美獣 神々の戦士
著:高千穂遙
目次
第一章 北海の獅子王
第二章 銀仮面の館
第三章 黒い呪術師
第四章 荒野の電光狼
第五章 摩天楼地獄
解説
第一章 北海の獅子王
岩と、ねじくれたわずかばかりの植物と、乾ききった土だけの世界が、はるか地平のかなたまで広がっていた。
果てしない荒涼とした光景である。
その中に、あたかも打ち捨てられた芥子《けし》粒のように一人の男がいた。逞《たくま》しい体躯《たいく》の若い男である。
名をハリィデールといった。
ハリィデールは、もう十日以上も人の姿を見ていなかった。ヨードルの村をあとにして、この荒野に足を踏み入れて以来である。これまでに目にしたものといえば、兎と数頭のトナカイ、それにただもうひたすらに歩きつづけてきたこの広漠たる荒野だけであった。兎とトナカイはかれの空腹を充たし、皮はかれの強靭な肉体を覆《おお》う衣服となった。
ハリィデールは西の空を見た。あたりはすでに薄明の中にあって陽は大きく傾いている。しかし、陽はいっかな沈もうとはしない。
白夜なのであった。
白夜は夏のあかしである。が、この|北の地《ツンドラ》にあっては、夏とはただ氷と雪が消えるだけの束の間の時でしかない。風はやはり徒歩で旅するにはあまりに冷たく、気温はともすれば凍てついてしまうほど低かった。だが、ハリィデールの顔に、寒さに対する苦痛の表情はない。ぶ厚い、まるで、鎧《よろい》のように盛り上がった筋肉が、外気を遮断しているのだろう。ハリィデールは、不毛の原野を北に向かって黙々と進んでいた。
ふっと、ハリィデールの歩みが止まった。
全身に緊張がみなぎった。耳をそばだてて周囲を窺《うかが》っている。目もまた慎重に動いて、何ものかの姿を追い求めていた。
かすかな擦過音を聞いたのである。確かに数頭の狼の足音だった。誰も聞き分けられないであろうその音を、ハリィデールの鋭敏な耳ははっきりと捉《とら》えていた。
――囲まれている!
ハリィデールは、そう直感した。
抑えた低い唸《うな》り声が風にのってきた。そして、素早く動く銀色の影が視野を横切る。ハリィデールは両足を肩幅ほど開き、腰をおとして低く身構えた。肩から腰にかけて巻きつけられた毛皮以外、かれの持つものはない。極限まで鍛えあげられた筋肉と猛獣にも匹敵する反射神経だけが、ハリィデールの武器であった。
風が強くなった。乾いた土をさらって、周囲の見通しを悪くしている。ハリィデールは目をかばって額に手をやった。と、紗幕《しゃまく》から滲《にじ》み出るようにうっそりと巨大な銀狼が姿をあらわした。燠火《おきび》を思わせる両眼がまっすぐハリィデールに向けられ、須臾《しゅゆ》の間といえども、そらそうとはしない。
狼は三頭の群れだった。群れはハリィデールから数メートルの距離にまで近づいた。じっと様子を窺っている。トナカイを襲う時のように追い回して疲労を待とうとしないのは、ハリィデールが武器を手にしていない人間と見てとったからだろうか。しかし、その狼らしくない大胆な行動が通用するほど、ハリィデールは安全な獲物ではなかった。
わずかな――ほとんど意識されないほどに、わずかな間があった。
だしぬけにハリィデールめがけて二頭の狼が跳んだ。正面のリーダーとおぼしき巨大な銀狼ではない。両脇の二頭である。ハリィデールは瞬時にそれを確認し、かれもまた宙に跳んだ。
狼は仰天した。かれらの足下でうろたえているはずの人間が、眼前にいたからだ。そして、ハリィデールの両の拳《こぶし》が目にも止まらぬ速さで二頭の鼻づらに叩きこまれた。狼は互いに甲高《かんだか》い悲鳴をあげ、もつれあうようにして地に墜《お》ちた。ハリィデールはその傍《かたわ》らに危げなく着地した。
そこへ銀狼が飛びかかってきた。
銀狼にしてみれば、待ちに待った一瞬だったのだろう。誰でもジャンプして接地する瞬間にはバランスを崩して隙《すき》をつくる。そこをすかさず攻撃すれば、いかな相手であってもひとたまりもないはずであった。
だが、その目算は見事に外《はず》れていた。ハリィデールは、いささかもバランスを崩してはいなかった。銀狼は逆にくりだされるハリィデールの拳をかわして、逃げまわらねばならないはめに陥った。
銀狼が、かなわぬとみて大きくハリィデールとの距離を開けたときだった。地に墜ちたうちの一頭が息を吹き返し、斜め背後からハリィデールを襲った。が、それはあまりにも無謀な試みだった。ハリィデールはくるりと身を回してその突進をかわし、狼の上顎《うわあご》と下顎を両手でがしっと掴《つか》んだ。
骨がちぎれ、肉が裂け、皮が両断される音が響いた。ハリィデールの想像を絶する強大な力が、顎のつけ根から胴体まで、狼のからだを上下に一気に引き裂いたのだ。
真二つになった狼は、血と内臓をあたりに撒き散らして打ち捨てられた。剥《む》き出しになった心臓は、まだピクピクと蠢《うごめ》いている。
いま1頭の狼は怯《おび》えていた。ちょうど仲聞がハリィデールに掴まったところで意識を取り戻し、その惨劇をまともに見てしまったからである。これは自分に勝てる相手ではない。そう悟った狼は思わず後退《あとずさ》っていた。しかし、桁違いの敵だからといって、リーダーを残してさっさと逃げることはできない。狼は闘うか逃げるかで瞬時、迷った。その躊躇《ちゅうちょ》が命取りになった。ハリィデールはその間に間合いを詰め、峻烈《しゅんれつ》な蹴りを狼の喉笛《のどぶえ》に放っていた。狼は血ヘドを吐いて地面に叩きつけられ、絶命した。
激しい怒りを含んだ喰りが空気を震わせた。
銀狼である。仲間の死を悼《いた》み、復讐を誓うものの憤怒に満ちた唸り声である。
銀狼とハリィデールは、数メートルの距離をおいて対時《たいじ》した。両者はゆっくりと弧を描いて移動し、じりじりと間合いが詰まっていった。
不意に銀狼が攻撃にでた。まっすぐにハリィデールの喉を狙った。いわば捨て身の攻撃である。が、ハリィデールはその動きをとうに読んでいた。所詮、群れで行動する狼に、一対一の闘いは無理なのである。ハリィデールは難なくその牙を受け流し、片腕を銀狼の首にぐっと巻きつけた。
上膊筋《じょうはくきん》と三角筋が血管が浮き上がるほどに盛り上がり、ぐいぐいと銀狼の首を絞めあげていった。銀狼はたちまち泡をふき始めた。しかし、それでもハリィデールを振りほどこうとかれのからだをズルズルと引きずっていく。だが、この圧倒的に不利な体勢ではそれも長続きはしなかった。
骨の折れる鈍い音がした。四肢から急速に力が抜け、狼は腰を落とすようにへたりこんでいく。殺意が消えた。“気”も失せた。狼は、絶息した。それは明らかだった。だが、ハリイデールは絞めあげる力をゆるめようとはしなかった。それどころか、さらに力をこめ、捻《ひね》りを加えた。
銀狼の首が、音をたててねじ切れた。血の噴き出すゴボゴボという音がつづいた。
ハリィデールは首を抱えたまま立ち上がった。大地は銀狼の夥《おびただ》しい血で真っ赤に染められている。
ハリィデールはねじ切った首を無造作に放り投げた。地に墜ちる音は聞こえてこなかった。ハリィデールは怪訝《けげん》な表情で投げた先を見た。
そこに地面はなかった。
いつの間にか崖ふちにきていたのだ。
風はまだ強かった。その中に、強い潮の香りが漂っている。ハリィデールは崖ふちに立って、底を覗《のぞ》き込んだ。垂直に切り立った崖の数百メートル下では、海が白く泡立っていた。ハリィデールは崖の彼方に目を転じた。そこにも、こちらの崖とほとんど平行に、切り立った崖がつづいている。
峡湾《フィヨルド》であった。
――人がいるかもしれない。
ハリィデールはそう思った。
フィヨルドは、漁労者にとって絶好の入江となる。それゆえほとんどのフィヨルドには集落があるのだ。ハリィデールは崖を内陸に向かって目で追った。暗くて判然とはしないが、どうやら突きあたりはゆるやかに落ち込んでいるように見受けられる。気のせいか、明りも見えるようだ。規模はともかく、村があることは、まず間違いなかった。
――どうしたものか。
ハリィデールは、狼の血で染まった自分のからだを眺め回した。人は恋しいが、なぜか会うことにためらいが感じられる。一度野生に帰った動物がまた飼主のもとに戻るときに、こんな逡巡《しゅんじゅん》を味わうのではないだろうか。それは、力がすべてでない社会がもつ、うっとうしいまでのわずらわしさに対する反発かもしれなかった。
風が、さらに強まっていた。
小さな村だった。
石と木と漆喰《しっくい》でできた粗末な家が三十戸あまり。それに漁に使うのだろう、小舟と網がそこここに干してある。生臭いにおいがツーンとハリィデールの鼻をついた。
小さな、とるに足らない村だった。しかし、この地方の他の村に比べて、一風変わったところのある村だった。
家々の配置である。
村の中央に広場と石造りの神殿があり、家はすべてその神殿を何重にも囲むように、同心円状に建てられていた。しかも戸口がどれも神殿に面するようになっている。ハリィデールは、このような村をかつて一度も見たことがなかった。漁労者たちの集落というよりも、何か神々に関わりのある者たちの集落のように思われた。
村はひっそりと静まり返っていた。陽は沈まなくても、深夜なのである。聞こえるのは村の中を吹き抜ける風の音《ね》と、うちよせる規則正しい波の音だけであった。
戸口に立って声をかけるふんぎりのつかないまま、ハリィデールは神殿へと歩を進めていた。崖の上から見たように感じた明りは、やはり錯覚らしかった。それともハリィデールがここまで道を辿《たど》ってくる間に寝入ってしまったのか。いずれにせよ、まだ起きている家は皆無のようであった。
ハリィデールは、どこかに家畜小屋でもないかと思った。あれば、そこでからだを休めることができる。それに人と言葉を交すというわずらわしい手続きを踏む必要もない。だが、そのたぐいの小屋はどこにもないようだった。
ハリィデールは神殿の反対側に回りこんでいった。
と、その目に明りが見えた。窓からこぼれる弱々しいほのかな明りである。ハリィデールは足ばやにその明りへと歩み寄った。
それは神殿にもっとも近い家であった。
ハリィデールは足音をひそめてその家に近づき、壁にぴったりと身を寄せて明りのもれる石組みの窓からそっと中を窺った。別にやましいことのある身ではないが、誰がいるやもしれぬ家をいきなり訪《おとな》うことはかれにはとてもできなかった。
家の中からは、しきりに老爺《ろうや》のものらしいしわがれた咳込みが聞こえてきた。そして、何かを動かすゴトゴトという音。
――老人の一人暮しのようだ。
ハリィデールは、そう判断した。ならばさほど案じることはない。歓迎はしないまでも、ハリィデールを疎《うと》ましい来訪者とは思わないだろう。
ハリィデールは戸口にまわり、頑丈そうな戸を二度、軽く叩いた。とたんに慌てたような足音、さらには閂《かんぬき》をはずす乾いた音が響いてきた。ハリィデールは顔をだす者のために、わずかに身を引いた。
かすかなきしみ音をたてて戸が開いた。ハリィデールは挨拶《あいさつ》をしようとして口を開き、そのまま凝然と立ち尽くした。声がでなかった。
戸を開けたのは、豊かな金髪のほっそりとした美しい娘であった。彼女もまた意外な客に目を丸くしている。しかし、その驚きはハリィデールのそれほどではない。
「あなた誰?何の用なの?」
娘は険《けん》を含んだ声でそう訊《き》いた。不審の様子が、その表情にありありとでている。当然だろう。背の高い筋骨隆々とした見知らぬ男が、乾いた血のこびりついたからだに毛皮をまとって夜半にやってきたのだ。不審を抱かないほうがおかしかった。
ハリィデールは自分の迂闊《うかつ》さを呪った。なぜもっとよく確かめなかったのだろう。そんなに人家に焦がれていたのか……。しかし、とにかくこうして顔を合わせてしまったのだ。今さら時間を元に戻すことはできなかった。
ハリィデールは、できるかぎり静かな口調で言った。
「旅をしている。1晩だけ、泊めてもらいたい」
「旅ですって!」
娘は無遠慮に、ハリィデールのからだを頭のてっぺんから爪先まで、ジロジロと眺め回した。
「どっから来たの?」
「南からだ」
「南から?!」
娘は目を瞠《みは》った。ハリィデールはムッとしたように唇を歪《ゆが》めた。
「そうだ」
「バカもたいがいにしといてよ!南のあの原野を歩いて旅してきたなんて、あんた気はたしかなの?そんなことができるのは雷神くらいなものよ!」
「嘘はついていない」
「そうなの!」そして娘は両手を腰にあて、からかうように顎をぐいともちあげた。
「じゃあ、泊まるとこなんて必要ないわね。だって、そうでしょ。トールのように勇ましいんですもの。狼だって熊だって手出ししようなんて思わないはずよ。その辺の岩蔭で野宿でもなすったら?」
これはあまりの言いようだった。さすがにハリィデールの顔も紅潮し、かれは相手がまだうら若い娘であることも忘れて、思わず怒鳴り返そうとした。
そのときだった。
「セアラ、客人はどなたかな?」
しわがれた声とともに、家の奥から一人の老人が、うっそりと姿をあらわした。先ほどハリィデールが聞いた咳込みの当人である。
齢《とし》の頃は六、七十歳にもなろうか、背の低い枯れたような印象を与える老人であった。しかし、長い白髪と白髭に覆われた顔の中心に光る眼は燗燗として鋭い。
「客人なんかじゃないわ!」
セアラは老人を振り返り、感情を剥き出しにして言い放った。老人がわざわざ戸口まで出てきたことに何か不満があるような口調だった。
「じゃが、物盗りのたぐいとも思えんのう」
老人はその鋭角的な風貌《ふうぼう》に似合わず、ずっと瓢瓢《ひょうひょう》としていた。
「旅の人と言うていたかの。さ、そんなとこに立ってないで、中におはいんなさい」
「お父さま!」
セアラはキッとなって老人を見据えた。
「わたしにはわかりますのよ。この男を村に入れてはなりません」
「わしにもわかるのだよ、セアラ。この男は来るべくして来た男だ。拒むことはできない」
不思議な会話だった。ハリィデールのことを話しているように聞こえるのだが、何を言っているのかは、当の本人にはさっぱりわからないのだ。ハリィデールは当惑して、一歩も動くことができなかった。すると、かれのそんな様子に気づいたのか、老人が重ねて中にあがるよう勧めた。
「遠慮なさるな。おはいりなさい」
ハリィデールはセアラを見た。二人の目と目が合う。数秒|睨《にら》み合ってセアラはぷいと横を向き、家の奥へとさがっていった。
ハリィデールは老人に言われるまま、戸口をくぐった。
「そこへお掛けなされ」
壁にしつらえられた大きなかまどの前に、粗末なベンチが二脚、置かれていた。ハリィデールは、その戸口側の一脚に腰を下ろした。かまどにはあかあかと火が入り、ぐつぐつと音をたてている大鍋は、何やらうまそうな匂いをあたりにふりまいている。ハリィデールは、激しい空腹感を覚えた。
「まず、腹ごしらえをすることじゃな」
老人が木の椀とスプーンを渡した。そして鍋の中で煮たっていたドロッとしたスープをその椀になみなみと注いだ。
「海草と魚のスープじゃ。いくらでも食べなされ」
ハリィデールは短く礼を言い、自分でもあきれるほどの速さでそれをたいらげた。つづいてのおかわりも、あっという間にかれの胃袋の中に消えた。
結局、ハリィデールは大鍋いっぱいのスープを空にしてしまった。その見事な食べっぷりを見て、老人はあきれとも感心ともつかぬ苦笑いを浮かべた。
「よほど辛い旅をしておいでのようじゃ」
「辛い旅?」
ハリィデールは、とまどったような表情になった。
「いや……辛いと思ったことはない」
「ほう」老人は興味を持った。
「それはまた、なぜかな?」
「俺自身を捜すための旅だからだ」
「?」
ハリィデールの意表をつく返答に、老人は思わず身を乗り出した。
「仔細を伺いたいが、迷惑じゃろうか?」
と、そこまで言って老人は何かを思い出したようにハッとなり、そして声をあげて笑い始めた。
「これはしたり。まだ名も互いに知らんというに、つい立ち入った振舞いをしてしもうた。許して下され」老人は頭を下げ、口調を改めた。
「わしはヴァーグル。――このトビアンの村の長《おさ》ですじゃ」
「俺はハリィデール。南からやってきた」
「南からとは……!」
聞いてヴァーグルも、さすがに驚いたようだった。
「ここへ来る前はヨードルの村にいた。その前はベヒトの村。その前はボルムルの村にいた」
「ずっと流浪にあるのじゃな」
ヴァーグルは、何か考えこむような表情《かお》になった。
「俺には記憶がないのだ」
ハリィデールは、ふっとつぶやくように言った。抑揚のまったくない、ため息にも似た話し方だった。注意していなければ、つい聞き流してしまうそんな言葉であった。事実、ヴァーグルもあやうく聞き逃すところだったのである。
「記憶がない」
しかし、ヴァーグルはその台詞《せりふ》をちゃんと耳の端で捉えていた。
「それはどういうことかのう?」
「二年前、俺はグエナートの村にいた。なぜグエナートにいたのか、どうしてグエナートにきたのか、一切知らずにグエナートにいた。村人も俺のことを知らなかった。ただひとつわかったことは、俺がその前日まで、グエナートにいなかったということだ。その日、俺は忽然《こつぜん》とグエナートの村にあらわれ、村人に、俺は誰なんだ、と訊いてまわった他所者《よそもの》だったのだ」
「何か手懸りになるようなものは持っていなかったのかな?」
「何もない。着ていたものも腰布ひとつの裸同然だった……」
ハリィデールは視線を落とし、かぶりを振った。
「だから俺は旅に出たのだ」
「旅に?」
「グエナートに俺を知る者はなかった。しかし、他の土地にいけば俺を見たことがある者がいるかもしれない。ひょっとして俺が誰か知っている者に会えるかもしれない。そう思って、旅に出たのだ」
「なるほど」ヴァーグルは大きくうなずいた。
「それで自分自身を捜す旅と言ったのか……」
「そうだ」
「でてって!」
とつぜん、甲高い悲鳴のような叫びが空気を切り裂いた。ハリィデールはビクッとからだを震わせ、後ろを振り返った。セアラだった。いつの間にか、セアラが猫のように忍び寄り、ハリィデールの背後に立っていたのだ。
「でてって。この村からでてって!ここは神聖な地よ」
「セアラ、やめなさい!」
ヴァーグルは立ちあがり、娘を強くたしなめた。しかし、昂奮したセアラの耳にその言葉は届かない。
「あなたは不吉よ。不吉すぎるわ。からだに血をしたたらせ、目に野獣の光を宿らせて……。でてって!アスガルドの神々の名にかけて、すぐにでておいき!」
「セアラ、落ち着くんじゃ」
ヴァーグルは、セアラの肩に手を置いた。
「お父さま、この男は巨人の仲間よ。きっと様子を探りにきたのよ」
「セアラ!」
ヴァーグルの重ねての叱責《しっせき》に、セアラは渋々ながら口を閉じた。が、憎悪にあふれた、たぎるような眼差《まなざ》しは、じっとハリィデールに向けたままである。
「神聖な地。巨人の仲間?いったいそれは何だ?なぜそれが俺に関わってくるんだ?」
ハリィデールは困惑して訊いた。どうして自分が疎まれるのか、その理由がさっぱり解《げ》せなかった。
「随分白々しいことを言うわね」
セアラがまた口を出した。そっぽを向き、馬鹿にするような口調だった。ヴァーグルはそんな娘をちらと一瞥《いちべつ》し、そして、おもむろに言った。
「トビアンの村は、神々のためにある」
「神々の……?」
「村の中央に神殿があることに気づいておられるかな?」
ハリィデールはうなずいた。
「あれは、オーディンの神殿じゃ。この村に住まうわれらはすべて、あの神殿を守るためだけに存在しておる」
「それはあなたがたの信仰だ。俺は何もそれに異をとなえる気はない」
「信仰ではないのだ、ハリィデール。これはわれわれの役割なのだ。神々の命により定められたわれわれのな」
そこでヴァーグルはわずかに間を置き、ややあって言をつづけた。
「あの神殿には、オーディンの宝、グングニールの槍が納められていると伝えられる」
「お父さま!」
「お前は黙っていなさい」
色をなして詰め寄るセアラを、ヴァーグルは一言で制した。
「代々、この村の長にのみ語りつがれてきた古い予言をお聞かせもうそう」
そしてヴァーグルは、予言の詩《うた》の一節を朗々とうたってみせた。
「天は咆《ほ》え、地は唸る
|神々の黄昏《ラグナロク》はすでに近い
聖なるトビアンの地にも
大いなる禍《わざわい》が迫りくる
そのとき遠き地より
美しき獣が姿をあらわすだろう
美しき獣は
グングニールの槍もて巨人|悪霊《あくりょう》を討ち
地は再び光の満つるところとなる
命あれ
ラグナロクののち
神々は復活したまう……」
詠誦《えいしょう》はそこで終わった。何か途中で打ち切ったような感じだった。
老人は言った。
「これが出だしのほんの数行じゃ。しかし、これで充分じゃろう。いかがかな?」
「あんたが俺に何を言いたいのかは、さっぱりわからない。だが、この村が神聖な地であることの由来だけは、よくわかった」
ハリィデールは素っ気なく答えた。
「この予言は、長い間、他に知られることはなかった」ヴァーグルの表情が、心なしか暗くなった。
「ところが、近頃、海の巨人どもがこの予言のことを聞きつけたらしく、何かとうるさいのじや」
「ほう」
「海の巨人の王はヘニングリートじゃよ」
「北海の獅子王か!」
ハリィデールは、思わず腰を浮かせた。ヘニングリートは猛々《たけだけ》しい巨人族の中でも、勇猛なことでつとに名高い。北海の獅子王と聞いてまだ戦いを挑めるのは、神々といえどもオーディンとトールくらいのものであろう。
「村の者は怯えている」ヴァーグルは言った。
「巨人族それも北海の獅子王を相手に神殿を守り通すのは容易ではない」
「不可能じゃないのか?」
ハリィデールは気休めを言わなかった。
「おそらくな」
「俺の力を借りたくて追い返さなかったのか?」
「それもある」ヴァーグルはあいまいな言い方をした。
「セアラはオーディンに仕える巫女《みこ》だ。こんな時だからこそ、血の勾いをまとった者があらわれることを忌み嫌う。しかし、わしはトビアンの長。強者には少しでも長く村に留まってもらいたい」
「無駄なことよ」セアラがつぶやくように言った。
「こんな男を置いたところで、巨人どもがますます凶暴になるだけだわ」
「やれやれ!」
ハリィデールは両足を投げ出した。
「ようやく一夜の宿を得られたと思ったら、その代償が北海の獅子王の相手とはな。何といった。そうだ、美しい獣だ。竜だか熊だか知らんが、その美しい獣というのに早く来てもらったらどうだ?」
「神々の言い伝えをちゃかさないで!」
またセアラが噛《か》みついた。
「本来ならあんたの穢《けが》らわしい耳になんか入らない言葉よ!」
「………」
ハリィデールは無言のまま、セアラを睨みつけた。セアラはその気魄《きはく》に一瞬たじろいだ。
「セアラ、いい加減にしておきなさい」それを見て、ヴァーグルが問に割って入った。
「今夜はもう遅い。まずはひと眠りして、あとの話はまたあしたにしようじゃないか」
「わかったわ、お父さま」
ハリィデールの視線を逃れ、ホッとしたようにセアラは答えた。
ヴァーグルはハリィデールにかまどの前にわらを積んで寝るように言い、ハリィデールがそうするのを待ってから壁につるしてあった灯心の火を吹き消し、セアラとともに奥の部屋に入った。
巨人の襲撃は、その夜のことだった。
寝入ってから、一時間と経ってはいなかった。ハリィデールは、表に湧き起こった悲鳴、怒号に夢を破られ、目を醒ました。石敷きの床を通して、何十人もの人間が駆け回る足音も響いてくる。
ハリィデールは跳ね起き、立ち上がった。
「ついに来たようじゃな」
背後で声がした。振り返ると、火皿を手にしたヴァーグルとセアラが奥の部屋から出てきたところだった。
「巨人か?」
反射的にハリィデールは問い返した。
「とぼけないでよ!」セアラが血相を変えて叫んだ。
「あんたが呼んだんでしょ!」
「俺は知らん!」
「セアラ、神殿じゃ。神殿を守らねば!」
ヴァーグルはもう外にいた。セアラはハリィデールを押しのけるようにして戸口に向かった。
「俺も行く」
二人につづいて、ハリィデールも家を出た。
神殿の周囲は、霧しい数の松明《たいまつ》によって取り巻かれており、そこだけがまるで真昼のように明るかった。人数を多く見せるつもりでもあるのだろうか。しかし、白夜にそれをやっても何の効果も得られないはずである。ぞくぞくと神殿に集結する村入たちは戦いを知らぬ烏合《うごう》の衆だ、とハリィデールは思った。
神殿の石段を昇った。
百人あまりの村人がそこにいた。手に手にもりのような得物《えもの》を持っている。神殿はさほど広くなかったので、人々は肩が触れ合わんばかりにひしめいていた。
ハリィデールはヴァーグルとセアラの姿を捜した。まわりにいる村人たちは、胡散《うさん》臭そうにかれを見るだけで、どこにも取りつくシマがない。無理もなかった。かれらにとって、この金髪で大柄な男は、見知らぬ怪しげな他所者《よそもの》にすぎないのだ。トラブルを引き起こす前に、ハリィデールはヴァーグルから村人たちに事情を説明してもらいたかった。
ヴァーグルとセアラは、神殿の中央の四本の石柱に囲まれた、数段高くなった台座の上にいた。二人ともまるで彫像のように身じろぎもせず、じっと海のほうを見つめて立っている。その表情は強張《こわば》り、まばたきひとつする気配すらない。
ふと気がつくと、周囲の人間すべてが先ほどまでのざわめきはどこへやら、一様におし黙ってヴァーグルと同じ方角に視線を向けていた。そして規則正しい波の音に混じって遠くから響いてくる何ものかの喚声《かんせい》。ハリィデールは立ち止まり、村人たちの見つめる先フィヨルドが外海に向かって口を開いているその彼方に目をやった。
初めのうちは海上にかかっている淡い霧のために、何も見えなかった。上下する波頭が、地平すれすれに留まっている赤い太陽の鈍い光を浴びて輝いているのが、見てとれるだけであった。名も知れぬ鳥の影が、けたたましい叫び声とともに霧の中をよぎっていく。
と、だしぬけにそいつはあらわれた。
それは三隻の巨大な木造船だった。船体は細く長かった。へさきは大きく伸びて、そこに見事な裸婦像が彫られている。船腹からは十数本の長い擢が突き出していて一定のリズムで力強く波を掻き分け、船足は目を瞠るほど速い。そして甲板の上には何十人という海の巨人が槍や刀を手にして立っていた。
神殿に集まった人々の間から、畏《おそ》れと絶望がないまぜになった悲鳴にも似た声が湧きあがった。中には呆けたようにその場に坐り込んでしまった者もいた。
巨人の船はフィヨルドの中に進入してきた。フィヨルドの水深は深い。これほどの巨船でも幅さえ広くなければ充分、奥部まで入ってくることができる。
ハリィデールは台座に立つヴァーグルとセアラを見た。怯える村人たちの喧喚の中にあって、どちらも凝固したように微動だにしていない。ハリィデールはごった返す問を縫って二人のもとに近づいていった。台座の石段を昇り、ヴァーグルの後ろに立つ。その気配を察したのか、ヴァーグルは振り返った。
「どうする気だ?」ハリィデールは訊いた。
「勝てる相手ではないぞ」
「わかっておる」老人は答えた。
「じゃが、アスガルドの神々にかけて、ここを明け渡すわけにはいかん」
「降伏を勧めにきたのね!」
セアラが言った。
「どういう意味だ?」
「巨人の襲撃は、あんたがここへ来てオーディンの神殿の話を聞いた直後よ。巨人たちはあんたに呼ばれてやってきたんだわ!」
「俺は巨人の仲間ではない」
ハリィデールがそう言ったときだった。一人の若者がヴァーグルの脇に駆け寄った。肩で大きく息をしており、松明の赤い火の下で見ても蒼《あお》ざめているのがわかる。
「崖上からの攻撃はだめじゃったか?」
若者が言うよりもはやく、ヴァーグルが訊いた。
「だめです。まったく効果がありません」
「岩も火も利かなかったの?」
と、セアラ。
「ひとつとして」若者はうなだれた。
「巨人の船はあまりにも頑丈で、一抱え二抱えくらいの岩ではビクともしません。その上、黒小人にでも造らせたか、鉄の板を巧みに組み合わせて、我らが放つ松明をすべて海にはたき落とす楯《たて》をも備えています。もはや打つ手はどこにも……」
「お父さま!」
セアラは絶望の表情でヴァーグルを見た。
「フィヨルドは天然の要害じゃ。だからこそ、神殿はここに築かれた。しかし、どうやら巨人は万全の策をたててきたようじゃな」
「オーディンの守護が……トールの守護がありますわ!」
「美獣、か」
老人のそれは、つぶやきのような一言だった。だが、その一言を周囲の者は誰ひとりとして聞き逃さなかった。
「美獣だ!」
真っ先に叫んだのは、あの伝令の若者だった。
「俺たちには美しい獣がいるんだ!予言にうたわれた美獣が神殿を守ってくれるはずだ!」
あちこちで呼応する声があがった。“そうだ”とか“美獣だ”とか叫ぶ歓喜の声である。その昂奮は次々と伝播《でんぱ》していき、神殿の上はまたたくまに熱狂の場となった。再び、巨人の船が出現する前の活気が戻ってきたような喧喚である。人々は足を踏みならし、手を振り上げ、口ぐちに巨人を罵《ののし》った。だが、これは伝説という幻に支えられた影のような活気にすぎなかった。それがどんなに早く瓦解するかを老人は痛いほど承知していた。
ヴァーグルは耐えきれず、はしゃぐ村人たちから目をそらした。
冷ややかにかれを見つめるハリィデールと視線が合った。
「不用意な一言だったな」ハリィデールは村人の昂奮を尻目に静かに言った。
「神殿を護《まも》るのは美獣の役目ではない。それは村人たち自身の役割だ。そうではなかったのか?」
「予言は、村の長にのみ伝えられてきた。かれらが聞いているのは、そのほんの断片にしかすぎない。きょう、あなたが聞かれたほども、かれらは知らないのじゃ」
「教えてやらねばなるまい、ヴァーグル。美獣が護るのは神々であって神殿ではないのだと。このように浮かれていては戦《いくさ》にならんぞ」
「わしは迷うている」
老人の声はかすれて小さく、ほとんど聞きとれないほどだった。
理由はどうあれ、村人たちの戦意はいま、これ以上ないほどに高揚していた。だが、ヴァーグルが真実を告げれば、その戦意はたちまちにして萎《な》えてしまうことだろう。それが得策かどうかを老人は判断できないでいたのだ。このまま真実を語らねば、村人たちはひたすらに美獣の出現を期待して戦うに違いない。もちろん、これは村人を欺《あざむ》くことを意味しているが、この未曾有《みぞう》の危機を前にして、きれいごとを言っておられるだろうか。
ハリィデールは今のままでは戦にならんと言った。対して、ヴァーグルは今のままでないと戦にならないと思っている。が、はたしてそうなのか?
迷いは迷いを生み、ヴァーグルの心は千々に乱れた。老人はみずからを罵倒し、そのふがいなさを恥じた。
自分は決断を下すべき長ではないか!それがいったい何をしているのだ!
しかし、ヴァーグルの煩悶は長くはつづかなかった。
誰かが発した次の一言で、騒ぎが瞬時にして静まり、昂《たかぶ》っていた村人たちの心がまるで氷を押しあてられたかのように冷えきってしまったからである。
それはこう言った。
「巨人が上陸するぞ!」
すべての目が、一斉に巨人の船に向けられた。
くろぐろとした巨人の影が次々に宙へ躍った。そして水しぶきがあがり、しばらく間があって、ひっきりなしに激しい水音が響いてきた。
船から海に飛びこんだ巨人は、影が重なり合っていてよくわからないが、少なくとも五十人はいた。フィヨルド特有の切り立った深い入江にもかかわらず、水面は巨人たちの腰のあたりまでしかなかった。
巨人は、手にした剣や斧などの得物をこれ見よがしに高く振りかざし、おどろおどろしい喚声をあげて、一歩また一歩と村に向かって進み始めた。
ハリィデールは周囲の空気が変わったことに気がついた。村人が迫りくる巨人たちの群れを見て、おびえだしたのだ。無言のまま、恐怖にかられてジリジリと後退《あとずさ》っているのがはっきりとわかる。
と、巨人の前進が止まった。海岸まであとほんの一息というところである。
なんだ?
ハリィデールがそういぶかしんだときであった。まるで壁のように立ち並ぶ巨人たちを掻き分けて、一際《ひときわ》立派な体躯の巨人が前に進み出てきた。
「トビアンの長はいるか!」
その巨人は、地を揺るがすような大声でヴァーグルを呼んだ。
「おれは勇猛にして知を備えた巨人の中の巨人、北海の獅子王ヘニングリート様の配下、バドラスだ!まずはトビアンの長に話がある」
神殿の台座に立つヴァーグルは右手を高く差し上げると、巨人に答えて言った。
「わしがトビアンの長、ヴァーグルじゃ。バドラス、話を聞こう」
「お前がそうか」
バドラスは残忍な笑いを口の端に浮かべた、獲物を捕えた狼がつくる表情に似ている。
「北海の獅子王の名において、お前に命じる!」そこでバドラスはわずかに間を置いた。
「トビアンをわれらに明け渡せ。さもなくば、お前たちを皆殺しにして奪い取る」
「その話なら答えはひとつじゃ」
ヴァーグルの言には、何の躊躇もなかった。
「わしらは代々、この村をこのオーディンの神殿を守ってきた。たとえ皆殺しにされようとも、守るのがわれらの役目じゃ。トビアンは渡さん!さっさと帰るがよい」
とたんに喰るような巨人の咆哮《ほうこう》と凄まじい歯ぎしりが湧き起こった。一帯の空気がビリビリと振動した。
バドラスの手が宙に向かってまっすぐ挙がった。
巨人たちの叫び声がぴたりと熄《や》んだ。
「よい度胸だ、ヴァーグル!」バドラスが言った。冷静な声に聞こえるが、怒りをおさえていることはすぐにわかる。
「だが、くそ度胸だけで戦《いくさ》はできん。一村あげて犬死にするがいい!」
そしてバドラスはさっと腕を振り下ろした。
「皆殺しだ!」
水しぶきがフィヨルドの崖にそって、壁のようにそそり立った。巨人たちが猛烈な勢いで、一斉に前進を開始したのだ。いったん静まった咆哮も再び口をついてでるようになり、空気をひどく震わせている。
「アスガルドにおわすあまたの神々よ!」
動揺し、おびえたようにかれを見上げる幾百の目の前で、ヴァーグルは天を仰ぎ、両の手を並べてつきだした。その掌《たなごころ》にセアラが一本の杖を渡す。ヴァーグルは、それをしっかと握った。
「われらここに集いて神々の御楯とならんと欲すれど、その力とおく及びませぬ。オーディンよ!トールよ!われらに力をお与え下さい。われらに巨人を倒す救いの者をお与え下さい!」
叫ぶようにそう言うと、ヴァーグルは手にした杖を宙空高く投げ上げた。杖は老人の力によるものとは思えないほどの勢いで舞い上がり、みるみる小さくなっていった。
そこへ電光が走った。
杖が砕け、四散した。
気がつくと、空は一面の黒雲に覆われてしまっていた。神殿に群がった村人たちの間から、ほうというどよめきの声があがった。巨人たちも度肝《どぎも》を抜かれたのか、動きを止めて成り行きを見守っている。
稲妻はさらにつづき、天空を縦横に切り裂いた。
「なんだ。何がおきるんだ」
そんなつぶやきが人々の口から漏れた。しかし、それは天地を揺さぶるように鳴り響く雷鳴によってうち消されてしまい、誰の耳にも届きはしない。
電撃が神殿の柱を撃った。
柱の一本が真二つに割れ、バラバラと破片が村人の頭上に降りそそいだ。
村人たちはわっと叫んで、クモの子を散らすように逃げ出した。右に左に、おかまいなしである。たちまち、あれほど人間がひしめいていた神殿は空っぽになってしまった。あとに残るのは台座に立っていたヴァーグル、セアラ、ハリィデールの三人だけである。
また一本の柱が粉々になった。さらに一本。そして、また一本。柱は次々と電撃によって打ち砕かれていく。
「逃げないの?」
セアラが硬い声で訊いた。表情もひどくこわばっている。
「血が、騒ぐ」
ハリィデールは遠くを見ていた。その視線の彼方は。
――アスガルド!
セアラの背筋を戦慄が駆け抜けた。
最後の柱が砕け散った。
だしぬけにあたりが真昼のように明るくなった。瓦礫《がれき》になった最後の柱が光り輝いているのだ。目にした者はほとんど反射的に顔を覆った。だが、それは少しもまぶしくはなかった。人々は恐る恐る手をのけた。まるで白い塊《かたまり》のような光の中に、何かの影があった。
槍、である。
切っ先を上に向けて、光を放つ一本の長槍が宙に浮かんでいた。
槍の穂先には、神々の文字、ルーンが刻みこまれている。
居合わす人々で、その槍のことを知らぬものはない。それはオーディンの宝、グングニールの槍であった。
ふいに槍が飛び出した。
まずまっすぐに上昇し、次に直角に折れて海に向かう。立ちつくす巨人たちのただ中だ。そのあまりにも速い動きに巨人たちはなす術《すべ》もない。
悲鳴と血しぶきが同時にあがった。
槍がバドラスの首を貫き、肉と骨を抉《えぐ》ってうしろに抜けた。
バドラスは血泡を吹き、全身を朱に染めて海の中に倒れ込んだ。他の巨人たちは茫然としてそれを見つめ、凍ったように動きを止めている。
槍がくるっと回転して向きを変え、再び巨人の中に突っ込んだ。
今度は三人の悲鳴が空気をつんざいた。
胸、腹から血を噴き出して巨人が折り重なるように海に没した。槍はそのまま直進し、神殿をめざした。
神殿の上空にきた。
穂先を天に、石突きを地に向けて一直線に下降する。直下には台座があり、ハリィデールがいる。
グングニールはハリィデールの右手の中にぴたりとおさまった。
しばらくの間、しんとして声がなかった。また、動くものもいなかった。
誰もがことの成り行きに息を呑み、誰もが茫然として思考力を失っていた。
電光が黒雲と槍とを結んだ。激しい雷鳴が轟き、眩《まばゆ》い光と炎が瞬間ハリィデールを包む。
――即死だ!
すべての人々がそう思った。しかし、ハリィデールはグングニールを手にしたまま何ごともなく立っていた。髪は雄々しく逆立ち、筋肉は闘志にあふれた緊張で小山のように盛り上がっている。その姿はまるで一匹の猛獣均整のとれた美しい獣のようだ。
――神によって選ばれた男。
村人たちの脳裏をあの古い予言の詩《うた》の一節がよぎった。
「美しき獣……」
ふっと、まったく意識することなしにセアラの口から言葉がついてでた。つぶやきのような、本当にかすかな声だったが、それは意外なほど大きく響いた。
「美獣だっ!」
誰かがそれに応《こた》えるように叫んだ。
「美獣だっ!」
さらにそれに和す声が次々とあがった。たちまち神殿の周囲は騒然となった。
ハリィデールは当惑していた。
なぜだ? なぜだ? なぜだ?
おれは。 おれは。 おれは!
言葉が精神の中で渦を巻いていた。何かを考えることができなくなっている。全身はたぎる血の昂奮で、火のように熱い。何かすることを彼は求められている。だが、何をすべきかが、かれにはわからないのだ。
「ハリィデール!」
ヴァーグルの声がかれを呼んだ。
「ハリィデール、選ばれし者よ。お前こそ美獣、神々によって選ばれた者なのじゃ!さあ、討て!グングニールの槍もて、巨人を、悪霊を討つのじゃ。ハリィデール!」
――なぜだ? なぜ力がみなぎる? なぜからだが、血が燃える。おれが美獣なのか? おれが選ばれし者なのか? おれは誰なんだ!
行動が思考を超えていた。
いつの間にかハリィデールはグングニールの槍を振りかざし、神殿をあとにしてフィヨルドの崖の上を走っていた。なぜそうしたのかは、自分でもわかってはいなかった。身の裡《うち》にどこからかつきあげてくる闘いへの衝動がそうさせたのだ。
巨人の群れが足下にきた。
ハリィデールは何のためらいもなく、目もくらむような崖からダイビングした。目を見開き、驚愕《きょうがく》のあまり唖然としている巨人の顔がぐうんと迫ってきた。
巨人たちの間にけたたましい悲鳴がまきおこった。血が迸《ほとばし》り、空も海も大地も真紅に染まった。巨人の首がいくつか、鈍い水音をたてて海に落ちた。そして、しばらく間をおいてからゆっくりとからだも倒れる。
グングニールの槍を風車のように回して巨人を斬りきざみながら、ハリィデールは身を翻《ひるがえ》して軽やかに巨人の船の甲板に立った。
恐怖にかられて逃げ出した者もいるのだろう。何十人といた巨人の数は、半分ほどになっている。
残った巨人はハリィデールの立つ船を素早く包囲した。
ハリィデールは槍を巨人に向けて投げつけた。グングニールは、投げれば必ず相手を倒す力を持っている。そのことを知る巨人たちは思わず立ちすくんだ。そこへ槍が躍り込んだ。槍は右に左に上に下にと自在に走る。巨人たちは反撃のひとつもできないまま、バタバタと斬り裂かれ、息絶えていった。
槍がハリィデールの手に戻ってきた。巨人はもう数人を数えるのみである。
ハリィデールは宙に跳んだ。
槍をふるい、一人また一人と巨人を屠《ほふ》っていく。返り血でハリィデールの全身は真っ赤になっている。
「たっ、助けてくれ」
最後の一人になった。崖にへばりついて必死に許しを乞うている。ハリィデールは船を伝ってジリッ、ジリッとその巨人に近づいた。グングニールがその右手で光る。
巨人は半狂乱になっていた。崖を登ろうと手をしきりに動かしているが、指はむなしく崖を削るのみである。
「うわーっ!」
巨人は叫び声をあげ、崖にそって逃げようとした。と、同時に槍が一閃《いっせん》する。
首と胴がすっぱりと離れ、首は血の尾を引いて飛び、崖にめりこんだ。からだの方は勢いよく水しぶきをあげて海中に沈んでいく。
ハリィデールは息をつぎ、村に目をやった。
不思議に村は静かだった。恐ろしい敵の攻撃を退けたという喜びも昂奮もないようだった。
ふっと、村入たちがどこか遠くを見ていることにハリィデールは気がついた。陸に面して立つハリィデールの背後である。ハリィデールは振り返って後ろを見た。
海が、凄まじい勢いで引き始めていた。
水面がみるみる下がり、海底が沖へ向かって露《あら》わになっていく。尋常な現象ではなかった。何か魔の力がもたらした、まがまがしい引き潮に違いなかった。
新たな戦いの予兆がそこにあった。
海が割れた。
剥《む》き出しになった海底に着底して傾いた船の上で、ハリィデールは槍を手に身構えた。何があらわれるかはまったく想像できなかった。ただ、何かが出現するという確信だけがあった。
突然、天まで届こうかという水しぶきが爆発的にあがった。そして、巨大な遥か上空へとつづく柱がそびえ立った。
いや、柱ではない。
それは信じられないほど巨大な蛇の鎌首だった。ぬめぬめと妖《あや》しく光る黄金色のうろこ、懊火のように赤く燃える双眸《そうぼう》。地上をひと巻きして、まだ自分の尾をくわえることのできる海の怪物、ミッドガルド蛇である。
「お前が美獣か!」
ふいに頭上から声が降ってきた。割れ鐘のような、ガンガンと頭に響く蛮声であった。
声の主は、ミッドガルド蛇の頭の上に立っていた。バドラスよりもさらに一回り大きな巨人である。
おそらく黒小人が造ったものだろう。黄金の鎧を身につけ、角かぶとをかぶり、腰に剣を佩《は》いて、三ツ叉の鉾《ほこ》を手にしている。
顔はといえば、その半分は真っ黒な髭に覆われ、表情を読むことすらできない。しかし、らんらんと輝く両眼は残忍な色をはっきりとたたえている。
背の真紅のマントが風にあおられて、激しくはためいた。
「わしは北海の獅子王、ヘニングリートだ!」
稲妻が走った。
「俺は、ハリィデールだ!」
ハリィデールはヘニングリートに応えて名乗った。と、その名を聞いたヘニングリートの顔色が変わった。
「なにっ、ハリィデール!」
うろたえが隙《すき》になった。
ハリィデールはグングニールの槍を獅子王に放った。
「ちいっ!」
ヘニングリートはグングニールを間一髪、鉾で受けた。槍はくるくると回転しながら、ハリィデールの手に戻った。
「さすがに北海の獅子王だ」
「しゃらくさい!行くぞ!」
その声を合図にミッドガルド蛇は、ぐんと鎌首をもたげた。瘴気《しょうき》を撒き散らす真っ赤な口がみるみるハリィデールへと迫った。
ハリィデールは槍を振りかざして跳んだ。
ヘニングリートも跳んだ。
空中で槍と鉾が噛み合い、火花を散らした。互いに有効な一撃はない。ヘニングリートは猫のようにからだを丸め、その巨体に似合わぬ身軽さでひらりと崖の上に立った。そして、ハリィデールの下には毒息を吐くミッドガルド蛇のぱっくり開いた大口があった。
ハリィデールは咄嗟《とっさ》にからだを捻り、向きを変えてグングニールの槍を正面に突き出した。槍の穂先がミッドガルド蛇の右目をぐりっと抉《えぐ》った。蛇は痛みにのたうちまわり、槍ごとハリィデールを宙に跳ね飛ばす。血が尾を引いて噴出した。
ミッドガルド蛇は海の色を朱に変えて海中にその姿を消した。
ハリィデールはフィヨルドに向かって弾《はじ》かれ、ヘニングリート同様、崖の上に着地した。両者の間はさほど離れてはいない。二人は互いの得物を構えて対峙した。
「死ねい!」
三ツ叉鉾を振りかざしたヘニングリートが一気に間合いを詰めた。ハリィデールもすかさずグングニールの槍を繰り出した。ヘニングリートは紙一重でそれをかわし、三ツ叉鉾をぶんと捻らせてハリィデールの頭めがけて叩きつけた。ハリィデールは、これを槍の柄で受けた。甲高い金属音が反響する。ハリィデールはそのまま槍を回してヘニングリートの足を薙《な》ぎ払った。ヘニングリートは危うくこれをよけたが、代りにバランスを失っていた。左の守りがガラ空きになる。ハリィデールはその隙を逃さず槍を投げた。
「うおっ」
ヘニングリートが悲鳴をあげた。槍が顔を斬り裂いたのだ。ひるんだ様子がみられる。
ハリィデールはヘニングリートの膝頭に体当りをかませた。さすがの獅子王の巨躯もたまらず、どうと倒れる。三ツ叉鉾があらぬ方向に転がった。
ハリィデールの手に槍が戻ってきた。とどめとばかりに間を置かず、ハリィデールはヘニングリートの心臓を狙ってそれを突きたてた。
鋭い金属音が響き渡った。
ヘニングリートはギリギリのところで佩剣《はいけん》を抜き、ハリィデールの必殺の一撃を返した。その勢いに足をもつれさせて、今度はハリィデールが地に倒れる。ヘニングリートは敏捷に立ち上がり、剣を上段に振りかぶった。ハリィデールの体勢ではよけきれない。
そのときだった。
ヘニングリートの表情が苦痛に歪んだ。喉の奥からゴロゴロという唸り声を発した。
剣はいっかな振りおろされようとしない。
ヘニングリートはゆっくりと後ろを振り返った。その背中に、槍、矢、もりが十数本と突きささっている。巨人の鎧には背あてがない。先ほどまで遠まきにして二人の死闘を見ていた村人たちが、ヴァーグルの指揮でこっそりと接近し、そこを狙ってありたけの武器を放ったのだ。
ハリィデールは素早く立ちあがり、グングニールを全身の力を込めて投げた。
「ぐえあっ」
槍は獅子王の背中から鎧ごとヘニングリートの胴を貫き、反対側に抜けた。ヘニングリートはがっくりと膝をつき、それから前に朽木《くちき》が倒れるように転がった。
――終わった。
ハリィデールは肩でハアハアと息をしながら、ヘニングリートに歩み寄った。
「ハリィデールよ」
獅子王がかすかな、ともすれば喘《あえ》ぎに打ち消されそうな声でハリィデールを呼び止めた。ハリィデールは立ち止まり、ヘニングリートの顔を見た。
「ハリィデールよ。お前が美獣だったのか」
「俺のことを知っているのか、獅子王よ!俺のことを」
ハリィデールは勢い込んで訊いた。戦いの前にかれの名を聞いたヘニングリートが動揺して先手をとられたことを思い出した。ヘニングリートは失われたハリィデールの過去のことを何か知っているに違いなかった。
「異なことを訊くのだな、ハリィデール。お前を知らぬ巨人がおるというのか……」
「巨人だと?どういうことだ、獅子王。おれには過去の記憶がないのだ。話してくれ、おれのことを」
「記憶がない?」そこでヘニングリートはむせかえるように小さく笑った。
「そうか、オーディンが……そうか……」
ヘニングリートの息が荒くなった。ときに言葉が跡切《とぎ》れ跡切れになる。
「言ってくれ!おれは何だ?」
「お前は……お前は……ラガナの……氷の女王……北へ……」
そこでガクッとヘニングリートの首が横倒しになった。ハリィデールは慌ててその顔を覗き込んだ。巨人の目からは光が失せている。
「ヘニングリート!ヘニングリート!」
ハリィデールは、巨人の肩を揺すぶった。
反応はなかった。
北海の獅子王は、絶命していた。
ハリィデールは、全身から気が抜けたように茫然となってその場に立ち尽くした。
「あんたが、美獣だったのね」
だしぬけに背後で声がした。振り向くと、セアラが立っていた。ヴァーグルと数人の村人も来ている。
ハリィデールは視線を戻し、かれらに背を向けた。
「行ってしまうの?」
セアラが訊いた。ためらいがちな口調だった。ハリィデールは振り返ることなく答えた。
「俺自身を捜さねばならない」
「あんたは美獣よ!それがわかれば充分じゃない!」
「獅子王があてをくれた。ラガナの氷の女王。何もののことを言ったのかはまだわからぬが…」
「捜してどうなるのよ!」
「セアラ!やめなさい」
ヴァーグルが強く制した。そして、ハリィデールに向き直って言った。
「ハリィデール。自分を捜しに行くがいい。しかし、これからの旅は楽ではないぞ。お前が美獣と知れたのだ。あらゆる巨人、悪霊がお前を倒さんものとつけ狙うことじゃろう」
「…………」
「おそらく、|神々の黄昏《ラグナロク》のその日まで闘いつづけることが、お前の宿命なのだろうて」
「…………」
無言のまま、ハリィデールは歩き始めた。右手に持ったグングニールの槍が、陽光をあびて盛んに燦《きらめ》く。ようやく白夜が明け、地平をのろのろと這《は》っていた太陽が昇りだしたのだ。
「ハリィデール」
セアラがあとを追おうとして二、三歩前に進み、ヴァーグルにとめられた。
美獣の前には、荒涼と広がるツンドラの原野があった。
第二章 銀仮面の館
銀仮面を見た。
男はそう言い残して、息絶えた。
若い男ではなかった。といって、老人と呼ぶほどの齢《とし》でもないようだった。額には深いしわが幾筋も刻まれ、鬢《びん》にももう、白いものがかなり混じっている。しかし、浅黒く陽焼けした皮膚にはまだ充分な張りがあり、目の粗い生地の、襤褸《ぼろ》としか言いようのない衣服からつきでた手足は、短いが、意外なほど太く、頑丈そうであった。
獣に踏みしだかれてできた尾根道が下りに差しかかったところで、その男は地に倒れ伏していたのだった。
ハリィデールは関わったものかどうかしばし迷い、それからおもむろに、男を抱き起こした。
男は死にかけていた。
濁った、生気のない双眸《そうぼう》がハリィデールを捉《とら》え、男はつぶやくように言った。
「銀仮面を見た」
首がガクリと、仰向けに落ちた。目を空《うつ》ろに見開いたまま、男のからだから体温が急速に失われていった。
――山窩《さんか》の者ではない。
それはハリィデールにも、すぐにわかった。山窩の者ならば、このように行き倒れているはずがないのだ。ハリィデールが見つける前に仲間が、その異常ともいえる感覚で男の難渋を知り、いずこかに運び去ってしまうはずであった。
衣服もまた、常に旅にある山窩の者が身にまとうそれではなかった。
と、なると、男は里人ということになる。どこかに村がある、と考えられた。おそらく、この山麓《さんろく》であろう。あえて関わった以上、そこまで亡骸《なきがら》を届けてやるのが、死者に対する礼儀であった。
死んだ男は、戦場に仆《たお》れた勇士ではない。ワルキューレは迎えにこないのだ。
――しかし。
悔恨が激しくハリィデールの中で渦を巻いた。
村には人がいる。そこには人の営みがある。行けば、否応なくその世界にはいる。はいるまでに至らなくとも触れる。
億劫《おっくう》であった。名状しがたい不安のようなものがあった。何かが――布に広がるしみにも似た何かが胸の裡《うち》を満たし、そこはお前の立ち入る領域ではない。血の匂いを漂わせたけだものの近づく世界ではない。と、しきりにかれに囁《ささや》きかける。
ハリィデールは、人ではなかった。少なくとも、自分ではそう思っていた。
外見は確かに人間である。逞しく、若い男だ。巨大な、カにあふれた体躯で、肩にも、胸にも、腕にも、足にも、小山のような筋肉が隆々と盛り上がっている。精桿な、猛禽《もうきん》のごとき顔つきと、暗い眸《め》を持ち、黄金に輝く髪が肩まで届いて、たてがみのように僧帽筋《そうぼうきん》にまとう。だが、中は違った。
すべては、あのトビアンの村で変わったのである。
運命《さだめ》と呼ぶのなら、それもよかろう。人は、大いなる意志によって翻弄される将棋の駒にすぎない。神々の指し手ひとつで人生はどのようにでもなる。朝《あした》に王となり、夕《ゆうべ》にもの言わぬ骸《むくろ》と化す者すら世にはある。
そして、神々を護《まも》るために、血塗られた獣と化す者も。
美獣。それがハリィデールに押された、消すことのできぬ烙印であった。血と闘争と殺戮《さつりく》の日々を約する、凶々《まがまが》しい手形である。神々のために死を供物として捧げる美しい獣。
なんと凄絶な存在ではないか。
ハリィデールは知らない。生まれたときから、かれは美獣だったのか。それとも二十数年を生きたのちに美獣として神々に選ばれた者なのか。
ハリィデールには記憶がないのだ。
過去を求めて村々を彷徨《さまよ》い、ツンドラの原野を渡り、そしてトビアンの地に至ってオーディンの宝、グングニールの槍を与えられ、自分が選ばれし者、美獣であることをかれは知った。
知りたいと欲していたことではなかった。むしろ、疎《うと》ましいことであった。運命を甘受するにやぶさかではなかったが、これはあまりにも数奇なそれであった。しかし、誰が神々に異を唱えることができようか。
美獣には、使命があった。
神々の敵、巨人、悪霊《あくりょう》を神々にかわって討つのである。予言にうたわれた|神々の黄昏《ラグナロク》は近い。巨人、悪霊は、かれらの国ヨツンヘイムからすでに人間の世界ミッドガルドへと侵入し、神々の都アスガルドを攻むるべく、機を窺《うかが》っている。この巨人、悪霊を一掃するのが、美獣に与えられた使命であった。
ハリィデールは、再び旅にでた。闘いのための旅ではない。失われたおのれ自身を捜すための旅であった。巨人、悪霊は放っておいても、予言にその名を印された美獣を倒すべく、我先にと闘いを挑んでくる。美獣としての役割は、生きのびるだけで果たすことができるのだ。
ハリィデールは、地に横たわる男の屍体を見ていた。倭小な、そしてひどく醜《みにく》い屍体であった。もしかすると、それは、死そのものの姿なのかもしれなかった。
ふっと、何かがふっきれた。
村に行かねば、と思った。
独りでいては、何ひとつとして知り得ないのである。
男のからだを無造作に把《と》り、軽々と左肩に担《かつ》ぎ上げた。肩から腰に巻きつけた毛皮以外、何も身にまとわぬ半裸体に、筋肉がまるでそれ自体、生命を宿すかのように躍動する。男の重さは、その滑らかな動きの前には、無同様の扱いしか受けることはない。
ハリィデールはまた、けもの道を下り始めた。右手に握るグングニールの槍の石突きが石を弾いて、甲高《かんだか》い響きをたてる。下生えの草の折れる乾いた音とともに、名も知れぬ鳥が遠くでしわがれた不吉な啼《な》き声をあげた。
「血まみれの人面獣が村に行くぞ、と告げておるのか」
そんな自嘲のようなつぶやきが、ふと口をついてでた。なぜか笑いがこみあげてくる。
ハリィデールの正体を知れば、村人はさぞや迷惑に思うことだろう。黙っていても、いずれ悪霊か巨人がくる。
――人よ哭《な》け! 勝手に俺を呪うがいい。俺はもう向かうことに決めたのだ。
獣は、ひどく気まぐれな存在であった。そう。それはちょうど、神々のように。
村に来た。
木造りの粗末な小屋が十数戸、山峡《やまかい》に身を寄せ合うようにして立ち並んでいた。道はもう、けもの道ではなかった。狭いが、人間の足でしっかりと踏み固められた道であった。
最初の小屋の前に、老人が一人、うずくまっていた。
一見して、藁束《わらたば》かと思った。道に沿うて、麦畠があった。それで、そう思ったのだ。しかし、そうではなかった。それは人間だった。褐色というよりも、むしろ黄色っぽい髪と髭がもじゃもじゃと伸び放題に伸びて、その貧弱なからだを覆《おお》い隠しているのだ。膝を抱えてうつむいているようだったが、それも判然としなかった。
老人とわかったのは肩が剥《む》き出しになっていたからだった。干涸《ひから》びて、木乃伊《ミイラ》のようになっている。あの皮膚の持ち主なら、老人か、さもなければ屍体のどちらかであった。
老人は、村にやってきたハリィデールに反応して、わずかに動いた。それで、屍体でないと知れた。
「これは、したり」
老人が言った。樹間を吹き抜ける風にも似た声だった。たよりなげな、それでいてはっきりと聞こえる声だ。
老人は顔にかかったボサボサの髪をかきわけて視野を広げ、まじまじと、ハリィデールを見た。いや、正確に言えば、老人の視線はハリィデールにではなく、ハリィデールの肩に乗る屍体に向けられている。
老人はよたよたと杖にすがって立ち上がった。萎《な》えているのか、足が糸のように細い。また、髭に埋もれた口を開いた。
「トグル!」
誰かの名を呼んだのだった。ややあって、老人の背後の小屋の戸がバタンと勢いよく開かれ、「なんだい、じっさま?」
と、少年が顔をだした。十二、三歳くらいか。痩せてひょろっとした赤毛の少年だった。
「トグル」屍体から目を放さずに、老人は言った。
「みんなをすぐにここへ集めろ。ゴッサムが…」
老人はそこで少し間を置き、そして言葉を継いだ。
「死んだ」
「死んだ?」
トグルは一瞬、怪訝《けげん》な表情《かお》になった。しかし、すぐに気を取り直したか、大きくうなずく。
「うん!」
トグルは小屋を飛び出し、村の奥へと駆けだした。
「ゴッサムというのか」
ハリィデールは屍体を地上にそっとおろし、仰向けに寝かせた。老人はもう何も言わず、ただその動きを目で追うばかりである。
村人は、すぐに集まった。
総勢で、五、六十人ほどであった。皆、ハリィデールとゴッサムの屍体を遠巻きにして、近づこうとしない。老人の小屋は他の小屋から、少し離れたところにあった。その前はちょっとした広場になっている。五、六十人なら楽に立てる広さだったが、遠巻きのため、ひしめきあう有様となった。
中の一人が、前に進み出た。
「ゴッサムはどうしたんだ?」
声が震えていた。初老の、山羊《やぎ》のような髪をたくわえた男である。おそらく村の長《おさ》だろう。怯《おび》えているのだ。美獣が放つ、死の匂いを嗅ぎとったわけではない。ただ単に、鎧のごとき筋肉に覆われた、ハリィデールの巨大な体躯に畏怖《いふ》しているだけである。事情を話せばあっさりと納得して、じきに打ち解ける手合いだと、ハリィデールは推測した。
「ゴッサムは、俺の腕の中で死んだ」ハリィデールは、わざと沈痛な表情をつくって、言った。
「尾根道の途中で、倒れていたのだ」
「あんたが行き会ったときには、まだ生きていたのか?」
「外傷はどこにもなかったが、虫の息だった」
なんでそんなことを訊くのかと不審に思いながらも、ハリィデールは答えた。長の顔色が不意に変わった。
「外傷が、なかった」
目を見開き、唇がわなないている。
「何か……」何度も生つばと息を呑みこんで、長は声を絞り出した。
「何かゴッサムは言い残さなかったか? そのう、誰かに殺《や》られたとか、誰かを見たとか……」
「驚いたな」ハリィデールは本音を言った。
「確かに言ったぞ」
「なんと?」
長は身を乗り出した。いや、かればかりではない。その後ろに並ぶ村人全部がそうだった。
ハリィデールは、抑えた低い声で言った。
「銀仮面を見た」
「おおっ!」
どよめきが起こった。恐怖と戦慄がないまぜになったどよめきだった。潮が引くように、さあっと村人たちが後退した。
「出ていってくれ!」
長がせいいっぱい胸を張り、決然として言った。顔は一転して紅潮している。
「出ていってくれ! 禍《わざわい》の種を持ち込まれるのはごめんだ。このまま立ち去ってくれ!」
長は貧相な小男だった。それがムキになって喚《わめ》いているのだ。何かひどく凄愴《せいそう》な感じである。
「ゴッサムは、この村の者だ。俺は、わざわざその遺骸を届けにきたのだぞ。それを追い返すのか?」
口調おだやかに、訊いてみた。
答えは冷ややかだった。
「銀仮面を見た者は、ここの村人ではない。担ぎ込んだ屍体もろとも、出ていってくれ」
それだけ言うと、長はくるりときびすをめぐらした。ハリィデールには構わず、さっさと村の奥へ向かって歩き始める。
「待て!」
脅し半分で大声をあげたが、無駄だった。村人の過半はもうその場から失せていたし、たとえ殺されても長には、立ち止まる意思はないようだった。
ハリィデールとゴッサムの屍体、そしてあの老人だけが広場に残った。
ハリィデールは憮然とし、老人に向かって訊いた。
「なぜ、あんたは失せない?」
感情を表にだすまいとしたが、自然、声は不機嫌になった。追われることは覚悟していたが、こんなかたちになるとは思ってもみなかった。
「ここは、わしの家《うち》じゃ」
「屍体をこのまま放置して俺が立ち去ったら、あんたたちはどうする?」
顔を覆う髪の下で、老人の目が左右に素早く動いた。
「あんたに、そんなことはできん」老人は断定的に言った。
「できれば、尾根道でとうにそうしている」
「ちっ!」。ハリィデールは首をめぐらして、舌打ちした。
「いやな村だ」
そしてまた、老人に向き直った。
「せめて理由だけは教えてくれ。そうしたら、ゴッサムを担いで出ていってやる」
「…………」
「銀仮面とはなんだ?」
「…………」
「爺さん!」
「銀仮面を見た者は、皆死ぬ」
老人はポツリと、それだけ言った。そして、だしぬけに腕をあげ、東を指し示した。
「この方角にまっすぐ進むと、小さな窪地に至る。不浄の霊を鎮める禊《みそぎ》の地じゃ。ゴッサムの屍体は、そこに捨てるがよかろう」
「そうじゃないぜ、爺さん!」ハリィデールは喰い下がった。
「俺の知りたいのは、そんなことじゃないんだ」
しかし、老人はもう地面に腰を下ろすところだった。ハリィデールがくるまで、じっとうずくまっていた場所である。老人は膝を抱え、また一束の藁と化して動かなくなった。もはや何を言っても埒《らち》があかないことは、誰の目にも明らかだった。
ハリィデールはひとしきり鼻を鳴らし、何度もかぶりを振りながら、ゴッサムの屍体を今一度、担ぎ直した。
行先は、東の窪地。何もかも、やむを得なかった。
ハリィデールが去ったあと、老人は誰にも聞きとれぬ小声で独りつぶやいた。
「あれが美獣か。凄まじい生命力じゃった。あやつを相手にしては、わしの命なんぞ、あっさりと吹き消されてしまうわ。神々はまた、恐ろしいものを生みだしたものじゃて」
そして、老人は目を閉じ、そのまま静かに、静かに、絶息した。
窪地は、予想外に遠かった。
山裾をぐるりとめぐり、針葉樹の森をえんえんと抜けて、辿り着いた。北の地は夏にあり、白夜だったことが幸いした。陽は地平線上をいつまでも周回して、沈むことはない。
森が跡切《とぎ》れてすぐに、窪地はあった。木ばかりでなく、一帯には下生えすらも茂ってはいなかった。火の山を行くと、こんな光景にでくわしたが、ここの地表は冷たく、噴煙も硫黄の臭気にも縁遠い土地であった。
ハリィデールは窪地に屍体を投げ入れた。屍体は弧を描いて宙を飛び、ほとんど転がりもせずに、底に落ちた。
底は、不思議に滑らかだった。
石もなければ、極端な凹凸もなかった。ハリィデールは、不浄の霊を鎮める襖の地というからには、窪地の半分は白骨で埋まっているだろうと、想像していたのだ。しかし、現実には骨なぞ、かけらすらもない。
――どうせ、狼のたぐいがさらっていったんだ。
と、ハリィデールは思った。それよりももう、うっとうしい厄介事は終わったのだ。また人間社会に関わることなく、旅をつづけることができる。気分が、澄んだ蒼空のように高揚していた。
ハリィデールは窪地に背を向けた。
そのときだった。目が、視野の端をよぎる黒い影を、逃さず捉えた。
反射的に姿勢が低くなり、右手のグングニールの槍を構えて、前に突き出していた。
黒い影は、窪地の底にあった。一団となって、先ほどハリィデールが投じたゴッサムの屍体に群がっているのだ。鴉《からす》の集団がつくる黒雲に似ていたが、それとはまったく異るものだった。むしろ小型の黒いつむじ風の群れと呼んだ方が近い。
不意に黒い集団が割れた。
まさしくそれぞれが一陣の黒いつむじ風となって、斜面を凄い勢いで登り始めた。まっすぐにハリィデールへと迫ってくる。その数は全部で九個。明らかにハリィデールに対し、敵意を抱いている。目撃を嫌ったのか、それとも――。
ハリィデールは走って窪地を離れた。立ち止まり、改めて槍を構える。
つむじ風が窪地から飛び出した。地表のわずか上を滑るように走って、ハリィデールを取り囲む円運動にはいった。
「しゃらくさい!」
ハリィデールはつむじ風の中に、グングニールを投げた。黒小人が鍛えたグングニールの槍は、敵を倒した後、持ち主の手に戻ってくる。
「ひいっ!」
耳をつんざく、凄まじい悲鳴がまき起こった。つむじ風のひとつが真っ赤な鮮血を迸《ほとばし》らせ、地に叩きつけられるように転がった。
槍が戻った。再び投げる。
悲鳴に悲鳴が重なり、八つのつむじ風が動かぬ黒い塊《かたまり》となって、地に倒れた。残るひとつが方向を変えて、逃げ出してゆく。森の方ではない。右手の小さな崖の方だった。
それを追おうとしてハリィデールは、ふっと何かの気配を頭上に感じた。強烈な、殺意以上の気配だった。慌てて振り仰ぎ、その源を捜した。
崖の上に至って、視線が膠着《こうちゃく》した。
まず目に入ったのは、その銀色に輝く、不気味な仮面だった。翼のある蛇をあしらった、見事な細工物である。
次に同じく銀色の鎧、それに背《せな》ではためく真紅のマントが映った。そして最後に銀仮面のまたがる、赤と黒のまだら模様の馬。
逃げたつむじ風が、銀仮面の前にでた。
銀仮面は腰の佩剣《はいけん》を抜いた。光条が一閃。つむじ風は血しぶきをあげて、崖を転げ落ちた。
ハリィデールと銀仮面の目があった。黒いぽっかりと開いた仮面の目。そこから仮面の下を窺《うかが》うことはできない。中は漆黒《しっこく》の闇だった。
いきなり、ハリィデールはグングニールの槍を銀仮面に投げつけた。銀仮面は、無造作にそれを剣で払った。槍は鋭い金属音を響き渡らせて、くるくるまわり、ハリィデールの手に戻った。
しばし、無言の睨み合いがつづいた。
まだらの馬が、ひょいと頭《こうべ》をめぐらした。次の瞬間には、銀仮面はハリィデールの死角に消えていた。軽い、少しも不自然なところがない動きだった。
あとには、死臭だけが残された。
つむじ風の正体は、すぐにわかった。
驚いたことに、それはカワウソだった。黒い毛皮の、川や池、あるいは沼の近くに穴居する、あのカワウソである。カワウソがなぜ、こんな能力を得たのかはわからない。悪霊《あくりょう》によるものかもしれなかった。
銀仮面が美獣をつけ狙う悪霊の一人であることは、まず間違いないところである。カワウソは、その配下なのだろう。
ハリィデールは、さほどでもなかったが、カワウソの返り血を浴びていた。長旅でいい加減ほこりまみれのからだに、これである。洗うために、水場を捜さねばならなかった。
北から、心地よい風が吹いてきた。その中に、水の匂いがあった。近くに清水が、それも大量にあることがわかった。カワウソの屍体を窪地に放り込み、ハリィデールはさっそく、水の匂いを追った。またも森がつづく。
唐突に立ち並ぶ木々が失せ、かなり大きな湖のほとりにでた。眼前が明るく拓けた。
透明度の高い、豊かな水の面《おもて》を細かいさざ波が縦横に流れる湖だった。地平間際にある陽光の燦《きらめ》きを受けて、さざ波は黄金色に輝いている。空には鳥が舞い、地には|北の地《ツンドラ》には珍しく、小さな花までが咲いていた。
心なごむ、美しい湖であった。
ハリィデールは槍を置いて水際に跪《ひざまず》き、両手で湖水をすくおうとした。
と、その動きが、凍りついたように止まった。口もとがこわばり、目がすうっと細くなる。
水面に顔が映っていた。それがハリィデールの顔ではなかった。ハリィデールの殺気立った鋭い顔のかわりに、そこには猫を思わす大きなエメラルド色の瞳を持った、燃える赤毛の美女が映っていた。
ハリィデールはそろそろと、身を引くように立ち上がった。
「ほほほほ」
鈴を振るような笑い声が、水底から唐突に湧きあがった。
ハリィデールはうしろに跳びすさり、グングニールの槍を把《と》った。
「ほほほほ」
笑い声はやまない。
湖水が盛り上がった。赤い、血の色の髪の毛が、泡の中から花開くように広がりでた。そして、エメラルド色の猫の目が、それにつづいて水の上にあらわれる。
「あなたを待っていたわ、ハリィデール」
うっとりと聞きほれてしまうほどすずやかな声が、湖上を流れた。
「お前は誰だ? 悪霊か? それとも女神か?」
ハリィデールは、詰問するように訊いた。
「そのどちらでもないわ」猫目の美女は言った。
「あたしはこの湖の妖精、リリアン」
「妖精だと? 妖精がこの俺を?」
ハリィデールは、警戒を解かなかった。妖精は花や自然の化身として、ひっそりと存在しているが、本質は黒小人たちと変わらない。そのときに応じて神につき、あるいは巨人につく。人間をたぶらかすこともあれば、人間を助けることもある。だから、いかに美しい姿をしていても、相手が妖精とあっては、待っていたと言われたくらいで素直に話を聞くわけにはいかなかった。
「待っていたわ!」しかし、このリリアンという妖精には、どこかひたむきなところがあった。
「あなたは、銀仮面を見て死ななかった最初の人間なのよ。ハリィデール」
「人間?」今度は、ハリィデールが笑う番だった。
「妖精が俺のことを知らぬはずがあるまいに」
「知ってるわ!」
リリアンは叫んだ。もうヘソのあたりまでを水から露《あら》わにし、豊かな形のよい胸を、惜し気もなく風になぶらせている。色が透きとおるように白かった。この美しい湖の妖精である。澄んだ湖水そのままの肌をしているのも、当然であった。
「あなたは、美獣でしょう?」
邪気のない口調だった。
「そうだ」ハリィデールは、ぎごちなくうなずいた。
「俺は美獣だ」
「でも、人間にしか見えないわ」
「ふ……」口の端に、ほのかな笑みが浮かんだ。
「妖精よ。お前も人間に――それも美しい乙女にしか、見えんぞ」
「…………」
「美獣は人間ではない。残忍な、血に餓えたけだものだ。主神オーディンは、俺にみずからの武器、グングニールの槍と、果てしなき闘争の場を与えた。これをなぜだと、お前は思う?言うまでもない。血を流させるためだ。殺し合い、傷つけ合って人生を送らせるためだ。これが人間に神々が賜う使命か? これはけだものの生涯だ。相手を殺すことで生きながらえるけだものの生涯だ。いつかは俺も殺され、朽ち果てるだろう。だがそれまでは、俺は文字どおり美しい獣となって殺戮の日々を生きる宿命を背負わされている。トビアンの神殿でグングニールの槍をこの手に握ったときから、俺はけだものと化したのだ」
いつの間にかリリアンは水からあがり、ハリィデールの眼前に立っていた。
背はちょうど、ハリィデールの胸あたりまでか。細身でスラリとしているが、胸と腰の肉は豊かで、よく引き締まっている。身に、薄衣ひとつまとわず、火と燃える赤髪が、腰に届くほど長い。太もものつけ根の淡い窮《かげ》りからまっすぐに伸びた脚の足首が、今にも折れそうに細いのが、せつないほど印象的であった。
リリアンは、そのエメラルド色に輝く猫の目で、じっとハリィデールを見据えていた。
「妖精王ヴェールンドの名にかけて」と、リリアンは硬い声で言った。
「あなたにお願いがあります」
「ほう」
ハリィデールはリリアンに驚きのまなざしを向けた。そして晴れ渡った空を仰ぎ、土の上にゆっくりと腰をおろした。
「妖精が美獣に頼み事とはな」
「いけませんか?」
リリアンもハリィデールの脇へ並んで坐った。そのまま背《せな》に手をまわし、体重をあずけてしなだれかかる。右の乳房が、ハリィデールの二の腕でぐにゃりとつぶれた。柔らかい、溶けるような感触である。赤い髪から立ち昇って鼻腔をくすぐる甘い香りとともに、ハリィデールの官能をしきりにそそっている。
「事と次第による」
リリアンの働きかけなど一向に気にする様子もなく、ハリィデールは無造作に答えた。
「月並みな言われようを」
リリアンの唇が、ハリィデールの大胸筋を這った。横目でハリィデールの顔色を窺うが、その無表情にまったく変化はない。リリアンは唇を離し、哀願の目でハリィデールを見た。
「銀仮面を殺して下さい」
「銀仮面を?」
意外な願いだった。
「トルベリスと呼ばれる悪霊がいます」
「知らん名だ」
「銀仮面の正体は、トルベリスです。あたしはトルベリスを永遠に封じたいのです」
「妖精は、いたずらをするだけかと思っていた」
「ほとんどの妖精は、そうです」
「お前は、なぜそうしない?」
「妖精にも、心があります!」
リリアンの柳眉が、わずかに逆立った。
「俺は銀仮面に興味を持たない」
ハリィデールの返答は、冷ややかではっきりしていた。取り付くシマがない。
「殺して欲しいのです」
リリアンの瞳に涙があふれた。
「俺の興味は、俺自身にある」ハリィデールはつぶやくように言った。
「どこで生まれ、誰が親で、どうやって生きてきたのか。それだけを知りたい」
ふっと息を抜き、ハリィデールはリリアンを振り返った。
「俺には記憶がない」
「ええ」
リリアンはうつむいていた。
「過去が失われているのだ」
「…………」
「ラガナの氷の女王。聞いたことがないか?」
「いいえ」
うつむいたまま、リリアンはかぶりを振った。
「ただひとつの手懸りだ」ハリィデールは嘆息した。
「記憶を甦《よみがえ》らすためなら、何でもやる。また、挑まれたら、闘いもしよう。しかし、俺が銀仮面と命のやりとりをするいわれは――」
だしぬけにリリアンの肩がビクンと震えた。顔をあげ、涙でしっとりと濡れた猫の目をハリィデールに向けた。その中で、不思議な輝きが渦を巻いている。激しいとまどいに、ハリィデールの口から言葉が消えた。
そこヘリリアンが熱っぽい口調で言った。
「銀仮面を倒せば、記憶を甦らすことができますわ!」
「なに?」
一瞬、ハリィデールは大きく目を見開いた。そして次に、大声で笑いだした。
「これはまた馬鹿なことを。いくら俺が断ったからといって、そのように他愛のない嘘をついてまで……」
「嘘じゃありません!」
リリアンはムキになった。
「銀仮面の持つ知識の宝玉〈ウルドの瞳〉が、必ずそのお役に立つはずです」
「〈ウルドの瞳〉?」
ハリィデールの顔から笑いが失せた。〈ウルドの瞳〉という名を耳にするのは初めてだったが、知識の宝玉の話は、どこかで聞いたことがあった。
「こぶし大ほどもある、真紅の宝玉です」リリアンは言を継いだ。
「望む者に、欲する知識のすべてを授けるそうです」
「おもしろい」ハリィデールは、すっかり真顔に戻っていた。
「その〈ウルドの瞳〉を銀仮面が、持っているのだな」
「〈ウルドの瞳〉はトルベリスの命です。この宝玉を奪われたら、トルベリスは生きていけません」
「…………」
「お願いを聞いて下さるのですか?」
「話せ!」ハリィデールは鋭く言った。
「すべては事情を聞いてからだ」
リリアンは語った。この地、カルンリットに銀仮面があらわれ、住みついたときのことを。仲間の妖精たちがどうやってみな、殺されていったのかを。そして彼女自身がいま、どんな目にあおうとしているのかを。
「銀仮面がカルンリットに来たのは、今から二つ前の春のことでした」妖精は言う。
「あの赤と黒のまだらの馬、ドラブグールに乗り、銀の鎧と銀の剣を佩いて、まるで勇猛な騎士のように遥か北の地からやってきたのです。あたしたち妖精仲間は、きっと名のある騎士がこの地を訪れたのだ、と噂《うわさ》し合ったものでした」
「…………」
「銀仮面が着いた翌日のことです。一人の妖精が自分の母体、カルンリット・ローギーの山頂にそびえ立つ、石造りの豪勢な館に気がつきました。きのうまでは何もなかった場所です。築いたのは銀仮面でした。一夜にして銀仮面が館を築いてしまったのです。まだ銀仮面を騎士のひとりと思い込んでいたその妖精は、この暴挙に抗議しようと銀仮面の館に出向きました。そして……」
「帰ってこなかったんだな」
答えるかわりに、リリアンは小さくうなずいた。
「あたしたちは、ただならぬものを感じて、銀仮面の正体を探りました。悪霊トルベリス。それが銀仮面の正体でした。偉大な騎士などではなく、死と恐怖を撤き散らす、醜い悪霊だったのです」
「…………」
「銀仮面はその素姓を知られると同時に、本性をあらわしました。人間を殺し、動物を殺し、妖精を殺し。妖精は最初、手なずけて自分の配下にしようとしたのですが、悪霊には従わないと知るや、一転、殺戮するようになりました。今ではもう、カルンリットに住む妖精は、あたしひとり。たったひとりです」
「お前はなぜ、殺されない?」
「銀仮面が、この湖を気に入っているからです。あたしが死ねば、この景観も亡びます。それに……」
「それに?」
「あなたを、カワウソが襲いませんでしたか?」
「カワウソ? 襲われたぞ」ハリィデールは顎《あご》をしゃくった。
「ついさっき、そこの窪地でだ」
「あのカワウソはあたしの仲間でした。この湖に、あたしと一緒に住んでいたのです。でも銀仮面に誘われ、今はあやつの手下にすぎません」
「なるほど。そのカワウソどもが、前に仲間だったあんたの命乞いをしてるんだな」
「違います!」
「違う?」
「かれらは迎えにくるんです。白夜が終わり、太陽の沈む日に。あたしを銀仮面の花嫁して」
リリアンはハリィデールのからだを、ひしと抱きしめた。
「殺して。銀仮面を殺して!」
「…………」
ハリィデールは黙した。自分の胸で泣きじゃくるリリアンの赤い髪に視線をやった。そうしていると、何か言いようのない感情が流れこんでくる気がした。
「〈ウルドの瞳〉はどこにある?」
知らず、そう訊いていた。
「では」
リリアンが顔を起こした。
「どこにある?」
「銀仮面の館に。あたしが案内します!」
「うむ」
美獣は立ち上がった。
巨大な館だった。
二抱え三抱えもある直方体の巨岩が、寸分の狂いもなく見事に積み重ねられ、壮麗な外壁を造り上げている。リリアンは館と呼んでいたが、これはもう充分に城といえる規模の建物であった。
「これを一夜で築いたとはな」
ハリィデールは石壁を平手で叩き、あきれたように言った。
「銀仮面の力ではなく、馬のカでしょう」
リリアンがひそめた声で囁いた。
「ドラブグールとかいうまだらの馬か?」
「ドラブグールは、神々の住むアスガルドの城壁を山の巨人とともに築いた魔の馬、スワディルファリの血を引いているといわれています。もしそれが本当なら、この程度の数の石、一夜でカルンリット・ローギーの山頂に運び上げるくらい、たやすいことですわ」
「スワディルファリか。なるほど、それならばうなずける」
ハリィデールは納得した。スワディルファリは、オーディンの乗る八本脚の駿馬《しゅんめ》、スレプニールの父馬である。その血を引くとあらば、悪魔のごとき力を秘めているのも当然といえた。ハリィデールは崖の上に見たドラブグールを思い出した。赤と黒のまだらに彩られたその馬の目は、その主人の宿敵である美獣を前にして、これ以上ないほどにらんらんと輝いていた。
「それよりも早く、こちらへ!」
ぼんやりとしていたハリィデールの耳に、リリアンの低いが強い囁《ささや》きが飛びこんできた。ハリィデールはすぐに我に返り、先を行くリリアンのあとを追った。
リリアンは石壁に沿うて、速足で進んでいた。身にまとう黒い薄物がうしろに長くなびく。
「門は向こうだぞ。どこへ行くんだ」
ハリィデールは横に並んで、声をかけた。
「ま、正面から堂々とおはいりになるつもりでしたの?」
リリアンは妖精らしく、いたずらっぽい口調で訊き返した。
「そうだ」
ハリィデールは、生《き》まじめに肯定した。
「あなたはそれで宜《よろ》しいでしょうが……」リリアンは苦笑を浮かべていた。
「あたしが困りますわ」
「ほかに入口があるのか?」
「ええ、もうすぐそこに」
やがて、リリアンは立ち止まった。えんえんとつづく石壁のほとんど中ほどである。
リリアンは壁とは反対側に目を向け、その先を見やった。
カルンリット・ローギーは山と呼ぶより、小高い丘と表現したほうが正しい気がする、低山だった。山肌は、山頂近くまでびっしりと針葉樹林に覆われており、視界は極めて悪い。したがってリリアンの視線の果てもやはり、黒い森の塊だった。
「何を見ている?」
「目印の木を」
ハリィデールの質問に短く答え、リリアンは石壁に向き直った。
「ここ、ですわ」
しゃがみこみ、一番下の石の隅を軽く押した。石はゴトリと音をたてて内側に消え、そこにポッカリと大きな黒い穴があいた。
「これは?」
「館の抜け道ですわ」
驚くハリィデールを前に、リリアンはこともなげに言った。
「冷酷無比、悪逆非道の悪霊といっても根は臆病な輩《やから》。神々との闘いに備えて抜け道を用意しているのです」
「なぜ、そんなことを知っている?」
ハリィデールの表情には、ありありと不審の色があった。抜け道ならば中は決して広くはないはずだ。もし罠《わな》だったら身動きがとれなくなる。
「銀仮面を裏切ったカワウソが教えてくれたのです。この館にはいるとき、あるいはこの館から逃げるときは、ここを使えと。あえなく銀仮面に殺されましたが、〈ウルドの瞳〉のことを話してくれたのも、そのカワウソでした」
「…………」
「あたしが先に立ちます」リリアンはさっと抜け穴に足を踏み入れた。
「何かあったら、まずあたしが討たれましょう」
リリアンの姿が、四角い闇の中に消えた。ハリィデールは、やむを得んといったふうに小さく肩をすくめ、そのあとにつづいた。
抜け道の中は、真っ暗だった。文字どおり、一寸先も見えない。グングニールの槍を光らせて周囲を照らすてがあったが、敵が潜《ひそ》んでいたら絶好の目標とされてしまう。できることではなかった。
道は階段状で下りになっていた。素足に石の感触が冷たい。身をかがめないで進んだが、からだはどこにも触れなかった。どうやら、思ったよりも広いらしい。
「気をつけて下さい、間もなく平坦路になります」
前の方でリリアンの声がした。自信にあふれた声だ。暗黒を恐れる響きは微塵《みじん》もない。
「この闇に目がきくのか?」
そう問うてみた。
「ええ」
軽やかな返事とともにリリアンは振り返った。端が吊り上がった大きな双眸が、真っ暗な中にエメラルドの輝きを放って、ハリィデールを見た。まさしく猫の目であった。
闇の回廊は、果てしがなかった。
右に左に曲がりくねり、上に下にと石段の部分もやたらと多かった。ときどき堂々めぐりをしているのでは、と疑念が湧き起こり、罠という言葉が脳裏に浮かぶ。しかし、前を進むリリアンのペースは変わらず一定で、その都度《つど》発する「右です」「左へ」「昇りになります」などの声にも、うんざりとした調子はまったくない。ハリィデールとしては、黙って、おとなしく従《つ》いていくよりほかになかった。
と、初めてリリアンに、立ち止まる気配があった。
「どうした?」
「しっ!」
柔らかい手が、ハリィデールの口を押さえた。
「何か、いるわ」
リリアンの声が硬い。ハリィデールは耳を澄ませて、あたりを窺った。
はじめはリリアンの荒い息づかいしか聞こえてこなかった。が、すぐに、ずっと先の方から、濡れた布を石に叩きつけるような、甲高い音が伝わってきた。
足音である。
「こっちへ来るぞ」
「多分、銀仮面の配下の化物よ。用心して回廊を巡回させてるんだわ」
「俺の後ろにまわれ」ハリィデールは、リリアンの腕を把《と》った。
「前にでるんじゃないぞ」
「闘うの?」
「俺は安心してるんだ」ハリィデールは意外なことを言った。
「館の周囲には誰もいない。回廊にはいっても、やたら長いだけで見張りのひとりもやってこない。正直、不安でしようがなかった。俺は平穏無事というやつを信じていないのだ」
足音が近くなった。二つの丸く光る目のようなものも見える。リリアン同様、夜目がきくやつだ。
「カーッ」
息を吐くような咆哮《ほうこう》があった。どうやら二人の姿を認めたらしい。
「行くぞ!」
ハリィデールは槍を前に突き出し、構えた。みるみる穂先が白熱し、眩《まばゆ》い光を放つ。回廊がパアッと照らしだされた。
それは巨大なカエルだった。
「なんだ、こいつは」
ハリィデールは拍子抜けした。狼ほどもある巨大なやつだが、それでもたかがカエルである。緊張が瞬時にして瓦解した。それがいけなかった。
いきなり舌が伸び、足をすくわれた。ハリィデールは回廊の敷石にどうと倒れ、したたかに腰を打った。そこヘカエルがのしかかってくる。反射的に槍を払った。が、カエルの皮膚にはぬめりがある。穂先が滑ってそれた。カエルの前足が勢いをつけて仰臥《ぎょうが》したハリィデールの腹に乗る。
「ぐっ」
息が詰まった。さらに舌が首に巻きつく。
「ぬおっ!」
全霊を振り絞って槍を握り、切っ先を下に向けてカエルの背中ごし、手前に突いた。
「カーッ」
カエルが悲鳴をあげ、巻きついた舌の力が緩《ゆる》んだ。ハリィデールの腹部に激痛が走る。
捨て身の攻撃だった。まっすぐ突きたてれば、ぬめりの効果はなくなる。だから、そうしたのだ。しかし当然のことながら、カエルを貫いた穂先は、ハリィデール自身をも傷つける。
ハリィデールは槍を引き抜き、横に転がった。カエルがバランスを失って、敷石に落ちた。ハリィデールは弾みをつけて跳ね起き、カエルの頸部めがけて、槍を繰り出した。カエルは串刺しになり、切り裂かれた。後肢がヒクヒクと痙攣《けいれん》する。
ハリィデールは槍を抜いた。音をたてて臭い体液が噴出した。カエルはさらに一、二度、大きく痙攣し、それから仰向けに転がって息絶えた。
リリアンが駆け寄ってきた。
「血が!」
みずからの薄衣を引き裂き、ハリィデールの腹に巻いた。
「大丈夫だ」
ハリィデールは喘ぎながら言った。強靭な腹直筋の弾力が槍の切っ先をくわえこみ、深手を負うのを妨げていた。傷ついたのは筋肉だけである。腹膜や内臓までは達していない。
「選りに選って、カエルとはな」
あなどって不出来な闘いをしたからか、自嘲めいた笑いがなぜかこみあげてくる。
「悪霊は自在に動物を操り、これを配下とします」
「わかっている。だが、カワウソにカエルはなかろう。熊やら狼やら、もう少しマシな動物もいるというのに。銀仮面は趣味が悪いぞ」
リリアンが血止めを終えた。黙ってハリィデールの先に立つ。二人はまた歩きはじめた。さほども行かないうちに、樫の木の巨大な扉に突きあたった。
「カワウソに聞いたとおりです」と、リリアンは言った。
「回廊はここまでですわ」
扉を開けた。蝶番《ちょうつがい》が背筋を凍らすようなきしみ音をたてた。
冷んやりとした空気が流れる廊下にでた。大きな壁掛が下がっており、その背後が凹所になっている。そこに扉がはめ込まれていたのだ。
廊下は明るいというほどではないが、回廊のように漆黒《しっこく》に包まれてはいなかった。暗闇に馴れた目には、すべてが何不自由なく見てとれる。空気の流れからして、いくつか窓が切ってあるのは確かだった。
「どちらに行く?」
リリアンに尋ねた。廊下はやはり石造りで、左右に長く伸びている。ところどころに樫の木の扉があった。
「右へ」
リリアンは即座に答えた。カワウソから、そうとう詳しく聞いているようだ。
「〈ウルドの瞳〉は銀仮面が常に持ち歩いているのか?」
「いいえ」リリアンはかぶりを振った。
「宝玉の間があって、そこに安置されているそうです」
しばらく進むと、階段があった。リリアンはそれを昇る。
「宝玉の間は、館の最上層にあります」
教えておこうと思って、わざわざ口に出したのだが、言葉はハリィデールの耳を素通りした。かれの関心は、別のところにあった。
「不気味な静けさだ」ハリィデールは、しきりに周囲に目を配っていた。
「もの音ひとつしなければ、殺気のかけらもない。まるで無人の館だ」
「悪霊は、生あるものの死を糧《かて》としています。きっと獲物を狩りに行ってるのですわ」
リリアンの予想はもっともなものに思えた。しかし、ハリィデールの感覚は、それを拒否した。無の気配は、常に意識的につくりだされるものなのだ。
階段が終わると、また廊下だった。
行くと、これまでになく立派な観音開きの扉があった。樫ではなく、名は知れないが、南方から運びこまれた木が使われている。二人がかりで開き、中に入った。
広大な、明るいといっていい部屋だった。天井が高く、明りとりの窓がそこここに切ってあった。
礼拝でもするためなのだろうか、部屋はがらんとして何もなく、突きあたりの床が一段高くなっていて、そこに祭壇がしつらえてあった。壁はすべて、さまざまな模様に織られた壁掛で覆われている。
二人は祭壇の前に立った。
祭壇の上には、金で造られた異様な形状の台が置いてある。何やら魔獣の姿をかたどったもののようだ、大きく開いたその口が、こぶしほどの、赤い血よりもまだ赤い宝玉をくわえている。
〈ウルドの瞳〉だった。
「これか」
ハリィデールは手に把ろうと、右腕を伸ばした。
「ああっ!」
リリアンが恐怖の叫びをあげた。
ハリィデールは腰を落とし、振り返った。
壁掛がめくれ、そこから黒いつむじ風が出現していた。例のカワウソどもである。リリアンは絶望の表情を浮かべている。
「とめられるか?」
無駄だと思ったが、訊いてみた。
「できません!」リリアンは泣き声で答えた。
「銀仮面の言いなりです」
「では、殺《や》るしかないな」
ハリィデールはグングニールの槍を突き出し、五つのつむじ風と対峙した。
リリアンはうずくまって、目をそむけていた。カワウソが美獣に勝てるわけがない。かつての仲間が惨殺されるさまを正視することはできなかった。
つむじ風が一斉に走った。
同時に槍がハリィデールの手の中で回って、閃光を散らした。
あっけない勝負だった。
カワウソのズタズタになった死骸が五体、朱に染まって敷石に転がった。
「すんだ」
無表情にそう言うと、ハリィデールはきびすをめぐらした。リリアンはその声にうながされたか、糸操りのようにギクシャクと立ち上がった。
ハリィデールは再び祭壇の前に立ち、魔獣像の口から〈ウルドの瞳〉をはずした。
銀仮面の命、知識の宝玉は、いともやすやすと、ハリィデールの手中に収まったのである。
眼前にかざして、宝玉に見入った。
いずれ細工に長じた黒小人の誰かが磨いたのであろうが、表面には瑕《きず》ひとつなく、見た目には完璧といっていい真球であった。色は赤いには赤いが、毒々しさは感じられず、透明で、支える指が宝玉を通して向こうに見えた。
「リリアン!」凝固したように〈ウルドの瞳〉から目をそらさず、ハリィデールは言った。
「この宝玉から知識を授かるには、どうすればよい?」
返答は、ハリィデールの背後から聞こえた。仲間の死を目《ま》のあたりにした衝撃からか、声に抑揚がなく、空ろである。
「そのまま眼前にかざして宝玉を見つめ、あなたの知る唯一の手懸り、“ラガナの氷の女王”と念じなさい。強く強く強く、ただひたすらに念じるのです」
いつの間にか、暗示にかかったかのように、ハリィデールは念じ始めていた。リリアンの声は、何かの呪咀のように、妖《あや》しく単調に響いてくる。ほとんど追いたてられるようにして、ハリィデールは集中していった。
すべては、真紅に染まっていた。
ハリィデールがいるのは、くれないの世界だった。上も下も右も左も赤。ハリィデールは鮮やかな赤の中を漂っているのだった。
ふっと顔があらわれた。
女の顔だった。輝く金髪を華麗に結いあげ、金、銀、宝石の飾りを身につけた美しい女性だった。が、その顔色は赤い色彩の中にあって、ひときわ青白い。
ラガナの氷の女王。
そう思ったときだった。なぜか意識に現実が割りこんできた。
リリアンの声である。
たゆたうようにつづいて、ハリィデールをこの世ではない領域に誘《いざな》っていたリリアンの声が、知らぬうちに途絶えていたのだ。
ハリィデールがそれに気づいたとたん、たちまちにしてくれないは褪《あ》せた。女の顔も薄れて消え、まわりはまた、壁掛に覆われた石造りの部屋に戻った。
「リリアン!」
ハリィデールは妖精の名を呼び、振り返った。だだっ広い宝玉の間は空漠として誰もいない。猫目の妖精の姿がないのだ。眉をひそめ、ハリィデールはあちこちと目を移した。――しかし、あるのはハリィデールがしとめた、カワウソの屍体ばかり。
「リリアン!」
もう一度呼んで、ハリィデールはハッとなった。部屋の中が、やたらに暗かった。先ほどまでは、こんなではなかったのだ。暗黒に馴れた目が、もとに戻ったための錯覚かと思ったが、そうではないようだった。今しがたまではっきり見えていた部屋の隅が、闇に溶け込んで判然としなくなっているからだ。何かこう、闇の霧が部屋にかかり始めたという印象だった。
遠くで音がした。
金属と金属が触れ合う、甲高い、耳ざわりな音だった。
ハリィデールは音の源を捜した。確かにあの観音開きの扉の方だった。ハリィデールは目を凝らしたが、それは徒労にすぎなかった。そこにも闇が色濃く沈澱し、見るものすべては、そのかたちを失っていた。
また、音がした。
今度は近かった。何かがやってくるのだということがわかった。
闇の中に光が生まれた。銀色の光である。光は人の姿をとり、ハリィデールの前に姿をあらわした。銀の仮面、銀の鎧、銀の太刀《たち》。
銀仮面であった。
「リリアンをどうした?」
「…………」
銀仮面は、ハリィデールの問いに、無言で応じた。そして、そのまますらりと剣を抜く。窓から風が吹きこんだのか、赤いマントがふわっとなびいた。
ハリィデールは、明らかに不利だった。
左手に〈ウルドの瞳〉を握っている。槍は右手一本で扱わねばならなかった。〈ウルドの瞳〉をいったん祭壇に戻せばいいのだが、その力をはっきり体験したいま、それはできることではない。ハリィデールは片手で闘う肚《はら》を決めていた。
銀仮面が、剣を振りあげた。ぎごちない、ゆっくりとした動きである。闘う者の動きではなかった。崖で出会った銀仮面とは、別人のように思えた。
――勝てる!
