妖怪アパートの幽雅な日常G
香月日輪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四|畳半《じょうはん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そうできる[#「そうできる」に傍点]んだから
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〈帯〉
「こんなアパートで暮らしたい♪」
超個性派ぞろいの妖怪・幽霊たちと高校生夕士との、世にもおかしな共同生活。
爆笑、涙、感動うずまく人気急上昇中の注目シリーズ!
「ストーリー急展開、さらにヒートアップ!」by香月日輪
〈カバー〉
どんな運命だろうと、それを乗り越えるのは本人の意思の力だ。
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妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常G
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常G
香月日輪
[#改ページ]
大学へ行きたい―――。
長谷《はせ》にそう言った。ふわっと、言葉が出た感じだった。
長谷は、しばらく俺の顔を見つめていた。「どうしたんだ?」とも「なぜなんだ?」
とも言わなかった。
やがて少し微笑《ほほえ》んで、
「そうか」
とだけ言った。
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明日は違《ちが》う風が吹《ふ》くだろうか
条東《じょうとう》商業高校は、新学期を迎《むか》えた。
俺、稲葉夕士《いなばゆうし》。三年C組。出席番号一番。とうとう高校生活も残り一年となった。とても感慨《かんがい》深い。
もう、五年以上の月日が流れたんだ、あれから。
中学一年の時、両親が死んだ。俺は、生まれ育った家を出て親戚《しんせき》のもとに身を寄せ、四|畳半《じょうはん》の部屋でちぢこまって暮らし……、心を閉《と》ざした俺の世界も小さくせまくちぢこまっていった。友人たちは俺のもとから去り、楽しみもなく、未来は不安だらけで、何もかも恨《うら》みたくて壊《こわ》したい思いと必死で闘《たたか》っていた。俺のもとにたった一人残ってくれた親友、長谷がいなければ、今頃《いまごろ》俺はどうなっていただろうと思う。
そしてあの日。寿荘《ことぶきそう》と出会わなければ―――。
親戚《しんせき》の家を出たくて、そして早く就職して自立したくて選んだ条東商業高校。
せっかく合格できて喜んでいたのに、学生寮《がくせいりょう》が火事で全焼した。あの時は、本当に落ちこんだ。自分の無力さを思い知らされた。両親が死んだ時と同じように。
だが途方《とほう》に暮れた俺は、何かに導かれるように「寿荘」に住むことになったんだ。
寿荘――通称《つうしょう》「妖怪《ようかい》アパート」。その渾名《あだな》に恥《は》じぬ、正真正銘《しょうしんしょうめい》本物の幽霊《ゆうれい》、妖怪だらけのアパート。
俺はここで、さまざまな妖《あや》かしどもと、そいつらに負けないくらい怪《あや》しい人間どもに囲まれ、俺のそれまでの常識も知識も感じ方も考え方もひっくり返され、粉々に打《う》ち砕《くだ》かれ、ぎゅうぎゅうにもまれ、生まれ変わることができた。
親友一人だけいればいいと思っていたことも、
さっさと就職し、さっさと大人になる。『青春』なんて後回しだ……なんて思っていたことも、
何もかも、変えることができた―――。
俺の人生は長く、世界は果てしなく広い……
肩《かた》の力を抜《ぬ》いていこう―――。
妖怪《ようかい》アパートは、俺にそう教えてくれた。俺は、そうすることができた。
そうしたら……俺の世界はどんどん広がっていった。俺の可能性もどんどん広がっていった。そこには、魔道書《まどうしょ》『小《プチ》ヒエロゾイコン』との出会いという驚異《きょうい》が待っていた。
二十二|匹《ひき》の妖魔を封《ふう》じこめた魔法の本。この本の主《あるじ》は、その妖魔たちを自由に使役《しえき》することができる。俺は、その主に選ばれてしまった。魔道書を使う|魔書使い《ブックマスター》という魔道士の端《はし》くれとなったんだ。
それでも、人生の中に妖魔を背負っても、俺は普通《ふつう》の人間としてどう生きるかを考えることができた。妖怪《ようかい》アパートそのものが、特殊《とくしゅ》で普通《ふつう》だったからだ。ここに生きるものたちがみんな、特殊で普通だったからだ。「特殊でいい」んだ。「普通でいい」んだ。俺はそう学ぶことができた。
そうして、今。
妖怪アパートで、人生の大先輩《だいせんぱい》やいろんな妖《あや》かしたちと過ごしてきて、アパートでも学校でもバイト先でも、いろんなことが季節とともに過ぎていって、俺はやっと「俺」に還《かえ》ってきた。
高校一年の秋、「普通の生活に戻《もど》る」ためにアパートを出た。でも「普通ってなんだ?」と考えた時、俺は再びアパートに戻ることにしたんだ。アパートにいるほうが、「普通の世界」がよく見えると思ったからだ。「自分」がよく見えると思ったからだ。
あの時の思いどおり、俺は、やっと「自分」を見つけることができた。
ただひたすら大人になることばかりを考えていた。それが両親への親孝行だと思っていた。早く一人前の社会人になることが、両親に胸を張れることだと思っていた。いや、それはそうかもしれないんだけど……。
俺は、もう少し遠回りがしたくなったんだ。
もう少し「子ども」でいて、社会生活に直接役に立たなくても「心を豊かに」するものに関《かか》わりたいと思った。
ずっとずっと、両親が死んだ時からそれしか考えていなかった「就職する」ということを後回しにして、本を読み、映画を見、旅行をしたりしたいと思った。
勉強をしたいと思った。
大学へ行って―――。
俺が成人するまでの後見人の博伯父《ひろしおじ》さんに、進学のことを相談した。伯父さんは、あっさりと賛成してくれた。
「あいつが生きてりゃ、当然お前を大学へ行かせていただろうからな。お前がそう決心して、きっと喜んでいるさ。お前が、早く就職して一人前になりたいって思う気持ちもわからんではなかったから、今まで何も言えなかったが、進学する気になってくれてよかったよ」
伯父さんはそう言って、しみじみと煙草《たばこ》をふかした。あいつとは、俺の父さんのことだ。
この家で中学時代を過ごしていた頃《ころ》は、正直つらかった。伯父さん一家は、恵子伯母《けいこおば》さんも悪い人じゃないけど、俺の面倒《めんどう》をみることはやっぱり相当な負担であって、一人娘《ひとりむすめ》の恵理子《えりこ》も年頃《としごろ》の女の子だったから、俺は肩身《かたみ》のせまいことこのうえなかった。俺のほうも俺のほうで、親を亡《な》くしてつらいやら苦しいやら不安やら、毎日がムシャクシャイライラして、でも絶対にグレたりしたらダメだって自分に言い聞かせて……。この家にはいい思い出が何もない。
でも、すべて過ぎ去った。ここにいた三年間、ついにまともに会話することのなかった恵理子ともわかり合えた。あれは……春の初めの、よく晴れた日だった。海が煌《きら》めいていたっけ。
今、伯父《おじ》さんから「進学する気になってくれてよかった」と言われて、やっぱり伯父さんも、俺のことを思っていてくれたのだと知る。この人たちを恨《うら》まなくてよかったと、心底思う―――。
時が流れないとわからないことがあるんだ。
別の場所から見ないと見えないものがあるんだ。
答えを、早まって出してはいけない。
ゆっくり歩きたい。まわりの景色をよく眺《なが》めながら。
「金のことは大丈夫《だいじょうぶ》だ。お前が大学へ行くぐらいのものを、あいつは残してくれている。ただし、失敗するなよ、夕士? そんな余裕《よゆう》はないぞ」
「ウス!」
妖怪《ようかい》アパートの住人たちも、俺の進路|変更《へんこう》を喜んでくれた。
「生活するために働く……じゃなくて、もうちょっと生活の役に立たない世界を巡《めぐ》ってみたい……。いいネ! 若者らしくていいネ!」
ラクガキのような顔で喜んでくれたのは、一色黎明《いっしきれいめい》。アパートの古株。人間(多分)。詩人にして、大人向けの童話を書く小説家でもある。
「お前は就職することしか頭になかったもんなぁ。よそ見ができるようになったのはめでたいこった」
ぞんざいに核心《かくしん》を突《つ》いてくる深瀬明《ふかせあきら》画家。茶髪《ちゃぱつ》で暴走族《ゾク》の頭《ヘッド》みたいだけど(実際、もと番長=j、海外でも人気の高いポップアーティストだ。人間(喧嘩《けんか》は鬼《おに》のように強いが)。
「ああ〜、いいなぁ〜。実に感動的だなぁ〜。進路で悩《なや》む青春! 自分の未来を模索《もさく》し、可能性を見出《みいだ》す若者……。人間は素晴《すば》らしいなぁ〜っ!」
と言う「佐藤《さとう》さん」は、人間大好き妖怪《ようかい》(どんな妖怪かは不明)。人間に化けて人間の会社へ勤めている。大手|化粧品《けしょうひん》メーカーの経理課長である。
妖怪アパートにはこの他《ほか》にも、魔道書《まどうしょ》「|七賢人の書《セブンセイジ》」を操《あやつ》る|魔書使い《ブックマスター》の「古本屋」とか、黒髪《くろかみ》黒い服の美男|霊能力者《れいのうりょくしゃ》「龍《りゅう》さん」とか、次元を行き来する商売人の「骨董屋《こっとうや》」とか、「貞子《さだこ》さん」とか「山田《やまだ》さん」とか「鈴木《すずき》さん」とかがいて、大家は黒坊主《くろぼうず》だし、賄《まかな》いさんは手首だけの幽霊《ゆうれい》だし、人間|妖《あや》かしごちゃまぜの連中がワンサといる。
「まだ一年あるから充分《じゅうぶん》間に合うよ。夕士クンは頭もいいしネ。余裕《よゆう》で国公立を狙《ねら》えるんじゃない!?」
詩人にそう言われて、俺は頭をかいた。
「私立に行ける余裕はないスから。がんばって国公立狙うっス」
「夕士くんは、何を勉強したいんだい?」
「えと……今考えているのは、人文学ス」
「ホホゥ」
詩人が目を大きくした。
「そこで何を専攻《せんこう》する気? 文学? 哲学《てつがく》? 心理学や民俗学《みんぞくがく》もあるネ」
「どれも面白《おもしろ》そうだな〜って」
「言うネ!」
「確かに、どれも金にならなさそうなもんばっかりだ!」
画家が大笑いし、つられて俺もみんなも笑った。
「では、夕士クンの新たなる決意を祝して、カンパ―――イ!」
「カンパ―――イ!」
大人は酒を、俺はお茶を掲《かか》げる。
皮はパリパリ、中はジューシーな鶏《とり》モモ丼《どん》がうまい!! 鶏の横に一切れ添《そ》えられたダシ巻き卵の、なんて上品で優《やさ》しい味。オクラと長芋《ながいも》の芽かぶ和《あ》えも、するすると喉《のど》に入ってゆく。天才|賄《まかな》いさん「るり子さん」の超絶激うま料理も、今日は一入《ひとしお》にうまい!!
「るり子さん、うまいっス〜〜〜!!」
と絶叫《ぜっきょう》すると、手首だけのるり子さんは、その細い指を嬉《うれ》しそうにもじもじとからませた。
「人生の一大|転換《てんかん》をなさるご主人様……。我ら一同、誇《ほこ》りに感じますぞ」
俺の机の上に置かれた「プチ」の上に、身長十五センチくらいの小人が現れた。「プチ」の案内人「| 0 《ニュリウス》のフール」だ。
「新たなる人生を歩もうとなさるご主人様は、また違《ちが》う輝《かがや》きを放つオーラに包まれて、大変美しゅうございます」
フールはそう言いつつ、いつものようにおおげさにお辞儀《じぎ》をする。
不思議な縁《えにし》で結ばれた俺たち。それを思うと感慨《かんがい》深い。
俺は椅子《いす》に座《すわ》り、フールと真正面で向き合ってから言った。
「これからもよろしくな、フール」
フールは飛び上がらんばかりに恐縮《きょうしゅく》した。
「とんでもございません、ご主人様! なんともったいないお言葉! 我らこれからも、いつ何時《なんどき》であろうと、ひれ伏《ふ》してご主人様のご命令の下る時を、今か今かとお待ちしておりますとも〜〜〜!!」
「…………」
その態度がいつにも増して嘘臭《うそくさ》いけど、まぁいいか。
風青き、五月。
条東商は、今日は遠足の日。クラスごとに、遊園地や公園や海辺へ弁当を持って出かける。何かとバタバタ落ち着かない四月とゴールデンウィークが過ぎた頃《ころ》を見計らっての、一、二年生たちにとっては新しいクラスメイトとの親睦会《しんぼくかい》だ。二年から三年へは持ち上がりだから、三年生にとっては中間テスト前の息抜《いきぬ》きというか、サービスデーだな。
まぁ、俺のクラス三年C組にとっては、ちょっと特別な意味があるけども。というのも、うちの担任|千晶直巳《ちあきなおみ》は、去年の秋からの赴任《ふにん》だから遠足はこれが初めてなんだ。千晶とのイベントを何よりの楽しみにしている女どもは、何日も前からソワソワウキウキ落ち着かなかった。千晶がハンサムなイイ男じゃ仕方ない。
さらにこの、貧血症《ひんけつしょう》でいつも顔色の悪い、簿記《ぼき》と情報処理と生徒指導担当の先生は、ただカッコイイ男というだけじゃなく、オシャレで、色気があって、歌がハンパなくうまくて、おまけにどこか謎《なぞ》めいている人物でもある。とても「教師を目指していた」とは思えない。その裏に、何か深い事情があるような……いろいろな経験や思いがその言動から伝わってくるような……そんな男だった。
だから女どもにモテるのは当然なんだが(女にとっては、ハンサムってだけでもういいんだ)、男どもにとっても千晶は、なんだかものすごくいろんなことを知っていそうな「頼《たよ》れる兄貴」であり、「良き先輩《せんぱい》」であり、「カッコイイ大人」だから、特にヤンチャな奴《やつ》らによく慕《した》われている。
今日の遠足だって、他クラスがなんとかC組と目的地を合わせようと情報が飛《と》び交《か》い、女子の間でどうやら「談合」が行われたらしく、十クラスのうち七クラスが同じ場所となった。
というわけで、俺たちは地元の遊園地に来ている。近隣《きんりん》の住人しか来ないような地味な遊園地だが、千晶と一緒《いっしょ》ならどこだっていい女どもには関係ないし、その他《ほか》の生徒もそれなりに楽しめる場所だから……まぁ、妥当《だとう》なところか。遊園地側としては、平日に三百人近くの客がいっぺんに押《お》し寄《よ》せたんだからホクホクだろうな。
「千晶先生、一緒に観覧車乗ろう〜」
「一緒にお化《ば》け屋敷《やしき》に入ってくださーい」
と言いつつ蠅《はえ》のごとくたかってくる女どもを、
「ハイハイ、後でな。後で」
と追《お》い払《はら》い、千晶は木陰《こかげ》のベンチで煙草《たばこ》をふかしている。千晶は血圧が低いから、午前中はテンションが上がらないんだ。女どももそれはわかっている。こういう時は、もっぱら写真|撮影《さつえい》だ。
「ンも〜〜〜、ホンットこんな時の千晶ちゃんってカッコイイんだから!」
ごつい一眼レフデジカメで撮影しまくっているのは、田代《たしろ》。俺とはクラブが一緒《いっしょ》のクラスメイトだ。女にしちゃあ、男のダチのようにしゃべりやすいサッパリした性格の奴《やつ》で、情報通。生徒会の副会長でもある。
ダチにファッションモデルがいるという千晶は、時にファッション雑誌から抜《ぬ》け出《で》てきたような出《い》で立《た》ちで現れる。今日の格好がまさにそれで、シブいブルーグレーの、皺《しわ》の寄ったような生地の上着に、中は黒のTシャツ。そして黒いジーンズなんだが、ジーンズの左|尻《しり》ポケットのあたりからぐるりと前の太腿《ふともも》のほうへ、桜の刺繍《ししゅう》がほどこされているんだ。「和柄《わがら》」と言われるデザインだ。なんとも粋《いき》で上品。聞けば、これは西陣織《にしじんおり》のジーンズだという。
「西陣織? って、あの京都の西陣織!? 着物の!? え、じゃあそれって、メッチャ高いんじゃねぇ?」
と言うと、
「そうでもないぞ。一本四〜五万ってとこだ」
と、千晶はしれっと返す。そう。千晶は金持ちなんである(実家が相当な資産家らしいが、本人もけっこう持っているようだ)。一着十何万もするようなセーターとかを、平気で普段着《ふだんぎ》にしている。こんな公立高校教師なんざいねーっての。
「千晶」
俺は、ベンチに座《すわ》っている千晶のそばへ行った。
「おう」
「今……ちょっといいか?」
「どうした?」
学年始めで学校じゃ昼休みも放課後も忙《いそが》しい千晶だから、話すとしたら今がチャンスだ。
俺は千晶の横に座った。どこからか、カシャカシャと連続したシャッター音が聞こえた。田代だな(堂々と撮《と》りゃいいのに、なぜ隠《かく》し撮《ど》りなんだ。イヤ、間近から撮られるのも嫌《いや》だが)。
「俺、就職やめて進学するわ」
と言ったら、千晶は「は?」というような顔をした。煙草《たばこ》を持つ手が止まった。
「……それはいつ決めたんだ?」
「春休み中」
千晶の眉間《みけん》に、キュッと皺《しわ》が寄った。
「そういう大事なことは、もっと早く言えよ」
「もう伯父《おじ》さんにも同意してもらってるし。事後報告で悪いけど」
俺は笑った。千晶は、ちょっと唇《くちびる》を尖《とが》らせた。
「俺に相談もなしに〜」
「大学に行きたいなぁ……よし、行こうって決めたんだ。自分で決めたんだよ」
千晶は、ふーっと煙草《たばこ》の煙《けむり》を吐《は》いた。それから俺の顔を見て言った。
「方針|転換《てんかん》の理由を訊《き》いてもいいかな?」
「ん〜……」
俺は、千晶の胸元を指で突《つ》いた。
「あんた言ったじゃん。つられてお前も大人になる必要はないぞって」
「…………」
「だからサ。もうちょっと子どもでいたいかな〜って思ったんだよ」
ベンチに、足元に、初夏の木漏《こも》れ日《び》が落ちていた。陽射《ひざ》しは透《す》きとおっていて、木の葉がゆらゆら揺《ゆ》れるたびに光が宝石のように煌《きら》めいた。上着を脱《ぬ》いだ生徒たちの白いシャツがまぶしい。ゴゴゴと、ジェットコースターの音と楽しげな悲鳴がセットで聞こえる。
「就職すれば、大人の世界と現実は勉強できる……ってか、もう実践《じっせん》か。その前に、もうちょっといろんな世界を見てみたいと思ったんだ。金にならないようなことをしたいなぁと思ったんだ。時間を忘れて本を読みたい。旅行もしてみたい。あちこちの、いろんな人に会ってみたい。……勉強をしたい……。何か、脳みそが刺激《しげき》されるような分野の勉強がしたいって思ったんだよ」
と、ちょっと青臭《あおくさ》いことを真面目《まじめ》に言って、俺はちょっと恥《は》ずかしくなった。が、そんな俺を見る千晶の表情が、なんだかハッとするような……。
優《やさ》しい? そう、確かに優しい眼差《まなざ》しだ。まるで母親のような……? いや……それ以上の「何か」を含《ふく》んでいるような表情《かお》……。なぜかしら、
『どうしたんだ? 大丈夫《だいじょうぶ》か?』
と、言いたくなるような……。
「千晶」
千晶の肩《かた》にそっと手を置くと、千晶はハッと俺を見直した。俺を見ながら、俺ではない誰《だれ》かを見ていたかのようだ。
千晶は、口許《くちもと》を少しほころばせた。
「そう……。勉強はいつでもできるといってもな、本人が勉強したいと思った時が一番だ。お前はそうできる[#「そうできる」に傍点]んだから、そうするといい。時間もまだ充分《じゅうぶん》あるからな。大丈夫《だいじょうぶ》さ」
千晶はそう言って、俺の髪《かみ》を手で梳《す》いた。ガキ扱《あつか》いすんなよと言いたいところだが、なぜかその時は何も言えなかった。そんな顔はしていないのに、千晶が今にも泣きそうに見えたからだ。
「…………」
何か言おうと言葉を探していた時、パシャパシャカショカショピロリン……と、いろんな音が間近で聞こえて、ハッとあたりを見ると、カメラや携帯《けいたい》をかまえた女どもが俺たちをぐるりと取り巻いていた。
「…………っ!」
一瞬《いっしゅん》のフリーズの後、
「ギャ〜〜〜〜〜ッ!!」
と、女どもは悲鳴や歓声《かんせい》を上げながら四方へ散っていった。
「撮《と》った!?」
「撮った〜〜〜あああ!!」
「や〜ん、この千晶ちゃん、よくね? よくね!?」
どこかで田代も大喜びしているだろう。いいなあ、楽しそうで。人生はかくあるべきだなぁ。
「は〜、ヤレヤレ」
千晶は煙草《たばこ》の煙《けむり》を大きく吐《は》いた。
「人気があってよござんすねぇ」
と、嫌味《いやみ》を言ってやれば、
「これでもイロイロ大変なわけよ」
と、おおげさに肩《かた》をすくめてみせる。あんたのとばっちりを受ける俺もけっこう大変だよ。
「でも、お前のおかげで助かってる部分も多いんだぜ。感謝してるよ、ダーリン[#「ダーリン」に傍点]」
千晶はわざとらしく俺の肩を抱《だ》いて言った。
「どういたしまして、ハニー[#「ハニー」に傍点]」
「はははは」
「ハハハハハ」
「あら、千晶先生」
「は……ゴホッ!」
千晶が咳《せ》きこんだ。
信者[#「信者」に傍点]を引き連れて現れたのは、英語担当|教諭《きょうゆ》の青木《あおき》だった。
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[#挿絵(img/08_022.png)入る]
生徒もいろいろ、教師もいろいろ
青木|春香《はるか》。英語担当|教諭《きょうゆ》。D組副担任。スレンダーなプロポーション、清楚《せいそ》なファッション、生まれも育ちも上品だってことがよく伝わってくる人物だ。
青木はその上品な口調で、
「特定の生徒だけじゃなくて、他《ほか》の生徒たちの様子も見回ってくださいませね」
と言うと、優《やさ》しげに微笑《ほほえ》み、あくまでも爽《さわ》やかにおだやかに一礼してその場を去った。信者をコバンザメのようにくっつけたまま。信者どもは、俺たちのことは完全無視だった。
千晶は、小さくため息をついた。
そうなんだ。非常勤だった青木は、今年度から正式な三年英語担当教諭に採用されたんだ。そのとたん、職員会議での発言とかが今までより多くなったという。今まででも相当口ウルサイと思っていたけど、あれでもまだ遠慮《えんりょ》していたのか?
