高木彬光
検事 霧島三郎
目 次
第一章 検事のデイト
第二章 不吉な使者
第三章 殺人と麻薬
第四章 最悪の事態
第五章 検事のジレンマ
第六章 検事一体
第七章 待て、そして……
第八章 捜査の第一歩
第九章 検察庁で会いましょう
第十章 検事と私立探偵
第十一章 一羽の夜の蝶
第十二章 逃亡の仮説
第十三章 第二の死体
第十四章 謎の進展
第十五章 暴力の背後に
第十六章 呪 縛
第十七章 深 淵
第十八章 現金の罠
第十九章 走る凶器
第二十章 潰《つい》えた機会
第二十一章 二人の孤独
第二十二章 素人の着想
第二十三章 訪ねて来た女
第二十四章 死線を越えて
第二十五章 ある報告
第二十六章 錯 乱
第二十七章 渦 潮
第二十八章 検事西へ飛ぶ
第二十九章 父に似た人
第三十章  この人もまた
第三十一章 崩れた女
第三十二章 検事と娼婦
第三十三章 逆 転
第三十四章 善意の裏切り
第三十五章 尋 問
第三十六章 告 白
第三十七章 恭子は消えた
第三十八章 第三の殺人
第三十九章 二つの道
第四十章  歪んだ男
第四十一章 奇跡は起こっていない
第四十二章 夜の港で
第四十三章 真 相
第一章 検事のデイト
それは、公判部の検事にとって、いちばんいやな瞬間だった。
霧島三郎《きりしまさぶろう》は、最後の一言を投げ出す前に、ちょっと息をのんで法廷を見まわした。
若いくせに妙なジェスチュアを見せていると思われはしないかという気持も起こったが、なぜか、言葉が喉《のど》の奥にこびりついて離れないような感じだった。
黒衣に身を包んだ裁判官たちの表情も、さすがにいつもよりずっと厳しくこわばっていた。自分のちょうど真向かいにすわっている大月《おおつき》弁護士は、瞑目《めいもく》して、心の中で何かの祈りをささげているように見えた。その前の席にいる被告人、山本|浩二《こうじ》は深くうなだれ、肩をかすかにふるわせている。覚悟はきめていたにしても、いまの最終論告は鋭くその胸をえぐったのだろう。
霧島三郎は、もう一瞬だけ間《ま》をおいて、傍聴席の一画を見つめた。
竜田恭子《たつたきようこ》も、人形のように整った顔を紅潮させていた。弁護士の娘に生まれながら、裁判を傍聴するのは、今度が初めてということだったが、大きく見開かれた眼は、一種の興奮に酔っているように輝いていた。
――しっかりやってね。
とその眼は、彼にささやき、はげましているように見えた。その憂いも知らないような顔は、その斜め後方、最後列の座席にすわっている被告人の妻の青白くやつれた顔、涙に濡《ぬ》れた訴えるような眼と極端な対照を見せていた。
喉のあたりがどうやらかるくなったようだった。霧島三郎は、いま一度正面の被告人を見つめて、最後の一言を投げ出した。
「よって、本被告人に対しては、死刑を求刑いたします」
人影のまばらな傍聴席にも、そのときは声にならないどよめきが起こった。被告人の両肩は、痙攣《けいれん》するようにぴくりと動いたが、裁判官たちや弁護士は、この求刑を当然のことと予想していたように微動もしなかった。
霧島三郎は、ゆっくり椅子《いす》に腰をおろし、もう一度傍聴席のほうを見まわした。
恭子の眼は、いっそう美しく輝いていた。
――すてきだったわ。いまのあなたは。
きっとそうささやきたいのだろう。そのうすい唇もかるい微笑をたたえていた。
それと反対に、被告人の妻の静枝は青ざめた顔に手をあてて、慟哭《どうこく》を必死におさえているようだった。
――しかたがないのだ。どんな検事でも、この犯罪に対しては死刑を求刑するだろう。誰か、どの検事かがひきうけなければいけないのだ。おれは何も彼女に聞かせたいために、いまの論告に熱をいれたんじゃない……。
彼がひくく口の中でつぶやいたとき、立花裁判長はいつもの癖で、白髪の頭をかすかに振りながら、
「それでは次回は十月十七日、弁護人側の最終弁論を行ないます。本日の審理はこれをもって終わります」
と言いわたした。
「起立!」
裁判官も弁護士も検事も書記も傍聴人も、全部が同時に立ち上がったが、被告人だけは腰がぬけてしまったように、両脇《りようわき》から腕を支えられ、ようやく立たされたのだった。
判事たちが、裁判長を先頭に、正面後方のドアから相次いで姿を消していくと、被告人の両手には手錠がかけられた。彼はそのとき、初めて眼を上げてこちらの検事席を見つめてきたが、狂ったようなその視線の中には、最後の一念をこめて、こちらを呪《のろ》っているような奇妙な光があった。
霧島三郎は眼をそらし、机の上の書類をかたづけはじめた。
この被告人、山本浩二は自分とおなじ三十歳だった。練馬《ねりま》区で小さな不動産周旋業をやっていたが、競輪や競馬に夢中になったうえに、池袋のバーの女と関係して経済的にもゆきづまり、田村源造という高利貸から二百万の金を借り、その返済をせまられて、相手を毒殺し、書類をうばい、死体を自分の家の庭に埋めて平然としていたのだった。
新聞の三面記事によく出ているような、ありふれた事件だった。
「どうしてああいうまねをするようになったか、私にもあのときの自分の気持はわかりません。申しわけないことをしたと思います」
何度かこの法廷でくり返された言葉も、実感とはならなかった。こういうきまりきった、型にはまったせりふから、ほんとうの心情を読みとれるほど、自分はまだ検事として、人間として成長していないのかと、三郎は何度か思ったものだった。
しかし、これは五年間の検事生活で初めて経験した死刑の求刑だった。その心境も理解できない人間の、とるに足らない動機からの犯罪だったとしても、自分の舌で人間一人を死刑台へ追いやるということはやはり痛烈な体験だった。自分は一生、この事件のことは忘れられないだろうと、三郎は腰縄をかけられてひかれて行く被告人の後ろ姿を見ながら思っていた。
広い廊下に、恭子の姿は見あたらなかった。たとえ、結婚の約束がきまっている相手であっても、裁判所の中で仲よく肩を並べて歩くことは、検事には許されなかった。
しかし、昼食の場所と時間はうちあわせてある。日比谷《ひびや》の裁判所や検察庁から、有楽町や銀座は眼と鼻のあいだだし、そこまで行けば、人の注意をひくこともなく、自由も楽しめるわけだった。
三郎は書類の風呂敷包《ふろしきづつ》みを小脇にかかえ、七階から法廷専用のエレベーターに乗ったが、五階から一人の女といっしょに乗ってきたのは、恭子の父親の竜田慎作弁護士だった。
「おや、先生、きょうは法廷でしたか?」
「これは検事さん、しばらくでしたな」
近い将来には、義理の父となり息子となる仲なのに、エレベーター・ガールやいっしょに乗っている人々の手前もあって、二人はこうした形式ばった挨拶《あいさつ》をかわしあった。
しかし、これも検事や弁護士の世界では、第二の習性のようなものだった。たとえば霧島三郎も、検事になった最初のころには、つい最近まで上司だった検事上がりの弁護士の口から、「霧島君」と言われるかわりに「検事さん」と呼びかけられて、どぎまぎしたことが何度かある。こういういわゆるヤメ検≠ェ、今までのように人を直視するかわりに、上眼づかいに話を進めるのを見て、人間というものは、環境によってこれほど変わるものかと溜息《ためいき》をついたこともあった。
ただ五年の検事生活のあいだには、公私をはっきり区別して、二つの顔を使いわける技術も第二の性格となっていた。少なくとも、第三者の前では、顔色から自分の感情を見やぶられないという自信は身につけたつもりだった。
エレベーターからおりて、一階の廊下へ出ると、竜田慎作はあたりを見まわしながら、声をひくめて聞いた。
「恭子はきょう、君の最終論告を聞きに来たんじゃなかったのかね?」
「はい、でも、この中ではいっしょに歩けません。傍聴席にはずっとすわっていましたが……昼飯はいっしょに食べる約束になっています。有楽町で待っているでしょう」
「そうか。君にごちそうしなければと言って、僕からだいぶ小遣いをせびって行ったがね」
「しかし、僕はいま、死刑の求刑をしてきたあとでしてね。飯も喉を通らないんじゃないかという気がしますよ」
「若いな。君は……まあ、誰でも初めのうちは、そうらしいが、なれるよ。じきに……裁判や法律の問題では、慣れが初めで終わりなのさ」
法律家生活も三十年近い、五十六歳の弁護士としては、いかにも自然なせりふだが、三郎にはかるい反発の気持も動いた。
形式ばった調子の文章で終始する事件記録と、むずかしい法文や判例の中に埋もれ、相手にする人間も、法律家や警察官のほかには犯罪者ばかりだという生活に慣れてくると、自然に人間的な感情が歪《ゆが》んでくる。そのことはついこの間も研修所で同期だった友人の検事と語りあかしたことだった。これで、自分が死刑の求刑にさえ慣れてしまって、ぜんぜん何も感じないようになったら、どんなことになるのだろうと思ったが、まさか未来の義父に向かって、そんなことも言えなかった。
二人は裁判所の裏口を出て、弁護士会館と検察庁のほうへ向かった。まだ十二時には間があるせいか、通りには人影もまばらだった。
「恭子は妙なことを心配していたよ。そのうちに、きっと君と僕とは、法廷で対決するようなことになるだろうとね。もっとも、そのときには、パパには絶対に応援しないわと言っていたよ。はははは、親に面と向かって、そこまでのろけてみせなくてもよさそうなものだと思うがね」
「血を分けた親子でも、弁護士と検事となればしかたがありませんからね。でも、僕にはとても歯が立ちますまいから、そんな機会は来ないように祈っています」
「はははは、僕はこれでもまだ、近ごろの若い連中には負けないつもりだからね。もし、君と対決するようになったら、そのときは全力をあげて、たたきつぶしてやるさと娘にも言ったくらいだ。法律の世界で生きている人間なら、公私の別は厳重に守らなければいけないからな。おや……」
竜田弁護士は立ちどまって右前方のほうを見つめた。
彼の所属している第二弁護士会の会館表の石段の前に、一人の女が立っていたのだ。むこうを向いているので顔は見えなかったが、あかぬけした和服をすらりと着こなした後ろ姿は、水商売の女のように思われた。
竜田弁護士が、この女を妙な顔をしながら注視していることは、三郎にもすぐわかった。もちろん、弁護士の依頼者というのは、それこそ千差万別の人種がまじっている。どんな人間が、いつ訪ねて来てもおかしくはないわけだが、このときの竜田慎作の顔には不安と当惑の表情がただよっていた。
「それじゃあまた……今度の日曜には、ぜひ家へ来てくれたまえ。仲人《なこうど》や何か、細かな打ち合わせをしておこう。何しろ、最近では大安の日に、いい式場を予約するとなると、半年ぐらい前からきめておかなくっちゃいけないようだからな」
そう言いながらも、眼はじっとこの女を見つめたまま動かなかった。よほどこの女に注意をひかれているらしい。しかし、三郎には、
――あの女は誰です?
とたずねることもできなかった。
「それでは必ずうかがいます」
「では、また」
もう心はこちらにないようだった。竜田弁護士はかるく右手を上げて、その女のほうへ歩きだしていった。
三郎はそのまま左へ折れて、検察庁の中へはいった。
この一階ほど殺風景なところはないかもしれない。部屋の廊下に面した側は窓一つもなく、まるでトンネルのような印象を与えるのだ。
「この廊下が、検事という生活の象徴かね。右も左も見ずに、ただまっすぐに進むしか道のない生活の……」
辛辣《しんらつ》な毒舌で学生時代から有名だった友人の新聞記者が、いつか彼を訪ねて来たときの言葉を、三郎はそのとき思い出していた。
恭子との約束は十一時五十分に、有楽町のウィスタリヤ≠ニいうレストランでということだった。
きょうの裁判は最終論告だけで、検事のひとり舞台だから、時間を正確に守ることもむずかしくはなかったのである。
このレストランは、新築九階建の有光ビル≠フ地階にある。赤いカーペットを踏んで、北欧風の調度に飾られたダイニング・ルームへはいっていったときには、三郎もちょっと足がすくむような気がした。
もちろん、周囲の雰囲気に威圧されたのではない。東京地検とは眼と鼻のこんな場所で、婚約者と昼食をとるということに、いよいよとなってから、気はずかしさのようなものを感じたのだった。
テーブルはまだ半分以上もあいていた。恭子は片隅の熱帯魚の水槽の横に、コカ・コーラのコップを前にすわっていたが、彼の姿を見ると立ち上がって、こぼれるような微笑を浮かべた。
「待った?」
「いいえ、あなたはいつも時間は正確だもの。私が早く来すぎたのよ」
三郎は、椅子に腰をおろしてメニューをとりあげた。竜田弁護士にはあんなことを言われていたが、まさか恭子にごちそうになるつもりはなかった。
「何がいいかな?」
「お定食にしましょうよ。お昼だし、これから仕事もおありだから、おビールをあがれないのが気の毒ね」
彼は千円の定食を注文した。ふだんは会議室なり地検の地下の食堂で、百円以内の予算ですますことを思うと、たいへんな贅沢《ぜいたく》だが、検事にしても人間だった。自分の食欲の有無はべつとして、デイトのときぐらいは、豪華な気分も味わいたかった。それに一分でも早く、いまの最終論告のいやなあと味から抜け出したいという気持も働いていた。
「すてきだったわ、さっきのあなたは。やはり男のかたというのは、自分の職場でお仕事に全力を打ちこんでいるときが、いちばんりっぱに見えるのね」
「恭ちゃんはそう言うけれど、僕は辛《つら》かったよ。死刑の求刑だから、こっちがまるで鬼みたいに見えたんじゃないかと思ってね」
「そんなことないわ。悪いことをしなければ死刑になんかならないわけでしょう。死刑という刑罰がある以上、それを適用しなければならなくなる犯罪だって、この世の中にはいくつもあるはずじゃないかしら」
弁護士の娘というせいもあるだろうが、こんなことを言い出すときの恭子は、妙に理屈っぽいところが出た。二十四歳という年齢なのに、まるで三十女のような印象を与えることがあった。
三郎は苦笑しながら眼をとじて、自分たちの恋愛の思い出をふりかえっていた。
東大の在学中に、司法試験に合格した彼には、それこそ縁談もことわりきれないくらいだった。年ごろの娘を持った法律家たちは、司法研修所に集まって来る青年たちの中から、未来の成長株を掘り出そうとしたがることが多いのだから、この縁談の九割までが、そういう人たちから持ちかけられた話だったのも当然だろうが、彼が魅力を感じたのは、ぜんぜん別世界の大東物産≠ニいう会社の常務の娘、安藤澄子だった。
しかし、その恋愛はどたん場へ来てから崩れた。婚約もきまり、仲人も頼み、式場の予約も終わり、挙式もあと一月とせまったときに、澄子が突然家出したのだ。ほかに恋人があったのである。
安藤家のほうでは、自分たちの側だけで必死に事態を収拾しようとしたらしいが、いったんそこまで思いつめた女の心は動かすこともできなかった。
涙を流し、両手をついてわびてくる両親たちには、怒る気にもなれなかったが、女性に対する不信感は、まだ若かった彼の心に深い傷を残した。
研修所在所中から卒業直後に結婚する友人たちも少なくなかったが、彼は単身、仙台へ赴任し、そのまま二年の年月を過ごした。
そして、東京地検へ帰って来てからも、しばらくは独身で下宿生活を続けていたが、ことしの夏に木の芽会≠ニいう独身の法律家や法律家の娘たちだけで組織されている会のパーティで会った恭子が、彼の心をひきつけたのだった。
恭子は美貌《びぼう》で勝気な娘だった。おなじ美しさでも澄子のほうは、面長で、どこか陰影のある顔だちだったが、恭子のほうはふくよかな丸顔で、育ちのせいか、明朗そのものの感じだった。彼には最初から好意をよせてくれたし、二人の愛情は時とともにしだいに強まった。
三郎の両親たちも、相談を持ちかけた上司の検事たちも、この縁談には無条件に賛成してくれた。そして現在は、竜田慎作がさっき言ったように、式の日をきめ、仲人を正式に依頼するという段階に来たわけだった。
「ねえ、三郎さん、何を考えてらっしゃるの? さっきの被告人のこと?」
と言われて彼は眼を上げた。
「べつに、そういうわけじゃないけれども」
「私といっしょにいるときだけは、お仕事のことは考えないというお約束だったわね」
三郎はちょっと苦笑いした。まさか、この瞬間に破約となった前の婚約者のことを思い出していたとは言えなかった。
「ねえ、きのう私はお友だちと会ったのよ。きょうあなたとデイトすることを話したら、
有楽町で会いましょう
というのは、歌の文句みたいにロマンチックだと、溜息をついていたわ」
「それも裁判所からの帰り道では、あまりロマンチックじゃなかったかもしれないね。司法研修所の教官だった先輩の検事に、酒を飲むと、その替歌の、
あなたとわたしの合言葉、検察庁で会いましょう
というやつを歌い出す人がいた。しかし検察庁へだけは来ないでもらいたいね。どんなにひやかされるかわからないから」
「そうね。公判部の検事さんなら、法廷が仕事場ということになるわけですものね」
恭子はにっこりと微笑した。その眼は、たとえば心をうたれる芝居を見てきて、その陶酔からまださめきっていないように、うっとりした色に輝いていた。
「そうそう、裁判所では君のパパに会ったよ。今度の日曜に、式の日どりや何かを決めようと言ってたよ」
「そう……それじゃあ、パパは法廷だったのね」
さすがに気はずかしさが出たのか、恭子はかるくうつむいて話をそらした。
スープの皿が出されたので、恭子も静かに顔を上げたが、そのうれしそうな表情もちょっとこわばったようだった。恥ずかしそうに紅潮していた顔からも、ちょっと血の気がひいたように見えた。
「どうしたんだい?」
三郎は後ろをふり返った。ちょうどそのとき、入口からはいって来たのは二十八、九と思われる男だった。
もちろん、こういう場所へ食事に来るくらいだから、洋服はきちんとしているが、顔色は青く、眼が蛇のように光っていた。彼が自分たちを注意して見つめていることは間違いなかった。三郎の視線に気がついたか、彼はそのままその近くのテーブルにすわってメニューを取り上げたが、その上からはちらちらと、鋭い視線がこちらに投げられた。
「知合いかい?」
「私の兄のお友だちよ」
恭子はつぶやくように答えた。
第二章 不吉な使者
――どうして、あの人が、こんなときに、こんなところに現われたのかしら?
須藤俊吉の顔を見たとき、恭子はぎくりとしながら思った。いままでは、薔薇色《ばらいろ》の夢に酔いきっていた心に、さっと冷たい風が吹きつけて来たような気がした。偶然の出来事だとは思いながら、これが自分たちの結婚に、不吉な前兆となりはしないかという予感も起こった。
むこうのテーブルで、メニューを置いて、こちらを睨《にら》んでいる彼の唇には、悪意と軽蔑《けいべつ》に満ちた冷笑が浮かんでいるようだった。
――こんな男が好きになったのかね?
と、無言の声が、自分の耳にささやかれて来たような気がしたのだった。
「彼は誰だい? やはり評論家の仲間なの?」
三郎が声をひくめてたずねてきたので、恭子はやっと落ち着きをとりもどした。
「金持の息子だけれど、何をしているのか、さっぱり得体の知れない人よ。兄があんなになったのも、あの人たちの感化かもしれないわ……」
「少し、話がオーバーすぎやしないかな」
三郎はちょっと首をひねったが、恭子にはそれも誇張した表現だという気はしなかった。
恭子の兄の慎一郎は、典型的なボヘミアンだった。弁護士の子供でも、法律家がきらいだということは、世間でもよくあることだからしかたがないとして、文学青年的なその性格は、ぜんぜん父と相容《あいい》れなかった。
反抗意識が起こりだしたのは、大学二年のころからだったが、父の望んだ法学部の道をこばんで、文学部へはいってから、その争いはいっそうひどくなった。
大学を卒業してからは、家を飛び出し、アパート暮らしをしている。自分では、評論家と称しているのだが、署名のある文章が活字になったのは、恭子は一度も眼にしたことがなかった。それでもきまった職業も持たず、いろいろな雑文を書きなぐって、生活だけは、どうにか維持しているようだった。
母の園子も、あるとき恭子の前で、
「せめて、あなたがまともな本の一冊も書いてくれれば、お父さまにも、とりなしようがあるのにねえ」
と溜息《ためいき》をついて言ったものだが、そのときの慎一郎の反撃も相当に辛辣なものだった。
「そういうけれど、お父さんだって、かげじゃあ悪徳弁護士≠ニ言われているじゃないですか。もう少しりっぱなおやじなら、僕だって、ちゃんと尊敬するんですがねえ」
恭子は、この瞬間の母親の悲痛な表情を一生忘れられないだろう。ふだんは、どんなことがあっても、顔色ひとつ変えたことのないほど強気な性格なのに、この息子の暴言を叱《しか》りつけるどころか、真青になって、全身を痙攣させ、わっと泣き出したものだった。
恭子が、
「お兄さまもひどいじゃありませんの?」
となじっても、
「お前だって、もう少したてば、おれの言うことが正しいとわかるだろうよ」
と、うそぶくような答えだった。このときぐらい、恭子は兄を憎らしく思ったことはなかった。
そういう兄の友だちの中でも、この須藤俊吉は、とくにきらいな一人だった。地主の息子で、現在でも東京都内のいろいろな場所に、大きな土地や、何軒かのアパートを持っていて、そちらから上がる収入で、贅沢な生活もできるらしいが、その冷たくしつこそうな視線をあびせかけられるだけで、恭子はいつも鳥肌がたつような思いがした。
人を通して、彼が恭子に結婚を申しこんできたのは、ちょうど慎一郎の大学卒業まぎわだった。両親も首をひねりながら、いちおうその話を伝えたのだが、恭子は一も二もなく断わった。
それでも、須藤俊吉の偏執狂的な性格は妙な方向にあらわれた。一度など、恭子の学校の帰り道に待ちぶせて声をかけ、
「あなたが、僕と結婚してくれないなら、ほかの男との結婚は、どんな手を打っても妨害してやるからね」
と言ったことがある。
しつこい男だとは思いながら、その言葉は、いまでも恭子の心に黒い影を残していた。三郎と婚約を結んだときも、深く強い愛情とともに、どこかに、
――どんな毒虫みたいな男でも、現職の検事ならおそれをなすだろう。
というような気持も動いていたことはたしかだった。
その彼が、いまこんなところに現われて、自分たちを冷たくながめながら、ひとりで悠悠とビールなどを飲んでいる。そのいやらしい視線を身に感ずるだけで、恭子はスープの味さえわからなかった。
「官舎のほうはなんとかなりそうだよ。結婚の時期にもよるけれども……十四坪ぐらいの公務員アパートを割り当ててもらえそうだ。恭ちゃんみたいに、大きな家に育った人じゃ、しょっちゅう、あっちこっちに、おでこをぶっつけるかもしれないけれどね」
恭子が笑顔を見せ出したので、三郎も口がかるくなってきた。
「それはよかったのね。パパも、官舎の割当がおくれたら――と心配していたのよ。これであなたがふつうのお仕事なら、しばらくいっしょに住んでもらってもいいし、また家を建ててもいいんだけれど、検事さんと弁護士じゃあ、いくら義理の親子の仲だといっても、ちょっと具合が悪いかなと言ってたわ」
「それに、検事という仕事では、いつ地方へ転任になるかわからないしね……先輩でも、若いころには、地方をまわってくるのもいい勉強だよと割り切っている人もいるけれど、恭ちゃんは東京を離れるのはいやだろう?」
「かまわないわ。あなたとごいっしょだったらどこでも……それに赤ちゃんが生まれたら、地方の官舎にいたって、べつに退屈もしないでしょう?」
二人の昼食がすんだころには、須藤俊吉はここから姿を消していた。ビールにサンドイッチというかんたんな食事だから、二人より早くすんだのだが、彼が見えなくなっただけで、恭子は胸がかるくなった。
それに、三郎があれ以上、彼のことに触れないのが何よりうれしかった。兄のことは、とっくに話してあるのだが、三郎はそのとき、
「外からはどんなに幸福そうに見える家庭だって、中へはいってみれば、いろいろのごたごたはあるものさ。それに、兄さんだって、案外いまに、その道で名を成すかもしれないし、結婚でもしたら、また人間も変わるだろう。そのうちに一家そろって笑いあうことだって、きっとあるだろうよ」
と言ってくれたものだった。そういう兄に悪友があったとしても、三郎が気にするわけはあるまい。須藤俊吉にしたところで、むこうが勝手に思いつめただけだった。なにも、いまのところ、自分からそのことをうちあけて、いやな思いをさせることもない……。
「ねえ、お食事がすんだら、日比谷公園ぐらい散歩してもいいんでしょう?」
「これがふつうのサラリーマンなら、なんということもないんだがね」
三郎はきまり悪そうに苦笑いした。
「それに、検察庁が離れていればいいんだけれど、ここじゃあ、僕もただの男にはなりきれないよ。いつ誰に見つかるかわからないし」
「検事は木石たるべし――と六法全書に書いてあるみたいね。私のお友だちで、
『検事さんは、なんと言ってあなたをくどいたの?』
といやらしいことを聞いた人がいたわ。だから、私も冗談を言ってやったの。
『参考人、あなたは本官を愛していますか。起立して宣誓したうえで答えてください』
というのが、第一声だったと言ったら、彼女は眼を白黒させていたわ」
三郎が屈託のない顔で、笑いだしたのを見て、恭子は間髪を入れずに続けた。
「ねえ、あなたはどうせ、日比谷公園を通って、検察庁へ帰るんでしょう。公園というのは公開の場所だから、その奥さんになる人が七尺さがって後ろを歩いていったってかまわないわけでしょう。検察庁のあなたのお部屋へまでついていかなかったら」
「君には負けたよ」
三郎はナプキンをテーブルの上に置いて言った。
この店を出て、日比谷公園のほうへ歩きだしたとき、恭子の胸にはふたたび幸福感がよみがえってきた。さわやかな秋風が気持よかった。もう自分たちの仲を妨害するものは、世界じゅうになに一つもあるまいと思ったくらいだった。
日比谷公園をつきぬけている間は、三郎は一言も口をきかなかったが、検察庁前の大通りまで来たときには、さすがに体裁が悪そうな顔をして、
「もうこのへんでかんべんしてくれよ。結婚したら、いやでも毎晩、顔を合わせなくっちゃいけないんだから」
と言い出した。
「困らせてごめんなさいね。それじゃあ、私はデパートでものぞいて帰るわ」
恭子は公園の出口のところで立ちどまって、三郎が検察庁の建物の中へ姿を消すまで見送った。そして溜息をつきながらふりかえって、また鳥肌たつような感じにおそわれた。眼の前、ほとんど手の届くところに、須藤俊吉が立っていたのだった。
「恭子さん、しばらくでしたね」
という声も、女のくさったような調子で薄気味悪かった。
「私に、なんのご用です?」
きびしく恭子は問い返した。こんな男に対しては、一分一厘も隙《すき》を見せてはいけないと本能的に思ったのだった。
「何も、こちらがひさしぶりにお会いしたから声をかけただけなのに、被告人でも見るように、いやな顔をなさらなくってもいいでしょう。いまのおかたが、あなたのフィアンセの霧島検事さんですか。なるほど、なかなかの好男子ですね。それに東大在学中に、司法試験に合格するほどの秀才だとなると、あなたが惚《ほ》れこむのも、いちおうもっともだとは思いますがね」
「へたなあてこすりはよしてください」
「いや、僕はあなたに、お気の毒に――と言うつもりだったのですよ」
「なんですって?」
恭子は、たちまち、かっとなった。思いきり、相手の顔をひっぱたいてやりたくなったくらいだった。
「あなたがたが、相思相愛の仲だということは、はたから見ていてもよくわかりましたよ。遠くにいても、放射能みたいなものに、あてられるような気持がしましたが、それでお二人が末長く、孫の顔でも見られるくらい添いとげられるというなら、まことに結構。僕だって、おめでとう、の一言ぐらいは申しますが、あいにく結婚式までは進行しないでしょう。ですから、お気の毒に、と言いたくもなるんですよ」
恭子の眼の前はくらんできた。どなりつけてやりたいくらい腹がたったが、相手の言葉には、妙な自信のようなものがこもっていた。足も釘《くぎ》づけにされ、喉もしびれたようだった。
「僕はなにも、ただのいやがらせで、こういうことを言っているんじゃないんです。どうです、いっしょにお茶でも飲みませんか。僕だって、ある場合には、まんざら役にたたない男でもありませんよ」
「あなたとお話をするなんてまっぴらです。もう二度と、私たちの前に顔を出さないでください!」
少し大きな声を出したら、どうにか呪縛《じゆばく》が解けたようだった。くるりと身をひるがえして、大通りへ出ると、恭子はすぐタクシーを呼びとめた。
それでも、車で尾行してくるのかと思いながら、何度か、リア・ウィンドーから後ろをふりかえって見たがそれらしい車は見あたらなかった。
もうデパートへ行くような気持は起こらなかった。恭子はそのまま、渋谷《しぶや》の常磐松《ときわまつ》にある自宅へもどってきた。
――馬鹿ねえ、あんな男の言うことを真に受けるなんて……。
自分の部屋へはいると、恭子は鏡をのぞきこみながら、何度かくりかえしたが、顔に浮かんだ不安の表情は、どうしても消えなかった。
ほんとうなら、こんなことは、すぐ母親に打ちあけて相談したいところだが、母の園子は八か月前、心臓|麻痺《まひ》で死んだのだった。だから、結婚式のほうも、その一周忌がすぎてからにしようと、三郎とは話しあっていたのだが……。
父親は、きょうは午後も法廷だということだった。こんなことでは、裁判所へも電話はかけられない。恭子は日本橋の事務所へ電話をして、なにか連絡があったら、すぐうちへ電話してくれるように、と伝言を頼むほかはなかった。兄がああいう状態で、なんの相談相手にもならない以上、力になってくれるのは父しかなかった。いかになんでも、まだ三郎には、こんなことは打ちあけたくなかったのだ。
それなのに、三時になっても、四時をすぎても、父からの電話はかかってこなかった。
刑事事件の公判は、ふつう十時から十二時まで二時間と、午後一時から三時までの二時間行なわれるのだが、事件の審理状況によっては、午後の五時ごろまでかかることも珍しくはない。しかし、そういう場合でも、途中で十分や十五分の休みがはいるのは原則だから、事務所へ電話をかけて、連絡するぐらいのことはできるはずだった。
五時になっても、父からの電話はなかったので、恭子はもう一度、事務所へ連絡をとってみた。事務員の話では、三時ちょっとすぎに、電話がかかってきたので、そのことは伝えておいたということだった。
なにか急を要する問題で、頭をなやましているのかもしれないが、自分のことなど考えてもくれないような父親の態度は、恭子の胸にいっそうの不安を増した。
五時すぎには、三郎から電話がかかってきた。今晩は天通会′、修所十期生第二班の会があるということだったが、そちらへ出かける前のちょっとのひまを狙《ねら》ってかけてよこしたのだろう。
「さっきはどうも。おかげで楽しかったよ」
うれしさにはずんでいるような三郎の声を聞くと、恭子は自分の不安など言い出しかねた。
「よかったわ。ほんとうに……」
「ところで、さっき公判部長の春海《はるみ》さんのところへ行ったら、仲人の話が出てね。検事正にお願いしたらどうだろうということだった。君や、君のパパに異存がなかったら、そちらにお願いしようと思うんだが」
「私はあなたしだいなのよ。パパだって決して異存はないと思うけれど……きょう帰ってきたら、いちおう話してみるわ」
「用件というのはそれだけだよ。ところで、恭ちゃんはいま何をしている?」
三郎の声はかるくなった。こういうふうに、毎日一度は、たえず電話でおしゃべりを続けるのが、いまの二人の習慣なのだった。
恭子は適当にうけこたえはしていたものの、いつものように、言葉ははずまなかった。恋人同士は、相手の声には敏感なものだし、三郎は検事だけに、そのほうにはとくに鋭敏だから、これはおかしいと思ったのだろう。心配そうな声を出して、
「どうしたんだい? さっきはあんなに元気だったのに、あれから何かあったのかい?」
とたずねてきた。
「たいしたことはないけれど……風邪でもひいたんじゃないかと思うの。頭が重くって、ちょっと熱っぽいの」
「それはいけない。お医者に見せたら? へたをして、肺炎なんかになったらたいへんだよ……」
「それほどのことはないと思うわ。ふだんから丈夫なんだもの。一晩あったかくして、ゆっくり寝れば、すぐなおると思うわ」
自分の嘘《うそ》で、三郎に妙な心配をさせたくはなかった。
「そう、そんならいいけれど。じゃあだいじにしてね」
「待って、ちょっと。あなたは私を愛していてくださるわね。どんなことがあっても」
なぜ、突然こんな言葉がとび出したか、恭子は自分でもわけがわからなかったが、三郎はいつもの甘えと受けとったらしい。
「もちろんだとも。君のためには、なんでも犠牲にするよと言ったことがあったろう。風邪ぐらいのことで、あんまり弱気になっちゃだめだよ。じゃあ、おだいじに」
受話器を置いたとき、恭子の眼には涙が浮かんだ。須藤俊吉の性格から見たら、あることないことを書きならべた中傷の手紙を、三郎に送るようなことも考えられないではなかった。かりに、そういうことがあっても、いまの三郎の様子なら、完全に黙殺してしまって、自分の耳にも入れはしないだろうと、恭子は確信を持った。
父からは、それからずっと連絡がなかった。出張や旅行はべつとして、母が死んでからというものは、外泊もないことではなかったし、それをとがめるほど、恭子も子供ではなかったが、いつもは家政婦の近藤和子のほうへ遠慮がちに電話をかけてよこすのが習慣だったのに、今夜にかぎって、その連絡さえなかったのだった。
恭子は眠れぬ一夜をあかした。床の上で、寝返りをうつたびに、これで三郎が、いま自分のそばにいてくれたら、と思わずにはおられなかった。
朝の八時ちょっとすぎ、鏡台に向かって化粧をしていた恭子のところへ、近藤和子は、心配そうな顔でかけこんできた。
「お嬢さま、お玄関に、警察のおかたが来ておられますが」
「警察のおかた?」
恭子の全身はささくれだった。昨夜の父の無断外泊と考えあわせて、これはただごとではなさそうだという不吉な予感が胸を重くしめつけて来たのだった。
玄関には一人の警官が立っていた。恭子の顔を見ると、かるく頭を下げ、
「先生は、昨夜はお帰りにならなかったそうですね。しょっちゅう、こういうことがおありなのですか?」
とたずねてきた。
「いいえ、初めてでございます。でも、いったい、何がおこったのでしょう? どんなご用で朝早く……」
「私はくわしい事情は存じませんが……」
さすがに警官も、いくらかためらいがちな調子で続けた。
「けさ、本間春江さんというおかたの死体が発見されたのです。それについて、先生にいちおう事情をうかがいたいと思いまして……」
第三章 殺人と麻薬
弁護士の娘に生まれたことだから、恭子はいままで死体≠ニか殺人≠ニか強姦《ごうかん》≠ニか、ふつうの娘なら眉《まゆ》をひそめるような言葉にも、ぜんぜん無感覚になっていた。これで検事夫人になったら、一生そんな言葉と縁が切れないだろうと、いつかも三郎から言われて笑ったことがある。
いや、言葉のうえだけの問題ではなく、恭子は小さいころから、犯罪者と言われる人々の顔は無数に知っていた。
父は仕事と家庭とを、できるだけはっきり分けるようにしていたが、弁護士を必要とするような人々は、そんなことの見さかいもつかなくなっている場合が多いのだ。たとえば、つい二月ほど前には、夜おそく、いま人を殺してきたというやくざの一人が、兄貴分に連れられて、自首する前に善後策を相談するためにかけこんできて、恭子たちをびっくりさせたものだった……。
しかし、いままではどういう場合にも、一種の優越感のようなものが存在していた。医者が病原菌を顕微鏡でのぞくような感じで接していた死体≠ニいう言葉が、今度は急に生々しい実感となって肌身にせまってきた。
「ちょっとお上がりくださいませんか? そこではなんでございますから」
こんな問題で、玄関で立ち話もしたくなかった。恭子はこわばった舌を動かして、やっとそう言ったが、警官もちょっと首をひねった後で、
「それでは失礼いたします」
と靴をぬいだ。
玄関脇の応接間にはいると、恭子は一瞬の猶予もなく問いかけた。
「その女のおかたはどんな人なのです? 父とはどんな関係があるのでしょう?」
「はあ……お嬢さんに、こういうことを申しあげてはなんですが、先生のお世話なさっておられたおかたと、推定される節《ふし》があるものですから……」
名前までは知らなかったが、父にそういう女性がいるだろうということは恭子もうすうす想像していた。ついこのあいだも、
「じきに、私もこの家を出て行くんだから、パパも気がねなく再婚なさってね。きっともうお好きな人がいるんでしょう」
とつっこんで苦笑いさせたこともあったが、その女の名前を、こんな形で、警官の口から聞かされようとは思わなかった。
「そのおかたはどうしてなくなられたのですか? たとえば自動車事故などで?」
「いいえ、その……先生名義のお家の中で、絞殺されていたのです」
この警官は、まわりくどい言葉づかいで妾宅《しようたく》という直接的な表現をなんとか避けようとしたのだろう。恭子の顔を直視するのもしのびないというような感じで、眼を伏せると、
「いまのところ、まだ犯人は誰ともわかっておりません。もちろん、先生もまだお若いことですし、ほかにもう一人ぐらいお好きなおかたがおられたかもしれませんな。昨夜は、そちらにお泊まりだったとすれば、べつにどうということもありませんが……それにしても、いちおう警察のほうまで参考人としておいでいただいて、たとえば被害者の身元なり、交際関係なり、いろいろとお話をいただければ、捜査にもなにかと役にたつと思いまして……」
ずいぶん考えているような、丁重な言いまわしなのだが、その一言一言は、恭子にはショック、ショックの連続だった。
――ひょっとしたら、警察では、父を容疑者と見なしているんじゃないかしら?
ふつうの娘なら、そこまで考えはしないかもしれないが、恭子にはすぐにそういう考えが浮かんできた。もちろん信じたくはなかった。自分の父が、関係のある女を自分の手にかけて殺すようなことは、絶対にあるはずがない――と、心の中では虫のような声がささやいたが、逆に頭に浮かんで来たのは、半年ほど前にある殺人事件の弁護を頼まれたとき、
「男というものは、女のためには、分別もなくしてしまうことがあるからな。教育もあり教養もあり、社会的地位もある人でも、いざとなると、田夫野人《でんぷやじん》と変わりがないよ」
と晩酌に顔をほてらせながら、父の言っていた言葉だった。
「それで、そのおかたは、どんな素姓の人なのでしょうか?」
声の震えているのが自分でもわかった。
「私にはくわしいことはわかりません……とにかく、先生がお帰りになるなり、なにかご連絡がおありだったら、すぐ渋谷署のほうへおいでねがいたいのです。われわれも、十分注意して、できるだけお名前に傷がつかないようにいたしますから」
恭子は深い溜息《ためいき》をついた。自分に対する気休めの言葉かもしれないが、もしこれがほんとうだったら、父は容疑者でなく、ただの参考人だという警察側の見解を、それとなく打ちあけてもらったように思われる……。
「それでは失礼いたします」
「ほんとうに、ご苦労さまでございました」
恭子はこの警官を玄関まで送り出すと、応接間へもどってきてソファの中にくずおれた。どうしてよいかわからなかった。
いちばん先に思い出したのは、もちろん三郎のことだったが、彼の下宿には電話はなかった。険察庁へ電話するには早すぎた。電報を打っても、配達されるのはきっと出勤した直後ぐらいになるだろう……。
「お嬢さま、旦那《だんな》さまはいったいどうなさったのでございましょう?」
近藤和子は、真青な顔でたずねた。
「わからないわ……ねえ、近藤さん、あなたは、その女のことを前から知っていたの? ねえ、隠さないで言ってちょうだい」
「どこかに、お好きなおかたがおいでだとは思っておりましたけれども……私は、おところやお名前は存じませんでした……」
その言葉もほんとうだろうと恭子は思った。それなら、ほかにべつな恋人がいたろうかとたずねてもむだなのだ。
「お嬢さま、お兄さまにご連絡なさいましたら? こういうさいでございますもの」
たしかにもっともな意見だった。恭子は震える手で電話のダイアルを回し、兄のアパートを呼び出したが、
「竜田さんはお出かけです」
と、冷たい返事がもどって来ただけだった。
検察庁へついて、公判部へはいった霧島三郎は、給仕に竜田弁護士の家から電話があったと知らされた。恭子がこんなに早く電話をよこすのは、彼にもちょっと意外だった。
風邪気味だということだったから、昨夜は会が終わってからも、電話をかけるのを遠慮したのに、そのことを怒っているのかとかんたんに考え、三郎は苦笑しながらダイアルを回した。
「あなた、たいへんなことになったのよ」
電話の前で、いらいらしながら待ち続けていたのだろう。三郎が「霧島ですが」とひとこと言ったとたんに、おののくような恭子の声がとびこんできた。
「いったい、どうなさったんですか?」
検察庁でも、公判部の検事たちは、ふつうのサラリーマンのように、大きな部屋でデスクを並べて仕事をしている。もう出勤している両隣りの同僚たちの手前もあって、三郎はできるだけていねいな言葉を使った。
「パパが、昨夜《ゆうべ》は帰ってこなかったの……いいえ、それはたいしたことじゃないけれど、パパの恋人という人が、昨夜のうちに殺されたらしいの。それで、警察からパパを迎えにやって来て……もちろん、いないから、手ぶらで帰っていったけれど、これはどうしたらいいでしょう?」
「なんですって?」
三郎もうちのめされた思いだった。恭子の言葉の調子もすっかり乱れている。他人に対する気丈な娘、彼に対するあどけない恋人、その二つの調子は、どこかへ吹っとんでしまっていた。
それよりも、三郎を震えあがらせたのは、この電話の内容だった。もちろん、これだけでは、事件の詳細はぜんぜんわからない。しかし検事としての感覚には、これはたいへん深刻な事態ではないか――という考えが、ぴりぴりと響いてきたのだった。
「それで、先生……警察で彼を呼んだのは、参考人としてですか? まさか、被疑者としてではないでしょうね?」
隣りのデスクで、書類を鞄《かばん》から出しかけた吉野検事が、ちらりと横目でこちらを見たのが、えらく気になった。しかし、検事と弁護士ならば、電話でこんなやりとりをしても決しておかしくはない……。
「それが私にもわからないの……参考人としてだろうと信じてはいるけれども、もし、容疑者と見なしているんじゃないかと思っただけで、もう、心配でたまらないの。ねえ、これからどうしたらいいでしょう?」
「そうですね。まあ、いまのところは、ご承知のように、事態を静観なさるほかはないと思います。それでは、僕は公判がありますから、お昼休みにでも、またあらためてこちらからご連絡いたします」
「おねがい……本部係の検事さんか、それとも渋谷方面の事件を担当している刑事部の検事さんなら、いちおうの事情はわかるでしょう? そちらから、そっと探りを入れてくださらない?」
「僕もそうしようと思っていたところです。それで、被害者の住所氏名は?」
「私もあんまりあわてたんで、住所のほうは聞くのを忘れてしまったの。パパの持っている家だと言うんだけれど、そんな家があるなんて、私も、ぜんぜん初耳だったわ。名前のほうは、本間春江というの。まさか、一日に同じ名前の人が二人殺されることはないでしょうから、これだけだってわかるでしょう」
「わかりました。それではのちほど、こちらからお電話いたします」
受話器を置いて、三郎は額の汗をふいた。
幸いに、両側の検事たちも、なにか仕事のうえの電話だと思ったらしく、声をかけてもこなかった。検察庁での電話では、参考人とか被疑者とかいう言葉は、毎回のようにとび出すものだから……。
ゆっくり煙草に火をつけながら、三郎は今後の方針を思案しつづけた。
できることなら、いますぐにでも飛んでいって、恭子に会ってはげましてやり、くわしい事情を聞いて、今後の対策をたてたいところだった。
しかし、きょうは重大な公判だった。複雑な詐欺事件の審理で、事件の鍵《かぎ》を握っているような重要証人が出廷してくる。しかも相手は老練な弁護士、勝村辰造だった。とうぜん火花を散らすような直接尋問と反対尋問が展開されることを予想して、三郎は十日も前から緻密《ちみつ》な尋問の腹案を練りあげておいたのだった。検事一体制という原則で、全検事は公務の執行に関するかぎり、同一人格と見なされるから、非常の場合には、誰でもほかの検事の代理をつとめられるのだが、こんな理由でこんな局面では、誰にもピンチヒッターは頼めなかった。
一時間の昼休みを利用して、恭子のところへ往復して来ることも許されなかった。三郎は腹をきめて煙草を捨て、四階の公判部から三階の刑事部へおりていき、本部係の検事、利根《とね》健策の個室のドアをノックしたが、返事はなかった。
このところ、捜査本部は四つも設置されているから、その担当のこの検事が忙しいことは想像できた。きっと、けさもその中のどこかに顔を出しているのだろう。昼休みにでもつかまえられれば、運がよいというほかはなかった。
開廷の時刻も迫ってきた。三郎はもう一度公判部の部屋へ帰って、書類のはいった風呂敷包みをかかえ、検察庁の建物を出た。そして建物の角まで来ると、ふりかえって、第二弁護士会の会館のほうを見つめた。
彼が竜田弁護士とここで別れてから、まだ二十四時間もたってはいない。それなのに、あの電話は、まるで、きのうの出来事をはるかな過去へ押しやったような気がした。
――あの女はいったい誰だったろう? 彼はどうして、女を見ただけで、あれほど動揺したのだろう? それは今度の殺人事件、そして竜田弁護士の失踪《しつそう》に何かの関係を持っているのだろうか?
「霧島さん、きょうはあなたの事件を見学に行きますよ」
と後ろから声をかけられて、三郎はとたんにわれに返った。いま検察庁に配属されている研修生の一人、佐伯《さえき》英一という青年だった。郷里もおなじ、出身大学も同じなので、二人の間には職務の面をはなれた親近感も発生していたのだった。
「そうかい? いつものように、うまくやれるかどうかはわからないよ。きょうはなんだか気分が悪くってね」
「そうですか? 風邪でもひいたんでしょうか。そういえば、顔色がお悪いようですね」
それから三郎は、法廷にはいるまで、いろいろ話しかけて来る英一の言葉に対しても、うんうんと生返事をしただけだった。
法廷で検事席の椅子《いす》にすわると、いくらか闘志は湧《わ》いてきたが、それでも不安は去らなかった。彼は心を鬼にして、この証人や弁護士とわたりあったが、午前の審理が終わったときには、倒れそうなくらい、へとへとになっていた。
「霧島さん、きょうの尋問は凄《すご》みがありましたね。僕はこれほど鋭いつっこみを見たことがありませんよ」
裁判所の廊下で、英一はささやいてきたが、三郎の心はもうここにはなかった。
三郎としては、できるなら、午後の審理だけでも延期してもらいたいところだった。しかし、次の証人はわざわざ大阪から出て来ているのだし、公人として、それは許されなかった。恭子とは昼休みに電話で連絡をとったが、父の行方は依然としてわからないし、その後警察からは、なんとも言ってこないということだった。三郎はそのまま、午後も法廷で戦い続けるほかはなかったのである。
利根検事をつかまえられたのは、午後四時ごろのことだった。今年四十一になる彼は、仕事のうえでは鬼検事といわれるような強さを持ち、私人としては、小鳥を飼うような柔らかさ、やさしさも持っている。その内柔外剛の性格は、検事の一つの理想として、若手の検事たちの尊敬を集めていたのだが、あいにく最近は健康を害しているようだった。
三郎が部屋へはいって行ったとき、利根検事のすぐれない顔色は、一段と暗さを増した。
「霧島君か? 例の話だろう。君はちょっと中座してくれないか」
利根検事は、そばにすわっている検察事務官にむかって言った。
検事が被疑者や参考人と話をするときには、かならず事務官をそばへおかなければならない。一つには立会人として、後日万一の場合の証人となり、一つには調書を作って後の役に立てるためだが、検事同士の話ではその必要もないことだった。何か個人的な秘密の話があると思ったのだろう。こう言われても、この事務官は、べつに怪しむような表情も見せなかった。
二人きりになると、利根検事はかるい溜息をついて言った。
「霧島君、君は竜田弁護士のお嬢さんと婚約していたはずだね」
「そうです」
三郎は心臓の鼓動が急に激しくなったのを感じていた。自分がなんのためにこの部屋へ来たのかも言わないうちに、相手のほうから、こういうことを切り出すようでは、事態は自分が予想しているよりも、はるかに険悪だろうと思ったのである。
「それで、問題は、本間春江殺しの件だね」
「そうです……」
「この事件は、やはり渋谷署に捜査本部が作られることになったよ。それで、僕の係りということになったわけだが……」
利根検事は、いったんそこで言葉を切ると、ゆっくり煙草に火をつけた。たとえ十秒でも二十秒でも、なんとか間を置こうとしたのだろう。言いにくい話を切り出す前には、それは三郎にも覚えがあることだった。
「捜査はまだ始まったばかりの段階だし、途中ではいくつもの仮説が生まれるものなんだ。とくに警察官というものは、めいめいに勝手な考えを持ち出すから……結局、最初に出て来た何本かの線の中で、真相は一つしかないのだが……だから、僕がどんなことを言ってもここだけの話として聞いてくれたまえ」
「わかっています。検事として、検事さんからお話をうかがうのです」
利根検事はかるく眼をしばたたいた。そしてさすがに悲痛な感じを伴う声で、
「それで、いまのところ、警察では、竜田弁護士を、最高の――重大容疑者と見なしているのだよ」
覚悟していたことだったが、さすがに担当検事から、こう言いきられたときには、三郎も胸をつきあげられたような気がした。
「わかりました……」
と言ったきり、彼はちょっと二の句がつげなかった。利根検事のほうも、ほとんど機械的に、煙草を一口二口吸って吸殻を灰皿にもみつぶした。
「これで竜田さんが、昨夜はどこかの待合にでも泊まっていて、酔いつぶれて、きょうはいまごろ眼がさめたというようなことになれば問題はないのだが……へたをすると、この事件は、君たちの結婚にも、たいへんな影響を与えるかもしれないね」
「そのことは覚悟しています。しかし、いまはまず事件のことを話していただけませんか。そういう線が、いちばん濃くなってきた理由はどこにあるのでしょう?」
三郎は結論を早く聞き出したくなっていた。筋をたてて質問をしていく気力もなかった。
「とにかく、犯行時間のほうは、いちおう午後の十時ごろと推定されるのに、その時刻ごろ、竜田さんらしい男の姿を現場近くで認めた目撃者がいるんだ……妾宅近くに、旦那が現われ、家へ寄らずに帰ったという考えは、われわれには受けいれられないな」
利根健策はやっと検事らしい態度をとりもどしたようだった。
「もちろん、それだけで竜田さんが犯人だとは言えないよ。目撃者の間違いでなかったとは言いきれない。ところが、この事件は、殺人以外にいま一つ、重大な要素を含んでいる。そっちのほうがどう進展するか、これもたいへんな問題になりそうだ」
「それはなんです?」
「麻薬なんだ。相当量、五十グラム近くのヘロインがこの家から発見されたのだ。麻薬というのは、ふつう人が持っているだけでも違法だが、警察官の間には、竜田さんが麻薬の取引に一役買っていたのではないかという疑惑さえ発生しはじめているのだよ」
第四章 最悪の事態
事件も発生直後のこの段階では、担当の検事にしても、その内容を細かく知りつくしているということはありえない。
せいぜい、後日の準備のために、現場検証を行ない、警察側からいちおうの状況説明とかんたんな今後の見通し、方針を聞いておく程度のことしかできないのだ。
もちろん、検事自身に一つの考えがあれば捜査官たちに指示を与え、その方向の追及を進めることはできるのだが、それは現在の段階では誰にも望めなかったろう。
だから、利根検事から霧島三郎が聞き出した事件の内容というのも、一つのアウトラインのようなものだったが、これもしかたがないことだった。
犯行現場というのは、渋谷駅から徒歩五分ぐらいの距離にある松風《しようふう》ビルの六階、六一八号室だった。
このビルは、四階から八階までが高級分譲アパートになっている。建築が完成したのはいまから約二か月ほど前だったが、そのとき竜田弁護士は、即金でこの一室を買いとったのだ。
自分名義の家とか、妾宅とかいう概念も、むかしとはすっかり違っていた……。
だから、この部屋の中で、女の絞殺死体が発見されたとき、渋谷署からすぐ警官が竜田弁護士の自宅へ飛んでいって、ああいう質問をしたのも当然だったろう。実際問題として本間春江という名前は、名簿にのってはいたが、転出証明も何もない都会の幽霊のような存在だったのである。管理人も、もちろん、この女の顔は知っていても、その素姓や身の上を知っているわけはなかった。
事件が判明したきっかけというのは、ちょっと変わっていた。朝の七時ごろ、隣りの六一九号室に住んでいる流行歌手、谷口和也の家の女中が廊下へ出たとき、六一八号室のドアが半開きになっていて、そこから本間春江の飼猫がとび出して来たのを見かけたというのである。
その猫は、この女中にとびついてきて、あわれな声で鳴きだした。女中も首をひねりながら、六一八号室へ声をかけ、それから中をのぞきこんで、奥の日本間に倒れている春江の死体を発見したというのだった。
こういうことがなかったなら、死体の発見はまだまだおくれていたかもしれない。
警察はすぐ活動を開始した。捜査一課のベテラン刑事たちの直感では、死亡時刻はだいたい前夜の十時ごろだろうということに一致した。もちろん、正確なことは解剖の結果に待たなければいけないとしても、第一線の刑事たちの長い経験から来るこういう判断は、よほどのことがないかぎり、ほとんど狂いがないものなのだ。
死因は、まず後ろから腕で強く首をしめて、いったん人事不省の状態におとしいれ、そのあとでまた腰紐《こしひも》で絞殺したものと推定された。この方法だと声はほとんど出す余裕がない。ことにこういう建築では、隣りの部屋に物音が聞こえなかったとしても、たいしてふしぎはなかった。
部屋の中は相当に混乱していた。箪笥《たんす》や洋服箪笥の中も、だいぶかきまわされていた。こういう現場の模様を見ると、いちおうふつうの強盗殺人事件のように思われるが、一人の刑事が、やはり長年の経験からきた勘だろうが、これも一種の擬装工作ではないかという意見を吐き、その意見に賛成した者も、かなり多かったようだった。
もし、強盗殺人だとすれば、なにか金目のものが奪われたことは間違いない。たしかに現金や高価な装身具のようなものはほとんど見あたらなかったが、これにしても、女のひとり暮らしだし、竜田慎作があらわれない以上、詳細はわからなかったのである。
麻薬の小瓶が発見されたのは、鏡台の下の引出しだった。犯人も、こんなところにはたいしたものがしまってあるわけはないと考えて、手をつけなかったのかもしれないが、そのいちばん奥には、茶色の小瓶にはいった純粋のヘロイン、約五十グラムが発見されたのだった。
この恐るべき麻薬の値段は、もちろん激しい変動はあるが、現在、香港のおろし価格は一グラム五百円、日本の末端の小売価格はだいたい五万円ぐらいだと言われている。
たいしてかさばらないもので、これだけの値はばがあるものとすれば、発覚した日にはたいへんな罪に問われると知りながら、この密輸や取引が跡をたたないのも無理はない。
もちろん、現場で発見された麻薬にしても、いつ誰がどういう方法で手に入れたかはわからない。その入手価格というのも二万五千円から二百五十万円までの間のある価格だろうとしか、推定のしようがないのだ。
最初は、ただの強盗殺人か、それとも痴情のうえの殺人で、強盗のしわざと見せかけたものかと考えていた捜査陣はとたんに色めきだった。すぐに捜査本部の設置が決定され、組織的な捜査活動が開始された。
そして、聞きこみの結果、竜田慎作に不利な事実が判明したのである。
このビルのおなじ階、六〇七号室には三幸物産≠ニいう商事会社の専務、倉島|武《たけし》が妻といっしょに住んでいたが、昨夜九時半ごろ、散歩に出かけて、ビルの入口から百メートルぐらいのところで、ビルのほうへ向かう竜田慎作とすれちがったというのだった。
倉島武は、慎作とは一度も口をきいたことはないということだったが、エレベーターの中や廊下で二、三度顔を合わせたことがあり、六一八号室の女の旦那で弁護士だということも知っていたというのだった。
教育教養もあり、社会的地位もある人物の証言だけに、警察はこれをほとんど無条件で採用した。
したがって、竜田慎作は、犯行推定時刻のほとんど直前に、現場近くに現われ、そのまま家へも帰らずに、姿を消したということになるわけだった。
ほかにはほとんど、手がかりらしいものも見あたらない現在、彼がまず第一の容疑者と目されたことも当然だったろう。
鉛をのんだような重さを胸に感じながら、霧島三郎は利根検事の部屋を出た。
彼が自分に、嘘やごまかしのない事実を語ってくれたことはよくわかった。もし、このほかに、何か隠された秘密があったとしても、それは捜査本部の中だけでとりあげられているもので、担当検事さえ、まだ聞いていない種類の情報だというほかはない。
しかし、これだけの材料から判断しても、警察当局が竜田弁護士に対する疑惑を深めたのは当然のことだと思われた。
検察庁からは、このことを電話するわけにはいかなかった。いままでは、自分の家同様に遠慮なく出入りしていた家だったが、竜田家の玄関をくぐるのにも、今度ばかりは抵抗があった。彼は日比谷公園まで行って、赤電話で恭子を呼び出し、渋谷駅近くのリズ≠ニいう喫茶店で待ちあわせることにした。
彼がこの店へ着いたときには、恭子は半分空になったコーヒー茶碗《ぢやわん》を前にして考えこんでいた。彼の顔を見ても、当然のことだろうが、いつもの微笑は浮かばなかった。
「家を出るのは、たいへんだったろうね」
「ええ……叔母が来ているんだけれど、こんなときにはたよりにならないのね。あなたと会いに出かけると言ったら、いやな顔をして、
『三郎さんも薄情な。こんなときにこそ、一番にかけつけてくれなければ、人間としての義理もたたないじゃないの』
と言い出すのよ。私は、
『あの人は現職の検事なのよ。人間としての義理の前に、検事としての道があるかもしれないわ』
と弁解はしておいたけれども……」
恭子は大きな両眼を上げて、訴えるように三郎を見つめた。
「今度は私の言ったように、あなたにとって、検事の道が先にたつような事態なのね」
「うん、とりあえず、僕の聞いてきた情報をいちおう説明しよう」
三郎は自分でもコーヒーを注文すると、できるだけ声をひくくして、いま利根検事から聞いてきた話をのこらずくりかえした。
「そういう事情だったの……それで、パパは、いったいどうしたんでしょう?」
三郎には答えきれない質問だった。彼はできるだけ遠まわしに、恭子を納得させようと考えながら、
「なんでも僕の聞いた話では、東京じゅうで行方不明になる人間は、一年に千何百人かいるそうだよ。月に百人として、一日に三人の人間が、ぽっかり姿を消してしまって、なんの足跡ものこさないというんだ。僕も最初その話を聞いたときには、大都会だけにおこる現代の怪談の一つだと、ちょっと気味悪く思っただけなんだが、それが自分の身辺近くに起こったとなると、これはたいへんなことだと思い出したね」
「でも、そういうふつうの行方不明の事件では、犯罪はからんでいないんでしょう。だから警察のほうだって、積極的には、その行方をつきとめようとしないんでしょう」
恭子のほうから急所をつかれて、三郎は大きく溜息《ためいき》をついた。
「そうなんだ。こういうふつうの失踪事件では、なんの理由も動機も考えられないのに、金もあり地位もあり、家庭を持った社会人が、突然発狂したように、姿を消してしまうというんだ。だから、君のお父さんだって、こんな道をふんだのではないと言いきれないんだが、ここに殺人事件が起こっているとなると、この二つが、偶然同時に重なったと考えるのは、いかになんでも甘すぎるだろうね」
「それじゃあ、パパの失踪は、二つの場合しか考えられないんじゃないかしら? 一つはパパが……犯人で、逃げ出している場合。一つには、パパが真犯人に、どこかほかの場所で殺されたという場合」
「それに、誰かに暴力で連れていかれて、どこかに監禁されている場合も、考えられないでもないが、実際問題としたら、この第三の場合は、ちょっとありえないだろうね」
「そうでしょうね……パパはたいへんな苦労をして、弁護士になったらしいから、私たちにも、よく、しみじみと、
『人間はなにか困難にぶつかったら、まず最悪の事態を仮定して、その対策をたてることだ。そうすれば、たいていの苦労はなんとかのりきれるもんだよ』
と、なにか思い出すように言っていたの。でも、まさか、私が結婚前に、パパ自身のことで、最悪の事態を覚悟しなければならなくなるとは思わなかったわ」
その眼からは、いまにも涙がこぼれそうだった。いや、まわりに人目がなかったら、恭子はおそらく、三郎の胸に身を投げて、泣き崩れたにちがいない。
「とにかく、僕の聞き出したことはそれだけだ。ここから渋谷署は眼と鼻の間だし、ふつうの人間なら、僕がここから捜査本部へのりこんでいって、検事の威光でいろいろの話を聞き出せばいいと思うかもしれないが、そういうことは許されないんだよ」
「私には、それぐらいのことはわかっているわ」
恭子は唇を噛《か》んでうつむいた。そして、だいぶ長いあいだ考えこんでいたが、急にはじかれたように顔を上げて、
「これで、私たちはいったいどうなるんでしょう?」
「結婚のことだね?」
「そう。もしも万一、パパがその女の人を殺したのだとしたら……検事さんは、殺人犯人の娘と結婚するわけにはいかないでしょう」
これは三郎がいまいちばん悩んでいる問題だった。せめてきょう一日だけは、このことには触れずにおきたかったが、恭子のほうから切り出されてはしかたがなかった。
「それはたしかにそうだ。ただ、僕には僕の決心がある。最悪の場合には、検事をやめても、君とは結婚するつもりだよ」
「まあ……」
恭子は、電流にでもうたれたように身ぶるいした。
「そんなことが、おできになって?」
「僕の場合には、自分の決心一つだろうね。たしかにいったん天職と考えた道から、よそにそれるのは残念だけれど、しかし、弁護士になるつもりなら、生活のほうはなんとかやっていけるよ。検事から弁護士というコースはざらにある例だし、ただ、ふみきりがちょっと早かったということになるだけさ。たとえ君のお父さんがどういうことをやったとしても、親は親、子供は子供だ。僕は君との誓いだけは、どんなことがあっても、まもるつもりでいるんだよ」
「うれしいわ。うれしい……私、いまのあなたの言葉を聞いただけで……このあとは、どうなったとしても思いのこすことはないわ」
恭子はハンカチで顔を隠してすすりあげた。
恭子が三郎と別れて家へ帰って来たときには、やっと連絡がついたらしく、兄の慎一郎も姿を見せていた。日ごろはたよりにならないと思っている兄でも、こういうときはありがたかった。
恭子は、この兄と叔母の浦上|英子《ひでこ》に向かって、いま三郎から聞いて来た話をくりかえして聞かせた。
慎一郎は父が大事にしていたジョニイ・ウォーカーの黒瓶を持ち出し、ちびちびなめながら、この話を聞いていた。不謹慎とは思ったが、気つけ薬だぞとことわられては、とがめることもできなかった。
「困ったわ。困ったことになったわね。兄さんが変な女にひっかかったからいけないのよ。園子さんが生きていたら、こんなことにはならなかったでしょうに、ひとりで閨《ねや》がさびしいものだから、悪魔にみいられてしまったのね」
この叔母はおっとりした性格だし、夫の浦上礼吉はいま東洋火災≠フ常務になっている。家庭もいちおう円満だし、苦労もあまりしていないだけに、こんな平凡なことしか言えないのかもしれなかった。
「叔母さんは、そういうことを言うけれど、男という動物は、たとえ女房があったところで、浮気をしないということはありませんよ。変な女にひっかかるときは、どんな石部金吉だってのがれられっこないですからね」
噛みつくように、慎一郎は言った。もともと、舌には毒があるほうだし、今度の事件では、やはりいらいらしているだろうし、そこへ酒がはいったのだから、このくらいのことを言い出してもふしぎはなかった。だから、こういう一般論はまだいいのだが、その毒舌はこの程度ではおさまらなかった。
「たとえば、叔父さんにしても、叔母さんの前では猫をかぶって、二等重役、一等亭主の見本みたいにふるまっていることは事実でしょうが、一歩敷居をまたいで外に出たら……」
「慎一郎さん!」
「兄さん!」
二人に両側から叫ばれて、慎一郎もやっと言いすぎに気がついたらしく黙りこんだ。
「人がせっかく心配して、こうしてやって来てあげているのに、なんです、いまの言い方は……あなたは竜田家の長男なんですよ」
叔母が血相変えておこりだしたのもむりはないことだった。恭子は懸命にわびて、どうにか叔母をなだめると、兄をひっぱって父の書斎へ連れこんだ。
「兄さん、ずいぶんひどいことをおっしゃったのね。あれじゃあ、叔母さんだって怒るのはもっともよ。こんなときに、親切にしてくれる人をつかまえて、気を悪くするようなことをおっしゃらなくたっていいでしょう」
「こういうさいだから、かえって言いたくなるのかもしれないな。お前も承知しているとおり、おれは偽善者が大きらいだからな」
慎一郎は恭子が帰ってきたときから、だいぶ酔っていたようだった。そのうえにまたウィスキーがはいったのだから、乱れるのはどうにもしかたがなかったろう。自分では、少しアルコールのはいっていたほうが、頭も冴《さ》えると言っているのだが、いまはそういう微妙な線もふみ越えているようだった。
「おやじのことは、いまおれたちが、とやかく心配したところでしかたがないだろう。これぞと思うようなところには電話をかけたんだろう。それでいないとなれば、あとは運を天に任せるよりしかたがないさ。まあ、おやじはおやじ、われわれはわれわれだ。これから後は自分たちだけで、生きる道を考えていけばよいのさ」
酒飲みのくせで、時にはふだんよりもしっかりしたことを言うかと思うと、とたんに妙なことを言い出す。慎一郎は次の瞬間、恭子の胸を短刀でえぐるような言葉を投げ出した。
「ただ、お前には気の毒だが、霧島君との縁談は、これでご破算だろうねえ」
「どうして? 三郎さんはたったいま、パパにどんなことがあろうと、この婚約は取り消さないと言ってくださったのよ」
「それは、いまお前の顔を見て、それじゃあ、婚約は解消しましょうと言い出す男もなかろうさ。しかし、結婚式を無期延期して、そのうちに取りやめとすることは考えられる。それでも、今度の場合なら、こっちは泣き寝いりするしか手がないだろう」
この兄が一種の性格破綻者だということは、恭子もよく知っているつもりだった。しかし、その持ち前の残忍さ、冷酷さがこんなときに、自分に向かって発揮されようとは思っていなかった。恭子はうつむいて唇を噛み、必死にこらえるほかはなかった。
「それは彼もたしかに好漢だろう。若くて正義感もあり、頭もよければ勇気もある。しかし検事も官僚だ。そして官僚に共通する第一の特徴は出世欲だよ。もちろん彼が将来、検事総長になれるとは言えないだろうが、どこかの検事正ぐらいまでいけることは間違いなかろうね。そういう出世街道を、女ひとりのために犠牲にしようと決心するほど、彼が馬鹿だとはおれには思えないのさ。もしも、彼が弁護士になるつもりなら、研修所を出たときに、弁護士コースを選んでいるだろうし、もし、お前のために、将来の道を変えてもいいという気があれば、検事としての体面も何もかなぐり捨てて、きょうはこの家へ飛んできたろう。そういう事実がないかぎり、おれには彼の言葉が信用できないのさ」
もう恭子の忍耐力は限界に達した。両手で顔を押さえて、自分の部屋へかけこむと、そのまましばらく泣きつづけたが、それでも心は休まらなかった。
こうして、不安な第二夜が明けた。
翌朝九時、数人の警察官がやって来て、家宅捜索の令状を出して見せたとき、恭子は最悪の事態に直面したことを悟った。
第五章 検事のジレンマ
霧島三郎も、眠れない夜を明かしていた。
検事として、犯罪と捜査のいろいろの問題に精通しているだけに、こういうときにはかえって人一倍の妄想に悩まされるのだった。
出勤の途中、彼は駅の赤電話で、恭子のところへ連絡をとったが、電話を通して聞こえる声は震え、言葉の調子も乱れていた。
「ただいま、ちょっと取りこんでおりますので……あとでこちらからご連絡申しましょうか……それとも……」
恭子がそばにいる誰かに気をつかって、ていねいな言葉づかいをしていることは、三郎にもすぐわかった。これが身内の者だったら、恭子の性格としては、なんの遠慮もしないはずだった。戦慄《せんりつ》と呼びたいような恐怖感が三郎の全身を襲ってきた。
「ひょっとしたら、警察が家宅捜索を?」
「さようでございます……」
「それで、何か、これというような物は見つかったろうか?」
「さあ、いまのところ、私どもには、なんともわかりませんけれども……」
それも当然のことなのだ。警察がいったん腹をきめてふみこんだ以上、家族の者に手の内の秘密をあかすことは考えられない。いちおう捜索がすんだなら、後は家族の一人一人に尋問ということになるだろうが、それから後の成行きは、いまから想像はつかなかった。
「それじゃああとで……どんなことがあっても僕は味方だよ。元気を出して頑張りとおしてくれたまえ」
「ありがとうございます。では、また……」
恭子の声は、急に涙を含んだように思われた。自分がどんな犠牲をはらっても、この女性だけは守りとおさねばならないと、三郎は受話器をおきながらあらためて心に誓った。
胸が鉛を入れたように重かった。彼はこれほど憂鬱《ゆううつ》な思いで検察庁の入口をはいったことはなかった。まるで自分が検事ではなく、被疑者の一人となったような気持さえしたくらいだった。
皮肉なことに、きょうの公判は麻薬関係の犯罪だった。
東京の山の手の一画に縄ばりを持つ橋爪組《はしづめぐみ》というやくざの団体の若者頭、斎藤文平という男が、組の若い者やその情婦たちを使って、池袋、新宿、六本木などで、麻薬を売った事件だった。
裁判もきょうが第一回だから、まだ細かな事実審理にまでははいれないだろうが、事件の概要は書類の調べと、刑事部麻薬係の伊東敏男検事から聞いた話で、十分に頭にはいっている。
主犯、斎藤文平は、麻薬の入手経路については、頑強に口をつぐんで、黙秘権を行使している。ほかの共犯者たちは、彼の手もとから出た麻薬を小口に分けて売りさばいただけで、それがどこから出てきたものかは、ぜんぜん知らないと主張していた。
公判部の部屋のデスクにすわって、書類をくりひろげながら、三郎は必死に恭子のことを頭からふりはらい、この事件のことに注意を集中しようとつとめた。
「本人が口を割らなくても、専門家の間では、その入手経路もほぼ推定がつくんだよ」
伊東検事の言葉が、初めて聞いたときとは別の感情を伴って思いおこされた。
「日本の麻薬取引の最大の源泉は神戸だよ。神戸ルートまたはKルートといわれる路線が、全国の港からここへ集中しているんだ。たとえば横浜に入港した外国船の船員などが持って上陸してきた麻薬でも、そのまま京浜地区でさばかれることは、ほとんどないというんだね。いったん神戸まで持っていかれ、大ボスというような人間の手に渡ってから、またあらためて各地へ運ばれるということだ。なにしろ相手は闇《やみ》の組織だ。もしも事件が発覚すれば、死刑にはならないといっても、何年かの刑務所生活が待っている。彼らとしても、それこそ鉄の統制をとらないかぎりやっていけないんだろうね。かりに、一つの小さな組織が手入れで壊滅しても、被害はそこだけに限定して、最小限度で食いとめるような仕組みになっているらしい……このすぐ後ろには、もっと大物、もっと悪質な黒幕がひそんでいるなと見当がついても、われわれ検事としては、直接の証拠がない以上、つっこみようがないんだよ」
伊東検事は東京地検でも指折りの硬骨漢として知られている。その彼が、この言葉を吐いたときには、顔を真赤にほてらせて、いかにもくやしそうな表情をしていたのだった。
「たとえば橋爪組の組長の橋爪健一は、神戸の稲津組の組長、稲津新太郎の弟分だ。稲津――橋爪――斎藤というルートが存在することは、常識のある人間には、誰にでも想像できることだろう。もちろん、稲津組にしたところで、神戸で唯一の最大のボスというわけではなかろうが、せめてこの事件では、そこまでメスを入れられないかと、僕はずいぶん苦労したんだが……」
伊東検事の沈痛な声が、もう一度、耳の中によみがえって、鼓膜に響きわたるようだった。
三郎はこのとき、妙な妄想に襲われた。本間春江のところから発見されたヘロインは、自分がこれから扱おうとしているこの事件に関係がありはしないかと思ったのだ。
これは、突拍子《とつぴようし》もない考えだった。たとえば神戸ルートが一本の鉄道のようなものだとすれば、稲津――橋爪――斎藤という配給系統が存在していたとしても、それはその鉄道の上を走る一つの列車のようなものだったろう。ほかにも無数の眼に見えない列車が、この線の上を走っているはずなのだ。今度の殺人事件で突然発見されたヘロインも、もとをただせば神戸から出ているにはちがいないが、それをこの斎藤事件と結びつけるのは、いかになんでも考えが飛躍しすぎるようだった。
三郎は煙草に火をつけて、この考えを打ち消そうとしたが、いったん頭に浮かんだ妄想はなかなか去ろうとしなかった。
その日の裁判は早目にすんだが、利根検事はとうとうつかまらなかった。捜査本部まわりで忙しいらしい。出先の見当はつくから、電話をかけられないこともないのだが、こんな微妙な問題を電話で話しあうわけにはいかなかった。
恭子のほうにも連絡はしたが、家宅捜索の後の慎一郎と恭子に対する尋問はかなりきびしい調子のものだったらしい。警察官にしたところで、容疑者本人に対してならともかく、その家族にはそれほどひどい扱いはしないはずなのだ。きっと、恭子の神経がまいりきっていて、ちょっとした刺激でも、その何倍かに感ずるのだろうと思って、三郎は必死に恭子をなぐさめたが、やはり心は重く暗くなるばかりだった。
慎一郎のほうは、捜査本部まで連れていかれて、いろいろと調べを受けているらしい。もちろん、事件に直接の関係はないだろうから、留置所で一夜を過ごすというようなことはないだろうが、それでもこれは捜査本部のなみなみならない決意を示すものとしか思えなかった。
そこへまた、次のショックが襲ってきた。各新聞の夕刊が、いっせいにこの家宅捜索の記事を掲載したのである。
考えてみれば、これも既定の事実のようなことにすぎない。とうぜん起こるべきことが起こっただけなのだが、生々しい大きな活字にふれたとたんに、三郎は、眼のくらむような思いがして、どうしてよいかもわからなかった……。
ただ、これは奇妙な偶然というほかはないが、彼は今夜、神戸地検の原田豊検事と会うことになっていた。
研修所時代からの無二の親友で、仙台のほうへ出張した帰り、ひさしぶりに東京で飯でも食おうと、前から約束ができていたのだ。
こういう悩みを打ちあけて相談するのに親友にまさるものはない。約束どおり、午後の六時に、有楽町のビヤホールの一階で、ジョッキを前にすわっているこの友だちの姿を見たときには、三郎も初めて心に一筋の救いの光を発見したような気がした。
「やあ」
三郎が近づいていくと、原田豊はかるく片手を上げてちょっと不審そうにたずねた。
「君ひとりかい」
「うむ……」
ほんとうは、恭子を連れて紹介するはずだったのだが、今度はそれどころではなかった。黙ってどかりと椅子《いす》に腰をおろすと、原田豊は太い男性的な眉をひそめて、
「どうかしたのか? えらく顔色が悪いし、元気もないじゃないか」
とたずねてきた。
若いくせにでっぷり太っていて、ちょっともたもたしているように見えるが、感覚は人一倍鋭い男だった。まして、現在は検事として千差万別の人々に接しているわけだし、人相学のような観察力は前よりさらに鋭敏になったのだろう。
「原因はこれだが」
三郎は黙って夕刊をつきつけ、問題の記事を指さした。それに眼を落とした原田豊は、たちまちぱっと顔を上げ、せきこんだ調子で、
「竜田弁護士というと、君のフィアンセのお父さんだったね?」
「そうなんだ。それで完全に参ってしまった。なんとか君の知恵を借りたいんだが」
「よし、ここではなんだ。どこか近くで、格好だけでも飯を食いながら話そう」
気合よく、原田豊はジョッキに残っていたビールを一口に飲みほして立ち上がった。
二人はこの店を出て、近くの中華料理屋の個室へおちついた。
「それはまた、たいへんなことになったな」
三郎の話を聞きおわった原田豊は、溜息《ためいき》をついて腕を組むと、
「同情するよ。たしかに検事としては最悪の事態の一つだろうな」
「うむ……僕はよくよく結婚運にめぐまれていないのかねえ」
原田豊は、そこでコップのビールを口にした。酒豪で通った彼にしては珍しく、いままではあまりピッチをあげて飲んでいなかったのだ。
「君はほんとうに彼女を愛しているのかね?」
「そうだ。もし、今度この縁談がだめになったら……そして検事として終始することになったら、僕は一生独身で終わるかもしれないというような気さえするくらいだよ」
「それは、彼女のほうから身をひいた場合だね? 君のほうから、話を中絶する気はあるのか?」
「ない、絶対に。この人をあきらめるくらいなら、いつでも検事の辞表を出すよ」
「うらやましいな。君たちの恋愛は……おれのような見合結婚では、そういう考えは浮かんでくるまもなかったが」
原田豊は、ひとりごとのようにつぶやいて、もう一口だけビールを飲みこんだ。
「君はむかしから純情そのものだったなあ。それが、今度はぐっと表に現われたんだね。僕は止めない。止めないよ。君のことだから辞表を出すと言ったら、ほんとうにそうするだろう。しかし、せっかくここまできたのに、いま検事をやめるのは惜しい気もするな」
原田豊は、暗に竜田弁護士犯人説を認めているような調子で言った。
三郎もたまらなくなってビールを飲みほした。ふだんなら、三本や四本あけても平気なのに、いまはまるでストレートのウィスキーをあおったように胃壁に鋭い刺激が来た。考えてみたら、けさから形のあるものは、何ひとつ口にしていなかったのだ。
「まあ、最後の決断はいつでもできる。それより先に、誰か信頼できる先輩の意見をきいてみたらどうだろう? 僕と君とは同じ年だから、どうしても考えが同じ傾向におちいりやすいが、年代の違った人なら、また別な角度から物を見られるんじゃないのかな」
「なるほど、それは確かだな。それでは利根さんにでも相談しようか」
「やめたまえ。それだけは」
原田豊は眉をひそめて首を振った。
「なぜだ? あの人なら、いちばん今度の事件には通じているわけなんだが」
「それだからこそ止めるのだよ。君が利根さんにいま相談を持ちかけるのは、あの人を苦しめるばかりだと思わないかね? 君の心情に同情すればするほど、最悪の場合、利根さんは検事として苦しむことになるだろう。君だって、辞表が受理される瞬間までは、あくまで検事としての道を守らなければいけないはずだ」
「わかった。僕の間違いだった。もうこの事件のことでは、二度と利根さんのところへは顔を出さない」
血を吐くような思いでこう言うと、三郎は二杯目のビールを飲みほした。
何人かの先輩の検事たちの顔が瞼《まぶた》に浮かんだが、こういう深刻な、しかもデリケートな問題を持ちかけるのにふさわしいような相手は、一人も思い浮かばなかった。
三郎は、原田豊と別れてから、ひとりで何軒かの店を飲み歩いた。酒ででもまぎらわせないことには、神経がぷつっと音をたてて切れてしまいそうな妄想に襲われたのだった。
それでも、一軒の店では腰をすえて飲む気にもなれないのだ。
「君と寝ようか 五千石とろか
何の五千石 君と寝よ」
最後の店では、六十すぎと思われる男が、むかしの忘れられた歌を小声で歌っていた。
場合が場合だけに、この歌は聞くに耐えなかった。胸を刺されるような思いで、この店を出ると、三郎はタクシーを拾って、世田谷《せたがや》の経堂《きようどう》にある自分の下宿へ帰ってきた。
この家は彼の遠い親類にあたっていた。大学時代もずっとここで暮らしていたのだが、東京へ帰ってからも、また古巣にまいもどってきたような思いで、そのままいついてしまったのだ。
「霧島さん、どこへ行ってらしったの? 竜田さんのお嬢さんがさっきからお待ちかねよ」
玄関でこう言われたときには、酔いもとたんにさめはてたようだった。三郎はかけ上がるようにして、二階の自分の部屋へはいった。
恭子は窓から外の深い闇を見つめながらすわっていた。三郎がはいっていくと、ゆっくりふりかえったが、その顔には笑いがなく涙があった。
「待った?」
「いいえ」
三郎は一息ついて、恭子のすぐそばにすわると、
「こんなときに酒なんか飲んでいて、たよりにならない恋人だと思われるかもしれないけれど、こうでもしなければたまらなかったんだ」
「わかるわ。私も……兄は真青な顔で、警察から帰って来ると、
『これは困ったことになった。これじゃあ、おやじも全国指名手配ものだ』
と言って、やけ酒を飲み出したの。私が話を聞こうとしても、ろくに返事もしないで……しようのない兄だとは知っていたけれど、あれほど腐りきっているとは思ってもいなかったわ」
恭子はハンカチで眼頭《めがしら》をおさえると、
「ふだんなら、私も黙ってしまったでしょう。でもこのさいだからと思って、うるさいくらいつっこんだの。そうしたら、兄は、
『そんなに事件の内容が知りたかったら、霧島君のところへ行くんだな。彼なら現職の検事だから、おれ以上のことを教えてくれるだろうさ』
と言って……私も売り言葉に買い言葉で、こうしてとび出して来たのよ」
三郎は大きく溜息をついた。人間のほんとうの性格は非常の事態に初めて発揮されるというが、慎一郎の退廃ぶりがこれほどひどいものとは思ってもいなかったのだ。
「ねえ、あなたはきょう、利根検事さんとはお会いになって?」
「それが僕には会えないんだ。いや、きょうはつかまらなかったという意味ではなくって、僕はこの事件に関しては、もうあの人から話を聞くまいと、あらためて心に誓ったんだ」
恭子は血を吐くような溜息をついた。
「それじゃあ、私は……もう、あなたには、おすがりできないのね?」
「そんなことはないと、僕は何度も言っている。きょうも僕は神戸地検の原田君と、今後の方針について相談してきた……このままでは検察庁の中心部にいながら、ただぼんやりすわっているようなものだ。そうして、君の苦しむのを見ていることにはがまんができない。検事という職業、その良心から発生する致命的なジレンマだが……このままで、もし君のお父さんが全国指名手配にでもなるようなことがあったら、僕は、すぐにも辞表を出す。そして、弁護士になって、君といっしょに戦うつもりだよ」
三郎もすっかり興奮していた。言葉もなんとなく飛躍している感じだったが、恭子はさすがに、その裏に隠されている真情を一瞬に悟ったようだった。
「うれしい……私はあなたのいまのお話を聞いただけで生きぬいてゆく自信が出たわ。これから、どんなことがあっても……」
恭子はがばりと三郎の胸に身を投げてきた。熱い吐息が、彼の耳を春風のようにまさぐった。
「ねえ……私はもう、あなたのことは、あきらめかけていたのよ……今晩、ここへ来たときには……あなたは検事、私……」
「わからない。まだ、警察が何を考えているかはわからないが、お父さんを犯罪者だと決めてしまうのは早計すぎる」
「でも、新聞にあんなことを書かれては……これでお父さんが出て来なければ……恥をそそぐことは不可能だわ……だから、私は今晩、何もかもあなたに……そして、その思い出を抱きしめて、一生ひとりで……さびしく生きていくつもりだったの……」
恭子の言葉はとぎれとぎれだったが、炎の情熱にたぎっていた。
三郎の心も体も燃えはじめた。検事にしても人の子だった。そして、彼はいま、この一人の女性のためには、天職とさえ信じていたこの道を捨てても悔いはないとまで思いつめていたのだ……。
細い雨脚が屋根をたたきはじめた。かすかに雷の音が聞こえた。
三郎は立ち上がって窓をしめた。恭子は下から、謎《なぞ》に満ちた視線を彼のほうに投げ、
「もう、誰も見ていないのね。私たちは、二人きりなのね?」
「うむ……」
「天気予報はにわか雨、さっきラジオで言ってたわ」
三郎はすわり直して、恭子の体を抱きしめた。殺人も麻薬も、裁判も、自分が検事だという意識も、この瞬間には、嵐《あらし》の中の木の葉のように、彼の頭から飛び散っていった。
それは二人にとっては未知の世界だった。しかしこんなとき、こんな形で、その関門を踏み越えようとは、三郎もぜんぜん予想していなかった。
第六章 検事一体
竜田弁護士に対して、全国指名手配の処置がとられたと、新聞に報道されたのはその翌日の朝のことだった。
霧島三郎は、すぐ用意していた辞表を持って、公判部長の春海|鎮雄《しずお》検事の部屋を訪ねていった。
ことし五十一歳になる春海検事は、木石を通り越した樹岩≠ニさえ言われていた。竜田慎作も、あるとき酔ったはずみに、三郎にむかって、
「春海君というのは、実におもしろみのない人間でね。検察官僚としてはベテランにはちがいないが、六法全書や専門書のほかには、週刊誌一冊読んだこともないんじゃないのかな? 酒も飲まず、煙草も吸わず、映画も見ず、人情の機微とか人間の心の弱さとかいうものには、ぜんぜん理解もないんだろうな。浮気をすすめるわけではないが、いまの奥さんのほかの女には一人も気を動かしたことがないだろう。個人的にはあまりつきあいたくない相手だね」
と言ったものだった。
三郎自身の印象も、だいたい同じようなものだった。もちろん、そういう性格は検察官僚としては決してマイナスではなく、むしろプラスの点が多いと言えるかもしれない。ただ仕事のうえの相談なら、どんなことでもできるかわりに、個人的な問題の相談は持っていきにくいというような感じが伴っている。原田検事に、ああ言われても、三郎が直属の上司であるこの部長のことを思い出さなかったのは、そういう理由からだったが、しかし、いよいよという場合には、やはりこの部長に対決しなければならなかった。
三郎がその朝、公判部長室へはいっていくと、春海検事は書棚に向かって、何か書類を捜していたが、こちらに向けた顔には、やはり動揺の色が隠せなかった。
「部長さん、ちょっと重大な秘密のお話があるのですが」
「ああ、そうかね」
春海検事が、その話の内容をある程度まで察していたことは間違いなかった。それでも言葉にはなんの感情も表わさず、ゆっくりした足どりでデスクにもどると、事務官と女の事務員にちょっと座をはずすように言いわたし、ハンカチを出して眼鏡をふきながら、
「竜田君のことについてかね?」
と相変わらず抑揚のない声で言った。
「そうです。そのことでいろいろ考えましたが……このさい、僕は検事をやめるのが正しいんじゃないかと思いまして、辞表を持ってまいりました」
「なんだって?」
春海部長も、三郎がこれほど早く、これほど思いきった行動に出ることは、さすがに予想していなかったのだろう。
あわてて眼鏡をかけなおすと、デスクの上に置かれた辞表と、三郎の顔とを何度か交互に見つめながら、
「君の気持はわからないでもないが……そこまで腹をきめるのは、まだ早すぎはしないかな?」
と、いちおうはもっともな、そのかわり、ごく平凡な言葉を吐いた。
「そう思われるかもしれません。しかし、僕としては、これ以上考える余地もないと思うくらい、考えぬいたうえで決心したのです」
「うむ……若いな。君は……こういうときには熟慮断行という態度が大事だ。なにも竜田君が犯人だとはっきり断定されたわけではないし、もう少し事態を静観したうえで、それから方針を決めてもいいんじゃないのかな。まあ、こういうことが起こった以上、式のほうはしばらく延期ということになるのはやむをえないだろうが」
「しかし、部長さん、すべての容疑者は、裁判で有罪判決が下るまでは無実と思わなければいけない――というような考え方は、このさい通用しないように思います。僕も新聞に出ている以上、たいして深い事情は知りませんが、おなじ容疑者とはいっても、全国指名手配というような段階になってきた以上、警察側では、かなり重大な手がかりをつかみ、信念に近いくらいの自信を持っているのでしょう。そんなら、ふつうの人間の考えでは、十中八九、いや九分九厘まで、彼が犯人だという説にかけるでしょう」
「それはそうかもしれないが、君たちはまだ正式に結婚したわけではない。婚約が成立しているといってもそれは内輪だけの話だろう。法律的には、君と竜田家とはぜんぜん赤の他人なのだ。それなら、万一、竜田君が犯人だったと仮定しても、君があわてる必要は少しもないんじゃないのかね」
常識論というよりも、人情の機微をぜんぜん解しない理屈のうえの議論なのだ。もちろん春海検事の性格からいって、こんな論法に出てくることは予想できたが、三郎はすぐには答えられなくなって、うつむいてちょっと唇を噛《か》んでいた。
「君がこれを出そうとした理由は、この問題だけにからんでのことだね。ほかにも何か、理由があってのことではないんだろう」
「ありません。検事の仕事に一生をかけようと思った気持は、いまでも変わらないつもりですが……」
「それだったら、こういうことも考えてみたまえ。君自身にとっても一生の問題だし」
春海検事は、三郎の辞表提出が、ただ形式を整えるための行動だと思いこんだらしい。ゆっくり煙草に火をつけて、
「検事をやめたら、常識的に弁護士になるほかはないが、それだと五年の検事生活は中途半端じゃないのかな。これが田舎の小さな町で、五年も検事をしていたら、かなりの顔ができるから、三十ちょっとで弁護士を開業しても悠々とやっていけるらしいな。名古屋や神戸あたりでも、そういうことはいえるようだが、東京となるとそんなわけにもいかないよ。それくらいなら、研修所を出て、すぐ弁護士になるほうが、はるかに有利なんだがね」
これも検事なら、誰でも知っているような常識にすぎない。しかし、春海部長には、その常識のほかにはたよるものはなさそうだった。
「それに、君はいま竜田君のお嬢さんと恋愛中だから、思いつめるのも無理はないが……なに、この縁談がだめになったとしても、ほかにいいお嫁さんはいくらでもみつかるよ。実は僕にも一人候補者の心あたりがあって、君に話をしようかと思っているうちに、君からこの婚約の話をきいて、苦笑いしたくらいなのさ。でも、そのほかにも、いろいろと心あたりはあるからね。なにも女一人のために、せっかくの出世街道を踏みはずすことはないと思うな」
春海検事は、もう問題はこれで終わったというような顔をしていた。しかし、三郎にとっては、こんな言葉は少しも解決にならなかった。こういうことは十分以上、考えたうえでの決心だった。
「部長さん、お話はよくわかりました。しかし僕の決心は変わりません。この辞表は、やはり受け取っていただきます」
「どうしてなんだ?」
春海検事の両眼は眼鏡の下できらりと光った。手に持った煙草がかすかに震えていた。
「僕には、あの人以外の女性と結婚することが考えられないからなのです。あの人が、もし自分になんの責任もない、父親の罪のことで苦しむのなら、僕もいっしょに苦しもうというのがいまの決心です。僕は、検事として、ほかの人間といっしょに、石を投げるほうにまわりたくはありません」
「しかし、万一――万一だよ。竜田君が、かりに犯人だとして、逮捕され、裁判にかけられることがあっても、君の部で審理ということになることはなかろう。君自身が、公判廷で重刑を求刑しなければならなくなるというような場面は、絶対に考えられないが」
「そのくらいのことは僕にもわかります。ただ検事一体という考えがある以上、かりにほかの検事さんが、死刑を求刑したとしても、僕は自分の口でそういう求刑をしたような気持になるでしょう。僕にはそういうことはとうてい耐えられません」
「まあ、いまからそこまで予断するのはちょっと早まりすぎると思うが……」
春海検事にも初めて三郎の真剣な態度がわかりはじめたようだった。顔には狼狽《ろうばい》の表情が濃くなり、言葉はその反対に慎重の度合いを増した。
「とにかく、ことは重大だ。僕にあと二、三日考えさせてくれないか。それでも君の決心が変わらないなら、検事正にも相談するが」
「あと何日考えたところで、僕の決心は変わりますまい。ただ一つの場合以外には……」
「その場合というと?」
「竜田さんの他殺死体が発見されて、あの人が犯人ではなく、犠牲者の一人だと、万人が認めるような場合です……検事が両親のない娘と結婚したところで、誰にも責められることはありますまい。かりに、その父親が非業の最期を遂げたとしても……ただ、警察がこういう強硬手段をとっている以上、こういう誰にも思いつくようなケースは、この場合、考えられないんじゃないかと思うのです」
春海検事は溜息《ためいき》をついて眼をとじた。
「まあ、僕にもよく考えさせてくれたまえ」
その言葉はなんとなく苦しそうだった。
「お願いします。それから、これは申しあげるまでもないことですが、これが正式に受理されるまでは、僕は検事としての職責を十分に果たします。事務引継ぎのほうは、いつでもできるように準備しておきます」
三郎はていねいに頭を下げて部屋を出た。
こうして正式に、自分の決心は表明したものの、春海部長の性格からいって、この辞表は二、三日、自分の手もとに温めておくだろう。検事正に相談ということになるのはそれからだろうが、それはやむをえないことだと三郎は覚悟していた。
だから、その日の午後四時に、部長室へ呼ばれたときには、三郎もほかの仕事のうえの話だとばかり思いこんでいた。春海検事がまた人を遠ざけて、この問題のことに触れてきたときには、逆にびっくりしたくらいだった。
「実はあれからほかの用事で検事正のところへ行ったら、むこうから君のことを持ち出されてね。しかたがないから、君の辞表のことを話してしまったんだ。だから、僕個人としては、十分この問題を考えるひまはなかったんだが、その点はどうか許してくれたまえ」
「べつに、そう断わられなくとも結構ですが、それで森さんはなんと言っておられたのですか?」
検事正として東京地検を統率する森|正行《まさゆき》検事といえば、やはり検察畑では屈指の人材だという評判だった。頭は剃刀《かみそり》のように切れ、しかもその切味を表面に出さないような大人《たいじん》の風格もそなえている。政治的な手腕も抜群だし、視野も検察官僚としては、珍しいくらい広い人物だった。
三郎は直接口をきいたことは少なかったが、仲人の下話さえ始まっていたくらいだから、むこうのほうでも、今度の事件が始まってから、彼の動向に注目していたというのは、とうぜん考えられることだった。
「それが……これから話すことは、極秘の中にも極秘を要する話だ。だから、君の決心がつくまでは、たとえ検事同士でも、このことは話さず、もしも断わるようならば、最初から話はなかったものとして忘れてもらいたい。こういう約束ができるかね?」
「はい、お約束いたしましょう」
春海部長の顔色から見ても、検事正から伝えられた話が重大でしかも深刻な内容を持っていることは想像できた。三郎も全身をこわばらせて、部長の次の言葉を待った。
「検事正はね、君に刑事部の本部係へ移る意向はないか、確かめてくれと言ったのだよ」
三郎も、そのときはあっと叫んだ。森検事正の頭の切味は知っていたが、この問題に、即刻こういう解決が与えられようとは、さすがに想像もしていなかったのだ。
「なんといっても、利根君はいま遊走腎《ゆうそうじん》というような妙な病気にとりつかれているだろう。なんでも、腎臓があちらこちら動きまわるというふしぎな症状らしいね。できるなら、もっと楽なポストについて、手術したいと言っているようだが、それも一日二日を争うような状態ではないらしい。だから、検事正としては、ここで誰か一人を応援に出し、少しずつ仕事を肩がわりさせたうえで、利根君に休養をとらせようという意向があったらしいな。まあ、本部事件を四つも受けもつとなれば、一人の検事にはかなりの重労働だし、それにそういう病身でまた新しく五番目の事件が発生したとなれば、誰でもこの処置は当然と認めるだろうがね」
謎をかけられているような、まわりくどい表現だったが、三郎にはこの話のねらいはすぐにわかった。
一つの検察庁からほかの検察庁への転任なら、検事正一人の意思だけではどうにもならないが、おなじ東京地検の内部での人事異動、配置がえなら、検事正一人の意思で断行できるのだ。たとえば東京地検の内部で特捜部から公判部へ、公判部から刑事部へというような異動は少しも珍しくはない。
そして、自分がいま刑事部本部係に配置されるなら、今度の事件は、彼自身が職権によって捜査できる。捜査本部からも自由に情報は聞き出せるし、また確固たる方針さえたてば、その方針どおりに捜査を指導することもできるのだ……。
「どうだね。君の性格からいっても、君はもしここで野《や》に下って弁護士になったとしても、今度の事件は頬《ほお》かぶりですますつもりはないだろう。どうせ、自分でこの事件の真相究明にのりだすつもりなら、一介の弁護士としてよりも、検事としてのほうが、はるかに有効適切な活動ができると思わないかね?」
それは言われるまでもないことだった。たしかに、すぐにでも飛びつきたい条件にはちがいなかったが、検事としての感覚では、やはり一つの抵抗があった。
「しかし、部長さん、検事は自分の親類の事件にタッチしてはいけないというのが大原則ですね。僕たちの婚約のことは、検察庁ではかなりの人が知っているわけですし、それでは公私を混同するということにはならないでしょうか?」
