妖怪アパートの幽雅な日常B
香月日輪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少々|寝不足《ねぶそく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やっぱりクる[#「クる」に傍点]。
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[#挿絵(img/03_000.jpg)入る]
〈帯〉
活字力全開の新シリーズ
学校の怪談?
講堂の小部屋にオバケが出るという噂が。
確かめに行った夕士と田代、妖魔フールがそこで目にしたものは……。
〈カバー〉
本当に尊敬できる大人は少ない。ただの「年を食っただけの奴」は、そこらへんに転がっているけれど。
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妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常B
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常B
香月日輪
[#改ページ]
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いつものことです
「おはよう、夕士《ゆうし》くん!」
今朝も、久賀秋音《くがあきね》ちゃんの元気な声が廊下《ろうか》に響《ひび》き渡《わた》る。
「うはよーっス、秋音さん」
俺《おれ》は少々|寝不足《ねぶそく》だ。昨夜《ゆうべ》は寝るのが遅《おそ》くなってしまった。
それでなくても午前五時なんだ。こんな朝早く起きている高校生は、新聞配達のバイトをしている奴《やつ》だけだ。
「じゃあ、始めるわよ〜ん」
「しゃっス!」
気合いを入れて一礼する俺に、秋音ちゃんはホースで水をかける。
初夏とはいえ、早朝の水行はやっぱりクる[#「クる」に傍点]。肌《はだ》が、筋肉が、キュ――ッと締《し》まり、すぼまった肺からすべての空気が出ていって、新しいものと入《い》れ替《か》わる感じがする。心臓が刺激《しげき》を受けて活発に動き、身体中に血液を循環《じゅんかん》させる。
そうして俺は、精神力を高めるという「お経《きょう》」を唱え続けるのだ。
俺のトレーナー[#「トレーナー」に傍点]をしてくれているのは、生まれもった霊能力《れいのうりょく》をいかし、プロの除霊師《じょれいし》をめざす女子高生、久賀秋音ちゃん。高校三年生。ポニーテイルが可愛《かわい》い元気な女の子。特徴《とくちょう》は「驚異的《きょういてき》大食い」だ。
これが俺の、「新しい俺」の、春から始まった日課だった。
俺は、稲葉《いなば》夕士。条東《じょうとう》商業高校の二年生。両親に先立たれ、一人暮らしをしていることをのぞけば、商業高校でいろんな技術を身につけて、卒業後は公務員か即戦力《そくせんりょく》のビジネスマンをめざす、ごくフツーの学生だった…………この春までは。
不思議な運命に導かれて、ここ「寿荘《ことぶきそう》」に住むようになって、俺の「生き方」は天地がひっくり返るほど変わった。
「寿荘」――通称《つうしょう》「妖怪《ようかい》アパート」。年季の入った大正モダンな洋風建築からでもお約束な、本物のお化《ば》け屋敷《やしき》だった。黒坊主《くろぼうず》に手首だけの幽霊《ゆうれい》、マージャン好きな鬼《おに》たち、のっぺらぼうの口だけ女の他《ほか》、光るモノ、漂《ただよ》うモノ、はいずるモノなどなど。まさにお化けのオンパレード。このアパートでは、それら、この世のものではないモノたちと、この世のもの、つまり人間たちとが「共存」しているんだ。
な? これだけでも俺のそれまでの常識とか考え方が吹《ふ》っ飛《と》ぶってもんだろ。おまけにその「人間たち」というのも、霊能力者やら、次元を行き来する商売人やら、人間かどうか不明な奴《やつ》やらと、超《ちょう》個性的だ。一度はここを離《はな》れた俺も、今じゃすっかりその「仲間」だけどな。
というようなことを考えているうちに、今朝も二時間のお勤め[#「お勤め」に傍点]が終わった。この頃《ごろ》では、ますます時間が早くたつ感じがする。
「おつかれ〜!」
「ウス!」
身体を拭《ふ》き拭《ふ》きアパートに入ると、二階へ上がる階段に、身長十五センチほどの小人がちょこんと立っていた。
「ご機嫌《きげん》うるわしゅう、ご主人様。今朝もお勤め、まことにお疲《つか》れ様《さま》でございます」
と、小人はおおげさにお辞儀《じぎ》する。
「おう!」
こいつは「フール」。魔道書《まどうしょ》『小《プチ》ヒエロゾイコン』の案内人だ。正体は、精霊《せいれい》? 妖精《ようせい》? なんだかよくわからないが、とにかくまあ、俺の「僕《しもべ》」ってわけ。
「じゃ、風呂《ふろ》入ってくるわ」
「ごゆるりと行ってらっしゃいませ」
フールは、またまたおおげさにお辞儀をした。
この、世にも稀《まれ》な妖怪《ようかい》アパートに帰ってきた春。俺は、さらに世にも稀な「出会い」をしてしまった。
魔道書《まどうしょ》『小《プチ》ヒエロゾイコン』。
二十二|匹《ひき》の「精霊《せいれい》」あるいは「妖魔《ようま》」を、魔術でもって封《ふう》じ込《こ》めた魔法の本。その主《マスター》は、二十二匹の精霊たちを自由に「使役《しえき》」できるというのだ。
なんの因果か冗談《じょうだん》か、俺がその主《マスター》に選ばれてしまった!
俺は、アパートの住人で同じく自分の魔道書『|七賢人の書《セブンセイジ》』を持ち、その力を使うことのできる「古本屋」や秋音ちゃんら先輩[#「先輩」に傍点]の指導のもと、魔道書の持つ力を自在に操《あやつ》る「|魔書使い《ブックマスター》」の道を歩むこととなったのだ!
……なんていうと、これからファンタスティックな大冒険《だいぼうけん》が始まるみたいだけど、そんな展開には毛ほどもならないだろう。なぜなら、この『小ヒエロゾイコン』は、魔道書は魔道書でも「パロディ」だからだ。
もともと『ヒエロゾイコン』という大魔道書があって(こちらは七十八匹もの妖魔が封じられているらしい)、「プチ」はそれをマネてつくったもので、どこのどんな魔道士がつくったか知らないが、封じられている精霊、妖魔どもときたら、どこかちょっとズレてる案内人の「フール」を筆頭に、あっという間に力を使い果たしてしばらく再起不能に陥《おちい》っている「万能《ばんのう》の精霊《せいれい》」とか、すっかりもうろくして何も思い出せない「英知の梟《ふくろう》」とか、ホラばかり吹《ふ》いている役立たずの「長靴《ながぐつ》をはいた猫《ねこ》」とか。とにかくもう使えねぇ奴《やつ》らばっかりなんだ。俺が本気でブックマスターになったとしても、こんな使《つか》い魔《ま》ばかりじゃどうしようもない。
というわけで、俺の目標はあいかわらず公務員かビジネスマンである。
でも、魔術が使える公務員なんてすごくないか!? 本物の魔術だぜ!? 手品じゃなくて。
俺が秋音ちゃんらについて「修行《しゅぎょう》」をするのは、魔書の主《マスター》としての最低限の霊力をつけるためだ。魔道士が魔術を使う時、魔道士は命を削《けず》っているらしい。俺は自分の寿命《じゅみょう》を縮めないために、修行して精神力を高めなければならないんだ。
朝五時から七時までの経文《きょうもん》読み。休みの日はさらに、昼五時間の般若心経《はんにゃしんぎょう》読みが加わる。春休みに入ったとたん始まったこの修行も、季節が変わろうとする今、すっかり俺の「日常」となった。
フツーの高校生の俺が、「朝の水行」をしてから学校へ行く。鞄《かばん》の中に「魔道書」を持って……笑えるだろ!?
