妖怪アパートの幽雅な日常E
香月日輪
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一見|普通《ふつう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)本物のナマハゲ[#「本物のナマハゲ」に傍点]たち
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/06_000.jpg)入る]
〈帯〉
活字力全開の人気シリーズ
修学旅行ももれなくオバケつき?
修学旅行でスキー場に出かけた夕士たち。
しかし、宿泊先のホテルには、なにかが起こりそうな怪しい気配が……?
〈カバー〉
まず自分を磨《みが》け。
自分を鍛《きた》えろ。
結果は後からついてくる。
[#挿絵(img/06_001.jpg)入る]
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常E
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常E
香月日輪
[#改ページ]
年が明けた。
春から始まった俺《おれ》の新しい一年が過ぎ、また新しい一年が始まる。
俺、稲葉夕士《いなばゆうし》。条東《じょうとう》商業高校二年生。両親を亡《な》くして、今はアパートに一人暮らし。将来は公務員か堅《かた》い会社でビジネスマンを目指す、一見|普通《ふつう》の高校生。しかして、その実体は――
「ご主人様、ご主人様」
と、俺の耳たぶをひっぱるのは、身長十五センチほどの小人。中世の道化師《どうけし》のような格好をしている。
「こんなところで寝《ね》てしまわれてはお風邪《かぜ》を召《め》しますよ」
「ああ、いけね」
どうやら俺は、布団《ふとん》を敷《し》こうとしていたらしい。記憶《きおく》がないが。
「お屠蘇《とそ》を飲みすぎた。てか、飲まされすぎたぜ」
「盛り上がっておられましたなぁ。まことに新年らしいにぎやかな宴《うたげ》でございました」
そう言う小人は、「| 0 《ニュリウス》のフール」。魔道書《まどうしょ》『小《プチ》ヒエロゾイコン』の案内人だ。
なんの運命のいたずらか、俺は二十二|匹《ひき》の妖魔《ようま》や精霊《せいれい》が封《ふう》じられたこの魔道書の主《あるじ》、|魔書使い《ブックマスター》に選ばれてしまった。これは、妖魔たちを使役《しえき》し、魔術を操《あやつ》る魔道士の端《はし》くれになったということだ。
なんだかとんでもないことなんだけども、俺が住んでいるアパート「寿荘《ことぶきそう》」では、それほどでもない出来事で。
寿荘、別名「妖怪《ようかい》アパート」。そのあだ名に恥《は》じぬ、正真正銘《しょうしんしょうめい》の妖怪の巣くうアパートである。
大家さんは黒坊主《くろぼうず》。手首だけの幽霊《ゆうれい》が賄《まかな》い人《にん》。住人は、妖怪のくせに人間として会社に勤めているとか、成仏《じょうぶつ》をやめて妖怪|託児所《たくじしょ》で保母さんをしているとか妙《みょう》に人間くさいのもいれば、古今東西の次元を行き来する商売人とか正体不明の霊能力者とか、妙に人間|離《ばな》れしている奴《やつ》などバラエティに富んでいる。
俺は、この並の常識も知識も通用しない場所で、人生の大先輩《だいせんぱい》や人間以外の方々からギュウギュウにもんでもらい、バラバラに打《う》ち砕《くだ》かれて、新しい自分を作ることができた。そして、それは今も進行中である。
一度は離《はな》れた妖怪《ようかい》アパートに、二年生になった春に戻《もど》ってきた。それから「プチ」の主になったり、魔道士《まどうし》としての「修行《しゅぎょう》」に明け暮れたり、この一年は本当に怒濤《どとう》のようだった。
昨夜《ゆうべ》、大晦日《おおみそか》の夜。本物のナマハゲ[#「本物のナマハゲ」に傍点]たちと忘年会《ぼうねんかい》をしながら、いろいろあった出来事をおだやかに思《おも》い巡《めぐ》らせ、俺を支えてくれた大勢の人たち、モノたちに感謝した。
「で、ナマハゲたちが帰って年が明けたとたん、忘年会は新年会に切《き》り替《か》わって、お屠蘇《とそ》を飲まされまくったわけだ〜。……確かトイレに立って……居間へ戻らずに部屋へ帰ってきたんだな、無意識に……。今何時だ?」
時計を見たら、午前五時になろうとしているところだった。
俺は、布団《ふとん》を敷《し》いてからまた居間へ行ってみた。
宴会《えんかい》は昨日の午後六時|頃《ごろ》から始まったので、かれこれ十一時間はたっていることになる。さすがにまだ飲んでいる[#「まだ飲んでいる」に傍点]のは、画家と詩人だけだった。すげぇな、この二人。
「長いトイレだったねぇ、夕士クン」
ラクガキみたいな顔がほとんど変わっていないことが、ちょっと怖《こわ》い一色黎明《いっしきれいめい》詩人。大人向けの童話作家でもある。
「相棒は潰《つぶ》れたぜ」
こちらもあまり変わっていないことがさすがな、深瀬明《ふかせあきら》画家。海外とヤンキーな奴《やつ》らに人気があり、個展会場とかで時々暴れることもあるヤンキーアーティストである。
二人は、雪見障子のところに並んで、闇《やみ》の中にチラチラと降る雪とそれ以外のモノを眺《なが》めながら、静かに飲んでいた。いい感じだ。俺もこんなふうに飲めるようになりたいな。
ホットカーペットとこたつと、うまい鍋《なべ》と人いきれで暖かい居間で、画家と詩人以外は累々《るいるい》と死体のように転がって眠《ねむ》っていた。大手|化粧品《けしょうひん》メーカーに勤める妖怪《ようかい》「佐藤《さとう》さん」、妖怪|託児所《たくじしょ》の保母「まり子さん」、庭の手入れが趣味《しゅみ》の妖怪(?)「山田《やまだ》さん」、魔道書《まどうしょ》『|七賢人の書《セブンセイジ》』の主《マスター》、俺の先輩[#「先輩」に傍点]の「古本屋」、そして、
「プフッ」
俺は吹《ふ》き出《だ》してしまった。
クリを抱《だ》いて、長谷《はせ》がなんとも幸せそうに眠っていた。
長谷|泉貴《みずき》は、俺の親友。小、中学校を通じて俺を支え続けてくれた、唯一《ゆいいつ》の友。普段《ふだん》は都内の超《ちょう》一流進学校に通っているから会えないけど、休みとなればバイクを飛ばして俺に会いに……というよりもアパートに泊《と》まりに来るのを楽しみにしている。なかでも、クリは長谷の大のお気に入りだ。
実の親に虐待《ぎゃくたい》されて死んだ男の子の幽霊《ゆうれい》のクリ、育ての親の犬のシロとともに、このアパートで長谷やみんなに可愛《かわい》がられながら成仏《じょうぶつ》するのを待っている。
そのぷくっと下ぶくれの可愛い顔をしたクリを、まるでぬいぐるみのように抱《だ》いてすやすやと、小さな子どものように寝《ね》ている長谷だが、こいつがこんなに爆睡《ばくすい》するなんて、いったいどんだけ飲んだんだと恐《おそ》ろしくなる。
クリを守るように、長谷の頭にくっついて寝そべっているシロが俺に気づいて尻尾《しっぽ》を振《ふ》った。その尻尾が長谷の顔を叩《たた》くのがおかしかった。容姿端麗《ようしたんれい》、頭脳明晰《ずのうめいせき》、金持ちの息子《むすこ》なのだが、ニヒリストでリアリストで、さらに腹黒く、町の不良どもを牛耳《ぎゅうじ》って傘下《さんか》に取りこみ「組織作り」をし、将来は自分の父親が重役を務める大会社を乗っ取ろうと企《たくら》んでいる……そんな大それた奴《やつ》の、こんな微笑《ほほえ》ましい姿なんてこのアパート以外じゃ絶対に見られない。俺だけが知っている顔。
「このまま寝《ね》かしておいても大丈夫《だいじょうぶ》か」
それじゃ、俺は部屋で寝ようと振《ふ》り返《かえ》ったそこに、秋音《あきね》ちゃんが立っていた。
「あ、起きたのね、夕士くん。じゃ、やろうか」
「ハ……」
「初水行[#「初水行」に傍点]ね! 身が引きしまるわね〜〜〜!!」
久賀《くが》秋音ちゃんは、除霊師《じょれいし》を目指す霊能力者の卵。現在、妖怪《ようかい》たちが治療《ちりょう》に行くという「月野木《つきのき》病院」で丁稚奉公中《でっちぼうこうちゅう》。俺の「修行《しゅぎょう》」のトレーナーを務めてくれている。
俺の修行というのは、アパートの地下の洞窟風呂《どうくつぶろ》の横にできた「滝《たき》」での水行である。滝は、秋音ちゃんが俺の修行のために「造ってくれ」と大家さんに頼《たの》んだら……できた。
「先に行ってるね!」
秋音ちゃんはそう言って元気に地下へ下りていった。いや、別に修行は昨日も変わりなくしたからいいんだけど……。
「元旦《がんたん》ぐらいは休みかなと思ってたぜ……」
俺の後ろで、詩人と画家が声を噛《か》み殺《ころ》して笑っていた。
元旦《がんたん》。
薄《う》っすらと明け始めた空の下(でもまだ星がいっぱい)、俺は海水パンツ一丁で滝《たき》に打たれている。
今年もよろしく。
[#改ページ]
[#挿絵(img/06_009.png)入る]
妖怪《ようかい》アパートの正月
「はわわわぁぁああ〜……」
冷えきった身体が、温泉の温かさの中で溶《と》けてゆく。足先から頭の先まで、じゅじゅ〜んと痺《しび》れきる快感。
岩風呂《いわぶろ》の横の滝場《たきば》は、なぜか空がぽっかりと開けている。その空が、いよいよ明けてきた。青空の高いところに、極彩色《ごくさいしき》の雲が虹《にじ》のようにたなびいている。そこに黄金色の光が射《さ》してきた。
「おー、明けてきた、明けてきた」
どやどやと、初風呂に入るべく、男どもがやってきた。長谷もいる。
「間に合った〜」
「ご来光を拝みながらの初風呂! 最高!!」
「みんな酒が抜《ぬ》けきってないのに、大丈夫《だいじょうぶ》っスかぁ!?」
「だぁ〜いじょうぶ! 迎《むか》え酒《さけ》があるサー!」
迎え酒があることがはたして大丈夫《だいじょうぶ》なことになるのかは不明だが、不良大人どもはお銚子《ちょうし》を何本も抱《かか》えての初風呂《はつぶろ》だった。まだ飲むのか! まあ実に、いつものこの人たちらしい。
滝《たき》の向こうから朝日が顔を出し始めた。黄金の光が滝場と風呂場に降りそそぐ。
「お〜〜〜!!」
「綺麗《きれい》だ……!」
拍手喝采《はくしゅかっさい》の中、俺は隣《となり》に並んだ長谷と、ちょっと顔を見合わせた。長谷は、ふっと軽く笑った。俺は、なんだか感慨深《かんがいぶか》かった。ちょうど一年前の元旦《がんたん》を思い出す。
アパートを出て寮《りょう》で暮らし始めたものの、嫌《いや》なことが重なり、人間関係や自分に自信が持てずに不安で仕方なかった時だった。一人で過ごすはずだった大晦日《おおみそか》から元旦、長谷は家族旅行をキャンセルして俺に会いに来てくれた。
バイト先でもらった弁当とコンビニのおでんをつつきながら、心ゆくまでしゃべり合い、明けた年。ちょうど夜が明ける頃《ころ》に力|尽《つ》きて寝《ね》ちまったから、去年は初日の出は見てないけど。
今、アパートのみんなと、そして長谷とともに新しい年を迎えることが幸せで……。泣きそうになるくらい……。
初日の出の美しさに、俺は言葉もないほど感動していた。たとえそれが、どこの太陽か不明[#「どこの太陽か不明」に傍点]でも。
「ホントに、なんて綺麗《きれい》なのぉ〜〜〜!」
と、後ろから声がした。
まり子さんが、全裸《ぜんら》で立っていた。
「うわああ――っ!」
俺と長谷は悲鳴を上げて飛び上がった。思わず。
煌《きら》めく黄金の朝日に照らされて、まり子さんのスーパーダイナマイトボディの、なんて神々《こうごう》しいまでに美しいこと! でも、全裸はいけません。全裸は!! いくらなんでも飛び上がります。
「まり子ちゃん! せめて前は隠《かく》しなさいっ。アタシたちはいいけど、高校生がいるんだから。高校生が」
詩人は一応そう言ってくれたが、画家や佐藤さんは笑い転げていた。
「こうあけすけに見せられちゃ、妙《みょう》な気も起こらねーって!!」
「いや〜、でも実におめでたいというか、ありがたい姿だよねー」
古本屋はパンパンと柏手《かしわで》を打った。
「弁天様ってわけだ!」
「ギャハハハハハ!!」
まり子さんは死んでからもうずいぶんたつので、女性の恥《は》じらいなどスッカリない。一皮むけばその中身はオッサンなのである。だからまあ、その素晴《すば》らしい姿にも色気とかはないんだけど。
「まったく、ここの人たちゃあ……」
長谷は苦笑いした。
俺はたまらなく笑えてきて、大人どもと一緒《いっしょ》になって大笑いした。
風呂場《ふろば》と滝場《たきば》に笑い声がこだました。初大笑いだ。めでたい。
暖《あった》まって寝《ね》なおして、昼頃《ひるごろ》ゴソゴソ起きだした。
居間は綺麗《きれい》に片付けられ、正月の花が活《い》けられていた。クリとシロが、並んで雪見障子の向こうを眺《なが》めていた。
「クリ〜」
長谷が嬉《うれ》しそうに声をかけると、クリが嬉しそうに寄ってきた。長谷が買ってきたぼんぼり付きの靴下《くつした》を履《は》いている姿が、なんとも可愛《かわい》い。クリは寒さ暑さはあまり感じないらしく、一年じゅう薄《うす》い半袖《はんそで》のシャツと黒ズボン(これは、こう見えるだけ[#「こう見えるだけ」に傍点]とか、そういうことは置いといて)に裸足《はだし》だ。長谷は、
「見てるこっちが寒いからな」
と、ニットのカーディガンとか靴下をたくさん買ってきた。それを身に着けているクリを見る長谷のデレデレした顔はもう……眩暈《めまい》がする。
「あ、起きてきた」
秋音ちゃんが顔を出した。
「おはよう、秋音さん」
「ウはよーッス」
「お昼ご飯食べる?」
昨夜《ゆうべ》からごちそう続きなので、昼はシンプルにということだったが、
「寒ブリ!」
「うわっ、うまそう! ピカピカだ!!」
今朝届けられたばかりの寒ブリの刺身《さしみ》と、柚子味噌《ゆずみそ》で食べる大根と豚肉《ぶたにく》の煮物《にもの》、大根の皮のきんぴら、ブリの赤だし。赤蕪《あかかぶ》の漬物《つけもの》。そして白飯! 充分《じゅうぶん》ごちそうだよ。
「うまい〜〜〜、寒ブリ! アゴがキューッとなる、キューッと!」
「この柚子味噌《ゆずみそ》、絶品! これ、柚子味噌が主役だなぁ。これだけでも酒のアテになりそうだ」
「ハイ。ブリの赤だしには、お好みで七味をどうぞ。お雑煮《ぞうに》もあるよ」
「ありがとう、秋音さん」
「るり子さん、うまいっス!」
「サイコーです!」
俺たちが絶賛すると、アパートの賄《まかな》いを一手に担《にな》う手首だけの幽霊《ゆうれい》るり子さんは、その細くて綺麗《きれい》な指をもじもじとからませた。大晦日《おおみそか》だろうが正月だろうが、るり子さんの仕事には一分《いちぶ》のスキもなし! 今年も絶品!!
寒ブリの刺身《さしみ》と白飯がうまくてうまくて、またブリの赤だしもうまかったけど、雑煮が刺身と白飯にムチャクチャ合って(るり子さんの雑煮は、大根、にんじん、里芋《さといも》の入った白味噌仕立て)、止まらなくて、俺たちはどこがシンプルかというぐらい食いまくった。
腹がぱんぱんで苦しくて寝《ね》そべっていたら、雪見障子から外が見えた。
冬の妖怪《ようかい》アパートの庭は、赤と白の寒椿《かんつばき》で美しく彩《いろど》られている。そこに、動き回る小さな雪ダルマがたくさんいたり、握《にぎ》りこぶしぐらいの雪(?)の塊《かたまり》が足元から「水をくれ」と声をかけてきたりする(でも、水をやったらいけないそうだ。ものすごい冷気を発するらしい)。
「雪……あんまり積もってないのな」
昨日からちらちらと降り続いてはいるものの、雪は庭を薄《う》っすらと染めた程度だった。クリがさっきからずっと庭を見ている。
「もっと積もってほしいのか、クリ?」
クリはこくりとうなずいた(クリは口がきけない)。
「滝《たき》の横に、大家さんが大雪原≠ヨの穴をあけてくれたわよ」
と、秋音ちゃんが言った。
「大雪原!?」
滝場の周囲はぐるりと崖《がけ》で囲まれているが、うちの大家は、その崖にどこか[#「どこか」に傍点]へ繋《つな》がる穴をあけることができる。秋には、一面のススキの野原への穴をあけた。
「行ってみようぜ、長谷!」
「おう!」
俺たちは飛び起きた。
「ちゃんとあったかくして行くのよ」
「ハーイ!」
上着を着てマフラーを巻いて地下へ下りる。クリもついてきたので、ブルーのケープを着せた。
滝《たき》を囲む崖《がけ》に、普段《ふだん》はない穴があいている。そこを抜《ぬ》けると……
大雪原。
大雪原だった。まさに。
見渡《みわた》す限り地平線まで三百六十度、真っ白の雪景色。
さえぎるものは何もない。わずかに黒い裸《はだか》の木がポツポツと立っているだけ。
俺たちが出てきた穴は、俺たちの背丈《せたけ》ほどしかない岩にあいていた。そこも雪をかぶって真っ白だった。
空は青みがかった灰色で、地平線が少し黄色っぽく明るかった。遠くに、わずかにコォォと風の音が聞こえるだけ。
生き物はいないのだとわかった。
この、ものすごく広い空間はこれだけ[#「これだけ」に傍点]で、どこにも行けず、何もないのだ。
美しかった。
すべてを削《そ》ぎ取《と》った純粋《じゅんすい》な、結晶《けっしょう》のような世界。こんな世界は、普通《ふつう》じゃ見られない。
でも、美しいがやはり淋《さび》しい。哀《かな》しい夢を見ているような、心細い気持ちになる。
チラリと長谷を見ると、長谷はクリをぎゅっと抱《だ》きしめていた。
「ズルイ」
と思った。
俺は、クリごと長谷を抱きしめた。
「何やってんだ」
「いや、ちょっと……。ここ、綺麗《きれい》だけど淋しいな。あんまり何もなくて」
「ああ。でも、こんな景色はめったに見られないぜ。何もない場所なんて……地球にはないもんな。砂漠《さばく》ぐらいか」
「砂漠《さばく》にだって生き物はいるぜ」
俺たちは、少し歩いてみた。
さくさくと、雪を踏《ふ》みしめる音がした。雪を踏む感触《かんしょく》は、とても心地好《ここちよ》かった。なんだか、このままどこまでも歩いてみたい気持ちになった。
さくさくさく。少し足が速くなる。
「ふふふ」
楽しくなってきた。
ザックザックザック。駆《か》け足《あし》になる。
シロが俺たちを追《お》い越《こ》して走っていった。
「オッシャ――ッ!」
俺はダッシュした。長谷が「アハハ」と笑った。
「ト―――ッ!!」
純白の処女雪の上へダイブする。ボフッ! と、身体が雪に沈《しず》んだ。
「うおっ、気持ちい――!」
「どれどれ」
長谷は俺にクリを預けると、仰向《あおむ》けに雪の上へ倒《たお》れた。ボフッと、長谷の身体もすっかり雪に沈《しず》んだ。長谷は倒れたまま大笑いした。
「何やってんだ、俺たちは? こんなガキみたいなこと!」
「シロはもっと喜んでるぜ!?」
普段《ふだん》クリのそばに付きっきりのシロが、雪原をくるくる走り回っている。
「シロ母さんも、やっぱり犬なんだなぁ」
広い場所を駆《か》け回《まわ》るシロは、普通の犬らしくて可愛《かわい》らしかった。
俺たちは雪を掛《か》け合《あ》いしたり、雪ダルマを作ったりして遊んだ。長谷を真似《まね》て、クリは一生懸命《いっしょうけんめい》雪ダルマを作った。見渡《みわた》す限りの純白の大地を独占《どくせん》して、最高に贅沢《ぜいたく》な気分だった。
そこへ、ワンワンと太い鳴き声が聞こえた。向こうから灰色の犬が、猛烈《もうれつ》な勢いで走ってくる。
「シガーだ!」
深瀬画家の愛犬シガーは、体重が五十キロもある狼《おおかみ》の血を引く犬。画家が旅行する時は、バイクの後ろにタンデムする姿が有名だ。旅行先が街中だと繋《つな》がれているが、広くて人がいない場所だと放されている(川原とか海辺とか。画家はそんな場所でキャンプするのが好きなんだ)。アパートにいる時はもちろん放し飼いだが、たいてい飼い主の部屋で寝《ね》ている。
シガーは、久しぶりにだだっ広いところへ来て大喜びしているようだ。矢のように俺たちのもとへ飛んでくると、俺と長谷を押《お》し倒《たお》し顔じゅうを舐《な》め回《まわ》し、クリのほっぺたに軽くキス(それでもクリは、吹《ふ》っ飛《と》ぶように倒れた)した後、シロと走りまくり、まるでケンカかと思うほど取っ組み合って遊んだ。
「まさに、犬は喜び庭|駆《か》け回《まわ》り、だな」
長谷が笑った。
「おーい、ガキども!」
穴から大人たちがぞろぞろ出てきた。肩《かた》にシャベルとか担《かつ》いでいる。
「かまくら作ンぞ―――!」
俺と長谷は、顔を見合わせてから飛び上がった。
「ワ――イ、かまくら――!」
それから俺たちは、何時間もかけてかなり本格的なかまくら作りに取り組んだ。
十人ぐらいが入れる「広間」はもちろん、「トイレ」を作ったり「ベッドルーム」を作ったり、無意味に「階段」を作ってみたり。すごく手のこんだ砂遊びをしているようで楽しかった。
雪原の空が、青灰色《あおはいいろ》から薄《うす》い群青《ぐんじょう》へ少し色を深めた頃《ころ》(この世界は、これ以上は暮れないらしい)、かまくらは完成した。時間は午後六時だった。
「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!」
全員で万歳三唱《ばんざいさんしょう》。
かまくらの中へ、敷物《しきもの》だのこたつ布団《ぶとん》だのテーブルだのを持ちこみ、内装を整える。雪の壁《かべ》にいくつもくぼみを作り蝋燭《ろうそく》を灯《とも》すと、美しく暖かな雰囲気《ふんいき》が満ちた。
「暖《あった》かいスね、かまくらの中って」
キンと張りつめたような外気に比べ、かまくらの中の空気は、ほわんとゆるんでいる感じがする。
「これでアラスカで暮らしてる人もいるからネ〜」
「宴会《えんかい》始めっぞー!」
画家が、大きな鉄鍋《てつなべ》を提《さ》げてきた。
「待ってましたー!!」
ヤンヤの拍手喝采《はくしゅかっさい》。
コンロの上に置かれた鍋の蓋《ふた》を開けると、なんともいいがたいダシの香《かお》りが、かまくらじゅうに広がった。気絶しそうなくらいトロンとした。が、その鍋《なべ》いっぱいに、でっかいモチが詰《つ》まっていた―――ように見えた。
「モチ!?」
俺はびっくりして鍋を覗《のぞ》きこんだ。いきなりモチ?? 大人たちが笑った。
「聖護院大根《しょうごいんだいこん》ですね」
と、長谷が言った。
「えっ、聖護院大根って、こんなにでけえの!?」
鍋に収まっている姿は、まさに「鏡餅《かがみもち》」そのもの。でかくて丸い! それがダシを含《ふく》んで、なんともいい色合いに染めあがっていた。
「これは前菜≠諱Bだからこれだけ、なんだって」
秋音ちゃんが解説してくれた。
「これが前菜!?」
「昆布《こんぶ》とグジのダシで、た〜っぷり煮《に》こんであるから。ほらっ」
大根に箸《はし》を入れると、こんなにでっかい大根なのにまるでバターのようにさっくりと、ふんわりと切れた。
「グジのダシ」
喉《のど》がゴキュッと鳴った。グジは、冬の関西、特に京都で人気の赤甘鯛《あかあまだい》のこと。白身で上品な味の魚だ。秋音ちゃんは、切り取った大根に柚子味噌《ゆずみそ》をちょんとのせた。
「はい、どうぞ」
昼飯に食べた「万能柚子味噌」に惚《ほ》れこんだ長谷は、目をキラキラさせている。
「ん〜〜〜っ!」
「たまらんっ!!」
「ダシ……日本人の魂《たましい》!!」
次々と絶賛の声が上がる。
口に入れたとたん、綿雪のようにふわあっと溶《と》けてゆく大根のやわらかさと、口中に広がるダシの旨《うま》み。柚子味噌のアクセント。食べてるこっちがとろけそうだ。
「これは、やっぱり日本酒だねぇ!」
「イヤイヤ。焼酎《しょうちゅう》もイケますぞ」
「まぁまぁまぁ」
「イヤイヤイヤ」
大人どもは、食って飲んで食って飲んで忙《いそが》しい。
「これは温まるなぁ〜」
「なんちゅー贅沢《ぜいたく》な前菜だよ」
俺も長谷もうっとりした。鍋《なべ》からはみださんばかりだった聖護院大根は、みるみるなくなっていった。
「さて。メインは残ったおダシでグジ鍋で――す!」
大鍋いっぱいに具材を入れ、グジの切り身をしゃぶしゃぶ風にして食べる。
身体が汗《あせ》ばむくらいだった。みんなでぎゅうぎゅうになって鍋を囲む。
「幸せだなぁ」
俺はしみじみと思った。大晦日《おおみそか》に続いて元日も。
「子ども組には、細巻きとおにぎりがあるわよー」
赤いお重に、しんこ巻きとうなキュウ、そしてシンプルおにぎりが入っていた。
「るり子さん……素敵《すてき》だ!」
「気遣《きづか》ってくれてるよなぁ」
「るり子さんに手抜《てぬ》かりナシよ♪」
鍋《なべ》に寿司《すし》が死ぬほど合った。まったく、このまま死んでもいいと思えるほどうまかった。
ワイワイやってるところへ、かまくらの入り口からヒョコッと黒い人影《ひとかげ》が現れた。
「やあ、また楽しそうなことをやってるねぇ」
「龍《りゅう》さん!」
長身|痩躯《そうく》に黒い服をまとい、長い黒髪《くろかみ》を後ろで束ねたこの美男子は、アパートの住人で高位の霊能力者《れいのうりょくしゃ》(らしい)。秋音ちゃんの大、大先輩《だいせんぱい》で憧《あこが》れの人。
「オー、久しぶり!」
「あけましておめでとう!」
「おめでとー!!」
「さあさあ、入れよ。鍋も酒もまだまだあるゾー!」
「では、私もお土産《みやげ》を」
龍さんは酒瓶《さかびん》を出した。
「おお、魔王《まおう》≠セ!」
「あンたにピッタリだよ!!」
全員|大爆笑《だいばくしょう》。宴会《えんかい》はいっそう盛り上がった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/06_026.png)入る]
本当に必要なこと
「そうか。大祓《おおはら》えを体験できたか。よかったね」
俺の話を聞いて、龍さんは優《やさ》しく笑った。
大晦日《おおみそか》。ナマハゲに囲まれて、小突《こづ》かれて叩《たた》かれて、一緒《いっしょ》に鍋《なべ》を食って笑って。嫌《いや》な思い出が記憶《きおく》の遠くのほうへ飛んでゆくのを感じた。新しい年に向けて、気持ちを改めることができた。これが「大祓えだ」と、長谷が教えてくれた。
「大掃除《おおそうじ》や迎春《げいしゅん》の準備は、魔《ま》を祓い、年とともに気持ちを改める一種の儀式《ぎしき》でね。きちんとやったほうがいいんだよ。家じゅうピカピカにしろとは言わないがね。私も自分の部屋は放《ほ》ったらかしだしね」
そう言って、龍さんはペロッと舌を出した。
この人の言葉は、いつも高く、深い。プロの豊富な知識と経験(一見二十五、六|歳《さい》に見えるが、本当の年齢《ねんれい》は不明すぎるほど不明)に裏打ちされた意見には、いつも感銘《かんめい》を受ける。
『君の人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜《ぬ》いていこう』
と、この人に言われたからこそ、俺はそう思うことができた。この言葉は俺の宝物になった。
でも龍さんは、決して聖人君子じゃない。優《やさ》しいだけの人じゃない。このアパートの住人たちがそうであるように、清濁併《せいだくあわ》せ呑《の》み、正も負も、光も影《かげ》も等しく重んじ、時に大失敗をやらかす人。
「あはは、失敗しちゃった」
と、舌を出す人だ。
だからこそ、俺は安心してこの人の話を聞ける。もっと何か話してくれと思える。もっと話を聞いてくれと思える。「この人のようになりたい」と、思うことができるんだ。
うまいグジ鍋《なべ》をつつきながら、俺たちは心ゆくまでしゃべり合った。
俺は龍さんに、条東商に来た新任教師のことや、文化祭のことを話した。俺のクラスの新しい担任|千晶《ちあき》については、特にいろいろ話題が尽《つ》きなかった。
「明さんに似てるってだけで、もう教師としてはユニークだな」
龍さんは笑った。
「教師はそれぐらいのほうがいいよぉ!?」
他の大人どもが口々に言う。
「そーそー。マジメなセンセイなんて、全然|記憶《きおく》に残ってないもんネー。報《むく》われないよねぇ、ああいうタイプの人たちって」
そうそう。ここの不良で変人で人間|離《ばな》れした大人たちも、かつては学生だったんだよな。詩人に画家に、古本屋も? 龍さん……も?