「四月の最初の職員会議で、さっそく校内全面|禁煙《きんえん》≠ぶってなあ」
千晶は苦笑いした。
「前々からなんとかしないとと考えておりました」
と、青木は選挙演説でもするかのように言った。
「子どもたちのためにも、校内は全面禁煙にすべきです。煙草《たばこ》を吸われる先生方も、子どもたちのために我慢《がまん》してくださいますわよね」
まるで、子どもたちのために[#「子どもたちのために」に傍点]反対などありえないというような口調。これでは、禁煙に反対すること|=《イコール》子どもたちのことを考えない、みたいな図式になってしまう。
「ま、一種のファシズム≠セな」
千晶は小さく鼻を鳴らした。
本人はその考えが「ファシズム」なんて、毛ほども感じていない。
「そこが問題だ」
「多いよな〜、そんな奴《やつ》。特にごりっぱな意見を言う奴[#「ごりっぱな意見を言う奴」に傍点]ほど、そんなんが多いよな。愛と正義と道徳の押《お》し売《う》りってわけだ。他人《ひと》ん家《ち》の玄関《げんかん》にズカズカ上がりこんで、奥《おく》さん、コレ買わないと、あんたマズイことになるよ? って言ってるようなもんだぜ」
千晶は吹《ふ》き出《だ》した。
「お前も言うねぇ」
「アパートの人たちの教育のたまものでね」
「みんな、ごりっぱな人たちじゃないとみえる」
「幸いにも」
俺も笑った。
さあ、困ったのは喫煙者《きつえんしゃ》の先生方。条東商の教員、職員は煙草《たばこ》を吸う人が多い。朝から夕方|遅《おそ》くまで、人によっちゃあ夜まで校内にいるのに、全面禁煙にされたらたまらない。しかし、「子どもたちのため」なんて言い方をされたら、どう反論すればいいのか。誰《だれ》も「子どもたちのことを考えない悪者」にはなりたくない。なれるとしたら……。
教職員たちが、いっせいに千晶を見た。千晶は、コホンと小さく咳払《せきばら》いすると言った。
「ばかばかしい。子どもたちのため[#「子どもたちのため」に傍点]に、校内を全面禁煙にする必要なんざ、ありゃしませんよ」
青木は、眉間《みけん》にちょっとだけ皺《しわ》を寄せた。
「煙草《たばこ》の煙《けむり》がどれだけ身体に害があるか、ご存じないわけないでしょう、千晶先生? あなたは、子どもたちの健康を守りたいとは思わないのですか?」
「生徒の逃《に》げ場《ば》のない密室で煙草を吸う教職員が、この校内のどこにいますか。職員室は分煙《ぶんえん》されている、喫煙者《きつえんしゃ》はマナーを心得ている、煙草の煙にアレルギーを持っている生徒はいないし、ここではこれ以上やることはありません」
「大人が煙草を吸っていると、子どもたちに示しがつかないと思わないんですか?」
「なんの示しですか?」
「子どもたちは大人の真似《まね》をして煙草を吸うかもしれないでしょう!?」
「……あンた、ここは幼稚園《ようちえん》じゃないんだよ」
千晶は呆《あき》れかえった。クスクスと失笑《しっしょう》が起きた。
「大人は吸ってもいいが子どもはダメなんだぐらい、生徒らはわかってますよ。それでも吸う奴《やつ》らは、罰《ばっ》してやりゃあいいんです」
「そうさせないよう導くのが教師でしょう!?」
青木は声を荒《あら》らげた。
「ダメなことをすれば罰《ばっ》してやるのも教師の仕事ですよ。大人はいいが子どもはダメだと、ラインを明確にしてやるのが指導≠ナす。あんまり生徒たちを子ども扱い[#「子ども扱い」に傍点]しないようにお願いしますよ!?」
「納得《なっとく》いきません。私は……」
「青木先生、子どもたちのため子どもたちのためと連呼してますが、あなた禁煙《きんえん》運動の本質は何かを考えたことがありますか?」
「……どういう意味ですか?」
「世の禁煙運動の核[#「世の禁煙運動の核」に傍点]はね、マナーですよ。健康問題じゃない。副流煙の問題も、歩き煙草《たばこ》の問題も、すべて喫煙者《きつえんしゃ》のマナーに集約されます。この条東商の喫煙者で、マナーの悪い人はいません。よって、この問題はここまでです」
まばらだが拍手《はくしゅ》が起こった。青木は唇《くちびる》を噛《か》んで引き下がった。
後で千晶は、麻生《あそう》ら喫煙者グループに大感謝された。
「千晶先生、あんたホントに話がうまいよ。俺たちじゃ、あの青木先生にどう反論していいかわかんねぇもん」
そう言って、麻生たちは頭をかいた。
「うん、わかるわかる。善に対抗《たいこう》するのは難しいよなぁ」
「昼飯おごってもらった」
「安い感謝!」
俺は大笑いした。
「見たかったなぁ、青木VS.千晶」
「この話には後日談があるんだ」
千晶は、ちょっと得意そうに煙草《たばこ》をくゆらせた。
「何? 聞きてぇ!」
俺は身を乗り出した。
三日後の放課後。千晶は、生徒指導室でヤンチャどもと話していた。
生徒指導室にいるからといって、その生徒が問題を起こしているとは限らない。千晶とただ単にしゃべりたい奴《やつ》とか、相談があるとか、訊《き》きたいことがあるとか、そういう生徒もよくやってくる。
そんな奴《やつ》らの中に、普通科《ふつうか》のちょっとヤンチャの入った、通称《つうしょう》アスカ、リョウ、マキという三人組がいた。こいつらは、なんてゆーか……オシャレな不良? 授業をサボったり、気に入らない教師にはたてついたり、怪《あや》しい場所へ出入りしていたり、隠《かく》れたところで酒や煙草《たばこ》もやっているだろうけど、気はいい奴らで言動はスマート。普通の[#「普通の」に傍点]友だちも多い。
こいつらが千晶をすっかり気に入って、よく生徒指導室へ入《い》り浸《びた》っているんだ。まぁ、当然だろうな。こいつらにとって、千晶は自分たちの理想の姿なんだろうとわかる。一年の頃《ころ》はよく問題を起こしていたけど(校内|喫煙《きつえん》、教師に対する暴言など)、千晶が来て話をするようになってからは、そんなこともなくなった。
で、いつものように生徒指導室で千晶とアスカたちが怪しい話をしていたところに、青木が入ってきた。生徒指導室は職員室の隣《となり》にあって、廊下側《ろうかがわ》にも職員室側にも出入り口がある。廊下側のドアからは中は見えないが、職員室側のドアには小さな窓があって、千晶が座《すわ》っているのが見える。千晶はその時、煙草を吸っていた。
「なんですか、千晶先生! マナーの悪い喫煙者はいないなんておっしゃっておいて、ご自分は例外なんですか! 部屋の中に生徒がいるのに煙草を吸うなんて、言ってることとやっていることが……」
「青木センセ、ちょ、黙《だま》ってくんね? ウルサイんだけど?」
と言ったのはアスカだった。リョウとマキがそれに続く。
「せっかく俺ら、千晶ちゃんとしゃべってんのに。邪魔《じゃま》なんだけど?」
「貴重《きちょう》な時間なんだぜ、コレ。千晶ちゃん人気あるもんで、なかなかおしゃべりタイムが取れないのよ?」
そんなアスカたちに、青木は優《やさ》しく言った。
「今はそういうお話をしているんじゃないの。私はね、あなたたちの身体のことを心配しているのよ。煙草《たばこ》の煙《けむり》はね、とても身体に悪いの。特に副流煙《ふくりゅうえん》っていって」
「それぐらい知ってるっつーの」
「ナニその言い方? 俺らガキ扱《あつか》い?」
「ニュースぐらい見ますー。新聞ぐらい読みますー」
「オイオイ、相手は教師で女性だぞ。口のきき方に気をつけろよ」
千晶にそう言われても、三人組は悪びれない。
「だって、青木センセイも俺らをバカにしてるじゃん? 同じことを仕返しただけでーす」
「同じことをされないとわかんねぇ奴《やつ》っているもんなー」
うなずき合う三人組。
「な、何を言っているの? 私は別に……」
「アリャッ、わかンなかったかぁ〜」
「それぐらいにしとけ」
わざとらしく驚《おどろ》いてみせるアスカを、千晶はたしなめた。
「それよりも千晶先生、煙草《たばこ》を」
「青木センセイさあ、あんたいっつもナニ見てんの?」
リョウにそう言われて、青木はキョトンとした。
「え、何って……」
「な〜んか、いっつも外れたとこ見てるよなぁ、あんたって」
「…………何を言っているの?」
「今も、千晶が持ってる煙草しか[#「しか」に傍点]見てねぇだろ」
マキがニヤニヤと笑った。
「俺ら煙草吸ってる千晶ちゃんと、毎日何時間もせまい部屋の中で一緒《いっしょ》にいるわけじゃねーのよ。今だって窓は開いてるし、千晶ちゃんは煙吐《けむりは》く時は外向いて吐くし」
「俺ら、別に煙草《たばこ》キライじゃねーしィ?」
アハハハと、三人組は笑った。千晶は苦笑いした。青木は、黙《だま》って眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていた。
「あんた、もっとこう……全体を見るっての? そういう見方したほうがいいんじゃねぇの?」
「そういう見方すべきじゃねぇの? 教師として」
「おい」
千晶は眉《まゆ》をひそめ、三人は舌を出した。
青木は、少し言葉を呑《の》んだ後、納得《なっとく》したような顔をした。
「そう。そういうお話を今していたのね。千晶先生が、そうおっしゃったのね」
「はあ〜??」
三人組は目を剥《む》き、千晶は頭を振《ふ》った。
「よくわかりました。でも千晶先生、生徒の前で煙草を吸うのはやめてください」
そう言って、青木はドアを閉めた。
アスカたちは、目を剥いたまま言った。
「……ビックリするわ!」
「すンげぇ思考回路だな、オイ!」
「俺らの立場は?」
「青木|節炸裂《ぶしさくれつ》……ってやつだな」
青い空に向かって、千晶は煙草《たばこ》の煙《けむり》を吐《は》いた。俺はおかしいやら呆《あき》れるやら、腹がよじれそうになった。
確かに青木は、優《やさ》しくて上品で献身的《けんしんてき》で教え方もうまくて、おまけに美人なよくできた教師だ。あのどこまでも「子どもたちよ、私はあなたを肯定《こうてい》します。認めます。あなたは、いついかなる場合でも断じて悪くない。あなたたちは天使だから」という言動に、コミュニケーションが苦手で孤立《こりつ》しがちな淋《さび》しがりやの一部の生徒たち(特に女生徒)がたまらなく惹《ひ》かれる……というのもわかる。
だが俺から言わせてもらえば、青木の優しさも献身も、中身のないうわべだけのものだ。青木自身がたいした場数も踏んでいないし経験もしていないから、その頭ン中は知識と理想だけ[#「知識と理想だけ」に傍点]で、だからすぐに人を「カテゴライズ」する。俺自身の何も見ないまま、『稲葉くんはご両親を亡《な》くし、そのせいで世をすねた孤独《こどく》でかわいそうな子ども』というカテゴリーに入れ、このカテゴリーの子には[#「このカテゴリーの子には」に傍点]自動的に同情し、心配し、優しくかまう、という方程式みたいなのにのっとって動いているにすぎないんだ。だから、実はそのカテゴリーにあてはまっていない俺なんかは、青木の態度は鬱陶《うっとう》しいし腹立たしい。
「俺はかわいそうな子なんかじゃね――っ!!」
と、怒鳴《どな》りつけたいぐらいだ。仮に本当にかわいそうな子だったとしても、それを態度に出したり、まして本人にそう言うなんてのは、「実は本人のことをあまり深く考えていない」証拠《しょうこ》に他《ほか》ならない。生身じゃない[#「生身じゃない」に傍点]んだよなぁ。
アスカたちが青木に反発するのも同じ理由からだ。奴《やつ》らが言った「俺らの立場は?」というセリフに、すべてが象徴《しょうちょう》されている。
「あなたたちのため」と言いながら、青木はアスカたちの何も見ていない。それを、アスカたちみたいな奴らは一発で見抜《みぬ》いてしまう。
「大人を見る目≠ヘ、真面目《まじめ》ないい子よりも、お前やアスカたちのような、ちょっとナナメの入った連中のほうがはるかに厳しいもんだ。そして、鋭《するど》い。それは、実は大人に対して、もっと自分をかまってくれという気持ちの裏返しだからだ」
と、俺を見ながら千晶は言った。ちぇっ、ニヤニヤ笑ってんなよ。
問題は、青木本人には自分の態度がうわべだけなんて意識が毛頭ないってことだ。本人は本当に一生懸命《いっしょうけんめい》なんだ、九割ぐらいは(残り一割に、人間らしい暗さがあるようだ)。
この、たとえうわべだけだろうが、知識だけで経験も現実もともなっていなかろうが、とにかく純粋《じゅんすい》な部分に惹《ひ》かれる奴《やつ》らがいる。それは、うまく青木のカテゴリーにはまっている奴らであり、自分に自信がなく、青木のように「できた女性」になりたいと憧《あこが》れる奴らだ(もちろんこんな奴らは、青木のできた部分がうわべだけなんて思いもしない)。
別に、誰《だれ》が誰に憧れようが、それが他人の目にはどう映ろうがかまわないんだが(田代に言わせれば、青木と青木の信者の関係には問題があるという)。困ったことは、青木の信者どもが千晶および千晶のファンたちを敵視していることだ(これが田代の言う問題≠ネんだろう)。
千晶は、誰がどう見ても青木と正反対のタイプ。その優《やさ》しさも献身《けんしん》も経験も、何もかも見事なまでに「真逆《まぎゃく》」だ。青木が「かまう優しさ」なら、千晶は「放《ほう》っておく優しさ」だな。だが、「放っておく」|=《イコール》「冷たい」と解釈《かいしゃく》する連中がいる。ましてその隣《となり》に「どこまでもかまってくれる」人物がいれば、こっちのほうが優《すぐ》れていると感じるのは仕方ないことだと思う。本人が「かまってもらいたい」「どこまでも受け入れてもらいたい」と思っているならなおさらだ。
妖怪《ようかい》アパートの住人たちならこう言うだろう。
『我慢《がまん》してほっとかれろ。そして考えろ!』
青木が、千晶が「そうする理由」はなんなのか。
当然青木の信者はその意味まで考えずに、ただ自分たちの「女神《めがみ》」と対立する存在というだけで千晶を敵視する。「神」をより深く信仰《しんこう》するためには、「悪魔《あくま》」の存在が必要なわけだ。
その構図はわかるし、別に嫌《きら》いな教師がいたって全然かまわない。俺だって青木が大嫌いだよ。千晶のファンたちだって、ただ単純に千晶がカッコイイから好きだっていう連中は大勢いる。ただ、青木の信者どもは、時に攻撃的《こうげきてき》になるから厄介《やっかい》なんだ。
千晶ファンの女たちを「女のプライドがない」と言ったり、男たちを「不良」と見下したり、千晶を「女の子にモテて嬉《うれ》しがっている」と決めつけたり、自分たちの仲間すら「千晶と関《かか》わった」というだけではじいたりする。カッターを持って、千晶に実際に斬《き》りかかったバカもいたぐらいだ。
これはまさに「青木という神を信仰する」ということを、自分のアイデンティティーにしてしまっている[#「自分のアイデンティティーにしてしまっている」に傍点]証拠《しょうこ》だろう。
そこに、「自分はない」んだ。
俺は、それほど、自分を青木の中に埋没《まいぼつ》させてしまうほど、お前は自分に自信がないのかと、呆《あき》れかえった。
自分に自信がないとか、淋《さび》しいとか不安だとか、誰《だれ》にだっていろいろ悩《なや》みはある。だけど、そんな自分を「他《ほか》の何か」の中へ埋没《まいぼつ》させることで安心しようなんて(埋没させてしまえば意識しなくてすむからな)、俺は絶対にイヤだ! そんなの、ただ逃《に》げているだけで問題の解決になってねぇじゃねぇか。
悩《なや》んでも、苦しんでも、淋《さび》しくても、俺は、俺でありたい。俺は! 俺なんだ!
『我慢《がまん》しなさいよ、我慢。たいがいの問題ってのは、時間が解決してくれるんだから』
と、アパートの住人は言った。
『助けてくれる人が必ずいる。必ずだ! よく探せ』
と、千晶も言った。
動けないほど苦しいのなら、動かなければいい。嵐《あらし》が過ぎ去るのをじっと待つんだ。その間に、本当に一番いい方法をよく探したい[#「よく探したい」に傍点]と思う。
なんてことを、青木の信者どもに言っても通用しないだろうな。奴《やつ》らは、今の自分が「本当に救われた自分」なんだろうから。
この信者どもが、青木が正式な教員として採用になったこと、さらに三年のクラスの副担になったことを、すごく喜んでいる。そして、ますます自分たちの中で勝手に、青木と千晶の対立の構図を深めていってるようなんだ。こいつらとこの一年付き合うのかと思うと頭が痛い。
「……ったく、鬱陶《うっとう》しい奴《やつ》らだぜ」
俺は青木らの後ろ姿に言った。
「そういうことは、どこか遠くでこそっと言いなさい、稲葉クン」
千晶は苦笑いした。
「お話はすんだかしら、お二人とも?」
と言って現れたのは、田代とその連れ、桜庭《さくらば》と垣内《かきうち》だ。
「もぅ、お邪魔《じゃま》じゃないかしら?」
「ニヤニヤ笑ってんな。ンだよ?」
「あンたに用はないのよ、稲葉。千晶センセー、もうすぐお昼だよ。みんなで食べようよ〜」
「お、そうか。もうそんな時間か」
千晶は、どっこらしょと立ち上がった。
「あっちにいい場所があるの。行こう、行こう〜」
田代が千晶をひっぱっていった。
「稲葉クンも来て来て」
「稲葉くんのお弁当見るの楽しみなんだからー」
桜庭と垣内が手招きした。
観覧車の足元に、いかにもここでお弁当を食べましょうみたいなスペースがあった。花壇《かだん》に芝生《しばふ》。藤棚《ふじだな》の下にはテーブルとベンチ。小さな池があって、そこにはアヒルがいた。
青い空の下、緑の芝生に生徒たちの色とりどりの弁当箱が広げられ、花畑のようだった(弁当組は主に女子。男どもは園内の売店で買い食いが多い)。それぞれのクラスの担任や副担任を囲み(遠足には担任か副担かどちらかが参加)、みんな楽しそうだ。
「稲葉のお弁当はいつもみたいに素敵《すてき》なんだろうけど、今日はあたし、千晶ちゃんのお弁当がすっげぇ気になるのよ」
田代はカメラを持って待ちかまえている。
遠足の話が|HR《ホームルーム》で決められた時、俺の横で田代が(俺と田代は、三年になっても窓際《まどぎわ》の最後列に並んで座《すわ》っている)、
「千晶ちゃんのお弁当を作っていってあげちゃうんだ〜」
なんてほざいていたから、
「センセー、田代が先生の弁当を作っていくって言ってマース」
と、みんなの前でバラしてやった。たちまち、
「なぁにを抜《ぬ》け駆《が》けしようとしてるわけ、田代!?」
「そんなの許さんからね!」
「タァコが作るんならあたしだって!」
と、大騒《おおさわ》ぎになった。
「何チクってんだ、ゴルァ!」
俺は田代にアイアンクローをかまされた。
「はいはいはい、騒がない騒がない」
千晶はみんなを制して言った。
「気持ちはありがたいが、俺の弁当は自分で用意するから、余分に作ってきたりしないよーに。くれぐれも言っとくぞ」
「え〜〜〜、だって千晶ちゃん一人暮らしでしょ? コンビニのお弁当とか持ってきたら、哀《かな》しくて泣いちゃうよ!?」
「大きなお世話をありがとうよ、田代。生憎《あいにく》だが、ちゃんとした弁当を作ってくれる人がいるんでね」
「ええ〜〜っ、誰《だれ》ソレ? 誰〜〜〜っ??」
女ども大パニック。
余計な一言で、騒《さわ》ぎをもっと大きくした千晶だった。
「あれっ、稲葉クンのお弁当、今日はめっちゃシンプルだね!」
桜庭が声を上げた。女どもが覗《のぞ》きこんでくる。
「ホントだ!」
「うわ、でもオイシソ〜〜〜!」
「これ何? お肉!?」
るり子さんのスペシャル弁当、本日のメニューは「ボリューム百二十パーセント牛肉飯おかかサンド」だ。カツオ節をサンドした熱々の白飯の上に、シンプルに炒《いた》めた薄切《うすぎ》り牛肉をドッサリとのせただけなんだが、カツオ節と醤油《しょうゆ》、そしてワインとトンカツソースをからめた肉の旨《うま》みが、冷えていくにしたがって飯にしっかりとしみこみ、飯がすっかり冷えた頃《ころ》に一番うまくなっているという、なんとも優《すぐ》れた弁当なんだ。
彩《いろど》りにパセリと白胡麻《しろごま》がパラパラとまぶされていて、付け合わせに乱切りキュウリとブロッコリーが添《そ》えられているだけの、今まででもっともシンプルな「男」の弁当。花束のような弁当を期待していた女どもは少々ガッカリしたようだが、これがまた、顎《あご》が痛くなるくらいうまいんだよなー。口の中で、肉と飯とカツオ節とキュウリとマヨネーズと、さらにぬか漬《づ》けのたくあんの味が黄金のハーモニーを奏《かな》でる。至福! 俺はこの瞬間《しゅんかん》のために生きている……! なんて思っちまう。
「ん〜〜〜……うまい! まさにしみる味だぜ〜!」
と感動していると、田代らが肉ごとごっそりと飯を掘《ほ》っていった。
「うごっ……ごふっ、何コレ。おいしぃ〜〜〜!」
「お肉とご飯とおかかが……たまんなーい!」
「勝手に食うな!」
そんな俺たちを、千晶は笑って見ていた。
「笑ってる場合じゃないよ、千晶ちゃん」
「センセ、センセのお弁当はどんなの? 早く見せて」
「はいはい」
千晶を取り巻いているC組の女ども、さらにそのまわりにいる他クラスの女どもが期待する中、千晶はバッグの中から弁当を取り出した。それは茶色の紙袋《かみぶくろ》だった。
「わ……ちょっとアメリカ〜ンじゃな〜い!?」
袋を開けると、紙の箱とオレンジが一個入っていた。箱の中身は……
「サンドイッチ?」
「ピタ・サンドだよ」
ピタとは、中近東で食べられている薄焼《うすや》きパンで、中に具が詰《つ》められるようになっている、いわゆる「ポケットパン」のことだ。
「クルミ入りのピタに、こっちはスズキと夏野菜のハーブ焼きを入れてある。こっちは新ジャガと鶏肉《とりにく》のマヨ炒《いた》めだ。デザートにはオレンジ」
二種類のピタ・サンドは、見るからにうまそうだった。付け合わせは、ピクルスとシュリンプフライ。丁寧《ていねい》に作られていることが伝わってくる。さらに千晶は、魔法瓶《まほうびん》に入ったコーヒーも持っていた。キャップを開けたとたん、高級品だとわかるような濃《こ》い香《かお》りが立った。
「オ……オッシャレ〜!」
「具の色がすごく綺麗《きれい》!」
「ピタときたよ、コレ。サンドイッチじゃないよ〜、ピタ・サンドだよ!?」
「丸ごとのオレンジって……あれ、齧《かじ》るのかな? カッチョイ〜」
女どもがどよめいた。
「ちょっとぉ、千晶ちゃんったら。誰《だれ》に作ってもらったの〜? ねぇ〜?」
田代は詰《つ》め寄《よ》ったが、千晶は知らんぷりでピタ・サンドを食った。
「あれ作った人、相当オシャレよ!?」
「すごく千晶ちゃんに似合ってるよね。千晶ちゃんをよく知ってる感じがする」
「くぅ〜〜〜っ、カノジョか? カノジョなのかぁ?」
「でもカノジョなら……オレンジは切っている気がする」
「だよね! だよね!」
と、女どもの間で意見がいろいろ飛《と》び交《か》っているようだが、るり子さんという超絶《ちょうぜつ》料理人に日々飯を作ってもらっている俺にはわかる。……プロ臭《くさ》い。千晶の弁当を作ったのは、多分プロの料理人だ。でも、どこかの店のものを買ってきた……じゃない。プロが千晶のためにわざわざ作った、そんな感じがする。千晶なら、融通《ゆうずう》のきく(朝早くから、こんなにもお洒落《しゃれ》で本格的なものを作ってくれる)プロのコックの一人や二人、知り合いにいるだろう。相当いろんな方面に顔が広いようだからな、このセンセイは。
千晶がみんなとしゃべりながらピタ・サンドを食べコーヒーを飲み、オレンジをナイフで切りながら食べるその姿を、女どもはキャアキャア言いながら写真に撮《と》っていた。ちなみに、ナイフはスイス・アーミーナイフだった(いわゆる十得《じっとく》ナイフというやつ)。
食後、千晶は女どもに、ヤレ観覧車だ、ヤレお化《ば》け屋敷《やしき》だと連れ回されていた。
俺は藤棚《ふじだな》の下で昼寝《ひるね》をしていたんだが、田代に起こされた。
「稲葉、稲葉」
「ンだよ?」
「これ見て、ぷぷぷ」
そう言われてデジカメの画面を見てみると、青木と信者ども八名が綺麗《きれい》に輪になって座《すわ》っている様子が映っていた。
「……なんだ、コレ? 交霊会《こうれいかい》でもやってんのか?」
「ぶわははは!」
田代は大笑いした。
「あっちのほうで自分らだけ固まってお弁当食べてたんだよ。なんかそれがあんまりおかしかったんで撮《と》っちゃったんだけど。なんつーの……メダカの学校みたいな?」
「別に固まったっていいけどなぁ」
こいつらはすぐに「私たちの世界に入ってこないで」みたいなバリアーを張る。青木も青木で、「この子たちは私の天使だから」みたいに、そいつらを囲ってしまう。それはさながら、親鳥が羽でヒナを守っているようで、実際青木はそういう心境なんだろう。これじゃあいつまでたっても、こいつらはヒナのままだ。
「ヒナのままのほうが楽なんだから、いいんじゃないの?」
田代はドライにそう言った。
「よー、ダーリン稲葉」
「おや〜、ハニー千晶と一緒《いっしょ》じゃないの? 珍《めずら》しい」
声をかけてきたのは、アスカとマキだった。
「お前らまで変なこと言うなよ」
「ひゃっひゃっひゃっ」
「オッス!」
「おう」
田代は二人とゲンコツ握手《あくしゅ》をした。
「お前らこそ、リョウは? 一緒《いっしょ》じゃないのか?」
「あいつはコレと、今多分観覧車の中」
マキが小指を立てた。
「あ、なるほど」
「J組の小川ちゃんデショ。可愛《かわい》いよね、彼女《かのじょ》」
「さっすがなんでも知ってるなぁ、タァコ」
「ね、ここミニボウリング場があるんだよ。みんなでやらない?」
「いいネー」
「ホラ、稲葉も。起きて起きて」
「へいへい」
この後、俺は田代たちやアスカたちに上野らも誘《さそ》って、ミニボウリングで盛り上がった。ボウリング場から出てくると、千晶がコーヒーカップの横で目を回していた。
そして青木たちは、輪になって「お話」をした後、また連《つら》なって園内を「巡回《じゅんかい》」していた。
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たくさんのドアが開いている
キラキラとキラキラと、夏の日が巡《めぐ》ってゆく。
今年の夏がいつもより煌《きら》めいて見えるのは、やっぱり俺の気持ちの表れなんだろうか。
妖怪《ようかい》アパートの前庭を、緑の風が吹《ふ》き抜《ぬ》ける。その風の中には花の形をしたモノたちがいて、漂《ただよ》い、転がり、楽しそうだ。
夜になると庭中から蛍《ほたる》のような光が湧《わ》き、ふわふわと夜空を目指して上ってゆくが、みんな途中《とちゅう》で消えてしまう。儚《はかな》くも、とても美しい。夏は物《もの》の怪《け》たちの気配が濃《こ》い。
さて。就職組から進学組へ鞍替《くらが》えした。
俺は千晶と相談して、都内の端《はし》っこにある都立の大学にターゲットを絞《しぼ》ることにした。ここならアパートからも通える。俺が選んだのは、ここの人文学部の民俗学科《みんぞくがっか》だ。
民俗学《みんぞくがく》は、風俗や習慣など、古くから民間で伝えられてきたものを研究することによって、歴史の変遷《へんせん》や現在の生活文化、伝統的な思考様式を解明する学問だ。その研究対象は、伝統文化、信仰《しんこう》、儀式《ぎしき》、風習から、衣食住や家具までと幅広《はばひろ》い。
というとなんだか難しげだが、柳田國男《やなぎたくにお》の『遠野物語《とおのものがたり》』で知られるように、地方に伝わる昔話や魔術《まじゅつ》の研究ってのもあるんだ。これが面白《おもしろ》そうなんだ。
「哲学科《てつがくか》も捨てがたいけど、やっぱり民俗学かな〜」
と俺が言うと、千晶は、
「お前が民俗学のほうをとるとは意外だなぁ。俺は、お前はタイプ的に哲学かと思ってたが」
と、ちょっと首をかしげたので、ドキリとなった。まさか毎日|妖怪《ようかい》に囲まれているからです、なんて言えない。まして魔物を背負っているからですなんて、とても言えない。
だけど、もし俺が両親に死なれることもなく、そしてアパートやプチと出会うこともなく暮らしていたら……きっと哲学のほうを選んでいたと思う。さすがよく見てるよな、千晶は。
進路は一時的に変わったが、俺の最終目標はやっぱり県職員かビジネスマンで、それにはあんまり役に立ちそうにない学問に、俺はしみじみしたりわくわくしたりした。
夏休みが迫《せま》ってきた。今年は、進学組用の講習、講習、講習の夏だ。
俺は、いつもバイトしている剣崎《けんざき》運輸へ行き、事情を説明した。
「大学を受験することにしたんで、夏休みは講習で平日のバイトに来られないっス」
剣崎社長以下、専務も、経理の島津《しまづ》姉さんも、社員のおっさんたちも、バイト仲間の大学生の佐々木《ささき》たちも、こっちが恥《は》ずかしくなるぐらい温かい目で、うんうんとうなずきながら俺を見た。
「すんまっせん、社長」
「何を言う。いいんだ、いいんだ」
社長は、でっかくてゴツゴツした両手で俺の肩《かた》をギューッと抱《だ》いた。
「勉強は若いうちにやったほうが身になるもんだ。教養を身につけとくに越《こ》したことねぇ。きっとお前の財産になるぜ」
高校をやめて正社員として働けと、何度も俺に言った社長のセリフとも思えない。社長は、俺がただひたすら社会人になって金を稼《かせ》ぎたいと思っていたからそう言ってたんだ。社長も本当は博|伯父《おじ》さんと同じで、そんなに急いで大人になることはないぞと思っていてくれた。それは、剣崎運輸のすべての人たちも同じだった。
「うんうん、お前はエライよ〜、夕士」
「ただ大学に行くんじゃなくて、ちゃんと勉強したいから行くんだってとこが、実にお前らしいよ〜」
「漢字辞典とか持ってる? いるなら持ってくるよ」
おっさんたちの言葉も、バイト仲間の心遣《こころづか》いも温かかった。
「で、どうするの、稲葉くん? バイトやめるの?」
と、島津姉さんが言うと、
「そんなわけないだろう、おケイちゃん!」
と、社長が叫《さけ》んだ。
「夕士はやめないぞ! 夕士のバイトは剣崎運輸! なぁ、そうだろ?」
社長のでっかい顔を突《つ》きつけられて、俺は苦笑いした。
「も、もちろんっス。俺、土日は出てこられるんで。それでもよければ」
「よぉし!!」
バン! と、両肩を叩《たた》かれた。痛《いて》ぇ!!