そして俺は、ごく普通《ふつう》の高校生だから、魔道士《まどうし》であっても魔道書を持っていても、妖怪《ようかい》との「バトル」なんてあるはずもない。学校はごく普通の商業高校で、街はごく普通の住宅街だからだ。
妖怪アパートに住んでいても、魔道士であっても、ごく普通の日常というのが、なんだかおかしいというか、ほのぼのしてしまう。
だから俺は、この妖怪アパートが好きなんだ。
何が「特別」で、何が「普通」なのか。
ここにいると、その価値観が無限に多様なんだとわかる。
すべてが、無限に多様な可能性を秘《ひ》めているとわかる。
俺自身にも無限に多様な可能性があるんだ。俺自身も「特別」であり「普通」なんだ。
さて、冷えた体をアパートの地下|洞窟《どうくつ》天然温泉で温めようと下りてゆくと。
そこに、長谷《はせ》とクリがいた。
「イヨ、お先っ! 修行《しゅぎょう》おつかれ〜。いや〜、温泉で朝風呂《あさぶろ》は最高だな〜。な〜、クリ」
「長谷〜……お前な〜〜〜……」
長谷|泉貴《みずき》は、俺の親友。今は都内の有名進学校に通っている。
両親を失った俺を支え続けてくれた長谷に、アパートのこと、「プチ」のことを打ち明けた時、その事実と現実を、長谷は受け入れてくれるのかと足が震《ふる》えた。長谷を失いたくないけど、すべてを正直に話さなければならない。その狭間《はざま》で、俺は引《ひ》き裂《さ》かれそうだった。
結果からいえば、長谷は妖怪《ようかい》アパートをすっかり気に入り、休みともなればバイクをすっ飛ばして泊《と》まりに来るようになったんだが。
「お前のせいで、俺は寝不足《ねぶそく》なんだぞ。人より先に呑気《のんき》に朝風呂しやがって」
「しょうがないだろ。クリが放してくれなかったんだから」
長谷は、クリの短い髪《かみ》を撫《な》でた。
クリは、実の母親から虐待《ぎゃくたい》を受けて死んだ子どもだ。育ての親の犬[#「育ての親の犬」に傍点]のシロとともに、このアパートでみんなから可愛《かわい》がられながら成仏《じょうぶつ》するのを待っている。下ぶくれの顔とクリクリの目が可愛《かわい》い男の子だ。
このクリが長谷にすっかりなついてしまい、長谷が来るとそばについて離《はな》れないのだ。長谷もまんざらじゃないらしく、自分を「休日のパパ」なんぞとぬかしている。
ゴールデンウィークに入った昨日から、当然のように連泊《れんぱく》しようとやってきた長谷は、いつものようにアパートのみんなへの手土産《てみやげ》を山のように持ってきた。その中にテレビゲームがあり、居間のテレビにつないでみせた『スーパーマリオ』の画面に、クリが夢中になってしまったんだ。
クリはクリクリの目をさらにクリクリにして、ゲームの画面をかぶりつきで見ていた。その様子が可愛くて微笑《ほほえ》ましくて、長谷と俺で対戦してみせたのはいいんだが、ゲームオーバーになるとクリは無言でもっともっとと催促《さいそく》し(クリは口がきけない)、やめさせてもらえなかったんだ。夜中の二時まで。
長谷とクリは朝ゆっくりと寝《ね》こけていられるだろうが、俺には修行《しゅぎょう》があるんだ。修行が! 秋音ちゃんは、寝不足だろうが寝ていまいが、絶対|容赦《ようしゃ》してくれないんだよ!!
それでもまあ、温泉にじっくりつかるとすべての疲《つか》れが身体中から流れ去ってゆく。
薄暗《うすぐら》くて静かな洞窟《どうくつ》に、ゆらゆらとたちこめる蒸気。湯の温度は絶妙《ぜつみょう》で、いつまでもつかっていられる。
「ハ〜〜〜……極楽《ごくらく》」
長谷と俺は声を揃《そろ》えた。湯につかるたびにこう言わずにはいられない。
そして、朝飯! 朝飯だ!!
「おはよーございます!!」
食堂の入り口で一礼。
「やー、オハヨー」
「おはよう」
妖怪《ようかい》アパートの食堂には、いつもの個性的な面々が揃っている。
「昨夜《ゆうべ》は遅《おそ》くまで起きてたね〜、夕士クン。今朝は起きられたかい? ゲームのやりすぎは目を悪くするよ〜」
ラクガキのような惚《とぼ》けた顔で笑うのは、詩人で童話作家の一色黎明《いっしきれいめい》。耽美《たんび》でグロテスクな大人の童話を書き、一部のマニアに熱狂的《ねっきょうてき》に人気のある作家だ。
「ケッ!」
詩人の長年の友人、画家の深瀬明《ふかせあきら》はテレビゲームと聞いて舌打ちする。画家のポップでパワフルな絵は日本より海外で人気がある。本人は画家というより暴走族のヘッドみたいだが。実際バイカーな画家は、よく愛犬シガーとタンデムで旅行している。
「テレビゲームなんざ、どこが面白《おもしれ》ぇんだ」
「それは、クリに言ってください」
俺は、クリを画家にあずけた。
「いや〜、やっぱり休みの朝っていいなあ!」
妖怪《ようかい》のくせに大手|化粧品《けしょうひん》メーカーで働く「佐藤《さとう》さん」が、休みの朝をのんびりと過ごしている。庭いじりが好きな「山田《やまだ》さん」はスポーツ新聞を読み、妖怪|託児所《たくじしょ》の保母さん「まり子」さんは今日も絶世の美女で、秋音ちゃんは大盛り飯をかきこんでいる。いつもの朝。
そして、今朝のるり子さんの激うまメニューは……、
さんまのみりん干しに筍《たけのこ》とわかめの煮物《にもの》、五目ひじきに温泉卵、ベーコンとアスパラガスの炒《いた》め物《もの》。味噌汁《みそしる》の具はアサリ。当然、飯はツヤツヤのピカピカ。
長谷が来た時はトーストを用意することも忘れないるり子さんは、小料理屋の女将《おかみ》を夢見て果たせず死んだ幽霊《ゆうれい》だ。手首だけの姿は、殺されてバラバラにされたからだと思うと、ちょっと切ない。るり子さんは、この妖怪《ようかい》アパートで俺や秋音ちゃんが「うまいうまい」と自分の料理を食べてくれることを幸せに感じ、日々|賄《まかな》いにいそしんでいる。
「みりん干し、うめぇ〜!」
深みのある甘《あま》さの肉厚のさんまを、頭からバリバリ食った。
「アサリ汁《じる》が胃にしみるな〜」
長谷はトーストを食べながら味噌汁《みそしる》を飲む。長谷はこのアパートで、パンと味噌汁が合うことを教えてもらったんだ。
「今朝も朝飯最高っス、るり子さん!!」
俺たちが声を揃《そろ》えると、るり子さんは白い指をもじもじとからませた。
「見て見て! 今届いたの!」
秋音ちゃんが、木箱に入ったサクランボを持ってきた。そのなんて鮮《あざ》やかな、まるで宝石のような赤い輝《かがや》き。
「うおー、ピカピカだ!」
「でけえ!!」
「今朝つんだばっかりだって! 初夏ねぇ〜」
秋音ちゃんはそう言って、クリに一粒《ひとつぶ》食べさせた。大きなサクランボをほおばったクリは、まるでキャンディを食べているようだった。
このアパートには、各地の山や海で暮らしている妖怪《ようかい》たちから旬《しゅん》の食材が届けられるという。春には春の、夏には夏の喜び。日本には四季があることを実感する。
届けられた夏一番のサクランボは、大きく肉厚で食べごたえがあった。さわやかな甘《あま》さが、初夏そのものだった。
アパートの居間。開け放した縁側《えんがわ》から、さらさらと風が通ってゆく。木々の新緑が初夏の陽射《ひざ》しに輝《かがや》いていた。
山田さんが、丸っこい背中をさらに丸めて雑草取りをしている。
塀《へい》一面に這《は》う蔓薔薇《つるばら》が、可憐《かれん》な花を満開にさせていた。でも、赤、白、黄色、ピンクと咲《さ》き競《きそ》う薔薇たちは、飛んできた虫をパクリと一飲みにした。
「……あれ、薔薇じゃないんだ……」
「そうみたいだな……」
縁側《えんがわ》で、俺と長谷は顔を見合わせると同時に吹《ふ》き出《だ》した。
「どうだ、稲葉? 学校生活はうまくいってるか?」
長谷が親父《おやじ》みたいなことを言うもんだから、俺はさらに笑えた。
「うまくいってるよ。って、別になんもないぜ? 勉強してクラブしてバイトして」
俺は肩《かた》をすくめた。
長谷の言う「うまくいってるか?」は、「プチ」のことを言っているんだと思う。
魔物《まもの》を背負って、はたして普通《ふつう》の生活が送れるのだろうかと。
長谷の心配はもっともだ。これが漫画《まんが》やアニメなら、学校に妖怪《ようかい》や化け物が現れ、俺や他の生徒たちが巻きこまれてゆく……なんて展開になるんだろう。
「ンなことにゃならねぇよ。ただの商業高校だからな、うちは。上院高《じょういんこう》とかは、昔っからよく『出る』って聞くけどなぁ」
今のところ、「プチ」は、その案内人のフールは、俺の言いつけを守って人前で姿を現していない。
他の妖魔《ようま》たちは俺が呼び出さないと姿を現さないんだが、「| 0 《ニュリウス》のフール」だけは、自由に本から出たり入ったりできるらしい。だから俺は、フールに急に姿を現さないようにと言いつけている。フールはおおげさにお辞儀《じぎ》をして「仰《おお》せのとおりに」とか言ってたが、そのおおげさぶりが嘘《うそ》っぽいんだよな〜。
