妖怪アパートの幽雅な日常D
香月日輪
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十二|匹《ひき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そう思えば[#「そう思えば」に丸傍点]
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/05_000.jpg)入る]
〈帯〉
活字力全開の人気シリーズ
新任教師は妖怪以上の存在感?
妖怪アパートに(なぜか)滝が出現!
一方、学校には超個性派の新任教師が着任して、新たな事件の予感……?
〈カバー〉
「やっぱり、天国って空の上にあるのかな」
「そう思えば[#「そう思えば」に丸傍点]、そうあるのよ[#「そうあるのよ」に丸傍点]。月の霊気が兎の姿をしているようにね」
[#挿絵(img/05_001.jpg)入る]
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常D
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常D
香月日輪
[#改ページ]
夏休みが終わろうとしていた。
「滝《たき》が欲《ほ》しい……」
夕飯を食いながら、秋音《あきね》ちゃんがポツリと言った。
「は?」
「夕士《ゆうし》くんが修行《しゅぎょう》する用の滝≠ェ欲しい」
「え、俺《おれ》?」
俺――稲葉《いなば》夕士、条東《じょうとう》商業高校の二年生。
両親のいない俺は、ただいまアパートで一人暮らしをしている。将来は公務員かビジネスマンを目指す普通《ふつう》の高校生……が、なぜ「修行」をするのかというと。
ここ「寿荘《ことぶきそう》」(通称《つうしょう》、妖怪《ようかい》アパート)に来て、俺の「普通《ふつう》」は一変した。
寿荘は、そのあだ名に恥《は》じない、本当に本物の幽霊《ゆうれい》と妖怪が跋扈《ばっこ》する場所。ここに住み、数々の不思議と、それ以上に怪《あや》しい人間たちと共存することで、俺の常識も生き方も考え方も変わったんだ。
俺はアパートを通じて、何が普通で何が特別なのかは無限だということ、そして俺の可能性も無限だということを学んだ。
それを証明したのが『小《プチ》ヒエロゾイコン』との出会いだ。
二十二|匹《ひき》の妖《あや》かしを封《ふう》じた魔法《まほう》の本『小ヒエロゾイコン』が、俺を主《マスター》に選び、俺は魔書を使い、妖魔を操《あやつ》る「ブックマスター」という魔道士の端《はし》くれとなったんだ。
こんなスゴイことってあるか? っていうほどスゴクないところがまたスゴイところだ(どっちなんだ)。魔法を身につけたところで、「ハリー・ポッター」のようなファンタスティックな冒険《ぼうけん》が始まるわけじゃなし。俺は相変わらず、明日から二学期が始まると、第一志望の県職員を目指して学校に通う一高校生である。
とはいえ、魔道士である俺は、やはりそれなりの修行《しゅぎょう》をせねばならない。いくら「プチ」が全然たいしたことない魔法《まほう》のアイテムで、中にいる妖魔《ようま》たちがあまり役に立たないちょっとズレた奴《やつ》らばっかりでも、こいつらを使役《しえき》する時のために、俺は霊力《れいりょく》を磨《みが》いておかなければならないんだ。自分の命を削《けず》らないために。
というわけで、話は戻《もど》る。
俺の修行《しゅぎょう》用の滝《たき》が欲《ほ》しいと言ったのは、久賀《くが》秋音ちゃん。鷹《たか》ノ台《だい》高校の三年生。プロの霊能力者を目指して、心霊・妖怪《ようかい》科があるという月野木《つきのき》病院で丁稚奉公中《でっちぼうこうちゅう》の女の子。
この秋音ちゃんが、毎朝、俺の「水行」のトレーナーを務めてくれている。修行中、俺は霊的なトランス状態に陥《おちい》っているので、専門家がついていないとあぶないそうなんだ。そういうトランス状態を、悪霊《あくりょう》とかが好むんだとか。
「修行もレベルアップしたし、あたしがホースで水をかけるぐらいじゃ足りないなぁって思ってたの」
「……で、滝……スか」
秋音ちゃんは、うんうんとうなずいた。
「滝《たき》はねー、前から欲《ほ》しいなぁーとは思ってたの。あたしも水行したいしさ〜」
秋音ちゃんは、和風カレーうどんを軽〜く三|杯目《ばいめ》おかわりしながら、軽〜く言った。
「やっぱり、大家さんに頼《たの》んでみよう!」
「滝を造ってって?」
「うん!」
秋音ちゃんは、カレーうどんを豪快《ごうかい》にすすった。
「藤之《ふじゆき》先生に、どれぐらいの滝がいいのか訊《き》こう〜っと! ごちそーさま!」
和風カレーうどん三杯と、鶏《とり》とぎんなんの炊《た》きこみご飯《はん》をどんぶりに二杯ペロッと平らげて、秋音ちゃんは月野木病院へ修行《しゅぎょう》を兼《か》ねたバイトに出かけた。藤之先生というのは、現在秋音ちゃんが師事している霊能力《れいのうりょく》のお師匠《ししょう》さんである。
「ぷぷぷっ……!」
詩人が吹《ふ》き出《だ》した。
「今度は滝で修行? 大変だねー、夕士クン」
と、ラクガキのような顔が笑う。
一色黎明《いっしきれいめい》は、詩人で童話作家。この妖怪《ようかい》アパートの古株の「人間」だ。
「どうせ滝《たき》を造るんなら、温泉の横に造ってだな、滝を見ながら湯につかって一|杯《ぱい》やるってなぁどうだ?」
のんきなことをお気軽に言うのは、深瀬明《ふかせあきら》。愛犬シガーとタンデムで旅する放浪《ほうろう》の画家。詩人の古い連れだ。
「あ、ソレいいねー!」
「大家に提案しようぜ。大家ならそれぐらいやれるだろ」
妖怪アパートの大家さんは、黒坊主《くろぼうず》。
成仏《じょうぶつ》せずに、妖怪|託児所《たくじしょ》の保母をしている幽霊《ゆうれい》とか、人間として会社勤めをしている人間大好きの妖怪とか、はたまた、人間のくせに洋の東西どころか次元を行き来する商売人とか、正体不明の霊能力者とか、まったくわけわかんねーけど(そして、今や俺自身もそのうちの一人だけど)、みんな気のいい、素晴《すば》らしい超《ちょう》個性派だ。さらに忘れてならないのが……。
「るり子ちゃん! この、河豚《ふぐ》の卵巣《らんそう》の塩漬《しおづ》け、サイッコー! もー、チョー日本酒に合うよ!!」
と、詩人に言われ、その白い綺麗《きれい》な指をもじもじとからませている、手首だけの幽霊《ゆうれい》るり子さん。アパートの賄《まかな》いを一手に引き受ける料理の達人である。
俺は、るり子さんの超美味《ちょうびみ》和風カレーうどんと炊《た》きこみご飯《はん》の合間に、冷たい茶碗蒸《ちゃわんむ》しを食べながら考えていた。
「滝《たき》、ねぇ……」
自宅で、朝から滝に打たれる高校生……。
笑えるゼ。
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_008.png)入る]
新任教師登場
さて。
夏休みの間に、我らが二年C組の担任のトシゾーちゃんこと早坂俊三《はやさかとしぞう》先生が、糖尿病《とうにょうびょう》で倒《たお》れてしまった。いつ退院できるか不明らしい。
そういう情報は、すべて田代《たしろ》から入ってくる。田代は、クラブも同じクラスメイト。女にしちゃあ、しゃべりやすい奴《やつ》でいいダチだ。
九月一日の始業式の日。条東商業高校には、新任の教師が二人やってきた。一人は俺たちの担任で、もう一人は、一学期の途中《とちゅう》でこれまた病気で倒れてしまった三浦《みうら》の穴を埋《う》める二年の英語の非常勤教師である。
始業式で校長が、
「早坂先生の代わりの先生がすぐに見つかったのは、本当に幸運でした。ちあきなおみ先生です。簿記《ぼき》とパソコンが専門で、2−Cを担任します」
「ちあきなおみ」? なんか、どっかで聞いたような名前だな。
と、校長に紹介《しょうかい》されて頭を下げたのは若い男。男だったのか!
「え、男?」
「男かヨ」
と、生徒たちからも小声が上がる。
「ちあきなおみ」先生は、出勤初日だってぇのに、背広も着てなけりゃネクタイもしていない。そのちょっとくだけた雰囲気《ふんいき》から何か……何か感じるものがある。
「なんだろう? この雰囲気、誰《だれ》かに似てるな……あ!」
俺は閃《ひらめ》いた。
「明さん!」
ポップでパワフルな絵が海外で人気の画家、深瀬明。しかしその特徴《とくちょう》は、なんといっても暴走族《ゾク》の頭《ヘッド》のような出《い》で立《た》ち。茶パツに黒革《くろかわ》の上下。バイクを愛し、喧嘩《けんか》を愛し、個展会場とかでよく暴れたりする。
この深瀬画家を追っかける熱烈《ねつれつ》なファンには圧倒的《あっとうてき》に男が多いように、こういう男は男にモテる(いや、もちろん女にもモテるけども)。
「いいカンジ〜」
田代ら女どもが喜んでいる。と同時に、男どもも興味深げに見ている。やっぱり、こういう男からは「匂《にお》い」とか「オーラ」みたいなのが出てるんだ。
校長が続けて言った。
「ちあき先生は生活指導のベテランでいらっしゃるから、我《わ》が校《こう》でもぜひ生活指導を担当していただこうと思っています」
なるほど。単純な推理をしてみるとだな、これはきっと、ヤンキーが教師になったってパターンじゃないだろうか。
「次に、青木春香《あおきはるか》先生を紹介《しょうかい》します。青木先生は二年生の英語を担当します」
ひじょうに丁寧《ていねい》に頭を下げたその女は、遠目からもわかる美人だった。男どもがざわめく。
二学期は文化祭を筆頭に学校行事が目白押《めじろお》しだし、いろいろ刺激的《しげきてき》な日々になりそうだな。
教室へ戻《もど》ってくると、さっそく田代ら女たちは「ちあき先生」のことで、男どもは青木のこと、で盛り上がった。
「ちあきちゃん、カッコイイじゃ〜ん」
「美人だったなあ、青木って」
男も女も、みんな嬉《うれ》しそうだ。
俺は、青木はともかく「ちあき」がどんな奴《やつ》なのか興味があった。元ヤンキーという俺の推理は当たってるかな。
始業式の今日は、一時間目は始業式と|HR《ホームルーム》にあてられている。なので、さっそく新担任がやってきた。
「おー」
ちょっとダルそうな第一声だ。教室のみんなは、ちょっとだけ緊張《きんちょう》していた。
「校長に紹介《しょうかい》してもらったが、今日から2−Cの担任になる、千晶直巳《ちあきなおみ》だ。よろしくな」
新担任は、そう言って黒板に名前を書いた。ああ、そういう字を書くのか。オールバックに剃《そ》り残《のこ》しの髭《ひげ》。ダルそうにしゃべるのは癖《くせ》かな。
「やっぱり、雰囲気《ふんいき》が画家に似てる……」
生活指導のベテランってことは、不良どもも相手にしてきたってことだ。根性が入って[#「根性が入って」に傍点]そうだよなあ。
「いいガタイしてる♪」
田代が「ウッフッフ」と笑った。
スラッとしているが骨太な感じがする。スポーツじゃなく武道をやってる感じだ。
「先生、しつも〜〜〜ん!」
田代が、さっそくツッコミを入れる。
「先生は独身ですかあ?」
「三十二|歳《さい》、花の独身だ。実家は金持ちだゾー」
キャーッと、女どもがどよめく。
「ただし、俺とどうのこうのなりたくても、それはお前らが卒業した後にしてくれ。卒業したらOKだ」
今度は教室のみんなが大笑いした。ノリのいい先生だな。
千晶は、鷹ノ台に住んでいることや、上院《じょういん》中学で従兄《いとこ》が教師をやっていることや、合気道をやっていることや(やっぱりな)、女の好みは胸の大きい色っぽい女であることなどしゃべって皆《みな》を笑わせた。一時間目が終わってから気づいたんだが、出席をとってないんじゃないか?
「いいじゃん、いいじゃん。千晶ちゃん、スッゲーいいじゃ〜ん!」
田代は、ずいぶん気に入ったようだ。田代の連れの桜庭《さくらば》も、
「ねー、カッコいいね」
同じく連れの垣内《かきうち》も、
「シブイよね。面白《おもしろ》そうな人みたいだし」
と、女どもはそれはそれは嬉《うれ》しそうにざわめいていた。
男どもも、千晶のジョークに好感を持ったようだ。
俺も好感は持ったよ。一目で「あ、いい感じだ」と思った。それは、千晶の雰囲気《ふんいき》が深瀬画家に似ていたからかな。
二時間目は英語だから、引き続き新任の教師とのご対面である。
「初めまして、二年C組の皆《みな》さん。青木春香です」
とても落ち着いた、優《やさ》しい声だった。教室がささめく。
やはり美人だ。派手じゃないけど、とても清楚《せいそ》で上品。ストレートヘアに控《ひか》えめな化粧《けしょう》。でも、ワンポイントのネックレスといい、白のサマーセーターと赤と黄色のチェックのスカートの組み合わせといい、ちゃんとお洒落《しゃれ》はしているようだ。
「学年の途中《とちゅう》でいろいろと戸惑《とまど》うこともあるでしょうが、がんばって勉強を進めましょうね。では、出席をとります。名前を呼ばれたら、ハイと大きく返事をして手を挙げてください」
青木は、手を挙げる生徒一人一人に「よろしくね」と挨拶《あいさつ》をした。
知的な笑顔《えがお》。優《やさ》しい声だがハキハキしゃべる。なんだか全体的に……隅々《すみずみ》まで……「とてもキッチリしている」という印象を受ける。
「千晶と好対照だな」
と、俺はちょっと笑えた。
青木は出席をとると、さっそく授業に入った。教え方がうまいと、すぐにわかった。教え方まで「キッチリしている」感じだ。
「美人で、教え方もうまい先生か。いるもんだなぁ」
「青木センセ、美人ねー! あのスレンダーさ、憧《あこが》れちゃう」
桜庭はため息をついた。
「いいじゃん、巨乳《きょにゅう》で。男はチチがでかいほうが好きなのよ、桜。千晶ちゃんもそう言ってたじゃん。ねー、稲葉」
「あ? ああ」
俺に振《ふ》るなよ。
「青木先生、教え方うまいね」
意外にも「美人」であることに女どもからの反発はなかった。それは、青木が清楚《せいそ》で上品なタイプであることと、教師としての評価が高かったからではないかと推理する。
四時間目には、千晶の簿記《ぼき》の授業もあった。千晶の教え方もまあまあなんじゃないかと思った。無駄話《むだばなし》は多いが。
「アダルトサイトを見てたら、国際電話につながれちまってエライ目にあったことがあるんだ。お前らも気をつけろよ」
机に腰《こし》かけて、千晶はダルそうに言った。
「センセー。アダルトサイトって、ホントにモザイク無しなんですか?」
「有料サイトはないよ。でもなぁ、思ってるほどいいもんじゃないぞ」
「アハハハ!」
簿記の授業だっての。ホントに青木と正反対だな。
始業式の日は、授業は昼までで終了《しゅうりょう》だ。
小学校の頃《ころ》は、始業式だけで授業なんてなかったよなあ。これも「ゆとり教育」とやらの弊害[#「弊害」に傍点]だ。
昼からバイトに行くので、屋上のいつもの給水塔《きゅうすいとう》に登って、るり子さんの弁当を食った。ボリューム満点、薄切《うすぎ》り牛肉の三色野菜巻きと、ジャコとネギ入り卵焼き。野菜に肉を巻いただけじゃないぜ。中のアスパラ、ニンジン、ごぼうにも、ちゃんとダシの味がついてるんだ。卵焼きとジャコとネギがまた合う!
枝豆、コーン、ニンジン、ハム入りの彩《いろど》りポテトサラダは、食べやすいように団子に丸められている。でも、しっとりホクホクだ。
味噌《みそ》をはさんだキュウリと大根のスティック。これだけでも充分《じゅうぶん》、飯が食える!
そしてにぎり飯は、梅肉とおかかを散らしたものと、しそ風味の昆布《こんぶ》を散らしたもの。極《きわ》めつきは、塩味と海苔《のり》だけのシンプルおにぎり。だが、この塩と海苔がメチャクチャうまい! 塩と海苔だけのにぎり飯! 日本人の原点!
「うまいっス、るり子さん〜〜〜!」
教室で食うときは、るり子さんのこの超絶美味美麗《ちょうぜつびみびれい》弁当のファンの女どもがキャアキャアよってたかってきて、携帯《けいたい》で写真を撮《と》ったり盗《ぬす》み食《ぐ》いしたりするから、まったく落ち着かない。明日から、またそんな昼休みが始まるわけだ。
「ご機嫌《きげん》うるわしゅう、ご主人様」
リュックの上に、フールがちょこんと現れた。
こいつは、魔道書《まどうしょ》『小《プチ》ヒエロゾイコン』の案内人、| 0 《ニュリウス》のフール。身長十五センチほどの小人。中世の道化師《どうけし》のような格好をしている。クソ丁寧《ていねい》な言動がどことなく信用できない、いろいろズレまくっている「プチ」の妖魔《ようま》どもの代表である。
「お食事をなさっている時のご主人様のオーラは一段と美しゅうございまして、我ら一同、恐悦至極《きょうえつしごく》にございます」
そう言って、フールは頭が足先につくほどお辞儀《じぎ》をした。
「ハイハイ」
「バカンスも終わって、いよいよ学校が始まったのでございますね。田代さまたちレディとまた過ごすことができると思うと嬉《うれ》しゅうございます」
「レディねぇ」
俺とフールは、並んで屋上からグラウンドを眺《なが》めた。
グラウンドにはまだどのクラブの部員もいず、白っぽい大地が太陽を反射してギラギラしていた。グラウンドを囲む木々からは、セミの大合唱が聞こえる。青空には入道雲が湧《わ》き立《た》っていた。
「夏も終わってしまいましたねぇ」
「……うん」
こんなにもムンムンと暑くて、太陽はギラギラしてて、セミはガシガシ鳴いているというのに、どこかがもう盛夏《せいか》とは違《ちが》う。空間のどこかに、秋が確実に潜《ひそ》んでいる。そんな感じがするんだ。
「おお、そういえば新しい先生さまがいらっしゃいましたな」
「ああ。どっちもいい先生みたいでよかったよな」
「左様で。女性教師からは、よく整った波動を感じましてございます」
「へぇ、珍《めずら》しいな。お前が普通《ふつう》の人間の波動を感じるなんて。いつもは、人間の波動なんて濁《にご》ってるから感じたくねぇとか言ってるくせに」
「普通《ふつう》はそうでございます、ハイ」
フールは、しれっとした。
「しかしまぁ、人間にしてもいろいろございますもので。ご主人様の尊敬されている、あの黒い魔道士殿《まどうしどの》も、非常に整った波動を発しております」
「何? 龍《りゅう》さんと青木って似てるってか!?」
龍さんはアパートの住人で、秋音ちゃんの憧《あこが》れの君。高位の霊能力者《れいのうりょくしゃ》らしい(詳細《しょうさい》不明)。黒い長髪《ちょうはつ》にいつも黒い服をまとった、霊能力者というよりは芸能人みたいに見える美男子だ。
『君の人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜《ぬ》いていこう』
そう言って、俺の世界を広げてくれた人。龍さんと話していると、その高い知性と深い懐《ふところ》に包まれて、なんというか……心地好《ここちよ》い。
「信念の人、とでも申しましょうか。己《おのれ》の道を究《きわ》めるため、日々まっすぐと歩いている者特有の整った波動が似ておりますな。そもそも人間の波動というものは、さまざまな欲や感情で、常にブレたり歪《ゆが》んだりしております。精神的な修行《しゅぎょう》を積んだ者は、そういうブレがないのでございます」
「ふ〜ん。じゃあ、青木って、よっぽどこう……いい人間なんだな」
フールは頭《かぶり》を振《ふ》った。
「いい人間である、とは必ずしも申しません。整った波動というだけでございます」
と言うと、フールは意味深長に「ほほほほほ」と笑った。
昼から夜までたっぷり働いて、九時|頃《ごろ》アパートに帰ってきた。
「おかえりなさい」
玄関《げんかん》で「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言うためだけに現れる幽霊《ゆうれい》「華子《はなこ》さん」が出迎《でむか》えてくれた。季節によって変わる着物の柄《がら》が、鮮《あざ》やかな赤いアザミから、紫《むらさき》の桔梗《ききょう》に変わっている。
「ただいま、華子さん」
居間からひょこっと顔をのぞかせたのは、クリ。実の親から虐待《ぎゃくたい》されて死んだ、二、三|歳《さい》の男の子の幽霊だ。そばにはクリの育ての親[#「育ての親」に傍点]の犬のシロがくっついていて、二人でこのアパートでみんなに可愛《かわい》がられながら暮らし、成仏《じょうぶつ》する時を待っている。
「おー、ただいま、クリー」
クリが、抱《だ》っこと手を伸《の》ばしてきたので(クリはしゃべれない)抱き上げると、クリは持っていた黒いものを俺の口に突《つ》っこんできた。
「なんだ、コレ?」
バリバリと、香《こう》ばしい食感と味がした。
「お、骨せんべいじゃん。ウマーイ」
幽霊《ゆうれい》の身であるクリは、普通《ふつう》の食べ物を食っても身にならない[#「身にならない」に傍点]が、味はわかるらしく、うまいものには目がない。るり子さんは、クリだけのためにおやつを作ってやったり、俺や秋音ちゃんの弁当を作るついでにクリ用に小っちゃい弁当を作ってやり、昼、クリは縁側《えんがわ》で詩人と並んで、その可愛い弁当を食ったりするという。いい話だ。
「ただいまー」
居間に入ると、詩人と画家が今日も酒を飲んでいた。
二人は俺を見るなり大笑いした。
「な、なんスか?」
「できてるぞ」
画家が笑い転げた。
「何が?」
「滝《たき》」
「えっ、ウソ、もう!? えっ、どこに?」
「お風呂《ふろ》の横に造ってもらったのー」
俺は、クリを抱《だ》いたまま地下へ走った。
脱衣場《だついじょう》へ入ると、もう水の落ちる音が聞こえた。洞窟《どうくつ》温泉の階段を下りる。いつもムンムンしている蒸気が薄《うす》い。
薄いはずだ。岩の壁《かべ》に大穴があいていた。蒸気はそこからゆるゆると流れ出ている。
「はあ〜〜〜……」
俺は、湯船の手前で立《た》ち尽《つ》くした。
大穴の向こうに、滝があった。
あちこちに灯《とも》るほんのりとした行燈《あんどん》の明かりに照らされ、桜と楓《かえで》と苔《こけ》の緑に覆《おお》われた滝の高さは……三メートルぐらい? ザザザじゃなく、シャバシャバって感じの水量だ。崖《がけ》の岩肌《いわはだ》をしたたる何本もの水の筋が、まるで名所「白糸《しらいと》の滝《たき》」のようだった。滝の手前には、小さな淵《ふち》まである。
近くへ行くと滝の冷気が心地好《ここちよ》くて、空には満天の星が煌《きら》めいていた。どこの外[#「どこの外」に傍点]だ、ここは?
「はあ〜〜〜……」
俺は、呆然《ぼうぜん》と滝を見上げた。滝を造ってくれと頼《たの》むほうも頼むほうだが、リクエストどおりできちまうなんて、さすが……さすが、妖怪《ようかい》アパートだ! (そう言うしかないだろ)
「はっ……クリ!?」
振《ふ》り返《かえ》ると、クリは緑の淵に足をつけていた。
「コラ、お前、服のままで」
クリは、澄《す》みきった水をその小さな小さな手ですくっては、パシャパシャと飛ばした。濡《ぬ》れたシロがブルブルッと体を震《ふる》わす。
ふと、クリは、すくった水をじっと見た。何か思い出しているようだ。ひょっとして、夏休みに長谷《はせ》が来た時、ビニールプールで遊んだことかな。
長谷|泉貴《みずき》は、俺の親友。今は都内の一流進学校に通っているが、休みともなればバイクをすっ飛ばしてやってきて連泊《れんぱく》するほど、この妖怪アパートが気に入っている。なかでも、クリは長谷の大のお気に入りで(それはクリもだが)、普段《ふだん》はクールでシビアでニヒリストで、町の不良どもを裏から牛耳《ぎゅうじ》っているような悪党なのに、クリの前じゃ、もうこっちが恥《は》ずかしくなるぐらい、メロメロのマイホームパパと化してしまうのだ。
長谷がアパートを発《た》つ時は、クリがいないのを見計らわないと、「行くな」とぐずって大変なんだ。
クリは今、その小さな脳みそで、夏休みじゅういた長谷パパのことを思《おも》い巡《めぐ》らせているのだろうか。
「エイッ」
俺は、クリへ水をかけてやった。クリはちょっとびっくりしたようだが、すぐに真似《まね》して水をかけ返してきた。俺たちは、しばらく水のかけ合いをして遊んだ。
長谷がせっかく家から持ってきたビニールプールだけど、もう使うことはないかもな。なんたって淵《ふち》だぜ、淵。そして滝《たき》だ。これを見たら、長谷もさぞかし驚《おどろ》くだろうなあ。
「オ〜〜ッ、いいねえ!」
「いいねー」
画家と詩人が楽しそうにやってきた。お盆《ぼん》に酒とつまみをしっかり用意して。
二人は湯船につかると、満足そうに滝を眺《なが》めながら酒を酌《く》み交《か》わし始めた。
「実にけっこうですなあ」
「贅沢《ぜいたく》ですなあ」
「冬が楽しみですなあ」
「雪見酒ですなー」
「たまりませんなー」
人生を楽しむことにかけちゃ、このアパートの住人たちは皆《みな》その達人ばかりである。うまいものを愛し、酒を愛し、人を愛し、孤独《こどく》を愛し、仕事をちょっとだけして、どんな状況《じょうきょう》でも楽しんでしまう。
満天の星空と滝《たき》を眺《なが》めながら、温泉につかって酒を飲む詩人と画家を見て、俺も早くこんな大人になりたいと思った。
「俺たちも風呂《ふろ》に入ろうぜ、クリー!」
俺とクリは、服を脱《ぬ》ぎ捨《す》てて湯船に飛びこんだ。
「わっ、バカヤロ! 酒がこぼれる!」
「ワハハハ!」
どこの空か不明な[#「どこの空か不明な」に傍点]夜空に、流れ星がいくつも降った。
翌朝から、水行ならぬ滝修行《たきしゅぎょう》が始まった。
秋音ちゃんが、水着姿でハツラツと現れた。
「秋音さん?」
「あたしも一緒《いっしょ》にやるわ!」
二人で、いざ滝の下へ。
ザカザカと、けっこうな衝撃《しょうげき》が頭を叩《たた》いた。でも、水はそんなに冷たくなかった。
「お、お、お、お」
「いいねー! 理想的な水量ー!」
「秋音さーん! 水で神呪《しんじゅ》が見えねーよ!」
「夕士くん、もう覚えてるはずよ! あたしも一緒に唱えるから! せーので、ナムカラタンノウ……」
ホースの水とは当然の如《ごと》く格段に違《ちが》う水圧に少々ふらつきながらも、俺は秋音ちゃんについて必死に神呪を唱えた。いつもは二、三分に感じる二時間の修行が、今日はやはりちょっと長かった。そして修行が終わった時には、久々に身体が冷えきってダルかった。でも、すぐそこに温泉がある! 俺は、温かい湯の中へ飛びこんだ。
「あ〜〜〜、これは楽!」
秋音ちゃんは、湯船の脇《わき》に仁王立《におうだ》ちして、
「気持ちよかったね――っ!」
と、大笑いした。やっぱすげぇわ、この女子高生は。
アパートに滝《たき》もできたし、学校に新しい教師も来たし。
こうして、それまでとはまたちょっと違《ちが》った、新しい俺の日常が始まったのだった。
何かとバタバタ忙《いそが》しい学期の始めも、一週間ほどで落ち着いてきた。
「おー、稲葉」
廊下《ろうか》で千晶に声をかけられた。
「チュス」
「お前、アパートに一人暮らしなんだってなァ」
千晶は肩《かた》を組んできた。
「担任としては、一度ぐらい家庭訪問しといたほうがいいか?」
と、覗《のぞ》きこむように訊《き》いてくる。煙草《たばこ》の匂《にお》いがした。
「や、特に問題はないっスけど」
「だよなぁ。お前、成績いいし、真面目《まじめ》みたいだし、ほったらかしにしといてもいいよなぁ」
ダイレクトな教師だぜ。生徒に訊くか!?