「土曜日だけ出てこい、夕士。日曜日は頭と身体を休ませないとな」
「それでいいんスか? 全然役に立ってないような……」
「いいんだ。なあ、みんな!」
「そぉさ。一日でもいいから出てこいよ、夕士」
「急にいなくなったら、オイチャン淋《さび》しいぞ!?」
「…………」
俺は、深く頭を下げた。
「すんまっせん。そうさせていただきまス」
俺は、本当に恵《めぐ》まれている。
両親の死というハンデを補ってあまりあるものを、俺は持っている。
「まるで、ご両親が遺《のこ》してくれた遺産のようだねぇ」
アパートの居間の縁側《えんがわ》。お茶を飲みながら、詩人がしみじみと言った。その言葉は、俺の胸にしみた。
突然《とつぜん》の悲運に見舞《みま》われた俺の両親が、自分たちの代わりにと配剤《はいざい》してくれたような……そんな気がしてならない。
「でもそれは、君の人徳なくしてはありえないことなんだよ、夕士クン」
詩人の声は、とても静かだった。
「自分の悲運や不幸を嘆《なげ》くばっかりの者のところへは、幸福なんて絶対にやってこない。それはなぜか? 本人が不幸のフィルター≠ナまわりを見ているからサ」
「不幸のフィルター……」
「不幸のフィルターでまわりを見てるから、世の中は歪《ゆが》んで見える。自分のまわりの、普通《ふつう》に暮らしている人でも、自分よりはるかに恵《めぐ》まれているように見える。そして不幸な自分を見下しているように見える。だから拒絶《きょぜつ》する」
「…………」
この話は、俺にはちょっとつらかった。似たような気持ちになったことがあった。だから中学の頃《ころ》の俺には友だちがいなかった。俺が拒絶していたからだ。
「こういう人たちが受け入れるのは、自分と同じ人間だけ。不幸のフィルターで見ると、白黒の世界の中で自分と同じタイプの人間だけがカラーで見えるの」
と、詩人は見てきたように言った。
「で、苦しんでいるのは自分だけじゃないんだと、ここで目が覚める者もいれば、『ああ、あなたも私と同じ、苦しくてミジメで哀《かな》しい人なんですね。さあ、お互《たが》いの傷を舐《な》め合《あ》いましょう』と、よりディープに沈《しず》んでしまう者もいる。こうなったらもう脱《ぬ》けられない」
「…………」
「お互いに苦しくてミジメで哀しいのに、なぜ支え合ってがんばろうってことにならないと思う?」
そう問われた俺の頭に、青木とその信者どもの姿が浮《う》かんだ。
『ヒナのままのほうが楽なんだから、いいんじゃないの?』
という田代の言葉とともに。
「楽だから……?」
「ピンポーン♪」
ラクガキのような顔がニヤリと笑った。
「こういう人たちにとってはね、苦しくてミジメで哀しいままでいるってことが、案外楽なのヨ」
「……それは、Mってことっスか?」
詩人は首を振《ふ》った。
「Mは、苦しくてミジメで哀《かな》しいことに文句言ったりしな〜い。むしろ、カ・イ・カ・ンでしょ!? でもこういう苦しみ屋さん[#「苦しみ屋さん」に傍点]は、苦しいミジメだ哀しいって文句たれて、世の中を呪《のろ》って他人を妬《ねた》んで……それで満足しちゃうの。同志を得たら『な、俺たちってミジメだよな。世の中ってヒデェよな』って言い合えるから、ますます満足度が増す。負のコミュニケーションだネ」
負のコミュニケーション……なんて嫌《いや》な言葉だ。ゾッとするぜ。
「そして外に対する憎悪《ぞうお》も強くなる。『ああ、お前らはエライよな。家庭も仕事も順調でよ。どうせ俺らはダメな奴《やつ》らだよ。そう言って俺らを見下してんだろ? わかってんだよ!』……ってな具合」
俺は、ウンウンとうなずいた。
「でもネ、苦しみ屋さんは自分たちが他人から見下されていると口では言いつつ、実は自分たちが他人を見下してるの」
「…………」
「これはね、苦しんで哀しんでいるということを、自分のアイデンティティーにしちゃってるからなんだよ。だから〈苦しんでいる〉俺たちは、〈苦しんでいない〉お前たちとは違《ちが》うんだ、なんて考え方をするわけ。これは、イコール〈苦しんでいる〉俺たちは、〈苦しんでいない〉お前たちよりエライんだ! という意味なの。苦しんでいる自分たちを特別な存在≠セと思いたい。それは、他人に認めてほしいという気持ちの裏返し。でも、他人と交わるのはイヤだ。絶対|拒否《きょひ》する。複雑なアンビバレンツだよね〜」
「ソレ! ソレっスよ、一色さん!」
まさに青木の信者どもがそうだよ! 孤独《こどく》や不安を抱《かか》えこんで、自分じゃどうすることもできなくて、同じ思いの者同士、小さな世界に引きこもって外との交わりを拒否し、外の奴《やつ》らをバカにし、自分たちを「特別な存在」と思いこむことで自己を保っている。その世界の中でとどまったまま、成長も発展もない。
「がんばって心を開く努力をするより、苦しい苦しいと言いながら同じところをグルグル回るほうが楽だからだよ。そこに仲間がいればなおさらさ」
「うっわー、そんなの絶対にイヤだ!」
想像するだけでも気持ちが暗くなる。その「暗いところ」がいいのか? わからん!
「そういう心境にならざるをえなかったということには同情するけど、いつまでも同じところをグルグル回ってていいってことにはならないよネ」
詩人の言葉に、俺は高速でうなずいた。
「でも、外の人間が千の言葉を尽《つ》くしても、万の手を差しのべても、それを受け入れるかどうかは、結局は本人の意思でしかない。その人がどう生きるかは、本人しか決められないんだ」
俺は、ハッとした。龍《りゅう》さんが前に同じことを言っていたからだ。
『どんな運命だろうと、周囲がどんな手助けをしようと、それを乗《の》り越《こ》えるのは、結局は本人の意思しかないんだ』
「だからだよ。だから……『人の心はパラシュートのようなものだ。開かなければ使えない。byオズボーン』これなんだよ」
俺たちのそばに、いつの間にかクリとシロが来ていた。
「あ、クリたん。おいで〜」
クリは呼ばれて詩人の膝《ひざ》に座《すわ》った。俺と詩人の間にシロが割りこんできたので、背中を撫《な》でてやったら「もっと」と身体を押《お》しつけてきた。
クリは二|歳《さい》ぐらいの男の子の幽霊《ゆうれい》。親に虐待《ぎゃくたい》されて殺された。白い犬のシロは、クリの育ての親。クリの魂《たましい》を守っている。この一人と一|匹《ぴき》は、アパートでみんなに可愛《かわい》がられながら成仏《じょうぶつ》するのを待っている。
「クリたん、バンザーイ」
詩人がクリの両腕《りょううで》を空に向かって広げた。燦々《さんさん》と降りそそぐ夏の陽射《ひざ》しを浴びる幽霊《ゆうれい》というのも妙《みょう》だけど、クリは小さな向日葵《ひまわり》のようだった。
そうしておいて詩人は言った。
「心は常に外に向かって開いてなきゃならない。こうして広大な世界にあるいろんなものを自分の中へ取りこんで、自分を活性化させることが大事なんだよ」
クリの小さな両手が青い空に向かって開いていた。大空をつかんでいるようだった。
「夕士クンがたくさんの優《やさ》しい人に囲まれているのは、夕士クンがその人たちを選んだからに他《ほか》ならない。悲運や不幸に心を歪《ゆが》ませず、まわりをフィルター無しに見ていたからこそ、本当に自分に必要なものを選別できたんだ。広大な世界の中から」
「そうさせてくれたのは、長谷とアパートのおかげっス!」
俺は自信を持ってそう言える。
閉じていても不思議じゃなかった俺の世界のドアを、ずっと開けてくれていたのは長谷だ。長谷が、俺の世界のたった一つのドアだった。そのドアが閉じていなかったからこそ、アパートへ来てから次々とドアが増えていったんだ。
感謝してやまない。
この世界を大切にしたい。
たくさんの人たちのおかげで創《つく》られた俺の世界を、守っていきたい。
夏休みが始まった。
俺は毎日講習を受けに学校通いだ。
俺よりもずっと上の大学を狙《ねら》う長谷も当然夏期講習があって、ようやくアパートにやってきたのは盆明《ぼんあ》けだった。
「稲葉、久しぶり〜!」
アパートの玄関《げんかん》で、長谷は俺の顔を見るなり抱《だ》きついてきた。
「汗《あせ》が気色|悪《わり》イ!!」
べりっと引《ひ》き剥《は》がすと、長谷は力なく言った。
「つれないこと言うなよ〜。仙台《せんだい》から直帰なんだぞ〜」
「直帰って、ここはお前の自宅か」
大金持ちで容姿|端麗《たんれい》、頭脳|明晰《めいせき》。ウルトラスーパービジネスマンの親父《おやっ》さんの後を継《つ》ぐべく修業中《しゅぎょうちゅう》の長谷|泉貴《みずき》。俺の親友。その裏の顔は、腕《うで》のたつ仲間を集め密《ひそ》かに組織作りをし、将来は親父さんが重役を務める大会社を乗っ取ろうと企《たくら》んでいる謀略家《ぼうりゃくか》である。
そんな、強気で皮肉屋で図太い悪党がやけにしおれているのは、父方の実家にお盆《ぼん》の挨拶《あいさつ》に行ってきたからだ。
長谷の親父さんの実家は、まるで横溝正史《よこみぞせいし》の小説のように、田舎の因習に彩《いろど》られたおどろおどろしい感じがする。人間関係の複雑な巨大《きょだい》な屋敷《やしき》と、父(じいさま)と息子《むすこ》(長谷の親父さん)との確執《かくしつ》。莫大《ばくだい》な財産。じいさまの謎《なぞ》の過去。じいさまとまともに口をきくことを許されない長谷の親父さん一家。
まぁ、だから長谷ン家《ち》じゃ誰《だれ》も実家へ行きたがらず、一番|下《した》っ端《ぱ》の泉貴ぼっちゃん一人が行かされて、本家で丸二日ぐらい針のむしろに座《すわ》ってくるわけだ。
「今度は、大おじいさまと口がきけたか?」
と訊《き》くと、
「とんでもねぇ。あのクソジジイは、いつもみたいにはるか遠くに座《すわ》ってただけさ。俺の挨拶《あいさつ》する声も届いてねぇんじゃねぇの?」
長谷は、皮肉たっぷりに言った。
「こないだ死にかけたと思ったら、もうピンピンしてふんぞり返ってやがる。ったく、生《い》き汚《ぎた》ねぇジジィだぜ」
長谷ン家《ち》と本家に相当根深い確執《かくしつ》があることが、長谷のこの口ぶりからもわかる。
「横溝正史の世界だ。犬神《いぬがみ》一族だ」
俺はいつもそう思う。ちょっとワクワクしたりする。
「クリ〜〜〜ッ!!」
広げた長谷の腕《うで》の中へクリが飛びこんできた。
長谷は、俺の事情[#「事情」に傍点]もアパートの事情[#「事情」に傍点]も、すべてを理解してくれている。そのうえで、クリとは相思相愛だ(ここ、笑うとこ)。
クリに懐《なつ》かれてから、長谷はガラにもなく父性本能に目覚めてしまい、自分を「パパ」と呼んではばからない恥《は》ずかしい奴《やつ》になってしまった。親父《おやっ》さんが見たら腰《こし》を抜《ぬ》かすだろう。いや、大笑いするかもな。あの人なら。
「いらっしゃい、長谷クン」
「よー」
「久しぶりー」
「こんばんは、皆《みな》さん。またしばらくいますんで。ヨロシク」
アパートの食堂には、詩人、画家、佐藤さん、まり子さんと桔梗《ききょう》さんがいた。
まり子さんは、スーパーダイナマイトボディの絶世の美女だけど、成仏《じょうぶつ》をやめて妖怪託児所《ようかいたくじしょ》の保母さんをしている幽霊《ゆうれい》である。
桔梗さんは、小学生のような小さな可愛《かわい》い化《ば》け猫《ねこ》だけど、実は猫バァ[#「バァ」に傍点]。「プチ」を使うために霊力《れいりょく》を鍛《きた》える俺の修行《しゅぎょう》をみてくれている。
長谷が山のように持ってきた酒で、大人どもは盛り上がった。
「夏休みも勉強ゴクローさん、受験生どもよ! がんばれよ――っ!!」
「カンパ―――イ!!」
テーブルの上には、夏のメニューが次々と運ばれてきた。
「うっわ〜、このアナゴと湯葉の煮物《にもの》が……なんて上品な味なのぉ〜!」
「甘《あま》いですね。湯葉の食感が、まるで茶碗蒸《ちゃわんむ》しを食べてるみたいです」
お疲《つか》れの長谷は、久々のるり子さんの手料理にテンションが上がってるようだった。
「待ってました、ハモ!!」
「夏だねぇ」
ま、長谷でなくてもテンションが上がるか。ハモの塩焼きとハモの白焼きの棒寿司《ぼうずし》に、大人どもも大喜びだ。旬《しゅん》の刺身《さしみ》は、トリ貝。水茄子《みずなす》と豚《ぶた》の煮びたしは、飯のおかず用に温かいのが、酒の肴《さかな》用に冷たいのが出てきた。
「さっすが、るりるり! 心得てるネー!」
「これ、ダシ汁《じる》まで飲めるっスよ!」
「トリ貝の刺身は、今の時期でなきゃ食べられないよ」
「大吟醸《だいぎんじょう》もう一本開けようぜ!」
飯組は、ニンニクとオイスターソースが食欲を進ませるトマトと鶏肉《とりにく》の炒《いた》め物《もの》と、ニンジンや大根サラダをたっぷりのせ、和風ドレッシングをかけたスズキのソテーで白飯をガツガツかきこんだ。
酒組は、つまみにピッタリ一口シソ入りギョウザや、マヨネーズとジャガイモでふわふわ、ニラと豚《ぶた》バラの和風チヂミで、大吟醸《だいぎんじょう》の次はビールで盛り上がる。
そして酒の仕上げには、すだちのスライスがびっしり敷《し》きつめられた、冷やしすだち蕎麦《そば》が出された。
「コレ、たまんな―――い!」
まり子さんが絶叫《ぜっきょう》した。こう言われちゃあ(こう言われなくてもだが)、飯組も食べずにはいられない。飯の後にだぜ? どんだけ食うんだっての、俺たち。
「すだちがいっぱいだからもっと酸《す》っぱいかと……。全然酸っぱくないですね!」
長谷が目玉をまん丸にして言った。
「すだちを搾《しぼ》った汁《つゆ》じゃないからね。汁はちゃんと魚のダシからとってンのさ」
桔梗《ききょう》さんが解説してくれた。
「そうか、これは香《かお》りだけ……」
「つるっつるだよ。喉《のど》をすべっていくよ!」
「酒の後にコレはサイコ―――!」
佐藤さんも詩人も絶叫。
「なんか身体がサッパリしたから、もっぺん飲みてぇ気分だな」
画家の意見に大爆笑《だいばくしょう》。
るり子さんの激うま飯を食いながら、アパートの大人たちと、長谷と、バカ話や真剣《しんけん》な話でしゃべり合い、笑い合う。その窓辺を、夜の雨が銀色に濡《ぬ》らしていた。
雨に混じって、いくつもの光る粒《つぶ》を抱《かか》えた透明《とうめい》な丸いモノが、くるくると回りながら落ちてきた。それらは地上ではじけると、光る粒をばらまいた。暗い庭のあちこちで、パッパッと光が灯《とも》る。その光のまわりで、黒い小人たちが輪になって踊《おど》っていた。
「綺麗《きれい》だな」
窓辺に座《すわ》った俺のそばに、長谷が来て言った。
「ああ。線香《せんこう》花火みたいだ」
金色に、銀色に、細かな光の粒が夜闇《よるやみ》に砕《くだ》け散《ち》る。その一瞬《いっしゅん》の光に照らされて、小さな物《もの》の怪《け》たちの姿が浮《う》かび上《あ》がる。
さらさらと、夜の空気の中を雨粒たちがすべってゆく音が聞こえる。水滴《すいてき》がアパートの屋根を静かに叩《たた》く音が聞こえる。緑と土の匂《にお》いが漂《ただよ》っている。空気はしっとりと涼《すず》やかだ。
トイレの前には「もくもくさん」がいて、行く手を阻《はば》んでいる。水場には長谷の苦手な「貞子《さだこ》さん」がいて、壁《かべ》の陰《かげ》からこちらをうかがっている。クリはシロと並んで、俺の布団《ふとん》ですやすやと眠《ねむ》っている。不良大人どもは居間で寝酒《ねざけ》タイムに突入《とつにゅう》。地下の洞窟《どうくつ》温泉でゆったりと温まり、長谷の疲《つか》れもとれたようだ。
俺は、満ち足りている。
温かで豊かなものに満たされている。
世界は、とても静かだ。
「……お前、いい顔してるな、稲葉」
唐突《とうとつ》に長谷は言った。
「そうか?」
「遠くを見ている顔だ」
長谷はそう言って、軽く微笑《ほほえ》んだ。
そう。俺をよく見てくれている人が、ここにもいる。
遠くを見ていると、そう言った長谷の言葉は意味深かった。
すぐ目の前のものばかり見ていたんだろう、俺は。
少し顔を上げ、遠くを見られるようになったことを嬉《うれ》しく思う。これからも、大学に入っても就職しても、いつも目線は遠くを見ていられるようになりたい。
俺は、傍《かたわ》らに立つ長谷の手を、ぎゅっと握《にぎ》った。
「なんだよ?」
「……これからもよろしくな、長谷」
と、照れくさいのを我慢《がまん》して真面目《まじめ》に言った。
「ふ」
長谷は、とても優《やさ》しく笑った。……あれ? イヤな予感。
「ああ。こっちの講習は終わったんで。明日からお前の勉強を見てやるよ」
天使の笑顔《えがお》で(でも目が笑ってないぞ!)そう言う長谷に、俺は冷《ひ》や汗《あせ》がたれてきた。
「素晴《すば》らしい! 長谷様にはいつも本当にご主人様がお世話になり、僕《しもべ》一同感謝の言葉もございません!」
机の上に現れたフールが、おおげさにお辞儀《じぎ》をした。俺は、フールをひっつかんで言った。
「余計なことを言うんじゃねぇよ!」
「おや? 長谷様なら、さぞや優秀《ゆうしゅう》な教師になれるのではないかと?」
俺は、フールを握《にぎ》る手にキュ〜〜ッと力をこめた。
「お前は、長谷の教え方がどんなにスパルタか知らねーだろ! アレがそこらの塾《じゅく》の講師なら、一発でクビだぞ、クビ!」
「確かにどのぐらいスパルタかは存じませんが……」
フールは俺に握られながら、大きく肩《かた》をすくめた。
「コレすべて、愛でございますよ、ご主人様。ラ・ブ|※[#ハート、1-6-30]《ハート》」
「…………」
握った手に殺意が湧《わ》いた。
こうして俺の夏休みの後半は、午前中は学校で講習、アパートに帰ってきても講習(しかも学校の数十倍も厳しい内容)と、勉強まみれで頭がパーンとなりそうだった。
それでも、目標に向かって何かに取り組んでいることは心地好かった。長谷に助けられ、るり子さんの激美味飯《げきうまめし》と差し入れに助けられ、クリや温泉に癒《いや》され、大人どもとバカ話で息抜《いきぬ》きし。もちろん、桔梗さんと朝の修行《しゅぎょう》も欠かさなかった。週一ぐらいで剣崎運輸に顔を出して、配送などを手伝った。身体を動かして汗《あせ》をかくのが気持ちよかった。
俺の世界は、今一番|輝《かがや》いているように見えた。
このまま何事もなく、日々は過ぎるものだと思っていた。
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運命は螺旋《らせん》にからみ合い
夏休みも、あと一週間となった日だった。
学校での講習は終了《しゅうりょう》していた。
「明日はどっか遊びに行ってこいよ」
と、長谷が言った。
「一緒《いっしょ》に行きたいが、ちょっと用事があってな〜。これ、よかったら使え」
長谷がくれたのは、いろんなイベントの招待券だった。美術展に博物展、映画の券も一枚。他《ほか》にも何枚か。長谷の家には、こういう招待状やら案内状が山のように届く。
「そういやあ、この夏はホントどっこにも行ってねぇわ。映画すら見に行ってねー」
「映画見てコーヒー飲んで、街をブラブラしてこい」
長谷は、軽くそう言った。
「……うん。そうだな」
俺も、街のでかい本屋へ寄ろうとか、軽く考えた。
それが、「その日」だったのには、何か意味があるんだろうか。
昼飯をゆっくり食べてから、俺は電車に乗った。
長谷にもらった招待券を見ながら、どこへ行こうか考えていた。
「映画は、今見たいのやってねぇんだよな〜」
駅を出て、とりあえず大型書店へ行った。雑誌から専門書まで、立ち読みしながらあちこち回ったら、あっという間に時間がたってしまった。
「うわ、もう三時半!?」
暑い日だった。ちょっと歩くと喉《のど》が渇《かわ》いた。
コーヒーでも飲もうかと思っていたけど、路地にレモネードを売っている小さな屋台が出ていたので、思わずLサイズを買ってしまった。その場でゴクゴク飲んでいると、ププとクラクションを鳴らされた。
「よ」
「千晶!?」
赤い車の窓から覗《のぞ》いていたのは、千晶だった。
「何してんだ、センセ? こんなとこで?」
「学校に行ってたんだよ。教師に夏休みはない」
「千晶、学校へ来てたんだ? 講習に簿記《ぼき》も情報処理もないから休みだと思ってた」
「講習じゃなくても教師は学校へ行くんだよ。いろいろ仕事があるの。お前こそ勉強がんばってるか?」
「今日は初めての息抜《いきぬ》きだぜ!? 勉強勉強で頭から煙《けむり》が出そうだ」
「ふふ。お、レモネードか」
俺が持っていたカップを見て、千晶は車をおりてきた。
「S一つ」
屋台でレモネードを買う姿も決まってるわ、ホント。呆《あき》れるほど。
「可愛《かわい》いな、この車。どこの?」
千晶の車は、|4《フォー》ドアだが小さくて丸っこいデザインで、綺麗《きれい》な赤いボディカラーがお洒落《しゃれ》だった。
「ん? シトロエンだ」
「シトロエン!?」
まったく千晶らしいっちゃ、千晶らしい。同じ外車でも、ベンツでもBMWでもなく、シトロエンとは。
「シトロエンのC3だ。普段《ふだん》乗ってるのはC6だけどな」
「えっ、二台も持ってんの!?」
「遠出する時なんかはC6のほうが大きいんでな。乗り心地がいい。こっちは小回りがきくから仕事用だ」
「サラッと言うなよ」
「そんな高級車でもないぞ。C3は二百万ちょっとで買える」
「だからサラッと言うなよ」
「実家には四台もあるぜ!? 乗れる人間は二人なのに。それも全部ベンツだ。ベンツって、デザインがイマイチだと思わねぇ?」
「だから……」
この金持ちのドラ息子《むすこ》め。どうせ俺が車を買うとしたら、まずは中古の軽《けい》だよ。
千晶は、顔をしかめながらレモネードを飲んだ。
「なに泣いてんだ?」
「俺、酸味に弱いんだよ。酸《す》っぱいのは好きなんだけどな」
千晶は涙声《なみだごえ》で小さく咳《せ》きこんだ。
「それにしてもすげぇ偶然《ぐうぜん》だなぁ。こんなとこで会うなんて。まあ、俺らが映画を見るとか買い物に来るっていうと、いつもここらへんだけどさ。でも今までここらへんで、学校の先生に会ったことなんてないよ。あ、千晶、どっかへ行くとこなのか?」
「あー、いや。知り合いの店がこの先にあるんで、そこに行こうかと思ってるんだが。特に用があるってわけじゃ……」
「へー……、ふふん」
「なんだよ?」
俺は、千晶にすり寄《よ》った。
「なんかおごって、センセー♪ アイスとか食いてーなー」
「なんだその猫《ねこ》なで声《ごえ》は。気味|悪《わり》ィ」
「講習科目以外の教師に会えて、なんかすっげぇ嬉《うれ》しいよ」
千晶は吹《ふ》き出《だ》した。
「そんなに勉強したってか?」
「そんなにしたよ! しかも、ダチに殴《なぐ》る蹴《け》るのスパルタカテキョされて、大学を目指したことを思わず後悔《こうかい》しそうになる自分が怖《こわ》いくらいだ」
「ハハハハ」
「二学期が始まるのが待ち遠しいぜ。体育祭とか文化祭とか、早くやりてぇ」
俺は口を尖《とが》らせた。千晶は目を細めた。
「しょうがねぇなぁ。乗れよ」
「ヤリー♪」
その時、
「千晶ちゃん! 千晶ちゃんだ!!」
と、聞き慣れたハイテンションな声がした。
「えっ?」
と振《ふ》り向《む》いた千晶にタックルをかましたのは、
「千晶ちゃんだ――――っ!!」
「ゴフッ!!」
田代だった。
「うわっ、うわーっ、ホンモノ! 学校以外の場所で会うの初めてじゃない? ねっ、ねぇっ!! うわ、も〜〜〜っ、超《ちょう》ラッキ――ッ!!」
「ゲホッ、ゴホッ」
続いて桜庭と垣内も現れた。
「わー、ホントに千晶センセーだー」
「あ、稲葉くんも」
「姦《かしま》し娘《むすめ》」
「え、稲葉?」
田代はそこでやっと俺を見た。
「アラッ、あんたもいたの!?」
こいつ……ホントに俺が目に入ってなかったな。
「きゃーっ、ひょっとしてデート中だったのぉ、お二人さんってば? イヤ〜ン、お邪魔《じゃま》しちゃった? あたし、お邪魔虫!?」
田代は、俺と千晶に同時に頭をハタかれた。
「お前らどっかへ行く途中《とちゅう》?」
桜庭と垣内に訊《き》くと、二人とも首を振《ふ》った。
「別に。ね」
「うん。ランチして買い物してたの。で、時間が余ったから、アンティーク・ジュエリー展へ行ってみる〜? とか言ってたとこ」
「稲葉クンは、千晶センセーとデート?」
「サラッと言うな。俺も千晶とは今|偶然《ぐうぜん》会ったんだよ」
千晶もうなずいた。
「俺は学校からの帰りだよ」
「千晶ちゃん、やっぱり学校にいたんだ。もー、夏休み中全然会えなくて淋《さび》しかったよ〜。講習クラスを覗《のぞ》きに来てくれてもいーじゃん」
田代はそう言いながら、千晶の身体をベタベタさわりまくった。それをベリッと引《ひ》き剥《は》がして、千晶は言った。
「講習には、講習の担当がちゃんといるだろ。お前たちの様子は、講習担当からちゃんと報告が入ってたよ。C組には問題のある生徒はいなかったしな」
「安心してほったらかし」
俺はうなずいた。
「そういうこと」
千晶もうなずいた。
「夏休みもせっせと講習を受けに来る受験組に問題児はいない。あるとすれば、成績と志望校の兼《か》ね合《あ》いぐらいだ。心配なのは、学校に来ない連中だよ」
煙草《たばこ》を取り出し火をつける千晶に、田代がウットリと見惚《みと》れる。
「やっぱり問題起こした子がいたの?」
キョトンといったふうにたずねる桜庭は、およそ「問題」とは縁遠《えんどお》いタイプだ。垣内しかり。
「万引き、飲酒、喫煙《きつえん》と深夜|徘徊《はいかい》。ちゃんと補導された[#「ちゃんと補導された」に傍点]のは、それぐらいかな」
千晶は、長々と煙草の煙《けむり》を吐《は》いた。
「本当に深刻な問題を抱《かか》えている生徒は、なかなか表面に出てこないからなぁ。万引きして、親がすっ飛んできて、そこで親子|大喧嘩《おおげんか》なんてのは、問題がないのも同然だよ」
そうだろうな。万引きも酒も煙草《たばこ》も深夜|徘徊《はいかい》も、みんなやりたいお年頃[#「やりたいお年頃」に傍点]だ。ただのカッコつけとか出来心とか、みんなやってるからとか、そんな理由でお手軽にやっちまいました――ってのは、マシなほうなんだ。
長谷の言葉を借りるとだな、こういう連中は『窒息《ちっそく》寸前までギリギリに締《し》め上《あ》げろ』だよ。どうせ尻《しり》の一つも叩《たた》かれたことのない連中だから、この際ケツ百叩きの刑《けい》に処して、「犯罪は割に合わない」ってことを身体に叩きこんでやりゃいいんだ。それが本人のためさ。体罰《たいばつ》反対? くだらねぇ。
「でもまぁ、条東商は今のところ、深刻な問題を抱えている生徒はいないみたいだな。青春や人間関係での悩《なや》みは別として。新一年はちょっとわからんが」
と、千晶が言うと、田代がそれに太鼓判《たいこばん》を押《お》した。
「うん。そんな情報は入ってないから安心して♪」
恐《おそ》るべき情報網《じょうほうもう》を張《は》り巡《めぐ》らしている(どんだけ恐ろしいのか、想像するのも恐ろしい)田代の言うことに間違《まちが》いはないだろう。
「心強いネ」
千晶は、田代の頭をぽんと叩《たた》いた。
本当に深刻なのは、犯罪を犯罪と認識していて、『それがどうした?』って言う連中だろう。
『やりたかったから、やったんだよ』――悪びれもせずこう言う奴《やつ》は、千晶の言う「深刻な問題を抱《かか》えている」場合が多い。それは大方の場合「家庭の問題」であり、さらに大方の場合「親の問題」だ。こんな親は、子どもが万引きで補導されても「すっ飛んで」こない。「親子で大喧嘩《おおげんか》」もしない。
「そんな奴は、目でわかる」
と、千晶は言う。
俺もよく言われたよ。「目つきが悪い、怖《こわ》い」って。ま、俺の目つきが悪いのは、生まれながらのツリ目だからってこともあるけど……。そんなことはどうでもいい。
アパートの大人たちとも話したことがある。
「愛されたことのない子ども」の話。
「その悲しみと苦しみを乗《の》り越《こ》えられない子ども」の話。
こんな子どもは、親を含《ふく》めた大人|一切《いっさい》を信用しない。当然教師に相談もしない。大人に干渉《かんしょう》されたくないから、黙《だま》って深みへはまってゆく。
『自分や他人を傷つけ、犯罪を犯《おか》すこと。これすなわち、大人の世界へのアンチテーゼだからネ』
詩人は画家を見ながら笑って言った。画家は、盛大に口を尖《とが》らせていた。
画家は自分の才能で、自力で「そんな自分」を乗《の》り越《こ》えた。
俺は、長谷やアパートのみんなの力で「そんな自分」を乗り越えられた。
『それは、乗り越えようという意志があってこそだよ』
詩人も龍さんもそう言う。本人にその「意志」がなけりゃ、まわりがどんな手助けをしたって……。
「やーん! 稲葉だけにアイスおごるなんてズルイよ、千晶ちゃん!」
姦《かしま》し娘《むすめ》たちは、揃《そろ》ってほっぺたをふくらませた。
「せっかく偶然《ぐうぜん》会えたのに、ねー!」
「ねー! 神様のお導きだよねー」
「アイス食べたいゾー!」
千晶は、やれやれと肩《かた》をすくめた。こいつら相手じゃ、アイスをおごるだけじゃすまないぞ〜。とんだ神様のイタズラだよ。
「あ……そういやあ」
俺は、ポケットを探《さぐ》った。
「お前ら、さっきアンティーク・ジュエリー展とか言ってたよな」
「うん」
長谷にもらった招待券の中に……あった!
