思えません。佐々木が千久に行こうが行くまいが、所詮《しよせん》千久≠ノ取り込まれてるわけですから、実質的にはなにも変わらないんじゃないでしょうか」
「おっしゃるとおりかもしれない。中山君も心理的な圧迫感のほうが強いような口ぶりだった。しかし、このプレッシャーは莫迦《ばか》にできないからねぇ」
「前専務の池田さんが千久フロントの社長ですし、ACBからの出向社員も千久グループ全体で相当いるんですよ。佐々木の爺《じい》さんなんてカウントするほうがそもそもおかしいんです。あの人は、久山さんのお陰で司直の手にかからず、のうのうとしてますが……」
北野は、久山を思い出して目頭の熱くなるのを覚えたが、佐々木の顔を目に浮かべることによって、制御できた。
「佐々木の爺さんをACB本館から追放することが、ACBマンのモラールアップ、モラルアップのために必要不可欠なんです。千久に行きたいんなら、勝手に行かせたらいいじゃないですか」
「過激なんだねぇ。しかし、奥さんの気持ちはどうなの」
北野の険しい横顔を見ている中澤の表情がくもった。
「これ以上、ACBマンの恨み、辛みを買いたくない、庭いじりでもしてればいいと思ってますよ」
「奥さんと話したの。話してないんでしょ」
「話しました。わたしの意見に賛成です」
遺書≠フこと、手紙の件を承知しているのは、北野自身と今日子だけだ。自分の不注意から、今日子に親書の秘密≠犯されたことは幸いだった、と北野は思う。
「そうなの。しかし、千久≠フ呪縛《じゆばく》は解けないかもねぇ。佐々木さんは運命共同体と強調したらしいが、わたしもちょっと悲観的になってきてますよ」
北野が一瞬、中澤に向けた咎《とが》める目を、中澤はやさしく見返したが、北野にはわからなかった。
「ACBは千久≠ノ対して、貸しもあれば借りもあるが、どっちかと言えば、旧A≠フ作った借りのほうが多いとも言えるから、運命共同体論には説得力があるんじゃないかなぁ」
「中澤専務のお言葉とも思えません」
北野が意識して、中澤専務と呼んだのは、皮肉を込めたからだ。中澤も、それに気付いていた。
「ACBにとって千久¢ホ策が厄介な問題であることはたしかだが、都銀に限らず銀行が、どこもかしこも抱えてる問題なんじゃないかねぇ。問題は度合いのいかんで千久≠ョらいは、軽いほうかもしれない」
「中澤さんはかつて、ACBにとって最大の経営課題とおっしゃいましたが」
「その認識はいまも変わりません。ただ、長いつきあい、もたれあいだから、一挙には片づかない。中山君、石井君と電話で長っ話をして、そんな気がしました」
「千久≠ェACBに対して仙台に建設中の高層マンションの販売を強要してきたことをご存じですか」
「知らんなぁ。ごく最近の話ですか」
「ええ。極秘情報で、多分、石井企画部長も結論はご存じないと思います。仙台支店の社宅用に二十五戸買うことが決まったそうです。陣内副頭取と森田専務が、審査部門、営業部門を猛烈に根回ししたそうですよ。一〇〇平方メートル以上の高級マンションを社宅にする若手行員にとっては、悪くない話かもしれませんけど、分不相応とも言えますし、どっちにしても、いかがなものかと思いますよ。千久≠ヘ百戸買えとふっかけてきたそうです。言い値の四分の一に値切ったっていうのが、佐々木・池田・陣内・森田グループの言い訳なんでしょうけど、笑わせるなって言いたいですよ」
「誰の情報」
「それはちょっと」
いくら中澤でも仙台支店の行員が、ご注進に及んだことを明かすわけにはいかない。
「頭取は決裁したのかねぇ」
「そう思います。わたしは意見を求められたわけではありませんが……」
「頭取と秘書役は一体でなければいけない。石井君も心配してたが、きみは言い募るほうらしいねぇ」
「そんなことまで」
北野がアクセントを強めた言い方をして、険のある横目をちらっと中澤に流した。
中澤が苦笑を洩《も》らした。
「誤解しないでください。石井君は、ほんとうにきみのことを心配してるんですよ。ものは言いようでしょう。石井君も、わたしにそのことを言いたかったんじゃないかねぇ」
「中澤さんにお願いがあります。千久≠フことで、頭取に意見を言える人がいるとすれば、中澤さん以外にいらっしゃらないと思います。マンションの二十五戸ぐらいで済むんでしたら、さしたる問題ではないと思いますが、千久≠フ要求は、さらにエスカレートしてくるような気がしてなりません。反社会的勢力ではないのですから、ACBは千久≠ニ絶縁するわけにはいかないでしょうが、常識的な取引関係というか正常化する方向を目指すべきなんじゃないでしょうか。森田専務のことにしても、わたしのことにしても、人事にまで介入するなんて、もってのほかです。論外なんじゃないでしょうか」
中澤の視線を左頬《ひだりほお》に感じながら、これも言い募っていることになるのだろうか、と北野は気を回した。
「きみの言ってることは、いちいちもっともで、反論の余地はない。わたしが中山君に意見がましいことを言える立場にあるとは思えないが……」
「どうしてですか」
北野は、中澤の言葉をさえぎって、声高につづけた。
「中澤さんは、新執行部の生みの親ですよ」
「それはきみたちだよ。わたしは、それに乗っただけです」
「違います。それは逆ですよ。中澤さんの後盾があったからこそ、クーデターまがいのことができたんです。始めに総辞職≠りきでした」
「北野君、わたしは刑事被告人の身ですよ。まずそのことを忘れないでください」
「冤罪《えんざい》ですよ」
「そんなことより、わたしは、きみのことを心配してるんです。中山君は、ナーバスになってる。かれの置かれている立場を考えれば、身の細る思いをしてるでしょう。いま、わたしがなにか口出しすれば、きみがわたしに告げ口したと取られても仕方がないと思うが」
ブルーバード≠ヘ、関越自動車道の東松山ICに差しかかっていた。あと十分ほどでコースに着く。
「わたしが中澤さんに告げ口したと、頭取に取られても、いっこうにかまいませんが」
「無理にうとまれることもないでしょう。しかし、きみがそこまで言うんなら、ちょっと考えてみますよ。石井君の意見は聞いたんですか」
「いいえ。石井さんのバランス感覚は認めますが、千久¢ホ策は、力仕事です。中澤さんのお力におすがりするしかないんです」
「そんなに買い被《かぶ》られてもねぇ」
中澤は窓外に向けていた目を北野のほうへ戻した。
「中山君に会って話してみます。千久≠フことは気になってたことだし、どういうことになってるのか聞くくらいで、きみに累が及ぶことはないでしょう。わたしの考え過ぎもあるかなぁ」
「ありがとうございます。くれぐれもよろしくお願いします」
ブルーバード≠ェ東松山カントリークラブの構内に入った。
「千久*竭閧ヘとりあえず忘れるように。きょうは気分転換、憂さ晴らしのためにゴルフをするんだからね」
中澤は笑いながら、北野の肩を軽く叩《たた》いた。
3
時刻は午前七時五十分。九時六分東コースのスタートを取っていた。
石井と片山はすでに来ていた。四人ともダイニングルームで、モーニングサービスの朝食を摂《と》った。
トースト、茹卵《ゆでたまご》、ミニサラダ、コーヒーのセットで五百円。
「東松山へ来て、いつもながら思うことは、食堂が良心的というか、割安なことですねぇ」
石井が北野に応じた。
「カレーライスが二千円以上なんていうコースはけっこう多いけど、たしかここは五百円じゃなかったかな」
「昼食の東松山弁当がたのしみですよ」
「北野はなにしに来たのかわからんじゃないか。ゴルフは二の次で、東松山弁当を食べに来たのか」
「それは言い過ぎですよ。プレーをしているときはプレーに集中します。食事をしてるときは、食事に集中するんですよ」
北野と石井のやりとりをにやにやしながら聞いていた中澤が、珍しく寡黙がちな片山に目を遣《や》った。
「元気がないですねぇ。躰《からだ》の具合でも悪いの」
片山はちょっともじもじした。
「実は、きょう三時に検察から出頭を命じられてます。きのうのうちにわかってたんですが、ハーフだけでもと思いまして」
「ふうーん。日曜日なのにねぇ」
「検察は土曜も日曜もありませんよ。中澤さんは、よくご存じと思いますが」
「まあねぇ。呼ばれてるのは、きみだけ」
「いいえ。森田専務も、呼ばれてます。MOF関係だと思います。森田さんは企画部長でしたから」
石井が話に割り込んだ。
「だとしたら、わたしも呼び出されるはずだけど、専従班≠ゥらなんにも言われてないよ。副部長だったわたしも、MOFと無関係ではあり得ないが」
「そのうち、呼ばれますよ。しかし、検察のターゲットはMOF担だったわたしです。こうなると陣内副頭取が触れ回ってるわたしの逮捕はいよいよ現実味を帯びてきました」
片山の声はくぐもっていた。
石井が、向かい側の中澤のほうへ上体を寄せて、声をひそめた。
「陣内さんが触れ回ってるはオーバーですが、中澤さんは、どう思われますか」
中澤もトレーを横にどけて、石井のほうへ上体を近づけた。
「東京地検特捜部のターゲットがACBから大蔵省の過剰接待問題と、MOF検の目こぼしに移っていきそうな雰囲気は、わたしも感じてました」
中澤は水を飲んで、いっそう声をひそめた。
「わたしは、片山君の逮捕はないと思いますよ。だって、そうでしょう。ACBのMOF担だけ逮捕して、他行のMOF担はお咎《とが》めなしなんて、おかしいでしょ」
中澤は、落ち込んでいる片山を励ましているのだ。片山の逮捕はあり得る、と思っているに相違ないと北野は思った。そうでなければ、東京拘置所の住所から、片山に宛《あ》ててあんな葉書を出すはずがない。
モーニングサービスの食事は終わったが、コーヒーを飲みながら、四人はひそひそ話をつづけていた。
「石井君はどういう意見ですか」
こんどは中澤が質問した。
「わたしは片山を前にしてなんですが、ACBは検察に狙《ねら》われてる銀行です。現実に強制捜査も入りました。じゃあ、他行はどうなの、と言いたくなりますが、顧問弁護士と上層部の判断ミスで検察に踏み込まれ、資料という資料はあらかた押収されてしまった現実から、目をそむけることはできないと思います。先日も中澤さんと電話で長話をしたときに申し上げましたが、陣内情報を無視できないような気もしてるんですが」
中澤が苦笑を洩らした。
「トップを含めて七人も逮捕者が出ていることでもあるしねぇ。現に目の前に刑事被告人が座ってるわけですよ。わたしは楽観的過ぎますかねぇ。そうとも思えないんだが」
北野がつぶやくように言った。
「島中―谷田事件との整合性はどうなるんでしょうか。一事不再理の原則からいっても、特捜部が片山を逮捕できるんでしょうか。逮捕するとしたら、贈収賄ですよねぇ。大蔵省の高官や検査官も、捕まえなければならなくなりますけど」
島中―谷田事件とは、平成七年(一九九五年)に旧東都共和信用組合の背任事件に絡んで、当時大蔵省主計局次長の島中佳夫と東京税関長の谷田明広が、高川則治同信組理事長から高級料亭や海外旅行などの過剰接待を受けていたことが発覚した問題を指している。
二人の大蔵省高官は、マスコミにも厳しく指弾された。とくに島中の場合は、暴力団がらみの問題も指摘されていたほか、金融業者から一億何千万円もの資金提供を受けていたことが、明るみに出た。両高官は辞職に追い込まれたものの、職務権限がない、とされ、検察は逮捕しなかった。
明らかに甘い判断と言わざるを得ない。
「北野にそんなふうに言われると少し元気が出てくるけど、わたしに対する検察の事情聴取は相当なもので、まるで容疑者扱いだからねぇ。ACBでも人事部の簡易応接室みたいな部屋に閉じ込められてるが……」
「ちょっと覗《のぞ》いたけど、大きな図表が壁に張ってあったねぇ。縦にMOFの接待者名、横が時系列だったか……」
石井が真顔でつづけた。
「MOFの検査官の接待を含めて、言い逃れできない面はあるにしても、わたしも逮捕はないと信じたい。なるほど一事不再理の原則ねぇ」
「島中、谷田を捕まえてから、いらっしゃいって特捜部に言いたいですよ」
冗談まじりにしては、北野の表情も硬かった。
中澤が三人に笑いかけた。
「きょうは、どういう集《つど》いなんですか。わたしの出所祝いじゃなかったんですか」
「おっしゃるとおりです。申し訳ありません」
片山は起立して、頭を下げた。
北野が時計を見た。
午前八時五十分。スタートまで、あと十六分しかない。北野は腰を浮かした。
「そろそろ行かないと。パッティングの練習ぐらいやりましょうよ」
「そりゃあそうだ。ハーフしかできない片山も、少しは気分転換しないとねぇ。ゴルフに集中しよう」
「来るべきかどうか迷ったんですけど」
片山が石井に答えながら、テーブルを離れた。
「どんなゴルフになるのか見ものだな。強心臓ぶりを発揮してもらいたいねぇ」
北野が、片山の肩を叩《たた》いて、歩きながら、つづけた。
「東松山弁当は食べていくんだろう」
「もちろん。生ビールも飲むさ。そんなにいじけてないから安心してくれ」
「その意気、その意気」
「ありがとうございました。行ってらっしゃいませ」
食堂の女性従業員の態度も、丁寧で気持ちがよかった。
四人が、東松山カントリークラブ・東コース一番ホールのティグラウンド付近に集まったのは、九時五分前だった。
食堂で話し込んでしまったお陰で、パッティングの練習もできなかった。
打順で一番くじを引いたのは片山だった。中澤、北野、石井の順である。ハンディは片山15、中澤17、北野19、石井27。片山と中澤はオフィシャルだが、北野と石井はプライベートハンディだ。
片山が、左目を眇《すが》めて北野に言った。
「参ったなぁ。二カ月以上コースに出てないし、精神的に参ってる俺《おれ》がオナーとはねぇ」
「二カ月コースに出てないのはお互いさまだ。片山は運が強いんだよ。ハーフで帰る片山にせめて一回だけオナーをやらせてやろうっていう神様のおぼしめしだろう」
グリーンに向かって右の松林はOBラインが近い。ミドルホールで、距離はレギュラーティから四三一ヤード。
「左土手の裾《すそ》を目指してください」
キャディの指示も左狙《ひだりねら》いだった。片山は一度、素振りをしただけで、スイングした。
「ナイスショット」
「グッド!」
見事にフェアウェーをキープし、距離も二二〇ヤードは出ている。
「片山君の心臓はどうなってるのかねぇ。大スライスでOBか、チョロじゃないかと心配したが」
中澤は冗談ともつかずに言ったが、内心はホッとしたのだろう。頬《ほお》がゆるんでいた。
中澤が飛ばし屋なことは、三人とも知っていた。中澤は片山のナイスショットで、ちょっと力が入ったのか、ダフリ気味で、左のラフだった。距離は二〇〇ヤード足らず。
北野はスプーン(三番ウッド)を持ってティグラウンドに立った。
左の土手を狙ったつもりだったが、アウトサイドインのスイングだったのだろう。
スライスが出て、右の松林に打ち込んだ。一八〇ヤードと距離も出なかった。
「OBですか」
「セーフです。そんなに深く入ってませんから大丈夫ですよ」
二十三、四の若いキャディは、言葉遣いも丁寧で、好感がもてた。
石井はティより二十センチも手前の地面を叩くひどいダフリで、チョロ。五〇ヤードも飛んでいない。むろんラフだ。
「石井君、まだチョロチョロやってるんですか」
中澤に冷やかされて、石井はむすっとした顔で、言い返した。
「片山や北野のことが心配で心配で。ゴルフどころじゃありませんから」
「そう言わずに、ゴルフに集中してくださいよ。五番アイアンで、力まずに、軽く振り抜いたらいいでしょう」
石井の二打目はナイスリカバリーだった。
北野の二打目は、七番アイアンで松林から真横に出すだけだった。片山は三番アイアンで二打目をグリーンエッジまで運んだ。
中澤も残り一〇〇ヤードの三打目がグリーンをとらえた。
キャラウェイ≠フヘブンウッド(七番)による北野の三打目はバンカーにつかまった。
バンカーショットはうまく寄せたが、日曜日で、グリーンが高麗芝《こうらいしば》だったため、パッティングは難しく、4オン2パットでスコアはダブルボギーの6。
片山はパーで4。中澤はボギーで5。石井はダブルボギーの6。
二番ホールに向かいながら、北野が肘《ひじ》で片山を小突いた。
「プレッシャーに強い片山は、なにを言われても動じないねぇ。オナーは全部、きみにまかせると、訂正するよ」
「北野のハンディ19は、ヘビーなんじゃないの。ハンディを石井さんと同じ27に訂正したほうが、いいんじゃないのか」
「石井さんとスクラッチ。冗談じゃない。プライドが許さんよ」
「北野、聞こえたぞ。チョロの石井≠セって言いたいんだな」
「そんなひどいことを言うのは、中澤さんだけです。思っても、言いませんよ」
「口の減らないやつだ」
石井の笑顔は変わらなかった。
「まだ始まったばかりじゃないの。片山君のパーは見事だし、石井君のダブルボギーも立派でしたよ」
二番ホールのショートホール(一三五ヤード)は、左の深いバンカーにぶち込むと厳しい。
片山、中澤はワンオン。石井は右側バンカー。北野はグリーンエッジ。スコアは片山がスリーパットでボギーの4。中澤はパーの3。
石井はバンカーで一打しくじって、3オン、2パットで5。北野は2オン、2パットで4。
ハーフ(九ホール)終わって、スコアを数えると片山44、中澤47、北野49、石井54。
ロッカールームで、シャツを着替えながら、中澤が笑顔で言った。
「暑い時期のタフなコースにしては、三人とも心身ともにタフにできてますねぇ。ACBは安泰ですよ」
「一番タフなのは中澤さんですよ」
北野に、中澤が笑いかけた。
「ひと月も勾留《こうりゆう》されたわりにはねぇ」
「そういう意味では……」
「なにを言われても動じないから、心配しなくてけっこう」
北野と中澤はロッカーが並んでいた。石井と片山もすぐ近くだ。
北野はバッグから携帯電話を取り出した。
松原からメッセージが入っていた。
「折り返し、自宅か携帯≠ノ電話をください」
食堂の入り口に携帯電話の使用は、ほかのお客様に迷惑をかけますので、ご遠慮ください≠フ貼紙《はりがみ》があったのを思い出して、北野は携帯≠バッグにしまい、手帳をズボンのポケットに忍ばせた。そして片山に近づいた。
「松原さんから携帯≠ノメッセージが入ってた。電話をかけてくるから、東松山弁当≠オーダーしといてくれ」
「わかった。松原さん、なんだろうか」
「見当がつかないが、急ぎの用なんだろうな」
一階ロビーの公衆電話から、松原の自宅を呼び出すと、すぐに松原が出てきた。
「北野です。いまハーフ終わったところなんですが……」
「ハーフで切り上げるわけにはいかんだろうなぁ」
「なにかあったんですか」
「SELECTION≠ェACBと千久≠フ関係を書くらしいんだ。おととい金曜日の夜に編集長が頭取会見を申し込んできたが、頭取は、単独インタビューは自粛中だと断ったら、どっちみち書きますよ、ときた」
SELECTION≠ヘ、パワーのある総合誌である。
「頭取に話したんですか」
「いや、まだだ。しかし、とつおいつ考えてみたんだが、頭取の耳に入れておいたほうがいいかねぇ。それで、北野と相談したかったんだ」
それなら、なぜ、きのう電話をかけてくれなかったのか。松原が迷いに迷い、悩みに悩んだことは察せられるが、東松山カントリークラブでプレーしていることを承知で、携帯≠ノメッセージを入れておくとは、センスを疑いたくなる。しかも、中澤の出所祝いではないか。
「どっちみち書かれるんなら、放っといたらいいですよ」
「しかし、あとでごちゃごちゃ言われるのはかなわんからねぇ。頭取よりも、陣内副頭取のほうがうるさく言うかもしれない。とにかく、北野も知恵を出してくれよ」
「知恵なんかないですよ。それとハーフで上がるわけにはいきません。片山がハーフで、帰るんです。三時に検察に呼ばれてるんですって」
「ええっ! 片山はそんなことになってるのか」
松原が素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を発した。
「中澤さんと石井部長の二人だけにするのは忍びないですよ」
「そりゃそうだ。新宿あたりのホテルで会うとしたら、何時ごろになるかねぇ」
北野は時計を見た。午前十一時四十分。午後のスタートは十二時二十六分。ラウンドの所要時間を二時間三十分とすれば、午後三時に終わる。ひと風呂《ふろ》浴びて、食堂で三十分。三時半にはゴルフ場を出られる。
中澤を自宅へ送り届けて……。
「六時には着けると思いますが、お会いする意味はないと思いますけどねぇ」
「つれないことを言うなよ」
「わかりました。六時にどこで」
「携帯≠ノメッセージを入れておく。ありがとう」
電話が切れた。
4
北野が食堂へ行くと、三人は中ジョッキの生ビールを飲んでいた。
東松山弁当が三つテーブルに並び、北野の分は蓋《ふた》があけられてなかった。
石井だけがミックスサンドと盛合せサラダ。各五百円とは、なんとも割安感を満足させてくれる。
石井がハムサンドをビールと一緒に喉《のど》へ送り込んだ。
「松原、なんだって」
「たいしたことじゃありません」
食堂で千久≠話題にするのはやめようと、北野は肚《はら》を決めていた。
「それにしちゃあ、長い電話だったねぇ」
「そんなことより、生ビールを……」
北野は女性従業員のほうへ右手を挙げた。
中年の女性が近づいてきた。
「生ビールをお願いします」
「中と小とございますが」
「中をお願いします」
「わたしにもう一杯お願いします」
片山が中身の少なくなったジョッキを持ち上げた。
「そんなに飲んで大丈夫か。検事の心証を悪くするんじゃないかと心配だよ」
「北野、心配ないよ。これ以上、心証は悪くならないから」
「と、いうことは、もう救い難いっていうわけだな」
「せっかくの東松山弁当が不味《まず》くなるから、やめようや」
北野も、東松山弁当に気持ちを集中させた。
鮪《まぐろ》とえびの刺身。ムツの照り焼き。卵焼き、カニときゅうりの酢の物。大きなあんずもある。蓮根、しいたけ、にんじん、ごぼう、こんにゃく、とり肉の筑前煮《ちくぜんに》。そして、わかめの味噌汁とごまをかけたご飯にたくあんの漬物。北野は、思わずにんまりしてしまった。
「やっと東松山弁当にありつけて、ご機嫌ですね。わたしもご機嫌ですけど」
中澤は、北野の表情を観察していたとみえる。
「わたしもご機嫌ですよ」
片山は、わざとらしく、ぶっきらぼうなもの言いだった。
中ジョッキが二つ運ばれてきた。
「あらためて乾杯しましょう」
石井がジョッキを目の高さに掲げた。
「中澤さんのご健康とご出所を祝して乾杯!」
「ありがとう。きみたちのご恩は忘れません」
生ビールをぐっとやりながら、北野は胸が熱くなった。石井も片山も、そうだった。
しめっぽくなった雰囲気を中澤が変えた。
「片山君は、ゴルフが強いなぁ。プレッシャーなんて、ないのかなぁ」
「この調子だと、あとのハーフを続ければ、久しぶりに30台が出るような気がします。検察もどうかと思いますよ。日曜日に呼び出すとは……」
「片山っていうやつは、どこまで図々《ずうずう》しくできてるんだ。44はでき過ぎだよ」
「なにを言うか。北野こそ40台は久方ぶりなんだろう」
「口の減らないやつだ。おまえのハンディ19はヘビーだとか減らず口をたたいてたが、これからは終身スクラッチでいこう」
「無理するなって。誇りを取るか、実を取るかの問題だけど、北野とスクラッチじゃ、わたしが可哀相《かわいそう》なんじゃないか」
「片山は、こともあろうに北野とわたしがスクラッチでちょうどいいみたいなことを言ってたが、ここまで侮辱されたら、北野が怒るよなぁ」
石井に顔を覗《のぞ》き込まれて、北野は強くうなずいた。
「おっしゃるとおりです。遠からず、片山にゴルフで落としまえをつけさせてもらいます」
四人に笑顔が戻った。
東松山弁当の美味《おい》しさは、格別だった。北野はとくに筑前煮が気に入っていた。
片山が二杯目のジョッキをあけて、三杯目をオーダーした。
「ちょっとそこまではどうかねぇ。やり過ぎなんじゃないか」
石井がひたいにしわを刻んで、首をひねった。
「ご心配なく。ちょっと時間がありますから、ここのサウナに入ってゆきます。汗とおしっこになっちゃいますよ」
片山がアルコールに強い体質であることはわかっていたが、北野も、片山が自暴自棄になっているような気がして、少し心配になった。
東松山カントリークラブの中コースも、変化に富んでいる。林間コースにしては、フェアウェーも平坦《へいたん》ではなく、微妙なアンジュレーションがあった。
名物ホールの五番のロングホールで、北野は二打目を左の松林を越えて、隣接コースのラフに打ち込んでしまった。それがロストボールになって、9の大叩《おおたた》きが響いたのと、4パットが一度あって、53とスコアを乱した。
中澤45、石井52。東コースよりスコアを縮めた中澤も石井もうれしそうだった。
ひと風呂浴びる前に、北野は携帯電話≠フメッセージを確認した。松原から二度メッセージが入っていた。
「松原です。六時に、新宿西口のパークタワービル四十階の梢《こずえ》≠ニいう店でお待ちします。都庁に近く、甲州街道沿いの高層ビルです。電話は五三××―一二××です。よろしく」
「松原です。できたら、石井にも声をかけてください。中澤さんに、くれぐれもよろしくお伝え願います」
北野は、風呂から上がって、中澤と石井が冷やっこを肴《さかな》に旨そうに生ビールを飲んでいるのを尻目《しりめ》に、ノンアルコールビールで我慢した。生ビールの一杯ぐらい、どうってことはないが、中澤を送り届けるのだから、自粛して当然だ。石井に、松原の伝言を話すべきかどうか悩むところだが、黙っている手はない。
「実は、松原さんから携帯≠ノメッセージが入ってたんですが……」
北野の話を聞いて、二人とも眉《まゆ》をひそめた。
「OBで千久≠フことを心配してるのがけっこう多いんでしょうねぇ。特に旧A≠ヘ千久≠ノすり寄らなかったがために、上に行けなかった人の怨念《おんねん》があると思いますよ」
「中澤さんのおっしゃるとおりかもしれませんが、佐々木最高顧問のほうに、より問題があったと思いますけど」
「北野、よせ」
石井は右手を左右に振ってから、向かい側の中澤をまっすぐとらえた。
「リークしたがる人は、ACBの現役にだっているかもしれません。先日も電話で話しましたが、千久≠フ呪縛《じゆばく》は複雑怪奇で、ほぐしようがないというか、手の打ちようがないのが現実です。なんとか不拡大策を採りたいと、頭取も頑張ってるんですけどねぇ」
仙台のマンション二十五戸購入の事実を石井に話すべきかどうか、耳たぶに行きそうな左手で、ノンアルコールビールのグラスをつかみながら、北野は思案した。
「不拡大策も難しいんじゃないですか。仙台の高層マンションを仙台支店の社宅用に二十五戸も購入することになった、という情報もありますからねぇ」
中澤は、ちらっとも北野に目を流さなかった。
「ほんとうですか。わたしは聞いてませんけど」
「ソースは言えないが、たしかな筋からの情報です。わたしに聞こえてきて、石井君が初耳っていうのも、おかしな話だが。それよりSELECTION≠フことをどうするか考えなければ……」
石井が腕組みして、下唇を噛《か》んだ。
北野は、右のほうへ首をねじった。
「中澤さんもご存じと思いますけど、SELECTION≠ヘ、新聞記者が高い稿料でアルバイト原稿を書く媒体として知られてますが、どっちみち書くっていうものを抑えられるはずがありません。頭取が編集長に会っても、意味はないと思いますが」
「そうかもしれないが、気が気じゃない松原の気持ちもわかるよ。わたしもつきあおう」
中澤が、石井のほうへ上体を寄せた。
「わたしは遠慮します。刑事被告人の身ですから」
「はい」
石井の表情がゆるんだ。
「松原さんが、中澤さんにくれぐれもよろしくお伝えくださいって言ってました」
「松原君にも会いたかったが、よろしく言ってください。彼は石井君以上にゴルフが不得手だし、この時期の広報部長は、それこそゴルフどころじゃないかもねぇ」
「ACBマンは、みんなそうですよ」
「でも、石井部長は、きょうのゴルフで自信を深めたんじゃないですか」
「うん。北野とスクラッチも夢じゃないかもねぇ」
石井の口もとから白い歯がこぼれた。
ブルーバード≠ェ東松山カントリークラブのクラブハウス前を発進したのは、午後三時三十五分だった。
「きみたち、ご苦労さま。日曜のゴルフの帰りに会議なんて初めてでしょう」
中澤が同情しているのか、皮肉を言っているのか、北野にはよくわからなかった。
「松原の気持ちもわかるけど、あしたの朝でいいんじゃないか」
背後から、石井が北野に話しかけてきた。
中澤もリアシートで、石井と並んで座っていた。
「わたしもそう思いますよ。きょうはまっすぐ帰ったらどうですか」
「北野、どう思う」
「わたしもできたら、そうしたいですねぇ。部長、松原部長と話してくださいよ」
北野がブルーバード≠道路の左側に寄せて、サイドブレーキをかけた。
携帯電話と手帳を手渡そうとする北野を石井が手で制した。
「携帯≠ヘ、わたしも持ってる。松原の携帯電話の番号を教えてもらおうか」
北野は手帳をひらいて、十|桁《けた》の番号をゆっくりと読んだ。
「呼び出してる。車、出していいよ」
ブルーバード≠ェ速度を落として、走り出した。
「石井ですが」
「ああ、石井、どうなった。一緒に来てくれるのか」
「きみの気持ちもわかるけど、あしたの朝にしようよ。七時半に秘書室の応接室で話そうか。ゴルフが嫌いなきみにはわからんだろうけど、夏のゴルフは暑いから、くたくたなんだ」
「店を予約しちゃったし、どうせどっかでめしを食うんだろう」
「自宅で食べるのがいっとういいんだ。中澤さんも、同じ車の中におられるけど、われわれとまったく同じ意見だ。たしかに重大問題とは思うけど、バタバタすることもないよ。SELECTION¢ホ策をどうするかは、わたしも今夜考えてみる。店はキャンセルできるんだろう」
「それはできると思うけど」
「とにかく、きょうは帰らせてくれ。わたしより運転手の北野が可哀相だよ」
「しょうがないか。じゃあ、月曜日の朝七時にしよう」
「七時半でいいだろう」
「いや、七時にしてもらおう。北野に替わってくれ」
石井の携帯電話が北野に渡った。
「はい。北野です」
「そんなに、疲れてるのか」
「朝五時起きですし、蒸し暑くて、脱水状態寸前ですよ」
「ふうーん。あした頭取の時間取れるか」
「ええ。朝一番の八時半か、昼食時間なら大丈夫です。しかし頭取をわずらわせなければいけませんかねぇ」
「一応、耳に入れておくべきだろう」
「それも、これも、あすの早朝会議で話しましょうよ。ちょっと、お待ちください。中澤さんに替わります」
中澤が右手を北野のほうへ伸ばして、催促していた。
「中澤です。松原君にお目にかかれなくて残念でしたよ」
「すみません。野暮用がありまして。先日はお電話ありがとうございました」
「出所祝いは、何度やってもらってもいいですから、そのうち一杯やりましょう」
「はい。ぜひお願いします」
「石井君に替わりましょうか」
「けっこうです」
携帯電話が、石井の手に戻った。
中澤は、松原との電話では、千久*竭閧ノ触れなかったが、石井に語りかけた。
「千久*竭閧ヘ、ACBにとって大きな経営課題だし、千久≠ニのスタンスの取り方は難しいが、あんまりナーバスになってもねぇ」
「頭取がインタビューに応じる必要があると思いますか」
「応じても、対応しようがないでしょう。いまの時期に単独インタビューは避けたほうがいいと思いますよ」
北野は、前方に目を凝らしながら、小さくうなずいた。
石井は東武東上線森林公園駅で降りた。中澤を東久留米の自宅へ送って、北野が桜ヶ丘の自宅に戻ったのは、夜七時過ぎだった。
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第二十三章 濡 衣
1
七月二十八日月曜日午前七時に、石井、松原、北野の三人が秘書室の応接室で、ひたいを寄せ合った。
「SELECTION≠ェ必ず書くと言ってるとしたら、どうしようもないと思いますけど。頭取のインタビューはあり得ませんから、広報部限りでよろしいと思いますけどねぇ」
「北野は、こうして三人が集まることも無意味だって言いたいのか」
松原がちょっと突っかかるような言い方をすると、石井がにやにやしながら言った。
「わたしも、松原にしちゃあ、バタバタし過ぎるような気がしないでもないが、ま、頭取の耳に入れとくぐらいはいいだろう」
