妖怪アパートの幽雅な日常H
香月日輪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)涼風《りょうふう》故人|来《きた》る
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)それだけじゃない[#「それだけじゃない」に傍点]
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〈帯〉
活字力全開の人気シリーズ
夏休みの大事件を乗り越えた夕士。
未来を見つめる高3の秋!
〈カバー〉
高校最後の文化祭、出し物は男子学生服喫茶に決まり、盛り上がる3−C。一方、自分のノートに書かれた悪口を見つけた夕士は、クラスメイトの心の闇を知る。学校裏サイトにも不穏な空気が……。
生身の人間を救うのは、
やっぱり生身の人間でないと。
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妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常H
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常H
香月日輪
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涼風《りょうふう》故人|来《きた》る
秋―――。
青空を埋《う》め尽《つ》くすいわし雲を見て、
「うまそうだ」
と、思った。
秋といえば食欲の秋の俺《おれ》―――、稲葉夕士《いなばゆうし》。条東《じょうとう》商業高校の三年生。
「高校もあとちょっとだなぁ」
中一の時両親を亡《な》くした俺は、商業高校で勉強し、卒業後すぐに就職して早く大人になる……という目標を、ちょっと軌道《きどう》修正した。
社会に出るのに、もう少しだけ遠回りしてみようと思ったんだ。旅行したり、映画を見たり本を読んだり、いろんな人と出会ったりしたい。生活の役に立たなくても、何か専門的な勉強をして脳みそを刺激《しげき》したい―――俺は、大学へ行って民俗学《みんぞくがく》を学ぼうと決めた。この夏は、それまでのバイトバイトの夏じゃなく、進学のための講習講習の夏だった。
「ま、それだけじゃない[#「それだけじゃない」に傍点]夏だったけどな」
と、俺はため息をついて肩をすくめる。
「又十郎《またじゅうろう》さんから、松茸《まつたけ》が届いたよー」
大きな笊《ざる》に山盛りの松茸を抱《かか》えて、詩人が居間に入ってきた。
「待ってました!」
「今日は松茸でスキヤキ―――!」
居間にたむろっていた不良大人どもから歓声《かんせい》が上がる。
両親を亡《な》くした俺が一人暮らしをする、ここ、寿荘《ことぶきそう》、通称《つうしょう》「妖怪《ようかい》アパート」は、正真正銘《しょうしんしょうめい》本物の幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》が巣食う場所だ。
大家さんは黒坊主《くろぼうず》。賄《まかな》いさんは手首だけの幽霊。人間に化けて会社勤めをしている妖怪。その他、妖精、精霊、わけのわからないモノ多数。それに負けじと人間たちも、次元を行き来する商売人とか高位の霊能力者とか、ホントに人間かどうか怪《あや》しい奴《やつ》らばっかりだ。
俺は、ここに運命に導かれてやってきた(と、今は思う)。普通《ふつう》の人間として普通に暮らしたいと思っていた俺が、今や二十二|匹《ひき》の妖魔《ようま》を封《ふう》じこめた魔道書『小《プチ》ヒエロゾイコン』の主《あるじ》に(つまり魔道士に)なってしまったからだ。
まったく、運命ってやつはわからない。
ある日|突然《とつぜん》人の目の前に舞《ま》いおりてきて「さ、今日からこうだから」みたいに、それまでの生活も価値観も変えてしまう。それに対応するのは大変だ。
でも、この妖怪アパートはそんな俺に、
「まあ、ボチボチやれよ」と、
「なんてことないから」と、言ってくれた。そして―――
君の人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜《ぬ》いていこう
と、教えてくれた。
その教えどおり、俺は肩《かた》の力を抜《ぬ》いて自分を見つめなおし、自分の本当にやりたいことをやろうと考えることができたんだ。
「でっかい松茸《まつたけ》だネー。食いでがあるよ、コリャ」
子どものラクガキのような顔で喜ぶ、一色黎明《いっしきれいめい》詩人。人間(多分)。
「又十郎さんの山には、こんなのがゴロゴロあるんだろうなぁ」
舌なめずりの古本屋。魔道書《まどうしょ》『|七賢人の書《セブンセイジ》』の|魔書使い《ブックマスター》。俺の先輩[#「先輩」に傍点]。人間(多分)。又十郎さんとは、熊野《くまの》の山奥《やまおく》の隠《かく》れ里《ざと》に住むマタギで、一つ目の巨人《きょじん》である。アパートのお馴染《なじ》みさん。
「るり子! メインはスキヤキで頼《たの》むぜ。あと、土瓶蒸《どびんむ》しな」
流離《さすらい》のヤンキー画家、深瀬明《ふかせあきら》。人間。
超絶《ちょうぜつ》天才料理人のるり子さんが、手首だけのその細く白い指をもじもじとからませる。腕《うで》が鳴る……いや、指が鳴るのか。
妖怪《ようかい》アパートには、こうやって四季折々の旬《しゅん》のものが、あちこちにいる妖怪たちやアパートに縁《ゆかり》の者たちからたくさん届けられる。ピカピカの旬《しゅん》の素材を、るり子さんが宝石のような作品に作り上げて、俺たちはそれを日々|堪能《たんのう》できるというわけだ。
「今日来ててラッキーだ」
そう言って笑うのは、俺の親友、長谷泉貴《はせみずき》。人間。小学生の頃《ころ》からの付き合いで、両親を亡《な》くしてやさぐれる俺を見捨てずに支え続けてきてくれた、たった一人の友。金持ちで頭脳|明晰《めいせき》、ついでに容姿|端麗《たんれい》の長谷は、今は都内の超《ちょう》一流進学校へ通っているために毎日は会えないが、妖怪《ようかい》アパートのことも俺の事情もすべて承知してくれている。それとは別に、長谷はこのアパートがすっかり気に入っていて、休みにはバイクを飛ばして泊《と》まりに来たりするんだ。
その長谷の膝《ひざ》には、特にお気に入りのクリが、ちょんと乗っている。クリは二|歳《さい》ぐらいの男の子の幽霊《ゆうれい》。親に虐待《ぎゃくたい》されて殺された。今はこのアパートで、皆《みな》に可愛《かわい》がられながら成仏《じょうぶつ》するのを待っている。傍《かたわ》らには白い犬のシロが寄《よ》り添《そ》っている。シロはクリの育ての親である。
というわけで、本日の妖怪アパートの夕食は、「極上《ごくじょう》牛肉とたっぷり松茸《まつたけ》のスキヤキ」。ボリューム満点!
「白飯に合うー! たまらーん!!」
俺は、白飯片手にガツガツかきこんだ。松茸をかきこめる贅沢《ぜいたく》。これも妖怪アパートならではだ。タレのしみこんだ牛肉の旨《うま》みに、舌がとろけそうになる。松茸《まつたけ》の香《かお》りが、ふっと鼻へ抜《ぬ》けてゆく瞬間《しゅんかん》、ああ、秋だなぁと感じた。
「これ、特に特上の肉ってわけじゃないんだろ!?」
舌の肥えた長谷には、そうだとわかるらしい。俺にはサッパリ。
「でも、なんなんだ、このやわらかさとうまさは」
「そこがまぁ、るり子さんマジックというやつだな」
「下ごしらえの技《わざ》なんだろうなぁ」
「中途半端《ちゅうとはんぱ》にいい肉って、すぐに飽《あ》きるからなぁ」
と、中途半端にいい肉しか食ったことのない俺は言った。その点、るり子さんの出してくれる肉はうまいし飽きないし、言うことはない。食いすぎに要注意だ。
大人どもは、いつものようにビールだ日本酒だと盛り上がる。刻んだ長芋《ながいも》と牡蠣《かき》を小麦粉でつないで蒸《む》し焼《や》きにした「長芋と牡蠣のとろろ焼き」に日本酒。
「サイコー!」
大根、人参《にんじん》、絹さやをどっさりとのせたシャケに、ワイン、ビネガー、フレンチマスタードなどから作る特製ソースをかけた「シャケと秋野菜の秋色ソース」にビール。
「これもサイコー!」
要するに、うまけりゃなんでもいい大人どもと親友と、今夜もいろんなことをしゃべり合い、笑い合い、俺の一日は過ぎてゆく。サイコーです。
いつまで続くか不明な宴会《えんかい》を抜《ぬ》けて、長谷とクリとともに部屋へ帰り、布団《ふとん》に寝転《ねころ》がって文化祭の話などしていた。
「ご機嫌《きげん》うるわしゅう、ご主人様、長谷様」
『小《プチ》ヒエロゾイコン』の上に、身長十五センチほどの小人が現れた。「プチ」の案内人「0《ニュリウス》のフール」だ。魔道士《まどうし》に使役《しえき》される魔物とはいえ、どこかズレた、たいして役に立たない「プチ」の妖《あや》かしたちの、こいつもやっぱりどこかズレた元締《もとじ》めである。フールはおおげさにお辞儀《じぎ》をして言った。
「秋の夜長に、ケット・シーが語る冒険譚《ぼうけんたん》などいかがでございましょうか?」
「どうせ全部ホラだろ」
俺と長谷は大笑いした。ケット・シーは、「長靴《ながぐつ》をはいた猫《ねこ》」で有名な、機知に富んだ猫王の眷属《けんぞく》だ。……が、「プチ」に入っているこの化け猫は、ホラばっかり吹《ふ》いている、やる気のまったくない奴《やつ》である。
「……ま、確かにホラは吹《ふ》きますが」
フールは、コホンと咳払《せきばら》いした。
「ぶっちゃけホラ話でも、面白《おもしろ》ければそれでよろしいではありませんか!」
「開き直りやがった」
俺たちは、また大笑いした。
「プチ」の「|]U《12》」のページから放たれた放電が畳《たたみ》にドンと落ち、そこに煙管《キセル》をくわえてダランと寝《ね》そべった猫《ねこ》が現れた。猫は、煙管の煙《けむり》をフーッと大きく吐《は》くと、おもむろに語り始めた。
「俺が海賊《かいぞく》だった頃《ころ》……」
海賊!? 長谷は、もうそこで吹き出した。
それからケット・シーが語った物語は、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』と『インディ・ジョーンズ』をごっちゃにしたようなものだった。そのでたらめぶりは面白かったよ。うん。
さて、そろそろ寝ようかという時に、古本屋がやってきた。奇書《きしょ》、珍本《ちんぽん》を求めて世界を西東。時にはジャングルで、はたまたアンデスの山奥《やまおく》で、インディ・ジョーンズばりの冒険《ぼうけん》もする武闘派《ぶとうは》商売人。その武器は、七人の魔道士《まどうし》の力を封《ふう》じているという『|七賢人の書《セブンセイジ》』だ。
「何か面白《おもしろ》そうな本があったら見せてくれって頼《たの》んでたんだ」
と、長谷が言った。
「おまたせ〜」
やや千鳥足でトランクを提《さ》げてくると、古本屋はそれを畳《たたみ》の上で開いた。りっぱな装丁《そうてい》の本からペーパーバックまで、さまざまな形の本が詰《つ》めこまれている。かつて「プチ」もここに入っていたんだ。
「夕士にオススメ、ダーウィンの『植物の園』〜」
「ダーウィンって、あのダーウィン?」
「あのダーウィンのじいちゃん。リンネの植物学を、なんと詩でもって表現した奇書《きしょ》!」
「植物学を詩で表現?」
俺たちは、身を乗り出して本を覗《のぞ》きこんだ。
「それぞれの花の雄《お》しべや雌《め》しべの様子を、天使や女神《めがみ》に置きかえて物語として表現してるんだ。でもれっきとした植物学の本だから、植物学的見地から解説した注釈《ちゅうしゃく》もあるわけ。読み比べると面白いぞ〜」
「へ〜〜〜!」
俺は本を手に取り、ページをめくった。
「お前には何がいいかな〜、長谷? 疑似《ぎじ》科学なんてどうだ? ウィリアム・リード『地球|空洞説《くうどうせつ》』。現代不思議現象の古典、フォートの『見よ!』。フォートの解説がちょっと暑苦しいけど、現象そのものはすべて本当に起きたことを記録してる」
「あ、フォートの名前は聞いたことがあります」
長谷はその本に決めたようだ。
すやすやと眠《ねむ》るクリをはさんで、寝《ね》そべって本のページを読むともなしにめくる。長谷のほうを見ると、目頭《めがしら》を押《お》さえていた。
「お疲《つか》れか?」
さっきまでは気づかなかったが、長谷の目元には薄《う》っすらと翳《かげ》が落ちていた。珍《めずら》しい。
「ん〜……」
長谷は、パタリと本を閉じた。
「クソ親父《おやじ》からの課題がうまくいかん」
「ふ〜ん」
長谷の親父《おやっ》さんは、超《ちょう》優良|大企業《だいきぎょう》で重役を務めるウルトラスーパービジネスマン。その息子《むすこ》である長谷を、ウルトラハイパービジネスマンに育てるべく、地獄《じごく》の修業《しゅぎょう》を課している。長谷は、いつも親父さんからの「宿題」を抱《かか》えている。それは、マーケティングとかマネジメントとか情報処理とか、そういうテクはもちろんだが、接待や立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》いやスーツの着こなしまでにも及《およ》ぶ。親父さん、長谷|慶二《けいじ》その人が「完璧《かんぺき》」だからだ。
親父さんは、時にランバンの、時に銀座《ぎんざ》サムライの高級スーツを着こなし、腕《うで》にはさり気《げ》に、スイス・エベル・スポーツの腕時計。ロレックスなんてダサい時計は、もちろんしない。長い足を組んで、イギリス煙草《たばこ》のソブラニー・ブラック・ロシアンを優雅《ゆうが》にくゆらす。オシャレでスマートで、とにかくカッコイイ。
ゆえに、銀座のオネーチャンたちにメチャクチャもてるんだが、ビジネスマンとしては、辣腕《らつわん》にして豪腕《ごうわん》、シビアでリアリスト。にっこり笑って巧《たく》みな話術で、ゴリ押《お》しゴリ押し、優《やさ》しく引いてまたゴリ押し。親父さんの前では、縦のものも自ら横になるというスゴ腕である。オヤジどもの間じゃ「カミソリ慶二」として恐《おそ》れられている(オヤジどもは、カミソリと形容するのが好きだよなぁ)。
さらに親父さんは、遊び人としても超一流だ。スポーツにしろ何にしろ、およそできないことはないぐらいの経験者で、話題も豊富。だから、どんな交渉《こうしょう》相手の懐《ふところ》にも、スパッと入っていけるんだ。一度、バカな商談相手が「私はスカイダイビングが趣味《しゅみ》で」と、意地悪で言ったところ「じゃあひとつ、来週にでも」と親父《おやっ》さんが返し、それが本気であるとわかったとたん、相手が「冗談《じょうだん》でした。かんべんしてください」と泣きを入れてきて、交渉の主導権を親父さんが完全に握《にぎ》ったなんてことがあったそうだ。ハイレベルのビジネスって、そんなプライベートなことでもなんでも、とにかく「弱み」を見せたらダメなんだよなぁ。
そんな親父さんに、どんな重い課題を課せられているのか想像もできないが、長谷がこれほど苦労しているなんて、相当なものなんだろう。
「親父《おやじ》の会社で実際に進められている企画《きかく》の分析《ぶんせき》だよ。分析はとうに親父がやってるんだが、俺にもやってみろってわけだ」
そう言われても、俺にはさっぱりわからない。だが、これだけはわかる。親父さんは、自分と同じ「完璧《かんぺき》」を長谷に求めている。
長谷は、できる奴《やつ》だ。才能も環境《かんきょう》も申し分ない。だからこそ、できて当たり前のプレッシャーを常に背負っている。それすらもエネルギーにするタフさも、親父さんから受《う》け継《つ》いでいるけども、誰《だれ》にも、俺にもわからないところでため息をつくこともあるんだろうな……。
できる奴《やつ》には、できる奴なりの苦労がある。
それを極力見せない長谷を見ていると、よくわかる。
「ここに来ると、どんな疲《つか》れも吹《ふ》っ飛《と》ぶよ」
俺の考えを見透《みす》かしたように、長谷が笑顔《えがお》で言った。
「……だな」
美しい秋の夜。夜空も透きとおっている。
群青《ぐんじょう》の夜空に七色の流れ星が降った。
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長谷一味
さて。秋も深まり、学校行事|目白押《めじろお》しの時期がやってきた。
俺の通う条東商でも、つい三日前に体育祭が終わったので、次は文化祭に向けて学校全体が準備にラストスパートをかける頃《ころ》だ。
「稲葉!」
長谷が、駅前にバイクで乗りつけてきた。
「乗れよ。行くぞ」
長谷は、笑顔《えがお》でメットを投げてよこした。
今日は、長谷の通う高校、北陽黎明《ほくようれいめい》の文化祭なんだ。去年は双方《そうほう》の日程が重なったんで行けなかったんだが、今年は北陽の文化祭がやけに早かったから(うちより二週間も早い)、長谷に招待された。
最寄《もよ》り駅《えき》まで迎《むか》えに来てくれた長谷のバイクに乗る。街の空気は爽《さわ》やかで、風を切《き》り裂《さ》いてバイクを飛ばすのは気持ちよかった。
北陽へは十分ほどで到着《とうちゃく》した。いかにも金持ちの私立校らしく、白亜《はくあ》の殿堂《でんどう》といった感じのモダンで重厚な建物。四角四面のなんの特徴《とくちょう》もない条東商《うち》とえらい違《ちが》いだ。
「そう言やあ、お前んちの文化祭をじっくり見んの初めてだ」
駐輪場《ちゅうりんじょう》でバイクをおりて、俺は言った。
「そうか? 一年の時は……」
「俺、バイトでさ。ちょっと顔出した程度だったから」
「ああ、そうか。そこらへんちょろっと回っただけだったな」
長谷はそう言ってから、まるで執事《しつじ》のようなお辞儀《じぎ》をした。
「では、今日はゆっくりとご案内いたしましょう。北陽黎明へようこそ」
「ハハハ」
北陽黎明は、全国からエリート学生が集まるエリート校。そんな高校の文化祭はというと……。
「やる気のあるのとないのと、極端《きょくたん》に分かれるな」
と、長谷は言う。生徒のほとんどが官僚《かんりょう》志望という超《ちょう》エリートたちの多くは、文化祭なんて時間の無駄《むだ》と考えているらしく、クラスごとの出し物もレポート発表だけだったり、やる気がみられない。が、中には奇抜《きばつ》なアイデアと統率力でクラスメイトをまとめる個性派がどの学年にも必ずいて、面白《おもしろ》い出し物をやらかしてくれるらしい。
「俺の学年にもそういう奴《やつ》がいてな、そいつのいるクラスは、一年の時は寄生虫のレポート発表、二年は演劇、今年はメイド喫茶《きっさ》をしてるよ」
「いいな、そいつ」
俺たちは笑い合った。ちなみに長谷のクラスはというと、『日本国歴代首相と経済の相関関係』というレポート発表らしい(結局見に行かなかった)。
「クラスの出し物に関《かか》わっているヒマがなかったもんでな。最後ぐらいちょっと変わったことをしてもよかったんだが」
と、本気かウソか不明な笑顔《えがお》で長谷は言う。
「その代わり、生徒会の出し物は、その面白い奴、後藤《ごとう》というんだが、そいつのプロデュースで、女装男装大会だ」
「ええ〜っ!? こんな真面目《まじめ》なエリート校で、女装男装大会!?」
「奇抜《きばつ》だろ!? でも、自薦《じせん》他薦を募《つの》ったらけっこう出場者が集まってな。最終日は盛り上がりそうだよ」
「お前も出んの? 推薦してやるぞ」
「ばぁか」
生徒会長である長谷は、どの企画《きかく》にも参加はしないという。ちょっと残念。というのも、長谷の姉貴の汀《みぎわ》さんは長谷とそっくりなんだが、すげぇ美人で……。きっと長谷も美女になれると思うんだが……なんてことを言うと殴《なぐ》られそうなのでやめておこう。
一部にくだけた奴《やつ》がいるとはいえ、勉学まっしぐらの超《ちょう》進学校の文化祭は、条東商と違《ちが》って模擬店《もぎてん》の数も少ない。うちには近隣《きんりん》から安い商品(野菜や中古の雑貨や服)を求めて、主婦や家族連れが多くやってくるが、北陽には大人の客がほとんどいなかった。その代わり多いのが、若い女の客だ。カメラを片手にした、北陽以外の女子の姿の、なんと多いことよ。
「男|漁《あさ》りに来てんだよ」
長谷は、バッサリとそう言い放った。なるほど、ここには将来を約束されたも同然な、金持ちの(ここが大事)男がわらわらいるわけで。それをゲットしようと、女子大生、女子高生、なかには女子中生も、ハンターのようなギラギラした目つきでウロついている。
「気持ちはわかるが、あさましいね」
サラリと爽《さわ》やかに言い捨てる長谷だが、
「すみませぇん。写真を撮《と》らせていただけますかぁ?」
女どもに声をかけられるたび、
「どうぞ。いいですよ」
と、笑顔《えがお》で応じるところが、さすがのソツのなさだ。さらに、
「あの、これ受け取ってください」
と、女どもから渡《わた》される携帯《けいたい》のメアド(中には住所の入った名刺《めいし》を渡すバカもいる)を、
「ありがとう」
と、快く受け取った十秒後に、惜《お》しげもなくゴミ箱に捨てるところが、ますますさすがである。男選びは慎重《しんちょう》にな、女どもよ!