ハリィデールはそう確信して銀仮面の喉を狙い、突いた。だが、銀仮面の返す刀は、的確で、鋭かった。グングニールは銀仮面の鎧に紙一重のところで弾《はじ》かれ、敷石に穂先を叩きつけられた。ハリィデールの指に電流のように痺《しび》れが走る。
再び銀仮面が剣を頭上にかざした。やはりぎごちない動作だ。体勢を立て直す余裕は充分にある。ハリィデールは槍を引き寄せ、間合いを大きくとろうとした。
ところが。
からだが思うように反応しないのだ。筋肉の働きが鈍く、全身が重い。槍を握った腕を胸もとに持ってくるだけで、信じられないほどの時間を費やしていた。
銀仮面の剣が振りおろされた。
必死の思いで力を爆発させ、槍の柄でこれを受けた。腰がくだけ、足さばきが乱れる。そこに銀仮面の蹴りがきた。
銀の沓《くつ》の重い衝撃が、ハリィデールの太ももを激しく打つ。
たまらずハリィデールは、宙を舞い、敷石に肩口から落ちた。さらにその勢いで、ゴロゴロと転がる。頭が濃密な闇にすっぽりと包まれた。
「これは?」
ハリィデールは目を瞠《みは》り、それから緩慢な動きながらも、槍でからだを支えて立ち上がった。剣を受けたときに、穂先でみずからを傷つけたのだろう。額から血がしたたっていた。目に流れこみ、視野が真っ赤になる。
その不自由な目で、ハリィデールははっきりと見た。闇が、二人の立つわずかな範囲だけを残して、あとの空間を完全に覆いかくしている有様を。
――闇だ!
ハリィデールは心の中で絶叫した。闇が美獣の底知れない力を奪っているのだ。筋肉を侵し、闘争の根源を絶っているのだ。
よろめき、肩で息するハリィデールに、銀仮面が迫った。
「おのれ」
喰いしばった歯から、呻《うめ》きとともに言葉が漏れた。怒りが力を呼んだ。上膊筋《じょうはくきん》が、三角筋が、僧帽筋が、広背筋が、大胸筋が、次々にパンプ・アップし、それまでの二倍ほどにも盛り上がった。血管が脹れ、毛穴という毛穴から、汗がしぶきのように遊り出た。まるで体内にたまった闇の毒素を放出するかのようだ。からだが目に見えぬいましめに解放されたか、すうっと軽くなった。
必殺の念をこめた銀仮面の剣が、心臓めがけてまっすぐに来た。
「でえいっ!」
凄まじい気合いを吐いて、ハリィデールは跳んだ。間髪を入れず、槍を投げた。狙い違《たが》わず、銀仮面の頭頂を直撃する。
ガッ!
鈍い音が響き、槍がくるくると回転して、着地したハリィデールの手に戻った。
銀仮面は――。
ハリィデールは全身の血が逆流するのをおぼえた。
銀仮面は、傷ひとつ負っていなかった。
愕然と立つハリィデール。銀仮面は剣を横ざまになぎ払った。片手で受けるには、あまりに鋭い一撃だった。かろうじてそらしたが、攻撃の先手は、完全に銀仮面のものになった。
刃を交すこと、三十数合。ハリィデールは防戦一方であった。
足がもつれた。また敷石に転倒する。
銀仮面は柄を両の手で握り、切っ先を下に向けて胸もとに高く構えた。
対するにハリィデール、受ける体勢にない。槍を持ち上げ、穂先を銀仮面に向けるのがやっとだった。これとて、防御にはほど遠い。
剣を一気に突きおろすべく、銀仮面のからだが伸びあがった。
「くっ!」
ハリィデールの内に秘めたすべての力が、グングニールに流入する。穂先が白熱した。
銀仮面の剣が、なだれ落ちるように突き出された。
同時に電撃が走った。
剣が粉々に砕け、銀仮面は弾かれて飛び、石壁に大音響をあげて激突した。岩がバラバラと崩れ落ちる。闇が渦を巻いて消滅し始めた。
電撃は、グングニールの槍が発したものだった。
その稲妻状の光は、まだつづいている。四方八方へ伸びて石壁を破壊した。いや、破壊だけではなかった。
壁掛が炎を噴き、扉が燃え、ついには石が発火した。神々の放つ電光は、この世のありとあらゆるものを灼き尽くす。岩石のたぐいといえども、例外ではあり得ない。
呻き声をあげて、半ば石壁にめりこんでいた銀仮面が起き上がった。何かを求めるようなしぐさで、ゆらゆらとハリィデールに近づく。
ハリィデールは、すでに立ち上がっていた。額の出血も止まっている。炎と黒煙の狭間《はざま》に、こちらへくる銀仮面の姿を認めた。槍を構え、念をこめる。細かい電光がからみ合って太い一本の稲妻となり、真正面から銀仮面に襲いかかった。
爆発的な眩い光が丸く、部屋いっぱいに広がった。光は石を灼き、突き崩して拡散した。
銀仮面は一直線に飛んだ。石弓で射られた石よりも速く飛んだ。祭壇の向こうにあった石壁に叩きつけられ、石壁はそこ一面が、丸ごと砕け散った。その向こうは外である。
瓦礫《がれき》と銀仮面は、一団となって下へ墜ち、大きく張り出していたバルコニーの上に山となって堆積した。
他方、火災も広がりつつあった。石はごうごうと音をたてて燃え、今や炎は館全体へと、その赤い舌を伸ばし始めていた。
ハリィデールは銀仮面の生死を確かめんものと、石壁が崩れ、ぽっかりとあいた大穴から下を見た。バルコニーを埋めた瓦礫が動いている。銀仮面だ。
ハリィデールは穴から下に身を躍らせた。
ひらりとバルコニーの胸壁の上に立つ。
銀仮面もからだに積もった岩塊の山を搬ね除け、瓦礫の上に立った。手に武器はない。
ハリィデールは白熱するグングニールの槍を、銀仮面めがけて投じた。これはよけようがない。鋭い金属音が空気を切り裂いた。真二つに割れた仮面が、まるで典雅な銀色の鳥のように宙空を舞った。
銀仮面は両手で顔を覆い、胸壁でよろけるからだを支えた。腰までもある長い髪が乱れに乱れて風になびく。その髪は炎とも見まごうほどに赤い。
――赤毛!
ハリィデールの全身が硬直した。
グングニールの槍から、またも幾条もの電撃が四方に伸びた。そのうちの一条が銀仮面を撃ち、他の電撃がバルコニーのすぐ上の壁に突きささった。
銀仮面の手が顔から離れた。エメラルドに輝く猫の目が、常より大きく見開かれてハリィデールを見た。一瞬のこととて定かではなかったが、なぜかその目はうるんでいるように思えた。悲鳴とも笑いともつかぬ声が響いた。
銀仮面のからだが、くずおれるように瓦礫の中に倒れた。その上に先ほどの電撃で砕けた岩塊がなだれ落ちてくる。炎が壁にあいたすべての穴から噴出した。
もう銀仮面のからだは、どこにも見えなかった。バルコニーも、めらめらと音をたてて燃えだしていた。ひっきりなしに壁が崩れる。
ハリィデールは胸壁から地に跳んだ。
銀仮面の館は、炎の柱と化していた。
ハリィデールは、猫目の妖精のことを思った。
「銀仮面を殺して!」
と、リリアンは言った。その言葉は嘘ではなかったような気がした。
「銀仮面の正体はトルベリスという悪霊です」
とも、言った。それも本当だろう。
悪霊は、特定の形状をもたないものの方が多い。ほとんどが黒い影のような存在で、動物などに憑《つ》いてはじめて実体を得る。おそらくトルベリスはリリアンに憑いたのだろう。悪霊が妖精のからだを借りた話は寡聞にして知らないが、あり得ないことではなかった。
また、カワウソやカエルが手下になっていたのも、そう考えれば納得できる。どちらも湖の妖精の仲間だったのだ。
「あわれな」
と、ハリィデールはつぶやいた。
銀仮面を殺すよう、必死で頼んだリリアンの気持ちが、痛いほどわかった。
悪霊が眠ると、妖精は自分の心を取り戻す。そのとき、悪霊に憑かれて、カルンリット住まう人間から仲間の妖精までをも殺した自分を、リリアンは責めて責めて、責め抜いたに違いなかった。
窪地で見かけた男が美獣だと知ったリリアンはどんなに狂喜したことだろう。待ちに待った唯一、銀仮面を倒せる戦士がやってきたのだ。これでもう、慚愧《ざんき》の日々を送らなくと済む。
ハリィデールは、リリアンがかれの前にあらわれたときのことを思い出した。湖で、いかにも妖精らしくはしゃいで出現したリリアンは、心から喜んで、そうふるまったのであろう。
「銀仮面を殺して!」
ハリィデールは、おのが不甲斐なさを悔いた。もっと楽に、もっと早く銀仮面を殺すべきであった。あんなに手こずってはいけなかったのだ。それがために、リリアンはトルベリスの命、〈ウルドの瞳〉を盗ませてハリィデールの立場を有利にしたのではなかったか。
――〈ウルドの瞳〉!
ハリィデールの回想が破れた。〈ウルドの瞳〉は、リリアンがその命と引き換えにハリィデールにくれた、かれの過去だった。“ラガナの氷の女王”――顔を知るところまで、きた。あと少し。あと少しで何もかもが明らかになる。
ハリィデールは左手を眼前に挙げた。〈ウルドの瞳〉を見ようとしたが、指がこわばっていて、はがすことができなかった。全霊をこめて放すまいと念じ、握りしめていたからだ。右手で指を一本一本こじあけた。
ようようのことではがれた。
掌に転がして、改めてその赤い宝玉を凝視した。
――美しい。
心から、そう感じた。あまりの美しさに酩酊《めいてい》状態のようになって、ふっと心を奪われた。
油断であった。
宝玉にかまけて、ハリィデールはその音を聞き逃した。銀仮面の館の炎の音、石壁が崩れる轟音などにまぎれて聞きとりにくかったせいもあったが、やはり、すべてはハリィデールの油断であった。
それは、土を蹴る馬の足音だった。
ハッと気づいたときには、もう遅かった。赤と黒のまだらが、ハリィデールの視野全体を覆っていた。
巨大な馬体が、ハリィデールを跳ね飛ばした。ハリィデールは地に叩き伏せられ、〈ウルドの瞳〉は掌を離れて空中に放り出された。
ドラブグールが跳んだ。
前肢のひづめが、微塵に〈ウルドの瞳〉を打ち砕いた。
〈ウルドの瞳〉は砕片と化して、地上に散った。倒れて動かないハリィデールの上にも、降り注いだ。キラキラと赤い輝きを放つ破片であった。
ドラブグールは、あますところなく炎に包まれた銀仮面の館に飛び込んだ。主人を求めての本能的な行動であった。
火はいよいよ激しく、館は熱で端から崩れ、瓦解していった。いかに魔の馬でも、その中で生きのびることはできない。
凄絶な最期であった。
ハリィデールに意識が戻ってきた。ゆっくりと、身を起こした。何があったのか、しばらくは思い出せなかった。地表に散る赤い破片が目にはいった。
地表を見つめたまま、そろそろと立ち上がった。おもむろに視線を炎上する銀仮面の館に移した。館はもうほとんど崩れ落ちて、原形をとどめていない。ただの残骸である。天も焦げよとばかりに吹き上げていた炎も徐々に鎮まりつつあった。
――何をしたのだ、俺は。
と、ハリィデールは思った。
ただ凝然と立ち尽くす以外に、今のハリィデールにできることはなかった。
第三章 黒い呪術師
「御身は誰《たれ》か?」
黒小人は訊いた。
「さても、そう尋《たず》ねるおぬしこそ、誰かな?」
すかさず闇の中から、逆に問い返す声が響いた。甲高《かんだか》いようで低い、しわがれているようで澄んだ、何とも形容しがたい声である。そして、その声が発せられたあたりには、黒小人をじっと見つめる、黄金の輝きを持った丸い目が浮かんでいた。それは、静かな、しかしただならぬ意思を秘めた双眸《そうぼう》だった。背筋を逆なでする言いようのない恐怖に、思わず黒小人はたじろいだ。
「怯《おび》えることはない」黒小人の心の動揺を読んだか、声は返答を待たずに、言を継いだ。
「おぬしに仇《あだ》をなそうとは思わん」
黒小人は臆病で、それゆえに耳が聡《さと》い。言葉の裏に潜む真実を即座に見抜く。その耳で聞いて、声に嘘はなかった。
かすかなため息を漏らして、黒小人は言った。
「儂《わし》は、この髑髏谷《どくろだに》に棲む黒小人の一族の者。デズリという名の老いぼれじゃ」
「黒小人。そうか……」
声の主は、少し驚いたようだった。
「ここは、黒小人のさとであったか」
黒小人は、山の奥深くにある岩の割れ目とか、底知れぬ洞窟とかをその棲み家にしている。鍛冶《かじ》や金銀の細工の術にたけた種族である。かれらは、大地のもととなった太古の巨人イミールの肉に湧いた蛆《うじ》のような存在として生まれたため、その肉の中、つまり土と岩の中でしか生きられないように運命づけられている。陽のあたる地上にでて暮らすことは、黒小人にはけっしてできないのだ。自然に穿《うが》たれた洞窟の多い髑髏谷は、『ときのあけぼの』からこのかたずっと、デズリの一族のさとであった。
「御身は誰か?」
先よりも畏怖《いふ》の念をこめて、デズリはいま一度、訊いた。
デズリが、谷のはずれの洞穴に誰かがはいりこんでいるのに気づいたのは、ほんの偶然のことからであった。
もう何日もつづいていた猛烈な吹雪が、とつぜん熄《や》んだのである。鍛冶の仕事に欠かせない薪《まき》を運び入れるには絶好の機会であった。
デズリはあたふたと洞窟から飛びだし、谷の外の薪を貯えてある岩の裂け目に向かった。
|北の地《ツンドラ》の冬である。太陽は春がくるまで、昇ることはない。空は吹雪がおさまったとはいえ、ぶ厚い雲で完全に覆《おお》われている。地上は闇の世界であった。
薪を積める限りソリに積み、デズリは帰途についた。そのソリはデズリがつくったもので、押すことも引くことも必要なく、ただ荷物を積めば主人のあとをひとりでについてくる魔法のソリだった。しかもソリの先端には白く発光する宝石がはめこまれていて、闇の中でもこれがまわりを照らしだすのだ。
ソリが谷のはずれにさしかかったときだった。積み方が悪かったのか、それとも縛ってあったツルが痛んでいたのか、薪がひと山くずれ、雪の上に散らばった。
デズリはソリを停め、ひとしきり悪態をつくと、薪を拾いはじめた。
何本かの薪が落ちたところに、浅いため使われていない洞穴があった。宝石の淡い光をたよってそこに近づいたデズリは、その奥に何ものかが存在することを持ち前の鋭い感覚で嗅ぎとった。仲間の黒小人ではない。もちろん動物などでもなかった。
デズリは思いきって声をかけてみた。
そして、返答があったのである。
しかし、二度目の誰何《すいか》に答えはなかった。答えはなかったが、かわりに無言のままこちらに歩を進めてくる気配があった。
デズリの顔色が変わった。口もとがこわばり、眉根《まゆね》に深いたてじわが寄った。手が自然に動いて、相手を指差した。
「お……御身は……」
黒小人特有の喉《のど》の奥でゴロゴロと鳴る音に似た声が、ひどくかすれて本当にゴロゴロという音になった。デズリは何度も喘《あえ》ぐようにして声を絞りだそうとしたが、結局それは徒労に終わった。声はどこかの筋がひきつってしまったか、どうしてもでようとしなかった。
デズリの前には、毛皮ですっぽりと身をくるんだ。ひとりの太った男が立っていた。宝石のいかにもたよりなげな光でも、その姿ははっきりと見てとれる。
それは、たしかに人間だった。人間だったが、デズリがこれまでに見たことも聞いたこともないたぐいの人間だった。
その男は、真っ黒な色の肌をしていたのである。
黒小人と呼ばれるだけに、デズリの皮膚もある程度は黒い。しかし、その黒さはむしろ、褐色というほどのものでしかない、ツンドラに住まう人々の肌は、一様に白い。やや浅黒いだけであっても、かれらは黒小人と言いならわされてきたのだった。
その男の黒さは、黒小人のそれとは根本的に異っていた。男の肌は、燃える石よりも、いや、|底知れぬ裂け目《ギンヌンガ・ガップ》の果てに広がる闇よりもまだ、黒かったのである。
「わたしは、ナバ・ダ・ルーガ」
男は、そう名乗った。でっぷりと肥え太った男で、背もさほど高くはない。その上、からだにぐるぐると厚い毛皮を巻きつけているから、まるで巨大な球体という印象である。頭髪はきれいに一本もなく、顎に髭《ひげ》がまばらに短くはえている。造作が比較的のっぺりとしているので表情に乏しく、むろん顔色はちらとも窺《うかが》えない。年齢、感情をその風貌《ふうぼう》からでは、まったく推し量りようのない男であった。
「遥か……」ナバ・ダ・ルーガは、言葉を継いだ。
「気の遠くなるほど遥か南の地から、わたしは来た」
ナバ・ダ・ルーガとデズリは、洞穴の中にいた。薪を積んで火をおこし、ともに腰をおろして向かい合ったのである。盛大にあがる炎の揺らめきが、岩の壁に二人の影をあたかも何か魔性のもののそれのように映し出すが、しかし、赤く照らされたデズリの顔には、もう先ほどの驚愕《きょうがく》の表情はない。
「長い、長い旅だった」ナバ・ダ・ルーガは、金色の眼をしきりとしばたたかせた。
「苦難に満ち満ちた棲惨な旅だった。わたしの考えに賛意を示し、わたしと同道した者たちは、ことごとく逃げ去るか、さもなくばここに至るまでに果てた。わたし自身、数えきれないほど引き返そうと思い、また、挫折しても構わないと思った。死が紙一重のところを通り過ぎたことも、二度や三度ではなかった」
「御身は、いったい何ものなのだ?」
デズリは、これ以上なく不思議そうな表情《かお》をして、眼前の、オーディンの大鴉《おおがらす》よりもまだ黒い異国の男に問うた。
「わたしは……」
答えようとしてナバ・ダ・ルーガは一瞬のためらいをみせ、そしてややあって言った。
「わたしは、呪術師だ」
「呪術師?」
デズリは小首を傾《かし》げた。ナバ・ダ・ルーガの思わせぶりな態度にもかかわらず、デズリはその言葉をまったく知らなかった。
「あれを」
ナバ・ダ・ルーガは、盛んに燃えさかる炎に向かって、まっすぐに右手を突きだした。異様な念が洞穴内に満たされていく。そして炎の上に、宙空から湧きでるがごとく雪が降りはじめた。
「な、なんと」
デズリは唖然となって、腰を浮かせた。
「こ、これは幻か、それとも……」
「幻ではない」ナバ・ダ・ルーガは言った。
「行って触れるがいい。雪は本当の雪だ」
「恐ろしい! あまりにも恐ろしい」
ひどく興奮してそうつぶやきながら、デズリは炎の上に掌をかざした。掌には、うっすらと雪が積もった。
「呪術師とは――」ナバ・ダ・ルーガの声音が一段と重くなった。
「人智を超えた存在の力を借りて、さまざまな奇跡を発現させる能力を持った者のことだ」
「おお」デズリはナバ・ダ・ルーガに向き直った。
「御身は神か? それとも悪霊か?」
「そのどちらでもない」ナバ・ダ・ルーガは、静かにかぶりを振った。
「わたしは、ただの人間だ」
「ただの人間に、そのような力が宿ると言われるのか」
「然り」ナバ・ダ・ルーガは、強くうなずいた。
「わたしにも、わたしの弟子たちにも、その力があった」
「ううむ」
デズリは唸《うな》り声をあげ、左手で何度も長い顎髪《あごひげ》をなでた。黒小人は人間の半分ほどの大きさもない。が、頭は人間のそれほどに大きい。つまりは、からだが不釣合に小さいのだ。デズリの真っ白な顎髪は、そのからだよりも長かった。
デズリは上目づかいに呪術師を見た。
「で、何ゆえに御身は南の地を捨て、この北の地へと来られたのか?」
「それがわからんのだ」
ナバ・ダ・ルーガの返答は意外なものだった。
「わからぬ」
「何か、底知れぬ存在が、わたしをここへ導いたような気がする」ナバ・ダ・ルーガは遠い目をした。
「しかし、それが何であるかは、わたしにはわからない。もし、わかっていたならば、わたしはここに来なかっただろう」
ビシッと音をたてて、火の中ではぜたものがあった。デズリは反射的に、そちらを見やった。雪はまだしんしんと、炎の中に降りつづいていた。
「……しかし、ナバ・ダ・ルーガは、この髑髏谷に棲みついてから、ひととせも経《へ》ぬうちにあっさりと死んでしもうたわ」
ゲルズリは唇をなめながらハリィデールを見、肩をかすかにすくめた。
「死んだ?」
ハリィデールの右眼が、すうっと細くなった。
「それは、もうあっけないものよ」いかにも黒小人らしい皮肉っぽい笑いが、ゲルズリの表情《かお》に浮かんだ。
「呪術師なんぞというて不可思議な技を身につけても、不死身にはなれんかったのだ」
「いったい、何があったんだ?」
「いくさだよ。いくさ! ここら辺一帯を支配しているグルスノルンの領主が、隣国にいくさをしかけたんだ。いや、しかけられたのかな?」ゲルズリは束の間、小首を傾げた。が、すぐに考えても無駄だと悟った。
「それァまあ、どちらでもいい。とにかく、いくさになったのだ。で、たまたま薬草を採りに谷の外にでたナバ・ダ・ルーガは、ベルクの丘っつうところで、そいつにまきこまれて殺されちまったってわけだ」
「デズリはどうした?」
「兄貴も一緒だった。逃げようと思えば逃げられたのに、ナバ・ダ・ルーガを助けようとして逆に捕えられ、結局、土に還ったよ」
ゲルズリは淡々とした口調で言った。土から生まれでた黒小人は、死ぬと同時にまたもとの土くれと化す。そこに悲壮感のはいりこむ余地はない。
「俺たちの一族で初めてナバ・ダ・ルーガに会い、やつの力を見せてもらったためかどうかしれないが、兄貴は黒小人らしくもなく、人間であるナバ・ダ・ルーガに一目《いちもく》おいていた。だから、そんなことになったのだろう。だが、好き嫌いは別として、たしかにやつの呪術というのは凄かった。自在に雨を呼び、嵐を鎮め、巨岩を砕いた。さらには、遠い先のことすらも見通すことができたのだ」
「先のこと」ハリィデールは唸るように言った。
「そうか。それでこんな昔語りをもちだしたのか」
「あんたの話を聞いて、俺は心底から惜しいと思ったんだ」ゲルズリはせかせかとあわただしく、首を上下に振った。
「記憶を失っただの、ラガナの氷の女王だの、ナバ・ダ・ルーガの呪術をもってすれば、あっという間に明らかになったことばかりだ」
「と言って、今さら死人を生き返らせる術《すべ》があるものでもなかろう」
ハリィデールはゲルズリの予想に反して、沼のように平然としていた。黒小人はいたずらを好み、ひとの当惑するのを見て喜ぶというあまりまともとはいえない性癖を有している。今の話も、ハリィデールの力となるためというよりもむしろ、ハリィデールが悔しがるのを眺めて楽しもうという肚《はら》であったに違いなかった。
ゲルズリはいかにも憮然とした表情で、ハリィデールを睨《にら》んだ。
今朝、まるで風を思わせる自然さで、この男は髑髏谷に姿をあらわしたのだった。ゲルズリは穴の外にでて、細工物に使う材料の吟味をしていた。なんの気配もなかった。気がつくと、背後にハリィデールが立っていたのである。
背が高く、猛禽《もうきん》の眼と黄金の髪と豊かに盛りあがる鋼《はがね》の筋肉を持つ、若い男だった。なぜかゲルズリは、男を一瞥《いちべつ》して、獰猛《どうもう》な肉食獣を連想した。しなやかで強靭そのものの肢体と、男の全身にねっとりとまつわりついている死の匂い――というか、ある種の血腥《ちなまぐさ》さがそうさせたのだろう。実際には、男のからだ、そのからだを肩から腰にかけて覆う毛皮、それに右手に握る長槍にも血の一滴すらついてはいなかったのだが。
「美獣か――」
黒小人のハリィデールを睨《ね》めつけていた双眸から静かに挑戦的な光が失せ、その白髪の中にある口から、ふっとつぶやきが漏れた。
「驚いたものよ」と、ゲルズリは言葉をつないだ。
「予言にうたわれているだけの存在だと思うていたら、眼前にいつの間にやら立っておるわ」
「…………」
「神々のために悪霊《あくりょう》、巨人を討つ美しい獣とは聞こえはいいが、所詮は殺戮《さつりく》と破壊のために日々をさすらう疎《うと》まれ者の存在だ」
「…………」
「俺のところへは、身の上話と愚痴をこぼしにきたのではあるまい。何か用があって、きたんだろう?あったら、言いな」
「造ってもらいたいものがある」
おし黙っていたハリィデールの口が開いた。
「やっぱりな」
ゲルズリはニヤリと笑った。
「欲しいのは、衣《ころも》だ」ハリィデールは言った。
「腹を護《まも》る鎧を兼ねた衣が欲しい」
「ほお」ゲルズリはわざとらしく目を丸くした。
「けだものに鎧とはなァ」
「銀仮面との闘いで痛感したのだ。おのが力を過信していては、生き延びることはできん。たかがカエルごときを相手に負うたこの傷が、それを雄弁に物語っている」
ハリィデールは毛皮の端からのぞく、まだ新しい傷跡を指で示した。
「ほっほっ、神々の放った殺し屋も、とどのつまりは生身《なまみ》の人間だというわけか」
「造ってくれるのだろうな」
ゲルズリの言を無視して、ハリィデールは低いが、鋭い声で言った。同時に、ゲルズリの顔から笑いが消えた。
「いやだと言ったら、どうするかね?」
「それを訊きたいか」
ハリィデールは、右手の槍の穂先をすうっと上げて、ゲルズリの鼻先に突きつけた。
「俺は強欲な黒小人のあしらい方をちゃんと心得ているんだぜ」
「う、あ、う……」ゲルズリはうろたえた。
「わ、わかったよ。しかし、礼だけはしてくれるんだろうな」
ハリィデールは黙って足もとに転がしておいた皮袋を取りあげた。それを地べたにうずくまっているゲルズリに向かい、放り出す。皮袋は、何か重い物がはいっているのだろう、鈍い音をたてて、わずかに地にめりこんだ。
「金の塊だ」ハリィデールの唇は、ほとんど動かない。
「これをやる。文句はあるまい」
「これは、これは」ゲルズリは揉み手をして言った。黒小人は、何よりも金を好む。顔にまた卑屈な笑みが戻った。
「充分すぎるほど、あるわ。あんた、いったいこんな凄いやつをどこで手に入れたのかね」
「おまえは、これが欲しいのだろう、ゲルズリ?」
ハリィデールの眉間《みけん》に深いたてじわがよった。ゲルズリは皮袋からあわてて金塊を取り出して胸に抱えこみ、せかせかと何度もうなずいた。
「――だったら、何も訊くな。黙って受け取り、俺のために衣を造れ」
「あ、ああ。そうするよ」ゲルズリは立ちあがった。そして、背後の岩にぽっかりとあいた洞窟を指差した。
「ここが、俺の棲み家で鍛冶場だ。すぐに取っかかるから、ちょっと見ていかんかね」
「そうだな」取り引きが成立したので、ハリィデールは、その表情をわずかにやわらげた。
「一度、黒小人の仕事ぶりを見ておくのも悪くはない」
ゲルズリは手を打った。いつの間にか金塊は皮袋に戻され、かれの腰にぶらさがっている。
「じゃあ、俺についてきな」
黒小人は先に立って、穴の中にはいった。ハリィデールも、すぐにそのあとにつづいた。
穴の中はひどく狭く、かつ暗かった。ハリィデールはその巨躯をかがめられるだけかがめ、ほとんど這うようにして前に進んだ。胸が圧迫されて、息がつけない。明るい陽射しの下からいきなり暗闇に飛びこんだため視力を一時的に失っていたことも、苦行にいっそうの拍車をかけた。
うねうねと、かなりの時間、洞窟内を引き回されて、だしぬけに広い場所へと出た。目がもう闇に慣れていた上、そこには鍛冶に使われる火床があったので、これまでのように、何も見えないということはなかった。
火床には、すでに火がはいっていた。
ひとりの黒小人が――おそらくゲルズリの弟子なのだろう――全身から汗をしたたらせて、ひたむきにふいごを押している。そのせいか炎の上がり具合はそうとう盛大である。
「火の方はこれで充分だ」
ゲルズリは満足げにうなずきながら、言った。そして鍛冶場の一隅に行き、そこから二枚の皮と、鉄の一塊《ひとかたまり》を運んできた。弟子はまったくふいごを押す手を休めない。
ゲルズリは火床の前に立って、じっと火の様子を窺った。右手には厚くて固い豚の皮と薄くてしなやかな仔山羊の皮を持ち、鉄塊は左手に掴んでいる。
火が、一際高く燃え上がった。
ゲルズリの腕が、信じられない速さで動いた。
まず豚の皮、次に仔山羊の皮、そして最後に左手の鉄塊が、須臾《しゅゆ》の間に火床の中へと投げこまれたのだ。
「ふいごを押せ! しっかり押せ!」
ゲルズリは怒鳴った。弟子の動作が、さらに目まぐるしくなる。火は、ごうごうと音をたてて、燃えさかった。
ふう、と大きな息をひとつつき、ゲルズリはハリィデールを振り返った。
「なかなかいいぞ」と、ゲルズリは言った。
「あんたの期待以上のものができそうだ」
「そいつは、ありがたい」ハリィデールは、素直に喜んだ。
「無理矢理やらせた甲斐《かい》がある」
「本当に無理矢理だった」
そう言うとゲルズリは、いかにも気持ちよさそうな笑い声をひとしきりあげた。それから口調を改めて、言い継ぐ。
「ところで、このあと品物を取り出すまでにしばらくかかるのだが、あんたもずっとここでつき合うかい?」
「いや」ハリィデールは、即座にかぶりを振った。
「俺は腹が減った。外で食い物を捜してくる」
「肉か?」
「それが一番だ」
「谷の東へ出るがいい」ゲルズリは道筋を教えた。
「そこらあたりには大鹿がゴロゴロしている。俺たちは肉を食わんから、人間に追われてきた群れが、その辺に住みついているのだ」
「わかった」ハリィデールは、くるりときびすを返した。「いろいろ助かったぞ、ゲルズリ」
「いいってことよ」
黒小人は悋嗇《りんしょく》で猜疑《さいぎ》心の強い連中だが、その反面、機嫌が良いときは驚くほど陽気で親切になる。仕事がうまくいったときなどは、特にそうだ。
ハリィデールは、またあの窮屈で曲がりくねった穴を、全身に擦過傷をつくりながら抜けた。外に出ると、目がひどくしょぼつく。北の地の淡い太陽はまだけっこう高く地平線の上にあり、長い影が落ちているにもかかわらず、谷の中は意外なほど明るい。もっとも、これは洞窟の暗闇から帰ってきた、ハリィデールの錯覚かもしれなかった。
谷の東の端は、針葉樹の森だった。
中に足を踏み入れ、しばらくうろついてみたが、ゲルズリの言っていた大鹿の姿は、どこにもなかった。リスなどの小動物がいくらかいた。
森が終わって、視界が開けた。
左手にあらたな山裾が伸び、右手にはゆるやかな丘が広がっていた。ハリィデールは、迷わず丘に向かった。
近づくにつれ、丘の上に人影のようなものが整然と並んでいるのが、望見された。見上げるかたちなのでよくはわからないが、その数はかなり多い。
正体が不明とあって、ハリィデールは槍を前に構え、腰を低くして慎重に進んだ。ゲルズリは、これについて何も言っていなかった。ここまでハリィデールが来るとは思っていなかったのか、それともどうということのないものなのか。いずれにしても、警戒は怠らない方がいい。
ハリィデールは油断なく、四方に気を配っていた。立ち並ぶ影は、まったく動こうとしない。
とつぜん、ハリィデールは笑いだした。低く、抑えた含み笑いである。苦笑だった。
影が、何であるかを知ったのだ。
それは、一抱えほどの大きさの石だった。五十をこえる石が、丘の一画に等間隔で並べられているのである。考えるまでもない。墓石だ。
「しかし、誰の……」
丘の頂上に達したハリィデールは、足下の墓石を見おろして、独りごちた。死してすぐ土に還る黒小人は、墓をつくらない。墓となれば、それは人間だけのものであった。
はっきりと意識されないまま、不意にハリィデールの筋肉が緊張した。
何ものかが、かれの視野の端で動いたのである。
ハリィデールは跳びすさるように身を捻《ひね》り、その姿を追った。
すっ、と力が抜けた。振りかざしたグングニールの槍の穂先もだらりと下がった。
何のことはない。黒小人がひとり、黄色い下生えを踏んで、丘に登ってきただけのことである。背に籠《かご》を背負っているから、夏の間に薬草でも摘んでおこうというのだろう。
――おかしい。
と、ハリィデールは思った。いったい何をビクついているのだ。墓石のときといい、今度といい、必要以上に過敏になっている。これは用心というよりも、もはや怯《おび》えではないか。怯えは、いかなるときでも命取りだ。正常な判断を狂わせ、身を破滅へと追いこむ。幾百幾千もの人が死ぬところをこの目で見てきた俺だ。また、それに匹敵するだけの血を浴びてきた俺だ。墓場ごときに恐れをなすはずもあるまいに。おかしい!
黒小人がハリィデールに気がつき、立ち止まって、かれを見た。ハリィデールは丘をつっきり、黒小人に近寄った。臆病な黒小人である。迫ってくる自分を見て、逃げ出すかもしれない、とハリィデールは思った。が、その黒小人にそんな気配はなかった。
「ゲルズリの客の美獣だな」
地べたに坐りこんでハリィデールがくるのを待っていた黒小人は、彼が眼前に立つやいなや、そう言った。
ハリィデールの表情に一瞬とまどいの色が浮かぶ。しかし、それはすぐに消えた。互いに心でも読むのか、黒小人の間では噂が伝わるのが、驚くほど早い。文字どおり、あっという間である。この黒小人がゲルズリと同じ部族の者だとしたら、髑髏谷を訪ねてきた美獣のことを知っているのは、むしろ当然のことであった。
「こんなところで美獣に会えるなどとは、思っておらなんだわ」
ハリィデールが黙っているので、黒小人はつづけた。
「俺の名は、ハリィデールだ」
美獣は名乗った。
「わしの名はビブル」
ほとんどの黒小人がそうであるように、ビブルもまた、薄い革でできた粗末な衣服を身につけた、白髪白髪の持ち主だった。とにかく、よくよく見なければ、他の黒小人と区別がつかない。年齢による違いも、身長差さえも、黒小人にはほとんどなかった。
「なんぞ、わしに用かな?」
ビブルは訊いた。
「尋ねたいことがある」
「ほう」黒小人の目尻が下がった。
「選ばれし者、美獣がわしに尋ね事とはな。光栄な話じゃ」
ハリィデールは首をめぐらせ、墓場を指差した。
「あの墓場はなんだ? 誰が葬られているのだ?」
「あれか」ビブルは小さくうなずいた。
「あれは、このベルクの丘でのいくさで死んだグルスノルンとアーラマドラの兵士、それに遠い南の地からやってきた黒い呪術師の墓じゃよ」
「!」
「黒い呪術師の話はゲルズリから、聞いとるじゃろうが?」
「ああ」ハリィデールはうつろな返事をした。
「そうか、ここがベルクの丘だったのか」
「墓は全部で五十七。ここから見て右側にグルスノルンの兵士が二十九人、左側にアーラマドラの兵士が二十七人、埋められている。ナバ・ダ・ルーガの墓は、真ん中の一番大きな石がそうじゃよ」
「墓をつくらない黒小人が、埋葬したのか?」
ハリィデールは黒小人に向き直った。
「慣れんので、えらく面倒じゃった」
「なぜだ? 髑髏谷に棲みついたナバ・ダ・ルーガは別としても、なぜ黒小人らしくもなく、人間にかかずらったのだ?」
「なぜと問われてもなァ」ビブルは長い白髪の先をもて遊んだ。
「まきこまれて殺されたナバ・ダ・ルーガが、息をひきとるときにあの兵士全員に呪いをかけてしまったからなんじゃ」
「どういうことだ」
「呪いをかけられた五十六人の兵士は、からだが死んでも、魂が死ねなくなってしまったのじゃな」ビブルの口調はあっさりとしたものだった。
「魂が死ねなくては、いかに戦場に弊《たお》れた者でもワルキューレは迎えにこん。ワルハラの広間には招かれんのじゃ。だから、わしたちがやむなく葬ってやったというわけじゃ」
「ふ……む」
ハリィデールは、また墓場を見やった。
「黒い呪術師の呪いか」
――さっき味わった、わけのわからん怯えはその呪いのせいかもしれん。
ハリィデールはちらとそう思った。しかし、その目に映るベルクの丘は、澄みきった蒼穹《そうきゅう》のもと、どこまでも明るく輝いて、呪いという言葉から連想される凶々《まがまが》しい印象は、どこにもない。
「さて」ビブルは立ち上がった。
「わしはもういいかな?」
「ああ。邪魔してすまなかった」
「なんの」
二人は左右に別れようとした。そのときだった。
風にのって、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
進めかけていたハリィデールの足が、ふっと止まった。ビブルも、同様である。
「聞こえたな?」
と、ハリィデール。
「たしかに」
「南だ!」
言うなり、ハリィデールは駆けだしていた。ビブルは、ついてこないようだった。冷たいとか、そういったことではない。それが、黒小人なのだ。黒小人は難に出遭うと我先に逃げ出す。他はかえりみない。
丘を南にくだると、また森が行く手を遮《さえぎ》っていた。その森の手前で、ひとりの男が巨大な牡鹿《エラン》に襲われているのが、見えた。十数本にも枝分れした、鋭利な剣を思わせる角が、今にも男を串刺しにしようとしている。
男は血まみれになりながらも何とか執拗《しつよう》な角の攻撃をかわしきっていたが、それも長くはつづきそうになかった。
――さて、どうしたものか。
ハリィデールは立ち止まって、考えた。悲鳴は当然、黒小人のものだと思っていたのだ。人間だとは、思いもよらなかった。ここ一帯は、黒小人の地だと信じきっていたのである。ベルクの丘でいくさがあった以上、人間もここへやってくることがある。それをハリィデールはすっかり失念していた。
しかし、その逡巡《しゅんじゅん》は、長くはつづかなかった。現に目の前で、人ひとりが命を落とさんとしているのである。人間と関わりたくないとか、けだものがどうのこうのとか、言っている場合ではなかった。
――どうせ、俺は大鹿を求めてきたのだ。たまたまその獲物が人間を襲っていただけではないか。
そう納得して、心のわずかに残っていたこだわりの部分を、捩《ね》じ伏せた。
ハリィデールは、グングニールの槍を投げた。
ちょうど男を巨木の幹に追いつめた牡鹿が、男の腹にとどめを刺そうと見構えたところだった。槍は牡鹿と男の間を二本の角をかすめて走り、木を一本、真二つに裂いてハリィデールのもとに戻った。
牡鹿は驚愕して前肢を高く跳ね上げ、反射的に数歩後退した。
そこへ、ハリィデールが駆け寄り、割りこんだ。グングニールを地面に突き立てる。この凄まじい力を秘めた槍で仕留めたのでは、牡鹿は灰になってしまう。それでは、あとで食べることができない。ここは、何としても素手で倒さねばならなかった。
ハリィデールは腰をおとし、両手を前に突き出した。
同時に牡鹿が突進してきた。角が一気に迫ってくる。視野のすべてが、牡鹿になった。
角が触れなんとする寸前、ハリィデールはわずかに弧を描いて、右に移動した。角が、かれに対して斜めになる。そのまま角を両手で掴んだ。そして、一息に引き倒す。バランスを失って、牡鹿はもろくも、どうと転倒した。耳の下――急所が無防備にさらけだされる。
ハリィデールのかかとが、そこに叩きこまれた。
牡鹿は眼球が飛びだし、口から血ヘドを吐いて瞬時に絶命した。
まばたきするほどで終わった闘いだった。
背後ですすり泣く声があがった。ハリィデールは、ゆっくりと振り返った。腰が抜けたらしくペタンと坐りこんで、巨木にからだをもたせかけている男の姿が目にはいった。白い貫頭衣を着たきゃしゃな若い男である。長い金髪の、まるで女かと見まごう白皙《はくせき》の美青年であった。しかし、今は男はうつけたように莚然となり、ただ涙を流しているだけだ。衣服は泥と血にまみれ、手足も擦り傷と打ち身で真っ黒になっている。
「どこへなりと行け」
そう声をかけて、ハリィデールは牡鹿の屍体に向き直った。解体して、髑髏谷に持ち帰らねばならない。極寒の地であるからすぐに腐ることはないが、血の匂いを狼に嗅ぎつけられる可能性がある。
ハリィデールは身をかがめ、牡鹿の首を振じ切りにかかった。
――と、背後にねっとりとした人の気配を感じた。からみつくような視線を伴っている。あわてて上体をよじり、ハリィデールは後ろを見た。
あの美青年が、すぐそこに立っていた。コバルトの瞳の大きな目が、じっとハリィデールのからだに向けられている。
「何か、俺に用があるのか?」
不快感にとらわれ、ムッとしたようにハリィデールは言った。
「お礼がしたいの」粘っこい口調と鼻にかかった声で、美青年は答えた。
「助けてくださったのが、こんなに逞しい素敵な方だったなんて、わたし、しあわせです」
そして美青年は、ハリィデールの肩に、その両腕をすうっと回してきた。
ハリィデールは、背筋が異様にざわつくのを覚えた。
男妾というものが存在することだけは、ハリィデールはかねてから知っていた。だが、その当人に出会うのは、これが初めてのことであった。吐き気が、胸の奥から激しくこみあげてきた。
鹿の肉が、じゅうじゅうと音をたてて、焼きあがっていた。
かつて、黒い呪術師、ナバ・ダ・ルーガが棲んでいたという谷のはずれの洞穴の中である。そこに石でかまどを組み、ハリィデールは運んできた鹿の肉をあぶっていた。それとともに、洞穴の空気も心地よく暖まっている。
「肉も食らわんのか? ファーナス」
ハリィデールは、洞穴の外に立って中を窺《うかが》っている美青年に向かって、訊いた。ファーナスは、いやいやというふうに、物憂くかぶりを振った。
「おかしなやつだ」ハリィデールは脂をしたたらせている骨つき肉のひとつを把《と》り、無造作にかぶりついた。
「火を嫌って中にはいろうとしないわ、何も食おうとしないわ。まともとはとても思えん。もっとも、その方が俺としては助かるがな」
さすがの美獣も、男妾のあしらい方は心得ていなかった。ベルクの丘で一緒に連れていってくれと言われたときは、叩き殺してやろうかとまで思ったのだ。結局、ハリィデールのからだには触れないという条件で髑髏谷についてくるのを許したが、それは、ファーナスの言葉の内に、ひどく切実なものが感じられたからだった。それについてハリィデールは、ファーナスが誰かに追われているのだろうと読んでいた。
つめこめるだけつめこんで腹がくちくなる頃、ゲルズリの使いの黒小人がやってきた。注文の品はまだできてないという。ハリィデールは残りの肉を燻製《くんせい》にするため火の上に吊《つる》し、ゴロリと横になった。完成まで寝ることに決めたのである。
「火は消さないんですか?」
顔だけを覗かせ、ファーナスが訊いた。気落ちしたような表情である。
「当り前だ」ハリィデールは、冷ややかに言った。
「こんなときに火を消すか」
「そうでしょうねえ」
ファーナスは口をつぐんだ。何となく、気まずい沈黙になった。少し前にも、そうだった。ファーナスは、名前以外、何を尋ねても答えようとしないのである。これは、ハリィデールもそうだったから、自然、二人はおし黙っていくことになった。あとは、いつまでもつづく、からだがムズがゆくなるような静寂である。
パチパチと、火の弾《はじ》ける音がした。眠ろうにも男妾の美青年がじっと見つめていると思うと、とても眠れるものではない。
「あのう」
またファーナスが恐る恐る言った。
「なんだ?」
「水を汲んできます」
「え?」
訊き返すひまもなかった。言うなり、ファーナスの姿は消えていた。あまりにも唐突な行動である。ハリィデールは、しばし唖然とした。しかし、考えてみれば、これは助かることであった。髑髏谷は涸谷で水場は遠い。水汲みに行ったのなら、ファーナスは当分の間は帰ってこないだろう。
ハリィデールは気を緩め、うとうととまどろんだ。
石を踏むかすかな音が、地を伝わってきた。近い。そう思ったとたんに、目が醒めていた。
「ファーナスか?」
横になったまま、声をかけた。返事はない。ふっと、気配がひとりではないことに気がついた。
跳ね起きた。右手には、構えてこそいないが、すでにグングニールの槍を握っている。
四人の男が、洞穴の入口のところに佇《たたず》んでいた。いずれも鎖かたびらに甲冑《かっちゅう》の、戦士のいでたちである。いかつい顔の、なかなか屈強そうな連中といえよう。うち二人は腰の佩剣《はいけん》を抜き放っている。
「何しにきた?」
ハリィデールは、静かに問うた。
「われらはグルスノルンの者、ラナリアの太守サリアール公に仕える傭兵《ようへい》部隊の者だ」
四人の中で、もっとも背の高い戦士が答えた。この男は剣を抜いている。
「そんな者に用はない」
ハリィデールは、素っ気なく言った。
「そちらになくとも、われらにはある」男は胸を張った。
「ファーナスをどこにやった?」
「…………」
「とぼけてもだめだ! 黒小人から、ファーナスとおぼしき男が、お前とともにここへ来たことを訊きだしてある。それにお前もたった今、“ファーナスか”と口にだした」
「…………」
「ファーナスの居場所を言え!」
男は一歩、威圧的に前に踏み出した。
ハリィデールの両眼が光った。無言のまま、全身から殺気が燃え立つ炎のように噴出する。筋肉がパンプ・アップして、ふくれあがった。美獣の怒りが、ふつふつとたぎり始めたのだ。
「ま、まて!」
剣を抜いていない一人が、対峙する二人の間に割ってはいった。背の高い男は、ホッとしたように身を引いた。生身の人間が、美獣の気力に拮抗できるわけがない。この戦士は、もう少しで緊張と恐怖のあまり悲鳴をあげるところだったのである。
「われらは余人と争うために来たのではない」間に立った男は言った。
「ただファーナスの行方を知りたいだけなのだ」
「…………」
相変わらず口をきかなかったが、ハリィデールの殺気は、わずかにやわらいだ。
「ファーナスは、われらが隊長の囲い者だ。いわゆる男妾というやつだ。隊長はファーナスをいたく気に入っておられたのだが、あやつめ、拾われた恩を忘れて、砦《とりで》を逃げだしおった。それでわれらが追ってきたのだ。といっても、殺すわけではない。隊長は、こうなってもまだファーナスがかわいいと言っておられる。だから殺さずに連れ戻すのが、われらの使命だ。頼む。行方を教えてもらえないだろうか」
「…………」
一転して、いま少しで哀願にもなろうという口調だったが、これもハリィデールは黙殺した。何もファーナスに義理だてしているのではない。関わりたくない。ただそれだけのことだった。
「どうしても告げてはもらえぬか」
あとの男の声もやや険悪なものになった。
「童《わらべ》の使いではない。手ぶらで戻るわけにはいかんのだ」
剣の柄に手がかかった。
ハリィデールのからだが、再び憤怒の炎に包まれた。
魂消《たまぎ》る悲鳴が耳をつんざいた。
悲鳴は、洞穴の外からだった。そして、何かが割れるけたたましい音が、それにつづいた。
「いたぞ!」
野太い男の声が響いた。
「追えっ!」
ハリィデールと一触即発にあった二人も、素早く身を翻《ひるがえ》していた。もう、ハリィデールのことなぞ眼中にない。
束の間喧噪が空間を占め、次の瞬間にはもう、しんと静まり返っていた。
「なんのことはない」
ポツリとそうつぶやき、ハリィデールは槍をおいて、また毛皮を敷いた地面にからだを横たえた。ファーナスがどうなろうと知ったことではなかった。一度は成り行きで命を救ってやったが、それだけのことである。
睡魔がどこからともなく忍び寄ってきた。
浅い、野獣の眠りに落ちた。
「美獣よ、いるか?」
だしぬけに呼ばれた。喉を鳴らしているような声だった。黒小人である。ハリィデールはのったりと上体を起こした。
伸ばした足のすぐ脇に立つゲルズリの顔が目に映った。つぎに、その貧弱なからだと、両手一杯に抱えこんだ革の衣服が視野にはいってきた。
「できたのか?」
ハリィデールは、訊いた。
「いまさっき、火の中から取り出したのだ」ゲルズリは、立ち上がったハリィデールに、衣服を渡した。
「ゲルズリ会心の出来だ。すぐに着てみるがいい」
「そうしよう」
黒小人は洞穴の外にでた。
外はもう夜だった。しかし、北の地の夏は白夜なので、一晩中陽は沈まない。夜は闇ではなく、薄明の世界であった。
「どうかな?」
着換えを終えたハリィデールが、姿をあらわした。ゲルズリは手にした松明《たいまつ》で、それを照らした。
「ふ……む」ゲルズリの表情《かお》にいかにも満足げな笑みが浮かんだ。
「われながら、見事なものを造ったぞ」
腹を護る幅広のベルトが腰をがっちり固め、急所も厚い革で覆われている。それに薄いしなやかな革で仕上げをしたのが、下帯だ。
左肩には肩あてがはめられ、それはベルトと革紐で結ばれている。そして、腕には革の手甲《てっこう》。足にも臑《すね》あてがある。臑あては革紐でサンダルと一体になっていた。単純だが、頑丈で機能的な衣服だった。
「これなら着てて、うっとうしいということはなかろう」
「ああ」ハリィデールは珍しく相好を崩した。
「気に入った」
手足をぶんぶんと振り回し、槍を左右に操ってみせる。筋肉は自在に伸縮し、躍動した。身を切るような寒さにもかかわらず、にじんだ汗がハリィデールの肌を光らせた。
「ときに」
そんな美獣のさまを見ながら、ふっとゲルズリは言った。
「なんだ?」
ぴたりとハリィデールの動きが止まった。笑みも同時に消えた。呼吸はまったく乱れていない。
「あんたを四人の男が訪ねてきたそうだな?」
「正確に言えば、俺のところへ来たのではない。俺についてきた男妾《おかま》を訪ねてきたのだ」
ハリィデールは肩をすくめた。
「そいつらが、何かまずいことでもしたのか?」
「いや」黒小人は首を左右に振った。
「そうではない。そうではないが、死んでいるんだ」
「!」
ハリィデールの紅潮していた顔から、血の気が失せた。
「どこでだ! どこで死んでいた?」
「わ、わしも見たわけではないが……」鋭い語気に圧倒されながら、ゲルズリは言った。
「谷の東のはずれだそうだ。森の手前のところだ」
「東のはずれだと!」ハリィデールは唸った。
「俺にくっついてきたやさ男はどうした?」
「そ、そこまでは知らん」ゲルズリは、必死で両手を振り回した。
「戦士の恰好をしたやつが四人、死んでいると聞いただけだ」
「行ってくる」ハリィデールはいきなり駆けだした。
「何か、いやな予感がする」
「待ってくれ!」
取り残されたゲルズリが跳びあがって叫んだ。しかし、ハリィデールは振り向こうともしない。
「俺も行くぞ!」
黒小人らしくもなく、ゲルズリは好奇心が旺盛だった。
全速で谷を走り抜け、さほどの刻《とき》もかからず、谷の東のはずれに着いた。
屍体は、森まであとわずか、というところにうち重なるようにして倒れていた。おびただしい血が流れたらしく、地面が広い範囲にわたって、どすぐろく染まっている。
「ズタズタだ。ひどいぜ」
屍体を熱心に調べていたゲルズリが、ハリィデールを見やって言った。
「傷は背中と腹の側、どちらが多い?」
「背中だ」
ゲルズリは間をおかず、答えた。
「逃げまどっていたのか」
「それはおかしい」ゲルズリの声が高くなった。
「逃げまどっていては、屍体は重ならない」
「そのとおりだ」
ハリィデールはゲルズリの主張に同意した。
「同士討ちをしたんじゃないだろうか」
「傷は、たしかに刀傷か?」
「え?」
虚をつかれて、ゲルズリは絶句した。
「鋭いことは鋭いが、引き裂かれたという感が強い」
「ま、まさか」
そのときである。
ハリィデールの体内で野獣の本能が叩く警鐘がけたたましく鳴った。
ハリィデールは、ほとんど身をかがめるようにして、背後を振り返った。
――そこに、頭から鮮血にまみれたファーナスが、凝然と立っていた。
「ファーナス、お前」
ファーナスの血は、返り血だった。ケガは、先に牡鹿に襲われた際の擦過傷だけであって、あらたなものはどこにもない。
そして、返り血であるならば。
「四人を殺《や》ったのは、お前だな」
ハリィデールの問いに、ファーナスは黙ってうなずいた。血の気がなく、顔色は蒼白であった。それゆえにいっそう、肌にこびりついた血の色が生々しく見えた。
「お前は、いったい何ものだ?」ハリィデールは唸るように訊いた。
「人間のツラをし、人間のように振舞っているが、いずれ人間ではあるまい!」
「…………」
「俺に近づいた、その理由《わけ》を聞かせてもらおう」
「…………」
これもまた、無言の答え。ハリィデールはグングニールの槍を肩の上に構えた。いつでもファーナスを刺し貫ける体勢だ。
と、声を発しないまま、ファーナスが森へと進み始めた。
「う」
ハリィデールは息を呑んだ。からだが、あまりの驚きに、反応するのを忘れていた。槍がピクリとも動かない。それは、傍《かたわ》らに立つゲルズリも同様のようだった。
ファーナスは足を動かしていなかった。
地の上を滑るように移動しているのだ。よくはわからないが、わずかに宙に浮いているのではないだろうか。
森にはいってすぐ、ファーナスはいったん止まって、ハリィデールの方を窺うように見た。そしてまた向き直り、前進する。
「誘っているんだな」
ゲルズリが言った。
「どうもそうらしい」
ハリィデールも同じ意見だった。
「誘いにのる気は?」
「充分にある」
二人は、もうかなり距離の開いてしまったファーナスを、あわてて追った。
ファーナスは、恐ろしく早く、進んでいた。小走りに駆けなければついていけない速度である。
「こいつァ……」短い足をせいいっぱい動かしながら、ゲルズリは言った。
「ベルクの丘へ向かっている!」
「ベルクの丘」ハリィデールは、冷静にそれを聞いた。
「やはり、そうか」
「そうかって、あんた?」
「ごちゃごちゃ言うな、ゲルズリ」ハリィデールはゲルズリの言葉を制した。
「どうせ、じきにわかる」
森が切れ、地平線すれすれをのろのろと這いまわる太陽のたよりなげな光のもと、ベルクの丘が右手に見えてきた。むろん、その頂上に立ち並ぶ五十七基の墓石も。
なぜか、丘の上にだけ、暗雲がたれこめていた。
「ゲルズリ」ハリィデールは黒小人に声をかけた。「ここから先は危険だ。お前は髑髏谷に帰った方がいいぞ」
「いや」ゲルズリはかぶりを振り、硬い声で言った。
「俺は帰らん。よくはわからぬが、しきりに兄のデズリが俺を呼んでいるような気がするのだ」
「!」
ハリィデールは黙した。
丘の頂上に至った。
墓石群の中央、ひときわ大きい墓石の前にファーナスは立っていた。墓石に顔を向け、ハリィデールには背中を見せている。墓石は、黒い呪術師ナバ・ダ・ルーガのものだ。
ファーナスが、ゆっくりときびすを返した。天空を覆う雲がさらに高度を下げ、地平を這い進む太陽の姿も、まったく視界から消えた。しかし、どうしたわけか、丘の上はぼうっと明るく、ものがみなはっきりと見てとれる。
ファーナスの顔は、これ以上ないほどに白く、無表情だった。
ハリィデールとゲルズリは歩を止め、三人は墓石群のただ中で対峙した。
「ハリィデール」
ファーナスが、口を開いた。とたんにゲルズリの顔色が変わった。ゲルズリほどではないが、ハリィデールもギョッとなった。
ファーナスの口をついてでた声は、ファーナスのそれではなかったのだ。あの女性的な甲高《かんだか》いだけの声ではなく、何というか……高いようで低い、荒れているようで澄んだ、およそ表現のしようがない声だったのである。
「そ、その声は」
全身をわなわなと震わせ、ゲルズリが言った。指がおどおどと突きだされ、ファーナスを差す。
「ナ、ナバ・ダ・ルーガ」
「なに?」
ハリィデールの表情に、ある種の畏れに似た何かが走った。
「そうだ!」ハリィデールのうろたえを嘲《あざ》笑うかのように、ファーナスは言った。
「わしは、呪術師ナバ・ダ・ルーガだ」
カッ、と稲妻が走り、ナバ・ダ・ルーガの墓石を撃った。そして、耳をつんざくばかりの雷鳴が響く。
「ハリィデールよ!」ファーナス、いや、ナバ・ダ・ルーガの声が、すべてを圧して轟《とどろ》いた。
「わが忠実なる僕《しもべ》と闘うがいい!」
五十六本の稲妻が同時に生じ、ナバ・ダ・ルーガの墓を取り巻くすべての墓石を撃った。石が微塵に砕け散る。
その凄まじい音に、一瞬、鼓膜がじーんと痺れた。
ゲルズリが地面を指差して、何か喚《わめ》いている。しかし、ハリィデールにはただ口をパクパクさせているようにしか映らない。
が。
とつぜん、その言わんとしている意味が明らかになった。ゲルズリが見たものをハリィデールも目にしたからである。
ゲルズリは、『手が、手が』と叫んでいたのだ。
それは、砕片と化した墓石の下からにゅっと突きでた、死者の手のことであった。
手は、うごめいていた。
「死人《しびと》が甦《よみがえ》るのか」
ハリィデールの背筋が、冷水をあびせかけられたかのように、凍てついた。
手は土と石をかきわけて伸び、やがて肩まで露出した。さらには毛髪が半ば抜け落ち、眼球も腐ってとろけてしまった頭が地上にでてきた。肉がそこかしこ崩れ、骨が不気味にむきだしになっている。
死人は、ずるずると地の底から這い出した。甦った死人は総勢五十六人。ベルクの丘に葬られた兵士のすべてである。
「どうする、ハリィデール。いやさ、美獣!」また、ナバ・ダ・ルーガの声が頭上から降ってきた。
「かれらはみな、一度死んだ者ばかりだ。二度とは死なぬ。斬ろうが、突こうが、死にはせんぞ」
「痴《し》れたことを」
ハリィデールは、せせら笑った。初めは地中から甦る死人を目《ま》の辺りにして、そのおぞましい姿に吐き気を催したが、今は何ほどのこともなかった。こんな骸骨か木乃伊《ミイラ》のできそこないを相手にいちいち怯える感情は持ち合わせていないのだ。それにナバ・ダ・ルーガは死者が不死身だとほざいたが、ハリィデールの手には、アサ神族の主神オーディンの宝、グングニールの槍があった。この槍は、ただの武器とはわけが違う。そのことを、南から来た呪術師は知らないのだろう。
五十六人の死人が、ハリィデールとその足下で腰を抜かしているゲルズリを包囲した。
「どどど、どうしたら……」
ゲルズリはハリィデールの足にすがりついた。これは迷惑である。
「頭をしっかり抱えて、地べたにうずくまっていろ。それで助かるときは助かる。だめなときはだめだ」
「そんな」
「俺は来るなと言ったんだぞ」
「…………」
ゲルズリはしぶしぶながらハリィデールの足から手を放し、言われたとおりにうずくまった。
ハリィデールは、グングニールを頭上高く振りかざした。槍は白熱し始めた。
死人の包囲がじりじりとせばまった。と、その手にすうっと、一振りの剣が出現した。柄も刃も輝きのまったくない漆黒の剣だ。
「南の地の暗黒剣。きさまに受けられるかな」
また、ナバ・ダ・ルーガが言った。つまらぬ自信を持ったものである。受けるも受けられないもない。しょせん、武器の格が違うのである。
ふっと死人の動きが止まった。
来る!
ハリィデールの筋肉が緊張の極に達した。
右から三人、左から三人が踏みこんできた。槍がハリィデールの手を離れる。右の三人が一息に串刺しになった。バッ、と閃光が広がり、その三人は瞬時にして蒸発する。そして、弧を描いて槍は反対側へと飛んだ。暗黒剣が一斉にこれを狙う。
槍の穂先から、電撃が走った。
左の三人は炎と化して地にくずおれた。
「…………」
ナバ・ダ・ルーガに声はない。
ハリィデールの手に槍が戻った。
今度は、ハリィデールが攻撃にでる番だった。
槍を風車のように回して、包囲の真ん中に躍りこんだ。死人が白熱する槍の切っ先に斬りつけられて、次々に蒸発していく。ナバ・ダ・ルーガ自慢の暗黒剣は、何の役にも立たない。たまにグングニールの槍と噛み合っても、そのまま両断されてしまう。焼けぼっくいよりもまだ、もろく感じられるのだった。
死人の兵士は、あと数人を残すのみとなっていた。死人は退くことを知らないから、それだけ消耗が激しい。その数人も、さほどの時間を必要とせず片付くはずであった。
ところが、
「よ、よせっ!」
ゲルズリの喚く声があがった。
ハリィデールはその方にこうべをめぐらした。二人の死人に押さえつけられてジタバタ暴れるゲルズリの姿が目にはいった。
「ゲルズリ!」
「動くな!」
ナバ・ダ・ルーガの鋭い一喝が、凛《りん》と響いた。
「動けば、その黒小人の命はない」
「堕ちるところまで堕ちたな、ナバ・ダ・ルーガ」ハリィデールは皮肉をこめて罵《ののし》った。
「ゲルズリは、お前の親友デズリの弟だぞ。それを人質にとるのか?」
「やむを得まい、ハリィデール」ナバ・ダ・ルーガの声音は、心なしか沈んだ。
「わしはお前の肉体が、どうしても要るのだ」
――肉体が?
ハリィデールは、わずかに眉をひそめた。
「助けてくれェ!」
いかにも黒小人らしい悲鳴をゲルズリが発した。
ハリィデールは、素早く周囲に視線を走らせた。死人は、ゲルズリを押さえている二人も含めて、四人しか残っていなかった。ここで降伏なぞ、愚の骨頂といえた。しかし、ゲルズリは。
「どうした、ハリィデール!」
ナバ・ダ・ルーガの口調には、かなりの焦燥が感じられる。待たせるのはこれが限界だ。
「くっ!」
ハリィデールは、グングニールを捨てる決意を固めた。
“そんなことはせんでもよい”
ふっと、よぎるように言葉を聞いた。
――なに?
幻聴かと思った。すると、また聞こえた。
“ゲルズリは、儂《わし》が守る。案ずることなく死人を討て”
――誰だ、お前は?
“早く死人を討て!”