北野は、頭取の耳に入れるまでもない、と思っていた。強面《こわもて》で聞こえる経済誌、帝都経済≠フ藤村主幹が佐々木を通して、年間二千万円に及ぶ購読料などの打ち切りに対し、猛反発してきたときも、松原は弱腰だった。北野の顔に思い出し笑いが出た。
「帝都経済≠フときは、中山頭取は堂々としてましたよねぇ。藤村主幹は千久≠書くなどと恫喝《どうかつ》してきましたけど、結局、まだ書いてませんが、どうなってるんでしょう」
「帝都経済≠ヘ、勝手に一年だけ我慢してやるっていう態度だよ。佐々木最高顧問がそんな口約束をしてる可能性もあるんじゃないのか」
石井が腕と脚を組んだ。
「わずかひと月ちょっとの時点のズレだけど、状況はかなり違うぞ。問題はSELECTION≠ェ、佐々木さんの人質問題まで把握してるかどうかだけど、頭取が帝都経済≠フときのように、SELECTION≠突き放せるだろうか」
「佐々木さんの人質問題ってなんのことだ」
松原に顔を覗《のぞ》き込まれて、石井が腕組みを解いて、右手で口を押さえた。
「人の口に戸は立てられないとはよく言うが、わたしは自分の口に戸は立てられないほうだな。つい口がすべってしまった。北野から説明してくれ。松原は口が固いから心配ないよ」
北野は、佐々木が中山頭取に辞表を出して千久から最高顧問の身分でスカウトされようとしていること、ひと月の休戦期間が八月八日で切れることなどを松原に話した。
「そんなことになってたのか。そんなことも知らなかった広報部長はクビだな」
松原は、ふてくされたように言って、ソファに背を凭《もた》せた。遣《や》り手の広報部長として、松原が疎外感を覚えるのは無理もなかった。それに四人組≠フ一人でもある。
「トップシークレットだから、そうむくれるな。この話がどこまでひろがってるか見当がつかないが、一応ACBで知ってるのは、頭取、陣内副頭取、佐々木最高顧問、雨宮取締役秘書室長、北野とわたしの六人だった。松原を入れれば七人だ」
「広報部長が初耳だとすれば、案外、秘密が保持されてるっていうことになりませんか。わたしが、雨宮室長と石井部長に話したことを、頭取から口が軽いって、叱《しか》られましたが」
北野は、あのときの中山の厭《いや》な顔を目に浮かべて、眉《まゆ》をひそめた。
石井が上体を松原のほうへ寄せた。
「本題に戻ろう。広報部限りでいいのかどうかだ」
「それはないよ。ヘッジしておくなんてことじゃなく、頭取に報告するのは当然だろう」
「北野の意見は」
「けっこうです。八時半から十分間、時間を取ります。松原部長、お一人でお会いしていただくのがよろしいと思いますが」
松原が上体を起こした。
「石井と北野に相談したことは伝えていいのか」
「どっちでもいいと思いますけど、口が軽いと思われませんかねぇ」
「そうだな。しかし、わたしは、聞かなかったことにしてくれなんて言わないよ」
石井がにやっとした顔を北野に向けて、つづけた。
「SELECTION≠ノ頭取がどう反応するかねぇ」
「広報で抑えられないか、ぐらいのことはおっしゃるんじゃないでしょうか」
「冗談じゃないぞ。抑えられるくらいなら、おまえたちに相談したりしないよ」
松原が上目遣いで、北野をとらえた。
石井が時計に目を落とした。北野も時計を見た。午前七時二十五分。まだ時間はたっぷりある。
「松原はSELECTION≠フ編集長に会ったの」
「いや。電話で話しただけだよ」
「面識はあるんだろう」
「もちろん」
北野が口を挟んだ。
「でしたら、お会いになったらいかがですか。SELECTION≠ヘ、スクープ誌として知られてますけど、良識派でもあると思うんです。国家権力、検察のACBバッシングに加担するなんて、見識を疑いたくなりますよ。身から出た錆《さび》とはいえ、経営危機に直面してるACBを叩《たた》くなんて、首っ吊《つ》りの足を引っ張るようなものじゃないですか」
久山の自殺の場面を一瞬、目に浮かべたが、北野は唇をひき結んだ。
「おまえは気楽な立場だけど、俺《おれ》の身にもなってくれよ。SELECTION≠ノ泣きを入れてはみるけど、ま、ムダだろうな」
「ACBを潰《つぶ》したいのかって、泣き落とす手はあるかもねぇ」
石井は真顔だった。
松原がむすっとした顔で、腕組みした。
「千久*竭閧ヘ頭取よりも、陣内副頭取のほうがナーバスになるだろうな。旧A≠フ負の遺産だし、陣内さんは、千久出向組でもあるからなぁ」
北野が、耳たぶを引っ張りそうになった左手を膝《ひざ》に戻した。
「いまの発言は撤回します。この際、徹底的に膿《うみ》を出すのも悪くないんじゃないですか。どうぞお書きくださいはないと思いますけど、ひらき直る手もあるんじゃないんですか。SELECTION≠ノ書かれることをきっかけに、千久¢ホ策について本腰で取り組むチャンスを与えられたと前向きにとらえることは、できるんじゃないでしょうか」
石井が右手を左右に振った。
「千久*竭閧ヘACBの恥部だよ。北野の言ってることは、露悪趣味で、よからぬ考えだな。やけっぱちとも言える。拝み倒すか、泣き落とすか、とにかく松原がぶつかるしかないよ」
「やってみるけど、成果は期し難いな。あああっ、参った参った」
松原は大きな溜《た》め息を洩《も》らして、天井を仰いだ。
十秒ほど沈黙が続いた。
松原が脚を投げ出したままの姿勢で言った。
「陣内さんの耳にも入れとくほうがいいかねぇ」
「その必要はないと思いますが」
北野は間髪を入れずに答えたが、石井は首をひねった。
「どっちがいいのかねぇ。ま、SELECTION<Tイドと接触してからの話だろうけど、ここは思案のしどころだよ」
八時三十分に中山が頭取室に入った。
秘書の平山秀子が冷たい麦茶と、タオルのおしぼりを運んだあとで、北野と松原が頭取室に入った。
挨拶《あいさつ》したあとで、北野が一歩進み出た。
「広報部長が火急的なことで十分ほどお時間をいただきたいそうです。よろしくお願いします」
「うむ」
北野は、松原が中山とソファで向かい合う前に退出して、秘書室に戻った。
室長席で読んでいた新聞をたたみながら、雨宮が北野に訊《き》いた。
「広報部長、なんなの」
北野が、雨宮のデスクに両手を載せた。
「大騒ぎすることでもないと思うんですけど、SELECTION≠ェ千久≠ニACBの関係を記事にするそうです」
「そりゃあ、大事《おおごと》じゃないか」
雨宮の上体がデスクに乗り出した。
「SELECTION≠ヘほんとうに書くと思うか」
「そう思います。頭取インタビューは論外ですから断りますが、編集長がどっちみち書くと通告してきたそうですから」
「陣内副頭取と森田専務が騒ぎ立てるぞ。それと千久≠ェナーバスになるだろうなぁ」
「ACBと千久≠フ関係は、世の中に知れ渡ってますよ。これまでにも、けっこう書かれてるじゃないですか」
「それにしてもタイミングが悪過ぎるよ」
雨宮は眉をひそめた。
2
午前八時四十五分に北野に中山から、呼び出しがかかった。
頭取日程表の八時半から九時までは、空白のことが多い。
中山は仏頂面だった。機嫌がよかろうはずがない。
「ちょっと座って」
「失礼します」
「まだ報告がないが、どうなったの」
今日子と義母を説得する件だと、北野はピンときた。
「懸命に説得してるんですが、二人ともこれ以上、恥を晒《さら》したくないと申しまして」
むろん嘘《うそ》である。
北野が今日子に話したのは、佐々木が辞表を出したことだけだった。説得するつもりなど毛頭ないのだから、嘘をつくしかない。
「どっちが恥を晒すことになるのかねぇ。きみは、女房に尻《しり》に敷かれてるからなぁ」
中山はにこりともしなかった。
北野は下を向くしかない。
「おっしゃるとおりです。誰に似たんでしょうか。やたら気が強くて」
「冗談を言ってる場合か。休戦期間はあと十日しかないが、佐々木さんは、千久に入り浸りで、ACBにはまったく顔を出さないそうじゃないか」
「頭取に、ここまで申し上げるのは僭越《せんえつ》至極と存じますが、あえて申し上げます。一度出した辞表を撤回することはあり得ないと思います。佐々木最高顧問の辞表を受理していただきたいと存じます」
「何を言うか! 無礼者!」
中山は激昂《げつこう》した。
皮肉を言われていると思って、血液が頭に逆流したのだから、仕方がない。
「それでも、秘書役のつもりか! 少しは、わたしの立場も考えたらどうだ!」
北野は耳たぶを引っ張っていた。
「頭取のお立場はよく存じているつもりですが、旧体制と訣別《けつべつ》していただきたいと思います。佐々木には、退場してもらうしかないと思います。あの人が千久に行かれても、脅《おび》える必要もありません。久山さんが亡くなられたことで、佐々木は命拾いしましたが、もうカリスマ性もなければ、パワーもないと思います」
北野の声はうわずり気味だった。目頭も熱くなっていた。しかし、中山には踏ん張ってもらわなければ、ACBの再生はない。千久=\佐々木に屈してはならない。カードはわが手中にあるのだ。北野は、気持ちを奮い立たせた。
「佐々木が千久≠ノスカウトされることの意味はないと思います。わたしは佐々木の千久行きを阻止したいと思ってます。そのほうの説得をやらせていただけませんでしょうか」
「大きく出たねぇ。佐々木さんを相談役から降ろしたのは北野かもしれないが、実態はなんにも変わってない。残念ながら、カリスマ性もパワーも、失われていないのが現実なんじゃないのか。陣内や森田を見れば、わかるだろう」
中山の口吻《こうふん》がいくぶん落ち着いたが、まだこめかみに静脈が浮き出ていた。
「おまかせください、とまでは申しませんが、佐々木を説得できるような気がしています。旧体制の象徴的存在の佐々木に口出しされるいわれはないと存じます」
「SELECTION≠フことは聞いてるのか」
「はい。広報部長から伺いました。さしたる情報があるとは思えません。いまは、なにを書かれても、我慢する以外にないと存じます」
「そうはいかんよ。千久*竭閧ヘタブーだ。ACBの恥部とも言えるな。A≠ェC≠ニ合併する前に、見かけをよくするために、朝日開発を千久≠ノ押しつけたのが、そもそもの始まりだ。陣内たちは、そのことがまったくわかってない」
旧C≠フ中山ならではの言葉だが、旧C≠フ負の遺産も、けっこうある。A≠ニC≠ェ相互のあらさがし、叩き合いをやり始めたら、際限がない、と北野は思った。
「千久≠ヘ祟《たた》るぞ。中澤さんとも電話で話したが、中澤さんが考えてるほど甘くない。A≠ニかC≠ニか、あんまり言いたくないが、A≠ニC≠フ融和を頭取の立場では考えざるを得ない。北野にはそういうことも理解してもらいたいなぁ」
中山の高ぶりは、ほとんど鎮静していた。
中山が時計を気にしだした。九時から会議がある。
「北野に、佐々木さんの千久行きを阻止できるとは思えないが、話し合ってもらうのはいいんじゃないか。奥さんとお母さんをまじえて、話すのがいいと思うが。誰しも女房と娘には弱いからねぇ」
今日子と二人がかりで、佐々木と対峙《たいじ》する手はあるかもしれない。今日子はカードの存在を知っているのだ。人質≠ニいえば義母の静子もわがほうで押さえている。
ACBが検察とマスコミから集中砲火を浴びているときに、箱根の一葉苑≠ノ入り浸っている佐々木は、どういう神経をしているのだろう。血のかよっている人間とは思えない。しかも、佐々木は、ACB事件の元凶ではないか。佐々木を憎まずに、佐々木になびき、媚《こび》を売っている陣内や森田もどうかしている――。
「承知しました。三人がかりで、佐々木にぶつかってみます」
「ぜひそうしてもらいたい。佐々木さんに千久に行かれた日には、みっともなくてしょうがない。佐々木さんにも言われたことだが、辞表をあずかったのはまずかったよ」
「そんなことは絶対にありません。頭取が佐々木の辞表を受理するのは当然です。即刻、受理すべきでした」
「千久≠ェなければ、もちろんそうしたさ」
中山は厭《いや》な顔をした。言い過ぎたかもしれない、と北野も思った。
腰を浮かせながら、中山が言った。
「SELECTION≠ノは、会わんほうがいいと思うが、石井と北野は松原の相談相手になってやったらいいね」
「はい」
北野は起立して、低頭した。
「いろいろ失礼なことを申しました。お許しください」
「わたしも大きな声を出して悪かった。北野に秘書役になってもらって、よかったと思ってるよ。至らないところは、なんでも言ってくれなければ困るぞ」
「恐れ入ります」
北野はもう一度、中山に最敬礼した。
北野は、頭取室から人事部に回った。片山のことが気になったからだ。
片山は席を外していた。
北野は秘書室に戻って、専従班≠ノ電話をかけた。
電話に出たのは、部長待遇の古川だった。
「北野ですが、片山君はきょうも東京地検でしょうか」
「ええ。午後二時に呼ばれてます。自宅から直行すると言ってました。企画部関係は、今週は大変だと思いますよ。北野さんも呼び出されることを覚悟してください」
「わたしは調書を取られてますが」
「そうでしたねぇ。石井さんは、確実に呼び出されると思います。片山さんの前の元|MOF《モフ》担も、出頭を命じられてます。ほんと、どうなっちゃうんでしょうか。心配ですよ」
古川は、片山逮捕を臭わせているのだろうか。
「私も心配してます。でも、片山は大丈夫と思いますが」
「その根拠はなんですか」
「勘です。島中―谷田を捕まえてから、いらっしゃい、と言いたいですよ。きのうもそんな話を片山としましたけど」
「なるほど。一理ありますねぇ」
「失礼しました」
「どうも」
電話を切って、北野は椅子《いす》を半回転させた。
石井はSELECTION≠ヌころではないかもしれない。
SELECTION≠ノなにを書かれようが、今井逮捕≠ナ打ち止めにしてもらいたいと北野は切に思った。
北野に松原から二時過ぎに電話がかかった。
「SELECTION≠フ編集長と会ってきたけど、ひどいもんだよ。もう印刷中だって」
「頭取にインタビューしたいっていうことじゃなかったんですか」
「それは第二弾で、反論の場を提供してもいいとか、のたまわった」
「千久≠ェらみの第一弾はいつ出るんですか」
「たしかSELECTION≠フ発売日は五日じゃなかったかな」
「ふうーん」
「SELECTION≠ェなにをどう書くか教えてもらえなかったけど、陣内副頭取に一喝された。参ったよ」
北野は受話器を左手に持ち替えた。松原のしかめっ面が見えるようだった。
「副頭取にいつ会ったんですか」
「たったいまだけど、こっちの気も知らないで、子供の使いじゃないか、って頭ごなしに怒鳴られたよ」
「子供の使い、ですか。心ないことを言いますねぇ」
松原の声が大きくなった。
「北野もそう思うだろう。せめて、第一弾の内容ぐらい聞いてこいって言われたけど、ゲラを見せろなんて頼めるかぁ。親しい編集者ならともかく」
「おっしゃるとおりですよ。頭取から、松原部長の相談相手になってやれ、って言われましたが、どうしようもないですねぇ」
「千久≠フことはいろんな経済誌がこれまでに、けっこう書いてるけど、新事実があるわけでもないしSELECTION≠ニもあろうものが、この時期に後追いするっていうのも、変な話だよなぁ」
仙台のマンション購入の件は、書かれるかもしれない、と北野は思ったが、口には出さなかった。
新事実があるとすれば、そんなところだろう。
「頭取に報告していただけますか」
「北野から、話しといてくれよ。頭取は、子供の使いとまでは言わないと思うけどねぇ」
「部長がわざわざ報告するほどのことでもないっていうわけですね」
「そうは言わんが、秘書役にまかせるよ」
「承知しました」
北野も、立ち話程度の問題だと思った。
問題は陣内の反応を中山に伝えるかどうかだ。「子供の使い」を出すしかない。
北野は三時過ぎ、接客と会議のわずかの合間を利用して、来客をエレベーターホールまで見送った中山に、SELECTION≠フ件を耳打ちした。
「陣内君、そんなこと言ったのか。きついねぇ。印刷中じゃ、手の打ちようがないよなぁ」
「なにか新事実をキャッチされたんでしょうか」
中山の表情が動いた。
「そんなものはないと思うけどねぇ」
「でしたら、心配ないと存じますが」
「うむ」
北野は、仙台のマンションの件はSELECTION≠ノ書かれて当然と思っていた。
北野でさえ、リークを受けているのだ。新聞記者にリークするACBマンの一人や二人存在しても、不思議ではない。
「それはそうと、佐々木さんにいつ会うの。早いに越したことはないぞ。雨宮も平山もおるんだから、わたしのほうはなんとでもなる。最優先課題なんだから、一両日中にも、佐々木さんと話してもらいたいねぇ」
「さっそく連絡を取ります」
中山と北野の立ち話はわずか二分で終わった。
3
北野は応接室から一葉苑≠ノ電話をかけた。
中山は「千久に入り浸り」と言っていたが、一葉苑≠フ間違いだと北野は思っていた。佐々木のことだから、たまには千久≠ノも顔を出しているだろうが、休戦の一カ月を夏休み≠ョらいに考えかねない男だ。七月八日以来、一度もACBに顔を出していなかった。
それでいて、頭取並み、ひょっとするとそれ以上の高給を取っているかもしれない。ドロボーに追い銭とはこのことだ。
案の定というべきか、佐々木は一葉苑≠ノ入り浸っていた。
「北野ですが、ご無沙汰《ぶさた》してます。お休みのところを恐縮ですが、最高顧問に至急お目にかかりたいのですが」
「用向きはなにかね」
「いろいろあります」
「きみがここへ来ると、ろくなことはないからなぁ」
佐々木は先回りして、厭《いや》みを言った。
「できましたら、今日子と一緒にお邪魔したいと思いますが」
「今日子がわたしに会いたいと言ってるのか」
「はい。ずいぶんお会いしてませんから」
佐々木は、すぐには返事をしなかった。
「もしもし……」
北野が呼びかけると、佐々木は「ううん」と不機嫌そうな声を返してきた。
「お母さんも、お連れしたいところですが。そろそろ永福《えいふく》にお帰りになることも、考えておられるようですし……」
北野は心にもないことを、と自嘲《じちよう》したが、佐々木に対して、プレッシャーをかけているつもりはある。
「きみ、なにを考えてるんだ。女房と娘連れで押しかけて、なにをしようってんだ。なにをたくらんでるんだ!」
「それでしたら、わたし一人で参ります」
「用向きはなんだね。何度も言わせんでくれ。早く言いなさい!」
佐々木の怒声が受話器に響いた。
「電話ではちょっと。込み入った話ですので。あすのご予定はどうなってますか」
「あしたはゴルフでおらんよ」
「でしたら、いまからでもお邪魔してよろしいでしょうか。頭取から申しつかった用件もあります」
「いいだろう。来なさい。ただし、今日子は連れてこんでくれ」
「承知しました。それでは五時ごろにお邪魔させていただきます」
北野は、今日子を同行させる気などなかった。話がややっこしくなるだけで、得るものはなにひとつない。
北野は、事情を雨宮室長と中山頭取付女性秘書の平山秀子に話して、ACB本店ビルを飛び出した。
外は曇空で、蒸し暑かった。午後三時四十二分発の新幹線こだま≠ノ乗車して、小田原《おだわら》駅着四時二十七分。道路がすいていたので、小田原駅から、箱根《はこね》・仙石原《せんごくばら》まで三十分足らず。北野は五時前に一葉苑≠ノ着いた。
北野を離れに案内したのは、スーツ姿の若い女性従業員だった。
「佐々木先生、北野さまがお見えになりました」
「どうぞ」
離れの玄関を開けたのはスーツ姿の青木伸枝だった。
「いらっしゃいませ。北野さま、ようこそお出《い》でくださいました。佐々木先生お待ちかねですよ」
「こんにちは。いつぞやは、家内にけっこうな物をいただきまして、ありがとうございました」
北野が七月六日の日曜日に、一葉苑≠ノ佐々木を訪れたとき、帰りしなに青木伸枝から手渡された紙袋の中身は、高級ブランドもののブラウスだった。今日子は包みを開いたが、「誰かにあげるわ。あの女、わたしにお土産なんて、どうかしてるんじゃないの」と、ふくれっ面《つら》で言ったものだ。
「とんでもございません。さぁ、どうぞ」
佐々木は浴衣《ゆかた》姿で長椅子《ながいす》に寝そべって、テレビを見ていたが、テレビを消して、上体を起こした。
「失礼します」
「うん。ビールでも飲むか」
「いいえ。銀行に帰らなければなりませんので。冷たいウーロン茶をいただければ」
「ふうーん。わたしも、きみぐらいのときはよく働かされたものだよ。ACBの人使いの荒さは旧A∴ネ来の伝統だな」
「先生はなにになさいますか」
「わたしもウーロン茶をもらおうか」
青木伸枝が大ぶりのグラスと四つ切りのメロンをセンターテーブルに並べた。
一葉苑≠ヘ三度目だが、スーツ姿の青木伸枝は初めてだった。厚化粧は仕方がないが、きりっとした感じもある。北野は、ふと横井繁子の横顔を目に浮かべ、懐かしさと、いとおしさのないまざった思いに、とらわれた。横井が退職して、十日ほどしか経っていないのに、われながら不思議だった。
「失礼しました。ごゆっくりどうぞ」
青木伸枝が退出した。
「あんまり時間がないんだろう。用向きを話しなさい」
北野はウーロン茶をひと口飲んで、居ずまいを正した。
「中山頭取から、最高顧問を慰留するように言われておりますが、それがあり得ないことはご理解いただけると存じます」
「わたしも、辞表を撤回するつもりはない。きみが頭を下げれば別だがね」
佐々木から厭な目を向けられたが、北野は見返すことができた。
北野は、ウーロン茶をもうひと口飲んだ。
「最高顧問は、千久にどうしても、いらっしゃるおつもりですか」
佐々木がいっそう厭な顔をした。
「その話も前にしたな。わたしは隠居するつもりはない。千久の木下君の相談相手になるのを咎《とが》め立てされるいわれはないと思うが」
「木下社長がACBの人事を壟断《ろうだん》するようなことをされるかたであってもですか。ついでに申し上げますが、SELECTION≠ノACBと千久≠フ関係を記事にするという情報が広報部長にありました。仙台のマンションの件も書かれる可能性があります。最高顧問が千久の最高顧問で迎えられるとなりますと、マスコミのターゲットにされるのではないか、と心配になります」
「仙台のマンションの件ってなんだね」
佐々木の目が光を放った。
北野はいったん伏目になったが、まっすぐ佐々木を見た。
「ACBは仙台支店の社宅用に二十五戸も千久から購入させられたそうです」
「おまえも、けっこう隅に置けんなぁ。情報通じゃないか」
「わたしが知ってるくらいですから、けっこう広まってるんじゃないですか」
「十億足らずの物件だ。大騒ぎすることじゃない。中山から聞いたのか」
「いいえ」
「中山もOKしたんだ。雑誌に書かれたぐらいで、うろたえることはないな」
「千久に行くことはお止めください。今日子もお母さんも、わたしと同じ意見です。ACBは千久≠ニの腐れ縁を少しずつでも、正常化していかなければ、二流銀行に成り下がってしまいます。ACBのトップにまで昇り詰めたかたが、行くところではないと思います。誇り高き佐々木最高顧問の取るべき態度とは思えません」
佐々木はがつがつとメロンをたいらげて、スプーンを皿の上に放り投げた。
「おまえも大層な口をきくようになったなぁ。誰にものを言ってるのか、少しは考えろや」
北野の右手がグラスに伸びた。ウーロン茶をほんの少々、口に含んだ。喉《のど》の渇きを抑えるためだが、いっぺんに飲んでしまうと、あとが辛《つら》い。
「僭越《せんえつ》も失礼も、重々承知してます。しかし、ACB百年の大計のために、千久≠ニの関係を清算する方向を志向すべきだと思います」
「おまえ、ACBが木下君にどれほど助けられてるか知らんのか。だから千久に出向しろって言ってるんだ。勉強して出直してこい」
北野は背筋を伸ばして、眦《まなじり》を決した。
「お父さんが、あくまでも千久≠ノ固執するようでしたら、わたしはカードを切らせてもらいます。お父さんが、川上多治郎氏に宛《あ》てて出した手紙をオープンにします」
「貴様、俺《おれ》を脅迫するのか! まるでヤクザじゃねぇか!」
佐々木が哮《たけ》り立ったのは、これで何度目だろうか。
「貴様、ふざけるな!」
ヤクザなのはどっちなのか、と訊《き》き返したいくらいだ。
「千久の件は、ぜひともなかったことにしていただきたいと思います。八月八日の休戦まで、十日ほどしかありませんが、千久だけはお止めください」
佐々木は怒り心頭に発し、身内をふるわせた。
「ACBは出て行け、千久には行くなだと! おまえに、そこまで虚仮《こけ》にされなならんのか!」
「久山さんがどんなお気持ちで自殺されたかお考えください。久山さんは、死を以《もつ》て、罪をあがない、罪を償ったのです。しかも、その罪は百パーセント、あなたにあったはずです」
北野は、佐々木の顔を指差した。
「お母さんや今日子にこれ以上、恥をかかせるのは忍びないし、申し訳ないと思いますが、二人とも、わたしの行動を理解してくれると信じてます」
「お、おまえ! 静子にも話したのか!」
「まさか。しかし、話さざるを得ないかもしれません。そうならないことを祈ります。千久≠フ件、白紙撤回のご返事は、いま、いただくわけにはいきませんか」
「ふざけるな!」
「今月いっぱいお待ちします。よいご返事をお聞かせください」
北野はウーロン茶をごくっと飲んで、つとソファから腰をあげた。
「失礼しました」
錯乱状態に近い佐々木は、返事をしなかった。
横浜駅に向かう下りJR東海道線|湘南《しようなん》電車の中で、北野は感慨に耽《ふけ》っていた。俺もクソ度胸がついてきた。岳父の佐々木に、あんなに言えたとは。
「脅迫するのか」と言われたが、脅迫であり、恐喝である。金品を奪う気はないのだから、恫喝《どうかつ》だろうか。
初めて一葉苑≠ノ乗り込んだときは、膝《ひざ》がしらがガクガクふるえ、胸もドキドキしたが、平然と振る舞えたのは、どうしてだろうか。佐々木のカリスマ性を畏《おそ》れなくなったのは、久山の自殺と無関係とは思えない。遺書≠ノも影響されている。
わが岳父ながら、ただの俗物、としか思わなくなった。危機に瀕《ひん》しているACBの元凶に過ぎない、という認識も強い。
佐々木に脅えているACBの上層部が情けない。佐々木の背後の千久≠ノ対する畏怖《いふ》心にこそ問題があるとも言える。
俺の恫喝に対して、佐々木がどう出るか、予断を許さないが、千久から佐々木を排除できたとしても、事態が劇的に変わるとは考えにくい。
佐々木の人質としての価値など高が知れている。その点を、みんなわかっていないのだ。
千久*竭閧ェこんがらがった糸のように、どうにもほどきようのない、複雑きわまりない難題であることはたしかだが、正常化への道筋が皆無とは思えない。佐々木の介在を排除することは、その一歩にならないだろうか。
もっとも、佐々木の出方はまだ読めないし、狡智《こうち》にたけた佐々木のことだから、どんな手を打ってくるか、ゆめゆめ油断はできない。
二日後の七月三十日に動きがあった。
朝八時二十分に、北野に中山頭取から呼び出しがかかった。中山の出勤がいつもより十分ほど早かった。
「おはようございます」
「おはよう。ちょっといいか」
「はい」
中山が、いつにない笑顔で、手でソファをすすめた。
「失礼します」
北野は、緊張気味だったが、耳たぶを引っ張ることはなかった。佐々木の件だと察しがついていたし、中山の表情を見る限り悪い話ではなさそうだ。
「昨夜、陣内から公邸に電話があったよ。佐々木さんが、千久≠断念してくれたらしい。ACBの最高顧問も辞める、千久へも行かない、と言ってきたそうだ。きみの説得が功を奏したわけだねぇ。よくやった。ありがとう、感謝するよ」
「恐れ入ります。付帯条件はないんでしょうか」
「もちろん、ゼロっていうわけにはいかんよ」
「…………」
「顧問として名前を残したいっていうことと、新宿あたりに事務所を構えたいので物件を探して欲しいということだった。事務所と女性秘書の給与を除いて、年間五千万円ぐらいは面倒を見てもらいたいって言ってきた。新宿には、ACBが所有しているビルで空室はいくらでもあるが、どうしたものかねぇ」
五千万円が果たして安い買物なのだろうか。北野は首をかしげざるを得なかった。
さすがというべきか。佐々木は転んでも只《ただ》では起きない。
「ACBの本店ビルから、佐々木さんが出て行ってくれることは、ほんとありがたいよ。千久に行かれるよりはましと思っていたが、うっとうしい存在だからねぇ」
「陣内副頭取のご意見はいかがでしたか」
「不可解だとか、どういう風の吹き回しなのか、とか言ってたが、佐々木さんが生きてる限り、なんのかのと口出ししてくるだろうし、旧A≠フ人たちの中には、佐々木さんを都合のいい存在だと思ってる人もけっこういるんだろうねぇ」
陣内もその一人だと、中山は婉曲《えんきよく》に表現した。
「しかし、佐々木さんの影響力も低下していくよ。年齢が生臭さを薄めていくのは当たり前だろう」
中山は、佐々木の千久行きをひとまず阻止できてホッとしたのだろう。やけに饒舌《じようぜつ》だった。
「北野に大きな借りができたねぇ」
「とんでもない」
北野も、どんなにホッとしたかわからなかった。
4
八月五日に発売されたSELECTION°繻詩の特集記事朝日中央銀行に新たな呪縛《じゆばく》∞千久グループが再生の障害に≠読んだときに北野が受けたショックは、筆舌には尽くし難い。
四ページの特集だが、ACBのドン佐々木が最高顧問を辞任し、千久に最高顧問で迎えられること、中山頭取、陣内副頭取、矢野副頭取、水島専務、白幡専務の代表取締役五人が七月九日早朝、千久本社に木下社長を訪問、新任の挨拶《あいさつ》で三拝九拝したこと、そしてなんと北野秘書役が同席したことまで書いているではないか。「佐々木氏女婿、北野氏がACBのエリートコース、千久出向も確実視されている」としたうえで、「佐々木―北野ラインで、千久グループの再建に取り組むが、ACBと千久の癒着関係が深まるだけで、成果は望むべくもない。千久の木下社長が川上多治郎―小田島敬太郎に代わるACBの新たな呪縛に浮上してきた。中山新執行部の前途は多難で、ACBの落日は、加速する一方だ」と、結んでいた。
仙台のマンション購入案件にも触れていたし、千久はACBのブラックホール∞約一千億円の資金を投入∞顕著な不良債権の拡大化≠ネどの小見出しも、刺激的だ。
森田常務の専務昇格だけは、なぜか触れていなかった。
北野は昼食時間に中山から呼び出された。
中山が、ジロッとした目を北野にくれた。
「陣内が、北野がリークしたんじゃないか、と言ってるが、どうなの」
「どこを押したら、そういう発言が出るんでしょうか。わたしは、千久出向を命じられたら、ACBを辞めますと頭取に申し上げました。そのわたしが、SELECTION≠ノリークするとお思いになりますか」
「千久出向を阻止するためにSELECTION≠ノ書かせた、ということはないかねぇ。消去法でいくと、最後に残るのは北野だって言い張るわけよ」
「陣内副頭取がですか」
「陣内も森田も、北野を犯人扱いしてる。わたしは、北野が佐々木さんの千久行きを阻んでくれたことをかれらに話したら、時点のズレを言い立ててたよ」
「しかし、七月九日の時点で、わたしの千久出向は消えたはずです。頭取のお陰ですが」
北野は低頭してから、話をつづけた。
「その点の整合性はどうなるんでしょうか。SELECTION≠ノ、この記事を書いたのは、おそらく全国紙の経済記者だと思いますが、わたしはこの二カ月間、記者と接触する時間はありませんでした。それにACBの恥部を記者に話すほど愚かではありません」
「北野に限らず、佐々木さんの千久行きを阻止したいと思っていたのは、わたしも陣内も同じだ。この記事が……」
中山の目がセンターテーブルのSELECTION≠ノ向けられた。
「出れば、佐々木さんの気持ちが変わることは可能と思うが、きみはどう考える」
「否定はしません。しかし、わたしは……」
北野がSELECTION≠指差した。
「こんな手の込んだというか、姑息《こそく》なことをしないでも、佐々木の千久行きを止める自信はありました。現に結果はそのとおりになったではありませんか。もし頭取が、わたしをお疑いなら、わたしは秘書役として、とどまることはできません」
北野の目尻《めじり》に涙が滲《にじ》んだ。
「わたしは北野を信じてるよ。しかし、陣内と森田は、北野リーク説に凝り固まってるから始末が悪い。それと千久≠ェどう反応してくるか。佐々木さんの千久行きを蒸し返してくる恐れもある。悪いタイミングで厭《いや》な記事を書かれたもんだよ。ACBのリスク管理がなっちゃないことが露呈されてしまったわけだしねぇ」