クラスごとの出し物でもっとも多いレポート発表は、たまに『経済におけるオタクカルチャーの現在』なんて面白《おもしろ》いものがあったけど、大半が政治や経済、歴史といった堅《かた》いものだった。
「さすがといおうか……」
そういうクラスはサラーッと見ながら俺は唸《うな》った。
「文化祭なんて全然やる気ない企画《きかく》……とはいっても、さすがのレポートだよな」
理論的、実践的《じっせんてき》なレポートが並ぶ。棒グラフや円グラフがちりばめられている。それを熱心に見る大人もいた。
「こういうのは、みんな得意だからな。苦にならずできるのさ」
「むしろ、模擬店《もぎてん》や演劇のほうが苦になるってか」
「そういうことだ」
俺たちは笑った。
廊下《ろうか》を歩いていると、「会長」「会長」と、長谷に挨拶《あいさつ》する生徒がいる。男子生徒は尊敬をこめて、女生徒は憧《あこが》れをこめて。そういう長谷を見ると、なんだか身内をほめられているようでくすぐったい感じがする。このエリートどもの中で、長谷は四期連続生徒会長を務めるエリートの長なのだ。
「それも、あと少しだな」
さすがの長谷も感慨深《かんがいぶか》げだ。この文化祭が、長谷が会長を務める生徒会の最後の大仕事だからだ。俺もそうだが、二学期が終われば高校生活が終わるのも同然だ。もう三学期は、ほとんど登校することはない。
「楽しかったな」
俺がそう言うと、長谷は苦笑いした。
「お前はいろいろありすぎて、目が回ったんじゃねぇか?」
「―――たしかに」
俺のこの三年間は、普通《ふつう》の奴《やつ》の三十年間ぐらいには相当するだろう。怒濤《どとう》、怒濤、怒濤の三年だった。
件《くだん》のメイド喫茶《きっさ》で、コーヒーを飲むことにした。
「よー、長谷」
可愛《かわい》いメイドたちにまじって、野太い声のメイドが声をかけてきた。
「後藤! 何やってんだ、お前!」
長谷は大笑いした。
「言い出しっぺの俺が率先してやらないと、示しがつかんだろうが?」
意外と似合うメイド姿で、そいつはスカートの裾《すそ》を両手で持って可愛らしくお辞儀《じぎ》をした。
「稲葉、こいつが変人の後藤|芳樹《よしき》だ。後藤、こっちは俺の幼なじみの稲葉夕士。条東商に行ってる」
俺は後藤と握手《あくしゅ》した。
「よろしく〜」
「似合うな」
俺がほめると、後藤はウィンクした。
「だろ? けっこう評判なんだぜ、メイド喫茶《きっさ》。うちの文化祭は地味だからなぁ。見るとこあんまりないだろ」
「ハハ、まぁな」
「条東商の文化祭は、模擬店《もぎてん》がいっぱい出て楽しいんだってな。さすが商業高校だ」
「二週間後だから、遊びに来いよ」
俺たちはコーヒーを飲みながら、ひとしきりしゃべった。
後藤は、もちろん頭もいいしエリートなんだろうが、それだけじゃない「知恵《ちえ》のある奴《やつ》」なんだとわかる。なるほど、長谷が気に入りそうだ。もうこいつは、取りこみ済み[#「取りこみ済み」に傍点]なんだろうか。
北陽の文化祭は、あっという間に見て回れてしまったので、長谷は次に面白《おもしろ》いとこへ案内してやると言って、バイクを飛ばした。
駅前にバイクを止め、駅裏のごちゃごちゃした飲み屋横丁へ入ってゆく。その片隅《かたすみ》に古ぼけた喫茶店《きっさてん》があった。入り口に、茶髪《ちゃぱつ》に鼻ピアスの野郎《やろう》が二人立っている。どこからどう見ても地回りのチンピラに見えるが、学生ズボンをはいているところを見ると高校生のようだ。長谷が店に入ろうとすると、チンピラはドンと長谷を突《つ》きとばした。
「貸し切りだ。入ってくんな」
もう一人が忌々《いまいま》しげに言った。
「ここらへんウロウロすんな。ボコんぞ」
こいつらからすりゃあ、俺と長谷なんかはいかにも「カタギの学生」に見えるだろう。奴《やつ》らは、それが気に食わない。自分らがカタギでいられない[#「カタギでいられない」に傍点]ことが気に食わないんだ。
長谷は、軽く鼻で笑ってから大声で店内へ呼びかけた。
「北城《きたじょう》! いるんだろ、北城!」
チンピラ二人は、血相変えて長谷につかみかかった。
「てンめ……、ナニ呼び捨てにしてんだ、ゴルァ!」
「殺すぞ!」
飛んできたパンチを、長谷はサラッとかわす。
店から別の奴《やつ》が出てきた。
「手を離《はな》せ、お前ら!」
そう怒鳴《どな》られて、長谷に詰《つ》め寄《よ》っていたチンピラ二人はギョッとした。
「よう、白川《しらかわ》」
長谷が声をかけると、そいつはお辞儀《じぎ》をした。
「お久しぶりっす、長谷さん」
「今日あたり、ここにいるんじゃないかと思ってな。俺も時間があったんで寄ってみた」
「ドンピシャっす。ちょうど、長谷さんに電話しようかと言ってたとこで」
「そりゃ、タイミングがよかったな。今日はダチも一緒《いっしょ》なんだ」
「どうぞ入ってください」
俺たちは、店内へ招き入れられた。チンピラ二人が、ポッカ――ンとしているのがおかしかった。
喫茶店《きっさてん》の中は薄暗《うすぐら》く、もうもうと煙草《たばこ》の煙《けむり》がたちこめていた。
「おい、窓を開けろ」
白川が命令した。擦《す》りきれたソファにダラダラ座《すわ》っていた連中が、サッと立って窓を開けた。たむろっているのは二十人ぐらい。服装にバラつきはあるが、全員同じぐらいの年頃《としごろ》(老《ふ》けたツラの奴《やつ》はいるが)。ふてぶてしい面構《つらがま》えと態度で、いかにも「不良です」「チンピラです」といった感じの連中だ。
その一番|奥《おく》に、どっかりと座った大柄《おおがら》な男がいた。短く刈《か》りこんだ髪《かみ》、私服で、顎鬚《あごひげ》を生やした強面《こわもて》だった。
(こいつが大将≠ゥ)
テーブルの上には吸《す》い殻《がら》の山とコーヒー、その横にはブランデーの瓶《びん》。そしてなぜかブ厚い本―――。
(英和辞典!?)
男は、雑誌を睨《にら》んだまま言った。
「オー、長谷。いいところへ来た。座れよ」
手下どもが立ったままの間を、長谷が悠々《ゆうゆう》と進む。俺はその後についていった。長谷を知っている者は「ちわス」と声をかけてきた。知らない者は「何者だ、こいつ?」という顔をしている。
「久しぶりだな、北城」
長谷は、大将北城の横に腰《こし》を下ろした。俺は白川にうながされてその向かいに、白川が俺の横に座《すわ》った。ここでようやく他《ほか》の奴《やつ》らも着席した。すぐにコーヒーが運ばれてきた。
「お前に訊《き》きてぇことがあってよォ」
煙草《たばこ》をふかしながら、北城が言った。
この男は長谷の「仲間」――「長谷一味」の一人なんだろう。俺は、メンバー[#「メンバー」に傍点]に初めて会う。
「なんだ?」
「これ、ここの一問がわからねぇ」
そう言ってから北城が長谷に見せたもの……それは、クロスワードパズルだった。しかも、
(英語!?)
俺は、内心|驚《おどろ》いた。およそこのチンピラな外見からは想像もできない、北城の趣味《しゅみ》は英語のクロスワードパズルだった。英語の辞書はこのためか。
「どれどれ」
長谷が紙面を読む。
「難しいのやってるなぁ」
長谷にそう言われて、北城はヒヒヒと得意げに笑った。
「その問題はよぉ、なんかアザラシの腹がなんとかって……。鳥を発酵《はっこう》? 食べるとか?」
「ああ」
長谷はうなずいた。
「キビヤックだ」
「キビヤック? なんだそりゃ?」
「イヌイット族の伝統料理だ。アザラシの腹の中に鳥をつめて発酵させた漬物《つけもの》だよ」
北城以下、その場にいた奴《やつ》らが「お〜」と感心した。北城は、顎鬚《あごひげ》をこすりながら言った。
「お前、よくそんなことを知ってるなぁ」
「世界三大|臭《くさ》い食い物の一つさ。けっこう有名だぞ」
長谷は屈託《くったく》なく笑う。
「待ってろ。今、スペルを調べる」
と言うと、長谷は携帯《けいたい》を取り出した。
最後のマスに答えをあてはめると、パズルは完成した。
「答えは『POWER BALANCE』だ。やっとできたぜー!」
北城が嬉《うれ》しそうにパズルを掲《かか》げると、手下どもから拍手《はくしゅ》が起こった。笑い合う長谷と北城は、見た目がチンピラとオボッチャンというわかりやすい両極端《りょうきょくたん》であるがゆえに、とても奇妙《きみょう》だった。
「北城、俺のダチの稲葉だ。稲葉、北城は条南《じょうなん》の三年で、ここらへんの若いチンピラたちのボスでな」
条南といえば、今も昔も不良の巣窟《そうくつ》として有名なとこだ。ヤクザがスカウトに来るという噂《うわさ》まである。
「お前にもカタギのダチがいるんだ、長谷。そりゃいるか!」
北城は、ガッハッハと笑った。
「稲葉は英語を勉強中だぞ、北城」
「おお、俺と一緒《いっしょ》だな、my friend. How long have you studied English? (どれぐらい英語を勉強してるんだ?)」
なんとも顔に似つかわしくない(と言っては失礼だが)流暢《りゅうちょう》なイントネーションで北城が質問してきたので、俺は一瞬《いっしゅん》言葉を呑《の》んだ。
「あ、お…… Only three years. Since I was admitted to a highschool. (まだ三年。高校へ入学した時からだ)」
「I see. Same as I. (そうか。俺も同じだ)」
「おー」っと、また手下どもから歓声《かんせい》が上がる。長谷が笑っていた。
「北城のことは、こいつと同じ英会話学校に行ってた知人から聞いたんだ。ヤクザが英会話を習いに来てるってな」
「ガハハハ!」
北城は、やはり親が組関係[#「組関係」に傍点]の仕事をしていた。といっても、北城自身は、親に似て腕《うで》っぷしも強く度胸も満点、こうやってチンピラどもに慕《した》われてはいるものの、ヤクザになる気はなく、大学へ進学するつもりらしい。
北城は、長谷の肩《かた》を叩《たた》いて言った。
「こいつが初めてだぜ。ビビらずに俺に話しかけてきた奴《やつ》はヨ」
大好きな英会話を勉強しに行ったものの、北城の外見や態度にまわりはビビりまくりで、教師すらまともに相手をしてくれなかった。北城は、それでもずっと我慢《がまん》してきた。そこに長谷が現れたというわけだ。
『英会話なら、俺が教えてやるよ』
長谷は、知人から北城のことを聞いて「自分のメンバーになれるかも」と思ったんだ。そして北城は、長谷の、優男《やさおとこ》とは思えぬ図太い根性《こんじょう》に「ピンときた」という(いわゆる『ヤクザはヤクザ同士』ってやつだ)。俺は心の中で笑った。
北城は、長谷に英会話の基礎《きそ》を叩《たた》きこんでもらった。今は、独学で勉強を続けているという。
「こいつの、将来は自分らの大会社で世界を相手にビジネスするって夢が気に入ったぜ。そんときゃあ、俺も最前線で働くぜ」
北城は、チンピラな口許《くちもと》をほころばせた。
「この見かけで、英語ペラペラしゃべって外人相手にビジネスの話をする……。最高にクールだよ、北城」
「ガッハッハッハ!」
二人は大声で笑い合った。
そう―――。長谷は、ウルトラスーパービジネスマンの親父《おやっ》さんのもとで、ウルトラハイパービジネスマンになるべく修業中《しゅぎょうちゅう》である……が、その裏で、後藤のように「知恵《ちえ》のある個性派」や、北城のように「腕《うで》が立ち、頭もいい奴《やつ》」を集めて独自の組織作りをやっているんだ(北城タイプの奴《やつ》には、もれなくその手下どもがついてくる)。
その目的は、親父《おやっ》さんが重役を務める超《ちょう》優良|大企業《だいきぎょう》を乗っ取り、自分と仲間たちのものにしてしまうことだ。大会社の重役を父に、大物政治家の娘《むすめ》を母に持つ長谷は、表向きの人脈は万全だ。その一方で、裏で蠢《うごめ》いてくれる者たちのコネクションも着々と築いている。
ダチにして同志。長谷のためなら「なんでもやるぜ」と言ってくれる奴ら。
大企業の乗っ取りともなれば、正攻法《せいこうほう》の手ばかりでやれるとは思えない。あぶないことや……、あるいは汚《きたな》い手も使わなけりゃならないだろう。そうでなくても、世界を相手にするビジネスなんて、リスクの高い冒険《ぼうけん》のような仕事だ。
長谷は、いざとなったら「どんな手も使う」と腹をくくっている。長谷のそういう「覚悟《かくご》」が、北城のような男を動かす。「それは俺に任せておけ」と。
そういうタイプの仲間を……、今日俺は初めて目の前で見た。今はまだ高校生でも、こいつらが十年後、二十年後、実際に長谷の手足となって働くのだろう。
ゾクリと、鳥肌《とりはだ》が立つ思いがした。長谷の野望《ゆめ》が、リアルに感じられた。
長谷は、自分のこういう一面を今まで俺には見せないでいた。それは、俺がずっと「普通《ふつう》の社会人になる」と決めていたからだ。いや、それは今でも変わっていないが。長谷よりも、一足先に社会に出ることになっていたし。長谷はそんな俺を、そっとしておいて[#「そっとしておいて」に傍点]くれたんだ。『本当なら、俺の右腕《みぎうで》として傍《そば》におきたい』と、言われたことがある。だけど、長谷は自分の野望に俺を巻きこむことはしなかった。それが、長谷自身の心の平穏《へいおん》だと考えていたようだ。
今、長谷の野望の一部分に直接|触《ふ》れられて、俺は嬉《うれ》しかった。
「ちょっと見せておくのもいいかなと思ってな」
別《わか》れ際《ぎわ》、長谷はそう言った。
「プチ」という魔《ま》を背負い、普通《ふつう》の人間ではなくなったとはいえ、卒業後すぐに就職ではなく、大学に進学することにしたとはいえ、俺の目的は今も変わらず公務員か堅《かた》い会社でビジネスマンだ。それは、亡《な》き両親に捧《ささ》げる俺の親孝行なんだ。
―――でも。
長谷の右腕として、世界に挑戦《ちょうせん》する大会社で働く。そんな可能性もないわけじゃない。
可能性なんて、いくらでもあるからだ。
運命は、いつだってある日|突然《とつぜん》だからだ。
未来も、世界と同じく果てしなく広い―――。
「今日は面白《おもしろ》かったよ、長谷。北陽の文化祭はともかく、後藤と北城に会えて楽しかった」
俺は長谷に礼を言った。長谷はうなずいた。
「次はうちの文化祭に来いよな」
「千晶《ちあき》センセイにやっと会えるな。楽しみだ。紹介《しょうかい》してくれよ?」
「おう」
去ってゆく長谷の背中を見送る。不思議な感慨《かんがい》が胸に満ちた。
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[#挿絵(img/09_034.png)入る]
文化祭です
長谷に千晶を紹介《しょうかい》する。
前まではなんていうことなかったことだけど、今はもう深い意味を持ってしまった。
千晶|直巳《なおみ》は、条東商三年C組の俺の担任。二年の秋に赴任《ふにん》してきた。オールバックで貧血症《ひんけつしょう》で顔色が悪くて、でも歌が超人的《ちょうじんてき》にうまくて、前髪《まえがみ》を下ろして歌う時なんか、色気もオーラも出まくりの超個性派教師だ。こいつが来たおかげで、女子の多い条東商の雰囲気《ふんいき》というか空気が、すっかりピンク色に塗《ぬ》り替《か》えられてしまった。
ハンサムな男ってだけでもう人気者になるには充分《じゅうぶん》なのに(ハンサムな男性教師は他《ほか》にもいる。実は3−Cの副担任だってハンサムな男なんだ)、千晶はファッションモデル並みにオシャレで、金持ちで、それ以上に――何か不思議な人物だ。その言動に、とても深い「裏」がありそうで……。それが、女どもだけじゃなく、男どもをも惹《ひ》きつける力の秘密なんだろうと思う。
そんな千晶に、俺は俺の「裏」を告白した。
この夏休み、俺はクラスメイトや千晶と、宝石|強盗《ごうとう》事件に巻きこまれた。
千晶たちを守るため、俺は俺の「力」を使うかどうか迷い―――、千晶の目の前で使ったんだ。
千晶はそのことについて、その時は何も言わなかった。だからこそ、俺はあらためて千晶に話そうと思ったんだ。俺の授《さず》かった『小《プチ》ヒエロゾイコン』という力のことを。
その時、千晶は俺の顔を両手で包んで言った。
『特別な力があるからといって、お前の身体や命の価値に、他人とどんな差があるというんだ』と。それは、長谷が俺に言った、
『思いもかけない力を授かったけど、その力と折り合いをつけながら、等身大の人間でいてくれよ。これからもずっと……。何が起きても……』
という言葉と同じ意味だった。
「特殊《とくしゅ》」であっても「普通《ふつう》」でいい。
「特殊」であっても、「普通」であってもいい。
それは、千晶にも、長谷にも、妖怪《ようかい》アパートの住人たちにも言えることだった。俺が、一番大切にしなければならないことだった。
それを、千晶が言ってくれたことが嬉《うれ》しかった。本当にホッとした。
というわけで、俺と千晶の関係は前より少し違《ちが》うものになったが、前と少しも変わらない。
そんな千晶とも、あと少しでお別れだ。もちろん残念だが、女どもの無念がりようときたら……推《お》して知るべしだ。だから、千晶との最後の文化祭は特別なものにしたいと、誰《だれ》もが思っていただろう。
ところが、夏休み最後に遭遇《そうぐう》した強盗《ごうとう》事件で千晶は大ケガを負ってしまい、二学期が始まって一週間後には復職したんだが、なかなか体調が安定しなかった(退院と復職が早すぎたんだよ)。廊下《ろうか》を歩く姿がフラフラしてたり、授業中、板書をしていていきなり倒《たお》れたり、俺たちはヒヤヒヤしっぱなしだった。それが、十月になってもポツポツと続いていた。
「残念だけど、今の千晶ちゃんには、あんまりわがまま言えないなー」
十月も半《なか》ば頃《ごろ》。珍《めずら》しく殊勝《しゅしょう》なことを言ったのは、クラスメイトの田代《たしろ》だった。俺とはクラブも同じなダチ。女のわりにアッサリサッパリ付き合いやすい奴《やつ》で情報通。
「だよネー」
田代の連れの桜庭《さくらば》と垣内《かきうち》もうなずいた。
「今年の文化祭はさー、もー、いっろーんなことをしてもらっちゃおうとか考えてたんだけどぉ」
どうせろくでもないことばかりだろうと思う。千晶もヤレヤレだ。
「コンサートしてほしかった――!」
「お芝居《しばい》してほしかったよー。猫耳《ねこみみ》〜〜〜!!」
まだ言うか。
「コンサートとかお芝居とか、時間と手間のかかるものは全部アウトね〜」
女どもは盛大にため息をつく。
「なんとか千晶ちゃんに、体力的負担をかけないで盛り上がる企画《きかく》を考えないと」
「精神的負担はいいのか」
と、俺がボソッと言うと、隣《となり》から田代の裏拳《うらけん》が飛んできた。
「イデッ!」
「ダーリンがハニーのことを心配するのは当然だけど、わかってほしいのよ、ダーリン。あたしたちだって必死なんだから、ダーリン」
「あたしたちだって、はにーと盛り上がりたいのよ、だーりん」
「ダーリンダーリン言うな!」
「文化祭の頃《ころ》には元気になってるでしょうけど、やっぱりあんな[#「あんな」に傍点]千晶先生見ちゃうとねぇ、あたしたちのためにコンサートやってくださいとは言いにくいよね」
垣内は苦笑いした。
田代、桜庭、垣内のこの姦《かしま》し娘《むすめ》も、強盗《ごうとう》事件に巻きこまれた者同士だ。垣内の言う「あんな千晶」とは、全身血まみれになった姿だ。復職した時は、顔にもまだ傷跡《きずあと》が生々しく残っていた。
「まぁねー、みんなも千晶ちゃんの事情はわかってるし〜、無理できないのは、生徒を命がけで助けた証拠《しょうこ》ってことだし〜。フクザツよねー」
また大きなため息をつく田代と桜庭の横で、
「弱った千晶先生は色っぽかったけど」
と、垣内がコソリと言った。その場の温度が、カッと上がる。
「も、ウッチーったら! ダメじゃない、そんなこと言っちゃあ!」
「フキンシンでしょー!」
ものすごく嬉《うれ》しそうに、田代と桜庭は垣内の背中をバンバン叩《たた》いた。
「眉間《みけん》にシワを寄せてる千晶ちゃん……いいよねー!」
「眉間にシワが似合うわー!」
話が逸《そ》れだしたぞ。
「気分が悪いって、廊下《ろうか》の隅《すみ》っこに座《すわ》りこんでる姿はよく見たけど〜」
「ダーリンが助けに行ったわよね〜」
「お前らが行け行けってうるさいからだろーが!」
「倒《たお》れこんでる姿見たらさあ、不謹慎《ふきんしん》ってわかってても……ドキドキしちゃった―――!」
垣内がテンション高く言った。……こういう奴《やつ》だったっけ、垣内って?
「わかる〜〜〜!」
「キャハハハ!」
「高山《たかやま》センセが助けに来た時は、もう……もう!」
「お姫様抱《ひめさまだ》っこー!」
「お姫様抱《ひめさまだ》っこ〜〜〜!!」
あー、うるせー。
「マジで鼻血出るかと思ったワ」
「写メしたかったー」
「高山先生もさすがよねぇ。大人の男をお姫様抱っこできる人なんて、他《ほか》にいないわよ」
「さすが、元フットボールの花形選手」
「千晶センセ、軽そうよね。最初の印象よりヤサ男って感じだしィ」
「イヤ。けっこうちゃんと筋肉ついてるぜ……」
と、口をすべらしたことにハッとした。
後はもう、何を言われたかわからないほど、なんやかやとタワゴトを言《い》われ倒《たお》した。結局、どう転んでも田代たちは楽しいんだ。そういう性格や生き方をしている。それは心底|羨《うらや》ましいと思う。
そんなこんなで十月も末になって、文化祭の3−Cの出し物を決める日になった。いろいろ思《おも》い悩《なや》んで田代たちが出した提案というのが……。
「男子学生服|喫茶《きっさ》をしたいと思いマス!!」
壇上《だんじょう》で、田代が高らかに言った。
「イエ―――ッス!!」
女どもが、いっせいに盛り上がる。男どもは「何それ?」という顔をした。
「メイド喫茶はもういい! 女子が多い条東商に必要なのは、メイドでもウェイトレスでもない。ウェイターです!!」
「イエ―――ッス!!」
「ホントは執事《しつじ》喫茶とかやりたいけど、うちの男どもに執事がやれるとは思えません。似合うとも思えません。予算もありません。それよりは、学生服で普通《ふつう》にウェイターをしたほうが、かえって初々《ういうい》しいのではと、思った次第《しだい》であります!」
「イエ―――ッス!!」
千晶は、教室の後ろで苦笑いしていた。その千晶にズンズンと近づいて、田代が叫《さけ》んだ。
「千晶ちゃん!」
「なっ、なんだ?」
「もうすぐ千晶ちゃんとお別れしなきゃならないあたしたちの最後の文化祭……。ホントは千晶ちゃんに、コンサートとかコスプレとかしてほしいって思ってました!」
女どもはおおげさにうなだれ、ため息をついた。
「でもいいの! 千晶ちゃんは何もしなくていいです。生徒会の出し物も、あたしたちだけで盛り上がってみせます!」
田代は、力強く宣言した。
「ほぉ!?」
千晶は、ちょっと嬉《うれ》しそうに目を丸くした。しかし、話には続きがあった。
「だから……3−C男子学生服|喫茶《きっさ》のオーナーとして、看板男子になってください!!」
「…………はあ?」
「イエ―――ッス!!」
女どもが、拳《こぶし》を振《ふ》り上《あ》げて歓声《かんせい》を上げた。
「もー、千晶ちゃんは座《すわ》ってるだけでいいから! なんにもしなくていいから! ニコニコしてるだけでいいから!!」
田代は、ズンズンと千晶に迫《せま》った。いかん、千晶が押《お》されている!