「いいっスよ。こっちは生活かかってるんで、めったなことはしないっス」
千晶は、にや〜んと笑った。
「いい答えだ」
それから千晶は、俺の耳をひっぱり、シャツの襟《えり》をひっぱって中を覗《のぞ》きこみ、身体をベタベタさわってきた。
「……な、何してる?」
「ん〜、セクハラ?」
千晶は笑ってそう言うと、最後に俺の頭をグシャグシャかき回し、「よし」と言って去っていった。
「……なんの意味が?」
千晶は、ちょっと向こうで男ども数人につかまり、何やら面白《おもしろ》そうに話を始めた。ろくでもない内容を話していることがすぐにわかった。
ふと廊下《ろうか》から窓の外を見ると、青木がいた。女どもに囲まれて、こちらも楽しそうに話をしている。その青木を囲んでいる女どもが皆《みな》、似たような真面目《まじめ》そうな女ばかりで、俺は千晶と青木を見比べて、吹《ふ》き出《だ》しそうになった。
「対比がハッキリしてきたなあ」
青木は、英語の授業の最初の五分に英語の詩の朗読を組み入れている。
「意味はわからなくてもいいんですよ。英語を聞くということが大事なんです」
と、青木自ら読み聞かせをしているのだ。その詩は、聖書からとっているらしい。青木はクリスチャンだった。あまりにもらしくて[#「らしくて」に傍点]おかしかった。
また、その聖書の詩篇《しへん》を朗読している様子がウソみたいに美しくて、女どもの中にはウットリと(男は別の意味で)見とれている連中もいるが、俺はどうもイマイチだ。単に、青木みたいな女はタイプじゃないからだと思う。
でも、青木は正真正銘《しょうしんしょうめい》、聖女のような優《やさ》しさと知性と美しさを兼《か》ね備《そな》えた女であることは間違《まちが》いない。
千晶は、男子を中心にちょっとヤンチャの入った生徒に人気があり、青木は、女子を中心に(てか、女ばっかり)真面目《まじめ》な生徒に好かれている。
同性にモテるのは特別な魅力《みりょく》があるからで、それは「憧《あこが》れ」だと思う。自分が「こうなりたい」何かを持っていること。容姿だったり、生き方だったり、才能だったり。カリスマってのもあるよな。長谷なんか、このタイプかな。
千晶は、元ヤンキーじゃなかった。ヤンキーではなかったが、相当いろんなことをやってきた奴《やつ》らしい。授業中に多く語られる無駄話《むだばなし》の中に、それがチラチラ垣間見《かいまみ》える。
千晶は、いわゆる「成金のドラ息子《むすこ》」なんだ。中、高、大学(ひょっとしたら小も)を通し、勉強も一応したけど、それよりも金にあかせて遊びまくった青春を送ってきた。学校の不良や町の不良らとも交流があり、奴らのことはその時に学んだようだ。
「いろんな奴がいたぞ。面白《おもしろ》い奴もイカレた奴も。最初から最後までダメな奴もいたし、ちゃんと更生《こうせい》して社会人になった奴《やつ》もいた」
窓枠《まどわく》にもたれかかって、千晶はダルそうに無駄話《むだばなし》をする。
「でもな、ワルから足を洗えたってのは、そいつだけの結果なんだよ。その時まわりが見えない[#「その時まわりが見えない」に傍点]のは、みんな一緒《いっしょ》だ。いつ、どんな奴が、なぜ見えるようになる[#「なぜ見えるようになる」に傍点]かは、俺も未《いま》だにわからん。そいつが最初から持ってる運命なのかもなぁ」
いい話だ――。
妖怪《ようかい》アパートで、詩人や画家が話してくれる話の雰囲気《ふんいき》とよく似てる。決して理想だけを説かない等身大の人間の話だ。いろんな奴と生で付き合い、いろんなことをしてきて、そのすべてを肌で感じてきた[#「肌で感じてきた」に傍点]者の話す言葉……そういう感じがする。まさに、俺とアパートの住人たちの関係と一緒だ。
「校長は、生活指導のベテランと言ってくれたが、俺はベテランってほどキャリアは積んでいない。教師になって、まだ十年もたってねぇしな。その代わり、まだ若い分だけお前たちの気持ちには近いつもりだ」
千晶はそう話しながら、通り過ぎざま、男子生徒の机の中からスルッと漫画《まんが》雑誌を抜《ぬ》き取《と》った。
「あ」
ページが開いていたから、読んでいたことがバレバレだ。
「俺は、今はそれが、俺とお前たち双方《そうほう》のプラスの要素だと思っている」
千晶は、雑誌の背で生徒の頭をゴツンとやった。みんな笑った。これで、お咎めがすんだ[#「お咎めがすんだ」に傍点]ことがわかった。千晶は、漫画《まんが》を小脇《こわき》にはさんだまま話を続けた。
「プラスの要素は、最大限利用すべきだ。そうだろう?」
男どもがうなずいている。そうだよな。心のこと、そして身体のこと。「兄貴」には、訊《き》きたいことも話したいこともたくさんある。
「これは没収《ぼっしゅう》」
漫画を没収された生徒はしかめっ面《つら》をしたが、みんなはドッと笑った。
「へぇ、ラインの引き方がうまいな」
俺は感心した。「これは許すがこれはダメだ」というラインの引き方が、とてもさり気だ。千晶の武器は、この「自然体」なんだな。
自然な感じで「いいぜ。なんでも話せよ。聞いてやるよ」と言ってくれる。でも、「お前、それは違《ちが》うだろ?」と、ちゃんと教えてくれそうな……それが伝わってくる。
「千晶ちゃんの話、面白《おもしろ》いねー! なんか、もっといろんな話を聞きたいって思うよ。きっとすっごい面白い話が、いっぱいあんのよ〜!」
昼休み。弁当を食いながら田代が言った。
「ちょっと無駄話《むだばなし》しすぎって感じもするけど」
垣内は苦笑いした。
「でもさぁ、千晶センセが生活指導ってわかるよねー。なんかこう、変な相談してもウンウンって聞いてくれそうだもん」
「変な相談ってなんなのよ、桜ー」
「ギャハハハ! そのヘンじゃないわよ!」
「だから、何がヘンなのよ!」
「ギャハハハハ!!」
「…………」
二学期も、こういう三人に囲まれて弁当を食っている。
けど、桜庭の言うことは当たってるよな。千晶がヤンチャどもにモテるのは、こいつならヤバイ相談をしてもわかってくれるかもしれないと、そういう余裕《よゆう》のある大人に見えるからだ。まさに「先輩《せんぱい》」だな。しかもちゃんとした先輩だ(同じ先輩でも、ダメな先輩はいるもんな)。
「でもサ、話を聞いてくれるっていうなら、青木先生もすんごく聞いてくれそうじゃない!?」
と、垣内が言った。
「あ、そうねー。青木センセって、すっごく優《やさ》しそうだもんねー」
桜庭も同意する。しかし田代は、
「そうかもしれないけど、ものすごくヘンな話は青木センセにはできないかも」
と、首をかしげた。
「だから、そのヘンな話ってなんなのよ!」
「ものすごくヘンって!!」
「ギャハハハハ!!」
「そうでしょ、稲葉!」
そこで俺に振《ふ》るか!?
「な、なんだよ?」
「青木センセに、エロい相談なんかできないっしょ――っ!!」
「エロい相談って? 稲葉クンのエロい相談って、どんな相談〜〜〜?」
「やっだ――!!」
「ギャハハハハハハ!!」
勝手に盛り上がるなよ、この姦《かしま》し娘《むすめ》ども!!
そりゃまあなぁ。尼僧《にそう》のように清楚《せいそ》で上品な青木に、エロい話なんてできそうにない。ってゆうか、エロい話をしたとしてだな、それに尼僧のように清らかな受け答えをしてもらっても困るだろ? 純愛や初恋《はつこい》の話ならともかく、エロい話には、それこそこの姦し娘みたいに「ヤッダー、ウッソー」っていう反応でなきゃ。
青木にそんな反応ができるとは、到底《とうてい》思えない。
人には得手不得手があるもんだし、それでいいんだよ。
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_036.png)入る]
新入部員登場
始業式から十日ほどたった週明けだった。
英会話クラブに新入部員がやってきた。
「今頃《いまごろ》、新入部員?」
顧問《こもん》の坂口《さかぐち》先生に連れてこられたのは、一年の女子だった。
「え〜、山本小夏《やまもとこなつ》。一年F組、普通科《ふつうか》。二学期から転入してきたんだ。まだいろいろわからんことも多いだろうから、みんなよろしく面倒《めんどう》みてやってくれ」
その転入生、山本小夏は、ヒョロッとしていた。背丈《せたけ》は百五十五ぐらいで手足が細くて、胸も肩《かた》も薄《うす》い! そのわりに背中を覆《おお》う長い髪《かみ》が顔を半分ぐらい隠《かく》して、いまどき? と思うような黒縁《くろぶち》のメガネ(あれだよ、『ドクタースランプ』のアラレちゃんがかけているような、でかくて縁の太いやつ)をかけていて、なんだか身体に比べて頭がすごく重そうで、全体のバランスがとれていない感じがした。
おまけに、黒縁《くろぶち》のメガネの向こうからこちらを見る目つきが、なんというか……あまりよろしくない。
これは、そう感じる俺が悪いのか? なんかイライラするぞ。
お前、それは、その目は……ひょっとして……ガンたれ[#「ガンたれ」に傍点]てんのか? ここが路上でお前が男なら、間違《まちが》いなくそう因縁《いんねん》つけられるぞ!?
などと、俺がモヤモヤしている間に、山本は部長に促《うなが》されて席についた。
「えー、文化祭が十一月十日、十一日、十二日と決まりまして、我《わ》が英会話クラブも二学期はそれに向けて活動いたします。毎年、英会話クラブの文化祭の出し物は、アニメの英語の吹《ふ》き替《か》えとなっていますが、今年もそれにしますか? 他に何かあれば……」
みんなで文化祭についての話をしている間、山本はじっとそれを聞いていた。
初日の話し合いは、ついつい話題が、夏休みのことやアニメや映画のことに逸《そ》れたりしたこともあり、具体的なことは何も決まらず解散になった。まあ、こんなもんだ。
「小夏っちゃん♪」
田代が山本に声をかけた。
「可愛《かわい》い名前だね、小夏っちゃん。あたし、2−Cの田代。クラブ初日の感想はどう?」
山本は、田代と横にいた俺を「チラリ」という感じで見てから言った。
「英語……全然しゃべりませんでしたね。英会話クラブというので、クラブの間じゅう、全部英会話するのかと思ってました」
そう言った山本の目がひどくバカにしたように歪《ゆが》んだ……ように見えたのは、やはり俺の思い過ごしなのか?
「ギャハハハ! そんなわけないじゃん!」
田代は、実にあっけらかんと笑い飛ばした。山本は、フンというふうに去っていった。
「なんか、神経質そうな子だね」
山本の後ろ姿を見ながら田代は俺に言ったが、神経質というだけじゃなさそうな気がしてならなかった。
翌日。俺と田代がクラブに行った時、部室にはもう山本が来ていた。
「お、早いな、山本」
山本は、ちょっとだけ会釈《えしゃく》した。やっぱり重そうだ、あの頭。それよりも、よく暑くないな。まだまだ残暑が厳しいってのに。
「小説読んでるの? 何?」
と、田代が覗《のぞ》きこむと、山本は無表情に、
「チェーホフです」
と答えた。
「ちぇーほふ? ふぅん? どういう意味?」
「タイトルじゃねえ。作家の名前だよ」
俺が答えると、田代は「なぁんだ」と笑ったが、山本は小さく鼻で笑った。
「文学作品が好きなのか、山本?」
俺は軽く訊《き》いてみた。すると山本は「何を言っているの?」みたいな顔をして言った。
「当然です」
「へ? そんなに好きなの?」
田代はキョトンとした。山本は、ますます怪訝《けげん》な顔をした。
「文学作品以外は、小説じゃありませんから」
「じゃ、何?」
「漫画《まんが》ですね」
山本は、しれっと答えた。俺と田代は顔を見合わせて笑った。
「知らなかった。あんたがいつも読んでたのは漫画だったんだ」
「俺も、まさか自分が漫画を読んでたなんて知らなかったぜ」
「やっぱり、ロシア文学はいいですよね。ドストエフスキーもいいけど、私はチェーホフが好きです」
と、山本はいきなりしゃべり始めた。
「世紀末に生きる小市民や知識人の憂《うれ》いの描写《びょうしゃ》が、とても心に響《ひび》きますよね」
山本は、さも俺たちがチェーホフの作品を知っているかのように話した。
「ああ……」
「うん?」
俺は小説は好きだが、文学作品は、読んだことはあっても全然頭に残っていない(俺の好みは犯罪物や時代物、冒険物《ぼうけんもの》)。まして田代は、グリム童話あたりで読書歴は終わっているだろう(後で訊《き》いたら、季刊『世界の兵器と軍服』を中一から定期|購読《こうどく》しているけれど、読書歴に入らないかとほざいた。入るか!)。
そんな俺たちの反応を見て、山本は白けたような顔をし、読書を再開した。
そりゃあ、自分の好きなものに他人が興味を示さなかったらガッカリするけど、今の山本の態度はおかしくないか? まるで、自分の好きなことは他人も好きで当然って前提でしゃべってるみたいじゃないか。そうじゃないとわかったとたん、なんだよ、その掌《てのひら》を返したように白けた態度は?
俺も田代も、肩《かた》をすくめるしかなかった。
その日も、クラブでは文化祭のことについて話し合いが行われた。
クラブの出し物は、例年と同じくアニメの吹《ふ》き替《か》えになった。自分たちで英語に翻訳《ほんやく》して、ビデオ画面に合わせて自分たちでアテレコするのである。演じるのはだいたい三年生だが。演目は、誰《だれ》でも知っているような有名な作品の有名なシーンが選ばれる。
「今年は何にしよう? ちなみに去年は『となりのトトロ』だったね」
「やっぱり、宮崎《みやざき》アニメでしょー」
「知名度から言ってもねぇ」
「たまには違《ちが》うのもやってみたら?」
「他に何かある? 有名なの」
「ポケモンとか」
と、みんながいろいろ意見を出し合っている時、山本が突然《とつぜん》、
「アニメじゃなく、映画にしてみたらどうですか?」
と言った。
全員、「は?」となった。アニメに決まった後にそう言われても。
「映画……ねぇ」
部長が困ったように笑った。山本は、そんな部長におかまいなしに言い放った。
「もう高校生なんだから。いつまでもアニメじゃダメでしょう」
オイオイ、その発言は……お前、喧嘩《けんか》売ってんのか? 部長はますます困ったようだ。
「そりゃまあ……。クラブじゃ教材に映画も使ってるけど」
「だったら、それを活《い》かせばどうですか? アニメなんて幼稚《ようち》なものに頼《たよ》らずに」
「プチン」と、俺の隣《となり》で何かが切れる音がした。
「アニメが幼稚だってこたぁ、ないでしょう!?」
ガタリと椅子《いす》を蹴立《けた》てて、田代が席を立った。そう言い返したい気持ちはわかるが、俺は田代の袖《そで》を引いた。
「話がズレてるぞ」
「え?」
「そ、その……映画にするとしたら、山本さんは何かお薦《すす》めがあるの?」
部長が苦しげにその場を取《と》り繕《つくろ》った。そう問われたとたん、山本の表情がパッと華《はな》やぐのがハッキリわかった。
「少し難しいかもしれません[#「少し難しいかもしれません」に傍点]が、この際、トリュフォーにすべきでしょう」
「ト……トリュフ?」
全員、また「は?」となった。そりゃそうだ。よっぽどの映画好きとかでなけりゃ、いまどきの高校生がトリュフォーなんか見るかっての。俺だって名前ぐらいしか知らねぇよ。ここは映研じゃないんだ。
なのに山本は、またあの「何を言っているの?」みたいな表情をありありと浮《う》かべた。
「映画といえば、トリュフォーでしょう?」
「そうなの?」
部長はみんなを見渡《みわた》したが、みんな首を振《ふ》ったり肩《かた》をすくめたり、場の空気は一気に白けた。それを見てとった山本は、
「もういいです」
と、プイッと横向きに座《すわ》りなおした。
「何、コイツ……!?」
田代が眉《まゆ》をしかめた。
「だいたいの中高生が見ているとすると、やっぱ宮崎アニメが無難だと思うス。今年は、やっぱり『ハウル』っしょ」
と、俺が言うと、場の雰囲気《ふんいき》はもとに戻《もど》った。
「そうよね。ハウルでいいと思う? 他には?」
「ハウルでいいでーす」
拍手《はくしゅ》が起こった。山本は横を向いたままだった。
話し合いはそれから、ビデオの調達のことやら、お世話になっている外国人クラブへの招待状のことやら、細かいことを決めた。山本は、話し合いの間じゅう、不機嫌《ふきげん》そうに黙《だま》ったままだった。そしてクラブが終了《しゅうりょう》した時、「お疲《つか》れ様《さま》」という挨拶《あいさつ》もせずに、さっさと部室を出ていった。
「はあ〜〜〜……。問題児が来た……!」
大きくため息をつく部長の肩《かた》を、部員たちがポンポンと叩《たた》く。
「びっくりしたよね。何アレ? 入ったばっかりであの態度? ある意味、いい度胸じゃん」
「アニメは幼稚《ようち》ですからときたよ。もう高校生ですからって!」
失笑《しっしょう》が起こった。
「映画をどうするんだヨ? まず、セリフをヒアリングしろってか?」
「確かに英語の勉強にはなるよねぇ」
「でも、トリュフォーってフランス映画っスよ」
と、俺が言うと、全員またまた「は?」となった。
「……わけわからんわ」
そうだ。本当にわけがわからんよ。
俺は、すごく疑問に思った。果たして山本は、自分でちゃんとわかって[#「ちゃんとわかって」に傍点]発言したんだろうか?
「文学はロシア。映画はおフランス。お高くとまっていらっしゃること! ホホホホ!」
田代が、茶化して笑った。
そうなんだ。そう茶化したくなるほど、山本の言動は、なんだか表面的なものに感じられた。わざわざ「もう高校生なんだから」とか「アニメは幼稚《ようち》だ」なんて言ってみたり。いや、本当にそういう信念があって、もっと難しいものにチャレンジしようってんなら、それも一つのりっぱな意見なんだけど。
「どーも、そうじゃない感じがしてスッキリしないっスよ」
アパートの住人たちと、今日あったいろんなことを話すのが、俺の習慣になっていた。
ここでみんなと話すことで、俺は自分の考えを練ったり、直したり、納得《なっとく》したりした。
「ロシア文学にトリュフォーかぁ」
詩人が、フフフと意味深に笑った。
「その子の言い方……なんか、コンプレックス臭《くさ》いねぇ」
「あ、や、やっぱ、そう思うっスか!?」
俺は思わず身を乗り出し、食後のコーヒーをこぼしそうになった。
「もちろん、ロシア文学もトリュフォーも、コアなファン[#「コアなファン」に傍点]がつくよねぇ。だから、例えばトリュフォーに心酔《しんすい》してる人の中には、ハリウッド映画なんてクソだ! と言いきる人もいるわけネ」
「フンフン」
「でも、その子は違う[#「違う」に傍点]わけネ?」
「そうなんス!」
「十五でロシア文学は、ウソ臭《くさ》いわ」
まり子さんが、ビールを飲みながらフッと笑った。
昔、ものすごい(それはもう桁外《けたはず》れに)遊び人だったというこの絶世の美女も、今は幽霊《ゆうれい》の身。わけあって成仏《じょうぶつ》せずに、妖怪託児所《ようかいたくじしょ》で保母さんをしている。
「十五でトリュフォーってのもねぇ……」
映画大好き「佐藤《さとう》さん」は、人間のフリをして普通《ふつう》の会社でサラリーマンをしている妖怪(どういう妖怪かは不明)。
「好きだというのはあるかもしれないけども、トリュフォーを理解しているとは思えないなァ。まあ、思春期の子どもを扱《あつか》った作品もあるけど、トリュフォーといえば大人の恋愛《れんあい》映画デショー。恋愛に対する文化も違《ちが》うし、男女関係の機微《きび》なんてのは、やっぱり経験がないと……。十五でそんなに経験があるとは考えにくいよね」
佐藤さんは、細い目で笑った。
「十五で経験豊富な女は、トリュフォーなんか見ないわ」
まり子さんは鼻で笑った。まり子さんだけに、迫力《はくりょく》のあるセリフだ。
「そうだよね〜。やっぱりもう少し……大人[#「大人」に傍点]でなきゃあ。トリュフォーの映像はお洒落《しゃれ》でスタイリッシュだから、その子のは、ただ単なる憧《あこが》れにすぎないんじゃないの? 背伸《せの》びしてる感じがするよね」
「さあ、そこだ」
詩人が突《つ》っこんできた。
「重厚な人間ドラマが多いロシア文学。大人の男女の愛を描《えが》いたトリュフォーの映画。どっちも格調高くて芸術的で、なんだかとっても難しソー。だから、それが好きだと言うと、なんだかとっても賢《かしこ》ソー……って印象を、他の人[#「他の人」に傍点]は持つよねー」
俺とまり子さんと佐藤さんは、顔を見合わせた。
「他の人[#「他の人」に傍点]がそう思うとわかったうえでそれを選んだ……ということスね? 自分が好きで選んだんじゃなくて[#「自分が好きで選んだんじゃなくて」に傍点]」
詩人は頭《かぶり》を振《ふ》った。
「思いこんでいる[#「思いこんでいる」に傍点]のかも」
「思いこむ?」
「その子が、本当に文学が好きで好きで、そしてロシア文学にたどり着き、トリュフォーに心酔《しんすい》するほど男女の愛がわかっている……とは考えにくい。でも、わざとそう装《よそお》っている単なるウソつきとも思えない。とすると、その子は、そういうメッキ[#「そういうメッキ」に傍点]で自分を覆《おお》っている可能性が高いよネー」
「メッキ……」
「メッキで自分を覆っている子はねー、そうせざるをえない[#「そうせざるをえない」に傍点]子が多いんだよねー」
「…………」
「何か問題があるかもよ、小夏っちゃんは。扱《あつか》いに気をつけたほうがいいよー」
詩人は俺を見て面白《おもしろ》そうに笑った。
「メッキねぇ……」
自分の部屋で机に向かい、俺は考えていた。俺が山本に感じた違和感《いわかん》はこれだったのかな。
「でも、メッキって? 自分の殻《から》に閉じこもるってのは、俺も経験があるからわかるけど、メッキってなんだろう? 虚勢《きょせい》を張るってことなのかな? 男ならわかるけどなぁ」
妖怪《ようかい》アパートの夜は、もうすっかり秋で、虫の音がさかんに聞こえていた。
それが本当に「虫」なのかどうかは不明だが。
翌日の放課後。田代と部室へ行くと、山本はもう来ていて本を読んでいた。
「話し合いにも参加しないでサッサと帰るわりには、一番初めに来るのネ」
田代がボソッと言った。山本は、俺たち先輩《せんぱい》に挨拶《あいさつ》もせずに、黙々《もくもく》と文庫本を読んでいた。
そこへ、三年の女子部員がやってきた。
「あ、先輩! 見て見てぇ、今日の稲葉のお弁当! もー、チョー素敵《すてき》だったの!」
田代は、先輩に携帯《けいたい》の画像を見せた。るり子さんの超絶美味美麗《ちょうぜつびみびれい》弁当をほめられるのはいいとしても、携帯で撮《と》りまくられるのはどうかと思う。
「うわっ、キッレ〜〜〜! 花束みたいー!」
田代の最新の携帯は、デジカメ並みの鮮明《せんめい》な写真が撮れる。俺もその画像を見たけど、本当によく撮《と》れていた。
「この黄色いのは、トウモロコシを衣《ころも》にした海老《えび》団子で、カラフルなのが八宝春巻きで、バラの花みたいなのがサーモンなの。スゴイでしょー!」
「スゴーイ! このおにぎりも可愛《かわい》い! これ、この花びらを散らしたみたいなの、何?」
「刻んだ赤カブっス」
「おいしそう〜〜〜!!」
食い物のことになるとテンション上がるよな、女は。
「稲葉くんのお弁当って、本当に愛情こもってるよね〜。うらやましいわあ。うちの母さんも見習えっての」
「あ、うちの母もひじょうに手を抜《ぬ》いております、先輩《せんぱい》! ほとんど毎日、夕ご飯の残りを詰《つ》めただけって感じです」
「アハハ! そーそー」
「小夏っちゃんも見る? 稲葉のお弁当」
と、田代が携帯《けいたい》を見せようとした。しかし、
「興味ありません!!」
山本は、俺たちがギョッとするぐらい強い口調で拒否《きょひ》した。
「あ……そ」
俺たちは顔を見合わせて肩《かた》をすくめた。たかが弁当の話だ。そんなに拒絶するようなことじゃないだろう? 何がそんなに気に食わないんだ? 山本はさらに続けて言った。
「田代|先輩《せんぱい》、私のことを名前で呼ばないでください。私には山本という苗字《みょうじ》があるんです。名前で呼ばれるのは不愉快《ふゆかい》です」
オイオイ、そういう言い方はないだろう。同じクラブの仲間だし、先輩だぜ。もっと言い方ってものがあるだろうが。
「そう。そりゃゴメン、山本さん」
田代も、ムッとするより呆《あき》れたようだ。毎日顔を合わせるのに、わざわざ角を立てるようなことを言わなくてもなあ。
(……なんて。俺も中学の頃《ころ》は、まわりと角を立てまくってたからなあ)
と思ってハッとした。
「問題があるかも」と、詩人は言った。
「そうか。そうかもな……」
その時、何か用事を思い出したらしく、先輩《せんぱい》が「ちょっと鞄《かばん》見ててね」と言って部室を出ていったので、俺は田代を部室の外へ連れ出し、詩人に言われたことをチラリと話してみた。田代は、「ふ〜む」と腕《うで》を組んだ。
「あたしもさぁ、二学期に転入してくるってヘンだと思ってたの。なんか事情があるんだね」
「ただ性格が悪いから、じゃなさそうだぜ」
「ヨシ。ひとつ調べてみるか」
田代は恐《おそ》るべき情報網《じょうほうもう》を持っているらしく、どんな情報でも集めてくる。どこにどんな網《あみ》を張《は》り巡《めぐ》らせているのかは、怖《こわ》くて想像できない。
先輩と入《い》れ替《か》わるように、一年の男子部員がビデオを持って現れた。
「『ハウル』借りてきましたー」
「おー、ゴクローさん」
俺たちは部室へ入った。
「アー、これこれ!」
田代が、ビデオのパッケージに描《えが》かれたハウルを指さして言った。
「これをキムタクが演《や》ってるなんて、反則よね〜。桜なんて第一声を聞いたとたん、テンション上がりまくっちゃってー」
「ハハハ」
「確かにデキすぎ」
「テンションは、上がるのではなくて張る[#「張る」に傍点]ものですよ」
「!?」
山本が、顔だけこっちへ向けて俺たちを見ていた。その口元が、歪《ゆが》んだように笑っていた。
「え、何?」
「テンションは、上がるんではなく張るものなんです。英語では、緊張《きんちょう》状態が高まる時などに使うんです」
「へぇ、そうなんだ!?」
田代と一年男子はポカンとしたが、俺はこの話には覚えがあった。一年生の初めの頃《ころ》に、坂口|顧問《こもん》に聞いたことがある。でも、忘れていた。「テンションが上がる」という表現は、日常的によく使うからだ。
「英会話を勉強しているのに、そんなことも知らないんですか?」
山本は、俺たちを蔑《さげす》んだように笑った。
ごもっともなことだが、なんともミもフタもない言い方をする。たとえ「そんなこと」だろうと、すべてを知ることなんてできないだろ?