中山は、しかめっ面で組んでいた脚をほどき、吐息を洩《も》らした。
「それにしても、まるで見てたようによく書くねぇ。三拝九拝≠燻鮪タだし、千久≠訪問した日時もぴったりだ。ACB内部からの、それも六人の誰かが話さなければ書けない記事であることだけは間違いないね」
「失礼ながらわたしは必ずしもそうは思いません。いま、ふと、思ったのですが、森田専務のことが一行も書かれてませんが、どうしてなんでしょうか」
中山が腕組みして、唸《うな》り声を発した。
「北野は、森田がリークしたと考えているのか」
「あり得ると思います。森田専務は、陣内副頭取から正確に情報を得ていたはずです。副頭取になりそこねたことを根にもたれた可能性もありますし、中山頭取に対するスタンスも気になります」
中山が首をかしげた。
「どういうこと。もう少し、わかりやすく話してくれないか」
「森田専務が、実態は中山会長∞陣内頭取≠セと、行内で声高に話していることはご存じですか」
中山は露骨に顔をしかめた。
「聞いてるよ。当たってるんじゃないか。だいたいA≠ニC≠フ二頭政治でずっとやってきた銀行だからねぇ。めくじら立てるほどのことじゃないよ」
投げやりな言い方だった。中山の目に険が出ている。
本音とは思えなかった。
中山が仏頂面でつづけた。
「きみたちに乗せられて、受けてしまったが、こんな伏魔殿みたいなACBで、頭取になるんじゃなかったよ。陣内はずるいよねぇ。わたしに火中の栗を拾わせておいて、わたしに責任だけ取らせて、頭取面してるんだから」
ノックの音が聞こえ、平山秀子が昼食のひやむぎと緑茶を運んできた。
むろん、二人分である。
ひやむぎを食べながら、中山が気を取り直したように小声で言った。
「いまのは失言だ。忘れてくれ。A≠ニC≠ェ反目し出したら、ACBはおしまいだ。陣内と仲良くやることがわたしの責務だよ。振り回されてるような顔をしてて、ちょうどいいんじゃないか」
「おっしゃることは、よくわかります」
北野の目が、センターテーブルの隅に追いやられたSELECTION≠ノ行った。
「この記事が、禍《わざわい》 転じて福になれば、よろしいのですが。先日、佐々木最高顧問と話したときに考えたことですが、千久*竭閧ェ複雑きわまりないことはたしかですけれど、正常化への道筋を考える時期に来ているように思えてなりません。その第一歩が千久出向の見直しであり、融資枠拡大の見直しだと思うのですが」
「きみ、ひやむぎが伸びちゃうぞ」
「いただきます」
北野は割り箸《ばし》を取った。
ひやむぎは、するするっと喉《のど》を通るので、食べ終わるまで十分とはかからなかった。
先に食べ終わった中山がおしぼりで口のまわりを拭《ふ》いた。
「陣内が、千久*竭閧ヘ、旧A≠フ案件だから、まかせてくれと言ってきかんのだ。北野の言ってることは正論だが、出向者の見直しも融資不拡大も、そう簡単には参らんだろうねぇ。前にも話したと思うが、千久≠ノ対する旧A≠フ借りは半端じゃないからねぇ」
緑茶をすすりながら、中山が話をつづけた。
「陣内がきみになにか言ってくると思うが、わたしに言ったことを繰り返したらいいな。森田のことはどうかねぇ。森田に憎まれてもなんだしな」
「はい」
「わたしは、北野がそんな卑劣な男ではないと信じる。あとは、佐々木さんのフォローをきちっとやってもらいたい。あの人に変な動き方をされると、ACBはおかしくなってしまう。いまは、内部抗争どころじゃない。一万九千人のACBマンが心を一《いつ》にして頑張らなければ、ACB丸は危険水域に入ってしまうよ。久山さんの死もムダにしたくないしねぇ」
「はい」
北野はうなじを垂れた。おしぼりで口と目を拭いてから、面《おもて》をあげた。
「ごちそうさまでした。失礼します」
中山は、舌鋒《ぜつぽう》鋭い陣内に、反論できなかったに違いない。北野犯人説を半ば信じて、俺《おれ》を呼んだのだろう。
中山は、俺の話を聞いて、どうやらわかってくれたようだ。しかし、これで終わったと考えることはできない。
北野がドアの前で、中山に向かってもう一度お辞儀をした。
「きみ、陣内にうまく話してくれよ。感情的にならないように」
「恐れ入ります。ありがとうございました」
北野はふたたび低頭して、頭取室から退出した。
秘書室の自席に戻った直後に、陣内副頭取から北野に呼び出しがかかった。時刻は十二時四十分。
北野は二十六階のエレベーターホールの前で、松原と出くわした。
「ひでえもんだよ。陣内副頭取にこてんぱんにやられてきたところだ」
「なんですって。なにをどう言われたんですか」
「SELECTION≠ノこんな記事を書かれるのは、広報部がたるんでるからだとさ。他誌に広がらないように注意しろとよ。やってられないよ」
「そのぐらいならまだいいほうですよ。わたしはSELECTION≠ノリークした犯人にされてます」
「北野が犯人。あり得んよ。だって、おまえだって、恥をかかされてるわけだろう」
「あの人は、ねじれてますからねぇ。とにかくどういうことなのか聞いてきますよ」
「陣内副頭取に呼びつけられたのか」
「ええ」
「俺の次は、北野か。相当カリカリしてるぞ。ACBは、上を下への大騒ぎだ。リークしたやつをぶんなぐってやりたいよ」
「千久≠ノ言わせれば、陣内さんにしたって、われわれのクーデターのお陰で副頭取になったようなものでしょう。それにしては、威張り過ぎると思いませんか」
「まったくだ。地位が人を変えるのかねぇ。頭取≠フつもりになってるから、始末が悪いよ」
「じゃあ、これで」
「あとで連絡するよ」
「ええ」
松原はエレベーターに乗り、北野は陣内の部屋へ向かった。
「失礼します」
「遅いじゃないか。立ってないで、座れよ」
北野が一礼して、ソファに腰をおろすなり、陣内が浴びせかけた。
「北野がリークしたんだろう。北野に決まってるよな」
「いいえ。頭取にも、同じことを言われましたが、わたしに、どんな得があるんでしょうか」
「ふん」
陣内が鼻で嗤《わら》った。
「佐々木最高顧問の千久行きを阻み、ついでにおまえ自身の千久出向を潰《つぶ》せたんだから、一石二鳥だよなぁ。少なくとも、おまえが、どこの新聞記者か知らんが、リークした時点では、おまえの千久出向は確実だったはずだよなぁ」
「お言葉ですが、わたしの千久出向が確実だったは、事実に反します。訂正していただきたいと存じます」
「訂正、なにが訂正だ」
北野は、むきになってはいけない、抑えて抑えて、とわが胸に言い聞かせた。それと、耳たぶを引っ張ってはならない。
「佐々木最高顧問から、打診めいたことがありましたし、副頭取からもありました。また、頭取も、わたしの千久出向をお考えになったようですが、最高顧問には直接、千久出向を命じられたら、ACBを辞めます、と申し上げました。頭取にも間接的にわたしの気持ちは伝わってました。だからこそ、七月九日に、木下社長にお目にかかったときに、頭取は明確に否定してくださったのだと理解してます」
「間接的って、中山君に誰が伝えたんだ」
「人事部長と企画部長です。なんでしたら、おたしかめください」
陣内がぐいと顎《あご》を突き出した。
「反証になってないな。消去法でいくと、北野しかいない。千久*竭閧ナなんだかんだ言ってるのも北野だしなぁ」
「わたしがリークしたという証拠はどこにあるんでしょうか」
「いずれ炙《あぶ》り出されるんじゃないのか。わたしがその気になったら、証拠ぐらいつかんでみせるよ」
「どうぞ、そうなさってください。誰がリークしたか、ぜひとも突き止めていただきたいと存じます」
「口の減らないやつだ。佐々木さんに聞いたけど、仙台のマンションの件も知ってたらしいねぇ。佐々木さんも、北野リーク説を否定しなかったぞ」
「信じられません」
北野は、ゆっくりとかぶりを振った。
陣内が眉間《みけん》に深いたてじわを刻んだ。
「白幡も臭いが、中山君はあり得ないって言下に否定した。木下社長に対して、けっこう生意気な口をきいてたが、たしかに白幡はマスコミと接触できるような男じゃないから、やっぱり北野がいっとう怪しいんだよなぁ。リークしたのが北野じゃないっていう反証は、ほかにあるのか」
「陣内副頭取に犯人扱いされるとは夢にも思いませんでした。大変残念です。副頭取のお力で、犯人を探してください、としか申しようがありません」
「心当たりはあるのか」
「ありません。ただ、七月九日に木下社長を訪問した六人以外の人だと、わたしは推量してます」
「たとえば誰だ」
「それは、ちょっと」
北野は言葉を濁した。
森田の名前を出すな、と中山に釘《くぎ》を刺されていたのだから、仕方がない。発信源は陣内ではないのか、と訊《き》きたいくらいだ。
他人の口に戸は立てられない。陣内から話を聞いて、新聞記者に知人の多い森田が、うっかり口をすべらせた――。そんなところかな、と北野は想像していた。
しかし、結局、犯人はわからずじまいだった。手柄顔にニュースソースを明かす記者もいないとは限らないが、ニュースソースの守秘は記者のイロハだ。SELECTION≠ノバイト原稿を書いた記者なり、フリーライターを特定することは、そう困難ではないかもしれないが、当人がニュースソースを明かす確率は低い。
5
北野が、陣内から詰問されていた同時刻、千久本社の社長室のソファで、木下と佐々木が昼食の幕の内弁当を食べながら、密談していた。
SELECTION≠フスクープに対する木下の怒りは尋常ならざるものがあった。怒髪天を衝《つ》く、とはこのことだ。
箱根の一葉苑≠フ佐々木に電話をかけてきて、「すぐ来てくれ。あんた、なに考えてんだ」と、怒鳴り散らすありさまで、佐々木は取るものもとりあえず、駆けつけてきた。
「SELECTION≠ノこんな記事を書かせたのは、誰なんだ。北野とかいう小僧だな」
「あんた、ちょっと落ち着きなさいよ。SELECTION≠ノ書かれたくらいで、あんたほどの男がうろたえることもないでしょうが」
「だいたい、あんたもひどいじゃないか。千久程度の吹けば飛ぶような会社がお気に召さないのはわかってるが、いったんOKしといて、なんだね」
「木下さんに、迷惑をかけるのもなんだから、新宿に事務所を構えることにしたまでで、顧問にならせてもらうし、顧問料もしっかりいただく。実態は変わらんと申し上げたはずだが」
「あんたが何を考えてるのか、俺《おれ》にはさっぱりわからんよ」
「千久≠フ応援団長を自他共に認めてるつもりだがねぇ」
「SELECTION≠フ落としまえは、とにかくつけてくれな困る。あんたの娘婿、ちょっとたちが悪すぎないか。甘やかしたらいかんよ」
「エキセントリックな男でねぇ。わたしも手を焼いてるんだ。まさかとは思うが、陣内が消去法でいくと犯人は北野だと決めつけていた。わたしには、北野がそこまでやるとは思えんがねぇ」
木下の目に凄《すご》みが出た。
「ああいう跳ね上がりは、懲らしめないかんな。痛い目に遭ったほうがいい」
「ちょっと待ちなさいよ。わたしの大切な娘の亭主であることを忘れてもらっちゃ困る。可愛《かわい》げのないやつだが、孫が二人もおっていまさら別れさせるわけにもいかんよ。融通のきかないやつだが、そう莫迦《ばか》でもないんだ」
「不問に付すとは、あんた少し甘すぎないかね」
「口が酸《す》っぱくなるほど何度も言ってるが、千久とACBは運命共同体なんだ。どこがなにを書こうが、びくともしない。落としまえとか痛い目に遭わせるとか、おどろおどろしいことを言うのは、木下さんらしくないなぁ。もっと、でんと構えてなさいよ」
木下と佐々木は、幕の内弁当が運ばれてくる前に、これだけのやりとりをしていた。
松原から北野に電話がかかったのは、午後三時過ぎだ。
「一般紙は、まったく黙殺してくれてるが、経済誌は一流も二流も含めて、けっこううるさく電話をかけてきたよ。広報はノーコメントで押し通してるが、例の帝都経済≠煬ュ《や》り手の副社長が乗り込んできて、一時間もねばられたよ」
「一時間もねばられて、いったいなにを話したんですか」
「帝都経済≠ヘ、千久*竭閧ナ、SELECTION∴ネ上のネタを握ってるわけはないから、藤村主幹と中山頭取との対談をやりたいっていう要求だ。千久*竭閧ノ触れないことを条件にするから、超一流経済誌≠フ帝都経済≠ナ、単独インタビューをやらせろっていうわけよ。もちろん鄭重《ていちよう》にお断りしたけど、しつこいんだよなぁ。じゃあ、藤村―佐々木対談はどうかときた」
「狙《ねら》いはおカネですかねぇ」
「それはいくらなんでも口に出さなかったが、一年は長いですねぇ、なんて言ってたところをみると、一年後にまたひと騒動あるんだろうなぁ」
「断固押し返す手ですよ。早崎総務審議室長を前面に出せばいいんです」
「ほんと、SELECTION≠ノリークしたやつをぶんなぐってやりたいよ。ところで陣内副頭取とは、どんなふうだった」
松原は、SELECTION≠口にしたことで、陣内に連鎖反応した。それとも、電話してきた本題だろうか。
「部長にぶんなぐられかねない口ですよ」
「なんで」
「犯人扱いです。反証を出せなんて、ひどいことをよく言いますよ」
「北野をそんなふうに見るかねぇ。よっぽど人を見る目がないってことなのか、ちょっと心配だなぁ」
「ちょっとどころじゃありませんよ。濡衣《ぬれぎぬ》もいいところです。名誉|毀損《きそん》で訴えたいくらいですよ」
「北野も、リークしたやつをぶんなぐってやりたい口だな」
横井繁子の退職で、とりあえず佐々木最高顧問付になった佐藤弘子が席に戻って、北野のほうを窺《うかが》う目を向けてきた。
室長席は、空席だった。
「松原部長、あとでまた」
「あぁ。じゃあな」
北野が電話を切ると、佐藤が近づいてきた。
「最高顧問がお呼びですが」
「そう。いつ見えたの」
「一時間ほど前です。陣内副頭取と話されてました」
「陣内副頭取は、最高顧問室におられるの」
「いいえ。最高顧問お一人です」
「わかりました。すぐ行きます。平山さん」
北野は、椅子《いす》から腰をあげて、中山頭取付の女性秘書を呼び、背広に腕を通しながら、命じた。
「頭取は三時四十分に外出することになってますよねぇ。わたしも同行します。話が長びくようだったら、三時半に最高顧問室にメモを入れてください」
「かしこまりました」
北野が秘書室を出ると、佐藤が追いかけてきた。
「最高顧問は、近寄り難いほど怖い顔をしてました」
「原因はSELECTION≠ナしょ」
「麦茶かなにか、お持ちしましょうか」
「あんまり時間がないから、けっこうです」
北野が、ノックすると、「どうぞ」の声がすでに怒りを含んでいた。
佐々木は、まさしく阿修羅《あしゆら》の形相だった。
「SELECTION≠ヘおまえの仕業《しわざ》か」
投げつけるように言われたが、北野は一礼して、佐々木と向かい合うかたちで、ソファに腰をおろした。
「陣内副頭取にも犯人扱いされましたが、わたしはACBマンです。ACB再生のために躰《からだ》を張り、命がけで取り組んでるつもりです。ACBにとって、得にならず、損になることをするとお思いですか」
「おまえみたいなチンピラが躰を張ったところで、ドンキホーテみたいなもんだよ。わたしは、おまえのお陰で木下君に呼びつけられて、大恥をかいてきた。白状しなさい。おまえ以外に、こんな莫迦な真似《まね》をするやつが、ほかにおるとは思えんよ」
佐々木は、さぐるような目で北野をとらえた。
北野は、佐々木から目を逸《そ》らさなかった。
「わたしは、SELECTION≠フ記事とは、まったく無関係です」
「状況証拠は山ほどあるな。黄色いくちばしで千久*竭閧ナなんだかだ言っとったし、仙台のマンションのことも批判的だった。それに、このわたしを脅迫するほどエキセントリックでもある。おまえっていうやつは、どこまでひねくれてるんだ」
「わたしがSELECTION≠フニュースソースだとしたら、おっしゃるとおり、エキセントリックで、ひねくれてるやつだと言われても仕方がないと思います。しかし、だとしたら、とっくにカードを切ってるんじゃないでしょうか。お父さんを告発して、今日子や子供たち、それにお母さんを悲しませる、そんなことができるんでしょうか。そんな血も涙もないことができると思いますか。カードを切ると申し上げたのは、あくまでも駆け引きです」
「俺を手玉に取ったというわけだな」
「久山さんの死を悼んでいただきたかったのです。新生ACBにとって、あなたの存在は邪魔になると、久山さんも、わたしも思ってましたから」
佐々木は、阿修羅の形相で貧乏揺すりをしながら、口をつぐんでいたが、北野を指差した。
「おい!」
「はい。なんでしょうか」
「SELECTION≠ノ書かせたのは、おまえなんだろう」
北野は喉《のど》の渇きを覚えた。こんなことなら、佐藤弘子に麦茶を頼むんだった。
「最高顧問まで、わたしを犯人扱いとは、ショックです」
「木下君は、犯人はおまえだって決めつけていた。陣内は、限りなく黒に近い灰色だと言っとった。わたしも、おまえのやりそうなことだと思う」
「神に誓って申し上げます。わたしではありません」
北野は時計に目を落とした。三時半まであと四分ある。だが、平山のメモを待つまでもないと思った。
「時間がありませんので、失礼させていただきます」
「ちょっと待て! 話はまだ終わってないぞ!」
「外出の時間が迫ってます」
「雨宮か誰かに替わってもらえ。これから、おまえの査問委員会を開く」
「ご冗談を。査問委員会でも調査委員会でもなんでもやってください。しかし、あなたに査問されたり、詰問される覚えはないと思います。ご自分のお立場をお考えください」
ここまで言うか、と北野はわれながら呆《あき》れていた。
北野は、起立して、佐々木に一礼した。
「失礼しました」
佐々木は、怒り心頭に発し、たるんだ頬《ほお》をぶるぶるふるわせていたが、言葉を発しなかった。
最高顧問室を退出して、歩きながら、北野がつぶやいた。
「エキセントリックねぇ。ひねくれてるか。言われても仕方がないな」
北野は、佐々木に言い過ぎたことを少し気にしながら、秘書室に戻った。
6
この夜、北野は十一時過ぎに帰宅した。205号室のドアの隙間《すきま》にグレーの封筒が差し込まれてあるのに気づいて、北野はそれを抜き取った。
手紙にしては、妙な手ざわりだった。
薄明りの中で瞳《ひとみ》を凝らすと、封筒の手書きの宛名《あてな》は「山崎商工KK・青木殿」と読み取れた。住所も、山崎商工の本社所在地である。
ブルドーザーなど建設機械の大手メーカー名が封筒の表の下に横書きしてあった。
山崎商工は、朝日中央銀行京橋支店の取引先だ。同社は、電線メーカー大手の山崎電工の一〇〇パーセント子会社で、山崎グループの商社部門である。千久≠ニ取引関係にある、と考えてさしつかえない。
山崎電工のメイン・バンクは朝日中央銀行だ。
北野は、肩に背負《しよ》っていたスーツの内ポケットに封筒を仕舞ってから、階段を降りて、マンションの外に出た。
マンションの周囲をゆっくり一周したが、人影はなかった。
オートロックのマンションだから、居住者とその来客者以外は中には入れないが、誰かが入ったすぐあとから、居住者のような顔をして侵入することは不可能ではない。
北野は205号室に戻った。
「ただいま」
「お帰りなさい」
リビングで今日子がテレビのCNNを見ていた。
「なにか変わったことなかったか」
「とくにないけど。どうして」
今日子はテレビのボリュームを落として、北野を見上げた。
「雑誌に、変なことを書かれて、みんなナーバスになってるんだ」
「変なことって、あなたに関係あるの」
「多少はな。僕の名前も、親父《おやじ》さんの名前も出てたが、気にし出したらきりがないよ。たいしたことじゃないしね」
「なんていう雑誌なの」
北野は、返事をせずに訊《き》いた。
「警察のパトロールは続いてるんだろう」
「ええ。お陰で、ここんとこ変な車や変な人がマンションの周りをうろうろしてることはないわ」
北野は、おかしな男に尾行されたことが一度だけあった。深夜の無言電話や、不審な黒塗りのセダンがマンションの玄関前に駐車するなどの厭《いや》がらせも受けた。ACBは総会屋などの反社会的勢力と絶縁したため、秘書役の北野までが、厭がらせの標的にされた。
一時、今日子に桜ヶ丘駅までブルーバード≠ナ迎えに来てもらったが、一週間とは続かなかった。
「それなら安心だ。シャワーを浴びてくるよ」
北野は、リビングから寝室へ移った。そして室内灯を点《つ》けて、さっきの封筒の中身を見た。
細い針金状のものが何重かに巻きつけてあったが、よく見るとピアノ線だった。長さは五十センチ弱。
『大辞林』によると「炭素を〇・六〜〇・九五パーセント含む硬鋼線。ばねやピアノなどの楽器の弦のほか、コンクリート補強用、長大橋のケーブルなどに用いる」とある。
ピアノ線で俺《おれ》を絞め殺してやる、っていうわけか。それとも、ブルドーザーでひき殺す、も、あり得るか――。青木殿≠チてなんだろう。佐々木の愛人、青木伸枝と関係があるのだろうか。佐々木に対するメッセージも込められているのだろうか。考え過ぎかな。
千久≠フ厭がらせ第一弾であることは疑う余地がない――。
ヤクザじゃあるまいし、本気で俺を手に掛けたりするだろうか。
しかし、少なくとも、おまえを監視している、という警告、と考えるべきだろう。
今日子に話すのはやめよう。佐々木と千久≠フ関係を考えれば、今日子や子供たちが狙《ねら》われることはあり得ない。
千久の木下は、SELECTION¢、にリークした犯人を俺だと思い込んでいるらしい。だからといって、こんな子供っぽい厭がらせをするだろうか。
しかし、頭に血をのぼらせたときの人間はなにをするかわからない。
バスルームでシャワーを浴びているときも、北野は考え続けた。
問題は警察に届けるかどうかだ。届ければ今日子や子供たちにも伝わる。おまえたちは安全だと説明して、説明できないことはないが、動揺するだろう。警察|沙汰《ざた》はよそう。
総務審議室長の早崎と相談する手だな。早崎の意見を聞こう、と北野は思った。
それにしても、千久の木下ともあろう男がここまで過激な行動に出るだろうか。
木下は一流私大出のインテリでもある。マスコミに顔を出すことを極端に嫌い、闇《やみ》将軍的な存在だが、俺のようなチンピラにこれほどまでにむきになるだろうか。仮りにSELECTION≠ノリークした犯人が俺だとしても、やり過ぎだ。
千久出向を拒んだことを、怒っているとしても、だとしたら、なんとも小心な男ではないか。
翌日の午後二時に、北野は総務審議室に出向いた。中山頭取が会議で長びくことがわかっていたし、早崎の在席も電話で確認した。
応接室のソファで、北野と早崎がワイシャツ姿で向かい合った。
「こんなものが、昨夜、マンションのドアに挟んであった」
「山崎商工KK・青木殿。なんだこれ」
「中身を見てくれよ」
「ピアノ線じゃないか」
「家内の話だと、息子が帰宅したのは、午後九時前。俺が帰宅したのは十一時ちょっと過ぎだ。つまり二時間ほどの間に、誰かがマンションに侵入したことになる。三十世帯ほどのマンションだが、住人に青木という名前の人は存在しない」
「千久≠フ仕業かねぇ」
早崎は当然SELECTION≠読んでいたし、北野犯人説も聞いていた。
「千久≠ヘピアノ線で俺を絞め殺したいってことかねぇ。過剰反応もきわまれりだよ」
「すぐ警察に届けたほうがいいな。北野家はマルタイ≠ナ警察の保護対象になってるんだから、最寄りの交番でいいよ」
「ちょっとオーバーなんじゃないか。家内や子供たちがナーバスになるから、できたら、放っておきたいが。厭がらせっていうか、千久≠舐《な》めたらあかんよ、ぐらいの威《おど》しと思うけど。俺は、護身用にこんな物をズボンのポケットに忍ばせてるんだが」
北野は照れくさそうに、ハンカチに包んだ物をセンターテーブルに置いた。
それは、七センチほどの小型のドライバーだった。
「おまえ、なに考えてんだ。立派な凶器じゃないか。先が尖《とが》ってるから、心臓をぶすってやったら、人を殺すことだって可能だぞ」
「オーバーなこと言うなぁ。いざっていうときのほんの護身用だよ」
「水鳥の羽音に驚いて、過剰反応することもあり得るからな。見ず知らずの男に声をかけられて、これを振り回さないっていう保証はない。冗談じゃないぞ。千久≠フ仕業かどうかもわからんが、ナーバスになってるのは北野じゃないか。俺の言うとおりにしろ。交番に届ける。これしかない」
早崎は断定的に言って、もう一度、ピアノ線を手にした。
「女房に話すのがめんどくさいからねぇ」
「SELECTION≠読んでもらったら、いちばんわかりやすいよ。おまえが濡衣《ぬれぎぬ》だってことも、奥さんなら、理解できるし、佐々木さんのお嬢さんや、お孫さんを千久≠ェ攻撃するわけがない。北野も然《しか》りだ。単なる厭がらせに過ぎないと思うけど、一応交番に届けるべきだよ」
「わかった。早崎の忠告に従うよ」
「聞き分けがいいじゃないか。千久≠ネんか、どうでもいいとは言わないけど、片山はどうなっちゃうんだ」
早崎も、片山のことが気がかりなのだろう。
「うん。きょう石井さんも、西田も、検察に呼ばれてるらしいねぇ。片山は連日のようにしぼられてるって聞いたが、きみの言うとおりだよ。千久≠ノかまけてる場合じゃないよな」
早崎がにやっとした。
「北野を査問委員会にかけろって、わめいてる人がいるらしいが、莫迦《ばか》言っちゃあいけないよなぁ」
「誰がそんなことを」
「某副頭取とか聞いたけど」
「冗談だろ。本気でそんなこと考えてるとしたら、世間のもの笑いのタネにされるだけだ」
「おまえ、ほんとに濡衣なんだろう」
「早崎がちらっとでもそんなことを考えてるとしたら、きみの胸をこのドライバーで突き刺すぞ」
北野は冗談めかして言い返したが、早崎が真顔になった。
「な。水鳥の羽音に驚くっていうのは、こういうことなんだよ」
「あははははっ。早崎には負けるよ」
北野は吹き出した。
二日後、八月八日の午後、北野浩に宛《あ》て速達郵便が届いた。差出人は、頭取の中山公平。住所も麻布の頭取公邸所在地だった。
速達を受け取ったのは、義母の佐々木静子だった。
市販の白い角封筒が二重になっていて、なんの変哲もない速達郵便だったが、静子も中山がACBの頭取であり、頭取秘書役が北野であることを承知していたので、何度も首をかしげた。
しかし、手紙で意思を伝えることはあり得るし、口では言えないことを私信に託しても不思議ではない。これが逆に秘書役から頭取へ、ならもっとわかりやすいが、こういうこともあり得ないとは思えなかった。静子は、そんなふうに考えて、速達郵便を食卓の上に置いておいた。
午後六時に学習塾から帰宅した今日子が速達郵便に気付いた。
「これ、なぁに。ちょっと変ねぇ。お母さん、速達何時ごろきたの」
「二時ごろだったかしら」
今日子は、北野の携帯≠ノ電話をかけた。
北野は在席していた。
「はい。北野です」
「あなたに、中山公平さんから速達が届いてるけど、こういうことって、あるのかしら」
「おかしいなぁ。考えられないよ。宛名は手書きか」
「すべてワープロ。開封していい」
北野は一瞬、躊躇《ちゆうちよ》した。
「重さはどのくらいあるの」
「ごく普通っていうか、二〇グラムはないと思うけど」
「じゃあ、危険はないね。開封して」
「ちょっと待って」
コードレスの受話器がテーブルに置かれたらしい。コトッという音が北野に聞こえた。
「あっ、あなた、大変よ。カミソリの刃が一枚、パラフィン紙に包まれて入ってた。白紙の便箋《びんせん》三枚が四つにたたまれて……」
今日子の声がふるえている。
千久♂}《いや》がらせの第二弾だ。もっとも、これとて推量の域を出ない。
「どうする。警察に届けたほうがいいかしら」
「心当たりがないでもない。僕にまかせてくれ。たいしたことじゃないと思うけど。ただの厭がらせだろう」
「総会屋とか、ヤクザとか、そういう人たちからなの」
北野が声をひそめた。
「そんなに怖い人たちじゃないと思うけどねぇ。いずれにしても、きみや子供たちには関係ないと思うよ。北野浩個人に対する見当外れの恨みによる厭がらせだろうな。今夜は九時に帰宅できると思う。帰ったら、理由《わけ》を話すよ。お母さんや、子供たちには黙ってたほうがいいな」
「母はここにいるわ。顔を真っ青にしてぶるぶるふるえてる」
「まずかったなぁ。ほんとうに、たいしたことじゃないんだ。子供たちには話すなよ。じゃあ、忙しいから切るよ」
北野は電話を切って、考える顔になった。
雨宮が声をかけてきた。
「顔色が悪いぞ。なにかあったのか」
上司の雨宮には話すべきかな、と北野は思ったが、答えは逆になった。
「たいしたことじゃありません。SELECTION≠フ記事のことで、ちょっと」
雨宮が早とちりした。
「北野犯人説がACBでも一人歩きしてるから、ほんと、困るんだよなぁ。奥さんにまで、変な告げ口してくるのがいるんだろうねぇ」
「広報なり総務審議室が対応すべき問題と思いますけどねぇ。ちょっと早崎に会ってきます」
早崎は在席していた。
「ピアノ線の次は、カミソリの刃か。しつこいねぇ。警察には届けたんだろうな」
「いや。まだだ。女房に話しそびれちゃって」
「おまえ、どうかしてるぞ」
「うん。こんどは早崎の忠告に従うよ」
「秘書室長に話したのか」
「いや」
「ということは頭取にも話してないんだな」
「もちろん。頭取をわずらわせるような問題じゃないよ」
「そうかなぁ。俺は、頭取の耳にも入れるべき、大問題だと思うけど」
「ま、もう少し様子をみるよ。厭がらせにしては悪質だけど、殺されることはないだろう」
北野は、ほんの立ち話で、早崎と別れた。
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第二十四章 闇社会
1
八月十八日月曜日の午前十時を過ぎたころ、ACB秘書室に中年男性らしい横柄な口調で電話がかかった。
若い女性秘書が受話器を取った。
「石川の代理の者だが、佐々木さんと至急連絡を取りたい。秘書室長はおるの」
「失礼ですが、どちらの石川さまでございますか」
「元総理の石川真だ」
「失礼しました。少々お待ちください」
女性秘書が、電話をメロディ入りの保留にして、北野を呼んだ。雨宮は夏休みを取っていた。
「北野秘書役、石川真代議士の代理のかたから佐々木最高顧問と至急連絡を取りたいと電話がかかってますが。秘書室長はおるのかと、おっしゃってます」
「出ましょう……」
北野が受話器を右耳に当てた。
「秘書役の北野と申します。雨宮はお休みをいただいておりますが」
「北野さん。ああ、佐々木さんの娘婿だね」
「恐れ入ります。失礼ですが、石川先生の代理のかたとおっしゃいますと……」
「秘書の吉井だよ。石川が至急、佐々木さんと会いたいと言ってる。今夜にでもどうかと。佐々木さんがおるようなら、電話に出てもらおうか。もちろん、わたしは佐々木さんとは何度も会ってるが」
「佐々木も夏休みでおりませんが、連絡は取れると存じます。佐々木から折り返し、吉井さまにお電話を差し上げるということでいかがでしょうか」
「わかった。午前中は石川の私邸におるけど、電話番号は知ってるの」
「恐縮ですが、お聞かせください」
北野は、石川邸の電話番号をメモした。
「ありがとうございました」
「大至急、お願いする」
「承知しました」
北野は、電話を切ってから、椅子を半回転させた。
佐々木の辞任問題はSELECTION≠フスクープによって、未決着のままだ。佐々木が中山頭取に提出した辞表は、頭取デスクの抽《ひ》き出しの中にあるが、正式に受理されたことになっていなかった。また千久最高顧問就任も辞退したのかどうか、曖昧《あいまい》になっていた。千久の木下社長が、猛反発したからだ。
北野に対する千久¢、の厭《いや》がらせは、目下のところ第二弾で止まっているが、北野家の緊張状態は続いていた。
北野は、ACB行内でSELECTION≠ノリークした犯人視されていた。リークした人が犯人は自分だと名乗り出ない限り、北野の濡衣《ぬれぎぬ》が払拭《ふつしよく》されることはないかもしれない。夏休みシーズンなので、顕在化していないが、そのうち、陣内や森田が千久≠フ意を体《たい》して問題を蒸し返してくる可能性もある。少なくとも北野はピンチを脱してはいなかった。
いわば、北野は窮地に立たされていたと言える。
しかし、中山頭取も雨宮取締役秘書室長も北野犯人説に懐疑的だったので、秘書室の雰囲気はちょっと違っていた。
佐々木最高顧問付の秘書になった佐藤弘子などは、目を吊《つ》り上げて陣内や森田を批判していた。北野は秘書室の中で孤立していなかっただけ、救われる。