「俺がいた高校なんざ、ずーっと竹刀《しない》を持ち歩いてたセン公がいたぜ。丸坊主《まるぼうず》で口髭《くちひげ》生やして、一年じゅう真っ赤なジャージ着てて、歩く姿がヤー公そのものでヨ」
「アハハハハ!」
「だがこいつは、俺が殴《なぐ》り飛《と》ばしたK大出の担任よりも、ずっと生徒に親身だったぜ。女どもにも人気があった。どっから見ても、今にも女を売り飛ばしそうなツラはしてるんだけどな」
「そういうもんだよネー。マジメなエリート先生が悪いとは言わないけどサー」
「エリートでも、人間としてうまくこなれていりゃいいんだよ」
今まさにエリート校に通い、まわりもみんなこぞってエリートの道を進むであろう長谷が、うんうんと大人どもの話を聞いている。
「その点、その千晶先生は、ずいぶんこなれた人みたいだね」
龍さんの言葉に、俺はうなずいた。
「なんで教師になったんだろうって、すんげぇ不思議っス。もし歌手になってたら……スーパースター間違《まちが》いなしかも」
俺は真剣《しんけん》にそう思った。
「明さん似のスーパースターねぇ」
「や。確かに雰囲気《ふんいき》は明さんに似てるんスけど、前髪《まえがみ》を下ろしたら、なんか別人みたいにイメージが変わるんスよ。歌ってる時なんか、普段《ふだん》と違うオーラ出まくり、みたいな」
「ははぁ」
龍さんは顎《あご》をこすった。
「千晶先生は、ただすごく歌がうまい≠フレベルじゃなくて、天才的≠ネんじゃないか? あるいは超人的《ちょうじんてき》≠ニか?」
「え? さ、さぁ、それはよくわかんないス」
「超人的」とは、またおおげさだな。
「多分、一種の『異能者』だね」
「異能者?」
「ジキルとハイドというと聞こえが悪いけど、普段《ふだん》の姿とはかけ離《はな》れた天才的な、超人的《ちょうじんてき》な者に、モードチェンジできる『力』を持っているんだ」
「へえ……!」
俺も長谷も、興味津々《きょうみしんしん》で聞き入った。
「では千晶先生の場合、そんな力を持っているのに、なぜ天才歌手ではないのか? 天才と言われる歌手は世界じゅうに大勢いるのに? この種の『異能者』は、異能力を望んでいない場合が多いんだ。千晶先生は教師をしたいのであって、どれだけ歌の才能があっても、それはなんの役にも立たない。むしろ邪魔《じゃま》……というふうに、天才的、超人的な力はあるけれど、本人はフツーの人として暮らしたいのでフツーに暮らしている、というケースが多いんだよ」
「は〜……」
「もったいない気が……」
「だけど、それでもやっぱり天才は天才であり、超人は超人なんだ。どんなに普通にしてても醸《かも》し出《だ》す雰囲気《ふんいき》が違《ちが》う、佇《たたず》まいが違う。まわりには、その人の秘《ひ》めているもの≠ェ伝わる」
「そりゃそうだ。凡人《ぼんじん》の中に天才が交じってりゃ、凡人にはイヤでもその違いがわかっちまわぁ」
昔から才能の秀《ひい》でていたであろう画家や詩人がうなずいた。この人たちも凡人の間じゃ、さぞ浮《う》いていただろうなぁ。
「そーいうコト」
龍さんは、肩《かた》をすくめて焼酎《しょうちゅう》を飲んだ。
「異能者かあ」
龍さんの話は、まさに千晶そのものを言っているようで驚《おどろ》いた。
普通《ふつう》に簿記《ぼき》の先生をしているけど、千晶からは「秘《ひ》めたもの」が伝わってくる。天才的に歌がうまいってだけじゃない、他にも何かいろいろあるってことが、それが魅力《みりょく》となって生徒たちを惹《ひ》きつけているんだと感じる。
「人は、強い力に惹かれるからね。それがなんなのかわからなくても、確かな力がそこにあるというだけで、人は惹きつけられるんだ」
「業《ごう》≠セよネー」
「業」という詩人の言葉にグッとくる。
「いい異能[#「いい異能」に傍点]に惹かれるならいいんだけどネー」
「そうか、もし千晶が悪人だったら……」
プチ・ヒトラーの誕生だ。あるいはカルトとか!? ゾッとする話だ。
食べ過ぎて腹が苦しくなった俺と長谷は、少し外を歩くことにした。
時計は午前一時を回っていたが、外は変わらず同じ景色だった。薄《うす》い群青《ぐんじょう》の大空を映して雪原は青っぽく、三百六十度の地平線が少し黄色を帯びた銀色に光っていた。相変わらず淋《さび》しいけど、綺麗《きれい》だった。
「異能者かぁ……」
長谷がため息のように言った。
「お前もある意味そうかもな、長谷」
と言うと、
「いや。俺は、ただ単に優秀《ゆうしゅう》ってだけだが」
と、しれっと返す。こういう奴《やつ》だ。
「親父《おやじ》の秘書がそうかもって思ってさ」
「へえ!? ……背の高いほう?」
「そう。第一秘書|兼《けん》ボディガードの結城《ゆうき》」
「去年お前の家へ行った時、ちらっと見たことがある」
超優良企業《ちょうゆうりょうきぎょう》重役である長谷の親父《おやじ》さんには秘書が四人いて、うち二人が常に親父さんと一緒《いっしょ》にいる。一人はいかにも文系のサラリーマンって感じで、もう一人がスラッと背が高くて短髪《たんぱつ》で、ごつい印象は受けないけど運動か武道をしてるなってことがわかる。
「でも、普通《ふつう》の運動部出身のサラリーマンに見えたけど……。実はスゴイ[#「実はスゴイ」に傍点]のか?」
長谷はうなずいた。
「武道に関しちゃ、ケタ外れらしいぜ。前に親父がチンピラ三人にからまれた時、結城は三人を一瞬《いっしゅん》でやっつけたって。マジで一瞬[#「マジで一瞬」に傍点]だったってさ」
「へー」
「お前、アメリカのドラマで『プリテンダー』って知ってるだろ、稲葉」
「知ってる! なんでも見るだけでテクを身につけて、それになりきるってやつ! パイロットでも医者でも!」
「結城は、それだってよ」
「マジで!?」
「結城は、それまでサラリーマンなんてやったことがなかった。でもビジネス秘書の勉強をさせたら、一週間で立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》いからスーツの着こなしまで、完璧《かんぺき》にマスターしたらしいぜ」
「マジで?? スゲエ!!」
「それに、なんかもーすんげぇ過去があるらしくてさ。親父《おやじ》と出会って、やっと普通《ふつう》の生活ができるようになったんだって」
「へぇ……」
龍さんや、世間にいる天才たちのような「能力者」も、千晶のような「異能者」も、龍さんが前に言ったように「否応《いやおう》のない運命に翻弄《ほんろう》される者」なんだ。
自分が望んだわけではない「力」や「才能」を、どうすればいいのか。それによって人生を左右されることを、それに勝手に群がってくる奴《やつ》らを、どうすればいいのか。その対処の仕方に、能力者と異能者の分かれ目があるのかもしれない。一方で、そういう力や才能を欲《ほっ》して欲して……そして、狂《くる》ってゆく奴もいる。
「いったい誰《だれ》が、それを決めるんだろうな……」
異世界の雪原に、呆然《ぼうぜん》と立つ。
青い青い天と地。その狭間《はざま》の銀色の光。その中に、俺たちはぽつんと立っている。
「人は強い力に惹《ひ》かれるってのはわかる。別に天才でなくても、才能のある奴《やつ》にみんな憧《あこが》れるもんだ」
俺はうなずいた。長谷本人がそうだからだ。小学校の頃《ころ》から頭がよくてハンサムで、金持ちで上品で(表向きは)。当然女にはモテたし、そういうことに嫌味《いやみ》がなくてリーダーシップのある長谷を慕《した》う男も多かった(今こいつは、そういう男どもと組織作り≠してるんだが)。
「それが天才なら、なおさらだよな。無条件で心酔《しんすい》というか……傾倒《けいとう》する奴は大勢いるだろう。俺さぁ、なんでカルトみたいな狂信的《きょうしんてき》な連中って、バカみたいな教祖を信じられるんだろうって、すんげぇ不思議だったんだけど。ああいう教祖も一種の異能者と考えれば……」
長谷は、う〜んと首をひねった。
「いや……。なんか……構造的にはそうかもしれないけど、中身は全然|違《ちが》うような……。真逆なくらいに」
「どう違う? そりゃあ、カルト教祖とうちの千晶が同じだなんてことは、ぜーっっったいにないけど」
「結城もモテるよ。モテるっていうより、惹きつけるって感じだ」
「うんうん。そうそう」
「龍さんに似てないか? 彼《かれ》は天才の部類だろうけど。お前、ずいぶん心酔《しんすい》してるみたいじゃねぇか。龍さんもさぞかしモテるだろう。男にも女にも」
「…………」
「それは、なぜか?」
龍さんや、千晶や、結城に共通していること。天才的な超人的《ちょうじんてき》な、とにかく普通《ふつう》の人間とは違《ちが》う力を持っていて、人はそれに惹《ひ》きつけられるが、カルトなんかとは決定的に違うこと―――。
「お前もよく言うだろう、稲葉。等身大で生身の人間だってことだよ」
「……ああ」
「生まれ持った特殊《とくしゅ》な才能や力のせいなのか、初めからそういう運命なのかは置いといて。例えば結城なんかは、小さい時から苦難の連続だった。結城を取り巻く人間関係の、壮絶な問題[#「壮絶な問題」に傍点]だったらしい。詳《くわ》しくは知らないけど。龍さんもそんな感じだろ? なんか、すんげーいろんな過去≠ェありそうじゃん」
「うん」
俺は大きくうなずいた。
「千晶センセイもそうみたいなんだろ?」
俺はさらに大きくうなずいた。
長谷は、俺のほうへ向き直って言った。
「龍さんたちは、そういういろんな経験を、自分の血と肉[#「血と肉」に傍点]にできた人間なんだよ」
「…………」
「才能や力は、天から与《あた》えられるものかもしれない。運命は神が決めるものなのかもしれない。でもそれを宿して生きてゆくのは、生身の人間だ。龍さんのように人間じゃない力を操《あやつ》れても、結城や千晶センセイのように超人的《ちょうじんてき》な才能を持っていても、彼《かれ》らは自分が生の人間であることを忘れない。絶対。基本は常に、俺たちと変わらない等身大の人間だ。そこが、狂信的《きょうしんてき》宗教者や、狂信的犯罪者や、狂信的理想主義者と決定的に違《ちが》うとこなのさ」
「……お前」
「ん?」
「一色さんみたいなことを言う」
「一色さんの言葉は、いつも本当に勉強になる」
長谷は腕《うで》を組んで、うんうんとうなずいた。それから長谷は、おもむろに俺の手を取った。
「俺がこんなにくどくど力説するのはだなあ、稲葉」
「うん」
「お前も異能者≠フ一人だからだよ」
「!」
そうだった。
そうだよな。忘れてたよ。
「思いもかけない力を授《さず》かったけど、その力と折り合いをつけながら、等身大の人間でいてくれよ。これからもずっと……。何が起きても……」
長谷の俺の手を握《にぎ》る力に、不思議な感慨《かんがい》を覚える。
長谷には、何か予感があったのだろうか。
運命の分かれ目は、いったいどこだったんだろうか。
そういうことは、時間がたってみなければわからないものなのだ。人には。
ワンワンと、かまくらのそばでシガーがこっちに向かって吠《ほ》えた。
「ん? ひょっとして帰ってこいって合図かな?」
俺たちは、かまくらへ戻《もど》った。
「あ、長谷ク〜ン。ケータイ鳴ってたってサ」
「そうですか。見てきます、ありがとう」
「携帯《けいたい》、アパートへ置いてきたのか?」
「だってどう考えたって、ここは圏外[#「ここは圏外」に傍点]だろ!?」
「あ、そうか。ハハハ!」
俺と長谷は、かまくらをお暇《いとま》することにした。
「ガキはもう寝《ね》る時間ってか〜?」
「俺は明日の朝も修行《しゅぎょう》があるんっスよ!」
「おやすみ〜!」
また一晩じゅう酒盛りするんだろうなぁ、大人どもは。ホントすげぇよ。どこに入るんだよ、あの酒はよ。
「四次元酒ポケットがあるんだよ」
と、長谷が真顔で言ったのがおかしかった。
部屋へ帰ると、途中《とちゅう》から姿の見えなかったクリが、布団《ふとん》の上でダンゴ虫のように丸まって眠《ねむ》っていた。
「いつの間に」
確かグジ鍋《なべ》が煮《に》えた頃《ころ》、画家と長谷の間にはさまっていたような……。
長谷が携帯《けいたい》を持って部屋を出ていった。
俺が着替《きが》えていると、長谷の怒鳴《どな》る声が聞こえた。どうやら携帯の相手は、親父《おやじ》さんらしい。
「あそこもスゲェ親子だよな」
俺はクスリと笑った。
長谷と親父さんは、決して仲の悪い親子じゃない。たとえ長谷が「いつか親父の会社を乗っ取ってやる」と画策していても、それは別に親父さんが憎《にく》くてのことじゃないんだ。
この親子は、まぁいうなれば「ライバル」だ。長谷の親父さんは、長谷が越《こ》えたい目標なんだな。親父さんも長谷を息子《むすこ》というよりも、スーパービジネスマンになるための修行中《しゅぎょうちゅう》の小坊主《こぼうず》としか見ていないみたいで、まるっきり単なる若輩者扱《じゃくはいものあつか》いだ。
今のところ、あの、あの! 長谷が! 仕事にしろ遊びにしろ、趣味《しゅみ》からファッションまで、親父《おやじ》さんにはまるっきり敵《かな》わない……のが、微笑《ほほえ》ましい。どんだけすげぇ親父か、推《お》して知るべしだろ?
長谷が部屋へ帰ってきた。
「あー、もう!」
こめかみに青筋が立っている。
「どうした? 電話、なんだって?」
「じじぃが入院した」
「仙台《せんだい》の!?」
長谷は苦々しくうなずいた。
「親父のヤロー、俺に様子を見に行ってこいってぬかしやがった。てめーが行けよ! てめーの親父なんだからよ! いつもいつも、俺にばっかりやらせやがって!!」
「オイ」
「あ」
長谷の大声に、クリが起きてしまった。クリクリの目玉をパチクリさせている。
「ごめんごめん。起こしちゃったな〜」
長谷はクリを抱《だ》きしめた。それから大きくため息をついた。
長谷の父方のじいさんは仙台でも有名な名士で、一代で財を築き上げ「財界の怪物《かいぶつ》」とまで言われた人だ。十年ぐらい前に身体を壊《こわ》して、今は仙台のでっかい屋敷《やしき》で隠居《いんきょ》暮らしをしている。
その長谷本家を継《つ》いだのは長男で、次男である長谷の親父《おやじ》さんは、ずいぶん早くに本家を出たらしい。そこらへんに、長谷の親父さんと本家の「確執《かくしつ》」となる何かがあって、本家と分家は事実上断絶状態に等しく、お盆《ぼん》の挨拶《あいさつ》とか、長谷の親父さんもお袋《ふくろ》さんも姉貴も本家へは行きたがらず、従ってあの家ではもっとも下《した》っ端《ぱ》の長谷が、そういう雑事(というか、ありとあらゆる雑事)の任を負わされているわけだ。
「何も、本家へ礼を尽《つ》くすとかそんなんじゃ全然なくてだな、顔を出しとかなきゃ嫌味《いやみ》を言われるからなんだよ。今度だってそうさ。『大旦那様《おおだんなさま》のお見舞《みま》い』なんて殊勝《しゅしょう》なことじゃなくて、『様子を見に行かせたんだから文句たれんなヨ』と、兄貴に言いたいだけなんだよ、うちの親父はヨ」
クリの背中をぽんぽんと叩《たた》きながら、長谷はブツクサ言った。
「どうせ、じじぃの見舞《みま》いどころか病室へも入らせてもらえねぇだろうし、ヘタすりゃ病院の入り口で門前払《もんぜんばら》いだぜ!? 見舞品《みまいひん》だけ巻きあげられて。だから、うちは誰《だれ》も行きたがらねーんだよ」
長谷は、一番下に生まれたことを呪《のろ》った。
この分家の人間は、本家ではまともに扱《あつか》ってもらえない。大旦那様《おおだんなさま》の顔を直接見ることはできないし、直接話すことも許されない。お盆《ぼん》の挨拶《あいさつ》に行っても、四〜五部屋も離《はな》れた場所からでしか大旦那様に拝謁《はいえつ》できないし、泊《と》まる部屋も屋敷《やしき》の一番|端《はし》と決められている徹底《てってい》ぶりだ。
よほど根深い何かが、本家と分家、正確には大旦那様と長谷の親父《おやじ》さん(父親と次男)の間にあるようなんだ。
「横溝正史《よこみぞせいし》の世界だぜ」
俺はいつもそう思う。『犬神家の一族』とか『八つ墓村』とか『悪魔《あくま》の手毬唄《てまりうた》』とか、田舎《いなか》の因縁《いんねん》と因習に彩《いろど》られた骨肉の物語……みたいな感じがしてならない。
「ところで、じいさんの具合はどうなんだ?」
「よくないね。でも、ずーっとよくないんだよ。ずーっと入退院を繰《く》り返《かえ》してる。でも、ずーっと生きてるんだよ」
「怪物《かいぶつ》とか言われただけあって、丈夫《じょうぶ》そうだよな」
「丈夫とかそういうんじゃなくてな、アレは生《い》き汚《きたね》ぇんだよ。じじぃの生き様そのものさ。とにかくしぶとい! 三途《さんず》の川の渡《わた》し賃《ちん》を出し渋《しぶ》ってるとしか思えねえ!」
言いたい放題だな。
「危篤《きとく》状態に陥《おちい》って、医者がもうダメだって言ったのに、誰《だれ》かが小銭《こぜに》を落としたその音を聞いて意識が戻《もど》ったって、そんな話まであんだぜ」
「すげぇな」
俺は苦笑いした。
「でも、じいさんが亡《な》くなったら亡くなったで、また大変じゃねぇ!? すげぇ遺産があるんだろ。それこそ、横溝正史の小説みたいな血みどろの相続争いが起こりそうな……」
「イヤ」
長谷は首を振《ふ》った。
「うちの親父《おやじ》は、相続|放棄《ほうき》してるから」
「ええ――っ、も、もったいなくね?」
「じじぃの遺産には興味ないそうだ。金には不自由してないしな」
うう〜む! さすが長谷の親父《おやじ》……カッコイイぜ!