そして田代は、大きなスケッチブックを取り出してみせた。
「千晶ちゃんは、これを着るだけ! それだけでいいから! お願い!!」
スケッチブックには、千晶が白い学生服を着ている姿が描《えが》かれていた。
「ギャ―――ッ、白ラン!!」
「白ラン〜〜〜ッ!!」
女どもの悲鳴が上がる。千晶は、驚《おどろ》くより呆《あき》れるより先に、女どもをなだめなければならなかった。
「し、静かに! 静かに!! また中川《なかがわ》先生に怒《おこ》られる!」
「うるさいぞ、C組!」
廊下《ろうか》から中川の怒鳴《どな》り声《ごえ》がした。
「ああっ、すいません、すいません!」
廊下に顔を出して謝《あやま》る千晶をよそに、女どもはスケッチブックを取り合いせんばかりに盛り上がっていた。
「ひぃいいぃ、カッチョイイ〜〜〜、これ!」
「何コレ、何コレ?」
「誰《だれ》が描《か》いたの? すンごい素敵《すてき》!!」
「B組のモエギよぉ」
「コピーさせて! コピーさせてぇえ!!」
「あたしも!」
「私も私もーっ!」
「モエギって、セミプロの人だよね!?」
「白ラン、萌《も》え―――っ!!」
「…………充分《じゅうぶん》コスプレじゃね?」
俺は、ボソッと言った。
「……で? 出し物は学生服|喫茶《きっさ》に決まったのか?」
男どももボソボソ話す。
「決まったも何も、最初から決まってたようなもんだろ?」
「何? 男子《おれら》は反対意見とか言えねーわけ?」
「お前、反対意見とかあるわけ?」
「………………イヤ」
「この白ラン、どうすんの、田代?」
「作るわよ! 作らいでか! 予算の五割をこれにブッこむわよ! ちゃんと千晶ちゃんのサイズ測って、型紙からおこすの。家庭科の子に協力とりつけてあるから」
「あたし手伝う!」
「あたしも!」
「じゃあ、細かい分担決めようか!」
「イエ―――ッス!!」
女どもは、嬉々《きき》として話を進行させているが――、肝心《かんじん》の千晶のOKが出ていないんじゃ……?
「…………オイ」
と、盛り上がる女どもに小さく声をかけた千晶だが、俺はその肩《かた》をポンポンと叩《たた》いて首を振《ふ》った。千晶は、大きくため息した。こうなった女どもを止めるのは……無理だ。
「白ランぐらい着てやれよ、センセー」
いつもの給水塔《きゅうすいとう》の上。コンクリに寝《ね》そべって青空を見る。千晶は煙草《たばこ》をふかしている。
「裸《はだか》に黒い羽根のロングコートよりゃマシだろ!?」
俺は、喉《のど》の奥《おく》で笑った。千晶は、苦々しく煙《けむり》を吐《は》く。
「ハ。他人事《ひとごと》だと思いやがって。いまさら学生服なんて、こっ恥《ぱ》ずかしくて着られるかよ。しかも白ランときたもんだ。アイタタターだ」
「他《ほか》はなんにもしなくていいからって言ってたじゃねぇか。あれでも気を遣《つか》ってんだよ。カワイーと思わねぇ?」
「また一段とジジむせー意見だなぁ、稲葉」
「コンサートをやれ芝居《しばい》をやれって、あいつらが遠慮《えんりょ》なく言える状態ならよかったのに」
少し声をひそめて言ってやると、千晶は薄《うす》く笑った。
「……もう大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
「大丈夫だったら、毎日マサムネさんが車で送《おく》り迎《むか》えなんてしてねーんじゃねぇかなあ? しかも、ジャガーで! シブ〜イ。さすが名家の息子《むすこ》」
千晶は、キュッと眉《まゆ》をひそめた。
「マサムネにも、もういいからって言ってんのに。全然人の言うこと聞きやがらね……オイ、なんでマサムネにはさん付け≠ナ、俺は呼び捨てなんだ、稲葉? コラ」
神代政宗《かみしろまさむね》は千晶のダチの一人で、いかにも名家の息子《むすこ》らしく、育ちがよくてスキのない雰囲気《ふんいき》の人だ。長谷と感じがよく似ている。千晶は中学の時にマサムネさんと出会い、いろいろ影響《えいきょう》を受けたという。合気道を習ったのも、この人の影響(というか真似《まね》)だ。
「マサムネさん、カッコイイよな〜。頭の先から足の先まで、ピシーッと何か通ってる感じで……なんかこう、さわったら切れそうな? 殺気があるとかじゃなくてさ。日本刀の刃《は》に落ち葉が触《ふ》れて、真っ二つに切れるってあるじゃん。あんな感じ。さすが、刀匠《とうしょう》の十四代目だよなあ。あれで居合ができるってすごくね? カッコよくね?」
「だろ」
千晶は我《わ》が事《こと》のように、得意げに鼻を鳴らした。
「マサムネ自身は刀は打たないけどな。刀鍛冶《かたなかじ》は弟二人が継《つ》いで……、ちょっと待て。なんでお前がそんなことを知ってるんだ?」
「あ? カオルさんに聞いたんだよ」
土方薫《ひじかたかおる》は、千晶の従兄《いとこ》。千晶が入院していた時、俺はこの従兄といろいろ話したんだ。千晶に「プチ」のことを打ち明けたすぐ後だった。
「カオルと話したのか。何を話したんだ? あいつ、余計なことをベラベラしゃべったんじゃないか?」
「な、なんだよ。聞かれてマズイ話でもあんの〜?」
血相変えて胸倉《むなぐら》をつかんでくる千晶に、俺は軽く言ってやった。その時、
「まったくもって申し訳ございません、千晶様。ご主人様の無作法は、このわたくしめが代わってお詫《わ》び申しあげます」
と、フールが俺の肩《かた》に現れ、大きくお辞儀《じぎ》をした。
「フール」
人差し指をチッチと左右に振《ふ》りながら、フールは言った。
「ご主人様、千晶様のご存じないところで千晶様のお話を聞くなど、失礼なことでございますぞ。そういうことは、ご本人には黙《だま》っているものです」
やっぱり何かズレてることをほざくフールを、千晶はなんとも言えない表情で見ていた。
聞くところによると、千晶もけっこう超常《ちょうじょう》体験とやらをしているということだし、何より千晶自身、潜在的《せんざいてき》に高い霊力《れいりょく》を持っているようだが、それでも実際に目の前で妖精《ようせい》がしゃべっているのを見るのは、相当に違和感《いわかん》があるらしい。
「いよいよ文化祭の季節ですなぁ、千晶様。わたくしめも楽しみにしております」
長話を始めそうなフールにヒラヒラ手を振《ふ》って、千晶は、
「その小人をしまえ、稲葉。頭が痛くなる」
と言った。
「ハイハイ」
俺は笑いながら、フールをキュッとつかんでポケットに入れた。しゃべる小人なんざ、違和感《いわかん》があって当然だ。俺は、千晶のその反応に安心する。千晶が、遠慮なく[#「遠慮なく」に傍点]そう反応してくれることに安心する。
「俺も文化祭は楽しみなんだ、千晶センセー。俺たちにとっちゃ、高校最後の大イベントなんだからな。心おきなく盛り上がらせてくれよ!? 白ラン、あんたならバッチリ似合うって」
笑いをこらえながらそう言ってやると、千晶は盛大に顔をしかめた。
3−Cは男子学生服|喫茶《きっさ》をして、千晶が白ランを着るらしいという情報は、たちまち学校中を駆《か》け巡《めぐ》り、条東商はもとより他校の女どもをも騒然《そうぜん》とさせた。
「もー、あっちこっちの友だちから携帯《けいたい》かかりまくりよ。ネットの掲示板《けいじばん》も盛り上がりまくり!」
田代が面白《おもしろ》そうに言った。
「そうだ! モエギが描《か》いた千晶ちゃんの白ランイラスト、あれも売ろうかなぁ。モエギに相談しよっと」
その白ランイラストは、今校内を飛《と》び交《か》っている。
「そのモエギって奴《やつ》、セミプロってホントか? そんな奴、条東商にいたんだ」
田代は、首をかしげて俺を見た。
「あんた、ホントに知らないの、稲葉?」
「知るわけねぇだろ」
「そうじゃなくてさぁ。モエギってのは渾名《あだな》で、本名は元木《もとき》っていうのよ。元木|美々《みみ》」
「知らねぇって」
すると、俺の背後から声がした。
「そーいう奴だ、あンたは」
振《ふ》り向《む》くと、肩《かた》を越《こ》す髪《かみ》の毛《け》を左右で束ね、赤縁《あかぶち》の眼鏡をかけた奴がいた。
「元木美々よ、稲葉。ヤ、モエギ」
「ヤ!」
本人を見ても、やはり見覚えがなかった。田代の連れの一人としては見たことがあるような?
「一年の時、同じクラスだったっけ?」
「中学の時に同じクラスだったよ」
「えっ、条北中《じょうほくちゅう》だったのか?」
「ある意味、三年間顔を合わせていたも同然なんだけど?」
「えっ、ひょっとして文芸部で一緒《いっしょ》だったか?」
俺は、あらためて元木の顔を見た。そう言われればこの眼鏡になんとなく見覚えが……。
「あっ!」
ようやくその顔[#「その顔」に傍点]が浮《う》かんだ。
「ガンオタ!!」
元木は半笑いでうなずいた。ガンダムと女戦士オタクの、いつか本物のガンダムを作るのが夢だと工業高専へ行った……よく長谷と話していた……。
「あたしの双子《ふたご》の兄貴だよ。元木|洋輔《ようすけ》」
「お前ら、双子だったのか!」
「いまさら……」
「中一中二はあたしと、中三は洋輔と一緒《いっしょ》だったって」
驚《おどろ》く俺を、田代と元木は呆《あき》れ顔《がお》で見た。ごもっとも。ごもっともです。ハイ。
「ヤー、でもしょーがないワ。稲葉ってばもぉ、長谷しか目に入ってなかったからねェ」
元木はニヤニヤと笑った。そうか。田代が「長谷のことは調査|済《ず》み」と言っていた情報元はこいつか!
「その頃《ころ》から、女無用だったわけね」
「あたしとしてはオイシかったけどネ」
ウンウンとうなずき合う女二人。
「女無用ってゆ――な!!」
俺はなぁ、遅《おく》ればせながら「青春しよう」と決めたんだ! ……とりあえず何をすればいいのか、まだわかんねぇけど。
「モエギはねぇ、もうプロデビューが決まってんのよ」
「絵で!?」
「ストマンだよ。出版社から、一度直接会いたいって電話がきてさぁ」
「出版社は、なんでお前のことを知ってたんだ?」
「モエギは、イベントじゃ売れっ子の大手さんなんだよ。か〜な〜り〜稼《かせ》いでマス」
「イベントってあれか? 漫画《まんが》のパロディとか描《か》いて売るやつ?」
「そーそー」
「ウェブでも大人気。アクセスが一日何万件とか!」
ウェブはともかく、イベントには年齢《ねんれい》の問題とかあるはずなんだが?
「そんなの、抜《ぬ》け道《みち》はいくらでもあるわよ」
元木はほくそ笑《え》んだ。
「じゃあ、将来はプロの漫画家ってわけだ。本屋で見たら買ってみるよ」
と、笑った俺だが、
「あ、BLとレディースのバリバリ18禁だから、男は引くよ!?」
と言われて、速攻《そっこう》引かせていただいた。
元木は、進路希望を書く用紙に毎回「第一希望 エロ漫画家」と書いて、担任の麻生《あそう》を困らせているという。麻生いわく、
『エロ漫画家って書くなよ。漫画家でいいじゃん!』
兄はガンオタ、妹は漫画《まんが》オタ(しかもエロ)。元木家は個性豊かだ。
「あたしは、やっぱ情報処理関係へ進みたいなぁ」
田代は、至極《しごく》田代らしいことを言う。
「コンサルティングとかマネジメントとか。データを解析《かいせき》して予測して情報提供する、みたいな仕事をしたい」
「天職だワ」
「そのうち相談に行くよ」
俺たちは笑い合った。
教室のいつもの椅子《いす》に座《すわ》り、いつもの窓からの景色を眺《なが》めながら、すぐそこに来ている未来の話をする。そのことにしみじみしたりする。
「稲葉は、民俗学《みんぞくがく》を勉強したいんだって? 意外だな〜。そういうことに興味があったんだ!?」
「ん……まぁな」
俺は頭をかいた。
「急に大学へ行くって勉強始めてさ。びっくりしたワ」
「長谷の後を追うつもりなの〜?」
元木がまたニヤニヤ笑った。
「ちっ、ちげーよ! 第一、追っかけられるわけねーだろ。向こうは、よくて東大、悪くても東大だぜ!?」
とりあえず進学するって奴《やつ》もいるけど、みんな将来の夢をハッキリさせる頃《ころ》だ。
田代の連れ桜庭は、短大進学希望。将来はファッション業界に就職したいらしい。垣内も進学希望。旅行業界に興味があるようだ。あと、陸上(ハードル)も続けたいという。上野《うえの》や桂木《かつらぎ》は、専門学校へ行ったあと家業を継《つ》ぐ予定。岩崎《いわさき》は、なんと警官志望だ。アスカ、マキ、リョウたちは「とりあえず進学組」。「そのうちなんとかなるサ」と、お気楽だ。それもいい。時間はまだ充分《じゅうぶん》ある。
卒業まで、半年を切った。将来を夢見るのはわくわくと楽しいけど、こうしてクラスメイトと、教室でバカ話をすることもなくなると思うと、とても―――とても名残惜《なごりお》しい。
『一色さんから聞いたの。千晶先生が白ラン着るんですってね、夕士くん! 写真|撮《と》ってね! いっぱいいっぱい撮ってね―――っ!!』
『秋音《あきね》さん…………』
ハイテンションな電話をかけてきたのは、久賀《くが》秋音ちゃん。妖怪《ようかい》アパートの住人で、霊能力者《れいのうりょくしゃ》の十八|歳《さい》の女の子だ。今は、四国で霊能力の修行《しゅぎょう》&介護士《かいごし》の勉強中である。
俺は、この一つ年上の女の子に、「プチ」を背負ってからの霊力を磨《みが》くトレーニングをしてもらった。おかげで俺の力は、レベルアップした。秋音ちゃんは、生まれ持った霊能力でプロの霊能力者として食っていくべく、昼は高校へ通いながら、夜は月野木《つきのき》病院(妖怪どもを診《み》る「神霊科」がある)で丁稚奉公《でっちぼうこう》をしていた。睡眠《すいみん》は一日三時間で、人の三倍飯を食うスーパーガールだ。秋音ちゃんは、将来は月野木病院で、妖怪と人間の両方を助ける介護士になりたいという。
「千晶先生の白ランかぁ。さぞかし似合うだろうネー。王子サマのようだろうネ」
妖怪アパートの庭で、詩人が落ち葉を集めながら言った。
「そりゃもう、大騒《おおさわ》ぎっスよ」
千晶が、あの強盗《ごうとう》事件で俺たちを命がけで救った人物であることは、近隣《きんりん》の学校に知《し》れ渡《わた》っている。ただでさえ、その先生を一目見たいという他校の生徒や近所の人たちが、このチャンスとばかりに条東商の文化祭に詰《つ》めかけるのは目に見えているのに、そのうえ千晶がハンサムな若い男で白ランを着てた日にゃあ……。
「恐《おそ》ろしいネ」
詩人はクスクスと笑った。
クリが、詩人を手伝っているのか、落ち葉をガサガサ拾っている。色とりどりの枯《か》れ葉《は》を抱《かか》えたクリは、なんというか、とても絵になった。絵か写真に収めたいような。クリが手にしているのは枯れ葉だが、その彩《いろど》りは豊かで温かい。「豊穣《ほうじょう》の秋」なんだなぁ。
「カメラ、買おうかなぁ」
「その前に携帯《けいたい》じゃないの?」
「あ、携帯か! それもあった」
頑《かたく》なに携帯を持たなかった俺だが(さして不便でもなかったぜ?)、大学に入ったら、その機会に持ってみようという気にはなっていた。
「あったらあったで便利だろうし」
第一、もう長谷と「文通」しなくてすむ。
「今時の高校生が文通っていうのが泣けたけどネ」
詩人が、集めた落ち葉に火をつける。これから焼《や》き芋《いも》をするのだ。
透《す》きとおる青空の下。妖怪《ようかい》アパートの庭は、すっかりいい具合に枯れた。なんの植物か名前は知らないが、壁《かべ》に這《は》う葡萄《ぶどう》の葉のような葉が、赤や黄色に鮮《あざ》やかに紅葉している。そこにちりばめられた瑠璃色《るりいろ》の丸い実が、まるで宝石のように美しかった。
落ち葉を焼く煙《けむり》がまっすぐに立つ。俺はクリを膝《ひざ》に抱《だ》いて、ゆるゆると満ちてくる煙の匂《にお》い、芋《いも》の焼ける匂いをかいだ。夏に比べ、蠢《うごめ》く妖《あや》かしの数も減った庭。葉陰《はかげ》や縁《えん》の下《した》から、カサコソと微《かす》かに漂《ただよ》う気配が、静けさをいっそう感じさせた。
「オー、焼けた焼けた」
焼き芋が焼けたところで、静かな時間は終了《しゅうりょう》。丸々と太ったこんがり焼き芋をほくっと割ると、黄金の実から湯気と甘《あま》い香《かお》りがわっと立った。歓声《かんせい》を上げずにはいられない。
「うーまーそー!」
「なんていい匂いー」
「うおっ、あまっ! あつっ! ホクホクだー!」
クリも、熱さに顔をしかめながら一生懸命《いっしょうけんめい》芋を頬張《ほおば》った。
「そういえば、英会話クラブは、今年は何をするの、ブチョー?」
俺たちは、芋を頬張ってハフハフ言いながら話した。
「それが……」
俺は、思わずそこで笑ってしまった。
「今年は、紙芝居《かみしばい》っス」
「紙芝居!?」
『今年は、うんと面白《おもしろ》いことをしたい』と田代が言ったとおり、毎年アニメの英語|吹《ふ》き替《か》えをやっていた英会話クラブだが、今年はアメコミ『バットマン』の紙芝居をすることになったんだ。紙芝居は、本物のアメコミを拡大コピーして作るんだが、そこに書かれている英語のセリフを和訳して客に見せながら、部員が英語で芝居をする、という趣向《しゅこう》だ。
「それは面白いやり方だネー」
「うまくいけば、毎年同じだった英会話クラブの出し物に、バリエーションができるっス」
「いいナー」
詩人は、うんうんとうなずいた。
「高校三年生って、なんか特別だよネー。最後の文化祭の楽しさと淋《さび》しさ、将来への希望と不安。相反する気持ちの間で揺《ゆ》らめいている子どもたちは、キラキラしてるよネー」
詩人の言うことは、とてもよくわかった。
将来こうなりたい、大学で勉強したいという具体的な目標があっても、そうなれるかどうかはまた別の話で。そこに、不安も恐《おそ》れもある。あの長谷でさえ、「夢の果てが真っ暗に見える時がある」と、こぼしたぐらいだ。でも、それでいいんだ。
「そうサ。希望と不安をミルフィーユみたいに折り重ねていくことで、人は本当に強くなれるんだよ。不安だけど、それに負けない心。怖《こわ》いけど、それを乗《の》り越《こ》える心が、一番強いんだ」
俺は、深くうなずいた。
長谷や千晶のように完全無欠に見える人間にも、「暗」や「悲」や「恐」がある。いや、それがあるからこそ、完全無欠に見えるのかもしれない。
「二学期は目一杯《めいっぱい》楽しむといいよ、夕士クン。年が明けると、受験|地獄《じごく》が待ってるからネ〜」
「そっスね」
俺は苦笑いした。
文化祭まで、あと二週間とちょっと。田代ら女どもの盛り上がりは、すでにレッドゾーンに達している。つられて男どものテンションも上がる。学校全体が、熱く華《はな》やかな雰囲気《ふんいき》に満ちていた。
だが、そんな空気に水を差す、ちょっとした事件が起きる。
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天気晴朗なれど、波高し
ある日、体育の授業から戻《もど》ると、俺の机の上に現国のノートが置かれてあった。
「俺のノート? 机ン中に入れてあったはずだが……」
何気《なにげ》にめくると、表紙の裏に『お前が大学? 笑える』と書かれていた。
「…………は?」
ナンダコレハ?
これは
「これは……イジメか?」
俺はキョトンとしてしまった。高校三年生にもなって、こんな小学校低学年みたいなイヤガラセをするなんて、いったいどういうつもりなんだか、俺は呆《あき》れかえった。
「どうしたの、稲葉?」
田代が戻《もど》ってきたので、黙《だま》ってノートを見せた。田代は「ブハッ!」と吹《ふ》き出《だ》した。
「あんた、携帯《けいたい》持ってないもんね!」
「どういう意味だ?」
田代はコロコロ笑いながら、自分の携帯を見せた。そこに表示されたメールには、
『オタ女、キモイ シネ』
と、あった。
「……お前にも!?」
田代は、笑ってうなずいた。
「ちょっと前からね。あたしだけじゃないよ。岩崎には『警官? 無理無理』でしょ、桜には『チチデカ女、頭ワリー』って言ってきたわ」
俺は、顔が歪《ゆが》んだ。
「ンだそりゃ? 胸《むな》クソ悪《わり》ぃな」
「3−Cの裏サイトは、もっとスゴイよ。死ね死ね死ね、ばっかり」
「3−Cの裏サイトって何だ?」
田代は、携帯を見せながら説明した。
「学校の公式サイトとは別に、学校裏サイトっていうのがあンの。掲示板《けいじばん》になっててね、クラスメイトが情報|交換《こうかん》したりするの。でも、悪口書きこんだりして、イジメの温床《おんしょう》になってるって問題になってるの」
「あ、それニュースで見たことある。やめちまえばいいんだ、そんなの」
「イヤイヤ。そうは言ってもね、稲葉。本来はクラスメイトの交流の場であるワケよ。OBたちが同窓会の連絡《れんらく》取ったりね。中には困ったちゃんがいるだけでね」
ネットの住人である田代は、そう言って擁護《ようご》する。
「こいつは、どうもその困ったちゃんのようなのヨ。別人になりすまして、なんか目立った奴《やつ》にイヤガラセメールを送ってるみたい。しょうがない奴よねぇ」
苦笑いする田代に、俺は言った。
「お前、キモイなんて言われて平気なのかよ」
すると田代は、「おほほほ」と笑った。
「こいつは、あたしが羨《うらや》ましいのよ、稲葉」
「え?」
そう言う田代は、勝《か》ち誇《ほこ》ったような目をしていた。
「こいつはねぇ、あたしたちが楽しそうに騒《さわ》いでいるのが、羨《うらや》ましくてしょうがないの。だからこんなイヤガラセをして、なんとかあたしたちを貶《おとし》めてやろうって考えてんの」
「…………」
「こいつは、自分には趣味《しゅみ》もないし、将来の夢もないし、頭も悪いし、友だちもいないって言ってるようなもんなの。それが丸わかり! これぞ『語るに落ちる』ってやつ!? プププー! こいつの悪口は、あたしたちにとったらほめ言葉よ!」
俺は、絶句した。まいった。すげぇポジティブシンキングだぜ、田代|師匠《ししょう》。お前は、本当に生きることに前向きだよ。
「お前のそういうとこ、ホント感心する」
と、俺が言うと、田代はピロッと舌を出した。
「ナンチャッテ。実は、これ神谷《かみや》サンからの受け売りだけどね」
神谷元生徒会長と書いて兄貴と読む。神谷さんは、条東商始まって以来の才媛《さいえん》で、アンジェリーナ・ジョリーばりの美女で、女生徒にからんでいた他校の男子をグーで殴《なぐ》りとばす、みんなの兄貴だ。今は有名大学で経営を学んでいる。
その神谷さんが条東商の二年生の時だった。携帯《けいたい》に毎日のように『ブス』というイヤガラセメールが入った。連れの、江上《えがみ》元英会話クラブ部長は怒《おこ》ったが、神谷さんはサラリと、
『こいつは、私が羨《うらや》ましいのよ。私がブスなわけないでしょ。こんなのイヤガラセになんないわ』
と、言ってのけたという。
「すっげえ! さすが神谷さんだ。神谷さんじゃねぇと言えねーセリフだよ」
「神谷サンは、自慢《じまん》でもなんでもなくて言ったんだよ、稲葉」
「わかるわかる。それが神谷さんらしいって」
そうだ。神谷さんは、客観的事実として自分が「ブスなわけない」と言ったんだ。自慢でも自惚《うぬぼ》れでもなくこんなセリフが言えて、かつそれが嫌味《いやみ》に聞こえない女がこの世界にどれほどいるだろうか。さすが兄貴。カッコイイぜ!