椅子《いす》の位置を戻して、北野が「佐藤さん」と、手招きした。
「はい」
佐藤が、秘書役席の前に立った。
北野はデスクに上体を乗り出して、小声で言った。
「お聞きのようなことなんですが、佐々木最高顧問と連絡を取ってください。箱根山≠セと思います。応接室から電話をかけて、吉井秘書と至急連絡を取るように伝えてください。石川先生と直接話してもらうのが、よろしいかもしれませんねぇ」
北野は、電話番号を書き取ったメモを佐藤に手渡した。
「かしこまりました」
佐藤は、にこっと微笑《ほほえ》みかけてから、北野に背を向けた。
佐々木は、ずっと一葉苑≠ノ居続けていた。
秘書の佐藤弘子から電話を受けた佐々木は、直ちに石川邸に電話をかけた。
「朝日中央銀行の佐々木ですが、石川先生をお願いします」
佐々木は二十秒ほど、トルコ行進曲のメロディを聞かされたが、石川が直接電話に出てきた。
「もしもし石川だが……」
「石川先生、ご無沙汰《ぶさた》しております。ご健勝でなによりに存じます。お電話を頂戴《ちようだい》しましたが、なにか」
「佐々木さんも大変だねぇ。雑誌、読んだよ。わたしのところにも、いろいろ言ってくるのがおるけど、ちょっと話しといたほうがいいかねぇ。今夜どうなの」
「先約がございますが、ほかならぬ石川先生ですので、キャンセルします」
「七時にむら田≠ナ会おうかねぇ」
「けっこうです。わたしのほうで幹事をやらせていただきます」
「それには及ばない。声をかけたのはわたしなんだから」
「そうおっしゃらずに」
「いいから。わたしにまかせなさいよ」
石川の強い口調に、佐々木はたじたじとなった。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
「じゃあ、七時に会おう」
ぷつんと電話が切れた。
むら田≠ヘ、赤坂《あかさか》の一流料亭だ。
佐々木は、石川がなにを言いたいのか気になって仕方がなかった。むろん断るわけにはいかない。
政界のみならず、官界、財界にも隠然たる影響力を保持し続けている石川から、直々《じきじき》にお座敷がかかったのだ。
佐々木は、石川と電話で話した直後に、佐藤弘子に電話をかけた。
「石川真元総理と、赤坂のむら田≠ナ今夜七時に会うことになった。今夜は帝国ホテルに泊まるから、予約を頼む。それと車の手配をな」
「かしこまりました」
佐藤は、佐々木の電話の内容を北野に報告した。
「石川真さん、最高顧問にどんな用件があるんですかねぇ。この時期、お会いして損することはあっても、得することは、ないような気がしますけど」
「同感ですわ。むら田≠ナお会いするそうです」
「むら田≠フ予約は、秘書室でするんですか」
「最高顧問から、そういうご指示はございませんでした」
「ふうーん、そうなんですか。しかし、請求書は秘書室に来るんでしょうねぇ」
「さぁ。どうなんでしょうか」
北野は厭な予感を募らせながら、中山の耳に入れておく必要がある、と思った。
昼食の直前に、北野は頭取室に入った。
話を聞きながら、中山はしかめっ面で小首をかしげた。
「千久≠ェらみじゃなければいいがねぇ」
「はい。石川元総理ほどのかたが、首を突っ込んでくるんでしょうか」
北野は石井企画部長の顔を目に浮かべていた。「首を突っ込むな」と何度言われたかわからない。北野は千久≠フ厭がらせについて、中山に話していなかった。SELECTION≠ナ濡衣を着せられているうえに、ピアノ線とカミソリを送り付けられる悪質な厭がらせを受けた以上、もっと首を突っ込んでやらなければ、気が済まない、とすら思っていた。
「わたしもそう思いたいが、心配ではあるな」
「出過ぎていることは重々承知してますが、佐々木最高顧問の辞表は受理されたことになるんでしょうか」
中山は顔をしかめた。
「陣内によると、千久≠ヘ、佐々木さんを諦《あきら》めてないらしいんだ。佐々木さんも、身動きが取れないらしい。まだ休戦状態っていうことになるのかねぇ」
「…………」
「その後、佐々木さんには会ったの」
「いいえ」
「存念のほどを訊《き》いてもらいたいなぁ」
「はい。石川元総理のことも気になりますので、あすにでも、佐々木最高顧問に会うように致します」
2
その夜、約束の十分前に、佐々木の専用車がむら田≠フ玄関前に横付けされた。
石川真元総理が、中年の男二人を従えてむら田≠フ広間にあらわれたのは、七時五分過ぎだ。二人とも目付きが悪かった。申し合わせたように黒々とした総髪だ。
「石川先生、お招きいただきまして、ありがとうございます」
「挨拶《あいさつ》は抜きにしよう。佐々木さん、いい人を紹介させてもらうよ。細川君と江木君だ。二人とも、あんたのことを心配しててねぇ」
「細川でございます。よろしくお願いします」
「初めまして。江木です。よろしくお願いします」
二人が名刺を差し出した。二枚とも、通常の二倍近い大ぶりの名刺である。
細川一男の肩書は国際環境開発科学研究所 管理本部長=B江木久慶は新生経済懇話会理事長=B
佐々木は厭な予感がした。
しかし、元総理に紹介されたら、名刺を出さないわけにはいかない。
「朝日中央銀行の佐々木です。よろしくお願いします」
床柱《とこばしら》を背に、石川と細川、石川の前に佐々木、細川の前に江木が座った。
朱塗りのテーブルは、掘炬燵《ほりごたつ》式で脚が楽だ。いまどきの料亭はどこもかしこもそうなっている。
「脱がしてもらうよ」
石川が茶色の背広を脱いだので、三人ともそれに続いた。細川は焦茶、江木は太いストライプの黒。佐々木は濃紺。
「ACBも大変なことになっちゃったねぇ。検察のガサ入れがある前に、ちょっと相談してもらうとよかったんだが」
「石川先生、その点はわたしも迷ったんですが、顧問弁護士たちは、強制捜査はあり得ない、という見方で一致してましたからねぇ」
「金融システムを揺るがしかねない大問題だし、起訴まで、もっていけなかったら、検察の大失態になるから、検察の上のほうは相当慎重だったんじゃないかねぇ。下のほうの検事は張り切ってたようだけど。しかし、もう手遅れだな。特捜部は自信を深めたようだ。久山君の自殺は衝撃的だったねぇ。逮捕される当日の朝、首を吊《つ》るっていうのも、久山君らしい、潔《いさぎよ》い散り際だよ」
「佐々木先生は大丈夫なんですか」
江木が左側に首をねじった。
石川がにやりとして、佐々木に顎《あご》をしゃくった。
「この男は強運の持ち主だからねぇ。手が後ろに回ることはないよ」
「恐れ入ります。わたしは正々堂々たるものですよ。久山と今井には、常々注意してたんですが」
女将《おかみ》が挨拶に顔を出した。五十二、三だろうか。切れ長の目のせいか、鼻っ柱が強そうな女に見える。むろん、佐々木は面識はあるが、江木と細川は初対面だった。
女将と仲居が四つのグラスにビールの酌をした。女将は、石川と佐々木に、仲居は江木と細川に。
「石川先生と佐々木先生の益々《ますます》のご健勝をお祈りして、乾杯!」
大音声《だいおんじよう》を発したのは、江木だった。
「乾杯!」
細川も負けずに大声を放った。
「うん」
「どうも」
石川と佐々木は軽く会釈して、グラスを目の高さに掲げてから、一気にビールを乾した。
「女将、吉井から聞いてると思うが、わたしに限って料理は半分でいいぞ。つまらん会で、腹は出来てるんだ。内緒話だから、奇麗所《きれいどころ》は遠慮してもらおうか」
「石川先生、それも承っております」
女将と仲居が退出したのを見届けてから、石川が言った。
「ACBは、そろそろ幕引きだよ。特捜部は大蔵省を狙《ねら》ってるらしいな。あんまりやり過ぎるなと釘《くぎ》を刺してはあるが、多少のことはしょうがないんだろうなぁ」
江木の酌を受けながら、石川が話をつづけた。
「そんなことより、あんたのことが心配なんだ。細川と江木がご注進に及んでねぇ」
「わたしになにか、ございますか」
佐々木は無理に笑顔をつくって、細川と江木に目を遣《や》った。江木がにやっとした目を佐々木にくれた。
「SELECTION≠ネんかに、あんな書かれ方をしたら、誰だって心配しますよ。佐々木先生は千久の木下社長とは、ご昵懇《じつこん》と聞いておりますが」
「元大物総理のように、刎頸《ふんけい》の友とまでは言いませんがね。木下君とは、旧い仲です」
おつくり、炊き合わせなどの料理と銚子が広間に運ばれてきた。
「江木も細川もゼネコンとデベロッパーにはけっこう強いほうでねぇ」
中年の仲居が白磁の猪口《ちよこ》をテーブルに並べた。
石川は、猪口で酌を受けて、ちびりとやって、話をつなげた。
「千久なんて会社、わたしは知らなかったが、ACBほどの銀行が振り回されてるとなると、木下っていう男は、相当なタマなんだねぇ」
佐々木が仲居の酌を受けて、猪口をテーブルに置いた。
「木下君はなかなかの出来ぶつですよ。亡くなった牧野さんにも、可愛《かわい》がられてました。お言葉を返すようですが、ACBは振り回されてなんかおりません。ACBと千久は運命共同体で、相互に補完し合い、共に繁栄していかなければならない仲なんです」
「ふうーん。だけど、人事にもうるさく口出しするそうじゃないの」
「石川先生ほどのかたにご関心を寄せていただいたことにつきましては、大変光栄に存じますが、どうか千久のことはご放念ください。この佐々木におまかせ願いたいと存じます」
佐々木は、右手を胸に当てた。
江木が佐々木のほうへ首をねじった。
「佐々木先生、ご無理なさらないで、なんなりと相談してくださいよ。細川君と二人がかりなら、木下社長を黙らせることぐらい朝めし前ですから」
「ありがとうございます。お気持ちはありがたくお受けしますが、それには及びません」
細川が残りのビールを手酌で、ぐっとやってから、佐々木を鋭い目でとらえた。
「われわれが調べた限りでは千久の見かけは悪くないが、粉飾決算の疑念も捨て切れませんねぇ。平成九年十二月期も、経常で約十億円、利益も五億円ほど見込んでるようですが、相当、背伸びしてるのと違いますか。財務体質は決して、よいとは言えませんよねぇ。千葉も、仙台も、デベロップで苦戦してるようじゃないですか。ACBさんが、手を引いたら、一巻の終わりでしょうが」
佐々木はすかさず言い返した。
「当節、ゼネコン、デベロッパーは、どこもかしこもバブルの清算に追われて四苦八苦してますよ。そんな中で千久は健闘してるほうなんじゃないですか」
「バブルの清算って言えば、いっとう四苦八苦して、のたうってるのが銀行だろうねぇ」
石川がまぜっかえすと、佐々木は真顔でうなずいた。
「おっしゃるとおりです。銀行は、ゼネコンやデベロッパーを弊履《へいり》のごとく捨てるわけにはまいりません。のたうちながら懸命に支えておるんです」
「そのとおりだ。ACBは検察に踏み込まれてまで、総会屋を応援しちゃうくらいだから、ゼネコンやデベロッパーを支援し続けるんだろうねぇ」
「先生、そんな皮肉をおっしゃらないでくださいよ。銀行は、与党のために、選挙のたびに大変な協力をさせていただいてます」
言われっ放しにしなかったのは、さすが佐々木である。
「うん。おっしゃるとおりだ。佐々木君、ACBは体力があるんだから、なんとかもちこたえるだろう。しかし、わたしでお役に立てることがあったら、なんなりと遠慮なく言ってきたらいいな。それと、細川と江木は使えるよ。なにかのときに力を貸してくれるはずだ。頼りになるよ」
「よろしくお願いします」
佐々木は、江木と細川に低頭した。元総理にここまで言われたら、頭を下げるしかない。
八時過ぎに女将がふたたび広間に顔を出した。
「石川先生、お電話が入っておりますが」
「誰から」
女将は石川にメモを手渡した。
「そうかそうか。忘れとった。すまんが、わたしは、これで失礼する。あんたたち、ゆっくりやってってください」
「わたしもこれで」
腰を浮かしかけた佐々木を、石川は手で制した。
「そう言わずに」
佐々木は、石川抜きで正体不明の江木や細川とこれ以上話す気にはなれなかったが、とりあえず腰をおろした。
石川元総理が退席したのをしおに、佐々木は「うちみずに」と言って、トイレに立った。そして退席するつもりだったが、江木も「ツレションといきます」と、佐々木に続いた。
広間のせいだろう。小水用便器が二つあった。
放尿《ほうによう》しながら、江木が佐々木に話しかけてきた。
「佐々木先生、相変わらずお盛んのようですねぇ」
「なんのことですか」
実際、佐々木はなんのことだか意味がわからなかった。
「コレに決まってるじゃないですか」
江木が右手の小指を突き出した。
「なにをおっしゃるかと思えば……。用を足すだけで、そっちのほうの機能はとっくに喪失してますよ」
「ご冗談を。青木伸枝さん、お元気ですか。別嬪《べつぴん》さんですよねぇ。先生も幸せな人ですね」
佐々木は、しずくを切りながら、ドキッとした。
江木が、俺《おれ》と青木伸枝との仲を知っているとしたら、油断できない。いや、とんでもないやつと考えなければならない。
佐々木は手を洗いながら無表情をよそおって、訊《き》いた。
「一葉苑≠ご存じですか。わたしはひいきにしてますが」
「あんな高級旅館は縁がないですよ。ふた昔、いや、もっと前ですかねぇ。川上多治郎先生に連れてってもらった新橋《しんばし》の料亭で、芸者やってたんです。源氏名《げんじな》は、たしか秀香《ひでか》≠カゃなかったですか」
「初耳です」
「カワタジ先生は、ご自分が水揚げしたようなことをおっしゃってましたけど」
「それも初耳ですなぁ」
佐々木は秀香≠フ話は聞いていたが、青木伸枝にとって、かのカワタジが初めての男なんて聞いたことがなかった。佐々木の顔色が変わるのも仕方がない。
広間に戻っても、江木は青木伸枝に固執した。
「佐々木先生はほんと幸せですよ。夜な夜なあんな別嬪を抱けるんだから」
「江木君、佐々木先生となんの話してるの」
「一葉苑≠フ女将の話だよ」
「あぁ、青木伸枝さんねぇ」
「佐々木先生も果報者だけど、青木伸枝さんは先生みたいなパトロンに恵まれて、もっと幸せなんじゃないですか」
「あんたたち……」
佐々木が色をなした。
「初対面のわたしに向かって、失礼とは思わんのかね。青木伸枝さんに対しても、そうだ。だいたい、誰に吹き込まれたのか知らんが、誤解もいいところだ。言いがかりじゃないですか」
江木がテーブルから離れて、叩頭《こうとう》した。
「失礼の段お許しください」
細川も畳に這《は》いつくばった。
「失礼致しました。貧乏人の僻《ひが》み根性と思ってください」
猿芝居としか言いようがない。佐々木が、なにか魂胆があると思って当然だ。
佐々木は手酌で、酒を二杯三杯とたて続けに呷《あお》った。
「早く手をあげなさいよ。仮りにも、あんたたちとは、石川元総理の紹介でお会いしたんじゃないですか。石川先生の体面というものがあるでしょうが。だとしたら、言いがかりみたいなことは、言わんほうがいいですよ」
江木と細川がテーブルに戻った。
二人とも、けろりとした顔だ。肚《はら》の中で舌を出しているに違いなかった。
「奇麗所を呼んでもらいますかな」
「先生、いいですねぇ」
佐々木が、開手《ひらて》で、仲居を呼んだ。仲居が駆けつけてきた。
「奇麗所を三人ほどお願いする。美奈子がおったら呼んでもらおうか」
美奈子は、それこそ赤坂で一、二を争う美人芸者で聞こえていた。
佐々木は、美奈子を帝国ホテルのスウィートルームに呼ぶ気になっていた。
美奈子とむつみ合ったのは五月何日だったか。あれから二カ月以上経つ。
「奇麗所が来る前に、佐々木先生に折り入ってお願いがございます」
江木がゴルフ焼けで、黒びかりしたひたいをテーブルにぶつけそうになるほど低頭した。江木は「話しづらい」と言って、細川の隣に席を替えていた。
佐々木は身構えた。ゆすり≠ゥ、たかり≠ゥ、それともその両方か、と予期していたが、早くも正体をあらわそうとしている。
「朝日中央銀行さんは藤山建設のメイン・バンクで、役員も派遣してましたが、ごく最近、役員を引き上げ、融資についても見直しを始めていると藤山社長からお聞きしました。佐々木先生のお力添えで、ぜひとも再考していただきたいと存じまして」
藤山建設は東京証券取引所一部上場の中堅ゼネコンで、二代目のオーナー社長の藤山和平と佐々木は近い関係だ。
「あなたたち、わたしに力を貸してくれるんじゃなかったんですか」
佐々木は皮肉っぽく言いながらも、内心なんだそんなことか、と少しホッとしていた。
「新執行部になってから、融資先の選別が厳しくなってます。藤山建設の本山副社長が六月二十七日付で辞任したことはご存じでしょうか」
「もちろん知ってますよ。本山はわたしの頭取時代に総務部長をやってた男ですから。しかし、融資の見直しについては聞いてませんねぇ。お二人は、藤山建設なり、藤山君とはどういう関係なんですか」
「株主です。ただし、総会屋ではありませんけど。百万株ほどもってますが、相当な含み損が出てますよ。なんせ、百円そこそこまで株価が暴落してますからねぇ。ACBさんに融資を止められたら、只《ただ》の紙屑《かみくず》になってしまいます。藤山建設は確実に倒産しちゃいますからねぇ。佐々木先生、助けてくださいよ。お願いします」
今度は細川がテーブルに両手を突いて低頭した。
佐々木が、江木に目を流すと、鋭い目で見返してきた。
先刻の猿芝居はなんだったのか、と訊きたくなるほど剣呑《けんのん》な目だった。
「佐々木先生は、ゼネコンやデベロッパーを弊履のごとく捨てずに、懸命に支えてる、と元総理の前で言われたが、ACBのやってることはまったくその逆ですよ」
「わたしは経営の一線を退いて久しいが、どういうことになってるのか、よく調べてみますよ」
江木が絡み付くような目で、佐々木をとらえた。
「佐々木先生は、ACBのドンでしょうが。千久だけに目配りするなんて、おかしくないですか」
「失礼だが、江木さんと藤山建設の関係はどういうことなの」
「わたしが主宰してる雑誌のスポンサーです」
「新生経済公論≠ナす。佐々木先生はご存じありませんか。江木君は、編集には口出ししてないほうですが、営業には力を入れてます」
佐々木は、新生経済公論≠ネど見たことも読んだこともなかったが、曖昧《あいまい》にうなずいた。
「編集が、先生と青木伸枝さんの関係を記事にしようとしてるんですよ。わたしは、必死に抑えてますが」
ゆすり≠ェ始まったな、と佐々木は思ったが、顔には出さなかった。
「また、言いがかりですか。記事にされる覚えはありませんな」
「江木君、それはもういいじゃないか。佐々木先生には藤山建設を支援していただければそれで充分でしょう」
細川が江木をたしなめたが、二人がつるんで、掛け合いをやっていることは明瞭《めいりよう》だった。
「藤山建設の件は、石川元総理もご存じなんですか」
細川が佐々木の猪口に酌をしながら答えた。
「もちろんです。藤山社長が石川先生に泣きついたんですよ。それで、こういう席を設けてくださったんです」
「この席は、わたしが幹事をやらせてもらいますよ。奇麗所を呼んでることでもありますしね」
佐々木が冗談まじりに言ったとき、芸者の嬌声《きようせい》が聞こえた。美奈子の声も交じっている。
佐々木の頬《ほお》がでれっとゆるんだ。
3
八月十九日火曜日の朝九時二十分に、北野は帝国ホテルのスウィートルームに佐々木を訪問した。
ドアをノックすると、女性の声が聞こえた。
ドアが開き、バスローブ姿の女性が顔を覗《のぞ》かせた。
美形で、グラマーだった。年齢はわからないが、三十五、六だろうか。北野は部屋を間違えたかと思った。
「あら、ルームサービスじゃなかったの」
「どうした」
女性の背後で佐々木の声がした。
「おはようございます。北野ですが」
風呂《ふろ》上がりなのだろうか。浴衣《ゆかた》姿の上気した佐々木の顔が見えた。
「おまえか。アポもなしに、こんなに早い時間になんだね。失礼とは思わんのか」
不意を衝《つ》かれても、動じないところはさすがだった。しかも、娘婿に女性同伴の現場を目撃されたのだ。鉄面皮にもほどがある。
逆に、北野のほうがうろたえていた。
「アポを取らなかったことはお詫《わ》びしますが、この時間でしたら、失礼にはならないと思いました。出直します。何時に伺ったらよろしいでしょうか」
「用向きを言いなさい」
「立ち話もなんですので……」
事情を察した美奈子が、しゃあしゃあと言ってのけた。
「佐々木先生、お食事はご遠慮致します。お話は充分聞かせていただきましたので、わたくしは失礼します。シャワーを使わせていただいて、助かりました。ありがとうございました。お客さま、どうぞお入りになってください」
「銀行の秘書ですよ。気が利かんで困る。たしかに話はすんだが、ほんとうに食事はよろしいのか」
「はい」
女性は、ベッドルームに消え、帰り支度にかかったらしい。
スウィートルームなので、ベッドルームの中までは見えないが、北野にも想像はつく。
「入りなさい」
「失礼します」
北野は、リビングルームのソファで佐々木と向き合った。
「ここにいること、誰に聞いたの」
「佐藤さんです」
「わたしのことをいちいち聞かなならんのか」
「もちろんです。わたしのほうから報告を求めました。雨宮室長が夏休み中なので、わたしにまかされてます」
「それで、ホテルまで押しかけてきた理由を聞こうか」
「この時間でしたら、お目にかかれると思ったのです。佐々木最高顧問の本日のスケジュールを佐藤さんが把握してなかったものですから」
「昨夜、遅くまで、元総理の石川真さんと話し込んじゃってねぇ。こう見えてもACBのために、わたしも頑張ってるつもりなんだ」
佐々木が欠伸《あくび》を洩《も》らした。
昨夜、佐々木がホテルにチェックインしたのは十一時二十分だった。
美奈子が着物をスーツに着替えて、あらわれたのは午前零時に近かった。そして、就寝は午前二時。
ノックの音が聞こえた。
北野がソファから腰をあげた。
ルームサービス係の女性がワゴンで、朝食を運んできたのだ。
「どうぞお二人で、食事をなさってください。わたしは一時間後に、出直します」
「いいから、いいから」
佐々木は手を振りながら、つづけた。
「八時前にやってきて、一時間も話したんだ。朝食までサービスする必要はないよ」
取り繕ってるつもりらしいが、白々しいだけのことだ。
「ほんとうに、よろしいんですか」
北野はわざと念を押した。
「いいと言ったらいいんだ」
佐々木はうるさそうに言って、真顔でつづけた。
「きみ、誤解してるんじゃなかろうな。余計なことを静子や今日子に言ったら承知せんぞ」
「わたしは、そんなに莫迦《ばか》ではないつもりです。ご心配には及びません」
伝票にサインを求められて、佐々木がサービス係からボールペンを受け取った。
「佐々木先生、朝早くに押しかけまして、ほんとうに申し訳ございませんでした。ありがとうございました」
美奈子が、佐々木に丁寧に挨拶《あいさつ》し、北野にも愛想よく会釈した。そして、サービス係に続いて退出したのは午前九時四十分だ。
「オムレツぐらい食べられるだろう。勿体《もつたい》ないから、つきあいなさい」
「はい。いただきます」
北野は、ソファからワゴンテーブルの前に移動した。
「ビールはどう」
「いいえ。ミルクティーをいただきます」
北野はスーツ姿だったが、浴衣の佐々木とちぐはぐな気がしたので、背広を脱いで、佐々木と向かい合った。
佐々木がビールを飲みながら、切り出した。
「きみがなにしに来たのか、察しはつくよ。八月は暑いから、九月になったら、ACB本館を出るから、安心しなさい。中山から聞いてると思うが、新宿あたりに事務所を用意するように念を押してくれんか。千久も、ACBも、顧問ということで、お許しいただこうか」
北野は、黙っていた。顧問で残るのは筋が通らない。五千万円の顧問料もべらぼうだ。
捨て扶持《ぶち》なのだから、小遣い銭程度にすべきだ、と中山頭取に進言するつもりだった。
佐々木の強欲ぶりは度を越している。千久からも多額の顧問料をふんだくるに相違なかった。
「昨夜の石川元総理とのことを頭取が気にされてましたが、千久≠ェらみの話ですか」
「SELECTION≠読んでてねぇ。ACBはどうなってるんだ、と心配してたよ。わたしのためなら、いつでも力を貸すとも言ってくれた。もっと早く手を打っていたら、検察の強制捜査は抑えられたのに、と残念そうに話してたが、まったく莫迦な弁護士どものお陰で、ひどい目に遭ったな。わたしが動くべきだった。悔いが残るねぇ」
果たしてそうだろうか。検察はシナリオどおりに行動したのではなかったろうか。石川元総理が、ブレーキをかけることは不可能だった、と北野は思っていた。
「SELECTION≠ノリークした犯人は突き止められたのかね」
上目遣いの佐々木の顔に、犯人はおまえだろう、と書いてあった。
「いいえ。最高顧問は、まだわたしをお疑いのようですが、先日も申し上げましたとおり断じて違います。真犯人が名乗り出てくれないことには、反証できませんが」
「おまえだという証拠もないが、陣内じゃないけど、限りなく黒に近い灰色っていうところだな」
「多分、千久¢、の仕業と思いますが、こんなものがわが家に送り付けられてきました」
北野は椅子《いす》に着せた背広のポケットから、封書のコピーを取り出して、ワゴンテーブルに置いた。
「現物は警察に届けましたので、手元にありませんが、封筒の中にピアノ線が入ってました。マンションのドアの隙間《すきま》に挟んであったのですが、SELECTION≠フ九月号が発売された八月五日の翌日の夜です。山崎商工KK・青木殿≠フ宛名《あてな》は、青木伸枝さんにひっかけてるんでしょうか。それとも偶然でしょうか」
「青木なんて名前の人はいくらでもいるだろう」
佐々木の顔がこわばった。
木下が、北野を懲らしめないかん、と話したことを思い出したからだ。
「おまえが犯人なら、この程度の厭《いや》がらせは受けて当然と思うが、命までは取られないから心配するな」
佐々木はビールを飲み乾して、「ここまでやるとはねぇ」とつぶやいた。
「これだけではありません。その二日後にカミソリの刃が郵送されてきました。今日子や子供たち、それにお母さんも脅《おび》え切って、わが家はパニック状態です。木下社長ほどのかたが、こんな子供じみた真似《まね》をするとは考えられませんが、わたしが犯人だと思い込んでいるとしたら、大変な誤りです。警察が捜査するかどうかわかりませんが、こんなことはお止めになったほうがよろしいと思います。お父さんから厳重に注意してください」
子供たちは事情を知らないが、北野はアクセントをつけて話したまでだ。
「このことを誰と誰に話したんだ」
「ACBでは、総務審議室長の早崎だけです」
「そうか」
佐々木は、ひとうなずきして、オムレツを食べ始めた。
北野も、オムレツを食べた。
佐々木がトーストにいちごジャムを塗りたくりながら、訊《き》いた。
「ピアノ線とカミソリのことが言いたくて、ホテルに押しかけてきたんだな」
「それもありますが、主目的は先刻申し上げました」
「うむ。ちょうどよかった……」
佐々木がナプキンで口を拭《ふ》きながら、ワゴンテーブルを離れた。ベッドルームからワゴンテーブルに戻ってくるなり、佐々木が大ぶりの名刺を二枚、北野に手渡した。
「ゆうべ、石川元総理から紹介されたんだが、どういう人か調べてもらいたいんだ」
国際環境開発科学研究所 管理本部長 細川一男∞新生経済懇話会理事長 江木久慶
北野は、名刺を見ながら首をかしげた。
「おあずかりしてよろしいんですか」
「うん」
「総務審議室でわかると思いますが、見るからに胡散《うさん》臭い感じがしますねぇ。ブラックジャーナリズムの人や総会屋の名刺は大ぶりと相場が決まってます」
「総会屋なんかじゃない。仮りにも元総理が親しくつきあってる人たちだからな。細川は、藤山建設の株を百万株保有してるようなことを言ってたよ。江木は新生経済公論≠チていう雑誌を主宰しているらしい」
「なにか、具体的な頼まれごとでもありましたか」
「ううーん。ま、たいしたことじゃない」
佐々木は言葉を濁した。
「ACBが、すべての情報誌、経済誌の購読、広告を打ち切ったことは、ご存じと思います。帝都経済≠熨R《しか》りですが……」
「念を押すまでもない」
佐々木は厭な顔をして、北野の話をさえぎった。
「陣内と森田は銀行におるのか」
「はい」
「午後二時に銀行へ行く。佐藤に車を手配するように言いなさい」
「承知しました」
北野は午前十時二十分に帝国ホテルのスウィートルームを辞去した。
4
帝国ホテルからACB本店に戻った北野は、中山に佐々木と話した内容を報告し、昼食時間に十四階の行員食堂で、早崎と会った。夏休みを取っている者がまだいるせいか、食堂はすいていた。
「おやつにオムレツを食べたので、お腹すいてないから、ざる蕎麦《そば》にするかな」
「俺《おれ》はカツ丼《どん》にしよう」
隅のテーブルで早崎と向かい合って、ざる蕎麦を食べながら、北野は久山の顔を目に浮かべていた。
久山が自殺する前日の六月二十八日正午過ぎに、八王子の蕎麦屋で、ざる蕎麦を食べたことを思い出したのだ。検察の厳しい取調べで、久山は憔悴《しようすい》し切っていた。
あのとき、久山は朝昼食兼用のブランチなのに、ざる蕎麦を半分しか食べなかった。久山への思いで胸がいっぱいになり、目頭が熱くなったとき、早崎がブレーキをかけてくれた。
「おやつにオムレツってなんのことだ」
「帝国ホテルのスウィートルームで佐々木の爺《じい》さんの朝食につきあわされたんだよ……」
北野から、ことの顛末《てんまつ》を聞いて、早崎はふんふんとうなずいた。
「まだ、ホテル住まいなのか」
「いや。昨夜、石川元総理に会って、遅くなったから、ホテルに泊まったんだろう。実は、早崎に頼みがあるんだ」
北野は、テーブルに置いていた茶封筒を早崎のほうへ押しやった。
「カツ丼を食べ終わったら、中を見てくれ。でっかい名刺が二枚入ってる」
早崎は待ち切れず、箸《はし》を置いて、茶封筒を手に取った。
「細川と江木がどんな人物か教えてもらいたいんだ。石川元総理から、S≠ェ紹介されたんだって」
「江木はよく知ってるよ。恐喝と名誉|毀損《きそん》で前科二犯のはずだ」
「なんで、そんなのが元総理と……」
北野は息を呑《の》んだ。
「政界ゴロっていうか、フィクサーっていうか、大物政治家ともけっこう近い。新生経済公論≠フ主宰者だが、雑誌はまあまともなほうだけど、ゴルフが好きで真っ黒な顔してるよ。黒びかりした板みたいに。政治家と財界人の間をゴルフで取りもってるわけよ」
「…………」
「細川のほうは、知らんなぁ。事務所は池袋のサンシャイン60ねえ。この私書箱××××号は曲者《くせもの》だぞ。まともじゃない証拠だよ。普通のサラリーマンが勤務先の住所に私書箱を使うわけないものなぁ」
さすが総務審議室長だけのことはある、と北野は感じ入った。
早崎がカツ丼を食べながら、テーブルに並べた二枚の名刺に目を落として、話をつづけた。
「どっちにしても、碌《ろく》な者じゃないな。元総理が江木と細川を佐々木さんに紹介した目的はなんなんだ」
北野は、口の中のざる蕎麦を急いで呑み込んだ。
「S≠ヘ具体的な頼まれごとはなかったような口ぶりだったけどねぇ」
「ただ単にめしを食うだけで、元総理がACBのドンと会うはずないよなぁ。石川元総理だけじゃなく、大物、小物を問わず政治家がいかがわしい人たちに懐深く飛び込まれてしまった。財界人も似たようなものだけど、バブル期に、闇《やみ》社会の人たちが表に出てきちゃった。ヤクザ・リセッションなんて書いた雑誌もあるけど、不良債権の処理をめぐって闇社会が絡むケースのほうが圧倒的に多い。江木にしたって、細川にしたって、一筋縄ではいかない人たちだと思うよ」
「二人ともヤクザっていうことか」
「ヤクザとはちょっと違うが、かれらが本チャンとつながってる可能性は充分あり得るね」
「元総理ともあろう人が、闇社会との関係を引きずってるなんて、この国はどうなっちゃってるんだろう」
早崎がカツ丼をかき込んで、丼《どんぶり》とコップを持ち替えて、水を飲んだ。
「総会屋に巨額の不正融資を強要されたACBも、大きなことは言えないよ。ACBに限らない。銀行という銀行、銀行だけじゃないな。証券、生損保。いや金融、非金融を問わず、総会屋などの闇社会に汚染されていない企業のほうが圧倒的に少数派だと俺は思うけど。本題に戻るが、佐々木さんの動きは要注意だぞ。北野も、目を離すなよ」
「総務審議室長のテリトリーだろう」
「もちろん、俺は絶えず目を光らせてるし、俺の目は節穴ではないと自負してるよ」
「自他ともに認めてるよ。たのもしいのが総務審議室長になってくれて、助かるよ」