「まったく正月からブルーなことだが、明日とりあえず家へ帰るよ」
クリを寝《ね》かしつけて、長谷は言った。
「うん。まぁ、親父さんの代わりにじいさん孝行してやれよ」
「せっかくアパートに来てんのに」
「これも功徳《くどく》だろ」
俺は合掌《がっしょう》した。長谷はおおげさに肩《かた》をすくめた。
翌日。
「二、三日したらまた来るからな」
と、長谷はクリに言い聞かせた。が、クリは下ぶくれのほっぺたをさらにプクッと膨《ふく》らませて、珍《めずら》しく怒《おこ》ったようだった。プイとそっぽを向いて、廊下《ろうか》を走っていってしまったんだ。
「クリ〜!」
ガックリとうなだれる長谷の姿は、気の毒を通《とお》り越《こ》して、なんだかおかしかった。俺は笑いをこらえながら、長谷の丸まった背中を叩《たた》いた。
「不良どもの総帥《そうすい》がだな、赤《あか》ん坊《ぼう》に嫌《きら》われたぐらいで落ちこむなよ」
長谷はガバッと身を起こした。
「お前は何もわかってない! あの家で一番|下《した》っ端《ぱ》ってことが、どれほどストレスのたまるものか! しかも本家へ行けば、俺はさらに一族じゅうでもっとも下っ端になり下がるんだぞ! ストレスたまりまくりだっての! そうでなくても、いろんなストレスがたまってんだ、俺は!!」
めったに聞けない長谷の「叫《さけ》び」を聞いて、俺は、
「よっぽど本家へ行くのが嫌《いや》なんだな〜」
と思った。クリは、そんな長谷の「癒《いや》し」なわけだ。
まぁなぁ、容姿は端麗《たんれい》、頭脳は明晰《めいせき》、身分も人望もある長谷の、完璧《かんぺき》ともいえるそれらの武器が一切《いっさい》通用しないってことは、さぞストレスになるだろうとは思う。
「クリには、俺がよく言っといてやる。心おきなく虐《しいた》げられてこい」
そう言って、俺は長谷を送り出した。
居間に入ると、正月らしくだらしなく(いつもか)寝《ね》そべった大人どもが、みんな笑っていた。
「長谷クンも苦労人なんだネ〜」
詩人が笑った。
「本物の金持ち[#「本物の金持ち」に傍点]はそうだよな。苦労も努力もしてるよな」
古本屋の前に置かれた小さな七輪の上で、餅《もち》がさっきのクリのようにプクッと膨《ふく》れていた。
「クリたんが怒《おこ》るっていうのも珍《めずら》しいんじゃないかなぁ。感情が豊かになってきたよネー。やっぱり、子どもには情感が必要なんだよネ〜。長谷クンとは、癒《いや》し癒されてるんだろうナー」
詩人の言葉が胸に響《ひび》く。
長谷の、あの恥《は》ずかしいほどのクリラブっぷりは、クリを通して長谷自身にフィードバックされているのだ。「小さき者を愛する」ということは、こういうことなんだな。
「長谷一族って、あれ? 長谷コンツェルンとか、そんな感じのもん?」
と、古本屋に訊《き》かれたが、実は俺もよく知らない。
「や、コンツェルンってほどでもないみたいスけど、けっこう大きな複合|企業《きぎょう》らしいスよ」
「長谷くんの父上は、そこから出て自分一人の力で、今の地位までのし上がったわけだろ。エライよねぇ〜」
同じく、いちサラリーマンの佐藤さんが感心して言った。
「怪物《かいぶつ》って言われたじいさんの商才を、ホントに受《う》け継《つ》いだのは長谷の親父《おやじ》さんのほうみたいス。兄貴じゃなくて」
「なのに、一族を捨てて裸一貫《はだかいっかん》で出直しとは……。彼《かれ》は何を思いその道を選んだのか。ドラマチックだねェ〜」
「自分の力を試《ため》したかったんだろ!? 男のロマンだよ」
「一代記が書けそうだね」
「莫大《ばくだい》な財産を巡《めぐ》る骨肉の争い……長谷家の一族=v
「まンま、パクリじゃん!」
「ギャハハハハハ!」
勝手に盛り上がっている居間を後にして、俺は部屋へ戻《もど》った。
と、部屋の中には龍さんがいた。
「ごめんよ、勝手に入って」
龍さんは俺の布団《ふとん》の横に寝《ね》そべっていて、布団にはクリが寝ていた。
「ここで泣いていたもんでね」
龍さんは、クリの頭をそっと撫《な》でた。
「クリ……」
長谷のことを怒《おこ》って、そして悲しくなって、ここで泣いていたクリ。なんて可愛《かわい》らしいわがままだろう。俺はジーンとした。
「長谷が……家の用事で急に帰ることになっちゃって……」
「それがつらかったのか」
「その前にむくれましたよ。プイッて」
龍さんは笑った。
「一色さんが、クリは感情が豊かになってきたって」
「うん……。クリがここに来て、もう五、六年たったなぁ」
「えっ、そんなに!?」
「最初は縁側《えんがわ》にずっと座《すわ》ったまま、全然動かなかったよ。呼んでも反応しなかったな」
生まれた時から、実の母親に虐待《ぎゃくたい》され続けたクリ。そのあげくに殺されて、それでもまだ飽《あ》き足《た》らない母親の怨念《おんねん》につきまとわれて……途方《とほう》に暮《く》れて呆然《ぼうぜん》と縁側に座りこんだ、小さな小さな後ろ姿が目に浮《う》かぶ。
俺は、ちょっと目を腫《は》らしたクリの寝顔《ねがお》を見た。
「泣かしちゃって、かわいそうなことしたな」
「イヤイヤ。この悲しみは、必要な悲しみ[#「必要な悲しみ」に傍点]だから全然|大丈夫《だいじょうぶ》だ」
龍さんは微笑《ほほえ》んだ。
「石のように無表情だったクリも、一色さんや秋音ちゃんやみんながかまって、話しかけて、膝《ひざ》に抱《だ》いてご飯を食べさせて、そうしているうちにちゃんと反応するようになった。呼ばれたら振《ふ》り向《む》き、おいでと言ったらやってくる。おいしいものは、もっとくれと催促《さいそく》する。絵本を読んでくれとせがむ……。クリは幽霊《ゆうれい》だから、身体も脳みそも成長しないけど、心と魂《たましい》は成長しているんだ。人間に本当に必要なのは、これなんだろうね」
身体や脳みそではなく……心が成長すること、か。
「そしてクリは、初めて人を好きになった。クリが積極的に抱っこをせがむのは、君と長谷君だけだ。クリの中に、ずっと一緒《いっしょ》にいたいとか、甘《あま》えたいとか、別れが悲しいという感情が生まれた。人を好きになって、その喜びと悲しみを知ったクリは、すごく成長したと思うよ」
そう言ってクリを見る龍さんは、父親のような母親のような顔をしていた。
「このままうまくいけば、クリは自分の力で成仏《じょうぶつ》できるようになるかもしれない」
俺は、ハッとした。
「母親の怨念《おんねん》を振りきって?」
龍さんはうなずいた。
クリを縛《しば》っている母親の妄執《もうしゅう》が消えない限り、クリは成仏《じょうぶつ》できないと言われていた。
ボロボロになって、もう女の形どころか人の形さえとどめていないほど魂《たましい》が崩《くず》れても、まだ「クリを殺す」という一念だけは持ち続けている母親。それは、母親がそれだけしか持てなかった[#「それだけしか持てなかった」に傍点]だけに、龍さんでさえ説得できないほど強く、深い。この念に囚《とら》われている限り、クリは成仏できない。
「だが、母親の怨念《おんねん》もやっと薄《うす》れつつある。クリの魂に力がつけば、振《ふ》りきれる可能性が出てきた」
「そうか……」
俺は、クリの短い髪《かみ》を撫《な》でた。
クリが成仏する……。喜ばしいことなんだろうけど、俺はなんだか切なくなった。
「クリがいなくなったら淋《さび》しいなあ。長谷はショックで寝《ね》こんじまいますよ!?」
龍さんは、喉《のど》の奥《おく》をクックと鳴らした。
「もうすぐって話じゃない。まだまだ時間はかかるよ。第一、クリが長谷君と別れたがらないだろうさ」
龍さんも俺も笑った。シロもぱたぱたと尻尾《しっぽ》を振っていた。
純粋《じゅんすい》な愛情と素直《すなお》な感情を、目に見える形で見せてくれるクリとシロ。
人に本当に必要なものを教えてくれる、小さな二つの魂《たましい》。
「俺が生きてる間は、成仏《じょうぶつ》は待ってくれよ!?」
と、わがままを言ってみる。
クリのご機嫌《きげん》が直るように、るり子さんにケーキでも焼いてもらおう。
そして、短い冬休みは瞬《またた》く間に過ぎ……。
結局、長谷は冬休み中にアパートへは戻《もど》ってこられなかった。じいさんの容態が安定せず、長谷はじめ集まった親族たちは、じいさんが亡《な》くなった時に備えて、本家で待機していなければならなかった(じいさんが亡くなったら大騒動《おおそうどう》になるからだ)。
学校が始まったことでやっと長谷は解放され、じいさんの容態はそれを見計らったかのように回復し、長谷はますます怒《いか》り狂《くる》った。
長谷は毎日のように泣き言と恨《うら》み言《ごと》の電話をかけてきて、それに付き合う俺も大変だった。短い三学期は長谷も忙《いそが》しく(生徒会役員だし)、当分アパートに来られないと言っていたから……ストレスで禿《は》げなきゃいいけどな。
[#改ページ]
[#挿絵(img/06_053.png)入る]
修学旅行です
三学期が始まった。
二年生最大のイベント、修学旅行がすぐ目の前に迫《せま》り、生徒たちのテンションは日に日に高まり、教師たちの顔は日に日に曇《くも》ってゆく。
「修学旅行、とっても楽しみですね。雪山に行くんですから、向こうで風邪《かぜ》などひかないように、皆《みな》さん今からしっかり体調管理をしておきましょう。規則正しく食事をして、夜更《よふ》かしなんてしてはいけませんよ」
と、小学校の先生のようなことを言っているのは、二年生の英語の非常勤講師、青木《あおき》だ。隅々《すみずみ》まできっちりとした言動と、美人であるということで、男にも女にも人気があるんだが、どうもいつも一面からしかものを言っていないってとこが玉に瑕《きず》だ。
本人は、本当に生徒のことを思って尽力《じんりょく》しているわけだから、その献身的《けんしんてき》な姿に心打たれる連中がいるのはわかる。でも、なんかこう……薄《うす》っぺらく聞こえるんだよなぁ、青木の言うことって。ただ言葉が綺麗《きれい》なだけで、中身がないって感じがする。今の言い方だってそうだよ。言ってることは至極《しごく》まともだが、高校生に言うことか? こんなふうに、子どものためにって思うあまり、子どもを必要以上に子ども扱《あつか》いしてしまうやり方が、俺なんかはイライラして仕方ないとこだ。
まあ、そんなことはどうでもいいんだが。青木は非常勤だし、修学旅行には同行しない。やれやれだ。四|泊《ぱく》五日の旅行中、朝から晩までこの調子で口を出されちゃ、俺はマジでキレそうだからな。
一方。
「あ〜〜〜、鬱陶《うっとう》しいぜ……。明日あたり、世界が滅亡《めつぼう》しないかな」
と、教師の発言とは思えんことをほざいているのは、千晶|直巳《なおみ》。うちの担任である。
寒さのせいで一段と顔色の悪い貧血症《ひんけつしょう》のこの先生と、俺はよく屋上の給水塔《きゅうすいとう》で昼休みを過ごす。夏はタンクの下が日陰《ひかげ》になっていて涼《すず》しく、冬は日が斜《なな》めに当たって、風さえ吹《ふ》かなきゃコンクリが温まって、ぽかぽかと暖かい場所だ。
「あンたそんなガキみてぇなこと……。これも仕事だろ!?」
俺は苦笑いした。
「お前なぁ〜。大変だったんだぞ、冬休み中……」
千晶は、まずそうに煙草《たばこ》をふかした。
「何かあったのか?」
「うちが泊《と》まるはずだったホテルがな、ガス爆発《ばくはつ》で厨房《ちゅうぼう》が吹《ふ》っ飛《と》んだんだ」
「え――っ、大事件じゃん!!」
千晶は、大きく煙《けむり》を吐《は》いた。
「ま〜、慌《あわ》てたのなんの。時間も予算もないから大幅《おおはば》な予定|変更《へんこう》はできんし、高校生四百名弱を受け入れてくれるホテルを探して、旅行会社と打ち合わせ打ち合わせの年末年始だったぜ。ったく」
「出発日に変更はないってことは、代わりのホテルが見つかったのか」
「ああ。古いが、ホテルのランクとしちゃあ、二つ三つ上だ。まぁ、しょうがない。見つかっただけマシだ」
「へへっ、ラッキー♪」
「いいねぇ、生徒は呑気《のんき》で」
千晶は、また大きく煙《けむり》を吐《は》いた。
四百人からのガキどもを連れて歩くんだから、修学旅行は教師たちにとって、もっとも忌《い》むべき行事だろうな。お察しします。俺も実は団体行動は好きじゃない。
「冬のスキー旅行は、比較的《ひかくてき》楽だけどな。生徒には昼間スキーをさせときゃ、夜は疲《つか》れて早く寝《ね》るし、あちこちへ連れていかずにすむ」
「それだけどさぁ、俺みたいにスキーをやったことねえ奴《やつ》は、どうすりゃいいんだ?」
「この機会に滑《すべ》れるようになるんだな。前の予定じゃ、一日だけ観光に行くことになってたが、場所が変わったんでそれもなくなった。ずーっとスキー三昧《ざんまい》だ」
と、千晶は舌を出した。
「あっ、クソー。それって、スキーが嫌《きら》いな奴にとっちゃ拷問《ごうもん》じゃねぇ!?」
「ハ! ここらのコーコーセーで、スキーが嫌いになるほどやってる[#「嫌いになるほどやってる」に傍点]奴がいるかヨ」
「…………それもそうだな」
「もっとも、この旅行で大嫌いになる奴ぁ、いるだろうが」
千晶は面白《おもしろ》そうに笑った。
「あンた、滑《すべ》れるのか?」
「滑れるよ。だが俺《おれ》も、スキーによく行ったのは大学に入ってからだ。だからお前らも、金とヒマができた時の遊びの一つとして、その下地を今のうちに作っとけ」
斜《なな》めにくわえた煙草《たばこ》をくゆらせながら千晶がそう言うと、とても修学旅行の話をしているとは思えない。
金持ちの子である千晶は、金にあかせて遊びまくってきたらしいから、そういう輝かしい経歴[#「輝かしい経歴」に傍点]がにじみ出るあたりも、生徒たちにとっては魅力的《みりょくてき》に映るところだ。噂《うわさ》じゃ――噂の出所は、どうせ田代《たしろ》あたりだろう。田代は、クラブも一緒《いっしょ》の俺のクラスメイトで、アッサリサッパリ付き合いやすい女だが、噂とか情報を収集するにかけては天才的……これも一種の「異能力」か!? ――とにかく(おそらく田代発の)噂じゃ、千晶はサーフィンから乗馬までこなせるらしい。
「先生……サーフィン、やる?」
試《ため》しに訊《き》いてみた。
「やるよ」
煙草をふかしながら、なんてことなく答える千晶。
「乗馬……とか」
「やるけど?」
アッサリ言ってくれるぜ。サーフィンはともかく、乗馬までする遊び人って、どーヨ!?
「ダチの親が、乗馬クラブのオーナーでな。よくみんなでタダ乗りに行った。通ってるうちに馴染《なじ》みの馬ができてさ。俺を見ると、遠くからでもトコトコ来るんだよ。可愛《かわい》かったなー」
学生時代は、遊んだ記憶《きおく》しかないというほど遊び人の千晶だが、それは悪い遊びじゃなかったことがよくわかる。確かに、街のゴロツキどもと交流はあった[#「交流はあった」に傍点]みたいだが。
例えばドラッグがらみとか、金がらみとか、女遊びとか。犯罪まがいの、あるいは犯罪そのものを、ファッションでやってるバカどもがいる。悪《ワル》を「カッコイイ」と思ってる連中だ。
千晶は、悪を「カッコイイ」とは思っていなかった。そういう連中とは、一線を画していた。
俺は、これが千晶の最大の魅力《みりょく》なんじゃないかと思う。この千晶が[#「この千晶が」に傍点]、悪をカッコイイと思っていないってとこが、ちょっとヤンチャの入った男どもや女どもを、すごく惹《ひ》きつけるところなんじゃないかと。
真面目《まじめ》と理想を絵に描《か》いたような青木先生様のお堅《かた》い説教より、普段《ふだん》「遊べ〜、遊べ〜」と言ってる千晶が、「ワルは許さん」と、明確なラインを引く。そのほうが、俺たちはハッとするんだ。そして千晶の場合、「遊べ」という言葉にも、「ダメだ」という言葉にも、血が通っている感じがする。まさに長谷が言ったように、その裏にいろんな経験が詰《つ》まっている感じがするんだ。それらを自分の血と肉にできた者の言葉なんだ。
「何見てんだヨ」
千晶は、煙草《たばこ》の煙《けむり》を俺の顔に吹《ふ》きかけてきた。
「いや……。スキーをする姿も、さぞカッコイイんだろうなぁと思って。女どもが、教えて教えてと殺到《さっとう》して大変だろうなぁと」
しかし、千晶は肩《かた》をすくめて言った。
「そこまでお前らの面倒《めんどう》を見る気はない。スキーを教えるのは、プロのインストラクター。教師は監視役《かんしやく》だ」
「あ、そうなのか。田代ら、あンたに手取り足取り教えてもらう気マンマンだぜ!?」
「お生憎《あいにく》サマと、言っといてちょーだい」
煙草を携帯《けいたい》灰皿に捨てると、千晶は給水塔《きゅうすいとう》を下りていった。
「皆様《みなさま》でご旅行とは、楽しみでございますなぁ」
俺の前に、フールがちょこんと現れた。
「学校の行事の一つなんだよ。学校が一日じゅう続いて、それが五日間もブッ通しって感じなんだ。俺はウンザリするね。るり子さんの料理も食えねぇし。それが一番こたえるな。ウン」
「旅先の食事もまた、楽しみの一つではございませんか」
「修学旅行で出てくる食事がうまいためしなんざねーぜ!? 小学校の時も中学校の時も、うまかった記憶《きおく》はないよ。揚《あ》げ物《もの》も焼き物も冷えてたり、飯はパサパサ……そうそう、それを見越《みこ》して、長谷はふりかけを持ってきてたんだっけ。それ分けてもらったなぁ」
団体行動は嫌《きら》いな俺だが、学校のキャンプや修学旅行は別の意味で楽しみにしてた。伯父《おじ》さん家《ち》から離《はな》れられるからだ。伯父さんたちの目を気にせずにいられて、朝から晩まで長谷がそばにいて、好きなだけしゃべって、同じことをしたり同じところへ行ったり……。
カメラを持っていない俺の代わりに、長谷は自分のカメラで写真をたくさん撮《と》ってくれた。それらはちゃんとアルバムにまとめられて、長谷の家にある。
「いつでも見に来いよ」
と、長谷は言ってくれたけど、俺がやっとそれを見に行ったのは去年、高二になってからだった。
伯父さんの家にいる間は、長谷を家へ呼びたくなかったし、俺も長谷の家へ行きたいと思わなかった。妖怪《ようかい》アパートへ帰ってきて、「プチ」のことも含《ふく》め長谷にすべてを打ち明けて、受け入れられて……やっと長谷の家へ遊びに行く気になれた。俺は初めて、中学のキャンプや修学旅行のプライベートな写真を見たんだ。
「よく撮《と》れてたよなぁ。さすが長谷だよ」
長谷が撮った写真や俺が撮った写真……俺たちは、アッという間に中学生に戻《もど》って、あの頃《ころ》の思い出話をした。気がついたら夜が明けてたぐらい、時間を忘れてしゃべり合った。
「写真というものは、まったく素晴《すば》らしい技術でございますな」
「うん。記憶《きおく》だけじゃ、やっぱり忘れちまうもんな」
写真を見て思い出したことがたくさんあった。忘れていたことがたくさんあった。記憶の中では色褪《いろあ》せ、途切《とぎ》れてしまっても、写真を見ると、そこでその時[#「そこでその時」に傍点]を過ごしていた俺がいて、それが不思議な感じがして……嬉《うれ》しかった。
「そうだ。写真っていえば、長谷がカメラを貸してやるとか言ってたけど……。コリャ忘れてるな!? いろんなショックが重なったからなぁ。……まあ、いいか。どうせ写真は田代が撮りまくるだろうし、それ分けてもらおう」
と、立ち上がった俺に、フールが言った。
「ホルスの眼《め》≠お使いになればいかがでございましょう、ご主人様?」
「ホルスの眼《め》……?」
「ホルスの眼≠ヘ、見たものを記憶《きおく》、再生することができます。これぞ、まさにビデオカメラではありませんか!」
フールは両腕《りょううで》を広げ、オペラ歌手のようにのたまったが、
「あのなぁ、フール」
「ハイ?」
俺は「プチ」を取り出し、「|[《8》」の「正義」のページを開いた。
「ホルスの眼!!」
「ホルスの眼! 魔《ま》を看破する神の眼でございます!!」
ページから青い放電が起き、空中にバレーボール大のでっかい目玉が現れた。目玉はギロリと俺に目を向けると、ジロジロとガンをたれてからあたりを見回し、
「悪い奴《やつ》……悪い奴はいないか、悪い奴は……」
と、ブツブツつぶやいた。
「いかがです、ご主人様? この眼で見たものをすべて記憶できるのですよ、ホルスの眼は!」
フールは得意満面で言ったが、
「フール」
「ハイハイ」
「こんなもんがフワフワ浮《う》いてたら、オカシ――だろ!!」
「………………」
フールは、ホルスの眼をじっと見てから軽く言った。
「風船だと思えば」
「思えるか!!」
「ホルスの眼は、小さくなることもできます!」
「えっ、ど、どれぐらいだ?」
ホルスの眼は、確かにピンポン玉ぐらいには縮んだ。それでも、こんなものが浮かんでいるのはおかしい。俺は、ホルスの眼を「プチ」に戻《もど》した。
「ご主人様のお力次第では、もっと小さくなることも可能でございましょう!」
フールは胸ポケットから熱く語った。
「ハイハイ」
一月の終わり。俺たち条東商二年生は、四|泊《ぱく》五日のスキー修学旅行に出発した。
これから五日間、千晶と一日じゅう一緒《いっしょ》にいられるわけだから、田代ら女どものテンションはいやがうえにも上がる。バスの中は、早くも熱気でムンムンしていた。
「あたし、昨日|寝《ね》られなかったよ!」
「私なんか、もう一週間ぐらい寝不足よ!? 千晶ちゃんのこと考えると目が冴《さ》えて冴えて」
「キャハハハハ!」
「あ〜、もう。今日サイコーにカッコイイわっ、先生!」
バスに乗る前、グラウンドに集合していた俺たちのところへ現れた千晶の姿を見て、女どもは悲鳴を上げた。
綺麗《きれい》なイエローのジャケットの襟《えり》の内側にはミンクのファーライナー、中はカシミアの黒のセーター、黒のレザーパンツに、ブラウンとグリーンのレザーブーツ。そして、紫《むらさき》の丸形サングラスときたもんだ。どこのファッションモデルですか〜って感じだった。
「ヒィィィ、千晶ちゃん、カッチョイイ〜〜〜! オッシャレ〜〜〜!!」
あの田代が、撮影《さつえい》を忘れて見惚《みほ》れたほどだ。
普段《ふだん》学校に着てくる服は、そんなに目立つものじゃないけど(それでも神谷《かみや》生徒会長なんかは、千晶はすごくいいものを着ていると看破していたらしい)、これが「自前」だってんだから、学生時代が偲《しの》ばれるよなぁ。こういう出《い》で立《た》ちでスキーに行ってたわけだ。
「あのジャケ、クリステンセンよ! うちの兄貴が探し回ってたやつだ」
「ブーツがすっごいオシャレ〜!」
世界初のウォータープルーフレザーブーツは、ティンバーランド。アメリカのブランドだ。黒のシンプルこのうえないデザインが渋《しぶ》すぎる旅行|鞄《かばん》は、タナー・クロール、イギリス。なぜ俺がそんなことを知っているかというと、長谷が同じブランドのを持っているからである。長谷と千晶は、趣味《しゅみ》が似ている。また、バスが出発してジャケットを脱《ぬ》いだ千晶の、上下黒の姿がいつもより細《ほ》っそりして見えて、それが女どもをさらにどよめかせた。
「いいのかヨ、先生。しょっぱなから女どもを刺激《しげき》しちゃって」
バスで隣《となり》に座《すわ》った千晶にそう言ってやると、千晶は「う〜ん」と眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「女の子らが、こんなに反応するとは思わなかった。別に、特にキメてきたつもりはないんだが……」
千晶は首をひねった。こういうとこ、けっこう天然みたいだ。一介《いっかい》の公立高校の教師はだな、イヴ・サンローランの黒の革《かわ》パンツや、一着十二万円もするイタリアンブランドのカシミアセーターを、フツーに着たりしないぜ?