「ちょっと〜〜〜、そういう言い方ってないでしょ」
田代は対決姿勢を顕《あらわ》にした。
「テンションが上がるっていうのは、和製英語みたいなもんだからいいんじゃねぇの?」
と、俺も言ったが、山本はますます口元を歪《ゆが》ませた。
「英会話を勉強しながら和製英語を平然と使うなんて。もっとプライドを持ったらいかがです?」
「日本語で話す時は使ってもいいじゃん。もう日本の言葉になってるんだから。あたしたちだって、そこまで考えてしゃべんないわよ」
「あたしたち? 『royal we』ですか。自己責任を薄《うす》める言い方しないでください」
「何? ろいやる?」
田代の顔に「?」マークが浮《う》かぶと、山本は嬉々《きき》として解説した。
「個人の気持ちを、さも大勢の気持ちであるかのように表現するのを『royal we=君主の we』と言うんですよ。王様が国民に対して使ったことから、こう呼ばれます。だから、平民が使うものじゃないんですよ」
「平民? そりゃ、あたしは平民だけど、そういうつもりで使ってるんじゃないわよ。あたしが王様みたいなら、あんたはなんなのよ」
「そういう曖昧《あいまい》さを放《ほう》っておくから、間違《まちが》った英語が氾濫《はんらん》するんですよ。知ってます? Tシャツの柄《がら》とかの英語って、よく間違ってますよね。知ってますよね」
「だから。あんたのそういう言い方のほうが、よっぽど王様みたいだって!」
「私は、間違った英語の使い方なんてしません。責任を薄《うす》めたりしません。あ、でも we には他にも種類があるんですよ。知ってます?」
……会話が噛《か》み合《あ》っていない。
山本は、田代の話を聞く気なんかないんだ。田代の意見を受けて返しているようで、全然違う。自分の言いたいことを言っているだけだ。これじゃこの会話は、永遠に平行線だ。
「なんか、わけわかんない。あんた結局、何が言いたいの? なんか、すっげ殴《なぐ》りたい気分」
「オイ」
俺は、田代に声をかけた。
「え?」
「バカ言ってないで、そろそろビデオの用意をしろ。みんな来るぞ」
「あ、うん。そうね」
そのとたん、
「バカ言ってないでって、どういう意味ですか! 私のどこがバカなんですか!」
と、山本が俺に噛《か》みつくように言ってきたので、
「お前のことじゃねぇよ」
と言った。すると、
「私のこと、無視するんですか!!」
山本は絶叫《ぜっきょう》した。それは、それまでツンとお高くとまって知識をひけらかしていた同じ人物とは思えないほど異様だった。悲しいような怒《おこ》っているような驚《おどろ》いているような。とにかく「異様な」表情をしていた。
言っていることが支離滅裂《しりめつれつ》なうえに、そのキレようが尋常《じんじょう》じゃなく、俺たちは一気に引いた。田代なんぞ、二、三歩ほど飛びのいたぐらいだ。一年男子は、俺の後ろにサッと隠《かく》れた。
俺は、俺を睨《にら》み据《す》えている山本に言った。
「あのな……、バカと言ったのはお前じゃないっていうのが、なんで無視したってことになるんだ?」
山本は、黙《だま》って俺を睨《にら》み続《つづ》けた。
(あ、これは話を聞いていないな)
と、俺も田代も一年男子もわかった。
山本は、鞄《かばん》をひっつかんで部室を出ていった。
俺たちは、呆然《ぼうぜん》とした。
「何アレ? 頭おかしいんじゃない?」
まあ、そう言うなヨ……とは、口に出せなかった。
「今のでクラブやめないかな……。やめたら、あたし稲葉に感謝しちゃう!」
「よせよ! 稲葉|先輩《せんぱい》にいじめられたからやめます、なんて言われたくねー!」
「その時は、俺が弁護します!」
と、一年男子が言った。
「あたしも証人になる!」
「心強いことで……」
「まったく、ワケわかんね――っ!!」
俺は、電話で長谷にグチった。
「あれはアレだよ、『ハリー・ポッターと賢者《けんじゃ》の石』の時の、ハーマイオニーだよ! いや、ハーマイオニーほど可愛《かわい》くないけど。ハーマイオニーをもっと嫌《いや》な女にした感じかな。ダークサイド・オブ・ハーマイオニーだな。とにかく! あれは、自分が頭がいいことを知っててだな、それをひけらかすことが、なんつーの……自己表現だと思ってるわけだ。もうなんか、言葉のあちこちから『ホラ、私は頭がいいのよ。あなたよりずっと頭がいいのよ。わかるでしょ』みたいなオーラが出まくってんだよ!」
長谷は、電話の向こうで軽く笑った。
「カワイイ女じゃないか」
「お前な〜……。わかってるぞ、長谷〜。あれをカワイイと言えるのは、自分のほうがずっとはるかに頭がいいって確信してるからだろー」
「当然だ」
「そういう奴《やつ》だ、お前は」
「で? そのハーマイオニーに、お前はロンが言ったみたいに『だからお前には友だちがいないんだ』なんて言ってないだろうな!?」
「言ってねーよ、まだ」
「そんなこと言うんじゃねぇぞ。お前も思ったんだろ? その子は何か問題があるから変なんだって」
「うん。それは今、田代が調べてる」
「噂《うわさ》の情報通か」
「お前も真っ青だぜ」
「情報網《じょうほうもう》がどこかでかぶってるかもな」
長谷は笑った。
「修学旅行から帰ってくる頃《ころ》には、事態が好転していることを期待してるぞ」
「もう修学旅行か。お前んとこは早いなぁ」
「落ち着いて勉強させるために、大きな行事は早めにすませるのサ。今月末に、ヨーロッパを回ってくる」
「ヨーロッパを? 回る? 修学旅行で?」
「フランス、イタリア、ドイツ、芸術の旅だ。俺としては、イギリスにも行きたいんだがなあ」
「行けば〜?」
山本は、それからクラブには来なくなった。部員がクラブを休むことはよくあることなので、誰《だれ》も何も言わなかった。
正直、部員全員がホッとしている感じだ。田代なんかは、あからさまに喜びすぎないよう注意しているくらいである。
実際、今の時期、協調性のない奴《やつ》にかまっている暇《ひま》などないんだ。二学期の校内は、最終行事の文化祭まで何かとバタバタ慌《あわ》ただしい(修学旅行は一月にスキーに行く)。文化祭の前にも体育祭と中間試験があるし、秋は、××主催《しゅさい》の△△展だの○○大会だのが多く催《もよお》され、そこに参加するので文化部、運動部とも忙《いそが》しい。
英会話クラブも、文化祭に向けては、ビデオを見て放映する部分を選んで、そこのセリフを英訳して配役を決めて、役者は練習、その他はセッティング。と同時に、いつもお世話になっている外国人クラブ「エール1960」で開かれるフリーマーケットに「条東商」で出店。その模様のレポートを発表することになっているので、やることが山積みだ。
基本的に部員は全員参加だけど、部長も部員も、山本に関しては「参加しなくていいよ」と暗に思っている。一年生は、フリマに出すため部員が持ち寄ったいろんな商品に、値札を付け、管理し、当日は売り子をする係なので、山本が来たら「そこに適当に交ぜてやって」と部長に言われ、「はあ」と気のない返事をしていた。
坂口|顧問《こもん》は、今のところ静観しているけど、山本の欠席が続くようなら担任に話をするとか手を打ってくるだろう。
俺たちは、山本のことは坂口顧問と山本自身に任せた。
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_063.png)入る]
十五夜お月様見て跳《は》ねる
滝修行《たきしゅぎょう》を始めてから変わったことがある。
それまでは、ビニールコーティングされた神呪《しんじゅ》を読んでいたんだけど、滝行になってからは、秋音ちゃんと一緒《いっしょ》に暗誦《あんしょう》するようになった(秋音ちゃんの言うとおり、神呪は暗誦できた)。
すると、「心の目」が、それまでよりもっといろんなものを見るようになったんだ。
滝が造られた空間は、ぐるりと崖《がけ》が取り巻いているけど空がぽっかりとあいている。天気の日もあれば、雨の日もある。その空にいろんなものが現れる。虹《にじ》や光。透明《とうめい》な……鳥? 雲が馬の群れとなって空を横切ることもあった。人影《ひとかげ》もあった。雲に乗って? 飛んでいる? ような姿。それが、普通《ふつう》の人だった。なんか、いかにも魔的《まてき》な格好とかじゃ全然なくて、黒いコートを着た若い男だった。
俺は、目を閉じ神呪を唱えているのに、すごく遠くを飛ぶそういうモノがすぐ近くに見えたりする。いや、遠くにある姿を近くに感じていると言ったほうがいいかな。それはけっこう楽しかった。
土曜日の朝だった。
滝場《たきば》の空は、晴れ晴れと青く澄《す》んで清々《すがすが》しかった。
神呪《しんじゅ》を唱えていると、ふと上のほうで気配がしたので見上げた……と、これはもう無意識にそうしているが、もちろん「心の目」で、ということだ。
青い空に、五色の雲が長々とたなびいていた。そこを、何十|匹《ぴき》もの白い兎《うさぎ》たちが、それぞれススキの穂《ほ》やら三方《さんぼう》やら徳利《とっくり》やらを持って、楽しそうに行進していた。
「ああ、夕士くんにも見えた?」
行が終わって秋音ちゃんに話すと、秋音ちゃんは笑って言った。
「今日は十五夜だからね」
「あ、なるほど!」
何がなるほどなのかというと、やっぱり月には兎《うさぎ》なんだな、と。
「月と兎という概念《がいねん》は、世界じゅうにあるね。満月も兎も、どちらも『豊饒《ほうじょう》』を表しているからだろうねー。ヨーロッパでは特にね」
そう解説してくれるのは、詩人。いろんなことを知ってるなあ。
「中国の説は、実に漢字の国らしいよ。古代中国では、月には蛤《はまぐり》が住んでいると思われていて……これはまあ、その形状からね。で、その蛤という漢字が、転じて転じて兎になったらしいんだヨ」
「へぇ〜」
「インドには、月兎という神様がいるのよ。仏教では、兎は仏陀《ぶっだ》の最後の転生した姿だと言われてるし」
秋音ちゃんも、このての蘊蓄《うんちく》は多い。神話や宗教の話は、やはり霊能力《れいのうりょく》の修行《しゅぎょう》と大いに関《かか》わりがあるんだろう。
「月は、不死という概念とも関わってるよね。インドの月の神ソーマは、不死の霊薬アムリタを持っているし、かぐや姫《ひめ》も天人の不死の薬を持ってたよネ。満ち欠けを繰《く》り返《かえ》す月は、死と再生の象徴《しょうちょう》であり、古代の人々にとって月は神の国であり、そこに住まう人々とは、不死者だったんだろうねー」
うまい朝飯を食ったあと、涼《すず》しい居間で含蓄《がんちく》のある話を聞かせてもらう……。贅沢《ぜいたく》だよな。
その時、玄関《げんかん》からガラガラという音が聞こえた。時代劇に出てくる大八車を転がすような音だった。
「あ、お届けものだ!」
と、秋音ちゃんが席を立った。俺も後に続いてみる。
玄関に、ズラッと品物が並べられていた。大笊《おおざる》にシダを敷《し》いた上に盛られたものは、銀色にピカピカ光る秋刀魚《さんま》!
「うっわ! これ、秋刀魚? こんなでっかいの見たことねー!」
「プリップリだー! お〜い〜し〜そ〜〜〜!!」
秋刀魚の他は、同じく笊に盛られた数種類の茸《きのこ》と、これまた見たこともないぐらい大きな梨《なし》、一山。そして、米、栗《くり》、小豆《あずき》だった。
「一色さん、これ! この秋刀魚! 秋刀魚って、こんなに綺麗《きれい》な魚だったんスね!」
でかくてプリプリに太った秋刀魚は、ずっしりと重かった。
「イヤ、も〜、コレは塩焼きだねー。秋刀魚《さんま》の塩焼きと米の酒。日本の秋だー!」
嬉《うれ》しそうな詩人の横で、るり子さんも白い指を嬉しそうにもじもじからませている。最高の食材を前にして腕《うで》が鳴るんだろう。
るり子さんは、この秋刀魚や茸《きのこ》をどう料理するんだろう。さっき朝飯を食ったばかりなのに、もう昼飯が待ちきれないぜ。
「さあ、じゃあ、お月見の準備をしようかー」
と、詩人が言った。
「準備?」
「月の兎《うさぎ》よろしく、お餅《もち》をつくんだよ」
「じゃ……これ、糯米《もちごめ》っスか!」
届けられた糯米と小豆《あずき》で月見団子を作る。そんなことをするのは初めてだ。月見すらやったことなんて……あったっけ?
俺は詩人と物置部屋へ行き、杵《きね》と臼《うす》を取り出して餅つきの準備をした。
「いつもは深瀬がやるんだけど、今日は帰ってくるかどうかわかんないし。今年は夕士クンが餅つき係だネー」
「ハ、がんばるっス!」
餅《もち》つきなんて初めてで、俺はワクワクした。
厨房《ちゅうぼう》からは、さまざまないい匂《にお》いが漂《ただよ》い始《はじ》めた。ダシ、醤油《しょうゆ》、みりん、そして焼き魚の香《こう》ばしい香《かお》り。俺たちはウットリした。思わず垂れそうになるヨダレを何度もぬぐう。
そこへ、姿の見えなかった秋音ちゃんがやってきた。厨房に入って、るり子さんと話をしている。
「じゃあ、るり子さん、お願いね。助っ人はすぐ来るから」
「なんなの、秋音ちゃん?」
「せっかくあいた穴[#「穴」に傍点]を利用しないテはないと思って」
「?」
「毎年、お月見はここの縁側《えんがわ》でしてるんだけど、今、お風呂《ふろ》の横に穴[#「穴」に傍点]があいてるでしょ。大家さんに頼《たの》んで、あそこを今夜だけ、お月見の場所に変えてもらうの」
「月見の場所に……変える!?」
俺にはどういうことかイマイチわからなかった。
「それで、ゲストも呼んで、にぎやかにしようかな〜と」
「ああ、いいネー。誰《だれ》を呼ぶの?」
「月野木病院の患者《かんじゃ》さんたち。入院してると楽しみがなくて〜」
「え、と……。月野木病院の患者というと〜……」
と、俺がツッコむと、秋音ちゃんは、
「大丈夫《だいじょうぶ》。そんなスゴイ[#「スゴイ」に傍点]のはいないから」
と、あっけらかんと返した。
月野木病院はれっきとした病院なんだが、その裏の顔は、身体的、霊的《れいてき》に傷ついた妖《あや》かしたちが入院、療養《りょうよう》をする「妖怪《ようかい》病院」だったりする。
コンクリートの四階建て、ベッド数は公称《こうしょう》四十(実はその倍ぐらいあるらしい)。内科と神経科。とにかく見た目が古くて暗くて、近隣《きんりん》では「幽霊《ゆうれい》病院」として名高い。だから、普通《ふつう》の人は絶対に来ない。
ここへ来る人間[#「人間」に傍点]は、身寄りのない老人やホームレスなんだ。他の病院が送りこんでくる[#「送りこんでくる」に傍点]場合がほとんどだ。手のかかる老人とか、金のないホームレスの面倒《めんどう》を押《お》しつけてくるんだ。その人たちは、ほぼ百パーセント月野木病院で最期《さいご》を迎《むか》える。それが「月野木へ入ったら、生きて出てこられない」という噂《うわさ》を呼び、ますます普通《ふつう》の人は寄りつかないということになる。
「や、うちはそれでいいんだけどね。メイン[#「メイン」に傍点]は人間以外だから」
と、秋音ちゃんは笑う。
だが、月野木へ来た人間の患者《かんじゃ》は、皆《みな》、手厚い看護を受ける。どんなに手のかかる難しい患者であろうとも、月野木の医師たちも看護師たちも、疲《つか》れ知《し》らずで世話ができるからだ。月野木のスタッフは全員、霊能力者《れいのうりょくしゃ》か「人外」だからだ。たかが丁稚奉公《でっちぼうこう》の身の秋音ちゃんを見てもわかるというものだろう。その精神力も体力も、ハンパじゃない連中の集団だ。
不幸な境遇《きょうぐう》に陥《おちい》り、身寄りもなくし家もなくし、たった一人で「死の病院」へ追いやられてくる老人たち。しかし、それは本当は「最後の幸運」だったとわかる。金の心配もいらず手厚く面倒《めんどう》をみてもらい(資金がどこから出ているのかは不明)、老人たちは最後は満足して死んでゆくという。
中には、この病院が普通の病院ではない[#「普通の病院ではない」に傍点]ことをわかっている患者もいるらしい。だけど、廊下《ろうか》に変な奴《やつ》がウロウロしていても、入院患者たちはもういたって平気で、
「どうせ老い先短いんだから、今さら何見たって驚《おどろ》きゃしないよ」
と笑い、
「それまでのひどい人間たちに比べれば、ここの人たちはみんな仏様さ。本当はなんなのかなんて、全然関係ないよ」
と、ちょっと切なげに目を細める。
「親戚《しんせき》とか病院をたらい回しにされたとか、自宅や病院でいじめや虐待《ぎゃくたい》にあったって人が多いからね」
秋音ちゃんの言葉が悲しく響《ひび》く。
普通《ふつう》の人間たちに見捨てられてたどり着いた異空間で、普通でない者たちに心の安らぎを与《あた》えられる淋《さび》しい人たち。普通の人間たちが悪者だってとこが切ないな。事情はいろいろあるんだろうけど。
「いろんな事情があるってわかっているから、お年寄りたちもこれでいいんだ≠ニ思うんだヨ。こんな変な場所で死ぬなんてイヤだ≠カゃなくて、ありがたい、ありがたい≠ニ言えるのは、人生や社会のいろんなことを悟《さと》った証拠《しょうこ》なのサ」
詩人の言葉が心に染《し》みとおる。
「どんなに残酷《ざんこく》と思えることにも、複雑な事情やどうしようもない柵《しがらみ》や、人間の弱さや哀《かな》しさがからまっているもんだからネ。それを目で見て身に染みるのはつらいことだろうけど、それで到達《とうたつ》できる境地というものもあるんだろうねェ」
月野木病院は古くて暗い外観だけど、そのコンクリートの四階建てに隠《かく》された、かなり広い中庭がある。そこは芝生《しばふ》で大きな木があり、病院で飼われている犬や猫《ねこ》がいる。
「天気のいい昼下がりなんか、スタッフや患者《かんじゃ》さんが日向《ひなた》ぼっこしながらおいしそうに煙草《たばこ》を吸ってたり、犬や猫と遊んでたりしてるの。人間でないものもたくさん交じってね。でも、みんなとても楽しそうよ」
不幸な人生の最後の時を、そうやっておだやかに過ごすことで救われる魂《たましい》。
「もちろん、強力な専門家[#「強力な専門家」に傍点]|揃《ぞろ》いですので、亡《な》くなれば魂は即刻《そっこく》きっちり成仏《じょうぶつ》していただきます。ご遺体は、いろいろ利用させていただきますが……」
「あ、やっぱり!?」
これ以上は怖《こわ》い話になりそうなので、聞かないでおこう。ランチタイムが来たようだし。
「秋刀魚《さんま》だー!」
「秋刀魚、秋刀魚〜〜〜!」
いつもの魚用皿に載《の》りきらないほどでかくて、胴回《どうまわ》りプリプリの秋刀魚の塩焼きに、秋刀魚の刺身《さしみ》、たたきの秋刀魚《さんま》づくし。そして、
「おっ、腸《はらわた》だね。さすが、るりるり。わかってるー」
詩人の前に置かれた小さな器《うつわ》には、茶褐色《ちゃかっしょく》の秋刀魚の腸。あの苦いところだ。これに酒や醤油《しょうゆ》でちょっと手を加えると、酒のアテにピッタリの珍味《ちんみ》になるそうなんだ。
「酒、酒〜〜〜。どれにしようかなー」
詩人は、ズラッと並んだ日本酒を嬉《うれ》しそうに選んでいた。
このアパートに来て、俺は焼き魚の上手な食い方を教わった。まず魚を立てて背中を箸《はし》で軽く押《お》す。それから背中に箸を入れると、パクッと半身が骨から外れるんだ。後は頭を持って引くと、背骨がきれ〜いに外れる。
たっぷり大根おろしと、俺はポン酢《ず》で、ホックホクの身をいただきます! 身の端《はし》から端まで均等に火の通った秋刀魚は、皮はパリパリ身はフカフカ。ちょっと粗《あら》めの大根おろしは、すごく甘味《あまみ》があった。秋刀魚の刺身もたたきも、もちろん激うまだ。
「うめ〜〜〜!」
「日本人でよかったよー!」
俺たちは笑いながら食べた。
「お刺身《さしみ》、すっごく軟《やわ》らかいねー。脂《あぶら》たっぷり!」
「やっぱり、旬《しゅん》のものってすごいよネー。味が輝《かがや》いてるよネ」
飯は、しめじご飯。食べる前にパラッと針しょうがを混ぜて。小鉢《こばち》は、はんぺんと三つ葉の煮《に》たもの。味噌汁《みそしる》は、野菜たっぷりの納豆汁《なっとうじる》。デザートには、ほどよく冷えた梨《なし》が出された。ああ……深まりゆく、秋!
俺たちが、舌で味わう秋に浸《ひた》っていると、庭から何やらガサガサと騒《さわ》がしい気配がした。
「あ、助《すけ》っ人《と》が準備を始めたみたいね」
秋音ちゃんについて見に行ってみると、十数人の「助っ人」が、蒸《む》し器《き》や大鍋《おおなべ》を用意したり、野菜の皮を剥《む》いたりしていた。
「助っ人」は、背丈《せたけ》が一メートルぐらい。黒いつるんとした卵のような身体に着物を着て、手足がヒョロッとしてて、いかにも大家さんの「眷属《けんぞく》」という感じがする。
助っ人たちは、るり子さんの指示のもと、テキパキと黙々《もくもく》と働いた。
「料理もお餅《もち》も、いっぱい作らなきゃね」
全体を見渡《みわた》して、秋音ちゃんはウンウンとうなずいた。るり子さんは「任せて」というふうに、白い手を振《ふ》った。
「あ、そうだ。今夜は藤之先生も来るわよ」
「へぇ、噂《うわさ》の妖怪《ようかい》医師にやっと会えるのか。楽しみだな」
俺は、この医師が作った、生きている人間そっくりの「式鬼神《しきがみ》」を見たことがある。それはもう、鳥肌《とりはだ》ものだった。何から何まで、どこからどう見たって「生きた田代」だったからだ。
さて、糯米《もちごめ》が蒸《む》しあがったので、いよいよ餅《もち》つきを始める。
「最初はね、こねるようにやさしくね」
詩人の教えに従い、しばらく杵《きね》で糯米をこねてからついた……が、これがなかなか大変で。餅を返す詩人とのタイミングが合わなくて苦労した。たちまち腰《こし》も痛くなったし。
「腰が入ってないからだヨ、夕士クン!」
「こ、腰を入れる!?」
「バイトで重い荷物を運ぶ時と一緒《いっしょ》だヨ」
「あ、ああ。え〜……」
悪戦|苦闘《くとう》の末ようやくコツがわかってきたが、その頃《ころ》にはもう餅もつきあがっていた。
「ハ〜、やっとコツがつかめてきたんだけどな〜」
汗《あせ》だくの俺の肩《かた》を、秋音ちゃんがポンと叩《たた》いた。
「そう、よかった。まだまだあるから」
「え?」
糯米《もちごめ》が、どんどん蒸《む》されていた。
「じゃあ、がんばって、夕士くん。あたしは病院へ行ってくるわ」
「あ、ちょ……え?」
呆然《ぼうぜん》と秋音ちゃんを見送る俺の肩を、今度は詩人が叩いた。
「さー、夕士クン。休んでるヒマないよ」
滝行《たきぎょう》も真っ青の重労働だった。
「誰《だれ》かっ! 誰か早く帰ってきてくれ――!! 明さーん! 佐藤さーん!」
内心|泣《な》き叫《さけ》びながらの餅《もち》つきが、どれほど続いただろう。
「いや〜、ゴクローさん、夕士クン。お疲《つか》れー」
詩人が軽〜く終了《しゅうりょう》宣言した時には、俺は臼《うす》の横に倒《たお》れこんでいた。腕《うで》も肩も腰《こし》も足も、痺《しび》れて動けん!
「死ぬ……」
そういう俺の顔を、クリが覗《のぞ》きこんできた。
「お、クリ……」
クリは、ちょっと小首をかしげると、手に持っていた黒い塊《かたまり》ごと、手首まで俺の口の中へ突《つ》っこんできた。
「ウグッ!」
餡《あん》ころ餅《もち》だった。そのあまりのうまさに、俺は飛び起きた(前にもあったよな、こんなこと)。
「うっめ――!! なんだコレ?」
弾力《だんりょく》があるのにとろけるようにやわらかい餅と、ほんのり塩味のある上品な甘《あま》さの餡が、絶妙《ぜつみょう》に合体している。それは、疲《つか》れきった身体を、まるで包みこむように癒《いや》してくれた。
助《すけ》っ人《と》たちが手際《てぎわ》よく餅を団子に丸め、こし餡とつぶ餡と栗《くり》餡をからめて月見団子を作っていた。大鍋《おおなべ》では、うまそうな汁物《しるもの》がグツグツと煮《に》られている。詩人が舌なめずりしながら言った。
「鮭《さけ》と茸《きのこ》ののっぺい汁だって。鮭と茸と小芋《こいも》がたっぷり入っているよー。そういえば、お月見には里芋も食べるんだよネ」
「そうなんスか」
「月にちなんで、白くて丸いものを食べるのサ。里芋が団子になったといわれてるネ」
「へ〜」
「さて。夕士クンはお風呂《ふろ》で疲《つか》れをとっておいで」
「ウス」
「お風呂で寝《ね》ちゃわないでネ。クリた〜ん、一緒《いっしょ》にお風呂に入っといでー。ママがうとうとしたら、起こしてあげるんだよー」
「や、ママじゃないっスから」
「そういえば、パパは?」
「長谷は今頃《いまごろ》、修学旅行でヨーロッパっス。イヤ、あの、パパじゃないっスから」
「そうかー、残念だねー。一緒にお月見したかったね」
俺はうなずいた。
「そりゃもう……残念がるっスよ。ヨーロッパ旅行よりここのほうがいいって言いますよ、きっと」
「何やら、本日は、にぎやかでございますな」
着替《きが》えを取りに部屋へ行くと、机の上にフールがちょこんと現れた。
「月を愛《め》でるパーティさ」
「おお。それは素晴《すば》らしい。月を崇《あが》める儀式《ぎしき》は、古今東西に存在いたします。魔術《まじゅつ》とも深い関《かか》わりがございます。特に満月は霊力《れいりょく》を高めますれば、ご主人様も今宵《こよい》はしっかりと月光をお浴びなさいませ」
「フンフン」
「ご主人様の霊力アップが、我らの霊力アップにつながりますれば……」
「そうだ!」
「は?」
「俺が必死こいてやらなくても、餅《もち》つきを万能《ばんのう》の精霊ジンとかにやらせりゃよかったんだ! あー、そうだった! そうだったよ!」
頭を抱《かか》えこんだ俺を見て、フールはフッと冷たく笑った。
「まあ、ようございますけどネ。魔道士としてその使い方はどうかと」
温泉にたっぷりとつかって体力を回復すると、もう腹ペコだった。眩暈《めまい》がするぐらい。単純な身体だ。
黄昏《たそがれ》が群青《ぐんじょう》に翳《かげ》る頃《ころ》。できあがった山のようなごちそうを、助《すけ》っ人《と》たちが地下へ運び始めた。
「さて。あたしたちも行こうかネ」
詩人は、選《えら》び抜《ぬ》いた日本酒を五本|抱《かか》え、俺にも五本持たせた。そこへ、
「た……ただいま〜〜〜」
ヨレヨレになって帰ってきたのは、古本屋。古今東西の奇書珍本《きしょちんぽん》を追って世界じゅうを旅する、ちょっと怪《あや》しい無国籍風体《むこくせきふうてい》の男。その正体は、魔道書《まどうしょ》『|七賢人の書《セブンセイジ》』を操《あやつ》る|魔書使い《ブックマスター》。俺の「先輩《せんぱい》」だ。
「古本屋さん!? 急にいなくなったと思ってたヨ。どこ行ってたのー? わー、なんか臭《にお》うよ!?」
いつものジーンズの上下が泥《どろ》や染《し》みで汚《よご》れ、髪《かみ》の毛《け》もバサバサ、不精髭《ぶしょうひげ》もいつもの倍ぐらい。怪しさは五倍増しだ。
「急ぎの用事でインドまで……なんか食わせて……」
「ちょうどよかった。今から月見パーティなんだー」
「やっぱり。よかった、間に合った……」
「?」
「その前にお風呂《ふろ》に入ってヨ。そのままじゃ、いくらなんでも」
「とてもじゃないけど、そんな力は残ってません」
古本屋は玄関《げんかん》でへたったままだ。
「じゃあ、夕士クン。お風呂に入れてあげて」
はい!? それって、ひょっとしてリベンジのチャンス!?
「まっかせてくださいっス! きっちり入れさせていただきまっス!!」
いつも風呂に「入れてもらう」側としては、ここは「お返しする」チャンスとばかりに俺は張りきったのだが、「妖怪《ようかい》アパート」の住人がそんなに甘《あま》いものじゃないなんて、なんでわからないかな、俺のバカ。
「わぁい、嬉《うれ》し〜い! 隅々《すみずみ》まで洗ってねー!」
と、抱《だ》きついてきた古本屋に、俺は廊下《ろうか》に押《お》し倒《たお》された。
「ギャ――ッ!」
「はぁ〜、夕士くんってば、石鹸《せっけん》の匂《にお》いがする〜」
「ちょ、重っ! 髭《ひげ》が痛っ……う、ゲホッ! なんスか、この臭《にお》い! あんた、どこで何してたんだよ!」
地下温泉の壁《かべ》に大穴があいて、その向こうに滝《たき》ができているのを見て、古本屋は大笑いした。
今はさらに、さっきまでなかった別の穴が、滝を囲む岩壁《がんぺき》にあいている。その向こうに、広大なススキの原が広がっていた。
「うわ……スゲー……綺麗《きれい》だ!」
紺色《こんいろ》の空に、巨大《きょだい》な満月。
その煌々《こうこう》とした月光に照らされて、ススキの原が銀色に波打っていた。まるで絵画のような風景だ。
その中に、助《すけ》っ人《と》たちによって宴会《えんかい》のセッティングも万端《ばんたん》に調《ととの》っていた。
三方《さんぼう》にお神酒《みき》、団子、野菜が供えられ、秋の花が活《い》けられていた。テーブルには椿色《つばきいろ》のクロスがかけられ、山積みのごちそうの間にイガ付きの栗《くり》やドングリなど、秋の木の実がさり気に飾《かざ》られている。皿や碗《わん》は、すべて兎柄《うさぎがら》だ。かまどにかけられた大鍋《おおなべ》から、いい匂《にお》いがたちのぼっていた。
「素晴《すば》らしい……! 完璧《かんぺき》だネー」
詩人はため息をついた。本当に、るり子さんの食に対するすみずみまで行き届いた気配りや感性には脱帽《だつぼう》する。
そこへ、どこからともなくバンが三台、するするとやってきた。バンから秋音ちゃんが降りてきた。
「月野木のみんなが来たわよー!」
秋音ちゃんに続きバンからゾロゾロ降りてきたのは、白衣姿のスタッフ数人と、包帯グルグル巻きのミイラ男や、異様に毛深い奴《やつ》や、夜なのにサングラスをかけてる奴や、なんとか「人形《ひとがた》」はしているものの、見るからに妖《あや》しいもの揃《ぞろ》い。でもその中に、どう見ても普通《ふつう》の人間のじいさんばあさんが何人か交じっていた。みんな楽しそうだった。ロケーションを見て歓声《かんせい》を上げた。
「お招きありがとう。素晴らしい宴会場《えんかいじょう》だね」
「これはこれは、藤之|医師《せんせい》。お久しぶり」
詩人と握手《あくしゅ》を交《か》わしたのは、ヒョロッとした五十代ぐらいの紳士《しんし》だった。
「藤之医師……霊能力者《れいのうりょくしゃ》……」
というよりも「学者」みたいな、とても「お医者様」らしい理系な感じの中年紳士。俺は、もっと浮《う》き世離《よばな》れした坊《ぼう》さんみたいな人かと思っていた。バリバリ医者っぽいよ。
「夕士くん、藤之先生よ」
秋音ちゃんが紹介《しょうかい》してくれた。
「初めまして」
「ハ、稲葉夕士っス。よろしくお願いしまっス」
藤之医師は、上品そうな目を細めた。
「この子が例の|魔書使い《ブックマスター》か」
「夕士くん、すっごくがんばってるんですよ」
「可愛《かわい》いなぁ」
「…………」
なんか、すっげぇガキ扱《あつか》い?