「あんなものが急に目の前に現れたら固まるもんな」
と、長谷は笑った。長谷は固まった本人だ。
わずか十五センチほどの人形のようなものが、自在にしゃべったり動いたりしているのを見て、長谷ほど頭の良いリアリストじゃない、そこら辺の奴《やつ》らは、「わぁ、よくできたフィギュアだね」と笑ってくれるかもしれないが、それでも、そんなものを肩《かた》に乗せてしゃべりあってる俺は、充分《じゅうぶん》変態に見えるから、それは避《さ》けたい。
できるならこのまま何事もなく、「プチ」を開くこともなく、過ごしていければと思うんだが……。
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[#挿絵(img/03_018.png)入る]
こちら側から思うには
その時、あたりが急にシンとした。
もともと昼間のアパートは静かだが、それでもさわさわとした風の流れさえもがピタリと止まる感じがしたのだ。
「ん?」
それは、長谷にもわかるくらいだった。
俺は、ハッとしてピンときた。
「龍《りゅう》さんだ……!」
はじかれたように門のほうを見る。
龍さんは、秋音ちゃんのあこがれの君。とびきり格の高い霊能者《れいのうしゃ》らしい。いまいち謎《なぞ》の人だが、これこのとおり、彼《かれ》が現れると物《もの》の怪《け》たちが一斉《いっせい》に静まり返り、バ〜ッと道を開けたりする。それは劇的だ。
門の向こうから、黒い人影《ひとかげ》がゆっくりと現れた。
長身で細身の身体を、丈《たけ》の長い黒いジャケットスーツに包んで、長い黒髪《くろかみ》を後ろで束ねている、いつものスタイル。
「龍さん!!」
俺は、飛んでいってしまった。
「やあ、夕士くん。久しぶり。おかえり!」
龍さんは、やさしい笑顔《えがお》でさり気にそう言ってくれた。
高位の霊能力者《れいのうりょくしゃ》であるからだろうか。独特の存在感と非常に高い知性と理性の持ち主であることが、話しぶりからひしひしと伝わってくるこの人に、俺は魅《み》せられていた。
人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜《ぬ》いていこう。
こう言ってくれたのが龍さんだった。この言葉は、俺の新しい世界への扉《とびら》を開き、俺の支えのひとつとなった。
こう言われて、素直《すなお》にそう思うことができる――。
それが、この人の力なんだと思う。
あれからいろいろあって、今また龍さんに会えて、俺はなんだかしみじみとしてしまった。
その俺の顔を覗《のぞ》きこんで、龍さんはちょっと目を丸くして言った。
「気配が全然|違《ちが》うな、夕士くん。聞いたぞ。魔書《ましょ》と通じ合ったそうだね」
「そ……」
うまく言葉が出てこなかった。大、大、大、大先輩《だいせんぱい》に対して、なんて言ったらいいんだろう。龍さんはうんうんとうなずきながら、俺の顔や肩《かた》や腕《うで》や胸をさわった。
「い……今……今、持ってくるっス!!」
そう言って、くるっと振《ふ》り向《む》いたところに長谷が来ていた。
「あ、こいつマブダチ……親友の長谷泉貴っス! 俺のこと……全部知ってくれてて……」
長谷の顔を見ながらそう言うと、俺はいまさらながら胸がいっぱいになった。
慌《あわ》ててアパートに駆《か》けこんでゆく。後ろで二人が自己紹介《じこしょうかい》しあう声が聞こえた。
自分の部屋へ入って、大きく深呼吸した。なんだか泣きそうになっている自分がおかしい。
机の上の「プチ」を手にとる。窓からは、龍さんと長谷が何やら話しているのが見えた。
俺は、もう一度深呼吸をして部屋を出ていった。
「これっス。小《プチ》ヒエロゾイコン」
国語辞典ぐらいの大きさの薄《うす》っぺらい本を龍さんに手渡《てわた》す。
「ふ〜ん……」
龍さんは、興味深げに「プチ」を眺《なが》め回《まわ》した。ページをゆっくりとめくってゆく。俺と長谷は、じっとその様子を見守った。
「へぇ……すごいのが入ってるな」
龍さんは、ちょっと目を見張った。
「わかるんスか?」
「なんとなくイメージは浮《う》かぶね」
やっぱりこの人はすごい……んだろうか? よくわからない。
「でも、役立たずばっかりっスよ!?」
「戦車」のカードを見ていた龍さんに俺は言った。
「それは『ヒポグリフ』っつって、黒い馬みたいな鳥なんだけど、乗れなくて」
「ああ……はははは! ああ、乗れない乗れない」
龍さんは大笑いしながら首を振《ふ》った。
「知ってるんですか?」
長谷が尋《たず》ねた。
「ヒポグリフは神の馬だからね。よほど高位の術者か、よほど気持ちの通じた者でないと乗るのは無理だろうねぇ」
「龍さんは乗ったことあるんスか!?」
「ないない。アブナイし」
大霊能力者《だいれいのうりょくしゃ》は、軽〜く言った。
「お! これは……魔犬《まけん》かな!?」
「あ、そいつまだ仔犬《こいぬ》で……。育つのに二百年かかるって」
龍さんは吹《ふ》き出《だ》した。
「あと、英知の梟《ふくろう》はボケてるし、長靴《ながぐつ》をはいた猫《ねこ》はホラ吹きだし、死神はクリに向かってお前は三日以内に死ぬ! なんてゆーし……」
「アッハッハッハ!!」
龍さんと長谷は大笑いした。俺は自分で言ってて虚《むな》しくなってきた。
「いや、でもまあ……本物のヒエロゾイコンクラスの魔書でなくて良かったよ」
龍さんは、俺の頭をくしゃっと撫《な》でた。
「秋音さんも同じことを……」
「そう。いきなりでびっくりしただろうけど、なんてことないからな」
その言葉が、あらためて胸にしみる。
「古本屋さんにもそう言われたっス」
「ああ」
「俺としては、どうせなるんなら龍さんの後輩《こうはい》になりたかったな〜……って」
と、言いかけると、龍さんと長谷が俺の後ろを見て「あ」と変な声を出したんで、え? とそのほうを見たら、古本屋がニコニコしながら立っていた。
ゴッ!!
「っいっでえぇぇーっっ!!」
古本屋にヘッドバットを喰《く》らった俺は、その場に撃沈《げきちん》した。
「よう、龍さん。久しぶり!」
よれよれデニムの上下に銀と青玉のアクセサリー。バサバサ茶パツと丸メガネ、不精《ぶしょう》ヒゲ、そしてチビた煙草《たばこ》。路上で手作りアクセを売っていそうなこの男が「古本屋」。
古今東西の奇書珍本《きしょちんぽん》を売買する謎《なぞ》の商売人の正体は、魔道書《まどうしょ》『|七賢人の書《セブンセイジ》』を操《あやつ》る|魔書使い《ブックマスター》だ。
「や〜、古本屋さん。何年ぶりだ。変わらないね」
「お互《たが》いサマ」
魔道士《まどうし》同士が肩《かた》を叩《たた》き合《あ》う。
「不思議だね。私たちに、こんなにも突然《とつぜん》に『後輩《こうはい》』ができるなんて」
龍さんは、あらためて俺を見て感慨深《かんがいぶか》げに言った。
「魔術は使えても、予想も予知もできないことが起きる。世界は驚異《きょうい》に満ちてるね」
古本屋は、丸メガネの向こうでニヤリと笑った。
大魔道士二人に見つめられて、俺は顔が赤くなった。
「おまけに『プチ』だしな……」
長谷がぽつりと言った。とたんに、龍さん、古本屋、長谷が爆笑《ばくしょう》した。
「イヤ、確かに傑作《けっさく》だぜプチは! ぜひ作者に会ってみてぇよ!」
「まさか、かの大魔道書ヒエロゾイコンを真似《まね》るとはね〜!」
「さー、再会を祝おうぜ、龍さん! 酒盛りだー!!」
古本屋と龍さんは、大笑いしながらアパートへ入っていった。
俺はゲラゲラ笑ってる長谷のケツに蹴《け》りを入れた。
「いつまで笑ってんだ!」
「いやいや……ハハハ! いや、似合うって。お前とプチは」
「どういう意味だ!」
繰《く》り出《だ》した俺の右ストレートをパシリと受け止めて、長谷は言った。
「カッコイイ男だな、龍さん」
「だ……だろ!?」
「容姿だけじゃなくて、中身がつまってるのが伝わってくるな。なんかこう……すげぇ、どっしりと立ってる[#「どっしりと立ってる」に傍点]感じがする。身体は細いのに、重そうだな」
さすが長谷だ。よく見てるよなあ。たった今会って、ほんの少し話しただけなのに。
長谷はそれから、クックと喉《のど》の奥《おく》で笑った。
「あれであの容姿は、反則だな!?」
「へっ、よく言うぜ」
自分だって、その端正《たんせい》なツラを最大限利用してるくせに。いかにも上品で優《やさ》しそうなお前が、実は街の不良どもを陰《かげ》で操《あやつ》る闇《やみ》の番長(死語)で、将来はそいつらを率いて大会社を乗っ取ろうと考えているなんて、誰《だれ》が思うよ?