まったく、どんだけ遊び人だったんだか。
ほんとに、なんで教師になったんだか。
いつか、聞けるかな。
バスは順調に高速を走り、渋滞《じゅうたい》もなかった。
途中《とちゅう》、ドライブインで昼食タイム。女どもは(C組だけじゃなく他のクラスの生徒らも)、それっとばかりに千晶の写真を撮《と》りまくる。
「先生! こっち向いてー!」
「千晶センセ―――ッ!!」
「ハイハイハイハイ、写真はいいから、さっさとレストランへ入る!」
千晶に追い立てられても、女どもは楽しそうでキャッキャとはしゃいでいた。昼飯もそこそこに、他の先生たちと座《すわ》っている千晶の写真を撮りたがり、話をしたがり、千晶は適当にあしらい、他の先生たちは苦笑いし。その様子は鬱陶《うっとう》しくも、特別なイベントに華《はな》やいでいる女どもは可愛《かわい》らしかった。
条東商は女生徒が多いから、カッコイイ男性教師がいれば、みんなこぞって騒《さわ》ぐのは当然だ。ましてその対象が千晶なら。
「修学旅行は、最大の思い出作りイベントだもんなあ。そこに華《はな》を添《そ》える≠チつったら、千晶以上の華≠ヘないだろうな」
俺は、撮《と》れた千晶の写真を見ながらとても幸せそうな女どもを見て、
「俺も、ちょっとは盛り上がらなきゃダメだな」
と思った。
もちろん、千晶に興味のない生徒も大勢いる。青木のシンパどもは、むしろ千晶を嫌《きら》っているし、学校行事に冷めていて、嫌々《いやいや》参加している奴《やつ》もいるだろう。そして、修学旅行前になるとドッと増えるカップル。こいつらは、千晶どころか他の何も目に入らないだろう。親に邪魔《じゃま》されずイチャイチャできる五日間だもんなぁ。盛り上がるだろうなあ。
「お前古いねぇ、稲葉。普段《ふだん》付き合ってたって、親は邪魔なんかしねぇよ」
同じ班の岩崎《いわさき》が言った。
「そうなのか?」
「修学旅行をきっかけにしなくたって、付き合やいいだろうが」
「そりゃま、そうだけど」
同じく、同じ班の上野《うえの》も言った。
「修学旅行なんて関係ねーもんな。付き合ってる奴《やつ》らは、もうヤることヤっちゃってるだろうし、逆に旅行中はお互《たが》い知らんプリって感じだろ」
「……でもさぁ、二人の初めてのイベントが修学旅行って、なんかよくねぇ? あとから学生時代を振《ふ》り返《かえ》った時、すぐに思い出せるんだぜ? あの時はこうだったなぁって。学校の行事は、卒業アルバムに残るもんな」
岩崎と上野は、ポカンとした。
「稲葉は正しい」
黙々《もくもく》と飯を食っていた桂木《かつらぎ》が言った。
「俺たちは、もっと学生ってことを大事にすべきだ。この時でしかできないことを、もっと記念にすべきなんだよ」
「…………」
俺と岩崎と上野が、ポカンとした。
「ブハッ!!」
岩崎が吹《ふ》き出《だ》した。
「こいつ、I組の女にフラレたんだよ!」
「えー、マジで?」
「フラレてない! イヤ、フラレたけど……。それも思い出なんだよ!」
「ギャハハハ!!」
俺たちは笑い転げた。この三人とは、ホテルで同室だ。しょっぱなにこんなふうに話せてよかったよ(普段《ふだん》、クラスであんまりしゃべったことなかったから)。
桂木、お前は正しい。修学旅行前に女にフラレたってことは、お前の修学旅行を彩《いろど》るいい思い出になるよ。後から振《ふ》り返《かえ》った時、旅行中はお互《たが》い知らんぷりしてたカップルよりも、よっぽどいい「思い出深い修学旅行」になるって。
俺たちは「枕投《まくらな》げは絶対にする」とか、バスの中でカラオケが始まったら「ベタな曲を歌う」とか、しょうもないことを誓《ちか》い合《あ》った。
俺は、思ってたより修学旅行を楽しめそうな気がして、ちょっとウキウキした。ここに長谷はいないから、俺は自分の力で思い出を作らなきゃな。
「やっぱりカメラ借りてくればよかったなぁ。一色さんとか持ってたかもしれない。あ、そうだ。写ルンを買おうかな。ちょっともったいないけど」
なんて、前向きな考えを巡《めぐ》らせてみたり。
[#改ページ]
[#挿絵(img/06_071.png)入る]
はじまり
「オ――ッ! 雪だ、雪だ。雪山だ〜〜!!」
みんながいっせいに窓に張り付いた。青い空を背景に、真っ白い山々が連なる。
午後の太陽がちょっと傾《かたむ》く頃《ころ》、俺たちはホテルに到着《とうちゃく》した。
それは、周囲に何もない雪道を延々と入ったところに立つホテルだった。八階建てと高さはあまりないが、横幅《よこはば》のある造りで前後二|棟《むね》に分かれている。古いだけあって決してお洒落《しゃれ》なホテルじゃない。格式はあるみたいだが。
「ホンットに他に何もないな。スキーだけやってろよって場所だぁ」
「これじゃあ、夜こっそりホテルを抜《ぬ》け出《だ》して……なんてことはできねーだろ」
千晶が面白《おもしろ》そうに笑った。
バスを降りたら、さすがに寒かった。ホテルの向こうに、綺麗《きれい》な雪山がそびえていた。
「わ〜、きれ〜い!」
「あそこで滑《すべ》るのねー。ドキドキしてきた」
「A組から順番に、割り当ての部屋へ行ってー! 一時間後にアナウンスかけるから、大広間に集合――! それまでは部屋で待機してるようにー!」
「センセー、野田《のだ》が気分悪いって言ってまーす」
「まわりに何もねぇ〜〜〜! つまんね―――!」
生徒らのワイワイ言う声と教師の怒鳴《どな》る声の中で、俺はホテルを見上げていた。ホテルは古いが、最近リニューアルしたとか聞いたけど。
「でも、なんか古い感じがするなぁ」
デザインがとかそんなんじゃなくて、外壁《がいへき》が煤《すす》けているような……。なんだかくたびれた感じがする。
「なんか暗くない?」
と言ってる奴《やつ》がいた。その言葉が、妙《みょう》に耳に残った。
ホテルに入ると、ロビーは広くて明るかった。真っ赤な絨毯《じゅうたん》、大きな窓、金色のカーテン。そしてゲームコーナー。仲居さんが、ズラッと並んで出迎《でむか》えてくれた。ここは本館で、条東商の貸し切りになっている。別館(新館)には一般客《いっぱんきゃく》がいるので、別館への連絡《れんらく》通路は閉鎖《へいさ》されていた。
「当たり前だけど、アネックスのほうが新しいし、ゲームコーナーもいろんな機種があんのよ。くやしー」
と、田代が言った。ゲームコーナーの機種まで、どこでどうやって調べるんだか。
俺たちC組男子一班の部屋は、四階四〇四号室。男子は四階から下の部屋を割り当てられ、エレベーターは使用禁止だ(女子は五階から上の部屋)。
「あ〜、やっと着いたー。ケツが痛《いて》ェー!」
「早く開けろ、岩崎〜。ションベン行きてぇんだ」
「はいはい」
ドアが開き、俺たちは部屋の中へ入った。部屋は和室なので、さらに襖《ふすま》を開く。
ムッとした。
「?」
なんというか、空気が澱《よど》んでいる感じ。長い間閉めっぱなしで、全然人が入っていないような。でも、そんなわけはない。部屋は掃除《そうじ》されているはずだから。
「トイレトイレ」
「オー、けっこう広いでないの」
「いい眺《なが》めだ〜、つーかなんにもねー」
「ちょっと窓開けねぇか?」
俺は窓に手をかけた。
「なんでよ? 寒いじゃん」
「そうだよ、寒いよな、この部屋。あっ、なんだよ。設定温度、低っ!」
「ちょっとだけ空気|入《い》れ替《か》えようぜ」
俺は窓を開け放った。とたんに、山から下りてくる冷たい外気が、サ――ッと水流のように流れこんできた。
「おおお〜〜〜、さびい〜〜〜!!」
「ああっ、なに窓開けてんの!? お前ら、ここをどこだと思ってんの! 鷹《たか》ノ台《だい》じゃねーんだぞ!」
トイレから出てきた桂木が仰天《ぎょうてん》した。
「もういいだろ、稲葉。閉めろよ」
「ああ」
さすがに雪山の冷気。部屋の中は一気に冷凍庫《れいとうこ》のようになったが、空気はスキッとした感じになった。
「俺、トランプ持ってきた〜」
と、上野が、バッグの中から真新しいトランプを取り出した。
「トランプ―――!?」
全員|大爆笑《だいばくしょう》。
「トランプで何をしろと?」
「七並べ?」
「神経|衰弱《すいじゃく》とか!」
「小学生かよ!」
「トランプをバカにすんなよー」
「ギャハハハハ!!」
「ソレに比べて、俺は大人だぜ」
桂木が取り出したのは花札だった。
「俺、やり方知んねー」
「俺も」
「お前ら! なんてお子チャマなんだ。よしよし、俺が特訓してやる。この旅行中に、リッパな花札打ちにしてやるからな」
「や。別になりたかねーから」
「お前、さっきは『学生であることを大事に』とか、言ってたくせに」
「修学旅行中は、いかに教師の目を盗《ぬす》んで規則|違反《いはん》をするかが、学生の楽しみだろー!?」
「なるほど」
「だったら、ゲーム機持ってくりゃよかったのに」
「……ここまで来て、ゲームってのもなぁ」
「だよな」
「俺が一番まともだぜ」
と、岩崎は鼻を鳴らした。
「ポケット将棋《しょうぎ》だろ、ポケットオセロ……」
「オーソドックスだなあ!」
「こういうゲームのほうが、やりだすとハマるんだよ」
「俺、将棋《しょうぎ》打てるぜ」
桂木が手を上げた。
「よっしゃ。あとでやろうぜ。何か賭《か》けて」
「お、ポケット人生ゲーム! コレやりてえ!!」
みんな、夜は外へ出られないことを見越《みこ》して用意がいい。
「稲葉は? 何持ってきた?」
「俺は……」
もちろん、俺も用意に怠《おこた》りない。
「『終戦のローレライ』全四巻と『鬼平犯科帳《おにへいはんかちょう》』二冊。『終戦のローレライ』は、映画になったやつだぜ」
俺が手に持った文庫本を見て、他の三人はポカンとした。
「読むか? 鬼平|面白《おもしろ》いぜ」
「修学旅行に来てまで、誰《だれ》が本を読むか――!」
「しかも、なんじゃそのブ厚さは! 全四巻!?」
「どうせなら、ラノベ持ってきやがれ!!」
俺は、座布団《ざぶとん》で袋叩《ふくろだた》きにあった。
一時間後。男女に分かれて大広間に集合し、スキーウェアとブーツのサイズ合わせをした。それを持って部屋へ戻《もど》る頃《ころ》、夕食の時間になった。
夕食は、二クラスずつ中広間へ分かれて用意されていた。午後六時。みんながゾロゾロと部屋へ入ってくる。
生徒は学校のジャージ着用が原則。だから、女子はトレーナーやセーターなどで、精一杯《せいいっぱい》お洒落《しゃれ》をしている。青いジャージのパンツの上に、赤やピンクの色とりどりの花が咲《さ》いたようだった。ほとんどすべての女子が、ジャージの上着を着ていないのがおかしかった。
クラスの班ごとに席に着く。用意された膳《ぜん》には、小さい鍋物《なべもの》(水炊《みずた》き)が付いていた。その他のメニューは、まあこういうホテルや旅館でよく見るような焼き物や煮物《にもの》だった。
部屋へ千晶と麻生《あそう》(B組の担任)が入ってくると、女どもからバシャバシャとカメラのフラッシュがたかれる。
「千晶センセ――!」
「ああ、一緒《いっしょ》の部屋だなんてラッキー!」
B組の女子は、特に嬉《うれ》しそうだ。
「ハイハイハイ、みんな早く席に着く!」
生徒が着席すると、仲居さんらがテキパキと飯と味噌汁《みそしる》を配り始め、修学旅行最初の食事が始まった。
「いただきまーす!」
女どもの声が、いつもより一オクターブほど高い。
一緒に食事をするということは、とても楽しいことだ。妖怪《ようかい》アパートにいると、それが身にしみる。一体感というか、共有し、共感する喜びみたいなものがあるんだな。
条東商の行事には春に遠足があって、各クラスごとに好きな場所へ行って、みんなで弁当を食ったりするんだが、千晶は秋から赴任《ふにん》してきたので、千晶と一緒に食事をするというのは、今日が初めてなんだ。だから女どもは、嬉しくて仕方ないらしい。ウキウキソワソワしながら食っている。千晶と麻生は、男子側の席(当然だ。女子側の席に座《すわ》ったら大変だ)の端《はし》っこで、食べるよりも打ち合わせに忙《いそが》しいようだった。
「飯、けっこううまいじゃん!?」
「うん、そうだな」
日頃《ひごろ》、るり子さんの超絶激美味飯《ちょうぜつげきびみめし》を食い慣れている俺だから、団体さん専門の、中ランク上あたりのホテルの食事なんぞいかがなものであろうかと心配していたんだが、思っていたよりうまかった。焼き魚は冷めていたが、野菜の煮物《にもの》はまだ温かかったし、茶碗蒸《ちゃわんむ》しは熱々が出てきた。鍋《なべ》もうまかった。
「米はイマイチだけど、味噌汁《みそしる》はちゃんとダシがきいてる。うん」
俺はうなずいた。
「うひゃひゃ、川本《かわもと》のやつ、七味を山盛りにしてるぜ!」
「なんにでも七味や辛子《からし》やマヨネーズをかけないと食えないってのは、味覚障害らしいなぁ」
「あー、俺、酢味噌《すみそ》って苦手なんだ」
「俺も」
「お前、なんでそんなに綺麗《きれい》に魚が食えるんだ、稲葉? 俺なんかボロボロなのに!」
わいわいガヤガヤ言いながら、俺たちも女どもに負けじと楽しく食った。
「みんな、食べながら聞いてくれ」
千晶が立ち上がった。
「大浴場だが、男女とも夜十時までだからな。それ以後は、生徒は入浴禁止だ。各部屋の風呂《ふろ》はいつでも入っていい。朝食は、七時半からこの部屋で。集合はロビーに九時。全員ウェアを着てこいよ」
「千晶センセーは、大浴場へ入るンですかー」
「一緒《いっしょ》に入りた――い」
女どもから、キャーッと悲鳴が上がる。麻生が、
「風呂場に覗《のぞ》きに来るなよー。女の覗きなんて聞いたことがないぞー」
と言うと、ドッと笑いがおきた。
「怒《おこ》られてもいいから、覗きた―――い!」
とか言ってるバカがいた。田代だった。まったく。
田代を筆頭とした千晶ファンの女どもは、とにかくいろんな思い出を千晶と作ろうと、あの手この手でアタックをかけるんだろう。ただでさえ忙《いそが》しいのになぁ、千晶。同情するよ。
食事が終わって部屋へ帰ろうとした時、千晶は用があったのか席にいなかった。その膳《ぜん》には、まったく手がつけられていなかった。茶碗《ちゃわん》も伏《ふ》せられたままだった。
部屋へ帰ると、部屋の中が寒かった。
「あれっ? またなんでこんなに寒いんだ??」
岩崎がエアコンの風量を「強」にする。
「ひょっとして壊《こわ》れてんのかな、エアコン?」
「岩崎、将棋《しょうぎ》しようぜ」
「おう。何|賭《か》ける?」
岩崎と桂木は、将棋をし始めた。
「岩崎〜、人生ゲーム借りてっていい? 川本らがやりてぇって言ってんだ」
「ああ。コマなくすなよ」
「稲葉ぁ、隣《となり》で一緒《いっしょ》に人生ゲームしねぇ?」
「後で行くよ。ちょっと、水買いに行ってくる」
俺は廊下《ろうか》へ出た。ほとんどの部屋のドアが開け放たれ、ワイワイ騒《さわ》ぐ声が聞こえてくる。旅行の初日だし、みんな興奮しきりだ。さっそく風呂《ふろ》へ行く連中もいた。
ロビーに降りると、ラウンジで千晶が女どもに捕《つか》まっていた。みんなベタベタと千晶にさわりまくり、腕《うで》をからめまくり、抱《だ》きつきまくり、写真を撮《と》りまくっている。青木が見たら、目ぇ剥《む》くだろうな。セクハラで百回ぐらい訴《うった》えそうだ、千晶を(青木は、たとえ女のほうからさわっても男を責める)。
千晶は、俺と目が合うや、
「ああ、稲葉! ちょうどよかった。さっきのことだけどな!」
と、女どもを振《ふ》りきって近寄ってきた。
「ハ? さっきのことってなんスか?」
と返すと、すごい力で抱《だ》き寄《よ》せられ、耳元で囁《ささや》かれた。
「話を合わせろよ、バカヤロウ!」
「女どもにサービスしてやれよ、センセー」
「俺は忙《いそが》しいんだ。撮影会《さつえいかい》やってる場合じゃねーんだよ!」
「こういうダシに使われて、女に恨《うら》みを買うのは俺なんじゃねぇ?」
「どーせお前は、女無用なんだからいいだろうが」
「女無用って、なんだよソレッ!」
顔を寄せ合ってボソボソしゃべり合う俺たちを、女どもはバシャバシャ写真に撮《と》っていた。文句を言われるかと思ったが?
「ああ、ハイハイ。さっきの話ね。えー、聞いてください、先生」
「じゃ、ちょっとあっち行こうかぁー」
わざとらしく声に出して、千晶は俺をひっぱってその場を離《はな》れた。
「じゃあな、みんな。また後でな」
手を振《ふ》る千晶を、女どもは意外にも素直《すなお》に見送った。田代が腹を抱《かか》えて笑っているのが見えた。
自販機《じはんき》のコーナーで俺は水を買い、千晶は自販機の陰《かげ》で煙草《たばこ》を吸った。フーッと、大きく煙《けむり》を吐《は》く。
「早くもお疲《つか》れか?」
「体調はバッチリ整えてきた。へばってるヒマもないだろうし、ここじゃ、ちょっと点滴《てんてき》を打ちに、もできねぇしな」
体調をバッチリ整えてきたと言うわりには、顔色が冴《さ》えない。やっぱり寒いからかな。
「古そうなホテルだよなぁ、ここ。なんつーか、全体的にさ」
「確かに歴史は古いが、リニューアルしたのは最近らしいぞ? ピカピカしてるだろ。団体の扱《あつか》いには、実績のあるとこだ。前は修学旅行もよく受け入れていたらしい。ここんとこ、学生は断っていたようだが」
「なんで?」
「鬱陶《うっとう》しいからだろう?」
千晶は笑った。
「学生でなくても、団体客は鬱陶しいと思うけど?」
「さてと。行くわ」
千晶は煙草《たばこ》を消した。
「また助けてくれよ、稲葉」
俺は手を上げた。
「実に楽しいものでございますなぁ、修学旅行というものは」
窓際《まどぎわ》にちょんと、フールが現れた。
「フール」
「ご機嫌《きげん》うるわしゅう、ご主人様」
いつものように、おおげさにお辞儀《じぎ》をする。
「若者たちのエネルギーが、あちこちで花火のように華《はな》やかにはじけておりますれば、わたくしめもつられて元気になるような気がいたします」
「浮《う》かれてるからなぁ、みんな」
「特に、田代様レディたちのオーラはいきいきとした薔薇《ばら》色で、大変美しゅうございます」
「ブハッ!」
俺は、飲んでいた水を吹《ふ》き出《だ》した。
「やっぱりピンクのオーラなんだ! アハハハハ!!」
笑い転げる俺を、フールはきょとんと見ていた。田代らのオーラがピンクなんて、あまりにもらしくて[#「らしくて」に傍点]笑えるだろ!?
二班の部屋を覗《のぞ》いて(人生ゲームで盛り上がっていた)一班の部屋へ戻《もど》ると、岩崎と桂木の将棋《しょうぎ》の勝負が白熱していた。金じゃなく、菓子《かし》を賭《か》けているとこが可愛《かわい》いやネ。
「はじめは千円賭けるかとか言ってたけど、やっぱ負けたら後味悪いかな〜と思ってサ」
窓の外を見ると、雪がちらちら舞《ま》っていた。ゲレンデにはライトが灯《とも》り、雪山を幻想的《げんそうてき》に彩《いろど》っている。
「この旅行が終われば、二年生も終わるんだな。高校もあと一年か……」
友だち同士、こんなふうに一つ部屋でゲームなんかして、なんの心配もなく気楽に笑ったりしゃべったり……。進学する連中はまだもう少し遊べるかもしれないが、就職組は一足先に厳しい社会へと出てゆく。もう「子ども」でなくなる日が近いんだ。
上野が戻《もど》ってきたので、二人で風呂《ふろ》へ行った。
「屋上に露天《ろてん》風呂があるんだってよ、稲葉」
「へえ!?」
「もちろん、生徒は入浴禁止だけどな」
「でも、メチャクチャ寒そうじゃねぇ!? 風呂につかる前に凍《こご》えちまうよ」
「縮みあがる[#「縮みあがる」に傍点]よな」
「アハハハハハ!!」
大浴場でたっぷりお湯につかり、部屋へ戻って四人分の布団《ふとん》を敷《し》き、中へもぐりこむとほこほこした。
スナックなんかつまみながら、上野ととりとめのない話をした。他の部屋からも、笑い声や騒《さわ》ぐ声が聞こえた。
勝負を終えて、入《い》れ違《ちが》いに風呂《ふろ》に行った岩崎と桂木が戻《もど》ったので、約束どおり枕投《まくらな》げをした。蕎麦殻《そばがら》が入っている枕が意外と硬《かた》く、当たったらけっこう痛いのが計算外だったが。
「痛《い》ってえ――っ!」
顔にモロに当たった桂木は悲鳴を上げた。
「ギャハハハハ!」
「マジ痛《いて》ぇって、この枕!」
ガシャン、ゴン!
「ヤベッ! ジュース!」
「畳《たたみ》にこぼすなよ!」
「アワアワ」
襖《ふすま》がボソボソとノックされて開いた。千晶だった。
「騒《さわ》いでねーで、そろそろ寝《ね》ろよー」
「先生、見回りもやってんの?」
「女子の部屋へ行ったらモテまくりじゃねー? 羨《うらや》まし〜〜〜」
みんな笑ったが、千晶は笑わなかった。
「女子の部屋の見回りは、田丸《たまる》先生と中川《なかがわ》先生がしてる。俺が行ったら部屋の中へひきずりこまれて、何をされるかわかったもんじゃねーからな」
「ギャハハハ、そーかも!」
「怖《こ》ぇ〜〜〜!」
「男の夢……!」
「商業高の女ってのは、なんでこう押《お》しが強いかねぇ」
千晶は、大きく頭を振《ふ》った。
「強いねぇ」
俺たちもうなずいた。
「圧倒的《あっとうてき》に女子の数が多いもんなあ」
「だからさ、やっぱ普通科《ふつうか》の女子は、ちょっと違《ちが》うよな」
「そうなのか?」
「うん、違う違う。なんかやっぱ……おとなしいよな」
「そうなのか、先生?」
「俺は普通科《ふつうか》へは行かないからわからんなぁ。でもまぁ、男女半々だった前の学校の女子は……確かにここの女子と比べると、おとなしかったような……」
「やっぱ、女は男がいねーとダメなんだよ、ウン」
と、桂木がえらそうに言ったが、
「うん。だが、女のほうが少し多いほうがいい」
千晶はそう言いながら、上がり口に腰《こし》を下ろした。
「そうなのか?」
「そりゃ、先生は女にモテるからさぁ」
「そうじゃない。男ばっかりだと殺伐《さつばつ》とするだろ? どっちかというと、女のほうが多いほうが世の中はうまくいくんだよ」
「ふ〜ん」
「女が数の力で男を少し抑《おさ》えていて、でも男の目は気にしている。男は女にやや押《お》されているが、女は男のことを気にしてくれているからプライドは保てる。こういう状態が理想じゃないかと思うわけだ」
千晶は煙草《たばこ》を取り出して火をつけた。
「なるほどー」
「そうかもなぁ」
「…………先生の煙草《たばこ》の吸い方って、カッコイイよな」
桂木が唐突《とうとつ》に言った。
「そうか?」
千晶はクスッと笑った。
「普通科《ふつうか》にいるダチがさ、先生が煙草吸ってるのを見て、煙草やめたって」
「そいつ吸ってたのかよ。ここで言っちゃっていいのか?」
俺は苦笑いした。
「いいんだよ。もう吸ってねぇから」
「なんで先生が吸ってるのを見てやめたんだ?」
「カッコイイからだって。自分の煙草吸ってる格好がすんげぇダサく見えて、カッコよく吸えるようになるまで吸わないことにしたんだってよ」
「へ〜〜〜!?」
みんな感心した。
そう言われれば、確かに千晶には煙草《たばこ》が似合う。千晶は、煙草はいつも左の胸ポケットに入れていて、それを左手で取り出す。それをチョイと振《ふ》って一本取り出している間に右手でライターをつけ、顔を右へ傾《かたむ》けて火をつけつつ左手で煙草をしまう。
「あ、そうか!」
俺は手を打った。
「なんだよ、稲葉?」
「千晶の煙草の吸い方がさ、どっかで見たことあると思ってたんだ。スティーブ・マックイーンだ!」
「誰《だれ》?」
上野はキョトンとした。
「……たしか俳優……だったよな!?」
岩崎と桂木は顔を見合わせた。
「なんだったっけな? タイトルは忘れたけど、映画の中でマックイーンが吸ってた吸い方と同じなんだ。左手で左のポケットの煙草を取り出す。ひょっとして、アレを真似《まね》てんの?」
と俺が言うと、千晶は笑ってうなずいた。
「やっぱり」
千晶は、左手をひらひらさせて言った。
「利《き》き腕《うで》じゃないほうでする動作ってのは、セクシーに見えるんだよ。覚えとけ」
「へぇえ!?」
みんないっせいに食いついた。
「お前らは、人のことをモテていいなあなんて、軽く言ってくれるけどな。女に限らず、他人に意識してもらう[#「他人に意識してもらう」に傍点]には努力がいるんだぞ!? なんの努力もしないで目立とうなんざ、そりゃいかにも頭が悪い! そんなことで目立っても、女にモテるどころかすぐに行《ゆ》き詰《づ》まるだけだ。まず、自分を磨《みが》くこと。女にモテることはその後からついてくる。黙《だま》っててもな」
千晶の話に、みんなは身を乗り出して聞き入った。なにせ千晶の言うことだ。説得力あるよなぁ。
「あンたは努力したわけだ」
俺がそう言うと、千晶は煙草《たばこ》の煙《けむり》を「フーッ」と吐《は》いた。その姿がまあ、ファッション雑誌から抜《ぬ》け出《で》たみたいだった。
「学生の頃《ころ》は、ファッションに限らず何が流行なのか、何が優《すぐ》れているのか、何が一番自分はやりたいのか、そんなことばっかり勉強そっちのけで考えてたぜ」
「アハハハ」
「俺のダチにはファッションモデルがいたし、名家の息子《むすこ》もいた。仲間うちで切磋琢磨《せっさたくま》できる環境《かんきょう》もよかった。切磋琢磨ってわかるか〜?」
「すいません、わかりません」
上野が頭をかいた。
「ハイ、稲葉クン」
千晶が俺を指名した。
「え〜と、努力し合うこと。お互《たが》いに磨《みが》き合《あ》うこと?」
「オ〜」
「だけど俺は、女にモテるためにやってたんじゃないぜ」
「え、そうなのか? じゃ、なんのため?」
「何が一番自分らしいのかの追求さ。ものすごく簡単に言うとだな、『目立ちたい』だよ」
「あ〜」
「この頃《ごろ》のガキどもは、『目立ちたい』を勘違《かんちが》いしている。目立ちゃあいいってもんじゃないだろ? 悪目立ちなんてのは、目立つことでもなんでもない。本当に目立つってことはだな、何もせず、立ってるだけでも人目を引くことをいうんだ。だが、ファッションが決まっているとか美形ってことじゃない。特になんの特徴《とくちょう》もなくても、何か目を引く……これだよ」
「何も特徴がないのに目を引くわけ?」
「そうだ。それが『センスの良さ』だ」
「センス……」
俺たちは首をひねった。難しい概念《がいねん》だ。
「もちろん、清潔第一。整髪料《せいはつりょう》や香水《こうすい》のつけすぎは論外。服装はその人の個性に合い、かつ『お、いいもの着てるなあ』と感じるもの。この場合のいいものってのは、ブランドものって限らないぞ。ブランドものでもそうでなくても、その人が厳選したもの[#「厳選したもの」に傍点]がいいものなんだ。そして、それを着こなしているか[#「着こなしているか」に傍点]どうかだ」
「なるほど……!」
長谷の姿が浮《う》かんだ。
「で、自分が選《えら》び抜《ぬ》いた服や小物を着こなすには、姿勢の正しさや歩き方の良《よ》し悪《あ》しも関係してくる。座《すわ》っている姿、立っている姿、食事の仕方、すべてが繋《つな》がってるんだ。これが『立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》い』だ」
「う〜〜〜ん、奥《おく》が深《ふけ》ぇ!」
「こういうことができてこその『目立つ』なんだよ。何もしなくても、ブランドものを着てなくても、あの人ちょっとカッコよくない? って言われるんだ」
「う〜む」
「俺が合気道を始めたのは、中学の時に知り合ったダチが、やたらカッコよかったからだ。背がピンと伸《の》びて、歩き方立ち姿どこにもスキがない。黙《だま》って立っているそいつのまわりに、涼《すず》しい風が吹《ふ》いているみたいだった。いいとこのボンだったが、小さい頃《ころ》から合気道をやっていると聞いてな。よし、俺もやろうと思ったわけだ」
「カッコよくなりたくて合気道始めたのかよ?」
「それが何か?」
千晶は、フーッと煙《けむり》を吐《は》いた。
「だが、武道はやっぱりいい。礼儀《れいぎ》作法と所作が身につき、腕《うで》が上がれば自信がつく。これでも俺は、真面目《まじめ》に修行《しゅぎょう》したぜ?」
「……そうだったのか〜!」
「お手軽に悪いことで目立とうなんざ、頭の悪いガキのやることだ。お前らは、せめてちゃんと考えろ。頭を使えよ。金を使うよりも」
「うう〜む……」
みんなは考えさせられたようだ。確かに千晶の言うとおりだけども……。
「ブランドより、金を使うよりって言うわりに、あンたブランドもの多くねぇ? 先生?」
と言ってやったら、千晶はしれっと返した。
「俺は金持ちだからいいんだよ」
絶句。
「まいりました!!」
俺たちは土下座した。
その時。
バチンッ!! と、ものすごい音がして一瞬《いっしゅん》部屋が暗くなり、全員飛び上がった。
「な、なんだっ?」
「び、び、び、びっくりした――っ!!」
「なんだ? なんの音だ?」
千晶は立ち上がった。
「窓を調べろ! コンセントを全部チェックしろ! テレビの裏も見てみろ、エアコンも。どこか変に熱を持ってないか?」
俺たちは手分けして、窓、コンセント、テレビ、エアコンを見て回った。千晶はトイレ横のブレーカーを見ていた。
「異常ないっス」
「ブレーカーも異常ナシだ。なんだったのかな?」
「あっ、またなんか寒くなってる。エアコンのせいかも、先生。これ、調子悪いみたいだぜ!?」
「そうか。係員に言っとくよ」
千晶はそう言って部屋を出ていった。
「びっくりしたなぁ」
「ビビった」
「なんの音だったんだろうなぁ?」
みんなキョロキョロしている。
俺はトイレへ入り、フールを呼び出した。
「さっきの音、ラップじゃないのか?」
と、俺はフールに言った。
叩音《ラップ》とは、流行の音楽じゃなく心霊《しんれい》現象の一種で「霊の出す音」として知られている。音の種類は、水の雫《しずく》が垂れるような微《かす》かな音から、大砲《たいほう》のような大音響《だいおんきょう》までさまざまだ。
「左様でございます。よくおわかりになりました、ご主人様」
フールは、「霊感もないくせに」と言いたげだ。
「ラップは、アパートでしょっちゅう聞くからだよ」
俺みたいな霊感の鈍《にぶ》い奴《やつ》には、普通《ふつう》の物音とラップ音の区別はつきにくいが、やっぱりなんとなくわかるもんだ。普通の物音より「耳につく」感じとか、上野も言っていたが「ビビる」んだよな。
「旅館やホテルには幽霊《ゆうれい》がつきもんだけど……。やっぱりいんのか、ここにも?」
フールは、ヒョイと肩《かた》をすくめた。
「おりますとも。霊はあらゆる場所におります」
「どんな奴だ?」
「さぁて。いろいろおりますなぁ。この建物は歴史が古く、人の出入りも多く、それだけいろいろあったようでございます」
「ん〜、まぁそりゃそうだろうなぁ。事故とか事件とかあっただろうし、死人も出てるだろう」
「霊《れい》ばかりではございません。念≠烽「ろいろ染《し》み付《つ》いてございます」
「念か……」
人の念は、その場に染み付くというか焼き付くというか、その場に留《とど》まってしまう場合がある。本人は、そんな思いなどとうに忘れてもうどこかへ行ってしまっていても、思いだけは、いつまでもそこに残り続けるというのだ。
「人の出入りも多いし、従業員も多いし、いろんなドラマがあったわけだ」
恨《うら》みや悲しみの念ほど、その場に染み付きやすいという。それこそ「そのシーン」が丸ごと記憶される[#「記憶される」に傍点]ほどに。この古いホテルは、人間のさまざまな思いを記憶《きおく》しているんだ。あっちの部屋で、こっちの廊下《ろうか》で、従業員のロッカールームで、ロビーの隅《すみ》のバーカウンターで、人間同士が繰《く》り広《ひろ》げてきた「愛憎劇《あいぞうげき》」。その恨みや悲しみが、澱《おり》のようにたまっている。
「でも、別に特に気にすることはないよな? ホテルに泊《と》まるっていうのは、俺もみんなも、誰《だれ》でもしてることだし」
と、俺が言うと、フールは人差し指をピンと立てた。
「問題があるとすれば、ここが密閉性の高い場所であるということですな」
「密閉性」
「ただでさえ、建物というのは閉じられた空間≠ナあるのです。そのうえに、ここは雪によってさらに閉じられている状態≠ノございます。閉じられた空間で、大勢の人間が同じような状態にあると、そこに力場が生じます。この力場が、さまざまな影響《えいきょう》を及《およ》ぼすことはございます」
「閉じられた空間に、子どもが四百人弱か……」
「そこに発生するエネルギーは純粋《じゅんすい》なものではございませぬゆえ、それで魔物《まもの》を呼び出してしまうとか、そんなことにはならないでしょう」
「当たり前だ。漫画《まんが》じゃあるまいし」
「影響を受けやすい者には、霊障《れいしょう》が出るやもしれませんな。霊障というほどのものではないでしょうが」
「それはまぁ……仕方ないか。どうしようもねぇもんな」
秋音ちゃんも、確か言っていた。
秋音ちゃんが行った修学旅行では、ホテルそのものは大丈夫《だいじょうぶ》だったが、ホテルのすぐ裏にある山がどうもいわくのある場所だったらしく、ホテルはその影響をバッチリ受けていたという。ホテルはなんの支障もなく営業しているし、他の泊《と》まり客たちも普通《ふつう》に過ごしているが、秋音ちゃんはホテルで出される食事を食べられなかったというんだ。
『黄泉戸喫《よもつへぐい》といってね。そこの食事を食べると、影響《えいきょう》を受け入れてしまうことになるの』
霊能力《れいのうりょく》の高い秋音ちゃんだから受ける影響もでかいというわけで、別に他の生徒たちは食べても大丈夫《だいじょうぶ》なんだ。それでも影響を受ける敏感《びんかん》な生徒もたまにいて、体調不良で倒《たお》れるとか夜|眠《ねむ》れない生徒が出たが、そのホテルには二|泊《はく》しかしなかったから、それ以上深刻な事態にはならなかった。秋音ちゃんも「山が悪いから」なんてことは、一切《いっさい》口に出さなかった。「ひょっとして何かある?」と、秋音ちゃんに不安を訴《うった》えてくる友人にだけ、魔除《まよ》けのお札《ふだ》をあげたという。
「そういや、俺もそのお札をもらったんだ。確か生徒手帳にはさんだ覚えが……」
「ご主人様は、霊障などお受けになりませんので大丈夫でございますよ」
フールは、ホホホと笑った。
「鈍《にぶ》いからって言いたい?」
「まさか決してそのようなこと! イヤハヤ……」
と言いつつ、いつものようにデコが足先につきそうなぐらいおおげさに頭を下げる。その態度がウソくせーんだよ。
その夜は、何事もなく俺たちは眠《ねむ》った。午前二時|就寝《しゅうしん》は、比較的《ひかくてき》早いほうじゃなかっただろうか。
[#改ページ]
[#挿絵(img/06_104.png)入る]
エンジョイしてる?