「やー、藤之医師。お久しぶり」
「オー、古本屋さんじゃないか」
この人が印を結んだり、式鬼神《しきがみ》を扱ったりするのか? 想像できねーなぁ。
昼間のように明るい満月を愛《め》でながら、俺たちはうまい飯とうまい酒で盛り上がった。
白銀に光るススキの海原《うなばら》を渡《わた》ってくる風は少し冷たかったけど、鮭《さけ》と茸《きのこ》ののっぺい汁《じる》の、優《やさ》しい味と温かさが身体を包んでくれた。
「また、この秋刀魚《さんま》の押《お》し寿司《ずし》が絶品だねえ!」
詩人や古本屋と酒をガバガバ酌《く》み交《か》わしながら、藤之医師は上機嫌《じょうきげん》だ。本当にどう見ても医者だよ(白衣着てるし)。患者《かんじゃ》たちも、寿司や団子を頬張《ほおば》りながら幸せそうだ。
「ああ、ありがたい」
「なんて綺麗《きれい》なお月さんだろうねぇ」
「力が湧《わ》く」
「実にうまい。この餅《もち》は実にうまい」
「みなさん、お酒はほどほどにねー」
「入院患者はこれだけ?」
と、秋音ちゃんに訊《き》いてみた。
「ううん。ここに来られない人も、もちろんいるわよ。寝《ね》たきりの人もいるし。今夜は病院でも、中庭でお月見をしてるわ」
「俺は、こっちの担当でラッキーだったな。酒が飲めるとは思わなかった」
スタッフの一人がそう言うと、みんな大笑いした。どう見ても普通《ふつう》の青年看護師に見えるけど、あれも霊能力者《れいのうりょくしゃ》? あるいは、人外? 不思議だよなあ。こうやって普通に妖怪《ようかい》病院があって、そこで金をもらって働いている奴《やつ》がいるんだもんなあ。
「おやまあ、なんて可愛《かわい》い子だろう」
アンコまみれになっているクリを見て、患者《かんじゃ》の一人、どうも人間らしきばあさんが、ため息した。
「クリ〜、お前……」
俺は、濡《ぬ》れタオルでクリの手や顔を拭《ふ》いた。
「何個、団子食ったんだよ。腹|壊《こわ》すぞ」
ばあさんは、にこにこして俺たちを見た。
「あなたのお子さん?」
「ハ、イヤ、違《ちが》うっス」
向こうで秋音ちゃんが「ブハッ」と吹《ふ》き出《だ》し笑《わら》いした。
「本当に可愛い子ねぇ」
「ハァ、まあ」
クリを見るばあさんの目に、薄《う》っすらと涙《なみだ》が浮《う》かんだ。
「……大丈夫《だいじょうぶ》スか?」
「ああ……いやぁね。昔のこと、思い出しちゃって」
ばあさんは、手を伸《の》ばしてクリの頭を撫《な》でた。枯《か》れ木《き》のように細い腕《うで》だった。
「こんな可愛《かわい》い子を一人でも産んでいたら……きっと私の人生も違《ちが》っていたでしょう」
「…………」
そうだった。月野木にいる人間たちは、身寄りのない人たちだった。こんなおだやかそうに見える老婦人も、つらく困難な人生を送ってきたんだろうか。
クリが、ばあさんにそっと近づいた。ばあさんは少し目を丸くしたあと、それはそれは愛《いと》しそうに、まるで宝物を抱《だ》くようにクリを抱きしめた。
「子どもを産めなかったこと、何度も何度も神サマを恨《うら》んだわ。そのために私は嫁《とつ》ぎ先《さき》を追われ、故郷にも帰れなかった。淋《さび》しくてみじめな人生だったわ」
ばあさんの目から、大粒《おおつぶ》の涙があふれ落ちる。でもそれは、なんだかとても美しかった。真珠《しんじゅ》のような涙だった。
「でも、最後にこんないい思いをさせていただいた。優《やさ》しい方々に親身になってもらって、こんな素敵《すてき》なお月見まで……」
ばあさんは、顔を上げて俺を見た。菩薩《ぼさつ》のようにおだやかで優《やさ》しい顔をしていた。ばあさんは、俺の手を取った。
「ありがとう」
「あ、イヤ」
「みなさんも、ありがとう」
ばあさんは俺の手を握《にぎ》ったまま、みんなに頭を下げた。
「いずれは死ぬ身。だったらその時は幸せにと、そう思わせてくださって本当にありがとうございました。おかげで、こんな私でも成仏《じょうぶつ》できます」
「……ハッ!」
ばあさんの身体が透《す》けていた。身体の輪郭《りんかく》が、ぼんやりと白く光っている。
「お世話になりました、先生方」
「またどこかでお会いしましょう」
藤之医師は杯《さかずき》を掲《かか》げた。
「さようなら」
秋音ちゃんや他のスタッフが手を振《ふ》った。
ばあさんは、ウンウンとうなずきながら、その身体は輝《かがや》きを増し、俺の目の前でスゥーッと光の塊《かたまり》になって、やがて上へと消えていった。
「…………」
俺は呆然《ぼうぜん》とし、クリはキョトンとしていた。
「やれやれ、ハツさんも気が早い」
「では、わしらも行こうかの」
患者《かんじゃ》の中から、人間たちが立ち上がった。
「おお、行くか」
「お世話になりました」
「また生まれ変わってこい」
「次はもう少し、楽に暮らしたいもんだね」
人間たちは妖《あや》かしたちと言葉を交《か》わし合《あ》い、スタッフに挨拶《あいさつ》をすると、同じように光の玉となって消えていった。
「……幽霊《ゆうれい》だったのか」
「今日、亡《な》くなった人たちよ。最後にいい思い出を作ってあげられてよかったなー」
「…………」
神秘の月が、満々と空に満ちる。
不死の天上人が住むといわれる神の国へ旅立つように、老人たちの魂《たましい》は空へ吸いこまれていった。
「やっぱり、天国って空の上にあるのかな」
「そう思えば[#「そう思えば」に傍点]、そうあるのよ[#「そうあるのよ」に傍点]。月の霊気《れいき》が兎《うさぎ》の姿をしているようにね」
そうか。
ばあさんたちは、天の国へ行けると思えた[#「思えた」に傍点]んだ。
よかった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_091.png)入る]
月の神の巫女《みこ》は笑う
「藤之先生ー、そろそろ帰りますよー」
病院への帰《かえ》り支度《じたく》が調《ととの》って、秋音ちゃんが詩人たちと座《すわ》りこんでいる藤之医師を呼びに来た。しかし、
「秋音ちゃん、先に帰っててー。私はもうしばらく、この『十四代』を堪能《たんのう》してから〜」
藤之医師は、タハッと嬉《うれ》しそうに頭をかいた。
「も〜、しょ〜がないなぁ」
「いいだろ〜。こんなうまい酒を飲むのは久しぶりなんだよ〜」
子どもみたいに口を尖《とが》らせるこの人……本当に霊能力者《れいのうりょくしゃ》なのか!? 思えん! 思えんぞ!
「ハハー、こういう人って普段《ふだん》節制してるからネー。たまに飲むと、お酒のうまさもひとしおだよネー」
「え、それはやっぱ、修行《しゅぎょう》ってことで?」
詩人は首を横に振《ふ》った。
「修行で節制するっていうのは、それこそ修行時代だけだよネ、藤之センセ」
「そうだね。我々は、必要最小限で最大限に生きるシステムというものが、もう身についちゃってるからね。術師の中には、水と塩だけで生きている人もいるよ」
「へえー! とてもそうは見えないけど、古本屋さん、あんたも?」
「とてもそうは見えない[#「とてもそうは見えない」に傍点]は、余計だよ」
古本屋は煙草《たばこ》を吸いながら、味付けイワシの金胡麻《きんごま》まぶしを肴《さかな》に酒を飲んでいた。
「何もないならないで過ごせるよ、俺だって。ある種のハーブがあればね、ひと月ぐらいは水ナシでもいける」
「すげえ! 植物から水分をとるんスか! 陸ガメみたいっスね!」
「ほめてるんだろうな、それは?」
「でもねぇ、節制する術師っていうのは一部だよ。我々は必ずしもそういうタイプじゃないね」
「そーそー。俺は毎日うまい飯を食ってうまい酒を飲みたい。飯を食わなきゃ、ちゃんと腹も減るし疲《つか》れるし」
藤之医師と古本屋は、そう言って酒をうまそうに飲んだ。
「そういやあ、今回インドでも飲まず食わずだったのネ、古本屋さん?」
「そうだよ! ヨレヨレのグチャグチャだったけど、何してたんスか?」
「フフフフ……」
古本屋は、不気味に笑った。
「俺も、そんなもの[#「そんなもの」に傍点]は信じちゃいなかったけど、信頼《しんらい》できる筋から突然《とつぜん》情報が入ってね」
「?」
「なんでも、とある古文書を調べていて、偶然《ぐうぜん》それ[#「それ」に傍点]が伝えられた場所がわかったとか。それ[#「それ」に傍点]が今もそこにあるかどうかは不明だが、場所がハッキリしているだけに本物の可能性があると」
「??」
「で、俺に依頼《いらい》が来たのサ。それ[#「それ」に傍点]が本物かどうか確かめろってな。それが本物なら、その古文書も本物ってことになってクライアントは満足するわけだ。俺の報酬《ほうしゅう》は、そのブツ[#「ブツ」に傍点]さ」
「なんのことなのー?」
ビシッ! と、古本屋はお供えものの三方《さんぼう》を指さした。そこに、いつの間にか小さな入れ物が置かれていた。
「月の神ソーマの霊薬《れいやく》『アムリタ』だ」
「ええ〜〜〜っ??」
俺と詩人と藤之医師は、揃《そろ》って疑問の声を上げた。
「アムリタって……不死の薬っていわれてる?」
「ないとは言わないが、ほぼ幻想《げんそう》だよ、不死なんて」
藤之医師は、ハッと肩《かた》をすくめた。
「ハイ。あんたが、そーいう発言をしない」
古本屋は、その入れ物を俺たちの前に置いた。十センチぐらいの薬瓶《くすりびん》らしき形。小汚《こぎたな》い陶器《とうき》だった。
「アムリタは、満月の儀式《ぎしき》を経て初めてアムリタたると言われた。だから今日に間に合わせようと必死だったよ。そりゃあ、アジア一帯には満月の神事は多いけど、どうせならここの儀式がいいからな。なんてったって食い物が!」
「満月の儀式って、この宴会《えんかい》のこと〜?」
「まあ……一応『神事』には違《ちが》いないけどねぇ」
詩人も藤之医師も苦笑いした。
「大変だった……!」
古本屋は、大きなため息を一つついた後、絶叫《ぜっきょう》した。
「これがある場所ってのが、ド田舎《いなか》の! ド田舎の! ド田舎で!! ジャングルはあるわ、山あり谷ありだわ、車はすぐにエンストするし、ゴムボートには穴があいてるし! もっとマメにメンテしやがれ、インド人!!」
伝説のお宝を求めて秘境へなんて、まるで映画『インディ・ジョーンズ』だ! ってか、あんた「古本屋」だろ!?
でも、リアルインディ・ジョーンズは、物語のようにロマンティックじゃない。
大変な苦労をして古文書に記された場所までたどり着いた古本屋だが、その昔そこに神の霊薬《れいやく》アムリタを伝えたといわれた行者もとうに亡《な》くなり、わずかな言い伝えを知っているばあさんが一人いるだけだった。そのばあさんも「そういえば、そんな話もあったねぇ」ぐらいの認識《にんしき》で、薬のありかを思い出すまでにまた大変な時間と労力がかかり(酒やお菓子《かし》やアクセサリーとかでつりまくった)、やっと思い出したその場所は、物置の棚《たな》の上だった。
「なんのありがたみもないっスね! 祭壇《さいだん》とかじゃないんだ!」
俺たちは大笑いした。
「ホントにもぉ〜、とてもじゃないけどホンモノだなんて思えないしさ、いざそれを譲《ゆず》ってくれと言ったら、ばあさん、とたんに欲かいちまって、あのへんの年収の十年分ぐらいふっかけられたぜ」
「ギャハハハハハ!」
「いやはや、なんとも世知辛《せちがら》い!」
「悠久《ゆうきゅう》のロマンも神の威光《いこう》も、時代の流れの前じゃ塵芥《ちりあくた》だねー」
俺たちは涙目《なみだめ》で笑い転げた。インドといえば、信仰心《しんこうしん》厚い人々の国という印象があるけど、現実的な話もあるもんだ。
「で、それはそれとして。ホンモノなの、これ?」
詩人が興味深げに、ラクガキのような目をクリクリさせた。古本屋は、丸眼鏡をキラリとさせた。
「せっかく藤之医師がいらっしゃるので、確かめていただこうかなっと」
藤之医師は酒を飲みながら、片眉《かたまゆ》をヒョイと上げた。
「眠《ねむ》れる月の子は、聖《きよ》き白円に満ちて目覚める≠アれは、アムリタを聖別された[#「聖別された」に傍点]満月の霊力《れいりょく》にあてろということだ。この条件はクリアした。これが本物なら、霊薬としての霊力を発動しているはず」
古本屋が「プロ」の顔をしている。なんだかロマンティックな展開になってきたんじゃねぇ!? おれは、ちょっとドキドキした。
藤之医師は、フフンと笑った。
「いいだろう」
藤之医師は酒を置くと、背筋を伸《の》ばした。こちらも、それまでとは違《ちが》う顔つきになっている。今からものすごく難しい手術をしそうだ。
藤之医師の両手が、何かの印を結んだ。同時に、呪文《じゅもん》の詠唱《えいしょう》が始まった。
(……英語? 英語だ!)
早口で専門用語[#「専門用語」に傍点]が多く混じっているから全然聞き取れないけど、それは英語だった。
(英語とは意外だな。てっきり、仏教系かと思ってた)
印を結んだ藤之医師の手の中から、金色の光がもれた。
藤之医師が手を広げると、その両手の間に光の魔法円《まほうえん》が現れた。
「うお……!」
俺は身を乗り出した。
金色の魔法円《まほうえん》は、両手の間でふわふわと浮《う》いていた。ちょうど、手品の『浮かぶ一万円札』みたいに(こんなたとえですいません、藤之医師)。
魔法円は三重で、外側の細い二つの円にはいろんな記号が書かれていたが、中心の幅広《はばびろ》の円は空白だった。藤之医師はその魔法円を、アムリタの器《うつわ》にかぶせるようにした。
すると、魔法円の空白の部分にダダ――ッと文字が浮かび上がった。それは、パソコンの画面にダダ――ッと文字が出てくるのとそっくりだった。
「まさにソレだよ、夕士」
と、古本屋が言った。
「お前、『マトリックス』って映画、見ただろ。あの中で、パソコンの画面には数字が並んでいるけど、マトリックス内では、それが立体映像になっているんだっていう場面があったよな」
「ウス」
「魔法円の中にズラズラ出てきてる文字は、この薬の来歴だ。この魔法円は、物の持っている歴史[#「物の持っている歴史」に傍点]を読めるのさ」
「物の歴史を……読む!?」
「これが『オブジェクト・リーディング』だ。藤之医師のは、そのすごいバージョン。藤之医師は、あの文字を立体的に見られる[#「立体的に見られる」に傍点]んだよ」
「へぇ〜〜〜っ!」
なんだかイマイチよくわからんけど、なんだかとにかく、魔術《まじゅつ》を操《あやつ》る姿がかっこいいぜ、藤之医師!
霊薬《れいやく》の歴史を読んでいた藤之医師の表情が、少し硬《かた》くなった。
「……これは、どうやら本物のようだな」
「ええ――っ!?」
俺たちは仰天《ぎょうてん》した。
「本物ってぇと……不死の薬! マジで??」
「不死とは言わんが……かなり確かな『長命の呪《チャーム》』がかけられている。もっとも長生きした者で……およそ八百|歳《さい》」
「八百歳」
「まるで八百比丘尼《やおびくに》だネ」
「八百年も生きりゃあ、充分《じゅうぶん》不死だよ」
「それが、君が会ったばあさんだよ、古本屋さん」
「はああ〜??」
古本屋は目を剥《む》いた。
「彼女《かのじょ》が、この薬を持ち出したんだ。もとは、ソーマ神の神殿《しんでん》付きの巫女《みこ》だったようだな」
「こりゃ、まさしく八百比丘尼だ」
詩人が笑った。
たしか「八百比丘尼」って、人魚の肉を食べて不老不死になった尼《あま》さんだったよな。
「彼女は、この薬を悪用されぬように、もとの術師から命を受けて託《たく》されたんだ」
藤之医師の目は、魔法円《まほうえん》に現れる文字の向こうを見ているようだった。そこには、文字が作りだした立体映像があるんだろうか。俺も見たい。
不死の霊薬《れいやく》を狙《ねら》う悪者から逃《のが》れたソーマ神の巫女は、薬を守りつつ各地を放浪《ほうろう》しながら、薬を使って人助けをして生きた。霊薬にかけられた「長命の呪《チャーム》」には、重病や大怪我《おおけが》の治癒《ちゆ》という効力もあったんだ。時には、金持ちからほんの一|滴《てき》と交換《こうかん》に大金を出させ、それも人助けに使ったらしい。
「そういう伝説の一つが、古文書に残ってたわけだ」
時代が変わり、「ソーマ神の不死の霊薬《れいやく》」を信じる者もいなくなり、巫女《みこ》はようやく定住した。たまに、どこかに残っている伝説を探《さぐ》り当《あ》てた酔狂者《すいきょうもの》が来れば、「ああ、そういうこともあったねぇ」と、適当にあしらってやる。
今の時代、不死の薬を血眼《ちまなこ》になって、人を殺してまで欲《ほ》しがるような奴《やつ》はいない。映画や小説じゃないんだから。また、もしいたとしても……。
「どうやら、もうないようだね」
藤之医師が苦笑いした。
「八百年の間に使い果たしちゃったんデショ」
詩人も笑った。
「えっ?」
古本屋の目が点になった。
「確かに、この器《うつわ》には入っていたようだが……」
藤之医師は、魔法円《まほうえん》を閉じた。笑いを噛《か》み殺《ころ》していた。
古本屋は、器をふんだくると蝋《ろう》で固められた蓋《ふた》をもぎ取った。
「……ない! カラッポ!!」
「ワハハハハハ!!」
藤之医師と詩人が爆笑《ばくしょう》した。
「ソーマの巫女《みこ》に、まんまと一杯喰《いっぱいく》わされたな、古本屋さん!」
古本屋は、ワナワナと震《ふる》えた。
「なンも知らないフリをして……! 何が、『まあ、これってそんなに歴史的価値があるものなのかい? じゃあ、ちょいとはずんで[#「ちょいとはずんで」に傍点]おくれよ』だ! 年収十年分ボッタクリやがって、あのクソババ――ッ!!」
古本屋は、満月に向かって吠《ほ》えまくった。
「さすが、年の功だ!」
「八百年の年の功!!」
俺たちは笑い転げた。
ソーマの巫女は、こうやって何も知らないフリをして、カラッポの器《うつわ》を物好きどもに売りつけてきたんだろう。中が空でも、薬が効かなくても、不死なんてやっぱり伝説にすぎなかったかと、あきらめがつく。それを見越《みこ》したうえでの「芝居《しばい》」なんだ。
「やるな、ばあさん」
俺は、この痛快な年寄りの、八百年にも及《およ》ぶ人生を思って心底感心した。八百年って、生きるだけでも大変じゃねぇ!?
「そう。不老不死には、才能がいるんだよ」
と、藤之医師は言った。
「並の人間じゃあ、とてもその膨大《ぼうだい》な時間を埋《う》められない。長生きすればするほど、流れ去る時間のとめどなさ[#「とめどなさ」に傍点]を思い知らされるハメになる。不死者とは、それを達観できる者でないと務まらないのさ」
そう言うこの人こそ、今|何歳《なんさい》なのか計り知れない。
「お」
古本屋が変な声を上げた。小皿を取って俺たちの目の前に置き、霊薬《れいやく》の器《うつわ》を傾《かたむ》ける。すると、ほんの一|滴《てき》が音もなく小皿の上に落ちた。それは、クリの小指の爪《つめ》ほどしかなかった。
人差し指でつつくと、付いたか付かないかぐらいの霊薬が、指先で光った。
俺たち四人、無言でなめてみる。無味|無臭《むしゅう》。
「寿命《じゅみょう》……延びたと思う?」
藤之医師は首をかしげた。
「そうねぇ……七か月ぐらい?」
「…………」
「ブワ――、ハハハハハ!!」
「七か月! 微妙《びみょう》〜〜〜!!」
とてつもなく笑えてきて、俺たちはひっくり返ってのたうちまわった。
「あー、笑いすぎて気持ち悪ぃ」
まだ飲むつもりの大人どもを置いて、俺は部屋へ戻《もど》ってきた。
机の上の「プチ」の横に、アムリタの器《うつわ》をコツンと置く。
「オヤ? これはまた、特殊《とくしゅ》な霊気《れいき》を発しておりますな」
フールが器の横に現れた。ちょうど同じ大きさだ。
「インドの月の神ソーマの、不死の霊薬だってよ」
「ほほう、不死の霊薬とは。しかし、ご主人様……」
「ああ、もうないんだ。でも逆さに振《ふ》れば、あと一|滴《てき》ぐらいはあるからって、俺にくれたんだ」
「人には、不死など無理でございますよ」
フールはヒョイと肩《かた》をすくめた。
「そうだろうな」
部屋の窓からも、美しい満月が見えた。
つらい人生に別れを告げ、天国へ旅立っていった者。
八百年の人生を、たくましく、したたかに生きる者。
「俺は……どう生きるんだろうな」
思いもよらないことが起こりすぎて、これからの人生がどうなるか予想もつかない。目標を決めていても、また何かとんでもないことですべてをひっくり返されそうな気がする。
「でも……大丈夫《だいじょうぶ》だ」
大丈夫だ。そう思う。そう思おう。そう思えば、そうあるんだ。そう思えるカードを、俺は充分《じゅうぶん》持っている。俺を支えてくれるたくさんの人たち、ものたち。
「だから、目標だけはキッチリと。うん」
俺はうんうんとうなずいた。それから満月に向かって誓《ちか》った。
「第一志望は、県職員! 第二志望は、手堅《てがた》い会社でビジネスマン! がんばるぞ!」
たとえ、どんなにつらく困難なことが起ころうとも、たくましく、したたかに。
なんだか「生きる意味」を考えさせられる、十五夜の月だった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_107.png)入る]
地獄《じごく》への道は善意で舗装《ほそう》されている
さて。文化祭は、各クラスも出し物をする。
普通科《ふつうか》があるとはいえ条東商は商業高校なので、出し物は圧倒的《あっとうてき》に「模擬店《もぎてん》」が多い。飲食店はもちろん、自分たちで仕入れた品物を売るブティックや雑貨店、八百屋や果物屋もあり、値段が安いので客には人気がある。あと、「当て物」とかのゲーム店に、手の込《こ》んだところでは「釣《つ》り堀《ぼり》」なんてのもある。
「さてと……」
我《わ》が2−Cの担任、千晶直巳は、フワーッと大きくあくびをしてから委員長に言った。
「今日は、文化祭について決めてくれや」
委員長と書記が前に出る。
千晶は教室の後ろ(俺と田代の真後ろ)へ来ると、ロッカーの上へ「どっこらしょ」と横になった。ロッカーの上には、おもに男どもが鞄《かばん》やらクラブ用品やらを置いていて(それを入れるためにロッカーがあるんだが)、千晶はそれらに足と頭をのっけると、たちまち軽く寝息《ねいき》をたて始めた。
「オイオイ」
「千晶ちゃん、お疲《つか》れ?」
クラスにクスクス笑いが起こる。
「まったくもー、うちの担任は」
「あああ、俺の柔道着《じゅうどうぎ》が足枕《あしまくら》に……」
「えー、それでは、文化祭の出し物について意見のある人は?」
担任はいないのも同然だが、話し合いは粛々《しゅくしゅく》と進んだ。うちの委員長は優秀《ゆうしゅう》だ。
「この時期は教師も忙《いそが》しいからなぁ。千晶は生活指導も兼《か》ねてるもんな」
千晶の寝顔には、不精髭《ぶしょうひげ》が生えていた。顔色もどことなくよくないような気もする。
今の時期、生徒たちは祭りの準備で気分が高揚《こうよう》している。こういう雰囲気《ふんいき》にあおられて、浮《う》かれるヤンチャどもが続出するのだ。学校内外での暴力|沙汰《ざた》が頻発《ひんぱつ》したり、煙草《たばこ》やシンナーを校内でやるバカが増えたり、教師たちは監視《かんし》と後始末に追いまくられる。
「でもね、今年は問題を起こす子が、去年よりずっと少ないらしいよ」
と、田代が言った。
「へぇ。それってやっぱ、千晶の手腕《しゅわん》ってやつかな」
「そうみたい。千晶ちゃんてば、真っ先に、問題を起こしそうな子と仲良くなったもんね」
「……なるほど」
いくらヤンチャでも、仲良くなってしまえば、千晶が困るようなことはしないでおくか、という気持ちになる。奴《やつ》らの「情に訴《うった》える」んだな。
「千晶ちゃんの寝顔《ねがお》、カワイー」
田代が携帯《けいたい》をかまえた。
「オイ、よせよ」
と、俺は止めたが、田代がパシャッとやったとたん、千晶の両目がパッと開いた。
「あ」
「携帯は校内持ちこみ禁止」
千晶は田代の携帯を指さして一言そう言うと、また眠《ねむ》った。
「……テへ」
田代は、ちょっと冷《ひ》や汗《あせ》をかいたようだ。
そうなんだ。畏《おそ》れ多《おお》くも県教委のお達しで、県下の小、中、高校内に生徒は携帯《けいたい》を持ちこんではならないことになっている。
まったく、バカげた通達もあったもんだぜ。今のご時世、高校生に携帯を持ちこむななんていっても無理だろう? 現にこうやって携帯は持ちこまれている。条東商では、校内で携帯を持っているところを見られた場合、その携帯は没収《ぼっしゅう》されることになっているが、携帯はその日のうちに返されるし、携帯をしている生徒を見かけても、授業中以外なら教師だっていちいち没収したりしない。面倒《めんどう》くさいからだ。
こうして、県教委からの畏れ多いお達しは、大いなる有名無実と化しているわけだ。ああ、バカバカしい。携帯を持っていない俺ですらそう思うぜ。現実的でないことをおおげさに言ってくる県教委も、それに形だけ従っている条東商も、どっちもバカだ。少なくとも、条東商の教師たちはそうわかっているはずだ。だからこそ、千晶も田代の携帯を見逃《みのが》したんだ。
「このセンセーが、そのテの命令に素直《すなお》に従うとは思えんものなぁ」
そんなことを思いつつ、千晶の寝顔《ねがお》を見ていると……。
パシャッ!
「!?」
田代が俺を撮《と》っていた。
「タイトル、担任を熱い眼差《まなざ》しで見つめる男子高生。うわっ、AVのキャッチコピーみたい。担任が女教師でないとこがカナシー」
田代がププッと笑った。
「てンめ〜……いい加減にしとけよ、コラッ! 携帯《けいたい》よこせ、俺が没収《ぼっしゅう》してやる!」
「いやん」
「さっきからうるさい! 後ろー!」
2−Cの出し物は「シューティングゲーム」に決まった。
十月に入り、文化祭より一足先に行われる体育祭の出場種目なども決まった(俺は、高跳《たかと》び)。秋の校内の雰囲気《ふんいき》が、ますます盛り上がってくる。
「あ、稲葉君」
廊下《ろうか》で、女どもと話をしていた青木に声をかけられた。青木は女どもに「待っててね」と言い、女どもはコックリとうなずいて、並んで青木を待った[#「待った」に傍点]。
青木は、少し声を落として俺に言った。
「稲葉君のお家《うち》の事情は聞きました。とても苦労してきたわね」
「……はぁ」
「稲葉君は、本当にがんばっています。ご両親もきっと喜んでいらっしゃるわ」
青木は、慈愛《じあい》に満ち満ちた微笑《びしょう》を投げかけてきた。が、俺は思わず苦笑いを返してしまった。
そりゃあ苦労はいろいろしてきたし、確かにがんばったこともあったけど、何も知らないあんたに、そんなふうに言われる筋合いもないんじゃねえ?
「私はあなたの担任ではないけれど、英語の教科担任だし、何かあった時は遠慮《えんりょ》なく相談してね。いつでもお話を聞きます」
「ハァ……ありがとうございまス」
「苦労をしているのは稲葉君だけじゃないわ。不幸に負けずがんばっている人は大勢います。あなたは決して孤独《こどく》じゃないのよ。一緒《いっしょ》にがんばっていきましょうね」
青木は、満足そうに[#「満足そうに」に傍点]うなずいた。そして、主人を待つ犬のようにじっと青木を待っていた女どもの輪の中へ帰っていった。
『苦労しているのはあなただけじゃない』
『あなたは決して孤独じゃない』
「ひっかかる言い方だな」
確かにおっしゃるとおりだが、一般論《いっぱんろん》ならまだしも、当人にそれを言うか? 俺は、苦労していることも孤独なことも、恨《うら》んでも嘆《なげ》いてもいねーっての。
青木の優《やさ》しく美しい笑顔《えがお》が、無性《むしょう》にムカついた瞬間《しゅんかん》だった。
「ちょっと稲葉ぁ、聞いてくれる〜?」
教室で本を読んでいたら、田代、桜庭、垣内の姦《かしま》し娘《むすめ》がゾロゾロとやってきた。
「どうした?」
「さっきさぁ、千晶ちゃんと廊下《ろうか》でしゃべってたんだ。したら、そこへ青木センセが来てさぁー」
職員室の手前で、田代らは千晶を捕《つか》まえて他愛《たわい》もないおしゃべりをしていた。すると、
「田代さん」
と、青木が声をかけてきた。
「あ、ハイ?」
「千晶先生のことは、ちゃんと千晶先生と呼びましょうね」
田代は、笑顔《えがお》でそう注意された。
「ハ……ハァ、ハイ」
「それから、千晶先生」
と、青木は今度は千晶を見て言った。その表情はおだやかだが、笑顔ではなかった。
「意味もなく女子生徒の身体にさわるのは、やめてください」
「?」
姦《かしま》し娘《むすめ》はキョトンとした。そしておそらく千晶も。田代はその時、いつも誰彼《だれかれ》かまわずそうするように、千晶の腕《うで》に自分の腕をからませていたんだ。田代は、青木がそのことを言っているのだと気づき、慌《あわ》てて腕を解《と》いた。
「ち、違《ちが》うよ、青木センセ! 千晶ちゃ、千晶先生がやったんじゃなくて、あたし! あたしが腕を組んだの。腕を組んだのはあたしのほう! 千晶先生は悪くないよ!」
だが、青木は田代に言った。
「あなたは悪くないのよ、田代さん。腕を組むのを拒《こば》まなかった千晶先生のほうが悪いんです」
「はぁ?」
「男性教師と女生徒が腕を組んでいて、悪く言われるのは女生徒のほうです。たとえ田代さんのほうから腕を組んだにせよ、田代さんのことを大切に思うのなら、キッパリと断るのが教師です。そうですよね、千晶先生?」
やわらかだが、確固たる、断固たる主張の込《こ》められた言い方だった。
「ご高説、痛み入ります」
千晶は頭をかいた。
「で、でも」
田代は、青木と千晶を見ながらオロオロした。そんな田代の肩《かた》に、青木はそっと手をかけた。
「いいのよ、田代さん。あなたは何も知らないのだから。それを教えるのが、私たち教師です」
「…………」
「それからね、男子のクラスメイトは、君付《くんづ》けじゃなくて、さん付けで呼びましょうね。呼び捨てや、ちゃん付けなんて、もってのほかですよ。それが社会の常識です。社会に出た時に困るから、今から習慣づけておきましょうね」
「……ハイ」
その場は、田代はそう返事するしかなかった。桜庭と垣内もうなずいた。青木は満足そうにうなずくと、職員室へ入っていった。
「どう思いますよ、稲葉サン[#「サン」に傍点]?」
俺は苦笑いしながら肩をすくめた。
「あ、それ。千晶ちゃんと同じ反応!」
「あたしはね、青木センセって、タァコのことをすごくよく考えてくれてるんだーって、すっごい感動したの」
と、桜庭は言った。しかし、当の田代は納得《なっとく》していないようだ。
「あンた、ほんっとにそう思うの、桜? あたしはね……あたしは、なんかスッゲーむかついた!」
「なんで?」
「……ん〜、なんでか……わかんないけど」
「あたしたちのことを思ってくれてることは確かよねぇ」
垣内は首をかしげながら言った。
「でしょ? タァコから千晶センセにベタベタしたのに、タァコのことは怒《おこ》らなかったじゃん。悪く言われるのはタァコだからってさ。今から『稲葉くん』じゃなくて『稲葉さん』って呼びなさいっていうのも、あたしたちが社会へ出た時に失敗しないようにってことでしょ?」
桜庭は、田代がそれのどこが悪いというのかがわからない。田代も、それのどこが悪いのかわからない。
「そうなのかなぁ、稲葉? そうなのかなぁ?」
俺にはわかる、田代が感じている違和感《いわかん》の正体が。俺も感じたことだからだ。
「青木の言っていることは、正しいよ」
「えー?」
「デショー」
田代はひどい顔をし、桜庭は喜び、垣内はウーンと唸《うな》った。
「けど、正しいことがいつでもどんな場合でも正しいとは限らないんだよなぁ」
「んん?」
「お前さあ、田代。千晶のことを千晶ちゃんって呼んで、俺のことを稲葉って呼び捨てにしてるけど、クラブの部長を江上《えがみ》って呼び捨てにしないし、バイト先の店長をちゃん付けで呼んだりしねぇだろ」
「しないよ。当たり前じゃん。……ん?」
「今それができてる奴《やつ》が、社会へ出て就職先の同僚《どうりょう》や上司を呼び捨てにしたり、ちゃん付けで呼んだりするもんか」
「だよねえ! あたしもそう思う」
と、垣内も言った。
「え? じゃあ、あたしって……要するに、そんなこともできないような奴って思われたわけ? あたしがむかついた原因って、それ?」
「青木センセは、タァコをバカにしたの?」
「いや、青木は青木で言ってることは正しいし、お前たちのためを思ってるんだけども、お前のケースにあてはまらない[#「お前のケースにあてはまらない」に傍点]だけだ」
「ん〜〜〜と……」
姦《かしま》し娘《むすめ》は、それぞれに腕《うで》を組んだ。難しいよなあ、「正しいこと」の視点を変えるってのは。
「青木はな、お前の一面を見てるだけなんだよ。一面だけしか見てないのに決めてかかってる[#「一面だけしか見てないのに決めてかかってる」に傍点]から、お前はむかつくんだよ」
両親のいない孤独《こどく》と苦労を嘆《なげ》いている身なら、青木の思いやりはありがたいだろう。だけど俺はそうじゃない。なのに青木は、両親のいない子どもは孤独と苦労を嘆いているという「カテゴリー」に、有無《うむ》を言わさず俺をあてはめる。俺と何も話さないまま、俺の何も見ないまま、最初から俺をそうだと決めつけているんだ。そうじゃない俺[#「そうじゃない俺」に傍点]は、それがむかつく。
「そうか……。青木先生って、本当の意味で[#「本当の意味で」に傍点]あたしのことを思っているわけじゃないんだ。……一般論《いっぱんろん》?」
「そうだ。さも田代のためって言い方[#「さも田代のためって言い方」に傍点]をするから、桜庭なんか、だまされるんだよ」
「そうなんだ〜?」
桜庭はキョトンとしている。
「腕《うで》を組んだことにしても、男の俺から言わせてもらえば、女生徒にベタベタされて悪く言われるのは男性教師のほうで、ヘタすりゃクビだぜ? それでも、田代みたいに堂々とやってりゃあ問題はないと思うけど? あの千晶が、田代なんかによろめくわけねーしな」
「その発言のほうがよっぽど問題だよ、稲葉」
「また青木に同じことを注意されたら、大きなお世話ですって言ってやればいいんだ」
「ブワッハハハ!」
姦《かしま》し娘《むすめ》は大笑いした。
「それいい! タァコにピッタリー!!」
「思いっきり笑顔《えがお》で!」
「笑顔で! 上品に!!」
「ギャハハハ!!」
「まあ、にぎやかね。楽しそう」
「ハッ……!!」
いきなり青木が現れたので、全員心臓が止まりそうになった。
「あっ、青木先生!?」
「稲葉君にこれをと思って」
「俺?」
それは、分厚い英英辞典だった。
「私が使っているものだけど、稲葉君の英会話の勉強にぜひ役立ててほしいの。英英辞典はとても勉強になるわよ」
「イヤ、先生……」
「いいのよ」
青木は、俺の言葉を笑顔《えがお》でさえぎった。
「普通《ふつう》の参考書と違《ちが》って、こういうものにまで回す余裕はない[#「余裕はない」に傍点]でしょうから、遠慮《えんりょ》なく受け取って」
青木は俺に辞書を受け取らせると、俺の手の上へ自分の手をそっと重ねた。
「なんでも稲葉君の力になるから、くじけないでがんばってね」
「…………」
それから青木は、田代たちに言った。
「みんな、これを依怙贔屓《えこひいき》だなんて思わないでね。稲葉君は特別[#「稲葉君は特別」に傍点]だってこと、みんなもわかってくれているわよね。ハンデ[#「ハンデ」に傍点]のないみんなは、稲葉君を応援《おうえん》しましょうね。みんながいるから、稲葉君だって[#「稲葉君だって」に傍点]がんばれるよね」
俺は、自分の目元が引きつるのを感じた。俺は、立ち去ろうとする青木に言った。
「先生、俺は特別でもねぇし、なんのハンデも感じてねーんだけど?」
すると青木は、嬉《うれ》しそうに小さくガッツポーズをした。
「その意気よ。がんばれー!」
ピキッ! と、キレそうになった。皮肉も通じやしねー!