「ほら、招待券。やるよ」
「わー、ラッキー! ありがと、稲葉!」
「チケ代|浮《う》いたー♪ ありがとー!」
「アンティーク・ジュエリー?」
千晶が招待券を覗《のぞ》きこんできた。
「あれ、千晶ちゃん興味あり?」
「お袋《ふくろ》の誕生日が近いんでな。何かプレゼントを探してたんだが……」
「千晶先生、お母さんにお誕生日プレゼントするんですか? 意外〜」
「え、そうか?」
「だって男の人ってそういうの……ねぇ?」
「俺のダチもみんなやってるけどなぁ?」
「違《ちが》うのよ、ウッチー」
田代が、人差し指をチッチと左右に振《ふ》った。
「千晶ちゃんだから、なの」
「なるほど」
「うちはみんなでお祝いするぞ。そりゃ、家族一同でバースデーケーキを囲む、なんてことまではしないけど。ベガスにいる兄貴も、ちゃんと向こうからプレゼントを送ってくるし」
へぇ〜「理想の家族」ってやつか? 千晶って、ホントいいとこの子[#「いいとこの子」に傍点]なんだなぁ。
「ええ〜っ、お兄さんラスベガスにいらっさるの??」
「カッコイイ!」
「それは、海外|赴任《ふにん》とかで?」
姦《かしま》し娘《むすめ》に迫《せま》られて、千晶はちょっと「しまった」という顔をした。
「あ〜、いや、ちょっと……あまり人様に自慢《じまん》できるような職業じゃなくて……」
千晶は苦笑いしながら言葉を濁《にご》した。どんな仕事だよ。
「これ、四名様ご招待券だよ! 千晶ちゃん、行こうよ! 展示即売《てんじそくばい》もやってるって!」
「お母さんのプレゼントが見つかるかも」
「五時までだから、急がなきゃ!」
「あ、稲葉クンはどうすんの?」
田代は俺をじっと見てから、ニッコリと笑った。
「じゃ、バイバイ、稲葉!」
「オイッ!!」
いや、別にジュエリー展に行きたいわけじゃないけども!
「それはマズイだろ、田代」
千晶は笑った。
「みんなで行こう。俺の分は自分で出すから。それからアイスだ」
なかばあきらめ口調で千晶は言った。
「ヤッタ―――! わ―――い!!」
「ワーイ、ワ―――イ!!」
「この夏一番の思い出〜〜〜っ!!」
姦《かしま》し娘《むすめ》は、それはそれは嬉《うれ》しそうに手をつないで跳《は》ね回《まわ》った。
(それにしても偶然《ぐうぜん》が重なったもんだ……)
俺は、ちょっと不思議に感じた。
偶然が重なることは、たまにある。
だけど、それがただの偶然の重なり合いじゃなくて、運命の分かれ目を左右する「予兆」だったということがある。大きな事件や事故にまつわるそのての話は多い。
「今日」じゃなかったら?
「一本早い電車」に乗っていたら?
「道が渋滞《じゅうたい》」していたら?
まるで誰《だれ》かが図《はか》ったように俺たちは出会った。田代たちが行こうとしていたアンティーク・ジュエリー展の招待券を俺が持っていた。千晶は母親への贈《おく》り物《もの》を探していた。
それぞれの運命が、螺旋《らせん》を描《えが》きながら「そこ」に向かってからまっていってるような気がする。
ただの偶然の重なり合いなのか、運命の分かれ目を前にした「予兆」なのか。
そして、「そこ」には何が待っているのか。
それは、誰《だれ》にもわからない。
人は、ただそれを受け止め、乗《の》り越《こ》えるだけなんだ。
アンティーク・ジュエリー展は、俺たちがいたとこより二駅先にある港に建てられた特設会場で開催《かいさい》されていた。俺たちはそこに、千晶のシトロエンで乗りつけた。会場は、ちょっと海に張り出した、コンテナを組んで造られた斬新《ざんしん》な建物だった。
正面の出入り口から入ると、広い空間に黒一色の布が張られ、左右の壁際《かべぎわ》にショーケースが並び、真ん中にぽつぽつと展示ケースが置かれていた。ちょっと暗い感じの照明で、宝石に当たるスポットライトが幻想的《げんそうてき》だった。
「わ〜、なんか大人っぽい雰囲気《ふんいき》」
「ソリャ、金出してくれるのは大人だから、それターゲットにせんとな」
「もう、そーいう言い方しないの!」
俺は田代に頭を小突《こづ》かれた。
建物の案内図を見た。一階の展示場を取り巻く回廊《かいろう》とか、二階は北部分と南部分に分かれているとか、複雑な構造になっていた。いろいろな催《もよお》し物《もの》に対応するようになっているらしいが、この会場ではいつも一つの催ししか開催《かいさい》されていない。確か前は美術展だった。二階部分は、主にスタッフルームと倉庫のようだ。
「……非常口確認、と」
夏休みとはいえ、暑い平日の午後。閉館時間も間近とあって、客はあまり多くなかった。学生というか、子どもは俺たちぐらいか。あとはおばさんと、赤《あか》ん坊《ぼう》連れの若い奥《おく》さんらが十数人。カップルが一組。
品物の点数は多かった。宝石のたくさんついた、古風で華麗《かれい》なデザインの指輪やネックレスが並んでいる。
「アンティークっていうから、もっと高いもんだと思ってたら……そんな高くないものもあるんだな」
ショーケースを覗《のぞ》いて感心していると、
「やぁだ、稲葉。あンた、これ本物のアンティークだと思ってたの?」
と、女どもに笑われた。
「違《ちが》うのか?」
「アンティーク・デザイン・ジュエリーよ。デ・ザ・イ・ン。まぁ、本物のアンティークも置いてあるでしょうけど」
「そうなのか」
「あんたがくれた招待券、『特別ご招待券』になってたでしょ。ここに並んでるのとは違う特別な商品≠ェあるのよ」
田代はしたり顔で言った。
「特別ご招待券を持ったお客様は、望めばそれをVIPルームかどっかでご覧になれるわけ」
「へ〜」
確かに、その招待券は長谷の家に届けられたものだ。なるほど、「特別な商品」を買ってくれそうだな。
「まぁ、いかにもその券を誰《だれ》かから譲《ゆず》られました〜みたいなあたしたちじゃ、スタッフも特別品の案内なんかしてくれないけど?」
姦《かしま》し娘《むすめ》はクスクスと笑い合った。
「俺だって、あの招待券はダチからもらったんだぜ」
「そんなことわかってるわよ」
田代は肩《かた》をすくめた。
「あんたのダチ≠フことぐらい、もうとっくに調べはついてるわ」
ええ〜〜〜〜〜!? なんで? どうやって調べたんだ? ……やっぱ怖《こえ》ぇ、コイツ。
「あんたも、ちょっとはこういうの見て目を肥やしなさい。そのダチとか千晶ちゃんを見習って」
千晶は、熱心に品物を見ている。
「あんないいとこのボンと一緒《いっしょ》にされてもなぁ。ん? ……アンティーク・ジュエリーも、民俗学《みんぞくがく》の範疇《はんちゅう》なんだろうか?」
ちょっと身を入れて見てみるかと思った時だった。
「あ」
と、入り口付近を見て田代が変な声を上げた。
「ちょっと……」
桜庭と垣内に何やら耳打ちをしている。入り口のほうを見ると、高校生ぐらいの女が二人いた。その顔に見覚えがあるような……。
「青木の信者……!」
はっとして田代を見ると、田代はウンとうなずいた。
青木には、いつもピッタリと青木につき従っている「信者」が十人ぐらいいて、それ以外にも「シンパ」が多数いる。
ジュエリー展に偶然《ぐうぜん》やってきたのは、「信者」のうちの二人だった。A組の香川《かがわ》と黒田《くろだ》。二人とも似たような地味な私服(よくわからんが、田代たちに比べればあきらかに地味。清楚《せいそ》といえばそうかも)で、髪型《かみがた》も同じだった。揃《そろ》えた前髪に肩《かた》にかかるぐらいのストレートヘアー。どっちがどっちかわからん。
向こうも俺たちに気づいたようだ。あからさまに嫌《いや》そうな顔をしたが、二人でこそこそ何かをしゃべった後は、ツンとした無表情で俺たちの横を通り過ぎた。
俺は、ふと嫌な予感がした。胸の奥《おく》がザワリとざわめいたような。
「あ……まただ、この感じ……。何かがヤバイ……。でも、何が?」
ここでピンとくればどんなにいいかと思う。でも、俺にはそんな霊感《れいかん》はないんだ。いくら魔道書《まどうしょ》を使えてもだ。
今ここで、何が起きるというんだ? 普通《ふつう》の日の、暑い、よく晴れた昼下がり。偶然《ぐうぜん》に立ち寄っただけの、特設展示会。まさか、ここであの青木の信者どもが、カッターを振《ふ》り回《まわ》して千晶を襲《おそ》うはずもない。あいつらとここで会ったのも偶然のはず。
「偶然……」
偶然が、こんなにも重なるものだろうか……?
何かの「予兆」なんじゃないだろうか?
それは、誰にとっての[#「誰にとっての」に傍点]?
「うまい具合にガキがいる」
その声に、身体じゅうの毛が逆立《さかだ》った。
バッと、声のするほうを振り向いたが、そこには誰《だれ》もいなかった。
だが、少し離《はな》れた入り口付近に、男が二人立っていた。長身のガッシリした体格。一人は短い黒髪《くろかみ》に、一人はスキンヘッドに青いバンダナを巻いている。男たちは入り口で中を向いたまま、じっと立っていた。
男二人でジュエリー展を見に……は、ないだろう。それに二人は、丈《たけ》の長いジャケットを着ていたが、それが妙《みょう》に似合ってなくて気になった。
さっきの「うまい具合にガキがいる」って――こいつらが言ったんだろうか? けっこう離《はな》れているが、声はすぐ近くで聞こえた気がしたが……。
「嫌《いや》な雰囲気《ふんいき》でございますな、ご主人様」
胸ポケットから顔を半分出してフールが言った。
「やっぱ、そう思うか?」
空気がピリついている。幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》じゃなく、これは人間の気配だ。道端《みちばた》で不良とメンチを切り合っている時の空気と似ている。
俺は、田代たちのほうを見た。―――いない!? 品物を見ながら売り子と話しこんでいる千晶に駆《か》け寄《よ》る。
「千晶っ、田代たちはどこだ?」
「トイレじゃないのか?」
「入り口。男二人」
そう千晶に耳打ちして、俺は田代たちを探しに行った。
「教師が特定の生徒を贔屓《ひいき》していいのかしら?」
「だから、あたしたちは偶然《ぐうぜん》会って、偶然ここへ来たのよ。そりゃ、アイスおごってもらうことになってるけど、そんなの贔屓ってほどのことじゃないじゃん!」
「青木先生なら、絶対そんなことはしないわ。みんなに完全に平等な方だもの。教師はそうあるべきだわ!」
田代ら三人と青木の信者の香川と黒田が、トイレの前で言い合っていた。どうやらトイレで鉢合《はちあ》わせしたらしい。
「久しぶりに街で偶然会ったのに『アラごきげんよー、じゃあね』って、冷たくねー? あんたらだって青木先生に会ったら『先生、お茶でも飲みませんか?』って言いたいでしょ? 青木先生とお茶したいでしょ!?」
田代にそう言われて、香川と黒田はグッとつまった。
「あんたらって、ホントはあたしたちが千晶ちゃんにベタベタするのが羨《うらや》ましいんでしょ? ベタベタさせてくれる千晶ちゃんが羨ましいんでしょ!? 青木先生は、そんなことさせてくれないもんね」
「そんなの羨《うらや》ましくなんかないわよっ!!」
香川は、真っ赤になって叫《さけ》んだ。
「オイ! 何やってんだ、お前ら……ったく」
俺は女どもの間に割って入った。
「ちょ、稲葉。聞いてよ! こいつらなんて言ったと思う?」
「それどころじゃ……」
「生徒を贔屓《ひいき》してるって、千晶ちゃんを学校にチクる気なのよ!」
「はあ、なんだソリャ!? アイスぐらいで学校が文句言うか!」
俺は、思わず香川らに言い返してしまった。すると香川は、顔をそむけ吐《は》き捨《す》てるように言った。
「アイスのことを言ってんじゃないわよ。……いやらしい」
俺も姦《かしま》し娘《むすめ》も呆《あき》れかえり、特に垣内はブチ切れた。
「何ソレ! どういう意味よ!!」
香川につかみかからんばかりの垣内を、俺は背中で止めた(さわるわけにはいかん)。
「何考えてんの、あんたら! バッカじゃねー!?」
「香川さんたち、あたしたちと千晶センセがエッチしてるんじゃないかって思ってるの? ブッハー、笑えるー!!」
桜庭は、ケタケタと笑った。
「そーよねー。青木センセとあんたたちじゃ、そんなこと起こりえないもんねー。も〜、男と女と見れば、あんたたちってば、も〜〜〜お! キラッキラだね!」
あっけらかんと大笑いする桜庭。いつもながら場の毒気を抜《ぬ》く奴《やつ》だ。
「千晶センセが、女子高生なんか相手にするわけないデショ!? センセの好みは年上の人だよ、きっと。それに、もンのすご〜〜〜っく理想が高いと思う。外人さんとか好みかも」
目玉をクリクリさせながら桜庭はそう言い、さらに俺のほうを振《ふ》り向《む》いて言った。
「千晶センセみたいな人は、好みのタイプ以外じゃ、たとえピチピチの美女にマッパで誘《さそ》われてもたたない[#「たたない」に傍点]と思うんだけど、どう思う、稲葉クン?」
俺は、一瞬《いっしゅん》絶句した。
「……っ、俺に振るな! ってか、何を言ってんだ、お前は!!」
俺は桜庭のドタマをペシンとはたいた。続いて田代と垣内もビシバシはたいた。
「ホントに何言ってんの、桜ってば!」
「何をベラベラ!」
「何がたたないよ!!」
「ナニがー」
「ギャハハハハハハ!!」
「ヤーメーテー! 想像したくな―――い!!」
盛り上がる田代たちを、香川と黒田は苦々しく見ていた。そこへ、千晶がやってきた。俺は、ハタと我に返った。
(あ、いけね。忘れてた! こんなくだらなトークをやってる場合じゃなかったんだ!)
「あ、千晶ちゃん。ブフッ!」
笑いをこらえる田代たちと対照的に、千晶の顔は険しかった。
「すぐにここを出るぞ。お前たちもだ」
千晶は、香川と黒田にも言った。
「え、なんで?」
「まだ全部見てないんだけど?」
田代たちはキョトンとした。
(やっぱり……!)
あの入り口にいた男たちと関係があるんだ。千晶も何か嗅《か》ぎつけたか。
香川と黒田はそっぽを向いた。
「お断りします」
「私たち、来たばかりなので」
「ごたくはいいから、全員出るんだ!」
千晶の厳しい口調に、みんなビクリとなった。不思議な眼力があるだけに、怒《おこ》ると本当に怖《こわ》い顔をするんだ、この先生は。
「そっちに非常口がある。そこから出るぞ!」
千晶は全員を廊下《ろうか》の奥《おく》へ誘導《ゆうどう》した。
「そ、そんなとこから出ていいの?」
「何かあったんですか、千晶先生?」
女どもの問いに答えず、千晶はどんどん廊下を進んだ。
(妙《みょう》に人気《ひとけ》がなくないか……?)
俺たちは、会場のバックヤードを歩いている。スタッフの一人や二人いてもよさそうなんだが、段ボールなどがあるだけで、やけにひっそりしている。
非常口が見えた。千晶はドアに飛びつくと、ノブを回した。が、
ガチン! と音がして、千晶の動きが止まった。
「……どうしたの、千晶ちゃん?」
こちらを向いた千晶の顔色が変わっていた。
「壊《こわ》されてる……」
その意味を、女どもは測りかねていた。怪訝《けげん》そうに顔を見合わせた。
ヤバイ……。これはヤバイ! 何かが起こっている。すでに[#「すでに」に傍点]!
その時、非常口のある廊下《ろうか》の、さらに奥《おく》の間仕切りの向こうから声がした。
「あら〜? こんなとこで何してんのぉ? このエリアはスタッフ以外立ち入り禁止ですよ〜」
嫌《いや》な響《ひび》きだった。声の底のほうに、悪意が感じられた。とても、アンティーク・ジュエリー展のスタッフの声じゃなかった。
間仕切りの向こうから、男が現れた。ひょろっとした人相の悪い金髪《きんぱつ》の、いかにもチンピラといった感じの若い奴《やつ》。ジーンズとTシャツ。その上に、アーミーベストを着ていた。
そして……手には、銃《じゅう》。
その足元に、警備員らしき制服姿が倒《たお》れていた。
女どもは、まだこれが何を意味するのかわからないでいた。さすがに田代は鋭《するど》く、真っ青になった。そして千晶は―――、顔色は悪いが、さっきより落ち着いた表情をしていた。
「うわ〜、カワイイ女の子が五人も! カノジョたちジョシコーセー? おにーさん、嬉《うれ》しいなぁ〜」
金髪《きんぱつ》は、ニヤニヤと笑った。
「セッ、センセ……」
「しっ」
千晶は、田代を制した。
「は〜い、みんな展示場に戻《もど》りまショー。もと来た道を戻って〜、ホレホレ」
金髪男に促《うなが》されて、俺たちは展示場へ戻り始めた。
「先生……」
桜庭と垣内が、不安げに千晶を見上げる。香川と黒田は、硬《かた》い顔をして前を向いたままだった。
「いいから、みんな。静かに。静かにな」
千晶の声は、落ち着いていた。
田代が、チラリと俺を見た。俺は「ヤ・バ・イ」と、口パクした。それを見て、田代はグッと息を呑《の》んだ。
俺たちが展示場に戻《もど》ると、今まさに、出入り口のシャッターが閉まるところだった。
閉館時間には少し早いので、展示場にいたまばらな客もスタッフも、キョトンとして出入り口が閉まるのを見ていた。その前には、あのデカイ男二人が仁王立《におうだ》ちしていた。二人はジャケットを脱《ぬ》いでいた。その下には金髪男《きんぱつおとこ》と同じくアーミーベストを着用し、腰《こし》には銃《じゅう》を差している。
俺は、展示場の真ん中付近にいた警備員を見た。その警備員は薄《うす》ら笑《わら》いを浮《う》かべていた。
会場の奥《おく》の壁《かべ》には二階への階段があり、二階へのドアがある。そのドアが開いて、同じくアーミーベストを来た若い奴《やつ》が現れ、叫《さけ》んだ。
「しゃあ―――っ! コントロールルーム制圧|完了《かんりょう》〜〜〜っ!! ヒャハハハハハ!!」
「こっちは、逃《に》げようとしていた奴らを捕《つか》まえまシター」
金髪男が、入り口の男たちに言った。
俺たちの目の前で、出入り口のシャッターが完全に閉まった。
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「そこ」に待っていたもの
「強盗《ごうとう》……強盗なの?」
田代がつぶやくように言った。桜庭たちは、そう言った田代を見てようやく事態を理解したようだ。
「そうみたいだな」
俺もつぶやいた。
「ホ……ホントに?」
「ドラマのロケとか……ドッキリとか?」
垣内も桜庭も、困りきった顔を見合わせた。
「ウソよ……。ウソよ、こんなの……。こんなこと、あるわけないわ」
香川と黒田は、呆然《ぼうぜん》とした。
そうだろうな。昼日中《ひるひなか》、たまたま来た展示会で強盗《ごうとう》に出くわすなんて、誰《だれ》が想像する? 災害や犯罪が毎日のようにニュースで報道されても、まさか自分がそれに巻きこまれるなんて誰も思わない。
展示場の空気が、一気に緊張《きんちょう》した。
入り口にいたでかい男二人、黒髪《くろかみ》とバンダナ男のうちの黒髪のほうが、会場の中央まで来て言った。
「ここにいるスタッフを連れていけ。他《ほか》のスタッフと一緒《いっしょ》に……。わかってるな」
いつの間にか、アーミーベストを着た男がさらに二人いた。そいつらが、売り子をしていたスタッフをどこかへ連れていった。
残された俺たち客は、男の前に集められた。おばさんたちもお母さんたちもカップルも、泣きそうな顔をしている。
「驚《おどろ》かせて申《もう》し訳《わけ》ない。だが、もうしばらくすれば帰ってもらうから。おとなしくしていてくれ」
みんな、顔を見合わせた。男の声は落ち着いていたが、能面のような冷たい顔といい、身体中から伝わってくる雰囲気《ふんいき》がただ者じゃない感じがして、落ち着かなかった。
「赤《あか》ん坊《ぼう》に泣かれては、こっちも迷惑《めいわく》なんだ。すぐに解放すると約束する」
男は、ベビーカーをチラリと見た。三人いる赤ん坊は、今のところおとなしかった。男の言葉に、母親たちの緊張《きんちょう》が少しゆるむ気配がした。
それから男は、俺たちを見た。顔を動かさず目線だけだった。
「学生たちには残ってもらう。六人全員だ」
田代たちは、ビクリと震《ふる》えた。金髪男《きんぱつおとこ》と警備員が、ニヤニヤと笑っていた。
「待ってくれ」
千晶が静かに言った。
「人質《ひとじち》なら俺がなるから、子どもたちは帰してくれ」
「大人はいらねー」
バンダナ男がぞんざいに言った。
「女の子がいてくれて、超《ちょう》ラッキー」
醜《みにく》く笑う金髪男が何を考えているのか、嫌《いや》でもわかった。女どもは震えた。田代は唇《くちびる》を噛《か》みしめていた。その顔を冷《ひ》や汗《あせ》が流れていった。
「イヤ……イヤだ」
ガタガタと激しく震《ふる》えたのは、香川だった。
「絶対イヤ! イヤ―――ッ!」
絶叫《ぜっきょう》した香川を、千晶が抱《だ》いて抑《おさ》えた。
「香川!」
「イヤ――ッ、怖《こわ》い!! 怖いぃい!! 帰して! 帰して―――っ!!」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ! 大丈夫だから!」
香川は千晶の腕《うで》にすがり、なおも叫《さけ》んだ。
「助けてよ、先生! なんとかしてよ、先生でしょ!!」
(あ……ヤバイ!)