翌日。朝五時に目が覚めた。悲しき習性だ。
「寒っ!」
またいつの間にか「弱」になっているエアコンを「強」にしなおす。
「やっぱ壊《こわ》れてんのかな、これ?」
そっと部屋を出て、顔を洗いに行った。
開け放したドアの中から、話し声が聞こえる部屋もある。早起きしたんじゃ絶対ないと思うから、こいつらは徹夜《てつや》したわけだ。昼間こたえるぞ〜。
「ぐおお〜っ、冷てぇ〜〜〜!」
冷水には慣れている俺も、雪山の水には飛び上がった。湯を混ぜずにはいられない。
洗面所の窓から見る朝の雪山は、まだ真っ暗だった。
「あ、でも雪はやんだな」
夜|遅《おそ》くまでゲレンデに灯《とも》っているオレンジの灯《あか》りも消えている。濃紺《のうこん》の空に、山のシルエットが黒々とそびえ立っていた。
「スキー……できるようになるかなぁ」
午前と午後に分かれ、あのゲレンデ半分を借りきって、各クラスごとにインストラクターが付いてスキーを教えてもらうわけだ。それを三日間続けるわけで……。
「やっぱスキーに向いてない奴《やつ》には地獄《じごく》だな」
俺もその一人かもしれない。気が重いぜ。
「しっかり食っとけよー。スキーを履《は》いて立っているだけで疲《つか》れるぞー」
と麻生が言ったので、朝飯をガッツリ食った。千晶は、ずっと廊下《ろうか》で他の教師と話をしていた。
そして、全員スキーウェアを着込《きこ》んでロビーに集合した時、自前のウェアを着てきた千晶に、女どもがまた一オクターブ高くなった悲鳴を上げた。
ウェアの色は、シルバーグレイ。前に青いボタンが二列に三つずつ並んでいて、胸にはエンブレム。黒のベルトに黒のブーツ、赤いライン入り。黒いサングラスは、フレーム全体に幅《はば》があって目元を完全に覆《おお》うタイプ。側面にメタリックブルーのライン入り。そして、赤いグラブと濃紺《のうこん》のキャップ(これは、シアトルマリナーズの野球帽《やきゅうぼう》だった)。
全体的にスキッとシンプルでスポーティ。それでいてオシャレに見えるのは……色使いのせいか? 昨夜《ゆうべ》、講義を聞かせていただいた俺と上野と桂木と岩崎は、うーんと感心して見ていた。
「ンモ〜〜〜! 今日もなんてカッチョイイの、千晶ちゃんってば!!」
携帯《けいたい》でバシャバシャ撮《と》りまくる田代。
「スキー教室が始まったら携帯使用禁止だぞ、田代」
「ハッ、忘れてた。アブナイアブナイ」
A〜Jのクラスを、ABCDJのグループ1と、EFGHIのグループ2に分ける。俺たちグループ1は午前がスキー教室なので、スキー板を担《かつ》いで所定の場所へ行進した。グループ2は一応自由行動となっているので、雪で遊んだり、スキーができる奴《やつ》は滑《すべ》っていいことになっている。
快晴。青い空に雪山がまぶしく映《は》えた。風もなく、あまり寒くなかった。
C組担当のインストラクターは、二人の若い男。地元出身でスキーはもちろんプロだが、隣《となり》に立っている千晶のほうが、どう見てもプロらしく見えるのがちょっと気の毒だった。女どもも千晶のほうばかり見てるし、他のクラスの女どももチラチラこっちを見ている。「カッコイイー」とか「悔《くや》しい〜」とかいう声が聞こえてくる。
千晶ら教師は、あくまでも監視役《かんしやく》だから滑《すべ》ったりしない。それでも、千晶は立っているだけでカッコイイ。
「立ち姿がカッコイイか……。なるほどなぁ」
千晶の話を聞いていると、長谷のことばかり思《おも》い浮《う》かんでくる。趣味《しゅみ》もそうだが、考え方も長谷と千晶は似ているようだ。それに、昨夜《ゆうべ》千晶が話したダチのこと。「そいつのまわりに涼《すず》しい風が吹《ふ》いている」って、まるで長谷のことのようだった。いいとこのボンで、しかもそいつも合気道をしてるんだよな。
千晶は、そのダチのようにカッコよくなりたくて合気道を始めたと言ったが、それもわかる気がする。長谷のカッコよさも、合気道のような武道をしているからだと思うからだ。姿勢とか歩き方とか立ち姿とか、さらに礼儀《れいぎ》とか精神力とか自信とか。長谷はそういうものを合気道を通じて身につけた。
自分を磨《みが》くこと、鍛《きた》えることから始める――。
(長谷を見ていると、まさにそのとおりだって思う。千晶もダチを見てそう思ったわけだから。それにしても、似た奴《やつ》っているなぁ。ひょっとして、長谷も千晶も千晶のダチも、みんな同門だったりして)
そんなことを思いながら、スキーのレッスンを受けた。
「じゃあ、スキーを履《は》いて斜面《しゃめん》を登る練習をしまーす」
スキー板やストックの扱《あつか》い方から斜面の登り方をへて、ボーゲンでちょっと滑《すべ》るまでで昼飯の時間がきた。
「足が痛〜〜〜い!」
「腰《こし》が痛〜〜〜い!」
なかなか要領がつかめず身体を痛めてばかりの奴もいれば、あっさりとボーゲンをマスターする奴もいる。俺もすぐに滑れるようになった。身体の痛みもない。俺たちC組は、特に問題なく初日のレッスンを終えた。千晶は下のほうから俺たちを見ていて、わざと倒《たお》れる女どもをせっせと起こして回っていた。お疲《つか》れサン。
昼飯はゲレンデにあるレストランで、グループ1とグループ2が入《い》れ替《か》わって食うことになっている。俺たちグループ1がレストランに向かうのと入《い》れ違《ちが》いに、グループ2がレッスンを受けに行く。グループ2の千晶ファンの女たちが、残念そうに手を振《ふ》った。
「え〜ん、千晶センセー」
「先生と一緒《いっしょ》したいよぅ〜」
「なんでCばっかりなんだよ〜」
そりゃ、C組の担任だからだろ。
レストランに用意されていた昼飯は、弁当だった。でも、熱々のうどんが付いていた。
「ひ〜、しんどい!」
「太腿《ふともも》パンパンだよー」
「この三日間でダイエットできそうじゃない?」
「その分食べなきゃね」
「キャハハハハ」
「けっこう滑《すべ》れちまったぜ、俺って才能アリ?」
「もうダメだ、俺は……。帰りたい」
初めてのスキーに、みんな笑ったり泣いたり楽しそうだ。俺も、もうちょっと滑れたら楽しくなりそうな気がする。
「いただきまーす」
熱いうどんがうまかった。
俺の隣《となり》に千晶が来て、「ハーッ」とすごく大きなため息をついた。
「お疲《つか》れ」
「まったくだ」
サングラスをとった千晶の顔色が悪くて、ちょっとドキッとした。でも、うどんのつゆをうまそうに飲んだ。食欲があるなら大丈夫《だいじょうぶ》か。
「なんか……旅行に来て初めて見るな。あンたが何か食ってんの」
「ん? うん」
千晶は、黙々《もくもく》と飯を食った。
「大丈夫か?」
「食えるんなら大丈夫だろ」
と、千晶は自分でそう言った。
体調を整えてきたのに早くもお疲れとは、修学旅行の引率《いんそつ》とは過酷《かこく》な仕事だな。C組は副担も参加してないし(副担は一応いるけど、化学の授業以外で見かけたことがほとんどないというのは、どういうわけだろう? 副担は名前のみってことか)。
「まぁなぁ、この女どもの世話をしなきゃならねーと思うと、俺でもゲッソリくるけどヨ」
女どもは、さぁこれから千晶と遊ぶぞと待ち構えている。「遊ぼう遊ぼう」と主人を待っている子犬……なんてものじゃなくて、ギラギラした目で獲物《えもの》を見ている肉食獣《にくしょくじゅう》のようだ。
「ホラ。千晶、お茶」
「おぅ」
「灰皿」
「うん」
「体調|悪《わり》ぃなら、あんまり吸うなよ」
「ん〜」
「薬は? ちゃんと飲んでるか?」
俺の様子を見ていた上野が、感心したように言った。
「稲葉、母ちゃんみたいだな」
ハッ、しまった! いつもクリの世話を焼いてるから、ついそのノリで。
田代が、また笑って見てやがる。
千晶は、うまそうに煙草《たばこ》を吸った。顔色が少しよくなったな。人心地《ひとごこち》ついたか。
「あ〜……、なんかダルかったな」
首と肩《かた》をコキコキいわせて、千晶はまた大きなため息をついた。
「やっぱり寒いのはダメだ」
「調子|悪《わり》ぃ?」
千晶は首をひねった。その表情が、いつもと違《ちが》った。
「食事がすんだ子は、外へ出なさ〜い」
麻生が言った。
「集合のアナウンスがかかるまで自由行動だけど、ゲレンデから出るのは禁止だよ。ここのレストランへも出入り禁止。休憩《きゅうけい》したい子は、自販機《じはんき》が置いてあるベンディングハウスへ行きなさい。くれぐれも一般《いっぱん》のお客さんに迷惑《めいわく》をかけないように。いいねー。それから、建物の軒下《のきした》を歩かないように。雪が落ちてくることがあるからなー」
生徒たちが、ゾロゾロと席を立ち始める。
「千晶センセー、雪合戦しようよー」
「センセー」
女どもが蠅《はえ》のようにたかってくる。千晶は、シッシと追《お》い払《はら》った。
「俺は打ち合わせがあるんだ。すんだら行くから」
「ホントだよー」
「約束だよー」
ゲレンデに出ると、温まった身体にヒンヤリした外気が心地好《ここちよ》いくらいだった。
「稲葉! B組の奴《やつ》らと雪合戦すんぞ!」
桂木が呼びに来た。
B組対C組で雪合戦をした。お互《たが》いの陣地《じんち》に壁《かべ》を作って、中央に立てたストックを取り合うんだ。これが、なかなかに白熱したいいゲームになった。俺たちは、いろいろ作戦を考えた。
「だから、ここから攻《せ》めるのがいいって言ってるだろ!」
「それよりこっちのほうがいいって!」
と、単なる遊びなのについムキになる奴とか、
「まぁまぁ、両方|試《ため》してみようぜ」
と、なだめる奴とか。クラスメイトの知らなかった素顔《すがお》が見られた。商業科は男が少ないけど、俺はあんまり他の奴《やつ》らと付き合うことがなかった(クラブにも同じ組の男はいない)。文化祭とか体育祭じゃなくて、こんなふうに純粋《じゅんすい》に遊ぶことは初めてだったんだ。
「そうだよな……俺は、長谷以外の奴と遊んだことないんだ」
休みの日は、ずっとバイトをしているということもある。それはこれからも変わらないだろうから、俺は今クラスメイトと目一杯《めいっぱい》遊んでおこう。
「オッシャー、勝つぜー!」
「オ―――!」
敵の雪玉に当たらぬよう壁《かべ》に隠《かく》れて雪玉を作り、進攻《しんこう》してくる敵兵を狙《ねら》う。敵も、囮《おとり》や特攻《とっこう》作戦を仕掛《しか》けてくる。
「行けーっ!」
岩崎が身を挺《てい》して、俺と上野を先へ進ませた。岩崎は敵の集中|砲火《ほうか》を浴び、雪ダルマのようになって戦死した。
「お前の死はムダにしないぞ、岩崎!」
と、最前線で俺と上野が叫《さけ》んだまではカッコよかったが、手抜《てぬ》き工事のせいで壁が崩《くず》れ、最前線基地とともにC組は壊滅《かいめつ》。ストックはB組が手にした。
「誰《だれ》だよ、この壁《かべ》作った奴《やつ》!」
「耐震強度偽装《たいしんきょうどぎそう》工事だ。訴《うった》えてやる!」
俺たちは雪まみれで罵《ののし》り合《あ》った。その様子を、随行《ずいこう》のカメラマンが笑いながら撮《と》っていた。いつの間にか他のクラスの連中が見物していて、自分たちもやろうぜとか話していた。
「ハ〜、ハハハ。面白《おもしろ》かったな」
「暑《あ》っちぃー。冷たいもん飲みてぇ〜」
「何か買いに行こうぜ。冷たいものって売ってんのかな?」
「明日は勝つ!!」
ベンディングハウスへ向かっていると、千晶と女どもが雪合戦しているのが見えた。俺たちと違《ちが》い、単なるじゃれ合いのようなものだったが(当たり前か)、女どもは千晶に相手をしてもらって、実に幸せそうだった。千晶に雪をぶつけられてははしゃぎ、千晶に雪をぶつけてははしゃぐ。まるで、蝶々《ちょうちょう》が楽しそうにヒラヒラ飛んでいるみたいだった。
それを見学している女子もいた。千晶はC組の担任だから、「C組のもの」という意識が、どこかにあるんだなぁ。C組の奴にも、他のクラスの奴にも。それはあっても当然だけど、こんな時にはあまり気にしないで一緒《いっしょ》に遊べばいいのに……とは思うが、実際はそうもいかないところが、なんというか「難しいお年頃《としごろ》」だ。男はそういうことをさほど気にしないんだが、どうも女は違《ちが》うらしい。見学している女どもの中にも、楽しそうに携帯《けいたい》で千晶を追っている奴《やつ》もいれば、面白《おもしろ》くなさそうに見ている奴もいる。
田代いわく、
「あたしたちだって、千晶ちゃんを独占《どくせん》しようなんて思ってないのよ。千晶ちゃんは他のクラスでも教えてるんだし、そのクラスの子たちと遊んだって全然OKだと思う。実際、そういうこと気にしない子もいるしサ。ただ、千晶ちゃんにどう接するかは、けっこうビミョーなのよ!?」
C組の生徒は、千晶をあまり「自分たちだけのもの」と主張してはいけない。
他のクラスの生徒は、千晶をあまり「C組だけのものじゃないでしょ」と主張してはいけない。
このビミョーなところを踏《ふ》まえて千晶に接することができる奴だけが、女どもの中で認められるというわけだ。
「女心は難しいな」
自販機《じはんき》で水を買って飲んだ。
「うめ〜〜〜!」
ベンディングハウスにはストーブとベンチがあって、ここに座《すわ》りこんでしゃべっている生徒もいた。千晶たちの他にも、雪合戦をしているグループがいる。雪ダルマを作っているグループがいる。みんな思い思いに過ごしている。
ドアを出たところにたむろっている女子がいた。
「バカみたい」
「サイテーよね」
と言うのが聞こえた。女たちが見ていたのは、千晶たちだった。
「ははぁ……」
こいつらは青木のシンパで、千晶を敵視している連中だ。こいつらは、自分らが信奉《しんぽう》している青木と正反対の人間ってことで、千晶を毛嫌《けぎら》いしている(生徒総会で千晶が青木を怒鳴《どな》りつけたことを、いまだに根に持っているし)。なのに、そんな千晶が生徒に人気があることが気に食わないらしい。
「わざと倒《たお》れて、あの人[#「あの人」に傍点]に起こしてもらうのよ。信じられないわ。何やってんの、あんた? って感じ」
「男に媚《こ》びるなんて、女としてサイテーよね。そんなのただのメスじゃない」
「プライドないよね」
……あのなぁ、お前ら。千晶を嫌《きら》うのはいっこうにかまわないと思うが(俺も青木は大嫌いだ)、無邪気《むじゃき》にじゃれてるだけの女どもを、そんな言い方しなくてもいいだろう? てめぇらがどれほど清らかな人間だってんだ。他の女をそんな下種《げす》な目で見る時点で、もう清らかじゃねーだろ。
「あの人[#「あの人」に傍点]だって、女の子にさわれて嬉《うれ》しがってんのよ。きっと」
「やだ。寒気がするわ」
プチン。
「てめぇら!! 千晶の苦労も知らねぇで、勝手なことほざいてんじゃねーぞ!!」
と、叫《さけ》びそうになったので、そそくさとその場から離《はな》れた。
青木に心酔《しんすい》している奴《やつ》らってのは、どうも思いこみの激しい奴が多いようだ。それだけ自分に自信がなくて、それだけ美しく賢《かしこ》く清らかな(あくまでも表面はと、あえてそう言いたい。俺は)青木に「入れこんでいる」んだろうが、だからといって千晶や千晶のファンの連中に反発するのは間違《まちが》っているだろう? いや、反発するのはいいとしても、それをあからさまに態度に出すべきじゃない。この俺すら、青木の前じゃおとなしく言うことを聞いてるんだ。いちいちカンにさわることを言われてもだ。ところが青木のシンパって奴《やつ》は、時に攻撃《こうげき》をしてくるから、まったく手に負えないガキどもだぜ。
こいつらは、この旅行に青木が参加していないのが残念でならないらしく、その分千晶にイラついているようだった。
雪山の陽《ひ》はあっという間に傾《かたむ》き、俺たちはホテルへ帰ってきた。
ホテルの玄関《げんかん》に整列する前、生徒たちはあちこちで団子になって、今日のことを楽しげにしゃべり合っていた。千晶も、女どもに囲まれて帰ってきた。昼頃《ひるごろ》は元気がなかったが、今は顔色もいいみたいだ。キャップを取って乱れた前髪《まえがみ》をかきあげる仕草に、女どもがキャアキャア言っている。その時だった。
「おいそこ! そこから離《はな》れろ!」
と、千晶が怒鳴《どな》った。その先を見れば、あの青木のシンパどもがいた。千晶に声をかけられたシンパどもは、あからさまに嫌《いや》な顔をするとその場から離れた。しかし、千晶はさらに大声で怒鳴った。
「軒下《のきした》を歩くなと言っているんだ!」
ああ、そうか。俺は女どもの上を見た。ホテルの外壁《がいへき》には、ぐるりと庇《ひさし》がある。そこに一メートルほど雪が積もっていた。雪おろしとかの管理はされているだろうし、よく見ると軒下にも「頭上注意」の表示がされていた。たいしてあぶないふうでもなかったが、千晶は一応注意したんだ。しかし女どもは、それをあえて無視するかのように軒下に沿って歩いていった。
「こいつら……!」
俺は舌打ちした。
千晶は、つかつかと女どもに近づいていった。
「あぶないから注意してるんだ。麻生先生に言われただろう!」
「私の名前は、おいでも、そこでもありません!」
と、女の一人が叫《さけ》んだ。その時、バサア――ッ!! と、千晶と女の上に雪が落ちた。
「ギャ――ッ、千晶先生!」
「千晶!」
俺や田代が駆《か》け寄《よ》った。千晶と女は完全に埋《う》もれたが、雪の量はそんなにたいしたものじゃなかった。千晶はすぐに雪の中から身を起こした。女の身体をしっかりと抱《かか》えていた。さすが。
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「あ、ハ、ハイ」
「これでわかっただろう。あぶないから軒下《のきした》を歩くんじゃないぞ。みんなも!」
千晶にそう言われた女どもは、縮みあがっていた。千晶に助けられた女も真っ青になり、ワッと泣きだした。
「あ、イヤ。だから、あぶないから注意しろと言っているだけでだな……」
「あンたの顔だよ、先生」
「顔?」
白い雪の上に、パタパタと真っ赤な血が落ちた。千晶は、こめかみを切っていた。
「あ……」
「誰《だれ》か、ハンドタオルを持ってないか?」
俺は田代らに訊《き》いた。女は持ってるだろ!? ハンドタオル。
「ハイッ!」
「ハイ!!」
「はい!」
たちまち何枚ものハンドタオルが集まる。
「お前らはケガはないか?」
傷を押《お》さえながら、千晶は女どもに訊《き》いた。女どもは黙《だま》って首を振《ふ》った。さすがに、この場では悪態はつけないか。
雪に混じって黒い欠片《かけら》が見えた。
「瓦《かわら》? これが千晶の頭をかすったのか? 直撃《ちょくげき》してたらヤバかったんじゃねぇ?」
そう思ってヒヤッとした。
「センセー、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「大丈夫〜?」
みんなハンドタオルを差し出しながら、千晶を囲む。ホントに女って、みんな持ってるんだなぁ、ハンドタオル。
「どうしました?」
麻生や井原《いはら》がやってきた。
「大丈夫です。生徒にケガはありません。雪が少し落ちただけです。軒下《のきした》に何か置いたほうがいいですね。コーンとか」
俺は、雪の落ちた庇《ひさし》を見た。そこだけポッカリと雪がなくなっていた。まさに、真下にいた千晶を直撃《ちょくげき》だった。
「雪って……あんなふうに落ちるもんなのかな?」
刻々と翳《かげ》ってくる山の夕暮れの中に、ホテルも沈《しず》んでゆく。誰《だれ》かに見られているような気配を感じたのは、気のせいだったのか。
整列して順々に部屋へ戻《もど》る時、麻生がホテルの係員と話している横を通った。その時、「雪とともに落下するようなものは使用していない」というような話が聞こえた。
あれは瓦《かわら》じゃなかったのか? じゃあ、あの黒い破片《はへん》はなんだったのか。千晶はどうしてケガをしたんだろう? 腑《ふ》に落ちなかった。
夕食の時間。千晶はこめかみにバンソーコーを貼《は》って現れた。みんな心配したが、千晶は笑って言った。
「傷は一センチほどだったよ。大丈夫《だいじょうぶ》だ」
でも、顔色がまた悪くなっていた。そして夕食の間じゅう、麻生と話したり席を立ったり書類を見たりして、結局俺が見ている時には、膳《ぜん》にはまったく手をつけなかった。ひょっとして、生徒が引きあげた後食べるのかもしれないが、ひょっとして……
「千晶、昨日の夕飯も今日の朝飯も……食ってないのか?」
胸の奥《おく》が、チラリと騒《さわ》いだ感じがした。
飯を食って風呂《ふろ》に入ると、スキー初日の疲《つか》れがドッと出たようで、みんな布団《ふとん》の上にダウンした。俺たち一班の部屋には、パネルヒーターが運びこまれていた。
「ハハ。やっぱり調子悪いんだ、エアコン」
「痛《いて》ぇ〜」
桂木は足をもんだ。
「どうした?」
「さっき風呂で転んだんだ」
桂木がジャージの裾《すそ》を上げると、右膝下《みぎひざした》が痣《あざ》になっていた。
「シップもらってきてやるよ」
「おう。サンキュー、稲葉」
「医務室は……二階だったな」
俺は階段を下りた。二階に着くとちょうどエレベーターのドアが開いて、中から田代と他クラスの女子が出てきた。
「あ、稲葉」
「どうした?」
「D組の部屋で話してたんだけど、この子が気分悪くなっちゃって。看護婦さんのとこへ連れてくとこ。あんたは?」
「桂木が足を痛めてな。シップをもらいにきた」
二階にある広間が医務室になっていて、随行《ずいこう》の看護師が常駐《じょうちゅう》している。
襖《ふすま》を開けると、濱中《はまなか》看護師が読み物から顔を上げた。
「D組の窪田《くぼた》です。気分が悪くて……」
看護師は窪田の額に手を当て、口の中を見た。
「風邪《かぜ》ひいた? 喉《のど》痛い? 鼻水は?」
窪田は頭を振《ふ》った。
「なんか目の奥《おく》が痛くて、すごいダルい感じ……」
「あら、また?」
「また?」ということは、他にも同じ症状《しょうじょう》の患者《かんじゃ》がいるのか?
