妖怪アパートの幽雅な日常F
香月日輪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二年|地獄《じごく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そういうところ[#「そういうところ」に傍点]なのである。
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〈帯〉
活字力全開の人気シリーズ
旅立ちの季節、夕士の決断。
たっぷり悩んで考えて、好きなことに夢中になって、そして世界を広げるんだ!
〈カバー〉
いろんなことを勉強して脳みそを鍛《きた》えろ。
生活に必要なことだけじゃ、人間は成り立たないから。
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妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常F
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常F
香月日輪
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条東《じょうとう》商業高校は、学年末を迎《むか》えていた。
「高校二年もあとちょっとか……」
そう思いながら、俺《おれ》は自室の机で英語劇の脚本《きゃくほん》を読んでいる。
俺は、稲葉夕士《いなばゆうし》。条東商業高校の二年生。両親を早くに亡《な》くした俺は、高校卒業後すぐに公務員かビジネスマンになるべく、商業高校に通いつつ、アパートに一人暮らし中だ。
条東商には、三年生を送り出す学校全体の行事である「予餞会《よせんかい》」とは別に、各クラブごとに行う「三年生追い出し会」がある。放課後、お菓子《かし》やジュースを持ち寄っての座談会だけでもいいんだが、例えば写真部の「三年生に捧《ささ》ぐとっておきの写真を撮《と》ってくる会」とか、柔道部《じゅうどうぶ》の「三年対一、二年|地獄《じごく》の乱取り会」とか、ブラスバンド部の「三年生のための音楽会」など、クラブによっては趣向《しゅこう》を凝《こ》らした追い出し会をするところもある。
俺の所属する英会話クラブでは、交流のある外国人クラブからゲストを招いてのパーティと、英語の寸劇が定番の出し物だ。二年生が脚本《きゃくほん》を書き、演じる。一年生は裏方を担当する。今年の演目は「シンデレラ」。しかも、男女逆転劇だ。といっても、男が女装して女役をするんじゃなくて、シンデレラは男で、王女様の「婿《むこ》選び」の舞踏会《ぶとうかい》に出かける……というような設定である。こんな劇にしようと言いだした奴《やつ》? そりゃ、田代《たしろ》に決まっている。
田代は俺とクラスも同じのクラブメイト。女にしてはアッサリサッパリ付き合いやすいダチだ。情報収集が得意で、その才能は恐《おそ》るべきものがある。
で、その田代が王女役。俺がシンデレラ役だ。……いや、女装してシンデレラをやれと言われるよりはマシだ、と思った。田代ならそう言いかねないからな。
「今期のクラブ活動も、これで締《し》めだな」
次はもう……送られる側。
なんてしみじみとしている俺は、ごくごく普通《ふつう》の高校生……とはちょっと違《ちが》う。
住んでいるアパート「寿荘《ことぶきそう》」が、その渾名《あだな》「妖怪《ようかい》アパート」の名のとおりの、本物の幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》の、ついでにその本物の幽霊や妖怪に負けないぐらい怪《あや》しい人間たちの住む場所なのである。
さらになんの因果か冗談《じょうだん》か、俺は二十二|匹《ひき》の妖《あや》かしを封《ふう》じた『小《プチ》ヒエロゾイコン』なる魔道書《まどうしょ》の主《あるじ》に選ばれてしまい、魔術や妖魔を操《あやつ》る「|魔書使い《ブックマスター》」になってしまったことが、ごくごく普通《ふつう》の高校生とは、ちょっと違《ちが》うところだ。
とはいえ、それでも俺は相変わらず公務員かビジネスマンを目指して、商業高校に通っている。別にここから『ハリー・ポッター』や『指輪物語』のような冒険《ぼうけん》が始まるというようなことはない。俺の第一志望は、県職員である。
如月《きさらぎ》の夜。アパートの窓の外の暗闇《くらやみ》を飾《かざ》るのは雪ではなく、雪の結晶《けっしょう》そっくりの発光物体。雪の結晶が大人の掌大《てのひらだい》にでかいわけもなく、ましてや青や黄色に発光しているはずもなく……。しかしそれらは、本物の雪のように闇をうずめて舞《ま》い落《お》ちる。ゆっくりと、静かに。
「ふっ」
と一息つくと、それを見計らったかのように、机の上に身長十五センチほどの小人が現れた。
「お勉強、お疲《つか》れ様《さま》でございます。ご主人様」
中世の道化師《どうけし》のような格好をした『小《プチ》ヒエロゾイコン』の案内人「| 0 《ニュリウス》のフール」は、いつものようにおおげさにお辞儀《じぎ》をする。
本物の妖魔《ようま》が封《ふう》じられた本物の魔法の本といっても、「プチ」に封じられている妖魔たちは、どこかヌケたというかズレたというか……あまり役に立たないモノばかりである。主《あるじ》たる俺に忠誠心の欠片《かけら》もないモノもいる。まぁ別にいいんだけど。こいつらを使うことなんてめったにないから。
ただし、仮にも魔道士の端《はし》くれとして、俺は「プチ」を使う時の最低限の霊力《れいりょく》というか精神力を蓄《たくわ》えておかねばならない。そのために俺は、毎朝|滝《たき》に打たれての水行をしているんだ。アパートの敷地《しきち》に滝があるってことが笑えるけども。ここはそういうところ[#「そういうところ」に傍点]なのである。
さらに、俺のその霊的|修行《しゅぎょう》のトレーナーを務めてくれる人までいる。
久賀秋音《くがあきね》ちゃんは、鷹《たか》ノ台《だい》高校三年生。生まれ持った霊能力を活《い》かして、将来は「除霊師」になるべく、月野木《つきのき》病院の「神霊科」で、丁稚奉公中《でっちぼうこうちゅう》の女子高生だ。月野木病院は、一応ちゃんと国の認可を受けた病院だが、実は近隣《きんりん》の幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》たちが通ってくる妖怪病院なのである。
「一休みいたしませんか、ご主人様?」
と、フールは俺の後ろを指さした。振《ふ》り向《む》くと、クリとシロがいた。
クリは、実の親から虐待《ぎゃくたい》を受けて死んだ男の子の幽霊《ゆうれい》。年齢《ねんれい》は二|歳《さい》ぐらい。シロはクリを守っている犬の幽霊だ。クリの育ての親でもある。この小さな一人と一|匹《ぴき》は、妖怪《ようかい》アパートで皆《みな》に可愛《かわい》がられながら、成仏《じょうぶつ》する時を待っている。
クリは俺に向かって手招きした(クリは口がきけない)。
「なんだ? あ、ひょっとしてるり子さんが何か作ってくれた?」
クリはこくこくとうなずいた。
「るり子さん」は、妖怪アパートの賄《まかな》いを一手に引き受ける料理の達人。手首だけのその姿は、殺されてバラバラにされたからと思うとちょっと切ないけど、「自分の手料理をみんながうまいうまいと食べてくれる」という生前の夢を、このアパートでかなえた。
るり子さんはアパートでの食事やおやつの他《ほか》、俺の弁当も作ってくれる。その超絶美味美麗《ちょうぜつびみびれい》弁当は俺のクラスでも注目の的で、毎日女どもがチェックしに来て、写メを撮《と》ったりつまみ食いしたりする。さらに今日みたいに、俺が勉強とかで夜|遅《おそ》くまで起きている時は、必ず何か差し入れを作ってくれるんだ。
「今日は何かな〜?」
俺はクリを抱《だ》っこして一階へ降りていった。
「夕士クン、お先〜」
食堂にいたのは、一色黎明《いっしきれいめい》。詩人で大人向けの童話も書く異色作家。人間(多分)。
食堂には、ダシのいい匂《にお》いが満ち満ちていた。それを嗅《か》ぐだけで、幸せで気絶しそうになる。まったく、日本人の心の琴線《きんせん》に触《ふ》れる匂いだ。
るり子さんの今夜のスペシャル夜食は、湯葉たまあんかけうどん。カツオとウルメの混合節でダシを取ったつゆはコクがあり、すごくいい香《かお》りがする。水溶《みずと》き片栗粉《かたくりこ》でとろみをつけて、溶き卵と湯葉を入れ、わけぎと海苔《のり》と山葵《わさび》をトッピング。その上に柚子《ゆず》を削《けず》る。
卵と湯葉でボリュームがありながらとても優《やさ》しい味になり、うどんにからむとろみが身体を芯《しん》から暖めてくれる。
「いやもう、こりゃあ、酒の後には最高だぜ」
そう言うのは、流離《さすらい》のヤンキー画家、深瀬明《ふかせあきら》。愛犬シガーとバイクをタンデム。個展会場とかで時々暴れたりするのが人気のポップアーティストである。人間。
ダシと湯葉と卵とあんが、そして鼻先にふっと香《かお》る柚子《ゆず》が、頭と身体の疲《つか》れをとろとろと溶《と》かしてゆく。
「あ〜〜、もぅ……痺《しび》れるくらいうまいっス、るり子さん!」
と、俺も絶賛すると、るり子さんはその白くて細い指を嬉《うれ》しそうにもじもじとからませた。
クリは俺の膝《ひざ》で、うどんのつゆをすすっている。シロはテーブルの下に寝《ね》そべっている。
ずんぐり丸〜い黒坊主《くろぼうず》が大家を務めるアパートには、他《ほか》にも、人間として会社勤めをしている妖怪《ようかい》「佐藤《さとう》さん」とか、妖怪|託児所《たくじしょ》で働く幽霊《ゆうれい》の「まり子さん」とか、次元を行き来する商売人「骨董屋《こっとうや》」とか、俺の先輩《せんぱい》、|魔書使い《ブックマスター》の「古本屋」とか、長身|痩躯《そうく》、黒い長髪《ちょうはつ》の美男子の霊能力者「龍《りゅう》さん」とか、他にも「貞子《さだこ》さん」やら「鈴木《すずき》さん」やら「山田《やまだ》さん」やら、人間か妖怪か見分けのつかない住人たちがいて、バカ騒《さわ》ぎやらためになる話やらをしながら過ごしているけど、今夜は静かだ。
ほわほわと暖かい食堂で、妖怪アパートの夜が更《ふ》けてゆく。
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魔女《まじょ》たちの饗宴《きょうえん》
食後に出された蕎麦茶《そばちゃ》の香《こう》ばしい香《かお》りに包まれながら、大人たちと話をする。アパートでの至福の時の一つだ。
「もうすぐ二年生も終わりだねぇ、夕士クン」
「そっスねぇ。生徒会役員が入《い》れ替《か》わって、生徒会長が二年生ってとこが、ああ学年末だなぁって感じがするっス」
「そっかぁ。生徒会も入れ替わる時期なんだ。……あ、じゃ、長谷《はせ》クンは? 今まで生徒会長してたよね?」
「引き続き生徒会長に選ばれたって電話がありました。長谷ンとこの学校は、生徒会は一年二期制だからこれで三期連続ス」
「さすがぁ〜。長谷クンの学校には、優秀《ゆうしゅう》な子がわらわらいるわけデショー。そこで三期連続生徒会長やるってのはスゴイよねぇー」
長谷をほめられて、俺は嬉《うれ》しかった。
長谷|泉貴《みずき》は、俺の親友。小、中学校を通して俺を支え続けてくれた、ただ一人の友人。金持ちで頭も顔もよくて、今は都内の超《ちょう》エリート校へ行ってるから毎日は会えないけど、俺の事情もアパートの事情もすべてを知っている長谷は、休みになるとバイクを飛ばしてアパートへやってくる。クリが大のお気に入りだ。
「そういやぁ、この頃《ごろ》、長谷クン来ないねぇ」
「忙《いそが》しいからだと思うっス。今の時期、一、二年生は三年生の追い出し会と、その前には期末があるから。長谷の学校にも三年生の追い出し会はあるし、特に生徒会はその後も卒業式、入学式と、仕切らなきゃならない行事が続くんで」
「卒業かぁ……。秋音ちゃんもいよいよ卒業だなぁ。夕士クンとこの名物生徒会長サンも卒業だネ」
「神谷《かみや》さんスか」
条東商始まって以来の才媛《さいえん》の誉《ほま》れ高い、神谷生徒会長と書いて「兄貴」と読む神谷さんも卒業だ(ハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリーばりの色っぽい美女なのに、多分、条東商の全生徒の中で一番男らしい)。経営を学ぶため有名国立大学の経営学部へ進学するらしい。頭のいい彼女《かのじょ》がなぜ進学校ではなく商業校に来たのかといえば、家が商売をしていて、家の仕事を手伝うべく、ビジネスや流通の勉強をするのが目的だったからだ。もうすでに、家じゃバリバリ経理をこなしているらしい。将来は、もっとでかく商売をするのが夢だという。彼女なら間違《まちが》いなく成功するだろう。目に浮《う》かぶ。
その神谷生徒会長が抜《ぬ》けた新生徒会の役員には、うちのクラス2−Cの、委員長と書いて「姐御《あねご》」と読む松岡《まつおか》がなんと生徒会長に、そして田代が副会長に選出された。田代なら、その得意の情報収集能力で姐御松岡をサポートするだろう。
新生徒会の最初の仕事は、全三年生追い出し会こと「予餞会《よせんかい》」である。演劇部やブラバンの出し物を仕切り、生徒会も出し物をする。ここでの演目は、新生徒会と有志によって行われる。有志とはいうけれど、生徒会から「お前、協力しろ」と言われれば従わなければならない仕組みだ。生徒会長と副会長が2−C出身者だけに、俺たち2−Cの生徒がコキ使われるであろうことは想像に難《かた》くない。
「三年生追い出し会かぁ〜。楽しそうだナー」
ラクガキのような顔で笑う詩人だが、俺は、
「いやぁ〜、大荒《おおあ》れになりそうっスよ?」
と言った。
「なんで?」
「原因は、千晶《ちあき》だろ?」
画家が鋭《するど》く言い当てた。
我らが2−Cの担任、千晶|直巳《なおみ》。
簿記《ぼき》とパソコンの先生で生徒指導担当。オールバックで貧血症《ひんけつしょう》で顔色が悪くて口も悪くて、煙草《たばこ》を斜《なな》めにくわえながらヤンチャどもを生徒指導室に呼びつけて、説教もするが猥談《わいだん》もするようなちょっとくだけた教師だが、学生時代はすごい遊び人で、実はファッションモデル並みにお洒落《しゃれ》で、普段《ふだん》オールバックにしている前髪《まえがみ》を下ろしてマイクを持たせると、あんた何者? みたいに色っぽくて、人を惹《ひ》きつける特殊《とくしゅ》なオーラ出まくりで、とどめはその歌唱力がハンパじゃないスーパーアマチュアである。もともと教師志望ではなかったようなんだが、そこらへんの事情は不明。
とにかく。「三年生追い出し会実行委員会」が、こんなおいしい人材を放《ほう》っておくはずがないだろう。三年生も当然、千晶に何かしてほしいはずだ。特に神谷さんとかは。
田代の話によると、神谷さんら三年女子は、千晶が秋からの赴任《ふにん》で二年生の担任なことにいたくご不満なようなんだ。つまり、自分たち三年女子は、千晶とは修学旅行も一緒《いっしょ》に行けないし、わずか半年でサヨナラなのに二年生だけズルイ! ってことなんだが、そんなこと言ったってなぁ。
だから、せめて予餞会《よせんかい》ぐらいは千晶に三年女子のわがままを思い切りきいてもらいたく、田代たちは嵐《あらし》のような出演|交渉《こうしょう》をしているらしい(条東商は、二年から三年には「持ち上がり」なので、2−Cである田代たちは特に三年女子から風当たりがきつい)。
だが千晶は、舞台《ぶたい》に立つことを嫌《いや》がる。
その原因の一つに、何年か前千晶が男子校で教えていた時、文化祭か何かで本格的なミニライブをやったらしいんだが、この後千晶のもとには生徒たちからの真剣《マジ》ラブレターや真剣告白が相次いで(男子校だぜ?)、その対応に大変苦労したことがあるらしい。
「目に浮《う》かぶ」
画家は煙草《たばこ》を吸いながら、喉《のど》の奥《おく》で笑った。
「深瀬も男にモテるもんネー」
詩人も俺もうなずいた。
「千晶と明さんは似てるスよ。タイプは違《ちが》うけど」
深瀬画家は、カッコイイ男だ。まさに「兄貴」。風貌《ふうぼう》はナイフのように鋭《するど》く、ワイルド。黒の革《かわ》ジャンを身にまとい、茶髪《ちゃぱつ》をなびかせるその姿が写真集にもなってるくらいだ。日本よりも海外で人気の高い才能(アンディ・ウォーホールのような現代アート)と強烈《きょうれつ》なカリスマ性に強く惹《ひ》かれるのは、女よりも男が多い。バイクに乗って各地の個展の追っかけをしているようなコアなファンが何人もいる(展示される作品はどこのも同じなのに!)。
「深瀬は昔っから番長≠セったからねぇ。番長ってのも、今じゃ死語だけどネー」
昔も今も、画家はケンカ上等のヤンチャ族だった。腕《うで》っぷしも強い。画家からはそういうオーラが出ている。単純に「強い男」に惹かれるのは、女よりも男なんだろうな。いやもちろん、画家は女にもモテますが。
「千晶は、ヤンチャはヤンチャでも不良じゃなかったみたいス。金持ちだし、ダチにはファッションモデルとか名家のぼっちゃんもいるって言ってたし。金にあかせて遊び回ってたのは確かだけど、その遊びも悪い遊びじゃなかったみたいスよ」
「深瀬と好対照だよネー。似て非なるもの。同じものの背中合わせみたい」
詩人が面白《おもしろ》そうに笑った。
「どうせ俺ぁ、貧乏人《びんぼうにん》で育ちも悪《わり》ィよ」
画家はそう言って、鼻から煙《けむり》を吐《は》いた。
「でも、千晶と明さんって、絶対いいダチになれると思うっスよ」
そのカッコよさに惚《ほ》れる。そのカリスマ性に惹《ひ》かれる。その才能にあこがれる。男でも女でもそれはあって当然だ。ただ、画家と違《ちが》って千晶は「一教師」だから、その特殊《とくしゅ》な魅力《みりょく》にあまり入れこんでこられても困るんだ。ましてや生徒からの真剣《マジ》ラブコールなんてのは、へたをすると学校を巻きこんでの大問題になるおそれがある。
「問題になったことがあったのかもしれないねぇ」
「そうかも……」
ふと、千晶の右手の甲《こう》についた大きな傷を思い出した。千晶にはそれだけじゃなく、腕《うで》や肩《かた》や足などに、いくつも傷があった。左手の甲にもあった。修学旅行で一緒《いっしょ》に風呂《ふろ》に入った時に見たんだが。いや、あの傷がそういう問題と関係しているとは思わないけど。生徒と刃傷沙汰《にんじょうざた》なんかになってたら、今頃《いまごろ》教師はしてないもんな。
あれがなんの傷なのか、千晶は語らない。だがあの傷だらけの身体は、歌がうまいとかカッコイイとかとは別の、千晶の人を惹《ひ》きつける何かを物語っているような気がした。
「やたらケガをする奴《やつ》ってのもいるけどな」
と言う画家の身体にも傷跡《きずあと》は多い。これは間違《まちが》いなく「戦歴」だ。
「あー、いるいる、そういう人! アタシの知り合いにもいるよ。今までに三十回ぐらい入院してるの。全部ケガで! うち五、六回が交通事故で重傷《じゅうしょう》で」
「三十回はスゴイ」
「今でも年に二、三回はケガしてるんじゃないかなぁ。で、若い頃《ころ》はもっとすごかったんだぜ、なんて変な自慢《じまん》してるの!」
「アハハハハ」
「龍さんもいわくありげな傷が多いよネー」
「左肩《ひだりかた》の傷なんざ、ありゃあどう見ても長ドスで斬《き》られた傷だぜ。お前はヤクザかっての」
「少なくとも、カタギじゃないよネ」
「ワハハハ!」
「龍さんなんかは、あの傷一つ一つにすっごいドラマがあるんだろうねぇ」
詩人がしみじみと言った。その言葉に、龍さんが俺に言った言葉が思い出される。
『君の人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜《ぬ》いていこう』
俺の宝物になったこの言葉は、いろんな思いが詰《つ》まった生きた言葉だった。この言葉に詰まったいろんなものとは、龍さんの人生経験の積み重ねなんだ。龍さんの目で見たこと、肌《はだ》で感じたこと、それらをすべて自分の血と肉にしてきた人だからこそ、その言葉は同じように血と肉でできた生きた言葉で、だから俺の心にまっすぐ届いた。矢が刺《さ》さるように。
(そうか……)
俺も、しみじみと思った。
(千晶の傷も、きっとそういう傷なんだ。いろいろな経験を、文字どおり身体に刻みこんできたものなんだ。だから魅力的《みりょくてき》なんだ、あの先生は……)
ただ困ったことは、その魅力にアテられて[#「アテられて」に傍点]しまう連中がいることか。
(気持ちはわかるが……、相手は田代に、その後ろには神谷さんがいるんだぜ、千晶。どこまで突《つ》っぱねていられるかな?)
田代や神谷さんを向こうに回し、突っ張りを通しおおせるとは到底《とうてい》思えない。
(また貧血《ひんけつ》を起こすほど苦労するんだろうなぁ)
そういう星の下に生まれた千晶を、ちょっと気の毒に思った。
「たっだいまぁ〜」
食堂に現れたのは「まり子さん」だった。
「おかえり、まり子ちゃん。遅《おそ》かったねぇ」
「お疲《つか》れっス」
「はぁああ〜、おいしそうな匂《にお》いがするー。るり子さん、なんか食べるもんあるー?」
まり子さんは、画家の隣《となり》にどっかりと座《すわ》った。が、すぐに立ち上がった。
「あ、その前にビール、ビール!」
冷蔵庫から缶《かん》ビール(大)を取り出し、プシッとプルトップを引くと、立ったままグイグイと一気飲み。
「プッハアアア〜〜〜! うまいわ――っ!! 仕事のあとのビールはサイコー!!」
まり子さんは、絶世の美女である(この言葉も死語だなぁ。絶世の美女そのものがいねぇもんな)。ゴージャスなブラウンの長い巻き毛。目元|口許《くちもと》はキュートでコケティッシュ。細い首に綺麗《きれい》な鎖骨《さこつ》。そして、ファッションモデルも真っ青のスーパーダイナマイトボディ。しかしその中身は…………おっさんである。まり子さんは幽霊《ゆうれい》。死んでからもうずいぶんたつので、女としての恥《は》じらいとかをスッカリどこかへ置いてきてしまっている。男湯へも全裸《ぜんら》で平気で入ってくるのはやめてほしい。
「この頃《ごろ》、忙《いそが》しいのか?」
煙草《たばこ》をねだられた画家が、まり子さんに煙草をくわえさせて火をつけた。その二人の様子があまりにも絵になって、俺は見惚《みと》れてしまった。画家がカッコイイのはもちろんだが、たとえ実はおっさんでも、ビールを飲む姿、煙草を吸う姿が、本当に絵になるまり子さんだった。生前はさぞかしモテただろうなぁ。
「二十四つ子が入ってきてさぁ。もぅ、てんてこ舞《ま》いよ。アハハ!」
「二十四つ子! ギャハハハハ!!」
詩人と画家は大笑いした。
まり子さんは、妖怪託児所《ようかいたくじしょ》の保母さん。妖怪の託児所があるってことがスゴイだろ。妖怪病院もあるし、俺は、妖怪学校も絶対あるとふんでいる。
成仏《じょうぶつ》をやめて、妖怪の子どもたちの面倒《めんどう》をみているまり子さん。この絶世の美女にも、ここにいたるまでのいろんなドラマがあるんだろう。
まり子さんは二本目のビールを片手に、湯葉たまあんかけうどんを、それはそれはうまそうに食べた。
二月十四日。
「気持ちはありがたいが、ヴァレンタインチョコは受け取らないからな」
と、千晶は予防線を張っていたが、職員室の千晶の机の上にはチョコの山ができていた。
「さすが」
放課後。職員室に日誌を持っていったら、千晶はソファにだらんと座《すわ》ってまずそうに煙草《たばこ》をふかしていた。
「ホワイトデーのお返しが大変だな、先生」
意地悪く言ってやったら、千晶はしれっと返した。
「お返しなんざしねーよ。キリがない」
「このチョコ、どうすんの?」
「手紙とかが入ってれば抜《ぬ》くけど、チョコ本体は近所の幼稚園《ようちえん》に寄付だ」
「せめて食ってやれよ」
「チョコレートは嫌《きら》いじゃないが、山盛りに積まれちゃ食う気がせん」
「贅沢《ぜいたく》な意見だな」
「そういうお前はもらったのか、稲葉?」
「匿名《とくめい》のチョコが二個と、田代らから義理チョコが三個」
千晶は煙《けむり》を吐《は》きながら、しみじみと言った。
「いいねぇ。それぐらいが一番いい」
「あんたにそんなふうに言われても、全然|嬉《うれ》しくない」
千晶はどうやらお疲《つか》れのようだ。疲れたりして体調がよくない時は煙草《たばこ》がまずいらしい(吸わなきゃいいのに)。
ただでさえ学年末は教師は忙《いそが》しいだろうに、千晶はヤンチャどもの世話もしなきゃならないし(この時期、進級できない奴《やつ》とか、それで退学する奴とかが出てきたりする)、予餞会《よせんかい》に関《かか》わっているヒマなんかないんだ。田代らに出ろ出ろと突《つつ》かれるのは迷惑《めいわく》だろうなぁ。
「あ」
ソファの向こうの窓の外は中庭。そこに「新生徒会」のメンバーがいるのが見えた。
条東商の中庭は、植《う》え込《こ》みの配置とかがちょっとした公園のようなんだ。校舎の脇《わき》には低い植え込みが並んでいて、石畳《いしだたみ》の通路をはさんで庭の真ん中には、背の高い植え込みがいくつもの小さな空間を区切るように配置され、その空間にはベンチなどが置かれている。そこに座《すわ》ると、なんだか秘密の小庭にいるような雰囲気《ふんいき》なので、特に女どもはお気に入りらしい。ここに隠《かく》れて怪《あや》しいことをしそうな生徒がいそうだが、生憎《あいにく》こうやって職員室からは見えてしまうのである。
「予餞会《よせんかい》の話をしてるんだな」
と、俺が言うと、千晶は首を伸《の》ばして窓の向こうを見た。気になるんだな。
「いいかげんあきらめて出てやれよ、先生。そのほうが楽なんじゃねぇの?」
「軽い意見をありがとうよ」
千晶は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
何を言っているのかは聞こえないが、田代たち五人の女子は熱心に話し合っているようだった。千晶はソファに隠れるようにしてそれを見ていたが、やがて立ち上がると、
「稲葉、一緒《いっしょ》に来い」
と言って俺を窓際《まどぎわ》へひっぱっていき、それからするりと窓から外へ出た。
「こ、来いって?」
考える間もなく、俺も後について窓から外へ出たが……。
「職員室の窓から抜《ぬ》け出《で》る教師なんて、聞いたこともないぜ」
と呆《あき》れた。
千晶と俺は、植《う》え込《こ》みにしゃがんで田代らの話に聞き耳を立てた。
「じゃあ、『三年を送る劇』のことは、もう演劇部に任せていいね」
「うん、OK」
「鳩《はと》の手配は?」
「業者の返事待ち。やっぱりこの時期|忙《いそが》しいみたい」
「やっぱりねー」
「お花はOKです」
松岡新生徒会長ともう一人の副会長(男子)はいないが、やはり田代らは予餞会《よせんかい》の打ち合わせをしていた。だが、スナック菓子《がし》をバリバリ食いながら、ジュースをゴイゴイ飲みながらのようで、打ち合わせというよりも茶話会《さわかい》……いや、単なるダベリングか、これは、やっぱり。
「でさ〜、千晶ちゃんのことなんだけど〜」
と、田代が言いだした。
「来た……!」
千晶は顔をしかめた。
田代がそう切りだしたとたん、女どものテンションが一気に上がった。
「ぜ―――ったい! 何があっても出てもらうわよ、千晶センセには!」
「そうよ! 殺す気で攻《せ》めるのよ、田代!」
「攻めるだって! キャ〜〜〜!!」
「このままじゃ、一生|先輩《せんぱい》たちに恨《うら》まれるわよ、私たち」
「それはイヤ――ッ!」
「クラブで突《つ》き上《あ》げ食《く》らいましたから! あんたらだけエコヒイキじゃね? マジむかつくって! マジ、びびりましたから!」
「ホントに本気でムカついてるよね、三年」
「修学旅行で千晶ちゃんが歌ったのがトドメだったみたいよ〜」
「しょ―――がないじゃん!! ねえ? 千晶ちゃんは二年担当なんだからサア!」
「そういう理屈《りくつ》、通用しませんから!」
「|神谷さん《アニキ》が、マジ切れしてますから」
女どもはマシンガンのようにしゃべりながら、間断なく菓子《かし》を食いジュースを飲んだ。いったい、いつ息継《いきつ》ぎをしているんだ?