「幸い、婚約というものは、法律のうえではまだ正式な関係とは認められない。君と竜田一家とは、まだ親類でもなんでもないわけだ。それでもまだ、公私の別を混同するというような非難があったなら、検事正は全責任を持つと言いきったんだよ。たしかに非常の手段だが……検事正に言わせると、たとえば詐欺というような微妙な小さな犯罪ならともかく、これほどはっきりした大事件では、誰が担当したとしても、私情をはさむ余地などありはしないというのだ。もし犯人にぶつかったときには即刻逮捕の手続きをとるか、それとも情理をつくして、自首するようにすすめるか、その違いぐらいだろうと言っていた。そして、霧島君だったら、いよいよという場合に、検事として、人間としての本筋を踏みあやまる恐れはなかろうとも言っていたよ」
三郎は黙って頭をたれた。検事一体という制度は、一つの一家意識のようなものとして、ともすれば非難の的になっている。しかし今度の場合には、それが自分にとって親心とでも呼びたいような、ありがたい現われ方をしたと思わずにはおられなかった。
「それからこれは、検事正の話に、僕個人の意見もはいるんだが……君のような若手の有能な検事をこのまま見殺しにするのはもったいないと思うんだ。検事正が利根君から聞いた話では、麻薬がからんでいるだけに、事件もだいぶ長期化するような予想だというし、君がさっき言っていたように、竜田弁護士がどこかほかの場所で、真犯人のために殺されてしまったという公算も絶無じゃないと言うんだよ。とにかく、君が自分の進退について考えるのは、この捜査が一段落してからでもいいんじゃないのかな。場合によっては、辞表を提出する必要がなくなるばかりじゃなく、弔い合戦をつとめるというようなことになるかもしれないよ」
たしかに逆手には違いない。しかし、こうして理づめに話をすすめてくる春海部長の口ぶりには、さっきとは人が変わったような説得力があった。三郎も腹をきめずにはおられなかった。
「わかりました。それではおっしゃるとおりにさせていただきます」
「そうか、承知してくれるかね。森さんもさぞ喜ぶだろう」
春海検事は安心したように溜息をついた。そして一瞬、間を置いて、
「ただ、これには二つの条件がある。第一はどんな事態になっても途中で投げ出さないでほしいということだ。たとえ最悪の事態となっても、この辞表は事件が全部かたづくまでは保留だよ。いいね?」
「わかりました。最後まで頑張りとおします」
「それから、第二の条件だが、この事件が解決するまでは……少なくとも、竜田弁護士の無実が証明されるまでは、君のフィアンセ、恭子さんとは、二人きりで会ってはいけないよ」
「部長、それは、それだけは……」
「君たちの気持はわからないことはない。しかし現在、恭子さんは重大容疑者の娘ということになっている。そういう立場を忘れたように、担当検事がデイトを続けた日には、それこそ公私の別は完全に乱れてしまうだろう。検事正も、もしそのような場面が発生したら、そのときは即刻辞表を受理すると言っているんだよ」
たしかに、特権には犠牲が伴うものだ。検事正がこれほど異例の処置を講じてくれる以上、自分たちもこのくらいのことは忍ばなければと思いながら、すぐには答えられなかった。
「ただ、森さんはこういうことを言っていたよ。場合によっては、恭子さんを参考人として取り調べなければいけないような事態も起こるだろうとね。そのときは、捜査本部なり検察庁なりへ相手を呼び出し、検察事務官立会いのうえで尋問を続けることはいっこうにかまわないとね。検事正がこれほど酸いも甘いもかみわけた苦労人だとは、僕も思わなかったが……」
たしかにこれも、微妙な親心に似た配慮なのだ。ここまできて、第三者をたえず間に置かなければ顔も見られないというのは辛《つら》かったが、恭子にしても、自分がこの事件の捜査を担当することになれば、このくらいの辛抱はしてくれるだろうという自信は持てた。そして三郎はいまの話があってから、検事として自分でこの事件を解決したいという激しい意欲にかられたのだ。
「それで、電話はかまわないのですか?」
「君たちが、はっきり秘密を守ると誓約できれば……君が赤電話から恋人を呼び出そうが、君の恋人が赤電話から君を呼び出そうが、そんなことは、問題にはなるまいね」
春海検事はかすかな笑いを浮かべて言った。
第七章 待て、そして……
公判部長室を出ると、三郎はすぐエレベーターで一階におり、日比谷公園まで急いで、そこの赤電話を使って恭子を呼び出した。
「あなた?」
恭子の声の調子は、きのうまでとはすっかり変わってしまっていた。わずか一言の呼びかけにも、悲痛な感じの中に、激しい慕情と信頼感がこもっているようだった。
「辞表を出したよ、けさ。ところが、妙なことになってね。検事正からの意向で、逆に刑事部本部係へ転属の話が出てきたんだ。つまり、利根さんを手伝って、捜査本部の事件を扱っては、ということになったんだよ。この話を引き受ければ、今度の事件は、正式に僕が自分で捜査できる。だから、辞表はいちおう撤回することにしたんだ」
「まあ……」
恭子も思いがけないことの動きに、驚き、そして呆然《ぼうぜん》としてしまったのだろう。無限の感情をこめた一言を吐き出したきり、大きくあえぎつづけていた。
三郎は、あの第二の条件だけを残して、春海部長の話の内容をできるだけくわしく話して聞かせると、
「きのうのきょうで、百八十度の転換だから、食言だと言われてもしかたはないけれどもね。僕は検事正が、これだけの親心を発揮してくれるとは思っていなかったんだよ。ひょっとしたら、春海さんの言うように、弔い合戦になるかもしれない。最悪の場合が起こっても、自分で全部のデータをつかんでいたら、いまみたいに、置きざりにされて心配しているよりも、気持が割り切れるだけ、かえって楽じゃないのかな。君だって、僕がこの話を喜んで受けた気持はわかってくれるだろう?」
「ええ……あなたのきのうの決心は、私にはたいへんうれしかったけれど……やっぱり涙が出ていたのよ。あなたが、そういう方向に進んでくださるなら、私にはもうなんにも言うことなんかないわ」
恭子はこみあげてくるすすり泣きを必死におさえているような声で、
「でも、電話じゃこんな微妙なお話は、これ以上できないわね。お会いしたいわ。ゆっくりと……あなたのお顔を見ながら、もっとくわしいお話がうかがいたいのよ」
すべてを許した直後の女性にしてみれば、それは当然の感情にちがいない。そう思いながらも、三郎は心を鬼にするしかなかった。
「それがどうしてもだめなんだ」
「お仕事がお忙しいの? そうね、公判部から刑事部へお移りになるとしたら、事務ひきつぎだのなんだの、いろいろお仕事もおありでしょうね。でも、きょうは短い時間でもいいのよ。三十分、二十分、いいえ、十分でも、私はどこへでも出ていくわ」
「仕事のほうは、なんとでも都合はつけられるけれども、君とは当分、会えないんだ。今度の異動の話には、そのことが一つの条件になっているんだよ」
「どうして?」
恭子の声は、とたんに震えた。三郎も血の涙を飲むような思いで、最後の条件をくりかえした。
「検事には、公私の別をはっきりさせることが何より大事だけれども、今度の場合はとくにそうなんだ。僕だって、君に会いたいのは山々だけれども、こういう羽目に追いこまれては、そのかんたんな、人間としてはあたりまえなことが許されないんだよ」
「いつまで? いつまでがまんすればいいのかしら?」
「この事件が解決するまでは、頑張りとおすと僕は誓った。途中でどんな苦しい目にあっても、それまでは辞表を出さないと、君と二人きりで会うのは、それまで待つことになるだろう」
「私、気が狂いそうだわ……」
「無理もない。僕にしたってそうなんだが、幸いに検事正はいい逃げ道を教えてくれた。どうしてもがまんができなくなったなら、君を参考人として、検察庁へ呼び出すよ。事務官をまん中において、形式ばった尋問調で話をするのはいやだけれども、それもこのさいしかたがない……」
「検察庁で会いましょう――この間の冗談がとうとう本当になってしまったのね」
「うむ……僕もまさか、こんなことになるとは思わなかったが……それに、電話はいいと言うんだ。しきりに赤電話とくりかえしたところをみると、お互いに連絡をとっていることは、ほかの人間には知られてはいけない、という謎《なぞ》だと思う。それに、僕はたったいま話を聞いてきたばかりだから、まだいい考えは浮かばないけれども、ほかにも何か逃げ道はあるんじゃないかと思うよ。ただ表むき、しばらくは、他人で通さなくちゃいけないということだけは確かだね」
「わかったわ。私にとって、死ぬほどつらいことだけれども、なんとか、なんとか、がまんしぬくわ」
恭子も、やっといまのショックから立ちなおりかけたようだった。
「頼んだよ。僕たちの一時代前には、戦争のために、結婚式も形ばかりで、何年もひきはなされていた夫婦も少なくなかったようだ。かりに、二十年早く生まれて、僕が戦争に行くようなことがあったら、やはり今度みたいな気持だったろう。そう思って、もう少しがまんしてくれないか。なに、戦争中とは違ってお互いに、命の心配はないんだからね」
「ええ……あなたがいちばんいいとお考えなら、私は黙ってそのとおりにします。でも、もう一度だけ、あなたが正式に刑事部へ転任なさる前に、もう一度だけでも、お会いできないかしら?」
「それが未練というものだよ……僕の現在の気持では、そんなことをした日には、一度が二度、二度が三度となって来るだろう……それではなんにもならないんだ。ここはがまんしよう。お互いに……『モンテ・クリスト伯』の最後の一行に、
『待て、そして希望せよ』
という言葉がある。僕たちは、いまその言葉を守りつづけるしか道はないんだよ」
「待て、そして……」
言葉の残りは涙に消えた。
重い足どりで、霧島三郎は検察庁の公判部の部屋へもどってきたが、留守の間に、利根検事のほうから連絡があったということだった。自分がこの話を受諾した直後には、とうぜん利根検事のほうにも、内々その話が伝えられたのだろう。そう思いながら、三郎は二度と訪ねまいと決心していた利根検事の個室を訪ねていった。
利根健策はいかにも苦しそうな顔をして、黄色い散薬を飲んでいるところだった。
「お体のほうはどうなのですか?」
立ったまま、三郎がたずねると、健策は寂しそうに笑って、
「万年胃下垂だと思っていたんだが、最近はあまりぐあいが悪いんで、精密検査をしてもらったんだよ。そうしたら遊走腎だと言われてね。僕も来年は本厄だろう。このままほっておいて、これ以上悪くなってはいけないと思って手術する決心をきめたんだよ」
「たいへんですね。大手術なんですか?」
「医学的にはたいしたことはないらしいね。なんでも、ぶらぶらしている腎臓を、豚の腸から作った糸で肋骨《ろつこつ》に結びつけて、動かなくするだけらしいが、切られる身になってみれば、やっぱり溜息が出るさ」
利根検事は苦笑いしながら椅子《いす》を指さして、
「まあ、かけたまえ。いま部長から話があったんだけれども、君は今度、ここへ来てくれることになったようだね」
「はい、さっき内命がありました。よろしくお願いいたします」
「助かったよ。僕は強気のほうだけれども、体がこんな調子だから、いまにも倒れそうだったんだ。君みたいな若手のばりばりに手伝ってもらえれば大助かりだ」
その言葉に嘘はなさそうだった。しかし、利根検事はやはりそばにいる事務官のことを微妙に考慮しているようだった。
「刑事部の仕事は公判部と違って、予定というものが立たないけれども、僕がいままで手がけていた四つの事件のうち、一つはきのう犯人がつかまったから、こっちも残務処理みたいな段階になった。あとの一つも、解決は時間の問題というところまで煮つまっているから、いまさら君の力を借りる必要もないと思うな。二つはもう乗りかかった舟で、僕が自分で扱うよ。なに、手術が必要だといっても、一日二日を争うような状態ではないからね。そこで君には、今度起こった本間春江殺害事件からあとの事件を手がけてもらいたいんだよ」
森検事正の決断が親心のようなものなら、利根検事のこういう方針は、兄心のようなものだといえるだろう。短い言葉の中にもできるだけ自分をこの事件に専念させようとする配慮がくみとれるのだった。
「はい、僕はなんでも……おっしゃるとおりにいたします」
「こっちの事件のほうは、僕もぜんぜんといってよいくらい、手を打っていない。それだけに、君も仕事のやりがいがあるんじゃないのかな。まあ、事務ひきつぎや何かの都合で正式にここへ移ってもらうまでには、あと何日かかかるだろうが、事件の大筋のようなものは、なるたけ早く頭に入れておいたほうがいいだろうから、君の都合がつくようなら、帰りに僕といっしょに渋谷署へ寄らないか。捜査本部のほうからいろいろと話を聞いておけば、君が正式にこの事件を手がけるときには、ずいぶん楽だろうと思うがね」
検事一体制の長所がここにも発揮されたようだった。利根検事は、自分の発意というような形で、三郎の内心希望していた線をぐいぐいと推進してくれたのだった。
「お忙しいところをすみませんが、よろしくお願いいたします」
「なに、これも仕事の一つだからね。それからいまさら注意する必要もなかろうが、刑事部の仕事はあんまりむきにならないことだね。検事があまり神経質になると警察官はそっぽを向く。こっちがぜんぜんほったらかしたとしても、かなりのことをやってくれるが、そのかわりときどき暴走する恐れもないではない。そういう手綱さばきの呼吸が検事としてはいちばんの急所なんだがね」
やはり検事生活も十年以上のベテランとなると、実務の経験から来た知恵が集積されて、一つの身についた持ち味というようなものになってくる。先輩の検事たちがそれとなく、おりに触れてもらす言葉が、三郎の胸にこたえたことも少なくはなかったが、このときのこの利根検事の言葉は、これからの自分の大方針を暗示してくれたように、三郎には思われたのだった。
そのとき電話のベルが鳴った。受話器を取り上げた事務官は二人の顔を見ながらちょっとためらっていたが、
「本間事件担当の検事さんにということです」
と断わって、受話器を三郎に渡した。
「もしもし、あなたはどなたですか?」
三郎の問いには答えずに、ちょっとしわがれたような男の声で、
「検事さんですか? 実はおたずね者の竜田弁護士を横浜の黄金町《こがねちよう》で見かけたものですから、ちょっとお知らせしておこうと思いまして……私はむかし、ある事件で、あの人に弁護をたのんだことがあるものですから、顔はよく知っているのです」
と思いがけない訴えだった。
三郎の背筋には悪寒《おかん》が走った。横浜黄金町といえば、東京付近では最大の麻薬街といわれた町だった。それでも何度かの手入れで壊滅的な打撃を受けたため、数年前ほどのことはないらしいが、殺人の現場から発見された麻薬のことを思うと、この電話にも、ただの悪戯《いたずら》だと一笑に付してしまえない恐ろしさが伴っていた。
「それで、なぜ東京の検察庁へ……警察へは知らせたのですか?」
「でも一一〇番へ電話をかけたら、こっちの電話番号もわかるでしょう。それに私は前の事件で、東京地検の検事さんから、ずいぶんかわいがられたものですから、そのお返しをしておこうと思いましてね。あの弁護士ときた日には、金ばかり巻きあげて、ろくな弁護もしてくれなかったものですからね」
歪《ゆが》んだ考えを、皮肉な言葉で表現しているのだが、これは前科のある人間には、よく見られる癖のようなものだった。
三郎が次の言葉を思案しているうちに、電話はがちゃりと切れてしまった。
「なんだったね?」
デスクのむこうでは、利根検事が眼を光らせていた。
「横浜の黄金町で、竜田弁護士を見かけたという男からの密告です。むこうの名前は名のりませんが、前に裁判で弁護を頼んだことがあるので、顔はよく知っているというのです」
「横浜黄金町か……事件が起こると、捜査本部へは悪戯電話がわんさとかかってくる。検察庁までまわってくるのは、まるでそのおこぼれみたいな数だが……しかし、この町の名前は、何かを連想させやしないか」
「僕もそう思っていたところです」
利根検事は、何かを思案しているように、ゆっくり煙草に火をつけ、紫色の煙を一、二服吐き出すと、
「まあ、くわしい事情はこれから捜査本部でむこうからゆっくり聞かせてもらうとして、竜田弁護士が全国指名手配になった最大の原因というのを話しておこうか」
「お願いします」
三郎は膝《ひざ》の上で掌《てのひら》の汗を握りしめた。
「事件が起こったあとで、竜田弁護士の姿を目撃したという人間が、何人か現われてきたのだよ。いまの電話は別としても……このため、彼が真犯人の手にかかって、ほかの場所で殺されたのではないかという仮説はとれなくなったんだよ」
「待て、そして……」
三郎と電話でやりとりした最後の言葉を、恭子はあれから噛《か》みしめるように、何度もくりかえしていた。
待て、そして――しかし、何を希望せよというのだろう? 恭子の心は暗く重かった。
前に恭子はテレビや新聞で、凶悪犯罪をおかして逃走中の犯人の家族の言葉に、溜息《ためいき》をもらしたことがある。
「世間さまへのおわびにも、せめて自殺してくれればよいと思います……」
血を分けた肉親の言葉と思えないほどの悲痛な告白だが、それもいまでは同情を越えた自分自身の実感となったのだった。
いまの自分の偽らない気持を表現したら、
――せめて、真犯人のために殺されてくれていたらと思いますが……。
というようなことにもなりかねない。娘として、父親の非業な最期をのぞむ気持が、心のどこかにひそんでいると思っただけで、恭子は全身鳥肌立った。
やっと正気になった兄は、何人かの人間が事件のあとで父を目撃したのが、この指名手配の理由だと知らせてくれた。誰がいつどこで、ということはわからなかったが、これはとうぜん捜査陣の切札のようなものだったろう。慎一郎はきょうは友人の新聞記者をつかまえて、なんとか様子を探ってみると言って出かけている。事務所のほうからは、若い事務員が来てくれているが、これもおろおろするばかりで、ちっともたよりにはならなかった。
三郎の気持を疑う気にはなれなかった。恭子もいまでは、たとえば重症の病人が、命にかかわるような手術を受けるなら、長年知合いの医者の手で――と望むような心境になっていた。ただ、事件解決の日までは、接吻《せつぷん》どころか、手を握ることさえできないというのが、気持が変になりそうなくらい寂しかった。
これで最悪の事態が発生したら、自分は検事の妻にはなれなくても、弁護士の妻にはなれるかもしれない……しかし、それもいままでとは違って、無数のきびしい難関が横たわっていることは想像できた。
ちょうどそのとき、寺崎義男が訪ねてきたという知らせがあった。
彼は一年ほど前まで、父の事務所で働いていた事務員だった。昼はこうして働いて夜学に通い、司法試験をうけつづけていたのだが、頭は決して悪くないのに、法律が性にあわないのか、失敗の連続だった。そしてとうとう、自分の才能に見切りをつけて、事務所をやめ、東京秘密探偵社という私立探偵のところへ就職したのだった。
そのことを思い出した恭子は、誰にも会いたくない気持を必死におさえて、話をしてみようと思った。
涙にくずれた化粧をどうにか直して、応接間へ出て行くと、寺崎義男は椅子からバネ仕掛けの人形のように立ち上がって頭を下げた。
「どうもこのたびはとんだことで……とりあえずお見舞いに上がりました」
「ありがとう。そう言って訪ねてきてくださったのはあなたが最初よ。まあ、おかけになって……」
「失礼します」
前の椅子に腰をおろした義男の顔を見て、恭子は相かわらず年をとらないなと思った。たしか三郎より一つ年上のはずだが、二十五、六にしか見えない。しかし、そのつやのいい童顔にも、きょうはさすがに同情の色が濃くただよっているように見えた。
「お嬢さんもお変わりなくと申しあげたいところですが……」
「まるで、お化けみたいな顔をしているでしょう? 自分で鏡を見ていても、このあいだ法廷で会った殺人犯人の奥さんの顔に似てきたような気がしてしかたがないの」
「お気持はお察しいたします……ただ、僕には、先生がああいうことをなさったとはどうしても信じられないのです」
「私たちだって信じられないけれども、警察で、これだけの強硬手段をとるところをみると……」
「警察だって必ずしも間違いがないとは言えませんとも。検察官も裁判官も神さまじゃありません。だから冤罪《えんざい》というものが、いつまでも跡をたたないんです。僕は今度の事件にしても、きっと裏に何か大きな秘密があると思います。先生は決して犯罪をおかすような人ではないというのが僕の信念です」
「ありがとう。そう言ってくださる気持だけでも、私はどんなにうれしいか」
「お嬢さん」
寺崎義男の言葉はとたんに熱を帯びた。
「僕にこの事件の究明をさせてくださいませんか。費用はほんの実費ぐらいで結構です。僕は先生にたいへんお世話になりながら、なんのお役にもたてなかったような男です。しかし、いまの会社で一年勉強したおかげで、人の秘密を探り出すことはいくらか得意になってきました。このさい、そうしてご恩返しをさせていただきたいのですが……」
第八章 捜査の第一歩
寺崎義男のこういう言葉を、恭子は最初、ただ呆然《ぼうぜん》として聞いていた。しかし、彼がいったん話を切って、じっと自分の眼を見つめてきたときには、これこそ神さまのお告げのようなものではないかという考えが、心の底から湧《わ》き上がってきた。
「ここでだまっていることはない……」
と誰かがささやきかけているようだった。
父も、前に何かの事件で警察の捜査方針に憤慨し、私立探偵を使って独自の方針で調査を進め、たいへんな成果をあげたこともあったと恭子は聞いていた。
そのときとは事情が違うとしても、こうして父の無実を信じてくれる人間が一人でも現われたということは、恭子にはこのうえなく心強かった。
警察では現在、父が黒だという考えで捜査を進めていることは間違いなかった。ここで三郎が検事として、捜査に関係するようになっても、最初からその大勢を動かすことはできないだろう。
しかし、一つの事実でも、ちょっと角度を変えて観察することによって、ぜんぜん違った見方ができるということは、恭子も弁護士の娘だけに、常識として知りぬいていた。
兄もあのとおりたよりにならないし、三郎のほうもこうして苛酷《かこく》な条件に縛られてしまっては、自分が全力をつくすほかはないと恭子は思った。
三郎はこれから警察当局といっしょに、公式に捜査を進めるわけだし、その内容はおいおいに電話で知らせてもらえるだろう。そのデータを、警察と逆の見方で吟味していけば、何かがつかめるかもしれない。それはまた、三郎に対する一つの支援になるかもしれない。父の弔い合戦になるかもしれない。
そう思うと、絶望に暗くとざされていた心の中にも、一筋の希望の光がひらめき出したようだった。
しかし、その道は父の惨死体を求めることに通じているのではないかと思い返すと、また戦慄《せんりつ》が襲ってきた。心は乱れ、どう答えてよいかもわからなかった。
「お嬢さん、いかがでしょう。これはご無理にはお願いできないのですが……僕としてはたとえ手弁当でも、なんとかお手伝いしたい気持なのです。ただ、その結果がどう出るか、これだけは神さまではありませんから、なんとも予想できませんが……」
「やっていただきましょう。費用のほうはなんとかします」
恭子は思いきって答えた。心の中の迷いはまだ去らなかったが、何か眼に見えない強い力が、自分にこんな言葉を吐かせたように思われてならなかった。
「そうですか?」
寺崎義男の眼はぎらりと光った。童顔に似あわないくらい、冷たく鋭い眼なのだが、それも今度のような場合にはかえってたのもしく感じられた。
「ありがとうございます。心からお礼を申します。これで僕も今までのご恩返しができそうです」
「あなたが頑張ってくださるなら、お礼はこちらから申しあげなければいけないところだわ。でも、あなたはいったい、どんな方針で調査を進めるつもりなの?」
「お嬢さんたちが、この線を調べてほしいというご希望がおありなら、もちろんそのほうの調査はいたします。しかし、僕はいまこんなことも考えています。今度の事件は、突発的に始まったものではなくって、過去の何か、先生が扱われた事件につながっているんじゃないかという気がするんです。それだったなら、僕は四年も、先生の事務所で働いていたんですから、ほかの誰よりもお役にたてるわけでしょう」
「たとえば、どんな事件なの?」
「お嬢さん、正直なところ、僕はいま知合いの新聞記者から聞き出した程度の知識しか持っていません。でも警察のほうには、いろいろと顔もありますから、もう少したてば、個人的に、かなり詳しい情報まで流してもらえるのではないかと思いますが……ただ、現在のところでは、殺された本間春江という女は、素姓もわからないというのでしょう。現場からは、かなりの量の麻薬が発見されたというのでしょう?」
「そうなの……お父さまと麻薬と、どうして結びついたのかしら?」
「先生は僕が働いていた四年間に、麻薬関係の事件を三つ扱われました。もちろん、どんな事件でも、裁判になれば、弁護士がつかなくっちゃなりません。その点はべつになんでもないわけですが、本間春江という女は、そのうちどれかの事件の関係者じゃなかったでしょうか。いやな言い方ですけれども、たとえば刑務所へやられた犯人の情婦とでもいったような女で、先生と裁判中に顔見知りになり、それからあとで、悪縁のような関係が始まったんじゃないでしょうか?」
恭子は思わず身ぶるいした。これはたしかに、一つの仮説としては十分筋が通っていた。父が相手をそんな女と知りながら、腐れ縁のような関係におちいったとは考えたくもなかったが、男女の間のふしぎな結びつきの力を、恭子はいまでは否定もできなくなっていた。
「もちろん、これは僕ひとりの自分勝手な思いつきだと言われればそれまでです。でも、うちへ帰って当時のメモを調べてみたら、何か思いあたることがあるかもしれません。わかったことはすぐお知らせしましょう」
「ありがとう。それももちろんお願いするけれども、ほかに一つ、あなたに調べていただきたいことがあるのよ」
「はい、それはいったいなんでしょう?」
「兄の友だちに須藤俊吉という人がいるの。住所はたしか中野区の大和町《やまとちよう》だと思ったわ。番地や何かはいま調べるけれども、この人が何かの形で今度の事件の秘密を知っていないかどうか、調べようはないかしら?」
「どうしてそんなことをおっしゃるのですか? はっきり名前をあげて、そうおっしゃるところをみると、とうぜん何かの根拠がおありでしょうが」
「これは私のふとした思いつきと言われるかもしれないけれども……」
とことわって、恭子は有楽町での出会いから、日比谷公園での彼の言葉をくりかえして聞かせた。ただ、霧島三郎の名前は出さず、ある人≠ニぼかしたのだった。
「なるほど、この男には何かありそうですな。しかし、こっちが正面切ってたずねたなら、いやがらせのつもりだったと逃げられるでしょうが」
鉛筆と手帳をテーブルの上に置いて、寺崎義男は考えこんだ。そう言われてみると、恭子もだいぶ自信をなくした。やはり、こういう問題は私立探偵には無理な注文ではないか、三郎にいっさいを打ちあけ、検事の立場で捜査を進めてもらうほうがよかったかとも思ったのだった。
霧島三郎は利根検事といっしょに、二台しかない刑事部の自動車の一台で、渋谷署の捜査本部へ着いた。
この事件の担当者は、警視庁の捜査一課から来ている桑原|敏《さとし》という警部だった。利根検事は、三郎にこの警部を引き合わせると、
「桑原君。今度この霧島君が、公判部から刑事部の本部係へ移って来ることになってね。まあ、事務引継ぎや何かの関係で、正式な発令はちょっと遅れるだろうけれども、この事件の概略はいちおうここで頭に入れておいてもらおうと思うんだ。ご苦労だが、君からもう一度事件の内容を説明しておいてくれないか」
と何気ない調子で言った。もちろん、桑原警部のほうは、この話にはなに一つ疑念を抱いていないようだった。
「それはご苦労さまです。この事件だけではなく、これからずっとお世話になると思いますが、よろしくお願いいたします」
と挨拶《あいさつ》して、黒い手帳を広げると、
「事件が起こったのは九月三十日、月曜日の夜、十時前後と推定されます。もっとも死体が発見されたのは、翌日、十月一日の朝になりますが……」
と重い力のある声で、てきぱきと説明を始めた。三郎はノートを前に、一言半句も聞きのがすまいと注意を集中したが、警部の話も最初の部分は、利根検事から聞いていた話とべつに変わったところもなかった。
「それでもちろん、われわれとしては、最初は竜田弁護士に対して、ほとんど疑惑を持っていなかったのです。このマンションと常磐松の本宅では、妾宅《しようたく》として頃あいの距離だなと考えながら、警官の一人をさしむけたのです。女の素姓、交友関係などについて、いちおう話を聞いたうえで、次の方針をたてようという定石を追っただけですが、その警官の話では、彼は前の日から家へ帰っていないというのです。われわれはおやと思いましたが、まだそのときは、ほかにも恋人がいて、そちらへでも泊まっているのではないかと、かんたんに考えていたのです。そこへ麻薬の発見があり、犯行推定時刻の前後に、彼を現場近くで見かけたという聞きこみがあったりしたので、しだいにこれはと思い出したのですよ」
説明はいよいよ本筋にはいりはじめた。三郎は冷たくなりかけたお茶をぐっと一気に飲みほして、警部の次の言葉を待った。
「それから、刑事は日本橋の彼の事務所と、第二弁護士会館へ行ってみました。まず、事務所のほうでは、たいしたこともつかめませんでした。三十日には、午前と午後に裁判があって、事務所のほうへはぜんぜん顔を出していないそうでした。午後三時ごろに一度電話があって、何か連絡がなかったかと問い合わせがあり、きょうは急用があって、ほかへまわるから、時間が来たら帰ってもよいと言っていたそうです。こういうことは、しょっちゅうあるようですから、事務員のほうもべつに不審には思わなかったというのです。声の調子も、べつにふだんと変わりがなかったようだということでした」
「なるほど、それで?」
「ところが、第二弁護士会館のほうでは、たいへんな発見があったのですよ。前日、つまり三十日の午後四時ごろですが、一人の男が彼を訪ねて来たそうです。受付の女の子が、いないと答えると、それではこれを渡してほしいと言って、小さな紙包みを預けていったというのです。ふだんなら、そこまでのことはしないのですが、何しろ麻薬がからんでいる殺人事件の直後だけに、刑事もねばりにねばって、この包みをあけてもらう交渉に成功したのです。ところが、この中には、小さな紙箱がはいっていて、その中から、また、茶色の小瓶が出てきました。殺人現場から発見されたのと同じような瓶なのですが……」
「その瓶の中にも麻薬がはいっていたのですか? それとも……」
「そうなのです。ヘロイン正味五十グラム、前の瓶のほうは約五十グラムといっても、正確には四十七・五グラムでしたが……」
三郎の心にはまた強い衝撃が襲ってきた。第二弁護士会館といえば、検察庁の真横の建物、それこそ石を投げたら届く程度の距離なのだ。その真相はまだはっきりしないといっても、ここでこのような行動が行なわれたとは予想もつかないことだった。
「なるほど、それで翌日の家宅捜索ということになったわけですね」
「そうです。一か所だけならともかく、二つの場所で、竜田弁護士にからんで麻薬が発見されては、われわれとしても、強硬手段をとらざるをえませんでした。もっとも自宅のほうからも、事務所のほうからも、麻薬はぜんぜん発見されませんでしたが」
警部の声には、強い自信がみなぎっていた。生涯の大半を一筋の道にかけきって、このほかに自分の行くべき道はないと思いこんでいる一念から、自然に生まれる感情だろうが、その態度には、三郎もなんとなく気圧《けお》されるような思いだった。
「話はちょっと前にもどりますが、そのとき刑事は電話で本部へこの発見を報告すると同時に、そっちの聞きこみにかかったわけです。ちょうどそのとき、秋山庄治郎という弁護士の先生がおられまして、秘密を守るという条件で話をしてくれたというのです。竜田弁護士とは、あまり仲はよくないというようなことでしたが、それだけにこういうさいには、かえって正確な情報になっているということも考えられます」
この弁護士には、三郎もまだ一度も会ったことがなかった。名前も初めて聞いたのだが、東京のように三つも弁護士会があるところでは、それも珍しくない話だった。
「秋山先生のほうも、竜田君が麻薬の取引に一役買っていたというようなことは考えられないと言うのです。たとえば、いちおうの会社の顧問になると、毎月の謝礼が五万円というのが通り相場のようですが、それを八つぐらい持っているはずだから、弁護士としては悠々やっていけるわけだと言ったそうです。たしかに、それ以外にも、事件があれば別の収入もあるはずですから……しかし、われわれの経験からいっても、人間の欲というものには際限がありませんからね。二課の連中の話を聞いていると、溜息が出ることもよくありますが」
話はちょっと脱線したようだったが、これで桑原警部が秋山弁護士の言葉をほとんど無視していることは、三郎にもよくわかったのだった。
「それから、刑事はいろいろと、竜田の女性関係とか、行きつけの酒場とか料理屋とか、そういう方面の質問にかかったわけです。女性関係のほうは、くわしいことはわかりませんでした。むかしはずいぶんはでな遊びもしていたけれども、最近はおとなしくなったんじゃないかな、という程度の返事だったようですが、深いつきあいがないとすれば、これもやむをえない返事でしょう。それから、行きつけの店のほうも、一度思いがけなく銀座のマドンナ≠ニいうバーで会ったことがあるよ――という程度のことだったようですが、われわれは別の刑事たちに、この店をあたらせてみました。ところが、そちらのほうから、意外な発見があったのです」
桑原警部は大きな角ばった手で、茶碗《ちやわん》を取り上げるとお茶を一気に飲みほして、
「われわれとしては、この店のほうから、殺された女について、何か手がかりのようなものがつかめないだろうか、もちろん、それもむだ骨になるおそれは多分にあるが、というようなかるい気持だったのです。ところが、その店に勤めているホステスの一人、鹿内桂子《しかうちけいこ》という女が、事件発生後まもなく、つまり一日の午前一時ごろ、竜田弁護士に会ったと言いだしたのですよ」
「その店でですか? それとも……」
「ああいう女の中には、商魂がなかなかたくましくって、自分のアパートをホーム・バーのようにしたて、店がはねてから、お客を連れこむ子がずいぶんいるようです。酒だけではなく、その続編まで――というようなことも多いのでしょうが、とにかく鹿内桂子はこういうもぐりバーの経営者で、竜田弁護士のほうは、そこの常連とまではいかなくても、準常連のようなお客だったというのです」
桑原警部は、そこで一息入れ、そばにいた警官に、お茶を入れなおして持って来るように言いつけると、
「それで鹿内桂子は三十日の夜、店へ来ていた三つ輪物産≠ニいう会社のセールスマン、中村伸吾という男と、その取引先の神戸の菊川商事≠ニいう会社の社員、佐藤|猛彦《たけひこ》という男二人を、赤坂にある自分のアパートのホーム・バーへ連れていって、飲んでいたというのです。ところが一時ちょっと前に、竜田弁護士から電話があって、これからそっちへ行ってよいか――と言ってきたというのです」
「それで?」
「男二人は、君の彼氏かね――とからかっていたようですが、それからまもなく竜田弁護士は、真青な顔をしてやって来たそうです。二人のお客は、それと入れ違いに帰っていったわけですが、彼はこうして、この場で三人の人間に目撃されたことになります。犯行推定時刻から、ほぼ三時間後のことです」
「それで、彼はその女に、どんなことを話したのですか?」
「彼女の証言によりますと、竜田はだいぶ飲んでいるような様子なのに、顔はかえって青かったそうです。彼女が何を話しても、ただうんうんとうなずくだけで、スコッチを三杯ぐらい飲んだそうですが、なんとなく、薄気味悪い態度だったということでした。そのうちに、突然顔を上げて、いっしょに一週間ぐらい九州にでも旅行しないかなどと言いだしたらしいのです。罪の意識をのがれようとして、女といっしょに遠くへ飛ぶのは、犯罪者にはざらにある例ですが」
「それで彼女はなんと言ったのですか?」
「現金で百万円を用意したから、大名旅行ができるというような言葉には、だいぶ誘惑されたらしいのですが、なんとなく虫が知らせて断わったというのです。竜田はそれでもしつこいくらい、誘いつづけたということですが、彼女がどうしてもうんと言わないので、二時ちょっと過ぎに、あきらめて出ていったということです。百万円の現金という話も嘘《うそ》ではなかったでしょう。鞄《かばん》の中の札束から、新しい一万円札を抜き出して、それを置いていったというのですから」
桑原警部は、言葉の調子を強めて、言った。
「これで、われわれは、全国指名手配の決意を固めたのです。二人の男のところへは、刑事が飛んでいきましたが、人相|風体《ふうてい》などについての証言は、だいたいにおいて一致しました。二人ともかなり酒がはいっていたことを考えると、細かな点で若干の食い違いがあったことはふしぎでもありません。新聞にこのことが出てからは、それらしい男を見かけたという連絡もずいぶんありましたが、それについては目下検討中です。まだ、これという一本の線はつかめておりません。それから、本間春江については、まだ何も手がかりが見つかりません。解剖の仮報告書はできておりますが……現在の捜査の進行状態はだいたいこんなところです。細部についてのおたずねがあれば、いくらでもご説明はいたしますし、またこれというご指示があれば、できるだけその線にそって努力してみますが……」
「それで、竜田弁護士の三十日の弁護士会館での行動は調べましたか?」
「え、なんですって?」
桑原警部は驚いたように眼を見はった。
「弁護士さんはたいてい、午前と午後に法廷があるときには、昼休みは弁護士会館を足場にするのですよ。食事をしたり、人と会ったり、ほかの弁護士さんと打ち合わせをしたりするものです。彼が三十日の昼、ここで誰に会ったか、それがわかれば、また何か新しい事実がつかめるかもしれませんがね」
三郎としては、どうしても自分が後ろ姿を目撃したあの女にこだわらずにおられなかった。もちろん、こういう一石が、どれだけの効果をあげるかは想像もできなかったが……。
「わかりました。その点には少し手ぬかりがあったかもしれません。さっそく調べさせてみましょう」
警部は顔を伏せながら答えた。
第九章 検察庁で会いましょう
その晩からすぐに、三郎は事務引継ぎの準備にかかった。
検事の事務引継ぎは、書類とメモとを渡し、かんたんに説明を加えればよいのだから、原則として一日ですむのだった。
ことに、今度の場合のように、同じ検察庁内の異動なら、三郎から引継ぎを受ける検事のほうにしても、とりあえず当面の問題について話を聞いておき、自分はつぎつぎに書類を調べていって、それから後の説明を受け、なしくずし的に引き継ぐような便法もある。
しかし、三郎は性格的に物事をきちんと割り切りたいほうだった。翌日、土曜日には、捜査部の中井数一検事が、彼の後任として公判部へ移ることに話がきまった。三郎は中井検事と相談して、引継ぎを月曜日に決めた。
土曜日曜で完全に前の仕事の整理を終わり、後顧の憂いなく、新しい仕事に専念したかったからである。
この二日のあいだには、この事件もぜんぜんなんの進展も見せないようだった。容疑者はほかに考えられないとしても、警察側には、本間春江の素姓をつっこみ、そこから麻薬の線を洗い出そうとする地味でやっかいな仕事が続いていたのだった。
月曜から、三郎は三階に個室を与えられた。秘書役をつとめる検察事務官も、北原大八という四十五の男にかわった。
この事務官の第一印象は、三郎にもあまり好ましいものではなかった。酒好きらしい赤ら顔で、無表情なうちにも一癖ありげな感じだった。年をとった事務官は、若い検事に小姑《こじゆうと》みたいな態度を示すことがあるものだし、これではあとがどうなることかと思ったが、その点は時間をかけて解決するしかなかった。
幸い、月曜の午前の法廷は、判決の言い渡しが何件かあるだけだった。これなら検事はただ黙ってすわっていればよいのだから、今までの審理の状況をぜんぜん知らない中井検事でも十分に役目は果たせるわけだった。
法廷が終わると、中井検事は三郎の部屋へやって来て、引継ぎの仕事を始めた。そして、十一時二十分には恭子から電話がかかってきたのだった。
「検事さん、竜田さんとおっしゃるおかたからお電話です」
と言って、北原大八から受話器を渡されたときには、三郎も内心ぎくりとした。
「はい、霧島ですが、どういうご用件でしょうか?」
この事務官と前にすわっている中井検事の手前、なるたけ声の調子を落としてたずねると、恭子はすぐに事情を察したらしく、
「私は、弁護士の竜田慎作の娘で竜田恭子と申します。今度の事件、本間春江殺害のことにつきまして、新しい重大な事実がわかりましたので、お知らせにまいりたいのでございますが、時間のご都合はいかがでございましょうか」
と悲痛な調子の中にも、いくらか力の感じられる声で言った。
「そうですね……」
三郎も、一瞬返事をためらっていた。
自分が正式にきょうからこちらへ移るということは、土曜に電話で話してある。恭子もそのとき、寺崎義男のことを打ちあけ、彼の申し出に従って調査を依頼したと言ったのだが、三郎はその結果をたいしてあてにしていなかった。
本間春江という女が、竜田弁護士の前に扱った、麻薬事件の関係者の中にひそんでいるという可能性は、たしかに絶無とは言いきれない。しかし、寺崎義男はまだ死体の写真も見ていないだろうし、生前の本間春江には会っているかどうかもわからない。それで、この女だ、という線が出せるなら、奇跡と呼びたいような出来事だろう。そして、それ以上のことが、かけ出しのような私立探偵にできるとは三郎も考えてはいなかった。
「僕はきょうは、事務引継ぎや何かで、たいへん忙しいのですが、火急を要するご用件でしょうか?」
中井検事が妙な顔で自分を見つめているのが気になったので、三郎は間を置くためにこうたずねてみた。
「はい、このことは一時間でも早く、お知らせしておきたいのでございます」
「わかりました。それでは三時にこちらで、検察庁の刑事部の本部係でお待ちします」
「はい、それではかならずうかがいます」
安心したように言いきって、恭子は電話を切った。
「参考人が自分から、検察庁へ出頭してくるのかね?」
中井検事は研修所も三郎の三年前に出ている。だから気がるに、事情も知らずこんなことを言いだしたのだろうが、この言葉もまた三郎にとってはかなりのショックだった。
「そうです。捜査本部へ出頭したほうがいいだろうと思うんですが、女というものは、思いつめると、前後もわからなくなりますからね」
煙草に火をつけながら、三郎はこう答えたが、心の不安は増していた。
自分にしたところで、恭子に会いたい気持はまるで火のようだった。ただ、彼は検事としての義務意識で、それを仕事に没頭することによって、どうにかまぎれさせていたのだ。しかし、恭子は女だけに、もうたまらなくなったのかもしれない。そして、何度も使ってはならない約束のこの機会を、すぐに利用してきたのかもしれない。
「検察庁で会いましょう……」
先輩のどら声の替歌が、耳にひびいてくるようだった。有楽町での楽しかったデイトから、まだ一週間しかたっていないのに、この間にはあまりにもことが多すぎた……。
「さあ、霧島君、早く仕事をかたづけよう」
中井検事に催促されて、われに返った三郎は、書類を広げなおし、説明を続けていった。
この引継ぎの仕事は、午後まで続いた。
二時四十五分には、廊下の受付のほうから、竜田恭子がやって来たという知らせがあった。
「待合室で待つように言ってください」
と言って、三郎は仕事を続けたが、瞼《まぶた》にはこの階にある殺風景な待合室の光景が浮かんで去らなかった。もちろんここで刑事部の検事たちに会う番を待っている人々は、犯罪者の関係者ばかりとはかぎらない。しかし、現在の恭子には、この部屋の自分の周囲のすべての人がそのように見えているだろう。勝気で誇りの高かった恭子には、いま耐えがたいような屈辱感が胸に渦まいているだろう。
そこまでは想像できるのだが、いまの三郎にはどのような特別な処置も許されなかった。三時ちょっと過ぎ、中井検事がいちおうの引継ぎを終わって出ていくと、三郎はやっと腹をきめ、恭子を呼び入れた。
部屋へはいってきた恭子は、さすがに顔色も悪かった。泣き濡《ぬ》れたような両眼が、わずか一瞬だけ、燃えるような光をはなったが、その視線もたちまち下へ落ちていった。
「竜田恭子でございます」
「霧島です。まあ、おかけなさい」
検察事務官の手前をつくろう会話がすむと、恭子は三郎の前の椅子《いす》に腰をかけ、熱っぽい両眼でそっと下から彼の顔を見上げてきた。
「あの……本間春江という女の人が殺された事件のことでございますが……父は、その重大容疑者となっているようでございますね……私は、父が無実だとまだ信じておるのでございますが……」
「ご家族としてのお気持はお察しいたしますが、警察では堅い信念に基づいて、全国指名手配という強硬手段をとったようですから。僕のほうは、正式にきょうからこちらへ移ってきたばかりで、詳しい事件の内容は、ほとんど知っていないのです」
と言いながら、三郎は横目で北原大八のほうを見たが、彼は、手持ちぶさたという様子で、メモ用紙に何かいたずら書きをしていた。
「それで、本間春江という人の素姓については、ほとんど、何もおわかりになっておらないというのはほんとうでしょうか?」
「ほんとうです」
「それがわかったのでございます。少なくとも、本間春江という名前のおかたが……この人が殺された女だと決めるのは、まだ早計かもしれませんが……」
「それはどうしてわかったのですか?」
「一年ほど前まで、うちの事務所に勤めておられた寺崎義男さんというおかたが、たずねてこられまして……その女の名前には覚えがある、と言われたのです。それから、いろいろと調べましたら、昭和三十六年の秋に起こった麻薬事件の関係者に、そんな名前の人がいたということがわかってきたのです。つまり、そのときの主犯は浅川清吉というやくざで、五年の言い渡しを受け、いま刑務所へ行っているようですけれども、そのときに彼のために弁護を頼んだのが、この名前の女だということがわかったのです」
「なるほど、そういうことがあったのですか」
と答えながら、三郎はとっさに次の方針について、頭をすばやく回転させた。
こうなってくると、結果論だが、寺崎義男の考えも正しかったということになってくる。おそらく、この女は主犯の情婦といったような関係だったのだろう。それも事件に関係し、麻薬を少しでも扱っておれば、自分も刑務所へ行くはずだから、そちらの深い事情は知らなかったのだろう。しかし、それだけの深い仲だとすれば、前の事件では、少なくとも参考人として、二度や三度は警察の取調べも受けているだろう。それならば、そちらの事件記録を警察に調べさせれば、本籍とか当時の住所などもわかるだろう。その時点から出発して、専門的な捜査を進めさせれば、女の過去にまつわる謎《なぞ》も解け、現場や弁護士会の受付から発見された麻薬の出所についても、何かの手がかりがつかめるかもしれない。もちろん、結審になっていれば、そのときの裁判記録も保存されているはずだが、いまさら自分がそれをあらためるよりは、警察に捜査を任せたほうがよいと、三郎は一瞬に決心を固めたのだった。
「その女はそのころ、新宿のラムール≠ニいうバーの雇われマダムだったと申します。寺崎さんも、父の留守のとき、事務所で、二、三度、話をしたことを思い出したそうです。ですから、自分で被害者の写真を見たら、その女かどうかは、たいていわかるだろうと言っていました」
「なるほど、それでその寺崎さんというおかたが、あなたのところへ来られたのはいつのことでした?」
「最初は金曜のことでございました。いまのお話は、さっき電話で聞いたのですが」
「あなたは最初、その女の名前を話したのでしょう。そのとき、彼は女のことを思い出せなかったのですか」
「当時のメモはほかの物といっしょに、高崎の実家のほうに預けてあったらしいのです。それで、翌日それをとりに帰って、やっと思い出したということでした」
「それではひとつ、寺崎さんに捜査本部へ出頭するようご伝言ねがえませんか。僕からも、渋谷署へ連絡はとっておきます。女の過去がはっきりしてくれば、たしかに今度の事件にも、新しい光が浴びせられるかもしれません」
「それではすぐに連絡をとりましょう。それからいま一つ、お知らせしたいことがありますが……こういう事件が起こりそうだということを、事前に知っていた人は、検事さんがごらんになったら、何かあやしいとお考えになるんじゃないでしょうか?」
「誰です。それは?」
「兄の友人で須藤俊吉という人です。先週の月曜のお昼に、私がある所で、お食事をしていたとき、偶然出会ったのですが、そのあとで私を追いかけてきて、さんざんいやがらせを言ったのです。たとえば、私はあるおかたと縁談がまとまっておりますけれども、それもまもなく、破談になるにちがいないというようなことで、私をいじめたのです」
「一種の偏執狂というような男ではないでしょうか。かりに、そういうことがあったとしても、彼がこの殺人の起こることを事前に予測していたとは言えないでしょう」
「ところが、それがおかしいのです。昨夜、兄と話しているあいだに、この人の名前が出ましたけれども、兄は酔っていたせいか、
『ああいう麻薬中毒患者じゃ……』
とふっと漏らしたのです。ひょっとしたら、この男は麻薬のことで、本間春江とも何かのつながりがあったんじゃないでしょうか」
「さあ……」
三郎にもこれは初耳の話だった。
全国の麻薬中毒患者は、ほぼ三万名にのぼるだろうと言われているが、この数字が正確なものとは誰にも言えないのだ。須藤俊吉という男は、金持の道楽息子だということだから、放縦な生活の末に麻薬の味をおぼえ、そのままずるずると泥沼のような深みへ落ちこんでいったということも考えられる。しかし麻薬の流れるルートは、素人の考えるように数の少ないものではない……。
「検事さん」
突然、そばの北原大八が顔を上げた。
「なんだね?」
「私、ちょっとおなかが痛いものですから、トイレへ行ってまいります。しばらく、中座させてください」
三郎がなんとも答えないうちに、北原事務官は立ち上がった。そして、両手でおなかをかかえるようにして部屋を出ていった。
「あなた……」
「恭子……」
突然、思いがけなく二人きりでとりのこされたために、三郎は一瞬|呆然《ぼうぜん》としたが、とたんに恭子は眼を燃えあがらせ、デスクの上に手を伸ばし、三郎の手を求めてきた。
「いけない、ここでは」
「でも、あの人は、私たちの仲を見ぬいたんじゃないかしら? それで、気をきかして、席をはずしてくれたんじゃないかしら?」
「ここでそんなことを考えてはいけないんだ」
三郎は心を鬼にして腕を組んだ。恭子は血を吐くような溜息《ためいき》とともに手を引いて、
「お会いしたかったの……でも、あの待合室では、泣けてしかたがなかったわ」
「でもいまの僕たちの立場では、こうするしかほかにしようがないんだ。僕も辛《つら》いが、これからは、こちらが呼び出したときにだけ、来てくれたまえ……あと、しばらくは、戦いぬくしか方法がない……」
「私も一人で戦うのね……でも、いまの情報は、いくらかお役にたったでしょう」
「寺崎義男の話はたしかにそうだ。しかし、須藤俊吉というとあの男だろう? 彼が君にプロポーズしたというのも、そんないやがらせをやったということも知らなかったが、そっちの線はあんまり望みがないと思うな」
「でも、兄やあの人は、ラムール≠ノは、ときどき行っているらしいのよ。いまでは代も変わっているかしれないけれど、もし本間春江が、そこの雇われマダムだったとしたら、何か関係もあるんじゃないかしら?」
「うむ……」
最近は取締まりの強化につれて、麻薬の取引もしだいに巧妙になってきている。麻薬街と言われるような街へ行けば、白昼でも半ば公然と薬が手にはいると言われたのも、いまではむかし話にすぎない。一人の売人《ばいにん》が何人かのきまった患者をお客に持ち、電話で注文を受けて配達するとか、特定のバーや喫茶店で、取引が行なわれるとかいうことも、三郎は麻薬事件の書類を読んで知っていた。たしかに、このラムール≠ニいうバーも、その中の一軒でないとは言いきれなかった。
「ねえ、これを持ってらしって」
事務官がずっといのこっていたら、どんな方法で渡すつもりだったかしれないが、恭子はハンドバッグの中から、白い角封筒を出してデスクの上に置いた。
「これは?」
「お金……いま私の貯金をおろしてきたの。ここには十万円はいっているわ」
「そんなものはもらえない……」
「私はあなたの奥さんでしょう」
思いつめたような鋭い声で恭子は言った。この声が廊下に漏れはしなかったかと、三郎は一瞬はっとしたくらいだった。三郎の顔色の変化に気がついたらしく、恭子も声の調子を落として、
「パパは、私の結婚のときに、なんでも好きなものを買うようにって、私の名義で五十万円の定期をしてくれていたのよ。ちょうど書きかえの期限が来ていたし、このさいは、これを全部捨ててもいいと思ったの」
「…………」
「あなたにしたって、たとえばそのラムール≠ニいうバーを調べたり、マドンナ≠フほうへお客として行ったら、何かつかめそうだとお考えになることがあるんじゃないかしら……でもそんな費用は、検察庁からは出ないでしょう。といって、あなたのサラリーでは……あなたが、そんな方面に使ってくださるとしたなら、このお金も生きてくるのよ。私がいまさら洋服や着物をふやすより……ねえ、これは私からお願いしているのよ」
このわずか一週間のあいだに、恭子は眼を見はりたくなるほど変わっていた。あれだけのショックに襲われたのだから、三郎もへたをしたら体をこわして倒れはしないか、まさか発狂することはあるまいが――とまで心配したくらいだったが、きょうの恭子は、その打撃をどうやらしのぎきって、自分の足で立ち上がろうとしているように思われたのだった。
「ねえ、それを早くおしまいになって。事務官のかたが帰ってきたら、妙な弁解をしなければならなくなるわ」
「それではいちおう預かっておくよ」
三郎は恭子の眼を見つめながら、この封筒をポケットにおさめた。
「ありがとう……あなたが全力をつくしてくださるなら、私も思いのこすことはないわ」
恭子はまた眼を落として、ひとりごとのようにつぶやいていた。
そのとき、ドアが大きく開いて、北原大八がもどってきた。便所にしては、ちょっと時間がはんぱなような感じだったが、そんなことを言ってもおられなかった。
「検事さん、どうも失礼しました」
と言って、自分の椅子にもどると、大八は居眠りを始めるように眼を閉じた。
「あなたのおっしゃることはよくわかりました。あとでいちおう捜査本部へも連絡をとっておきます。ほかには何か、お話しなさりたいことはありませんか」
いかに検事が、自分の態度を急変させることになれているといっても、わずかの間に、検事と恋人の早がわりをつとめることは、三郎にも辛い試練だった。
「さようでございますわね……」
恭子も必死に息をあわせようとしているのか、肩をかすかに震わせながら、
「父とは兄弟のようにしておられる早瀬昇さんというおかたが……いまは九州に行っておられますが、このおかたにおたずねになりましたら、父の秘密もある程度わかるかもしれません」
第十章 検事と私立探偵
検察庁からの車の中でも、家へ帰ってきてからも、恭子は涙が出て来てたまらなかった。たとえ十分でも、二十分でも、三郎の顔を見て、直接声を聞きさえすれば、胸のかわきも癒《い》えるかと思っていたのに、これでは逆に、砂漠の中の旅人が、わずか杯一杯の水を与えられたようなものだった。
それでも、六時半ごろになって、寺崎義男が現われたときには、いくらか救われたような気持になった。こういうことを求めては、すぐ幻滅に追いこまれるかもしれないと思いながら、この男が何か新しい手がかりを持ってきたかもしれないという希望も、心に湧《わ》いたのだった。
応接間へはいると、寺崎義男はすぐ立ち上がって、ていねいに頭を下げた。
「いま捜査本部へ出頭して帰ってきたところです。お嬢さんがご心配なさっているだろうと思いましたので、いちおうご報告に上がりました」
「ご苦労さま。それで様子はどうでしたの」
「それが……失礼いたします」
義男は椅子に腰をおろし、手帳をひろげ、
「死体の写真というものは、生きているときにはどんな美人だったとしても、見て気持のいいものではありませんね……もちろん覚悟はしていましたが、まだ吐き気が来るような気持です」
「辛いことをお願いしてすみませんでしたが、やはりそのおかたは?」
「たしかにそうだと思います。なにしろ、だいぶ前のことで、それも事務所でちらちらと顔を見た程度の記憶ですから、絶対にとまでは言えませんが……」
「そうですの? それで、警察のほうではどういうことを……」
「ちょうど検察庁のほうからも、そういう通知があったところだが、僕の確認があったので、自信が強まったというのです。さっそく本庁のほうに保存されてある前の事件の記録を調べにかかるから、この女の素姓についてもまもなく、ある程度のことはつかめるだろうと、たいへん喜んでいましたが……」
「そうですの?」
自分にも声が空《うつ》ろなことはわかった。犯罪捜査という面だけに限定したならば、大きく一歩を踏み出したようなこの発見も、ある意味では、自分で自分の首を絞めているようなものとも思われるのだった。
「警察のほうでは、その程度のことしかありませんでした。今後とも、何かと捜査には協力してもらいたいと言っていましたから、僕にできるだけのことはしますと約束したのですが……ああいう席では、警察官は決して自分の手の内はあかしません。こっちから、何か探り出そうとしても無理なのです」
「それは、とうぜんそうでしょうね……」
「それから、ご依頼の第二の件、須藤俊吉の調査ですが、大和町のほうは、前に住んでいた家をとりこわし、アパートを建築中のようで、現在そちらには住んでいません。いまのところは、信濃町《しなのまち》近くの藤花荘≠ニいうアパートの事務所に住んでいるようです。事務所といっても、離れの二階建一|棟《むね》で、貸している部屋よりはずっと上等なようですね。もとから管理人として、ここに住んでいたのは、三橋よし子というキャバレーあがりの女だったようですが、本宅をこわす前は、ここは妾宅《しようたく》といった格好だったのでしょう。二人のあいだに肉体関係があることは確実です。ときどき、夜おそく帰ってきて、大声ではでな喧嘩《けんか》をやり出すようですから、どうもほかにも一人や二人は恋人がいそうですね」
恭子は思わず溜息を漏らした。いまさら、この男がどんな生活をしていても、自分にはなんの関係もないことだが、こんな女性関係の乱れた男に一度でも求婚されたのかと思うと、このうえもなく腹がたった。
「この人も麻薬の中毒じゃないかというような話があるけれど、その辺のことはどうかしら?」
「さあ……そういう細かな点までは、短い時間では調べきれませんが、もしどうしてもとおっしゃるなら、このアパートの一部屋を借りて泊まりこむのも一つの手だと思います」
寺崎義男は、顔に似あわず、執拗《しつよう》な性格を持っているようだった。しかし、恭子も、これ以上須藤俊吉の線にこだわっていいかどうかはわからなかった。さっきまでは、この男が本間春江と麻薬の取引のうえで、何かの関係があるのではないかと思いこんでいたくせに、三郎がそれを積極的にとりあげなかったので、心がくじけてしまったのだった。
「そうね。そのことをお願いするかどうかはちょっと考えさせていただくわ。そのほかには、何か名案はないかしら?」
「お嬢さん、これもはったりみたいな考えかもしれませんが、先生が現在扱っておられる刑事事件を、もう一度、吟味なさってはどうでしょう」
「どうしてなの?」
「これも僕が事務所で働いていたころの経験から言うのですが、先生には悪徳弁護士だという声と、神さまのお使いのような人だという声とがあったのは事実です。まあ、弁護士という職業には、どうしてもそういう二つの面が出てくるものですが、先生の場合には、その両方の面が、とくにきわだった現われ方をしていたんじゃないでしょうか。たしかに、先生はふつうの弁護士さんのいやがるような事件でも、どんどん引き受けておられたことは事実でしたよ。そのかわり、たいして金にならないような事件でも、自腹をきって、一生懸命になられたこともおありでした。だから、たとえば冤罪《えんざい》事件などお引き受けになったときには、あれは売名行為だというような声があったのも事実でしょう。しかし、僕の見たところでは、先生は金のとれる事件ではうんと儲《もう》けて、そのお金を一方で犠牲的な事件につぎこむのが、弁護士としての一つの使命だと考えておられたようですが」
「私もそんなことを感じていたけれども、それがいまのお話とどんな関係があるのかしら?」
「お嬢さん、僕も事務所をやめてからだいぶたっていますから、先生の現在扱っておられる事件の内容は知りません。しかし、先生のことですから、何か特別な事件になら、ふつうの弁護士さん以上のつっこみ方をしておられたのではないかという気もするのです。それがたまたま、裏で麻薬の線にからんでいたために、危険を悟った誰かが先生を消してしまい、そのあとで先生を殺人犯人と思わせるような工作をしたのではないか――というようなことも考えられるのです」
恭子もこのときはあっと叫んだ。それは自分も一度は思いついた考えだった。兄にも叔母にも、それに似たことは話してみたのだが、どちらもとりあげてくれなかったし、その後の情勢もまた、そのような考えを封殺するような方向へ動いていたのだ。そこへ、自分の考えを代弁してくれるような人間が現われたということは、一つの大きな救いだった。
もし、この考え方が正しいとしたならば、父は正義の犠牲者だと言える。その生死はどうだったとしても、犯罪者という汚名はそそげるのだ。
寺崎義男がとたんにたのもしく見えてきた。兄はぜんぜんたよりにならず、三郎ともこうして切りはなされてしまった今では、全面的にこの人物をたよるしかないと恭子は思いこんだ。
「ねえ、寺崎さん。それでは明日でも事務所へ行って、事件の書類を調べてくださらない?」
「承知しました。裁判の書類には慣れていますから……それから、お嬢さんにいま一つおたずねがあります。お嬢さんが婚約なさったおかたというのは、東京地検の霧島検事さんですか?」
恭子の胸は高鳴った。まさか、寺崎義男がそこまで知っているとは思わなかったのだ。
「そう……でも、どうしてそれをご存じなの?」
「二十日ほど前、仕事で日本橋のほうへ出かけたとき、ばったり先生にぶつかって、ちょっと立ち話をしたことがあるんです。そのとき、お嬢さんのことをおたずねしたら、先生がそんなこと言っておられましたから……」
恭子がなんとも答えないうちに、義男はせきこむような調子で、
「お嬢さん、その霧島さんのお写真を見せていただけませんか? 一枚いただけたら、そのほうがなお結構ですが……」
「どうしてそれがご入用なの?」
「僕はこの事件をつついているうちに、かならずどこかで、この検事さんにぶつかるような気がするんです。そのときには、あらかじめお顔を知っているほうが好都合じゃないかと思うんです」
三郎はその夜八時ごろから、ひとりで新宿のラムール≠ナ飲みはじめた。
もちろん、検事という身分を明かしてのことではない。ただのお客として飲んでいるあいだに、何かがつかめないかという程度の気持なのだった。
彼は恭子が帰ってから、すぐ捜査本部へ電話をかけて話の内容を知らせ、この店の素姓も確かめさせた。
その報告によると、この店の経営者は、神戸の香具師《てきや》、溝口《みぞぐち》一家の幹部、小林準一の内妻、友永より子という女だということだった。本間春江が前にこのバーで働いていたことがあるかどうかは、すぐにはわからないから、あとで、刑事をやって調べさせるということだったが、その話がいちおう終わってから、三郎は電話で桑原警部とこんなやりとりをしたものだった。
「その香具師は暴力団の一派ですか?」
「さあ、香具師にも暴力がかっている一家と、わりあいにおとなしい一家とがあるようですが、私の聞いているかぎりでは、溝口一家というのは、今までに神戸でも東京でも暴力関係ではたいした間違いは起こしたことがないようです。こういう系列の経営者がいる店は、都内でもずいぶん数が多いのですが、正式に許可を受け、まともな営業をしているかぎり、警察でもどうにもできませんから」
「いわゆる暴力バーではないのですか?」
「最近は、暴力バーと言わずに、キャッチ・バーというようですが、この店がその一軒だということは誰も聞いていないようです」
「場合によっては、僕も今晩あたり、個人的にその店をのぞいてみようかと思うんですよ。むだ足になるかもしれないけれども、うまくいったら、刑事さんたちが正攻法でぶつかってもつかめないような何かが発見できるんじゃないかと思いましてね。危ないこともないでしょうから」
「それはご苦労さまです。まあ、バーにもよりけりですけれども、キャッチ・バーにしたところで、自分から飛びこんでいったお客なら、そんなに眼の玉のとび出るような金はとらないのがふつうです。もう一度来てくれないかと考えるせいでしょうね。裸にむかれるようにぼられて、警察へかけこんでくる連中は、夜おそくなってからひっぱりこまれた男がほとんど全部です。まあ、何かあったらすぐに近くの警察へご連絡なさってください」
まだ若く、世間慣れしない検事だと思っているせいか、桑原警部はていねいにこういう説明までつけ加えたものだった……。
ハイボールを一口ぐっと飲みほして、三郎はもう一度店の中を見まわした。
全体の感じは中級バーというところだろう。香具師の女房が経営しているにしてはわりあいにおとなしそうな品のいい子がそろっている。時間が早いせいかもしれないが、いまのところ暴力バー的な雰囲気はぜんぜん感じられなかった。
「ねえ、あなた、何を考えていらっしゃるの」
三郎の肩をゆすって、えみ子という名前の女が話しかけてきた。
「失恋した相手のことさ」
どうせ、こんな所でこんな場合に、まともな話ができるわけはない。それでもこういうせりふが、とたんに口から飛びだすのは、恭子のことが一瞬も心から離れないためにちがいなかった。
「まあ、あなたのようなおかたでも、失恋することがあるのかしら? あなたのほうから振ったというなら話もわかるけれど、あなたを振るような女がいるなんて考えられないわ」
「でも、それが実際問題だとすればしかたがないじゃないか」
「それで、相手はどんな人なの?」
「絶世の美人なんだよ。映画女優のデイトリッヒのように……ただ残念ながら孫がいる」
えみ子はぷっと吹き出した。
「まあ、おじょうずね。私危なくほんとうにするところだったわ」
「いや、こっちはほんとうのことを言っているんだよ。恋には年など問題じゃない、と誰かが言っているじゃないか」
三郎は笑ってもう一度店の中を見まわした。ちょうど、よれよれのレインコートを着た人相の悪い男が二人、そろってはいってきたところだった。酒を飲もうとするのではなく、むこうの隅でバーテンをつかまえて何かひそひそ話を始めている。捜査本部からやってきた刑事ではないかと、三郎は直感した。
もちろん、お互いに顔を知らないのだから、この場にすわっていてもなんということはないが、ちょっと息を抜こうとして、三郎はもう一杯ハイボールを注文すると、トイレへ立った。
用をすまして、洗面所へ出て来たとき、鏡に向かって手を洗っていた男が、ふりかえりもせず、
「検事さん」
と呼びかけてきた。
「あなたは?」
いまの二人とは違うが、これも刑事の一人かと思って三郎は小声で問い返したが、相手はそのままの姿勢で、
「僕は寺崎義男という者です。いま竜田さんのお宅でお嬢さんと会ってこちらへまわったのです。検事さんのお顔は、写真を見せてもらったのでわかりました。それでちょっとお話ししたいことがあるのですが」
と小声の早口で言った。
「わかりました。でも、ここではまずいですね」
「そうです。お互い別々に店を出て、二軒となりの真珠≠ニいう喫茶店の二階で待ちあわせましょうか」
「そうしましょう」
三郎は入れかわりに手を洗ってもとの席へ帰った。思いがけないめぐりあいだったが、恭子のさっきの言葉を考えあわせれば、これもわからないことではなかった。
二人の男は相かわらず、バーテン相手に話を続けていたが、三郎はこの辺が切り上げどきだと考えた。この店に、何かの秘密――たとえば麻薬関係の秘密がひそんでいるとしても、それは一晩で探れるわけはない。きょうはいちおう瀬ぶみでとどめておいて出なおすほうが賢明だと、彼は思っていたのだった。
約束のとおり、喫茶店の二階で待っていると寺崎義男は二十分ほどしてやってきた。
あらためて、初対面の挨拶《あいさつ》を終わると、寺崎義男はいくらか照れくさそうな表情で、
「検事さんとは、きっとあのバーあたりでお会いすると思っていたのですが、これほど早いとは思いませんでした」
「僕もいずれは捜査本部なり、検察庁なりでお会いすると思っていたのです。しかし、あの店から僕を誘い出されたのはどうしてでしょうか」
「はい、ふつうなら失礼なまねということになるのでしょうが、今度は職務上、ああしてお忍びでおいでになっていると思ったので便所まで追いかけてご連絡したのです。ところで、本論にはいる前に、いちおう私の立場をご説明したいのですが……」
と前置きをしたうえで、彼は最初恭子を訪ねていったときのことから話しはじめた。
夜でもあり、酒もいくらかはいっていたが、三郎はまるで検察庁にいるような思いで、その話に耳を傾けた。今夜、彼が恭子に話した内容だけは初耳だったが、その考え方にはいちおう筋が通っていると思いながら、全面的にその意見に賛成する気持にはなれなかった。
「そういうわけで、私は私なりに、今度の事件の解決のためには全力をつくしたいと思っております。もちろん、大組織の警察のむこうを張るというようなことは考えてもおりませんが、何かのお役にたてばしあわせだと思います」
「あなたのご尽力は感謝します。きょういただいた情報も、本部では、たいへんありがたかったと申しておりました」
「ところで検事さん、私はそういう立場で動いている男ですから、公式な意味だけではなく、非公式な面でも、何かのお役にたてるのではないかと思いますが」
「それはどういう意味でしょう?」
わざと冷たく三郎は問い返した。
「つまりその……検事さんとお嬢さんとは、いましばらく、公然とお会いにはなれませんでしょう。といって、お二人ともべつべつにこの事件の解決のために努力なさるとしたら、なんとかして、意思の疎通をはかる必要もあるのではないでしょうか。およばずながら、私がそういう役を勤めてもよいと思いまして」
寺崎義男は上眼づかいにこちらを見つめて言ったが、三郎はこのとき、口の中でしまったとつぶやいたくらいだった。
いま、恭子が必死に誰かの助けを求めようとしている気持はわかりすぎるくらいわかった。
そこへこれだけ熱心な、これだけ頭の働く男があらわれたら、ついうかうかと、ある程度までの秘密をもらすことも考えられないではない。しかし現在の二人の微妙な関係は、絶対に第三者に悟られてはならないことだった。たとえ恭子との間に誤解を生ずることになっても、今度は心を鬼にするしかないと三郎は腹をきめた。
「あなたは何か、勘違いをなさっているんじゃありませんか。それは恭子さんと僕との間に、婚約が結ばれていたことは事実ですよ。しかし、今度の事件が起こり、僕が公判部から刑事部へ移って、この事件を担当するようになったときから、その婚約はいちおう棚上げということになったのです。もちろん、即時に解消というほど強硬なものではなくっても、時間がたつにしたがって、自然解消という可能性は十分にあるのですよ」
「検事さん、あなたがそうおっしゃるお気持はわかりますが……」
「まあ、もう少し、僕の話を聞いてからにしてください。僕はたしかにきょうも恭子さんと会いました。しかし、それは恋人同士としてではなく、検事として参考人に会っただけです。あなたがたがどういう見解で、この事件をどう研究なさろうが、それは僕の知ったことではありません。僕は正式な捜査機関を通じて、正攻法をとるまでです。そして、現在までの情報から冷静に判断するかぎり、僕は竜田弁護士が黒だと断定しないわけにはいきません」
これは危険な言いすぎだった。そう思いながら、三郎は検事として、こういう態度を守りつづけるほかはなかった。
第十一章 一羽の夜の蝶
十時近く、寺崎義男から電話がかかってきて、たいへん重大なお知らせがあるから、いま一度おうかがいすると言われたときには、恭子もさすがにびっくりした。
話の内容の概略だけでも、先に知らせてくれないかと頼んだのだが、電話では話しかねると断わられた。
その声の調子からいって、吉報でないことはわかったが、恭子はやはり一刻も早く、その知らせが聞きたかった。
寺崎義男は、それから二十分ほどしてやって来た。応接間で顔を合わせたとたんに、
「いま、新宿のラムール≠ナ、霧島検事さんと会いました。それからほかの喫茶店で、いろいろとお話をしてきたところですが」
といくらかためらいがちな調子で言いだした。
「まあ、そうでしたの? それで……」
「お嬢さん、これは僕が出すぎたまねをしたのかもしれません。僕が本来、ご依頼を受けた調査から逸脱していると言われればそれまでですが、さっきのお嬢さんのお顔を思い出したらたまらなくなって、お嬢さんと検事さんとの個人的な橋わたし、メッセンジャー・ボーイのような役を勤めてもよい、と言いだしたんです。そうしたら、よけいなまねをするなと言わんばかりに、ぴしゃりと肘鉄《ひじてつ》を食いましてね」
義男は苦笑していたが、恭子はなんとも口がきけなかった。
「まあ、僕が恥をかく分にはちっともかまいません。また、お二人の間の感情問題も、僕がとやかく申しあげる筋合いでもないでしょう。しかし、あの検事さんは、先生が黒だということに、絶対といってよいような確信をお持ちのようですね。それが僕にはわかったのです」
恭子もこのときは身ぶるいしていた。膝《ひざ》の関筋がテーブルの下で、がたがたと音をたてて鳴りだしたような気がした。
「僕はむかし先生から、君は法律のほうはからっきしだめだが、人の顔色を見て気持を判断する才能は相当のものだな――と言われたことがあります。それに一年、いまの仕事をやっているうちに、そういう能力にはいよいよ磨きがかかったと自分でも思います。だから、今度の場合にしても、検事さんが職務上とぼけて芝居をしているのか、それとも本心からそう信じているのか、それくらいのことは判断も誤らないつもりですが……」
「霧島さんが、本心からそう考えておいでだとすれば、なにか、私たちの知らないような重大な手がかりを捜査本部でおさえたのかもしれないのね……」
「それは大いに考えられることです。検事さんとしては、今度のような場合では、たとえ婚約中の相手にでも最後の秘密は漏らせないと腹をきめておられるかもしれません」
考えられることだった。恭子はただ溜息《ためいき》をつくしかなかった。義男はそれから、ラムール≠ナ三郎と会ってからの話のいきさつを、細かく話して聞かせたが、恭子は頭がしびれきってそれを半分も理解できなかった。
「お嬢さん、しかしこうなると、僕も腹がたってくるんですよ。たしかに、私立探偵の力は組織的な警察なり検察庁の力にはかなわないというのが常識でしょう。しかし、今度の事件は麻薬などがからんでいるだけに、どこかに穴がありそうな気もするんです。一発、その穴を捜しあてれば、案外早く真相もつかめるような気もします。そしてその穴を深く掘り下げてゆくことなら、個人のほうが警察を上まわることもないとはいえません」
「たとえばどんなことかしら?」
「たとえばラムール≠フ件ですが、僕たちが店へ行っていたときにも、刑事が二人来ていましたよ。警察手帳をつきつけておどしつけたら、たしかにいちおうのことはわかるでしょう。ただ、その一通り以上のことが、彼らにつかめるかどうかは、問題じゃありませんか」
「そういう点をつっこんでくださるとおっしゃるの?」
「そうです。あの店へ常連のように通いつめたり、香具師の仲間に食いこんだり、自分の足を泥で汚すようなまねをするのは、検事さんにはとてもできないでしょう。警察にしたところで、よほどの見こみがなければ、そういう一点だけの追及はできないでしょう。しかし今晩あそこへ行ってみたときの僕の印象では、あそこには何かあると思うのです。これから何日か根気よく通いつめているうちには、かならず何かがつかめるだろうと思うのです」
寺崎義男の言葉は実に熱っぽかった。この男にこれだけの執念があるとは、恭子も予想していなかったが、いまではずるずるとその考えの中にひきずりこまれるような思いだった。
「幸い、所長も僕の考えに同意してくれました。こうして恩人の事件にぶつかるのも一つの運命だろう。将来のための勉強だと思って大いに頑張ってみろと激励されました。最初は辞表を出してもと思っていたのですが、これで心おきなく仕事ができますから」
寺崎義男は、けさも同じようなことを言っていた。しかし、言葉は同じでも、受け取るときの気持はぜんぜん違うのだ。恭子はハンカチで顔をおさえながら、
「お願いします。霧島さんは検事だし、兄さんはたよりにならないし、たよりになるのはあなただけ……費用のほうは、株を売ってでもなんとかしますから……」
「費用の点もなんですが、お嬢さんが自分で出ていただくほうが、事件の解決に役にたつような場面があったらどうなりますか。そのときは動いていただけますか?」
「それは、私にできることなら、なんでもするつもりだけれど、どんなことをすればいいのかしら?」
「まず、明日でも僕といっしょに、銀座のマドンナ≠ニいうバーのホステス、鹿内桂子という女に会ってくださいませんか。先生が最後に会ったという女ですが、二人で彼女につっこんだら……うまくいけば、たいへんな秘密がおさえられそうな気がしてならないんですよ」
「でも、その女は警察のほうで……」
「警察とわれわれでは、つっこみ方も違います。そこへ、お嬢さんが女の情をついていけば……僕にも作戦があるのです」
まるで何かに憑《つ》かれているような調子で寺崎義男は言いきった。
霧島三郎がマドンナ≠フ店を訪ねたのは、ちょうど同じころだった。
ラムール≠フほうにも未練は残っていたが、ああして腰をおられたあとでは、もう一度出なおすわけにもいかなかった。それならいっそ河岸《かし》を変えて、この店の鹿内桂子にあたってみるほうが利口だと思ったのである。
彼は、桑原警部から話を聞いたとき、この女には何かの秘密がありそうだと直感していた。たとえば、竜田弁護士との関係ひとつにしても、警察の一通りの調べではつかみきれないような何かがありそうだった。
もちろん、今の彼なら、警察に命じて、この女を調べなおさせることはなんでもなかった。必要があれば、自分自身で直接取り調べることもできる。お客として、店を訪ねてきて、事件の解決に役だつ何かをつかもうとするのは宝くじの一等を狙《ねら》うような邪道と言ってよいくらいだった。
しかし、三郎は本能的に、この女の警察や検察庁では見せないはずの一つの面を見とどけたいと思っていた。その面が、今度の事件の真相を究明するためには、かならずどこかで役だつにちがいないと、理屈もぬきに思いこんだのだった……。
店の雰囲気は、さすがにラムール≠ノ比べれば数段上だった。時間もだいぶおそいせいか、煙草の煙と、蜜《みつ》のような女の匂《にお》いが、店いっぱいに充満しているようだった。
「桂子さんていう子はいる?」
おしぼりで手をふきながら、三郎はたずねたが、まもなく、背中の大きく開いた水色の洋服を着た女が、微笑の中に一抹の不審そうな表情を浮かべながらテーブルに近づいてきた。こういう所では、なかなか女の年はわからないが、三郎はいちおう二十二か三ぐらいだろうと見当をつけた。
体も大きく眼鼻だちもくっきりしている。昼に顔を合わせたならどうかしれないが、夜のこういう光線の下では、豊満とか濃艶《のうえん》とかいう印象がぐっと迫ってくる感じなのだ。
「桂子さんかい?」
「はい……」
「僕は神戸の佐藤猛彦君の友人だがね。むこうで君の話が出たんで、一度会いたいと思ってやってきたんだよ」
「まあ……」
一度に警戒の気持もふっ飛んだようだった。桂子はこぼれるような笑いを浮かべて、三郎のそばに腰をおろすと、
「佐藤さんには、このあいだ、ずいぶんご迷惑をおかけしたわ。私のせいではないけれど、怒っておられなかったかしら?」
「そんなら僕に君のことをほめはしないだろうね。今度、東京へ行ったなら、どうしてもと歯ぎしりしていたんで、逆に先手を打ってやろうと思ってやって来たのさ」
「光栄だわ……何をめしあがります? お酒が来てから、ゆっくりお話をうかがいたいわ」
「ハイボール、ジョニー・ウォーカーの赤」
こんなところで、まさかいつも飲みつけの安い酒を注文するわけにもいかなかった。この女をうまくこの間の事件の話にひっぱりこむには、この男の名前を使うのがよかろうと思って、最初から作戦をたててはいたのだが、こういう嘘《うそ》がすらすらと、自然に流れ出したのは、自分でもふしぎなくらいだった。
それでも彼は検事らしく、このとき研修所で教わった旧大審院の判例などを思い出していた。女が男にだまされたといって、契約不履行で訴訟をおこした事件だが、そのときの判決文は、今でも教材として利用されるくらい歴史的なものになっている。
『男女ノ痴語ニハ誇張アリ、嘘偽《きよぎ》アルヲ以テ通例トナス。故ニ契約ノ根本的要因ヲ缺《か》クモノナリ……』
痴語という段階まではいかなくても、酒席でこういう女と会うのだ。身分ぐらい、嘘をついても罪にはなるまいと三郎は思い、一瞬後には、どこへ行っても、検事的な考え方しかできない自分がおかしくなった。彼は思わず吹き出したが、考えてみれば、今度の事件が起こってから笑ったのは、これが最初のことだった……。
「何がそんなにおかしいの?」
「いや、今ごろは神戸で佐藤君が大きなくしゃみをしているだろうと思ってね」
三郎はどうにか話を合わせ、煙草を取り出して、火をつけてもらうと、
「それにしても君は運がよかったね。へたに誘われて、九州へ旅行にでも出たら、無理心中で、阿蘇山《あそさん》の火口へでもひきずりこまれたかもしれないね」
と誘いの水を向けてみた。
「そうねえ……まさか、そんなことにはならなかったろうと思うけれど、妙なところでつかまったら、新聞社に写真をとられたり、警察でしつこく調べられたりするでしょう。そうなったら大名旅行も幻滅よ。なんとなく、虫が知らせて断わったので、大難が小難ですんだのね」
苦いものを吐き出すような調子で、桂子は答えた。こういう筋のお客では、この問題が話のたねになってもしかたはないと観念しているのだろうが、やはり、こういう話題には、あまり触れられたくなさそうだった。
「ところで、あなたはやはり貿易のお仕事をなさっておいでなの?」
「うん……まあ、そういったところだね。自分じゃ、作家になりたくって、ずいぶん勉強したものだが……」
まさか貿易関係のことは話になるまいと思ったが、万一の場合にそなえて、三郎はちゃんと伏線を張っておいた。
「そう? それだったら、あなたはまだお若いもの。これからいくらでもチャンスはあるわ。それで、お名前はなんておっしゃるの?」
「本名かい? 未来のペンネームのほうかい?」
こういうことは聞かれてもふしぎはないはずなのに、あいにく偽名までは考えていなかった。それでもこうして、一瞬でも間《ま》をおけたのはまだしもだった。
「どっちでも結構。ペンネームなら、あとで新聞の広告でお目にかかれるでしょう」
三郎もちょっとあわてた。偽名というものは一つでもとっさに出てこないのに、二つも並べるのはたいへんだった。
「本名は利根健策、ペンネームのほうは霧島三郎……」
つい二つも続けて本名が出てしまったのは、いくらか酔いがまわってきたせいかもしれない。
「まあ、いいお名前ね。川と山との使いわけなの? でもペンネームのほうが、自分でお考えになっただけあって、ずっといい感じね」
桂子は、ほんとうに感心しているような調子で言った。
店では、事件の話にはあれ以上触れなかったが、閉店してからアパートのほうへと言われたのは、いちおうの成功だと三郎は思っていた。周囲のことは気にせずに、一対一で、しかも小説家の卵として話を進めれば、何かつかめそうな気がしたのだった。
アパートはなかなか高級な感じだった。三間続きの部屋の洋間の六畳を、にわか作りでバーに仕立てたらしいが、たしかにお客のすわれる空間は、ぎりぎり三人というところだった。
「なるほど、これじゃあ、このあいだ殺人犯がとびこんできたとき、佐藤君たちが逃げ出したのもふしぎはないね。彼はどの椅子《いす》に腰をかけたんだい?」
「その椅子よ。ところで何をめしあがる?」
「ハイボール」
と言いながら、三郎は指さされた椅子に腰をおろして、
「しかし、その弁護士さんの気持もわからないじゃないな。人間というものは、ぎりぎりの瞬間になると、いちばん愛している人間の顔を見たくなるらしいね。母親だとか、子供だとか、それとも女房だとか――君はたいへんな美人だし、彼氏もよほど惚《ほ》れこんでいたんだろうね」
「さあ、どうかしら? 案外、知りあいの女なら、誰でもよかったんじゃないのかしら?」
桂子はハイボールのコップと、おつまみの皿をテーブルの上に並べて、
「警察って、いやらしいことばかりたずねるから……深い関係があったにちがいないって、ずいぶんいじめられたわ。でも、そんなことは、まるでなかったのよ。それは、あの人は私を好きだったかもしれないけれども、私にとっては、ただのお客さまだったのよ」
「ほんとうかなあ。あんまり信用はできないがね」
「あなた、やきもちをやいてんの? それともそれが作家根性?」
桂子は自分のグラスにワインをついで、三郎のそばに腰をおろした。
「ねえ、もうそんないやなお話はやめにして楽しく飲みましょうよ」
「僕もそのつもりでここまでやってきたんだよ。ところがおかしなもので、この部屋へはいったら、急にそのことが気になってきた。きっと彼氏の一念が幽霊みたいに、この部屋を離れきれずにいるせいだろうな」
「気持の悪いことを言わないで。そんなことを言われると、私は一人じゃ寝られないわよ」
どうせ、一人でここまでいっしょに来るからには、自分に気があるのだろうと信じているのか、桂子はちらりと娼婦《しようふ》の性格をほのめかして見せたようだった。
三郎はこの微妙な誘惑も感じないような顔をして、
「しかし、殺人を犯した直後の人間の気持というのはどんなものだろうな。その生々しい実感がつかめれば、こっちもたいへんな傑作が書けそうなんだがなあ」
とひとりごとのように言ってみた。
「負けたわ。あなたはきっと、そのうちに大作家になれるわよ」
桂子もいくらか根負けしたように、
「それじゃあ言ってあげましょうか。警察にも言わなかった話を……なんとかいっても、お客さまだし、私も首つりの足をひっぱるようなまねをするのはいやだと思って、このことは自分の胸に隠しておいたのよ」
「それはぜひ拝聴したいものだね」
平静をよそおって答えたものの、三郎は胸が割れそうな感じだった。大きなやまが当たったのだ。彼はいままでの酔いもいっぺんにさめたような思いで桂子の話に耳をすました。
「あの先生が、九州の旅行に私を誘ったというのは、大芝居じゃなかったかと思うのよ。自分が姿を消してしまえば、きっとうちの店にも、警察が調べに来るだろうと考えて、そのときに私にあんなことを言わせるためのトリックじゃなかったかと思うの。もっとも、最初に警察で調べられたときには、私もそこまで考えなかったわ。あとで、あの先生が前に言っていた話を思い出して、ああ、ほんとうのねらいはここにあったのかしらと思ったのよ」
「それは、どういうトリックなんだ?」
「自分は九州へ逃げたんだ――と警察に信じこませるためのトリックよ。全国指名手配というのは、私はよく知らないけれども、やっぱり、とくに力を入れる地方というのがあるんじゃないかしら? 私の証言のおかげで、九州に力がはいるとすれば、ほかの地方の警戒はいくらか手がるになるんじゃないかしら?」
「さあ、そういう点はどんなものかな。僕は警察の内情はよく知らないから、なんとも批判する資格はないけれどね」
「まあ、もう少し私の話をお聞きなさい。とにかく、あの先生はたいへん頭のいい人だったわ。それは、殺人のときにはかっとなってしまって、自分で何をしているのかもわからなかったかしらないけれども、いったん興奮がおさまって正気に返ったときには、いつもの頭の切味をとりもどしたんじゃないかしら。そういえば、私のところへ来たときには、あれほどおそい時間なのに、ぜんぜん酔っている気配がなかったのよ」
「うん……しかし、自分が逃げ出してしまったんじゃ、警察ではすぐに嫌疑をかけてくるだろう。現在、実際にそうなっているようにね。たとえばアリバイを偽造するとかなんとかして、純粋の強盗殺人事件に見せかけるというような手のほうが、はるかに利口じゃないかな」
「でも、あの先生は弁護士でしょう。だから推理小説に出てくるようなそんな手は、実際にはうまくいかないものだということを、身にしみて知っていたんじゃないかしら。ことに、激情のあまりの殺人だとしたら、最初から細かなアリバイ工作なんて、考えてもいなかったでしょうしね……私はいまでも、あの人が生きて東京にいることを知っているのよ」
最後の一言は、まるで三郎の胸を突き刺してきたようだった。
第十二章 逃亡の仮説
「知っている?……知っているというのは、おだやかじゃないが、たとえば君は彼が現在、どこに潜伏しているか、その隠れ家といったようなものでも、知っているとでもいうのかね?」
胸の中が煮えたぎるような興奮を、無理におさえつけて、三郎はできるだけ平静な調子でたずねた。
桂子は唇のはじに、笑いといえないような笑いを浮かべながら、
「そこまでのことは知らないわ。でも、あれは半年ほど前だったかしら。トランジスター・ラジオのかわりに、石炭がらをつめた箱なんか輸出した犯人が、国外へ逃亡して、シンガポールかどこかでつかまった事件があったでしょう。あのときみたいに、犯罪者には国外逃亡が最善の道かもしれないのに、こいつは馬鹿なことをしたものだというようなことを、あの人は言っていたのよ」
「国外逃亡? なるほどね。しかし、あの詐欺事件のときには、犯罪も計画的なものだったはずだし、罪を犯してから発覚するまでには、かなりの時間がかかるだろうと、犯人にも予想ができたはずだろう。それだったら、その間に手続きをすまして旅券などを手に入れ、費用や何かも準備して、飛行機で飛び出せるわけだろう。そして、いったん日本を離れてしまえば、そのあとはいろいろと手もあるだろうとは思うがね。今度の場合には、突発的な犯行だろうし、そういう手は打てないんじゃないのかな?」
「それはいちおうの理屈だけれども、それは表むきのことでしょう。罪をおかした人間、ことに殺人の罪など犯して、へたをすれば死刑になるかもしれないなんて考えた人間なら、どんな非常手段にとびついたところでふしぎはないでしょう」
「その非常手段というのはなんだね?」
「これも、あの人の話の受け売りだけれども、外国航路の船の船長とうまくコネをつけられたら、三十万ぐらいで香港まで旅券なしで運んでもらえるそうなのよ。いくら、警察や税関が眼を光らせたところで、船長がぐるになっていたなら、いくらでもごまかす隙《すき》はあるんじゃないかしら?」
「うむ……」
三郎もこの言葉にはうなってしまった。いわゆる密出国事件だが、これはありえないように見えて、案外数が多いのだ。ことに、中国との往来が、ほとんど認められなかった当時には、かなりの数の共産党員が香港または北朝鮮経由で中国と往来したのではないかと推定されている。もちろん、その実数はつかめないが、これは公安調査庁の報告などにも、はっきりと記載されている事実だった。
「なるほど、小説の筋としてはいただけそうだね。しかし、実際問題としたなら、そういう計画には、いろいろと難点がつきまとうんじゃないのかな。まあ、犯罪者なら目先のピンチをのがれることに夢中だから、その後のことなど考える余裕もなかろうというのもわからない話じゃないが……」
「その難点というと、どんなことなの?」
「船長と秘密に交渉したり、人目を忍んで船に乗りこんだり、出港するまで船のどこかに身を隠したり、こういうことにも、いろいろとむずかしいところもあるだろうが、それはこのさい、いっさい無視するとしても、そのあとにくる最大の問題は、香港なりシンガポールなどに着いてから、どうして生活していくかということじゃないのかな?」
桂子はこの言葉にはなんとも答えず、グラスのワインをゆすっていた。
「これがたとえば、共産党の党員なら、中国へでも入国したら、あとは生活のことなんか考えないでもいいかもしれないがね。それから、雅樹《まさき》ちゃん殺しの本山だが、彼は犯行をすませてから、自転車を盗んで横浜まで逃げているんだ。そこまで足どりはわかっているのに、それから後の行方がぜんぜんわからなかったんで、そのときも国外逃亡説が流れたということだよ」
「あなた、案外そういうことにはくわしいのね。貿易会社のおかたとは思えないくらいよ」
三郎はちょっとぎくりとしたが、ハイボールを一口すすっている間に、逃げ口上はどうやら考え出せた。
「僕の従兄《いとこ》に新聞社の社会部記者をしている男がいてね。東京へ来るたびに、いろんな話を聞かせてくれるんだよ。僕も、あとで小説を書くときの材料にしようと思って、ノートなどとってあるから、いつでも思い出せるのさ。ところで、本山のときなら、外国の港へ着けたと仮定したら、その後の生活はどうにかやっていけたらしい。香港やシンガポールという大都市では無理だとしても、ちょっと奥地へはいって歯医者のもぐりの助手などしたら、日本の金に直して月に五万か六万の収入も望めたらしいんだね。もっとも、それもいつまで続いたかはわからないけれども……ところが、今度の場合には、体に技術がついているといっても、歯医者と違って弁護士じゃ、外国ではどうにもできないだろう。言葉の違いということは、いま問題にしないとしても、とにかく金の準備もなく、日本を逃げ出したんじゃ、さっそく生活に困ってくるんじゃないのかな」
こういうことを言いだしても、この女からはまともな解答は引き出せまいと三郎は思っていた。万一、麻薬という言葉でも出てきたら、見つけものだという程度のかるい打診だったが、そのとき桂子はちょっと肩をすくめ、思いがけないことを言い出した。
「それもいちおうの理屈だけれども、あの人の場合なら、香港まで逃げのびられたなら、あとはなんとかなるだろうということは言えるのよ」
「ほう、それはいったいどうしてだね。たとえば、彼は弁護士のくせに、かげで麻薬の取引か何かに関係していた。それで香港のその道の大ボスのところをたよって行けば、あとは何年でも面倒を見てもらえるだろうというようなことかね?」
自分からこういう問題に触れていくのは、誘導尋問の一種だが、このさいは、手段を選んではおられなかった。
「さあ、麻薬のことは、私には、ぜんぜん見当もつかないわ。しかし、これも、あの先生から聞いた話だけれど、あの人は今度の戦争中、といってもアメリカと本式の戦争が始まる前らしいけれども、広東あたりで、誰か中国人の命を助けてやったことがあったらしいのよ。ところが、その相手は、いま香港あたりで、財閥といっていいような事業家になっているらしいの。中国の人というのは、そういうことには、たいへん義理堅いところがあるでしょう。だから、戦争がすんで日本へやってきたときに、いろいろな方法で、あの人を捜し出し、ていねいにお礼を言ったらしいの。もし海外旅行でもして、香港へでも寄ってくれたら、できるかぎりのおもてなしはするから、と言っていたそうだけれど、あの人はどたん場に追いつめられてから、この相手のことを思い出したんじゃないかしら? それは、殺人というのは大罪だけれども、相手は自分の二号さんだし、中国の人なら、私たちとはべつな見方をするかもしれないでしょう。そういうことはぬきにしても、自分の命の恩人が、日本を逃げ出して、かくまってくれと頼んできたならば、一生面倒を見てやろうという気になるんじゃないかしら。そんなことを、あれこれと考えてみると、あの人が真剣に国外逃亡を考えたとしても、ちっともふしぎはないでしょう」
「ハイボールをもう一杯」
残った酒を一気に飲みほして、三郎はコップをさし出した。わずかの時間でも間を置いて、今までの話を頭の中で吟味しなおそうとしたのだが、くわしく細部を検討するまでもなく、この話にはいちおう以上の筋が通っていることは認めないわけにはいかなかった。
いわゆる日中事変中、竜田弁護士が中国人の命を救ったという話は聞いたこともなかったが、これは恭子を通じて、親類なり、当時からの友人たちを調べれば、事実もはっきりするかもしれない。そして、この中国人と現在、連絡がついていたとしたならば、手紙のやりとりもあったろうし、その名前も案外かんたんにわかるかもしれない……。
しかし、推理を進めていくにつれて、また三郎の心はいたみはじめた。
彼が検事ではなく、ただ恭子の婚約者だったとしたら、こういう計画の話を聞いたら、たとえ消極的にもせよ、喜びたいところだったろう。もしも竜田弁護士が、無事に国外逃亡に成功したとしたならば、あらゆる警察側の捜査はすべて失敗に終わるだろう。もしも、香港のどこかに潜伏していることがわかったとしても、自分たちがあくまで口をつぐんでいれば、一家の秘密ですむことなのだ。
しかし、検事としたならば、これだけの情報は聞きずてにしてすむことではなかった。もしも国外逃亡の疑惑が濃いとしたならば、横浜、神戸その他の貿易港には、厳重な警戒を怠らないように指令も下さなければならない。専門の警察官たちのいう水際逮捕≠フ作戦を指導しなければならなくなる可能性もあるのだった。
それに、海外のどこかに潜伏していることがわかったときには、担当検事としては、やはりそのままにしておけなかった。おそらく国際協定に基づいて、犯人引渡しの手続きまでとらなければならなくなるだろう。
検事としては当然の義務だとしても、恭子との関係という立場から見るかぎり、それは自分で自分の首を絞めるようなことになるはずだった。