嫌《いや》な予感がした。胸にズシンときた。
「へぇ……あんた、先生か。何、高校教師?」
そう言ったのは、バンダナ男だった。
「今、まだ夏休みだろ? 休みなのに、生徒|引率《いんそつ》して宝石展見学? いいセンセイだねぇ」
言葉が、千晶を見る目つきが、悪意に満ちていた。バンダナ男は千晶の前まで来ると、いきなり千晶を殴《なぐ》りとばした。
「千晶!」
「先生っ!」
倒《たお》れた千晶に、俺たちは駆《か》け寄《よ》った。香川と黒田は棒立ちだった。
「俺ぁ、センセイって奴《やつ》が、反吐《へど》が出るほど嫌《きら》いでね」
(こいつ……!)
俺はバンダナ男を見た。男は歪《ゆが》んだように笑っていた。
『殴《なぐ》りたかったから殴ったんだよ、それがどうした?』
そんなセリフが聞こえてきそうだった。
大人を信用しないまま、そこで時間が止まったまま、身体だけが大人になった最悪のサンプルみたいな奴がここにいた。
「こいつ、ガキどもと残すぜ、タナカ」
バンダナ男が、黒髪《くろかみ》に言った。どうやら黒髪男〈タナカ〉が頭《アタマ》らしい。〈タナカ〉は、少し眉《まゆ》をひそめただけだった。
俺たちは他《ほか》の客らと離《はな》され、展示場の右奥《みぎおく》の壁際《かべぎわ》に固められた。もちろん、全員|携帯《けいたい》は没収《ぼっしゅう》された。犯人たちは、中央やや奥寄《おくよ》りにある、円いショーウィンドーに固まっていた。
「千晶ちゃん、大丈夫《だいじょうぶ》? 大丈夫?」
「しっかりして、先生」
ぐったりと壁《かべ》にもたれかかった千晶に、田代たちは震《ふる》えながらハンカチを差し出した。
「しー……」
乱れた前髪《まえがみ》の間に、しっかりした千晶の表情があった。
「落ち着くんだ、みんな。怖《こわ》いだろうけど、我慢《がまん》して。泣いたり騒《さわ》いだりして、奴《やつ》らを刺激《しげき》しちゃダメだ」
千晶は静かにそう言うと、口許《くちもと》の血を親指でぬぐった。あんな大男に思い切り殴《なぐ》りとばされて派手に倒《たお》れたわりには、頬《ほお》の傷も小さいし、口許を少し切っただけか?
「ひょっとして……派手に倒れたのは芝居《しばい》か、千晶?」
千晶は、口の端《はし》でちょっと笑った。
「殴られる瞬間《しゅんかん》にタイミングを合わせて、同じ方向に身体を流すんだよ。ダメージをだいぶ減らすことができる。パンチは確かにヒットしてるから、相手に気づかれることもない。よほど鋭《するど》い奴じゃなきゃな」
「はぁ〜? なに武道の達人みたいなこと言ってんの?」
やけにサラッと千晶は言うが、それってまずは、ハンパない動体視力がなきゃできねー話なんじゃね?
「集中力の問題だよ。訓練すりゃ、お前にだってできる。世の中には、陽電子の動きが見える奴《やつ》だっているんだからな」
いや。そんな特殊《とくしゅ》な例を挙げられても。陽電子って。こんな状況《じょうきょう》で何を言ってるんだ、この先生は?
「……あんた、ずいぶん落ち着いてるな」
俺がそう言うと、千晶はちょっと口許《くちもと》を歪《ゆが》ませた。
「自慢《じまん》じゃないが、こういう修羅場《しゅらば》は何度か経験があるんでね」
「……ホントに自慢じゃねぇな。何度かって、なんだよそれ」
「お前こそ落ち着いてるな、稲葉。俺としては心強いが……」
「俺は……」
俺は―――
ガタゴトと音がした。他《ほか》の客たちが、正面のシャッター横の通用口から出ていくところだった。おばさんたちは、何度も俺たちのほうを振《ふ》り返《かえ》っていた。それを見て、香川と黒田がシクシクと泣きだした。
「客を解放すればすぐに通報されるのに、なんでだと思う、千晶?」
「……何か作戦があるんだろうが……」
「警備会社がもう嗅《か》ぎつけてるはずなんじゃないか? 宝石を扱《あつか》ってるんだから、セキュリティも整ってるはずだろ」
「警備員の一人が仲間だったな。コントロールルームも制圧したと言っていた。システムの専門家がいるんだ。何か細工をしたんだな」
「だとしても、客が解放されたからには、もうすぐ大騒《おおさわ》ぎになるぜ」
「そうだ、大騒ぎになる……。俺たちを人質《ひとじち》にとっているとはいえ、他の客を解放したら……すぐに大騒ぎになる……。陽動作戦|臭《くさ》いな」
「外で大騒ぎしてる間に、何かやらかす?」
「で、でも。警察とかが来たら、すぐに助けてくれるよね?」
田代はそう言ったが、俺は首を振《ふ》った。
「警察は、そう簡単に突入《とつにゅう》してこねぇぞ。犯人は武器を持ってるし、何人いるかも不明、人質《ひとじち》の数も多い、建物の構造は複雑だし。前にどっかの大使館にテロリストが立てこもったことがあったよな。あれ、解決まで何日かかったっけ?」
「やめろ、稲葉。女の子が怖《こわ》がるだろ」
俺は千晶に小突《こづ》かれた。女どもが涙目《なみだめ》で睨《にら》んでいた。
「稲葉のバカ」
「…………すいません」
打ち合わせをしているらしい犯人たちを険しい表情で見ながら、千晶は言った。
「俺たちには時間がない。奴《やつ》らの作戦は始まったばかりらしいが、それが一段落すれば……」
千晶が呑《の》みこんだ言葉の先が容易に想像できて、吐《は》き気《け》がした。女どもが、死ぬよりつらい目に遭《あ》うことは間違《まちが》いないだろう。
千晶は、俺をまっすぐ見た。俺の手に自分の手を重ねて静かに言った。
「……悪いが……いざという時は、女の子を優先させてもらうぞ」
「…………ああ」
俺は、千晶の手を握《にぎ》り返《かえ》した。
俺や千晶は怪我《けが》ですむかもしれないが(そう簡単には殺されないだろう)、女どもはそうはいかない。
田代と桜庭と垣内は、涙《なみだ》をいっぱい浮《う》かべて俺たちを見ていた。歯をくいしばっていた。
千晶は優《やさ》しくうなずいた。
「そうだ。泣くのはみんな助かった後だ。それまでがんばれ」
それから千晶は表情を引きしめて、女ども一人一人に言った。
「よくまわりを見て、物音や話し声を聞け、いつでも走れるように、心の準備をしておけ。走りだしたら後ろを振《ふ》り向《む》くな。その時、もし後ろから捕《つか》まったりしたら、いったん身体を落として、後ろへ飛ぶように思い切りジャンプだ。頭が相手の顎《あご》か顔へヒットする。一瞬《いっしゅん》でも必ずひるむから、突《つ》きとばせ」
田代たちは、力強くうなずいた。
「でも、連中|銃《じゅう》を持ってるぜ?」
千晶は、軽く頭を振ってみせた。
「そうそう当たるもんじゃない。弾《たま》を命中させるには、すごい集中力が必要なんだ。まして動いている標的に当てようなんざ、射撃《しゃげき》に慣れていない奴《やつ》にはまず無理さ」
言われてみれば確かにそうだ。よく映画なんかで、悪者が撃《う》つ弾《たま》は当たらないのに、なぜ主人公の撃つ弾は当たるのかというと、「当てるという集中力が、主人公のほうがあるからだ」ということで説明がつくと聞いたことがある。
「入り口のあたりに、この建物の案内図があったのを誰《だれ》か見てるか?」
「見た」
「あたしも。ちゃんと覚えたよ」
俺と田代が手を上げた。
「さすが、タァコ!」
桜庭と垣内はうなずき合った。
そうだ。田代はいつも、目的地が決まっていれば事前にそこのいろいろな情報を調べる奴だった。偶然《ぐうぜん》やってきたこの場所も、何か「情報」があれば見逃《みのが》さないんだな。
「逃《に》げるとしたら……屋上だ」
千晶にそう言われ、俺と田代は案内図を思《おも》い浮《う》かべた。まるで迷路《めいろ》をたどるように、屋上への道順をシミュレーションする。
この見通しのいい展示場じゃ、正面の出入り口|突破《とっぱ》は無理。三か所ある一階の非常口も、全部|壊《こわ》されているだろう。すぐに追いつかれるだろうし。でも、屋上なら……。屋上への出入り口は壊されていないかもしれない。その可能性が高い。
展示場の奥《おく》の壁《かべ》にある階段は、コントロールルームとVIPルームへの階段。屋上への階段は、展示場中央横の出入り口から外回廊《そとかいろう》へ出て、トイレのちょっと向こうにある。そこから二階へ上がり、二階の中央を突《つ》っ切《き》って突きあたりを右……。
「屋上へ出られれば、ドアをなんとか塞《ふさ》いで時間を稼《かせ》ぐ……。今の時点じゃ、それしかないと思っている。場合によれば、そこから海へ飛びこむ。みんな、泳げるな?」
そうだった。この建物は裏側が少し海へ張り出していたんだった。屋上からなら海へ飛びこめるかもしれない。
(そうだよ……。全員屋上へ出しといて、後は俺が「プチ」で……)
「プチ」で―――
「そうだ、千晶ちゃん」
涙《なみだ》をぬぐって田代が言った。
「みんな助かった時には、がんばったご褒美《ほうび》に、ほっぺでいいからチューしてね!」
千晶は、目を丸くして絶句した。
「それイイ、タァコ! ナイスアイディア!」
「や〜ん、マジでチュー?」
桜庭と垣内の顔も思わずほころんだ。
「……ったく」
俺は呆《あき》れた。千晶は、喉《のど》の奥《おく》で笑った。それから、
「わかった。ほっぺにチューな」
と、頭を振《ふ》りながら言った。
「ヤッタ!」
「勇気百倍!」
田代たちは小声で喜び、小さくガッツポーズした。
俺も千晶も苦笑いした。
健気《けなげ》な姿だった。守らなきゃと思った。
不運を嘆《なげ》くだけの女たちじゃない。こんな奴《やつ》らこそ助けてやりたい。
「何言ってんの、あんたたち? こんな時に、よくふざけてられるわね」
香川が、震《ふる》える声で言った。顔色は真っ青で、涙《なみだ》でぐしゃぐしゃになっていた。
「あんたら、怖《こわ》くないわけ? 強い人たちっていいわね」
嫌《いや》な言い方だ。
田代は、キッと香川を睨《にら》んだ。
「怖くないわけないじゃん。あんたらのそういうとこ[#「そういうとこ」に傍点]、大っキライ!」
田代と桜庭と垣内は、しっかりと手を握《にぎ》り合《あ》っていた。震えそうになる身体を支え合っていた。
「あんたらこそ、メソメソ泣いてれば助かるとでも思ってんの? 泣くのはいいけど、いざって時に足手まといにならないでよね」
垣内が、実に厳しい口調で言った。
(怖《こえ》ぇ〜)
俺も千晶も肩《かた》をすくめた。
ガシャンと、ガラスの割れる音がした。
「ヒャハハハハ! すげー! すげーよ!!」
ガラスケースを割り、犯人たちが宝石を取っていた。高額な宝石も相当数あるだろうが、手頃《てごろ》な値段のものもあった。それがどれほどの金になるのか疑問だが、金髪男《きんぱつおとこ》たちは手当たり次第に取り、放《ほう》り投《な》げたりして奇声《きせい》を上げていた。
「金じゃない……。でかいヤマをやるってことが目的なんだ」
千晶の言うとおり、金髪男〈スズキ〉や、コントロールルームにいた眼鏡男〈ヤマダ〉は、いかにもそんなタイプだった。「何かデカイことをやって世間を騒《さわ》がせたい」――それだけの犯罪者。
千晶に言われたとおり、俺たちは目をみはり、耳を澄《す》ませて犯人たちの様子を見た。
「頭《アタマ》が〈タナカ〉、その他《ほか》も〈スズキ〉や〈ヤマダ〉……。全部|偽名《ぎめい》だな。このヤマのために集められた、おそらく寄せ集め≠フメンバーだ。タイプにバラつきが大きいだろ!?」
そうなんだ。スズキやヤマダのような、若くて「ただでかいことをしたいだけ」みたいなチンピラに対して、バンダナ男〈サイトウ〉は、年季の入ったチンピラって感じがする。年も三十は越《こ》えてるだろう。ガキの時、世間を怨《うら》んで犯罪に走り、そのままここまで来ましたみたいな、なんだか「できあがった」感じだ。
「警備員は……あれは、買収されて乗っかってきたクチだろうな……。ちゃんとした仕事についている社会人のくせに、『本当の俺は、こんなところでくすぶっているような人間じゃないんだ。今にデカイことをしてやる』なんて思ってる奴《やつ》はけっこういるもんだ」
中身はスズキやヤマダと変わらないガキかよ。その「でかいこと」って犯罪ですか〜?
「そりゃ、犯罪が一番てっとり早くできるからさ」
あと、〈ササキ〉と〈カトー〉は、まだガキみたいに若い奴で、あまりよくわからず参加してるって感じだった。銃《じゅう》を持たせてもらっているだけで興奮し、満足しているらしい。
「こういう連中は、ネットの裏サイト≠ナいくらでも集めることができる。お互《たが》い素性《すじょう》も知らないから、一網打尽《いちもうだじん》にでもならなけりゃ、一人が捕《つか》まっても他《ほか》をたどれないからな」
チンピラどもが破壊《はかい》と略奪《りゃくだつ》で大盛り上がりしているところへ、姿の見えなかったタナカがやってきた。黒いアタッシェケースを持っている。
「おお、それか」
全員がタナカのまわりに集まった。開けられたアタッシェケースの中を見て「すげぇー!」とか声を上げている。
「そうか……VIP用の特別品……。あれが本当の目当てか!?」
俺と田代はうなずき合った。
千晶は、タナカをじっと見ていた。
「あいつはヤバイぞ……」
「あ、俺もそう思った」
千晶は、俺に言った。
「奴《やつ》の右腕《みぎうで》を見たか?」
俺は首を振《ふ》った。
「タナカは中国人だ。右腕に小さい刺青《いれずみ》があった。あれは、チャイニーズ・マフィアの印だよ」
「チ……チャイニーズ・マフィア??」
いきなりなことに、俺はポカンとしてしまった。
「そのうちの一つだ」
「え? ……あんたは、なんでそんなこと知ってるわけ?」
「俺のダチに中国人がいるんだよ。カンフー道場と中華《ちゅうか》料理店をやってる。商売やってるとな、黒社会の情報は重要なんだ」
「え……と、じゃあ……これって、マフィアの犯罪ってことか?」
「全然そうは見えないな」
「どういうことだよ?」
「単なる推理だが、これは、お宝の情報を得たタナカの単独の仕事だと思うんだ。組織に属していてそんなことはできないから……もう脱《ぬ》けてるかもな。あるいはこれをきっかけに脱けるかだな」
「マフィア崩《くず》れ……」
俺はタナカを見た。相変わらず能面みたいな顔。
「奴《やつ》だけが、プロ[#「プロ」に傍点]だ。あとは、ヤクザとチンピラとパシリだよ」
俺がタナカに感じた異様な雰囲気《ふんいき》は、こういうことだったのか。
「中国の犯罪者は、日本の奴らとは違《ちが》うぞ。突飛《とっぴ》なことを平気でやる。ハリウッド映画のようなことでもな」
「『|007《ゼロゼロセブン》』や『オーシャンズ|11《イレブン》』みたいな? ヘッ、大陸の人間の考えることはヨ」
「どうして仲間に、同じようなプロを入れなかったのかも気になる……」
その時、スズキが近づいてきた。
「へっへー、ど〜お? 綺麗《きれい》デショー」
スズキは、ネックレスをジャラジャラ首へかけ、手の指十本に全部指輪を嵌《は》めていた。興奮しているのか、目がギラギラしていた。
「ホラッ、カノジョ!」
スズキは、いきなり桜庭の腕《うで》をひっぱり、立たせ、そして後ろから抱《だ》きついた。
「キャッ!」
「さ、桜っ……!」
思わず立ち上がりそうになった俺と田代を、千晶が制した。
「カノジョにも一つあげちゃう〜。ホ〜ラ、ルビーのネックレスだよ〜ん」
桜庭の首にネックレスをかけながら、俺たちにこれ見よがしにスズキは桜庭の胸をさわった。
「あら〜、カノジョむちむちだな〜。好みだ〜〜〜」
「……っ」
桜庭が真っ青になって千晶を見る。千晶は、小さく首を振《ふ》った。
「―――!」
桜庭は、目を閉じて歯をくいしばった。
「ん〜、コワイのかなぁ、カノジョォ? もっと、イヤーとかヤメテーとか言ってよぉ」
「やめてくれ。頼《たの》む」
千晶が、実に静かな声でスズキに言った。
「センセーに言ってもらってもなぁ」
スズキは、へらっと笑ったが、
「子どもたちに、手を、出さないでくれ」
と言われ、顔をしかめた。
千晶の声の響《ひび》きは重く、深く、そこにこめられた意味が、直接相手の心に伝わるようだった。
(これはまるで歌だ……!)
超人的《ちょうじんてき》に歌のうまい千晶ならではということか? 俺の「元|霊力《れいりょく》トレーナー」秋音《あきね》ちゃんは、千晶のことを潜在的《せんざいてき》に霊力の高い奴《やつ》かもしれないと言っていた。
(千晶の歌がすげぇのは、要するに「言霊《ことだま》」ってことなのかも……)
「……しらけるね」
スズキは、ドンと桜庭を突《つ》き放《はな》した。よろめいた桜庭を千晶が抱《だ》きとめる。
「けど、後でたっぷり楽しませてもらうぜ。覚悟《かくご》しとけ」
それまでのヘラヘラした態度とは違《ちが》い、暗い、凶暴《きょうぼう》な顔をしてスズキは言った。それに対し千晶は、
「これ以上犯罪を重ねないほうがいい。逃《に》げられやしないぞ」
と言ったが、スズキはまた笑った。
「へっ、逃《に》げる用意しとかなきゃ、誰《だれ》がこんなヤマ踏《ふ》むかよ。ブ―――ン」
スズキはその時、手で空《くう》を切るような動作をした。
「スズキ! 余計なことしゃべってんじゃねぇぞ!」
サイトウが怒鳴《どな》った。スズキは肩《かた》をすくめた。
「そン時ゃ、カノジョも一緒《いっしょ》だよー。キョニューちゃ〜ん」
投げキッスをしながら、スズキは戻《もど》っていった。
「よくがんばったな、桜庭」
千晶は、桜庭の頭を撫《な》でた。千晶にぎゅっと抱《だ》きついて、桜庭は無言でコクコクとうなずいた。
「えらいぞ、桜」
田代と垣内にもほめられ、桜庭は涙《なみだ》をこぼしながらも声を上げなかった。三人は、またしっかりと手を繋《つな》ぎ合《あ》った。黒田は、呆然《ぼうぜん》とした表情で田代たちを見ていた。香川は、俺たちにちょっと背を向けるように座《すわ》っている。その横顔が、ゲッソリと落ちこんでいた。
「黒田も、香川も、大丈夫《だいじょうぶ》か? しっかりしろよ」
千晶の声に、黒田は少しうなずいたが、香川は反応しなかった。
「ぶーん……ってな、飛行機か?」
俺は千晶と話した。
「そうみたいだが……」
「飛行場まで人質《ひとじち》連れていくのか? あ、ヘリかも? ここらへんなら着陸できそうだもんな」
千晶は、タナカを見ながら考えこんでいた。
「ヘリだとして……ヘリに乗って、それからどうする……? 追跡《ついせき》されるに決まっている。追跡すれば人質を殺すと言うことはできるが……。そういう計画を立てるタイプには見えない気がするんだよな……」
俺もタナカを見た。タナカは、他《ほか》の犯人どもとボソボソと話していた。スズキやサイトウらと違《ちが》い、その顔の向こうが見えない奴《やつ》。ただ一人の、「プロ」。
「何を考えているのかわからない奴がいるのは……嫌《いや》な感じだ。不確定要素というやつだな」
「ああ……」
せっかく俺たちが屋上まで出られても、タナカはそれを見越《みこ》して何か罠《わな》を張っていそうな……そんな気にさせられる。
「……なんで逃《に》げないんですか……」
暗い声がした。香川だった。さっきまで背を向けるように座《すわ》っていたのに、今はこっちを向き、落ちこんだ目で千晶を恨《うら》みがましく見ている。
「逃げるって言ってたのに……なんで逃げないんですか!」
「ちょ……しぃっ! 奴《やつ》らに聞こえちゃうじゃん」
香川は田代をまったく無視した。まるで何も見えていないみたいに。
「落ち着くんだ、香川。みんな必ず助かるから」
そう言う千晶に、香川は詰《つ》め寄《よ》った。
「だったら助けてよ! 今すぐ助けて!!」
「やめろ、香川。わめくな!」
俺は千晶から香川を離《はな》そうとしたが、香川は駄々《だだ》っ子《こ》のように暴《あば》れた。
「もう嫌《いや》だ! 嫌! 怖《こわ》い! 怖いよ! 助けてよ!!」
「すげー。修羅場《しゅらば》ってやつ?」
眼鏡男のヤマダがそばに来ていた。その後ろにスズキもいた。コンピューターシステムの専門家らしいヤマダは、スズキと同じぐらいの若い男だった。
「いい眺《なが》めだろ、ヤマダ〜。ジョシコーセーだぜ、ジョシコーセー。しかも五人も! よりどりみどりだぜ〜、ひゃははは」
突然《とつぜん》、香川は俺の腕《うで》を振《ふ》りほどくと、ヤマダの足元にすがりついた。
「助けて! 助けてください!! なんでもしますから助けてください!!」
俺たちは、真っ青になった。千晶は、慌《あわ》てて香川をヤマダから引《ひ》き離《はな》そうとした。しかし、
「動くなよ、センセイ!」
と、スズキが千晶の胸元にナイフを突《つ》きつけた。
「へぇ〜、先生と生徒なんだ、こいつら!?」
黒縁《くろぶち》の眼鏡の向こうで、香川を見下ろすヤマダの目がギラギラしているのがわかった。
「みんな仲間のはずなのに、一人だけ命乞《いのちご》い? ……こんなドロドロしたシーンが、生で見られるなんて興奮する……!」
ヤマダは、香川の髪《かみ》の毛《け》をつかんで顔を上げさせた。
「お前、助かりたいの? なんでもするってホント?」
冷たい声だった。背筋が寒くなった。見た目は地味だが、こいつはスズキよりもタチが悪そうな感じがした。
そんなヤマダの問いに、香川は泣きながらコクコクとうなずいた。
「やめるんだ、香川!」
「センセーは黙《だま》ってろって。先生なんだから、生徒の邪魔《じゃま》しちゃダメだろ〜?」
ヤマダは、香川の髪《かみ》の毛《け》をつかんだまま言った。
「OK、助けてやるよ」
「!」
香川は目をみはり、ヤマダを見た。しかし、ヤマダは酷薄《こくはく》な笑《え》みを浮《う》かべて香川を見返した。
「その代わり、お友だちをみんな殺していい?」
「!!」
「殺していいって言えば、お前だけは助けてやるよ。無事に家へ帰してやる」
俺たちは、凍《こお》りついた。なんて残酷なことを言うんだ、こんな弱い奴《やつ》に。ヤマダは、香川をいたぶって楽しんでやがる。
残酷な問いを突《つ》きつけられた香川は、激しく震《ふる》えた。今にも粉々に砕《くだ》けてしまいそうだった。その口が、空気を求める魚みたいにパクパクした。
「香川……!」
動こうとする千晶に、スズキはグッとナイフを突《つ》きつけた。その切っ先が、わずかに千晶の胸に食いこんだ。
「動くと斬《き》れるぜ、センセー」
「…………」
スズキと睨《にら》み合《あ》った次の瞬間《しゅんかん》。千晶はかまわず山田のほうに動いた。
「うおっ!?」
千晶の、ナイフが突きつけられていた胸元《むなもと》から左肩《ひだりかた》にかけてが斬れていた。服の裂《さ》け目《め》に、たちまち血がにじんでくる。
よもや千晶が動くとは思わなかったんだろう。ナイフから伝わったその感触[#「その感触」に傍点]に、スズキは思わずナイフを手放した。カン! という金属音とともに、床《ゆか》に落ちるナイフと血飛沫《ちしぶき》。
呆気《あっけ》にとられるヤマダを押《お》しのけて、千晶は香川を抱《だ》き起《お》こし、もといた場所へ座《すわ》らせた。香川は抜《ぬ》け殻《がら》のようだった。
「千晶ちゃん!」
田代たちはハンカチやハンドタオルで千晶の傷を押《お》さえた。
ヤマダは、呆《あき》れたように笑った。
「すげー根性《こんじょう》! お前も見習えば、スズキ?」
「ケッ、何ソレ。パソオタクに根性とか言われたくねー」
千晶の傷は、長さが二十センチほどもあった。
「桜庭、こっち押さえろ!」
「はい!」
俺は、田代と桜庭とで千晶の両側から傷を押さえさせた。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。そう深い傷じゃない」
苦い顔をしてそう言う千晶を、俺は叱《しか》った。
「無茶しやがって。動脈とか切れたらどうするつもりだ!」
いつもは黒っぽいシャツを着ていることが多いくせに、こんな時に限って、千晶は白いシャツを着ている。デニムの上着と白いシャツが、じわじわと赤く染まっていくのが目に痛かった。
ヒックヒックと泣いている香川を、垣内が睨《にら》み据《す》えて言った。
「千晶先生に感謝しなさいよ。先生は身体を張って、あんたが、自分が助かりたいばっかりに『みんなを殺していい』って言うのを止めてくれたんだよ」
香川は、身体を震《ふる》わせた。
「それ言ったら……あんた、人間じゃなくなったんだからね。みんな助かった後、どうやって生きていくつもりだったのよ」
「……う……!」
香川は、吐《は》き気《け》を抑《おさ》えるように両手で口を塞《ふさ》いだ。そしてそのまま突《つ》っ伏《ぷ》してしまった。
恐怖《きょうふ》に負けて、悪意の誘惑《ゆうわく》に負けるところだったんだろう、香川は。
みんなを殺していいから自分だけは助けてくれと……いっそ声に出したいと。それぐらい恐《おそ》ろしかったんだろう。
千晶が、優《やさ》しく言った。
「お前がどんなに怖《こわ》い思いをしているかわかるよ、香川。みんなそうなんだ。でも、がんばってくれ。ここで怖さに負けたら、お前は一生|怯《おび》え続《つづ》けなきゃならなくなる。そんなことにだけはなってほしくないんだよ」
ちぢこまって震《ふる》える香川の背中を、黒田がそっと撫《な》でた。
「ひ〜〜〜、語る〜〜〜ぅ、センセ」
「説教|臭《くさ》いって言われない、先生さん? 語ったって、若いヤツはウザがるだけだぜ?」
スズキとヤマダは、へらへら笑いながら言った。
大人の説教をウザがるのは、ひねくれている証拠《しょうこ》だ。
本当はいろいろ言ってもらいたいくせに!