「つーか、あたしだって聴《き》きてぇ〜! 千晶ちゃんの歌!」
「衣装《いしょう》は全身|黒革《くろかわ》で! ピチピチで! ブーツで!」
「ヴォンデージ!!」
「見てぇ〜〜〜!!」
「歌がダメなら劇とか? わたくし、千晶センセのためなら、いくらでも脚本《きゃくほん》書きますわよ〜。ほのぼのでもドロドロでも!」
「ドロドロ見てぇ〜〜〜!!」
「高山《たかやま》先生と!」
「高山先生と!!」
「ぎゃ〜〜〜っ!!」
……話が逸《そ》れだしたぞ。
「高山先生、いい! 千晶ちゃんと体格のバランスが絶妙《ぜつみょう》!! 二人が並んでるの見ると、萌《も》え死《じ》にそうよーっ!」
「実際仲いいよね〜、あの二人」
「高山先生、千晶ちゃんより年下デショ?」
「萌《も》ぇ〜〜〜っ!!」
「サ……饗宴《サバト》……」
俺は思わず呻《うめ》いてしまった。茶話会《さわかい》でもダベリングでもない。まるで魔女《まじょ》どもの饗宴だ、コリャ。横で千晶も頭を抱《かか》えていた。
「あ、今スゴイこと思いついちゃった。言っていい?」
「言って、言って〜〜〜!」
「先生たちみんなで出てもらうの。簡単な寸劇……全員で三年を送る言葉とかでもいいし、それと歌。『キャッツ』で。どう?」
「ギャ〜〜〜!」
「ヒィイ〜〜〜! いい!!」
「猫《ねこ》のメイクと、着ぐるみ? 猫耳?」
「似合う! 千晶センセ、絶対猫耳似合う〜〜〜!」
「猫耳、萌え―――っっ!!」
「こらあああ―――っ、お前ら〜〜〜っっ!!」
こらえきれず、千晶が立ち上がって怒鳴《どな》った。
「ギャ―――ッ!!」
「千晶ちゃん!」
女どもはとりあえず驚《おどろ》いたようだが、
「何が、猫耳萌《ねこみみも》えーっだ! 人をダシに、くだらねーこと言ってんじゃ……」
「ねぇ」と、千晶が言い終わらないうちに、女どもは千晶に襲《おそ》いかかった。
「センセ―――ッ!!」
「先生! 予餞会《よせんかい》に出てくださ―――い!!」
「出て〜〜〜っ!!」
「先生が出てくれなきゃ、私たち三年に殺されます!」
「うおっ!!」
千晶は芝生《しばふ》に押《お》し倒《たお》され、女どもにのしかかられた。
「歌がダメなら劇でも〜〜〜!」
「脚本《きゃくほん》書きます! 衣装《いしょう》用意します!」
「高山先生とラブラブでドロドロで!」
「三年生、絶対喜びますから――っ!」
「どこさわってんだ、コラ―――ッ!!」
タコのようにからみついてこられても、千晶が女どもの身体を無下《むげ》にさわって引《ひ》き剥《は》がしたりできないのをいいことに(ウッカリでも胸や尻《しり》をさわれないもんなぁ)、女どもは千晶をもみくちゃにした。嬉《うれ》しそうに。
え、なに見てるんだ、助けろって? ……いや、ここに飛びこんでいける奴《やつ》はいないだろう?
「それとも猫耳《ねこみみ》のほうがいいですかっ!」
「キャッツはどうですか!」
「先生、猫耳似合いますから―――っ!」
「先生の猫耳、見てえぇぇ〜〜〜!!」
俺は植《う》え込《こ》みの陰《かげ》で合掌《がっしょう》しながら、この様子を他《ほか》の教師が見ていないことを祈《いの》った。麻生《あそう》や中川《なかがわ》なら「またやってる」ぐらいに流してくれるだろうが、青木《あおき》じゃそうはいかない。あの(一見)清らかで真面目《まじめ》を絵に描《か》いたような女教師がこの地獄《じごく》絵図を見たら……恐《おそ》ろしい。青木は、女どもではなく千晶を責めるから恐ろしい。
「わかった! わかりました!!」
魔女《まじょ》どもの縛《いまし》めの下で、千晶は叫《さけ》んだ。
「歌います! 歌わせていただきますー!!」
全員、飛び上がった。
「やった―――!」
「ギャ―――!!」
「キャ〜〜〜ッ、やったー、やった〜〜〜!!」
倒《たお》れたままの千晶を囲んで喜びかえる女どもの様子は、饗宴《サバト》で生《い》け贄《にえ》を前に踊《おど》り狂《くる》う魔女そのものだった。怖《こわ》っっ!!
「松《ま》っつんに報告よ!」
「プログラム組み直さなきゃ!」
「これ、まだ三年には内緒《ないしょ》ね!」
「先生! 詳《くわ》しい話はまた後で! とりあえずこの話、正式に通してきますんで!!」
「もう取り消しはできませんよ!」
魔女どもは、キャーキャー言いながら走り去っていった。それを呆然《ぼうぜん》と見送る。
「……い〜な〜ば〜……」
ヨロヨロと起き上がってきた千晶は、髪《かみ》はバサバサ、全身草だらけ、上着のボタンは飛び、インナーがはみ出した無残な姿になっていた。
「まぁその……なるようになったってわけだな、先生」
と言ったら、ヘッドロックをかまされた。
「何がなるようになっただー! 助けろよ、てめえ!」
「イデデデデ!! そんな怖《こわ》いことはできませんー!」
こうして、魔女《まじょ》たちの饗宴《サバト》本番への準備は調《ととの》った。
やはり饗宴は、生《い》け贄《にえ》がいなきゃ始まらないものなんだ。
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萌《も》えてますか?
予餞会《よせんかい》まで、あと二週間。
新生徒会が密《ひそ》かに、しかしにわかに活気づいてきた。特に田代なんか、毎日楽しくて仕方がないって感じだ。顔がツヤツヤしている。
「ンも〜、千晶ちゃんのステージのことを考えるのが楽しくて楽しくて、夜も寝《ね》らんない」
と、ピンクのオーラを垂れ流しながら田代は言う。
「幸せな奴《やつ》だなぁ、お前は」
「人生、楽しんだ者の勝ちよ♪」
「お前を見てると、まさにそのとおりだと思うよ」
友だちがいないとか、将来が不安だとか、何をしていいかわからないとか暗く悩《なや》んでいる奴らに、お前のその能天気で前向きなエネルギーの一欠片《ひとかけら》でも分けてやりたい。
「というわけで、稲葉。コレ、千晶ちゃんに似合うと思わない〜?」
そう言いながら、田代はファッション雑誌を広げた。そこに写っていたモデルは、上半身|裸《はだか》に黒い羽根でできたロングコートを羽織り、黒い革《かわ》の超《ちょう》短パンと、太腿《ふともも》まであるブーツ(しかもなんか、豹《ひょう》か蛇柄《へびがら》みたいなハデハデのゴテゴテの)をはいていた。
「趣味《しゅみ》悪っっ!!」
「イヤ、絶対似合うって、千晶ちゃんなら!」
「千晶が、こんなオカマみてぇな格好するもんか!」
「オカマってゆーな!! 千晶ちゃんなら、この悪趣味一歩手前みたいな衣装《いしょう》でも、ステキに着こなすと思うの! この衣装でイエモンを歌う千晶ちゃん……ヒ〜ッ、萌《も》え〜〜〜!」
「ウットリ妄想《もうそう》に浸《ひた》るのはいいけどヨ、田代。お前、これが予餞会《よせんかい》ってこと忘れてるだろ。こんな衣装、学校側が許可すると思うか?」
「…………」
「青木が鬼《おに》みたいに反対するぞ?」
「う〜ん…………。やっぱり、全身黒革のヴォンデージかねぇ?」
「どっちもペケだ」
昼休み。二月にしては風もない暖かい日だったので屋上へ行った。
いつもの給水塔《きゅうすいとう》。おだやかな陽射《ひざ》しを受けて温まったコンクリの上に、千晶がグンニャリと伸《の》びていた。
「……大丈夫《だいじょうぶ》か、先生?」
「頭がイタイ……」
ウンザリした表情。頭がイタイ原因がすぐに推《よ》める。
「アレはいいよなぁ。黒い羽根のロングコート……ゴージャスだ」
俺は、プッと笑った。
「笑うな」
「着るのか、アレ?」
返事の代わりに蹴《け》られた。
「アレの前は黒革《くろかわ》のヴォンデージ。その前は宝塚風《たからづかふう》レースびらびらの王子様。そして猫耳《ねこみみ》……よくもまぁ毎日毎日次から次へと、くだらねぇ企画《きかく》を考えるもんだ。あの情熱を勉強へ向けりゃ、東大にだって行けるぜ」
千晶は苦々しく煙草《たばこ》をくわえた。
「そううまくいかないとこが、人生だよなぁ〜」
と言いながら隣《となり》に座《すわ》った俺に、千晶は言った。
「……お前の妙《みょう》にジジむさい考え方は、まわりに大人が多いせいだな、稲葉」
「…………そうか? そうかも」
「つられてお前も大人になる必要はないぞ」
煙草の煙《けむり》を長く吐《は》きながら千晶が言った言葉は、いつか秋音ちゃんが言った言葉だった。
「お前と田代と、足して二で割りゃぁ、ちょうどいいんだがなぁ」
「田代とは混じりたくない」
千晶は、喉《のど》の奥《おく》でクッと笑った。
「あの元気は、俺は欲《ほ》しいよ」
「確かに元気だ。毎日楽しそうだし。田代とか桜庭《さくらば》とか、あのいつもツルんでる連中とか新生徒会の連中とかって、そこらの奴《やつ》らの何倍も人生を楽しんでるって感じがする。萌《も》え〜≠ニか言ってても明るいしな」
「萌え〜≠フいいところはそこだな。どんなにくだらなくても、アブナく見えても、横で聞いてると頭がイタくなっても、明るい。暗い萌《も》えは、萌えじゃねぇもんな。それは欲望≠セ。萌えとの境界線を引くのは難しいかもしれんが、あきらかに違《ちが》うよな」
「詳《くわ》しいな、先生」
「ダチにもオタクは大勢いる」
「オタクは……うん、そうだな」
俺の中学の時のクラスメイトに「ガンオタ」がいた。アニメ「機動戦士ガンダム」のマニアだ。
こいつはガンオタがこうじたメカオタクであり、女性戦士オタクで、いつ見てもそのテの雑誌や同人誌を読んでて、校内で誰《だれ》かと一緒《いっしょ》というのを見たことがないが、親しい友人が長谷たった一人しかいなかった俺よりも、よほどしっかりとした、ちゃんとした奴《やつ》だった。成績は優秀《ゆうしゅう》、運動もそこそこでき、「何読んでるの?」とか訊《き》かれたら、ガンダム本のことをきちんと説明できる、コミュニケーションもできる奴。長谷とはよくしゃべってたっけ。「いつか本物のガンダムを作るのが夢」と、工業高専へ行ったんだ。
「カノジョも友だちも作らずに、ひたすらガンダムとメカと軍服に萌えてて、一見暗い奴に見えるけど、実はそうじゃないんだよな」
千晶はうなずいた。
「ロリコンフィギュアに埋《う》もれていても、引きこもっていても、オタクってやつはロリコン≠ニも、引きこもり≠ニも違《ちが》う。オタクは、独自の広い世界を持っているんだ。その世界の中で、奴《やつ》らは自由だ。女に不自由していて幼女にしか手を出せない奴らとも、コミュニケーションに不自由していて引きこもるしかない奴らとも、決定的に違うんだよ」
「俺もそう思う。オタクはオタクで完成されてるもんな。あいつらって、満足してるというか……満喫してる[#「満喫してる」に傍点]よな」
「オタクとか腐女子《ふじょし》ってのは、そばで見ると理解不能な部分は多いけど、自分たちの世界で遊ぶことができる奴らだからな。妄想《もうそう》で遊ぶ余裕のない[#「遊ぶ余裕のない」に傍点]奴らなんかより、ある意味よほど健全だ」
「うん」
「ホントにアブナイ奴ってのは、普通[#「普通」に傍点]の奴らの中にいるのさ……」
遠い過去を思うような、やけにしみじみとした口調だった。
「……なんかあったのか? 舞台《ぶたい》で歌いたくない理由がソレとか?」
努めてさり気に、でも思い切って訊《き》いてみた。
千晶は黙《だま》ってしまった。見たこともない、暗い表情《かお》をしている。
左手の指にはさまれた煙草《たばこ》から、紫煙《しえん》がまっすぐに立つ。長くなった灰がぽろりと落ちた。
やがて千晶は、その左手を陽《ひ》にかざした。手の甲《こう》に傷が見える。
「……生徒に噛《か》まれた」
千晶は、唐突《とうとつ》にそう言った。俺は、ぎょっとした。
「その左手の傷?」
千晶はうなずいた。
「あの子はまぁ……とても普通《ふつう》の奴《やつ》≠ニは言えないが……。かわいそうな子だったな」
その子の名を、仮に「ヨーコ」とする。
ヨーコがその高校に入学してきた時、千晶は二年生の副担をしていた。学年が違《ちが》う教師はほとんど姿も見ないものだが、千晶はその高校でも生徒指導を担当していたので、朝礼などで壇上《だんじょう》に立つことがあったし、二年、三年の女子の間では、すでに「カッコイイ男性|教諭《きょうゆ》ナンバーワン」だった。千晶はその高校で歌ったりしたことはなかったが、別に何もしなくてもカッコイイ男だもんなぁ。女子高生が見逃《みのが》すはずがない。一年の女子の間でも、すぐに話題の先生になる。
「千晶先生って、カッコイイ〜」とか言って女子同士で盛り上がったり、千晶が廊下《ろうか》を歩いていると手を振《ふ》ったり、生徒指導室を用もないのに覗《のぞ》きに行ったり。女生徒の千晶のファンの大半は、そんなふうに千晶を取り巻いていた。たまに来るファンレターも匿名《とくめい》だった(それに比べると条東商《うち》の女どもは過激だよなぁ)。
だが、ヨーコは違《ちが》っていた。
ヨーコは、最初特に目立たない生徒だった。地味で、自分からしゃべることも、女子たちの輪の中に入っていくこともなく、いつも独りだった。かといって、特に淋《さび》しそうでもなかったという。クラスメイトたちは、なんとなく声をかけづらくて、ヨーコと距離《きょり》を置いていた。みんなが千晶のことを話題にして盛り上がっている時も、まったく興味がないふうだった。勉強をしているのか、いつもノートに何かを書いていた。
ところが、二学期に入って少したった頃《ころ》、ヨーコがいつも独りでノートに向かっていた本当の理由がわかる事件が起きた。クラスの男子生徒が、悪ふざけでそのノートを盗《ぬす》み見《み》したんだ。
そこには、ヨーコの千晶への想《おも》いが、神経質な細い字で紙面いっぱいビッシリと、何ページにもわたって書かれてあった。それは、クラスメイトたちをドン引きさせる異様なものだった。
「お前、キモいよ。マジで!」
「好き」とか「あこがれている」とかのレベルじゃなく、昨夜《ゆうべ》は千晶とどうしたこうしたとか、千晶と自分がどれほど愛し合っているかとか、妄想《もうそう》以外のなにものでもないような具体的かつネットリとした内容に、生徒たちはからかうとかイジメるとかじゃなく、本気で「キモい!」とヨーコを責めた。
「千晶先生でこんなこと想像するのやめてよね! 鳥肌《とりはだ》立つわ!」
「あんたと千晶先生が恋人《こいびと》同士なんて、妄想するのも程《ほど》があるって!」
この時ヨーコは黙《だま》っていたが、ノートのことがみんなにバレて恥《は》ずかしいという態度でもなく、女子に激しく責められて怖《こわ》い、つらいという態度でもなく、不満そうに口をへの字にしていたという。
妄想ノートは、クラスの女子の手によって一ページ一ページ丹念《たんねん》に塗《ぬ》りつぶされ、これ以降、クラスメイトのヨーコに対する本格的な無視が始まった。ノートに向かわなくなったヨーコは、その代わりブツブツと何かをつぶやくようになり、それを嫌悪《けんお》するクラスメイトとの距離《きょり》をますます広げていった。もちろん千晶は、ヨーコの存在すら知らなかった。
そして、事件は起きた。
中間試験の二日目だった。試験が終わり、大半の生徒は帰り、校内はいつもより静かだった。千晶は特別棟《とくべつとう》にあるパソコン教室に用があり、教室内に一人でいた。
資料を見ていて、ふとした気配に振《ふ》り返《かえ》ろうとした時だった。
バン! という衝撃《しょうげき》が身体を駆《か》け抜《ぬ》けて、千晶は椅子《いす》からずり落ちた。
千晶は、スタンガンを食《く》らったんだ。
チカチカする視界に、ヨーコが立っているのが見えた。ヨーコは、もう一度スタンガンを千晶の左肩《ひだりかた》に押《お》し当《あ》てた。電流が流れ、千晶は吹《ふ》っ飛《と》ぶように仰向《あおむ》けに倒《たお》れた。
電圧の種類にもよるが、スタンガンは相手を失神させたり、まして死亡させるようなものじゃない。だが、痛みとショックで混乱させ、身体の自由を奪《うば》うには充分《じゅうぶん》な効果がある。
動けない千晶を、ヨーコは薄《う》っすらと笑って見下ろしていた。
「嘘《うそ》じゃないもん……。先生と私は恋人《こいびと》同士なんだもん……。ねぇ、そうでしょう? そうでしょう、千晶先生」
ヨーコは千晶の身体に覆《おお》いかぶさってきた。
「先生、こうしてくれたよね。私の身体をこうやって抱《だ》いてくれたよね。愛してる、愛してるって、何千回も言ってくれたよね。みんな嘘だって言うのよ。ひどいでしょ?」
この子はヤバイ……と、千晶は思った。このままではすまない[#「このままではすまない」に傍点]と。
痺《しび》れきった左手を懸命《けんめい》に動かして、千晶は、いつもベルト通しに付けてある小さな防犯ブザーのピンを抜《ぬ》いた(そう言われて見てみたら、今もちゃんと付けてた。全然気づかなかった。それぐらい目立たないものだった。これは、千晶のダチが特別に作ってくれたものなんだとか。メカオタクか?)。
ファ――ッ、ファ――ッ!! と、大音響《だいおんきょう》が轟《とどろ》き渡《わた》った。百二十デシベルという、ジェット排気音《はいきおん》にも匹敵《ひってき》するような大音量だ。
「何? なんなの? やめてよ、先生! なんで? なんでよ!! 止《と》めて! 止めてぇ!!」
ヨーコは、ピンを握《にぎ》りこんだ千晶の左手をこじあけようとした。千晶は、痛みと痺《しび》れで悲鳴を上げている身体で必死で抵抗《ていこう》した。
「なんで? なんで? なんで?」
ヨーコは、泣きながら千晶の左手を床《ゆか》に打ちつけ、最後は噛《か》みついた。
そこに、同じ特別棟《とくべつとう》にいた化学の教師が飛びこんできたんだ。
千晶の左手に噛みつき、血まみれの顔をしたヨーコを見て、化学教師は絶句した。
「な、なんだ? どうしたんだ、これは……っ」
その時、ヨーコはブザーの大音響にも負けない大声で絶叫《ぜっきょう》した。ヨーコが完全に壊《こわ》れてしまった瞬間《しゅんかん》だった。
「千晶先生と私は恋人《こいびと》同士なのよ! 千晶先生は毎晩毎晩、私の部屋へ来てくれたんだから! 私のおなかには、千晶先生の赤ちゃんがいるんだから!!」
血まみれで泣きながら、ヨーコは大声でそうわめき続け、あまり大事《おおごと》にしたくない学校側もこれでは救急車を呼ぶしかなく、千晶とヨーコは別々の救急車で、別々の病院へ運ばれていった。ヨーコは当然精神科のある病院へだ。ヨーコは救急車の中でも、延々と千晶とのことを叫《さけ》び続《つづ》けたそうだ。千晶の左手は、五針|縫《ぬ》い、小指を骨折する大怪我《おおけが》だった。
「後でわかったんだが、ヨーコは中学で問題を起こしていたんだ。中学側は、ヨーコは反省したとして、詳《くわ》しいことを高校へ伝えていなかった。イジメの被害者《ひがいしゃ》だったということも考慮《こうりょ》された」
「……問題って?」
「ストーカーだよ」
「女子中生がストーカー?」
「ヨーコが中三の時、運動部の男子に付きまとって、それが他《ほか》の女の子たちを巻きこんでの騒動《そうどう》になったらしいんだ」
これも後でわかったことだが、ヨーコは非常に厳格な家庭で育ち、だから真面目《まじめ》で地味でお堅《かた》くて友だちもうまく作れず、当然初めての恋《こい》をどうしていいかわからず、結果、付きまとってしまったらしい。だが、そんな事情なんて他《ほか》の女子が察してくれるはずもなく、ヨーコは無視されるなどのイジメを受けた。ヨーコは、貝のように自分の世界を閉じてしまった。
「ヨーコが、その閉じた世界で何を考えていたのかは想像を絶するよ。それは、彼女《かのじょ》を狂《くる》わせてしまうに充分《じゅうぶん》だっただろう……」
眉《まゆ》をひそめた千晶の目元で、睫毛《まつげ》が震《ふる》えるようだった。
狂ってしまったヨーコがスタンガンを持っている姿を下から見上げる……想像するだけでもゾッとする話だ。
だがヨーコは、これだけでなく、もっと大きな問題を抱《かか》えていた。
なんと、ヨーコの母親が、ヨーコの妄想《もうそう》を信じて学校へ怒鳴《どな》りこんできたんだ。それは凄《すさ》まじい剣幕《けんまく》で、千晶と学校を訴《うった》えると言ってきかなかった。それは、誰《だれ》が見ても異様な態度だった。
「そうだ。……元凶《げんきょう》は、母親だったんだよ」
この母親も、厳格な家庭で育った人だった。一人娘《ひとりむすめ》のヨーコに、女性の美徳は何よりも貞節《ていせつ》であると教えこんでいた。もともと潔癖性《けっぺきしょう》で、巷《ちまた》に氾濫《はんらん》する「性《セックス》」を嫌悪《けんお》し、二言目には「はしたない」と言うのが口癖《くちぐせ》だったんだが、その夫が、こともあろうにランパブのホステスと浮気《うわき》をしていたことがわかった。
ランジェリー(下着)姿で客をもてなす飲み屋のホステス。それは、ヨーコの母とあまりにも正反対な女の姿だった。
両親が離婚《りこん》したのは、ヨーコが小学校五年生の時。母親の言動は、この頃《ころ》から常軌《じょうき》を逸《いっ》し始《はじ》めた。ヨーコに「性は悪である」「性は汚《けが》らわしい」と、呪《のろ》いのように教え続けた。そのテのテレビも雑誌も見せない。今時《いまどき》のファッションも「男に媚《こ》びる」とさせない。ヨーコが、近所の男や同級生の男子と口をきくのも許さなかった。
「だが、そんなことを言われてもだな。そう言う母親が父親とセックスして自分が生まれたわけだろ。自分はその証拠《しょうこ》なわけだ。それだけでも、ヨーコは混乱するさ。悪いことに、そんな頃《ころ》にヨーコは思春期を迎《むか》えた。思春期といえばなんでしょう、稲葉クン?」
「はあ?」
「第二次|性徴《せいちょう》だよ。性ホルモンがドバドバ出て、身体のあちこちが変化してくる。この身体の変化に、心がついていかない奴《やつ》もいる。お前も覚えがあんだろ」
「ん、う〜ん……」
俺は頭をかいた。
「当然のように、ヨーコは身体も心も女らしくなってくる。カッコイイ男子生徒にドキドキする。だがそれは罪悪で、汚《けが》らわしいことだと叩《たた》きこまれている。ヨーコはますます混乱する」
「その果てが、それか」
千晶の左手の先で、煙草《たばこ》はすっかり短くなっていた。
「本能に従って身体はセックスしたいと訴《うった》えるが、それは絶対に許されないことだと、心と身体がせめぎあう。普通《ふつう》の奴なら単なる想像や妄想《もうそう》ですむのに、ギュウギュウに抑圧《よくあつ》されてちゃ、想像も妄想も歪《ゆが》んでいくさ」
やがて、ヨーコの心の中で妄想《もうそう》は現実との壁《かべ》を歪《ゆが》め、あふれ出し、とうとう現実すら歪めようとした。
その元凶《げんきょう》たる母親は、娘《むすめ》を強姦《ごうかん》し妊娠《にんしん》させたとして千晶を警察に訴《うった》えたが、そんな事実はないことはすぐに証明された。それでも、母親は頑《がん》としてその現実を認めなかった[#「現実を認めなかった」に傍点]。娘と同じように。
「その……母娘《おやこ》は……どうなったんだ?」
「二人とも入院したよ。今もまだ退院できていない」
千晶は、携帯《けいたい》灰皿にギュッと煙草《たばこ》を押《お》しつけた。
「……すげぇ話だな」
「セックスは抑圧《よくあつ》されるべきじゃない。どんな形の愛でも、好きなら触《ふ》れたいと思うのは、当たり前の感情だからだ。……あまりオープンなのも、俺は反対だが。ある種の性教育とかな」
「人形使って実践《じっせん》とか? 笑える」
「小学校でセックスの仕方教室=H ありえねー。俺が小六なら絶対受けたくねーし、俺が教師なら、そんな教え方絶対できねー」
性教育って……俺が小学校の時やったっけ? 覚えてねぇなぁ。興味がなかったんだろうな。少なくとも、人形を使って「女の子とはこうヤりましょう」なんて授業じゃなかったんだ。でももしそうだったら……あの性格の悪い長谷がどんな反応をしたか……ちょっと見てみたかったなぁ。きっと鼻で笑いながら、教師をからかっていたに違《ちが》いない。間違いない。
「俺を好いてくれるのは大いにけっこう。俺とヤりたいと思うのもけっこう。想像も妄想《もうそう》も、やりたいようにやればいい。どんなにありえない妄想でも、想像の世界で自由に遊べばいいんだ。それを責めるのは間違いだ。問題は、本人がそれをコントロールできているかどうかだからな」
「うん」
「田代たちのように、萌《も》え〜って言ってる奴《やつ》はいいんだ。猫耳《ねこみみ》萌えだろうが、あいつらは、自分らの妄想とちゃんと付き合えてる。楽しくやってる。これが大事なんだよ」
千晶は、やっと口許《くちもと》をほころばせた。
「でも、猫耳は嫌《いや》なんだろ?」
「ぜっったいに、ヤダ!」
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照れくさくて言えない
週末。忙《いそが》しい合間をぬって、アパートに長谷がやってきた。
「クリ〜〜〜!」
久々のクリとのご対面&抱擁《ほうよう》。クリのぷっくりとした顔に頬《ほお》ずりをしながら、
「はぁあぁぁ〜、癒《いや》される……」
と言う長谷は、近隣《きんりん》のヤンキーどもの陰《かげ》の番長として君臨しているとは思えないほどデレデレしていて……バカに見える。親バカだ。
「忙しいのか」
「まあ、いろいろな。学年末だし。……高校もあと一年だな」
「……うん」
「秋音さん、このアパートも卒業だって? 淋《さび》しいなぁ」
「でも帰ってくるって言ってたぜ?」
「そうなのか」
来年の今頃《いまごろ》、俺はどうしているだろう? 妖怪《ようかい》アパートのこの同じ部屋で、こうして長谷と過ごしていられるだろうか。
なんだかちょっと切なくなるのは、別れの季節だからか?