「必ず、なにかある、と思ったほうがいいな」
「千久≠ェらみだろうか」
「それも考えられるな」
北野は胸がふさがった。佐々木案件≠ニもいうべき、負の遺産の処理に、ACBはまだまだのたうち、うめき、悲鳴をあげなければならないのだろうか。
ACBを貶《おとし》めたそんな人物が、いまだに頭取室よりも豪華な個室を手放さず、のうのうと本店ビルに出入りしている。それも年収五千万円以上の高給を食《は》んで。ドロボーに追い銭とは、このことだ。
「S≠ヘ暑中休暇中だったが、午後二時に顔を出すらしい。どんな動きをするか、見ものだな」
「総務審議室は、頭取直轄で、それなりの権限も付与されてる。ドンであろうが、千久≠ナあろうが、甘くないところを見せないとな」
早崎はワイシャツを腕まくりして、にやっと北野に笑いかけた。
「細川がどういう人物か、わかり次第、連絡してくれな」
北野は腰をあげて、トレーを片づけにかかった。
「江木のほうは、それだけでいいのか」
「新生経済公論≠ネんて見たことないが」
「大きな本屋なら置いてるんじゃないか。広報部に古いサンプルがあるかもな」
「この足で、広報に寄っていくか」
北野はトレーを所定の位置に戻して、時計を見た。十二時四十五分。
十四階のエレベーターホールで、早崎がつぶやいた。
「片山はどうしてるかねぇ」
「早崎にも情報が入ってこないのか」
「検察にしぼられてることは間違いないけど、ちょっと可哀相《かわいそう》で、近寄れないよねぇ。前任者も含めて、過去五年分のメモ帳やら領収書が検察に押収され、その付き合わせだけで、連日連夜ぎりぎり締め上げられてるっていうんだろう」
「時間の問題なんだろうか」
「なにが」
「逮捕」
「わからん」
早崎は、憮然《ぶぜん》とした顔で、エレベーターに乗り込んだ。
5
午後二時二十分に、最高顧問室に入った佐々木は、さっそく陣内副頭取を呼びつけた。
陣内は、打ち合わせ中だったが、秘書にメモを入れられて、すぐに打ち合わせを切り上げた。
陣内が佐々木と会うのは二週間ぶりだ。
挨拶《あいさつ》抜きに、佐々木が切り出した。
「昨夜、石川真元総理と会食したが、藤山建設のことをえらく心配してたよ」
老獪《ろうかい》な石川は、直接、佐々木に話したわけではなかったが、江木と細川が代弁したに過ぎない。佐々木に嘘《うそ》をついているという自覚はまったくなかった。
「株価が急落してるらしいねぇ。本山を辞任させるとは聞いてたが、融資を止めるなんて聞いてなかったぞ」
「本山副社長の辞任でおわかりいただけたと思いましたが」
「ACBは藤山建設の株を四・五パーセント保有する筆頭株主で、メイン・バンクでもある。藤山建設を見放すっていうことか」
ノックの音が聞こえて、佐藤弘子が麦茶を運んできた。
佐々木と陣内が、同時にコップをつかんだ。
「お言葉ですが、やむを得ないと思います。藤山建設は、総会屋が関与しているゼネコンです。たとえ石川銘柄≠ナありましても、いまのACBの立場では、メイン・バンクの資格はないと思います」
「ウチが藤山建設を見放したら、どういうことになるのかね。会社更生法か」
「それもあり得ないとは申せませんが、われわれは必死に、他行に肩替わり融資を働きかけてます。藤山建設は目下、再建計画を作成中ですが、リストラなどの厳しい自助努力で倒産を回避できる可能性はあると思います」
「融資の続行、拡大は絶対ダメなのか」
陣内は黙って、うなずいた。
佐々木の顔が朱に染まった。
「このわたしが、元総理から頭を下げられたんだぞ」
陣内はいっそう表情をひきしめた。
「たとえ現職の総理から頭を下げられたとしましても、結果は変わらないと思います。総会屋案件と訣別《けつべつ》しなければ、ACBは立ちゆきません」
「千久≠ナはものわかりのいいきみが、なんで、そんなに強硬なんだね。総会屋案件の中で、例外を一つも認めないという法はないと思うが」
「例外はあり得ません。千久≠ニは問題の本質、次元が異なります」
「き、きみは、誰のお陰で今日があるんだ!」
佐々木は怒り心頭に発して、口ごもった。
「最高顧問のお陰だと思いますが、藤山建設を例外扱いするようなことをしましたら、わたしはACBにはいられません。A≠フ現役トップとして、C≠ノ顔向けできないではありませんか。総会屋案件はA≠熈C≠燻Rほどありますが、それらのすべてを切り捨てなければ、ACBのあすはないんです。千久≠ニは違います。最高顧問がおっしゃるとおり運命共同体なんですから。繰り返しますが、総会屋などの反社会的勢力と訣別しなければ、ACBのあすはないのです。ぜひとも、ご理解賜りたいと存じます」
「どうしてもダメか」
「はい」
陣内は、佐々木から目を逸《そ》らさずに、うなずいた。
「きみはいつから、そんなに偉くなったんだ。わたしほどの男が、ここまで言ってるんだぞ」
「どうしても、とおっしゃるんでしたら、わたしをクビにしてください」
陣内は、現役のA<gップとして、ここは一歩も引けなかった。いくら佐々木でも、ここで譲歩したら、おしまいである。中山頭取と対等に渡り合えるわけがない。さすがというべきか、陣内はしたたかだった。というより、能力的にも中山の風下に立つなど冗談じゃない、と思っていた。
「ACBは、清冽《せいれつ》な経営を標榜《ひようぼう》していることを天下に表明しています。それなくして、生き残れないんです」
陣内は、深々と頭を下げた。
「会議中ですので、これで失礼します」
「ちょっと、待ってくれ」
佐々木は、中腰の陣内を手で制した。
陣内がソファに腰をおろした。
「ACBは藤山建設にどのくらい貸し込んでるのかね」
「五百数十億円です」
「ACBが融資を止めれば、倒産するな。おいそれと肩替わり先が見つかるとは思えん。株は紙屑《かみくず》になり、五百数十億円が不良債権化する。融資を継続して、再建するほうが得策と思うがねぇ」
「最前も申し上げましたが、大規模なリストラを含めた再建計画を練っています。自力で再建も可能ですが、ACBがメイン・バンクであり続けることは、行内はもとより世論が許さないと思います。総会屋などとの訣別は至上命題です」
「ACBが融資を止めたことが引き金になって、藤山建設が倒産したら、誰が責任を取るのかね」
「想定される最悪のシナリオどおりになるとは限りません。万一のときは、ACBが最も大きな犠牲を被《こうむ》るわけですから、責任を取ったことになるんじゃないでしょうか。ついでに申し上げますが、すべての融資先を対象に本店、全支店で洗い直しを進めてます。最高顧問がお気に召さない案件も出てくるかと思いますが、ACB再生のために、目をつぶっていただきたいと存じます。今後、裁量融資はあってはならないとお考えください」
陣内が、佐々木に対して、これだけもの申した例は過去になかった。いわば佐々木離れで、陣内が舵《かじ》を切った瞬間であった。
まるで喧嘩《けんか》を売っているような口のきき方ではないか。目をかけてきた陣内から、ここまで言われっ放しでいいのか。俺ほどの男が飼い犬に手を噛《か》まれて、黙っていなければいけないのか――。佐々木は忿怒《ふんぬ》の形相で、陣内を睨《にら》みつけた。
陣内は、佐々木に近過ぎる自分が行内で批判されていることを肌で感じていた。SELECTION≠ナ千久≠ニの関係をスクープされたのを機に、佐々木と距離を取る方向をさぐり始めていた。
動かぬ証拠はないが、北野のリークを確信していた陣内は、これを利用しない手はない、と考えた。それ以上に、佐々木が最高顧問を辞任し、本店ビルから退去することになれば、重しが取れる。大袈裟《おおげさ》に言えば、佐々木の呪縛《じゆばく》から解放される。
陣内は、いまやACBのA≠フトップとして、押しも押されもしない存在になりつつあった。
佐々木が藤山建設の救済を元総理から頼まれようと、予備後備がなにを言うか、と突き放そうと肚《はら》をくくっていた。
「裁量融資はあってはならない」と釘《くぎ》を刺したのも、陣内の自信のあらわれであり、佐々木の神通力が失われたことを示して余りあった。
佐々木は、陣内が退出したあとで、陣内のクビを切れないものか、と思案をめぐらせた。
千久の木下を動かす手はないだろうか。
陣内がかつての千久出向組で、木下と気脈を通じていること、娘婿の北野がSELECTION*竭閧ナミソをつけたために、佐々木自身と千久≠フ関係が微妙になっていることなどに思いを致すと、千久≠使う手はないし、木下が動くとも思えない。
「北野の大バカ野郎! 陣内もふざけやがって!」
佐々木は、声高にひとりごちた。北野のお陰でひどい目に遭った。陣内までが生意気な口をきくようになったのも、あいつのせいだ。
佐々木は、藤山建設の案件を忘れるほど、増長して自分に反抗した陣内を許せない、なんとか陣内のクビを取らなければ、と必死にない知恵をしぼっていた。
陣内に引導を渡せる者がいるとすれば、木下しかいない。結局そこに行き着くが、木下を動かすには相応の理由なり仕掛けが必要だ。だが、手詰まりで、ヘタに動けば逆効果をもたらしかねない。
佐々木の苛立《いらだ》ちは募る一方だった。
「陣内の野郎!」とつぶやいたとき、ノックの音が聞こえ、佐藤弘子が顔を出した。
「最高顧問に、細川さまとおっしゃるかたから電話が入っておりますが、いかが致しましょうか」
「外出中だと言いなさい。北野を呼んでくれ」
「かしこまりました」
佐藤が一礼して、退出した。
6
北野が五分後に最高顧問室にあらわれた。
「お呼びでしょうか」
「座りなさい」
ワイシャツ姿の佐々木はソファで、新聞を読んでいたが、活字は頭の中に入っていなかった。
北野は佐々木と陣内が三十分ほど話したことを佐藤弘子から聞いていた。両者が激しいやりとりをしたことも。
陣内が佐々木に反抗するなんて、考えられない――。北野は首をひねりながら、ソファに腰をおろした。
「先ほどは失礼しました」
「うん」
佐々木が新聞をたたみながら、むすっとした顔で訊《き》いた。
「細川と江木のことはわかったか」
「はい。細川につきましては、名刺の肩書にある国際環境開発科学研究所≠ネる名称の企業も団体も存在しません。サンシャイン60に細川企画≠ネる事務所はありますが、大代表とある名刺の電話番号は使用されていません。正体不明ということになります」
「石川真元総理ほどの大人物が、そんないかがわしい男とつきあうのかねぇ。総会屋かそれともヤクザなのか」
「総務審議室では、暴力団とのつながりまでは突き止めてませんが、警察のブラックリストには載っていないそうです」
「江木はどうなの」
「ブラックリストに載ってます。前科二犯のワルですが、政界にはけっこう食い込んでるようです。元総理のお里が知れるような人たちということになると思います。最高顧問が元総理から、なにか依頼されたのではないかと、総務審議室長が心配してましたが」
佐々木は、仏頂面をぷいとそむけた。
陣内に、とりあってもらえなかったことを北野に話しても始まらない、とは思いながらも、つい愚痴が口をついて出た。
「陣内も偉くなったもんだよ。藤山建設への支援を石川さんから頼まれたことを話したら、けんもほろろだった。藤山建設は総会屋が関与しているから、ACBはメイン・バンクを降りて、しかも、融資もストップするそうだ。わたしに相談もなく、誰が決めたんだ。ACBが見捨てたら、名門のゼネコンが潰《つぶ》れてしまうんだぞ」
なるほど、そういうことだったのか、と北野は合点がいった。ただ会食するだけで、石川真ほどの大物政治家が佐々木を呼び出すはずがない、と早崎が言ったとおりだ。
陣内も、けっこうわかっている。佐々木の言いなりにならなかったのだから、見上げたものだ。
もっとも、藤山建設支援で、石川元総理と佐々木の圧力に屈したら、陣内は、若手の支持を失いA<gップの地位が揺らぎかねない。
総会屋など反社会的勢力と絶縁することはACBにとって必須《ひつす》の命題である。
総務審議室が、小田島を含めた総会屋案件、暴力団案件の融資先を点検した結果、数社のゼネコン、デベロッパーがリストアップされた。藤山建設は、その最右翼だ。
部外秘≠フリストは、北野にも回ってきた。その中に、佐々木が関与した案件のなんと多かったことか。
総会屋案件・暴力団案件イコール佐々木案件と言われても仕方がない。
ACBは相当な犠牲を強いられるが、反社会的勢力と、断固、絶縁する――。これが総務審議室すなわち中山頭取の方針だった。清冽《せいれつ》な経営を標榜《ひようぼう》しているのだから、当然である。
中山の意見に与《くみ》した陣内が、佐々木の横車に屈しなかったのも、当然なのだ。
「石川銘柄≠ニ言われてるほどの名門ゼネコンが簡単に潰れますかねぇ。ACBがメイン・バンクの地位を明け渡しても、石川元総理は次の手を用意してるんじゃないでしょうか」
「生意気言うんじゃない。わたしの顔にドロを塗って、おまえたち、それでいいと思ってるのか」
「呪縛や過去のしがらみにとらわれていましたら、ACBの再生はないと思います」
「もういい。帰ってくれ」
佐々木がもの凄《すご》い形相で、横に手を払った。
「千久の木下社長にわたしが厭《いや》がらせを受けたことを話していただけましたか」
北野は、手を払われても、動じなかった。
「それどころじゃない。藤山建設が潰れるかどうかの瀬戸際なんだ」
「わたしが木下社長に直接電話をかけてよろしいでしょうか」
「ふざけるな! おまえごとき若造を相手にしてくれるはずがないだろう。だいたい、千久≠フ厭がらせかどうかも、わからんじゃないか。そんな証拠がどこにあるんだ」
それは、こっちの言うせりふだと北野は思った。俺《おれ》がSELECTION≠ノリークした証拠がどこかにあるのか教えてほしい。
ノックの音が聞こえ、佐藤弘子が緑茶を運んできた。
「ありがとうございます」
北野は喉《のど》が渇いていたので、佐藤に丁寧に礼を言った。
「どういたしまして」
佐藤は会釈を返してから、佐々木のほうへ目を流した。
「最高顧問に石川元総理の秘書の吉井さまから電話がございました。外出中と申しましたら、折り返し電話をいただきたいとのことでした」
「ここにおるのに、なぜ電話をつながないんだ。気の利かんやつだ」
佐々木は佐藤に当たりちらした。
「細川さまから電話があった直後でしたので、そのほうがよろしいと思ったのですが」
「佐藤さん、おっしゃるとおりですよ。パーフェクトの対応です。細川と吉井は同じ穴の狢《むじな》なんですから」
北野に褒《ほ》められて、佐藤の表情がほころんだ。
「余計な口出しせんでいい」
佐々木の声が苛立《いらだ》っていた。北野は佐藤に微笑《ほほえ》みかけてから、湯呑《ゆの》みに手を伸ばした。
「失礼しました」
佐藤が退出した。
北野が話を蒸し返した。
「最高顧問が木下社長に話してくださらないようでしたら、木下社長に面会を求めるなり、お手紙を差し上げます。最前、千久≠フ厭がらせかどうかわからない、とおっしゃいましたが、ほんとうにそうお思いですか」
佐々木は返事をしなかった。
北野はゆっくり緑茶を飲みながら、ねばりにねばった。
「木下君に話しておくよ。あんなことを書かれたんだ。血気に逸《はや》る若い者が千久におるかもしれん」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
北野は低頭して、ソファから腰をあげた。
佐々木が北野を見上げた。
「中山に藤山建設への支援を頼んでみてくれないか。ここは、石川元総理に貸しをつくっておくほうが得策と思うが」
「最高顧問がおっしゃったことは頭取に必ずお伝えします。しかし、一〇〇パーセントそういうことにはならないと存じます。吉井秘書にぜひとも、その旨をはっきり話されることをおすすめします。曖昧《あいまい》にしますと、最高顧問が大変苦労されます。ACBがいまどういう状況にあるか、石川元総理ほどのかたが知らないはずはないと思うのです」
勘にさわるもの言いであることは百も承知だ。佐々木は、北野の話を上の空で聞き流した。
中山と陣内を呼んで、もう一度話してみよう。藤山建設は見限ってはならない。細川と江木が、一葉苑≠フ青木伸枝について妙な言い方をしたことも気になる。ここでACBが石川銘柄≠フ藤山建設倒産の引き金をひくようなことをしたら、必ずシッペ返しを受けるに相違ない。
北野が居ずまいを正した。
「最後にもうひと言言わせていただきます。お母さんが、永福《えいふく》に帰りたいと言ってます。マスコミの関心も薄れてきたようですから、そろそろ永福に戻られたらいかがでしょうか」
これも、佐々木の耳に聞こえてはいなかった。
7
北野が退出した直後、佐々木は佐藤弘子を最高顧問室に呼んだ。
「中山と陣内を呼んでもらおうか」
「頭取は打ち合わせ中です。陣内副頭取は外出されました」
「陣内はどこへ行ったんだ」
「存じませんが」
「自動車電話をかけて、すぐ呼び戻せ。中山と一緒にここへ来るように言いなさい」
佐藤は困惑し切った顔で、このことを北野に報告した。
「なにを血迷ったことを……。わたしが話しましょう」
北野はすぐに席を立った。
佐々木は電話中だった。
北野はノックをしながら、入室すべきかどうか迷ったが、かまわずドアを開けた。
「失礼します」
佐々木は、デスクに足を載せて、北野に横顔を見せる姿勢で話していた。電話に夢中で北野に気付いていなかった。
「細川と江木は、芸者時代のおまえを知ってるような口ぶりだったぞ」
「わたしは覚えてないわ。そんなの嘘《うそ》よ。はったりに決まってるじゃない」
「おまえ、カワタジに水揚げしてもらったらしいじゃねぇか」
「…………」
「おい! 事実なんだろう」
「嘘ですよ。パパさん、まさか信じてるわけじゃないんでしょう。そんなことより、京橋《きようばし》支店のこと、なんとかお願いよ」
「おまえ、利払いが滞ってるなんて、俺にひと言も言わんで、いまごろ泣きついてくるやつがあるか」
佐々木の電話の相手が青木伸枝であることは、北野にも察しがついた。佐々木のほうから電話したに相違ない。外部からの電話は、必ず秘書室を通過する。もっとも直通電話に、青木伸枝のほうからかけてくる可能性もあり得るが、佐々木のほうからかけたことは間違いなかった。
北野は咳払《せきばら》いをして、存在していることを示した。
「ちょっと待て」
佐々木は、受話器を手で押さえ、ジロッとした目を北野に投げてきた。
「いつ来たんだ」
「たったいまです」
「盗み聞きしてたのか」
「いいえ。佐藤さんから頭取と陣内副頭取のことを……」
「立ってないで座れよ」
「はい。失礼します」
佐々木がふたたび受話器を耳に当てた。
「いつから延滞なんだ」
「五カ月前かしら。わたしも知らなかったのよ。ホテルのほうは、弟にまかせてるから」
株式会社ホテル一葉≠ニ株式会社旅館一葉苑≠ヘ、別会社になっていた。青木伸枝は両社の社長だが、ホテルのほうは、副社長で実弟の青木宏が仕切っていた。
「まったく、きょうはなんていう日なんだ。厄日もいいところじゃねぇか。あとは帰ってからだ」
佐々木は受話器を叩《たた》きつけた。
「中山と陣内はどうした」
「佐藤さんに陣内副頭取を呼び戻せとおっしゃったそうですが、頭取も副頭取も超多忙です。わたしが承ります」
「おまえなんかに話しても時間のムダだ」
「失礼ながら申し上げますが、藤山建設の件でしたら、頭取に話されてもまったくムダです。頭取をお呼びする意味がありません」
「お、おまえっていうやつは、何さまのつもりだ。立場をわきまえろ」
「頭取秘書役の立場をわきまえているつもりです。もう一度申し上げます。藤山建設の件は、石川元総理にきっぱりお断りしてください。気をもたせるようなことをおっしゃいますと、最高顧問は窮地に立たされます」
「うるさい! 若造は引っ込んでろ! 中山を呼ぶんだ。これは命令だぞ」
「頭取はそれどころではありません。秘書役のわたしが承ります」
「いいから、中山を呼べ」
「お呼びできません」
「なんだと!」
佐々木は、つかみかからんばかりの形相で、ソファから腰をあげた。
ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
北野が応答した。
「失礼します」
佐藤弘子だった。グッドタイミングだ、と北野は思い、緊張感がゆるんだ。
「石川元総理の秘書の吉井さまから最高顧問に電話が入ってますが、いかが致しましょうか」
「ここに回しなさい。たったいま、外出先から戻ったことにするんだ」
佐々木は、いくらか落着きを取り戻していた。
「北野、出て行きなさい」
「はい。例の件、くれぐれも、よろしくお願いします」
北野は退出した。
佐藤がセンターテーブルの受話器を取った。
「吉井さまのお電話、最高顧問室に回してください」
「もしもし。大変失礼致しました。佐々木はたったいま外出先から戻ってまいりました。佐々木に替わります」
佐々木が受話器をひったくって、ソファにどかっと腰をおろした。
「佐々木です」
「吉井ですが、外出中だったようですねぇ。元総理がえらい気を揉《も》んでまして。ACBさんは、よもや藤山建設を見殺しにするようなことはないでしょうな」
吉井は高飛車だった。
「なんとか助けてあげたいと思って、わたしも懸命に頑張ってるところですよ」
「佐々木さんが胸を叩いてくれたら、もう安心ですね。さすがACBは面倒みのいい銀行だ。元総理に、大船に乗ったも同然と報告してよろしいんですね」
「そこまではちょっと。これから中山と陣内を呼びつけて、なんとか支援するように話そうと思ってるところです」
「中山頭取も陣内副頭取も、挨拶《あいさつ》にも来てないが、元総理に挨拶ぐらいしたらどうですか。こんなに世間を騒がせてるんですから」
「それは失礼した。よく言ってきかせますよ。二人ともまだ尻《しり》が青いほうでねぇ。そこまで気が回らんのですよ。石川先生によろしくお伝えください」
「朗報、待ってますよ。きょう中に必ず連絡してください。万一、ACBさんが裏切るような真似《まね》をしたら、只《ただ》では済みませんよ。佐々木さんだって、検察に目をつけられてることぐらいおわかりなんでしょ。もし、そんなことになったら大変だ。石川は躰《からだ》を張って佐々木さんを守ろうとしてるんじゃないですか。じゃあ」
電話は一方的に切れた。
佐々木は、放心状態で、しばらくぼんやりしていた。
秘書室に戻ってきた佐藤に、北野が小声で訊《き》いた。
「どんな様子でした」
「なんとか助けてあげたいとか、中山と陣内を呼びつけて、支援するように話すとか、そんなことをおっしゃってました」
「やっぱりねぇ。あの人はなにもわかってないんだ」
北野はしかめっ面で、ひとりごちた。
「はあ」
「いや。けっこうです」
佐々木から佐藤に呼び出しがかかった。
五分ほどで戻った佐藤が、北野に報告した。
「最高顧問が、坂本顧問と中山頭取をお呼びするように申されてますが」
坂本前頭取は、相談役制度の廃止によって、顧問に降格されたが、まだ二十七階の旧頭取室をそのまま使用していた。当人は、新執行部の後見人を自認しているが、同じA≠フ陣内も、坂本を立てているふしはなかった。もともと佐々木のようにアクが強いわけでもなければ、パワーがあるわけでもない。カリスマ性はゼロ。毒にも薬にもならない。存在感は佐々木の十分の一というところだ。
二十七階に残っているOBは、佐々木と坂本の二人だけだった。
前会長の今井付から、坂本付秘書になった香川弘美を北野が手招きした。
「坂本顧問に、わたしがお目にかかりたいと伝えてください」
「かしこまりました」
香川が秘書室から出て行った。
8
坂本顧問は、大部屋の個室のソファで雑誌を読んでいた。
「ああ、北野君、座ってくれ」
「失礼します」
北野が居ずまいを正して、切り出した。
「石川元総理から……」
話を聞き終わった坂本の長い顔がゆがんだ。
「佐々木さんは、まだ俺が俺がって、やってるんですか。困った人ですねぇ」
「坂本顧問と二人がかりで、頭取を説得したいということのようですが、藤山建設の支援打ち切りの方針を変えられない事情はご賢察いただけましたでしょうか」
「もちろん。中山君も陣内君もよくやってるじゃないか。わたしが佐々木さんに与《くみ》することはないから安心したまえ」
「頭取が、本件で佐々木最高顧問とお会いする必要はないと思います。わたしの一存でそうさせていただきます」
「きみの判断を通したらいいよ」
「この足で、佐々木最高顧問にお会いしますが、坂本顧問のご理解を賜ったとお伝えしてよろしいでしょうか」
坂本は思案顔で、腕を組んだ。佐々木に対する畏怖《いふ》心はまだ残っていると見える。坂本を頭取に引き上げたのは、むろん佐々木だった。
「中山君と陣内君におまかせしたい、わたしはノーコメントっていうことでどうですか」
明らかに矛盾している。ノーコメントということにはならないが、北野は黙って低頭した。
「ついでながら、もう一つお尋ねしてよろしいでしょうか」
「いいよ。なんだい」
坂本が上体を寄せてきた。
「千久*竭閧いかがお考えなのでしょうか」
坂本はしかめっ面で、上体をのけぞらせた。
「それもノーコメントだな。佐々木さんは運命共同体って言ってるらしいが、ま、そんなところなんじゃないの。千久≠ニは持ちつ持たれつの関係だ。牧野さん以来、いっぱい借りがあるからねぇ。木下さんの被害者意識は半端じゃないと思うな。藤山建設と同一線上で論じられる問題じゃないよ」
ノーコメント≠ノしては、坂本は饒舌《じようぜつ》だった。
「さしあたり役員、社員の出向を見直すべきだと思いますが」
「ノーコメント」
坂本はむっとした顔で、手を振った。
北野の顔を見るなり、佐々木が浴びせかけた。
「また、おまえか! うろちょろせんでくれ!」
「失礼します」
北野は、委細かまわず、ソファに腰をおろした。
「いま、坂本顧問とお会いしましたが、藤山建設の件につきましては中山頭取と陣内副頭取におまかせしたい、とのご意見でした。頭取が、本件で最高顧問にお会いする必要はないと存じます。どうか、悪あがきなさらないでください」
「いいから、中山と坂本を呼べ! わたしの言うことが聞けんのか!」
「頭取は時間が取れません」
「お、おまえ……」
「わたしが吉井秘書にお目にかかります。詳細に事実関係なり、経緯を説明させていただきます」
「中山が、おまえにそんな指示をしたっていうのか」
「いいえ。わたしの判断です」
「出過ぎた真似をするんじゃない!」
「むろん頭取に指示を仰ぎますが、結果は同じだと思います」
「中山を呼べ! 坂本も呼ぶんだ!」
佐々木のこめかみの静脈が切れんばかりに浮き出た。
「陣内副頭取が外出先から戻りましたら、お二人に一応お伝えしますが、お二人とも、本件で最高顧問にお目にかかることはないと思います。危機的状況にあるACBを再生するために、最高顧問には一日も早く、本館から退去されることをお勧めします」
「誰が陣内を呼べと言った」
「本件の責任者は、陣内副頭取です」
北野は、起立して、早々に退散した。
佐々木が同じ二十七階の坂本顧問室まで足を運び、ノックをせずにいきなりドアを開けたのは、北野が退出した直後である。
「きみ、わたしが呼んでるのに、なぜ来んのだ」
噛《か》みつかんばかりに、いきなり浴びせかけられて、坂本は目を白黒させた。
「さっき北野君が見えましたが、そんなふうには聞いてませんよ」
坂本はソファから起立して、辛うじて言い返した。
佐々木が坂本の前にどすんと腰を落とした。
二人ともワイシャツ姿だ。
坂本は、のろのろした動作で、座り直した。
「執行部にまかせるという意見のようだが、ほんとにそんなことでいいと思ってるのか。陣内は、藤山建設を突き放すつもりのようだが、石川元総理から頭を下げられた俺の身にもなってくれ。藤山建設が倒産したら、どういうことになると思うんだ。陣内は社会的影響の大きさがわかっておらん。検察に踏み込まれたぐらいで、びくびくしてる陣内たちも情けない。きみ、陣内を説得しなさい。藤山建設を潰《つぶ》したら、ACBの名折れだ」
佐々木はひたいに青筋たてて、まくしたてた。
「陣内と話してみましょうかねぇ。ただ、藤山建設はA¢、の案件ですから、陣内としても中山君に気兼ねがあるんじゃないですか」
「A≠熈C≠焉Aくそもない。ACBとして、藤山建設を支援しなければいかんのだ。きみは……」
佐々木が、右手の人差し指を突き出して、つづけた。
「五月まで頭取だったんだろう。言ってみりゃあ、会長みたいな立場じゃないか。少しはリーダーシップを発揮したらどうなんだ。誰のお陰で、こんな立派な部屋にふんぞり返っていられるんだね。毎日、新聞読みに銀行に来てればいいってもんじゃなかろうが」
佐々木の高圧的な態度と恩着せがましさは、骨髄に徹しているが、ここまで言われる筋合いはない、と坂本は思った。
「これでも、OBの就職の世話やらなにやら、けっこう忙しくしてるつもりですけどねぇ」
坂本は、むすっとした顔で言い返した。
「藤山建設の件、頼んだぞ。きみの出番だよ。中山と陣内を説得してくれ。森田も使ったらいいな。藤山建設は、牧野さんも大事にしてた名門のゼネコンだ。旧A≠フメンツがかかってるんだ」
佐々木の話は明らかに矛盾していたが、当人も坂本も気付いていなかった。
坂本は理不尽に下駄《げた》を預けられて、困惑し、狼狽《ろうばい》していた。
佐々木が引き取ったあとで、坂本は北野を呼んだ。
「中山君とちょっと話したいんだが、時間を取ってもらえないか」
「藤山建設の件ですか」
「うん。佐々木さんがいまここへ来て、なんとかしろと言われてねぇ。ダメモトでもいいから、佐々木さんの顔を立てないとねぇ」
「頭取にはわたしから話します。失礼ながら坂本顧問はじっとしててください」
北野は、佐々木に威嚇されて早くも腰が砕けそうになっている坂本を情けないと思う反面、佐々木の呪縛《じゆばく》から解かれていないことは、理解できた。立場立場がある。
佐々木の決定的な弱みを握っている俺とは、立場が違う――。
「しかし、佐々木さんの言ってることにも一理あるからねぇ。わたしの意のあるところは中山君に伝えてもらうのがいいんじゃないか」
北野は中山に、藤山建設に関する佐々木の一連の動きを報告した。
「陣内にまかせようか。わたしが容喙《ようかい》するのもなんだろう」
「はい」
「佐々木さんなり、坂本さんと会わなくていいのか。あとで変な仕返しをされてもねぇ」
「ご心配なさらないでください。それこそ千久*竭閧煌ワめまして、佐々木の容喙を断固排除すべきなんじゃないでしょうか。わたしの怠慢で、頭取の耳に入れなかったことにしていただいてもいっこうにかまいませんが」
中山は渋面をあらぬほうに向けて、返事をしなかった。
佐々木から、中山を遮断するのが俺の役目だ、と北野は思っていた。
ACBは八月二十日の経営会議で、藤山建設に対する支援打ち切りの方針を正式に決めた。これによって、藤山建設は、事実上の倒産を意味する会社更生法の適用申請に踏み切らざるを得ない危機に直面したことになる。
二日後の八月二十二日午前九時過ぎに、扶桑銀行の山田秘書役から、北野に電話がかかった。
中山の頭取就任直後の挨拶《あいさつ》回りで、北野は山田と面識があった。扶桑銀行は大手都銀の中でも、石川真元総理とは、きわめて近い。藤山建設に対する融資残高は約三百億円で、ACBに次ぐ大口債権者だ。
挨拶のあとで、山田が言った。
「元持《もともち》が中山頭取と至急電話で話したいと申してます。中山頭取は、おられますか」
「会議中ですが、メモを入れます。折り返し山田さんに、わたしから電話を差し上げるということでよろしいでしょうか」
「ありがとうございます。お電話お待ちしてます」
北野と、平山秀子の視線がぶつかった。北野は一瞬、平山にメモを入れさせるかどうか迷ったが、平山を手で制して、背広を着ながら席を立ち、役員会議室へ向かった。
六人の代表取締役から成る経営会議が始まって、間もなかった。書記役は石井企画部長。雨宮秘書室長もオブザーバーで出席していた。
ノックをすると、雨宮がドアを開けた。
「扶桑銀行の元持頭取が、頭取と至急電話で話したいそうです」
「ふうーん。藤山建設の件かねぇ」
「そう思います」
北野は、藤山建設の一件を雨宮の耳にも入れておいた。
「きみから、頭取に直接話したらいいな。中座するしかないだろう」
「はい」
北野は、陣内、森田の突き刺すような険しい目を頬《ほお》に感じながら、「失礼します」と一礼して、議長席に近づいた。
北野は腰を折って、中山に耳うちした。
「電話はつながったままなのか」
「いいえ。当方から、かけ直すことになってます」
「わかった。すぐ部屋に行く」