そこまできて、ハリィデールには、はたと思いあたることがあった。黒小人はまれに心と心で話をするという。噂の伝達が異常に早いのも、それがあるからだと信じられている。もし、このことが本当なら、デズリの魂が呪いで死ねない以上……。
ハリィデールは、だしぬけに槍を宙に投げあげた。
槍の穂先から、四条の電光が広がる。
ビシッ、という音を伴って、電光は四人の死人を斬り裂いた。四人は炎に包まれ、灰になった。ゲルズリには、火傷《やけど》のひとつもない。
槍が還る。ハリィデールは、墓石の前で茫然と立ち尽くすファーナスに視線を移した。ファーナスは身じろぎひとつしようとしない。
ハリィデールはゆっくりと槍を肩の上に構え、投じる姿勢をとった。全身を弓のように限界までたわめる。
全霊をこめて、槍を投げた。
槍はまっすぐに飛んで、墓石ごとファーナスの左胸を貫いた。
ひいっと尾を引く、泣き声のような悲鳴が大気を震わせた。
ハリィデールは、おのがからだを貫通している槍に吊りさげられたファーナスの眼前に立った。ファーナスはまだ、意識をたもっていた。
「お前は、まだナバ・ダ・ルーガか?」
ハリィデールは訊いた。
“そうだ”
ファーナスの口は開かない。返事は魂の声だった。
「偉大な力を得た黒い呪術師よ。お前はなぜ、このような挙にでたのだ」
“先ほども言った。何よりも若く、美しいお前の肉体が欲しかったからだ。いくさのそばづえをくらい、あえなく落命するとき、わしはこのベルクの丘の死者、すべてに呪いをかけた。――わかるだろう。その中にはわしもいたのだ。わしは、我と我が身をも呪縛《じゅばく》してしまったのだ。さればこの地にあって、わしは、わしの魂を受け入れる死者を求めねばならなかった”
「ファーナスもそのひとりか?」
“わしの魂をゆだねても死者は死者だ。生きてはおらん。日が経てば腐れていく。わしが生まれて育った南の地と異り、この地では死者の腐れるのは遅い。しかし、それでも腐れていくのだ。わしは、常に新しい死者を求めておった。ファーナスは、ついせんのことだ。大鹿の角にかけられて、森で絶息したのだ。そのとき、わしは肉体を失っていた。この地に人間が来ることは滅多にない。一たび屍体が腐れて肉体を失うと、長い間、魂だけの存在で徘徊《はいかい》せねばならぬ。わしは一も二もなくファーナスの肉体にはいった”
「それが男妾だったとはな」
“わしはお前の肉体が欲しかった。その見事な小山のごとき筋肉を一度、自在に動かしてみたかった。ファーナスの汚れた肉体など、早く脱ぎ捨てたかった”
「俺を呼んだ牡鹿との一件は、ファーナスの死を再現した狂言だったんだな」
“そうだ”
「洞穴で火に近寄らなかったのは、腐れが早まるのを恐れたためか?」
“そうだ”
「死してなお人を走らす、か。凄いといえば、凄い力だ」
“わしはハリィデールよ、お前に感謝しているのだ”
「どういうことだ?」
“お前に討たれて、わしは呪いから解放され、わしは魂も死ぬことができるのだ。つまらん呪いのために、思えばむなしい日々を送ってきた。しかし、それもこれ限り。まもなくわしは、安らかな眠りにつける。すべてはお前がわしを討ってくれたからだ”
「気がついてないようだな」
“なにをだ?”
「俺がゲルズリを楯《たて》にとられたときのことだ。あのとき助かるはずのなかったゲルズリを守って、俺にお前を討つ機会を与えてくれたのは、デズリの魂だった」
“デズリ”
「まだ、お前のことを気づかっていたのだ」
“知らなかった”
「じゃ、そろそろやるかな」
“待ってくれ!”
「なんだ?」
“お前はわしに訊きたいことがあったのではないのか”
「?」
“お前自身のことだ”
「わかるのか!」
“はっきり言って、むずかしい”
「どうしてだ?」
“何か――大いなる力が、わしの能力を妨げている。お前の将来にかかわることは、神々の定めた禁忌なのだ”
「すると、異国の地の呪術師のお前でも無理なのか?」
“ひとつだけ、わかったことがある”
「なんでもいい。聞かせてくれ!」
“王になることだ”
「王?」
“ミッドガルドを統《す》べる者、絶対の力を誇る王となるのだ。さすれば、すべてが明らかになる”
「王に、なるのか」
“やってくれ、美獣よ”
「俺が王とはな」
つぶやきながら、ハリィデールは左手を前に伸ばした。
グングニールの槍が発光した。
ファーナスの死骸は、瞬時にして塵と化し、風に流されていずこかへ消えた。
「美獣よ、何をしていたんだ?」
ゲルズリがやってきて、訊いた。
「黒い呪術師の予言を聞いていた」
「なんだとォ?」黒小人は目を丸くした。
「まばたきひとつする間にか?」
「まばたきひとつ?」
ゲルズリの意外な言葉に、ハリィデールは思わず訊き返した。
「あんたがファーナスの前に立って、ファーナスが塵になってしまうまでだ」
「そんなに短かったのか?」
「そうだ」
「そうか!」ハリィデールは天を振り仰いで笑った。
「そうなっていたのか」
暗雲はいつの間にか去っており、空は澄み渡って深い群青色をしていた。まもなく白夜が明ける。
「ゲルズリ!」ハリィデールは言った。
「グルスノルンの城はどこにある?」
「グ、グルスノルンだと?」ゲルズリはあせった。
「とつぜん何を言いだすんだ」
「黒い呪術師は、俺にミッドガルドの王になれと言った。俺はなろうと思う」
「え?」
ゲルズリには何のことやら、さっぱりわからない。
「グルスノルンの城はどっちだ?」
「あ、あっちだよ」
しどろもどろになって、ゲルズリは北西を示した。
「あっちだな」
ハリィデールは念を押した。
「な、何をする気だ?」
「大事をなすには、まず小事から」ハリィデールは、口の端に凄味のある笑いを浮かべた。
「手近なところでひとつ、グルスノルンの城主になりに行くのだ」
「げっ!」
「驚くな。すぐになってみせる」
そしてハリィデールは唖然としている黒小人を尻目に、ゆうゆうと北西に向かって、ベルクの丘をくだり始めたのだった。
第四章 荒野の電光狼
ギンナルは森の中にいた。
晴れ渡った蒼い空と石造りの古い砦《とりで》が、木の間ごしに見えている。オルドール公の南砦である。オルドール公ゴッドフレードの指揮下にある国境守備隊の兵士七十余名が、そこには駐留している。兵士はみな、勇猛でもって鳴るズールの傭兵《ようへい》たちだ。グルスノルンの東から南西にかけての国境では、もっとも堅固な砦のひとつであろう。
ギンナルは、そろそろと動きはじめた。それまでは陽が傾くまで、じっと巨木の蔭に身を潜めていたのである。
森は、ギンナルの立つ位置からほんの数歩のところで、唐突に終わっていた。そこから先は、どこまでもつづく荒れ果てた荒野である。丈の低い枯草がまばらに生え、その上を疾《はし》る風以外には、動くものは何もない。|北の地《ツンドラ》の暗く冷たい褐色の光景だ。
その荒野のただ中に、オルドール公の南砦は、うっそりとそびえ立っていた。
陽はじょじょに傾き、まもなく白夜の長い夕暮れが始まろうとしている。
――今だ。
ギンナルは顎を強くひきしめ、一気に森の外に出た。森と荒野の境界には、無数の切株が並んでいる。森が唐突に終わっているのは、そのためだった。砦の兵士たちが切りだしていったのである。その切株の間を、ギンナルは意外なほどの速さで走り抜けていった。
身を低くかがめ、一直線に砦へと向かう。
ギンナルは小男だ。上背は常人のへそのあたりまでしかない。黒小人とほとんどかわりがないのだ。しかも、猪首《いくび》で背中にあまり大きくはないが瘤《こぶ》があった。
傴背《くぐせ》である。
それが毛皮に身を包み、せなを丸めているのだ。遠目には、何やら得体も知れぬ獣《けだもの》が走っているようにしか見えない。一種の擬態であった。たとえ見張りの兵士がその姿を見つけたとしても、けっしてそれが人間であるとは思わないだろう。そして、ギンナルは砦の兵士が定められた時間にしか狩りをおこなわないことを知っていた。兵士たちが勝手|気儘《きまま》に狩りをしていては、砦はその用をなさなくなるのだ。
むろん、今は狩りの時刻《とき》ではない。ギンナルが獣と思われている限り、見張りの兵士たちに咎《とが》められる気づかいはなかった。事実、ギンナルは誰にも邪魔されることなく、砦の外壁に至った。かれは最大の難関を、いとも易々と通過してしまったのである。
頭上高く組まれた巨石の表面にへばりつき、ギンナルはニヤリと笑った。もじゃもじゃに縮れた真っ黒な髪、そしてその色に負けないほど汚らしく煤《すす》けた肌。まぶたは腫れぼったく、眼は糸のように細い。鼻は歪んでつぶれ、薄い唇からはみだした乱杭歯《らんぐいば》だけが異様に白く光っている。異相だ。冥府をさまよう腐乱した亡者でさえも、これほどには醜くないであろう。見る者すべてを慄然《りつぜん》とさせずにはおかない、おぞましい容貌である。だが、人をその風体だけで判断してはならない。この醜い小男こそ、のちのミッドガルドの支配者、〈傴背王〉ギンナルなのである。
しかし、今のギンナルは王でも何でもなかった。ただの泥棒――それも仲間うちでは〈道化の〉ギンナルで知られている三下の泥棒にすぎなかった。はるばるこの南砦までやってきたのも、ここの傭兵隊長がたんまりと貯めこんでいるという噂のおたからをあわよくば掠《かす》め取ってやろうとの魂胆からだった。成功すれば金銀宝石だけではなく、仲間うちでの名声も得ることができる。かつてオルドール公の南砦を狙った盗賊は数あれど、生きて帰った者はひとりとしていなかったのである。
外壁のふもとで丸まっていた毛皮の塊の間から、細い腕が石の表面を這ってするすると上に伸びた。ギンナルの右腕である。まるで枯枝のように細い。
右腕は石の表面に、あるかなきかの小さなでっぱりを見つけ、そこで止まった。指の先がそのでっぱりをしっかりと掴む。すうっと毛皮の塊が宙に浮いた。ギンナルが城壁を登りはじめたのだ。
毛皮が右腕の上にかぶさり、ギンナルのからだは腕の長さだけ地上を離れた。と、同時に今度は左腕が毛皮の間から伸びた。
左腕の手首のところが、陽光をあびてギラリと鋭い光を放った。山吹色の光。それは黄金の輝きだ。薄汚い小悪党に似つかわしいものではない。
光輝の源は純金でつくられた見事な細工の腕環であった。それがギンナルの左手首にぴったりとはめられているのだ。手首と腕環の間には髪の毛ひとすじほどの隙間もあいてはぃない。あたかもギンナルの手首に合わせてつくられたかのようである。どうやってはめたのかはわからない。何か不思議なカが、腕環にはあるようだった。
ギンナルは腕環の放つ眩《まばゆ》い光に気がついた。これでは砦の兵士たちに自分の存在を報《しら》せているのも同然である。あわててギンナルは左腕をひっこめた。危ういところであった。いつもは夜に忍びこむので気にはならなかったのだ。しかし、ここはふつうの家ではない。砦である。夜はかえって警戒が厳重になるのだ。最も兵士たちの気が緩むときはいつか? それは昼下りから夕刻までのけだるいひとときであろう。つまり、今頃である。
時間は余計にかかるが、ギンナルは左腕を使うことを諦《あきら》めた。腕環を隠そうにも、隠すだけの毛皮をあいにくと持ち合わせていなかった。
ギンナルは右腕一本で、砦の外壁を登りきった。小悪党ながら、あなどれない膂力《りょりょく》である。
銃眼胸壁をひらりと乗り越え、ギンナルは巡視歩廊の上に音もなく降り立った。巡視歩廊には数名の兵士が歩哨《ほしょう》に立っていたが、誰も白昼堂々と侵入してきたこの傴背の小男に気がつく様子はない。かれらの注視は砦の外に向けられ、しかもそれはかなり散漫になっている。
ギンナルは胸壁の内側に素早く身を寄せ、その蔭の中にすっぽりと全身を沈めた。ひとりの兵士が振り返って、かれの方に目をやったが、すぐにまた視線は元へと戻った。どうやら、なにげない偶然の所作だったらしい。
ギンナルは小さく安堵のため息をつき、右手に突き出している尖塔の櫓《やぐら》へと小走りに進んだ。素足で敷石を踏んでいるのだが、足音はまったくしない。
櫓の戸口を開け、すべるように飛びこんだ。
中は真っ暗だった。明るい陽射しの下にいたので目が慣れていないのだ。しかし、はいってすぐは階段であり、それはただ下っていけばいいだけなのだから、とまどうようなことはなかった。
壁に密着するようにして一層下ると、目がようやく闇に順応し、ぼんやりとだが物が見てとれるようになった。その階はテラスになっている。用はない。もう一層、おりた。
次の階は、左右に長く廊下が伸びていた。
――ここだ。
口にはださず、心の裡《うち》でギンナルはつぶやいた。砦の内部に関しては、以前にここの傭兵部隊にいたズール人からすべてを訊きだしてある。わからないことは何もない。
砦は、東に向かってコの字形に建てられていた。南から来たギンナルが攀《よ》じ登ったのは砦の左翼の外壁である。翼の北には街道があって目立つので、わざわざ山を越え、南側に廻りこんだのだ。
砦の左翼と右翼は、華やかに飾りたてられた居館によってつながってぃる。居館には大広間といくつかの寝室があり、傭兵隊長とその側近がそこに住まわっている。一般の兵士が寝泊まりするのは左翼と右翼に設けられた粗末な小部屋だ。左翼、右翼、居館とも四階に区切られており、隊長の寝室は居館の三階、すなわち、いまギンナルが辿り着いたその階の中央にあった。
ギンナルの狙いは、隊長の貯めこんでいるおたからである。されば廊下を左に、居館へと向かうべきだった。
ギンナルは歩を進めた。
例によって、壁にへばりついた這うような歩き方である。壁は豪華な綴織《つづれお》りの壁掛《タペストリ》で埋められ、ところどころに燃える松明《たいまつ》をさしこんだ松明立てがはめこまれている。兵士はひとりもいない。今時分はみな、巡視歩廊か中庭にいるのだ。陽のあるうちに室内に籠《こも》るのは、病人かさもなくばよほどの変人である。
右に折れる角に来た。ここから先が居館になる。曲がるとすぐに、頑丈そうな樫の扉に突きあたった。
ギンナルは、はたと考えこんだ。
ズール人の元傭兵は、この扉のすぐ次の間は衛兵の詰所だと教えてくれた。ただし、衛兵がいるのは夜のあいだだけで、昼は誰もそこにはいないという。それを訊きだしたからこそ、ギンナルはここを狙ってみる気になったのだ。
しかし。
万が一そうでなかったら、どうなるのか。
――言うまでもない。〈道化の〉ギンナルは、オルドール公の南砦で一巻の終わりということになる。
南砦のいまの傭兵隊長は、バルドスといった。例のズール人が傭兵だったとき隊長を務めていたのは、エザートという男である。別人なのだ。
人が違えば、やり方も違ってくる。ましてや莫大な財産を貯めこんだという噂のバルドスである。四六時中衛兵を置いている可能性は充分に考えられる。
ズール人の話を鵜呑《うの》みにして意気軒昂とやってきたギンナルではあったが、いざ扉を前にすると、じわじわと不安感が胸の内に湧き上がってきた。
――ええい、ままよ!
ギンナルはいきなり頭を振り、不吉な思いを無理矢理どこかへ追い払った。
――ここまできて、今さらひきさがれるか! 〈道化の〉ギンナルの名が泣くぞ!
ギンナルは左手首にはめられた黄金の腕環を見た。腕環は松明のくすんだ光の下で鈍い高貴な輝きを放っている。
――これさえあれば、恐れるものは何もないはずだ。すべてをこいつの力に託して、一発度胸を決めてやれ!
ギンナルは腕環に軽くキスをして、扉に向き直った。はれぼったく細い眼が意外にきつくなり、鋭い光を帯びた。
扉に手を掛け、ためらう間もなく手前に引いた。
一歩うしろに跳び退《すさ》り、床にひらべったくなって扉の向こうを上目づかいに窺った。
誰もいない!
灯心に火がともり、床に敷かれた熊の毛皮や、樫で造られたテーブル、ベンチ、寝台などがぼんやりと浮かびあがっているが、衛兵らしき者の姿は部屋の中をどう眺めてみても、どこにもない。
「ふむ」
ギンナルは小さくうなずき、そろりそろりと扉をくぐった。
つきあたりの壁の両端に、新たな扉が二つあった。どちらも同じような造りで、めぼしい'違いは特にない。耳を押しつけて探ってみたが、なんの物音もしなかった。
またもや、判断に苦しむところである。
しかし、肚はすぐに決まった。何のかんのと言っても、命を賭けなければおたからには会えないのである。やるべきことをやるしかなかった。
ギンナルは、まず右の扉をそおっと開けてみた。やっと中が覗《のぞ》ける程度にだ。身長に比べて、ギンナルは頭が大きい。首を横にねじ曲げて、ようやく目的を果たした。
そこは衛兵用の物置だった。
舌打ちして左の扉に移った。
左の扉の向こうは、狭い廊下になっていた。人がふたり並べば、それでいっぱいになるくらいの廊下だ。やはり松明立てにあかあかと燃えている松明が入れてあり、廊下の両側にはいくつかの扉が並んでいる。
――こうなったら、全部の扉を開けてやるまでだ。
さすがにもう、躊躇《ちゅうちょ》することはなかった。
最初の扉は厨房《ちゅうぼう》だった。その向かいの扉は空室である。三番目の扉は接見室。そして、四番目の扉に手を掛けたとき。
ギンナルの動きが止まった。
扉の内側から声が聞こえてきたのである。
身をこわばらせて、ギンナルは耳を澄ました。聞こえてくるのは、喘《あえ》ぐような跡切《とぎ》れ跡切れの声だった。しかも、ひとりの声ではない。よくはわからぬが、複数だ。
緊張に腕を震わせながら、静かに静かに、ギンナルは扉を開けていった。
たよりなげな灯明の赤い光の下に、幅の広い大きな寝台が見えた。壁に薄い影がうつり、それが激しく揺らいでいる。樫の木の寝台が、ギッギッと耳障《みみざわ》りなきしみ音をしきりにたて、その震動がかすかに床に伝わってくる。
ギンナルは、寝台の上で何がおこなわれているのかを知った。
男が二人、からみあっているのである。
陽焼けした逞しい大男と、生っちろいほっそりとした少年のような男だ。大男は、傭兵隊長のバルドスである。本人に会ったことはないが、南砦のバルドスといえば、誰だって知っている。
――すると、若僧の方は衛兵だな。
ギンナルは合点がいった。衛兵はいたのだ。ただし、バルドスのお相手になるためである。バルドスはみめのいいきゃしゃな青年を衛兵に選び、欲望が昂ると自分の寝台に引き入れていたのだ。
――男色野郎め、何が衛兵だ!
苦々しげに顔を歪《ゆが》め、ギンナルはまた細心の注意を払って扉を閉めた。強欲で名高いバルドスのことである。どうせかき集めたおたからは自分の手が届くところ、寝台の下あたりにでも隠しこんでいるはずだ。例のズール人が仕えていた前の隊長もそうしていたという。いかにあっちの方に気をやっているとはいえ、これでは手のだしようがない。
――しかたねえ、よその部屋をあたってみるか。何かハンパ物のひとつぐれえはあるだろう。手ぶらで帰るわけにゃ、いくもんか。このまんまじゃあ、仲間うちの笑いもんになるばっかりだ。
口惜しさに顔をどす黒く染め、ギンナルはひょいと廊下の先の方に首をめぐらせた。
と、それを待っていたかのように、ふわりととなりの部屋の扉が開いた。
あまりの唐突さに、ギンナルは動けない。
ふんふんと鼻を鳴らして、裸の男がそこからでてきた。美形のやさ男である。
ギンナルと目が合った。
茫然として、傴背の小男を見つめている。ゆるゆると右手があがり、ギンナルを指さした。
「あなた、誰?」
乾いた声で、そう訊いた。風貌といい仕様といい、兵士のそれではない。男妾である。バルドスのお相手はひとりではなかったのだ。この男は、何かの都合でとなりの部屋にいっていたのだろう。
ギンナルはツキが落ちたのを感じた。
くるりときびすを返し、ものも言わずに逃げだした。
「待って!」
男は金切り声をあげた。
「どうした?」
寝室からバルドスの太い声が響いた。
「怪しい奴が。傴背の小男です!」
「賊か?」
どたどたと音がして、勢いよく扉が開き、腰に布を巻きつけたバルドスが顔をだした。さすがに隊長らしく、目つきが鋭い。顔のほとんどは濃い髭で埋まっている。
「廊下にいたんです。あっちへ逃げました。左翼の方です!」
動転しているのか、男はやたらと両手を振り回した。
「こそ泥め! なめたまねを」バルドスは喰るように言った。
「すぐに全員に呼集をかけろ! 絶対に逃がすな! 八裂きにして、胸壁にさらしてくれる!」
「は、はい」
男は裸のまま向きを変え、右翼の方に走っていった。
「ソロン!」バルドスは振り返って、自分の後ろにいるもうひとりの男妾を呼んだ。
「わしの剣《つるぎ》をよこせ!」
「ここに」
ソロンは鞘《さや》にはいった剣を渡した。
「わしらの閨《ねや》を見た奴は生かしておかん!」布を腰のところでしっかりと結びながら、バルドスは言った。
「首は、わしの剣で刎ねてやる」
鞘を払った段平《だんびら》を振りかざし、バルドスはギンナルを追った。
ギンナルが、ちょうど階段にさしかかった頃であった。櫓《やぐら》から降りてくるのに使った階段である。しかし、そこを上に逃げるわけにはいかない。
――上は見張りの兵士でいっぱいだ。
ギンナルは、素早く思考をめぐらした。賊侵入の知らせは、すぐに伝わる。上に逃げたのでは自殺行為だ。今なら砦の中にはほとんど人がいない。どうせじきに兵士がなだれこんでくるのだろうが、活路をみいだす機会が絶無ではないように思われる。逃げるならば下だ。
ギンナルは階段を駆け降りた。もう足音を消している余裕はない。石の壁に、ぴたぴたという音が反響した。
砦の二階にでた。
左右に廊下が伸びているのは三階と同じである。階段の下の方は、もう騒がしい。左に行くと居館の二階で、危険な点では一階とそう変わらない。
ギンナルは、廊下を右に走った。
少し行くと、左に折れる枝通路があった。南砦は、古いが大きい。ことに左翼右翼の建物は有事の際に何百人もの兵士が駐留できるよう、広く造られている。それも小さな居室が、たくさんあるのだ。
ギンナルがはいりこんだのは、それら居室をつなぐ細い通路のひとつだった。甲冑《かっちゅう》を着た兵士がひとり、やっと通れるほどの狭さである。
いきなり、前方に兵士がひとりあらわれた。
石壁からわいてでたように見えたが、もちろんそうではない。居室のひとつからでてきたのだ。部屋に引きこまれている伝声管で呼集を聞いたのだろう。甲冑を身につけ、手には大振りの抜き身を握っている。
「いけねえ、いけねえ」
ギンナルは、くるりと向きを変えた。
が、反対側の先からも、沓《くつ》が敷石を蹴る甲高い音がする。そちらからも兵士がくるのだ。もろに挟み撃ちである。
咄嗟《とっさ》に身をひねり、ギンナルは手近なドアを押し開け、その中に転げこんだ。
それは使われていない部屋だった。数百人もの兵士を収容できる南砦である。わずか七十余名の傭兵部隊しかいないのでは、広すぎた。ほとんどの兵士は一階か四階に居室を持っており、いくつかの衛兵用の居室を除けば、二階三階の居室の大部分は空部屋であった。
部屋の突きあたりと左の壁に、さらに二つの扉があった。部屋と部屋とを直接につなぐ扉だ。非常時の移動用である。
「しめた!」
ギンナルは左の扉を開け、くぐった。
同じような部屋にでた。扉も同じようにある。右の扉を選んだ。また部屋だ。今度は正面の扉。通路にでた。あわてて部屋に通じる扉のひとつに飛びつき、中にはいった。
部屋、通路、また部屋。
これを何度繰り返したことだろう。バカげた堂々めぐりだったが、命が賭《か》かっているとなれば必死でやるしかなかった。体力は消耗し、目がしきりにくらんだ。もう何をどうしているのかも判然としなくなった。兵士には一度も行きあたらなかったが、一部屋に留まることは、怖《こわ》くてどうしてもできなかった。
何十回目になるのか。ギンナルは目の前のドアをひょいと開けた。
そこに、ひとりの男が立っていた。待ちうけていたのではない。偶然、そこにいたのだ。甲冑を着けていない男である。着ているものといえば腰布一枚だけ。
男は、バルドスだった。
バルドスは、不意に傍らの扉が開き、めざす相手のギンナルが顔をだしたので、一瞬、驚いて呆気《あっけ》にとられた。
一方、ギンナルは疲労しきり、まったく惰性で動いていたから何がなんだかわからない。
短い空白が生まれた。
先に我に返ったのはバルドスだった。バルドスは血相を変え、段平を大きく振りかぶった。
それを見て、ギンナルも相手が誰で何をしようとしているのかを悟った。ぼんやりと突っ立っているときではない。
段平が唸りをあげて落ちてきた。
間一髪。ギンナルは鋭い刃の下をするりとすり抜け、足元をかいくぐって、バルドスの後ろに回った。小男で傴背のギンナルだからこそできる離れ技《わざ》である。
ギンナルは通路を走りだした。
「逃がすかっ!」
思わぬギンナルの動きにあわてたバルドスは周囲の状況も忘れて一声叫び、渾身のカをこめて段平を横になぎ払った。
ガチン! と耳が痺《しび》れるほどの大きな音をたてて段平が弾《は》ね飛んだ。石壁にいやというほど叩きつけたのである。バルドスは右手を押さえて、呻き声をあげた。
その間にギンナルは角を曲がって、別の通路にはいっていた。今度は空部屋には飛びこまない。通路をしばらく行くと、廊下にでた。すぐ左に階段がある。しかも、廊下はそこで行き止まりだ。左翼の端にそびえる櫓に設けられた階段である。ここから一階に降りて中庭にでれば、門はもう目と鼻の先なのだ。
ためらっているヒマはない。背後にわらわらと兵士たちが集まってくる気配がある。
ギンナルは階段を駆け降り始めた。と、一団となって兵士が昇ってくるのが見えた。それも、もうすぐそこまで迫っている。もちろん、後ろに退くことは今となっては不可能である。進むか、死ぬかだ。
「殺《や》られて、たまるか!」
ギンナルは石段を蹴って、跳んだ。
これは、下から昇ってきた兵士たちにも意外な行動だった。剣を前に突きだせばギンナルは串刺しになって絶命していたのだが、落下してくる異相の傴背に度肝《どぎも》を抜かれていた兵士にはそんな単純なことすらもできなかった。
先頭の兵士は、ギンナルのからだを甲冑の胸あてで受けた。
一団となって昇ってきた兵士たちは、一団となって階段を転げ落ちた。
二十人余りの兵士が一階の敷石に叩きつけられた。甲冑の重さが、肉体を護るよりも、それを圧《お》しつぶした。ほとんどの者が血ヘドを吐き、数人は全身の骨がぐしゃぐしゃにくだけて絶息した。
一番上になったギンナルは、いくつかの打ち身のほかは、まったくの無傷だった。苦しげな呻き声が、そこかしこから聞こえてくる。
頭をあげると、ホールがあり、正面に大きな鉄の飾りのついた扉があった。中庭にでる扉だということは、すぐにわかった。まわりにいる兵士たちは、仲間を助けおこそうと躍起になっている。
ギンナルはガバと跳ね起き、うち重なる兵士たちを踏みつけて、脱兎のごとく扉に走った。
幾人かの兵士がそれに気がついて、声をあげる。
ギンナルはがむしゃらに扉を開け、脇目もふらずに中庭へと飛び出した。
中庭は、もう薄暗かった。陽はすっかり傾いていて、今は不気味なほどに赤い。あちこちにかがり火が焚《た》かれている。
目ざとい兵士がギンナルを見つけ、他の者に知らせた。中庭にいた兵士たちが、一斉に動きだした。たった今ギンナルがでてきた扉からも、何人かの兵士が姿をあらわした。
兵士の流れは、すべてギンナルに集中していた。ギンナルは門めざして走った。逃げきれるものではないとわかっていたが、それでも必死になって走った。生き延びることも死ぬことも考えてはいなかった。走って砦の外にでる。ただ、それだけが頭の中にあった。
眼前に、バラバラと矢が降ってきた。左翼右翼のテラスに並ぶ兵士が射かけたものだった。仲間の兵士がギンナルに迫っているから、矢の数は多くはない。
今度は、槍が足元をかすめた。足がもつれ、ギンナルは前のめりに地に倒れた。転がりざま、勢いをつけて立ちあがる。右足に激痛が走った。片足をひきずり、喘ぎながら逃げる。
門まであとわずかになった。しかし、兵士たちとの距離も、ぐっと詰まっていた。ようやく中庭に姿をみせたバルドスが生け捕りにしろと怒鳴ったので、矢を射かけたり槍を投げたりする者はもういない。
門に辿り着いた。
南の森の巨木を組んで造られた大門は、ピタリとその口を閉じていた。閂《かんぬき》こそ掛かっていなかったが、これだけの門である。ひとりの力ではどうあがこうが開くものではない。
ギンナルは両の拳で門を叩いた。鈍い音が響くが、門はビクともしない。拳が裂け、血が流れた。
全身の力が、失せていった。
門に背を向け、もたれかかった。いつの間にか、ぐるりと兵士たちに取り囲まれていた。兵士たちはわずかに距離を置いて、冷ややかにギンナルを見つめている。
足が萎《な》え、ずるずるとギンナルはへたりこんだ。
いよいよ最期だと思った。ふと左手首の腕環に視線を落とした。かれの強運を支えてきた腕環も、どうやらこれが限界のようだった。
ギンナルは観念して、目を閉じた。つまらん人生だったが、それでもけっこうおもしろおかしく暮らせた。こんなからだで三十年も生きたのだ。そろそろ潮時だろう。
首と胴が離れるのを待った。
しかし、いっかなそうはならなかった。
しかたなく目を開けた。居並ぶ兵士たちがなぜかポカンと口を開け、目を見開いていた。
なにごとか、と思う間もなく、凄い勢いで背中を押された。つんのめるようにギンナルは転がった。
門が、いきなり開いたのだ。
ギンナルはつばと一緒に砂を吐き出しながら、半身を起こした。
まず足が、そして次に胴と頭が視野にはいってきた。男だ。背の高い、小山のような筋肉の男だ。全身に力をみなぎらせ、トール神のように堂々と立っている。男は門の端に手を掛け、そこに指をくいこませていた。すると、この男が門を開けたのだ。たったひとりで、この巨大な南砦の大門を。
身長は、ギンナルの二倍以上もあるだろう。この砦で最も長身の男よりも、まだ頭ひとつは優に高い。想像を越えた巨漢である。
その上に、その胸の筋肉の厚みだ。それに肩の盛り上がりはどうだ。腕はといえば、南の森一番の巨木よりも、まだ太いではないか。
男は、ほとんど裸体に近かった。幅広のベルトを腰に巻き、急所を厚い革としなやかな革の下帯で覆っている。左肩には肩あて、腕には手甲。足は臑《すね》あてと編上げのサンダルだ。ほかには何も着けていない。
剣は佩いておらず、右の手に長い投槍を持っていた。左の手にも何か黒い塊を持っているが、それがなんであるかは、はっきりとしなかった。金色の髪が長く、風になびいている。
男は、ずいと前に出た。その威圧感に押され、兵士たちは知らず一歩、後ろにさがった。ギンナルは倒れたまま、金しばりにあったように動けない。
男は口を開いた。低い、くぐもったような声だった。
「こいつは、ここの者か」
そして、左手に持っていた黒い塊を、地面の上にどさりと落とした。ギンナルのすぐ脇だ。ギンナルはつられて、それに目をやった。
それは、カッと目を見開いた、無念の表情すさまじい血まみれの生首だった。
ギンナルの全身の血が逆流した。
ギンナルは喉の奥から、あらん限りの絶叫を振り絞った。
時の流れを少し戻して。
陽がまだ中天にあり、明るい清洌《せいれつ》な光が大気に満ち満ちていた頃のことである。
“イミールの背骨”と呼ばれる深い山脈のはずれ、山裾が荒野につづく短い尾根に生じたとある谷の川原に、ハリィデールはいた。
足首を流れに浸し、じっと川の面を見つめている。川を溯《さかのぼ》ってくる魚を捕ろうとしているのだ。
中食である。
魚影がついと視野の内にはいってきた。
と、同時にハリィデールの右足が弾ねあがった。水中の魚を蹴上げたのだ。
一抱えもあろうかという大鮭が、軽々と空中を舞った。腹が蹴破られている。
両の手で、落ちてくる鮭を掴んだ。
ハリィデールは水からあがり、川原で火をおこした。鮭を引裂き、火にくべる。匂いに魅かれて、熊が一頭やってきた。ハリィデールを見て、こそこそと逃げる。ハリィデールという美しい野獣が漂わせている、凄絶なまでの殺気を敏感に感じとったのだ。
ハリィデールは苦笑して、じゅうじゅうと音をたてている鮭の切り身をほおばった。
小鳥が愛らしい啼《な》き声をあげて、梢から梢へと渡っていく。のどかな山あいの風景だ。
ふっと、その声が熄《や》んだ。
ハリィデールの、切り身を口に運ぶ動きが止まった。びくりと肩の筋肉が波打った。すべての感覚が研《と》ぎ澄まされていく。
まず、大地を伝わってくるかすかな震動を感じた。
次に耳が、土を蹴る蹄《ひづめ》の音を捉えた。それも一頭や二頭のものではない。少なくとも五頭はいる。いななきや掛け声も、風にのって小さく聞こえてくる。
騎馬隊だ。
山の者が乗る馬の乗り方ではなかった。掛け声も特徴のある兵士のそれだ。鬨《とき》の声に似ている。
右手に持っていた鮭の切り身を口に押しこみ、ハリィデールは穂先を天に向けて川原に突き立ててあったグングニールの槍の柄を握った。
蹄の音は、川下から近づいてくる。
やがて、姿が見えた。
やはり、馬は五頭だった。乗り手も察したとおり、甲冑姿の兵士である。このあたり一帯の巡視にあたっている者のようだった。
騎馬隊はハリィデールの姿を認めると速度を緩め、わずかばかりの間を置いて、かれのまわりをぐるりと取り囲んだ。
先頭を走っていた指揮官と思える男が、腰の佩剣《はいけん》をすらりと抜いた。
「見かけぬ顔だが、近在の者か?」
剣をハリィデールの胸に突きつけ、詰問するように声高く訊いた。
「…………」
ハリィデールは答えない。また新しい切り身をむしり取り、ムシャムシャとかじりだした。
「なんだ、その態度は!」
別のひとりが喚《わめ》いた。声に激しい怒気がある。
「われらを、ただの傭兵とあなどるな! オルドール公の南砦に駐留するバルドス将軍の部隊だぞ。なますに刻まれたくなかったら、素直に身分を吐くがいい。この場で首を刎ねるのだけは勘弁してやろう」
「それはそれは、ありがたいお言葉だ」ハリィデールはせせら笑った。
「たかが傭兵隊長の分際で将軍を名乗るとは、さだめしお偉い方に違いない。バルドス閣下とその腰巾着《こしぎんちゃく》に、心から敬意を表してしんぜよう」
「ほざいたな!」
指揮官の全身が、怒りのあまりわなわなと震えた。残る四人も剣の柄に手を掛けた。
「それほどの雑言《ぞうごん》を口にだすとは、並の者ではあるまい。きさま、われらが宿敵アーラマドラの物見であろう! 巡視の途次なれど、いぶかしき煙を見つけ、わさわざ立ち寄った甲斐があったわ。その素っ首、ただ今この場で打ち落としてくれる!」
指揮官の騎乗する馬が、前足を揃えて跳ねるように立ち上がった。甲高いいななきが、耳を聾《ろう》する。ハリィデールを蹄にかける気だ。
「愚かな」
ハリィデールは振り向きざま腰を浮かせた。槍を握る手は離した。この程度の兵を相手にグングニールの槍を揮《ふる》うのは大仰すぎる。素手で充分だ。
叩きつけるように落下してきた馬の前足を、両の手でがっきと掴んだ。そのまま勢いをつけて立ち上がる。馬は指揮官を振り落として弧を描き、もんどりうった。
「おのれっ!」
剣を抜いた四人の兵士が、馬上から一斉に斬りかかってきた。
それより早くハリィデールの拳が、一頭の馬の鼻づらをぐしゃぐしゃに砕いた。馬は激痛で棒立ちになった。兵士がまたひとり、バランスを失って転げ落ちた。ハリィデールは、その兵士の剣を把った。ついでに倒れている兵士の顔面を、かかとで蹴りつぶす。
鋭い切っ先が、唸りをあげてハリィデールの背中をかすめた。
「しゃらくさい!」
ハリィデールは剣を下から上になぎ払い、その兵士の胴を、馬の首ごと鮮やかに両断した。鮮血がどっと噴き出し、川原が真っ赤に染まった。
二頭の馬が、ハリィデールを挟み撃ちにしようと、左右から一気に迫ってきた。
ハリィデールは身を沈めて後ろに退り、左に動いて二頭を一直線に並べた。伸び上がるように馬の胸を裂く。そして、つづいてきたもう一頭は正面から袈裟懸《けさが》けに斬り降ろした。二頭とも血泡を吹いて、のたうちまわる。騎乗する二人の兵士は、なすすべもない。ハリィデールの動きが早すぎるのだ。あれよあれよといううちに、馬が斬りふせられている。ふたりとも川原に頭から投げ出された。
立ち上がるいとまもない。ハッと気がつくと、形相すさまじいハリィデールが眼前にいた。驚くべき巨体だ。右手に持つ剣が、まるで短剣のように見える。
閃光が左右に走った。
鮮血の長い尾を引いて、二つの首が宙を舞った。
「雷神《トール》よ。軍神《チル》よ」
すすり泣くような声が、ハリィデールの背後であがった。
先に落馬した指揮官が息を吹き返し、部下の全滅を知ったのである。
血刀を胸元に構え、ハリィデールは指揮官に向き直った。
「けだものだ!」恐怖に顔をひきつらせ、指揮官は叫んだ。
「お前は血に餓えたけだものだ! 地獄に堕ちろ! ガムルに食われてしまえ!」
ハリィデールが前に出た。
「わあっ!」
悲鳴とも雄叫《おたけ》びともつかぬ大声を発して、指揮官はハリィデールめざし、突っこんだ。左足をひきずっている。目を閉じ、剣をがむしゃらに振り回す。
ハリィデールは指揮官の剣を無造作に弾《はじ》き飛ばした。
それでも指揮官は突進をやめなかった。
指揮官の首が飛んだ。
からだがキリキリと回転して、ハリィデールの焚火の上に倒れた。噴出する血で、火勢が弱まった。
ハリィデールは血のりでベトベトになった剣を脇に投げ捨てた。息ひとつ切らしてはいない。まなざしが、冷ややかだ。
朱に染まって転がっている指揮官の首に視線を移した。
「オルドール公の南砦と言ったな」
静かに、そうつぶやいた。
ギンナルのけたたましい悲鳴が途絶えると、砦は異常なほどの静謐《せいひつ》に包まれた。
誰もが動かず、誰もが口を開こうとしなかった。
やがてひとりの兵士が意を決したように生首を指差し、震える声でおどおどと言った。
「あ、ありゃあ、きょうの巡視隊長のトーラスだ」
それがきっかけになった。兵士たちはたちまち騒然となり、さまざまな言葉がかれらの間を飛び交った。
「トーラスだ!」
「殺《や》られたんだ」
「まさか、五騎で行ったんだぞ!」
「あのトーラスが……」
「ちくしょう!」
「どけ」
いきり立つ兵士たちを押しのけ、ひときわ横幅の広い大男が、群集の前へとでてきた。
バルドスである。
部下のひとりが着衣を届けたのだろう。今はもう半裸ではない。革の上衣と短いズボンを身につけている。右手の段平は、抜き放ったままだ。
バルドスは言った。
「これは、わしの部下のトーラスだ」
ギロリとハリィデールを睨《ね》めつける。しかし、ハリィデールは何の反応も示さない。
「トーラスは四人の兵士とともに、きょうの朝、巡視を兼ねてオルドール公の東砦に向かった。“イミールの背骨”の裾野を回り、ガルトート街道に至る平時の巡視経路だ」
「…………」
「トーラスは優秀な部下だった。度胸があって、腕も立った」
「…………」
「殺ったのは、きさまだな」
バルドスの髪が、逆立った。ハリィデールの眼が、すうっと細くなった。
「気違いか、それとも不死身の術《すべ》でも身につけた魔道師か、きさまは? トーラスの首ひっさげてここにのこのこあらわれたは、なんのためぞ? 荒くれの傭兵七十人を相手にして、なにを考えている? いや、そもきさまは何ものなのだ?」
「そう喚くな、怯えたやせガラスでもあるまいに」ハリィデールは、低い声で言った。
「俺がここへ来たのは、むろん、わけあってのことだ」
「聞こう!」
「その前にひとつ尋ねる。南砦の傭兵隊長は確かにお前なんだな?」
「そうだ」はぐらかされて、とまどいながらも、バルドスは威嚇《いかく》するように胸を張って答えた。
「わしがオルドール公の南砦の傭兵隊長、バルドスだ」
「ならば、よい」
「なんだと!」
ハリィデールの尊大な態度に、バルドスの怒りが爆発した。バルドスは段平を低く構え、一歩前に踏み出した。兵士たちも、それに呼応して一斉に剣を抜く。テラスにいた衛兵たちは、素早く弓に矢をつがえた。
「さても気の短い輩《やから》どもだ」
自分で勝手に煽《あお》っておきながら、ハリィデールはからかった。
「そんな単純な頭では、いくさのたびに謀られて痛い目をみるぞ」
「いらぬお世話!」
バルドスは、ギリッと歯を噛み鳴らした。
「バルドス!」
いきなり真顔に戻り、ハリィデールは鋭い声を発した。バルドスは電撃をくらったように硬直し、唖然となってハリィデールの顔を見た。
「バルドス、どうだろう?」ハリィデールはつづけた。
「お前とお前の傭兵部隊、そっくり俺の配下にならんか?」
「な、なにい」
言われた言葉のあまりの意外さに、バルドスは口を開け、目を剥《む》いた。
「俺の名はハリィデール。このミッドガルドを統《す》べる王になる者だ。まず手はじめに、グルスノルンから、たいらげる。いつまでもオルドール公の傭兵でもあるまい。バルドス、俺に仕えて、心地よい夢を見る気はないか?」
「夢なんぞ、くそくらえだ!」
目を剥いたまま眉間に深いしわを寄せ、バルドスは吐き捨てるように言った。どうやら気を取り直したらしい。
「わしはきょうを生きている傭兵だ。傭兵に夢は要らん。そんなものはゲリかフレキに喰わせてしまえばいい。わしを動かしたかったら、金か銀か宝石を今すぐ目の前に山と積め。“イミールの背骨”に巣食う黒小人どもが、一生かかっても集めきれないほどの量をだ!夢は夢。しょせん金銀ではない!」
「そうか」ハリィデールは、また薄く笑った。
「夢を見んのか、お前らは」
「読めてきたぞ」
ふっと、圧し殺すようにバルドスがつぶやいた。独り言のようだが、あきらかにハリィデールに聞かせるつもりのセリフだった。
「何がだ?」
「きさまの魂胆よ」
バルドスはからだをほぐすように、二度、剣を左右に払った。
「きさま、アーラマドラの兵士だな。いや、そうじゃあない。たかが兵士に、こんなマネをさせるわけはないな。おおかたウスルーリ王の知恵袋、グルドン卿の手の者だろう。さもなくば、ただの通りすがりの気違いか。いずれにせよ、虚言を吐き散らす、無用の代物!」
「なんとする気だ?」
「知れたこと! トーラスの仇だ。ズタズタに裂いて、鼠の餌にしてくれる!」
言うなり、バルドスは段平を振り回して、大地を蹴った。血に餓えた切っ先が、唸りをあげてハリィデールに迫る。
「馬鹿め!」
ハリィデールは右手の槍をわずかに傾け、その段平を受けた。
鈍い金属音が響き、段平は真二つに折れた。バルドスは弾かれたように飛び、腰から落ちる。いやというほど、地面に叩きつけられた。
ハリィデールに相対していた兵士の人垣が、わっとばかりに後ろに退った。進んだのではない。退いたのだ。テラスにいる衛兵に、矢を射かけさせるためである。
すぐにそれと察して、ハリィデールはグングニールを投げた。
槍は、目にもとまらぬ速さで左翼のテラスに達し、そこにいた衛兵たちを、ひとり残らず串刺しにした。
と、同時に、ハリィデールは素手で兵士の群れに躍りこんだ。兵士にしてみれば、まったく予期しない不意打ちである。前面の兵士が一撃で蹴り倒されて、十数人がまとめて将棋倒しになった。
ハリィデールは、そのうちのひとりの手から剣をむしり取った。立ちあがろうとあがく兵士を瞬時に数人、斬り伏せた。
群れが恐怖で散り散りになる。
左翼の衛兵を片づけた槍が大きく弧を描き、右翼の石壁めざして突き進んだ。
槍は壁を貫いた。
壁の全面に、無数のヒビが走った。
「あっ、ああっ!」
見ていた兵士は、一斉に悲鳴をあげた。
壁が割れ、崩れ落ちた。
砦の右翼が、こなごなに粉砕されたのだ。たかだか、一本の槍がその中央を貫いただけで。
右翼の衛兵は、あっという間になだれ落ちてくる瓦礫《がれき》の中へと巻きこまれていった。ひとりとして、助かろうはずがなぃ。悪夢のような光景だ。
堆積した瓦礫のそこかしこから火の手があがった。廊下の松明が、建物の内部に使われていた木材に燃え移ったのだろう。けっして小さい炎ではない。
槍がハリィデールの右手に戻った。ハリィデールは剣を投げ捨て、槍をぶんぶんと振り回した。
兵士の首がいくつか、血の塊とともに薄明の空高く躍った。勇猛で名を売ったズールの傭兵が、まるで赤児のように抵抗ひとつできず落命していく。
しなやかに躍動する筋肉の黒い影は、あたかもトール神のごとく猛々《たけだけ》しい。
腰を抜かしたギンナルは、両腕で這いずって、開いた門の蔭にその身を潜めていた。だらしなく開かれた口から舌が長く垂れ、細い目は、うつろで赤く血走っている。
「なんという槍だ。なんという化物だ」
喉の奥から、知らず言葉が漏れた。
中庭は朱に染まっていた。折り重なった屍体が山になり、大地は血を吸ってぬかるみと化していた。ほとんどの兵士は逃げまどうだけである。幾人かの勇気ある者が果敢に立ち向かっていったが、いかんせん無駄なあがきでしかなかった。ハリィデールの槍の一振りで、かれらは斬り裂かれ、絶息した。そして、それは逃げまどう兵士たちも同じだった。ハリィデールは逃げる者どもには槍を投げた。槍は兵士を追い、かれらを須臾《しゅゆ》の間に血まみれの骸《むくろ》と変えていった。
槍が正面の居館を貫いた。居館は瓦礫の塊となった。右翼同様、火の手があがった。
ふと気がつくと、七十余名の兵士がすべて、物言わぬ冷たいなきがらと化していた。難攻不落を誇ったオルドール公の南砦は、左翼の建物を除けば、ただの廃堀でしかない。
ギンナルは震えていた。どうしようもないほどに怖かった。これほどの惨状を目にするのは、数知れぬ修羅場をかいくぐってきたかれにして、初めてのことだった。
中庭の中央に立っているハリィデールなる男は人間ではない。ギンナルは心底からそう思った。人間に、こんなマネができるはずはなかった。できるとすれば、それはけだものである。けだものだけが、大地を血の泥沼に変えることができるのだ。
しかし、そんなハリィデールに畏怖の念が湧きこそすれ、不思議に憎しみや嫌悪の情が浮かびあがってこない。なぜだろう、とギンナルは自問した。
門に背を向けていたハリィデールが、ゆっくりと後ろを振り返った。何かの気配を感じとったのである。
よろめきながら、屍体の山からひとりの男が立ち上がった。折れた段平を右手に握りしめている。
バルドスだ、バルドスは腰から叩きつけられたあと気絶し、今まで何も知らず、地面に倒れ伏していたのである。
呆けたようにバルドスは周囲の屍体を見回し、それから瓦礫となった居館を背にして立つハリィデールを見た。
何やら奇声を発して、折れた段平を振りかざした。
ハリィデールの手から、槍が一直線に飛んだ。
槍はバルドスの胸を貫通して門の端、ギンナルがしがみついている巨木の真ん中に、凄まじい音をたてて突きささった。
ギンナルは、再び魂消《たまぎ》る悲鳴を喉の奥から振り絞った。
つかつかと、ハリィデールがやってきた。
その全身には殺意が炎のようにめらめらと燃え立っている。
ギンナルはハリィデールを見、そして門に突き立つ槍を見た。
その表情が、こわばった。唇が小刻みに震え、指がゆっくりと槍の穂先に向けられる。左の指だ。腕環がくすんだ太陽の光を反射して、鈍い輝きを放つ。
槍の穂先に、ルーン文字が刻まれているのだ。
[#ルーン文字の挿絵]
九日九夜、宇宙樹ユグドラシルに我と我が身を逆さ吊りにし、槍に貫かれながらオーディンがかれの裡《うち》から見いだした、魔力を秘めた文字ルーン。そのルーンの数文字が、槍の穂先に刻まれている。
穂先のルーンは、“グングニール”と読めた。
「グングニールの槍」
ギンナルはつぶやいた。イヴァルドの息子が鍛えしグングニールの槍が、今かれの眼の前にある。
グングニールならば、先ほどみせた怒濤《どとう》のごとき破壊力も当然のことであった。
ギンナルは、つと首をめぐらせた。
ハリィデールが、すぐそこまで来ていた。
ギンナルは、ひどく掠《かす》れた、地の底から響くような声でハリィデールに訊いた。
「“美獣”と呼ばれる者の話を、聞いたことがあるか?」
「美獣だと」
ギンナルを見おろすハリィデールの双眸に、いぶかしげな色が宿った。
「そうだ。美獣だ」
ギンナルは、すがるような口調で繰り返した。
「美獣の名を、どこで知った?」
ギンナルを門の蔭から引きずりだし、グングニールの槍を抜き取ってから、あらためてハリィデールはこの傴背の小男に問うた。
ギンナルは、落着きがなく、おどおどとしていた。
「どうした? 何を心配している?」
ハリィデールに訊かれて、ギンナルは怯えた目を、ゆっくりと上に向けた。
ハリィデールと視線が合った。
「さっきは我を忘れてつい訊いちまったが……」と、ギンナルは言った。
「ここで、こんなにのんびりと話しこんでいるわけにゃ、いかないんだ」
「どうしてだ?」
「どうしてって、決まってるだろ。東砦の連中が、わんさと押し寄せてくるんだ」
「…………」
「あんたが山ん中で殺《や》っちまった五人は、巡視を兼ねて東砦に行こうとしていた連中だ。この砦は毎朝、巡視隊を東砦に送る。その日夜襲を受けなかったことを報せるためだ。いつの頃か、どこかの砦が夜襲で全滅し、それが何日も都に伝えられないでいるうちに敵が国の奥深く侵入して、グルスノルンが危うく敗れそうになって以来のならわしだよ。今は多分に形骸化してしまってさほどの役にも立たないが、それでも巡視隊がこないとなれば、東砦は軍勢をここに派遣することだろうて」
「それが、怖いのか?」
ハリィデールの目が、かすかに笑った。
「怖いに決まっておる!」ギンナルは怒ったように言った。
「俺はチビの片輪だ。あんたみたいに野獣の筋肉で身を鎧《よろ》ってはいない。それにオーディンの力も持ってはおらん。何十人もの傭兵を相手にして戦うことは、俺にはできんのだ」
「俺が守ってやるさ」
「そんな保証がどこにある?」ギンナルはかぶりを振った。
「たとえグングニールの槍にかけて約束されても、俺は信じないね。死んじまってからじゃあ、何もかもが遅いんだ。いま戦って益があるとも思えんし、命を賭ける必要はどこにもない。逃げるのが、一番だね」
「あてはあるのか?」
「ある」ギンナルは、即座に言った。
「こういう稼業だ。いざというときの逃げ場所くらいはあっちこっちにつくってある。そこに籠《こも》りゃあ、一連隊に山狩りされても見つかることはない」
「そうか」
ハリィデールは廃城と化した南砦をぐるりと見回し、それからまたギンナルの顔を見た。いつの間にかギンナルの表情から怯儒《きょうだ》の色は消え失せ、それどころか、一種のふてぶてしさまでが漂っている。
「よかろう」と、ハリィデールは言った。
「訊きたいことは多いし、腹も減った。ここはひとつお前のやり方に従った方が利口かもしれん」
「そのとおりさね」地べたに腰をおろしていたギンナルは、勢いよく立ち上がった。
「山の隠れ家なら、こっからそうは遠くない。まあニティズもあれば充分に着くだろう。東砦の連中、何がおこったのかとんとわからず、血相を変えてあわてふためくに違いないわ」
ペッとつばを吐き、ギンナルは先に立って歩きだした。二、三歩行って振り返り、なかなか動こうとしないハリィデールをうながす。
二人は砦の門を出て、南の森に分け入った。山に向かう街道もあったが、ギンナルはそれをえらばなかった。たとえ獣が徘徊し、悪霊が巣食っていようとも、かれにしてみれば、人間のいない森の方が安全だった。
森を抜け、山にはいった。稜線ではなく、谷を登った。
ギンナルは、山歩きに自信があった。特に、岩場を登るのは得意だった。あるかなきかのでっぱりに指を掛け、山鹿のように楽々と登っていった。からだは傴背だったが、生来、身が軽かったうえに、高所に対する恐怖がなかった。だから、ギンナルは黒小人しか踏みいったことのない深い谷間の奥にも、易々とはいっていくことができた。そのためか、かれは黒小人たちと親しかった。
そのギンナルが、ハリィデールには舌を巻いた。ギンナルの隠れ家は、人跡未踏といっていい険しい谷の深奥にあった。並の人間ならば音《ね》をあげてしまい、とても行きつけないところである。へたをすれば足を滑らし、千仞《せんじん》の谷へ落下して命を失ってしまうのだ。
かれはグングニールの槍を持つ神々の戦士に、ひとつくらいはおのれの優位を見せてやりたかった。あらゆる面で、かれとハリィデールは対照的である。片や醜い小人の泥棒。片や筋骨隆々たる白皙《はくせき》の美丈夫。あまりにもギンナルは惨めであった。岩登りにさえなれば、とギンナルは思った。岩登りになれば、かれは悲鳴をあげて立ちつくすハリィデールの横を、これ見よがしにひょいひょいと登っていくことができる。これほどの快感が、またとあろうか。それゆえにこそ、ギンナルは砦にとどまらず、山の隠れ家に行くことをあれほど主張したのである。
しかし、ギンナルのその目論見《もくろみ》は、あえなくついえ去った。
ハリィデールは弱音を吐くどころか、槍を手にしたまま、ギンナルよりも早く岩場を登りきったのだ。ギンナルはあらためてハリィデールに感服した。悔しさはなかった。世の中にはあらゆる面で桁違いの人物がいる。そういう人物と張り合ってはいけない。かれは畏怖すべき相手であって、争う相手ではないのだ。そして、ハリィデールこそ、まさにその人物であった。
予言が本当になる。岩場を渡りながら、ギンナルはそう確信した。
隠れ家に着いた。
丸太を無造作に組んだだけの、ひどいあばら家だった。すぐ脇に小さな川が流れている。グルスノルンの大原野の中央を滔々《とうとう》と横切る大河、ベスクドーミヤの源流がこれだ。
「えらく荒れてしまったが、まさかつぶれるようなことはないだろう」あいまいな笑いを浮かべて、ギンナルが言った。
「狭いところだが、はいってくれ」
小屋の中は、思ったよりも広かった。窓はなく、ギンナルが点《つ》けた灯心の明りだけが、唯一の光源だった。
積み上げたワラ、何枚かのボロ布、粗末な木のテーブル、ベンチ、桶、瓶《かめ》などがぼんやりと見えた。
ギンナルがベンチに腰をおろした。ハリィデールも、それにならった。グングニールの槍は放さない。
「酒がある」ギンナルが言った。
「一献《いっこん》酌み交しながら話をしよう。でないと、ここでは凍えてしまうぞ」
ギンナルはかがみこんで足もとに置かれた瓶のうちから小ぶりのひとつを把《と》り、テーブルの上に置いた。テーブルの上には小さな鉢が、いくつか重ねてある。
蝋《ろう》で固められていた封を切り、瓶の中の液体をふたつの鉢に注いだ。饒《す》えた匂いを放つ、白い酒だ。山羊の乳からつくられた乳酒《ケフィア》である。
「近づきのしるしにどうだ? 乾杯してくれないか?」
ギンナルが訊いた。
「お前の風習《しきたり》にならおう」
ふたりは腕を組み合わせ、そのまま鉢の中の酒を一息に乾した。
「ふう」すっぱさに顔をしかめながら、ギンナルは笑った。
「エギールの館で呑む酒も、これほどに美味ではないだろうて」
「そうかな」
ハリィデールは、ニコリともしなかった。
「さて」二杯目を鉢に注ぎ、ギンナルはあらためて言った。
「何から話したもんかな」
「美獣のことからだ」すかさず、ハリィデールは言った。
「なぜ、その名を知っている?」
「知っていては、おかしいことなのか?」
「そうだ」ハリィデールはうなずいた。
「トビアンの村の長に、代々口伝されてきた予言の詩《うた》に、その名は封じこまれている」
「なるほど」
ギンナルは、それまでテーブルの下に入れていた左腕を、ハリィデールの前にぐいと突き出した。手首にはめられた黄金の腕環が、灯心の光を浴びて、燦然《さんぜん》と輝いた。
「…………」
「腕環の表面を、よく見てくれ」
ハリィデールは目を凝らした。
腕環には、ルーンが彫られていた。
[#ルーン文字の挿絵]
「読めるか?」
「ああ」
「声にだして、読んでくれ」
ハリィデールは読んだ。
「ギンナル、オーディンの戦士、美獣に仕える者。ミッドガルドの王となる」
「そうだ」 ギンナルは満足そうに言った。
「そのとおりだ」
「…………」
ハリィデールはおし黙った。ただ喰い入るように腕環を見つめている。
「腕環を造ったのは、アシッドという黒小人の鍛冶屋だ。古い友達でな、俺が必死の思いで貯めこんだ黄金の隠し場所に困っていると、絶対にはずすことのできない腕環に仕立ててやろうと言ってくれたんだ」
「…………」
「俺は一も二もなくその話に乗ったよ。おたからは身につけとくのが一番だ。絶対にはずせないのなら盗まれる心配は、まったくない。アシッドは三日三晩かけて、俺の黄金塊を腕環に仕立てあげてくれた。四日目の朝に火床から取り出された腕環は、それはそれは見事なものだった」
「…………」
「ところが」ギンナルは上目づかいに自分の左手首を見た。
「その腕環には、予期せぬものが彫りこまれていた。このルーンだ。アシッドは、腕環にこんなものが彫りこまれるとは思っていなかった。内容は予言だったが、不吉なものではない。俺はこれでよかったが、アシッドはひどく嫌がった。細工師としての衿持《きょうじ》を傷つけられたんだな。すぐに造り直すといって、火床の中に放りこんだ」
「…………」
「三日三晩ののち、火床からだされた腕環には、またこのルーンが刻まれていた。アシッドはオーディンを呪い、またもやそれを火床に投げこんだ。その結果は、言うまでもない」
「…………」
「つごう六たび同じことを繰り返し、アシッドはついに諦めた。俺は腕環を左手首にはめ、腕環はそこに吸いついて、二度とはずすことができないようになった」
「…………」
「きょう初めて、俺はここに彫られたルーンを信じたよ」ギンナルは、視線をハリィデールに移した。
「美獣というのは、あんたのことだろ?」
「これが、俺とお前の宿世《すくせ》か」
腕環から目を放さず、ハリィデールはポツリと言った。
「あんたにとっては迷惑かもしれんが、俺はあんたに賭けてみるぜ」
「俺に仕えるというのか?」
「俺はいつも夢を見ていた。傴背の俺が、まっとうな奴らを支配する夢だ。ハリィデール。あんたは南砦のバルドスに、俺に仕えて心地よい夢を見る気はないか、と訊いたな?」
「ああ」
「俺はあるぜ」ギンナルは、身を乗りだした。「俺は醜い。俺は片輪だ。だが、俺は俺の夢を見るんだ。頼む、ハリィデール。俺に夢をくれ!」
「…………」
ハリィデールは黙ってギンナルの肩に手を置き、テーブルの上にかぶさったかれのからだを、ゆっくりベンチに坐るよう押し戻した。そして、ややあって口を開いた。
「美獣のことを、話してやろう」
「じゃあ」
「黙って聞くんだ」
ハリィデールは語った。記憶を失って、グエナートの村にいたこと。その後、旅に出てトビアンの村に行きつき、神々の戦士“美獣”として、グングニールの槍を与えられたこと。“北海の獅子王”ヘニングリートと闘い、“ラガナの氷の女王”という手懸りを得たこと。銀仮面トルベリスの持つ〈ウルドの瞳〉で、その“ラガナの氷の女王”の顔を知ったこと。そして、“黒い呪術師”ナバ・ダ・ルーガの予言で、ミッドガルドの王になれと言われたこと。
自分の知り得たすべてのことを、ハリィデールは語った。
そのあいだにギンナルもハリィデールも四杯以上の乳酒をあけた。
「不思議な話よ」
聞き終えて、ギンナルは唸《うな》るようにつぶやいた。
「俺が王になれば、お前も王になる。俺は権力には興味がない。俺が王になろうとするのは過去が欲しいからだ。たしかに予言は、ひとつのところに行きついているようだな」
ハリィデールは言った。
「神々のために巨人、悪霊を討つ運命《さだめ》と、ミッドガルドを支配する者になることがどう関わっているかはわからぬが、少なくとも、予言の一部は、もう現実のものとなっている」
ギンナルも認めた。
「俺に仕えるか?」
「仕えよう」
「槍に誓え!」
ハリィデールは、グングニールの槍を横にして前に突き出した。
「槍に誓う」
傴背の小男はベンチに立って左手を槍にのせ、オーディンを意味する『F(ルーン文字)』のルーンを胸元で切った。
「よかろう」
ハリィデールは、槍を戻した。
「俺は、まずグルスノルンを奪《と》る」ぐいと乳酒をあおり、言った。
「どうすれば、よいと思う?」
「グルスノルンは、美しい国だ」ギンナルも乳酒の鉢を傾けながら言った。
「しかし、その実は得体の知れぬ何ものかに呪われた国なのだ」
ギンナルは右手の人差指を乳酒に浸し、そのしずくでテーブルの上に地図を描いた。
「ここが、いま我らのいる“イミールの背骨”の山裾に口を開いた暗闇《くらやみ》谷だ」
ギンナルは地図の南から東に線を引き、その中央に指を置いた。
「“イミールの背骨”から東の地は、ついこの間までお前――いや、閣下のおられたアーラマドラ」
「お前でいい」
ハリィデールは苦笑した。
「山裾からは、ベスクドーミヤ川を中心に、宏大な荒野がグルスノルンの国土一面を覆っている。南砦はここで、東砦はここだ。どちらも、“イミールの背骨”に近い」
「ふむ」
「この界隈では最も賑わうガルトート街道が南砦と東砦をこう結び、大小数知れぬ村々を経て、ここオルドール公ゴッドフレードの居城に至っている。居城は城下町をつくり、グルスノルンの都リンデックを除けば、その町はグルスノルンで一番大きい」
「リンデックは、どこだ?」
「ここにある」
ギンナルはグルスノルンの領土の西北西寄り、海岸線にほとんど接するか接しないかの位置に、特別大きな丸を描いた。
「リンデックは、南方貿易の拠点なのだ」
「そうらしいな」
ハリィデールは、意味ありげにうなずいた。貿易とはつまり、海賊行為のことである。
「グルスノルンの〈隻眼《せきがん》王〉デリク三世は、家臣に恵まれておらん。まともな武将といえば、オルドール公ゴッドフレードただひとりだ。ゴッドフレードは傭兵たちの信頼も篤く、戦《いくさ》もうまい。しかし、あとの地方領主はみなボンクラだ」
「では、グルスノルンは容易《たやす》く落とせるな?」
「そう思うか?」
「思う」
「そうではない」
ギンナルはため息をついた。
「これは、俺たち、裏街道の仲間に広がっている噂なんだが」声を潜めて言う。
「デリク三世は、ただの傀儡《かいらい》なのだそうだ」
「傀儡?」ハリィデールは眉をひそめた。
「誰の?」
「それが……」ギンナルは少し言い淀んだ。
「それが狼なんだそうだ」
「狼?」
「数千年の齢を経て恐るべき知恵を身につけた老狼だと言われている」
「名は?」
「名は知らない。仲間うちでは、電光狼と呼んでいた」
「電光狼」
「さっき、グルスノルンは何ものかに呪われていると言ったろう。あれは、このことなんだ」
「電光狼か」
ハリィデールは顎に手をやり、しばし瞑目《めいもく》した。
「グルスノルンを奪《と》るには、まずこの電光狼を倒さねばならない」
「倒したとして、その次に打つ手はなんだ?」
ハリィデールは、あっさり訊いた。電光狼なぞ歯牙にもかけていない口調だった。ギンナルは肩をすくめた。
「噂どおりなら、電光狼を倒せばグルスノルンは戦乱状態になる。諸侯のすべてが、王になろうとするからだ」
「なるのは俺だ」
「そのためには、軍隊がいる。傭兵部隊だ。莫大な黄金が必要になるだろう」
「黄金なら、いつでも手に入る」
ハリィデールは無造作に言った。
「え?」
ギンナルはギョッとなった。
「グングニールの槍は黄金のありかを示す力を持っている。俺はこの槍を手にしてから、黄金に不自由したことがない」
「なんてえこった」
ギンナルはしきりに乳酒をあおった。
「王になるためのすべての条件が揃ってやがる」
「傭兵は、すぐに集まるのか?」
「それは任しておいてくれ」ギンナルは胸を張った。
「あんたが南砦をひとりで廃城にした勇士だという噂が流れれば、ほうっておいても名だたる傭兵が売りこみにやってくる」
「噂をお前が流すのだな」
「何だか嬉しくなってきたぜ」
ギンナルは、がぶがぶと乳酒を呑んだ。もちろん、ハリィデールにも勧めた。勧められるままに、ハリィデールも次々と杯を重ねた。話ははずみ、傭兵の扱い方やグルスノルンの次の獲物のことが話題になった。
やがて、眠気が二人を襲ってきた。
ハリィデールは、すぐにワラの山の中にもぐりこんだ。尿意を催したギンナルは、小用を足すために小屋の外に出た。
いつの間にか、雨が降りだしていた。低い遠雷が聞こえてくる。西の空に稲妻が走った。灰色の雲が頭上をすっかり覆ってしまっている。これから本降りになるのだろう。
また、雷が鳴った。
「くわばら、くわばら」
小用をすませたギンナルは小屋の中に走りこみ、ワラ山に横たわって、毛皮を頭からひっかぶった。
目を閉じるやいなや、寝入っていた。
鉄の甲冑を剣で乱打するようなけたたましい物音で、ギンナルは飛び起きた。酔いがまだ残っていて、そのうえにもの凄い音が響くのだから、頭が割れるように痛くなる。たまらず唸った。
「起きたか?」
ハリィデールの声がした。
「なんだ。なにごとだ?」
ギンナルは、頭を抱えて呻きながら喚いた。ハリィデールは小屋の戸を開け、外を覗きこんでいる。
「足もとを見ろ!」
ハリィデールは振り向こうともしないで、言った。声が硬い。
ワラ山のてっぺんでひっくり返っていたギンナルは、首を伸ばして床に目をやった。
「う」
息を呑んだ。
床が川になっていた。濁った水が小さな渦を巻いて流れ、テーブル、ベンチ、瓶《かめ》などが、ぷかぷかと浮いて漂っている。かなりの水量だ。ハリィデールは、何かを踏み台にしているらしい。
「土砂降りだぞ。川が氾濫している!」
ようやく、早く来い、というようにギンナルをチラリと見た。
ギンナルはそそくさと立ち上がり、床に飛んだ。
高い水しぶきがあがり、ギンナルは泥水の中に沈んだ。思ったよりも、さらに深い。足が床に着いた。からだを伸ばし、頭を水面の上に出した。水は背の低いギンナルの首のあたりまであった。ハリィデールなら、太ももから腰のあたりか。
流れてきたベンチに掴まり、戸口まで行こうとした。しかし、戸口から流れこんでくる水の勢いが強くて、なかなか思うように進めない。
やっとのことで、ハリィデールのすぐ後ろに辿り着いた。
「まるで滝だ」ハリィデールは言った。
「天から落ちてくる、巨大な滝だ」
戸口の向こうを見たギンナルは、ハリィデールのその言葉が少しも大ゲサでないのを知って、声を失った。
小屋の外は水の壁になっていた。あの中に出ていくことは、水中に潜ることと何ら変わりがない。そんな気がした。
水の壁は、ときおり光った。稲妻であろう。よほど雲が厚いのか、外は暗く、稲妻が光るたびにハリィデールの全身が、白と黒のまだらに染まった。そして、稲妻のあとには、耳を聾する雷鳴が凄まじい雨音を制して、目一杯に暴れまくる。風は強くないが、これでは雷雨というよりも、嵐だ。
「ど、どうしよう?」
震える声で、ギンナルはハリィデールに尋ねた。宿酔《ふつかよい》は、もうとうにどこかへ失せていたが、それでもまだ名残りは残っているらしく、ギンナルの頭には、何の考えも湧いてはこなかった。
「この小屋は、もうもたん」ハリィデールは雷鳴に負けまいとして、怒鳴った。
「あといくらもせんうちに流されてしまうだろう。今やらねばならんのは、外へ出てどこか安全な場所に避難することだ」
「無茶だぞ! そいつは」顔色を変えて、ギンナルは喚いた。
「あんな雨の中に出ていけば、四、五歩も行かないうちに息が詰まって死んでしまう!」
「案ずるな! 俺のからだの下に潜りこめば大丈夫だ」
「あんたは、どうなる?」
「グングニールの槍がある。こいつがあれば、たとえ火の塊が降ってきても恐れることはない」
「そんなら、いいが」
「ところで、どこか避難できそうな場所はあるのか?」
「そいつは任しといてくれ」ギンナルは胸を叩いた。
「東の尾根に、古い神殿の跡がある。あそこなら洪水の心配もないし、石造りだから、この雨にも平気だ。あまり知られていないので、兵士がやってくることもないだろう」
「よし」ハリィデールはうなずいた。
「そこへ行く。俺の前にこい」
ハリィデールは上半身を後ろにひねり、ギンナルの首根っ子を掴まえて、自分の胸の下に置いた。少し前かがみになって、ギンナルの頭に、直接雨がかからないようにしてやる。楽な姿勢ではないが、効果はあった。
「行くぞ」
ハリィデールとギンナルは、小屋を出た。
外へ歩を踏み出すと同時に、ハリィデールは、土砂に埋められるような衝撃を後頭部、首、肩に受けた。水は深いが、何とか足は着く。ギンナルは完全に泳いでいる。雨の壁で周囲は何も見えず、方角どころか、今どこに立っているかすらわからない。
「これで、東の尾根に行けるのか?」
ハリィデールは、胸の下にいるギンナルに訊いた。
「任しておけと言っただろ」ギンナルは軽くいなした。「ここら辺は、目をつぶってても動けるんだ。絶対に迷いはせん」
背後で、雨音と雷鳴にまじって、何か絶叫にも似た音が響いた。背中の毛が逆立つ、嫌《いや》な音だ。振り返ってみると、小屋が崩れ、バラバラになって流れていくところだった。
「あのボロ小屋にしては、よくもったぜ」
すっかり肚を据えたのか、ギンナルは呑気《のんき》なことを言った。
ハリィデールは、グングニールの槍を頭上にかざした。しばらくすると槍の穂先が赤みを帯びはじめ、やがて槍全体が白熱するようになった。
雨はそこで割れ、霧となって消えていく。
「凄いな」
振り仰いだギンナルが、細い目を丸くして感心した。
ギンナルは流れに逆行するコースをとっていた。流れは急流といってよく、ふたりの進む速度は、当然のことながら遅かった。しかし、それでも着実に高台へ向かって進んでいるらしく、水深はごくごくわずかであったが浅くなりつつあった。
ふたりは黙々と水を掻き分けた。
水面がへそのあたりになった頃、ハリィデールは、ギンナルの呼吸がひどく乱れていることに気がついた。体力の消耗がはなはだしいのである。無理もない。かれはずっと、流れに逆らって泳ぎつづけているのだ。今ではほとんど浮いているだけで、ハリィデールが押すことによって、かろうじて前進しているにすぎない。
とつぜん、ゴボッとギンナルが沈んだ。ハリィデールはあわてて左腕を伸ばし、水中からギンナルの小さなからだを引きずりだした。
「くたくただよ」
全身をぐったりさせたギンナルは弱々しげに言った。
「お前に意識を失くされたら困る。このまま俺が担いでいくぞ」
「そうしてくれ。もう誇りもなにもない。俺にゃ、こんな荒ごとは無理だ」
ギンナルは、腕をあげて、進む方角を指示するだけにした。あとは何もしない。流れはどんどん浅くなっていった。
流木が群れをなして流れてきた。かなりの数だ。やりすごそうとしたが、よけきれない。何本かが、ハリィデールの足を直撃した。枝がももを抉《えぐ》り、そこから迸《ほとばし》った血が、泥水をさらに赤く濁らせた。
ぐらっとハリィデールの上体が揺れた。
「大丈夫か?」
ギンナルが表情をひきつらせた。ここでハリィデールが倒れたら、二人とも助かりはしない。
「何か布は持ってないか?」ハリィデールがしわがれた声で訊いた。
「血止めさえすれば案ずるほどの傷ではない」
「待ってろ」
ギンナルは身にまとっている毛皮の裏に張った布をビリビリとはぎ取った。あまり清潔とはいいがたいが、どうせ傷口は泥水につかっている。気にせず、それで太ももをしばった。
「少しホッとしたぜ」
しばりながら、ギンナルが言った。
「どういう意味だ?」
「せっかく主従の誓いをたてたのに、俺はあんたの足手まといにしかなってないんじゃないかと思っていたんだ。だから、こうやってひとつでも役に立ってみると、わずかではあるが、気が楽になる」
「ガラに似合わず殊勝だな」
「言ってくれるぜ」
そんなやりとりをしている間に、水深はハリィデールの膝のあたりまで減じた。こうなると、あとは一気呵成《いっきかせい》である。ギンナルもここからは歩くと言いだし、二人は急流から逃れて、斜面を登るけもの道にはいった。
豪雨のおかげで道はぬかるみ、ところによっては寸断されてもいるが、さすがに山登りには自信を持っているギンナル。もう先ほどのようにへたばることはない。少しでもましな足がかりを見つけては、ひょいひょいと登っていく。
草つきでかなりてこずったが、それ以外は、ひたすらに順調だった。
剣の刃のように両側が切り立った尾根にでた。狭い道が、ずうっとつづいている。行く手に何があるかは、やはり雨でよくわからない。頭上を仰ぎ見ると、降ってくる雨の間に、黒雲がかなりの速さで動いていくのが感じられる。
「雨の勢いが、一向に衰えない」
不満げに、ギンナルが言った。
「たしかに不思議なほど、よく降る」
「こんなことは、初めてだ」ギンナルは首を捻《ひね》った。
「グルスノルンは、ほかの地に比べて雨の降ることが多いそうだが、それでもこんなには降りはしない」
「何かの意思が働いているような雨だ」
「なんだって?」
「特に意味はない」ハリィデールは肩をすくめてみせた。「感じたままを言ってみただけだ」
「…………」
二人は口をつぐみ、尾根道を歩くことに専念した。
しばらく行くと、右前方に雨の壁を透かして、黒い塊のような影が見えてきた。一見したところ、となりの山のピークにも思えたが、それにしては形が角ばっていた。
「あれが神殿だよ」
ギンナルが顎をしゃくった。さすがに目をつぶっていても行けると断言しただけのことはある。見事な案内ぶりであった。
神殿は、鞍部の平原状になった土地に建てられていた。さほどの規模でもなかったが、かといって土地神の社《やしろ》というほどみすぼらしいものでもなかった。いずれアサ神族の誰かの神殿であろうが、ギンナルは、それはもう土地の者でも知らないことだと言い切った。
神殿の前に来て、その古さがよくわかった。石の表面が完全に風化していたからである。しかし、建物自体は、まだまだ風雨には耐えられるだけの頑丈さを保っているようだった。
神殿の奥に進んだ。
雨から逃れるために、壁と屋根の残っている建物を選んだ。
本殿につづいている小さな休息所とおぼしき建物が、比較的よい状態で残っていた。屋根の一部が崩れ、壁も三方にしかないが、一時しのぎにはそう不都合でもなかった。
崩れた壁の間から、中にはいった。
ガランとして、何もなかった。石敷きの床には、屋根や壁の隙間から吹き込んだ雨が、水たまりとなって広がっている。
「ぜいたくは言えんさ」
ギンナルは、さっさと水たまりの上に坐りこんだ。もっとも、からだ中にぐるぐると毛皮を巻きつけているから、肌がじかに水たまりに浸るわけではない。
ギンナルが先に水たまりの場所をとったので、ハリィデールのためには、あまり濡れていない、どちらかといえば乾いた場所が残された。ギンナルのせいいっぱいの配慮である。
ハリィデールは、黙ってそこに腰をおろした。
しばらくは、無言で過ごした。雨は、いっかな止む気配がない。雷鳴も石の壁をびりびりと震わすほど、激しく鳴り響いている。
いつの間にか、うとうととしはじめた。
雨音と雷鳴の中に、かすかな足音が交じった。
それだけで、ハリィデールの目が醒めた。
人間のものではない、野獣の感覚である。
瞬時に傍らに置いたグングニールの槍を掴み、そのままぐいと横に突き出した。
「ひ――」
小さな悲鳴が、その行動に応じた。ハリィデールの眉がぴくんと跳ね、かれはゆっくりと首を左にめぐらした。
「これはこれは」
声をあげたのは、ギンナルだった。ギンナルは悲鳴を聞いてはじめて眠りかち醒めたらしい。
槍の穂先を前にして両手を口元にあて、身をすくめて怯えているのは、まだうら若い娘であった。
雨に濡れそぼった髪は、ハリィデールと同じしなやかな金髪。白い布のゆったりとした衣服を着て腰にベルトを巻き、雨具がわりに厚手のマントを肩から長く羽織っている。履物は、革のブーツだ。典型的なこのあたりの村娘である。しかし、色の白いハッとするほど美しい顔は、ただの娘にしては気品にあふれすぎているようにも思われた。
ハリィデールは、静かに槍を引いた。娘は血の気を失って、凝然と立ちつくしている。
「娘」ハリィデールは言った。
「なぜ、こんな所にいる」
「…………」
答えはない。怯えきった娘は小刻みに震え、質問に答えたくとも、口が開こうとしないのだ。
「まあまあ、そう詰問するもんじゃあない。答えられるものも答えられなくなる」
つとギンナルが立ち上がり、ちょこちょこと娘の前に歩いていった。
「娘さん」ギンナルは娘の顔を見上げ、できる限りやさしく言った。
「こんなひどい豪雨だっちゅうのに、どうしてこんな古い神殿の跡に来ておるのかね?」
「あたし……」
醜いなりに愛敬のあるギンナルの笑顔に少し恐れが消えたのだろう。娘はようようのことで口をきいた。
「あたし、下の村から、この神殿を守るためについさっき登ってきたんです」
「守るって、何から?」
「嵐からです。あたしは村の巫女《みこ》で、巫女がついていれば、神殿はあらゆる災厄から守られるという言い伝えが村にはあるんです」
「なるほどね」
ギンナルは振り返り、ハリィデールを見た。どうしたものか、問うたのだ。
「俺たちは、一時の雨やどりにここへ来た」ハリィデールは娘に向かって言った。
「神殿を荒す者ではない。雨が止むまで、ここを使わせてもらいたいが、どうだろう?」
「もちろん、構いませんわ」娘は明るい声で答えた。
「どうせあたしも雨がおさまるまでここにいなくちゃいけないんですもの。一人よりもお仲間がいた方が心強いわ。――あ、そうだ!」
娘は、パンと手を打った。
「本殿の後ろに石室《いしむろ》があって、そこにワラと粗朶《そだ》が置いてあるの。ワラで水を吸い取り、ここで焚火をしません?」
「そいつァ、いい」
ギンナルが、一も二もなく賛成した。
ハリィデールは、あらぬところに視線をやって、何か考えこんでいる風情である。しかし、別に反対している様子はない。
ギンナルと娘――名はヒルドといった――はワラと粗朶を一山ずつ運びこんだ。
ギンナルがワラで水を吸い取り、ヒルドが粗朶をうず高く積み上げた。それにギンナルがヒルドの持っていた燧石《ひうちいし》で火を点《つ》けようとした。ワラも粗朶も運ぶ途中でかなり水気を帯びたので、火を点けるのは時間がかかりそうだった。
ギンナルはワラをほぐし、まずそこに火を点じることにした。身をかがめ、石を打ち合わせようとする。それを、
「待て」
ハリィデールが止めた。
ハリィデールはグングニールを持ち、それを粗朶の山に横から突き射した。
槍が白熱した。
音をたてて、粗朶が燃え上がった。
「わあ、すごい!」
ヒルドは目を輝かせた。
「こりゃあ、便利だぜ」
ギンナルも単純に喜んでいた。
あかあかと燃える火は、三人のからだを芯から暖めた。
――なぜだろう。
と、ハリィデールは自問していた。
――なぜ、あのときは白熱しなかったのだ。
グングニールの槍は、ハリィデールの思いどおりに白熱し、飛び、敵を屠る。たった今、粗朶に火を点じたのも、かれがそうするように念じたからだ。先ほど、娘に槍を突きつけたときも、ハリィデールは槍が白熱するよう念じていた。だが、あのときはそうはならなかった。
――なぜだ。
ハリィデールにはその理由がわからないのである。
――まさか、この娘に何かとてつもない力が。
そんなことも思った。
――なぜだ!