ステンドグラスを通ってきた、如月《きさらぎ》の陽射《ひざ》しにしては明るい光が、七色に畳《たたみ》に落ちていた。
「三期連続、生徒会長就任おめでとー!」
と、アパートのみんなで長谷を祝った。大人どもは気持ちよく飲めりゃ、なんでもいいんだが。
「このかき揚《あ》げ……うまい!」
長谷が唸《うな》った。
「ソースがさっぱりしてて、いくらでも食べられるよね〜♪」
秋音ちゃんは、まるでスナックを食べるように、かき揚げをヒョイヒョイと口へ放《ほう》りこむ。
妖怪アパート本日の夕食は、レモンソースでさっぱり爽《さわ》やかイタリア〜ンなかき揚げ。グリーンが綺麗《きれい》な枝豆の豆腐《とうふ》。大根とちりめんじゃこのサラダ。蟹《かに》つみれとエノキのスープ。飯はシャケとひじきの炊《た》きこみご飯。ああ、冬から春へと季節が移ってゆくんだなぁ。
かき揚《あ》げは、にんじん、タマネギ、ブロッコリーの彩《いろど》りが綺麗《きれい》で、そこにむき海老《えび》が入ったものと、カマスゴ(イカナゴの成長したやつ)が入ったものの二種類。アクセントに極細《ごくぼそ》パスタのカッペリーニが入っているので、パリッカリッという食感が楽しめる。
揚《あ》げ衣《ごろも》に片栗粉《かたくりこ》を入れるとサクッとした食感になるそうで、さらに香《かお》りつけに、粉チーズと削《けず》ったレモンの皮が入っているところがとてもイタリアンだ。また、チキンブイヨンや刻んだプチトマトとレモンを混ぜたソースがこれまたイタリア〜ンで、大人はこれを肴《さかな》に、今夜は白ワインを楽しんでいる。
「千晶先生の猫耳《ねこみみ》なら、あたしも見た〜い! 夕士くん、プッシュして。プッシュ!」
どんぶりで炊きこみご飯を食いながら、秋音ちゃんが言った。
「秋音さん……」
修学旅行の写真で千晶を見た秋音ちゃんは、スッカリ千晶のファンだ。
「しかしまぁ、千晶センセも大変だねぇ。モテる人間には、モテるなりの悩《なや》みがあるものなんだよネ〜」
「そーそー。俺はモテてハッピーさー、とか言ってる奴《やつ》はバカだって」
と笑うのは、詩人と「佐藤さん」。人生長いだけに重みのある言葉だ。いろんな奴《やつ》を見てきただろうからなぁ、特に佐藤さんは(佐藤さんは人間として、あちこちの会社に勤めてきた。おそらく百年以上も。人間として暮らすことが好きなんだ)。
「放課後の教室で教師を襲《おそ》う生徒か……。まるでAVだな、ふっふっふ」
怪《あや》しさでは妖怪《ようかい》に負けてない俺の先輩[#「先輩」に傍点]、魔道書《まどうしょ》『|七賢人の書《セブンセイジ》』のブックマスター、「古本屋」。
「そこか! さすが古本屋さん」
「ヤりたい盛《ざか》りの奴らを、なるべく刺激《しげき》したくないってのが、千晶先生の本音だろ?」
かき揚《あ》げをうまそうに食いながら、古本屋は俺に言った。俺はうなずいた。
千晶は、特に舞台《ぶたい》に立った時などに自分が放つ特殊《とくしゅ》なオーラが、いわゆるセックスアピールだということを知っている。田代たちに「お前は鈍《にぶ》い」と言われる俺でさえ、そんな時の千晶は色っぽいと思うくらいだ。それは、千晶が生まれ持った才能の一つだから仕方ないとはいえ、本物の歌手ならいいんだろうが、一介《いっかい》の教師には少々手に余るものだ。自分のせいで、健全な妄想[#「健全な妄想」に傍点]を歪《ゆが》ませてしまう生徒が出やしないかと心配しているんだ。
「中学から高校にかけての時期って怖《こわ》いよネー。心も身体も危《あや》うくて、銀糸の上を綱渡《つなわた》りしてるようなもんだもん。場合によっちゃ、その後のすべての人生を一瞬《いっしゅん》で壊《こわ》しちゃうこともあるからネー」
「第二次|性徴《せいちょう》がクセものね」
「身体の欲求に、頭がついていかない」
「この時期は無意識の欲求不満状態なわけだ。ソリャ学校の窓も壊《こわ》したくなるって!」
心当たりがあるのかないのか、大人どもは軽く苦笑いする。
小学校までは普通《ふつう》だったのに、中学校で突然荒《とつぜんあ》れる奴《やつ》は俺のまわりにもいた。夏休み明けに、いきなりヤンキーになって登校してきたわかりやすい奴から、言動がちょっとおかしいなと思っていたら……いつの間にか姿を消した奴まで(問題児を扱《あつか》う施設《しせつ》に入れられたんだと後から聞いた)。
俺もやたらイライラした時期はあった。あれは、両親を亡《な》くして伯父《おじ》さんちで暮らしていたからだと思ってたけど、いや、それもあるだろうけど……。そうか。ホルモンが大きく関係しているのか。
「殺人みたいな極端《きょくたん》なことさえ起こさなきゃ、荒れるのはまだマシなほうさ。ヨーコちゃんみたいに、本当に狂《くる》っちまう子もいるんだからな。狂信的《きょうしんてき》カルトの教祖や信者の過去を調べたら、中高生の時に発狂してましたってケースがごろごろあるんだぜ」
と、古本屋が言った。
「怖《こえ》ぇ〜」
「それだけ、セックスってやつが脳みそに与《あた》える影響《えいきょう》はすごいってことさ。ソリャ当たり前っちゃあ当たり前だよな。生存本能なんだから。しかも、死と双子《ふたご》だ」
「死と……双子?」
「生《エロス》と死《タナトス》≠ヒ」
「命と直接結びついている領域のものだから、脳みそや身体の反応も大きいのさ。エロスはタナトスを背負ってるんだよ。どちらか一つじゃないんだ」
おお……古本屋が、なんだかすごく高尚《こうしょう》な話をしているぞ! ただのエロオヤジじゃなかったのか。
「思春期の不安定ってのは、誰《だれ》にでもあることだ。けど、子どもの多くはまともに育つ。その分かれ目はなんなのか? それはやっぱり、親の愛情なんだよ。親が愛情をもって育ててやれば、子どもは自分に自信がつく。この自信が、いろんな悩《なや》みに打ち勝つ武器になるんだ」
俺も長谷も大きくうなずいた。古本屋の話はよくわかった。
「もちろん、キラキラ光る思春期ってのもあるよ」
詩人が、至極《しごく》詩人らしいことを言った。
「生物的なセックスを知る一歩手前の子どもは、素晴《すば》らしく透明《とうめい》なガラス細工みたいに、透《す》きとおってキラキラ輝《かがや》いていることがあるよネー。まさに、夢と現《うつつ》の紙一重《かみひとえ》のところにいるの。奇跡《きせき》の一瞬《いっしゅん》だよネー」
「あー、わかる。そういうとこ、人間は素晴らしいよね」
佐藤さんもため息をついた。その横で、古本屋がいつもの調子で軽く笑った。
「それもまた、ホルモンのなせる業《わざ》だよな〜」
「あたしは毎日|修行《しゅぎょう》してたなぁ〜」
秋音ちゃんは、四|杯目《はいめ》のどんぶり飯をおかわり中。
「秋音ちゃんは、キラキラというよりピチピチだな」
「欲求不満が昇華《しょうか》されるような、夢中になれるものがあればいいんだよ」
「そーそー。昇華ってとこが大事だよネー。結局は、セックスも心≠フ問題だからネー。時間はかかってもいいから、そこからぼちぼちと現実のセックスに移っていけばいいんだよ」
大人どもの話を聞き、長谷もこくこくとうなずいている。
「心と身体がアンバランスになる奴《やつ》ってのはだな、要するにヒマな奴なんだよ。ガキに限らず、イライラするとか不安になるとかってのは、誰《だれ》だってあるさ。そんな時、そういうのをまぎらわす、ヒーリングしてくれる何かを持っているかどうかだよ。スポーツでもいいし、萌《も》え〜でもいい」
「ただし」
古本屋の意見に、詩人が付け加えた。
「依存《いぞん》するようなものはダメ」
「依存するようなもの……」
「代表的なものが、クスリ」
「ああ」
「クスリはヒーリングとは言わないよね。お手軽に気が楽になると思ってハマる子が多いけどさ。だいたい、お手軽に解決しようとしなさんなっての」
佐藤さんは肩《かた》をすくめた。
「あたしとしては、ゲームもダメと言いたいわね。脳みそ使わないから。あれは、気分|転換《てんかん》ぐらいに使ってほしいもんだわ」
「秋音ちゃん、エライ!」
「ゲームも依存《いぞん》だよね〜、ネットもか」
「やってないと不安? バカじゃねぇの。ビョーキだよ。ヒマ病」
「ネットで狂《くる》う奴《やつ》も大勢いるねぇ」
「麻薬《まやく》と同じだからな。欲求不満や不安を抱《かか》えてる奴は簡単にハマる。で、簡単に狂う。結局は自分がない[#「自分がない」に傍点]奴らだからな」
「世界が自分のものになった気になっちゃうんだよねぇ」
「だから依存しちゃダメ」
「あ、依存しちゃダメなのは、宗教とかスピリチュアルなものもそうね」
と、霊能力者《れいのうりょくしゃ》の秋音ちゃんが言う。
「それこそ麻薬≠セもんな」
「でも、あの……夢中になれるものを見つけられない奴は……?」
中学時代の俺は、一歩|間違《まちが》えばバランスを崩《くず》した奴になっていた。とても他人事《ひとごと》じゃない。
「ソリャ、お気の毒サマ」
「甘《あま》ったれんな。てめぇのケツはてめぇで拭《ふ》けヨ」
「我慢《がまん》しなさいよ、我慢。たいがいの問題ってのは、時間が解決してくれるんだから」
「なんか、自分が弱いこととか、自分を見つけられないこととかを、エライことみたいに言う人っているよね! 一種の開き直り? それで、強いあなたに何がわかるのよって! イヤ、わかんないし! わかりたくないし!」
「ギャハハハ! 常套句《じょうとうく》!! 『あなたに何がわかるのよ!』言う言う!」
「ホントに弱い人間は、そんなこと言いませんから」
「そんなことを言う奴《やつ》はズルイ奴さ。そう言えば逃《に》げられると思ってるんだ。卑怯《ひきょう》だよ」
……ウッ、キツイ。長谷も思わず苦笑いしている。
ここの大人ども(秋音ちゃんを含《ふく》む)は、時にヒリヒリするほどシビアだ。子どもだから、弱い者だからといって容赦《ようしゃ》してくれない。
「自分の好きなものとうまく出会えるかどうか、運ってのもあるよネー。深瀬がそうだったからネ」
と、詩人が言った。画家とは昔からの馴染《なじ》みだ。
中学生の頃《ころ》の画家は、抱《かか》えこんだ焦《あせ》りと不安を、教師を殴《なぐ》り、教室の窓を破壊《はかい》し、盗《ぬす》んだバイクで走ることでまぎらわせていた(尾崎豊《おざきゆたか》か)。だが絵画と出会い、そこに自分の才能を見出《みいだ》して、わけのわからない不安や焦りから脱《ぬ》け出《だ》せたんだ。
「深瀬はまさに、自分をうまくつくることができなかった子どもが思春期を迎《むか》え、欲求不満を爆発《ばくはつ》させたって、わかりやすいケースなんだ。うまく夢中になれるものを見つけて、それで人生をつくることができるまでになったけど。だから、親の責任と、なんでもありすぎる現代の社会のあり方も問題なんだよネー」
「ヨーコの場合を考えても、親の責任は大きいですよね」
「子どもは、親の血と肉でできてるってことを、親はもっと考えなきゃならない。ここに魂《たましい》を吹《ふ》きこむことも、親の大事な仕事なんだからー」
「だが、子どもは親の人形じゃない」
「そ! それを勘違《かんちが》いしてる親も多いよネー」
一歩間違えば欲求不満を爆発させていたかもしれない俺の、ヒーリングになったものはなんだろう? 夢中で本は読んだけど……。
(あ…………、長谷か?)
俺は、思わずチラリと長谷を見た。長谷は詩人たちの話を熱心に聞いていた。
ともすれば内に引きこもりがちになる俺をじっと見守り、さり気に本や食い物をおごってくれた長谷。俺が親を亡《な》くしても、初めて会った小三の頃《ころ》から何一つ変わらない態度で接してくれた。その変わらない態度が、俺を救ってくれた。
「友だちも……重要っスよね」
そう言う俺を、今度は長谷がチラリと見た。
「もちろん!」
「無論だね」
大人たちは声を揃《そろ》えた。
「諸刃《もろは》の刃《やいば》だけどネ」
詩人が笑いながら言った。目が笑っていないところが怖《こわ》い。
「友だちに依存《いぞん》しちゃいかんよなぁ」
「そもそも、何が友だち≠ネのかが問題」
「ダメな友だちと共倒《ともだお》れってこともある」
「そういうのは、友だちって言わないのでは?」
「友だち百人できるかな? できねーよ」
「友だちだと勘違《かんちが》いしているおそれアリ」
言ってることはわかるから、俺と長谷を見ながら言うのはやめてくれ。しかも半笑いで。
「ただいま〜」
まり子さんが帰ってきた。
「おかえりー」
「お邪魔《じゃま》してます」
「あ、長谷クンだー。ヤッホー」
「まり子ちゃん、えらい荷物だね」
まり子さんは、何かの塊《かたまり》を白い布に包んで、それを首から提《さ》げていた。
「ちょっとねー。預かり物なの」
テーブルによっこらしょとのせると、まり子さんは白い布を解いた。皆《みな》、興味|津々《しんしん》で見る。それは、青い石のようなものだった。いびつな楕円形《だえんけい》だが、とても綺麗《きれい》な青色をしていた。
「石?」
「綺麗だ」
「不思議な感じがする」
「さすが秋音ちゃん。わかる?」
「生きてるの、これ?」
「えっ?」
「そうよ。これは卵なの」
「卵?」
全員声を揃《そろ》えた。
「お母さんが旅行中でねー。その間、あたしが預かることになっちゃって」
まり子さんは「えへへ」と笑い、みんなも「へー」と笑った。
…………なんの卵? って、なんで誰《だれ》も訊《き》かないんだろう……。
風呂《ふろ》から上がり、部屋で寝転《ねころ》がりながら、長谷とまたひとしきりしゃべる。
「こんな時、身内以外の話し相手がいるってのはいいよなぁ」
長谷は俺を見ながら羨《うらや》ましそうに言った。
「え、俺?」
「セックスがらみの話なんか、親とはできねぇからなあ」
「……そうかも」
親のいない俺も、それはわかる気がする。
「でも、聞いておきたい話だろ? ここには、ちゃんとした話をしてくれる先輩《せんぱい》たちがいる。お前は幸せ者だよ、稲葉。猥談《わいだん》だけなら誰《だれ》だってできるからな」
「……うん」
エロスとタナトス。
死を背負った本能の強烈《きょうれつ》な洗礼に揺《ゆ》さぶられる、まだ幼い心と身体。それは大人になるための最初の試練で……その試練を突破《とっぱ》できない者もいる。それは人間という種が、自らを篩《ふるい》にかけているということなんだろうか。
「やっぱりお前も、おやっさんとはそんな話はしないのか?」
と言ったら、長谷は眉《まゆ》をひそめて頭を振《ふ》った。
「いや、しようと思えば、うちの親父《おやじ》ならできるよ。うちは……けっこうドライな関係だからな。こう……親というよりは」
「ああ、わかる! お前って、おやっさんの丁稚《でっち》だもんな」
「丁稚って言うな!!」
「お前んとこって、師匠《ししょう》と弟子《でし》みたいな、普通《ふつう》の親子よりはちょっと一歩ぐらい離《はな》れてるって関係だよな。俺の親父が生きてたら……エロい話なんてできないかも。なんかそんなタイプじゃない感じがする」
俺は苦笑いした。
「むしろお前のおやっさんと話がしたい」
長谷は大きなため息をついた。
「やめとけ。師匠《ししょう》は師匠でも、エロ師匠だからな、アレは。子どもの教育上よろしくなさすぎる。いろいろと……」
「でも、お前はまともに育ってる」
俺は、長谷をビシッと指さした。長谷は、その親父《おやじ》さんの背中を見て育ってきたんだ。その背中を越《こ》えたくて、いつも夢中だった。長谷の親父さんの背中は、長谷が越え甲斐《がい》のある堂々とした背中だ。
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せながら「クソ親父」だの「エロ師匠」だのと罵《ののし》っても、長谷は親父さんと強い絆《きずな》を結んでいることがわかる。でなけりゃ、スゴすぎる父親の前で、同じ男である息子《むすこ》は途方《とほう》にくれてしまうだろう。だが長谷は、峨々《がが》としてそびえる親父という山を「征服《せいふく》してやる!」と、物心ついた時から闘志《とうし》を燃やし続けている。着実に登っていっている。
それは、長谷が誰《だれ》よりも親父さんを好きだからなんじゃないかと思う。そして親父さんも。そんなことを口にしたら、間違《まちが》いないく長谷にブッ飛ばされるだろうけど。
親父《おやじ》さんの、長谷への「愛」がなけりゃ、長谷は絶対続かない。
それは父親と息子《むすこ》の、ある意味、理想の姿のようだ。詩人の言葉を借りれば、長谷の親父さんはまさに、自分の血と肉でできた息子に、しっかりと魂《たましい》も吹《ふ》きこんだんだ。
「おやっさん、モテただろーな〜〜〜」
超《ちょう》優良|大企業《だいきぎょう》の重役で、オヤジどもから「カミソリ」と恐《おそ》れられ(オヤジどもは、切れ者というとこう表現したがるよな)、ヴァレンタインともなれば、自社中はもちろん、関連会社から取引先から銀座のおねーさんたちから、段ボールに何箱ものチョコが届くという、昔も今も変わらぬモテぶりらしい。
「今だって、メッチャかっこいいもんな!」
と言うと、長谷は眉間《みけん》の皺《しわ》をグッと深くした。親父さんをほめられるのはムカつくらしい。
その、父親にそっくりの横顔を見て思う。
(そうだよな……。あんまり近いと……生々しい話はできないもんだよな)
女にモテるところもきっとそっくりで……。でも、具体的にカノジョがいるとかそういう話は、今まで一度も聞いたことがない。
そういう話……いわゆるセックスがらみの話は、なぜか避《さ》けている。俺もなんだか照れくさくて切りだせない。「親兄弟には、自分の性生活は知られたくない」って、まさにそんな感じなんだ。いや、俺に「性生活」なんてないのも同然だけど。まだコーコーセーですし? 女にウツツを抜《ぬ》かしているヒマも金もございませんし? とにかく俺は、自分の生活の基盤《きばん》を固めることが何より優先するからな。今は。
俺がこんなだから、長谷はきっとそのテの話を話題にすることを遠慮《えんりょ》しているんだと思う。スーパービジネスマンで、かつメチャかっこいい親父《おやじ》さんのもとで「修業《しゅぎょう》」している長谷だから、親父さんの手ほどきで「大人の勉強」もすでにしているだろう。酒も女も、親父さんなら一流の遊び方を知ってる。ビジネスマンには必要なことだもんな。それぐらい俺にもわかる。
俺のためにそういう話はしない長谷の気遣《きづか》いをありがたいと思うし、そういう話はしなくても、他《ほか》にもたくさん話したいことややりたいことがある俺たちの関係を、俺は心から嬉《うれ》しく思う。
そして、俺の事情を気遣ってくれているのは長谷だけでなく、長谷の親父さんもそうなんだ。前に長谷の家に遊びに行った時、親父さんは俺にこっそりと、
「高校を卒業して無事就職できたら、そのお祝いに、いいとこに連れていってやる。楽しみにしとけ」
と、小指を立てながら言ってくれた。
「泉貴には内緒《ないしょ》だぞ。自分たちのプライベートに干渉《かんしょう》してくるなとウルサイんだよ、あいつは。お前らは新婚夫婦《しんこんふうふ》かっての」
親父《おやじ》さんは苦笑いした。俺は、親父さんと「秘密の約束」をしたことをすごく嬉《うれ》しく感じた。
(さすがおやっさんだよなぁ。これが「大人の粋《いき》な計らい」ってやつ?)
俺は親父さんのカッコよさに、あらためて感服した。
今までは「子ども」だったけれど、これで「大人の仲間入り」だぞって、ちょっとおおげさに言うと、そういう線引きをしてくれたような……。
大人のそういう態度って、子どもには嬉しいもんだよ、やっぱり。
だってそれは、俺のことをよく見て、よく思ってくれているからこそできることだろ?