「落ち着け、稲葉」
思わず席から立ち上がりそうになった俺を、田代が止めた。
「いや〜、青木センセって本当に優《やさ》しい人だねー!」
と、桜庭があっけらかんと言い放ったので、俺たちは呆《あき》れかえった。
「桜……あんたね」
「今のは、ちょっと寒かったよ」
「え、なんで?」
「チチがでけー女はバカだって俗説《ぞくせつ》、証明してんじゃねーぞ、桜庭!」
「ぐわあっ、それってセクハラよ! セクハラ発言!」
「あんたもそんな言い方するんじゃないよ、稲葉」
「あったまきた、あのバカ教師!! 高いとこからものを言いやがって、何サマのつもりだ!!」
俺は、渡《わた》された辞書を床《ゆか》へ叩《たた》きつけた。
「チチがでかいのとバカなのとは別だよ、稲葉のバカー!」
「ちょっと、みんな落ち着いてよ」
久々に頭のてっぺんまでカーッときた。人のことをハンデがあるなんて堂々とぬかしやがって、あれで人のことを思っているつもりか?
何がムカつくって、本人は人のことをバカにしたおしているって自覚がないことだ。これじゃ、こっちがムカっ腹を立てるだけ損だぜ。
そんなムカムカを抱《かか》えたまま、放課後、俺は千晶に日誌を出しに職員室へ行った。
千晶は机で煙草《たばこ》をふかしながら……漫画《まんが》を読んでいた(千晶は、生徒が隠《かく》し持《も》った漫画を見つける名人だった)。
「生徒から没収《ぼっしゅう》した漫画《まんが》、読んでんじゃねぇよ」
「おー、稲葉」
「ハイ、日誌っス」
机の上に日誌を置いた時、ファイルの間に見覚えのある白い紙袋《かみぶくろ》がはさまっているのが見えた。
(薬……!?)
「なんも書いてねぇのかよ」
日誌をチェックして、千晶はつまらなそうに言った。
「なんもなかったし、文化祭の準備も順調」
「あったら面倒《めんどう》くさいけどヨ」
「どっちなんだヨ」
そこへ、青木が通りかかった。俺は思わず目をそらした。
「千晶先生、生徒に示しがつきませんので、生徒の前で漫画を読むのはやめてくださいね」
「ハイハイ」
「それから、煙草《たばこ》はおやめになったほうがよろしいですわ」
と微笑《ほほえ》む青木に、千晶も微笑み返した。
「大きなお世話です」
「!!」
俺は、吹《ふ》き出《だ》しそうになるのをとっさにこらえた。
青木は、ちょっと困ったように眉《まゆ》をひそめた。それでも笑顔だった。
「千晶先生のお体のためを思って、申しあげているんですけど」
そう言い残して、青木はその場を去った。千晶は、大きく煙《けむり》を吐《は》いた。
「いいのかヨ、先生。大きなお世話〜なんて言っちまって」
すると千晶は、しれっと言った。
「いいんだよ。どうせこたえやしねーんだから」
「……ブハッッ!!」
俺はとうとう吹き出してしまった。でも職員室でバカ笑いするわけにいかないので、手で口を塞《ふさ》いで耐《た》えた。
「お前もそう思うだろ?」
ブルブル震《ふる》える俺を面白《おもしろ》そうに眺《なが》めながら、千晶はそう言った。
「出刃《でば》で刺《さ》されたって、だらだら血を流しながら『あなたのためを思っているんです』なんてほざける人種だ。厄介《やっかい》だよ、傷つかない奴[#「傷つかない奴」に傍点]ってのは。ヤンチャどもを相手にしてるほうが、よっぽど楽だね」
「でも、教師には多いだろ? ああいうタイプ」
千晶は、人が悪そうに笑った。
「世間知らずが多いからなあ」
「そう言うあんたは、知ってるわけだ?」
意地悪く訊《き》いてみた。千晶は、ニヤリとしてから言った。
「知らないこともあるってことを、知ってるだけさ」
「いい答えだ」
古本屋は感心した。
「教師は、それぐらい砕《くだ》けた奴《やつ》がいい。しかし……ホンットいるよな、青木先生みたいな奴。その……千晶ちゃんの『傷つかない奴《やつ》は厄介《やっかい》だ』ってのは名言だね」
詩人もうなずいた。
「我こそは絶対正義っていう銀の鎧《よろい》で完全武装しているからねー。さながら、オルレアンの聖処女の如《ごと》く!」
「いや、ホントに処女なら、ますます厄介だよ!?」
「ギャハハハハ!!」
古本屋と詩人は、二人で爆笑《ばくしょう》した。
「ハァ……そんなもんスか?」
「しかしまあ、夕士クンの学校は、生徒も先生もバラエティに富んでるねぇ」
まったくだ、次から次へと。
「何っ、このいい匂《にお》いは?」
食堂に飛びこんできたのは、佐藤さんだった。
「おー、おかえり、佐藤さん」
「連チャンの残業、お疲《つか》れさんっス!」
「秋鮭《あきざけ》のチャンチャン焼きと麦焼酎《むぎしょうちゅう》だヨー」
今夜は、大きな鉄板を出しての、脂《あぶら》ノリノリの鮭《さけ》にタマネギ、モヤシ、ジャガイモなどのチャンチャン焼きと、シメはそこへ豚肉《ぶたにく》とヤキソバをカチこんでのスペシャルヤキソバにイクラ丼《どん》のおまけ付きだ。
「ひぃぃぃ! まぶしすぎて目がつぶれそ〜〜〜!!」
佐藤さんは、細い目をさらに細めた。同僚《どうりょう》が急に退職して、仕事の引《ひ》き継《つ》ぎやら割《わ》り振《ふ》りやらで、佐藤さんはここ何日か、アパートでの夕食をほとんど食べていなかった。
「やっぱり、るり子ちゃんのご飯がサイコ――ッ!」
チャンチャン焼きをガツガツ食って、焼酎《しょうちゅう》をガバガバ飲んで、佐藤さんは絶叫《ぜっきょう》した。そう、どんなストレスも、このアパートでるり子さんの飯を食ったら吹《ふ》っ飛《と》んでいくよな。
佐藤さんは、うまそうに食いながら飲みながら、俺の話、青木や千晶、山本のこと、それから文化祭や体育祭のことなどを、細い目を輝《かがや》かせて聞いた。
「ああ〜、いいなあ。なんか学生してるなあ。青春してるなあ。話を聞くだけで若返るよ」
「佐藤さん、次は学生をやれば[#「次は学生をやれば」に傍点]どうよ?」
「いいねぇ! そういえば、高校生をやったことはないなぁ」
佐藤さんは、一つの会社を勤めあげると、また次の会社で新入社員から始めるという暮らしを、もう何回もしているらしい(ということは、百年ぐらい? もっと?)。
「あ、でも、数学とかはやりたくないかも〜。物理もイヤだなあ」
「商業高校はどうっスか。数学の授業は少ないスよ」
「ワハハハハ」
「しかし、その山本って女の子のイタさも、そういう年頃《としごろ》だとなんだか輝《かがや》いて見えるよね。おいらみたいな年寄りからすれば、ウンウン、そーかそーかって感じだあ」
佐藤さんは赤い顔をして「カーッ」と言った。
「そうスか? 俺はまだとてもそんな境地にはなれないス」
プイッと出ていって以来、山本はまだクラブに出てこない。もしかしたら、もうやめているかもしれない。
「青くて、堅《かた》くて、渋《しぶ》い果実だよネー」
「無事、熟せばいいがね」
「そうそう! まだ熟していない青い果実が……」
「青木先生!!」
大人たちは、声を揃《そろ》えてから爆笑《ばくしょう》した。
「ある種の色気が、あるっちゃあるがね。銀の鎧《よろい》の聖処女……フ・フ・フ」
「またまた〜あ。エロいんだから、古本屋さんは」
佐藤さんは、グーッと焼酎《しょうちゅう》をあおった。
「不器用なんだよ。真面目《まじめ》なだけに、いろんな価値観を身につけることができなかったのさ。うちの部署の、やめた同僚《どうりょう》ってのが正にソレでね」
「へえ!?」
「優《やさ》しい奴《やつ》でね。でも、優しいだけじゃ、ダメなんだよね……」
佐藤さんは、ため息をついた。
「そいつはさ、人に優しくしたい、優しくしなきゃって、そればっかりの奴なんだ。で、いつの間にか、優しくすることが目的[#「優しくすることが目的」に傍点]になっちゃったんだよね」
「どういうことスか?」
るり子さんが、イクラ丼《どん》を運んできた。真っ赤なルビーのようなイクラが山盛りだった。
佐藤さんは、一口|頬張《ほおば》って「んーっ」と唸《うな》った。
「例えば新人とかにね、必要以上にかまうわけ。新人がしなきゃならないことまでそいつがやって、新人に何もさせない言わせない。結果、新人の成長を妨《さまた》げる、とか。例えば相手のフォローをする時も、最初から相手には無理だと決めつけてフォローするんだよ。フォローすることが親切[#「フォローすることが親切」に傍点]だと思っているんだなぁ」
俺は、イクラ丼《どん》を食うことも忘れて聞き入っていた。
「優《やさ》しくかまうことがいいことじゃないよね。問題は、その優しさがどういう結果をもたらすか[#「どういう結果をもたらすか」に傍点]だ。厳しくすることも、何もしないことも、優しさだったりするだろ!?」
この瞬間《しゅんかん》、俺は閃《ひらめ》いた。
「そうか! 青木と龍さんの違《ちが》いって、これだ!!」
俺は、思わず立ち上がってしまった。
「どうしたの、夕士クン?」
「フールが、青木と龍さんの心の波動が似てるって言うんスよ。欲とかのいろんな感情にブレないところが似てるって。『信念の人』とも言ってた。でも、違うんス! 青木と龍さんは、絶対に違う! 断固、違うんス!!」
「熱烈《ねつれつ》だね〜」
古本屋がヒヒヒと笑った。
「佐藤さんの言うとおりっスよ。青木と龍さんは、同じ固い揺《ゆ》るぎない信念の持ち主でも、同じすごい優《やさ》しい人でも、そのやり方が違《ちが》うんだ!」
思いがけなく「プチ」という魔《ま》を背負った俺に、龍さんは「いくらでも手を貸す」と言ってくれた。でも、何もしなかった。俺が、新しい修行《しゅぎょう》に四苦八苦している時も、なんのアドバイスも手助けもしなかった。でも、そばにいてくれたんだ。俺のことを、修行をやりとげると信じて見守ってくれていた。それが、龍さんの優しさだったんだ。それを実感した時の感激は忘れない。
龍さんだけじゃない。秋音ちゃんや詩人、画家、古本屋、佐藤さん、アパートのみんなの優しさは、何もしない優しさなんだ。いつも、しゃべって笑って騒《さわ》ぐだけ。でも、それだけで俺は癒《いや》される。そこから学べる。
「青木の優しさって……これの真逆なんだ!」
俺は納得《なっとく》がいった。
「でも……『優しい人』には違いないんだよなぁ」
「いわゆる『善人』?」
「いわゆる善人」
古本屋と詩人がうなずき合った。
「善人だから、その善意に人は惑《まど》わされる。善人だから、それを否定できない。だって善意を否定することは、悪意になっちゃうからね。誰《だれ》も進んで悪人なんかになりたくないものサ。だから善人のまわりの人は、けっこう迷惑《めいわく》するんだよネー」
詩人の言葉に、佐藤さんは大きくうなずいた。
「ホン……ット、迷惑だった! 善人の親切のカラ回りほど厄介《やっかい》なものはないもの〜。まあ、そいつには自分がカラ回っているっていう自覚があったからね。だから身体を壊《こわ》しちゃったんだけど」
哀《かな》しいかな、青木には自覚はない[#「自覚はない」に傍点]。
「恐《おそ》るべきことだネ」
「龍さんと同じような信念でもって、真逆のやり方をする……怖《こ》ぇ〜〜〜」
詩人も古本屋も、なぜか愉快《ゆかい》そうだった。
「知ってるかい、夕士クン? 『地獄《じごく》への道は、善意で舗装《ほそう》されている』んだヨ〜」
そう言う詩人の、ラクガキのような顔がメチャクチャ怖《こわ》かった。
まさに、その翌日のことだった。
英会話クラブでは、文化祭の準備が着々と進んでいた。アニメビデオから選んだシーンのセリフをみんなで英訳した後、その練習にとりかかる。実演は、だいたい三年生が担当する。
「じゃあ、配役はこれでいいわね」
「ハウル……やりたくねー!」
キムタクが演じたハウル役になった三年の男子は、早くもプレッシャーに悩《なや》んでいる。
「英語や演技以前のことでクレームが来ても、文句言うなよぉ」
「アハハハ、だーいじょうぶだって、間宮《まみや》!」
「思い切ってハジケましょうよ、先輩《せんぱい》っ!」
田代は、ハウルの弟子《でし》の男の子役に二年生から抜擢《ばってき》された。俺や他の二年生の担当は、芝居《しばい》の裏方と客の案内係だ。いよいよ芝居の練習が始まるということで、クラブの雰囲気《ふんいき》も盛り上がってきた。
その時、唐突《とうとつ》に山本が現れた。
「!?」
クラブのみんなは「あら、久しぶりだわね」みたいな目で山本を見たが、俺と田代と、あの時いた一年|坊主《ぼうず》はびっくりして固まってしまった。よもや、またクラブへ来るとは思わなかったからだ。
ひょっとして退部届を出しにきたのかな? と俺は思ったが、山本は挨拶《あいさつ》すらせずみんなの前を通り過ぎると、部室の端《はし》っこに寄せていた椅子《いす》に腰《こし》をかけ、文庫本を取り出して読み始めた。これには、部長もとうとうブチッと切れた。
「ちょっと、山本さん。クラブに来たんなら、部員らしい態度をとりなさいよ」
山本は、黒縁《くろぶち》の眼鏡の向こうから部長を見た。相変わらず暗い目つきだ。
「部員らしい態度って、どういう態度なんですか?」
「は? ……あのねぇ、今はみんなで文化祭の準備をしてるの」
「それって、全員が必ずしなきゃならないことなんですか? 私、やりたくないんですけど」
「は? ……じゃ、あんた、何しにここへ来てるわけ? 本を読みたかったら、図書室へでも行けば?」
ガタッと、山本は立ち上がった。部長を睨《にら》み据《す》えているが、顔は真っ赤で泣きそうな目をしていた。生憎《あいにく》だがな、山本。うちの部長は、そんな顔をしたってひるむような性格じゃないんだ。相手が悪いぜ。
部長は、部屋を出ていこうとする山本を一喝《いっかつ》した。
「あんたが文化祭の準備を手伝いたくないっていうんなら、それでいいわよ。でも、それなら文化祭が終わるまでクラブに出てこないで。一人だけ横向いて本を読まれてちゃ、目障《めざわ》りよ!」
部長がそう言い放つのと、山本がドアから出ていくのとが同時だった。俺も、おそらくクラブのみんなも、部長の意見には同感だった――が、なんの神サマのいたずらか、開け放したドアの外に、青木が立っていたんだ。
「!!」
俺と田代は、ギャッと叫《さけ》びそうになった。青木は、顔をぬぐいながら走ってゆく山本と俺たちを険しい顔で見た。
なんで青木がここにいるんだ!? と思ったが、よく考えれば青木も英語の教師なわけで。いつ英会話クラブを見学に来ても、おかしくないんだよな。
「……どうしたの? 今の子、泣いていたわよ」
深い憂《うれ》いをたたえた青木の顔も綺麗《きれい》だった。ウソ臭《くさ》いほど。
「え、と……」
部長は、どう説明したものか戸惑《とまど》っていた。すると、青木は「はぁ〜っ」と、とても大きな重いため息をついた。そして、言った。
「いじめは、よくないわ」
「……はあ?」
「大勢で女の子一人を取り囲んで、泣かせて……。高校生にもなってこんなこと……。悲しいなあ」
全員、目が点になった。俺と田代は頭を抱《かか》えた。
「アイタタタ……」
いじめたって決めてかかるんなら、なんで最初に「どうしたの?」って訊《き》くかな?
「いえ、その……あのですね、先生」
「仲良くしましょう、みんな! つまらないことで争ったり傷つけたり、それがなんになるの? まして人をいじめたりしたら、傷つくのは相手だけではないわ。あなたたちも傷つくのよ!」
「…………」
りっぱなお言葉だ。だけど、空回ってるぜ、先生。みんなが黙《だま》っているのは呆《あき》れているからだ。
「わかってくれたかな? あの子と仲直りしてね、みんな。いいわね? 私も喜んで協力します。あの子ともみんなとも、いつでもお話しするわ。お話を聞かせてね」
青木はそう言って、いつものように聖母のように慈悲深《じひぶか》い笑顔《えがお》をした。
「あの子の名前は? 何年何組なの?」
「大丈夫《だいじょうぶ》です、先生! 私たちで解決しますので、ご心配いりません。きっと仲直りします」
部長は、笑顔《えがお》を引きつらせながらもそう言った。ナイス、部長! それ以上、首を突《つ》っこませるな。
「そう? きっとね。もういじめないって約束してね」
青木は部長の手を取った。
「はい、大丈夫デス」
「よかった。嬉《うれ》しいわ」
青木は、満面の笑みでみんなを見渡《みわた》してから、やっと部室を出ていった。
部長が、俺たち二年生をジロリと見た。
「アレ、二年の英担よね。何アレ?」
「すいません……」
なんで謝《あやま》らなきゃならんのかと思いつつも、俺たちは頭を下げた。なんだかいたたまれない気分だった。
「スゲーな。なんか知らんがスゲーものを見たって感じだ」
「優《やさ》しそうな先生なのに……ねえ」
「イヤだ。あたしなんかサブイボ立っちゃった。あの先生、あんな優しそうな顔して、あたしたちのこと、いじめっ子だって決めつけたのよ!? 何が、いつでもお話をするわ、よ。何サマのつもりよ!」
部長は、ゲーっというふうに舌を出した。やっぱり、そう思うよなぁ。
「あー、ヤダヤダ。あんな先生と関《かか》わりたくないわ。間違《まちが》っても余計な口出しをさせないように、坂口先生に言っとかなくっちゃ!」
江上部長……男らしいぜ。女だけど。
そう。英語教師ってことで、青木が英会話クラブに関わってくることは充分《じゅうぶん》考えられる。もしも青木が坂口に代わってクラブの顧問《こもん》になるとか、そうでなくてもサブとかで顔を出すようになったら、とことん善意でこの男らしい部長をブチ切れさせ、退部に追いこむかもしれない。そうなったら、英会話クラブは一気にバラバラだ(俺も即《そく》退部したい)。
「地獄《じごく》への道は、善意で舗装《ほそう》されている……か」
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_140.png)入る]
メッキの中身
その日のクラブが終わってから、田代が俺に言った。
「小夏っちゃんの情報が集まってきたんだワ」
「へぇ!?」
ホント、どこからどうやって集めてくるんだよ、その情報ってやつは。
「あの子が前に、つまり一学期ね、通ってた学校ってのは、仁明《じんめい》なのヨ」
「けっこう有名な進学校だよな」
「うん。情報によると、小夏っちゃんは入学した頃《ころ》から、やっぱりヘンだったみたい」
「どういうふうに?」
「協調性がなく、目立ちたがり。あたしが、あたしが、ってタイプ」
田代は携帯《けいたい》を見ながら話した。この携帯には、各方面から収集された情報が詰《つ》まってんだろうなあ。
「何をやるにも自分が一番でなきゃ気がすまない感じで、クラスでもグループでも仕切りたがる……というか、とにかく目立ちたがったみたい」
「あー、それは今でもやってるなあ」
山本は、ことあるごとに知識をひけらかし、時には大声を出したり、授業中なのに横を向いて座《すわ》ったりと、とにかく教師やみんなの注意をひく行動をとった。そんな奴《やつ》が受け入れられるはずもなく、教師はともかく、クラスメイトは引きまくっていたという。その教師たちも、山本が授業中、教師の質問に勝手に答えだす(他の生徒をさしているのに、そいつを差しおいて)に及《およ》んで、ついに親を呼び出すことにいたった。
ここにきてクラスメイトたちの我慢《がまん》も限界を越《こ》え、一斉《いっせい》無視が始まった。とある授業で、生徒たちが山本とのグループ学習を拒否《きょひ》したのをきっかけに、山本は学校に登校しなくなった。一学期の期末試験の前だった。
「夏休みの間にいろいろ話し合いがあって、結局、転校することになったんだな」
「ちょっとランクを落とした学校へね」
田代は肩《かた》をすくめた。
「まあ、商業高校の普通科《ふつうか》じゃあ、仁明よりは気楽に通えるだろうなあ」
「親がそう気を遣《つか》ったんでしょ」
「その家庭に問題があるんじゃねぇの?」
「ううん。山本家は、家庭としてはすごくフツーらしいの。近所の評判を聞いても、両親ともフツー。暮らしぶりも子どもに対してもフツーだって」
近所の評判って……なんでそんな情報まであるんだ、田代? スパイか? スパイを放っているのか!?
「ただね、稲葉。小夏っちゃんには五つ上のお姉さんがいるんだけど、この人が、すンげー出来がいいのよ」
「へえ」
「小さい頃《ころ》から頭がよくてよくて。ずーっと成績はトップで、仁明にもトップで入ってトップで卒業して、今K大。おまけにけっこう美人で、性格もいい……というかフツー。ガリガリの勉強ばっかりの人じゃなくて、明るい女の子なんだって」
「ははぁ……」
詩人が言っていた、山本を覆《おお》うメッキの内側がわかってきた。
「出来のいい姉へのコンプレックスか」
田代も大きくうなずいた。
「しかも筋金入りだよ。物心ついた頃《ころ》から始まってるみたい。小夏っちゃん、小さい頃は体が弱くて、家族にはずいぶん心配かけたんだって」
恐《おそ》るべき田代の情報によって、山本の問題行動の謎《なぞ》がわかってきた。
山本が物心ついた時には、もうすでに出来のいい姉がいた。ただでさえ体が弱いというハンデを背負っている山本は、それだけでもう充分《じゅうぶん》コンプレックスなわけだが、両親が自分の心配をし世話をするということ、この当たり前のことが、山本のコンプレックスに拍車《はくしゃ》をかけたんだ。出来のいい姉がいるために、余計に。
俺が博伯父《ひろしおじ》さん家《ち》にいた頃、そこには伯父さんの実の娘《むすめ》の恵理子《えりこ》がいた。俺より二つ上だ。
博伯父さんも恵子伯母《けいこおば》さんも、実の子でない俺を差別するような真似《まね》は決してしなかった。たとえ、俺の世話を相当負担に思っていたとしてもだ。それでも、言葉の端々《はしばし》、行動の端々に、恵理子と俺への接し方に微妙《びみょう》な差別が出ることは否《いな》めなかった。
しかし、それはきっと俺の思い過ごしだったんだ。俺自身が「差別しているに違《ちが》いない」と思っていたからだ。だから、なんでもないことをおおげさに捉《とら》えてしまう。おかずの盛り方が違うとか、弁当の中身が違うとか(恵理子は食えないものが多いから違って当たり前だった)。
問題は、俺のほうにあった。伯父《おじ》さんたちの側にも、本当はいろいろ思うところがあったにせよ、俺の側の意識のほうが、より大きかったんだ。
山本もきっとそうだ。なまじ姉の出来がいいだけに、勝手にコンプレックスを膨《ふく》らませているに違いない。だから「私って頭がいいでしょ、私ってできるでしょ」と、過剰《かじょう》にアピールしなきゃ気がすまないんだ。
『メッキで自分を覆《おお》っている子はね、そうせざるをえない子が多いんだよネ』
姉に負けたくない。姉のように、いやそれ以上に、親にもまわりにも認められたい――。
それが、山本のメッキに覆われた心の内側なんだ。
「それで? どうなさるおつもりですか、ご主人様は?」
胸ポケットから、フールが声をかけてきた。
「どうって……」
どうしよう? 山本は、今度こそクラブをやめるかもしれない。そうなったら、もう接点はない。山本の心の内がわかったところで、それをあいつのクラスメイトに告げて「だからよろしく付き合ってやってくれ」なんて言えるわけもない。確証もないしな。
中庭から一年生の校舎が見えた。放課後も遅《おそ》くなった今の時間、校舎はひっそりとしている。
山本がいつも一番に部室に来るのは、クラスに友だちがいないからだと田代は言った。いないというか、山本が作ろうとしないからだ。山本は、クラスメイトを明らかに見下しているという。だが、クラブへ出てくるということは、誰《だれ》かと接点を持ちたいと望んでいるからじゃないだろうか。とてもそうは見えないが、山本も意識していない心の奥《おく》とかでそう思っているとか。
中学時代の俺は、長谷に言わせれば「寄らば斬《き》る」というオーラを発していた。誰とも仲良くなんてしたくなかったし、長谷さえいればそれでよかったんだ。
今だからそれじゃダメなんだってわかるけど、山本にそれを言ってわかってもらえるとは思えない。第一、俺がそんなにうまく山本に話せるわけがない。
「いいんだよ、山本のことは。結局は……なるようにしかならねーんだから」
俺が人の心をどうにかしようなんて、おこがましいことだ。「プチ」を使って解決できるような……そんなことじゃないんだから。
「それよりもだな、問題は青木だよ。これからもずっとあの調子なのかと思うと、頭イテーぜ!」
と言った時だった。
「でかい独り言だな」
千晶が、植《う》え込《こ》みの間の芝生《しばふ》に寝《ね》そべっていた。
「うわああっ!」
まわりに誰《だれ》もいないと思っていた俺は、飛び上がってしまった。
「ちっ、千晶! 何してんだ、そんなとこでっ!!」
千晶は、寝そべったまま俺を手招きすると、近づいた俺の頭をゴンと殴《なぐ》った。
「てっ!」
「千晶先生[#「千晶先生」に傍点]は、ちょっと休憩中《きゅうけいちゅう》だ」
休憩? こんな暗く翳《かげ》った中庭の植え込みの間で?
