妖怪アパートの幽雅な日常C
香月日輪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
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(例)注意|事項《じこう》
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(例)そのように[#「そのように」に傍点]
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〈帯〉
活字力全開の人気シリーズ
妖怪たちとの共同生活、もう慣れた?
いいえ、〈事件〉はまだこれから!
魔道士修行にバイトの日々、夕士の夏は超ハード!!
〈カバー〉
俺は、「俺だけ」では成り立たない。
世界の中にあってこそ、俺は成り立つんだ。
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妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常C
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常C
香月日輪
[#改ページ]
「はぁあ〜、やっと一学期が終わったか……」
担任の早坂《はやさか》先生の「夏休みの注意|事項《じこう》」をぼんやりと聞きながら、俺《おれ》は大きなため息をついた。
春休みから一学期が終わるまで、本当にいろんなことがあった。ケガもしたし。ものすごく長かった。後から思い返した時、この時期はどんな意味を持つんだろう?
俺は、稲葉夕士《いなばゆうし》。条東《じょうとう》商業高校商業科(国際会計科)の二年生。両親を早くに亡《な》くしたので、早く一人前の社会人になって独立した生活を確立させるのが目標の、ごくごく普通《ふつう》の高校生だ。
いや。ごくごく普通の……というのは表向きである。
実は、今住んでいる近所でも有名な「妖怪《ようかい》アパート」が、本当に本物の「妖怪アパート」だったりする。小さいものは虫や花の精霊《せいれい》から、大きいものは二メートルを超《こ》す一つ目|巨人《きょじん》まで、「寿荘《ことぶきそう》」には実にさまざまな妖《あや》かしどもが出入りする。
さらにここには、その妖かしどもよりも怪《あや》しいんじゃないかと思われる人間どもも棲《す》みついているんだ。この妖怪《ようかい》アパートで何十年も人外たちと暮らしている詩人やら画家やら、霊能力者《れいのうりょくしゃ》やら、次元を行き来する商売人やら、とにかくもう、その個性的な考え方生き方ときたら想像を絶する。
俺は、そんな妖怪たちと人間たちに、俺のそれまでの常識や価値観をぶっ壊《こわ》してもらった。そして俺は、その瓦礫《がれき》の中から不死鳥の如《ごと》く生まれ変わることができたんだ(気持ちは)。
生まれ変わった俺は、魔道士《まどうし》の末席を汚《けが》す身となった。なんの運命か冗談《じょうだん》か、魔道書『小《プチ》ヒエロゾイコン』が、そこに封《ふう》じられていた二十二|匹《ひき》の妖魔が、俺を「主《マスター》」に選んだんだ。俺は、魔道書を片手に、妖魔を操《あやつ》る魔書使い「ブックマスター」になった。
とはいっても、だからこれから魔法の国へ冒険《ぼうけん》に出かけるんだ、なんてことはなくて(だいたい、この『小ヒエロゾイコン』自体が全然たいした魔道書じゃないしな)。俺の目標は相変わらず、あくまでも一社会人である(第一志望は県職員)。
「じゃあみんな、事故や病気に気をつけてな。夏休みだからって安直にハメを外すなよ」
早坂先生のお言葉で、一学期が終了《しゅうりょう》した。
「稲葉ぁ、夏休みどうすんの?」
クラスメイトの田代《たしろ》が話しかけてきた。田代とはクラブも一緒《いっしょ》だし、何かと縁《えん》のある仲だ。女にしちゃあ、あっさりサッパリ嫌味《いやみ》のない性格で、ダチとしては付き合いやすい。
「どうって、バイトバイトバイトだよ」
「バーベキュー大会には来るんでしょ?」
「ああ、そりゃもちろん」
英会話クラブの夏休みの活動は、いつも付き合ってくれている外国人クラブのメンバーとのバーベキュー大会である。バーベキュー大会は、夏休み中、何度か開かれる。
「みんなで海とか行かない?」
「そんなヒマねぇかもなぁ」
「そんなにバイトばっかりすんの?」
「いや、バイトがない時は、しゅ……」
「……しゅ?」
「しゅ、出頭命令が出てるんだ。伯父《おじ》さん家《ち》からな。顔出せ顔出せってうるさくて」
と、俺は頭をかいてみせた。
「ふ〜ん?」
田代は大きな目玉でなめるように俺を見た。
アブナイアブナイ。妙《みょう》なところが妙に勘《かん》のいい奴《やつ》なんだ。「修行《しゅぎょう》」だなんて口すべらしたら、とことんツッコまれるぞ。
魔道士《まどうし》が力を使う時、それは自分の命を削《けず》っているという。
たとえ俺も『小《プチ》ヒエロゾイコン』もたいした魔力《まりょく》はふるえないとしても、俺が「プチ」を使う時には、俺の命は削られているわけで。俺は少しでも自分の命をすり減らさないために、精神力をアップする修行をせねばならない。しかも、その修行はレベルアップされることになったんだ。「プチ」をより安全に、より効率よく使うためにだ。
普通《ふつう》に暮らしていたら魔術なんて使うことはないだろうって? それはそうさ。だけど、魔を背負っているということ自体が、もう普通じゃない。そして運命も、そのように[#「そのように」に傍点]廻《まわ》ってゆくものらしいんだ。もちろん、何事もなければそれが一番いいし、俺もそれを望んでいる。でも俺は、いざという時の備えもしておかなければならないんだ。
俺は、「普通《ふつう》」と「特別」を考える。
何が普通で何が特別なのかは無限だ。
妖怪《ようかい》アパートが、特別な場所であるにもかかわらず、そこに集《つど》う皆《みな》が普通に暮らせているように。魔道書《まどうしょ》を背負った俺が、普通に高校生しているように。
俺自身は普通だけど、俺が関《かか》わっている世界は普通じゃない。その両方を、きっちりと区別すること。その両方のバランスをとること。これが重要なんだ。
普通ではない世界との関わりが深くなるごとに、俺はこのことを厳しく肝《きも》に銘《めい》じる。それが、俺が俺であることのキーワードだと思うからだ。これは妖怪アパートでの生活で学んだことだ。すべてに通じる大事な考え方だと思う。
俺は、「俺だけ」では成り立たない。
世界の中にあってこそ[#「世界の中にあってこそ」に傍点]、俺は成り立つんだ。
そして、世界は果てしなく広いのだ。
アパートに帰る前に、俺はバイト先の運送会社に寄った。
「ちゅーっス!」
「おー、夕士! 学校終わったのか」
事務所には、剣崎《けんざき》社長と経理の島津《しまづ》姉さんと専務がいた。
この会社の人たちは、ここにいる管理職の人から下《した》っ端《ぱ》のバイトにいたるまでみんな気のいい連中ばかりで、それはもう奇跡《きせき》のように「人間関係のいい職場」なのである。特に剣崎社長は俺のことをすごく気に入ってくれて、
「高校をやめて、今すぐ正社員として働け」
とよく言われるのは困るんだけど、本当にそうしたくなるぐらい、いい職場なんだ。
それもこれも、社長剣崎|護《まもる》の人徳に尽《つ》きる。まるで大昔の任侠《にんきょう》映画のヤクザの親分のような、豪気《ごうき》で辣腕《らつわん》で部下思いで、誰《だれ》より一番よく働く男。専務以下正社員は、全員この社長の人柄《ひとがら》に惚《ほ》れて働いているようなものなんだ。
「八月から入りますんで、またよろしくお願いしまっス!」
「おうっ、早く来い、みんな待ってるぞ!」
剣崎社長は、男っぽく豪快に笑う。シフトのわがままを、これ以上ないというぐらいきいてもらって本当にありがたい。
「夏休みのバイト、入ったんしょ? どんな人が来てるんスか?」
と、尋《たず》ねると、社長も専務も表情が冷めた。
「ん〜……高校三年生と大学一年二年、合わせて五人を採ったんだけど……。まだちょっとよくわからんかなぁ」
専務は曖昧《あいまい》に答えた。
「いろんな意味で、今の若いもんらしいってことだな。だがまあ、これからだな」
社長も、ちょっと口元を歪《ゆが》ませて頭をかく。
夏休みだけのバイトを募集《ぼしゅう》したのは七月に入る前で、五人のバイトがちゃんと働き始めて、まだ十日ぐらいしかたっていない。仕事に慣れるまでは、いろいろ使いにくいんだろう。
俺は、倉庫へも挨拶《あいさつ》に行った。
「おー、稲葉!」
「八月になったら来るんだろ?」
正社員のオッサンたちは、にこやかに俺を迎《むか》えてくれた。が、倉庫には、その新しく入ったバイトはいたものの、オッサンたちとそいつらの間に、何か見えない一線が引かれているような感じがした。
バイトたちは、オッサンたちと俺をまるで無視しているかのように、こっちにまったく注目することもなく仕事を続けてたり、じーっと突《つ》っ立《た》ってたりしている。そしてオッサンたちも、俺を他のバイトに紹介《しょうかい》するということもなかった。だから、俺もバイトたちのことには触《ふ》れないでおいた。俺はオッサンたちに挨拶だけして、すぐにその場を離《はな》れた。
職場の空気がちょっと変に感じたのは確かだけど、すぐに俺もバイトに通うから話はその時でいいかと思った。今はそれよりもやらなきゃならないことがあるからな。
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「夏休みだ――っ!」
と、羽を伸《の》ばしたいところだが、スケジュールはぎっちり詰《つ》まっている。これから七月いっぱいは毎日|修行《しゅぎょう》なんだ。八月に入ったら、水、金が一日修行、あとは一日バイトだから、何か用事があるとなれば、修行かバイトを拝みたおして休ませてもらわなければならない。
「ご主人様、ご主人様」
小さな小さな手が、眠《ねむ》っている俺の下唇《したくちびる》をひっぱる。目をあけると、胸元に身長十五センチほどの小人が立っていた。
「おはようございます、ご主人様。そろそろお勤め[#「お勤め」に傍点]のお時間でございます」
小人はそう言って、おおげさにお辞儀《じぎ》をした。
こいつは「フール」。魔道書《まどうしょ》『小《プチ》ヒエロゾイコン』の案内人だ。クソ丁寧《ていねい》なだけに、どこか嘘臭《うそくさ》い言動が特徴《とくちょう》かな。本人はとりあえず一生|懸命《けんめい》なんだろうが、だいぶズレているとこが泣き笑いだ。こいつが「大番頭」なんだから、他の妖魔《ようま》たちもどんなものか推《お》して知るべしである。
「本日より、あらたなる修行《しゅぎょう》をお始めになるとか。ご主人様のご成長は我らの成長。どうかしっかりお勤めにお励《はげ》みくださいますよう、我ら一同、心より……」
「ハイハイ」
「オッハヨー、夕士くーん!」
午前五時。俺のトレーナー[#「トレーナー」に傍点]、久賀秋音《くがあきね》ちゃんが起こしに来た。
久賀秋音ちゃんは、鷹《たか》ノ台《だい》高校の三年生。将来は除霊師《じょれいし》を目指す霊能力者の卵である。昼は女子高生をしつつ、夜は物《もの》の怪《け》専門|病棟《びょうとう》があるという、月野木《つきのき》病院で丁稚奉公中《でっちぼうこうちゅう》。
俺は秋音ちゃんの指導のもと、精神力をアップするという「行」をする。水泳パンツ一丁で、頭から冷水をかけられながら経文《きょうもん》というか呪文《じゅもん》のようなものを唱え続けるんだ。
俺は、新しい修行というのがどんなものなのかと、ちょっと楽しみにしていた。ところが―――。
「さあ、今日からはこれを唱えてね」
と、渡《わた》された防水コート済みシートには、ずらりと漢字が並んでいた。
「般若心経《はんにゃしんぎょう》……じゃない?」
「神呪《しんじゅ》よ。経文《きょうもん》の一種だけど……。ムズカシーわよぅ〜♪」
秋音ちゃんは人が悪そうに笑った。
確かに、この神呪とやらは般若心経よりずっと難しかった。
「ナムカラタンノウ トラや、やや ナムオリヤ ば? バリヨきちぃし? フジサトボヤ……」
ふりがなは打たれてるけど、つっかえるし、音読だから意味もわからんしで、いつものように集中できない。頭からかけられる水も、いつもなら気にならないのに、やたら邪魔《じゃま》で鬱陶《うっとう》しくて仕方ない。
「イライラするのはわかるけど、我慢《がまん》よ、夕士くん! 我慢!」
おそらくそれ[#「それ」に傍点]が修行《しゅぎょう》なんだろうが、それにしても…それにしても……。
あ――っ、鬱陶しい!! あ――、イライラする!!
夏とはいえ、流水にさらされる身体が徐々《じょじょ》に冷えてくるのがわかる。筋肉がこわばり、やがて俺の身体はブルブル震《ふる》えだした。手足の感覚がない。
(ウ、ウソだろ!? こんな……)
こんなことになるなんて、想像もしていなかった。自分の気持ちも身体も、なんてあっという間にバラバラなんだ。
「モ、モ、モコ……キャルニきゃ…や エン サハラハエイ シュノ……あ〜〜〜、もう!」
「我慢《がまん》よ!」
時々かけられる秋音ちゃんの声に、どうにかなりそうな意識がハッと戻《もど》る。
いつもなら二時間があっという間に過ぎるのに、今日は時間が途方《とほう》もなく長い! まるで、果てしない真っ暗な道を重い荷物を背負って歩いているみたいに、出口が見えない不安で頭が混乱する。全身がギシギシと軋《きし》む音が聞こえる。
「俺は……なんでこんなことをやってんだ?」
久々にそう思った。修行《しゅぎょう》を始めた初日に、そう思って以来だ。
やり始めた頃《ころ》はやっぱり身体がキツくて、こんなことやりたくてやってんじゃねーんだ、なんて思ったけどすぐに慣れて(秋音ちゃん曰く、俺には精神集中の素質があるらしい)、朝の水行も昼の経文《きょうもん》読みも、なんなくこなせるようになった。
甘《あま》かった……!
あんなの、初歩の初歩だったんだ。
ちょっとレベルアップしただけで、なんなんだ、このハードさは!?
「我慢《がまん》よ!!」
秋音ちゃんの声が、脳みその中を駆《か》け抜《ぬ》ける感じがした。思わず飛び上がってしまう。
「落ち着け! 我慢だ! 我慢我慢……!!」
俺は、つらくてイラつく気持ちと必死で闘《たたか》った。自分の中でいろんな気持ちが、ものすごくせめぎあっているのがわかった。そして―――。
「ハイ! そこまででいいわ、夕士くん」
と、終了《しゅうりょう》の声がかかったとたん、俺はビニールプールの中へ倒《たお》れるようにへたりこんでしまった。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
覗《のぞ》きこんできた秋音ちゃんに、
「大丈夫じゃねえ!」
と言いたかったが、その言葉すら出ない。頭はクラクラ、手足はガクガク、身体中どこもかしこも痛い! 苦しい!
そんな俺にまったくおかまいなしに、秋音ちゃんは笑って言った。
「よくがんばったね! えらい!!」
……おほめいただいてドーモ。でも、このまま死にそうなんスけど。
秋音ちゃんは、そんな俺にさらに追《お》い討《う》ちをかけた。
「ちょっと待っててね。明《あきら》さん呼んでくるから。お風呂《ふろ》に入れてもらって」
あああ、やっぱりそうきたか!
「そ……や、やめ……」
それはやめてくれ、という俺の声が、スキップしながらアパートへ入ってゆく秋音ちゃんに届くはずもなかった。
そりゃあ、アパートの男連中とはもう何度も一緒《いっしょ》に風呂に入ってるし、今さら裸《はだか》を見られるのが恥《は》ずかしいなんて言わねぇけど、それでも、お姫様抱《ひめさまだ》っこで運ばれて、服をむかれて「お風呂に入れてもらう」ってことが、どんなに男としてのプライドを傷つけられるか、秋音ちゃん、君にはわかるまい! ……なんてことを、ゼェゼェいうばっかりでピクリとも身体を動かせない今の俺が言ってもなあ。
「俺ごときのプライドなんて、この妖怪《ようかい》アパートの中じゃ屁《へ》のツッパリにもならんよなあ……」
俺は、今まで築き上げてきた、ささやかなものだがプライドとか自信とかが、いとも簡単に粉々に崩《くず》れ去《さ》るのを感じて、ビニールプールの中でとってもブルーになっていた。
「お待たせ〜。夕士くん、生きてる〜?」
スコーンと明るく、秋音ちゃんが戻《もど》ってきた。大あくびをしている画家、深瀬《ふかせ》明を従えて。
ポップでパワフルな絵が、日本よりも海外で人気のある放浪《ほうろう》の画家、深瀬明。茶髪《ちゃぱつ》で眼光|鋭《するど》く、黒い革服《かわふく》を好む姿は、画家というよりもヤンキーのようである。実際、喧嘩《けんか》大好きの画家は、個展会場とかでよく暴れるらしい。
「動けねーってか、夕士!? ワハハハハ!!」
画家は、のびている俺を見て大笑いした。笑ってください。ハイ。
「うわっ、冷てぇ、こいつ! 死体みてぇだな」
画家は、俺を軽々と抱《だ》き上《あ》げた。
「じっくり浸《つ》けてあげてね、明さん」
「おう、任せろ」
「じゃ、朝ご飯用意しとくわね、夕士くん。ごゆっくり〜!」
鬼《おに》……と、言ってやりたい。
妖怪《ようかい》アパートの地下|洞窟《どうくつ》天然温泉。蒸気がゆらゆらとたちこめる、ほんのり薄暗《うすぐら》い岩風呂《いわぶろ》の絶妙《ぜつみょう》の湯加減の中へ、俺は抱《だ》っこされたまま、まるっきり赤《あか》ん坊《ぼう》のように浸《つ》けてもらった。俺を抱いたまま、画家も肩《かた》まで湯に入る。
「ハ〜〜〜、気持ちいいでちゅね〜」
「…………」
もう、どうにでもしてくれという感じだ。しかし、そんなやさぐれた気持ちを、温泉がたちまち解きほぐしてゆく。じわじわ、じわじわと、手足の先から痺《しび》れてきて、やがてボワワ〜ンと、血管や筋肉が溶《と》けるような心地好《ここちよ》さが広がる。それが頭の先まできた時、
「ハァァ……ッ」
と、気絶しそうな快感にため息が出た。
「お、やっと人心地ついたか」
「すいません、明さん。手間かけちまって」
「ちょうどよかったんだよ。昨夜《ゆうべ》飲みすぎたからなあ。酒を抜《ぬ》くにゃあ、朝風呂《あさぶろ》が一番サ。しかし……お前も大変だな」
画家がニヤニヤと笑った。
「イ、イヤ……」
俺は、いろんな意味で恥《は》ずかしくなった。赤ちゃん扱《あつか》いされたのもそうだが、「行」の苦しさに思い切り文句を言った自分を見透《みす》かされたような気がした。
「ま、ボチボチやれよ」
その言葉に、また見透かされた気がする。
文句を言ってもいいんだぜ。と、言ってくれたような……。
「ウス」
俺は、小さくうなずいた。
大変なことだと、そして異常なことだとわかっているけど、俺は自分のこの運命を嫌《いや》だとは思わないんだ。
アパートに来る以前の俺からは、とても考えられないことだ。こんな時、あの言葉が繰《く》り返《かえ》し頭に浮《う》かぶ。
人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜《ぬ》いていこう。
俺の世界も、俺のいる世界も果てしなく広い。まだ見ぬ世界があり、俺自身まだ知らない「俺」がいるんだ。そう思うと、すごくワクワクする。「二十二|匹《ひき》の妖魔《ようま》を操《あやつ》る魔道士《まどうし》の俺」がいたなんて――すげぇじゃん。だから、俺はやめない。修行《しゅぎょう》がどんなにつらくても、それはこれからの俺[#「これからの俺」に傍点]に必要不可欠なことだからだ。
そんな俺のことを、深酒を抜くために朝風呂《あさぶろ》につかってのんびり鼻歌を歌っているこの人は……わかってくれている。画家だけじゃない。アパートにいる人たち、モノたち、みんながわかってくれている。軽く笑いながら「いいんだぜ、文句を言っても」と、言ってくれる。
俺の身体は、温泉の温かさだけじゃないものに満たされてゆく―――。
風呂から上がると、食堂から漂《ただよ》ってくるいい匂《にお》いにまた気絶しそうになった。
「おはよう。朝からお疲《つか》れさんだね、二人とも」
食堂にいたのは、龍《りゅう》さんだった。
「なんだお前、帰ってたのか。どうりでなんか静かだと思った」
画家と龍さんは笑い合った。龍さんは高位の霊能力者《れいのうりょくしゃ》で、秋音ちゃんの大大|先輩《せんぱい》。
この細身、長髪《ちょうはつ》の美男子は、霊能力者というより芸能界か美容界の人間に見えるけど、龍さんが帰ってくると、アパート中の物《もの》の怪《け》たちがいっせいに緊張《きんちょう》し、逃《に》げ出《だ》したり、バ〜ッと道をあけたりするから壮観《そうかん》だ。龍さんが実際にどんな霊能力者なのか具体的に見たことのない俺だが、物の怪たちの最敬礼な態度からでも充分《じゅうぶん》わかるってもんだろう。
かく言う俺も、龍さんにはなんだか特別な思いを抱《いだ》いている。聡明《そうめい》で洞察力《どうさつりょく》に優《すぐ》れたこの人の話す言葉には説得力があり、不思議な響《ひび》きがある。これが「言霊《ことだま》」というやつなのかと思う。そして「君の人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜《ぬ》いていこう」と言ってくれたのが、龍さんなんだ。この人のこの言葉が俺を救ってくれたんだ。
「今日から修行《しゅぎょう》をレベルアップしたんだって、夕士くん?」
龍さんがにこやかに言った。
「ウ、ウス。まあ……」
「それで立てなくなっちゃったか。ハハハ」
そんなに軽く笑わんでくれ! あーもう、すっげえ恥《は》ずかしい!!
「明日は、私がお風呂《ふろ》に入れてあげるよ♪」
「ブホッッ!」
俺は、飲みかけの水を吹《ふ》き出《だ》した。
「お、お断りっっス!!」
「なんだい、つれないことを言うなよー。明さんならいいわけかい?」
「俺のほうがタイプってか!?」
「ワハハハハハ!!」
「もぉ――っ、二人して、からかわんでくださいよ!!」
大声を出したら、頭がクラクラした。
「ハイハイ、みんなそこまでー。朝ご飯、できたわよ〜!」
厨房《ちゅうぼう》から、秋音ちゃんが朝飯を運んできてくれた。
「待ってました!」
豆アジの南蛮漬《なんばんづ》けに、夏野菜がたっぷり入った卵豆腐《たまごどうふ》。ホウレンソウと菊花《きっか》の白和《しらあ》えと、豚《ぶた》ともやしの炒《いた》め物《もの》。ハマグリの吸い物と茄子《なす》の浅漬《あさづ》け。ボリュームがあるようで、さっぱりと食べられるように味付けされたものばかりだ。
「お酢《す》の香《かお》りがたまらんねえ」
さすがの龍さんの顔もゆるんでいる。
「夕士くんには、特別メニューをどうぞ。ハーブと薄切《うすぎ》り牛肉のサラダでございまーす。まずこれから食べてね。ゆっくりとね」
「うわ、綺麗《きれい》だ!」
ルッコラやセルフィーユの緑と、トマトの赤がなんて鮮《あざ》やかで夏らしいんだろう。薄切り牛肉は、セロリとタマネギとであらかじめマリネにされていて、口に入れたとたんキュ〜ッと酸味がきて食欲をかきたてる。添《そ》えられたウズラの卵のミニ・ポーチドエッグは、これまたつるんといくらでも食える感じだ。
龍さんと画家が「いーなあ、いーなあ」と羨《うらや》ましがった。俺は口の中と舌を何箇所《なんかしょ》か噛《か》んでいて酸味がしみたけど、その痛みも忘れるうまさだ。
サラダの後は、俺には飯の代わりにお粥《かゆ》が用意されていた。ほんのりとダシ味のついた中華粥《ちゅうかがゆ》が、やさしく身体に染《し》みとおってゆく。
「ありがとうございます、るり子さん! うまいっス!!」
アパートの食事を一手に担《にな》う賄《まかな》い担当、手首だけの幽霊《ゆうれい》の「るり子さん」は、その白く綺麗《きれい》な指をもじもじとからませた。
いい匂《にお》いにつられて、アパートの住人が次々に食堂に現れる。
「やー、オハヨー」
「おはよーございまーす」
詩人にして童話作家の一色黎明《いっしきれいめい》。妖怪《ようかい》のくせに、大手|化粧品《けしょうひん》メーカーで働く「佐藤《さとう》さん」、いつも庭の手入れをしている「山田《やまだ》さん」など、いつもの面々。
「龍さん、帰ってきてたんだ」
「ついさっきね」
「今朝はえらく早いねえ、明さん」
「酒抜《さけぬ》きに朝風呂《あさぶろ》に入ってたんだよ」
「なのに、もうビールやってんの?」
「風呂上《ふろあ》がりにゃビールだろ」
笑い声が食堂に満ちる。温泉でたっぷり温まり、うまい飯を食ってみんなの笑い声に包まれていたら、このうえもなく心地好《ここちよ》い、幸せな気分になった。
次の瞬間《しゅんかん》。
ハッと気づくと、俺は居間に寝《ね》ていた。クリと並んで。
「あ、起きた?」
ソファで新聞を読んでいた詩人が顔を上げた。時間は、もう昼近くだった。
「夕士クン、朝ご飯食べながら寝ちゃったんだヨ。赤ちゃんみたいでちゅねー」
「あああ、また!」
俺は頭を抱《かか》えこんだ。詩人が大笑いした。
「だからって、クリと並んで寝かすことないっしょー!」
クリは、二、三|歳《さい》の男の子。実の母親に虐待《ぎゃくたい》されて殺された子どもの幽霊《ゆうれい》だ。いつも傍《かたわ》らに寄《よ》り添《そ》う育ての親[#「育ての親」に傍点]の犬のシロとともに、このアパートで成仏《じょうぶつ》するのを待っている。
「夏の縁側《えんがわ》で、タオルケットにくるまってスヤスヤと眠《ねむ》る子ども二人……いい風景だよねー。落ち来る蒼《あお》の黒き光線を浴びて、地上の太陽は動脈と静脈を従えて燃える……」
と、詩人はうっとりとつぶやいた。意味不明の言葉は、アパートの庭の風景を詠《うた》ったものらしい。
夏の光の降りそそぐ庭に向日葵《ひまわり》とアザミが咲《さ》き競《きそ》う。開け放した居間に吹《ふ》き通《とお》る風は爽《さわ》やかだ。妖怪《ようかい》アパートはクーラーいらずだった。
「お、起きたか、夕士くん。気分はどうだい?」
龍さんが居間に入ってきた。
「ハイ、もう……」
俺は、すっかり回復していた。朝飯を食べて四時間近くぐっすり寝《ね》た今、あのしんどさがまったく嘘《うそ》のように消え去っている。頭もスカッとしていた。
「いや〜、若いっていいねぇ。すごいねぇ」
と、二十四[#「二十四」に傍点]、五歳にしか見えない[#「五歳にしか見えない」に傍点]龍さんが笑った(この人が実際|何歳《なんさい》なのかは不明。すごく不明)。
「こういう年頃《としごろ》の子って、なんでもどんどん吸収して消化しつくすんだよねー。で、どんどん脱皮《だっぴ》するんだよねー。もぉ、目を見張っちゃうよネー、煌《きら》めいちゃってサー」
「今が研《と》ぎどきの宝石ですからね」
俺を「宝石」と言ってくれるのか。
それは、研《と》いでくれる人がいてこそだ。だから、俺はがんばれる。
「お昼ご飯ですよー」
秋音ちゃんが呼びに来た。
「あ、夕士くん。気分どう?」
「スッキリ爽《さわ》やかっス!」
「よし。じゃあ、ご飯食べよう。おそうめんとお寿司《すし》よ♪」
「え? 修行中《しゅぎょうちゅう》は、昼飯はパンだろ?」
「今回は昼の行は軽めにするから、ご飯食べていいわ」
「やりー!」
るり子さんのスペシャル(いつもスペシャルだが)ランチは、よく冷えたそうめんと、サバの入ったちらし寿司。このサバちらしが、まだほんのり温かくて、酢《す》の味だけじゃない奥深《おくぶか》いコクがなんともいえなかった。絶品!