「ふ〜〜ぅぅぅ……」
フールが大きくため息しながら現れた。
「フール? おとなしかったな」
「大変な霊圧《れいあつ》を感じて、緊張《きんちょう》いたしました」
フールは、やれやれと肩《かた》をすくめた。
「へえ……さすが龍さん、というべきか?」
「昔ほどではございませんが、現代にもまだまだ優《すぐ》れた魔道士《まどうし》がおるものでございますねえ」
「昔は、すげえのがゴロゴロいたんだろうなあ」
長谷が子どもみたいな顔で言った。
アパートの居間では、昼前だというのにもう酒盛りが始まっていた。
龍さん、古本屋、詩人に画家、会社が休みの佐藤さんに、山田さん、まり子さん。その他よく目をこらしてみると、誰《だれ》のかわからない「腕《うで》」が、酒や肴《さかな》に手を出していたりする。まさに人間とそうでないものが入り交じっての酒盛り。真っ昼間っから!
るり子さんは、大皿に山盛りの「初ガツオの刺身《さしみ》」を用意した。少し大ぶりに、でも薄《うす》めにさばかれた、まさに今が旬《しゅん》のカツオはツヤツヤと輝《かがや》いている。
「カツオの刺身は、地元以外じゃここでしか食べられない」
と、龍さんは嬉《うれ》しそうに、ショウガをきかせた醤油《しょうゆ》をちょっぴりつけて、刺身をほおばった。
「そうか。カツオって足が早いもんな」
カツオはタタキしか食べたことのない長谷は、初めて食べる刺身に感動している。
プリプリの食感とコクのある味。ショウガが魚の臭《くさ》みを消し、さらに旨《うま》みにアクセントを添《そ》える。
「『戻《もど》りガツオ』は、もっとおいしいヨ。脂《あぶら》がたっぷりのって、まるでトロみたいさ」
と詩人が言うと、長谷は「また食いに来ます!」と断言した。
カツオの刺身と野菜を醤油とマヨネーズで和《あ》えたサラダと、刻んだシソをたっぷりのせ、特製ポン酢《ず》をかけたタタキが出されると、みんなから歓声《かんせい》が上がった。
詩人や画家が酒飲みなのは知っていたけど、龍さんもまた飲む! みんなそれぞれ「マイ一|升瓶《しょうびん》」を横に置いて、ともすれば瓶からラッパ飲みしそうな勢いだ。こんなうまい肴《さかな》を出されちゃ酒がすすむのも無理はないが……って、俺はまだまだ酒は飲めないけど。
「何ぬかしてやがる。お酒はハタチになってからってか?」
生まれた時から不良だったという画家に、鼻で笑われた。
「いや、そんなことは言わねぇっス。単純にうまいと思わないだけで」
「まだまだだな〜〜〜あ!!」
今度は全員に笑われた。おめーも一緒《いっしょ》になって笑ってんじゃねぇよ、長谷。
エビと、これまた今がまさに旬《しゅん》の新ショウガの挟《はさ》み揚《あ》げが運ばれてきて、立ち上る香《こう》ばしい香《かお》りに一同またまた大いに盛り上がった。
この爽《さわ》やかな初夏の真っ昼間。からりと乾《かわ》いた陽射《ひざ》しが燦々《さんさん》と降りそそぐ景色をバックに、見るからに胡散臭《うさんくさ》そうな連中ばかりが集まって大酒を飲みながら、一般人《いっぱんじん》には理解不可能な怪《あや》しげな話をしゃべくりあっている。そのアンバランスが、このアパートの最大の魅力《みりょく》の一つなのだろう。
アンバランスなのに、とてもバランスがとれているように感じるんだ。
酒盛りの場はスコーンと抜《ぬ》けた雰囲気《ふんいき》で、閉じられた感じがしない。淀《よど》んだ感じもしない(どこかの宗教団体の連中の雰囲気のほうが、よほどドロドロと淀んだ感じがするぜ)。
それは、このアパートに集《つど》う人々のそれぞれの中でのバランスが、ちゃんととれているからなんだと思う。
超常的《ちょうじょうてき》な力を身につけている者。
まったく異種のものと暮らす者。
この世とあの世を行き来する者。
「自分自身」をしっかり持っていなければ、たちまちバランスを崩《くず》して自分を見失ってしまうだろう。
俺がこの妖怪《ようかい》アパートで最も学ぶべきことは、この「バランス感覚」なのかもしれない。
「自分」をしっかり持ち、かつ「自分以外のモノ、コト」とバランスをとること。
長谷が、いつか言った。価値観は、他の価値観と比べることで初めて価値観たると。俺は、自分の価値観をしっかり持ちつつ、かつ固めてしまわず、常に変化し、壊《こわ》れたり、再生したりし続けていきたい。
「あ――っ、龍さんだ! おかえりなさーい!!」
用事で出かけていた秋音ちゃんが昼飯に帰ってきた。あこがれの君の龍さんを見てすごく嬉《うれ》しそうに笑ったけれども、ズラリと並んだごちそうを見た顔は、さらに何倍も輝《かがや》いた。
「うわあ、何? もうお昼ご飯!? ああっ、それカツオのお刺身《さしみ》!?」
秋音ちゃんは、靴《くつ》を放《ほう》り投《な》げるようにして縁側《えんがわ》から上がってきた。一同大笑いだ。
「このカツオのお刺身のお茶漬《ちゃづ》けが、もうサイコ――においしいのよ〜〜!!」
「カツオの茶漬け!? 生臭《なまぐさ》くないか?」
長谷は驚《おどろ》いて尋《たず》ねたが、秋音ちゃんはぶんぶんと頭を振《ふ》った。
「こうやって二、三切れ小皿にとって、ショウガとお醤油《しょうゆ》に三十分ぐらいつけておくといいの」
「秋音ちゃん、それはもうるり子ちゃんがやってくれてるよ」
と、佐藤さんが言った。
「さっすが、るり子さん! わかってる〜〜〜!!」
秋音ちゃんが大喜びするとおり、カツオの茶漬けはメチャクチャうまかった。
熱々の飯に、ショウガ醤油《じょうゆ》によくつけたカツオの刺身《さしみ》を二、三切れのせ、その上からさらに熱々の「ほうじ茶」をかけると、刺身が煮《に》えて旨《うま》みがじわ〜っと染《し》み出《だ》す。そこに、カツオをつけていた醤油を適量たらす。醤油とお茶と魚の旨みの三位一体《さんみいったい》は、だしで食う鯛茶漬《たいちゃづ》けなどとは違《ちが》い、とても素朴《そぼく》な味がした。どこか田舎《いなか》の、それこそ漁師町の地元で食うような土着の味だ(ここに細く刻んだシソと山葵《わさび》を加えると、ちょっと上品な味に変身する)。
俺たち子ども組はカツオ茶漬けをおかわりし、さらに昼飯も食って腹がパンパンになった。
大人どもの宴会《えんかい》は、それから延々と夜まで続き、居間の隅《すみ》には酒の一升瓶《いっしょうびん》がボウリングのピンのように並んでいた。
夜はみんなで温泉へ入った(秋音ちゃんは別だ。当たり前。幸か不幸か、まり子さんはいなかった。女性の恥《は》じらいなどとうにないまり子さんは、男風呂《おとこぶろ》へ平気で入ってくる)。
龍さんは長い髪《かみ》を頭の上へ結《ゆ》い上《あ》げて、その様子はまるで女みたいだけど、身体は意外なほど筋肉質で、さらにその上を大小さまざまな傷痕《きずあと》がいくつも走っていた。
「……これはひょっとして、刀傷……?」
左肩《ひだりかた》に大きく走った、妙《みょう》に綺麗《きれい》にまっすぐな傷を見て長谷が訝《いぶか》しげに尋《たず》ねたが、龍さんは苦笑いするだけで答えなかった。
「ヤクザな商売してるからな〜!」
古本屋が笑う。ヤクザな商売って??