「掃除《そうじ》をサボってモクふかしている生徒みたいだぜ、先生[#「先生」に傍点]!?」
「お前、何か悩《なや》みでもあんのか、稲葉? 独り言を言うのは、サビシイ奴《やつ》かノイローゼの奴かだぜ」
「どっちでもねぇよ! ……その……クセだよ、クセ。イラつくことは声に出したほうが、スッキリするんだ」
「なるほど」
千晶は、フフンと鼻を鳴らした。
「で? 青木先生がどうしたって?」
「ん〜……」
俺は千晶の横に腰《こし》を下ろして、さっきクラブであったことを話した。千晶は、喉《のど》の奥《おく》で声をおし殺すように笑った。
「お前ンとこの部長も、たいがいキツイ女だなあ、オイ」
「『兄貴』なんだよ、部長は。それに、いつもは優《やさ》しい女だぜ。山本にだって、初めはちゃんと対応してやってた。そんなことを青木が知るはずもねぇけど、知らねぇくせに偉《えら》そうな口を叩《たた》くからムカつくんだよ、あの女は!」
ゴン! と殴《なぐ》られた。
「てっ!」
「青木先生[#「青木先生」に傍点]」
千晶は、フーッと煙草《たばこ》をふかした。
「あのテの人種にはな、こっちが対応を工夫《くふう》するしかないんだ。お前ンとこの部長がとっさにやったようにな」
「納得《なっとく》いかねぇなぁ。やっぱ、話し合ってもダメかな」
「ダメじゃねぇさ」
「そうなのか?」
「時間はかかるぜ? とてつもない時間がな。言語が違う[#「言語が違う」に傍点]からなあ」
言語が違《ちが》う、か。なんかわかるな、それ。
「千晶先生!」
俺たちのすぐそばの窓から、青木が顔を出した。
「こんなところにいらしたんですか、捜《さが》しましたよ」
「ああ、ドーモ」
千晶は手を上げた。
「職員会議の途中《とちゅう》で席を立たれたまま戻《もど》っていらっしゃらないから、心配しましたよ」
青木は、わざわざ廊下《ろうか》を回りこんで中庭へ出てきた。
「来なくていいっての」
千晶は、ぼそっと言った。
「職員会議|抜《ぬ》け出《だ》して、ここでサボリかよ、先生」
「どうかされたんですか? あ、稲葉君」
近くまで来て俺がいることに気づいた青木に、千晶は笑顔《えがお》で言った。
「いやあ、すいません。ちょっとそこで稲葉に会ったもので、話しこんでしまって。アハ」
ゲッ! 人をダシにすんなよ、不良教師!
「稲葉君、何か相談とかあったの? 私でよかったら話してね」
青木は顔色を変えてそう言った。ソラきた!
「いや、別にっ! 何も!」
「青木先生、そんなに心配しなくても、こいつは大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
しかし、青木は表情を引きしめた。
「いいえ。いくら心配しても、したりません。稲葉君はご両親もいず、アパートにたった一人きりなんですよ!?」
たった一人きり[#「たった一人きり」に傍点]じゃねぇよ。他にもいすぎるくらいいるっての。
「今の生活も将来のことも、どんなに心細く、不安な思いをしているのかわからないのですか? それを思いやってあげる[#「あげる」に傍点]のが、教師でしょう?」
大きなお世話だよ。だから、高いところからものを言うなっての。
「こういう年頃《としごろ》の男の子だし、不安やイライラを抱《かか》えこんで、物事を悪いほうへ考えたり、行動したりするかも……」
「青木先生」
千晶は、少し強い調子で青木のタワ言をさえぎってくれた。
「バカをやる連中ってのはね、まず日常生活が荒《あ》れるんです。稲葉をよく見てやってくださいよ。シャツの襟首《えりくび》、袖口《そでぐち》が汚《よご》れていない。シャツをちゃんと洗濯《せんたく》し、交換《こうかん》し、身体も清潔にしてるってことだ。耳も綺麗《きれい》、髪《かみ》も染めていない、ピアスの穴もない。筋肉がしっかりついて肌《はだ》のツヤがいいのは、飯を食って寝《ね》てる証拠《しょうこ》。こういう基本ができている奴《やつ》はね、ほっといても大丈夫《だいじょうぶ》なんですよ」
俺は、ちょっとびっくりした。千晶が、俺の耳をひっぱったり身体にベタベタさわってきたのは……こういう理由だったのか。
「あと、太股《ふともも》やケツに入《い》れ墨《ずみ》がないかとかは、修学旅行に行った時にでも確かめますんで」
「オイッ」
「独りの寂《さび》しさをどうするんです? ねえ、稲葉君? 身体の具合が悪い時や、学校が休みの時は寂しいでしょう[#「寂しいでしょう」に傍点]? だからといって、繁華街《はんかがい》とかをフラフラしてはダメよ。その前に、私に声をかけてね」
こめかみがピキピキ音をたてるのがわかった。千晶が「堪《こら》えろ〜」という電波を出しているのも。俺は拳《こぶし》を握《にぎ》りしめ、大きな何かをゴックンとのみこんでから言った。
「……ありがとうございマス。そうしマス」
「嬉《うれ》しいわ、稲葉君。約束よ」
青木は、本当に嬉しそうな顔をした。
「あ、千晶先生。会議はもう終わりました。先生がいらっしゃらない間の内容は、簡単ですけど私がメモしておきましたので。机の上に置いてあります。参考にしてくださいね」
「お手数をおかけしました」
「煙草《たばこ》の始末、ちゃんとしてくださいね」
「ハイハイ」
「おやめになったほうがよろしいですわ」
「大きなお世話です」
青木は、苦笑いしながら去った。
「…………」
青木の姿が校舎の中へ消えると、腰《こし》が抜《ぬ》けそうになった。
「言語が違《ちが》う……って、その前に! 人の話を聞いてねーんじゃねえか、あの女!! じゃなくて、先生。大丈夫《だいじょうぶ》だって言ってるだろうがよ! そんなに人を、寂《さび》しいかわいそうな子どもにしたいのかよ!!」
「逆らっても無駄《むだ》だぞ。お前がそう言えば、彼女《かのじょ》の思うツボだ。ああ、やっぱり寂しくてひねくれているのねって解釈《かいしゃく》されるだけだぜ。ほっときゃいいんだよ」
煙草《たばこ》を携帯《けいたい》灰皿に片付けると、千晶はダルそうに立ち上がった。が、大きくよろめいた。
俺は思わず抱《だ》きとめる。
「オッ……と!」
「あー、悪《わり》ぃ悪ぃ。立ちくらみだ」
「お疲《つか》れか」
俺たちは、並んで中庭を歩いた。陽《ひ》はすっかり校舎の向こうへ沈《しず》み、中庭は黄昏闇《たそがれやみ》に青く染まっていた。
「二学期はやることが多いからなぁ」
頭をかきながら苦笑いする千晶の横顔が、黄昏の中で青白く見えた。
「それでも二年C組は、委員長をはじめ手のかからねぇ生徒ばっかりで、俺は助かってるぜ。安心して放《ほう》っておける」
千晶は、俺の頭をワシワシとかき回した。俺はその手をどけて言った。
「ホント。文化祭の準備も、いっぺんも見に来ねーで」
「ちゃんとやれてんだろ!?」
俺は親指を立てた。千晶は職員室へ行きながら、親指を立て返した。
信頼《しんらい》されてほっとかれてんだから、生徒としてはその信頼に応《こた》えないとな。
修学旅行から帰ってきた長谷が、また土産《みやげ》を山ほど抱《かか》えてアパートへ遊びに来た。
長谷は滝《たき》を見て歓声《かんせい》を上げ、服が濡《ぬ》れるのもかまわず滝の下へ行ったり、淵《ふち》でクリと一緒《いっしょ》になってひとしきりはしゃいだ。
滝のまわりの紅葉《もみじ》も、アパートの庭の木々も色付いて、秋がしんしんと深まってゆく。
松茸《まつたけ》と牛肉たっぷりのスキヤキをみんなでつついた後、居間でくつろぐ。居間はいつの間にか、カーペットと壁紙《かべがみ》が薄緑《うすみどり》のストライプ柄《がら》からライトオレンジに替《か》わっていて、縁側《えんがわ》には雪見障子《ゆきみしょうじ》がはめられていた。障子の下半分のガラスの向こうに、秋の澄《す》んだ闇《やみ》の中を、まるで落ち葉のようにはらりほろりと舞《ま》う発光体が見えた。その色も、夏の淡《あわ》い色と違《ちが》って、鮮《あざ》やかな赤や黄色をしていた。
暖かな部屋の中に、コーヒーの香《かお》りがたちこめる。俺と長谷は、コーヒーを飲みながら居間で、滝を見ながら温泉につかって、部屋の布団《ふとん》に寝転《ねころ》がって、ずーっとしゃべっていた。
「ヨーロッパは何回も行ったけど、ノイシュバンシュタイン城は初めて行ったぜ。まったく、団体旅行でしか行かねーとこだよな」
長谷の金持ちの余裕《よゆう》ありまくり発言を、俺はコーヒーをズズーッとすすりながら聞く。
「どーせ俺は、飛行機にすら乗ったことねーよ」
「社会人になる前に海外旅行ぐらい行っとこうぜ、稲葉」
「簡単に言うなよ〜」
「三万ぐらいで行けるように手配してやる。シンガポール二|泊《はく》三日なんて、けっこういいぞ」
「三万でシンガポール二泊三日? 安いな、それ」
ヨーロッパやアメリカは無理でも、アジアやグアムあたりなら俺でも手が出る。長谷が手配(という名の、馴染《なじ》みの旅行会社へのゴリ押《お》し)してくれれば、安くていい内容の旅になるのは間違《まちが》いない。長谷と二人で海外旅行……楽しいだろうなあ。
「海外旅行へ行くのか? 俺が面白《おもしろ》いとこへ連れてってやろうかあ〜?」
と、古本屋が言ったので、長谷と声を揃《そろ》えて、
「けっこうデス!」
と返した。古本屋の言う面白いとこなんて、絶対信用できん。お気軽にアフリカやアマゾンの奥地《おくち》へサバイバル紀行をやらされそうだ。
「インディ・ジョーンズは大好きだけど、実際にやるのはごめんだぜ」
ソーマの巫女《みこ》と霊薬《れいやく》アムリタの話を聞いて、長谷も大笑いした。
青木の話を、長谷はしみじみと聞いた。
「小二の時の担任を思い出すなあ」
「あー、お前が追い出した女の先生な」
「似たタイプだ。もっとも、俺の担任だった奴《やつ》は、単なる勘違《かんちが》い教師にすぎなかったがな。子どもは皆《みな》等しく天使なのだ、なんて脳みそわかしてるから、その天使のような子どもに逆襲《ぎゃくしゅう》されるんだよ」
天使の仮面をかぶった悪魔《あくま》の子が、しれっと言う。
長谷は「みんな仲良くしましょうね」と言うその女教師に、「なぜ仲良くしなければならないのか」とか「そういう大人の勝手な思いこみを押《お》しつけてくるな」とか言って(小二のガキがだぜ?)、それに反論できなかった女教師を退職に追いこんだ。
「しかしまあ、俺もあの頃《ころ》は青かった」
「小二じゃ、青いも何も……」
「今なら、その青木って教師ともうまくやれるだろうな」
長谷の「うまくやる」がどんな意味なのか、恐《おそ》ろしくて想像できない。
「俺は自信ねぇな。なんかの拍子《ひょうし》にキレちまいそうだ」
長谷は、俺のデコを小突《こづ》いた。
「なんのために滝修行《たきしゅぎょう》をしてるんだ、稲葉。そういう時の自制心こそ重要なんだろうが」
「そりゃそうなんだけどヨ」
「ブラックハーマイオニーにも、優《やさ》しくしてやれよ。認めてるぞって言ってやればいいんだ。ロシア文学もトリュフォーも、えらいなぁ、すごいなぁって言ってやればいいんだよ」
「それでいいのか? それこそ、一面しか見ないでモノを言う青木みたいじゃねぇか」
格好をつけているだけのことを認めるなんて、俺にはできそうにない。山本が抱《かか》えている事情とか心の傷とかには同情するし、山本が本当は心を開いて俺たちと接したいと思っているかもしれないと予想はついても、今のところ山本は「とりつく島もない」状態だ。
「なんかこう……もっとよく話すことができたらなあと思うんだけど、なんかそんなチャンスもなさそうだし、俺には話すテクもねぇし」
長谷が、まるで青木のような慈愛《じあい》に満ちた顔で俺を見ている。
「何笑ってんだヨ」
「いいね。青春してるなァ」
こやつは〜〜〜……。青木とは別の意味で「高いとこからモノを言う」よな、まったく。
「どっかの妖怪《ようかい》みたいなこと言ってんじゃねえよ!」
そのスカした面《つら》に、枕《まくら》をぶつけてやった。
「そういやあ、修学旅行名物の枕投げをしてねえや。ホテルじゃ二人部屋だったからな!」長谷は、枕を投げ返してきた。
「さり気に自慢《じまん》してんじゃねー!」
狭《せま》い部屋で枕で殴《なぐ》り合《あ》う俺たちを、フールが肩《かた》をすくめながら見ていた。
山本が、英会話クラブに来たということ。
青木が、英語の教師だということ。
何か意味があるんだろうか。おれと「縁《えにし》」があるんだろうか。
その時[#「その時」に傍点]がきたら、俺はうまくやれるだろうか――。
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_159.png)入る]
別の顔、好き? 嫌《きら》い?
そんなこともフッ飛ぶ大事件が、文化祭と体育祭を前にして行われた中間試験中に起こった。
十月半ば。三日間の試験期間の二日目だった。
ベルが鳴り、テストが終わった時だった。なんだか空気がざわめいたような感じがした。
「?」
テストが終わった解放感じゃない(まだ一日ある)。
「オヤ、何か騒《さわ》ぎが起きたようですな」
胸ポケットから、フールが顔を出していた。騒ぎ?
すると、廊下《ろうか》を千晶が通っていった。男子生徒を連れている。千晶はその生徒の腕《うで》を鷲《わし》づかみにし、ズンズンひっぱっているという歩き方だった。生徒はうなだれていた。
「なんだ?」
クラスのみんなも不思議そうに見ている。そこへ、別のクラスの女子が飛びこんできた。確か田代の連れの一人で、E組の生徒だ。
「タァコ!」
「ヨンちゃん、何かあったの?」
「今、西山《にしやま》が千晶先生に連れていかれたよね。あいつ、携帯《けいたい》使ってカンニングしてたのよ!」
みんながどよめいた。英語のテスト中のことだった。
「バーカ」
俺は、窓際《まどぎわ》でつぶやいた。携帯の校内持ちこみ禁止がすっかり建て前になっているのをいいことに、調子に乗るからこんなことになるんだ。
「西山って、教室の後ろのほうに座《すわ》ってるんだけど、テストが半分ぐらい過ぎた頃《ころ》かなあ、千晶先生が、オイッ! って大声上げてさあ、びっくりして振《ふ》り向《む》いたんだけど、千晶先生はその時は、なんでもない、スマンって言ったの。おかしいなあって思ってたんだ」
ヨンちゃん(確か、四方《よも》とかいったな)を囲んで、田代ら姦《かしま》し娘《むすめ》の他にも、ヤジ馬たちが聞き耳を立てていた。
「西山が携帯《けいたい》でカンニングしてるって、前から言われてたの。だから、あ、見つかったんだってわかった。したら、テスト終わったとたん、あいつどうしたと思う? あいつ、逃《に》げようとしたのよ! どこへ逃げるんだよっての!」
「サイテー」
「バカ……!」
「でもサー、千晶先生が、西山あっ! って怒鳴《どな》ったらビビっちゃって! その場に硬直《こうちょく》よ。人が固まるのって、初めて見た!」
「千晶ちゃん、カッチョイイ〜」
四方は、ちょっと首を横に振《ふ》った。
「千晶先生、すっごく怖《こわ》かったよ? この先生もこんな顔するんだ!? って、ちょっとショック」
「ん。さっき廊下《ろうか》通ってた時も、見たことないキツイ顔してた」
「いつもは、ダル〜ン、ヘラ〜ンって感じなのにねェ」
「当たり前だろ。甘《あま》い顔だけで教師が務まるもんか」
「稲葉」
俺は、思わず口をはさんでしまった。優《やさ》しいだけじゃダメなんだって話を、ついこの間、佐藤さんたちとしたばかりだ。
「お前たちに携帯《けいたい》を持つななんて無理な話だって千晶もわかってるから、マナー違反《いはん》さえしないならって、せっかく見逃《みのが》してやってんのに、それを裏切るような真似《まね》しやがって。千晶が鬼《おに》みたいに怒《おこ》っても仕方ないぜ」
携帯を持っている奴《やつ》ら、おそらくはクラスのほぼ全員が、バツの悪そうな顔をした。
「普段《ふだん》優しくて甘《あま》いからって、そいつがそんな顔しか持ってないと思うなよ。本当はメチャクチャ厳しいから、だから優しい顔ができるのかもしれないだろ」
龍さんは、女のように美形で上品で優しい。龍さんが怒鳴《どな》るとか怒るとか、大声を出した姿さえ見たことがない。それでも、あのたおやかで柔和《にゅうわ》な顔の向こうを垣間見《かいまみ》た時は、震《ふる》えがきた。
苦境を自力で乗《の》り越《こ》えようとしない者には手は貸さないと言いきった、あの時の龍さんの目は、本当に厳しく、そして闇《やみ》のように底知れなかった。いつでも誰《だれ》にでも、どんな場合でも限りなく優しく手を差しのべるんじゃないんだ。
いざという時は、バッサリと斬《き》り捨《す》てる――。
それが、できる人。それは「人を鍛《きた》える優《やさ》しさ」だ。
「なぁんだ。普段《ふだん》の顔は、あたしたちをだます仮面ってわけ? 千晶先生って、そんな人だったの?」
女子の一人が、つまらなそうに言った。
「違《ちが》っ」
「それは違うでショー」
俺より先に、桜庭がそいつをたしなめた。
「怒《おこ》るときには、ちゃんと怒る[#「ちゃんと怒る」に傍点]人なんだよ、千晶センセは」
「桜庭……」
俺は、目を丸くして桜庭を見た。
「いつもはどんなに甘《あま》くてもさぁ、子どもがホントにやっちゃいけないことをしたら、ちゃんと怒らなきゃー。それが大人の仕事でしょ?」
「桜、いいこと言うー」
田代は桜庭を抱《だ》いて頭を撫《な》でた。
「あたしも、千晶先生をちょっと見直したな」
と、垣内が言った。
「ずーっとヤル気のない先生かと思ってた。面白《おもしろ》くて優《やさ》しいのはいいけどさ。やる時はやるのね。廊下《ろうか》を通ってた時のあのキツイ顔に、ちょっとクラッときちゃった♪」
みんながどよめいた。
「ウッチーったら、大胆《だいたん》発言〜〜〜!」
「それは卒業してからよー」
「キャハハハハ!」
「実によい子たちでございますな、ご主人様のご学友は。あの場を満たすよい波動に、私《わたくし》め、ウットリいたしました」
フールがおおげさにほめたたえる。
「うん。ふふ」
桜庭と垣内の話が、あの場にいたみんなの心に染《し》みこんでゆくのがわかった。まるで大地に雨が降るように。
「自分の思っていたこととは違《ちが》う面を見せられた時、その意味をプラスのほうへ考えるかマイナスのほうへ考えるかで、自分自身に跳《は》ね返《かえ》ってくるものが大きく違ってまいります。田代さまたちは、そういう意味で大変得な方々でございますな」
本当にそうだ。人生は、いつもそうありたいもんだな。
「けど、なかなかそうはいかねーんだよな、コレが」
俺は苦笑いした。青木のことも前向きに受け止められれば楽なんだが。
翌日。中間試験最終日。携帯《けいたい》カンニングの件は、大事《おおごと》になっていた。
昨日は、この件で西山の親が呼び出され、緊急《きんきゅう》の職員会議が開かれ、それはずいぶん遅《おそ》くまでかかったらしい。もちろんこの件は、昨日のうちにアッという間に全校に知れわたっていた。
朝。|HR《ホームルーム》に来た千晶は、別人みたいな厳しい顔で言った。
「今日、試験が終わった四時間目に生徒総会を開くからな。全員、放送に従って講堂へ集まれ」
「生徒総会……!」
みんながざわめいた。生徒総会なんて、年に一回あるかないか……去年はあったっけ? こんな形で開かれるのは初めてなんじゃないか?
「携帯《けいたい》を持ってる奴《やつ》らは全員関係あるんだ。サボらず出席しろよ」
思った以上の大事《おおごと》になっていることに、クラスのみんなは少々|動揺《どうよう》しているようだが、
「千晶のこのキツイ口調と表情にトキめいている女子が何人かいることを、千晶は知らないんだろうなあ」
なんて。携帯を持っていない俺は、他人事《ひとごと》のように考えていた。
その日は、テストの間じゅうもずっと、学校じゅうがさざめいている感じだった。少しの困惑《こんわく》と、大きなことを前にした高揚《こうよう》が満ちていた。田代などは、見るからに落ち着かない様子だ。テストをちゃんとやれたのかね。
「しかし……。生徒総会を開く意味はなんだ?」
携帯がカンニングに使われたので、もう校内持ちこみは一切《いっさい》禁止ですと、それだけですむんじゃないのか?
最後の問題を解き終わって、窓の外を眺《なが》めながら物思う。誰《だれ》もいないグラウンドには、秋の爽《さわ》やかな陽射《ひざ》しが降りそそいでいた。
中間試験がすめば、すぐに体育祭だ。文化祭の準備の他に、2−Cの女子は体育祭の応援《おうえん》ダンスの練習もしなけりゃならない。応援の良《よ》し悪《あ》しは得点になるからだ。体育祭に文化祭、それぞれにクラスとクラブをかけ持ちしている者は、目の回る忙《いそが》しさだ。ましてや教師たちは、二学期はただでさえスケジュールがたてこんでいるのに、余計な厄介事《やっかいごと》などまっぴらごめん状態だろう。千晶も……相変わらず顔色がよくなかった。
中間試験が終わった。直ちに生徒会から放送があり、三年から一年まで順に、生徒たちは講堂へ入った。
壇上《だんじょう》には、すでに生徒会役員が揃《そろ》っていた。講堂の真ん中にはマイクが一本立っていて、俺たち一般《いっぱん》生徒もこれで発言することができるようになっている。集まった生徒たちは、みんな興奮気味だった。
条東商が誇《ほこ》る才女、神谷《かみや》生徒会長が、
「ただいまより、生徒総会を開きます!」
と言うと、ざわめいていた生徒たちが静まった。さすがだ。
千晶が出てきた。俺はちょっとドキドキした。
「今日、なぜ生徒総会が開かれたのか、みんな、もうわかってるな。中間試験で、カンニングに携帯《けいたい》が使われた」
千晶の口調と表情はさらに厳しくて、非常に怒《おこ》っていることが伝わってきた。
「あらためて言うが、条東商は携帯の校内への持ちこみを禁止している。これは、県教委からのお達しでもある。だが、いちいち生徒の持ち物チェックはできないし、携帯を校内で使う際のマナーさえ守っていればと、携帯の持ちこみを黙認《もくにん》してきた。それが、こんな形で裏目に出るとは思わなかったぜ。なめられたもんだ!!」
会場が、シンとした。迫力《はくりょく》あるなあ、千晶。
条東商には個性的な教師が多いし、歴代の生徒指導の教師も厳しかったらしいが(就職活動のため、服装など規律を守らせることに厳しい)、俺の知っている限り、千晶みたいなタイプの「怖《こわ》い先生」はいなかった。カンニングがバレた西山が、千晶の一喝《いっかつ》にビビって固まった。
「そうだよ。怒られることに慣れていない[#「怒られることに慣れていない」に傍点]んだよ」
親も大人も、子どもを叱《しか》らない、叱れない、怒《おこ》らない。
俺? 俺は、さんざん怒られたぜ、おもに長谷に。あいつも「怖《こわ》い」人間だからな、体罰《たいばつ》も平気だ(ケガ人だって殴《なぐ》る)。バイト先の社長やおっさんたちにも、よく怒鳴《どな》られ、怒られた。でも、いつもどんなに怒っても叱っても殴っても、それは桜庭の言葉を借りれば「ちゃんと怒っていた」んだ。ちゃんとした大人[#「ちゃんとした大人」に傍点]が、怒る時はちゃんと怒る[#「ちゃんと怒る」に傍点]。そういう「怒《いか》り」だった。
生徒たちは今、千晶に思わず[#「思わず」に傍点]怒られて……どう感じているんだろう。
「俺は、お前たちへの認識《にんしき》を改めざるを得ないと思っている。お前らを信用して、甘《あま》い顔をしていた俺がバカだった」
千晶は、携帯《けいたい》を取り出した。おそらく西山のだ。
「今後、携帯の校内への持ちこみ禁止を徹底《てってい》する! なんなら、校門で持ち物チェックしたっていいぜ! そのうえで、もし校内で携帯を持っているのを見つけたら、その場でこうだ!」
千晶は、携帯を床《ゆか》へ落とすと、思い切り踏《ふ》みつけた。バキッ! と、すごい音がした。会場がワッとどよめく。
「大胆《だいたん》なことをするもんだ」
「千晶ちゃん……」
さすがの田代も驚《おどろ》いている。
その時、会場の脇《わき》にいた教師たちの中から、青木が会場内のマイクに飛びついて叫《さけ》んだ。
「千晶先生! やりすぎです!!」
それに触発《しょくはつ》されて、生徒たちもいっせいに叫《さけ》び始《はじ》めた。
「そうだ! やりすぎだぞ!」
「いくらなんでもヒドイよ!」
「何よ、エラソーに!!」
講堂全体が、揺《ゆ》れるような怒号《どごう》に包まれた。中には、壇上《だんじょう》に向かって物を投げるバカもいた。
「やかましい!! 黙《だま》れ!!」
再び、千晶の一喝《いっかつ》。
「てめえらがやったことを棚《たな》に上げて、好き勝手ほざいてんじゃねえぞ!!」
「俺らのせいじゃねーだろ! 一緒《いっしょ》にすんな!」
「そーよ、そーよ! 関係ないじゃない!!」
とばっちりはゴメンだってか? そんな理屈《りくつ》が千晶に通用するかヨ。
「犯人一人を吊《つ》るし上《あ》げりゃすむとでも思ってんのか! これは、お前ら一人一人の問題だろうが! もっとよく考えやがれ!!」
千晶の迫力《はくりょく》に、生徒たちが一瞬《いっしゅん》ひるみそうになる。しかし、そこにまた青木が割って入ってきた。
「千晶先生、乱暴な言葉はやめてください! 子どもたちが傷つきます!!」
俺は頭を抱《かか》えた。
(それはそうかもしれねぇけどよ……)
青木のその「子どもたちを傷つけないで」という清らかな善意の尻馬に乗って[#「善意の尻馬に乗って」に傍点]、ひるみかけた生徒らが勢いを取りもどす。
「傷ついたぞ! 謝《あやま》れ!」
「謝れ!!」
俺は舌打ちした。
(これが、あんたの優しさがもたらす結果[#「優しさがもたらす結果」に傍点]ってやつだよ、青木)
すっかり論点がズレた場の空気が読めない青木は、さらに、
「もっとおだやかに話し合いましょう、ね。ここは私が……」
と言いだした。オイオイ、それはマズイだろう……と、千晶も思ったんだろうな。
「あんたはひっこんでなさいよ、青木先生!」
と怒鳴《どな》った。そして「シマッタ」という顔をした。案の定、一部の女生徒からヒステリックな声が上がった。
「青木先生になんてことを言うんですか!」
「許せないわ! 謝《あやま》ってよ!!」
青木のシンパ[#「シンパ」に傍点]だ。一人の女生徒(見るからに真面目《まじめ》そうな、いかにも青木の信者ですって感じの)が、ズンズンとマイクに近づいてきて、
「青木先生への今の暴言は許せません!! 今すぐ謝ってください!!」
と、ほざいた。その尻馬《しりうま》に、他のバカどもがさらに乗りまくる。
会場が収拾《しゅうしゅう》のつかない騒《さわ》ぎになりかけた、その時だった。
「関係のない発言は、ひかえてください!!」
凜《りん》とした声が響《ひび》きわたり、一瞬《いっしゅん》にして騒ぎが収まった。神谷生徒会長だった。
生徒会長は、マイクの前の女生徒を睨《にら》み据《す》えた。
「席に戻《もど》りなさい!」
そのド迫力《はくりょく》に、女生徒はすごすごとその場を離《はな》れた。生徒会長は、続けて青木をも一喝《いっかつ》した。
「青木先生、あなたもです。議論を混ぜかえさないでください」
俺は、思わず拍手《はくしゅ》をしてしまった。
すげーよ、生徒会長。条東商始まって以来の「才媛《さいえん》」は、ホント伊達《だて》じゃないんだな。
「カ、カッチョイ〜〜〜、神谷サン!」
田代、桜庭、垣内らが歓声《かんせい》を上げる。
生徒会長は、言葉を継《つ》ごうとした青木を無視するかのように、千晶に向かって言った。
「千晶先生、先生方の信頼《しんらい》を一番ひどい形で裏切ってしまったことを、深くお詫《わ》びします」
生徒会長は、そう言うと深々と頭を下げた。その潔《いさぎよ》い姿は、文句のつけようのない威厳《いげん》にあふれていた。
「携帯《けいたい》は、一切《いっさい》持ちこみ禁止となっても文句は言えません。でも、どうかお願いです。今後絶対にマナーは守りますから、引き続き携帯の持ちこみを黙認《もくにん》してください。それから、携帯を壊《こわ》すのだけは許してください」
拍手《はくしゅ》が起きた。
「いいだろう。どうせ携帯の持ちこみは止められないだろうしな。違反者《いはんしゃ》の携帯は没収《ぼっしゅう》。卒業時に返却《へんきゃく》、だな」
会場がざわめき、ブーイングが起きる。
「そこをなんとか! 三日で!!」
生徒会長の意見に、大歓声《だいかんせい》が起きた。
「おいおい、生徒会長。そんな大幅《おおはば》ダウンがアリか?」
「無理は承知のうえです。お願いします!」
会場の空気が変わった。さっきまで千晶を罵倒《ばとう》していた生徒らも、すっかり「お願いモード」になっている。
「頼《たの》むよ、センセー! お願いきいてー!」
「いい子にするからー!」
「ただでさえ携帯《けいたい》の持ちこみを黙認《もくにん》してるんだぜ? いくらなんでも三日はないだろう。半年ぐらいなら……」
ちょっと引き気味の千晶に、生徒会長がたたみかける。
「一週間!」
「そんな譲歩《じょうほ》はできん!」
「二週間!」
かけ合いをする二人に、会場じゅうが固唾《かたず》をのむ。なんか、最近どこかで見たような光景だなあ、これ。
必死の生徒会長に、押《お》され気味《ぎみ》の千晶。そんな雰囲気《ふんいき》に、生徒会長を応援《おうえん》する生徒たちがヒートアップする。
「生徒会長――っ!!」
「がんばって〜〜〜!!」
「カ・ミ・ヤ! カ・ミ・ヤ!」
「三か月だ!」
千晶が叫《さけ》んだのに対し、生徒会長も負けじと声を張りあげる。
「一か月で!!」
千晶は、一呼吸おき、少々おおげさにため息をついてから言った。
「わかった、一か月だ」
そのとたん、再び会場が揺《ゆ》れるような大歓声《だいかんせい》が起きた。
「ヤッタ――!!」
「勝った――!!」
生徒会長が、丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。
「ありがとうございます、千晶先生」
それにつられ、生徒たちからも「ありがとう、千晶先生」という声が上がった。そんな生徒たちに向かって、千晶はまた厳しく言った。
「これがラストチャンスだぞ、お前ら! 二度とマナー違反《いはん》すんなよ。次に一人でも違反者が出たら、携帯《けいたい》は持ちこみ全面禁止、卒業まで没収《ぼっしゅう》だからな!」
続いて、生徒会長も言う。
「没収一か月でも絶対|嫌《いや》だよね、みんな!! だから、マナーを守れるわよね!!」
「オオ――ッ!!」
と、またひときわすごい歓声《かんせい》が上がった。
ここで、俺はピンときた。
生徒総会を開く意味。千晶の、あのキツイ物言い。そして生徒会長とのかけ合い。
「これは……。そうか『シャット・イン・ザ・ドア』だ」
「シャット・イン・ザ・ドア」は心理操作の一手法で、あらかじめ想定していたラインに無理なく落とすために、始めにわざとふっかける[#「わざとふっかける」に傍点]やり方だ。長谷がよくやる手だよ。
千晶が携帯を叩《たた》き壊《こわ》したのは、あれはわざとそうしたんだ。最初にそう脅《おど》しておいて、携帯没収一か月というラインを、生徒たちに納得させるため[#「納得させるため」に傍点]に。千晶にとっちゃ、没収期間はいくらでもよかったんだ。生徒たちには、携帯《けいたい》を没収《ぼっしゅう》されるのは、一週間でも三日でもつらいだろう。でも、携帯の持ちこみはどうせ止められない。
要は、生徒たちに「没収されないためには、マナーを守る」ことを徹底《てってい》させればいいんだ。
事実、千晶にあれだけ反発していた連中も、没収一か月を喜んでいる。これは、あのどこか芝居がかった[#「どこか芝居がかった」に傍点]かけ合いのおかげだ。
「引き続き、携帯は校内に持ちこんでいい。ただし、授業中、クラブ中は使わない。廊下《ろうか》を携帯で話しながら歩かない。携帯を使っていいのは、|HR《ホームルーム》が始まるまでと、昼休みと放課後。教室内、グラウンド、屋上、中庭のみ。これに反した者は、携帯没収一か月。これでいいな!」
拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》が起こった。指笛を鳴らしている奴《やつ》らもいる。単純なもんだ。
「全部折りこみ済み[#「全部折りこみ済み」に傍点]かよ、千晶。……やるな」
生徒総会は無事|終了《しゅうりょう》した。ひょっとして、生徒会長もグルだったのかな?