「これはサバのダシの力だねー」
詩人が唸《うな》ると、
「一|杯欲《ぱいほ》しくなりますね」
と、龍さんが手で酒を飲む真似《まね》をした。
「お、イク〜?」
「イキましょう」
「るりるり〜、大吟醸《だいぎんじょう》出して〜♪」
そうめんとちらし寿司《ずし》で酒が飲めるのか? 俺と秋音ちゃんは、未成年同士、顔を見合わせて笑ったけど、このサバちらしなら充分《じゅうぶん》酒のアテになりそうな気はする。
暑い夏の午後。キンと冷えたそうめんと、味わい深いサバちらしを肴《さかな》に大吟醸……、至福だな。酒は飲めなくても、至福だってことはわかるな。
「そう言えば、長谷《はせ》くんは来ないの?」
と、秋音ちゃんが言った。学校が休みに入ったとたん来るものだと思われているらしい。
長谷|泉貴《みずき》は、俺の親友。このアパートのこと、「プチ」のこと、俺のすべてをわかってくれている。都内の超有名《ちょうゆうめい》エリート校に通っているから普段《ふだん》は会えないけど、今や妖怪《ようかい》アパートがすっかりお気に入りの長谷は、休みともなればすっ飛んできて、何日もダラダラと泊《と》まっていくんだ。
「長谷は家族旅行でオーストラリアにスキーに行っているよ。帰ってくるのは再来週ぐらいかな」
「真夏にスキー!? さすが金持ちは違《ちが》うわね〜」
「家族っていっても、お袋《ふくろ》さんと姉貴と長谷の三人だけどな。親父《おやじ》さんは、やっぱ仕事休めないし。あの家は女の権力がすごくて。真夏にスキーだろうが、行くっていったら止められない」
「アハハッ。長谷くんも大変なのね」
「家族で旅行というよりは、あいつはほとんどツアコン扱《あつか》いで、乗り物の予約とかホテルの確保とか、食事の手配とか全部やらされるんだってボヤいてるよ。特に海外旅行へ行くと、いつも疲《つか》れ果《は》てて帰ってくるよ」
「アハハハ!」
るり子さんのスペシャルランチを楽しみながら、俺はみんなと笑ったりしゃべったり、ゆったりした時間を過ごした。
午後の「行」は、夕方二時間だけだった。暗い部屋で蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りを見ながら、精神を集中させる経《きょう》を読むものだった。
温泉につかり、うまい夕飯をまた腹いっぱい食べて一日が終わった。
部屋に帰ってくると、机の上に置いてある「プチ」の上にちょこんと乗ったフールが、おおげさにお辞儀《じぎ》をした。
「一日のお勤め、まことにお疲《つか》れ様《さま》でございます、ご主人様」
「おう」
「ご主人様からは、一段とよい波動を感じます。恐悦至極《きょうえつしごく》……」
フールは大きなため息をもらした。俺は苦笑いした。まったくおおげさなんだからな。
でも、確かに気分はすごくいい。身体のすみずみまで力が行《い》き渡《わた》っているような……。
俺は、自分の手をかざして見た。力が行き渡った指先が、なんだか光っている感じがする。実際光っているわけじゃないが、そんなイメージが湧《わ》くんだ。不思議な気分だった。そして俺は、はっと気づいた。
「口の中が……!」
読みなれない神呪《しんじゅ》とやらを読んで舌や口の中を切っていたはずなのに、それがもう全然痛くない。治ってしまったようなんだ。
「……今回の修行《しゅぎょう》は、ちょっとスゴイかもしれないぞ!?」
なんて、ちょっとニヤけた俺だけど、翌朝の修行《しゅぎょう》はやっぱりメチャクチャつらくて、秋音ちゃんの「ハイ、終わり」という声を聞くか聞かないかで気絶してしまった。そのおかげで、龍さんに抱《だ》っこされて風呂《ふろ》に入れてもらった記憶《きおく》もないんだけど。
気づいたら、もう湯船の中だった。龍さんは笑っていた。長谷が旅行中で本当によかった。こんな姿は見せられない。
それにしても、俺というのは、なんて単純に壊《こわ》れたり再生したりするんだろう。
昨夜《ゆうべ》、どうやら今までの自分とは違《ちが》うようだぞと思ったばかりなのに、そんな自分がもう、しかも昨日の朝よりもずっと粉々に砕《くだ》け散《ち》ってしまった。もう、果たしてこの修行を続けられるんだろうか? とブルーになっている。
しかしそれも、朝飯を食ってしばらく眠《ねむ》ったら、すっかり頭はクリアになって身体には力がみなぎっている。ブルーな気分もどこかへ吹《ふ》っ飛《と》んでいってしまった。昼行と夕飯をすませて部屋へ戻《もど》る頃《ころ》、身体中が不思議なパワーというか充実感《じゅうじつかん》に満たされていて、夏休みの宿題なんかバリバリやれたりして、また「俺ってなんだかスゴクねぇ?」なんて思ったりしている。
で、やっぱり朝行はつらくてつらくて……。これからこれがずっと続くのかと思うと、激しくブルーになった(そして龍さんに朝風呂《あさぶろ》に入れられて、ますますブルーに)。
しかし、四日目の朝だった。
「あ、ちょっと楽……!」
と、感じた。それはほんのちょっとの感覚だったけど、確実に、電撃《でんげき》のように感じたんだ。その感覚は翌朝にはさらに、翌々朝にはさらにさらに強くなった。
「慣れてきたのかな。早いねー」
と、秋音ちゃんは言ってくれた。
朝行に慣れてくるのに比例して、昼や夜に感じるパワーも増してきた。それは集中力であり、「意欲」だった。俺は、夏休みの宿題をすっかりやりあげてしまったんだ。自分でもビックリだ。
「これは……やっぱりスゴイんじゃねぇか!?」
俺の自信は、壊《こわ》れることのない確信に変わりつつあった。
ところが、だ。
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メタモルフォーゼ
一週間目の朝行の後だった。
なんとか秋音ちゃんに支えられながらも一人で風呂《ふろ》まで行けるようになった俺は、温泉につかって鼻歌なんか歌っていた。身体の疲《つか》れがみるみるとれてゆくのを感じるのも、いい気分だった。
「は〜、腹減った。朝飯は何かな〜」
と、脱衣場《だついじょう》で服を着ていた時、部屋の隅《すみ》っこに体重計があるのがふと目に入ったので、久しぶりに体重でも量ってみようと思った。
「…………えっ?」
体重計に乗った俺は自分の目を疑った。十キロも……減ってる!?
「そういえば、最初に修行《しゅぎょう》を始めた時も一時体重が減ったけど……。だけど……十キロは……イキナリすぎねぇか?」
チラリと、不安が胸をかすめる。
その不安が的中した。
食べ物が食えなくなったんだ。
腹は減っているのに、いざ食べようとしたら喉《のど》を通らない。せっかく、るり子さんのスペシャルモーニングが目の前にあるのに。焼きジャケも、ネギ入り出し巻き卵も、ぷりぷりかまぼことキュウリのマヨネーズ和《あ》えも、ロースハムサラダも、大根の味噌汁《みそしる》も。喉を通らない〜〜〜っ!!
「じゃあ、無理に食べないで、夕士くん」
なんて無情な秋音ちゃんの言葉!! 鬼《おに》っっ!!
俺は、かろうじて中華粥《ちゅうかがゆ》を茶碗《ちゃわん》に一|杯《ぱい》すすっただけだった。その後は部屋に戻《もど》って休んだんだけど、昼になっても食欲は戻らず、そんな俺にるり子さんは、上品なダシのよくきいた、ささみと三つ葉の雑炊《ぞうすい》を作ってくれた。
るり子さんの特製雑炊は超美味《ちょうびみ》だったけど、それを食っても、昨日までのように身体に力が戻ってくる感じもしないし、頭もスッキリしない。変だ。いったいどうしたんだ? さらに、
「今日はお昼の行は中止ね。ゆっくり休んでていいわ」
という秋音ちゃんの言葉が、俺をさらに不安にさせた。
これって、やっぱり俺の身体の具合が悪いからなんだろうか?
やっぱり、このレベルアップした行は俺には無理だったんだろうか?
居間のソファに寝《ね》そべったまま、ダルイけどまんじりともせず午後を過ごした。
夏の庭は今日も燦々《さんさん》と光があふれ、山田さんが丸っこい背中をさらに丸っこくして雑草むしりをしている。そのすぐ横を、巨大《きょだい》なヤスデみたいなモノがわさわさと移動している。胴回《どうまわ》りは直径五十センチぐらい? 長さはいったい何メートルあるんだろう。巨大ヤスデは、庭を横断するまで三十分はかかった。俺はそれをぼんやりと眺《なが》めていた。セミたちは盛《さか》んに鳴いているけど、アパートの中は妙《みょう》に静かで、時折チリ〜ンと鳴る風鈴《ふうりん》の音が、どこか寂《さび》しげに聞こえる。
「長谷は……滑《すべ》ってんのかな、今頃《いまごろ》は……」
風鈴の音に誘《さそ》われて、久々に長谷を思って寂しい気持ちになった。
妖怪《ようかい》アパートでいろんなことを学んで、考え方も行動も変わって、自分への気持ちも長谷への気持ちも充実《じゅうじつ》して、何があってももう大丈夫《だいじょうぶ》だと思っていた。長谷と、アパートのみんながいてくれれば……。その信頼《しんらい》に揺《ゆ》らぎはない。絶対に。
今、わけもなく寂《さび》しいのは、自分で自分が信じられないからだろうか? 今、とても不安定だから? 新しい行が、果たして続けられるんだろうかと不安に思っているから?
「ちぇっ、こんな時に長谷のことを考えるなんて、全然成長してねーじゃん、俺……」
真夏の光が目にしみる。
燃えるような太陽光線を全身に浴びて、気持ちよさそうにしている向日葵《ひまわり》を見ていたら、ふと田代を思い出して、ちょっと笑えた。
「桜庭《さくらば》たちと、海とか行ってるんだろうな」
元気な姦《かしま》し娘《むすめ》たちにも会いたいと思った。
クリが、絵本を持ってきた。
俺は絵本を受け取り、読みかけたが、急に思い立って立ち上がった。
「スーパーマリオやるぞ、クリ!!」
クリは喜んだようだ(クリは口がきけないし表情も乏《とぼ》しい)。ゲームの画面を見るのが好きなんだ。
「行け! この! どうだ! うおおおおお!!」
怒濤《どとう》のようにゲームしまくる俺の横で、画面を見ながらクリは、手を叩《たた》いたり、くるくる回ったり、ゆらゆら揺《ゆ》れたり(踊《おど》ってる?)する。この頃《ごろ》そういう行動をするようになったんだ。
夕飯時まで、俺は脇目《わきめ》も振《ふ》らずゲームをしたおした。クリはいつの間にか眠《ねむ》ってしまった(踊り疲《つか》れたか!?)。親の仇《かたき》のようにゲームをしたおしたせいか、腹の減った俺は夕飯をふつうに食べられた。ホッとした。
るり子さんは俺のために、食べやすくて消化がよくて、かつボリュームのある「ふわふわ煮込《にこ》みハンバーグ」を作ってくれた。ハンバーグを作る時にマヨネーズを加えることで、コクがあり、ふわっとした食感が生まれるんだという。大葉と和風ダレで食べると、いかにも身体にやさしい「和食」という感じがして、ほんのりとしたニンニクの風味が食を進ませてくれた。感謝!
「ああ、やっぱり、人間は食わなきゃダメだー!」
ハンバーグをおかずに白飯をかきこみながら、俺は心底そう思った。脳みそが、身体中が喜んでいる。「飯を食えて嬉《うれ》しい」と喜んでいる! ブルーな気分だったことが、遠い過去のことのように感じられた。
「はぁ〜、まったく俺って単純……」
アサリ入りの蒸《む》し豆腐《どうふ》に感動しながら、大きなため息が出た。
「そうでなきゃ、やってられないデショ。若いうちは」
詩人が笑った。
「身体も心も不安定なんだから、昨日はアッチを向いてても今日はコッチを向いてる。そういうことの繰《く》り返《かえ》しなのヨ。そこで立ち止まってちゃ、迷わない分だけ[#「迷わない分だけ」に傍点]世界は狭《せま》くなるし、もっとしんどいヨ!?」
詩人の言葉が胸に染《し》みた。
迷っていいんだ。悩《なや》んでいいんだと思う。わかっているはずなのに。
やっぱり、迷って悩んでいる時は不安なんだよな。でも……。
『迷わない分だけ世界は狭くなるし、もっとしんどいヨ』
詩人のこの言葉は、とても重い感じがする。特に「もっとしんどい」の部分が。
るり子さんの愛情たっぷりの飯を食い、詩人にお言葉をもらった俺は、ずいぶん元気が出た。明日も、迷って悩む元気が。
翌日も翌々日も、飯が食えない状態はやっぱり続いた。朝飯も昼飯もお粥《かゆ》一|杯《ぱい》ぐらいしか食べられず、元気も出ない。
俺はじりじりと不安を感じながら過ごすしかなかった。ずっと部屋にこもって音楽を聴《き》いていた。本すら読む気になれなかった。音楽に集中して、余計なことを考えないようにしていた。そんな俺を察してかどうかは怪《あや》しいが、フールも「プチ」から出てくることはなかった。
「いつも、なんだかんだ言ってくるくせに……」
重い頭を抱《かか》えて、俺はチラリと机の上の「プチ」を見る。用もないのに、何度もフールを呼びそうになった。でも我慢《がまん》した。それは、俺の「意地」だったんだ。
「くそっ!!」
敷《し》きっぱなしの布団《ふとん》の上で、タオルケットを思い切り蹴飛《けと》ばした。なんだか無性《むしょう》に、何かに当たり散らしたい気分になった。何かを投げ飛ばして粉々に壊《こわ》したい衝動《しょうどう》に駆《か》られる。こんな時は……こんな時は――――――プチ家出に限る。
俺はアパートを出ていった。
真夏の街中を、だるい身体をひきずって、あてどなく歩く。人通りの多い場所を避《さ》けて(チンピラと肩《かた》でもぶつかろうものなら、即殴《そくなぐ》り合《あ》いになりそうだから。いや、それもいいけど)、住宅街を歩いた。
頭からじりじりと太陽光線に焼かれる。汗《あせ》が滝《たき》のように流れる。喉《のど》が渇《かわ》いて引《ひ》きつったけど、止まるな止まるなと自分に言い聞かせた。
そうだ。こんな感覚も久しぶりだった。
まだ博伯父《ひろしおじ》さん家《ち》にいた頃《ころ》、何かつらいことがあると、俺は伯父さん家を出て街を歩き回ったっけ。誰《だれ》かに、何かに当たり散らしたいけど、あの家じゃそんなことができるはずもなく、身体がくたくたになるほど走ったり歩いたりしてから倒《たお》れるように寝《ね》たもんだ。それが今、なんだかすごく懐《なつ》かしく思い出される。
「あれからずいぶん時間がたったような気がするけど……やっぱり、あんまり成長してねぇのな、俺……」
暑さでゆだった頭でぼんやり考えながら、ひたすら歩いてゆく。
どこをどれぐらい歩いただろうか。ふと、見覚えのある道に出た。
「あ、この道を行ったら確か……」
鷹ノ台の港《みなと》公園だった。ここには海水浴場がないので、夏の海とはいえ、クソ暑い日中は人出はまばらだ。公園内で遊ぶ子どもの姿もチラホラしかなかった。とても静かだった。
太陽が海とコンクリを焼いている。海面はギラギラと光っていた。
公園内の水飲み場でぬるい水を頭からかぶり、がぶ飲みした。
日陰《ひかげ》のベンチにゴロ寝《ね》する。足がジンジンと痺《しび》れている。だけど、心地好《ここちよ》かった。イライラは、ぬるい水が流してくれたようだ。汗《あせ》とともに。
波がコンクリを打つ音が聞こえる。逆光に煌《きら》めく海を、小船のシルエットが横切ってゆく。日陰《ひかげ》を磯臭《いそくさ》い風がゆるゆると吹《ふ》き抜《ぬ》けていった。
今、何時だろう? ここからじゃ公園の時計は見えない。
今日も昼の行はしなくていいんだろうか? 秋音ちゃんは、今日はしようかと思っているかもしれないな。アパートに帰ったほうがいいかな。でもまだ、なんとなく帰りたくないな……。
結局、俺は陽《ひ》が傾《かたむ》くまで港公園にいた。
ベンチからようやく身体を起こした時、尻《しり》ポケットに「プチ」が入っていたことに気づいた。
「いつの間に……」
『我々は常にご主人様とともにおりますゆえ』
そういえばフールがそう言ってたっけ。今は、だんまりを決めこんでいるようだが。
「プチ」を見ていると、自然と口元がほころんだ。
「さて、帰るか」
俺は「プチ」を尻《しり》ポケットに突《つ》っこみ、また歩き始めた。
大人たちは、秋音ちゃんも含《ふく》め、俺のそんな状態に特に口を出してくることはなかった。ただ、自分の昔話なんかをしてくれた。
「やっぱりいろいろ迷ったし悩《なや》んだし、バカなこともずいぶんやったぜ」
と告白したのは画家。子どもの頃《ころ》から行け行けドンドンな人生だと思ってた。
「学校のガラス窓を壊《こわ》して回った≠オ、盗《ぬす》んだバイク≠ナも走ったしな」
「尾崎豊《おざきゆたか》ね」
秋音ちゃんが笑った。
「もっとも、中坊《ちゅうぼう》の頃《ころ》の話だがな。高校に入った時には、迷いはなかったね」
「それはどうして?」
「絵に出合ったからさ」
「ああ……」
「もちろん、描《か》けない時もあったし、日本|画壇《がだん》に行《い》き詰《づ》まりを感じたり、海外へ出た頃にもいろいろ苦労はあったけど、俺は絵でやっていくんだと覚悟《かくご》を決めてたからな。悩《なや》みも迷いも苦労も、今じゃ全部いい思い出だ。今、画家でやっていけてなくてもな」
今、画家でやっていけてなくても―――。
ああ、そうだ。そうなんだ。
こういうこと[#「こういうこと」に傍点]は、結果じゃないんだな―――。
「私は、悩《なや》みはともかく、迷いはなかったな。こういう人生を歩むことは、生まれた時から決まっていたようなものだからね。それを知っていた[#「知っていた」に傍点]し」
龍さんは、龍さんらしいことを言った。
「じゃあ龍さんは、どうやって悩みを解決したんスか?」
「明さんと同じさ。どうあっても克服《こくふく》しなきゃ、私の生活も人生も立ちゆかない。克服するしかなかった[#「克服するしかなかった」に傍点]んだよ」
「あたしも龍さんと同じ。小さい頃《ころ》から自分の将来は決めていたわ。だからつらいことも全部|乗《の》り越《こ》えられる。乗り越えなきゃ夢に手が届かないからね。何がなんでも乗り越えてやる! って決めてるの」
「若いっていいよねー。そういうことを考えて実行できるっていうのも、若さだよねー」
詩人がしみじみとお茶をすすった。
「一色さんは?」
「アタシには悩みも迷いもなかったなー」
「やっぱり!」
みんな大笑いした。
「若いうちはなんでも許される。悩《なや》みも迷いも、ムチャもバカも、なんでもやっていいし、なんでもやっちまうもんだ。だが、今の若いヤツに一つ欠けてるものがある。覚悟《かくご》≠ウ」
画家の目が冷たく光る。
「覚悟もない。何を考えてもいない。だが、やることはやる。何も考えねぇでムチャやバカをやる奴《やつ》ぁ、そりゃただのバカだ。まあ、ただのバカも、取り返しのつかないことをしねぇ限り許されるけどな」
覚悟を決め、根性《こんじょう》入れてバカをやってきた画家が言えばこそのセリフの重みが、ずっしりくる。
「やっぱりあれですかねぇ、情報量が多すぎるせいですかねぇ」
「マニュアルも問題ですよー。バイト先でも、マニュアル以外のことは」なんにもしないって子、多いですもん。なんで、ちょっと考えればできるのに、そのちょっとができないのかわかんない」
「想像力は確実になくなってるネ」
「それ! それに尽《つ》きますね」
「ITが普及《ふきゅう》しすぎた弊害《へいがい》だネー」
「親のせいだよ。親はサボってねぇで、もっとガキのケツを叩《たた》けっての!」
「子どもの自由と権利を主張しすぎですよね。子どもは不自由でいいんです」
「言うねー、秋音ちゃん!」
みんなの話題は「教育論」に移ったようだ。
(覚悟《かくご》……。覚悟……か)
みんなの話を聞きながら、俺はさっきの話のことを考えていた。
画家は、絵で食っていくと覚悟を決めていたから、どんな苦労も乗《の》り越《こ》えられた。
龍さんや秋音ちゃんは、小さい頃《ころ》から決まっていた将来のために、何がなんでも苦労を乗り越えなければならなかった。
みんなは俺に、だからお前も覚悟を決めろ、とは言わない。
俺は「何がなんでも魔道士《まどうし》になる」と、覚悟を決めなくていい。
俺は、今の俺の迷いや悩《なや》みや苦労を、「いい思い出」にしたい。画家のように。
それでいいんだ。
今、必死で悩《なや》んで、泣きそうなぐらい迷って、グチをこぼしてブルーになって……。そういう苦労を「肌《はだ》で感じる」こと。俺の「血肉にする」こと。
それでいいんだ。
そして、翌朝。
神呪《しんじゅ》を読み始めた時、それは起こった。
いきなり、スコ――ン! っていう感じで頭の中がクリアになった。
俺はちゃんと神呪を読み続けているけど、俺の心の目は、ブ厚い巨大《きょだい》な雲がゴゴゴと割れて、そこに現れた七色の空を見ていた。
「お……おおお!?」
どこまでも果てしない大空の広さに圧倒《あっとう》される。あまりの美しさに圧倒される。魂《たましい》を抜《ぬ》かれたように、ただ呆然《ぼうぜん》としてしまう。そこへ、大空のはるかに高い高いところから、黄金に煌《きら》めく光の筋が、矢のように降りてきた。それは俺に、ド―――ッ!! っと降りそそいだ。まるで土砂降《どしゃぶ》りのように。
「うおおっ!!」
光の土砂降りは、俺の身体を突《つ》き抜《ぬ》けた。身体の内側まで雨粒《あまつぶ》に叩《たた》かれるような衝撃《しょうげき》だった。
「ハイ、そこまで!」
秋音ちゃんの声で、我に返った。
一時間がたっていた。わずか一、二分にしか感じなかった。
身体中に、黄金の雨に打たれた感触《かんしょく》が残っている。
「どうしたの、夕士くん?」
「秋音さん……俺ちゃんと神呪《しんじゅ》唱えてた?」
「うん。あ、時間が飛んだ?」
俺は呆然としたままうなずいた。
「すげぇ綺麗《きれい》な景色が見えたよ。七色の空から、金色の光が雨みたいに降ってきた……」
「そう」
秋音ちゃんは嬉《うれ》しそうに笑った。
「一段階|越《こ》えたみたいね、夕士くん」
「え?」
「明日からは、もう何時間|修行《しゅぎょう》しても大丈夫《だいじょうぶ》よ、きっと。身体ももとに戻《もど》るわ」
秋音ちゃんの言い方は、確信に満ちていた。予定どおりといったふうだ。
「秋音さん……やっぱり全部知ってて……」
「夕士くんが見たものは、キリスト教的にいうと『天啓《てんけい》』ってやつね。自分の中の限界を超えた時に体感する解放感とか快感とか、そういうものなの。夕士くんが熱心なキリスト教徒だったら、イエス様とかマリア様を幻視《げんし》したかもよ。体重が減ったり身体がだるかったりしたのは、レベルが上がる時に一時的に身体にかかる負荷《ふか》というか、身体が感じるストレスというか、骨が一気に成長すると、骨が痛むっていうよね。あれと似たようなモノね」
やっぱり「セオリー」があったんだ。秋音ちゃんは、やっぱりセオリーにのっとってやっていたんだ。
「なんで言ってくれなかったんだ? 俺、余計な心配しまくったよ」
「夕士くんがこれを乗《の》り越《こ》えられるかどうか、わかんなかったもん」
と、秋音ちゃんはあっけらかんと言った。
「最初に言っといてくれれば、乗り越えるまで我慢《がまん》できたんじゃ……」
「それは乗り越えたとは言わないでしょー」
「じゃあ……俺が途中《とちゅう》で挫折《ざせつ》したら?」
「ん〜、もとのレベルに戻《もど》してカリキュラムを組み直す、かな?」
「…………」
「でも、夕士くんならできると思ってたよ」
「…………」
「覚悟《かくご》決めてたもんね。最初っから」
秋音ちゃんは、大きな目をクリッと、いたずらっぽく動かした。その笑顔《えがお》につられる。
ふと見上げると、二階の窓から龍さんが俺を見ていた。龍さんは、笑顔で親指を立てた。
わかっていたんだ、龍さんも。何もかも。
わかっていて黙《だま》っていた。俺を試《ため》していたのではなく、俺を信じていたから。
俺は、龍さんに向かって親指を立て返した。
「さあ、お風呂《ふろ》に入っておいでよ。今朝はきっと朝ご飯を食べられるわよ」
そうだった。何日ぶりかの、るり子さんのスペシャルモーニング!
「ウス!」
俺は風呂へ走っていった。
身体が軽い。気分は爽快《そうかい》! まさに生まれ変わった気分だ。
と同時に、腹が減ってたまらない俺は、今朝|獲《と》れたての太刀魚《たちうお》の塩焼きを骨までしゃぶり、あなごとミョウガと三つ葉の卵とじを、長イモとオクラの寒天寄せを飲むように食べ、冷やしおからの甘酢《あまず》風味で三回目のどんぶり飯をおかわりし、冷たい蒸《む》し鶏《どり》のサラダは皿までなめた。
至福! 新しい身体にエネルギーが満ちるのを感じる。身体が、飯をエネルギーに変えていっているのを感じる!