恋人と検事、この公私両面のジレンマは、またここでもきびしい形で現われたのだ。自分が今度の転属を受諾したのは、大きな誤りではなかったかという後悔が、蛇のように胸を噛《か》んできた。
桂子は立ち上がって、ハイボールを作っていたが、いきなりこちらへふり返って、
「きっと、あの人はいま便船待ちといったところなのね。堂々と外国へ行くようなときなら、どの飛行機にだって乗れるでしょうけれども、今度の場合は、ある一定の船が来ないことにはどうしようもないでしょうからね。その船長に言うことを聞かせるような筋は押さえられたとしても」
と、女らしくないきびしい調子で言った。
「そういったところかもしれないな……」
「そうだとすると、やっぱり東京か横浜かに潜伏しているという線が強くなるんじゃないかしら? これもあなただけにお話しすることだけれど、私は一昨日、新橋駅近くで、あの人を見ているのよ。こっちもタクシー、むこうもタクシーですれちがっただけだから、声をかけるひまも何もなかったけれど、たしかにあの人だったのよ……」
これは三郎にとっては、とどめの一撃のようなものだった。煙草を持つ手が大きく震えたことが自分でもはっきりとわかった。
「まあ、こんないやなお話はもうおしまいにしましょうね。これだけめしあがったなら……どうして、こんなお話になってきたのかしら」
桂子の顔から緊張が消え、そのかわりにかすかな媚笑《びしよう》がただよいはじめた。
そのとき、マントルピースの上の電話が鳴りはじめた。かりにこのアパートに交換台があるとしても、この時間では仕事もしていないだろう。こういうもぐりバーなどしている関係で直通電話も入れているのだろうと三郎は思った。
「まあ、あなたなの?」
受話器を取り上げた桂子の顔は、急にこわばったようだった。
「きょうこれから?……私はちょっと気分が悪いのよ……明日じゃいけないかしら……そう、どうしてもというのならしかたがないわ。それじゃあ、すぐにいらしって……」
受話器を置くと、桂子は大きく溜息《ためいき》をつき、三郎の手をとって言った。
「残念だわ……あなたには泊まっていただきたかったんだけれど……まだ神戸にはお帰りにならないんでしょう? 明日の晩またいらっしゃっていただけるわね?」
三郎が下宿へ帰ってきたのは、午前二時ごろだったが、それから朝までは、とうとう一睡もできなかった。
頭が割れるように痛んだが、このさいは欠勤もできなかった。戦争中、まだ子供のころ、むかしかたぎの父親からたたきこまれた倒れて後やむ≠ニいう言葉が、急に生々しい実感を伴って頭に浮かんできた。
検察庁へついて、自分の部屋にはいると、北原大八が挨拶《あいさつ》をすましたあとで、
「検事さん、お顔の色がお悪いようですが、風邪でもおひきになったのですか?」
とたずねてきた。
「そうかもしれないね。昨夜は少し飲みすぎたし……僕が来るまでに電話はなかった?」
「桑原さんからありました。きょうは、本間春江の身元調べで、朝から警視庁へ行く。それがすんだら、捜査本部へ行く前に、こちらへ寄るということでした。電話はそれだけでしたが……」
桑原警部も、きっと寺崎義男の示唆に基づいて、行動を開始したのだろう。昨夜のうちに、部下にいちおうの下調べをさせ、きょうは自分がその確認や、前の事件の担当者との打ち合わせなどに出かけたのではないかと三郎は思っていた。
十一時に、桑原警部が検察庁へ現われるまで、恭子からの電話はなかった。そして、三郎のほうも、けさは自分から電話をする気にはなれなかった。
桑原警部は相かわらず元気いっぱいだった。病気などしたことはないだろうと思われる顔の中で、両方の眼が妙に鋭く光っている。難解な事件に何かの手がかりを見いだしたときの警察官に共通な表情なのだ。
「検事さん、どうもお元気がないようですが、どこかお悪いのですか?」
この警部もまた事務官と同じようなことをたずねてきた。二人に同じことを聞かれるようでは、自分の顔色はよくよく悪いのだろうと三郎は思った。
「飲みすぎでしょう。たいしたことはありませんがね。それで、本間春江のことについては何かわかりましたか?」
「はい、まず新宿のラムール≠ノは、昨夜刑事をやりましたが、あの店は、とくに人の移動が激しいようでして、バーテンも女の子も、二年勤めたという人間はいないのです。ですから、昨夜のこちらの調査では、この女を知っているという人間はつかめませんでした。それから、小林準一と友永より子のほうにも、人をやったのですが、二人そろって熱海へ出かけているということで、こちらの収穫もありませんでした。でもこの二人は、きょうの昼ごろには帰ってくるということですから、午後になれば、何かわかるだろうと思います。その内容は、報告のありしだい、電話でお知らせいたします」
いかにもベテランの警察官らしく、桑原警部はてきぱきと要領を得た報告を続けた。
「それから、昭和三十六年の浅川清吉の事件のほうですが、これはいちおう書類を調べさせたうえで、私がいま当時の担当者に会ってきました。本間春江という女は、浅川の実の妹にあたります。姓が違っているのは、結婚のためでべつにふしぎはありません。参考人として、二、三度取調べも受けたようですが、被害者の死体写真を示したところ、たしかにこの女だと言っていました。これでどうやら身元も割れはじめてきたわけです。灯台下暗しということもありますが、なにしろ、警視庁は大人数なものですから、こういうこともないではありません」
「そうですか。それで、彼女はやはり当時はラムール≠フ雇われマダムをしていたわけですね」
「はい。これは当時のことですから、それから後、二年の間には、どんな変化があったか、まだつかめない点もありますが、昭和三十六年ごろに、彼女が本間貞治という男と結婚していたことはわかりました。ところが、この亭主のほうは、極東商船という会社に勤めていて、第三天竜丸という貨物船に、通信士として乗り組んでいたのです。ほとんどが外国航路だったということですから、一年のうち半分ぐらいは、家にも帰らなかったんじゃないでしょうか。彼女のほうは、書類によると昭和八年生まれということですから、昭和三十六年当時に二十八だったわけです。その年ごろで、子供もなく、いちおうの美人だったとすれば、亭主の留守中に体を持てあまして、バーの雇われマダムになったというのも、わからないではありません。亭主のほうも、すぐにあたってみようと思って、本社へ連絡させたのですが、あいにく日本にはおりません。しかし、あと一週間もすれば、香港経由で帰ってくる予定だということですが……」
桑原警部はここでいったん言葉を切り、三郎に何かの発言を求めるような視線を投げてきた。頭はずきずきしていたが、三郎はすぐに警部の言わんとすることに気がついた。
「桑原さん、それではここで妙なことも想像できるわけですね。船員という職業がら、その亭主のほうも、麻薬の取引に一役買っていたということも考えられないではありませんね」
「たしかに前の事件では、担当者もこの点には疑問を持ったようです。かなりのところまでつっこんでみたというのですが、証拠はぜんぜんつかめなかったので、その線の追及は、あきらめたということでした……まあ、実の兄妹だったとしたら、彼女が兄のために、弁護を頼みに行ったとしても、理屈は通りますよ。しかし、亭主のほうがこの事件にはぜんぜん無関係で、痛くもない腹を探られたのだとしたら、義理の兄のこの犯罪には、かんかんになって怒ったことでしょうね。もしこの夫婦の間に、離婚というようなことが、このとき起こったとしても、私は少しもふしぎだとは思いませんが」
「でも、実際には、そういう事態は発生しなかったわけですか?」
「会社のほうは調べを始めた段階です。何しろ、こちらの線の捜査は、きのうおそくから、やっと始まったところですから……ただ、ここで言えることは一つあります。もし、このときにごたごたがおさまり、正式の夫婦関係が続いていたとしたら、本間春江は、もう一軒の住所を持っていたわけですね。亭主が日本にいないときには、たとえば実家へ行っているというようなせりふでごまかせたとしても、日本へもどってきたときには、そっちの家で女房としての役目を果たさなければいけなかったわけですね。こういう言い方は変ですが、本格的に竜田の二号におさまることはできなかったということになります」
警部の言葉には何かの含みがありそうだったが、三郎がその意味を考えようとしたときに、そばの電話のベルが鳴った。三郎もそのときはぎくりとした。恭子からの連絡ではないかと本能的に思ったのだった。気のせいか、自分を見つめる警部の眼も、とたんに鋭さを増したように感じられたのだった。
第十三章 第二の死体
「あの……私、富永と申しますが、霧島検事さんにお願いいたします……」
電話機にこうささやいて、恭子はあたりを見まわした。
自分のほうから、検察庁へ電話をするときには、こういう偽名を使うことに打ち合わせはできていたのだが、いよいよとなると、たいへんな悪事を働いているような気がして、やはり心がいたんだ。
「はい、霧島ですが……」
電話から流れてきたなつかしい声は、つっぱなすようにそっけなかった。
「いま、たいへん重大な用件で、人と話しておりますので、用件だけをかんたんにおっしゃってくださいませんか」
誰かが三郎のそばにいることはわかった。恭子も涙が出そうなのを無理におさえて、
「はい……実は寺崎さんといっしょに、これからマドンナ≠フ鹿内さんに会おうということになったの。どうかしら?」
「そうですか。それもまあまあ結構でしょう」
「あなたは、昨夜、彼女に会わなかったの?」
「そうですね。いちおう話は聞いておきましたが……なんでしたら、また午後にでもご連絡いただけませんか」
「はい……」
恭子は溜息をついて電話を切った。もちろん事情はわかるのだが、こういうちぐはぐな話では、どうにも意思が通じなかった。
恭子がもとのテーブルへもどって、冷たくなりかけた紅茶の茶碗《ちやわん》をとりあげたとき、この店の淡紫色のガラス戸が大きく開き、寺崎義男がはいって来た。
床をするような足どりで、このテーブルへやってくると、息をはずませながら、
「お待たせしました。いま、事務所へ寄って、先生が現在扱っておられた事件をざっと調べてみました。むろん一目でこれというものは見つかりませんでしたが、なんとなく、くさそうな事件が、二つばかりありました。まず、その二つから調べにかかりましょう」
と言いだした。恭子にも、彼はいくらか自信過剰の気がありはしないかと思われたのだが、この熱っぽさが、いまは一つの救いなのだった。
「そちらのほうはあなたにお願いするしかしかたがないけれど、これから鹿内さんに会ったら、どんなことをたずねたらいいのかしら? あなたはどんな作戦をたてておいでなの?」
「僕には、どうもこの女が警察官に話したという証言にインチキがありそうに思われてたまらないんですがね」
義男はいくらか充血した眼を上げて、天井の一画を見つめ、思いがけないことを言い出した。
「どうして? どこがおかしいの?」
「あらゆるところにおかしな点がありますが、まず第一に不審なのは時間の問題ですよ。彼女の証言によると、先生は午前一時ごろアパートに現われ、二時ごろにお帰りになったというんでしょう。午前の二時に、外へ出る――いちばん半端な時刻ですね。それから朝まで、先生はどこでどうして過ごされたんでしょう?」
「宿屋かしら? それとも……」
「妙な言い方をするようですが、この女が、先生は朝まで自分といっしょに寝ていた――とでも証言したのなら、僕はかえって信用しますがね。どうせ、ああいう女は高級娼婦ですよ。ただ、相手の選択に、いくらかでも自分の意思が働くというだけでしょうね。その女に、先生は一万円も投げ出したというのでしょう。ご自分がいちおう最後のお客だったというのでしょう。もちろん、事件のことは、誰にもわかっていなかったわけでしょう。そうしたら、ここで朝まで過ごすのがあたりまえでしょう。どんなに気がたかぶっておられたとしても、ここからまた夜の街へさまよい出て、朝までべつの休み場所を捜されたというのは全く不自然です」
「そういえば、たしかにそのとおりね……」
恭子もこのときは、寺崎義男を見なおしたくらいだった。足を使って、いろいろな情報を集めて歩くような場面ならばともかく、こういう分析や判断に、これほどの才能を発揮するとは思ってもいなかったのだ。
「でも、この人は、そういうことを言っては、格好が悪いと思って、きれいごとを並べたんじゃないのかしら……警察でも、そういうことは察していても、事件の本筋には関係がないと思って、見のがしてしまったんじゃないのかしら?」
「ところが、このさい、先生が二時にこのアパートを出たか、それとも夜が明けてから出て行ったかの違いは、捜査の本筋の右左を決めるような重大な違いですよ。警察としては、おそらく何度かだめを押したでしょう。それに対して、彼女のほうは、強硬すぎるくらい強硬に、一時――二時説をくりかえしたにちがいありませんね」
「でも、たとえばその点をつっこむんでしたら、いまのお話だと専門の警察官だって、手を焼いたはずだとおっしゃるんでしょう。それを、私たち素人が、二人で押してみたところで……」
「お嬢さん、僕はこの女に対しては、まだいろいろと疑惑を持っているんです。いまお話しした時間の問題は、その中のほんの一つなんですが」
寺崎義男は、いくらか気を悪くしたような調子で言った。
「ただ、最初から私立探偵としてのりこんだんじゃ、玄関払いがいいところでしょう。といって、お客としてのりこんだんじゃ、手間とお金がかかってらちがあきますまい。だから、お嬢さんにいっしょに行っていただいて、最初の第一印象と足がかりをつかもうというわけなんです。僕を従兄として紹介してくださることはよろしいですね。もし、きょう、なにかおかしなところを発見したら、あとはぜんぜん別な角度から食いさがってみるつもりですが……」
恭子たちが、鹿内桂子のアパートへ着いたのは十二時十五分過ぎだった。あちらこちらでたずねまわって、このアパートを捜しあてるのに案外時間がかかったのだ。
このアパートは、二階二軒、一階二軒がおのおの独立の出入口を持っている建て方だった。鹿内桂子は、その右側の二階に住んでいるということだった。
表の外側の階段を上がって、ドアの前に立つと、寺崎義男はベルもおさず、ノックもせず、そのノブに手をかけた。そして、とたんにはっとしたように、恭子のほうへふりかえり、
「どうもこの仕事を始めてから、妙なくせがついてしまいました」
弁解するように言って、それからベルを押した。しかし、しばらくはなんの返事もなかった。
「お留守かしら? それともまだ寝ているのかしら?」
「変ですね。これが、けがの功名というやつかもしれませんが、たしかにドアには鍵《かぎ》がかかってはいませんでしたよ」
寺崎義男は首をひねり、またベルを押しつづけた。
「おかしい……これはおかしいな」
「ご近所へお買物にでも出かけたんじゃないかしら?」
「僕にはどうもそうとは思えませんがねえ」
と言いながら、義男はぐっとドアをあけ、するりと中へすべりこんだ。
「寺崎さん……」
恭子は心配になって、あたりを見まわしたが、幸いに、自分たちを見ているような人影も見あたらなかった。
「お嬢さん!」
そのとき、部屋の中から、寺崎義男の思いつめたような声が聞こえてきた。
「これを、これをごらんなさい……」
恭子も何か眼に見えない力に誘われるような思いで、部屋の中へはいりこんだが、右手の洋間をのぞきこんで息をのんだ。
椅子《いす》のうえにすわった女が、海老《えび》のように背中を曲げて、テーブルの上にうつぶしている。洋服の開いた背中の肌の色は、気味悪い青白さだった。そして、その首には赤い紐《ひも》がまるで蛇のように……。
「まあ……」
恭子もさすがによろめいた。こういう変死体にぶつかったのは、生まれて初めてのことだったし、このところ神経がまいりきっているだけに、失神しそうになったのだった。
「お嬢さん……」
後ろをふりかえった寺崎義男は、抱きしめるようにして、恭子の体をささえてくれた。
「こんなところへ来ていただいて、すみませんでしたが、僕も自分の眼が信じられないような思いでしたから……」
私立探偵といったところで、日本ではこういう殺人現場にぶつかるようなことはほとんど絶無なのだろう。寺崎義男の声も完全に上ずっていた。
「死んでいるのね。殺されて……」
「そうです、完全な他殺です」
「これが鹿内桂子さんなのかしら? 私たちが訪れてきた相手の……」
「そうだろうとは思います。あいにく、僕は彼女の顔を知らないのです……」
寺崎義男は、やっと気がついたらしく、恭子の体から手をはなした。
「とにかく、警察へ知らせなければいけないのね……」
「そうです。ただ問題は、この殺人が、前の殺人と、何かの関係があるかないかということになってくるでしょうが……」
ひとりごとというよりも、譫言《うわごと》のような調子で、寺崎義男はつぶやいていた。
「すみません。お嬢さん、ちょっと一服するあいだ待ってください。警察へとどける前に、お嬢さんと打ち合わせておかなければいけないことがありそうですが、頭が混乱してしまったので……」
「どうぞ」
恭子は死体のほうから眼をそらし、壁につかまったまま答えた。
寺崎義男は、ほんとうに煙草を取り出し、火をつけて一服、二服、紫煙を吸いこんでいたが、
「もちろん、警察がやって来たら、僕たちがなぜここへ訪ねてきたかということは聞かれますね。そのときは、なんと答えたらいいでしょう?」
「ほんとうのことを……ありのままを話すしかないでしょう」
「たしかに、正直は最良の策と言いますからね……」
寺崎義男の言葉には、何かの含みが感じられた。恭子が必死にその意味を考えようとしているうちに、義男はまた口を開いた。
「お嬢さん、今度の場合、ただ一つだけ譲歩していただくわけにはゆきませんか」
「どこを、何を譲歩するのですか?」
「ここへ訪ねてきたのは、お嬢さんの発案だったということにしていただきたいのです」
「それはいったい、どうしてですの?」
「僕の発案だということになったら、僕がどうしてこの女のことをかぎつけたか、その情報源をさんざん追及されるでしょうね。僕に情報を提供してくれている警察のある人が、そうなると考え出すでしょうし、そうなると、僕はこれから後は、お嬢さんのお役にはたてなくなるかもしれません」
「そうね……そうなると困るわね。でも、私はどうしてこの人のことを知ったことにすればいいのかしら?」
「お嬢さんなら、ある意味で事件の当事者と言えるでしょう。ですから、『ある人からお聞きして』と頑張りとおせるはずですよ。先生が最後に会われた女がわかったら、会って話を聞きたいと思い立たれたところで、なにもふしぎはないわけです……」
恭子は大きくうなずいた。寺崎義男がどたん場で、自分の責任を回避しているというような気もしないわけではなかったが、その説明には十分筋道がたっているような気もしたし、いまこの人物の協力を失うことは何よりも辛《つら》かった。
「ええ、いいわ。私がこの話を持ち出し、あなたに護衛をお願いしたことにすればいいのね」
「お願いします。その方針で」
寺崎義男はかるく頭を下げ、死体のそばを通り抜け、ハンカチで手を包んでマントルピースの上の電話を取り上げた。
霧島三郎が、電話で桑原警部からこの殺人のことを聞かされたのは、午後二時五分前だった。
「なに! 鹿内桂子が……殺されたというんですか?」
昨夜ああして過ごしただけに、この衝撃は大きかった。三郎は最初、自分の耳を信じられないような思いがしたのだった。
「そうです。私もたったいま報告を受けたところです。おそらく、前の事件にも、何かの関係があるだろうと思われますので、とりあえず、現場へかけつけることにしました。彼女のアパートのほうですが、検事さんは?」
「僕もこっちから出かけましょう」
「それではむこうでお待ちします。場所は赤坂……」
「知っています」
「え?」
桑原警部は不審そうな声を出していた。
三郎も一瞬はっとしたが、自分が昨夜この女のアパートを訪ねたことはべつに隠さねばならないわけではないし、現場で事情を説明してもまにあうだろうと考えた。
「とにかく、すぐにかけつけますよ。今度の事件についてはいろいろお話ししたいこともあるのですが、それはお目にかかってからにしましょう」
三郎も電話を切って一息入れた。
「検事さん、また何か起こりましたね。現場検証ですか?」
検察事務官も、古狸《ふるだぬき》と言われるような存在になると、若手の検事などよりは鋭い感覚を持っている。北原大八も、いつもの居眠りしているような態度はどこかへ吹っとばしたように、眼を光らせて言いだした。
「うむ、車はあいているだろうか?」
「なにしろ、刑事部のクライスラーときた日には、外車と思えない珍車ですからね。いつ往生して、たちどころにポンコツ化するかと思っているのですが」
妙な悪口は言ったものの、北原大八はすぐに庶務課へ電話をして、ちょうど帰ってきていたこの車を確保した。
「君は、案外要領をおさえているね」
三郎は本心からこの事務官の初めて見せた一面に驚いたのだが、大八はそのとき、白い歯をむき出しにして笑った。
「検事さんは、銭形平次の捕物帳をご存じですか? 私はあのおかげで、がらっ八という異名をちょうだいしたのですよ」
三郎が北原大八といっしょに桂子のアパートへたどりついたとき、現場はたいへんな混雑ぶりだったが、桑原警部はその中から飛びだしてきて、玄関先で三郎に耳うちした。
「現場は写真撮影中ですが、あと五分もすれば終わると思いますから、それまでお待ちねがえませんか」
検事に対する尊敬は、十分に持ってはいるが、実地の捜査に関するかぎり、あくまで警察官の活動が優先するという考え方が、はっきり現われたようだった。
「かまいませんよ。ここで一服していましょう」
「すみません。しかし、今度の事件も妙です。私はきょうかあすにでも、もう一度、誰かにこの女を調べさせようかと思っていたのですが……まったく思いがけませんでした」
警部の顔色は、たしかにただの負け惜しみとは思えなかった。
「というと、この女には、何かの嫌疑があったのですか? 最初の調べのときには、まだはっきりしていなかった事実が判明したのですか?」
警部はなぜか、この質問に直接答えようとはしなかった。
「とにかく、死亡推定時刻は、昨夜、いやけさの一時から三時までの間でしょう。いちおう絞殺のように見えますが、毒物を飲まされているのではないかという疑いもあります」
三郎はかすかに身ぶるいした。この推定時刻は、彼がここを去った直後にあたっている。まさか、深夜を過ぎてから、ぞくぞくとお客がつめかけてくるようなことはなかろうから、自分が居たあいだにかかって来た電話の主が――と思ったときに、奇妙な肌寒さに襲われたのだった。
「それから、近くの者の聞きこみですが、被害者は昨夜十二時ごろ、かなりハンサムな青年といっしょにこのアパートの前で車からおりたようですね。きっと店から、かもを連れこんできたのでしょう。もちろん、この男が犯人だとは言いきれませんが、その疑いはかなり濃厚です。今晩にも店のほうを調べれば、その客の名前まではわからなくても、何か有力な手がかりがつかめるかもしれません」
「その男なら捜すまでもありません。僕ですからね」
ふだんなら、笑いだしたくなるところだろうが、三郎は苦い感情で答えたのだった。
「えっ、検事さんが……」
桑原警部もこの言葉には驚いたらしく、二の句もつげないというような表情で、三郎の顔を見つめていたが、たちまちていねいに頭を下げて、
「これはなんともおそれいりました。検事さんが、この女にそこまで眼をつけて、食いさがっておられたとは思いませんでした。それで、お帰りになったのは?」
「下宿へついたのは二時ごろでした。しかし、僕がまだここに居るあいだに、誰か男のところから電話がかかってきていましたから……それが犯人だったかもしれませんね」
警部は顎《あご》のあたりをなでまわしながら、しばらく考えこんでいたが、
「それで、検事さんは、この女が竜田弁護士を、このアパートへかくまっているのではないかとでもお考えになったのですか」
「いや、そこまでは思いませんでしたが……何か、そういう可能性でもあるのですか」
「そうなのです。事件以来、ずっととは言えませんが、彼がこのアパートで何日かを過ごしていたのではないかと思われるような証拠が、いくつか発見されてきたのです」
警部の言葉は、三郎の胸にまた新しい恐怖の種子をまき散らしたのだが、それは口には出しきれなかった。
「それに、今度の事件の発見者もおかしいのですよ。竜田弁護士の娘の恭子――検事さんも役所でお会いになったはずですね。その彼女が、例の私立探偵の寺崎といっしょに、さっき十二時ごろここを訪ねてきて死体を発見したのです。かたぎの弁護士の娘が、昼にいままで会ったこともない女給のアパートを訪ねるというのも解せませんが、ひょっとしたら、彼女は父親がここにかくまわれていたことに気がついたのではないでしょうか? そうでもなければ、この訪問の動機は、私には納得できませんがねえ」
第十四章 謎の進展
霧島三郎は検事になってから、殺人事件の現場へ検証に出かけたことも、これまでに十回近くに達していた。しかし、これほど恐ろしい思いで変死体に対したことは、さすがに一度もなかったのである。
桂子の死顔は、醜く苦痛に歪《ゆが》み、全体がはれあがっているようだった。絞殺に伴う自然の特徴だが、これが昨夜、この部屋で、彼に触れなば落ちんばかりの媚態《びたい》を示した女と同じ人間だとは思えないくらいだった。三郎には、昨夜の経験が、まるで一年も遠い過去の出来事のように思われたのだった。
北原大八は、神妙に両手を合わせ、死体に向かって何か口ずさんでいた。彼が熱心な日蓮宗の信者で、何か事があると、小声でお経をあげる習慣だということは、三郎もあとで知ったことだった。
「このコップのハイボールには、妙な苦みがあるのです。ストリキニーネが混入されているのではないかと思われるのですが、正確なことは鑑識の報告を聞いてみませんと」
桑原警部は、テーブルの上のコップを指さして言った。もちろん、中のウィスキーの銘柄まではわからないが、三郎はその琥珀色《こはくいろ》の液体を見ただけで、恐怖が胃のほうから喉《のど》のあたりへこみあげてくるような気がした。
「この棚のウィスキーの壜《びん》は一本一本調べてみる必要がありますね」
「はい、中身は全部調べてみますが、検事さんが昨夜おあがりになったのは、どれだか覚えておいでですか」
「ブラック・アンド・ホワイトだったと思いましたね」
「それだけは、このとおり、サイドテーブルの上に置きっぱなしになっているのですから、このハイボールも、それで作ったという疑いが濃厚になってくるわけです」
桑原警部は、今度は酒の棚の前の小さなサイドテーブルを指さして言った。
「すると、犯人は壜にではなく、コップのほうに直接薬を入れたのでしょうか?」
「わかりません。もちろん解剖してみれば、結果ははっきりわかりますが、肉眼で死体を見ただけではストリキニーネの中毒症状はわかりにくいのです。ことに絞頸《こうけい》を伴う場合にはなおのことです」
桑原警部はいかにもベテランの警察官らしい断言的な言い方をした。
「彼女は僕がいたときには、ワインしか手をつけなかったようですがね……」
「ハイボールは男のほうが多く飲む酒だということは認めますが……ときには例外もありますでしょう」
三郎は、桑原警部の返答の中に、一種の冷ややかさを感じていた。もちろんそれは、敵意とか隔意とかいうほど強いものではないにしても、検事に対する警察官の態度としてはなんとなく他人行儀で、必要以上に間合いを置いているように思われたのだった。
「とにかく、ワインのグラスのほうは、テーブルにはのっていないのですよ。まさか、最後は男と女が同じコップから飲み分けたということもないでしょうに」
桑原警部はひとりごとのようにつぶやくと三郎を隣りの六畳の日本間へ誘った。
「検事さんは、昨夜はこちらへはおいでになっていませんね」
「一歩もはいっていませんよ」
「まさか、その間、こちらの部屋に誰かが隠れていたような気配は、お感じにならなかったでしょうね?」
「まあ……むこうが息をこらして、じっとしていればわかりませんが、まさか、そんなことはないでしょう」
桑原警部はうなずいて、部屋の片隅の洋服|箪笥《だんす》の扉をあけた。
「ここに、男物の皮鞄《かわかばん》があったのです。それが竜田弁護士が行方不明になったとき、持っていたものらしいということは、中の書類やメモ、手紙などからわかりました。これはいったいどういうことになりましょう?」
「なるほど、それがいまあなたの言われた竜田弁護士隠匿説の証拠ですか?」
三郎も腹の底からしぼり出すような溜息《ためいき》をついた。
「とにかく、あの女が警察に対して嘘《うそ》を言っていたことは確かと言えますね。竜田弁護士は、この鞄に百万円の札束を入れ、ここを訪ねてきてまたすぐに去って行ったというのでしょう。その場合にはそういう貴重品を、彼が忘れて行くということも考えられなければ、彼女が隠してしまったということもありえないでしょうね」
「私もそう思います。少なくとも、きょうこの場では、この鞄の中に、そんな現金ははいっていませんでした」
桑原警部は、一言一言を強く区切るように言い終えると、三郎の顔を鋭い眼で見つめ、
「検事さん、私にはこの二つの殺人事件は、同じ犯人の手によって行なわれた連続殺人事件としか思えません。しかし、第一の事件にもそんなところがありましたが、今度の事件のほうも、殺人の意味がはっきりしないのです。もちろん、事件の発見直後の段階で、こういうことを強調しすぎてはいけないでしょうが……」
「殺人の意味というと、主として動機の問題ですね」
「そういうことになりましょうね」
警部は太い首を振り、いっそう深刻な表情になった。
「こう言ってはなんですけれど、われわれは一歩殺人の現場へ踏みこんだ瞬間に、これは痴情のはての殺しだなとか、怨恨《えんこん》だなとか、物とりが目的だったなとか、見当がつくことが多いものです。しかし、今度の、ことにこの第二の殺人のほうは、そんな匂《にお》いがぜんぜんこないんですね。たとえて言うと、無造作な理屈もなにもない殺人――そういう気さえするのです。これは動機のはっきりしている殺人より、ある意味ではずっと恐ろしいことですが」
警部は訴えるような眼で、三郎のほうを見つめた。
「幸い、検事さんはこの事件の起こる一時間ほど前まで被害者といっしょに過ごしておられたのですね。まず、そのお話をうかがいたいのです」
このアパートは同じ形式の二棟がいっしょで、管理人室は別棟の階下になっていた。
三郎は臨時の調べ室にあてられた管理人室の洋間で、桑原警部に昨夜のいきさつをいちおう話して聞かせたのだが、そのときは、自分が検事だということも忘れ、容疑者の一人になっているような気さえしたのだった。
「なるほど、新宿のほうは前もってご連絡いただいていましたが、その後、銀座から赤坂までおいでになったとは思っていませんでした。いや、決して皮肉を申すのではありませんが、それならけさ、私が検察庁へおうかがいしたときに、この女のことも一言ぐらい、おっしゃっていただいてもよかったろうと思うのですが」
皮肉ではないということわりが、逆に鋭い皮肉となっているようだった。三郎もさすがにむっとしたが、この点では、自分に弱みがあることも認めないではおられなかった。
「いや、僕の昨夜からの勘では、この女はこのまま個人的にもう一晩、つっこんでみるほうが、何かつかめはしないかという気がしたので……それで、僕の印象がまとまったら、あなたがたにもそのことを打ちあけ、正式に呼び出して捜査の軌道に乗せたら――と思ったのです。べつに、そのほかに深い考えがあったわけではありません」
「わかります。検事さんが慎重な態度をおとりになるお気持は、よくわかりますが、こういう事件が起こりますと、やっぱり愚痴の一つも飛びだします。まあ、けさそのお話をしていただいても、われわれとしては、この殺人を防止するわけにはいかなかったのですから、どうにもなりますまいが……」
桑原警部は、やっと三郎の行動に納得がいったらしく、いつもの協力的な態度にかえって、あれこれと報告や相談をはじめた。
彼が、鹿内桂子の竜田弁護士隠匿説を持ち出したのは、この鞄の発見からの推理だったらしい。いくつかの証拠といったのは、少しオーバーな表現だったらしく、その点では、警部もすぐに自分の早計と即断を認めた。
しかし、この鞄に関する疑惑は、それほどかんたんには解けなかった。
霧島三郎も桑原警部も、この鹿内桂子の言葉には、どこかに嘘があるという点ではたちまち一致した。
もちろん、警察で第一回の取調べを受けたときの話と、三郎に語った話の内容とに食い違いがあったとしても、それはたいして問題にもならない。桂子の昨夜の話にしても、あとで思い出したり、考えなおしたりした内容までつけ加えたものだとすれば、十分に前後のつじつまは合っているのだ。
ただ、この鞄の存在は、それでは説明できなかった。
最初の訪問のときに、竜田弁護士が、百万円を入れたまま、鞄を残したということはとうてい考えられない。桂子が何かの理由によって、竜田弁護士をかくまったとすれば、この鞄が残っていることは、いちおう説明がつくわけだが、それでは初めて会った三郎に、ああいう細かな推理まで話して聞かせたことがうなずけない。もちろん、三郎が検事だということは知らなかったにせよ、あのような打ちあけ話をすれば、その内容は、いつどこから警察の耳にはいるかわからないわけだし、それでは完全な意識の分裂になってしまう。竜田弁護士を助けておいて、一方で背中から短刀を突き立てるような裏切り行為となるわけなのだ……。
結局、この鞄のことに関しては、二人とも早急に結論を出してはいけないという点で一致した。ほかの点をじっくり掘り下げて調べたうえで、あらためて考えなおしてみてもおそくはない、という線に落ち着いたのである。
今度の事件では、ふしぎなくらい、両方の部屋に混乱の跡がなかった。三万ちょっとの現金、指輪や首飾、時計など金目のものも、ほとんどそのまま残っているようだった。もちろん、女の一人住まいだけに、盗まれた品物もないとは断言できなかったが、ただの物とりのしわざとは思えなかった。
いったん毒を飲まされ、意識を失ったところを絞殺されたとすれば当然かもしれないが、死体には抵抗や格闘の跡もなく、もちろん暴行の形跡もなかった。
たしかに、今度の殺人には、桑原警部が指摘したように、毒薬を用意するように計画的なものでありながら、目的も意味もはっきりしていないというような、ぶきみな矛盾がめだっていたのだった。
それでも桑原警部は、この間必死に、第一の事件とこの事件とを結びつけようとしていたらしい。
死体が解剖に運ばれ、関係者のいちおうの取調べが終わってから、桑原警部は三郎をつかまえて言いだした。
「検事さん、あの竜田恭子という娘には、少し不審な点がありそうですね」
「どうして?」
三郎は、わざと横を向いたままたずねた。
「このアパートへやって来たのは、彼女のほうの発案で、あの私立探偵さんにおともを言いつけたのだそうです。まあ、その点はいいとしましょう。問題はどうしてここへやって来る気になったかということですが、彼女の言うには、誰か知らない男から昨夜おそく電話があった。そして、この女を調べたら、事件の秘密が解けるから――と言ってくれたので、矢も楯《たて》もたまらなくなったとのことなんですよ」
「ほう」
三郎はゆっくりと、警部のほうに向きなおったが、警部はそのとき、三郎の肌に針を突き刺すような痛烈な調子で言った。
「話を聞いた刑事のほうも、あきれかえったと言うんです。顔を見ただけで、嘘をついていることが、はっきりわかったというんですよ。むかしなら、少しは大きな声を出して、嘘を言うな――ときめつけたところでしょうが、いまでは、そうもゆきませんしね。そういう点では、まだ私は鹿内桂子が竜田をかくまっていたという考えを捨てきれないのです。あの娘は、何かの拍子にそれをかぎつけ、父親に会いに出かけて来たという気がしてならないんですがね」
三郎はその晩、かなりおそくまで、渋谷署の捜査本部で過ごした。
この第二の事件、鹿内桂子殺しのほうは、まだ捜査が始まったばかりで、それこそ海のものとも山のものともわからなかったが、桑原警部の前の報告では、最初の犠牲者、本間春江のことについて、いろいろな情報が得られるはずだった。
もちろん、この第二の事件の突発で、捜査の手順にも何やかやの狂いが生じたために、調べが遅れたのも無理はなかったろうが、六時すぎには、熱海からもどって来た香具師《てきや》の小林準一が、捜査本部へ任意出頭して来て本間春江のことについて、いろいろと情報を提供したのだった。
彼の調べにあたったのは、泉俊六という部長刑事だったが、一時間ほどすると、別室で待っていた三郎と桑原警部のところへやってきて中間報告を行なった。
まず被害者の写真を見せて、確認を求めたわけなのだが、これにはなんの問題もなかった。泉刑事は、今までこの事件のことに気がつかなかったかとつっこんだのだが、小林準一は、なにしろ新聞もろくに読んでいませんでと、とぼけるようにして逃げたというのだった。
次に、本間春江とマダム時代の行状について調べが行なわれた。
小林準一が春江と知り合いになったのは、その兄の浅川清吉の関係だったというのだが、これも想像どおりだった。夫が船員で年じゅう退屈しているために、雇われマダムになったというのも、いたって常識的だった。
春江のマダムとしての勤めぶりも、まあまあというところだったらしい。美貌《びぼう》の中にちょっと寂しい陰影を持ったタイプは、中年以上の男には評判がよかったようだが、最初のうちは、べつに浮いた噂《うわさ》もなかったということだった。
そのうちに、浅川清吉の事件が突発した。この事件の内容について、小林準一はぜんぜん知らなかったというのだが、ことが発覚してからは、いろいろと相談にのってやったというのである。
「そこで初めて、竜田弁護士の名前が出て来るわけなのです」
泉刑事は、メモを見つめながら報告した。
「これも小林の紹介かと思ったのですが、その点は違いました。春江のほうが、知合いの店のお客を通じて頼みに行ったのだそうです。まあ、この種の事件は、弁護士の腕によって、刑が違うということはそんなにありませんから、小林もべつにおせっかいもしなかったというのです」
「それで、竜田を紹介したお客というのはわからないかね」
桑原警部は、むだを承知でだめをおしておこうというような顔でたずねた。
「小林の記憶では、それは須藤俊吉というお客だったというのです。なんでも、竜田弁護士の長男とは長い友だちだということですから、刑事事件で、女から相談を持ちかけられるようなことがあったら、竜田の名前を思い出すことは自然な話でしょう」
刑事の話はいたって事務的だったが、三郎はこの話を聞きのがしにはできなかった。須藤俊吉が、春江のお客で、しかも、竜田弁護士に最初の橋渡しをしたという事実があれば、なにか眼に見えない交渉が最近まで続いていたということも考えられる。それが、あのときの恭子に対する謎《なぞ》の言葉となってもふしぎはないことだった。
少なくとも、これで須藤俊吉に対して公式に調べを開始することは可能となったのだ。これだけの事実がはっきりしてからなら、もし自分が検察庁へ彼を呼び出しても、私情がまじっているなどと言われることはあるまいと三郎は思っていた……。
「裁判のほうは、半年ぐらいかかって、いちおう落ちつくところに落ちついたわけですが、その間に、春江と竜田弁護士との間には、肉体的な関係が生じたらしいのです。小林のほうも、自然にそれには気がついたらしいのですが、べつに干渉することでもないから、黙っていたということでした」
「彼は黙っていたとしても、その子分みたいなやつが、かるい脅迫ぐらいはしたかもしれないな。相手が弁護士でなかったら、小林自身もゆすりにのりだしたかもしれないが」
「黙っていた――という言葉には、たしかにそんな含みもありそうでした。ところで、春江はこの裁判が終わってから、二か月ほどして店をやめたのだそうです。弁護士の費用は、最初小林から借りたというのですが、それもこのとき、きれいに全部返したそうです。そのとき小林はいちおうひきとめたというのです。まあ、ほかの店なら、実の兄が麻薬の取引で刑務所へ行くようになるといったら、それだけでくびにしたかもしれませんが、ああいう店では、そんな野暮なことは言わなかったでしょう」
「それで、小林のほうは、そのとき春江の今後の方針について、いちおうたずねてはみたのだろうな?」
「彼はこう言っておりました。べつに深い意味もなく、
『これからは竜田先生のお世話になるつもりかね』
とたずねたそうですが、春江はそのとき、首を振っていたようです。そういうことになったら、自分は殺されてしまうだろう――と恐ろしそうに言っていたそうですが、今度の事件では、それが事実となったわけですね」
桑原警部はそのときまで、両眼を閉じて、体を小刻みにゆすっていたが、とたんに眼をかっと見開いて、三郎のほうを見つめてきた。
「検事さん、この一言は妙ですね。かんたんに考えたら、たとえば精力の強すぎる男に、女が悲鳴をあげるときのような、なんでもないせりふですが……泉君、小林はそのとき、春江にこの言葉の意味をつっこんでみなかったのだろうか?」
「彼らは、われわれ警察官以上に、斬ったはったや、殺す殺されるという物騒なせりふには慣れているわけですからね。小林のほうも、べつになんとも思わずに、聞きのがしにしてしまったというのです……ところで、警部さん、ご承知のように、彼らはこういう場合でも、警察には最小限度のことしかしゃべろうとはしませんよ。自分には直接関係のない事件についてもです。私の勘では、小林は本間春江と竜田のことについては、もっと深い秘密を知っているように思うのですが、私の力ではとうてい探りきれません。これはどうしたらよろしいでしょう?」
第十五章 暴力の背後に
しばらく、重い沈黙が続いた。それから桑原警部が口を開いて、
「検事さん、これはどうしたらいいでしょう?」
君に任せる――というような一言を予想して、儀礼的にだめ押しをしているような調子でたずねてきた。
「そうですね。僕がちょっと自分で調べてみましょう」
三郎は、さっきから心に食いこんでいた衝動を押さえきれなくなって、こう答えたのだが、桑原警部は、このとき、ちょっとびっくりしたように眼を見はっていた。
たしかに、この段階で、この程度の参考人を、検事自身が取り調べるということは、違法ではないが異例に属することだった。第一線の捜査担当者が、心に何かの抵抗を感じるのも無理ではなかったが、三郎のこのときの衝動は、多少の無理ならおしきってもという程度に強力なものだった。
「何か、お心あたりのことでもおありですか」
「べつに、これという点はありませんが、人が変われば、むこうの返事も変わるのではないかと思いましてね」
警部の顔は、ほんのわずかだが赤らんだ。三郎がひとりで鹿内桂子のところを訪ね、あそこまで切りこんだ事実など考えあわせて、まだ自分にも打ちあけていない切札などを持ちあわせており、わざとそらとぼけているのではないかと、悪くかんぐったのかもしれない。
「わかりました。では調べていただきますが、その前にご参考になるかもしれないことをちょっと申しあげておきましょう。このことは、いずれご報告しなければと思っておったのですが」
「どうぞ」
「香具師の溝口一家の親分、溝口伸太郎には黒沢大吉氏の息がかかっていると言われています。もちろん、これは今度の事件とは、なんの関係もないことでしょうが」
「黒沢大吉というと、政治家の?」
「そうです」
桑原警部も、ちょっと苦い顔をしてうなずいたが、三郎もそのときはさすがにぎくりとしたのだった。
黒沢大吉といえば、何度か各省の大臣にも名前を連ねたことのある有名な政治家なのだ。現在、すぐに次の首相候補としてあげられるほどの超大物ではないとしても、政界の一つの惑星として、その名前は何かことあるごとに話題にのぼってくる。
年は五十ちょっとなのに、思想も現役の政治家としては最も右翼的で、共産党あたりからは、眼の仇《かたき》にされているという話も、三郎はちょっと耳にしたことがあったが、それならば、香具師や右翼団体と、ある程度のつながりがあるとしてもうなずけないことはない。ただ、桑原警部が、こういう瞬間に、この政治家の名前を持ち出したことに、三郎は一種の漠然たる不安を感じていた。
「溝口伸太郎が、一家をついだのは昨年の夏のことでしたか、その襲名披露のとき、現職の大臣からの花輪や祝辞があったというので、新聞が問題にしたことがありましたね。そのときの筆頭が黒沢さんだったのです。警視庁でも暴力関係の担当者は、かなり憤慨していました。まあ、政治家にしてみれば、誰の一票でも票数に変わりはないわけですし、どういう組織のものでも、組織票となるとありがたいのですから、こういう個人的なつきあいにまで、眼にかどたてる必要はないのかもしれませんが……」
桑原警部は、何かの含みを残すように、言葉を中途で切った。
小林準一というのは、年のころ四十五、六の蛇のような眼を持つ男だった。左の顎《あご》のあたりには、五センチぐらいの切り傷の痕《あと》があり、テーブルの上にのせた左手の指も二本、一節ずつ欠けていた。渋い和服の着ながしという格好にも、いくらかはったりじみたところが感じられた。
「検事さんに、こんなことでじきじきお調べをいただくとは光栄ですな」
最初の言葉から、一種の毒気がこもっていた。同じ検事でも、お前みたいな若僧ではと言わんばかりの敵意がある。
三郎も腹にぐっと力をこめて尋問を始めた。
「妙なことをおうかがいしますが、あなたに前科はありますか?」
「殺人罪前科一犯、昭和二十三年に五年の言渡しを受けて、宮城でつとめてきましたよ」
両眼に激しい怒りの色をたたえ、吐き出すように答えてきた。
「単純殺人罪ですね?」
「そうです。何しろ、あのころは世の中もおちついておらず、私も血の気が多かったので、喧嘩《けんか》のはずみで、短刀などを持ち出したのが悪かったのです。相手は興行師でしたが」
「溝口一家には、そのころから加わっていたのですか?」
「そうです。あのころ、私は復員してきて、職もなく、うろちょろしていましたからね。はははは、五年の兵隊生活では、人殺しばかり教えこまれてきましたから、平和になってもすぐ食っていく道も見あたりませんでしたし、ある意味で、私などは戦争犠牲者の一人だったといってよいかもしれませんな。検事さんのような年ごろでは、おわかりにならない点もありましょうが」
「それで、溝口一家では、あなたはどういう地位なのです」
「実子分です。もっとも香具師という仕事は、むかしとは性格が変わっています。これだけ世の中が落ち着いてくれば、露天でテントをかけての商売は、できても微々たるものですからね。だから私も女房に喫茶店をやらせて、そちらで生活をたてているわけです。一家といっても、それはまあ、精神的なつながり、親類一族の関係のようなものですな」
三郎も予想していたことだが、小林準一はとぼけた態度を崩さなかった。香具師は純粋のやくざに比べて、話術では一日の長がある。取調べの相手としては、かなり手ごわい点もある。
三郎は、その追及をあとまわしにして、本間春江のことについてたずねはじめたが、小林準一のとぼけぶりはいっそうひどくなってきた。さっき泉刑事の報告した話と同じ内容を、ちょっと表現を変えてくりかえすばかりで、突っこむ隙《すき》も与えなかった。
それだけではなく、彼は三郎のような若い検事には、恫喝《どうかつ》戦法のほうが効果的だと思い出したのかもしれない。デスクの上に頬杖《ほおづえ》などつき、煙草を吸いながらの応答に移ったが、その両腕からは、青黒い刺青《いれずみ》がたえずちらついていたのだった。
その二の腕の内側を見たとき、三郎は天啓のような一つの考えに思いあたった。
「あなたはりっぱな刺青を彫っていますな」
「これですか。馬鹿なまねかもしれませんが、江戸の花、男の紋章ですからね。全身を三七、二十一日で彫りあげたというのが自慢の一つです。黒沢先生にも、それだけのがまんがあれば、どんなことでもできるだろうと言われたものです」
ここで黒沢という名前がとび出したのも、威嚇の一つにちがいなかったが、三郎はそんなことなど気にもとめなかった。
「なるほど、ふつう全身の刺青は、半年から一年かかるそうですね。それを一月たらずで完成したとは、ずいぶん無理をしたものですね」
「その無理ながまんをしてのけるのが男です」
「しかし、それには、ほかの力の助けもあったでしょう」
小林準一の両眼には、初めて不安の色がただよいはじめた。
「刺青で無理をするときには、痛さを少なくするために、墨にコカインをまぜることもあるといいますね。それも小さなものだとか、長い時間をかけて彫りあげるならともかく、全身彫りを一月たらずで仕上げるような場合なら、コカイン中毒も起こしそうですね」
「…………」
「その腕の内側、刺青のない白い部分の注射の痕は、それはなんです? たこのようになっているところをみると、かなりの量を連続的に注射しているようですが、ビタミンか何かでも愛用しているのですか?」
「検事さん……」
「コカイン中毒の人間が、モルヒネ、ヘロインのような薬の中毒に移行する例は珍しくないようですね。麻薬患者というものは、だんだん強い刺激を求めていく傾向があるからでしょうな。ただ、麻薬というものに関しては、自分が自分の体に射《う》ちつづけているだけでも、犯罪を構成するのですよ」
「検事さん!」
小林準一の声は悲鳴に近かった。三郎はゆっくり立ち上がって、鋭い声で言いきった。
「小林準一、君を麻薬統制令違反の容疑で逮捕する」
もちろん、これは、三郎の真の狙《ねら》いではなかった。ただ、三郎は彼の今までの答弁から、小林またはその背後の溝口一家が、今度の殺人事件に何かの形で深い関係を持っていると、本能的に悟ったのだ。しかし、五年の刑務所生活の経歴を持ち、全身の刺青を自慢するような男では、ただの方法で泥を吐かせることは無理だと思ったために、強引に拘留処分に持ちこみ、禁断症状に追いこんで、何日かの間に勝負に出ようという強硬策をとったのだった。
三郎のこの逮捕命令は、桑原警部に電撃的なショックを与えたことは事実だった。しかし、検察官の腹をきめた決断に対しては、警察官がまっこうから反対することはほとんどありえない。そして、彼を禁断症状に追いこむのが一つの狙いだと、三郎が言ったときには、警部も膝《ひざ》をたたいていた。
「なるほど、それなら中毒の程度にもよりけりでしょうが、二日の間には、そろそろ症状もあらわれてきますな。そうなれば、医者に診察させたうえで、麻薬常用者のレッテルをはってやることもできます。私は係りが違いますからくわしいことは知りませんが、いままでも、麻薬関係の犯罪は、中毒患者が何かの容疑で逮捕され、禁断症状の苦しまぎれに、泥を吐いたことから発覚した例が多いようです。ことに彼の場合は、麻薬関係者だとすると、かなりの大物になってくるでしょうから、かりにこの事件に直接の関係はなくても、相当の規模の麻薬事件が暴露するかもしれません。いや、恐れいりました。検事さんがそこまでお考えのうえ、彼をお調べになったと思いませんでした」
「いや、これが成功したなら、それこそ、けがの功名といえるかもしれませんがね」
三郎もあえて、自分の功を誇らなかった。
「しかし、彼が麻薬中毒の患者だとすると、あの内妻の友永より子のほうも、中毒患者だということは、それこそ九分九厘までたしかでしょうな」
「女房のほうも一月足らずで、全身に刺青を彫ったのですか?」
「刺青のほうも、女だてらに凄《すご》いものを背負っているという話は聞いていますが、原則として、麻薬夫婦というような言葉があるくらい、肉体関係のある男女では、一方が中毒で、一方がなんともないということはないのですよ」
警部はゆっくり煙草に火をつけて、
「麻薬中毒にかかると、初期のあいだは別として、急速に性欲が減退するそうです。そして嫉妬心《しつとしん》や猜疑心《さいぎしん》のほうは、とたんに激しくなるといいます。自分の性的な能力では、いままでのように、相手の欲望を満たしきれなくなっていて、それで相手に逃げ出されることを恐れたとしたら、相手を自分と同じ体にして、今までとは別のきずなで結びつけようとするしか手はなくなるでしょう。意識的か無意識的かは別として、麻薬夫婦というのはそうして生まれ、またそれが、彼らの周囲に新しい無数の中毒患者を作り出すきっかけになるのですね」
と一言一言、腹からしぼり出すような調子で言った。
「いや、検事さん、今夜は恐れいりました。あいつのようなしたたか者を、どうして料理なさるのかと、横からはらはらしていたのですが、刺青から麻薬の線へ持ちこんで、逮捕すると噛《か》ませたあたりでは、胸がすーっとしましたよ」
二人で渋谷警察を出たとたん、北原大八は三郎の耳に口を寄せてささやいてきた。
「それも大したことではないが、君もきょうは疲れたろう。どこかで一杯飲んでいこうか」
時に応じて、女房役の検察事務官をねぎらってやることは、検事の心得の一つになっている。三郎も、今夜がそのいい機会だと思ったのだ。
「おともします。ご散財をおかけしますね」
大八はべつに遠慮もしなかった。二人は、そこから渋谷駅のほうに出て、道玄坂の中ごろから右に折れしのぶ≠ニ看板の出ている小料理屋へはいった。
北原大八は、なかなかいける口らしく、たちまち五本のお銚子《ちようし》が空になった。
「検事さん、こう申してはなんですが、私はあなたが気に入りました。こうなれば、このがらっ八も犬馬の労を惜しみませんよ」
大八は、しゃべり上戸《じようご》の口らしい。声は低いが、ねっとりとした調子で、口説くように言いだした。
「ほう、それはまことにありがたいが、僕はまだまだ検事としては未熟な男だよ」
「いいえ、そうおっしゃるうちがよいのです。検事が検事くさくなった日には、それこそどうにもなりませんよ」
酒のせいか、北原大八の言葉は、検察事務官としては少し脱線してきたようだったが、三郎はそれをとがめる気にもなれなかった。
「検事くさい検事とは、どんなことだね?」
「仕事のことを第二にして、出世のことばかり考えたがるおかたのことをいうのですよ」
大八は、日ごろの鬱憤《うつぷん》を一気にぶちまけるような調子で、
「検事さん、いや霧島さん、あなたはあいつが黒沢大吉の線につながることを承知で、逮捕にふみきられましたね。その追及を最後までやりぬかれるおつもりでしょうね」
「それはもちろんのことじゃないか」
「その当然と思われることが、当然でなくなるところに、いまの日本の検察庁の病根の一つがあるのですよ」
「ほう、それはいったいどんなことかね?」
「名前は申しあげませんが、いま弁護士になっておられる検事さんが、あるとき酒に酔ったはずみに、私に漏らされたことがあるのですよ。日本の検事で出世しようと思ったら、政治家の弱点をうまく押さえ、それを道具に利用するのが最善だろうと、憤慨しておられたものなのです」
「君は酔ったな。その話はまたあらためて聞こうじゃないか」
少し離れているといっても、ほかにお客もいないではなかった。三郎もいくらか、はらはらしたのだが、大八の言葉はおさまらなかった。
「いや、もう少し聞いてください。とにかく、その人の言われるには、日本の検察庁が、選挙違反や、汚職関係を眼の色を変えて追いまわすのがおかしいというのです。いや、それが悪いというのではない。その追及が、ほとんどいつでも竜頭蛇尾《りゆうとうだび》、中途半端な段階で終わるのがけしからんというのです……」
三郎は、大八の言葉に、一種の恐怖を感じはじめた。
「つまり、そういう事件では、ほとんどが政界の大物に直結するようなことを最初は言いたがる。また、実際にそういう可能性も多いというのです。ところが、結果論として、追及の手が、そういう大物に及ぶことは、百に一つあるかないか、もちろん証拠不十分で検事としてはどうにもできない場合も多いとしても、その何割かは、政治的な工作でもみ消されているのだというのですよ」
「なるほど、そういうこともないではなかろうな。僕は幸い、いままではそんなことを考えるような羽目に追いこまれたことはなかったが……」
「しかし、戦争前には、政治家の弱点をつかまえて、それを一つずつ握りつぶして恩を売り、検事総長から総理大臣にまでなったおかたもあるというんですよ」
大八は、興奮したのか、テーブルを拳《こぶし》でどんとたたいて、
「私は、さっき、ふわっと思いましたね。黒沢大吉という名前が出たときに、これはえらいことになりはしないかと」
「というと?」
「黒沢代議士の資金源というやつには、何かしら、奇怪な噂《うわさ》が流れているからですよ」
まだ完全に酔いきってはいないのだろう。大八はちょっとあたりを見まわして、
「それは政治というものに、眼に見えない金がかかることは、誰でも認めてはいますとも。表むき、税務署が調べられるような収入で、政治家が政治活動を十分にやってのけていると考えるようなおめでたい人間は、日本じゅうに一人もおりはせんでしょう。名目がどうあったところで、財界のほうから、莫大《ばくだい》な金が政界に流れこむことは、常識中の常識ですね。ひどい政治家になってくると、そういうふつうの方法ではまにあわないのか、密輸のような犯罪にまで、手を出している人間さえあるそうですね。たとえば、どこかの海岸で、夜釣りと称して舟を出す。そして港に停泊中の船から、ランチか何かで運んできた品物を受け取るというのです。いや、警察でもうすうす見当もついているのに、その政治家の一にらみを恐れて、手を出さないこともあるというじゃありませんか」
「北原君、よそう。そういう話は、飲みながらするものじゃない」
「飲まなければ、こんな話はできませんよ」
北原大八は、あくまでしつっこかった。
「しかし、私はその話を聞いたとき、まだ救いがあると思ったものです。なるほど、密輸という犯罪はたしかに違法だ。しかし、これでは、とくに被害を受ける人間はいませんからね。国家はたしかにいくらかの税金を損するわけですが、外国の優秀な製品を、正規のルートを通ずるより安く手に入れられたら、買手は喜ぶわけですからね」
「まあ、そういうことも言えるだろうね」
「検事さん、ところが、この資金源が麻薬の取引だとなってくると、これはおだやかじゃありませんよ」
北原大八の眼は燃えはじめた。
「麻薬患者の実態を、とくに禁断症状でのたうちまわっているところを、自分の眼で見た人間は、それこそこの世の地獄と思うでしょうね。人を地獄へ追いこんで、自分の私腹を肥やそうとする人間は、私は殺人犯人以上の極悪人ではないかと思います。まして、それを政治資金として利用し、出世しようという政治家は、私は反逆罪として死刑にしてやってもいいとさえ思いますよ。ところで、私の聞いている噂がほんとうだとしたら、黒沢大吉はすぐ今夜あたりから手を打ち出すでしょう。検事さん、さあ、覚悟はできておいでですか?」
短刀を突き立てられたようなこの言葉に、霧島三郎は新たな恐怖を感じていた。
第十六章 呪 縛
同じころ、恭子は複雑な気持で、ラムール≠フ店の奥のボックスにすわっていた。
なんといっても、女として、ああいう条件で女の変死体を発見したことは、たいへんなショックだった。そして、それから後の警察官の執拗《しつよう》な尋問は、その心身を綿のように疲れさせた。警察からいちおう解放されたとき、寺崎義男が腹の底からしぼり出すような溜息とともに、今晩は酒でも飲まなければやりきれない、と言いだした気持も、当然のことと理解できた。そして、義男が、どうせ飲むならラムール≠ナと言ったときには、かえって、その仕事熱心に感謝の気持を起こしたくらいだった。
それでも、最初は、ここまでついてくる気持はなかった。ただ、義男の労をねぎらうためには、食事ぐらいはごちそうしなければと考えて、食欲のないのをがまんしながら、夕食をいっしょにしているうちに、お嬢さんもいっしょにいかがですかと誘われて、ついふらふらと、まいりましょうと答えてしまったのだった。
それも一つには、過労と夕食のときのわずかな酒のせいで自制心をなくしていたため、一つには、これからひとりで家へ帰って、きびしい孤独に直面する瞬間をできるだけのばしたいという気持が働いていたためだろう。
寺崎義男は、自分はこの店では日東芸能≠ニいう会社の社員で寺本義一という名前だと名のりをあげたと言っていた。必要があれば、恭子も同僚だということにして紹介するから含んでおいてくれということだったが、恭子はただうなずいただけだった。
それでも、店へはいったときには、一種の恐怖心に似た気持も起こった。ほんとうならば、おそらく生涯に一度も足を踏み入れないような場所なのだ……。
それでも、甘いカクテルの酔いに、不安もいくらかうすらいだ。暴力バーという疑いもあるということだったが、恭子にはそういうバーとふつうのバーとの区別もつかなかった。まわりに展開されている光景も、映画やテレビで始終目撃している場面とぜんぜん変わったところがなかった。
義男は、ほかの女たちに、たあいもない話を続けていたが、狙《ねら》いがマダムの友永より子にあることは、恭子には、前からわかっていた。マダムが店へやってきたら、すぐ会いたいと、さんざんだめを押していたからだった。
「お待たせしました。何かご用ですの?」
と声をかけて、三十二、三かと思われる女が自分たちの横にあらわれたときには、恭子もちょっとぎくりとした。
やせぎすの、美しさというより凄《すご》さが先に立つ女だった。頬《ほお》の肉は落ち、眼は鋭く男のように光っている。声もつぶれて、いわゆるどすのきいただみ声という感じだった。
「友永より子さんだね?」
「そうです。あなたは?」
「日東芸能の社員で、寺本義一。加山社長からよくマダムの話は聞いているよ」
「そう、カーさんなら毎度ごひいきになっていますわ」
いくらか安心したように答えて、より子は義男のそばに腰をおろした。前身もはっきりしたことはわからないが、おそらく何年か、水商売の経験があるのだろう。煙草に火をつけるしぐさ一つにも、一種独特の凄艶《せいえん》さが感じられた。
「ところで、マダムに用事というのは、このうえもない密談でね。ひとつ、人ばらいをしてもらおうか」
「まあ、こわい。密談ってどんな話?」
「マダムをくどこうと思ってね」
「いやな人、こんなきれいなおかたを連れてらっしゃってるくせに」
かるく受け流したものの、寺崎義男の表情から、相当に重大な話だと察したのだろう。ほかの女たちを立ちのかせると、声をひそめてたずねてきた。
「なんのご用?」
「その前に、一言ことわっておくけれども、僕は加山社長には、個人的にもえらく信頼されているんだ。だからマダムの秘密でも、相当のことは知っていると思ってもらいたい。たとえば、マダムの背中の刺青《いれずみ》の写真だって見せてもらった。だから、体のどこにどういう絵があるかまで、言いあてられるんだよ」
「まあ」
より子は眉《まゆ》をひそめ、猫のように眼を光らせた。
「あれは若いころの馬鹿の傷痕《きずあと》。そんな話はよしましょう。いまではできるものなら、皮を全部はいでもらいたいくらい後悔しているわ」
このみじかい会話のやりとりにも、恭子は震えあがりたい思いだった。香具師の内妻で、姐御《あねご》と言われるような女なら、そのくらいのことはあってもおかしくはないと思ったが、わずかの間に、どこからどうして調べあげたのか、これだけの知識を身につけて、平然と芝居を続けていく寺崎義男が、急にそら恐ろしくなったのだった。
「ところで、密談というのはなんのお話? まさかわたしの刺青のご開帳をしろというわけじゃないでしょう」
「違う」
寺崎義男は、ゆっくり煙草に火をつけてあたりを見まわした。恭子に見せる、あのていねいな態度とは、人が変わったような凄さで、
「マダム、薬《やく》は手にはいらないだろうか?」
「ヤク?」
もちろん麻薬ということは了解したにちがいない。より子のやせた体はマラリアのように戦《おのの》き、両眼が燐《りん》のように光った。
「知らないわ。そんなもの、どこへ行ったら売ってるか……カーさんが、ここへ来れば手にはいるなんて、馬鹿なことを言ったの?」
「まあ、そういったところだね。何しろ、こっちは大勢の芸人たちの面倒を見なければならない体だからね。どうしてもジャズの連中なんかが、ああいう薬を使いたがるのかわからないが、なんとか無理をと頼まれると、ご無理ごもっともと言わなくっちゃならなくなるのが宮仕えの辛《つら》さだ」
「むこうでも、ジャズ・マンというのは、中毒患者が多いらしいわね。でも、それは自分の勝手でしょう。自分の射《う》つ薬は、自分で捜したらいいんじゃない?」
「ところが、彼らの仕入先に、このあいだ手がはいってね。しばらくは、ストックでつないでたらしいが、新しいルートを見つけなければ、もうどうにもならないというのが真相らしいな。まあ、プレーヤーの一人が病気で入院というのはしかたがない話だが、それではうちのドル箱にも大きな穴があきかねないしね」
義男がこうして話している間、より子の眼は心の秘密を見やぶろうとするように、何度も義男の顔と恭子の顔を往復していた。恭子も辛い微笑を浮かべて、妖女《ようじよ》のような視線に対したが、実はむこうの一睨《ひとにら》みごとに、心も背筋も冷たくなるような思いだった。
「マダム、お電話よ」
女の子が知らせにきたので、息づまるような緊張もやっとほぐれた。
「ちょっとごめん」
生地が出たような挨拶《あいさつ》をして、より子は立ち上がった。その後ろ姿を見送って、大きな溜息をつくと、恭子は義男の耳に口を寄せて、
「あなた、いいの? こんな恐ろしい芝居をしても?」
「いいんです。虎穴に入らずんば虎児を得ず、あの女にここでぶつかったからには、これだけの芝居も打たないと……くわしいことはまたあとで……おや?」
寺崎義男は、恭子の腕を押さえて顎《あご》をしゃくったが、恭子もふりかえって、ぎくりとした。
カウンターのむこうの端で、電話を聞いているより子の体が、大波のように震えている。むこうを向いているので顔は見えないが、左手でまるでしがみつくように、カウンターを押さえているのは、いまにも倒れそうな衝動を必死にこらえているらしい。
自分と違って、この女なら、たとえ死体を目撃しても、顔色ひとつ変えないのではないかと思えるだけに、電話一本でどうしてこんなに興奮したのかと思うと、恭子もたちまち鳥肌立った。
「妙だ……お嬢さん、これは何か、われわれの予想もしなかった不測の事態が起こったとしか思えませんね」
寺崎義男は、テーブルの上に体を伸ばして、恭子の耳にささやいてきた。
「ええ、ああいう人が、あれほどびっくりするからにはね」
「お嬢さん、僕の勘では、彼女はすぐにこれからここを出て、どこかへかけつけると思います。僕はその跡をつけてみますから、お嬢さんはひとりで家へお帰りください。お送りしようと思ったのですが、くわしいことはあとで電話でお知らせします」
「ええ……でも、あなたのほうは大丈夫?」
「商売ですから、へたなまねはしませんよ。それから、僕のしていることは発作的に見えるかもしれませんけれども、これには僕なりの筋道があるのです。ただ、今晩これからの行動は、多少横道にはいるかもしれませんが」
と言ったとき、電話をかけおわったより子がこちらへもどってきた。顔色が青ざめきっていることは薄暗い光線の中でもわかった。鬼女のような形相で、二人をにらみながら、
「わたし今晩は急用がおこったのでこれで失礼します。いまは何もうかがいませんでしたよ」
と上ずった声で言った。
この店を出て、寺崎義男と別れてから、恭子は夢遊病者のように、駅のほうへ歩きだした。男にとってはなんでもないのかもしれないが、真剣勝負のようなあんな場面に立ち会ったことはやっぱり恐ろしかった。
今度の事件が起こってから、一日一日、いや一時間一時間が、緊張と恐怖と不安の連続だったが、それもきょうは極限に来たような気がした。一分でも早く、家へ帰って横になりたいと思うのに、ふしぎなことに自動車を呼び止める気もしなかった。
「恭子さん、珍しい所で会いましたね」
後ろから声をかけられ、ふりかえったとき、恭子は危うく倒れそうになった。世界一いやな男と呼びたいような須藤俊吉が、冷笑するように唇の左端だけをつりあげながら、眼の前に立っていたのだった。
「あなたは……」
「あなたが僕を毛ぎらいしていることはよく知っていますよ。この間は、とんだ憎まれ口をきいてすみませんでしたが、実際問題として、僕の言ったような事態になってきたのですから、どうしようもありませんね」
恭子は口もきけなかった。なんとか反発したいのだが悪夢を見ているように、体じゅうの筋肉が一つとして、自分の思いどおりに動かなかったのだ。
「実は今度の事件について、あなたにお話ししたいことがあるのですよ。この間の様子では、電話をかけたところでたちまちガチャンと切られそうだし、といって、時間がたつにしたがって、機会は刻々逃げていくし、どうしようかと実はやきもきしていたのですが、偶然こんな所でお会いできたのも、いわば天与の機会でしょうな。どうです。ひとつお茶でも飲みませんか。それぐらいの犠牲は払っていただいてもいいだけのお話なんですよ」
「それでしたら、兄にお話ししてくださいませんか。私は兄から聞かせてもらいますから」
「ところが現在苦境にあるのは、僕ではなくって竜田家ですからね。僕が持っている一枚の切札を、いつ誰にぶつけるかは、僕の自由でしょう」
恭子は思わず唇を噛んだ。こちらの弱みにつけこんでくるようなこの言葉には、歯ぎしりしたくなったが、といって、この言葉の中には、奇妙な自信と人を引きこむような力がある。自分が辛い思いをがまんすれば、何かの秘密が解けるかもしれないと考えると、きびしい反撃もできなかった。
「どうです? お茶でも、お酒でも」
「お茶ぐらいならおつきあいします」
「お酒は、だいぶはいっておいでのようですしね」
このくらいの皮肉は、皮肉と思っていられなかった。恭子は黙って、近くのモンブラン≠ニいう喫茶店までついていった。
須藤俊吉は、コーヒーを二つ注文すると、
「どうも、あなたには僕はだいぶ誤解されているようですがね。これも僕に言わせれば、戦争中から戦後にかけての教育がなっていなかったせいですよ。僕と同じ世代の人間には、誰にでも、多かれ少なかれ、虚無的|刹那的《せつなてき》衝動的なところが、性格のどこかにひそんでいるんですがね」
「あなたの思い出話など、うかがってもしようがございません。早く、本題にはいっていただきます」
「おや、コーヒーも来ないうちにですか。すべて話には枕《まくら》というものがあるはずですよ」
と言ったものの、俊吉はそれほど気分を害した様子も見せなかった。逆に猫が鼠《ねずみ》に対するような残酷な優越感さえ見せながら、
「それでは逆に、結論から申しましょうか。僕はいまある人から、海外行きの手はずを整えてくれるように頼まれています。もちろん、僕は役人でも旅行社でもありませんから、正式な旅券を持っている人間の依頼を受けたわけではないのですよ」
と冷たい調子で言いきった。
「そのある人とは、父でしょうか?」
どんなに押さえようとしても、体の震えは止まらなかった。血を吐くような思いで、恭子はやっとこの言葉を口に出したのだった。
「さあ、そのことは僕の口からは申しあげられませんねえ。しかし、この世の中には、すべて表と裏があります。僕のように退廃無頼で通っている人間は、表は表、裏は裏、平気で二通りのつきあいができるものでしてね。まあ、その辺が身上でしょうが、ふだん、表通りしか歩いたことのない人間は、いざ裏通りへ飛びこまなければならないとなると、右左もわからなくなるのですよ。適当なガイドがいなければ、一歩も歩けないものです」
いやみたっぷりな饒舌《じようぜつ》だが、一方では妙な説得力もこもっていた。言葉の調子も、冷たい中にふしぎにねっとりした甘さがある。ふつうの女性だったら、たちまち引きこまれてしまうかもしれない。
「そのある人とは、父でしょうか?」
どうせ答えてはもらえないと知りながら、恭子は同じ質問をくりかえした。
「さあ、それは……ただ、僕がこの間、あなたにお話ししようと思った事柄の内容は、このさい申しあげてもいいでしょうね。僕は、あなたのお父さんの恋人だった本間春江という女を知っていました。彼女とお父さんとの関係がわかったときには、さあ、これはえらいことになるなと思ったものです。その線をもう少し押しつめていけば、どんな馬鹿にも、あなたと霧島検事さんの縁談が無事に成立するわけはないという推理はできるでしょう。こちらは、冷静な事実を述べていたつもりですが、それを脅迫ととるか、いやがらせととるかは、聞く人間の判断によることですね」
「それはどうしてなのですか?」
「まだわかりませんか。本間春江という女は麻薬中毒の患者だったからですよ」
それは、恭子にも、ぜんぜん予想できなかったことではない。しかし、こうして第三者の言葉として聞くと、それはさらにきびしい実感を伴って胸を刺した。
コーヒーが運ばれてきたので、二人の話は一時とぎれた。須藤俊吉は、ゆっくり茶碗《ちやわん》を口に持っていって、二口三口すすっていたが、恭子は水一滴|喉《のど》を通りそうにもなかった。
「僕も一時は、麻薬を打っていたことがあります。歯が痛かったとき、ある女にすすめられて注射したのがついやみつきになったのです。しかし、あとで入院して抜いてしまったから、いまではなんともないのです。あなたがこれを問題にしようとしても、時効が成立している話ですよ。ところが、本間春江が麻薬中毒だったなら、竜田さんが長期にわたって彼女と関係があった場合、無傷の体でいたということは、僕にも考えられませんね。あのとき、僕があなたにお話ししようとしていたのは、こんなことだったのですよ。できるなら、お父さんと彼女を別れさせたらと、そこまで忠告するつもりだったのですが、そう言ったところで、あなたは根も葉もない中傷ととったでしょうし、またそれを信じてくださっても、実際問題として、あの時点では実効はなかったかもしれませんねえ」
須藤俊吉は、魔力のこもったような眼で恭子を見つめ、催眠術師のような調子で言った。
「ところが僕は、今ではある人が麻薬中毒の患者だということを、推量ではなく、事実として知っているのですよ」
恭子は魂を抜かれた人間のような思いだった。ふつうなら、戦慄《せんりつ》を伴いそうなこの言葉も、ごく平凡な話のように感じられたのは、極度の緊張が続いたため、一種の放心状態におちいったせいかもしれなかった。
「それで、あなたは、私にどうしろとおっしゃるのですか?」
「そのある人と、お会いになる気はないかとおたずねしているのです」
「では、あなたは父が生きているとおっしゃるの? いまどこにいるか、知っているとおっしゃるの?」
「あなたのお父さんではなく、ある人です」
「私、考えさせていただきます……」
「そうですか? あなたはきょう、たいへんな目におあいになったようだし、疲れてもおいででしょうからね」
須藤俊吉は、カレンダー入りの腕時計を見つめて、
「しかし、これだけは申しあげておきます。その彼の計画というのは微妙そのものですから、これに関係のない第三者の都合で予定を変更するわけにはいきません。ですから、あなたの決断がおくれたら、東京で、その人と会う目的を達するわけにはいかなくなります。神戸か、それとも北九州に行っていただくことになるでしょう。なに、飛行機を利用すれば、どっちにしても、それほど時間はかかりませんがね。決心がついたら、お電話をください」
それから、須藤俊吉は新しい煙草に火をつけ、長い左手の指を、テーブルの上の空間で蠢《うごめ》かしながら言った。
「まあ、あなたはそんな馬鹿なことはなさらないでしょうが、こんな秘密のお話が、万一霧島検事さんのお耳にでもはいったと仮定しましょう。僕が検察庁へ呼び出され、この内容について調べられるようなことになったら、僕は断々固として、この話の内容を否定しますよ。偶然あなたと街で出会って、あなたが寂しそうにしていたので、それをなぐさめ、できるなら旧交をあたためようとしただけだと主張しますからね。録音もなければ証人もない二人きりの話では、どちらが嘘《うそ》をついていたかは水掛論、まさかこの程度のことで、嘘発見機を使いもしますまい」
須藤俊吉は一瞬の間を置き、とどめの一太刀を突きたてるような調子で言った。
「いいですか。ここのあなたの軽挙妄動は、直接その人の首を絞めるような結果になるのですよ」
第十七章 深 淵
恭子は打ちのめされたような思いで家へ帰ってきた。須藤俊吉はあれ以上深追いもしなかったが、この一日の経験は、恭子のような若い女性にとっては、体力気力の限界をはるかに越したようなものだった。
家では兄の慎一郎が待っていた。珍しくという言葉を使いたくなるくらい、こんな事件が起こっているのに、この家にいることが少ないのだ。
「どこへ行っていたんだね?」
相かわらず、酔いはまわっている。言葉の調子も気のせいか、こちらをとがめているように感じられた。恭子はいらいらしながら、
「お父さまを最後に見かけたという女のアパート、そこで彼女の死体を発見して、警察で調べられてくたくたになって、厄落としにやけ酒を飲んできたわ」
とたたき返すように答えた。
「なんだって?」
慎一郎もさすがに眼を見はって、
「彼女というと鹿内桂子か? 彼女はどうして殺されたんだ? 話を聞かしてくれないか」
「私、もうきょうはくたくたなのよ。めまいがして倒れそうなくらい、お話は明日にしていただくわ」
「うむ……」
無理もないことと思ったのだろう。慎一郎はそれ以上追及しようともせず、テーブルの上のウィスキーの壜《びん》をとりあげて、
「気つけに一杯どうだね。こういうときには、酒もたしかに百薬の長だよ」
とすすめてくれた。
「眠り薬のかわりにいただくわ」
恭子がグラスを取り上げたとき、そばの電話のベルが鳴った。慎一郎は受話器を取り上げ、二言三言応対して、
「恭子、寺崎君からだよ」
と言って、こちらに渡してくれた。
「お嬢さんですか? 寺崎です。いま|幡ケ谷《はたがや》におります。あのマダムの家の近くの公衆電話からかけているのです」
「ほんとうにご苦労さまでした……すると、彼女はあれから家へ帰ったのね?」
「そうです。あわてふためいて、僕が尾行していることも気づかないくらいでした。でも、家の様子はなんだかおかしいのです。大勢の男たちが出入りして……こういうときには、へたな張りこみもできません。何しろ相手が悪いので」
「旦那《だんな》さんでも急病になったのかしら、それとも家宅捜索がありそうだという情報でも伝わったのかしら?」
「そこのところは、ここではなんともわかりません。それでは、僕はへとへとですから、今夜はこれで失礼します。明日は朝から事務所へ行って、書類のほうを調べてみます……」
電話が終わると、慎一郎はこわいような眼で恭子を見つめてたずねた。
「なんだね? どうもお前の話の調子じゃ、ただごとではない様子だが」
「このお話も明日にしていただくわ。でも、今夜のところは、一つだけうかがいたいことがあるの」
「なんだね?」
「お父さまは生きているんじゃないかしら?」
慎一郎の体はかすかに震えた。そっとあたりを見まわしながら、
「お前は笑うかもしれないが、おれは今度の事件が起こってから、熊沢先生という霊能者のところへ行ってみたんだよ。いや、もう大した先生でね。おれは信用しきっているんだが、その先生のご霊視によると、おやじは生きて、いま、東京に隠れているというんだね。必ずどこかで会えるというお告げだった……。それで酒でも飲まないと、毎日やりきれないんだが、なんだってお前はいま急に、そんなことを言いだしたんだ?」
「そのお話も、明日……」
と言いかけたとき、また電話のベルが鳴った。受話器を取り上げた慎一郎は眉をひそめると、すぐ掌《て》で蓋《ふた》をして、
「霧島君からだよ。偽名を使っていても、彼の声だということは、僕にはよくわかる」
「まあ……」
電話は切替えもきくのだが、恭子はもうそこまで考えている気力もなかった。受話器を受け取って、
「はい、私です」
と答えると、いくらか酔っているようだが、なつかしい声がすぐ耳に飛びこんできた。
「僕だよ。きょうはたいへんだったね。なんとかして、顔だけでもと思ったんだが、みんなの手前、それもできなかった」
「私も……」
体をのりだすようにして眼を光らせている兄の手前、恭子も手短に答えるほかはなかった。
「きょうの事件のほうは、まだ五里霧中といったところだが、前の事件のほうは、かなり進展してきたよ」
三郎の語りつづける一言一言に、恭子は体をこわばらせながら耳をすました。三郎はかなり気を使って、万事控え目な言葉を使い、桂子の話の内容や、慎作の鞄《かばん》が発見されたことなどにはいっさいふれなかったのだが、そのせいか、恭子も自分には話してもらえない秘密があるなと、直感していたのだった。
「そういうわけで、ラムール≠フマスターの小林準一を逮捕させたんだ。麻薬中毒の患者だということは、まず間違いはなかろうから、きっと留置所で禁断症状を起こして、苦しまぎれに泥を吐くんじゃないかと思うな」
「まあ……」
それで友永より子があんなに狼狽《ろうばい》した理由も、やっと理解できたわけだが、自分のほうの経験は、いまのところ三郎に打ちあける気もしなかった。
「それから、君に一つ調べてもらいたいことがあるんだ。このことは、警察でほかの方面からでも調べあげないかぎり、僕だけの秘密にしておいて、ほかには漏らさないと誓うがね」
「はい、それはいったいなんでしょう?」
「君のお父さんは戦争中に、どこかで中国人を助けてやったことはないだろうか。むこうは、それをたいへん恩に着て、戦後わざわざ日本へやってきて、君たちの家を捜し出し、お礼を述べたというようなことはなかったろうか?」
「さあ、私は、戦争中は、まだ子供だったものですから」
「そういう事実があったとしたら、その中国人の住所と名前を知りたいんだ。香港あたりに住んでいるんじゃないかと思うがね」
「親類にでも聞いて調べておきます」
「それじゃあ、また……それから誤解はしないだろうが、僕はほんとうに君を愛しているんだよ。途中でどんなことがあっても、この気持だけは変わらない。おたがいにもう少しがんばろう。いまの苦しさを通り越したら、きっと、きっと、幸福がやってくるよ……」
三郎は泣いているようだった。その気持は非情な電話機を通しても、心にじーんと伝わってくるのだが、今夜は恭子はやさしい言葉を返せなかった。
「わかりました。それではお休みなさいまし」
「おやすみ、ゆっくり……」
電話が切れた瞬間に、慎一郎は鋭い調子でたずねてきた。
「恭子、霧島君は、いまお前に何をたずねるように頼んできたんだ?」
この質問には、恭子も答えないわけにはいかなかったが、慎一郎もさすがに顔色を変え、
「国外脱出……敵はそのへんを疑っているな」
「兄さん!」
「恭子、今度ばかりは兄として言わせてもらおう。おれはおやじとも仲が悪かったし、お前にとっては馬鹿兄だったかもしれないが、それでも子供としての最低の義務ぐらい果たすことは知っている」
「はい……」
「いいか、このことだけは絶対に、霧島君には漏らすなよ。むかし、武士の妻はたとえ親兄弟を敵に回しても、夫に貞節をつくすのが道だと言われていたようだが、いまは戦国時代でもない。竜田家は武士でもないし、お前はまだ霧島恭子ではないんだよ」
「はい……」
兄がこれだけ殺気だったところをみると、この中国人の住所や名前をあきらかにするような証拠はどこかに残っているにちがいない。恭子はもうこらえきれなくなって、その場に泣きくずれてしまった。
慎一郎は、なぐさめの言葉もかけず、そのままぷいと座を立った。三十分ほどして、いちおう涙もおさまったので、床につこうと思って部屋を出た恭子は、書斎の前を通って、はっと立ちどまった。
ドアの隙間《すきま》から、紙の燃えるような臭いがかすかに流れてくる。兄がこの中で、手紙か何かを燃やしていることはすぐにわかった。
恭子は、両手で顔を押さえながら、自分の部屋へ飛びこみ、そのまま蒲団《ふとん》の上にわっと泣きくずれた。
結婚したら、お互いの間に一つも秘密を持つまいというのが、恭子の心からの願いだった。それなのに、結婚前から道は二つにわかれたのだ。いや、その結婚さえいまとなっては実現できるかどうかわからない……。
眼の前に口をあけた小さな溝が、しだいに幅を広げ、深さを増し、埋められない深淵《しんえん》となっていくような思いだった。
その翌日、霧島三郎は昼ごろ捜査本部を訪ねた。桑原警部は彼を待ちかまえていたように、メモを広げて報告を始めた。
「現在のところ、鹿内桂子の殺害に対しては、ほかに有力な容疑者は一人も浮かんでおりません。検事さんがお聞きになった電話からいって、お客の一人という可能性も濃いわけですが、昨夜刑事たちに店のほうをあたらせた結果を聞いても、怪しそうな人物は一人も浮かんでこないのです。いくら、もぐりのバーといっても、最初お客は本店のほうへ現われるわけでしょう。マダムや店の女たちの話を総合しても、気だても悪くはないようですし、仲間のあいだでも、うけはよく、あの人が殺されるなんて、さっぱりわけがわからないというようなことでした」
「それでは、やはり竜田弁護士の線がいちばん強いというわけですか」
三郎は重い気持でこの言葉を口にしたのだが、桑原警部はうなずいて、
「最初から一本の線に捜査方針を絞るのが危険なことはじゅうじゅう承知していますが、ほかにこれと思われる線がぜんぜん現われないとなりますと……まあ、きょうの捜査でまた何か有力な線が現われないとはかぎりませんが」
最後の一言は力も弱く、まるでどうでもよいつけたしのようだった。それから警部は一通の書類を取り出して、
「本間春江が麻薬中毒だったことは、きょう届いたこの報告書ではっきりしました。最初、死体を調べたときにも、腕にかなりの注射の痕《あと》があったので、これはと思っていたのですが、ビタミン注射か覚醒剤《かくせいざい》か麻薬か、はっきりしなかったので、組織検査の結果を待っていたのです。なんでも、あの検査というのは、腎臓や肝臓や心臓などの一部をとって、何度か順番に濃度の高いアルコールに入れなおしていくのですね。えらく日数のかかる試験で、やっときょう、結果が判明したのです」
それはいままでの材料からでも、三郎にはおぼろげに想像できたことだった。しかし、科学的な根拠をもってこう言いきられると、恐怖も生々しい現実となって身にしみた。きのうの麻薬夫婦≠ニいう言葉を思い出すと、竜田慎作もまたこの女の影響で、麻薬中毒になっており、そのため精神異常の状態におちいったということも、十分に可能性があるように思われた。
「それから小林準一の自宅、ラムール≠フ店などにも家宅捜索をかけましたが、麻薬の類はいっさい発見されませんでした。彼の取調べも難航しております。禁断症状があらわれるとしても、きょうの午後あたりからではないでしょうか。現在、重要な参考人として、ここで調べておりますのは小林の内妻の友永より子、それから須藤俊吉です」
三郎の考えでも、この捜査方針はつぼをはずしていないように思われたが、そのとき警部はちょっと眉《まゆ》をひそめて、
「友永のほうは、知らぬ存ぜぬの一点ばりでつかみどころもありませんが、須藤のほうは一度担当の検事さんに会いたいものだと言い出したのです。これはどうしたらいいでしょうか?」
一般の事件の容疑者や参考人でも、警察官に話をすることをいやがって、検事になら話そうというような態度に出ることも珍しくはない。一種の歪《ゆが》んだプライドがそうさせるのだろうが、今度ばかりは三郎もまっこうから挑戦を受けたような思いで、かっと頭に血ののぼるのを感じていた。
「調べてみましょう。すぐに」
冷たくなりかけたお茶をぐっと一気に飲みほして、三郎は短く答えた。
先入観もよくなかったが、須藤俊吉に対する三郎の第一印象はすごく悪かった。面と向かって話をするのはこれが初めてだが、精神分裂の傾向があるのではないかというのが、最初頭に浮かんだ考えだった。
三郎も、専門的な精神病理学の理論はわからなかったが、常識的に精神分裂症と呼びたいような相手には、これまで何度もぶつかってきた。それも、詐欺の犯人に多いのだが、嘘《うそ》をつくことをなんとも思わず、しかも、その嘘をついているときには、自分でもそれを真実と思いこんでいるらしいのが、そういう連中の一つの特徴だった。二言三言、最初に話をしただけで、三郎は彼もこういう性格だなと本能的に見ぬいたのだった。
それでも最初の間は大したこともなかった。彼があのバーの常連で、兄の事件が起こったときに、本間春江を竜田弁護士にひきあわしたということには、嘘のはいる余地もなかったろう。
「それから僕はつい最近まで、彼女には会いませんでした。むこうが店をやめたものですからね。まあ、ホステスや、雇われマダムがほかの店へ移るときには、なじみのお客をひっぱっていくものですが、彼女の場合は、ほかへ移ったという挨拶《あいさつ》もなかったので、かたぎになったのかなと思っていたわけです。ところが、あれは二月ほど前、七月末のことでしたかな。偶然銀座で会って、お茶でも飲もうかということになったのですよ」
「それで?」
「こちらとしては、べつに大した下心もなかったのですが、むこうがべらべらしゃべりだしましてね。自分は、まもなく、いまの亭主と別れて、玉の輿《こし》にのるんだなどと言いだしたんです。もちろん、自分の離婚の手続きなり、先方の娘の結婚式がすんだりするまで待たなければならないから、多少時間はかかるだろうということわり書きはついてましたが、そう言われたら、相手の名前を聞きたくなるのも人情でしょう。しかし、その奇特なお婿さんが、竜田弁護士だと聞かされたときには、僕も文字どおり、腰をぬかさんばかりに驚いたものですよ」
俊吉の言葉の調子は低く、奇妙にねばっこかった。
「僕はそのとき直感的に、この結婚はうまくいくはずはないと思いましてね。二号としてならともかくも、弁護士夫人におさまるにはふさわしい女じゃありませんからね。そこで、おめでとうと言って別れればよかったのでしょうが、僕はむかしから皮肉屋です。持って生まれた毒舌がつい爆発して、この結婚はまとまらないねと言ってしまったのですよ」
「それで?」
「むこうはむっとしましたね。口から泡を飛ばさんばかりに、自分たちはもう切っても切れない仲だし、あの人は私がいなくなったら、さっそく死ぬほど困ることが起こるのよと、いかにも、自信ありげに言ったものです。僕もそのときはぎくりとしました。しかし、同時に麻薬ということがぴーんと頭に来たのは、僕自身がむかし麻薬中毒にかかっていて、それを抜くのに、たいへんな苦しみを味わった経験があったせいでしょう」
「それで、あなたはそのことをむこうにつっこんだわけですか」
「そうです。彼女のほうも、僕の過去は知っていましたから、それで話がしやすかったのでしょう。同病相あわれむと言いますが、一度でもあの世界へ足を踏みこんだ人間は、一種の郷愁というような気持を忘れきれないものですよ。麻薬というものはふしぎなものですね。僕はそのとき、竜田弁護士も長くはあるまいと思ったものです。体のほうは、すぐにどうということはないとしても、何かの拍子に、そちらの麻薬ルートが発見され、関係者が数珠《じゆず》つなぎになったらどうします。選挙違反ぐらいならともかくも、弁護士が麻薬事件の関係者として連座したら、もうその一生は破滅ですね。食うに困るかどうかは別の問題としても。それにまた、そのお婿さんが司法官だとしたら、やはり進退には窮するでしょうな」
三郎の背筋には冷汗がにじみでていた。彼はそっと、そばの北原大八のほうを盗み見したが、しらふのときにはぬーぼーとしているこの男の顔にも、かすかな動揺が感じられた。
「僕はそのことを、あるとき、竜田弁護士の娘に知らせようとしましたが、むこうはすっかりいきりたって、ぜんぜん耳を貸さないのですよ。前に僕との縁談があって、中途でこわれたのは事実ですし、むこうは恋人とデイトしてきたばかりで、ムードをこわされたように感じたのでしょうが、はははは、女というものは、どうしても感情に溺《おぼ》れるので困ります」
一言一言が三郎の胸を鋭く刺した。こういういやがらせを言うのが目的で、自分に会いたいと言いだしたのではないかと、三郎は思ったくらいだった。
「僕はいま、警察のほうから、最初の事件が起こったとき、なぜ警察へ知らせなかったのかと、さんざん脂《あぶら》を絞られましたが、あのあたり二、三日、僕は土地売却の問題で、さんざん神経を使っていて、ろくに新聞も読んでいなかったのです。それに、もし新聞を見ていても、同名異人と思ってたかもしれませんしね。そういうことでどなられていたんじゃ割にあいませんよ」
俊吉は実に饒舌《じようぜつ》だった。こうして自分をいらいらさせ、そのうえ何かをたたきつけてくるのではないか、と三郎は思っていた。
その予想どおりに、俊吉は冷たい笑いを浮かべ、胸を大きくそらして言った。
「検事さん、こう申してはなんですが、僕は一目であなたが好きになりました。いまの警察のやり方に腹をたてたからではありませんが、できるなら、あなたに手柄をたてていただきたいと思いますよ」
「手柄をたてるとはどうするのです?」
「申すまでもないことでしょう。もし、万一竜田弁護士が生きてどこかに潜伏していると仮定したら、彼を逮捕なさることは大手柄じゃありませんか」
「あなたはその隠れ家というようなものを知っているというのですか?」
「僕はあくまで仮定の場合を論じているのです。僕には僕なりの推理の線もあるのですが、それを話すと専門家には笑われそうですしね」
須藤俊吉の態度には、検事の前に出た参考人というよりも鼠《ねずみ》を狙う猫のような奇妙な優越感がこもっていた。
第十八章 現金の罠
前に霧島三郎は、先輩の検事から、こういう話を聞いたことがあった。
世間を騒がせ、捜査が難航をきわめるような難事件では、たいていどこかに何人かの精神異常者が顔を出すというのである。
警察や検察庁や被害者の家へ、悪質な電話をかけるような人間はざらである。軽い罪で留置されている犯罪者などでも、親子丼《おやこどんぶり》一杯食いたさに、あの大事件は自分がやったのだと自白して、刑事のとぼしい財布をはたかせることも少なくない。この程度ならば、たいていは警察の処置でかたづいて、検事をわずらわすことはないのだが、時には特別の情報を知っていると、いかにも思わせぶりなことを言って、捜査陣にさんざん空地《くうち》を走らせることもないではない。この先輩は選挙違反の捜査のときに何度となく苦杯をなめさせられたというのだった。
三郎は、須藤俊吉の言葉にたたきのめされたような思いで、しばらくは口もきけなかったが、そのうちにこの話を思い出して、ぐっと下腹に力をこめた。
俊吉が、自分たちの恋愛に嫉妬《しつと》の炎を燃やし、どういう手段に訴えても、結婚だけは妨害してやろうと考えていることは間違いなかった。男の嫉妬は、女よりもさらに激しく、直接的な形で爆発することがある……。
それならば、彼が天与の機会と言えるようなこのチャンスを徹底的に利用しないことはないだろう。冷酷な精神異常者は、敵の弱みはどんな小さなものでも見のがさず、眼の中に指をつっこむようなまねさえするものだ。
三郎は、ぐっと下腹に力をこめて、逆襲に出ようと決心した。
「検察庁としては、あなたの推理というものには全幅的な信頼が持てませんね。あなたの才能を否定するわけではありませんが、合理的な推理のために必要な各種の材料が、完全には整うまいと思うからです。ただ、たとえば竜田弁護士が現在どこに潜伏しているという具体的な事実をご存じなら、それはおうかがいしましょう。それならば、どんな人間でも、偶然なにかの拍子で、手がかりをつかまえないとは言えませんからね」
「そういう場所までは知りませんよ。僕は、なにも竜田家の親類でもなんでもないことですし、犯人隠匿罪などに問われることはまっぴらです。まあ、推理には材料が不足な場合でも、これというポイントさえつかんでいれば、結構正解に達することもあるものですよ」
須藤俊吉は敵意をあらわにした言葉を吐いて、ゆっくり腕時計を見つめた。
「僕の殺人に対するアリバイは、むこうで刑事さんに申しあげました。二晩とも、僕はある女と寝ていましたよ。必要があったら、その女をお調べください。妻が夫をかばう証言は法律的に、証拠価値も少ないそうですが、今度の僕の場合は幸いに、正式な結婚はしていないことですからね」
「そのかわり、第三者の場合には、へたをすると偽証の罪が発生しますよ」
「偽証というのは嘘をつくことでしょう。ところが、僕たちの場合には、天地神明に誓っての事実ですからね。だいいち、僕が二人の女を殺すような動機がどこにあるというのです? はははは、ばかばかしいにもほどがあります。本間春江のほうはともかく、鹿内桂子のほうとは、たった一度しか会ったことがないのですからね」
「一度でも会ったことがあるのですか?」
三郎の反撃に、俊吉はかるい動揺の色を見せた。自分でも失言を悟ったのだろう。
「それは、前にラムール≠フ店に勤めていたことのある女ですからね。それもわずかの間でしたが、ああいう女にとっては、新宿から銀座へ鞍替《くらが》えするのは一つの出世みたいなものでしょう。それなら、お祝いに顔ぐらい出してやらなきゃ悪いじゃありませんか」
「あなたはたったいま、一度しか会ったことがないと言ったでしょう。それなのに、すぐその口で……」
「僕が女と会ったというのは、肉体関係を結んだということをさしているのです」
「それでは、本間春江のほうとも?」
「それは、お答えするかぎりではありません」
須藤俊吉はもう一度時計を見つめて、
「検事さん、僕はこれから重大な約束があるのです。あなたが何かの容疑で僕を逮捕なさらないかぎり、これでおいとましますが」
三郎も頭に血がのぼる思いだった。今まではむこうのペースに完全にのせられた感じだったし、これから反撃に出ようとしたとたんに、みごとに気合いをそらされたのだ。しかし、こうして六法全書の条文をかさにとるような言い方をされては、三郎としても次の機会を待つしか方法がなかった。
「それではどうぞ任意にご退出ください」
わざと法律用語を使って答えてやると、俊吉はうすら笑いさえ浮かべながら、
「それではまた機会があったらお目にかかりましょう。いや、どこか思いがけないところで、再会できそうな気がしますね」
と言いのこし、悠々と部屋を出ていった。
「検事さん、あんなにいやな野郎もめったにありませんね」
そばから北原大八が溜息《ためいき》とともに言った。三郎は返事もせずに、煙草に火をつけたが、大八はまだ鬱憤《うつぷん》もおさまらない顔で、