揺らめく炎にじっと目を凝らし、ハリィデールはいつまでもそのことを自問しつづけていた。
同じ頃、グルスノルンの都、リンデックでは。
ひとりの男が、暗黒神殿の祭壇の前にぬかずいていた。でっぷりと太った大男で、金糸銀糸の縫い取りのはいった豪華なローブを身にまとっている。先の尖《とが》った円錐形の王冠をかぶり、顔は、グルスノルンの王侯貴族のほとんどがそうであるように、長い髭でその大部分が覆われている。醜くつぶれて白く濁った右の眼に、光がない。
男はデリク三世。グルスノルンの王である。
デリク三世の周囲には、ひとりとしてつき従っている者がいなかった。王は伴も連れずに、この暗黒神殿の祭壇にぬかずいているのである。
それも当然であろう。陽が地平線すれすれにあるとはいえ、今は深夜である。誰もが眠り、誰もが夢を見ている時刻《とき》なのだ。
しかも、ここは暗黒神殿。王の命を得ずして立ち入った者はその呪いを受け、一夜のうちに冥府へと送られる暗黒神殿なのである。
暗黒神殿は、リンデックの中央に麗々とそびえ立つ王宮の宏大な庭の一角にひっそりと建っていた。ずいぶん古い神殿で、その由来、その起源を知る者は、あらゆる歴史を知るという語り部の中にさえ存在しない。
暗黒神殿はグルスノルン代々の王の秘密であり、その権力の源であった。
長々とぬかずいていた王は、ゆっくりとおもてを上げた。その目には、不安の色が濃い。表情は裁決を待つ殺人者のそれだ。おどおどとして落着きがなく、たえず生つばを嚥《の》みこんでいる。
――どうした? 何をそう怯えているのだ?
だしぬけに、王の頭の中で声がした。
デリク三世はビクッと震えて伸び上がり、しきりに喉をひくひくとさせた。もう何十年もこうやって呼びかけられてきたのに、未だになれることがないのだ。
――お、怯えているわけではござらん。このように緊急のお召しを受けたのは初めてのことなので、とまどっているだけでして。
デリク三世は口には出さず、言葉を意識の上に羅列した。
――そうか、それならよい。
返ってきた言葉には、どこかからかいの響きがあった。冷たく重い、非人間的な響きだ。デリク三世は小さく息を吐き、背中を丸めて肩を落とした。また、頭の中に言葉を思い浮かべた。
――して、今宵はいかなる用向きで、わたくしめを召されたので?
――まずいことが起こった。
姿なき心の声は、どちらかといえば楽しんでいるように言った。
――恐るべき敵が、グルスノルンに姿をあらわしたのだ。
――恐るべき敵。
――二日後に早馬の伝令がオルドール公のもとから、ここに来る。オルドール公の南砦が、何ものかの襲撃によって全滅したという報せだ。
――な、なんと。まさかアーラマドラが兵を進めたのでは?
――違う!
声は、きっぱりと言った。
――南砦の傭兵七十余名を皆殺しにし、そこを須臾《しゅゆ》の間に廃塊と化したのは、衆を頼んだアーラマドラの大軍団ではない。たったひとりの男なのだ。
――まさか、そんな。
デリク三世はひとつ残った左の目を剥《む》き、うろたえた。
――男の名はハリィデール。オーディンが戦士、美獣だ。
――び、美獣。
――あやつはグングニールの槍を手に、ミッドガルドに覇を唱えんものと醜い傴背の小男を使って、しきりに画策をしておる。
――グングニールの槍ですと!
デリク三世の驚愕は、絶頂に達した。
――それでは、われらには勝ち目など万にひとつもありませぬ!
――そうでもない。
声は、低く笑った。
――いま、わしの妻がその二人の男を見張っておる。いざとなれば、妻がその力を揮うことだろうて。いかにグングニールといえども、我が妻の前では無力なもの。ありふれた、ただの槍にすぎんのだ。
――ど、どういうわけで?
――我が妻ヒルドは、地上に墜ちしワルキューレ。オーディンが娘よ。
――おお。
デリク三世は歎息した。
――オーディンの武器は、オーディンが愛せし娘に向かうとき、その魔力を失う。神々の戦士、美獣というも、それはグングニールの槍があってのこと。ただの槍を持つハリィデールは、ただの人にすぎんのよ。
――まさに、おおせのとおり。
――デリク!
――はっ。
――わしはすでにオルドール公の東砦の傭兵をハリィデールたちの潜《ひそ》みし場所に導いておる。また、オルドール公ゴッドフレード自身にも“ささやき”を発し、軍勢とともに出立するよう促した。大仰というなかれ、すべてはハリィデールを確実に屠《ほふ》るためだ。
――はっ。
――されば、お前も軍を動かせ。
――なんと?
――古《いにしえ》より、念には念のたとえあり。ワルキューレが動けば、ことはオーディンの知るところとなる。ハリィデールは、それより前に倒さねばなるまい。それには二重三重の囲みが必要ぞ。
――たしかに。
――忘れるなデリク。ミッドガルドを平定するは我らであって、余人ではない。もし、我らが野望の前にいささかでも立ち塞《ふさ》がる者あらば全力を尽くしてこれを討て! さもなくば、野望は成らんぞ。
――重々承知しております。
――わしは、いついかなるとき、いかなる場所にも存在し、また存在せぬ者。邪魔せんと謀《はか》るやつばらは、決して見逃しはせん。
――御安心あれ、ドロモス様。たかが迷いでた二匹のねずみ、討ち損なうこと、よもや有りますまいて……。
――ねずみか。ふふふふ、氷の女王と太陽……いや、いい。たしかにしょせんはねずみだ。しかし、デリクよ。
――はっ。
――ゆめゆめ侮《あなど》るでないぞ。
――はっ
――去ねい。
――ははっ。
デリク三世はまたひとしきりぬかずいた。そして、ややあって立ち上がると蹌踉《そうろう》とした足取りで、神殿を歩み去っていった。神殿の中は何十本もの松明《たいまつ》で照らされてはいるが、吹き抜けの広いホールになっているため、ガランとして薄暗い。ことに祭壇のまわりは、あいまいとしている。
その闇とも陰影ともつかぬ空間に、うっそりと何か巨大なものが姿をあらわした。
大のおとなよりもまだひと回り大きい四足の獣である。茶か、灰色か、銀か。色すら定かでない剛毛に全身が覆われ、特に首のつけ根あたりは見事に逆立った体毛が、まるでたてがみのように四方へと広がっている。
獣は、さらにずいと前に出た。
遠い松明の炎が、その姿をぼんやりと照らし出した。
それは、数えきれぬほどの齢を経た巨大な狼であった。銀色と見えたのは、とうに色素を失った白い体毛である。そうでない体毛もおおむね色はくすみ、全体に生気が乏しくなっている。しかし、全身を鎧《よろ》う筋肉はまだいささかも衰えてはおらず、鋭く生え揃った牙は、一本として欠けてはいない。
狼の姿が、ふっと暗くなった。
輪郭が判然としなくなり、存在感が希薄となっていく。
広がる汚染《しみ》のように影が拡散し、ゆっくりと空間の中に溶けこんでいった。
やがて老狼の姿は、どこにも見えなくなった。
気がつくと、あの激しかった雨音が熔んでいた。
ハリィデールは浅い野獣のまどろみから醒め、静かに首をめぐらして周囲の様子を窺った。右の壁の隅ではギンナルが膝を抱えこんで胎児のように丸くなり、頭から毛皮をひっかぶってすうすうと小さな寝息をたてている。中央であかあかと燃えていた焚火は、いつの間にやら燠《おき》になって、もう炎は少しも立ってはいない。
ハリィデールの視線は、左前方に向けられたところで移動をやめた。
そこは、ヒルドと名のる村の娘が坐っていた場所だった。
ヒルドはいない。坐っていた証《あかし》の、つぶれたワラ山だけが残っている。敷石の上に広げて乾かしていたマントも、なくなっていた。
あぐらをかいて壁にもたれかかっていたハリィデールは、ゆっくりと背筋を伸ばして立ち上がった。グングニールの槍を右手《めて》にたばさみ、ふらりと左の崩れ落ちた壁の穴をくぐった。そこは、本来も出入口であったはずで、この神殿の廃墟でもっとも大きい建物の本殿の中につづいていることでも、それは明らかだった。
瓦礫の山とそう大差のない本殿の床を歩いてゆくと、ヒルドがいた。
ヒルドは羽織ったマントを背中で束ね、ハリィデールに背を向けて、本殿の床の一番端に何かもの思うかたちで身じろぎもせずに立っていた。本殿の端には素朴な装飾を刻まれた石柱が何本も立ち並んでおり、ヒルドはちょうどその柱と柱の真ん中あたりに佇《たたず》んでいるのだった。
かすかに風があり、スカートの裾がひらひらと、まるで花びらのようになびいている。
ハリィデールはヒルドの方に歩み寄り、彼女の右手にそびえ立つ、太い石柱の蔭にはいった。本殿の床の向こうは、なだらかに下っていく山の斜面である。一夜の雨で斜面には、流れる泥水がつくった美しい自然の紋様が深く彫りこまれている。かなりぬかるんでいるようだ。
ハリィデールは、石柱越しにヒルドを覗き見た。
ヒルドは両手の指をからだの前で軽くからませ、あたかも朝の冷気で凍りついてしまったかのように凝固し、まっすぐに正面を見ていた。表情はまったくなく、まばたきひとつするでない。どうかすると、呼吸すらしていないように見える。
ハリィデールはヒルドの視線の行方を追い、遥か遠き地平線に目をやった。地平線は、まだ低く垂れこめた暗雲によって、完全に覆われていた。ときどき、その暗雲の表面を鋭い電光が純金の糸のように細く横切る。雨は熄んだが、嵐はまだ鎮まってはいないのだ。
ハリィデールは、他の神殿の柱の先や、神殿を取り巻く樹木の先端に、青白い炎がぼおっと灯《とも》っているのに気がついた。船乗りがしばしば目にするといわれている悪霊の魂だ。いや、それとも戦で仆《たお》れた者の魂だったろうか。
いずれにせよ、それは吉兆ではなかった。死の予感をもたらす不吉な炎だった。気のまわしすぎかもしれないが、ねっとりとした朝の大気の中にも陰惨な死の匂いが色濃く漂っているように感じられた。
――静かだ。
ふとハリィデールはそう思った。静かすぎる。まっとうな静けさではない。
たしかにその風景には何かおかしなところがあった。
たとえば稲妻だ。雷鳴を伴わないのだ。電光が縦横に走り狂っているというのに、音は何ひとつとして聞こえてこない。何ものかが人為的に音を切り取ってしまった風景。ハリィデールがいま目《ま》のあたりにしている風景が、それだった。
すうっと、まったく何の前触れもなしに、ヒルドがハリィデールの方へと首をめぐらした。いささかの感情もこもっていない、機械的で不思議に滑らかな動きだった。
蒼い、言葉では描きようのない深い色をたたえた大きな瞳が、ハリィデールの目を正面から射た。
ぞっとするほどに無表情である。どこか人間離れしているような。
若い娘と思っていたが、そんなヒルドはひどく齢をとった者のように見えた。しわがあるというのではない。肌にしみが浮いているというのでもない。なぜか若いときの姿のまま、齢だけをとりつづけているように思われるのだ。もしかすると、イドゥンの林檎《りんご》を食べることで青春の若さを保っているアサ神族の神々は、こんな表情をしているのかもしれなかった。
しかし、そんな印象を抱いたからといって、ヒルドの凄絶なまでの美しさは、いささかも減じてはいない。美とは別のところに、ヒルドの存在感はあるのだ。
ハリィデールは黙ってその場を去ろうとした。
そのときだった。
すさまじい殺気が、ハリィデールの全身を包んだ。
ハリィデールは一瞬、自分の感覚を疑った。殺気は、美しいヒルドから発せられているのだ。いや。違う! 殺気は、その背後からだ。ハリィデールは本殿の敷石を蹴り、宙に跳んだ。
敵は、ヒルドの足下、山の斜面にひそんでいた。ハリィデールは楽々とヒルドを飛び越え、敵の頭上に至った。
敵は、グルスノルンの傭兵だった。甲冑の紋章からみて、おそらくオルドール公の東砦から来た者であろう。
ハリィデールは斜面には下りず、ヒルドの背後に立った。と、同時にグングニールの槍を真下に突きたてた。
槍は胸あてごと兵士を貫き、兵士は血泡を吹いて、二、三度大きく痙攣すると、そのまますぐに絶命した。
木々の間から、バラバラと兵士たちが姿をあらわした。その数およそ十人。剣を手にして、じりじりとこちらに接近してくる。どうやら、斥候《せっこう》隊らしい。だとすれば、小人数なのもうなずける。
ハリィデールは左手でヒルドをかばいながら、わずかに本殿の中央へと退いた。
「あたしは、どうすればいいの?」
耳元でヒルドが囁いた。振り向くと、ヒルドの顔には表情が戻っていた。あどけない少女の表情だ。
「ギンナルを起こして、呼んできてくれ!」ハリィデールは小声で言った。
「バラバラになるのは危険だ。かたまっていた方がいい」
「わかったわ」
ヒルドはひらりと身をひるがえすと、駆け去っていった。ハリィデールは槍を構え、相手の出方をみた。
本殿の上に、兵士たちがあがってきた。遠巻きにして、ハリィデールを窺っている。
ヒルドに導かれて、ギンナルがちょこちょことやってきた。
「こんな馬鹿な!」
開口一番、ギンナルはそう叫んだ。
「見つかるはずがないんだ、ここが!」
「奇跡はいつだってあるということよ」
ハリィデールは笑って言った。
そこへ兵士たちが、一斉に打ちかかってきた。
ハリィデールは先頭の男にグングニールを投げた。槍はその兵士を貫いたあと次々と他の兵士に襲いかかり、勝負は一瞬にして決着をみるはずになっていた。
しかし、槍は狙い違わず先頭の兵士を串刺しにしたが、そのまま抜けることなく、兵士に突きささった状態で、そこにとどまった。
グングニールの槍が、ハリィデールの意思を受けつけないのだ。
ハリィデールは丸腰になった。十振り近い剣を前にして武器は素手しかない。
三人が、いちどきに斬りかかってきた。
ハリィデールは右の剣をかいくぐり、その動きの流れで正面の兵士の腹を蹴った。正面の兵士はたまらずくずおれ、左の兵士の剣で胴を真二つに斬り裂かれた。ハリィデールは右の兵士の剣をうしろからもぎとり、左の兵士と右の兵士の首を横になぎ払った剣の一閃で、すっぱりと刎《は》ねた。
血が噴出し、石敷きの床が真っ赤に染まった。ヒルドが悲鳴をあげて顔をおおった。
残る兵士は、六人だった。ハリィデールは血刀を振りかぶって、みずから六人のただ中に突っこんだ。
ひとりを斬り伏せ、ひとりを左手で掴んで石柱に叩きつけた。石柱が折れて、その兵士を圧しつぶした。
さらに二人の兵士の首を刎ねた。よほどなまくらな剣だったらしい。それで剣が折れた。
「ハリィデール!」
ギンナルが呼んだ。見ると、兵士の死体からグングニールの槍を引き抜いている。投げて寄こした。
ハリィデールは槍を受け取り、ぶんと振り回した。逃げまどう兵士の肩をその切っ先がかすめ、兵士はだらしのない悲鳴をけたたましくあげる。槍は石柱の一本をこなごなに砕いた。ハリィデールは逃げる兵士を追った。
いまひとりの兵士はギンナルに襲いかかっていた。ギンナルは武器を持っていない。それを拾って戦おうという気にもならなかった。そうしたところで、ギンナルは剣技を知らないのである。
ギンナルはひたすら逃げた。石柱の蔭に隠れ、兵士の背後にまわっては逃げた。
一方、ハリィデールは、本殿の隅に先ほどの兵士を追いつめていた。兵士は剣を闇雲《やみくも》に振り回し、恐怖に泣き喚いている。うしろは壁で、もう逃れようがない。ハリィデールが槍を構えて一歩前に進むと、兵士は剣を放り出し、壁に取りついて、そこを登ろうとした。ハリィデールは槍を無造作に突き出した。槍は兵士の心臓を貫いた。
喉の奥から絞りだすような悲鳴を発して兵士は絶息し、血の海の中に沈んだ。
ギンナルの、ハリィデールを呼ぶあわれな声が聞こえてきた。
ハリィデールは槍を小脇に、とって返した。
ギンナルは立ち並ぶ石柱の一本に攀《よ》じ登っていた。ヒルドが立っていたのとは反対側の本殿の端である。先ほど仕留めた兵士と同じことをしているが違うのはギンナルが禁じ登るのに成功したということだ。しかし、石柱の表面はよほど磨かれているらしく、ギンナルはときおりずるずると滑り落ちてくる。下にいる兵士は剣を手に、ギンナルが疲れて落下するのを待っているだけだ。このままでは助からない。
ハリィデールは槍を肩にのせ、兵士を的に、まっすぐ投げた。槍は兵士の首を射し貫き、兵士はもんどりうって、床に叩きつけられた。もちろん即死である。
ハリィデールは石柱のところに行き、ギンナルを見上げた。
「降りてこい」ハリィデールは怒鳴った。
「もう敵はひとりもいない」
だが、ギンナルは降りてこなかった。ハリィデールの声も耳にはいらないらしく、石柱の上で本殿の外――山なみの方を見たまま、茫然としている。
「降りてこい!」
ハリィデールは、もう一度怒鳴った。
「火だ」ギンナルはポツリと言った。
「火が俺たちを囲んでいる」
「なんだと?」
ハリィデールは首をめぐらした。
頬がこわばり、眉が跳ね上がった。
ギンナルのいう火は、松明の火だった。うねうねとつづく山脈の尾根という尾根に、松明の列が、びっしりと並んでいるのだ。何本あるかは数えようがない。千や二千では、きかないはずだ。
「砦の兵だけではないな」ハリィデールはつぶやいた。
「オルドール公みずから、乗り出してきたものとみえる」
「あ、あれを!」
また、ギンナルが叫んだ。見ると、右側の一点を指差している。ハリィデールは視線を動かし、目を凝らした。
「う!」
思わず唸った。
神殿のすぐそばに岩の突出があった。ちょうど小さな岩山といった感じで、鋭く盛り上がっている。
その頂上に、一頭の獣が佇んでいた。四足獣の黒い影である。どういった獣かは、空が暗くてはっきりしない。
とつぜん、電光が滅茶苦茶に天を駆けめぐった。右も左も上も下もない。ただもう数百本の電光が入り乱れて走った。
その光を背景に、ハリィデールは獣の正体を見た。
灰色とも褐色とも銀色ともつかない一頭の狼。全身の毛を逆立て、たてがみを大きく開いた怒りに燃える一頭の狼。その眼は金色に輝き、その口は赤くぬめぬめと光っている。
稲妻はますます荒れ狂い、暗雲を切り裂く。
「電光狼……」
ハリィデールの口から、かすれた言葉が知らずに漏れた。
いつの間にか、ヒルドの姿がどこにもなかった。
“ささやき”が、ゴッドフレードを動かした。
東砦からの早馬で南砦全滅の知らせを聞いたのが、つい先ほどのことであった。太陽が地平線のすぐ近くまで沈み、長い白夜が始まってからまださほどの時は経っていない。
“ささやき”はゴッドフレードの意識に向かって、こう言った。
――兵をだせ、ゴッドフレード。南砦を滅した敵は、アーラマドラではない。たったひとりの男だ。そやつは仲間と二人で、“イミールの背骨”の奥深くに潜み、東砦の追跡をかわす機会を窺っている。
――ゴッドフレードよ。そやつを逃してはいかん。のちに禍根《かこん》を残すことになる。討つなら今だ。グルスノルンのため、お前自身のため、すぐに兵をだせ。オルドール公|麾下《きか》の精鋭三千人を繰り出し、そやつを捕えて国王デリク三世に差し出すのだ。そやつの名はハリィデール。オーディンが戦士、美獣だ。
ゴッドフレードは、“ささやき”に動かされた。“ささやき”を聞いたのは、これが初めてではなかった。過去に幾度か“ささやき”は聞こえ、重大な岐路に立ったかれをその都度《つど》ある方向に導いている。ある方向とは、常にかれの利となる方向であった。
ゴッドフレードは“ささやき”を天啓のひとつのあらわれと信じていた。
その“ささやき”が命じたのである。ゴッドフレードは即座に兵を集め、“イミールの背骨”へと軍を進めた。夜を徹しての行軍は休みすらも最小限に抑えられ、夜明け前にはゴッドフレードの軍勢は“イミールの背骨”の山麓にあるバズルトの村に達し、そこで待つ東砦の傭兵部隊と合流した。
バズルトの村で、ゴッドフレードは再び“ささやき”を聞いた。
それは、ハリィデールが今どこにいるかを伝えるものだった。
“イミールの背骨”は、グルスノルンとアーラマドラの国境に、東から南へかけてえんえんと連なるミッドガルド随一の大山脈である。ふところも深く、いくつかの集落を除けば、棲む者も黒小人以外にはいない。案内もなしに街道から外れて山奥に踏みこめば二度と人里に戻ることはできないだろう。
そんなところにハリィデールは潜んでいるのである。勇んで三千の精鋭を率い、バズルトの村まで進軍してきたものの、ゴッドフレードは危うく途方に暮れてしまうところであった。
そこへ“ささやき”である。
ゴッドフレードは、すぐに村の長老を呼んだ。
長老がきた。グフルという名の年寄りである。背の低い、枯木のようなからだで、真っ白な髭と髪が長い。
村の広場の中央にかがり火を焚き、オルドール公ゴッドフレード以下、参謀隊長たちがその周囲に車座になっている。杖をたよりに、グフルはよろよろと進みでた。
伴の者に命じてグフルを坐らせ、ゴッドフレードはおもむろに口を開いた。
「お前は、コルス神殿というのを知っておるか?」
「コルス……神殿でござりますか」
耳が遠いのだろう。グフルは上体を前に傾け、こめかみに右の手をかざしてゴッドフレードの言葉を聞いた。
「コルス神殿だ」ゴッドフレードは繰り返した。
「ムアル・モエラの中腹あたりにあると聞いた」
「ムアル・モエラ」
グフルは顎を上げて唇を突きだし、遠い目をした。
だしぬけにポンと手を打つ。
「ムアル・モエラ。わかりますぞ!」
大声で言った。
「どこだ?」
「されば、ここより三……ティズあまりでござろうか。まっすぐに東の尾根を登り、山頂を二つも越えれば、じきに着きまする」
「そこにコルス神殿があるのだな?」
「名は知りませぬ。誰の神殿であるのかも、もはや伝わってはおりませぬ。古い古い神殿でござってな。廃墟と言った方が似つかわしいと古老たちが噂していたのを昔、耳にした覚えがございます。なにしろここ何十年もの間ひとりとして行った者がなく、いやとんと忘れており申したわ」
「で、そこへ案内《あない》できるか?」
「行くに難儀な場所ではござらん。といって、わしのような老いぼれではちと無理ですがな。しかし、わしの孫なら山中にも詳しゅうござるし、足腰も丈夫。孫に案内させましょう」
「よし!」
ゴッドフレードは立ち上がった。甲冑の金具が夜の静寂《しじま》を貫いて、凛《りん》と鳴る。
「全軍に出立のふれを出せ!」傍らに並ぶ隊長たちに向かって鋭く言った。
「一気に押し登り、コルス神殿を取り囲むのだ!」
「はっ!」
五人の傭兵隊長は、それぞれの部隊に散っていった。命令を伝える間伸びした叫び声が、まるでこだまのように遠くへと渡っていく。やがてその声はおさまり、また村の中に静謐《せいひつ》が戻った。
全軍が一斉に動きだした。
登山は、グフルが言うほど楽ではなかった。人数が多すぎたし、徹夜の行軍の疲れもあった。それに、頂に近いところでは、地面がひどくぬかるんでいた。グフルの孫は、不思議だと、しきりに首を振った。ここ何か月も、バズルトの村には雨が降っていなかったのである。地形から考えて、バズルトの村に降らずに山にだけ降雨があるというのは、とても考えられなかった。
しかし、理由はどうあれ、岩も草も一面にぐっしょりと濡れている。兵士たちは足をとられながらも何とかグフルの孫のペースに合わせてついていこうと、全力を振り絞っていた。疲労ははなはだしかったが、ゴッドフレードの口から休めという号令はついぞ聞かれなかった。
三千人を越える軍勢は黙々と尾根を辿り、目的地のコルス神殿へと、一歩また一歩と近づいていった。
「空模様が、よくありませんな」
轡《くつわ》を並べる参謀が空を見上げ、ゴッドフレードに言った。
「うむ」
ゴッドフレードは小さくうなずいた。確かに暗雲が低く垂れこめ、稲妻が縦横に走っている。今にも雨が降りだしそうな気配だ。あまりいい情勢とはいえない。こんなところで雷雨に襲われたら、甲冑に身を固めている兵士たちはひとたまりもないだろう。
――案ずるな。
不意に“ささやき”が聞こえた。ゴッドフレードは馬上でハッとなり、思わず周囲を見回した。
――案ずるな。雨は降らん。電光もお前たちを害することはない。
短い“ささやき”だった。ゴッドフレードが我に返ったときには、もう終わっていた。
「あれを!」
先頭を進んでいたグフルの孫が立ち止まり、右手前方の足下を指さした。
「おお!」
どよめきがあがった。
まだ近いとはいえなかったが、眼下の平原状になった鞍部に巨大な石塊をまとめて放りだしたような神殿の廃堀が、はっきりと望見できたのである。
「軍を止めろ!」
ゴッドフレードが命令を発した。
軍は止まった。
「まず斥候をだせ。五人では心もとない。十人だ」
「兵をいつ散開させますか? 神殿の早い包囲が肝要です」
参謀が訊いた。
「斥候をだしてすぐだ。二手に分れて広がっていく。我らはできる限り神殿に接近したいものだ」
「それはちと早計にすぎます」参謀が反対した。
「閣下が動かれるのは、斥候の帰還を待ってからがよろしかろうと」
「そんな悠長なマネはできん!」ゴッドフレードはぴしゃりと言った。
「敵はたったひとりで南砦を全滅させた男だ。斥候の報告を受けると同時に攻撃に移れるようでなくてはだめだ」
「しかし」
「意見無用!」
ゴッドフレードは参謀を後方に退けた。
東砦の者の中から十人が斥候として選ばれ、尾根を下っていった。
と、同時に軍も再び動き出した。平原状の鞍部を取り囲むことができるように、軍勢は尾根の途中から二手に分れていく。
ゴッドフレードは先頭を進み、神殿にもっとも近い岩蔭を見つけて、およそ百人の兵士とともにそこに潜んだ。
待つことしばし、いきなり神殿の方から悲鳴があがった。
魂消《たまぎ》るような絶叫だ。それもひとつやふたつではない。何人もの悲鳴が、尾を引いてつづいている。
暗雲を斬り裂いて、無数の電光が走った。
「でたな、小ねずみ!」
ゴッドフレードは、すらりと佩剣を抜いた。細身の剣が電光を浴びて、不気味にきらめく。
兵士たちの緊張は、いまその極みに達していた。
「あれが電光狼か」
ギンナルのつぶやきが聞こえた。すぐ横で発せられたというのに、まるで遠い地の底から響いてくるようなくぐもった声だ。
「昨夜来の豪雨は、やつの力によるものだな……」
ハリィデールが言った。その目は岩山の上に佇む老狼に釘づけになっている。
「ヒルドも、やつの仲間なのか?」
「いや」ハリィデールは、ゆっくりとかぶりを振った。
「それはわからん。しかし、あの娘には得体の知れぬところがあった。もしかすると、そうだったのかもしれん」
「見ろ!」
ギンナルが大声をあげ、右の手を前に突き出した。
「電光狼が……!」
「消えていく」
ハリィデールの表情がひときわ険しくなり、肩から両の腕にかけての筋肉が、盛り上がってびくびくと痙攣した。
すうっと電光狼の姿が背景に溶けこみ始めたのである。影が淡くなったのか濃くなったのか、それすら判然とせぬままに全身が暗雲と見分けのつかぬ色へと変わっていく。電光は、もう走らない。
みるみるうちに火と燃える黄金の双眸を残して狼の姿は失せていった。その最後に残った双眸もやがて薄れ、気がつくと、もうどこにも電光狼はいなかった。
数千の松明が、踊るように動きだした。
「どうしよう」震える声で、ギンナルが言った。
「すっかり罠にはまっちまったんだ」
「よく、これほど短時間に、これだけの兵を動かせたものだ」
ハリィデールは、顔色ひとつ変えていなかった。
「感心している場合か!」ギンナルは、驚きあきれた。
「完全に包囲されているんだぞ」
「そんなことは、わかっている」
ハリィデールは、グングニールの槍を、両の手でしごいた。
「生きのびられると思うか?」
ギンナルの声は、からからに乾ききっている。
「当然だ」ハリィデールは、こともなげにこたえた。
「俺はこんなことでは死なん」
「俺はどうなる」
「お前なら逃げられるさ」
「え?」
「兵はすべて俺がひきつけてやる。どうせ狙いは俺なのだ。お前はその間に全能力を費やして、ここから逃げだせ。目をつぶっていても道に迷わぬお前だ。追っ手さえ少なければ、それほど大儀なことではあるまい」
「それは……そうだが……」傴背の小男は激情をおもてにあらわして、ハリィデールを見た。
「俺はあんたに仕える身だ。主人を放り出してひとり逃げるわけにはいかん」
「お前が逃げなければ、兵は起こせんのだぞ」
「なんだって?」
「先ほど決めたではないか。お前が俺の名で兵を集める。それを、すぐにやってもらいたいのだ」
「…………」
「兵を集めたら、反乱を起こせ。美獣王の名で起こすのだ。俺たちは、きっと会える。その戦火の中で、きっとめぐりあうことになっているのだ。だから、反乱は起きなければならない。わかるか?」
「わ、わかる」ギンナルは何度もうなずいた。
「わかるよ。俺は、やるぜ! 何としてでも逃げきって、すぐに山を下り、兵を集める。そして、あんたがどこにいようとそのことを知るように、思いきり派手に暴れてみせるぜ」
「頼むぞ、ギンナル」
「まかしといてくれ!」
ギンナルは胸を叩いた。
ハリィデールは槍を構えた。松明は大きく位置を変え、じりじりと包囲の輪を縮めている。
「しばらくは、俺についてこい」ハリィデールは言った。
「お前が逃げられるように、包囲の一角を打ち破ってやる。それからあとは、お前の腕だ。いや、足かな。俺はその場に留まって兵をひきつける。くれぐれも、俺の努力を無駄にするなよ」
「念には及ぶな」
ギンナルはようやくニヤリと笑った。ことここに至って肚《はら》が坐ったのだろう。
「一目散に逃げてみせるぜ」
「よし」
ハリィデールは左手に落ちこんでいる小さな谷をさし示した。
「あそこを破るぞ」
「充分だ」
そして次の瞬間、二人はあたかも飛鳥のように神殿から大地へと身を躍らせたのだった。
二十人以上の兵士が一斉に、手にしていた松明《たいまつ》を投げ捨てた。
槍を振りかざして突進してくるハリィデールの姿を認めたからである。金髪をうしろになびかせ、歯を剥《む》きだして駆けてくるその形相は、まるで悪鬼だ。
剣を構えて迎え撃つ体勢をとりながらも、兵士たちは恐怖にひるんだ。
百戦練磨の精鋭とはいえ、かれらはこれほどに巨大で、これほどに力に満ちた敵と遭遇したことがない。
間合いは、瞬時に詰まった。
ぶん、と唸りをあげて、グングニールの槍が回転した。槍の柄の先を握ってハリィデールが振り回したのである。
血のかたまりが宙を飛んだ。
すっぱりと切断された首や腕が、赤い尾を引いて大地に落ちた。三人の兵士が声もなく倒れ、あと二人ほどが悲鳴をあげて血だまりの中をのたうっている。
わらわらと集まった兵士たちが、五歩ばかりの距離を置いて、ハリィデールを取り囲んだ。いつの間にか、ハリィデールにぴったりとくっついていたギンナルがいない。包囲の隙間を抜け出て、谷へと下りていったのだ。誰にも悟られることのない見事な移動だ。長年のこそ泥稼業で身につけた巧みな習性である。
ギンナルが岩蔭の向こうに消えるのを見届けたハリィデールは、わざと槍の構えを解き、スキだらけになった。腕をだらりと下げ、視線をどこにも定めない。
――な、なんだ?
兵士たちはいぶかしみ、少しずつ前に出た。次々と応援が集まってくることも、かれらの度胸の回復につながった。今はもうハリィデールを取り囲む兵士は五十人を優に越えている。
ハリィデールは、槍の白熱を念じた。しかし、グングニールの槍は、その念に応えない。穂先は鋼鉄の鈍い輝きは放つものの、それ以上にはけっしてならないのだ。
――またか。
もうハリィデールは驚かなかった。自在に操れなければ投槍の役には立たないが、それならそれで剣がわりに使うまでだった。千、二千の数を相手にするにはまどろこしい限りだが、グングニールはなまくらにならないので体力さえもてば、いつまでも戦いつづけることができた。
対峙の限界に達した。
どよめくように包囲の輪が崩れ、四方から剣を振りかぶった兵士がハリィデールに襲いかかった。
ハリィデールは右に動いた。槍を体さばきにあわせて薙《な》ぐように突き出す。眼前の兵士が甲冑ごと脇腹をかっさばかれて、血泡を吹いた。さらに突っかかってきた兵士がうしろから押されて止まることができず、二人が槍に串刺しになった。
ハリィデールは唸り声をあげ、その二人を楯にして、逆に反撃にでた。
包囲していたうちの十数人が、将棋倒しに倒れた。甲冑と甲冑がぶつかる甲高い金属の響きが耳を聾する。怒号と悲鳴ももの凄い。グングニールの槍に貫かれている兵士は五人を越えている。
ハリィデールは槍を引き抜き、絶命している兵士たちを蹴り捨てた。
折り重なった屍体が兵士たちにのしかかった。屍体の下敷きになったものは身動きがとれない。かれらが剣を手にしたままじたばたするので、他の兵士たちもうかつに動けなくなっている。
ハリィデールは跳んだ。
槍を倒れている兵士たちに突き立て、それを支えにして高く跳んだ。
幾重にも囲んでいた兵士たちの背後に降り立った。ちょうどギンナルが向かった方向の反対側である。少し先には、露出した巨岩があって、その狭間《はざま》にはいりこめば、いちどきに大勢の兵士ははいってこられない。
ハリィデールは狭間に飛びこんだ。
あとを追って、兵士が殺到した。しかし、はいりこめるのは三、四人だけだ。その三、四人の兵士の胴をハリィデールは槍で無造作に貫いた。
兵士が倒れ、また新たな兵士がはいってくる。かれらもグングニールの槍の餌食になった。
「上だ。上にまわれ!」
誰かが叫んだ。人やぐらを組めば、この巨岩の上に登るのはたやすい。上から攻撃されては狭間での利点は失せる。
ハリィデールは両腕を左右の巨岩に伸ばしてふんばり、そのまま手と足を交互に使って兵士よりも先に巨岩の上にでた。
あたかも、登ってきた最初の兵士が巨岩の上に顔をだしたところである。
ハリィデールは槍の石突きで、その顔面を張りとばした。頭蓋が砕け、兵士は顔面をおさえて落下した。人やぐらが崩れたのだろう。下は騒然となった。
だが、優位に立っていられたのは、それまでだった。
次から次へと兵士が登ってきたのだ。三人までは叩き落としたが、とても間に合うものではなかった。とくにハリィデールのいない左側の岩から飛び移ってくる者が多かった。
ハリィデールは、素早く周囲を見回した。
兵士は続々と集まってきている。このままでは遠からず身動きならなくなるだろう。
明らかにここでは地の利がなかった。神殿の建っている平原状の鞍部の一部で、増援がいくらでもくることができた。もっと狭い、足場に不自由するような場所でなくては、これだけの人数を相手にして有利に戦うことはできなかった。
となると、適しているのは、ギンナルが降りていった、あの小さな谷だけである。あそこなら一対数千の戦いではなく、一対二、三十の戦いができた。ギンナルはもう谷を抜け、かなり遠くまで行っていることだろう。今なら使える。
ハリィデールは巨岩の上の兵士たちをあるいは斬り裂き、あるいは突き伏せて須臾《しゅゆ》の間に片づけた。まだ登ってくる者がいるが、それにはかまわない。
屍体を抱えあげ、ぎっしりと兵士のつまっている一角に、もの凄い勢いで投げつけた。
わっとばかりに兵士たちはひるみ、そこにぽっかりと空地ができた。
ハリィデールは巨岩からひらりと飛んで、そこに降りた。と、同時に槍を風車のように振り回す。兵士たちは恐怖にかられ、一斉に浮足立った。
ハリィデールは槍を振り回したまま、谷めざして走り出した。十何人かが自分たちを追い始めたと勘違いして悲鳴をあげて逃げまどった。たったひとりを捕まえようというのに、三千人の兵をあのゴッドフレードが動員したのである。兵士たちはみなこの長身で野獣のごとき力を秘めた若い男を、雷神《トール》とも軍神《チル》とも思って内心ひどく怖れていた。その恐怖が、ここに至って露呈したのだ。いかに精鋭といえども、こうなっては烏合《うごう》の衆も同然だった。
信じられない速さでハリィデールは鞍部を駆け抜け、谷に至った。ごつごつした岩ばかりの急な坂道をカモシカのように敏捷に下っていく。こうなっては、よほど山慣れした者でないと追いようがない。ひとりの兵士がそれをまねして足を踏みはずし、つぶてのように谷底へと落下していった。
「皮砂を使え! 皮砂だ」
傭兵隊長のひとりが怒鳴った。闇雲に追うだけではだめだと判断したのである。
何人かの兵士が腰に下げた袋から皮砂を取りだした。皮砂は、もともと目つぶしのための投物で、鶏卵大の皮袋に細かい砂をつめてある。投げて相手にあたれば皮が破れ、目をつぶす。しかし、この傭兵部隊の皮砂にしこんであるのは砂ではなく、しびれ薬だった。砂では顔面に命中しない限り効果はない。だが、この皮砂ならばたとえ肩で弾かれても、舞い散ったしびれ薬を吸いこみ、からだの自由が利かなくなる。ましてや谷の岩場をハリィデールは下っているのだ。わずかでも吸いこんで目がくらめば、足を滑らせて転落することは間違いがない。
十個をこえる皮砂が、ハリィデールめがけて飛んできた。
いくつかが、頭、肩、腕にあたって破裂した。
「う!」
ハリィデールの意識が、一瞬だが曇った。
力が、すうっと抜けた。足が地に着く感覚がない。天と地が、ひっくり返った。
反射的にハリィデールは右手に握った槍を、あらん限りの力をこめて、大地に突き立てた。ガッと鋭い音がして、グングニールの槍は眼前の岩に深々と突きささった。
足が宙に浮く。しかし、槍に支えられてハリィデールは落下しない。
裂帛《れっぱく》の気合いとともに、全身に力をこめた。筋肉がパンプ・アップし、汗が滝のように流れでた。意識がたちまちにして鮮明になった。
足下、さほど遠くない位置に、小さなテラスがある。はずみをつけて槍を引き抜き、ハリィデールは、そのテラスに飛び移った。
全身の毛が耐えがたい悪寒とともに逆立った。
テラスの上に、電光狼が佇んでいたのである。金色の双眸を光らせ、ぬめぬめと赤い口を開いて、ハリィデールを凝視している。
ハリィデールは槍を薙《な》ぎ払った。
老狼は、ふっと消えた。
空振りし、ハリィデールはたたらを踏んだ。危ういところで足を止める。テラスの端ギリギリだ。止まれなければ谷底に真逆様だった。
バラバラと小石が落ちてきた。振り向くと三人の兵士がテラスに降りてくるところだった。おそらく兵士の中の山に慣れた者たちだろう。皮砂と電光狼でもたついているうちに追いついたのだ。
「でえいっ!」
斬りつけてきた。槍で軽くはじき、左の拳で顎に一撃を叩きこんだ。その兵士は宙を舞い、テラスから谷底へと直行した。
あと二人は、同時に向かってきた。ひとりは袈裟懸けに、あとひとりは横ざまに。ハリィデールは袈裟懸けの方をかわし、横ざまの剣は槍の柄で受けた。かわされた兵士のからだはバランスをくずして泳いでしまう。そこへハリィデールは蹴りを繰り出した。その兵士も谷底である。
一方、剣を受けられた兵士は二撃の体勢にはいっていた。ちょうど剣を振りかざしたかたちである。その胸に槍の穂先が、まっすぐ突っこんできた。むろん、払いようがない。胸を朱に染めて兵士はくずおれた。
ハリィデールは身をひるがえし、テラスからさらに下へと降り始めた。崖はさらに急になり、今ではもうほとんど垂直に近い。そこをハリィデールは槍を右手に掴んだまま、ひょいひょいと下っていく。
たちまちにして谷底に達した。先ほど転落した兵士の屍体がある。流れでた血で、谷底の小川の水が赤い。
ハリィデールは川下に向かい、川原を辿ろうとした。
と、その足が凍りついたように止まった。
正面に、また電光狼が立ちはだかっているのだ。しかも、そこにいるのは電光狼だけではなかった。老狼と並んで、背筋に寒けを覚えるほどの無表情で立っているのは、あの村の娘、ヒルドではないか!
「やはりな」
ハリィデールは槍を構えた。ヒルドと目が合った。
とたんに、ハリィデールは得体の知れぬ激しい虚脱感に襲われた。驚愕し、ハリィデールはあわてて目をそらした。だが、一度生じた虚脱感は消えようとしない。まるで金しばりだ。手も足も鉛を呑んだように重い。
電光狼が、ずいと前に出た。両眼が凄まじい敵意に燃えさかっている。
ハリィデールは歯を喰いしばり、両腕に力を取り戻そうとした。しかし、その甲斐はない。
ふわっと浮くように電光狼が跳んだ。まっすぐにハリィデールの喉を狙っている。
持てる力のすべてをだしきって、ハリィデールはグングニールの槍を動かした。これが常ならば、岩をも二つに引き裂く力だ。
ガッ、と鈍い音がして、電光狼が槍の穂先を噛んだ。前肢がハリィデールの胸を突く。
ハリィデールは仰向けに倒れた。指から槍がもぎとられるのがわかった。電光狼は槍をくわえたままハリィデールのからだを足場にして、再度跳躍したのだ。
グングニールの槍を口にくわえて、電光狼は音もなく地上に降り立った。
ハリィデールは腰をついたまま苑然としている。いつの間にか虚脱感は失せていたのだが、それにも気づいていない有様だった。
電光狼はヒルドのもとに走っていき、槍をさらにその先へと放り投げた。
「く!」
ハリィデールは小さく呻き、立ち上がった。
すうっと、溶けこむようにヒルドと電光狼の姿が消えた。
グングニールの槍だけが、打ち捨てられて川原に転がっている。
苦い屈辱を胸に、ハリィデールは槍を拾うために歩を踏み出した。
そのとき。
十数本の矢が、グングニールの槍のまわりに、音をたてて突きささった。
ハリィデールは顔色を変え、首をめぐらした。
何本もの綱が崖に垂れ下がり、それを伝って、次々と兵士が谷底に降りてくるのが見えた。すでに降り立った者もいる。かれらは弓を構え、いつでもハリィデールを射抜ける体勢にある。グングニールの槍のまわりに矢ぶすまをつくったのも、かれらだ。
ハリィデールは、うかつに動けない。
今しも降り立ったひとりの男が、細身の剣を手に、ハリィデールの前にやってきた。
堂々たる偉丈夫だ。ハリィデールほどではないが、背も高く、体躯も見事である。長い口髭をたくわえ、甲冑は他の兵士よりもはるかにこしらえが上等だった。
オルドール公ゴッドフレードである。
ゴッドフレードとハリィデールは、手を伸ばせば届きそうな距離を置いて、対峙した。
いきなり、何の前触れもなく、ゴッドフレードが斬りかかった。
ハリィデールのからだが、それよりも速く、ふうっと沈んだ。
剣は空を切った。
ハリィデールは横に転がっていた。そこには偶然、ひとりの兵士がいた。兵士はふたりの動きに判断がついていけず、ただ立っているだけだった。ハリィデールはその兵士の足をすくい、首の骨をへし折った。
そして、その剣を奪うと、ゴッドフレードに必殺の一撃を叩きつけた。
ゴッドフレードは受けた。
キーン、と剣戟《けんげき》の音が響く。
二合三合と剣が噛み合う。
ゴッドフレードが転倒した。ハリィデールの蹴りを脇腹に受けたのだ。ハリィデールは棲惨な笑いを浮かべ、剣を大きく振りかぶった。
だしぬけに目の前が暗くなった。
――網だ!
そう思ったときには、からだの自由が利かなかった。網が頭上に降ってきたのだ。黒小人にでも造らせたのか、鋼鉄で編んだ網である。グングニールの槍ならいざ知らず、なまくらな剣ではまるで歯が立たない。
わっとばかりに兵士が飛びかかり、ハリィデールは網をかぶせられたまま、太い鎖でギリギリとしばりあげられた。
「これでよい」
危うく命拾いしたのも忘れたか、満面に笑みをたたえて、ゴッドフレードが言った。
「これでデリク三世の前に、こやつを引き立てることができる。生きたまま捕えるのが、陛下の御所望だったらしいからな。すべてはうまく運んだといえよう」
「貴様の名を教えろ」
鎖で頭から爪先までぐるぐる巻きにされながらも、ハリィデールはゴッドフレードに向かって鋭い声を発した。
「偉大なグルスノルンの王デリク三世より将軍の位を受けしオルドール公、ゴッドフレードだ」
胸を張り、ゴッドフレードは名乗った。
「そうか、お前がゴッドフレードか」ハリィデールの両眼が炯炯《けいけい》と光った。
「貴様の名は二度と忘れることはないだろう」
静かだが、火と燃える感情をこめて、ハリィデールはそうつぶやいた。
その日のうちに、ゴッドフレードはハリィデールをグルスノルンの都リンデックに護送する旅にでた。軍装を解く間もない、あわただしい旅立ちである。三千人の兵はそれぞれの持ち場に帰し、自分の親衛隊百余人だけを伴として同行させた。
十一日目に、ゴッドフレードは大軍を率いて南下するグルスノルンの王、デリク三世に遭遇した。デリク三世は、なんとハリィデールただひとりを捕えるために二万の兵をしたてて、みずから出馬してきたのである。
ゴッドフレードはひどく驚いたが、そんな感情はおくびにもだすことなくデリク三世に謁見《えっけん》し、ハリィデールを引渡して早々に自分の居城へと引揚げた。デリク三世は褒賞としてゴッドフレードに宏大な荘園を与えた。
そして、それから十日後、ハリィデールはリンデックにはいった。
すぐに王宮に連行され、放りこまれたのが、王宮の北の端にある黒死塔の最上階だった。かつて黒死病にかかった王がここに籠ったという不気味ないわれのある塔だ。石壁は真っ黒に煤《すす》け、手入れもろくにされていないので埃《ほこり》がぶ厚くつもり、蜘蛛《くも》の巣がそこかしこを汚く覆っている。そのうえ、窓がほとんどないので松明と灯明だけで照らされた屋内は昼も夜も黄色いボンヤリとした光だけに満たされていた。
最上階の部屋でもっとも目についたのは、正面の壁に垂れ下がる四本の太い鎖だった。鎖の先には黒い鉄の環がついている。ここに手足を通し、囚人を立ったまま繋《つな》いでおくのである。
ハリィデールを担いできた褐色の肌の奴隷が、ハリィデールをしばっていた鎖を解き、面壁させて、その両手両足首に黒い鉄の環をはめた。
この奴隷はハリィデールと大差のない筋肉の持ち主で、身につけているものは黒い下帯ただひとつだった。去勢されているらしく、当然あるべき胯間《こかん》のふくらみが、まったくない。おそらく後宮の警護を務める者のひとりだろう。鎖につなぎとめられながら、ハリィデールは閹人《えんじん》には残虐な性格の持ち主が多いという話を思い出していた。
ハリィデールが壁に繋がれると同時に、デリク三世が部屋の中にはいってきた。奴隷が直立不動の姿勢をとった。デリク三世の手にはびっしりと鋭いトゲをつけた太いムチが握られている。ハリィデールは無理に首をねじまげて、それを見た。
デリク三世は、ムチを奴隷に渡した。奴隷はピンクの舌を露出し、これみよがしに舌なめずりをしている。対照的にデリク三世の表情は、蒼ざめ、こわばっている。丸々と太った巨体が小刻みに震え、光のない白く濁った右の眼がしきりに細かく痙攣していた。
「やれ!」
かすれた声で、デリク三世は奴隷に命じた。
奴隷は無言でうなずき、ムチを大きく振り上げた。
風を切る音、そして次に皮膚が弾《はじ》け、肉が裂ける音が薄暗い室内に響いた。並のムチ打ちの音ではない。ムチもムチだが執行人の力も違った。この奴隷は、丸太ほどもある腕を持っているのだ。
しかし、ハリィデールはそのムチを平然と受け、声ひとつあげなかった。
奴隷はいきり立った。上眼づかいにデリク三世を見るが、デリク三世の表情には何の変化もない。
好きにやれ、ということだ。
奴隷は、間断なくハリィデールを打ちはじめた。一撃一撃に腰を入れ、全力をこめた。肩甲骨の下あたりから血が噴き出し、背中はズタズタになった。したたる血がじきに血だまりをつくり、床を黒く染めていく。常人なら、とっくに絶命しているやり方だ。
だが、ハリィデールは未だに声をあげない。もちろん意識はある。目をカッと見ひらき、唇を破れるほど強く噛みしめている。
奴隷の呼吸がハァハアと荒くなり、ムチ打つリズムが乱れだした。
――もう、よかろう。
声なき声が、デリク三世に言った。
デリク三世は、ハッとして周囲をきょろきょろと見回した。右の隅の暗がりの中に、何か凶々《まがまが》しいもののけの気配が強く感じられる。しかし、そこに何ものかの姿があるわけではない。
――きょうは、この辺でやめておけ。
また、声が言った。
「それまでにしろ!」
デリク三世は、奴隷を止めた。奴隷は肩で息をしながら、腕をだらりとおろした。しきりに肩をもんでいる。全力をだしすぎて痛めたらしい。拷問係が負傷していては、本末転倒である。
「仕上げをするんだ」
奴隷はうなずき、足元に置かれた小箱に片手をつっこんだ。その手をすぐにだし、掌でハリィデールの傷口をなでる。
「うおっ!」
激しくのけぞり、ハリィデールが初めて咆哮のような悲鳴をあげた。奴隷は、砕いた岩塩をハリィデールの傷口にすりこんだのである。血まみれの傷口は、みるみる腫れあがった。
――奴隷を帰せ。
「もうよい、退れ」
奴隷はデリク三世に一礼し、扉をくぐって外に消えた。奴隷は最後まで、ついに一言も口をきかなかった。
――ハリィデール、わしの声が聞こえるか?
声がハリィデールに呼びかけた。これは、デリク三世にも聞こえている。
「聞こ……え……るぞ……。貴……様は……誰だ……」
喘《あえ》ぎながら跡切れ跡切れの声でハリィデールは答えた。
――返答を口にだす必要はない。言葉を心の中に思い浮かべるだけでいいのだ。わしとは、それで会話ができる。
――貴様は、誰だ?
――わしは電光狼ドロモスだ。首が動くなら、右の方にめぐらしてみろ。
右の隅の暗がりの中に潜んでいた気配が、具体的な形をとり始めた。それは最初もやもやとした影のような存在だったが、やがて凝縮し、ひとつに固まって、巨大な四足獣の姿となった。
狼である。
たしかにコルス神殿でハリィデールが見た電光狼であった。
――どうして、俺を痛めつけた。
ハリィデールが訊いた。
――その必要があったからだ。
――どういう意味だ?
――わしのことを知っておいてもらいたかったのだ。必要もないのに人を痛めつけることができる。そんな手合いだということをね……。
――俺を生かしておいて、得があるのか?
――いろいろとある。
――聞かせてもらいたいな。
――そんなことが、知りたいのか?
――わ、わたしも知りたい!
いきなり、デリク三世の思考が割りこんできた。ひどくあせった思考である。
――どうした、デリク? そんなにうろたえて。
――わたしは不安なんです、ドロモス様。
すがるような思考だ。
――不安とは、何がだ。
――この男がです。美獣がです。われらの野望を打ち砕こうとしているハリィデールのことが不安です。なぜに殺してしまわないのですか? 殺せば邪魔だてする者はいなくなり、われらが望みは遠からず達成されます。生きていれば何をするやもしれぬこの男も、死んでしまえばただの骸《むくろ》。何もいたしませぬ。
――ハリィデールよ。
デリク三世の問いには答えず、ドロモスは美獣に声をかけた。
――なんだ?
――お前は、お前とオーディンとのことをどれだけ知っている?
――俺は、何も知らん。
ハリィデールは、あっさりと言った。
――トビアンの村でグングニールの槍を押しつけられ、そのまま伝説の戦士、美獣に仕立てあげられただけだ。
――記憶がないのだな?
――知っていたのは自分の名前だけだ。それ以外のことは何も知らなかった。“ラガナの氷の女王”のことだけはトビアンの村でヘニングリートから聞いた。
――氷の女王か。
ドロモスの言葉には、せせら笑うような響きがあった。
――ドロモスよ、貴様、何かを知っているな?
ハリィデールは詰問するように言った。
――立場をわきまえろ、ハリィデール。
ドロモスは冷たく言い放った。
――訊きだそうとしているのはわしだ。お前ではない。
――俺は何も知らないのだぞ。
――お前は、多くのことを知っているのだよ、ハリィデール。でなければ、オーディンがお前を使うはずがないのだ。お前を生かしておくことの理由のひとつは、お前が数々の知識の鍵を握っているということだ。
――教えろ、ドロモス。貴様、何を隠しているんだ?
感情が昂り、ハリィデールはわなわなと身を震わせた。
――理由のひとつということは、まだ他にも生かしておく理由が……?
また、デリク三世が割りこんだ。
――ある。
ドロモスは、今度は答えた。
――このままわれらがミッドガルドの覇を唱えていくと、必ずやオーディンとぶつかることになるのだ。
――しゅ、主神とですか。
デリク三世は心底おびえた。
――そうだ。オーディンだ。やつが、われらの前に立ちふさがるのだ。
――か、勝てません!
――そんなことはない。
――しかし。
――こいつが切札になるからだ。
ドロモスの顎が、ハリィデールを示した。
――美獣が切札。
――そうだ。
――教えろ、ドロモス! 俺にすべてを話せ! お前の知っていることをみな教えてくれ!
――それは、できん。
ドロモスは、かぶりを振った。
――こやつを、いったいいつまでここに?
デリク三世が訊いた。
――必要になるまでだ。十年後か二十年後になるか、それはわからん。とにかく、それまで、こいつはここにこうやって繋ぎ留めておくのだ。そして、折あらば拷問にかけ、そのつど空白になったこいつの心から、われらが必要としていることをかすめ取っていくのだ。
――貴様!
ハリィデールは、ギリッと奥歯を鳴らした。あまりの口惜しさに、それ以上の言葉がつづかなかった。
――十年、二十年とは。
デリク三世は茫然としていた。
――さても与えられた時間の短いやつばかりよ。
ドロモスは、あざけるように言った。
――わしは帰る。デリク、あとを頼んだぞ。くれぐれもこいつをここから解き放つでないぞ。ここにこうやって繋がれている限り、こいつは無力なのだ。それを忘れるでないぞ。
――は、はあ。
デリク三世は、上《うわ》の空で頭を下げた。
ドロモスの姿が薄くなり、暗がりの中に吸収されるように消えていった。
あとには、ハリィデールとデリク三世だけが残った。デリク三世は、まだ呆けたように立ち尽くしている。
ややあって、気を取り直した。
奴隷が置いていったムチを拾いあげ、あたふたと扉を開けてでていった。
血にまみれたハリィデールは、ただじっと目の前の黒ずんだ石壁を見つめていた。
10
ハリィデールが黒死塔に繋《つな》がれてから、三か月の時が流れた。
|北の地《ツンドラ》の短い夏が間もなく終わり、来る日も来る日も夜ばかりの、ブリザードが吹き荒れる冷たく暗い冬がもうすぐそこまで迫ってきているある日のこと。
王宮の広間で、デリク三世の娘、ミザーラ王女の成人の儀式がとりおこなわれた。
儀式のあとは、夜を徹しての夜会である。冬が近いので、夜は陽が沈む。いやそれよりも、もう昼が短いのだ。
夜会は夏の終わりを惜しむ宴《うたげ》になった。
酒が配られ、芸人が呼ばれた。ミザーラも、儀式のための申しわけ程度の薄衣のまま、なまめかしい舞いを舞ってみせた。南からきた色の黒い芸人は、スリリングな曲芸が自慢だった。
ひとしきりつづいた派手な見世物が終わると、客はそれぞれ気のあった同士集まって世間談議を始めた。客は、諸侯、貴族、豪商、豪農などである。
国王デリク三世のまわりには、ヘルムート王妃、ミザーラ王女、バルバ王子、若い貴族のザイラス、大臣のルガトらが集まった。
話の主役は、ザイラスである。
この若くて美男で剣技にたけた貴族は、その上に話題が豊富で甘く透きとおった声の持ち主であった。リンデックの娘という娘がザイラスに興味を持ち、かれの気をひこうとしているのである。しかし、ザイラスの興味といえば、それはただひとり、ミザーラ王女にのみ注がれているのだった。
したがってこの日も、ザイラスはミザーラが喜びそうな話題を次から次へと持ちだしては、座を華やかに沸かしていた。
「――それで、わたしは単身、その反乱軍の拠点である集落に乗りこんでいったわけです。なに、“オーディンの戦士”などと壮語するわりにはみすぼらしい限りで、反乱軍というよりは匪賊《ひぞく》そのもの。要するにオーディンの名を借りて略奪をほしいままにしているやつばらだったのですな」
「で、あなたはその匪賊どもを電光石火たいらげてらしたのね」
王妃のヘルムートが過剰なまでにシナをつくり、えん然と微笑《ほほえ》んで言った。
「電光石火たいらげたというのはいささかオーバーですがね」言葉の割には照れもせず、ザイラスは言った。
「そこの指揮官をひとり討っただけであとはチリヂリですよ。土民の常です。軍規などありませんからな。つながりは利害だけ。危うくなれば我が身かわいさにさっさと鞍替えする連中です」
「でも、勇敢ですわ。たったひとりで敵中に向かわれたなんて」
「いやあ」
ミザーラが目を輝かせて感心したので、ザイラスはだらしなく相好を崩した。ザイラスが五百人の兵を投入して、さんざんに翻弄された事実を知る者にとっては噴飯ものの会話だが、口のうまいザイラスはそれをうまく糊塗して、いかにも大勝したようにみせかけている。
「それにしても、最近はどういうことなんでしょう。毎日のように反乱軍などというおぞましい言葉を耳にしますわ」
水鳥の胸毛をきらびやかな絹でくるんだ大きなクッションに深々と身をうずめ、ヘルムートはさもいとわしげに眉をひそめた。
「まったくです」
ザイラスは大きくうなずいた。右にミザーラ、正面にヘルムート。ザイラスの首は忙しい。
「ここ一、二か月のことですな。こんなに反乱軍の名を聞くようになったのは。けしからん話です。各領を任されている将軍たちは、いったい何をしているのか」
「オルドール公はよく鎮圧しているようですが、他の諸侯がいささかだらしないですな」
ザイラスの左どなりに坐るルガト大臣が口をはさんだ。
「ガラザット公やグーミトラ公ですね」
「さよう。とくに海に面した諸領がよくない。南方貿易にかまけて、内国の守りをおこたっている」
「たしかに」
「殿方同士のお話になるとおなごではとてもついてはいけませぬわ」
二人の話が政治的になってきたので、ヘルムートがやんわりとたしなめた。
「ねえ」小鳥のさえずりのようにすずやかな声で、ミザーラが言った。
「反乱軍の首領って“美獣王”と呼ばれているんですってね。本当?」
「おやおや」ザイラスがわざとらしく目を丸くしてみせた。
「どこで、そんなことを聞きつけてきたんですか?」
「あら、こんなこと、誰でも知ってましてよ」
「いやもう、まったく仕方のないお姫さまだ」ザイラスは屈託のない笑い声をあげた。
「何でも耳さとく聞きつけてきてしまう」
「ねえ、本当ですの?」
「本当ですよ」
「一度も姿をあらわしたことがないんですってね?」
「かないませんなあ」
ザイラスも、もてあましかけていた。
「でも、御存知かしら」ミザーラのくりっとした眼が、いたずらっぽい輝きを帯びた。
「この城内にも、美獣って呼ばれる人が幽閉されているのよ」
「!」
その一言で、広間の空気ががらりと変わった。
「ミザーラ!」
それまで身内の者の会話を目を細めて聞いていたデリク三世が、いきなり血相を変えて立ち上がった。
「ミザーラ、やめなさい!」
「あら、お父さま」ミザーラは愛らしい唇を小さくつんと尖《と》がらせた。
「この城内にいる者で、黒死塔の美獣を知らぬ者はごさいませんのよ」
「しかし、子供が口にする話題ではない」
「まあ、ひどい!」本気でむくれた。
「きょうはいったい何の日ですの? あたくしの成人の儀式の日ではありませんか。あたくしも、もう十六。大人の話に加えて下さっても宜しゅうございましょうに」
「だが、それとこれとは事情が……」
可愛い愛娘のせい一杯の反撃に、デリク三世はひどく取り乱し、うろたえた。
「ミザーラ! お父さまに口ごたえしてはいけません」
見かねて、ヘルムートが助け船をだした。
「だって、お母さま」
ミザーラの表情が曇り、泣き顔になりかけた。〈隻眼王〉デリク三世の異常ともいえる愛を一身に受け、わがままいっぱいに育てられてきたミザーラである。主張が容れられないとなると、どんな態度を取るかわからない。
「ミザーラ、やめなさい。ミザーラ」
我が子を溺愛する父親とはあわれなもので、デリク三世はただうろたえるばかり。
「うるわしい姫君が、そうお父さまを困らせるものではありませんよ」
ザイラスも口を添えた。だが、名うての美男子がとりなしてみても、ミザーラのかたくなな姿勢は崩れない。
「お父さまったら、ひどい」
眼に涙をいっぱいにため、口元に小さな両の拳をあてて、ミザーラはデリク三世を見た。デリク三世はおろおろとして、助けを求めるように首を左右にめぐらした。しかしもう、誰ひとりとして口を開こうとしない。
「わかった、ミザーラ、わかったよ」ついにデリク三世は、娘に謝りだした。
「わたしが悪かった。少しきつく言いすぎたようだ。お前は立派な大人だよ。さ、泣かないでおくれ。わたしが何でも望みをかなえてあげるから、頼む、泣かないでおくれ」
「望むことを、何でもかなえてくださるの?」
ミザーラは半ベソの表情《かお》のまま、低く抑えた声で訊いた。口元を拳で押さえているので、それがくぐもったつぶやきのように聞こえる。
「何でもだよ、ミザーラ」デリク三世は、これ以上になくやさしい言い方をした。
「わたしはグルスノルンの王だ。わたしに不可能はない。さあ何が欲しいか言ってごらん。ミッドガルド一の駿馬《しゅんめ》かね? それとも鳥の卵よりもまだ大きい宝玉かな? みいんな、お前が望めば、手に入れてあげるよ」
「何でも、いいのね?」
「何でもだよ」
「あたし、きょう、ここで舞いを舞ったわ」
ミザーラは、わずかに口調をやわらげ、自分に言いきかせるように一語一語区切りながら、そう言った。眼に、今にもこぼれんばかりにたまっていた涙が、少しずつではあるが引いていく。
「みんな、あたしの成人の儀式のために集まってくださったのだから、あたしとても嬉しくて、一所懸命に舞ったわ」
「そうだ。お前の舞いは、何よりも見事だったよ」
「――でも、あたしちょっとさみしかったの。だって、あたしは一所懸命に舞ったけど、誰も、あたしのためには舞ってくださらなかったんですもの」
そっぽを向いた。
「それは」
「踊りや歌を聞かせてくれたのは、みな芸人たち。ここに集まってくださった方々は、誰ひとりとして歌も舞いも観せてはくださらなかった」
「す、すぐにやらせるよ。誰でもいい。舞いでも歌でもやらせる。誰か望む者はいるかね?ザイラスか? ヘルムートか? 親衛隊長のボトスはどうだ? わしだってかまわんぞ。舞いは若いときに習ったのだ。何ならここにいる者全員で輪舞をやってみせてもいい」
手がかりができた。デリク三世は、必死になって娘を説得にかかった。
「望むなら誰でもいいのね?」
それでもミザーラはむすっとしている。
「ああ、誰でもだ。ルーンにかけて約束する!」
「じゃあ、美獣がいいわ」
向き直り、さらりと言った。
「美……!」
娘の望みのあまりの意外さに、デリク三世はひとつしかない目を剥《む》いて絶句した。まったく予期していない答えだった。もとはといえば美獣の話題からそらせるために持ちだした条件のつもりだったのだ。それが話がこのようになってまでも美獣とは。
「そ、それは、無理だ」
デリク三世は、あわてて両手を振った。
「無理……」
ミザーラの顔がみるみる歪《ゆが》み、涙がまたあふれそうになった。
「ほ、ほかの者にはならんのか? 美獣以外なら誰でもよい。必ずやらせてみせる」
「お父さまの嘘つき」
ポツリと言った。ついに涙が一筋、頬を伝った。
「わ、わかった。わかった!」たまらず、デリク三世は折れた。
「美獣をここに連れてこさせる。舞いを舞わせてみせる」
「本当に?」
「本当だ! 王として誓おう」
「陛下!」
ルガトが、咎《とが》めるようにデリク三世を見た。いや、咎めているのである。それを、デリク三世は無視した。
「軽挙妄動ですぞ、陛下!」
ルガトは視線を避けようとするデリク三世を追った。
「宜しいではござらぬか、大臣。たかが罪人のひとりやふたり、何ほどのことがありましょう。いざとなったら、このわたくしめがおります。剣技にはいささかの自信があるゆえ、そう御懸念あそばすな」
例によって、調子のいいザイラスが、大臣をなだめにかかった。情勢がミザーラの甘えを許す方に傾くと、すぐにそれに同調する男なのである。
「無責任な御発言はお控え願いたい!」
さすがに肚に据えかねたのか、ルガトも吐き捨てるように言った。
ザイラスはムッとする。
「無責任とは何ですか! わたくしはただ陛下の……」
「あなたは美獣が何ものかを御存知か!」
「存じません。しかし、それは……」
「美獣は、オルドール公ゴッドフレードが三千人の傭兵を繰り出し、多大の犠牲を払ってようやくとりおさえた、文字どおりけだもののごとき戦士ですぞ。それを、あなたひとりでどうにでもできると言われるのか!」
「ゴ、ゴッドフレードが三千人で」
さすがにザイラスも声がなかった。
あわてて振り返り、不安げにデリク三世の所作を窺う。が、時すでに遅し。王は小者に命じて、美獣をこの広間に連れてくるよう手配をし終えたところであった。
デリク三世の顔は、死人のように蒼ざめている。
美獣が、連れてこられた。
手鎖足鎖をはめられ、うしろには棍棒を手にした褐色の肌の奴隷が油断なく目を光らせている。初日にハリィデールをムチ打った筋骨隆々たる奴隷である。あれから十日に一度くらいの割で、この奴隷は美獣をムチ打っていた。
「素晴らしいからだね」
ミザーラは、ハリィデールの筋肉に、うっとりと見とれた。
三か月の幽閉は、美獣の筋肉にいささかの影響も与えてはいなかった。バルクは充分にあり、ディフィニションも申し分なかった。顔は長い明褐色の髭で覆われていたが、幽閉以前と異っていたのは、その髭と背中に刻みこまれた凄まじいムチの傷痕だけであった。
ひときわ抜きんでた巨躯が、デリク三世の前に堂々と立った。
「どういう風の吹きまわしだ、デリク?」
低い、背筋を揺さぶるような声が、美獣の口から漏れた。
「控えろ! 眼前におられるは、グルスノルンの国王陛下なるぞ!」
ザイラスがしゃしゃりでた。
「…………」
ハリィデールの無言の眼が、ザイラスを見た。竜さえもすくませる炎の視線だ。
悲鳴をあげて逃げださなかったのは、ザイラスにしては上出来だった。血の気を失い、膝をガクガクと震わせながらも、ザイラスはなんとかその場にとどまっていた。
「あなたを呼んだのは、このわたくしです」
ミザーラが王の背後から姿をあらわした。まさに女は魔物である。先ほどまでのベソをかいていた顔は、もうどこにもない。あるのは花のように美しい十六歳の少女の顔だ。長い金髪を華麗に結い上げ、真紅の唇に淡い微笑をすずしく浮かべている。
「小娘に呼ばれたとはな」
ハリィデールはボソリと言った。抑揚のない、冷たい響きだ。
「お黙りなさい!」
ミザーラの柳眉がきりりと逆立った。
「美しい獣などと強がってみても、ここではあなたはただの罪人。主人はわたくしです。わたくしの命に従いなさい」
「さても気の強いはねかえりだ」
ハリィデールは笑った。
ミザーラの頬が、屈辱で紅潮した。広間に集まった二百余人の男女は、このふたりのやりとりをハラハラしながら見守っている。
「わたくしは、お前の舞いを所望しております!」ミザーラは声を荒らげ、言った。
「ここで、けだものの舞いを見せなさい」
「…………」
ハリィデールは黙殺した。
「あたしの命令が、きけないというのね」
ミザーラの表情に、残忍な色が浮かんだ。
「グル!」
指を鳴らして、奴隷に合図した。
奴隷は棍棒を振りかぶり、それをハリィデールの首筋に叩きつけた。
「!」
ハリィデールは膝をついた。さらにもう一撃が同じところを見舞った。
上体を折り、ハリィデールの顔面が石敷きの床に激しくあたった。背中はそのまま棍棒におさえつけられている。ハリィデールは床をなめるほかない。
「舞いは勘弁してあげるわ」
からかうようにミザーラが言った。そして、かたちのいいすらりと伸びた足をハリィデールの頬の上に置いた。足の指で、ハリィデールのこめかみを愛撫する。
「美しい獣さん。舞いのかわりに、あたしの足にキスしてくださらない?」
ハリィデールの歯が、ギリッと鳴った。怒りの炎が、暗い瞳を灼きはじめた。筋肉が、ふつふつと音をたてて盛り上がる。
「やめろ、ミザーラ!」
ことの重大さに気づいたデリク三世が、あわてて止めにはいった。だが、それはもう遅かった。
ビン!
鋭い音とともに手鎖が切れた。足鎖も同じである。鉄の環のところが、こなごなに砕け散った。
「わっ!」
奴隷のグルが、弾かれたようにのけぞった。パンプ・アップした筋肉が、グルのからだをはねとばしたのである。
美獣は立ち上がった。
憤怒に燃えた顔は、いかなる猛獣のそれよりも恐怖を撒き散らす。
広間の人々は悲鳴をあげて逃げまどった。
「く、くそ!」
グルが棍棒で撲《なぐ》りかかった。
ハリィデールは左の前腕でそれを受けた。棍棒は真二つに折れた。と、同時にハリィデールは右のストレートをグルの顔面に叩きこんだ。
グルの頭部が、スイカのように破裂した。
11
大広間は阿鼻叫喚の坩堝《るつぼ》と化していた。
床は鮮血と脳漿《のうしょう》でぬるぬるとぬめっている。ボロくずのように屍体が横たわり、その間を兵士や女どもがかしましく右往左往する。
ザイラスが、ハリィデールに追いつめられていた。よせばいいのにミザーラをかばい、ハリィデールを挑発したのである。
「くるなっ! くるなっ!」
半狂乱になって、ザイラスは剣を振り回している。
ハリィデールが前に出た。
剣がまっすぐに突き出された。ハリィデールの右腕が動いた。
がっき、と刀身を握った。
「う!」
ザイラスは、何もできなくなった。
押そうが引こうが剣は毫《ごう》も動かない。ハリィデールの握力が強すぎるのだ。押すか引くかしなければ、ハリィデールの掌すら斬れない。ハリィデールの腕に力がこもった。
まるで枯枝でも折るように、剣をへし折った。
ザイラスは泣き声とも悲鳴ともつかぬ声をあげた。
拳がザイラスのこめかみに喰いこんだ。眼球は眼窩《がんか》から飛び出し、頭蓋が粉微塵になって、ザイラスは吹っとんだ。
ハリィデールは、広間の隅で小さくなって震えているミザーラに向き直った。
恐怖に身がすくみ、ミザーラは声を発することもできないでいる。まるでただ一羽で巣に残されたひな鳥のようだ。
ハリィデールは腕を伸ばし、ミザーラの肩を掴《つか》もうとした。
そこへ。
何ものかが体あたりをかけてきた。
ミザーラの弟のバルバ王子である。バルバは姉の危機を知り、捨て身の攻撃をかけたのだ。しかし、まだ十二歳と幼い王子である。ハリィデールの巨躯《きょく》に対抗できるわけもない。ハリィデールはうるさそうに軽くバルバを払いのけた。それだけでバルバは床に叩きつけられ、全身の骨を折って絶命した。
ハリィデールはミザーラのからだを掴み、持ち上げた。弟の死を目《ま》のあたりにして我に返ったのだろう。ミザーラはハリィデールの腕の中で、ひどく抗《あらが》った。
ルガト大臣が数人の兵士を連れて駆け寄り、ハリィデールを取り囲んだ。
「ミザーラさまをお離ししろ!」
硬い声でルガトは言った。ルガトは命を賭《と》していた。この程度の人数ではハリィデールは倒せない。それは重々承知していた。しかし、増援がくるまでハリィデールをここに引きとめておくことは可能かもしれない。ルガトはそう思ったのだった。
ハリィデールはミザーラを左の腋に抱えこみ、その細い胴をほんの少し締めた。ミザーラは失神した。
ひとりの兵士が斬りかかった。ハリィデールはその手首をひょいと掴み、手首ごと兵士の腕から剣をもぎとった。
血のしたたる剣で、ハリィデールは兵士の首を刎ねた。
ルガトが憎悪に満ちた雄叫《おたけ》びをあげて、突進してきた。これもハリィデールは一|太刀《たち》で屠《ほふ》った。他の兵士たちも、一瞬にして斬り伏せた。
ハリィデールはデリク三世の姿を求めていた。
しかし、デリク三世はすでに大広間を脱出しているようだった。娘や息子のことも忘れて、泡を食って真っ先に逃げ出してしまったのである。
石柱の蔭に、王妃が潜《ひそ》んでいた。
王の所在を訊《き》いたが、首を横に振った。ハリィデールは王妃を斬り捨てた。デリク三世の一族は皆殺しにするつもりでいた。
大扉が開き、兵士がなだれこんできた。王宮の親衛隊であろう。王女を抱えたまま正面から闘ったのでは分が悪い。ハリィデールは反対側に走り、王宮の内庭に通じる柱廊へと向かった。そこにも兵士はいたが、数は多くない。すべて一刀両断で片づけた。
兵士が陸続と集まりはじめていた。奪った剣はなまくらもいいところで、もうほとんど使いものにならなくなっている。
ハリィデールは柱廊の石柱に目をつけた。石造りのバルコニーを支えており、太さもてごろだ。
いきなりその一本に右の肩から体あたりした。
石柱は他愛なく砕けた。ハリィデールは破片を拾い、それを少し先の石柱に投げつけた。その石柱も砕けた。ハリィデールは次々と破片を投げて、十数本の石柱を砕いた。
支えを失ったバルコニーは、ハリィデールの目論見《もくろみ》どおり、音をたてて崩れ落ちた。
兵士の多くがその下敷きになった。
ハリィデールは中庭を抜け、王宮の裏手、深い森の中にはいっていった。
ここまでくれば、追手もハリィデールをみつけることは容易ではない。
ミザーラが意識を取り戻した。
ハリィデールを見て、金切り声を張りあげた。ハリィデールはすかさずミザーラの細いおとがいを掴み、万力のような力でぐいと押さえつけた。
「つまらんマネをすると、顔を握りつぶす。おとなしくしていろ」
ミザーラは小さくうなずき、力を抜いた。ハリィデールはおとがいから手を離し、ミザーラを地上に降ろした。
「今いるのは、王宮の裏の森の中だ」ハリィデールは言った。
「暗黒神殿というのは、どこだ?」
ピクンと跳ねておもてを上げ、ミザーラは目を見ひらいた。
「暗黒神殿だ。案内しろ」
「い、いやっ!」
ミザーラはハリィデールから逃れるように、一、二歩|後退《あとずさ》った。いや、ハリィデールからよりも、暗黒神殿という名から逃れようとしたのかもしれなかった。
「いや、暗黒神殿はいや! 行きたくない!」
ミザーラは極度におびえ、うろたえていた。暗黒神殿がどのようなものかはわからないが、それがミザーラにとって恐怖の対象であることだけは間違いなかった。
ハリィデールは、またミザーラのおとがいを掴んだ。
「ここで死ぬのと、暗黒神殿へ行くのとどちらがいい!」
静かに訊いて目を覗《のぞ》きこむと、ミザーラはしばしののち、小刻みに首を縦に振った。
ハリィデールは、ゆっくりと手を離した。
「暗黒神殿はどこだ?」
「森の西。王宮の敷地のはずれにあるわ」
しわがれた、若い娘のものとも思われぬ声でミザーラは言った。
「案内しろ」
ハリィデールはミザーラを引き起こした。森の中は真っ暗で、案内がなければ右も左もわからない。しかし、梢越しに見える星の位置で、方角の見当だけは何とかついた。
ミザーラは西に向かって、ゆるゆると歩きだした。
さほどの時間も費やさずに、二人は暗黒神殿に至った。
長い石段を昇り、神殿の中にはいった。またミザーラのおびえが始まっている。たしかに凶々《まがまが》しい雰囲気に満ち満ちた神殿だ。死の匂いというか、悪霊の気配というか、そういったものが石造りの神殿の奥深く、びっしりと染みわたっている。
ハリィデールは嫌がるミザーラをひきずって、暗い歩廊をずんずんと進んでいった。
祭壇のある、比較的広い部屋にでた。
松明《たいまつ》立ての中で松明が明々と燃えているが、人は誰ひとりとしていない。神殿なら神官か巫女《みこ》のひとりでもいてよさそうなものだったが、そういった気配はまったく感じられなかった。
祭壇の脇に、青い火が燃えていた。炎が青いのだ。高さはミザーラの背ぐらいだろうか。陽炎《かげろう》を思わせるあやうさで、ゆらゆらと燃えている。
その青い炎の中央に、一本の槍が穂先を上にして立っていた。青い炎は、それを封じるための結界《けっかい》である。
「あれは、なに?」
ミザーラが訊いた。少し気を取り直してきたらしい。
「グングニールの槍だ」
ハリィデールは、素っ気なく答えた。
「オーディンの武器?」
ミザーラは目をしばたたかせた。
「俺のものだ」ハリィデールは言った。
「ドロモスに奪われ、ここに封じこめられたのだ。不用意にも黒死塔でドロモスがそのことをデリクに話したため、暗黒神殿の存在を知ったというわけだ」
ハリィデールは周囲を見回した。祭壇の一角に、一抱えほどの四角く切り出した石が使われている。生贄《いけにえ》でも置くのだろう。その石が使えそうだった。
ハリィデールはその石に歩み寄り、おもむろに抱えあげた。全身の筋肉をフルに働かせ、頭上高く、いっぱいに差し上げる。
青い炎の結界のすぐ横にある石柱に、その石を叩きつけた。先ほど王宮の柱廊でやった、あの要領である。
柱が微塵に砕け、天井の石が、なだれのように炎の上に落下した。
炎が、すうっと弱くなった。結界が破られたのだ。
ハリィデールは床を埋めた石塊を辿《たど》ってグングニールの槍を取りに行った。槍は大部分が石の下にはいっていたが、それを引き抜くのはハリィデールにしてみれば造作もない。
槍を手にして、祭壇の前に戻った。
「行くぞ!」
ミザーラの手を引き、暗黒神殿の外にでた。王宮の西門が、そのすぐそばにある。二人はそちらに向かった。
西門は騎馬隊と歩兵とで固められていた。
歩兵が三十人あまり、騎馬隊はその半分だ。歩兵はみな、松明を手にしている。
「馬があるな」
木蔭に潜んで様子を窺いながら、ハリィデールは言った。
「あれをいただいて、ここからおさらばしよう。お前は連れていく。素直にしていれば、指一本ふれない。ことがすめば、帰してやる。どうだ!」
「殺されたくないわ」ミザーラはすっかりおとなしくなっていた。
「あなたがいいというまで、あなたに従うことにする」
「よし。では、訊くが、リンデックの郊外に、小さなやつでいい、砦《とりで》はないか?」
「あまり詳しくないけど、ひとつ知っているわ。タベック街道の途中よ。補給のためのものだから小さいわ。常駐している守備隊も二十人くらいかしら」
「充分だ。そこへ行こう」
「何する気なの?」
「行ったら教えてやる」
ハリィデールは槍を構え、木蔭からでた。
槍は穂先が白熱している。いつものグングニールの槍だ。
歩兵がハリィデールの姿を認め、叫び声をあげた。
ハリィデールは槍を投げた。
淡い光の尾を引いて、槍は走った。歩兵を貫き、騎馬兵を真二つにし、西門を破壊して槍はハリィデールの手に戻ってきた。何十人もの兵士がこの一投で絶命するか不具になった。
「ゴッドフレードが三千人を繰り出したわけがわかったわ」
ミザーラは、ため息をついた。
グングニールの威力が強すぎて、無傷の馬は、たった一頭しかいなかった。若い栗毛である。ハリィデールはひらりと馬にまたがり、その前にミザーラを乗せた。
ずたずたに裂かれた西門をでて、タベック街道を、まっすぐ南へと向かった。
デリク三世は玉座に腰をおろし、頭を抱えたまま声を殺して泣いていた。
帝王の間にはほかに誰もいない。
家族を失った悲しみ、さっさとひとりで逃げたことへの自己嫌悪、行方不明の娘に対する愛――そういったものがないまぜになって、デリク三世はいつまでも泣きやむことができなかった。
――たわけたマネをしてくれたな。
声なき声が、聞こえた。
デリク三世は涙を滂沱《ぼうだ》と流しながら、おもてを上げた。
正面に、電光狼が佇《たたず》んでいた。涙で霞《かす》んだ目でみても、その表情が怒りに歪《ゆが》んでいることがはっきりとわかった。
――逃げられた上に、グングニールの槍も取り返された。
――あれは結界で封じられていたはず。
――あっさりと破られたわ! おまけに暗黒神殿の祭壇を滅茶苦茶にされた。これも、お前とお前の馬鹿娘のおかげだ。
――わたしは、何かあったらあなたさまが来てくれると信じていました。
――わしはいついかなるとき、いかなる場所にも存在し、また存在せぬ者。しかし、ヒルドは違う。美獣が相手では、さしものわしもヒルドがいなければ危ういのだ。
――ハリィデールと娘は今どこに?