それを実感できることが……嬉しい。
「いやいや。お若い方々の、いかにもお若いお話……。私めも思わず若返るというものです」
そう言いながら、フールが姿を現した。何か余計なことをぬかしそうな雰囲気《ふんいき》だ。
「いかがでございましょう。今夜はひとつ、お二人で薔薇色《ばらいろ》の夢でも……」
と言うフールに、俺は長谷の背後から、口に指を当てて睨《にら》んだ。それを見てフールは、首をブンブンと振《ふ》った。
「ああっ……ゴホン! え〜、シレネーが新曲をマスターいたしましたれば、それをぜひ聴《き》いていただきたく……」
「へえ。今度は誰《だれ》の曲だ?」
「倖田來未《こうだくみ》です」
「アハハハハ!」
長谷は大笑いした。俺はほっとした。
長谷に内緒《ないしょ》にしていることが、もう一つある。実は「プチ」の中に、プーカという「サキュバス」がいることだ。
サキュバスとは、淫夢《いんむ》を操《あやつ》る夢魔《むま》。つまり、色っぽい夢を見させる妖魔《ようま》ってわけだ。これを使うと、夢の中に好みのおねぇさんが出てきて、あんなことやこんなことをしてくれるとか、思いどおりの薔薇色の夢[#「薔薇色の夢」に傍点]が見られる……らしい。言っておくが、俺はまだ使ったことがない。理由は、「プチ」のサキュバスなんて絶対信用できないからだ。どうせたいしたことはないんだろうし。
それでもやっぱり……長谷には言いにくい。「試《ため》してみようぜ」なんて言われても困る。
親友と猥談《わいだん》の一つもできないガキだと笑われてもいい。大人たちが言っていた。「欲求不満が昇華《しょうか》されるようなものがあればいいんだ」と。女や下ネタ話に興味がないわけじゃないけど、俺は長谷と他《ほか》に話したいことがたくさんある。女っ気はないけど、俺は自由で、充実《じゅうじつ》してるんだ。それが大事なんだよな。
その夜、シレネーは新しくマスターした倖田來未の『feel』を聴《き》かせてくれた。ハミングで(だから、ハミングじゃマスターしたことにならねーっての!!)。
親父《おやじ》さんの話が出て、ちょっとむくれていた長谷だが、
「ホラホラ、長谷の似顔絵〜」
クリが画用紙にクレヨンで描《か》いた顔らしきものを見て、長谷のご機嫌《きげん》はたちまち直った。しかもできあがった絵に、秋音ちゃんが「パパ」と書きこんだもんだから、クリを抱《だ》いてデレデレする長谷はもう……以下略。
予餞会《よせんかい》まで、あと十日。
一、二年生は期末テストに突入《とつにゅう》した。この三日間は、クラブの追い出し会の練習もなしだ。テスト明けには英会話クラブの英語劇も仕上げないと、英会話クラブの三年追い出し会は一週間後だからな。
「ん? そういえば……」
と、俺は隣《となり》で参考書を読んでいる田代を見た。予餞会の千晶の歌のことで舞《ま》い上《あ》がって、英語劇の練習にもなかなか身が入らないとか言ってた田代だが、このところずいぶん落ち着いてるな。
「予餞会のことは、もう全部決まったのか、田代?」
「ん? うん。段取りはもうほぼOK」
「千晶のことは?」
ここで田代は、参考書から顔を上げた。
「それがサー、稲葉。千晶ちゃんってば、きっと三年の満足のいくようにするから、全部自分に任せてくれって言ってきたの」
「え? 自分に任せろって……企画《きかく》やら何やら全部自分でやるからってことか?」
「そ〜〜なのヨ。あたしたちは何もしなくていいって。つか、口を出してくんな、みたいな? でなきゃやらないってダダこねちゃってさぁ。口|尖《とが》らしちゃって。ああん、モゥ。可愛《かわい》いったら」
「へー」
また大胆《だいたん》な申し出をするもんだ。ま、千晶にしてみれば、猫耳《ねこみみ》だのヴォンデージだの、わけのわからんものをやらされるよりは、全部自分で企画したほうがいいってわけかな。
「まぁねぇ、歌は必ず歌ってくれるって言ってるしい、猫耳は惜《お》しいけどぉ、千晶ちゃんが何をしてくれるのか楽しみではあるのよネ〜。三年には千晶ちゃんのことは内緒《ないしょ》なんだけど、これであたしたちにもシークレットになっちゃった。アハハ」
と、田代は気楽に笑ったが……。
やれやれ。ますます「大荒《おおあ》れ」になりそうな予感がするぜ。
さて。期末が終わったら、予餞会《よせんかい》の前に各クラブの三年追い出し会ラッシュがある。英会話クラブにもその日がやってきた。
「Thank you for inviting us! (お招きありがとう!)」
フリマや夏休みのバーベキュー大会など、何かと交流がありお世話になっている外国人クラブ「エール1960」から、主宰者《しゅさいしゃ》のジョージたちがやってきた。
「We look forward to this party every year. What's the program this time? (毎年このパーティが楽しみでねぇ。今回の出し物は何?)」
「Cinderella. (シンデレラです)」
「Cinderella! That's great! (シンデレラ! いいね!)」
三年生たちが、懸命《けんめい》にジョージたちの相手をする。
「But …… Cinderella is …… Cinderella is a boy, and the prince is a girl ……(でもシンデレラは男の子で、王子は女の子なんです)」
「Ah ! It's a boy and girl reverse drama !? (ああ、男の子女の子、逆転劇だね?)」
「A kind of a reverse drama. (逆転劇の一種です)」
「I see. (なるほど)」
部室の中には、テーブルクロスで飾《かざ》った机がレストランのように配置され、ジュースとスナック菓子《がし》が用意されている。ジョージたちは三年生とそこに座《すわ》り、一年生の給仕《きゅうじ》を受けながら、二年生の劇を見る。
舞台裏《ぶたいうら》では、準備が万端調《ばんたんととの》っていた。
「皆様《みなさま》、用意はよろしくて? Are you ready?」
王女役の田代が幕を開ける。
「It's show time! (さあ、始めるわよ)」
大きな拍手《はくしゅ》と口笛。ジョージたちの、いかにも外国人らしいリアクションに迎《むか》えられて劇は始まった。
みすぼらしい服装の俺が床磨《ゆかみが》きをしているところへ、義兄弟がやってきていじめる。
「Cinderella! He's such a useless fellow! (シンデレラ! この役立たず!)」
「Stupid! (のろま!)」
「Wash my underwear now! (俺の下着をすぐに洗え!)」
ぺしぺしはたかれたり足蹴《あしげ》にされている俺を見て、ゲストはゲラゲラ笑い転げた。
「ユーシ is Cinderella! He is good for the position! (ユーシがシンデレラ! ピッタリだ!)」
継母《ままはは》と義兄弟たちが城で催《もよお》される王女の「婿《むこ》選び」に行ってしまうと、俺は下着を洗いながらつぶやく。
「I want to go to the castle …… and I want to eat splendid dinner. (俺もお城へ行きたい……で、ごちそうを食いたい)」
「A-HA-HA-HA-HA!!」
ゲストは手を叩《たた》いて受けているが、俺たちに気を遣《つか》って無理に笑っているんじゃなく、ジョージたちは本当に笑いのツボが浅いんだ。
そして魔法使《まほうつか》いが現れて、俺はりっぱな服に早変わりする。
「Wow ―――!!」
「Cool!! (すごい!)」
大きな歓声《かんせい》と口笛が乱れ飛ぶ。それは、プリンセス田代の登場でさらにヒートアップした。
「タァコ is a princess!! Unbelievable!! A-HA-HA-HA!! (タァコが王女!! びっくりだよ!! アハハハ!!)」
「Wonderful! (素晴《すば》らしい!)」
田代が、でかい羽根付き扇子《せんす》を広げて
「Who will be my darling? Choosing one is so difficult. (私のダーリンはどこ? どれにするか迷うわ〜)」
と言うと、ジョージたちは腹を抱《かか》えて笑い転げた。
それから俺と田代はダンスを踊《おど》り(俺たちがダンスを踊っている最中もずっと、ジョージたちは笑い転げていた)、十二時がきたので俺はその場を去る。スニーカーを片っぽ残して。
そのスニーカーを手がかりに、プリンセス田代は俺を捜《さが》し当《あ》て、従者が俺の足に顔を寄せて、
「It smells like this, Princess!! (この臭《にお》いです、王女さま!!)」
と叫《さけ》ぶと、ジョージたちはもうひっくり返らんばかりに爆笑《ばくしょう》した。つられて三年生たちも大笑いしてくれた。
役者全員で並んで挨拶《あいさつ》すると、客席から紙テープやキャンディが飛んできた。
「I enjoyed it again this time. (今回も楽しんだよ)」
「It was a splendid cast! (素晴《すば》らしい配役だった!)」
「Princess Tashiro is great! (プリンセス田代は最高!)」
あとは時間まで、ゲストと三年生とみんなで歓談《かんだん》し、英会話クラブの三年追い出し会は終わる。役者は衣装《いしょう》のままなので、写真|撮影《さつえい》も盛り上がる。
「Hey, タァコ! What a beautiful princess, you are! I've never seen such a beautiful princess! ネ! (ヘイ、タァコ! なんて美しい王女なんだ。見たことがないほどネ)」
「I'll display this photograph in the club. (この写真はクラブに飾《かざ》るよ)」
「稲葉くん、なんだかシンデレラがもうピッタリだわ。It becomes you (よく似合うよ)だね」
大いに笑い、必死にヒアリングし、脳みそと格闘《かくとう》するように英語を話し、三年生はクラブを卒業してゆく。OBもよく遊びに来る「エール1960」で会える人もいれば、もうこれっきりになってしまう人もいるだろう。
「This is not good bye. We'll wait for you to come to the club anytime. (これがお別れじゃない。クラブに来てくれるのをいつでも待っているからね)」
と、ジョージが挨拶《あいさつ》し、最後に一年生から花束をもらった先輩《せんぱい》たちは、薄《う》っすらと涙《なみだ》を浮《う》かべていた。本番より一足早い、小さな卒業式。
「あとをよろしく頼《たの》むわよ、新部長」
クラブを去《さ》り際《ぎわ》、江上《えがみ》元部長が俺の肩《かた》を叩《たた》いて言った。そう。俺は英会話クラブの部長に選ばれた。長谷と違《ちが》い「長」と付くものに選ばれたのなんて初めてだった。ちょっとテレる。それから江上元部長は、
「さぁて、次は予餞会《よせんかい》だね。楽しみにしてるわよ〜」
と、田代を睨《にら》むように、念を押《お》すように言った。田代は冷《ひ》や汗《あせ》をかきつつ「えへへ」と肩をすくめた。
「あ〜もう、頼《たの》むわよ千晶ちゃん。千晶ちゃんの肩《かた》に、あたしたちの命もかかってんだから!」
田代はそう言いながら手を合わせた。
「千晶はまだ何も言ってこないのか?」
「全然、なンにも」
「歌を歌うにしても、カラオケとかの用意とか音響《おんきょう》とか」
田代は首を振《ふ》った。
「なン〜〜〜にも。何かいるものがあったら言ってね、とか様子を探《さぐ》りに行ったらさぁ。大丈夫《だいじょうぶ》だって言ってるだろぉ……なんて、子どもみたいにすねた顔するのよ。ああん、モゥ。可愛《かわい》いったら」
「千晶が大丈夫ってんなら、大丈夫なんだろーぜ」
ゲストと三年生を送り出し、部室の後片付けを終える頃《ころ》には、すっかり日も暮れていた。西の空を飾《かざ》るオレンジと濃紺《のうこん》の狭間《はざま》に、星が瞬《またた》いている。
「二年生が終わっちゃったねー」
校舎の間から夕まぐれる空を見て、田代がやや感傷的な口ぶりで言った。でも、
「すっげ楽しかったけど!」
と、俺のほうを振《ふ》り向《む》いたその目はキラキラしていた。笑える。
「ああ。楽しかったな」
「トシゾーちゃんには悪いけど、よくぞ休職してくれましたって拝みたいわ。トシゾーちゃんが休んでくれたおかげで、千晶ちゃんが来てくれたんだもんね」
「オイオイ」
当初の2−Cの担任、早坂俊三《はやさかとしぞう》先生は糖尿病《とうにょうびょう》で療養中《りょうようちゅう》。重病ではないが、まだまだ療養が必要らしい。
俺と田代は、そんなことをしゃべりながら下校する。三年にはクラスが持ち上がり、おそらくクラブも同じな田代とは、あと一年、こうやって一緒《いっしょ》に帰るんだろうなぁ。
入学した頃《ころ》は考えもしなかった。女の子(というよりは、まるきりヤローのダチのようだが)と二人並んで下校するなんて。他愛《たわい》もないことをしゃべり合いながら、時々笑ったりしながら……。
そうなれたことを嬉《うれ》しく思う。たとえ相手がヤローのダチみたいな女の子でも、二年前の春には想像もできなかったことだ。あの頃、俺は何を思っていたんだろう? ただひたすら勉強して、就職することしか考えていなかった。伯父《おじ》さんの家を出られて嬉しいだけだった。友だちができればいいな、ぐらいは思ってたっけ?
今、条東商校内にただ一本ある桜の花が、蕾《つぼみ》をふっくらとほころばせようとしているように、俺もずいぶんふっくらとしたんじゃないだろうか。長谷やアパートのみんなや、学校のみんなのおかげで。
俺は確かに、両親を失った不幸な子どもだ。だがそれを恨《うら》みたくなかった。恨んでもどうにもならないし。だから必死に前ばっかり見て歩いてきた。
だが今は、前ばっかりじゃなく、まわりを見る余裕《よゆう》がある。前を向いて歩くのもいいけれど、もうちょっとゆっくり歩いてもいいんじゃないか? まわりを見ながら……と、教えてもらった。そうすると、俺のまわりには素晴《すば》らしい人たちがたくさんいた。失った両親の分も俺のことを思い、世話をしてくれる人たちが大勢いた。その人たちのおかげで、俺は勉強と就職だけの学生生活じゃなく、いろんなことを見て、考えて、楽しめてきた。普通《ふつう》なら人生がひっくり返りそうな出来事も、受け止めることができた。
「三年もきっと楽しいよね!」
至極《しごく》前向きに田代が言う。
「ああ、そうだな」
相槌《あいづち》を打つ俺の心も軽い。
町の桜が、そろそろ咲《さ》き始《はじ》めていた。
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[#挿絵(img/07_080.png)入る]
ここで終わり、ここから始まる
そして卒業式の前日。条東商|予餞会《よせんかい》の日がやってきた。
午前中は卒業式の練習が行われた。生徒会とその有志(俺をはじめとする主に2−Cの生徒)以外の一、二年生は、午後からの登校となる。
三年が式の練習をしている間も、有志は生徒会になんやかやと雑用をさせられていた(講堂の窓の目隠《めかく》しとかゴミ拾いとか。あと昼飯のパシリ)。
その時、俺は講堂横にバンが二台|停《と》まっていて、そこに見慣れない集団がいるのを見かけた。二十〜三十|歳《さい》ぐらいの男が五、六人。バンの中にも誰《だれ》かいるようだった。男たちの中に、飛びぬけて背の高い茶髪《ちゃぱつ》のロングヘアーの男がいた。
「……外人?」
その外国人らしき男の横にいたのは、千晶だった。男たちと親しげに話している。外国人らしきデカ男は、千晶の肩《かた》に手を回して特に親しそうだった。よく見ると、全員が胸に条東商発行の身分証を付けている。
「千晶の関係者……? ということは、今日の出し物に関係アリ?」
ただ、デカ男を含《ふく》む男たちは千晶の単なるダチって感じじゃなくて、なんというか……なんだか「業者」のような雰囲気《ふんいき》というか……「いつもはサラリーマンをしてますけど、今日は友だちの千晶くんを手伝いに来ました」って感じじゃなかった。妙《みょう》に玄人臭《くろうとくさ》い。
「そういやあ、千晶は前にミニライブをしたんだっけ。連中、音楽関係者かな?」
千晶って、いかにもそっち方面の業界と繋《つな》がっていそうな感じはする。今日はいったい何をする気なんだろう? この、どことなく業界人っぽい男たちといい、本当に正体不明な先生だぜ。
「ただいまより、第五十一期生を送る会を開きたいと思います!」
松岡新生徒会長の宣言により、予餞会《よせんかい》が始まった。その様子を、二期連続で生徒会長を務めてきた兄貴、神谷さんが会場から見守る。感慨《かんがい》深げだ。
一、二年生も入った満杯《まんぱい》の講堂に「キャー!」という悲鳴交じりの大歓声《だいかんせい》が轟《とどろ》く。テンションがあきらかに変だ。女子の期待のほどがうかがえる。神谷さんも一生徒に戻《もど》って、他《ほか》の女子とはしゃいでいるのが可愛《かわい》らしかった。
学校によってはプロの芸能人を招いてのライブとかが行われるようだが(ちなみに長谷の学校じゃ、毎年有名歌手が来るそうだ)、プロを招く予算は文化祭一回しかない我《わ》が校の予餞会《よせんかい》は、ブラスバンド部の演奏会から始まる。新生徒会と俺たち有志は、舞台《ぶたい》のセッティングやら音響《おんきょう》やら照明やら会場の見回りやらに走り回った。
舞台には大型スクリーンが下りてきて、今年|流行《はや》った歌謡曲《かようきょく》や、卒業にちなんだ曲が流れる中、三年生の一年間のスナップ写真が映し出された。春の遠足、球技大会、夏休みの補習、秋には体育祭、文化祭……。馴染《なじ》みの曲を聴《き》きながら、三年生たちは目をうるませたりキラキラさせたり、スクリーンを指さして友だちと話をしたり、今年一年を振《ふ》り返《かえ》っていた。
演奏と上映が終わると、温かい拍手《はくしゅ》が起こった。会場全体がほっこりと温まった感じだ。
ブラバンの次は演劇部による劇だが、今年は出し物に相当|悩《なや》んだらしい。なにせ予餞会には千晶が出ることは予想されていたから、
「演劇部の劇なんてどうでもいいから、さっさと千晶先生を出しやがれって言われるのは目に見えてるじゃない?」
と、演劇部の新部長は言う。ただでさえ新演劇部は三年生が抜《ぬ》けているため、一、二年生だけでがんばらねばならないんだ(それはどこも同じだが)。
そんな新演劇部の演目は、ズバリ「卒業」を扱《あつか》ったもの。演劇部員たちのオリジナル脚本《きゃくほん》だ。女子高の(演劇部には男子部員がいないし)卒業生たちのつぶやきを泣き笑いで見せるという内容だった。
高校三年間の、友だちやクラブへの思い。ちょっと勉強した思い出。とうとう彼氏《かれし》ができなかったとか、ずっと教師に片思いだったとか、彼氏とうまくいっている女子を他《ほか》の女子全員が罵《ののし》るとか、女子の多い条東商とひっかけている部分もあって、会場はけっこう受けていた。
そして、将来の夢と不安が語られる。地元で就職する者、遠くの大学へ行ってしまう者、否応《いやおう》なく変わらざるをえないことへの期待と恐《おそ》れ。「これきりになるかもしれない」友との別れ。三年生だけでなく、二年生にも一年生にもすぐにやってくる未来。会場は真摯《しんし》な静けさに包まれた。
その静けさは、劇の最後に校長役で三年担当の高山先生が登場して破られた。三年生がドッ!! と受ける。どうもこれは、演劇部のサプライズ演出だったらしい。高山は三年担当|教諭《きょうゆ》の中で一番人気のある教師だ。長身、甘《あま》いマスクの元花形フットボール選手(でも、簿記《ぼき》の先生)。セリフはなく、卒業証書を授与《じゅよ》するだけの役だったが、会場は大いに盛り上がった。
「やるなぁ、新演劇部」
俺は舞台袖《ぶたいそで》で感心して見ていた。
大きな拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》で、新演劇部の「三年を送る劇」が幕を閉じた。
「よかったぁ〜〜〜。なんとかなった!」
部員たちは皆《みな》、胸を撫《な》で下《お》ろしていた。新生徒会の面々も拍手を送る。
「面白《おもしろ》かったよ!」
「高山先生サイコー!」
会場が盛り上がったところで、その波に乗って舞台には空手部が登場。演武を披露《ひろう》した。
「三年生の方々に気合を注入したいと思います! オス!!」
十数名の部員による華麗《かれい》なる演武。さらに型が決まるごとに、部員の一人一人が「ご卒業おめでとうございます!」とか「厳しいご指導をありがとうございました!」とかメッセージを叫《さけ》んだ。
「合宿での夜は忘れません! 隠《かく》れてAV見てしまいました。先生、ごめんなさい!」
会場|大爆笑《だいばくしょう》。クラブは違《ちが》っても、同じような思い出は共通にある。
「さっさと出てってください〜〜〜!」
これも共通の思い。
「お元気で! これからも勉強もお仕事もがんばってください!」
声を揃《そろ》えて礼をする部員に、三年から惜《お》しみない拍手《はくしゅ》が送られた。
幕が下り、「ここで二十分|休憩《きゅうけい》します」のアナウンスが流れる。
「さて……と」
田代ら新生徒会の面々が、ピリッと緊張《きんちょう》した。いよいよ、トリの出し物だ。
そこへ、千晶がやってきた。
「千晶ちゃん!」
田代がホッとした表情で叫《さけ》んだ。
「おう。みんなよくやってるな」
千晶は、特に衣装《いしょう》らしきものは着ておらず、いつもと同じような格好だった。黒いニットの上着に、インナーは赤いTシャツ。ジーパン(といっても、これらはいずれもお高いモノらしいが)。
「千晶ちゃん、これから着替《きが》えるの?」
「イヤ。このままだよ」
「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜?」
田代がほっぺたをこれでもかと膨《ふく》らませた時、千晶の後ろから、あのプロ臭《くさ》い連中が現れた。
あきらかに違《ちが》う雰囲気《ふんいき》の集団の登場に、舞台《ぶたい》にいた生徒たちがギョッとする。さらに、あのデカイ外国人と、黒いレースのワンピースを着た、これも外国人っぽい美女が現れ、俺たちの目はますます点になった。
「ち、千晶ちゃん、この方々は……」
「俺のダチだ。手伝いに来てくれたんだ」
「ハァ〜イ♪」
デカ男が女生徒たちに愛想《あいそ》をふりまく。
「はぁ〜……」
さすがの田代も、千晶の「ダチ」には面食《めんく》らったようだ。
デカ男は茶髪《ちゃぱつ》のロングヘアーの外国人。二メートル近い長身で、黒いサングラスに、両耳にピアスをいくつもつけ、黒いスーツにイエローのシャツ。胸元にはネックレスを何重もかけている。とても堅気《かたぎ》の雰囲気じゃない。俺は思った。
「この感じは…………水商売……?」
バイトの得意先の一つに、わりと高級なクラブがあるんだけど、そこに出入りする連中と似た匂《にお》いがするような……。
一方、黒のワンピースの美女は、その正反対の雰囲気《ふんいき》がした。外国人風に見えるのは、混血か? 上品で清楚《せいそ》で、頭のよさそうな顔立ち。立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》いも服装も、華《はな》やかだが洗練されている。しかも手に持っているのは……バイオリンケース? こちらからは、間違《まちが》いなくセレブな匂いがした。
「千晶ちゃんって……友だちもオシャレ……」
田代の目はキラキラしていた。
「やってくれ」
千晶がそう言うと、デカ男と美女以外の男たちは、手に持った機材とともにサッと散った。スピーカーにマイク、パソコンなどをセッティングする者、ピアノを運んでくる者、その動きは機敏《きびん》で無駄《むだ》がなく、いかにも手馴《てな》れた感じがした。
「やっぱり音楽とか音響《おんきょう》のプロか?」
男たちと打ち合わせをする千晶も、いつもとまったく違う顔をしている。なんていうか……男たちと同じく「堅気《かたぎ》じゃない顔」と言ったらいいか? 少なくとも「高校教師」の顔はしていない。全然。田代たちも呆然《ぼうぜん》とするだけで、口をはさめないでいた。
「千晶先生、準備はよろしいでしょうか?」
休憩《きゅうけい》時間が終わって、進行役が訊《き》きに来た。
「ああ」
マイクを持った千晶を、デカ男が止めた。
「ちょっと待って、チアキ」
そう言うと、男は千晶の髪《かみ》をグシャグシャッとかき回した。
「あっ、何すンだよ!」
「ちょっとはシンガーモード[#「シンガーモード」に傍点]にしないとネ。サービスサービス♪」
「もぉー」
デカ男の前でぷくっと膨《ふく》れる様子に、なんだか「素《す》の千晶」を見た感じがして笑えてきた。そうそう、千晶って時々すごくガキっぽいんだよなぁ。
千晶の前髪はばっさりと垂れ、それをかき上げる仕草に女どもが一気に色めき立つ。ワンピースの美女が「アハハ」と笑った。デカ男が、田代に向かって親指を立ててウィンクした。田代が満面の笑《え》みで親指を立て返した。
「これより、生徒会|主催《しゅさい》による演目を上演いたします」
松岡生徒会長のアナウンスに、会場がザワ〜〜〜ッとどよめく。
「うわ〜、なんか変なテンションだな。今にもキレそうな感じだ」
会場に渦巻《うずま》く異様な雰囲気《ふんいき》に、舞台《ぶたい》の袖《そで》で俺は冷《ひ》や汗《あせ》がたれた。
「千晶センセが出ることは三年生には内緒《ないしょ》だけど、みんな知ってるもんね。あたしもドッキドキして、心臓が口から飛び出しそうだよ〜」
俺の傍《かたわ》らに、いつの間にか桜庭と垣内《かきうち》が来ていた。
「あれ、田代はどこだ?」
「あそこ」
観客席の真ん中の通路で、デジタルムービーをかまえている田代がいた。
「あいつ〜。あれでまた商売する気だな」
バシャッ! と、照明が落ちた。ワッ! と、歓声《かんせい》が上がる。口笛が飛《と》び交《か》った。
ゆるゆると幕が開くと、大型スクリーンにふわっと映像が浮《う》かんできた。それは、桜のような花びらが舞《ま》い散《ち》る美しい映像だった。
音楽が始まり、灯《とも》されたスポットライトの中に千晶が現れる。悲鳴のような歓声《かんせい》が起きた。……が、それは一瞬《いっしゅん》で静まる。
「うわ……綺麗《きれい》な声〜……!」
桜庭と垣内はぽかんと口を開けた。
音響《おんきょう》がケタ外れに違《ちが》うし、美しいオーケストラの音楽(カラオケだが)と、千晶の声に、全員が一瞬で呑《の》みこまれた。
それは、若き天才テナー、ジョシュ・グローバンの『今宵《こよい》、心はさまよって』だった。
「……オペラ?」
これには俺も仰天《ぎょうてん》した。『今宵、心はさまよって』は、お堅《かた》いいかにもクラシックという曲じゃなく華《はな》やかで美しい歌だけど、それでも曲調はまさしくオペラだ。それを、まさにオペラ歌手ばりに千晶は歌いこなす。とても、リッキー・マーティンやエルヴィス・コステロをエロくワイルドに歌っていた同じ人物とは思えない。会場は、その正統派の歌いっぷりに圧倒《あっとう》された。悲鳴を上げて盛り上がろうとしていた会場の女どもも、桜庭と同じく口をぽかっと開けて聴《き》き入《い》るばかりだった。
「あ、これってひょっとして、千晶の作戦?」
スクリーンには、イタリア語の歌詞の訳詞が映された。『今宵《こよい》、心はさまよって』は愛の歌だけど、「今はさまよい続けても、きっといつかは答えが出るはず」という詞は、千晶の歌声とともに卒業生の胸に迫《せま》るものがあるだろう。
衝撃《しょうげき》の一曲目が終わった。
「すっごーい……鳥肌《とりはだ》立っちゃった……」
桜庭は泣きそうな声で言った。会場も呆然《ぼうぜん》と拍手《はくしゅ》をするしかないといった感じだ。
「こんな歌も歌えるんだな。すげぇなぁ〜。ホント、すげぇ声だよな」
俺たちの後ろで、デカ男と美女がクスリと笑った。
「……いよいよ卒業だな、三年生諸君」
千晶が静かに語り始めた。
「ここへ来たばかりの俺は、お前たちのことは何も知らないに等しいけど、大人の入り口に立ったばかりの気持ちはよくわかる。これからの期待も不安も夢も、俺が高三の時ときっと同じだと思う。俺も期待もあったが不安だったし、悲しいことも苦しいこともあった。お前たちも苦しみや悲しみにぶつかるだろうが……悲しいことはちゃんと悲しんで、苦しいこともちゃんと苦しまなきゃダメだぞ。悲しんで苦しんだ分だけ、大人になれる。だけど、自分は独りだなんて思うなよ。助けてくれる人が必ずいる。必ずだ! よく探せ」
会場は物音ひとつしない静けさで、千晶の話に聞き入っていた。
まるで言霊《ことだま》のような、不思議な説得力が千晶の言葉にはある。その向こうに、生身の千晶が見《み》え隠《かく》れする。
「それからな、ネットや携帯《けいたい》もいいが、現実の出会いを大事にしろよ。俺は、高校から大学にかけての頃《ころ》に、人生でもっとも大切な人たちに出会った。その人たちと、かけがえのない時間を過ごした。俺の九割ぐらいは、その時に作られたようなもんだ。一緒《いっしょ》に飲んだり食べたりして、たくさん話せ。あちこちに遊びに行け。思い出をたくさん作るんだ。勉強や仕事をがんばるのは当然だが、若いんだから、寝《ね》る時間を削《けず》ってでも遊べ」
みんな笑った。千晶はそうしてきたんだろうなぁと、納得《なっとく》がいく。
「俺の、そういう宝石のような友だちのうちの二人を紹介《しょうかい》しよう。アーサー・スティングレーと、美那子《みなこ》・ヴィーナス」
ゲストの登場に、会場がさざめいた。千晶のプライベートの一部なわけだから、特に女どもは興味|津々《しんしん》といった感じだ。
デカ男アーサー・スティングレーと黒いワンピースの美女、美那子・ヴィーナスは、手を取り合って舞台《ぶたい》中央まで来ると、優雅《ゆうが》に一礼した。それから、スティングレーはピアノを、美那子・ヴィーナスはバイオリンを奏《かな》で始《はじ》めた。
「あ、これシークレット・ガーデンの曲だ! うわ、嬉《うれ》しい!」
と、垣内が言った。
クラシックとアイルランドの伝統音楽が融合《ゆうごう》した、インストゥルメンタル・ミュージックバンド、シークレット・ガーデン。幻想的《げんそうてき》で美しく、エキゾチックな温かみのある旋律《せんりつ》が特徴的《とくちょうてき》だ。
スティングレーと美那子・ヴィーナスが演奏するのは『Hymn To Hope』。呆気《あっけ》にとられて静まりかえった会場に、沁《し》み入《い》るような美しい曲だった。まるで鏡のような水面に雨の雫《しずく》が落ちて、波紋《はもん》がゆっくりと大きく広がるような感じだった。
すると、スクリーンに花びらの映像に代わって写真が浮《う》かんできた。体操服姿の女子ばっかりがVサインを出している。三年A組の、球技大会の時の集合写真だった。
『やっぱり女は女同士よネ。楽しかった。3−A担任|林涼子《はやしりょうこ》』
担任のメッセージが添《そ》えられていた。三年生がざわめいた。
次はB組の写真。春の遠足の時のものだった。
『元気で。とにかく元気で。3−B担任高山|美浪《みなみ》』
ワーッと、B組から歓声《かんせい》が上がる。
「千晶が、全部自分に任せろと言ったのは……こういうことか」
千晶は、修学旅行や体育祭の時に撮《と》られたクラスごとの集合写真を集め、担任からメッセージをもらい、それを編集してスクリーンに映せるように加工し、さらに楽器を演奏できるダチと音響《おんきょう》の専門家たちも呼んで……。俺は思わず唸《うな》ってしまった。
「この企画力《きかくりょく》とか実行力とか、後方|支援《しえん》部隊がいるとこなんかも……なんか、ずいぶんこなれてるなぁ。完成されてるというか……。何コレ? チーム・千晶=H」
「わ〜ん、三年生泣いてるよぉ」
ピアノとバイオリンの生演奏と、思い出の写真と担任からのメッセージとくりゃあ、感動せずにはいられないわなぁ。桜庭たちも思わずもらい泣きだ。
写真と担任からのメッセージ映像が最後のクラスまで行くと、曲調が変わった。
歌の二曲目が始まった。サッと千晶にピンスポが当たり、歌が始まる。ワァーッと、拍手《はくしゅ》と歓声が波立つ。曲は『You Raise Me Up』だった。これは、トリノ冬季オリンピックで、フィギュアスケートの荒川《あらかわ》選手が使ったことで有名になった歌だ。
「いい歌だよね、これ。感動的でさー」
一曲目同様、スクリーンには訳詞が映された。
[#ここから2字下げ]
あなたのおかげで私は強くなれた。
あなたのおかげで、私は私が思っている以上の私になれる。
[#ここで字下げ終わり]
担任からのメッセージを受け取った三年生の胸には、この詞はさらに迫《せま》るものがあるだろう。
「わ! デュエット!!」
歌の後半、千晶の声にスティングレーの声が重なった。
「う、うまい! これもハンパじゃない!!」
スティングレーも、とても素人《しろうと》とは思えない歌いっぷりだ。すごい重量感のある声をしている。
「ス、スゴ〜〜〜ッ!! 鳥肌《とりはだ》〜〜〜!!」
「セクシー!」
桜庭と垣内は抱《だ》き合《あ》って喜んだ。会場もド――ッと盛り上がる。
「アーサー・スティングレーと美那子・ヴィーナス!」
千晶に送られて舞台《ぶたい》を後にする二人に、怒濤《どとう》のような拍手《はくしゅ》が起きた。
「お疲《つか》れサマです!」
「素敵《すてき》でした!!」
桜庭らが顔を真っ赤にして迎《むか》えると、スティングレーが投げキッスで応《こた》えた。キャーッと飛び上がりたいところだろうが、千晶の三曲目の歌が始まった。平井堅《ひらいけん》の『思いがかさなるその前に…』だった。
[#ここから2字下げ]
ねぇ いつかキミは僕のことを忘れてしまうのかな
その時はキミに手を振《ふ》ってちゃんと笑ってられるかな
ねぇ いつかキミは君の夢を忘れてしまうのかな
その時は瞳逸《ひとみそ》らさずにキミと向き合えるのかな
ねぇ こんな僕はキミのために何ができるのかな
[#ここで字下げ終わり]
この歌の詞は、別れの不安と現実を詠《うた》う。もとは男女の歌なんだろうが、千晶はそこに、卒業生たちと、教師と親たちを重ねる。
千晶とスティングレーのセクシーなデュエットに浮《う》き上《あ》がりそうになっていた会場が、またシンと静まった。
今《いま》胸にある学生時代の思い出や夢を、いつか忘れてしまう時が来るかもしれないと、切なくなる。楽しかったことや悲しかったことや、先生や家族のことが胸をよぎる。
でも、つらいことがあっても、どれだけ時間がたっても、思い出はきっと変わらずあるし、そこに自分たちもいるから元気を出せと……大人からのメッセージが伝わってくる。
「千晶センセ、この選曲は反則だよ〜」
桜庭も垣内も泣いていた。会場も、特に女子はもう全員泣いてるんじゃないか?