どうせお前らは、大人から何も言ってもらえなかったんだろう。
「サイトウの旦那《だんな》は、あんたブッチめる気満々だせ、先生。楽しみだなあ。生徒の手前、せいぜい弱音|吐《は》かないようにしてくれよ? 先生が『なんでもするから助けてください』なんて言ったらカッコつかないもんなぁ」
ヤマダが、妙《みょう》に無表情に言った。
「センセイの目の前で生徒をいたぶるってのもいいと思わねー?」
スズキは愉快《ゆかい》そうだった。
田代たちは、唇《くちびる》を噛《か》みしめて黙《だま》っていた。千晶もじっとしていた。
俺は――
今すぐに、こいつらまとめて「神鳴《ブロンディーズ》」で吹《ふ》っ飛《と》ばしたい衝動《しょうどう》に駆《か》られた。
そうすれば、いっぺんにかたがつく。
そうすれば――
頭の中で、世界が壊《こわ》れるような音がした。
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[#挿絵(img/08_131.png)入る]
世界が壊《こわ》れる時
俺は、なぜそう[#「そう」に傍点]考えなかったんだろう?
『お前こそ落ち着いてるな、稲葉。俺としては心強いが』
俺は、何に自信を持っていた? なんの余裕《よゆう》があったんだ?
千晶たちの目の前で、「プチ」を使う気でいたのか?
そうしたらその先どうなるか、考えなかったのか?
確かに、なんの関係もない奴《やつ》の前で使ったことは何回かある。でも、それはごまかしがきいたり、魔力《まりょく》を見られたってなんてことない場合だった。
でも、今度は違《ちが》う。
千晶や田代たちの前で、俺が「魔法を使った」ら? 『ハリー・ポッター』のように?
『わぁ、稲葉って魔法が使えるんだ! すごい! ハリポタみたい。素敵!!』
そう言ってもらえるか?
そんなことは、ありえないだろう。
ヒーリングを「ツボマッサージ」で納得《なっとく》してくれている[#「くれている」に傍点]千晶だって、肩《かた》にしゃべる小人を乗せ、目に見えない衝撃波《しょうげきは》や空飛ぶ馬を操《あやつ》る人間を実際に見たら……。
それが、普通《ふつう》の人間の価値観にどれほどの衝撃《しょうげき》を与《あた》えるか。恐《おそ》ろしくて想像できない。
俺は耐《た》えられただろう?
長谷も大丈夫《だいじょうぶ》だっただろう?
でも、千晶たちは?
妖怪《ようかい》アパートには、人間の先輩《せんぱい》たちがいた。俺と長谷の間には「信頼《しんらい》」という絆《きずな》があった。
千晶や田代を信頼していないわけじゃない。
いや、信頼しているからこそ……
もしも
もしも……「化け物」を見るような目で見られたら……
「その時」の俺を想像したら……眩暈《めまい》がした。長谷に打ち明けた時よりも震《ふる》える思いがした。足元がガラガラと崩《くず》れるような思いがした。
実際に教師や友だちを失うこと以上の、恐《おそ》ろしい喪失《そうしつ》や絶望がそこにはある。それからの人生に、深い傷と翳《かげ》を落としそうな……俺はそれをひきずって生きていかなきゃならないような気がする。
いや……違《ちが》う。
違う!
そうじゃなくて! 本当の問題は……
それでも、俺は「プチ」を使えるのか? だ。
千晶や女どもに「化け物」と恐《おそ》れられるかもしれないのに、みんなの価値観を狂《くる》わせ、トラウマにさせるかもしれないのに、
それでも、みんなを「救う」ために、「プチ」を使えるのか?
その覚悟《かくご》が―――俺にはあるのか?
魔術《まじゅつ》なんて、関係ないと思っていた。
魔道士の端《はし》くれになっても、俺の人生にとって、魔術はほんの一部だと思っていた。
龍さんや古本屋のように、完全に「あっち側」の人間で、日々|妖《あや》かしどもと交わるような人生じゃない。俺の目標は県職員で、俺の生きる世界は「こっち側」で、「こっち側」には、魔術を駆使《くし》して取り組むようなことなんて起こらないと思っていた。
「プチ」を使うことが起こってもどうにかなったから……俺の気はゆるんでいたのか? それとも自惚《うぬぼ》れていたのか? 一人前の「魔道士様」を気取ってたのか?
今、千晶たちの前で「プチ」を使うことが、こんなにも恐《おそ》ろしい。
なんとか使わずにすめばいい。
でも―――
誰《だれ》かが大ケガでもしたら? 今だって千晶が血を流しているのに。血を流すだけじゃなく、死ぬようなことが起きたら?
俺が「プチ」を使えば助けられた―――
そんなことが起きたら―――
「稲葉」
肩《かた》を揺《ゆ》すられて、ハッと我に返った。千晶の顔が目の前にあった。
「どうした? 大丈夫《だいじょうぶ》か?」
俺は、ものすごい冷《ひ》や汗《あせ》を流していた。背中にシャツがべったり張りついていた。
「…………」
千晶の手をそっと払《はら》い、俺は立ち上がった。
「気分|悪《わり》ぃんだけど。トイレ行っていい?」
ヤマダにそう言うと、
「そこらで吐《は》けば?」
と返された。しかし、タナカが向こうから、
「ササキ、連れていってやれ。スズキ、ヤマダ、来い」
と言った。チンピラ二人は、ヒョコヒョコと戻《もど》っていった。代わりにやってきたササキと、俺はトイレへ行った。千晶や田代が心配そうに見ているのがわかった。
トイレのドアを閉めたとたん、足がガクガク震《ふる》えた。俺はトイレに蓋《ふた》をして座《すわ》り、深呼吸して必死に自分に言い聞かせた。落ち着けと。
「……ご主人様」
膝《ひざ》の上にフールが現れた。祈《いの》るように手を合わせていた。
「どうなるかわからないことが、こんなに怖《こわ》いなんて初めてだ……。こんなこと考えなくていいってわかってるのに。全部うまくいくって信じてりゃいいのに……」
うまくいくと。そう信じて行動しなければならない。
千晶はそうしている。
田代たちだって、どんなに怖《こわ》い思いをしているか。
俺とは事情が違《ちが》っても、気持ちは同じだ。その気持ちに差なんかない。
『ここで怖さに負けたら、お前は一生|怯《おび》え続《つづ》けなきゃならなくなる』
「恐《おそ》ろしさに怯えても、ご主人様のオーラは金色で、とても美しゅうございます」
と、フールはいつもどおりにおおげさにお辞儀《じぎ》をした。
「…………ふ」
軽く笑えた。
『みんなそうなんだ。でもがんばってくれ』
長谷も同じことを言う。アパートのみんなも、きっとそう言う。
人は受け入れ、乗《の》り越《こ》えるしかない。
人は、前に進むしかない。
絶望に沈《しず》んでも、翳《かげ》をひきずっても、前に進むしかない。
俺は、「プチ」を開いた。
「正義。ホルスの眼《め》!」
ページから青白い放電が起こり、バレーボールのようなでっかい目玉が現れた。
「小さくなれ」
と命令すると、ホルスの眼はピンポン玉ほどに縮んだ。
「この建物の、あらゆるものを見てこい」
主《あるじ》の命《めい》を受け、ホルスの眼は、シュッと飛んでいった。
ドアが、ゴンゴンと叩《たた》かれた。
「お〜い、何ブツブツ言ってんだぁ? 電波かぁ?」
「なんで俺がこんな目に遭《あ》わなきゃならないのかなぁって」
泣きそうな声を出したら、ササキは笑った。
「そんなこと、俺が知るか! 運が悪《わり》ぃーんだろ、運が!」
ササキと俺は、トイレのドア越《ご》しに話した。
「金を手に入れて、あんたどうするわけ? 土地でも買うのか?」
「土地ぃ? バカか、お前。パーッと使っちまうに決まってんだろ!」
「そんだけ? そんだけのために、こんなヤバイヤマを踏《ふ》むのか?」
「ヤバイほうが面白《おもしれ》ぇだろぉ? ひっひひひ。でもな、タナカがちゃあんと逃《に》げる用意はしてんだよ。でなきゃ、いくらなんでもやれねぇよ。こんなでかいこと……初めてだしよぉ。ドキドキしてんだよ、けっこう。でもよぉ、タナカが俺みたいな下《した》っ端《ぱ》にまで銃《じゅう》をくれてよぉ。嬉《うれ》しかったなぁ。銃持つの初めてなんだよぉ」
「タナカって……どんな奴《やつ》?」
「知らねぇ。でもすげぇ細かい奴だせ、あいつ。すげぇ細かく計画立ててるんだ。サイトウとかヤマダがどんなこと訊《き》いても、全部答えが用意されてるって感じなんだ。なんのことを言ってるのか、俺とかカトーはさっぱりわかんねぇけどよ。でも、タナカの言うことを聞いてりゃいいか〜って……」
ササキがしゃべっている間に、ホルスの眼《め》が帰ってきた。
「早いな。いいぞ!」
もとのでかさに戻《もど》ったホルスの眼《め》は、見てきたものを自分の表面にザーッと再生し始めた。それを目で追う。
警備員の控《ひか》え室《しつ》や廊下《ろうか》で、警備員たちが倒《たお》れていた。死んでいる感じじゃなかった。
「ひょっとして一服盛られた!?」
そういやあ、警備員の中に裏切り者がいたんだった。
ホルスの眼には、建物の外側も映っていた。
「警察が来てる!」
暮れ始めた港の風景。この展示場より少し離《はな》れた場所に、続々と警察車両が集まり始めていた。
「スタッフの姿が全然見えない。みんなどこへ連れていかれたんだ?」
二階のスタッフルームにも、会議室にも、倉庫にも、誰《だれ》もいない。すると、スタッフらしき人間が詰《つ》まった部屋があった。
「いた! 一か所に集められてるんだ。……なんでだ? 人質《ひとじち》……でもなく??」
ホルスの眼は、屋上も見ていた。何もなかった。少なくとも「小型ヘリ」とかは。誰かが潜《ひそ》んでいることもなかった。
ホルスの眼《め》の画像の中に、展示品関係の品物やスタッフの私物とかの他《ほか》に、一つ奇妙《きみょう》なものが映っていたが、その時は気にならなかった。
ゴンゴン! と、ドアが叩《たた》かれた。しゃべることがなくなったのか、ササキが叫《さけ》んだ。
「おいっ! いいかげん出てこい!」
ホルスの眼を「プチ」に戻《もど》し、俺はトイレの水を流して出た。
戻ってきた俺の姿を見て、千晶も田代たちもほっとした顔をした。犯人たちは、持ちこんだ食料で食事を始めていた。
「あっ、俺も俺もー」
ササキは、犯人たちのもとへ走っていった。
「へへー、これからお楽しみの時間が待ってるからね〜。体力つけとかんと!」
スズキたちは、こっちを見て下品に笑った。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、稲葉?」
心配そうな千晶たちに、俺はちょっと笑ってうなずいた。
「出したらスッキリしたよ。それより千晶、いよいよヤバイんじゃねぇ?」
俺は犯人たちをチラリと見た。しかし千晶は、少し首を振《ふ》った。
「まだだ」
「なあ、タナカ〜。デザートに女の子の一人ぐらいいいだろ〜?」
スズキの声に、女どもがピリッと緊張《きんちょう》した。が、
「だめだ」
と、タナカはあっさり却下《きゃっか》した。
「がっつくな。時間はまだたっぷりある」
「ちぇ〜っ」
まだ仕事が一段落していないってことか? すると、
「ハイ、来た! 来ましたよー」
と、ヤマダがコントロールルームから叫《さけ》んだ。
タナカが、ショーウィンドーの向こうから電話の子機を取った。
「こちら〈タナカ〉だ」
それは外からの、警察からの電話だった。
俺は、千晶を見た。
「これか」
千晶はうなずいた。
「……そうだ。人質《ひとじち》は七人だ。高校生が六人。大人が一人。今のところは全員無事だ。ただちに殺害することはない」
俺たちは、固唾《かたず》を呑《の》んでタナカの言うことを聞いていた。
「要求は、ヘリだ。BELL412型を、会場の前まで持ってこい」
やっぱり、ヘリで逃《に》げる計画なのか!?
「……いや、時間はかかってもいい。だが一つ言っておく。宝石展のスタッフを全員、大金庫の中に閉じこめてある。もう俺たちでは開けられない。いくら大金庫の中が広いといっても、二十名近いスタッフがいたんじゃ、空気はもって十時間だろうな。当然だが空調は止めてある」
俺は、ホルスの眼《め》が見てきた映像を思い出した。あれは、金庫の中だったのか。
「警備員は、全員クスリでおねんねだしな。丸一日は寝《ね》てるぜ」
そう言って、スズキと警備員〈ナカガワ〉がハイタッチした。
「みんな、行くぞ」
チャンスが来たと判断したのか、千晶が言った。全員、ハッとした。
「田代、先頭を行け。みんなは田代に続け。稲葉は後ろ。俺がシンガリだ」
女どもが、ゴクリと息を呑《の》むのがわかった。俺も緊張《きんちょう》した。こめかみが痛かった。
犯人全員が、タナカと警察のやりとりに聞き入っていた。
その向こう側。俺たちと反対側の壁《かべ》に向かって、千晶は、何かを投げた。とても小さい、欠片《かけら》のようなものだった。
しかしそれは、ファ―――ッ、ファ―――ッ!! と、ものすごい音を発した。
「あ! 防犯ブザー!」
前に千晶から聞いて見たことがある。あれは、千晶がいつもベルト通しにつけている特製|極小《ごくしょう》防犯ブザーだ。
「走れっ!!」
千晶が叫《さけ》んだ。
「なっ、なんだああっ??」
犯人たちは飛び上がり、わたわたした。
そのスキに、俺たちは展示場を駆《か》け出《だ》した。
「逃《に》げたぞ!」
「音を先に消せ!」
「どこだ?」
「わかんねえよ!」
すさまじい音の間に、犯人たちの怒号《どごう》が聞こえた。
回廊《かいろう》を走《はし》り抜《ぬ》け、二階への階段を駆《か》け上《あ》がる。
しかし、そこで香川が止まってしまった。
「香川さん!」
黒田が飛びつく。
「ダ、ダメ……あ、足がガクガクして……あ、足が……」
「稲葉……」
と、千晶が言う前に、
「あたしがおんぶする!」
と言ったのは、垣内だった。垣内は香川を背負うと、しっかりした足取りで階段を上った。その後ろを黒田が押《お》した。
「足手まといにならないでって言ったでしょ!」
垣内は、また一段と強い口調で香川を叱《しか》った。しかしそれは、まるで母親が子どもを叱るようだった。香川は垣内の背中で泣いた。
「そうか、あいつ陸上でハードルやってたんだよな」
そう言って千晶のほうを見ると、千晶は笑っていた。
そして、二階の中央まで来た時だった。
「女の子を頼《たの》むぞ、稲葉」
ハッと振《ふ》り向《む》くと、千晶は廊下《ろうか》の真ん中で止まっていた。
「何してんだ?」
「いいから行け!」
千晶はそう言うと、廊下の角を曲がっていった。その廊下には、点々と血がしたたっていた。
「まさか……囮《おとり》になるつもりか!?」
一瞬《いっしゅん》すごく迷ったが、俺は女どもを追った。
「いざという時は、女優先……! 男女平等なんかクソ喰《く》らえだ、チクショウ!!」
屋上への階段を上がると、田代がドアに張りついていた。
「壊《こわ》されてないみたいだけど、閉まってるよ!」
ドアは、頑丈《がんじょう》そうな鉄製だった。
「みんな、階段のとこまで下がれ!」
「ど、どうするの?」
「いいから下がれ! みんな固まって頭を伏《ふ》せてろ!」
「な、な、何ソレ? 爆弾《ばくだん》でも使う気??」
「いいからやれ!!」
俺は、女どもを階段まで下がらせ、伏せさせた。ドア付近から女どもが見えないことを確認すると、「プチ」を開く。
「力。ゴイエレメス!」
大きな石人形が現れた。天井《てんじょう》に頭がつきそうだった。俺は、こそっと命令した。
「ドアを壊さないように、カギだけ壊してくれ」
力はあるが三分ほどしか動けないゴイエレメス。だが、ドアのカギを壊すことなど造作もなかった。
「いいぞ、田代! 来い!」
俺に言われて、女どもがやってきた。
「どうやったの、稲葉?」
田代は目を丸くした。
「企業《きぎょう》秘密だ。さあ、出ろ!」
俺はドアを開けて女どもを促《うなが》した。
「ねぇ、千晶センセは?」
「つーかまーえた〜〜〜っ!」
品のない大声が響《ひび》いた。最後尾《さいこうび》にいた桜庭に後ろから抱《だ》きついたのは、スズキだった。
「!!」
「桜!!」
「スゴイなぁ〜、お前ら。感心するわ〜。でもここまで〜」
スズキは、俺たちに銃《じゅう》を向けながらヘラヘラ笑った。こいつは、すぐに俺たちを追いかけてきたんだ。
「俺から逃《に》げちゃうなんて許さないよ、カノジョ〜。俺、カノジョが一番好きなんだから〜。ヤるならカノジョからと思ってたんだよ〜ん」
そう言いながら、スズキは桜庭の胸をまさぐった。
と、桜庭の身体が少し沈《しず》んだように見えた。そして―――
ガツン!! と、ものすごい音がした。
「…………っ」
スズキは、棒のようにまっすぐ後ろへ倒《たお》れた。鬼《おに》のような顔をした桜庭が、それを見下ろした。
「やっ……た、桜!」
「桜―――っ!!」
田代と垣内が、桜庭に飛びついた。桜庭は、「ふんっ!」と鼻息を荒《あら》くした。桜庭の頭突《ずつ》きが、見事にスズキの顎《あご》にヒットしたんだ。スズキは白目を剥《む》いていた。こりゃあ、当分ひっくり返ったままだぞ。顎は急所だからな。
「みんな、早く屋上へ出ろ!」
空は夕陽《ゆうひ》で真っ赤に染まっていた。建物を取り巻いて、パトカーや救急車、消防車が何台も停《と》まっていた。さらにそれを取り巻いて、テレビの中継車《ちゅうけいしゃ》やヤジ馬が層になっていた。素早《すばや》いことだ。
女どもが屋上へ出ると、俺は田代に言った。
「警察に合図すれば、なんとかここから助けてくれるはずだ。あとちょっとだ。がんばれよ」
「うん」
「あそこに資材が置いてあるだろ。あれでこのドアを塞《ふさ》いどけ」
「…………」
「俺は、戻《もど》る」
「…………」
千晶のことを、田代はもうわかっていた。ぎゅっと、唇《くちびる》を噛《か》みしめた。
涙《なみだ》でうるむ瞳《ひとみ》を大きく見開いて、田代は睨《にら》むように俺を見た。
「必ず二人で、無事に出てきて!」
「任せろ」
俺たちは、拳《こぶし》をぶつけ合った。
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確かめたい気持ちがある
伸《の》びているスズキの身体をまたいで階段を駆《か》け下《お》りた。
二階の廊下《ろうか》まで来ると、警備員のナカガワが正面から来るところだった。その後ろにはカトーがいた。
「見つけたぞ、ガキ! なめやがって!」
わめくナカガワに向かって「プチ」を開く。
「塔《とう》! イタカ!!」
バリバリッ!! と、金色の光の帯がまるで龍《りゅう》のように、ナカガワと、そのすぐ後ろのカトーに襲《おそ》いかかった。
「ぐわあっ!?」
二人は、吹《ふ》っ飛《と》ぶように倒《たお》れた。
その後ろに、銃《じゅう》をかまえたササキがいた。
「!!」
ササキも俺も驚《おどろ》いて一瞬《いっしゅん》固まったが、ササキは反射的に銃の引き金を引いた。俺も反射的に身を伏《ふ》せた。
カチン! オートマチックの銃身が乾《かわ》いた音をたてた。
「……あれっ?」
カチン! カチン! ササキがいくら引き金を引いても、弾《たま》は出なかった。ササキは、もう一度チェンバーをスライドさせたが、やはり弾は出なかった。
(ということは、弾そのものが入っていない!?)
俺は立ち上がり、つかつかとササキに近づいた。
慌《あわ》てた様子でマガジンを抜《ぬ》いてみたササキは、わけがわからないという顔をした。
「……弾が……弾が入ってねぇよ。……なんで?」
「俺が知るか!!」
俺はササキを殴《なぐ》りとばした。ササキは思い切り壁《かべ》にぶつかって気絶した。
カトーが持っていた銃も調べてみたが、やはりこっちにも弾は入っていなかった。警備員ナカガワの銃《じゅう》には入っていた。
「パシリにはあぶないから、弾《たま》入りの銃は持たせなかったということか……?」
「お見事なお手並みでございます、ご主人様。僕《しもべ》として、ご主人様のご活躍《かつやく》を拝見いたすのは恐悦至極《きょうえつしごく》……!」
胸ポケットからフールがうっとりと言った。
「まるでアクション映画のヒーローみたいってか? そんないいもんじゃねぇよ。心臓バクハツしそうだ」
パシリの銃に弾が入っていたら……。当たったとは思わないけど、撃《う》つ気のある奴《やつ》から拳銃《けんじゅう》を向けられるということは、想像以上に怖《こわ》いことだった。念のためにナカガワの銃を取り、背中とズボンの間に差しこんだ俺だが、とても使えないだろうと思った。
「あと、三人」
俺は、千晶の血の跡《あと》を追った。
二階の中央から廊下《ろうか》を右に曲がり、屋上への階段から遠ざかるように、建物の正面のほうへと血は続く。
「!」
その血を、後から踏《ふ》んだ靴跡《くつあと》があった。
「千晶!」
廊下《ろうか》の突《つ》きあたり、血の跡《あと》を追って俺もその部屋へ飛びこんだ。
やっぱり、サイトウだった。
千晶を壁《かべ》に押《お》しつけて立っていた。あの体勢で殴《なぐ》られたら避《さ》けられない。
振《ふ》り返《かえ》ったサイトウの右手に、顔に、血が飛び散っていた。
千晶の左半身は、血みどろだった。
傷を集中的に殴りやがった……!