カッコイイといえば江上元部長もそうで、江上さんはそのイヤガラセメールの送り主を突《つ》きとめ、成敗に行ったんだ。犯人は、同じクラスの目立たない女子だった。
実際にブスメールを送っている現場を押《お》さえた江上さんは、そいつの携帯《けいたい》を床《ゆか》に叩《たた》きつけた。その女は、別にブスじゃなかった。だが、何か悩《なや》みかコンプレックスがあったらしい。
『あんた、神谷がすべてに恵《めぐ》まれた完璧《かんぺき》な人間だなんて思ってるわけ?』
江上さんは、女の胸倉《むなぐら》をつかんで迫《せま》った。
『神谷が、なんで進学校じゃなくて商業校へ来たと思う? 小学生の時に父親に死なれて、神谷とお母さんはものすごい苦労をしたのよ。神谷は、お父さんの遺《のこ》した仕事を引《ひ》き継《つ》ぐために、ビジネスの勉強をしてるの。両親に恵まれてぬくぬくしてる奴《やつ》が、ブツクサ文句言ってんじゃないわよ!』
父親に早くに死なれ、大変な苦労をしたことなど、おくびにも出さない神谷さん。実際、俺も知らなかった。そんなことを微塵《みじん》も感じさせないところが、さすが兄貴だ。
「いい話だなぁ」
「神谷サンも江上ブチョーも、カッコイイよねぇ〜」
「私は苦労してますって態度に出す奴は、ロクな奴じゃねぇ」
中学の頃《ころ》の俺がそうだった。反省することしきりだ。
「態度に出さないのが、カッコイイ奴《やつ》の証拠《しょうこ》だよ。千晶だって―――」
俺は、慌《あわ》てて言葉を呑《の》んだ。田代の目玉が、ギラリと光る。
「千晶ちゃんが何? あんた、千晶ちゃんの何を知ってるわけ?」
「イ、イヤ、別に何も」
田代は、丸い目玉をさらに丸くグリグリさせて迫《せま》ってきた。
「隠《かく》したってムダだからねぇ、稲葉ぁ?」
「か、隠してない! 何も隠してません、ハイ!」
それからも、このくだらない幼稚《ようち》なイヤガラセは続いた。学校裏サイトとやらには、俺や田代や岩崎を名指しして、いい気になるなだの、試験に落ちろだの、あげくは殺してやるだのの文句が、夜中何度も何度も書きこまれているという。
「鬱陶《うっとう》しいわぁ。せっかく千晶ちゃんのことで盛り上がってんのに」
「書《か》き込《こ》みを見つけ次第《しだい》、削除《さくじょ》してるんだけどねぇ」
この「困ったちゃん」のことが、女どもの話題に毎日のように上るようになってきた。
「なんだか、だんだんひどくなってきてるよね」
「こういうのってさ、書けば書くほどエスカレートしてくんのよ。自分で自分を止めらんないの」
「自分で書いてて興奮してくるんだろうね」
「うわっ、キモッ!!」
「楽しいことで興奮するならいいけど、悪口とかマイナスなカキコで興奮するなんて、サイテー!」
女どもは、ここで声をひそめる。
「……うちのクラスの奴《やつ》だと思う?」
「やっぱそうでしょー。クラスメイト名指ししてるし」
休み時間の教室。男も女も、友だちとしゃべったり携帯《けいたい》を見たりして過ごしている。いつもとまったく変わりない風景。でもこの中に、敵意をみなぎらせている奴がまじっている。ガキみたいに幼稚《ようち》なやり方とはいえ、匿名《とくめい》で悪意を垂れ流す卑怯者《ひきょうもの》がまじっている。そう思うと、実に嫌《いや》な気分だ。
「やっぱりさぁ、今ってデリケートな時期じゃん。ちょっと神経質になってるだけならいいんだけどね。ホラ、あたしたちがバカ騒《さわ》ぎしてるのがうるさいからとかサ」
田代の発言には、余裕《よゆう》がうかがえる。女どもは、田代につられて笑顔《えがお》になった。
だが、この「困ったちゃん」のことは、千晶も気にかけていたらしい。その日の|HR《ホームルーム》で千晶が言った。
「このところ、携帯《けいたい》や裏サイトの掲示板《けいじばん》にくだらない書《か》き込《こ》みがされているようだが、するほうもされるほうも、今はそんなことにかまけているヒマはないはずだから、気にせずスルーしろよ。高校生活もあとちょっとなんだ。他《ほか》にすることがあるだろ」
「ハーイ、もう忙《いそが》しくて死にそうでーす!」
手を挙げた田代に、みんな爆笑《ばくしょう》した。田代は、クラスの出し物、クラブの出し物、生徒会の出し物と、毎日大車輪でかけずり回っている。
「お前は、ほどほどにしとけ」
と、千晶が言ったので、みんなさらに大笑いした。
千晶の白ランのための採寸や仮縫《かりぬ》いを、田代を筆頭に女どもは、そりゃあ嬉《うれ》しそうにギャーギャー言いながらやっていたし、俺たち男どもは、クラブの都合などでまったく参加できない奴《やつ》をのぞき、六名がウェイターとしての特訓を受けさせられている。客をお辞儀《じぎ》をして迎《むか》える(その角度)、オーダーは跪《ひざまず》いて取る(その際の立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》い)、女の客は「お嬢様《じょうさま》」と呼ぶ(男の客は、お客様でいい)などなど。
千晶の言うとおり、クラスやクラブの出し物に参加している奴《やつ》なら、いろいろ忙《いそが》しいはずなんだ。まして三年生は、受験や就職をひかえている。人の悪口にウツツをぬかす……、よくそんなヒマがあるもんだと思う。
俺への直接の[#「直接の」に傍点]攻撃《こうげき》はあの後ないので(携帯《けいたい》を持っていないからだと思うと笑える)、千晶に言われたとおりスルーしようとしていた。しかし……。
文化祭三日前だった。
学生服|喫茶《きっさ》の準備のため、クラブを終えて教室へ戻《もど》ってきてみると、俺のリュックの肩紐《かたひも》が片方、刃物《はもの》のようなもので切られていた。
「…………」
これは、ちょっとマズイぞと思った。
こいつの精神状態が、かなり追いつめられているなと感じた。女どもが言っていた、こういう奴は「自分で自分が止められないんだ」と。「自分で書いてるうちに興奮してくるんだ」と。誰《だれ》も止める奴《やつ》がいない。
自分からは、いくらでも発信できる。
「負」の感情は、どんどん肥大する―――。
「悪口だけじゃ、飽《あ》き足《た》らなくなってきたんだ……」
そこに岩崎と桂木が来たので、俺は二人を教室の外へ連れ出した。
「お前らさ、イヤガラセメールの犯人に心当たりないか?」
岩崎と桂木は、顔を見合わせた。
「実は、ある」
岩崎が困ったように言った。
「富樫《とがし》……かなぁって」
桂木も小さくうなずいた。
「富樫!?」
富樫は、クラブが忙《いそが》しいからと、クラスの出し物には参加していない。授業が終わったら、すぐに教室を出ていってしまう。
商業科の男子は、各クラスに十〜十二名いる。多数派の女子に対抗《たいこう》して(女子は三十名弱)、その少ない男どもは共闘《きょうとう》を組んでいるかといえばそうでもない。お手々つないで仲良くって年齢《とし》でもないし、まったく話をしたこともないクラスメイトだっている。
3−Cの男子とは二年の初めからのクラスメイトだが、俺は誰《だれ》とも、ほとんどプライベートな話をしたことがなかった。ようやく修学旅行の頃《ころ》から、上野や岩崎や桂木とよくしゃべるようになった程度だ。
他《ほか》の男どもだってそうだ。C組に友だちがいないだけで、他のクラスにはいるって奴《やつ》もいるだろう。富樫はまさにこのタイプのようだった。別にC組で孤立《こりつ》しているわけでもないし、話す時は普通《ふつう》に話すし、問題行動もまったくなかった。
「でもな……ちょっとおかしいんだ」
席が富樫と隣《となり》の岩崎が言う。
「俺も富樫とそんなにしゃべる仲じゃないから、気のせいかもしれねーって思ってたんだよ」
「どうしたんだ?」
「いや……どうってほどでも……」
富樫は、夏頃《なつごろ》なんとなく元気がなくて、本人は「五月病かな」と笑っていた。しかし、夏休みが明けてからだんだんと口数が減ってきて、少し前からはほとんどしゃべらなくなったそうだ。いつもムッツリしていて、話しかけるなというオーラが出ているという。
「桂木とも言ってたんだけどよ、うちのクラスで態度が変わった奴《やつ》っていったら、富樫ぐらいだなって」
「ま、証拠《しょうこ》がないからなんとも言えないけどな」
桂木は頭をかいた。
「掲示板《けいじばん》で死ねとか書かれたらいい気分はしねーけど、千晶の言うとおりスルーしてりゃいいんだ。そんなことにムカムカしてるヒマねぇもんな。この頃は、裏サイトも見ねぇで寝《ね》ちまうよ」
岩崎もクラスとクラブ(少林寺拳法《しょうりんじけんぽう》)のかけ持ちだ。
「俺なんかパソコンも携帯《けいたい》もねーから、イヤガラセを見ることもできねー」
俺たちは笑い合った。
俺は、リュックを切られたことは黙《だま》っていた。
それから俺は、千晶のところへ行った。
「例の困ったちゃんの仕業《しわざ》だと思うんだけど?」
切られたリュックを見せると、千晶は眉《まゆ》をひそめた。リュックを手に取り、まじまじと見つめてからため息のように言った。
「……手を出してきたか」
「富樫じゃないのか」
ズバリと斬《き》りこんでやると、千晶はハッと顔を上げた。
「同じクラスでこんな暗いことやってたら、態度でわかるって」
「…………」
「あんたは、とっくにわかってたんだろ?」
千晶の顔に、深い翳《かげ》が落ちる。このところ、また顔色がよくなかったのは、体調のせいばかりじゃなかったようだ。千晶は煙草《たばこ》に火をつけ、大きく煙《けむり》を吐《は》いた。
「急に進学をやめると言い出してな……」
「富樫が?」
「もともと進路がはっきりしなかったんだ。何をしたいのか自分でもよくわからないから、とりあえず進学してみるかってクチだ。それでもいいと言ったんだ。そんな奴《やつ》は大勢いるとな」
富樫は、ある意味教師にとっちゃ一番手を焼くタイプの奴だった。「やる気がない奴」だ。おとなしく、目立たず、問題行動は起こさないが、自分からは何もしない。好きなこともやりたいこともあいまいで、長続きしない。クラブは写真部だが、二年の半《なか》ば頃《ごろ》からはすっかり幽霊《ゆうれい》部員と化している。高校生活が進むほどに、やる気が失《う》せてきているようだ。
「それでも進学したいと本人は言ったんだ。最初はな。志望校は充分狙《じゅうぶんねら》える圏内《けんない》だし、親もそれで了解《りょうかい》していた。だが、夏休み明けに、急に進学をやめると言ってきた」
「やめてどうするって?」
千晶は頭を振《ふ》った。
「わからん。とにかく大学に行く気にならんからって……」
「行く気にならんって……ずいぶんお気楽だなぁ」
おれはムッとした。
千晶のくわえた煙草《たばこ》から、紫煙《しえん》がまっすぐ立ち上る。千晶の目は、どこか遠くを見ていた。
「ああいうタイプは、わからんでもないがな……。お前や田代や、C組にはやる気のある奴《やつ》が多い。いつでも前向きで、好きなことや目的がハッキリしていてワイワイ盛り上がっている。お前らに比べて自分は……と、イライラし、絶望し、やる気をなくす」
「あのなぁ、俺は好きでノってるんじゃねぇんだよ」
「俺だってそうだよ」
千晶は口を尖《とが》らせた。
「何? 富樫が進学する気が失《う》せたのは、俺らが文化祭や将来の目的をしっかり持ってるからってか?」
吐《は》き捨《す》てるようにそう言ってから、俺はハッとした。俺のノートに書かれていた戯言《たわごと》――『お前が大学? 笑える』
「ひょっとして……、俺までも[#「俺までも」に傍点]進学するって決めたってことが、ダメ押《お》しだった……とか?」
千晶は、片眉《かたまゆ》を上げた。
「お前が、就職じゃなく、民俗学《みんぞくがく》を学びたいから大学へ行くと決めたことは、かなりインパクトがあったようだ。富樫だけじゃなく、クラスのみんなにな。上野なんか、すごく感心していたぞ。民俗学ってなんだろうって調べたってな」
「ハハ」
俺の家庭の事情は、みんな知っている。そのうえで、就職をやめて大学へ行く。しかも、民俗学って何ソレ、みたいな勉強をしに行く――。これを「スゲー。俺もがんばろう」と受け止めてくれる奴《やつ》もいれば……「あいつですら目標があるのに俺はない。悔《くや》しい、恨《うら》めしい」と思い、自暴|自棄《じき》になる奴《やつ》もいる。
「富樫がそうだとは思いたくないが……。ちょっとまた、話をしなきゃならんな」
切られたリュックを見る千晶は、深い憂《うれ》いに沈《しず》んでいた。
「青春だな―――っ! それも一つの、美しい青春だな〜〜〜っ!!」
人間大好き佐藤《さとう》さん(妖怪《ようかい》のくせに、人間に化けて会社勤めをしている)は、晩酌《ばんしゃく》しながら絶叫《ぜっきょう》した。
「冗談《じょうだん》じゃないっスよ! ぜんっぜん美しくないっス! ドロドロっス!」
俺は、飯をかきこみながら反論した。
いつものように、妖怪アパートで絶品料理を食いながら、不良大人どもと話をする。至福の時間。
るり子さんの今夜のスペシャルメニューは、食感がアワビに似ているという茸《きのこ》「アワビ茸《たけ》の肉|詰《づ》め」。鶏《とり》ミンチ、タマネギ、アワビ茸の軸《じく》の部分を、卵と牛乳で混ぜて固めたものを(牛乳を使うと、ふわっとやわらかく仕上がるという)軸を取ったアワビ茸のかさの内側に詰め、油で焼いてから酒を入れて蒸《む》し焼《や》きにし、こんがり焼けたらタレをからませる。
「アワビ茸《たけ》って、でけえ!」
掌《てのひら》大の一品に豪快《ごうかい》にかぶりつくと、繊細《せんさい》な旨《うま》みが口いっぱいに広がった。
大人どものおつまみには、これのバター焼きが出された。サッと焼いて、パセリとニンニクで香《かお》りをつける。
「シンプル イズ ザ ベスト!」
詩人は日本酒を、画家はビールで乾杯《かんぱい》。
さらに「丹波栗《たんばぐり》と豚肉《ぶたにく》の煮込《にこ》み」。栗がテカテカと、なんとも綺麗《きれい》でうまそうな色! 「秋茄子《あきなす》の海苔巻《のりま》き田楽」も色鮮《あざ》やか。「牡蠣《かき》のせ蓮根《れんこん》の天ぷら」は、沖縄《おきなわ》の塩でいただく。
「甘《あま》い!」
塩が、蓮根の甘みを引き立てるそうだ。
「秋だね〜」
まるでテーブルの上が秋の山で、紅葉狩《もみじが》りをしている気分だ。秋には秋の楽しみ。『ああ、日本人でよかった〜 by古本屋』
絶品おかずを白飯で堪能《たんのう》した俺には、仕上げに「マグロの卵かけご飯」が待っていた。漬《づ》けマグロを、みじん切りの長ネギと生姜《しょうが》と一緒《いっしょ》にちょっと焼いてご飯にのせ、卵をかける。
「んんん〜〜っ! コクが……マグロの甘《あま》いコクが、卵とからんで……たまらんっ!!」
秋の夜は、豊かに豊かに更《ふ》けてゆく。
「何やっていいかわかんねぇとな、何かを壊《こわ》したくなるんだよ」
いろいろ壊しまくった画家は、うなずきながら言う。
「イライラして不安で、何かを壊したくなるっていう気持ちは俺もわかるっス。でも、もし明さんが今高校生で、そういう気分でも、ネットで匿名《とくめい》で人の悪口言うっスか?」
「それはねぇな」
画家は、言下に否定した。佐藤さんもうなずく。
「変に便利なツールがあるから、今の子どもたちは不幸だよねぇ。でも、それでもそうする子としない子[#「そうする子としない子」に傍点]がいるのは……、やっぱり結局は個人の資質によるんだよねぇ」
「窓ガラス叩《たた》き割《わ》ったほうが、スカッとするだろうが!」
「ギャハハハハ!」
「こういう資質ー!」
「よい子はマネしないでくださーい!」
窓ガラスを割ることがいいことだとは言わないが、見えない場所から他人の悪口を言い続け、そうすることによって自分が狂《くる》ってゆく不健全さに比べれば、はるかに牧歌的な感じがする。少なくとも、「世をすねても性根《しょうね》はねじ曲がっていない」感じだ。
「昔も、博打《ばくち》や麻薬《まやく》や酒っていう自分を狂わせるものはあったけど、携帯《けいたい》やネットって、ホントに身近に誰《だれ》でも普通《ふつう》に使えて……、でも、それが自分を狂わせるものでもあるって、今の子は気づいていないとこがコワイんだよネ」
詩人の言葉に、俺は深くうなずく。
「その一方で、便利なツールを使いこなして、自分の世界をどんどん広げていってる子もいるんだから、ますます個人の資質が問われる時代だよネー」
長谷がそうだ。田代がそうだ。携帯やネットを、自分のプラスのパワーにしている。田代がなんで英語を勉強しているかというと、将来は国際派のビジネスウーマンになるため……というのは表向きで、実はその最大の目的は、海外のスラッシュ小説サイトで小説を読むためだというから感心……いや、呆《あき》れかえる(スラッシュ小説とは、海外版のBL小説だ。外国にもあるんだ、そういう文化が! オタ女って、世界共通なんだなぁ)。
こんな田代たちは、ネットを人の悪口を言うためなんかには絶対に使わない。だって、そのためのものじゃないだろう、携帯《けいたい》やネットって。俺は、単純にそう思う。
「そのとおり」
佐藤さんは力強く同意してくれた。
「狂《くる》う奴《やつ》は、勝手に狂わせとけ」
画家はいつものようにバッサリ。
「ネットの世界にいる限りは、救われないよねェ。生身の人間を救うのは、やっぱり生身の人間でないと」
詩人の言葉は、胸にしみこむ。
妖怪《ようかい》アパートの秋の夜。涼《すず》しげに揺《ゆ》らめくススキの間から、チンチロリンと虫(多分)の声がする。
ゆらゆらと、あいまいな光を放って飛《と》び交《か》うモノたちがいた。クリが、両手でその微《かす》かな光を捕《と》らえると、クリの小さな小さな掌《てのひら》の上で、光はふわっと消えゆく。その瞬間《しゅんかん》、クリの顔がやわらかな光に一瞬だけ照らされる。それが面白《おもしろ》いのか、クリは光を捕らえ続けた。おだやかな夜の暗がりで、クリの顔があっちでふわり、こっちでふわりと浮《う》かんでは消える。シロが、縁側《えんがわ》でじっと見守っている。
シロの背中を撫《な》でながら、俺もクリを見ていた。そうしていると、なんだか優《やさ》しい気持ちになった。こんな静かな夜は、みんなが優しい気持ちでいられればいいと思う心に、
『生身の人間を救うのは、やっぱり生身の人間でないと』
という詩人の言葉が、繰《く》り返《かえ》し繰り返し響《ひび》いていた。
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どうにもならないものじゃない!