歌が終わっても、会場はシンとしたままだった。すすり泣きが聞こえる。千晶がまた、静かに語った。
「現実の社会の中で生きていると、悩《なや》みもたくさん出てくる。思いどおりにいかないことも、夢をあきらめなきゃいけないことも起こる。そんな時、お前たちの一番の理解者は、やっぱり家族であり、友だちなんだ。お前たちが悩んでいる時、みんなも同じように悩み、苦しんでいると思えよ。お前たちを助けたいと思っていることを知ってくれ。まぁ、悩《なや》みも苦しみもなるべく少なくすんで、楽しく暮らせることを祈《いの》っているけどな」
千晶がそう言うと、最後の曲が始まった。
そのイントロを聴《き》くだけで、胸が高揚《こうよう》した。
「明日に架《か》ける橋……!」
サイモン&ガーファンクルの名曲中の名曲『明日に架ける橋』だった。会場がド――ッと沸《わ》いた。
一九七〇年に発表されたアルバム『明日に架ける橋』は、全世界で一〇〇〇万枚を超《こ》える大ヒットとなり、サイモン&ガーファンクルは数々の賞を受けた。
しかし、二人はこのアルバムを最後にグループを解散してしまう。ある意味、二人にとっても「別れ」と「旅立ち」の歌になってしまった。
苦難にある友に向かって「私が助けとなる」と励《はげ》まし、旅立ちを祝福する詩。そしてその旋律《せんりつ》は、それまでの二人の曲調よりもずっとドラマチックで感動的だといわれた。
みんなが知っているスタンダードな曲なだけに、会場の沸き方はすごかった。さらにそれは、後半またスティングレーとのデュエットになった時点で頂点に達する。
男二人の熱唱はド迫力《はくりょく》だった。生のパフォーマンスの持つ力を、あらためて思い知る。身体ごと揺《ゆ》さぶられている感じがした。
「わ〜〜〜ん!」
「スゴイ〜〜〜!!」
桜庭と垣内は泣きながら、お互《たが》いの鳥肌《とりはだ》が立った身体をさすり合っていた。その二人の肩《かた》を、美那子・ヴィーナスが抱《だ》いた。
「チアキが本気になったら、コーコーセーなんて太刀打《たちう》ちできないわヨ?」
くりっとした瞳《ひとみ》がいたずらっぽく笑う。桜庭たちは、目をパチクリさせた。
「でも、あたしも久しぶりにチアキの歌を聴《き》けて嬉《うれ》しい。この頃《ごろ》あなたたちばっかりにかかりきりなんだもん。妬《や》けちゃうワ」
「…………あンたら何者ですか?」
そう問う俺に、美那子・ヴィーナスは優雅《ゆうが》にウィンクした。
講堂を揺るがす歓声《かんせい》と口笛。鳴りやまぬ拍手《はくしゅ》。それは幕が下りてからも続いた。「これで予餞会《よせんかい》を終了《しゅうりょう》します」という松岡生徒会長のアナウンスが、かき消されそうになるほどだった。
「わーん、千晶センセ〜〜〜!」
いつもなら真っ先に千晶に抱《だ》きつく田代がいないので、ここぞとばかり、桜庭と垣内が突進《とっしん》した。
「鳥肌《とりはだ》立ちまくりましたー!」
「泣ける〜〜〜!」
「ハイハイ」
千晶は二人の背中をポンポンと叩《たた》いた。舞台《ぶたい》にいる連中も、みんな泣きながら千晶たちに拍手《はくしゅ》を送った。
「いや〜、高校生ってピュアーでいいなー♪」
「鼻の下を伸《の》ばすな、スティングレー。すぐに撤収《てっしゅう》しろよ」
「え〜、もうちょっといたいー」
「千晶ちゃ―――ん!!」
田代と松岡生徒会長がやってきた。
「三年生、ワンワン泣いてたよ〜〜〜! もー、スッゴイ感動した―――!!」
「素晴《すば》らしかったです、千晶先生。予餞会《よせんかい》を盛り上げてくださって、ありがとうございました」
「俺のせいで、お前たちが三年から恨《うら》まれたら気の毒だしな」
千晶は苦笑いした。そこへ、神谷の兄貴が現れた。
「神谷さん!」
舞台《ぶたい》にいる全員が背筋を伸《の》ばす。スティングレーが「ピュッ♪」と口笛を吹《ふ》いた。
神谷さんは、ちょっと赤くうるんだ目元をほころばせて言った。
「百点満点よ、みんな」
新生徒会の面々が、ワーッと歓声《かんせい》を上げた。田代もホッと息を吐《は》いた。
「千晶先生とお友だちの方々のおかげです」
そう松岡が告げると、神谷さんは千晶たちのもとへ来て深々と頭を下げた。
「今日は皆《みな》さんのおかげで、私たちの一生忘れられない思い出の日になりました。ありがとうございます」
それから神谷さんは、千晶の手をぐっと握《にぎ》って言った。
「千晶先生……ああ、本当に……これで卒業なんて…………悔《くや》しいですわ」
「イタイイタイイタイ。手に力こめすぎ、神谷」
予餞会《よせんかい》には百点満点に満足したが、千晶と別れる悔しさには変わりないらしい。にこやかな表情の兄貴のこめかみに、青筋が浮《う》いているのが恐《こわ》かったぜ。
機材を抱《かか》えた男たちが戻《もど》ってきた。
「撤収《てっしゅう》するぜ、チアキ」
「おう。ゴクローさん、サンキュウ」
「え、もう帰っちゃうの?」
田代はキョロキョロした。
「じゃネ、チアキ」
「後で行く」
「待ってるぞ」
スティングレーたちは、疾風《はやて》のように帰っていった。この鮮《あざ》やかな引き方が、ますます玄人臭《くろうとくさ》い。田代たちは、また呆然《ぼうぜん》と見送った。
「さあ、私たちも後片付けよ、みんな!」
松岡がパンパンと手を叩《たた》いた。俺は千晶の袖《そで》をひっぱり、囁《ささや》いた。
「あのスティングレーって人、すげぇ水臭《みずくさ》いんだけど? もしかしてクラブ歌手とかだったりして? 銀座あたりの?」
すると千晶は、指でピンと俺の鼻をはじいた。
「イテ!」
「詮索《せんさく》好きはモテねぇぞ、稲葉。秘《ひ》すれば花、だろ」
そう言いつつ、千晶は舞台《ぶたい》を下りた。
「あんたは秘めすぎだろ」
幕の向こうで待ち構えていた女子たちの悲鳴が聞こえた。
翌日。
条東商第五十一期生は、母校を巣立った。
終わりの春と始まりの春がまた来た。
俺にとって、春は特別に感慨《かんがい》深い。妖怪《ようかい》アパートに住み始めたのも春。妖怪アパートに戻《もど》ってきたのも春。「プチ」と出会ったのも春。
「そういえば……父さんと母さんが死んだのも、春だったなぁ」
条東商の桜も、ようやくほろほろと開き始めた。
「いいお式でありましたな、ご主人様」
学生服の胸ポケットから、同じく桜を見上げてフールが言った。
「うん……。まだ昨日の余韻《よいん》というか、熱気が会場に残ってたな。みんなの涙腺《るいせん》、ゆるいゆるい」
「千晶様たちの出すオーラは、大変なパワーがございました」
フールは腕《うで》を組んで、うんうんとうなずいた。
「やれやれ。大騒《おおさわ》ぎの一年だったぜ」
俺は、ぐぐっと伸《の》びをし、空を見上げた。桜の向こうに広がる青空は、おだやかに晴れわたっていた。その空に、一年後の未来をそっと祈《いの》る。
「何事もなく無事三年の一年間が終わって、希望どおりに就職できればいいなぁ」
「我ら一同も、心よりそうお祈り申しあげておりまする」
フールがいつものようにおおげさに言った。
その嘘《うそ》っぽいセリフのとおり、現実とは、なかなか思いどおりにいかないものなんだよな。
[#改ページ]
[#挿絵(img/07_105.png)入る]
こんにちは、赤ちゃん
春休みが始まった。
「秋音ちゃん、高校卒業おめでと―――! そして、新しい修行場《しゅぎょうば》へ、行ってらっしゃ〜〜〜い!!」
妖怪《ようかい》アパートでは、秋音ちゃんの「追い出し会」が開かれた。秋音ちゃんは、介護士《かいごし》の資格をとるため、四国にある介護|福祉《ふくし》学校へ進学する。なぜ四国かというと、四国はいわずと知れた霊場《れいじょう》であり、秋音ちゃんは、高校三年間|丁稚奉公《でっちぼうこう》していた月野木病院と繋《つな》がりのあるお寺に住みこみながら学校へ通うらしい。つまり、霊能力の修行と、介護士の勉強を兼《か》ねているというわけだ。
「学校は別にどこでもよかったんだけど、この際全然別のとこへ行ってみようかと思って。お寺から学校までが近いのも助かるしね。藤之《ふじゆき》先生が、ここがいいんじゃないって薦《すす》めてくれたの。そのお寺には、霊能者《れいのうしゃ》たちが書き記した文献《ぶんけん》がいっぱいあるんだって」
「へぇー」
「それ読むのがスッゴイ楽しみー。それに、妖怪《ようかい》とか幽霊《ゆうれい》に関する本も蔵《くら》いっぱいあるらしいのよ」
「秋音さんって、理論派スよね」
「実践《じっせん》も大事だけど、理論を知っているほうが、より実践を実感できるというか、理解が深まるわね。先に文献で知っておくと、それを実際に見た時に、む、これがそうか! って。少なくとも慌《あわ》てなくてすむというか。頭の中で経験値を積んでおくと、この場合はこれでいけるはずっていう、推理とか道筋を立てやすいのね」
「理論と実践の統合だな」
古本屋がうなずいた。
「……なるほど」
「昔の人が書いた妖怪の本とかも好きよ。どうでもいい妖怪の記述とか、ためにならない幽霊の知識とか。そういうのも必要よねー」
と言う秋音ちゃんに、今度は詩人がうなずいた。
「生活に必要なことだけじゃ、人間は成り立たないからネー」
「…………」
その言葉が、なぜか深く俺の胸にしみた。
「とにかく。二年後に、介護士《かいごし》の資格が取れたら帰ってきまーす!」
「お待ちしてまーす! カンパ―――イ!!」
「カンパ―――イ!!」
詩人の音頭《おんど》のもと、画家、佐藤さん、古本屋と、いつものアパートの大人どもが、秋音ちゃんの門出《かどで》を祝う。
「龍さんがいなくて残念だな、秋音ちゃん」
と言う古本屋に、秋音ちゃんは笑顔《えがお》で答えた。
「おみやげを持って向こうのお寺に行くよって、約束してくれたわ」
そう言う秋音ちゃんは、ただの龍さんファンの顔をしていた。
秋音ちゃんにとって、アパートでの最後の晩餐《ばんさん》。るり子さんは腕《うで》によりをかけた。
メインディッシュは、ボリューム満点の牛肉と淡路《あわじ》産タマネギのソテー。特製ポン酢《ず》ダレで、ごついのにさっぱりと食べられる牛のステーキと、それに添《そ》えられた、甘《あま》みがたっぷりで食感がシャキシャキの淡路産タマネギがたまらない。
「ゴージャス!」
「もー、ガッツリいただきマスって感じよね! タマネギおいし〜〜〜い!! いくらでも食べられる〜♪」
秋音ちゃんは、ステーキをホイホイと口へ放《ほう》りこみ、薄切《うすぎ》りのタマネギをわっさわっさと食べ、白飯をガツガツとかきこむ。この豪快極《ごうかいきわ》まる食いっぷりもしばらく見納めだ。るり子さんもさぞ淋《さび》しく感じるだろう。
サイドメニューは、筍《たけのこ》と海老《えび》のつくね揚《あ》げと刺身《さしみ》。叩《たた》いてつぶした海老つくねで筍をちまきのように包み、おかきで揚げる。サヨリと平貝の刺身には、空豆を添えて。汁物《しるもの》は、アサリの潮汁《うしおじる》。
「海老がぷりぷりだネー。塩で食べるとこが、まさに料亭《りょうてい》の味って感じー」
「刺身サイコー」
「日本酒に合うわ〜」
酒飲みには、一口大《ひとくちだい》のまぐろとアボカドに、味付けなめたけをからませたサラダ。赤と緑がとても綺麗《きれい》だ。タタミイワシの上にとろけるチーズをのせて、オーブントースターで焼いたもの。ちょっと焦《こ》げたところがうまい!
「こりゃ、オツな味だな。たまらんなぁ」
「ビールに合うわ〜」
さらに、マテ貝の甘辛《あまから》しょうゆ焼きと、ハマグリの塩焼きの香《こう》ばしい香《かお》りが食堂にたちこめる。
「焼酎《しょうちゅう》に合うわ〜〜〜!」
楽しくおいしく飲めりゃなんでもいい大人どもは、酒をとっかえひっかえ盛り上がる。
小鉢《こばち》には、カツオと蕗《ふき》の煮物《にもの》。春らしい。
「この煮物の優《やさ》しい味……!」
秋音ちゃんは、「ん〜〜〜っ」と唸《うな》った。
「るり子さんのご飯を二年も食べられないことが一番ツライわ〜。それも修行《しゅぎょう》のうちって、言われちゃった」
「ハハハハハ!」
「あ、夕士くん。ねぇ、予餞会《よせんかい》の千晶先生のミニコンサートのことだけど、田代ちゃんはそれDVDに撮《と》ってるの?」
「はぁ……。撮ったって言ってたっス。あと写真とかも」
秋音ちゃんは俺にズイッと迫《せま》って言った。
「それ! 譲《ゆず》ってもらってね! お金|払《はら》うから!!」
「秋音さん…………」
秋音ちゃんは、意外とミーハーだった。
「やっぱり千晶センセって、先生になる前は音楽業界にいたのかねぇ」
「ん〜、そんな感じがするようなそうでもないような……。その業界と繋《つな》がってるのは確かみたいスけど。スティングレーも美那子・ヴィーナスも、フツーの人じゃないような感じはするんスけど……やっぱりよくわからんス」
「音楽業界にいたとしたら、どんな転身だよ」
「興味深いネ」
「あ〜あ、鷹ノ台にも千晶先生みたいな先生がいたらな〜。もっと楽しかったのに」
「贅沢《ぜいたく》言ってらぁ。鷹ノ台は、このへんの高校の中でも一番ユニークだって言われてんだぜ?」
「確かに、個性的な先生は多かったわ。それが伝統みたいだし」
「それは俺も聞いたっス。自由な校風、個性的な教師。世界的に有名な大冒険家《だいぼうけんか》とか映画|監督《かんとく》とかが、卒業生から出てるんしょ」
「霊峰寺家《れいほうじけ》の人も、ここを出てるの」
「おお、あの呪術界《じゅじゅつかい》の名門」
「そうそう、霊能力者といえば! 夕士くんのトレーナーの後任だけど」
「えっ?」
俺は箸《はし》を止めた。
「それ、考えてくれてたんスか?」
「当然じゃない。あたしが言い始めたことだもん。ほったらかしで行かないわよ」
と、秋音ちゃんは笑った。
「やっぱり、夕士クンにはまだトレーナーが必要なわけ?」
詩人の問いに、秋音ちゃんはうなずいた。
「トレーナーっていうより、見張り役ね。夕士くんは修行《しゅぎょう》を積んだ霊能力者じゃないから、トランス状態の間にもし何か起こった時、対処できない可能性があるの。そんなことはないとは思うんだけど、念のためにね。アパート内は結界で一応守られているから、悪いモノに襲《おそ》われる心配はまずないけど、それも百パーセントじゃないし。悪いモノじゃなくても、トランス状態をヘタに邪魔《じゃま》されるとよくない場合があるし、夕士くんの心の中で何か起こるかもしれないし……」
「ふぅ〜ん」
「そういうのをプチが防げる……とまでは、まだいかないみたいだしね」
「あ、やっぱり!!」
俺は頭をかいた。
「警告ぐらいはできるだろうけど、それも万全《ばんぜん》じゃないって感じ」
「何をおっしゃいます、秋音様!」
テーブルの中央に、フールが現れた。
「我ら一同、もしご主人様の御身《おんみ》に危険が迫《せま》ったれば、全力でこれを排除《はいじょ》いたしまする! そのための僕《しもべ》でございます!」
「ハイハイ」
俺はフールをキュッとつかんで、ポケットにしまった。
「藤之先生が、あたしの後任を派遣《はけん》してくれるそうよ」
秋音ちゃんは笑いながら言った。
「それはどんな人? モノ?」
「それはお楽しみ♪」
秋音ちゃんの笑顔《えがお》に、俺はしみじみとした。アパートでは一番年が近く、姉貴分として先輩《せんぱい》として、一番世話になったんじゃないだろうか? 超常《ちょうじょう》現象にはド素人《しろうと》の俺に、軽く「じゃあ、修行《しゅぎょう》しようか」と言い、容赦《ようしゃ》なくシゴき、でもそのセオリーを感じさせる説明で、俺を安心させ導いてきてくれた。
「あっ、そうだ!」
るり子さんの激うま飯のせいで忘れるとこだった。
「お世話になりました、秋音先輩っ!!」
俺はプレゼントを差し出した。
「あたしに? わ〜、嬉《うれ》しい!」
秋音ちゃんは包装紙を解いた。
「わ、レターセットだ!」
一同|大爆笑《だいばくしょう》。まあ、俺だって「今時《いまどき》」と思うよ。
「夕士クンらしいネ〜!」
「携帯《けいたい》持ってねーもんなあ。手紙書いてこいってか」
「いや、おいらちょっと感動しちゃったよ」
「でも、これ綺麗《きれい》〜」
爽《さわ》やかな青地に、ピンク、緑、黄色、赤の色を重ねたデザインは、小川のほとりの移り変わる四季を表しているらしい。
「秋音さん、字が綺麗だから」
「え、そう? エヘヘ」
「それからこっちは、今日来られなかった長谷から」
「長谷くんからも? いいのに。でも嬉《うれ》しい♪」
「さすが長谷クン。ソツがないネー」
長谷は、例によって家族旅行の添乗員《てんじょういん》をさせられている。今ごろはイタリアの空の下だ。
長谷が選んだのは、布製の小物入れ巾着《きんちゃく》タイプ。小さな子どもと犬がデザインされている。
「これって……」
「そう。長谷も一目見て、あ、クリとシロだって思ったって」
「可愛《かわい》い」
「おー、似てる似てる」
当のクリとシロは居間で寝《ね》ているが。
「ありがとう、夕士くん。長谷くんにもよろしく伝えてね」
「ウス」
その時、玄関《げんかん》で声がした。
「ごめんくださいまし」
「あ、来た! はぁーい!」
秋音ちゃんが席を立つ。
「え、誰《だれ》が?」
「え、ひょっとして後任?」
みんな興味|津々《しんしん》で食堂の入り口を見る。そこに秋音ちゃんとともに現れたのは、小さな女の子だった。小学校二、三年生ぐらい? 秋音ちゃんの腰《こし》のあたりぐらいの背丈《せたけ》で、髪《かみ》はおかっぱ。赤い帯を蝶々結《ちょうちょうむす》びにした紺縞《こんじま》の着物からは、極細《ごくぼそ》の手足が出ている。そしてその顔は……。
「猫《ねこ》だ……」
細い細い目と、鼻から口にかけてはまさに猫そのもの。そしてほっぺには短いヒゲがある。思わず喉《のど》を撫《な》でたくなるような顔!