「アメリカの中西部の砂漠《さばく》でさあ、人間を生《い》け贄《にえ》にする儀式《ぎしき》をしてた宗教団体があったんだよ」
古本屋の話に、俺と長谷は目をむいた。
「ほ、ほんとに人間を生け贄に!?」
「生きたまま焼き殺して、信者全員で食うんだよ〜」
「うっそ……」
「違《ちが》う違う。食うんじゃなくて、粉にして飲むんだよ」
軽く訂正《ていせい》する龍さんに、俺たちは声を揃《そろ》えた。
「おんなじことでしょうが!」
「その宗教団体を壊滅《かいめつ》させるべく、龍さんは州警察とともに、団体の総本部に乗りこんだわけ」
「すげぇ……! それで?」
「大銃撃戦《だいじゅうげきせん》が始まった。州警察VS.宗教団体」
画家が面白《おもしろ》そうに言った。
「銃撃戦? その宗教団体は武装してたのかっ!?」
「マシンガンが八十丁、手榴弾《しゅりゅうだん》五十発、ヘルファイアを二十発も持ってた」
「ヘルファイアって……! 対戦車ミサイル!!」
長谷の大声と、大人どもの軽《かろ》やかな笑い声が洞窟風呂《どうくつぶろ》にこだまする。
「そ、それで? どうなったんスか?」
「まあ、もちろん当初の目的は、教祖や幹部の逮捕《たいほ》と団体の解散だったんだけれども……」
と、龍さんは苦笑いした。詩人が、軽〜く話を続けた。
「団員は全員死亡。教祖も信者二百人も建物ごと自爆《じばく》したんだ。いわゆる集団自殺というやつだね〜」
「それ……ニュースで見たことがある!」
目をむきあう俺と長谷の横で、龍さんは実に軽く、おでこをピシャリと叩《たた》いて言った。
「いやあ、あれは大失敗だった!」
「ワハハハハ!」
「ギャハハハ! いつ聞いても笑える!」
笑っていいのだろうか……? 笑い事か??
「でも、人質《ひとじち》は助けたからね!」
「まあ、相手は警察が乗りこまなくても、集団自殺するつもりだったらしいからねー」
「救えねぇもんは、救えねぇさ」
話があんまり軽いノリなんでなんだけれども、画家の言う「救えないものは救えない」というセリフのニヒリズムは肌《はだ》を刺《さ》すようだった。
どうしようもない現実は、世界中のいたるところにある。厳然として、ある。そして、それと向き合い、戦う人間たちが、いる。
「龍さんって、ヤクザな商売してるわりにはお間抜《まぬ》けさんだからな〜。だから傷だらけになったりするんだヨ」
「あんたに言われたくないよ、古本屋さん。ペルーの山奥《やまおく》で、山賊《さんぞく》に盗《ぬす》まれた密書の奪還《だっかん》に失敗したあげく、マシンガンで撃《う》たれたのはどこのどなたでしたっけ?」
「百発ほど撃《う》たれたけど、当たったのは二発だよ」
「画家の喧嘩傷《けんかきず》なんて、可愛《かわい》く見えるね〜」
詩人が笑う。
「まったくだ。ヤクザにビール瓶《びん》で殴《なぐ》られて、ざっくり切った痕《あと》なんざ自慢《じまん》にもなりゃしねえ」
その、腕《うで》にざっくりついた傷を見せながら画家が笑う。
「そういう一色さんは、熱烈《ねつれつ》なファンに殺されかけましたよねぇ」
龍さんが笑う。
「ああ、あれねー。熱烈な子だったねー」
「あの出刃《でば》がヒットしてたら即死《そくし》だったぜ。惜《お》しかったな!」
ゲラゲラと大笑いする大人どもを前に、さすがの長谷も顔色《がんしょく》なしといった感じだった。
大会社の重役の父と大物政治家の娘《むすめ》の母を持つ長谷は、社会の裏側のハードな話をいくつも知っているだろうが、普通《ふつう》ではありえないようなハードな話を、こんなにも飄々《ひょうひょう》と笑い話にしてしまえる人間たちがいることには、目からウロコが落ちる思いじゃないだろうか。
俺にいたっては目をむくばかりである。俺たちがこの境地に達するのは、いつのことだろう。
それにしても、この変人大人どもの話を聞くのは楽しくて仕方がない。
大人たちの口からは、世界のありとあらゆる地名が出てきて、そのリアルな話しっぷりに自分もその街角にいるような気になれた。
政治の話やら宗教の話やら、風呂場《ふろば》でしたような目をむくようなスゴイ話にワイ談まで。ためになったり、ならなかったり。大人たちはどんな深刻な話をしても大らかで、厳しくてふざけていて真面目《まじめ》で、俺たちはその広い広い世界に包みこまれる感じがした。
面白《おもしろ》いのは、長谷がみんなの話をまるで小さな子どものような顔をして聞いていることだ。大人に対して非常にシビアな長谷は、大人とこんなふうに接することがなかったんだろう(それは俺もそうだが)。
本当に尊敬できる大人は少ない。ましてや長谷のように、頭が良くてリアリストで、本人がすでに大人な奴《やつ》からしてみれば、そこらに転がっているのは、ただの「年を食っただけの奴」であって「大人ではない」のだ。
龍さんや古本屋や詩人や画家は、家庭を持ち、子どもを育てる部類の大人ではないかもしれないが、子どもたちの周りに絶対必要な「大人」だと思う。
そう。「先輩《せんぱい》」であり「先生」なんだよ、まさに。
子どもにとっての大人の存在って、それなんじゃねぇ?
俺たち子どもは、その日も夜遅《よるおそ》くまで大人たちの(ちょっと怪《あや》しい)話を勉強させていただいた。
翌日。居間で長谷とクリを遊ばせていると、突然《とつぜん》庭から、ズン! という衝撃音《しょうげきおん》が響《ひび》き、下腹を震《ふる》わせた。
ぎょっとして庭を見ると、見上げるような大男が立っていた。いや、大男なんてもんじゃない。巨人《きょじん》だ! 巨人!! しかもその肩《かた》には、とてつもなくバカでかいイノシシを担《かつ》いでいる。
「う……お!!」
俺と長谷は飛び上がり、長谷はクリを守ろうと抱《だ》きこんだけど、クリはキョトンとして怯《おび》える様子はなく、シロもパタパタとおだやかに尻尾《しっぽ》を振《ふ》っていた。だからすぐに、この巨人が悪いモノではないとわかったんだけど、ぬぬぬと居間を覗《のぞ》きこんできたでっかい顔には目玉が一つしかなくて、そのことに悲鳴を上げそうになった俺たちだった。
「やあ、又十郎《またじゅうろう》さん。久しぶり」
二階の窓から龍さんが手を振《ふ》った。
「おお!」
「又十郎さん」が、野太い声でこたえた。
「うぉあ! でっかいイノシシー!!」
「シシ鍋《なべ》だ、シシ鍋だ〜〜〜!!」
詩人と画家の嬉《うれ》しそうな声も聞こえる。どうやらこの一つ目|巨人《きょじん》も、このアパートの馴染《なじ》みらしい。
冷《ひ》や汗《あせ》をかきかき見上げる俺たちに、又十郎さんは一つしかない目玉を細めて笑いかけた。
「新入りか。わしゃあ、又十郎いうモンや。うまいシシ肉を持ってきたったぞ」
「ド、ドモ……稲葉夕士っス。この春からここにいるっス。こいつは、友人の長谷泉貴っス」
フツーに自己紹介《じこしょうかい》し合う自分たちの姿がとてつもなく変に感じて、俺はいまさらながら笑えてきてしまう。
「俺の心臓をバクバクいわせるのは、ここだけだぜ」
長谷が、なんだか愉快《ゆかい》そうに言った。
「白神《しらかみ》で狩《か》り合戦《がっせん》があってなあ。わしゃ、これで優勝した!」
「さ〜すが〜!!」
「お前らにもお裾分《すそわ》けじゃ」
「すっげぇー!! なんって大物だよ! こりゃ食いでがあるぜ!!」
画家が嬉《うれ》しそうに叫《さけ》んだ。
「お前らには、こっちや。いい具合に腐《くさ》る寸前やからうまいぞ〜」
又十郎さんはそう言って、一抱《ひとかか》えもある包みを画家に渡《わた》した。そうだ。肉って新鮮《しんせん》なうちは硬《かた》いんだよな。
「こっちは、鞍馬《くらま》の天狗殿《てんぐどの》に献上《けんじょう》や!」
どでかいイノシシをバンバン叩《たた》いて、又十郎さんはガハハと笑った。
「天狗がいるんだ」