――ガーツ砦に向かっている。あそこで何かやらかす気だ。
――どうしましょう。
――知れたこと! 軍をだすのだ。ぐずぐずするな。すぐに軍をだせ! それからゴッドフレードも呼べ。万全の態勢で叩きつぶすのだ! 重要な役割を担う美獣だが、場合によっては、今度は殺すことも考えねばなるまい。
老狼はギリギリ歯噛みした。デリク三世もいつの間にか涙が乾き、その表情には新たな決意が生じようとしている。
――すぐだ! すぐに全軍を率いて出陣しろ!
喚《わめ》くだけ喚くと、ドロモスは消えた。
12
屍体が折り重なっていた。
中庭にも兵舎にも、屍体はあった。死因はすべて槍傷であった。ある者は刺し貫かれ、ある者は斬り裂かれている。
砦は全滅していた。兵士にも使用人にも、生き残っている者はひとりとしていなかった。すべての者が、突然の嵐のような死に見舞われたのだった。
ハリィデールとミザーラは、居館の一室にいた。
隊長の寝室である。
ハリィデールはテーブルの上に、保存してあった肉と野菜を山と積み上げ、ベンチにどっかと腰をおろして、それをむさぼり食っていた。
巨大な肉の塊《かたまり》が、みるみるハリィデールの胃袋の中に消えていく。だが、三か月に及ぶハリィデールの餓えは、すぐには満たされそうにない。
ミザーラは、隊長のベッドに突っぷしていた。きらびやかに彼女を飾っていた装身具は、いくつかを残してほとんどがここへ来るまでにもぎとられ、申しわけ程度に肉体を覆っていた薄物も、今はさらにはだけ、破れて、彼女の細いからだをひどく露《あら》わなものにしている。
ミザーラは、眠ってはいなかった。
首を横に傾《かし》げ、じっとハリィデールの挙措《きょそ》を見つめていた。
からだの裡《うち》に、何か不思議に熱いものがある。それが何かは、彼女にはまだよくわからない。
――自分は、なぜこの男に素直についてきてしまったのだろう。
そんなことを思った。ハリィデールは、母と弟を惨殺した憎い敵ではなかったのか。父と敵対する罪人ではなかったのか。
いま、ミザーラの目に映じているのは、ハリィデールの筋肉である。小山のごときバルクと鋼鉄にも匹敵する強靭さを有しながら、なおかつしなやかに動き、豊かな弾力を失わない美しい筋肉。この男にまとわりついた不吉な死の香りが、その美しさを一層|悽惨《せいさん》なものにしている。
そして、その肉体から発散されるむんむんとした野獣の匂い。こんな匂いは王宮ではけっして嗅ぐことができなかった。誰ひとりとして、こんな匂いは持ち合わせていなかった。ああ……と、ミザーラは知らず熱い吐息を漏らす。この匂いを嗅いでいると、胸が痛くなるほどの息苦しさを覚えるのだ。
全身が炎と化して燃えている。突きあげるような衝動が頭から爪先までを幾度も幾度も駆け抜ける。呼吸が荒い。
しとどに濡れて、ミザーラはベッドから身を起こした。
夢遊病者のように蹌踉《そうろう》と立ち、おぼつかない足どりでゆらゆらとハリィデールにすり寄った。
ハリィデールは骨つき肉の塊を噛みちぎっている。
ふと、肉を運ぶ腕の動きが止まった。
ミザーラが右の肩にしなだれかかってきた。鼻にかかった、甘ったるい声をだした。
「熱いの。とっても……」
しゅっと音がして、何かがミザーラの頬をかすめた。
ミザーラの全身が硬直した。沸騰していた血が、一瞬にして凍った。
眼前に、グングニールの槍の穂先があった。冷たく鋭い、錬鉄の刃だ。
すうっと鮮血が一筋伝う感覚が右頬にあった。
「忘れてほしくないな」
低い声で、ハリィデールが言った。
「俺は、お前には用がないのだ。人質として連れてはきたが、それだけのことだ。用があるのは、お前の父親とその守護神だ。そして、この国にもな。しかし、お前には用はない。おとなしくしていろ」
ミザーラの顔から血の気が引いた。蒼《あお》い瞳に憎悪が宿った。苦い屈辱で、全身が震えた。右の手が走り、激情のありったけをこめてハリィデールの頬を打った。
ハリィデールは、よけなかった。
ミザーラは、ハリィデールにくるりと背を向けた。肩が小刻みに顫《ふる》えている。泣いているのだ。
齧《かじ》り取った肉の一片を呑みこみ、ハリィデールは食事を終えた。
立ち上がり、棚に置いてある短剣を把《と》った。切れ味は申し分ない。ハリィデールは、それで髭を剃りはじめた。
ミザーラはベッドに突っぷして泣きじゃくっている。
間もなく夜が明けようとしていた。
二人は物見|櫓《やぐら》にいた。
風が強い。空はどんよりと曇っている。しかし、見通しはきいた。
北の地平線に色鮮やかな旗がいくつか舞っている。もうもうたる砂塵も、黄色い雲のように渦を巻いている。
「先遣隊に、あらたな部隊が加わった」
ハリィデールが言った。
「旗を見れば将軍がわかるわ」ミザーラが応じた。
「あれは、父とオルドール公の部隊だわ」
「ゴッドフレードが来たか」ハリィデールの双眸《そうぼう》が、ギラリと光った。
「やつには借りを返さねばならん」
「こんなところに籠《こも》っていたら、一気にもみつぶされてしまうわ!」
だしぬけにミザーラが振り向き、叫んだ。
「あなた、いったい何を狙っているの?」
「俺には仲間がいる」
ハリィデールは地平線から目をそらさず、言った。
「知っているわ。“オーディンの戦士”と名乗る反乱軍でしょ?」
「ほう」ハリィデールは、ミザーラを見た。
「ずいぶん名が売れているな」
「派手にやっているわ。グルスノルンの領土だけに限っているけど。どの諸侯も手を焼いていてよ。でも……」
「どうせ、いつかは雌雄を決せねばならんのだ。電光狼ドロモスがグルスノルンを牛耳っている限り、どこへ行こうと討っ手は来る。やつにあの力さえなければ、負けることはないが、このままでは俺に勝ち目はない」
「そこでここに籠り、耳目を集めて仲間を呼ぼうって算段なのね」
「そうだ」
「仲間が来なかったら? 仲間がグルスノルン軍よりも遥かに劣勢だったら? あなた、どうするの?」
「ここで果てるまでだ」
そして、ハリィデールは薄い笑いを浮かべた。
「お前は、それを願っているのだろう」
「そうよ!」ミザーラも微笑《ほほえ》んだ。
「あなたの死と、父の死と。すべての者の死を願っているわ!」
「デリク三世が憎いのか?」
「憎いんじゃない」ミザーラはかぶりを振った。
「狼に操られて国を売り、危うくなれば、あたしたちを捨てて真っ先に逃げた男だけど、憎くはない。ただ……」
「ただ?」
「ただ絶望しただけ」
風にのって、鬨《とき》の声が流れてきた。
砂煙が、いっそう高く舞い上がった。
軍勢が動きはじめたのだ。
「いよいよね」
ミザーラが言った。
「お前はどうする?」
「どうするって?」
「俺といると、巻き添えを食うぞ」
「ほほほほ」
ミザーラは笑った。
「あたしは、すべての者の死を願っているのよ!」
攻撃の皮切りは、弩弓《いしゆみ》だった。
弾《はじ》き飛ばされた巨岩が砦の外壁を滅多打ちにした。石積みが崩れ、居館の屋根がひしゃげた。櫓もいくつか破壊されたが、ハリィデールの立つ物見櫓は無事だった。もっとも飛んできたところで、ハリィデールが槍で砕いていたはずである。
攻撃の第二波は、火箭《ひや》だった。砦の兵士やミザーラの安否を確かめずに、こういった強引な戦法を用いるところが、いかにもゴッドフレードらしかった。
砦の右翼の一部と居館に炎が上がった。火箭はあまり命中しなかったが、風が強いので、いったん燃えあがると火のまわりは早かった。
「消さないの?」
ミザーラが訊いた。
「その必要はない」
第三波が来た。長い梯子《はしご》を抱えた歩兵である。
「左翼にも取りついているみたいね」
ミザーラは反対側を見ていた。
「当然だ。一波二波は脅しにすぎん。これからが本当の攻撃なのだ」
外壁に掛けられた梯子を歩兵が登りはじめた。
ハリィデールは、グングニールの槍を肩の上に構えた。
最初の兵士が胸壁に手を掛けた。
槍がハリィデールの手から離れた。
白熱した槍が外壁に突きささった。
胸壁に無数のひびが走り、次の瞬間、それがなだれるように崩れた。梯子の上にあった兵士たちは手がかりを失い、ショックで後方に投げ飛ばされた。
轟音に悲鳴が混じった。
第三波の歩兵は寸毫《すんごう》の間に全滅した。槍は右翼を抜けてから左翼に回り、こちらの歩兵をも襲ったのだ。
槍がハリィデールの手に戻った。
また弩弓《いしゆみ》が復活した。今度は明らかに物見櫓を狙っている。
「槍の動きを読まれたな」
唸《うな》りをあげて飛んでくる巨岩を槍で打ち砕きながら、ハリィデールは言った。
「そろそろ右翼の巡視歩廊に移ろう」
頃合いを見て、階段に飛びこんだ。通路を素早く駆け抜け、右翼の巡視歩廊にでた。
「あれ、見て!」
ミザーラが言った。指さしているのは、正面の大門である。そこがいつの間にか、破城槌で破られているのだ。兵士がわらわらと中庭になだれこんでいる。
「死角とは、うかつだったな」
ハリィデールは淡々としていた。
槍の穂先を中庭に向けた。穂先から白光が迸《ほとばし》った。電撃である。電撃は十数人の兵士を、いちどきに打ち倒した。
ふっと、電撃が失せた。
かわりに、上空を覆った黒雲から、何百という稲妻が走った。
ハリィデールの表情が、こわばった。ミザーラがおびえ、ハリィデールの腕にしがみついた。
右手に異様な気配があった。
ハリィデールは首をめぐらした。
崩れた胸壁の端に、ヒルドと電光狼が立っていた。ミザーラが甲高《かんだか》い悲鳴をあげた。ハリィデールから話は聞いていたが見るのはこれが初めてだった。ミザーラは狼の圧倒的な精神力に恐怖を覚えたのだった。
ハリィデールは槍を、電光狼めがけて投げつけた。無駄とはわかっていたが、やらねば気がすまなかった。
槍は電光狼を突き抜けて、胸壁の一部に音をたてて突きささった。
ヒルドと電光狼の姿が消えた。
「もう、ここに留まるだけ無益だ」ハリィデールはミザーラに言った。
「俺は外に討って出る。お前はどうする。ここにいれば、グルスノルンの兵が迎えにくるぞ」
「あたしも行くわ!」ミザーラはきっぱりと言った。
「生きのびるつもりはないの!」
「よし」
二人は瓦礫《がれき》の間を縫って、下へ降りるために櫓へと走った。また、歩兵がやってきて、外壁に梯子を掛けている。
「待って!」
ミザーラが足を止めた。
「どうした?」
「あちらに、砂煙があがっているわ!」
ミザーラが示したのは、砦の西の方角だった。
「グルスノルンの増援だろう。それより急げ!」
ハリィデールは、ミザーラの手を引こうとした。
「待って! 違うのよ」
「違う?」
「軍旗が違うわ!」ミザーラは小手をかざし、目を凝《こ》らした。
「赤い地にルーンが描かれている」
「なんだと?」
そんな旗を持つ領主はいない。ハリィデールも小手をかざした。砂煙の中から一騎だけが飛び出し、その馬上にある男が高々と赤地の旗を掲げている。そこに描かれている文字は、まさしくオーディンをあらわす〈F〉のルーン!
「醜《みにく》い男よ!」ミザーラは叫んだ。
「乗っているのは傴背《くぐせ》の小男。あんな醜い人間は見たことがないわ」
ミザーラのいうとおりだった。馬上で旗を掲げているのは、これ以上にない醜い小男だった。まだ豆粒ほどにしか見えなかったが、それでも醜いことだけは、はっきりとわかった。
その男の名は、ギンナルといった。
13
赤地の旗は、人目をひいた。
〈F〉のルーンが反逆者の紋章であることを知らぬ者はない。堂々と眼前を駆け抜ける反逆者を見て、グルスノルンの兵は激怒した。これを見逃しては、後のちまでの笑いものとなる。
弓隊が、さかんに矢を射かけた。狙いは正確だった。何十本、何百本という矢が、旗を翻《ひるがえ》して馬を駆るギンナルめがけ、ひゅんひゅんと降りかかってきた。
しかし、それよりもなお、矢の動きを見切るギンナルの目が正確だった。
矢はかすりこそすれ、ギンナルに致命傷のひとつも与えることなく、大地に落ちた。
グルスノルン軍の怒りは、さらにつのった。
騎馬隊が討って出た。その数三十余騎。たかが傴背の小男ひとりを追うのに、この騒ぎである。怒りのほどがわかろうというものだ。残りの兵はすべて、いずこからかあらわれた軍勢を迎え撃つため、新たな陣形を整えるべく右翼へと移動していった。
ギンナルは馬を全速で走らせ、まっすぐに逃げていく。ちょうど、みずからが率いる軍団とは反対の方角だ。
行く手には黒ぐろと広がるガーツの森がある。ハリィデールのたてこもるガーツの砦は、この森を背に築かれたのだ。
「たわけが!」
ギンナルを追う騎兵のひとりは、森に逃れようとするその浅はかさに、馬上でせせら笑った。馬は森の中では役に立たない。歩兵の方が、よほど機敏に動く。自殺行為も同じである。
だが、ギンナルは、森にははいらなかった。森の手前で直角に折れ、森に沿って左へと進んだ。一方的に逃げ場を断ったのだ。正気の沙汰とも思えない行動である。これならば、まだ森に飛びこんだ方がマシだ。
ギンナルの真意を掴めないままに、騎馬隊は絶対の有利さに目を奪われ、斜行した。一気に追いつこうと、森に対して横腹を見せたのである。
吶喊《とっかん》の響きが、ガーツの森を揺り動かした。
騎馬隊の馬が、一斉に棒立ちになった。騎兵たちはあやうく振り落とされそうになり、あわてて馬の首にしがみついた。
森から十数騎の騎馬が飛び出した。兵のいでたちはまちまちだが、馬の腹にはすべて、あのルーンを織りこんだ布がかけられている。半数は弓、半数は槍だ。弓は馬上で扱いやすいクロスボウである。
矢が、鋭い音とともに弦を離れた。
ほとんど無防備に近かったグルスノルンの騎馬隊は、なすすべもない。三分の一の騎兵が腹、あるいは顔面に射抜かれ、落馬した。
槍隊が、どっと襲いかかった。
首が飛び、血が迸《ほとばし》る。
三十余騎の騎馬隊は、一瞬にして全滅した。ギンナルは兵をまとめ、次なる獲物を求めて、戦場に還った。馬は戦利品だ。
あとにはただ、大地にるいるいと屍体が横たわるばかり。
「なかなかに、やるではないか」
ハリィデールが評した。胸壁から身を乗り出し、敵の狙いがおのれにあることも忘れて、ギンナルの戦いに見入っていた。となりには美貌の少女、ミザーラ。彼女はほっそりとした腕をハリィデールの、彼女の胴ほどもある腕にからませ、その白い頬を男の逞しい肘《ひじ》にそおっと押しあてていた。表情はない。表情はないが、つぶらな瞳の奥深くに、どことなく夢見る者の淡い色が窺《うかが》われる。それが何であるかは、彼女自身がまだ知らない。
ハリィデールの左右で、石と金属の触れ合う甲高い音がした。
グルスノルンの歩兵である。砦の外壁にかけた梯子を伝って、ここまでのぼってきたのだ。手に剣を持ち、歩兵特有の粗末な甲冑《かっちゅう》を身につけている。
ハリィデールはきびすを返し、胸壁を背後に置いた。ミザーラは身を引き、ハリィデールからそろそろと離れた。
ハリィデールが、一歩前に出た。取り囲む歩兵は、逆に一歩退いた。歩兵は六人。この程度の人数では威圧感で美獣に劣る。
さらに一歩、ハリィデールは進んだ。両の手に得物《えもの》はない。素手だ。グングニールの槍は電光狼ドロモスに投じたあと、胸壁に突き刺さったままになっている。じりじりと移動するミザーラは、どうやら槍に近づこうとしているらしい。しかし、兵士たちは、それに気がつかない。人質にされていたグルスノルンの王女が、味方がやってきたのを幸いに、美獣のもとから逃れようとしていると思ったのだ。
六人は剣を構え、踏みこもうとするが恐怖でからだが動かなかった。
ミザーラの手が、グングニールの槍に届いた。胸壁から引き抜き、身をひるがえす。
槍を前に突き出し、その勢いでひとりの兵士の背中に体あたりした。
がっ、と呻き声をあげ、腹を串刺しにされた兵士は血を吐いて白眼を剥《む》いた。
ミザーラは、即座に槍を抜いた。兵士はどうと倒れた。残る五人は唖然としている。まさか、かれらを率いる王の娘が敵に回ろうとは。
槍が唸りをあげて弧を描いた。切っ先が次の兵士の首をそいだ。頸動脈が裂け、血が霧になって噴き出す。別の兵士が我に返り、剣を振りかざした。槍が再び弧を描き、石突きが、剣を握る手を打った。
ポロリと剣が落ちる。
その剣を空中でハリィデールが掴んだ。
ハッとする間もない。
二つの首が宙に舞った。残るは二人。悲鳴も高く、逃げだそうとする。
ミザーラが槍を繰り出した。
延髄を突かれ、ひとりが悶絶する。あとひとりはハリィデールが右肩から左の腰まで、一直線に両断した。
「な、なぜだ……」
ミザーラに首を貫かれた男が小さくつぶやき、息絶えた。
槍を戻し、腋《わき》にたばさんで、ミザーラはハリィデールを見た。
「見事といってよかろう」
ハリィデールが言った。
「槍の心得はすこし」
はにかむように、ミザーラは応じた。戦乱の世である。王族の身内ともなれば、武芸のひとつもたしなんでいるのが当然だ。槍は婦女子に適した武器といえた。
「それは、お前に預けておこう」
ふっと、いかにもさりげなくハリィデールが言った。
「え?」
驚いて、ミザーラが目をみひらく。
「お前に預けておくと言ったのだ」ハリィデールは剣を振り、血を払った。
「俺は、これを使う。電光狼とヒルドがいる限り、それはただの槍にすぎん」
「でも、あたしは……」
「死ぬつもりの者に武器はいらんか?」
ハリィデールは薄く笑った。ミザーラはうつむき、かすかに唇を噛んだ。
「持っていろ。死ぬにしても相手を選びたいだろう。好んで雑兵に殺《や》られることはあるまい」
言いざま、ハリィデールは上体を後ろにひねった。胸壁の上に、また新たな兵が顔をだしていた。野獣の勘が、その気配を捉《とら》えたのだ。
ハリィデールの剣が一閃《いっせん》した。
首と胴がわかれ、数人の兵士が声もたてずに大地へと落下していった。
ハリィデールは胸壁にかけられた梯子を、すべて押し倒した。
そして、ミザーラに振り返る。
「行くぞ!」ハリィデールは言った。
「まだ、ついてくる気はあるか?」
「もちろんよ!」
ミザーラは昂然と胸を張った。
14
本陣は、あわただしい雰囲気に包まれていた。兵や将軍がひっきりなしに行き来し、怒号や馬のいななきが右から左へと乱れ飛んだ。他の軍勢との交戦を予想していなかったので、武器を運んできた荷車は、もうほとんど底をついてしまっている。
デリク三世は、人の背ほどもあるやぐらに腰をかけ、周囲を落ちつかなげに見回していた。こんな平地の戦《いくさ》では、さほど見通しが利くわけでもないが、それでも地面にへばりついているよりは、まだマシだった。戦況は、グルスノルン軍に有利とはとてもいえない。
人垣が割れ、一頭の騎馬が飛びこんできた。馬上にあるのは、堂々たる甲冑の戦士だ。
オルドール公ゴッドフレードである。
ゴッドフレードは馬からひらりと飛び降り、やぐらの前まで来ると、胸に手をあててひざまずいた。
「陛下!」太い声で、炮えるように言う。
「敵の兵力は、我が方とほぼ同等。ただし、その装備は、はるかに劣っております。しかるにこの騒ぎは、予期せぬ戦いのためのとまどいと思われます。何とぞ、これ以後の戦闘指揮を、わたくしめの手にお委ね下さい」
「わしの指揮ではだめか?」
「おそれながら、かくなりましては指揮官みずから戦場に赴き、兵を叱咤《しった》せねばなりません。さすれば、兵も奮い立ち、戦況は逆転するでありましょう。しかし、陛下にそのような危険な所為を臣下としておさせするわけにはまいりませぬ。それゆえ、わたくしめが指揮を」
「美獣はどうした?」デリク三世は訊いた。
「お前にはガーツ砦攻めの指揮を命じておいたはずだ。ハリィデールは討ったのか?」
「やつはもう砦にはおりません」
「何?」
「砦を脱し、やつの軍勢に加わったもようです」
これは嘘だった。ハリィデールにかまけ、本隊が敵の軍勢に一蹴されることを恐れて、いつわりの報告をしたのである。
「そうか」
デリク三世は顔を異様に歪《ゆが》めた。娘の安否を訊きたかった。しかし、どうしてもそれを問うことができなかった。大広間で見捨てて逃げた負い目が、かれに娘のことを口にするのをためらわせるのだ。
「任せる」ややあってデリク三世は、ポツリと言った。
「すべてをお前に任せる。存分にやれ」
「ありがたき幸せ!」
ゴッドフレードは一礼し、立った。
「そこの者!」
本陣を守る騎馬隊に声をかけた。
「十騎あまり、わしに従え! 手柄をたてるか死ぬかのどちらかだ。志願せい!」
すかさず十二騎が前に出た。
「よし!」
ゴッドフレードはうなずき、小者が轡《くつわ》をとる自慢の駿馬《しゅんめ》に一挙動で飛び乗った。そのまま騎馬隊の先頭に立つ。
「行くぞ!」
十三騎が一列になり、怒濤《どとう》の進撃を開始した。歩兵があわてて道をよける。めざすは自軍の右翼。ギンナルの主力が突っこんだ激戦の場だ。
「どけどけどけい!」
ときならぬ合戦にうろたえ、右往左往する兵士たちを怒鳴りつけ、大地を鳴轟《めいごう》させて馬を駆る。
一気に最前線に躍りでた。
劣勢にあえいでいた兵士の問から一斉に鬨《とき》の声があがった。グルスノルン一の猛将が血と恐怖を撒き散らしにきたのだ。敵に死を! 味方に勝利を!
ゴッドフレードが、腰の大|段平《だんびら》を抜き放った。ひときわ長い馬上刀だ。陽光をきらめかせ、殺戮《さつりく》の芳香を戦場に漂わせる。
ひとりの歩兵が槍を構えて、ゴッドフレードに迫った。武勲を狙っての、強引な襲撃だった。大段平がゴッドフレードの左肩上から右足下へ、銀色の尾を引いた。
声もない。兵士は両断され、血にまみれてむくろと化した。
ゴッドフレードは血刀を高く振りかざす。
グルスノルン軍が、どっと勢いづいた。
「つづけっ!」
一声咆え、ゴッドフレードは馬の腹を蹴った。十三騎が阿鼻叫喚の地獄を駆け抜けた。
首が飛び、剣が舞い、鮮血が大地を赤く染めた。暴風だ。十三騎は死を運ぶ暴風である。人の力では止めようがない。
ギンナル軍の騎馬隊二十余騎が、ゴッドフレード隊の前に立ち塞《ふさ》がった。剣を手に正面から挑みかかる。数の上では絶対に有利だ。
「しゃらくさい!」
ゴッドフレードはせせら笑った。歯を剥《む》き出し、段平を振って十二騎の騎馬を両翼に展開させた。歩兵がわらわらとむらがるが、問題にしない。さすがに命を捨てた豪の者、来るかたはしから蹴散らしていく。
ギンナル軍の騎馬隊も展開した。しかし、その動きは、ゴッドフレードの果敢な指揮に較べて、はるかに鈍い。
騎馬と騎馬とが交差した。
鬼神という言葉が一将軍に使われてよいものなら、この日のゴッドフレードは、まさしく鬼神であった。大段平を自在に操り、寄せくる敵はただの一刀ですべて斬り伏せる。その無造作な太刀《たち》さばきをかわせる者はひとりとしていない。ある者は胸を裂かれ、またある者は頭を割られて落馬する。悲鳴と喊声《かんせい》が錯綜した。
騎馬隊がすれ違い、二手に分れた。
ゴッドフレードの隊は十三騎のまま、一騎たりとも欠けてはいない。一方、ギンナル隊の精鋭は無惨だった。残るはわずかに八騎。一合にして、二十騎近くを失ったのである。
隊伍が砂の城のように崩れた。押し寄せるグルスノルン軍は巨大な波だ。ギンナル軍ははしから呑みこまれ、二度と浮上してはこない。
敗走に移った。
その中をゴッドフレードの騎馬隊が、縦横無尽に駆けめぐった。強者の、嵩《かさ》にかかった猛攻だ。通り抜けたあとには歩兵、騎兵を問わず、ギンナル軍の屍体の山。敗走がさらに混乱し、もう組織だった動きはどこにも見られない。分断に次ぐ分断である。反撃を画する気力はとうに失せ、今はただ潰滅《かいめつ》を待つだけという有様になった。
そこへ、ギンナルが戻ってきた。
「逃げるな! 踏みとどまれ!」
声をからして叱咤《しった》するが、もはやそれを耳にする者はひとりとしていなかった。恐怖が先に立ち、逃げまどうことに夢中で、何も聞こえず、何も見えはしないのだ。
「おのれ!」
ギンナルはゴッドフレードを求めて、馬の首をめぐらした。かれにつきしたがう者は、わずかに先ほどより行を共にしている十六騎ばかり。あとの者はすべて我を忘れた烏合《うごう》の衆だ。軍ではない。むろん味方でもない。
ゴッドフレードがいた。
黒ごしらえの甲冑を身につけ、赤いマントを長くひるがえしている。手には朱に染まった大段平。顔は黒髭で判然としないが、その勇猛さ、その逞しさ、まさしく敵将ゴッドフレードに相違ない。
馬の腹を蹴り、手綱を振った。戦闘は得手ではないギンナルだが、ここで後ろに退いては永久に負け犬で終わってしまう。自軍は打ち破られ敗走の途次にあるが、しかし、まだ決定的な負けではない。ゴッドフレードひとり――ただのひとりを倒せば、戦況は逆転できるのだ。ならば総指揮官たる者、ここで命を賭けねばいかにする。剣技が立たねば、他の騎兵が攻撃しやすいようにおとりになればよい。ギンナルにかまけて隙をみせれば、いかに猛将といえども、討たれることはあろう。
佩刀《はいとう》をすらりと抜き、切っ先を天に向けて、大声で叫んだ。
「見参! 我こそ“オーディンの戦士”ギンナルなり! オルドール公ゴッドフレード、いざや見参!」
「おうさ!」
ゴッドフレードが応《こた》えた。
ギンナルは進路を右に転じた。ゴッドフレードがマントをはためかせてそれを追い、横に並ぶ。
「誰《だれ》かと思えば、傴背の小男」ゴッドフレードは馬上よりあざけった。
「さても醜いやつばらよ! “オーディンの戦士”とはかたはら痛い、その面妖な素っ首、今すぐ叩き落としてくれるわ!」
「おもしろい!」ギンナルは呵呵《かか》と笑った。
「口先で勝てれば、兵士はいらぬ。つべこべとぬかさずにかかってこい!」
「よくぞ、言うた!」
ゴッドフレードは、並の者なら両の腕でも扱いかねる馬上刀を軽く片手で振り上げ、素早く馬を寄せるとギンナルに斬りかかった。
大気を打つ鋭い音。
大段平が空《くう》を断つ。
「どうした?」
ギンナルがからかった。ギンナルの駆る馬は馬体こそやや小さく、直線でのスピードは他の馬に劣るものの、敏捷さでは群を抜いていた。いわば、ギンナルのような馬なのである。さしも猛将の一閃も、寸前でひらりとかわされては、刃を返して斬ることさえままならない。ひゅんひゅんと、ただむなしい音をたてて振り回されるのみだ。
「卑怯者め!」
ゴッドフレードが、ののしった。鼻から下が髭に覆われた顔は、屈辱からくる怒りで真っ赤だ。
「ほざけ!」
もとより正面から闘う気のないギンナルは、意に介さない。堂々と逃げ回る。
「情ないやつ、それでも一軍の将か?」
盛んに煽《あお》り立て、ギンナルのあとを追うが、ゴッドフレードの段平は、ギンナルをかすりもしない。
「ええい、くそ!」
戦場を端から端まで駆けめぐった。いつの間にやらゴッドフレードに従う十二騎はバラバラになっている。しかし、あたかも陽炎《かげろう》のように身をかわすギンナルに翻弄されるゴッドフレードは、一向にそのことに気がつかない。
ゴッドフレードをギンナルの率いる騎馬隊が取り囲んだ。
「そうか」瞬時にしてゴッドフレードは悟った。
「これが狙いか!」
いきなり馬の向きを変えた。敵はギンナルではない。やつは将みずからおとりになったのだ。こざかしいが、骨のあるやつ。
段平が、円を描いた。
首が二つ、垂直に舞い上がった。
「ちっ!」
ギンナルは馬を戻した。さすがにゴッドフレード、目論見どおりにはいかぬ。
囲んでいた騎馬隊のうち、四騎が一斉に打ちかかった。
「いかん!」
ギンナルは止めた。これでは、ギンナルが来る前の戦法とまったく同じだ。ゴッドフレードが、もっとも得意とする乱戦である。
だが、間に合わない。
たちまちにして四騎は大段平の餌食となった。血煙があがり、馬が棒立ちになった。首や胴を失ったからだが、ゆっくりと地に落ちた。ゴッドフレードは、勝利の高笑いをあげる。もはやギンナルは、相手にしないのだ。
「おのれ!」
ギンナルはギリギリと歯噛みした。勝てない。どうしても勝てない。
再びゴッドフレードという名の暴風が、戦場を席捲《せっけん》しはじめている。ギンナル軍の敗走は、もうどうしようもないところまで、きていた。
15
ハリィデールとミザーラは、ガーツ砦の中庭にいた。
グルスノルンの兵士が、わらわらと集まった。先にハリィデールがグングニールの槍の電撃で打ち倒した屍体が、そこにはるいるいと転がっている。
ミザーラを右横に置いて、ハリィデールは粛粛《しゅくしゅく》と進んだ。集まった兵士は三、四十人あまり。手をだすことができず、遠巻きにしてハリィデールを見つめている。ミザーラを人質と思っているのだ。王の愛娘を死なせたとあっては、たとえ美獣を仕留めようとも、兵士たちの首が飛ぶ。
兵士のひとりが前にでた。
「ミザーラ様を放せ!」
せいいっぱいの虚勢を張って、叫んだ。
「正々堂々と、我らと立ち会え!」
別の兵士も喚いた。ひどくおびえてはいるが、これだけの人数ならばという楽観もなくはない。
「離れていろ」
目を正面に据えたまま、ハリィデールは小声で言った。
ミザーラは十歩ばかり、そろそろと後退《あとずさ》った。その右手にグングニールの槍がある。にもかかわらず、そのことを兵士は誰ひとりとしていぶかしまない。耳目がすべて、ハリィデールの挙動に集中しているからだ。
ハリィデールは動かない。両手をだらりと下げ、隙だらけの構えで、ただ突っ立っている。
にじり寄るように、兵士たちは間合いを詰めた。
叫び声をあげ、五人ほどが一斉に斬りかかった。
ハリィデールが動いた。黒い影かと見まがう速さで、かれは右へ走った。
鮮血が迸る。
ハリィデールはくるりと一回転した。正面に四人、一列に立っている。ハリィデールに回りこまれたことすら、しかと気がついていない。すり抜けるように剣を揮《ふる》った。四人が次々と血しぶきをあげた。腹、胸、頭。ぱっくりと口をあけ、はみだした内臓が、大地を汚す。最初に刎ねた男の首が、どさりと落ちた。と、同時に、五人のからだが、くたくたとくずおれた。
「次は?」
ハリィデールが訊いた。誰も動かず、誰も答えない。
「では、こちらから行く」
血刀を手に、ハリィデールが躍りこんだ。わっ、とおびえた兵士たちが左右に割れた。ハリィデールはいさい構わず手近な者から斬り伏せた。たちまちにして屍体の山が築かれる。ようやく何人かが逃げまどうのをやめた。それにつられて他の者も態勢を整えた。
乱戦になった。
「姫さま!」
二人の兵が、ミザーラのもとに駆けてきた。美獣を相手にするよりも、姫を救って手柄とすることを考えた者どもである。どちらも隊長格だ。
「こちらへ」
ミザーラを安全な場所に導こうとした。
グングニールの槍が、鈍く光った。
「がっ!」
喉を貫かれ、ひとりが血泡を吹いた。
「姫さま?」
いまひとりは茫然として立ち尽くす。
ミザーラは槍を引き抜き、その勢いで石突きをその兵士のみぞおちに叩きこんだ。
ぐえ、と呻《うめ》いて、兵士はからだを二つに折った。ミザーラはその背中に、真上から槍を振りおろした。穂先は背骨を砕いて腹に抜け、兵士はショックにひくひくと痙攣《けいれん》した。槍を抜き、とどめに胸を突いた。
兵士は絶息した。
槍を腋にたばさみ、ミザーラはハリィデールを見た。
ハリィデールを囲む兵士が、わずか四、五人に減っていた。残る兵士は囲むというよりも、逃げまどっているのだ。
兵士を追って、ハリィデールは中庭をでようとしていた。ミザーラは駆け出した。いっときでも、ハリィデールのそばを離れたくなかった。
兵士とハリィデールとミザーラは、一団となってガーツ砦の外に出た。
そこには、新たな兵が集結していた。
ハリィデールに追われていた兵士が、その中に逃げこんだ。集結した兵士は、指揮官のゴッドフレードが本陣に戻ったため、砦の門前で次の命令を待っていた傭兵たちだった。
そこへ敵が向こうの方から飛びこんできたのである。
三百人を越す兵のかたまりが、騒然となった。
ハリィデールは、あわてない。
すっと軍勢の奥にもぐりこみ、剣を左右に薙《な》ぎ払った。大胆というか無謀というか、意表を衝いた戦法だ。昔《いにしえ》のいかなる英雄豪傑といえども、これほどまでに危険なマネはしなかっただろう。みずから包囲の中央に飛びこんでいったも同様である。
さすがにミザーラも、そこまでは辿りつけない。ガーツ砦の門前に佇み、成り行きを硬い表情で見守っている。
軍勢がわっとばかりに、四方に広がった。何かこう一斉に逃げ出すような動きだった。
――いや、逃げたのである。ハリィデールのもたらす無差別の死から。
ハリィデールは、斬って斬って、斬りまくった。わずかでも自分の間合いに侵入した敵は、すべて斬り伏せた。ひとりの例外もない。背後にまわろうが、横から突こうが、上に跳ぼうが、剣は確実に相手の急所を捉えた。
剣がなまくらになった。
左手で敵の剣をもぎとり、役に立たなくなった方を投げ捨てた。敵は何百人とおり、取り替える剣もまた何百振りとあった。
ハリィデールの剣の舞いはいよいよ凄まじく、兵士たちで積極的に闘おうとする者はひとりとしていなくなった。両断されるのは、すべてうしろから押し出されてきた兵士だ。
周辺の兵は、もう自陣めざして逃げはじめている。
ミザーラからハリィデールが見えた。
槍を風車のように振り回し、ミザーラはハリィデールのもとに走った。
逃げまどう兵士の波が、ひときわ大きく割れた。
ビクン、と筋肉を震わせ、ハリィデールは振り返った。割れたのは、かれが移動したからではない。何か別の理由だ。
巨大な黒い影が二つ三つと目にはいった。
馬だ! 馬が軍勢に加わったのだ。
ハリィデールは斬れ味の鈍った剣を替え、ぐっと低く身構えた。
「待って!」
ミザーラが声をかけた。
「待って! 違うわ。あれは……」
馬の前肢が跳ね上がり、数人の兵士を左右に蹴散らした。馬は、三頭。うち二頭に兵士がまたがっている。兵士の装備はまちまちだが、馬の横腹にはどれもルーンを織りこんだ布がかけられている。ギンナルの騎兵だ。ハリィデールに馬を届けにきたのである。
「何て連中なの」
ミザーラはあきれ、首を振った。命知らずなどという生やさしいものではない。敵のただ中に、たった二騎で馬を届けにくるとは。
ハリィデールが威嚇の声をあげ、騎兵を囲む兵士に躍りかかった。滅多裂きである。情容赦も何もない。恐怖で兵士が散り散りになり、二人の騎兵が自由になるまで腕を揮った。剣は数人を斬ったところで使い物にならなくなった。放り捨て、素手で相手をした。新たな剣を奪っているヒマはない。拳で顔面を粉砕し、足で急所を蹴りつぶせばいいのだ。
「美獣王!」
騎兵のひとりが呼んだ。おもてをあげれば、もう、すぐ近くにまで来ている。
「この剣を!」
一振りの剣を投げてよこした。馬上刀ほどではないが、革鞘《かわざや》におさめられた、かなりの長刀だ。
ガッと掴んだ。ずしりとくる重みが心地よい。
鞘《さや》を払った。
鍛鉄の輝きが、鈍く双眸《そうぼう》を射る。
ひと目で名刀と知れた。この迫力、この重量。おそらくは名のある黒小人が鍛えし業物《わざもの》であろう。並の剣ではない。
――ギンナルだな。
ハリィデールの口の端につと笑いが浮かんだ。黒小人と親しいギンナルが、ハリィデールのために造らせたに違いない。その証《あかし》に、重さも大きさも、ハリィデールが手にしてこそ、ふさわしいものだった。
「右に!」
甲高い声がした。ミザーラだ。反射的にからだが動いた。たったいま受け取ったばかりの剣が、真横に振られた。
首が三つ、噴出する鮮血とともに宙に舞った。手応えはまったくなかった。剣が触れると同時に、首は胴を離れていた。
ミザーラが、ハリィデールの左の腕にすがりついた。
二頭の騎馬が並んだ。右の騎兵が、左の騎馬に飛び移った。空馬が二頭になった。
騎兵が手綱を放した。馬がこちらにくる。止めようとする者はいない。
一頭の轡《くつわ》を把《と》り、ハリィデールが飛び乗った。つづいてミザーラももう一頭にまたがる。二人の騎兵を乗せた馬が、総崩れになった軍勢の中から離脱した。ひとりがついてくるように手を振っている。
「はあっ!」
ハリィデールが馬に蹴りを入れた。鞘を捨ててしまったので、剣は抜き身のまま前方にかざしている。ミザーラは槍を腋にたばさみ、わがままいっぱいに育てられた小娘とも思えぬりりしさだ。
グルスノルンの兵がまた、剣を構えてむらがってきた。ハリィデールの剣が疾《はし》り、襲いくる兵士たちを無造作に屠《ほふ》っていく。美獣の敵ではない。敵は、この先にいるのだ。
ハリィデールは戦《いくさ》の中心、荒れ狂う暴風の源へと向かっていた。
16
奇跡が起こった。
ギンナル軍の敗走が、止まったのである。度を失い、逃亡する一方だった兵士たちが、突如として豹変した。その場に踏みとどまり、さらには反撃すら開始したのだ。
奇跡をもたらしたのは、一頭の騎馬にまたがった二人の騎兵であった。二人は昂奮に頬を赤く染めて大声を張り上げ、戦場を風のように疾駆した。
「美獣王だ。美獣王がまいられたぞ!」
声はこだまし、反復され、さざ波のように戦士たちの間に広がっていった。
「美獣王?」
「美獣王だと!」
「我らが王だ!」
ギンナル軍に力が満ちた。
美獣王。それこそギンナルがかれらに約束した、栄光の超人だった。盗賊、詐欺師、女衒《ぜげん》……世間のはみだし者たちにギンナルは説いた。オーディンにつかわされた偉大な勇者が、かれらを率いて群雄割拠《ぐんゆうかっきょ》するミッドガルドを統《す》べると。
そしてギンナルは名だたる傭兵の集まる浪人市場に赴き、かれらにも弁舌を揮った。親しい黒小人に金塊を借り、それを配って美獣王の名を広めたのだ。
ならず者も傭兵たちも、美獣の名をとうに耳にしていた。かれらの間に噂が伝わるのは早い。デリク三世が二万、勇猛で鳴るオルドール公ゴッドフレードが三千の兵を繰り出してようやく取りおさえた神々の戦士、美獣ことハリィデールの名は、ギンナルさえ目を剥く尾鰭《おひれ》を伴って、その筋の世界に深く浸透していた。
美獣王のもとに参ぜよ!
ギンナルが放ったこの激《げき》は、当の本人が驚くほどの共感をもって迎えられた。誰もが英雄を待望し、誰もが乱世に倦《う》んでいたのだ。
ギンナルが“イミールの背骨”に近いとある山村で反乱軍“オーディンの戦士”の旗挙げを細々としてから、わずかに一か月後、グルスノルン全土から参集した兵士は、実に八干をこえていた。
勢いは勢いを呼び、弾《はず》みは弾みを生む。徒党を組み、反乱の手はじめとして、各領の砦を襲いだした“オーディンの戦士”はたちまちのうちに二万の兵士と数万の潜在的協力者を持つ組織に発展した。これはグルスノルン四十万の民の二、三割にもあたる勢力である。
かれらはみな、美獣王という救世主のために集い、命を賭《と》し、青春を捧げたのだ。
ミッドガルドを統べる者――美獣王。
その名こそ、かれらの力の源流であった。
奇跡は、いともたやすく成ったのである。
そして、先触れの騎兵につづいて、美獣王がきた。
他を圧する巨躯、炯炯《けいけい》と光る双眸、巌《いわお》のごとき筋肉、怒気に逆立つ黄金の髪。手には黒小人ジュバルの鍛えし白の魔剣。そのうしろにつき従うは、たおやかな中にもりりしさを秘めた美少女。噂のグングニールの槍は、その美少女がたばさんでいる。
美獣王! 美獣王!
どよめきともまごう叫びが戦場を揺るがした。敗走は追撃にかわり、勝者は怯えきった敗走の徒となった。
「戻せ、戻せいっ!」
押し返されてくる自軍の兵にもみくちゃにされながら、ゴッドフレードはあらん限りの声を振り絞って喚いた。馬が逃げまどう兵士の勢いでくるくると回転し、気がつくと、わずかずつではあったが、本陣に移動しつつある。最悪の事態だ。傭兵は、強いときは軍神《チル》もかくやというほど強いが、いざ敗色濃しとなると、たちまちにして総崩れとなる。
「美獣王が、いかほどのことあろうか。一度は虜囚に落ちた反逆のやからだ。戻せ! 負けてはおらぬぞ! 怯えるな、戻せ!」
今のゴッドフレードは、先ほどまでのギンナルだった。兵はもうかれの言に耳を貸さない。逃げることのみに腐心している。
ゴッドフレードはギリギリと奥歯を噛み鳴らした。
何ということだ。せっかくここまで追いつめながら、ただのひとりが姿を見せただけでこの有様だ。されば美獣よ、我が仕留めて、この勢い、一息に逆転してみせるわ! いずれが真の将か、このふがいなき傭兵どもに、しっかと知らしめてくれよう。
騎馬に強く蹴りをいれ、ゴッドフレードは狂気のごとく逃げ場を求める兵士たちを、情容赦なくひづめにかけた。悲鳴があがり、血ヘドが飛び散る。内臓が破裂し、あるいは骨を粉微塵に砕かれて兵士たちはのたうちまわった。幾人かは痙攣するいとまもなく死に至る。
たてがみを激しく怒らせた黒駒が、ゴッドフレードを背に、宙を舞った。
何十人という兵士を飛び越え、ひらりと着地する。そこはもう、敗走兵の流れの外だ。あたりにうろうろする騎馬隊をまとめ、ゴッドフレードは再び、暴風となった。
何人かの反乱兵が、反撃の勢いにのって、ゴッドフレードめがけ、一斉に打ちかかってきた。憤怒に燃えたゴッドフレードには、絶好のうさ晴らしである。
馬上刀の一振りで右の二人。返すもう一振りで左の三人を叩っ斬った。
正面のひとりと背後の二人は、その太刀さばきの速さについていけない。槍、剣を振りかざしたまま、うろうろとしている。
さっと身を捻り、ゴッドフレードは大段平を水平に走らせた。安全な間合いをとったつもりでも馬上刀は驚くほど伸びてくる。二つの首が抵抗もできぬうちに直流の尾を引いて蒼空に躍った。
黒駒が一声高くいななき、前肢を跳ねるように振り上げた。正面の兵士の顔面に、強烈なひづめの一撃がめりこむ。
顎から上を微塵に砕かれ、二つの眼球をぶらぶらさせて、兵士は大地に叩きつけられた。
激戦の場に至り、ハリィデールはかえって悠然となった。
敵は求めずとも向こうからやってくる。走り回って捜すことはない。それに、まず何よりもかれの姿を自軍の兵士たちに見せてやる必要があった。美獣がここにいるのだ。主神から恐るべき力と使命を託されたミッドガルドの王となるべき英雄がここにいるのだ。とくと見ろ。自分こそ、諸君らの王だ。
七騎の騎馬が、左右からほぼ同時に立ち向かってきた。
王を守れとばかりに歩兵が阻むが、敵はかなりの手練《てだ》れらしく、それを問題にしない。鮮やかにかわし、美獣に太刀をあびせかけてきた。
その必殺の突きをハリィデールは無造作に受けた。
剣と剣が火花を散らした。
他愛もなく七振りの剣がはね飛んだ。
右腕が肩まで痺《しび》れ、騎兵たちは馬上でバランスを崩した。――そこまでだった。次の瞬間、騎兵たちはおのおのの首に振りおろされる魔剣の鈍い輝きを見た。一生の最後に見た、それはあまりにも鮮烈な光景だった。
肩から上を血だまりに変えた騎兵が、次々とハリィデールの視野から去っていった。馬はまだ、かれらの主が物言わぬむくろと化したことを知らない。
さらに歩兵を二十数人、騎兵を五、六人、斬った。ほんのまばたきする間である。
それだけでハリィデールは敵を失った。誰も挑もうとはしなくなったのだ。人は強い相手に闘志を燃やす。しかし、その相手がけだものだったらどうする。人を超えた者であったら何とする?
兵と兵との乱戦がひときわ激しくなった。ハリィデールのいる空間だけが、ぽっかりと空洞になったかのようだ。ミザーラでさえ、彼女の顔を知らぬ歩兵の攻撃を受け、グングニールの槍で奮戦している。
ハリィデールはゆっくりと首をめぐらした。
憎悪にたぎる凄まじい殺気をとつぜん感じた。並の兵ではない。それが、すぐにわかった。この精神力、この気魄《きはく》、ただならぬものが、その裡《うち》にはあった。
「貴様か」
正面に目を据え、ハリィデールは唸るように言った。
ハリィデールの周囲に渦巻く激闘の中から、まるで浮かびあがってくるかのごとく、黒駒にまたがったひとりの将軍が姿をあらわした。
オルドール公ゴッドフレード。
「また会ったな、けだもの!」
ゴッドフレードは、これみよがしに大段平を真横に薙いだ。
一陣の風が、その足もとから褐色の砂を巻き上げた。
まわりの喧噪は二人の間にあって、はたと絶えた。
「借りを返させてもらう」
ハリィデールの魔剣が、怒りの炎を映じて、まっすぐに突き出された。
切りとられた空間の中で、二人は無言のまま対峙した。
間合いを保って、馬がゆっくりと円弧を描く。馬同士もまた、対決しているのだ。
「はあっ!」
沈黙を破ったのは、ゴッドフレードだった。
大段平を振りかざし、馬に一蹴りをくれる。一気に間合いを詰め、突進してきた。
ガキッと音をたて、剣と剣が噛み合った。共に一歩も退かない。ハリィデールが受けたかたちだが、態勢そのものは、五分と五分だ。
どちらともなく、左右にわかれた。
再び対峙。
ハリィデールが討ってでた。
一合、二合、三合。
ゴッドフレードの腕が、びりびりと痺れた。ハリィデールの一振りは重く、激烈で、ゴッドフレードは、受けているだけで力を失っていく。
攻撃に回らねば、だめだ。
いったん退き、ほとんど間を置かずに反撃にでた。
上段、下段、一転して突き。
ハリィデールは、軽く受けた。ゴッドフレードは舌を巻く。力だけではない。これは見事な技だ。
十一、二合も交したろうか。いきなり、手首をぐいと掴まれた。
握りつぶされたかと思うほどの激痛。そして、バランスを失う感覚。
「ちいっ!」
ただ落ちるわけにはいかない。ハリィデールの手首もすかさず握り返し、それをひきずるように落馬した。黒駒もどうと倒れる。
腰から、尻もちをつくように落ちた。ハリィデールはひらりと舞いおりた。落馬したのではない。自分から馬を捨てたのだ。その気になれば、ゴッドフレードの手など、簡単に振りほどけたはずである。
すっくと立ち、地べたに転がるゴッドフレードを、ハリィデールは無表情に見おろした。
屈辱に赤面し、ゴッドフレードは即座に身を起こす。風が意外に強い。赤いマントが、大きくはためく。
大段平を構え、じりじりと左に回りこんだ。ハリィデールはほとんどその場を動かず、ただ足運びでその動きに対応する。
ゴッドフレードは、みずからの不利を悟っていた。馬上刀、裾をひきずるマント。いずれも騎馬戦のためのいでたちであり、地上で使われるものではない。ましてやこの風だ。自在に動くことすらままならぬであろう。
勝つことは考えない。唯一の負けない決着は、相討ちのみ。
ゴッドフレードは、先手を打った。矢つぎばやに剣を繰り出し、相手に反撃のいとまを与えなかった。とにかく追いこみ、捨て身の体あたりをかける。一か八かだ。肉は断たれるだろう。だが、自分は相手の骨まで抉《えぐ》る。
「でえいっ!」
右肩口に、必殺の袈裟懸《けさが》けを振りおろした。全身全霊をこめ、みずからの防御をガラ空きにして叩きこんだ。
刀身は、まっすぐにハリィデールの首筋に向かう。
――勝った!
ゴッドフレードはそう思った。ハリィデールの突きは、彼の予想よりも、まだ遅い。
しかし。
ふっと、ハリィデールのからだが消えた。
う?
いぶかしむ寸毫《すんごう》とてない。わずか髪の毛一筋のところで、ゴッドフレードの大段平は空を斬ったのだ。人間ではない。野獣の動き。
大きく泳いで、ゴッドフレードはたたらを踏んだ。恐怖に顔をひきつらせ、それでも、反射的に首をうしろにめぐらす。
眼前に、迫りくる死があった。
音も、声もない。
高く、はるかに高くゴッドフレードの首は舞い上がった。鮮血は奔流となり、垂直に昇って首のあとを追う。
大段平の切っ先が地面に刺さり、それに支えられてか、ゴッドフレードのからだは倒れなかった。血がどくどくと流れて黒ごしらえの甲冑を朱に染めた。
鈍い響きとともに、首が地に落ちた。
ハリィデールは身をかがめてそれを拾い、つと馬にまたがった。そして、冑をむしり取ると、長い髪を掴んでその首を頭上高くに掲げた。
大音声《だいおんじょう》を発し、堂々と宣する。
「聞けい、者ども! われは美獣王! オルドール公ゴッドフレードの素っ首、たったいま、この美獣王が叩き落とした。見るがいい! この首こそ、ゴッドフレードだ!」
戦場が、しんと静まりかえった。あらゆる闘いが途絶え、すべての目が、馬上にあるハリィデールと、その手に下げられた無念の形相すさまじきゴッドフレードの生首に注がれた。ハリィデールはつづけた。
「奮い立つがいい、者ども! グルスノルン最強の戦士は物言わぬ屍《しかばね》となった。もはやグルスノルンに将なし! 今こそ、敵王デリク三世を討つときぞ!」
「おお!」
と、鬨の声があがった。
「行けい、者ども! デリク三世が本陣、一気にもみつぶせ!」
「おお!」
何ものにも止められぬ怒濤の進撃がはじまった。
デリク三世の本陣は、歩兵、騎馬隊、弓隊と三重に囲まれていたが、かれらすべてをもってしても、その進撃の前にはなすすべもなかった。防備は次々と打ち破られ、兵は繰り出すはしから屍体と化していった。
いまや劣勢は覆うべくもない。
戦ではなく、一方的な虐殺だ。
これが、どのくらいつづいたろうか。
短い昼が終わって、陽が西に傾くたそがれどきである。
デリク三世は全軍に撤退を命じた。
グルスノルンが、破れたのだ。
二万五千の兵は、わずかに三千を残すのみとなっていた。
17
篝火《かがりび》が、明々と燃えていた。
闇の中に、大きな白い影がいくつも見える。野営の天幕だ。数は、わからない。千。いや、二千か。もしかしたら、もっと多いのかもしれない。そこに、きょうの戦いの生き残り、一万三千余名が深い泥のような眠りについている。ときおり、眠ったまま息をひきとっていく負傷者もいる。悪夢にうなされて何度も目をさましているのは、きょう初めて戦闘を経験し、人を殺した少年だ。声を殺してすすり泣くのは、つい先ほど埋葬した戦死者の中に三十年来の親友を見出した兵士である。
冬を目前にした|北の地《ツンドラ》の夜は長い。さまざまな人生を呑みこんで、傷ついた魂をとく癒《いや》すべく、戦場の夜は更けていく。凍てついた闇は、そんなためにあるのだ。
今、もっとも大きな天幕の前に、新たな篝火がいくつか、小者の手によって据えられた。傴背のギンナルを先頭に、天幕から何人もの指揮官が姿をあらわす。
別の天幕からやってきた三人の老女が大地に敷物を敷き、そのかたわらに酒と乾肉《ほしにく》を並べた。
深夜の評定《ひょうじょう》である。
男たちは車座に坐り、かれらの王を待った。
若い兵士に導かれ、ハリィデールとミザーラがやってきた。兵士の頬は、伝説の超人を前にして、赤く上気している。
男たちが、一斉に立ち上がった。
ギンナルがつと歩み寄り、醜い顔をいっそう歪めて、ハリィデールの巨大な両の手をとった。かすかにからだが震えている。
はっきりとしない、かすれた声で言った。
「お久しぶりです、美獣王」
口調が変わっていた。もはや俺お前ではなかった。あらたまった主従の間の口調になっていた。意識してそうしたのではない。自然になったのだ。“イミールの背骨”での主従の誓いから三か月、今やたしかにハリィデールは王であり、ギンナルはその臣下であった。
「よくやってくれた、ギンナル」
ハリィデールは答えた。ギンナルは大きくうなずいた。ふっと言葉がそこで跡切《とぎ》れた。
無言のまま、ギンナルは背後を振り返った。先ほどまでかれの坐っていた場所のとなりに、ひときわ立派な敷物が二枚、敷かれている。ギンナルはそこを指し示した。
「あれへ」
首をめぐらして、言った。
ハリィデールとミザーラは歩を進め、そこに腰をおろした。すぐにギンナルも、自分の座に戻った。
老女が杯に酒をついでまわる。
「将軍たちを御紹介申し上げます」
ひとしきり酒を酌み交してから、ギンナルが言った。車座に居並ぶ男たちは、十六人を数えた。いずれも不敵な面《つら》構えの戦士である。
「まずは、ズールの傭兵、灰色熊のドルム」
「おうさ!」
右手、もっとも遠い位置に坐る巨漢が、立ち上がってハリィデールに一礼した。身長を除けば、肩幅に腰回り、いずれもハリィデールよりもふたまわりほど大きい。
「そのとなりは、ザクートの村で盗賊団を率いていた、疾風《はやて》のイヴァル」
イヴアルは、痩身の剃刀《かみそり》のような雰囲気をたたえた男だった。ゆらりと身を起こし、薄く笑う。
「グルスノルン一の剣士と讃えられながら王の不興によりその地位を追われた元親衛隊長、ウォルダール」
体格はさほどでもないが、知的な顔つきをした色の白い青年がウォルダールだった。一見したところグルスノルン一の剣士とはとても思えないが、ギンナルがそう言うからには、そうなのだろう。
「次は……」
こうやって、ギンナルは十六人の将軍をつぎつぎと紹介していった。ギンナルが選んだ将軍は、ひとりひとりが特技を持ち、人物的にも、かなりの信頼をおけそうな者ばかりだった。さすがにこそ泥とはいえ、二十数年もの間、裏街道専門に生きてきただけのことはある。人を見る目は、確かなようだ。
ハリィデールは満足した。装備はまちまちで、恐ろしく汚れた軍隊だったが、とにもかくにも、わずか三か月でこれだけの陣容が整ったのだ。ハリィデールは、あらためてギンナルの手腕に感心せざるを得なかった。
「ところで」
将軍の紹介を終えたギンナルが、楽しげに言った。
「そちらの御婦人の紹介を願えないでしょうか、陛下。おみうけしたところなかなかに高貴なお顔だち。戦場でのお働きとあわせて、若いながらもさぞや名のある御令嬢と察せられます。どこでお連れになられたかは存じませぬが、せめてお名前なりとお聞かせ願いとうございます」
「高貴は間違いない。名も、ある」ハリィデールは焦《じ》らすように、手にした杯を干した。
「グルスノルンの王、デリク三世がひとり娘、ミザーラだ」
「げっ!」
一同はたまげた。
「でっ、では捕虜でござるか?」
「しかし、戦《いくさ》の場では、われらに味方した」
「いったい、これは……」
「あたくしは、捕虜などではありません」
凛《りん》、と声を発し、ミザーラが立ち上がった。
「…………」
将軍たちはおし黙り、呆気《あっけ》にとられてその姿を見つめた。天性より備わった威厳があたりを圧し、その美しさは、まばゆいほどだ。ハリィデールは素知らぬ顔をして、杯を傾けている。
「あたくしは、ハリィデールと一緒にいたかっただけ。そのために必要なことをしたのです」
ミザーラはそれだけ言うと、その細いからだをふいとひるがえした。
ハッとする間もない。
明りの届かぬ深い闇の中に、するりと溶けこんでいく。
ギンナルが、近くの老女に素早く目くばせをした。老女はうなずき、ミザーラのあとを追った。
「がはははは」
ギンナルは豪快に笑った。
「いやもうまったく、女子《おなご》の心は、わかりもうさぬ。それがしのように醜い者には女は無縁。何がどうなっているのやら」
大声でそう言いながら、ハリィデールの杯に酒をついだ。しらけかけていた座に、陽気な空気が戻った。
「いかがですかな、この顔ぶれ?」ギンナルは訊いた。
「御大将の御言葉、まだたまわっておりませんが……」
「見事の一語に尽きる」ハリィデールは力をこめて言った。
「正直のところ、これほどの傑物が揃うとは思っていなかった。これもみなギンナル、お前のお蔭だ」
「とんでもござらぬ!」ギンナルは、あわてて両の手を振った。
「これらの者は、ひとり残らず、美獣王の名のもとに馳せ参じたのでござる。それがしの力ではありません。それがしが声をかけただけでこれだけの人間が集まったら驚天動地。すべては、あなたの御名があったからこそのことです。今はあなたが陽で、それがしが陰。陰は陽のために働くのです」
「なるほどな」
「さあさあもう一杯」
ギンナルはハリィデールの杯に、またもやなみなみと酒をついだ。そして、念を押すようにおどけて言う。
「しかし、集まったとはいえ、ほとんどが傭兵。この軍勢、ただでは動きませんぞ」
「それは、わかっている」ハリィデールは悠然と答えた。
「戦《いくさ》が終われば、土地、黄金は望みのままだ。そんなものは俺にはいらん」
「おお!」
と、どよめきが将軍たちの間に起こった。意外の念の強い、驚きの声だった。物欲のない王など、かれらの知識にはない。しかし、ハリィデールは違った。ギンナルはこれをかれらに聞かせたかったのだ。
「これはこれは」ギンナルは手を打った。
「いやはや、戦のあとのツケの支払いが、さぞや大変なことでござろうな」
一同の顔を見渡し、呵呵《かか》と大笑した。
ギンナルは変わった。――と、ハリィデールは思った。もはや、こそ泥をやっていた〈道化の〉ギンナルの面影はどこにもない。みめかたちは醜いままだが、そこにいるのは有能無比なハリィデールの片腕であった。
「ときに」ハリィデールは、つと言った。
「明日のことを考えねばならんな」
「しかり」
ギンナルはいずまいを正した。口もとから笑みが消え、わずかだが表情が厳しくなった。
「明日は、リンデックを陥《おと》す」
ハリィデールは無造作に言った。
空気が、ぴんと音をたてて張りつめた。
「追撃に移るのですな?」
ウォルダールが、確かめるように訊いた。
「今ごろデリク三世は、城を固めるのに汲汲としておろう」ハリィデールは酒を一息であけ、空になった杯を地面に投げ捨てた。
「グルスノルン全土から腑抜《ふぬ》けの将を寄せ集めてな」
「ゴッドフレード亡きあと、グルスノルンに将はおりませぬ」
うなずきながら、ギンナルが言った。
「ここを払暁《ふつぎょう》に発《た》って、リンデックには、いつ頃に着こう?」
「されば」と、ギンナル。
「昼をすこしまわったあたりでござろうか」
「兵の疲労はどうかな?」
「ほどよくほぐれた頃かと」
「ならば明日、リンデックは陥ちる」
ハリィデールは断じた。
「先陣はそれがしめに」
ドルムが言った。
「許す」
ハリィデールが答えた。
「ちいっ、だし抜かれたわ」イヴァルがぼやいた。
「こいつは技《わざ》も速いが、口も速い」
どっと笑いが巻きおこった。
「腕が鳴る! 腕が」
別の将軍が喚いた。酒がまた、酌み交されるようになった。
「こちらです」
若者が言った。
こぢんまりとした天幕である。中で火が焚かれているらしく、ぼおっと明るい。
入口の布をまくりあげ、ハリィデールは天幕にはいった。中央に小さく炎をあげる焚火があり、そのまわりに、毛皮がうず高く積みあげられている。
毛皮のひと山が、むくりと起き上がった。
ミザーラが、顔を出した。
「何をしている?」
ハリィデールは腰をおろした。ミザーラは焚火をはさんだ反対側にいた。
「あなたを待っていたのよ、ハリィデール」
ミザーラは、まとわりつくような声で言った。
「ここは、俺の天幕だ」
「あたしの天幕でもあるわ」
ミザーラのからだから、毛皮がずり落ちた。衣裳が変わっていた。まあたらしい薄衣だ。色も淡く、からだの線が、ほぼ完全に透けてみえる。ひどく挑発的な代物である。
「あの老女が案内したのか?」
「評定の場でも言ったでしょ」ミザーラはかすかにうつむき、いたずらっぽくハリィデールを見つめた。
「あたしはいつも、あなたと一緒よ。離れないわ」
「勝手にするんだな」
ハリィデールは、ゴロリと寝転がった。
「勝手にするわ」
ミザーラはハリィデールの横にきた。柔らかい胸が、ぴたりと彼の背中におしつけられた。匂いが甘い。しなやかな腕が、腰にまわされた。
「明日は早いぞ」
それだけ言って、ハリィデールは浅い、野獣の眠りにおちた。
珍しく、夢を見た。電光狼、ドロモスの夢だった。評定では黙っていたが、敵には奴がいた。
18
デリク三世が姿をあらわした。兵士たちは一斉に直立不動の姿勢をとり、敬礼した。
リンデックを取り囲む、長い城壁の上である。前方に広がっているのは、蕭蕭《しょうしょう》たる荒野だ。そこにグルスノルン全土から呼集した一万八千の兵士がたむろし、出撃の布令を今や遅しと待ち受けていた。夜を徹して駆けつけてきたので疲れていないかといえばそうではなかったが、しかし、久かたぶりの大きな戦いを前にして、若い兵士たちはみなひどく昂奮していた。
「ポルトス!」
デリク三世は、参謀を呼んだ。
「これに」
城壁の端で物見をしていたポルトスは、あわててとって返した。
「敵は今、どこらあたりにきている?」
「されば」ポルトスは遠い目をした。
「間もなくグードの村を過ぎる頃かと」
「グードの村か」
「ここまでは二ティズあまりの距離でしょう」
「われらがこれより出陣したら、どこが合戦の場となろうかな?」
「おそらくは……ルバルの丘かと思われます」
「なるほど」
「陛下」ポルトスは訊いた。
「討って出られるのですか?」
「そのつもりだ」
「リンデックには兵糧も水も充分にあります。日が経てば、援軍も増えるでしょう。それがしの意見としては籠城の方が有利かと存じます」
「いや」デリク三世は、かぶりを振った。
「討って出るのだ」
「しかし」
「控えい」
「はっ!」
ポルトスはかしこまった。
「気持ちはわかる」デリク三世は言った。
「だが、あの方が守って下さると約されたのだ。われわれは討って出て、勝つ! あのような匪賊《ひぞく》どもには負けはせぬ」
「あの方?」
「そうだ」デリク三世は傍《かたわ》らでひざまずくポルトスに視線を向けた。
「暗黒神殿のお告げだ」
「あっ!」
ポルトスの顔色が変わった。表情がこわばり、甲冑がカチャカチャと小さく鳴った。
「これより出陣する」デリク三世はつづけた。
「全軍に知らせよ」
「ははっ!」
ポルトスは、深々と頭を下げた。
ルバルの丘のふもとに至った。
はなってあった物見の若者が帰ってきた。転がるようにゆるやかな斜面を駆け降りてきて、ハリィデールの前に、ぺたりと平たくなった。
「おもてを上げ、報告せい!」
馬上からギンナルが言った。ハリィデールもギンナルも馬の背にまたがったままだ。行軍の途中なのである。
「敵は……」若者は、息を切らしながら言った。
「丘の向こうに布陣しております。その数およそ一万八千!」
「なんと!」ギンナルは目を剥いた。
「籠城をせずに出てきたか」
「さてはデリク三世、ドロモスに尻を叩かれたな」
ハリィデールが言った。
「お父さまは、もう電光狼のいいなり……」
ハリィデールと轡《くつわ》を並べるミザーラが寂しげに言った。ミザーラのきょうのいでたちは、娘とも思えぬいさましさだ。甲冑を着こみ、背には緋《ひ》色のマントをはためかせている。甲冑はからだに合うものがなかったので、老女たちに夜を徹してあつらえさせた革製のものである。胸あてに手甲《てっこう》、すらりと伸びた足はむきだしで、膝と足首に当てものが巻かれている。冑《かぶと》はない。腋にたばさむのは、いうまでもなくグングニールの槍。
「で、グルスノルンの軍勢は、すぐにも戦闘にはいることのできる態勢にあったか?」
ギンナルが、若者に訊いた。
「しかとは、わかりませぬが、敵もつい今しがたここに着いたばかりかと思われました」
「それは、なぜか?」
「進軍のなごりの砂ぼこりが黄色く舞っておりました」
「うむ」
ギンナルは大きくうなずいた。
「軍を三方にわけろ」
ハリィデールが言った。
「左翼と右翼に一隊ずつ、丘を巻くように進ませ、先陣のドルム隊とわれらは、丘を突っきって、直接グルスノルンの軍勢に突撃する」
「なるほど、先陣ができる限り敵軍を撹乱しておくのですな」
「そうだ」
「やってみましょう」
ギンナルは若者を退がらせ、全軍に伝令を走らせた。
そして、ハリィデールのすぐ脇に戻り、小声で囁《ささや》く。
「それにしても、野戦を選んだとは、どういうつもりなのでしょうか?」
「その方が決着が早くつくからだ」
「ですが……」
「あれを見ろ!」
ハリィデールは天を振り仰ぎ、指さした。
天には、俄《にわ》かに黒雲が生じ、それがみるみるうちに広がって蒼空が覆い隠されようとしている。
「電光狼の力だ」
「…………」
ギンナルに声はない。
「籠城などというまどろこしい戦い方では、あの力が存分に生かされないのだろう」
黒雲が光った。幕電である。雲の中で電光が渦を巻いているのだ。
あたりが、たそがれどきのように暗くなった。風が徐々に強まっている。馬が落着きを失い、浮き足立ちはじめた。
だしぬけに何百もの電光が、天空を切り裂いた。網の目のように走り、凄まじい雷鳴が耳を聾《ろう》せんばかりに轟《とどろ》く。
「進めえ!」
ギンナルが雷鳴に負けじと、大声を張りあげた。
軍勢が動きだした。
五千が左翼、五千が右翼にまわり、そして三千余がルバルの丘にとりついた。丘の三千は、騎馬隊が主だ。さして急ではない丘陵を、かなりの速度で駆け登っていく。
黒雲の動きはいよいよ激しくなり、電光はひっきりなしにその中を駆けめぐる。
丘の頂上に立った。
ハリィデールは、灰色熊のドルムを呼んだ。
ドルムがきた。
「見ろ」
ハリィデールは、眼下の光景を指し示した。ここからは、戦場が優に一望できる。すべては滔滔《とうとう》とつづく荒野だ。地平近くにリンデックの城郭があり、その先は海である。さらにその先は天空につながり、電光きらめく黒雲が、そこを占めている。
荒野には、グルスノルンの軍勢が、広く展開していた。
「一気に駆けくだり、中央になだれこむ」ハリィデールは言った。
「全力をあげて敵の内部をかきまわし、両翼からの攻撃のための捨て石になるのだ。もちろん敵の王の首を狙うのは、自由だ。いや、むしろ取った方がよい。その方がきゃつのためだ」
「はっ」
「敵の守護神が、力を貸している」
数千を越す電光が、いちどきに光った。
「心してかかれ。苦しい戦いになるぞ」
「はっ!」
「行け!」
「はっ!」
ドルムは馬の腹に蹴りを入れた。馬は棒立ちになり、それからくるりと向きを変えて、軍勢の中に走った。
「総員、突撃用意!」
ドルムの太い声が、大きく響き渡った。
ハリィデールは、ギンナル、ミザーラ、そして十五騎の騎馬隊とともに殿軍《しんがり》についた。
緊張がみなぎり、騎馬にも歩兵にも、その裡《うち》に力がふくれあがっていく。
ドルムの剣を持つ手が上にあがった。
堰《せき》を切られた急流のごとく、三千余の兵は逆おとしにルバルの丘をくだり、グルスノルン軍に突っこんだ。
と、それを待っていたかのように、電光が地に走った。
大地がまくれあがり、炎が地上をなめた。
ドルムの兵が、黒焦げになって舞い上がった。
「ちいっ!」
ハリィデールは舌打ちした。予想をはるかに超える凄まじい攻撃だった。さすがに電光狼。なまなかな力ではない。
わあっと喊声《かんせい》があがり、グルスノルン軍が動きだした。かれらもまた、この一瞬を待っていたのだ。
電光が次々と地上に突きささる。そのたびにドルムの兵は数十人と失われていく。しかし、ひとりとして進軍から脱落する者はいない。ハリィデールは、腰の魔剣を抜き放った。
グルスノルン軍に遭遇した。
血と悲鳴の飛び交う、この世の地獄があらわれた。
さすがに電光が地を撃つのをやめた。
敵も味方もはっきりせぬ、大混戦になった。
ハリィデールのまわりに、兵士が殺到した。二、三十人はおろうか。ぐるりと取り囲み、槍、剣を突き出している。ギンナルは相かわらず素早く動いて、その姿はもうどこにもない。ミザーラは、ハリィデールにぴったりとくっついている。
先につっかけたのは、ミザーラだった。相手が王のひとり娘とみて躊躇《ちゅうちょ》していると知るやいなや、グングニールの槍を揮って、左右に兵士を蹴ちらした。
兵士は逃げ、ハリィデールに向かってくる。
魔剣が唸りをあげて振り回された。
血が、塊となって、噴出した。一瞬の太刀さばきだ。頭を唐竹《からたけ》割りに割られて、数人の兵士が悶絶する。首もたちまちにして十個あまりが地上に転がった。
だが、敵兵は引きもきらず押し寄せてくる。一向に減じる気配がないのは、彼我《ひが》の兵力差のためだ。両翼からの強襲を狙って、ハリィデール軍は一万の兵を温存している。今の戦いは、一万八千対三干なのだ。
ハリィデールは斬った。見さかいなく斬りまくった。黒小人の鍛えた魔剣に、斬れ味の鈍る様子はまったくない。何も考えず、何も感じずに、ハリィデールはただひたすら、立ち向かってくる敵兵を斬り伏せた。
再び電光が左右に走った。
今度は数万本という数の電撃だった。戦場の両翼である。
ハリィデールはハッとなった。
すっかり失念していたが、もう両翼にまわった一万の兵が到着する頃合いなのだ。
すると、あの電光は!
光の剣が荒れ狂っていた。
大地を裂き、人を灼き、岩を砕く。はかない人間の技では、寸毫といえども歯の立たない恐るべき力だ。撃たれ、灼かれ、なすすべもなく殺されていく。
両翼の強襲部隊は、襲いかかろうにも、その場に釘づけにされて前進することができない。
グルスノルン軍は、さらに勢いづいた。
ハリィデールはいっそう奮戦するが、軍全体が押されているとあっては、その場にとどまることは不可能に近い。じりじりと退《すさ》りながら、寄せてくる敵を斬り倒すだけだ。混戦はますますひどく、周囲には、ほとんど味方の姿がない。騎馬隊も歩兵も、グルスノルンの者ばかりだ。
ふと気がつくと、ミザーラの姿がなかった。
ハリィデールの眉間に、深いしわが寄った。剣の柄が、血でぬるぬるとしている。もう数百人の血を、この魔剣は吸ったはずだ。
いつの間にか、小高い丘の上にいた。
ルバルの丘ではない。そのふもとにあるコブのような小さな丘だ。なだれのような進撃に押され、こんなところまで退かされてしまったのである。
そこからはルバルの丘の頂上ほどではないが、ある程度の見通しがきいた。
電光に阻まれて身動きならない両翼も、いまだに赤地の旗をひるがえして戦場を縦横に駆けめぐっているギンナルも、そこにいると、ひと目で見てとれた。戦いは明らかに自軍にとって不利である。
ハリィデールは知らず、電光狼の姿を求めていた。戦場に電撃を走らせている以上、きゃつめは必ずどこかにいる。デリク三世よりもまず、ハリィデールはかれを倒さねばならないのだ。さすれば、グルスノルンは打ち破れる。
ハリィデールの血が凍った。
電光狼がいた。
左手はるか、荒野のただ中だった。しかし、電光狼はひとりではなかった。娘がいる。ヒルドではない。いずれどこかに隠しているのだろうが、ヒルドの姿はない。娘は、騎馬にまたがったミザーラだった。グングニールの槍を構え、炎の激情を秘めて、電光狼と対峙している。
凍っていたハリィデールの血が、瞬時にしてたぎった。いかねばならなかった。倒さねばならなかった。電光狼こそ、すべての元凶なのだ。
「どけどけいっ!」
ハリィデールは、むらがる兵士をずたずたに斬り裂いた。倒れぬ者は、馬のひづめで蹴倒した。
剣の腹で馬を打った。馬は全力で走る。電光は、今は下火になっている。ドロモスが眼前のミザーラに気をとられているせいだろう。間に合ううちに行かねばならない。
いまひとつの闘いこそが、本当の闘いなのだ。
疾駆するハリィデールを見つけ、ギンナルが駆け寄ってきた。
「ギンナル!」ハリィデールは叫んだ。
「ここを頼むぞ! 俺は電光狼を討つ!」
戦場を離脱し、荒野に出た。
19
電光狼は、せせら笑っているように見えた。
ミザーラの頬は紅潮している。馬上で槍を構えて電光狼を見すえ、そのからだは小揺るぎもしない。かえって、馬の方が怯《おび》えていた。
――小娘が、しゃらくさいまねを。
ミザーラの意識の中に、電光狼の不吉な声が響いた。初めて聞く電光狼の声なき声だったが、あらかじめハリィデールから教えられていたので、ミザーラにさほどの驚愕はなかった。わずかに、肩をびくっと震わせた程度だ。
――お黙りなさい、ドロモス!
ミザーラは心の中に言葉を並べた。激しい憎悪が思考とともに渦を巻き、その憎悪ごと、電光狼に言葉をぶつけた。
――父をたぶらかし、あたしたちを破滅に追いやった電光狼! あなたこそ、真の敵なのです!
――なんとまあ、気の強いはねかえりだ。
電光狼の思考が、苦笑した。
――父親とは、えらい違いだな。あやつは小心で凡庸な、王とは名ばかりの男。逆らうことも知らず、闘うことも知らぬ最低の人間だった。
――お父さまの悪口は許しません。
――ままごとをやっているのか、お前は?
――おのれ!
キッと唇を噛み、ミザーラは馬上から電光狼に向け、グングニールの槍を突き出した。
電光狼はあわてる風もなく、ひらりとその切っ先をかわした。槍はむなしく大地を突いた。
――どうした?
電光狼が、からかう。
「ちっ!」
身をよじり、槍を振った。
がっきと、その穂先を電光狼が噛《か》んだ。
「く!」
押そうが引こうが、槍は動かない。
ひょいと電光狼が、かぶりを振った。
「あっ!」
バランスを失い、ミザーラは馬の背から落下した。空中で一回転して、背中から地上に落ちる。身が細く、からだが軽いので、衝撃はすくない。
電光狼は、くわえていた槍の穂先を離した。馬が、恐怖にかられて逃げていった。
ミザーラは、再び槍を手に、立った。
――けなげだな。
黒雲から電光が走り、ミザーラの足もとに突き刺さった。
「きゃっ!」
ミザーラははねとばされ、転がった。しかし、乾いた砂にまみれて真っ白になりながらも、ミザーラはよろよろと立ち上がった。
槍を振り回し、小走りで電光狼に向かう。
電撃が槍を撃った。
「!」
今度は、声もない。バッタリと倒れ、槍は宙に舞った。
新たな三本の電光が、槍を捕えた。電光は電光を呼び、槍は火花を散らして、そのまま空中に浮きっぱなしになった。
ミザーラが、ぎくしゃくとおもてを上げた。
――見ろ!
電光狼の思考が言う。
ミザーラは、ハッと息を呑んだ。
電光に捕まった槍が、いずこかへ運ばれていくではないか。荒野を走り、高みへ高みへと昇っていく。
いつしか、その姿が黒雲の中にみえなくなった。
――さて。
と、電光狼がミザーラに向き直る。
――降参するかね? それとも素手でやるのかな?
――負けてはいないわ!