ぞろぞろと講堂を出ながら、田代がちょっと残念そうに言った。
「ハ〜、千晶ちゃんって、思ったよりカタイのねぇ。いくらマナー違反《いはん》に腹が立ったからって、いきなり携帯持ちこみ不可って言いだすなんて〜」
俺はその頭をはたいてやった。
「バーカ、お前らしくねえ、田代。もっと頭を働かせろ」
田代でさえこのザマだ。こんなふうに、千晶のあのキツイ行動を誤解した生徒も多いだろう。それは仕方がないとはいえ……。
「なんか、歯がゆいなあ」
壇上《だんじょう》には、バカどもが投げたゴミが散乱していた。
それからすぐの十月末に体育祭があって、それがすんだらすんだで、次は文化祭に向けての準備が佳境《かきょう》に入ってきた。生徒も教師も、そわそわバタバタと走り回っている感じだった。
そんなある日。昼飯を食ってすぐに、俺は屋上へ行った。ポカポカといい天気だったので、いつもの給水塔《きゅうすいとう》に登って寝《ね》っ転《ころ》がろうと思ったんだ。
そこに、先客がいた。
屋上へはあまり生徒は来ないし、まして給水塔の上まで登ってくる奴《やつ》はいないので、そこはほとんど俺専用の場所だったのだが、ここに目を付ける奴がいたとは……って、
「千晶じゃねーか」
「オ、稲葉」
右手で頭を支えながら向こうを向いて寝《ね》そべっていた千晶が、顔だけこっちへ向けて俺を見た。
「ひょっとして、ここはお前の占有《せんゆう》か? 悪《わり》ぃな」
「イヤ、いいけどヨ」
「ポカポカして気持ちがいいなぁ、ここは」
声がかすれている。
そういえば、いつかも中庭で、こうやって千晶は寝そべっていたっけ。
「……あんた、もしかしてどっか悪いのか?」
「…………」
千晶は、目だけで俺を見た。不思議な眼差《まなざ》しをしている。ダルそうな表情とは裏腹な、「眼力《がんりき》」を潜《ひそ》ませているような目だった。
「……まぁ、悪いといやぁ、悪いかな」
口元が薄《う》っすらと歪《ゆが》む。
「俺ぁな、血が薄《うす》いんだよ」
「血が薄い?」
「血液中の赤血球の数が少ないんだ」
「それってどういう……? 病気なのか?」
「病気のうちに入るのかねぇ? いわゆる貧血症《ひんけつしょう》≠セ」
ああ。だからいつもダルそうなのか。机のファイルの間にあったのは、やっぱり薬袋《くすりぶくろ》だったんだ。とすると……。
「こないだ中庭にいた時も、ひょっとして……」
「……妙《みょう》に気が回るなぁ、お前は」
千晶は煙草《たばこ》に火をつけた。
「一服しようと思って中庭に出た時に、クラッときてな」
「やっぱり。おかしいと思った。あんな時間に、あんなとこで寝《ね》そべってるなんてヨ」
そう言う俺の顔へ、千晶は煙草の煙《けむり》をフーッと吹《ふ》きかけた。
「カンのいいガキは嫌《きら》いだヨ」
「よく言うぜ」
俺は煙《けむり》を軽く払《はら》った。
爽《さわ》やかな秋の太陽光線がコンクリートを適温に温めて、屋上は心地好《ここちよ》かった。千晶は、まずそうに煙草《たばこ》をふかしている(ただでさえ身体に悪いのに、なんで吸うかな)。
「血が薄《うす》いって、生まれつきなのか?」
「そうみたいだな。ガキの頃《ころ》は自覚はなかったが。症状《しょうじょう》がハッキリ出だしたのは、学生時代だ。不摂生《ふせっせい》な生活してたからなあ、あれで悪化したんだな」
言うほど反省したふうでもなく、千晶は言った。
「献血《けんけつ》を断られて、初めて血が薄いってわかったよ」
「ああ」
「前の勤め先がハードなとこで、身体的にだいぶこたえてな。一年ゆっくりしようと思ってたんだ。それを、お前らの校長に呼び出されてヨ」
「校長と知り合いか!?」
「ホントは、来年の春から勤めるはずだったんだ」
「やっぱりな! 二学期から担任とか、変だと思ってたんだ」
「コキ使ってくれるぜ」
千晶は笑ったが、やはり顔色がよくない……ってか、悪い。
生徒総会以来、千晶に悪印象を持った生徒たちがいる。俺に言わせりゃ、自分らの気に食わないことを千晶がやったというだけで反発している、何も考えていない単純で下種《げす》な奴《やつ》らだが、そいつらの一部が、千晶を困らせるのを目的に問題を起こしているらしい。まったく、ヘドが出るガキっぽさだ。
千晶のことだから、それすらも折りこみ済み[#「折りこみ済み」に傍点]なんだろう。愚痴《ぐち》も何も言わないが、相当のストレスになっているんじゃないだろうか。
その時、千晶の胸元《むなもと》に、じわじわと蠢《うごめ》いている赤黒いモヤモヤが見えた。
(これは……!)
見覚えがある。これは、田代がバイクにはねられて怪我《けが》をした時に感じた「ダメージ」だ。あの時、俺は田代の怪我のダメージを引き受けて[#「引き受けて」に傍点]、結果、田代は重篤《じゅうとく》な状態になるのを免《まぬが》れたんだ。
(これが見えるということは……)
俺は、思わず千晶の胸へ手を伸《の》ばした。
「お、なんだよ?」
「しっ。ちょっと……」
俺は目を閉じて、ダメージに神経を集中した。あの時と同じだ。赤黒いドロドロした中に、白い光が明滅《めいめつ》する。
「オイ……」
「いいから。静かに」
俺は、もう片方の手で千晶の目を覆《おお》った。ダメージに対して神経を集中しなおして、決心[#「決心」に傍点]する。すると、胸に当てた手を通して、ダメージがじわ〜っと俺のほうへ移動してきた。
(そうだ……いいぞ)
ダメージの感じからしても、これくらいなら引き受けても大丈夫《だいじょうぶ》だと思った。ずん、ずん、と俺の身体が重く痺《しび》れてくる。
「おい、稲葉!」
俺の両手を、千晶が外した。
「ハッ!」
目の前で、千晶が困りきった顔をしていた。
「お前、人の身体の上で、何ハァハァ言ってんだよ」
俺は、慌《あわ》てて千晶から両手を離《はな》した。
「ちがっ……いや、決してヘンな意味じゃなく……断じて!」
千晶は、俺を不可解な目で見つつ身体を起こした。それから、不思議そうな顔をした。
「……なんか、ちょっと楽になったような……?」
首に手を当て、コキコキと振《ふ》ってみる。
千晶は俺を見た。ちょっとギクッとなった。まったく、人を見透《みす》かすような目つきだ。
「何をしたんだ、稲葉?」
「何もっ……。ツボマッサージさ」
そう言う俺の顔を、汗《あせ》が流れ落ちてゆく。
「ふぅん?」
短くなった煙草《たばこ》を携帯《けいたい》灰皿に片付けて、千晶は立ち上がった。
「得体の知れねぇ[#「得体の知れねぇ」に傍点]ヤローだな」
千晶は笑いながら鋭くも[#「鋭くも」に傍点]そう言い、先に給水塔《きゅうすいとう》から下りていった。
「ふうっ!」
俺はへたりこんだ。身体がずぅんと重い。背骨がきしむような感じがする。でも、俺のコレ[#「コレ」に傍点]は、エネルギーを補給すれば治る。ホールに行って何か食ってこよう。
「お見事でございました、ご主人様」
フールが現れ、おおげさにお辞儀《じぎ》する。
「ご主人様のお力が人を救う……僕《しもべ》として誇《ほこ》らしい限りです!」
「ハイハイ」
途中《とちゅう》で止められたから全部移すことはできなかったけど、千晶の顔色があきらかによくなっていた。よかった。
「でも、俺も成長したもんだなァ。人のダメージを見て、意識的に移せるなんてさァ」
俺は、ちょっと鼻高々だ。田代の時は否応《いやおう》なしだったが、今回は、俺が俺の意志で力をコントロールできたんだ。しかしフールは、
「たまたまですから」
と、アッサリ言った。
「どなたに対してもできるわけではありません、ハイ」
「そうなのか? 千晶に通用したのは偶然《ぐうぜん》かヨ」
フールはうなずいた。
「よほど、お身体の相性《あいしょう》がよろしいのでは?」
腰《こし》が抜《ぬ》けそうになった。
「ヘンな言い方すんなよ! ただでさえ疲《つか》れてんだからよ!」
久々に画家が帰ってきた。いつものように旅先の地酒を提《さ》げて。
「うお――っ、戻《もど》りガツオの刺身《さしみ》――っ!!」
運ばれてきた大皿に盛られた秋の宝物を見て、みんなが大歓声《だいかんせい》を上げる。戻りガツオは春ガツオとまったく違《ちが》う魚に思えるほど、脂《あぶら》がたっぷりで、まるでトロのようだった。口の中でとろける!
「この、茸《きのこ》と砂ズリの炒《いた》め物《もの》も酒に合うぜ! たまらんっ!」
画家も佐藤さんと同じく、久々に食べるるり子さんの激うま飯に感激しているようだ。
「ホント。砂ズリがコリコリで、茸がシャキシャキで」
白飯にも合う深い味わいは、なんとアンチョビ。ツヤツヤの照りはオリーブオイル。秋音ちゃんやまり子さんも、ヘルシーだと喜んでいる。幽霊《ゆうれい》のまり子さんも、健康には気を遣《つか》うのだろうか。
「血が薄《うす》いねぇ。俺のダチにもいるぜ。そいつも男だ。貧血《ひんけつ》ってのは、だいたいが女の病気だけどな」
「あー、あたしも学生の頃《ころ》は生理がキツくてキツくて。立ってられなかったワ」
画家とまり子さんは、地酒を取り合いしながら飲んでいる。
「あたしは、血圧は高いほうだけどね」
と、秋音ちゃんが言うと、全員|大爆笑《だいばくしょう》した。秋音ちゃんが貧血でへたっている姿なんて、想像できない。
「貧血ってのは輸血しても治らないもんだから、薬とか飲みながら付き合っていくしかないらしいヨ。本人は自分の症状《しょうじょう》に慣れるみたいだけどネ。でも、重症になると昏睡《こんすい》状態になることもあるから、やっぱりコワイよネ」
詩人がそう言うと、画家もまり子さんもうなずいた。
「そうなんスか? 貧血で?」
「何かの拍子《ひょうし》に脳内の血液成分が足りなくなると、脳の働きが止まるわけヨ。酸素が不足するわけだから当然だよネ。そうしたら心臓も止まっちゃう。昏睡《こんすい》状態のまま死んじゃうこともあるんだよ」
「そりゃ、まずいっスね」
「脳貧血《のうひんけつ》ってやつだ」
「柔道《じゅうどう》とかで落ちる≠チて状態があるよね。あれは、脳に酸素がいかなくて起きることで、つまりは同じようなことで〜、あれもすぐに活を入れて意識を戻《もど》さないとアブナイ場合があるんだよねー」
「脳って、デリケートですからね」
どんぶりで四|杯目《はいめ》の栗《くり》ご飯《はん》を食いながらそう言う秋音ちゃんに、デリケートという単語が似合わなかったりして。
「それにしても、どうやら夕士クンって、その千晶センセと何かと縁《えにし》があるようだネ」
「身体の相性《あいしょう》が」
「ギャハハハハハハ!!」
大人どもは笑い転げた。もー、好きに笑えば? 青木と縁があるよりずっといいって思うことにしたから。
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_189.png)入る]
嵐《あらし》の前の嵐
朝夕の空気が、だいぶ冷えてきた。
朝アパートを出ると、秋色に染まった庭の美しさに見惚《みほ》れることがある。庭じゅうに金色の朝陽《あさひ》があふれて、木も花もキラキラと輝《かがや》いている。吐《は》く息が少し白くなって、それも輝きながら朝陽の中へ溶《と》けてゆく。
物《もの》の怪《け》たちも息をひそめていて、ひっそりとした庭に枯《か》れ葉《は》が落ちる、カサリコソリという音だけが聞こえ、なんだかちょっと物悲しくなるような雰囲気《ふんいき》が……秋だなあ。
さて。十一月に入り、文化祭がいよいよ十日後に迫《せま》ってきた。
2−Cでは、六メートル先のステージを鬼《おに》が横切り、それに向かって客が小麦粉入りの玉を投げて当てるというゲームをする。一回三百円の金券で(校内各所に金券|引換所《ひきかえじょ》がある)、小麦粉玉を五個投げることができ、三個当たれば五百円の金券が賞金として出る。2−Cの生徒は、鬼用《おによう》のステージ作りと小麦粉玉作り、鬼の衣装作《いしょうづく》りなどに取り組んでいる。
英会話クラブでは「ハウル」の練習が順調。「エール1960」でのバザーも無事すんで、そのレポート作りが急ピッチで進んでいる。
「もー、英語が全然、聞き取れなくて〜」
バザーで売り子を務めた一年生たちは、苦労を楽しく話しながらレポートを書いた。
それを見ながら、田代がこそっと耳打ちしてきた。
「小夏っちゃんだけどサ、やっぱクラスでも文化祭のことなんか知らんぷりらしいよ」
「やっぱり」
自分の中では、仁明よりランクの落ちる条東商じゃ、何もやる気が起きないんだろうな。
「学校も休みがちみたいよ」
まわりに認められたい一心で大空回りしたあげく、思い切り挫折《ざせつ》したわけだからな。
「ヤケにならなきゃいいけどな……」
と言った時だった。
また突然《とつぜん》、山本が現れた。クラブの全員が固まった。
山本は、ドアのところでみんなの様子を見渡《みわた》した。その顔は、歪《ゆが》んだように笑っていた。
部長が一歩進み出た。
「どうしたの、山本さん? 文化祭の用意を手伝う気になった?」
部長の言葉は、皮肉でもなんでもなかった。普通《ふつう》に訊《たず》ねた感じだった。大人だぜ、部長。しかし―――、
「素敵《すてき》ですね」
と、山本は言った。その言葉は、実に嫌《いや》な響《ひび》きをしていた。
「皆《みな》さん、本当にアニメが大好きな子どものようで、とても素敵です。私はついていけませんけど。なかなか真似《まね》できないことですよ。高校生にもなってアニメを真剣《しんけん》に見て、それを人前で発表するなんて、よく恥《は》ずかしくないものだと感心します」
いきなりボディーをくらわすような発言に、部長以下全員の目が点になった。
「お祭りなんだから、何をしてもいいって思っているあたりがスゴイですよね。プライドも何もないんですね。そういう考えのほうが楽ですよね。私は絶対イヤですけど。だって、自分からバカですって言っているようなものじゃないですか。私、条東商に転校してきて本当によかったです。だって皆さんみたいな素敵な方々、仁明じゃ絶対いませんから。とても珍《めずら》しいものを見られて、視野が広がりました」
よくもまあ、こんな悪口雑言《あっこうぞうごん》を吐《は》けるものだと、俺はなんだか笑えてきた。だがその口とは裏腹に、山本はイッパイイッパイで今にも爆発《ばくはつ》しそうに見えた。どうしようもなく行《い》き詰《づ》まって、もう何もできなくて、それでもツッパって無理矢理悪態をついている。そんな感じだった。
山本は、白い封筒《ふうとう》を取り出した。「退部届」だった。山本は、それをポイと床《ゆか》へ投げた。
「お世話になりました。っていっても何もしていただいてませんけど。私としては、こんな素敵《すてき》な方々を見られただけでも勉強になりました。ああ、こんなふうになっちゃいけないって思えましたから。皆《みな》さん、せいぜい文化祭でお客さんにバカにされないよう、がんばってください」
あまりの言い草に、みんなは呆然《ぼうぜん》としたままだった。山本がここまで言い放つ理由が、理解できなかったからだ。
山本は、ふいに俺のほうを見て、意地悪そうに笑った。
「稲葉|先輩《せんぱい》、高校生にもなった男の人が、お母さん手作りのお弁当を見せびらかすなんてことは、もうやめたほうがいいですよ。みっともなくて笑っちゃいます」
「!!」
キレたのは田代だった。
「田代!!」
俺が止めるのも間に合わず、田代は山本の横《よこ》っ面《つら》を、思い切り張りとばした。
「他のことは許せても、それだけは許せんからね!!」
尻餅《しりもち》をついた山本に、田代は高々と吠《ほ》えた。
「あんたが、自分の家族にどんなコンプレックスを持ってるか知らないけど、だからって人のことを何も知らないくせに、勝手な悪口言ってんじゃないわよ!!」
「田代っ、やめろ!」
「稲葉のお母さんは、もういないのよ! 両親いっぺんに死んじゃったんだから!!」
その時の山本の表情は忘れられない。まさに、アイデンティティが壊《こわ》れる音が聞こえてきそうな、悲壮《ひそう》な顔だった。しかし、真実を知り、てっきり自分の悪態を謝罪するかと思った俺たちを、山本は見事に裏切ってくれた。
「ひどい……私をだましていたんですね」
「はあ?」
「人をだまして……陰《かげ》で笑ってたんですね。何も知らずにバカなことを言ってるって」
「稲葉の家のことは、ベラベラしゃべることじゃないでしょう?」
山本は、泣きながら絶叫《ぜっきょう》した。
「あんたらに何がわかるのよ! いつでも一人ぼっちの気持ちが、あんたらにわかるの? 家でも学校でも、誰《だれ》も私を認めてくれないのよ! 仲間に入れてくれないのよ!」
いや、それはお前が自分からそう仕向けているからでは? と、みんなが心の中でツッコんだだろう。
山本は、自分の勝手な思いこみで、家族にも友人にも無視されていると決めつけ、それに反発すること[#「それに反発すること」に傍点]を自分のアイデンティティにしてしまっている。こういう奴《やつ》には、いったいどう話せばいいんだ?
「何よ! 両親が死んだからってエラソーに! 私よりエライって言いたいの!?」
「……メチャクチャだ」
誰かがつぶやいた。
「私は悪くないわ。私だけは絶対悪くない! 悪いのは、あんたらのほうよ!!」
重そうな髪《かみ》を振《ふ》り乱《みだ》して、山本は泣きわめいた。どうしたものかと、俺たちが途方《とほう》に暮れた時、
「ごめんなさい」
そう言いながら現れたのは、青木だった。部長が、みんなが、「また出た!」という顔をした。
青木は俺たちをまったく無視して、座《すわ》りこんだ山本に寄《よ》り添《そ》い、髪《かみ》を撫《な》でて、あらためて言った。
「ごめんなさい」
山本は、不思議そうに青木を見た。
「そうね、あなたは悪くないわ。あなたは何も悪くないわ。あなたを傷つけて本当にごめんなさい。どうか許して」
山本はブルブル震《ふる》えると、わあっと青木の胸にすがった。青木は、わあわあと泣きじゃくる山本の頭を、背中を、赤《あか》ん坊《ぼう》をあやすように撫でた。その姿は、ちょっと感動的だった……が、
「みんなを代表して謝《あやま》るわ。ごめんなさいね」
と言った青木のセリフには、全員が「オイ!!」とツッコんだ、心の中で。そんな俺たちにおかまいなしに、青木は俺たちを見て言った。
「そうよね、みんな。みんなで謝って、みんな仲良くしましょうね。できるわよね」
「…………」
「はい」と答える者はいなかった。
「それは無理ですよ、青木先生」
部長が、きっぱりと言った。
「みんなでお手々つないでなんて、ここは幼稚園《ようちえん》じゃありませんから」
その時、初めて青木の顔が歪《ゆが》むのを見た。誰《だれ》かのセリフじゃないが、青木でもこんな顔をするんだと思った。
「……そう。誠実に話したつもりですけど、わかってもらえなかったようね」
青木は苦笑いした。無理に笑顔《えがお》を繕《つくろ》っているようだった。
「さあ、立って。お話を聞くわ。なんでも話してね」
青木は、泣き続ける山本を連れて部室を出ていった。
俺たちは、しばらく固まったままだった。
「何アレ……。あたしたち、悪役決定?」
誰かが、またぼそっとつぶやいた。
「なんだか怒《おこ》るのもバカらしいわ。あー、でもせいせいした、やめてくれて」
部長が大きくため息をついて、床《ゆか》に投げられた退部届を拾おうとした。
「あ、部長。あたしが拾います」
田代が、退部届を拾って部長に渡《わた》した。
「ありがと」
「あの子が捨てたものを、部長に拾わせるわけにはまいりません」
と、田代が言うと、みんなから拍手《はくしゅ》が起こった。
青木のやり方に納得《なっとく》したわけじゃないけど、とにかくこれで山本の問題は片付いたのだという安堵感《あんどかん》を、みんなは感じていた。いやそれよりも、もうこれ以上はとてもじゃないけど関《かか》わりたくないという気持ちだった。
クラブが終わって、俺と田代は校門へ向かっていた。
「まあなんだ。山本もよかったじゃないか。理解してくれる人がいてよ」
結局、俺は山本に対して何もできなかった。山本は、青木と縁《えにし》があったということか。
「そうかなあ。あれ[#「あれ」に傍点]がいいとは思えないけど?」
田代は意味深にそう言った。
「田代!」
後ろから声をかけられた。こっちへ向かってくるのは、神谷生徒会長だった。
「神谷サン?」
「江上に聞いたら、もう帰ったって。よかった、捕《つか》まえられて」
そう。英会話クラブの江上部長と神谷生徒会長とは、ダチである。そのつながりで、田代も生徒会長に懇意《こんい》にしてもらっているらしい。
「何かご用ですか?」
「あ、じゃ俺……」
と、帰りかける俺を、生徒会長は止めた。
「いいの。君、稲葉くんでしょ。千晶先生のことなの」
「はあ」
生徒会長は、キュッと腕組《うでぐ》みした。
「君たちも感じてると思うけど、生徒総会以来、千晶先生に反発する生徒が増えているわ」
そのことか。
「神谷さん。あのかけ合いって、ひょっとして出来レースだったとか?」
と、俺がツッコむと、生徒会長はニヤリとした。
「鋭《するど》いわね。でも、違《ちが》うわ。あの日、総会が始まる前に、千晶先生は私に『代替案《だいたいあん》をしっかり出せよ』としか言わなかったの。初めは、なんのことかわからなかったわ。でも、千晶先生が別人みたいにキツイ態度で、携帯《けいたい》を壊《こわ》したのを見て……アレ? と思ったの。そこへ、青木先生が『やりすぎです』って口をはさんできた瞬間《しゅんかん》に、あ、そういうことかってわかった」
千晶の作戦に気づくのもすごいが、とっさにあれだけ乗れる[#「乗れる」に傍点]のがすごいよな。やっぱ頭いいんだ、この人は。
「さすがです、神谷サン〜〜〜!」
「さすがなのは千晶先生よ。前の日の職員会議で、携帯持ちこみ全面禁止に反対したのは、千晶先生なのよ。青木先生なんて、上のお達しには従うべきだ、なんて言ってたんだから! それを、それじゃ絶対に解決しないから自分に任せてくれって、千晶先生が、総会を開くよう先生たちを説得したのよ」
「そうだったんですか……!」
「それを、総会で千晶先生に対抗《たいこう》したからって、青木先生のシンパがドッと増えたりして……余計な口ははさんでくるし……。あの先生……イラつくわね」
生徒会長は、ぎゅ――つと眉《まゆ》をひそめた。怖《こわ》い。
「千晶先生は、私たちのために悪役を引き受けてくれたのよ。生徒たちはそんな裏事情は知らないけど、だからって、今まで千晶先生、千晶先生って言ってた掌《てのひら》をアッサリ返して反発するなんて。一面しか見ないで何も考えないで、好き勝手に悪口を言う単純バカなんて無視しとけばいいんだけど……。隣《となり》でやられると、我慢《がまん》ならないのよ!!」
映画『極道《ごくどう》の妻たち』を思い出した。
神谷生徒会長は美人だ。映画『トゥームレイダー』のアンジェリーナ・ジョリーのような厚めの色っぽい唇《くちびる》に、黒い大きな目をしていて、とても女っぽい美人だ。そして、とてもお洒落《しゃれ》だ。まっすぐで真っ黒な長い髪《かみ》をカラフルなヘアピンで飾《かざ》り、爪《つめ》なんかも綺麗《きれい》に手入れしてある……。なのに、あの江上部長が「兄貴」と呼ぶほど、男らしいのである。
生徒会長は、その美しく手入れされた手でゲンコを作り、それを震《ふる》わせた。
「うちのクラスにいたバカどもは殴《なぐ》りとばしてやったけど、それだけじゃ気がすまないわ!!」
「わ、わかります! 神谷サン!!」
「そこで、あんたに頼《たの》みがあるの、田代。千晶先生に反発してるのは単純バカばっかりだから、単純なことで、またアッサリ掌を返すと思うのよ」
「どうするんですか?」
「単純でもいいから、何か衝撃的《しょうげきてき》なネタを探して! 千晶先生ってスゴイっていうネタをね!」
田代は、女王の前に傅《かしず》くように膝《ひざ》を折った。
「お任せください」
「期待してるわよ。ネタを探してくれたら、後は私がやるわ」
そう言って、神谷生徒会長は颯爽《さっそう》と去っていった。なんて格好いいんだ。呆《あき》れるほど。
「素敵《すてき》〜〜〜、神谷サン〜〜〜! 惚《ほ》れる〜〜〜!!」
見送る田代は、目玉をうるうるさせている。
「惚れるのはいいけどよ、田代。単純で衝撃的《しょうげきてき》なネタなんて……探せるのかよ?」
と、俺が言うと、
「千晶ちゃんのことを、このあたしが調べていないとでも思っているの?」
「え? じゃ……」
田代は、不気味に微笑《ほほえ》んだ。
「切り札≠ヘ、とっておくものよ、稲葉クン?」
怖《こわ》い……。
翌日から、校内で青木と山本が並んで歩いているのを、しょっちゅう見かけるようになった。その様子は、まるで甘《あま》えん坊《ぼう》の小型犬と飼い主のようでちょっと気味が悪かったが、山本の表情はすっかり明るくなっていて、それはそれでいいことだと思えた。
「山本には、青木のやり方でないとダメだったんだな。青木でないと、山本は救えなかったんだ」
とことん許してやる。とことん認めてやる。
俺は、青木のこのやり方もアリかなと思った。
青木には他にもたくさんのシンパがいて、その中でも常に青木につき従う信者[#「信者」に傍点]が五、六人いる。奴《やつ》らが歩いている様子は、尼僧《にそう》の集団のようだ。こいつらは真面目《まじめ》な目立たない生徒で、やっぱりそれぞれが真面目なだけに、自分に自信がなかったり、不満や不安を深刻に抱《かか》えていたようだ。青木に心酔《しんすい》するのも無理はないんだろうなぁ。
文化祭の前日だった。
各クラス、クラブとも準備が最終追いこみで、学校は連日|遅《おそ》くまで延長営業していた。
すっかり暗くなった午後七時|頃《ごろ》。クラブが休憩《きゅうけい》に入ったので、俺はホールの自販機《じはんき》にジュースを買いに行った。講堂やクラブ棟《とう》、一部の教室では明かりが煌々《こうこう》とついて熱気がみなぎっているけど、夜の校内には人っ子一人いない暗い場所も多かった。
そんな中で、あの時[#「あの時」に傍点]、そいつ[#「そいつ」に傍点]にすれちがったことには、やはり運命的な何かを感じる。
誰《だれ》もいない廊下《ろうか》の角で、俺は一人の女生徒とすれちがった。
何も変わったところはなかったし、今の時期ならこの時間、女生徒が一人で廊下を歩いてたってなんの不思議もない。なのに、その時俺は、ザワリと胸騒《むなさわ》ぎがしたんだ。それは、田代がバイク事故にあう前、そして三浦に襲《おそ》われる前に感じたものとそっくりだった。だから俺は一瞬《いっしゅん》、田代に何かよくないことが起きるんじゃないかと思った。
振《ふ》り返《かえ》ると、女生徒が廊下を歩いてゆく。その姿を見ると、胸騒ぎはさらに大きくなった。
「ヤバイヤバイ……! でも、何がヤバイんだ?」
俺はまたオロオロしながら、ただその場に立《た》ち尽《つ》くしていた。すると女生徒は、廊下の向こうで、ある部屋へ入っていった。
その部屋が何かわかった時、ハッとした。その部屋は「生徒指導室」だった。
「千晶……!」
最近、千晶はよく生徒指導室にこもっていた。問題を起こす生徒が多かったからだ。
俺はダッシュした。それと同時に、部屋からさっきの女生徒が飛び出していった。
部屋の中を見ると、やっぱり千晶がいた。椅子《いす》に座《すわ》ったまま、左腕《ひだりうで》を押《お》さえている。そこから血が流れ、床《ゆか》に点々としたたっていた。
「あのアマ!」
俺は、逃《に》げた女生徒を追いかけた。暗い廊下《ろうか》の向こうに消えそうになっていた女に向かって、俺は「プチ」を開いた。「|][《18》」の「月」のページを開く。
「サク!」
バリッ! と、青い放電が女めがけて薄闇《うすやみ》の中を走った。
「サク! 月の宮を守護する毒サソリでございます!」
フールが、俺の胸ポケットから叫《さけ》んだ。
角を曲がったところで、女はへたりこんでいた。
「サクにとり憑《つ》かれた者は、痺《しび》れて動けなくなってしまいます」
女は、右手にカッターナイフを持っていた。びっくりしたような、戸惑《とまど》っているような顔で俺を見上げた。
「お前に見覚えがあるぜ。生徒総会の時、しゃしゃり出てきた奴《やつ》だ。これは、青木の命令なのか?」
女は、キッと目を剥《む》いた。
「春香さまが、そんなことを言うはずないでしょ!」
「春香……さま!?」
「春香さまは、私たちみんなのことを考えて、思いやってくださっているのに、その春香さまに乱暴な口をきいて謝《あやま》りもしないで! 許せないわ! 当然の報《むく》いよ! 天罰《てんばつ》よ!!」
俺は、ゾ――ッとした。なんなんだ、こののめりこみ方[#「のめりこみ方」に傍点]は!?