「そいつを放せ!!」
俺は絶叫《ぜっきょう》した。
「これはこれは……」
サイトウは笑った。
「今度は生徒が先生を助けに来たぜ。実に感動的だなぁ」
サイトウは、千晶を自分の前に立たせた。千晶はグッタリと膝《ひざ》をついたが、サイトウは千晶の髪《かみ》の毛《け》を持って顔を上げさせ、俺を見させた。
「ホラ、センセイ。見ろよ。可愛《かわい》い生徒が助けに来てくれたぜ」
壁《かべ》に叩《たた》きつけられたらしく、千晶の右の目の上や唇《くちびる》の端《はし》が切れて血だらけだった。苦しげに左目を少し開けて、千晶は俺を見た。
「……バッカ……なんで……戻《もど》った……」
サイトウは千晶の左腕《ひだりうで》をひねり上げ、前のめりになったその背中を踏《ふ》みつけた。
「……っ!」
千晶が声にならない声を上げる。
「よせ!」
「この先生は、たいしたタマだよ。血がしたたってんのを知って、わざと生徒と違《ちが》うほうへ行ったんだろ。やるねぇ。命がけで生徒を守る教師なんざ、ドラマの中にしかいねぇと思ってたぜ」
忌々《いまいま》しげにサイトウは言う。その苛立《いらだ》ちは、「俺のガキの頃《ころ》にこんな先生がいたらどんなにか……」って気持ちの裏返しだろ!? 丸わかりだぜ、ガキめ。
「おまけにこの先生、俺に捕《つか》まってなんて言ったと思うよ? 人質《ひとじち》として残しておくなら、自力で動ける状態にしておいたほうがいいとぬかしたんだぜ。つまり、あんまり痛めつけて動けなくしたら、移動する時とかに手間がかかるぞと……ひっははは! こんな状況《じょうきょう》でよぉ、よくそんな落ち着いたことが言えるよな。まったくたいしたセンセイだ! こんな教師、見たことも聞いたこともねぇ! ……ムカつくぜ」
サイトウは千晶を見下ろした。凶悪《きょうあく》な顔をしていた。
「腕《うで》の一本ぐらいがいいんじゃないかなんて、ほざいたからな……お望みどおり、折ってやらあ!!」
「ブロンディ――ズ!!」
ドカ――ッ!! と、衝撃波《しょうげきは》を浴びたサイトウは後ろの壁《かべ》まで吹《ふ》っ飛《と》び、壁に大きなひび割れを作って、その下で泡《あわ》を吹《ふ》いて伸《の》びた。
「千晶!」
俺は千晶に飛びつき、抱《だ》き起《お》こした。血みどろの胸に手を当て、ヒーリングする。俺も疲《つか》れているから完全なヒーリングはできないけど、とりあえず出血を止めなければならない。
目を開けた千晶は、まずサイトウを探した。壁際《かべぎわ》で完全に伸びているサイトウを見つけ怪訝《けげん》な顔をしたが、それについては何も言わなかった。
「なんで戻《もど》ったんだ、稲葉。女の子たちを頼《たの》むと言っただろう」
「女どもは大丈夫《だいじょうぶ》だ。タナカが来ないうちに逃《に》げるぞ」
「俺はいいから、お前は逃《に》げろ」
「あんたを置いては行かない!」
「俺は立てそうにない。足手まといになるから! お前だけでも逃げ……」
「運送屋をなめンなよ!」
俺は千晶を担《かつ》ぎ上《あ》げた。胸の傷が俺の肩《かた》に当たり、千晶は呻《うめ》いた。
「ちょっとの辛抱《しんぼう》だ!」
千晶を肩に担いで、俺は廊下《ろうか》を走った。
しかし、中央の廊下まで来た時、そこには銃《じゅう》をかまえたヤマダがいた。
「み〜っけ」
相変わらず、無表情なツラに酷薄《こくはく》そうな笑《え》みが張りついている。
「それ、ナカガワとカトーとササキ……お前がやったの、学生? どうやったんだ? スゲーな。ひょっとして、ブドーの達人ってやつ?」
ヤマダは、銃《じゅう》のチェンバーをスライドさせた。
「タナカには、ここぞという時以外絶対に撃《う》つなって言われてるけど……今がそうだよなぁ?」
ヤマダのこの言葉に、俺はピンときた。千晶をそっと下ろして、俺はヤマダに言った。
「あんた、銃撃《じゅうう》ったことあんの?」
「ないよ。だから今、すごく興奮してる。初めて持った銃で、いきなり人間を撃つことができるんだぜ? メチャクチャ興奮する。さぁ、どっちから撃とうかなぁ」
「ま、待て……」
俺をかばおうとする千晶を制して、俺は続けた。
「チェンバーをスライドさせたってことは、それが最初の弾《たま》ってことだよな。……その銃、ホントに弾が入ってんの?」
「……?」
ヤマダは少し眉《まゆ》をしかめた。
「撃ってみりゃわかるさ」
ヤマダは俺に向かって引き金を引いた。
カチン! やはり、弾は出なかった。ヤマダは、キョトンとした。
「マガジンを見てみろよ、ヤマダサン?」
銃からマガジンを取り出し、そこが空《から》なのを見て、ヤマダの顔が歪《ゆが》んだ。
「やっぱりな。どうやらタナカは、ナカガワ以外には弾なしの銃を渡《わた》してたみたいだな」
それがどういうことか、ヤマダは計りかねていた。
「ネットで簡単に手に入るといっても、日本じゃ本物の銃《じゅう》を扱《あつか》ったことのある奴《やつ》なんて、そう多くない。その銃に弾《たま》が入っているかどうかなんて、さわっただけじゃわからないよな。タナカは、あんたやササキやカトーが銃をさわったことがないと知っていて、わざと弾なしの銃を渡《わた》してたんだよ」
「…………なんのためにだ?」
「最終的に必要のない奴[#「必要のない奴」に傍点]には、銃なんて持たせるだけあぶないだろ?」
ヤマダの顔が、無表情になった。凍《こお》りつくように。
「タナカは、あんたら全員を切るつもりなんだよ。初めっからな」
「…………」
「そうだろ、タナカサンよ?」
ヤマダの後ろのほう。二階への階段を上がってきたあたりに、タナカが立っていた。こちらも無表情だったが、ヤマダのそれよりはるかに不気味な顔だった。
「タナカ……」
タナカは銃を持っていたが、かまえてはいなかった。腕《うで》をだらりと垂らし、撃《う》つ気はないように見えた。それでも、俺は冷《ひ》や汗《あせ》がダラダラ出てきた。
ゆっくりとこちらへ向かってくるタナカに、俺は言った。
「ウェットスーツを見たぜ」
タナカが、ピタリと止まった。
ホルスの眼《め》が捉《とら》えていた映像の中で、奇妙《きみょう》に感じたもの。それはウェットスーツと潜水《せんすい》道具一式だった。それが、段ボールの横にひっそりと置かれていた。なぜこんなところにこんなものが、それも一セットだけあるんだろうと思った。
「せっかくの人質《ひとじち》を何人も解放したのは、警察だけじゃなくマスコミをわざと大騒《おおさわ》ぎさせるためだ。解放された人質の中から、絶対にその足でマスコミに駆《か》けこむ奴《やつ》がいると踏《ふ》んだんだ。その中でヘリで逃《に》げるとなりゃ、もっとすごい大騒ぎになる。千晶は言ったぜ、あんたはそんな作戦を立てるようなタイプに見えないってな」
ヤマダは、俺たちとタナカを交互《こうご》に見ていた。その顔にも冷や汗が流れていた。
「そうだよ。あんたはやっぱり、独自の[#「独自の」に傍点]作戦を立てていた。仲間と人質を引き連れてお宝|抱《かか》えて、警察とマスコミの大追跡《だいついせき》の中をヘリで逃げるなんてのは、警察と仲間にそう思わせておくためだけの……目くらましだ! 本当は自分一人で、お目当てのお宝だけを持って、こっそりと海をもぐって逃《に》げる気だったんだ。警察が、突入《とつにゅう》かヘリを用意するかでウンウン考えているスキにな! ハ、まさに『|007《ゼロゼロセブン》』か『オーシャンズ|11《イレブン》』みたいだよ」
タナカは、黙《だま》っていた。とても冷静だった。我関《われかん》せずといった感じで、俺の話を聞いていた。俺は、ヤマダに言ってやった。
「タナカが逃げる時には、人質《ひとじち》もそうかもしれないが、あんたらも全員殺されていたぜ、ヤマダサンよ」
「……何!?」
「犯人が全員で本当は何人なのか、解放された人たちも警察も知らないんだ。現場で犯人が全員死んでたら、あと一人逃げている奴《やつ》がいるなんて、それがわかるまでどんだけかかると思う? あんたらは、タナカが逃げる時間稼《じかんかせ》ぎに殺されるんだよ!」
ヤマダが、初めて震《ふる》えた。
「タ……タナ……」
パン! と、乾《かわ》いた軽い音がした。パン! パン! 続けて二発。
ヤマダは、三発の弾丸《だんがん》を胸に喰《く》らって倒《たお》れこんだ。
「!」
俺のほうに銃《じゅう》を向けたタナカの動きが止まった。
銃をかまえた千晶が、タナカを狙《ねら》っていた。俺の背中から抜《ぬ》いた銃だった。
「千晶……」
全身血みどろで、左腕《ひだりうで》はだらんと力なく垂れているが、右腕一本で銃をかまえる千晶からは、ものすごい殺気が立った。
これが、「集中力」なのだとわかった。撃《う》つ時は躊躇《ちゅうちょ》なく撃つはずのプロのタナカが、思わず動きを止めるほどの。
「……高校生が、ここまでやるとは思わなかった」
銃を向けたまま、タナカが静かに口を開いた。
「逃《に》げるんだ、稲葉!」
タナカから目を逸《そ》らさずに千晶は言った。
「だが、当初の作戦にはなんの障害もない。日本の警察は、人質《ひとじち》が一人でもいれば、すぐには突入《とつにゅう》してこない。時間は充分《じゅうぶん》ある。日もすぐに落ちる」
「暗くならなきゃ、こっそりトンズラできねぇもんなぁ」
「しゃべってないで逃げろ、稲葉!」
タナカは、少し首を振《ふ》った。
「あんたもたいした先生だ。日本の教師が、生徒を守るためとはいえ銃《じゅう》を人に向けるなんて、とても意外だよ。しかもその殺気……。あんたなら、充分《じゅうぶん》俺に弾《たま》を命中させることができるだろう。でも、命中させるだけじゃダメだ」
タナカが、初めて薄《う》っすらと笑った。
「俺を即死《そくし》させないと、あんたも生徒も死ぬよ……」
空気が、張りつめた。
まるで真空のように、空間がピ――ンと凍《こお》って息苦しくなった。
これが、タナカの「殺気」なんだとわかった。
「いいから逃《に》げ……」
と言う千晶を、俺は制した。
「言っただろ。あんたを置いては行かない……!」
俺は、「プチ」を取り出した。
タナカは、俺が変わったことをした[#「変わったことをした」に傍点]から少し退《ひ》いた。
俺は「プチ」を開いたまま、一歩進み出た。
「稲葉……」
千晶が、俺を見ている。
「ありがとうよ、タナカサン。あんたのおかげで腹がくくれたぜ」
俺とタナカは一瞬睨《いっしゅんにら》み合《あ》い―――
「ブロンディ―――ズ!!」
「ブロンディーズ! 最後の審判《しんぱん》で死者を呼び覚ます神鳴でございます!」
胸ポケットから、フールが高らかに叫《さけ》んだ。
ド―――ン!!
それは、会場の外にも聞こえた。何かが爆発《ばくはつ》したのではないかと、騒然《そうぜん》となった。
二階中央の廊下《ろうか》は、壁《かべ》一面に細かいヒビが走り、ドアに嵌《は》められたガラスが全部粉々に割れた。
タナカは、廊下の端《はし》まで吹《ふ》っ飛《と》んで倒《たお》れていた。持っていた銃《じゅう》は、どこかに飛んでなくなっていた。
千晶が俺を見ているのが、背中でわかった。
ゆっくりと振《ふ》り向《む》く。
その時、俺はどんな顔をしていただろうか。
千晶の顔には、恐怖《きょうふ》も驚《おどろ》きもなかった。
ただ、俺を見つめていた。
その前で、俺は「プチ」をパタンと閉じた。
俺たちが見つめ合っていた時間はほんの十秒ほどだったろうけど、やけに長く感じた。
千晶が、右手を伸《の》ばしてきた。
「立たせてくれ」
俺は、千晶を抱《だ》き起《お》こした。
千晶はそのまま、俺を抱きしめた。強く。
「終わったな……」
「…………」
「みんな無事でよかった……!」
「…………」
俺も千晶を抱きしめた。傷にさわるかもしれないけど、強く。力いっぱい抱きしめてしまった。
それから俺たちはゆっくり一階へ下りていき、正面から出ることにした。
通用口には鍵《かぎ》がかかっていたが、シャッターを手動で動かすボタンがあったのでシャッターを開けた。
ゴンゴンとシャッターが上がってゆく。空は群青《ぐんじょう》に染まり、一番星が煌《きら》めいていた。
「おー……」
建物の正面には、少し距離《きょり》をおいてパトカーと機動隊の車が停《と》まっており、盾《たて》をかまえた機動隊員がズラリと並んでこちらをうかがっていた。まさに映画のようだった。
シャッターが開いたことであたりは騒然《そうぜん》としており、警察のライトがいっせいに俺たちに当てられた。
「千晶ちゃ―――ああん!!」
「千晶センセ―――ッ!!」
警察官の制止を振《ふ》り切《き》って、田代、桜庭、垣内の姦《かしま》し娘《むすめ》が突進《とっしん》してきた。千晶は右腕《みぎうで》を広げて迎《むか》えた。
「先生―――っ!」
服に血がつくのもかまわず、田代たちは千晶に抱《だ》きつき、俺にも抱きついてきた。
「稲葉! よくやった、稲葉あっ!!」
「無事なんだね! 生きてるよね!!」
「わあああ―――っ!!」
俺も千晶も血まみれだが(俺のは千晶の血だが)、無事だとわかり、田代たちはもう涙《なみだ》が止まらなかった。やっと、大声で泣くことができた。
機動隊員と救急隊員が、千晶に駆《か》け寄《よ》ってきた。
「他《ほか》に人質《ひとじち》はいないね? 犯人は?」
「全部で七人。全員意識不明になっています。一人は死亡しているかもしれません」
隊員はうなずき、部下たちに合図した。
「突入《とつにゅう》!」
武装した集団が会場内へ入っていった。
救急隊員が千晶の脈をとり、ストレッチャーに乗せた。俺たちはついていった。
警察官や消防隊員らがバタバタ走り回っていた。田代ら人質が自力で出てきたことが伝わり、後方にいるマスコミやヤジ馬たちもざわめいていた。
「香川と黒田は?」
千晶が田代にたずねた。
「先に病院へ行ったよ。香川さんがもう限界みたいで」
「そうか」
「先生こそ……すごい血……」
千晶の左腕《ひだりうで》と、左半身は太腿《ふともも》のあたりまで血まみれだった。
「出血はもう止まってるよ。止血してもらった[#「止血してもらった」に傍点]からな」
「あ、ホラ。お前らの携帯《けいたい》」
俺は、田代らに携帯の入ったビニール袋《ぶくろ》を渡《わた》した。
「うわっ、ありがと、稲葉!」
「ありがとー。嬉《うれ》しい!」
「戻《もど》ってくるなんて思わなかったー」
田代が、建物の横側を指さした。
「見て、稲葉、千晶ちゃん。あたしたち、はしご車で助けてもらったんだよ!」
なるほど、屋上にはしご車のはしごがかかっていた。今頃《いまごろ》は屋上からも機動隊が突入《とつにゅう》しているだろう。
救急車のところまで来ると、現場の指揮官らしき人が、血まみれの俺たち(全部千晶の血だが)に言った。
「とりあえず全員病院へ行って、治療《ちりょう》を受けて休んでください。事情はまた後ほどお訊《き》きしますので」
俺たちは二台の救急車に分乗して病院へ向かったが、女どもが千晶と同じ車に乗ると言ってきかなかったので、二台目の車には俺一人だった。
現場を離《はな》れる救急車に、ものすごいフラッシュが浴びせられるのが車の中からでもわかった。センセーショナルな事件だったからなぁ。これからも一騒動《ひとそうどう》だろう。俺たちのことはもちろん伏《ふ》せられるだろうが、もちろん情報はもれるだろう。長い一日は……まだ終わっていない。
「……腹減った」
俺は思わずそうつぶやいて、向かいに座《すわ》った救急隊員に笑われてしまった。
どこも怪我《けが》をしていない俺と田代たちは、血を拭《ふ》いて、血だらけの服を病院の服に着替《きが》えた。千晶の治療《ちりょう》を待っている間、熱くてちょっと甘《あま》いコーヒーを出してもらい、みんなやっと「ほ〜っ」とため息をついた。
それぞれの保護者については、警察のほうから連絡《れんらく》を入れて迎《むか》えに来てもらうからと言われた。俺は何の気なしに「寿荘《ことぶきそう》」の電話番号を警察へ伝えたんだが……ここは、博|伯父《おじ》さん家《ち》にすべきだったんだろうか。
千晶の治療には、けっこう時間がかかった。その間に親たちが駆《か》けつけてきた。女どもがみんな元気なことに、それぞれの親は心からホッとしたようだ。そうだよな。なんていっても「女の子」だ。誰《だれ》だって最悪の事態を考えてしまう。
「夕士くん!」
「あ……恵子|伯母《おば》さん!?」
アパートの誰が来るんだろうな〜とか、呑気《のんき》に思ってた俺はびっくりした。伯母さんはツカツカとそばへ来ると、俺の頭をペシンとはたいた。
「この子はもうっ! 寿荘の一色さんという方から連絡《れんらく》をもらったわよ。なんでうちじゃないのっ!」
「ご、ごめん。つい……」
「大丈夫《だいじょうぶ》だった? ほんとにどこもケガしてない?」
「大丈夫だよ。みんなでがんばって乗りきった」
俺も田代も桜庭も垣内も、それぞれの親の前で誇《ほこ》らしげに笑った。
「千晶先生にすごく助けてもらったんだ」
「それで、先生は?」
「それがまだ……あ」
担当医らしい医者がこっちへやってきた。女どもが駆《か》け寄《よ》った。
「千晶先生は大丈夫《だいじょうぶ》ですかっ?」
「治療《ちりょう》は終わりました?」
「会えますか? 会わせてください!」
「私どももご挨拶《あいさつ》を」
親たちも、みんな医者に迫《せま》った。
「皆《みな》さん、落ち着いて。大丈夫ですから。出血は止まっていましたが、傷の処置に時間がかかったんです。容態は落ち着いています」
俺たちは、ホッとした。
「まずは、生徒さんだけね」
俺たちは、千晶の病室に案内された。千晶は点滴《てんてき》を受けながら寝《ね》かされていた。頭に包帯、右顔面にガーゼ、身体にも包帯。今度はその白さが目に痛い。
「千晶ちゃん」
田代がそっと声をかける。左目を開けた千晶は、しっかりとした表情で俺たちを見た。それは、俺たちを安心させた。
「みんな大丈夫か?」
切れた口許《くちもと》が痛そうだったが、声はしっかりしていた。静かな、深みのある響《ひび》きだった。
「うん。桜にタンコブができただけ」
「タンコブ?」
「すごかったのよ、先生。桜ってば、スズキを頭突《ずつ》きでノックアウトしたんだから!」
千晶は、左目を丸くした。
「後ろから捕《つか》まえられたから、センセに教わったとおりに頭突きしてやったわ! ホラ、ここ、ここ!」
桜庭は、千晶にドタマを差し出した。千晶は右手で桜庭の頭をさわると、「ははは」と笑った。
「ガツン! って、すげぇ音がしたもんな。スズキの奴《やつ》、声も上げねぇで倒《たお》れたぜ」
「棒みたいだった!」
「ヘン! スッキリしたわ!!」
ふんぞり返る桜庭に、みんな笑った。笑い声は、華《はな》やかに病室を満たした。
「しかし、そのタンコブは痛いだろう」
「痛み止めもらったから、もう大丈夫《だいじょうぶ》」
桜庭は、千晶の右手に自分の手を重ねた。
「ありがとう、千晶先生」
千晶は微笑《ほほえ》み返した。
桜庭の手の上に垣内の手が、田代の手が重なる。
「ほら、稲葉も!」
手のぬくもりが、重なった分だけ大きく俺たちを包みこむような思いがした。
「みんな、よくがんばったな。カッコよかったぞ」
「エへ♪」
田代たちの頬《ほお》はリンゴのように赤くて、瞳《ひとみ》をうるませるその表情はとても美しかった。生きている喜びに輝《かがや》いていた。千晶は本当に嬉《うれ》しそうに、泣きそうな目をしてそれを見ていた。
病室の入り口に、親たちが揃《そろ》って並んでいた。
「生徒さんたち、そろそろ」
と、医者が声をかけた。
「香川と黒田は? 大丈夫《だいじょうぶ》だったか?」
千晶の問いに、田代はちょっと苦い顔をして答えた。
「香川さんはショックが大きくて、薬で寝《ね》かされてるみたい。黒田さんは、もうお母さんと帰っちゃった。大丈夫《だいじょうぶ》そうだったよ。お母さんは、またあらためてご挨拶《あいさつ》に来ますって」
「そうか……」
病室を出る時、チラッと振《ふ》り向《む》くと、千晶は俺を見ていた。笑って、少し右手を上げた。俺も、ちょっと笑い返した。
俺たちと入《い》れ替《か》わりに、親たちが病室に入った。「本当にありがとうございました」とか「なんとお礼を申しあげていいか」とか、女どもが、いかに千晶に助けられたかを滔々《とうとう》とぶっていたもんだから、親たちはひたすら頭を下げていた。千晶が起き上がらんばかりに恐縮《きょうしゅく》したので、親たちは医者から早々に追い出された。
姦《かしま》し娘《むすめ》が、窓辺に並んで外を見ていた。病院の前には、パトカーとテレビの中継車《ちゅうけいしゃ》が並び、報道関係者が中継をしたりしていた。
「すごい一日だったね……」
珍《めずら》しく殊勝《しゅしょう》な顔をして感慨深《かんがいぶか》げな三人娘。まさに「この夏一番の思い出」になっちまったな。
「おい。家へ帰るぞ、姦し娘。みんな待ってる」
そう声をかけると、三人は元気よく応《こた》えた。
「ハ―――イ!」
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[#挿絵(img/08_177.png)入る]
この大空を、雲はどこまで行くのだろう
午後九時。恵子|伯母《おば》さんにアパートまで送ってもらった俺を、アパートの住人プラス長谷が待ちかまえていた。
「大丈夫《だいじょうぶ》なのか、稲葉! おまっ……なんで病院服着てんだ? どっかケガしたのか!?」
以前、肩《かた》を脱臼《だっきゅう》した俺に往復ビンタをかました同じ人物とは思えないほど心配している長谷を、「どーどー」となだめる。
「千晶の血がついたから着替《きが》えたんだ。俺はどこもケガしてない。大丈夫だ」
それから、待望のるり子さんの夕飯(ごちそううなぎピラフと、根野菜ゴロゴロそうめん、豚肉《ぶたにく》と茄子《なす》の梅醤油炒《うめじょうゆいた》め、絶品!)を涙《なみだ》を流しながら食いつつ、今日のことをみんなに話した。長谷も詩人も画家も、佐藤さんもまり子さんも桔梗さんも、みんな俺の話を食い入るように聞きつつ、大人どもは酒をガバガバ飲んだ。いい酒の肴《さかな》になったようだ。
「まさに映画のようだねえ! すごい経験をしたもんだ、夕士くん」
映画大好き佐藤さんは、ため息をついた。
「しかし……千晶ってな、ホント何者だよって感じだな」
「興味深いねぇ」
画家と詩人は面白《おもしろ》そうだった。
「千晶センセって、学生時代すごい遊び人だったんでしょ? その時にあぶない遊びもしたのねぇ、きっと」
と、自身モノスゴイ遊び人だったまり子さんが言った。
「本人が望まなくても、行動が派手な人って、あぶないことに巻きこまれることはあるもの」
まり子さんのこの説には、説得力があった。これが一番近いんじゃないかと思われた。
「でも、みんな無事で本当によかったねぇ」
と、桔梗さんはうまそうに酒を飲んだ。詩人もうなずいた。
「女の子たちはさぞ怖《こわ》かっただろうけど、力を合わせて立ち向かって、そして勝ったんだから、トラウマに悩《なや》むことはないだろうネ」
それから詩人は俺を見て、また一入《ひとしお》に感慨深《かんがいぶか》げに言った。
「やっぱり夕士クンと千晶センセは、縁[#「縁」に傍点]があったんだねぇ」
その言葉の、深い、深い意味。長谷が心配そうに黙《だま》ったままだ。
俺は長谷に、そしてアパートのみんなに、笑って言った。
「うん。千晶には……全部話さなきゃと思うっス」
千晶は何も言わなかった。何も訊《き》かなかった。ただ微笑《ほほえ》んでいた。
だからこそ……すべてを打ち明けねばならない。
温泉で温めた身体で布団《ふとん》に大の字になったら、気絶しそうなくらい気持ちよかった。クリが真似《まね》して大の字に転がった。
「長谷、見ろよ。すげぇ星空だぜ」
寝転《ねころ》がって窓から見上げる空に、満天の星。長谷も寝そべって見上げた。
「あんなに見えるわけねぇのにな」
俺たちは笑い合った。
「…………お疲《つか》れさん」
長谷のおだやかな声が、心にしみとおる。
「プチのこと……お前にアパートのことを打ち明ける時みたいに……それ以上に怖《こわ》かった。千晶たちに知られることが……」
「当然だろう!?……いいんだよ。怖くて」
「これが運命とか……そう思うか?」
「お前は、運命に翻弄《ほんろう》されるたびに強くなっていく」
長谷にほめられた。……いや。長谷はほめたりしない。これは長谷の、客観的な観察だ。
「それはお前が、ちゃんと悩《なや》んで苦しんで怖がって、そしてあがいてもがいたからだ。文句をたれるだけなら誰《だれ》だってできる。問題は、そこからどうするかだ」
「……うん」
「お前は、ちゃんと向き合った。それを貫《つらぬ》いていれば大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「……うん」
満天の星空から、まるで雨が降るように何十もの星が流れ落ちた。
「お、おお――っ、すげ〜〜〜!!」
俺たちは飛び起きて、窓に張りついた。
星(?)は次から次へと、長い光の尾《お》を引いて空から降りそそぎ、その様子は本当に銀色の雨のようだった。
不思議な天体ショーは夜|遅《おそ》くまで続き、俺と長谷は窓辺に並んだまま、煌《きら》めく夜空を飽《あ》きもせず眺《なが》めていた。
事件から二日後。俺や田代たちは警察に行き、事情|聴取《ちょうしゅ》を受けた。そこに黒田はいたが、香川はいなかった。
警察は、犯人たちが全員|伸《の》びていた理由や爆発音《ばくはつおん》のことを詳《くわ》しく訊《き》きたがったが、俺たちは全員「わからない」と首を振《ふ》った。ヤマダは、やはり死亡していた。金庫に閉じこめられていたスタッフたちは、全員無事救出された。
テレビでは連日今回の事件が取りあげられ、報道番組で、ワイドショーで、犯人のことはもちろん、「自力で脱出《だっしゅつ》してきた勇気ある高校生たち」と「生徒を命がけで救った教師」の話がワイワイと花盛りだった(詳しい状況《じょうきょう》が、もうもれていた。そんなものなんだろうか?)。俺や田代たち当事者への取材は禁止されているが、その周辺には取材陣《しゅざいじん》が殺到《さっとう》しているらしく、条東商の生徒らしき奴《やつ》(俺らが条東商の生徒ってことは嗅《か》ぎつけられている)が、モザイクかけられて音声変えられて、何人もテレビに登場していた。
「すっごいステキな先生です!」
「あの先生ならそれぐらいやるかも。他《ほか》の先生たちと全然|違《ちが》うから」
そんな映像を、「誰《だれ》だろう、こいつ」と思いながら見た。
「ネットはもっとすごいわよ、稲葉」
警察署の待合室で、田代らとコーヒーを飲みつつ話した。
「名前こそ出てないけど、J東商業高校三年担任の、簿記《ぼき》と情報処理の先生ってとこまで書かれてるんだから。伏《ふ》せ字《じ》になってねー!」
「困ったもンだ」
「まあ、ヒーローとして書かれてるんだから、痛し痒《かゆ》しね。来年は入学希望者がドッと増えるかもよ。今、三年担任ってことは、来年は一年担任になるってことだから」
「みんなで千晶センセのお見舞《みま》いに行こうね、稲葉クン」
「それはいいけど、まだ家族以外は見舞い禁止らしいぜ?」
とりあえず田代たちとは、見舞いが解禁されていたら三十一日に行ってみようということになった。
「約束どおり、チューしてもらわなくっちゃ!」
「ね―――っ!!」
田代たちには、事件はすでに過去のものだった。それよりも千晶のチューのほうが、はるかに重要|事項《じこう》なんだな。逞《たくま》しいもんだ。
三日目。俺のもとへ、従姉《いとこ》の恵理子から電話が入った。
「うちにも取材の人たちが来たわよ―――っ!!」
恵理子はとても楽しそうだった。まったく。
二学期が始まるまで、あと三日。なんとか騒《さわ》ぎが収まってくれないものだろうか。
四日目。家族以外の見舞《みま》いが解禁されたと聞いたので、田代たちとの約束より一足先に千晶に会いに行った。
少し減ったが、病院の前にはまだテレビの中継車《ちゅうけいしゃ》が停《と》まっていた。千晶の病室がある病棟《びょうとう》には警官が詰《つ》めていた。
「ちわス」
千晶の病室に入ると、先客がいた。男が二人。その二人が俺のほうを見た。俺は、びっくりした。
(な、なんだ、このやたらカッコイイ男二人は〜〜〜っ??)