「子どもがご飯を食べてる姿っていいよねー。まさに、エネルギーを補給してますって感じがするよねー」
がつがつと(画家に言わせると大食い選手権≠フように)飯を食う俺と秋音ちゃんを、詩人はいつも楽しそうに見ている。
「俺、今まさにそんな気分っス! 食べ物がエネルギーに変わっていってるって感じるっス!」
と言うと、みんな笑った。
その時、みんなと一緒《いっしょ》に笑っていた龍さんが席を立ち、おもむろに言った。
「そろそろ行くよ。またちょっと留守にするけど、後よろしく」
俺は、ハッとした。龍さんは、もういつものジャケットを羽織って出ていこうとしているところだった。
「龍さん、部屋代|払《はら》った〜?」
「はい、払いました。ハイ」
「次はいつ帰ってくるの?」
「さ〜て。夏が終わるまでには、一度は帰ってこられると思うけど。じゃあみんな、夏バテ、夏風邪《なつかぜ》に気をつけてね」
「いってらっしゃーい!」
「龍さん!」
俺は龍さんの後を追って、玄関《げんかん》から裸足《はだし》で飛び出した。夏の朝の爽《さわ》やかな光の中で、龍さんが振《ふ》り向《む》いた。
「龍さん……もしかして今まで、俺のためにいてくれたんスか?」
大大|先輩《せんぱい》は、うなずく代わりに微笑《ほほえ》んだ。
「君の成長を見るのは楽しかったよ、夕士くん。天啓《てんけい》を得られる人間なんて、そういやしない。いい体験ができたね」
「……っ」
俺は、なんだか胸がいっぱいになった。
「君は、望んで魔《ま》を背負ったわけじゃない。その運命の不思議には私も大いに感動するけど、実際は大変なことだ。手助けはいくらでもするよ」
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
「君にその価値があるからさ」
その声のトーンに、俺は反射的に顔を上げた。龍さんの目は、闇《やみ》のように黒かった。
「どんな運命だろうと、周囲がどんな手助けをしようと、それを乗《の》り越《こ》えるのは、結局は本人の意思しかないんだ。否応《いやおう》のない運命に翻弄《ほんろう》される者は大勢いる。それを乗り越えられない者も、もちろんいる。だが、乗り越えようともしない[#「乗り越えようともしない」に傍点]者に、私は手は貸さない」
見たこともない龍さんの表情だった。震《ふる》えがくるような厳しい目をしている。優《やさ》しい、温かいだけの人じゃなかった。優しさや温かさと同じくらい、厳しい部分も持っていたんだ。
龍さんは、その厳しい目をふっと和《やわ》らげた。
「未来はどうなるか、誰《だれ》にもわからない。幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》とは関係ないことでも、君はこれからも、いろんなことで悩《なや》んだり迷ったりするだろう。でも、それが当たり前だからね」
龍さんは、秋音ちゃんのようにいたずらっぽく笑った。俺はまたその笑顔《えがお》につられる。
「迷っても悩んでも、それを乗《の》り越《こ》えようともがき、あがく者には、必ず救いの手が現れる。たとえ、それで問題は解決しなかったとしても、もがくこと、あがくことで、世界は広がってゆくんだ」
俺は、大きくうなずいた。
「とはいえ、魔《ま》を背負った君は、やっぱりちょっとハンデがあるのは確かだ。ひとつ、おまじないをしてあげよう」
「は? おまじない?」
大霊能力者《だいれいのうりょくしゃ》が「おまじない」なんて、なんだか微笑《ほほえ》ましい。
「私の、ここに、もう一つの目があると想像したまえ」
龍さんはそう言って、自分のおでこを指さした。
「おでこに目玉?」
「そう。三つめの目玉だ」
「はあ……お?」
龍さんの顔がいきなり近づいてきた。龍さんは両手で俺の頭を押《お》さえると、ゴンと、おでことおでこをくっつけた。
「イテッ」
顔を離《はな》すと、龍さんはこれまたいたずらっぽく言った。
「これで移った」
「は? 目玉が??」
「そう。何かあった時は、おでこの目で見るようにするんだ。霊感《れいかん》が働くよ」
と、龍さんは笑った。……冗談《じょうだん》? 本気? わからん!
煌《きら》めく朝の光と澄《す》んだ空気に溶《と》けるように、龍さんは去っていった。俺はしばらくその場に佇《たたず》んでいた。
「それは『第三の眼《め》』だね」
と、食後のコーヒーを飲みながら詩人が言った。
「第三の眼!? やっぱり目玉なんスか」
「神秘主義|全般《ぜんぱん》にある考えで、視覚の器官としてじゃなくて『洞察力《どうさつりょく》』の器官として解釈《かいしゃく》されてるんだよ。第三の眼が開眼《かいげん》することによって、心霊的《しんれいてき》な洞察力を得るんだナ」
「……はあ」
「これには、真理を得る、真の実在との合一の達成という象徴的《しょうちょうてき》な意味と、超能力《ちょうのうりょく》を得る、という二つの意味があるみたいだね」
うう、ますますわからない。「真の実在との合一」って何だ?
「仏教的に言えば、悟《さと》りを開くって意味よ」
と、秋音ちゃんが言った。
「あ、そう言われれば、なんとなくわかるような……」
と言いつつ、悟りを開くということがどういうことなのかわからないけど。
つまり、「第三の眼」を得るということは、悟りを開いたという意味であり、超能力を得たという意味でもあるのか。
「ヨガの修行《しゅぎょう》でも、第三の眼《め》を得る修行ってのがちゃんとあるのよ」
「へぇ〜。第三の眼は、おでこにあるんスか?」
「一般的《いっぱんてき》にはそうなってるわね。あと、松果体《しょうかたい》のとこにあるって説もあるわ」
「松果体って?」
「脳の中の、右脳と左脳の間のとこ。退化した視覚メカニズムの名残《なごり》だっていわれてるの」
「へぇ〜っ」
俺は、自分のおでこをさわってみた。ここに目があって、この目で見るようにする……。いまいちよくわからんなあ。
「そうそう。クリたん、上手ね〜」
居間のテーブルの隅《すみ》っこで、クリが画用紙に落書きをしていた。丸い顔のようなものがあって、目鼻らしいものがあって、おでこに目玉らしいものが描《か》かれていた。秋音ちゃんにほめられて、クリの無表情もなんとなく誇《ほこ》らしげに見えるのが笑える。
「ははっ、第三の眼!? じゃあ、それ俺か?」
と訊《き》くと、クリはコクコクとうなずいた。
気持ちのいい夏の朝。何日かぶりで心身ともに満ちたりた気分に浸《ひた》れて、俺はしみじみと幸せだった。
レベルアップした修行《しゅぎょう》の壁《かべ》を、とりあえず突破《とっぱ》できたこと。それよりも、俺が突破するとみんなが信じてくれていたことが嬉《うれ》しい。俺の「覚悟《かくご》」を信じてくれていたことが嬉しい。
俺は縁側《えんがわ》で寝転《ねころ》ぶと、ウーンと伸《の》びをした。
今日も夏の青空が綺麗《きれい》だ。冬の南半球で、長谷も青空の下《もと》、スキーを楽しんでいるだろうか?
「あ〜、俺って単純……」
もういつ帰ってきてもいいぜ、長谷。情けない姿をお前に見られなくてよかったよ。
今は早くお前に会いたい。ちょっとだけ変わった俺を見てくれ。
と思いつつ、俺は気持ちよく寝入《ねい》ってしまった。
「お昼ご飯だよ〜」
という秋音ちゃんの声が遠くに聞こえて、俺はむっくり起き上がった。
「ふわぁ……あー、気持ちよかった。ぐっすり寝ちまったなー」
居間の入り口から秋音ちゃんが顔を出した。
「夕士くん、お昼だよ。……ブハッ!」
秋音ちゃんは俺の顔を見て吹《ふ》き出《だ》した。
「えっ、なんだ?」
「その顔! アハハハハ!!」
玄関《げんかん》の壁《かべ》に掛《か》かっている鏡で見てみると、俺のおでこに目玉が描《か》いてあった。赤い油性ペンで!
「なんじゃ、コリャ!」
振《ふ》り向《む》くと、廊下《ろうか》の角からクリがちょっと顔を出してこっちを見ていた。さてはクリの仕業《しわざ》か。いかにも「イタズラをしました」みたいな顔をしているので、
「こらっ!」
と言ってやると、逃《に》げていった。両手を上げて走ってゆく後ろ姿があんまり可愛《かわい》いので、怒《おこ》る気も失《う》せたけど。
秋音ちゃんも詩人も笑っていた。
「クリがこういうことをするのは珍《めずら》しいねー。イタズラなんて、初めてじゃないのかなあ」
「そうなんスか!?」
「クリたん、この頃《ごろ》活発になってきましたよね」
「やっぱり、歳《とし》の近い子どもがいると影響《えいきょう》されるんだろうねー」
「歳の近い子どもって、誰《だれ》のことっスか」
その日から、あんなにつらかったことが嘘《うそ》のように、俺は二時間に増えた朝行をなんなくこなせるようになった。前の経文《きょうもん》を読んでいた時と同じように「時間が飛ぶ」ようになったんだ。
いや、まるっきり同じでもないな。前の昼行で般若心経《はんにゃしんぎょう》を読んでいた時のように、俺の意識は、文字となって俺の頭や身体の中をぐるぐる舞《ま》う神呪《しんじゅ》とともに、ぐるぐる回ったりゆらゆら漂《ただよ》ったりした。時折、七色の空が見えたり、金色の光が見えたり、海が見えたりした。
朝行の後はやっぱり疲《つか》れるけど、ブルーになることもなく食欲がなくなることもない。その代わり、この新しい行を始めた時の、エネルギーが身体に満ちるような、集中力や「意欲」が湧《わ》くようなこともなくなった。なんだか、すべてが落ち着いたみたいだ。
「意欲のあるうちに、夏休みの宿題をやっといてよかったなあ!」
俺はごくごく小市民的にそう思った。
「ご機嫌《きげん》うるわしゅう、ご主人様」
夜。寝《ね》ようとすると、フールが現れた。
「よう、フール。久しぶりだな」
「ほんの少しご無沙汰《ぶさた》している間に、また一段とオーラの美しさを増されて……。優《すぐ》れた主《あるじ》に仕えることができ、僕《しもべ》としてこれほど幸せなことはありません」
フールはことさらおおげさにお辞儀《じぎ》した。頭が足先につきそうだ。俺は苦笑いした。
「ずいぶんおとなしかったなあ、フール。いつもは邪魔《じゃま》なくらいウジャウジャ言ってくるくせによ」
と、俺は皮肉を言ってみた。フールは、ちょっと肩《かた》をすぼめた。
「わたくしとて、ご主人様にお声の一つでもおかけしたかったのでございますが、ご主人様は懸命《けんめい》に精神集中をしていらっしゃるご様子でした。その邪魔をしてはならじと、私《わたし》め、自分の指を噛《か》んで必死で耐《た》え忍《しの》んでおりました次第《しだい》でございます」
「ぶふっ!」
その言い草に吹《ふ》き出《だ》すしかない。
「ご主人様におかれましては、修行《しゅぎょう》の甲斐《かい》あって何倍も霊力《れいりょく》を高められたご様子。わたくしども僕《しもべ》一同、その力をひしひしと感じております」
「へ、へぇ!?」
おおげさにしても、ちょっと嬉《うれ》しいな。俺の修行のレベルアップは、この「プチ」の力を高め、より確実にコントロールするためのものだから、こいつらにレベルがアップしていると言われるということは、まさに修行の成果が上がっていると保証されたようなものじゃないか。
「万能《ばんのう》の精霊《せいれい》ジンもようやく力を回復し、かつ力を増しておりまする。どうぞなんなりとお申しつけくださいませ」
「プチ」と出会った時、一番初めに呼び出した魔物《まもの》、「アラジンの魔法のランプ」で知られる万能の精霊ジン。俺が思わず「金!」と言った願いに対し、たった五百円ポッキリをひねり出して力を使いきった非力な万能の精霊だ。
今は、どれぐらいの願いをかなえることができるんだろう? 俺はすごく興味があったが……やっぱりやめておいた。
「いざって時のためにおいておくよ」
フールは、またまた頭が足先につきそうなぐらい大きくお辞儀《じぎ》した。
「御意《ぎょい》」
俺は、布団《ふとん》の上に寝転《ねころ》がった。今日も気持ちよく身体が疲《つか》れている。きっとよく眠《ねむ》れるだろう。
「それではいかがでございましょう、ご主人様? 久しぶりにシレネーの歌でもお聴《き》きになりませんか。ご主人様のおかげをもちまして、シレネーが歌える歌も増えましてございます」
「えっ、マジで!?」
『小《プチ》ヒエロゾイコン』の「節制」のページを開く。
「シレネー!」
開いたページから青白い放電が起こり、机の上に落ちる。そこに、小鳥の姿をした人面鳥《ハルピュア》が現れた。歌が得意な精霊《せいれい》だ。
「さあ、シレネー。覚えたばかりの歌をご主人様に聴いていただきなさい」
俺は、これには期待した。俺の力が上がったことを具体的に見られるからだ。
「ん〜♪」
と、シレネーは歌いはじめた。
「ん〜んん〜〜〜んんん〜〜〜ん〜んん〜♪」
シレネーの歌は、やっぱり意味のわからない鼻歌のような歌だった。でもこの旋律《せんりつ》、どこかで聴《き》いたような……。
「何をおっしゃいます、ご主人様。ご主人様がいつも聴いていらした歌ではありませんか。タイトルは確か……『First Love』でしたか」
「これ、宇多田《うただ》ヒカルかよ!?」
ということは、やっぱり「鼻歌」かよ!!
「シレネーはほかにも、『浜崎《はまさき》あゆみ』が歌えると申しております」
歌えてねぇだろ!!
「もういい……。おやすみ」
俺は「プチ」をパタンと閉じた。
「やれやれ」
何が天啓《てんけい》やらレベルアップやら。なんだかスゴイ経験をしたわりには、俺って奴《やつ》は、やっぱりあんまり変わっていないようだな。これじゃ万能《ばんのう》の精霊《せいれい》ジンの力も、ちょっぴり上がって七百円ってとこか。
そう思ったら、とてつもなく笑えてきた。俺は布団《ふとん》に突《つ》っ伏《ぷ》して、吐《は》き気《け》がするくらい大笑いした。
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身体の底から出る言葉
と、修行《しゅぎょう》が一段落したところで、怒濤《どとう》のように忙《いそが》しい夏が始まった。今日からほぼ毎日バイトバイトだ! バイトが休みの水、金は修行日だから、休みという気がしない。
運送屋のバイトは朝八時から夜八時までフル稼動《かどう》。時々残業(何? 労働基準法に違反《いはん》してないかって? 関係ねぇよ)。俺の仕事は荷物の整理と伝票付け。配送や引《ひ》っ越《こ》しのアシストもする。
「おはようございます! 稲葉、今日から入ります!」
「おー、稲葉。来たか」
「久しぶり〜」
事務所の入り口で一礼すると、拍手《はくしゅ》が起きた。
「あれ〜、なんかずいぶん痩《や》せたみたいだねぇ、稲葉くん」
「は、いや。七月中いろいろあって。でも全然|大丈夫《だいじょうぶ》ス!」
「うんうん。お前はエライよ〜」
「も〜、おおげさっスよ」
「七月に入ったバイトが、もうやめやがってヨ」
「バタバタ三人もだぜ」
「えっ、そうなんスか!?」
終業式の後ここへ挨拶《あいさつ》に来て、その時は確かにバイトは五人いた。
「アレは最初っからダメだと思ってたよ。バイト代が高いからってだけで、気安く来やがってよ」
正社員のオッサンたちは、苦々しく煙草《たばこ》をふかした。
「平気で遅刻《ちこく》してくるし、制服はだらしなく着るし、注意したって聞きゃあしねぇ」
「あげくがプイッとやめちまった。荷物の整理すらできんってか!?」
「はぁ」
「しかもだなあ、稲葉。そんなクソでも、バイトなんだから時間給を稼《かせ》いでるわけだ。なのにやめちまったら、その金も取りに来ねぇんだぜ。どーよ、コレ?」
「わっかんねぇよなあ。いまどきの若い奴《やつ》ぁ、何がしたいんだか」
「そっスねぇ……」
あの時、社長や専務やオッサンたちの態度、そしてバイトたちとの間に漂《ただよ》っていた妙《みょう》な感じはこれだったのか。
新入りが仕事に慣れるまでは、雇《やと》う側も雇われる側もいろいろ辛抱《しんぼう》しなきゃならないもんだが、それでもこの会社の人たちは我慢強《がまんづよ》いし、理解も度量もある人たちだと思う。そういう人たちにこうまで言わせるって、いったいどんな奴らだったんだ、そのバイトどもは。
「おめぇの爪《つめ》の垢《あか》でも飲ませてやりてぇよ、稲葉ぁ」
「お前はエライよ〜」
働くオッサンたちは、やはり同じように「働く人間」が好きだ。さらに、俺が「苦学生」で「体育会系」なのも、オッサンたちには好ましいみたいなんだ。その最たるのが、うちの社長である。
「おお、夕士! やっと来たか!!」
剣崎社長のごつい手が、俺の背中をバンバン叩《たた》いた。
「いつもシフトのわがままをきいてもらって、ありがとうございます、社長」
「いやいや、いいんだいいんだ。お前のわがままを少々きいてやったところで、文句を言う奴《やつ》ぁ、うちにゃあ一人もいねぇ。そりゃあ、おめぇの人徳ってもんだ」
「いや、ハハ」
「まったく近頃《ちかごろ》の若い奴ときたら、まったくわけわかんねぇよ!」
自分で面接したバイト五人のうち三人が「クソ」だったわけだから、社長の面目は丸つぶれに近かった。
「そんなにダメだったスか? やめたバイト」
社長の渋《しぶ》い顔が、不細工に歪《ゆが》んだ。
「話にならん」
「面接じゃ、特に変なとこはなかったんだがねぇ」
専務も首をかしげる。
「そりゃあな、おめぇみてぇにハキハキとしたとこはなかったよ。こう……確固たる目的意識ってやつもな。しかしまあ、夏休みだけのバイトだし、遊ぶ金が欲《ほ》しいだけの今の若い奴なら、あんなものかなあと思ったんだ」
「なんも考えてなかったんだよ」
「そーそー。この仕事のなんたるかとか、なあーんも考えてなかったのヨ。ただ給料がいいから行ってみるかあ〜ってだけで来るんさ。ダメならすぐやめりゃいいもんな〜ってノリさ。この頃《ごろ》の奴《やつ》ぁ、そういうこと平気でするのな。もちっと考えろよと思うけどな」
「仕事に来たって、倉庫の入り口でボ―――ッと突《つ》っ立《た》ってさあ。こっちが指示しない限り、自分が何をするのか質問さえしねーの! で、いちいちアレしろコレしろって言わなけりゃ、台車一台動かさねえ。おめーはロボットか、つーの!」
ここぞとばかり吐《は》かれるオッサンたちの文句を、煙草《たばこ》をふかしながら社長は面白《おもしろ》くなさそうに聞いていた。剣崎社長は、部下たちの文句をすごくよく聞く人だ。
「遅刻《ちこく》は平気でするくせに、終わる時間には正確だったよなあ」
「ワハハハハ! そうだったそうだった」
「やりかけの仕事があんのに、ハイ、終わり! だ。バイトですからって。じゃあおめぇ、遅刻してくんなよって言ったら、遅刻した分バイト代から引かれるからいいじゃないですかって、こうだぜ!?」
「体力ねぇしなあ」
「いきなり次の日休んでさあ。筋肉痛で、だと。ふざけんじゃねぇって。仕事なめんじゃねぇよ!」
龍さんや画家たちが「教育論」を話していた時のことを思い出した。
あの時、俺は別のことを考えていたけど、「情報量が多すぎる」ことや、「想像力がない」という言葉が印象に残っている。秋音ちゃんも言った。「ちょっと考えればできるのに、そのちょっとができない」と。
「ほんっとに根性《こんじょう》がねぇ!」
「今の時代、根性って言ってもねぇ」
「時代なんか関係ねぇよ」
「そーだそーだ」
画家も言っていたな。「覚悟《かくご》がない」と。
「今の日本じゃ、根性がなくてもやっていけるっスからね。物も情報もいっぱいだから、根性入れなくてもすぐ手に入るし」
と、俺が言うと、オッサンたちは「働く男の顔」をますます歪《ゆが》ませた。
「楽でいーねえ」
社長が皮肉っぽく言った。でも、確かに楽かもしれないけど……。
「でも、それって楽しいんスかね?」
と、俺は思わず言った。社長や専務やオッサンたちが、いっせいに俺を見た。
「あ、いや。楽なことと楽しいことは違《ちが》う……っしょ?」
俺だって別に、このバイトをスキップするほど楽しくやってるわけじゃない。でも仕事はキツくても、俺は職場の人間関係に恵《めぐ》まれている。これは重要なポイントだろう!? 身体を動かすことも好きだし、金を稼《かせ》ぐのは将来のためだっていう目的もある。自分のやってることが納得できるし[#「納得できるし」に傍点]、充実している[#「充実している」に傍点]んだ。
バン! と、俺は社長に背中を思い切り叩《たた》かれた。
「ゲホッ!」
「おめぇの言うとおりだ、夕士! 俺は今、なんであのクソガキどもを雇《やと》っちまったかがわかったぞ!」
「はあ」
「顔だよ、顔!」
社長は俺を抱《だ》き寄《よ》せると、ほっぺたを思い切りひっぱった。
「イデデデ!」
「あいつらはな、表情がねぇんだよ。目の色も全然変わらないんだ。こっちが何か質問するじゃねぇか、例えば、バイトして何したいんだとか、今までどんな仕事したか、とか。あいつらな、何を答えても同じ顔だった……!」
社長の話を、オッサンたちも興味深そうに聞いていた。
「バイトした金でDVDを買いたいんだって言う顔も、飯屋でバイトしてたけどすぐやめましたって言う顔も、仕事がんばりますって言う顔も、みんな同じでな。DVDを欲《ほ》しいって顔じゃねぇし、バイトをすぐやめてバツが悪いって顔でもねぇし、まして、がんばりますって顔じゃ全然なかったぜ」
専務がフンフンとうなずいている。
「ふつう、目の色や顔に表情はあらわれるもんだ。チラチラでもな。口が達者でも、ダメな奴《やつ》はダメな色があらわれるもんなんだ。あいつらは……それすらなかったんだ」
社長は、みんなの顔を見渡《みわた》してから俺を見た。
「あいつらは、普段《ふだん》どうしているんだろうなぁ、夕士? 楽しいことも、苦しいこともないのかな?」
「…………」
「それは楽かもしれんが、楽しかぁないよなあ」
社長はしみじみと言った。俺はうなずいた。
「みなさん、いつまで事務所にいるつもりですか?」
経理の島津姉さんの鋭《するど》い声が、しみじみとした空気を切《き》り裂《さ》いた。オッサンたちがいっせいに立ち上がる。
「ハイッ! すいません!!」
俺も含《ふく》め、みんながバタバタと仕事をし始めた。島津姉さんを怒《おこ》らせてはいけないのだ。会社を支える要《かなめ》だからだ(怒ると恐《こわ》いし)。
「社長は早くたまった書類を処理してください。昨日の分もまだできていないんですよ!?」
「ハイハイ! 今すぐします。今すぐ!」
さすがの剣崎社長も姉さんには逆らえない。親子ほど年が違《ちが》うのにな。自分の娘《むすめ》みたいな島津姉さんに頭が上がらないところも、社長の魅力《みりょく》の一つだと思う。
倉庫に向かいながら、俺はみんなに訊《き》いてみた。
「五人のうち三人がやめたってことは、二人は残ってるんスか?」
「おお。似たような年の奴《やつ》らだけど、この二人はまだ続いてるぞ。地味にな」
「地味に!?」
午後から夜のシフトで、「残り二人のバイト」がやってきた。
その二人、佐々木《ささき》と川島《かわしま》の前に行き、俺は帽子《ぼうし》をとって頭を下げた。
「稲葉夕士ス。水、金以外、昼のシフトで入ります。しゃっス!」
二人は、黙《だま》ってちょっと頭を下げた。まるで、俺にそんなふうに丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》されるのが不思議だというような顔をしていた。俺は「お前らも名前ぐらいは言えよ」とは思ったが、名前ぐらいは言わなきゃってことに気づいていないんだとわかった。
佐々木も川島も、確かに「地味に」働いた。口数は極端《きょくたん》に少なく、オッサンらとだけじゃなく、年の近い俺とすらコミュニケーションをとろうとしない。いやコミュニケーションどころか、目も合わせない。言われたことはきっちりやるほうみたいだが、それ以外の指示をあおぐとか、わからないところを訊《き》きに来るということをしない。だから仕事の能率は決していいほうじゃなかった。
オッサンらはよく辛抱《しんぼう》していると思う。どうせ夏休みだけのバイトだからってのもあるんだろうけど。でも、剣崎社長の言葉を借りれば「顔にも目にも表情がない」けど、この二人はそのうちなんとかなりそうな感じはした。コミュニケーションを嫌《いや》がっている感じじゃないからだ。苦手なだけなんだ。もっとも、俺だってコミュニケーションは苦手なほうだから、無理に仲良くしようなんて思わないけどな。
倉庫で荷物の整理をしながら、俺たちは必要最小限のことしかしゃべらず(もちろん仕事中にベラベラしゃべるわけはないんだけど、軽く世間話なんかしながらだと、かえって仕事の効率が上がる時もあるし、オッサンたちはやっぱり、若い奴《やつ》にはアレやコレや訊《き》きたいし言いたいもんだ。とくにここの職場はみんな仲がいいからよくしゃべる)、休憩《きゅうけい》の時も夕飯の時も、二人ともちょっと離《はな》れて一人でいるのを放《ほう》っておいた。二人は休憩中、ずっとメールをしていた。
その様子を見ながら、俺もオッサンたち同様「やれやれ」と思った。
「親しい人以外と話すのは苦手」ってのはすごくよくわかるけど、ここは学校じゃなくて職場だ。苦手だからってコミュニケーションをとらないわけにはいかないのに。
ただ、オッサンたちが缶《かん》コーヒーをおごってくれた時、俺が持っていったコーヒーを受け取って、二人は「ありがとう」と言った。俺が「みんながおごってくれた」と告げると、二人はちゃんとみんなに向かってお辞儀《じぎ》をした。そして、冷たいコーヒーを一気に飲み干した俺たちは、そのうまさに思わず、初めて笑い合った。
「いい〜〜〜話だねぇ!」
詩人と佐藤さんがため息をついた。
バイトから帰って風呂《ふろ》に入って二度目の夕飯を食いながら、俺はアパートのみんなに今日の出来事を話していた。
「若いっていいねー。青春してるなー」
と詩人が言えば、
「人間っていいね〜」
と、佐藤さんが言う。佐藤さんは「人間になりたかった」妖怪《ようかい》で、ずっとずっと、もう何十年も(何百年も?)、人間としていろんな会社を渡《わた》り歩《ある》いている。現在は大手|化粧品《けしょうひん》メーカーで経理課長をお勤め中だ。
「その子たちは、コミュニケーションを身体で勉強したんだよね〜。なんだか泣けるな〜」
人間大好き佐藤さんは、嬉《うれ》しそうに細い目をさらに細めた。
「真夏の熱気の中で、次から次へやってくる荷物をさばいて汗《あせ》だくになって、そこでおごってもらった冷たいコーヒーに二人が言った『ありがとう』は、身体の底から出てきた言葉なんだよ〜。真実の言葉だよね〜。そして、コーヒーのうまさに思わず笑う……。これも、真実の笑顔《えがお》だよね〜」
「言葉は、身体がともなってなきゃ[#「身体がともなってなきゃ」に傍点]ダメだよねー」
と、言葉のプロが言う。
「おっ……しゃるとおりです!! 一色さん!!」
佐藤さんと詩人は、ガッシリと握手《あくしゅ》を交《か》わした。
「今は、何も知らない子が増えている。情報がありすぎて、知ってるつもりになってるだけで、実はなぁ〜んにもわかっていない子。その子たちは、学び方も知らない。学ぶ前に、膨大《ぼうだい》な情報の中に放《ほう》り出《だ》されちゃうからね。でも情報だけはあるから、そこからチョイスする。それで自分が作られた[#「自分が作られた」に傍点]と思っちゃうんだネ。ものすごい勘違《かんちが》いだよね。本当の自分というものは、そのバイトの子たちのように、少しずつ体感して、積み重ねて積み重ねて作ってゆくしかないものなのにネ」
「身体から出る言葉か……」
「メールならではの会話ってのもアリだよ。おいらも会社の若い子たちとメル通してるさ。でもやっぱり、基本に生の会話がなきゃあねぇ」
「今の子は、生の会話に慣れてないよねー」
詩人も佐藤さんも肩《かた》をすくめた。俺はメールもパソコンもしないから、この話はいまいち実感ないけどな。
「夕士クンと長谷クンは、中学を卒業する時に殴《なぐ》り合《あ》ってお別れしたんだってね。素晴《すば》らしいコミュニケーションだよねー。まさに身体を張った会話!」
「信頼《しんらい》し合ってないとできないよね〜」
詩人と佐藤さんが大笑いした。俺も笑った。その長谷が、もうすぐ旅行から帰ってくる。楽しみだ。
あくる日から、俺は大学生バイト二人の「コミュニケーション係」を仰《おお》せつかった。俺をワンクッションにして、オッサンらと大学生のコミュニケーションをスムーズにしようという社長のアイデアだった。
「やっぱり若いもんは若いもん同士だよ!」
と、社長は言う。
オッサンらは、大学生二人への命令をまず俺に言って、それを俺が二人に伝えるという具合だ。俺は自分の仕事をしつつ、オッサンらに呼びつけられて、奴《やつ》らにあれをさせろ、これをさせろと言われてそれを伝えに走るんだ。ああもう、ただでさえ忙《いそが》しいのによぉ。俺だってコミュニケーションは苦手なんだって!