「やつはたしかに何かの秘密を握っていますよ。検事さんにどんな恨みがあるのかしれませんが、その秘密を小出しにひけらかして、なぶろうとしているんですよ。ほんとうにふざけた野郎です。しかし、これも拳闘《けんとう》でいうなら、第一ラウンドでポイントをかせがれたというような程度ですからね。なんとか、がっちり準備をしたうえで、あいつを徹底的にノックアウトしてやってください。私の感じでは、やつはこの殺人に直接の関係はなくても、きっと何かの犯罪に関係を持っていますよ」
と言いだした。昨夜の酒で、かなりうちとけたとはいっても、公的な問題となってくると、まだ深い秘密も打ちあけられなかった。三郎は無理に笑いをうかべながら、
「わかっているよ」
と答えただけだった。
この取調べと言えない調べがすんでまもなく、桑原警部は友永より子を調べてくれと言いだした。これにはいちおうの理由もあったので、三郎は一も二もなく承知した。より子を調べている係官は、本間春江のことの調べに集中して、鹿内桂子のことには一言も触れていないようだし、ほかにも自分で聞いてみたいことはいくつもあったのだ。
より子はここでも和服だった。昨夜眠れなかったせいか、眼は真赤に充血しているし、顔色も悪いが、それでも、体のこなしの一つ一つに、かすかな媚態《びたい》が感じられた。第二の天性というようなものが、押さえようとしても自然に現われるのか、それともどんな手段に訴えてでも、自分の気をひこうとしているのかは、三郎にもわからなかったが……。
「実は明後日、うちの人にはのっぴきならない用事がございまして……それでなんとか帰していただくわけにいきませんかしらと、刑事さんにお願いしましたんです。そしたら、検事さんじきじきの命令だから、自分で直接お願いしてみたらと申されまして……」
より子は上眼づかいに、こちらの顔を見つめてきた。まだ女ざかりといってよい年輩なのに、不摂生のせいか、激しい苦悩のせいか、その顔には老醜の影さえ浮かんでいるように思われた。
「こちらとしては、無実とわかれば、すぐ釈放の手続きはとりますが、まあそれはあなたのお話をうかがってから考えましょう。その明後日の大事な用事というのはなんですか?」
三郎は、桑原警部と打ち合わせたとおりの作戦をとった。
「はい、大阪に住んでおります義理の兄弟が、癌《がん》できょうあすにも危ないと、昨夜電話がありまして……お互いに万一の場合には、死水をとろうと約束した仲でございます。せめて、お葬式にまにあうようにかけつけなければ、男の義理もたちませんし」
いかにも浪花節的《なにわぶしてき》な口実だが、三郎は本能的にこの言葉は嘘《うそ》だなと感じていた。
「そうですか。それはお気の毒ですね」
それでも、気を持たせるような言い方をしてみせると、より子は一筋の望みを見いだしたように、いくらか声をはずませて、
「だいたい、うちの人が自分で麻薬を射《う》っているなんて、何かのお間違いじゃありませんかしら。うちやお店のガサ入れでも、何も見つからなかったわけでございましょう。あの人の注射の痕《あと》にしたって、このところ年のせいか元気がなくなったと言って、ビタミンやホルモン剤をうちつづけなんですから、いいかげん注射だこもできますでしょう。それは私が保証します」
むかしから、香具師の保証ぐらい、あてにならないものはないと言われている。その女房の保証にしたところで、おそらく、大同小異だろう。この言葉にしても、三郎には口から出まかせのようなものにしか思えなかった。
「そのかわり、検事さんが、こっちの顔をたててくだされば、べつのところでお顔をたててあげるようなこともできると思います。なにしろ、私たちの仲間は全国にちらばっておりますし、こう申してはなんですけれども、蛇《じや》の道は蛇《へび》で、警察よりも早く、いろんな情報を耳にすることもございますし……世の中がどう変わっても、義理人情を重んじなければ人間じゃない、人非人だというのが、私たち一家の家憲でございますもの」
こういうせりふの通用する人間だけを相手にしているせいか、より子の言葉は実に大時代だった。ふだんの三郎なら、おさえようとしても失笑したかもしれないが、彼はそれでも念のために、
「たとえばどんな情報です?」
とたずねてみた。とたんに、より子の両眼は猫のように光った。
「たとえば、二人も女を殺して逃げまわっている弁護士の竜田慎作――あいつにしたって、いまの警察のやり方では、いつつかまるかわかりませんでしょう。でも、私たちの力を借りるおつもりなら、三日もたてば捜し出せるんじゃないかと思いますわ」
これもはったりの一手ではないかと思いながら、三郎はまたぎくりとしていた。竜田慎作がもし麻薬中毒にかかっており、薬がなければ一日も生きていけないと仮定したら、その隠れ家は案外こういう人々の手の届く範囲にあるかもしれないのだ。
三郎は答えを躊躇《ちゆうちよ》した。わずかでも時をかせごうと考えて、
「ところで、今度の第二の事件で殺された鹿内桂子という女も、あなたの店に勤めていたというのはほんとうですか」
「そうです。最初は福島の田舎から出てきたばかりのズーズー弁のぽっと出で、うちには、二年ほど前に半年ぐらいおったでしょうか。最初はどうかしらと思っていたんですけれど、見る見るうちにきれいにあかぬけしてきまして……実家へ帰るから、店をよしたいと言われたときには、惜しいと思ったんですけど、むかしの赤線じゃありませんし、かたぎになると言われたら、止められもいたしません。それでも、それから半年ほどして、銀座の店に勤めていると聞いたときには、やられたと思ったんですが、うちの人も、たかが女ひとりのことで騒ぎたててはみっともない、べつに金を貸してあるわけじゃないから、ほっとけと言ってくれたんでおなかをさすってこらえたんです」
「それで、あなたの店にいるころ、男の関係はどうだったんですか?」
「決して、私たちがすすめたわけではありませんけれども、その道ではずいぶんだらしがなかったんです。それも男好きというわけではなく、若いうちに、できるだけのことをして稼ぎまくらなければ損だというがめつさに徹底していたようです。ですから、よほどの大金持でもないかぎり、一人の男に惚《ほ》れこむことはなかったでしょう。私たちみたいな昔かたぎの女には、ちょっとまねもできませんわ」
「すると、彼女は金のためなら、かなり危ない橋でも渡りかねないような性格だったということになるでしょうか」
「そうですね。人殺しの手伝いをしろとでも言われたら、それこそ震えあがって逃げだしたでしょう。しかし、自分が刑務所に行く気づかいがないと見きわめがついたなら、少しぐらいの犯罪でも、片棒かついだかもしれませんよ。何しろ、あの人の、男を見る目ときたら、金ばなれがいいか悪いか、それだけがただ一つの標準だったでしょう」
「彼女と竜田弁護士との関係については、何かご存じでしたか?」
「知りません。竜田とは、一回か二回顔を合わせたこともありますが、それは本間さんに頼まれて弁護を頼むときに顔を出しただけです。あの人は、うちのお客筋ではありませんし」
「それで、本間春江と鹿内桂子とは、ある時期にあなたの店でいっしょになったことがあるのですか?」
より子は指を折って、何かの数を数えはじめたが、それも三郎には、時間をかせぎ、次の返事を準備するためのジェスチュアのように思われた。
「ええ、たしかにいっしょにおりました。でも桂ちゃんのほうは、いまも申したように、半年ぐらいでしたから……私には、とくに仲がよいようには思えませんでしたけれども」
この二人の女を結ぶ線は、竜田慎作という個人のほかに、思わぬところにも存在していた。この線には、何かの秘密もありそうに思われたが、三郎にはとっさにはその意味も推定できなかった。
三郎が次の尋問を考えている間に、より子は気味悪いぐらいねっとりした声で言いだした。
「ねえ、検事さん、さっきのお願いを聞いてくださいまし。魚心に水心ということは、どんな世界にもありますでしょう。私たちは、そのお返しにはどんなことでもするつもりでおりますから」
そこで、より子は言葉を切り、唇だけを小さく動かしていた。気のせいか、三郎にはこの女が「よいにせよ悪いにせよ」とつぶやいているような気がしたのだった。
それから後、より子はどんな質問もぬらりくらりと受け流して、乗ずる隙《すき》も与えなかった。桑原警部からも、この女は逮捕しないでしばらく泳がせ、様子を見たほうがいいのではないかとだめを押されていたし、三郎も現在のところは、きのうに続いてそれだけの強硬手段をとる気もしなかった。
しかし、最後に釈放のことはあらためて考えてみるからと言いきると、より子はまるで裏切りに会ったようなこわい眼をして三郎を睨《にら》みつけた。椅子《いす》から立ち上がりぎわに、左の袖口に手をかけて、二の腕の青黒い刺青《いれずみ》をちらりとのぞかせて見せたのも、いつものくせが無意識のうちに顔を出したのかもしれなかった。
それから後も公式の捜査面ではなんの収穫もなかった。実際問題として、こういうことはままあることだし、検事が責任を痛感する必要はないのだが、いまの彼の立場は複雑微妙だった。それに、偶然といいながら、二人の人間の口から、竜田弁護士の生存を暗示するような話を聞いたことが、彼の心を傷つけたのだ。
三郎はこの日は早めに家へ帰ってきた。故郷の弘前《ひろさき》から、兄の一郎が出張で上京してくるという電報があったためだった。この事件が起こってからは、実家のほうでもえらく心配しているらしく、この兄からも長文の手紙が来たのだが、三郎はくわしいことを知らせてやるだけの気持の余裕もなく、かんたんな返事を書いただけだった。
六つ年上のこの兄は、頭も鋭かった。ただ、体が生まれつき弱かったし、終戦後の経済混乱のため、上級学校への進学も断念し、現在では市役所にのんびり勤めている。その次の兄の二郎は、三つの年に死んでいるから、父が年をとったいまでは、三郎にも、身内で親身になって相談にのってくれそうな相手は、この兄しかなかったのだ。
三郎は帰ってくる途中で、竜田家へ電話をかけてみた。電話に出たのは、家政婦の近藤和子だったが、いつもに似あわず、つっけんどんな調子で、
「お嬢さまは、朝からずっとおやすみでございます」
とつっぱなしてきたのだった。無理に起こしてとは、いまの三郎には言えなかった。
下宿へ帰ると、部屋では一郎がいらいらしているように、煙草を吸いながら待っていた。
「兄さん、しばらく」
「三郎、お前も顔色が悪いな」
三郎はすぐこの兄の顔を直視するのがこわかった。思わず顔をそらしたとき、机の上の大きな菓子折りのような包みが眼にはいった。兄の土産ではなさそうだった。
「これは?」
「なんでも下のおばさんの話では、自分がちょっと留守にしているあいだに、誰かが届けてきたのだそうだ。留守をしていたのは、小学六年の子供だから、何も考えずに受け取ったらしい。内心おすそわけを期待していたのかもしれないな」
三郎は思わず溜息をついた。検事にひそかに贈物をして、便宜をはかってもらおうというような人間はいまでも絶無とはいえない。そういうことを避けるため、検事の名刺には自分の住所を刷りこんではいけないことになっているのだが、本気で調べようと思えば、住所を探り出す方法はいくらでもあるだろう。しかし現在、三郎には、こんな物を届けてよこすような相手の心あたりは、ほとんどなかった。
「あけてみましょう」
三郎はひとりごとを言いながら、ナイフで包装の紐《ひも》を切った。中に名刺でもはいっているかと思ったのだが、蓋《ふた》の上にはそのかわりに分厚い角封筒がのっていた。
かっとなりながら、三郎はその封を切った。中にはいっていたものは、二十枚の一万円札だった。
「大金だな」
横からのぞきこんだ一郎が声を震わせた。
「現職の検事のお前に、こんな菓子折りを届けてよこすとは、いかにも見えすいたわいろだが、こんな物をくれる相手の心あたりはあるのか?」
「さあ……」
三郎は眼を閉じて、さっきのより子の顔を瞼《まぶた》に思い浮かべた。
いかにも単純そうなこの女は、こんな小細工を最善の方法と思いこんだのかもしれない。麻薬犯罪のほうの容疑も、まだ証拠は不十分だから、検事と警察の腹一つでは、すぐにでも理論的には釈放できる……。
この第一印象には、どこかに錯誤の罠《わな》もあるような気がした。しかし、どんなに考えなおしても、三郎にはいまこんなまねをしそうな相手は、ほかに考えつかなかった。
第十九章 走る凶器
三郎は、この兄に、自分の知っているかぎりの事実を全部話して聞かせたが、一郎の表情は、話が進むにしたがって深刻になっていった。
「たいへんな羽目に追いこまれたものだ……これも前世の因縁かもしれないな」
最後に一郎はぽつりとつぶやいた。彼は、病身のせいか、若いのに似あわず、信仰心も強かった。こんなときに、こんな言葉が飛びだしたのも、その性格のあらわれだったろう。
「とにかく、竜田さんがこの事件の犯人で、まだ生きてどこかに潜伏しているとなると、お前たちの結婚もご破算にするしか、方法がないかもしれないな。もし、それでもいっしょになった日には、悪い因縁があとまでのこる。子供や孫の代までも……いや、こんなことを言ったら笑われるかもしれないが、現実的にもそうなったら、お前たち二人の間にどうにもならない溝ができて、幸福な一生は送れなかろう」
「そういうことは、十分考えられます……」
血を吐く思いで、三郎は答えた。
「正直なところ、僕は転属の話があったとき、犯人は別人だという可能性が七割ぐらいだと思っていたんですよ。ところがその信念もしだいにぐらついてきました。いまでは、そういう可能性も一割あるかないかだと思っています」
「そう考えだしたのは、鹿内桂子の話がおもな原因かね……女というものは、いや、水商売の女は、万事に嘘《うそ》をつきたがる傾向があるからな。その点は十分頭に置いてかからなければ、判断をあやまる恐れもあるが」
「その点は十分承知しています。ただ、僕はあのとき検事として彼女から話を聞いたわけではありませんしね。翌日でも、警察のほうに話して、徹底的に調べなおしてもらおうかと思っていたんですが」
「その女が、警察が調べなおす直前に殺されたのはどんな意味かな? 犯人が秘密の漏れることを恐れたのだろうか。いや、かりにお前が話を聞かなかったとしても、彼女はその前に警察へある程度のことは打ちあけていたんだろう。そうなると、いまさらという言い方もできるな」
「そうなのです。この第二の事件のほうは、まだはっきりした動機がつかめないんです」
「彼女のところへ来た二人のお客というのは、顔は見ていても話は聞かなかったんだな。須藤俊吉の話はいやがらせとも思えるし、友永より子のほうは、はったりか、その場のがれに投げだした出まかせとも考えられるな。身内や知合いをあちらこちら頼み歩いたけれどもわからなかったと言えばそれまでだ」
「そうですとも。あの女房のほうの誘惑なら、そんな甘い手にのる検事は一人もいませんよ」
「まあ、この本筋の問題はおれにもよく考えさせてくれ。こっちはいちおう出張だから、三日は東京にいなくちゃいけないんだ。ただこの菓子折りと現金はどうするつもりだ?」
「すぐ、部長に話して、現金と菓子折りは検察庁に保管させます。中身の菓子は腐るおそれがありますから、処分しなくちゃならないでしょうが……」
「するとお前は、この折りを届けてよこしたのが、友永より子だと思っているわけだね」
「そのほかには、心あたりもありません」
「だが待て、こんなことも考えられないか」
一郎はゆっくり煙草に火をつけて、
「おれはうちで、暴力担当の刑事からこんな話を聞いたことがある。やくざや香具師、その中の暴力化した一家の系列をたどっていくと、その大元は日本でも十軒たらずに絞られるらしいな。その本家格の連中は、東京や神戸で、お互いにいちおう笑いながらつきあっている。しかし、その息のかかった地方の一家同士になると、今でも武器を持ちだして血の雨を降らそうとすることもめずらしくないらしいな。そういう地方の地盤をどちらが手に入れるかということは、直接中央の大親分の勢力の消長に関係してくるらしいからな」
「そのことは僕も知っていますが、それが今度の事件とどんな関係が……」
「これは素人考えかもしれないが、麻薬の取引にも闇《やみ》の系列といったようなものが存在するわけだろう。そうなると、その甲の組織と乙の組織が、末端同士でどんな激しいせりあいをやったところでふしぎはないと思うんだが。日本刀やピストルを持ちだしての暴力|沙汰《ざた》なら人目につくが、こういう組織の争いでは、絶対にそんなまねはしまい。殺人にしたところで、動機も何もわからないつかみどころもない事件になってくるんじゃないかな」
「それも一つの見方ですね」
三郎は検事としても、兄のこの言葉を笑いきれなかった。
「本間春江、友永より子、小林準一――この三人はいちおうラムール≠ニいう店を通じて関係があったわけだね。こちらには案外一つの組織があったかもしれないな。しかし、もしこれに対抗するようなべつの一つの組織があったとしたならば、その中の誰かがこういう現金をお前に届けてよこしたら、お前はいよいよ小林たちに対する態度を硬化させるだろう。敵は案外、そういう狙《ねら》いを持っていたのかもしれないな」
三郎は思わずうなってしまった。長く地方にいるせいか、話は少しまわりくどいが、この兄の頭の冴《さ》えはむかしとぜんぜん変わっていないようだった。
「きょうは寝ようか。おれも疲れているし、お前もくたびれたろう」
三郎がなんとも答えないうちに、一郎は眼を伏せ、かるい溜息とともに、
「おれにもむかし、死ぬほど惚《ほ》れていた女がいたんだ。むこうも同じ気持だったことはわかっている。いま、彼女は東京で三人の子持ちだよ。世の中には、本人同士の気持だけではどうにも解決できないことがあるものだね」
とひとりごとのように言った。
三郎の胸はまたちくりと痛んだ。この兄も恭子との縁談が全く見こみがないと見当をつけて、早手まわしに自分をなぐさめてくれているのかと思ったのだった。
恭子もまる一日を寝て過ごしたので、心の傷はともかくとして、体の疲れはいくらか回復したようだった。
それでも床を離れる気力はなかなか出なかった。昼近くになって、寺崎義男から、重大な急用があるというので、やっと起きだして電話に出てみると、いくらか上ずった声が耳へ飛びこんできた。
「お早うございます。きょうは事務所で書類調べをしていたんですが、そこへ妙な相手から電話がかかってきたんです。香港の陳志徳という中国人を、お嬢さんはご存じですか?」
「そのおかたがいったい?」
「むかし、先生に命を救われた恩義があるという人です。ちょうど商用で日本へやってきて、先生はどうしておられるかと思って、お宅へ電話したらしいんです。ところが、近藤さんのほうが、不得要領な返事をしたものだから、わけがわからないままに、こっちへかけなおしたんですね。幸い僕がいたものですから、すぐ飛びだして、いま帝国ホテルで会っているのです。日本語は相当に達者ですが、やはり電話の話となるとまだるっこいものですから……」
「それで、そのおかたが?」
「お嬢さんに至急会っていただきたいのですよ。僕からいちおう、事件の内容は説明しておきましたが、そのことについてです」
「いつ、どこで?」
「最初はおたくでと思ったんですが、張込みがあるかもしれませんしね。僕だけならともかく、中国人がいっしょとなると……なんとか出てきていただけませんか」
「でも、家のまわりに刑事さんがいるとなると、私が出ても、跡をつけられる恐れがあるんじゃないかしら」
「尾行なら、エレベーターのあるビル、たとえばデパートへはいって、エレベーターを二、三度上下し、べつの入口から出ればたいていまけるものです。なんとか無理をしても、すぐ帝国ホテル新館のロビーまで来てください」
寺崎義男の声は、断わることを許さないような緊迫感を伴っていた。
恭子がホテルへ着いたのは一時ごろだった。寺崎義男は、一人でロビーの片隅にすわっていたが、その顔色はいつもよりずっと青ざめていた。恭子がそばにすわると声をひそめて、
「尾行のほうは、大丈夫ですね」
「ええ、おっしゃるとおりにしましたから」
「彼はいま、ちょっと部屋に帰っています。すぐに電話で呼びだしますが、その前に一言だけお話ししておきます。彼は商用で日本へ来たと言っていますが、どうも僕にはうなずけません。今度の事件にからんで、先生を助けるためにやってきたのではないかと思われる節があるんですよ」
「と言いますと?」
「彼の親友というのは二人、横浜と神戸にいるそうです。いつか、前に日本へ来たときにも、先生にそのことを話して、この二人には自分同様に何を話してくださってもかまわないと言いのこしていたそうですが」
「それでは、父はやっぱり生きていて、その人たちをたよったのでしょうか?」
激しい悪寒《おかん》が襲ってきた。恭子はこうたずねながら、そっとあたりを見わたしたが、そばには別に怪しい人影も見あたらなかった。
「それはなんとも言えません。むこうは僕をただの事務員と思っているのです。重大な秘密は打ちあけてくれるわけがないでしょう。いまお話ししたのは、僕の勘の結論です」
恭子はしびれた頭で必死に思案を続けた。
中国人の友情というものは、親子兄弟の間の感情よりも濃いと、恭子はいつか聞いたことがあった。父がもしこの事件の犯人で、どうにもならない窮地に追いこまれたと感じたときには、そのときの話を思い出して、この二人のうちの一人に連絡をとったということも考えられないではない。それにしては、須藤俊吉の話がちょっと矛盾するようだったが、たとえば横浜の中国人は、人をかくまうことはできても、密出国の話をつけるだけの顔はないと考えれば、この矛盾も難なく解決できるわけだった……。
「お嬢さん、電話もしないのに、むこうがやってきました」
寺崎義男の声に、はっとして顔を上げると、五十がらみの洋服の男が近づいてきた。中国人だということは一目でわかった。思ったよりもやせた長身の男だが、恭子の前に立ちどまると、
「竜田先生のお嬢さん? 先生によく似ておいでですね」
と、なめらかだが、やはりくせの抜けない日本語で言った。
三人は、それから相談した結果、ホテルを出て、近くの黄華楼《おうかろう》≠ニいう北京料理の店の個室へ落ち着いた。恭子は食事どころではなかったが、密談にはそのほうがよいと、寺崎義男が注意をしてくれたからだった。彼はそれから、ぜひ自分も最後まで同席させてくれと頼んだが、いまの恭子には、それは自分から頼みたいところだった。
老酒《ラオチユウ》と前菜が運ばれてきたが、恭子はそれに手を出す気力もなかった。
「今度は、先生もたいへんなことになりましたね。寺崎さんから、いちおうのお話、うかがいましたが」
やがて、陳志徳はゆっくり切りだした。寺崎義男の推理が正しければ、彼はそのことを百も承知で日本へやってきたはずだが、もちろん最初からそんなことは打ちあけず、日本流でいえば、腹芸をやっているのだろうと恭子は思った。
「はい、私どもが思ってもいなかったようなことになりまして……父が生きているか死んでいるかもわからない始末で、私どもも、たいへん心配しておるのでございますが……」
恭子は挨拶《あいさつ》に謎《なぞ》をまぜて、そっと相手の顔色をうかがったが、陳志徳は薄い唇のあたりにかすかな微笑を浮かべて、
「先生が生きておられるかどうかは、神さまがよくご存じです。まあ、先生のようにごりっぱなおかたは、神さまもかんたんに見はなされはしないでしょう」
と、なんとなく含みのある返事だった。
「はい……私も、父はこのうえもなく尊敬しておりましたが、やはり人を殺したというような汚名を着せられますと……」
「事件の真相は、私にはよくわかりません。また、かりに先生がそういうまねをなさったとしても、それは神さまと先生の間の問題です。私としては、むかし先生に命を救われた恩義を忘れることはできません。これは、神さまと私との間の問題です」
と言いながら、陳志徳は十字を切った。
このキリスト教の篤信者らしいそぶりを見ているうちに、恭子はしだいに、この初対面の異国人を信ずる気持に追いこまれてきた。
しかし、その後、陳志徳はたくみに言葉をそらして、含みのある言葉は少ししか吐かなかった。彼の言葉の中で、恭子に何かの暗示のように受けとれたのは、
「まあ、一週間も日本にいれば、私の商談もまとまるんじゃないでしょうか」
と言ったひとことと、いまひとこと、
「お嬢さんも、この事件の傷がお治りになったら、いずれ香港へいらっしゃいませんか。先生へのご恩返しの意味でも、どういうおもてなしでもいたします」
という謎のような勧誘だけだった。
食事も終わりに近づいたころ、陳志徳は手洗いに立ったが、そのとき寺崎義男は、恭子のほうに顔を寄せてささやいてきた。
「お嬢さん、彼の話をどうお考えです?」
「さあ、信用してよいおかただとは思うけれど」
「しかし、僕は彼の話を聞いて、いよいよさっきの信念を強めましたね。まあ、お嬢さんとはきょうが初対面と言っていいわけでしょう。それに、僕がこうしてついていた日には、あれ以上の話もできますまい。あとは感覚の問題だけでしょうね」
「それでは、私はどうすればよいのかしら?」
「むこうはきょうはこれ以上、深い話はしないと思います。あとは僕にも考えがありますが、ただこの話は誰にもなさらないでください。とくに霧島検事さんには、ひとことでももらしていただいては困ります」
まるで命令するようなきびしい口調だった。
この一日は、三郎にとってはぜんぜんといってよいくらい無為に過ぎ去った。
警察側が、必死に捜索を進めていることはわかるのだが、歯がゆいくらいに、なんの手がかりもつかめないのだ。もちろん、実際問題としてこんなことは珍しくないのだし、これがふつうの事件なら、三郎も気にしなかったにちがいないが……。
彼は小林準一の逮捕を検事|勾留《こうりゆう》に切りかえるために、捜査本部に出むいたが、小林は一昨日と同じような態度だった。少なくとも三郎の眼には、麻薬の禁断症状があらわれているようには見えなかった。三郎もいくらか動揺したが、ここでは検事勾留で、あと十日間の勝負に持ちこむしかなかった。
意気消沈という感じが顔にあらわれていたせいか、桑原警部は彼をなぐさめるように、
「検事さん、なにも腐ることはありませんよ。これは長年の経験から来た私の勘で、理屈も何もありませんが、きっとこの事件は二、三日じゅうに急展開をするでしょう。もっとも、竜田の逮捕まで漕《こ》ぎつけられるかどうかはわかりませんけれども」
と言いだした。
「何か、特殊な情報でも?」
「竜田の娘の動きが妙なのです。きょうは昼少し前に家を出て、東急デパートへ行きました。買物ではなく籠抜《かごぬ》けです。それから後は、尾行もできませんでしたが、意識的にこういう行動をしているところをみると、何かの方法で、父親と秘密に連絡がとれたということも考えられないではありませんね」
「そうですか。ほかには?」
「友永より子は昨夜、ラムール≠フ店で、黒沢代議士の秘書の梶原忠道《かじわらただみち》と会っているようですよ。どんな話をしたかまではわかりませんが、偶然酒を飲みにいっただけとは思えませんね」
担当検事に対する警察側の報告はすべて簡潔に要約して行なうことになっている。その習慣にしたがって、桑原警部もこんな言い方をしたのだろうが、警察側が定石どおりの手順を追ってひた押しに進んでいることは疑う余地もなかったし、桑原警部がしだいに自信を増してきたようなことが三郎を妙に圧迫した。彼はきょうはこれ以上突っこむ気にもなれなかった。
捜査本部を出たのは、午後八時ちょっと前だった。三郎はひとりで散歩していくからと言って、北原大八と警察の前で別れたが、とたんに激しい孤独感が身にしみてきた。
検事という職は、犯罪捜査の場合には、絶対の権限を持っているはずなのに、自分は今度の事件では、ほとんど無力な存在なのだ。そう思うと、急に恭子が恋しくなった。もちろん、会って話をするというわけにはいかないが、せめてその家の灯がついた窓だけでも、闇《やみ》の中からながめたかった。
幸いに、渋谷署と恭子の家の常磐松とは歩いても大した距離ではない。彼は裏道、裏道と選んで夜の道を歩きはじめた。
竜田家から二百メートルほどの距離のところで、三郎は恭子と意思を通じあう確実な方法に思いついた。こんなかんたんな方法に、どうして今まで気がつかなかったかと思われるようなことだった。誰か恭子の友だちの女性で、絶対に信頼できる人物がいたならば、その女性に中にはいってもらったら、このジレンマもなんとか打開できるかもしれない……。
彼は恭子と初めて会った木の芽会≠フ女性たちの顔をあれこれと思い浮かべた。法曹家の娘たちの中で三人ほど、これはと思われる女性たちも思いついたが、恭子がすべての秘密を打ちあけられるような友人は誰か、彼にはわからなかった。
このことだけは、すぐにでも電話で打ち合わせておこうと三郎は腹をきめた。
こういうことを考えつづけていたために、彼はほとんど放心状態だったが、それでも動物的な本能が、一瞬に何かの危険を察知させたのだろう。立ち止まって後ろをふりかえったとき、近づいて来る乗用車の黒い影が眼にうつった。
黒い影――この車は完全に無灯火だった。
走る凶器!
一瞬に、こんな言葉が三郎の頭にひらめいた。あわてて彼は横に飛んだが、その車は急に速度を増して、彼に襲いかかってきた。
幸い、電柱がそばにあったせいか、車はカーブを切って、彼の真横、ほんの眼の前を通りすぎた。
その瞬間、前のドアが開いて横に突きだされた。ほんの五センチ、三郎が道のまん中に近よっていたら、一瞬にたたきのめされたろうと思われる勢いだった。
第二十章 潰《つい》えた機会
三郎もそのときは、さすがによろめき、道ばたに尻餠《しりもち》をついていた。しかし、柔道にはいくらか自信もあるだけに、すぐ要撃の構えに移った。
目的を達しきれないと悟った敵が、むこうで車を止めて襲いかかってくるのではないかという考えが、一瞬頭にひらめいたのだが、車はそのまま止まりもせず、横町に曲がって見えなくなってしまった。
三郎は大きく溜息《ためいき》をついて立ち上がったが、とたんに恐怖と怒りの感情がこみあげてきた。車のナンバーはもちろん、車種さえわからなかったし、無灯火とはいっても、街灯がわりあいに明るいために、熟練した運転者なら、このくらいの芸当はむずかしくないのだろうが、それにしても意識的な行動であることは疑う余地もなかった。
この道は屋敷町になっていて、夜は人通りも少ない。現に前後に人影は一人も見あたらない。もし、自分が一瞬ためらったら、単純な自動車事故としてかたづけられてしまうかもしれないところだった。
――それでは、誰が?
それが第二の疑問だった。三郎は震える手で煙草に火をつけ、必死に頭をひねったが、小林一家のやりそうなことだという以外、思いあたることはなかった。
麻薬の禁断症状というのは、常用している薬の量によっても違うが、ふつう数時間から一昼夜ぐらいで、はっきりあらわれてくると言われている。三郎も医者ではないから、その程度の知識しかなかったが、友永より子が夫の釈放をあせっていることからみても、小林準一にぜんぜん中毒の気がないとは思えなかった。ひょっとしたら常用している薬の量も少ないために、刺青《いれずみ》の苦痛をこらえたような精神力で、二日も頑張りとおせたのかもしれない。そして、ここで自分が死んだなら、政治的な動きで小林準一も釈放され、殺人事件から見たら脇筋とも言えるこの麻薬事件のほうは、このままもみ消されてしまわないともかぎらない。
ふだんの三郎ならば、妄想と笑いとばしてしまうような考えだが、こういう想像が頭にこびりついて離れなかったのは、いまの衝撃のせいだったろう。いや、人間は生死の関頭を越えた瞬間には、呆然《ぼうぜん》自失の状態におちいって適切な判断もできなくなるというが、すぐ警察へ電話をして、この自動車をおさえさせるというかんたんな考えは、しばらく三郎の頭に浮かばなかったのだった。
三郎はそこからすぐに表の電車通りへ出て、桑原警部に電話をかけ、このことを知らせ、検証をすませて、あとの始末を頼むとタクシーを拾ってうちへ帰ってきた。センチメンタルな感情などは、さすがにふっとんでしまったのだった。
部屋では一郎が深刻な顔をして待っていた。
「どうした? 何かあったのかね。まるで幽霊のように顔色が悪いが」
「あたりまえでしょう。へたをすると、今ごろは、幽霊になって、兄さんのところへ帰ってきたかもしれないんですよ。電柱一本が命の親だったというわけです」
三郎の話を聞いて、この兄も真青になった。
「危なかったな……やはり、小林一家のしわざかな。警察の近くに車を待たせておき、それからお前の跡を追ったのかな?」
「何人か一団となって、携帯無線でも使ったのかもしれませんね。香具師《てきや》の一家で暴力がかっているとしたら、命知らずの子分も何人かいるでしょう。それにこういうやり方では、うまくいけばそのまま逃げられるし、悪くしても交通事故の過失死ですしね」
「なるほどな。検事といえば、知らない人間には神さまみたいにえらく見えるようだが、案外危ない仕事なんだな」
「こういうことはめったにありませんよ。それに、今度からは気をつけます。僕が大通りを歩いていたら、彼らにしたって、あんな冒険はできなかったでしょう」
「まあ、こう言ってはなんだが、これもいい経験だったかもしれないな。何かこの世でやらなければならない仕事を持っている人間は、神仏が見はなさない。しかし、そういう人間がその使命を悟るのは、お前のように、九死に一生を得たときだというのがおれの悟りだよ」
「そうかもしれませんね。きょう、あれで死んだと思えば、このあとはどんなことでもできますからね。僕も最初は恐さでいっぱいでしたけども、また新しく勇気が湧《わ》いてきたような気がしますよ」
きょうの三郎は、ふだんならついていけないような兄の考え方も、実感を伴って理解できた。一郎はほっと一息ついて、
「ところで、七時ごろだったか、榎本《えのもと》ふさ子という女がお前のところへ訪ねてきたんだが、お前は名前ぐらい知っているかね」
「知りません」
「竜田慎一郎君の恋人だと言うんだ。内輪の問題だと思ったから、おれがかわりに喫茶店で話を聞いたよ。これなら検事としての立場をとやかく言われることはないだろう」
「それで、彼女はどういうことを言っていました?」
「自分と慎一郎とは、事実上の結婚生活にはいっていて、近いうちにお父さんに話して、正式の手続きをふむようになっていたというんだ。まあ、こういうときの女のせりふには希望的観測が含まれていないとは言いきれないがね。とにかく、そういう仲だから、今までは竜田家へも出入りしなかったらしい。ところが、こういうことになって黙っていたんじゃ人間の道にそむくと慎一郎君を口説いて、恭子さんともひきあわしてもらうことに話を決めたらしいんだ」
「その場合には、結婚は、二人の意思が一致すれば、なんの問題もないわけですからね」
「それで、彼女の話では、お前と恭子さんとの間がむずかしい状態にあることは、慎一郎君から聞いて、たいへん心配していたというんだ。だから、自分も未来の義姉《あね》として、二人の意思の疎通をはかるために、犬馬の労をとってもよいと言い出したんだが……」
三郎のさっきの考えは、妙な形で実現しそうになったのだった。この兄なら、これこそ神意だと信じこんで、一も二もなくとびつくだろうが、三郎は不安と躊躇《ちゆうちよ》を感じた。
話の筋も通ってはいるし、この女の行動も好意から出たものだとしても、自分もいま初めて名前を聞いた女で、しかも恭子にも初対面だとすれば、どの程度信頼してよいかもわからなかった。ことに、恭子との関係は現在、実にデリケートな段階だけに、たとえ善意の行動でも、第三者の介入は、とり返しのつかない破局をまねくかもしれない……。
「その点は、もう少し考えさせてください」
三郎はただそう答えただけだった。
三郎はその翌日、検察庁へ出かけると、すぐ恭子に出頭命令を出した。二人向きあって話のできる、わずかの機会を、自分のほうから初めて利用しようと思ったのだった。
恭子が彼の前に現われたのは、十時二十分だった。ほんのわずかの間に、恭子は別人のようにやつれ、大きな両眼が病的に光っていた。
恋人としては、胸をつかれるような変わり方だが、検事としてはいたわりの言葉も口には出せなかった。
彼はできるだけ事務的な調子で、鹿内桂子のアパートを訪ねたいきさつ、死体発見の事情などの聴取を始めた。この内容を記録に残さないことには、参考人として呼びだした名目がたたないのだ。恭子は終始顔を伏せながら、今にも泣きだしそうな小声で、ぽつりぽつりと答弁を続けた。
その内容は、警察の調書とほとんど違わなかったが、三郎の神経には、どこかに嘘《うそ》があるなとぴりぴり響いてくるものがあった。
これがふつうの場合なら、三郎も相手の泣き出すことを承知のうえで、どならんばかりに、嘘を言うなときめつけ、ぴしぴしと急所急所を切りこんだろう。恭子の場合は、それもできなかった。自分にも歯がゆく思われるくらい、まわりくどい尋問を続けているうちに、冷汗がにじみでてきて、背筋を濡《ぬ》らした。
こういう恭子の変化の理由は、彼には一つしか考えつかなかった。
何かの方法で、恭子は父親が生きているという事実を確認したはずなのだ……。
それが自分たちの将来にとって、最悪の事態だということは二人がいちばんよく知っている……もし、竜田慎作の逮捕という場面に追いつめられたなら、三郎はその直前まで捜査を指導し、その瞬間に辞表を提出して、ほかの検事にバトンを渡し、あらためて恭子に求婚するつもりだった。一人よがりの考えと言われるかもしれないが、それが今まで思いつめたあげくの結論なのだった。
「あなたのお父さんは、今度の戦争中に、誰か中国人の命を助けてやったということはありませんか。僕は鹿内桂子から、そんな話を聞いているのですが」
辛《つら》いことだが、この問題には触れないわけにもいかなかった。
「はい……そんなことがあったとは、いつか聞いたことがございます。でも、それはだいぶむかしのことですし、細かな内容までは忘れました」
「でも、おたくには、むこうから来た手紙でも残ってはいないでしょうか?」
「それも私にはわかりません。父は、古い手紙などは、ひとまとめにして焼きすてる習慣でしたから、最近のものならともかく、むかしのものは残っていないと思います。住所録にも、外国に住んでいるおかたは一人も見あたりません」
「あなたは、きのう、渋谷のデパートまでお出かけになったようですね。それから、どこへお寄りになったのです?」
恭子はとたんに顔を上げた。涙に濡れた両眼には、不安と恐怖の表情があった。
「お買物です……友だちの結婚式のお祝いを買おうと思いまして、銀座まで足をのばして、二、三軒見て歩きましたけれども、気にいった品物がないのでよしました……」
また眼を伏せての答えだった。ここにも嘘があることは三郎にはすぐにわかった。
彼は横目で、北原大八のほうを見つめた。自分からは絶対に言い出せないが、大八のほうで気をきかして、何分か座をはずしてくれないかと思ったのだった。しかし、大八はどう思ったのか、
「検事さん、お話の途中ですが、おひるはどうなさいますか。いつものように、地下の食堂へおいでになりますか」
と意外なことを言いだした。
恭子もこのときはぴくりと体を震わせたが、三郎も一瞬にその狙《ねら》いを悟った。一つの謎《なぞ》にちがいない。食堂ならば、偶然をよそおって同じテーブルにすわることもできる。短い話ならできないでもない。そして、万一誰かに見とがめられたとしても、検察庁の中だという弁解もできるのだ……。
「それではきょうは、この程度にしておきましょう。それからついでにおたずねしますが、あなたは榎本ふさ子さんというおかたをご存じですか? お兄さんの恋人だそうですが……」
「いいえ」
恭子は大きく首を振った。
「どうもご苦労さまでした……それから、あなたもいろいろとお気をおつけになったほうがよろしいですよ。最近の東京ときたらどんなことが起こるかわかりませんからね。僕もきのう、渋谷署を出た裏通りで、無灯火の自動車にひき殺されそうになりましてね」
「まあ……」
恭子は驚いたように声をあげた。その声とその瞬間の眼の色から、三郎は恭子の炎のような恋情は、まだ消えていない、と悟ったのだった。
三郎は、北原大八といっしょに地下の食堂へ行った。最初はまばらだった座席もしだいにふさがって、まもなく空席もなくなった。北原大八は健啖家《けんたんか》のはずなのに、ミルク一杯注文しただけだったが、恭子が近づいてくるのを見ると、
「検事さん、私はお先に失礼します」
と言って立ち上がり、後ろもふりかえらずに、食堂から出ていった。
「あの、ここはあきましたでしょうか?」
「さあ、どうぞ」
恭子が腰をおろしたとき、三郎はテーブルの下から、部屋で走り書きしておいたメモを渡した。
僕の愛情は変わらない。どうなっても結婚するつもりだ。君の信頼できる女の親友を教えてもらいたい。彼女に事情を打ちあける
乱暴な表現だとは思ったし、検事としてはたいへんな冒険だが、これ以外には方法もなかった。
何気ない様子で、掌《て》の中のメモを見つめていた恭子の口もとには、初めてかすかな微笑が浮かんだ。右手をテーブルの上にあげ、指で電話のダイアルをまわすようなまねをしてみせたのは、後で連絡するという意味なのだろう。あいにく、同じテーブルには、顔見知りの研修生、市村|昌敏《まさとし》が食事を続けていた。せっかくのチャンスなのに、眼と眼を見あわせるばかりで、話ひとつできなかったのだ。
いらいらする十分間が過ぎ去ったとき、刑事部の部長検事、真田《さなだ》錬次がはいってきた。部長ともなれば、ここで食事をすることはほとんどない。三郎もその顔を見たときはぎくりとしたが、彼はつかつかとこのテーブルに近づくと、
「霧島君、急用があるから、食事がすんだら、すぐ僕の部屋へ来てくれたまえ」
と命令するように言いながら、恭子のほうに鋭い視線を投げた。
「君、いま食堂で君のとなりにすわっていたのは、竜田恭子さんだろう。君は春海君に、ある時期までは絶対にデイトしないと誓約したのに、所もあろうに、検察庁の地下の食堂で、こんなまねをしてくれては困るじゃないか」
三郎が部長の個室をたずねていくと、真田錬次は眉《まゆ》を寄せて叱りつけるように言った。
「これは偶然と言えます。彼女は参考人として、午前中に呼びだして調べたのですが……食堂ではあいにく、僕のとなりしか空席がどこにもなかったのです。しかし、話らしい話はしませんでした。幸い研修生の市村君が同じテーブルにすわっていました。その点はいつでも証明してくれるでしょう」
三郎はたたき返すように答えた。真田部長の眼はとたんにきらりと光ったが、同時に口もとの表情はゆるんでいった。
「なるほど、昼飯どきには、あの食堂は混むからね……しかし、僕としては検事正に対する配慮もある。むこうが空席を捜して、君のそばに近づいてきたというならしかたがないが、僕があわてて飛んでいった心境も察してくれたまえ」
「はい……」
「君たちはいま誰かに一挙一動を見はられていると思わなければならないよ。実はいま、僕のところへ電話があったのだ。霧島検事は恋人の竜田慎作の娘を呼びだし、地下の食堂でデイトをしているが、それでも検事としての職責が果たせるのかねと言ってきたのだ。そうでなければ、僕には君たちがあそこにいることなんかわからないよ」
「なんですって!」
三郎も思わず声をあげた。自分たちが食堂でいっしょになってから、真田検事が現われるまでには十分ぐらいしかたっていない。この密告者は、おそらく検察庁の内部にまでやってきて、建物の中の赤電話からでも、部長の部屋に電話をかけたのだろうと思われた。
「部長、これはまだお話ししませんでしたが、実は昨夜もたいへんな目にあって、危うく命拾いしたのです」
三郎が昨夜の椿事《ちんじ》を話して聞かせると、真田部長の額には、八の字の皺《しわ》があらわれた。
「なるほどな……これはたいへんな敵らしいな。どういう非常手段を用いても、君を倒そうとしているとしか思えないが」
「僕もそうではないかと思います。麻薬の組織を敵にまわすときは恐ろしいという話はかねがね聞いていましたが」
「うむ、まあ一本吸わないか」
真田検事は、ゲルベゾルテの箱を出して自分でも火をつけた。恭子との件は、これ以上追及しないつもりだということは、三郎にもすぐにわかった。
「あれは十年ぐらい前だったかな。僕もいまの君と同じように、あるやくざを留置所にたたきこみ、禁断症状に追いこんで泥を吐かせようとしたことがあるよ。ところが、やつはいっこう平気でね。僕もこれはと動揺したのだが……」
「それはいったい?」
「彼は、差入れの中に、ヘロイン入りの煙草とマッチを忍ばせて、留置所の中で吸っていたのだ。そのために、どうやら一時はごまかせたのだろうね。まあ、今度の場合、この方法が使われているとは言えないが、そのときは何しろ相手が相手だけに、同房の者もなんとも言わなかったのだね」
「わかりました。その点はもう一度、だめを押してみます」
「まあ、警察官にしても人間だ。たとえば留置人の身体検査などにしても、手ぬかりがないとは言いきれまい」
こうして話題をちょっとよそに移して、真田検事は自分の頭の中で、考えを整理していたのかもしれない。一口吸っただけの煙草をすぐ灰皿でもみ消すと、
「しかし、僕はいままで、どんな事件でも、捜査担当の検事が直接、命をおびやかされたということは聞いていないが、君はこの点をどう思う?」
「さあ……」
「かりに君に万一のことが起こったと仮定しても、すぐに誰かが仕事を引き継いで立ち上がるよ。その後任者はおびえるどころか、かえって弔い合戦だと奮起するだろう。それがいい意味での検事一体制のあらわれなんだよ」
「たしかに……」
「たとえどういう相手にしても、そうつぎつぎに検事の命は狙えるものではない。いま、当面の相手と考えられる小林一家には、君さえ倒せばそれで万事はかたづくと考えるような馬鹿ばかりそろっているのかねえ」
「さあ……」
「もちろん、僕も神さまではないから断定的なことは言えない。その女房というのが、単純な女だとすれば話は別になるが、昨夜の自動車の男にはべつな狙いもあったんじゃないのかな?」
真田部長は、兄の一郎と同じような疑惑を抱いたらしかった。
「たとえば、君が警察とは別に、個人で敵の命とりになるような情報を握ったと仮定するね。君自身、その値打には気がついているかどうかはしらないが……その場合には、一人の検事を殺そうとする狙いもわからないじゃない。後任の検事はその線を追うときまっていないからだ。その見地からもう一度、この事件を観察してみてはどうだね?」
第二十一章 二人の孤独
真田部長の一言は、三郎には一種の天啓のように思われた。いままで、頭の中でもやもやしていた考えが、やっといくらかまとまってきたのだった。
「部長さん、わかりました。たしかに、誰かが僕の命を狙う理由はいまのところ二つしか考えられないと思います。第一には、竜田恭子さんに熱烈に惚《ほ》れている男がいて、僕が邪魔になったという考えですが」
「それも相手によりけりだが、実際問題としてはどんなものかな。むごい言い方をするようだが、第三者の眼には、君たちの婚約は解消寸前に見えるだろう。ことに、そういう人間がいたとしたら、自分に有利な希望的観測が先に立つだろう。いま君を殺してまでとは考えないだろうね」
「わかります。ただ僕はいま、あらゆるケースを一つのこらず検討しようと思っただけです。この考えが間違っているとしたら、僕に思いつく第二の理由は、僕が鹿内桂子に会ったためとしか思えません」
「ほう」
真田検事はテーブルの上で指を組んだ。ふつう刑事部長は、部下の検事が扱っている事件の内容にはいちいちタッチしないものだが、これは特別な場合だけに、前にも彼からかなりくわしい報告を受けていたのだ。
「なぜだ? 君がそんな考えを起こしたのは」
「僕が、警察を通じないで、直接あたったのは、鹿内桂子一人だけだったからです。彼女が自分のアパートで、僕に話した話の中に、犯人の命とりになるような秘密があったとしたならば、犯人が彼女を殺し、僕を殺そうとしていることもわからないではありません。彼女が死んでしまった以上、僕に万一のことがあったら、後任の検事は彼女の線を追いきれません」
「なるほど、彼女の話の中にね。それは君自身が判断するしかないわけだが、犯人は君たちがどんな話をしたかはわからなかったろう」
「しかし、犯人の側から見たら、僕が彼女と個人的に会ったということだけで、何かの脅威を感じたかもしれませんね。あのとき、僕は少し酔っていましたから、細かな点までは思い出せないところもありますが、彼女には、利根健策という本名、霧島三郎というペンネームで小説を書こうとしているのだとよけいなことを言ってしまったのです。検事二人の名前をうっかり並べてしまったのですから、それがもし犯人の耳にはいったら、恐怖を感じて邪推のあまり、彼女を殺して直接の危険をのがれようとしたかもしれないとも思えます」
「うむ……その点は君がもう少し検討してみたまえ。僕はアドバイスはできても、直接正確な判断を下せる資格はないからな。ただ、もう一つ君に聞いておきたいことがある。銀座の高級バーから、女の個人経営のバーまでついていったとすれば、かなりの出費になるだろうが、君は竜田恭子さんから、金を受け取っているようなことはないだろうね?」
「どうして、そんなことをおたずねになるのですか?」
三郎は動揺を押さえて問い返した。
「これも電話の密告だよ。さっきの電話と同じ声だった。きのうかかってきたのだが、この男は、執拗《しつよう》に君に食い下がって、どこかでボロを出すのを狙っているらしいな。もちろん、検事が自分の金でバーへ行くことは勝手だ。これがふつうの場合なら、婚約者からプレゼントを受け取ってもなんの問題にもならない。しかし、事件を直接担当する検事が重大容疑者の娘から金品を受け取ったとなると、これは問題になりかねないな」
「そういう事実はありませんでした」
三郎は冷汗を流しながら、嘘《うそ》をついた。真田部長の眼はとたんに鋭く光ったが、言葉は案外やわらかだった。
「僕は君の言葉を信じるよ。しかし、これからもこの事件にかかっているあいだは、よくよく行動を慎んでもらいたい。事件も君の立場もデリケートだ。ちょっとした過失でも命とりにならないとは言いきれない」
「わかりました」
真田部長は何度かうなずき、ひとりごとのような調子で言った。
「検察官というものは孤独な存在だと、僕はいつか思ったことがある。持っている権力は大きいし、検事一体という組織に支えられてはいるけれども、どんな人間も信じられないという悩みはたえずつきまとうんじゃないのかね」
部長室を出て、部屋に帰ってくると、北原大八は真青な顔をして頭を下げた。
「検事さん、どうも申しわけありません。気をきかすべきところで気をきかさずに、妙なところに気をきかしまして……」
「なんのことだい?」
三郎は煙草に火をつけながらとぼけて答えたが、大八は体をもぞもぞさせて、
「検事さんはあのお嬢さんと婚約しておられたのでしょう。せめて食堂でと思ったのですが、部長さんに見つかるとは思いませんでした。このおわびには必ずどこかで一働きします。どうか、お許しください」
と小声で言ったが、三郎にはこのとき妙な疑惑が起こった。
――もしかしたら、真田部長のところへ二度まで電話をかけたのは、この男ではないだろうか?
妄想といえばそれまでだった。ふつうなら検事の女房役というべき事務官が、裏切りのような行為を働くことはありえないが、世の中にはそういう行動に喜びを感ずる人間もないではない。ことに、自分がこの部屋で金を受け取ったことは誰にもわからないはずだった。ただ、この事務官なら部屋を出て、ドアの外から聞き耳をたてていたことも考えられる。
もちろん、こういう疑いを口に出すことはできなかった。ただ、いま真田部長から言われた言葉の一つ一つがきびしい実感となって身にしみた。
「それは婚約はしていたが、こういう立場になっては結婚は望めないよ。僕にだって、若干の未練はあるけれどもね」
「そうでしょうか?」
「まあ、僕のプライベートなことについてはもう触れないでくれたまえ。あの人を参考人として呼び出すことももうなかろうしね」
「すみません……」
大八はうつむいて、鼻をすすりあげ、
「検事さん、私が須藤俊吉に会ってみるという考えはどうでしょうか」
と思いがけないことを言いだした。
「どうしてだね?」
「あの野郎が何か知っていることは確実でしょう。しかし、検事さんが何度もやつにお会いになるというわけにいかないでしょうし、警察だって、いまのところ突っこみきれない相手でしょう。ところが私なら年の功《こう》で、ぬらりくらりとねばっているうちに、案外|尻尾《しつぽ》をおさえられるかもしれません。もし失敗したところでべつに恥でもありませんし」
大八は、こんなところで手柄をたてて、いわゆるおわび≠フ形をつけようとしているのかもしれなかった。たしかに検事は検察事務官に命じて、取調べなり逮捕なりを行なわせることもできるのだが、三郎にはこの言葉にしたがっていいかどうか判断もできなかった。
そのとき、電話のベルが鳴った。受話器を取り上げた大八は、一瞬妙な顔をして、三郎に渡した。
「あの、さっきのお話ですけれど、尾形悦子さんならと思います……」
泣きだしそうな恭子の声が聞こえてきた。尾形悦子というのは弁護士の娘で、三郎の思いついた何人かの中にはいっていた。
「わかりました」
「あの、さっきのおかたはどなたでしたの?」
事情を打ちあけたいのは山々だった。しかし、事務官でさえ信頼できなくなった彼にはこれ以上、電話で話はできなかった。
「それは申しあげられません。それからお断わりしておきますが、もうこれ以上、お電話はなさらないでください」
「まあ!」
悲鳴のような声だった。三郎は血の涙をのむような思いで電話を切った。
大八は下を向いて溜息《ためいき》をついたが、また、すぐ次の電話が鳴った。
「捜査本部の桑原さんです」
三郎は手を震わせて受話器を取ったが、桑原警部の声はいつもよりはずんでいた。
「検事さん、お早うございます。小林がとうとう崩れだしました」
「禁断症状を起こしたのですね」
「はい……けさからです。いま、医者と相談して手を打っています」
「よくいままで……」
「私どもの手落ちでした。やつはひょっとしたら二日ぐらいは泊められはしないかと心配して、ヘロイン入りの煙草とマッチを、下着に隠して持ちこんでいたらしいんです。もちろん、房の中で煙草を吸うのは禁止されていますが、何しろあんな男ですから、同房の者もこわがって、なんにも言わなかったのですね。それで、どうにか今までこらえられたのでしょう」
「そうですか……」
自分の狙《ねら》いは図にあたったのだ。これで、ラムール≠フ側の秘密はわかるだろう。二つの殺人事件にも、新しい光が浴びせられるだろう。
そう思いながらも、三郎は手ばなしでは喜びきれなかった。
「あとは時間の問題でしょう。しかし、初めは手間がかかりますから、こちらで荒らごなしをして、わかったことから逐一ご報告いたします。そのほかの方面は、きょうはまだ進展がありません」
誰かがそばにいるための腹芸だとは思ったものの、やはりあの電話は、恭子にとってはこのうえもないショックだった。三郎とはべつの意味で、ほとんど同時に、恭子は人間に対する不信感、虚無的な孤独感を骨の髄まで味わったのだ。
恭子はすぐにその足で尾形悦子の家へ飛びこんだ。そして涙を押さえながら、いっさいを打ちあけた。ただ、須藤俊吉の名前をはっきりさせず、陳志徳のことにはぜんぜん触れなかったのは、やはり本能的な警戒心からだった。
「お気の毒ねえ。あなたがたは……わたしはいままで、こんないい結婚はないと思っていたんだけれど……」
ハンカチで眼をふきながら悦子は言った。頭はよく、気だてもやさしいのだが、背は低く、眼鏡をかけていてあまり美人とはいえない。それで縁談もまだなのだが、婚期のおくれた娘にありがちな嫉妬《しつと》やひがみ根性などはどこにもなかった。
「きっと、三郎さんは、部屋に誰かいたのでつれない返事をしたのよ。お昼に、あなたにそんなお手紙を渡しておいて、三十分か一時間のあいだに、ぜんぜん気持が変わってしまうなんて考えられないわ」
「でも、食堂に誰かえらい検事さんらしい人が、血相を変えてやってきたのよ。部長さんじゃないかと思うけれど……そういう人に頭ごなしに叱られたら、気持も変わることがあるんじゃないかしら?」
「そのことは、わたしが三郎さんに会って確かめてあげるわ。わたしは、あなたがたのためなら、どんなことでもするつもり……でも、あなたもこうなったら、最悪の事態に対決する覚悟を決めたほうがいいんじゃないかしら」
「というと、婚約解消?」
「いいえ、その前にしておくことが一つあるでしょう。お父さんが、ほんとうに生きているかどうかを確かめるのよ。それをしないで、三郎さんとのことでくよくよするのは、むろん気持はわかるけれど、順序を間違えていないかしら?」
「でも、どうして確かめられるのかしら?」
「これは自分のことではないから、勝手なことを言うとおこられるかもしれないけれど、わたしなら、そのお兄さんの友だちという人に体あたりしてみるわ。もし、お父さんに会えなくても、電話で声でも聞けたなら、そのときもう一度考えてみたらどう?」
「でも、父は、こんなことになったら、生きていたとしても、私たちに、電話をかけてくれはしないでしょう」
「だから、彼に電話をかけさせて、あなたがそばで聞いていればいいじゃないの? 受話器を少しはなしてもらって、耳をくっつけていたら……お父さんの声ならすぐにわかるでしょう。そのうえでなら、その人が会わせてくれるという話にも応じていいかもしれないわね。もし、かりに、お父さんのことが嘘だとしても、その人の話を聞いておけば、あとで三郎さんの捜査にも役にたつようなことがつかめるんじゃないかしら?」
突飛な、と言いたいぐらい、飛躍的な思いつきだったが、この言葉は恭子の胸を強くゆすぶった。
たしかに、いつまでもこういう中途半端な状態に置かれて悩んでいるのでは、気が狂ってしまいそうだった。いいにせよ、悪いにせよ、はっきりした現実に直面すれば、そこに一つの道も開けそうだった。孤独の中の友情は砂漠の泉よりも貴重だという諺《ことわざ》を、恭子はしみじみと思い出していた。
恭子はそれから須藤俊吉に電話をして、五時に藤花荘≠フ事務所を訪ねて行った。
兄にも寺崎義男にも、このことはないしょだった。信濃町へ行くまでにも、一度新宿へ出て、デパートのエレベーターを上下するように、気をつかった。
十二畳ぐらいの広さの洋間で、須藤俊吉は恭子を迎えた。
「とうとういらっしゃいましたね。あなたはきっと、僕を必要とすると思っていましたよ。ただ、このことは誰も知らないでしょうね。尾行や何かもないでしょうな」
冷たい笑いを浮かべながら、ねちねちとだめを押してくる態度はこのうえもなくいやらしかった。
「その点はどうぞご安心を」
「まあ、尾行のほうは、ここから出かけるときに僕が気をつけますがね。まだ時間が早いから、ここでしばらく話して行きましょう」
「それでは、父に会わせていただけますか」
「あなたはある人≠ノ会いたくて、ここへいらっしゃったのでしょう。僕はなにも、あなたのお父さんとは言っていません」
「それは、どこへでもおともしますが、その前に一つ条件があります」
「ほう、無条件降伏ではなかったのですか。条件というなら、こっちから持ち出したいところですよ」
「私の条件といいますのは、まず電話で父の声を聞かせてくださることです」
「電話?」
「そうです。私は出ないでもかまいません。ただ、あなたとの話を私がそばで聞けたら……」
「あなたは思ったよりも世間知らずのお嬢さんですな」
俊吉は唇を歪《ゆが》めて笑った。
「彼氏がどこかのホテルにでも滞在していると、思っているのですか。それとも日本旅館のバス、トイレ、テレビ付きの部屋にでも……そんなところに泊まれるなら、なんの苦労もないでしょう」
「それでは、あなたから連絡するにはどうするのです」
「それはなんでもないことです。僕がある女性に電話し、彼女が直接、むこうへ訪ねていくのです。これでも十分に用は足りますよ」
恭子は唇を噛《か》みしめた。やはりこの相手は役者としては一枚も二枚も上手だった。せっかくの悦子の妙案も、ぜんぜん役にたたなかった。
「まあ、最初からこんないがみあいもなんですから、少しべつなお話をしましょうか。麻薬についてのお話を。いくらかご参考になるかもしれません」
「どうぞ」
「固有名詞は出せませんがね。それでも、今度の事件の秘密を解くためには、何かの役にたつでしょう」
俊吉は立ち上がって、棚からワインの壜《びん》をとり、二つのグラスに注ぎわけた。
「まったく、何が儲《もう》かるといっても、麻薬の輸入ほど儲かるものはないようですね。しかし問題は、どうして大量の薬《やく》を国内へ持ちこむかということです。これを安全確実にやってのける代議士がいるのですから、僕もかぶとをぬぎますね」
「税関の役人を買収するのですか」
「そういう甘い手なものですか。彼は何人かの外交官と結託しているのですよ。もちろん大使、公使クラスの大物じゃなし、国籍もはっきり言えませんがね。彼らを必要あるごとに、香港へ飛ばすのです。外交官の旅券は物をいいますからね。緊急の打ち合わせで飛ぶというような格好をつくれば、二日ぐらいで東京香港を往復したところで誰にも怪しまれない。ジェット機時代では土曜日曜でも、用事は十分足せますよ。そして、外交官の荷物は、国際法の規定で、どんな国の税関でも、検査なし、フリーパスなのです。この代議士に言わせれば、船でゆっくり品物を運んできて、水揚げ――つまり上陸直後につかまるのは、馬鹿もいいところだそうですがねえ」
恭子も思わず身ぶるいした。どういう理由で俊吉がいまこんなことを言いだしたか、その思惑はつかめなかったが、いままでは危険このうえもないと思っていた麻薬の輸入にも、こんな安全確実な方法があったのかと思うと、政治家の狡知《こうち》がそら恐ろしくなったのだ。
「まあ、そういう外交官にしてみれば、自分たちは日本の販売ルートを知らないわけですからね。おろし値段で、信頼できる相手に渡せれば、それで助かったと思うでしょう。ところが、この代議士はそれをまた、信頼できる大ボスに渡すわけです。アフター・ケヤつきの条件で」
「アフター・ケヤと言いますと」
俊吉はちらりと腕時計を見つめた。なにか時間を気にしているようだった。
「こういう組織、ことに末端になればなるほどこわがるのは警察の手入れですよ。なにしろお客のほうは数が多いことですし、いつどこから秘密が漏れるかわからないわけです。ところが、ふしぎなことには、この代議士の息のかかっている組織だけは、いざ手入れがあるとなると、いつでも事前に情報が伝わるのだそうです。確信を持って家宅捜索にふみきっても、何も出なかったとしたら、警察でもどうにも処分はできますまい。どこからどうして情報が伝わるかということは、僕にもちょっとわかりませんが、警察官といっても数が多いことですし、悪徳と肩書のつくような人間をふだんから手なずけておくのでしょうね。それもいわゆる政治力の一種かもしれませんがね」
こうして、麻薬犯罪の裏の秘密を暴露してみせるのも自分を信用させようとする手段ではないかと恭子は思ったが、この話には奇妙に人をひきこむ力があった。最初の警戒心もしだいにうすれていくようだった。
「あなたはよく、そういう秘密をご存じね」
精いっぱいの皮肉だったが、その言葉もたちまち冷笑とともにはね返された。
「こういうことを僕が誰から聞いたとお考えです。あなたが今晩、これからお会いになるはずのある人が、罪ほろぼしの一つとして懺悔話《ざんげばなし》をしてくれたのですよ」
第二十二章 素人の着想
「それから一つおことわりしておきますがね。僕にしたところで、あなたに彼をひきあわせるということは、ある種の、刑法に触れるような冒険をおかすことですよ。あなたも弁護士のお嬢さんだし、そのくらいのことは、くどくど説明しなくてもおわかりでしょうね」
須藤俊吉は、するりと話題を転じて、恭子のいちばん気にしていた問題に触れてきた。
「はい……」
「騎士道はなやかなりしころならしれませんが、僕はドライな現代人です。一にも自分、二にも自分というのが、生活の信条なのですよ。ですから、この点は初めから、はっきり申しあげますが、このささやかなサービスをしてさしあげたなら、僕にはどんなお礼をしてくださるのです?」
「お金でしたら、十万円でも二十万円でも」
「あいにく、僕はいまのところ、土地の値上がり値上がりで、苦労のたねといったなら、どうして税金を安くしてもらおうかということだけ。その程度のお金にはぜんぜん魅力も感じませんね」
「では、どうしろとおっしゃるのです?」
「僕の代償は、あなたとの浮気ですよ」
この男が無神経かと思われるほど、ずうずうしいのは承知していたが、面と向かってずけずけとこんなことを言いきられたときには、恭子もとたんに頭がかっと熱くなり、反対に体が冷たくなってしまった。
「よくも、あなたは……」
「これでも、僕としたならば、実に合理的な解決だと思っているのですがねえ」
俊吉は、恭子の怒りもぜんぜん感じないような冷たい調子で、
「僕はあなたに前にプロポーズをして、みごとにふられたことがありましたね。まあ、そのときはえらく腹がたちましたが、あなたと僕の性格の違いを考えてみると、これはどうせ一生うまくいく結婚ではなかろうと思ってあきらめたのですよ。ところが、男というものは、いったん征服した女を捨てることには、たいして未練は感じなくても、自分が惚《ほ》れこんでいて、物にできなかった女には、一度でもよいから、自分のいうことを聞かせてみたいという望みを捨てきれないのですよ。たとえば、霧島検事さんにしたところで、前に婚約しながら、自分を捨ててほかの男といっしょになった女と、もう一度めぐりあったら、やはりそういう気をおこすでしょうね」
聞くにたえないような饒舌《じようぜつ》だった。ふだんなら、恭子も耳をおおうどころか、相手の横っ面をひっぱたいて逃げ出したにちがいない。
しかし、いまの恭子はまるで猫に見こまれた鼠《ねずみ》のようなものだった。こんな言葉もかえって一種の魔力をもって、胸をしめつけてくるようだった。
「だから浮気と限定したのですよ。どうせ、あなたは霧島君に一度や二度は許したのでしょう。むかしと違って最近では、婚約中の関係は当然のことと思われているようですしね。それなら、あなたが将来、どんな男と結婚なさるにしても、一回二回の経験がふえたところで同じでしょう。まあ、僕はこう見えてもレディ・キラーでは通っていますし、あなたのほうで、その関係を永続させようという気になれば、その時はまたその時のことですがね」
「私、もう、帰らせて……」
「お帰りになりたければ、どうぞ任意にご退出ください。これは霧島君が調べのあとで、僕にたたきつけた法律用語ですがね。そのかわり、そのときには、誰かがある人の居場所を悟るでしょう。もし、その誰か、たとえば、霧島検事殿が、しかるべき手を打たなかったら、彼は公私の別をぜんぜんわきまえない人物として、猛烈な非難の対象となるでしょうね」
恭子は自分の運命を呪《のろ》った。親のために女が貞操を犠牲にするような場面といえば、二むかし以上も前の話だとばかり思っていたのに、現代でもこういう事件が起こり、自分自身がそういう立場に追いこまれようとは、想像もできなかったのだった。
恭子の苦悩を楽しむように、俊吉はグラスのワインをゆすり、なめるように酒をすすっていたが、そのとき白い上っ張りを着た女事務員がはいってきて一枚の名刺を渡した。
「検察事務官、北原大八……」
その名を小声で読みあげた俊吉は、恭子のほうを怒ったような眼で見つめて、
「まさか、あなたがしめしあわせたのではないでしょうね」
「いいえ、とんでもないことです」
「そうですか。それではしばらくそちらで待っていただきましょう」
俊吉は立ち上がって、部屋の一方の板戸をあけた。そのむこうは六畳の和室だった。板戸をしめなおすときにいくらか隙間《すきま》を残しておいてくれたのは、隙見と立ち聞きができるようにとの配慮かもしれない。恭子はこの板戸に頬《ほお》をすりつけるようにして、自分のいままでいた部屋の様子をうかがった。
二、三分して、人のはいってきたような気配がし、視界を見覚えのある北原大八の姿が横ぎった。法律的な手続きには、わりあいに通じている恭子には、彼が三郎の意を受けて、ここを訪ねてきたとしか思えなかった。
しかし、会話は聞きとりにくかった。俊吉は意識的に声を低くしているようだし、大八のほうも、ふだんは大声なのに、相手の調子にまきこまれたのかもしれなかった。
「ところで、竜田さんのお嬢さんは、いまこっちへ訪ねてこられたのではありませんか」
耳が慣れだしたのか、大八の声が大きくなったのか、この言葉はどうにか聞きとれた。
「とんでもない。僕をげじげじか回虫みたいにきらっているあの人が、どうしてここを訪ねてくるなどとお考えですかね?」
「玄関にぬいである女の靴が、きょう検察庁へあの人がはいてきたものと同じだと思ったからですよ」
「はははは、つまらないことをおっしゃいますな。どうも、検察庁のおかたはみなさん、妙に疑い深くていらっしゃる。デパートへ行けばおなじ婦人靴なんか、何百足でも手にはいりますよ。あれはうちの女事務員の靴でしょう」
俊吉の声は一瞬少し高くなったことをのぞくと、さっきとぜんぜん変わりがなかった。
それから、俊吉はまた大八を誘いこむような小声の話に移った。秘密話といえばそれまでだが、一方では自分をいらいらさせるような狙《ねら》いもあるのではないかと思って、恭子は思わず歯ぎしりした。
そういう小声の話は三、四十分ほど続いたが、その内容はかならずしも、大八を満足させるものではなかったらしい。
「須藤さん、私が今夜ここへまいったのは、半公半私といった立場ですよ。あなたとしても、いろいろと前からのひっかかりもおありでしょうし、公的にはお話しできないようなことでも、わりあい気がるに打ちあけてくだされるかと思ったからです。ところが、こんなにぬらりくらりと、思わせぶりなことばかり言われるのでは、もうがまんできません」
「ほう、それではどうなさるおつもりです」
「なにしろ、霧島さんというおかたは、私でも驚くくらい、気性の激しい検事さんです。場合によっては、あなたを犯人蔵匿の容疑で逮捕して調べることにもなりかねませんね」
「なるほど、それがいやだったら、ここであなたに何もかもぶちまけてしまえというのですね」
相手の語調につりこまれたのかもしれないが、俊吉の声も聞こえよがしに高くなった。
「まあ、そうなったら、そのときで考えましょう。きょうは僕もあいにく、のっぴきならない約束がありますので、これでおひきとりねがいます。もっともあなたが、逮捕状をかくしておられて、それをつきつけられるなら、万やむをえない話ですが」
恭子もこのときはぎくりとした。いつ大八が、
「それでは君を逮捕する」
と叫びだすかと思ったからだった。
恐ろしいような沈黙が続いた。
「それではまた、あらためてお目にかかりましょう」
と大八が言ったときには、恭子もわれを忘れて大きな溜息をついていた。
大八が出ていって一、二分してから、俊吉は板戸をあけてくれた。
「こちらへ。いまお聞きになったように、情勢はいよいよ緊迫してきましたよ。僕は、あなたとの取引のことを思って、どうにかねばりきったのですがね。正式に逮捕状でも出されたら、どうなるかは自分でもわかりませんね」
「はい……」
「しかし、僕は今夜あなたとこれ以上、ごいっしょするわけにはいきませんね。この調子では、家の周囲に警察の張込みがないとも限らないし、前提条件のデイトのほうにしたところで、すっかり気分をこわされてしまいましたから」
「それでは、どうすればよいのです?」
「あなたはきょうは、ここからまっすぐにお帰りください。明日にでもまたあらためて、おちあう場所を電話で指定しますから。ただ、そのときも、おひとりという条件はお忘れなく、尾行のほうも十分に気をつけてください」
「はい……」
恭子は唇を噛みしめた。冷静に考えれば、こういう用心も当然なのかもしれないが、まるで自分を情婦の一人のように扱っているのかと思うと、腹がたってたまらなかったのだ。
「どこへでも、あなたのご指定の場所へまいりますが、ただ一つだけお願いがあります」
「なんですか?」
「そのとき、父が家を出たとき、身につけていた品物を一つでも持ってきていただきたいのです。私の見覚えのあるものを」
「ほほう、妙な注文を出しましたね」
俊吉の眼は、とたんにぶきみな光をおびた。
「あなたはさっき、電話はかけられないとおっしゃったでしょう。何事によらず、自分を全面的に信用しろとおっしゃりたいのでしょう。しかし、それなら一つぐらいの証拠は見せていただいても、よろしいじゃありませんか。もし、それもしていただけないのなら、父は父、私は私で、おのおのの道を進んでいくしかございません」
自分でも強すぎる言い方かなとは思ったが、これが今まで隣りの部屋で考えぬいたあげくの結論なのだった。俊吉も、この筋の通った言葉に対しては、つっぱなす口実をすぐには思いつかなかったらしい。
「そうですね」
うつむいてしばらく考えこんでいたが、
「わかりました。それさえお見せしたならば、あとは僕の言いなりというわけですね。彼にひきあわせる前に、サービス料を前払いにしてくれるというわけですね」
とすかさずだめを押してきた。
「それは、その品物を拝見したときに、お答えいたします」
こういう言葉も、恭子は自分で最後の抵抗かと思ったくらいだった。
霧島三郎は、その夜はわりあい早めに下宿へ帰ってきた。尾形悦子からも電話はあったが、今晩は悦子のほうでやむをえない用事があるので、明日またあらためて連絡したうえでということになったのだった。
部屋では一郎が深刻な顔をして待っていた。彼の顔を見るなり、いたわるように、
「ますます顔色が悪いが、きょうも何かあったのか?」
「小林が崩れだしたのは、一つの進展ですが、こういうところでは警察にも花を持たせなければと思って、自分では調べていないんですよ。そのほかのほうは、腐るような出来事ばっかりでしてね」
三郎の打ちあけ話を、この兄は腕を組んで黙々と聞いていた。
「なるほどな。お前の立場も苦衷も察するが、案外これからは事態も好転して来るかもしれないな。まあ、この後もいろいろと苦労や問題は連続するだろうが」
「どうしてそんなことを言うんです。ただの気休めではないでしょうね」
「違う。まあ、おれの考えも聞いてもらおう。素人考えと笑われるかもしれないが、おれはお前の話を最初聞いてから、おれなりに頭を絞りつくしたんだ。出張の用件も忘れて、出先で妙な話をするくらいね。ところで、お前はその小林の線をたぐると、代議士の黒沢大吉に直結する可能性も出てくると言ったな。ところで、政治家という人種に、いちばんこわいのはなんだろう?」
「落選、そういえば、総選挙もすぐですね」
三郎もすぐ、兄の言わんとすることに気がついた。
「そうだとも。まあ、検事という立場じゃ、あとで違反の後始末をするくらいで、選挙というものには、ほかにたいして関心もないだろうが、われわれのように地方の役所にいると、これで頭が痛くなるんだ。ところが、選挙運動というものは、解散後の演説会などのような目に見える動きは終盤戦なんだ。碁で言うなら、よせの段階で、布石なり中盤戦なりは、解散前にちゃんとすんでいるものなんだよ」
「ところが、碁でも終盤で一手のあやまりから、勝負が逆転することもあるわけですね」
「そうだとも。黒沢大吉ほどの人間なら地元では誰が考えても、当選確実のところへはいっているだろう。ただここで、彼が何かの刑事犯罪、それに関係がありそうだという噂《うわさ》が飛んだらどうなるだろう」
「いわゆる浮動票はずいぶん食われるでしょうね。まして、嫌疑が大いに濃厚で、逮捕というようなことになったら、当選は危なくなるでしょうね」
「おれもそうだと思うんだ。国会議員を逮捕するには、議会の開会中は国会の承認がいるはずだ。しかし、いったん衆議院解散ということになったら、次の選挙がすむまでは、前代議士といっても、なんの身分保証もないわけだろう。ある意味では、黒沢大吉の犯罪を追及するには、絶好の機会だと思うが、そこまで考えると、この事件は実に微妙な時期に発生したものじゃないか」
「偶然といえば、恐ろしい偶然ですね」
「たしかに、事件の発生は偶然だったかもしれないよ。しかし、政治家が成功する一つの秘訣は、突発事件をたくみに自分の有利なように利用する能力にあるそうだね。まあ、候補者同士というものは、表面こそ紳士的にふるまっているが、その裏では、お互いにむこうの眼の球に指をつっこんでかきむしってやりたいぐらいの神経は持っているんだよ。やくざ同士の出入りのように、日本刀や拳銃《けんじゆう》を持ち出して血の雨を降らせないだけましだろうが、たとえて言うなら、知能犯的な人間だけに、その争いも時にはずっと深刻なものになりかねないな」
「すると、黒沢大吉と同じ選挙区で対立候補といいますか、彼が倒れたら、自分は絶対に当選確実だと思いこんでいるような政治家の動きも、いちおう計算に入れなければいけないというわけですね」
「おれにはそんな気がするんだよ。もちろん、お前の話がほんとうだとすれば、黒沢大吉も必死になって、この麻薬犯罪が自分のところまで波及することを食いとめようとするだろう。時機が時機だけに、かなりの非常手段も取るかもしれないな。彼はそこまで考えなくても、彼をとりまく連中は、選挙前だけにいきりたって、ふつうの冷静な神経をなくしてしまっているかもしれない」
「逆に、その対立候補の側から言えば、ここで黒沢大吉の傷が表面に出るのは、思うつぼだというわけですね。いや、こちらにお膳《ぜん》をつきつけて箸《はし》をとれという行動に出るということも考えられますね」
「もちろん、誰にも見えすいたような甘い手は使うまいがね。しかし、代議士の選挙となると、一人で何千万円という資金がいるというのは常識だね。このあいだ、菓子折りといっしょに届いた二十万も、その一部だと考えたなら、安い出費だったかもしれないよ。黒沢派のもみ消し工作としても、お前をいきりたたせようとする対立派の工作としてもだ。お前が、いや検察庁がいきりたって、黒沢の身辺近く肉薄すればするほど、その敵には有利な状況が生まれるんだからな」
「なるほど、いろいろな考え方ができるものですね。僕がこの金について心配していたのは、こんなことでしたよ。たとえば、小林の線を追及していって、金が内妻のほうから出ていたことがわかったとしますね。そのとき、むこうで捨鉢になって、実は封筒の中には百万円入れておいたのだ。霧島検事は、その一部だけを表に出して、あとは猫ばばしたのだとわめき散らされることだったんですよ。兄さんじゃあ、証人としての信憑性《しんぴようせい》も弱いですしね。まあ真実は真実だと言ってしまえばそれまでだし、検事というものは、実に神経質な考え方をするものだと笑われるかもしれませんが」
「たしかにむずかしい職業だな。もちろん、お前のいまの立場は例外中の例外と言えるだろうが、まあ、いままで出てきた線はともかく、これから後の捜査では、対立する二つの力がからみあっている可能性もあると考えたら、なにか得るところもあるかもしれないな」
「たいへん参考になりました。明日にでも、その選挙の問題は調べてみましょう。僕の大学時代の友人で、新聞社の政治部に勤めているのがいますから、そういう対立候補がいるかいないか、どんな人間かはすぐにわかるでしょう」
「まあ、その点は、いちおうそれまでとして、竜田さんはほんとうに生きているのだろうか。実は、犯人のために殺されて、死骸《しがい》を隠されてしまったんじゃないだろうかね?」
三郎はごくりと生唾《なまつば》をのみこんだ。
「僕も最初はそう思ったのです。理屈も何もない直感で……しかし、兄さんはどうしてそんなことを?」
「竜田さんが、第一の事件の後に生存していたことを確認したのはいったい誰だ? 極端なことを言うと、鹿内桂子ひとりだろう。警察が最初無条件でその証言に飛びついたわけはわかるような気がする。お前もお客として行ったんじゃ、それ以上はつっこめなかったろう。しかし、お前がそのとき、彼女の証言に疑惑を感じて、もう一度警察に調べなおさせたら、それとも、お前が検事として真剣にこの点をつっこんだなら、どういうことになったろう。もしも、彼女の証言が、でたらめなものだったとしたら、お前はその嘘を見やぶれたとは思わないだろうか?」
「ああ……」
三郎も思わずうなったくらいだった。
「もし、そうだったとしたならば、その線は犯人に直結しますね。あそこまで、もっともだと思われるような話を創作することは、とてもあの女にはできますまい。誰かが作って吹きこんだ物語を、演技力でカバーしていたのかもしれませんね。僕もあのときはだいぶ酔っていて判断力も鈍っていたし、須藤俊吉なり、友永より子は、いまの政治家の話じゃないけれども、既成事実を利用して、僕の疑心暗鬼をいっそうかきたてようとしたのかもしれませんね……」
第二十三章 訪ねて来た女
そのとき、下から声がかかった。
「あの、榎本ふさ子さんというおかたがお見えですけれども」
三郎は兄と顔を見あわせた。慎一郎の恋人というこの女が、二晩も続けて訪ねてくるとは容易なことではないと思ったのだ。
「兄さん、これはどうしましょう?」
「おれには、ごくあたりまえの話しかしなかったが……お前には、もっとつっこんだことも言うだろう。会ってみたほうがいいんじゃないのかな。なんだったら、おれは外へ出かけてもいいが」
「僕のほうが、近くの喫茶店へでも行きましょう。独身の検事はできるだけ、自宅で女に会うなということになっています」
幸いに洋服は着たままだった。三郎はそう言いのこして階段をおりた。
玄関先で待っていたのは、二十五、六と思われる洋装の女だった。とげとげした顔にも品がなく、化粧も水商売の経験でもあるのかと思われるくらい濃かった。慎一郎はどうしてこんな女を好きになったのかと、三郎は一瞬ふしぎに思ったくらいだった。
「あの、霧島検事さんでいらっしゃいますか。わたくしは、榎本ふさ子と申します。お話はお兄さまからお聞きでございましょうか」
「いちおうのことはうかがいました。いま、部屋はちらかっておりますから、その辺の喫茶店へでも行ってお話をうかがいましょう」
「はい……」
こうして玄関先で話をしただけでも、三郎の胸には何かあるな≠ニいう予感が迫ってきた。それも検事の身についた第二の本能のようなものかもしれなかった。
駅前の喫茶店まで来て、二人はテーブルをはさんで相対した。光線のせいか、女の顔は前よりずっと美人に見えたが、大きな両眼はまるで燐光《りんこう》を放っているようだった。
「今度は、たいへんなことになりまして……わたくしにできることなら、なんなりとお役にたちたいと思いますけれども」
しばらくして、ふさ子は眼を伏せて言いだした。
「そのご好意は感謝しますが、いま僕は実に微妙な立場に立っているので、恭子さんとのことも、いったん白紙にかえしましたし、竜田家のほうともいましばらくは、なんのお話もしたくないのです」
「わかっております。検事さんというお立場では……ことに、あなたのようなお立場では、慎重のうえにも慎重な態度をおとりにならなければならないこともじゅうじゅう承知しております。でも、うまくこの事件が解決したなら、それでもあなたは、このお話を破談になさるおつもりでしょうか」
「それは解決のいかんによりけりですが」
「わたくしの申しあげるのは、お父さまが実は殺されていて、その犯人が捕まったような場合でございますが」
「なんですって?」
三郎の胸は震えていた。それこそ自分がひそかにのぞんでいた真相だった。いまも、兄との話にそういう予想が出たばかりなのに、もっと事情に通じているはずのこの女からこういうことを言われると、また新しい希望が湧《わ》いてきたようだった。
「それは、どういう根拠からおっしゃるのですか?」
ゆっくりコーヒーをかきまわしながら、たずねてみると、相手は眼を輝かせて、
「わたくしは、お父さまのいなくなった日のお昼に、お父さまとお会いしておりますの。そのときうかがったお話でも……」
「ちょっと待ってください。そのときは、どこで?」
「お昼少し前から、弁護士会館の前でお待ちしておりまして、それから日比谷の桃華飯店≠ニいうお店へお食事にまいりました」
三郎は、大きく溜息《ためいき》をついた。それならば、自分もあのとき、後ろ姿を目撃した女なのだ。顔は見えなかったし、ほんの一瞬の出来事だっただけに、はっきりしたことはいえないが、そういえば体つきも似ているような気がした。さっきからなんとなく、この女とはいまが初めてではないような気がしたのも、そのせいかもしれなかった。
「竜田さんとは、そのとき初めて?」
「いいえ、あの十日前に初めてお目にかかりました。あの人との結婚のことをおねがいするために……そのご返事を一週間したら、いただくはずでしたのに、なんともご連絡がありませんでしたから、わたくしのほうからおうかがいしたのでございます」
竜田弁護士があのとき、当惑したような顔だったのも、自分の腹がまだきまらないうちに、奇襲のような訪問を受けたせいかと三郎は思った。それでもわざと、
「あなたがたは、もう成年なのですから、結婚に親の許可はいらないはずでしょう」
ためすような聞き方をしてみると、
「理屈はそうでございましょうが、わたくしのほうは、そう思いませんでした。できることなら、お父さまにも許していただき、親孝行のまねごとでもさせていただきたかったのでございます。それでも、慎一郎さんがしぶっておりますので、わたくしがひとりで、体あたりしたのでございます」
「なるほど、あなたならしっかりしておられるようだから……それで、竜田さんはなんと言っておられましたか?」
「最初のときは、お夕飯をいただいてゆっくりお話しいたしましたが、わたくしには好感を持ってくださったように思いました。ただ、こういう話は即答もなんだし、自分はいまたいへん急を要する問題があって、そのほうで神経を悩ましているから、一週間返事を待ってくれとおっしゃいました。わたくしもごもっともと思いまして、それ以上申しあげなかったのでございますが、そのうちに、わたくしの身の上話になりまして、前に新宿のラムール≠ノ勤めていたことがあると申しましたら、とたんに身をのりだしてこられました。それから店の様子などを、しつこいくらいお聞きになってたので、わたくしもびっくりしたのでございますが」
竜田慎作と最後に会った女の一人というだけでも、いまの三郎にはのがせない相手だった。それに、たとえば、ラムール≠ノ勤めていたという話の内容も、彼を強くひきこむものがあった。
「あの店は、僕も一度だけ行ったことがありますが、たいした場所でもないのに、どうして竜田さんが関心を持ったのでしょうか?」
「わたくしもそう思いました。でも、お父さまのおっしゃったことと、あとで慎一郎さんから聞いたことを総合してみますと、お父さまはあの店で麻薬の取引が行なわれていることをご存じで、その確証をおつかみになりたかったのではないかと思います」
「でも、それは弁護士としては度を越した行為のようですが……」
「それもわたくしにはなんとか想像できるような気がします。お父さまは、塚原産業≠フ顧問弁護士をしておいででしょう。ところがあそこの社長さんの塚原正直さんは、たいへんな政治狂で、今度も生まれ故郷の兵庫県から立候補なさるそうじゃございませんか。ところがあの選挙区の強敵は、黒沢大吉だそうでございますわね。塚原さんとお父さまとは、長年の親友だそうでございますから、そのために一肌ぬごうとなさったとも考えられませんでしょうか? お父さまとしては、ある程度まで秘密が押さえられたら、あとはあなたにでも処置を任せて、自分は表面に出ないおつもりだったかと思いますけれども……」
この話にはいちおうの筋も通っていた。ことにいま兄と話したばかりの政敵、対立候補の名前が飛び出したことも、三郎には天佑《てんゆう》のように思われた。
「わかりました。それで、二度目の昼食のときのお話はどうだったのです?」
「その問題がぎりぎりのところまで煮つまったために、あの人に会う時間もとれず、すまなかったとわびておられました。なんとか、二、三日じゅうに、あの人に家へやってくるように話してくれとおっしゃるのです。子供の結婚のときに、親として気持を十分たしかめるのはあたりまえでございましょう。わたくしもごもっともと思いまして、そうしようとお約束したのでございますが」
「そのとき、ほかの話は出ませんでしたか?」
「そういえば、おかしなことがございました。自分は誰かに命を狙《ねら》われているような気がすると、二度もくりかえしておられましたから……わたくしも、今度の事件がおこったときには、びっくりしたのでございます」
「そのほかには?」
「わたくしには好意を持ってくださったことは、たしかでございますけれども、一度や二度、お目にかかったばかりでは、そうこみいったお話はできませんでしょう。ただ、わたくしはそのあとで、気になったことがございます」
「どんなことで?」
「店を出て、裁判所へお帰りになるお父さまとお別れしてから、銀座のほうへぶらぶら歩きだしましたら、後ろから呼びとめられました。誰かと思ったら、わたくしがラムール≠ノいたときのお客の石本というやくざがかった男だったんです。いまデイトしていたのは竜田弁護士だったろう。どんな話をしていたとしつこく聞くんです。わたくしも、うるさくなって、いいかげんのところで逃げだしましたけれども……ひょっとしたら、裁判所からずっと跡をつけられていたのかもしれません」
「その石本という男は、小林一家の息がかかった人間ですか?」
「やくざ仲間のふかい事情は、わたくしもよく存じません。店にいた期間も短かったものですから……でも、やくざがかった店に出入りしていたのですし、やはり同じ系統の人間だと見ていいんじゃないでしょうか」
「なるほど、それで?」
「これは、あとで気がついたことなのですが、お父さまは、わたくしへの弁解のように、今の問題は今夜ある人間に会えば解決するはずだからとおっしゃったんです。ひょっとしたら、そこを訪ねていらっしゃったときに、尾行していた男たちに……」
「それもないとは言えないでしょうね。ただ、その相手というのがわからなければ、手の下しようもありませんね」
「これもわたくしの想像ですが、あの店につとめたことのある誰かではないかと思います」
「どうして、それがわかりますか?」
「わたくしがあの店をやめた理由は、こわくなったからです。薬の取引をしているんじゃないかということは、少し長く勤めていればわかります。それでも薬は店へ置かず、注文のあるごとに、近くから持ってきていたようです。ですから、何人かの人は、そのアジトというような場所を知っていたんじゃないでしょうか。そこがおさえられたなら、そのときこそ、のっぴきならない証拠がつかめるんじゃないでしょうか。ですから、お父さまが無事でいらっしゃったら、その翌日にでもあなたのほうにお話があったかもしれませんね」
「なるほどと思われる節もありますね。何しろ、近ごろの麻薬の取引は、末端でもずいぶん慎重になっていて、警察でも手を焼いているようですから……しかし、竜田さんも無理をしすぎたのかもしれませんね。そこまで調査が進んでいたとしたら、たとえば僕に話してくれても、警察を動かすなりなんなりして、もっと安全な手が打てたかもしれませんが」
「そのあたりは、わたくしにはなんとも……でも、男のかたには、どなたにも意地があるのではないでしょうか。その意地が、時によっては身をあやまる原因にもなるのではないでしょうか」
「それも考えられますね」
こういう話をしているあいだに、三郎もこれはなかなかしっかりした女だと思い出した。水商売の経験はあるといっても、生まれは案外いいのではないかと思い出したとき、ふさ子は額に手をあてて溜息をついた。
「どうかなさったのですか?」
「子供ができているのでございます。あの人の……それで、わたくしもぜひお父さまに早く許していただかなければと思って、あせったのでございますが……」
皮肉なものだと三郎は思った。本来ならばこの子供は、自分の甥《おい》か姪《めい》になるはずなのに、まるで他人事《ひとごと》のような気がして、たいした関心もおこらなかったのだ。
それでもこのさい、むこうの気持を損ねるのもと思って、かるく身上話をたずね、妊娠三か月だということや、実家は前橋の薬屋だが継母とおりあいが悪くて家をとび出したということや、慎一郎と恋仲になったのは、偶然同じアパートの隣りの部屋に住んでいたためもあったろうということや、ラムール≠やめてからは、つい最近まで渋谷のモン≠ニいうバーに勤めていたことなどを聞きだしてから、いま一度本題に帰った。
「ところであなたがラムール≠ノ勤めていたのは、いつごろからいつごろまででしたか?」
「あれは一年半ほど前になりますかしら、勤めていたのは三、四か月だったと思います」
「すると、本間春江という雇われマダムや、鹿内桂子という女とはいっしょではなかったのですね?」
「お父さまからも、そういうことは聞かれましたが、覚えがないとはっきり申しあげました」
「すると、あなたのいるあいだに、薬をお客に渡していたのは誰でした?」
「マダム――友永より子という名前はご存じでございましょうが、あの人が自分で店を出ては、どこからか持ってきて渡していたようです。ほかの人には、ほとんどタッチさせていないようでした。そのことも、お父さまに最初に聞かれたのでございますが」
「なるほど、それで竜田さんが、ラムール≠フ麻薬のことに、たいへん関心を持っておられたことはわかりました。しかし、警察とは直接関係のない弁護士としては、そうそう細かな調査まで、自分自身でやるわけにもいかなかったでしょう。誰か、たとえば私立探偵のようなものでも頼んで使ったのでしょうか」
そのとき、ふさ子はハンカチを顔にあてて、
「すみません。ちょっと気分が悪く……」
と言いながら、立ち上がった。
これも妊娠のせいだろうと三郎は思った。本来ならば、精神的にも十分安静を考えなければいけない時期なのに、こんなことに悩まされていてはたいへんだろう、と初めて同情の気持がおこった。
十分ほどしてもどってきたふさ子は、失礼をわびたあとで、
「いまのお話の私立探偵のことでしたら、わたくしはそんなことはないと思います。これはあの人から聞いた話から、わたくしが想像したのでございますが、お父さまは、本間さんが麻薬中毒だということを知っておられたために、そのルートからラムール≠フ線は割れると、かんたんに考えておられたんじゃないでしょうか? そんな秘密を握ったうえで、本間さんを病院へ入れて、本格的に治療させるようなおつもりではなかったでしょうか?」
「そうだとすれば、いよいよ私立探偵を使いそうなものですね。自分は二十四時間、彼女のそばについているわけにはいかないのですし、この場合、目標は一人に限定されるわけですから、私立探偵でもいちおうの役にはたつだろうと思うのですが」
「検事さんのあなたが、そうおっしゃるなら、そうかもしれません。わたくしは女で、何もわからないものですから……」
ふさ子はいかにも不機嫌そうな声で答えた。妊娠に伴いがちなヒステリーが起こったのかもしれなかった。
「お気を悪くなさったらごめんなさい。こうしてうちに帰ってからでも、やはり検事のくせは抜けきれないのかもしれません」
いちおう、わびを言ったあとで、三郎はまた竜田慎作との話の内容や、ラムール≠フ店のことについてたずねたが、これ以上のことはつかめなかった。
ふさ子は、近く恭子とも会うつもりだから、何か伝言があったらと言い出したが、これは三郎もきっぱりことわった。ふさ子はだいぶ気を悪くしたようだが、いまの三郎としては、この女に秘密を打ちあけるわけにはゆかなかった。
ふさ子は最後に、自分が訪ねてきたのは慎一郎にもないしょだから、そのつもりでいてくれと何度目かのだめを押して立ち上がった。
三郎は、そこからふさ子を駅まで送って、ゆっくり家のほうへ帰ってきたが、一人になったとたんに、また妄想に似た考えが湧きはじめた。
最初に浮かんだ考えは、慎一郎がこの女を使って、彼の手の内を探り、同時に竜田慎作は殺されたという暗示を与えようとしているのではないかという疑惑だった。
どう考えても、この女が二度まで自分のところを訪ねてきたのは、突飛すぎるようだった。妊娠の影響で興奮していると、善意に解釈すればできないこともないが、恋人のための芝居と考えれば、それも納得できる。もしも、竜田慎作が生きていて、国外脱出を狙っているとすれば、一日一日も貴重だろう。自分なり警察なりがこういう暗示に迷わされて、警戒の手をゆるめたら、どこかの港からの脱出は、それだけ容易になるかもしれないのだ……。
しかし、ふさ子の話がぜんぜん無価値なものだとは三郎にも思えなかった。石本という男の奇妙な行動を知ったことも一つの収穫だったし、友永より子の動きから、麻薬のアジトを探りだすことにも見こみが出てきたのだ。桑原警部も自分なりにそういうことを考えていて、この女のほうはしばらく泳がせておいたほうが、と言いだしたのかもしれない。
それに、ふさ子は少し感情的になったが、私立探偵のほうの追及も重要なポイントだと思われた。警察の力で、東京都内の私立探偵を全部調べさせれば、竜田慎作から何かの依頼があったかどうかはわかるだろう。ふつうの場合、私立探偵というものは、秘密を厳守する義務はあるが、こういうことになったなら、捜査に協力はしてくれるだろうと、三郎は楽観的な見通しをたてた。
ふさ子の告白で、あの日のお昼の竜田慎作の行動はやっとはっきりしたが、わからないのは、弁護士会館に届けられたヘロインのことだった。マンションの殺人現場で発見された薬のほうなら、本間春江が麻薬中毒者だったことから理解はできる。しかし、こっちの薬のほうは、どう考えても竜田慎作に無関係なものとは思えないのだ。
そのとき、突然三郎は妙な胸騒ぎを感じて立ち止まった。あの自動車の襲撃で生死の境を越えてから、危険を予知する本能が鋭くとぎすまされたのかもしれない。
ぴりぴりと、殺気とよびたいようなものが直接皮膚を刺激してきた。
周囲は屋敷町だった。街灯の光からも遠くはなれていて、敵がどこにひそんでいるか見当もつかなかった。
第二十四章 死線を越えて
次の瞬間、三郎はぱっと横の電柱に飛びついた。理屈も何もない本能的な行動だったが、同時に道のまん中を、ひゅーんと空気の割れるような音が走った。
拳銃《けんじゆう》!