炎を瞳に宿し、みたびミザーラは立ち上がった。両手を前に構え、じりじりと電光狼ににじる寄る
――ほう。
電光狼の双眸を、残酷な光がよぎった。
ハリィデールは、馬を停めた。
電光狼は、ハリィデールが来るのを待っていた。荒野の中にただ一頭、ぽつねんと立つ。
ミザーラは、どこにもいない。
――いや、ここにいる。
電光狼の思考が言った。
ドロモスは、ゆっくりと右に動いた。狼の巨体の蔭に、ミザーラが倒れていた。
白い肌は血にまみれ、革の甲冑が背中から腹にかけて、大きく引き裂かれている。喉も、噛み破られているようだ。大地が血を吸って、黒い汚染《しみ》が、丸く広がっている。
ハリィデールは、馬からおりた。
近寄って、たしかめるまでもなかった。ミザーラは死んでいた。今にも泣き出しそうな、悲しい死に顔だった。
ハリィデールの全身が、おこりのようにぶるぶると震えた。
筋肉が盛り上がった。髪が逆立ち、毛穴という毛穴から汗が噴き出した。しゅうしゅうと音をたてて、その汗が蒸発する。筋肉はますます脹れあがり、皮膚の上に血管が太く浮きでて、今にもはちきれそうだ。
ピタリと、震えが止まった。
右手に握った剣を、眼前に高く構えた。
――きさまを殺す!
刺すような思考が、電光狼を直撃した。
ドロモスは生涯はじめて、他人の思考によって動揺した。
――最後の闘いだ。
美獣の思考はつづいた。
――きさまか、俺か、いずれかがここで血を流し、息絶える。
――死ぬのは、お前だ!
ドロモスの意識が喚《わめ》いた。
――それは、どうかな。
ハリィデールは、ずいと前に出た。
――わしには、ヒルドがいる!
ふわりと、白い影が電光狼の横に浮かびあがった。影はかたちをとり、次第にはっきりとした姿になっていく。
ヒルドだ。美しい娘、ヒルドである。
ぞっとするほど無表情なヒルドが、電光狼の脇に立った。
――お前は、素手も同然だ。
電光狼は言った。
――グングニールの槍は、わしがいずことも知れぬ地の涯《はて》に飛ばした。もっとも、あってもなくても同じようなものだがな。
――ハリィデールよ。お前は美獣ではない。持てる力を失った、ただの人間だ。わしを殺すだと? かたはら痛い。そのなまくらで、何ができる。おとなしくわしの軍門にくだれ。
ハリィデールは、首を静かに横に振った。構えが、ゆっくりと変化する。力が筋肉の奥に、ぐうっと圧縮された。
ハリィデールが跳んだ。
電光狼も跳んだ。
剣が電光狼の背筋をかすめた。
数百の電光が走った。電光はすべて、ハリィデールに集中した。
ハリィデールが、燃え上がった。青白い炎があがり、それを剣が吸収していく。
ふっと炎が消えた。
ハリィデールが、大地に舞いおりた。電光狼も、ひらりと立った。ハリィデールの全身は、火傷で赤くなっていた。髪もいくらか、焦げたようだ。しかし、致命傷は負ってはいない。
――黒小人の剣か。
電光狼が言った。
――甘くみるのではなかった。
がくん、と、だしぬけにハリィデールの力が抜けた。剣が急に重たくなり、足が根でも生えたように動かなくなった。
金しばりである。
全力を投じて、首をうしろにめぐらした。
そこに、ヒルドがいた。両の眼が怪しく炯《ひか》り、じっとハリィデールを見つめている。力はますます失せ、指の間から剣がするりと抜け落ちそうだ。
「うおおおお」
歯を喰いしばり、あらん限りの気力を振り絞って対抗しようとするが、どうあっても、それは無駄なあがきにしかならなかった。かえって、弱まるのが早くなるようだ。
ぐぐっと腰を落とし、膝のバネをいっぱいにたわめて、身をひねるようにハリィデールは跳んでみた。右手に力を集中し、構えていた剣を、袈裟懸《けさが》けにヒルドめがけて振りおろす。
電撃が降ってきた。
雷鳴が天を覆う。
凄まじい音とともに剣が砕けた。黒小人の鍛えた、白の魔剣がである。
ハリィデールの左肩に激痛が走った。
鮮血が霧のようにほとばしる。剣の破片が突き刺さったのだ。
「く!」
ハリィデールは肩をおさえ、がくりと膝をついた。くらっと眩暈《めまい》がした。これで最期か。
――そう思った。
その時だった。
ヒルドが、金切り声のような悲鳴をあげた。いきなり、ハリィデールのからだが軽くなった。力が戻り、筋肉が再びパンプ・アップした。破片が傷口から抜けて弾け飛ぶ。そして、出血が瞬間的に止まった。
ハリィデールは、振り返った。
ヒルドが天を仰ぎ、硬直していた。
その視線の先を追った。
あっ、と声をあげた。
黒雲の間から電光がきらめいている。その電光をぬって、天上から流れるように下ってくるものがある。白い霧がなびき、黄金の輝きが、遠目にも眩《まばゆ》い。
九頭の真っ黒な馬がたてがみと尾を長くなびかせ、その背の上には甲冑を身にまとった九人の乙女が、またがっていた。真紅のマントをひるがえし、冑ははばたく翼をかたどったものだ。腰には剣、手には槍。
「ワルキューレ」
ハリィデールの口から、言葉が漏れた。
そう、それはまごうことなき、ワルキューレだった。
――そんな馬鹿な、そんな。
ドロモスの思考が、おろおろと伝わってきた。
ワルキューレは、おぼろな影だった。ぼんやりと透き通っており、からだを通して、向こうの景色が見えた。何か、かげろうのような存在だった。
先頭のワルキューレが、手にした槍を高く掲げた。
「あれは!」
ハリィデールは、思わず身を乗りだした。
それは、まぎれもなく、グングニールの槍だった。
20
二人の男女と一頭の狼は、茫然と立っていた。
何も考えられなかった。何もすることができなかった。ただ呆《ほう》けたように、天を仰いでいた。
「おねえさま!」
とつぜんヒルドが叫んだ。
「おねえさま、あたし!」
先頭のワルキューレが、ハリィデールの槍を肩の上に構えた。
腕が伸びた。
槍がゆっくりと手を離れ、宙を飛んだ。
幻のような槍は、途中でだんだんと色と輪郭を取り戻し、実体となった。まるでベールの向こうから、そのベールを突き破って、やってきたかのようだった。
槍が地上に達した。
ヒルドの胸を貫いた。
「はうっ!」
穂先が大地にもぐり、ヒルドは槍に支えられるようなかたちになった。
「おねえさま……」
かすかな声が聞こえた。最後に漏れた一息が、もしかしたらそう聞こえたのかもしれなかった。
ことり、とヒルドの頭《こうべ》が落ちた。
次の瞬間、彼女の姿が失せた。斜めに突き立った槍だけが、そこに残る。ヒルドのからだが、かき消すように失せてしまったのだ。
視線をワルキューレに戻した。
ヒルドがいた。
ワルキューレの馬に横たわり、薄い、どこか判然としない影になって。
ワルキューレがハリィデールを指差した。
――槍をお取りなさい。
すずやかな、まるで楽の音のような思考の声が、そう言った。
――取るのです槍を。
もう一度、繰り返された。
ハリィデールはあやつられるようにぎごちなく動き、槍の前に立った。そろそろと腕を伸ばし、その柄を握る。槍はたしかに実体だった。
大地から引き抜いた。
槍はぼおっと白熱する。
天に、目をやった。
ワルキューレの姿は、どこにもなかった。そして、上空を覆っていた暗雲が、すっかり晴れていた。空は真っ青に澄み、風もない。
――オーディンが。オーディンが……。
かすかな、繰《く》り言《ごと》のような思考を感じた。
電光狼である。
ハリィデールは白熱する槍を手にして、電光狼に向き直った。
電光狼がハリィデールに気がついた。
二人の目と目が正面から合った。
――待ってくれ!
電光狼は言った。
――待ってくれ、わしらの間には誤解がある!
――聞く耳を持たない。
ハリィデールは、冷たく言い放った。
――わしとお前は、本来、戦うべきではなかったのだ!
じりじりと後じさりながら、電光狼は、必死で喚いた。
――オーディンが介入した。考えられんことだ。よほどのことなんだぞ。この意味がわからんか?
――わからんね。
――わしを殺してはいかん。やつらの思うがままになる。記憶が戻らないままお前は永遠にさすらうことになるのだ。それでもいいのか?
――いいさ。
――よせ! わしの知恵を惜しめ。わしは千年の時を生きてきた。わしは何でもわかる。氷の女王のことも、オーディンのことも。
ぴくり、とハリィデールの頬がひきつった。
――氷の女王だと?
思わずつられて、訊いてしまう。
――そうだ、氷の女王だ。知りたくはないか、お前の素姓を。
――話せ!
――いいや、まだだめだ。
電光狼は小刻みに首を振った。
――今、話しては、聞いたあとすぐに、お前がわしを殺す。そんな目に遭うのは嫌《いや》だ。わしは千年の時を経てきた。この先もまだ千年二千年と生きていたい。
――話せ。
ハリィデールはグングニールの槍を突き出し、ひときわ明るく槍を発光させた。
――お前を、この場で討つ。
ハリィデールは言った。
――よせ! よすんだ、早まるな!
電光狼は、うろたえた。
――話す。すぐに話す。待ってくれ。
――よかろう。
白熱が元に戻った。
――もう少し、こちらに来てくれ。
電光狼が言った。
――これは、他に思考が漏れると、まずいことになる。思考をお前にだけ集中して話したいので、もう少し、こちらに近寄ってくれ。
――ああ……。
ハリィデールは、電光狼の眼前にまで歩んだ。
――もう少しだ。まだ遠い。
電光狼は、さらにハリィデールを誘《いざな》った。ハリィデールは、ドロモスのすぐ傍にまで近づいた。
――こうか。
――そこでいい。
電光狼は、ぬめぬめと光る真っ赤な口を、大きく開けた。白い、巨大な牙が、ずらりと並んでいる。鍛鉄すらも一噛みで砕く、強靭な顎だ。
――氷の女王はな……。
その先はなかった。電光狼はだしぬけにハリィデールに飛びかかった。距離もよし、タイミングもよし。電光狼にしてみれば、はずすことなどない絶妙の攻撃だった。
しかし。
電光狼の顎は、空《くう》を噛んだ。がきっ、と鈍い音をたて、牙はみずからの牙にぶつかった。
獲物がいない!
たったいままで、すぐそこにいたハリィデールが失せていた。電光狼はあせり、キョロキョロと周囲を見回した。
ハリィデールがいた。
電光狼の死角にいたのだ。目と鼻の先である。電光狼が行動を起こす直前に、くるりとそこへ回りこんだのだ。
電光狼は、弾《はじ》けるように跳んだ。
かなりの距離を置き、ハリィデールと対峙する。
――お前は敵だ。どこまでいっても、わしと対立する敵なのだ。
電光狼は、ようやく本音を吐いた。
――お前は殺さねばならない。それとも、わしが死ぬかだ。
――きさまが死ぬんだな、卑怯者。
グングニールの槍が、また激しく白熱した。
――お前には何も教えられない。
電光狼は言った。
――お前は危険すぎる。アスガルドにとっても、ミッドガルドにとっても、ニフルヘイムにとってもだ。お前には、死が一番ふさわしいのだ。
――言いたいことは、それだけか?
ハリィデールは、白熱するグングニールの槍を電光狼めがけて投げつけた。
電光狼は槍をかわした。
槍がハリィデールの手に戻った。
再び、投じた。
槍をかわすべく、電光狼は跳んだ。
大地にひび割れがはいった。
と、同時にハリィデールも跳んだ。
憎悪のありったけをこめた右の拳を、電光狼の鼻づらに叩きこんだ。電光をとりあげられた電光狼は、ただのあわれな狼でしかない。
ギャン、と啼《な》き叫んで、地に落ちた。
ハリィデールの手に槍がきた。槍は手の中でくるりと回って電光狼に向かった。
槍が電光狼の頸《くび》を貫通した。
――ぐああああ!
魂消《たまぎ》る悲鳴が、思考となってこだました。
紅蓮《ぐれん》の炎が、またたく間に電光狼を包んだ。
――馬鹿め、馬鹿め!
炎の中から、けたたましい思考の叫びがあがった。
――わしを殺した、お前は馬鹿だ。
――お前もわしと同じだ。わしがお前と同じように。お前は、わしを殺した。自分を殺したも同然だ。
――いつかお前も同じ目にあう。お前の運命もわしと同じだ。いいように使われて、その揚句、捨てられるのだ。馬鹿め、馬鹿め!
――神々など、くそくらえだ! 女王など、くそくらえだ! 美獣など、くそくらえだ!みんな死ぬんだ、みんな……。
思考はだんだんと弱くなり、さらに支離滅裂になっていった。
――馬鹿め、馬鹿め……。
その罵倒だけが、最後まで残る。
やがて、それも聞こえなくなった。
電光狼は、燃えつきた。
あとには、灰も残らなかった。
ハリィデールは、しばし、電光狼の燃えつきたあとに佇んだのち、ミザーラのもとに戻った。
すでに硬直のはじまっているミザーラのからだを抱え上げ、馬の背に乗せた。
自分も、馬にまたがった。
いつの間にか、戦場が遠くへ移っていた。リンデックへと移動していったのである。るいるいと横たわる屍体が、その道すじを示していた。
灰色熊のドルムの屍体があった。
ほかにも、二、三の将軍の屍体が、転がっていた。ギンナルの屍体はない。
ハリィデールは馬をリンデックに向け、走らせた。
屍体の列は、褐色の荒野に、えんえんとつづいている。ほとんどが、グルスノルン軍の兵士だった。電光が途絶えてからの戦いである。自軍が、勢いを盛り返したのだろう。
陽が急速に傾き、タ闇が迫った。
リンデックの城壁は、まだ見えない。
夜になった。
闇の中、馬を駆る。
前方に、何かが見えた。ちらちらと光っている。星ではない。星にしては低すぎる。
火だ。
赤い松明《たいまつ》の火だ。数百。いや数千。それとも、まだそれ以上か。
ハリィデールは馬を急がせた。ただでさえ重いハリィデールの上に、ミザーラを抱えて、馬は疲労|困憊《こんぱい》していた。足はなかなか速くならない。
松明の火は、横に広がっていた。地上よりすこし高いところに、ずらりと並んでいる。
城壁の上だ。リンデックの城壁の上に並んでいるのだ。
近づくにつれ、かすかなどよめきが聞こえてきた。その声は、徐々に大きくなっていく。太い男の声だ。これも、百や二百の声ではない。何千人もの叫び声だ。
「美獣王! 美獣王!」
と、その叫び声は聞こえた。ハリィデールを呼んでいるのである。
城壁の下に至った。
強い明りが、馬上のハリィデールを、城壁の上から照らしだした。
「美獣王! 美獣王!」
その叫びは、もはや耳を聾《ろう》さんばかりである。
何人もの兵士が城門から飛び出してきて、ハリィデールのまわりを取り囲んだ。兵士の数は、あっという間に何百人にも脹《ふく》れあがった。そして、ここでもやはり美獣王の大合唱。
ハリィデールは、城壁の上に、ギンナルの姿を認めた。にこにこと笑い、ハリィデールに向かってしきりに手を振っている。かれの横には一振りの槍が立てられ、その切っ先にはひとりの男の首が突き刺さっている。
前グルスノルン王、デリク三世の首である。
人波に押されるように、馬が前に進みだした。
「美獣王! 美獣王!」
大歓声は、いっこうにやまない。リンデックのまち全体が咆哮《ほうこう》しているようだった。
「美獣王! 美獣王!」
ハリィデールは、熱狂する数千人の兵士とともに城門をくぐった。
グルスノルンは、美獣の支配するところとなった。
第五章 摩天楼地獄
戦況は、明らかに不利だった。
兵力は分断され、まとまった軍勢としての体をなしていない。兵士たちは大群に包囲されて我を失い、ただ逃げまどうのみである。果敢に戦いを挑む者も少なくはないが、そのほとんどが瞬時にして肉体を斬り裂かれ、鮮血にまみれて大地に倒れ伏す。技量の差ではない。地の利の差、彼我《ひが》の戦力の差である。この戦《いくさ》にハリィデールが投入した兵士の総数は、およそ三万。対するに、タイローンの軍は三万二千。しかし今、陣形を崩され、烏合《うごう》の衆と化したハリィデールの兵は総数こそ三万だが、戦力としては三千にも劣る。依然として三万を超える兵を戦力としているタイローンの軍勢とは比較にさえならないのである。
まだ総崩れには至っていなかったが、兵の一部は、すでに敗走をはじめていた。戦意を喪失し、武器を捨てて投降する兵士も多かった。
「かなわぬな」
戦場を見下ろす小高い丘の頂で、グルスノルンの王、ハリィデールは低くつぶやいた。ハリィデールは、おのが馬の鞍を外して大地に置き、その上に腰をおろしている。小山のごとく盛り上がった筋肉は厚い革の鎧に包まれ、右の手には、ミッドガルドに生きる者すべてがその名を知るというグングニールの槍がある。グングニールの槍は激しくきらめく穂先を天に向けて、ハリィデールとともに戦場を睥睨《へいげい》している。
「そのようでございます」
ハリィデールの脇に片膝をついて控えていた傴背《くぐせ》のギンナルが、ゆっくりとうなずいた。ハリィデールの片腕として、グルスノルンの軍師の役を担うギンナルの表情には、苦渋の色が濃い。
「後続の兵を出して先陣の兵を救え」ハリィデールは言った。
「これで戦は終わりだ。ヴォーダンに引き揚げる」
強い北風に、みぞれが混じっていた。|北の地《ツンドラ》の短い夏が過ぎようとしている。あと二、三日もすればみぞれは雪に変わり、季節は冬になる。冬になれば、軍勢は動かせない。グルスノルンとタイローンは休戦を余儀なくされるのである。いったん兵を引き、態勢を立て直して、再度、攻勢に打ってでるのは、もはや不可能であった。
「イヴァル」
ギンナルは首をめぐらし、本陣の隅で兵士たちと車座になって骨つき肉を頬張っている痩身の将軍を呼んだ。疾風《はやて》のイヴァル。一年前までは、盗賊団を率いて村々を荒し回っていた男だ。そのまわりには、抜き身の剃刀《かみそり》のような雰囲気が漂っている。
名を呼ばれて、イヴァルは食べかけていた肉を傍《かたわ》らに投げ捨てた。立ち上がり、ハリィデールの前へと進み出た。
「兵を退く」抑えた声でギンナルが言った。
「道を開いてくれ」
「俺の役割が変わったようだな」
唸《うな》るように、イヴァルは言った。この将軍は奇襲隊を指揮して敵の本陣を側面から衝く手筈になっていた。しかし、もはやその手は敵に通じない。それどころか、自軍の本隊そのものが危ういのだ。
「こたびの戦は、前に進むことがない」
自嘲とも非難ともつかぬ一言を残して、イヴァルは身をひるがえした。鎧の金具が、硬く冷たい音を響かせた。イヴァルの小者が数人、出陣を告げるために兵士のもとへと走った。
そのときだった。
かすかに大地が揺れた。いや、揺れたというのは、あまりに大仰《おおぎょう》である。その風が水面に生じさせたさざ波にも及ばない微弱な振動だ。現に、兵士は誰ひとりとして、その揺れに気がついていない。
しかし、三人の男は、はっきりとそれを感じとっていた。
ハリィデールとギンナル、そして疾風《はやて》のイヴァルである。三人はすかさず身構え、気を四方に放った。
風が音を拾っていた。鬨《とき》の声、馬の鼻息、ひづめが土をえぐる。北風はただ吹き荒れているだけではない。ときには、それを理解できる者にのみ、迫りくる脅威の存在を告げてくれる。
真っ先に動いたのは、イヴァルだった。イヴァルは短く舌を打ち、佩剣《はいけん》をすらりと抜いた。
自軍の兵士に向かい、大声で怒鳴る。
「敵襲だ! 陣を固めろ!」
丘の頂は、にわかに騒然となった。丘は台地に似た姿をしており、その頂は平らで広い。ハリィデールはそこに兵士一千を配し、本陣を設けていた。
将軍の怒りを含んだ命令が轟《とどろ》くやいなや、イヴァル麾下《きか》の兵士八百余が、なだれるように丘の一画へと集結した。
ハリィデールは顔色ひとつ変えない。鞍に腰をおろしたまま、自軍の動きを黙って見守っている。それはギンナルも同じだ。わずかに腰を浮かせながらも、ハリィデールの左脇に身を置き、慌ただしく本陣の中を行き来する兵士たちを目で追っている。
とつぜん大地の揺れが激しくなった。地震のそれではない。明白に異っている。地中から小刻みに突き上げられる感じだ。地鳴りにも似た忌《いま》わしげな響きも加わっている。
もう誰にでも、その正体がはっきりとわかった。敵の騎馬隊だ。数は、五百か千か。いずれにせよ、少なくはない。奇襲を狙っていたハリィデールの本陣が、逆に奇襲をかけられたのである。
兵士たちが、丘の北側にあらたな陣形を築き終えた。かれらの正面には森がある。丈は低いが、冬でも濃緑の葉が落ちぬ黒い森だ。その森の向こうから風が来る。風には、葉摺れや小枝の踏みしだかれる音が混じっていた。
だしぬけに森が割れた。同時に、わあんという吶喊《とっかん》が耳をつんざき、凍てついた空気を震わせた。赤い革の鎧に身を固めた騎兵が馬にまたがり、まるで甘い蜜に群がる赤アリのように丘の頂へと殺到してきた。赤い鎧は、まぎれもなきタイローンの騎兵のしるしである。
イヴァルが本陣を守る兵士たちの先頭に立った。
「弓隊!」
剣を頭上で振り回し、叫んだ。弓隊が矢をつがえ、満身の力をこめて、弦を引き絞った。
騎馬軍団が、眼前に迫る。
「てえっ」
イヴァルが剣を振り降ろした。百を越える矢が、唸りをあげて弓から離れた。
間髪を容れずに、槍隊が弓隊と入れ代わった。
騎馬軍団の先駆けが崩れた。だが、それだけだった。弓隊の射掛ける矢で五十、百の兵士を失っても、軍団そのものの勢いにはなんら影響はない。猛《たけ》りたつ騎馬は、兵士たちの感情をよそに敵陣へと驀進《ばくしん》していく。さればこそイヴァルは、たった一度の攻撃のみで弓隊を退かせ、槍隊を陣の前面に出したのである。
血しぶきをあげて倒れる先駆けの騎馬や兵士をひづめで踏みしだき、タイローンの騎馬軍団がハリィデールの本陣へとなだれこんできた。
槍隊が低く身構え、手にした長槍を斜め上方に向かって鋭く突き出した。
槍が騎馬ごと鞍上の兵士を貫いた。
突進する勢いで、騎馬の腹が斬り裂かれ、内臓と鮮血が音高く噴出する。
異臭を放つ内臓が首にからみつき、顔や手が朱に染まった。しかし、イヴァルの兵士はひるまない。槍を引き抜き、風車のように振り回して、次なる獲物を求める。
が、獲物は、ひよわな反撃のすべを知らぬ野ねずみやうさぎではなかった。牙を持ち、敵を仆《たお》す技を身につけた肉食の猛獣だった。
兵士のくりだす槍の一撃をかわし得た騎兵は、手にした大振りの剣ですかさず逆襲に転じた。
長槍を両断し、群がる兵士の首を無造作に刎ねた。猛り狂った騎馬は、前脚を高くあげ、それを兵士たちの頭めがけて勢いよく振りおろした。ひづめが額を直撃し、兵士たちの頭蓋はあたかも水菓子のごとく砕け散った。
脳漿《のうしょう》の混じった血が黄土色の濃い霧となって宙空にほとばしる。
しばらくは、守る兵士と攻める騎馬軍団との間で押し合いがつづいた。堅固な人垣を力で崩そうとする騎兵。そうはさせじと血槍をかざして踏ん張るイヴァルの兵士。
だが、均衡はほどなく破れた。
騎馬軍団が押し勝ったのだ。
兵士の人波が揺らいだ。そこかしこに屍《しかばね》の山が築かれ、それを乗り越えて騎馬が前進する。兵士にはもう、タイローンの騎馬軍団を喰い止めるだけの戦力がない。立ち向かう意志はあるが、からだはじりじりと後退していく。
防御の陣形が割れた。悲鳴と怒号のなかを一筋の帯となって騎馬軍団が疾《はし》る。
怒濤の響きとともに、ハリィデールが身を置く本陣の深奥へと、凶々《まがまが》しい竜巻と化した騎馬軍団が躍りこんだ。
吹きすさぶ嵐、荒れ狂う暴風、とも形容できるタイローンの騎馬軍団。その騎馬軍団に対し、最後の砦となって立ちはだかったのは、傴背のギンナルが指揮をとるハリィデールの親衛隊だった。
イヴァルが固めた北側の防御陣を破って本陣内へと突入してきた騎馬の数、およそ二百。他方、グルスノルンの王を守らんがために配備された兵士は百六十。
その百六十の兵士は、それぞれがあかあかと火の燃える一本の太い松明《たいまつ》を手にしていた。騎馬軍団がイヴァルの兵士と揉み合っている間に、ギンナルが用意させたのだ。歩兵が騎兵を相手にするには、火攻めしかない。ギンナルはそう判断していた。狭い本陣内での火攻めである。災いは味方のうえにも及ぼう。しかし、兵の過半をつぎこんだ防御陣を突破されたいまとなっては、打つ手はこれ以外になかった。
丘の頂で兵士が展開し、騎馬軍団を包むように広がった。
と同時に、松明が兵士たちの手を離れた。全身の力を振り絞り、燃えさかる炎の塊を激しく渦巻く嵐の目、騎馬軍団のただ中へと投げこんだのだ。
騎兵は飛んできた松明を剣で薙《な》ぎ払った。松明は、真二つになった。が、火は消えなかった。消えずに、騎馬を直撃した。騎馬は、驚きうろたえ、竿立ちになった。なかには、まともに火の粉を浴びた騎兵もいた。またある騎兵は太い松明を縦に両断し、いたずらに炎の数を増やした。
騎馬が狂乱した。百を越える騎兵が、瞬時にして鞍から放り出され、大地に叩きつけられた。かろうじて剣を捨て、馬の首にしがみついた騎兵も、振り落とされまいとあがくのが、せい一杯だった。
乱入してきた騎馬軍団の戦意が萎《な》えた。
軍団を包囲した兵士が革鞘から剣を抜き、頭上高く掲げた。落馬した騎兵は腰や肩をしたたかに打ち、地面の上でもがいている。頭を打って気を失った者や馬のひづめの下敷になった者も少なくはない。動転した騎馬は、まだ暴れ、跳ね回っている。
凶暴な雄叫《おたけ》びをあげ、親衛隊の兵士が突進した。騎馬から落ちた騎兵、武器を捨てた騎兵は、すでに敵ではない。それはなぶり殺すための、か弱い生きた玩具にすぎないのだ。
殺戮《さつりく》がはじまった。負け戦のうっぷんを晴らすかのような凄惨な虐殺であった。
ハリィデールの脇では、ギンナルが立ち上がり、頬を赤く染めていた。さすがに声を張り上げて兵士たちを叱咤することだけは控えているが、その目は興奮に大きく見開かれ、剣を握った腕は、軍師としての品格を損なうに充分なほど激しく上下している。今でこそグルスノルンの筆頭大臣、国王ハリィデールの軍師だが、もとは三下泥棒のギンナル、我を忘れれば、出自がおのずから明らかになる。
だが、ギンナルの狂態もそれまでだった。
親衛隊が罠《わな》に陥ちた騎馬軍団をまだ半分も始末していないときである。
新たな騎馬軍団の高波が、耳を聾する城声をともなって本陣の奥へと押し寄せてきた。その数は、たったいま全滅の一歩手前まで追い詰めた先遣隊のおよそ二倍。イヴァルの防御陣になだれこみ、それを蹴散らして生き残った騎兵のほとんどすべてである。
イヴァルの兵士が総崩れとなったのだ。一角を破られたとはいえ、イヴァルの兵士はそれでもギリギリのところで踏みこたえていた。しかし、我慢ももはや限界であった。小さな穴を穿《うが》たれた堤防の、その穴が水圧で広がり、やがては一気に崩れるように、イヴァルが築いた防御陣はあえなく潰《つい》えた。
新手の騎馬軍団は、仲間の騎兵が惨殺されるさまを目《ま》のあたりにした。
憤怒が闘志となった。
逆に、親衛隊の兵士たちは、前に倍する騎馬軍団が迫りくるのを見て、戦意を阻喪《そそう》した。その勢いを恐れ、逃げ腰になった。今度は、罠も作戦もない。正面からの戦になるのだ。
戦うまでもなかった。勝負はついていた。本陣は、タイローンの騎馬軍団に蹂躙《じゅうりん》される。
ギンナルが歯噛みした。肩を怒らせ、前に出ようとした。
グングニールの槍が伸びた。石突きが、ギンナルの胸に当たり、その動きをおさえた。
「控えておれ」
鞍の上に腰をおろしていたハリィデールが、うっそりと立ち上がった。鎧の金具が重い金属音を響かせる。グングニールの槍をたばさむその腕は、黒い森の木の幹よりもまだ太い。
「はっ」
ギンナルは低く答え、一歩退いて、地面にひざまずいた。軽く頭上を見上げ、ハリィデールの表情に視線を向ける。
ハリィデールは、槍を右手に持ちかえた。双眸《そうぼう》が強い光を帯びた。強暴な光だ。あらゆるものを射すくめる力を持つ。まともに見たら、鬼神といえども恐れをなすであろう。
槍を肩の上に構えた。騎馬軍団はもう手の届きそうなところにまで迫りつつある。
槍の穂先が赤く発光した。淡い炎が刃のまわりで揺らめいている。
ハリィデールの上体がしなり、流れるように動いた。槍を投じたのだ。グングニールの槍はハリィデールの手を離れた。あたかも意思あるもののように炎の尾を引き、ゆるやかな弧を描いて騎馬軍団の中心へと飛びこんでいく。
魂消《たまぎ》る悲鳴があがった。
鮮血の帯が、いくつも同時に出現した。その先には、すっぱりと両断された騎兵の首がある。首は革の冑《かぶと》をつけたまま宙を舞っていた。首が浮かべている表情は、おのが運命を未だ悟っていないもののそれである。かれらは、おそらくみずからの運命を断ち切ったグングニールの槍の赤く燃える穂先すら目にしてはいないだろう。
グングニールがもたらす容赦ない死が、無敵の名を欲しいままにしたタイローンの騎馬軍団を混乱の極みへと導いた。
槍は兵を屠り、騎馬を斬り裂く。
「剣は?」
ハリィデールがギンナルに訊いた。
「ここに」
すかさずギンナルが一振りの剣を差し出した。ギンナルは革鞘を持ち、柄をハリィデールの方に向けている。
ハリィデールは無言でうなずき、剣を革鞘から抜き放った。
黒みを帯びた深い輝きが、革鞘からあふれた。その輝きだけで、くろがねさえも断ち切れそうに見える。
黒小人が鍛えた長刀である。かつてギンナルは親しい黒小人に命じて一対の名刀を鍛えさせた。一振りは白い輝きの剣。いま一振りは黒い輝きの剣。いずれも、ハリィデールのために造られた魔性の剣である。しかし、白の魔剣は電光狼ドロモスの電撃に砕かれ、すでにこの世にはない。
黒の魔剣を手にしたハリィデールは、それを水平に構えた。
槍はまだ新たな血を求めて騎馬軍団の中を駆けめぐっている。ひとたび死の意志をこめられて持ち主の手を離れたグングニールの槍は、呼び戻されるまで敵を欲して天を疾《はし》る。
ハリィデールの全身の筋肉が音をたてて盛りあがった。鎧の継ぎ目が、その勢いにおされてきしむ。血管が脹れあがり、ハリィデールの肌に網目に似た模様をつくった。
「馬を!」
ハリィデールが言った。その言葉が終わらぬうちに、近侍の者が黒い駿馬《しゅんめ》を引き連れて前に出た。馬の背には、先ほどまでハリィデールが腰をおろしていた鞍がすでに据えられている。
ハリィデールが、ひらりと飛んだ。
馬上にまたがり、同時に馬の腹を軽く蹴った。馬は声高くいななき、前足を大きく振り上げてそれに応えた。
猛然と走りだした。
あたかも、噂に高い黒小人の火の粉に弾《はじ》き飛ばされた鉄の玉のようである。
黒い一陣の旋風としか見えない。
瞬時にして、ハリィデールは槍に追われて逃げまどう騎馬軍団の群れの中にいた。
ハリィデールは無造作に魔剣を揮った。四方はすべて敵である。おのが兵を誤って討つおそれは、かほどもない。ただ左右に剣を薙ぎ払えばよいのだ。
肉が裂け、腕が飛び、首が落ちた。頭から唐竹《からたけ》に割ったときは、騎馬の胴をも真二つにした。
たちまち返り血で、ハリィデールの腕もからだも朱に染まった。
「こざかしい!」
一瞬気を呑まれ、ひるみかけた騎馬軍団の間から、栗毛の馬にまたがった騎兵が一人、大|段平《だんびら》をひっさげてあらわれた。どうやら腕に覚えのある男らしい。大段平は鮮血でねっとりと濡れている。
「俺が相手だ!」
一気に突っこんできた。
ハリィデールは動かない。動かずに男を凝視している。
男が大段平を振りかざした。
ハリィデールに迫る。
ハリィデールの手元で、黒い閃光がきらめいた。
栗毛の首が飛んだ。同時に男の上体も宙に躍った。一閃、右腋から左肩まで斜めに斬り裂かれたのだ。
馬体がどう、と地に落ちた。男の下半身が鞍から離れ、血溜りに沈んだ。
須臾《しゅゆ》の間、騎馬軍団が動きを止めた。兵が言葉を失い、あたりが、しんと静まり返った。
ややあって、かすかな声があがった。呻《うめ》くような声だった。声はさほどの時を置かずに、騎馬軍団のすべての兵士の間へと広がった。
「ハリィデール!」
と、その声は言っていた。あるいは、
「美獣王!」
という声も聞かれた。
軍団は、恐怖に浮き足だった。ハリィデールの名を口にした者も、その名を耳にした者も、一様に怯《おび》え、戦意を失った。その名は人の名ではない。美しき獣――美獣と呼ばれる主神オーディンの戦士の名だ。民に死をもたらし、国に禍《わざわい》を運ぶ。
グングニールの槍とハリィデールの魔剣とに陣形を掻き乱された騎馬軍団は、ちりぢりになった。戦う者もあらばこそ、みな、我先にとその場から逃げだそうとした。かれらは人間とならば、戦ができる。いかなる勇士が相手であろうとも、臆したりはしない。しかし、美獣ではだめだ。オーディンの戦士に牙を剥《む》かれては、逃げる以外に打つ手はない。
「だらしがねえな」
半狂乱になって丘を駆け下ろうとする騎馬軍団の前に、イヴァルとその兵士が立ちはだかった。イヴァルは打ち破られた自軍をようやくのことで立て直したところだった。
イヴァルは口の端に薄い笑いを浮かべていた。その笑いには自嘲も含まれていた。この程度の騎馬軍団に、自分の陣は破られたのだ。だらしがねえな、というつぶやきには、イヴァルの無念のすべてがこめられていた。
無念の怒りをたぎらせたイヴァルとその兵士が、復讐の炎を騎馬軍団に叩きつけた。騎馬軍団の背後にはグングニールの槍と美獣が迫り、行手にはイヴァルの兵士が待つ。
この日、〈紅の旋風〉と恐れられたタイローンの騎馬軍団は、わずか数十騎を除いて全滅した。
一方、グルスノルンの兵士は、そのおよそ半数が原野に仆れ、物言わぬ骸《むくろ》と化した。
戦《いくさ》は痛み分けである。
降りしきる雪の中、ハリィデールはグルスノルンの都、ヴォーダンへと戻った。
凱旋ではなかった。
遷都は、春におこなわれた。
ミッドガルドの南部に位置するグルスノルンの王となったハリィデールは、一冬の間を置いただけで、新たなる行動を開始した。
すなわち、ミッドガルドの統一である。
その年の秋月までに、ハリィデールとかれの軍団は、南部諸国のことごとくを征服した。国という国はすべてグルスノルンに併合され、国王はみなハリィデールの僕《しもべ》となり、従わぬ者は一人残らず生命を断たれた。美獣王ハリィデールの行くところ敵はなく、五つか六つばかりの有力な国の王が逆らって首を刎ねられてしまうと、あとの王たちは、グルスノルンの使者が訪れてハリィデールの口上を述べただけで地面に這いつくばり、おのが領土を美獣王の前へと差し出した。
しかし、南部を平定し、ミッドガルドの北部へとその手を伸ばしかけたところで、ハリィデールは生涯最大の敵ともいえる相手と遭遇した。
北部の覇者、タイローンの不死王スカイハイトである。
ちょうど一年前のことだ。冬のきざしが山々にあらわれだした頃、ハリィデールは、これまでのように和議の使者をタイローンに送った。ハリィデールは戦を望んで領土を拡大しようとしているのではない。かれはミッドガルドの王の座を求めているだけなのだ。戦は、その過程で生じるわずらわしい手続きの一つにすぎない。避けられるものなら、避けたいのである。
かつてハリィデールは、南の地から来た呪術師から、予言を授けられた。黒い呪術師ナバ・ダ・ルーガは、失われた過去を捜して放浪をつづけるハリィデールに、ミッドガルドを統《す》べる王となれ、と告げた。さすれば、すべては明らかになるという。
ハリィデールは予言を現実のものとしようとした。手はじめにミッドガルド南部で最大の勢力を誇った強国グルスノルンを手中に納め、隻眼《せきがん》王デリク三世にかわって、その王となった。そして、さらに版図《はんと》は広げられ、ミッドガルド南部の全域がハリィデールの支配下にはいった。
残るは北部のみである。ミッドガルドの北部は、超大国タイローンによって治められていた。
ハリィデールの命を受けてタイローンの都ベシラに赴いた七人の使者は、ただ一人としてグルスノルンに戻らなかった。いや、正確にいえば、完全に戻らなかったわけではない。肉体の一部は帰ってきたのだ。塩づけにされた七つの生首が、国境の砦の門前に打ち捨てられていたのである。
和議は成らなかった。ハリィデールはタイローン攻略の準備に取りかかった。ハリィデールにしてみれば、すぐにでも兵を率いて進軍したいところだが、そうはいかない。季節はすでに冬、野は雪に埋もれ、川も湖も厚い氷に覆われている。これでは兵は動かせない。
そこでハリィデールは冬の間、軍備の拡充をはかり、併せて遷都をおこなう用意をはじめた。
遷都は補給路の確保のためである。都をタイローンとの国境に近いところに移し、そこから兵を送り出すのだ。
ミッドガルドは、二つの巨大な山脈によって広大な原野が分割されている。ほぼ南北に延びる山脈がイミールの背骨、東西に走る山脈がイミールの翼《つばさ》と呼ばれている。伝説の巨人イミールには、むろん翼などなかったのだが、黒小人も山の民も、その山脈のことをイミールの翼と呼ぶ。
イミールの翼は途中で背骨と交差し、そこに峻険な山岳地帯を形成している。イミールの翼の南側がミッドガルドの南部、反対側が北部である。したがって、グルスノルンとタイローンの国境はイミールの翼ということになる。
イミールの翼は懐が深い。嶺は天に向かって高く、山裾も大きく広がって原野へと至っている。その規模、その険《けわ》しさは、イミールの背骨の比ではない。
冬が終わり、雪が溶けると同時に、ハリィデールは都をイミールの翼のふもとに近い、扇状地の一角に移した。新しい都には、主神オーディンにちなんで、ヴォーダンの名が冠せられた。
ヴォーダンは都ではあったが、まちではなかった。それは、一つの城――城砦である。石壁と堀とで囲まれた王の館を、そのまま都の大きさに置き換えたのだ。十数層に及んで天守閣をめぐっている城壁には、兵士とその家族が住まっている。ハリィデールと重臣たちのための居館は天守閣と一体になっており、ヴォーダンの中央広場のさらに中心に設けられている。
郭公《かっこう》月の間に素早く遷都を完了したハリィデールは、卵月にはいるやいなや、五万の兵をまとめてイミールの翼を越えるべく、軍勢を北へと進めた。
しかし、ハリィデールはイミールの翼を越えられなかった。険しい峰々がつづくイミールの翼にも比較的なだらかな高原地帯がある。その高原でタイローンの軍とグルスノルンの軍は激突した。大きな戦が数えきれぬほど繰り返された。だが決着はつかず、戦況は膠着《こうちゃく》状態となって、五か月の時が流れた。そして、冬の到来を前にして両軍はともに深手を追い、勝負を分けた。
ハリィデールは、天守閣にいた。最上層の広間である。ゆったりとした白いローブを身にまとい、壁に四角く切られた小さな窓から、ヴォーダンの外に広がる雪の原野を眺めている。すぐ後ろには傴背のギンナルが従っているが、ほかには小者も女官も、一人としていない。
風が広間を吹き抜けた。粉雪の混じった冷たい風だ。鋭い、笛の音に似た響きが、冷気とともに耳朶《じだ》を打つ。外はまったくの闇というほどではないが、けっして明るくはない。空は低い暗灰色の雲に覆われている。時刻は判然としない。いまが昼なのか夜なのか、それすらもわからないのだ。一日は日没から日没までとされているが、|北の地《ツンドラ》の冬には、日の出も日没も存在しない。太陽は、春がくるまで大地の下に沈んでいる。この季節、人々は、起きているときを昼、眠っているときを夜とする。
「ギンナル」
窓外に目を向けたまま、ハリィデールはつぶやくように言った。
「は」
「兵を国許に帰せ」
「は?」
ギンナルの目が丸くなった。筆頭大臣であることを示す青いローブの裾が、風になぶられて、はためいた。
「恐れながら、なんと、おおせられた」
ギンナルの声が、震えた。兵を帰すというのは、軍を解散するということである。ハリィデールはタイローン攻略のためにグルスノルンの各地から五万の兵を集めた。いまは、その半数にも満たないが、それでも軍は軍。いざ戦ともなれば、得物《えもの》を手にして敵陣に攻勢をかけるくらいの余力は充分に残している。ギンナルは冬の間、かれらに再度の訓練を施し、春になったら新たな兵を募って、タイローンに対し、捲土重来《けんどちょうらい》を期すつもりでいた。
「兵を帰せ、と聞こえましたが」
「そうだ」
ハリィデールは窓の扉を閉め、閂《かんぬき》を下ろした。風が熄《や》み、甲高い音も消えた。
「タイローンを諦めなさるのか!」
目を剥いたまま、ギンナルが一歩前に出た。
「ミッドガルドの王への道を閉ざされようといわれるのか!」
「…………」
ハリィデールは答えなかった。答えるかわりにゆっくりと首をめぐらし、かぶりを振った。
「では、いったい」
右手を軽く挙げて、ハリィデールはギンナルを制した。
「タイローンは、ただの国ではない」静かに口を開いた。
「不死王スカイハイトもまた、ただの人間ではない」
ハリィデールは歩み寄り、ギンナルの正面に立った。
「俺にはわかる。あいつは俺と同じだ。目に見えぬ何ものかの力がスカイハイトを背後から支えている」
「まさか」
「あやつの不死と呼ばれるいわれを知っているか?」
ハリィデールは訊いた。
「知らぬ者がおりますかな」ギンナルは応じた。
「あやつがミッドガルド北部の一隅に姿を見せたのは五冬か六冬も前のこと。たちまちにして北部の諸侯を打ち破り、タイローンなる王国を築きあげた。その際の戦において傷つくこと十数度、しかし、あやつは命を失うどころか、傷ついてなお勇猛を奮う恐ろしさ。そこで誰が言いだしたものか不死王と呼ばれるようになった」
「スカイハイトの名をハリィデールに変え、北部を南部に置き換えれば、そっくりそのまま俺のことだ、ギンナル。それでもそれを人の力と見るか?」
「噂によれば、スカイハイトは、その丈五エル(およそ二・五メートル)に及ぼうかという大男。黒小人の間では、巨人と人間とのあいのこと信じられております。多少の槍傷、刀傷にひるむとも思えませぬ」
「不死王、謁見《えっけん》したる者なし、と言われているのに、そう信じられているのか?」
「巨人とのあいのこゆえ、その醜さを恥じて姿を隠しておるのだそうです」
「なるほどな」
「陛下は、スカイハイトを庇護する何ものかを恐れて、兵を退かれようとしておられるのでしょうか?」
「そう思うか」
「いや」
ギンナルは目を伏せ、唇を歪《ゆが》めた。
「そうは思いませぬので、いぶかしんでおります」
「俺は国の内のことを考えている」
「まつりごと」
「俺の睨《にら》んだとおりスカイハイトに後楯《うしろだて》がいるのなら、この戦、百年たとうが二百年たとうが終わりはせぬわ」
「…………」
「不毛の戦いは土を荒らし、民を疲弊《ひへい》させる。行きつく先は共倒れよ」
「国力は五分と五分。さように見られましたか」
「軍を率いての戦は、もはやこれまでだな」
「すると」
「決着は俺一人でつける。ヴォーダンには親衛隊だけを残して、あとの兵は国許に帰せ」
「それがしも、お供を」
「ならん」
「陛下!」
「タイローンの都はベシラといったな」ギンナルの声にかぶせるように、ハリィデールは言った。
「ベシラの中心には、天を摩《ま》する楼閣が聳《そび》え立つと聞く。その摩天楼の最上層にスカイハイトは居するそうな」
「では、そこに単身忍びこまれてスカイハイトと雌雄を……」
「決する」
ハリィデールは凛然《りんぜん》と言い放った。
「それが、美獣のやり方なのだ」
「こいつだ。こいつが炎の鳥だ。俺が造った空を飛ぶ船だぜ!」
ジュバルは両手を広げて、眼前の河原に置かれたそれを指し示した。
「鳥にも船にも似てないな」
ギンナルが言った。それは、直径も高さもおよそ三エルあまりの、円筒形をした籠《かご》に見えた。籠といっても、木の皮やつるで編んだものではない。草の葉ほどに薄く延ばされた、くろがねの細い板で編まれている。籠からは太い綱が何本も伸びており、それが動物の革とも布ともつかぬ巨大な袋の端につながれていた。
「この袋が膨らんで丸くなるんだ。火をいれるとな」
「乗り手は、下の籠の中か」
ハリィデールが言った。
「そうだ。膨らんだ袋に引っぱられて籠が宙に浮かぶ。――ギンナル、おぬし信じられるか?」
ジュバルは、ギンナルの腰をぺたぺたと叩いた。ギンナルは黒小人と親しい。なかでも、このジュバルとは身内同然のつき合いをしている。白と黒の魔剣を鍛えたのも、ジュバルとその一族である。
ヴォーダンの天守閣でハリィデールがおのれの決意をギンナルに伝えてから、二度の眠りが過ぎていた。その日、目醒めると、ギンナルが扉の外でハリィデールを待っていた。すぐに同行してほしいと言う。
犬ゾリで雪道をひた走った。山をいくつも越え、深い谷の底へと降りた。
寒気で凍りついた川の河原に着いた。そこにジュバルがいて、その傍《かたわ》らに空飛ぶ船なるものがあった。
「信じるも信じないも」唸るようにギンナルが言った。
「俺がお前に頼んだのは、容易にイミールの翼を越えられる方法だ。その答えが空飛ぶ船ときては、あきれる以外にしようがないではないか」
「こいつは、俺のひさびさの傑作だ。白と黒の魔剣以来だな。おぬしの話を聞いてから、すぐに鉄の塊と山羊《やぎ》の皮を火床に放りこんで一昼夜たっぷりと闇の炎であぶってやったのだ」
黒小人は河原にしゃがみこみ、満足そうに革の袋をなでた。
「空を飛んで、イミールの翼を越えるのか」
ハリィデールが訊いた。
「そうだ。ひとっ飛びだぞ!」
「おもしろい」
ハリィデールは薄く笑った。
「舞い上がるのはいいが、そのあとすぐに地上に落ちやせんだろうな?」
ギンナルが胡散《うさん》臭いものを見るような目で、ジュバルの傑作を眺め回した。
「落ちてたまるか」
ジュバルがムッとして唇を歪めた。長い顎髪がざわざわと動く。
「いつなら飛ばせられる?」
ハリィデールが訊いた。
「望みとあらば、すぐにでも。ここから一息にイミールの翼を越えることだってできる」
ジュバルは胸を張った。着こんだ毛皮で丸くなっている小さなからだが、ますます丸くなった。
「本当か!」
ギンナルの表情から不審の色は消えない。
「いつでもいいというお前の言葉には心ひかれる」ハリィデールが言った。
「俺はたったいま、この場からでもベシラに向かいたいのだ。タイローンとの戦いはすでに火蓋《ひぶた》が切られている。休戦はこの冬限りだろう。春になれば、今度はスカイハイトがグルスノルンを滅ぼさんがためにイミールの翼を越えてくる。だが、俺はその前にケリをつけてやるのだ」
「この場からと言われても、俺の方はいっこうに困らんぞ」
「困っているのはこちらだ。ギンナルにせかされて、着のみ着のままでソリに乗ってしまった。剣も槍も何もない。いかに俺が美獣といえども、素手で不死王スカイハイトの首を狩るのはちとままならぬわ」
「いやはや、これは情ない」
ぼやくようにギンナルが口をはさんだ。
「我が王よ。それがしを気の利かぬ唐変木《とうへんぼく》のように思われておいでだな。いや情ない」
「どういうことだ?」
「これを、御覧なされ」
ギンナルは細長い犬ゾリの脇と後ろに掛けられていた毛皮を勢いよく剥いだ。
その下にはグングニールの槍、黒の魔剣、そして革の鎧と干肉が隠されていた。
「いかがかな?」
ギンナルは内心の得意を押し殺そうと、無表情を装っている。
「久かたぶりに企んだな、ギンナル」
ハリィデールの口もとが、かすかに緩んだ。
「はて、俺は空飛ぶ船のことなど一言も言わなんだぞ」
ジュバルが首を傾《かし》げた。
「何も聞かんでも、おぬしがわざわざ使いを遣《よこ》してわしらを呼んだのだ。策があったと見るのが当然だろう。となれば、主君の考えを先取りしておくのが、家臣の務めというものではないか」
無表情が次第に崩れ、ギンナルの鼻がひくひくと動く。
「ギンナル」
ハリィデールが言った。口調があらたまっていた。感情を排した、美獣王のそれである。
「はっ!」
即座に膝を落とし、ギンナルはかしこまった。
「グルスノルンのこと、貴様に任せておくぞ」
「はっ」
「兵はひとまず帰せ。そして春になったら、再び集結させろ。俺が戻らぬときは、必ずタイローンの軍勢がイミールの翼を越えてくる」
「美獣王……」
ギンナルはおもてを上げた。
「ジュバル!」
ハリィデールは背後を振り返った。
「おうさ」
黒小人は、のんびりと空飛ぶ船の革袋を広げている。
「もう飛べるのか?」
「いや」ジュバルはかぶりを振った。
「すぐにといっても、もうほんのちょいとかかる。こいつを丸く膨らませる間だ」
ジュバルは広げた革袋を指差した。
「うむ」
ハリィデールはうなずき、ソリの方に向き直った。
ローブを脱ぎ、下帯ひとつになって革の鎧を身につけはじめた。革の鎧は、ハリィデールが放浪時代に黒小人のゲルズリにつくらせたものだ。今はそれにもう少し甲革を増やし、さらに一国の王の着るものにふさわしいように金銀の装飾も加えてある。ギンナルがハリィデールの後ろに回り、金具を強く締めあげた。
その間に、ジュバルは籠の中に潜りこみ、その真ん中に飛び出している管をいじって、そこに火をつけた。火は意外に大きく燃え上がり、青い色の炎となった。ジュバルは籠から降りて革袋を持ちあげようとした。しかし、巨大な革袋はジュバルの手にあまった。ジュバルは大声でギンナルに助けを求めた。いつもなら、こういう作業は一族の者総出でやるジュバルだが、今回はギンナルの特別の頼みとあって、ほかに黒小人はいない。
あわてて駆けつけたギンナルとジュバルは革袋の両端を持ち、ぱっくりと開いている口を炎の上にかざした。たちまち炎に暖められた空気が革袋の中に流れこんだ。革袋は生あるもののように起きあがり、丸く膨らんで、河原から浮かびあがろうとした。
「手を離せ!」
ジュバルが叫んだ。ギンナルと黒小人は、同時に河原に落下した。すでに二人とも熱気をはらんだ革袋に一エルほど持ちあげられている。
綱が、ぴんと張った。革袋が完全に満たされ、わずかに細長い球形となって、宙に浮かんでいる。籠はあらかじめ河原に打ちこんだ杭に縛りつけてあったので、拳ひとつ分くらいしか地上から離れていない。
「ようし、これで準備は終わりだ」
肩で大きく呼吸《いき》をしながら、ジュバルが言った。
「あとは籠に乗って、杭に結んである綱を切るだけだな」
ギンナルがつぶやいた。もう空飛ぶ船の仕組みは、この男にもよくわかる。
「そいつはギンナル、俺が合図をしたらやってくれ」
ジュバルが言った。
「なに?」ギンナルは目を剥いた。
「それは、どういうことだ?」
「お前は、血のめぐりが悪い」ジュバルは眉をひそめた。
「俺とそっちの大将が籠に乗っちまったら、綱を切るのはおぬししかいないではないか!」
「籠に乗る? 貴様が!」
ギンナルは絶句した。
「お前も同道するというのか?」
ハリィデールが訊いた。
「こいつは俺が造った空飛ぶ船だ。俺が操らなきゃ、イミールの翼は越えられないぞ」
「なるほどな」
ハリィデールはかすかに顎を引いた。
「しかし、これは物見遊山の旅ではない。いわば一人で行く戦《いくさ》だ。帰れるあてもなければ、生命の保証もない。それでもいいのか?」
「俺は黒小人だ。修羅場は望むところよ。それよりも、俺はあの噂に高いベシラの摩天楼ってやつをどうしても見たいのだ」
「黒小人が修羅場を好むなどとは初めて聞いたぞ」
横からギンナルが言った。黒小人は闇の世界にしか生きられない存在である。かれらは大地の下に集落をつくり、地上には滅多に顔を出さない。陽を嫌い、騒乱を恐れるのが黒小人なのだ。
「ごちゃごちゃ言うな、ギンナル」ジュバルは面倒臭そうに言った。
「とにかく俺は摩天楼に用があるんだ。あいつをこの目で見、この指で触り、この心で感じたいのだ。一千エル、いや一万エルもの高さで聳え立ち、天を摩してさらには貫くとまで言われているベシラの摩天楼。そこにどんな秘密が、どんな謎が隠されているのか、俺はそれをどうしても知りたいのだ」
「ふむ。こいつは驚いた」ギンナルは鼻を鳴らした。
「黒小人ってのは、みかけ以上に好きもんなんだなあ」
「人間に、俺たちのことがわかってたまるか!」
「ジュバル」
ハリィデールが声をかけた。
「なんだ?」
黒小人は首をめぐらした。
「俺は俺以外の誰をも守る気はない。ベシラに着けば、お前は他人だ。それでも構わんのか?」
「承知よ。そんなことはあてにはしておらん。おぬしにはおぬしの目的がある。邪魔はしたくない。俺は俺のつくった空飛ぶ船に勝手に乗っていくのだ」
「よかろう」ハリィデールはうなずいた。
「ならば何も言うことはない。即刻、発とう」
ハリィデールは槍と魔剣を籠の中に入れた。ギンナルが干肉や毛皮を運んだ。ジュバルは何も支度をしない。腰に吊《つる》した小さな布袋が持物のすべてだ。
先にジュバルが、次にハリィデールが籠に乗りこんだ。
燃えさかる炎が、激しい音をたてている。丸く張った革袋は、今にもはり裂けそうである。
ギンナルが短剣を抜いた。綱にあてて、ハリィデールを見る。
「吉報を待っておりますぞ」
声をつまらせて、それだけ言った。
短剣を払い、綱を断ち切った。
反動で大きく揺れながら、籠が浮いた。はじめはゆっくりと、しかし、すぐに勢いがつき、籠は高みへと舞い上がっていく。
綱を断ち切ったそのままの姿勢で、ギンナルは空飛ぶ船を見送った。
やがて、黒灰色の雲が革袋と籠を覆いはじめた。
しばらくは丸い影がうっすらと見えていたが、しばらくするとそれも判別できなくなった。
小降りになっていた雪が、また激しくなった。
雲が低く垂れこめ、闇が深くなる。
ギンナルは河原に立ち尽くしていた。天を仰ぎ、降る雪をいとうこともなく凝然と立っていた。
不思議に風はない。
雲の壁が果てしなくつづいた。白い闇が周りを囲む。ぶ厚い雲が、かすかなあるかなきかの光を四方に散らしているのだろう。
「ふむ。これでは右も左もわからぬな」
ジュバルが、つぶやいた。籠のへりに両手をひっかけ、渋い表情で雲の壁に目をやっている。
「風がでてきた」
ハリィデールが言った。ハリィデールは籠の底に腰をおろし、グングニールの槍を小脇にたばさんで、軽く目を閉じていた。
「――これは陸南の風だ。このままだと少し西にそれるが、まったく逆の方向に向かっているわけではない。案ずることはなかろう」
「別に心配しているわけではないぞ」ジュバルが首をめぐらした。
「俺が造った空飛ぶ船だ。行けと命じたところに行く。ただ俺は雲以外に何も見えないのが気に入らんのだ」
「冬の空は雲で埋めつくされているのではないのか?」
「馬鹿を言え」ジュバルはあきれた。
「俺は前にも、はばたく鳥を造って空を飛んだことがあるのだ。雲は空高く昇ると消えてしまう。ちょうど水面から顔を出したときのように、雲からすっぽりと抜け出てしまうのだ」
「いつまでも雲に囲まれていると、少しも地上から離れていないということになるのだな」
「そういうことよ。しかし、誤解するな。こいつはちゃんと飛んでいるんだぜ。ただ、この前よりもちいっとばかし雲が深いんだ」
「お前には、それが、わかっているんだな」
「わかっているんだよ。畜生め!」
吐き捨てるようにそう言うと、ジュバルはまた籠の外に向き直った。
籠の外はジュバルが目をそらしたわずかな隙に、光景が一変していた。白い壁はもうどこにもない。そこには群青の空と無数の星、そして巨大な満月があった。
「おおっ!」
黒小人の小さな目が丸くなった。
「見ろよ、おい! 雲を抜けたぞ!」
その声に、ハリィデールは目を開けた。身を起こし、籠から首を出した。
鮮やかな夜空が、眼前に広がっている。
「下も見ろ! 下も!」
ジュバルは狂喜している。
「雲が、まるで湖みたいだぞ! どこまでも真っ白だ。へっ、こんなさまが見られるのは、俺たちだけなんだぜ!」
洞窟で生まれ、洞窟で育ったジュバルは海を知らない。
雲に影が映っていた。丸い影である。月明りに照らされた空飛ぶ船の影だ。夜空も完全な闇ではなく、夕暮れ時のほのかな明るさを保った闇なので、意外に視界は広い。
雲海に島が浮かんでいた。それも一つ二つではない。三角形の尖《とが》った島が、白い海から夜空に向かって、いくつも突き出している。
それが何か、ハリィデールにはすぐにわかった。
イミールの翼である。
イミールの翼は、眼前に聳《そび》え立っていた。堂々たる山嶺だ。船がどのくらいの高さを飛んでいるのかは、ハリィデールにもジュバルにもわからない。わからないが、今、イミールの翼の峰々は船の行手を遮《さえぎ》るかのように、正面に立ち並んでいる。白い雲海から鋭角的にそそり立つ黒い頂。その頂を足で登って越えることは人間にはできない。黒小人といえども不可能だ。
「あれを飛び越せば、しばらく高原がつづく」ジュバルが言った。
「そしてまた峨峨《がが》たるイミールの翼の峰々だ」
「その向こうがタイローンだな」
「そうだ」
ジュバルはうなずいた。イミールの翼は峻烈な山脈が、なだらかな高原地帯をはさむように東西に二筋延びている。古来より翼越えを果そうとした者は、稜線の鞍部を抜け、高原を横切って再び鞍部を通っていた。ハリィデールがタイローンに攻め入ろうとしたのも、その経路である。最後の戦いは鞍部を抜けてすぐの高原地帯でおこなわれ、ハリィデールは侵攻を断念して兵を退いた。
「この空飛ぶ船が何千何万とあれば、苦労はなかったかもしれんな」
ハリィデールが、つぶやくように言った。
「兵を運んで、一気にベシラへとなだれこんだか?」
ジュバルがニヤリと笑った。黒小人はこういう独り言を聞き逃さない。
「――戦場での駆け引きは無用。とにかく力と力の揉み合いにもちこみたいというわけだ」
「もともと俺は成り行きでなった王だ」ハリィデールは言った。
「国やら大軍やらを動かすのは得手ではない。簡単にかたが付くのなら、その方を選ぶ」
「いかにも原野を彷徨《さすろ》うていた美獣らしい考え方だな。兵が王の手足のように働くというのは、つまりは王が凡庸だからだと言いたいのだろう」
「うがった判断はよせ。俺は失った子供の齢を数えただけだ」
ハリィデールはまた籠の底に腰をおろし、腕を組んだ。
「へっ」
ジュバルは肩をそびやかした。
船は風に流されて高峰の一つにじりじりと接近していく。しかし、山頂には向かっていない。高度が低いのだ。
ジュバルはしきりと炎の大きさを調節している。
「その炎は何が燃えているのだ」
ハリィデールが訊いた。
「黒い石を見えない煙にしたやつだ。それが籠の底にたっぷりと貯めてある」
「この下か」
ハリィデールは腕を解き、籠の底を軽く叩いた。
「どうも、おかしい」
ジュバルがボソリと言った。狭い額に汗がにじんでいる。操船がいまひとつ思いどおりにいかないのだ。炎は大きくならず、高度は上がらない。それどころか降下しているようにすら感じられる。
「くそ、ちゃんと働け! しっかりしろ!」
ジュバルは拳を固めて炎の筒を殴った。
風が強くなった。
狼の歯のように鋭く尖った高峰は、もう手の届きそうなところにまで迫ってきている。高度を上げて山頂を越えるか、あるいは左右どちらかの鞍部に逃げなければ、船は雪と氷に覆われた山腹に激突する。
籠が揺れはじめた。ジュバルが船を操ろうとすればするほど揺れは激しくなる。船の動きが、強くなった風の力と折り合わないのだ。熱い空気をはらんだ革袋の下で、太い綱に吊り下げられた籠は、勝手気ままに跳ね回っている。風に翻弄され、円弧を描きながらめまぐるしく上下している。まるで嵐の中で高波に揉まれる小船そのままだ。
また雲の中にはいった。雲が昇ってきたのか、船が降下したのか、それはわからない。だしぬけに船は白い壁に包まれ、山嶺も空も星も、何も見えなくなった。
風に雪が混じった。ときおり、氷片とおぼしきかけらも飛びこんできた。かけらは、鋭利な刃物のようになっている。ジュバルが悲鳴をあげた。かけらの一つがジュバルの肌をえぐったのだ。左の頬に、どす黒い血が一筋流れた。
「ちきしょう! ちきしょう!」
片手で籠のへりを掴み、もう一方の手で顔をおさえてジュバルは喚き散らす。
「あばれるな!」ハリィデールが鋭く言った。
「お前の傑作が壊れてしまうぞ」
「傑作なんぞであるものか」ジュバルの悲鳴が涙声になった。
「こいつはただの駄作だ!」
雪が横なぐりに吹きつけてきた。風はいよいよ激しくなり、風上に向かっては、目も開けていられない。雪が風の中で渦を巻いている。猛烈な吹雪だ。風は唸りをあげて吹き荒れる。
予想外の天候の急変だった。
突き上げるような衝撃が船を襲った。籠が斜めにかしぎ、次に、たわめられた発条《ばね》が元に戻るように勢いよく宙に躍った。籠は落下し、綱と暖かい空気をはらんだ革袋とを強く引っぱった。
新たな衝撃がきた。ハリィデールとジュバルは籠の床に叩きつけられた。革袋の浮力と綱の太さが籠の落下を食い止めたのだ。新たな衝撃は、その代償だった。鉄と鉄が擦れ合う嫌な音が、籠の中一杯に鳴り響いた。
「うああああ!」
ジュバルが恐怖の叫び声をあげた。
ハリィデールが手足をふんばり、体勢を整えたときだった。ハリィデールは首をめぐらして、黒小人の姿を捜した。
ジュバルはすぐ脇にいた。脇にいて、必至にあがいていた。下半身がない。見えるのはその上半身だけだ。まるで籠からジュバルのからだが生えているように見える。
籠の一隅に穴が開いたのだ。最初の衝撃は、船が眼前に聳《そび》え立っていた峰のどこかにぶつかって生じたものだろう。そのときに鉄の籠の一部がもぎとられたに違いない。その穴にジュバルが落ちこんだのだ。
「掴《つか》まれ」
ハリィデールがグングニールの槍を伸ばした。ジュバルは槍の柄にしがみついて穴から這い出した。
「まずい」
穴から出るなり、ジュバルは、そう言った。
「籠の底も破れてしまった。貯めておいた黒い石の煙がどんどん漏れている。このままでは、じきに火が消える。そうしたら、この船はもう飛ばない」
「穴はふさげないのか?」
「無理だ」
ジュバルは血走った目をハリィデールに向け、それからがっくりと肩を落とした。
ハリィデールは視線を籠の真ん中で燃えている青い炎へと移した。
炎は風にあおられて激しく揺らめいている。吹き消されてしまわないのが不思議なくらいだ。風は一向に衰える気配を見せない。つい先ほどまでの鮮やかな夜空がまるで夢のようだ。もしかしたら、あの光景は束の間の幻影だったのではないだろうか。
籠の中に雪が積もりはじめた。床や荷物がみるみる雪で埋まった。ハリィデールの肩や足にも積もり、ジュバルに至ってはほぼ全身が真っ白になっている。
「落ちてるぞ」
ジュバルが低くつぶやいた。
「落ちている!」
振り向き、炎を見た。
炎は弱っていた。ハリィデールがふっと目をそらしたそのわずかな隙に、黒小人の背丈ほども伸びていた炎は、わずか三分の一エルあまりに縮んでいた。
「消える!」
ジュバルが、そう叫ぶのと同時だった。
風が最後の決着をつけた。
炎が消え、闇が籠の中を包んだ。
船はゆっくりと、しかし確実に落下を開始した。
吹雪が革袋の中の空気を冷やし、風が膨らんでいたそれを圧しつぶした。つぶされた革袋は、今度は横なぐりの風をはらんだ。風は渦を巻いている。
船はきりもみ状態に陥った。
ジュバルの悲鳴が、長く尾を引いた。
ハリィデールは槍の穂先を発光させた。槍の柄にすがりついて丸くなっているジュバルの姿が浮かびあがった。籠の外は依然として吹雪と雲に覆われていて何も見えない。
いきなり、凄まじい音とショックがやってきた。
雪の塊が頭上から降ってきた。籠がどこかに激突したらしい。おそらくは雪が厚く積もった山腹だろう。白い雲の壁の中を、やはり白い雪煙が舞う。籠がへしゃげ、雪の斜面を転がりはじめた。
ハリィデールは両足と左の腕でからだを支え、右手で槍とジュバルとを掴んでいた。ジュバルは気を失ってしまったのか、悲鳴もあげず、動こうともしない。籠はまだ綱と革袋を引きずっているらしく、転がり落ちる速さはハリィデールが想像したほどではない。
やがて、傾斜が緩《ゆる》やかになってきた。ハリィデールはときおり槍を白い雪の壁に突き立てて、籠の転がる勢いを殺した。
ほどなくして、籠の回転が止まった。落下はつづいているが、それはソリで雪の斜面を滑り降りているようなものだ。よほどのことがない限り危険はない。
長い滑走になった。
斜面はだらだらとつづく。
傾斜は緩くなる一方だ。ハリィデールはもう何もしない。滑り落ちる籠に完全に身を委ねている。目を閉じ、全身の筋肉を弛緩《しかん》させた。
そして。
気がつくと、滑走は終わっていた。
籠は静かに止まっている。
音がない。息苦しくなるほどの静寂があたりを支配している。周囲は闇だ。ヨツンヘイムの夜のように深い闇だ。
ハリィデールはグングニールの槍の穂先を発光させてみた。雪が、その赤い光を淡く散らした。
雪原が広がっていた。それ以外には何もない。そこは、純白の曠野《こうや》であった。
ジュバルはやはり気絶していた。外傷はない。気の小さい黒小人は、しばしば失神することで恐怖をかわす。この場合もそれだろう。
ハリィデールはつぶれて狭くなった籠の口を大きく広げ、外に出た。籠に積んであった荷物は、いくつか失われていたものの、そのほとんどは無事であった。食糧も毛皮もひととおり揃っている。籠がひしゃげて、荷物が間にはさまれたのが幸いしたのだ。
ハリィデールは雪原に毛皮を敷き、そこに意識のないジュバルを横たえた。グングニールの槍は光らせた穂先を天に向けて、ジュバルの脇に突き立てた。吹雪はひとまず熄《や》んでいる。しかし、風はまだかなり強く、雪もわずかではあるが降りつづいている。周囲は、白い霧と深い闇に包まれたままだ。
ジュバルのからだに毛皮を巻きつけた。焚火ができればいいのだが、燃やすものが何もない。籠は薄いくろがねの板で編まれている。
ハリィデールは毛皮の上に腰をおろした。傍らに黒の魔剣を置いた。
干肉を把《と》り、ゆっくりと噛んだ。食糧は残っていたとはいえ乏しい。一切れの肉を丹念に味わって食べた。食べ終わる頃にジュバルが意識を取り戻した。
ジュバルは小さく鼻を鳴らして顔をしかめた。しかめた表情のまま、ふっと目を開けた。焦点が合わない。しばらく瞳を四方に動かしている。