しかし、それがかえって大学生たちにはよかったらしい。
俺たちはお互《たが》いに、必要最小限にちょっと毛が生えたぐらいの会話しかしなかったが、その馴《な》れ馴《な》れしくないところが(オッサンたちはどうしても馴れ馴れしくしてしまう)、二人には楽だったみたいだ。
仕事中、私語は一切なかった俺たちだけど、やっと休憩《きゅうけい》になって頭から水をかぶって汗《あせ》を流して、さあ夕飯(夕飯は会社が仕出し弁当を出してくれる)となった時、
「飲み物買ってくる。なんか……いる?」
と、川島が声をかけてくれた。初めて。向こうから。
「あ……、お茶をお願いしまっス。ペットボトルのやつ」
川島は黙《だま》ってうなずいて、もう一人の佐々木と連れ立って行った。
そして俺たちは、倉庫の隅《すみ》で三人並んで弁当を食べた。黙って。それは嫌《いや》な沈黙《ちんもく》じゃなかったから、俺もあえて話しかけなかった。ただ、向こうで固まって食事中のオッサンらが、しゃべり合い笑い合うのを、ちょっと羨《うらや》ましいというか「楽しそうだなあ」って感じで見ていた。それは、川島も佐々木も同じみたいだった。オッサンたちのバカ話に、飯を食いながらフフッと口元をほころばせていたから。
でも飯を食い終えると、二人ともメールをし始めた。二人ともメールじゃよくしゃべる[#「メールじゃよくしゃべる」に傍点]みたいで、すごい速さですごい量のメールをやりとりしていた。なんで、この十分の一でも俺たちとしゃべれないかなと思うが。親しい友人とは、ちゃんとしゃべってんのかな? それともやっぱり、親しい友人とも「生」で話すのは苦手なんだろうか?
『今の子は、生の会話に慣れていない』―――昨夜《ゆうべ》詩人が言った言葉が思い出された。
思ったことをうまく伝えられないとか、さり気ない会話ができないとか、それは誰《だれ》だってあるだろうけど、それがメールならできるって、どーよ? と思う。なまじメールでならできちまうから、それに頼《たよ》っちまうんじゃないか? そしたら、ますますメールでしかしゃべれなくなっちまわないか? 携帯《けいたい》もパソコンも持っていない俺は、単純にそう思ってしまう。
川島や佐々木を見ていると、本当はちゃんとしゃべれるし、話題もあるんだろうと思う。そしておそらく社交性もある。そこんとこ、俺と違《ちが》って。でも、メールじゃあんなにしゃべるのに、いざ「その他の人」を前にすると、とたんに何も言わなくなってしまう。親しくない人と話すのは苦手というか、面倒《めんどう》くさいというか……。そう。「生の会話に慣れていない」のかもしれない。やっぱり。
だけど、社会へ出たらそうはいかない。社会生活で最も重要なものの一つが、コミュニケーション力だからだ。初対面の人とでも、好きでもない人とでさえコミュニケーションをとらなけりゃならない。
俺は中一の時、両親が死んだ時から嫌々《いやいや》それをやってきた。当然うまくやれたとは思っていない。長谷がいたから……そして妖怪《ようかい》アパートへ来てやっと、人と「会話すること」の楽しさや、そうすることによって「自分が作られてゆく」重要性を体感してる。
だから、詩人が言ったことが身にしみてよくわかる。こういうことは、
『誰《だれ》も教えてくれない。実践《じっせん》で体感して、少しずつ積み重ねてゆくしかないんだ』と。
「お疲《つか》れっス! お先に上がりまっス!」
バイトを終えて、俺は二人に帽子《ぼうし》をとって挨拶《あいさつ》した。二人はつられるように帽子をとり、頭を下げ「お疲《つか》れス」と言った。
事務所でタイムカードを押《お》そうとしていた俺に、オッサンの一人がそっと耳打ちしてきた。
「休憩《きゅうけい》の時ぐらい、あいつらのお守《も》りはいいから、俺らと弁当食えよ、稲葉」
オッサンたちは、俺を気遣《きづか》ってくれたんだ。あいつらとじゃ、しゃべることもなくつまらないだろうと。でも俺は、軽く首を振《ふ》った。
「大丈夫《だいじょうぶ》ス。俺たち、ちょっとずつ前進してるス」
「へえ?」
「だからみんなも、ちょっとずつでお願いしまっス」
「お? おう」
「はぁ〜、今日もよく働いたぜ」
蒸《む》し暑《あつ》い夏の夜空を見上げたら、汗《あせ》が顎《あご》を伝った。早く涼《すず》しいアパートへ帰って温泉に入ろう。俺は、空になったドカ弁を振り回した。箸《はし》がカタカタ鳴った。
「お仕事お疲《つか》れ様《さま》でございます、ご主人様」
リュックの横ポケットから、フールが小さな顔を覗《のぞ》かせていた。
「おう」
「何やら大変オーラが美しく輝《かがや》いて見えます。お身体もお気持ちも充実《じゅうじつ》していらっしゃるご様子。お仕えする者として嬉《うれ》しい限りでございます」
通りすがりの人に気づかれないよう、俺は笑いを噛《か》み殺《ころ》した。
身体も気持ちも充実してる――そのとおりだな。身体は疲《つか》れているけど、気持ちいい疲れだし、仕事はちゃんとやれたし。
「さすがよくわかってるじゃないか、フール」
小声で囁《ささや》いてやると、フールはオペラ歌手のように胸の前で手を組んで言った。
「それはもう! 我らご主人様の忠実なる僕《しもべ》でありますれば、ご主人様のお気持ちを察するなど、朝飯前でございます!」
「ぶはははっ!」
堪《こら》えきれず笑った俺は、周りに変な目で見られてしまった。いかんいかん。でもまあ、ほとんど「出番」のない僕たちのことも気遣《きづか》ってやらなきゃな。
それから二、三日が過ぎたある日だった。
夕方になって、一度に三百個もの荷物が集中した。それを大急ぎで仕分けて、大急ぎで配送しなければならなかった。
間の悪いことに病欠で二人も手を欠いていて、俺たちは次々と津波《つなみ》のように押《お》し寄《よ》せる荷物に、なかば呆然《ぼうぜん》としてた。が、呆然とするヒマさえない!
「急ぐのは当然だが、荷物は手荒《てあら》に扱《あつか》うなよ!」
ネクタイを外しシャツの袖《そで》をまくりあげ、俺たちと一緒《いっしょ》になって荷を運ぶ剣崎社長の檄《げき》が飛ぶ。
「ウィッス!」
とにかく、まずは仕分けだ。伝票と顔を突《つ》き合《あ》わせ、送り先や商品番号などを確認《かくにん》しながら荷を振《ふ》り分《わ》ける。それを次々とトラックの荷台へ運びこんでゆく。
社長以下オッサン連中、そして川島も佐々木も黙々《もくもく》と、流れる汗《あせ》をぬぐう間も惜《お》しんで働いた。そして俺たちは、山のような荷物をなんとか時間内に発送することができたんだ。
「いってらっしゃ――い!」
配送トラックを見送ると、腰《こし》が抜《ぬ》けそうだった。川島と佐々木は、倉庫の隅《すみ》でへたりこんでいた。
「とりあえずよくやった、みんな! ごくろーサン!!」
仁王立《におうだ》ちで豪快《ごうかい》に笑う剣崎社長も全身|汗《あせ》まみれで、ワイシャツもズボンもべったり体に貼《は》りつき、ずぶ濡《ぬ》れだった。
島津姉さんが、大きな金ダライに氷水を張り、その中にお茶や缶《かん》コーヒーを冷やしたものを、台車に載《の》せて運んできた。みんな目をハートにして飛びついた。島津姉さんが女神《めがみ》に見えたぜ。冷えたコーヒーがうまいのもそうだが、氷水を頭からかぶる気持ちよさがたまらん!
「あ〜〜〜……っ!」
全員、まるで温泉に浸《つ》かったような声が出た。川島も佐々木も、氷水にひたひたに浸《ひた》したタオルで顔や首筋を撫《な》でては、とろけそうな顔をしていた。
「イヤ〜、みんなスマンなあ。知り合いに無理に頼《たの》まれてな」
社長は頭をかいた。
「アー、やっぱり。そんなこったろうと思いました」
オッサンたちは笑った。
「だが、これであいつに貸しができたぜ。ワハハハ!」
と、社長はアイスコーヒーをうまそうにグビグビ飲んだ。
「さァ、今日の発送は全部終わったし、ちょっと早いがみんなもう上がっていいぞ。バイト組はちゃんと時間どおりつけてやるから、タイムカードは押《お》すなよ」
川島と佐々木は喜んだ……というより、「え? そうなの?」という顔をした。それから、
「ありがとうございます」
と、頭を下げた。そのちょっとズレたリアクションに、大人たちは苦笑いだ。
「お、夕士。お前もフルでつけてやるからタイムカード押すなよ。もう残業になってるしな」
「ウス! ごっつあんです!」
俺はビシッと背筋を伸《の》ばしてから、深く頭を下げた。
充分《じゅうぶん》働いて、その働きを認めてもらう。川島と佐々木は、少しはそれを体感できただろうか。少なくとも二人の表情はリラックスして、疲《つか》れを心地好《ここちよ》いと感じているふうだった。
生身で感じる[#「生身で感じる」に傍点]ことが重要であり、喜びなんだよな。
しかし――。その翌日のことだった。
川島や佐々木らが出勤してきたのを見計らったように、社長室にこもりっきりだった社長がやってきて言った。
「みんな、昨日はごくろうさんだったな。荷物は無事、指定どおりに運ばれて、お客は一応喜んでくれた。だが、仕事ぶりは百パーセントとはいかなかったようだ」
静かな口調だった。これは、ちょっと深刻なことじゃないかと思った。
「荷の到着《とうちゃく》が遅《おく》れたんですか?」
との質問に、社長は首を振《ふ》った。
「天地無用の荷物が、逆さに積んであった」
全員、ハッとした。
オッサンらも目が泳いだり顔を見合わせたりして、そんなヘマをやったっけ? と、必死で昨日の自分に思《おも》いを巡《めぐ》らす。俺も、記憶《きおく》の糸を懸命《けんめい》にたぐった。
天地無用の荷物はいくつかあった。それは覚えている。それを逆さに積むなんてことはしていないはずだ。でも、ことさら気をつけたかと訊《き》かれれば、当然だ! ……とは言えないような。だって、天地無用を逆さにしないなんてことは、当然すぎて無意識でやっていることだからだ。その無意識にスキができることはありうる。
そのうち、オッサンの一人が川島と佐々木に言った。
「オイ。お前らだろ、天地無用の荷を仕分けていたの」
川島と佐々木は、戸惑《とまど》うように黙《だま》っていた。お互《たが》いにチラチラと目線を交《か》わし合《あ》い、もごもごと口の奥《おく》で言葉を探しているようだった。
「どうした?」
そして、おずおずと川島が言った。
「あの…………天地無用って、なんですか?」
「!?」
「はあぁ!?」
社長以下、オッサンたちは絶句した(俺もだけど)。
ちょっと……いや、だいぶびっくりした。「天地無用」という言葉と意味は、当然知っているものと思いこんでいた。特に、バイトとはいえこういう仕事をしている以上は。天地無用の荷物は毎日あるってわけじゃないけど、あって当然のものだからだ。っていう以前に、天地無用って一般常識の範囲内《はんいない》の言葉では?
「そうか―――」
と、社長が眉間《みけん》にシワを寄せた。その時、
「申しわけありませんでした、社長!」
と、頭を下げたのは、ヤマさんこと山科《やましな》さんだった。
「こいつらに、天地無用の意味を教えていなかったのは俺の責任です。お客様と会社にご迷惑《めいわく》をおかけして、本当に申しわけありませんでした!」
ヤマさんと俺たちバイト組は、昨日|一緒《いっしょ》に荷分け作業をしていた。いわば俺たちの上司ってわけだ。そのヤマさんに謝《あやま》られちゃあ、バイトとのコミュニケーション係を仰《おお》せつかっていた俺も、突《つ》っ立《た》ってはいられない。
俺は帽子《ぼうし》をとり、ヤマさんの隣《となり》に並んで黙《だま》って頭を下げた。それを見て、ちょっとタイミングは遅《おそ》かったものの、川島も佐々木も帽子をとって頭を下げた。
「む〜……」
社長は、鼻から大きく息を吐《は》いた。
「ま、天地無用の荷物が、全部逆さになってたわけじゃねぇ。ほんの五、六個だ。損害も少なかった。それは不幸中の幸いだった。だが次からは、こんなことのないようにしてくれや。頼《たの》むぜ」
そう言って、社長は社長室へ戻《もど》っていった。
専務がやさしく言った。
「さあさあ、仕事を始めよう、みんな」
「ウィーッス」
みんなは、何事もなかったように仕事を始めた。
まだ事態を充分呑《じゅうぶんの》みこめていないらしい川島と佐々木に、ヤマさんは言った。
「天地無用ってのはな、荷物の上下を逆さにしたらイカンっていうサインなのさ。赤いシールで、でかでかと貼《は》ってあったろ!?」
二人は、思い出しながらうなずいた。
「わからんこととか、変だなって思うことがあったら、エンリョなく質問してくれや。な。稲葉にでも訊《き》きゃあいいから。な」
二人は「ハイ」と言った。でもその言葉は、納得《なっとく》がいったふうでも反省がこめられているふうでもなかった。まだ戸惑《とまど》っている感じだった。
ヤマさんも他のオッサンたちも、もちろん俺も、それ以上は何も言わなかった。いつもと変わらず働き、いつもと変わらず夕飯を食った。
でも、夕飯を食い終わろうかという時だった。佐々木が話しかけてきた。
「あのサ……。損害が出たって言ってたよな。あれ、やっぱり俺たちが払《はら》わなきゃならないのかな?」
気にかけるとこは、そこかよ? とは思ったが。
「そんなミミっちいこと、あの社長がするはずないっしょ。心配いらないっスよ」
と言ってやったら、佐々木はホッとしたようだった。それからちょっとバツが悪そうに言った。
「天地無用ってなんだろうなーとは思ったんだけど……訊《き》こうとまでは思わなかったんだ」
「はぁ」
まったく、そこ[#「そこ」に傍点]が厄介《やっかい》なところだ。こういう奴《やつ》らには、どう話せばいいんだろう。
「俺が、小学生の時のことなんスけど」
と、俺は二人に話し始めた。
「掃除《そうじ》の時間に騒《さわ》いでるバカがいて、班長がやめろって注意したんだけど、そのバカは、箒《ほうき》の柄《え》でガラスを割っちまったんスよ。当然、先生が来て怒《おこ》るっショ!? そしたらその班長が、『俺が止められなかったんです。俺の責任です。すみませんでした』って、バカよりも先に謝《あやま》ったんスよ」
「…………」
「そんなふうに先に謝《あやま》られたら、先生はもう当のバカを叱《しか》るに叱れなくて。ちゃんと片付けとくんだぞってだけ言って帰ったんス。班長は、もちろん自分の責任ってこともあるけど、ガラスを割った奴《やつ》を庇《かば》ったんスよね」
川島も佐々木も、さっきのヤマさんの姿を思《おも》い浮《う》かべただろうと思う。
二人は、またちょっとチラチラ顔を見合わせていたが、またもごもごと言った。
「ヤマさんに……お礼を言ったほうが……いいかな?」
俺は、軽くうなずいた。
いくらバカをやっても、取り返しのつかないことでなけりゃ許される。
失敗も、バカも、不安も、苛立《いらだ》ちも、いい思い出にできればいいな。
ちなみに、小学生の時のその「班長」というのは、長谷である。
長谷がバカの代わりに謝ったという話にウソはないんだが、長谷はバカを庇ったわけではなく、のちに「これであのバカに恩を売れた」と言ったのは、川島たちには内緒《ないしょ》である。
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妖怪《ようかい》アパートの、夏の夜がふけてゆく
そして、オーストラリアから帰国した長谷がアパートへやってきた。
「長谷!」
「稲葉、久しぶり!」
メットをとった長谷は、俺の顔を見てちょっと眉《まゆ》をひそめた。
「あれ? なんかお前、スゲー痩《や》せてねぇ?」
「ああ。新しい修行《しゅぎょう》がキツくてなー。でも、もう大丈夫《だいじょうぶ》だ」
俺はさらりと、正直に言った。その意味を、長谷は理解したようだ。
「そうか」
と、微笑《ほほえ》む。
「どんどん変わってゆくな、お前……」
「うん。でも、何も変わらねぇよ」
誇《ほこ》らしく、そう言った。
「ああ」
長谷は目を細めた。
「今日もすげぇ荷物だな!」
「おう。そっち持て。これも、これも」
二人して両手に抱《かか》えきれないぐらいの荷物を持って玄関《げんかん》へ入ると、そこにクリとシロがいた。クリは長谷に向かって「抱《だ》っこ」というように両手を差し出した(クリは長谷がお気に入り)。
「クリ〜〜〜ッ!!」
長谷は荷物を放《ほう》り出《だ》してクリを抱き上げ、抱きしめ、頬擦《ほおず》りした。
「いい子にしてまちたか〜〜〜! お土産《みやげ》いっぱい持ってきたぞ〜〜〜!」
「…………」
その姿を見て俺は思う。長年付き合ってきたけど、長谷ってこういう奴《やつ》だったっけ? なんだか「クール」で「シビア」で「ニヒル」な長谷のイメージが崩《くず》れてゆくような。お前だって、ここに来てからずいぶん変わってねぇか!? って感じで。
「来た来た。久しぶり、長谷くん」
「やー、長谷クン。いらっしゃーい」
「またお世話になります、一色さん、秋音さん」
長谷は、オーストラリア土産《みやげ》を山のように持ってきた。
「おー! レミー・マルタンの……VSOP!」
「きゃー、シャーベットだ! 綺麗《きれい》な緑色〜」
大人どもには酒、秋音ちゃんにはキウィシャーベット、さらにオパールのイヤリング。
「え、もらっていいのぉ?」
「こういってはなんですが、そんなに高価なものではないので遠慮《えんりょ》なく」
「うわー、嬉《うれ》しい。ありがとう、長谷くん!」
意外といっちゃ失礼だけど、意外なほどイヤリングを喜ぶ秋音ちゃんは、やっぱり「女の子」だったんだな。
長谷は、るり子さんにもブラックオパールの指輪を買ってきていた。
「お料理中には、もちろん指輪などしないるり子さんでしょうが、それ以外の時間にでも、お洒落《しゃれ》を楽しんでいただければ」
長谷はるり子さんの右手をとると、その薬指に指輪をはめた。手首だけしかないのに、るり子さんが喜んでいるのがわかる。指輪をはめた手をあっちにかざしこっちにかざし、オパールの輝《かがや》きを楽しんでいる。るり子さんもやっぱり「女性」だった。その白い細い指に、ブラックオパールはとてもよく映《は》えた。
「ソツがないね〜〜〜」
詩人がしみじみと言う。
「お前、よくるり子さんのリングサイズがわかったなあ、長谷?」
と、俺が言うと、長谷は「はあ?」という顔をした。
「わかるだろう、指を見ていれば!」
「わかんねぇよ!」
長谷はそれから、居間いっぱいに土産物《みやげもの》を広げた。クロコダイルジャーキーにカンガルージャーキー、アイスワインと各種オージーワイン、オージーチョコレートにオージーマカダミアナッツ、そして……。
「クリ〜〜〜! ほ〜ら、コアラのぬいぐるみだぞ〜!」
長谷はバカでかい袋《ふくろ》の中から次々と、小さな可愛《かわい》いものからクリの背丈《せたけ》以上ある大きなものまで、さまざまなぬいぐるみを出してきた。
「ワニだろ〜、カンガルーだろ〜、アザラシに〜、これはエミューっていう鳥だぞ〜。オーストラリアの国鳥だ〜」
大量のぬいぐるみに埋《う》まるような長谷とクリを見て、秋音ちゃんは微笑《ほほえ》ましげに、
「パパね〜」
と言った。俺は苦笑いだ。あのぬいぐるみを嬉々《きき》として買《か》い漁《あさ》っている長谷の姿は、微笑ましいというか笑えるというか恥《は》ずかしいというかなんというか……。クリは、自分の身体より大きなワニのぬいぐるみを気に入ったらしい。
「長谷、俺には? 土産《みやげ》は?」
「ああ? ああ……ほら、アボリジニアン・アートのTシャツ」
「これだけかよ?」
「チョコを食えばいいだろう、チョコを食えば〜。オーストラリアのチョコはうまいぞ〜」
「…………」
最初は「俺に会いに」来てたくせに、この頃《ごろ》はすっかり「アパートに来ること」が目的になってるな、こいつ。
「はあ〜〜〜……」
涼《すず》しい縁側《えんがわ》に大の字になって、長谷は庭を渡《わた》る風の音を気持ちよさそうに聞いた。その傍《かたわ》らでは、クリがチョコレートを食べながらぬいぐるみで遊んでいる。
「お疲《つか》れか」
俺は、るり子さんがいれてくれたアイスコーヒーを渡した。長谷はうまそうに、一気に飲み干した。
「飛行機のファーストクラスの手配に始まって、ホテルは湖畔《こはん》に建っているシャトー風のものがいいだの、移動はリムジンじゃなきゃ嫌《いや》だの、わがままの言いたい放題。昼はスキーにショッピング、夜はパーティにナイトクルーズ。まったくうちの女どもときたら、化け物だぜ」
「ハハハ!」
妖怪《ようかい》アパートでその単語は笑える。
「お互《たが》い、夏休みといえど忙《いそが》しいな」
と、俺は言ったが、長谷は首を大きく振《ふ》った。
「俺はここで、存分に羽を伸《の》ばさせてもらうぜ!? 疲《つか》れ切《き》った心身を癒《いや》してもらうんだ。な〜、クリ♪」
長谷はクリを抱《だ》きしめた。
「お前、今度はいつまでいる気だよ? 俺はほとんど毎日バイトでいねーんだけど」
「ああ。バイトなりとどこなりと行ってこいよ。俺は好きにしてるから。な〜、クリ♪」
「てんめ〜……」
また調子に乗ってるな、長谷? 誰《だれ》のアパートだと思ってんだよ。俺のでもないけど。
だいたい、俺の部屋の俺の布団《ふとん》で、俺より長く寝《ね》てるってのが気に入らないよな。しかも、長谷にはもれなくクリが付いてくるから、布団にクリのよだれとかキャンディのベタベタとかがついて、それを洗濯《せんたく》するのは俺なんだからな(幽霊《ゆうれい》であるクリのよだれは、ちゃんとしたよだれじゃなくて、そう見えるだけ[#「見えるだけ」に傍点]らしいとか、そういうことはおいといて)。
こーいうことをしているからだな、アパートのみんなに(特に秋音ちゃんに)パパとママだとかなんだとか、からかわれるんだよ。あー、納得《なっとく》いかねえ。
その夜。長谷は、久々のるり子さんの激うま和食を堪能《たんのう》した。それは長谷の持ってきたオージーワインにもすこぶるよく合ったので、大人どもは大喜びだった。
「深瀬が帰ってくる前に、酒は全部飲み干すヨー!」
「オ―――ッ!」
うまい酒にうまい肴《さかな》。酒飲みどもは大盛り上がりだ。もちろん、スペアリブのみそだれ焼き肉も、ナスの山椒焼《さんしょうや》きも、ゆずをきかせたエビの天ぷらも、長イモサラダ韓国風《かんこくふう》も、白飯にメチャクチャ合う!! 子ども組は飯を片手に、大皿に山盛りのおかずを我先に食った。梅だれで食べるハモの冷しゃぶが、また一段と夏を感じさせた。
「このナスの山椒焼きだけでも、ワインボトル一本いける〜!」
と、佐藤さんが感激すれば、
「あら、あたしなんてお釜一杯[#「お釜一杯」に傍点]いけるわよ!?」
と、秋音ちゃんが言う。
「秋音ちゃんならいける!」
一同|大爆笑《だいばくしょう》だ。ちなみにアパートのお釜《かま》は十五合|炊《だ》きである。
「だって、るり子さんのお料理ってば、白いご飯のためにあるようなものなんだもん」
「家庭料理の真髄《しんずい》だよねー。しかも上品で繊細《せんさい》! 米飯は日本人の基本だねー」
詩人の意見に長谷もうなずいた。
「ここに来ると、米飯のうまさを実感します。それは、やっぱりおかずがうまいからでしょうね」
日頃《ひごろ》高級品を食い慣れている長谷に、こう言わしめるのは誇《ほこ》らしい。
このうまい飯はすべて、小料理屋を持つ夢を果たせず死んだるり子さんの夢の結晶《けっしょう》だ。俺たちがうまいうまいと言うことで、るり子さんの夢の結晶はさらに輝《かがや》きを増すんだ。浅漬《あさづ》けの盛り合わせを運んでくるるり子さんの手には、ブラックオパールが煌《きら》めいていた。
「夏こそ、米飯だよ! うまい飯をしっかり食ってりゃ、夏バテなんてしないしない!」
満場|一致《いっち》の拍手喝采《はくしゅかっさい》。
アパートのみんなと囲む食卓《しょくたく》はそれだけでも楽しいのに、そこに長谷がいて、学校は休みとくれば、否《いや》が上にもテンションが上がる。俺はもう楽しくて楽しくて、食が進んで仕方なかった。秋音ちゃんじゃないけど、一釜《ひとかま》いけそうな勢いだ。減った体重もアッという間に戻《もど》るだろうな。
「おやおや。今夜はまた、ずいぶんにぎやかだね」
食堂の入り口をぬうっとくぐってきたのは「骨董屋《こっとうや》」だった。また一人、アパートの仲間が揃《そろ》った。
「おー、骨董屋さん!」
「久しぶり!!」
「おお、これはこれは。懐《なつ》かしい顔がチラホラと」
黒コートにオールバックの黒髪《くろかみ》、灰色の目の長身の外国人(国籍《こくせき》不明)、左目には黒い眼帯。薄《うす》い口髭《くちひげ》を生やした口元に、不思議な香《かお》りのする細い葉巻をくゆらせて、その怪《あや》しい雰囲気《ふんいき》はとても人間とは思えない。その正体は、編《あ》み笠《がさ》を深くかぶった背の低い「召《め》し使《つか》い」を何人も連れて、古今東西ばかりでなく、次元を行き来する商売人。扱《あつか》う品は、まっとうな骨董品から怪しいブツまでさまざまだ。
骨董屋は、その怪しい灰色の一つ目で俺を見て言った。
「やっぱり帰ってきたね、夕士クン」
「……ウス」
俺は、骨董屋と固く握手《あくしゅ》した。それから、
「龍さんの水晶《すいしょう》のペンダントは返しませんからね」
と、上目遣《うわめづか》いで言ってみた。
「ハッ!」
骨董屋は面白《おもしろ》そうに笑った。骨董屋が龍さんに無許可で作って売りさばいている、龍さんの髪《かみ》の毛入《けい》り水晶《すいしょう》のペンダントを、俺はアパートを去る時に、骨董屋から餞別《せんべつ》としてもらった。それから俺は、このペンダントをずっと肌身離《はだみはな》さず持っている。
「おや、こちらまた新入りかね?」
「あ、こいつ俺のダチっス。このアパートを気に入っちゃって入《い》り浸《びた》りで」
「長谷泉貴です、よろしく。夏休みの間お世話になります」
長谷は立ち上がり、骨董屋と握手《あくしゅ》した。
「ふふん」
骨董屋は意味深に、片眉《かたまゆ》を吊《つ》り上《あ》げた。
「あんたもやれよ、骨董屋さん。ワインもレミも、まだまだあるぞー」
窓の外の暗闇《くらやみ》には、色とりどりの光の玉が浮遊《ふゆう》している。その間を、青白く光る透明《とうめい》なトンボや蝶《ちょう》が飛《と》び交《か》う。七色に発光するクラゲが、何匹《なんびき》も連なって空中を横切ってゆく。
庭のあちこちからカサコソした気配がする。ゲゲッ、ゴゴッという声が聞こえる。
大人たちのテーブルでは、グラスに注がれた酒が飲まないのに減ったり、俺たちのテーブルの上では、さっきから醤油注《しょうゆさ》しがゆっくりと回転しているし、壁《かべ》に掛《か》かったカレンダーがめくれては戻《もど》り、めくれては戻りを繰《く》り返《かえ》している。夏の夜の妖怪《ようかい》アパートは、特にいろんなモノの密度が濃《こ》かった。
「も〜ぉ、トイレの前に『もくもくさん』がいる〜。邪魔《じゃま》だわ〜」
秋音ちゃんが文句を言いながら帰ってきた。
「もくもくさんって何スか?」
「え〜……見えないブヨブヨした……大きな固まり!?」
「ああ、俺も行く手を邪魔されたことがある! あれ『もくもくさん』っていうのか」
「妖怪『ぬりかべ』ってやつですか?」
と、長谷が言った。やっぱり長谷は俺よりいろいろ詳《くわ》しい。
「ん〜。ぬりかべの仲間でしょうねぇ。トンネルの中によく出るって言われてるけど、ここの廊下《ろうか》にもよく出るの」
「もくもくさんは、トンネル工事を邪魔するって言われてるよね」
詩人もそのテの知識が豊富だ。仕事柄《しごとがら》いろんな知識が多いんだろうけど。
「なんで?」
「さあ……。でも、もくもくさんが現れたら、無理に工事を進めずに、一旦《いったん》休むことになってるらしいよ。そうしないと事故が起こると言われてるからだって」
「事故を知らせてくれてるのかな?」
「なんにしろ、現場の人間がそれを信じているってのがいいネ」
詩人の言葉がさり気に胸を打つ。
「本当のプロは、みんな信心深いものさ。トンネルの中にも、山にも海にも、大都会の真ん中にだって、いろんな言い伝えや信仰《しんこう》があるからね。プロは絶対にそれをないがしろにしない、ってか、そういうのをないがしろにしないのが、本物のプロなんだよねー」
そういえば、ビルの屋上に小さな社《やしろ》が立っているのを見かけることがある。ビルのオーナーの信心の顕《あらわ》れだろうか。物《もの》の怪《け》たちがプロの現場で生き続けているって、なんかいいな。
あれほどあったワインとレミがすっからかんになる頃《ころ》、みんなに冷たいうなぎ茶漬《ちゃづ》けが出された。
「お酒の後のお茶漬《ちゃづ》けサイコー!」
まり子さんが笑顔《えがお》を輝《かがや》かせる。まり子さんは、成仏《じょうぶつ》せずに妖怪|託児所《たくじしょ》の保母さんをやってる幽霊だ。
温かいうなぎ飯の上にキュウリもみを載《の》せ、その上から冷たい麦茶を注ぐ。うなぎのふっくらとキュウリのしゃきしゃきが絶妙《ぜつみょう》で、実にサッパリと食べられ、なるほど酒の後には最高だろうな、コリャ。
「箸《はし》の使い方が上手ですね、骨董屋さん」
と、長谷が言うと、骨董屋は薄《うす》いキュウリもみの一枚を、ひょいと箸でつまんでみせた。
「私は、東洋生まれ東洋育ちなんだ」
怪《あや》しい! 「東洋」って表現するところがなんとも怪しい! なんで怪しいかわからんけど、とにかく怪しい!