電柱のかげに身を隠して、第二の弾丸を避けようとした三郎の頭にはかっと血がのぼった。物を考える余裕などあるはずがないのに、電光のようにいくつかの妄想に似た考えが頭をかすめた。
敵は血迷いだしたのだ……きのうの自動車の襲撃といい、きょうのこの強襲といい、まったく正気の沙汰《さた》とは思えない……。
自分はたえず見張られている……夜となく昼となく、公的な面でも私的な面でも。
恐怖の感情はその後に起こった。この調子では、自分はいつ殺されるかもしれないという考えが、生々しい実感となったのだ。
ちょうど一台の自動車が、そのとき自分の向かっていた方向から、もと来た方角へ通りすぎた。撃たれたのは後ろからだから、犯人がまだ路上にたたずんでいるとすれば、この車のヘッドライトをまともに浴びることになるはずだ。
車をやりすごした三郎は、そのすぐ後ろへ飛びだし、道を横ぎって向かい側の小路へかけこんだ。息を切らして走りながら、自動車の進行方向を眺めたが、人影らしいものも見あたらなかった。
敵はおそらく、こんなことにかけてはかなり玄人っぽい人間なのだろう。一度の襲撃でしくじったと知ったら深追いせず、さっと身をひくだけの神経を持ちあわせているのだろうと、三郎はまた次の角を曲がりながら考えていた。
それから彼は、小路を何度か折れて、商店街まで出ると、近くの交番へ飛びこんだ。
「地検の霧島検事です。いま、駅のほうから帰って来たところを、後ろから拳銃らしいもので撃たれました。幸い、けがはなかったのですが、すぐ手配してください」
「検事さんを? 拳銃で?」
警官は眼の色をかえて飛び上がった。すぐ警察電話を取り上げて報告していたが、パトロール・カーが到着するまでには五分もかからなかった。三郎は、そのあいだに、撃たれた場所なども説明し、手配をするように頼んだが、内心ではこの敵は網にかかるわけはなかろうと思っていた。
駅を警戒しているうちに、挙動不審でつかまるような生やさしい相手ではないはずだ。
たとえば、きのう使った車をどこかに止めておき、それに飛び乗って逃げだしたとしたら、それをおさえることなどは、とうてい不可能といってよい……。
三郎は、それからパトロール・カーに乗って現場へもどり、いろいろと事情を説明したが、かりに弾丸がどこかに落ちているとしても夜では捜しようもない。もしも自分が検事でなく、少しでも酔っていたとしたら、警察官たちも、自分の言葉を信用してくれるだろうかと、三郎は妙な疑惑を抱いたくらいだった。
彼はそれからパトロール・カーで家まで送ってもらったが、一郎はその気配を見て、何かあったなと感づいたらしい。
「どうした? いったい?」
「撃たれましたよ。拳銃らしいもので……彼女を送って帰りがけに……」
一郎は大きな溜息をついて、三郎の顔をまじまじと見つめた。
「運がよかったな。二晩続けて命拾いするとは……」
「まったくですね。どっちも間一髪というところだったでしょう。しかし、きょうの気持は昨夜ほどじゃありませんよ。くそ度胸がついたというんですかね。それとも、二度までこんな奇跡的な助かり方をしたせいで、神さまが自分を守ってくださるという信念を固めたといいますかねえ。危険に麻痺《まひ》したといいますか。そのどれがほんとうかわかりませんがね」
「よかった。なんにせよ、よかった……しかし、二度あることは三度と言うからな、この次にどんなことがあるかと思うと、おれまで寒気がしてくる。心配で田舎には帰られない気持だよ」
「大丈夫ですよ。むこうだって、こんなことを続けていたら、かならず墓穴を掘りますよ。こっちは死んだつもりで、捨身になるから、たいていのことはこわくなくなります」
それは決して虚勢ではなかった。昨夜はこわさが抜けなかったが、今夜はそれよりも怒りの感情が強かった。こんな言葉が腹の底から飛びだしてくるようでは、わずかの間に自分も変わったのかなと三郎は思っていた。
そのとき、桑原警部がやってきたという知らせがあった。捜査本部で連絡を受け、あわててかけつけてきたのだろう。
一郎は気をきかして、初対面の挨拶《あいさつ》をすませるとすぐ座をはずしたが、警部は、三郎の話を聞いて歯ぎしりした。
「まあ、検事さんがご無事で何よりでした。しかし、きのうのきょうというのに……まったくあきれた野郎です。ただ、私の探っているかぎりでは、小林一家のほうはいま鳴りをしずめて、戦々恐々としているらしいのですが、その中からこんな特攻隊みたいな人間が飛びだしてくるというのは解せませんな」
「相手が一人じゃないことはまず確かでしょう。一人だったら、こんなに的確に、僕の行く先を追いまわすことはできないでしょうからね。ただ、その組織が小林一家かどうかとなると、大いに疑問がありますね」
「といって、ほかの連中では……」
桑原警部は腕を組んだ。
「麻薬というものに限らなくてもいいのですが、何かの形で、小林一家と対抗しているような一家はないのですか。直接小林一家に喧嘩《けんか》を売ってはたいへんなことになるから、警察なり検察庁の力を使って小林一家をつぶさせ、自分は漁夫の利を占めようというようなことも考えられないではありますまい」
「それはさっそく調べてみましょう。私は暴力団関係の事情には、それほど詳しくないものですから、ここで即答はできませんが」
「それからすぐに、塚原産業という会社の社長、塚原正直という人の住所を調べてほしいのです。竜田慎作が顧問弁護士をしていた会社で、社長は政界にも関係があるようですからすぐわかるでしょう。かなりの大物らしいから、僕がまず会ってみてもかまいません」
「わかりました……」
警部はポケットから手帳を取り出して、
「竜田の関係していた会社はのこらず調べあげています。刑事に一通りまわらせたのですが、突っこみ方がたりなかったかもしれません。塚原産業……これですね。社長の住所は世田谷区経堂七六、どうもここの家の近くのようですね」
警部は不審そうに眼を上げた。
「では、すぐに連絡をとってください。なんだったら、これから僕が自宅へ訪ねていってもかまいません。あなたといっしょだったら、公私を混同すると言われることもないでしょう」
桑原警部は溜息をついた。
「おそれいりました。いま暴漢に襲われて命拾いをなさったというばかりなのに、検事さんが、それほど闘志に燃えておられるとは思いませんでした。しかし、その線はなにを狙《ねら》っているのでしょう?」
「僕には考えがあるのです……」
榎本ふさ子の話を打ちあけるには、まだ心の準備ができていなかった。こう言って逃げるしか方法もなかったが、警部もそれ以上つっこまなかった。そばにすわっていた刑事に眼くばせすると、刑事はかるく頭を下げておりていった。
「それから、ラムール≠フ店にはアジトとかデポといったようなものはないでしょうか。つまり、店のすぐ近くに、麻薬を預かっているような場所はないだろうかということですが」
「あるのではないかと思います。友永より子を泳がせておいたのも、そういう狙いからだったのですが、かりにそんなものがあったとしても、小林がああしてつかまっている以上、むこうはなんの動きも見せないでしょう。麻薬ルートの摘発ということだけに絞って考えるならば、あそこで小林を逮捕したのは得策ではなかったかもしれません。もちろん、こちらは、殺人事件捜査の補助手段としてとった一手ですから話は別になりますが」
年季を入れた警察官になってくると、若い検事の指示にたいしては時に批判的になり、時に反発することがある。このときの桑原警部の言葉には、ちょっとそういう感じがあった。
「それから小林のほうですが、さっきも電話ではお話ししたように、もう一歩だと思いますが、なかなか泥を吐かないのです。自分が麻薬を注射していることは、さすがに認めたのですが、薬の入手経路になると、住所不明の朝鮮人から手に入れるのだと頑張りとおしているのです。こんな見えすいたせりふでだまされるほど、警察は甘くはありませんよ。手をかえ、品をかえて攻めつけているのですが、ここでわからないことが一つあります」
「なんです、それは?」
「ふつう大量の麻薬を動かすような人間は、絶対といってよいくらい、自分で薬を注射することはないのですよ。麻薬中毒の恐ろしさを始終見せつけられているせいでしょうか。まあ、ものには例外もあるでしょうが、もし、この常識が適用されるとなると、小林たちは麻薬ルートに関係があったとしても、それほどの大物ではないという結論になりますね」
それから三郎と桑原警部は、経堂の塚原邸を訪ねていった。塚原正直は明日の朝早く関西へ出かけるので、今夜のうちならと言ってくれたのだった。
この家は、さっき自分が襲われた場所から三百メートルぐらいしか離れていない。応接間の大きなガラス戸から、広い庭を眺めたときに、三郎は、この敵がいま暗い庭のどこかに隠れていて、自分たちの様子をうかがっているのではないかと、妙な妄想にとらわれたくらいだった。
応接間に和服姿で現われた塚原正直は、五十ちょっとかと思われた。太って貫禄も十分だが、眼は冷たく、鋭い視線もこちらの肌を突き刺してくるようだった。
一通り、初対面の挨拶をすませると、正直はじっと三郎の顔を見つめてたずねた。
「霧島さんは、地検では公判部に属しておられたのではなかったのですか?」
「つい、この間まではそうだったのです。ところが本部係の利根さんが、健康を害して、入院の必要が出てきたので、その応援に刑事部へ移ったのです」
「そうですか? こう言ってはなんですが、検事正さんも奇策を弄《ろう》したものですね」
言葉に鋭い皮肉があった。もちろん、彼は、竜田慎作から、婚約の話は聞いていたにちがいない。二日前の三郎なら、この一言でショックを受けて、話を続けられなくなったかもしれないが、二度まで死線を越えた経験がその神経を変えていた。
「検事というものは、時には鬼にならなければならないことがあります」
「ほほう」
塚原正直は眼を見はった。ここでこれほどきびしく切り返されるとは思っていなかったのかもしれない。ちょっと間《ま》を置こうとするように、テーブルの煙草を取り上げながら、
「私が、自分を鬼となったかと思ったのは、今度の戦争中、敵の戦車隊に包囲されたときだけでしたがね」
「戦争だったら最初から覚悟もできているでしょうが、僕はこの東京のまん中で、無灯火の自動車にひき殺されかけたり、ピストルで狙われたりしたのですから」
「そんなこともあったのですか?」
正直も動揺しているようだった。ゆっくり煙草に火をつけて、紫の煙を吐き出したあとで、
「それで、今晩おいでになったのは?」
「僕はある方面から、竜田弁護士が親友の選挙運動を助けるために、麻薬ルートの探求にのりだそうとしていたということを聞きこんだのです。選挙運動と麻薬ルートといえば、一見なんの関係もないようですが、このルートは、その親友の政敵の資金源ではないかと思われる節もあったのですね」
「霧島さん、ちょっと待ってください」
正直は、三郎の言葉を手で制して、
「私にしても、竜田君とは長年の親友ですよ。肝胆相照らした仲だったのです。その私が今度の事件の話を聞いたときには、ぜんぜん動けなかった。その心境は察していただけるでしょうな」
「つまり、あなたは竜田弁護士が、女を殺した犯人ではないか。もしそうだったら、いわゆる、首つりの足をひっぱるようなまねはしたくないと思っておいでなのですね」
「そうです。事件が起こって十日以上、もし竜田君の死体がその間に発見されたとしたら、私は自発的に捜査本部へ出頭して、自分の知っていることは、いっさいぶちまけたろうと思いますがね」
しばらく重苦しい沈黙が続いた。彼がこういう態度に出ることは、予想できないでもなかったのだが、どうしてこの壁をつき破ろうかと三郎が脂汗を流したとき、正直は政治家的な感覚をとりもどしたのか、
「しかし、私があなたがたに、現在の段階で、ご協力しないというわけではありませんよ。ことに、私は検事さんがご自分でわざわざ訪ねてくださったのには感心いたしました。ある程度のことならお話ししてもいいと思います」
「ぜひ、うかがいたいものですが」
「あれは九月初めと記憶しています。竜田君とひさしぶりに飯を食ったとき、竜田君から意見を聞きたいことがあると言われたのですよ。女のことについてと言うのです。私は、そろそろ新しい奥さんをもらう気持にでもなったのかと思ったのですが、彼の話は、違っていました。年や身分の違いなども忘れて、ある女に惚れこんでしまったが、結婚できる相手ではない。どうしたらよいだろうと言うのです。私は、二号にしておけばいいじゃないかと、かんたんに割りきろうとしましたが、形だけでも亭主持ちの女だというだけではなく、麻薬中毒だと聞いて、さすがに驚きましたね」
「それが本間春江だったというわけですね」
「そうです。彼から聞いた話では、竜田君は最初そのことは知らなかった。ところがあとで事実を知って、びっくりして、わけをたずねたらしいのです。彼女が泣きながら告白したところでは、胃痙攣《いけいれん》の発作のとき、お医者がそばにいなかったので、ある人に注射してもらったのがきっかけだったというのです。その話を聞いて、私は別れてしまえと忠告しましたよ。なにもそういう危ない女とずるずるべったりの関係を続けていなくても、世の中に女は腐るほどいるじゃないかときめつけました。ところが、彼は頭をかかえて、理屈はわかるがどうにもできないのが煩悩だと言うのです。まったく男女の仲だけは、第三者にはわかりません。竜田君にしても、ほかのことでは、賢明そのものだったのですがね」
「わかります。それで?」
「もし、それでも別れられないというのなら、秘密に信用できるお医者に相談し、入院させて、徹底的に治療させるしか手はありますまい。竜田君も、この意見にはうなずいていました。たとえ、別れるようになるとしても、そこまで手をつくしておくのが、男の義務かなと言うのです。彼にしてもいろいろと迷っていたことは確かでしょう。そうでなければ、たとえ親友の私にでも、そこまで恥はさらさなかったでしょうからね」
「それで、竜田さんはそのとき、麻薬はどこから手に入れているかと、彼女に追及しなかったのでしょうか。薬屋ならどこでも売っているというようなものではありませんし、そこまでつっこみたくなるのは、人情でも、時の勢いでも当然だろうと思うのですが」
「それはたずねたようでした。しかし、彼女は首を振って、それは言えない。へたに秘密をばらしたら殺されてしまうと頑張ったようです。そこで、竜田君は彼女の前歴などから判断して、ラムール≠フほうからではないかとつっこんだらしいのです。ところが彼女は、泣いてなんとも答えなかったということです。沈黙は時にはイエスという答えにも通じることがありますからね」
「しかし、それでは確証になりますまい。もう一歩、たとえば私立探偵でもつかってだめ押しをしておくのが、そういうときの手段じゃないでしょうか」
「霧島さん、検事の感覚ならばそういうことになるかもしれませんね。しかし、竜田君は弁護士でしたよ。しかも、その女に惚《ほ》れていたのです。自分で自分の傷にさわるというのには、心理的に限度もありましょう」
「自分の傷……そう言われればそうですが、他人の傷ならえぐれますね。いや、腫物《はれもの》のようなものだったら、メスを入れて切開手術もできますね」
「そのたとえは?」
「もし、僕がそのとき、あなたの立場に置かれていたら、こんなことを考えたかと思います」
三郎は何かにとりつかれているような気がした。自分でも前には考えてもいなかった言葉が自然に口から飛びだしつづけた。
「親友として、竜田さんがそんな女と関係して破滅するのは、黙って見てはいられない。といって、ふつうの方法では別れさせることもできないとしたら、私立探偵を自分で使って確証をつかみ、麻薬のルート一本を探りだし、それを自分が表面に出ないようにして暴露することも、考えられますね。女は、当然刑務所に行くことになるでしょう。いやが応でも、男とはひきはなされることになるわけです。男も一時は悩むでしょう。しかし、何か月かたったなら、眼もさめるのではないでしょうか。こういう非常手段にしても、ある場合には、ほんとうの友情のあらわれだといってよいかもしれませんね」
「すると、私が彼のため、ないしょで、どこかの興信所にでも調査を頼んだのではないか、とおっしゃるのですか?」
「そういう事実はなかったかと、おうかがいしているのです」
「ありませんねえ。そこまでの知恵は、そのときの私にはまわりませんでしたね。なるほどそんな手を打てば、竜田君を助けられたかもしれませんが」
そのとき、桑原警部に電話がかかってきた。警部が部屋を出るまでは、黙って煙草をくゆらしていた塚原正直は、二人きりになったとたんに、テーブルの上に身をのりだして、
「霧島さん、明日の朝はやく、おひとりでもう一度、うちへおいでになるつもりはありませんか」
と謎《なぞ》をかけるように言いだした。
「でも、あなたは明日関西へ……」
「飛行機なら何本も出ています。あなたの苦衷を察すればこそ、こんなことを申しでるのですよ。あなたおひとりに対してなら、まだまだお話しすることもあります」
突発事件を自分の有利なように利用することは、政治家の必要条件と言われているが、正直にも、当然その感覚はあるのだろう。
微妙な誘惑にちがいなかったが、そこには検事としてべつの危険もひそんでいることは事実だった。
第二十五章 ある報告
その翌日の朝早く、三郎はもう一度、塚原正直の家を訪ねていった。わざと和服の着流しで出かけたのも、私人として訪問するのだという意識を自分に持たせるためだった。万一誰かに見とがめられたら、散歩の途中に昨夜の忘れ物を取りに立ち寄ったという弁解をするつもりだった。検事という職業では、ただでも自分の行動には神経を使わなければならないのだが、総選挙前に政界人と非公式に会うのには、特別の注意が必要だった。
正直も、きょうはずっと打ちとけた様子だった。内心では、ことは自分の思惑どおりにはこんでいると、ほくそ笑《え》んでいたのかもしれない。
「これはここだけのお話ですが、あなたは竜田君が生きているとお考えですか。それとも?」
「僕としては、弔い合戦にのりだしたつもりです。しかし、万一真犯人で生きているとわかったら断固逮捕にふみきります」
塚原正直は眼をしばたたいた。
「あなたはまったく、検事魂の権化のようなおかたですねえ。まあ、ともかく本論にはいりましょう。私のほうは、竜田君が殺されたのではないかと思っているのですが」
「それは単なる推量ですか。それとも?」
「霧島さん、昨夜私が真実を申しあげきれなかったわけもおわかりでしょう。また、あなたが公式に私の証言を求められるなら、それはお断わりします。ただ、私はあなたの殺人事件の捜査に役だちそうな知識を、個人的に好意的に提供するだけです。なんといっても、選挙を目前にひかえた微妙な時期だけに……この約束は守ってくださいますね」
「おっしゃるとおりにいたしましょう」
「昨夜の話も半分まではほんとうです。しかし、そのとき竜田君は私の忠告を聞いて、それではいちおう私立探偵でも頼んで調査しようかと言いだしたのです。もちろん未練はあったでしょうが、私の話でだいぶ理性をとりもどしたのではないでしょうか?」
「わかりました。それで、その結果は?」
「二度目に会ったのは、九月十五日――最初の日から十日ほどたっていたと覚えています。竜田君の話もだいぶ詳しくなってきました。もっとも、それでも中間報告の段階だという注釈はついていましたが」
「ちょっとお待ちください。そのとき、竜田さんが、どこの探偵事務所に調査を頼んだか、それはお聞きになりませんでしたか?」
「聞きませんでした。最終報告のときにでもと思ったものですから……」
「それで、調査の内容は?」
「竜田君は、二度と注射を射《う》ったら別れるぞとおどかして、まずアパートにあった薬を全部とりあげてしまったそうです。その翌日、本間春江は、まず小林の家を訪れ、それからラムール≠フ店へ寄ったそうです。その日もそのまた翌日も、彼女はほかへは出かけなかったといいますから、常識的に考えて、麻薬はこちらから流れていたとみるのがいいところじゃないでしょうか」
「なるほど、それで?」
「それから、小林の内妻の友永より子は、毎週一度は飛行機で大阪へ飛ぶのだそうです。むこうではご機嫌うかがいというような格好で、神戸の溝口一家のほうへ顔を出すのだそうです。しかし、それだけの用事がすむと、ほかにはどこへも寄らず、すぐ、その日の飛行機でとんぼ帰りをするそうですから、これにも含みはありそうですね。飛行機代や車代、手土産代など合わせた日には、一回二万ぐらいの出費でしょうから」
「それだけの費用をかけてもひきあうような仕事と考えていいわけですね」
「それから溝口一家のほうには、黒沢大吉君の秘書がときどき訪ねているようです。選挙の事前運動と考えればなんでもないことですが、この秘書は東京では、よく東南アジアの国の大使館なども訪ねているようですからね。これを悪く解釈するとどういうことになりますか」
黒沢大吉という名前を口から出したときには、眼に憎悪の色が浮かび、声も苦みをおびていた。少なくともこの部分だけには、自分の集めた情報を、報告の中にまぜて話しているのではないかと思われたくらいだった。
「竜田君はそのとき、私にこんなことを言っていましたよ。自分は、場合によっては、惚れた女を刑務所へぶちこんでもやむをえないという覚悟でこの調査をすすめたのだ。強制的に薬を抜かれたら眼もさめるだろう。自分もあきらめがつくかもしれないと言っていたのです。ただ、もう少し調べが進んだら、そのことを彼女に話して、腹をきめさせたいということでした。つまり、事実を全部つきつけて、病院へはいって今後麻薬とは縁を切るか、それとも刑務所へ行きたいか、二つに一つだと迫るつもりではなかったのでしょうか」
「男と女の仲というのは、僕のように若い独身者には、理解できないところも多いのですが、一つの異常な例としては、そういうことも考えられるのでしょうね」
「そのとき彼は言いましたよ。もし、この秘密を暴露するようになったときには、君にとっては有利な条件が生まれるだろうとね。なるほど、私は前の選挙では次点でしたし、今度も黒沢君が傷つくとすれば、私の立場はずいぶん有利になります。しかし、私は自分の利益のために、親友を傷つけることはいやでした。つまり彼女が刑務所へ行くようなことになったら、覚悟はきめているとしても、竜田君の悩みはたいへんだったでしょうから」
「すると、あなたはこの線を追って行ったら、かならず黒沢代議士の身辺にまで、追及が及ぶとお考えになったのですか」
「それは方法によりましょう。たとえば小林――溝口というラインを下から攻めて行ったら、どこかで食い止められるかもしれません。しかし、彼の秘書が、どこかの外国公館から出てきたところをおさえられたら、そのとき麻薬を持っているところを発見されたとしたら、これは秘書一人だけでおさまるでしょうか。インテリというものは、いったん崩れたとなるともろいものですしね」
塚原正直の言葉には、功名心にはやっている若手の検事なら、誰でも飛びつきそうな誘惑が含まれていた。
「もう少しはっきりしたことがわかれば、そのことは特捜部に話してもよいのですが、僕はいま、殺人事件の捜査中ですから」
「いや、まわり道のようでも、こちらをつくほうが案外、殺人事件の解決の近道になるかもしれませんよ。私はひょっとしたら、竜田君の調査が、小林一家なり溝口一家に気がつかれ、本間春江といっしょに殺されたのではないかと思うのです。二人そろって死体が発見されたら、誰でも第三者の犯行だと思うでしょう。しかし、女はアパートで殺し、竜田君のほうをどこかほかの場所で殺して死体をかくしたとしたら……」
「その仮説は大いに考えられます。ただ、決定的な証拠のないのが残念ですが」
「これは、竜田君から聞いた話ではありませんが、いま溝口一家からは、命知らずの若い者が何人か上京しているようですよ。鉄砲玉というような連中で、出所後のあてにもならない約束を目あてに体をはるのです。ひょっとしたら、あなたを二度まで襲ったというのも、そいつどものしわざかもしれませんね」
「よく、そんな詳しい事情をご存じですね」
「はははは、選挙戦は、もうとっくに始まっているのですよ。べつにスパイを出しているわけではありませんが、各派の動きは、かなり細かなところまで、私の耳にはいってくるのです。ああいうやくざの顔役のような人間は、眼に見えない組織票を握っているとも言えますからね」
「それで、神戸には溝口一家に対抗するような一家はほかにないのですか」
「扇屋一家というのが対抗馬といったところでしょうかな」
「案外、そちらのほうには、あなたの息などかかっているんじゃありませんか」
正直はちょっと動揺したようだった。
「あの一家は、いちおうこちらの支持にまわってくれていますがね。ただ、くされ縁といったようなものはありませんよ……それよりも、いまのお話を、特捜部の検事さんなり、麻薬犯罪担当の検事さんに耳打ちなさってはいかがです。そちらの詳しい情報なら、私の手だけでも、かなり集まると思いますが……」
「考えておきましょう」
「そうですか。これはまあ、話は別になってきますが、竜田家の財産はかなりのものですね。主として土地ですが、時価数億はするでしょうね。それに、顧問弁護士としての収入もずいぶんありましたし……」
「あなたは何をおっしゃるおつもりです?」
「いや、場合によっては、私がまかりでて、あなたと恭子さんとの仲を、もう一度とりもってあげてもいいと思うのですよ」
これはかなり露骨な言葉だった。検事の職を投げだして、弁護士になるつもりで、この麻薬の線の摘発にかかってはどうかと言わんばかりだった。
「竜田さんのところの財産の額などは、聞いたことも考えたこともありませんでしたが、すると、あなたはこの殺人事件のことについては、これ以上の情報はお持ちになっておられませんか」
「まあ、そういうところですね」
含みを感じさせる言い方だった。自分の希望どおりに協力してくれるなら、ほかにもカードを見せてよいと言わんばかりの態度だった。
「ところで、あなたは竜田弁護士が、今度の戦争の前ごろに、中国人の命を助けたというようなお話をお聞きになったことはありませんか」
「ああ、陳志徳氏のことですか。それなら彼に紹介されて、香港へ行ったとき……」
と言いかけて、正直はぎくりとしたように眼をむいた。
「検事さん、あなたもなかなかやり手ですねえ。いったい、どこからその線を……」
「それは私の秘密です」
三郎はつっぱなすように答えた。この二度目の会見は、相手のペースにまきこまれてしまったような感じだったが、この中国人の名前を確かめられたことは、一つの収穫にちがいなかった。
竜田弁護士がこういう調査を依頼した相手は、寺崎義男なり、彼の勤めている東京秘密探偵社ではないかと三郎は思っていた。
ふつうの人間は、そういう場合には、どうしても知合いの線にたよりたがる……。
昨夜、桑原警部にはむだを覚悟で、その線をあたってみてくれと話しておいた。それがどういう結果になるかと、三郎はこのときふっと思った。
その日のお昼ごろ、寺崎義男は恭子の家へ訪ねてきた。
「きょうは寝こみを襲われて、捜査本部へ連れていかれて、今まで調べられました。どうしてあんなことが問題になったのか、僕には見当がつきませんがね」
「どんなことでしたの?」
「九月の初めから中ごろまで、先生に頼まれて、本間春江の身辺を探っていたことはなかったかと、妙な尋問だったのですよ。そのころ、僕は会社の命令で、四国から九州のほうへ行っていましたし、それどころじゃあなかったんです。それでも、警察では納得しなくって、会社のほうに照会して、宿屋の受取や何かまで調べあげたんですよ。最後には、社長が出てきて、うちではそんな調査を頼まれたこともないし、寺崎君はその時期には、東京で飛びまわることなどできないはずだと言ってくれたんで、どうにか無罪放免となったわけです。まったく的はずれもいいところ、警察もいいかげん血迷っていますよ」
「そうですわね……」
誰にしても、そんなことがあったら憤慨するだろうとは思ったが、いまの恭子には、そんな話は自分とはなんのかかわりもないように思われた。
「事務所での書類調べはいちおう終わりました。最初はだいぶ見こみがありそうだったのですが、結局ぴんとくるものはなかったのです。僕の感覚がおかしくて、むだに何日かつぶしたことになるかもしれないが、それは許してください」
「いいえ、そんなこと……個人で、こんなむずかしいことをおやりになるんですもの……むだ弾《だま》もあたりまえでしょう。どうも、ご苦労さまでした」
「それでも、夜は夜で体もあきますし、同僚にも頼んで仕事を分担して助けてもらっていますから、ぜんぜんむだに過ごしたというわけではないんです。わかったことだけをご報告しましょう」
「お願いします」
「まず、陳志徳氏のことですが、いまのところは貿易会社まわりが主で、特別変わった行動をしている様子はありません。もちろん、電話で、秘密にどこかで連絡をとったとしても、これは私立探偵には調べきれないことですが」
「そうでしょうね……」
「それから、小林一家のほうは、たいへんな動揺ぶりです。姐御《あねご》の友永より子のほうも、家にはいたたまれなくなったらしく、姿を隠したようですね」
「あの人が……でも、それは麻薬の取引がばれそうになったからでしょうね」
「あそこの若い者にもかげから探りは入れているのですが、今度の殺人事件について、何か知っていそうな様子はぜんぜんありませんでした。もっとも、下っぱの連中には、親分の腹の中の秘密までわかるまいと言われれば、それまでの話ですが……」
「そうでしたか?」
「それから、須藤俊吉のほうの調査ですが」
寺崎義男は、そこでいったん言葉を切り、恭子を睨《にら》むようにして言った。
「お嬢さん、あなたは僕にもないしょで、おひとりで彼の住居《すまい》をお訪ねになったのですか」
恭子は思わず身ぶるいした。自分の張った調査網に自分自身がひっかかるとは思ってもいなかったのだ。
「はい……すみません……」
「それはもちろん、先生が生きておられると考えられる根拠があったからでしょうね」
「はい……」
「でも、先生とはお会いにならなかったのでしょう? 何か、先生の生きておられることを証明するような証拠でも見せてもらいましたか?」
「それが……」
と言いかけたとき、ドアにノックの音が聞こえた。恭子が汗をぬぐいながら、はいと答えると、家政婦の近藤和子がはいってきた。
「お嬢さま、お客さまでございます」
「どなた?」
「名前はおっしゃらないので……このお手紙を読んでくださればおわかりになるでしょうと言っておられます」
恭子は震える手で白い角封筒を取り上げた。その上には何も書いてはいなかったが、封を切ると、その中の便箋《びんせん》の上には、
ご注文の証拠物件をお届けします。これで納得されたなら、あとは小生に、家の外から電話してください。なお、これを持参した女はただの使いで、事情は何も知りませんから、そのおつもりで。また、この手紙はそのまま、使いの女にお返しになってください
と乱暴な字で書きなぐってある。名前はなくても、須藤俊吉からの使者だということははっきりしていた。
恭子は、寺崎義男には、居間のほうで待ってくれと頼み、かわりにこの女を応接間へ通した。三十ぐらいの色の黒い品のない女だった。獣のような視線は、まるでこちらの心の傷口をえぐっているようだった。
「須藤さんからのお使いでまいりました。まずこれをお目にかけてくれと申しておりましたが」
女がハンドバッグから出してよこしたものは、銀色に光るロンソンのライターだった。その下のほうには S.Tatsuta とローマ字で名前がはいっている。細かな点までの記憶はなかったが、たしかにこれは、ある民事訴訟が勝訴に終わったときに依頼者から記念にもらった品のはずだった。よほど気にいったらしくて、ガス・ライターがはやり出してからも、時代おくれね――とひやかされながら、たえず持ち歩いていたものと同じ品だと思われた。
「これはいかがでございましょうか?」
「お父さまのものだと思うけれど……」
「それでは次に、これをお聞かせしてくれと申しておりました」
女が次に取り出したものは、ふつうのトランジスタ・ラジオぐらいの大きさの機械だった。
「ミニフォンというドイツの携帯用の録音機だそうです。これなら、洋服の下に隠して、隠しマイクから電池を使って、ワイアーに録音できるそうですから……五時間連続して使えるのだそうです」
「ではそれに……お父さまの声が?」
「私は何も存じません。ただ、ここからボタンを押すように言われてきただけです。マイクもあるようですけれど、イヤホーンでお聞きくださいということでした」
恭子は憑《つ》かれたように、聴診器のようなイヤホーンを両耳にはめこんだ。それを押さえている両手は震えが止まらなかった。
女は恭子を意地の悪そうな眼で見つめて、機械のボタンを押した。
「船は……船のほうの手配はどうなったのだね?」
とたんに虫の鳴くような音量で、男の声が聞こえてきた。父の声によく似ているようだったが、はっきり断定はできなかった。
「そういじめられては困りますよ。僕としてはこれでもできるだけのことはしているつもりですがね」
須藤俊吉の返答にちがいない。この声も、彼の声によく似ていたが、やはり生の声の印象とはどこか違っていた。機械の構造はよくわからないが、やはりテープにくらべたら、録音性能はおちるのかと、恭子はしびれきった頭で考えていた。
「それはわかる……しかし、こうしていては、気が狂う……一日も早く、船にのれるよう手配してくれ」
「僕も一生けんめいにはなっているのですよ。ただ、こういう交渉が、かんたんにいくかどうかはおわかりでしょう。あなたのおっしゃったような方法で、中国のおかたとも連絡をとって、中国の船に乗りこめるような手を打ったじゃありませんか。しかし、船というやつは飛行機の二十分の一以下の速度ですからね。特定の船長が乗っている特定の船が、日本の港につくまでは、多少時間がかかるのは、いたしかたありますまい。しかし、僕の聞いた話では、その船は神戸で荷物を積んで、そのまま香港へひっかえすのだそうです。ですから、まもなく神戸へ行っていただいて、僕の知合いの六甲の……」
音はとたんにぷつりと切れた。女が機械の数字を睨みながら、停止のボタンを押したのだった。はっとして片方のイヤホーンをはずすと、女は冷たく言いきった。
「ここまでお聞かせするようにと言われてまいりましたのですが」
第二十六章 錯 乱
恭子は、今度こそ完全に打ちのめされた思いだった。眼の前の女の顔が、壁の額が、マントルピースの上の人形が、ぐるぐると回りだしたような気がしたのだった。
「あなたはもしや、いまお父さまのお世話を……」
須藤俊吉の言葉を思い出して、恭子は力のない声でたずねたが、この女は冷笑とともに首を振った。
「私は、なにも申しあげてはいけないと言われてまいりました。それではこれで失礼いたします」
「待って! ちょっとお待ちになってください」
恭子は気をとりなおして、応接間を出ると、寺崎義男の待っている居間へかけこんだ。
眼を閉じ、両腕を組んで、何か考えつづけていたような義男は、びっくりしたように眼を開いて、
「お嬢さん、どうなすったんです? 顔色が、急に悪く……」
恭子はそのそばにべたりとすわって、ささやくような小声で、
「寺崎さん、いまの女のあとをつけて!」
「出かけたのですか?」
座を蹴《け》って立ち上がろうとした義男を、手と眼で押さえて、
「まだ応接間にいるのよ。もうじき帰るわ」
「すると、あの女が、先生のいまの隠れ家を知っている可能性が強いというわけですか? なにか、証拠になるような品物を持ってきたのですか?」
寺崎義男は、まるで万事を見ぬいているようだった。こうして鋭く要点を押さえてもらうと、くどい説明は必要がない。
「そうなの……ライターと録音を。でも詳しい話はまたあとで。むこうに気がつかれちゃまずいから」
「わかりました。うまくいくかどうかは別として、できるだけのことはしてみます」
義男は緊張した表情で答えた。
恭子はすぐ自分の部屋へはいり、一万円札を角封筒に入れて、応接間へもどった。ただの車代なら、千円か二千円も包めばいいところだが、父が世話になっているという可能性もないではないだけに、できるだけのことをしておこうという気になったのだった。
「あの、これはほんの気持でございますけれど、お車代に……」
「そうですか、それではちょうだいしておきます。あとは、あのかたとお電話でご相談ください」
当然のように、この金包みを受け取り、冷たく言いのこして女は立ち上がった。どうにか玄関まで送りだすと、とたんにめまいが襲ってきた。
すぐ外へ出て、須藤俊吉に電話をかけるだけの気力はなかった。恭子は思いなおして、尾形悦子に電話をかけた。こうなったら、自分で頼んだことだが、三郎と会わせることを止めなければと思ったのだ。
電話に出てきた悦子は、恭子のしどろもどろの話を聞いて、わけがわからなくなったらしい。恭子にしても、すべてを打ちあけるわけにはいかないのだから、相手が混乱するのも当然だった。
「とにかく、わたしはこれからすぐ、あなたのところへお訪ねするわ。それまでは何もしないでね」
悦子は、叱りつけるように言って、電話を切って、四十分後には、この家に現われた。
「どうしたの? あの電話はまるで半狂乱だったわよ。なにかまた、新しい変化が起こったの?」
「そうなの。でもそのことは……とにかく、霧島さんには会わないでちょうだい」
「でも、わたしはちゃんと約束してあるんだし、むこうもあてにしているでしょうに」
悦子も弱ったように眉《まゆ》をひそめた。しかし、人一倍|聡明《そうめい》な娘だけに、すぐ恭子が半狂乱になった理由に気がついたらしく、
「では、やはりお父さんが生きているとわかったのね? それもきょうになってから、はっきりと」
恭子はうなずくにもうなずききれず、首を振るにも振りきれなかった。答えのかわりにあつい涙がとめどもなくこぼれ落ちて頬《ほお》を濡らした。
「顔を見たの? それとも電話で?」
「いいえ?」
悦子は大きく溜息《ためいき》をついた。
「それ以外のことなら、わたしには信じきれないわ。あなたの話を聞いただけでも、あなたに横恋慕している人はたいへんな悪党みたいな気がするもの。そんな人が、中途はんぱな証拠を見せてくれたって信じられないわ。あなたをだまして、自分のものにしようとしているんじゃないのかしら?」
悦子の言葉は、恭子の心を強くゆすぶった。われを忘れて恭子は、
「あなたには、何もかも打ちあけていいんだけれど、このことは……誰にも、ことに霧島さんにはないしょにすると誓ってくれる?」
「なんにでもかけて誓うわ」
この一言で、恭子の激情は堰《せき》を切った。須藤俊吉の話の内容から、さっきの女の行動まで、一瞬の間もおかずに話しつづけたが、悦子の顔の疑惑と不安の色は、話が進むにつれてしだいに濃くなるばかりだった。
「その録音のほうはなんとも言えないわね。デン助や、もっと大きな機械を持ちだして、マイクをつきつけるわけにはいかないので、特殊な機械を使ったというのは、理屈もわかるけれど、ひょっとしたら、声優か誰か、お父さまに声のよく似た人に頼んで、準備しておいたせりふを吹きこんでもらったんじゃないかしら?」
「まさか、そこまで……」
「恭ちゃん、こんなときには『まさか』という考えがいちばん禁物なのよ。どんな変化が起こってもあたりまえだと腹をきめてかからなければいけないのよ。それにしても、ライターの件はふしぎね。もし、これでお父さんが殺されていたとしたら、彼は犯人か、それとも犯人を知っているということになるんじゃないかしら?」
三郎は捜査本部で、小林準一の調べを続けていた。寺崎義男も、東京秘密探偵社も本間春江の調査を依頼されたことがなかったという報告は、たしかに彼を失望させたが、すぐ気をとりなおして、ほかの私立探偵のほうの調査を命じ、自分はああして手に入れた情報を使って、小林をたたきのめしてやろうと、新たな闘志を燃やしたのだった。
小林準一はたしかに弱っていた。わずかの間に頬が落ち、顔色は青くなり、眼は落ちくぼんで視線も定まらなかった。
「君が麻薬を仕入れているのは、神戸からではないのかね。君の女房が毎週一度、飛行機で神戸へ往復していることは、ちゃんとこっちにはわかっているんだ」
朝鮮人から手に入れている――というようなせりふをしばらくしゃべらせたあとで三郎が鋭くきめつけると、デスクの端をつかんでいる小林準一の両手はがたがたと震えた。
「そ、そんなことは……それは、女房も朝早くうちを出かけて、夜に帰ってくることはありますが、日帰りで神戸へ往復するなんて……」
全身に刺青《いれずみ》を彫っている男とも思えないようないじけ方だった。彼にしたところで、ふつうの体なら、数日の留置所生活なり、この程度の尋問で音《ね》をあげるわけはないだろう。いくら強情剛胆な男でも、いったん禁断症状をおこすと、まるで子供のようになる、麻薬の毒の恐ろしさを、三郎はあらためて見せつけられたような気がした。
「まあ、正直なところ、僕は殺人事件の捜査のために、君をこうして調べているんだ。脇道《わきみち》の麻薬の入手経路などは、どうでもいいようなものだがねえ」
もちろん、これはその方面は調べないという約束ではない。しかし、錯乱状態にある彼には、これが検事の誓約のように思われたのかもしれない。ぎらぎらと眼を光らせて、
「殺人事件といったところで、こっちは何も、人を使って、あの女をばらさせたわけじゃねえんですよ」
「では聞くが、本間春江は君のところから、薬《やく》を手に入れていたわけなのか?」
「あいつもいつのまにか、中毒になって……女房のところへ泣きこんで……」
「それで量は? 毎日どのくらい射《う》つようだった?」
「一日一グラムぐらいじゃねえんですかねえ。わっしはよく知らねえが……」
「それをまとめて五十日分とか、百日分とか買っていたのか?」
「そんなにまとまった金はとても……旦那《だんな》に着物を買いたいとか、指輪が欲しいとか、口実を作って金をねだっちゃ、薬にかえていたんでしょうよ。実際、これにとりつかれた日にゃ……嘘《うそ》をつくこともなんともなくなる」
「なるほど、それで君が麻薬の取引をはじめた動機はどんなことだね?」
「動機といっても……薬がきいて正気なときには、しかたがねえと思いながら、自分で金を使うのが、馬鹿くさくなってくるんですよ。どうしてもやめられねえものなら、いっそ売り買いする側にまわって、そっちの儲《もう》けで自分の入用な薬を浮かしてやろうというような気にもなりまさあね」
「すると、それは本間春江にも言えることではなかったのかな。彼女のほうも、しょっちゅう金をねだるのが限度にきてしまって、一度にまとまった分量を仕入れ、ほかの人間に売りさばいて、自分の薬代の出費を助けようとしたんじゃなかったのかな」
「あの女にはそれだけの才覚は……でも、もしその気になったなら……前の事件のときに知っていた相手をまわって歩いたら、買手も少しは見つかったかもしれませんねえ……」
小林準一の額には細かな汗の雫《しずく》が無数ににじみでていた。
「それで、君は石本某という男を知っているかね」
「石本進のことですか?」
「どんな男だ?」
「神戸の溝口一家の若い者で、ときどき東京へも来るんでさあ……もっとも、このごろは、しばらく顔も見ませんが」
「その男には凶暴性はないのか? 殺人とか傷害とかの前科は?」
「傷害のほうは二犯でしたか……でも、ふだんはそんなに……」
「それでは、その男が本間春江を殺したというようなことは考えられないのか」
三郎はこの尋問に、右を攻め左を突くような方法をとっていた。相手が錯乱状態にあるときは、一貫した筋を追っていくより、たえず焦点を変えたほうが効果的なのだ。
「まさか……まさかと思いますがねえ。こっちは、何も……それなら本人をつかまえて調べるほうが早いんじゃねえんですか」
「それで、君は、本間春江の旦那、竜田弁護士が、私立探偵を頼んで、彼女の麻薬入手の経路を調べたことを知っていたかね?」
小林準一は、眼球がとびだすのではないかと思われるほど大きく両眼を見開いた。喉《のど》の奥から、声にならない声、言葉にならない言葉がとびだした。さっきふいたばかりの汗が額からぼろぼろこぼれ、両腕から肩へ、大きな波のような震えが伝わっていった。
「検事さん……」
横にすわっていた桑原警部が、腰を浮かしてささやいてきた。
「また禁断症状が始まりかけたようです。ここで一休みなさって、手当てを加えたうえで、また続行なさってはいかがでしょう」
「うん……」
三郎も苦い顔をしてうなずいた。彼の受けている感じでは、小林準一はあと一押しで完全に崩れそうだった。事件の核心に接近するような秘密も口外しそうだった。
しかし、眼の前の彼の苦しみ方も、けっして仮病とは思えなかった。麻薬中毒患者の取調べは、じっくり腰をすえてとっくまなければいけないから骨が折れると、麻薬犯罪担当の伊東検事もいつか漏らしていたが、ここまで追いつめれば、あとは焦る必要もないと思われた。
「それではいちおう連れていって休ませたまえ」
二人の刑事に両脇からかかえられるようにして、小林準一が出ていくと、桑原警部は溜息をついて、
「検事さん、あと一押し、もう一歩というところですね」
「僕もそう思いますよ。それで、あなたがたのほうの調べは?」
「なにしろ、言うこと言うことが、すべて断片的なので、なかなか筋が追えないのです。医者の話では、崩れながらも筋金入りの男だけに、凄《すご》く頑張りつづけているようだということでした。これがふつうの男なら、とっくにまいって、なんでも自白してしまったろうということでしたが」
「それで、友永より子のほうは?」
「急に関西へ飛んだようです。羽田までは刑事が尾行して、大阪行きの飛行機に乗ったところを確かめました。伊丹《いたみ》から後は、むこうの警察に電話で頼んで尾行してもらったのですが、神戸の溝口一家へかけこんだようですね。まさか、このさい新たに麻薬を仕入れるための旅行でもないでしょうから、急いで善後策の相談にかけつけたのではないでしょうか」
「うむ……」
三郎が、一息ついて煙草に火をつけたとき、一人の警官がはいってきて、
「検事さんにご面会のおかたです。尾形悦子さんというおかたで、個人的な用事だけれども、たいへん急を要するお話だと言っておられます」
と抑揚のない調子で言った。
桑原警部には、一時間ぐらいでもどってくるからと断わって、三郎は、悦子といっしょに近くの喫茶店へ行った。今度も誰かに尾行されているのではないかと、ずいぶん神経を使って入口のほうを注意していたが、自分たちのあとに続いてはいってくる人間は、しばらくなかった。
「わたしはいま、恭子さんの所へいって会ってまいりましたの。その結果がとても心配になりましたので……」
「お電話もなく、突然やってこられたので、そんなことではないかと思っていましたが、いったいどうしたというのです?」
「はい、わたしの見たところでは、恭子さんは半狂乱の状態です。いいえ、錯乱状態だといってもよいかもしれません。このままでいったら、命にもかかわるようなことになりはしないかと思いまして……」
「それは、自殺という意味ですか?」
三郎も、心臓に短刀を突き立てられるような思いだった。
「そういうことにもなりかねないような気がします。わたしがお話を聞いただけでも、よく女であれだけこらえているというような気がするのですけれども……」
「でも、いまの僕にはどうすることもできません。二人で会って、なぐさめてやれば、あの人の気持もいくらか静まるでしょう。そのことはよくわかっていますが、その、当然最善と思われる手が打てないところに、現在の僕たちの悩みがあるのです」
「霧島さん、わたしは弁護士の娘です。でも父は、三年前まで検事でした。ですから、わたしには、あなたがたお二人の気持は、人よりもよくわかるような気がするのですが」
悦子は、ハンカチをちぎれるように握りしめて、
「霧島さん、いっそこのさい、思いきって、須藤俊吉という人を逮捕してくださいませんか?」
「須藤俊吉? なんの容疑で?」
「容疑はなんとか……たとえご無理をなさっても……」
「できません。いまのところは、検事として彼を逮捕するだけの理由がつかめません。あなたが何か、はっきりした根拠をおっしゃってくだされば、話は別になってきますが」
「そのことは、わたし、恭子さんに誰にも口外しないと誓ったのです。わたしの態度から、察していただくしかありません」
悦子はいまにも泣きだしそうな顔で続けた。
「でも、これはわたしだけの推定ですから、申しあげてよいと思います。このままでいったら、恭子さんは近いうちに、あなたにしか許せないものを彼のために……そうなったら、あの人のことですもの、生きておられないと思いつめるんじゃないでしょうか」
三郎も背筋が震えだすのを感じていた。頭にかっと血がのぼり、眼の前のものがかすみはじめた。
「すると、彼は竜田さんに会わせるとでも言ったのですか? その代償として、肉体を要求しているとでも?」
「申しあげられません。そのことは……」
三郎もどうしてよいかわからなかった。いくらかでも気をしずめるようにして、煙草に火をつけたが、一服二服してはっとした。われを忘れて、フィルターのほうに火をつけていたのだった。
「霧島さん、おねがいします。わたしから……多少ご無理をなさっても。それなら、恭子さんは救われるでしょう。かりに、べつなショックが来たとしても、そちらのほうなら、あとでなんとか立ちなおれるのではないかと思いますが……このまま、須藤俊吉を野ばなしにしておいたなら、とり返しのつかないことがおこります」
「恋人としては、一も二もなく、そうしたいところです。しかし、検事としたならば、まだそこまではふみきれません」
「まあ……あなたは冷たい、冷たい人!」
悦子のようにおとなしく、しかも理知的な娘が、罵言《ばげん》のようなこんな言葉を投げだすのはよくよくのことだったろう。手のハンカチは紐《ひも》のようによじれ、両手はぶるぶると震えだした。
「あなたのお気持はわかります。しかし、そこまでの強硬手段をとらなくても、ほかに手はあると思います。案外、そのほうが、根本的な解決へ迫る近道かもしれませんよ」
三郎はやっといくらか落ちつきをとりもどした。
「そのほかの手とおっしゃるのは?」
「恭子さんには、寺崎義男という私立探偵がついているんじゃありませんか。あなたから彼に話して、しばらくボディ・ガードのように、そばを離れず護衛の役をつとめさせてはどうでしょう。あなたのご心配なさる最悪の事態は、それだけでも防げるんじゃないでしょうか」
「そのことは、わたしも考えました……でも、それではまにあわないかもしれないのです……」
悦子は大きく身もだえした。
「霧島さん、あなたはこんなことをお考えになっておられるんじゃないでしょうか。須藤俊吉を逮捕なさらないかわりに、いま、すぐ刑事さんを出して、彼のまわりを二十四時間見はらせる。場合によっては、神戸の六甲あたりまで尾行させる――こんな手をお打ちになるおつもりじゃないんでしょうか?」
謎《なぞ》をかけるような言葉だった。しかし、その中に出てきた神戸の六甲≠ニいう地名に、三郎は愕然《がくぜん》としたのだった。
第二十七章 渦 潮
神戸の六甲――という限定された土地の名前が、どうしてここで飛びだしてきたか、三郎には理解できなかった。しかし、悦子の思いつめたような表情と眼の色を見ているうちに、竜田弁護士は現在そこの誰かの別荘にでも潜伏し、国外脱出の機会を待っているのではないかという考えが、しだいに強くなってきた。
それに、刑事を使って、須藤俊吉を見はらせるというのは、悦子のとっさの思いつきかもしれないが、彼にも天来の妙案のように思われた。彼が、竜田弁護士の隠れ家を知っていて、秘密に連絡をとっている可能性があるといえば、警察を動かすにしても、名分は立つのだし、それは、間接的にでも、恭子を救うことになるはずだった。
「尾形さん、それであなたはいままでに、陳志徳という中国人のおかたの名前を聞いたことはありませんか?」
念のためにだめを押してみると、悦子はたちまち真青になった。
「どうして、それを……その名前を……」
「すると、彼はいま日本にいるのですね。東京のどこかに来ているわけですか?」
はったりに近い質問だったが、これは悦子の急所をついたようだった。直接その問いには答えもせず、三郎をなじるように、
「わたしは、恭子さんのためを思って、霧島三郎さんというおかたにお会いしにきたのです。霧島検事さんをおたずねしているのではございません。ですから、親友を裏切るような立場に追いこむ質問は、およしになってください」
ときっぱり言いきった。
「そうでしたね。たしかに僕が悪かったようです……」
三郎も胸をつきあげられる思いだった。検事と恋人との両面をうまく使いわけるということは、こんな事件では不可能と言いたいほどむずかしいことなのだ……。
そのとき、一人の警官がはいって来た。入口に立って店の中を見まわしていたが、すぐテーブルに近づいてきて、非難するような眼で三郎を見つめ、
「検事さん、お話し中にお邪魔をいたしますが、至急重大な報告がありますので」
と小声で言った。
三郎は立ち上がって、警官の口に耳を寄せた。
「小林が急にショックを起こしました。命も危ないそうです」
「なんだって!」
三郎もそのときは、全身に冷水をあびせかけられたような思いだった。麻薬中毒の治療のさいには、例外的に少ない場合だが、医者が細心の注意をはらっても、禁断症状から衝心の発作を起こし、急死することもないではないといわれている。その不幸な偶然が、こんなときに発生したのかと思うと、気も遠くなるようだった。
「よし、いますぐに行く」
と言って、崩れるように椅子《いす》に腰をおろすと、三郎はコップを鷲《わし》づかみにして、水を一気に飲みほした。
「どうかなさいましたの?」
かるく一礼して出ていく警官の後ろ姿を見送って、悦子はたずねた。
「小林の命が危ないというのです……さっきまではいちおう尋問に耐えられる程度の状態だったのですが……とにかく、僕はいったん帰らなくちゃいけません。あとはまた、すぐに電話でご連絡します」
「はい……お待ちしています。でも、いまは一言だけ言わせてください。なんとか、なんとかして、恭子さんだけは守ってあげてください。わたしから手をあわせてお願いします」
悦子は眼に涙さえ浮かべていた。
「わかりました。それではいずれ」
と言いのこして、三郎はこの店を出ると、警察へかけもどった。
小林準一は、救急車で病院へ運ばれたあとだった。桑原警部もあわてて同行したらしいので、詳しいことはわからなかったが、三郎がいちおう尋問を打ちきって十分ぐらいしてから急に苦悶《くもん》を訴えだし、かけつけてきた医者も、このままでは命が危ないと言いだしたということだった。
もちろん、これは麻薬の毒性のためで、自分にはなんの責任もないはずだが、三郎は溜息をつきながら、今後の判断に迷っていた。
「霧島君」
そのとき、思いがけなく姿を見せたのは利根検事だった。きっと、ほかの事件で渋谷署へ顔を出し、この突発事件のことを耳にしたのだろう。そばに近よってささやくように、
「小林が倒れたそうだね?」
「そういうことです。僕も話を聞いて呆然《ぼうぜん》としてしまったのですが……」
「困ったことになったものだね。このところ、君の身辺には、奇妙な事件ばかり続いているようだし、彼に、万一のことがなければよいが……親分が逮捕されたというだけでも、担当検事の命を狙《ねら》ってくるほど血迷った連中だと、死んだら弔い合戦だと、いよいよ外道の逆恨みを発揮してくるかもしれないな」
利根検事の言葉は、ちょっと皮相の意見のようにも思われたが、事件を直接担当している検事でなければ、深い読みはできないものだし、誤った意見だと言いきる自信もなかった。
「しかし、かりにいままでの乱暴が、彼らのしわざだとすれば、親分が死んでしまったほうが、かえっておとなしくなるかもしれませんね。やくざの一家というのは禿鷹《はげたか》の群れみたいなものですし、直接人手にかかって殺された場合ならともかく、仇討ちまでしようという気になるでしょうか。案外、一家の中にだって、親分が死んでくれたほうがと思っていた人間もいるでしょう。残されたものを、寄ってたかって食いあらすほうが先じゃないでしょうか」
「そういう考え方も、たしかにできるがね」
利根検事はそっとあたりを見まわし、ささやくような小声で、
「霧島君、もし彼に万一のことがあったら、毒殺か服毒自殺の疑いはないか、よく吟味しておきたまえ」
「警察の中でまさか……」
「僕も自分で非常識なことを考えているとは思う。まさかとも言いたいのだが、もし彼が強力な筋のバックで麻薬を取引していて、その秘密がばれそうになってきたときには、敵はどういう非常手段を講じてくるかもしれないからね」
三郎は、そのとき、戦慄《せんりつ》と呼びたい肌寒さを感じていた。
「それで、君はこれからどうするつもりだね?」
「いま考えていることは二つあります。一つは須藤俊吉という男に対する張込み尾行、一つは陳志徳という中国人が、いま東京に来ていないかどうかを確かめることです」
恭子は、尾形悦子から、自分がもう一度ここへもどってくるまでは、絶対にうちから出ないでね、とだめを押されていた。
もちろん、悦子が三郎に会いに飛びだしていったことは、わかっていた。それなのに、それは止めきれなかった。
いま恭子は、大きな渦潮の中にまきこまれた思いだった。すべての人と物とが、自分の周囲、それも力の及ばないところで、目まぐるしく回転している……それなのに、自分はどんなにあせり、もがいても、この渦の外へは抜けだせないのだ……。
そのとき、兄が帰ってきたと、近藤和子が知らせてきた。たとえ、たよりにならない兄でも、顔を見て愚痴でもこぼしあえば、いくらか気がおさまるかもしれないと考えて立ち上がろうとしたとき、和子は曰《いわ》くありげに、
「それが、女のおかたとごいっしょでございますよ」
「女のおかた?」
恭子もそのときはかっとなった。和子をつきとばすようにして部屋を飛びだすと、居間へかけこんだ。
慎一郎もびっくりしたように顔を上げて、
「恭子、いったいどうしたんだ? こちらは、僕の結婚することになっている榎本ふさ子、こちらは、妹の恭子です」
結婚という一言が、恭子の胸をするどくえぐった。
「そうですの? どうぞよろしく」
相手に悪いと思いながら、投げやりな返事しかできなかった。
「ほんとうだったら、もっと早くご挨拶《あいさつ》にあがらなければいけなかったんですけれども、今度の事件で、参りそびれまして……どうかよろしくお願いいたします」
挨拶も丁重だし、着物も地味に地味にと考えて来たようだったが、恭子はどうもこの女に対して、いい印象が持てなかった。それも、いま神経がこのうえなく、まいっているせいかと思いながら、
「そうでしたの? それでしたら、いっそ、この事件がかたづいて、すっきりしたときにお目にかかりたかったわ」
と皮肉にとれるような返事をしてしまった。
「恭子、そのくらいのことはおれにもわかっている。しかし、きょうこうしてうちに連れてきたのは理由もあるんだ。ふさ子はおれにないしょで、霧島君に会ってきたんだよ。おれもその話を聞いてびっくりしたが、それなら早くお前にも会わせて、話を聞かせたほうがよかろうと思ってね」
もう結婚はいいかげんあきらめていたものの、やはり人の口から霧島という名前が出てくると、渦潮のように胸がさわいだ。それでも、できるだけ感情を押し殺して、
「そうでしたの?」
と答えると、ふさ子は大きく溜息をついて、
「霧島さんというおかたは、ほんとうに男らしくて、ごりっぱな人ですのね。こんなことにならなかったらと思いますと、わたくしまで泣けてまいりました……」
ふさ子は、眼にハンカチをあてて、かすれた声で言った。
「たしかに、彼が好漢だということは間違いないがね。ただ、今度の事件では、ずいぶん危ない橋も渡っているらしいな。脇道の麻薬のほうの捜査のために、香具師の親分を逮捕したせいだろうが、ふさ子の話でも、無灯火の自動車にひき殺されそうになったり、ピストルで狙いうちされたり、命にかかわるようなことが、二度もつづけてあったらしいな」
「まあ、そんなことが……」
恭子はたちまち話につりこまれた。これ以上、心の乱れることもあるまいと思っていたのに、ふさ子の話を聞いていると、まるで心臓が音をたてて砕けていくようだった。
「なにしろ、わたくしと別れたすぐそのあとで、今度はピストルで撃たれたということですから……こう申してはなんですが、検事さんでも、こうなると、神経がまいってしまって辞表でもお出しになるようなことになるんじゃないでしょうか。そうなれば、あなたとの結婚のお話にしても、いままでとぜんぜん変わった角度から考えてもいいことになるんじゃないでしょうか」
ふさ子は、三郎との会見の模様を詳しく説明し、恭子をいたわるような言葉で話を結んだ。
「あのかたは、いまこんなところで辞表を出すようなことはしませんわ」
恭子はそれだけのことを答えるのがやっとだった。
「おれはいままで、お前たちの結婚はとうてい無理だと考えていたんだが、ふさ子の話を聞いて思いなおした点もあるな。口にこそ出して言わないが、霧島君がお前に心底から惚《ほ》れこんでいることは、顔色の動きを見ただけでもわかるというんだよ。まあ、彼の現在の苦衷はわかるが、検事をやめるという条件ならなんとかならないでもないと思うが」
自分のことでひけ目を感じているせいか、慎一郎の言葉の調子はふだんとはぜんぜん変わっていた。
「あのかたが、いまここで検事をやめるなんて、とても考えられません。そのことは、もう少し考えさせてください」
「そうか。わかった。もちろん、こんなことはいまどうにもなることじゃない。おれはただ、お前に希望を持たせたかっただけなんだ。それから、もう一つ相談があるのだが」
「なんでしょう?」
「これもいますぐというわけじゃないが、この人にはおれの子供ができている。だから、いずれ入籍のことも考えなければと思ってね。お前にも賛成してもらいたいんだが」
「それは、お兄さんたちのよろしいように」
もう涙が押さえられそうもなかった。恭子はふさ子のほうにかるく頭を下げ、自分の部屋へひっ返すと、机の上に顔をふせ、思う存分泣きつづけた。
尾形悦子がこの家へひっ返してきたのは、それから三十分ほど後のことだった。
「泣いていたのね? こういうときには、泣くのもいいお薬かもしれないわね……」
恭子の顔を見つめて、悦子はしんみりとした調子で言った。あわてて化粧は直したものの、赤く泣きはれた眼は、どうにも隠しようがなかった。
「霧島さんに会ってきたけれど、あのかたは思ったよりも、ずっとこわい人だったわね。わたしにまでかまをかけて、検事の神経で、いろいろ秘密を探りだそうとするのよ」
「そうだったの?」
恭子の心は、また冷たくこわばった。きょうはじめて会ったふさ子より、長い友人の印象のほうを信用したくなるのは当然だった。
「でも、わたしはあなたを裏切らなかったつもりよ。一つも秘密は漏らさなかったつもりだから、そのことだけは信じてちょうだいね」
「わかっているわ……」
「それで、わたしがいない間に、何かあって? 須藤なり、寺崎さんなりから、電話はかからなかったの?」
「電話は何もなかったわ……そのかわり、と言ってはなんだけれど、兄が好きな人を連れてきて、いま奥にいるわ」
「まあ、このさいに……あなたの気持も知らないで」
悦子は娘の潔癖さをあらわに発揮したように眉《まゆ》をひそめた。
「でも……その人の気持はわからないでもないのよ。兄の子供ができているというので、お父さまにも二度ほど会って、正式に結婚できるように頼んだらしいのよ。二回目は、お父さまがいなくなったその日のお昼だったらしいけれど」
「それで、そのかたはどんな人? いいところのお嬢さんだったら、かりにそういうことになったとしても、自分で恋人のお父さんに体あたりするというようなまねはしないんじゃないかしら?」
「私も頭が混乱していたんで、お話はよく覚えていないけれど……霧島さんにも、兄にないしょで会ってくれたらしいの」
「男まさりの人らしいのね。それで、霧島さんは、その人にどんなことを言っていたのかしら?」
「こまかなことまでは……ご本人から直接話を聞いてくださったら……私が受け売りの話をした日には、きっとちぐはぐになって来るでしょう」
「それもそうねえ」
悦子は唇を噛《か》んでしばらく考えこんでいたが、やがて思いつめたような口調で言った。
「やっぱり、あなたから聞かしてもらったほうが、いいわ。あなたとなら、いずれは義理の姉妹となる仲だと思うから、むこうも、打ちあけた話はするでしょうけれども、わたしはむこうから見ればあかの他人だもの。いくら、あなたが姉妹のような仲だと言ってくれたところでデリケートな話はしてくれないんじゃないかしら?」
それももっともだと恭子は思った。自分でもひとりであれやこれやと思い迷っているよりも、何か話しているほうが気もまぎれそうだった。
思いきって口を開くと、話はわりあいになめらかに流れだした。自分でも、さっき聞いた話の要点は、一つのこらず伝えられたような気持になったのだった。
「わかったわ……いちおう、理屈は通っているわね。でも、でも……」
悦子が頭をかかえて考えこんだとき、近藤和子が、寺崎義男から電話だと、知らせてきた。悦子を部屋に残して、恭子は電話に出た。
「お嬢さんですか。おそくなってすみませんでした。いままで、眼をはなすひまもなかったものですから」
「それでは、いままで尾行に成功して、食いさがれたというわけね?」
「そうです。きょうはたいへん骨を折りましたが、途中の話は全部とばして、彼女はいま、新宿のノクターン≠ニいう喫茶店へはいりました。ちょうどラムール≠ゥら五、六軒目になりますが……」
「そこで、誰かと待ちあわせているのかしら」
「そうではないかと思います。案外、須藤俊吉あたりとここでおちあって、報告をする約束だったんじゃないでしょうか? それではまた、情勢の変化とにらみあわせてお電話します」
恭子は溜息《ためいき》をついて受話器を置いた。もちろん、女が途中で俊吉と打ちあわせをすることは十分考えられるとしても、この女を最後まで尾行することに成功すれば、父の隠れ家もすぐわかるような気がして、たまらなかった。義男にも、しっかりやって――と祈りたくなる気持でいっぱいだった。
電話のそばを離れようとしたとき、またベルが鳴った。義男がひきつづいて次の電話をかけてよこしたのかと思いながら、受話器を取り上げると、
「もしもし、竜田さんのおたくですか。恭子さんはいらっしゃいますか?」
という須藤俊吉の声が、耳に飛びこんできた。
「私です……」
「電話をかけてくれませんでしたね」
その声は、怒気さえはらんでいるように思われた。
「証拠はあれだけでは足りないのですか?」
「すみません……兄とそのお嫁さんになるおかたがきたので、あれからずっと、外へは出られなかったのです……」
「ほう、慎一郎君のお嫁さんになる人というと誰ですか?」
「榎本ふさ子さんというかたです……」
「ほう、彼女ですか?」
含み笑いをしているような声が、ちょっとのあいだ続いた。また恭子の背筋は冷たくなった。
「まあ、そんなことはあとまわしにして本論にはいりましょう。今晩外出できますか?」
「ええ、なんとか……」
「それでは七時に、ホテル・ニュージャパンのロビーへ来てください。おことわり申しておきますが、今晩が東京での最後のチャンスになりますよ。もうデパートもしまっている時刻ですから、尾行をまくには気をつけて」
その声は、針で鼓膜を突き刺してくるようだった。
第二十八章 検事西へ飛ぶ
利根検事に打ちあけたような応急処置も、桑原警部が帰ってこなければ、実行には移せなかった。三郎は捜査本部で、焦慮しながら彼の帰りを待ちつづけていた。
もちろん、警察に留置中の容疑者でも、生命が気づかわれるような事態に立ち至った場合には、捜査活動が一時中断することはやむをえない。しかし、現在警察側の捜査の最高責任者である桑原警部までが、病院へかけつけたことには何かの含みもありそうに思われた。
悪くかんぐれば、桑原警部は、小林のはるか背後にひそんでいると考えられる黒沢大吉の思惑に対してまで、気をつかっているのではないかとも思われる。また、妄想に似た考えだが、いま利根検事が暗示を与えてくれたように、小林が何かの毒物を、自分で飲むか、飲まされるかしており、桑原警部は責任上、必死にそのもみ消し工作を続けているのではないかとも思われた。
三郎は、自分でも病院まで行ってみようかと、何度か考えたが、そのうちに三十分ほどして、桑原警部はぐっと唇をへの字に結んで、三郎の前に姿を現わした。その顔を一目見たときに、三郎は最悪の事態が発生したことを悟った。
「検事さん、だめでした。強心剤やカンフルを何本となく注射したのですが、手当てのかいもありませんでした。医者は例外的に珍しい現象だと首をひねっていましたが、もともと、中毒症状がかなり進んでいたのかもしれませんですね。気の毒といえば気の毒ですが、われわれの責任とは言えないでしょう」
警部の態度は冷静だった。一人の人間の死の床から帰ってきたばかりでは、ふつうの人間なら、特別の関係はなくてももっと取り乱してもふしぎはないが、これも強力犯《ごうりきはん》を専門として、長い年季を入れているせいかもしれない。
「そうですか……麻薬というものは恐ろしいものですね。あんなに、殺しても死なないような男でも、こうしてぽっくりいくこともあるのですからね」
三郎も溜息まじりに答えたが、警部は緊張もゆるめずに、
「私は、彼が危ないと聞いたときに、はっとしたのです。人間は死にぎわになってくると、筋の通らないかたことでも、重大な秘密を口走ることがよくあります……今度も、そんなことになりはしないかと思って、自分でつきそっていったのですが、こういう神経ですから、警察官は人間ではない、鬼だと言われるようなことにもなるのですね」
と自嘲《じちよう》のように言った。
この警部には皮肉を言う意図などないことはわかっていたが、この言葉は三郎の胸を鋭くえぐった。自分に対しても、現在何人かの人々は、やはり人間ではない、鬼だと思っているかもしれなかった……。
「そうですか。それで小林は何か言っていましたか?」
「何しろ、きれぎれのうわごとのような言葉ですから、聞きとれない部分もかなりありました。より子とか、黒沢先生とか、人の名前が飛びだしたのは、当然のことかもしれませんが、薬の名前か何かでしょうか、ノクタンというような名前が出てきたのが気になりました。ケイ子という名前も出たような気がしましたが、これははっきりそうだと断言できません。私の耳のせいかもしれないのです。最後のはっきりした言葉は『薬を……薬をくれ』と、餓鬼のような訴えだったのですが」
「ケイ子という名前で、心あたりといえば、二人目の犠牲者鹿内桂子ですが、そうだとすると、二人の間には、われわれが考えていた以上に、深い関係があったのでしょうか?」
「それはなんとも……だいいち、この名前自身が、私の錯覚でないとは言えません。また、ケイ子という名前の女が、ほかにいないとも言えません」
「それから、ノクタンという名前ですが、たしかあの店のすぐそばには、ノクターン≠ニいう名前の喫茶店があったようです。むろん、断言的なことは言えませんが、ひょっとしたら、その店あたりがラムール≠フ麻薬の隠し場所じゃないのでしょうか? 人間、最期の土壇場で、なんの意味も関係もない店の名前を口走るわけはないでしょう」
「なるほど、私はそういう店があることは知りませんでしたが、それも考えられない話ではありませんね。すぐに調べさせましょう」
「それから、これは妙なおたずねですが、まあ万一の事態まで考えての質問と思って聞いてください。小林の死因というのは、純粋に麻薬の禁断症状から起こったショック死と見てよいのでしょうか。言いかえるなら、自分で毒を飲んだというようなことは考えられないのでしょうか?」
「毒?」
桑原警部は眉をひそめた。
「正直なところ、私はそんなことは考えてもいませんでした。これがふつうの場合なら、やくざ的な犠牲の精神で、自分一人に罪を背負いこんで死ぬということもないではないでしょう。しかし、彼にはあらためて厳密な身体検査を行なったのですし、麻薬煙草のほかに自殺用の毒まで隠していたということは、私にはとうてい考えられません。もしこの点について、何かお疑いがおありなら、検事さんご自身で医者のほうをお確かめになったらどうでしょう?」
そのときの警部の表情から、三郎はこの言葉に嘘《うそ》や作為はないと直感していた。
「いや、このことは僕の考えすごしかもしれませんがね」
「たしかに、このところ妙な事件ばかり続きましたから、検事さんが神経過敏になられるお気持もよくわかりますが、これからもよくお気をつけになってください。何しろ、ふつうの理屈は通用しない連中です。いったん血迷ったら、何をやりだすかわかりません」
これは利根検事の言葉を、いま一度あらためてくりかえしたようなものだった。
三郎の胸に、また新しく恐怖の感情がよみがえってきた。しかしそれは、いままでのように激しいものではなかった。
三郎は午後四時過ぎ、羽田空港のロビーで次の日航大阪行きの便を待っていた。
神戸の六甲――という悦子の言葉が気になってたまらないために、急いで神戸へ飛ぼうと決心したのだった。
公式に、事務官をつれての出張ではなく、まず非公式に一人で出かけていって、親友の原田検事に会い、知恵と力を借り、場合によっては適当な手を打って、明日の午前中にでも、東京へひっ返してくる予定だった。
これがふつうの事件なら、検察庁から検察庁への直通電話でも、用は足りるわけなのだが、彼は原田検事あてに、個人的な電報を打っただけだった。これほど微妙な問題になってくると、やはり面と向かったうえでなければ話しきれない感じだった。
ロビーの椅子に腰をおろして、三郎はふと恭子の話していた新婚旅行のプランを思い出していた。もちろん、細かな点まで決定していたわけではなく、金持の弁護士の娘らしい夢もまじっていたが、飛行機でまず福岡へ飛び、それから九州を一巡して、また飛行機で東京へ帰ってくるという計画は、三郎もどれほど楽しみにしていたかしれなかった。
その夢もいまは消えたのだった。恭子と並んで空の旅に出る機会は、もうあるかどうかもわからない……。
溜息をついて、改札口のほうを眺めた三郎は、そのときそこからロビーに出てきた友永より子の姿を見かけてはっとした。
小林準一の急死の知らせを聞いて、大急ぎで神戸からひっ返してきたのだろう。
ほとんど同時に、三郎の顔に気がついたらしく、より子は顔色を変えて立ち止まった。
出迎えらしい二、三人の人相の悪い男を押しのけるようにして、より子は三郎の前に近づいてきた。
三郎も椅子から立ち上がって身構えた。たしかに、このときのより子の表情は、何をやりだすかわからないような恐ろしさが満ちあふれていたのだった。
「検事さん、うちの人は死んだそうね」
二歩ほど前で立ち止まると、肩を震わせながら、より子は言いだした。
「そうです……お気の毒なことをしました」
「気の毒ですって? あんたみたいな鬼の口から、そんな人間らしい言葉を聞くとは思わなかったよ」
より子は頬《ほお》の筋肉をぴくぴく痙攣《けいれん》させながら、三郎を睨《にら》みつけ、
「あのとき、あんたがすなおに、うちの人を帰してくれたら、こんなことにならなかったのに……あんたはほんとうの殺し屋よ」
と毒のある言葉を投げかけてきた。
三郎は黙って答えなかった。ただでも、理屈の通じないような女だし、しかも夫の急死の知らせで、逆上しきっていることもはっきりしている。へたに相手になる必要はないと思ったのだった。
「姐《あね》さん……」
そばから、人相の悪い男が、はらはらとした様子で止めるのも、より子の耳にははいらなかったらしい。
「ねえ、人に恨みがあるものかどうか、よく見ているがいいよ。この仇《かたき》はきっと、とってやるからね。あんたにいちばんこたえるような方法で……」
と、凄《すご》みなせりふをきかせてきた。
「姐さん、もうよしたらどうです……まあ、姐さんの気持はわからねえでもねえが、こんなところでみっともねえじゃありませんか。旦那《だんな》、何しろ姐さんは気が立っていなさるんで、どうぞお聞きずてなさってください」
その子分たちも、検事に公衆の面前で、こんな罵倒《ばとう》を続けたのでは、すぐにでも逮捕される危険があるとでも思ったのか、両方からより子の腕を押さえ、三郎にはぺこぺこ頭を下げてきた。
「気が立っているのはわかっている。だからこっちもがまんしているんだ。さあ、早く連れていきたまえ」
「すみません」
一歩、二歩と後ろにひきずられたより子は、そこで両脇《りようわき》の二人の手を振りきった。
「もう、こうなったら、竜田のほうは、ただではおかないからね!」
三郎がその言葉にはっとした瞬間、顔にべっと唾《つばき》が飛んできた。いかにも、やくざの女らしい怒りの表情だった。
「竜田をどうしようというのだね?」
顔をふくまもなく三郎はたずねたが、より子はこれでいくらか鬱憤《うつぷん》が晴れたというように、低く狂笑した。眼の怒りの色は、依然としてそのままだったが……。
「姐さん、姐さん、さあ、早く……」
「旦那、どうかごかんべんなさってください」
子分たちは、いま一度、より子の体に飛びつき、急いでこの場から連れ去った。三郎も、より子をおさえてまで、いまの言葉の意味を問いただそうという気にはなれなかった。
検事という職についていれば、時には外道の逆恨みのような筋違いの怨恨《えんこん》を受けることもあると、三郎は先輩から聞いていたが、こんなことは、彼としても最初の経験だった。
くわしい事情を知らない周囲の人々が、どんな眼で、自分を見つめているかと思うと、さすがにきまりが悪かった。しばらく、喫茶室かどこかで待っていようと思って、三郎は顔をふき、鞄《かばん》をさげて立ち上がったが、そのとき、売店の近くにたたずんでいる男の姿を見て、彼はまた奇妙な感情の虜《とりこ》となった。
身なりはきちんとしているが、三十ぐらいかと思われるこの男は、黒眼鏡をかけていた。その大きな二つのガラスは、まともに自分のほうを向いていたし、その姿からは、ぶきみな殺気のようなものが発散しているようだった。
この男は自分を尾行しているのではないかと、三郎はなんの理屈もなしに思った。
喫茶室へはいる瞬間に、もう一度そっとふりかえってみたが、黒眼鏡は相変わらず、自分のほうに向けられたままだった。
三郎を乗せた飛行機が、伊丹空港に着いたのは、六時二十分のことだった。
あの黒眼鏡の男は、同じ飛行機に乗りあわせていた。三郎の疑惑は、さらに深くなったが、これだけのことでは、検事としてもどうするわけにもゆかなかった。
ひょっとしたら、より子が電話で神戸にあのことを知らせ、溝口一家のほうからも、物騒なお迎えのような人間がやってきているかもしれないと、三郎は思っていた。しかし、ロビーにはいって、原田豊検事が立って待っているのを見たときには、かえってびっくりしたくらいだった。
「ちょうどこっちのほうに用事もあったんでね。電報が来たからここで待っていたんだ。わざわざ出迎えにきたわけじゃあないよ」
原田検事は、ゆっくり煙草に火をつけて、
「どうだい? まっすぐ僕の官舎へ行くか。それともどこかで食事でもしていくか」
「とにかく、そこの食堂で、ビールでも飲んでいこうじゃないか」
三郎としては、ここでいくらかでも時間をかせぎたいところだった。この黒眼鏡の男がなんの関係もない人物なら、すぐに空港を去るだろうし、食堂を出るまで、まだうろうろしているようだったら、そのときは警戒のしようもある。
「よかろう。そのかわりここではあまりこみいった話はできないよ」
原田検事は先に立って歩きだした。三郎も歩きながら、四方を注意して見たが、とくに怪しいと思われる人影も見あたらなかった。
食堂の奥のテーブルにすわると、原田検事は声をひそめて、
「どうした? 君が非公式にひとりで飛んでくるようでは、ふつうの事態ではなかろうな」
「うむ……」
三郎は、あたりを見まわしながらうなずいた。原田検事は、あのときの打明け話がだいぶ気になったらしく、神戸へ帰ってからも、電話でその後の経過をたずねてきたのだが、三郎は、公判部から刑事部本部係へ移って、この事件を担当することになったということを知らせただけだった。くわしい事情はまたあとでとことわっておいたのだが、もちろん電話で話はできないし、手紙を書く余裕などは、とうていなかったのだ。
「くわしいことは、あとでゆっくり話すけれども、事件は妙な動きをしている。結局、二人の女が殺されたわけだが、本筋の捜査はいっこう進まない。脇筋の麻薬の件にからんで香具師《てきや》の親分を一人つかまえたら、こいつが禁断症状のショックできょう死んでしまってね」
「なるほど、二人の女の連続殺人となってくると、これは本部係の検事としても、かなりの重荷になってくるな。実は正直なところ、僕はしばらく東京で捜査本部を作らなければならないような重大事件が、新しく起こらないように祈っていたのだよ。そうなれば、君も力を二分三分しなければならなくなるだろうし、この事件に専心するわけにもいくまいと思ってね」
「僕もそのことは心配していた。幸い、いまのところはこれだけだが、そのかわり、二度まで殺されそこなった。一度は無灯火の自動車でひき殺されるところだったし、一度はピストルで後ろから撃たれた。二度あることは三度とか、三度目の正直とかいう諺《ことわざ》もあるから、こっちも多少は心配しているんだが」
「なんだって。そいつは多少どころの話じゃないな。しかし、竜田弁護士が犯人だとすると、逃げまわるほうが忙しくって、君まで殺しにかかるということは考えられないだろう。麻薬の秘密にからんでのその香具師一家のしわざかもしれないが……ひょっとしたら、その二人の女を殺した犯人は、ほかにいるのかもしれないな」
茫洋《ぼうよう》としているようで人一倍鋭い原田豊の感覚が、ここにもあらわれたようだった。
「そのことは、またあとで君の意見も聞かせてもらいたいが、とにかく僕は、二十四時間といってよいくらい、誰かに尾行されているらしいよ。これは気のせいかしれないが、いまの飛行機にも、黒眼鏡の男が一人乗っていた。そいつが怪しそうなんだが」
「なるほど、それでしばらくここで様子を見ようというのか。よし、ここを出て、まだうろついているようなら、警官を呼んでつきだしてやろう。幸い検事は日本じゅうどこへ行っても逮捕権を発動できる」
原田検事は、コップのビールを一気に飲みほして、
「それから、何か調べる必要でもあったら、いまのうちに言っておいてくれたほうがいいかもしれないな。すぐに電話で連絡をとってやる。君が信念を持ってすることなら、詳しい事情の説明はあとでもいいが」
「それでは一つだけここで話しておくが、竜田弁護士が、現在六甲のどこかに潜伏している可能性があるといったら、君ならどうするかね」
「なんだって?」
さすがに原田豊の眼はぎらりと光った。
「ホテルにでも泊まっているというなら話はかんたんだが……もし、個人の別荘にでもかくまわれているというのなら、発見はちょっと骨かもしれないな……しかし、君はどうしてそんな情報をつかんだのだ? まさか、恭子さん自身の口から直接聞いたんじゃなかろうな?」
「直接ではないが、本人の口から出た情報だと思われる節もあるんだよ。もし、竜田弁護士が、この辺に隠れているとしたならば、常識的に神戸から船で国外脱出、密出国を狙《ねら》っているという疑いが強くなる」
「うむ……」
原田豊は三郎の意図を探ろうとするように、しばらく無言のまま、鋭い視線を浴びせかけたが、
「それだけデリケートな話になると、こういうところではなんだな。僕の官舎へ行って話そう」
と言いながら、あまっていたビールを二つのコップに注ぎわけた。
「そうしようか」
三郎もコップを取り上げたが、そのとき食堂へはいってきた女の顔を見たときには、驚きのあまり、ビールをこぼしそうになったくらいだった。
三年前に、婚約まで結んでいた安藤澄子、結婚一か月前に、彼を捨てて、ほかの男のところへ走った女が、偶然ここにあらわれたのだ……。
いまの姓は、なんというのかしれないが、わずかの間に、その美貌《びぼう》も急に崩れと衰えを見せてきたようだった。和服の着こなし一つにも、まるで水商売の女のようなあだっぽさが感じられる……。
澄子は、三郎たちには気がつかないらしく後ろをふりかえって、一足おくれてはいってきた男に何か話しかけた。その相手は、羽田から三郎と同じ飛行機に乗ってきたあの黒眼鏡の男だった。
第二十九章 父に似た人
「どうした? いったい、どうしたんだい?」
三郎が思わず顔色を変えたのに気がついたのだろう。原田豊はテーブルの上に身をのりだしてたずねてきた。
「あれか? あの黒眼鏡の男か?」
「そうなのだ。それにあの女のほうも……」
と答えたが、三郎はむこうの二人から眼がはなせなかった。澄子たちは、入口に近いテーブルに腰をおろした。男は一瞬、ちらりと黒眼鏡をこちらへ向けたが、澄子のほうは顔も動かさなかった。
もし、この男が最初から計画的に、自分を尾行していたのなら、澄子との話の中には、自分の名前ぐらい出るだろう。そうなれば、澄子としても、当然、平静ではいられないはずだが、それがこういう態度でいるところをみると、この男が自分の跡をつけていたように思われたのも、一種の妄想だったかと、三郎は考えなおしていた。
しかし、そういう微妙な心の動きまで、原田検事に読みとれなかったのは当然のことだったろう。
「行こう」
と三郎をうながして立ち上がった。三郎たちは、ちょうど澄子の真後ろを通りすぎたのだが、澄子のほうはふりかえりもしなかった。
二人が食堂を出たとき、ちょうど制服の警官がロビーの入口を出ていくところだった。
原田豊は駆けだすようにそのそばに近づき、名刺をさしだし、短く話しあったあとで、三郎のそばへもどってきた。
「とりあえず、あの二人の身元をたしかめるように頼んでおいた。僕たちは、むこうで待っていよう」
こういうときには、検事の名刺の力は絶対的なものがある。警官も面くらったろうが、こうなればなんとか、人権問題にならないような適当な口実を作りだして、住所氏名を探りだすにちがいなかった。
二人はいったん入口と反対側、改札口に近い椅子《いす》に腰をおろした。
「ねえ、君、僕は場合によったら、ここで悪者になってもいいんだぜ」
食堂の入口のほうをななめ後ろに睨みながら、原田検事は突然、熱っぽい口調で言いだした。
「悪者というと?」
やはりこの澄子との思いがけないめぐりあいは、三郎にとってもショックだった。原田豊の言葉の意味も、すぐには理解できなかった。
「つまり、なんだな。君が直接容疑者をとらえることがあとあとのためにならないとした場合、僕が代役をつとめてもいいということなんだ。もちろん、彼が現在神戸に来ているということを前提としての話だが……あとで君の奥さんに恨まれて、君と絶交状態になることは残念だが……なに、家庭ぐるみのつきあいはできなくても、われわれの間だけでは、公的な面で友情は持ちつづけられるだろう」