いきなり、跳ねるように上体を起こした。
「どこだ、ここは? 何があった? 船はどうなった?」
ハリィデールに向かい、矢継ぎ早にそう尋ねた。
「せっかちなやつだな、お前は」
ハリィデールは苦笑した。
ひとまずジュバルを落着かせた。それから、この雪原に至るまでの過程をかいつまんで話した。ジュバルは見事にへしゃげたくろがねの籠に目をやり、あらためて全身の毛を逆立てた。
「おそらく、ここはイミールの翼の中央を走る高原のどこかだろう」ハリィデールは言った。
「あの雲のおかげで定かではないのだが、翼のグルスノルン側の峰は越えたような気がする」
「滑り落ちたのは、高原につづく斜面か」
「逆ならば谷底だ。こんな雪原が広がっているはずはない」
「すると俺たちは、これから歩いてこの雪の原っぱを横切り、さらにはタイローン側の峰を越えなきゃならねえんだな」
「そういうことだ」
ハリィデールは、うなずいた。
「へつ!」
ジュバルは肩をすぼめ、食べかけていた干肉を包みの中に戻した。
「やめだ、やめだ!」投げやりに喚いた。
「俺は降りたよ。その剣ですっぱりやってくれ。雪ん中でのたれ死にはしたくねえ。ここでバッサリやってもらった方がすっきりする」
「翼は歩いて越えられないというのか?」
「当り前だ。一面、雪だぜ。そりゃ、お前さんはオーディンに護《まも》られた美獣だ。こんなところはへでもないだろう。しかし、こっちはゴミみたいな黒小人よ。毛皮でぐるぐる巻きにされたって百歩も進めねえ。途中で雪に埋もれて、それっきりだ。冗談じゃねえよ。だったら、今ここで首を刎ねてもらったほうが、よっぽど気分よくくたばれるってもんだ」
「俺は他人の面倒はみられないと言ったはずだぞ」
「覚えてらあ。だから、すっぱりやってくれと頼んでるんじゃねえか」
「頼まれても面倒はみられない」
「なに?」
「死にたければ、自分で死ね。俺に頼るな」
「…………」
ジュバルは言葉を失った。
「自分で死ねないのなら、死ぬのは諦めろ。ひとまず俺が行くのについてこい」
ハリィデールは剣を把り、立ち上がった。髪の毛に積もっていた雪が、こぶのように盛り上がっている肩の筋肉の上に落ちた。雪は瞬時に溶けて消えた。
「えれえ化けもんと一緒に来ちまったよ、俺は」
ジュバルは胸もとに毛皮を掻き寄せ、かぶりを振った。
「足手まといになってから、腹を立てて真二つにされるのは御免だぜ」
「そうなったら、そのときだ」
ハリィデールは食糧のはいった包みを肩に掛け、グングニールの槍を雪の中から引き抜いた。
「まったく、なんてえ野郎だ」
ジュバルのぼやきは止まらなかった。のろのろとからだを動かしながらも、独り、勝手につぶやきつづけた。
「毛皮は、お前が全部身につけろ」
ハリィデールが言った。
「言われなくても、そうするさ」
ジュバルは雪の上に敷いてあった毛皮も、からだに巻きつけた。
「行くぞ」
ハリィデールが歩きだした。
雪は意外に硬かった。ハリィデールが踏み出しても、もぐるのはせいぜい脛《すね》までだ。歩きやすくはないが、といって掻き分けなければ進めないというほどでもない。
「ゆっくり行けよ、ゆっくり」
呪いの言葉を吐きながらではあったが、ジュバルもついてきた。
五、六歩、進んだ。
ふっとハリィデールの動きが止まった。
その全身に、緊張がみなぎった。
双眸が強い光を帯び、あたりを窺うように、ハリィデールはわずかに上体をひねった。背筋が脈動し、波打つ。
「わっ」
前も見ず、必死の思いで雪をはねのけて後につづいていたジュバルが、前進を中断したハリィデールの足に、頭からぶつかった。
「騒ぐな」
ハリィデールが低い声で、鋭く言った。
「な、なんだ?」
ジュバルは目を丸くしている。
「音がする」
「えっ?」
ジュバルは口をつぐんだ。あわてて周囲に視線を走らせてみたが、真っ暗で何も見えない。耳を澄ませてみたが、静寂のあまり耳鳴りが響くだけで、異な音はまったく聞こえなかった。
「呼吸《いき》だ」
ややあって、ハリィデールが囁《ささや》くように言った。
「いき?」
「獣の呼吸《いき》だ。潜《ひそ》めてはいるが、俺にはわかる。一頭ではない。何頭もいる。俺たちの存在を嗅ぎつけて、こっちへ向かってくるところだ」
「く、熊か? それとも狼……」
獣の群れと聞いて、黒小人は顔色を失った。この雪だ。その獣が何であれ、飢えていることだけは間違いない。
「これを持っていろ」
ハリィデールが黒の魔剣をジュバルに渡した。
「こんなもの持っていても使えないぞ」
「造ったのはお前だろう」
「あんたのために造ったんだ」
「俺の言うとおりにしろ。雪に穴を掘るんだ。中にはいって、こいつを抜き、上に向かって突き出せるようにしておけ」
「なるほどな」
ジュバルは納得した。たしかにそのやり方なら、剣の心得がなくても獣相手に限れば身を守ることができる。
すぐに剣の鞘《さや》で穴を掘りはじめた。その間もハリィデールは左右に目を配り、グングニールの槍を隙なく構えている。
穂先の発光を消した。完璧な闇、ねっとりとした暗黒がすべてを包んだ。ジュバルが短いため息のような悲鳴を反射的にあげた。しかし、その声はすぐに喉の奥へと呑みこまれた。
闇の中で目を凝らし、身じろぎひとつせずに、ハリィデールは何ものか――何頭かの獣の群れが近づいてくるのを待った。
静謐《せいひつ》を破って聞こえてくる呼吸《いき》は、ひそやかだが荒い。雪に足を取られるからだろう。
群れはまだ展開していない。ひとかたまりになったままだ。距離は判然としなかった。
いきなり、殺気が疾《はし》った。ハリィデールの筋肉が収縮した。髪が逆立ち、槍の穂先がかすかに揺れた。だが、ほとばしる殺気は未だ闇の向こうにある。
強くはない。明らかな敵意を見せながらも、殺気は弱い。
と、次の瞬間、殺気が割れた。群れが開いたのだ。ハリィデールを囲むように広がり、素早く間を詰めてくる。
ハリィデールは動かなかった。わずかなとまどいが、かれの動きを制していた。これは、飢えた獣の本能が生みだす殺気ではない。いかなることをしても空腹を満たそうとする強烈な意志が、どこにも存在しないのだ。
包囲の輪が、徐々にせばまった。
ハリィデールは正面を凝視していた。
そこには、獣の気配はない。代わりに、異質なもののそれがある。
――人間《ひと》だ。
炎が燃え上がった。淡い炎だった。小さな松明《たいまつ》の先端が赤く揺らめいている。
意外であった。松明の突然の出現ではない。それを掲げるものの正体が、である。
男ではない。そして、大人でもない。
少女だった。白い毛皮で全身を覆い、黒いマントをひるがえした十二、三歳とおぼしき少女であった。松明を手にして、雪原に立っている。
ハリィデールは槍の穂先を発光させた。
おぼろな光の中に、ハリィデールを取り囲む獣の群れが浮かびあがった。
「狼だ」
雪の穴から首だけを突き出したジュバルが、かすれた声で言った。
「違う」ハリィデールが否定した。
「あれは犬だ。似ているが狼ではない。野生の匂いが失せている」
犬は五頭だった。ハリィデールから十エルほどの距離を置き、歯を剥きだして、いつでも飛びかかれるように身構えている。低い唸り声が、凍てついた空気を揺るがす。
少女がゆっくりと前に進んだ。足が雪に沈まない。まるで滑るように雪の上を歩く。
「その槍は……」少女が言った。
「オーディンのグングニール」
「し、知ってるぜ、おい!」
ジュバルが言った。
少女がさらに近づく。
「では、あなたは美獣。神々の戦士」
歌うような口調だった。どこかエッダの詠誦に似ていた。澄んだ声が凛《りん》と響き、あたかも幻と対峙しているかのようであった。
しかし、いまハリィデールの眼前に立つ少女は、まぎれもなく生身《なまみ》の肉体を有している。
「これを」
少女が、左の手首を松明の炎の前にかざした。手首がきらめいた。山吹色の黄金の輝きだった。
「黄金の腕環。ギンナルと同じだ!」
黒小人が叫んだ。
「美獣よ……」
かすかな微笑《ほほえ》みを浮かべ、少女は言った。
「わたしは、あなたの僕《しもべ》です」
少女の名はウルスラといった。ウルスラは五頭の犬を呼び集めて弧を描くように並べ、雪の上にうずくまらせた。そして、ジュバルがまとっていた毛皮のうち一番大きいものをその前に敷いた。ハリィデールとジュバル、それにウルスラがそこに腰をおろすと、五頭の犬は、ちょうど三人を囲むように寝そべっている。生きている背もたれというわけだ。
「これはいい」ジュバルが言った。
「暖かいし、からだが楽だ。しかし、噛みつかないのかね、こいつらは」
犬とはいえ、長く鋭い牙は、狼のそれとほとんど差がない。
「犬たちは、あたしの命令に忠実です。あたしが命じない限り、噛んだりはしません」
「すると、あんたを怒らせなければいいんだ」
ジュバルは乱杭歯《らんぐいば》を剥き出して、ひくひくと笑った。
「ええ」
「この雪と闇の世界に、五頭の犬たちと暮らしているのか?」
ハリィデールが訊いた。
「いいえ」
ウルスラは首を左右に振った。
「あたしたちは青い谷から来ました。美獣のよき僕となり、その望む場所へと導くためにです」
「俺が来るのを知っていたのか」
「はい」
「どういうことだ?」
「すべての宿命は、この腕環に刻まれたルーンに」
ウルスラは左腕をハリィデールの眼前へと伸ばした。ハリィデールの脇に立てられた松明の炎が、黄金の腕環をあかあかと照らしだした。
腕環にはたしかにルーンが刻まれている。腕環はウルスラの手首にぴったりとはまっており、黒小人のアシッドが造った絶対にはずすことのできないギンナルの腕環とそっくりであった。しかし、刻まれたルーンは違う。ギンナルのそれと同じではない。
ハリィデールはルーンを読んだ。
[#ルーン文字の挿絵]
「ウルスラ。オーディンの戦士、美獣を導く者。その僕《しもべ》にして神々の巫女《みこ》……」
「あたしは、イミールの翼のふもとから北西部にかけてを領土としていた小さな国、レイティアの第二王女です」ウルスラは言った。
「しかし、レイティアはもうどこにもありません。美しい都も心暖かい人々も、三年前のあの日、一夜にしてミッドガルドから消えてしまったのです」
「タイローンに揉みつぶされたのだな」
ハリィデールの左の眼が、わずかに細くなった。
「はじめに使者が来ました。降伏せよ。さもなければ死をもたらす。それが使者の口上でした」
「王は、それをこばんだのか?」
「当然です」ウルスラはきっぱりと言った。
「いかにタイローンが大国であろうとも、王たる者が脅しに屈することはできません」
「そして次の朝には、都は廃墟と化していた」
「谷を崩し、岩を砕く嵐ですら、ああまでは荒れ狂いはしないでしょう。タイローンの騎馬軍団は、なまじの噂など戯《ざ》れ言《ごと》にすぎないほどの猛々しさでした」
ウルスラは顔を両の手で覆った。細い肩が、小刻みに震えた。ハリィデールの脳裏にも、自軍を撃破し、本陣になだれこんできた騎馬軍団の姿が忌わしい記憶として鮮明に浮かんだ。
「あたしは乳母とともに都を逃れました。それは、あたしの本意ではなかったのですが、父が薬であたしを眠らせ、乳母に命じて城から連れだしてしまったのです」
「…………」
「あたしが連れていかれたところは、イミールの翼から鋭く切れこんだ深い谷の奥にある黒小人の村でした。乳母は城から持ちだした金銀を黒小人に与え、あたしをかれらに預けようと考えていました」
「ずいぶん忠実な乳母がいたもんだな」ジュバルが口をはさんだ。
「俺だったらおたからを懐にいれて、お前さんは賞金めあてにタイローンに引き渡してしまうね」
「エカリーナは、あたしの母も同然でした。あたしを生んですぐに亡くなった母の代わりに、あたしを実の子として育ててくれたのです。忠実とか、そういったことではありません」
「はあ、なるほどな。よくわからんが、まあ人間のやることだ。相手が自分の娘となれば、うん、そうだな」
柳眉を逆立てたウルスラにジュバルは少したじろぎ、口の中でもごもごとつぶやいた。土から生まれて、土に還る黒小人には、親子の情や家族愛といったことはほとんど理解できない。
「それで、エカリーナの目論見《もくろみ》はうまくいったのか?」
ハリィデールが訊いた。
「黒小人は、あたしだけは子供なので預かってもいいと答えました。でも、エカリーナは村にとどまることを拒否されました。エカリーナはあたしに自分の髪を二房切って渡し、村を出て、いずこへかと去ったのです」
「子供でも人間を預かるとは、よっぽど凄いおたからだったんだな」
「それでも、あたしを村に置いておくのは、一年が限度でした。かれらは人間であるあたしをことあるごとに煙たがり、一年たってあたしが十歳になると、村の外に移ってくれと言いだしたのです」
「村の外?」
「青い谷です」ウルスラはハリィデールに向かって言った。
「黒小人の谷のそのまた奥。暖かい青い水が湧き出ている常春《とこはる》の小さな谷。そこへあたしは運ばれました」
「運んだって? 黒小人が?」
今度はジュバルが訊いた。
「いいえ」ウルスラはかぶりを振った。
「この五頭の犬たちが、あたしを青い谷に」
「これは黒小人の火床から生まれた魔法の犬だな」
ハリィデールが一頭の首筋をなでながら言った。犬は心地よさそうに鼻を鳴らした。
「狼の毛皮、熊の爪、馬のたてがみ……」
ジュバルが指を折った。
「腕のいい黒小人だ。会ってみたいが、そうしたら、どちらかが死ぬことになる」
「ビットンは、あたしがエカリーナからもらった一房の髪も火床の中に投げ入れました」
ウルスラは犬たちの耳と耳との間を指し示した。ちょうど頭頂部にあたるところだ。犬の体毛は、三頭が黒く、二頭が濃い茶色だったが、どの犬もそこだけは色が変わっていた。黄金色《きんいろ》の細い筋が肩のあたりまで長く走っているのだ。
「もしかしたら、万が一を思って、この犬たちのこともエカリーナがビットンに頼んでおいたのかもしれません」
「そうだろう」ジュバルがうなずいた。
「黒小人が、こんなに気がきくはずがない」
「そのときに腕環も一緒に渡されたのだな」
ハリィデールが言った。
「ビットンはこれをあたしの腕にはめながら言いました。ここに彫られたルーンがお前の宿命だ、と」
「お前が俺を導くのか。いったい、どこへ?」
「それは、あなたが御承知のはず」
ウルスラはまっすぐにハリィデールを見た。
「…………」
ハリィデールは黙して答えない。
「昨夜、夢を見ました」ウルスラは言った。
「あなたが雪原に立っておられる夢です。美獣だ、とあたしは思いました。誰とも知れぬ声が夢の中で響きます。行って、その者を導け。目醒めると、犬たちがあたしをうながしました。あなたがどこにおられるかを、犬たちは知っていたのです」
「予言が成就されるときが来たというわけか」
ハリィデールは腕を組んだ。
「お教え下さい。あなたが、なぜ、ここにあらわれたのかを」
ウルスラは身をのりだした。予言を信じ、予言にすがる者のひたむきな目がハリィデールを射た。大きな碧《あお》い瞳が、名状しがたい光を放っている。肌が白い。イミールの翼を覆い尽くす雪よりもまだ白い。おとがいが細く、淡い産毛《うぶげ》がその輪郭を曖昧《あいまい》にしている。幼い少女の顔だ。髪は赤みがかった茶色。あと三年もすれば、みごとな金髪になるであろう。
「俺たちはベシラに行くんだ」横からジュバルが言った。
「タイローンの都だ。しかし、俺ができそこないを造ってしまったから、ここに落っこちた。あんた、道案内してくれるんなら、やってくれ。俺たちはベシラに行きたいんだ」
「ベシラ。タイローンの都」
ウルスラは呪文《じゅもん》のように、その名を唱えた。ジュバルは、ウルスラが美獣王を導くという予言を目的地までの道案内と理解した。それは誤りではなかったが、むろん正しくもなかった。
「ベシラへ行かれるのは、不死王を討つためでしょうか?」
ウルスラが問うた。白い頬に赤みがさした。
「俺がベシラに行けば、俺かスカイハイトのいずれかが死ぬことになる」
ハリィデールが答えた。
「あたしは、あなたをベシラまでお連れすることができます」ウルスラは言った。
「それに、この五頭の犬たち――ハール、ベイン、アウガ、エイラ、ネフは、ベシラの摩天楼で不死王を捜すお役に立てるでしょう。でも……」
そこで少女は言いよどんだ。
「でも?」
「山の巨人と雪の民がいます。だから、黒小人はあたしを青い谷に移したのです。青い谷を出てイミールの翼を越え、タイローンに下るには、かれらを倒さなければなりません。かれらがいる限り、あたしはタイローンには入れないのです」
「この、おっかない犬どもがついててもかね?」ジュバルが訊いた。
「青い谷へは、こいつらが運んだんだろ」
「あのときは、ビットンが山の巨人と取り引きしたのです。あたしを見逃すかわりに、ビットンは山の巨人に氷の剣を与えました。皮肉なことに、それがかれを無敵にしたのです」
「誰が何人、俺を待ち受けていようと、俺には関係ない」
ハリィデールが立ち上がった。
「俺は、俺の行きたいところに行く。それを妨げる者は命を落とすだけだ」
「あなたは不死王と同じなのですね」
ウルスラが言った。
「そうだ」ハリィデールはうなずいた。
「俺は近隣の諸国を脅し、それに従わぬ王とその一族の首をことごとく刎ねてきた」
「しかし、レイティアは滅ぼさなかった」
「そうだ」
「お供をします。宿命の定めるがままに」
ウルスラは左の手をハリィデールに向かって差し出した。その手首には黄金の腕環が燦然《さんぜん》と輝いている。
ハリィデールは、少女の手を把《と》った。
二人の宿命が、一つになった。
つい先ほどまで平坦だった雪原が、いつの間にか緩《ゆる》やかな下りに変わっている。黒い岩塊が露出しはじめ、ときおり浮石が足の下で転がる。岩塊は黒小人の背丈ほどもあり、その間を縫うように進むと、まるで広大な雪原が狭い山道になったかのように思えてくる。
先頭を行くのは、アウガとエイラだ。この二頭の犬は肩を並べ、前方の気を窺いながら、ゆっくりと歩を進める。そして、その後ろにウルスラがつづき、さらにネフをはさんでハリィデールとジュバルが行く。最後尾を固めるのは、ハールとベインである。ウルスラは松明を掲げ、ハリィデールも槍の穂先を光らせている。
「目《アウガ》と耳《エイラ》が道をたしかめ、それを鼻《ネフ》が補っている」ジュバルが言った。
「おまけに尻を守るのは骨《ペイン》と毛《ハール》だ。鉄壁の陣容だな、こいつは」
道は下りにかかると、いきなり急になった。雪はどんどん薄くなり、それにつれて岩塊が増えていく。急坂とあいまって、歩きにくいことおびただしい。ジュバルは二度ほどつまずいて転び、そのつど神々と精霊と大地とを呪った。
「風から、冷気が失せた」片手を高く差し上げて、ハリィデールが言った。
「雪も熄《や》んでいる」
「青い谷が近いのです」
ウルスラが応じた。
「暖かい青い水ってのに、一度つかってみてえな」
ジュバルが言った。
「青い谷には寄りません。回り道になります」
行手を見据えたまま、ウルスラが言った。黒小人は鼻を鳴らし、肩をそびやかした。
しばらくは、だらだらとした坂を下った。雪がほぼ完全に消え、丸い石がごろごろする沢の底のような道がつづいた。しかし、それもすぐに終わり、また地面は白い雪に覆われるようになった。雪は次第に深くなる。
「坂が楽になったぞ」
ジュバルが嬉しそうに言った。たしかに傾斜は、なだらかになっている。
「ここから尾根道になります」ウルスラが言った。
「道の両側が切れ落ち、かなり辛い登り坂になるはずです。これまで以上に足もとには気をつけてください」
「やれやれ」
ジュバルが笑顔を渋面に変えて、大きなため息をついた。
ウルスラの予告は正しかった。
雪庇《せっぴ》が左右に張り出しており、それを踏み抜くと、ほとんど垂直に切り立った山腹を雪の塊と一緒に転げ落ちることになる。一歩一歩慎重に足を出すが、それだけで体力よりも気力を消耗する。
最初にねをあげたのは、やはりジュバルだった。ハリィデールが雪を踏み固めて、そのあとを登ってきたのだが、それでもすぐに呼吸が荒くなった。ふだんなら悪態の一つもつこうに、それすら出ない。
やがて一人だけ遅れるようになった。ハールが後ろから鼻で押し上げようとしたが、足が萎《な》えかけているのか、まったく動かない。
ウルスラはベインにジュバルを背負わせた。ベインは〈骨〉と名付けられているだけあって、五頭の中で一番逞しく、からだが大きい。
「この尾根を登りきった峰が、山の巨人と雪の民の棲家《すみか》です」ベインが黒小人を背負うのを待ちながら、ウルスラが言った。
「峰は三つに分れており、夏のよく晴れた日に遠目で見ると、まるで山の頂にこぶが三つ並んでいるかのように見えます」
「山頂は、かなり広いのだな?」
「はい」ウルスラはハリィデールに向かって、小さくうなずいた。
「その三つのこぶを越えると、尾根はまた下りになります。下りきって稜線の底に着いたら、そこからさらに谷の底へと下ります。谷の出口は、タイローンの入口です」
「まだまだ遠いじゃねえか」
ベインの背中にしがみついたジュバルが、いまにも消え入りそうな声で言った。
二度、休んだ。一度目はウルスラが雪庇を踏み抜いたときにとった。悲鳴とともにひるがえった黒いマントにネフが飛びついて、ウルスラは墜落を危うく免れた。足どりはたしかなように見えたのだが、かなりの急坂をえんえんと登ってきたのである。やはり疲労が募り、集中力を失っていたのだろう。
二度目は何も起きないうちにハリィデールが時を見計らって一行を止めた。岩肌が雪の間に露出する角度の急な崖がしばらくつづいたので、小さな棚のようになった場所に出たのをしおに、一息つかせたのだ。三人と五頭が、肩を触れ合わせてようやく腰をおろせる程度の広さでしかなかったが、それでも立ちっぱなしで休むよりはくつろげた。はっきりとはわからぬが、尾根道にはいってから、すでに半日あまりが過ぎている。
ハリィデールが干肉を配った。
黒小人と五頭の犬が旺盛な食欲を見せた。ウルスラは、干肉を口にしなかった。雪をすくって松明の炎で溶かし、それを飲んだ。疲労のあまり何も食べられなくなったかのように思われたが、そうではない。ウルスラは帯に吊るしてあった小袋から小さな木の実を何粒か取り出し、それを水とともに飲みくだしていた。青い谷に黒小人が植えた潅木《かんぼく》になる実だとウルスラは説明した。食糧を自給できないウルスラのために黒小人が配慮したものらしい。
「まったく黒小人じゃないみてえなやつだな、そのビットンてのは」
ジュバルがあきれたように顔を横に振りながら言った。
その科白《せりふ》が、まだ終わらぬうちだった。
犬が、低く唸った。一頭だけではない。五頭が一斉に耳を寝かせ、首をめぐらせて牙を白く剥《む》きだした。眼が炯炯《けいけい》と光った。
「よせよ、おい」
ジュバルが怯えて、両手をひらひらさせた。
「俺は何もビットンをけなしたわけじゃないんだぜ。怒るこたあないだろう」
「しっ!」
ハリィデールがジュバルの口をふさいだ。
「な、なん……」
「黙ってろ!」
すでにハリィデールは右手にグングニールの槍を構え、身を低くして戦闘の体勢をとろうとしている。
「雪が激しくなってきた」
ウルスラが声をひそめて、つぶやくように言った。たしかについ今しがたまでは小やみになっていた雪が、いつの間にか黒い空を埋め尽くすかの勢いで頭上を白く舞っている。
「風も強くなってるぞ!」
ウルスラに言われて、ジュバルも異常に気がついた。
犬の唸り声が大きくなった。背中の毛を逆立たせ、尻尾は興奮で丸くなっている。その眼は行手、峰の頂の方に向けられ、片時もそらそうとはしない。
「雪の民だな」
ハリィデールが言った。
「尾根道は、行手も後ろもふさがれています」
ウルスラが“気”を窺った。
犬たちがウルスラの周りを取り囲んだ。
「俺も守ってくれ!」
ジュバルがあわててウルスラのもとに駆け寄った。
「ここは足場も定かではない」ハリィデールが言った。
「攻めるも不利。守るも不利。戦うには向いておらん」
「雪の民は、粉雪のように身が軽いとか。雪の中、闇の中からふわりとあらわれ、鋭い爪と牙とでおのれの敵を引き裂くと聞いております」
ウルスラが言った。
「犬どもは、お前とジュバルとを守ることだけに専心させろ」片膝ついて構えていたハリィデールが立ち上がった。
「あとは俺がやる」
「はい」
ウルスラがうなずいた。ジュバルも同じようにふるまおうとした。しかし、からだが小刻みに震えて、うまくいかなかった。
雪の民が来た。
一瞬、視界が真っ白になった。風があたかも竜巻のように吹き荒れた。狭い岩棚の上を小さな嵐が縦横に走った。雪と風は、ハリィデールたちを凍らし、さらには岩棚から、闇の果て――谷の底へとはたき落とそうとする。
強風にあおられて、足もとに積もっていた雪が、音をたてて舞い上がった。
その音と雪の紗幕《しゃまく》とにまぎれて、白い影が猛烈な勢いで飛んできた。
忍んできたのではない。駆けてきたのでもない。たしかに飛んできたのだ。
斜め上方からだった。ハリィデールを狙っていた。二手に分れて飛来した。
殺意に満ちた影が、ハリィデールの頭上で交差する。火花が散り、鋭い金属音が響いた。短い悲鳴があがった。だが、影はその素速い動きを減じることなく、雪の闇にまぎれた。赤い鮮血が、槍の穂先と雪上に残った。
「なんだ、今のは!」
ジュバルが叫んだ。
「雪の民です」
ウルスラが言った。
「ありゃあ、猿だぞ! あんまり速いからよく見えなかったが、間違いない。ありゃあ、白い猿だ!」
恐怖と好奇心がないまぜになったジュバルは、大声で喚き散らした。
咆哮とも嬌声ともつかぬ雄叫《おたけ》びがあがった。地獄の鬼のすすり泣きもかくやと思われる奇怪な声だ。それが、渦を巻く吹雪と一体になってハリィデールたちを白く包む。
「雪の民!」
ウルスラが眼を見開き、正面を指差した。五頭の犬が憤怒の唸りを発し、前肢を伸ばして攻撃の姿勢をとった。
「あちらにも、ああ、あちらにも!」
ウルスラは指差したまま、ぐるぐるとからだを回す。
「か、囲まれている!」
ジュバルは雪の上に突っ伏し、頭を両の腕で抱えた。
闇の中に、無数の赤く炯《ひか》る眼があった。
紅玉《ルビー》の輝きにも似た、冷ややかに燃える死の炎。
それは血の色であり、見る者の無残な最期を暗示する色だった。
短い睨《にら》み合いがあった。
雪は降りつづいているが、風は穏やかになった。
ハリィデールは、槍を右の腋にたばさんだまま動かない。雪の民の赤い眼は、まばたきひとつせずに、そのさまを見据えている。
合図は、金切り声だった。闇を切り裂く甲高い不快な叫び。おそらくは雪の民の長《おさ》が発したものだろう。あるいは、それが「かかれ!」というかれらの言葉だったのかもしれない。
雪の民が、四方から一斉に飛びかかってきた。
かれらは、ジュバルが見てとったとおり、猿だった。白く長い体毛に全身を覆われた凶暴なましら。からだは人間の大人よりもわずかに小さい。しかし、手足は充分に長く、爪は熊のそれのように鋭かった。唇の間からはみだしている二本のやや黄ばんだ犬歯も、肉食獣のそれに比して、まったく劣っていない。
十数匹の雪の民が、狭い岩棚に殺到した。
ハリィデールの頭上で、グングニールの槍が風車のように回った。あまりの早技に、槍が見えない。
魂消る悲鳴とともに、数匹の雪の民が弾け飛んだ。ハリィデールは槍を持ちかえ、身を低くした。
ウルスラとジュバルを狙った雪の民の前には、五頭の犬が立ちはだかった。アウガとエイラが少女と黒小人にそれぞれぴったりと寄り添い、ハール、ベイン、ネフが襲ってきた雪の民に牙を剥いて逆襲した。
たちまち岩棚が血の修羅場と化した。雪が生暖かい鮮血で赤く染まり、溶けてぬるぬるとした血溜りになった。犬たちは雪の民の喉を食い破ると、その死骸を崖の下へと投げ捨てた。雪の民の鋭利な爪が何度か犬たちの背中や頭をかすめたが、長い体毛と厚い皮膚が身を守り、致命傷とはならなかった。
一方、ハリィデールは闇の奥から次々とあらわれる雪の民を片はしから斬り伏せていた。槍を短く持ち、剣のように使って飛びついてくる雪の民を両断する。雪の民には、軍略も連係もなかった。数にものをいわせて敵を圧倒するのが、かれらの戦い方のようだった。”民”とは呼ばれているものの、これはまさしく野生の猿そのものである。
五十を超える雪の民を屠《ほふ》った。燃える穂先はいざ知らず、槍の柄は血にまみれ、ハリィデールの全身も返り血で赤黒く濡れている。長い黄金の髪は汚く固まり、肌や鎧は縞模様のまだらになっている。凄惨このうえない姿だ。それは犬たちも同じで、もうどれがどの犬かは、ウルスラにも見分けがつかない。
ハリィデールは後ろを振り返った。犬たちは、際限なく舞い降りてくる雪の民を相手に、果敢に戦っている。動きは敏捷で、反応も速い。雪の民の一撃を身軽にかわし、腕か胴体に噛みついて岩棚に引き倒す。あとは喉を噛み裂き、崖下に放り投げるだけだ。一匹を仆《たお》すのに、まばたき一つほどの時間しか要していない。しかし、その機敏さがいつまでつづくかは、明らかではなかった。雪の民は数限りなくいるように思われる。このあと何百何千とあらわれ、犬たちに挑みかかったとしたら、はたしてどれほどもちこたえられることか。
新たに飛びついてきた数匹の猿を瞬時に血と肉の塊に変えると、ハリィデールはウルスラに向かって怒鳴った。
「登れ。頂をめざして走れ!」
そして、ウルスラの頭の上に狙いを定めて、グングニールの槍を投げた。
槍は今まさにウルスラを襲わんとしていた雪の民の胸を灼き貫いた。
「急げ! 槍がお前たちを守る!」
ハリィデールはきびすを返し、佩剣をすらりと抜いた。黒の魔剣が、闇の中で鈍い燐光をはなった。切っ先が左右に跳ね、雪の民の首が二つ、赤い血の糸を引いて虚空に舞った。
ウルスラはハリィデールの言葉に従った。いや、その前に犬たちがハリィデールの言を解していた。
アウガとエイラが先に立った。ベインは牙を剥き、低く唸ってジュバルを追いたてた。雪の上で丸くなっていたジュバルは、悲鳴とも泣き声ともつかぬ声をあげながら身を起こして、岩棚から峰の頂へと伸びる急坂を登りはじめた。黒小人の後ろには、ネフがつづいた。ハールは雪の民の一匹と格闘している。
アウガとエイラは勢いよく尾根道を登った。ハリィデールが、走れと命じたからである。しかし、ウルスラが、ついていけないほどの速さではなかった。ウルスラは頬を紅潮させ、呼吸を切らせながらも二頭の犬にぴったりとくっついていた。ジュバルは走るのも登るのも苦手だったが、ベインに尻を押されるので、やむなく足を前に出していた。顎を突きだし、眼はうつろになっている。
とつぜん、アウガが跳んだ。同時にエイラが歩を止め、ウルスラをかばうように身構えた。
雪の民が、三方から来た。左右、そして正面である。跳躍したアウガは正面の、身構えたエイラは左右の敵と相対した。ネフがベインにつつかれて喘《あえ》いでいるジュバルを飛び越えて、エイラの横に並んだ。
その隙を雪の民はついた。
五匹の雪の民が、ウルスラとジュバルを狙って崖の蔭から躍り出た。
先を行く三頭はそれぞれの相手と戦い、格闘していた雪の民をようやく仆したハールは、まだ追いついていない。ウルスラとジュバルを守ることができるのはベインだけだ。
五匹の牙と爪が、ウルスラとジュバルに迫った。ベインは二人の前に立ちはだかっているが、動くに動けない。ジュバルは失神し、ウルスラは手にした松明を高く振りかざした。
炎が走った。
闇のかなたから、弧を描いて尾根道をかすめた。
目もくらむ赤い閃光が、ウルスラの眼前で燃えあがった。炎は瞬時にして失せ、あとには黒く焼けただれた雪の民の屍体が五つ残った。いずれも胸か腹を刺し貫かれている。
グングニールの槍が、雪の民を蹴散らしたのだ。
ハールが追いついた。行手を遮《さえぎ》った三匹は、犬たちに喉を噛み裂かれた。ベインがジュバルの顔を舐《な》めまわして意識を回復させた。
「ちくしょうめ、油断したらこのざまだ。猿のくせにしゃれたマネをしやがって」
目を開けて我が身の無事を確認したジュバルは、強がってみせ、激しく毒づいた。
「急ぎましょう」
ウルスラが言った。
二人と五頭は、登攀《とうはん》を再開した。
ハリィデールは囲まれていた。
とはいえ、相手の姿はどこにも見えない。岩棚も尾根道も、深い闇の中にある。グングニールの槍はハリィデールの手を離れ、一本しかなかった松明はウルスラが持っている。ハリィデールには、あたりを照らす術《すべ》がない。
闇には、無数の赤い瞳が浮かんでいた。その瞳の数と、それ自体が得体の知れぬ力を有しているかのように思われる強烈な殺気が、ハリィデールに何をなすべきかを教えていた。ものは見えずとも、ハリィデールには動きを見ることができる。
ハリィデールは右手に黒の魔剣を持ち、両の腕を左右に大きく広げた。背後は、ウルスラたちが駆け登っていった急坂。殺気はむろん、坂の上にもある。
ハリィデールは隙だらけになった。筋肉は弛緩《しかん》し、その全身から敵意が失せた。剣を手にしてはいるが、戦う意思は存在しない。鎧を身につけた無防備の肉体である。
誘ったのだ。雪の民が動くように。
雪の民は疑わなかった。岩棚に立つ巨大な体躯の金髪の男は、戦意を阻喪した。間違いない。仲間が去り、長い燃える武器を失い、かれらに囲まれて、戦う力をなくしたのだ。
多くの獣や人間が、同じような境遇に追いこまれて、同じような反応を示した。かれらは、そうした相手を速やかに葬り、その肉を食らってきた。人間はむろんのこと、獣ですら抵抗することなく喉を抉られ、腹を裂かれた。
雪の民は、包囲の輪をせばめた。殺意は前にも増して激しく燃え上がっていた。しかし、警戒心は緩んでいる。この勝負は、すでについたのだ。身構える必要はない。いかな猛獣といえども、生への執着を捨てたのちに抗した例はない。
雪の民は知らなかった。相手が人間の姿をしていても人間ではないことを。そして、獣であっても獣ではないことを。美しき獣。――予言の詩《うた》の中で、かれはそう呼ばれていた。オーディンの使者にして神々の戦士。かれらが相手にしているのは、美獣だった。
まばたきするほどの間もなかった。すべては一瞬のうちにおこなわれた。
ハリィデールの筋肉に力が戻った。鎧の下で音をたてて膨れあがり、その全身は再び剣呑《けんのん》な凶器となった。右の腕に握られていた黒の魔剣は、意思を持った。失せていた敵意が蘇《よみがえ》り、巨大な紅蓮《ぐれん》の炎と化してハリィデールの肉体から噴出した。
雪の民の牙と爪は、ハリィデールの眼前、髪の毛一筋のところまで迫っていたが、そこから先には、もう進めなかった。
凍てついた空気を切り裂く金属音が、重畳と連なる山嶺にこだました。
何かが破裂するような音が、それにつづいた。もしも光があたりを照らしだしていたならば、ハリィデールはそこにほとばしる鮮血の柱を見たことだろう。赤い柱の先端には、目を剥き、口を大きく開けた雪の民の首があるはずだ。首の数は、両の手にあまる。
一方的な殺戮《さつりく》がはじまった。
ウルスラたちを先に行かせて身軽になったハリィデールは、風を巻いて疾《はし》る死神であった。大鎌の代わりに剣を持ち、群がる犠牲者たちの首を片はしから刈っていく。雪の民は逆らえない。はたから見ていると、まるでハリィデールに自らその首を差し出しているかのように思われる。
悲鳴はなかった。喊声《かんせい》もなかった。死は、闇の中で静かに広がっていった。
ハリィデールの全身が、返り血で濡れた。黒の魔剣も血にまみれ、柄までがぬるぬるとしている。これだけ切っても刃がこぼれず、切れ味が変わらないのは、さすがに名匠ジュバルが鍛えた魔剣だけのことはある。いったい何匹の雪の民を屠《ほふ》ったことか。岩棚には雪の民の屍体が折り重なり、山をなしている。屍体と屍体の隙間には血が流れ、池となっている。さすがに数知れぬと見えた雪の民の群れも、その気配を大幅に減じており、ハリィデールが背にしている坂の上の方には、まったく殺気がない。
と、そのときであった。
一陣の風にまぎれて、かすかな悲鳴がハリィデールの耳に届いた。
ハリィデールは首をめぐらした。風は頂から吹き下ろしていた。そして、悲鳴は甲高《かんだか》い少女のそれであった。
「ウルスラ……」
ハリィデールの口から、低く言葉が漏れた。
10
ハリィデールが悲鳴を聞く少し前。
ウルスラたちは三つのこぶになっている山の頂の第一の峰に辿《たど》りついた。深い闇で遮《さえぎ》られていたために、その目でたしかめることはできなかったが、二度目に休んだ岩棚は、意外に山頂に近かったのである。
しかし、頂に近づくにつれて坂はいよいよ急になり、尾根道の最後はほとんど崖であった。ウルスラの背丈の倍ほどの高さで、尾根が垂直に切れ落ちている。ウルスラもジュバルも、そこを攀《よ》じ登ったのだ。アウガがウルスラから松明を受け取り、それをくわえて先に登った。そして、アウガが照らすその松明の貧弱な光を頼りに、両の手で岩のでっぱりを探って、からだを崖の上に引き上げたのだ。ジュバルは知っている限りの呪咀の言葉を喚き散らしたが、元来、身が軽いので急坂を登るほどには難渋していなかった。
泥だらけになって崖を越えると、丸い大岩があった。大岩の向こう側は、なだらかな丘のようになっている。そこが、第一の峰だった。ウルスラはアウガから松明を返してもらった。エイラとネフが前に出てきて、アウガに並んだ。ベインとハールは座りこんで息を整えているジュバルの顔を舐《な》めまわしている。雪の民はどこにもいない。風は弱く、雪は淡い粉雪である。
気配は、確かになかった。音も匂いもなかった。だから犬たちは警戒こそしていたが、身構えもせず、吠えもしなかった。
上からである。
闇が凝集して魔物にでもなったか、と思われた。
腕が伸びてきた。巨大な腕だった。いきなり目の前に指があらわれ、次の瞬間、エイラのからだが、その指に握りしめられていた。
間髪を容れずに、グングニールの槍が飛んできた。
巨大な腕の手首を槍は刺し貫いた。
天を揺るがす咆哮が耳をつんざいた。穂先の炎がひときわ大きく燃え上がり、長い尾を引いた。
エイラを掴んでいた指が力を失った。犬は四肢を蹴り伸ばし、開いた指の間から地上へと逃れた。
そのときになってはじめて、ウルスラは何が起きたのかを理解した。
山の巨人である。山の巨人が、第一の峰で侵入者を待っていたのだ。
ウルスラはジュバルとともに身を伏せ、岩と岩との隙間に潜りこんだ。松明は地面に投げ捨てた。持っていても巨人相手では武器にもならず、かえってこちらの所在を教えることになる。
松明の弱いあかりが、峰の上にそそり立つ巨人の姿と、それを囲んで唸っている犬たちの姿を、まるで影絵のようにぼんやりと照らしだした。
巨人は全身に毛皮をまきつけている。髭も髪も伸びほうだいだ。足が短く、腕が長い。灰色熊の身の丈を四倍くらいにして後肢だけで立たせたら、こんなふうになるのであろうか。灰色熊とはっきり異っているのは、腰に銀色の輝きをはなつ細身の剣を帯びていることである。剣は革のベルトで吊るされ、なかば透き通っているかのように見える。この巨人にまるで不似合いな美しい剣こそが、ビットンが与えた氷の剣に違いない。
巨人の右手首を貫通したグングニールの槍が、宙で反転した。弧を描いて回りこみ、巨人の背後から、その首を狙う。
巨人が動いた。左手で氷の剣を抜き、上体をよじった。
氷の剣が、グングニールの燃える穂先を薙ぎ払った。
金属音が響き、火花が散った。槍と剣は噛み合ったまま、しばし静止した。あたかも双方の武器が、持てる力を振り絞って押し合いをしているかのようだ。
巨人が、裂帛《れっばく》の気合いを発した。
同時に勝負がついた。剣が槍を弾き飛ばした。
槍の穂先から炎が消えた。槍はくるくると回転して落下し、第一の峰の斜面に突き刺さった。
巨人は氷の剣を振りかざし、犬たちの方へと向き直った。
一瞬、隙が生じた。
その隙に犬たちは賭けた。
大地を蹴り、五頭が一斉に巨人の喉めがけて飛びかかった。
氷の剣が横に一閃《いっせん》した。
叩きつけるような鈍い音。そして鮮血の帯。
首が二つ飛んだ。ハールとエイラの首だ。
悲鳴があがった。ウルスラの絶叫だった。ウルスラは叫びながら、岩蔭から飛びだそうとした。それをジュバルがしがみついて止めた。
残る三頭が危うく白刃をかわし、巨人の両脇に降り立った。
巨人は剣を横に構え、仁王立ちになってあたりを睥睨《へいげい》している。蓬髪の間に見える鋭い双眸は、燠火《おきび》にも似たくすんだ赤い光を放っている。
二頭の仲間を瞬時に失った犬たちは、巨人を包囲しながらも、なす術《すべ》がなかった。動けば斬られる。逃げれば、ウルスラを置き去りにすることになる。縁もゆかりもない黒小人はいざ知らず、ウルスラを見捨てるわけにはいかない。
となると、犬たちに残された手は一つしかなかった。
仕掛けると見せかけて巨人を翻弄し、時を稼いでハリィデールが追いつくのを待つのだ。岩棚でひとり雪の民との対決を図ったハリィデールが、いつ山頂に辿りつくのかは、まったくわからない。わからないが、それまでとにかく持ちこたえてウルスラに巨人の手が及ばないようにするのが、かれらがなしうる唯一の務めだった。
暗黙のうちに互いの役割を了解した三頭の犬は、牙を剥き、全身の毛を逆立てて怒りの表情をつくると、低い唸り声をあげながら巨人の周囲をゆっくりと巡りはじめた。
かれらの意図を知ってか知らずか、巨人の目は犬たちの動きを追う。
ウルスラは、狭いくぼみの中で、ジュバルにからだを押さえつけられていた。その口はジュバルの右手でふさがれ、腕も足もがっちりと抱えこまれている。いざとなると、黒小人は意外な力を発揮する。
「我慢しろ。我を忘れちゃいかん」ジュバルはウルスラの耳元で囁いた。
「犬には犬の使命があるんだ。取り乱すんじゃない。じっとして、指一本動かすな!」
ウルスラは肯《がえ》んじなかった。口をふさがれたまま首を激しく横に振った。目からは涙があふれだしている。ジュバルが力を緩めれば、ウルスラは何も考えずに仆《たお》れた犬のもとへ走るだろう。そうなったときに窮地に陥るのは、自分ではなく残った犬たちであることに、錯乱したウルスラは気づいていない。
「ちくしょう」
ジュバルは呻いた。焦りをおぼえ、肌が粟立った。しかし、黒小人が岩蔭から首を伸ばし、松明の炎に照らしだされた巨人の顔を目にしていたら、反応はそれだけでは済まなかったに違いない。
巨人の鼻がひくついているのだ。
巨人は、その目に限っていえば犬たちの動きに惑わされていた。しかし、鼻は別の獲物を求めていた。
匂いがする。人間の、それも女の匂いが――。はじめて嗅ぐ匂いではない。前にも一度、嗅いだ覚えがある。黒小人のビットンがここを通ったときに連れていた女だ。あのときは氷の剣を貰うために女は見逃した。だが、今は違う。もう遠慮はしない。人間の肉、ことに若い娘のそれは極上の味がする。食べたい。とにかく食べたい。
犬たちは、巨人の欲望を察知していた。その鼻がうごめいていることにも気がついていた。あの鼻は、犬の匂い、松明の燃える匂い、そしておびただしく流れた血の匂いの中から、ウルスラの匂いだけを確かに嗅ぎ分けている。
ベインが巨人に飛びかかった。もう、あれこれ策を弄している時間はない。まず攻撃。そして、何とか巨人の気を脇にそらしておくのだ。
ベインは巨人の脛《すね》を一噛みして、すぐに後方へ跳んだ。離れると同時に、氷の剣が振りおろされた。切っ先がベインの背中をかすめ、二房の毛が風に舞った。
アウガとネフが、その隙に背後から巨人に挑んだ。狙ったのは、巨人の脇腹だった。そこだけが氷の剣の死角となっている。うかつに薙ぎ払えば、傷を負うのは巨人自身だ。
巨人は毛皮で身を覆っていた。白い毛皮だ。おそらくは雪の民のものであろう。山の巨人は、雪の民を支配している。
毛皮は、幅の広いベルトでまとめられていた。ビットンが氷の剣とともに渡したもので、鞘と一体になっている。
巨人は、腹に肉が余っていた。腰に巻かれたベルトのせいで、だぶついた肉は脇腹から背中にかけて、大きく盛り上がっていた。
そこに二頭の犬は、喰らいついた。
爪を立ててしがみつき、両顎にあらん限りの力をこめて、首を左右に振った。
牙が毛皮を裂き、皮膚を破って巨人の肉にくいこんだ。巨人はたまらず、苦悶の声をあげた。身をよじり、右手を回して、まず左腋にぶらさがっていたアウガをはたき落とした。アウガは血に染まった口に一塊《ひとかたまり》の肉をくわえたまま、大地に叩きつけられた。しかし、ちょうど雪の吹き溜りに落ちたために、ダメージはさほどでもない。
右脇腹に噛みついていたネフは、巨人の一撃をかわした。肉を食いちぎることを諦め、牙が肉に届いたところで、さっと逃げたのだ。巨人は氷の剣の柄でネフを殴ろうとしたが、すでにネフの姿はなく、柄は空《くう》を切った。
どす黒い血が噴き出し、巨人のまとう白い毛皮を濡らした。
巨人は怒りの叫びを発し、両腕を頭上高く振り上げた。
アウガに代わってベインが巨人の横に回りこんだ。
アウガとネフが動きまわって巨人を誘う。
左脇腹に開いた巨人の傷口めがけて、ベインが跳んだ。
巨人が、きびすを返した。
ベインのからだは空中にある。
氷の剣が、垂直に走った。
死の光が、ベインを縦真二つに切り裂いた。
剣は止まらない。勢い余って、岩を打った。それが、ウルスラとジュバルのひそむ岩の一つだった。岩は氷の剣にすっぱりと断ち割られた。
割れて転がった岩につぶされそうになり、半狂乱になったジュバルがウルスラを抱えて隙間から這いだした。
黒小人と巨人の目があった。ウルスラは頭に岩の破片が当たったのか、ぐったりとしている。
巨人は歓喜の色を表情《かお》に浮かべ、ベインの血が赤くしたたる氷の剣を高く構え直した。
アウガとネフが巨人に躍りかかったが、間に合わない。
黒小人は観念し、目をつぶった。一人で逃げようにも、とうに腰が抜けており、立ち上がることもできないのだ。
氷の剣が振りおろされた。冷気を裂いて、白刃が唸りをあげる。
鍛鉄が鍛鉄を阻む甲高い音が、ジュバルの耳をつんざいた。音はあまりに鋭く、近かった。激痛が走り、ジュバルの頭の中で光が散った。
だが。
氷の剣は、黒小人を両断しない。
金属のこすれ合う嫌な音が耳鳴りに混じって長くつづく。
ジュバルは閉じていた目をゆっくりと開いた。
眼前に、燦《きらめ》く切っ先があった。それも一振りではない。二振りの剣が交差して小刻みに震えている。一つは、透き通った巨大な剣。いま一つは、ジュバルが鍛えた黒の魔剣。
「ハリィデール」
ジュバルの口から安堵のため息が漏れた。
「お前を助けたのではないぞ、ジュバル」
ハリィデールは言った。まっすぐに伸ばされた右の腕に黒の魔剣は握られ、それがジュバルの頭上、わずか拳ひとつのところで氷の剣を止めている。
「わ、わかってる」
ジュバルはウルスラを連れて後退《あとずさ》ろうとした。が、黒小人は足も手も萎えきっており、一歩も動けない。
アウガとネフが来た。二人をくわえて引き摺り、その場を脱した。
ハリィデールが剣に力をこめた。氷の剣が押し戻された。
巨人は顔をひきつらせ、後ろに飛びすさった。ハリィデールは人間にしてみれば大柄だが、それでも身の丈は巨人の半分ほどもない。しかし、膂力《りょりょく》は巨人のそれをはるかに凌駕《りょうが》する。
巨人は、あわてて守勢をとった。ハリィデールと向かい合う形になった。ハリィデールは剣をだらりと下げたまま構えようとしない。
「お前が山の巨人か」
ハリィデールは静かに訊いた。
「美獣。きさまが、伝説のオーディンの戦士」
かすれた、石臼《いしうす》がきしむような声で、巨人は応じた。
11
足もとから天空へと強く吹き上げてくる風と雪が、山頂の一隅で細々と燃えていた松明の炎にとどめを刺した。巨人や犬たちやハリィデールの薄く長い影がしばし揺らめき、そして次に漆黒《しっこく》の闇が風景のすべてを瞬時にして包んだ。闇は深く、眼前にかざしたおのが指すら見ることができない。
犬が一頭、足音を抑えて駆け寄ってきた。ハリィデールの左の手に何かを押しつけた。槍の柄だった。ハリィデールが握ると、穂先が淡く光りはじめた。槍を運んできた犬が、ネフだと知れた。ハリィデールは穂先をめぐらし、正面に向けた。舞い上がる吹雪を背景に、巨人の姿が赤黒く浮かびあがった。
巨人は、毫《ごう》も動いていなかった。松明が消えたときと同じ場所にいた。闇の中で仕掛けても、美獣が相手では不利になるばかりだとみてとったのだろう。
ハリィデールは石突きを下にして、グングニールの槍を地面に突き立てた。山頂はまだらに積もった雪と硬い岩盤とに覆われていたが、ハリィデールが腕を軽く下に振りおろすと、柄は岩盤を貫いて一エルあまりも沈んだ。
穂先はハリィデールが手を離しても、赤く輝きつづけている。
「わしは山の巨人、イエティス」
巨人が名乗った。
「ハリィデール。素姓は心得ぬ」
美獣は、それに応《こた》えた。
「取り引きをしよう」イエティスは言った。
「お前は通す。あとの者と犬は残せ」
「笑止」
ハリィデールは左の眼をわずかに細めた。ジュバルとウルスラを岩蔭に移してきたアウガとネフがハリィデールの両横に並び、低い唸り声をあげた。
「俺を意のままにできる者はいない」ハリィデールはつづけた。
「誰であろうと、相手が俺に従うのだ」
「ほざいたな!」
「去《い》ねい」
静かな声だった。静かだったが、重く響いた。ハリィデールの双眸には得体の知れぬ光が宿り、それが巨人を射すくめる。
「ただちにここを去れ。俺に道をあけろ」
「だ、黙れ!」
イエティスの全身が、おこりのように震えた。穂先の赤い炎に照らされていたからだが、さらに赤く染まった。
巨人は身をよじるように氷の剣を振り上げあらん限りの力をこめてハリィデールに叩きつけた。
しかし。ハリィデールはすでにその場にはいなかった。白刃を右にかわしてイエティスの脇に回りこんでいた。
氷の剣は雪と泥を跳ね散らし、ハリィデールが立っていた岩を両断した。青白い火花が散った。二頭の犬が、イエティスに向かって激しく吠えた。
イエティスは体勢を崩した。うろたえ、あわてて体をひねろうとした。隙だらけだった。ハリィデールは黒の魔剣を揮《ふる》った。投げ槍であるグングニールはイヴァルドの息子たちがつくった魔法の槍だが、ハリィデールの手を離れてしまうと、氷の剣を敵としたときに不利になる。氷の剣もまた黒小人の魔法でつくられているからだ。しかも、氷の剣は、グングニールの炎を制する力も持つ。ゆえにグングニールの槍は、イエティスからウルスラたちを守りきることができなかったのだ。
ハリィデールは、この決闘の得物《えもの》に黒の魔剣を選んだ。黒の魔剣と氷の剣との勝負ならば、それを持つ者の剣技の戦いとなる。武器の差ではなく、技倆の差が決着をもたらすのだ。
ハリィデールは魔剣を上から下へ、斜めに振りおろした。隙だらけの巨人には受けられるはずのない必殺の一手だった。
だが、さすがにイミールの翼の一角を支配する山の巨人だけのことはあった。イエティスは流れるように上体を移動させ、氷の剣を縦に払ってハリィデールの自信に満ちた一撃を鮮やかに返した。そして、すかさず一歩、身を引く。
ハリィデールは二撃、三撃と間を置かずに繰り出したが、それはすべて受けられた。巨人は足場を確保し、正面からの斬り合いになった。
しかし、これはイエティスにとって、あまり得策とはいえなかった。ハリィデールに倍する上背のイエティスは、攻撃において絶対的な破壊力では美獣に勝るが、その反面、太刀《たち》筋を読まれやすい。氷の剣をかわされ、足もとをかいくぐられたら、イエティスの動きではハリィデールを追いきれない。
激しい攻防が、しばしつづいた。イエティスの重い一撃を受けるたびに、ハリィデールのからだが揺らぐ。戦いは、イエティスが攻め、ハリィデールが守るかたちになっている。休むことの不利を知るイエティスが、むきになって手数を増やしたのだ。
ハリィデールが膝を落としかけた。イエティスは、今だと直感した。とどめを刺す機会だ。氷の剣を大きく振りかぶった。
次の一閃をハリィデールは受けずに流した。曲げた膝の反動を使い、大地を蹴って前に出た。
イエティスの左に抜けた。同時に、魔剣を横に薙《な》いだ。
鮮血がほとばしった。巨人のふくらはぎの肉が裂け、骨が砕けた。
咆哮とも悲鳴ともつかぬ絶叫が、イエティスの喉を震わせた。
ハリィデールは素早く身をひるがえし、さらにもう一太刀をイエティスに浴びせかけた。
巨人は振りおろされた黒の魔剣を転がってよけた。轟音が響き、大地が揺らいだ。魔剣は空を斬った。
ハリィデールは巨人を追った。イエティスはごろごろと転がりながら、第二の峰の方へと逃げる。
第一の峰と第二の峰との間の鞍部には、雪が深く積もっていた。切り立った山肌を吹き上げてきた風が、ここに吹き溜りをつくったのだろう。イエティスの巨体は、その深い雪の中に埋もれていく。
ハリィデールは首をめぐらし、犬に向かって短く指笛を鳴らした。
犬は意を察し、大地に突き立っていたグングニールの槍を二頭がかりで引き抜くと、それをアウガがくわえてハリィデールのもとに運んだ。ハリィデールは槍を受け取り、そのまま体を返して鞍部の底めがけ、投げた。
槍は転がり落ちるイエティスの腕と顔をかすめた。炎に包まれた穂先に肉を灼かれてイエティスはのたうち、雪を蹴散らしてがばと跳ね起きた。その眼前で槍が反転し、今度は正面から首を狙った。
イエティスは片膝を立てて身構え、氷の剣で槍を払い落とそうとした。槍は方向を変えて真上に飛んだ。
両肩を大きく上下させて、呼吸荒くイエティスが立ち上がった。高度をあげたグングニールの槍は、巨人のまわりをまるで監視するかのように飛び回っている。穂先の赤い輝きが積もった雪に照り返されて、そのあたりは意外なほど明るい。
雪の斜面をハリィデールが滑り降りた。
そのまま勢いを殺さずに、イエティスに突進する。
左足をひきずりながらも、イエティスは防御の構えをとる。
剣と剣が噛み合った。
イエティスが、突いてきたハリィデールの魔剣を、振りおろした氷の剣で下に弾いた。
ハリィデールのからだが、くるりと回った。魔剣が流れ、弧を描く。
巨人の力を利用したのだ。滑りやすい雪道が、このときはハリィデールに幸いした。
一瞬のうちにハリィデールは、イエティスに向き直っていた。
眼前には、無傷の右太ももがある。
黒の魔剣が、斜め横に走った。
鈍い、革袋を叩くような音がした。強い手応えがあった。手応えはあったが、魔剣の勢いは殺されなかった。ハリィデールは、魔剣を振りきった。
悲鳴はなかった。血も、すぐには噴出しなかった。
しばしの静寂。二人とも動きを止めている。
まず、巨人のからだが揺らいだ。傷ついていた左足が、体重のすべてを支えきれなくなったのだ。
イエティスはバランスを失い、ゆっくりと仰向けに倒れた。雪煙が舞い、地響きがこだました。そして、あとには、巨人の右足が残った。太ももの中ほどで鮮やかに切断され、切り口には赤い肉と白い骨が覗いている。
鮮血があふれ、膝からふくらはぎへと幾条にも分れて伝っていった。
右足も、長くは立っていなかった。
倒れて雪の底に沈んだ。
吹き溜りの雪が、紅に染まりはじめていた。
雪上に横たわった巨人が、苦悶の声を漏らした。絶叫ではなかった。唸るような、嘆くような声だった。左手で上体を支え、右手に持った氷の剣を地面に突き立てて起きあがろうとしているらしいが、深く積もった雪の上では、それは無駄なあがきである。
犬が来た。
「二人を」
ハリィデールは低くつぶやいた。二頭の犬は身をひるがえした。
ハリィデールは黒の魔剣を右手に下げたまま、あがくイエティスのすぐ脇に立った。
イエティスの血走った細い獣じみた眼が、ハリィデールの姿を捉えた。
「かかってこい」
木々の間を渡る木枯しのような声で、巨人は言った。
「俺はまだ戦える。かかってこい」
「とどめを刺してほしいのか」
ハリィデールは冷ややかに相手を見た。イエティスの出血は止まることはないだろう。このまま放っておけば、長い苦痛を経たのちに確実な死が訪れる。いや、その前に生き残った雪の民がやってきて巨人の肉にかぶりつくはずだ。イエティスは生きたまま猿たちの餌となるのだ。
「やったじゃねえか!」
アウガとネフに連れられて、ジュバルが第一の峰から滑り降りてきた。うしろにはウルスラもつづいている。どうやらウルスラは意識を取り戻したらしい。
「急ぐぞ」ハリィデールは首をめぐらし、二人に向かって言った。
「くだらぬことに時を費やした。ウルスラ、先に立て」
「はい」
ウルスラは小さくうなずき、歩を進めた。
「戦え! 俺と戦え!」
イエティスが喚く。喚きながら何度も上体を起こそうとする。だが、そのたびにからだは雪の中へと埋もれていく。
ハリィデールの姿が、イエティスの視界から消えた。グングニールの槍もイエティスの上から離れたのか、赤い光がゆっくりと遠ざかっていく。闇が次第に濃くなる。しばらくは雪を踏む音が柔らかく響いていたが、それもすぐに聞こえなくなった。
「うつけだ。美獣は、大馬鹿者だ!」
呻き声と一緒に、イエティスはつぶやいた。
「俺は、まだ戦える。俺は、まだ貴様の命をこの手に掴んでいる。俺にとどめを刺さなかったのは、大きな間違いだ」
執念だった。度重なる失敗にもかかわらず、イエティスは左手一本で上体を持ち上げ、反動を利用してからだをひねり、うつ伏せになった。
右手に持った氷の剣を高く振りかざした。
あらん限りの力をこめて、剣を雪の上に突き立てた。
氷の剣が、深々と沈んだ。柄も、巨人の拳も腕も、雪の底へともぐっていった。
切っ先が、地表に達した。氷の剣は、大地をもたやすく貫いた。イエティスは大地が裂け、ひび割れていくのを、その手で感じた。意識が薄れていく。しかし、力は緩めない。体重も左腕に移して、氷の剣をしゃにむに押しこむ。かれを動かしているのは、怨念だ。生命力ではない。生命力は流れた血とともに失せ、死はもう目前に迫っている。
鍔《つば》が地表にあたった。いかにしようとも、氷の剣はこれ以上、沈まない。
「我が剣よ」
最後の言葉を巨人は発した。
「山を砕け!」
そして、イエティスは長い息を吐いた。吐きながら、ゆっくりと上体が横に傾《かし》いでいった。からだを支えていた左腕が、その役を果たせなくなったのだ。
腕が投げ出され、イエティスは雪の上に突っ伏した。指が、かすかに震えた。が、すぐにその動きも止まった。
巨人は絶命した。
12
しばらくは、何も起こらなかった。山嶺は静けさを取り戻した。吶喊《とっかん》の声も悲鳴も消えた。
その静謐《せいひつ》を山鳴りが破った。
巨大なドラムを乱打しているかのように太くどろどろと響く山鳴り。その源は、第一の峰と第二の峰とをつなぐ鞍部にあった。深い雪に覆われた大地に柄まで突き刺さった氷の剣がそれである。山鳴りは、氷の剣が岩を裂き、山を砕く音だった。積もった雪の底では、氷の剣が透明な輝きを発し、そこから四方へと無数のひび割れが走っている。ひび割れは山鳴りとともに深くなり、数を増す。氷の剣の輝きは、イエティスの生命の輝きだ。剣は巨人の命そのものを吸収し、いま、その遺志を具現化しようとしている。
不吉な、災厄《さいやく》の前触れとでもいうべき山鳴りを、ハリィデールは第三の峰の頂で耳にした。からだでも感じた。山が、身震いするように揺れた。ジュバルがおびえて小さな叫び声をあげ、ウルスラは反射的にハリィデールの腕にしがみついた。
次の瞬間、足もとが崩れた。
それまで硬い岩盤だったところが、とつぜん流れ落ちる砂と化す。そんな崩れ方だった。積もっていた雪はなだれとなった。
いかに敏捷な犬たちといえども、足場を失ってはひとたまりもない。ましてやジュバルやウルスラに至っては、身構えるひまもなかった。気がつくと足をすくわれ、からだが宙に躍っていた。かろうじてハリィデールだけが槍を山肌に突き刺し、落下を喰い止めようとしたが、山そのものが崩れていくのでは、それもただあがくだけの行為でしかなかった。
人も犬も、土砂の渦の中に巻きこまれた。山は鳴轟《めいごう》し、大地は激しく上下する。
ハリィデールは流されながらも周囲を冷静に観察した。岩が砂のようになって崩れたのは幸いだった。大岩のままなら、渦に巻きこまれると同時につぶされている。十エルほど向こうにウルスラの頭が見えた。すぐ横に犬の一頭がつきそい、彼女を守ろうとしている。
ウルスラが振り返った。ハリィデールを見た。小さな口が開き、何かを叫んだ。
「槍を……山の……投げて……」
そう聞こえた。
思考よりも先にからだが反応した。ハリィデールは息を胸にため、目を閉じて流砂の奥に潜った。
砂の渦の中で、グングニールの槍を投げた。砂の勢いに逆らい、大地の底、山の中心と思われる方を狙った。なぜ、槍を投げねばならないのか、その理由は考えもしなかった。ウルスラが投げろと言ったから投げたのだ。彼女は美獣を導く者。ハリィデールの本能は、彼女の指示を受け入れた。あとは、すべてをオーディンの意思に委ねるだけだ。
槍はハリィデールの手を離れると同時に白熱した。穂先も柄も赤く燃えあがり、それはすぐに白く輝くようになった。流砂が灼け、熔けた。槍に直接触れた砂は、熔ける間もなく蒸発した。
槍は砂の急流をものともせず、凄まじい速さで山の深奥へと進む。
ハリィデールは待った。砂の流れに身を任せ、じっとその時を待った。
だしぬけに光が爆発した。目もくらむ閃光が丸く広がり、一瞬にしてすべてを包んだ。砂の中で目を閉じていたにもかかわらず、ハリィデールは眩しさに思わず顔を覆った。まぶたの裏が赤く光った。全身が、陽光にさらされたときのように熱くなった。
からだが浮く感覚があった。ためしに手足を動かしてみると、抵抗がまったくなかった。
砂がない。ハリィデールは目を開けてみた。
奈落があった。何もない闇の空間。
落ちている、と思った。上も下も判然としないが、耳もとで風が唸っている。髪が背中の方に強く引かれる。
何が、いったいどうなったのか? ハリィデールは、しばし混乱した。流砂はどこへ、山はいずこへ失せたのか。
グングニールの槍が、山の中心で氷の剣に挑み、それを打ち破ったことなど、ハリィデールは知るよしもない。
風を切る鋭い音がした。槍が戻ってきた。開いていたハリィデールの右の掌に、いきなり冷たく硬い感触が宿った。ハッとなって握りしめると、それは光を失ったグングニールの柄だった。槍は冷えきっている。手がしびれてしまうほど冷たい。
槍は、山を砕きつつあった氷の剣を真横から貫いた。イエティスの遺志を果すことにのみ、その持てる力を注いでいた氷の剣は、グングニールの槍をかわすことができなかった。
槍に貫かれた剣は、瞬時に光の塊と化した。槍の力と剣の力が錯綜し、破れた剣の力が寸毫の間に放出され、爆発する光となった。
静かな爆発だった。音はなく、光だけが四方に広がり、山の内部から山そのものを呑みこんだ。
山裾に、ぽっかりと空洞が生じた。
その空洞こそが、ハリィデールが投げ出された闇の空間であった。
イエティスの山は見る影もない。頂上から中ほどまでが完全に崩れ落ち、かろうじて残った裾野は、大きく陥没して黒い口が不気味に開いている。
ハリィデールは、天地も定かでないまま、いつまでも落下しつづけた。
「底なしか」
そんな考えが脳裏をふとかすめた。そのときだった。
ハリィデールは水面に叩きつけられた。
背中から落ちた。
激しい水音がうつろに響き、ハリィデールは体勢を立て直す間もなく、水中深く没した。
予想外の事態に、対処するすべがない。
とにかく足で水を蹴った。
二、三度蹴ると、沈むのが止まった。
からだが軽くなった。
水面に飛び出した。水を吐き、息を吸いこんだ。周囲は真っ暗だ。何も見えない。遠くで、また水音がいくつか響いたような気がしたが、錯覚かもしれなかった。
バランスを崩した。凄まじいショックが首から下を襲った。
流れている。水が猛烈な勢いで流れている。
滝のような急流だ。
砂のつぎは水である。
ハリィデールのからだが、再び沈んだ。流れに押されて、縦に回転する。渓流で木の葉がもてあそばれるさまによく似ている。
幸い水は冷たくなかった。雪解け水ではなく、おそらくは大地の熱で暖められた地下水であろう。
ハリィデールは泳ぐのを諦めた。この急流では、あがくほど身が危うくなる。流されるままでいい。ただ、頭だけは水中に没しないようにした。闇に包まれているので、速さは、あまり感じない。しかし、たしかに想像を超えた速度でハリィデールは下流へと運ばれている。まるで地底の滝ともいえるこの流れの行きつく先はどこなのか。ハリィデールには見当もつかない。
水が渦を巻きはじめた。どうあってもバランスが保てなくなった。ひっぱりこまれるようにからだが沈んだ。全身が、強い流れで引き裂かれそうになる。息がつづかない。水中でもみくちゃにされ、どの方向に水面があるのかさえ判然としない。
頭の奥で閃光が閃《ひらめ》いた。
水が意識を覆う。
耐えうる限界は、とうに過ぎた。
張りつめていた“気”が萎《な》えていく。筋肉から力が奪われ、暗黒の淵が大きく口を広げる。
闇が押し寄せてきた。
呑みこまれる。
闇が深い。
意識が……。
13
目醒めたことすら、ハリィデールにはわからなかった。
目の前に景色があった。薄暗いぼんやりとした夕暮れの風景である。灰色の靄《もや》がかかっている。まわりは白い万年雪。ところどころに黒い土が顔を覗《のぞ》かせている。どこかから、せせらぎの音が聞こえてくる。音のする方は、靄が濃い。
見慣れぬ景色だ。こんな景色は……。
そこでハリィデールは我に返った。
景色が見える!