と声に出して、そりゃいるだろうと俺は自分にツッコんだ。何をいまさら。
「又十郎さんは、熊野《くまの》の山奥《やまおく》の隠《かく》れ里《ざと》の里人だ」
龍さんが、俺と長谷に解説してくれた。
「隠れ里……」
「熊野や飛騨《ひだ》、白神のような山深いところには隠れ里というのがあってね。この世界とほんのちょっとだけ位相がずれていたり、結界が張られたりしているから普通《ふつう》の人は簡単には行けないけど、そこに住む人々というのは妖怪《ようかい》や精霊《せいれい》という存在じゃなくて、私たちととても近い生き物なんだよ。それは『人種が違《ちが》う』ぐらいの差なんだ」
又十郎さんは、身長約三メートル。体重は二百キロぐらい? 服装はちょっと昔の「マタギ」って感じで、人間風でも、その図体《ずうたい》と何より目玉が一個しかない姿を「人種が違うだけ」と言われてもなあ。
「隠れ里の人々は、超能力《ちょうのうりょく》があったり外見に特徴《とくちょう》があったりするから、それで山奥へ追いやられた……ということもあるんだよ。もともと同じ場所で同じように発生した、種族の違う生き物同士なんだ、私たちは」
遥《はる》か、遥か昔。俺たちのような人間と、でかくて目が一個の人間や超能力がある人間や、角《つの》のある人間や、髪《かみ》や肌《はだ》が赤かったり銀色だったりする人間は、隣同士《となりどうし》に暮らしていた。
だがいつの間にか、数を増やした人間が、自分たちとは異なる他の人間たちを嫌《きら》い、遠くへ追いやり……そして忘れてしまった。
今だから、又十郎さんの図体《ずうたい》と一つ目を「化け物」のようだと思うけど、その昔は、今でいうと「白人と黒人の違《ちが》い」ぐらいにしか感じていなかったんだろう。その昔は俺たち人間も、一つ目や超能力者《ちょうのうりょくしゃ》や、いろんな「違うモノ」の間で、それらと共になんてことなく暮らしていたんだろう。
なぜ「俺たち」だけが、変わってゆくのだろう。
なぜ「俺たち」は、変わらずにはいられないのだろう。
「それが、俺たちの属性なんだろうよ」
と、長谷が言った。
「又十郎さんの一族が『一つ目』であるように、俺たちには『数を増やして発達してゆく』って属性があるんだ。それが、俺たちの生き残り≠フ手段なんだよ」
「弱い生き物が、卵をたくさん産むようにか……?」
又十郎さんの手に抱かれて[#「手に抱かれて」に傍点]、クリは大木にセミどころか大木にアリのようだ。その図体《ずうたい》のように、大らかな大らかな又十郎さん。大イノシシを仕留めた武勇伝を熱く語ってくれた。
熊野の山奥《やまおく》の隠《かく》れ里《ざと》で、もう千年以上も同じ暮らしを、でも極《きわ》めて平和な暮らしを続けている又十郎さんたち。こうして他の場所や他の里人とも交流があるから、決して閉鎖的《へいさてき》な生き方でもない。ごくごくたまに、熊野の山の中で人間に出会ったりするという。
「山奥におる奴《やつ》らぁ、心得たもんでな。わしらを見て、びっくりするけど騒《さわ》いだりせん。煙草《たばこ》をくれたりするぞ」
と、又十郎さんは嬉《うれ》しそうに言った。そういう人間がいてくれることを俺も嬉しく思う。
るり子さんが、大きな湯飲みにたっぷりの梅コブ茶と、厚切りの黒糖羊羹《こくとうようかん》を持ってきた。又十郎さんは大喜びで、どちらも一飲みした。
「鞍馬へ行ったら、また京菓子《きょうがし》のええのを山ほど持って帰りたいなあ。里にも菓子はあるけど、たまにはええのを食いたいし、いつもは干《ほ》し柿《がき》や餅《もち》でええけど、客が来た時に草団子じゃなあ。やっぱり、抹茶羊羹《まっちゃようかん》とか出したいし。それからええ菓子《かし》をやると、子どもらがよう言うこときくんじゃ。ガッハッハ!」
又十郎さんの口ぶりは、俺たちとまったく変わらない。一昔前の、豪放磊落《ごうほうらいらく》な親父《おやじ》といったところだ。
「俺たちの世界じゃ、こういう人物も消えつつあるよな」
長谷の意見に大いにうなずく。
男女平等の大義名分のもとに、男らしいこと、女らしいことを否定する世界は……俺は、狂《くる》っていると思う。これがはたして「発達」なのかどうか、はなはだ怪《あや》しいもんだ。
ありとあらゆるものや情報に囲まれて、贅沢《ぜいたく》に便利に最新に暮らしているつもりの俺たちだけど、又十郎さんのようにひっそりと昔ながらに暮らしているほうが、はるかに豊かな生き方のように感じる。
「物のあるなしじゃないんだよ。結局は……やっぱりココの問題だね」
龍さんは、胸をトンと叩《たた》いた。
「おお。天狗殿《てんぐどの》にもろたこの下駄《げた》がありゃあ、山から山へひとっ飛びじゃ。ジェット機なんかメじゃないでえ。こんな便利なもん、お前らの世界にはないやろ」
又十郎さんは、足元の大きな下駄《げた》を指さしてガッハッハと笑った。
自分の足で獲物《えもの》を狩《か》り、自分の手で木の実を採り、自然とともに生きる暮らし。
携帯《けいたい》もない。パソコンもない。だけどそこには神がいて、人々は不思議を身にまとって生活をしている。
俺たちは、いまさら[#「いまさら」に傍点]そんな暮らしには戻《もど》れない。
でも、できれば両方を足して二で割ったような生き方が……。
そんな世界を目指せないものだろうか?
その夜は、庭に大鍋《おおなべ》を出しての「大シシ鍋|宴会《えんかい》」が繰《く》り広《ひろ》げられた。
シシ肉と野菜をドカスカ投げこんでの味噌鍋《みそなべ》は豪快《ごうかい》で大胆《だいたん》。でも酒やみりんや鷹《たか》の爪《つめ》などのたっぷりの隠《かく》し味《あじ》は繊細《せんさい》。酒にも飯にも合う! いい具合に腐《くさ》りかけた軟《やわ》らかい肉が、野菜が、いくらでも腹に入ってゆく!
全員、味噌と炎《ほのお》で身体を中から外から炙《あぶ》られて汗《あせ》だくになりながら、一抱《ひとかか》えもあったシシ肉をみるみる平らげていった。又十郎さんはその様子を楽しそうに眺《なが》めていた。その眼差《まなざ》しが、このうえもなく優《やさ》しかった。
「本当に面白《おもしろ》いとこだよな、このアパートは」
布団《ふとん》の上に寝《ね》そべって、長谷は感慨深《かんがいぶか》げに言った。明日には都内へ戻《もど》る身を惜《お》しんでいるようだ。
「うん。なんかいろいろ考えさせられるよなあ……。俺、案外又十郎さんみたいな暮らしが合ってるかもって思っちまったぜ」
「マタギか!? そりゃいい!」
長谷は笑い転げた。それから、ふと天井《てんじょう》を見つめて、
「俺もなんか……いろいろ考えちまう」
と、真顔になる。
長谷には、もう小学生の頃《ころ》から確固たる「自分の夢」があった。
自分の王国を作る夢。長谷にはそれをかなえる力があった。だから脇目《わきめ》もふらず、夢に向かって驀進《ばくしん》してきたんだ。
しかし、俺のことを含《ふく》めたこのアパートでのことは、長谷に「世界は思ってたよりももっとずっと、とてつもなく広いんだぞ」ということを突《つ》きつけたみたいだ。
長谷も「自分の多様な可能性」を考えているんだろう。
それもいい。
いろいろ考えて、迷っていいと思う。
俺たちには、まだまだ時間があるんだから。
「お、そろそろクリが風呂《ふろ》から上がってんじゃないか? 迎《むか》えに行けよ、ママ」
「おう……って、誰《だれ》がママだ――っ!!」
「ギャハハハハ!」
取っ組み合いになった俺たちを、机の上からフールが肩《かた》をすくめながら見ていた。
「お二人ともいいかげんになさいませ。床《ゆか》がぬけますぞ」
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_048.png)入る]
学校の怪談《かいだん》?