ある意味では、早のみこみすぎる言葉だが、その中にあふれる強い友情は、ひしひしと、三郎の胸に迫ってきた。ここまでは、東京を出たときには考えてもいなかったが、この言葉を聞いただけでも、三郎はわざわざ飛んできたかいがあったと思ったくらいだった。
「すまない。そのことについては、あとでゆっくり話すが、君の気持には感謝するよ」
「なに、検事一体という制度は、こんなときにこそ活用すべきなんだよ。何も礼を言ってもらうようなことじゃないさ」
と、原田豊が答えたとき、さっきの警官が食堂を出て、あたりを見まわしながら、こちらへ近づいてきた。
「検事さん、いちおう彼らの言うことを信用するとしますと、男は溝口一家の若い者で、春山文吉、女は三宮駅前のドラゴン≠ニいうバーの女で、岡本澄子ということになりますが」
警官は四方に眼をくばりながら、腰をかがめて、小声で報告した。
「霧島君、どうする?」
「それだけ確かめておけばいいじゃないか」
溝口一家の人間ということは気にならないでもなかったが、これだけのことではなかなか強硬手段もとりきれなかった。こうして顔と素姓を知っておけば、また手の打ちようもあるだろうと三郎は思った。
「そうかい。どうもご苦労さん」
警官がていねいに一礼して立ち去ると、原田豊はかるく三郎の肩をたたいて、
「行こうか。やつが送り狼《おおかみ》でないとすれば、もうここでぐずぐずしている必要もなかろう」
と言いだした。
二人はすぐに、待合室の入口からタクシーに乗った。
「君は、あの女のほうにまで面識があるのかね。名前を聞いたとき、顔色が変わったが」
煙草に火をつけながら、原田検事はたずねてきた。人の顔色から心を読む才能にかけては自分より一段上だと感じながら、
「ふしぎなこともあるものだ……彼女と僕とは、むかし婚約していたのだ。それが結婚式の一月前に、ほかの男とかけおちされてね」
「なんだって? そういう女だったのか?」
原田検事はあわてて後ろをふりかえり、車のリア・ウインドーから、遠ざかっていく空港の建物を見つめていた。
「相手の男も、いちおうの会社員とは聞いていたのだが、どうしてバーなどに勤めるようになったのか……それがふしぎだ。よほど顔だけよく似ているほかの女じゃないかと思ったくらいだよ」
「両親が、むかしかたぎの人間だとすると、君との結婚がご破算になったときには、勘当のような処分をしたということも考えられるな。女に意地があるとすると、もう実家へは帰るまいと決心したかもしれないな。それでもし、相手の男でも死んだとなると……」
原田検事は両腕を組み、眼を閉じた。ひとりごとのように、口から低くもれていた言葉も、これでとぎれてしまった。
恭子は自宅でいらいらしながら、寺崎義男を待っていた。五時ちょっと過ぎに、電話がかかってきて、このうえもなく重大な報告があるから、自分が行くまで、どこへも出かけずに、うちで待っていてくれと言ってきたのである。どんな報告なのと聞いても、電話では話せないと言うだけだった。声の調子も、いつもよりずっと緊迫しきっていて、別人かと思われるくらいだった。鬼気さえ感じさせる言葉だけに、恭子もそのとおりにするほかに道を知らなかった。
七時は刻々迫っている。ここで須藤俊吉との約束をすっぽかしたら、相手がどんなに怒りだすかしれないと思いながら、恭子にはどうにもできなかった。
「恭ちゃん、いったいどうしたの? さっきからすわったり立ったりして……あなたが落ち着いてくれないと、わたし心配で帰れないわよ」
悦子はさっきから、何度目かの同じようなせりふを浴びせてきた。恭子はまだこの親友にも、須藤俊吉からの電話の内容は打ちあけていなかったのだが、悦子のほうは、顔色を見ただけで、何かよほど重大な変化が起こったと思ったのだろう。さっきから、恭子のそばを一歩も離れようとはしなかったのだ。
「私だって、どうしてよいかわからないのよ。完全に気が狂いそう……でも、誰にも、あなたにも、相談できないことなのよ。ひとりでこらえているしか方法がないのよ」
「わかるわ。あなたのいまの気持は、誰よりいちばんわかるつもりよ。でも、さっきから時計を見る回数がふえたわね。誰かと会うような約束でもあるの?」
恭子はよほど、この友人にだけは、いっさいの秘密を打ちあけようかと思った。そうすれば、いくらかでも気持がかるくなるだろうと思いながら、言葉はいつまでも喉《のど》の奥につかえたままだった。
寺崎義男が現われたのは、六時三十九分だった。電話があってから、一時間以上たっているのだが、都内の交通の混雑ぶりを考えると、それをせめることもできなかった。
恭子はかけこむように、応接間へはいった。頬《ほお》のあたりを、ぴくぴく痙攣《けいれん》させながら、椅子にもかけずに待っていた義男は、向きなおって頭を下げた。
「どうなさったの? 重大な報告というと、どんなことなの?」
恭子も立ったままたずねたが、義男は、
「失礼します」
とことわって、初めて腰をおろし、煙草にゆっくり火をつけた。言いだしにくい言葉を一分一秒でも、あとにのばそうとしているようだった。
「どうなすったの。早く話して」
「お嬢さん、僕はさっき、先生の――いや、先生によく似た人の姿を見たのです」
恭子はたちまち椅子の中に崩れた。電話を聞いたときから、あるいはと、予想していた内容だったが、こうしていまいちばん信頼している人間から、面と向かって言いきられると、全身の血が一瞬に逆流しはじめたようだった。
「やはり、やはり、お父さまは……」
「僕も遠くから姿を見ただけです。他人の空似でないとは、言いきる自信もありませんが」
寺崎義男も、興奮の反面、呆然《ぼうぜん》としているような感じだった。自分でも今後の方針には迷ってしまったのかもしれない。この言葉には一時の気休めを言っているような感じが伴っていた。
「お父さまね……私は、あなたの眼は信用するわ。それに、偶然、街で出会ったというならともかく、いまお父さまに関係のありそうな人の尾行をしていて……それでぶつかったというのなら……」
義男は低く頭を下げた。煙草の煙がテーブルの上をはいまわった。
「僕は、八割……九割まで、先生に間違いなかろうと思ったのですが」
「わかりました」
恭子には、これも百パーセントの断言のように思われた。八割、九割と小刻みに刻んだ言い方をしているのも、ただの言葉のあやで、激しいショックをいくらかでも緩和させようとしているのだろうと思うほかはなかった。
「お嬢さん」
義男は急に顔を上げて、
「こういう事態になることを、最初からぜんぜん予想していなかったとは申しません。僕のいままでの考えなり、行動なりが、希望的観測とでもいったような線に沿っていたことも認めないわけにはゆきません。ただ、これからの行動は、九割五分まで、先生が生きておられるということを前提としないわけにはゆかないでしょう」
「わかりました。それであなたは?」
「正直なところ、僕自身も、きょうはすっかり興奮していて、考えがまとまらないのです。なんにしても、まず最初にお嬢さんにこのことをお話ししたうえで、ゆっくり今後のご相談をしようと思って、やってきたのですが……ただ、どういうことになっても、僕はお嬢さんの味方だということだけは、はっきり申しあげておきます」
「ありがとう。これからどういうことになっても……死ぬまで、あなたのご親切は忘れないわ……」
もう涙もかれきったと思っていたのに、また両眼があついもので濡《ぬ》れてきた。寺崎義男もうつむいたまま、何度か鼻をしゃくりあげていた。
応接間のドアにノックの音がした。はいってきたのは榎本ふさ子だった。紅茶のお盆を持って、
「粗茶でございますが」
と言いながら、茶碗《ちやわん》を二人の前に置いた。まるで主婦きどりの態度だったが、恭子はそんなことを気にしている余裕もなかった。ふさ子が部屋を出ていくのを待って、
「では、寺崎さん、そのお話はまたあとで、ゆっくり聞かせてくださいな。私は約束がありますから……」
「お嬢さん、待ってください」
寺崎義男は、鋭く眼を光らせ、低いが力のこもった声で、
「まだ、ご相談もはじめていないのに、詳しいお話はあとにして、外出なさるおつもりですか?」
「…………」
「いま、現在のお嬢さんに、これ以上重大な問題はないはずじゃありませんか。それをあとまわしになさろうとは、いったいどうしてなのでしょう?」
「ごめんなさい。でも、私は……」
「ひょっとしたら、お嬢さんは、どこかで須藤俊吉にお会いになるおつもりじゃないでしょうか。秘密に先生に会わせてやるというような言葉を信用なさっているんじゃないでしょうか?」
その言葉は、短刀で胸をえぐってくるように鋭かった。
車は裏通りだけを選んで走りつづけていた。あとを追っているような車の気配はなかった。
恭子は寺崎義男の鋭い追及に、もろく崩れて、須藤俊吉の電話の件を告白してしまったのだ。もっとも、いまの神経では、たとえ警官に追及されたとしても、たまらなくなって、いっさいを告白してしまったかもしれないが……。
その話を聞いたとき義男は大きく身ぶるいしていた。
「それで、お嬢さんは彼にどんな犠牲をはらっても?」
「でも、あの人は、いまお父さまの命を、手の内に握っているようなものじゃないかしら? あなたもいま、これからは、お父さまが生きているという前提で、行動しなければと言ったでしょう。そうなったら、私が死ぬ気になりさえすれば……」
こういう短いやりとりをしたあとで、義男は髪の毛をかきむしるようにして、苦しそうに言ったものだった。
「わかりました。そこまで言われたら、僕としても、無理に、お嬢さんをひきとめるわけにはいきません。でも、彼に対してなら、もっとほかに、うまい解決策もありそうです。ただ、もう時間がないとなると……」
こう言ったあとで、義男は何か妙案でも思いついたように、眼を光らせて言いだした。
「お嬢さん、僕もいっしょにおともしましょう。ホテルへ行くまでの車の中で、もう一度考えなおしてみます。それだけの時間があったなら、いい考えがまとまりそうです……」
その言葉を、恭子は救いの舟と受け取った。ほんとうならば、足蹴《あしげ》にでもしてやりたいほど嫌い憎んでいる男なのだ。義男のほうにうまい考えが浮かばなくても、もともとだとさえ思ったのだ。
二人で車へ乗ってからも、恭子は、なんの質問もしなかった。父に似た人≠どこでどうして見つけだしたのか、詳しい事情を一刻も早く聞きたいのは山々だったが、真剣な表情で苦吟を続けている義男の思考を妨げたくはなかったのだ。
「お嬢さん、やっぱり窮すれば通ずですね」
赤坂のあたりへ近づいたとき、義男は眼を開いて、いくらか明るい声で言った。
「どんな方法?」
「もちろん、これはお嬢さんのご決心一つです。僕も、いま思いついたこの手が、絶対に成功するとは言いきれません。へたをしたら全部ぶちこわしになるかもしれませんが、僕の考えでは、成功の見こみはかなり高そうなんです」
「どうするの?」
「僕がお嬢さんのかわりに、彼と対決するのですよ」
「でも、それで、あの人がおこりださないかしら?」
「おこるでしょうよ。むこうから見れば、せっかく魚が網にはいったのに――と思うでしょうからね。ただ、お嬢さんが、霧島さんか、それとも、ほかのりっぱなおかたと結ばれるならともかく、あんな性格破綻者の餌食《えじき》になろうとしているのを、みすみすほっておけますか」
「私のことは、どうでもいいの……どうせ私はこれから一生、独身で過ごすつもりなの……それよりは、お父さまのことを考えて……このとおり、お願いしますから」
「でも、敵にもこうなると別の弱みは出てくるんですよ」
寺崎義男は、恭子の耳に口を寄せた。ほとんど肌と肌とが触れあいそうになったが、恭子は気にもならなかった。
「お嬢さん、彼のいまの行為は、完全な犯人蔵匿罪ですよ。これが家族だったら罪にならないわけですが、彼の場合は、完全にあかの他人でしょう。ですから、この秘密がばれたときには、むこうも無傷というわけにはいかなくなるのです。刑法第何条だったか、刑がどのくらいだったか、そこまではいま思い出せませんが……」
「でも、あの人はたいへんな悪賢さよ。そのくらいのことは、ちゃんと最初から計算に入れているんじゃないかしら。もし、あなたが、そう言ってむこうをきめつけようとしたら、そっちは死刑、こっちはどうせ執行猶予さ、とでもはねかえすんじゃないかしら。彼はそういう人なのよ」
恭子も義男の耳に口を寄せて、ささやきかえした。とたんに、道路工事のあとの穴にでも車輪を落としたのか車が激しく上下し、そのはずみに恭子の唇は義男の頬に触れてしまった。
「あっ……」
電気にでもうたれたような感じだった。物心ついてから、三郎のほかには、唇で男の肌に触れたのはこれが初めてなのだった……。
それなのに、嫌悪の情も起こらなかった。義男のほうもべつに気にしているようでもなかった。
「それもたしかにそうですね」
「ねえ、いまのことを頭に入れておいて、私がぶつかってみたほうがいいんじゃないかしら。あなたの気持はわかるけれども、男同士がここでぶつかったんじゃ、すぐに最悪の事態が発生するんじゃないかしら?」
「それも考えられますね」
寺崎義男は溜息《ためいき》をついた。そのあいだに車は赤坂見附のすぐそばに近づいていた。ここから、ホテルまでは、一分とかからない距離だった。
「お嬢さん、やっと、やっと名手を思いつきました!」
義男は小声で、しかも叫ぶような調子で言った。
「どんな名手?」
「もう説明しているひまはありません。とにかく任せておいてください」
痛烈な気魄《きはく》さえ感じられる言葉だった。一瞬、恭子は遠く離れている三郎よりも、眼の前のこの男のほうをたのもしい人に感じたくらいだった。
車はホテルの玄関先に止まり、制服のボーイが近づいてきてドアをあけた。
第三十章 この人もまた
入口で立ち止まった恭子の肩を手で押さえて、寺崎義男は小声でささやいた。
「お嬢さん、僕はあるところへ電話をかけてきます。いいえ、警察ではありません。それがすむまで五分ぐらい、ここでこのまま待っていてください。どこへも行かず、中へもはいらず……わかりましたね」
恭子がうなずくのを待って、義男はホテルへはいらず玄関の前をかけるような急ぎ足で去っていった。もちろん、ホテルのロビーにも赤電話はあるはずなのだが、須藤俊吉の注意をひくことを警戒しているのだろう。約束どおり、義男は五分もたたないうちに帰ってきた。
「さあ、これで準備はすみました」
さすがに呼吸が乱れていた。息を整えようとするのか、震える手で煙草に火をつけて、
「まず、お嬢さんがはいっていって、できるだけ時間をつないでいてください。きっとすぐ、どこかへ行こうと言いだすでしょうが、それをぐずぐずひきのばして、絶対にロビーで頑張りとおしてください。十分ぐらいそのままに……そうすれば最悪の事態はのがれられるでしょう」
「あなたは?」
「僕はここでもう少し……もし、中にはいってお嬢さんに近づいたら、今晩ここで初めて会ったように話を合わせてください」
詳しい計画を説明してもらっている余裕はなかったがいかにも自信ありげな義男の言葉は、恭子に深い安心感を与えた。
「では、私……」
唇を噛《か》みしめて、恭子は正面の自動ドアからホテルの中にはいった。
広いロビーを見まわしても、須藤俊吉の姿は見あたらなかった。時間は七時三十三分だった。けっして会いたくはない相手なのに、おこって帰ってしまったのではないかと気になってたまらなかった。
恭子は眼に見えない磁石にでも吸いつけられるような思いで奥へ歩いていった。低い階段を昇った一段奥のバーの前の椅子《いす》にすわっていた須藤俊吉が、いくらかむっとしたような顔で片手を上げた。
「おそかったですな。女は男を待たせるものと相場はきまっているようですが、何しろ場合が場合だけに、こっちもいらいらしましたよ。それではすぐに出かけましょうか」
恭子がそばに近づくと同時に、俊吉はこう言いながら立ち上がりかけた。
「すみません。何しろ、道がこんでいたところへ、誰かがつけていないかと後ろのほうばかり気になって……でも、喉がかわいてたまらないの。ジュースでもここでいただきたいわ」
先手を打って、恭子は椅子に腰を沈めた。寺崎義男の指令を忠実に実行するためには、まずこの手しか思いつかなかったのだ。俊吉は眉《まゆ》をひそめながら、手を上げてボーイを呼びよせ、ジュースを一つ注文すると、
「とにかく、ここまで来てくれたからには、決心はついたのでしょうね。サービス料前払いという条件は絶対ですよ」
と、相変わらずいやみなせりふを吐いた。
「それは承知していますけれども……」
なんとかして、一分一秒でも時間をかせぎたいところだった。どうして、ジュースというものは、ホテルではこんなに早く運ばれてくるのかと、サービス精神を恨みながら、
「それで父は、神戸の六甲のどこへ行くことになっているのでしょうか?」
と思いついたままの質問を投げかけた。
「六甲? そこまで、どうして知っているのです? まさか、彼女から聞いたわけではないでしょうね?」
「でも……あの録音の最後の部分に……」
須藤俊吉は、かるく舌打ちして、
「あのちょっと手前で、再生を止めるように言っておいたのに、慣れないせいで、ストップのボタンを押しそこねたらしいですね。しかし、そんなことはどうでもいいわけでしょう。東京で用事がすんだなら、なにもわざわざ神戸まで行く必要もありますまい。テープを投げて、波止場でゆっくり別れを惜しむような出発とはぜんぜんわけが違いますよ」
「でも、娘としては、たとえ顔は見なくても、波止場で船の見えなくなるまで、かげながら見送りたい気持になるのも当然じゃないでしょうか?」
「あなたの気持はわからないこともありませんがね。こんな微妙な計画にはセンチメンタリズムは禁物です。精密機械の動きには、ムードのはいりこむ余地なんかないんですよ」
俊吉は冷たい笑いを漏らした。その言葉は寺崎義男の言葉とは別の自信があふれているように思われた。
恭子は口をつぐんで、ゆっくりとジュースをすすった。俊吉のほうは、それさえ待ちきれないというように、紙入れから千円札を抜き出し、ボーイを呼んで勘定をすませてしまった。十分間と言われたが、これ以上はトイレでも利用しないかぎり時間はかせげそうにもなかった。しかし、それではロビーで頑張るように――という寺崎義男の指令にそむくことになる……。
そのとき、入口のほうから、眼の鋭い小柄な男が、あたりを見まわしながら、二人のほうへ近づいてきた。恭子の前に立ち止まると、低いが重みのある声でたずねて来た。
「失礼ですが、竜田恭子さんではありませんか?」
「はい……でも、あなたは」
「渋谷署の者です。ちょっとおたずねしたいことがありますので、これから捜査本部までご同行願えませんか」
「どうして、どうして、私がここに来ていることを?」
「おたくの電話のメモ帳に、午後七時、ホテル・ニュージャパンという跡が残っていたのです。鉛筆で書いた一枚は破りすてても、力を入れて書いたので、その跡が下の紙にまで残っていたのですね」
恭子は大きく溜息をついた。これだけ短い時間に、どうしてこんな手を打てたのかわからないが、これが寺崎義男の考え出した芝居だということはすぐにわかったのだ。
もちろん、これは問題の根本的な解決にはならないが、不可抗力のような状態で、自分がここから連れていかれたら、須藤俊吉の怒りも買わずに、今夜の誘惑からはのがれられる。そして明日は――それも、寺崎義男にたよれば、うまい逃げ方も見つかりそうだった。
恭子はそっと横目で、須藤俊吉のほうを見つめたが、彼も警察と聞いた瞬間に愕然《がくぜん》としたのだろう。震える手で週刊誌を広げはじめた。偶然、同じテーブルにすわりあわせた他人をよそおっていることは、すぐに理解できた。
「それでは……おともいたします……」
低い声で答えて、恭子は立ち上がったが、俊吉はちらりと哀願するような視線を投げ、また週刊誌のページに眼をおとした。
ロビーにすわっていた人々も、べつにこちらに注意している様子もなかった。入口から外の闇《やみ》の中に出たとき、この偽刑事は声をひそめて言った。
「お嬢さん、びっくりなさいましたか? お芝居のお上手なことには、感心しましたよ。寺崎さんは、むこうのシャンゼリゼー≠ニいう喫茶店で、待っておいでです……」
寺崎義男の同僚だというこの男は、恭子をその喫茶店まで案内すると、自分はほかに用事があるからと言って帰って行った。
父に会うという目的は達しなかったのに、目先の危機を回避できたことだけでも、恭子には彼が神さまのように見えたのだった。
「おたくから、僕が事務所へ電話をかけて万一の用意のために、彼をホテルへ呼びよせておいたのがよかったのですね。最初はこんな役をさせるつもりじゃなくって、お嬢さんたちを尾行する必要もありはしないかという程度の気持からだったのですが」
「助かりました。おかげで……むこうもすっかりだまされてしまったようです。ただ、これから……父のほうはいったい?」
「そのことは、外へ出て話しましょう」
二人は肩をならべて店を出ると、山王《さんのう》のほうの裏通りを歩きだした。昼とは場所が変わったような静けさだった。自動車の往来が絶えないことはしかたがないとしても、秘密話をさまたげられるおそれはなかった。
「僕があの女を追いかけて、新宿のノクターン≠ニいう店まで行ったことは報告してありましたね」
寺崎義男は、用心のうえにも用心を期しているような小声で、
「あそこでは、二時間近くねばりました。そのうちに、須藤俊吉がやってきて、一時間ぐらい密談を続けていたのです。話の内容までは聞きとれませんでしたが、もともと人間わざでは無理な注文ですから、この点は許していただけるでしょう。二人が店を出てからは僕はあの女をつけなおしました。途中の模様はいっさい省略するとして、最後にたどりついたのは、上野駅から歩いて十五分ぐらいもあるしもた屋だったのです」
「そこにお父さまがかくれていたのね?」
「ああいうところの張込みは、実際むずかしいのです。人気《ひとけ》の少ないところで、他人の家の前に長く立っていたら、すぐ怪しいと思われます。警察のように、近くの家を借りて、そこから監視するというわけにもいきませんし……ですから、遠くのほうからでも、先生によく似た人がこの家を出て、車へ乗るところだけでも目撃できたのは、まだしも運がよかったと考えるしかありません」
「それで、お父さまはどんなご様子?」
「そういうわけで、絶対に先生に間違いないと言い切るには、一分の不安もあるのです。たとえば口髭《くちひげ》も生やしていましたが、これは付髭だったかもしれません。眼鏡にしても素通しの度のないガラスがはいっていたかもしれません。しかし、このさい先生がかんたんな変装をして出かけるということは、十分考えられることですね。そこまで計算に入れてみると、前に申しあげたように、九割五分まで、先生ではないかという推定ができてくるのです」
「じゃあ、寺崎さん、こうすればいいんじゃないかしら? あなたは、車の運転免許を持っているでしょう。それでレンタカー・クラブからでも、車を一台借りだすのよ。それをその家の近くに止めておいて、私が身をかくしながら、何時間でも見はりを続けている……そうすれば、いつかは、あなたのように、お父さまにぶつかるんじゃないかしら」
「それも一案だとは思いますがね」
思いつきとしてはすぐれていても、実行は困難だと思っているのか、寺崎義男はあまり気のりしていないような調子で答えた。
「とにかく、こうなってくると、いちばん重要なポイントは、ただ先生を捜しだすだけじゃなくって、なんとか無事に国外へ脱出していただくことじゃないでしょうか? しかも、須藤俊吉に対しては犠牲をはらわないで……そうなると、今晩はあの程度のことしかできませんでしたが、あと一つだけ手があります」
「それは?」
「陳志徳氏に対決するのですよ。もちろん、理屈を言いだせば、できることではありませんがね……国籍は違うし、ほとんど初対面といってよいくらいの相手です。日本語が通じるといったところで、言葉の微妙なあやとか含みとなってきたら、どの程度、こっちの気持を理解してもらえるかは大いに疑問です。といって、通訳をつけるわけにもいきませんし……」
「そうねえ、あなたはそれでも自信がおありなの?」
「自信といってもありませんが、そういう悪条件が重なっていても、こっちがほんとうに誠心誠意をさらけ出して、体あたりしてみるつもりなら、なんとかなりはしないかとも思うのです。もともと、中国人という人種は、そういう情義にかけては弱いんじゃないでしょうか?」
「そうねえ……あなたの言うとおりかもしれないわね。それでは、陳さんにお願いして、あちらとはべつの方法で?」
「これもあたってみなければわかりませんけれども、陳さんたちなら、須藤俊吉とはべつのルートで、べつの船の船長にも顔がきくんじゃないでしょうか。そうだとすれば、できるだけ、早い機会に先生の身柄をこちらにひきとって、そっちのルートに乗せなおせば……かりに須藤俊吉が、かっとなって密告したと仮定しても、警察の捜査は完全に、空を切ってしまうんじゃないでしょうか?」
これはふだんの恭子なら、
「ひとりよがりもいいところね」
と笑いとばしてしまうかもしれないような言葉だった。もともと、重大な犯罪をおかしながら、警察の眼をのがれて密出国に成功することは、万分の一の可能性があるかないかというところだろう。それを途中で、べつのルートに切りかえて成功させることは、可能性絶無といってよいくらいなのだ。
しびれきった頭をちょっと働かしただけでも、恭子にはその程度のことは思いついた。しかし、それにかわるような名案となると、いまのところ思いつくわけもなかった。もともと、自分が現在投げこまれた苦境そのものが、万人に一人といいたいような例なのだ……。
「お嬢さん……」
前後に人影も自動車の影もないのを見きわめたように、寺崎義男は立ち止まった。そして、突然、恭子を前から抱きしめて、その唇を盗もうとしてきた。
「いけません……何を、何をなさるの!」
本能的な警戒心が、あやつり人形のようになっていた恭子の体の中に眠っていた力を呼びおこした。死力をつくして、義男の腕を振りはらうと、恭子は横にかけだし、電柱を楯《たて》にとった。
「あなたも、あなたもこんなまねをなさるの? 須藤俊吉の誘惑から、助けてくださったのは、自分で同じまねをしたいからだったの? あなただけは、信頼できるおかただと、私はいままで思っていたのに」
「すみません……」
寺崎義男は一歩だけ前に進みでて、頭をたれ、涙と血をまぜて吐き出すような声で、
「僕は前から、お嬢さんのことを思いつめていました。しかし、弁護士の令嬢と事務員では身分違いだと思ってあきらめていたのです……いままで、結婚もしないで、ひとりでいたのもそのためです。ただ、今度、僕が自分から、この事件に飛びこんできたのは、けっしてお嬢さんに恩を売って、むりやりにものにしようと思っていたわけではありません。どうか、その点だけでも信じてください」
恭子はなんとも答えられなかった。しかし、最初の恐怖と動揺が過ぎ去った瞬間からは、義男の今までの行動に対する感謝の念がよみがえってきた。この言葉も、すなおに受け取れたし、同情の気持も心に起こっていた。
「僕の今夜の、いまの行為はおわびします。しかし、さっき申しあげたような案を実行していくことになると、僕もいままでとは違って、自分が犯罪者の立場に立つようなことになります。そこまでしてもと思った時には、僕も理性を失いました。ほんのわずかの間でしたが、ただの男、いいえ、一匹の獣のようになってしまったのです。もしできるならいまのことだけは忘れてくださいとお願いするしかありません……」
「いいのよ。いいの。あなたのお気持はよくわかったわ。ほかには誰も見ていないし、あなたのおっしゃるとおり、この場かぎりで水に流してしまいましょうね」
「すみません。ほんとうにすみません」
寺崎義男は、また一歩、恭子のほうへ近づいて、
「では、あらためてお願いします。今までどおり、お嬢さんのお役にたたせていただけますか? しかし、この事件が終わったときには、僕はその思い出だけを、大事に心に抱いてお別れいたします。それまでは、天地神明に誓って、さっきのようなまねは、二度とくりかえしません……」
「それは、私のほうからお願いしたいくらいですわ」
恭子は溜息《ためいき》とともに答えた。たとえ、その動機がなんであったにせよ、義男のこれまでの行動は、私立探偵としての職業意識を離れた純粋な献身的なものに思われたし、三郎から切りはなされ、兄がたよりにならない現在では、一時の興奮にかられて、義男とまで手を切っては、ほかに味方が見つかるあてもなかったのだ。
「ありがとうございました。それではまた表通りのほうへもどりましょう」
ちょうどむこうから車が一台やってきた。義男はそれを避けるようにして、恭子のそばへ近づいてくると、やっと元気をとりもどしたような声で言った。
「これはもう、いまとなってはどうでもいいようなことですが、僕はあのノクターン≠ニいう店は、ラムール≠フ麻薬の隠し場所ではないかと、ふわっと感じましたね。警察あたりが、本腰を入れて、あの店を調べたら、かなりの量のストックが発見されるかもしれませんね」
水に流したとは言っても、やはりああいうまねをしたあとでは照れくさいのか、義男はこんなことを言いだした。
「もう、そんなことは、私たちには、なんの関係もないかもしれないわね……それよりも、あなたのきょうの尾行のことについて、おうかがいしたいことがあるの」
「なんでしょう?」
「お父さま、よく似た人と言ったほうがいいかしら? その人が隠れていたという家は、どんな人の住居だったの? あなただって、その家のまわりを、かなりの時間、行ったり来たりしていたんでしょう。それだけの時間があったら、探偵としては当然、住み人の素姓ぐらいは確かめたでしょうね」
「それが……」
義男は何かためらっているように、一瞬言葉をのんだ。ひょっとしたら、家を出入りする人間のほうにばかり気をとられて、そっちは調べなかったのかと恭子が思ったとき、
「詳しいことは、調べる余裕もありませんでした。しかし、近所でちょっと聞いた話では、長谷川という香具師《てきや》の家だそうです。もとは何々一家の親分だったようですが、いまでは隠居してしまって、ひっそり暮らしているらしいのです。もし、先生がいつのまにか、麻薬中毒にかかっていたとしたならば、そんなところが絶好の隠れ家だったかもしれません。隠居すれば、現役時代とは違って、人の出入りも少ないでしょうし、薬《やく》の入手経路にしたところで、蛇の道は蛇でしょうから」
義男はそこで言葉をきり、思いつめたような口調で言った。
「お嬢さん、これは陳氏との交渉いかんによって変わってくることですが、早ければ明日にでも、誰にも秘密に神戸へ飛んでいただけますか? もちろん、僕とは表むき、別行動をとっていただくわけなのです。その腹をきめていただかないと、今後の作戦は立てきれないのですが……」
第三十一章 崩れた女
原田検事の官舎は、神戸市内の楠町《くすのきちよう》、裁判所や検察庁からも、歩いていけるぐらいのところにあった。
よそから、検事が神戸へ出張してきたときには、この近くの楠荘≠ニいう検察庁の寮に泊まるのがふつうだが、原田豊は自分の家へ泊まれと言ってきかなかったし、三郎もそうするつもりになった。
六畳、四畳半二間という手ぜまな、あまりきれいとはいえない建物だったが、豊の妻の貴美子は若くやさしい美人だった。ごちそうの一つ一つにも、あたたかい真心がこもっているようだった。自分が、恭子との間に夢見ていた生活もこんなものだったのにと、三郎はたとえようのない寂しさを感じていた。
食事が終わると三郎は最初から筋道をたてて、事件のいままでのいきさつを詳しく話して聞かせた。
「なるほど……われわれの扱う事件には、『小説よりも奇なり』と呼びたいものがよくあるが、検事自身がこれだけ皮肉な立場に追いこまれたというのは、まず前例もなかったろうな」
眼を閉じ、腕を組んで、黙々と三郎の話を聞いていた原田豊は大きな溜息をついた。
「実際、僕も自分の運命と、検事という職業を呪《のろ》いたくなったくらいだよ。だが、愚痴をこぼしてばかりいてもしようがない。こんなことは、めったな人間には相談できないのだが、何かいい知恵があったら教えてくれないか。こっちはノイローゼもいいところだ」
「君の気持はよくわかる。岡目八目にはちがいないが、親友として、同じ検事仲間として、できるだけ、頭は絞ってみよう。見当違いの線が出たなら、そのときは君の判断で、適当に取捨選択してくれたまえ」
原田豊は、ゆっくりと茶碗《ちやわん》のお茶を飲みほすと、
「まず、密出国の件だが、これは実際問題として、いくつも方法があるだろう。朝鮮へ渡ろうという場合には、漁船を使って、人目につかないような地方の漁港から逃げだすことが多いらしいな。密入国の場合には、それと反対の手を打つわけだが、今度の場合、朝鮮から中国経由で香港へ向かうというようなルートは考えられないだろう。港もどこかわからないし、船の国籍も名前もわからないが、とにかく大型船で直接、香港へ向かうと考えていいだろうね」
「うむ……」
「その場合、小舟で航海中の船をつかまえ、乗りこむというようなことはまず不可能だ。もちろん、船長が共犯者でなければできない話だから、いちおう体に合うような船員服を手に入れ、その船の船員になりすまし、乗船するというのが常道だな。これなら、警察と税関の各突堤の出入口にある監所に厳重な警戒をさせれば、水際逮捕に持ちこめるかもしれない。見えない容疑者の影を追って、六甲あたりをやみくもに捜しまわるよりは、最悪の場合には、相手を逃がしてもしかたがないと覚悟をきめて、定石の正攻法に出たほうが、はるかに賢明だろうな」
さすがに港町の検事らしく、急所をおさえた案だった。ただ最悪の場合には≠ニいう注釈の裏には、何かの含みもありそうだったが、その意味を深く追及し、相手の腹まで探ることは、いまの三郎にはできなかった。
「ただ、神戸の六甲――という言葉も、皮肉に裏を考えれば、一種の陽動作戦だと考えられないこともないな。その尾形さんというお嬢さんに、うまく暗示を与えて、君なり警察の眼をこの神戸に集中させる。そして、本人はその隙《すき》に、たとえば横浜なり、北九州なり、警戒の手薄な港から逃げだそうとしているというようなことはないのかな?」
「そんなことは絶対にないと言いきる自信はない。しかし、あのときの尾形さんの顔には、しまったという感情がはっきりあらわれていた。むろん、竜田家のほうからだまされていたとすればそれまでだが、僕の感覚には、狙《ねら》いは間違いなく神戸だなという感じがぴーんと来た。理屈も何もないたとえだが、容疑者を調べていると、むこうが不用意に真相の片鱗《へんりん》というようなものを漏らすことがあるだろう。ちょうど、そういう感じだったよ」
「わかった。君がそう言うなら、僕のほうにも覚悟はある。それから、次に暴力組織の問題だが、神戸にその道の大物というのは五つある。溝口一家、扇屋一家というのは、二、三位を争っているようなところかな。すべて、競争というものは、トップが眼の前に見えていて、あと一息のところで、自分が先頭にたてると思いこむあたりが、いちばん激しいものかもしれないよ。たとえば、プロ野球などのスポーツでもそうなのだから、もともと目的のためには手段を選ばないような連中の間ではなおさらのことだろう」
「それでは、神戸市内でも、この二つの組織の間では、暴力沙汰も絶えないのか?」
「彼らもこのごろは利口になった。本隊と本隊とが、日本刀だの鉄砲だのを持ちだして、血の雨を降らせるような騒ぎを始めるのは、一むかしも前の戦術だ。いや、戦国時代の大将同士の一騎討ちのようなものだと、幹部連中は自称しているらしい。たしかに、神戸市内ではこの連中は、興行とか風俗営業とか、土建業とか、いちおう正業の看板をかけて、善良な市民のような顔をしているね。たまに暴力沙汰を起こすのは、その系列下にははいっていても、親分子分合わせて数人という一匹狼に毛の生えたような連中だ。本家のほうでは、自分たちの知ったことではないとすましているようだが、そのじつ、かげでは誰が糸をひいているかわかったものじゃない」
「東京の暴力団体も最近では、かなり知能犯的になってきたようだが、そんな傾向はどこでも同じなんだろうな。たとえば、むかしのやくざは詐欺を働いたら、やくざ仲間の風上におけないとされていたようだが、前に僕があつかった事件でも、偽造手形の犯罪で、主犯のやくざは、金になることならなんでもやるさ――とすましていた。まあ、総会屋や会社ゴロのようなやくざは、地方には少ないかもしれないが……」
「そのかわり神戸には麻薬がある。神戸に日本の麻薬取引の本拠があるということは定説のようになっている。この五つの暴力組織にしてみたところで、ほとんどすべてが、麻薬の大口取引に関係しているのではないかと推定されるのだが、その真相はつかめない。われわれが一年間に扱う麻薬犯罪は、約三百件だが、事件の性質上、これは警察でおさえた事件と同数のはずだ。もちろん中には、こういう暴力組織と関係がありそうな事件も少なくない。ただ、勢いこんで追及しても、全部が大元締のところまでいかないうちにつぶされてしまうんだ。むかしの非合法時代の共産党のような細胞組織が、完璧といいたいくらいにできあがっているらしいな。麻薬犯罪に関係して刑務所へ行ったやくざが、出てきてから金まわりがよくなり、その道で出世したという例はいくらもあるようだ」
「むかしのやくざは、人を殺して刑務所へ行くことを、箔《はく》がつくように思ったらしいが、ここでも時代は変わったのだね」
「むかしの有名なやくざは、講談や映画では英雄化されているけれども、実際にはやっぱり金には未練が強かったんじゃないのかな? ただむかしの連中は、暴力をふるうほかには金をとる手段を知らなかったのだろうし、現代では、もっと利口な金儲《かねもう》けの方法がいくつもできてきたというだけだろう。たとえば、むかし役人と結びついたやくざは、二足のわらじをはくと軽蔑されたようだが、いまの暴力組織の親分連中は、競争するようにして、政治家と結びつこうとしているよ。これも現代的な意味での二足のわらじかもしれない」
「すると、溝口一家と黒沢大吉、扇屋一家と塚原正直の間にもそういう腐れ縁のようなものがあるわけだね?」
「黒沢、溝口の関係については前から聞いていたが、扇屋の話は今度が初耳だった。しかし、そういう事情なら、塚原氏が君をそそのかしたのもけっしておかしくない。扇屋側にしてみれば、溝口側に正面から喧嘩《けんか》を売るようなまねはしたくなかろうが、今度の選挙で、黒沢大吉が落選し、そのかわり塚原正直が当選するようなことになったら、自分たちが勢力をのばすには絶好の機会だと、鬼の首でもとったように喜ぶだろうな。そのためには、自分たちのしわざとわからなければ、どういう陰険な手段を用いるかしれないね」
「そう言われれば、ちょっと気になることもある。東京から飛行機でやってきた黒眼鏡の男――彼は、ほんとうに溝口一家の人間だったろうか?」
「警官にわざと敵側の名前を名のったというのかね?」
原田豊も驚いたように眼を見はった。
「もちろん、これは僕の勘違いかもしれない。しかし、羽田の空港のロビーでも、僕は人相の悪いやくざっぽい男たちに気がついていた。あとでわかったことだが、そいつらは小林一家の若い者で、姐御《あねご》の帰りを出迎えにやってきていたんだね。もし、あの黒眼鏡の男が溝口一家の者なら、若い者たちも顔は知っているだろうし、挨拶《あいさつ》の一つぐらいはしたんじゃないだろうか?」
「それとも、わざと知らないふりをするようにと、前から打ち合わせができていたのかもしれないな」
「それに、僕が今度こちらへ飛んできたのは、突発的といいたいくらいの行動だったよ。あの男が、かりに尾行の役を引き受けていたとしても、小林側とこのことで連絡をとっているひまはなかったろう。まして、組織の末端にいるような若い者たちにまで、そういう意向が浸透していく余裕があったとは思えない」
「うむ……」
「それに、彼が溝口一家の者だとしたら、何度も神戸へやってきている友永より子の顔を知らないということがあるだろうか? ロビーでのはでな一幕は、彼も目撃していたはずだ。それでも、彼女に声もかけなかったというのは、尾行のような秘密の任務を帯びていたか、それとも近づきがなかったのか、この二つの場合しか考えられないのだが」
「うむ、わかった。ノイローゼというが、それだけ頭が切れれば心配もいるまい。その件は、それとなく警察に調べさせよう。まったく妙な事件だから、これと気のついたところから、一つ一つ、しらみつぶしにおさえていくほかなかろう」
原田豊は一息ついて、
「とにかく、僕に一晩考えさせてくれ。明日の朝になれば、またいい知恵も出るかと思う。君もこんな用事で来たんじゃなければ、夜の神戸でも案内したいところだったがね」
「景色のほうは、どうでもいいが、訪ねてみたいところがある。これもその場のがれの嘘《うそ》だったかもしれないし、今夜店に出ているかどうかはわからないが、彼女のバーへ行ってみたいんだ」
「なんだって」
原田豊も、この言葉はかなり意外だったらしく、煙草の灰を茶碗の中に落としたくらいだった。
「君を捨てて、ほかの男といっしょになり、いまはバー勤めにまでおちぶれた女に会うというのは、君にもかなり残酷なところがあるんだね」
「しかし、彼女を見下してやろうという気持はないよ。現在の僕自身の気持もかなりみじめだからね」
「それでは、彼女に会う目的は? まだ、お互いにむかしの思い出を淡々と語りあうほど、気持はやわらいでいないだろう。心の傷も生々しいんじゃないのかな」
「そのとおりだが、僕はこのさい、むこうを挑発してみたいのだ。もし彼女と話していた黒眼鏡の男が、僕の動きを知ったら、何かの手を打ってこないかと思ってね」
「相変わらず大胆だな……もちろん、僕は喜んで護衛の役をつとめるが」
原田豊は舌をまいたような調子で言った。
三郎もたしかに自分の体の中に、新しい勇気が湧《わ》いてきたことを感じていた。それが、短い旅のおかげだったか、この友人の顔を見たせいだったか、むかしの恋人の変わった姿にめぐりあったことが、麻薬か覚醒剤《かくせいざい》のように心を刺激したせいか、そこまでは理解もできなかったが……。
問題のバーはすぐにわかった。それでも、原田豊は、大胆な反面の慎重さを発揮したように、すぐ店へはいろうとせず、近くの派出所を訪ねて名刺を出し、何かの打ち合わせをして出てきた。
「悪質の店ではないようだよ。もちろん、ああいうところの警官には、店の秘密の面までわかりはしないだろうが」
「つまり、経営者のほうも、何々一家に属してはいないという意味だね?」
「そうなんだ。いま聞いてきた話だと、大阪のある事業家が、二号さんにやらせている店らしいな。僕は最初こっちへやってきたとき、神戸ワイフという言葉を聞いて、なるほどと思ったものだがね」
笑いながら、原田豊はガラスのドアを押して店の中にはいり、白服のボーイに何かたずねていたが、すぐ後ろをふりかえり、かるくうなずいて、入口の近くの階段を昇った。
三郎も潮騒《しおさい》のような胸騒ぎを感じていた。自分から言いだした話なのに、いよいよとなるとやはりためらいのような気持が起こった。しかし、自分は検事なのだという意識が乱れかけた心の支えとなっていた。
原田豊から一足おくれてテーブルにすわるとまもなく、澄子が肩の大きく開いた洋服姿で現われた。暗い光線の下では一瞬誰かわからなかったらしいが、それでも、ぎくりとしたように立ち止まり、横の壁に手をついて大きく眼を見開いた。
「しばらくだったね」
三郎は機先を制して声をかけた。
「あなた……あなただったの?」
顔色の変化はわからなかったが、唇が歪《ゆが》みながら、開き、つぶやくような言葉を吐き出した。いまにも声をあげて逃げだすのではないかと思ったくらいだったが、澄子は観念したような吐息とともに、三郎のむかいの席に静かに腰をおろした。
「しばらくでございましたわね」
さすがに、その言葉は堅く冷たかった。客商売の女に共通な愛嬌《あいきよう》などは微塵《みじん》も感じられなかった。
「きょう、伊丹の空港で、おまわりさんがわたしの身元を調べたのは、あなたの指図だったのね?」
「そうだよ。思わないところでめぐりあったので、むかしのことを思い出してね。まあ、お互いに過ぎたことは水に流して、今夜は楽しく過ごそうじゃないか」
「今までの古傷には、さわらないという条件で?」
澄子はやっと落ち着きをとりもどしたようだった。原田検事は、自分から先手を打って自己紹介をすると、もう一人の女を相手にむだ話を始めだした。
「わたしも変わったとお考えでしょう?」
澄子は自嘲《じちよう》するような調子で、
「でも、わたしには、こんな生活が性に合っているような気がするのよ。検事夫人だの、弁護士の奥さんだの、そんな堅苦しい家庭ではつとまりそうもなかったわ」
「しかし、人間というものは、置かれた環境にすぐに順応できるような力を持っているものだ。検事も、家庭に帰ったら、ただのサラリーマンと変わったところもないよ」
「それでいまは、いい家庭のパパさんに、おなりになったというわけね?」
「ところが彼はいまだに独身なんだよ。よほど女運にはめぐまれていないらしくて、今度の婚約も、うまくゴールにたどりつけるかどうかわからなくなったのさ」
そばから、原田検事が話をひきとった。自分では冗談口をきいているものの、耳は鋭くこっちに向けられているようだった。
「冗談でしょう。そんなこと……霧島さんだったら、どんないい奥さんでも来るでしょうに……わたしみたいな悪女をおもらいにならないで、おしあわせだったでしょうに」
「ところが、初恋の相手というものは、男でも女でも、一生忘れられないらしいからね」
澄子は、原田検事の言葉を黙殺するように、
「それでこっちは出張なの? まさか、神戸へ転任なさったわけじゃないでしょう?」
「麻薬事件の捜査でね。三日ほど出張してきたのさ。東京地検の若手検事の中では、指折りの人物と言われる彼が、明日からここでどんな手腕をふるうか楽しみだね」
原田豊は、三郎に答えさせずに一人でしゃべりつづけると、相手の女に、
「君、トイレはどこだね?」
と言って立ち上がった。
「ご案内しますわ」
女も去って、テーブルには、三郎と澄子だけがとりのこされた。婚約時代にもこういう場面はあったが、あのときの甘い楽しさは、片鱗《へんりん》も心によみがえらなかった。胆汁《たんじゆう》がこみあげてくるような感じだった。自分を裏切った女を絞め殺した事件の被告人の気持が、三郎には初めて理解できたような気がした。
「あなたも残酷なおかたなのね。わたしがこんな崩れた女になったのを、自分の眼で確かめて、未練を絶ちきるつもりで店へいらしったの?」
「そんなことは考えてもいなかったね。懐かしさのほうが先に立った。よほど飛行場で声をかけようかと思ったが、そっちに連れがいるようなので遠慮したのさ」
「あの人とはべつになんでもないのよ。人を見送りに行って偶然出会っただけ。でも、こんな商売をしていると、お客さんには、どこで会っても、そんなに無愛想なまねもできないでしょう。時間があれば、お茶ぐらいはおつきあいするわ」
澄子の両眼は、日暮れのような暗さの中で猫のように光った。腰を浮かし、三郎の耳に口を寄せて、
「あなたは、わたしを使って、麻薬の秘密を探らせようとなさっているんじゃないの?」
と、そそのかすようなことを言いだした。
「さあね……きょうは、検事としてではなく、ただの男としてやってきたつもりだがね」
三郎も澄子の耳に口を寄せてささやきかえした。女の肌がはなつ香りは、むかしとはぜんぜん変わっていた。
「それなら、こんなところではお話もできないわね」
澄子はゆっくり椅子《いす》に腰を沈めて、自分の煙草に火をつけた。
「わたし、おデイト料は高いのよ。ことに、おもしろいお話をお聞きになりたいとおっしゃるなら、うんと色をつけてくださらなくっちゃ」
この女には被虐性でもあるのだろうか、自分の崩れた姿をわざと誇張して見せびらかしているようだった。
「明日の晩でも、一人で来るよ。そのときにゆっくり相談しよう」
三郎は心のたかぶりを押さえて答えた。
第三十二章 検事と娼婦
三郎としては、ここで深追いするつもりはなかったが、澄子はむっとしたらしく、
「あなたはそういう点では、むかしとちっとも変わっていないのね。あのときも、もう少しあなたが積極的に出てくださったら、わたしの一生も、いまとはぜんぜん変わっていたかもしれないのに」
と怨《えん》ずるような調子で言った。三郎も苦笑するほかはなかった。もちろん、いまとなっては、この女を失ったことを後悔するような気持はないが、私生活の面では、慎重のうえにも慎重を期さねばならない検事の生活に、いつも疑問を抱いていたのが、このひとことでまた生々しい実感となって、心に迫ってきたのだった。
そのあいだに、澄子は手帳を出して、万年筆を走らせていたが、すぐ一枚を破りとって三郎に渡した。
「これは?」
「わたしのアパート、今夜十二時にお待ちしているわ」
「あいにく、今夜はたいしておデイト料を持ちあわせていないよ」
「まあ、冗談を本気にして……」
澄子はいかにもおかしそうに笑った。時により、相手によって、せりふからしぐさから千変万化に使い分けて見せるのは、娼婦《しようふ》の特性と言えるのだろうが、一瞬の間にこれほど豹変《ひようへん》することは、娼婦にしても珍しかった。その変化の理由がどこにあるのか、三郎にはわからなかったが……。
「とにかく、おいでになってくだされば、ご損はないとお約束するわ」
澄子が謎《なぞ》のような一言を投げだしたとき、原田豊たちが席にもどってきた。
「どうも失敬。さあ、これから少し飲むとしようか。積もる話があったなら、それはあらためてやってもらうとしてね」
ハイボールを注文して原田豊は言った。それから三十分ほど、とりとめもない雑談が続いた。
「さあ、そろそろ帰るとしようか。ホテルはおそくなってもかまわないというものの、あまり夜ふかしした日は、明日の仕事にさしつかえる」
三郎は原田豊の肩をたたいて言った。急にホテルという言葉が飛びだしたので、原田検事もちょっと面くらったようだったが、すぐこれには何かわけがあるなと感じたらしく、
「そうだね。なんといっても、東京の疲れが持ち越しになっているだろうし、早く切りあげるとしようか」
と相槌《あいづち》を打った。
店を出るとき、澄子は、入口のあたりで三郎の腕を押さえ、その耳にささやいてきた。
「きっとね。今夜おいでにならないと、あとでたいへん後悔なさるわよ」
「わかった。必ず行くからね」
三郎は小声で答えて、一足先に外へ出た原田豊のあとを追った。
二人はそれから近くの喫茶店へはいった。
「どうしたんだ? 急にホテルだなんて言いだして……あんなわずかの時間に、焼け木杭《ぼつくい》に火がついたのかい」
原田検事は煙草に火をつけながら、眉《まゆ》をひそめてたずねてきた。
「こちらには、旧交をあたためようとする気持なんかぜんぜんないよ。唾を吐きたいような軽蔑《けいべつ》が残っているだけだがね。ただ、なんとなく気になるところがあるものだから、ひとつ誘いに乗ってみようかと思っているんだ」
「それでは、彼女はどんなことを話したんだね」
三郎がさっきの澄子の話をくりかえして聞かせると、原田豊は小首をかしげて、
「なるほどね。彼女が態度を急変させたのは、ふつうの人間なら、なんとも感じないかしれないが、われわれ検事の感覚には、ぴーんと響いてくるものがあるな。まさか、彼女があの店にいた誰かからサインを受け取ったわけじゃあるまいな」
「でも、あんな暗さでは、そういう合図もできなかろうに……」
と言いかけて、三郎はごくりと生唾《なまつば》をのみこんだ。
「火を……煙草の火なり、マッチの火を使って、サインをとりかわす方法もあるわけだね」
「僕も、同じことを考えていた。君のななめ後ろのほうに、やくざっぽい男が一人で飲んでいた。僕の見たかぎりでは、べつに怪しいところもないようだったが、もし彼女が、君に気づかれないようにサインを交換するとすれば、あそこあたりは絶好の位置になるね」
「うむ、それで相手は溝口一家かな?」
「僕もトイレに立ったとき、女の子にそのことをちょっとたずねてみたが、あの店には扇屋一家の幹部がときどきやってくるということだ。もちろん、扇屋の息がかかっているというほど、深い関係ではなさそうだし、また店のほうでは、べつにお客に差別もつけないだろうが、そういう店には溝口一家の者はまず出入りしないんじゃないのかな? といって、あの男が扇屋一家のまわし者だと断定できないことは無論だがね」
「そうだとすれば、僕が彼女を訪ねた狙いも、まんざら的をはずしてはいなかったようだね。色恋沙汰だけの話なら、かるくかわそうと思ったが、これではいよいよ闘志が湧いた」
原田豊は溜息《ためいき》をついた。
「この間会ったときには、無理もないことだが君もだいぶ弱っていたね。検事にしたって人間だし、どうなることかと心配していたんだが、もう完全に立ちなおったようだね。その元気なら安心だが、ただ好んで危険に飛びこむことはない。なにか用心の方法はないかな」
「それならこっちにも考えがある」
三郎は、コーヒーを二口、三口すすって、
「君にもちょっと骨を折ってもらわなくっちゃならないだろうが、このさい、敵の戦法を逆用してやったら、まず最悪の事態だけは避けられるだろうと思うがね」
三郎は十二時五分前に、澄子のアパート、松山荘≠訪ねていった。
バーのホステスにはもったいないような高級アパートの二階の一画だった。鹿内桂子のときにも感じたことだったが、この女もひょっとしたら、二号族のような人種になっているのではないかと、三郎は妙な疑惑を抱いたくらいだった。
澄子は、薔薇色《ばらいろ》のガウンを着ていた。布地の描きだすやわらかな曲線は、その下が完全に裸体であることを暗示しているようだった。
「こんな汚いところでごめんなさいね。でも、ほんとうに来てくださってうれしいわ」
店で初めて顔を合わせたときの堅苦しさは影もなかった。むかし、三郎の心に負わせた傷のことも、もう念頭にはないようだった。
通された部屋は八畳の洋間だった。細かな点は違っていても、部屋全体の雰囲気は、ふしぎなくらい、鹿内桂子の部屋に似ていた。二度あることは三度あるという諺《ことわざ》も思い出して、三郎は背筋に悪寒《おかん》のようなものを感じた。
「ホテルで一人で寝るのはいやだったが、しかし彼の手前は、ああいうことにしておかないと格好がつかないからね」
「そうでしょう。検事さんほど、公私の別をはっきりしなければいけない仕事もないものね。でも、今夜いらっしゃったのは、けっしてあなたのマイナスにはならないわ」
澄子はソファから立ち上がり、戸棚からオールド・パーの壜《びん》とグラスを持って帰ってきた。
「乾杯しましょう。いまさら、むかしの思い出のためにとも言えないけれど、こうしてお目にかかれたことをお祝いして」
三郎は、いちおういっしょにグラスをあげたが、澄子が眼を閉じて、琥珀色《こはくいろ》の酒を一気に飲みおわるまで、グラスを口に触れなかった。
「慎重なのね。ずいぶん……わたしがいまさら、あなたを毒殺するとでも思っていらっしゃるの?」
形のよい唇を妙に歪めて、嘲《あざけ》るような言葉だった。
「最近、僕の会った女が、やはりウィスキーに毒を入れられて殺された。それ以来、こういうものを飲むときには、用心のうえにも用心をすることにしているんだよ」
三郎も笑ってウィスキーを流しこんだ。澄子は挑発するように、膝《ひざ》をかさねて煙草を吸いはじめた。ガウンの裾《すそ》からのぞいている白い肌が冷たい燐光《りんこう》を放っているようになまめかしかった。
「さっきは妙なことを言っていたね。麻薬のことについておもしろい話があるというようなことだったが……」
「こんな商売をしていると、いろんなはずみにいろんなことが、自然に耳にはいってくるのよ。むろん、そういうことを右から左へ流した日には、こんな商売はやっていけないわ。でも、あなただけはべつだと思ったの。せっかく神戸へいらっしゃったんだし、こうしてお会いしたんだから……むかしの罪ほろぼしだと思って……」
最後の一句は、急に低くなり、つぶやくように消えていった。
「それはありがたいけれども、絶対確実な情報かね? 情報も出所によっては、かなりいかがわしいものもあるからな」
「そうして、人の話にいったんけちをつけて、探りを入れようとするのが、あなたの悪いくせね。でも、こんな商売をしていて、何度か刑事さんにお会いしていると、それが探偵根性というようなものだとわかったわ」
鋭い皮肉が飛びだした。岡っ引根性と言わないだけ、まだましかもしれなかったが、こういうとげのある言葉がまじるところをみると、今夜の誘惑にはべつの含みもありそうに思われた。
「出所のことはいっさい抜きにしましょう。もちろん、わたしがこんな話をしたことも内証にしてくださらないと、なんにもお話はできないわ。麻薬関係の情報をへたに流したら、殺されることだってないじゃないのよ」
「わかった。君の言うとおりにしよう」
「あなたもやっと、おとなになったのね」
澄子はほっとしたように、二杯目のウィスキーをグラスに注ぎわけながら、
「たとえば、二、三日じゅうに、ある船が神戸へ入港するの。この船長は、密出国をたのまれると一人三十万円で香港まで運んでくれるという噂《うわさ》だけれども、この船にはかなり大量の麻薬が積んであるはずよ。これ一つをおさえたって、たいへんな手柄になるんじゃない?」
三郎の胸はとたんに騒ぎはじめた。密入国にしても密出国にしても、完全な犯罪行為だけに、それを実行するような船長も、それほどたくさんいるとは思えない。ひょっとしたら、竜田弁護士が待っているのはこの船ではないかと思ったのだ。
「そうかねえ。密出国や密入国の事件なんて、こういってはなんだが、検事としては手柄にもなんにもならない屑《くず》みたいな事件だよ。しかし、麻薬船一隻をあげたとなると、こっちもうんと点をかせげる。ひとつ、その船の名前を教えてくれないかね」
澄子は唇の端に、勝ち誇ったような冷笑を浮かべた。
「ほれ、ごらんなさい。おいでになればご損はないと言ったでしょう。しかし、これはここで、あなたが相手だからこそお話しするのよ。もし、わたしがこちらの検察庁で、ほかの検事さん、たとえば、きょうおいでになった原田さんにでも調べられたなら、ほかの船の名前を言って逃げてしまうわ」
「なるほどね。知らないと言われたら、それまでの話だが、ほかの船の名前を持ちだされて、船内捜査でも始めて何も出なかったら、検事としては黒星だからな。といって、偽証罪で起訴するわけにはいかないしね」
「この船の話を入れて、わたしは五つ、確実と思われる情報をつかんでいるのよ。そのうち二つぐらいでも的にあたれば、あなたも大手柄をたてたということになるんじゃないかしら?」
「それはたしかにそうだけれども、君のさっきの口ぶりでは情報の提供料も高そうだったし、僕に払いきれるかどうかは疑問だね。ざっくばらんに、ドライな聞き方をするけれども、一件について、いったいいくら欲しいんだい?」
「まだ、あんな冗談にこだわっているの?」
澄子は胸をそらして、気味の悪いような笑いを漏らした。
「ぬいで、洋服を……わたしのほうはすぐだから」
「え?」
「ほんとうはお金なんか、一円もいらないのよ。ただ、ただ……ここまで言わせて、女に恥をかかせることはないでしょう?」
三郎が半裸になると同時に、澄子はガウンをかなぐり捨てて胸に飛びついてきた。
接吻《せつぷん》は火の雨のようだった。たちまち三郎はソファの上に押し倒された。
「愛していたの……ほんとうは……」
三郎の耳を噛《か》むようにして澄子はささやいてきた。
「隣りにお床が敷いてあるわ……抱いて、むこうへ連れていって……」
三郎は両手に澄子をかかえあげた。そして一歩踏みだしたとき、片隅のカーテンが開き、眼のくらむような閃光《せんこう》がひらめいた。
カメラをかまえた男が、そこに立っていた。さすがに一瞬眼がくらんで、三郎もはっとしたが、腕を首に巻いたままの澄子を前におろして楯《たて》にとると、
「君はなんだ? どうしてこんなまねをしたんだ?」
ときめつけた。
四十をちょっと越えた年ごろと見えるこの男は、唇を曲げてにやりと笑い、
「お楽しみのところをすみませんでしたが、これで交渉の前提条件ができました。もう、検事さんには指一本危害を加えるつもりはありません。それどころか、たいへんおためになるようなお話をするつもりなのです」
と馬鹿丁寧な口調で言った。
澄子はとたんに、三郎の首から両手をはなし、床に落ちていたガウンを身にまとい、すました顔で煙草に火をつけた。
「君は……また僕を裏切ったのだな」
「わたしはどうせこんな女よ。お金になることならなんでもするわ」
唾を吐きかけてやりたくなるような憎々しい態度だった。
「それで、そのフィルムをいくらで売りつけようとするのかね?」
これだけは、三郎も予想していなかった奇襲だった。男の顔を穴があくように、睨《にら》みすえながらたずねると、
「私たちは、現職の検事さんをつかまえて、脅迫や強請《ゆすり》をするような、ずぶとい神経は持ちあわせていません。あなたのお言葉ひとつでは、このカメラの裏蓋《うらぶた》をこのままあけて、フィルムを感光させてもよろしいのです」
「その条件は?」
「私たちは、さっき彼女が触れたようないくつかの情報を提供します。それを、情報の出所を絶対秘密にして、すぐ活用していただくと誓約してくだされば」
「わからんね、君の言うことは」
「おわかりになりませんかね。霧島三郎さんといえば、東京地検でも、若手の中では随一と言われるほど頭が切れるはずなのに」
男は笑った。蛇のような冷たい狡猾《こうかつ》な笑いだった。しかも一瞬後には鋭く眼を光らせて、
「この情報を、かりに私たちが、警察へ漏らしたとしましょうか。手がはいるまでには必ず麻薬の実物はどこかへ消えてしまいますよ。ふしぎな話のようですが、何しろ警察官も数が多いことですから、悪徳警官と呼びたいような人間も、千人に一人は、まじっているのでしょうな。麻薬犯罪で、大物中の大物がなかなかつかまらない理由も、そんなところにあるのではないかと思います」
「僕は日本の警察官を、君よりはずっと信頼しているつもりだがね」
男はかるく首を振った。
「それだけならばいいのですが、その場合には、かならず密告者のほうに、復讐《ふくしゆう》の手がのびるでしょう。ところが、私のほうは検事さんたちのほうを、警察官よりは、ずっと信頼しているのです」
「検事は数が少ないし、悪徳警官の話はたまに新聞に出ても、悪徳検事という見出しにはついぞお目にかかったことがないからね」
「だからこそ、あなたがこちらの地検の麻薬係の検事さんと相談なさったうえで、警察のごく少数の首脳部だけに事情を打ちあけ、電撃的に一つ一つと、奇襲してくださればよろしいのですよ。これは悪徳検事どころか、模範的な検察官だということになりましょうな。もちろん、麻薬犯罪は、いまあなたのご専門ではないでしょう。しかし、この線を追及していけば、いまあなたが頭を悩ましておいでになる問題のほうにも、思いがけない方角から、ライトが浴びせられないともかぎりませんがね」
一種変わった脅迫なのだ。方法自体はあくどいのもいいところだが、この言葉が示唆する行動は、むしろ検事の職責を全うするものだといえるだろう。そして、最後の一言は、この男が自分という人間を知りつくしている証拠だと三郎は思った。
「それでは、もし僕が、いまの話を断わったならどうするつもりかね?」
「良心的な検事さんなら、こういう話を聞きのがしになさることはないと思いますがね。それでは職務怠慢だとそしられてもしかたがないんじゃないでしょうか」
男はせせら笑うように、
「あなたも竜田恭子さんとは結婚できなかったとしても、いずれはどこかのお嬢さんと結婚なさることになるでしょう。しかし人間一生に三度も四度も婚約が破れるということは、あまりうれしいものではありますまい。また、検事正さんにしたところで、部下の検事の醜態を見たら、いかに公私は別だといっても、あまりいい気持もなさらないでしょう。まあ、そういう事態が起こるとは思いませんが、ひとつそこをゆっくりご検討ください」
「君の狙《ねら》いはわかっているよ。僕がそういう手を打ったら、たちまち何々一家が傷つくことになるだろう。そうなれば、そのライバルの何々一家が……」
「検事さん、そこまではおっしゃらないが花じゃありませんか」
男の両眼はぎらりと光った。
「男同士の間では、腹芸というものも必要です。もちろん、私としても、検事さんのご人格を傷つけるようなまねをしたうえで、こんなお願いをすることの失礼はじゅうじゅう承知です。その点は七重《ななえ》の膝を八重《やえ》に折り、厚くおわびをいたします。これがやくざ同士の間なら、おわびのしるしに指でもつめるところですが、現職の検事さんにはそういうまねもできますまい。それでおわびのしるしに、フィルムを白地にかえし、重大な情報をさしあげるのだと、こうでもお考えになってはいただけないでしょうか」
この男は、香具師あがりかもしれない。歪《ゆが》んだ能弁とでもいいたい調子だったが、その言葉のかげには、怒りの爆発を必死にこらえているような焦りの色が感じられた。
第三十三章 逆 転
「わかった。その辺で手を打つかな」
三郎はいよいよ最後の手段に訴える覚悟を決めた。
「君たちの提供してくれた情報に対しては、自分で直接指揮をとるかどうかはべつとして、すぐ検事として摘発にかかる。その情報の出所についてはどこにももらさない。これだけを約束すればいいのだね?」
「検事として名誉にかけて、誓っていただけますでしょうな」
男は眼をさらに鋭く光らせながら、それでも肩の重荷を一つおろしたように、溜息をついて言った。
「検事の良心にかけて誓う。しかし、それには一つの付随条件があるよ」
「その条件というのはなんです?」
「君たちのいまの行為に対する追及は、この約束とは別問題だということだ。これは一種の脅迫行為だからね。ただ、それに対して、こちらの警察がどんな手を打とうが、こちらの検察庁がどういう処分をしようが、それは僕には直接の関係がない問題になってくるけれどもね」
「やはり、今夜のことについては、含んでおいでだということですな」
「こんな目にあわされて、怒らないようなら男じゃないだろう」
殺気のようにぶきみなものが、男の両眼にひらめいた。それでも、持前の狡猾さで、怒りの爆発は必死に押さえきったらしく、
「その条件に、もう一つべつの条件はつけられませんかねえ」
「どういう条件かね?」
「たとえば、われわれが一週間、無事に逃げきれば、その後の追及はひかえるとか、ある時期まで、あなたが自分の手でわれわれを逮捕できる場合にかぎるとか、そういう特別な条件をおくと約束してくだされば、こちらのほうも、そのつもりで勝負に出ますがねえ」
まったく、この男の感覚は、どこまで歪んでいるのかわからないくらいだった。霧島三郎も、ふだんのように、検事としての立場を厳然と守りきれる場合なら、一喝して退けるような言葉だったが、あいにく彼はいまは裸の男だった……。
しかし、三郎はこの男の言葉の中に、今夜の勝負を一挙に逆転させる機会を見つけだしていた。
「なるほど……それでは、僕自身の手で一週間以内に、君たちを逮捕するという条件だったらどうだね?」
「よろしいでしょう。しかし、われわれはお話がすんだら、すぐこの部屋を出ていきますよ。あなたはそれから三十分、この部屋に残っていると約束してくださいますか。声をあげて、人を呼ぶようなこともしないという約束です」
「だいぶ話が細かくなってきたね」
三郎は笑う余裕をとりもどしていた。
「よろしい。いまの条件で結構だよ。検事としては、おそらく前代未聞の取引だろうな。しかし、おかげで暑くなってきた。ちょっと窓をあけてはもらえないかね」
「まさか、その格好で、窓から飛びおりるつもりじゃないでしょうね」
ガウンを身につけていた澄子は、唇の片端をつりあげ、嘲《あざけ》るように言うと、窓のそばへ近づき、窓を細目にあけて、外の様子をうかがった。
三郎はゆっくりソファに腰をおろし、煙草に火をつけた。男のほうも、むきあった椅子《いす》に腰かけると、ポケットから一枚の紙片を取り出した。
その上には一から五までの数字が書いてあり、最初の四行は、地名と人名が並んでいる。そして五という数字の下には基隆号《キールンごう》≠ニいう船の名前が書いてあるだけだった。
「あなたは、神戸の地理にはあまりお詳しくないでしょう。ですから、こうしてメモにしておきましたが、これをあとで、ほかの紙にべつべつに写しなおしていただきたいのです。そして、この順序で手を入れていただきたいのです。一つが完全にすむまでは、次の紙を誰にも見せないで……まあ、五番目の船のほうは、いろいろの都合もありましょうから、順序が前後するようなことがあっても、場合によっては、しかたがないと思いますが」
「なんとも念の入ったご注意だ。そのご親切は大いに感謝するよ」
なんとか感情を押さえようとは思うのだが、やはり言葉は皮肉になった。しかし、この男は、皮肉など通じないような顔で、
「まったく、検事さんのほうも前代未聞のご経験でしょうが、こういう無理を強行してまで、犯罪を摘発しようというのは、われわれの仲間でも空前絶後のことでしょうな……さあ、そろそろ出かけるしたくをしようか」
と澄子のほうに眼くばせした。
澄子が隣りの部屋へ消えると同時に、三郎はゆっくり立ち上がった。
「君は香具師あがりかね?」
「まあ、そういったところですな」
「こういうことをして、どれだけ金になるんだね」
窓によりかかりながら、三郎はたずねた。この男は、三郎の一挙一動も見のがすまいとしているように、鋭い視線を集中しながら、
「私にとって、これは銭金の問題じゃないんですよ」
と思いがけない言葉を吐いた。
「銭金じゃない? というと、むかしのやくざのように、義理人情で動いているわけか」
「純粋の義理人情というようなものは、今どきのやくざ仲間には、薬にしたくも残っていますかねえ。われわれが、義理人情など口にする場合には、その裏にかならず算盤《そろばん》があるものです。この世界は一般の人間が考えるより、ずっとドライで非情なものですとも」
「それでは君は?」
「金で動いているのでもなく、義理人情で動いているのでもありません。私はこの世界では、孤独な異端者なのですよ。この四つの場所に手がはいれば、私はむかしの復讐《ふくしゆう》ができるのです……そういう気持は、たしかに原因の一つですが、そのほかに、私には妙な芝居気もあるのですよ。人が不可能と思うことを、奇謀奇策を考えだしてうまく実現することに、たいへんな喜びを感じるのですよ。はははは、検事さんなどには、歪んだ感覚の持主だと笑われそうですけれどもね」
その言葉には、奇妙な哀愁の影がただよっていた。いまは身を持ち崩していても、前にはかなりの教育を受けたインテリではないかと三郎は考えていた。おそらく前科もあるだろう。詐欺の常習犯の中には、検察庁で調べているうちに、これに似た考えや感覚をちらつかす人間もけっして少なくはない……。
そのとき、着替えをすませた澄子が出てきた。三郎の顔を嘲笑《ちようしよう》するような眼で見つめ、
「行きましょうか」
と男を誘った。男は煙草を捨てて立ち上がると、凄《すご》みのある調子で、
「さっきの約束は守っていただけますね」
「僕は名誉と良心にかけて誓ったのだ」
「それでは失礼いたします。三十分したら、どうぞご自由に。鍵《かぎ》は表の牛乳受けの箱の中に入れておいてください」
男はていねいに頭を下げ、三郎の眼の前でカメラの裏蓋を開いてみせた。
次の瞬間、表のドアを開いた澄子は、あっと叫んだ。外からまるで猛犬のように、一人の男が飛びこんできたのだ。澄子を押し倒して部屋へ飛びこむと、三郎たちの顔を見まわし、
「警察の者だ!」
と鋭く叫んだ。
「ご苦労さん。僕は霧島検事だ。この二人を脅迫罪の現行犯として逮捕してくれたまえ」
男の手首には、たちまち手錠が食いこんだ。続いて部屋へはいってきたいま一人の刑事がよろよろとよろめいて立ち上がった澄子にも手錠をかけ、三郎の半裸の姿を見つめて、
「りっぱな美人局《つつもたせ》の現行犯ですな」
「これは……これは……」
男のほうはうめいていた。三郎の一挙一動をさっきから瞬《まばた》きもせずに注意しつづけていただけに、どうして最後の瞬間に、こんな逆転劇が起こったか、理由も推察できなかったのだろう。
「僕は約束を守ったよ。しかし、どういう条件の下でも、外部からの圧力によって動かされては検事とはいえないのだ。五本の線は追及するが、それと同時に、君たちの背後関係も追及する。検事の生命は、不偏不党というところにあるのだからね」
「でも、どうして?」
「君はさっき、僕が窓から吸いさしの煙草を捨てたことに気がつかなかったのかね。それが、外で待っていた刑事さんへの合図だった。どうせ、今夜のデイトは、純粋な形ではすむまいと思って、ちゃんと準備をしてきたのだよ」
「やられた……おれの完敗だ……」
男は悲痛な声でうめき、がくりと頭をたれたが、澄子のほうは、かえって逆上してしまったように、
「卑怯者《ひきようもの》! あなたはそれでも男なの!」
外道の逆恨みに似た罵言《ばげん》をたたきつけてきた。三郎はその顔をあわれむように見つめ、
「僕も男として、女性に対するエチケットは心得ているつもりだが、あいにく君は、女と――いや、人間とは思えない」
そう言いすてて、窓に近づき、その外へ、さっきからがまんしていた唾を吐き出した。
霧島三郎が、羽田空港へ着いたのは、その翌日の午前十時四十分のことだった。
昨夜はあれから、二人を警察まで連れていくのに同行し、それから原田検事の官舎へもどって、メモに書いてある五本の線の追及について打ち合わせ、明け方になってから、短い眠りをとっただけで、東京へひっかえしてきたのである。
あの二人が、どの方面からの指令で、ああいうまねをしたか、それは神戸の警察なり、原田検事なりが、じっくり腰をすえてかかれば解決はできるはずだし、五本の線の追及も、この情報が正確なものなら、原田検事なり神戸地検の麻薬係の検事なりが金星をあげるわけだが、三郎にはこのさい誰が手柄をたてるかということなどは念頭になかった。
もう一度、神戸へやってくることになりはしないかという予感も心の中で動いていたが、彼の現在の立場では、まずいったん東京へ帰ってからでないと、次の方針はたてきれなくなったのである。
飛行機の伊丹出発は何かの事情でちょっとおくれたのだが、彼は座席にすわってベルトをしめると、そのまま深い眠りにおちいってしまった。眼をさましたのは、飛行機の車輪が羽田空港の滑走路に触れたときのかるいショックのためだった……。
いくらか元気をとりもどした思いで、今後の方針をあれこれと思案しながら、三郎はロビーへ出た。きのう、友永より子とはでな一幕を演じたあたりを横目で睨《にら》んだとき、彼は口の中であっと叫んだ。
そこからちょっと離れた椅子に、恭子が一人でしょんぼりとうつむきながらすわっていたのである。
憑《つ》かれたように、彼はそちらへ足を進めた。恭子も人の気配を感じたらしく、ふっと顔を上げたが、その顔は一瞬ぱっと赤らみ、そして次の瞬間には、すべての血が心臓へ逆流していったように青ざめてしまった。
「恭子さん……」
「あなた……」
お互いに名前を呼びあったときには、三郎はすべてを忘れていた。寝起きのせいもあったろうが、恭子が新妻として彼を迎えにここまで来ているような錯覚が頭をかすめたくらいだった。しかし一瞬後には、彼も冷たい現実の世界へ立ち帰っていた。
「ずいぶんやつれましたねえ」
「あなたも、おやせになりましたのね」
わずかな言葉をかわしただけでも、気持はなんとか通じあった。三郎はここが未決の面会室で自分の眼の前に、鉄の金網が張られているような幻想にとらわれたくらいだった。
「それで、どちらへ?」
「あなたは?」
「関西のほうに用事があって、きのうの夕方東京を出て、いま帰ってきたところです」
恭子の眼には恐怖の影がかすめた。わずかのひまを盗んで神戸へ往復し、しかるべき手を打ってきたなと悟ったのだろう。
「私も関西へまいりますの……奈良に住んでおります叔母に、今後のことを、いろいろと相談したいと思いまして……」
眼は下へ落ち、声はかすかに震えている。この言葉に嘘《うそ》があることは、検事でなくてもすぐに見やぶれそうだった。
「そうですか。その叔母さんは以前、台湾の基隆《キールン》というところに住んでおられたことはありませんか」
「え?」
恭子は驚いたように眼を上げた。その表情から、三郎は、まだ恭子は密出国を引き受ける船の名前は知っていないと直感した。
恭子も激しく動揺しながら、どうにか自分を抑制しきったらしい。
「霧島さん……これ以上お話はよしましょう。私たちの間は、もうむかしのようにはいかないのです……」
「でも……これは偶然……」
「偶然といっても、いつかの検察庁の食堂のように、どこから誰が見ているかわかりませんし……私たちの仲はもうおしまいなのです……」
恭子の眼には涙が光った。三郎も胸の内側に、血の雫《しずく》がにじみでてくるような思いだった。恭子はもう今では生きている父に会い、すべての秘密を悟ってしまったのではないかと思われた。
「わかりました。それではお別れいたします。どうか、お体にお気をつけになって」
「あなたも、どうぞ、お元気で……」
恭子は立ち上がって頭を下げ、また崩れるように椅子に体を沈めた。
三郎は鞄《かばん》をかかえて、ふりかえりもせず、いったん国内線のロビーを出た。そのとき、
「霧島さん」
と横から声をかけてきたのは尾形悦子だった。三郎もあわてて周囲を見まわしながら、
「あなたも?」
「ええ、けさ、あの人の家へ行って、あんまり態度がおかしいので、そっとここまで跡をつけてきましたの……あなたとここでお会いするとは思いませんでしたけれども……」
「あの人は、一人だったのですか?」
「ええ、ここまでは……ここで誰かと待ちあわしているのか、それとも行く先で誰かとおちあうつもりなのか、そこまではわかりませんけれども……」
悦子の額には汗がにじんでいる。眼には幽霊にでも憑かれたような不安の影がひそんでいる。この場で三郎に出会ったのが、天佑《てんゆう》だと信じているように、
「霧島さん、こんなところで、こんなことをお話しするのはなんですけれど、わたしはあの人の後ろ姿を見ていると、なんだか影が薄いような気がしてならないんです。なんとかならないものでしょうか?」
「そうですね。それでは、僕に手伝っていただけますか。あの人のためにならないようなことはしないと保証しますが」
「はい、なんでも……」
「それでは、あの人が飛行機に乗るまで、気がつかれないように見張りを続けていてください。日航か全日空か、どちらのどの便に乗るか見とどけてください」
「それで?」
「こちらでは待合室はいっしょですが、伊丹では日航と全日空の待合室は建物が違うのですよ」
「むこうへ連絡をおとりになって、誰かに、恭ちゃんを尾行させるおつもりね」
「そうです。そのくらいの手を打たなければ、このさい最悪の事態は防げないかもしれません。正直なところ、僕もいま、あの人と話していて、死相のようなものを感じました」
「わかりました……」
悦子は身ぶるいしながら答えた。
「それで、あなたへのご連絡は?」
「二階の待合室の和食堂で」
そう言いのこして、悦子と別れると、三郎はすぐ空港警察へ飛びこんだ。ここでも検事の名刺の威力は絶対だった。彼はそこに詰めていた私服の刑事に、恭子の人相風体を説明し、こういう女が、どの便に乗るか見とどけてくるようにと言いわたした。いまの悦子の様子から見て、自分をだますようなことはなかろうと思ったが、念には念を入れたのだ。それから彼は、すぐに警察電話で渋谷署の捜査本部へ連絡をとった。
桑原警部はちょっと出かけているが、まもなくもどるはずだ、ということだった。警部直接でなければ、詳しいことはわからないが、留守の者の話では、事件の本筋のほうはほとんど進展していないようだった。
まもなく刑事が帰ってきた。恭子は十一時発の日航機、大阪、福岡行きに乗りこんだらしい。連れらしい人物は見あたらなかったということだった。
三郎はうなずいて、すぐに警察電話で、神戸の原田検事に連絡をとった。
「どうしたのだ? 時間から言って、羽田へ着いたばかりだろうに、また何か重大な変化があったのか?」
原田豊も驚いたような声を出していた。
「そうなんだ。僕とすれちがいに、霧……いや、竜田恭子が、十一時の日航機で関西へ飛んだ。いよいよ、最後の時が来たと思う」
「うむ……基隆号の入港以前に、神戸かどこかで、彼と連絡をとる可能性が濃いわけだな」
「そう思う。だから、伊丹で誰か刑事に接触させ、どこへおちつくか、それだけでも確かめさせてはもらえまいか。たとえば何々ホテルに泊まったということがはっきりすれば、また次の手も打てるだろう」
「うむ……検事としてはその一手だな」
皮肉にもとれるような言葉だが、ついさっき彼と別れてきたばかりの三郎には、悲痛な同情が言葉のかげに波うっていることがわかった。
「それで彼女の服装は?」
「黒いスーツだ。喪服でも着ているような感じだったよ。左の胸に銀の鈴蘭のアクセサリ、黒い皮のハンドバッグを持っている。ほかにトランクぐらいはあるかもしれないが、飛行機のほうに預けたのか、見あたらなかった」
「人相は? まあ、いくら女だといっても、東京から大阪へ行く飛行機の中で、着替えをすることはなかろうから、服装だけでわかると思うが、念のために……」
「年は二十四か五歳ぐらい。顔だちは整っているが、やつれが見える。眼は大きく、唇は薄いほうだ。顔はどちらかといえば丸顔だが、背丈はふつう……」
こうして電話で自分の恋人の特徴を、容疑者の人相のように冷たく説明していくのは、三郎にとっても、涙がにじみでるような苦痛だった。
第三十四章 善意の裏切り
こうして、いちおうの手を打ちおわって、三郎が空港ビル二階の食堂へはいっていったとき、尾形悦子は窓ぎわのテーブルにすわり、沈痛な表情でコーヒーを飲んでいた。
「お待たせしました。ここの警察から捜査本部へ連絡をとっていましたので」
三郎が近づいて声をかけると、悦子は溜息《ためいき》をつきながら、
「恭子さんは十一時の日航機に乗りました。一人で連れはなかったようです。ほかにこれはと思われるような人は見あたりませんでした」
とささやくように言った。
三郎はそれからいったん悦子のそばをはなれ、入口までついてきていた私服の刑事に、
「君、もう帰っていいよ」
と言いわたした。もちろん、この情報はべつにはいっており、それに対する手も打っていたのだが、悦子に自分の働きが決定的要素だったと思いこませるほうが、あとの話もしやすいと考えたのである。
三郎がいま一度、悦子のそばにもどってきて、向かいあった椅子に腰をおろすと、悦子はいまの刑事との話が短かったことを気にしているような調子でたずねてきた。
「大丈夫なんですか。あれで手配はできるんですの?」
「必要な手は全部打ってあるのです。あとはどの飛行機かということがわかればいいだけだったのです」
「そうですか?」
悦子は、一瞬に緊張がほぐれてしまったような表情だった。いままでの不安の影は消えたようだったが、その後には、また新しくべつの不安の影がただよいはじめたようだった。
「霧島さん、わたしはもう、どうすればよいのかわからなくなりました……」
「すみません。僕も個人としては、あなたにおわびを申しあげなければいけない立場なのです。ただ、検事として、あの人を窮地に追いこむようなことがあっても、個人として、あの人の幸福を祈る気持は、死ぬまで心を離れないでしょう。ほかの人間には、矛盾した言葉だといわれるかもしれませんが……」
「いいえ、ほかの人は知りませんが、わたしにはその言葉の意味がよくわかります」
悦子は唇を噛《か》んで、しばらく沈黙した。
「霧島さん、わたしにはいま三つの道があるんじゃないかと思います。これ以上は、自分の手にはおえないと見きりをつけてあとへひくか、今までどおり、誓いを守って自分もいっしょに苦しむか、形のうえでは友情を裏切るようなことになっても、それ以上高度なほんとうの意味での友情を生かしきるか、どれがよろしいとお考えでしょうか」
「僕としては、なんとも申しあげられません。検事としては、最後の道をお選びなさいと言いたいところですが……その場合、あなたのほうに、少しでも抵抗があるようならば、無理にお願いもできません」
「もちろん、抵抗はございます。誓いを破るとなれば、良心もいたみます。恭子さんのほうから絶交すると言いきられても、返す言葉もございません。ただ、このまま進んだならば、あの人はかならず、女としては最悪の道へ踏みこんでいくでしょう。恭子さんが、何人かの男に傷つけられ、自殺するか、魂を腐らせてしまうか、それしかないとしたら、わたしとしては、その抵抗を踏み越えるのが、ほんとうの友情ではないでしょうか」
昨夜の澄子の狂態が、そのとき三郎の瞼《まぶた》に浮かんだ。この女もむかしは恭子と同じような良家の娘、純情な女性だった。万一にでも、恭子があのような道を――と思っただけでも三郎は気が狂いそうな思いがした。
「何人かの男に、というのはどんな意味です? あの人を狙《ねら》っているのは、須藤俊吉だけではないのですか?」
嫉妬《しつと》と受け取られるかもしれないと思いながら、まずこの質問が先に立った。
「はい……前門の虎、後門の狼という言葉もありますけれども、恭子さんは昨夜、須藤俊吉に、ホテル・ニュージャパンへ呼びだされました。もちろん、ここは待ちあわせるだけの場所で、すぐにどこかへ行くつもりだったのでしょうが、恭子さんはそのときは、寺崎義男さんの機転でピンチを救われたのです。ところが、その寺崎さんが恭子さんを口説きはじめたということになりますと……」
「寺崎義男君もですか? それでは、彼の献身的と見えた行動も、そういう野心を隠した、打算的、功利的なものだったということになるのでしょうか」
「そこまで言うのは、言いすぎになるかもしれません。寺崎さんも、恭子さんを愛していながら、身分違いの片思いだと自分に言いきかせ、恭子さんとあなたとの仲を知って、あきらめていたのかもしれません……それに恭子さんのいまの気持では、恋愛どころではないでしょうし、問題にもせずにはねつけたのも当然でしょう。しかし、恭子さんとしては現在、寺崎さんのほかにはたよりにする者もいない状態ですから、いつどんなことになりはしないかと、わたしは心配しております。それに須藤俊吉にしたところで、一度や二度の失敗でひきさがる男とは思えません。きっと手をかえ品をかえて、野心を満足させようとしてくるでしょう……」
「わかりました。ただ、あなたはそういう話を全部恭子さんからお聞きになったのですか」