詩人がブハッと吹《ふ》き出《だ》した。
「猫娘《ねこむすめ》!」
「なぁんだ、桔梗《ききょう》さんか」
と言ったのは、佐藤さん。
「なんだとはご挨拶《あいさつ》」
「桔梗」と呼ばれたその猫娘は、やけに落ち着いた声をしていた。佐藤さんとは、つまり「物《もの》の怪《け》同士」なわけだ。やっぱり「化け猫」なのか?
「あ、佐藤さんは知ってたんだ。こちら、桔梗さんでーす」
「明日からお邪魔《じゃま》するよ」
桔梗さんは、口許《くちもと》をプクッと膨《ふく》らませた。俺は立って、お辞儀《じぎ》をした。おそらく俺が一番世話になるんだろうからな。
「稲葉夕士っス。よろしくお願いしまっス!」
桔梗さんは、うんうんとうなずきながら俺と握手《あくしゅ》した。なんとも可愛《かわい》らしい手だった。
「私めは、フールと申します。夕士様の僕《しもべ》『小《プチ》ヒエロゾイコン』の案内人を務めておりますれば、桔梗様におかれましては、なにとぞよろしくお見知りおきのほど、伏《ふ》して……」
「ハイハイ」
俺の肩《かた》に現れたフールを、俺はまたキュッとつかんでポケットにしまった。
「ずいぶん小《ち》っこいのが来たなあ」
画家がそう言ったのに対し、佐藤さんが笑いながら言った。
「でもこのヒト、猫娘《ねこむすめ》じゃないよ。猫バァだよ」
「えっ、そうなんスかっ?」
俺はびっくりした。だってホントに、転がしたいくらい可愛《かわい》いのに。バァさんって。
「アハハハハ、いいね!」
「酒はイケるか、猫バァ。一|杯《ぱい》やんねぇか」
「歓迎会《かんげいかい》、歓迎会〜」
桔梗さんと秋音ちゃんは顔を見合わせた。
「馴《な》れ馴《な》れしい人間どもだネ」
桔梗さんの言葉に、秋音ちゃんはすごく嬉《うれ》しそうに目を細めた。
「さぁ、どうぞ。お嬢《じょう》さん」
古本屋が、桔梗さんを抱《だ》っこして椅子《いす》へ座《すわ》らせる。どこからどう見ても小学生の女の子の桔梗さんが、コップ酒をぐいぐい飲み干す様子は奇妙《きみょう》だった。
「イヨ―――ッ、いい飲みっぷり!」
新しい呑《の》み助《すけ》が加わったことを、不良大人どもはことのほか喜んだ。初対面だろうが、人間でなかろうがお構いなし。うまい酒とうまい飯で盛り上がれれば他《ほか》に言うことはない。実に「妖怪《ようかい》アパート」らしいよな。
その夜、俺や秋音ちゃんが部屋に帰った後も、食堂は遅《おそ》くまで新人|歓迎会《かんげいかい》で盛り上がっていた。桔梗さんは、すっかりみんなの中に溶《と》けこんでいた。
翌朝。俺の朝の修行《しゅぎょう》をきっちりとすませて、秋音ちゃんは妖怪アパートを後にした。
「お帰りを一日千秋《いちじつせんしゅう》とお待ちしておりますぞ、秋音様!」
フールが俺の肩《かた》の上で手を振《ふ》った。秋音ちゃんも元気に手を振り返した。その姿を、俺は見えなくなるまで見送っていた。
月野木病院に勤めながら、人間と妖《あや》かし両方のために働きたいと、秋音ちゃんは言った。だから介護士《かいごし》の資格を取るんだと。
生まれた時から霊能力《れいのうりょく》が高く、人間以外の世界とごく普通《ふつう》に接してきた秋音ちゃん。その才能や環境《かんきょう》を活《い》かした仕事に就《つ》くことを目指してきた。
「龍さんみたいな、フリーの霊能力者を夢見たこともあったのよ」
と、職業の特殊《とくしゅ》さはさておいて、そのへんの女の子と変わらない夢見る少女だったこともあった。その道を模索《もさく》したこともあったという。
月野木病院での丁稚奉公《でっちぼうこう》が、彼女《かのじょ》の意識を変えた。
「月野木病院で働いて……ずっと、人にも物《もの》の怪《け》にも接していたいなぁ〜と思ったの。それまでは、ひたすら霊能力を高めて、それで悪霊《あくりょう》に取《と》り憑《つ》かれている人とかを助けたいって思ってたんだけど、それだけじゃないんだな〜。なんかもっとこう……もっと、人にも物の怪にも直《じか》に接するような……生身で付き合うような……そんな感じ」
そう言った秋音ちゃんは、逞《たくま》しく、美しく、優《やさ》しい女性の顔をしていた。初めて会った時にもそんな印象を持ったけど、その時よりもずっと成長した、ずっと深みのある表情だった。
「変わらないもの……変わっていくもの……」
二年後、秋音ちゃんが帰ってくる頃《ころ》には、俺は桔梗さんの手も借りず、一人で瞑想《めいそう》していても大丈夫《だいじょうぶ》になっているだろうか。そうなりたいと思う。
春のやわらかい陽射《ひざ》しが、妖怪《ようかい》アパートの前庭に降りそそいでいた。ふわふわと、綿毛のようなモノが漂《ただよ》っている。その白い毛一本一本が、春の光を受けて銀色に煌《きら》めいていた。
さて。春休みである。
といっても、俺は朝の修行《しゅぎょう》のあとは、るり子さんの弁当を持ってバイトに出かけ、夜八時|頃《ごろ》に帰ってくるという毎日だ。バイトの休みは一日だけ。
十日後ぐらいに長谷が旅行から帰ってくる。今回は三日ぐらいしかアパートに泊《と》まれないとか言ってたなぁ(三日も泊まりゃ、充分《じゅうぶん》だろ!)。でもまた二人で、バイクで遠乗りをする予定になっている。
「なんか、穴場を見つけたとか言ってたなぁ。るり子さんにスペシャル弁当作ってもらおーかな〜♪」
なんて、バイトしながら俺は、呑気《のんき》にアレコレ考えていた。
秋音ちゃんが行ってしまったその夜、俺がバイトから帰ってくると、玄関《げんかん》で出迎《でむか》えてくれる華子《はなこ》さんの向こうに、クリと手を繋《つな》いだ桔梗さんがいた。クリより少し背の高い桔梗さん。お互《たが》いの小さな小さな細い手を繋《つな》ぎ合《あ》った二人は幼い姉弟《きょうだい》のようで、思わず吹《ふ》き出《だ》してしまうほど可愛《かわい》らしかった。
「おかえり。何を笑ってンだい」
「いや……。とても猫《ねこ》バァには見えないっス、桔梗さん」
桔梗さんは、ふふんと鼻を鳴らした。
「裏明神様《うらみょうじんさま》に比べりゃ、儂《わし》なんてまだ小娘《こむすめ》サ」
「イラズの裏明神様! 知ってる。確か、千|歳《さい》のネコマタとか。熊殺《くまごろ》しって精力剤《せいりょくざい》飲んでるとか」
桔梗さんは、カハハと笑った。
食堂には、詩人と画家とまり子さんがいた。
「おかえり〜」
「お先〜」
「ウス」
桔梗さんが、秋音ちゃんがよくそうしてくれたように、俺に飯を運んできてくれた。
「春野菜の天ぷらと、湯葉のウニあんかけ、カツオのたたき風サラダ。ご飯は桜海老《さくらえび》と空豆の炊《た》きこみだよ」
「ありがとうございまっス! うわ、炊きこみご飯、綺麗《きれい》だー」
「春らしいよねー。桜海老《さくらえび》の桜色と空豆の緑色!」
まり子さんは、もうできあがっている感じだった。うるんだ目元が色っぽい。
「カツオも季節だよネー」
「そろそろカツオの刺身《さしみ》が食いてぇなぁ」
と、画家が言うと、厨房《ちゅうぼう》でるり子さんが細い指で「OK」マークを出した。
「う〜、楽しみだ。刺身もうまいけど、あの茶漬《ちゃづ》けがまた……」
激うま飯を食いながら、激うま飯のことを考える至福。そんな俺の横で、桔梗さんはクリに湯葉を食べさせていた。その様子がまた微笑《ほほえ》ましくて! みんなの顔も思わずゆるむ。
「うふふ♪ 桔梗さん、小《ち》っちゃいのにお母さんみたい」
「寿荘に行くならこの子のことをよろしく頼《たの》むと、茜殿《あかねどの》から頭を下げられたヨ。可愛《かわい》いンだろうねぇ。ホントは自分の手元に置きたいだろうに」
どちらも幼い姿なのでままごとのように見えるが、やっぱり桔梗さんには「年をへた」オーラというか、風格のようなものがあった。クリの口へ食べ物を運び、口許《くちもと》を拭《ふ》いてやる姿は、俺や長谷がするそれとまったく違《ちが》う雰囲気《ふんいき》がする。こういうのを「堂に入《い》った」というんだろう。
俺はほんわかとした気分で見ていたんだが、同じようにじっと二人を見ていたまり子さんの瞳《ひとみ》から、急にぽろりと大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》が零《こぼ》れた。まり子さんは、ハッとして涙を拭《ふ》き、苦笑いした。
「あらヤダ、あたしったら酔《よ》っぱらってる?」
酔っぱらっていたとしても、涙が零れるちゃんとした[#「ちゃんとした」に傍点]理由というのがまり子さんにはあるんだろうか? 俺は、ちょっとドキッとした。
翌朝。滝場《たきば》に行くと、岩の上にちょんと桔梗さんが座《すわ》っていた。
「ウハヨーッス! よろしくお願いしゃッス!」
「おはよう。ちゃんと来たね」
「は。もう習慣スから」
だけど、もう隣《となり》に秋音ちゃんはいない。俺は滝に打たれながら、少し感慨《かんがい》深かった。修行《しゅぎょう》を始めたのが一年前の春休みだったんだ。
「こうやって、一年、また一年と、時間は過ぎていくんだなぁ」
いつもと変わらず、俺は「神呪《しんじゅ》」を唱えている。でも、それはもう昨日までとまったく同じじゃない。こうして、変わるものと変わらないものが螺旋《らせん》にからみ合いながら、物事は未来へ続いていくんだ。
俺の、またちょっと「新しい」春が、こうして始まった。
俺は桔梗さんに見守られて朝行をし、バイトに通い、アパートで大人たちと夕飯を食い、話をし、秋音ちゃんがさっそく送ってきてくれた手紙を披露《ひろう》したりした。
そんな春休みが一週間も過ぎた時だった。
二時間の朝行がすんで、温泉で温まって、朝飯を食って、部屋へ戻《もど》ってきた。
すると、さっきまでいなかったクリとシロが、俺の布団《ふとん》の上にちょんとのっていた。
「お、今からここで寝《ね》るのか?」
別に、クリが俺の部屋にいてもおかしくない。クリはあちこちにいたりいなかったり、俺の部屋で寝たり寝なかったり、ずっと傍《そば》にいたり、二、三日姿が見えなかったりする。
「さてと。俺もちょっと横になって音楽なぞ……」
と、クリと並んで布団《ふとん》に座《すわ》った時だった。布団の中に、青い丸いものがあるのが見えた。
「ん? なんだ、コレ?」
取り出してみると、ちょっといびつな楕円形《だえんけい》だが美しい青い色をした石のようなものだった。
「…………あれ? これって確か……」
まり子さんの顔が思《おも》い浮《う》かんだ。
「そうだよ。まり子さんが預かったとか言ってなかったっけ? 何かの……卵って」
卵とクリの顔を交互《こうご》に見る俺の額に汗《あせ》が出てきた。
「何? え? これ、お前が持ってきたのか、クリ? それってヤバイんじゃねぇ? なんで持ってきたんだよ。返さなきゃ。割ったりしたら大変……」
ピシッ! ――と、俺の手の中の卵が不吉《ふきつ》な音をたてた。
「ひゃっ!!」
俺は思わず卵を布団の上へ置いた。卵には大きな亀裂《きれつ》が縦に走り、ピシピシとなおも音をたててヒビを広げていた。
「え? 何? 何?」
「おやおや。孵化《ふか》するようですな」
机の上の「プチ」の上に、フールが現れて言った。
「は? 孵化《ふか》? な、なんで?」
「卵ですから、ご主人様。時がくれば孵化いたします」
フールはおおげさに肩《かた》をすくめた。
「そ、そういうことを言ってんじゃなくてだな。なんでここで孵化するんだっての!」
俺は、ハッとした。映画『エラゴン』の一シーンが思《おも》い浮《う》かんだ。
「……『エラゴン』。これって『エラゴン』?」
竜《りゅう》に選ばれたドラゴンライダーのもとで竜の卵は孵化し、ドラゴンライダーはその竜を使役《しえき》することができる。
「あれ? ひょっとして、俺ってまた選ばれた[#「選ばれた」に傍点]のか」
嬉《うれ》しいような大変なような、真っ白な頭の隅《すみ》っこで竜に乗ってる自分がいたり、どうすんだよ竜なんかとか思ったり、俺の思考は一瞬《いっしゅん》パンクしそうになった……が。
パリンと、卵が割れた。
中にいたモノが、俺を見上げていた。
可愛《かわい》いつぶらな瞳《ひとみ》と目が合った。
「…………なんだ、コリャ?」
それは、一言でいえば「三十センチくらいの、肌色《はだいろ》のおたまじゃくし」だった。毛もなく、つるつる。でも、おたまじゃくしのようなのに、細〜い小さな人間の手が一本だけ生えていた。
「おお、妖魔《ようま》といえど。やはり赤《あか》ン坊《ぼう》というものは可愛《かわい》らしいものですな」
「可愛いかああぁぁあ?」
俺は、フールに思いっきり言い返した。確かに、柴犬《しばいぬ》のような真っ黒でつぶらな瞳《ひとみ》は可愛く、小さな小さな口も可愛いのに……。
「き……気色悪い……」
アンバランスだ。アンバランスすぎる! なんでおたまじゃくしに、人間の手が生えてるんだ! それも、なんで一本なんだ!
「フ、フール。これって……ドラゴンの子ども……だったりする?」
フールは「は?」という顔をした。
「ドラゴンは、生まれた瞬間《しゅんかん》からドラゴンの姿をしております」
「じゃ、何コレ?」
「さあて。変態する妖魔も多ございますゆえ、わかりかねますな。どうもあきらかに幼生体のようですし……。化《ば》け蛙《がえる》では?」
「そのまンまじゃねぇか」
肌色《はだいろ》おたまじゃくしは、細い手を伸《の》ばしてきて俺の服をつかんだ。
「うわっ」
俺は、思わず振《ふ》り払《はら》いそうになった。伸び縮みするんだ、この手は!
肌色おたまは、俺の服をしっかりつかむと、俺の身体にぴったりと寄《よ》り添《そ》った。
それを見て、フールが言った。
「刷りこみ♀ョ了《かんりょう》ですな」
え……??
「あああああ、しまったぁああ〜〜〜!!」
[#改ページ]
[#挿絵(img/07_129.png)入る]
コブ付きです
「まり子さん、まり子さん〜〜〜!!」
まり子さんは、居間で詩人と桔梗さんと一緒《いっしょ》にお茶を飲んでいた。
「どうしたの、夕士クン? そんなに慌《あわ》てて……」
「これっ……、これ!!」
俺は、肌色《はだいろ》おたまを指さした。
「アハハハハ、何つけてンの? 最新のアクセ?」
胸の真ん中にぶらさがったモノを見て、詩人が大笑いした。
まり子さんは、呆然《ぼうぜん》とした。
「……生まれたの?」
「あ、いつぞやの卵!」
「そーなんスよ! 俺の部屋に卵があって……どうもクリが持ち出したみたいなんス! で、返そうとか言ってたら急に割れ始めて、びっくりしてる間にコイツと目が合っちゃって」
「刷りこみかぁ。まるで『エラゴン』のドラゴンライダーみたいだね、夕士クン♪」
「全然|違《ちが》いマスから! 全然ドラゴンじゃないっスから! コレ!!」
「ヒナは可愛《かわい》いねぇ」
「可愛いっスかぁああ?」
食後の茶を飲みながら、詩人と化《ば》け猫《ねこ》はたいそう呑気《のんき》だった。
「まり子さん、コイツ離《はな》そうとしても離れないんス」
俺は肌色《はだいろ》おたまをつかんでひっぱってみた。だが腕《うで》が伸《の》びるだけで、手は俺の服をつかんだまま放さないのだ。
「アハハハハハ、面白《おもしろ》〜〜〜い!!」
詩人がまた大笑いした。
まり子さんは、小さくため息をついた。
「離れないわよ。だって、もう夕士クンがお母さんだもん」
「はぁ〜〜〜?」
「多分、一週間ぐらいは離《はな》れないと思う」
「一週間?」
ギリギリ学校が始まる頃《ころ》……いやいや、その前に。
「まり子さん、俺、コレ付けてバイトに行けないっス!」
「アクセだって言っちゃえば?」
詩人が笑い転げながら言った。
「そこ! 笑いすぎ!!」
「身体にくっつけちゃえばいいのよ」
「は?」
まり子さんは、妙《みょう》に無表情に言った。
「おなかのへんにピッタリくっつけるの。この子はそのまま、そこで落ち着くから。そうやって母親の身体にくっついて行動するモノだからね」
「あ……そうなんスか?」
そうなんスかじゃねぇだろ、俺? それで納得《なっとく》していいのか、俺?
まり子さんは、肌色《はだいろ》おたまをつかみ、俺のシャツをめくって腹のあたりにくっつけた。すると、おたまはすぐに手を服から放し、腹のへんをごそごそ動いていたが、やがて落ち着いた。まるでコバンザメだな。
「ほらね」
まり子さんは、小さく微笑《ほほえ》んだ。その表情がいつもと違《ちが》った。
「手を放したんだから、コイツ引き取ってくださいよ、まり子さん」
「それはダメ。母親から急に離《はな》すと、すごいストレスを感じて、それだけで死んじゃうことだってあるから」
「俺、母親じゃないっスから〜〜〜」
「イヤ、ますますお母さんだねぇ、夕士クン!」
詩人がさらに笑い転げる。
「さすが、クリのママだけあるよ!」
「ママじゃないっスから!!」
「パパの反応が楽しみ〜〜〜!!」
「パパじゃな……ああぁ〜〜〜、もう!」
抱腹絶倒《ほうふくぜっとう》する詩人にツッコむ気力も失《う》せた。
長谷が帰ってくるまで、あと三日。腹に赤《あか》ン坊《ぼう》をくっつけて、クリの手を引いて? ……どんなツラで会えばいいんだ。
「そりゃもちろん、ママの顔で会えばいいのサー。おかえり、アンタ。アンタが行ってる間にもう一人生まれたヨって! ぶわっはっはっは!!」
「ホンット、かんべんしてください、一色さん! ホンット、マジで!!」
「この子にゃ、何を食べさせればいいんだい?」
俺のことなんぞ我関せずに冷静なのは桔梗さん。
「夕士クンの身体にくっついてる間は、夕士クンの精気を吸ってるから。だから夕士クン、いつもよりいっぱいご飯食べてね」
「はあ〜〜〜?」
「あとは、クリたんがなめてるような飴《あめ》とか、イモリとか芭蕉《ばしょう》をつぶしたもの」
「ふんふん。霊気《れいき》の高いものだね」
「バイトに行っていいわよ、夕士クン。るり子さんに、お弁当の量を増やしてもらうように言ってくるね」
と、まり子さんは居間を出ていった。
「薬屋を呼ぼうかね」
と、桔梗さんも出ていった。
居間には、笑い転げ続けている詩人と俺が残された。俺は、ちょっと呆然《ぼうぜん》としていた。はっと気づくと傍《そば》にクリとシロが来ていて、クリは俺のシャツをめくって、肌色《はだいろ》おたまを珍《めずら》しそうに見ていた。
「クリたん、弟ができて嬉《うれ》ちぃでちゅねー」
笑いすぎて涙《なみだ》を流している詩人が、なおも笑いながらぬかした。
「かんべんスよ、一色さん。もうホント!」
「名前つけなきゃー。やっぱりおたまじゃくしのタマかなー。タマたん。可愛《かわい》い〜」
「勝手に話を進めないでくれまスか? なんか俺、頭クラクラしてきた。え? 貧血《ひんけつ》? ショックで?」
「マタニティーブルーじゃないの?」
「妊娠《にんしん》してませんから!!」
俺と詩人の言い合いをよそに、タマをしげしげと見ていたクリが、持っていた飴《あめ》をタマにそっと近づけた。すると、タマはそれをむぐむぐとなめ始めた。詩人のラクガキのような顔が輝《かがや》いた。
「なんて可愛《かわい》い兄弟愛〜〜〜! アタシ感動しちゃったよー、ママー!」
「付き合ってらンねー。バイト行ってきまス!」
その日のバイトは、過去最大級に疲《つか》れた。いくら妖《あや》かしでも「赤《あか》ン坊《ぼう》を抱《だ》いている」かと思うと、荷物を持つのにも神経を使ったし、腹をかばいかばい動いていると腰《こし》が痛くなった。それに、時々頭がフラッとするのは、まり子さんが言うように、タマに精気を吸われているからだろう。
「お、今日の弁当はまた一段と豪勢《ごうせい》だな、夕士! なんかのお祝いか?」
正社員のおっさんらに冷やかされた。俺は顔が引きつった。
豚肉《ぶたにく》と筍《たけのこ》の味噌炒《みそいた》めレタス巻き(このまま手づかみで食べられる)、海苔巻《のりま》きチキン、しめじと舞茸《まいたけ》のひろうす、枝豆と蓮根《れんこん》の摺《す》り寄《よ》せ(食感サクサク)、チーズとキュウリの入った一口《ひとくち》ちくわ、プリン型一口|卵豆腐《たまごどうふ》、おからのサラダ。そして、いつもより大きめのにぎり飯が五つに、デザートは、綺麗《きれい》な関東風|桜餅《さくらもち》だった(もちろんるり子さんの手作り)。俺も「いつもよりずっと多いな」と思ったが、がつがつ平らげてしまった。
トイレに入って服をめくってみると、タマは俺の腹にピッタリとくっついたまま、すぅすぅと眠《ねむ》っていた。
「いやはや。貪欲《どんよく》に食べ、無邪気《むじゃき》に眠る。可愛《かわい》らしいものですなぁ」
俺の肩《かた》にとまって、フールが言った。
「まあ、この目元と口許《くちもと》が可愛いってことだけは認めるよ。なぁ、フール。クリは、なんで卵を俺のとこへ持ってきたんだと思う?」
「……ただ持っていきたかった、だけでは?」
「え、そんだけ?」
「こう申しましてはアレでソレですが、クリ様に思惑《おもわく》などあるとは思えません」
「ま、ソリャそうだ……」
「確かにご主人様の霊力《れいりょく》に反応して孵化《ふか》が始まったようではありますが、クリ様がそれを目的としていたとは思えません。ハイ」
夜。アパートに帰ると、詩人に画家に古本屋に佐藤さん、不良大人どもが勢ぞろいして俺を待ちかまえていた。
「おかえり、ママ〜〜〜!!」
「タマちゃんを見せてー、ママ〜〜〜!!」
「働くお母さん、バンザーイ!」
……もうツッコむ気力もない。「これを酒の肴《さかな》に盛り上がるぞ」としか思っていないんだ、この大人どもは。その証拠《しょうこ》に、みんな酒を片手に笑い転げている。ヘトヘトの俺は、ツッコむより飯を食うほうが先だ。
「薬屋にイモリと芭蕉《ばしょう》を持ってきてもらったからね」
と、桔梗さんは俺の隣《となり》に座《すわ》り、タマを膝《ひざ》に置いて(タマの手は俺の腹をつかんだままだが)、イモリと芭蕉をつぶしたものを食べさせた。タマは黒い瞳《ひとみ》をパチクリさせながら、もりもりと食った。クリがそれを小首を傾《かし》げて見つめていた。古本屋、画家、詩人、佐藤さんも覗《のぞ》きこんでくる。
「可愛《かわい》いじゃん、タマちゃん」
「そぉかあ? せめて毛が生えてたらなぁ」
「そのうち生えるんじゃないの? ネズミの子みたいにサ」
「これ、なんのヒナかなぁ〜? ね、まり子ちゃん」
ワイワイ盛り上がるテーブルを見ながら、まり子さんはビールを飲んでいた。
「あたしも知らないの。園長先生から預かって取《と》り扱《あつか》い方《かた》を聞かされただけでさ。ホントはもうお母さんが迎《むか》えに来てる頃《ころ》なんだけど……。卵が孵化《ふか》するのも早かったみたいね」
そう言うまり子さんは、いつもとトーンが違《ちが》った。なんだかこの頃《ごろ》、まり子さんは元気がないみたいだ。お疲《つか》れなのかな。二十四つ子の保育疲れだろうか。
「お、手を放したぞ」
「なんかリラックスしてるみたいだネー」
「どれどれ、オイチャンが抱《だ》っこしてあげよう」
古本屋がタマを抱き上げた。古本屋は俺よりもずっと霊力《れいりょく》が高いわけだから、タマは喜ぶんじゃないかと思った。
「う〜ん……なんつーの、微妙《びみょう》な手触《てざわ》り。……鳥皮?」
「焼いたらうまいかもな」
「なんてことを! 明さん」
「あ、眉間《みけん》にシワが寄ったよ。深瀬の言うことがわかったのかも〜」
タマは「え〜ん」と泣きだした。
「あららら、ハイハイ。やっぱりママがいいでちゅか〜」
古本屋から俺にパスされると、とたんにタマは泣きやんだ。大人どもがおおげさに「おお〜」とどよめく。
「やっぱりママがいいんだって。ママ!」
「ママ、ママと連呼しないでもらえまス?」
と言いつつ俺は、タマを渡《わた》された時、タマが俺の服を「ギュッ」と握《にぎ》ったことに、ちょっと「キュン」としてしまっていた。なんなんだこれは。母性……いや、父性本能というやつか? アブナイアブナイ、いやいいんだ。父性本能はあったっていいんだ。
「いかん。疲《つか》れて混乱している。今夜は早く寝《ね》よう」
俺は、早々に食堂を後にした。
「おやすみ、ママ〜!」
「寝返り打って、赤ちゃんつぶしちゃダメだよー」
「そうだ、まり子さん。コイツ風呂《ふろ》に入れていいんスか?」
まり子さんは、微笑《ほほえ》んでうなずいただけだった。
クリがついてきたので、クリとタマともども風呂に入った。クリはずいぶんタマに興味があるみたいだ。タマは熱い湯を嫌《いや》がったので、湯船の縁《ふち》に座《すわ》らせたクリに抱《だ》かせると、おとなしくしていた。クリは、タマの身体をもんだりつまんだりひっぱったりしたが、タマはされるがままで平気そうだった。その様子がおかしくて笑ってしまった。
「しょーがねーな。本当のお母さんが来るまでだ」
濡《ぬ》れタオルで身体を拭《ふ》いてやると、タマは気持ちよさそうに目を細め、小さな口から小さく「ホッ」と息を吐《は》いた。
翌朝。朝行もコブ付きである。やれやれ。
「よく眠《ねむ》れたかい?」
「それが、桔梗さん。コイツ、どうやら夜行性みたいで。布団《ふとん》に入ってからゴソゴソ落ち着かないんスよ」
「ああ、夜行性ね。それはあるかもねぇ」
「どーしよーと思って。でも、クリが面倒《めんどう》みてくれたんス」
「ほぅ」
俺の傍《そば》で、クリはもぞもぞするタマを抱《だ》っこしたり、自分の飴《あめ》をなめさせたりしていた。そうして、タマはクリとシロが一晩中みていてくれたようだ。朝俺が起きると、クリとタマはシロに抱かれるようにして眠っていた。俺が仕度《したく》し始《はじ》めると、タマはすぐに目を覚まして俺に手を伸《の》ばしてきたが。
「可愛《かわい》いねぇ」
桔梗さんは、細い目をいっそう細めた。
俺が滝《たき》に打たれている間、タマは桔梗さんに抱《だ》かれて朝飯を食わせてもらったりしていた。
その日も、俺はタマを抱いたままバイトに行ったんだが、大きな重い荷物が続けて入ってきて大変だった。荷物を腹に当てないように、でも荷物をおろそかに扱《あつか》わないように神経と力を使った。そうしていたら、荷の重さがかかったある瞬間《しゅんかん》、腕《うで》の筋がとうとうピキッと音をたてた。
「ちょっ……外れます!」
「おう!」
俺は荷物から手を放した。そのとたん、なんでもないちょっとした地面の窪《くぼ》みに足をとられ、前に倒《たお》れそうになった。その時、俺はとっさに腹をかばってしまい、足をひねったんだ。
「いでえっ!」
俺はその場にうずくまった。
「どうした、夕士?」
俺の右足を診《み》た島津《しまづ》姉さんは言った。
「捻挫《ねんざ》ね。お医者さんへ行って」
「よしきた。俺が連れていってやる」
そう言ったのは剣崎《けんざき》社長。
「い、いや、いいっスよ、社長。自分で行きますから」
「労働時間内のケガは労災だ。会社が面倒《めんどう》みるのは当たり前だろう」
と、社長は胸を叩《たた》いた。俺は社長の車で病院へ連れていってもらい、手当てを受けた。軽い捻挫だから三、四日で治ると言われた。社長は、アパートの近くまで俺を送ってくれた。
「早く治るように安静にしてろよ、夕士。で、ちゃんと治してバイトに出てこい」
「ウス。ありがとうございました!」
社長は、グッと親指を立てた。
まったく、時々本当に学校をやめてこの社長の下で正社員として働きたくなる。優《やさ》しく、義理|堅《がた》く、頼《たよ》りになる剣崎社長だ。俺はビジネスマンとして他《ほか》の会社に勤めても、休みの日なんかにこの剣崎運輸でバイトしてそうな気がする。
「おや、どうしたい? ずいぶん早いお帰りだね」
玄関《げんかん》に迎《むか》えに出てくれたのは桔梗さん。
「足|挫《くじ》いちゃって。バイトも休業ス」
まだ昼飯を食っていなかった俺は、持ち帰ったるり子さんの弁当を居間で広げた。
「おなかの赤ちゃんをかばって足を挫いたんだって、夕士クン? さすがお母さんだ」
詩人が笑いながら現れた。
「お母さんは余計ス、一色さん。あっ、つままないでくださいよぉ。俺の弁当っスよ!」
「おいしー♪ やっぱりお弁当っていいなぁ〜」
久しぶりにのんびりと、妖怪《ようかい》アパートの午後を楽しむ。桜が満開で花びらがさらさらと舞《ま》い散《ち》り、庭に桜の絨毯《じゅうたん》を敷《し》きつめていた。
クリがやってきて「タマは?」みたいな顔をするので、
「寝《ね》てるよ」
と、シャツをめくって見せてやったら納得《なっとく》したみたいだ。
花見をしながら、るり子さんがホットプレートで焼いてくれるミニパンケーキを食べた。
「桔梗さんもコーヒーを飲むんスね」
「妖怪だって、コーヒーもケーキも好きさネ」
桔梗さんは、生クリームをたっぷりつけたパンケーキをうまそうに頬張《ほおば》った。まぁなぁ、幽霊《ゆうれい》もケーキを食うもんな。俺は、チョコクリームで真っ黒になったクリの顔を拭《ふ》いてやった。