満腹の腹をさすりながら居間へ行くと、ぬいぐるみに埋《う》もれるようにしてクリとシロが寝《ね》ていた。
「ハハ。どれがぬいぐるみかわかんねぇ」
封《ふう》を開けたチョコは、あらかたなくなっていた。ナニモノかが食べたのだ。物《もの》の怪《け》たちはお菓子《かし》が大好きだ。
「キウィシャーベット、すんごくおいしいわ、長谷くん〜〜っ!」
「秋音さん……この上にまだ、どんぶりでシャーベットですか……」
「そうそう。ハセ君とやら」
骨董屋が長谷に声をかけてきた。
「はい?」
骨董屋は、かつて俺にしたのと同じように、長谷の肩《かた》を抱《だ》いて怪《あや》しく囁《ささや》いた。
「ユニコーンの角があるが、買わんかね?」
俺は吹《ふ》き出《だ》しそうになった。俺も初対面でイキナリそう言われたっけ。龍さんの髪《かみ》の毛入《けい》りぺンダントならともかく、誰《だれ》が「ユニコーンの角」なんぞ……。
「買いましょう。おいくらですか?」
長谷はあっさりと言った。
「はあ?」
俺も驚《おどろ》いたが、当の骨董屋が一個しかない灰色の目を剥《む》いている。
「ほ、本当に買うと言うとは思わなかったな」
長谷はニヤリと笑った。骨董屋のハッタリを見抜《みぬ》いたわけか? さすがだな。しかし、骨董屋もニヤリと笑い返した。
「いくらなら買うね?」
「三万がいいとこでしょうね」
「本物だぞ!? 十万は出してもらわないと」
本物と言いつつ「十万」? それってなんだか安くねぇか? ユニコーンの角の相場なんて知らねぇけど。
「信じてませんから。三万二千」
「安心して、どうか私を信じてくれたまえ。八万」
「会ったばかりではねぇ。三万五千」
「夕士クンという保証人がいるじゃないか。七万五千」
「俺に振《ふ》らんでくれ」
「あいつじゃ保証人にゃあ役不足でしょう。三万八千」
「オイ」
「仕方ないなあ、何かオマケに付けよう。七万」
「五万」
「六万だ!」
「いいでしょう」
二人は握手《あくしゅ》した。
「いやいや、なかなかやるネ」
骨董屋は俺のほうを見て苦笑いした。俺も苦笑いだ。そーいう奴《やつ》なんです、はい。
召《め》し使《つか》いの一人が、黒い革袋《かわぶくろ》を持ってきた。
「あ、綺麗《きれい》ですねえ」
それは、純白の欠片《かけら》だった。大きさは親指ぐらい。金色の金具がついてネックレスになっている。長谷はさっそく首にかけてみた。
「ユニコーンの角は、あらゆる病気を治し呪《のろ》いを跳《は》ね返《かえ》す。これで君も安泰《あんたい》だ」
と、骨董屋に肩《かた》を叩《たた》かれ、長谷は「ハハハ」と軽く笑った。
「で、オマケって?」
「これがオマケとは、ちょっともったいない気もするのだが……」
骨董屋は渋々《しぶしぶ》といった感じで、白い封筒《ふうとう》を長谷に渡《わた》した。
「スウェーデン製のヌードハガキ、三枚セットだ」
俺も長谷も吹《ふ》き出《だ》した。
「てことは無修正!!」
「えらく俗《ぞく》っぽいオマケっスねえ!」
やっぱり「ユニコーンの角」なんて、絶対ウソだな。
「アハハハハ!」
詩人とまり子さんが大笑いしている。
「も〜、やーねぇ」
秋音ちゃんはヤレヤレとあきれ気味《ぎみ》だ。
妖怪《ようかい》アパートの居間は、笑いとコーヒーのいい匂《にお》いにあふれた。
俺の部屋に行く長谷に、やはりもれなくクリは付いてきた。大きなワニのぬいぐるみをひきずって。
「これが気に入ったのか、クリ〜。やわらかくって抱《だ》き心地《ごこち》いいもんな〜」
長谷は、クリとワニを抱いて幸せそうだ。
男二人に子ども一人、犬一|匹《ぴき》にワニも加わり、俺のシングル布団《ぶとん》はますますぎゅうぎゅう詰《づ》めになった。これでいいのだろうか?
「これはこれは。お久しゅうございます、長谷様」
フールが「プチ」の上から挨拶《あいさつ》をした。
「よう、お前も相変わらずで何よりだ、フール。夏休み中、よろしくな」
「こちらこそ。ご主人様をよろしくお願い申し上げます」
「おい、長谷。お前やっぱり九月までいる気なのか?」
「悪いか?」
ふんぞり返るなよ。
「いや……別に悪かないけど……。お前もいろいろあるんじゃないかと思って……」
「用事がある時は、こっからバイクで行きゃあいい」
長谷は、あっけらかんと答えた。それでいいのだろうか?
「まあ、もちろん。ただとは言わん、稲葉よ」
長谷は俺の肩《かた》をポンポンと叩《たた》いた。そして目の前に、びらっと一万円札を広げた。
「俺の分の食費は入れさせてもらうぜ。お前から大家さんに渡《わた》してくれ」
その数に、俺は目を剥《む》いた。
「えっ、五万も出すってか!?」
「るり子さんの激うま料理には、いくら出しても惜《お》しくない」
俺は長谷の前に、ははーっと手をついた。
「居てください、長谷様」
「ウム」
自分の分の食費と言いつつ、長谷は俺の八月分の家賃を助けてくれたんだ。ま、布団《ふとん》が狭《せま》いのは我慢《がまん》するか。
それにしてもこいつは、いつもいったいいくら現金を持ち歩いているんだろう!?
灯《あか》りを落とした部屋の中に、窓の外を漂《ただよ》う淡《あわ》い光が揺《ゆ》らめく。気配の濃《こ》い夏の夜の妖《あや》かしたちも部屋の中にはいなくて、ゆったりと色を交《か》わし合《あ》う光の動きが、薄闇《うすやみ》におだやかさと静けさを満たしてゆく。
クーラーも扇風機《せんぷうき》もない部屋の窓は開け放っているけど、そこから侵入《しんにゅう》してくるモノはいない。カーテン越《ご》しに儚《はかな》い淡《あわ》い光たちが、ただ雪のように、花のように舞《ま》うだけだ。
クリを寝《ね》かしつけながら、俺はレベルアップした修行《しゅぎょう》のこと、天啓《てんけい》のことなどを長谷に話した。
「一気に十キロ痩《や》せるのはキツイな。大変だったろう」
柄《がら》になくやわらかい声の調子に、長谷の心配が込《こ》められているのがわかって、あの時感じていた心細さを思い出し、俺はなんだかバツが悪かった。
「ん……」
大丈夫《だいじょうぶ》だとどこかで思いつつ、不安や迷いをどうしようもなくて、それでも投げ出すことはできなくて、ゴロゴロするしかない時間、ジリジリするしかない身体。それを抱《かか》えて、不安や迷いがますます大きくなってゆく。
「それがあったから、スゴイものを見られたんだよ、お前は」
「…………」
「果てしない七色の大空と黄金の雨かあ。俺も見てみたいもんだ」
いつも、俺よりも俺のことをわかっている長谷。知識を駆使《くし》して分析《ぶんせき》し、推理し、洞察《どうさつ》し、核心《かくしん》に迫《せま》る。俺は、お前のその頭の良さや観察力に感心する。まるでホームズとワトソンのように。
こんなふうに、自分を客観的に見てくれる奴《やつ》がいるって、いいよな。
自分のことは自分が一番よく知ってるって……ホントか!? そりゃあ、本人にしかわからない部分はあるだろうけど、本人だからわからない[#「本人だからわからない」に傍点]部分ってのも多いもんだ。それを冷静に、公平に、的確に見てくれる奴が自分のそばにいるって……いいよな。
長谷の中には、たくさんある俺のドアのうちの一つがある。それは、「俺も知らない俺」のドアだったりするんだ。時には、知りたくないとか認めたくない部分を突《つ》かれて嫌《いや》になることもあるけど(特に長谷なんか容赦《ようしゃ》しないからな。ズケズケものを言うし短気だし。いや、それは俺もだけど)。でも、長谷だから。長谷の言うことだから耳を傾《かたむ》けられる。そういう関係がいい。
妖怪《ようかい》アパートに来て、俺はあらためて、俺と長谷が「そういう関係」であると思った。あらためて……感謝したい気持ちだ。
龍さんの「第三の眼《め》」の話をすると、やはり長谷は「第三の眼」のことを知っていた。
「魔力《まりょく》の象徴《しょうちょう》として、ファンタジー小説や漫画《まんが》には、欠かせないアイテムだもんなぁ」
「そういやぁ、俺、ファンタジーってあまり読んだことがねぇな」
俺が好きで一番よく読む本は、時代ものとか事件もの、実録ものとかだからな。
「はは。でもおかしいだろ。デコとデコをくっつけて『これで移った』なんてさ。大霊能力者《だいれいのうりょくしゃ》が、なんか微笑《ほほえ》ましいよな」
と、俺は笑ったんだが、長谷は笑わなかった。俺の顔をじっと見ると、
「俺にもよこせ」
と言った。
「はあ?」
「龍さんの第三の眼《め》だよ。俺にもよこせ」
「はあ? 何言ってんの、お前……おぅっ」
長谷は俺の頭を鷲《わし》づかみにすると、自分のほうへグイッと引き寄せた。
ガン! と、夜闇《よやみ》に星が散る。
「イッッデエェ―――ッ!!」
デコを押《お》さえてのけぞる俺をよそに、長谷はガッツポーズ。
「よっしゃ。これで移った!」
「てめ……この石頭……っ!!」
その騒《さわ》ぎに、ウトウトしていたクリが起きて泣きだしてしまった。
「あ〜、ゴメンゴメン。うるさかったな〜、眠《ねむ》いのにな〜。ママはおおげさだな〜」
「誰《だれ》がママだ……っ」
泣きたいのはこっちだぞ! 見かけによらずハンパじゃねぇんだから、長谷の石頭は。
シロが起き上がって、ジッと俺を見ている。
「……非難がましい目で見るなよ、シロ。悪いのはパパだろ。いや、パパじゃなくて。誰がパパだ、まったく……!」
ワニのぬいぐるみで必死になだめてクリを寝《ね》かしたのはいいが、頭が痛くて俺はしばらく寝つけなかった。ああ、また睡眠《すいみん》時間が減ってゆく……。
翌朝。すやすやと寝こける長谷とクリを横目で見ながら、寝不足の俺は朝行へ。
……納得《なっとく》いかねぇなあ。
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レッツ コミュニケーション
「山科さんと稲葉くんは、エイコー商事へ集荷《しゅうか》に行ってください」
「ウス」
その日。午前中、俺は集荷のアシストに入った。
集荷先に向かいながら、ヤマさんが俺に言った。
「昨日、川島と佐々木が上がる時な」
「ウス」
「あいつら、ちゃんと帽子《ぼうし》とってお先です≠チて言ったよ。ずっと黙《だま》って帰るだけだったのにな」
ヤマさんは面白《おもしろ》そうに、ちょっと嬉《うれ》しそうに言った。
後輩《こうはい》の成長を喜ぶ先輩《せんぱい》がここにもいる。俺を見守ってくれているアパートの大人たちのように。あの二人は、いつかそれに気づくだろうか。
「ちょっとずつ前進か……。うん。前進するんならいいよな、ちょっとずつでも」
ヤマさんは、独り言のようにそうつぶやいた。
集荷先《しゅうかさき》へ着いて、五十個ほどの荷物の受《う》け渡《わた》しをしている時だった。トラックの後ろを開けて待っていた俺だったが、背中から何かいや〜な気配を感じた。
「?」
振《ふ》り向《む》いてみたが、周りには何もない。ふつうの住宅街だ。でも、嫌《いや》な気配はなくならない。
「なんだろう?」
この時、ふと龍さんの言葉が思い出された。
『何かあった時は、おでこの目で見るようにするんだ。霊感《れいかん》が働くよ』
「…………まさかなあ」
と思いながらも、俺は目を閉じて、自分のデコに目玉があるイメージを思《おも》い浮《う》かべてみた。
「…………」
何も起こらなかった。
「第三の眼《め》なんて、そんな簡単になあ」
苦笑いしつつ後ろを振《ふ》り向《む》いた時、何気《なにげ》に上を見たら、それが目に飛びこんできた。
マンションの屋上の角に、人影《ひとかげ》が立っている。
「!?」
屋上に人がいても別にいいけど、その人影は不自然なくらい角に立っていた。
「まさか……」
さっきの嫌《いや》な気配が、これなのだと思った。
「お〜ぅい、荷物積むぞー、稲葉」
「ヤマさん! アレ! 飛び降りじゃないスか!?」
「は、はああ?」
女だった。ショートカットに白いノースリーブ、赤いスカート。よく見ると、やはりフェンスの外側に立っている。
「ヤマさん! 警察呼んで!!」
俺はマンションへ駆《か》け出《だ》した。
「い、稲葉! 何するつもりだ、オイッ!!」
「大丈夫《だいじょうぶ》!! 何もしねぇから!!」
まさか説得しようなんて思ってねぇよ。ただ、何かできることがあったら、と思った。
九階建ての古いマンションだった。九階までエレベーターで行くと、ちょっと階段があって、屋上へのドアがあった。
ドアをそーっと開けてみる。思ったよりずっと近くに女が見えたんで、ちょっとビビった。
フェンスは女の胸ぐらいの高さで、女はフェンスにもたれるように立っていた。フェンスの向こうには少しスペースがあって、本当に端《はし》っこに立たない限り、足をすべらせて落ちる恐《おそ》れはなかった。
「でもこれって、やっぱり飛び降りだよな!? 景色を見るために、わざわざあのフェンスは越《こ》えねぇよな」
「いかがなさいます、ご主人様?」
「うおっ」
制服の胸ポケットから、フールが顔を出した。
「こんな時にいきなり話しかけるなよ、フール。いかがも何も。説得とかする気はねぇぞ。それはプロの仕事だからな」
ひそひそ話が聞こえたのか、女が振《ふ》り返《かえ》った。思わず身体が固まる。
思ったよりも若い女だった。高校生から……二十歳《はたち》ぐらい?
「何してんのよ」
女はすごく不機嫌《ふきげん》そうに言った。それはこっちのセリフだろ!?
「そんなとこにいたらアブナイだろ」
俺は努めて静かに言った。
「あんたに関係ないでしょ」
女は、プイッとそっぽを向いた。そして、またこっちを睨《にら》んだ。
「もう面倒《めんどう》くさいのよ。家も学校も何もかも! もうなんか……グチャグチャ言われるの嫌《いや》なのよ!!」
「?」
「なんでみんな、あたしのことを放《ほう》っておいてくれないの!? あたしが何しようと別にいいじゃん! 人に迷惑《めいわく》かけた? なんであたしにはグチャグチャ言ってくるくせに、あたしの言うことはきいてくれないのよ! そんなの不公平じゃん!!」
「関係ないでしょ」と言うわりには、よくしゃべるなあ。ひょっとして聞いてほしい[#「聞いてほしい」に傍点]のか? 俺は、そーっと女のほうへ近寄ってみた。
「ねえ、あたし、ちょっと友だちの家へ行ってただけなんだよ!? だって夏休みなんだもん。いいじゃんそれぐらい。ねえ! なのに、いつもなんにも言わないくせに、パパもママもなんなのよ!! いきなり、あたしが何か悪いことしたみたいに! ふざけんじゃねぇよ!!」
「心配しただけなんじゃないか?」
「そんなの大きなお世話だよ! ほっとけよ!!」
鬼《おに》のような形相でそう叫《さけ》ぶと、女は表情をふーっとゆるめ、また向こうを向いて気《け》だるそうに言った。
「だからもう死んじゃおうと思って。そのほうが楽じゃん。もう何も言われないし、嫌《いや》なこと言われて嫌な思いしなくてすむし、パパもママもグチらなくてすむし、いいことばっかりじゃん」
「そんなわけねぇだろ。子どもが死んだほうがいい親なんかいるかよ」
思わずそう言ってから、余計なことを言ったと思った。こんな時に刺激《しげき》してどうする。
女はこっちを睨《にら》んだ。泣きそうな目をしていた。
遠くにパトカーの音がした。
どうする? 何かあった時、「プチ」がどう使える? 心臓がドキドキした。
(そうだ、風を! 風をこう……女に吹《ふ》きつけるようにして……。雷《かみなり》を女に落として気絶させるとかどうだ!?)
とか、すごい速さでいろんなことを考えていた。
女は、泣きそうな顔で力なく笑った。
「いいのよ、もう。決めたんだもん、あたし。これで静かになるわ。スーッて天国へ行って……」
「成仏《じょうぶつ》なんかできねぇよ。自殺なんかしたら地縛霊《じばくれい》になって、ずっとここにいるまんまだぜ」
と、俺はまた余計なことを言ってしまった。女は「はぁ?」という顔をした。
「何言ってんの、あんた? あたしがオバケになってここに残るって言うの? バッカじゃないの。オバケなんているわけないじゃん。ガキかよ」
俺はムカッときた。いや、待て待て待て、俺! ここで「幽霊《ゆうれい》も妖怪《ようかい》もいるんだ」なんて言ったらダメだ! そんな議論をしてる場合じゃ……ん、待てよ?
「あ〜あ、バッカみたい……ウザい……。なんにも楽しくないわ、生きてても。ウザいばっかり……」
なんだかやけにおおげさにため息をつく女の目の前。屋上の一番角っこに、小さな小さな小人が現れた。
「こんにちは、お嬢《じょう》さん。ご機嫌《きげん》うるわしゅう」
小人は、女に向かって大きく手を回してお辞儀《じぎ》をした。
「!?」
女は、きょとんとした。
「いやはや。今日も暑うございますなあ。こんな日はこんな所におられずに、海へでもお出かけになられてはいかがですかな? それとも、涼《すず》しい場所でお茶などは?」
「…………」
女は、ぐぅっと首だけ伸《の》ばしてその小人をよく見ようとした。小人は、人差し指をチッチッチと振《ふ》った。
「飛び降り自殺なんぞ感心しませんな。地獄《じごく》は恐《おそ》ろしい魔物《まもの》でいっぱいでございますよ?」
バッ! と、女は飛び上がるように後ずさりし、身体をフェンスに思い切りぶつけた。それにびっくりしたのか、女はものすごい悲鳴を上げた。
「ギャ―――アアアア!!」
住宅地に轟《とどろ》き渡《わた》るような叫《さけ》び声《ごえ》だった。そして女は、信じられないぐらいの跳躍力《ちょうやくりょく》でフェンスをひとっ飛びに飛《と》び越《こ》してくると、俺の胸へ飛びこんできた……というより、タックルをかましてきた。
ド――ン!! と、俺は屋上へのドアへ打ちつけられた。
「ゴフッッ!!」
「いや―――っ!! オバケ! オバケだ!! オバケがいた―――っ! 恐《こわ》い恐い恐い―――っ!! いや―――あああ!!」
女は、小さな子どもがムチャクチャぐずっているような泣き方をした。いったい、このガキっぽさはなんなんだ??