あくる日。
授業が終了《しゅうりょう》し、クラブに行く田代に、
「先にやっててくれ。後から行くから」
と言って、俺は教室に残った。
富樫が、鞄《かばん》を持って教室を出てゆく。俺はトイレに入り、「プチ」を開いた。岩崎や田代の話によると、携帯《けいたい》へのイヤガラセメールは、みんながクラブをやっている時間帯によく届くという。
「ホルスの眼《め》!」
広げたページから放電現象が起き、でっかい目玉が現れる。俺は主《あるじ》として命令を下した。
「悪人|捜《さが》しだ、ホルスの眼。富樫がどこにいるか捜してこい。小さくなって行けよ」
ホルスの眼《め》はピンポン玉ほどに縮まり、シュッと飛んでいった。
「いかがなさるおつもりですか、ご主人様?」
フールが「プチ」の上に現れた。
「とりあえず現場を押《お》さえたい。それから話を聞く」
「千晶様は、スルーしろとおっしゃいましたが……」
「ほっといたら、あいつはもっとエスカレートするぞ。今なら、なんとか止められるかもしれねぇ」
ホルスの眼が帰ってきた。もとの大きさに戻《もど》り、映してきたものを再生する。富樫は、ベンチに座《すわ》って携帯《けいたい》をいじっていた。そのまわりには、ブロック塀《へい》と木造りの建物が見えた。せまい場所だ。
「あ、わかった! すぐそこだ!」
俺はトイレを飛び出した。
条東商の隣《となり》に、寺がある。地元の檀家《だんか》の墓がちょっとあるだけの小さな寺だ(多分|誰《だれ》も名前も知らない)。富樫は、そこの境内《けいだい》にいた。
無表情で携帯《けいたい》を打つ富樫。そこへ、突然《とつぜん》ビョオッと突風が吹《ふ》いた。
「うわっ!?」
鞄《かばん》がベンチから転げ落ち、吹っ飛んだ携帯が俺の足元まで飛んできた。
「稲葉……!?」
「プチ」を閉じた俺は、携帯を拾い上げた。携帯には『オタク 腐女子《ふじょし》 腐《くさ》った女 キモイシネ』と、表示されていた。俺にそれを見られた富樫は、なんとも言いがたい表情をしていた。
「誰宛《だれあて》だ? 田代か?」
「か、返せよ!」
「オタ女で何がわりーんだ。お前に迷惑《めいわく》かけたか?」
「返せ!」
富樫は俺につかみかかってきた。それをかわしながら、俺は続けた。
「あー、確かに田代はうるさい女だよ。あのテンションの高さなあ。人のこと、千晶のダーリンだなんだうぜぇこと言ってくるしよオ」
「返せ! てめっ……!」
「でも、コソコソ隠《かく》れて人の悪口垂れ流す奴《やつ》よりゃ、百万倍健全だ。そう思うだろう、富樫!」
肩《かた》で息をしながら、富樫の顔色は真っ赤なようにも真っ青なようにも見えた。目が暗い。
「お前に……何がわかるんだよ」
(……出たよ、常套句《じょうとうく》が)
俺は、心の中で舌打ちした。
「お前らはいいよなあ。やりたいことが決まってて、楽しそーにしゃべくりやがって。あーしたいこーしたいって、うぜーんだよ!」
「だから、隠《かく》れて悪口メール送っていいわけあるか!」
「お前ら見てると、イライラするんだよ! 自分にイライラするんだよ!」
富樫は、本音《ほんね》を吐《は》いた。
「なんにも決めらんねぇのが、イライラしてムカムカして……たまんねぇんだよ! 全部|壊《こわ》れろって気分になるんだよ!」
「てめぇが目標決められねぇからって、他人に当たってんじゃねぇ! それがなんになるんだ!」
富樫は、ググッと喉《のど》を鳴らした。両目がうるんだ。
「何あせってんだ、富樫? とりあえず進学組なんて、他《ほか》にも大勢いるぞ。千晶もそう言っただろ。それでいいじゃねぇかって。あんまり心配かけてやんなよ」
富樫のうるんだ目が歪《ゆが》んだ。
「千晶が何言ったって……。あんなできた人間が何言ったってなあ、ムカつくだけなんだよ! 千晶みたいな奴《やつ》に、人の何がわかるってんだよ!」
「てめえっ!」
俺は、ブスメール女の胸倉《むなぐら》をつかんだ江上さんのように、富樫の胸倉をひっつかんで絞《し》め上《あ》げた。なんともいえない、煮《に》えたぎるような気持ちで頭がカーッとした。
「てめぇは小学生のガキか? なんの苦労もしていない奴がこの世にいると、てめぇ本気で思ってんのか!」
神谷さんがそうだ。長谷がそうだ。あんなできた、恵《めぐ》まれた奴だって、どんだけ苦労してるか。まわりのプレッシャーがあって、できて当たり前って思われて、それに応《こた》えようと……。何をしても、何もしなくても、まわりから羨《うらや》ましがられ、妬《ねた》まれて。できる奴はできる奴で、俺らには想像もできないような苦労をしてるんだ。俺たちとまったく同じ悩《なや》みだってあるんだ。
「千晶が、どんだけ苦労してきたと思ってんだ! 千晶は―――」
落ち着け―――! と、俺が俺に叫《さけ》ぶ。
富樫は知らないんだ、千晶のいろんな事情を。俺がカオルさんに聞かせてもらっただけで、他《ほか》には誰《だれ》も知らない。そのことで富樫を責められない。それでも、苦しみや悲しみを背負っていない奴《やつ》なんぞ、世の中にいやしないことぐらいわかりそうなもんだ。そんな甘《あま》ったれたことを、よく口に出せる。握《にぎ》った拳《こぶし》がブルブル震《ふる》えた。深呼吸をして、気を静める。
「携帯《けいたい》は預かっとくぞ。返してほしきゃ、千晶の話をちゃんと聞け」
俺は、学校へ戻《もど》った。
富樫にしてみれば、赴任《ふにん》してきた千晶がハンサムで人気者なことや、強盗《ごうとう》事件でヒーローのように活躍《かつやく》したこと、田代たちが毎日楽しそうなこと、俺が進学を希望したこと、すべてが自分を追いつめる材料だったんだ。いつもいつも、自分はどうなんだと自問していたんだろう。
「だからって、なんで自暴|自棄《じき》になるんだ? なんで他人を攻撃《こうげき》するんだ? そんなことやったって、自分がみじめになるだけだろ!!」
俺は、胸が痛んだ。昔の自分を見るようでたまらなかった。
助けがいる。
俺に差しのべられたような助けが、富樫に必要だ。
「富樫に……みんなに話をしてやってくれ」
職員室にいた千晶に、俺は言った。
「あんたが、つらいことを乗《の》り越《こ》えてきたって話をしてやってくれ。いろんなことがあったんだろ。大事な人を亡《な》くしたとか」
「…………」
千晶は、少し困ったような顔をした。
「カオルが言ったのか」
俺はうなずいた。
「ちょっとだけだぜ!? 詳《くわ》しいことは聞いてないよ。すげぇ面白《おもしろ》い話もあったけど? 石油王の王子からプロポーズされたって話とか」
そう言ってやったら、千晶は赤くなって膨《ふく》れた。
「プロポーズなわけあるか! 指輪をもらっただけだ。シャレだよ、シャレ!」
あの日―――。
千晶の病室から出てきた俺を、千晶の従兄《いとこ》、土方薫が待っていた。
「よ、話はついたか?」
俺の事情を知っているはずもないカオルさんだが、なんだかもう「全部わかっているぞ」と言いたげな雰囲気《ふんいき》が、さすが千晶の従兄《いとこ》だと俺は感心した。
「飲むか?」
俺は、自販機《じはんき》のコーヒーをおごってもらった。ベンチで並んでコーヒーを飲みながら、俺たちは話をした。千晶のケガのことを謝《あやま》ると、カオルさんは肩《かた》をすくめた。
「これが初めてじゃねぇしな。またかって感じだよ」
「そういやぁ、キズだらけっスよね、身体……」
「あいつは、巻きこまれタイプなんだよなぁ」
あれだけ目立つ存在なら仕方ないかもな。
「おまけに、目の前のことに頭より先に身体が動いちまう。誰《だれ》かを助けるのに、結果、身体を張りましたってことになるんだよなぁ」
「今回もそうでしたよ。おかげで俺らは助かったけど。家族の人は心配っスよね。先生、一人暮らしだし」
「まぁ、ナオミのまわりにはサポートする連中が大勢いるんでな。俺もマサムネもそうだし。そうでなくても、手のかかる猫《ねこ》みたいな奴《やつ》なんだ、あいつは」
カオルさんは、シブい顔をして頭をかいた。それから、俺の肩《かた》をポンと叩《たた》いた。
「お前にも世話をかけているようですまんな」
「あ、イヤ。全然……」
俺は、前々から疑問に思っていたことを、この従兄《いとこ》にぶつけてみた。
「千晶先生は……先生らしくないっスよね!?」
やわやわと探《さぐ》りを入れてみる。カオルさんは、アハハと笑った。
「あれで公立高校の教師はないわなぁ。掃《は》き溜《だ》めに鶴《つる》とまでは言わねぇけどよ、目立つだろ〜。あれでも、服装とか一応地味にしてるんだぜ。あいつの一番好きな色は、紫《むらさき》だからな」
俺は吹《ふ》き出《だ》した。そういえば、紫の服は一度も着ていない。なるほど、千晶が紫の服なんか着てきたら、似合いすぎといおうか刺激的《しげきてき》といおうか、とにかく女どもが黙《だま》っちゃいないだろう。
「ホストみたいっスよね」
今度は、カオルさんが吹き出した。
「お前も言うねぇ」
それからカオルさんはコーヒーを飲み干し、カップをベンチの向かいのゴミ箱へ、ヒョイと片手で飛ばした。それは綺麗《きれい》な弧《こ》を描《えが》いてゴミ箱へ吸いこまれた。
(オ。これは、球技をしてたっぽい!?)
「ホストか……。まぁ、近からず遠からずだな」
「マジで!?」
俺は、自分で言っといてビックリした。
「会員制のクラブを経営してたんだよ。仲間と共同でな」
「水商売……。やっぱり……!」
千晶の、あの隠《かく》しきれない華《はな》やかさというか玄人臭《くろうとくさ》さというか、絶対カタギじゃないと思っていたが。そうか、水商売か。なるほどなぁ。
「ただし言っとくが、怪《あや》しいクラブじゃないぜ。そこは、おシャレで粋《いき》で、若い奴《やつ》らが『本当の社交とは』を勉強するハイセンスな場所なんだ」
と、カオルさんは念押《ねんお》しした。
「ナオミには友人知人が多くてな。一声かけりゃ、百人ぐらいは軽く集まる。その中でも、特に仲のいい連れが五人いる。マサムネと……。スティングレーとミナコは、予餞会《よせんかい》に来たんだろ」
俺はうなずいた。
「それから、中国人のシン。ファッションモデルをしているビアンキ。この五人とは、ナオミが中学生から高校を出るぐらいまでに知り合って、ずっと傍《そば》にいるダチでな、みんなで何か商売をしようという話をしてたんだ。そんな時に、そのクラブのオーナーからクラブを譲《ゆず》られたんだ。それじゃあ、そこを経営していくかってことになったんだよ」
そこは、完全会員制の知る人ぞ知る有名なクラブらしい。もとのオーナーというのが、伝説的な歌手だったとか。千晶たちは、そのオーナーにとても可愛《かわい》がられていて、その縁《えん》でクラブの経営権を譲られた。
「ナオミが高校ぐらいから、クラブの経営を任される頃《ころ》までの、奴《やつ》らの行動の派手さといったらまぁ、ハンパじゃなかったぜ。遊びから事件から、どれをとってもドラマみたいだったよ」
カオルさんは、喉《のど》の奥《おく》で面白《おもしろ》そうに笑った。
それからカオルさんは、千晶たちがラスベガスで大金を当てたことや、それを持ってヨーロッパ中を遊び歩いたことなどを話してくれた。もう、すンげー面白かった! 千晶が赴任《ふにん》したての頃、千晶のヨタ話を聞いた田代が『きっとすっごい面白い話が、いっぱいあんのよ〜!』と言ってたが、そのとおりだったわけだ。
モナコの社交パーティで、千晶が石油王の王子に見初《みそ》められたとか(王子といっても三十|歳《さい》ぐらいだったそうだが)。ビアンキの父親が元軍人で、今はサバイバルスクールをやっていて、千晶たちはそこに遊びに行きがてら何度も訓練を受けたとか。それが、千晶たちのクラブが強盗《ごうとう》事件や詐欺《さぎ》事件に巻きこまれた時に役立ったとか。そして、友だちを命がけで救った話とか(千晶が経験した修羅場《しゅらば》って、このあたりの話だろうな)。
千晶の連れの話もしてくれた。美那子《みなこ》・ヴィーナスの父親は、なんと英国の大貴族だった。セレブなはずだ。スティングレーは、クラブ専属の歌手だった。やっぱりな。
「仲間に恵《めぐ》まれて楽しいことも多かったが、ああ見えてナオミは、けっこう苦労人でな。大切な人も何人か亡《な》くしてる。PTSDで壊《こわ》れかけたこともあったよ」
「マジで!?」
俺は、思わずカオルさんのほうを見た。窓の外の景色を見ながら、カオルさんは静かにうなずいた。窓の向こうは、青空に白い大きな雲のわいた夏の空だった。
「クラブの経営を仲間に任せて教師になったのも、大事な人を亡くしたことがきっかけになっている。あれがなければ今頃《いまごろ》は……、仲間たちとクラブを守りながら、たまにステージで歌ったりして、のんびり暮らしていただろうな……」
カオルさんは、本当はそう望んでいるのだと感じた。
「そうだったんスか……」
千晶が時折見せる、優《やさ》しいがどこか悲しそうな表情のわけが、やっとわかった気がした。
「そんなふうには見えないから」
そう言う俺の頭をグシャッとかき回して、カオルさんは言った。
「お前も両親を亡《な》くしたようには見えないぜ、稲葉。がんばってるよな」
教師の顔をして笑うカオルさんに、俺は笑い返した。
「ナオミは、ずいぶんお前のことを気に入ってるようだ。ま、お前の境遇《きょうぐう》が境遇だから、気にかけているってのもあるが。女の子が多いんでちょっとアレだが、条東商は楽しいと言ってるよ」
「女子のことは、先生にはホンット同情するっスよ。先生見てると、女にモテるのもほどほどがいいなぁって思うっス」
「違《ちげ》ェねえ!」
カオルさんは、大笑いした。
千晶は、「余計なことを話しやがって」とむくれていたが、カオルさんと連絡先《れんらくさき》を交換《こうかん》した俺は、チャンスがあれば千晶に黙《だま》ってまたカオルさんの話を聞きたいと、密《ひそ》かに思っている。
文化祭前日。
富樫は登校してきた。俺とは目を合わさないようにしているようだ。休み時間は、すぐに教室を出ていく。
「昨日は、困ったちゃん来なかったね」
と、田代が女どもと話していた。富樫は、ネットもしなかったんだな。ちょっとはこたえたか。
文化祭を明日にひかえ、今日の授業は昼までだ。準備が遅《おく》れているクラスは、担任の授業を拝《おが》み倒《たお》して潰《つぶ》してもらい、準備に当てるところもある。今日の四時限目は千晶の授業なので、俺はひょっとしたら何かあるかもと思っていた。
「そういやぁ、白ランはできたのか、田代?」
俺がそう言ったとたん、田代の顔が真っ赤に染まった。震《ふる》える手でVサインを出す。
「も……、あたし、鼻血で失血死しそうだったワ、稲葉。明日は、救急車呼んどいたほうがいいかもしんない、マジで」
と言ってから、田代はそのゆるみきったツラをサッと素《す》に戻《もど》した。
「あんた、明日はちゃんと、クリーニングした学生服を持ってくんのよ」
「わかってるよ」
「ボタン全部ちゃんとついてるでしょうね。欠けてたらつけてくんのよ。自腹で!」
「なんでウェイターの制服は、全部自腹なんだよ! 白ランは全部経費のくせに!」
「あんたらが、千晶ちゃんと同じランクなわけないでしょ――!」
「差別だ! 差別!!」
「いいのよ。あんたらは学生服で充分《じゅうぶん》なの! このへんの高校でガクランなのは、もう条南と条東商《うち》ぐらいなのよ。貴重なんだから」
「え、そうなのか?」
「鷹《たか》ノ台《だい》もブレザーになっちゃったしねぇ〜。ブレザーはブレザーでいいんだけども、あれって似合う似合わないの差がハゲシーのよねー。あンた、いかにも似合わないって感じ〜、稲葉クン。プププー! うちがガクランでよかったねェェ」
…………本当のことなので、反論しない。
長谷は、よく俺に自分の服をくれたりするんだが、ある時、ドレスシャツとジャケットを俺に着せ、ネクタイを締《し》めてみてしみじみと、
『似合わねぇなァ……』
と言ったことがある。俺にジャケットやネクタイが似合うようになるには、まだちょっと時間がかかるのかもしれない(似合うようになってくれ、俺。頼《たの》む)。
3−Cのクラスは、華《はな》やいだ空気に包まれていた。みんながクラスやクラブの出し物のことで頭がいっぱいで、最後の文化祭を楽しみにしていた。富樫をのぞいては。
そして、四時限目。
千晶は、教室に入ってきた時から雰囲気《ふんいき》が違《ちが》っていた。重い。それは、すぐにみんなに伝わった。クラスの空気がピリッと緊張《きんちょう》する。
(相変わらず、オーラでものを言う奴《やつ》)
俺は苦笑いした。
千晶は、チラリと富樫のほうを見て、いることを確認した。
「……ちょっと、みんなに話したいことがある。聞いてくれ」
何事かと、みんなが注目する。
「明日からいよいよ最後の文化祭だ。楽しみだな。高校三年生は、楽しいが難しい時期でもある。進路という問題がある。いろいろ悩《なや》んだ奴《やつ》もいるだろう。まだ悩んでいる奴もいるだろう。もう決まりましたという奴も聞いてくれ。まだまだ先の長いお前たちは、これからもいろんなことで悩むだろう。その時に、今日話したことを思い出してくれ」
シンとしたクラスに、千晶の言葉が広がってゆく。水面に広がる輪のように。
「俺が高校の時に知り合った友人は、中学生の時に一度臓器移植を受けていた。生まれつき身体が悪くて、小学生の時に病気が悪化したんだ。運動会や遠足……、友人は楽しいことを我慢《がまん》し続《つづ》けてきた。中学の時に臓器移植を受けて命は助かったが、身体はよくならなかった。彼《かれ》は頭がよくて、両親は優《やさ》しい人で、兄貴はスポーツができた。友人も元気だったら、スポーツ選手になれただろう。俺たちは仲良くなって、仲間たちとその友人をサポートし続けたよ。遠足や修学旅行に行けない分、お泊《と》まり会《かい》とか、近所の公園でピクニックとかやったもんだ」
千晶は、遠い思い出を想《おも》う目をしていた。
だがその表情は悲しげで、声はとても重かった。
「友人は、病気についてグチとか泣き言を言ったことは一度もなかったよ。薬、入院、手術、自由にならない身体、世話をしてくれる家族、治療費《ちりょうひ》のことも……まだ十代の子どもには、大変なプレッシャーだっただろう。だけど、あいつはいつも前向きで、元気になったらスポーツをしたい、将来は医者になりたいと言っていた。両親とも兄貴とも仲がよくて……本当にいい家族だった」
だが、病気は再び悪化した―――。
その友人は、また移植をしなければならなくなった。千晶たちは、手術の費用を集める手助けをし、友人はアメリカで移植ができることになった。家族と千晶たちに感謝しながら、元気になって帰ってくると約束し、友人はアメリカへ旅立った。
「だが、間に合わなかった……」
移植の順番を待っている間に、友人は亡《な》くなってしまった。
両親は千晶たちに「いい友だちに恵《めぐ》まれて、あの子は精一杯《せいいっぱい》生きて幸せだった」と感謝した。それは、千晶たちの慰《なぐさ》めになった。しかし、話はこれで終わりじゃなかった。
「あいつの兄貴が、ノートを持ってきた。あいつがこっそり書いていた日記のようなものだった。遺品の整理をしていて見つけたとな」
両親にも内緒《ないしょ》で書《か》き綴《つづ》られたそのノートには……
「死にたいと、書いてあったよ」
クラスのみんなが、息を呑《の》むのがわかった。
「ノートには、あいつの……本当の気持ち……。正直で、生々しい気持ちが書いてあった」
両親と兄のことは大好きだと。
千晶たち、友だちのことも大好きだと。
いくら感謝してもやまないと。
『それでも、僕《ぼく》はもう死にたい!
もう、病気は嫌《いや》だ。たくさんだ! 薬も手術もいらない。
どれだけ我慢《がまん》すればいいんだ。
どれだけ我慢したって終わらないんだ。
一生これと付き合うなんて耐《た》えられない!