ゴールデン・ウィークが終わり、アパートには静かな日々が、俺には学校生活が戻《もど》ってきた。
二年生が始まった四月。同じクラスになった英会話クラブで一緒《いっしょ》の田代《たしろ》が、俺を見て首をかしげた。
「稲葉……だよね?」
「……ンだよ?」
「いや別に。なんか痩《や》せたかな〜って?」
「引《ひ》き締《し》まったって言えよ」
さすがに、春休みの間に魔法《まほう》が使えるようになりました、なんて言えない(言ったところで信じてもらえないだろうが)。
でもその後は何事もなく、学校生活は続いている。「プチ」はいつもリュックの中に入っているが、フールは俺のいいつけを(今のところ)守っておとなしくしている。特に出番はない。たまに制服の胸ポケットの中からご機嫌伺《きげんうかが》いをしにくる程度だ(フールなりに出方に気をつかっているらしい)。やっぱり妖怪《ようかい》とのバトルなんて、ありえようもないんだ。
でもこの前、龍さんがちょっと気になることを言った。
「もちろん妖怪とのバトルなんてないだろうけど。たとえば君に、最近お気に入りの店ができたとする。それはチェーン店だ。すると、今まで気づかなかったのに、見慣れた街のあちこちにその店があるのが目につくようになる。つまり『知ってしまった』から『わかるようになった』ということだ。こういうことは起こりうるよ」
これがどういうことなのか、まだよくわからない俺だった。
さて。この春から、英語の授業を新任教師が担当している。
三浦勝正《みうらかつまさ》。教師になってまだ三、四年の三十前だというのに、なんだかもうくたびれた中年みたいな男だ。
ひょろりとして神経質そうな色白の細面《ほそおもて》。銀縁《ぎんぶち》の眼鏡の向こうの目は、大きいわりにはキツイ感じがする。頭はすごくいいらしいが雰囲気《ふんいき》が暗くて、真面目《まじめ》なゆえにとっつきにくいって感じが否《いな》めない。
「三浦ってさぁ、大学時代は学生演劇とかしてたみたいよ」
田代がどこからか情報を仕入れてきた。こういう噂話《うわさばなし》とかネタとかを、女どもはいったいどこからどうやって集めてくるんだろう?
「演劇〜? そんなふうにゃ見えねぇなあ。あ、ああいうやつ? アングラとかわけわかんねぇ系の?」
「ううん。シェークスピアとかで、主役とかもやってたんだって」
「見えねぇなあ〜」
確かに三浦は、もっとシャンとすれば「いい男」の部類に入るかもしれない。体つきも顔つきも悪いわけじゃないし、まだ若いんだし。授業だってわかりやすい。教え方にソツがないんだ。頭がいいのが伝わってくる。
ただ、暗い。学生演劇で主役を務めていたという華《はな》やかさ≠ニか自信≠ニか、そんな名残《なごり》があってもよさそうなのに、今の三浦は、なんだかその「残骸《ざんがい》」のような感じがした。
「前の学校でなんかあったらしいわよ」
田代は、ちょっと小声で言った。俺は納得《なっとく》した。
「なるほど……苦労したんだ」
真面目《まじめ》な奴《やつ》は不器用だ。悩《なや》み出《だ》したら止まらない。
三浦は前の学校で教師になりたてで、いろんなことに真面目に悩みすぎたんだろうと、すぐに想像できた。そう思えば、あのイラつく暗さにもちょっと同情してしまう。
三浦は、わからないとことかを質問しても丁寧《ていねい》に教えてはくれるんだが、その丁寧さとは裏腹に、目が怖《こわ》い。心の中では「こんなこともわからないのか」と言っているような気がするんだ。それを口に出さない暗さ[#「口に出さない暗さ」に傍点]がイラつくんだ。
いつか殴《なぐ》ってしまいそうで、なるべく関《かか》わりたくないけど、俺にとっちゃ単なる教科担任だしクラブの担当でもないし、授業以外じゃ接点がないから、まあいいかと思った。
新しい学年が始まって、目新しいことといったらそれぐらいか。
梅雨《つゆ》も半ばを過ぎて、毎日|鬱陶《うっとう》しい天気が続いていた。
雨はしとしとと降りやまず、じめじめと蒸《む》し暑《あつ》く、校内はどんよりと暗かった。
そんな時だった。
突如《とつじょ》として、条東商に幽霊話《ゆうれいばなし》が降ってわいた。
「出る? 何が?」
「オバケ……っていうか、変な声が聞こえるんだって」
「へっ」
俺は田代の話を鼻で笑った。小学校じゃあるまいし、高校に「トイレの花子さん」がいるわけもない。中学校にすら怪談話《かいだんばなし》なんてなかったぜ。
「でもさあ、前からあったんだって。そこ[#「そこ」に傍点]がなんかヘンだって話は〜」
田代の言う「そこ」とは、体育館を兼《か》ねた講堂の舞台《ぶたい》の上にある小さな倉庫である。カーテンの替《か》えとか工具とか、いろんな小物が置いてある。
普段《ふだん》はまったく人の入らない場所だが、演劇部の小道具の保管場所にもなっているので部員が時々やってくる。その部員たちの間では、だいぶ前から「噂《うわさ》」になっていたらしい。
「探し物とかしててあんまり長くそこにいるとね、誰《だれ》かに見られている感じがすごくするんだって。もともと変に狭《せま》くて埃《ほこり》っぽくて陰気《いんき》な場所だから、あの部屋は気持ち悪いって言われてたらしーんだワ」
いっぱしの事情通ヅラして田代は言った。
「そーいうのをなぁ、自意識|過剰《かじょう》ってんだよ。まさにそういうお年頃[#「そういうお年頃」に傍点]だし、もともと演劇部員ってな、見られたがり[#「見られたがり」に傍点]だろ!?」
「あっ、そーいう言い方する? あんたシメられるよ、稲葉」
ところで二年になって田代と同じクラスになって、席まで隣同士《となりどうし》になった。
一年の夏休み前、田代が酷《ひど》い事故に巻きこまれて足に大ケガを負った時、偶然《ぐうぜん》か運命か、そばにいた俺が田代の傷のダメージを引き受けて、その結果、田代は重傷を負ったが重体にならずにすんだことがある。
あの時起きた現象は「シンクロ」というやつで、俺と田代は精神的にというか霊的《れいてき》にというか「一つに繋《つな》がった」らしい。田代がそれを知っているわけはないが、心のどこかで少しはその一体感[#「一体感」に傍点]を感じたらしく、元気に復学した後、やけに馴《な》れ馴《な》れしい。いや、それは別にいいんだが。
長谷以外の人間とは、なかなかうまく付き合えない俺には「飛びこんできてくれる奴《やつ》」は貴重かもしれない。
女の子が苦手だった俺も、秋音ちゃんのおかげで秋音ちゃんタイプの女なら笑って話せるようになったし。そういう意味では、田代はまさに秋音ちゃんタイプの女だ。屈託《くったく》なく話し、大らかに笑い、細かいことはあまり気にしないさっぱりした女。俺が俺のままで、安心して話せる女。田代と話すのは苦にならない。
ただし――。
いくら席が隣同士《となりどうし》とはいえ、昼飯の時もこうやって一緒《いっしょ》になって食うというのはどうかと思う、田代よ。
しかも田代の連れ二人も加わって、皆《みな》で向かい合わせになってるもんだから、席が最後列で端っこの俺は、女三人に囲まれている状態だ。女は女同士で固まればいいじゃないか。なぜ俺を囲むんだ!
かといって、俺がわざわざ他の男のところへ行く、というのもなんだか変だ。第一、条東商の数少ない男どもの大半は、ホール(学食)で食う派だ。教室で弁当やパンを食べるのは圧倒的《あっとうてき》に女で、昼飯時のホールは男どもであふれている。それがいいと、男どもはホールへ行くのだ。
弁当をホールで食う……というのも変だ。だから俺は、現クラスでは唯一《ゆいいつ》弁当を教室で食う男、なのである。
「稲葉のお弁当って、いつ見てもおいしそう〜〜〜!!」
「それに綺麗《きれい》で可愛《かわい》い〜〜〜!!」
「まるで雑誌から、そのまま切《き》り抜《ぬ》いたみたい〜〜〜!!」
るり子さんの超絶美味美麗《ちょうぜつびみびれい》完全無欠弁当をほめられるのは、我《わ》がことのように嬉《うれ》しいし誇《ほこ》らしい。だが、毎日弁当箱を開けるたびに、田代を筆頭とした女どもにたかられてキャアキャア言われる俺を、面白《おもしろ》くない目で見ている男どももいるんだ。超|迷惑《めいわく》な話だぜ。
まるで俺がチヤホヤされてるように見えるけど、そうじゃないからな! そこんとこ間違《まちが》えてくれるなよ!!
えーと、何の話をしてたっけ?
そうそう。「トイレの花子さん」の話だっけ?