中山は起立して、一同を見回した。
「緊急の電話がかかってるので、中座します。陣内副頭取、会議を続けてください」
陣内が腕組みして、中山を見上げた。
「そうもいかんでしょう。待ってますよ」
五分後に元持と中山の電話会談が始まった。
「さっそくですが、当行は藤山建設の債権を放棄します。本来なら、朝日中央銀行さんに口火を切ってもらうのがいいんでしょうが、お宅もいろいろご事情がおありのようなので、出過ぎとは思いますが……」
中山は息を呑《の》んだ。さすがは石川元総理である。
扶桑銀行をねじ伏せたとしか考えられない。
「朝日中央銀行さんも、そういうことでよろしいんでしょう」
「会社更生法も視野に入れてたのですが……」
「それはまずいですよ。朝日中央銀行さんと当行が債権を放棄すれば、藤山建設は立ち直ります。一次二次の下請けの動揺を抑えるためにも、債権放棄の選択肢しかないと思いますよ。ニューマネーを投入するとなると、抵抗もありますから、そういうことでいきましょう」
「恐縮ですが、一日だけお時間をいただけませんか。扶桑銀行さんがそこまでおっしゃってくださるんでしたら、当行も追随する方向で、考えさせていただきます」
「藤山建設を倒産させるわけにはいかんでしょう」
「ご趣旨はよくわかりました」
元持は石川のイの字も口に出さなかった。中山など足もとにも及ばないしたたかなバンカーだ。経営会議に諮る前に、陣内と話さなければならない、と思いながら、中山は北野を呼んだ。
「扶桑銀行は、約三百億円の債権を放棄するそうだ。石川元総理のパワーを見せつけられた思いがするねぇ」
「闇《やみ》社会からの圧力もあったんでしょうか」
「どうなのかねぇ。ACBも、五百数十億円を放棄するしかないと思うが」
北野は、割り切れない思いにとらわれながらも、うなずかざるを得なかった。
「陣内を呼んでもらおうか」
「はい」
北野は、頭取室を退出して、役員会議室へ向かった。
朝日中央銀行は、八月二十五日付で、大蔵省から不祥事に関する行政処分を通告された。
これは銀行法に基づくもので、処分の骨子は@国内全店舗を対象に新規顧客に対する融資、保証業務を停止する(期間平成九年九月一日から同十二月三十一日まで)A国債、地方債、政府保証債など公共債の引受けと入札への参加禁止(期間同)B国内および海外における営業所新設の停止(期間平成九年九月一日から平成十年八月三十一日まで)C規制緩和、法律改正などによって今後、銀行に認められる業務のうち(イ)新方式の債権流動化(ロ)証券投資信託の窓口販売(ハ)金融持ち株会社の活用を認めない(期間同)となっていた。
もっとも、救済措置として@の中ですでに融資の申し込みを受けているもの、住宅ローンを含む消費者ローン、預金担保貸出しは除外されることになった。
この行政処分を重いと取るか、軽いと見るかは、ACBでも見方が分かれたが、北野はこの程度なら、決定的なダメージにはならない、と判断した一人だ。
ただ、検察の強制捜査やトップを含む七人もの逮捕者を出したことに対するマスコミの激しいバッシングで、失われた信頼、信用をどう取り戻すか、預金の流失に歯止めがかかるのかどうか、ACBの再生はまだまだこれからで、前途はきわめて多難と認識せざるを得なかった。
9
行政処分が通告されたこの日午後四時ごろ、中山頭取|宛《あて》に速達便が郵送されてきた。週刊誌大の茶封筒の表にワープロで、親展≠ニあり、裏の差出人は、ワープロで朝日中央銀行を守る会≠ニあった。
たとえ親展≠ニあっても、差出人が特定されていない郵便物は、秘書室で開封される。郵便物の内容によっては、秘書役限り、秘書室長限りで、ブロックされることもままあることだ。
頭取付女性秘書の平山秀子が、顔色を変えて秘書役席の前に立った。
「変なものが速達で送られてきました。ちょっとご覧になってください」
北野は封筒の裏側を見て、顔をしかめた。
「怪文書みたいなものですね」
平山が小声で言った。
「応接室でご覧になったら、いかがでしょうか」
「ほう。そんなに手の込んだものですか」
「ええ」
こっちを見ているいくつかの目を意識しながら、北野は封筒の中を覗《のぞ》いた。佐々木と青木伸枝のツーショットの八つ切りのカラー写真が見えた。
写真は一枚ではないが、およその察しはつく。
「なるほど。じゃあ、そうしましょうか」
北野は、平山に笑顔を向けてから、雨宮に目を遣《や》った。雨宮も、北野のほうを気にしていたので、目が合った。
「ちょっとよろしいですか」
「いいよ」
雨宮がうなずいた。
平山が眉《まゆ》をひそめて小首をかしげたのを、北野は気付かなかった。
北野に続いて、雨宮が応接室に入った。
「頭取宛の怪文書です。平山さんが顔色を変えていたところを見ると、相当きわどいしろものなんですかねぇ」
北野が中身をセンターテーブルに引っ張り出した。八つ切りのカラー写真が三枚。
佐々木と青木伸枝が仲むつまじくゴルフコースを歩いている写真と、浴衣《ゆかた》姿の二人が頬《ほお》ずりしている写真。もう一枚は全裸の男女が絡み合っていた。佐々木と伸枝かどうかは、不確かだが、二人の濡場《ぬれば》を暗示している。
雨宮が息を呑んだ。
北野が平然としているのを不思議そうに、雨宮が写真を手にした。
「相手の女性に心当たりはあるのか」
「ええ。青木伸枝ですよ。一葉苑≠フ女将《おかみ》です。ゴルフコースの写真は、比較的近影のものだと思いますが、浴衣姿のほうは、相当|旧《ふる》いんじゃないでしょうか。裸の写真は別人でしょう」
「莫迦《ばか》に落ち着いてるけど、大変なことじゃないの」
「そうでもないですよ。手紙のほうはなんですかねぇ」
北野は二つに折られたコピー用紙をひらいた。
「これは凄《すご》い。たしかに手が込んでますねぇ」
北野は、ワープロで打ち込まれたコピーを目読して、声を立てて笑い出した。
「パトロン契約≠ナすって。どうぞ」
コピーが雨宮に手渡された。
パトロン契約
甲(佐々木英明)と乙(青木伸枝)は、丙(川上多治郎)を立会人として、以下の契約を締結する。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一、甲は、生存中、乙のパトロンとして誠意を以《もつ》て乙を支援し続ける事を誓約する。
一、甲は、乙が経営する株式会社旅館一葉苑及び株式会社ホテル一葉の最高顧問として、両社の経営に深く関与することを義務付けられる。
一、甲は、乙が朝日中央銀行京橋支店から融資を受ける際、その債務を個人保証する。
[#ここで字下げ終わり]
昭和五十九年六月吉日
[#地付き]佐々木英明
[#地付き]青木 伸枝
[#地付き]川上多治郎
毛筆で署名され、実印らしきものが押印されていた。
「笑いごとじゃないぞ。容易ならざることじゃないか」
「昭和五十九年にワープロが普及していたとは考えにくいですよねぇ。これがタテに打たれたタイプ印刷なら、ひょっとしたらって思いますけど」
「ふうーん。そう言えば、たしかにワープロだなぁ。でも佐々木さんの字はよく似てるような気がするが」
「筆跡鑑定すればわかりますよ。無理に似せてるだけのことでしょう」
「朝日中央銀行を守る会≠チて、どういうことなんだ」
「佐々木英明の悪事を暴いているつもりなんでしょ。室長にもお話ししましたが、元総理につながる線と思いますけど」
「北野は、江木と細川の仕業と見ているわけなんだな」
「二人が直接か、配下の者にやらせたか、それはわかりませんけど、間違いないと思います」
「狙《ねら》いは、ゆすりか」
「正義を行なうためだけなら、ほかにやりようがありますよ。これを佐々木に見せれば、江木と細川の仕業だと気付くと思います。気付かせなければ、意味がないわけですから」
雨宮が浴衣姿のツーショットを両手で掲げて、しげしげと見入った。
「けっこういい女だねぇ」
「男好きするっていうんですか。たしかに魅力的な女です」
「どうする。頭取に見せるのか」
「ま、武士の情けで、そこまではよろしいんじゃないですか。ACBが、江木と細川のゆすりに屈することはあり得ませんから、佐々木がどう判断するかの問題ですよ」
「ということは、佐々木さん次第っていうわけだな。佐々木さんが個人的に、ゆすりに屈するかどうかだな」
「女のカネさえも、身銭を切る人じゃないから秘書室でなんとかしろなんて言ってくるんじゃないですか」
雨宮がにやにやしながら言った。
「岳父に対して、そんなにあしざまに言っていいのかね」
「増幅して言ってるつもりはありません」
北野は思案顔で、話をつづけた。
「いま、ふと思ったんですが、この怪文書を利用する手はないでしょうか。頭取が佐々木のことをうっとうしい存在だって話してましたが、新宿あたりに事務所を用意しろ、なんて冗談じゃないですよ。ドロボーに追い銭みたいなことはすべきではないと思います」
「きみも言うねぇ」
「エキセントリックとおっしゃりたいんですか」
こんどは北野がにやっと笑った。
雨宮が時計に目を落とした。時刻は四時三十五分。
「記者会見には出るのか」
「いや。広報にまかせましょう。ただし、終わるまで、秘書室で待ってますけど」
北野が時計を見ながら中腰で、つづけた。
「この怪文書の件は、わたしと早崎におまかせください。記者会見までに対応策を考えます」
「あんまりことを荒だてるなよ」
「はい。佐々木最高顧問が首を洗って待つ心境になってくれることを祈るのみですよ」
北野は真顔で言って、写真と契約書を封筒に戻した。
午後六時から、大蔵省の行政処分に関して、中山頭取が記者会見することになっていた。
北野は、いったん秘書室の自席に戻って、早崎総務審議室長に電話をかけた。
「いまから会えないか」
「いいよ。こっちに来てもらえるのか」
「頭取が記者会見を前にして、いれ込んでるから、いつ呼ばれるかわからない。秘書室に来てもらえるとありがたいが」
「お詫《わ》びの記者会見は、きょうで何度目だ。謝罪の文句を繰り返すしかないしなぁ」
「そうなんだ。しかし、行政処分は初めてだから、厳粛に受けとめざるを得ないよ。不祥事再発の防止に万全を期して、清冽《せいれつ》な経営を志向するとしか、言いようがないよねぇ」
「じゃあ、五分後にそっちへ行く」
早崎は十二分後にあらわれた。
「電話が一本かかってきちゃったんだ。遅刻して申し訳ない」
「とんでもない。ACBでいちばん忙しい人をお呼びたてして、申し訳ないのは、わたしのほうだよ」
二人は応接室に入った。
「こんなものを送り付けてきた莫迦《ばか》がいるんだけど、どうしたものかねぇ」
早崎は、写真と契約書に素早く目を通した。
「江木と細川だな。こんなもので、カネを威《おど》し取れると思ってるんだろうか」
「佐々木に、これをFAXしたら、どう出るかねぇ」
「その前に電話で、教えてあげたらどうなの」
北野はちょっと躊躇《ちゆうちよ》したが、思い切りよくソファから起《た》ち上がって、電話機に向かった。
一葉苑≠フ電話番号は記憶していた。待たされている間に、北野が言った。
「S≠ノ嫌われてるから、居留守を使われるかもな」
「まさか。秘書役に居留守はないだろう」
二分ほどで、佐々木の声が聞こえた。
「佐々木だが」
「お休みのところ恐縮です。さっそくですが、頭取|宛《あて》に速達が郵送されてきました。内容を申し上げます……」
北野が、三枚の写真とパトロン契約≠フことを話してから、訊《き》いた。
「なんでしたら、いまからFAXしましょうか」
「あした銀行へ行くから、そのとき見せてもらう。いらんことせんでいい。中山に見せたのか」
「いいえ。わたし以外では、開封した女性秘書と、室長、それに総務審議室長の三人だけです」
早崎が顔をしかめて、手を振ったが、もう遅い。
「そんなに何人も見たのか」
「たった四人です。パトロン契約≠ノついて、心当たりはありますか」
「あるわけないだろう。江木と細川の厭《いや》がらせに決まってる。石川元総理に厳重に抗議しよう。ふざけた真似《まね》をしやがって」
「秘書室も、総務審議室も関与しなくてよろしいですね」
「もちろんだ。警察|沙汰《ざた》なんかにされたら困るぞ」
「しかし、写真誌か週刊誌が採り上げる可能性もあると思いますが」
「だから、石川に釘《くぎ》を刺しておくんじゃねぇか。なんかあったら電話する」
一方的に電話が切れた。
北野がソファに戻った。
「逆上してるよ。石川元総理に電話で抗議するとか言ってたが、意味があるかねぇ」
「ないだろうな」
早崎はにべもなかった。
北野との電話を、受話器を叩《たた》きつけるように切った直後に、佐々木は一葉苑≠フ離れから石川元総理の私邸に電話をかけた。
吉井秘書が電話に出てきた。
「石川先生に紹介された江木と細川に、絡まれて往生してますわ。わたしがひいきにしてる箱根の旅館の女将とゴルフをしたときの写真やら、パトロン契約≠ネる怪文書を当行の中山頭取に送り付けてきたんです。石川先生とは持ちつ持たれつの関係じゃないですか。なんでこんなひどい仕打ちをするんですか」
「なんのことですか。そんな言いがかりみたいなことを。元総理に対して失礼千万とは思わんのですか」
「あんたじゃ話にならん。石川先生に替わってください」
「先生は留守にしてます。だいたい佐々木さんの顔は二度と見たくないのと違いますか。藤山建設の件では、佐々木さんには失望したとか、あんたを見そこなったとかぼやいてましたから。写真と怪文書とかおっしゃるが、身から出た錆《さび》と違いますか。忙しいので失礼します」
こんどは、佐々木のほうが一方的に電話を切られた。
石川という虎の威を借る狐の秘書|風情《ふぜい》に、虚仮《こけ》にされて、佐々木は躰《からだ》中の血液が頭に逆流した。
佐々木は、忿怒《ふんぬ》の形相でしばらく貧乏揺すりをしていたが、江木と細川を詰問しようと考え、北野に電話をかけた。北野は在席していた。
「江木と細川の名刺はどうした」
「総務審議室長が保管してますが、住所も電話も控えてあります」
「電話を言いなさい」
「はい。細川のほうは以前にも申し上げたと思いますが、名刺の電話は使われていません。細川企画≠ネる事務所の電話を申し上げます……」
佐々木は、北野から江木と細川の電話を聞いて、ふたたび受話器を外した。
細川はつかまらなかったが、江木とは電話がつながった。
「あんた。写真と怪文書で、わたしをゆすろうっていうのか」
「佐々木先生、出し抜けになんのことですか」
「とぼけるのもいい加減にしなさいよ」
「写真って、誰の写真ですか」
「一葉苑≠フ女将《おかみ》と、ゴルフをしてる写真らしい。まだ見てないが、わたしと青木伸枝さんがパトロン契約≠結んでるっていう怪文書と写真を中山頭取に郵送したんじゃないのかね」
「冗談よしてくださいよ。わたしも細川もそんな性悪《しようわる》と違います。しかし、佐々木先生と青木伸枝さんの仲は、知る人ぞ知るですから、よからぬ連中が悪さをしたんですかねぇ。なんなら調査してあげましょうか。調べはつくと思いますけど」
「蛇《じや》の道はヘビっていうわけかね」
「そんなものがあっちこっちに出回るのも、よくないですねぇ。揉《も》み消さないといけませんよ。二本で抑えられると思いますが」
江木は呆気《あつけ》なく馬脚をあらわした。
「二本ってなんのことかね」
「一本は一千万円です。常識でしょう」
「マッチポンプじゃないか」
「そういう言い方はないでしょう。じゃあ、わたしは手を引かせてもらいます」
「考えさせてもらおうか。あすの午後三時に電話する」
佐々木は、身勝手にも久山が生きていたらうまく処理してくれたろうに、と思いながら、電話を切った。
10
翌八月二十六日の午後二時に、佐々木はACBに顔を出すなり、北野を呼ぶように、佐藤弘子に命じた。
北野は、封筒を持参して、最高顧問室に駆けつけた。
怪文書を読んでいる佐々木の顔に見る見る険しさが増してゆく。
「江木が、二千万円出せば揉み消せるようなことを言ってたが、秘書室でなんとか捻出《ねんしゆつ》できないか」
北野は、わが耳を疑った。
「揉み消すとは、怪文書を事実だと認めるんですか」
「違う! こんなものが出回ったら、銀行も迷惑するだろう。そんなこともわからんのか!」
佐々木は、苛立《いらだ》って、北野を怒鳴りつけた。
北野が佐々木を強く見返した。
「きょうの朝刊をご覧になったと思いますが、中山頭取が昨夜の記者会見で、反社会的勢力との絶縁、不祥事の再発防止を強調されてます。最高顧問のおっしゃってることは、冗談としか思えませんが」
「お、おまえは写真誌に、こんなものが出ても、いいって言うのか」
「写真誌が掲載するとは思えませんが、掲載したらしたで、仕方がないんじゃないでしょうか。ACBが闇《やみ》社会に与《くみ》するほうがよっぽどリスキィです。ACBは再生できません。写真も怪文書も、ACBとは無関係です。最高顧問の個人的な問題だと思います。ACBが関与することはあり得ない、と総務審議室長も申してました」
北野は、写真誌が佐々木と青木伸枝のツーショットを掲載すれば、佐々木は失脚すると思わぬでもなかった。今日子や義母は悲しむだろうが、佐々木が永福の自邸に戻るきっかけになるかもしれない。佐々木が個人的に二千万円負担する可能性もゼロではない。所詮《しよせん》身から出た錆《さび》なのだ。
「この写真と怪文書は、とりあえず総務審議室で保管させていただきます」
北野は、三枚の写真と怪文書を封筒に戻して、最高顧問室から退出した。
佐々木は心ここにないのか、言葉を発しなかった。
この日の夕刻、早崎から北野に電話がかかってきた。
「相談したいことがあるんだけど、時間取れるか」
「いいよ。頭取は六時半に退行するから、六時四十分に、総務審議室に行こうか」
「じゃあ、そういうことで」
佐々木の件に決まっている。二千万円の揉み消し@ソのことも、早崎に話しておこう、と北野は思った。
十四階の総務審議室の応接室で北野と早崎が向かい合ったのは、七時近かった。中山の退行が二十分ずれたからだ。
「これは、早崎にあずけるよ」
北野が封筒をセンターテーブルに置いて、佐々木の話を伝えると、早崎は腕組みして、「実はねぇ」と切り出した。
「S℃≠ェ京橋支店長に十億円の緊急融資を求めてきた。先週のことらしい。ホテル一葉≠ノはすでに三十二億円も貸し込んで、しかも五カ月前から延滞になってるそうだ。支店長は、本店の営業部門に相談にきたが、営業部門と審査部門がキャッチボールをして、サラリーマン社会の通弊っていうか、どうにも対応できなくなって、俺《おれ》のところに持ち込んできたわけだ」
「総務審議室は、いまやACBのよろず相談係っていうか、ACBの砦《とりで》だからわかるような気がするよ」
「砦っていうより吹き溜《だ》まりだな。なんでもかでも、俺のところに回してくるわけよ」
北野が表情をひきしめた。
「冗談はともかく、もちろんゼロ回答だよねぇ」
早崎はにやりとして、センターテーブルの封筒を指差した。
「このパトロン契約≠逆手に取る、っていうのはどうだ。S℃≠ェ個人保証することを条件に、融資に応じる。京橋支店長に言わせるのも、可哀相《かわいそう》だから、俺がS℃≠ノ話してもいいと思ってるんだ。なんなら、北野に話してもらってもいいが」
「S≠ェ個人保証に応じるわけがないよ。ムダなことは止めたほうがいいねぇ」
早崎がふたたび、にやりとした。
「ムダなことは百も承知だが、ホテル一葉≠競売《けいばい》にかけるための伏線にはなるだろうや」
「ふうーん」
北野が唸《うな》り声を発した。
「早崎は策士だねぇ。競売とは気がつかなかった。しかし、当然っていえば当然の話だよなぁ」
「ホテル一葉≠ヘ、青木伸枝の弟の青木宏が仕切ってるが、闇勢力の息がかかってるふしもあるんだ。推量だが、江木と細川とのつながりもあり得るんじゃないか」
「だとすれば、この写真も、怪文書も、青木宏が一枚|噛《か》んでるかもしれないっていうことになるねぇ」
北野の顔が、深刻にゆがんだ。
「ホテル一葉≠フ権利関係は複雑なのか」
北野の質問に、早崎は首を左右に振った。
「川上―小田島案件というか、S℃∴ト件というか、これらはすべて浄化するしかないんだから、競売の一手あるのみだ。S℃≠フ個人保証うんぬんは手続きの一つと考えたらいいんじゃないか」
「わかった。ただ経済誌、情報誌が書き立てるだろうねぇ。それと、江木と細川がどう出るかも心配だな」
「北野、こういう手はどうだ」
早崎が上体を寄せて、声をひそめた。
「週刊潮流≠ノリークして、スクープさせる。写真は、武士の情けで、勘弁してもらうが、S℃≠ニ青木伸枝の関係は、むしろ書いてもらったほうが、すっきりすると思うんだ。ゆすりの材料が断たれることになるから、S℃≠煌yになるわけよ。いっとき厭《いや》な思いはするが、広報の話だと、S℃≠ェ死人に口なしをいいことに、久山さんに罪を押しつけてるのは目に余るって週刊潮流≠ェS℃≠ノ相当、関心を寄せてるらしいんだ」
「ふうーん」
「週刊潮流≠ェ、S℃≠ェ名門ホテルの会長に元大物総理の刎頸《ふんけい》の友の大野建治を推した件をスクープした。何年前だったかなぁ」
「ずいぶん昔だけど、覚えてるよ。一葉苑≠フことにも触れてたんじゃなかったか。たしかカワタジと大野建治の関係も書いてたよ。小田島のことは書いてなかったと記憶してるけど」
ホテル王の異名を取る大野建治が鬼籍入りしたのは十年ほど前だが、佐々木が大野に青木伸枝との仲を揺さぶられて、ACBがメイン・バンクの名門ホテルの会長に推挙し、それが実現した事実を週刊潮流≠ェスクープしたことがあった。
「S℃≠ノ無条件で、ACB本館から出て行ってもらうのが、いっとういいよなぁ」
「同感だ。新宿周辺に事務所を用意しろだの、年俸五千万円出せだの、太い要求をしてるらしいが、冗談じゃないよ」
「よし。北野との合意が得られたわけだ。おまえはSELECTION≠ナ、濡衣《ぬれぎぬ》着せられてるから、俺が動く。週刊潮流≠ヨのリークだけは、黙っててくれよな。多分千久≠ニは問題の質が違うから、誰も四の五の言わないと思うけど」
早崎の行動は水際だっていた。
ホテル一葉≠競売にかける件は、経営会議でも了承された。陣内も森田も、反対しなかったのである。
九月八日に発売された週刊潮流≠ノ五ページに及ぶ朝日中央銀行佐々木元頭取の不倫スキャンダル≠フ特集記事が掲載された。
[#この行1字下げ] 丸野証券事件に端を発した朝日中央銀行の総会屋・小田島敬太郎に対する不正融資事件は、今井史朗前同行会長の逮捕によって歴代トップの犯罪を明確にした。小田島の資金源として打出の小槌《こづち》≠ニ化した同行が、なぜ一総会屋の要求に屈伏して、三百億円もの巨額の融資がなされなければならなかったのか。そこには同行実力者、佐々木英明元頭取の決して触れられたくなかったスキャンダルがあったという。
以上は、10ポ・ゴシックのリードだが、本文では佐々木と旅館一葉苑∞ホテル一葉≠フ写真入りで、佐々木と青木伸枝の関係やホテル一葉≠ェ競売にかけられた事実が詳細に報じられていた。
佐々木の言い訳にもならない空々しい談話は、ACBマンの顰蹙《ひんしゆく》を買い、読者の怒りを増幅させたに相違なかった。
[#この行1字下げ]「一葉苑≠ヘ常宿ですが、青木伸枝さんとの男女関係なんて、ありませんよ。ためにする噂で《うわさ》す。川上多治郎さんは、牧野(幸治・元名誉会長)さんから紹介されました。小田島という人とは一切、面識がありません。ACBの不祥事が表面化するまで名前も知らなかったくらいです。総会屋なんかにおカネを貸してはいけないと常々、久山君たちに注意してたのに、こんなことになって残念ですよ」
九月九日の経営会議で、佐々木の最高顧問解任が決定した。
陣内も森田も沈黙を押し通し、反対論は皆無だった。
佐々木は週刊潮流≠名誉|毀損《きそん》で訴えるといきまいたが、書かれたことはすべて事実なのだから、恥の上塗りで、告訴できるわけはない。
佐々木は陣内や森田に声をかけたが、誰一人として、寄りつかなかった。それどころか、陣内も森田も、行内で公然と佐々木の非を鳴らし始めた。
千久の木下にまで、居留守を使われる始末である。
金の切れ目が縁の切れ目で、一葉苑≠ゥらも追い出された。弱り目に祟《たた》り目とはこのことだ。しかも佐々木は、週刊潮流≠フスクープ直後に二度も東京地検特捜部の事情聴取に応じざるを得なかった。
佐々木の私物が永福町の邸宅に送りつけられ、数多《あまた》の社外役員の地位も剥奪《はくだつ》された。ゴネ得で、法外な退任慰労金を支払わされた企業もあった。
佐々木が自邸に戻り、妻の静子が北野宅のマンションを去ったのは、九月十五日のことだ。
静子が永福の佐々木邸に帰った日の深夜、今日子が水割りウイスキーをすすりながら、しみじみとした口調で北野に言った。
「これでよかったんでしょうねぇ。久山さんの遺書を心ならずも読まされた身としては、そうとしか言いようがないわ」
「週刊潮流≠フ威力は凄《すご》かったなぁ。ACBのドンと怖れられた人が、あっというまに墜落したからねぇ」
今日子がグラスを呷《あお》った。
「他人事《ひとごと》みたいに言うけどSELECTION≠熈週刊潮流≠焉Aあなたが仕組んだんでしょ」
「きみまで、そういうことを言うかねぇ。天地神明に誓って、SELECTION≠ヘ濡衣だよ。ただ週刊潮流≠ノついては、かかわりがないとは言わない。ほんの少しだけどね」
「母も、子供たちも傷ついたけど、父が青木伸枝と別れられて、佐々木家と北野家が平和を取り戻すことができたとも言えるわけよねぇ」
「僕も寝覚めが悪いっていうか、親父《おやじ》さんに対してやり過ぎた面がないでもないけど、ACB再生のためには、よかったと思ってるよ」
「あなたは、よくぞ頑張ったと思うわ。ただし父とは永久に縒《よ》りが戻らないでしょうねぇ。電話で、あなたにしてやられたようなことを言ってたわよ。あなたと離婚して、永福に来ないか、なんて言ってたわ。そうすれば、財産は全部わたしにくれるんだって。ちょっと考えちゃうわねぇ」
今日子が真顔でつづけた。
「あなたに愛人でもいれば、父の提案に飛びついたかもね」
横井繁子の美しい顔を目に浮かべ、北野の心が揺れた。
「それとも、離婚する」
今日子に覗《のぞ》き込まれて、北野はたじろぎながらも、あわてて顔をしかめた。
「財産に目がくらんだのか」
「そうでもないけど、偽装離婚っていうことも考えられるじゃない」
「莫迦《ばか》言うんじゃない。佐々木家の財産がどれほどあるか知らないが、そんなもの要らないよ。遺産は放棄するって言ってやりたいくらいだ」
「勿体《もつたい》ないと思うけどなぁ。母は、あなたと父が仲直りすることを本気で願ってるのよ。わずか四カ月だったけど、北野家で暮らせたことを母は、喜んでたわ。ほんとうは永福に帰りたくなかったみたいよ。あんまり父が憐《あわ》れだから、母はうしろ髪を引かれる思いで、このマンションを出て行ったのよ。浩一も史歩も、がっかりしてたわ。わたしも家事を母にまかせてたから、これから大変だわ。家賃の援助は、父に内緒で継続してくれるって言ってたけど」
「それはない。本郷台のマンションに戻るのがいいんじゃないか。このマンションは分不相応だよ」
「あのマンションは、借り手があらわれたわよ。家賃は十二万円だって」
「ふうーん。それなら、お母さんの援助は必要ないじゃないか」
「まあねぇ。でも、援助したいって言い張ってるんだから、好きにさせとけばいいじゃない」
北野が欠伸《あくび》を洩《も》らし、ついでに大きな伸びをした。
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第二十五章 再 会
1
九月二十九日月曜日の夜八時に、北野は人事部付の片山と銀座のバー西川≠ナ会った。
前夜、片山のほうから会いたいと電話をかけてきたのだ。
ヘの字型のカウンターの短いほうに、並んで座り、水割りウイスキーを飲みながら、片山が思い詰めた口調で切り出した。
「ACBを辞めるつもりだ。司法取り引きでもないけど、|MOF《モフ》担時代の大蔵省接待の一部始終を検察に明かしてしまったからなぁ。大蔵省の検査官二人が戒告処分を受けたが、それだけで終わりそうもないんだ。そのことの責任は取らなければならないと思う」
北野はショックのあまり、危うく落としそうになったグラスを両手でつかみ直した。
「きみは強制捜査で検察に押収された資料の裏付けをやらされただけのことなんじゃないのかね。ACBを辞めるはないだろう」
「どうやら俺《おれ》の逮捕はまぬがれられそうだが、小田島への迂回《うかい》融資を結果的に見過ごしたMOFの検査官は逮捕される可能性が強い。ノーパンしゃぶしゃぶ≠窿Sルフ接待で、MOF検の手抜きをしたと検察は見てるわけよ。検査官の目こぼしは否定しようがないものなぁ」
片山は、水でも飲むように水割りウイスキーを喉《のど》へ流し込んで、二杯目をオーダーした。
北野も負けずに、グラスを呷《あお》った。
「きみは、ACBのために頑張ったんじゃなかったのか。誰がMOF担やっても、結果は変わらなかったと思うが。それに大蔵省に対する過剰接待は、どこもかしこもやってることだから、MOF担というMOF担は全員辞めなければならなくなるぞ。西田に言わせれば、共和銀行のMOF担で、他行の示達書《じたつしよ》まで、MOFから持ち出した凄《すご》いのがいるそうじゃないの」
「ああ、荒川洋ねぇ。ミスターMOF担≠ナ通ってるよ。あいつには、誰もかなわない」
示達書とは、大蔵省検査報告書のことだ。
北野は、七月二十七日に行った中澤の出所祝いのゴルフ以来、片山に会っていなかったが、企画部で片山の後任のMOF担になった西田とは二、三度会っていた。
東京地検特捜部の厳しい尋問攻めにあっていた片山は、行内で逮捕も時間の問題と見られていただけに、会いづらい雰囲気だった。
「逮捕はまぬがれそうだ」と本人の口から聞いて、北野はどれほど安堵《あんど》したかわからないが、「ACBを辞める」は穏やかではない。
「辞めてどうするんだ」
「まだ決めてないが、二、三カ月は命の洗濯かねぇ。子供を親戚《しんせき》にあずけて、カミさんと海外旅行でもしようかと思ってるよ。MOF担で遊び過ぎたから、たまにはカミさん孝行しないとな」
片山はほとんど表情を動かさなかった。
「カミさん孝行ねぇ。おまえそんなに悪さをしたのか。ハッピーリタイアメントした人が言うせりふだろう。十年どころか、二十年早いよ」
北野が片山の顔を覗《のぞ》き込んだ。
片山の横顔を見つめながら、北野は、こいつ本気だな、と思った。
「奥さんに話したのか」
「うん。話したよ」
「当然反対したんだろうねぇ」
「いや。好きにしろって」
片山は水割りウイスキーのグラスを口へ運んだ。
「転職先の当てはあるのか」
「まあ、ゆっくり探すよ」
「俺は反対だ。きみがACBを辞めることの影響の大きさを考えてくれないか。片山は五十三年組のエースなんだ。クーデターの首謀者でもある。まるで敵前逃亡じゃないか」
「首謀者はないだろう。悪だくみしたわけじゃないぞ」
「言葉を間違えたな。クーデターのリーダーだったと訂正するよ」
「五十三年組のエースは北野だよ。北野には頭取を目指してもらいたいね」
「冗談よせよ。エキセントリックなやつだと千久≠竦w内さんに睨《にら》まれてる俺は支店長止まりだ。S≠烽「なくなったことだしねぇ」
北野は冗談めかして話しているが、本音を吐露しているつもりだった。
「片山は、MOF担には珍しい国際派でもある。内務官僚とは違って、海外勤務の経験もあるから、転職先はいくらでもあるだろうけど、新生ACBにとって、かけがえのない人材なんだ。早まったことをしてもらいたくないねぇ」
「そんなふうに言ってくれるのは、北野だけだ」
片山の声がくぐもった。
「ACBを辞めるなんて冗談じゃないぞ。寝言だと思って忘れることにするからな」
北野がグラスを両手でもてあそびながら、真顔で言うと、片山はうつむき加減に答えた。
「俺の気持ちは変わらないよ。敵前逃亡と言われようが、なんと言われようが、もう決めたことなんだ。あした人事部長に辞表を出す。北野には事前に仁義を切っておこうと思って呼び出したんだ」
「おまえ、どうかしてるんじゃないか。MOF検担当官の逮捕が事実だとしても、片山にはなんの責任もない。MOF検の目こぼしはACBだけじゃないはずだ。MOFに対する過剰接待は、銀行よりも生保のほうがもっと派手だって聞いてるが、MOF担だけの問題じゃなく、MOFの裁量行政にこそ問題があったんだろうねぇ。小田島への迂回融資は論外だが、ACBだけが総会屋に融資してたなんてあり得ない。一罰百戒で、政治力の弱いACBが犠牲になったとも言える」