死にたい。死にたい。死なせてくれ! もう僕を死なせてくれ!』
延々と、何ページにもわたって、血のような叫《さけ》びが書きなぐられていた。千晶たちは、愕然《がくぜん》とした。
「これだけは間違《まちが》えないでくれよ。あいつは、本当に前向きな奴《やつ》だったんだ。スポーツをしたい、医者になりたいというのも、本当に夢見ていたことだった。ただその一方で、もう死にたいとも思っていた。どっちもあいつの正直な心だったんだ。どっちも本物なんだ」
家族に恵《めぐ》まれ、友人に恵まれ、幸せだった。
だが、どれほどまわりの者がサポートしても、病気の苦しみ、死の恐怖《きょうふ》と実際に闘《たたか》うのは、本人だけ。その時、彼《かれ》はたった一人きりだった。
「その孤独《こどく》と不安と恐怖がどんなものか……想像してみてくれ」
クラスの空気が張《は》り詰《つ》めた。
教室の外は今日も秋晴れのいい天気で、校舎の屋根もグラウンドも、植《う》え込《こ》みの緑も煌《きら》めいている。文化祭を楽しみに待つ生徒たちの熱気が満ちあふれている。そのすべてが、嘘《うそ》のようだった。ものすごく遠くに感じた。俺たちに突《つ》きつけられている悲しく厳しい実話に、本当に身が凍《こお》る思いがした。
「俺は……、お前たちはこの友人に比べれば幸せなんだから、だからお前たちは文句を言うなと、そんなことは言わん。お前たちが感じる不安も孤独も本物だ。だが、お前たちの不安も孤独も、どうにかなるものだ。どうにもならないものじゃないんだよ!」
教壇《きょうだん》についた千晶の両腕《りょううで》が震《ふる》えていた。
「お前たちは健康だ。頭もいい。自分の足でどこへでも、どこまでも行ける。自分の手で何でもできる。これから先、いくらでも時間がある。可能性が無限にあるんだ。自分のそのすごさや素晴《すば》らしさを……お前たちは知っているか? あせらなくてもいいんだ。まだ悩《なや》んでいてもいい。答えが出なくてもいい。ただ―――」
千晶は片手で顔を覆《おお》い、うつむいた。
「あきらめるとか……投げ出すとか……、それだけはしてくれるなよ……」
誰《だれ》かの息を呑《の》む音が聞こえるほど、教室は静まりかえっていた。
千晶は、顔を覆ってうつむいたまま、黙《だま》ってしまった。その沈黙《ちんもく》が、いたたまれない。女どもの中には、肩《かた》を震わせている奴《やつ》もいた。そして……
「悪いが……、あとは自習にしてくれ」
そう言って、千晶は教室を出ていってしまった。
残された生徒たちは、固まったままだった。いきなりこんな重い話をされて、わけのわからない奴は、目をパチクリさせていた。誰かへのメッセージなんだろうと察しのついた奴は、そいつのほうへチラリと視線をやる。メッセージを送られた本人は……どう受け止めているのか。富樫はうつむいて、座《すわ》ったままだった。
「稲葉……」
田代が、困ったように俺を見た。女どもが、不安そうにさざめき始める。
「みんなを座らせとけよ、田代」
そう言って、俺は教室を出た。
屋上の給水塔《きゅうすいとう》に、やっぱり千晶はいた。向こうをむいて寝《ね》そべっている。煙草《たばこ》の煙《けむり》がゆるく流れていた。
俺は、その横に座った。いつものように。青空の高いところに、またたくさんのいわし雲が並んでいた。うまそうだと思った。
「あいつの兄貴は……」
向こうをむいたまま、千晶が言った。声がかすれていた。
「兄貴は言ったよ。あいつが死にたいって思うのは当然だと。病気と闘《たたか》うあいつは立派すぎて、見ていてかえってつらかったけど、本当は人間らしく、苦しんであがいていたんだとわかって、なんだかホッとしたとな」
そして、友人は「ああ、やっと死ねる」と―――、安らかに死んでいった。
死にたいと血の叫《さけ》びを上げながらも、最後まで病気と闘《たたか》った。それは、悔《く》いのない戦死だった。千晶たちも、そう納得《なっとく》できた。
(だったら……、なんで今、こんなにつらそうなんだろう)
千晶の背中を見て、俺は思った。千晶が本当に泣くはずもないけど(いや、カオルさんやマサムネさんの前なら泣きそうな気がする)、千晶は、今さめざめと泣いているように感じる。俺は、その背中を見つめ続けた。すると、それを察したかのように、千晶は言った。
「昔……この同じ話をしてやった奴《やつ》がいてな……。そいつのことを思い出した……」
「……富樫みたいな奴? それで、そいつどうした?」
「死んだよ」
ハッとした。
乾《かわ》いた声だった。遠くに過ぎ去った微《かす》かな思い出を、さらっと撫《な》でたような声。ゆるく吹《ふ》く風に飛ばされていった。
「事故死だった。立ち直ってくれた後だったからな……、あれはこたえたな……」
「…………」
誰《だれ》だって、悲しい思いや苦しい思いの一つや二つ背負っている。そう見えないからといって「お前はいいよな、恵《めぐ》まれていて」なんて―――口が裂《さ》けても言えねぇよ。
そして、喜びや希望のない人生もまたないんだ。
希望と不安、喜びも苦しみも、ミルフィーユのように折り重ねて生きる。
人は、そうして強くなれる―――。
俺は、後ろからサッと千晶の髪《かみ》の間に手を入れ、グシャグシャッと思い切りかき回してやった。
「何すんだ、コラア!」
という怒鳴《どな》り声《ごえ》を聞きながら、スタコラ逃《に》げた。
俺が教室に戻《もど》ってきて少したってから、さわさわと不安そうに落ち着かない教室へ千晶が戻ってきた。前髪《まえがみ》がバッサリと垂れていた。俺はプッと吹《ふ》き出《だ》したが、千晶の、前髪をかき上げる姿に、沈《しず》んでいた女どものテンションが一気に上がる。さすがに「ギャーッ」と叫《さけ》ぶのははばかられたか、女どもは「ひゃああ!」と、息を吸ったり吐《は》いたりした。千晶は、ちょっとバツが悪そうだった。
「えー、あと二十分ほどしかないんでもう終わりにするから、文化祭の準備に移っていいぞ」
田代がすかさず立ち上がって言った。
「じゃあ、机と椅子《いす》を喫茶店《きっさてん》仕様に並《なら》べ替《か》えてくださーい!」
重い空気から解放され、みんないそいそと働いた。
ポンと、俺の肩《かた》を叩《たた》いてきた田代は、目玉をグリグリさせていた。
「ハニーってば髪《かみ》の毛《け》乱しちゃって……ナニがあったのかなぁ〜?」
「何もあるかあ!!」
「そぉよ、たぁこ。何もあるはずないでしょ。稲葉君が千晶先生といた時間なんて、せいぜい十五分くらいよ」
と、垣内。
「十五分じゃねぇ〜」
と、桜庭。オイ。
「イヤイヤ〜。十五分ありゃあ、なんとか。ひひひ」
「でも十五分じゃあんまりじゃない?」
「そぉよぉ。ハニーがかわいそうよぉ。うひひひ」
「……お前らの会話は、まるでエロオヤジのようだ」
「明日、明後日は、かなりの客が殺到《さっとう》するものと思われます! 夏コミ並みのお客整理テクがいるわよ――っ!」
田代が檄《げき》を飛ばすと、
「任せろ―――っ!!」
腕《うで》を突《つ》き上《あ》げて応《こた》える女ども。
『3−C男子学生服|喫茶《きっさ》はこちら』とか『3−C男子学生服喫茶|最後尾《さいこうび》』とか『二列にお並びください』とかの看板ができあがっていた。俺たちウェイターの名札もできていた。白い厚紙で、『ユーシクン かに座 A型』と書かれた、ビーズとかでピカピカゴテゴテのハート形の名札だった。安パブの看板みたいだ。
「これつけて接客しろってか。トホホだな」
「親に見せらんねー」
上野や岩崎ら、ウェイター同士でため息をつく。
「我慢《がまん》しろ。千晶の白ランよりマシだ」
「三十過ぎて学生服……プププー!」
上野が笑った。
「笑うな。殴《なぐ》られるぞ」
「千晶なら本当に殴るぞ」
「だって、オカシー。しかも白ランて! 俺、ぜってーイヤだ」
ゴッ!
「てえっ!!」
千晶は、通り過ぎざま上野のドタマを殴っていった。
「ホラな。千晶なら殴るって」
「大人げない!!」
上野は、千晶の後ろ姿に叫《さけ》んだ。
中庭で、富樫を呼び止めた。携帯《けいたい》を投げてやる。
黙《だま》ってその場を離《はな》れる俺を、携帯を握《にぎ》りしめたまま、富樫がいつまでも見ていた。
「よろしいので?」
俺の肩越《かたご》しに富樫を見ながら、フールが言った。
「千晶のあの話を聞いて、目が覚めなきゃ本物のバカだ」
本物のバカだとは……思いたくない。
[#改ページ]
[#挿絵(img/09_111.png)入る]
いらっしゃいませ、お客様
そして翌日。
とうとう、俺たち三年生には最後の文化祭の幕が上がった。
松岡《まつおか》生徒会長の開会宣言の後、俺はまず3−Cでウェイターをする。英会話クラブの紙芝居《かみしばい》では、バットマンの相棒のロビンを演じることになっているんだが、それは午後の一回の公演の時でいい(公演は二回あるが、役はそれぞれダブルキャストになっている)。それ以外は、一、二年生のレポート発表なので、他《ほか》の部員に任せておけるんだ。
3−Cの教室前では、開店前にもかかわらず「ゲゲッ」と仰天《ぎょうてん》するほど長蛇《ちょうだ》の列ができていた。女、女、女。制服、私服、学生、大人とりまぜて。
「壁際《かべぎわ》に二列に並んでくださーい!」
案内係は、早くもフル回転だ。
「申し訳ありませんが、当3−C男子学生服|喫茶《きっさ》は、一組様三十分時間制限となっておりまーす。ご了承《りょうしょう》くださーい」
客たちは、「え〜?」と不服そうな声を上げたが、これだけ客が多いと仕方がないと納得《なっとく》したようだ。
「写真を撮《と》るのはかまいませんが、サインやメアドの受《う》け渡《わた》しはご遠慮《えんりょ》くださーい」
「十二時から一時まで休店いたしますので、あらかじめご了承くださーい」
俺は、カーテンをくぐって教室へ入った(3−Cの教室は、ドアも窓もカーテンで目隠《めかく》しされている)。
テーブルクロスや花で飾《かざ》りつけられた店内に、白ランを着た千晶がいた。
「千晶……!」
上着の丈《たけ》が少し長めの、白い学生服。合わせはボタンではなく、ファスナー。ファスナーと袖口《そでぐち》の部分は濃紺《のうこん》。腰《こし》が細く見えるデザイン。
びっくりした。あまりにも……似合いすぎてなんというか、嘘《うそ》みたいというか。完璧《かんぺき》だが現実離《げんじつばな》れしているというか……。そう、『こういう生き物』という感じ! そう思ったら、俺は「ブハッ」と吹《ふ》き出《だ》してしまった。
「笑うな」
ゴッ! と、頭を殴《なぐ》られた。
「イデッッ!!」
大人げない。
「どぉ、稲葉! スッテキでしょ――! も、マジで王子サマみた〜〜〜い!!」
田代が絶叫《ぜっきょう》すると、つられて女どももキャ〜〜〜ッと叫《さけ》ぶ。まるで、花を散らしたようなオーラが出まくっている。千晶は、もう「あきらめた」みたいな顔をしていた。
ウェイターたちも、クリーニングしたての学生服に着替《きが》え、名札をつけた。
「しかし、千晶にはビックリだよなぁ。あんなに似合うと思わんかった。三十過ぎた男に見えねぇよ」
上野が呆《あき》れたように言う。
「あんなものまで着こなしちまうとこが、泣き笑いだな」
「教室の前の大行列見たか、稲葉。こりゃあ、大騒《おおさわ》ぎになるぞォ」
岩崎は武者震《むしゃぶる》いした。
「ハイ。チアキオーナー|※[#ハート(白)、1-6-29]《ハート》 名札デス!」
板ガムのような形の金色の名札が、千晶の胸元《むなもと》につけられた。「CHIAKI」と刻まれている。俺らウェイターのダサい名札とえらい違《ちが》いの特注品だ(こんなとこにも予算をつぎこんでやがる)。
「差別だ!」
「差別もはなはだしい!」
と、千晶にブツクサ言ってやると、千晶はフフンと顔を歪《ゆが》ませ、
「お前らとは、格が違うんだよ」
と、下ろした前髪《まえがみ》をかき上げた。
「キャ〜〜〜〜〜ッ!!」
ひときわ高い悲鳴が上がる。
「さあ、店を開けよう。お嬢《じょう》ちゃんたち」
千晶が、パンパンと手を叩《たた》いて言うと、女どもは直立不動で応《こた》えた。
「ハイ、チアキオーナー!」
「…………」
「何あれ?」
「開き直ったな」
イマイチ乗れない、俺たちウェイター。しかし、さすが千晶は元クラブ経営者だなぁ。堂に入ったもんだ。
3−C男子学生服|喫茶《きっさ》がオープンした。
テーブルは全部で十五席。三十人が座《すわ》れる。各テーブルには番号がふってあり、タイムキーパーが時間を管理している。
客たちが、キャーキャー言いながら入ってきた。教壇《きょうだん》の椅子《いす》に座っている千晶を見て、客たちは例外なくその場に棒立ちになった。
千晶は特に接客することはなく、基本、教壇に座って雑誌なんかを読んでいる。しかし、その姿だけで女どもは充分《じゅうぶん》らしい。
「千晶先生〜」
条東商の女生徒が声をかけると、千晶は当然手を上げて応《こた》える。すると条東商《うち》の女生徒《おんなども》は、誇《ほこ》らしげに喜んでみせるのだった。あきらかに他校の女どもへの自慢《じまん》だ。「この人は私たちの先生なのよ」というアピールというかあてつけというか。怖《こわ》っ。
「いらっしゃいませ、お嬢様《じょうさま》」
こうなれば、俺たちウェイターも開き直って仕事に徹《てっ》するしかない。跪《ひざまず》いてオーダーを受ける姿は、客たちに大受けした。
千晶を見る女どもの熱視線で、あっという間に店内の温度が上がる。千晶が動くたびに、その視線も動く。空間がハート形の視線で埋《う》め尽《つ》くされてゆく。まさにムンムンという感じだ。
「ス、テ、キ……!」
「本物の白ラン美形キャラを見られるなんて、もう死んでもいい」
「ね、ね。あの先生よね、あの事件の……」
「条東商に入ればよかった。一生の不覚」
「この人が先生なんて、嘘《うそ》みたいよねぇ」
「千晶センセー、じゃなくってオーナー! 一緒《いっしょ》に写真|撮《と》ってくださーい!」
ジュースを飲むのもそこそこに、客たちは千晶やウェイターと記念写真を撮りたがる。俺たちウェイターは、オーダーに記念写真に大忙《おおいそが》しだ。客は次から次へ押《お》し寄《よ》せた。麻生や校長までが覗《のぞ》きに来た。笑っていた。高山が来た時なんか、田代が呼び入れて千晶と並ばせたもんだから、女どもの盛り上がりは凄《すさ》まじく、みんな狂《くる》ったように写真を撮りまくっていた。
「よー、チアキちゃ〜ん」
肉食獣《にくしょくじゅう》の群れのような女どもの中に勇敢《ゆうかん》にも並んで、アスカ、マキ、リョウの普通科《ふつうか》三人組もやってきた。
「わざわざ並んでまで来んなよ」
千晶は渋《しぶ》い顔をした。
「だって〜、チアキちゃんの白ランだぜ〜」
「これ見なきゃウソでしょー」
「さすが似合う〜〜〜! ひゃっひゃっひゃ」
三人は、嬉《うれ》しそうに千晶と記念写真を撮《と》っていた。
「俺ら、いつになったら休めんのかねぇ?」
岩崎が、ゲッソリと言った。
「昼休みは一時間タップリとってあるから、それまでがんばって!」
ジュースやコーヒーを用意する裏方の田代や桜庭たちも、大車輪で働きづめだ。
「ジュース! オレンジジュースが足りないわ!」
「買いに行ってきます!!」
「あと、紅茶とマドラーもお願い!」
「二人で行ってきて! 急いで!」
「ハイッ!!」
ちなみに喫茶店《きっさてん》のメニューは、オレンジとリンゴジュース、インスタントの紅茶とコーヒーを、いずれも紙コップで出す。あと、クッキー。
正午。
「3−C男子学生服喫茶は、午後一時まで休店しまーす! 今並ばれている方には、整理券をお配りしまーす!」
客たちに配られた整理券は、二百を超《こ》えた。
「ハ〜、すンごい大盛況《だいせいきょう》だねー!」
「目が回る〜」
裏方の桜庭や垣内も汗《あせ》だくだ。俺たちウェイターはヘトヘト。千晶も疲《つか》れたんだろう、首や肩《かた》をコキコキいわせている。一時間の休憩《きゅうけい》時間をとるのは、千晶のためだ。
「お疲れさまです、チアキオーナー! 冷たいお茶がいいですか、熱いコーヒーがいいですか?」
「じゃあ、コーヒーをもらおうか」
オーナーには、専属の世話係がついている。差別だ。
「さ、午後からは、三時までの二時間だからがんばろう! 飯食って、力つけるぞ――!」
「オ―――ッ!!」
女どもは拳《こぶし》を振《ふ》り上《あ》げる。タフだなぁ。
「オーナー、あたしの作ったお弁当食べてー!」
「あ、私も!」
「あたしも作ってきたー!」
「差し入れ持ってきましたー」
教室内で、大ランチ大会が始まった。持ち寄りの弁当やお菓子《かし》が、花畑のように広げられる。
「あ、あんたらも食べていいわよ。千晶ちゃんの次にね」
女どもは、思い出したように付け加えた。
「差別だ!」
「はなはだしい差別だ!」
「地球は一つなんだぞ!」
「お前らが、そんなことを言うならなぁ〜……」
俺は、女どもの前に大きな包みをドンと置いた。
「ひかえおろう! うちの賄《まかな》いさんの差し入れだぁー!!」
「キャ〜〜〜ッ!!」
女どもは飛び上がった。
みんなのために、るり子さんが作ってくれたウルトラスペシャル差し入れは、チーズ入りのふわふわミニハンバーグ、三色野菜の豚肉巻《ぶたにくま》き、冷めてもさくさくポテトコロッケ、薔薇《ばら》の花のスモークサーモン、チキンのチューリップ、タコさんウィンナー。
キュウリ、大根、人参《にんじん》のスティック野菜は、ちょっと甘《あま》みのついた味味噌《あじみそ》で、ブロッコリ、ホワイトアスパラ、セロリは、サワーオニオンのディップでいただく。
梅シソちらし、おかかちらし、海苔塩《のりじお》の可愛《かわい》いミニ三角おにぎり。厚焼き卵、ツナ、ポテサラの一口サンドイッチ。そして、桜でんぶなどで梅の花を描《か》いた飾《かざ》り寿司《ずし》の、超豪華《ちょうごうか》ラインナップ。
まるでオモチャ箱のようにカラフルで可愛いし、シンプルで懐《なつ》かしい弁当定番メニューも嬉《うれ》しい。デザートは、こし餡《あん》、つぶ餡、栗餡《くりあん》のミニドラ焼きだ。
「このお寿司《すし》、キレエェェェ!」
「可愛《かわい》い〜〜!」
俺は、飛びかからんばかりの女どもを制した。
「ハーイ、ハイハイ。お前らは後〜。まずは、オーナーが先デス。チアキオーナー、どうぞお好きなものをお取りくだサイ」
千晶は、苦笑いした。それから、るり子さんの宝石箱をしげしげと見た。
「素晴《すば》らしいなぁ。いかにも美味《うま》そうなことが伝わってくるよな。色合いなんかも、全部計算されているんだろうなぁ。女の子たちは、しっかり見て盗《ぬす》めよ」
そう言うと、タコさんウィンナーをひょいとつまんで口へ放《ほう》りこむ。
「幼稚園《ようちえん》の遠足を思い出す」
「タコさんウィンナーを食べる千晶ちゃん、カワイー」
「千晶センセにも、幼稚園の頃《ころ》があったのねぇ」
きゃあきゃあとワイワイと、みんなで食事をする。高校最後の最高に楽しい思い出に、女どもは本当に幸せそうだった。つられて男どもも嬉《うれ》しくなる。この場にいない連中も、クラブの出し物に参加してせっせと思い出を作っていることだろう。
(その時でしか経験できない楽しいことがいっぱいあるぞ。経験しとかないともったいないぞ、富樫……)
俺は、心の中で呼びかけた。
男子学生服|喫茶《きっさ》は午後からも大盛況《だいせいきょう》で、千晶は椅子《いす》に座《すわ》ったまま動きが鈍《にぶ》くなったものの、相変わらず堂に入《い》ったモデルっぷりで客たちの写真|撮影《さつえい》に応じていた。
そして、喫茶店の閉店時間と、俺と田代のクラブでの出番の時間が迫《せま》ってきた頃《ころ》、
「神谷サン!」
女どもの歓声《かんせい》とともに、神谷兄貴と江上元部長が入店してきたのだ。
「わー、神谷さん!」
「お久しぶりですー!」
ツヤツヤの黒髪《くろかみ》にカラフルなヘアピンは同じだが、私服の神谷さんを初めて見た。華《はな》やかなピンクのレースのスカートに、シンプルな白いセーター、黒いハーフブーツ。知的でハイセンスな女性であることが伝わってくる。
「やっと入れた!」
神谷さんと江上さんは、嬉《うれ》しそうに言った。それから神谷さんは、千晶のほうへ余裕《よゆう》の視線を送る。
「お久しぶりです、千晶センセ。なんて素敵《すてき》なお衣装《いしょう》なんでしょう」
千晶は渋《しぶ》い顔だ。どうも神谷さんは苦手らしい(気持ちはわかる)。しかし千晶は、おもむろに立ち上がると、神谷さんと江上さんの前で片膝《かたひざ》をついた。
「いらっしゃいませ、お嬢様《じょうさま》」
「ヒャ〜〜〜アアア!!」
女どもが大きくどよめいた。神谷さんと白ランの千晶のツーショットは……まるでドラマのようだった(どんなドラマだ!)。
「ひ〜〜〜っ、も、萌《も》え〜〜〜っ!!」
田代が、泣きそうな声を上げた。
千晶は神谷さんと江上さんの手を取って、恭《うやうや》しくテーブルへ誘導《ゆうどう》する。
「特別サービスだ」
「光栄ですわ」
「むふふ♪ 優越感《ゆうえつかん》」
それを眺《なが》める女どもは、顔を真っ赤にしてうっとりとしていた。目玉がハート形になっている。マジでハート形になっている!
「ここはホストクラブか」
女どもの「萌《も》え」などわからぬ男どもは呆《あき》れる。
「青木《あおき》が見たら、憤死《ふんし》するぞ」
俺は笑った。真面目《まじめ》で純粋《じゅんすい》でお堅《かた》い青木先生様にも、この女どもの「萌え」は理解できないだろうなぁ。
神谷さんと江上さんにコーヒーを出したところで、俺と田代はタイムアウトとなった。
「じゃ、俺らクラブへ行きますんで」
「あたしたちもすぐに行くわ」
江上さんは手を振《ふ》った。
男子学生服|喫茶《きっさ》も、もうあと十五分ほどで閉店だ。今日入店できず明日も来るという客には、整理券が渡《わた》されることになっている。
英会話クラブにも、去年より多くの客が来てくれたという。男子学生服喫茶の余波だろう。
紙芝居《かみしばい》『バットマン』は、十分くらいの上演。日本語のセリフの書かれた紙芝居を見せながら、その横で部員が英語で演じる。効果音も部員が口真似《くちまね》する。変わった上演方法に、けっこうたくさんの客がなんだなんだと寄ってきてくれた。女悪役の田代が今年もノリノリで、拍手喝采《はくしゅかっさい》を浴びていた。ホント馬力のある奴《やつ》だ。
三時半に校内すべての出し物は終了《しゅうりょう》し、文化祭一日目が終わった。今までで一番|疲《つか》れたけど、心地好《ここちよ》い疲労《ひろう》だ。今夜はるり子さんの食事がとびきりうまいぞ。
英会話クラブの部室で、神谷さんと江上さんとしゃべった。二人とも、もうすっかり大学生っぽい。江上さんは、ホテル業界に就職を希望している。将来は外国のホテルで働きたいという。しばらくはお互《たが》いの近況《きんきょう》などを話していたが、
「実はねぇ、今日はみんなに話したいことがあるの」
と、唐突《とうとつ》に神谷さんが言った。
「あたしにも? 何?」
江上さんはキョトンとした。
「もう黙《だま》ってられなくて」
「な、なんなのよ」
「自慢《じまん》したくて自慢したくて自慢したくて〜〜〜!!」
神谷さんが、まるで小さな女の子みたいに叫《さけ》んだので、俺たちはびっくりした。
「自慢!?」
それから神谷さんは、ほぅとため息をついた。
「白ランの千晶センセ……、最高に素敵《すてき》だわ」
そのウットリした目をキッと剥《む》くと、神谷さんは田代の鼻をつまんだ。
「あんたたちはこの一年、あんな千晶先生を独占《どくせん》したのよねぇぇぇ」
「フガッ、独占したわけでは……フガッ」
「私たちはたった半年しか千晶先生といられなかったのに、あんたたちは、遠足だ修学旅行だと、イベントいっぱい!」
いまだにそれを根に持っているのか、神谷さん。
「確かにムカついたわ」
江上さんもうなずく。
「予餞会《よせんかい》はとってもよかったけど、それだけに、卒業してもう会えなくなるのが悔《くや》しくて悔しくて!」
「ウンウン」
「だから、もう教師と生徒じゃないんだから、プライベートで会ってくださいって言いに行ったの」
「ウンウ……あんた、そんなことぬかしたの!?」
江上さんは目を剥《む》いた。俺たちもビックリ。
「ぬかさせていただいたわ!」
神谷さんは、ふんぞり返って胸を張った。
「でも千晶先生ったら、それはできないって言うの」
そりゃ言うだろう!