この広間は、襖で三つに仕切られていて、看護師のいる部屋をはさんで男女の寝間《ねま》になっている。襖《ふすま》が少し開けられているので中がちらっと見えたが、男部屋にも女部屋にも、もう患者《かんじゃ》が寝《ね》ていた。
「風邪《かぜ》が流行《はや》ってんの、センセ?」
と、田代が看護師に尋《たず》ねた(先生じゃないんだけどな。いや、先生か。看護学校の教諭《きょうゆ》だって言ってたから)。
「今はインフルエンザの時期だからね〜。それに、みんな疲《つか》れてるのに寝なかったりするでしょー? だからバタバタ倒《たお》れるんだけど、なんか風邪でもないのに同じような体調不良を訴《うった》える子が多いのよねぇ」
窪田は、女部屋でしばらく寝ていくことになった。俺はシップをもらった。
「稲葉、稲葉」
部屋を出たところで、田代が嬉《うれ》しそうに話しかけてきた。
「ンだよ?」
「A組にさぁ〜、ちょっと霊感《れいかん》のある子がいるんだわ。その子が、ここは気持ち悪いって、しきりに言ってるんだって」
「へ〜。でも、そんなこともあるんじゃねぇの? ホテルの怪談《かいだん》なんてよくある話だから、そいつは過敏《かびん》になってるだけじゃねぇのか?」
「でもその子、今日|廊下《ろうか》でセーラー服を着た子を見たって言ってるんだよ」
「セーラー服……」
「ちょっと見間違《みまちが》えようがないよねぇ。あたしたちはジャージだし、それにセーラー服って、ちょっと古いよね。そこがかえってリアルっつーか」
「昔のユーレイもいるだろうよ。歴史が古いとこだからな」
そこへ、千晶が現れた。
「あ、千晶ちゃん」
千晶は顔色が悪かった。無言で俺たちを追《お》い払《はら》うと医務室に入っていった。田代は、当然後についていった。
「頭痛薬ですか? あれ? 昨夜《ゆうべ》、渡《わた》したでしょ?」
「それがその……」
「ひょっとして、もう飲んでしまったわけじゃないですよねぇ、千晶先生?」
「イヤ、あの」
「決められた時間に決められた数だけ飲んでいれば、今なくなるはずないんですけど? まさか、倍の量飲んじゃったんですか? そーいうことをされては困ります」
「すいません」
千晶は看護師に叱《しか》られていた。
「傷が痛むの、千晶ちゃん?」
心配そうに腕《うで》をからませる田代をひっぺがして、千晶は言った。
「傷は大丈夫《だいじょうぶ》だが、昨夜《ゆうべ》から頭痛がして、これがすげぇイライラするんだよ。昼間おさまってたんだが、夕飯前からまたブリ返してきて……。家から頭痛薬を持ってくるの忘れちまってな」
「薬が効かないからって、立て続けに飲むもんじゃありません」
「すいません」
俺は、千晶の袖《そで》を引いた。
「なんだ?」
千晶を看護師と田代からちょっと離《はな》して、二人に背を向けた。
「あんまりしんどくなったら、ツボマッサージ[#「ツボマッサージ」に傍点]してやるよ、先生」
「…………いいネ」
千晶には、一度「ヒーリング」をしたことがある。田代の時は否応《いやおう》なかったが、千晶の時は俺は自分の意思でヒーリングができたんだ。千晶はもちろん、それがどういう現象なのかは知らないが、俺が言った「ツボマッサージ」という言い訳で納得してくれている[#「納得してくれている」に傍点]。
「だから、あんまり薬を飲むのやめろ」
こそこそ話す俺たちの背後で、田代が看護師としゃべっていた。
「この二人、萌《も》えない〜?」
「私、萌えってイマイチよくわからないのよねぇ」
「先生、人生の半分損してるわ」
「半分もっ!?」
「あたしなんて、この二人を見てるだけで楽しいのよ。得してると思わない?」
「う〜ん、そう言われれば。この場合、やっぱり千晶先生が旦那《だんな》≠ネの?」
「あたしたち[#「あたしたち」に傍点]の間でも意見は分かれてるけど、あたしは稲葉が旦那派」
「へぇ、そうなんだ。えっ、なんで?」
「オイッ!」
黙《だま》って聞いてりゃ、本人の前でなんの話をしてやがる。
「俺らで萌えるな!」
「いーじゃん、別に。どーせ、あんたは女無用なんでしょ」
「女無用って、なんだよソレッ!!」
「千晶ちゃんだって、女子とどうにかなるよりは、男子とどうにかのほうが問題にならないもんねー」
「ハハハ。そりゃそうかもなー、なんて言うか、バカッ」
田代は頭をはたかれた。
「バカな話をしたら気分が良くなりました、濱中さん。お邪魔《じゃま》しました」
「はい、千晶先生。一回分だけ渡《わた》しときます」
「すいません」
俺たちは部屋を出た。
「千晶ちゃん、具合悪いの?」
「ん〜……」
千晶は、腑《ふ》に落ちないといった顔をした。
「どうも不安定だな。良くなったり悪くなったり……。こっちの気候に慣れてないからかな。雪山は久しぶりだしな」
千晶はしきりに首をひねった。千晶の貧血症《ひんけつしょう》は体質だから症状には慣れているはずだが、なんだかずいぶん戸惑《とまど》っているようだ。
「病気なんかじゃないよネ?」
田代が心配そうに千晶を見上げる。千晶はその頭をぽんぽんと叩《たた》いた。大丈夫《だいじょうぶ》だというふうに。
俺は、別の可能性を考えていた。
「霊障《れいしょう》じゃないだろうな!?」
部屋のトイレでフールを呼び出した。
「その可能性はございますな」
「やっぱり。風邪《かぜ》じゃないのに具合が悪くなってる奴《やつ》らも!?」
「全員がそうだとは限りませんが、波長が合う者は、その場所に足を踏《ふ》み入《い》れただけで影響《えいきょう》を受けることはございます」
「そうか……。波長の問題か」
膝《ひざ》の上に置いた「プチ」の上で、フールは両手を腰《こし》に当てて話す。
「千晶様はどうも……ご主人様の影響下《えいきょうか》にあられるようですな」
「俺の影響下って、どういう意味だ?」
「お二人は、一度身体を繋《つな》げられたわけで」
「変な言い方すんな」
「田代様と同様、シンクロというのは後々まで残るものなのです。もちろん、個別の差はございますが」
「あー、それは……なんとなくわかる」
入学当初俺は無愛想《ぶあいそ》だったし、田代とはクラスが別だったこともあり、クラブでもほとんどプライベートにしゃべることはなかった。それがヒーリングの後、田代は一気に懐《なつ》いてきた(そして今に至る)。それは、俺に恩を感じているからとか、悲惨《ひさん》な現場に立ち会った者同士だとかそういうものじゃなくて、ヒーリングによってフールの言葉どおり「身体を繋げ合った」(こう表現するのは不本意だが)一体感を記憶《きおく》しているからだ。これが「シンクロ」ということだ。
「千晶様の場合、ご主人様のおそばでは霊位《れいい》が上がるご様子ですな。良い意味でも悪い意味でも」
「え、俺のせいで千晶は霊障受けてんの!?」
「霊的《れいてき》に敏感《びんかん》になっておられる……ということでしょう」
「じゃ、俺は千晶に近寄らないほうがいいかなぁ?」
「いえ。ご主人様のおそばでは霊位が安定いたしますので、離《はな》れているよりはお近くにいるほうがよろしいかと。なんなれば手などお繋《つな》ぎになられると、よりシンクロの状態が強くなりますれば」
「ンなことできるわけねーだろ。田代らを喜ばせるだけだぜ」
俺はブンブンと頭を振《ふ》った。
「しかしご主人様、具体的な行為[#「具体的な行為」に傍点]があったほうが、力は働きやすいのでございますよ!? 人間は精神的な生き物ではなく、生物的[#「生物的」に傍点]な生き物ですからなぁ。五感に頼《たよ》って生きておりますゆえ」
「理屈《りくつ》はわかるけど、パス!」
ドンドンと、トイレのドアが叩《たた》かれた。岩崎だった。
「おめー、トイレ長《なげ》ぇーよ、稲葉」
「悪《わり》ぃ。本読んでたんだ」
「トイレで本読むな!」
その夜は、生徒たちほぼ全員が疲《つか》れて早く寝《ね》たこともあり、静かなものだった。
チラホラ起こっている妙《みょう》なことも、古いホテルだからそんなこともあるだろうと、俺はそれぐらいにしか考えていなかった。四百人も子どもがいるんだ。神経質な奴《やつ》も、霊的《れいてき》に敏感《びんかん》な奴もいるだろう。いろんな念のある場所で、いろんな念の飛《と》び交《か》っている中にいりゃあ、頭痛が起きることもあるだろう。それは、とりたてて騒《さわ》ぐほどのことではなかった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/06_135.png)入る]
三日目
「やっぱり寒くね?」
朝、桂木は不満そうに言った。
「どっかに隙間《すきま》があるんじゃないか、この部屋」
「古いホテルだからなぁ」
今日は、俺たちは午後組だ。午前中は自由行動である。
俺たちがホテルの玄関《げんかん》前で整列を始めた時、ロビーのソファで座《すわ》りこんでいる千晶が、窓の外から見えた。
「千晶」
ロビーに行って声をかけると、千晶は顔を上げた。帽子《ぼうし》とサングラスで隠《かく》れているが、唇《くちびる》が色を失っていた。
「……点呼が始まるぞ、稲葉。並んでこい」
掠《かす》れた声だ。この様子じゃ、朝飯も食っていないだろう。今日も。
俺は、千晶の隣《となり》に腰《こし》を下ろした。
「オイ」
「しっ」
千晶の肩《かた》を抱《だ》き、右手を胸に当てる。
「ちょっとだけな。目ぇつぶってろよ、先生」
確かに千晶はだいぶ疲《つか》れているようだ。黒いもやのようなダメージが見える。でも、何か違《ちが》う。どこが違うのかよくわからないが。
「ふっ」
と、千晶は一息ついた。硬《かた》くこわばっていた千晶の身体から力が抜《ぬ》ける。
「何も訊《き》きっこナシだぜ、先生。これは秘密のテクなんだ」
俺はニヤリと笑いながら言った。千晶も少し口元をほころばせた。
「お前、これで充分《じゅうぶん》食っていけるよ」
そうだな。これで命を削《けず》らなきゃな。
午後組グループ1は、ゲレンデで解散した。千晶は女どもに捕《つか》まる前に、レストランへ避難《ひなん》したようだ。
俺は、レストランの中を恨《うら》めしそうに覗《のぞ》いている田代らのところへ行った。
「田代。腹が減ったんだ。お前、何か食い物持ってないか?」
「はあ? 朝ご飯食べたばっかりで何言ってんの、稲葉?」
そう言いつつ、田代はウエストポーチの中から、チョコだのクッキーだのキャンディだのをわらわら出してきた。俺から声をかけといてこう言うのもなんだが、なんでこんなに持ってるんだ? 遭難時《そうなんじ》の非常食か?
「ハイ、カロリーメイトもあるよ、稲葉クン。チョコ味」
「これ、プチあん饅頭《まんじゅう》。おいしいよ」
桜庭《さくらば》や垣内《かきうち》も、次々と菓子《かし》を出してくる。だから、なんでこんなに持ってるんだっての!
「サンキュー。助かる」
「稲葉君、普段《ふだん》おいしいものを食べ慣れているから、ここの料理じゃ不満なんじゃないの?」
と、姦《かしま》し娘《むすめ》たちは笑う。
「ああ、いや。思ったよりうまいよ、ここの」
「お昼がお弁当ってのは、ちょっとアレだけどネー」
「そこまで手が回らなかったのね」
「予算の問題でしょ」
「よく受け入れ先が見つかったよ。奇跡《きせき》なんじゃねぇの?」
「先生たち、真っ青になっただろうね」
「千晶ちゃん、痩《や》せちゃってたもんね、年明け」
よく見てるなぁ。
「稲葉――、B組とまたやるぞー!」
上野が呼びに来た。
「おう。じゃな、ごっそさん」
甘《あま》いものを食ったら力が出た。
「今日は勝てよー!」
姦《かしま》し娘《むすめ》たちは、エールを送ってくれた。それを見ていた上野が言った。
「稲葉さぁ、あの三人の誰《だれ》かと付き合ってんの?」
「ハ? いや」
意外なことを言われて、俺はキョトンとしてしまった。上野も意外そうな顔をした。
「いっつもさぁ、仲いいなあと思ってて」
「男としゃべってるのと変わらねーぜ? あいつらを女と意識したことねぇし」
「え? だって女じゃん」
「そ、そりゃそうだけど。田代なんて、まるっきり男だぜ!?」
「そう思えるお前がスゲーよ。俺なんか、やっぱり女は女って意識しちまう。お前、付き合いたいとか思わねぇ?」
「そんなヒマねぇからなぁ」
「ヒマの問題なのか!?」
「イ―――ヤ! それは違《ちが》うぞ、稲葉!!」
と、岩崎がえらそうに言った。いつの間にそこにいたんだ。
「単にお前の好みの女がいないだけなんだ! つまりお前は、年上の女がいいんだ! OLぐらいの!!」
何を決めつけてんだ、人の女の好みを。
「そんな年上好みじゃあ、女子高生なんて全っ然女に見えねーのも無理はない! うんうん。わかる。わかるぞ、稲葉! OLといえば、タイトスカート……いいっ!!」
「いーなぁ、OL……。OLのおねーサンに『だめだゾ』とか言われてーな」
「お前ら、AVの見過ぎ」
そういや俺の女の好みって、どんな女なんだろう? 考えたこともないな。
田代……は、男のダチ。秋音ちゃん……は、姉貴だなぁ、どう考えても。たまに兄貴かと思うこともあったり。まり子さん……おっさんだし。バイト先の島津《しまづ》姉さん……岩崎らの憧《あこが》れのOLだけど、会社で一番|怖《こわ》い上司以外の何者でもない。神谷生徒会長バリの「兄貴」だし。
「俺のまわりって、男ばっかり!?」
………………。
まあ、いいんだけど。今はカノジョを作ってる余裕《よゆう》はないから。
俺たちC組男子は、B組男子と雪合戦の再試合をした。が、また負けた。
「ちくしょ――っ!」
「明日は勝―――つ!!」
「フハハハハ、何度でも挑戦《ちょうせん》してきたまえ。受けてたってあげちゃうからサ――」
「ムカツク―――!!」
そこへD組とJ組(普通科《ふつうか》)の男どもがやってきて、みんなでやらないかという話になった。
「壁《かべ》とか増やして、もっと大規模にやろうぜ?」
「いいね、いいね!」
かくして、BDチーム対CJチーム、連合軍同士の合戦が行われることになったのである。決戦は明日だ。
「戦争だ―――!!」
なんだかやけに盛り上がってきたぞ。男《おれ》たちって、やっぱりこういうの好きなんだよなぁ。
参加者みんなで作戦を考えるのは楽しかった。普通科の奴《やつ》らと話すことはなかったから(クラスも遠く離《はな》れている)。
「白っぽい格好をして、匍匐《ほふく》前進でストックに近づく! ステルス作戦!」
「ストックのとこまでトンネルを掘《ほ》る!」
などなど。バカ作戦が次々と飛び出して、みんな笑い転げた。雪合戦の公式ルールなんて誰《だれ》も知らないから、言いたい放題やりたい放題だ。
「白っぽい格好ってなんだよ、それ! 見つかるっての!!」
「トンネルを、いつどーやって掘《ほ》るんだよ!」
「え、ダメかなあ?」
「お前、マジなの??」
「ギャハハハハ!!」
「ヒー! もう、やめてくれー! マジメに考えられねー」
そこへ、木陰《こかげ》から千晶が現れた。
「雪の上に座《すわ》りこんでバカ盛り上がりしちゃって。元気だなぁ、お前ら」
「オー、千晶先生!」
「こっち来いよ、先生。交じらねぇ?」
ハッとするほど、場が華《はな》やいだ。特にJ組の奴《やつ》らは、千晶がそばに来ると思わず立ち上がって迎《むか》えるほど……なんつーか、浮《う》き足《あし》立つみたいな。
「普段《ふだん》、ほとんど接点ないもんな」
普通科の授業には、三年生の選択《せんたく》教科時間以外、簿記《ぼき》などの商業科目はない。普段の学校生活の中では、普通科の生徒は千晶と会うことすらないんだ。普通科で千晶とよく顔を合わせているのは、生徒指導室へ呼び出しを食らっている奴らぐらいだ。
「へぇ、雪合戦対決か。いいね、面白《おもしろ》そうだ」
煙草《たばこ》をくゆらせながら(一服するために、女どもからコソコソ逃《に》げてきたんだな)千晶が笑うと、男どももつられて「エヘヘ」と笑った。
「先生もやんねー?」
「そうだよ。作戦考えてくれよ」
「ん? ふふふ」
千晶は、すっかり元気になっているようだった。よかった。
「アッ、なんで千晶がそこにいんの?」
木陰《こかげ》から、B組の奴《やつ》が叫《さけ》んだ。
「あっ、スパイだ!」
「スパイだ!!」
「何っ、千晶がいるって? ひょっとして、そっちに交じる気か? ズッリ――ィ!」
敵兵がわらわらとやってくる。
「作戦会議中だぞ。敵はこっち来んな!」
「いくらCの担任だからって、千晶が交じるのはズルイぞ!」
「こっち来いよ、先生」
「あっ、拉致《らち》る気か、コラ!!」
「たまにはいーじゃん!」
「ダメだ! 返せ!」
BD軍とCJ軍が千晶をひっぱり合った。
「オイオイ」
千晶はよろめいて、雪の上へ倒《たお》れた。
「ひっぱれ!」
「阻止《そし》―――っ!!」
男どもが雪の上で団子状になった。
「痛《いて》ぇ!――コラ!!」
「行かないで、センセ――!!」
「ギャハハハ」
「やめろ! くすぐってえ!!」
「先生、スキだ―――っ!!」
「ワハハハハ」
「ギャハハハハ!」
雪まみれでのたうつ塊《かたまり》を、俺らC組はポカンと見た。
「男子生徒が男性教師を取り合い……女どもを笑えねぇな」
だいぶ冗談《じょうだん》は入っているが、実は男どもも千晶と遊びたいというか、触《ふ》れ合《あ》いたかったのだと、C組の俺たちは目からウロコが落ちる思いだった。もちろん、C組の男に千晶に対する縄張《なわば》り意識なんぞないけど、むしろ千晶はヤンチャ組らと一番仲がいいくらいだから。それでも他クラスの、特に男子には「遠慮《えんりょ》」があったんだな。いや、これは「照れ」か。俺の隣《となり》で、上野がボソッと言った。
「俺、三谷《みたに》と中学から一緒《いっしょ》でよく家へ遊びに行くんだけど、三谷ン家《ち》、四つ上に兄貴がいるんだよ。三谷、兄貴と仲がいいの。うちは姉貴と妹だから、兄貴って羨《うらや》ましくてさぁ」
「……うん」
ちょっと年の離《はな》れた、カッコイイ兄貴―――。
男子高生にとっちゃ、たまらんよな。そうだよな。
そうか。俺は……、長谷も含《ふく》め(長谷は同い年だけど)、アパートでそんな兄貴ばっかりに囲まれてるんだ。
ここぞとばかり千晶とスキンシップを図《はか》る男どもが……なんか、可愛《かわい》らしく見えた。
「ギャ―――ッ、何してんの、あんたたち!!」
千晶を「集団で襲《おそ》っている現場」を、女どもに見つかってしまった。
「先生を放しなさいよ!」
男どもは、ことさら千晶にベタベタと抱《だ》きついて女どもを挑発《ちょうはつ》した。
「へへー、羨《うらや》ましいかあ〜〜〜!」
「何その言い方! ムカツク!!」
「ああ、御髪《おぐし》の乱れた千晶先生って、なんてセクシー」
千晶の帽子《ぼうし》もサングラスも、どこかへ飛んでしまっていた。
「そろそろ飯だぞ、みんな。レストランへ行けよー」
「ヘーイ」
自分と同じぐらいの体格の男どもにモミクチャにされて、千晶は半分|魂《たましい》が抜《ぬ》けかかっていた。ヨロヨロと立ち上がった身体から雪を払《はら》ってやる。
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「笑うな」
「人気者は大変だねぇ」
上野が、帽子《ぼうし》とサングラスを拾ってきた。
「千晶先生、大丈夫《だいじょうぶ》〜?」
「ヘンなことされてないー?」
と、近寄ってくる女どもを、男どもはシッシと牽制《けんせい》した。
「ハーイハーイ、それ以上近寄らナーイ。千晶センセイは、今日はボクたちのものデース」
「何ソレッ!!」
「わけわかんない!」
ガキ同士のオモチャの取り合いだ。微笑《ほほえ》ましいといおうか、情けないといおうか。千晶は、苦笑いしながら頭をかいていた。
午後からのスキーレッスンでは、ストックを立ててその間をS字に滑《すべ》る練習をした。
「足首と膝《ひざ》をよ〜く曲げること。曲げたまま滑ると簡単に回れるからねー」
「回れまセ―――ン!」
「S字だよ〜。L字じゃないからね〜」
「あ・あ・あ・あ・あ〜〜〜」
「コラ――、どこへ行くー!」
「とーめーて―――!」
「じゃあ、次はジャンプをしてみようー!」
「え〜〜〜っ!?」
ジャンプといっても小さなコブを一つ跳《と》ぶだけだが、それでもジャンプしないとこけてしまう。だが、ジャンプのタイミングがなかなかつかめない。みんな、こけにこけまくった。
「明日は全員でクロスカントリーだ。しっかり滑《すべ》りに馴染《なじ》んでおけよー」
と、千晶が言った。
「なんか、馴染めそうにないんですけど?」
不安そうに訴《うった》える上野に、千晶はニッコリと笑いかけた。
「死ぬ気でやれ。雪山でスキーができないと命にかかわるゾ」
「モー。こんなことちっとも面白《おもしろ》くないよ、センセー」
スキーがなかなかできない奴《やつ》は、ほっぺたを膨《ふく》らませる。
「修学旅行のカリキュラムなんてものはだなぁ、面白《おもしろ》くないものなんだよ」
千晶はミもフタもないことを言った。
二日目は、みんなさらに疲《つか》れてホテルに帰ってきた。学校側の作戦どおりだな。
ホテルの前に集合しようとしていた時、あの青木のシンパどものグループを見かけた。
「あれ?」
青木のシンパは他にもいるけど、そのグループは特にいつもつるんでいる奴《やつ》らだったが、
「一人足りない」
と思ったら、グループからちょっと離《はな》れてポツンと立っていた。それは、雪が落ちた時、千晶に助けられた女だった。奇妙《きみょう》な感じがした。いつも結束して行動しているはずの奴らなのに。喧嘩《けんか》でもしたのか?
「おい、田代。アレ……」
たまたま田代が隣《となり》にいたんで、なんの気なしに訊《き》いてみた。
「ああ、アレね」
やっぱり、コイツは事情を知っていた。
「あの子だけ、B組の子なの。あとはみんなA組」
「そうなのか」
「あの子、もともとB組でもちょっと浮《う》いてた子なのよね。内気でさ」
「だから青木に惹《ひ》かれるんだろ。青木って、そういう奴《やつ》大好きだもんな」
「あの子、千晶ちゃんに助けられたじゃん。その時、千晶ちゃんケガまでしちゃったじゃん」
「うん」
「あの子としては、やっぱりちょっと心苦しいじゃん。自分を助けてくれてケガまでした人に、あからさまに反発できないじゃん」
「それがフツーだろ」
「それが、他の子らは気に食わないみたい」
「はあ?」
「なんかねぇ……。純粋《じゅんすい》なものの中に、不純物が混じってしまった、みたいな?」
「なんだ、ソリャ? 狂信者《きょうしんしゃ》集団かヨ」
「狂信者集団なのよ。知らなかった?」
「…………」
確かに。ああいう連中は、ある意味とても純粋でナイーブで、弱い奴らだ。だからこそ、鉄の結束みたいなものを大事にしたがる。異物を許さないところがある。カルトはみんなそうだ。
「だからって……女子高生がそれをするか?」
俺は呆《あき》れて連中を見た。
「子どもの残酷《ざんこく》をナメちゃダメよ、稲葉」
田代は、ホホホとドライに笑った。
やっと安住できる場所ができたのに、またそこからはじかれる。あの子にとって、この修学旅行は最低の思い出になるだろう。気の毒に。
「今日はキツかったなー」
俺たちは部屋の畳《たたみ》の上へ倒《たお》れこんだ。
「も〜、また寒ぃよ、この部屋」
「明日はクロカンだろ。雪合戦する体力残ってるかなぁ」
「桂木、足|大丈夫《だいじょうぶ》だったか?」
「ああ、もう全然。シップが効いたんじゃねぇ? サンキュー、稲葉」
「俺、先に風呂《ふろ》入ってこようっと。誰《だれ》か行かねぇ?」
「あ、じゃ行こうかな」
俺も先に風呂《ふろ》に入ることにした。岩崎と階段を下りながらしゃべる。
「中学の修学旅行でさぁ、海パンはいて風呂入ってる奴《やつ》がいたぜ」
「余計目立つのにな」
「この旅行でも、ずっと部屋の風呂に入ってる奴はいるだろうなぁ」
「でっかい風呂のほうが気持ちいいのに、とは思うけど。みんなと入るのはうぜぇって気持ちもわかるよ」
俺は苦笑いした。中学の俺は、そんなタイプだった。
岩崎が、こそっと耳打ちしてきた。
「普通科《ふつうか》の女子で、タトゥー入れてる奴がいるってよ」
「マジで!?」
「どこに入れてんのかなぁ。見てーなぁ」
岩崎は鼻の下を伸《の》ばしたが、
「就職とか結婚《けっこん》する時に困るだろう!?」
と言った俺は、首を絞《し》められた。
「お前はなんでそう、ロマンとかエロスとかいうものがわからね――んだ!!」
「コラコラ、そこ。喧嘩《けんか》ならどこか遠くでやりなさい」
階段の上に千晶がいた。下りてくるところだった。
「センセー、一緒《いっしょ》に風呂《ふろ》に入らねぇ?」
と、岩崎が声をかけた時だった。千晶の身体が、不自然にガクンと揺《ゆ》れた。
「!!」
「落ちる……!!」
と思ったが、千晶は咄嗟《とっさ》に手すりをつかみ、かろうじて落ちずにすんだ。
「千晶!」
俺と岩崎は、階段を駆《か》け上《あ》がった。
「誰《だれ》かが突《つ》きとばしたぞ! 誰だよ!!」
岩崎はあたりに叫《さけ》んだ。しかし、その場にいた者はキョトンとするばかりだった。
「よせ、岩崎。やめろ」
俺は岩崎を止めた。
「だって、稲葉。お前も見ただろ! あれは絶対、誰かが後ろから千晶を押《お》したんだって!」
「岩崎、もういい。大丈夫《だいじょうぶ》だから」
「でも……」
「風呂《ふろ》に行くんだろ、行ってこい」
千晶はそう言いながら、左肩《ひだりかた》を押《お》さえた。どうやら少し痛めたらしい。
「医務室行けよ、先生」
俺たちは、あらためて風呂へ向かった。
「なんで、千晶は突《つ》きとばされたって言っちゃダメなんだよ、稲葉?」
「お前、あの時千晶の後ろに誰《だれ》かいるの、見たか?」
「見てねーけど、あれは絶対突きとばしたんだって、誰かが!」
「よく思い出せよ、岩崎。千晶は階段の真ん中ぐらいにいた。千晶のすぐ後ろに立ってたって、身体が見えるもんだろ。千晶の身体に隠《かく》れてしまうようなチビな奴《やつ》は、男にはいねぇよ」
「じゃあ、女だったんだろ! ―――あれ?」
「あの時、あのへんに女がいたか?」
岩崎も、妙[#「妙」に傍点]だと気づいたようだ。
「………………千晶が、足を滑《すべ》らせた……だけ?」
「そう思っといたほうが、いいんじゃねぇ?」
「それって、どーいうイミ? ねぇっ、稲葉クン??」
悪意を感じる。
何かの―――。誰《だれ》かの―――。
突然《とつぜん》降ってきた雪の塊《かたまり》。そこに混じっていた異物。直撃《ちょくげき》すれば、千晶は大怪我《おおけが》をしていた。そして今度も……下まで落ちていたら、打ち身どころじゃすまなかった。
偶然《ぐうぜん》なのか? 腑《ふ》に落ちないことが続いている。何かが進行している気がする。
「……シャイニング」
映画『シャイニング』を思い出した。雪に閉《と》ざされたホテルで起こる怪奇《かいき》現象を扱《あつか》った作品だ。
夕食の席に、千晶は現れなかった。女どもがざわついていた。
俺は、飯をかきこんで席を立った。
「田代」
「何?」
「このホテルのディープな情報を探《さぐ》れ。やっぱここ、何かあるぞ」
田代は、ちょっと目を丸くしてからニヤリと笑った。
「任せて」
それから俺は、教員用の部屋へ行った。
千晶は、こたつに入って寝《ね》そべっていた。
「稲葉? お前今、飯の時間だろ?」
「もう食ってきた。いーなぁ、こたつ」
千晶は、顔色が悪かった。こたつの上に用意された膳《ぜん》には、箸《はし》を動かした跡《あと》もなかった。
「食欲ないのか、先生?」
千晶は、返答に困ったようだった。
「ここに着いたその日の夕飯から、ずっと食ってないんじゃないか?」
「昼飯は食ったよ。お前の隣《となり》にいただろ?」
そうだ。ゲレンデのレストランでは食っていた。あれは、ホテルとは別の場所で作られた弁当であり、ゲレンデのレストランで作られた汁物《しるもの》だった。
千晶は……このホテルで出されるもの[#「このホテルで出されるもの」に傍点]が食えないんじゃないか?