北野は、ピーナッツを口へ放り込んだ。
片山も、ピーナッツに手を伸ばした。
辞表を出したら、おしまいだ。もはや、俺の手には負えない。どうしたらいいか。
片山の気持ちを変えられる人がいるとすれば中澤しかいない。
バー西川≠フカウンターは北野、片山のほかに、三人組のサラリーマンが水割りウイスキーを飲みながら、談笑していた。
深刻な表情で話し込んでいる北野、片山とは対照的だ。マスター兼バーテンダーの西川も、ママ兼ホステスの早智子《さちこ》も三人組を相手にしているので、二人にとって都合がよかった。
「中澤さんが、どんな思いで、東京拘置所から片山に葉書を出したのかねぇ。中澤さんのことだから、いまの片山の心境を予感したんじゃないだろうか。もっと言えば、危機感かねぇ。中澤さんが、ACBの未来を片山にも託していたことを、否定できるか」
片山は涙ぐんだ。葉書の内容を思い出したに違いなかった。
「俺への仁義なんてどうでもいい。辞表の提出は、少なくとも中澤さんの了解を取ってからにしてくれなければ困るよ。それが筋というものだろう。中澤さんを裏切るような真似《まね》ができるんだろうか。俺には、片山の気持ちがどうにも理解できないよ。片山が刑事被告人になるんならいざ知らず、そうならないことがはっきりしてて、辞めるなんて絶対に承服できない」
片山が唐突に話題を変えた。
「おまえ、森田みたいなオポチュニストが代表取締役になったACBにあすがあると思うか。あいつは、検察の事情聴取でも、俺の悪口を言い立てたらしいんだ」
「声が大きいぞ」
北野が小声で注意した。
片山はバツが悪そうに、しかめっ面で水割りをすすった。
「陣内がA¢、の人事を仕切ってるから、森田は遠からず副頭取になるんだろうな。陣内は俺が逮捕されると行内で言いふらした。人事部付で、大恥をかかされた俺の身にもなってくれよ」
「片山の人事部付は緊急避難だから、しょうがないんじゃないのか。人事部としても、やむなくそうしたまでだろうねぇ。早崎も言ってたが、みんな緊張したんだよ。片山の無罪放免を石井さんや松原さんがどんなに喜ぶことか。辞めるは絶対にないぞ」
北野は「絶対に」にアクセントをつけ過ぎて、思わず三人組のほうを見たが、こっちを気にしている目はなかった。
「俺の疑問に答えてないじゃないか」
「森田専務のことなら、あんなの目じゃない、と思ってればいいんじゃないのか。所詮《しよせん》あと何年かで卒業していくんだから」
「中澤さんには、申し訳ないと思うよ。合わせる顔がない。ACBを辞めてから、挨拶《あいさつ》に行く。それで勘弁してくれないか」
片山は、背筋を伸ばして、北野に横顔を向けた姿勢でつづけた。
「俺としては、どうしてもけじめをつけたいんだ。久山さんみたいに自殺したいぐらいの心境だけど、そこまでの勇気はないから、安心してくれ」
「トイレに行ってくる」
北野は、地下二階の共同手洗いで用を足してから、いったん地上に出た。時計を見ると九時二十分だった。携帯≠ナ中澤宅に電話をかけた。
「はい、中澤ですが……」
「北野です。夜分申し訳ありません。いま片山と一緒なんですが、あす人事部長に辞表を出すと言い張って……。往生してます。助けてください」
北野の声は悲鳴に近かった。
中澤も、調子外れの声になった。
「なんだって! どうしてそんなことに……」
「いまからお邪魔してよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ。それとも、わたしが出向こうか。いま、どこですか」
「銀座です。タクシーを飛ばして参ります。この時間でしたら、三、四十分で行かれると思いますが」
「じゃあ、お待ちしてます。わが家は何時でもけっこうですよ」
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます。失礼しました」
北野は携帯電話を切って、西川≠フカウンターに戻った。
「片山、そろそろ帰ろうか。たまには俺にやらせてもらうよ。お願いします」
「もう帰るのか。まだいいじゃないか」
片山は不満そうだったが、北野はさっさと支払いを済ませた。
北野はコリドー街でタクシーを拾い、先に乗り込んだ。
「東久留米《ひがしくるめ》へお願いします」
北野は、運転手に行先を伝えてから、片山を手招きした。
「早く乗れよ」
「電車で帰るよ。タクシーに乗れる身分じゃない」
「いいから。これから二次会だ」
「どこへ行くんだ」
片山がやっと北野の隣に座った。
タクシーが走り出した。
「二次会って、カラオケか」
「片山のヘタな唄なんか聴いてもしょうがないだろう。辞めるなんて、まったく冗談じゃないぞ」
片山は、タクシーが霞ヶ関ICから首都高速に入ったときに、北野の意図を察知した。
「中澤さんの家へ行くのか」
「そんなところだ」
「おまえ、それはないよ」
「あした辞表を出すつもりなら、今夜しかないじゃないか。中澤さんに、挨拶もしないで辞めるなんて、悪い料簡《りようけん》だ」
「さっき、電話したんだな」
「うん。中澤さんはびっくり仰天だよ。どこへでも出向くとまで言ってくれたが、そうもいかないよねぇ」
北野は、祈るような気持ちだった。中澤に説得されて、片山が翻意しなかったら、それまでだ。
2
道路がすいていたので、十時過ぎに、タクシーが中澤宅に着いた。
「北野ですが」
インターフォンを押すと、「あいてます。どうぞお入りください」と、中澤夫人の声がし、すぐに中澤が玄関から出てきた。
「こんばんは」
「遅い時間に、申し訳ありません」
「すみません。北野が強引で……」
「よく、来てくれましたねぇ。よくぞわたしを思い出してくれました。うれしいですよ」
フローリングのリビングルームのセンターテーブルに、水割りのウイスキーとつまみの用意がしてあった。グラスは三つ。
夫人が水割りをこしらえてくれた。
「ようこそ、おいでくださいました」
中澤がグラスを掲げた。
「じゃあ乾杯!」
「いただきます」
「どうも」
北野も片山も緊張気味に両手でグラスを持った。
「遠慮なさらないで、ゆっくりなさってくださいね」
夫人は、二階へ引き取った。
中澤がグラスをセンターテーブルに戻して片山に笑いかけた。
「どういうことなの。ここへ来るまでに、考え直してくれたんでしょう」
片山もグラスを置いた。
「北野に、中澤さんを裏切るのかって言われましたが、ご心配ばかりおかけして申し訳ないとは思いますけれど、ACBにとどまるつもりはありません」
「わたしのように、刑事被告人になるとでも言うんですか」
「略式起訴もまぬがれそうですが、けじめをつけたいと思うのです。この何カ月間は、針の筵《むしろ》でした。屈辱的な思いもしてきました」
「針の筵はお互いさまだよ。わたしはいまでもSELECTION≠ノリークした犯人にされてるもの」
「そんなことを言ったら、わたしはどうなるんですか。裁かれる身なんですよ。ACBマンは、みんな辛《つら》く切ない思いをしたんです。だからこそ、きみたち若い世代が踏ん張らなければ、いけないんじゃないですか」
中澤が、グラスに手を伸ばした。ごくっと水割りウイスキーを飲んで、話をつづけた。
「忘れもしません。五月二十一日の夜、宿泊先のパレスホテルへ、きみたちが押しかけてきて、わたしは吊《つる》し上げられた。今夜中に決着をつけろってねぇ。凄《すご》い迫力だった。片山君、北野君、石井君、松原君、西田君の五人でしたが、きみたちが起《た》ち上がってくれたお陰で、中山新執行部が誕生した。ACBが再生への道筋をつけた歴史的な瞬間だった。あの夜のことをどうか思い出してください。あれから、まだ四カ月しか経ってないんですよ。片山君、辞めるなんて言えた義理じゃないでしょう」
「おっしゃることは、よくわかります。このままでは、ACBは国家権力に押し潰《つぶ》されてしまうと危機感をもちましたから……」
片山が長椅子《ながいす》の右隣に座っている北野に、チラッと目を流して、話をつづけた。
「北野ともよく話すんですが、初めに中澤さんの総辞職論ありきでした。われわれは、その尻馬《しりうま》に乗っただけのことなんです。ただ、いまにして思いますと、あんなクーデターまがいのことが、よくできたなぁ、と不思議な気がしますし、充足感もあります。ACBを去るに当たって、長年|禄《ろく》を食《は》んできましたことへのせめてもの恩返しをさせてもらった、そんな思いもあります。MOF担として、世間を騒がせ、大蔵省の担当官をたぶらかして、かれらに迷惑をかけたことの咎《とが》めは、受けなければならないと思うのです。いまなら、気持ちの整理をつけられます。また、つけなければいけない、と思うのです」
中澤が腕組みして、ソファに背を凭《もた》せた。
「どうして、きみが咎めを受けなければならんのか、わからんなぁ。だって、わたしや今井さん、岡田さんが咎めを受けたじゃないですか。ACBは社会的制裁も受けました。いわれなきとまでは言いませんが、必要以上に社会的制裁を受けたと思いますよ。片山君がMOF担として責任を取るっていうのは、なんか勘違いしてるように思えてならないが」
北野が口を挟んだ。
「MOF検の担当官が収賄罪で逮捕される公算が強いそうです。片山はそのことで滅入《めい》っているようです」
「それは、仕方がないでしょう。ACBは七人も逮捕されたんですからねぇ。とにかく、あす辞表を出すなんて、いくらなんでも性急過ぎる。せめて、今年いっぱい、考える時間をもったらどうですか」
中澤は腕組みをほどいて、センターテーブルのグラスに手を伸ばした。
「片山君が強い逆風を受けて、傷ついていることはわかります。小菅《こすげ》を出るとき、妙に胸騒ぎがしたんですよ。それで葉書を出したんです」
北野が大きくうなずきながら、片山に軽く左肩をぶつけた。
片山がぽろっと涙をこぼした。
中澤がしみじみとした口調で、話をつづけた。
「それこそ、いまにして思うと、こんなことも予感したんですかねぇ。片山君は心やさしい人だし、傷つきやすい人だし、誇り高き人でもある。しかし、きみほど、身を挺《てい》して頑張ったACBマンもいないと思うんです。片山君、辞めるなんて言っちゃあいけませんよ。ACBを背負《しよ》って立つぐらいの気概をもってくれなければ、われわれは浮かばれないじゃないですか」
片山が肩をふるわせながら、ハンカチで涙を拭《ふ》いて、洟《はな》をかんだ。
北野も、目頭が熱くなった。
「陣内君が過剰反応したことに対して、きみが許せないと思う気持ちもわかります。しかし、副頭取という立場と、陣内君なりに危機感があったんでしょう。きみが感情論だけで、ACBを辞めたいと考えたわけではないと思うが、石井君や北野君たちがどんな気持ちになるか考えたことはありますか」
北野は、中澤の話を聞きながら、片山が翻意することを確信した。中澤にここまで言わせて、辞表を提出するようだったら、容赦しない――。
北野が片山の肩を叩《たた》いた。
「中澤さんとわたしに免じて、あしたの辞表提出だけは、勘弁してくれよな。人事部長は、石井さんと一緒にわたしの千久出向を止めてくれた人だから、慰留してくれると思うけど、辞めたいやつは辞めたらいい、と変に割り切る人がいないとも限らないから、はやまらないでもらいたい」
「おっしゃるとおりだ。片山君、北野君の友情を多としてください。お願いします」
中澤に頭を下げられて、片山はいつまでもうなじを垂れていた。
「ACBは、きみたち若い人たちの力で必ず再生します。中山君も陣内君もよくやってるじゃないですか」
中澤が三つのグラスにウイスキーボトルを傾け、氷を落とし、水を入れて、マドラーでかきまわした。
「中山君で、思い出したが、いつぞやの北野君の仰せにしたがい、千久≠フこと中山君に進言しておきましたよ。二カ月以上も前ですけど、日曜日に電話で一時間ほど話しました。株を引き取れの、なんのと無理難題を言ってくるので、一挙にとはまいらんが、正常化への地道な努力はしたい、と言ってました」
話題が変わって、ホッとしたのか、片山が元気を取り戻した。
「ACB≠ヘ、川上―小田島の呪縛《じゆばく》は解けましたけど、千久≠フ呪縛はまだまだ引きずるんじゃないでしょうか。OBが残した負の遺産を連綿と踏襲しなければならない現役は、たまったもんじゃないですよ。北野は千久≠フ呪縛が解けると本気で思ってるようですけど、甘いと思います」
「ですから、正常化への地道な努力をすればいいんです。世の中、なにが起きるかわかりませんよ。あのS≠ェ、すごすごとACB本館から立ち去ったんですからねぇ」
北野はついでに千久¢、に厭《いや》がらせを受けたことを話してしまいたい衝動に駆られたが、ぐっと辛抱した。
第二弾で終わったのだから、もう忘れてもいいだろう。
「ううーん。あのS℃≠ヒぇ。ほんと、びっくりしましたよ」
中澤が唸《うな》るように言うと、片山も「うんうん」とうなずいて、北野のほうへ首をねじった。
「静かにしてるのか」
「どうなのかねぇ。晴耕雨読の境地になれるような人じゃないことはたしかだろう」
「北野は昔から岳父に対して、不思議なくらい冷たいんですよ」
「われながら、可愛《かわい》くないと思います」
三人が初めて声を立てて笑った。
北野と片山が中澤宅を辞去したのは午前零時を回っていた。
北野が帰宅したのは一時過ぎだ。そっと玄関をあけて、北野はギョッとした。
パジャマ姿の今日子が仁王立ちになって、無言で睨《にら》みつけていたからだ。
「ただいま。とっくに寝てると思ったけど」
「話したいことがあったから、起きてたんじゃない。携帯≠ネんで切ったのよ」
「うっかりしちゃったなぁ。あぁそうか。中澤さんに電話したあとで、なんとなしに電源切ったんだ。自覚はないけどね。頭取から、なにか言ってきたのか」
「別に。どこに行ってたの」
「片山と中澤さんのお宅にお邪魔してたんだよ。片山が辞表を出すなんて言い出すものだから、参ったよ」
「ふうーん。それは大事《おおごと》ねぇ。上がっていいわよ」
「当たり前だろう。ここは僕の家なんだからな」
北野が、今日子に続いてリビングの長椅子に腰をおろし、ネクタイをほどきながら言った。
「中澤さんは凄い人だよ。胸に沁《し》み入るようにじゅんじゅんと諭されて、片山が翻意したものねぇ。こんどの事件で、あの人を失ったことがACBにとって、いちばん痛かった。中山頭取も立派だけど、若返り過ぎたからねぇ」
今日子がじれったそうに躰《からだ》をよじった。
「片山さんのことで興奮するのはわかるけど、わたしの話を聞いてくれないの」
「ああ、そうだったな。話したいことってなんなんだ」
「父が久山さんのお墓にお参りしたんですって。二十九日は、久山さんの月命日《つきめいにち》でしょ。母が墓参したいって言ったら、一緒に行くって従《つ》いてきたんだって。あの父がよ。あなた、どう思う」
話しながら、今日子は興奮した。
「あの、父ねぇ」
北野は感慨深げにひとりごちた。中澤と片山に『あのS≠ェ』と話したことを思い出したからだ。
「父は虚勢を張ってたのよ。権力の座にしがみついていたいっていう思いもあったんでしょうけど、転がり落ちて、誰にも相手にされなくなって、やっと、久山さんを悼む気持ちになったんじゃないかしら。権力の座が父を変えたような気がするの。本来の父は、けっこうやさしい面もあったんじゃないかなぁ」
「お母さんから、電話があったのか」
「そうよ。母は泣きながら電話かけてきたわ」
北野は、なにをいまさら、と思わぬでもなかったが、水を差すこともない。
「欲を言えばもっと早く、久山さんを悼んでもらいたかったけど、以《もつ》て瞑《めい》すべしという気持ちになったのかねぇ。よかったよ」
「でしょう」
今日子がにこっと微笑《ほほえ》んだ。
翌日午後三時を過ぎたころ、石井から北野に電話がかかった。
「片山が辞表を出したよ。人事部長と二人で慰留したが、片山の気持ちを変えられなかった。きのう中澤さんと会ったらしいねぇ。中澤さんと北野が説得しても、ダメだったんだから、わたしがなにを話しても、ムダなわけだよ」
「信じられません。翻意してくれたとばかり思ってたんですけど。片山のやつ、いったいなにを考えてるんでしょうか」
「たしか片山の奥さんのお父さんは、二部上場企業の創業社長だったよねぇ」
「ええ。コンピュータ関係だったと思いますが」
「後継者になろうってことかねぇ」
「そんな話、聞いてませんけど。奥さんの弟さんが継ぐような話を昔、聞いた記憶がありますが」
「どっちにしても、ACBは片山に見限られたわけだ。わたしも、がっかりして腑抜《ふぬ》けみたいになっちゃったよ」
「検察のほうは、お咎《とが》めなしっていうことになったんでしょ」
「うん。都銀のMOF担で危ないのは共和銀行だけらしいよ。しかし、略式起訴で逮捕まではないと思うけど」
「片山ともう一度話してみましょうかねぇ」
「諦《あきら》めよう。しょうがないよ」
「中澤さんがどんなに嘆かれるか。片山の気が知れませんよ」
「さっき、中澤さんと電話で話したよ。昨夜のこと片山から聞いたわけじゃないんだ。中澤さんは、やっぱりダメでしたかって……。北野によろしく言ってたよ。片山との友情にひびが入らないことを祈るって」
北野は、電話を切ってから、しばらく放心していた。
その日のうちに昭和五十三年入行の同期の何人かから、北野に電話がかかってきた。中には、片山が検察に逮捕されたと勘違いしている者もいた。
「最大のライバルがずっこけて、名実共に北野がトップに立ったわけだな」
そんなおぞましいことを言う莫迦《ばか》もいた。
夕方、中山から北野に呼び出しがかかった。
「片山が辞表を出したらしいねぇ」
「残念無念です。ACBにとって大きな損失だと思います。頭取から慰留していただくわけには参《まい》りませんでしょうか」
「わたしがそこまでやることはないだろう」
「はい。失礼なことを申しました」
「北野も片山も逸材には違いないが、ACBは人材の宝庫だから、たいした問題じゃないよ。去る者は追わず、でいいんじゃないのか。冷静に受けとめるのがいいと思う」
「恐れ入ります」
地位が人を変えるのだろうか。中山はもっとあったかい人だと思っていたのに。組織の冷徹さとも言えるのだろうか。
3
二日後、十月二日の朝八時過ぎに、北野が秘書役席に座ると、佐藤弘子がデスクの前に立った。
「ちょっとよろしいですか」
「どうぞ」
「昨夜、横井さんとお食事したんですが、片山さんのことが話題になりまして……」
片山は十月二十日付でACBを退職することに決まっていた。
「ほーう。片山のことが」
「はい。シチズンバンクは人材がいくらでも欲しい状態なんだそうです。片山さんなら将来ボード入りも可能ですから、トラバーユ先がお決まりになっていないようでしたら、スカウトしたいようなことを話してました」
「横井さんはシチズンバンクでしたねぇ。日本の銀行よりサービスが行き届いてるとか、外貨預金をすれば金利が有利とかで、有卦《うけ》に入ってますよねぇ。ACBの個人預金も、相当シチズンバンクに流失してるかもしれませんよ」
シチズンバンクはアメリカ系銀行の大手で、目と鼻の先の大手町《おおてまち》に東京本部がある。
「横井さんから秘書役に電話してもよろしいですかって言われたものですから」
「なるほど。仲介の労を取れっていうことですね……」
北野は椅子《いす》を少し動かして、腕組みした。
目を瞑《つむ》ると、ホテルオークラのバーオーキッド≠ナ涙を溜《た》めた横井の顔が厭《いや》でも思い出される。あんなつれない仕打ちを受けながら、まだ俺《おれ》に未練があるのだろうか。うぬぼれてはいけない。ビジネスライクに、片山のスカウトをしたい、というだけのことだろう。男女関係については終止符が打たれたはずだ。
「横井さん、短期間に採用にも口出しできるほどパワーを身につけたんですか」
「あの人は、優秀ですから、トップを引き回すぐらいはおやりになりますよ。シチズンバンクの水に合ってるようなことも話してました」
「まず片山の意向を聞いてみます。片山にまったくその気がなかったら、無意味でしょう」
北野はふたたび思案顔になった。
片山にかこつけて、横井と会ってもいいと思ったのだ。未練たっぷりなのは俺のほうかもしれない。
「とりあえず、電話をかけてもらいましょうか。片山に話す前に、シチズンバンク側の条件を聞いておくのが筋ですかねぇ」
前言を訂正しながら、北野は顔が赭《あか》らむのを佐藤に気取《けど》られたのではないか、と気を回した。
「さっそく横井さんに電話します。喜ぶと思いますよ」
佐藤弘子が笑顔を見せて、自席に戻った。
横井繁子は在席していたらしい。こっちを見ながら「OKよ」と言っている佐藤弘子の声を聞いて、北野は椅子を半回転させた。
佐藤が、ふたたび北野の前に立った。
「電話つながってます。出ていただけますか」
「ええ」
佐藤が秘書役席の電話機のボタンを押して受話器を北野に手渡した。
「はい。北野です。横井さんご活躍なんですってねぇ」
北野は声がうわずらないように努めて低音を心がけた。少し胸がドキドキしている。
「ご無沙汰《ぶさた》してます。佐藤さんとは、ときどきお会いしてますが、片山さんのことをお聞きして、ほんとうにびっくりしました。あなたがどんなにショックを受けたか察して余りあります。ずいぶん慰留なさったんですってねぇ」
横井からあなた、と呼ばれたことに、北野はくすぐったいような、面映《おもは》ゆいような妙な感じだった。
「片山はプライドの高い男ですからねぇ。口さがない人たちを許せなかったんでしょう。片山らしいですよ。片山の潔《いさぎよ》さが、うらやましいような気もしてます。片山の意向を聞くのが先か、横井さんとお会いしておおよその条件面をお聞きするのが先か、悩んでるんですけど」
「きょうの昼食時間はいかがですか」
やっぱりビジネスライクなんだ、と北野は思い、少し気落ちした。だが、当然と言えば当然である。いまや、横井はキャリアウーマンに変身したと考えるべきなのだ。
「いいですよ。頭取も昼食の予定が入ってますから。どこでお会いしましょうか」
「パレスホテルの一階のダイニングルームでいいですか。わたしのほうが予約しておきます」
「わかりました。それでは正午に参ります」
この日、中山頭取は、役員食堂の個室で、来客と会食することになっていた。
北野が正午五分過ぎにパレスホテルのダイニングルームに駆けつけると、横井は窓際のテーブルで待っていた。
「お呼びたてしまして。どうも」
横井は、濃いアイシャドーのせいか、若返ったような印象を与えた。スーツ姿は相変わらず颯爽《さつそう》たるものだ。
「ビール一杯いかがですか」
「ええ。小瓶を二人で一本」
「はい。わたしは、クラブハウスサンドとグレープフルーツジュースをいただきます。北野さんは」
「僕は、チキンカレーにします。あとでミルクティーを」
オーダーを取って、ウェイトレスが去った。
「片山さんのこともびっくりしましたけれど、S≠フほうがもっと……」
「ええ。横井さんがお辞めになってから、いろいろありましたよ」
ビールの小瓶が一本とグラス二つが運ばれてきた。
ウェイターが二つのグラスにビールを注いだ。
「北野さんとお会いするのを、楽しみにしてました。あなた、ホテルオークラのバーにわたしをひとり置きざりにして。でも、あのとき、またお目にかかりたいって言ってくださったわ」
惹《ひ》き込むようなまなざしを向けられて、北野の気持ちが揺れた。
「お目にかかれて光栄です。とにかく再会を祝して乾杯!」
「はい」
横井のほうからグラスを近づけてきた。
グラスを触れ合わせて、北野は一気に、横井はひと口飲んで、グラスを置いた。
「さっそくですが、片山は年内いっぱいは、浩然《こうぜん》の気を養いたいなんて言ってましたけど、シチズンバンクの話にどう反応しますかねぇ」
「早ければ早いほどと言いますか。それこそ、あしたからでも、というのがわたくしどもの希望です。片山さんなら相当な条件でお迎えできると思いますが」
「ACBよりも収入は増えるのは当然でしょうねぇ」
「部長待遇で迎えますから、最低二倍は保証します。マネージメントでも、アドミ・セクションでも、片山さん次第ということでけっこうです。詳しいことは、日本法人のアメリカ人のプレジデントと、日本人のバイスプレジデントに面接していただいたうえで、ということになりますが」
アドミとは、アドミニストレーション、管理部門のことだ。
「社長と副社長が面接してくれるんですか」
「片山さんは、ニューヨーク支店に勤務したこともございますでしょう。それに東大法科卒の学歴とMOF担の実績も評価されるんじゃないでしょうか」
「良い話ですねぇ。僕が片山なら飛びつきますけど。きょう中に、片山の気持ちを打診しておきます。横井さん、名刺をください」
「そうでしたね。失礼しました」
横井がハンドバッグから名刺を出した。
「携帯≠持たされてますから、書いておきます。それと自宅の電話も。もうお忘れなんでしょ」
名刺にボールペンを走らせながら、ちらっと見上げたときの横井の目に、北野はぞくっとした。
クラブハウスサンドイッチとチキンカレーがテーブルに並んだ。
名刺を手渡しながら、横井が言った。
「いつでもけっこうですから、電話をかけてください。いまは仕事に夢中ですけれど、また人が恋しくなるんじゃないか心配です」
意味深というべきか、強烈というべきか。
北野はまぶしそうに横井を見ながら、耳たぶを引っ張っていた。
4
北野は、横井繁子と別れて、いったん秘書室に戻ってから、片山の携帯≠ノ電話をかけた。
「北野ですが」
「ああ。北野」
「片山、あれ以来、一度も挨拶《あいさつ》がないっていうのも、おかしくないか」
「おまえに合わせる顔がなくてねぇ」
「石井さんによると、中澤さんは、きみとわたしの友情にひびが入らないことを祈ってくれてるらしいよ。いまどこにいるんだ」
「人事部の俺の席だけど」
「じゃあ、すぐ来てくれよ。旧交を温めるっていうのもなんだか変だけど、至急話したいことがあるんだ」
「わかった。すぐ行くよ。どうせひまだから」
片山はスーツ姿で秘書室にあらわれ、北野に向かって最敬礼した。
「いろいろ失礼しました」
「ご丁寧にどうも」
北野は中腰になりながら、笑い出した。
「なにをかしこまってるんだ。片山らしくないじゃない。応接室で話そうか」
雨宮は席にいなかった。
北野が背広を着ながら、佐藤弘子に言った。
「お茶をお願いします」
「はい」
事情を承知している佐藤が笑顔でいい返事をした。
応接室のドアを開けて、迎え入れながら、北野が片山の背中をどやしつけた。
「こいつ。ふざけやがって」
「おまえには不義理したことになるのかねぇ」
「中澤さんを裏切ったことが許せないんだ」
「中澤さんには手紙を書いたよ。自分の気持ちを大切にしたい。気取ってると思われるかもしれないが、そうとしか言いようがないんだ。元MOF担で、一人ぐらい、俺みたいな莫迦《ばか》な男がいてもいいだろう。口をぬぐってぬぐえないこともないけど、MOF担としてどうあったか、こんなことでよかったのか、いろいろ考えさせられたよ。人間として誇りを失ったら、おしまいだと思うんだ」
「言い訳はもういいよ。実はねぇ……」
北野がシチズンバンクの件を話した。
「ニューヨーク支店に勤務したのは八五年から八七年までだけど、支店長の小島康夫さんが明るい人で、ACBで過ごした二十年間でもあんな愉《たの》しい時代はなかったよ。アメリカのファイナンス・カンパニーの買収は小島さんが放った大ホームランだが、あの買収劇にも末席ながら、かかわることができたしねぇ。六〇パーセントの株式を取得するのに邦貨で千八百億円ほど投じたが、大成功だった。高収益会社だから、ACBへの寄与は大変なもんだろう」
片山は、得意満面で往時をふり返った。
「ボードには、高い買物になるって反対論も相当あったが、決断したのは久山さんだよ。久山さんの経営決断こそ評価して然るべきなんじゃないのか」
「おっしゃるとおりだよ」
「シチズンバンクが、片山のニューヨーク支店時代の活躍ぶりまで調査したかどうか知らないが、片山のカンバセーションは錆《さ》びついてないのか」
北野に話の腰を折られて、片山は唇を尖《とが》らせた。
「語学は感性の問題だが、多少は錆びついてはいるけど、その気になって研《みが》けば光るんじゃないのか」
「シチズンバンクに関心はあるんだな」
「ないとは言わないが、好きな銀行じゃないな。庶民の味方みたいなポーズを取ってるが、金持ち優遇が歴然としてる。三十万円以下で口座を開設するときは手数料を取ってるし、外貨預金の金利も、他行より低いんじゃなかったか。外貨預金が受けてるようだけど、為替《かわせ》リスクをカウントしたら、どうなのかねぇ」
ノックの音が聞こえ、佐藤弘子が緑茶を淹《い》れてきてくれた。
「片山、シチズンバンクの話は、佐藤さん経由なんだ」
「それはどうも」
片山は中腰になって、佐藤に会釈した。
「ただ、あんまり乗り気じゃないみたいですよ」
「いや、そうとも言えない。ご配慮感謝します」
片山は、北野から佐藤に目を流した。
「ごゆっくりどうぞ」
佐藤が引き取った。
「どっちが本音なんだ」
「シチズンバンクに限らないが、外資系はいつクビになるかわからんからねぇ。年収二倍は当然なんだ」
「シチズンバンクなら、箔《はく》がつくことにはなるんだろうねぇ」
「そうかもしれないが、外資系は金融に限らず使い捨てみたいなところがあるからなぁ」
「日本の企業の終身雇用も、揺らいでるじゃないか」
「しかし、外資系の非情さとはひと味もふた味も違うよ。ま、考えさせてもらうが、それほど食指は動かないな」
「ふうーん。奥さんの親父《おやじ》さんの会社を継ぐのか」
「継ぐんじゃない。手伝うんだ。それも選択肢の一つに過ぎないけど。いまはACBの二十年の垢《あか》を落とすことしか考えてないよ。ただ北野の友情は涙がこぼれるほどうれしかった。今後ともよろしくお願いします」
片山はソファから腰をあげて、低頭した。
北野も起立して、右手を差し出した。
握手をしながら、片山が言った。
「あったかい手だなぁ」
「引く手数|多《あまた》の片山がうらやましいよ。横井さんには、一応断っておくかねぇ」
「うん。気をもたせてもなんだしなぁ」
「中澤さん、石井さん、松原さんを誘って、片山の激励会をやろう」
片山は、いっそう力を込めて握り返してきた。
5
この夜、北野は雨宮に夕食を誘われた。雨宮がひいきにしている鮨長《すしちよう》≠ニいう赤坂二丁目の鮨店で、七時に落ち合った。
ビルの二階にある小ぎれいな店だ。北野は二度目だった。
オーナーの長沼佐利は四十歳前後で、苦み走った男前である。板前の資格ももつ腕のいい鮨職人で、和《あ》えもの、焼きもの、お煮しめなどの料理も出してくれる。
カウンターの隅に並んで座り、サッポロ黒ラベル≠飲みながら、雨宮が切り出した。
「六日付で北野は藤沢支店長に栄転だからな。そのつもりで」
北野は度を失って、しばらく口がきけなかった。
手酌でビールをたて続けに飲んだ。小ぶりのグラスがもどかしかった。
「つまり秘書役はクビっていうことですね」
「身も蓋《ふた》もない言い方をするなって。あくまでも栄転なんだ。頭取の苦衷を汲《く》んでやってもらいたい」
「わずか五カ月でポストが替わるなんて、ACB始まって以来だと思います。秘書役として不適任だったことになるわけですから、栄転はあり得ませんよ」
「きょう昼前に頭取に呼ばれてねぇ」
雨宮は大瓶の黒ラベルのボトルをグラスに傾けて、ぐっとやってから話をつづけた。
「例のSELECTION∴ネ来、頭取になんのかの言ってくるのが多いらしいんだ。頭取は必死に北野を庇《かば》ったが、庇い切れなかった。というより、一時避難させたほうが北野のためにもなると考えたわけよ。きょう、わたしは席を外してたことが多かったろう。人事部長や企画部長と相談したんだ。このままでは攻められる頭取も気の毒だが、北野が傷つく。エースは温存しよう。そういうことで衆議一決した。藤沢支店長の中尾は北野より四年先輩だよ。初めて支店長に就くポストではない。誰が見ても栄転じゃないか」
雨宮も北野も興奮していたので、自分のグラスしか目に入らなかった。北野が手酌でグラスを満たした。
「衆議一決ですかねぇ。そうじゃなくて、頭取に嫌われたんだと思います。わたしは、『無礼者!』って頭取に怒鳴られたことがあるほど、頭取に対して言い過ぎましたから、うとまれても仕方がないと思います。逆鱗《げきりん》に触れたってことですよ。クビになっても仕方がないと思います」
「ちょっと違う。いや、ぜんぜん違う」
雨宮は「ぜんぜん」にアクセントをつけた。