「俺にとっては、お前はいつまでも生徒だよ、なんて、ビクビクしながら言うのよ。もぅ、憎《にく》らしいやら可愛《かわい》いやら、殴《なぐ》りとばして押《お》し倒《たお》してやろうかと思ったわ」
こ、怖《こ》ぇええ〜〜〜! この人ならマジでやりそうだ。
「それって性犯罪だからね、神谷」
「女って得よねー。いつでも被害者[#「いつでも被害者」に傍点]だから」
神谷さんはクスリと笑いながらそう言う。怖ぇえ!!
「でも、そうするわけにはいかないから、腹いせに胸でグイグイ壁《かべ》に押《お》しつけてやったの」
充分《じゅうぶん》セクハラだよ!
「スゴすぎます、神谷サン」
「こういう奴《やつ》だ」
巨乳《きょにゅう》ではないが、豊かな神谷さんのバストと壁にはさまれて進退きわまった千晶は、ついに音《ね》を上げた。
「わかった、神谷! わかったから!! 離《はな》れなさ―――い!!」
解放された千晶は、汗《あせ》だくになりながら神谷さんに一枚の名刺《めいし》を渡《わた》した。
『Club Everton』
「クラブ……エヴァートン」
「そこには、俺よりいい男が山ほど揃《そろ》っているぞ。完全会員制のクラブだが……」
千晶は、名刺に「Chiaki」とサインした。
「これを入り口で見せれば入れてくれる。それから、オーナーのマサムネに会いたいと言え。チアキの紹介《しょうかい》で来たとな」
「……と、いうわけでね」
と、神谷さんは俺たちに色っぽく微笑《ほほえ》んだ。
(それって、カオルさんの言ってた、千晶が仲間とやってたクラブ!? そうか、マサムネさんが今のオーナーなのか)
驚《おどろ》く俺の横で、さらに驚いたのが田代だった。
「クラブ・エヴァートンって! 一部の人の間ですンげぇ有名な、超《ちょう》シークレットなクラブじゃないですか! 特別な方法でしか会員になれないから、誰《だれ》もクラブの詳《くわ》しいことを知らないって」
神谷さんは、誇《ほこ》らしげに名刺《めいし》を見せて言った。
「これがそうよ、田代。千晶先生は、そこの関係者だったの。私、クラブへ行ったわ。オーナーのマサムネさんにも会ったわ。もー、すっごい素敵《すてき》な人だったわよ。さっきの千晶先生のように、私をエスコートしてくれたわ。クラブ・エヴァートンって、最高にオシャレで素敵なところよ!」
神谷さんの瞳《ひとみ》は、キラキラと輝《かがや》いていた。
「ズッ、ズル―――イ!!」
田代と江上さんは、絶叫《ぜっきょう》した。
「何? なんで、あんただけそんな!」
「ズッリー、ズッリーです、兄貴! あたしもそこに入りたいっスー!」
「ホホホホホホ、ごめんなさい! これは、特別に特別ということでもらった魔法《まほう》のパスなのよ! 千晶先生からは、固く口止めされたの。でも、我慢《がまん》できなくって! 誰《だれ》かに自慢したくて自慢したくて!!」
「ヤな女―――っ!!」
「あんまりっス、兄貴〜〜〜!!」
(……千晶……、よっぽど神谷さんが怖《こわ》いんだな。気持ちはわかるが……)
俺は、千晶に深く同情した。
「とはいえ、千晶センセは神谷サンならということで、秘密のクラブに紹介《しょうかい》したんだろうし、神谷サンは江上サンと田代ちゃんならということで、自慢し倒《たお》したってわけだ。イヤ〜、信頼《しんらい》という絆《きずな》を感じるナー」
と、詩人はため息まじりに言った。
夕飯後、温泉にゆったりつかって、俺たちは満月を見上げていた。
「おおげさっスよ、一色さん」
笑い声が洞窟《どうくつ》に反響《はんきょう》した。
うまい飯と温泉のお湯で、疲《つか》れた俺の身体がみるみるとろけてゆく。
「はぁ〜……」
思わず声に出た。
「いい顔してるなぁ、夕士くん」
佐藤さんが、細い目をさらに細めた。
「キラキラしてるよネー」
「目一杯《めいっぱい》今を生きてますって感じだ。こういうところが、人間の素晴《すば》らしさなんだよなぁ」
「明日にはどうなっているかわかんないもんネ、人間は。あっという間に死んじゃうこともあるしネ」
詩人の声の調子は軽いが、言葉の意味は重かった。
「だからこそ、目一杯《めいっぱい》生きる人間は美しいんだよネ」
俺はうなずいた。
「でも、俺は明日死ぬ気はないっスよ。明日は、長谷も来るし」
「ハハハ。そうだったね」
「長谷クンと千晶センセのツーショットかー。見たいナー」
俺の「事情」を知ってくれている者同士。
長谷と千晶は、何を話したりするんだろうか。
文化祭二日目。
この日も、3−C男子学生服|喫茶《きっさ》前には、開店前から客の長い列ができていた。評判が広まって、昨日より多くの客が来ているようだ。
「時間内にさばききれなかったら、どうすんだ? パニックが起きるんじゃないか?」
と、俺は心配したが、田代はビシッと親指を立てた。
「ラスト一時間で並ぶのは締《し》め切《き》るし、それでも入店しきれない人には、千晶ちゃんに一人一人|握手《あくしゅ》してもらう。モエギの白ラン千晶ちゃんイラストポストカードもつける」
「用意|周到《しゅうとう》だなぁ」
「ただでさえ、うちは大勢のお客さんが詰《つ》めかけるって、まわりに迷惑《めいわく》かけることをしてるの。それをよくないって思ってる人もけっこういるのよ」
「それがどんな奴《やつ》か、察しがつくよ」
「だからそのうえパニックなんて、ぜ―――ったいに起こしちゃダメなの。二重三重の用意をしてるわよ。あたしたちは、失敗できないんだ。千晶ちゃんのために!」
田代は、拳《こぶし》を振《ふ》り上《あ》げた。
男子学生服|喫茶《きっさ》をやるにあたり、3−Cの女子がもっとも力を注いだのは、千晶の白ランと客への対応だった。『3−C案内係』の腕章《わんしょう》をつけた係員が五メートルごとに立ち、客の列を整理し、他の通行人の邪魔《じゃま》にならないよう監視《かんし》した。一組三十分の時間制限や、写真|撮影《さつえい》などのマナーを、あらかじめ繰《く》り返《かえ》し客たちに知らせ、クレームや違反者《いはんしゃ》が出ないよう注意した。教室の窓をすべて塞《ふさ》いだのも、並んでいる客以外の奴がまわりをウロウロしないようにだ。田代たちは、こういうことを何度もみんなで話し合った。
「他《ほか》のクラスや先生たちからクレームが出るようなことには、断じてさせないわ! 千晶ちゃんに恥《はじ》をかかせることは、死んでもできないのよ!」
「白ラン着てるだけで、充分《じゅうぶん》恥だもんな」
……とは、口には出さなかった。それは置いといて。たいしたもんだよ、田代たち女どもは。感心した。
「お前らがそんなこと話し合ってるって、全然知らなかったな」
「ウェイターは、ウェイターっていう仕事があるじゃん。それやってくれるだけで充分。あんたらだって働きづめなんだからサ」
と、田代はサラッと返す。
「お前、過労死すんなよ!?」
「死んでるヒマなんかないわ! もったいない!!」
田代らしい答えだった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/09_135.png)入る]
お疲《つか》れさまでした
というわけで、男子学生服|喫茶《きっさ》は今日も大繁盛《だいはんじょう》。空間は女どものハートで満杯《まんぱい》で、息苦しいほどだった。
「稲葉」
「長谷!」
昼前|頃《ごろ》、長谷が後藤と一緒《いっしょ》にやってきた。
「やっと入れたぜ」
「すっげーなぁ、オイ。高校の文化祭でこんなの見たことねぇよ」
長谷も後藤も苦笑いしていた。あの女どもの群れの中に並んだお前らも、たいしたもんだよ。
「いらっしゃいませ、お客様」
俺が二人に向かって深々とお辞儀《じぎ》すると、二人は大笑いした。
席についた長谷は、記念|撮影中《さつえいちゅう》の千晶をなめるように見た。
「あれが、噂《うわさ》の千晶先生か」
興味津々《きょうみしんしん》といった感じだ。
「今日は、ちょっとアレな格好だけどな」
「あの人って、アレだろ。強盗《ごうとう》事件の」
後藤も興味深げだ。
「うん」
「マッチョな体育会系だと思ってたぜ。全然|優男《やさおとこ》じゃん。タカラヅカ!?」
「ああ見えて、脱《ぬ》いだらスゴイぞ。全身傷だらけだ」
「マジでか!?」
あの強盗事件以来、千晶のもとには、いまだにテレビ局などから取材の申《もう》し込《こ》みがある。まあ、無理もない。生徒を命がけで救ったというだけでドラマチックなのに、その当人が芸能人も真っ青のいい男じゃあ、ドラマチックなうえにもドラマチックだ。マスコミがヨダレをたらして食いついてくるのも責められないよな。映画化やドラマ化や小説化の話も山ほどあるとか。
(ドラマ化や映画化の場合、俺の役は誰《だれ》がするんだろうか?)
なんて、つい考えてしまうのは千晶には内緒《ないしょ》だ。絶対、殴《なぐ》られる。
「長谷〜」
長谷に声をかけてきたのは、客として来ていた元木だった。
「お、元木妹! 兄貴は元気か?」
長谷は、ちゃんと覚えていた。
「稲葉は、あたしのこと覚えてなかったのよ〜」
「ええ、そうなのか? しょうがない奴《やつ》だなぁ」
「あんたのしつけが悪いから〜」
「ハハ、すまんすまん。叱《しか》っとくよ」
オイッ! 何その会話!!
「稲葉って、高校入ってから変わったよね。中学の時は、ホントに長谷の金魚のフンでさ〜。他《ほか》の奴は寄ってくんなみたいだったけど。明るくなったってゆーか〜」
「みんなのおかげだよ」
と、長谷は俺の代わりに言った。
「あんた、淋《さび》しいんじゃない、長谷〜? 娘《むすめ》を嫁《よめ》に出した父親とか、子どもが巣立った親って感じ〜?」
「ハハ」
「まぁ、心配しないでいいから。稲葉には千晶先生がいるから〜」
「う〜ん、そうみたいだなぁ。千晶が千晶がってうるさいしねぇ」
「ちょっとジェラスィ〜〜〜? ンフフフ♪」
「イヤイヤ。俺は心のひろ〜い男だから」
「その気色悪い会話をやめろ」
ハッ、そうだ。千晶で思い出した。
「千晶! ……オーナー」
俺は、長谷を千晶に紹介《しょうかい》した。
「俺の小学校からの親友で、長谷泉貴。こっちはその友だちの後藤芳樹」
千晶は後藤と握手《あくしゅ》し、次に長谷の手を取った。
「君が、長谷君か」
「あなたが、千晶先生ですね」
意味深にうなずき合って、二人は握手した。とたんに、バシャバシャとシャッター音とフラッシュがはじけ飛ぶ。白ランの千晶と、高級ジャケットにネクタイ姿の長谷が並んでいるさまは、なんとも絵になるというか非日常的というか、女どもの「ギャーッ」という絶叫《ぜっきょう》が聞こえてきそうだった。
「さすが、ド迫力《はくりょく》ね〜。最高級のサラブレッドが二頭並んでいるって感じだワ〜」
元木は鼻血をたらしていた。
千晶と長谷は、しばらく話をしていた。部屋中の女どもの目玉という目玉にギラギラ見つめられて、後藤は落ち着かない様子だったが、さすが千晶と長谷は動じない。平然としゃべっていた。
「マジですげぇわ、あの二人。お前らは芸能人かって、百回ぐらい心の中でツッコんだぜ」
と、後で後藤が言った。
三十分後、長谷と後藤は席を立った。
「じゃ、しばらくブラブラして、英会話クラブへ行くよ」
「がんばれよ、ウェイターユーシクン」
二人はその後、学食《ホール》へ行ってラーメンをすすり、家庭科|主催《しゅさい》の喫茶店《きっさてん》で手作りケーキを食べ、雑貨店を冷やかし、バッティングゲームでホームランをかっ飛ばしたりして、条東商の文化祭を堪能《たんのう》したようだ。英会話クラブにやってきた後藤は、「楽しい」を連発していた。
「そうだ。北陽《うち》でやった女装男装大会の写真を持ってきたぜ」
おふざけとしか思えない女装から見事な男装まで、総勢十五人ものエントリーは壮観《そうかん》だった。三年女子の、タカラヅカ真っ青の華麗《かれい》なる男装も、一年男子の、どこからどう見ても女の子にしか見えない可憐《かれん》なメイド姿も秀逸《しゅういつ》だったが、それを抑《おさ》えて堂々一位に輝《かがや》いたのは、三年のラグビー部男子だった。
このラガーマンは、腕《うで》や足の毛をわざわざ剃《そ》りあげ、チャイナドレスを着て金髪《きんぱつ》のカツラをかぶった。すると、身体はゴツイのに、チャイナドレスにピッタリ包まれたそこには、素晴《すば》らしいプロポーションが現れた。深いスリットから伸《の》びた足も艶《なま》めかしく、歌手のビヨンセを参考にしたという仕草が受けに受けた。
「もう、舞台袖《ぶたいそで》で笑い転げたよ。北陽に入って、あんなに笑うことがあるなんて思わなかった」
長谷も後藤も、楽しそうに話した。
「みんな、ノリノリだったよなぁ。舞台も会場も」
「ああ、ちょっと意外だったな。先生たちも大笑いしてたし」
超《ちょう》進学校の北陽では異例の女装男装大会は異様に盛り上がり、来年からは北陽の文化祭もちょっと変わっていくかもしれないと長谷は言った。
「ここみたいに楽しくできればいいなぁ」
後藤は、子どもみたいに笑って言った。
「それは後輩《こうはい》たちの仕事だな」
俺たちの高校時代が終わる。
そして俺たちはまた、新しい時代を築いてゆくんだ。
出来のいいの悪いのバラエティに富んだ女装男装大会の写真を、田代にも見せてやったら大喜びした。
午後四時過ぎ。長谷と後藤は帰った。
「しばらく忙《いそが》しいけど、クリスマスには必ずアパートへ行くよ」
長谷はそう言って手を振《ふ》った。
俺と田代が3−Cへ戻《もど》ってくると、まだ客が十人ほど千晶の握手《あくしゅ》を待っていた。
「うわっ……ってことは、一時間握手しっぱなし?」
店内で千晶と握手し、元木作のイラストポストカードをもらって、客たちは満足して帰っていった。
「終了《しゅうりょう》〜〜〜!」
女どもが嬉《うれ》しそうに歓声《かんせい》を上げる。ウェイターと千晶はへたりこんだ。
「お疲《つか》れさま!」
「お疲れー! やったねー!」
「問題起きなかったよね! よかったー!」
「楽しかったよー!」
女どもは抱《だ》き合《あ》い、嬉し泣きした。それを見る千晶の顔もほころぶ。
「千晶先生も、お疲れサマでした!」
「お疲れさまでしたー!」
世話係が、コーヒーとおしぼりを差し出す。
「お疲れさん。みんなもよくがんばったな」
千晶に労《ねぎら》われて、女どもはいっそう幸せそうに笑顔《えがお》を輝《かがや》かせた。
「先生のおかげです〜」
「千晶ちゃんがいなきゃ、成り立たない企画《きかく》だもんねー」
「ただの男子|喫茶《きっさ》なら、ここまで盛り上がりません」
「ドーセ!」
俺たちウェイターは、舌を出した。それでもけっこう俺たちだって、写真を撮《と》らせてくれと頼《たの》まれたんだぜ。
「もう、コレ脱《ぬ》いでいいかー?」
と、白ランを指差して千晶は言ったが、女どもは血相を変えた。
「ダメダメッ! あたし、まだ写真を撮ってないの!」
「あたしも!」
「私も――っ!」
「先生、一緒《いっしょ》に撮ってー!」
みんなの撮影《さつえい》大会は、それからひとしきり行われた。オーナーとウェイターだけの写真も撮った。
「ある意味、一生の思い出だ」
俺たちは笑い合った。
後片付けが終わったのは、午後八時|頃《ごろ》だった。
田代と一緒《いっしょ》に校門に向かっていると、校門の傍《そば》にジャガーがとまっているのが見えた。その横に立った人影《ひとかげ》が、ライターに火を灯《とも》す。
「マサムネさん」
「稲葉君か」
「お疲《つか》れっス。先生、もうすぐ来ますよ」
マサムネさんは軽くうなずいて、煙草《たばこ》をはさんだ片手を上げた。こんな時間でも、相変わらずピシッとした姿。シャツもネクタイも、いかにも仕立てのいいものってのが伝わってくる。それも、本人の着こなしがいいからなんだろうなぁ。
(マサムネさんの居合、見てえ〜〜)
いつか絶対見せてもらおうと思った。
田代はぺこりとお辞儀《じぎ》をし、通り過ぎてから声を震《ふる》わせた。
「あの人がマサムネさん? 神谷さんが言ってた?」
「ずーっと千晶を送《おく》り迎《むか》えしてんだよ」
「カ、カッチョイィイ〜〜〜!! く、悔《くや》しいぃい〜〜〜!!」
神谷さんのことを思い出し、田代は頭をかきむしった。そして、ハタと俺を見た。
「マサムネさん、稲葉君って言った。あんた、なんでマサムネさんと知り合いなの?」
ウッ、しまった……!
「えっと……それは」
田代が、グリグリ目玉で睨《にら》んでくる。
「千晶が入院してる時に、病院で会ってさ」
「えっ、それっていつの話? あんた、三十一日以外にもお見舞《みま》いに行ったの?」
「い、行ったよ。当然だろ」
「とーぜんって! 千晶ちゃん、すぐに退院するからもう来なくていいって言ったじゃん」
ウッ、しまった……!