「いいえ、昨夜、恭子さんがニュージャパンへ行くことはわかっていましたから、わたしも別にそちらへかけつけたのです。ですから細かないきさつまではわかりませんが、恭子さんがそこで待っていた須藤俊吉の前から、寺崎さんの助手かと思われる男に連れだされたところは自分で見とどけたのです。そのあとでは、恭子さんたちを尾行して、山王あたりの暗い道で、寺崎さんがキスをしようとしてはねつけられたところまで目撃しているのです……恭子さんが、それからまもなく、ひとりで家へ帰ってきたことは、わかっておりますけれども」
「わかりました。それではいま恭子さんが関西へ向かったのは、あの人の自発的行動だとは思えないというわけですね。須藤俊吉に動かされたか、寺崎君の指示にしたがっていたかはべつの話としても……」
「わたしはそう思います。ただ、恭子さんとしては、むこうへ行けば、一目でもお父さんに会えるということを信じているにはちがいありません」
「すると、竜田弁護士は、いまむこうに?」
「そこまでは、わたしにはわかりません。いいえ、知って隠しているのではなく、ぜんぜん見当がつかないのです。この旅行もただごとではないと思いますけれども、もし恭子さんの裏に、たいへんな軍師がひそんでいるとしたら、これも一種の陽動作戦でないとはいえません。警察なり検察庁なりの注意を神戸や大阪にひきつけておいて、その隙《すき》に横浜なり北九州なり、ほかの港から脱出しないとはかぎりませんでしょう」
三郎は身を切られるような思いで、悦子の言葉を噛みしめていた。美貌《びぼう》という点では、恭子とは比較にならないとしても、聡明《そうめい》さにかけては恭子をしのいでいるのではないかと思ったくらいだった。
「霧島さん、わたしはいろいろ考えあぐんだ結果、こう思ったのです。このさいは恭子さんに一時ショックを与えることになったとしても、早くこの事件に幕をおろすほうにわたしが全力をあげたほうがいいんじゃないかと……この問題が割りきれれば、恭子さんもまもなく平静な気持に返れるでしょう。そうすれば、どこかで一生の幸福を見つけだすこともできるだろうと思ったのです」
さっきから、悦子の言葉はごく遠まわしで、微妙な表現だけが続いていた。しかし、その言わんとするところは三郎にはよくわかった。この辺が潮時だろうと見きわめて、
「それでは、結論から言いますと、竜田弁護士の逮捕に協力してくださるお気持になったということなのですね?」
思わず検事口調になってしまったが、悦子はうつむいて低く答えた。
「はい……わたしの知っておりますことは、このさい、何もかもいっさい申しあげてしまったほうがいいんじゃないかと思います」
「どうか、そうしてくださいませんか。あなたのお話は記録にも残さず、僕があなたからお話を聞いたということは、秘密にしておきましょう」
「お願いします。それから、これはまだ決心がつききれませんけれども、わたしは、これからもしばらく恭子さんと接触していたほうがいいんじゃないでしょうか。そのうえで、わかったことは細大もらさず、あなたにお知らせしたほうがいいんじゃないでしょうか」
三郎もこのときは眼を見はった。今までの秘密を打ちあけるというだけでもたいへんなのに、悦子がこれほど積極的な態度に出てくるとは、予想もしていなかったのである。
三郎が一瞬沈黙したため、悦子も自分の言葉が気になったのか、
「わたしのしようということは、人にはスパイ行為だと言われるかもしれません。でも霧島さん、あなただけはわたしの気持もわかってくださるでしょう」
とつぶやくように言った。三郎もこのときはぎくりとした。悦子の言葉の最後の部分は、表面にあらわれた意味以外に、ぜんぜん別の深い含みもあるように思われたからである。
悦子からこのとき聞いた話は、三郎にとっても貴重な収穫だった。もちろん、悦子は恭子と終始行動をともにしていたわけではなく、また、すべての秘密を打ちあけられていたわけでもないから、ところどころ、急所のようなポイントが抜けていたわけだが、それでも竜田家側の内情については、いままで何も知らなかった三郎には、得るところも大きかったのである。
ただ、三郎にとって大きなショックだったのは、竜田慎作生存説にほとんど疑惑の余地がなくなったことだった。悦子の話では、須藤俊吉だけではなく、寺崎義男までがこの考えに傾いているというのだが、利害関係ではまったく相反する立場にあるこの二人が、別々に独立した二つの線から同じ結論に達したと言われては、検事としての感覚では、もう否定はできなかったのである。
悦子とは、またあらためて連絡をとることにして、三郎はまず捜査本部へ車をとばした。桑原警部は急用があって警視庁まで出かけたということだったが、三郎はそちらをあとまわしにして、神戸の原田検事のところへ、警察電話で二度目の連絡をとった。
「霧島君、おかげで面目をほどこしたよ」
五つの線のうち、最初のものの手入れは、きょうの午前中に行なうことになっていたのだが、その結果がいちおうわかったのだろう。原田豊の声もはずんでいた。
「すると、収穫はあったのだね?」
「うむ、第一行は、溝口一家の実子分、佐藤良平の二号の家だった。精製ヘロイン、約十キロ――神戸としても、一度でこれだけの大量を摘発できたということは、最近にない出来事だったよ」
「よかったなあ……それでは、あの情報もいちおう信用していいということになったわけだ。ただ、その線は、親分のところまで直結するのかな?」
「二号の檜垣敏子《ひがきとしこ》はつかまえたが、佐藤はその場にいあわせなくって、逮捕できなかったようだ。本宅その他にも人をやっているが、まだ逮捕したという報告はない。それからでなければはっきりしたことは言えないが、実子分となれば、一家では親分、跡目につぐ大物だ。末端組織の小物とは違うから、一家に与えるショックも相当なものだろう。佐藤がつかまって、その自供いかんによっては、親分のところまで火がつくかもしれない」
「そこまでのことはどうかなあ。かなりの一家で、その地位まで、実力でのしあげられる男なら、やくざながら筋金もはいっているだろう。つかまったところで、自分の線で責任を食いとめ、親分のところまでの波及は避けようとするんじゃないのかな」
「そういうことは当然考えられるが、暴力係の刑事が言っていた話では、いま彼一人が逮捕されることは、あの一家にとっては、左手を肘《ひじ》のあたりから切りおとされた程度の痛手だろうというんだよ。もちろん、ああいう組織は下等生物みたいなものだから、切りおとされた腕がもう一度生えかわるということも、時間がたてばありうるだろう。しかし、われわれとしたならば、あとのことはあとの話だ。あらゆるチャンスに、あらゆる手段で、あらゆる攻撃を加える以外、組織暴力というものに対決する方法はないからな」
きょうの戦果は、原田検事を相当に興奮させたらしい。もちろん飲んでいるはずはないのに、言葉の調子はまるで酔っているようだった。しかし、自分でもすぐに自分の興奮状態に気がついたらしく、
「いや、もうそんな話はよそう。神戸と東京との警察電話で、こんなことを論じていてもしかたがない。ただ、この線の追及は、ある意味で、君のほうの事件の捜査の間接的な援護射撃になったことは確かだと思うがね」
「どういう面で?」
「きょうつかまえた檜垣敏子は、友永より子と義理の姉妹の杯をかわした女だということだ。こんな世界にしたところで、女は男より攻め落としやすい。この女をうまく絞めつければ、友永より子なり、ラムール≠フ麻薬の秘密も、ある程度まで判明してくるのではないかな」
「うむ、そのほうは頼んだよ。それからほかにわかったことは?」
「第二行の追及は検事正と打ち合わせたが、きょうじゅうには決定する予定だ。その結果がわかったらすぐに知らせよう」
「あの男――脅迫罪の容疑者のほうの身元はわからないのかね」
「なるほど、大事なことを忘れていたな。男のほうは、最初は頑固に黙秘権を行使していたが、暴力係の刑事が顔を見たところ、扇屋一家の客分の田川庄介という男だとわかった。前科カードを調べさせたところ、詐欺恐喝などで前科三犯、頭はたしかにいいらしいが、偏執狂的に、考えが妙な方向に走る男のようだな。いまのところ、警察での自供では、君が検事だということはぜんぜん知らなかった。ただ、金まわりのいいお客だと思ったので、女をあやつってアパートへ連れこみ、あり金全部をまきあげるつもりだったと自供しているらしい。まあ、警察では、このせりふなら信用して、いちおう調書を作るだろうがね」
さすがに原田検事の言葉も、この点ではかなりの含みがあった。
田川庄介のほうも、犯罪者としての経験を生かし、ある程度まででも初志を貫徹するために、こういう筋の自供を考えだしたのだろうが、一方ではその情報が、これだけの成果をあげていることだし、場合によっては、この自供をそのまま、のんでやってもいいのではないかと言わんばかりなのだ。
三郎も思わず苦笑したが、こうなると、この問題はそれほど解決を急ぐ必要もなくなっていた。
「まあ、事件の大筋には間違いないが、彼をどうするかということは、身柄が送検されてから、ゆっくり考えてもいいんじゃないかな。それで女のほうは?」
「いまのところは半狂乱というところらしい。警察でも、あばれるだけあばれさせておいて、午後になってから調べる予定のようだ。まあ、夕方ぐらいには、いちおうの結論が出てくるんじゃないのかな」
かすかな苦汁が、喉《のど》のあたりまでこみあげてくるような感じだった。この女に対しては、検事としてさえ、あまり触れたくなかったのである。
「いまのところ、知らせることはその程度だ。伊丹のほうは、飛行機はもう着いたろうから、いまごろは尾行の段階にはいっていると思う。そちらから報告があったら、あらためて電話をするからね」
「よろしく頼んだよ」
三郎は祈るような気持で答えて電話を切った。ちょうどそのとき、警視庁へ行っていた桑原警部がもどってきて、彼のところへやってきた。
「昨夜は留守にしてすみませんでした。半分は個人的な問題ですが、たいへんな急用があって、神戸まで行ってきたのです。そのついでに、むこうの地検の原田検事にも会って、今度の事件のことについても、いろいろ打ち合わせをしておきましたがね」
「そうでしたか。いまのところ、こちらはちっとも進展を見せていませんが、神戸では何か収穫でもありましたか」
警部は、三郎の一晩の活躍などはあまりあてにしていないというような顔でたずねた。三郎は淡々と、悦子のことだけをふせて、きのうからのことを残らず話して聞かせたのだが、警部の顔色はしだいしだいに変わりはじめた。うなるような吐息とともに頭を下げて、
「いや、恐れいりました。こういう事件の片手間に、それだけのことをやってこられるというのはたいへんなお働きですな」
「運がよかっただけですよ。自分でも、こんなことになると思って、神戸へ行ったわけではないんですが、よっぽどついていたんでしょうな」
「いや、こういう仕事を長くやっているとわかることですが、運とかつきとかいうものも、やはり努力の一つの結晶かもしれませんよ。私も、友永より子の義理の姉妹だというその女から、何か重大な手がかりがつかめそうな気がしてきました。場合によっては、誰か部下の者を神戸へ飛ばすようにしましょう。いよいよというときになれば、私自身も、むこうへかけつけたほうがいいかもしれません」
この警部がこんなことを言いだすからには、この情報は、警察官的な感覚から見て、自分が思っていた以上に重大な意義を持っているのかと三郎は思った。
そのとき、三郎のところへ、神戸の原田検事から電話がかかってきた。
「霧島君? いま彼女を追いかけていた刑事から報告があったよ。彼女は伊丹空港からどこへも寄らず、まっすぐ神戸へやってきたよ。まともに僕の縄ばりへ飛びこんできたというところだが、君に話していた奈良の件はやはり口実だったんだね」
「そういう言訳に嘘《うそ》がまじることは、このさいしかたがないだろうな。それで、彼女は、神戸で、何を始めたんだ?」
「まずオリエンタル・ホテルにはいって、じっと部屋にとじこもっているらしい。ここで次の指令が来るのを待っているんじゃないのかな。もっとも、本拠はここにしておいて、ほかに随時移動することも考えられないではないけれども……」
「うむ」
「それから、君に一つ知らせておきたいことがある。宿泊名簿は偽名だった。なんという名前を使っていたと思う?」
「わからない」
「彼女は、霧島恭子とサインしたんだよ」
原田豊はすすりあげるような声で言った。
第三十五章 尋 問
神戸との連絡が終わると、三郎はすぐに、桑原警部を通して、竜田慎一郎、榎本ふさ子、須藤俊吉と寺崎義男の四人に、参考人として捜査本部へ出頭を命じた。こうして、尾形悦子から、秘密の情報を提供された現在では、尋問もいままでとは違って、急所急所とつっこんでいくことが可能となったのである。
ところが、須藤俊吉は、昨夜から家へは帰ってきていないということだった。寺崎義男もどこかへ出かけていて、すぐにはつかまりそうもなかった。慎一郎とふさ子は渋谷の竜田家にいあわせたので、まもなく本部へやってきた。
この二人に対しては、三郎が直接尋問にあたることになった。本来なら、義理の兄弟になるはずの慎一郎に対決することはいやだったが、このさいは心を鬼にする必要もあったし、ほかの含みもあったのである。
慎一郎も、警察官から取調べを受けることは覚悟していたろうが、この段階でこの場に三郎が現われるとは、思ってもいなかったらしい。その顔には、恐怖と不安と怒りと憎悪がまじりあったような複雑な表情が浮かんだ。
三郎は淡々と最初の形式的質問を続けた。
「次に、あなたと榎本ふさ子さんとのご関係についてうかがいたいのですが」
「夫婦です」
慎一郎は、苦いものでも吐き出すときのように、顔を歪《ゆが》めて答えた。
「それは、内縁関係という意味ですね?」
「いや、こういうさいですから、正式な結婚式などはやってもおられませんが、あれの希望で入籍だけはしておきました。そうしないと、生まれてくる子供がかわいそうだというのです。法律的には完全な夫婦だといってよいでしょうね」
言葉はいちおうていねいだが、声は上ずっていがらっぽい。口をきくのもいやだという気持がはっきりあらわれている感じだった。
「そうでしたか。本来ならば、おめでとうと申しあげなければならないところですが……」
「なにも、われわれが結婚したからといって、検事さんから、お祝いを言っていただく理由も必要もありません」
もうお前とはぜんぜん赤の他人だといわんばかりの調子だった。三郎は苦笑いさえできなかった。
「そのことは妹さんも知っておいででしょうか?」
「いちおう話はしておきましたが、妹は、今度の事件のことで頭がいっぱいで、それどころではなかったようです。まあ、お互いに成年に達しているのですから、妹もいつでも自由に結婚すればよいのです。そのときは相手が誰でも私は異議もとなえませんが」
「須藤俊吉氏が、その相手だとしてもですか?」
慎一郎は一瞬動揺したようだったが、すぐ落ち着きをとりもどして、
「彼とは前に、一度縁談が持ちあがったこともありますよ。しかし、妹はあの人とは死んでもいっしょにならないと言いきったので、それでご破算になってしまったのです。その後、そんなに時間もたっていませんし、まさか、気持が変わったわけでもないでしょう」
「そうですかね。妹さんがこのところ、須藤氏と何度か会っていることは、ちゃんとこちらにはわかっていますがねえ。たとえば昨夜もホテル・ニュージャパンで」
慎一郎の顔色は、さっと変わった。人の顔色から、心の動きを読むことに慣れている三郎は、この兄は妹の行動について、ほとんど知識を持っていないなと感じていた。
「そんなことがあったのですか。いや、何しろ、妹は今度の事件が起こってから、人が変わったようになってしまいまして、毎日夢遊病者みたいに、あちこちと歩きまわっているのですよ。ですから偶然にあのホテルで、彼とぶつかったんじゃないでしょうかね」
「妹さんが彼の家を訪ねていったこともわかっています。これでは偶然とはいえないでしょう。恋仲だとでもいうなら、話はわかりますが、これについてはどうお考えです?」
「…………」
「われわれの推定では、須藤氏は竜田弁護士をかくまっているとまではいかなくても、隠れ家を知っているのではないかと思うのです。それで、妹さんを秘密にひきあわせるというような条件で誘惑にかかっていると……」
「あなたがたの推定はご自由です。ただ私はその点についてはなんとも申せません」
「それでは、妹さんと寺崎義男氏の関係はどうなのですか?」
「彼は前に、うちの事務所で働いていましたし、いまは私立探偵になっていますから……人情としていろいろと手伝ってくれているのだと思いますが」
「ただの人情からでしょうか? 少なくとも寺崎氏のほうが、妹さんに惚《ほ》れこんでいるという事実はご存じないのですか?」
「はははは、それは検事さん、あなたの誤解か邪推でしょう」
「ところが、彼は昨夜、妹さんと暗い道を歩いていて、突然キスをしようとしたこともわかっているのですがねえ」
慎一郎は、眼を見はった。呆然《ぼうぜん》自失といった表情だった。
「寺崎氏のほうも、竜田弁護士の隠れ家捜しに、必死になっているようですね。こちらにはちゃんとわかっています。それもあなたの言うように、ただの義理人情とか、私立探偵としての報酬めあてだけではなくて、ほかにこういう目的もあるとはお考えになりませんか」
「すると、彼が妹との結婚を狙《ねら》って……そんなことはとうてい考えられませんね。どんなに妹がこの事件のおかげで、頭に来ていたとしても、彼に多少の恩義を感じることがあったとしても、結婚まではと思います」
「それで妹さんは、きょうはどちらですか?」
「朝からどこかへ飛びだしました。行く先はいつもぜんぜん話していかないのです」
「どこか遠くへ旅行されたのではないのですか?」
「まさか……」
「ところが、僕はきょう偶然羽田で妹さんに会ったのですよ。関西のほうへ行くというような話でしたが……」
慎一郎は、顔色を変えて腰を浮かした。この一言が、彼にとって、大きなショックだったことは間違いなかった。
しかし、慎一郎は、それから後はだまりこんでしまった。三郎の尋問は、主として須藤俊吉や寺崎義男のことに集中されたのだが、相手はそれを三郎の嫉妬《しつと》と思っているらしく、ときどき軽蔑《けいべつ》するような表情を見せながら、
「人のことはよくわかりませんね」
というような答えをくりかえすだけだった。
三郎も慎一郎のほうから、大きな秘密の緒《いとぐち》がつかめるとは思ってもいなかった。ただ検事として許されるぎりぎりの一線まで、手の内をあかして見せたのは、この兄にこれだけの知識を与えておけば、間接的にでも、須藤俊吉や寺崎義男の行動を牽制《けんせい》できるかもしれないと思ったのである。
もし、竜田弁護士が生存しているなら、須藤俊吉の協力を得られなくなることは、魚が水をなくしたような打撃だろう。
それは、直接事件の早期解決に効果があるはずだし、問接的には、恭子の身をまもるためにも役だつはずだった。
ふさ子のほうは、最初から三郎に対して、慎一郎よりは、ずっと協力的だった。
しかし、こういう場合、検事に協力的だということは、直接的に夫を裏切り、間接的に義理の父を裏切ることになってくる。
一般的に、女は警察官や検事の取調べに対しては弱いものだが、三郎が表情の動きや言葉の調子などから判断したところでは、ふさ子はまだ竜田家の家族の一人としての自覚を持っていないようだった。
この女はいま自分のことしか念頭にないのではないか、自分が正式に妻の座におさまれたという喜びが先にたって、竜田家の悲劇なり、何度も顔を合わせたことのない義父の運命などは、それほど気にもならないのではないか、いや、それどころか、竜田弁護士が生きてどこかに潜伏しているなら早くとらえられて、この事件がすなおにかたづくことを、ひそかに望んでいるのではないかと、三郎は鋭い検事的感覚で感じとった。
そういう気持も、理屈としてはわからないこともない。だが三郎には、女の心というものが、いよいよふしぎに、いよいよ恐ろしく思われてきたのだった。
たとえば、三郎はかまをかけて、竜田家へ来てから、陳志徳という中国人の名前を聞いたことはないかとたずねてみたのだが、ふさ子はちょっとためらいながら、
「そういえば、昨夜、うちへそんな名前のお方が電話をかけていらっしゃいました。わたくしが電話に出ましたら、舌のまわらないような日本語で、
『私、陳志徳というものです。あなた、恭子さんですか』
と聞いてきました。わたくしはすぐ主人にとりつぎましたので、どんなご用件だったかはわかりませんが……」
と答えたのだ。
三郎もこのときはぎくりとしていた。電話はふつうの市内電話らしかったというのだから、この話がほんとうとすれば、陳志徳はいま東京付近にやってきており、自分で竜田家に連絡をとろうとしているわけなのだ。これが今度の事件なり、竜田弁護士の国外脱出の計画に無関係とは思えない。
慎一郎も、何かの拍子でうっかりして口止めを忘れたのかもしれないが、少し頭の働く女で夫の気持を理解していたら、このさい、この秘密を捜査陣にもらすことはないはずだ。
三郎が、このことをどうしようかと思案しているうちに、ふさ子は眉《まゆ》をひそめて、
「電話といえば、昨夜から妙な電話ばかりかかってきて、困っているのでございます」
「妙な電話といいますと?」
「相手はそのたびに違っているようですけれども、とにかく男の声なんです。どすのきいた、だみ声というような感じはよく似ておりますけれども、わたくしには、同じ人だとは思えません。内容も、電話によって、少し違っていますけれども、だいたい、
『おぼえていろ。いまに竜田家の人間は、一人残らず息の根を止めてやるからな』
という調子です。わたくしも最初は、
『そんなことを言って、あなたはいったい誰なんです』
とやりかえしていましたが、むこうは型にはまったように、
『こっちが名のらなくたって、そっちにはちゃんと思いあたることがあるだろうぜ』
とあざ笑っているんです。やくざか香具師か、そういう暴力がかった男だろうということまでは、見当もつきますが……」
三郎もこの言葉には溜息《ためいき》をもらした。彼にはこの電話が、小林一家の誰かがかけたものとしか思えなかった。羽田での友永より子の狂態と悪罵《あくば》から判断したのだが、いくら逆上しているといっても、小林準一の獄死の恨みを竜田家に向かってたたきつけるのは、筋違いもいいところだというほかはない。
しかし、こういう連中の間では、いまでも世間一般には通用しない考え方が、堂々と生きのびているものなのだ。それに今度の場合には、一見筋が通らないと思われる言葉の裏に、どんな秘密がひそんでいるかもしれなかった……。
「それから、検事さん、いまの電話がこわくなったからというのではございませんが、わたくしたちは旅行に出かけてかまわないでしょうか?」
ちょっと沈黙して思案に沈んだ三郎の顔を下からうかがうようにして、ふさ子はためらいながらたずねた。
「どちらへお出かけになるのです」
「このさいですから、新婚旅行というようなことではありません。ただ、これ以上、おなかが大きくなりますと、旅行も辛うございますし、広島県の三次《みよし》というところにある竜田家のお墓参りだけでもしてきたいと、主人は申しておりますが……」
竜田家の祖先が、この土地から出たということは、三郎も前に恭子から聞いていた。
ふだんなら、当然と思われる行動なのだが、あのボヘミアン型の慎一郎が、突然人が変わったように、先祖の墓参をするなどというのはちょっとうなずけないことだった。そして恭子の飛んだ先、いま問題になっている神戸は、東京と三次の間に存在する……。
ひょっとしたら、慎一郎も、恭子とはべつのルートから、潜伏した父の行動をかぎつけ、関西のどこかで最後の別れを惜しもうとしているのではないかと、三郎は思った。
しかし、そういうことは、素人にでもかんたんに推定できるはずなのに、それをわざわざ三郎に漏らしてきたふさ子の神経は、いよいよ解せないものだった。
「いかがでしょうか? 検事さん」
とだめを押されて、三郎は冷たく答えた。
「どうぞ、ご自由にお出かけください」
三郎はそれからしばらく、捜査本部で桑原警部と相談を続けながら、須藤俊吉と寺崎義男の現われるのを待ったが、六時になってもどちらも出頭してこなかった。
三郎の漠然たる想像では、この二人のうち少なくとも一人は、もう関西、神戸のあたりへ行っているのではないかと思われた。
あとで、二人が出頭してきたときの処置は、桑原警部に任せることにして、捜査本部を出ると、三郎は近くの喫茶店で、旅装を整えてやってきた尾形悦子とおちあった。
「恭子さんは、神戸のオリエンタル・ホテルの三一六号室に泊まっていることがわかりました。宿帳には霧島恭子と署名してあるそうです。あなたも同じホテルに泊まって、僕の親友の原田検事に連絡をおとりになれば、いろいろと便宜ははかってもらえるでしょう。それから、あの人とホテルで会ったときの口実はいちおう考えておきました」
三郎は、頭の中でねりあげておいた筋書を説明すると、
「それからこれは失礼ですが、ホテル代や飛行機代、その他の費用です」
ポケットの中から角封筒を出して渡した。
「いただけません。こんなものは……わたしの貯金で、いっさいまかないますから。あなたのお金をいただいたのでは、わたしの気持がすみません……」
「これはもともと竜田家のお金だったんです。今度の事件が始まる前に、あの人から、家庭を持つときの費用にと言われて預かっていたお金です。これをこんなときに使えば、生きてくるというものでしょう」
口実にはいくらか嘘もあったが、恭子から受け取った金だということは事実だった。残金のうち五万円を三郎はこの中に入れておいたのだった。
「そうですの? わたしのほうは、費用は十分準備してまいりましたけれども……それではいちおうお預かりしてまいります」
飛行機の時間が気になるらしく、悦子は腕時計を見つめ、封筒をハンドバッグに入れて立ち上がった。
「それでは行ってまいります。あなたも十分お気をつけになって……」
「羽田までお送りしたいところですが、そのひまがありません。よろしくどうぞ……」
喫茶店の前で、車の窓から彼を見つめていた悦子の熱っぽい視線がなんとなく気になったが、そんなことにはあまり気をつかってもいられなかった。
三郎はすぐべつの車を拾って、下落合《しもおちあい》にある真田部長検事の自宅を訪ねた。
真田部長は明日から二日、大阪へ出張することになっていた。しかし、事件がああして神戸にまで飛び火した現在の段階では、この辺でいちおうの報告をしておく必要があった。それで、電話で連絡した結果、自宅でということになったのである。
玄関の扉をあけてくれたのは、二十四か五と思われる背の高い肌の白い美人だったが、三郎は細かな眼鼻だちなどを観察しているだけの気持の余裕はなかった。
玄関脇の洋間に通されて、しばらく待っていると、和服姿の真田検事が出て来た。
「どうも今度は、神戸で大手柄だったらしいね。一杯やりながら話を聞こうか」
自分で気軽に、部屋の片隅の戸棚からウィスキーの壜を取り出そうとするのを、
「お酒をいただくのは、ご報告がすんでからにしたいと思います」
「ほほう」
真田検事は眼を光らせながら、椅子《いす》にもどった。そして、夫人の運んできた玉露に喉をうるおしながら、三郎の話に耳を傾けていた。三郎もこの部長には、尾形悦子の名前を隠しただけで、あとは、いっさいを隠さずうちあけたのだが、話が終わると、真田検事は何度もうなずいて、
「よくやってくれたね。この仕事では、一つの細い線をつっこんでいるうちに、とんでもないところで、脇道の大事件にぶつかることがときどきあるが、これなどは、そのいい例かもしれないな」
「しかし、本筋のほうの追及が、いっこう進展しないので、僕も心苦しく思っています」
「いや、ここまで来れば、それも時間の問題だろう。しかし、この事件は案外、神戸で最後の幕をおろしそうだな。出張が必要だったら、いつでも自由にしてくれたまえ。今度の神戸行きもさかのぼって出張にしていいよ」
真田検事は立ち上がって、ウィスキーの壜とグラスを取り出しながら、
「まあ、今晩は飯でも食ってゆっくりしていってくれないか。いま君と玄関で会ったのは女房の妹で世津子という……案外、料理はうまいんだよ」
と、かすかに微笑しながら言った。これは非公式のお見合いかな――と三郎は妙な疑惑をいだいたくらいだったが、真田検事は勘の真田≠ニ言われている鋭い感覚を、ちらりとひらめかしたように、
「霧島君、どうもやくざというやつは、親分の葬式前に格好をつけなければといきまく悪いくせがある。今度の事件もこの二、三日に、いま一つ妙な進展を見せそうな気がしてしかたがないんだがね」
「その点は、警察のほうにもよく言いわたしておきましたし、僕自身も十分に気をつけるつもりです」
「このさい、君には酒はあんまりすすめないほうがいいかもしれないな……まあ、三度、君が狙われるとはきまっていないだろうが」
真田検事はゆっくりとウィスキーをなめるようにすすりながら、
「この事件では、君も警察もよくやっていると僕は思うな。ただ、犯罪捜査の大原則は、今度はどう適用されるのかね」
「その大原則といいますと?」
「その犯罪によって、利益を得るものを捜せ――いったい、今度の事件で、いちばん利益を受ける者は誰だろうね」
真田検事は眼をそらし、残りのウィスキーをぐっと一息に飲みほした。
第三十六章 告 白
神戸へやってきて、オリエンタル・ホテルへはいってから、恭子は一歩も部屋から出ずに半日を過ごした。
こうして神戸へ飛んできたのは、もちろん寺崎義男の指示があったためだった。
朝早く、うちのほうへ電話がかかってきて、昨夜おそく、やっと陳志徳と腹を割って話しあうことができたが、神戸へ行けば、なんとか目的が達成できると思う。オリエンタル・ホテルに泊まって、次の連絡を待ってもらいたい、自分たちも、明日ぐらいはそちらへ行けるだろうと言ってきたのだった。
電話では、細かな点にまで触れられないことは、しかたがない。その前に、たとえわずかの時間でも、会って直接話を聞きたいからと、恭子は泣くようにして頼んだが、義男は、
「僕もそうしたいのは山々なのです。ただ、陳さんとの相談の結果、いま東京では、お目にかからないほうがいいという結論に達したのです……お約束の件についてはわれわれが二人で全力をつくしますから、詳しいことは神戸に行ってからにしてください」
と、泣かんばかりの答えだった。
恭子としても、相手の誠意は疑えなかった。時の勢いとはいいながら、寺崎義男が今では犯人隠匿という犯罪に、自分自身で荷担するようになったのかと思うと、すまないという気持が先に立った。義男の意図が、途中では完全に理解できなくても、しかたがないとあきらめるほかはなかった。
それなのに、羽田の空港でああして三郎に会った瞬間からは、また心が乱れだした。飛行機に乗ってからも、伊丹から神戸へ来るまでも、自分が何をしていたのか、自分にもわからないくらいだった。
ホテルの部屋に閉じこもって、しばらくたってから初めて、激しい悔恨が胸を噛んできた。
――自分が伊丹空港から、まっすぐにこのホテルヘやってきたのは、たいへんな失敗だったかもしれない。
――あの人にしても、一時は迷い悩んだにはちがいないが、男だけに、気持の転換も早いだろう。いまは、自分との恋愛のことはあきらめ、完全に検事魂に徹しきったかもしれない。こちらへ電話で連絡をとり、伊丹空港から尾行をつけさせたかもしれない。
――このホテルへやってくるにしても、車で直行する手はなかったのだ。いったん大阪へでも出て、デパートかどこかで、足どりをくらますような行動をしたうえで、それからここへやってくればよかったのだ。
乱れた心に、断雲のようないろいろな考えが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
――犯罪者というものは、罪を犯したあとでは、どうしても一種の錯乱状態になってしまうんだね。なぜ自分の墓穴を掘るようなまねをするのか、僕は何度もふしぎに思ったものだがねえ。
いつか三郎の言っていた言葉が、急に強い実感を伴って、心によみがえってきた。恭子は、自分が罪を犯して、いつ発覚するかとおびえつづけている犯罪者になったような妄想にさえ襲われた。
時間はいつのまにか、九時を過ぎた。きょうは朝から、形のあるものは、いっさい口にしていなかった。食欲はぜんぜんなかったが、このままではいつ倒れるかもしれないと考えて、恭子は部屋を出ると一階のロビーへおり、その一隅の喫茶室で、コーヒーとサンドイッチを注文した。
味もよくわからないままに、一片一片と機械的にサンドイッチを口へ運んでいたとき、恭子は入口をはいってきた尾形悦子の姿に気がついた。とたんに、恐怖に近い感情が胸に荒れ狂ったが、悦子のほうもほとんど同時にこちらに気がついたらしく、小急ぎな足どりで近づいてきて、
「やはりここだったのね。お部屋のナンバーは何番?」
とあたりを見まわしながら、ささやくような小声でたずねた。
「あなたは、どうしてこっちへ?」
「あなたのことが気になって……どうして、ここにいることがわかったかは、あとでお部屋でお話しするわ。お部屋は何番?」
「三階の三一六号室……」
恭子は、残りのサンドイッチを口にする気力もなくしてしまった。
「あなたがああして、どこへ行くとも言わないで、朝おうちを飛びだしてしまったものだから……わたしもどうしたらよいかわからなくなって、捜査本部へ電話をかけて、霧島さんにご相談したのよ。そうしたら、偶然に羽田で会ったけれど、関西へ行く様子だった、と教えてくれたの。それからおたくの家政婦の近藤さんが、けさあなたの電話を通りがかりに聞いて、オリエンタル・ホテル≠ニいう名前が出ていたというのを思い出して、汽車の時間表の後ろの旅館名簿を調べて、神戸のここだと見当をつけたの。それから、あわてて飛行機で飛んできて……伊丹飛行場の駐車場で、あなたの人相を話したらちょうど運よく、あなたをここまで乗せてきたという運ちゃんにぶつかったのよ。ついていたというよりは、神さまのお力だとでもいうしかないような出来事だったのね」
まもなく、三一六号室へやってきた悦子はまず、このめぐりあいの理由から説明を始めた。これがもともと、三郎の考えだしたせりふだということは、恭子には想像もできなかった。
「そうなの? 心配させてすまなかったわ」
「そんなことは気にしないでね……こんなときにこそ、力を貸してあげなければ、友だちがいもないじゃない。わたしは最後の最後まで、あなたの味方のつもりなのよ」
悦子の言葉を聞いているうちに、自然に涙がにじんで来た。こうして東京を離れ、孤独になってしまったせいもあるだろうが、友情のありがたさが身にしみた。悦子が自分にかくしている何かの秘密があろうとは、想像もできないことだった。
「こちらへ来たのは、お父さんに会うためでしょう?」
「ええ……」
東京でなら、なんとかごまかしきったろうが、恭子は思わずうなずいてしまった。
「寺崎さんの指図なのね? まさかあのいやらしい須藤俊吉の言うとおり動いていたわけではないでしょう?」
恭子の忍耐力は堰《せき》を切った。いっさいの自制心を失ってしまって、今まで悦子に隠していたことまで、すべての秘密を奔流のようにぶちまけてしまった。
「そうなの? そうだったの? あなたは、よくそれでいままでひとりでがまんできたわね」
悦子はしみじみと、眼をふきながらつぶやいていた。
「とにかく今夜はおやすみなさい。何も考えずに、お薬でも飲んで……わたしもいろいろお話ししたいことがあるけれども、それは明日にしましょうね。これはわたしの使っているよくきく催眠薬、これを二錠のめばたいてい眠れるわ」
自分でコップに水を注いでさしだし、薬を飲むまで見とどけてから、悦子は、
「お休みなさい」
と声をかけて部屋を出た。
恭子は洋服をぬいで、ベッドの上に横たわったが、五分もしないうちに電話のベルが鳴りはじめた。
「東京からお電話でございます……」
事務的なフロントの声に続いて、
「お嬢さん、僕です。寺崎です。どうにか、東京での用事がかたづきましたから、明日はそちらへ行けると思います。いまのところ、事は順調に進んでいますから、ご安心ください。ひとりでお寂しいでしょうが、いま一息の辛抱ですよ」
「ありがとう、ほんとうにありがとうございました……」
「まさか、そちらでは誰も知っている人には会わないでしょうね?」
だめを押すような聞き方だったが、恭子は震えがとまらなかった。
「それが……友だちの尾形悦子さんが、東京から、私を追いかけてきたのです。いままでここで、いろいろと、私をなぐさめてくれましたが……」
「なんですって!」
寺崎義男の声は、悲鳴に近かった。
「どうしてそんな……それで、あなたはまさか、僕とのことを話しはしなかったでしょうね。秘密は打ちあけなかったでしょうね」
「それが、まるで気が狂いそうで……」
「秘密を全部、ぶちまけてしまったとでもいうのですか?」
もちろん、寺崎義男にしても、興奮のあまり我を忘れていたにちがいない。激しい怒りを一瞬にたたきつけてくるような声だった。
「すみません……なんとも申しわけありません……」
「物には、わびてすむことと、すまないことがあります。あなたのために、僕はある一線を踏み越えました。その以前ならともかくも、そのあとで僕を裏切ったのですか!」
「私、私、どんなことをしてでもおわびを……」
「とにかく、僕もいまさらあとへはひけません。といって、長距離電話でこれ以上話していてもしかたがないし……明日、神戸へ飛んでから、あらためて善後策を考えましょう」
お休みなさいの一言もつけ加えず、寺崎義男はたたきつけるように電話を切った。恭子はベッドに身を投げて、ただ泣きつづけるばかりだった。
三郎はひきとめられるままに、真田検事の自宅で十一時近くまで過ごしていた。
検事という職業では、私生活はどうしても一般社会と隔絶されるだけに、検事一体制を持ちだすまでもなく、仲間同士の交際はほかの社会より緊密になる。真田検事も、この辺で三郎の労をねぎらおうとしてくれているようだった。
その好意はよくわかったが、三郎はまだおちつけなかった。酒もいつものようにはいらなかったし、家庭的な雰囲気にもなかなか溶けこめなかった。
八時ごろには、神戸の原田検事から電話があった。夕方行なわれた第二次の捜査は、やはり溝口一家の幹部の情婦の家だったが、期待に反して、こちらからは麻薬はぜんぜん発見されなかったというのだった。
「第一次攻撃と第二次攻撃の間に、少し時間をおきすぎたのではないのかな。まあ、むこうのほうには、いろいろと事情もあるのだろうから、東京と神戸でとやかく批判するわけにはいくまいがね」
その話を伝えたとき、真田検事はちょっと首をかしげながら言った。しかし、五本の線のうち、一つでも収穫があがれば、検事としての面目は立つというものだ。
おそらく、最初の攻撃のニュースが流れたために、ほかの場所でも危険を感じて、隠していた麻薬をよそへ移してしまったのだろうと三郎は考えていた。
そして、三郎がそろそろいとまを告げようとしていたころ、神戸から二度目の電話があった。
尾形悦子からだった。ホテルに着いたら、様子だけでも知らせてくれと、三郎はこの家の電話番号を教えておいたのだった。
「霧島さん、たいへんなことになりました」
悦子の声は震えていた。
「どうしたのです。あの人に何か?」
「いいえ、恭子さんに変わったことがあったというわけではありません。とても、やつれてはいますけれど……催眠薬を飲ませて、すぐ寝るように言っておきましたから……」
「それはご苦労さまでした。ほんとうにありがとうございます。それで、たいへんなことというのは?」
「あの人も、一人になって、もうがまんができなくなったのかもしれません。わたしがあなたと秘密に連絡をとっていることも見やぶれなかったのでしょうが、結局、わたしはあの人から、残りの秘密を全部聞きだしてしまったのです」
「なんですって?」
三郎も、受話器をぐっと握りしめて、
「その内容は? 新しくわかったことはどんなことです?」
「あんまりお話がデリケートなので、電話ではとても申しあげられそうにもありません……」
「要点だけでも、だめでしょうか?」
「ほんとうならば、わたしが明日の朝、早くにでも飛んで帰ればいいのでしょうが、明日あたり、寺崎さんのほうから、何かの連絡がありそうなのです。恭子さんのいまの神経なら、どんなことになるかと思います。眼を放せそうにもない気がします」
「わかりました。といって、あなたのいまの立場を考えれば、このことについては、原田君に相談をというわけにはいきませんね」
「はい、わたしには、とても……」
「それでは、こういうことにしましょう」
三郎も一瞬の思案の後で腹をきめた。
「僕のほうで、明日もう一度神戸へ飛びます。場合によっては日帰り覚悟で……ただ、その話の内容は、この事件の解決に直接役だつような、重大な要素を含んでいるのでしょうね?」
「はい……それでは、おいでになる前に、東京でなさってきていただきたいことだけを申しあげます。第一に、竜田さんのお父さんは、きょうはどうなっているかわかりませんが、上野から歩いて十五分ぐらいのところにある長谷川という人の家にかくまわれていたようです。いまは隠居しているようですが、もとは香具師の親分だったというのですから、警察で調べたならば、住所のほうも、すぐにわかるんじゃないでしょうか?」
「上野から徒歩十五分、長谷川という香具師の家……」
三郎は胸をしめつけられる思いでくりかえした。この情報一つを聞いただけでも、悦子が恭子から聞いた話が重要そのものだということは想像がついた。
「そうなのです。恭子さんの話では、寺崎さんが、ある女を尾行していって、偶然その家から出てきた竜田さんらしい人を見かけたのだそうです。詳しいあやは、とても一口ではお話しできませんけれども……」
「わかりました。ほかには何か?」
「帝国ホテルをお調べください。これも、きょうまでいるかどうかはわかりませんけれども、陳志徳は香港からやってきて、ここに滞在していたはずです」
「部屋の番号はわかりませんね?」
「恭子さんも、部屋へは行っていないそうです。ロビーで会って、それからお食事に行ったというのですが、これも寺崎さんのほうが最初につかんだ線だそうです。ですから、寺崎さんなら、部屋の番号も知っているとは思いますが……」
「いや、僕がそうおたずねしたのは、偽名で泊まっていたのではないかと考えたからです。もちろん、本名で泊まっていたなら、警察を通して、すぐに調べがつきますが、ほかには何かありませんか?」
「わたしも、頭がだいぶ混乱していますから……でも、いまのところ、東京で新しく手をお打ちになるのは、その二つだけだと思います」
「わかりました。それでは明日……」
いますぐに聞きたいことは山ほどあったが、気丈なようでもまだ年のわかい娘だけに、悦子が興奮しきっていることは、電話を通しても、よく感じられた。三郎もはやる心を押さえ、ていねいにその労を感謝して電話を切った。
茶の間にもどると、真田検事は三郎の顔を一目見ただけで、何かあったなと直感したらしかった。
「霧島君、もう一度むこうへ行こうか」
自分が先に立って、洋間へはいると、
「いまの電話は、神戸から、尾形さんという女の人だったようだね。もと検事をしていた尾形弁護士と関係がある人なのかな」
「そこまで見やぶられてはしかたがありません。尾形弁護士のお嬢さんの悦子さんが、僕のために、かげで動いてくれているのです。検事としては、こんな手段をとるのは、間違っているかしれませんが……」
部長から、こう鋭くつっこまれたのでは、三郎もいっさいを告白するしかなかった。いまの悦子の電話の内容を、いま一度くりかえし、
「そういうわけで、明日にでも僕はもう一度神戸へ飛んでみたいと思いますが……」
とつけ加えた。
「うむ、そうしたまえ。もともと君を検事正がこの事件に起用したというのは、たいへんな奇法なのだ。君がふつうの場合のような正攻法にたよらなくてもしかたがないだろう。いますぐ警察のほうへ連絡をとりたまえ。帝国ホテルの宿泊人名簿はすぐに調べられるだろう。長谷川のほうは、この時間だとすぐにふみこむわけにはいかないだろうが、場合によっては、麻薬統制令か何かの容疑で家宅捜索を行なってもよい。全責任は僕がとるから、この家へ連絡してもらってはどうだ」
酒もかなりはいっているはずなのに、顔の温和さはいつのまにか消え、いかにも検事らしい峻厳《しゆんげん》さが、顔のすみずみにまでみなぎりはじめた。三郎は駆けだすように廊下へ出て、電話で連絡をとって帰ってきた。
「報告が来るまで、三十分はかかるかな。君は今晩だけでも、どこかのホテルに泊まったほうがいいかもしれないな」
真田検事はひとりごとのようにつぶやくと、いくらか憂いを帯びた声で、
「霧島君、尾形情報ではまだ事件の全貌《ぜんぼう》はわからないが、今聞いた話だけから判断すると、竜田弁護士は須藤俊吉の手中に握られているようなものだね。だから、恭子さんがお父さんを助けたい一心で、須藤の指示どおり動くというなら話はわかる。ただ、実際問題として、恭子さんは寺崎義男の指示にしたがって行動しているわけだ。ここに奇妙なギャップがありはしないだろうか?」
「あの人は、いま一種の錯乱状態で、魂が抜けたようになっているようです。ですから、強烈な暗示があれば、人形のように行動するでしょう」
「それはわかる。ただ、寺崎義男のほうは、かりに竜田弁護士の所在をつきとめられたとしても、恭子さんにひきあわせることはできないはずなのだよ。そこで、この二人をつなぐ線が、陳志徳だということになってくるはずだが……」
真田検事は黙りこんだ。顔の沈痛な表情はしだいしだいに濃くなった。心にはまだはっきりした形をとらない不安が渦まいているのだろう。
そのとき電話の連絡があった。帝国ホテルに問いあわせた警察の報告だったが、その結果、陳志徳という中国人は、この一か月宿泊したことはないとわかった。
「偽名ですかね。やはり……」
三郎の報告を聞いて真田検事は顔を歪《ゆが》めた。
「そうかもしれない。そうでなければ、寺崎義男もだまされていたのかもしれない。もし、そうだとすれば、恭子さんの行動は、そのまま何かの危険に直結しそうだね」
第三十七章 恭子は消えた
その翌日の十時半に、霧島三郎は北原大八といっしょに羽田空港へかけつけた。
香具屋《てきや》の長谷川省吾の家には、早朝麻薬統制令違反の容疑で、家宅捜索が行なわれたのだが、その結果はあまりかんばしいものではなかった。
家にいたのは、長谷川夫婦だけだった。隠居しているために、人の出入りもあまり多くなく、女中も使っていないのだが、竜田弁護士の姿は見えず、その所持品と思われる物も発見されなかった。
麻薬の類《たぐい》も何ひとつ見つからなかったが、無届で日本刀二ふりと、拳銃《けんじゆう》を一挺《いつちよう》所持していたのが、警察側には救いとなった。銃砲刀所持禁止令違反で、いちおう夫婦を警察へ連れてくると、竜田慎作との関係を追及にかかったのだが、二人とも口をそろえて、そんな人は知りませんの一点ばりだということだった。もちろん、四十八時間の持時間はあるのだが、警察の留置所などはなんとも思わない筋金入りの香具師だけに、確実な証拠をおさえないかぎり、このままずるずると時間切れに持ちこまれるおそれは十分にある。
出かける前に、電話でそういう報告を聞いて、三郎は思わず溜息《ためいき》をもらしていた。
この空港の待合室では、二度まで思いがけない人間に会い、思いがけない事態を展開している。今度も誰かに会わないかと三郎は十一時の出発まぎわまで、あたりを注意しつづけたが、きょうはやくざっぽい人相の男さえ一人も見あたらなかった。
やはり疲れが出たのか、三郎は飛行機の中ではたえず眠りつづけていた。伊丹空港へ着いたとき北原大八は、
「検事さん、きょうは富士山がきれいに見えましたよ。お休みになっていて残念でしたね」
と子供っぽいことを言っていたが、三郎の心はもう神戸へ飛んでしまっていた。
伊丹から車を飛ばして、神戸地検へはいると三郎は北原大八に、
「僕は原田検事といろいろ打ち合わせがあるから三時間ぐらい、市内見物してきたまえ」
と言いわたし、原田豊の側の事務官も遠ざけてもらって、秘密の対談に移った。
「尾形さんのほうからの連絡は?」
「きのう、飛行場から電話があったので、恭子さんが乗った車のナンバーと、ホテルにはりこんでいた刑事との連絡方法を教えておいた。きょうはまだ二人ともホテルにいるらしい」
「ありがとう。実は昨夜おそく、尾形さんのほうから、部長の自宅で待っていた僕のところへ電話があってね。あの人は、たまらなくなって、尾形さんにいっさいの秘密を打ちあけたらしい。その内容は、とても電話では話しきれないらしいんで、僕がこうして飛んできたんだが」
「うむ……そっちのほうの話は、君が来たらもう僕の出る幕はないわけだな。君も早急に話が聞きたかろうが、むこうを検察庁へ呼び出すわけにはいくまい。といって、ホテルのロビーで話していて、恭子さんに見つかった日には、とんだ藪蛇《やぶへび》だろうしな」
「どこか、ホテルの近くの喫茶店にでも行こう。ところで、その前にかんたんにこっちのその後の様子を聞かせてもらえないか」
「わかった。麻薬告発状の第二号の捜査が失敗に終わったことは電話で言ったね。そのために、第三号と第四号の処置は現在考慮中だ。本来ならば、四か所を手分けして、同時に襲うべきだったよ。それが、あの男が一つ一つと順を追ってと言ったというので、何か含みがあるのだろうと思ったのさ。歪んだ男の歪んだ言葉を信用したのは、あきらかに僕のミスだったがね」
原田豊は男らしく言いきったが、もちろん三郎にはそれをせめることはできなかった。歪んだ男の歪んだ言葉――ただ、この一言は多分に暗示的だった。この事件では、こういう場面が至るところにあらわれ、自分たちの正確な判断を妨げているような気がしたのだった。
「君をゆすった男女二人は、いま警察で取り調べている。女のほうは、だいぶ軟化して来た様子だから、いずれ報告はあるだろう。裏の事情はともかくとして、表むきはたいした事件じゃないんだから、四十八時間の警察の調べのあいだに、検事があまり口を出すのもどうかと思ってね」
「ありがとう。こうなれば、そっちのほうはあとでもいいが、ほかに何か?」
原田検事の顔はかすかにかげった。
「神戸は僕の縄ばりだから、君の注文があればできるだけのことは手伝うよ。ただ、ここで一つだけ個人的な忠告をしておきたいな。尾形悦子という女性は、ほんとうに信用できるかね?」
「なぜだ。もと検事で弁護士の娘が……」
「おやじさんの経歴などはこのさい別問題だ。何しろ、女というものは、検事にとっても、理解のむずかしい相手だよ」
原田豊はかすかな溜息とともに続けた。
「その彼女が、君に惚《ほ》れているということはないのかね?」
「まさか……」
「検事にとっても『まさか』は一つの禁句だよ。もし尾形さんが、最初から君に愛情のようなものを感じていて、あの人が現われたためにあきらめたとする。そうでなければ、今度の事件で、二人の仲をとりもっている間に、君に愛情を感じはじめたか、どっちにせよ、そうなれば、君とあの人の仲が決定的に裂かれるのは自分にとっては、けっして残念な事態じゃないだろうな」
「でも、僕があの人と結婚できなくなったとしても、すぐに彼女と……」
「もちろん、そんなわけにはいくまい。ただ、どんなりっぱな、どんな聡明《そうめい》な女にも、嫉妬《しつと》の感情はあるものだよ。その嫉妬が、こんな場合に作用したら……僕は、君が彼女の話を聞くときに、検事として、証人が被告人の行動について証言するのを聞くような冷静さを期待したいんだよ」
検察庁からホテルへ電話をかけて、三郎はホテルから百メートルほどのところにある蘭≠ニいう喫茶店へ悦子を呼び出した。
「わざわざおいでくださってすみません。あなたと、神戸などでお会いするとは、わたし、考えておりませんでしたわ」
原田豊の忠告があったせいかもしれないが、三郎は悦子の顔と言葉に、かすかな喜悦がただよっているように感じた。これではいけないと、心をきびしくひきしめながら、
「あなたには、ほんとうにご迷惑をおかけしてしまいましたね。お礼はあとでゆっくり申しあげるとして、まずあの人から打ちあけられた秘密というのを話してくださいませんか」
とうながした。悦子はすなおに要領よく、ホテルで恭子の口から聞いた秘密を全部打ちあけた。三郎は、すべての言葉、すべての秘密を一つ一つ噛《か》みしめて吟味するかのように冷たい批判力を働かせつづけたが、細かな言葉の表現のあやは別として、話の大筋は疑えなかった。むろん、不自然な点や理解に苦しむところはあるが、もともとこの事件なり、二人のおかれた境遇は異常きわまるものだった。
「よくわかりました。お話は……あなたのおっしゃるように、長谷川という香具師の家も捜索してみましたが、竜田弁護士は見つかりませんでした。恭子さんたちが、西へ動いていることを考えあわせると、彼のほうも、東京から関西へ移動しているのかもしれません。長谷川夫婦が、もし須藤俊吉に頼まれて、彼をかくまっていたのだとしても、この二人の口から、その事実なり、次の行く先をつきとめることは不可能でしょう」
「それでは、陳志徳のほうは?」
「帝国ホテルに、そういうお客は泊まっていなかったのです。ただ、これは偽名で宿泊した可能性も大ありなはずですから、話が嘘《うそ》だったと言いきれません。たとえば、寺崎氏のほうが、偽名を知っていたのかもしれませんし、また最初にルーム・ナンバーを聞いていたら、あとは電話の連絡にも、なんの不自然さもなかったでしょうし……」
「でも、霧島さん、まさかあなたは、わたしが嘘をついているとはお考えになっていないでしょうね。わたしはあの人から聞いたことを、そのままできるだけ正確に、おとりつぎしたつもりですけれども」
「それはあなたの眼を見ただけでわかりました。こちらが恋愛か何かで夢中になっていればともかく、検事に面と向かって嘘をつきおおせられる人間はまずいないでしょうね」
悦子は溜息をついてうつむいた。もし、原田豊の推測があたっていたら、この言葉は悦子にとっても鋭い皮肉に聞こえたろう。
「あの……わざわざ、あなたに神戸まで来ていただくほどのことはなかったでしょうか」
うつむいたまま、悦子は聞いた。
「そんなことはありませんよ。たとえ最悪の場合でも、こちらへ来れば、このお話のほかにも何かのおみやげは持って帰れますよ。脇筋の麻薬事件のほうではなく、本筋の殺人事件の捜査のほうで……」
これはけっして、悦子に対するなぐさめだけではなかった。一日一日と近づいてくる総選挙の対策もあるだろうが、塚原正直がいま神戸の自宅へ帰っていることは東京で確かめておいた。自分の行動が、予想していない経路をたどりながらも、彼の期待しているような方向に動き出した現在では、彼の口から、もっと重大な手がかりも得られるだろうと、三郎は感じていたのだった。
「それで、わたしは、これから、どうすればいいのでしょうか?」
「もう一日か二日、あの人から眼を離さないようにしてくださいませんか。日本旅館と違ってホテルはその点不便でしょうが、僕の予想ではきょうか明日じゅうには、かならず神戸で、何かの事件が起こると思うのです」
これもけっして、三郎のはったりではなかった。ふさ子は尋問をすませてから、旅行は明日ぐらいに出発したいともらしたのだ。
三次での墓参が、ただの名目で、真の目的地が神戸だとしたなら、帰りに父と会うということはまずないだろう。
須藤俊吉のほうも、恭子とは別に、この兄に対しても何かの条件を持ち出し、秘密に父と会わせてやると持ちかけたのかもしれない……。
「はい、わかりました。それだったら、わたしにできるだけのことはやってみます。まずきょうから、べつべつのお部屋ではなく、ツウィンのお部屋に移るよう説き伏せますわ」
「そうしてください。そうすれば、なにか外部から連絡があっても気がつくでしょうし、あの人の身に危険が迫ることもなんとか防げるでしょう」
悦子は黙って立ち上がった。そして、店先の電話で、ホテルへ連絡しているようだったが、やがてその体はがたがた震えはじめた。酔っているような足どりで、こちらへもどってくると、
「霧島さん、あの人が、ホテルから出かけてしまったらしいんです」
と、声を上ずらせながら言いだした。
「なんですって?」
三郎も自分の耳を疑いたくなる思いで、
「留守中に……誰かの連絡があったのですね。きっと、寺崎義男君から……」
「わたしも、そうではないかと思います。あの人の気持は今ふつうの状態とは思えません。夢遊病者のようなものですから、何かの強い暗示があれば、わたしのことなど、すぐに忘れてしまうんじゃないかと思います……」
二人はだまってお互いの眼を見つめあっていた。やがて、悦子は自分に対する気休めのように、
「でも……ひょっとしたら、わたしたちがあんまり気をまわしすぎているのかもしれませんわね。あの人にしたって、きのうは一日、部屋にとじこもってばかりいたわけですし、いつまでも連絡がないので、くさくさして街へ散歩に出たのかもしれませんわ」
「その考えは甘すぎるでしょうね」
三郎は大きく首を振った。
「とにかく、あなたはすぐにホテルへ帰ってみてください。僕もいっしょに行きたいところですが、万一、恭子さんが帰ってきた日には、それこそ収拾がつきませんからね。僕はいったん、検察庁へ帰って、原田君と善後策を相談します。よそへまわるようなことがあっても、原田君のところで、行く先がわかるようにしておきますから……」
三郎はすぐ車を飛ばして検察庁へ帰り、原田検事にこのことを相談したが、もちろん名案がとっさに浮かぶはずはなかった。
「須藤俊吉、兄夫婦、この線はまず考えられないね。とすると、やはり寺崎義男が、神戸へやってきて、誘いだしたという見方がいちばん強いわけだな」
「ひょっとしたら、昨夜のうちに、尾形さんが自分の部屋へもどってきてから、何か電話の連絡があったのかもしれない。だから、監視の眼が離れたと見た瞬間に、ホテルを出て約束の場所へ向かったということも考えられる」
「すると、これっきり、ホテルへは帰ってこない可能性もあるわけだ。少なくとも、最初の目的を貫徹するまではね」
原田豊は、色が変わるほど唇を噛みしめて、
「警察を通じて、管内の宿屋や何かを調べさせることはできないでもないよ。しかし、こうなれば、かりに宿屋に泊まるとしても、神戸市内に宿をとるかどうかはわからない……もし、個人の家にでも泊まるとしたら、何かの拍子で、その場所がはっきりつかめないかぎり、とても捜しきれるものじゃない。殺人容疑者なんかのように指名手配もできないし」
少し、オーバーな表現だが、三郎は笑うにも笑えなかった。
「まあ、理屈を言えば、あの人がどこかで父親と会ったとしても、それだけで、直接自分の身に、危険が迫るおそれはまずないはずだ。ただ、僕には一つ、こわいことがある」
「それは?」
「僕の命を二度までも狙《ねら》った敵のことなんだよ」
三郎は茶碗を鷲《わし》づかみにして、冷たくなりかけたお茶を一気に飲みほした。
「前の二人の女の殺害は、竜田弁護士の犯罪だと見るのがいちばん妥当だろう。最初は痴情、そして次には、女の口から自分の秘密がばれそうになったので、恐怖のあまりにと考えれば理解できないこともない。もちろん、ほかに犯人がおり、ほかの動機で殺人をやったと考えられないでもないが、いままで捜査本部が努力しても、ほかの線は考えられなかったんだ」
「うむ……」
「ところが、竜田弁護士が、僕を狙ってくるとは、とうてい想像もできないんだ。これが、ふつうの場合にしても、殺人をおかして逃げまわっている人間が、積極的に事件の担当検事の命を狙うようなことは考えられるものじゃない。だから、こちらは小林一家の誰かのしわざと考えたほうが、まだしも理屈は通る。それならば、こちらのほうが犬糞的《いぬくそてき》な復讐欲《ふくしゆうよく》で、あの人の命を狙うということも考えられない話じゃないね」
「霧島君、君はまた少しノイローゼになってきたんじゃないのかな」
原田検事は同情するような眼で三郎を見つめ、
「たしかに、その姐御《あねご》のほうも、少し気持が転倒しているようだから、亭主の死んだいまとなっては、身内の少し足りないような男をそそのかして、竜田一家の兄妹を狙わせることもあるかもしれない。これにしても、僕の常識で言えば、どうかなということになる。だが……ただ恭子さんにしても、寺崎義男にしても、そうかんたんに彼らに尻尾《しつぽ》をつかませるような行動はしなかったろうがね」
「僕もそう思ってはいるんだよ。ただ、あの人が僕と羽田で出会ったのは偶然だとしても、そのとき、尾形さんは尾行に成功しているんだ。そして、寺崎義男がどんな行動をとっているかは、僕にはぜんぜんわからない。そして、僕たちが検察庁の地下の食堂でいっしょになったことまで、この敵にはちゃんとわかっているんだよ」
原田検事が眼をしばたたいたとき、電話のベルが鳴った。
「霧島君、北原君からだよ」
この事務官の電話なら、どうせたいした用事ではなかろうと思いながら、三郎は受話器を取り上げたが、
「検事さん、たいへんです!」
という声はすっかり上ずっていた。
「どうした? 何があったんだ?」
「お許しが出たので、私は船で港めぐりをして、それからタワーに上がったんです。ところがおりてきたときに須藤俊吉にぶつかったんです」
「須藤俊吉? 彼もやっぱり、いま神戸に来ているんだね。それでどうした?」
「私が尾行しようか、それとも警察へ知らせようかと、ちょっと思案をしている間に、彼はタクシーに乗ったんです……あいにく、空いている車は、ほかに一台もなかったので」
「車の番号は見とどけたろうね?」
「はい、兵5―4198番でした」
「うむ、わかった。それではすぐに帰ってきたまえ」
三郎が受話器を置くと同時に、原田検事はデスクの上に身をのりだして、
「須藤俊吉が、その番号の車に乗ったのか」
「そうらしい。港のタワーの下からだというのだが」
「すぐに手配をしてみよう。もし無線車だったらすぐに連絡がつくが……」
と言うなり、原田検事は電話で警察へ連絡をとり、その車の調査を命令した。
その間、三郎は煙草に火もつけず、指でもみくちゃにしながら思案を続けていた。
たしかに竜田弁護士の身柄をおさえているはずのこの男が、突然この街に現われたというのはただごととは思えなかった。
しかも港の付近を歩きまわっているというのは、一種の偵察行為かもしれない。
そして、恭子はそれとほとんど同時に、ホテルから姿を消してしまっている……。
悦子の話から判断したかぎりでは、恭子は現在、この男の指示によって動く可能性はなさそうだが、それも、絶対に――と言いきれることではない。もしも、須藤俊吉が電話ででも、直接竜田弁護士と話す機会を与えたならば、恭子の心境にはどのような変化が起こってもふしぎはないのだ……。
「さあ、霧島君、僕たちにできることはのこらずやりおおせたようだね。僕はいま人事をつくして天命を待つという気持だよ」
粛然とした調子で、原田豊はつぶやいた。
「霧島君、世間では、犯罪捜査に関するかぎり、検事は神さまのような存在だと思っている。また犯罪者の中には、鬼か悪魔かと思いこむような相手もいる。しかし検事は人間だ。強大な組織の中の微力な人間、僕はときどきふわっとそんなことを考えるんだがねえ」
あらゆる検事が一度はいだく感慨だが、それはそのまま現在の三郎の心境にほかならなかった。
第三十八章 第三の殺人
三郎にとっては、たえず焦慮を感じさせる長い一日だったが、いつものように夜はやってきた。
塚原正直との面会は、むこうが田舎へ行っているというので、翌日に延期された。
ホテルから抜けだした恭子の行く先も、いっこうにわからず、須藤俊吉のその後の足どりもつかめなかった。
検事という仕事では、ある意味で、警察官以上の忍耐力が必要とされるものだが、三郎は検事になってから、これほど神経をすりへらしたことはなかった。
楠荘≠ヨひきあげてきて、ほしくもない夕食をとってから、三郎は、北原大八に誘われるままに将棋をはじめた。
さすがに駒の動きだけは間違えなかったが、定跡も思い出せなければ、手も読めなかった。たえず見えすいたはめ手にひっかかって連戦連敗の惨憺たる結果が続いた。
「検事さんは、やっぱりどうかしていらっしゃいますな」
王手飛車とりをかけた大八のほうが、かえって気の毒がっていた。
「疲れているんだろうな。きょうはこのくらいでよしておこう」
三郎が苦笑いして、駒を投げたとき、電話がかかってきた。原田検事からだったが、すっかり逆上してしまったような声で、
「霧島君、殺人だ。えらいことになったよ」
「誰が殺されたんだ? 僕のほうの事件に関係のある人間か?」
殺人と聞いた瞬間には三郎にも震えがきていた。被害者の名前を耳にするのが、一分一秒でもおくれてくれないかという妙な気持が働いた。
「もちろん、関係がなければ電話などしない。いま聞いたところでは、竜田慎一郎――おそらく間違いはないと思う」
「いつ、どこでだ?」
「彼ら夫婦はきょうの夕方、六甲山ホテルに泊まっていた。晩飯をすまして散歩に出たというのだが、ホテルからそれほど遠くないところで、ピストルで射殺されたらしい。詳細はまだ不明だが」
「細君のほうはどうしたのだ?」
「こちらは、ハンドバッグを撃たれてひっくりかえったらしい。半狂乱で、ろくろく口もきけないようだが、命に別状はないらしい」
「それでは、犯人を目撃しているわけだね。人相風体、そのほかの特徴も、落ち着きをとりもどしさえすればわかるというわけだね」
「そう思うな。本来ならばこの事件は今津検事の係りだが、竜田という名前が出たので、とくに知らせてもらったんだ。これからすぐに出かけるが、いっしょに行くなら、そっちへ寄って迎えにいく」
「行くとも。すぐに支度をする」
ここまでのやりとりは、検事としての神経で終始できたが、受話器を置いた瞬間に、個人としての感情がもどってきた。
額から首筋にかけては、一面に冷汗がにじみでていた。
慎一郎が殺された。きのう東京で会ったばかりの彼が神戸で殺害された……。
頭の中で、何かの声が鳴りひびくのだが、正確な判断はできなかった。いや、死体の顔を見るまでは、いまの話も信じきれない思いだった。
「どうかなさったのですか? 検事さん」
北原大八も驚いたように眼をまるくしていたが、三郎は、
「竜田慎一郎が殺されたよ。ピストルで。六甲山ホテルの近くらしい」
と言ったきり、洋服を着はじめた。
「彼が神戸で……その犯人というのは、きっと検事さんをこの間から狙っていたやつと同一犯人ですね?」
「そうかもしれない……いや、その公算は大きいと思うが、すべて予断は禁物だ」
洋服を着おわったとき、迎えの車がやってきた。北原大八も同行したいと言いだしたが、人数の都合で、三郎だけが同乗することになった。
今津検事とは前にも何度か顔を合わせた旧知の仲なのだが、三郎は今度はかるく挨拶《あいさつ》をしただけだった。同乗の原田検事も、三郎の心境を思いやっているのか、車の中では、ほとんど口もきかなかった。
車は夜の六甲ドライブウェイを走りつづけた。ときどき、展望がぐっと開けて、神戸の人間が百万ドルの夜景と自慢する街から港にかけての灯が、七彩の星座のように見えるのだが、いまの三郎には、そういう美しさは、なんの注意もひかなかった。
車はホテルらしい建物の前を通りすぎ、広い空地の一画で止まった。
「ここは展望台になっていて、有馬《ありま》のほうへ抜ける道もある。夏になると、夜でも観光客がたえないのだがね」
車をおりながら、原田検事は重い口調で説明してくれた。
何台かの警察の車が止まり、そこからだいぶはなれた所には、かなりの人間が集まっていた。車を近くまで寄せないのは、地上に残されているかもしれない足跡その他の証拠を乱すまいとする配慮からだろう。
三郎たちは、歩いてその群れの中に加わった。原田検事は、制服の警官と小声でささやきあっていたが、
「霧島君、まず死体を確認してくれたまえ」
と言うなり、自分でひざまずいて、死体の上にかぶせてあったむしろをまきあげた。
間違いなかった。おそらく至近弾かと思われる穴が右額のあたりにあき、そこからはべっとりと血がにじみでている。
顔全体の印象はすっかり変わってしまっているが、三郎には見あやまるはずもなかった。
「霧島君……」
原田検事に後ろから肩をたたかれて、三郎はふらつく足を踏みしめながら立ち上がった。
「まちがいはありません。どうしてこんなことになったか……」
口からは平凡な言葉しか出なかった。しかし、死体にむかって合掌したとき、三郎は自分の死体に自分が礼拝しているような気になったくらいだった。
三郎はすぐ東京の捜査本部にこのことを連絡し、桑原警部なり部下の刑事なりを呼びよせ、こちらの警察と協力して捜査にあたらせるつもりだった。
だから、神戸の警察の基本的な捜査が終わるまでは、出しゃばらずに、ひかえ目な態度をとるつもりでいたのだが、これもその予定どおりにはいかなかった。
死体の確認を終わってからまもなく、原田検事から事情を聞いたらしい真鍋銓造《まなべせんぞう》という警部が、彼のところへやってきて、
「検事さんに折りいってお願いがあるのですが、ひとつお力をお貸しねがえませんか」
と言いだしたのだ。
「なんでしょうか。僕にできることでしたら」
「じつは、被害者の奥さんの取調べにお立ちあい願いたいのです」
「ほう、それはどうして?」
「無理もないこととは思いますが、奥さんのほうは半狂乱と言いたいような状態なのです。いや、新婚早々の旦那《だんな》さんを、ほとんど自分の眼の前で射殺されては、動揺するなと言うほうが間違っているでしょう。われわれとしても、個人的な感情としては、しばらくそっとしておきたいようなところですが……」
警部の言葉は、要するに、前に何度か会ったことのある三郎なら、ふさ子のほうもわりあいに抵抗を感ぜずに、犯人の人相その他、捜査の開始に必要ないろいろの事実を漏らしてくれるのではないかという点につきるのだった。これは三郎にとっても渡りに舟だった。ほんとうならば、自分からたのんでも、ふさ子は早く自分で取り調べたいところだったから、彼は今津、原田の両検事と相談のうえ、一足先に六甲山ホテルへ向かった。
ホテルでは、小さな宴会などに使われるらしい部屋を臨時の調べ室に貸してくれた。
いったん部屋へ帰っていたふさ子は、そこへ呼び出されてきたのだが、三郎には、その顔も女の幽霊のように思われた。
あまり激しい興奮のために、かえって涙も出ないのかもしれないが、両眼はうつろにかわき、瞳《ひとみ》もぼやけているようだった。化粧は崩れ、唇は力なくゆるんでいる。三郎の顔を見ても、誰かわからないように、その表情は変わりもしなかった。
「霧島です。今度は思いがけないことで……心からお悔やみを申しあげます。ちょうど、こちらに来あわせていたので、捜査のお手伝いをすることになったのですが」
「はい……」
聞こえるか聞こえないかというような低い声だった。ふさ子自身が答えたのではなく、胎内の子供がかわって答えているのではないかと思われたくらいだった。
「こうなれば、一時間でも早く、犯人をつかまえるのが、旦那さんへのご供養だと思うのです。時間がおくれれば犯人が逃亡するおそれもあり、捜査が手おくれになるおそれもありますので……お気持はよくお察ししますが、ひとつかんたんな質問にお答えくださいませんでしょうか……」
「はい……」
「犯人の人相、風体《ふうてい》は?」
「電灯からだいぶ離れておりましたから、はっきりしたことは……わたくしの見たところでは、若いやくざふうの男でしたが……」
「ご存じのお方ではないのですね?」
「わたくしは一度も……」
「ご主人のほうはどうでした?」
「やはり、知合いとは思えませんでした」
最初は口ごもっていたふさ子も、たいへんな努力はしているのだろうが、しだいに、はっきりした返答をするようになってきた。
「それでは、夜になって、なぜあんなところまで出ていかれたのですか? ただの散歩ではなかったでしょうに」
「はい……お夕食がすみましてから、ちょっと出てこようと、わたくしを誘いまして……ほかの場所には眼もくれず、まっすぐあそこへ参りましたから、誰かとあそこで会うような約束でもあったのではないかと……」
「これがふつうのお客なら、ホテルへ訪ねてきてもらってもいいはずですね。人目を忍ぶ秘密の相手――ということは、ご主人のほうは、逃亡中のお父さんとここでおちあうつもりだったと考えられないでしょうか?」
「わたくしも、そうだったろうと思います。いいえ、うすうすそう察しながら、ついてまいりました……」
「ということは、誰かを通じて秘密の連絡のようなものがあったとしか思えませんね。その仲介者は誰だったでしょう?」
「わたくしには、いまのところ見当もつきませんが……」
「それでは、話はもとにもどりますが、あなたがたは、あの現場へ着かれてからどうなさったのです?」
「いちおう、展望台の上から、神戸の夜景を眺めまして……その間、主人はとても、時計を気にしておりました。それから、階段をおりていって、あそこの近くへ行きましたら、突然あの男が現われて、ピストルを撃ったのです」
「その間、話のやりとりはありましたか……」
「わたくしもびっくりしてしまいましたので、何がなんだかわからないくらい混乱しておりますが、たしか、
『竜田さんですね』
『そうだ』
という短い言葉のやりとり以外、問答はいっさいなかったように覚えています」
「むこうとしては、本人に間違いなければ、そのあとは殺しさえすればよいと思っていたようですね。そして、拳銃《けんじゆう》は何発?」
「三発だったと思います。三度目にわたくしも気絶してしまいましたから……むこうもそれで二人とも死んだものだと思いこんで、逃げ出したのでしょう」
「それであなたは?」
「どのくらいの時間、気を失っていたのか、わたくしにはおぼえがありません。気丈なつもりでも、このとおりふつうの体ではございませんから……気がついてみると主人は死んでおりました。わたくしが怪我《けが》をしていなかったのはふしぎなくらいでしたが、それからあわててホテルへ飛んで帰ったのです」
「わかりました。それでは理論的に見て、ご主人を現場へ誘いだした人間が、犯人だったか、または犯人と共謀していたかという疑惑が濃厚になってくるわけです。その人物にあなたはお心あたりがありませんか?」
「さあ……」
「ホテルへ着いてから、あとで電話はかかってきませんでしたか?」
「わたくしがお手洗へ行っておりましたあいだに一度……そのほかには気がつきませんでした」
「神戸へ途中立ちよって、このホテルへ泊まるというのは、ご主人の発案だったのですか」
「はい……」
「そのことについて、東京で、ご主人が誰かと相談なさったようなことはなかったでしょうか?」
「わたくしは、ぜんぜん気がつきませんでした……」
「たとえば須藤俊吉氏から、ご主人に東京で電話はありませんでしたか?」
「はい、何度か長い電話がありました」
「寺崎義男氏のほうはどうだったでしょう」
「あの人は、恭子さんとは緊密に、たえず連絡をとっていたようですが、主人のほうには一度も……わたくしの知っておりますかぎりでは……」
ふさ子の顔色はまた青ざめ、額には玉の汗がにじみでてきた。三郎の眼にもこれ以上の尋問は無理なように思われた。横にいる真鍋警部もその心を察したようにかるくうなずいていた。
「それでは、いちおうおひきとりいただいて結構です」
と三郎が言ったのに、ふさ子は首を振って、
「もう少し休ませていただきますが、あとではお通夜をさせていただかないと、わたくしの気がすみません……それはともかく、恭子さんのほうには連絡がつきましたでしょうか。神戸にいらっしゃっているはずなのに、このことを教えてあげないと、わたくしも恨まれますでしょうに」
と、三郎の痛いところをついて来た。
「それが、お昼にオリエンタル・ホテルを出たきり、どこへ行ったかわからないのです。こっちから連絡をして帰りしだい、すぐこちらへやって来るように申しましょう」
「恭子さんにも、万一のことはないでしょうか? こんなことがあったので、わたくしも疑心暗鬼になっているのかもしれませんが……」
ひとりごとのようなつぶやきだったが、この一言は三郎の胸を短剣のようにえぐった。
ふさ子が部屋へ帰ってから、三郎は問題のハンドバッグを見せてもらった。
その片側には穴があき、弾丸は中のコンパクトに当たってとまっていた。鏡はめちゃくちゃにくだけているし、銀の蓋《ふた》もひしゃげてしまっているが、これがふしぎに弾丸の力を減殺して、貫通を食いとめたらしかった。
「細かなことはあらためて聞いてみないといけませんが、きっとつり紐《ひも》を腕に通していたのがよかったのでしょう。手に持っていたり、かかえていたりしたならば、最初に被害者が撃たれたとき、落としてしまうでしょうから」
真鍋警部は溜息《ためいき》をついて説明をつけ加えた。
「とにかく、これで犯人がどこかのやくざらしいということは、はっきりしましたね。もちろん、検事さんのおっしゃったように、仲介者が誰かという問題はあとに残るわけですが、そのやくざが、どういう系列の一家に属する人間か、お心あたりはないでしょうか?」
真鍋警部にしてみれば、事件の全貌《ぜんぼう》はまだつかんでいないのだから、こういう質問をするのも無理はないことだったろう。
「もちろんこれは僕一個人の推量ですから、間違っていないとは言いきれませんが、神戸の溝口一家と東京の小林一家をつなぐ線、この線か、その延長上に、犯人はひそんでいるのではないかと思いますよ」
「なるほど、線上というと身内の者、延長というと、息のかかった一匹狼みたいな殺し屋というわけですな。ああいう連中は、事件を起こすと、すぐに自首して出る例が多いのですがねえ」
「ところが、今度はそうはいきますまい。僕にも犯人の名前まではわかりませんが、この主犯はおそろしく凶悪な人間だということまでは見当もつきますね。たいへんな利口者でありながら、感覚なりものの考え方はひん曲がっている……ふつうの単純なやくざでは、実行できない犯罪じゃないでしょうか」
「やくざの犯罪でも、ちょっと毛色の変わったものになると、計画を立てる将軍なり参謀と、その筋書にしたがって暴力をふるう鉄砲玉のような兵隊とはっきりわかれていることが多いものですよ。実行部隊の人間はつかまえられても、その裏の黒幕の正体がわからないことはよくありますがね」
真鍋警部は、いかにも捜査畑のベテランらしい手がたい言葉を吐いていた。
そのうちに、捜査の基本となるような細かな事実がつぎつぎにわかってきた。
二人がホテルを出たのは、八時ちょっと前だったらしい。そして、ふさ子が動転したようになって、ホテルへかけもどって来たのは八時五十分ちょっと過ぎだということだった。
これから推定して、犯行は八時十五分から二十分ごろに行なわれたという公算が強くなった。そして、犯人が自動車を準備してきたとすれば、ふさ子の急報で警察が活動を開始するまでには、悠々と神戸市内へ逃げこめるだろう。また、別の道を通って、たとえば有馬のほうへ逃走した公算も絶無とは思えなかった。
現在のところ、この二人がホテルを出てから、その姿を目撃した者もなかったし、また犯人らしい人物の姿を見たという人間も現われなかった。銃声を耳にした者もなかったのである。
ホテルのほうには、たしかに電話はかかってきていた。しかし、神戸の市内電話では、長距離電話の場合と違って、どこからかかってきたか調べることは不可能だった。
三郎は、今津検事、原田検事、真鍋警部たちと今後の捜査方針について打ち合わせる一方、たえずオリエンタル・ホテルに連絡を続けていたが、悦子もこの悲報には半狂乱といいたいくらい興奮していた。
「まだなんです。ホテルへはまだもどってきていませんし、なんの連絡もないんです!」
電話のたびに、叫ぶように悦子はくりかえした。
「そちらへもうかがいたいと思いますけれど、わたしが出かけたあとで、恭子さんが帰って来たらと思いますと……あの人のほうは大丈夫なのでしょうか?」
それはいまの三郎に答えられる質問ではなかった。
第三十九章 二つの道
恭子はその一夜を、須磨の寺に近い、あるしもた屋の二階で過ごしていた。
ここは、寺崎義男の親類の家だということだった。経歴は聞きもしなかったが、実直そうな老夫婦だけが住んでいて、二階の部屋は空いていたのだ。
窓をあけて、夜風であつい頭を冷やしながら、恭子はきょう一日の出来事をふりかえってみた。まるで悪夢の中の動きとしか思えないようなことの連続だった……。
ホテルから、外へぬけ出すのは、思ったよりもかんたんだった。地下のグリルへ行ってお茶を飲んで、鍵《かぎ》を持ったまま、直接街へ通じる入口から外へ出たのだ。
それから車を何度か乗りかえ、三宮駅前の早苗《さなえ》≠ニいう喫茶店へやってくると、そこには約束どおり、寺崎義男が待っていた。
いつもより顔色はずっと悪く、眼だけがぎらぎら光っていたが、彼はべつに恭子をせめもしなかった。
「まあ、過ぎたことをいまさらとやかく言ったところでしかたがありません。しかし、東京だけならともかく、こうして神戸までやってきて、同じホテルに泊まるようでは、尾形さんのほうも、誰か――霧島さんあたりのスパイだという可能性も計算に入れておかなければいけませんね。これ以上、あのホテルに滞在することは危険だと思います」
という言葉のほうはいつもの調子で、ぜんぜん乱れてはいなかった。
「ほんとうにすみませんでした。それでは、ほかの宿屋にでも……」
「宿屋のほうにも、全部といっていいくらい警察の通知があったかもしれませんね。思いすごしと言えばそれまでですが、こういう場合には、たえず最悪の事態を前提としてかかるくらいの用心が必要でしょう」
というような話をしたあげく、義男はこの家のことを持ちだしたのだった。
知らない人の家に泊めてもらうということは、恭子には身がすくむようにいやだった。
しかし、義男は気がおけない家だからと何度もくりかえし、自分はよそへ泊まると約束し、恭子が世話になる理由は自分がなんとか考えだすからと言いつづけた。一時は、父に会う計画も放棄してしまおうかと考えていた恭子も、最後には負けてしまった。
もちろん、自分の神経が参りきっているせいもあるだろうが、寺崎義男には、たいへんな説得力と、催眠術師のように、人の心を迷わす力がそなわっているのではないかと、恭子は感じたくらいだった。
寺崎義男は、当然、この家まで送ってきてくれた。
車の中で、恭子は、
「あなたはお父さんにお会いになって?」
とたずねてみたのだが、義男はその質問には首を振って、
「会ってはいません。ただ、陳志徳という人は信頼できると思っています」
と答えただけだった。
しかし、この家へやってきてからは、義男も三時間にわたって、詳しい話をしてくれた。陳志徳が竜田慎作から聞いたという話の受け売りだから、細かな点については、いくらか違いがあるかもしれないと注釈はついていたし、また、ふつうの常識ではとうてい考えられないような不可解な話なのだが、こういう異常な条件を前提として考えると、なるほどとうなずけるような筋も通っていたのだった。
本間春江は、麻薬の中毒患者だった。それも小林準一と同じような考えをおこして、自分の薬代を浮かすために、麻薬の取引のほうにも加わりはじめたということだった。
もちろん、竜田弁護士は、最初はそのことにはぜんぜん気がつかなかったらしい。しかし、麻薬夫婦というような言葉もあるように、この秘密が暴露しては、いつ捨てられるかもしれないと心配して、春江は竜田慎作にも注射を始めたというのである。
最初は、強精剤の注射だとごまかしていたというのだが、どんなに利口な男でも、惚れた女に対しては眼が見えなくなるものなのだ。医学的な知識はあまり持ちあわせのない弁護士の彼が、ある時期まで女の言葉にだまされつづけ、その結果、かなりの中毒症状を呈してきたことも、けっしてふしぎではない。
しかし、彼はあるとき、健康診断を受け、医者からその事実を指摘されて、飛び上がらんばかりに驚いたというのである。本来ならば、すぐに入院して、徹底的に治療を始めるところだろうが、ひとつの重大な民事事件を引き受けていて、それがぎりぎりの土壇場というような段階に来ていたために、あと半月はこのまま頑張ろう。その間に、本間春江の行動についても、私立探偵を使って、できるだけの調査を進めてやろうというような気になったというのだった。
その結果が判明したとき、彼は本間春江を徹底的に罵倒《ばとう》したらしい。春江も悪女の本性をあらわにして、逆にやりかえしたというのだが、そのとき竜田弁護士は薬《やく》がきれかけて異常な精神状態にあったらしく、かっとなって女を殺してしまったというのだった。
これが、アパートでの殺人の真相だったとすれば、そのいきさつも、なるほどとうなずける。
竜田弁護士はそのあとで、注射器と薬とを見つけだして、自分で注射し、どうにか落ち着きをとりもどした。
もし、法律なり刑務所生活の恐ろしさをよく知っていない素人なら、彼はそのときすぐに自首して出たかもしれない。しかし、法律家としての彼の知識は、ここで恐怖を生じさせ、その行動をためらわせた。
彼がこのとき、陳志徳という人物の名前を思い出し、国外脱出という考えをおこしたことは、当然のことかもしれない。
その直後の彼の行動に、いくらか乱れが出たことも、人間としてはやむをえないことだったろう。彼は鹿内桂子のアパートを訪ね、ここで一夜を過ごしたのだ。この点に関するかぎり、桂子の警察での供述には嘘《うそ》があったということになってくるが、それは女の性格から出たものだったかもしれない。
竜田慎作は、それから陳志徳の横浜の友人のことを思い出し、そちらに連絡をとったが、彼のほうも密出国というようなことについては、手を知らなかった。とりあえず、香港の陳志徳に、国際電話で連絡をとってくれたのが、最大の尽力だったのである。
そのうちに、竜田慎作はまた麻薬の禁断症状に悩みはじめた。彼がこのとき、須藤俊吉の存在を思いついて、そちらに相談を持ちかけたのは、一か八かというような行動だったに違いないが、俊吉のほうが、案外かんたんにこの相談にのったのは、一つにはその歪《ゆが》んだ性格のあらわれだったろうし、また一つには、父親の運命というものを餌《えさ》につかうことによって、恭子を征服してやろうという野望をおこしたためだろう。
とにかく、須藤俊吉は、前に知合いだった長谷川省吾の家へ竜田慎作をあずけ、その線からさしあたり必要な麻薬を提供してもらうとともに、恭子への接触を狙《ねら》いはじめた。
それと平行して、彼は横浜の中国人とともに、香港の陳志徳との間に、何度かの連絡を続けた。その結果、陳志徳は香港でいっさいの準備を終わり、自分は飛行機で一足先に、日本へ飛んで来たというのである。
陳志徳が秘密に依頼した船の船長は、神戸で竜田慎作を船に乗せ、香港へつれもどることになっていた。