どこかで同じ話を聞いた。ホテルの食事が食べられなかった秋音ちゃんだ。
「正直に言えよ、先生。あんた、ここの飯……食いたくないんじゃねぇ? 特に理由はないのに食べる気がしないとか、喉《のど》を通らないとか、そんなことないか?」
「…………」
青ざめた千晶の目が、真っ黒に見えた。
「何か……知っているのか、稲葉?」
俺《おれ》は、笑って首を振《ふ》った。
「何も。そうなんじゃないかな〜と思っただけさ」
「…………」
黄泉戸喫《よもつへぐい》。それを口にしたら、もう現世へは帰れないという死者の国の食べ物。
千晶がこういうことを知っているとは思えない。ということは、これは千晶の無意識の自己防衛なのか。千晶は、明らかにこのホテルのなんらかの影響《えいきょう》を受けている。体調が昼と夜で違《ちが》うのもそうだ。ホテルにいる[#「ホテルにいる」に傍点]と悪いんだ。黄泉戸喫を口にしたら……千晶は、もっと悪影響を受ける気がする。
「それでいいから、先生。このホテルで出されるものには一切《いっさい》手をつけるなよ。お茶も水も飲むな。ゲレンデのレストランで何か買いこんでおくといい」
千晶は何か言いたげだったが、俺は部屋を出た。
このホテルの何かに影響《えいきょう》を受けている者は他にもいるけど、千晶は特に影響を受けている。それはなぜだろう?
「こんなに必死に考えることでもないかもしれないけどな」
このホテルにも、あと一日半だ。それで終わり。千晶はつらいだろうけど、あと一日半|我慢《がまん》すりゃいいんだ。このホテルを利用するのは今年限りなんだし。
「いろいろ謎《なぞ》はあるけど、田代が情報拾ってきたら、また何かわかるかもな」
俺は、まだ油断していた。
それは、妖怪《ようかい》アパートで日々ユーレイや妖怪に囲まれて暮らしているせいで、妖《あや》かしというものに慣れたつもりになっていたからだった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/06_159.png)入る]
そこに、いる
「そーいやさぁ」
風呂《ふろ》から帰ってきた桂木が言った。
「こっち、本館のほうに開かずの間があるんだってよ」
「開かずの間?」
「八〇四号室が閉めきられてるんだって。女子が言ってたぜ」
「八〇四ってと……この上のほう……」
岩崎が天井《てんじょう》を見上げた。
「じゃあ、八階は八〇四をとばして使ってるわけか。それって、単に何か壊《こわ》れているとか、そういう理由なんじゃねぇか?」
と、俺は言ったが、上野らは面白《おもしろ》がった。
「イヤ! きっとその部屋で人が死んでるんだよ。よくあるじゃん。自殺があったんだって、きっと。だから使えねぇんだ。出る[#「出る」に傍点]から!」
「やぁめろよぉ! そんな話はぁ、上野!」
「あれ、岩崎。こういう話キライ? 怖《こ》ぇーの?」
「そ、そういうことじゃなくてだなぁ」
岩崎は、チラッと俺《おれ》のほうを見た。
「修学旅行に怪談《かいだん》は付きものじゃ〜ん。みんなやってるぜ。俺らもやらね?」
「やるならもっと人呼ぼうぜ。俺、そういう話知らねぇし」
上野と桂木はノリノリだ。
「やめようぜ。なぁ、稲葉」
「ん。オバケの話をしてると寄ってくるっていうしな」
「いーじゃん、寄ってきても。俺、まだ幽霊《ゆうれい》って見たことねぇんだ」
「俺もー♪」
「俺はやらねぇぞ! 俺はパス!!」
と、岩崎が言った時だった。ドンドンと襖《ふすま》が叩《たた》かれた。
「ンだ―――っ!!」
岩崎は飛び上がったが、襖《ふすま》を開けたのは千晶だった。
「あ、センセー」
「稲葉、さっきの話なんだが……」
と、そこまで言った時、千晶の動きが止まった。
「?」
千晶は、まるで凍《こお》ったように一点を見つめた。みんながそのほうを見た。
窓、だった。カーテンを引いていなかった。
真っ暗な中、ガラスに俺たちが映っていた。
「な、なんだよ、先生。何かあるのか?」
岩崎が怯《おび》えたように尋《たず》ねたが、千晶は答えなかった。
「ハハッ、お、脅《おど》かしっこナシだぜ、先生?」
「おい、何か寒くないか?」
桂木がそう言うと、上野がエアコンのリモコンを指さした。
「い、稲葉ぁ……。こ、これ!」
室内温度の表示が、みるみる下がっていく。
突然《とつぜん》、千晶が崩《くず》れるように倒《たお》れた。
「千晶!」
俺は千晶を抱《だ》きとめた。千晶は、俺の腕《うで》の中でぐったりとした。
灯《あか》りが点滅《てんめつ》し、光度が落ちて、部屋の中が一気に暗くなった。
「なんだよ、コレ? なんなんだよ!?」
と言う岩崎の息が、白くなった。空気の密度が異様に濃《こ》くなって、まるで霧《きり》の中にいるような感じだった。身体にベチャベチャとまとわりつくようだ。
俺は、入り口を見てハッとした。ドアが閉まっている。開け放していたはずなのに。
「いけませんな。この空間は閉じられてしまいました」
胸元《むなもと》でフールが呻《うめ》くように言った。
「何か……いる!」
濃い気配がした。アパートでよく感じるような……でも、まったく違《ちが》う!
上野たちは、わけがわからず固まったままだ。寒さにガチガチ震《ふる》えている。俺はその上のほうに、ゆっくりと視線を移した。
暗い部屋の中で、天井《てんじょう》はさらに真っ暗に染まっていた。本当に墨《すみ》を流したみたいだった。そこに―――、いくつもの顔が見えた。
「なんだ、アレ……!?」
ゾッとした。その時、俺の耳元で声がした。
「死んじゃえ」
女の声だった。無邪気《むじゃき》だが悪意のある声。全身の毛穴が開くような恐怖《きょうふ》を感じたが、同時に俺は、ムカッときた。
「みんな! 布団《ふとん》の中へもぐれ!!」
ビビってるところに俺が怒鳴《どな》ったものだから、全員何を考える間もなく、布団の中へ頭から突《つ》っこんだ。「プチ」を取り出し、「|]\《19》」のページを開く。
「太陽! イグニスファタス!!」
「イグニスファタス! 光の精霊《せいれい》でございます!!」
カ―――ッ!! と、ものすごい光が炸裂《さくれつ》した。太陽のような黄金の光だった。
光は一瞬《いっしゅん》でおさまった。バケモノはいなかった。照明の灯《あか》りも暖房《だんぼう》ももとに戻《もど》っていた。
俺は天井を睨《にら》んだ。
「ヘッ、ざまぁみろ! オバケはやっぱり光に弱いんだよ」
いや、アパートじゃ朝から出まくりなんだけど、邪悪《じゃあく》なモノってやっぱり光を嫌《きら》うんだ。桂木たちが、恐《おそ》る恐る布団《ふとん》から顔を出した。
「なんだ? 何が起こったんだ?」
「なんだってんだよぅ」
「さぁな。照明とエアコンが同時にいかれたから、電気の不調かな」
「そ、そうなのか??」
「千晶、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
上野が心配そうに言った。千晶は、意識を失ったままだった。
「このまま、ここに寝《ね》かせよう。岩崎、先生の部屋へ行って、千晶はここで寝てるからって言ってきてくれるか」
「わかった」
「悪《わり》ぃ。俺、今日はここで寝れねーわ。隣《となり》へ行く」
桂木は荷物を持って出ていった。
「か、桂木ぃ……」
「いいぜ、上野。お前も行っても」
上野は、桂木が出ていくのを見てしばらく突《つ》っ立《た》っていたが、やがて俺のほうを振《ふ》り向《む》いて言った。
「今日は、千晶をはさんでみんなでくっついて寝《ね》ようぜ」
上野は、ニカッと笑った。俺も笑った。
「女どもに恨《うら》まれそうだ」
岩崎も部屋へ戻《もど》ってきて、俺たちは布団《ふとん》をくっつけて、四人ぎゅうぎゅうになって寝た。さすがに電気を消す気にはなれず、しばらく落ち着かなかったが、その後は何事もなかった。上野も岩崎も俺も、いつの間にか眠《ねむ》ってしまった。
翌朝五時。トイレでフールを呼び出した。
「昨夜《ゆうべ》のアレは、なんだったんだ?」
フールは、短い腕《うで》を組んで首をひねった。
「さあて。どうも何かいる[#「何かいる」に傍点]ようでございますなぁ、このホテルは」
「何かって、今さら」
「この場合の何かとは、そのへんをウロついている浮遊霊《ふゆうれい》などではなく、明確な意思を持ってその場所に憑《つ》いているモノのことでございます」
「エート……あ、地縛霊《じばくれい》ってやつ?」
「左様。地縛霊や地霊《ちれい》のたぐいでございます。若者たちのエネルギーに刺激《しげき》されて出てきたのやもしれませぬな」
「千晶が、すごい影響《えいきょう》を受けていると思わねぇか?」
「波長が合ってしまっているという可能性が一番|高《たこ》うございます」
「もう明日にはホテルを出るんだから、大丈夫《だいじょうぶ》だよな?」
「保証はいたしかねます。一番よいことは、この場所から離《はな》れることでございます」
「そうはいかねぇだろ〜?」
俺はため息をついた。
「なんか……ホンマもんの幽霊《ゆうれい》を見たって気がしたなあ」
朝から晩まで妖《あや》かしに囲まれていてこう言うのも変だが、あのアパートに出るモノたちが、いかに牧歌的なものかよくわかったよ。
「クリの母親も充分《じゅうぶん》バケモノだったけど、昨夜《ゆうべ》のは何か、全然|違《ちが》う感じがしたな」
「怨念《おんねん》のせいではないかと」
フールはうんうんとうなずいた。
「人間の汚《よご》れた念など感じたくもありませんのでよくわかりませんが、どうやらアレは、怨《うら》みを呑《の》んで死んだ者のようでございますな」
「そういうのって……ホントにいるんだなぁ」
幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》たちと暮らし、精霊を従えた魔道士《まどうし》の端《はし》くれとはいえ、俺は純粋《じゅんすい》な「怨霊《おんりょう》」とか「悪霊」というものの存在を、まだどこかで信じられないでいた。
「後で秋音ちゃんに電話してみよう。あ、そうだ。秋音ちゃんからもらったお札《ふだ》、千晶にやろう」
六時半。俺はテレビを無音で見ていた。
「天気は下り坂か」
千晶の携帯《けいたい》のアラームが鳴った。アラームを止めて千晶のほうを見ると、千晶はぼんやりと天井《てんじょう》を見ていた。脳みそが起きるまで時間がかかるんだな。
「……稲葉」
掠《かす》れた声がした。
「ん?」
「なんで野郎《やろう》にはさまれて寝《ね》てるんだ、俺は?」
千晶の両側に、上野と岩崎がしっかりとくっついていた。
「昨夜《ゆうべ》のこと、覚えてねぇ?」
「……ここに来たのは覚えてるが」
「何か見たか? 聞いたとか?」
「…………窓」
「窓?」
「窓を見たところまでは覚えている」
そういえば、昨夜はカーテンを開けていた。そうだ。ゲレンデの照明が綺麗《きれい》だから、寝る前までカーテンを開けておいたんだ。
俺は、カーテンを開けてみた。夜が明け始めたゲレンデは、海の底のように青かった。
「う……」
千晶が呻《うめ》いた。起きようとしているが起きられないようだ。俺は、背中から千晶を抱《だ》きかかえて上半身を起こしてやった。そして、そのまま左手で千晶の目を覆《おお》い、右手を胸へ当てた。
「稲葉……」
「いいから。先生、よく聞いてくれ。もし他の先生が、あんたにホテルで休んでいろとか言ったとしても、ゲレンデへ来い。このホテルの中で一人でいるのはよくない。しんどくても俺たちといるんだ」
そのために、なるべく千晶のダメージは取っておかないとな。
向き合った俺の汗《あせ》が流れ、息が少し荒《あら》くなった様子を、千晶は睨《にら》むように見た。
「稲葉。これがどういうテクなのか詮索《せんさく》はしないが、お前に負担になるようなものなら……」
「先生。もし本当に負担になるようなら、俺はしねぇよ」
千晶は俺を見た。まっすぐに。
いつも思うが、不思議な眼差《まなざ》しをしている。
「……本当だな?」
「本当だ」
『言いたいことは山ほどあるんだぞ』と言っている目。そして、『全部わかっているんだぞ』と言っているような目。
「それとな、先生。コレ……」
俺は「お札《ふだ》」を取り出した。
「ん?」
「あーん」
と、俺が口を開けると、千晶はつられて素直《すなお》に口を開けた。そこにお札を入れる。お札といっても、小さな紙きれで「千枚通し」という「飲むお札」である。
「なんだ? 紙?」
「いいから飲んで」
俺は水を渡《わた》した。
「ただのおまじないだよ」
笑った俺を、千晶はまた睨《にら》むように見た。
生徒にこんな得体の知れない奴《やつ》がいることを、千晶はどう思っているんだろう。俺は、今さらながらふと不安になった。その時、ふいに千晶に抱《だ》きしめられた。
「!」
千晶は、無言で俺を強く抱《だ》き、ポンポンと背中を叩《たた》いた。そして、無言のまま部屋を出ていった。
俺は、呆然《ぼうぜん》とその後ろ姿を見送った。
俺の考えを、読まれた気がした。とたんに、すごく照れくさくなった。顔が、カッと火照《ほて》る。
「あーもう、なんなんだよ!」
俺はもう一度、顔を洗いに行った。
朝飯を食いに広間へ行くと、桂木が先に来ていた。ちょっとバツが悪そうだった。岩崎が、桂木の頭をペシンと叩いた。
「なっ……」
続いて上野が、そして俺も叩いた。
「なんだよ、もー!」
桂木は赤くなって怒《おこ》った。
「ハハハハ」
俺たちは笑い合った。
最終日だった。
天気が悪くなり雪が舞《ま》い始《はじ》めたため、クロカンは中止になった。
「やりー!」
「やったー! バンザーイ!!」
全日自由行動となった生徒たちは大喜びした。スキーを習いたい生徒には、インストラクターが付いてくれた。
「せっかく千晶先生と一緒《いっしょ》できたと思ったのに〜〜〜!」
千晶はレストランへ籠《こも》りきりで、グループ2の女子は不満タラタラだ。
俺たちは、グループ2の男子も交じって大規模雪合戦をした。ルールなんて無用だったから、ストックを取ることそっちのけで壁《かべ》をぶっ壊《こわ》して進攻《しんこう》し合《あ》い、攻撃《こうげき》し合《あ》い……。結局は俺たちは、ただ「相手に雪玉をぶつけたいだけ」ってことが、ルールがないことでよくわかった一戦だった。ギャラリーは楽しんだようだ。みんな笑い転げていた。
俺たちも、思い切りバカバカしいことをやって楽しかった。最後は全員で、雪まみれのまま記念写真を撮《と》った。
昼近くになると、ちらちら舞っていた雪が少し吹雪《ふぶ》いてきた。
一時間ずつ時間をズラして、レストランで昼食をとった。
「ハハ。お前ら、顔真っ赤だぞ」
席について、千晶は俺たちを見て笑った。
「雪合戦、ムチャクチャだったよ」
「ゲームどこじゃなかったな」
みんな笑った。
「食事がすんだら、このままホテルに帰りまーす」
と、麻生が言った。
「え〜、もう?」
「天候が悪くなってきたので、ホテルに帰って自由行動ねー。ホテル側が、大広間を開放してくれるそうでーす。カラオケセットもあるゾー!」
キャ――ッ! と、女どもから嬉《うれ》しい悲鳴が上がる。
「千晶先生、コンサートやってー!」
「やってぇぇぇ!!」
「やンねーよ。俺は忙《いそが》しいんだ」
「イヤーン、やってー、やってー!」
女どものテンション上がりまくりである。
あと、半日。
どうか、何事も起こりませんように。
昼食をすませたグループ2がホテルに帰ってくる頃《ころ》には、吹雪《ふぶき》はけっこう強くなっていた。大広間が開放され、生徒たちはさっそくカラオケを始めたり、ロビーでたむろったり、ゲームコーナーで遊んだり、部屋で寝《ね》たりと、修学旅行最終日を過ごす。
「千晶」
一階のトイレで、千晶が煙草《たばこ》をふかしていた。
「隠《かく》れてるつもりかよ」
「ホントにトイレに入ってたんだよっ」
「誰《だれ》もいないところに一人で行くな」
「……何を心配しているんだ、稲葉? 俺が襲《おそ》われるって? そういう経験もなくはないがな」
半笑いで千晶は言ったが、その顔色がもう悪くなってきている。
「頭痛がするんだろ、先生? 俺といると楽だぜ」
千晶は、ふーっと煙《けむり》を吐《は》いた。
「……何? それは誘《さそ》ってンのかな、稲葉クン?」
「ばっ……! 茶化すな!」
「あっ、見つけた! 千晶先生!!」
と、やってきたのは、大広間担当の麻生。
「麻生先生、何か?」
麻生は、千晶に向かってパンと両手を合わせた。
「頼《たの》んます! 一曲でいいから歌ってください!!」
「……先生〜」
呆《あき》れる千晶に麻生はすがった。
「もぉ〜、俺のほうから頼んでくれって、女子に怒濤《どとう》のように言われて困ってるんですよぉ。一曲、一曲だけって約束させましたから! お願い!!」
千晶は、苦りきった顔をした。
「いーじゃねぇ、先生。歌ってやれよ。修学旅行の思い出作りをしてやるのも教師の役目だろ!?」
「ジジくせー意見だな、稲葉」
「行こうぜ。最終日だもんな。楽しまなきゃ」
俺は千晶の手を引いた。
「サンキュー、稲葉。いい子だなあ!」
麻生に頭を撫《な》でられた。千晶は、やれやれとため息をついた。
大広間に千晶が現れると、生徒たちがいっせいに悲鳴を上げた。早くもコンサート会場のようだ。
「ギャ――ッ、嬉《うれ》しい!」
「え、歌うの? 千晶先生、歌うの!?」
「千晶――! ブルーハーツ歌ってくれ〜〜〜っ!!」
「『She』もっぺん聴《き》きたーい!」
千晶が舞台《ぶたい》に立ち、音楽がかかった。ワッと歓声《かんせい》が上がる。
「The Yellow Monkey の『So Young』! また、絶妙《ぜつみょう》な選曲を」
千晶が歌い始めると、騒《さわ》いでいた生徒たちが一瞬《いっしゅん》で静まった。本当に、マイクを持つと千晶は人が変わる。見ているものは、ただ歌がうまいだけじゃない特殊《とくしゅ》なオーラに圧倒《あっとう》される。
「異能者か……。あれでもセーブしてるんだろうがね」
歌が終わると、また嵐《あらし》のような歓声《かんせい》と絶叫《ぜっきょう》が始まった。麻生がマイクを取った。
「ハイハイ、静まって。一曲だけって約束だろ」
「ヤダ―――!!」
「千晶先生はしばらくいらっしゃるから、後でみんなで歌おうってさ。さー、カラオケの続きをやるゾー」
千晶は女どもにひっぱられ、輪の中に連れていかれた。
「ハ〜、鳥肌《とりはだ》立ったわ。千晶ちゃんのイエモン最高! あ、稲葉。情報入ったよん」
田代が、ビデオ片手にやってきた。
「またムービー撮《と》ってたのか、田代」
「むふふ♪ これは高く売れるわよ〜」
「売るつもりかよ!?」
「神谷サンから、すでに予約が入ってんの。ホホホホホ!」
「……神谷さん…………」
カラオケで盛り上がっている大広間の片隅《かたすみ》で、田代から情報を聞いた。
「本館で、四人続けて自殺者が出てるの」
「本館って……ここ!?」
「歴史が古いホテルだから、それ以前にも自殺はあったのかもしれないけど、それは除外して。このホテル、団体の客が多いんだけど、しばらく学生は受け入れてないんだって」
「あ、それは千晶から聞いた」
「なぜだと思う? 自殺したのはみんな学生なのよ。しかも女子ばっかり」
最初の自殺者が、修学旅行で来ていた学生だった。そして次も、その次も。毎年冬にやってくる修学旅行生から自殺者が出た。さすがに四人目が出たあと、ホテル側は学生の受け入れをやめたのだ。条東商を受け入れたのは、いたしかたなく……と、時間が少したっていたからってとこか。
「自殺って、どうやって?」
「飛び降りよ。屋上から。だからここの屋上、出入り口が閉鎖《へいさ》されてるでしょ」
「屋上は露天風呂《ろてんぶろ》だろ?」
「露天風呂《ろてんぶろ》の裏にちょっとしたスペースがあって、そこに直接出られるドアがあるのよ。もうちょっと時間があれば、もっと詳《くわ》しいことがわかるかもね。最初のケースはどうだったのか、とか。あ、あと具合の悪くなった人も多かったって。救急車で運ばれた先生もいたとか」
自殺者が、四人。昨夜《ゆうべ》、あの真っ黒の天井《てんじょう》に見えた顔……あれは、四人じゃなかったか?
「じゃあ、俺は仕事へ戻《もど》るぞー」
みんなと何曲か歌ったあと、拍手《はくしゅ》と口笛と歓声《かんせい》と「行っちゃヤダー」という声に送られて、千晶は大広間を後にした。
「お疲《つか》れサン」
「なんだ、稲葉。お前、ついてくる気か?」
「お仕事お手伝いしますよ、千晶先生」
「バカだな。遊んでろよ」
千晶は俺の髪《かみ》を、ぐしゃぐしゃとかき回した。
「今から見回りか?」
「そうだな。部屋で遊んでいる連中も多いから、ちょっと見回って……」
「伊藤《いとう》先生」
「それから、夕飯の確認《かくにん》……」
「なんで私のこと、無視するんですか、伊藤先生!」
俺と千晶は振《ふ》り返《かえ》った。そこにいて千晶を涙目《なみだめ》で睨《にら》んでいたのは、青木のシンパで、そのグループからはじかれた奴《やつ》だった。
「こいつ……」
「今井《いまい》?」
「あんなに、マキコは可愛《かわい》いよ可愛いよって言ってくれたのに。なんで急に冷たくするの、伊藤先生!」
千晶も俺も、まわりにいた生徒たちもキョトンとした。絶叫《ぜっきょう》するわりには、今井は妙《みょう》に無表情だった。
「俺……千晶なんだけど?」
ハッと、今井の表情が戻った[#「戻った」に傍点]。そしてひどく驚《おどろ》いたように青くなると、その場から駆《か》け去《さ》った。
「伊藤って誰《だれ》だ? 教師の中にいたか?」
「聞いたことねぇな。いたとしても、そいつとあんたを間違《まちが》えるわけねぇよ」
「そうだよな……」
千晶は、今井が走っていったほうを見ていた。
「あの顔を見たか? まるでクスリをやっているような目だった。そんなことをするようなタイプの子じゃないが……」
「うん。なんつっても青木のシンパだしな」
「そーいう言い方をするな」
俺は頭を小突《こづ》かれた。
「稲葉。麻生先生を呼んできてくれ」
千晶は麻生としばらく話し合っていた。
今井の様子は、何か嫌《いや》な感じがした。完全に自分を失っている目。それよりも「伊藤」って誰《だれ》だ?
話がすんだらしく、麻生は大広間へ帰っていった。
「麻生先生、なんだって?」
「確かにクラスじゃ友だちも少なくて少し浮《う》きぎみだが、いじめられている様子はないし、問題を起こすような子じゃないとな。友だちは他のクラスにいるようだし」
「うん」
千晶は、大きなため息をついた。
「実際のところ、生徒一人一人には目が届かないのが教師の現状だ。特に、自分を出さない、出せない生徒がどういう状況《じょうきょう》にあるのか探《さぐ》るのは難しいよ」
エレベーターで三階へ行く。
「大人の干渉《かんしょう》を拒《こば》む奴《やつ》も多い。心配をかけたくないと、一人で我慢《がまん》する奴もいる。担任や親でなくてもいい。誰《だれ》かがいさえすればいいんだが……」
「今井には青木がいる。大丈夫《だいじょうぶ》さ」
俺がそう言うと、千晶はちょっと笑った。
「青木先生[#「先生」に傍点]」
俺はまた小突《こづ》かれた。
三〇一号室では、生徒が一人|爆睡《ばくすい》していた。三〇二号室と三〇三号室には、誰もいなかった。そして、三〇四号室に入った時だった。
襖《ふすま》を開けた千晶は、またそこで固まった。ハッとして、俺は千晶に駆《か》け寄《よ》った。
「千晶!?」
千晶はよろめいた。
「なんだ?」
「なんだって、大丈夫《だいじょうぶ》か? フラフラしてるぞ」
「そうか?」
部屋には誰《だれ》もいなかった。カーテンが開いていた。窓の外は真っ暗だった。
その時、どこかで悲鳴のような声がした。
「今のなんだ?」
「女の悲鳴じゃないかっ!?」
千晶は外に出ようとしたがよろめき、その拍子《ひょうし》に、ガン! と、襖《ふすま》の桟《さん》に思い切り頭をぶつけた。そのまま、バッタリと倒《たお》れる。
「千晶!」
「……ったああ〜〜〜!」
俺は洗面所でハンカチを濡《ぬ》らし、千晶のデコに当ててやった。
「う〜、いててて……」
千晶は倒れたまま呻《うめ》いた。
「あんた、手がかかる人だなぁ」
その時、気づいた。
寒い……?