おもてを上げた。そのとき、また新しい事実を知った。ハリィデールは立っていたのではない。坐っていたわけでもない。寝ていたのだ。万年雪の原野に、うつ伏せになって倒れていたのだ。
あわてて起き上がった。わずかに足もとがふらついた。右手がこわばるほど強く握っていたグングニールの槍で、からだを支えた。踏みしめる雪が堅い。
周囲を見回してみた。
空には灰色の雲が、低く垂れこめている。地平線は、どの方角もみなかすんでおり、雪の原野の行手は曖昧で、もののかたちをなしていない。
雪を爪先で蹴ると、飛び散ったかけらが、きらきらと光った。どうやら明るいのは空ではなく、雪の方に原因がひそんでいるらしい。雲が白っぽい灰色に見えるのは、地上からの光を反射しているからだろう。
せせらぎとともに湧きあがる靄は、雪の原野を割って流れる川の水面から立ち昇る水蒸気であった。
ハリィデールは岸辺まで歩み寄った。岸辺には雪がほとんどなく、黒い土がまるで群れをなす野ねずみのように露出している。
水を手ですくってみた。暖かいというほどではないが、手を切られるというほど冷たくもない。流れはかなり速く、浅瀬からは盛んな水音が聞こえてくる。それがせせらぎになっているのだ。
どうやら、ハリィデールは、この流れによって山から運ばれてきて、ここで無意識におかへと這いあがったらしい。見れば、雪の上にそんなあとも残っている。しかし、そういった記憶は、ハリィデールにはまったくなかった。
ハリィデールは身につけたものと、からだとを調べてみた。
グングニールの槍は手に携えている。黒の魔剣も腰に帯びている。革の鎧は、金銀の飾りのほとんどがもぎとられていたが、胸あてや胴あては、無事だった。飾りは渦に巻かれたときに剥落したのだろう。いずれにせよ、飾りは飾りである。実用には関わりはない。
少しからだを動かして筋肉のこわばりをほぐしてから、ハリィデールは下流に向かって歩きだした。
何よりもまず、ジュバルとウルスラを見つけねばならない。二人が崩壊する山から地下水流に落ちたという確かな証《あかし》はどこにもないが、あの様子からみて、ハリィデールと同じ運命を辿ったことは、ほぼ間違いのないところだろう。
川沿いに下流へと歩を進めた。上流を捜すか、下流に向かうかでハリィデールはしばし迷ったが、結局は川に沿って下る方を選んだ。とくに根拠はない。勘である。それに、非力な黒小人や少女が、いかに屈強な犬たちに守られているとはいえ、ハリィデールよりも先におかにあがれるはずがないという自負もあった。むろん、川下にあたる方角に向かえば、タイローンの都、ベシラに近づくことができるという計算も働いている。
雪が溶けてできた川沿いの道は、視界が悪かった。ほんの少し目を横に転ずれば、雪の原野が地平線の果てまで茫漠と広がっているのが見渡せるのに、流れが近くなると川面から立ち昇る靄が岸辺に漂っていて、もうほとんど何も見えない。ハリィデールの背後、川上の方角にはイミールの翼が聳《そび》え立っているはずだが、それも見ることができなかった。
ハリィデールは速足で移動した。もしもウルスラと遭えなかったら、ハリィデールは導く者もなしでベシラを目指さねばならない。となれば、時間の余裕が要る。ハリィデールがヴォーダンをあとにしてから、どれほどの時が流れたかは定かではない。おそらくは数日のことであろう。しかし、当初の目論見どおりことが運んでいるならば、とうにベシラに潜入して、不死王の首を挙げている頃なのである。
ハリィデールは先を急いだ。
視線は前方の一点に据えられている。
と。
前触れもなく、肩の筋肉が波打った。
背筋から首にかけてが、ちりちりとする。
足が止まった。
行手に気配を感じたのだ。
白い紗幕《しゃまく》の向こうに何ものかがいる。
甲高い声が響いた。人のそれではない。長く尾を引く遠吠え。犬だ。犬が吠えている。
紗幕が割れた。二頭の犬が、尻尾を激しく振りながらハリィデールに飛びついてきた。
「アウガ! ネフ!」
犬のあとを少女の声が迫ってきた。
ハリィデールは身をかがめ、犬を抱きとめた。二頭の犬はハリィデールにしがみつき、さかんにその顔を舐めている。
「ハリィデール!」
靄の中からウルスラがあらわれた。ウルスラ一人だった。赤褐色の髪が水に濡れ、額から首筋へと、それが、まるで水藻のようにからみついている。かろうじて残ったと思われる毛皮を一枚だけまとっているが、脂をたっぷりと引いてある毛皮は水を完全に弾《はじ》いており、寒さに震えている様子はない。
「無事だったか?」
ハリィデールは訊いた。
「ええ」
ウルスラは小さくうなずいた。
「ジュバルは?」
「見あたりません」ウルスラは目を伏せた。
「あたしだけがアウガとネフに助けられて」
「捜したのか」
「今まで、ずっと。でも、水からあがったあとすらないのです」
「ふむ」
ハリィデールは顎に手をやった。
「お前だけならともかく、犬までが見つけられないとはな」
「まさか、流れの底に沈んでしまったのでは!」
「あるいは、さらに遠くまで流されているのかもしれない」
「それは、ありません」
ウルスラが断定的に言い、かぶりを振った。ハリィデールは、ちょっと驚いたように少女を見た。
「こちらへ来て下さい」
ウルスラはハリィデールの手を把《と》り、下流の方へと歩きだした。先ほどウルスラがやってきた方角である。アウガとネフが、その両脇に並んだ。
しばらく行くと、たなびく白い靄の中に、黒っぽい何か風変わりな建物のようなものが見えてきた。しかし、その何かは岸辺ではなく、川の真ん中に建っている。人の住む小屋ではないことだけは確かだ。かといって、城や砦とも思えない。丸い、半球状の杯を伏せたような形をしている。せせらぎの音が大きくなった。どうやら、その建物のあたりで、流れが滝のように落ちているらしい。
「あれは?」
ハリィデールはウルスラに向かって訊いた。
「何かは、わかりません」ウルスラは言った。
「でも、間違いありません。あれはビットンが造ったものです」
「ビットン。お前を育てた黒小人か」
「はい」ウルスラはうなずいた。
「これはビットンのものです。口ではうまく言いあらわせませんが、細工を見ればわかります。ビットンが谷の火床でつくって、ここに据えたのです。間違いありません」
「黒小人がなんのために、こんなものを」
ハリィデールは岸に近づき、流れに足を踏みいれようとした。
「お気をつけ下さい」ウルスラが声をかけた。
「しろがねでできた網が張ってあります」
「網?」
ハリィデールは流れの中に目を凝らした。ウルスラが腕を伸ばして位置を示した。泡立つ急流の下に、鋭く燦《きらめ》く光があった。光は細く長い一条の筋となって、川のこちら側から向こう岸まで、まっすぐに連なっている。黒っぽい正体不明の建物の、わずかに川上だ。魚が何匹か引っかかっているらしく、銀色の影がしきりと跳ねている。しかし、魚網という感じはしない。
「あたしたちも、あの網にかかったんです」ウルスラが言った。
「それで、この流れから逃れられたのです。これが張ってある限り、小魚といえども、ここより先には進めません」
「なるほどな」
ハリィデールは腰をかがめ、川の水に手を沈めて網に触れてみた。網の目はかなり細かい。砂粒でさえ、ちょっと大きめならば遮《さえぎ》られてしまうだろう。しかも、いかにも丈夫そうにできている。この網に包まれたら、ミッドガルド蛇でも身動きかなわなくなるに違いない。上流から流れてきた少女と犬二頭を受け止めるなど、たやすいことである。
「生あるものも、死んだものも、流木や巨岩ですら、ここで堰《せき》止められる。ビットンは何を狙って……」
「ジュバルは気がついたのではないでしょうか?」
ハリィデールの肩越しに、ウルスラが言った。ハリィデールは首をめぐらした。
「もっとずっと上流で川から這いだして、このあたり一帯が黒小人の結界《けっかい》内だということに」
「それで、俺たちを捜さずに、身を隠しているというのか」
「はい」
「考えられることだな」
ハリィデールは立ちあがり、腕を組んだ。
「ジュバルは、ビットンに会ったらどちらかが死ぬ、と言っていた」
「それは嘘ではないのでしょう」
「いずれかが死ぬのか」
ハリィデールはつぶやいた。それはハリィデールとスカイハイトも同じである。
「ジュバルを捜されますか?」
ウルスラが訊いた。
「いや」ハリィデールはかぶりを振った。
「生死が不明というのなら、それはそれでやむを得ない。それよりも俺はビットンに会いたい。会って、いろいろと問い質《ただ》したいことがある」
「ビットンが棲むのは、鳥も通わぬ死霊谷。またイミールの背骨に戻らねばなりません」
「死霊谷か」
ハリィデールは、川上へと目をやった。
「その必要はなかろう」
あらぬ方角から声がした。しわがれた、それでいて甲高く響く、鼻にかかった声だった。
「わしは、ここにいる」
二人の背後、川の方からだった。ウルスラとハリィデールは、弾かれたように振り返った。犬たちも虚を衝かれたらしく、一拍置いてから、激しく吠えだした。しかし、その声に敵意はない。
黒い建物の一角が跳ね上がり、小さな口を開けていた。そこから、白い髭を長く伸ばした黒小人が、ちょこんと顔を覗かせている。
「ビットン!」
ウルスラの表情が一変した。明るく輝き、はずむ声で、その名を呼んだ。
「久かたぶりじゃのう、ウルスラよ」黒小人も笑みを返した。
「今そちらに行くから、待っておるがよい」
顔が奥にひっこんだ。そして、ほどなくすると、そのからだが建物の蔭からあらわれた。建物から岸までは、細い、橋とも堰ともつかぬ足場が延びている。ビットンは、そこを軽い足どりで渡った。
「ビットン!」
ウルスラがビットンに駆け寄り、抱きついた。
「大きくなったのう」
黒小人は、目を細めている。ウルスラの方が、頭一つほど背が高い。
ウルスラは、ビットンを抱きしめたまま、泣きはじめた。肩を震わせ、離れようとしない。ビットンは顔をハリィデールの方にめぐらし、両手を横に広げた。人間と黒小人がこのように親しくなることは滅多にない。
「あんたが、美獣か?」
泣きじゃくるウルスラをそのままに、ビットンは低い声で訊いた。
「そうだ」
ハリィデールは短く答えた。
「問い質したいことがあると言っておったな。いったい何だ」
「この明るさだ」ハリィデールは左腕で弧を描き、雪の原野を指し示した。
「雪が光っている。どうやったのだ」
「そんなことか」
ビットンは木枯しのように、ひゅうひゅうと笑った。
「それで、つくったのじゃ」
黒い建物に向かって、顎をしゃくった。
「山から下ってくる水には、ほんの少しだが、光るコケが含まれている。それを丹念に集めて空に飛ばすと、光る雪が降ってくる。春になって雪が溶けてしまうと、コケは乾いて死に、光も失せる」
「誰かに頼まれてやっているのか?」
「わしは黒小人だ。金の塊と引換えなら、何でも造ってやる。たとえ相手が不死王でもな」
「やはりスカイハイトが――」
「タイローンに、闇の冬はないのじゃよ」
「この場で払う金塊はないが、あと一つだけ教えてほしいことがある」
ハリィデールは言を継いだ。
「なんだな」
ビットンは、節くれだった指でウルスラの髪をなでている。
「馬を手に入れたい。この近くで、その望みがかなうか?」
「馬か」
黒小人は右手を伸ばし、地平線の彼方を指差した。川の下流に沿った方角ではない。
「南じゃな」ビットンは言った。
「まっすぐ南に行くと、小さな砦がある。タイローンのもっとも辺境の砦の一つだ。そこに馬と兵士がいる。兵士に訊けば、ベシラの様子もわかる」
「辺境の砦」
ハリィデールは、黒小人が指差す先に視線を移した。
「すぐに行ってしまうのか?」
「むろん」
ビットンの胸に顔をうずめていたウルスラが、おもてを上げた。少女の頬はまだ濡れていたが、滂沱《ぼうだ》と流れていた涙は、止まっている。
「美獣を導かねばならぬか?」
確かめるように、ビットンは訊いた。
「はい」
吐息のような声で、ウルスラは答えた。
「この齢になって、こんな運命《さだめ》を背負おうとはな」
黒小人はウルスラの肩に手を置いた。
「さようなら、ビットン」
ウルスラが黒小人から離れ、きびすを返した。ハリィデールは、すでに南に向かって歩きはじめている。アウガとネフが鼻を鳴らし、ためらうようにウルスラとビットンとを見較べた。ビットンが手を小さく振った。二頭の犬は少女のあとに従った。
ビットンだけが、岸辺に一人残った。
「しょせんは、わしらも、神々の手駒じゃよ」
ビットンはつぶやいた。風がひとしきり哭いた。ビットンの声は掻き消された。靄が渦を巻き、ハリィデールとウルスラの姿を隠した。
雪が降ってきた。
14
砦が燃えていた。
針葉樹の黒い森が、炎の照り返しで紅に染まっている。降りしきる雪の下には、阿鼻叫喚の光景がある。血が流れ、肉が焼かれ、断末魔の叫びが響き、苦痛を訴える呻《うめ》き声が陰々とつづく。
砦にいたタイローンの兵士は、二十四人だった。夜にあたる時だったらしく、その大半は寝台で休んでいた。
ハリィデールは策を弄さなかった。黒い森に囲まれた小高い丘に正面から駆け登り、悠然と砦の門前に立った。あまりに堂々としていたので、望楼にいた歩哨《ほしょう》の兵士が、しばし誰何《すいか》を忘れたほどであった。
ややあって、数名の兵士が飛んできた。大門の脇の梯子に一人が素早く登り、上から顔を出した。
ハリィデールを見下ろし、大声で怒鳴った。
「なんだ! 何ものだ!」
「門を開けろ」
ハリィデールは穏やかな声で、それに応えた。
「隊長に会いたい。グルスノルンの隠密《おんみつ》隊が、イミールの翼を越えてタイローンに侵入した。俺は、その動きを知っている」
「グルスノルンの隠密隊だと?」
兵士はあからさまに侮蔑の表情を見せた。
「嘘ではない。疑って隊長への報告を怠ると、あとで首を刎ねられるぞ!」
ハリィデールは少し語気を強めた。
「ちっ」
兵士は舌打ちした。どうせ狂人だろうと思ったのだが、万が一のときは、たしかにこの男の言ったとおりになる。
「待っていろ。おかしなマネをするなよ!」
不快そうに吐き捨て、顔を引っこめた。
千や二千はゆうに数えられるほど待たされた。
足音が慌ただしく行き交い、また同じ顔が門の上にあらわれた。
「少し後ろに下がれ!」
手を振って、怒ったように喚いた。
ハリィデールは、おとなしく命令に従った。肩や頭に積もった雪が、足もとに落ちた。雪は小雪だが、熄んではいない。
激しくきしみながら、大門が重々しく開きはじめた。どうやら、隊長はハリィデールの話を聞いてみようという気になったらしい。狂人の戯言《たわごと》であろうと、相手はただの一人である。でたらめならば、その場で斬って捨てればよい。いずれにせよ、退屈な冬の辺境暮しの気晴らしくらいにはなる。隊長は、そう判断したのだろう。
門がゆっくりと外に向かって押し出され、人が一人、ようやく通れるほどの隙間ができた。
そこに肩幅の広い、がっしりとした体格の男が立ちはだかった。タイローンの鎧を身につけ、右手には抜き身の段平《だんびら》を下げている。冑はしていない。いかにも砦の隊長らしい壮年の兵士だ。
隊長は、ハリィデールの体躯と腰に帯びた大太刀、そして腋にたばさんだグングニールの槍を見て、わずかにたじろいだ。しかし、それをおもてにださぬように努め、渋面を保って口を開いた。
「お前か世迷言《よまいごと》をほざいているのは!」
「世迷言?」ハリィデールは口の端で薄く笑った。
「さても呑気《のんき》な砦ではあるな。何も知らずにのんびりと惰眠を貧《むさぼ》っている」
「なんだと!」
隊長の顔色が変わった。ハリィデールの挑発にのせられ、目が吊り上がった。
「つべこべ言うのは、俺の話を聞いてからにしたらどうだ」ハリィデールはたたみかけた。
「こうしている間にも、隠密隊はベシラに向かって着々と侵攻しているのだぞ」
「………」
ハリィデールの剣幕に、隊長は口をつぐんだ。唇をねじまげ、目を大きく剥いている。言い返したいが、言葉がでてこない。たしかに、この男の主張には一理があるのだ。それに、あながちでたらめを言っているようにも思えない。
「では、話せ」
何度もつばを呑みこんで怒りを鎮めてから、隊長は喘ぐように言った。
「その前に、中に入れろ」
ハリィデールは隊長の言に応じなかった。
「こんな門前で一国の命運にかかわる重要な話を聞こうというのか? あきれたな。俺は一介の旅浪人《さすらいびと》だが、とにもかくにも、砦の中に請じ入れられて、それなりの礼を尽くされるだけの資格は持っているつもりだ」
昂然と言った。
「生意気な!」
頭上から声が降ってきた。先ほどハリィデールの来意を聞いた兵士だった。兵士は短剣を威嚇するように振りかざし、門の上からハリィデールを睨みつけている。
「どうした。タイローンの守備兵は、最低の礼もわきまえんのか?」
激昂する兵士をハリィデールは無視した。隊長につめより、返答をうながした。
「よかろう」
隊長は折れた。何といっても、相手は一人だけなのだ。中に入れたところで、砦が破られるはずもない。
「はいれ!」
勿体《もったい》をつけて、大門を左右に開いた。目が、ハリィデールの背後を窺っている。開いた門に向かって隠れていた軍勢が殺到してくるのを警戒しているのだ。
隙間の幅が倍になった。それ以上は開けようとしない。ハリィデールは隊長と肩を触れあわして、門をくぐった。
門はすぐに閉められ、閂《かんぬき》が掛けられた。
狭い中庭には、兵士が集まっていた。二十人近くいる。歩哨の兵以外は、すべてでてきたらしい。ハリィデールにしてみれば、好都合である。
兵士が、わらわらとハリィデールを取り囲んだ。一人残らず、腰に佩いた剣の柄に手を置いている。
「大仰なことだな」
ハリィデールは嗤《わら》った。
「黙れ!」
隊長は頬を震わせた。抜き身の切っ先をハリィデールに向けている。
「余計なことはほざくな。お前の言い分はすべて聞いてやったのだ。あとはお前が約定《やくじょう》を果たすのみ。さっさとグルスノルンの隠密隊のことを教えろ」
「それは、まさしくそうだ」ハリィデールはうなずいた。
「隠密隊は、このすぐ近くまで迫ってきている」
隊長の顔を覗きこむように見た。
「人数は三人だ」
「三人だと?」
「そのうちの一人は、イミールの翼を越える際に行方を断った。そして、残った二人のうち片方は女だ」
「でまかせを言うな!」
「でまかせではない」ハリィデールは左手で憤《いきどお》る隊長を制した。
「片方は女だが、もう片方は戦士なのだ。それも、グルスノルン一と謳《うた》われる恐ろしい男だ」
「そいつは……」
「そいつは腰に黒小人が鍛えた黒の魔剣を佩き、右の手に主神オーディンより授かったグングニールの槍を持っている」
「き、きさま!」
隊長の表情がひきつった。いや、隊長だけではない。いあわせた兵士のすべてが、動揺し、形相を変えた。
「戦士は、ここに来ている」
ハリィデールは魔剣を抜いた。抜きざまに、横に薙《な》いだ。
「俺が、そうだ」
首が飛んだ。鮮血の尾を引き、隊長の首が宙に躍った。首を失ったからだは、しばらくそのまま立っていたが、やがて仰向けに後ろへと倒れていった。囲んでいた兵士が我に返り、恐怖の叫び声をあげた。勝負はそれでついた。
あとは一方的な殺戮だった。
ハリィデールはグングニールの槍を投げた。槍は群がる兵士を追い、灼き貫いた。火だるまになった兵士は雪の上を転がり、さらには水を求めて館の中へと走る。
火が館に燃え移った。
紅蓮の炎が、垂れこめた雲に届かんばかりに噴きあがる。
兵士の屍体が、前庭に重なった。
最後の一人になった。大門の上でハリィデールを迎えた兵士だった。
目を閉じ、剣を前に突き出して、闇雲《やみくも》に突進してきた。
ハリィデールは、その突きを軽くかわし、魔剣の柄を兵士の後頭部に振り下ろした。
鈍い音がした。兵士は気絶し、くたりとくずおれた。
槍が戻ってきた。燃える館の裏手に廏《うまや》がある。今頃は、ウルスラがそこから馬を二頭、引きだしているはずだ。
気を失っている兵士の襟首を掴み、引きずって砦の外に出た。丘の端に行くと、ウルスラが馬を連れて待っていた。馬は炎に怯えているが、アウガとネフが脇にいるので、落着きはないものの暴れる気配もない。
「食糧です」ウルスラが人の頭ほどもある革の包みを差し出した。
「廠の横に厨《くりや》もあったので、ちょっといただいてきました」
ハリィデールは苦笑を浮かべた。あの修羅場に、これだけの機転が利くのだ。さすがにオーディンが選んだ娘だけのことはある。
引きずってきた兵士をウルスラの前に投げ出した。
「水はあるか?」
「はい」
「かけてやれ」
ウルスラは、きびきびと動いた。馬の背に置いてあった革袋を把《と》り、中の水を兵士の顔にかけた。兵士は鼻を鳴らすように小さく捻ってから、息を吹き返した。
目を開けてあたりを見回し、つぎに急に跳ね起きようとした。しかし、からだが意のままにならなかった。
首だけが前後に揺れた。腕が硬直して伸びきっている。目を一杯に見開いた。
ハリィデールがかがみこみ、血にまみれた魔剣を兵士の眼前に突きつけた。兵士は色蒼ざめて、震えている。失禁したらしく、異臭が鼻をつく。
「命を奪う気はない」ハリィデールは言った。
「俺の問いに答えろ」
魔剣の尖端を兵士の鼻先にあてた。兵士は水面にあがってきた魚のように口をぱくぱくと動かした。返事をしようとしているらしい。だが、声がでない。それでも、拒否していないことだけは通じた。
「ベシラには、他国者《よそもの》がはいれるか?」
ハリィデールは訊いた。
兵士は首を左右に幾度か振った。震えているので、振りはじめると、すぐには止まらない。この返事は予想したとおりだった。ハリィデールも、都であるヴォーダンには鑑札を持った者しか立ち入らせていない。
「タイローンの者だと、どうして見分けられる?」
今度の問いには、首を振るだけでは答えられない。兵士は何度か口を開け閉めしたあげく、言葉を諦めて右手を使うことにした。ウルスラが兵士の上体に手を添え、力を貸した。
震える指が、這うように首筋にのぼり、肩から首を覆っていた厚い革の肩当てを剥ぎ取った。
「文身《いれずみ》」
ウルスラがつぶやいた。
兵士の首筋には、奇怪な紋様が描かれていた。濃い藍《あい》色の色料で彫られたそれは、どうやら火を吐く竜をあらわしているらしい。
「鎧を着ると隠れますが……」ウルスラはハリィデールに向かって言った。
「タイローンの民はみな、ふだんは貫頭衣を身につけております」
「首は人の目にさらされているということだな」
「はい」
「この文身は、男も女も同じ紋様なのか?」
ハリィデールは兵士に向き直った。
兵士は首を縦に振った。
「タイローンの民の証《あかし》は、これだけか?」
ハリィデールは魔剣の先を兵士の胸もとに移し、重ねて訊いた。兵士はうなずいた。命を惜しむ者の、必死のしぐさだった。
ハリィデールは魔剣を革鞘に戻し、立ち上がった。兵士は安堵のため息をついた。と、次の瞬間――。ハリィデールの右足が、電光のように上下した。かかとが兵士の鳩尾《みぞおち》にめりこんだ。兵士は声もなく白眼を剥き、再び気を失った。
「どうなされます?」ウルスラが近づいてきて訊いた。
「文身を入れないと不死王の摩天楼には……」
「俺はタイローンの民になる気は毛頭ない」ハリィデールは言った。
「しかし――」
言葉が遮《さえぎ》られた。犬が吠えたのだ。アウガとネフが一斉に吠えだし、その騒ぎがハリィデールの声を掻き消した。
ハリィデールは身を低くして背後を振り返った。犬は丘の突きあたり、垂直に切れ落ちている崖の底に向かって上体をのりだし、激しく吠えている。
ウルスラが二頭の馬の間に素早くはいり、手綱を握った。馬は動揺して、浮き足立っている。ハリィデールは、いま一度魔剣を抜いた。
そのまま緊張した空気が流れた。凍りついたように冷たく硬い時間が経過した。
そして、ハリィデールが魔剣を構えて一歩前に踏みだそうとしたときだった。
とつぜん、崖の上に首が飛びだした。
馬がいななく。
首は、頭に毛皮でできた丸い帽子をかぶっていた。灰色の髪が長く、褐色の肌は、地の色か汚れているのか区別がつかない。
黒小人だ。
「ジュバル!」
ウルスラが叫んだ
「ジュバル、生きてたの?」
ウルスラは手綱を放り出し、崖ふちに駆け寄った。張りつめていた空気が、たちまちにしてやわらいだ。ハリィデールは魔剣を納めた。
手を差しのべ、ウルスラはジュバルを崖の上に引き揚げた。
「いや、臭い!」
悲鳴をあげた。ウルスラは顔をしかめ、丘にあがってきた黒小人から、あわてて離れた。アウガとネフは、とうにいない。ジュバルが首を覗かせたときに、すでに逃げだしている。
「すまん。ウルスラ」黒小人は謝った。
「ちょいと細工してあるんだ。匂いをごまかすためにな。えらく臭いが、我慢してくれ」
「どこで、どうしてたのよ」
顔を両の掌で覆い、ウルスラは訊いた。
ジュバルは、これまでのことを、かいつまんで語った。
ジュバルがおかにあがったのは、ハリィデールのそれよりもはるかに上流であった。からだが軽かったので、渦に呑まれても気を失わずにすんだのだ。
岸辺にあがると同時に、黒小人の気配を感じた。ほかのことには鈍くても、こういうときには敏感なのが黒小人だ。すぐに、いつも持ち歩いているギャブの実の汁をからだになすりつけた。この匂いを嗅ぐと、どんなに利く鼻でも、役に立たなくなる。
それから、黒小人だけが使う道標を捜した。石の置き方や刈りこんである草の形などで、この先に何があるか、黒小人ならばわかるのだ。砦を示す道標を見つけたジュバルは、その方角に向かうことにした。ハリィデールも、そこに行くはずだと信じたからだ。
直感は的中した。砦がある丘の頂には、紅蓮の炎が踊っていた。美獣だ。ジュバルはおのが勘の正しさに有頂天になり、勇んで崖を登ってきた。
「そうしたら、どうだ。なにやら二人で浮かぬ表情をしているではないか」ジュバルは言を継いだ。
「神々の戦士とその従者が、いったい何を悩む?」
「見るがいい」ハリィデールは、気絶している兵士の首筋を指し示した。
「文身《いれずみ》だ」
「ほほう」
一瞥《いちべつ》して、ジュバルは事情を察した。
「これがないと、ベシラに潜りこめぬ。といって道具はなし、さらには、こんなもの彫りたくなし、というわけか」
「何か、算段があるな?」
ハリィデールの双眸が炯《ひか》った。
「怖《こわ》い顔をせんでいい」ジュバルは顔の前で両手をひらひらと振った。
「俺に任せるんだ。今はちょいと材料不足だが、なあに、ベシラに着くまでには万事うまく片付けてやる」
「どうするの?」
ウルスラが心配げに訊いた。
「絵さ」黒小人はあっさりと答えた。
「絵を描くんだ。文身にしか見えないやつを。そいつは黒い燃える水で洗えば、きれいに消えちまう。安心しな。このジュバルが最高の腕を揮ってやるよ」
そして、ジュバルは高らかに笑った。
いかにも嬉しそうな喚笑だった。
15
摩天楼が見えた。
なだらかな丘陵を登りつめると、一気に展望が開けた。視界を妨げるものは何もない。
噂は嘘ではなかった。地平線の果て、雲と霞《かすみ》が渾然となったあたりに、それは細い一本の筋として存在していた。
最初は眼の錯覚かと思った。次にジュバルが竜巻ではないかと怯えだした。摩天楼は、その大部分が低く垂れこめた雲に隠されてしまっている。一条の白い光の帯が、雲と大地とをつないでいるかのように見えるのだ。しかし、竜巻ならば、下の方が細く、雲に近づくほど太くなっていく。摩天楼は逆だ。大地に近い方がわずかに太い。しかも、竜巻と違って、位置が変わらなかった。常に地平線の同じ場所に聳え立っていた。輪郭は一行が進むにつれてはっきりとし、細部も露《あら》わになった。
「あれが、あれがベシラの摩天楼か」
その姿が蜃気楼《しんきろう》でもなく、夢まぼろしでもない、たしかな現実のものだと知ったとき、ジュバルは驚嘆の叫びをあげた。
「なんという形だ。なんという細さだ。本当に、あれが一千エル、一万エルもの高さでそそり立ち、天を摩しているのか。嘘だ! あれでは崩れてしまう。立っているはずがない!」
ジュバルはへたへたとその場に坐りこんだ。信じられない、といったように眼を大きく見開き、口もとをだらしなく弛緩させた。
「どういうことだ?」
ジュバルが、あまり大仰《おおぎょう》に振舞うのにとまどい、ハリィデールが訊いた。
「わからんのだ。俺の想像を超えているのだ!」おもてをあげ、ジュバルは泣きそうな表情で答えた。
「俺は天を摩する楼閣と聞いて、山に似た姿を思い描いていた」
「やま?」
「そうだ。広い広い裾野を持つ山だ」黒小人はうなずいた。
「どっしりとした広大な土台を置き、その上に石を積み上げていく。積み上げられた石は、天に向かって緩やかにすぼまっていくのだ。でなければ、石はすぐに崩れてしまう。土台が、その重さに耐えられないからだ。一万エルもの塔ともなれば、土台の広さは、ヴォーダンのそれを遥かに凌駕するだろう。一国の都が二つも三つもはいってしまうほどに広大無辺な土台。その上に積まれた無数の石。遠目に見れば、それは山に見えるはずだ。長大な三角形。先端は果てしなく伸び、蒼空を貫いて天上に至る。――それが、どうだ。あれは、あの摩天楼は、山に似ているか? あれは一本の棒だ。土台の方が少しは太いかもしれないが、俺の知る限りの知識では、あんなものは土台と呼べない。しかし、あれは立っている。たしかに天を摩して立っている」
「だからといって嘆くことはあるまい」ハリィデールは言った。
「お前はここまで、その秘密を盗みにきたのだ。わからないのは、むしろ当然のことだろう。それとも、お前がわざわざ出向いてきたのは、未知の魔法、未知の技術に打ちのめされるためか?」
「そんなことはない」ジュバルの目つきが鋭くなった。
「だが、ものには限度があるんだ。俺は広い土台に、どうやって切りだしてきた石を一万エルもの高さに積み上げるか、そのことばかりを考えてきた。それさえわかれば、すべての謎は解けると信じていたんだ。ところが、ベシラの摩天楼は、そんな俺の浅薄な考えをあっさりと吹き飛ばしてしまった。見るがいい。あんな塔が、石を積みあげただけでできるか?あれは根本的に異る知識、違う技術で造られているんだ。そんなものをいったいどうやって盗めばいい。盗むには、それ相応の知識がいるんだぞ。金塊を盗もうと思ったら、金とは何かを知ってなくちゃならない。でなきゃ、石ころだの鉛だのをつかまされてしまう。――いいか、ベシラの摩天楼が金塊だとしたら、俺は金のことなんぞ何一つ知らない無知な盗っ人ということになるんだ。あいつを前にしても、俺はただうろうろするだけ。哀れでドジな黒小人の道化だよ」
「あの塔は上の方が雲に隠れてしまっているわ」ウルスラが言った。
「きっと噂ほど高くはないのよ。だから、あんなふうに造れたんだわ」
「気休めはありがたいが、無用だ」ジュバルはかぶりを振った。
「ここから見える高さで充分なんだ。あれだけの高さしかない塔であっても、俺には歯が立たない」
「で、どうする?」ハリィデールは腰をかがめ、坐りこんだままの黒小人の顔を覗きこんだ。
「諦めて、さとに帰るか」
「そうはいかん。そうはいかんから、俺も辛いんだ」
ジュバルは緩慢な動作で、ハリィデールを見た。声が弱々しい。
「尻尾を巻いて、だめだったなんて帰ってみな。仲間のいい笑い者になったあげくに、谷から追い出されてしまう」
「じゃあ、こんなところでいつまでも嘆いてるわけにはいかないじゃない」
ウルスラが言った。
「そいつは、そうだが……」
気の弱さが、好奇心を制してしまい、ジュバルはいつまでもうじうじと悩むのをやめなかった。
ハリィデールは見限った。危険な旅で苦難を分け合ってきた相棒だが、こんなことには長くつきあってはいられない。
「俺は行くぞ」ぶっきらぼうに言った。
「摩天楼を誰がどうやって造ったのかは、俺には関係ない。俺はそこに君臨する不死王と決着をつけにきたのだ。お前はお前で好きにするがいい」
そして、きびすを返し、ハリィデールはさっさと馬にまたがった。
ウルスラが心配そうにジュバルを見やる。だが、彼女もやはり振り切るように身をひるがえし、ハリィデールのあとを追って、馬の背に飛び乗った。ウルスラにつき従う二頭の犬、アウガとネフは黒小人に目もくれなかった。
「つれないぜ。まったく」
ジュバルは、置いていかれるのを嫌った。短い逡巡《しゅんじゅん》はあったものの、すぐに立ちあがり、とぼとぼと歩きだした。
愚痴をこぼしながら、二人のあとをついていく。ハリィデールはそれを意識して、馬をゆっくりと進ませている。
しばらくは、ぼやきながらジュバルは歩いた。しかし、一度からだが動いてしまうと、もう悩みもためらいも持続はしなかった。黒小人の性《さが》なのである。根が単純だから、肉体を使っていると、あれこれ思いめぐらすのが面倒になってくる。ジュバルは立ち直りはじめた。こうやって、くっついて歩いていたら、嫌でもベシラに着いてしまう。着いたら、着いたときだ。自分で自分を、そう納得させてしまった。臆病で落ちこみやすいが、瞬時に気を取り直してずるく立ち回れるのが、黒小人である。
呪いとも恨みともつかぬ声が跡切《とぎ》れた。と同時に、ジュバルはもういつもの横柄で強気な黒小人に戻っていた。
「ちくしょう、何が摩天楼だ! あんなもの、他人に造れてこの俺に造れないはずがない。俺は黒小人一の細工師、ジュバル様だぞ!」
威勢よく喚きだした。喚きながら走りだし、ウルスラの馬に追いついた。ひらりと飛んだ。
ウルスラの後ろにまたがった。
「急げ。ベシラに!」
高らかに叫んだ。
ベシラは、深い堀と高い城壁で、まち全体が髪の毛一筋の隙間もないほど完全に囲まれていた。
城壁と堀の内側にはいる道は、ただ一つしかない。その道には、長い跳橋《はねばし》と頑丈な櫓門《やぐらもん》が設けられている。櫓門の向こうには、摩天楼が見える。これほど近づいてしまうと、摩天楼は、もう摩天楼には見えない。城壁の先に、都の中心部を取り巻く壁が、もう一つ聳えているように感じられる。摩天楼を遠目で見たジュバルが、その細さに驚いたとはいえ、やはり天を摩するといわれる楼閣である。土台は相当に広い。ヴォーダンの半分くらいは、優にあろう。内壁と見誤るのは当然といえる。しかし、そこから上の方へと視線を辿っていくと、壁はどこまでも高くつづき、やがて灰色の雲の中へと没してしまうのである。
「窓がない。それに壁は滑らかで、石や煉瓦を積んで造ったとは、とても思えない」
ハリィデールが、馬の背に乗せてある丸い布袋に向かって囁《ささや》いた。ハリィデールとウルスラは、旅の行商人に身をやつしていた。薄い布一枚に身を包み、首筋には、ジュバルが描いたベシラの紋様である藍色の竜が、口から火を吐いている。紋様は、たしかに文身《いれずみ》としか見えない。
二人は、二頭の馬に商いの品を満載していた。芋や干肉の食糧品から鍋や釜、それに革の鎧に大太刀、そして見事な長槍まである。ハリィデールが引いている方の馬には、何がはいっているのかよくわからない布袋もいくつか積まれている。その袋の一つに向かって、ハリィデールは声をかけたのだ。
「見たいぞ、俺も。なんとかしてくれ」
袋の中から、返事があった。ジュバルの声だった。黒小人のジュバルは行商人には変装できない。そこで、ハリィデールが荷物の一つとして、布袋の中に押しこんでしまったのだ。
「だめだ。ベシラの中にはいるまで我慢しろ」
ハリィデールは言った。ハリィデールとウルスラは、長い列の後ろの方に並んでいた。これは近在の村などから集まってきた物売りの列だった。この列は、跳橋の手前にある小さな木戸からつづいている。その木戸には兵士の一隊が詰めていて、ベシラに入ろうとする者を選別している。首筋に文身のない者、はっきりとした用のない者は、その場で追い返される。ハリィデールはきょうがベシラの広場で市《いち》の立つ日であることを耳にし、行商人に変装してきたのである。売物は、ジュバルとウルスラがそれらしきものを集め、さらには、ハリィデールが帯びてきた鎧、武器も馬の背に積んだ。
たっぷりと待たされて、ハリィデールの番がめぐってきた。
木戸は人が二人ようやく並んで通れるほどの幅しかなく、その脇には、ずらりと武装した兵士たちが控えている。これでは、たしかに時間がかかるはずだ。
五人の兵士がハリィデールとウルスラ、そして二頭の馬を囲み、二人の兵士が積荷を調べた。
「変わった取り合わせだな」
調べにあたった兵士の一人が、つぶやくようにハリィデールに訊いた。
「うちの伝来のものから、畑で穫《と》れたものまで、洗いざらい持ってきましたんで」
ハリィデールは身をかがめ、いかにも卑屈そうに答えた。
「この中身はなんだ?」
もう一人の兵士が訊いた。ハリィデールが引いてきた馬の布袋をなでている。そのうちの一つはジュバルが隠れている布袋だ。
「それは、自分たちの着換えでして」
ハリィデールは愛想笑いを浮かべ、両手を胸の前で揉んだ。
「ふむ」
兵士は鼻を鳴らし、ハリィデールと布袋とを交互に見た。
いきなり、腰の短剣を抜いて、布袋に突き立てた。
「あっ、何を!」
ハリィデールは、うろたえたふりをして、積荷に駆け寄った。兵士が短剣を布袋から引き抜いた。短剣の刃は鋭く磨きあげられており、一点の曇りもない。
「たしかに、着換えが詰まっているようだな」
兵士はつぶやき、ハリィデールに向かって顎をしゃくった。いま一人の兵士も、大きくうなずいた。
木戸が開いた。ベシラに入ることを許されたのである。
馬を引き、ハリィデールとウルスラは木戸をくぐった。そのあとにアウガとネフがつづいた。二頭の犬も売物ということになっている。
早足で跳橋を渡り、櫓門を通過した。
まちの中心を横切る大路を外れ、複雑に入り組んでいる路地の奥にもぐりこんだ。
立ち並ぶ石造りの家々を擦り抜け、ひと気のない、目立たぬ場所を捜した。
小さな空地があった。倉庫のような建物の裏手にあり、人通りはまったくない。
馬の手綱を犬に預け、ハリィデールは布袋の口を開けた。
「いてえ、いてえ、いてえ!」
ジュバルが悲鳴をあげながら顔をだした。
「やはり、お前の袋だったか」
ハリィデールが言った。
「足をぶすりだ。ちくしょう、あの野郎!」
ジュバルは馬の背にまたがった。短い足の太ももに布切れが巻かれ、それに血がにじんでいる。濁った赤黒い色の血だ。
「やばい、と思ったんで、短剣が抜かれるときに、手近なぼろきれでとっさに刃を拭いたんだ」ジュバルは言った。
「声はだせねえ、傷はうずく。頭がくらくらしたぜ」
「なかなかの機転だったな。お蔭で事を荒立てずに済んだ。見直したぞ」
「べんちゃらはいいさ。それより、これを塗ってくれ」
黒小人は懐から、殻の固い小さな木の実を取りだした。それを二つに割ると、中にはねっとりとした黄色い粘液状のものが詰まっている。黒小人のみが使う万能薬だ。
ウルスラが、木の実の殻を受け取った。
汚れた布切れをほどき、それをジュバルの傷口に塗った。ジュバルは一千にも及ぶといわれる呪いの言葉のありったけを吐き散らした。
16
ハリィデールは、すぐには行動を起こさなかった。
なによりもまず、ベシラに人通りが絶える時を待たねばならない。雪に混ぜられた光りゴケのおかげでまちは一日中明るく昼も夜もないが、それは終日闇に包まれているヴォーダンでも、明暗の違いこそあれ同じことである。人の生活がある限り、一定のリズムでまちは目醒め、眠りに就く。
ハリィデールは、市《いち》が立っている中央市場へと向かった。そこで人の流れを眺めていれば、いやが応でもベシラのリズムを知ることができる。
市は盛況だった。摩天楼を取り巻く長大な広場の一角に天幕が張られ、そこに何百、何千もの人々が集まって、肉や野菜や用途も判然としない風変わりな道具などを売り買いしている。
ウルスラが市の顔役とおぼしき男と交渉して、天幕の隅に場所を借りた。さっそく馬から荷を下ろし、店を広げる。ジュバルはまた布袋の中に押しこまれており、店じまいするまで、そのままの運命となっている。ハリィデールは客を装って、雑踏の奥にまぎれた。時間をつぶすかたわら露店を一つ一つひやかして回り、役に立ちそうな話を集めておこうというのである。それにジュバルに頼まれて入手しておかなければならない品もいくつかあった。
広場を埋めつくし、店の前に高く積み上げられたガラク夕の山すらよく見えぬほどにひしめいていた群衆の数が、その五分の一にも満たなくなってしまった頃、ハリィデールは一抱えの包みとともにウルスラのもとへと戻った。
ウルスラは、すでに店を閉めていた。売れそうなものは、もう売りきってしまっている。馬の背にはハリィデールの武具と四つの布袋が残っているが、これは売るわけにはいかない。
ハリィデールはウルスラを連れて場所を移した。先にジュバルのケガの様子を見た石倉の裏手が、やはり一番目立たないようであった。
ジュバルは、げっそりとした顔つきで、袋からでてきた。無理もない。ほとんど半日を窮屈な姿勢のまま、この中につめこまれて過ごしたのだ。
「死んだ方がマシだと、五回は思ったぜ」
ジュバルはウルスラが差しだす干肉を貧《むさぼ》り食べ、何杯も水をおかわりした。
その間に、ハリィデールが馬の背から布袋をすべて下ろした。袋の口は、いぎたない食事を終えたジュバルが開けた。中からは燃える粉や、牛の膀胱《ぼうこう》に詰めた燃える水などがでてきた。これらはみな、ベシラにはいる前に立ち寄った村々で買い求めたり、ジュバルがどこやらから掻き集めてきたりしたものである。
「ほかには?」
ジュバルはハリィデールに訊いた。
「市で、これだけ見つけた」
ハリィデールは広場から抱えてきた包みを黒小人に渡した。ジュバルは、すぐにその包みも開いた。包みの中には、細ひもや革の小袋がぎっしりと入っていた。
ジュバルは、それらを一か所に集めて作業に取りかかった。
しばらくは作業に専念した。ウルスラが手伝った。ハリィデールは貫頭衣を脱いで革の鎧を身につけた。黒の魔剣を腰に帯び、グングニールの槍を手にして、路地の入口に立った。大通りの方にも、人影はもうほとんどない。ときおり三、四人で一組になった巡視の兵士が行き交うのみである。間違いない。ベシラは夜になった。短い眠りのときを迎えたのだ。
作業はほどなく終わった。ジュバルがハリィデールの横にやってきた。
「段取りは?」
低い、しわがれた声で訊いた。
「変更はない」
ハリィデールは目を大通りの方に向けたまま答えた。
「どうも静かすぎる」黒小人は言った。
「たしかにこの季節、刺客がイミールの翼を越えてやってくるはずもないと思っているのだろうが、それにしてもたやすく事が運びすぎた。そのツケがあとで回ってきそうで、気分が悪い」
「俺には、わかる」
ハリィデールは言った。
「え?」
「俺には、わかるのだ。このことの意味が」ハリィデールは言を継いだ。
「不死王がヴォーダンに潜入を図れば同じことになる。やつは容易に我が軍の網を破り、国境を越え、城門をすり抜けて俺の前に姿を見せるだろう。万の兵を喰い止める陣が敷いてあっても、一人の戦士が潜入するのを阻止することはできないのだ」
「どうして?」
「自信があるからだ」ハリィデールは黒小人を見た。
「やつにも、俺にも自信がある。誰が来ようとも、この手で倒すという。その自信が、逆に護《まも》りの穴となる」
「俺たちは、護りの穴をするりとくぐってきたってわけか」ジュバルはかぶりを振った。
「並の王どもの話ではないな。凡百の王は、国を護り、都を護り、おのれを守る兵を欲する。そして、結局は何も護れないのだ」
「不死王は、手強《てごわ》い相手だ」
ハリィデールは自分に言い聞かせるように言った。
「噂以上の剛者《つわもの》だろう」
「できました」
ウルスラが来た。彼女の作業も終わったらしい。
「先に行っててくれ」黒小人は、ハリィデールの腰を軽く叩いた。
「あとでウルスラをやる」
「頼むぞ」
ハリィデールはうなずき、路地から出ようとした。
「美獣王」ジュバルが声を掛けた。
「また会えると思うか?」
「さあて」
首をめぐらし、ハリィデールは薄く笑った。
それが、ジュバルが最後に見たハリィデールの姿になった。
美獣は、摩天楼の前にいた。
正面には、壁がある。天に向かって果てしなく垂直に伸びる壁だ。継ぎ目がまったくない。滑らかで、光沢がある。掌をあててみると、ぬらりとした感触をおぼえる。
壁は平らではなかった。緩やかに、極めて緩やかに曲線を描いていた。遠く離れて眺めてみると、それがわかる。そうやって距離を置いてみて初めて、その壁が摩天楼そのものだとわかるのだ。
軽い足音が聞こえた。ハリィデールは視線を摩天楼の壁から背後へと移した。ウルスラが駆けてくるのが見えた。後ろに二頭の犬がつづいている。
「用意ができました。ジュバルは合図を待っています」
ウルスラは息を弾ませていた。脇に立って覗きこむようにハリィデールの顔を見る。ハリィデールは無言で首を縦に振り、きびすを返した。
摩天楼の壁に沿って、しばし歩を進めた。ウルスラと犬もついてくる。ウルスラは手に細長い棒のようなものを握っており、それを杖代わりにしている。
壁に扉があらわれた。摩天楼の名にそぐわない簡素な扉だった。高さがハリィデールの数倍もある巨大な矩形が壁に切られ、そこが二エルほど奥まっている。扉は中央で割れる観音開きで、表面には何の飾りもない壁と違って、浮彫りが施されていた。彫ってあるのはタイローンの紋章である火を吐く竜だ。彩色はなされていない。扉も壁と同じく淡い灰色で、濡れているような光沢がある。把手《とって》や、そういった役割をしそうなものは、どこにもなかった。長い時間を費やしてこの壁の周囲を一回りしてきたハリィデールは、摩天楼には、これ以外に扉が存在しないことを確認していた。しかし、この扉も開ける方法はわからない。ハリィデールは試しに扉を押してみたが、あらん限りの力をこめても、扉はぴくりとも動かなかった。
ハリィデールは扉の正面で足を止めた。扉の近辺には誰もいなかった。いや、扉の近辺だけではない。不思議なことに摩天楼のあたりには衛兵がまったくいないのだ。まちの中には巡視隊が徘徊しているが、摩天楼は完全に無防備であった。あるいは守らずともよいと、不死王が考えているのかもしれない。たしかに、かつて摩天楼まで到達した敵は一人としていないのだ。
ハリィデールは革袋を一つ、細ひもで肩に掛けていた。それを下に降ろし、扉にたてかけるように置いた。そして、ゆっくりと革袋から離れた。槍を構え、穂先を白熱させた。
「今だ」
短く言った。
ウルスラが、手にしていた細長い棒を頭上に高く掲げた。棒の下の端から細ひもが伸びている。ウルスラは、それを強く引いた。
空気が弾けるような甲高い音がした。と同時に、棒の先から炎の玉が飛びだした。真っ赤に燃える火の球だ。火球は紅の尾を曳いて、天空へと昇る。
四散した。光が丸く広がり、そして消えた。
次の瞬間。
轟音がベシラを揺るがした。まちのあちこちで爆発が起こり、数か所で火の手が一斉にあがった。灰色の空がにわかに赤く染まり、明るくなった。
爆発は、わずかな間を置いてつぎつぎとつづいた。悲鳴、怒号が、その合間に響き渡った。
ハリィデールは、穂先が白熱している槍を革袋に向かって投げた。槍は革袋を貫き、灼いた。
爆発した。
革袋が一瞬にして炎の塊と化し、巨大な扉の一部を微塵に吹き飛ばした。
扉に穴があいた。人が一人、ようやくくぐれそうな穴だ。
「誰だ!」
声がした。ウルスラの小さな悲鳴が、それに重なった。
ハリィデールは上体をわずかにひねった。目の端に巡視の兵士に腕を把られたウルスラの姿が映った。兵士は三人、うち二人は犬と向かい合っている。ウルスラはあらがい、逃れようとするが、細身の剣を手にした兵士は、それを許さない。
ハリィデールは魔剣を抜いた。抜くと同時に足が大地を蹴った。
魔剣が燦《きらめ》いた。
兵士たちは、何が起きたのかを理解できなかった。理解する前に、死がかれらを見舞っていた。首が三つ、宙に舞った。それから鮮血が噴水のように飛び散り、兵士の肉体は力を失った。
首のないからだがゆっくりと倒れ、雪の底へと沈んだ。
槍が戻ってきた。
ハリィデールは身をひるがえした。
血刀を下げ、穂先を突き出して、ためらうことなく扉にあいた穴の中へと飛びこんだ。
アウガとネフが激しく吠えた。ウルスラは美獣の早技に凝然と立ち尽くしていたが、その咆哮で我に返った。彼女の手首を掴んだまま絶命している兵士の腕をふりほどいた。
急ぎ、ハリィデールのあとを追った。
17
薄暗いが、闇ではなかった。青い、水底《みなそこ》のような光が空間を柔らかく満たしている。しかし、見えるものは何もない。霧が渦を巻いているのだ。白い霧は青い光を淡く散らし、その光景はまるで夢のように幽玄だが、実は何も見ることのできない世界を、そこに現出させている。
勢いこんで進入したものの、ハリィデールはいったん動きを止めてあたりを見渡した。
霧のせいだろうか、空気がねっとりとしている。寒くはない。むしろ暖かいほどだ。|北の地《ツンドラ》の冷気に慣れた身には、蒸すような暑ささえ感じられる。
それにしても、摩天楼に霧とは。
ハリィデールは”気”を窺《うかが》ってみた。
視線を定めず、全身の感覚を研《と》ぎ済まさせる。
顕著な”気”はない。殺気も敵意も漂ってはこない。
しかし。
何かが存在する。微弱だが、生命の脈動がたしかに伝わってくる。この霧の海の奥深いところで、なにものかが生きて呼吸し、体液を循環させている。
「あっ!」
ウルスラが小さな叫び声をあげた。
反射的に、ハリィデールは低く身構えた姿勢で、体を後方にさばいた。
「穴が!」
ウルスラは、扉を指差していた。中へはいって、まだあまり動いていないので、扉は流れる霧の向こうに、ぼんやりと見ることができる。アウガとネフが威嚇するように唸るのが聞こえた。
ハリィデールは、瞬時、目を疑った。
扉には、大きな穴が口を開けている。ハリィデール自身が、そこをくぐって摩天楼の内部へとはいってきた穴だ。ジュバルが造った爆裂玉で灼き砕かれたために、穴の周囲はぎざぎざに崩れている。その穴が、見る間に小さくなっていくのだ。
穴は、裂かれた傷が癒えるように、自然にふさがろうとしている。爆風に叩かれ引きちぎられた扉が、うねり、脹れ、波打って、外の光に淡く輝いている丸い穴をじりじりと埋めていく。
ウルスラが誘われるように扉へと近づいた。
「待て!」
ハリィデールが止める間もなかった。ウルスラは両の手を怪しくうごめいている穴のへりに置いた。
絶叫がほとばしった。
何かが弾けるような鋭い音が響き、次の瞬間、オレンジ色の火花が激しく散った。
ウルスラの細いからだが、火花とともに吹き飛んだ。
アウガとネフが、すかさず宙に躍った。
床とウルスラとの間に滑りこんだ。
二頭の犬と少女とがからみあって、床に落ちた。
「ウルスラ!」
ハリィデールが駆け寄った。
抱き起こし、肩を揺すった。
「ハリィデール」
意識はあった。ウルスラは弱々しく頭を上げ、ハリィデールを見た。
ウルスラの下から這い出し、立ち上がった犬たちが、扉に向かって狂ったように吠える。青く染まった霧の彼方に薄く見えていた光の輪が急速に小さくなり、やがてふっと失せた。
扉の穴が完全にふさがったのだ。
ハリィデールは扉めがけて槍を投げた。槍は乾いた音を反響させて跳ね返り、ハリィデールの手の内に戻った。爆裂玉はとうになく、グングニールの槍といえども、摩天楼の壁を砕くことはかなわない。
ハリィデールは退路を断たれた。摩天楼に閉じこめられてしまったのである。
ウルスラが、からだを起こした。ハリィデールの腕を借りて、よろめきながら立った。ハリィデールが肩を支えた。ウルスラは目を閉じ、二、三度、強く頭を振る。
目を開けた。視線がハリィデールの肩越しに、その背後へと向けられた。
瞳が丸くなった。恐怖の色が、表情《かお》に浮かんだ。全身に緊張が走り、筋肉が硬くなる。
声にならない悲鳴をあげた。
その寸前。
ハリィデールは動いた。ウルスラを突き飛ばすように犬たちの方に押しやり、右足を軸にして魔剣を薙ぎ、からだを半回転させた。
剣に手応えがあった。濡れた布を叩くような音とともに、眼前が緑色に染まった。
生暖かい液体が、激しく降りかかってきた。細長い触手が数本、霧の渦に舞った。濃い緑色の液体を切り口から噴出させている。
ウルスラの呼号が響いた。犬の吠え声も、甲高い悲鳴に似たものに変わった。ハリィデールは確かめる間も置かなかった。何が起こったのかを見る必要はない。何かが、もう起きたのだ。
振り向き、グングニールの槍を投げた。
やはり触手だった。触手が、ウルスラのからだに巻きついていた。少女も二頭の犬も、どこからか伸びてきた無数の触手に手といわず足といわずからみとられ、もがき、喘いでいる。完全に自由を失い、逃げることすらできない。
槍は触手を灼いた。ウルスラの周囲をめぐり、執拗に灼いた。灼かれた触手は苦痛にのたうち、炭化した破片を四方に黒く巻き散らした。
槍が触手のあらかたを灼き裂いて、戻ってきた。ハリィデールは左手を伸ばして、それを受けとめようとした。
その腕が、動かない。凄まじい力で押さえつけられ、ぎりぎりと絞めあげられている。
またも触手だ。数本の触手が、ハリィデールの二の腕から首にかけて、いつの間にかからみついている。
槍が、ハリィデールの後ろに回りこんだ。赤く燃える穂先が、触手を断ち切った。左腕を締めあげていた力が緩《ゆる》んだ。
しかし、ハリィデールを襲った触手は、それだけではなかった。両の足から腰、さらには魔剣の柄にまで触手はからみついていた。
ハリィデールは魔剣を頭上に強く引き上げた。触手がひっぱられて伸びる。そこをすかさず、上下左右に払った。
鮮血のように緑色の液体をほとばしらせ、寸断された触手が跳ね飛んだ。残った触手は、槍が灼いた。
「ハリィデール!」
ウルスラが二頭の犬とともに走り寄ってきた。その真後ろには、数すら定かではない触手の大群が迫ってきている。まるで鎌首をもたげて霧の海を渡ろうとする無数の蛇のようだ。
槍を左手、魔剣を右手に、ハリィデールは身構えた。
ざわっという音がハリィデールを包んだ。何百何千もの旗が、一斉にはためいたときのような激しい音だった。
壁ができた。霧の底から瞬時に湧きあがった触手の壁だった。前も後ろも横も、すべて囲まれている。ウルスラの姿が見えなくなった。
ハリィデールは槍を投げ、魔剣を揮った。触手は一本一本が自在に動き、ハリィデールを包みこもうと、あらゆる方向から仕掛けてくる。その触手の攻撃をハリィデールはことごとくかわし、魔剣で切り刻んだ。槍は槍で炎の塊と化し、触手を誘いこんでから、まとめて燃えあがらせる。
壁が破れた。美獣を捕えようとした檻《おり》は破壊された。
ウルスラが見えた。触手に片腕を把られて膝をついている。二頭の犬は彼女を助けに行きたい。しかし、近づこうにも、犬たちは襲いかかってくる触手を払うのがせい一杯だ。
犬と相対していた触手が、波打ちながら並んで後ろに引いた。偶然のタイミングだったが、その隙をついてアウガがうまくウルスラの脇に回った。
腕にからみついていた触手に噛みついた。
触手がちぎれ、裂け目から緑色の液体があふれた。アウガの下顎と胸が、その液体でべっとりと濡れた。
アウガは一歩、飛びすさった。怯えたようなしぐさだった。頭を低く構え、小さく唸った。
いきなり苦しみだした。頭を振りあげ、口を開いた。
全身が痙攣《けいれん》する。
血を吐いた。つんのめるように倒れた。一、二度四肢が震え、そのまま動かなくなった。
「毒汁!」
ハリィデールは呻いた。触手が噴き出す液体は、猛毒を含んでいる。
「アウガ!」
ウルスラが、息絶えたアウガのからだにしがみついた。
ハリィデールは槍を戻し、あらためてウルスラに向けて投げた。槍はウルスラを狙っていた触手を片端から灼き散らした。ネフがウルスラをアウガの屍体から引きはがし、彼女を自分の背中に乗せた。
「こっちだ!」
ハリィデールがネフを呼ぶ。美獣と犬は、次々とあらわれる触手をかわして、霧の奥へと走った。触手は霧の渦を破って四方からハリィデールを襲うが、魔剣と槍に阻《はば》まれて、美獣の肌をかすめることすらできない。
そして。
また壁に行きあたった。今度は、触手の壁ではなかった。色も手触りも摩天楼の外壁に似た、ぬらりとした壁が、流れる霧の先に出現し、ハリィデールの前に立ちはだかった。
一方を壁に塞《ふさ》がれ、三方から触手に迫られては絶体絶命である。
ハリィデールは槍を壁めがけて突きだした。歯が立つか立たないではない。何かをしなければ、やられてしまうのだ。
手応えがなかった。槍は空を突き、ハリィデールはつんのめって前に進んだ。
たたらを踏み、壁に突っこむ。
するりと壁を抜けた。
驚く間もない。まずい、と思ったときには、もう壁は背後にあった。その壁の中から、ウルスラを背負ったネフが影のようにあらわれた。
ハリィデールはあっけにとられた。ハリィデールが進んだから、盲目的にそのあとについてきたネフも何が起きたのかよくわからないまま、しきりに後ろを振り返り、首を傾《かし》げている。ウルスラはネフの背中の上で顔を伏せていたので、何も見ていない。
そこは、がらんとした広間だった。
さしわたしは何百エルもあるだろうか。緩やかに湾曲した壁に囲まれている。どうやら壁は真円を描いているらしい。霧は漂っていない。光も青くはない。わずかにほの暗いが、陽光に近い透明な光が隅々まで行き渡っている。
ハリィデールはきびすを返し、壁を槍で突いてみた。穂先は壁を貫けなかった。ハリィデールが容易に通り抜けてきたはずの幻の壁は、たしかな実体として、そこにあった。
「天井がないわ」
声がした。ウルスラの声だった。ハリィデールは振り向いた。ウルスラはネフの背中から下りて床に片膝をつき、頭上を振り仰いでいた。
ハリィデールも視線を上に向けた。ウルスラの言ったとおりだった。壁は果てしなくつづき、その遥か先は黒い影となって形を失っている。
「どこなの、ここは?」
ウルスラが訊いた。
「摩天楼の中心だろう」
ハリィデールは視線を戻した。それから少し間を置いて、言を継いだ。
「そして闘技場――かもしれぬ」
ウルスラはハッとなり、ハリィデールの視線を追った。
壁に黒いしみが滲《にじ》んでいた。しみは次第に広がり、やがて巨大な人の姿となった。ハリィデールよりも一回りほど大きい。
しみが、壁から抜けた。それは人ではなく、黒光りする甲冑《かっちゅう》の塊だった。くろがねの鎧、冑、面頬《めんぼお》。腕も足も鎧《よろ》われている。生身の部分はどこにもない。鉄甲兵とでも呼ぼうか。右の手には広刃の剣を持ち、左の手には六角形の楯を携えている。動きは重い。ぎくしゃくとしており、どことなく糸操り人形を思わせる。
鉄甲兵は、一体ではなかった。壁のそこかしこからあらわれ、広間の中央へと進んできた。その数は二十余体。いずれもが同じ甲冑を身につけ、同じ武器を手にしている。足音はない。言葉も発しない。
鉄甲兵の輪はゆっくりと広がり、かなりの間合いを残しながらも、ハリィデールたちを包囲した。
18
ジュバルは狩人に追われる野うさぎのように疾《はし》った。
息を切らし、目を剥き、爆裂玉を一つ仕掛けおえて火縄に点火すると、またひたむきに疾る。とにかく最初の爆裂玉が爆発して燃えあがる前に、五十を越える爆裂玉をすべてベシラのあちこちに仕掛けてまわらなければならないのだ。といって、爆発を遅らせたのでは、摩天楼で待つハリィデールが襲撃の機会を失ってしまう。
爆裂玉の残りが一つになった。ジュバルは、それを城壁に近い兵舎の一角に仕掛けた。肩でぜいぜいと呼吸《いき》をしながら短い火縄を付け、小さな火種の火をその先に移す。
火縄が燃えだした。煙が昇り、火花が散る。ジュバルは、あわててその場から離れようとした。
そのときだった。最初に仕掛けた爆裂玉が爆発した。
太い、大太鼓を打ち鳴らすような音が静寂を破った。大地が身震いし、ジュバルの足が浮いてしまうほどに激しく揺れた。
黒小人は、あせった。仕掛けが遅れたのか、火縄が少し短かったのか、原因はいずれにせよ爆発が早すぎる。ジュバルはまだ身を隠していない。
狭い路地の一つに必死で逃げこんだ。逃げこむと同時に、最後の爆裂玉を仕掛けた兵舎から、わらわらと兵士が飛びだしてきた。ほとんどの兵士は眠っていたらしく貫頭衣姿だが、何人かはそれでも甲冑を身につけ、槍や剣で完全に武装している。
ジュバルは路地の脇の建物が意外に丈高いのに気がついた。壁は日干し煉瓦を積み上げたもので、ほんのわずかだが、煉瓦と煉瓦の間に指を掛けられそうな隙間がある。
ジュバルは壁に取りついた。こんな路地にいたのでは、いずれ誰かがやってきて発見されてしまう。みつかったらおしまいだ。偽|文身《いれずみ》を首筋に描いたハリィデールならまだしも、黒小人では即座に叩き殺される。
煉瓦の壁を昇りはじめた。小さなでっぱりに指を掛け、からだを上に、あらん限りの力で引き上げた。
二度目の爆発がきた。一度目と同じで、まだ遠い。櫓門のあたりだ。しかし、遠くても衝撃は届く。建物がぐらりと揺らぎ、ジュバルは壁から振り落とされそうになった。
顔を苦痛に歪め、足の指もすべて使って壁にしがみつく。
息も絶えるかと思われる我慢の果てに、揺れがひとまずおさまった。
すぐに登攀を再開した。
また爆発がきた。歯を喰いしばって、しがみつく。そして再び登攀。じきに新たな爆発。登攀……。
これを、嫌になるほど繰り返した。回数は覚えていない。
やがて目が回りだした。力が抜け、本当に昇っているのかどうかもわからなくなった。
手が、空を掴んだ。何度やっても、煉瓦に触れない。
意識が朦朧《もうろう》としてきた。それを気力で呼び戻した。
掴めないはずだ。眼前には、壁ではなく、屋根があった。
ジュバルは壁を昇りきったのだ。昇りきって、屋根の上に辿りついたのである。
それを悟るやいなや、ジュバルは吐くに吐けなかった呪いの言葉を思いきり並べたてた。
そして、おもむろに呼吸を整え、周囲を見回した。
ベシラが燃えていた。
すでに、ほとんどの爆裂玉が炎と化したのだろう。火の手は数十か所からあがり、まち全体を切れ目なく包んでいる。ジュバルが昇ったのは、摩天楼を除けばベシラではもっとも高い建物らしく、まちの様子のあらかたが一目で見てとれる。もしかしたら、地盤そのものが小高い丘になっているのかもしれない。
ジュバルは屋根の上にいることを忘れて身を大きくのりだし、眼下に広がる赤い炎に彩られた阿鼻叫喚の光景に見入った。
上体が宙に浮く。
いきなり強烈なショックがきた。
建物が、跳ねるように上下した。
身を引くひまもなかった。あやうく屋根から弾《はじ》き飛ばされそうになり、ジュバルは悲鳴をあげた。
だが、その悲鳴は、数千もの雷鳴をもしのぐ爆発音によって瞬時に掻き消された。
耳をつんざかれ、ジュバルはまたも悲鳴をあげる。
火の粉が降ってきた。煉瓦や木材の破片も混じっていた。さらには血や肉塊も落ちてきた。
真下にあった兵舎が吹き飛んだのだ。最後の爆裂玉が爆発し、兵士も建物も粉粉に砕いた。ジュバルはバランスを崩した。屋根の端から転げ落ちそうになり、へりに両手でしがみついた。ちょうど建物の角になったところだ。まるで屋根からぶら下がる振子《ふりこ》のようになっている。
ジュバルは爪先で足場になりそうな凹みを探り、顔を横に向けて壁の表面に押しつけた。こうすれば、からだを指先だけで支えなくても済む。
摩天楼が正面にきた。広場をはさんで、巨大な円柱が大地から垂れこめた雲の中へと、まっすぐに聳え立っている。
摩天楼は、炎の照り返しで紅に染まり、それ自体があたかも炎の塔のように光り輝いている。
――見事だ。
ジュバルは、おのれの危機も忘れ、摩天楼をみつめた。
揺れる炎、広がる火災、新たな爆発、湧きあがる黒煙。それにつれて摩天楼の色も刻刻と変化していく。
――おかしい。
ジュバルは、夢を見ているのか、と思った。
しかし、それは夢ではなかった。確かな現実の出来事だった。
摩天楼が、摩天楼ではなくなっていく。
「まさか、そんな」
ジュバルは両目を壁の煉瓦にこすりつけた。まぶたがこすれ、激痛が走った。
だが、何をしても、見えるものは同じだった。
はじめに色が――。つぎに形が――。
崩れるように変わっていく。それは、炎や光の加減で変化しているのではない。明らかに、摩天楼そのものが、別の何かに変わろうとしているのだ。
夕焼けが闇に呑みこまれるときのように、摩天楼を鮮やかに染めていた炎の赤が唐突にくすみ、黒みを帯びた。光沢が失せ、表面に褐色の影が広がった。滑らかだった外壁にはしわが寄り、凹凸が生じて、こぶだらけになった。
ジュバルは声もない。予想だにしなかった摩天楼の激変に、茫然としている。
変貌は急速に進み、摩天楼はかつての姿をまったくとどめなくなった。似ているところがあるとすれば、それは地上からまっすぐに伸びて、天を摩していることだけだ。
「あれは……。あれはトネリコ……」
ジュバルの喉から、ようやく言葉が漏れた。無意識に発した、つぶやきのような声だった。
「宇宙樹《ユグドラシル》」
誰何《すいか》も、前触れもなかった。
鉄甲兵の一体が、いきなり斬りかかってきた。それがいわば、闘いの開始を告げる合図であった。
ハリィデールは鉄甲兵の一撃を右にかわし、魔剣をその頭頂に叩きつけた。
火花が散り、くろがねとくろがねが噛み合う音が、円形の広間に大きくこだました。
鉄甲兵の冑が、ぐらりと傾《かし》いだ。ハリィデールは魔剣を返し、首を狙った。
冑と面頬《めんぼう》が飛んだ。鋭い金属音が響いて、鉄甲兵の首は、鎧から離れた。
けたたましく床に落ち、冑と面頬がばらばらになった。
乾いた音をたてて、冑が転がる。
冑の中は空だ。何もない。断ち落とした首はおろか、肉片一つ存在しない。面頬の方には、よく見ると目にあたる場所に、なにやらからくり仕掛けのようなものがくっついている。だが、むろんそれも顔ではない。
ハリィデールは、仁王立ちになっている鉄甲兵を見た。
首を失った鉄甲兵は、いま一度剣を構え、ハリィデールに挑みかかろうとしていた。血は一滴も流れていない。ただ首がないだけだ。動きにも、まったく変わったところはなかった。
「歩く鎧か……」
ハリィデールは、薄く嗤《わら》った。
いきなり首のない鉄甲兵を蹴り倒した。鉄甲兵は吹っとび、やはりハリィデールに襲いかかろうとしていたほかの鉄甲兵に激突した。
三体の鉄甲兵が、からみあって床に叩きつけられる。
腕がもげ、脚が宙に舞った。冑や面頬も外れ、四散した。
鎧の胸あてが一つ、床の上でくるくると回っている。
「こざかしいわ!」
ハリィデールは首をめぐらし、隊をなす鉄甲兵を一喝《いっかつ》すると、グングニールの槍を投げた。槍は紅蓮《ぐれん》の炎をなびかせて、取り囲む鉄甲兵のただ中に躍りこんだ。
同時に、ハリィデールも魔剣をひっさげ、床を蹴った。
手近な鉄甲兵の胴を一閃、両断した。鎧が真二つになった。胴からは鮮血も臓腑《はらわた》も噴出しなかったが、かわりにからくりの仕掛けがこぼれ落ちた。
「ウルスラ、俺の後ろについていろ!」
ハリィデールが怒鳴った。いでたち、所作はものものしいが、鉄甲兵は木偶《でく》だ。美獣の敵ではない。しかし、唯一、不利なことがあるとすれば、それはウルスラの存在だ。ネフがいかに魔犬といえども、一頭ではこの軍勢からウルスラを守ることはできない。
グングニールの槍に灼かれ、魔剣に斬り裂かれながらも、鉄甲兵はそのことに気がついた。
二手に分れ、ウルスラを狙いはじめた。
ハリィデールは、うかつに前に出られない。出れば、動きに劣るウルスラが遅れる。といって、防戦一方では埒《らち》があかなくなる。
ウルスラをかばおうとするハリィデールに、はじめて隙が生まれた。
その隙を二体の鉄甲兵がついた。
左右から迫る剣を、ハリィデールはあやうくかわした。
しかし、ウルスラが、ついてこれない。
すかさず、間に鉄甲兵が割りこんだ。
これで二人は分断されたことになる。ハリィデールは戻ろうとしたが、それを鉄甲兵は許さない。一斉に攻撃を掛けて、行手を阻む。
ウルスラが、数体の鉄甲兵に囲まれた。武器を持たないウルスラは、鉄甲兵をキッと睨みすえるしかあらがう手はない。
槍が来た。槍はウルスラを囲む鉄甲兵の一体を刺し貫いた。
別の一体が貫かれた一体に重なった。槍は、その鉄甲兵にも突き刺さった。さらにまた一体が重なる。
さすがの槍も、三体を一気には貫通できない。しばし手間どった。
三体が槍をねじ伏せるように倒れた。槍はくろがねの塊にも等しい鉄甲兵、三体の下敷きになった。
残った鉄甲兵が、ウルスラに向かって剣を突きだした。
ネフが跳んだ。跳んで、鉄甲兵の突きだした腕に体当りした。
剣の勢いが、そがれた。切っ先はウルスラの着る貫頭衣の袖をかすめて脇に抜けた。
鉄甲兵は、左手の楯《たて》でネフを払った。楯の角がネフの後頭部に喰いこんだ。
悲鳴をあげて、ネフは落下した。
横にいた鉄甲兵が、剣を振りおろした。
かわしきれない。剣はネフの肩から腹を、ざっくりと裂いた。
血しぶきがあがった。ネフはもんどりうってウルスラの足もとに落ちた。
「ネフ」
ウルスラの力が萎《な》えた。彼女を守り育ててきた魔法の犬たちの最後の一頭。その犬がいま、彼女の眼前で血にまみれ、倒れた。
ネフが消え入りそうな声で啼いた。絶えようとする息を振り絞って、ウルスラに逃げろと告げたのだ。
ウルスラは膝を折った。立っていることができなかった。ネフを置いて逃げることなど思いもよらない。
ネフの前にひざまずき、こうべを垂れた。涙が数滴、血だまりに落ちた。唇を噛みしめているが、それでも鳴咽《おえつ》が漏れる。ウルスラはネフの顔に手を差しのべた。指で、輪郭をなでるように辿っていく。
ネフが息を吐いた。長い息だった。そして、それが最後の息だった。
影が四方からウルスラとネフを覆った。包囲した鉄甲兵の影だった。正面の影の腕が頭上に伸びた。腕の先には、広刃の剣の影がつづいている。
影が剣を振りおろす体勢をとった。ハリィデールは来ない。グングニールの槍も三体の鉄甲兵の下敷きになったままだ。鉄甲兵は真っ赤に燃えて熔けはじめているが、いまだ折り重なっており、人の形を留めている。
ウルスラが、おもてをあげた。
双眸が正面の鉄甲兵を捉《とら》える。
鉄甲兵の動きが止まった。剣を振り上げたきり、微動だにしない。
ウルスラが立った。一動作である。見えない力が、彼女を立たせたようだった。
ハリィデールが、ようやく血路を開いた。ウルスラを救うべく、魔剣を下げて飛んできた。
ウルスラと目があった。
息を呑んだ。
ウルスラの双眸が炯《ひか》っていた。黄金の光を放ち、すべてを睥睨《へいげい》していた。
「茶番はこれまでだ」
ウルスラが口を開き、言った。低く重い声音だった。たしかにウルスラの声だが、しかし、そうは聞こえなかった。誰かがウルスラの声を借りて話しているのだ。ハリィデールは直感した。
それは正しかった。ウルスラはオーディンの使者にして、美獣を導く者。
言葉を発しているのは、オーディンであった。
19
「そうだ。トネリコだ! ちくしょう!」
ジュバルは屋根の上で喚いていた。ようやくのことで壁を這い登り、あらためてじっくりと見るかげもなく変貌した摩天楼を眺めてみたのだ。
「だまされた。俺は馬鹿だった。阿呆だった。宇宙樹《ユグドラシル》ならば、たしかに土台なんぞ要らねえ。まっすぐに天を衝き、この世の果てだろうが、アスガルドだろうがぶち抜くことができる。ちくしょう! 真剣に悩んだ俺は底なしの大馬鹿だ!」
ジュバルは頭を抱え、額を屋根の角に打ちつけた。
ユグドラシルは、トネリコの大樹である。ミッドガルドに伝わる伝説によれば、その枝は全世界に広がり、天に達しているという。神々の都アスガルドは枝の上にあり、根は三つに分れていて一つはアサ神族の領域に、もう一つは巨人族の国ヨツンヘイムに、そしていま一つは死人の国ニフルヘイムに伸びている。ニフルヘイムは別名を霧の国といい、つまりは地獄のことである。
「しかし」頭を打ちつけていたジュバルは、ふと我に返った。
「不死王は、いったいどうやってユグドラシルを。いや、それよりも、なぜこんなことをしたのだ。ユグドラシルを移す。摩天楼に擬装する。さらには軍を駆ってミッドガルドの支配にのりだす。目的はなんだ? 力の誇示か? それとも、おのれが神になろうとしたのか?そも不死王スカイハイトとは、いったい何ものなのだ?」
黒小人は自問をつづけた。
「答えを知りたいか、ジュバルよ」
だしぬけに声をかけられた。背後からだった。ジュバルは仰天して、飛びあがった。また屋根から落ちそうになる。
必死でこらえて、首をめぐらした。
「てめえは」
表情《かお》がひきつった。
黒小人が立っていた。白く長い髪が火災で生じた強風にそよぎ、吊り上がった細い眼が、ジュバルをじっと見つめている。はじめて会う黒小人だが、ジュバルはその名を知っていた。
「ビットンだな?」
「そうだ」
ビットンはうなずいた。
「おもしれえ」
ジュバルは身構えた。武器はないが、向こうもどうやら素手らしい。五分で闘える。
「勘違いをするな」ビットンは片手を前にだし、ひらひらと振った。
「わしは無駄な殺し合いをしにきたのではない」
「なんだと?」
ジュバルはいぶかしげにビットンを見た。部族の異る黒小人が出会ったら、互いに殺し合う。これは絶対の掟《おきて》だ。そうでなければ、魔法|鍛冶《かじ》の秘密も守れないし、テリトリーも侵される。この場合は、ジュバルがビットンのテリトリーを破ったのだ。ビットンは部族の名誉にかけてもジュバルを殺さなければならない。それなのに、ビットンは闘わないと言う。ジュバルには、その意味が理解できなかった。
「ここはベシラ。タイローンの都だ。わしのさとではない」ビットンは言を継いだ。
「わしとお前が命を賭《と》して争う理由は何もないのだ」
「どうも信用ならねえな」ジュバルは疑いを解かなかった。
「黒小人を相手に気を許したら、尻の毛まで抜かれちまう」
「では、そうやっていつまでも身構えていろ。わしはわしで勝手にする」
「けっこうじゃねえか」
ジュバルはスタンスを広くとり、腰を落としてビットンを凝視した。
「お前はスカイハイトの正体を知りたがっていたな」ビットンは言った。
「どうということはない。あれは、ただの傀儡《かいらい》だ。本当の王ではないのだ」
「傀儡? 嘘だろう!」
「スカイハイトを操っているのは、太陽王グーレガーマだ」
「グーレガーマ」
ジュバルは眉をひそめ、太陽王の名を反芻《はんすう》した。かつて耳にしたことのない名だった。
「初耳かもしれぬが、ニフルヘイムではオーディンと同じように知られている」
ビットンがジュバルの考えをみすかしたように言った。
「そいつは神なのか?」
ジュバルは訊いた。
「神だ」ビットンは言った。
「しかし、アサ神族ではない。氷の女王ムーラーがそうであったように」
「氷の女王!」
ムーラーの名を聞いて、ジュバルは身をのりだした。いつの間にか警戒の姿勢が崩れている。
「お前は、氷の女王を知っているのか?」
指差して、ビットンに問うた。
「グーレガーマとオーディンは、ムーラーの遺産をめぐってはなはだ危険なゲームをしている。スカイハイトも、わしも、お前も、さらには電光狼も黒い呪術師も、みなそのゲームの手駒にすぎない」
「氷の女王の遺産とはなんだ?」
「ミッドガルドと……そして、美獣だ」
「ハリィデールが!」
「見るがいい」
ビットンはユグドラシルに向かって顎をしやくった。ジュバルは言われるままに視線を移した。
「あれは太陽王の切札だ。グーレガーマはスカイハイトをミッドガルドにおくり、タイローンをうちたてて美獣を誘った。美獣は罠《わな》にはまり、摩天楼にはいった」
「罠なのか? ユグドラシルが」
ジュバルは混乱した。ビットンの話は断片的で、脈絡がなかった。材料は与えているが、その本質は何ひとつ伝えていない。
「罠なのだ」ビットンは圧し殺した声で言った。
「だが、罠は両刃《もろは》の剣だ。オーディンの出方によっては、それはグーレガーマにとっての罠ともなる。だからこそ危険なゲームなのだが……」
「お前は不思議な黒小人だ」ジュバルはうつろな眼でユグドラシルを見つめたまま言った。
「いやさ、黒小人とはとても思えねえ。見てくれはそうだが、中身はまったくの別もんだ。スカイハイトはもういい。それよりも、お前はいったい何ものなんだ?」
ジュバルは振り返った。風が一陣、強く吹いた。
ビットンの姿はなかった。
屋根の上には、ジュバルのほかに誰もいない。
「ビットン!」ジュバルは怒鳴った。
「どこへ行った、ビットン!」
声は風にのり、いずこかへと流れていく。
「教えてくれ!」狂ったように叫んだ。
「俺はこれから、どうすればいいんだ!」
答えはない。
「教えてくれ!」
「グングニールよ」
ウルスラが槍を呼んだ。折り重なって倒れている三体の鉄甲兵が、激しく燃えあがった。炎は青白く、鉄甲兵はみるみる熔けて形を失う。三体が真っ赤に燃えるグロテスクな一つの塊になった。
その塊を突き破って、槍が飛びだした。槍そのものも、穂先といわず柄といわず真っ赤に灼けている。
ウルスラが右手を差しのべた。
槍が、その掌におさまった。
ウルスラは灼けた柄を握りしめて、平然としている。
「雑魚《ざこ》に用はない」
無造作に槍を投げた。残る鉄甲兵は十体あまり。それも、ウルスラの炯《ひか》る眼に睨まれて立ちすくんでいる。
とお数える間もなかった。
槍は片はしから鉄甲兵を打ち倒し、砕いた。あるものは炎に包まれ、あるものは爆発して吹き飛んだ。
槍がウルスラの手に戻った。
魔剣を下げたハリィデールと、槍を持つウルスラが向かい合った。その周囲には、つい今しがたまで鉄甲兵として存在していたものの残骸が散乱し、累累と重なりあっている。まだ青白い炎に灼かれている鉄甲兵も少なくない。
硬い音が響いた。
くろがねの鎚《つち》で、岩を打つような音だった。音は一回で終わらない。わずかな間をおいて、規則正しくつづく。はじめは遠い音だったが、次第に大きくなってきた。
足音である。誰かが、この広間にやってくる。
近づいた。もう方向もわかる。
正面だ。足音は、もっとも遠い壁の向こうから響いてくる。
ハリィデールとウルスラは、肩を並べてその主の出現を待った。
壁にしみが生じた。鉄甲兵のときと同じだ。黒いしみが急速に広がる。
やはり人の形をとった。大きい。鉄甲兵よりも、さらに首二つほど背が高い。肩幅も倍はある。
壁から抜けた。
甲冑を身に着けていた。しかし、鉄甲兵のように甲冑だけの化物ではなかった。冑の下には顔がある。面頬で覆われてはいない。無表情で、肌の色がやや青黒いが、たしかに人間の顔だ。何かの傷痕であろうか、左の目頭から耳にかけて、ひきつれたような筋が白く走っている。
男は無言でハリィデールの方へと進んでくる。凄まじい威圧感だ。並の兵士ならば、その姿を見ただけで戦意を阻喪するであろう。歩くにつれて真紅のマントがなびき、腰に佩いた巨大な剣の金具が、足音に負けぬ甲高い金属音を響かせる。間違いない。この男こそタイローンの盟主、ミッドガルド北部の覇者、不死王スカイハイトだ。
スカイハイトの足が止まった。広間のほぼ中央である。ゆっくりとまわりを見渡した。動きは滑らかではない。どこか鉄甲兵のそれに似ている。むろん、あれほどぎごちなくはない。気のせいか、動くにつれて何かがきしむような音が聞こえる。
ひととおり首をめぐらしてから、不死王は視線をハリィデールとウルスラに据えた。
「よく来たな、美獣。そしてオーディン……」
不死王が口を開いた。抑揚のない奇怪な声だった。いくつもの声が重なっているように響く。
「オーディンだと?」
ハリィデールはウルスラを見た。ウルスラは目を炯らせたまま、曖昧な微笑を浮かべている。
「オーディン、介入は無駄だ。諦めろ」
不死王はつづけた。左手を前に突きだし、大きく振った。
「それは、どうかな」
ようやく、ウルスラが応じた。表情《かお》から笑みが消えた。
「どういうことだ、ウルスラ!」
ハリィデールが訊いた。声に怒気が含まれている。
「気にすることはないわ」
ウルスラはかぶりを振って答えた。口調がウルスラ本来のものに戻っている。
「あたしは神々の巫女《みこ》。美獣を導く者。オーディンの力が宿っても、何の不思議もない」
「オーディンの力か」
不死王は嗤《わら》った。曝うと傷痕が歪み、不死王の顔は、ひどく醜いものになった。
「お黙り。スカイハイト!」ウルスラが凛《りん》と言った。
「そのへらず口、二度と叩けないようにしてあげる。――ハリィデール!」
グングニールの槍を構え、ウルスラは美獣を振り返った。
「ここが、あなたの旅の終わる場所。すべての鍵は、不死王が握っているわ。この男を倒せば、あなたの失われた過去が蘇《よみがえ》るのよ」
「それは嘘ではないな、ウルスラ?」
「疑いは無用。試してみなさい。あなたの未来のために」
ウルスラは動いた。構えた槍を、スカイハイトめがけて投げた。
不死王が巨大な剣を抜いた。
槍が迫る。
振りおろした。
炎の花が散った。燦《きら》びやかな破壊の花。
槍の穂先が砕けた。不死王の剣に打たれ、粉粉になった。
柄だけが、冷たい音を響かせて床に落ちた。
「ちいっ」
ウルスラは身を退いた。
ハリィデールが前に出た。魔剣をかざし、不死王との間を詰めた。スカイハイトも、歩を踏み出す。
互いに剣を払った。
魔剣と巨剣が噛み合った。閃光が走り、大気が激しく震えた。
20
十数合を交えた。すでにハリィデールの全身は鮮血にまみれている。巨剣の切っ先が、いくたびも肌をかすめたのだ。ハリィデールは髪の毛一筋の差で不死王の太刀《たち》を見切る。見切って剣を返す。その証《あかし》が、朱に染まったハリィデールの肉体だった。
対するに、スカイハイトは無傷である。その身のあらかたを鎧うくろがねが、ハリィデールの揮う魔剣をからくも無力にしている。胴あてや脛《すね》あてには無数の深いひびわれが走り、ハリィデールの剣技の冴えを物語っている。しかし、甲冑はまだその役割を放棄していない。さすがに不死王と呼ばれるだけのことはあるのだ。致命的な一撃は、ことごとくはずしている。流すか受けるか、いずれにせよ、魔剣は勢いをそがれてスカイハイトの甲冑を打つ。
さらに十数合を重ねた。ハリィデールは終始前に出た。畢竟《ひっきょう》、不死王は押され気味になる。大きな弧を描いてさがり、受け身にまわる。力は明らかに美獣に勝るが、動きがぎごちないために攻勢には出られないのだ。
しかし、チャンスはめぐってきた。
いつまでたっても不死王を追いつめられないハリィデールが、あせって勝負に出たときだった。
ハリィデールは胴あての脇にある細い隙間を狙った。うまく横に回りこむことができたハリィデールは無理をした。上背のある不死王は、腋《わき》といえどもハリィデールの頭よりも高い位置にある。突くには辛い。それをハリィデールは突いた。床を蹴り、腕を一杯に伸ばした。
スカイハイトは上体をひねった。かなりあやうい一瞬だったが、その必殺の突きを振りおろした剣で受けた。
伸びきったハリィデール。凄まじい勢いで振りおろされた不死王の巨剣。
魔剣が弾き飛ばされた。上から下へと力が加わったために、柄が拳から抜けた。
床に叩きつけられ、跳ねて転がる。
拾いに行くか諦めるか。
判断は寸毫《すんごう》の間になされた。すでに不死王は体勢を立て直し、巨剣を振り上げようとしている。
ハリィデールは不死王に組みついた。振り上げたスカイハイトの右腕の下にはいり、左手で肘をおさえた。右手は腰にまわした。
そのまま腕を把《と》り、体をひねる。
不死王の巨体がもんどりうった。宙を舞い、背中から床に落ちた。恐るべきハリィデールの膂力《りょりょく》である。
けたたましい音を響かせて、スカイハイトは仰向けに倒れた。
すかさずハリィデールは巨剣を握る不死王の拳をかかとで蹴った。
連撃すると、不死王の指が砕けた。巨剣が拳の間からこぼれた。ハリィデールは巨剣の柄を蹴った。巨剣は床を滑っていく。これでスカイハイトも得物を失った。
不死王が反撃にでた。左手でハリィデールの足首を掴んだ。引きずり倒し、その反動で立ち上がった。ハリィデールは不死王の手を振り払い、転がって逃げる。
すっくと立った。
不死王と美獣は、短い距離を置いて対峙する。
ともに武器はない。こうなると肉体と肉体の勝負だ。ハリィデールは体格で劣るが、不死王は重いくろがねの甲冑を身につけている。動きは、ハリィデールの方が遥かに軽く、速い。
しばし、睨みあった。
間合いが詰まる。
四つに組んだ。ハリィデールがスカイハイトの左手首を把り、背後に抜けた。腕を絞りあげる。スカイハイトはたまらず、一回転した。背中から落ちてからだを丸める。両足を伸ばして、ハリィデールの胸を蹴った。ハリィデールは飛ばされて後転した。
どちらも跳ね起き、向かい合う。
両手を前に突きだした。掌をあわせ、指をからめた。不死王の力が、まともにハリィデールの手首にかかった。激痛でハリィデールの表情《かお》が歪む。不死王はさらに体重を加えてハリィデールを圧しつぶそうとする。
ハリィデールは左手を切り、右手の手首を手元に引いた。
スカイハイトのからだが前に流れる。左の腋が隙だらけになった。ハリィデールは足を振り上げ、不死王の腰を蹴った。二撃、三撃といれる。しかし、不死王はひるまない。甲冑が衝撃を殺しているのだ。逆にハリィデールが突き飛ばされた。
足をふんばってこらえ、バランスを保つ。
そこへ不死王が突進してきた。左腕を真横に伸ばしている。
左腕が、胸にあたった。ハリィデールの息が詰まった。眼前で火花が散り、足が床から離れた。
後頭部から落ちた。したたかに打ち、一瞬、意識が薄れた。
ハリィデールは頭を抱えて転げまわる。
不死王があとを追ってきた。勝ち誇ったように美獣を見おろし、腕を伸ばして髪を掴む。
引きずりあげた。ハリィデールのかすむ視界に、不死王の青黒い残忍そうな顔が広がった。
不死王は、首をわずかに後ろに引いてから、おのが冑をハリィデールの額に叩きつけた。
鮮血が、ほとばしった。ハリィデールの額が割れ、顔面が真っ赤になった。血は鼻から顎をつたい、胸も腹も赤く染めあげていく。
ハリィデールは崩れるように倒れた。仰向けに転がり、小刻みに痙攣する。
不死王が来た。もう一度髪を掴み、引き起こそうとする。
その瞬間をハリィデールは捉《とら》えた。
残る力のすべてを振り絞って素早く立ち上がり、不死王の背後にまわった。
腰に両腕を巻きつけ、そのまま上に引き上げて背筋をそらす。
後方に投げ捨てた。
スカイハイトは、もろに脳天から床に叩きつけられた。
しかし、ハリィデールも背中と肩をしたたかに打ちつけていた。
すぐには起きあがれない。
這うようにからだを起こし、ふらふらと立った。首をめぐらすと、正面にスカイハイトがいる。向こうもいま、ようやく立ち上がったのだ。
不死王の腕が伸びてきた。ハリィデールは、それを払いたいが、肩から二の腕が痺《しび》れて自由にならない。
首を掴まれた。僧帽筋《そうぼうきん》にあたるところだ。両の手で、思いきり絞めあげてくる。親指が喉仏を押さえていて、呼吸ができない。
足が浮いた。スカイハイトはハリィデールを絞めあげたまま頭上高く差し上げようとしている。ハリィデールは足を振って暴れるが、不死王は意に介さない。かえってハリィデールの首がひどく締まる。
意識が遠くなった。泡を吹いているのがわかる。力が萎え、目がかすむ。耳鳴りがはじまった。苦しい。――いや、そんなことはない。逆に気分がいい。からだが軽く、空に浮かんでいるようだ。どんどん楽になっていく。
悲鳴があがった。
首を絞めていた力が、ふっと緩んだ。それだけで意識が戻ってきた。
ぼんやりと何かが見える。スカイハイトだ。大きく口を開けている。首を曲げ、後ろを見ようとしている。
スカイハイトの背後に、ウルスラがいた。ウルスラは穂先を砕かれたグングニールの槍を手にしていた。槍の柄は赤く灼け、炎をなびかせている。
その槍の柄が、不死王の背中に喰いこんでいた。不死王のからだを鎧っているのはくろがねの甲冑だ。穂先がなくとも、灼熱したグングニールならば灼き貫ける。ウルスラは、それをやってのけたのだ。
不死王は唸りをあげ、ハリィデールを掴んでいた手を離した。離して、体をひねった。ハリィデールは床に落下し、くずおれた。
ウルスラが飛んだ。不死王に弾き飛ばされたのだ。不死王はグングニールの柄を握り、引き抜いた。裂け目から、どろりとした油と、からくりの仕掛けがこぼれ落ちた。
それをハリィデールは、朦朧とした目で見た。
――では、不死王も人ではない。
ハリィデールは身を起こそうとして床をまさぐった。その手が、何か硬いものに触れた。取りあげてみると、それは黒の魔剣だった。
魔剣を床に突き立て、ハリィデールは立ち上がった。スカイハイトは膝をつき、傷口をおさえて喘いでいる。
ハリィデールは不死王のすぐ横に進んだ。
「スカイハイト」
声をかけた。不死王は振り仰ぎ、ハリィデールを見た。魔剣が、その頭上で燦《きらめ》いている。
「運命《さだめ》は同じよ」
不死王は口の端を歪め、静かにつぶやいた。
ハリィデールが魔剣を振りおろした。
不死王の首が飛んだ。
血はでなかった。油が噴出し、からくりの仕掛けがそれに混じっていた。
ハリィデールは凝然と立ちつくした。不死王の最後の言葉が胸に響いた。
運命《さだめ》は同じ。たしかに、そう言った。
「ハリィデール!」
ウルスラが美獣を呼んだ。ウルスラはばらばらになった鉄甲兵の残骸の中に落ちていた。そこから這いだそうとして、ウルスラはもがいた。
動けなかった。残骸が、彼女を掴んでいた。腕も足も腰も、完全に押さえられていた。
「ハリィデール!」
もう一度、呼んだ。今度は助けを呼ぶ声だった。
ハリィデールが手を貸しに行こうとした。その足が、凍りついたように止まった。
ウルスラとハリィデールとの間に誰かがいる。つい今しがたまで誰もいなかった場所に――。
男だ。小柄な、子供のような体格の男だ。
「お前は」
ハリィデールは唖然としている。言葉を失い、指だけを突きだした。
「ふがいない。実にふがいない」
男はかぶりを振り、ぼやくように独り言を言った。
「ビットン!」
ウルスラが、その名を叫んだ。
「会いたくなかったのう。こんなふうに」ビットンはウルスラに目をやった。
「まったくふがいなきは鉄甲兵に不死王よ。せっかく生を与えられたというのに務めの一つもまともには果せない。お蔭で、わしの出番じゃ」
「ビットン、あなた……」
「ウルスラ、いやオーディンと呼んだ方がいいかな」ビットンは言った。
「油断したな。こちらは不死王でおしまいではない。わしがおったのじゃよ」
「ビットン、お前は何ものだ? なぜ、ここにいる?」
ハリィデールが訊いた。
「素朴な質問じゃな」ビットンは美獣に向き直った。
「渦中の人物が、かえって何も知らされていない。よくあることだが」
「なんだと?」
「旅は終わりではないのだよ、ハリィデール」ビットンは言を継いだ。
「それどころか、これからあらたな本当の旅がはじまるのだ」
「そんなことはさせないわ!」
ウルスラが毒づいた。
「身動きもできんのに無茶を言ったらいかんな」
ビットンは嗤《わら》った。
「氷の女王とは誰だ?」
ハリィデールが訊いた。
「ムーラーか。ヨツンヘイムの至上神だ」
「ラガナとは?」
重ねて訊いた。
「ラグナロクのことだろう。ヘニングリートは舌が回らなかったようだ。神々の黄昏。神もいつかは死を迎えるのだ。ムーラーのように」
「氷の女王は死んだのか?」
「だから、お前の旅がはじまった。ムーラーが生みだしたお前とミッドガルドを奪いあって、オーディンとグーレガーマのだましだまされてのしのぎの削り合いだ。ちなみに教えておこう。お前の記憶を消してグエナートの村に放りだしたのはオーディンだぞ」
「耳を貸しちゃだめ!」ウルスラが言った。
「ビットンはでたらめを言っているわ!」
「でたらめかどうかは、いずれわかる」
「もう一度訊く。お前はいったい誰なのだ?」
ハリィデールはビットンを睨み据えた。
「怖い顔をするな」ビットンは言った。
「わしは太陽王の使い魔だ」
「太陽王?」
「グーレガーマのことだ。ニフルヘイムの至上神じゃよ」
「連れていく気ね。ニフルヘイムに!」
ウルスラが喚いた。
「ゲームは新しい局面にはいるのさ」ビットンは肩をそびやかした。
「今度は、グーレガーマが先手を貰う」
「俺は、どこにも行かないぞ」ハリィデールは魔剣を構えた。
「ヴォーダンに帰るのだ」
「それは、できない」ビットンは、かぶりを振った。
「ここをどこだと思っている。ここは、ユグドラシルの中だ。根はニフルヘイムにつづいている。すでに地獄に来ているのだよ」
「ユグドラシル」
ハリィデールは周囲を見回した。
「はいってすぐに気がつかなかったかな。生命の気配に。からくりだらけのこの中で、本当に生きていたのは、摩天楼自身だったのだ」
「貴様」
「だまし、だまされと言っただろう。これはゲームだ。手駒は逆らえない」
ビットンの声が、すうっと遠くなった。ハリィデールは、からだが浮遊する感覚をおぼえた。足もとを見ると、床が消えていた。浮いている。いや。それとも落ちているのか。ウルスラの姿が頭の上に見える。ぐるぐる回り、移動している。
ウルスラの絶叫がほとばしった。
「太陽王を殺すのよ! それしかないわ! それが、あなたの新たな使命よ!」
そして、闇が訪れた。
ギンナルがベシラにはいった。
戻らぬときは、春に軍勢を集めろとハリィデールに言われていたが、ギンナルは結局その命令に従わなかった。
ハリィデールが黒灰色の雲の彼方に消えてからちょうど一と月後に、ギンナルは精鋭二十余人を引きつれて、イミールの翼を越えた。春が近いとはいえ、翼越えは想像を絶する苦難の連続であった。しかし、多大な犠牲を払いながらも、ギンナルはそれをやり遂げた。
タイローンは国家の体をなしていなかった。旅の途中で、ギンナルはベシラの火災と摩天楼の消失の噂を聞いた。
噂は事実だった。
ベシラは黒く焼けただれた無人の都になっており、天を摩して聳え立つといわれた楼閣は、どこにもなかった。
ギンナルは廃城と化した街路を抜け、まちの中心に向かった。
そこに摩天楼があったと思われる広大な空地があった。その真ん中に、ジュバルがいた。粗末な小屋を立て、腰をおろしていた。
「ジュバル!」
ギンナルは黒小人のもとに駆け寄り、その肩を掴んだ。
「ギンナル、お前……」
呆《ほう》けたように坐りこんでいた黒小人は、ややあってグルスノルンの筆頭大臣の顔を認めた。
「何があった? 美獣王は、どうなされた?」
ギンナルは矢継ぎ早に質問を発した。しかし、ジュバルは、その問いに何ひとつ答えることができなかった。
「なにしてるの、おじさん?」
少女が一人やってきた。十二、三歳くらいの美しい少女だった。
「ウルスラだ」ジュバルはギンナルに少女を紹介した。
「ハリィデールと最後まで一緒にいた。だが、何も聞けない。彼女は何も覚えてはいないのだ」
「美獣王は、亡くなられたのだろうか」
がっかりしたようにギンナルはあたりを見渡し、ぽつりとつぶやいた。
「そんなことはない」ジュバルは強くかぶりを振った。
「あの男が死ぬはずがない! きっと帰ってくる!」
「いつだ。それは」
ギンナルは黒小人を凝視した。
「ラグナロク」ジュバルは言った。
「神々の黄昏に、美獣は帰ってくる」
その年の春。
ギンナルは即位した。
傴背王ギンナル。
盗っ人あがりの小男が、ミッドガルドを統《す》べる王となったのである。
解説
田中 光二
ヒロイック・ファンタジーが、一名“剣と魔法の物語”と呼ばれていることはよく知られている。
だがわたしはそれに肉体もつけくわえたい。つまり、ヒロイック・ファンタジーとは、“剣と魔法と肉体の物語”なのである。
そして、そういった物語りを書くためには、作者自身も、かがやかしい肉体をそなえていなければならない。
逆説的にいえば、すべての小説というものは、肉体で書くものである。とくにアクション小説はそうだ。ひとつのアクション・シーンを書くためには、それをじっさいにおこなっていると同様のエネルギーを必要とする。
わたしが見たところ、日本のSF作家において、ヒロイック・ファンタジーを書くのにもっともふさわしい肉体をそなえている作家は、高千穂遙である。
ボディビルで鍛えたまことにすばらしい肉体の持ち主である。車を運転したことのない者がドライブ・シーンを書いても嘘になるように、たくましい肉体を持たない者が、筋肉の躍動を描いても、しょせん絵空事にしかならない。
小説というものは、そんなに甘いものではない。身銭を切らなければ、読者を納得させることは出来ないのだ。
この“美獣”のなかにもしばしばボディビル用語が出て来て、いささかミスマッチの感じを与えないではないが、作者にとってはつい出てしまった本音なのである。小説というものは、こうして作者の本音がときどき交ざるから、面白くなる。
ヒロイック・ファンタジーは、冒険小説でもあるから、登場人物と環境との葛藤がなければならない。
だから作者がヒロイック・ファンタジーを書くに当たって、北欧神話を下敷きにしたのは、まことに当を得たことといわねばならない。
ツンドラやラップランドを思わせるモノクロームの荒涼たる世界。筋肉が躍動するに当たり、これほど素晴しい世界はない。……なぜなら、真っ赤な血のいろ、そして人間や神々のなまなましい情念が、これほど映える世界はないからである。
いや、作者は、この舞台装置をまず設定してから、ストーリーの構築をおこなったのではなかろう。最初から、自分なりの北欧神話を描きたいと念じていたふしがある。
その年来の情熱がこめられているからこそ、ハリィデールの活躍はパワフルで、熱気にみちている。
ヒロイック・ファンタジーのヒーローは、スーパーな戦闘マシンであると同時に、どこか人間的な要素を持っていなければならない。そうでないと読者が感情移入しにくいからだが、わがハリィデールは、どちらかといえば、最初はメカニカルなサイボーグに近い。むしろ無気味な感じがする。
しかし、物語りが進行するにつれ、ハリィデールの旅は自己回復……自分は何者であるかという、アイデンティティーの回復の旅であることが分かって、次第に感情移入していくのだが、しかもなお、戦闘マシンであるという本分はうしなっていない。
これは作者があくまでも、肉体にこだわっているためであって、そこがストーリー優先の軟弱なヒロイック・ファンタジーとはちがうところである。
作者はむしろ、ハリィデールと敵との殺陣《たて》を描きたいがために、ストーリーを誘導しているふしがある。……ここがこの小説の長所であり欠点といえるかも知れない。
最高のヒロイック・ファンタジーと目され、多くの作家が手本としているハワードのコナン・シリーズでも、これほど戦闘場面にはこだわっていないし、書き込んでもいない。
この作品で流される血、飛び散るはらわたのなんとおびただしいことよ!
ほとんど、スプラッタ・ノベルといっていいほどだ。
“美獣”という小説を展開するにあたって、これほどの流血が必要なのかどうか、わたしには分からない。それは作者の内部にひそむデーモンが決めることであり、どの作家も魂の奥底にデーモンを抱いているものなのである。
だからこの作品は、高千穂遙という作家のデモニッシュなるものの発現なのかも知れない。……しかし、作家の念のこもらぬ小説は、いかなる感動ももたらさない。この小説を読みおえたときに感じるなんともいいがたい荒涼としたカタルシスは、やはり作家の魂が込められているからである。
その意味では、これは第一級の小説といえるだろう。
集英社文庫
1988年5月25日 第一版 (文庫版)