教師に校内でケガをさせるなんて、これが公《おおやけ》になれば、その「春香さま」にもどんな影響《えいきょう》が及《およ》ぶか、なぜ考えられないんだ? そんなことも考えられないほど、自分を青木に埋没[#「埋没」に傍点]させているのか!? それほど、青木と一体化したいほど、お前は自分に自信がないのか!?
「これは預かっとくぜ」
女からカッターナイフを取りあげて、ハンカチでくるんだ。血が染《し》みてきた。
「てめぇの指紋《しもん》と千晶の血がバッチリ付いてる。動かぬ証拠《しょうこ》ってやつだ」
「何よ。警察に持っていこうってわけ?」
「職員会議で教師が揃《そろ》っている前で、青木に突《つ》きつけてやる。他の教師が青木にどんな悪印象を持つか、わかるよな?」
女は愕然《がくぜん》とした。
「やめて! それだけは……。春香さまは何もご存じないの。あの方は、関係ないの!」
「二度と千晶に近づくな! てめぇは、おとなしく青木にくっついてりゃいいんだよ」
俺は女に背を向けると、「プチ」にサクを呼びもどした。青い放電現象を見て、女は悲鳴を上げて逃《に》げっ飛《と》んでいった。
「ったくヨ」
「ご主人様、千晶様が!」
と、フールが声をあげた。
「えっ?」
慌《あわ》てて生徒指導室へ戻《もど》ると、千晶は床《ゆか》へ倒《たお》れこんでいた。
「千晶!?」
千晶の顔色は真っ白で、意識は完全になかった。
「出血多量? いや、そんなはずない……」
胸騒《むなさわ》ぎが、大きく膨《ふく》らんでいく。
「ヤバイ!」
『脳貧血《のうひんけつ》ってやつだ』
『昏睡《こんすい》状態のまま死んじゃうこともあるんだよ』
切りつけられたのがきっかけかどうかは不明だが、千晶は急激な貧血を起こしたんだ。意識がどんどん深く沈《しず》んでゆくのがわかる。
「人を……救急車を……」
あせる俺の胸元《むなもと》で、フールは冷静に言った。
「間に合いそうにありませんな」
千晶の身体が見えないほど、ダメージが濃《こ》く大きくなっている。こんなでかくて重いダメージは引き受けられない。
「落ち着け! 集中しろ! 龍さんにもらった第三の眼《め》≠ノ集中……」
と、その瞬間《しゅんかん》、俺は閃《ひらめ》いた。
「アムリタ! あの霊薬《れいやく》があれば……!!」
「プチ」の「T」、「魔術師《まじゅつし》」のページを開く。
「万能《ばんのう》の精霊、ジン!!」
もうもうとたちのぼった煙《けむり》の中に、マッチョでアラビアンなおっさんが現れる。
「なんなりとご命令を、ご主人様」
「俺の部屋の机の上に置いてあるアムリタの……あの薬瓶《くすりびん》を、今すぐここへ持ってきてくれ!!」
万能の精霊とは名ばかりで、五百円ぽっちで力を使い果たしたあの時より、どうか……どうか、この願いをかなえられるぐらいに俺に力がついて[#「俺に力がついて」に傍点]いますように!
「承知!」
ジンが胸を張ると、煙がゴゴオッ! と大きく膨《ふく》れあがった。
それから、シュシュシュ〜ッと、「プチ」へ戻《もど》っていった。
「……ダメ、か?」
コン!
床《ゆか》に、アムリタの薬瓶が転がっていた。
「ヨッシャ―――ッ!」
薬瓶《くすりびん》をひったくり、千晶の口元で逆さに振《ふ》る。
たった一|滴《てき》しか残っていないけど、たった一滴でも、きっとこの急場はしのげるはず。
「そうだろ!? ソーマの巫女《みこ》さま!!」
ぽちり、と、一滴のアムリタが千晶の唇《くちびる》に落ちた。それは、スーッと口の中へ吸いこまれていった。
「…………」
俺や藤之医師らが、指の先についた霊薬《れいやく》をなめた時は何も感じなかった。
が、ブワッ! と風がたったような感じがしたかと思うと、千晶を覆《おお》っていたダメージが、はじけるように一瞬《いっしゅん》で砕《くだ》け散《ち》った。
「す、すげ……!」
やっぱり本物だった! 本物の、魔法《まほう》の薬!!
「お見事でございます、ご主人様! 私《わたくし》め、感服いたしました!」
フールが、デコを打ちそうなほど深くお辞儀《じぎ》する。
「間に合った……!」
俺は、ホッとして身体じゅうの力が抜《ぬ》けた。
ダメージのとれた千晶の顔色が、みるみる戻《もど》ってくる。
「千晶……」
そっと声をかけてみた。
「う……」
「千晶」
ゆっくりと目が開いた。
「……稲葉?」
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「……なんだ? どうした?」
起き上がる千晶を支えてやる。自分の腕《うで》と床《ゆか》に落ちた血を見て、千晶は怪訝《けげん》な顔をした。
「なんだ、この血は? 俺のか?」
記憶《きおく》が飛んでいる。やっぱり、脳が一瞬《いっしゅん》、止まったんだ。あぶなかった。
千晶は腕を見たが、霊薬《れいやく》が切られた傷まで治していたので、そこには赤い筋がうっすら残っているだけだった。
「鼻血だよ、先生。鼻血出して貧血《ひんけつ》を起こしたんだよ」
俺はそうごまかしたが、
「貧血症《ひんけつしょう》の奴《やつ》が鼻血ねぇ」
と、千晶は下からなめるように俺を見た。あー、嫌《いや》な目だ。なんか全部ベラベラしゃべっちまいそうな……。俺はゴクリと唾《つば》をのんだ。
「ふ」
千晶は軽く笑った。椅子《いす》へ座《すわ》りなおして煙草《たばこ》を取り出す。
「疲《つか》れがたまってたかな」
「そうだよ、無理すんな。……忙《いそが》しいだろうけど。文化祭の三日間だけでも、思いきって休むってな、どうだ?」
と、俺が言うと、千晶はなんとも複雑な顔をした。苦笑いというか、頭をやれやれって感じで振《ふ》って、大きな脱力系《だつりょくけい》のため息をついた。
「それがそうもいかねーんだ、コレが……」
「?」
また何か、問題が起きたんだろうか? これ以上疲れさせたくないな。また倒《たお》れちまうかもしれない。
「そうだ!」
俺はアムリタの瓶《びん》を逆さにし、掌《てのひら》でポンポンと叩《たた》いた。掌には、一|滴《てき》にも満たないが、わずかな湿《しめ》り気《け》が付いた。俺は、千晶に手を突《つ》き出《だ》した。
「なめろ!」
千晶はポカンとした。
「……なめろって、お前……」
「いいから早くしろ! 乾《かわ》いちまう!」
「…………」
千晶は渋々《しぶしぶ》、俺の手を取った。その時になって、俺は初めて気づいた。俺の手じゃなく千晶の手に霊薬《れいやく》を落とせばよかったんじゃねぇ? これじゃまるで――。
パシャッ!
ちょうど、千晶が俺の掌に口を付けている瞬間《しゅんかん》だった。
ドアに、携帯《けいたい》をかまえた田代がいた。
「た……」
「エへ♪」
満面の笑《え》み。そして脱兎《だっと》の如《ごと》く逃《に》げ出《だ》す。
「待て!」
暗い廊下《ろうか》を、俺と田代は追いかけっこした。
「今、何を撮《と》りやがった! 見せろ!!」
「携帯《けいたい》解禁、バンザ――イ!!」
[#改ページ]
[#挿絵(img/05_214.png)入る]
大嵐吹《おおあらしふ》き荒《あ》れて
三日間の条東商文化祭が始まった。
各クラス、クラブでは、販売《はんばい》、ゲーム、レポート発表などが、講堂では演劇部、音楽部などの発表会が行われる。
俺は、英会話クラブでは客の案内と吹《ふ》き替《か》えの裏方、クラスでは鬼役《おにやく》を他の男どもと交代でやる。客の投げる小麦粉玉に、適当に当たったり当たらなかったりしながらステージを横切るのは、なかなかにテクがいった。その合間をぬって他の模擬店《もぎてん》を見て回ったり、講堂で発表される出し物を見たり、楽しかった。天気もよく、近隣《きんりん》の人たちや他校の生徒ら外部の客の入りも上々。その客引きをする看板男や呼びこみもにぎやかだ。
英会話クラブの「ハウル」の英語吹き替え上演も、たくさんの客が見に来た。ハウルが英語でしゃべっているのを見て、客は感心してくれた。田代が絶好調で、そのノリノリの演技には拍手《はくしゅ》が起こったほどだ。なぜかここ三日ほど、やたら機嫌《きげん》がいいし。
「そういえば、田代。こないだの生徒会長との話……。アレ、どうなった?」
と訊《き》くと、なんとも楽しそうな、幸せそうな顔をした。
「バッ・チ・リ♪ ほほほ……ほほほほほ! ほほほほほほほほほほ!!」
これは……ろくでもないことを考えている! 一抹《いちまつ》の、どころではない不安を感じた。
「あ」
廊下《ろうか》の向こうに千晶がいたので、俺は駆《か》け寄《よ》った。
「千晶!」
「オー。今、2−Cを見てきた。儲《もう》かってるみたいだな」
「身体は大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「ああ。なんか知らんが、昨日はよく眠《ねむ》れたよ」
千晶は、俺の髪《かみ》をグシャグシャとかき回した。
「やめろヨ」
「フフ」
まるで、もうなんでも知っているような目をして千晶は笑う。
「千晶先生」
神谷生徒会長と田代が、ニコニコしながら立っていた。千晶の顔が引きつった。
生徒会長が優雅《ゆうが》に手招きして、千晶は後ろ頭をかきながら、実に嫌《いや》そうに二人のもとへ行った。それから三人で何やら話したが、生徒会長と田代はあくまでも楽しそうで、千晶はあくまでも嫌そうだった。
「何かが進行している……なんだろう?」
「何やら、大嵐《おおあらし》が来そうですな」
胸ポケットからフールが面白《おもしろ》そうに言った。
文化祭二日目は日曜日だったので、外部からの客がさらに多く、家族連れもいたりして、にぎやかで華《はな》やかだった。日程さえ合えば、長谷も見に来られたのになあ(長谷の学校も文化祭の真っ最中)。
そして最終日。
各クラス、クラブの出し物は二日間で終了《しゅうりょう》し、この日は全校生徒が講堂に集合、ゲストのライブが行われることになっている。今年は落語だった(去年はマジックショー)。最近は落語の人気が上がっているらしい。若手落語家三人の演目は、どれも面白《おもしろ》かった。
この後は、人気のあった出し物の表彰式《ひょうしょうしき》が行われる。校内のあちこちに投票箱が設置されていて、二日間、生徒や客が気に入った出し物に票を投じていた。票数の多いもの十位以内のクラスやクラブには賞品が贈《おく》られる(菓子類《かしるい》や文具)。
「稲葉、ちょっと来て!」
俺は、田代に舞台裏《ぶたいうら》へひっぱっていかれた。そこには桜庭と垣内もいた。舞台裏には、色とりどりの紙テープと、蜘蛛《くも》の巣《す》っての? バーッと細いテープが広がるやつ、あれが大量に置かれていた。
「表彰式が終わったら、これを会場のみんなにバラまいてほしいの」
「なんで? ゲストの上演はもう終わっただろ?」
「生徒会|主催《しゅさい》の特別上演があるのよ。でも、これは秘密のゲリラライブなの。だから人手が足りないのよ」
「へえ!?」
会場では入賞した出し物が発表され、歓声《かんせい》が上がって盛り上がっていた。俺は籠《かご》いっぱいの紙テープを持って、講堂の隅《すみ》で待っていた。
「秘密のゲリラライブって、何すんだろ?」
人気投票一位は、今年も「アニメ漫画《まんが》研究会」だった。
校長の挨拶《あいさつ》の後、例年ならそれで文化祭は終了《しゅうりょう》するはずだった。が、突然《とつぜん》、会場に神谷生徒会長のアナウンスが響《ひび》いた。
「皆《みな》さん、文化祭お疲《つか》れ様《さま》でした。生徒会長の神谷です」
俺たちは、それっとばかりに紙テープを配りまくった。
「今年も条東商文化祭は盛況《せいきょう》のうちに無事終了しますが、その前に、生徒会による特別の出し物を上演させていただきたいと思います」
ヒョーッと、歓声と拍手《はくしゅ》が起きた。
バシャッ! と照明が落ちた。突然のサプライズな出来事に、会場のテンションが上がる。
「この特別上演は、私、神谷がどうしてもどうしてもと頼《たの》みに頼みこんで、無理矢理承知してもらったのです。本当に感謝しています。ありがとうございます! 千晶先生!!」
バシン!! とスポットライトが灯《とも》ると同時に、ビートのきいた音楽が始まった。ワアッと、会場がどよめいた。
舞台《ぶたい》には、ジーパン、ジージャン、ブーツ姿の男。そいつが、ラテンの貴公子リッキー・マーティンの『Livin' La Vida Loca』(郷《ごう》ひろみが「アチチアチ」と歌って有名になったやつの元歌)を歌いだした。しかもスパニッシュ・バージョン!
ものすごいどよめきが、会場を津波《つなみ》のようにうねった。
「ち……千晶っっ!?」
舞台横で、俺は目が点になった。
「ギャ――ッ! 千晶ちゃん、カッコイイ――ッ!!」
田代らが飛び上がる。
千晶とわからなかったのは、普段《ふだん》オールバックにしている前髪《まえがみ》を下ろしているからだ。しかし、その前髪をウザそうにかき上げながら歌う、その声! 身体全体でビートに乗る、その歌いっぷり! マイクさばき!
「うまい……なんてもんじゃない!!」
千晶とわかった奴《やつ》もわからなかった奴も、会場はとにかくものすごい騒《さわ》ぎになった。曲が終わると、たちまちテープが飛《と》び交《か》った。
続いて二曲目が始まった。うって変わったバラードだった。
「これは……!」
映画『ノッティングヒルの恋人《こいびと》』の主題歌。エルヴィス・コステロの『She』だった。会場が一瞬《いっしゅん》で静まった。
「オイオイ……」
本当に千晶が歌っているのか? 本家エルヴィス・コステロも真っ青の、ワイルドでセクシーな声。甘《あま》い低音と、色気のあるハスキーヴォイス。
「ちょっと高音になると絶妙《ぜつみょう》に掠《かす》れるとこが、たまんないわね〜〜〜!」
田代がウットリと言った。
「お前……これが……。切り札って、これだったのか、田代!?」
「びっくりした?」
ウフフ♪ と笑う田代を、心底|怖《こわ》いと思った。いったい、どこからこんなネタを!!
ストリングスの美しい間奏曲に入った。
すると、千晶はジージャンをゆっくりと脱《ぬ》ぎ始《はじ》めた。ギャ〜〜〜ッと、女たちの悲鳴が上がる。ジージャンの下は、黒いランニング。しかし、前が斜《なな》めに大きく切《き》り裂《さ》かれていて、そこから胸元《むなもと》がチラチラ見えた。
「私の見立てよ、素敵《すてき》デショ!? 本当はジージャンの下は、裸《はだか》がよかったんだけどなぁ〜」
「神谷さん……」
悲鳴と歓声《かんせい》と指笛が渦巻《うずま》き、ものすごいフラッシュが瞬《またた》いた。文化祭の間は、みんなカメラを持ってきてるからなあ。田代も、ごつい一眼レフで撮《と》りまくっている。
「この日のために、三日前に買った。エへ♪」
千晶が歌いだすと、悲鳴もフラッシュもやんだ。『She』は感動的に歌いあげるバラードで、千晶はそれを見事に歌ってのけた。歌唱力もそうだが、歌うということが身体全体で表現する[#「身体全体で表現する」に傍点]「パフォーマンス」なのだということを、あらためて思い知るような……これが簿記《ぼき》の先生?
「ス、スーパーアマチュア……!」
俺は鳥肌《とりはだ》も立ったが、顎《あご》も外れそうになった。
三曲目が始まった。一曲目と同じ『Livin' La Vida Loca』だ。しかし、今度は日本語だった。郷ひろみが歌ったやつだ。ということは……。
「アーチーチーアーチ!!」
大合唱が起きた。もう、舞台《ぶたい》と会場が完全に一体化している。あっという間に観客を惹《ひ》きつけるだけの力が、千晶のパフォーマンスにあったという証《あかし》だ。
三曲のミニゲリラライブが終わった。すさまじい悲鳴と歓声《かんせい》と拍手《はくしゅ》とフラッシュの中、紙テープが豪雨《ごうう》のように舞台《ぶたい》に会場に降りそそぐ。そして「アンコール! アンコール!」という声が、怒濤《どとう》となって講堂を揺《ゆ》さぶった。
舞台|袖《そで》にひっこんできた千晶を、姦《かしま》し娘《むすめ》と神谷生徒会長が迎《むか》える。
「千晶ちゃん、サイッコー! もう、サイッコーにサイッコーだよ〜〜〜!!」
「素敵《すてき》でした、千晶先生♪」
にこやかな生徒会長に向かって、千晶は苦みばしった顔で言った。
「これっきりだからな、生徒会長!」
「アンコールしようよ、千晶ちゃーん!」
「勘弁《かんべん》してくれ!」
まとわりつく田代たちをひっぺがして、千晶は控《ひか》え室《しつ》へ入っていった。
「休むわけにはいかない」と言っていたのはこのことだったんだな。文化祭の前日には、すでに話がついていたわけだ。なんか知らんが、ずいぶん嫌《いや》がっているが。
「どうやって説得したんスか、神谷さん?」
「土下座」
「えっ!?」
文化祭初日の前日に、田代が持ってきたのは、千晶が舞台《ぶたい》で歌っている写真だった。それを見た千晶は、飲んでいたコーヒーを吹《ふ》き出《だ》すほど驚《おどろ》いた。
「どっ、どこでこれを……!?」
「文化祭の最終日、歌ってください、千晶先生!」
千晶は、ぶんぶんと頭《かぶり》を振《ふ》った。
「勘弁《かんべん》しろよ。これはもう、六年も前の話だ」
「お願いします! ぜひ!!」
神谷生徒会長は、そこで土下座した。これには千晶も慌《あわ》てた。
「オ、オイオイ、生徒会長。やりすぎだぜ」
「いいえ。承知してくださるまでは、このままでいます!」
生徒会長……なんて男らしいんだ。
「女生徒に土下座されちゃ、そりゃ断れねぇよな」
頭を抱《かか》える千晶の姿が目に浮《う》かぶ。
「千晶先生って……意外と押《お》し≠ノ弱いのネ♪」
生徒会長の微笑《びしょう》に、背中が冷たくなった。
アンコールの声がやまない会場に、生徒会長のアナウンスが入った。
「皆《みな》さん、残念ながらアンコールは無しです。千晶先生に、もう一度|拍手《はくしゅ》をお願いします」
ブーイングと拍手と千晶を呼ぶ声が轟《とどろ》く。
「これをもちまして、文化祭を終了《しゅうりょう》します。お疲《つか》れ様《さま》でした。ありがとうございました」
窓を覆《おお》っていた黒いカーテンが開けられ、講堂のドアが開き、生徒たちが外へ出だしても、会場の熱気はなかなか冷めなかった。立ち去りがたく講堂内に残る生徒が大勢いた。
「はぁ〜、もう今年はサイコーの文化祭だったねー!」
田代たちも興奮が収まらない様子だ。
「オイ、田代!」
三年の男子が、デジタルムービーを片手にやってきた。田代が飛びついた。
「撮《と》れた!?」
「バッチリ〜♪」
「ギャーッ、ありがと〜〜〜!!」
「ムービー撮ってたの、タァコ!」
「ダビング! ダビングして――っ!」
「OK! OK!」
呆《あき》れる用意|周到《しゅうとう》さだ。田代は、最新式のデジタルムービーを誇《ほこ》らしげに見せた。
「この日のために、三日前に買った。エへ♪」
「どんだけ設備投資してんだ」
「生徒会長!」
千晶が控《ひか》え室《しつ》から出てきた。
「ハイ、何か?」
「俺の服が見当たらないんだが?」
「まあ、大変。探して持っていきますので、今しばらくは、その衣装《いしょう》でいてくださいな♪」
「…………」
「先生」
俺は、千晶の背中をポンと叩《たた》いた。千晶は力なく笑うと、
「なるべく早く頼《たの》むぜ」
とだけ言って、舞台《ぶたい》を下りた。そこでたちまち生徒たちに取り囲まれ、もみくちゃにされた。
「先生、写真! 写真|撮《と》らせて! 写真――っ!!」
「押《お》さないでよ!」
「ギャー! 千晶先生!!」
「こっち向いて!」
「先生、チョーかっこいい〜〜〜!!」
男も女も、我先にデジカメや携帯《けいたい》で写真を撮りまくる。
「わかった、わかったから! 落ち着け!」
舞台の上からその騒《さわ》ぎを見て、俺はため息が出た。
「なるほど。嫌《いや》がるわけだ……」
千晶は、こうなることがわかってたんだな。舞台に立っている自分が、どれほどすごいオーラを発しているかを知ってるんだ。
「こりゃあ、生徒会長の思うツボだぜ」
これでまた、千晶に対する空気がガラリと変わるのがわかる。
田代の情報力と、生徒会長の行動力と実行力。うちの女どもは、すげぇな。
「イヤイヤ。千晶さまのお命をお救いになったご主人様も、たいしたものですゾ」
胸ポケットからフールが言った。
「そういやあ、そんなこともあったなァ」
俺は、なんだか笑えてきた。
超《ちょう》大型台風並みの衝撃《しょうげき》の嵐《あらし》が最後に吹《ふ》きまくり、二学期の大きな行事がすべて終了《しゅうりょう》した。
「お」
「よぅ」
給水塔《きゅうすいとう》横に、千晶が寝《ね》そべっていた。
小春日和《こはるびより》の暖かい陽射《ひざ》しを並んで浴びる。千晶がうまそうに吸う煙草《たばこ》の煙《けむり》が、まっすぐに空へと昇《のぼ》っていった。
「身体の調子どうだ?」
「ぼちぼちだな」
神谷生徒会長の狙《ねら》いどおり、衝撃的《しょうげきてき》な(衝撃的すぎたかもしれんが)千晶の姿を見て、単純な奴《やつ》らはたちまち千晶のファンへ逆戻《ぎゃくもど》りし、そうでもない連中もスッカリ毒気を抜かれ[#「毒気を抜かれ」に傍点]たようで、千晶に反発して問題を起こすようなことはパッタリとなくなった。
その代わり、千晶のもとには連日ファンレターやプレゼントがひっきりなしに届くようになり、授業中もかまわず浴びせられる熱烈《ねつれつ》な視線に、千晶は少々うんざりしているようだ。薬が効きすぎたか。
「すげぇ声してるよなあ。なんで歌手にならなかったんだ?」
「なんで? 愚問《ぐもん》だな、稲葉。歌手がいいと思うか?」
「え? ん〜〜〜」
「カラオケで歌ってるほうが、よっぽど楽しいゾ〜」
「そんなもん?」
千晶は軽く笑った。
「ホントに……どっから掘《ほ》り出《だ》してきたんだ、あんな昔のネタ」
「ネタ元は田代だ。奴《やつ》の情報網《じょうほうもう》は怖《こわ》いぜ〜」
「怖いねぇ」
「六年前って言ってたな」
「潮路《しおじ》で情報処理を教えていた頃《ころ》だ。あの時も、歌った後は大変だったんだ。好きだだの、付き合ってくれだの手紙やメールが山ほど来て、もぉ〜……」
「いいじゃねえ、人気者で」
「いいか? 潮路は男子校だぜ?」
「…………」
あー、空が青いなあ。
すっかり青木に心酔《しんすい》した山本だが、英会話クラブはやめ、青木のシンパが作った「聖書の詩篇《しへん》愛好会」(あくまでも詩篇の愛好会であって宗教的な活動はしない。そういうのは禁止されているからな)に入ったようだ。廊下《ろうか》ですれちがった時などは、にこやかに会釈《えしゃく》してくるようになった。
それはそれでいいんだ。山本としては、心の平安が得られたわけだし。しかし、その笑顔《えがお》が、なんだか嘘臭《うそくさ》く見えるのは気のせいだろうか。俺は、田代が言った、
「あれ[#「あれ」に傍点]がいいとは思えないけど?」
というセリフとともに、千晶にカッターで切りつけた女のことを思い出す。
青木が、どこまでも相手を受け入れるタイプなだけに、青木の中に自分をのめりこませすぎなきゃいいんだけどな。
で、その青木なんだが。あの江上部長の発言以来、「詩篇愛好会」の顧問《こもん》になったこともあり、英会話クラブにも顔を出さないどころか、俺や田代、そして千晶のことも「無視」するようになったんだ。どうやらあの[#「あの」に傍点]青木にも「別の顔」があったらしい。
「な〜んか、ちょっとガッカリよねぇ」
と、田代は肩《かた》をすくめる。
「あの青木先生も、しょせんフツーの人だったというか〜。とことん聖女じゃなかったんだね〜。自分の思うとおりにならない奴《やつ》は、結局は無視かヨって感じ?」
「とことん聖女じゃなくてよかったじゃねぇか。人間らしい部分があってホッとしたぜ、なあ稲葉」
千晶はそう言って笑った。
「……うん」
笑った俺の髪《かみ》を、千晶はかき回した。
「やめろヨ〜」
パシャッ!
「お前もいちいち写真|撮《と》るのやめろ、田代!」
こうして、条東商に二大名物教師の時代がやってきた。千晶と青木だ。二人はその対照的な魅力《みりょく》で、多くの生徒に支持された。
怒濤《どとう》の二学期(たしか一学期も怒濤だったような……)も期末試験を迎《むか》え、今年も押《お》し迫《せま》ってきた。年が明けたら、修学旅行だ。
初雪の降った大晦日《おおみそか》。
長谷も加わって、妖怪《ようかい》アパートのみんなで正月の準備をした。今度は正月用の餅《もち》を、俺と長谷とでついた。
「餅をつくなんて初めてだ!」
と、はしゃぐ長谷をコキ使ってやった。
山ほどの餅と、おせちを始めとしたごちそうと、門松《かどまつ》など迎春《げいしゅん》準備が調《ととの》った。
そしてその夜、大鍋《おおなべ》で水炊《みずた》きを楽しんでいる時、
「悪い子はいねが〜〜〜!」
と大声を張りあげながら、十何人ものナマハゲがぞろぞろとやってきた。人が化けているんじゃない! 本物の! ナマハゲ!!
「来た来たー!」
アパートのみんなは大喜びした。
「怖《こ》えぇ〜〜〜っ!!」
巨大《きょだい》な鬼面《おにづら》のナマハゲが、抱《だ》き合《あ》った俺と長谷を取り囲み、頭や身体を小突《こづ》きまくった。それでも俺と長谷は、楽しくて大笑いした(長谷はまた、『千と千尋《ちひろ》の神隠《かみかく》し』のようだと喜んだ)。
ナマハゲと人間と、ぎゅうぎゅうひしめき合いながら酒を飲み、鍋《なべ》をつついた(このための大鍋だったわけだ)。ナマハゲたちは豪快《ごうかい》に飲み、食い、人間たちも負けじと飲み、食う。
皆《みな》、飲んでは笑い、食っては笑った。一年の嫌《いや》なこと、悪いことが、嘘《うそ》か幻《まぼろし》のように思える。そんなことは、もうどうでもいいと思えた。
「大祓《おおはら》えだよ、稲葉」
と、長谷が言った。
ああ、そうか。そういう意味があるのか。
うん。一旦《いったん》リセットしよう。嫌なことはすべて。積み重ねてしまわないように。
ナマハゲたちが一年の厄払《やくばら》いをして去り、新年がやってきた。
「明けましておめでと――っ!! 今年もよろしく〜〜〜!!」
テーブルに、るり子さん特製のおせちが投入されると、宴会《えんかい》は一瞬《いっしゅん》で正月モードに切《き》り替《か》わった。
気持ちが入れ替わる気がする。
悪いことは重ねないよう、ゼロに戻《もど》して。そして、いいことはどんどん重ねていこう。
妖怪《ようかい》アパートに雪が降る(雪以外にもいろんなものが)。
暖かい部屋にうまいもの、傍《かたわ》らに友と仲間。これ以上、言うことはない。
「今年も人生を楽しむぞ〜〜〜!!」
「おお――っ!!」
高校二年生最後のイベント、修学旅行がやってくる――。
[#改ページ]
香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。『ワルガキ、幽霊にびびる!』(ポプラ社)で日本児童文学者協会新人賞受賞。このデビュー作を第1巻目とする「地獄堂霊界通信」シリーズに続き、「エル・シオン」シリーズ(ポプラ社)でも人気を博す。『妖怪アパートの幽雅な日常@』(講談社)で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。8月生まれ。獅子座のO型。大阪府在住。
参考図書:『ダーリンの頭ン中』(メディアファクトリー)
小栗左多里&トニー・ラズロ著
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
[#改ページ]
底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》D
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2006年3月10日  第1刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
鹸《※》 ※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]「鹵+僉」、第3水準1-94-74
醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71