「あンたは、いろんなもんが見られて幸せもんだねぇ」
桔梗さんが細い目で言った。
「ウス。それはもう」
「でも、それはあンたが、そういう脳みそをしているからだネ」
「…………」
「いろんなものに囲まれていても、それをまったく見られない者もいる」
桔梗さんの細い目の奥《おく》に、金色の目玉が光っていた。
「そいつは、脳みそのシワが足りないんだよ。あンたも、もっともっと脳みそのシワを増やさなきゃね。若いうちにネ」
桔梗さんの口調は意味深だった。詩人がいつも言うように。
俺は黙《だま》ってうなずいた。
夕方帰宅した画家は、太めの木の枝を携《たずさ》えていた。
「黎明が、お前が足を挫《くじ》いたってメールしてきてな」
そう言うと、画家はナイフで枝をチョチョイと削《けず》り、あっという間に杖《つえ》を作ってくれた。
「わ、ピッタリだ! ありがとうございます、明さん、一色さん!」
「赤ちゃんを抱《だ》いてるのに、転んだら大変だもんネー」
「…………」
もうツッコまない。疲《つか》れるからだ。
翌日の朝行は休みとなった。
朝五時にはキッチリ目が覚めたけど、久々の二度寝《にどね》を楽しんだ。
タマは、今朝もクリと並んでシロに抱かれていた。薄《う》っすらと明け始めた空。青白い部屋の中に、透明《とうめい》な金色の光が射《さ》しこんでいる。その光の中で、小さなモノたちがすやすやと寝息をたてていた。
俺は思わず手を伸《の》ばして、シロの頭を、クリの頭を、タマの身体を撫《な》でた(頭はシロの毛の中に埋《う》まっていた)。シロは目を開けたが、また撫でてやると目を細めた。
「可愛《かわい》い」以上の、愛《いと》しい気持ちが湧《わ》き上《あ》がってきた。照れくさくて誰《だれ》にも言えないけど。長谷がクリに頬《ほお》ずりをする気持ちがコレなんだとわかった。
「さしずめ田代なら、萌《も》え〜って言うんだろうなあ」
そう思うと笑えてきた。俺はタマを起こさないよう、声を殺して笑った。
思いがけず、丸一日オフになった。
「そういやあ、ずっと本を読んでねぇなあ」
三学期は忙《いそが》しかったし、休みはずっとバイトだしで、読んでない本がたまるいっぽうだった。
「今日は読書の日にするか」
朝飯を食った後、俺はさっそく部屋にこもって本を読んだ。クリストファー・プリーストの『奇術師《きじゅつし》』だ。映画にもなった作品で、マジシャンの物語なんだけど幻想的《げんそうてき》要素てんこ盛りの話になっている。俺は、詩人が「お昼だよ」と呼びに来ても、夢中で活字をむさぼっていた。昼飯を後回しにして、一気に読んでしまった。
「はぁ〜〜〜……」
本当に久しぶりに活字に集中したので、目がシバシバした。なんだか脳みそのいろんなところを使った感じだ。脳の中が活字と物語のシーンでぱんぱんになっている。すごく疲《つか》れたけど、この上なく心地好《ここちよ》い疲労感《ひろうかん》だった。遅《おそ》めの昼飯が、疲れた身体中に沁《し》み通《とお》ってゆく。
「るり子さん、この筍饅頭《たけのこまんじゅう》……もうサイコーにサイコーっス!」
筍《たけのこ》をすり下ろし、海老《えび》とホタテを包んで団子にして蒸《む》したものに、わかめ入りのあんをかける。トッピングにはウニ。牛腿肉《ぎゅうももにく》の春キャベツ巻きは、白味噌《しろみそ》仕立てのソースでいただく。なんて優《やさ》しい味! 飯がいくらでもおかわりできるぞ。
「ハハハ。夕士クン、蒸したお餅《もち》みたいな顔してるよ」
詩人に笑われた。
「なんか久しぶりに、すごく贅沢《ぜいたく》な気分というか……。豊かな気分っス。頭ン中がキラキラ光るものでいっぱいで、整理しきれないからもういっちょ部屋を作るかーってな感じっス」
俺は、飯をばくばく食いながら言った。詩人は「フフフ」と笑った。
「そんな時間を、君はもうちょっと持ったほうがいいネ」
その言葉に、俺はハッとした。昨日、桔梗さんが言った言葉が重なった。
『もっともっと脳みそのシワを増やさなきゃね。若いうちにネ』
「…………」
部屋へ戻《もど》り、天井《てんじょう》まである本棚《ほんだな》を見る。もともとここにあったり長谷がくれたり、俺が古本屋で見つけてきた本が並んでいる。高校生になって、バイトをするようになって、いろんな人やモノと接していろんなことがあって……。以前ほど本を夢中で読まなくなったことに気づいた。それはいいことなんだろうか? いいことのように思えた。中学の頃《ころ》、俺が読書に没頭《ぼっとう》していたのは、それしかすることがなかったからだ。それが唯一《ゆいいつ》の慰《なぐさ》めだったからだ。読書は楽しかったけど、今は他《ほか》にも楽しいことがあるし……。
コンコンと、ドアがノックされた。
「夕士クン」
「あ、まり子さん」
「入っていい?」
「は。どうぞ」
俺は、敷《し》きっぱなしの布団《ふとん》を慌《あわ》てて二つにたたんだ。
「タマちゃんは?」
俺はシャツの中からタマを取り出した。タマは目玉をパチクリとさせたが、すぐにウトウトし始めた。
「このとおり、昼間は寝《ね》てばっかりっス。こいつ夜行性なんスよ。でも、クリとシロが面倒《めんどう》みてくれて、すっげぇ助かってるっス。クリは、ホントに自分の弟みたいに思ってるのかも。あ、妹かも」
俺は笑った。けど、まり子さんは少し微笑《ほほえ》んだだけだった。
「タマちゃんのお母さん、今日の夜に迎《むか》えに来るから」
「あ、そうなんスか!」
「本当のお母さんが来れば、タマちゃんも夕士クンから離《はな》れても大丈夫《だいじょうぶ》だって」
「よかったぁー!」
明日の朝には、もう長谷がやってくる。コブ付きの姿を見られずにすんだ。やれやれだ。
「タマ〜、お母さんが来るってよ。よかったな〜」
俺は、腕《うで》の中で寝《ね》ているタマに言った。
「やっぱり本当のお母さんのほうがいいもんなー」
何気なくそう言ってまり子さんのほうを見ると、まり子さんは目を大きく見開いてタマを見つめていた。その瞳《ひとみ》が、さざめく水面のように波立っている。
「……まり子さん?」
ゆっくりと俺のほうを見たまり子さんの顔は、見たこともないほど翳《かげ》っていた。いつも元気で明るくて、おっさんそのもののまり子さんが、こんな表情をするなんて思いもよらなかった。
「まり子さん……」
「…………やっぱり、あたしじゃダメなのかな……」
絞《しぼ》るような声だった。
「ダ、ダメって?」
「やっぱりあたしは……お母さんになれないのかな。お母さん失格なのかな」
うつむいた頬《ほお》を、あふれた涙《なみだ》が伝った。俺はすごく慌《あわ》てた。
「そ、そんなことないっスよ! なんでそんなこと……っ」
「だって! だって、クリたんの時もそうじゃない! なんで長谷クンや夕士クンなの? 何年もここにいて、あたしも世話とかしたのに? なんでクリたんは……」
「…………」
「今度も……今度は、あたしがお母さん役のはずだったのに。卵の世話を任されてすごく嬉《うれ》しかったのに。もし卵が孵《かえ》ったら、お母さん役をしてねって言われて……すごく嬉しかったのに! なんであたしじゃないの!!」
まり子さんは、わっと泣《な》き伏《ふ》してしまった。
俺はどうしたらいいのか、頭が真っ白になった。まさかまり子さんが、こんなことを考えていたなんて。
(あ、だからここんとこ元気がなかったのか?)
だとしても、俺はいったいどうしたらいいんだ? 目の前でわぁわぁと大泣きするまり子さんに声をかけることすらできず、俺は固まってしまっていた。
タマが目を覚まして、まり子さんを見ていた。
いつの間にか部屋に来ていたクリも、不思議そうにまり子さんを見た。
やがてクリは、まり子さんの頭をぽんぽんと叩《たた》いた。まり子さんの傍《そば》に座《すわ》り、その膝《ひざ》に小さな小さな手を置いた。
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[#挿絵(img/07_152.png)入る]
愛を知れども
午後の陽射《ひざ》しが、ステンドグラスを通って部屋の中に満ちていた。
窓辺には、瑠璃色《るりいろ》の小鳥が三羽とまってこちらを見ている。
静かな静かな妖怪《ようかい》アパート。桜の散る音が聞こえてきそうだった。
小さな子どものように、身体を丸めて泣き続けていたまり子さんも、ようやく落ち着いたようだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》スか?」
俺は、静かに声をかけてティッシュを渡《わた》した。
「…………うん。ごめんね、急に泣いたりして」
顔を上げて、まり子さんは苦笑いした。泣《な》き腫《は》らした顔も綺麗《きれい》だった。
自分の膝《ひざ》に手を置いているクリを見て、まり子さんはまた泣きそうに、グッと喉《のど》を鳴らした。クリを抱《だ》き、愛《いと》しそうに、本当に愛しそうに頬《ほお》ずりをし、キスをし、抱きしめた。その様子は、なんだか切ないほどだった。
クリを抱っこし、あやすような仕草をしながら、まり子さんは言った。
「夕士クンは、好きな子とかいるの?」
「……残念ながら、まだ」
「そう……」
「…………」
「あたしもね……あたしも、いなかった。好きな人とか……。夕士クンぐらいの歳《とし》には……。ってゆうか……好き≠チて、なんなのか知らなかった」
まり子さんの大きな目が、遠い過去を見ているのがわかった。
まだ、生きていた頃《ころ》のことを。
詩人がいつか言っていた。まり子さんは、金持ちのお嬢《じょう》さんだったと。そして「スゴイ遊び人」だったと。
「あたしのパパは、不動産|成金《なりきん》だった。生まれも育ちもあまりよくない人なんだけど商売はうまくて、ちょうど景気がドンドンよくなっていく時だったし、それで一気にお金持ちになったの。ママも、どっちかっていうと、パパよりもお金と結婚《けっこん》したような人だった。でもね、二人とも悪い人じゃなかったのよ。あたしはパパもママも好きだった。ただ……」
ただ「教養のない人たちだった」と、まり子さんは言った。
とても残念そうに言った。
「教養がないってことをバカにしてるんじゃないの。あたしだって、いまだに教養なんてないもの。パパもママも、学はないけどちゃんと社会人してた。パパは世の中の流れを読んで大金持ちになったし、ママは社交的で友だちがたくさんいたわ。それはそれでいいんだと思うの。パパもママも、学がないってことを気にしていなかった。だって、学なんてなくてもこんなにりっぱに暮らしていけてるって、それはパパの自慢《じまん》だったわ。だから……あたしにも、勉強しなさいなんて……一度も言わなかった」
大金持ちの一人娘《ひとりむすめ》として生まれ、物心ついた頃《ころ》から「贅沢《ぜいたく》」を知っていたまり子さん。贅沢することが許される環境《かんきょう》にあったまり子さん。なんでも思いどおりになったし、欲《ほ》しいものはなんでも手に入った。
「小学校も中学校も高校も……勉強した記憶《きおく》なんて全然ないわ。成績はいつも下から数えたほうが早かった。でも、先生からいろいろ言われても平気だったわ。だってそうでしょ。あたしはなんでも思いどおりになったのよ。勉強ができなくったっていいじゃんって思ってた」
当然学校側は親を呼び出すが、まり子さんの父親も母親も、学校の成績などに関心はなかった。娘《むすめ》のことそのものに、関心がなかった。
「二人とも、自分のことで忙《いそが》しかったからね。あたしのことにかまってるヒマなんてなかったの。あたしはそれでもよかった。あたしも遊ぶのに忙しかったから。何日もパパともママとも顔を合わせないこともあったわ。たまに家でパパと会うと『久しぶりー、お小遣《こづか》いちょうだい、パパー』って言うの。するとパパは『いいともいいとも。いくら欲《ほ》しいんだ? 十万ぐらいで足りるか?』って言うのよ。ママも同じ。それが嬉《うれ》しかった。パパもママも大好きだったわ……」
羽振《はぶ》りのいいまり子さんのまわりには、当然群がってくる連中が大勢いた。
美人で、スタイルもよくて、おまけに大金持ちで、さらに金離《かねばな》れのいいまり子さんを、そんなまり子さんだからこそ、取り巻いていた連中は「ロクなもんじゃない」奴《やつ》らだった。酒に煙草《たばこ》、ギャンブル、ドラッグ、そして当然セックスも。すべて取り巻き連中が、まだ子どものまり子さんに教えこんだ。
まり子さんが最初に妊娠《にんしん》したのは、十五|歳《さい》の時だった。
まり子さんは、当然のようにその子を堕《お》ろした。
取り巻き連中の、どの男の子どもかもわからなかった。
「……全然……なんとも思わなかった……。妊娠《にんしん》しても……赤ちゃんを堕ろしても……」
かすれた声でまり子さんは言う。
「楽しいことが先だったの。みんなと楽しく過ごすことが何よりも一番だったの。セックスも好きだった。妊娠したらセックスできなくなるじゃない。だったら堕ろそうって。ただそれだけの理由だったのよ」
あり余る金を好きなだけ使い、男たちと遊び歩き、妊娠すれば堕ろす。まり子さんのそんな生活は、中学から二十歳《はたち》の頃《ころ》まで続いた。
「あたしはみんなの女王だった。顔も身体もいい男たちが、みんなあたしに傅《かしず》いて、綺麗《きれい》だよ、好きだよ、愛してるよって言った。女の子たちとは、ファッションや芸能界の話をしたわ。こんないいものがあるとか、いい店があるとか言ってきてくれた。毎日毎日楽しかった。あたしは……それが当然だと思っていた……。当然の日常だと思っていた」
まり子さんの、その「当然の日常」は、ある日|突然《とつぜん》激変する。
成人式を迎《むか》えようかという頃、まり子さんは一人の男と出会った。
たまたま友だちを迎《むか》えに行ったダンス教室の待合室で、同じく妹を迎えに来ていたその男(レッスンの終了《しゅうりょう》時間が夜|遅《おそ》いため)と言葉を交《か》わしたまり子さんは、電撃的《でんげきてき》に恋《こい》に落ちてしまった。
「その人の何がよかったのか、その時はわからなかった。逞《たくま》しい身体はしてたけど、そんなにハンサムでもなかったし。でもただもう胸がときめいて、頭に血がのぼって、どうしようもなかったの。その人の言葉や仕草に目がいって、でも目が合うとたまらなく恥《は》ずかしくて、でも目を逸《そ》らしたくなくて……。そんな気持ちは初めてだったから、どうしたのあたし? ってビックリした。友だちに言うと、それは恋なんじゃない? って……。その時の気持ちを、あたしは忘れないわ」
まり子さんの心の新しい扉《とびら》が開き、見たこともない自分がそこにいた。
それが、まり子さんの「なりたかった自分」だと気づいた驚《おどろ》きと喜びは、まり子さんを心の底から揺《ゆ》さぶり、すべての価値観をひっくり返した。
「やっとわかった……。やっとわかったの……。あたしのまわりにいた男たちのことを、あたしは好きだと思っていた。みんなもあたしのことが好きなんだと思っていた。でも違《ちが》ったわ。それは好きでもなんでもなかった。それどころか、あたしは、好きっていうことの意味も考えていなかった」
まり子さんの目から、また涙《なみだ》が零《こぼ》れ始《はじ》めた。それは、とても綺麗《きれい》な涙だった。
「あの人を好きになった理由が、今ならわかるわ。あの人はね、誠実だったのよ。あたしのことをなんにも知らなかったこともあるけど、赤い顔をしてモジモジして、こんな美人としゃべるなんて緊張《きんちょう》するって、でも嬉《うれ》しいなぁって。俺の職場は男ばっかりだから、このダンス教室へ妹を迎《むか》えに来るのが楽しみなんだって……。なんの飾《かざ》りけもない、まっすぐな言葉だった。何気ない言葉だった。でもあたしは、もっとこの人の話を聞きたいって、胸が苦しくなるほど思ったの」
まり子さんは、それから毎週時間を見計らって、男が妹を迎えに来るのに合わせてダンス教室に通った。待合室で、レッスンが終わるまでのちょっとした時間を男と過ごすのが、この上なく幸せに感じた。それは、他愛《たわい》もない言葉の積み重ねだったが、まり子さんにとっては魂《たましい》が洗われるようだった。まり子さんは、なんでもない話で突然《とつぜん》泣いたりして男を驚《おどろ》かせた。
「言葉が生きてるって感じたわ。今ならわかるわ。今なら……。あの人の言葉は、血の通った生きた言葉だったの。だから、あの人の話す言葉、自分の家族のことや職場のこと、人間関係で悩《なや》んだとか、学生時代の恋《こい》の話とか、すごく胸に迫《せま》ってきた。そしてあたしは思ったの。こんなことで泣くほど感動するって、あたしって今まで何をしてきたの? って。あたしはこの人に、こんなふうに話せるどんな話があるの? って……すごいショックだった」
まり子さんには、何も話すことがなかった。
「あんなに楽しかったのに……あたしには……何も残っていなかった……」
まり子さんはこの時、自分は何も考えず、何も感じず、ただうわべだけで過ごしていたことを痛感した。そして、自分を取り巻いていた者たちも同じだったということを悟《さと》った。
誰《だれ》一人、まり子さんを肌《はだ》で感じ、まり子さんを思っている者はいなかった。まり子さんも含《ふく》め、全員が思っていたことはただ一つ。「楽しけりゃいいじゃん」それだけだった。その「楽しさ」すら、陽炎《かげろう》のようなものなのだと、まり子さんはやっと悟った。
「あとに何も残らない楽しさなんて……意味がないわ。遊んだことを思い出すことはできるのよ。でもスカスカなの。どの思い出も同じ。思い出として生きていないの。思い出しても楽しくないの。何も感じないの」
そう泣きじゃくるまり子さんを、男は懸命《けんめい》になぐさめた。
二人がちゃんと付き合うようになるまで、時間はかからなかった。
「生きていることを実感したわ。あたし、今生きているんだって感動した。あたしはこの人が好きなんだって。好きっていうのは、こういうことなんだって。人を好きって、なんてスゴイことなんだって……!」
まり子さんの、本当に一番幸せだった時間。
まり子さんの瞳《ひとみ》は、うっとりとうるんでいた。
やがてまり子さんは、その瞳で俺を見つめて言った。静かな、深い声だった。
「セックスは、本当に好きな人としなきゃダメよ、夕士クン。ただ単純にするのと、好きな人とするのとじゃ、ホントに全然|違《ちが》うんだから。ホントに幸せなセックスじゃなきゃ、人はダメなんだから」
『人はダメなんだから』と。そこが重要なんだろうな。
「あたし……生まれて初めて本当に好きな人≠ニセックスしたわ。キスされただけで……ボロボロ泣けてきちゃった。嬉《うれ》しくて、幸せで、頭が真っ白だったわ。当たり前だけど、そんなセックスなんてしたことなかった。あたしは、ただ気持ちよけりゃいいじゃんって、そんなふうにしか考えていなかったのよ。それがわかって……すごく落ちこんじゃった」
まり子さんは、今までどんなに遊んできたか、十五で初めて妊娠《にんしん》して、三人もの子どもを堕《お》ろしていることを、恋人《こいびと》に正直に話して許しを乞《こ》うた。
「あの人は、確かにショックだけど、俺はまだ子どもの君をそんなふうに扱《あつか》った側にこそ問題があると言ってくれた。そして、親にも問題があるって。子どもを自由にさせることと放任することは違《ちが》うんだって」
親のそんな言動に心当たりのあるまり子さんは、どうしてあなたはそんなことがわかるのと男に訊《き》いた。
「あの人は頭をかきながら、どうしてって……常識の範囲《はんい》じゃないか? って言ったの。あたし……本当にビックリした。雷《かみなり》に打たれるようだって、本当にあるんだと思った」
まり子さんは、自分がいかに何も知らないかを思い知った。
「そうなの。あたしは、バカだったの。勉強のできない子っていう意味のバカ。頭が悪いっていう意味のバカ。あたしは、誰《だれ》でも知っているようなことも知らないおバカさんだった。アハハ。当たり前よね。勉強なんてしたことないんだもん。本もファッション雑誌しか読まないし、テレビも歌番組しか見ない。ニュースも新聞も見たことないんだもん」
笑ったまり子さんの目から、また涙《なみだ》があふれた。
「でもね。問題は、そんな単純なことじゃなかったのよ。あたしは……あたしは本当の意味で……もっと恐《おそ》ろしい意味で、勉強をしなかったことを後悔《こうかい》することになるの」
まり子さんの綺麗《きれい》な顎《あご》を、涙《なみだ》が伝って落ちる。クリが両手を伸《の》ばして、まり子さんの濡《ぬ》れた頬《ほお》をぬぐった。まり子さんはクリと顔と顔をくっつけ、下ぶくれのほっぺに何度も何度もキスをした。
「夕士クンは頭がいいけど、勉強って好き?」
「好きじゃないっスよ。やんなきゃなんないからしてるだけス」
「勉強って、なんのためにすると思う? 分数とか小数点とか台形の面積とか、そんなのできなくても生きていけるじゃんって思ったことない?」
「あるっスよ。今でも思います。サインコサインタンジェントって何ソレ? ほんとにコレ勉強しなくちゃならねぇの? って」
まり子さんはくすっと笑った。
「でもまぁ……頭の体操っスからね」
俺の言葉に、まり子さんは大きく目を見開いた。
「そう……そうなのよ。そうなの。やっぱり夕士クンは頭がいいなあ。あたしは……それがわかってなかった」
おバカなことが死ぬほど恥《は》ずかしかったまり子さんは、恋人《こいびと》に「勉強を教えて」と頼《たの》んだ。
「俺だって、そんなに勉強ができたほうじゃないぜって、あの人は言ったわ。二人三脚《ににんさんきゃく》で勉強しようかって」
とりあえず本を読もうと、恋人《こいびと》は教えてくれた。知識と言葉の両方が目で見て学べるからだ。恋人はまり子さんに、エッセイや雑学の本を選んでくれた。
本を読み進んでゆくうちに、恋人といろいろ話すうちに、まり子さんは大切なことに気がついた。
「勉強するっていうことの本当の意味は、『考えることにある』んだってわかったの。あの人が、君はいつもすごくシンプルな質問をしてくるから、かえって考えさせられるよ。俺のほうが頭がよくなるようだって笑ったわ。その時、また雷《かみなり》に打たれた気がした……」
学校の勉強で得られる知識はたかが知れている。一般《いっぱん》常識というやつも曖昧《あいまい》で胡散臭《うさんくさ》い。誰《だれ》でも知っているかと思えば、世間の人々は案外知らなかったりする。
だから、問題はそこじゃないんだ。
問題は、いろんなことを勉強することによって、脳みそを鍛《きた》えることなんだ。
「一つのことは、一つだけじゃないって考えられる頭を作ること。目の前に見えることが、最初はどうだったのかとか、最後はどうなるかとか、そういう考えができるようになること。これが大切なの」
「まり子さん、ちゃんとわかってんじゃないっスか」
まり子さんは、言葉を呑《の》んだ。
俺のほうを見ているのに、瞳《ひとみ》は俺を通《とお》り越《こ》して、どこか遠くの景色を見ていた。
「わかった時は……遅《おそ》かったのよ……」
ぽとりと、床《ゆか》に落ちるような声だった。
愛《いと》しい恋人《こいびと》の子どもを妊娠《にんしん》したまり子さん。
でも、その子は生きて生まれることはなかった。
大出血を起こしたまり子さんの命も、そこで尽《つ》きることになる。
「あたしってムチャなことやってたでしょ。それが原因なの……」
静かな声は、深い深い哀《かな》しみに満ちていた。こっちの胸が絞《しぼ》られるようだった。
「あたしは何も考えずに、ただ気持ちいいからセックスして、何も考えずに赤ちゃんを堕《お》ろして……命の意味とか、それが母体に与《あた》える影響《えいきょう》とか……そんな知識は知らなくても、考える力さえあったら、わかったはずなのよ! 命は大切だとか、こんなことしてたら身体によくないって、それぐらいわかったはずなのよ!」
静かな哀《かな》しみは、絶叫《ぜっきょう》に変わった。
初めて欲《ほ》しいと思った子どもを、ついに抱《だ》くこともできずに死ななければならなかったまり子さんは、哀しみよりも激しい後悔《こうかい》に苛《さいな》まれた。自分の幸せも、恋人《こいびと》の幸せも、二人の子どもの幸せも、ここで終わる。死の床《とこ》で、まり子さんは恋人に泣きながら謝《あやま》った。
「ごめんね、ごめんね、ごめんねって……」
自分の手を握《にぎ》る恋人に、それ以外の言葉は見つからなかった。恋人も、ただまり子さんの手を力いっぱい握り返すことしかできなかった。
「あたしがバカだったばっかりに、あたしが、先のことなんか考えずにバカなことばっかりしたから……本当に好きな人の子どもを死なせてしまった! あの人を悲しませてしまった! これは報《むく》いだってわかったわ。何も感じようとしなかった、何も考えようとしなかったバカなあたしへの報いなの!」
「そ、そんなことないっスよ!」
と言いたかったが、言葉にならなかった。
俺はそう言う代わりに、まり子さんを抱《だ》きしめた。まり子さんは俺にすがって、大声で泣いた。
学校で勉強をしなくても、頭のいい奴《やつ》、考える力のある奴は大勢いる。ただ、まり子さんは、何も考えなくていい環境《かんきょう》にいたんだ。自由にさせてくれる両親と、なんでも自由になる財力。
まり子さんは……豊かすぎた。
それが本当の豊かさかどうかもわからないほどに。
(本当に豊かなことって、なんだろうな……)
俺とまり子さんにはさまれてキョトンとしていたタマが、まり子さんにつられたんだろう、泣きだしてしまった。そして、それにつられてクリも泣いた。
あふれ落ちる涙《なみた》はどれも純粋《じゅんすい》で、宝石のようだった。
『悲しいことは、ちゃんと悲しめよ』
そう言った千晶の言葉が思い出された。若いまり子さんは、悲しむことすらできなかったんだ。まり子さんの小さな小さな世界には、「悲しみ」はなかった。「苦しみ」も、「嫌《いや》なこと」も。そして「我慢《がまん》すること」もなかった。
(今、この空間はとても豊かだ……)
そんな感じがした。
「夕士クンは、これからももっともっといっぱい勉強してね。いっぱいいろんなことを勉強して、世界を広げていってね。本当に大事なことを見逃《みのが》さないように。本当に幸せになれるように……!」
まり子さんは、俺の胸の中で泣きながらそう言った。
まり子さんが、成仏《じょうぶつ》をやめて妖怪託児所《ようかいたくじしょ》の保母さんをしているわけがやっとわかった。
亡《な》くした四人の子どもたちへの、それはまり子さんの贖罪《しょくざい》なんだ。
ドアが静かに開いて、桔梗さんが入ってきた。
「泣《な》き疲《つか》れたかぃ」
「あンだけ泣きゃあね」
俺は苦笑いした。俺のTシャツは、まり子さんの涙《なみだ》でぐっしょりと濡《ぬ》れていた。
二つにたたんだ布団《ふとん》の上で、まり子さんとクリとタマは並んで寝息《ねいき》をたてている。
赤《あか》ン坊《ぼう》二人を胸に抱《だ》いて、まり子母さんはとても幸せそうだった。
その夜|遅《おそ》く。アパートのみんなが揃《そろ》って、タマの母親が迎《むか》えに来るのを待っていた。
「あ〜あ、タマちゃん帰っちゃうんだネー。つまんなーい」
と言いつつ、酒をうまそうに飲む詩人。
「長谷に見せたかったなぁ。夕士が腹に抱いてるとこをよ」
面白《おもしろ》そうなのは画家。それにのる古本屋。
「能面みたいにフリーズしただろうなー」
「一瞬《いっしゅん》であることないこと想像してネー!」
「そう! 絶対そう!!」
「ギャハハハハハ!!」
このように、大人どもは好き勝手に盛り上がっている。いつものことだが。
はいはい。ツッコまない。ツッコまないよ。疲《つか》れるからね。
「こんばんは〜」
暗い庭の向こうから声がした。
「あ、園長先生」
まり子さんが庭へ下りていった。
闇《やみ》の中から現れた妖怪託児所《ようかいたくじしょ》「鶴亀園《つるかめえん》」の園長は……普通《ふつう》の女の人のように見えた。ジャージの上下にエプロン。髪《かみ》はひっつめている。ただ、
「お面…………」
園長は、渦巻《うずま》き模様が描《か》かれた面をかぶっていた。
「お手数おかけして申しわけなかったわ〜。もしかして、お母さんが帰ってくる前に孵化《ふか》するかもとは思ってたんだけど、大変だったでしょー。ごめんなさいねぇ。これ、お菓子《かし》持ってきたの。召《め》し上《あ》がって」
「ハ、ハア。どうもっス」
ものすごく普通だ。
お面以外は。
(面といえば薬屋だな。ということは、面をかぶっている種族≠チてのがいるのか?)