俺は、首尾《しゅび》よく女の自殺は止められたものの、今度は泣き叫ぶのを必死でなだめるハメになってしまった。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ、もう大丈夫だから! オバケなんていねぇから!」
そこへ警官と消防隊がやってきた。
わぁわぁ泣き続ける女は、警官に抱《だ》きかかえられるように連れていかれた。
俺は、女を助けたことをちょっとほめられ、素人《しろうと》が危ないことに余計な首を突《つ》っこんでくるなと、こってり叱《しか》られた。
配送が遅《おく》れてしまったけど、「人命救助をしていた」と説明すると先方もわかってくれ、俺とヤマさんは午前中の仕事を終えて事務所へ帰った。
「小学生!?」
俺はお茶を吹《ふ》き出《だ》しそうになった。
「小学六年生だとよ」
ガキっぽい自殺志願者は、小六の女の子だった。ガキっぽいはずだ。
「どう見たって高校生ぐらいっしたよ!? 身体も大きかったし、服装とかも大人っぽくて……」
「身体ばっかり育ってもねぇ〜」
昼飯を食いながら、オッサンたちはため息をついた。ちょうどオッサンたちの子どもが中高生ぐらいだ。他人事《ひとごと》じゃないんだな。
「女の子は特に難しいね。かまいすぎてもダメだし、かまわないとダメだし。どうすりゃいいんだよって感じだ」
「しかし……面倒《めんどう》くさいから死んじゃおうは、ないよね〜」
「昔ぁ、そんな理由で自殺する子どもはいなかったねぇ」
午後から川島と佐々木がやってきて、その日も俺たちは黙々《もくもく》と作業をしていたけど、夕飯の休憩《きゅうけい》に入った時、ヤマさんが川島と佐々木に、
「オイ、お前ら。今日な、稲葉が自殺しようとした女の子を助けたんだぞ」
と言った。
「マジで?」
二人は目を剥《む》いて俺を見た。
「え、いや。助けたというかなんというか……」
ヤマさんは、自然に俺たちを自分たちの輪の中へ誘導《ゆうどう》すると、夕飯を食べながら今朝起こったことを話し始めた。川島も佐々木も興味深そうに聞きながら弁当を食べた。
弁当を食い終わってからも、みんなでその話題で盛り上がった。
「あの女の子が自殺しようとしていたのは、単純な『ガキのつっぱり』だと思うし、俺が行かなくても、あの子は結局は自殺はしなかったと思うんだけど、あんなふうに簡単に『死んじゃおう』って思って、本当に死んじまう奴《やつ》もいるんだろうなぁ」
と、俺が言うと、川島はうんうんとうなずいた。そして、
「ちょっとわかる気が……」
と言った。初めてのプライベートな発言に、みんなが注目した。
「なんにも楽しくないとか、親がウザいとか、生きていてもなんになるんだろうって、俺も考えたことあるから」
「そりゃあ、誰《だれ》だって考えるんだよ」
オッサンの一人が、つい大声を出す。でも、ヤマさんがそれを制した。
「俺らみたいなおっさんでもな。若い頃《ころ》はそんなことを考えたこともあったんだよ」
ヤマさんが優《やさ》しくそう言うと、川島は薄《う》っすらと笑った。
「今は……もうそんなふうには思ってないス」
「そうそう。そんなことぐらいで死なれたらなあ。親はやりきれねぇぞ」
別のオッサンが苦笑いしながら言った。川島は、深くうなずいた。
「時代は変わっても、若い奴《やつ》がそういうことを考えるってなあ、今も昔も一緒《いっしょ》だねぇ」
「俺なんざ親父《おやじ》と喧嘩《けんか》して勘当《かんどう》されちまって、それっきりサ」
「え? 今も?」
「そうさー。昔の男親ってな、そういうとこがあったからな。頑固《がんこ》でさ。結局、仲直りできないうちに死んじまったヨ」
そう話すオッサンを、川島はすごく驚《おどろ》いたように見ていた。
「仲直りできなかったのは残念だけどな。親父と大喧嘩したのは、いい思い出だ。もう何が原因か忘れたぐらいガキっぽい喧嘩だったけどな。俺がガキだったのは仕方ないけど、親父も相当ガキだったぜーって、今でも思うよ」
オッサンたちは大笑いした。みんな思い当たることがあるみたいだ。
川島も笑った。すごく自然な笑顔《えがお》をしている。そう。身体の底から出た笑顔だよ、まさに。
人生の大先輩《だいせんぱい》の話を聞き、やっぱり「先輩だけある」と思い、意外と「自分と同じなんだ」と知る。その時の、なんだか楽になるような、身に染《し》みる思いは俺にも経験がある。
で、佐々木も何かを考えこんでいるように見えたから、同じようなことを考えているんだろうと思ったら、
「オバケ……ホントにいたんですかね」
と、俺に向かって言った。
「はぁ?」
「その子……ホントにオバケを見たんですかね」
「お前、オバケが恐《こわ》いのかよ、佐々木?」
オッサンたちがからかうように言ったが、佐々木は真剣《しんけん》だった。
「恐いってか……気になって……。部屋になんかいるみたいで……足音とかするし……」
意外な話に、全員が顔を見合わせた。
「盛り塩すればいいっスよ」
俺は軽く言ってやった。
「も、もりじお?」
「部屋の四隅《よすみ》にすると効くって聞いたっス。試《ため》してみればどうスか」
「へ〜ぇ、お前よくそんなの知ってんなあ、稲葉」
「でも昔から言うよなぁ」
「もりじおって……、あ! 茶碗《ちゃわん》に飯を入れて箸《はし》を立てたやつか!」
「そりゃ盛り飯[#「盛り飯」に傍点]だよ、佐々木!」
ドッと、みんな大笑いした。
「え? 何? 違《ちが》うの?」
「お前、漫画《まんが》の見すぎ」
川島も笑った。みんなにゲラゲラ笑われて、佐々木もとうとう笑いだした。しばらく大笑いが止まらなかったので、何事かと社長が駆《か》けつけたぐらいだった。
川島と佐々木は、結局|休憩《きゅうけい》時間が終わるまで、メールはしなかった。
「今朝ほどはお見事でございました、ご主人様」
「よくやった、フール。うまくいってよかったな」
「おほめにあずかり、恐悦至極《きょうえつしごく》……」
今日は一段と仕事帰りの足取りが軽い。俺とフールの作戦がうまくいったのは偶然《ぐうぜん》にすぎないだろうけど、それでもあの子を助けられてよかった。ちょっと恐《こわ》がらせちまったけどな。それぐらいの「お仕置き」は許されるだろ!?
「ホントなら……ぶっ叩《たた》いてやりたいとこだヨ。何が、そのほうが楽だから死んじゃおうと思って、だよ。てめぇがふざけんな」
思い出すとムカムカしてきた。
「そうは言ってもねぇ。その一瞬《いっしゅん》は、真剣《しんけん》で深刻なんだよねー。ほんとに一瞬なんだけどね。そういうことは後からわかることだから。問題は、その一瞬の我慢ができない[#「その一瞬の我慢ができない」に傍点]ことだよねー」
詩人の言葉に、俺よりも長谷がうなずいた。
「なるほど……!」
「今の子どもたちは、我慢《がまん》もできなくなってるよね。それはやっぱり、世の中が豊かだからだろうねー。昔だって、豊かな子どもは、やっぱり我慢強くなかったよ。ねー、まり子ちゃん」
まり子さんは、ビールをブホッと吹《ふ》き出《だ》した。
「いや〜〜〜、言わないで! 恥《は》ずかしい〜〜〜! 耳がイタ――イ!」
「まり子ちゃん、すごいお金持ちのお嬢《じょう》サンだったんだよ」
「へえ……」
「成金だけどね。長谷クン家《ち》と違《ちが》って」
と、まり子さんはヒョイッと肩《かた》をすくめて舌を出した。
「本当のお金持ちの子どもというのは、しっかりした子だったりする。家を守らなきゃならないからね。親にそう仕込《しこ》まれて育つから。長谷クン家がそうだよねー」
「はあ、まあ」
長谷は頭をかいた。長谷の親父《おやじ》さん自身は、ほとんど裸一貫《はだかいっかん》から今の地位にのし上がった人だが、長谷の本家がすごいんだ。正確には長谷の祖父《じい》さんが。財界の「帝王《ていおう》」とか「怪物《かいぶつ》」とか呼ばれた人らしいからな。
「一億総中流はいいけどサー、豊かになったからって親が子どもに努力も我慢《がまん》もさせなかったら、子どもが努力も我慢もしない子になるのは当たり前だよねー。子どもの周りから大人が減っている以上、親の責任がそれだけ重くなるのは当然なのにサー。親がそれに気づいてないのは大問題だよねー」
そうか。子どもの周りから減っている大人って、じいさんやばあさんや近所の人たちのことなんだな。
「昔は子どもは放《ほう》っておいてもよかったんだけど、今はそうはいかないんだよネー。親も大変だ」
詩人は、やれやれと肩《かた》をすくめた。
「お前は幸せもんだ」
部屋へ向かいながら、長谷が俺に言った。
「今日あった出来事を話せて、それに対していろんな話を聞ける。それも人生の大先輩《だいせんぱい》から」
俺は、深くうなずいた。
「でも、それってどこの家庭でもできるもんだろ? 親と子でさ」
「いやあ、そりゃあどうかなあ」
長谷は苦笑いした。
「親子で会話するって、けっこう難しいもんなんだよなぁ。子どもが小さいうちはできるだろうけど……中高生で親とすごく仲がいいってのは……どうなんだろう!? なんかウソ臭《くさ》くないか!?」
「そんなもんなのか!?」
俺にはイマイチよくわからない。長谷の家だって充分《じゅうぶん》仲がいいように思えるけど。
「仲はいいよ。っていうか、悪くない。そういうこととは別に、子どもが育つと、家族と距離《きょり》を置くようになるのが普通《ふつう》だよな」
「あ〜、親離《おやばな》れってことか?」
「そう。気持ちだけはな。で、プライベートなことは、友だちと話すことのほうが多くなる」
「ふんふん」
「もちろん、どんなに鬱陶《うっとう》しくても相談相手にならなくても、親がいるほうがいいけどな」
そう言って、長谷は俺の肩《かた》を抱《だ》いた。
「でも、人生のいろんな大先輩《だいせんぱい》がいるこのアパートに住んでるお前は、本当に幸せもんだよ。どんなことも話せて、話し合いができて、答えが探せる。それができなくて、一人きりで、ただイライラするしかない連中がどんだけいるか」
「うん」
アパートのみんなと話し合うことで、俺のコミュニケーション能力もずいぶん上がったと思う。長谷としかうまく話せなかった俺だけど、そんな心の壁《かべ》なんてアパートの連中にとっちゃあ、ペラペラの紙きれみたいなもんだ。俺はあっという間に丸裸《まるはだか》にされて粉々に砕《くだ》かれて、その瓦礫《がれき》の中から不死鳥のように……。
その時、長谷がビクッとして、俺の肩《かた》を抱《だ》く手に力がこもった。
「?」
トイレへ続く廊下《ろうか》の向こうに「貞子《さだこ》さん」がいた。細い、背の高い髪《かみ》の長い女の幽霊《ゆうれい》だ。顔には口しかない。何もしないけど、見た目がとにかく恐《こわ》い。さすがの長谷も、初対面の時はビビりまくった。
「なに、お前まだ貞子さんが恐《こえ》ぇの?」
「いや、そうじゃねぇけど……」
どうやらちょっとしたトラウマになっているようで、俺は笑ってしまった。微笑《ほほえ》ましくて。
「笑ってんじゃねぇよ」
「笑ってねぇよ」
苦手なものがあるってのも、いいんじゃねぇか!? 特にお前みたいな奴《やつ》は。なあ、長谷。
寝《ね》る用意をしながら、長谷の今日の出来事を聞いた。
長谷のやるスーパーマリオを見ながらクリが踊《おど》るような仕草をしたので、長谷は試《ため》しに、クリに子ども番組を見せたらしい。番組の中のダンスや体操を長谷がやったら、同じようにクリもやったと言って嬉《うれ》しがった。
俺は、子ども番組を見ながらクリと体操やダンスをしている長谷の姿を想像して大笑いした。長谷に従う多くの猛者《もさ》どもがそれを見たらなんと言うだろう。全員、目が点になるぞ、きっと。
「それからな、庭を小さい坊《ぼう》さんの団体が横切っていったぜ。ぞろぞろぞろ〜って。五、六十人はいたかなあ。ほんとに小さかった。クリよりももっと。でも、ちゃんと坊さんの格好をしてたよ」
長谷はほかに、山田さんを手伝って「逃《に》げ回《まわ》る雑草」取りを汗《あせ》だくになってやったとか、使われていない部屋を覗《のぞ》いたら、アニメ映画『となりのトトロ』に出てきた「まっくろくろすけ」がいたことなどを目をキラキラさせて話した。
「ザ―――ッって動いたんだ。ほんとにアレだって! まっくろくろすけだって!」
「はいはい」
まるで「メイ」みたいに言うもんだから、俺はまた大笑いしてしまった。長谷もまた、充実《じゅうじつ》した時間を過ごしたみたいだ。
一日を目一杯《めいっぱい》遊んで、働いて、温泉に入ってうまい飯を食って、俺たちは布団《ふとん》に入ったとたん、クリよりも先に寝《ね》ちまった。クリはしばらくゴソゴソしていたが、俺は身体をクリに踏《ふ》まれても、顔の上をワニの尻尾《しっぽ》が通っていっても、目も開けられなかった。
翌朝。俺と長谷の顔には、猫《ねこ》みたいな「ヒゲ」が描《か》かれてあった。
「顔に黒いのついてるぞ、稲葉?」
朝から何度そう指摘《してき》されたことだろう。必死で洗ったのに、黒い油性ペンのヒゲは頑固《がんこ》に残った。点々と。
「親戚《しんせき》の子どもにイタズラされたんス」
「わははははは!」
「稲葉くん!」
佐々木が出勤してくるなり、俺のとこへ嬉《うれ》しそうに寄ってきた。
「あれ? 顔になんかついてるけど?」
「なんでもないス」
「盛り塩≠ヒ、バッチリ効いたよ!」
「へえ!」
「ホントかよ!」
俺よりも、川島やオッサン連中がびっくりしたようだ。
「俺ん家《ち》に六|畳《じょう》の和室が二つあるんスけど、奥《おく》のほうの和室がどうも変な気がしてたんです。引《ひ》っ越《こ》してきてちょっとしてからずっと。どうも人が動きまわっているみたいな音とか気配がしてて……何をするとかないし、別に祟《たた》りとかもないみたいだけど、やっぱり気になるし。その隣《となり》の和室が俺の部屋なんで」
「で、盛り塩したら効いたと」
「ピタッ! と」
みんなが「ホォ〜」と感心した。別に佐々木の手柄《てがら》でもなんでもないんだけど、みんながそういう反応をしてくれると嬉《うれ》しいもので、佐々木は別人みたいな生き生きした顔をしていた。
その日はずっと、オバケの話でみんなが盛り上がった。
「マンションに宅配した時にな、玄関《げんかん》から入ろうとしたら、玄関|脇《わき》の植《う》え込《こ》みに、ドサ――ッ! って、何かが落ちてきたみてぇなすんげぇ音がしたんで飛び上がったんだよ。でも、そこにはなんにもなかった。後から聞いた話じゃな、そこで飛び降りがあったんだよ」
「じゃ……その音って」
「今も落ち続けてる[#「落ち続けてる」に傍点]んだろうなあ」
オッサンたちの怪談話《かいだんばなし》を、小さな子どものように聞き入る川島と佐々木の様子がおかしかった。メールじゃ、こうはいかないよな。
「交通事故現場の、お供えの花ってあるだろ。車|転《ころ》がしてるとな、普段《ふだん》は気にならないのに、その花がパッと目に入ってくることがあるんだよ。そういう時は要注意だ。俺は一度、ハンドルをこう、グイッと持っていかれそうになったことがある」
「マジっすか!」
「俺はオバケ話なんて信じてなかったけどよ。でもやっぱり、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]っていうのはあるんだなあって思ったよ。それから車にお守りは欠かさねぇぜ」
佐々木と川島は、コクコクとうなずいた。
「そういやあ、××線の○○トンネルに出るらしいなあ。信号のあるトンネル」
「ああ。あそこはな、はじめの青信号で行ったらダメなんだ。一回待つんだよ」
「△△線で霧《きり》が出た時がヤバイらしい」
「●●へ行ったら絶対迷うから、そんな時は一旦休憩《いったんきゅうけい》すればいいんだ」
「あそこ、大昔はなんて呼ばれてたか知ってるか? ムジナ穴だぜ」
「プロの現場で生きている物《もの》の怪《け》たち」か……。今までこの職場で、このテの話はしたことがなかったけど、やっぱりオッサンたちも、本物のプロフェッショナルだった。真摯《しんし》で敬虔《けいけん》だったんだ。
そしてそれは、後輩《こうはい》へと受《う》け継《つ》がれてゆく。佐々木も川島も、携帯《けいたい》にオッサンたちの情報をメモっていた。興味本位じゃなく、オッサンたちの生きた話[#「生きた話」に傍点]だからだ。
そしてこの日以来、大学生バイト二人とオッサンたちとの距離《きょり》は、ぐっと近くなった。
バイト二人は、まず仕事上の受け答えをハキハキするようになり、わからないところとかをハッキリと尋《たず》ねてくるようになった。するとミスも減り、仕事の効率も上がる。それが二人の自信になったみたいだ。
オッサンたちとの会話も徐々《じょじょ》に増えて、休憩《きゅうけい》時間にオッサンたちの輪の中にいることも多くなった。二人は、オッサンたちのいろんな話を聞きたがった。メールはするけど、その回数と量は減っていった。
お盆明《ぼんあ》けに、それぞれちゃんと「田舎《いなか》からの手土産《てみやげ》」を持ってきて、みんなに土産話もできるようになった川島と佐々木を見て、剣崎社長が一番喜んだ。
「子どもってなぁ、環境《かんきょう》に慣れるのも早《はえ》ぇもんだ」
「で、環境に順応すると、みるみる成長するんですよねぇ」
専務もしみじみと言った。
「よくやった、夕士」
社長は、俺の背中をゴンッと叩《たた》いた。痛《いて》ぇっての。
「いや、俺はなんも……。自然とこうなったんスよ」
そうだよ。最初はどうであれ、佐々木も川島もここにいることをやめなかった[#「ここにいることをやめなかった」に傍点]。きっと、ここに二人のドアがあったんだ。それを、俺やヤマさんがちょっとノックしたって感じかな。
ドアを開いたのは、二人だ。ドアの向こうにあった新しいものや人を受け入れたのは、二人の意思だ。
龍さんの言った言葉を思い出す。
『運命を乗《の》り越《こ》えるのは、結局は本人の意思しかない』
『もがき、あがく者には、必ず救いの手が現れる』
佐々木と川島が「変わった」のは、二人が「変わりたい」と、もがいてあがいた結果の運命のなせる業《わざ》だなんて、おおげさなことは言わないけどな。
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[#挿絵(img/04_144.png)入る]
漫画《まんが》じゃない!
お盆《ぼん》が明けて、帰省していた秋音ちゃんが地元|土産《みやげ》をいっぱい持ってアパートへ帰ってきた。
「ただいまー! 金山寺味噌《きんざんじみそ》、持ってきたよー!」
「待ってましたー!」
大人たちが喜んだ。
「何味噌?」
と、長谷が訊《き》いてきた。
「金山寺味噌って、秋音さんの地元で作ってるおかず味噌[#「おかず味噌」に傍点]なんだ」
「おかず味噌!?」
もともとは、その地方の寺の保存食として作られていたという金山寺味噌には、野菜がどっさり入ってて、麦や大豆も完全にすり潰《つぶ》されていなくて食《た》べ応《ごた》え充分《じゅうぶん》。これだけでおかずになるから、おかず味噌《みそ》と言われる。
良質の水と材料でじっくりと熟成させ、甘味《あまみ》たっぷり、栄養たっぷり。キュウリや大根のスティック野菜につけてよし、ちりめんじゃこと和《あ》えてよし。そして、熱々の白飯にそのまま載《の》せて食べると……これがたまらん! 止まらん!!
「うちは親戚中《しんせきじゅう》がそれぞれの家で作ってるわ。うちのおばあちゃんが作るのが一番だけどね!」
秋音ちゃんはVサインを出した。
「も〜、これだけで酒の肴《さかな》には充分《じゅうぶん》! 日本酒が進むの進まないの!」
詩人や山田さんたち酒飲みは、皿に盛った金山寺味噌を箸《はし》でちびちび口へ運びながら、日本酒をグイグイ飲んだ。まだおやつの時間だっての。
「あたしは、野菜で食べるのがだ〜い好き!」
まり子さんは、丸ごとのキュウリに味噌をつけてボリボリ食べている。
「あ……うまい! なんなんだ、この甘さは!」
大根スティックにつけて食べた味噌のうまさに、長谷は目を丸くした。
「絶妙《ぜつみょう》だろ!?」
俺もキュウリをボリボリ食った。
「これを、家庭で作るんですか?」
「そうよ。うちの田舎《いなか》は普通《ふつう》のお味噌《みそ》も全部家で作るの。で、これが親戚《しんせき》ん家《ち》で作ってる梅酒と梅ジュース〜」
「家で味噌を作るっていうのがすげぇよな」
「金山寺味噌は、夏野菜をたっぷり入れるから夏から秋にかけて作られるの。これはちょっと早めに作ったやつだけどね。今は一年中野菜があるから、いつでも作れるようになったわ」
秋音ちゃんは、実家へ帰るたびにこの金山寺味噌を持ってきてくれるけど、いつもあっという間になくなってしまう。みんな寄ってたかって食うからだ(特に、酒飲みどもがこれを肴《さかな》にすると一日中ダラダラと飲んでいる)。今回も三キロほどあるけど、もって……三日ぐらい?
秋音ちゃんの地元の銘菓《めいか》を食べながら、長谷は居間で夏休みの課題をしていた。その内容を見ると、さすが超一流《ちょういちりゅう》の進学校だとわかる。俺にはさっぱりわからん。いや、俺も勉強はできるほうといえばできるほうだけど。長谷とは比べものにならないもんなぁ。
「そういやお前、お盆《ぼん》はちゃんと伯父《おじ》さん家に挨拶《あいさつ》しに行ったか、稲葉?」
長谷は数学の問題を解きながらしゃべる。器用な奴《やつ》。
「ああ。バイトの合間に墓参りに行って、バイトが終わってから伯父《おじ》さん家《ち》に行った。恵子伯母《けいこおば》さんのほうの親戚《しんせき》が偶然《ぐうぜん》来ててさ、もー質問|攻《ぜ》めにあったよ。学校はどうだ、一人暮らしはどうだってウルセーのなんの。こづかいはくれたけど」
「ははは」
「お前はいつものとおり? 一|泊《ぱく》二日の顔出し?」
「ああ。いつものとおりだったよ」
長谷もお盆《ぼん》の間は家へ帰っていた。長谷の家じゃなく、本家のほうへ墓参りを兼《か》ねて。
長谷家は今は関東にあるが、本家は仙台《せんだい》にある。もともとはもっと北の出らしいが、そこがハッキリしないという。だから仙台には先祖の墓はない。長谷のお祖母《ばあ》さんの墓とかがあるだけだ。
長谷の祖父《じい》さんは地元では大変な名士で、地元で財を築き、それを関東でさらに莫大《ばくだい》なものに育て上げた。今それを継《つ》いでいるのが、長谷の伯父(本家の長男。長谷の親父《おやじ》さんは次男)だ。だが、政界にも影響力《えいきょうりょく》があり「財界の怪物《かいぶつ》」と呼ばれた祖父さんも、十数年前に身体を悪くして以来、田舎《いなか》にこもっている。
「いつものように、顔も見えないぐらい遠くから挨拶《あいさつ》しただけさ」
お盆の本家への挨拶には、いつも長谷だけが行く……というか行かされる。長谷の親父さんもお袋《ふくろ》さんも姉貴も、本家へは行きたがらない。
というのも、長谷の親父《おやじ》さんと本家に何か確執《かくしつ》があるらしく、この分家の人間たちは、本家ではまともな扱《あつか》いを受けないらしい。当主のいる部屋から三つも四つも離《はな》れた部屋からでしか挨拶《あいさつ》できないし(部屋が五つぐらい続いているっていうのがすげぇけどな)、広大な屋敷《やしき》の端《はし》っこの部屋(一応ちゃんとした客間らしいけど。十|畳《じょう》ぐらいの)へ通されたまま、三度の食事すらそこでとらなければならないんだ。一人で。別に外へ出てはダメだというんじゃないけど、当主には会えない。
「田舎《いなか》の古い家のしきたりだと思えばいいんだ。時代|錯誤《さくご》な感じはするけどな」
「でもすげーよな。横溝正史《よこみぞせいし》の世界だぜ」
クリが、何かをもぐもぐしながらやってきた。
「お、クリ。なんかいいもん貰《もら》ったのか」
クリは「食べる?」というふうに、手の中のものを差し出した。
「魚の干物《ひもの》!? お前、シブイおやつ食ってんなぁー!」
俺たちは大笑いした。クリが食べていたのは秋刀魚《さんま》のみりん干しだった。これも秋音ちゃんの地元|土産《みやげ》だ。彼女《かのじょ》の地元は魚の干物《ひもの》もうまいんだ。
「お、そうだ! クリにやろうと思ってたの忘れてた!」
長谷はそう言うと、二階へ駆《か》け上《あ》がっていった。そして、何やら青いビニールシートのようなものを広げながら下りてきた。
「家でみつけたんだ。俺がガキの時使ってたやつ」
それは、子ども用のビニールプールだった。俺が朝行で使ってるやつとは違《ちが》い、さすが金持ちのものらしく、大きくて頑丈《がんじょう》、空気を入れるポンプ付き。これに満々と水を張ると、クリなら泳げるぞ。
「水遊びしよーか、クリー」
クリは、徐々《じょじょ》に空気が入ってもこもこと膨《ふく》らんでくるビニールが面白《おもしろ》いらしく、その上で転げまわった。
「ははは! 喜んでる喜んでる!」
「なんの騒《さわ》ぎ〜?」
詩人やまり子さんたちがやってきた。
「わあ、大きなプール!」
「行水するのかい? いいねー。夏らしいねぇ」
ビニールプールの中で、クリは流れこんでくる水をすくっては、パシャッパシャッと空へ向かって飛ばした。砕《くだ》け散《ち》る水滴《すいてき》が、夏の光を受けて煌《きら》めくのを楽しんでいるようだ。そして、プールの中に入ってきたシロがブルブルッと身体を振《ふ》るたびに水滴《すいてき》が飛び散るのが面白《おもしろ》いようで、手を叩《たた》いたり揺《ゆ》れたりした(踊《おど》ってる?)。予想どおり、満々と水がたまると、クリは浮《う》きそうなくらいだった。
「さっそく明日は、オモチャを買ってこなくちゃな〜。アヒルとかボールとか、動く船もいいな〜」
長谷がデレデレと言った。ホント、変わったよ、お前は。
しかし、大きなビニールプールに大喜びしたのはクリだけじゃなかった。
「きゃ〜〜〜! 気持ちいい〜〜〜!!」
「あたし、こんなの初めて〜〜〜!」
服のまんま水に浸《つ》かって歓声《かんせい》を上げたのは、まり子さんと秋音ちゃん。ホースの先をシャワーに換《か》えて、クリにかけたりお互《たが》いにかけっこしたり、はしゃぎまくっている。男どもは呆気《あっけ》にとられてしまった。
「ビール飲みた――い!」
「なんかすごい解放感〜!」
「夕士クンも長谷クンもおいでよ!!」
「いや、それはちょっと……」
いくらなんでもそれ以上は入れないだろ。もともと大人用じゃないんだし。それに、大人二人がたてる水しぶきで、俺たちはすでにびしょ濡《ぬ》れだし、まり子さんの白いタンクトップは水に透《す》けてバストがほぼ丸見え状態で、どこに目をやっていいかキョロキョロしちまうし、縁側《えんがわ》では詩人が大笑いしているし、シロは遠くへ避難《ひなん》してるし、そこへ……。
「何やってんだ、お前ら?」
と、画家が帰ってきて、水たまりを見て喜んだ画家の愛犬シガーが、そのでかい図体《ずうたい》でプールに飛びこんだ。
ワッシャアア―――ッ!! プールの中に大波が起こる。
「キャ〜〜〜ッ!」
「キャハハハハ!!」
「やめ……シガー!」
「あ、わわわ……っ!!」
ザッバ―――ン! と、プールがひっくり返った。小さなクリの身体は、水に乗って縁《えん》の下《した》へ流れていった。
「クリ〜〜〜!!」
追いかけようとした長谷が足をすべらせて転倒《てんとう》、興奮したシガーを押《お》さえて俺は泥《どろ》の上をのたうち、プールの下から這《は》い出《だ》してきたまり子さんと秋音ちゃんも、全身|泥《どろ》パック状態だった。
「いや〜〜だ〜〜〜! ドロッドロ! アハハハハ」
「キャハハハハ!!」
その場のテンションが上がりまくって、シロもシガーもギャンギャン吠《ほ》えた。
「阿鼻叫喚《あびきょうかん》だね」
縁側《えんがわ》で詩人が冷静に言った。
夕飯時。昼間のその大騒《おおさわ》ぎの話を聞いて、骨董屋や佐藤さんも大笑いした。
「だから庭がドロドロだったのか、ここだけ夕立が降ったのかと思ったよ!」
「行水って、あんなに気持ちがいいものなんだって知らなかった! あたしクセになりそう!」
「水着でやろうよ、秋音ちゃん! 何十年かぶりで水着が着たい気分だわ、あたし。水着買ってきて!」
「どんなのがいい、まり子さん? やっぱりTバック?」
あの「阿鼻叫喚《あびきょうかん》」をまたやるつもりか。
「でも……面白《おもしろ》かったな」
長谷がボソリと言った。俺たちは、全身|泥《どろ》まみれになったお互《たが》いの姿を思い出して吹《ふ》き出《だ》した。
テーブルには金山寺|味噌《みそ》を使ったサラダや和《あ》え物《もの》のほか、ハマグリと三つ葉のかき揚《あ》げ、昆布《こんぶ》のよく効いた鯛《たい》の酒蒸《さかむ》しと、日本酒の瓶《びん》がズラリと並んでいる。幻《まぼろし》の焼酎《しょうちゅう》といわれる「伊佐美《いさみ》」を手に入れてきたのは画家だ。
「昔、貸しのある奴《やつ》に偶然《ぐうぜん》会ってな、ちょいと締《し》め上《あ》げたら差し出してきた」
と、画家は満足げに笑った。確か画家は、個展のために出かけていたはず。何やってんだか。
そして、その焼酎と金山寺味噌の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけてきたとしか思えないタイミングで、「古本屋」も帰ってきた。繁華街《はんかがい》の路上で手作りアクセか偽《にせ》ブランド品を売っているような怪《あや》しい風体《ふうてい》をしているが、実は魔道書《まどうしょ》「|七賢人の書《セブンセイジ》」を操《あやつ》る|魔書使い《ブックマスター》、つまりは俺の「先輩《せんぱい》」ってわけ。世界中の奇書珍本《きしょちんぽん》を追い求め、旅から旅へ忙《いそが》しく飛び回っている。
「お久しぶりの金山寺|味噌《みそ》とジャコの和《あ》え物《もの》が、なんて焼酎《しょうちゅう》に合うんだー! ああ、日本人でよかったよ!」
と、むせび泣きながらいつものセリフを絶叫《ぜっきょう》する。
子ども組は、ネギをたっぷり載《の》せた豚《ぶた》のしょうが焼きや、ダシ醤油《しょうゆ》でいただくおぼろ豆腐《どうふ》、きんぴら蓮根《れんこん》などと一緒《いっしょ》に、金山寺味噌を盛った熱々の白飯をほおばった。
「う、わ……これはたまらん!」
長谷は絶句した。味噌の持つ甘味《あまみ》や旨味《うまみ》は、なんというか日本人の琴線《きんせん》に触《ふ》れるというか、基本はここだろ、みたいな感じがするんだよな。それが、同じく日本人の基本の白飯のうまさとあいまって、感動的ですらある。古本屋じゃなくても「日本人でよかったよー!」と叫《さけ》びたくなる。
昼間の熱気が冷めやらぬ妖怪《ようかい》アパートは、今夜は一段と華《はな》やいでいた。いつものうまいものに、久々に食べるうまいものが加わり、嬉《うれ》しさが何倍にもなる。それぞれが酒を注《つ》ぎ合《あ》い、笑い合い、しゃべり合う。その雰囲気《ふんいき》につられて、あっちこっちの隅《すみ》っこに正体不明のモノが現れたり消えたり、窓の外の暗闇《くらやみ》に漂《ただよ》うモノたちも、楽しげに舞《ま》ったり光ったりした。
「そういやぁ骨董屋さんは、今回は何か面白《おもしろ》いブツを仕入れてないのー?」
と、詩人に言われて、骨董屋は葉巻をくゆらせながら振《ふ》り向《む》いた。
「う〜ん……あることはあるんだが」
「なんだよ? もったいぶってないで見せろよ〜」
画家や古本屋がはやしたてる。
「う〜ん……まあ、いいか。大丈夫《だいじょうぶ》か」
何が「大丈夫か」なんだろう? ちょっと不安。
みんながコーヒーを飲んでいるところに、骨董屋の「召《め》し使《つか》い」が一人やってきた。
召し使いは、木箱の中からレトロなデザインのランプみたいなものを取り出し、テーブルの真ん中へ置いた。
「これは何スか?」
「わかりやすく言うと、全方向型立体映写機……だな」
「立体映写機!?」
「全方向型……?」
みんなキョトンとした。いや、立体映写も全方向も単語としてはわかるけど……。
「何が始まるの〜?」
片付けを終えて秋音ちゃんが来た。
「秋音ちゃん、ちょっと居間の周りに結界を張ってくれんかね?」
と、骨董屋が言った。
「なんで? 何かヤバイことするつもりなの?」
秋音ちゃんは骨董屋に迫《せま》った。
「違《ちが》う違う。ヤバイことじゃない。ただ念のために、ね♪」
おおげさな身振《みぶ》り手振りがとてつもなく怪《あや》しいぞ、骨董屋! 何をするつもりなんだろう。ドキドキするな。
秋音ちゃんは疑惑《ぎわく》の眼差《まなざ》しを骨董屋に向けつつ、縁側《えんがわ》に出て何かをした。結界とやらを張っているらしい。
「では、お集まりの皆様《みなさま》」
骨董屋は深々と一礼した。
「もったいぶんなー!」
「早くしろー!」
みんながヤジる。
「今夜お目にかけるのは、それはそれは素晴《すば》らしいもの。腰《こし》など抜《ぬ》かさぬように」
「うさんくせー!」
骨董屋は、小さな小さな板のようなものを取り出した。
「チップ……みたいだな?」
長谷が言った。骨董屋は「ふふん」と笑った。
「デジカメの?」
そのチップのようなものが、レトロなランプのようなものに「カシュッ」と差しこまれた。骨董屋が指を鳴らすと、部屋の電気が消された。
「お?」
一瞬《いっしゅん》暗くなった居間。しかし、またパアッと明るくなった。
「うおお――っ!?」
空!