「千久≠ニ千久≠ノ擦り寄る旧A≠フ一部の人たちから、きみを守ろうとしたんだよ。そんな感情論じゃ決してない。石井が心配してたとおりだよ。石井はどうしても外せない会議があるそうだ。八時に、ここへ顔を出すと言ってたが」
カウンターの前が小鉢や皿であふれた。北野も雨宮も、ビールばかり飲んでいて、箸《はし》をつけなかったからだ。
鮨長≠フカウンターは、北野たちを含めてふた組五人。椅子《いす》席に三人と四人のふた組七人。店は繁盛していた。
雨宮が割り箸を手にした。北野もやっと気づいたが、気持ちが料理に向かわず、なにを食べているのかわからなかった。
千久≠ィよび、その同調者の圧力をかわすポーズを取りながら、中山頭取も俺をACB本部から追放したかったのだ。佐々木の重しが取れて、やりやすくなったとも言える。佐々木を追放したことが、さっそく自分にハネ返ってくるとは、なんと皮肉なめぐりあわせだろう。
藤沢支店をひねり出したのは、吉岡取締役人事部長なり人事部門だろう。雨宮と石井も賛成したと思える。副部長クラス一人を動かすのに、かくまで気を遣ってもらえたことには感謝しなければなるまい。
しかし、千久≠フ呪縛《じゆばく》を中山たちはどう考えているのだろうか。
陣内や森田に愛想づかしをして、ACBから去ろうとしている片山にあやかりたい。いっそのこと俺も、辞表を出すか。エキセントリックな俺らしい身の処し方ではないか。ここまで考えて、北野は自嘲《じちよう》気味に口の端をゆがめた。莫迦なことを、と思ったまでだ。
八時十分過ぎに、石井が松原を伴って駆けつけてきた。
「片山ショックの次は北野ショックだなぁ。行内雀が、さぞうるさいことだろうぜ」
松原が冗談ともなく言うと、石井が北野の肩を叩《たた》いた。
「堪忍してくれよな。押し返すことも考えたが、千久出向の件で一度波風を立ててるからねぇ。ここは耐え忍ぼうって、さっき雨宮さんとも話したんだ」
「わたしごときの若造のために、諸先輩にご心配をおかけして、申し訳ありません。しかし、なんで頭取は、直接話してくれなかったんでしょうか。そんなに大騒ぎすることでもないと思いますが」
「まず、わたしたちから北野に話して、なだめておいてくれっていうことだろう。あしたの朝、北野に頭を下げるに違いないよ。あれでけっこう気を遣うやさしい人だからねぇ」
雨宮が三つのグラスにビールの酌をしながら、「なあ。そうだろう」と、石井と松原に相槌《あいづち》を求めた。
二人とも表情をひきしめて、うなずき返した。
「泣いて馬謖《ばしよく》を斬《き》るっていうとこですかねぇ。ま、わたしが頭取でも、そうしたと思います。秘書役の立場を逸脱してましたから、しょうがないですよ」
「冗談にも泣いて馬謖を斬るなんて、北野らしくないぞ。北野のことだから、頭取の辛《つら》い気持ちを察してると思うけど」
石井が北野の左肩に右手を置いてやさしく言った。
翌朝、八時二十分に中山から北野に呼び出しがかかった。北野は昨夜の深酒と寝不足で、瞼《まぶた》が重く、軽い吐き気を催していた。雨宮たちと別れたのは十時過ぎだが、帰宅後、水割りウイスキーを飲みながらの今日子との長話がこたえたのだ。
「十日付で秘書役をクビになるぞ。藤沢支店長だってさ」
「あなたも父に続いて、本店から追い出されるんだ。父の庇護《ひご》がなくなって、出世コースから外されたわけね」
「藤沢支店は、統括店といってA≠ニC≠ェ合併したときに、二つの支店を一つにした格上の支店なんだ。預金量も約一千億円と聞いている。このマンションからの交通の便も悪くない。人事部なりに、なにかと配慮してくれたわけよ。たった五カ月で秘書役をクビになったにしては、左遷じゃないかもねぇ」
北野は水割りウイスキーを呷《あお》って、投げやりにつづけた。
「もっとも、とっくの昔に、支店長止まりだって、きみの親父さんから引導を渡されてるけどね」
「ほんとうはどうなの。やっぱり左遷なんでしょ」
「少なくとも、栄転の認識はないよ。ただ、僕をなだめすかすために、取締役秘書室長、企画部長、広報部長の三人がかりだからねぇ。こんなのは前代未聞だよ。それだけ不自然な人事異動ってことになるね」
「でも、あなたに秘書役をお願いしたいって電話をかけてきたのは、中山頭取のほうでしょ。目矩《めがね》違いだったわけね」
「傷口に荒塩をこすりつけるようなことをよく言うねぇ。僕は深く傷ついてるんだ。ショックでACBを辞めたいくらいだよ」
北野は水割りウイスキーの飲み方が乱暴になっていた。
今日子が斬りつけるように言った。
「いつまでぐだぐだ言ってるのよ。いい加減にしてよ。わたし寝るわよ」
雨宮も石井も、帰するところ厄介払いができて、よかったと思っているかもしれない。焦点の定まらない目で、時計を見ると午前二時を回っていた。
北野は、横井繁子に、片山のことと自分のことを話そう、と酔った頭で考えて、ポケットから携帯≠取り出したとき、「あなた、どこに電話かけるつもりなの。いま何時だと思ってるのよ」と今日子に叱《しか》られた。
「おっしゃるとおりだ。どうかしてるな。片山に電話をかけようかと思って」
北野は、今日子の存在を失念するほど酔いで頭の中が混乱していた。
北野は昨夜のことを反芻《はんすう》しながら、頭取室のドアをノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
中山が手でソファをすすめた。そしてにこやかに言った。
「雨宮から聞いてくれたと思うが……。非常時の秘書役として、パーフェクトだった。北野はほんとうに、よくやってくれた。感謝してるよ」
「恐れ入ります。至りませんで」
「藤沢支店なら文句は言えないだろう。ほとぼりが冷めたら、また本部に戻ったらいいね。支店長は中小企業の社長みたいなものだ。頑張ってもらいたい」
「はい、ありがとうございました」
北野は三分足らずで頭取室を退出した。
中山の言葉は、空疎とまでは言わないが、北野の胸に響いてはこなかった。
支店長に人事権はないから、さしずめ工場長みたいなものだ。藤沢工場≠烽イ多分にもれず苦闘していることだろう。工場≠フ再生もやり甲斐《がい》がある。現場の第一線に立つのも悪くない。北野は、無理にそう考えようとしている自分をいじましく思った。
ふと久山の包み込むような温容が目に浮かんだ。
[#ここから1字下げ]
「あなたが示された果敢な行動に、私はどれほど勇気づけられたか知れません」
「あなたがたの若い力を確信したとき、私はこの世を去ることに一点の疑念も持ちませんでした」
[#ここで字下げ終わり]
遺書を思い出して、北野は体内に勇気が湧《わ》いてくるのを覚えた。秘書役をクビになったくらいで、挫《くじ》けてしまったら、久山さんに申し訳ない。北野は歯をくいしばって、涙を堪《こら》えた。
[#改ページ]
エピローグ
時折吹きつける風はぬるくて、湿っていた。雨がまじることもある。
北野は傘を開いたり、すぼめたりしながら、JR御茶《おちや》ノ水《みず》駅から山の上ホテル≠ヨ向かっていた。ネクタイは着けていたが、半袖《はんそで》のワイシャツ姿だ。
約束の十一時三十分まで、あと五分。ホテルの本館にある天ぷら店で、片山と会うことになっていた。
片山が北野の自宅に電話をかけてきたのは、昨夜の九時過ぎだ。
挨拶《あいさつ》のあとで、片山が言った。
「きのうの株主総会、なんとか乗り切ったらしいなぁ。大物総会屋に俺《おれ》たち四人組だか紅衛兵だかはこてんぱんにやっつけられたらしいぞ。ついでに若造に振り回されてるような頭取も情けないって、攻撃されたらしいよ」
「ふうーん。片山は誰に聞いたの」
「モニターテレビで取材した新聞記者が教えてくれたよ」
朝日中央銀行は、総会集中日の六月二十九日を避けて、二十五日午前十時に第三十七期定時株主総会を開催した。モニターテレビによるマスコミ公開も不祥事以降、続けられていた。
「総会屋に褒《ほ》められたら、褒め殺しになっちゃうから、けなされてよかったんじゃないのか。総会屋との絶縁をトップに進言した俺たちは、かれらにしてみれば八つ裂きにしたいくらいだろうからねぇ」
「そりゃあそうだな。クワバラクワバラ」
片山はおどけた口調で言ってから、話をつづけた。
「総会屋なんてどうでもいいけど、久しぶりに北野に会いたくなったんだ」
「いいねぇ。俺も片山に会いたいよ」
「あしたの日曜日はどうなってるの」
「午後に予定が入ってるけど、いいよ。でも日曜だけど、いいのか」
「たまに会うんだから、ゆっくり話したいじゃないか。場所と時間は北野にまかせるよ」
「よし、決めよう。十一時半に御茶ノ水の山の上ホテル≠フ天ぷら屋で、ブランチを食べよう」
「了解。たしか、天ぷら屋は本館のほうだったな」
「うん。じゃあ、あしたの十一時半。たのしみにしてるよ」
平成九年十月にACBを辞職した片山は、翌年一月にアメリカ系金融機関の日本法人に転職した。
北野は、平成九年十月六日付の人事異動で、秘書役から藤沢支店長に転じた。
一年八カ月ほどの間、お互い多忙で、電話では何度か話したが、一度も会っていなかった。
シチズンバンクにトラバーユした横井繁子からのスカウトは断りながら、片山は結局、外資系金融機関を転職先として選択し、投資信託部門で実績を挙げていた。
北野のほうはどうか。
支店長になった当座のACBの支店は、どこもかしこも、個人預金の流出が止まらず、営業第一線の現場の危機感は、本部(本店)の比ではなかった。
定期預金の解約が続出し、取付けに発展するのではないか、と恐怖感に駆られたほど、預金者のACB離れは深刻だった。
北野は、来る日も来る日も菓子折り下げて預金者をしらみ潰《つぶ》しに訪問し、土下座せんばかりに頭を下げて回ったものだ。
「ACBは反社会的勢力と絶縁しました。日本でいちばんクリーンな銀行に生まれ変わったのです。どうかご理解賜りたいと存じます」
北野だけではない。副支店長も、課長も、主任も平《ひら》行員も、窓口業務の者を除く全員が預金者のつなぎ止め、呼び戻しに、昼夜を分かたずドブ板♂c業で駆けずり回った。ACBの信頼、信用はガタ落ちで、水をかけられたり、塩を撒《ま》かれたりもしたが、中には「ACBのファンだよ。どんなことがあっても、ACBを見捨てたりしないからね」と、優しく声をかけてくれる主婦や、「××さんを紹介しよう。光陵銀行の一人勝ちなんて冗談じゃないよ。あの銀行は尊大で、庶民の味方なんかじゃない」などと言ってくれる商店主もいた。地獄に仏とはこのことだ。
検察がACB本店を強制捜査した平成九年五月から一年間は、預金の流出に歯止めがかからず、薄氷を踏む思いにとらわれ続けたが、平成十年夏ごろから反転し、預金量が上向き始めた。
血のにじむような現場の労苦が報いられたことになる。
藤沢支店の預金量は不祥事前で約一千億円だったが、約二百億円の減少を底に、平成十一年五月末時点では、一千百億円に増加した。
しかし、BIS(国際決済銀行)規制(自己資本比率八パーセント)と、資産デフレの進行による不良債権の肥大化によって数多《あまた》の銀行が、貸し渋りどころか、貸出資金の回収、貸し剥《は》ぎに血まなこになって、取り組み始めたため、支店長の北野は身の細る思いで、取引先の中小企業経営者と向き合わなければならなかった。
延滞が発生した灰色債権ないし要注意債権と称する第二分類の取引先の取り扱いをめぐる本部の審査部門なり業務部門と、支店とのせめぎあいは、凄絶《せいぜつ》をきわめた。
本部は、血も涙もないほど冷酷に取引先の切り捨てを指示してくる。
わずか数千万円の融資をストップしたために、約束手形が不渡りになって、倒産に追い込まれた中小企業が、藤沢支店関係でも相当数あった。
支店長という支店長は、永年の取引先である第二分類案件を必死に生かそうとするが、当然本部の判断が優先される。立場の違いはわかるが、担保力の乏しい中小企業に対する新規融資を本部が認めることは皆無に近い。
それどころか他行では、第一分類の優良貸出先さえもが、貸し渋りで、黒字倒産するケースが続出した。
貸し渋り、貸し剥ぎが日本経済に与えたマイナスの影響は、測り知れない。平成十年六月、大蔵省から金融検査・監督部門が分離、金融監督庁が発足、十月、金融再生法と金融早期健全化法が国会で成立、そして十二月に発足した金融再生委員会は、平成十一年三月に大手十五行への公的資金注入(約七兆五千億円)を決定した。
中小企業向けの貸し渋りが漸《ようや》く緩和に向けて、動き出した。
平成十年十月九日に一万三千円を割り込んだ日経平均株価は、平成十一年六月二十五日現在で一万七千四百三十六円五十二銭に回復した。
九千億円の資本注入を受け容《い》れたACBの株価は、同日の終値で七百八十三円。不祥事に見舞われた平成九年六月時点で一千五百円前後だったことに照らせば、この二年で半値に低落したことになる。
しかし、平成十一年一月には五百五十五円の安値を付けたのだから、多少は持ち直したということができよう。
ただし、平成十一年三月期決算で、ACBは二兆円に及ぶ巨額の不良債権額を計上した。
金融再生法に基づく不良債権の開示基準が貸出先の経営状態までもカウントするように厳しくなった結果である。そうした中で、四月に中山頭取が全銀連会長に就任した。
「ACBさんの頭取はなにを考えてるんですか。業界団体の会長職を引き受けるなんて、どうかしてますよ。わずか二年前にあれだけの不祥事を起こしながら。ACBの内部、足もとをしっかり固めることに全力投球すべきときに、まったく信じられませんな。辞退して当然でしょう。そんなに名誉欲の強い人なんですか」
取引先の中小企業主から、手厳しく非難されたとき、北野はなにも言い返せなかった。辞退すべきだと、北野自身も思っていたからだ。
千久≠ニの関係も正常化というには、ほど遠く、この呪縛《じゆばく》はまだまだ解けそうもない。
闇《やみ》社会の呪縛が解けたことだけが、他行に真似《まね》のできないACB最大のメリットだ。相談役制を廃止したこと、そして佐々木を退治し、佐々木の呪縛から、執行部が解放されたことも見逃せない。だが、ACB丸は、まだ危険水域から脱出したとは言えなかった。しかし、脱出しつつある、とは言えるかもしれない。
片山の電話で、北野は図らずも過去二年を回顧することになったが、横井繁子へ思考が逸《そ》れた。
片山のことと自身の転勤を伝えるために、事務的な電話を一本かけただけで、横井との関係がやけぼっくいに火がつく状態にはならなかった。
横井が無性に懐かしく思われることはあったが、お互いに、去る者は日々にうとし、ということなのだろうか。横井ほどの女性なら、恋人ができても不思議ではない。
向こうから電話をかけてこないのは、案外そんなことになっているからかもしれない。
リビングのソファで、水割りウイスキーをすすりながら、もの思いに耽《ふけ》っている北野の前に、今日子、浩一、史歩が集まってきた。
浩一は県立高校の二年生、史歩は公立中学の一年生になった。
浩一は、高校で剣道部に入部し、初段に昇進した。身長も一メートル八十センチに伸び、ずいぶん大人っぽくなった。親子の対話不足はいかんともしがたいが、妹に対する面倒みのよさは、相変わらずらしい。
浩一が、冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、大ぶりのグラスに注《つ》いで、珍しく北野の隣に腰をおろした。
「お父さん、あしたは忙しいんですか」
「なにかあるのか」
「よかったら、剣道の試合、見に来てくださいよ。お母さんと史歩は、応援に来てくれるそうです」
北野は、食卓でコーヒーを飲んでいる今日子に目を遣《や》った。
「きみ、あしたは久山さんのお墓参りじゃなかったのか」
「そうよ。剣道の試合は午前中で終わるの。その足で国分寺へ向かうつもりよ。あなたも一緒にどう」
「もっと早く言ってくれれば、片山とのブランチ断ったのに。なにか話したいことがあるらしくて、いまさっき会いたいって電話かけてきたんだ。山の上ホテル≠ナ天ぷら食べることに決めちゃったよ。でも、断ろうか」
「いいですよ。あしたはちょろい相手なんです。来週は強敵ですから、応援に来てください」
「必ず行くよ」
北野は、浩一のふしくれだった腕をつかんだ。
浩一と史歩が自室に引き取ったあとで、今日子が食卓からソファへ移動してきた。
「父も母も応援に来るそうよ。史歩が電話で知らせたんだって。だから、あなたを誘わなかったの。浩一は浩一なりに思うところがあるのかしら。きっと、あなたと父を仲直りさせたいのよ。なんだかドキドキしちゃった」
「浩一はそこまで考えてるのかねぇ。そうなると、来週の約束は、負担になるなぁ」
「あなたと父の間は、修復不能だと思ってたけど、母によると、あなたがちょっと折れてくれれば、すべて水に流せるはずだって」
北野が、グラスにウイスキーボトルを傾けた。
「折れるって、どう折れるの。折れようがないと思うけど」
今日子は、ソファから離れて、食器棚からグラスを一つ運んできた。
そして、薄めの水割りウイスキーをこしらえた。
「あなたがそんなふうに突っ張ってるようじゃ、やっぱりダメねぇ」
「付け焼き刃で修復しても、しょうがないんじゃないのか。浩一の気遣いは、ありがたいと思うけど、あいつは、僕の気持ちがわかってないからねぇ。親父《おやじ》さんも僕を許さないだろうし、僕も親父さんを許す気になれない。それでいいんじゃないのか」
今日子が水割りウイスキーをすすって、グラスをセンターテーブルに戻した。
「あの父が読書ざんまいの毎日なんだって。仏教関係の本なんか読んでるそうよ」
「悪事を働いた人ほど、宗教にすがりつきたくなる傾向があるのかねぇ。あんなに生臭かった人が、ちょっと枯れ過ぎだと思うけど」
今日子が眉《まゆ》をひそめて、グラスに手を伸ばした。
「結局、水と油ってことなのね。わかったわ」
「そう、つんつんするなよ。あしたの墓参《ぼさん》を言い出したのはきみだけど、親父さんに伝えてないだろうな」
「当たりまえでしょ」
今日子は、頬《ほお》をふくらませた。
六月二十九日は、久山の三回忌だが、北野が月末で忙しいから、二日前の日曜日にお参りすることにしたのだ。
「朝食は要らないよ。三時に、国分寺駅の改札口で落ち合おう」
北野は、歯を磨くために洗面所へ立った。
北野と片山が、天ぷら店のカウンターに並んで座ったのは午前十一時三十分ちょうどだ。
片山は半袖《はんそで》のスポーツシャツの軽装だった。
グラスを触れ合わせるなり、二人とも一気にビールを喉《のど》へ流し込んだ。
片山が二つのグラスに酌をしながら言った。
「この二年間、マスコミは明けても暮れても金融不祥事でもちきりだったなぁ。ACBの不祥事なんて、遠い昔のよその国の話みたいに思えてくるよ」
北野が、首をかしげながら言った。
「大手銀行が三行も破綻《はたん》したからねぇ。大手証券と準大手証券の破綻も影響が大きかった」
北野がビールを飲んで、引っ張った声でつづけた。
「だけどねぇ、グローバルスタンダード、つまり市場万能主義のアメリカンスタンダード一辺倒で、いいんだろうかねぇ。日本型の年功序列主義の見直しは必要だとしても、セントラル自動車の社長さんじゃないけど、終身雇用は死守すべきだと思うんだが」
「外資系の金融機関で禄《ろく》を食《は》んでる俺が言うのも変だけど、外資系なんてろくなもんじゃないぞ。足の引っ張り合いはもの凄《すご》いし、上に対するゴマ擂《す》りも相当なもんだよ。ゴマ擂りの度合いは、日本企業の比じゃないな。それと、稼いでも稼いでも、もっともっとっていう世界だからねぇ。収入はACBの倍以上に増えたが、まだ二年にもならないのに、ACBが懐かしいし、ACBに戻れるものなら戻りたいくらいだよ」
北野は、呆気《あつけ》に取られて、片山の横顔をぽかんと見つめていた。
「ACBは風通しのいい、住み心地のいい銀行だよ。陣内さんや森田さんに、元|MOF《モフ》担の俺は、逮捕されるとかいろいろ言われたけど、外へ出てみると、立場上やむを得なかったっていう気がしてきたよ」
「片山がACBにノスタルジーを感じてるとは驚きだよ。日本産業銀行が、外資に出た人を常務で迎え入れて話題になったが、ACBも、そういうフレキシビリティなりダイナミズムが生まれてくるような気がするけどねぇ。能力給を大幅に取り入れることにもなったことだし。片山は、投資信託のスペシャリストなんだから、復帰のチャンスは充分あると思うけどねぇ。ただし、収入は激減するけどね」
「収入がいくら減っても、人間性を喪失しかねない外資よりは、日本企業のほうがずっとましだよ」
「片山ほどの男が弱音を吐くとはねぇ。外資系金融機関は、そんなに住み心地が悪いんだ」
「金融機関に限らないんじゃないか。外資、とくにアメリカ系の外資は、みんな使い捨てだからな」
天ぷらが揚がってきた。
二人とも空腹だったので、食が進んだ。
「片山が本気でACBに復帰したいんなら、人事部長に話してみようか」
「まあ、そうあわてるなって。ほんとうにその気になったら、北野に泣きを入れるよ」
「しかし、ACBのボードは、OBを巻き込んで相変わらずA≠セC≠セって、やってるらしいよ。C¢、がカワタジも小田島も千久≠焉A不祥事の根っこはみんなA≠セって言えば、A≠ヘ不良債権はC≠フ案件のほうが圧倒的に多い、とやり返す。A≠ニC≠フ暗闘は、陰に籠《こ》もってて、ひどいことになってるそうだ。田舎の支店長にまで聞こえてくるくらいだからねぇ。旧行意識にとらわれている人は、ほんのひと握りだし、顧客はA≠熈C≠烽ネいのにねぇ。A≠ニC≠フ呪縛《じゆばく》こそが、呪縛の最たるものっていう気がしてきたよ」
「ボード入りが近い生え抜きの古手の中にA≠ニかC≠ニかに取り込まれそうなのがいるっていうじゃないの。いい加減にしてもらいたいよ」
「そんなACBにノスタルジーがあるとはねぇ」
北野に皮肉を言われて、片山は具合悪そうに左手で後頭部を撫《な》でた。
「それでも、外資よりはましかもなぁ。A≠セC≠セって言ってる人は、旧行意識にとらわれてることが、生き甲斐《がい》になってる面もあるんじゃないのかねぇ。呪縛とも言えるけど、かれらにとっては村の鎮守か氏神かもしれないぞ」
「呪縛と氏神ねぇ。うがったことを言うなぁ。中山頭取は、比較的旧行意識の希薄な人だと思うけど」
「同感だ。それはそうと中澤さんに会ってるか」
「いや。ずいぶんご無沙汰《ぶさた》しちゃった。中澤さんは立派な人だなぁ。去年の夏に判決が出たときのコメントが素晴らしかった。涙がこぼれたよ」
「うん。泣けた」
片山がぽつっと返して、おしぼりで顔を拭《ふ》いた。
東京地裁が下したACB関係者の判決内容は、今井元会長は懲役九カ月、執行猶予四年、岡田元副頭取は懲役八カ月、執行猶予四年、中澤元専務は懲役八カ月、執行猶予三年、などであった。
中澤がマスコミに発表したコメントは次のとおりだ。
一、朝日中央銀行が、総会屋に対する不正融資を行っていたという本件事件は、同行はもとより金融界全体に対する社会の信用を失墜させました。弁護人には、法的評価の面から意見もあるようですが、私としては本件事件の最終局面において、役員としてその継続を阻止できなかったことに大いなる責任を感じ、深く反省しております。
二、しかし、同時に本件は、朝日中央銀行が長年にわたって抱えてきた病巣が白日の下に晒《さら》されたにすぎないのであって、最近数年間における総務部を中心とした対応に主たる責任がある訳ではありません。その病巣が何に起因するのか未《いま》だもって解明できないことに何か割り切れなさが残ります。ただし、私も含めて、過去の役員がこうした不正取引を発生させない、または解消させるべく真摯《しんし》かつ勇気ある決断をもっと早期に行うべきであったと悔まれます。その意味で、総務部長や副部長に対して、申し訳ない気持ちで一杯であります。
三、朝日中央銀行は、本件事件の摘発を機に代表取締役が一斉に交替し、新役員の下に、総会屋との不正取引を二度と起こさない体制で業務に取り組んでいると聞いております。新生朝日中央銀行が再び世間の信頼を取り戻すことを切に望んでおります。
片山が茄子《なす》の天ぷらをビールと一緒に嚥下《えんか》した。
「若気の至りっていうのかねぇ。北野と中澤さんに慰留されたときは、もう固く心に決めてたからなぁ。元MOF担として責任を取る必要があるとも思った。さっきの話と矛盾するが、ACBを離れて、外の空気を吸ったことは俺の人生にとって、トータルではプラスになると言って言えないこともないよなぁ。一千二百兆円とかいわれている日本の個人資産をターゲットに外資が群がってるし、銀行がスペキュレーション(投機)とギャンブルにうつつを抜かす時代になっちゃったが、事業を興し、企業を立ち上げる銀行本来の業務にもっと目を向けないと、どんどん傷んでしまうような気がしてしょうがないよ」
北野がひとうなずきして、訊《き》いた。
「きょう片山が俺と話したかったことは、ACBへのノスタルジーなんだな」
「いちばん言いたかったのは、ACBは、産銀か芙蓉《ふよう》銀行との合併を志向すべきなんじゃないかということだよ。このままでは、体力が弱いから、強力な外資なり、光陵と拮抗《きつこう》できないと思うんだ」
「もう一つの選択肢は、海外部門は他行にまかせてドメスチック(国内)に特化する」
「それは、敗北主義だな……。ところで、午後予定が入ってるようなことを言ってたが、時間まだいいのか」
北野も時計を見た。正午を三十分過ぎていた。
「三時に国分寺駅で、今日子と待ち合わせてる。まだ時間はたっぷりあるよ。一時間もあれば充分だろう」
「国分寺って、なんなの」
「久山さんのお墓にお参りしようと思って。あさってが三回忌だが、サボれないから、きょう行くことにしたんだ」
「それでネクタイしてるのか」
「一緒に行かないか」
片山は一瞬、考える顔になったが、「うん。行こう」と、声高に言った。
「青正寺っていうお寺に久山さんのお墓がある。久山さんに対する思いは、人それぞれ違うと思うけど、ACBを救った人がいるとすれば、久山さんと中澤さんの二人だと思うんだ。久山さんは検察の精神的な拷問に屈したわけではない。他人の分までも背負《しよ》って、死を以《もつ》て、罪をあがない、償ったんだから、立派な人だと思うよ」
ランチタイムなので、天ぷら店の割り勘料金は、サービス料なども含めて、一人七千円程で済んだ。二人は、時間を潰《つぶ》すために、ホテル内のティールームに移動した。
片山が合併問題を蒸し返した。
「二〇〇一年四月のペイオフ解禁は、国際的な公約だから実施せざるを得ないだろう。破綻処理の内容がどうなるかわからないが、ペイオフ解禁で、国際決済銀行として生き残れる邦銀はせいぜい三行だと外資系金融機関は見ている。日本の都銀はACBに限らず再編成に向けて、いろんなシミュレーションをやってるんじゃないのか。俺はさっき、芙蓉か産銀との合併を志向すべきだといったが、三行合併もあり得るかもなあ。持ち株会社方式による提携も考えられるし、昔、共和銀行との合併を志向したことがあったが、これも可能性はあると思うよ」
ペイオフとは、破綻した銀行の預金の払い戻し保証額を元本一千万円までとする措置である。
「銀行業界は構造不況業種だから、再編成は当然だし、なにが起こっても不思議はないよ。資本注入で、政府が介在するから、問題は複雑化してくるけどねぇ」
「…………」
「ただ、ACBと共和銀行との合併はないだろう。覆水盆に返らずだよ。それと関西系の銀行は、行風が違うから、馴染《なじ》まないような気がするけど」
「再編成問題に、行風がどうのこうのなんていう感情論は通用しないよ。もっとドライっていうか、ドラスティックっていうか」
「そうだな……」
北野はティーカップをソーサーに戻しながら、にやついた目で片山を見上げた。
「外資系はたちが悪いねぇ。スイスの銀行が、高度なデリバティブ(金融派生商品)を駆使して飛ばし=i損失先送り)のシステムを商品化して、邦銀などに売り込んでいたっていうニュースにはほんとぶったまげたよ。しかも、証拠隠滅など金融監督庁の検査妨害までしたっていうじゃない」
「そんなのに比べれば、共和銀行なんて可愛《かわい》いものだし、ACBなんぞは、お人好しの最たるものっていうことになるな」
片山は冗談半分に言って、急に表情をひきしめた。
「こないだ産銀の頭取が証券アナリストを集めて、日本人のメンタリティは、仕事に対するプライドなりロイヤリティを大切にする点にある。収入は二の次ぎだっていう意味の話をしたらしいが、外資に身を置いてる立場として、その点は痛感させられる。俺は古巣のACBの行く末が気にかかってならんが、同僚のユダヤ人にも、アングロサクソン系の人たちにも、俺の気持ちは理解できないだろうな。プライドを傷つけられたから、俺はACBを辞めたんだけど、旧行意識を過度に持ち過ぎるごく一部の人を除けばACBは素晴らしい銀行だよ」
「ACBに対する片山のノスタルジーは、よくわかったよ」
北野が時計を見ると、午後二時十分過ぎだった。
「そろそろ行こうか」
二人は山の上ホテル≠ゥら、JR御茶ノ水駅へ向かった。
国分寺駅に着いたのは三時五分過ぎだが、レインコート姿の今日子が、花束を抱えて、改札口で待っていた。
「あら、片山さんもいらっしゃったんですか。主人に無理強いされたんでしょう。申し訳ございません。引っ越し騒動のときは、いろいろお気を遣っていただきまして、ありがとうございました」
今日子は、丁寧に挨拶《あいさつ》した。
「そんなことがありましたねぇ。すっかり忘れてました。あのときはACBを守るために無我夢中で、北野もそうですけど、わたしも家庭どころじゃなくて、カミさんや子供に恨まれましたよ」
北野も往時を思い出して、バツが悪そうに顔をしかめた。
三人は、タクシーで青正寺に向かった。
久山家之墓≠ヘ今日子が静子から聞いていたので、すぐにわかった。
墓前に花束をたむけ、今日子を挟んで三人は肩を並べて合掌した。傘をさしているので、窮屈だったが、北野はいつまでも目を瞑《つむ》って合掌していた。
突風で今日子の傘が宙に舞った。
「ああ!」
悲鳴を聞いて、北野が自分の傘を今日子に手渡し、通路をころがっている傘を追いかけた。
こっちに向かって歩いてくるスーツ姿の男が傘を拾い上げた。
なんと小田島敬太郎だった。むろん初対面だが、テレビや新聞で厭《いや》というほど見ている顔だ。
「ACBのかたですね。小田島です。こんな雨の中を久山さんのお墓参りとは殊勝な心がけですねぇ。わたしは、久山さんの三回忌に出席できる身分でも立場でもないからねぇ。皆さんに合わせる顔はない。ほんの気まぐれで、久山さんに、足を洗った報告をしにきたまでですよ」
小田島はニヒルな笑いを浮かべながら、開いた傘をさかさにして、北野に手渡した。
「どうも……」
北野は受け取った傘をさして、小田島を険しい目でとらえた。
「久山さんを殺したのは、どなたですか。あなたでしょう」
「…………」
小田島は黙っていた。
小田島に気づいた片山も、距離を詰めてきた。
「あなたなんかに久山さんのお墓参りをしてもらいたくなかったですねぇ。草葉の陰で久山さんも、そう思ってるんじゃないですか。われわれをこんなひどい目に遭わせておいて……」
「一言もありません。しかし、久山さんの墓前にお詫《わ》びするのは、わたしの勝手でしょうが」
小田島の目に凄《すご》みが出た。
「闇《やみ》は深くて、しつこいですよ。ACBも気をつけないとね」
小田島は、言いざま三人に背中を向けて、久山家之墓≠ヨ足早に向かった。
土砂降りの雨の中で、久山の墓前にぬかずく小田島を、今日子がせいいっぱい目を見開いて、睨《にら》みつけていた。
「あの人、小田島敬太郎でしょう」
「うん。えらそうに闇は深くてしつこいから、ACBも気をつけろとさ。冗談じゃないよ。ふざけるなって言うんだ。ACBがふたたび闇社会にまみれるようなことがあったら、存続できない」
北野は、起《た》ち上がって、こっちを見ている小田島を強く見返してから、片山に目を向けた。
「片山はさっき、ACB事件は風化したと言わんばかりだったが、心得違いも甚だしいぞ」
横なぐりの雨にずぶ濡《ぬ》れになりながら、北野が声高につづけた。
「われわれは平成九年五月十五日を決して忘れてはならない。強制捜査の屈辱を胸に刻みつけなければいけないんだ」
「久山さんの遺書≠燒Yれないようにしなければね。父を許せないあなたの気持ち、よくわかったわ」
今日子が傘をすぼめ、北野に躰《からだ》を寄せて、ささやいた。
本書は、平成十年十二月、十一年六月、十一年八月に、小社より刊行された『呪縛(上・中・下)金融腐蝕列島U』を上・下巻として文庫化したものです。