「い、言ったけど、うちの賄《まかな》いさんが差し入れを作ってくれたから、それを持っていったんだよ」
半分ホントで半分ウソだ。
「なぁ〜〜によ、ソレ! ほんっと千晶ちゃんって、稲葉には甘《あま》いよね! だからあんたらって、ダーリンだハニーだって言われるのよ!」
「言ってるのは、おめ――だろ―――が!!」
秋の夜闇《よるやみ》に、俺たちの言い合う声がいつまでも響《ひび》いた。
風呂《ふろ》から上がった俺は、布団《ふとん》の上へ倒《たお》れこんだ。身体中がふわふわした。
「お疲《つか》れさまでございました、ご主人様」
「プチ」の上に、フールが現れた。
「実ににぎやかで華《はな》やかで、楽しい二日間でございましたな。ご主人様の給仕姿も、りりしゅうございました」
フールは、そう言っておおげさにお辞儀《じぎ》をした。
「ハハ」
「文化祭もあと一日しかないのは、名残惜《なごりお》しゅうございます」
「……うん」
そう思うたびに、何度でも胸は切なくなる。
楽しい時間が終わってしまう。でも、次の楽しいことが待っている。でも、今の楽しい時間は終わってしまう……ぐるぐるぐるぐる。
ぐるぐる回りながら、俺は眠《ねむ》りへと落ちてゆく。フールが、
「シレネーの新曲などいかがでございましょうか?」
と言ったので、「うん」と返事をしたのはいいが、そこから先は覚えていない。どうせ、倖田來未《こうだくみ》だろうが浜崎《はまさき》あゆみだろうがケツメイシだろうが、ハミングだろうけどな。
文化祭最終日。全校生徒が講堂へ集まる。
今回、千晶は何もしないとわかっているので、生徒たちは落ち着いているというか、ちょっと淋《さび》しげというか。なんとなく全体がダラダラしている感じだ。俺たち3−Cの男子は、例によって雑用係に駆《か》り出《だ》されている。
毎年ステージで行われる演目は、演劇部やブラスバンド部の発表会や少林寺拳法部《しょうりんじけんぽうぶ》の演武などだ。それから、外部からのゲストによるライブ。今年も若手落語家による落語だった(うちはこれが多い。北陽みたいに、有名人によるトークライブやコンサートをする予算はない)。
いつもはトリに持ってくるゲストのライブが、今年は一発目だった。そしてその次の演目の演劇部の上演中に、なんとゲストで来たその若手落語家が、通行人として何度も舞台《ぶたい》を横切ったのだ。これには、客席にいる生徒たちも驚《おどろ》きと爆笑《ばくしょう》の連続だった。
「ええ。みんながダラけないように、知恵《ちえ》を絞《しぼ》らせていただきましたとも」
松岡や田代ら、生徒会の面々が鼻息|荒《あら》く言った。
今年の生徒会はちょっと違《ちが》うゾと、ダラけそうだった生徒たちに活が入った。
千晶がいなくても自力で盛り上がってみせると、田代が宣言したっけ。舞台《ぶたい》の袖《そで》で、千晶も笑っていた。
そして、ブラバンの演奏会の時には、バックにスクリーンがおりてきて、文化祭初日の様子が映し出された。会場が「オオオ」とどよめく。
「へぇ……!」
俺も感心した。クラスの出し物にかかりきりで、他《ほか》の出し物を見て回れない奴《やつ》は多い。俺たち3−Cの生徒もそうだった。音楽に乗せて、次々と登場する各クラス、クラブの出店の様子に、会場は大いに盛り上がった。
「前の予餞会《よせんかい》で、千晶先生からは『これがプロデュースするということだ』と、学ばせていただきました」
松岡と田代が頭を下げた。今回、生徒会は予餞会での千晶の企画《きかく》を参考にしたらしい。千晶は嬉《うれ》しそうだった。
「初日に写真を撮《と》っていたのか」
「写真部に頼《たの》んどいたの。デジカメとパソコンだと、これぐらいのことはすぐにできちゃうから便利〜」
田代はVサインを出した。その田代が撮ったという3−Cの男子学生服|喫茶《きっさ》の様子が映されると、会場はさらに大盛り上がりした。
客席からの大きな拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》に、ブラバンの三年生女子の中には泣きだす奴《やつ》もいた。その気持ちが、三年生全体に伝わる。
「……オ!」
3−Cの席に、富樫が座《すわ》っているのが見えた。暗くてイマイチ確認できなかったが、拍手をするその顔がほころんでいたような……。俺の希望的|錯覚《さっかく》かな? とにかく、生徒会の企画力《きかくりょく》のおかげで、生徒たちは最後までダラけずに舞台《ぶたい》に集中できたようだ。
一般《いっぱん》投票で決められる人気ランキングだが、毎年一位の「漫画《まんが》アニメ研究会」を抑《おさ》え、今年は、3−C男子学生服喫茶が一位に輝《かがや》いた。千晶が参加したからだと、一部からブーイングもあったようだが、教師がクラスやクラブの出し物に参加してはいけないという規則はないんだ。
「以上をもちまして、条東商文化祭を終了《しゅうりょう》いたします」
松岡生徒会長の閉会宣言が講堂内に響《ひび》いた。
開け放たれた窓やドアから、生徒たちの熱気が舞《ま》い上《あ》がってゆく。どこか後《うし》ろ髪《がみ》を引かれるように、ゆっくりと歩を進める制服の列。ステージを振《ふ》り返《かえ》る顔が、いくつもあった。後は期末テストだけ。それが終われば―――。
「はぁ〜あ、終わっちゃったぁ」
講堂で椅子《いす》を片付けながら、田代がつまらなさそうにため息をついた。でもそのため息は熱く、目一杯《めいっぱい》楽しんだ思い出に虹色《にじいろ》に輝《かがや》いているようだった。
|HR《ホームルーム》で、千晶は人気ランキングトップの副賞のチョコレートを掲《かか》げた。みんなから拍手《はくしゅ》が起きる。
「封《ふう》を開けてここに置いとくから、欲《ほ》しい奴《やつ》はつまんでいけよ〜」
今日の放課後は、各クラブやクラスで文化祭の打ち上げが行われる。部室でやったりカラオケに行ったり、いろいろだ。
「カラオケとかに行くのはいいが、飲酒|喫煙《きつえん》は厳禁だぞー。言っとくぞー」
教師たちは、生徒に釘《くぎ》を刺《さ》す(それでも、毎年酒を飲むバカがでる)。
「千晶ちゃん、打ち上げに顔出してよ〜」
「かんべんしてくれ。この三日間の仕事がたまってるんだ」
英会話クラブの打ち上げは、午後六時からカラオケに行くことになっているので、まずはこの後3−Cの打ち上げを教室でやるんだが、女どもによる『千晶の白ラン争奪《そうだつ》大ジャンケン合戦』が開催《かいさい》されるそうで、その阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄《じごく》絵図は見たくないのでパスしようと思う(あの白ランをゲットしてどうするつもりだろう。怖《こわ》いので想像するのはやめておこう)。
「お疲《つか》れ〜〜〜、乾杯《かんぱい》―――っ!!」
「カンパ―――イ!!」
英会話クラブで、部長として乾杯の音頭《おんど》をとるとは思わなかったなぁ。
クラブ員二十六名でギュウギュウのカラオケボックス。「せまいせまい」と言いながら、みんな笑顔《えがお》だ。せまいのに田代ら女どもは踊《おど》りまくり、せまいから手や腕《うで》が当たってグラスをひっくり返す奴《やつ》が続出し、もう大騒《おおさわ》ぎだった。
「あんた、制服が真っ赤よ! 血みてぇー!」
「先輩《せんぱい》こそ、メロンソーダ色〜〜〜!」
「楽し〜〜〜っ!! ギャハハハハハ!!」
白ランをゲットしそこなった田代は、ヤケクソハイテンションである。
「歌って、ブチョー!」
「部長ー!」
「待てよ、今歌える曲を探してんだ。ってか、予約入れようにも、さっきからずっといっぱいじゃねぇか!」
みんな、どうしてああも素早《すばや》く歌える曲を予約できるんだ? 俺なんか、歌える曲を探すだけでも汗《あせ》だくなのに。歌謡曲《かようきょく》やポップスはよく聴《き》くんだが、歌おうと思ったことはあまりない。カラオケにも行ったことのない俺だ。
「アー、淋《さび》しい。サビシーよー。卒業したくなーい!」
酒も飲んでいないのに、田代がクダを巻いている。
「卒業しないでくださーい、センパーイ!」
「条東商大好きー! 英会話クラブ、だ―――いスキだよ―――!」
「あたしたちも、先輩たちが大好きデース!」
後輩《こうはい》たちに声を揃《そろ》えられて、田代はじめ三年の女どもは、思わず涙《なみだ》ぐんでしまった。
「オイオイ。今からそんなで、追い出し会どうするよ」
「それを言わないで〜〜〜!」
女どもは、涙をあふれさせた。後輩たちももらい泣きで、女子部員全員がわぁわぁ泣き出してしまった。
「エ〜ト……」
男どもはどうしていいやら、頭をかくばかりだ。
でも、部屋の中は悪い雰囲気《ふんいき》じゃなかった。熱く切ないものでいっぱいで、息もできないくらいだ。後輩たちと抱《だ》き合《あ》って、泣きながら笑っている田代たちの姿は微笑《ほほえ》ましかった。自分たちも泣きたくなるのを必死で耐《た》えながら、男どもは女どもを見守っていた。
「次の曲始まってるぞ。歌えよ!」
俺が声をかけると、
「ウィッス!」
後輩が元気よく歌い始めた。手拍子《てびょうし》が重なってゆく。
街に吹《ふ》く風は、すっかり冷たくなった。季節が冬へと移ってゆくのだ。
「あー、楽しかった……」
駅前で夜空を見上げて、田代は珍《めずら》しく静かな声で言った。ちょっと赤くなった目で笑うその表情は、とても美しかった。
『目一杯《めいっぱい》今を生きている人間は美しい』
佐藤さんと詩人が言った言葉が胸に迫《せま》る。本当にそうだと思う。
「もうちょっとだな」
「うん」
揃《そろ》って見上げた夜空も美しかった。星がクリアに見えた。
期末の前日だった。
放課後、文化祭の写真ができあがってきたりして、クラスのみんなは思い出話に花を咲《さ》かせた。
田代が、千晶を呼んでこいとぬかしたので、無理だろうと思いつつ職員室へ行った。
千晶は、生徒指導室にいた。
「千晶」
「おう」
職員室側のドアから入ろうとした時、廊下側《ろうかがわ》のドアがノックされた。千晶は、俺に待てと手を上げた。
入ってきたのは、富樫だった。俺は、思わず壁《かべ》の陰《かげ》に身を隠《かく》した。
富樫は、ドアから一歩だけ入って止まった。
「どうした?」
千晶は、おだやかに声をかけた。
「…………受験は……やっぱりやめる」
富樫は、少しうつむいたまま小さい声で言った。
「……そうか」
残念なことだが、富樫はまだ何か言いたげな様子で立っていた。千晶はさり気《げ》に待っている。
「……予備校に……」
「うん」
「予備校に行きながら……」
「うん」
「俺……バイトとかしたことなくて……」
富樫の声が、だんだんとハッキリしてくるのを感じた。顔を上げ、千晶を見てしゃべっている。
「俺、いろんなバイトをしてみたい……と、思う……思いマス」
「そうか」
「…………」
「富樫、人にはそれぞれの『その時』があるんだ。その時がいつ来るのか、人によって違《ちが》う。その時が来れば、やりたいことや好きなことができる。お前にも『お前の時』が必ず来る。あせらなくてもいい。じっと待っていろ」
「…………」
「ただし、前だけは向いておけよ。前を向いていないと、その時が来てもわからない。あざとく聞こえるかもしれんが、そういうものなんだよ」
「…………」
わかったのかわからなかったのか、富樫は何も言わず、部屋を出ていった。
富樫の出ていったドアを見つめたまま、千晶は言った。
「俺の話は、説教|臭《くさ》く聞こえるか? ウザイとか?」
「そうとる奴《やつ》はいるかも」
「それでいい……。若い奴にとっちゃあ、大人の話はウザイもんだ。それでも……大人は子どもに話さなきゃならん。百のうち、一つでも届けばいいんだ。一つでも届くと信じて、大人は百を言い続けるんだよ」
おだやかな、でも確信に満ちた声。不思議な力をまとった、言霊《ことだま》のような声だった。
「ウザイと言いながら、何も言ってくれないと見捨てたと言って怒《おこ》る。ガキは厄介《やっかい》だよなぁ」
そう言ってやると、千晶はフッと笑った。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。子どもは大人の話を、案外聞いているもんだぜ」
俺は、千晶の肩《かた》をもんでやった。凝《こ》っていた。
「あ〜、そこ……イデデ!」
「富樫……ちゃんとしゃべってたな」
「うん……。あれなら……大丈夫だな……」
文化祭の最初の二日間。|HR《ホームルーム》には出席していたが、クラスにもクラブにも居場所のなかった富樫だが、三日目には講堂でステージを見ていた。名残《なごり》を惜《お》しむ三年生の涙《なみだ》を見て、何かを感じただろうか。
生徒指導室の窓から見上げる空には、もういわし雲はない。太陽はキラキラしているけど、はるか上空には雪を孕《はら》んだ冷たい空気が出番を待っている。そんな晩秋の午後だった。
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そして年は暮れて
十二月。
期末試験が終わり、終業式が終わり、事実上高校生活が終わった。代わりに、受験勉強が佳境《かきょう》に入る。
十二月二十五日。妖怪《ようかい》アパートのクリスマスパーティには、長谷も駆《か》けつけた。長谷は毎年この時期、家関係のパーティに顔を出さねばならず、とても忙《いそが》しいんだが(十二月十日〜二十五日|頃《ごろ》まで、パーティが十も二十もある)、今年だけは「受験のため」と、すべての予定を蹴《け》っとばしてやってきたのだ。親父《おやっ》さんから課せられた課題もうまくいったらしく、長谷は上機嫌《じょうきげん》だった。長谷の分析《ぶんせき》は、親父さんから及第点《きゅうだいてん》をもらったとか。
「もー、今日から正月までは何もせんぞー! 食って寝《ね》て温泉に入るだけだー!」
万歳《ばんざい》する長谷の真似《まね》をして、クリも万歳三唱した。
るり子さんのスペシャルクリスマスディナーが、華《はな》やかにテーブルを飾《かざ》った。
なんといっても「七面鳥の詰《つ》め物《もの》丸焼き」のド迫力《はくりょく》! こんがりとテカテカと、うまそうに光る七面鳥の中には、七面鳥の肉やドライフルーツが餅米《もちごめ》とともに詰められている。そのまわりを、小さな花形のマッシュポテトにチェリーをちょんとのせた可愛《かわい》い飾りが取り巻いている。その横には、イギリス名物の「キドニーパイ」が、こっちもこんがりと焼けていて、「サーモンと空豆のテリーヌ」は彩《いろど》り美しく、サラダの人参《にんじん》は星形で、ケーキは本格的ザッハトルテだし……、なんというか、とても外国風な気分にさせてくれるというか、クリスマスという雰囲気《ふんいき》を盛り上げてくれるというか。でもやっぱり、締《し》めにお茶漬《ちゃづ》けを用意してくれているるり子さんが、大好きだ―――!
大人どもは、今夜はワインとシャンパンで盛り上がる。俺も、シャンパンをちょっと飲んだ。七面鳥を食べてシャンパンを飲むと、クリスマスな気分も一入《ひとしお》だ。七面鳥の肉はサッパリとクセもなく、食べやすかった。
「洋食も一流のホテルにまったく劣《おと》らないな」
長谷の言葉に、るり子さんはいっそう嬉《うれ》しそうに指をもじもじからませた。
小さなクリスマスツリーの前に座《すわ》りこんで、クリがチカチカする光を熱心に見ている。その手には、長谷のクリスマスプレゼントの、動物形棒キャンディが握《にぎ》られていた。
条東商の文化祭の写真を見たりして、ワイワイとしゃべくる。千晶の白ランは、大人どもにもバカ受けした。
「カッコイーとこが憎《にく》らしーねー、千晶センセー」
古本屋は苦笑い。
「ここで似合うとしたら、長谷クンぐらいかねぇ」
と詩人に言われ、長谷は、
「アッハッハ」
と、笑いながら頭をかいた。否定しないとこが、こういう奴《やつ》だ。
「そうだ。文化祭の時、千晶と何をしゃべってたんだ、長谷?」
「ああ、合気道のことだ。やっぱり同門だったよ」
「あ、やっぱり」
「道場は違《ちが》うけどな。神代政宗のことも知ってる」
「あ、やっぱり」
「合気道の世界じゃ、有名人だからな。あの容姿だろ。女の門弟にすごい人気でさ」
「だろーなー」
「師範《しはん》だし。試合じゃ、たまに審判《しんぱん》とかしてるし。その時は、客の入りが全然|違《ちが》ったりな」
「ハハハハ」
「そもそも、神代家そのものが名家として有名なんだ。うちとは直接|繋《つな》がりはないんだが。あっちが特殊《とくしゅ》だから」
「十四代続く刀匠《とうしょう》って、ロマン〜」
「やっぱり日本刀っていいよなー」
「世界最高の武器」
詩人も古本屋も画家もウンウンとうなずく。
「その神代政宗が、クラブを経営してるとは知らなかったなぁ」
「千晶センセが、もと水商売の人って納得《なっとく》〜」
「まぁなぁ、大学出てるんだから、教員試験に通れば教師になれるもんなぁ」
「あの華《はな》やかさは、やっぱり夜の蝶《ちょう》〜」
「クラブっつっても、ホストクラブじゃないっスよ、一色さん」
「クラブ・エヴァートンか……。実は、俺も紹介《しょうかい》してやろうかと言われたことがある」
と、長谷が言った。
「マジで!? 超《ちょう》秘密クラブらしいじゃん」
「秘密クラブ……淫靡《いんび》な響《ひび》きだ」
古本屋が、フッフッフと笑う。
「ここが秘密クラブと呼ばれるのは、オーナーの了承《りょうしょう》がなければ入会できないかららしいです。オーナーの御眼鏡《おめがね》にかなわなければ、いくら金を積んでも入れないんだと」
「ますます淫靡だ」
嬉《うれ》しそうな古本屋。
この「オーナーの御眼鏡にかなう」という入会資格は、しかし、古本屋《エロオヤジ》の考えるようなものじゃなく、頭がよくてウィットに富み、個性的でオシャレ……というようなことらしい。これは、先代から続く決まりなんだとか。カオルさんも言っていた。クラブ・エヴァートンは、若い奴《やつ》らが「本当の社交とは」を学ぶ場所なんだと。
「本当の意味での、優秀《ゆうしゅう》な若者養成所なんだネ。本物の社交クラブがあるなんて、嬉しいナー。今の日本には、もうないと思ってたよ」
詩人はそう言いつつ、うまそうに酒を飲む。
「お前なら、充分《じゅうぶん》入会資格があるんじゃねぇの、長谷?」
「そう言ってもらえると嬉《うれ》しいが、生憎《あいにく》全然時間がなくてな」
長谷はちょっと肩《かた》をすくめ、話を続けた。
「先代のオーナーというのが、すごい有名な歌手だったらしいです」
「あ、それは俺も聞いた」
クリストファー・エヴァートンは、イギリス人。表舞台《おもてぶたい》に一切《いっさい》出ず、生涯《しょうがい》クラブ歌手を貫《つらぬ》いた。しかし、その歌い手としての実力は伝説的で、「黄金の声」「黄金の鐘《かね》の音《ね》」と賞されたという。
それが、なんの縁《えん》か晩年を日本で過ごすこととなり、イギリスでそうしていたように、「若者のための社交クラブ」を開いた。千晶たちは、このエヴァートン氏の御眼鏡《おめがね》にかない、クラブに入《い》り浸《びた》っていたわけだ。
(黄金の声とまで言われた伝説的歌手と、超人的《ちょうじんてき》に歌のうまい千晶か……。この出会いって、偶然《ぐうぜん》なんだろうか……?)
「千晶先生は多分、クラブ・エヴァートンのオーナーの一人なんだろうな。あそこには、オーナーの他《ほか》に五人の準オーナーみたいな人がいると聞いた。この六人は『コア』と呼ばれていて、先代からクラブの経営権を引《ひ》き継《つ》いだって」
「そうそう」
「筆頭のオーナーだった千晶先生が、神代さんへ筆頭を譲《ゆず》って、教師へ転職したんだな」
長谷は、自分で言いながらうなずいた。
「クラブのオーナーから、公立高校教師へ!」
古本屋が面白《おもしろ》そうに言った。
「ヤクザから教師になる奴《やつ》もいるくらいだから、驚《おどろ》く話でもねぇよ」
と、画家は言うが、まだヤクザから教師になるほうがわかりやすいと思う。
千晶は、かなり苦しいことがあって(ひょっとして、あの事故で死んだという人のことだろうか)、それが転職するきっかけになった。千晶の運命もまた「ある日|突然《とつぜん》」だったんだろう。
「つらいことや苦しいことを乗《の》り越《こ》えるのは大変だ。自暴|自棄《じき》になったほうが、ずっと楽チン。でも本人は、苦しい苦しいって言うんだよネー。楽なほうを選んだくせにさ。そういう人って、お前らに何がわかるんだって必ず言うけど、あんただって、苦難を乗り越えた人の苦労を知ろうともしないじゃんって言いたいよネ」
詩人の言葉を聞く長谷は、嬉《うれ》しそうだった。ちゃんとわかってくれている人が、ここにいる。
千晶や長谷や神谷さんの苦しみや悲しみは、他人にはわかりづらい。でも、ちゃんとわかってくれている人がいる。ちゃんとした人には、やっぱりちゃんとした人が傍《そば》にいるものなんだ。
「千晶センセがとても魅力的《みりょくてき》なのは、苦労したことも含《ふく》めていろんな経験をして、それをちゃんと自分の血と肉にしてきた人だからなんだろう。夕士クンと長谷クンは、これからだネ。負けずにいろんな経験を積まなきゃネ」
俺と長谷は、揃《そろ》って大きくうなずいた。
「ラスベガスで一発当ててヨーロッパ豪遊《ごうゆう》ってのは、無理そうっスけど」
「アハハハハ!」
「イヤイヤ。そうとも限らんよ。まずは、ベガスへ行かにゃあ! 当たる時は、二十五セント硬貨《こうか》一枚こっきりで当たるんだから」
そう言う古本屋は、この中では一番世界中を歩いている奴《やつ》だろう。
「パリやモナコの社交界から、ローマの場末の安酒場まで遊び歩いたってのがいいよな。遊びはそうでなきゃあなぁ」
画家も、フランス、イタリアあたりには詳《くわ》しい。あと、アラスカとか。詩人は……どうだろう。謎《なぞ》だ。
「マサムネさんと美那子・ヴィーナスが超《ちょう》のつくセレブで、千晶とビアンキがまぁまぁ金持ちの家の子で、シンは普通《ふつう》の家の子で、スティングレーは世界旅行をしていたバックパッカーだったらしいっス。でも、スティングレーの実家は、カリフォルニアのシャトー・オーナーで、ビアンキの父親は元軍人で貴族の出で、シンはカンフーの達人だって。シンの実家のある中国じゃ、おばあさんが占《うらな》いの名人らしいっス」
「バラエティに富んでるなぁ!」
みんな大笑いした。
「そうそう、千晶の兄貴ってのが、ベガスでギャンブラーをしてるんスよ。ギャンブラーって、職業として成り立つもんなんスね!」
「派手な人間関係だー」
「そういう人種が集まると、起きる出来事もバラエティに富んでくるもんだ。呼びこんじまうんだよな」
見てきたように古本屋は言う。
妖怪《ようかい》アパートに巣食っている人間たちも、バラエティに富み、一癖《ひとくせ》も二癖もある人生を歩んできたことだろう(クセがありすぎて、きっと詳《くわ》しくは話してくれない)。
「石油王の王子に見初《みそ》められたって、大笑いっスよ!」
俺は笑ったが、詩人以外は笑わなかった。
「笑い事じゃない」
古本屋も画家も、苦く笑いながら煙草《たばこ》をふかした。
「日本人男性ってモテるからネー」
詩人は面白《おもしろ》そうだ。
「そうなんだ?」
長谷のほうを見ると、長谷もちょっと苦笑いして肩《かた》をすくめた。
「でも、もらった指輪って、日本に帰って鑑定《かんてい》してもらったら、三千万だったって」
「ソレ、スゲエ!!」
さすがの不良大人どもも仰天《ぎょうてん》した。
「王子からすれば、お小遣《こづか》い程度!?」
「石油成金って、ホントとんでもねぇよな!」
大人どもが、あのあたりの国々をみみっちく批判しまくったので、俺と長谷は笑い転げた。
千晶の話で盛り上がるほどに、俺も長谷も、こんなふうになれたらと思った。いろんな奴《やつ》と出会い、いろんなことをしたいと。それを全部自分の血と肉にできたらいいと、心からそう思った。
ちらちらと降り始めた雪にまじって、雪の結晶《けっしょう》の形をしたモノたちが、冬の夜闇《よるやみ》にしんしんと降った。幽《かす》かに発光し、ゆっくりと回転しながら、どこからともなく降り始めて、どこへともなく消えてゆく。その様子は本当に美しくて、俺と長谷は窓辺に並んでずっと見ていた。
「大学に入ったら、海外旅行に行こう」
と、長谷が言った。
「うん。行こうぜ」
俺は即答《そくとう》する。
「豪遊《ごうゆう》は無理でも、ヨーロッパを何か国かはしごしよう」
「うん。豪遊はしなくていい。普通《ふつう》の旅行でいい」
俺たちは笑い合った。
俺の胸は、未来の楽しいことを思ってワクワクした。煌《きら》めくものでいっぱいになった。なんとしても大学に合格するぞと、決意を新たにした。
姿の見えなかったクリが、俺と長谷の間に割りこんできた。
「お、クリ」
「ほーら、クリ。雪が降ってきたぞー」
長谷がクリを抱《だ》っこして、窓の外を見せる。クリは、夜空に向かって両手を広げた。
一年が終わろうとしている。
また、年が改まる。
来年は、どういう年になるんだろう。節目の年になるのは間違《まちが》いない。高校生活が終わる。そして、大学生活が始まる。高校の時とは、ずいぶん違うものになるはずだ。
「でも、何かあっても……きっと大丈夫《だいじょうぶ》だ」
俺には、支えてくれる人が大勢いる。
その人やモノに感謝しながら、俺は生きてゆく。
気持ちも新たにした年《とし》の瀬《せ》。
おだやかだった。隣《となり》で長谷が笑っていた。
でも―――。
長谷の携帯《けいたい》が鳴った。
電話に出た長谷は、眉《まゆ》をひそめた。
俺たちは、何も知らなかった。
知るはずもなかった。
そう。
運命はいつだって
ある日|突然《とつぜん》、目の前におりてくるんだ。
[#地から1字上げ]第十巻(二〇〇九年三月刊行予定)につづく
[#改ページ]
香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。翻訳家、声優などさまざまな職業をめざしつつ、少女漫画の同人誌で創作活動をしていたが、『ワルガキ、幽霊にびびる!』(日本児童文学者協会新人賞受賞)で作家デビュー。『妖怪アパートの幽雅な日常@』で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。他の作品に「ファンム・アレース」シリーズ、「大江戸妖怪かわら版」シリーズ、「下町不思議町物語」シリーズなどがある。現在も自著の登場人物や裏設定を漫画化するなどして、自身の創作意欲をかきたてながら、精力的に執筆を続ける。講談社「YA! ENTERTAINMENT」シリーズの公式サイト(パソコン http://shop.kodansha.jp/bc/books/ya-enter/、ケータイ http://yaf.jp)で愛犬ハナ様の写真とともに綴る日記「香月日輪の幽雅な日常」を連載中。大阪府在住。
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
[#改ページ]
底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》H
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2008年10月10日 第4刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年11月1日作成 hj
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置き換え文字
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
|※《ハート》 ※[#ハート(白)、1-6-29]ハート(白)、1-6-29