「それで、お母様は? 園長先生」
「来ていらっしゃるわよ。ただ、とっても大きな方[#「とっても大きな方」に傍点]だから、ここ[#「ここ」に傍点]には入りきらないの」
園長は、持っていた茶色のトランクを抱《かか》えると、パカリと開いた。
「だから、一部だけね」
そのトランクから、ぬおおぉ〜〜〜っと、巨大《きょだい》なタコのような触手《しょくしゅ》が一本出てきた。
「うおおっ?」
俺も、大人どもも飛び上がった。
触手は太さが一メートルほどもあり、メタリックなシルバーグレイの表面が、光を反射して虹色《にじいろ》にテラテラ光っていた。イボのような吸盤《きゅうばん》のような突起《とっき》がいくつもついていて、それ自体がぐにぐにと動いていた。
「ひぃぃいいぃ〜〜〜〜!!」
と、全身の毛穴が開くようなおぞましい形だったが、それは、俺が抱《だ》いたタマをそっと巻き取った。その時、タマはまだ俺のシャツをつかんでいた。触手はタマを巻き取ったままじっと待ち、やがてタマが手を放すと、すすすとトランクの中へ消えていった。その動き方には、愛情が感じられた。
園長が、トランクの蓋《ふた》をパタンと閉めた。
「お子さんは、無事お母さんのもとへ戻《もど》りました。皆様《みなさま》、ご協力ありがとうございました」
園長は頭を下げた。
「では、これで失礼いたします。いろいろとお騒《さわ》がせいたしました。まり子さんもご苦労さまね。また明日ね」
「はい。園長先生」
普通《ふつう》にトランクを提《さ》げ、普通に去ってゆく園長を、俺たちは呆然《ぼうぜん》と見送った。
「タマの母親って……」
「雷馬《らいば》だ……」
「雷馬ですな」
古本屋とフールが唸《うな》るように言った。
「知ってんの?」
「俺は文献《ぶんけん》でしか見たことがないけど」
「私めも、実物は目にしたことはございません」
「何それ? 妖怪《ようかい》なの?」
古本屋は首をひねった。
「妖怪《ようかい》じゃなくて、霊獣《れいじゅう》……。いや、神獣といったほうがいいのか?」
「上半身は女。下半身は、今ご覧になったような触手《しょくしゅ》が何百と生えた姿をしております。とてつもなく巨大《きょだい》で、嵐《あらし》の中に棲《す》んでおり、雷《かみなり》を操《あやつ》ります」
「とてつもなくでかいのに、生まれたときはタマ並み?」
「まぁ、パンダの赤《あか》ン坊《ぼう》だって、生まれた時は十センチだからねぇ」
「上半身は女ってこたぁ……オスはいねぇのか?」
「さぁて、それが諸説ございまして。髪《かみ》の毛《け》にあたる部分がオスだと言われていたり、下半身の触手がオスだとも言われていたりで……。ご隠居《いんきょ》のほうが詳《くわ》しいかと」
「あ、そうだな。訊《き》いてみっか」
「プチ」の「|\《9》」のページを開く。
「コクマー!」
青い放電がアパートの庭に放たれ、その中に大きな梟《ふくろう》が現れた。英知の神ミネルヴァの眷属《けんぞく》。この世のあらゆる「知」を知っている。ただし「耄碌《もうろく》している」という欠点がある。
俺は、相変わらず眠《ねむ》そうな大梟の耳元で叫《さけ》んだ。
「じいさん! 訊きたいことがあンだけど!」
「んん〜、むむむ……むぐむぐ」
「雷馬《らいば》って知ってるか?」
「…………んん〜〜〜…………うんうん、オイディプスと問答をしてな。美しい女だった。乳は丸出しだが」
「それはスフィンクスでしょう、ご隠居《いんきょ》。雷馬ですよ」
フールも叫《さけ》ぶ。
「おお! ……ううむ、そうそう髪《かみ》がワサワサと動いてな。恐《おそ》ろしい目をしておる。あれに見られたら、皆《みな》石になってしまうんじゃ」
「それは、メデューサでしょう? だから、雷馬ですってば」
「……全身赤いウロコでな……」
「それは、ラミーア」
「胴体《どうたい》が蛇《へび》で」
「エキドナ」
「大きなタコ」
「クラーケン」
「鳥の姿をしておって」
「セイレーンでは?」
「頭が九つ」
「それは、中国の相柳《そうりゅう》デショ。どんどん離《はな》れていってますよー!」
「……はぁ、やれやれ」
俺はため息をついた。ホントに相変わらずだな、じいさん。
大人どもはゲラゲラ笑っていた。
「そんだけ知ってて、なんで雷馬《らいば》が出てこないかねぇ」
古本屋は苦笑い。
まり子さんも笑っていた。
縁側《えんがわ》に座《すわ》って、クリは空を見上げていた。タマが行ってしまったことを理解しているだろうか。俺はクリの頭を撫《な》でた。
「ちょっと淋《さび》しくなるな、お兄ちゃん」
まり子さんがクリの隣《となり》に座り、俺たちは揃《そろ》って夜空を見た。
満開の夜桜の向こう、春の夜空で、星たちも桜に負けじと美しさを競《きそ》っていた。
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[#挿絵(img/07_175.png)入る]
心は豊かに満ちて
「長谷クンがいない間に、夕士クンってばホントにママになっちゃったヨ。赤ちゃんをおなかに抱《だ》いてサー」
と、詩人に言われた長谷は、大人どもの予想どおり、一瞬《いっしゅん》だがフリーズした。それを見た大人どもの面白《おもしろ》がりようときたら。
「真に受けてんじゃねーよ!」
俺は長谷の頭をはたいてやった(長谷の頭をはたけるチャンスなんてめったにない。その逆は多々あっても)。
しかし、長谷はマジな顔で言い返した。
「ここじゃ何があったって不思議じゃねーだろが! お前が妖怪《ようかい》の子どもを産んだって、ここならありえないことじゃ……」
「真顔でアホなことをぬかす口は、この口かあ―――っ!」
長谷の口許《くちもと》を思い切りつねりあげてやった。大人どもは笑い転げた。
アパートにいてもロクなことにならないので、るり子さんのスペシャル弁当を持って早々に逃《に》げ出《だ》した。
長谷のバイクに乗って、春の山道をカッ飛ばす。二月は暖かかったけど三月の初めが寒かったので、まだあちこちに山桜が咲《さ》いていた。
「どこへ行くんだーっ」
「面白《おもしろ》い遊びを教えてやるよ!」
「俺、まだ足が治ってないんだぜ!」
「大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫!」
細い横道に入り、山の中を進んだところに、ぽかっと開けた場所があった。バイクはそこで止まった。
「別荘跡《べっそうあと》らしいぜ」
「こんなところに?」
建物の土台の跡が、わずかに残っていた。
「こんなとこで何すんだ?」
「別荘跡《べっそうあと》は目印。お目当てはアレ」
長谷が指さしたのは、見上げるようなりっぱなケヤキの木だった。
「木登りしようぜ、稲葉」
「はあ? いや、だから俺は足が……って、いやその前に、木登りってどうしたんだ、長谷?」
長谷は笑った。
「最近知り合った奴《やつ》が、ツリークライミングをしててな。教えてもらったんだ」
「ツリークライミング……って、直訳すると木登りなんですけど?」
長谷はまた笑った。
長谷の言うツリークライミングとは、素手《すで》で登る木登りとは違《ちが》い、ロープや安全帯《サドル》を使って、木のもっと高いところまで登る遊びのことらしい。もともとは樹木の管理から発生したもので、今では子どもたちの「自然との触《ふ》れ合《あ》い教室」や、障害者のセラピーなどにも応用されているそうだ。
長谷は道具を用意しながら言った。
「本当はインストラクターがついてなきゃならないんだろうが、まぁ俺とお前ならいいかってな。お守《も》り役《やく》がいて、みんなでワイワイってのは好きじゃないしな」
「だろうな。お前なら」
長谷が、子どもたちにまじって「木の話す言葉を聞こう」とか「自然と一体になるって素晴《すば》らしい」とか言うなんて……世界がひっくり返ってもありえねー。
枝にロープをかけ安全帯《サドル》に身体を固定すると、長谷はロープを引いた。すると、安全帯がひっぱられて身体がするすると登っていった。
「お〜〜〜、そうやって登るのかあ!」
安全帯という椅子《いす》に座《すわ》り、椅子ごと上へひっぱられて登る、という仕組みだ。なるほど、これなら楽に上まで行けるというわけだな。腕力《わんりょく》はいるだろうが。
「そうか。これなら足が片方使えなくてもいけるな」
長谷はしばらく上のほうでゴソゴソしていたが、やがて降りてきて、俺に安全帯を付けてくれた。
「よし。ひっぱれ」
「おう!」
ぐいぐいとロープを引くごとに、枝の間をするする抜《ぬ》けて、俺は上へ上へと登っていった。大きくりっぱなケヤキは上まで枝が太く、だいぶ上のほうまで登れた。
「お〜〜〜、すげえ!」
緑の枝葉の間から、下界が見渡《みわた》せた。遠くに光る海までも。
「すげ〜〜〜っ! いい眺《なが》めだ!!」
「だろ。これが、このツリークライミングの醍醐味《だいごみ》ってわけなんだ」
弁当を持って、長谷が登ってきた。
風が吹《ふ》き抜《ぬ》けてゆく。
ざわざわと揺《ゆ》れ騒《さわ》ぐ緑。まさに木の懐《ふところ》に抱《だ》かれているような思いだ。
そして、視界のはるか彼方《かなた》まで広がる景色。見つめていると、心がどんどん広がってゆく。
「すげー……。気持ちいい……」
風はまだ少し冷たかったが、森を渡ってくる風は優《やさ》しかった。ゆっくりと通過しながら、身体の中を洗ってゆくような感じがした。この風に吹かれ続けていると、身体が透明《とうめい》になりそうな気がした。
キラキラしたもので、心がいっぱいに満たされてゆく。面白《おもしろ》い本を読んだ時のように。目に見えない、さわることもできない、はっきりと正体がわからないものだけど、すごく大切なもので、俺の身体中は満たされていった。
長谷も風に黒髪《くろかみ》をなびかせながら、遠くを見ていた。何かを洗い流し、その代わりに何かに満たされていっている感じだ。長谷は俺のほうを見ると、にかっと笑った。
「飯にしようぜ。俺にとっちゃ久々のるり子さんの手料理だ!」
こんな枝の上で食事なんかできるのかと思うが、枝の間にツリーボードというハンモックの一種を張ることによって、その上で食事や寝転《ねころ》ぶこともできるんだ。そういうことをするのも、ツリークライミングの特徴《とくちょう》らしい。
「お〜〜〜っ、すげ〜〜〜!!」
るり子さんのスペシャル弁当を見て、長谷は歓声《かんせい》を上げた。
アジのたたき身に、しょうがやにんにく、味噌《みそ》などを混《ま》ぜ、大葉を片面に付けて胡麻油《ごまあぶら》で焼いたアジの大葉ハンバーグ。肉巻き卵焼き(う巻きみたい)。かぼちゃ、にんにく、しめじ、海老芋《えびいも》と、鶏肉《とりにく》の炊《た》き合《あ》わせ。蓮根《れんこん》のはさみ揚《あ》げ、桜形のにんじんを添《そ》えて(蓮根はゆがいていないので歯ごたえ抜群《ばつぐん》)。そして、花見やピクニックの弁当には欠かさず入れてくれている、タコ足ウィンナーとチキンのチューリップ。
「コレコレ! すっげぇ嬉《うれ》しい!」
長谷は子どものような顔をしてウィンナーを食った。
飯は、刻んだ桜の花とほぐした鯛《たい》の身散らしおにぎり。一口《ひとくち》サイズのプチオムライス。海苔《のり》と塩だけのシンプルおにぎり。
「この鯛のおにぎり、たまらんっ……!」
「桜の香《かお》りがする。鯛の旨《うま》みが通り過ぎたあと、鼻の奥《おく》をかすめる感じだ」
さらに、スペシャルおまけにサンドイッチが付いていた。シャキシャキレタスとロースハムサンドに、サーモンとクリームチーズのベーグルだった。
「うわ! すっげーうめぇ、このベーグル!!」
「当然ベーグルもるり子さんのお手製だろ? も〜、何作らせても無敵だな」
デザートは、フルーツの蜂蜜漬《はちみつづ》けだった。あっさりと爽《さわ》やかな甘《あま》さに仕上がっている。魔法瓶《まほうびん》に詰《つ》めてくれたコーヒーも、まだ充分《じゅうぶん》熱かった。
俺たちは熱いコーヒーを飲み、緑色の風に吹《ふ》かれながらいろんなことをしゃべった。
まり子さんの哀《かな》しい話を、長谷はしみじみと聞いた。
「無知は罪だというが……本当にそうだな。この場合の罪は、まり子さんの親が負うべきだが」
「千晶を襲《おそ》ったヨーコの話とさ、まり子さんの話って対照的だよな。対照的だけど、同じだな」
一方は「妄想《もうそう》のセックス」、もう片方は「現実のセックス」。でも、どちらも肌《はだ》で感じない、不幸なものだった。まり子さんが言った「人は、本当に幸せなセックスじゃなきゃダメだ」って言葉が胸に残っている。
「どっちも親が悪い。子どもにちゃんと関わっていない[#「ちゃんと関わっていない」に傍点]。だから、子どもは何も肌で感じられない人間になっちまうんだ」
そうだ。詩人が言った「子どもに魂《たましい》を吹《ふ》きこむことも親の大事な仕事」ってやつだ。
それは……やっぱり「愛」なんだよな。
ヨーコやまり子さんは、親から本当の「愛」を与《あた》えてもらわなかったんだ。だから「愛がわからない」のも当然だよな。
「ヨーコやまり子さんと対極なのが、お前や千晶なんだな、長谷。どっちも金持ちで、金と遊びには不自由しないのに、しっかり自分の世界を創《つく》って、いろんなことを肌で感じて等身大で生きている。親にちゃんと関《かか》わってもらった証拠《しょうこ》だよな。愛されて育ちました〜って感じがする」
「俺が愛されてる? よせよ、気味|悪《わり》ィ」
長谷は口を尖《とが》らせた。それから、
「お前の両親だって、お前にちゃんと関わってくれたんだよ、稲葉。だから今のお前があるんだ」
と、俺の頭をポンポンと叩《たた》いた。
その両親のいない空白を、お前が埋《う》めてくれたからこそだよ、長谷。今、妖怪《ようかい》アパートに住んで、大勢の父親と母親に囲まれて幸せなのは、それまでの俺をお前が支えてくれたからだ。
(豊かなこと……)
俺は今、豊かさを実感している。確かに肌《はだ》で感じている。うまい飯、気持ちのいい場所、そして友がいる。
(俺は今幸せだよ、まり子さん。本当に幸せだと感じることができるよ。これからも、いろんな幸せを感じていきたいよ)
そのためには、どうすればいいんだろう。
まり子さんの話を聞いてから、俺はいろいろ考えていた。
さまざまな考えが頭をよぎった。
千晶は、遊べと言った。でもただ遊ぶんじゃない。千晶は、思い出を作れと言ったんだ。そして、その時は楽しくても、思い出に残らなければ意味がないと、まり子さんは言った。
『夕士くんは、これからももっともっといっぱい勉強してね。いっぱいいろんなことを勉強して、世界を広げていってね』
『あンたも、もっともっと脳みそのシワを増やさなきゃね。若いうちにネ』
『生活に必要なことだけじゃ、人間は成り立たないからネー』
両親を亡《な》くして以来ずっと、俺は、その両親のためにも早く一人前の社会人になりたいと思っていた。それが何よりの供養《くよう》になると。天国の二人に、
「ほら、俺はもう一人でもちゃんとやっていけるよ」
と言いたくて。両親は、きっと喜んでくれると思っていた。
俺は今、「自分」というものを顧《かえり》みる。
妖怪《ようかい》アパートに来て、それまでの俺がすべてひっくり返され、「普通《ふつう》」に戻《もど》るべきだと思ってアパートを出て、でも「普通《ふつう》」ってなんだ? と考えて、俺は「自分」をもっとよく見てみたいとアパートへ帰ってきた。
アパートでは、いろんな勉強をした。いろんな体験をした。大人たちの話を聞いた。見て、聞いて、感じたことを俺の血と肉にできた。何があっても大丈夫《だいじょうぶ》だと思うことができた。自分の、無限の可能性を感じられた。
無限の可能性……。
『つられてお前も大人になる必要はないぞ』
俺の頭に、今まで考えたこともないことが浮《う》かんできた。
俺は、そうして[#「そうして」に傍点]もいいんだろうか。
「どうした、稲葉?」
俺は長谷の顔を見つめた。
お前や、アパートのみんなに囲まれて、
俺は、もう少しゆっくり歩いてもいいだろうか。
遠回りしてもいいだろうか。
もう少し、子どもでいていいだろうか……?
「長谷……。あのな……」
「うん?」
「俺……今ふっと…………。いや、ホントは、もっと前からそう思っていたのかもしれないんだけど……」
「なんだよ?」
「大学に……行きたいなって……」
俺が「妖怪《ようかい》アパート」と関《かか》わりあってまかれた種が、実を結んだ。
そんな気がした。
[#改ページ]
香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。翻訳家、声優などさまざまな職業をめざしつつ、少女漫画の同人誌で創作活動をしていたが、『ワルガキ、幽霊にびびる!』(日本児童文学者協会新人賞受賞)で作家デビュー。『妖怪アパートの幽雅な日常@』で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。他の作品に「ファンム・アレース」シリーズ、「大江戸妖怪かわら版」シリーズ、「下町不思議町物語」シリーズなどがある。現在も自著の登場人物や裏設定を漫画化するなどして、自身の創作意欲をかきたてながら、精力的に執筆を続ける。講談社「YA! ENTERTAINMENT」シリーズの公式サイト(パソコン http://Yaf.jp/pc、ケータイ http://yaf.jp)で愛犬ハナ様の写真とともに綴る日記「香月日輪の幽雅な日常」を連載中。本人曰く霊力なし、料理するのも興味なし、とのこと。大阪府在住。
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
JASRAC 0713469-701
YOU RAISE ME UP (P.95)
Words by Brendan Graham
Music by Rolf Lovland
|※[#著作権表示記号、1-9-6]《C》 PEERMUSIC (UK) LTD.
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All Rights Reserved. International Copyright Secured.
Print rights for Japan controlled by K.K.MUSIC SALES
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底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》F
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2007年10月19日  第1刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
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置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
|※《C》 ※[#著作権表示記号、1-9-6]著作権表示記号