空だ!!
「なんだ―――っ??」
俺たちは、全員空に浮《う》かんでいた。いや、空を飛んでいた。
視界いっぱいに広がる大空が、眼下に広がる景色が、刻々と過ぎていく。足の下に何もない!
骨董屋は立ったまま、俺たちは座《すわ》ったまま、テーブルのコーヒーカップもそのままに、大空を飛んでいるようだった。
「恐《こえ》ぇえ―――っ!」
俺と長谷は、思わず抱《だ》き合《あ》った。さすがの妖怪《ようかい》アパートの面々も、少々|面食《めんく》らっているようだ。少々。
「こりゃあ……! まるで透明《とうめい》な飛行機に乗ってるみたいだな!」
「『ワンダーウーマン』にあったね! 透明な飛行機!」
「佐藤さん、古っっ!!」
俺たちは、広大な緑の森の上を飛んでいた。森の中には点々と、吸いこまれそうに真っ青な湖や、燃えるように真っ赤な湖が点在していた。森の遥《はる》か向こうには純白の大地があり、黄金の建物が見えた。
「綺麗《きれい》〜〜〜!」
見たこともないような美しい景色に、秋音ちゃんやまり子さんはうっとりしている。
「こんな立体映像は聞いたことがないぞ。いや、こういう映写方法はあることはあるけど、これは立体的すぎる!」
長谷が冷《ひ》や汗《あせ》をかいている。そう。まるでこれは「本物」みたいだ。居間の壁《かべ》にただ投影《とうえい》されてるんじゃない。まるで、映像の膜《まく》に覆《おお》われているようだ。風を感じられそうなぐらい、その場にいる[#「その場にいる」に傍点]ようなんだ。
「これ、この世[#「この世」に傍点]じゃないなぁ」
古本屋が苦笑いした。
「この世じゃない?」
突然《とつぜん》、バサア―――ッ! と、大きな影《かげ》が横切った。
「うわあああ!!」
思わず大声を上げちまった。それは、巨大《きょだい》な恐竜《きょうりゅう》のような鳥だった。
「うお――っ! 恐竜だ、恐竜だ! プテラノドンだ!」
「ロックバードだ!」
大人どもはヤンヤの歓声《かんせい》を上げた。
「ビックリした! あ―――、ビックリした!!」
俺と長谷はマジでビビった。それから、二人で顔を見合わせると爆笑《ばくしょう》した。
森を抜《ぬ》けると、煌《きら》めく純白の砂漠《さばく》のような大地が広がり、そこに立っている黄金の建物は、なんというか、くねくねとした生物的なデザインだった。俺たちは、その周りをゆっくりと飛んだ。
「ファンタジー映画に出てくる、妖精《ようせい》のお城みたいね」
「ガウディっぽい」
「このくねくね加減は『エイリアン』じゃないー?」
「ギーガーか」
と、金色の建物が純白の大地に沈《しず》み始《はじ》めた。
「おおお―――っ!」
白い砂煙《すなけむり》を轟々《ごうごう》と上げながら、建物は傾《かたむ》くように大地に沈んだ。そして完全に沈んでしまう前に、ちらりと尾《お》びれのようなものが見えた。
「ええ〜〜っ、ひょっとしてアレ、生き物〜〜〜!?」
骨董屋は面白《おもしろ》そうに、クックと喉《のど》で笑った。
「砂の海に棲《す》む魚だよ」
「あそこ、海なの〜〜〜!?」
「魚って、そばを飛んでたロックバードが蚊《か》みたいだったぞ。どんだけでけぇんだよ!?」
「すげ〜〜〜……!」
度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれるとはこのことか。何がすごいって、これがSFXじゃないってことだ。
胸がドキドキする。天国とか地獄《じごく》とかじゃなく、こういう世界[#「こういう世界」に傍点]が本当にある! 俺は、興奮して鳥肌《とりはだ》が立った。
その時、映像の向こうから、ぬるっと人影《ひとかげ》が現れた。
「!!」
コートのような長い黒服を着た、背の高い男だった。
男は、眼鏡の向こうから秋音ちゃんを見て言った。
「奇門遁甲《きもんとんこう》か。やるね、お嬢《じょう》ちゃん」
秋音ちゃんは、目をまん丸にした。
「結界が破られた……! こんなに簡単に!?」
何事かと呆気《あっけ》にとられる俺たちの間から、侵入者《しんにゅうしゃ》めがけ骨董屋の召《め》し使《つか》いがシュッと飛び出した。そのとたん、ボオン!! と、すごい煙《けむり》が立った。
「うわあっ!!」
「ゲホゲホッ!」
「ではまた会おう、諸君!」
息がつまるような濃密《のうみつ》な煙の中、骨董屋の声が遠のき、それを追うようないくつもの気配が俺たちの横をすり抜《ぬ》けていった。入《い》れ替《か》わりに、アパートの奥《おく》から一陣《いちじん》の風がビョオッと居間を駆《か》け抜《ぬ》け、煙を庭へ吹《ふ》き飛《と》ばした。すべてが、あっという間だった。
「…………」
もとに戻《もど》った居間。そこには、骨董屋も立体映写機も、謎《なぞ》の男もいなかった。
「なんだったんだ……?」
俺や長谷は呆然《ぼうぜん》とした。
「コングレッソ・ヴィエタート。ヴァチカンの奇跡狩《きせきが》り≠フ連中さ」
チビた煙草《たばこ》をくゆらせながら古本屋が言った。
「奇跡狩《きせきが》り?」
「ヴァチカン! あの人、ヴァチカンの特務員なのね!? ……な〜るほど」
秋音ちゃんは手を打った。
「ヴァチカンの特務員??」
「ヴァチカンにはね、一般《いっぱん》の神父のほかに、退魔《たいま》とか降霊《こうれい》とか、霊や妖怪《ようかい》に直接|関《かか》わる霊能力者たちがいるの。ヴァチカンが組織的に抱《かか》えているのよ」
「はあ〜?」
「いわば、裏ヴァチカン≠セな」
古本屋がそう言って笑った。そんな漫画《まんが》みたいな。いや、漫画みたいといえば、この「妖怪《ようかい》アパート」のほうが遥《はる》かに漫画みたいではあるんだけど。
「信じられないだろうけど、国が抱《かか》えている特務機関[#「特務機関」に傍点]ってけっこうあるのよ!? その世界[#「その世界」に傍点]の頂点がヴァチカンなの」
「アメリカが世界の警察≠自称《じしょう》するなら、ヴァチカンは世界の霊的治安≠守る警察を気取ってるわけさ」
俺と長谷は顔を見合わせた。話についていけない感じがしたりして。
「映画じゃ、そのテの裏組織はいっぱい出てくるけどねぇ」
と、佐藤さんが笑った。
「コングレッソ・ヴィエタートは、ヴァチカンが抱《かか》える裏組織のうちの一つだ。通称《つうしょう》奇跡狩《きせきが》り≠チて呼ばれてるとおり、奇跡を起こすと称して大衆を惑《まど》わしそうな別次元のブツを回収して回ってる」
古本屋はこの話に詳《くわ》しいらしい。自分もそのテのブツを扱《あつか》うからなんだろうな。
「どうやら骨董屋さん、目をつけられてたみたいだネ」
詩人が面白《おもしろ》そうに言った。
「本人もわかってたようだがね。あー、俺もヤバイの持ってたんだ。商売がすんでてよかったー」
「骨董屋さん、だから結界を張れって言ったんだわ。全然効かなかったけど」
秋音ちゃんは口をとんがらせた。
「いやー、でも面白かった!」
「翼竜《よくりゅう》と超巨大魚《ちょうきょだいぎょ》はすごかったぜー」
「いいもの見せてもらったわぁ」
「相変わらずだなあ、骨董屋さんは。あれ、どこのモノかなぁ?」
「俺もいっぺん、奴《やつ》らにしょっぴかれたことがあってさぁ。ヴァチカンの地下ってすごいよぉ!?」
「あんたも懲《こ》りん人だね」
大人どもは、まるで何事もなかったかのようだ。
俺と長谷は、ちょっと魂《たましい》を抜《ぬ》かれていた。
布団《ふとん》に横になっても、二人ともなかなか寝《ね》つけなかった。薄闇《うすやみ》に揺《ゆ》らめく淡《あわ》い光をぼんやりと眺《なが》めていた。
「思い出したら、まだドキドキする」
俺がつぶやくと、長谷も「うん」と返してきた。
「世界って、どこまで広いんだろうなあ」
「どこまでもさ」
俺は、長谷のほうへ身体を向けた。
「俺はさあ、仮にも魔道士《まどうし》サマなんだぜ」
「ああ。サマってほどじゃないがな」
「プチの中にいる連中も、どこか別の世界にいたんだ。同じ世界かもしれないし、別々の世界にいたかもしれないけど。すげぇじゃん。グリフィンとか運命の女神《めがみ》とかがいるんだぜ。『ロード・オブ・ザ・リング』の世界じゃん」
「ああ」
「なのに、今日またその百倍ぐらいびっくりしたぜ。おまけに裏ヴァチカンだってよ。漫画《まんが》じゃねーっての!」
長谷は、くすっと笑った。
「俺の人生は長く、世界は果てしなく広い……。でも、いったいどこまで行けばいいんだろうな……?」
「行けるとこまでさ」
長谷は即答《そくとう》した。
「……軽く言うなよ」
「重く言っても同じだよ」
「…………」
「古本屋さんだって龍さんだって言ってたじゃないか。お前のことを不思議だと。あんなすごい魔道士《まどうし》たちでも、予想も予知もできないことが起きる。世界は驚異《きょうい》に満ちてるって」
「……そうだったな」
世界は驚異に満ちている。
まだまだたくさんの、驚異に満ちた世界が俺を待っている。
[#改ページ]
[#挿絵(img/04_168.png)入る]
そこに向かって人は進む
怒濤《どとう》の夏休みも、残りわずかとなった。やっと……と思う俺は、疲《つか》れているのだろうか?
「俺、今日はクラブのバーベキュー大会だ。お前は?」
「俺も出かけるよ。一日、出てると思う」
朝飯を食い終わって、そんな話をしてる時だった。妖怪《ようかい》アパートの電話が鳴った。
「ハイハイ、妖怪アパ……いえ、寿荘《ことぶきそう》です。……ハイハイ」
詩人の応対する声が聞こえた。そして、
「夕士ク〜ン、警察から電話」
「警察!?」
俺と長谷は声を揃《そろ》えた。詩人は俺に受話器を渡《わた》しながら笑った。
「何したの〜? ふふ」
「べ、別になンも……はい、替《か》わりました……ハイ、そうス。何か?」
電話を置くと、長谷が言った。
「何やらかしたんだ」
「なんもしてねーって! 俺、こないだ自殺|未遂《みすい》の女の子を助けただろ?」
「ああ」
「あの子がお礼を言いたいって、警察に来てるらしいんだ」
「へぇ」
「バカなガキかと思ったけど、感心なとこもあんだな」
と、俺は言ったが、詩人は意味深に目を細めた。
「ビミョーだね」
「何がビミョーなんスか、一色さん?」
「ヤケ死にを覚悟《かくご》した人間が説得によって救われると、その自殺志願者は自分を救った人間にすべてを依存《いぞん》してしまうことがある」
「す、すべてって!?」
「命と魂《たましい》さ。救いを求めてくるんだヨ」
面白《おもしろ》そうに笑う、そのラクガキのような顔が、ちょっと恐《こわ》かった。
「お、おおげさっスよ、一色さん! 相手はそんな深刻な奴《やつ》じゃ全然ないっスから。頭の悪い、ただのガキっスよ! ハハハハ!」
「ハハハハハハ!」
というわけで、俺はあの女の子に会いに行くことになった。
警察の待合室みたいな場所に、女の子はポツンと座《すわ》っていた。
「あの子には、君の名前しか伝えていないから。住所や電話番号のやりとりはしないようにね」
と、俺は警官に釘《くぎ》を刺《さ》された。
俺の姿を見ると、女の子はピョコンと立ち上がって頭を下げた。
やっぱり体格といい服装といい、高校生以上にしか見えない。なんなんだ、この胸元の開いた下着みたいな服は!? おまけに、化粧《けしょう》にマニキュアに銀のアクセ。ミュールのヒールは高いし、ボロっちぃ膝切《ひざぎ》りのジーンズ(古着じゃなく、そういうものなんだろうが)にあいた穴からは太ももが見えてる。こんな服を着て、痴漢《ちかん》に遭《あ》わないほうがおかしいんじゃないか? 痴漢に同情したい気分だぜ……なんて感覚だから田代とかに「オッサンみたい」って言われるんだろうな。
「稲葉夕士ス」
軽く頭を下げると、女の子は名刺《めいし》を出してきた。
「浅田有実《あさだゆうみ》デス!」
名刺には、プリクラ写真と携帯《けいたい》の番号や生年月日、血液型が記されていた。オイオイ! さっきこういうことをするなと注意されたばっかりだって……ってか、こういうものを、誰彼《だれかれ》かまわず配ってんじゃねぇだろうな、このバカは!?
「いや……これはいい」
俺は、努めて冷静に名刺を返した。
「え、いらないの? なんで?」
「なんでって」
「みんな欲《ほ》しがるよ!? 特に携帯の番号なんか」
そりゃそうだろう!
「や……俺、携帯持ってないし」
「ええっ、ウッソ――! 携帯持ってない人、初めて見た! なんで? なんで持ってないの? ものすごく不便じゃん!」
ほっとけよ!
「ユーミなんか、携帯《けいたい》がなかったら死んじゃうヨー」
だったらわざわざビルの上へのぼらなくても、携帯捨てりゃ死ねたんじゃねぇか!?――なんてことを言ってはイカン! 相手は小六! 年上に見えても小六なんだ!!
「ひょっとして、ユーシくんって、友だちいない? あ、ゴメーン。こんなこと言っちゃいけないよネ。ああ、今気づいた! ユーシくんとユーミちゃん、あたしたち、名前似てる〜〜〜!!」
助けてくれ、長谷!! キレそうだ…………っっ!!
「こないだは、ありがとう。ごめんなさいでした」
有実は、あらためて頭を下げた。表情が全然|違《ちが》う。いきなりのトーンダウンと、別人のような殊勝《しゅしょう》な顔に俺は面食《めんく》らった。なんなんだ、こいつ? まるで二重人格だぜ。
「ホントはね、死ぬ気なんかなかったと思う。死んでやるって思ったのは本当だけど……。友だちと喧嘩《けんか》してムシャクシャして、それでパパとママに文句言われて、もうすんごいムカついたの。なんかもう、わけわかんないぐらいムカついて、怒鳴《どな》りまくって……そしたら悲しくなって……」
「…………」
「どうしていいか、わかんなくなっちゃったんだ」
その、きっちりと化粧《けしょう》をした大人のような顔と、あまりにも不釣《ふつ》り合《あ》いな心。
『身体ばっかり育ってもねぇ……』
親たちのため息が聞こえる。
この子は、身体の成長が早くて美人で、ファッションも決まってる。周りはきっと大人|扱《あつか》いする。本人も、自分はいっぱしだと思っている。
でも、心は置き去りにされたままなんだな。心が、全然ついてきてないんだ。いろんな問題が起きるのは、心と身体がズレているからだ。ちょっと話をしただけで、こんなにも違和感《いわかん》を感じるのは、本人がアンバランスなことに気づいていないからだ。
大人のようで、でも実は子どもで。
子どもだと思いたくなんかないけど、やってることは子どもで。
どんなにツッパッても、子どもという部分は隠《かく》せなくて……。
きっと誰《だれ》もが通る道だ。俺だって覚えがある。この子の場合、ちょっと早くて、ちょっと極端《きょくたん》なんだな。
「死にたくなることは、誰にでもあると思う」
有実の顔が、またパッと変わった。同意を得られて喜んでいるようだ。
「ホント? ユーシくんもそう思ったことがある?」
「いや。俺は、ない。俺は歯ぁ食いしばって、負けるもんかって思ってきた」
「強いんだね……」
「俺は、死にたいなんて思っちゃいけない人間だからさ。両親に先に死なれたからな」
有実は、大きく目を見開いた。それからシュ〜ンと、一回りもちぢこまってしまった。笑えるぐらい。
「ごめんなさい……」
蚊《か》の鳴くような声だった。下着みたいな服の裾《すそ》を握《にぎ》りしめて震《ふる》えた。
本当は素直《すなお》で、純粋《じゅんすい》な十二|歳《さい》の女の子。
情報と便利なツールに振《ふ》り回《まわ》されて、それだけ[#「それだけ」に傍点]を身につけた、中身はまだカラッポな子ども。両親のいない人間がいるなんて考えもしない。そんな世界[#「そんな世界」に傍点]があるなんて考えもしない。小さな小さな世界の、たった一人の住人。
俺は、有実の頭をワシャワシャと撫《な》でた。
「親が文句を言うのは、心配してる証拠《しょうこ》だぜ? お前は大切にされてるんだよ。だから、自分をもっと大切にしろよ」
「…………ん」
うつむいていた有実の顔から、ポタポタと涙《なみだ》が落ちた。
「ヤバイ!!」
と、俺は思った。有実の肩《かた》がブルブル震《ふる》え、たちまちしゃくりあげ始めちまった。
「ひ、ひっく、ひ、ひぃ、ひぃ〜〜〜ん!」
うわあああ〜〜〜、こんなとこで泣かんでくれ〜〜〜!! ここをどこだと思ってんだ―――!!
「どうしたね?」
警官がやってきた。「なに女を泣かしてやがるんだヨ、おめーはヨ」という顔をしている。
「ち、ちが……なんでもないっス!」
俺はブンブンと手を振《ふ》った。その横で有実は泣き続ける。
「えっ、えっ、うええっ、え〜〜〜っ」
まったく! 本っ当にガキだ、こいつは!! いや、小六じゃ仕方ないんだけど!!
有実は延々と泣き続け、俺はいたたまれなくとも逃《に》げるわけにいかず、ずっと隣《となり》に座《すわ》っていた。
そばを通る警官たちが、実にうさんくさそうに俺たちを見ていく。若いバカなカップルが痴話喧嘩《ちわげんか》をしているようにしか見えないのは仕方ないとはいえ、はなはだ不本意である。精神的苦痛を受けたとして訴《うった》えたいぐらいだ。おまけに、涙《なみだ》で有実の化粧《けしょう》が崩《くず》れて、顔中がものすごいことになっているのもゲンナリくる。
とうとう、婦人警官がやってきた。
「どうしたの? カノジョ、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「カノジョじゃないっス。こいつ、小六」
「あらま。妹さんだったんだ」
違《ちが》う!
「とにかく。せめて顔を洗ってこよう。ね」
そう言って、婦人警官は有実を連れていった。
「は〜〜〜……」
何をしているんだ、俺は? そろそろバーベキュー会場へ行かなきゃならない時間なんだが、このままフケるわけにいかんよなあ。
じりじりしていると、有実が帰ってきた。泣きはらした目をしているけど、化粧《けしょう》を落とした顔は子どもらしい純粋《じゅんすい》な印象で、それはとても美しかった。
「エヘヘ。お化粧してないと、なんか恥《は》ずかしい」
有実は、ペロッと舌を出した。
「学校に化粧して行ってるわけじゃないだろ。素顔《すがお》のほうがいいと思うけど」
「ホント!?」
「女は素顔がいいなんて言わねぇけどさ、素顔のほうがいい時期もあるよな。で、だんだんと化粧が似合うようになってゆく……と」
有実は、ひどく驚《おどろ》いたような顔をした。
「ユーミは、まだ素顔のほうがいい時期ってこと!?」
「だって、お前まだ小六だろ? 今から化粧をバリバリにやってて、これからどうすんだよ。なんかどんどんケバくなっていくしかないって思わねぇか?」
単純な意見だが、有実はコクコクとうなずいた。
「服装もな」
「服も!?」
有実は顔を真っ赤にした。俺は、その頭をポンポンと叩《たた》いた。
「もっと自分らしい格好ってのが絶対あるって。……じゃな」
「えっ、も、もう帰るの?」
「行くとこがあるんだ」
「どこ行くの? ユーミも行きたい!!」
有実は、まさにガキのようなことを言った。しかし、その目がすがりつくような表情をしていたので、俺はシマッタと思った。
詩人が言った「救いを求めてくる」という言葉が頭をよぎった。相手は子どもだからそこまで深刻じゃないかもしれないが、有実はあきらかに俺に依存《いぞん》してきている。どうする? このまま有実の望むとおりにしていいのか?