いつの間にか、空気がずーんと重くなっていた。冷気が霧《きり》のように身体へまとわりついてくる。
「これは……昨日と一緒《いっしょ》……!?」
俺の視界の端《はし》に、窓があった。
そこに、人が立っていた。
「……あんなところに、人が立てるか……?」
俺は、ゆっくりと窓のほうを見た。
窓の外に、女がいた。部屋の中を覗《のぞ》きこんでいた。
「……セーラー服……」
[#改ページ]
[#挿絵(img/06_185.png)入る]
その一言が、世界を変えることもある
「お前が……最初の女[#「最初の女」に傍点]か」
女の顔は、真っ暗で見えなかった。怨《うら》みと悲しみ、いろんなドロドロしたもので泥沼《どろぬま》のようになった顔だった。
どこからか、声がした。
「死んじゃえ」
声の響《ひび》きにゾッとした。今そこに悪霊《あくりょう》がいるかと思うと、膝《ひざ》が震《ふる》えた。
「他の三人をひっぱった[#「ひっぱった」に傍点]んだろ」
吐《は》く息が真っ白になった。
「いいじゃん」
部屋の隅《すみ》でまた声がした。あちこちに暗がりができていた。
「みんな淋《さび》しかったんだもん。友だちになれて喜んでるよ」
プツプツと、泡《あわ》がはじけるような声だった。
俺は、ドアを見て驚《おどろ》いた。また閉まっている。固定されていたのに。
「よくごらんあそばせ、ご主人様」
ジャージの胸元《むなもと》でフールが言った。ドア付近の暗がりに、誰《だれ》かが立っていた。
「今井……!」
B組の今井だった。無表情で呆然《ぼうぜん》と突《つ》っ立《た》っているが、その右手にはどこから持ってきたのか、活《い》け花《ばな》で使うハサミが握《にぎ》られていた。
「伊藤先生なんか、死んじゃえ」
暗がりがユラユラと動いている。俺は、千晶に覆《おお》いかぶさった。
「違《ちが》うぞ! これは伊藤じゃない!! よく見ろよ!」
空気の密度が濃《こ》くなって、水の中にいるようだった。頭痛と吐《は》き気《け》がした。
どうする? イグニスファタスを使うか? それが手っ取り早いかも。
「ふふっ」
「くすくす」
笑い声が聞こえた。暗がりが、畳《たたみ》の上を滑《すべ》るように移動してくる。
「う……!」
千晶が胸を押《お》さえて苦しみだした。
救急車で運ばれた教師がいたと、田代が言っていた。
「雪を落としたのも、千晶を突《つ》きとばしたのもお前か」
「伊藤先生なんか、死んじゃえ」
「やめろ!」
俺は「プチ」を取り出した。
「ご主人様っ!」
「えっ?」
今井が、ハサミを振《ふ》りかざして突進《とっしん》してきた。
「おわっ!」
咄嗟《とっさ》に両手でハサミを止めたため、「プチ」は畳の上へ放《ほう》り出《だ》された。今井は無表情だけど、すごい力をしていた。と、同時に、俺は後ろから誰《だれ》かに抱《だ》きつかれた。耳元で、ふっと笑う気配がした。
「つかまえた」
嬉《うれ》しそうにそうつぶやいたのは、額が真っ二つに割れ、左右の目玉が違《ちが》う方向へ向いた女だった。
「……っ!!」
喉《のど》の奥《おく》が、ぐうっと鳴った。頭が真っ白になって、ハサミを止めている手から力が抜《ぬ》けそうになった。その時、
「マキコ」
その声に、今井も、後ろから抱《だ》きついている奴《やつ》も動きを止めた。
「マキコ……」
そう言ったのは、千晶だった。千晶は胸を押《お》さえて倒《たお》れ、目を閉じたままだったが続けて言った。
「何があったんだ……。話してごらん……」
やがて、今井も、俺の後ろの奴も身を引いた。
シンとした。この部屋だけ世界から切《き》り離《はな》されたような静寂《せいじゃく》が満ちて、耳が痛くなった。
ふと気づくと、窓の外に女の姿はなかった。
今井が泣いていた。ぽろぽろと、無表情な顔を涙《なみだ》が伝った。
「伊藤先生が大好きだったの……」
今井がしゃべり始めた。
「外にいた女が降《お》りましたな」
フールが言った。
「憑依《ひょうい》現象……」
「私はなんの取り得もなくて、みんなから無視されて、いつも独りぼっちだった。でも伊藤先生だけは、マキコは可愛《かわい》い、マキコはいい子だって言ってくれた。みんなに内緒《ないしょ》で二人きりで会ってくれた」
おい待て。二人きりはマズイだろう。
「だから……全部あげたのよ」
「!!」
「なのに、なんでもう話しかけてくるな、なんて言うの? なんで他の子とそんなに楽しそうに……わけわかんないよ!」
「…………」
「私、他の子から言われたよ。私が先生に付きまとってるから、先生すごく迷惑《めいわく》してるって言ってるって。違《ちが》う! 違う!! 優《やさ》しくしてくれたのは、伊藤先生からよ。私のほうから声なんてかけられるはずないじゃん。だって、先生は人気者でいつもみんなに囲まれてるんだもん。だから……先生から優しくされた時は、本当に嬉《うれ》しかった。みんなに内緒《ないしょ》だよって、二人だけの秘密だよって……。ひどいよ! キライ! 大キライ!! わああ―――っ!!」
「マキコ」は、大声で泣いた。
「教え子に手を出したのか……」
吐《は》き気《け》がいっそう強くなった。「マキコ」が孤立《こりつ》しているのをいいことに、優しい言葉で誘《さそ》ってもてあそんで、飽《あ》きれば知らんふりか。
「淋《さび》しかったんだな……。かわいそうに……」
千晶が、つぶやくように言った。
「マキコ」は、ハッとして倒《たお》れたままの千晶を見た。
「かわいそうに……」
「マキコ」は、無言で千晶を見つめ続けた。頬《ほお》をとめどなく涙《なみだ》が伝っていた。
空気がゆるむ感じがした。
身体が軽くなる。部屋に暖かさが戻《もど》ってきた。
「ム。引きあげるようですな。お見事です、千晶様」
「かわいそう」のたった一言で? こんな凶悪《きょうあく》な奴《やつ》が手を引くのか? 俺は信じられなかった。
「たった一言が、世界を変えることもございますぞ、ご主人様」
フッと、今井の目に表情が戻った。俺や千晶を見てキョトンとしてから、自分が手に持ったハサミを見てびっくりし、それを放《ほう》り出《だ》した。
「あ、あたし……」
今井はわけがわからず、青くなって震《ふる》えた。
「今井」
千晶が、薄《う》っすらと目を開いていた。
「お前は淋《さび》しいとか不安だとか感じるだろうが、まわりは決してお前の敵じゃない。もっとリラックスしていいんだぞ……」
今井は、ちょっと唇《くちびる》を噛《か》んだ。それから、逃《に》げるように部屋を出ていった。
「千晶、大丈夫《だいじょうぶ》か!?」
千晶の顔は、真っ白になっていた。すごい汗《あせ》をかいている。
「稲葉? なんだ? どうした……?」
「え、あんた何も覚えてねぇの?」
そこへ、三〇四号室の生徒が一人帰ってきた。
「アレ? 何やってんデスか?」
俺はそいつに言った。
「すまん。ペットボトルの水を買ってきてくれ。でかいほう!」
「あ、ああ。うん」
その間に、俺は千晶にヒーリングを行った。ダメージがけっこう大きくて、半分ぐらいでやめておいた。余裕《よゆう》があれば、こういうコントロールもできるようになった俺だ。
千晶は、ペットボトルの水を一気飲みした。
「どうしたんですか、先生?」
「貧血《ひんけつ》だよ。それより、なんかざわついてるな。何かあったのか?」
「五階の部屋で怖《こわ》い話をしてたらしくて、そしたら女子の一人が何か見たって騒《さわ》いだみたいです。僕《ぼく》、四階の廊下《ろうか》にいたんだけど、ものすごい悲鳴でしたよ」
ドア開けっ放しだからなぁ。廊下《ろうか》に反響《はんきょう》しまくったんだろう。
俺は、千晶を支えて部屋を出た。教員用の部屋は同じ三階にあるが、千晶は医務室で寝《ね》かせたほうがいいだろうな。もう大丈夫[#「大丈夫」に傍点]だとは思うが。
「医務室に行くからな」
「稲葉」
「ん?」
「風呂《ふろ》に入りたい」
「はあ? 何言ってんだ、フラフラのくせに。ってか、俺もフラフラだし」
「こんな汗《あせ》だくで寝たくねー」
「何? ソレって俺に、風呂に入るの手伝えってことか?」
「そーだよ。面倒《めんどう》見てよ、ダーリン」
千晶はそう言ってから咳《せ》きこんだ。
「死にそうな声で何言ってんだ。ったく」
俺は、教員用の部屋まで千晶を連れていき、風呂に入らせて、着替《きが》えさせて、千晶が買っていた食い物を食べさせて、寝かしつけた。もういいや。ここで寝かせとこう。
「あ〜〜〜……。ここまで来て、クリの世話をしてるみたいだぜ。あんたって、クリ並みに手がかかるよ」
人心地《ひとごこち》ついて気持ちよさそうな千晶の寝顔《ねがお》にそう言ってやった。
「ケータイ借りるぜ、先生」
アパートに電話を入れ、詩人に、秋音ちゃんにこの携帯《けいたい》に電話してくれるよう伝えてもらった。折り返しの電話はすぐにかかってきた。
一連の出来事を、秋音ちゃんに話した。
「女の子が飛び降りたのが、八〇四号室の真上からだったのね。だから各階の四号室が影響《えいきょう》を受けるのよ。霊現象《れいげんしょう》って、縦に起きることが多いの」
「八〇四が閉鎖《へいさ》されてるのはそれか。いくらなんでも、自殺者が立っていた真下の部屋に、同じ女生徒を入れたくなかったわけだ」
「部屋で異常現象も起きていたでしょうしね」
「フールは、女たちは引きあげたって言ったけど、成仏《じょうぶつ》したのか?」
「いったん引いただけよ。そんなに簡単に成仏しそうにないみたいだから。高位の術者に除霊をしてもらわないとダメでしょうね。でも、それにはタイミングとかホテル側の意向とか、いろいろあるから。それまでは、また同じような人がひっぱられないように、一応お札《ふだ》を貼《は》っとこう」
「お札って? 俺、秋音さんからもらったお札、千晶にやっちゃったけど」
「ホテルのファックス番号教えて。ファックスするから」
「ファックス? ファックスしてくんの? お札を??」
一階のフロントへ携帯《けいたい》を持っていった。
「すいません。ファックス使っていいスか? ……いいよ、秋音さん。送信して」
ブブブ……と、ファックスが唸《うな》って紙を吐《は》き出《だ》した。A4の普通紙《ふつうし》に、お札が三枚並んで写っていた。
「ご利益《りやく》なさそ〜」
ロビーを通った時、その片隅《かたすみ》で麻生と今井が並んで座《すわ》って、外の景色を見ながら話しているのが見えた。麻生は、今井の背中をぽんぽんと叩《たた》いていた。
俺は八階のさらに上の屋上まで行き(階段で!)、屋上へのドアに、切《き》り抜《ぬ》いたお札を糊《のり》で貼《は》り付《つ》けた。
「なるほどなるほど。これでこの一画を、結界で閉じるわけでございますな」
俺の肩《かた》にちょんと乗ったフールが言った。
「幽霊《ゆうれい》が下へ行かないように、か」
これで、とりあえず千晶も他の生徒も安心だ。ホッとした。
「ああ、そろそろ夕飯の時間だ。行かなきゃ」
しんどくて眠《ねむ》くてフラフラするが、俺は夕飯を食いに行き、麻生に「千晶は貧血《ひんけつ》で部屋で寝《ね》ている」と伝えた。
「稲葉、どこにいたんだよ。五階の悲鳴聞いたか?」
岩崎が勢いこんでしゃべってきた。
「ああ、千晶と三階にいたんだ。三階まで聞こえたよ」
「五〇四で怪談《かいだん》してたんだってよ。そしたら女子の一人が、窓の外を落ちていく人間を見たんだと! そいつ、その落ちていく奴《やつ》と目が合ったんだと!!」
岩崎は泣きそうな顔で言った。
「あ〜、寄ってきちまったんじゃねぇ?」
「やっぱり!? やっぱりそう思う? そうだよな! 怖《こ》ぇえ〜〜〜! 俺、もう一生怪談なんてしねえ!」
夕飯を食いながら、みんなももっぱらその話で盛り上がっていた。自分がそういうめに遭《あ》わなきゃ、怖《こわ》い話は面白《おもしろ》いよな。
「もうダメだ。もう寝《ね》る……」
飯を食い終わった俺は、カラオケをしようという上野らの誘《さそ》いを断った。部屋へ帰る前に、もう一度教員用の部屋へ寄ってみた。
まだ顔色は冴《さ》えないものの、スヤスヤと眠《ねむ》る千晶の顔を見たら、ふっと気がゆるんだ。
俺の記憶《きおく》は、そこで途切《とぎ》れた。
携帯《けいたい》のアラームで目を覚ますと、千晶の横に寝かされていた。翌朝の六時半だった。
「お前、揺《ゆ》すっても全然起きないんだもんよ、稲葉よ。仕方ないから寝かせといたよ」
麻生と井原に大笑いされた。
「これが女生徒なら、大問題だゾー」
「す、すいません」
「千晶先生もそうだけど、今年はやたら具合の悪くなる生徒が多かったですねぇ」
「別に風邪《かぜ》をひいてるんじゃないのが不思議だね」
四日間ずっと医務室で寝っぱなしという生徒が何人かいた。昨日、落ちる人間と目が合って、ホテルじゅうに轟《とどろ》きわたる悲鳴を上げた女子とともに、病人組はバスとは別の車で寝《ね》ながら帰宅する。
「いや、すごい悲鳴だったねぇ。田丸先生がなだめてもなだめても、ギャーギャー泣きわめいちゃって」
「毎年一人は出ますね。怪談《かいだん》やってて変になる生徒」
「変に敏感《びんかん》なくせに、変なことをしたがる年頃《としごろ》ですからねぇ」
その子は、本当に見たんだ。「マキコ」が落ちてゆくのを。
本館に渦巻《うずま》く怨念《おんねん》を敏感に感じて具合が悪くなったり、幽霊《ゆうれい》を見てショックを受けたり、淋《さび》しい魂《たましい》をひっぱられておかしくなりかけた奴《やつ》もいたけど、
「みんな無事だった。よかった」
俺は、胸を撫《な》で下《お》ろした。ホテル側もさぞホッとしていることだろう。
千晶は、朝食の席に来なかったが、ロビーに集合している時に現れた顔色は、だいぶよくなっていた。
「点呼取れてるかぁ、委員長?」
「取れてますよ。あとは先生だけ。大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「心配かけたな。昨夜《ゆうべ》はよく眠《ねむ》れたから、今朝は気分がいいよ」
「おはよー、センセー」
「千晶センセー」
バスの出発時間が来た。ホテルの人たちが、並んで見送ってくれる。
千晶は、ふと振《ふ》り返《かえ》りホテルの上のほうを見た。
「どうした?」
俺が声をかけると、千晶はちょっと笑って首を振った。
「なんでもない。さあ、帰ろうか」
バスが動きだした。
雪が舞《ま》っていた。
バスの中は、みんなが話す思い出話でいっぱいだった。スキーのこと、カラオケのこと、昨夜の騒動《そうどう》のこと。生徒たちの熱気で、たちまち窓ガラスが白く曇《くも》る。
白い景色の中、遠ざかるホテルを見ていると、ふぅとため息が出た。
隣《となり》に座《すわ》っている千晶が肩《かた》に手を回してきて、ちょっと俺の顔を覗《のぞ》きこむようにして言った。
「お前には世話になったな、稲葉」
「……まったくだ。あンた手がかかる人だよ、先生」
千晶は、ヒョイと肩《かた》をすくめた。
「よく言われる」
その横顔がやつれているのがわかる。ホテルに着いてから丸四日、千晶は昼飯と、昨夜握《ゆうべにぎ》り飯《めし》を二個食っただけ。そして記憶《きおく》があやふやで、所々まったく覚えていなかった。こめかみの怪我《けが》と肩を痛めたこと、どうして負ったのか覚えていなかった。昨夜の三〇四号室のことは、もちろん記憶になかった。
「不思議だ……。なんだかずっと具合が悪かったような気がするが、それも今は本当だったのかどうか実感できないし……。こんな感覚は初めてだな」
千晶は戸惑《とまど》う。
俺も、あんな幽霊《ゆうれい》と向き合ったのは初めてだった。あんなふうに明確な意思を持って、無関係の人間に襲《おそ》いかかってくるモノが本当にいるんだ。
俺になんの力も、なんの知識もなかったら――
頭の潰《つぶ》れた女に抱《だ》きつかれて……俺は、どうなっていただろう。
ぎゅっと、俺の肩《かた》を抱《だ》く千晶の腕《うで》に力がこもった。
「どうした。気分悪いのか?」
「あ、ううん」
千晶の腕にこもる力は、長谷やアパートのみんなを思い出させた。とたんに胸が明るくなる。早くあの家へ帰って、るり子さんの手料理を食いたくてたまらなくなった。
「それにしても……」
俺の肩に回した千晶の右手がすぐ目の下にあった。そこに大きな傷があるのが見える。
「傷だらけだったな、あんたの身体」
千晶を風呂《ふろ》に入れた時、その肩、腕、胸、足にも、手術の痕《あと》らしい傷がいくつもあるのを見た。千晶は、フッと笑った。
「若い頃《ころ》の勲章《くんしょう》サ」
「なにカッコつけてんだよ」
「ほほう。千晶ちゃんの身体じゅうに傷が。君はそれをどうやって見たのかなぁ、稲葉クン?」
すぐ後ろに、田代がいた。俺たちは思わず固まった。あんたまで固まる必要はないんだよ、千晶。あんたが固まったら、余計変だろ!
「いやっ……」
「そういや昨日夕ご飯の時、稲葉クンってば、石鹸《せっけん》の匂《にお》いがしたネ」
桜庭が、何気に余計なことをぬかしてくれやがった。
「いっ、いいだろ。飯の前に風呂《ふろ》入ったって!」
「べぇつぅにぃ、いいけどさぁああ〜? 話は、またあらためてしようよ、稲葉クン?」
田代の目玉が、面白《おもしろ》そうにキラキラと光っていた。
修学旅行が終わった―――。
「ただいま―――っ!」
金曜日の夕方。俺は五日ぶりの我《わ》が家《や》へ帰ってきた。
「おかえりなさい」
牡丹《ぼたん》の柄《がら》の着物姿の華子《はなこ》さんが迎《むか》えてくれる。廊下《ろうか》の奥《おく》から、クリが走ってきた。
「クリ〜〜〜! お土産《みやげ》いっぱい買ってきたぞ〜!」
ハッ、思わず長谷のようなことを。いかんいかん。
「よ。おかえり」
その長谷がいた。
「は、長谷!? なんで?」
「学校終わってからすぐに来たんだ。やっとヒマをもぎ取って来られたよ」
と、長谷はクリの頭を撫《な》でながら嬉《うれ》しそうに笑った。とりあえず、禿《は》げてなくてよかった。
「なんか、いろいろあったようだな。聞かせてくれ、稲葉」
「……うん」
その夜は、久々のるり子さんの激うま料理に舌鼓《したつづみ》を打ちつつ、長谷と秋音ちゃんと詩人、そしてアパートに巣くう多くのモノたちと過ごした。
牛肉と牡蠣《かき》で旨《うま》み倍増|煮込《にこ》みうどん鍋《なべ》が、疲《つか》れた身体を芯《しん》から癒《いや》してくれた。叩《たた》いて潰《つぶ》した牡蠣が溶《と》けこんだ汁《しる》のコクがすごい。みるみる疲労《ひろう》が回復する感じだった。そして、味噌《みそ》とオイスターソースと胡麻油《ごまあぶら》でつやつやに光った牡蠣が、せりと炒《い》り胡麻と七味とともに官能的にからみあった味噌牡蠣|丼《どん》。
「味噌《みそ》と牡蠣《かき》とご飯って、相性抜群《あいしょうばつぐん》ねー!」
秋音ちゃんは早くもどんぶりを三|杯目《ばいめ》だ。男らしい。
「温まるなぁ、この鍋《なべ》。外の寒さを忘れるよ」
「るり子ちゃん、うどんの玉おかわり〜」
「どんどんください、るり子さん! うまくて止まらないっス!」
るり子さんは、嬉《うれ》しそうに指をもじもじさせた。長谷の膝《ひざ》に乗って、一生懸命《いっしょうけんめい》うどんをすするクリが可愛《かわい》らしかった。窓の外には、ちらつき始めた雪とともに、青や黄色の光がひらひらと舞《ま》っていた。もう、いろんな意味で俺は幸せだった。
暗い庭を、小さな雪ダルマが行進していた。どこへ行くんだろう。
「秋音さん、これ羊羹《ようかん》の厚さじゃないですよ」
長谷が、秋音ちゃんの切ってきた羊羹を指さして言った。本日のデザートは、栗蒸《くりむ》し羊羹とコーヒーだ。羊羹とコーヒーって合うよなぁ。
「羊羹の何が嫌《きら》いって、あの薄さ[#「薄さ」に傍点]よね。どうしてみんな、あんなに薄く[#「薄く」に傍点]切るのかしら?」
クリは、俺がホテルの土産《みやげ》コーナーで買ってきたオモチャが気に入ったようだ。ウニのような形をした宇宙生物でポヨポヨとやわらかく、さわるとピカピカ光るんだ。
俺はみんなに、自殺者の霊《れい》に抱《だ》きつかれた時のことを話した。
「いやもう……ホントにまいった」
あの時、千晶が声をかけなかったら、俺は今井にハサミで刺《さ》されて大怪我《おおけが》をしていただろう。ヘタをすると死んでいた。
「そんなモノとは、できれば一生|関《かか》わりたくないね〜」
詩人は肩《かた》をすくめて苦笑いした。長谷は、複雑な表情で俺を見ていた。
「あんなふうに無関係な人間を巻きこむヤツがいるなんて、知識では知ってたけど、とても実在を実感できなかったよ。でも、本当に攻撃《こうげき》してくるんだよな。びっくりした。今井も、もし俺が怪我でもしたらタダじゃすまなかっただろうし、千晶だってどうなってたか。なあ、秋音さん。人気がある先生ってことが似てるだけで、そいつと別人をゴッチャにするもんなのか?」
「霊たちが、現実の世界をどう捉《とら》えているかなんてわかんないわ」
秋音ちゃんは、あっさりと首を振《ふ》った。
「かなり自分たちの都合のいいように、歪《ゆが》めて捉えている可能性は高いけどね。もう物理的な存在じゃないから。物理の法則も時間の法則も関係ないし」
「なるほど」
長谷が熱心に聞き入っていた。
「その子は、怨《うら》みにすがって存在しているんだねぇ……」
詩人が静かに言った。
「怨みは、その子の存在を支える重要な感情なんだ。哀《かな》しいねぇ。でも、怨みきれないんだねぇ。好きなんだねぇ、その先生のこと。だから、優《やさ》しい言葉をかけてもらって、嬉《うれ》しかったんだろうねぇ……」
詩人の静かな言葉が、静かに胸にしむ。
「かわいそうって言葉は好きじゃないけど……」
「かわいそうに」なんてすぐに言う[#「すぐに言う」に傍点]奴《やつ》は、自分勝手な奴が多い。自分勝手に人のことを決めつける奴だ。俺もさんざん言われてきた。「両親がいなくて(不幸で)かわいそうね」と。勝手に不幸でかわいそうだなんて決めるな。
「その言葉が、どんな思いから発せられたか[#「どんな思いから発せられたか」に傍点]が問題なんだよ、夕士クン。千晶先生のことだから、その言葉は、きっと生身の人間の、血の通った響《ひび》きを持っていたんだと思うわけ」
「ああ……」
「相手が精神的な存在だったからこそ、その『思い』がダイレクトに伝わったんだと思うわ」
と、秋音ちゃんも言った。
「千晶が言ったことをどう思う、秋音さん? あれ、ホントに千晶が言ったのかな?」
「千晶先生って、実は潜在的《せんざいてき》に霊力《れいりょく》が高い人なのかも。あるいは、高位の守護霊がついてるとかね。そういう潜在的な力が、本人の意識がない時に出てきた可能性はあるわ。一種の降霊ね」
「ふ〜ん……」
「その四人の子たちは、ずっとそこに居続けるのかな」
長谷の言葉に、どんよりと曇《くも》った雪空の下、屋上で冷たい風に吹《ふ》かれながら、手をつないで佇《たたず》み続《つづ》ける四人の女の子の姿が思《おも》い浮《う》かんだ。哀《かな》しい風景だ。
「だから、自殺はダメなのよ」
秋音ちゃんの言葉は、乾《かわ》いていた。
妖怪《ようかい》アパートの庭に雪が降る。妖《あや》かしだらけだけど、温かく楽しく、愛情に満ちた「家」。千晶も田代たちも、今頃《いまごろ》は家に帰ってゆっくりとくつろいでいることだろう。
ウニ星人を胸に抱《だ》いてうとうとしているクリを膝《ひざ》に、長谷と並んで舞《ま》い落《お》ちる雪を眺《なが》めていた。
「悪霊《あくりょう》って奴《やつ》を目の前で見て、後ろから抱《だ》きつかれてマジでビビったけど……。いい勉強をした」
俺は、ちょっと笑った。だが、長谷は笑わなかった。
「この経験を、俺は俺の血と肉にするよ、長谷」
「…………」
「千晶も言ってた。まず自分を磨《みが》け。自分を鍛《きた》えろって」
結果は後からついてくる。
その結果が、「自分」の証明―――。
俺は、誰《だれ》よりもお前に「俺」を証明したい。お前の隣《となり》で、胸を張れる者になりたい。
血の通った、等身大の人間でありたい。何があっても―――。
長谷は、小さくうなずいた。
それからはお互《たが》いに言葉もなく、黙《だま》って並んで雪を眺《なが》め続《つづ》けた夜だった。
高校二年生が終わる。
あと一年――。俺たちはどう変わってゆくだろう。
三年生は卒業する。クラブの江上《えがみ》部長や神谷生徒会長。
そして……、秋音ちゃんは、アパートを出てゆく。
「また帰ってくるけどね。夕士くんみたいに」
と、秋音ちゃんは明るく笑った。
条東商は、学年末テスト、三年生追い出し会、卒業式の時期だった。
[#改ページ]
中間報告にかえてのあとがき
[#地から2字上げ]香月日輪
さて。
「妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常」も、ほぼ折り返しとなった(予定では)。私の中では、この物語のラストがどうなるかはけっこう早くから決まっていたので、そこまでのアレやコレやを入れると、ちょうど十巻となるのだ。今回は、そういうこととか過去とか今後とかについて、ちょこっと作者の考えを書くこととなった。
前回五巻で突然降臨《とつぜんこうりん》した「千晶先生」は、作者もビックリの予定外の存在だが、それによって長谷の影《かげ》が薄《うす》くなったのでは? という指摘《してき》というかブーイングがある。うん、そうだね(笑)。でも、ご心配なく。長谷の見せ場はございます。
思い起こせば第二巻。長谷の存在は私の中でたいしたポジションになかったのだが、編集の方から「もっと長谷を〜」という要請《ようせい》があり、そんなに言うならということで、長谷を描《か》きこんでみた次第だ。あの時、編集の方がいみじくも言った言葉をしみじみと思い出す。
「長谷と夕士はな……長谷と夕士は、立ちむかっていくんだよ!」
その時私は、心の中で「何に?」とツッコんでいた。しかし、物語の今後の展開の中では、夕士と長谷は本当に「立ちむかってゆく」ことになりそうなのだ。そしてそれは、物語のラストに繋《つな》がる、夕士と長谷の人生を大きく揺《ゆ》さぶる事件となる。
夕士にも長谷にも将来の夢や目標がある。二人はかなり具体的に目標を掲《かか》げ、夢を描《えが》いている。その夢に向かってそれぞれに努力し、確実に歩を進めている。だが運命とは、時に激変するものである。「その時」、それをどう受け止めるか。それは私たちの「生きること」そのものでもある。
「その時」の夕士と長谷を、どうか楽しみにしていただきたい。
TO BE CONTINUE……
夕士と長谷の「その時」に向けて、物語はまだまだ続く!!
[#改ページ]
香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。『ワルガキ、幽霊にびびる!』(ポプラ社)で日本児童文学者協会新人賞受賞。このデビュー作を第1巻目とする「地獄堂霊界通信」シリーズに続き、「エル・シオン」シリーズ(ポプラ社)でも人気を博す。『妖怪アパートの幽雅な日常@』(講談社)で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。他の作品に「ファンム・アレース」シリーズ(講談社)、『異界から落ち来る者あり』上・下巻(理論社)などがある。8月生まれ。獅子座のO型。大阪府在住。
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
[#改ページ]
底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》E
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2007年3月10日  第1刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
鹸《※》 ※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]「鹵+僉」、第3水準1-94-74
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71