こういう特定の船を待たなければならない関係で、日本での潜伏期間が長くなるのも、それはしかたがないことだった。そして、第二の殺人、鹿内桂子の殺害は、この女が自分を裏切って、秘密を捜査陣に漏らしたことを悟ってわれを忘れ、かっとなって、手をくだしたということだった。ストリキニーネのほうは、万一の場合、自殺するために、たえず持ち歩いているというのである……。
寺崎義男が、陳志徳に体あたりして、これだけの秘密を聞き出したとき、竜田慎作は東京を離れ、自動車で関西へ向かったということだった。飛行機や汽車を使ったのでは、警察側に発見される危険が少なくないと考えたのだろう。
しかし、横浜と神戸に住んでいる陳志徳の二人の友人の名前だけは、寺崎義男もどうしても教えてもらえなかったというのだった。
万一あとでこのことが露見しても、友人には累を及ぼすまいという陳志徳の配慮のせいだったかもしれない。
陳志徳から、これだけのことを探りだした寺崎義男は、神戸へやってきてあるところに身をひそめ、あらためて陳志徳からの連絡を待っているというのだった。そちらから通知があれば、すぐに飛んでくるからと言い残して義男は帰って行ったのだが、夜にはいっても彼は恭子の前に姿を現わさなかったのである……。
恭子には、窓の外の夜色が『無明《むみよう》の闇《やみ》』というもののように思われてしかたがなかった。この話がほんとうだとしたならば、父は不幸な罪人だというほかはない。
しかし、恭子は、その父がうまくこの脱出計画に成功して、香港でもどこでも、自由な身で余生を過ごしてほしいと祈りつづけていた。
寺崎義男が、恭子の前に姿を現わしたのはその翌朝のことだった。
「お嬢さん、たいへんなことになりました。もう僕はどうしてよいか、さっぱりわからなくなりました」
という声は悲痛そのものだった。きのうの顔も深刻そのものといった表情だったが、きょうの悲壮な表情はきのうよりさらに人間ばなれしていた。
「どうしたの? もしや、お父さまがつかまって……」
「そういうわけではないのです。朝刊はごらんになっていないのですか?」
髪を両手でかきむしりながら、義男はたずねて来た。
「いいえ……何かあったんですか?」
「ええ……お兄さんが、神戸で、六甲山の上で、射殺されたというのです」
恭子は激しいめまいを感じた。体が震えだしたのは、それからしばらくしてからだった。義男はその間に、鞄《かばん》から何枚かの朝刊を取り出して、
「僕もこの事件のほうは、さっぱりわけがわからないのです。とりあえず、新聞をできるだけ集めてきたのですが、とにかくこれをごらんになってください」
と言って頭をたれてしまった。
恭子も震える手で新聞を開き、事件の記事に眼を通した。活字の行列は右左にふるえているようだった。かんたんな報道の内容を理解するまでにもだいぶ時間がかかった。
「寺崎さん……私は、どうすればいいんでしょう?」
「いまのこの大事な時期に、こういう突発事件です……僕にもまだ名案は浮かびません。お嬢さんの判断にまかせたいくらいです」
「私も、どうしたらよいかわからないわ……」
「いま僕が思いついている方法は二つあります。第一の方法は、お嬢さんがすぐ警察へ出頭なさって、妹としての責任を全うなさることです。しかし、その場合には、お父さんとお会いになる計画は断念していただかなければならないでしょう。第二の方法は、このまま陳さんの連絡をお待ちになることです。その場合には、お兄さんの死顔を見ることは、断念していただくことになりますが……」
自分ほど不幸な女はいるだろうかと、恭子は運命を呪《のろ》いたくなった。
父親と恋人と、どちらかを選ばなければならなくなっただけでも、気が狂うのではないかと思ったくらいなのに、今度は父と兄とを選ぶというような深刻な問題さえ加わったのだ。
恭子はもう息もつけない思いだった。
「私にはどうしていいかわからないわ。あなたのご意見どおりにするわ……」
「今度ばかりは、僕自身、自分の行動さえ判断がつかないでいるのですよ」
義男の顔は苦痛に歪んだ。
「ただ、これだけはなんとか決心がきまりました。先生が、世間の眼から見ればたいへんな悪人であり、犯罪者だったとしても、いま一度だけお助けしようという僕の決心は変わりません。ですから、もしお嬢さんが警察へ名のりでて、お兄さんの死顔を見ようというお考えだったなら、きのう僕がお話ししたことは、いっさい他人にもらしてはいただきたくないのです……今度こそ、神仏に誓って……万一、このことが、警察側なり検察庁の耳にはいったら、僕が犯人蔵匿の罪に問われるだけではなく、あなたが自分の手でお父さんの首をしめるようなことになるということはおわかりでしょうね」
「わかりました……」
「それから、もう一つの道は、死んでしまったものはしかたがないとあきらめ、生きている人間のほうが大事だという悟りに徹することですね。残酷な言葉のようですが、これはどんな人間にでも、心の中にひそんでいる考えです。そのときは、兄さんの死顔を見ようという考えはいっさい捨てて、最初の方針を貫徹なさるんですね」
「わかりました」
「とにかく、僕としては、お嬢さんにこの二つの道のどちらか一つを選んでいただきたいのです。今度ばかりは両天秤《りようてんびん》をかけるというようなことは許されないと思います。もし、お嬢さんが警察と連絡をとられるようでしたら、僕はこれきりお別れします。そして、先生をお助けするという最初の目的を達成するまでは、二度とお嬢さんの前に顔を出さないつもりです」
「わかりました……」
完全に麻痺《まひ》した恭子の頭にも、寺崎義男の言葉に一本太い理屈の筋が通っていることはわかった。
「でもすぐにご返事はできませんわ。こんな重大な問題では……ちょっと考えさせてくださいません?」
「結構です。それでは僕は一度出かけて、お昼すぎにでも帰ってきます……それまでに陳さんと連絡はとれると思いますが、そのときまでは、どっちの道をお選びになるとしても、直接行動には出ないと誓ってくださいますね」
神戸の六甲署では早朝から捜査会議が開かれていた。
東京の捜査本部からは、桑原警部は来なかったが、その腹心の津田沼、木島の両刑事が夜行列車で飛んできて、その席に加わった。
議論は激しく展開されたが、結局溝口一家と小林一家の身内、それにこの系列に関係のある一匹狼のような人間を徹底的に洗いあげれば、かならず犯人はわかるはずだという考えが大方針となった。
「今度は、溝口一家にとっても、たいへんなショックだろうねえ」
その報告を聞いた原田検事は三郎に向かって言った。
「こうなると、警察でも暴力係は腕をふるい出すからな。たとえば、徹底的に彼らの住居を洗いだすと、日本刀やピストルはぞくぞくあらわれてくるだろう。もし、そうして押収されたピストルのどれかに、今度の事件で使われたものが発見されたなら、それでこの事件はいちおう解決だがねえ」
「それはたしかに捜査の常道、定石だよ。ただその方法が、うまく成果をあげるかどうか。たとえば、犯人が事件の直後に、凶器を処分してしまったというような事態も考えなければならないだろう」
三郎の心はもうこの問題にはなかった。行方もわからぬ恭子のことが最大の関心事だったが、自分のほうからは、なかなかその問題にはふれられなかった。
「この事件が選挙に及ぼす影響はどんなものかねえ」
わざと、あたりさわりのない質問をしてみると、原田豊も首をひねって、
「さあ、選挙運動に直接関係している人間は一種の群集心理に支配されるから、ちょっとした出来事にでも一喜一憂したがるが、この事件がさらに広がって、溝口一家が壊滅するようなことにでもなればともかく、この程度では、黒沢大吉の得票には、ほとんど影響もないんじゃないかな」
と常識的な返事をしただけだった。
そのとき、尾形悦子から三郎に電話がかかってきた。
「霧島さん、あの人から、恭子さんから電話がありました!」
「そうですか? 本人に間違いありませんね」
「間違いないと思います」
「それで、あの人はいまどこに?」
「それが、わたしがどんなにたずねても、居場所はあかさないのです。けっして無法に監禁されているわけではないし、こうして自分で、電話をかけられるくらいだから、心配しないで――と言うだけなんです」
「それで、今度の事件のことは知っているのですか?」
「新聞を見て、おどろいたとは言っていました。ほんとうならば、すぐにでもかけつけなければならないところだが、特別重大な事情があって、そうはできないと言うのです。あと何時間かたってから、もう一度連絡をとる。そのときまでは、わたし一人の胸にたたんでおいてもらいたいと言っていましたが……」
悦子のほうも、激しい不安と動揺をおさえきれなくなっているらしい。電話もちょっととぎれた。
「しかし、お兄さんのほうにしても、ホテルで自由に過ごしていたのに、ああいう目にあってしまったのです。寺崎さんのほうが、誠心誠意行動していたとしても、二人そろってだまされていないとは言いきれませんでしょう。そこまで考えると、前からのあなたとのお約束がなかったとしても、このままこのことを自分一人の胸に隠しておくことは間違っていると思ったのです」
「わかりました……一人しかない兄さんの殺されたことを知って、それでも顔を出せないというのは、神戸で彼に会うという最初の大目的が、眼の前に迫っているためだとしか思えませんね。あなたはそのことについては、だめを押さなかったのですか?」
「それはもちろん、できるだけのことはやってみました……ところが、その点になると、恭子さんは泣きだしそうになって、ぜんぜん返事もしてくれません……これが、面と向かって、顔色を見ながら、お話をするのなら、なんとか手もあると思いますが、電話ではとてもそれ以上は……」
「わかりました。それではご迷惑ですが、あとしばらく、そちらで待ってくださいませんか」
と言って、三郎は電話を切ったが、原田検事はいまの会話の内容を残らず耳にしたような調子で言った。
「霧島君、あの人が無事らしくってよかったねえ。ただ、検事としては手ばなしで喜ぶべき事態ではなさそうだが……」
第四十章 歪んだ男
「いや、私も実は朝刊で慎一郎君の記事を見てびっくりしたのですよ。ただ、朝のうちはのっぴきならない先約が重なっていましたので……あなたとのお話が終わりしだい、お悔やみにまいるつもりでおります」
約束どおり、午前十一時に三郎が神戸の山の手、閑静な住宅街にある塚原正直の自宅を訪ねると、正直は沈痛な表情で眉《まゆ》をひそめ、今度の事件のことに触れてきた。
「われわれにとっても、今度の事件は、完全に虚をつかれたような出来事でした。お二人が関西へ旅行に出ることはわかっていましたから、尾行はつけておいたのですが、そっちはうまくまかれてしまったのです。捜査本部のほうでは羽田の空港警察に連絡をとって、私服の刑事にたえず見まわらせていたのですが、こちらへは汽車でやってきたようですね。ここの地検の原田検事も各旅館やホテルのほうに、手配はしておいてくれたのですが、宿帳の名前は違っていました。偽名というわけではなく、ペンネームだったそうですが……そういうわけで、この犯罪を事前に防止できなかったのは、たいへん残念に思います」
「それもしかたがないことですね。これも運命といいましょうか。死神にとりつかれた人間は、本人が安全な場所を場所をと狙っていながら、逆に死地に飛びこんでいっていることが多いのですよ。これは今度の戦争で、私が身にしみて体験したことでした」
政治に志すような人間は、どうしても能弁なものだが、正直もきょうは一種の感慨にとらわれているのか、言葉もぽつぽつとぎれがちだった。
「ただ、慎一郎君は、インテリにも似あわず、超心理学と称する心霊学の研究などにも、首をつっこんでいましたから、ふつうの人間よりは、危険を予知する力が強かったんじゃないかと思うんですがねえ」
「あの人にそういう趣味があったのですか、つまり霊媒現象のようなことを研究するのでしょうか?」
「占いのようなお告げもいろいろあるようですが、慎一郎君が信じていたのは、霊療とかいって、掌から出る人体放射能とかいうもので、病気を治す方法だったようですね。その術をかける人間の名前は熊沢《くまざわ》とか言ったと思います。終戦後、熊沢天皇という男が現われたことがありましょう。あれと同じ名前だったので、私も覚えているのです」
「まあ、それは一種の精神療法でしょうから、神経系の病気には効能がないとも言えますまいが、ふつうの病気に対しては、どれだけのききめがありますかねえ」
「ところが、私が間接的に聞いた話では、現代の医学ではどうにもならないような症状が三月ほど前から奇跡的に全快したというのですよ。それ以来、慎一郎君の霊療に対する帰依ぶりは、いっそう病的になってきたらしいのですがねえ」
「三月ほど前から?」
三郎の頭には、このとき妙な考えがひらめいた。
「その病気が何か、あなたは聞いておられませんでしたか?」
「私はそんな方面には、ぜんぜん関心がなかったので、竜田君から話があったときにも、ただ、うんうんとうなずいていたものです」
「わかりました……それで、あなたは今度の慎一郎氏の殺害について、何かお心あたりはないでしょうか?」
「新聞には、犯人はやくざふうの男だと書いてありましたね。その線をおすと、やはり溝口一家なり小林一家の者という推定ができるんじゃないでしょうか?」
「いまのところ、捜査陣としては、大勢もそういう意見に傾いているのですがねえ」
「とにかく、私の知っているかぎりでは、小林一家というのは、東京の山の手では麻薬の取引では相当の大物らしいのですがねえ。どうして警察側がいままでそのことに気がつかなかったか、私はふしぎに思っているのですよ。だから、その元締の小林にしてみれば、煙草でもくわえて睨《にら》みをきかしているだけで、毎月百万以上の収入にはなったでしょう。その財源が消滅しそうになってきたら、二人や三人を殺してもやむをえないと思うでしょう」
「あなたは前から、竜田弁護士は殺されたのだという説をとっておいででしたね。それは、竜田氏の調査が、彼らの秘密の核心に触れたためと考えればうなずけないこともないでしょう。ただ、今度の事件については、どうお考えです? 彼らが慎一郎氏まで、犠牲の槍玉《やりだま》にあげようとする気持はわかりかねますが」
「彼らにすれば、親分が逮捕されたときに、あなたを襲ったくらいでしょう。その親分が死んだのも、もとは竜田君のせいだとか、あなたが逮捕したからだと歪んだ考えにとりつかれるかもしれませんねえ」
「しかし、僕はこんなことも考えているのですよ。親分をなくした小林一家は、いちおう勢力をなくしましょう。ただ、彼らを通じて麻薬を手に入れていた連中が、実際に相当数いたならば、その後にはまた小林一家にかわる組織が生まれてくるでしょう。ただ、それが小林、溝口系ではなく、その反対派の勢力に属する一家だということもありえないとは言えますまい」
「霧島さん、するとあなたは、私がこの事件のかげで、糸をあやつっていたとでもおっしゃるのですか?」
塚原正直は眼を怒らせた。
「そういうことは申しませんが、ただ、あなたは扇屋一家の田川庄介という男をご存じありませんかね?」
正直のくわえていた煙草の煙はかすかに乱れた。
「さあ、どこかで会ったことはあるかもしれませんが、よく覚えてはいませんね」
「この男は、現在脅迫の容疑で、ここの警察につかまっています。こともあろうに、僕をおどかしたのですが、ところが彼のせりふときたら、まるであなたの代弁者のようなものでしたよ。つまり、どういう犠牲をはらっても、検察庁の手で溝口一家の勢力をそごうとさせる点において、完全に一致しているのです。彼の犯行は確定的なものですし、これからの取調べの進行状態によってはどういう方面に波及しないとも言えますまいね」
「…………」
「場合によっては、あなた自身も参考人として、警察なり検察庁なりへ、何度もおいでいただくようになるかもしれません。総選挙を眼の前にひかえた重大な時期に、お気の毒とは思いますが、これもしかたがないことでしょう」
正直の眼には、かすかな動揺の色が感じられた。
「霧島さん、それであなたは、私にどうしろとおっしゃるのです?」
「あなたがここで、ご自分の知っておられる秘密を全部打ちあけてくださるなら、そういう最悪の事態は、できるだけ避けるようにしたいと思いますが」
はったりといえば、はったりにはちがいない。しかし検事の仕事には、ある程度のはったりも必要な戦法の一つだった。
「迷惑ですな。私が何か、今度の事件に関係があると思われることは……選挙には、フェア・プレイの精神が必要だというのは、私がたえず力説していることですがねえ」
虚勢をはっているように、正直がつぶやいたとき、三郎に検察庁から電話がかかった。いま一押しこのまま押しつづければ、何かがつかめそうだったが、原田検事からの急用と言われてはしかたがなかった。
「霧島君、尾形さんが、えらい手柄をたてたよ!」
原田検事の声もはずんでいた。
「え、あの人が?」
「そうじゃない。須藤俊吉が、オリエンタル・ホテルのほうに現われたので、すぐ一一〇番へ電話してくれたのだ。本人の身柄はいま六甲署へ連れていく途中だ」
「彼が、彼がつかまったのか……」
三郎も溜息《ためいき》をついていた。この獣じみた曲者《くせもの》も、いまなら料理もできそうに思えた。
「それでは僕もすぐ六甲署へかけつけよう」
電話を切って、応接間へ帰ると正直もわずかの間に、体勢をたてなおしたらしく、
「霧島さん、私はきょうこれからのっぴきならない約束があるのです。明日にでもまたあらためてゆっくりお話ししたいと思いますが」
と逃げを打ってきた。
「結構です。正式な召喚は、明日の午後までお待ちしましょう」
もしも、自分に対する二度の攻撃が、扇屋の側から行なわれたものとしたら、今夜にでも三度目の攻撃があるかもしれないと思いながら、三郎は鋭くはね返すように答えた。
六甲署の調べ室で、三郎に相対したとき、須藤俊吉も一瞬眉をひそめたが、すぐに不逞《ふてい》といいたいような態度にかわって、
「霧島さん、あなたと神戸でお会いするとは思いませんでしたねえ」
とうそぶくように言った。
「神戸へは、なんの目的で来たのですか?」
「レジャーを楽しむためですよ」
「オリエンタル・ホテルには?」
「昼食でも食おうかと思いましてね」
「それで、あなたは慎一郎氏が昨夜殺されたことを知らなかったのですか? 朝刊も見なかったというのですか?」
「私は新聞はスポーツ欄ぐらいしか読みませんので。警察のおかたから、その話を聞いたときには、びっくり仰天したのですよ。これから、死顔でも見せてもらい、線香でもあげさせてもらおうと思っています」
「昨夜はどこに泊まったのです?」
「大阪の寿楽≠ニいう旅館でした。しかし、晩はアルサロで遊んでいましたからね。アリバイの証人にはことを欠きませんよ」
異常な性格だとしても、頭はたしかに鋭いのだ。こういう答えも、たえず三郎の先手をとろうとしているようだった。
「あなたは、上野の長谷川という香具師《てきや》を知っているでしょう」
「さあ、ぜんぜん覚えがありませんな」
さすがに眉のあたりが、かすかに動いたが、声の調子はほとんど変わらなかった。
「彼に頼んで、その家に竜田弁護士をかくまった覚えもないというのですか?」
「ほう、何を証拠にそんなことを……竜田さんでもつかまって、そう自白したとでもいうのですか」
三郎も、かすかな焦りと、激しい怒りを感じていた。たしかにこの相手の行動はわかっている。その裏の理由に対しても推理はできる。ただ、きめ手となるような証拠を欠いているのが弱みだった。
「それで、あなたは竜田恭子さんのところへある女を使って、録音機とライターを持たせてやった覚えもないというのですか。そのライターは竜田弁護士のもので、録音機にはあなたとの会話が秘密に録音されていたというではありませんか」
「さあ、どんな女がどんな物を持って、どこを訪ねていったとしても、それが私の示唆だと言えますかねえ。その女はいったいどこの誰です? そのライターなり録音機は、警察で証拠として押収でもしてあるのですか?」
三郎は相手の横っ面をひっぱたいてやりたいような思いだった。
「しかし、それがなければ、恭子さんはホテル・ニュージャパンまで出かけていくことはなかったでしょう。あなたは、この二つの物を証拠にして、逃走中の竜田弁護士に会わせてやるという条件で、恭子さんを呼び出したのではないのですか?」
「その女も、品物のことも知りませんが、恭子さんとデイトの約束をしたのは事実でしたねえ。悲しみのどん底に沈んで、ノイローゼみたいになっている女には、男の情というものが何よりの妙薬なのですよ。僕は放蕩無頼《ほうとうぶらい》といわれるような生活をずっと送ってきた男ですが、そのおかげで女というものの気持は人一倍、理解できるようになったつもりです」
この男が一種の性格破綻者だということは、三郎も前から感じていた。しかし、その腐敗ぶりがこれほど徹底していようとは、さすがに思ってもいなかった。
「まあ、あなたがそこまで事実を否認するのならいたしかたがありません。犯人隠匿の容疑で逮捕するしかないでしょう。旅先で、長い監禁生活を送ってもよいというのですね」
「なるほど、二十二日間、留置所入りというわけですか?」
須藤俊吉は唇を歪めて笑った。
「そういうことになるのは、もちろんいやですね。しかし、こうなってはしかたがありません。災難だと思ってあきらめましょう。ただ、僕を何日つついてみても、あなたがたは裁判所へ持ち出せるだけの証拠は何ひとつ、捜しだせるわけがありませんよ。検事さんには大黒星という結末になりそうですな」
三郎は検事になってから、これほど取調べ中の相手に怒りを感じたことはなかった。この男には、他人を苦しめ、いためつけて喜ぶ加虐性とともに、自分が苦痛を受けて喜ぶ被虐性が、共存しているのではないかと思ったのだ。
「なるほど、留置所入りを希望するような人間が、インテリの中にいようとは思いませんでしたね。ただ、あなたはそれよりも、精神病院のほうへはいったほうがいいかもしれませんな。あなたが裁判にかかったら、弁護士さんはきっと精神鑑定を申請してくるでしょうからね」
三郎としては、怒りをこういう皮肉で表わすほかには方法もなかったが、須藤俊吉は冷たい眼に怒りの色をみなぎらせ、あざけるように、
「僕を精神異常というのですか。馬鹿な……僕は心身ともに健全そのものですよ。精神異常と言っていいような人間は、ほかに大勢いるでしょう」
「精神病の患者というのは、自分だけがまともで、まわりの人間がみんなおかしいんだと思いこんでいるようですがね。たとえば、あなたは、誰が精神異常だというのです?」
「たとえば、殺された慎一郎君、彼などは僕に言わせれば、完全におかしかったですね」
「ほう、いったいあの人のどんなところがおかしかったというのですか?」
「個人の生活方針となると、それはその本人の自由な意思によってきまるものですから、少しぐらい変わった行動があったとしても、それだけで異常とは言いませんがね。彼の霊療に対する傾倒ぶりは、完全に狂信と言いたいくらいでしたよ。さすがの僕があきれかえって、水をぶっかけてやったくらいです」
「それはどういうことなのです?」
「まあ、ふつうのお医者に言わせても、病気は気のものというように、ほっておいても治る病気は六割ぐらいあると言いますね。そんな病気なら、精神療法で治せないとは言いませんよ。ただ、現在の医学では、絶対に治せないと証明されている病気を治したということになったら、これは奇跡か、さもなければインチキだということは誰にもわかることでしょう。私は奇跡を信じきれない男でしてね。だから、彼には、君は二人にだまされているのだろう。そんな話を信じるなら、まったく異常だ。念のために、もう一度、信用できるお医者に相談してみてはどうだと、口をすっぱくして言ったのですがね」
「その病気というのはなんですか? 二人というのは誰なのです?」
「それはあなたがたが、自分で調べたらいいんじゃないですか。慎一郎君の死体も手もとにあることだし、法医解剖ともなれば、死体をどんなに切り刻んでも苦情は出ない……どういう人間を容疑者なり参考人なりとして呼び出そうが、それはあなたがたの権限でしょう」
恭子を征服しようとして、しかも目的を達しえなかったことに対する憤りが、この男の心に渦まき、歪んだ形で爆発していることは間違いなかった。現在の段階で、もうこの男をこれ以上調べても、なんの手がかりもつかめるとは思えなかった。
検察庁に残っていた原田検事も、こちらの様子は気になってたまらなかったのだろう。
三郎が、電話でいちおうの取調べの状況を話して聞かせると、
「僕も前から、須藤俊吉というのは、完全な精神異常者ではないかと思っていたよ。典型的なドン・ファンだというから、もう頭に来てしまっているのかもしれないな」
「うん、しかし、偏執狂という言葉もあるように、異常じみた人間は、ある一つのことに集中した場合には、とんでもなく鋭くなることもあるんだよ。たとえば、今度の事件にしたところで、彼はわれわれに尻尾《しつぽ》をつかませるようなへまなことは一つもやっていないんだ」
「たしかに話を聞いてみても、恭子さんには『あなたのお父さん』に会わせるというようなことは、ひとことも言っていないようだからね。たえず、『ある人』というような呼び方をしていたというんだろう。そういう点を考えただけでも、人一倍、頭は切れる男のような気がするがね……こういってはなんだが、恭子さんの話にしたところで、法律的には伝聞証拠だ。竜田弁護士でもつかまって、その口からいっさいの秘密がもれたならともかく、そうでなければ、彼を犯人隠匿罪で起訴するには証拠不十分だな」
「僕もそういう気がしている。かりに二十二日のあいだ、絞めあげたとしても、これ以上泥を吐かないんじゃないかという気もする」
「それに、現在の段階では、彼をつかまえてみたところで、竜田弁護士のほうには、べつに影響はないかもしれないな。彼はもう、陳志徳の手にわたったというような公算が大きいだろう」
電話を通して、原田豊の大きな溜息が伝わってきた。
「霧島君、それで君はこれからどうするつもりだ?」
「彼の尋問は、ぜんぜんむだではなかったような気もするがね。いま、慎一郎氏の手帳をたよりに、東京の捜査本部へ、ある調査を依頼したところだよ。それから、死体の法医解剖に追加条件を持ちだした。医学的には、たいへんむずかしいことらしいが、もし僕の勘があたっていたら、これはこの事件のきめ手になりかねないよ」
「ほう、それはいったいどんな問題だね?」
「それは、会ってから話そう。しかし、僕はやっと、この事件の本筋にぶつかったような気がしてきたよ。歪んだ男の歪んだ考え――たしかにいままで、われわれはそれにひきずりまわされていたのかもしれない」
「まあ、君が自信をとりもどしてくれて結構だ。しかし、あの人の消息がまだわからないのは心配だね……」
「そのことについても、僕は希望を持ちはじめたよ。もし、僕の考えがあたっていたならば……」
第四十一章 奇跡は起こっていない
寺崎義男が、恭子のところへ姿を現わしたのは、午後二時ごろのことだった。
慣れない土地で、たいへんな仕事に神経をすりへらしているせいか、その顔は朝よりもやつれが濃くなってきたようだった。前にはめだたなかった、眼の下の黒い色も急にはっきりしてきたようだった。
「お嬢さん、申しわけありません。ちゃんとむこうの指定どおりの行動をとっているのですが、まだ連絡がつかないのです」
義男は畳に両手をついて、全責任が自分にあると思いこんでいるような声で言った。
「どうしたんでしょう。いったい、どうしたわけなんでしょう」
「僕にもまだ、はっきりしたことはわかりません。ただ一つだけ思いついたことがあります。僕たちは、陳さんにだまされているのではないかということです」
「でもあなたは、陳さんが信用できそうな人だと……」
「その気持はいまでも変わっていません。ただ、信用できる人なればこそ、善意から、僕たちをだましたというようなことも考えられるんじゃないかと思うのです」
「それはどういう意味なのかしら?」
「いいですか。お嬢さん、このさいは、われわれの側からではなく、むこうの立場に立って考えなおしてみましょう。陳さんにとって、いちばん大事なことは、先生を無事に国外へ脱出させることですね。先生とお嬢さんとをひきあわせるというようなことはただのセンチメンタリズム、大事の前の小事だと割りきっていたかもしれませんね」
恭子のいままではりつめていた心は、とたんにがたりとゆるんだ。眼の前の義男の顔が、急にぼーっとかすんでいったようだった。
「そうねえ。そんなことも考えられるのねえ」
「せっかく、お嬢さんを神戸までお連れして、いまさらこんなことが言えた義理でないことは、自分でもよくわかっています」
義男は、涙をのんでいるような声で続けた。
「許してください。おわびします。ただ、僕にぜんぜん悪意がなかったことだけは、信じていただけますでしょう」
「いいのよ。いいの。あなたにはほんとうに感謝しているの。お礼の言葉もないくらい」
「すみません。そう言っていただければ、僕の気持も少しはかるくなります……まあ、陳さんにしたならば、竜田一家の三人が同時にべつべつに神戸へ動いてきたら、警察や検察庁の眼も自然こちらへひきつけられる。その間に、ほかの港から先生を脱出させるのも楽になると、そこまで冷たく計算していたのかもしれませんね。現に霧島検事さんが、早くからこちらへ来ておられたのも、その一つのあらわれでしょうから」
「あの人が……いいえ、検事さんなら、こんな事件が起こったんですもの。こっちへ来られるのも当然でしょうね」
心の渦の中に、また新しい渦が起こった。いま一度、三郎に参考人として調べを受けるようになったら、そのときこそ、自分は発狂してしまいはしないかと恭子は思った。
「もちろん、いま申したことは、全部が僕の推量です。ただ、こうなったら、お嬢さんとしては、いったんホテルへお帰りになり、お兄さんに最後のお別れをなさったほうがいいんじゃないでしょうか。ふつう、病死などの場合は、四十八時間待たないと火葬にはできないんですが、こうして法医解剖などした死体では違ってくると思います。僕は前に、解剖室からそのまま火葬場へ送られるというような話も聞いたことがあります」
「それでは、あなたのおっしゃるとおりにしましょう。これで、私も妹としてのつとめだけは、どうにか果たせるわけね。それで、あなたは?」
「僕としても、おともをしたいのは山々です。お兄さんにも、せめて火葬場までお送りしなければ、人間としての義理もたたないと思いますが、まだ陳さんの話にも、一分の未練がたちきれません。お嬢さんはべつとして、僕一人だけでも、乗りかかった舟で、いましばらく連絡を待つほうが正しいんじゃないかと思います」
恭子のしびれきった頭でも、義男の言葉に十分の筋が通っていることは理解できた。せっかくここまでやってきて、父と別れを惜しめないことは、このうえもなく残念だったが、自分としては子としてのつとめを果たし終えたような気もした。この後に、寺崎義男だけでも残ってくれると思えば、心もいくらかかるくなった。
「お願いします。この後、どうなるか私にはわかりませんが、あとでゆっくりお話を聞かせてください。お父さまにお会いになれたら、お体をお大切に――とお伝えして。お礼はいずれゆっくり申しあげますから」
「お礼などおっしゃっていただくにはおよびません。ただ、ひょっとしたら、これからしばらくは、なんのご連絡もできないかもしれませんが、警察に僕の行動が漏れては、今後の活動にもさしつかえます。さっきのお約束は守っていただけますでしょうね?」
「あなたの打ちあけてくださったお話を、しばらく誰にも話さないということね。それくらいはわかっていますとも」
「それから、この家のこともおっしゃらないでほしいのですが……昨夜ここにお泊まりになったことも、誰にも言わないでください」
「ええ……」
義男がだめを押したくなる気持はわからないでもなかったが、恭子の心はもう兄のほうに飛んでいた。いままではあまり仲がよい兄妹《きようだい》とは言えなかったのに、肉親のきずなというものが、こんなに強い力を持っているとは、恭子にも予想できなかったことだった。
「それでは、ここでお別れいたします。お送りできないことはわかっていただけますね」
「では、私、一度ホテルへもどって、そこから警察へ連絡します。ただ一つ、最後におうかがいしたいことがあるの」
「なんでしょう?」
義男は伏せていた眼を上げてたずねた。
「あなたはいま、陳さんが私たち三人を神戸へ呼びよせてというようなことをおっしゃったわね。お兄さんたちにそのことを連絡なさったのもあなたなの?」
「それは絶対に違います」
義男は大きく首を振った。
「なんでも、陳さんの話では、そっちは別に連絡の方法を考えるということでした。僕の考えでは、須藤俊吉あたりを通じて、連絡があったんじゃないかと思うんですがねえ」
「なに、あの人が無事にひとりで、帰ってきたというのですか!」
検察庁へもどってきてまもなく、悦子からの電話を受けた三郎は、思わず声を震わせていた。
「そうなんです……わたしも最初は幽霊じゃないかと思ったくらいでした。血の気もないほど青ざめて、やつれて、なんにも食べていないらしく、足もともふらふらしているんですの……」
悦子はたちまち鼻声になった。
「それで、いまごろ帰ってきたというのは、最初の目的を達したと考えられるわけですが」
「わたしも、お父さんに会ってきたの――とは聞いてみました。でも、唇を噛《か》んで眼をすえたまま、返事もしてくれないんです。無理もないことだとは思いますが、まるで異常になる一歩手前みたいな状態なんです。わたしには顔色からはなんとも判断できませんが……どちらかといえば、お父さんに会ってきたほうに賭《か》けますが……」
「わかりました。それでこれから?」
「すぐ、警察へ行って、お兄さんに会うと言っているんです。わたしも、いっしょに行くと約束しました。それで、支度をするからと言って、部屋にもどって、そちらへお電話しているんですが、これから後はどうしたらよいでしょうか?」
「昼ですし、ひとりで帰ってこられるようでは、心配もなかろうと思いますが、よかったら念のため、あなたも警察までついていってくださいませんか。それからあらためて、お電話をしてください」
「わかりました。そういたします」
三郎が電話を置いたとたんに、原田検事は眼を光らせ、横から鋭くたずねてきた。
「恭子さんが帰ってきたようだね。無事で何よりだったけれども、いったい目的は達したのだろうか?」
「わからない……尾形さんの話でも、顔色だけではわからないと言っている。ただ、賭けるなら、会ってきたほうにというんだが」
「なるほどな。しかし、いまはまだ、昼間のうちなんだよ。人目を忍んで逃げまわっている犯罪者が、しかも密出国という大切な瞬間を前にひかえて、娘と白昼顔を合わせるような危険をおかすだろうかね」
「それでは、君はどう思う?」
「時間切れというようなこともないではなかろうな」
「なるほど、ぎりぎりの瞬間まで、連絡を待ってみたものの、肝心の父親はやってこない。このままでは、兄さんの死顔を見られないと考えて、姿を現わしたというのだね」
「そういうことも考えられるよ。一人というのが僕には気になる。目的を達してからというのなら、寺崎義男もいっしょにやってくるのが自然じゃないのかな。少なくとも、昨夜二人でいっしょに過ごしたことだけは、間違いない事実だろうからね」
原田豊も、最後のひとことは、時の勢いで何気なく口走ったのだろうが、これは傷だらけになっている三郎の心を新たにかきむしった。
「これがふつうの場合なら、警察はすぐに尋問にかかるところだろうな」
「しかし、何も言うまい、あの人は……家族の場合には、ふつうでも犯人隠匿の罪は成立しないわけだし、ことにあの人は、とても芯が強いんだ。神経がどんなにまいっていても、最後の一線だけは守りぬこうとするだろう。ただ、そういう努力が、ただでもまいっている神経を、いっそう痛めつけなければいいのだが……」
二人は、顔を見あわせてしばらく沈黙していた。
「ただ、こういう状態になっても、君の仮説はまだ成立するわけだね」
しばらくたって、原田検事はつぶやくような低い声で言った。
「そうなんだ。東京からの報告が、僕の予想どおりだったらね」
そのとき、東京から待望の電話がかかってきた。捜査本部の桑原警部からだった。
報告は短くかんたんだったが、三郎はそれを聞きおわったとき、肩の重荷を半分おろした思いで、腹の底からしぼりだすような溜息《ためいき》をついていた。
「やっぱりそうだったのか。よかったなあ」
顔色を見ただけで、電話の内容まで察したらしく、原田豊は涙さえ浮かべてうなずいていた。
その夜の六時から、三郎は六甲署の調べ室で、慎一郎の火葬をすまして帰ってきたふさ子に対して、再尋問を開始した。
「本来ならば、僕も火葬場へは行かなければならなかったのです。ただ、現在の立場ではそういうわけにはいきません。慎一郎君に対しては、申しわけなく思っています」
三郎は、淡々とひとりごとのような調子で言った。
「いいえ、あなたのお立場は、よくお察ししております。主人も、あの世で、そのお言葉をうかがっただけで満足しておりますでしょう。このうえは、一日でも早く、犯人を捕まえて主人の霊を成仏《じようぶつ》させてくださいまし」
赤くはれた眼を伏せて、ふさ子は低い声で答えた。
「僕もそのつもりですとも。東京へ帰るまでもなく、こちらにいる間に、この事件は解決してみせます。それについて、ご協力はねがえますか?」
「わたくしにできることでしたら……でも、モンタージュ写真を作るようなことは、あんまり自信もございませんが」
「その必要はありますまい。いや、面通しさえいらないかもしれませんね。あなたの知っていることを、残らず正直に話してくだされば、犯人の逮捕には、十分でしょう」
「はい、こうなったら、もう何もかも、隠さず申しあげます。それが、主人のため、このおなかの子供のためだと思います」
三郎は深く息をのんだ。そして、あらゆる気力を一瞬に凝結させたような気合いで、
「おなかの子供――その父親は誰なのです」
ふさ子は大きく眼を見はった。椅子《いす》を蹴《け》るようにして立ち上がると、
「検事さん、いかになんでも、それはあんまり失礼なおたずねじゃございませんか?」
「けっして失礼とは思いませんね。いま、あなたは犯人を逮捕するためなら、自分の知っていることは、なんでもかくさず話すと言ったでしょう。腰をかけて、いまの質問にお答えください」
「はい……」
ふさ子は、テーブルに両手をつき、体重を支えるようにして、椅子にかけると、
「それは、わたくしは、水商売上がりでございます……主人の前に、一人も男を知らなかったとまでは申しません。ただ、この子ができる二月前からは、主人のほかに、男の人とのおぼえは、天地神明にかけてございません」
「天地神明にかけて、嘘《うそ》をつくのですか」
三郎は、かすかに震えはじめた女の両肩のあたりを見つめながら、
「慎一郎君は、精子欠乏症――むかしの言葉でいえば、子だねのない体だったようですね。医学的には、精子がふつうの男性の何百分の一という数で、しかも力が弱い。あなたはそれを知らなかったと言うのですか?」
「それは……主人が一度、ぐでんぐでんに酔っぱらったときに聞きました。でも、わたくしの愛情はぜんぜん変わりませんでした。現在の医学では、どうにもできない病気だと、ほかのおかたからもうかがいましたが……わたくしは、かりに、科学や医学では、どうにもならないものだとしても、信仰の力を借りたなら、なんとかなるのではないかと思ったのです。それで、霊療という療法があることを人から聞きまして、二人で毎週一度ずつ、お治療をしていただいたのでございます。それで、妊娠したときには、先生も、神さまのおかげで奇跡が起こったのですなと、喜んでくださったものですが……」
「その先生というのは、熊沢|由信《よしのぶ》という祈祷師《きとうし》なのですね」
「はい……」
「そちらのほうは、いま東京の捜査本部で調べさせています。病名もたしかにそのとおり、あなたが最初やって来て治療を依頼し、それから、二人でいっしょにしばらく通っていたことも認めました。この難病が全快したのも神仏の加護で、奇跡が起こったのだとうそぶいているようですが、詐欺と医師法違反の容疑で絞めあげれば、まもなく本音を吐くでしょう」
「でも、わたくしはほんとうに……」
「まだ、強情を張るのですか? なるほど、死体が火葬になってしまった現在では、そんなことは、いまさら調べようもない、証拠も何もない水掛論だと、たかをくくっているのですね」
「そんなことは、思いもいたしません。ただ、ただ、世の中には、奇跡ということもございましょう」
「ところが、その奇跡が起こっていなかったことは、いちおう科学的に証明できるのですよ」
三郎は、一枚の紙片をふさ子につきつけ、
「これは、きょうの法医解剖の仮鑑定書です。仮というのは、いずれ裁判に証拠として提出するための正式な鑑定書ができあがるまで、捜査の参考資料として使われるものという意味ですがね。その内容は、正式の鑑定書と、ぜんぜん違わないのですよ。僕はこういうことがありはしないかと考えて、ふつうは行なわない精子の検査を、とくにやってほしいと申しいれたのですがね。これによると、慎一郎君の死体は、はっきり精子欠乏症というより無精子症の症状を示したと書いてありますよ。これでもあなたは、奇跡が起こったと言いはるのですか。妊娠当時、ほかの男と関係がなかったと主張するのですか」
ふさ子の両肩は、大きく前後にゆれていた。しかし、あえぐような激しい息づかいのほかに、口からは一言の言葉も出なかった。
「犯罪によって利益を得るものを捜せ――これは犯罪捜査の大原則ですよ。今度の三つの殺人のうち、少なくとも、第三の事件では、これははっきりしていますね。もし、あなたが正式に入籍される前だったら、慎一郎氏が死んだ場合、その子を竜田家の血をひいた人間と認めさせるには、えらい困難がともなったでしょう。しかし、いったん入籍してしまえば、あなたには、財産相続の権利が出て来る。子供もいちおう、竜田家の人間と認められる……ただ、その父親はほかにいる。それはいったい誰なのです?」
ふさ子は、下を向いたまま、まだひとことも答えなかった。
「黙秘権を行使するつもりかね。それでは、こちらもしかたがないから、殺人罪の共犯の容疑者としてあつかおう」
三郎は追いうちをかけるように、言葉の調子を変えた。
「お前さんは、ほんとうに、ハンドバッグをかかえたまま撃たれたのかね? つり紐《ひも》を腕に通していたので、最初に旦那《だんな》が撃たれたときにもそのままだったと言っているようだが、ハンドバッグだけを、どこかにおいて弾丸を撃ちこむことは、そんなにむずかしくなかったはずだ。幸い、弾丸はバッグを貫通しないでとまったが、細工がうまくいかなかったら、かすり傷を負うような工作でもして、被害者側の一人だという印象を強く与えるつもりだったろう」
「違います……検事さん、そんなことは……」
こういう返事も、口の中にこもったまま、外には漏れないようだった。
「これも違うと言うのかね。弾丸の入射角度はいま科学的な精密検査をさせている。それがわかれば、ほんとうにハンドバッグをかかえたまま撃たれたのかどうかはすぐにわかることだ」
三郎はいよいよ語気を強くして、
「お前さんの過去の行状ぐらい、警察が本気になって調べたら、すぐにでも洗いだせるよ。ひょっとしたら、もう誰かが、どこかの私立探偵を使って、調査ずみかもしれないな。黙秘権を行使するのは大いに結構、ただここで、警察なり検事なりの心証を悪くしたら、裁判の結果が大いに不利になることぐらい、頭に入れておくんだな。まあ、今晩一晩、留置所の中でゆっくり考えるさ。身重の体で気の毒だが、それも身から出た銹《さび》だろう」
ふさ子は初めて歪《ゆが》んだような顔をあげた。
「それでは、お骨をおまもりする人が……」
「竜田家の人間のお骨をまもる資格のある人間は、ほかにいる!」
三郎は声をはりあげて叫んだ。
第四十二章 夜の港で
「恭ちゃん。ほんとうに昨夜はどうしたの。お父さんには会えたの。わたしだけには、ほんとうのことを話してくれない?」
オリエンタル・ホテルの四階の角のツウィンの部屋で、悦子は真剣に、恭子を説き伏せようとしていた。
「いまは、なんにも聞かないで……話せるときがきたら、あなたにだけは、何もかも、お話しするとお約束するから……」
椅子に深く身を沈め、両手で額を押さえながら、恭子は低い声で答えた。
「でも……まだ、神戸にいるつもりなの? それともすぐに東京へ帰るの? そのくらいのことは教えてくれてもいいんじゃない」
「それは、義姉《あね》とも相談して決めるつもり。もう九時すぎですもの。調べもいいかげん、終わるでしょう。逮捕状が出ないかぎり、夜九時すぎの尋問は人権問題になるからできないと、私はいつか聞いたことがあったわ」
魂の抜けたような声だった。筋の通った話ができるのもふしぎなくらい、恭子はいまでは、自分ひとりで、自分の行動を律しきれないようだった。
そのとき、原田検事のほうから電話がかかってきた。
「尾形さん、このことを恭子さんに話すかどうかは、あなたの判断にまかせますが、竜田ふさ子にたいしては、いま逮捕状が出されました。それも犯人隠匿やなにかの容疑ではありません。竜田慎一郎氏にたいする殺人容疑です」
「なんですって!」
悦子はそばに恭子のいることも忘れて、
「結婚して、まだ何日もたたないような奥さんが、旦那さんを、おなかの子供のお父さんを……撃ち殺す計画に、荷担するというようなことが考えられるでしょうか?」
「僕も最初はそう思ったのです。こちらの警察側でも大半は、僕と同じような常識論、人情論をとっていたのですが、霧島君が強引に彼女を絞めあげて、逮捕を強行したのです。もちろん、十分に理由はあるのですが」
「その理由といいますと?」
「一口に言えば、子供のお父さんが、慎一郎氏でないことを推定したのですよ。医学的には若干の問題もありますが、推理には十分の根拠もあります」
「そうでしたの……」
悦子もしばらくは呆然《ぼうぜん》としていた。ふさ子とは竜田家でも顔を合わせている。最初は一くせありそうな、油断のできない女ではないかと感じ、それからすぐに、自分のような娘は、水商売上がりの女だというと、どうしても色眼鏡をかけて見ようとするのではないかと、自分で心に言い聞かせたのだが、いまとなっては、やはり第一印象が正しかったと思わずにはいられなかった。
「僕たちはいま楠荘≠フほうに来ています。ですから、何か変わったことがあったら、電話をかけてくださいませんか」
「わかりました」
電話を置いてふりかえった悦子はぞっとした。恭子の顔がすぐ眼の前まで迫っていた。
「どうしたの? いまの電話は……」
恭子は異常なほどに眼を光らせて、
「あの人が……ふさ子さんが、お兄さんを殺したとでも言うの?」
「まあ、恭ちゃん、そんなに興奮しないで。お茶でも飲みながら、ゆっくり話すわ」
少しでも間《ま》を置こうとして、悦子は電話でルーム・サービスに紅茶のポットを部屋に持ってくるよう注文すると、ゆっくり、恭子にいまの電話の内容を話して聞かせた。
「そんなことが……そんなことがあるかしら。もう、私は、人間というものは、誰ひとり信じられないような気がするわ」
うつろな眼で、宙を見つめながら、恭子はかすれた声でつぶやいた。
「無理もないわ。あなたのいまの立場では。でも、恭ちゃん、こうなったら、あなたももう一度考えなおす必要があるんじゃないかしら。寺崎さんという人だって、ほんとうに信用できるかしら?」
「私は、あの人だけは、少なくとも、お父さまのことに関しては信用したいの」
「それで、あなたは昨夜は寺崎さんといっしょに?」
「違う。違うわ。人に疑われてもしかたがないけれども、それだけは絶対になかったの。こんな、こんな気持で、新しく男の人を愛するなんて思いもよらないわ」
恭子は叫ぶように答えた。
ドアにノックの音がした。悦子は立ち上がって鍵《かぎ》をあけたが、後ろで電話のベルが鳴ったので、あわてて後ろをふりかえった。恭子はもう震える手で、受話器を取り上げていた。
「はい、私です……え、なんですって? とうとう、お父さまにお会いになった?」
悦子は入口の近くに立ちすくんだままだった。恭子のそばに近づこうとしても、足がいうことをきかなかった。
「はい、はい……どこへでも参りますわ。あなたにご迷惑さえかからなければ……」
ホテルのボーイというものは、仮面をかぶったような無表情でなければつとまらないものだが、紅茶の盆をテーブルの上に置きながら上げた眼には、さすがに好奇心の光があった。従業員の間でも、今度の事件はたいへんな話題となっているに違いない。
「はい、わかりました……それではすぐに」
電話を置いた恭子は、ボーイが部屋を出て行くのを待って、悦子のそばに近づいた。
「悦子さん、今の電話は聞こえた?」
「ええ、あなたのほうのお話は……相手は寺崎さんなのね」
「ええ……今度こそ、私のすることには邪魔をしないでね。検事さんのほうにも、警察にも電話をしないで……もし、そんなことをなさったら、あなたとの友情もこれかぎりよ」
「たしかに、生きている男性なら、精子欠乏症かどうかはすぐにわかるが、死後十時間以上も経過した死体では、精子も死滅してしまうから、顕微鏡検査もむずかしいと、僕はいつか聞いたことがあったよ。まあ、科学的な問題に関するかぎり、僕の記憶もたよりないが、それを承知で、君は仮鑑定書にそのことを書きこみ、ふさ子をおどしつけたのかね」
楠荘≠フ一室で、原田検事は深刻な表情になってたずねてきた。
「あれこそ、僕のはったりだったよ。だいたい僕は、そんな戦法はきらいなんだが、今度ばかりはやむをえないと思った。しかし、効果はあったと思う。彼女の動揺ぶりは、なみたいていのものじゃなかった。あの効果は明日あたりあらわれてくるんじゃないのかな……これで、彼女の相手の男がわかったら、それが僕の思ったとおりの人物だったら、今度の事件は一挙に解決だね」
三郎は何かに憑《つ》かれたような声で言った。
「僕もそうなることを祈っているよ。まあ、恭子さんもいちおう無事に帰ってきたことだ。今晩は、陣中見舞にウィスキーを持ってきたから、それでも飲んでゆっくり寝るんだね」
「うむ、たしかにこのところ、連日睡眠不足だからね。今夜ぐらいは、夢も見ないで、ぐっすり寝たいというのが本音だ」
三郎が寂しく笑ったとき、尾形悦子から電話がかかって来た。
「今度は僕が自分で出る!」
三郎は思わず飛び上がった。なにか不安な予感が胸をかすめたのだ。
「尾形さん? 霧島ですが……」
「霧島さん、たいへんなことになりました。わたしは今度こそ、絶交覚悟で、お電話しました」
「何が起こったというのです?」
「寺崎さんのほうから、恭子さんに直接、電話がかかってきたのです。あの人は、とうとう竜田さんに顔を合わせたそうなんです……」
額も掌も濡れていた。その汗をふくひまもなく、三郎は電話に向かって叫ぶように、
「寺崎が、神戸で竜田弁護士に会ったというのですね。それで?」
「そのときの事情を知らせたり、これから後のことについて、打ち合わせたりするために、恭子さんは寺崎さんと会う必要が起こったんじゃないでしょうか。いま、お化粧を直して、部屋を出ていきました。わたしのほうは部屋に残って、最後の覚悟をきめて、この電話をかけたんです……」
「ありがとう。ほんとにありがとうございました……僕のほうでも、すぐに手配はします。無理にお願いはできませんが、よかったら、すぐあの人の跡をつけてみてくださいませんか。あなた自身に危険が及ぶようなことは、まずなかろうと思いますが……」
「こうなれば、どんなことでもいたします。あなたがしろとおっしゃるなら……」
電話を切って、三郎は後ろの原田豊のほうをふりかえった。
「原田君、オリエンタル・ホテル付近の警戒を頼む。恭子さんが、いま寺崎と会うためホテルを出たところだ」
「よし!」
原田検事は電話に飛びついて、ダイアルを回し、早口に指令を出し終わると、
「霧島君、今晩もゆっくり休めそうにもないな。ただ、これで今夜のうちにでも、この事件に最後の幕をおろすチャンスが出たようだね」
と眼を光らせながら言った。
恭子はホテルを出ると、すぐ車を拾って、夜の海岸通りを走らせ、ポート・タワーの手前にある関西汽船の待合室へはいった。
内海航路のことだから、当然夜おそく出航する船もあるのだろうが、この待合室はいっぱいの人だった。義男が秘密の連絡に、こういう場所を選んだ心理も、恭子にはよくわかるような気持がした。
十分ほどたったとき、寺崎義男は反対側の入口からはいってきた。警戒するようにあたりを見まわしながら、恭子のそばへは近づかず、かるく二、三度うなずいてみせて、また外へ出ていった。
こっちへ来いという合図だろうと判断して、恭子はその跡を追った。建物を出ると、義男は波止場の端のあたりに立って暗い水面を見おろしていた。
「誰も尾行して来てはいませんね?」
恭子がそばに近づくと、義男はあたりを見まわしながら、不安そうにたずねた。
「車で来たのよ。たいてい、いいえ、絶対に大丈夫だと思うわ」
義男はうなずいて、ポケットから、ネクタイ・ピンを取り出し、ライターで照らしてみせた。たしかに父が最後まで身につけていた品物だと、恭子は一目で見てとった。
「これを、お嬢さんへの形見と言って、僕に渡してくれたのです。僕が先生に会ってきたというのは、これで信じていただけるでしょう。先生も、とてもやつれていらっしゃってまるで見違えるようでした。お嬢さんのことも、もちろん心配しておいででしたが、それよりも、お兄さんのことには、涙を流しておいででした。よほど自首して、死顔を見せてもらい、線香の一本もあげさせてもらおうかと思ったと、しみじみ言っておいででした」
「お父さまも、ずいぶんお辛《つら》かったでしょうね……でもいまとなっては、そんなことも。どうか最初の計画どおりの道を進んでくださいとしか、私としては言えないわ」
「僕も、似たようなことを申しておきました。そっちのほうの計画は、万事がうまくいっています。詳しいことは、いまはお話しできませんが、明日の晩には、船に乗りこめるでしょうし、明後日は、日本を離れられるはずです。もちろん、外国のある港に着くまで、その船の名前は、たとえ、警察につかまっても、僕は絶対に口外しませんが……」
「では、私も、その船の名前はうかがわないことにします。お父さまに一目会わせていただくことも、無理なお願いなのでしょうね」
「はい、お兄さんのこともあり、先生も陳さんも、それはどうかと首をひねっておいででした。陳さんのほうは、お兄さんへの連絡は須藤君に頼んだのだが、それは自分の失敗だったとだいぶ後悔していたのです」
「でも、それもしかたがなかったでしょう。前からの行きがかりもあったはずですし……それで、あなたはこれからどうなさるおつもりなの?」
「僕はこれからもしばらく身を隠しているつもりです。お嬢さんにかわって、先生のお乗りになった船が港を出ていくのを、このタワーの上からでも、お見送りしておかないかぎり、男の意地がたちません」
寺崎義男は、かすれた声で笑った。
「ただ、僕はもう一つ、先生からお頼みを受けたことがあるのです。ふさ子さんに会って直接ある品物をお渡しし、お話ししたいことがあるのですが、あのおかたは、いまどうしておられるでしょう?」
「それがたいへんなことになったの。検察庁のほうでは、妙な疑いを起こしたらしくって、殺人容疑で逮捕状を出したというのよ。おそくても、十時までには帰って来られるだろうと思っていたのに……」
「殺人容疑で逮捕状? そんな馬鹿なことがありますかねえ。霧島検事も、先生の行方がどうしてもわからないんで、頭に来てしまったんじゃないですか」
義男は吐き出すように言った。
「お嬢さん、それではそろそろお別れしましょう。できるなら、かげから一目なりとも、先生のお顔を見られるように、努力はしたいと思いますが、明後日までこちらにいらっしゃっていただけますか。僕のほうも、まだしばらくは、ここから離れられませんし、ホテルのほうへでも、電話でご連絡しますが」
「ええ……あなたがそう言ってくださるなら、私はいいようにいたしますわ」
二人は肩を並べて、もとの方向に歩きだしたが、恭子はあっと叫んで足を止めた。
関西汽船の待合室の前に立っている霧島三郎と悦子の姿を見たからだった。
もしも、ここで義男が逮捕されるようなことがあったらと思った一瞬、激しいめまいが襲ってきた。
「どうしたんです? お嬢さん」
義男は、手をひろげて恭子の体を抱きかかえた。恭子の指は無意識に、その上着のポケットの堅いものにさわったが、それが何かはわからなかった。
しかし、一瞬後には、思わない変化が起こった。いったん、両手に受けとめた恭子の体を大きくつきとばし、義男は狂ったように叫んだ。
「お前はおれを裏切ったな!」
恭子には、何がなんだかわからなかった。ただ男の顔がたちまち悪魔のような表情に変わったことと、その右手に黒光りのするものが握りしめられていることはわかった。思わず悲鳴をあげて、恭子はそのままアスファルトの上に倒れた。顔の近くで、空気の裂けるような音がしたのを、ピストルの発射音だと気がついたのは、だいぶ時間がたってからのような気がした……。
なんともいえない混乱が、まわりに起こっているようだった。呼子の音、人の叫びと足音と、何発かピストルを発射する音が、近くから遠くへ流れていったようだった。
「恭ちゃん! 恭子さん、しっかりして!」
耳に覚えのある声が聞こえ、誰かが体を抱き起こした。どうにか眼を開くと、悦子の顔が眼の前に大きく動いた。
「大丈夫? 撃たれていない?」
「大丈夫、めまいで倒れて……」
悦子に抱き起こされて、恭子はあたりを見まわした。すぐそばには、霧島三郎が立っていた。
「大丈夫ですか? おけがはありませんか」
「ええ、どこも。でもいったい?」
「われわれはいま、寺崎義男の逮捕にかかっているのですよ。三方海のこの波止場です。たとえ、ピストルを持っていても、逮捕は時間の問題です」
その言葉がまだ終わらないうちに、警官の威嚇《いかく》射撃らしい銃声と、
「凶器を捨てて出てこい。そうしないと撃つぞ!」
と叫ぶ声が聞こえてきた。
「あの人が……寺崎さんが何か、悪いことをしたのでしょうか? いいえ、お父さまの逃亡を手伝ったのは、たしかに罪でしょうけれども……それもたいした犯罪では……」
「もちろん、そのことだけだったら、われわれも、これだけ大がかりな逮捕陣はしかなかったでしょう。しかし、彼はいま自分のポケットから出したピストルで、あなたを撃とうとしましたね。これだけでも、りっぱな殺人未遂ですが、あなたはこういう目にあっても、まだ彼を善人だと信じているのですか?」
「…………」
「彼のピストルを検査したら、おそらくお兄さんの殺害に使われた凶器だという結論が出てくるでしょう。それがわかれば、彼とふさ子との肉体関係があったことも、二人が殺人の共犯だったことも証明できるでしょう」
鋭くサイレンをうならせて、走ってきた救急車がこの近くで止まった。車をおりてきた白衣の人々が、腕に手をかけたのを、恭子は強く振りはらって、
「いいえ、わたしは大丈夫です。三郎さん、もう少し話を聞かせてください……」
「彼はいま、あなたにどんな話をしました? お父さんは生きて、神戸に潜伏中だ。自分はさっき会ってきたばかりだというようなことを言って聞かせたのではありませんか?」
「はい、それが……」
三郎は溜息《ためいき》をついて首を振った。
「あなたは完全に、彼にだまされていたのです。いや、われわれもつい最近まではだまされていたのですが、僕の推定に間違いがなければ、彼は第一、第二の殺人に対しても真犯人だったでしょう。本間春江、鹿内桂子、この二人の女を手にかけたのも、彼のしたことだったでしょう」
そのとき、一人の警官が息を切らせて走ってきた。三郎たちにむかって敬礼すると、
「いま犯人はとらえました。足に傷は負わせましたが命に別状はありません。持っていた拳銃《けんじゆう》もおさえました。海に投げこまれるかと心配していたのですが」
と報告した。
救急車は、またサイレンをうならせて、波止場の突端のほうへ走っていった。
「それでは、お父さまは無事でしたの?」
「今度こそ、彼もいっさいの秘密を自白しなければならなくなるでしょう。彼一人が頑張りとおそうとしたところで、共犯の女のほうがもたないでしょう。それからでなければ、詳しいことはわかりませんが、竜田さんが第一の殺人と、ほとんど同時に殺され、死体をどこかに隠されたことには、まず間違いがないでしょう。国外脱出の計画などは、架空の物語だったでしょうね」
恭子は眼を上げて夜空を仰いだ。濡れた眼に、星と山の中腹までのびている街の灯が美しく映った。
「それでは、私、あなたとも……」
あとの言葉を、恭子は口から出せなかった。
第四十三章 真 相
この事件が、神戸の港のタワーの下で、最後の幕をおろして二週間後に、霧島三郎は東京地検の刑事部長室で、真田検事にむかって報告を始めた。
「部分的には、まだはっきりしないところはないでもありませんが、きょうまでの調べで、いちおう大筋がはっきりしましたので、中間報告をいたしておきます」
真田検事はうなずいた。いつもより、ずっとやわらかな眼の色は、よくやってくれたと三郎の労をねぎらっているように見えた。
「主犯、寺崎義男は竜田法律事務所を退所後、東京秘密探偵社に入社しましたが、それまでに内に隠れていた性格の悪の芽がしだいに吹きだしてきたようなのです。それはこの仕事の性質上、どうしても人間社会の恥部というような醜悪な面に触れることが多かったためでしょうが、私立探偵もかけだしのうちは経済的にもめぐまれません。そのために、彼はいつのまにか、麻薬の取引にも関係するようになり、そのうちに、神戸の扇屋一家の客分、田川庄介とも手を握るようになったのです」
「君をおどしたあの男だね? 神戸で、カメラを使って妙な写真をとった……」
「そうです。ぼくが前に婚約していた安藤澄子は、ほかの男との結婚に失敗し、意地をはって実家には帰らず、神戸へ流れていって、バーのホステスとなり、彼の情婦になっていました。このあたりにも、眼に見えない運命の糸のようなものが存在していたのかもしれませんが」
三郎はかるく溜息をついて、
「ところで、麻薬売買の組織のほうは、もちろん表にはあらわれていませんが、裏にはやはり縄張りのようなものがあり、おのおのの組織はそれぞれ微妙な勢力の均衡を保ちながら、商売を続けているようです。ですから、たとえば甲の組織には、乙の組織の内情もある程度までわかっており、またその逆のことも言えるようです。それでいて、他の組織の秘密を密告しないのは、同業者の仁義からといったようなものではなく、相手の復讐《ふくしゆう》を恐れるからなのですね。ですから、外部の条件によって、一つの組織が壊滅することは、ほかの組織にとっては、勢力拡張のいいチャンスとなるわけです。たとえば、警察なり検察庁が介入して、ある組織をたたきつぶせば、ほかの組織は漁夫の利をおさめられることもあるわけです」
「それが、今度の事件の眼に見えない背景だったというわけだね?」
「そうなのです。神戸に本拠を持つ溝口一家と扇屋一家は、地元では別に争いも起こしませんが、かげでは犬猿の仲なのです。そして、溝口一家の支店というような格好の小林一家は、東京の山の手で、全国でも有数といえるような売上げを続けていたようです。そこに眼をつけたのが田川庄介でした。彼はなんとか、自分でこの縄張りを乗っ取るような手はないかと考え、一年近く、寺崎その他の人間を利用して、組織の弱点というようなものを内偵させていたようです。竜田恭子は、寺崎といっしょにラムール≠フ店を訪ねていったとき、彼のマダムに対するつっこみが、あんまり鋭かったので、事件が始まってから、わずかの間に、よくこんなところまで調べられたものだと驚きながら、かるい疑惑も抱いたというのですが、寺崎のほうもこの辺では、うっかり生地を出したのでしょう。しかし、それから後の寺崎の芝居の献身ぶりは、たいへんなものだったので、そういう疑惑もいつのまにか消えてしまったわけですね」
「彼は、君に恭子さんとの個人的な仲介役を申しでたと言ったね。もし、君がその疑惑にひかれていたら、この事件はこういう形では終わらなかったろうな」
「検事というのは、実にむずかしい職業だと、僕はつくづく思いました。こういう辛い思いをしたのは仙台で死刑の執行に立ち会って以来でした……」
三郎はちょっと間を置いて報告を続けた。
「そこへ選挙が接近しました。塚原正直氏のほうは、深い事情を知っていたとは思えませんが、政敵である黒沢代議士の一つの資金源であり、またかなりの組織票を約束している溝口一家の勢力をそいでやろうという田川庄介の言葉を信じて、彼に相当の資金を注ぎこんだのですね。今度の事件では、本筋の殺人は別としても、かげにかなりの人間が動き、相当の費用が必要だったわけですが、その源泉はこんなところにあったのです」
「金だけではなく、物も動いていたのだろうね。たとえば麻薬のようなものが……」
「そうです。たとえば第二弁護士会館の竜田弁護士あてに届いた麻薬にしても、末端価格では二百万円以上に達するわけですから、無意味に捨てられたものとは、われわれも考えませんでしたが、これも彼らにしてみれば、重要な、しかも案外安上がりな捨石だったというわけです。末端価格は高くても、彼らのほうではおろし価格に近いような中間の値段で入手できるのですから」
「なるほど、それで?」
「竜田慎一郎――榎本ふさ子――寺崎義男の間に三角関係があったことは、犯人たちの自供ではっきりしました。寺崎のほうの関係があとからだったようですが、彼としては、事務員当時、たえず自分を軽蔑《けいべつ》しながら見下していた主人の息子の恋人を征服するという行為に、一種の復讐心の満足といったようなものを感じていたのかもしれません」
「常識的に二人を比べたら、比較にならないはずなのに、女というものはわからないね」
「まったく、女の心というものは、ぼくのような若僧には、理解もできませんね。ふさ子のほうは、とたんに寺崎のほうにひきつけられたようです。おっしゃるとおり、一般世間の標準では、比較にもならないはずですが、裸の男女の関係というのはそれとは別物でしょう。悪縁断ちがたし――という言葉もあるようですが、寺崎とふさ子とは、星占いか何かでいうなら、お互いに悪い星の下で生まれ、切っても切れない力で結びつけられていたのかもしれませんね」
「慎一郎君の性格にも、妙なところはあったようだな。それが、女の気持を強くつなぎとめられなかった原因だったろうが、やはり病気にからんでいたのだろうか?」
「そうではないかと思います。あとで竜田家のかかりつけの医者に聞いた話では、なんでも学生当時、友人同士との悪戯《いたずら》か何かで、人工受精を志願し、精子欠乏症だということを発見して、たいへんなショックを受けたらしいのです。現在の医学では不治と言われていますし、ふつうのセックスには、なんの不自由もないそうですが、人間誰しも、自分の子孫を残したいのは本能です。その本能が満たされないことが自分にわかったら、性格的にもいろいろと妙なところが出て来るんじゃないでしょうか」
「それはフロイトの学説を持ちだすまでもなく、検事としての経験からも、僕には理解できるような気がするね……刑事犯罪というものは、歪んだ性欲から発生してくることが多いのだよ」
「犯罪だけではなく、狂信というものにも、それはあてはまるかもしれませんね。ふさ子が霊療をすすめたとき、慎一郎氏がそれにとびついたのも、ふさ子が妊娠したとき、強烈な暗示にかかって、病気は治った、子供は間違いなく自分のものだと信じこんだのも、わからないではありませんね。ただ、このかげで寺崎義男は、にたりとほくそ笑んでいたわけです。彼は、当然、竜田家の財産の額を知っていたわけですね。その大半が、いつかは自分の血をわけた子供のものとなるとわかれば、実の父親としては、かげながら喜びたくもなるでしょう。ただ、このときはまだ直接の殺意は発生していなかったのではないでしょうか?」
「すると、彼が殺意を固めたのは?」
「慎一郎氏から、ふさ子との結婚の話を持ちだされて、竜田弁護士はいちおう念のために、相手の身元調査を、所もあろうに、東京秘密探偵社に依頼したのですね。そのときには息子の結婚のためとは言わず、なにか別の口実をつけていたらしいのですが、同僚から自分の名前が報告書の中に出てくることを聞いた寺崎は青くなったようです。なんとか、内輪の工作で、報告書を手直ししてもらおうと思ったが、そうはいかない。それで正式の報告書が届く前に――と思ってあせりだしたのですね。殺意が固まりはじめたのは、このあたり、九月中旬ごろからではないでしょうか。これがふつうの人間の気持なら、こんな陰謀が破れそうになったからといって、直接殺人を犯そうとまでは、気持も飛躍しないでしょうが、彼の場合は麻薬犯罪などを続けていたために、罪に対する感覚も完全に麻痺《まひ》していたのでしょう」
「ただ、竜田弁護士ひとりに直接手をくだすことは、危ないと考えて、複雑奇怪な作戦を生みだしたというわけだね」
「僕の調べでは、そういうことになっています。それが小林一家をたたきつぶしてやろう、ひいては、溝口一家にまで、できたら火をつけてやろう、という田川の作戦と結びついて、現実のこの犯罪となったのですね。本間春江が麻薬中毒で、薬を小林一家から手に入れていることは、寺崎には前からわかっていました。中毒患者は、安く薬を手に入れるためには、どんな餌《えさ》にでもとびつきます。寺崎が本間春江に接近することはむずかしくなかったでしょう。またその一方で、彼は、竜田弁護士に、内々この秘密を漏らして行ったのでしょう。竜田弁護士のほうまで麻薬中毒だったというのは、完全なつくりごとですが、この話はめぐりめぐって、塚原正直氏の耳にもはいったわけですね。そこで寺崎は微妙にタイミングをはかりながら、あの晩、まず本間春江を殺害し、それからアパートの外で待ちぶせしていて、訪ねてきた竜田弁護士を重大な報告があるからとだまして車に乗せて殺害し、その死体を東京から約一時間の青梅《おうめ》市の郊外まで運び、あらかじめ準備しておいた山林の中の穴に埋め、竜田さんが女を殺して逃亡したように見せかけたわけです。死体は、前にご報告しましたが、犯人を現場に連行し、発掘確認してあります」
「それも、君にとっては辛い仕事だったろうな。それで、第二の殺人は?」
「これは、僕も寺崎がつかまって、すべてを告白するまでは、真相には気がつきませんでしたが、鹿内桂子は寺崎の麻薬取引の共犯だったのです。あのアパートは、ホーム・バーの形式をとっていて、同時に薬の取引場だったというわけです。こういう女だったら、どんな嘘《うそ》でもつきかねません。それでも、寺崎は念のため、竜田さんによく似ている仲間の男を、あの晩アパートへ送りこんだらしいのですが、それがほかの二人のお客の酔っていた眼を迷わせ、竜田弁護士が犯行後、逃げまわっているという印象を与えたわけでしょう」
「たしかに、嘘としては、実にうまく、もっともらしくできていたね。ただ、彼女は君がバーへ訪ねていったとき、検事だということに気がついていたのだろうか?」
「そうではなかったかと思います。小説家の卵になりすましたのはよかったのですが、うっかりしたことには、小説家はたいてい、本名以外にペンネームを持っているのを忘れていたのですね。あわてて、利根健策、霧島三郎と、本部係の検事の名前を二人も並べてしまったのが、考えてみれば失敗でした。むろん、彼女が共犯者でなく、事実をありのままに証言していたのなら、なんということもなかったのですが、おそらく彼女はあのときに、はっと思ったにちがいありません。それから舌によりをかけて、警察に話した以上に精細に物語を続けてくれたんでしょう」
「寺崎はそのあとで、アパートに現われたのだね。そして、桂子から君がやってきたことを聞き、あらためて召喚されたなら、嘘がばれるかもしれないと心配して、たちまち殺害に移ったというわけだね」
「そのとおりです。寺崎のほうは、最初から鹿内桂子をあんまり信用していませんでした。もともと口のかるい女で、ほかにも失敗はあったらしいのですが、役が終わったと見たとたんに、今度は消しにかかったのです。ああいう秘密の組織では、少しでも秘密を漏らしたら……なにしろ、秘密保持のために人間を殺すくらいのことは、なんとも思っていない連中の集まりですから……。それに寺崎のほうとしては、この女を殺すことは、自分の大目的のためには、プラスにこそなれ、マイナスはないと、ちゃんと算盤《そろばん》をはじいていたのでしょう」
「それで、須藤俊吉のほうは?」
「この男の出現は、寺崎義男にとっては、最初は予想もしていなかった助け舟だといえたでしょう。寺崎の初めの計画では、竜田氏によく似ている例の仲間をほうぼうに出没させ、犯人生存説を裏づけるつもりだったようですが、須藤のためにがらりと計画を変えたのですね。須藤は、医学的には麻薬中毒の後遺症とでもいうのでしょうか、妄語症《もうごしよう》というような精神病的性格があるようです。嘘をつくことをなんとも思わず、嘘のうえにまた嘘を積み上げていくうちに、最後には、自分でも嘘を事実と思いこんでしまうらしいのですが、そんな性格で、恭子さんを一度でも物にしてやろうと思いつめたら、竜田弁護士を自分の力でかくまっているくらいのことを言い出しても、少しもおかしくはありません」
「それにしても、ライターや、録音などの証拠まで偽造したのかねえ」
「なにしろ、自分でも金と暇とを持てあまして困っていると称しているくらいですから。恭子さんから、証拠を見せろと言われたときには、知合いの声色屋《こわいろや》に頼んで、竜田さんらしい声でせりふを吹きこませ、自分が受け答えしたのだそうです。ライターのほうは、以前に一度見たことがあるので、同じ品物を手に入れ、同じような書体で名前を彫らせたというのです。ふだんだったら、恭子さんも、声やライターの微妙な違いに気がついたかもしれませんが、あのときの神経状態では、そういうことを期待するのは無理な注文だったでしょう」
「その品物を届けた女は、長谷川という香具師の知合いだったのかね?」
「須藤と長谷川とは、以前はいろいろの関係で親しかったようです。それで、秘密に誰か女をまわしてくれと頼んだのですね。深い事情は打ちあけなかったらしいようですが、むかしかたぎの香具師だけにたとえ万一の事態が発生しても、秘密は守ってくれると思ったのでしょう。これもいちおう予想どおりでしたが、寺崎義男がこの女を尾行することまでは、計算に入れていなかったのですね」
「須藤の嘘が、寺崎の嘘を誘発し、二つ重なって、奇妙な迫真性を生み出したというわけなんだね。それで須藤が、神戸のオリエンタル・ホテルにのこのこあらわれたのは?」
「これも寺崎の陽動作戦の一つでした。彼は仲間に電話をかけさせて、恭子さんが神戸へ飛んで、オリエンタル・ホテルに泊まっていることを知らせてやったのですね。須藤のような性格では、いったん一つの問題を思いつめると、ふつうの人間よりも頭がずっと鋭くなる反面、とんでもなく抜けたところも出てくるようです。そんなわけで、誰がどういう目的でこんな電話をかけてよこしたかなどということはろくろく考えもせず、神戸へ飛んでホテルへやってきたのですね。逃がした魚に眼がくらんで、冷静な判断もできなくなっていたでしょうし、今度こそ、もう一度魚をひっかけてやるんだと意気ごんで、頭もかっかとなっていたのかもしれません。ただ、彼があのとき、神戸港に現われたり、ホテルへ来たりしたために、われわれとしては、いよいよ国外脱出の決定的瞬間がやってきたかと神経をとがらせたことは事実でした」
「医者の話でも、精神病院へ行くだけの資格のある人間は、野放しでごろごろ転がっているということだが、そんな人間が犯罪捜査にからんでくると、警察も妙な苦労をさせられるからな。もっとも、今度の事件などは、例外中の例外だろうが……それで、陳志徳のほうはいったいどうだったね?」
「これも真っ赤な偽者でした。もちろん、竜田弁護士が、むかし中国で陳志徳を助け、陳のほうは、その後香港で成功したというのは事実です。しかし、彼がこの事件のあとで、日本へやってきたというのは完全に事実無根です。寺崎は仲間の中国人を、陳鴻陽《ちんこうよう》というような名前で、帝国ホテルに泊まらせ、恭子さんにもひきあわせておいたのですね。陳――という苗字《みようじ》がいっしょなわけですから、あとで自分が調べられるようなことがあっても、自分もだまされていたという口実もできるわけです。彼が、たしかに帝国ホテルの五一五号室には、陳志徳が泊まっていたと主張し、警察が調べて、陳鴻陽という名前の男がいたとわかったら、かえって真実性が増したんじゃないでしょうか。陳志徳が偽名を使っていたか、それとも自分はどうしても香港から離れられない事情があるので、たとえば一族の誰か自分の信頼できる人間をかわりにさしむけたかと考えるんじゃないでしょうか」
「なにしろ、今度の事件では、犯人の側が金に不自由しなかったわけだからね。いろいろな手を考えたものだ」
真田部長もちょっと苦い顔をして、吐き出すような調子で言った。
「まったく、寺崎が恭子さんを神戸へひっぱりだしてからのお芝居は、ずいぶん凝って手がこんでいましたからね。彼は、ああいう話をしておいて、しばらく姿を消すつもりだったようです。ピストルを処分し、射撃をしたあとで、顔や手に残る硝煙の痕跡《こんせき》が、科学的に検出できなくなるくらいの期間、逃げまわっていたなら、われわれはその間、ノイローゼになるほど悩まされたでしょう。そのあとで、彼がつかまったとしたら、われわれは国外脱出が成功したなという考えに傾くでしょう。そのときには、恭子さんにしても、彼から聞いたことは、ひとことも打ちあけてはくれないでしょう。それで、彼が黙秘権を行使したら、犯人隠匿の罪にしても、証拠不十分で起訴はできますまい……」
「たしかに微妙な勝負だったね、君が神戸に出かけていって、女をおどしつけたのが、いわゆる決定的瞬間だったね。しかし、寺崎はみごとに恭子さんを利用しぬいたものじゃないか」
「たしかにそうです。初めに、書類を調べると称して、事務所のほうへしばらく顔を出していたのは、自分の社からふさ子に関する報告書が届くことを知っていたので、それを人目に触れないように、処分してしまうためだったようです。しかし、ぼくと恭子さんの仲介をして、捜査陣の手の内を探ろうという最初の思惑は、ぼくがきっぱり断わったのと須藤俊吉が現われたのとで、だいぶ形が変わってきたわけです。彼のかわりに、榎本ふさ子が同じようなことを言いだしてきたのも、そこまで考えればうなずけますし、そのすぐあとで、ぼくがピストルで撃たれたのも、二人が共同作戦をとっていたとすれば理屈も通ります。ぼくと恭子さんとのことを、電話で部長さんに密告したのも、彼のしわざだということでした。彼なら、当時は恭子さんのそばにへばりついていたのですから、そのくらいのことはわかるでしょう」
「君たちには悪かったが、僕もあのときは、気をもんだよ。検察庁の人間の中に、卑劣な密告者がいるのかと、えらく心配したものだった……」
「無理もないことです。僕にしても、一時は北原君を疑ったくらいでした。神戸で、彼を慰労してやって、そのことをわびておいたら、彼は酔っていたせいでしょうが、ぼろぼろ涙をこぼしましてね、
『検事さん、もう二度とこのがらっ八を疑ってくださいますな』
と言うんですよ。まあ、これからはほんとうに一心同体で、いい協力者になってくれると思います」
真田検事もかすかな笑いを浮かべていた。
「まあ、検事と事務官は、見合いもしないでいっしょになった夫婦みたいなものだからな。ほんとうに、しっくりいくまでは、時間もかかるし、いろいろの問題もあるものだよ。ところで、慎一郎君の殺害のほうは?」
「はい、第三――いや、実際には第四の殺人ですが、これだけは寺崎義男のほうも焦って墓穴を掘ったのですね。慎一郎氏は、須藤俊吉に結婚のことを知らせ、彼から病気や霊療のことについて、さんざん悪口を言われたのだそうです。例の毒舌が、この場合には妙な効果を発揮したわけですね。慎一郎氏としては、まだ狂信からは完全にさめきっていないものの、いずれ念のため、医者のところで科学的な検査をと言いだした気持もわかりますが、ここで犯人たち二人はすっかりあわててしまったのですね。最悪の場合には、わずかの慰謝料ぐらいで、結婚解消というようなことにもなりかねない。それではいままで三人も人を殺してきたのも、なんのためだったかわからなくなる……それが毒を食らわば皿までというようなこの殺人となったのでしょう。これは彼らの犯罪の真の目的をさらけ出すようなことにもなるわけですが、そこまでは考えてもいられなかったのでしょう。彼らにとって、幸いなことには、捜査の方針は曲がりなりにも、彼らが、最初|狙《ねら》った方向の溝口、小林の両一家を結ぶ線に向かっていましたからね。こっちの関係者の中の命知らずの一人がやったと警察に思いこませれば、ことは案外かんたんにすむだろうと、たかをくくっていたのかもしれません。寺崎とふさ子が心を合わせれば、慎一郎氏を神戸へ連れだすこともわけはないでしょう。お父さんに秘密に会わせるという口実で、夜になってから、ホテルの外、あの現場まで連れだすのもやさしいことです。そこへ寺崎が現われて、慎一郎氏を射殺し、ハンドバッグを撃って、ふさ子のほうも同時に襲われたという証拠を作る。そして、ふさ子は犯人の人相その他について、ぜんぜんでたらめな証言をしたわけです。このあとで、恭子さんを帰してよこしたのは、いちおう最初の目的を達したと思ったためと、ここでもまた、捜査の秘密を探ろうという、二種の狙いがあったらしいのです。ですから、ふさ子が疑われだしたと知ったときの、寺崎の狼狽《ろうばい》はよくわかります。逃走の計画をいったん捨てて、恭子さんをもう一度呼び出し、一刻も早く事実を確かめようとした……波止場で僕の顔を見たときの彼の逆上ぶりは、もう批判のかぎりでもありませんね。とかく犯罪者というものは、いちばん大事な決定的瞬間に、われを忘れた行動をして、自分の墓穴を掘るようなことが多いのですが、あのときの彼もそういう神経だったのでしょう、三方海の波止場で検事の顔を見る。凶器のピストルは持ったまま、しかも、ヨード澱粉《でんぷん》反応で、最近実際にピストルを撃ったことも証明されるだろうと思ったとき、それまで冷静だった彼が、一瞬に、悪魔のようになったのも、わからないことではありませんね……かんたんですが、これで、中間報告を終わります」
真田検事も大きく何度もうなずいた。
「ほんとうによくやってくれたね。検事正が今度の事件に君を起用したときには、僕もたいへんな奇策を弄したと思ったものだが、君はりっぱにその期待にこたえてくれたようだね。そう、検事正といえば、一つ伝言を頼まれていることがあるよ」
「なんでしょう?」
「君と恭子さんとの仲人の話は、頼まれっぱなしになっているが、結婚式はいつか、早目に知らせてほしいと言っていたよ」
三郎はかるく頭を下げて答えた。
「ありがとうございます。いま、恭子さんは伊東のほうへ静養に行っています。まあ、女としてあれだけのショックを受けたことですから、心身ともにもとの状態に返るまでには、しばらく時間もかかるでしょう。また、お父さんとお兄さんとが、ほとんど同時に死んだわけですから、その一周忌がすむまでは、正式に式をあげるのは無理かもしれません。そのときはまた改めてお願いに上がります」
それからさらに二週間後、ようやく元気をとりもどして、東京へ帰ってきた恭子と三郎の間には、悦子の努力に感謝の気持を表わすために、三人で夕食をしようという相談がまとまった。
パレス・ホテルの食堂で、六時半ごろからということだったので、三郎は仕事をすませてぎりぎりの時間にホテルへかけつけた。
悦子は入口の外に立って待っていた。その顔には、きょうはなんともたとえようのない寂しい影がただよっているように見えた。
「お待たせしました。参りましょうか」
なぜ、ロビーにはいって待っていないのかちょっと不審に思いながら、三郎は声をかけたが、悦子はじっとその眼を見つめて、
「あの……わたし、きょうはご招待をお断わりするつもりで出てまいりましたの」
「どうなさいました? なにか急用でも起こったのでしょうか。それでしたら、また日をあらためて……」
「いいえ、用事ではございません。あなたがたお二人とごいっしょに、お食事をするということに、わたしの気持が耐えられなくなりましたの」
三郎は一瞬ぎくりとした。
「それは、あなたは恭子さんとの誓いを破られたということを、あまり神経質にお考えになっておられるんじゃありませんか。良心がとがめるかもしれませんが、しかし結果としては、かえってそのほうがよかったわけでした。あなたがわざわざ神戸まで出かけてくださって、あれだけの働きをしてくださらなかったら、この事件の解決は、ずっと遅れたかもしれませんし、また僕たちが、きょうこうして、楽しく顔を合わせることもできなかったかもしれません。まあ、過去のことはお忘れになって、すなおに僕たちの気持を受けてくださいませんか。もちろん今度だけではなく、これからも長く、いつまでも……」
悦子は黙って、建物について歩きだしていた。三郎もゆっくりその跡を追ったが、建物の角のあたりで、悦子は立ち止まって、
「わたしも、この事件のことはわすれてしまいたいのです。ただ、この事件をお手伝いしたおかげで、わたしには一生忘れられないようなものが、一つだけ、心に生まれてしまいました……」
と思いつめたような声で言った。
三郎は答える言葉を知らなかった。前に原田検事から、
「尾形さんは、君に惚《ほ》れこんでしまったのではないのかね」
と言われた言葉が、いまさらのように、胸を鋭く刺してきた。
悦子は寂しい笑いを浮かべて、
「いいえ、これはどなたのせいでもございません。みんな、わたしのわがままです。わたし一人が悪いのです」
「そんなことは……」
「どうか、わたしを一人にしておいてください。結婚式にもどうぞおよびにならないで……でも、式場には参りませんでも、わたしはかげで、あなたがたのご幸福をお祈りしておりますわ」
「尾形さん……」
「どうぞ、一生おしあわせで……」
と言うなり、悦子は足を早めて、皇居前広場の闇《やみ》の中に姿を消して行った。
三郎もその影にひかれるように、一歩二歩と歩きだしたが、そこで足を止めて、ふりかえりもせず去っていく悦子の後ろ姿を見送った。
それから三郎はゆっくりホテルへ引き返した。一階奥のロビーにはいると、恭子は顔いっぱいに微笑を浮かべて立ち上がった。
もう健康もすっかり回復したようだった。
その晴ればれした笑顔には、父と兄とを失った悲しみも、この事件のショックも、いまはどこにも残っていないように見えた。
角川文庫『検事 霧島三郎』昭和49年8月20日初版発行
平成9年2月25日改版初版発行