片方は千晶より年齢《ねんれい》が少し上ぐらい。短い黒髪《くろかみ》に顎鬚《あごひげ》、がっしりした体格。地味なシャツにネクタイをちょっとだらんと締《し》めているが、縁《ふち》なしの眼鏡はオシャレだ。椅子《いす》にふんぞり返るその姿は全体的に……「ちょい悪オヤジ」。まさに!
もう一方はその反対。年齢は千晶と同じぐらい。スラッと細身。ウェーブのかかった髪をきっちりセットし、シャツもネクタイもジャケットも時計も靴《くつ》も、一目で高級品とわかるいいものを身に着けている。それと背中がピンと伸《の》びて、立ち姿がすごくカッコイイ。育ちの良さが伝わってくる。
(あ! ……こいつ……こいつだ! 千晶が言ってた、名家の息子《むすこ》って、そいつのまわりに涼《すず》しい風が吹《ふ》いているようなって、こいつだ!)
と思った。俺は話を聞いて「長谷と似ている」と思ったが、やっぱり雰囲気《ふんいき》が長谷と似ていた。生まれながらに高級品を身にまとい、名家の教育を受けてきました、みたいな雰囲気が。上品だが、一分《いちぶ》の隙《すき》もない。
「よぅ」
千晶に声をかけられて、俺は我に返った。
「あ、お客さん?」
千晶の右顔面は、傷の部分がまだ赤紫《あかむらさき》に変色してはいるが、ガーゼは取れていた。
「いいんだ。紹介《しょうかい》しよう。従兄《いとこ》の土方薫《ひじかたかおる》、上院《じょういん》中学で教師をしてる。こっちは友人の神代政宗《かみしろまさむね》だ」
ちょい悪オヤジの従兄に名家のダチ。この前は、お水っぽいバカでか外国人にセレブな美女だったな。それに黒社会に詳《くわ》しい中国人のダチ。千晶の関係者は本当にバラエティに富んでいる。
「ハハ。お前、稲葉夕士だろ」
椅子《いす》を立ってきた従兄に、ボンと背中を叩《たた》かれた。深みのあるいい声だ。さすが千晶の従兄ということか。あ、よく見たら目元が似てる。
「ナオミに話は聞いてるよ。いつも学校で世話になってんだってなぁ。すまんなぁ」
「こいつは手がかかるだろう!?」
従兄とダチは、揃《そろ》って苦笑いした。俺はリアクションに困った。
「や。そんなことないっス」
「あんまり甘《あま》やかすなよ」
「つけあがるからな」
冗談《じょうだん》か本気か、二人が真面目《まじめ》な顔で言ったので、俺は笑いを噛《か》み殺《ころ》した。
「余計なことを言うなよ、二人とも!」
と、そう言った千晶が子どものようだったので、余計笑えてきた。
「あー……えと……これ、うちの賄《まかな》いさんから」
俺は、るり子さん特製「プチフルーツゼリー」を渡《わた》した。一個が五百円玉より一回りほど大きいぐらいのプチサイズ。それぞれのゼリーの中に、バナナ、チェリー、オレンジ、林檎《りんご》、桃《もも》、葡萄《ぶどう》が一切れ入って、それぞれの果汁《かじゅう》の色にほんのり染まっている。
「綺麗《きれい》だ……!」
「砂糖を使ってないし一個が小さいから、今の千晶が食べても大丈夫《だいじょうぶ》だろうと」
「ありがとう。食べるのが楽しみだ。賄いさんに充分《じゅうぶん》礼を言っといてくれよ」
「うん」
ダチがすっと寄ってきて、千晶からゼリーを受け取り、冷蔵庫にしまった。
「カオル、マサムネ、席を外してくれるか」
千晶がそう言うと、二人は万事心得てるような顔をした。
「俺はもう行くよ、チアキ。店があるんでな。じゃあな。カオルも」
「おう。俺は煙草《たばこ》を吸ってくるよ」
サッと、風が抜《ぬ》けるように二人は部屋を出ていった。なんかもう、全部計算されているみたいな、まるで脚本《きゃくほん》があるような動きだった。
病室は三階の一人部屋。窓は閉められ、クーラーがゆるくかかっている。窓の外には、まだギラギラした青空が広がっていた。大事件がウソのような、いつもと変わらない夏の日。白い雲がむくむくと湧《わ》いていた。
「具合……どうだ?」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。新学期にはちょっと間に合わんがな」
千晶の傷は全治二週間。胸から左腕《ひだりうで》にかけての斬《き》り傷《きず》は、サイトウにひどく殴《なぐ》られ大きく裂《さ》けていたという。なんとか縫合《ほうごう》できたものの、目立つ傷になって残るらしい。あと、ひねり上げられた左腕は、筋をかなり痛めていた。筋肉や筋が断裂《だんれつ》していないのが幸いだった。
少しやつれたような横顔。これだけのケガと、あの恐《おそ》るべき集中力の反動がないわけがない。三日間の「家族以外|見舞《みま》い禁止」は、要するに面会謝絶ということだ。「ゆっくり休ませたほうがいい」ではなく、「休ませなければならない」だったんだ。
俺は、唇《くちびる》を噛《か》んだ。
ふわりと、頭を撫《な》でられた。
千晶の黒い目が、俺を見ていた。「何もかもわかっているぞ」という目。
俺は、千晶の前に「プチ」を置いて言った。
「……この世には、この世のものでないものがある。幽霊《ゆうれい》とかじゃなく。俺たちが実際にさわったり使ったりできるものだ。昔の人が、どうやったかは知らないけど、それに特別な力を閉じこめて、資格のある者がその特別な力を使えるようにした。映画や漫画《まんが》によくある設定だよな」
千晶は、「プチ」のページをゆっくりとめくっていた。
「その本には、二十二|匹《ひき》の精霊たちが閉じこめられている。光の精だったり、炎《ほのお》の精だったり雷《かみなり》だったりいろいろだ。俺はその精霊たちを……自由に使うことができる」
「…………」
「タナカとサイトウを吹《ふ》っ飛《と》ばしたのは、ブロンディーズという衝撃波《しょうげきは》だ。ナカガワとカトーは、イタカという雷の精を使って感電させた。屋上のドアは、ゴイエレメスに開けさせた。力持ちなんだ。潜水服《せんすいふく》を見つけたのは、ホルスの眼《め》だ。どこでも自由に飛んでいって、見たものを記憶《きおく》、再生できる」
俺は、できるだけ冷静に、客観的に話すよう心がけた。夢物語みたいにならないように。
「なぜ俺が、こんなものを使えるようになったかは……わからないんだ。ただ選ばれたとだけしか言えない。縁《えにし》だとか運命だとか言われた。そう思うしかないんだろうな」
千晶は、俺を見た。別に呆《あき》れたような顔はしていなかった。
「……俺のダチに」
と、千晶は唐突《とうとつ》に言った。
「吹田《ふきた》という奴《やつ》がいるんだが、こいつは仲間や会社の人から『ウキタ君』と呼ばれている」
「……はぁ」
「何かに集中しているとな……そいつは身体が浮《う》くんだよ」
「……はあ?」
「いつも座《すわ》っている時に起きるんだが、ふと気がつくと、椅子《いす》から二十センチも身体が宙に浮いていることがある。友人も会社の同僚《どうりょう》も、『また浮いてるぞ、ウキタ』と、吹田の頭をぐっと押《お》さえて下ろしてくれるそうだ」
「…………」
「十六|歳《さい》の誕生日に、夢でとある神さまから『お前を嫁《よめ》にもらいたい』というお告げを聞いた女の子もいた。すごい美人でな。その子が、不良五人に囲まれて乱暴されそうになった時、突然|雷《かみなり》が落ちて、男は全員死んだ。女の子は神のお告げに従い、今はその神社で巫女《みこ》の修行《しゅぎょう》をしているよ。プラハで『動く絵』が実際に動くのを見たこともある。部屋の中を描《えが》いた油絵なんだが、本当に机の引き出しがじわじわ開いてくるんだ。あれは鳥肌《とりはだ》が立った」
「…………」
「この世は驚異《きょうい》に満ちているなぁ、稲葉。俺たちの常識や知識が通用するのは、ほんの一部だ。化学も物理も、その果てはわからないことだらけだ。陽電子の動きが見える奴《やつ》は、なぜ見えるのか、なぜ科学は証明できないんだ?」
千晶は、「プチ」の表紙を撫《な》でた。
「すべての存在には、意味がある。すべての出来事に意味があり、それは何かと、誰《だれ》かと、どこかと繋《つな》がっている。それを否定することはできない。問題はそれそのものじゃなく、それの持つ『意味』だからだ」
千晶はもう一度、俺を見た。俺の目を、まっすぐに覗《のぞ》きこんでくる千晶の目。震《ふる》えがきそうだった。
「お前は……本当は、何が言いたいんだ?」
千晶は、静かに問うた。
俺より先に、俺の口が動いた感じだった。
「俺がその気になれば、精霊《せいれい》たちを使って、あいつらをいっぺんに吹《ふ》っ飛《と》ばすことができた。女どもに怖《こわ》い思いをさせることもなく、あんたにケガをさせることもなく」
胸から喉《のど》にかけてが、カーッと熱くなった。
「でも、俺は怖かったんだ。みんなに化け物だと思われるのが怖かった。覚悟《かくご》してこの本と付き合ってきたつもりだったのに。今さら、魔法《まほう》が使えることが怖くなるなんて……考えなかった。そのことに……びっくりした……」
「…………」
「でも、俺が魔法を使わなかったばっかりに、誰《だれ》かが傷ついたり、死んだりしたら……俺はどうすればいいんだろう? 俺なら救えたのに? そいつを救わなくて、なんのための魔法なんだ?」
「稲葉」
「実際、香川があんなに怯《おび》えて。あんたはこんな大ケガをして……。俺がもっと早く魔法を使っていれば、誰も傷つかずにすんだ!」
「稲葉!」
千晶は、俺を胸の中に抱《だ》きしめた。両腕《りょううで》を回して、しっかりと。
俺は……泣いていた。全然気づかなかった。
千晶は、俺を抱きしめたまま言った。
「バカなことを言わないでくれ。みんなを救う力があるから、みんなを救う義務がある? 自分は犠牲《ぎせい》になって? そんなバカなことがあるわけがない」
「……あんた……だって……」
「俺は、自分が他人を救えるなんて思っちゃいないぜ? 他人のために死ぬつもりもサラサラない。俺は、俺ができることをしただけだ」
千晶は、俺の顔を両手で包み、瞳《ひとみ》を覗《のぞ》きこんできた。
「いいか、稲葉。世界には、宇宙中を探したって、万能な者なんてきっといない。お前の特殊《とくしゅ》な力がどんなものかは知らないが、お前よりもっとすごい力の持ち主だって、すべては救えない。それは力だけの問題じゃなく、タイミングや、運や、状況《じょうきょう》で、局面というやつはいくらでも変わってくるからだ。そのすべてに対応しようなんて、どんな超人《ちょうじん》にだって不可能だ。そんな奴《やつ》がいたら、世界はとっくに変わっている!」
「…………」
「俺たちは、自分ができることしかできない。それは、特別な力を持っているお前でも同じなんだ。その結果、救えない者がいたとしても、俺たちができることは……それを受け入れる≠アとだけだ」
わかっていたはずなのに。
詩人に言われたことだ。龍さんにも言われたことだ。わかっていたはずなのに。
今なぜ、こんなにも涙《なみだ》が止まらないんだろう。
「俺を助けてくれてありがとう、稲葉。あの時、お前の力がなかったら、少なくとも俺は、確実に死んでいた」
千晶は、俺の髪《かみ》を手で梳《す》いた。まるで母親が子どもにそうするように。
「だが、自分が犠牲《ぎせい》になって誰《だれ》かを助けようなんて、そんなことはしてくれるなよ。それをされたほうはつらいぞ? 特別な力があるからといって、お前の身体や命の価値に、他人とどんな差があるというんだ。お前が犠牲になっていいってことは断じてない。また、お前が勝手にそう思うのは……傲慢《ごうまん》というものだぞ」
ハッと、した。
『思いもかけない力を授《さず》かったけど、その力と折り合いをつけながら、等身大の人間でいてくれよ。これからもずっと。何が起きても……』
長谷が言った言葉が思《おも》い浮《う》かんだ。千晶の言葉に重なり合った。
俺が、一番忘れてはいけないもの。もっともこだわらなければならないこと。
俺は、深くうなずいた。涙《なみだ》をぬぐい、洟《はな》をかんだ。
「……スッキリした」
そう言うと、千晶は軽く笑った。
「水分を補充《ほじゅう》していけ。冷蔵庫にポカリが入ってる」
俺はポカリを飲みながら、千晶と夏の空を眺《なが》めた。
とても……静かだった。
九月一日。
二学期の始業式に、やはり千晶の姿はなかった。それだけに、生徒たちは興奮していた。記者やテレビ関係者が学校周辺をウロついているのも、生徒たちを刺激《しげき》した。
「みんなもう知っていると思いますが、二学期が始まる直前に、我《わ》が校《こう》の生徒と先生が大きな事件に巻きこまれました。全員命に別状はなかったことが、本当に幸いでした」
そう校長が報告し、みだりに記者たちの取材に応じないようにと注意した。
「あ、それと。入院している人のところへは、関係者以外のお見舞《みま》いは禁止されていますから行かないよーに。いいですね」
生徒たちからいっせいにブーイングが起こった。校長は知らんぷりで壇上《だんじょう》から下りた。
俺や田代らは、クラスのみんなどころか学年じゅうの生徒、クラブメイトに顧問《こもん》までもから、質問の雨アラレを浴びせられた。
「事件に関係することは話せないんだっつ―――の!」
この大騒《おおさわ》ぎは当分収まらないぞと、大きなため息が出た。
学校も街もテレビも、大騒ぎしながら一日一日が過ぎてゆく。
大騒ぎしながらも、平和でおだやかな、いつもの日常が過ぎてゆく。
俺たちは勉強し、クラブに行き、体育祭、文化祭に向けての準備に入る。
新学期も一週間が過ぎて、そろそろ千晶が退院する頃《ころ》かと思われた。
「大ニュ―――ス!! 明日から千晶ちゃんが学校へ来ま〜〜〜す!!」
朝一番に、田代が情報を持って教室に飛びこんできた。女どもが、ギャ〜〜〜ッと悲鳴を上げた。
「う〜〜〜れ〜〜〜し〜〜〜!!」
「あーん、淋《さび》しかったよ〜。夏休みも全然会えなかったしー!」
教室内の温度が、たちまち五度ほども上がったようだった。
「でも田代、明日から出勤って早すぎないか? 千晶、退院したのか?」
「うん。だから、しばらくは午前中だけだって」
「ああ。それにしてもなぁ……ったく」
「ダーリンとしては心配よねぇ。でもハニーの顔は見たいしぃ?」
顔を近づけて口を尖《とが》らせる田代の頭をはたいてやった。
その日の放課後。副担に日誌を出しに職員室へ行った時だった。
職員室の窓から中庭にふと目をやると、中庭の植《う》え込《こ》みの間のベンチに、黒田がポツンと座《すわ》っているのが見えた。
(いつもの信者連中とツルんでいないのか……?)
香川は、まだ入院したままだ。ひょっとして、黒田もまだ具合がよくないんだろうか。
「黒田」
中庭に行って声をかけると、黒田はうつむいていた顔を上げた。
「稲葉くん」
「どうした? 具合が悪いのか? 夜|眠《ねむ》れないとか?」
黒田はしばらく黙《だま》って、それから小さく首を振《ふ》った。
「青木先生が……香川さんのお見舞《みま》いに行ったんだって」
「……うん」
「香川さん、すごく具合が悪くて……。お母さんが、香川さんだけがひどい目に遭《あ》ったんじゃないかって疑っているの」
「…………」
「でもそれは、検査すればわかることでしょ!? でも、お母さんは疑ってるんですって」
つまり、それほど具合が悪いってことなんだな。
「…………青木先生が……」
黒田はそこで、一度言葉を切った。
「香川さんのことを話してくれた時、青木先生が……『なぜ千晶先生は、香川さんを助けてくれなかったんでしょう?』って……」
俺は、眉《まゆ》をひそめた。
「あんな状態になる前になんとかしてくれてたらって、教師ならなんとかすべきだって。他《ほか》の人は大丈夫《だいじょうぶ》だったのに、香川さんがかわいそうだって……泣いていたわ」
俺は、小さく舌打ちした。青木の言いそうなことだ。現場の何も知らない、知ろうともしないくせに、理想だけを口にしやがる。
「みんなも泣いたわ。泣きながら、千晶先生はひどいって言った。青木先生なら、きっと香川さんは助かったって言った」
「やれやれ」
「私……千晶先生は、香川さんを助けるために大ケガをしました! って、言っちゃった」
「…………」
そう言う黒田の口許《くちもと》は、薄《う》っすらとほころんでいた。
「ねぇ、稲葉くん……。もしあそこにいたのが、千晶先生じゃなく青木先生だったら……。青木先生は私たちを助けてくれたと思う?」
俺は頭をかいた。
「助けたよ。青木だって、命がけで俺たちを助けようとするさ。『私はどうなってもいいから、どうか子どもたちだけは助けてください!』って、今のセリフのまんま、絶対言ったと思うね」
黒田は、ふっと笑った。
「ただし、青木じゃそう言っただけで終わるだろうな。犯人どもにいいようにされて、俺たちも死んだだろう。でも、それは青木のせいじゃない。あれは、千晶だからやれたことなんだ。青木とは、男と女の差もある。知識も経験も全然|違《ちが》う。千晶が、特殊《とくしゅ》なんだよ。青木と比べることなんてないんだ」
黒田は、小さくうなずきながら聞いていた。
「俺たちは、運がよかったんだよ、黒田。あんな事件に遭《あ》って運が悪かったじゃなく、千晶がいてくれて、本当に運がよかったって考えるんだ」
黒田は、じっと俺を見つめた後、大きくうなずいた。それから、ベンチから静かに立ち上がった。
「青木先生のことは好きだけど、私、もうみんなと一緒《いっしょ》について歩くのはやめるわ。もう仲間に入れてもらえないだろうし」
そう言うわりには、黒田はさっぱりとした顔をしていた。妙《みょう》に無表情で暗かった顔に、光が射《さ》すようだった。
「私は、仲間よりも友だちが欲《ほ》しい。田代さんたちを見てそう思ったの」
俺はうなずいた。
「お前がその気になりゃ、いつかできるさ。あせることないよ。人生は長〜いからな」
「うん」
返事をした黒田の声には、はっきりとした意志が込《こ》められていた。
そして翌日。千晶が出勤してきた。
|HR《ホームルーム》で教室に入ってきた千晶に、みんなで作った大量の紙吹雪《かみふぶき》が降りそそいだ。
「千晶先生、ウェルカムバ―――ック!!」
女どもから花束を受け取り照れくさそうな千晶だったが、その右目の上や口許《くちもと》の傷跡《きずあと》はまだ生々しかった。
廊下《ろうか》や職員室で千晶を見かけるたびに生徒が騒《さわ》ぎ、事務室には「取材|申《もう》し込《こ》み」の電話がひっきりなしで、校内はずっと騒然《そうぜん》としていた。
「ま、しょーがないよネ」
麻生《あそう》たち他《ほか》の教師は、肩《かた》をすくめて苦笑いした。
まだちょっと騒《さわ》がしいが、やっといつもの、俺たちの日常が戻《もど》ってきた。
季節はいそいそと秋へと変わりはじめ、空が日増しに青く澄《す》んでゆく。
その後、香川は復学することなく退学した。青木たちはいろいろほざいていたようだが、香川が本当に恐《おそ》れ、怯《おび》えたものは、「自分だけ助かろうとした自分」だったと思う。香川は、結局「そんな自分」を乗《の》り越《こ》えることができなかったんだ。
「時間がかかってもいいさ」
と、千晶は言った。そうだな。いつか乗り越えられたら、それでいいんだ。香川の人生もまた、長いのだから。
一人になった黒田は、意外とサバサバと過ごしている。この分じゃ、友だちができるのももうすぐだろう。
体育祭、文化祭と行事が続く二学期。三年生は受験をひかえているから、クラスの出し物にもあまり身が入らない……ことはなく。やっぱりこれで最後だからと、クラスでもクラブでも凝《こ》った出し物をする傾向《けいこう》にある。もっとも、勉強があるからとそれに参加しない者もいるけど。
「今年はクラブでも、なんかうんと面白《おもしろ》いことやりたいよね、ブチョー!」
田代が目玉をキラキラさせて言ってくる。
「あ、ひょっとして進学組に変わった稲葉は、行事に参加してるヒマはない、なんて言う?」
「そんなこと言わねーよ」
「だよネー!」
嬉《うれ》しそうに笑う田代につられる。人生は楽しむためにあるんだもんな、田代|師匠《ししょう》。お前は、その達人だよ。
「でも、男が女装して女役をする芝居《しばい》……なんてのはゴメンだぞ」
「あ、釘刺《くぎさ》された!」
田代は、おおげさにショックを受けたフリをした。
「なんで男どもは女装を嫌《いや》がるかなぁ。それがイベントとして一番盛り上がるのに〜」
「その写真が、卒業アルバムに一生残る身にもなれ」
「いいのよぅ〜。あたしたちの希望は千晶ちゃんだもん! うひひひひひ♪」
「まぁた、ロクでもねー企画《きかく》を考えてンだろ」
「あ〜〜〜っ、平和ってホントにいいよねっっ!!」
田代の絶叫《ぜっきょう》が、秋めいてきた青空に吸いこまれていった。
また、怒濤《どとう》の文化祭がやってくる。
いつもの屋上、給水塔《きゅうすいとう》。
ぽかぽかと温まったコンクリに、久々に千晶が寝《ね》そべっていた。
「よ」
「おう」
空は青く、高く、いわし雲が浮《う》かんでいる。
寝《ね》そべって空を見上げれば、青空に浮かんでいるようだった。
千晶が吸う煙草《たばこ》の煙《けむり》も、気持ちよさそうにたちのぼっていった。
あ、「ほっぺにチュー」だが、田代たちは三十一日に首尾《しゅび》よく約束を果たしてもらった。
画像に残すことは却下《きゃっか》されたが、一人一人千晶に右腕《みぎうで》で抱《だ》き寄《よ》せられてほっぺにチューされた田代たちは、今にもとろけてしまいそうだった。
田代が「稲葉もやってもらいなさい」なんてぬかして、どういうノリだか千晶も「来いよ、稲葉」なんてぬかして、俺もそのノリについ乗せられてチューされたのは、絶対に秘密である(特にアパートの住人たちには)。
あの時は、みんなテンションが変だったんだ。
病室に笑気《しょうき》ガスでももれていたに違《ちが》いない。
[#改ページ]
香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。翻訳家、声優などさまざまな職業をめざしつつ、少女漫画の同人誌で創作活動をしていたが、『ワルガキ、幽霊にびびる!』(日本児童文学者協会新人賞受賞)で作家デビュー。『妖怪アパートの幽雅な日常@』で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。他の作品に「ファンム・アレース」シリーズ、「大江戸妖怪かわら版」シリーズ、「下町不思議町物語」シリーズなどがある。現在も自著の登場人物や裏設定を漫画化するなどして、自身の創作意欲をかきたてながら、精力的に執筆を続ける。講談社「YA! ENTERTAINMENT」シリーズの公式サイト(パソコン http://Yaf.jp/pc、ケータイ http://yaf.jp)で愛犬ハナ様の写真とともに綴る日記「香月日輪の幽雅な日常」を連載中。大阪府在住。
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
[#改ページ]
底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》G
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2008年1月10日 第1刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90