「ち、ちょっと待て」
とりあえず集会のボスに言わないと。俺は外国人クラブのボスに電話をかけた。
このバーベキュー大会には、条東商だけじゃなく上院《じょういん》や条西《じょうさい》の英会話クラブとか町の英会話教室とか、ほかにもクラブと付き合いのあるいろんなサークルの人たちが集まってくる。自分の家族や友人を連れて参加してもいいから、俺が有実を連れていっても基本的にはいいんだが、有実の事情が事情だけに……なあ。
しかし、外国人クラブ「エール1960」のボス、ジョージは、俺の説明を聞いたあと、軽〜く言った。
「ダイジョブ、ダイジョブ! Come, come. Welcome (どうぞどうぞ、大歓迎《だいかんげい》)ネー!」
「一緒《いっしょ》に来ていいぜ」
有実は、飛び上がって喜んだ。
「嬉《うれ》しい! ありがと、ユーシくん!」
「ただし!」
と、一喝《いっかつ》してやる。有実はビクッと身を縮《ちぢ》ませた。
「今から行くとこは、外国人クラブだ。外国人がいっぱいいる」
「外人さん……」
「外国人だけじゃなく、いろんな人がいる。子どももいるけど、みんなお前の知らない人で、世界の違《ちが》う人もいっぱいいる」
「…………」
「まず、行儀《ぎょうぎ》よくしろ。挨拶《あいさつ》はちゃんとする。人の話はちゃんと聞く。ハキハキしゃべる。向こうは親切でお前のわがままをきいてくれたんだ。それ、忘れんなよ! あと、やたらと名刺《めいし》は配るな」
「……ハイ」
有実は小さく、でも素直《すなお》に返事をした。
警察にも事情を話して、有実を連れていくことを承諾《しょうだく》してもらった。「エール1960」は伝統も格式もあるりっぱな組織(近隣《きんりん》の外国人のためのコミュニティセンターとして、一九六〇年に設立)だから、夕方までに有実を帰宅させるならいいと言われた。
まあ、不安はあったけどな。こいつの言動|次第《しだい》で、俺の責任が問われるわけだから。でも、クラブに行く途中《とちゅう》、
「あ、ち、ちょっと待って!」
と、ブティックの前で有実は立ち止まった。千円均一のワゴンセールの中からTシャツを一枚ひっつかんで店の中へ入っていくと、それを着て出てきた。モスグリーンに赤いリンゴのワンポイント柄《がら》のTシャツを着た有実は、中学生ぐらいに見えた。
「どう? さっきのよりマシでしょ!?」
ちょっとはにかみながら有実は言った。
俺が言ったことを、ちゃんと考えたんだ。俺は、ちょっと感心した。
「ヤッホー、稲葉! 久しぶりー。夏休み最終回になって、やっと来たか」
クラブには、相変わらず元気のいい田代がいた。
「忙《いそが》しくてなー。あ、この子、浅田有実」
「何? 親戚《しんせき》の子?」
「ああ、まあ」
「こ、こんにちは」
お辞儀《じぎ》をした有実の手を握《にぎ》って、田代はいつものようにスコーンと明るく言った。
「あたしのことは、ターコ姉って呼んで、ユーちゃん!」
「ハ、ハイ!」
田代の元気に有実もつられたようだ。あんまり調子づかせんなよな。
有実は俺の言いつけどおり、とても行儀《ぎょうぎ》がよかった(というか、緊張《きんちょう》してたのかもな)。
「新入り大好き」の「エール」のメンバーに歓待《かんたい》され、みんなにしゃべりかけられ、自分も自然に話せたようだ。
そうだった。「エール」のメンバーは、みんなコミュニケーションの達人ばかりだった。たとえ相手が子どもで他愛《たわい》ない下らない話しかできなくても、それをちゃんと聞いて意見を返す。新しい話へと展開させてゆく。それは、子どもであろうと「個」を尊重する文化圏《ぶんかけん》の人間ならではだ。しかもここの連中は、さまざまな環境《かんきょう》のさまざまな人間関係を渡《わた》り歩《ある》いてきた猛者《もさ》たちなんだ。
有実は、ボスのジョージが付きっきりで世話をしてくれた。最初は有実のことが気になってた俺も、そのうちジョージに任せておいたら大丈夫《だいじょうぶ》だと思った。有実の表情がどんどん変わっていったからだ。
自分の知らない世界を知って、自分の知らない自分を知って、目からウロコが落ちる。今までの自分を覆《おお》っていたメッキがはがれてゆく。そしてその中から、本当の自分が現れてくる。その戸惑《とまど》いと喜び。まるで俺を見ているようだった。
「Hey, Yushi! Long time no see you (やあ、夕士! 久しぶりだね)」
「Who is that girl? Your girlfriend? (彼女、誰? ガールフレンド?)」
メンバーが話しかけてきた。そうだった。俺はここに、英会話をしにきているんだった。しゃべらねば! 俺は辞書を片手に、なんとかかんとか夏休みのことなどをしゃべった。
「エール1960」の広い庭には、バーベキューやゲストが持ち寄ったサンドイッチやケーキがあり、飲み物もある。パーティにはいつも五十人ぐらいが集《つど》い、日本語や英語やフランス語や中国語が飛《と》び交《か》い、自分たちの活動のことや家族のことや仕事のこと、あらゆることをしゃべりまくり、子どもたちは芝生《しばふ》の上を転げ回り、犬が走り回る。各校の英会話クラブのOBも家族連れで来たりする。
ふと見ると、有実はジョージと二人きりで、ちょっと離《はな》れたテーブルに座《すわ》っていた。そばに行くと、有実はバーベキューをガツガツ食っていた。
「青いカオしてるからドシタんだろうって思ったヨ。She is hungry (彼女、おなかがすいてるんだよ)ネ!」
有実は昼飯を食べずにここまで来て、今までひたすら話を聞いたりしゃべったりしていたらしい。とうとう空腹で目を回したのだ。有実は、肉と野菜を口いっぱいほおばって「テへ」と恥《は》ずかしそうに笑った。俺とジョージは大笑いした。
「腹が減ったんなら、遠慮《えんりょ》せずに食えばよかったのに」
有実は、食いながら首を振《ふ》った。
「みんなとおしゃべりするのが楽しくて夢中だったの。あたし、こんなにしゃべったの初めて。知らないことばっかりだった。ボランティアとか、戦争の話も……」
新しい世界のドアが開いて、そこにまったく未知の世界が広がっている。
その時―――、自分がわかる。
「ユ……あ、あたし、あたし、ちゃんとしゃべれてたかな? 変なこと言わなかったかな?」
ジョージは優《やさ》しく微笑《ほほえ》んで、有実の頭を撫《な》でた。
「ダイジョブ、ダイジョブ。OKだよ。でもね、ユーミ、ちゃんと話せなくてもいいノ。そーゆーのはネ、少しずつベンキョーしていけばいいノ。ダメな時は、それダメヨって言うから。誰《だれ》も初めからパーフェクトな人はいないのヨ」
有実の、心から安心した笑顔は輝《かがや》くようだった。
許され、受け入れられ、導かれる喜び。
自分がいかに小さな存在だったかを知り、自分にいかに大きな未来があるのかを知る。
そこに向かって、人は進む―――。
「確かに有実の魂《たましい》は救われたみたいだよ、一色さん」
有実の笑顔《えがお》に、俺はそう確信した。
夕方までたっぷりと、有実はメンバーというメンバー、ゲストというゲストの話を聞かんと精力的に動き回った。俺も、久々に頭から煙《けむり》が出そうなぐらい英語と格闘《かくとう》した。
「おい、そろそろ帰るぞ」
と、声をかけた時、有実はバグー牧師と熱心に話しこんでいた。
「ユーシくん! あたしも英会話を習うことにしたの!」
そう言う有実は、また違《ちが》った顔になっていた。
「ああ、牧師さんとこでか」
バグー牧師は、月曜から金曜まで教会で英会話教室を開いている。生徒は子どもから年寄りまでいろいろだ。
「家が近かったんだ!」
「そうなのか」
「あたしもみんなみたいに、ジョージさんとか牧師さまと英語でしゃべりたい!」
ジョージと牧師は満面の笑《え》みだった。
俺は二人に頭を下げた。
「Thank you for …… inviting Yumi, today (ありがとうございました……。今日、有実を招《まね》いてくださって)」
「You are welcome. Anytime! (いつでもどうぞ!)」
「えーと……もし何か失礼とかあったら、謝《あやま》ります」
「No (いいえ)」
「Not at all (ぜんぜん)」
二人は口を揃《そろ》えた。
「ユーミは、とてもイイコだったヨ。挨拶《あいさつ》もちゃんとできてた。ね、ユーミ」
有実は、顔を真っ赤にしていた。瞳《ひとみ》が嬉《うれ》しそうにうるんでいる。
「今日は本当にありがとうございました。本当に楽しかったデス」
有実は丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。その姿に心が打たれる。
「今度は、バグー英会話教室のメンバーとしておいでネ」
「ハイ!!」
『子どもってなぁ、環境《かんきょう》に慣れるのも早《はえ》ぇもんだ』
『で、環境に順応すると、みるみる成長するんですよねぇ』
剣崎社長と専務が、そんなことを言ってたっけ。
「あ、帰るの、ユーちゃん」
「はい。また来ます、ターコ姉さん!」
「俺、こいつ送っていくから」
「オゥ!」
「お先っス、先生」
「おう、次は新学期だな」
「ウス。学校で!」
有実は、田代や条東商《うち》の顧問《こもん》にも深々と頭を下げた。
もう、朝会った時とは別人だ。
「ユーシくん、連れてきてくれて本当にありがとう。それから……行儀《ぎょうぎ》よくしろとか、注意してくれてありがとう」
不安定で、自分が何者なのか何がしたいのかわからず迷っていたバカなガキとは、もう違《ちが》う。
「ボランティアの話も、すっごく面白《おもしろ》かった。ブラウンさんたちがやってる海の掃除《そうじ》」
「ああ。スキューバで潜《もぐ》って、海の中のゴミを拾うやつだろ」
「うん。あれやりたい!」
まだ別世界は開いたばかりで、本当に何がやりたいのか何がやれるのかはわからない。でも、自分には無限の可能性があることを知る。そのためには、歩きださなければならないことを知る。
「じゃあ、まずはスキューバのライセンスをとらないとな」
「絶対とる! 今から勉強する!」
夏の夕空はまだまだ明るくて暑くて、むくむくと入道雲が立っている。街の通りには、いつもと変わらず人が行《ゆ》き交《か》う。
一人の女の子が生まれ変わったことなど、誰《だれ》も知らない。俺だけが、そこに立ち会えた光栄に浴している。
「よかった。本当に……」
俺や詩人の心配を吹《ふ》き飛《と》ばし、有実は遥《はる》かな高みへと超特急《ちょうとっきゅう》で駆《か》け上《あ》がった。佐々木や川島は一月ほどかかったけど、有実はたった半日たらずで変身したことになる。
まだ子どもの俺が言うのもなんだけど、これが「子どもの力」なんだと思う。
妖怪《ようかい》アパートも、「プチ」も、龍さんや古本屋や骨董屋が見せる世界も、ヴァチカンの特務員も、みんな信じられない「驚異《きょうい》」だけど、同じぐらいの「驚異」がこんな日常にもあるんだ。こんな幼い、一人の女の子の中に。一人の人生の中に。
「あたしね、友だちって多いほうだと思う。でも、この頃《ごろ》すごくそれが……なんか……飽《あ》きてきたっていうか、話が合わなくなってきたの。それですごくイライラしてた。なんで? って。……今日、エールのみんなと話してて、それがわかった気がするの」
「へぇ!?」
「あたし、いつもいつも同じことばっかりしゃべってた。化粧品《けしょうひん》と服とテレビ。周りも、やっぱりいつもいつも同じことばっかり言ってくるの。DDやらないかとか、エッチさせろとか、あとはお金のこと」
俺は思わず立ち止まった。
「はああ??」
「え、何?」
「……DDってなんだ?」
「デザイナーズ・ドラッグだよ。薬の混ぜ方によって、いろんな効き目のがあるの」
ドラッグ!? 小六が!?
「お前、ソレやったのか!」
自分でもかなり凶悪《きょうあく》なツラになっているのがわかった。有実は慌《あわ》てて首を振《ふ》った。
「やってない! 絶対!! 誓《ちか》います!! だって恐《こわ》いもん!!」
「恐い」と感じるだけの頭[#「頭」に傍点]があってよかった。
「お前、どんな奴《やつ》らと付き合ってんだよ?」
「クラブにはいろいろ来るよ。中学生も高校生も」
クラブ! そういうクラブ[#「そういうクラブ」に傍点]か! 俺は頭を抱《かか》えた。
「あたしと仲がいい、ってゆーか、いつも遊ぶのは、高校生とか大学生ぐらいの人たち」
そういう奴《やつ》らに交じってても、こいつなら違和感《いわかん》がないだろう。そいつらは、有実が小学生ってことを知ってんのかな。それよりも、未成年を出入りさせているそのクラブが大問題だろう!
「でもね、もうやめる!」
有実はあっさりと、でもキッパリと言った。
「あたしね、クラブの人たちは大人でカッコイイと思ってたの。学校のみんなとは話すことが違《ちが》ってて、そんな中にいる自分って、学校のみんなより大人って感じがしてたの。……でも、違ったよ」
有実は、刻々と表情を変えてゆく。まるでベールを一枚一枚|脱《ぬ》いでゆくかのように。
「エールのみんなの話を聞いてて、そう思ったの。あっ、これが本当の大人の話≠ネんだって。家族でアメリカ大陸を横断した話、海のゴミを拾ってる話、……戦争の話。大変な話もペットの話も、全部スーッて頭へ入ってきて、ウンウンって感じ。それから? それから? って感じ。もっと聞きたいよ。もっと何か話してよ! って感じ」
有実の瞳《ひとみ》が輝《かがや》いている。詩人の話を聞いている時の長谷の目だ。真理を探《さぐ》ろうと、知識を得ようとする貪欲《どんよく》な目だ。
龍さんの話を聞いていると、俺も思う。もっと話してくれ。もっといろんな話を聞きたいと。佐々木や川島も思っている。オッサンたちの生の話[#「生の話」に傍点]をもっと聞きたいと。
「それはどうして?」
そんな難しい質問を、高校生の俺にしてくれるなよ。詩人や龍さんなら、的確で趣深《おもむきぶか》い答えをくれるんだろうけど。
「それはきっと……エールのみんなは、世界が広い人たちだからだと思う」
「世界が広い人……」
「自分の中に広い世界を持ってる人は、ペットの話をしても、持ってる世界の広さがこっちに伝わってくるんだ」
詩人がそうだ。龍さんがそうだ。長谷も、アパートのみんなも。その話しぶりから、話の内容から、世界の広さが伝わってくる。
「あたしもそうなりたい!」
「ああ……俺もさ」
そうなりたい。広い広い、果てしなく広いこの世界を生きていくため。
それに負けないぐらい、広い世界を持った人間になりたい。
[#改ページ]
[#挿絵(img/04_194.png)入る]
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通りの角を曲がったところで、有実は「あっ」と小さな声を上げた。若い奴《やつ》五、六人が、地べたに張り付くようにたむろっていた。日陰《ひかげ》に固まってジュースやビールを飲み、煙草《たばこ》をふかしている。
有実は奴らから隠《かく》れるように俺に身体を寄せ、腕《うで》にしがみついてきた。こいつらが、有実のクラブ[#「クラブ」に傍点]での知り合いなんだとピンときた。
有実は今日は化粧《けしょう》をしてないし、服装もいつもとちょっと違《ちが》う。奴らの前をカップルのふりをして足早に通った。気づかれないかと思った。しかし、
「オッ、ユウじゃねぇか?」
グループの一人が目ざとく叫《さけ》んだ。有実はこわばったように一瞬《いっしゅん》立ち止まったが、俺をひっぱって走りだした。
「オイオイオイ〜〜〜!」
たちまち全員がわらわらと駆《か》け寄《よ》ってきて、俺たちを取り囲んだ。そうなんだよ。こういう連中は、逃《に》げたら追いかけてくるんだよ。熊《くま》といっしょなんだ。
「何シカトしてんだ、コラ。ああ?」
「べ、別にシカトなんかっ……」
「今日はメイクしてないんだ〜、ユウちゃん。素顔《すがお》もカワイーねぇ」
全員、顔色が悪く、目つきも病的だ。ビール臭《くさ》い息に混じって、シンナーの臭《にお》いがした。
「なんだヨ、こいつ。お前のカレシ〜?」
「ダッセエ! 制服着てやがるぜ、休みなのによぉ!」
学校のクラブ活動をしていたからな。学校が休みの時に制服着てる奴《やつ》っていったら、だいたいそうだろうが。それぐらいの頭は回せよ。
「お前、オトコのシュミ、チョーサイアク! オレのお誘《さそ》い蹴《け》っといてコレにはヤラせるのかよ、ユウ!? バカにしてんじゃねぇ? オレのこと」
男の一人が、目を剥《む》いて有実に迫《せま》った。
「ち、ちが……」
「これでもオレたちゃ、おめーがガキだからって、いろいろ大目に見てたんだぜぇ!? それをよぉ、調子ブッこいてんじゃねぇぞ? おめーを全員でマワすなんて、いつでもできるんだからな〜。わかってるかあ!?」
有実は、真っ青になって震《ふる》えた。
「てめーらもガキのくせして、人のことをガキだとよく言えたもんだ」
と言ってやったが、連中は一瞬《いっしゅん》キョトンとした。この状況《じょうきょう》で、俺がそんなことを言うのが信じられなかったらしい。
「今なんか言ったの、テメーか?」
「だったらなんだよ?」
「悪いケド、もっぺん言ってくんねー?」
凶暴《きょうぼう》なニヤニヤ笑い。すべてのドアを閉め切った、闇《やみ》と混沌《こんとん》の世界しか見ない目。
「この子にかまうのは、もうやめろよ。やりたいことができたみたいだから、もうお前らのいるような場所には行かないし、お前らと付き合うこともなくなるから」
「テメーに言われることじゃねーよ」
「仲間が一人ぐらい減っても、お前らはどうってことないだろ?」
男は笑った。
「そりゃま、そうだな。こんなガキ、いてもいなくても一緒《いっしょ》だ。でもなあ」
シンナー臭《くさ》い息を吹《ふ》きかけられた。
「オレたちゃ、まだこいつをヤッてねーんだよ。今オレら全員にヤラせるんなら、おめーに譲《ゆず》ってやってもいいぜ」
全員が、ドッと笑った。聞くに堪《た》えないような最低の笑いだった。有実の目から涙《なみだ》があふれた。仮にも仲間だと思ってた奴《やつ》らが、そんなふうにしか自分を見ていなかったのだと思うと、情けなくて泣けてくるわな。
バキッ!! と、男の歪《ゆが》んだツラめがけてストレートを入れてやった。
「あっ……ががあ〜〜〜っ!!」
男は、ひっくり返って鼻を押《お》さえた。指の間から血が噴《ふ》き出《だ》す。
ほかの奴らはまたキョトンとした。ホント反応|鈍《にぶ》いな、こいつら。おかげで助かるけど。
人一人分、壁《かべ》が開いたので、そこを有実の手を引いてすり抜《ぬ》けた。
「走れ、有実!」
「ハ、ハイ!!」
俺たちは全速力で通りを走った。
「ま、待てえぇ!!」
この先の有実の安全を考えると奴《やつ》らを徹底的《てっていてき》に叩《たた》きのめしておいたほうがいいんだが、有実を連れて大乱闘《だいらんとう》はできないし。どうしたものか。
「ユーシくん、こっち!」
有実は俺を導いて裏道へ入った。しかし、そこは行き止まりだった。
「えっ? あれ??」
民家の裏壁《うらかべ》が道を塞《ふさ》いでいる。塀《へい》の上に猫《ねこ》が丸くなっていた。
有実と俺は顔を見合わせた。
「ゴメン、道|間違《まちが》えたみたい」
「オイ!」
慌《あわ》てて引き返そうとしたが、時すでに遅《おそ》かった。奴らがすぐそこに来ていた。顔を血だらけにした奴は、目をギラギラさせている。
「先にヤローをブッちめろ!!」
「オオ!」
「ヘヘ……ヘヘヘ!」
ドロドロした波動が伝わってくる。俺は気分が悪くなった。いつかフールが言った「感じたくもない波動」ってのは、こういうことなんだな。
そのフールが、胸ポケットからヒョコッと顔を出した。
「今こそ! レベルアップした成果をお試《ため》しになるチャンスですぞ、ご主人様!」
「ハハ。言うと思った」
「えっ、な、何っ?」
有実は、今にも死にそうな顔をしていた。
「なんでもねぇよ。お前は壁《かべ》を向いてしゃがんで、耳を塞《ふさ》いでろ」
「ユーシくん……」
「早くしろ! しゃがめ! 身体を丸めてろ!」
有実は言われたとおり、壁に向いてダンゴ虫のように丸まった。
「おい、お前ら!」
俺は、ジリジリ近づいてくる男どもに言った。連中は足を止めた。
「なんだ〜? 泣きを入れたいんならいいぜぇ」
「許してやんねーケドな」
「ヒャハハハハハ!!」
俺はゆっくりと「プチ」を取り出す。
「これから先、こいつに手を出さねーって誓《ちか》ってくれ」
「ハ? バカか、てめぇ!」
「でないと、お前らスゴイことになっちまうぜ?」
「はあー?」
「何がどうスゴイんでしょーか! 笑い死にするんでしょーか!」
「ギャハハハハ!! それ、そーかも!」
また下品な爆笑《ばくしょう》が起こった。
「プチ」の「審判《しんぱん》」のページを開く。俺は奴《やつ》らに精神を集中させた。的《まと》に向かって弓の弦《つる》を引くように。
「やっちま……」
「ブロンディ―――ズ!!」
男と俺が叫《さけ》ぶのが同時だった。こっちに向かって飛び出そうとしていた男たちに、神のラッパが浴びせられた。
それは、まるで「音の球体」だった。
球体となって飛んでいった神鳴《かみなり》は、男たちにぶつかった瞬間《しゅんかん》、シャボン玉のようにはじけた。
バ―――ン!!
「うわあああ――っ!!」
全員が、後ろへ吹《ふ》っ飛《と》んだ。
「やっ……た!!」
あたりのガラスは全部無事だ。塀《へい》の上の猫《ねこ》も、びっくりした顔はしてるけどそこにいたままだった。俺は、ブロンディーズを「集束して」打てたんだ!
「すげえ! ほぼイメージどおり……!!」
「お見事でございます、ご主人様! すばらしいコントロール! 私《わたし》め、感服いたしました!!」
レベルアップ…………できていた!!
「よっしゃ―――っ!!」
俺は、飛び上がるほど嬉《うれ》しかった。
男どもは頭を押《お》さえ、地面でのたうっていた。
「ひぃい……い、痛《いて》ぇ! 頭が……痛ぇよ!!」
「なんだ? なんなんだよ!!」
ゆっくりと近づいてゆく俺を見ると、奴《やつ》らは真っ青になって後ずさった。
「まだやるか……」
と、俺が言い終わらないうちに、ものすごいスピートで逃《に》げっ飛《と》んでいった。
「うわあああ!」
「ひいい―――!!」
後には汚《きたな》い悲鳴だけが残った。
民家の窓から、オバサンが顔を出していた。
「なんかすごい音がしたけど……何かあったの?」
「なんでもないっス。車のバックファイアじゃないスか」
オバサンは、「ああ」と顔を引っこめた。
有実が、呆然《ぼうぜん》と立っていた。
「何……したの、ユーシくん?」
「なんでもねぇよ。さあ、帰るぜ」
少し青みを増した夏の空。俺と有実は、また並んで歩き始めた。
有実は、何かを考えていたようだが、しばらくしておずおずと切り出した。
「ユーシくん……オバケ信じる?」
「……まぁな」
「ユーシくんには……ユーシくんには超能力《ちょうのうりょく》があるの!?」
「そんなんじゃねぇよ」
俺は苦笑いした。
「あたし……あのマンションの上で……オバケを見たと思うんだ。なんかあんまり恐《こわ》かったんで、あんまり覚えてないんだけど」
「恐いんなら、忘れちまえばいいじゃねぇか」
「そ、そう? それでいいのかな」
「うん。でも、オバケはいるかもしれないってことは、思ってたほうがいいな」
「なんで? 恐《こわ》くない?」
「恐いオバケばっかりとは限らねぇだろ」
「…………ジョージさんがね」
「うん」
「イギリスには、いっぱいオバケがいるんだって話をしてた。オバケの指定席がある店とかもあるって」
「へえ」
「オバケの指定席に座《すわ》ると死ぬこともあるんだって」
「…………」
「でも、オバケにお酒をあげると、お店が繁盛《はんじょう》することもあるって」
「オバケとうまく付き合ってるんだな」
「…………」
有実は考えこんだ。
脳内コンピューターが、カタカタ動いている音が聞こえてくる。今日増えたいろんな引き出しを開け閉めしている音が。そして、脳内に閃《ひらめ》いた答えをハッシとつかむ。
「そっか……そうだよね……。そういうことなんだ……初めからコレだって決めつけてたら……もし別のことがあった時に困るんだ」
自分で考えて、自分で答えを探す有実に、俺は感動した。
夕空は刻々と青さを増して、陽《ひ》の光が金色に染まってゆく。長い長い夏休みの、長い長い一日が、ようやく暮れる。
まったく今日一日も目まぐるしかった。せっかくの休みなのに、全然休めてねーじゃんって感じがする。それでも、目の前の鮮《あざ》やかに変身した少女を見ると、報《むく》われる。
「今日は本当にありがとう、ユーシくん。最後に助けてもらったし」
自宅の前で、有実はまた深々と頭を下げた。美しい姿だった。
「今日一日で、あたし、ものすごく勉強しました。勉強できて嬉《うれ》しかったです。そうするようにしてくれたユーシくんに、本当にありがとうです」
「英会話とかスキューバとか、がんばれよ」
「うん!」
という有実の笑顔《えがお》は、欲《ほ》しかったオモチャをやっと貰《もら》った子どもみたいだった。が、
「ユーシくんが、あいつらに何をしたのかスッゴイ気になるけど……。それは訊《き》かないでおきマス」
と、意味深に微笑《ほほえ》む顔は、全然子どもじゃなかった。…………女って……。
クリがいない時を見計らって、長谷はアパートを発《た》った。
「じゃ、またな」
「おう!」
走り去るバイクを、充実感《じゅうじつかん》と少々の疲《つか》れとともに見送る。ブロンディーズをちゃんと使えたことを、長谷はすごく喜んだ。もう不安はない。
アパートはちょっと静かになるけど、長谷はまたすぐにやってくる。新しい仲間や新しい出来事も、次々にアパートを訪《おとず》れるだろう。楽しみだ。
「大変だよ、稲葉! トシゾーちゃん、糖尿病《とうにょうびょう》で入院だって!!」
田代から情報が入ってきた(トシゾーちゃんとは、俺たちの担任の早坂先生のことである)。怒濤《どとう》の夏休みがやっと終わったと思ったら、新学期もしょっぱなから波乱含《はらんぶく》みかよと、やれやれな感じだ。
佐々木、川島の大学生バイト二人は、引き続き剣崎社長のもとで働き続けることになった。オッサンたちともけっこううまくやっている。
有実は田代とメル通している。バグー英会話教室に楽しく通っているらしい。
携帯《けいたい》の写真を見せてもらったが、顔も服装もすっかり子どもらしくなっていた。
そうそう。
「あのユニコーンの角……効いたぞ!」
と、長谷が興奮気味に電話をかけてきた。家族で外食した時、長谷だけが牡蠣《かき》に中《あ》たらなかったらしい。
「偶然《ぐうぜん》だろ?」
と思う。
「松茸《まつたけ》、第一便が届きましたー!」
秋音ちゃんが、笊《ざる》に山盛りのりっぱな松茸を持ってきた。
「待ってました〜〜〜!!」
食堂に揃《そろ》った面々が歓声《かんせい》を上げた。
妖怪《ようかい》アパートは、秋を迎《むか》える。
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香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。『ワルガキ、幽霊にびびる!』(ポプラ社)で日本児童文学者協会新人賞受賞。このデビュー作を第1巻目とする「地獄堂霊界通信」シリーズに続き、「エル・シオン」シリーズ(ポプラ社)でも人気を博す。『妖怪アパートの幽雅な日常@』(講談社)で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。大阪府在住。
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
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底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》C
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2005年8月22日 第1刷発行
2006年4月27日 第4刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
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底本のまま
「マニュアルも問題ですよー。バイト先でも、マニュアル以外のことは」なんにもしないって子、多いですもん。なんで、ちょっと考えればできるのに、そのちょっとができないのかわかんない」
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26
醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71