「なんかねぇ、今年に入ってかららしいよ。その部屋の気持ち悪度が上がったのは」
田代はいつもこうやって、昼飯を食いながらいろんな噂話《うわさばなし》やら何やら、根も葉もあるかないかわからない話をしゃべる。BGMとして聞き流す分には面白いと思う。
「先輩《せんぱい》からもその話は聞いたことある。部活で遅《おそ》くまで残ってた時、その部屋の中からブツブツつぶやくような声が聞こえたって〜」
と、田代の連れの桜庭《さくらば》が言う。
「いやそりゃ、やっぱり誰《だれ》かがいたんだろうぜ、部屋の中に」
「あの部屋に講堂の中を見渡《みわた》せる小さな窓があるでしょ。バドミントン部の人が練習してた時、そこに誰か立ってるのを見たって!」
と、もう一人の連れの垣内《かきうち》が言う。
「いや、だから、いたんだって誰かが」
「んも〜〜〜ぉ、うるさい、稲葉!」
「ユメがないんだから〜」
オバケの話が夢なのかよ!? 俺は笑ってしまった。
今ここに本物の魔道書《まどうしょ》があって、今ここで俺が実際に魔術が使えても、俺はすべての学校の怪談《かいだん》や都市伝説が本物だとは思わない。霊現象《れいげんしょう》の実在を知っているということと、信じるということは別物だ。
俺は、そうして自分の中で、バランスをとっているつもりなんだろうか!?
「ご主人様、ご主人様」
囁《ささや》くような声がした。ハッと俯《うつむ》くと、学生服の胸ポケットからフールが顔を覗《のぞ》かせていた。
「なんか今……声がしなかった?」
俺の向かいの垣内が、ぎょっとして俺のほうを見た。
「いやっ……何も!」
俺は、学生服の左胸をバンと叩《たた》いた。
「何? なんか隠《かく》してんの、稲葉?」
「怪《あや》しい!!」
こういう年頃《としごろ》の女というのは鋭《するど》い……ってか、過敏《かびん》だ。だからちょっとのことでオバケだなんだと大騒《おおさわ》ぎするんだよ。
「何を隠してんの!? 見せなっ!」
「変な声がした! 絶対した!!」
「あっ、コラ!!」
「ポケットのもん全部出せー!」
「服|脱《ぬ》ぎな!」
「持ち物検査しちゃる!!」
「どこに手ぇ突《つ》っ込《こ》んでんだ!!」
「逆立ちすんのよ!!」
「ピョンピョン跳《は》ねろ〜!」
山賊《さんぞく》か、お前らは!!
その時――。
「うるさいぞ!!」
すごくヒステリックな声が轟《とどろ》いた。俺たちも、教室にいた他の女子もシンとなった。
三浦が、教室の後ろのドアのところから俺たちを睨《にら》みつけていた。
まさに、睨みつけて[#「睨みつけて」に傍点]いたんだ。その眼光は、ただ怒《おこ》っているのではない強烈《きょうれつ》な何かに満ちていた。まるで「憎悪《ぞうお》」のような。
俺たちは声もなかった。バカ騒《さわ》ぎしていたとはいえ、昼休みにただふざけてじゃれていただけなのに。なぜ、そんな目[#「そんな目」に傍点]で見られなくてはならないのか。
三浦は、ひとしきり俺たちを睨《にら》み据《す》えると、吐《は》き捨《す》てるように、
「べたべた乳繰《ちちく》り合《あ》ってんじゃない!!」
と言い捨てて去った。
全員、呆然《ぼうぜん》とした。
「な、何よ、あの言い方。感じ悪ーい!」
そう言いつつ、田代も怯《おび》えている。
確かに、三浦はすごく変な感じだった。生徒がふざけて騒《さわ》ぐのを教師が諫《いさ》めるのは当然としても、あの怒《おこ》り方《かた》はおかしくないか?
第一、あんなふうに言われることなんてしてねぇよ! 誰《だれ》が「乳繰《ちちく》り合《あ》ってる」って? ふざけんな!! 真っ昼間の、クラスメイトが大勢いる教室で誰が乳繰り合うか!!
「ちちくりあうって、何?」
桜庭が顔を? マークにして言った。
「う……え〜と」
口ごもる俺の横で、田代はあっさりと答えた。
「|H《エッチ》するってことでしょ!?」
桜庭は飛び上がった。
「イヤだー!! も、サイッテ――ッ!! ひ〜〜〜!!」
と、やけに嬉《うれ》しそうに叫《さけ》んで、隣《となり》の垣内の背中を叩《たた》きまくった。垣内は苦笑いしていた。
「そうだよね、稲葉?」
「まぁ、そういうことだけど……もっとこう……下品な意味なんだよな。乳は、その……胸のことだし……それを……繰《く》り合《あ》う……と」
女どもは、漢字とその意味を思《おも》い浮《う》かべていた。あらためて考えると、すごい言葉だよな「乳繰り合う」って。
「ギャ〜〜ッ、何それ〜〜〜! も――、なんちゅー単語だよ〜〜、ギャハハハ!!」
桜庭は爆笑《ばくしょう》しながら、今度は俺の体をバンバン叩いた。
「ムカつく!! なんてこと言うのよ! これってセクハラじゃん!!」
と、垣内は怒《おこ》った。
「そんなふうに見えた? ショック〜」
そう言う田代に俺は言った。
「いや、さっきの三浦はおかしかったぜ。あれって先生が生徒を見る目つきじゃないと思わねぇか?」
「すんごい睨《にら》んでるとは思ったけど……」
五時間目が自習だったので、屋上のさらに上にある給水塔《きゅうすいとう》へ上った。ここは昼休みでも誰《だれ》もこない穴場なんだ。
「急に出てくんなって言っただろ、フール」
フールは、「プチ」の上でおおげさに頭を下げた。
「申し訳ございません、ご主人様」
その態度と言葉から反省の色は見られない。まったく。
「レディたちのお話に非常に興味をそそられまして、つい」
「レディねぇ。話って、あのオバケの部屋の話か?」
「左様で。なかなか奥《おく》の深そうなお話ではありませんか」
「モノノケとしちゃ、他のモノノケのことが気になるのか?」
「……ま、ぶっちゃけ、そういうことでございますね」
フールは肩《かた》をすくめた。
「何もいやしねぇよ。どうせ女どもの気のせいだって。だって俺が入学する前から、この学校にはそんな話は何もなかったんだぜ? 誰《だれ》かが自殺したとか事故があったとかって話もないし。なんで急にオバケが出てくんだよ?」
「それを確かめに行くのでございますよ」
フールは、いたずらっぽくウインクした。なんだかうまく話に乗せられてるような気がするなあ。
「本当に何もないのか、占《うらな》わせてみましょう」
「占う?」
「プチ」の「運命の輪」のページを開く。
「運命の輪! ノルン!!」
「ノルン! スクルド、ザンディ、ウルズの、三人の運命の女神《めがみ》でございます!」
青白い放電がカッと閃《ひらめ》いて、大きな黒い甕《かめ》と三人の女神が現れた。
「お呼びでございますか、ご主人様」
「……!」
女神《めがみ》というからには、白いローブとかヴェール姿の、ギリシャ彫刻《ちょうこく》のような美女と思うだろう(このイメージもちょっと古いか)!? だが俺は、現代に甦《よみがえ》った女神たちの出《い》で立《た》ちにのけぞってしまった。
「な、なんだ、その頭の悪い女子高生みたいな格好は??」
「は?」
一人は、おおげさにウェーブした栗色《くりいろ》の髪《かみ》に大きな花の髪飾《かみかざ》り。もう一人は、金色のストレートヘアにヘアピンをズラズラとつけ、いずれもまるで隈取《くまど》りのようなアイメイクに口紅をぬたぬた塗《ぬ》りたくり、手には魔女《まじょ》のような十本全部|柄《がら》が違《ちが》う大きな付《つ》け爪《づめ》、安っぽいアクセをジャラジャラさせて、超《ちょう》ミニスカにルーズソックスときたもんだ。
そして残りの一人たるや……あれは……ガングロ!? 顔が真っ黒で唇《くちびる》が真っ白だ。確か、むか〜しバカ女どもの間で流行《はや》ったメイクだよな!?
栗色ウェーブヘアが、きょとんとして言った。
「な……何かおかしいかしら? 今風に合わせたつもりなんですけど」
「その今風とやらの情報は、どこから仕入れたんですか、スクルド?」
フールが呆《あき》れ気味《ぎみ》に尋《たず》ねた。
「ケット・シーにきいたんだけど……」
「なんだあ? あんなホラ吹《ふ》き猫《ねこ》にかよ! バカか、てめぇ!!」
金髪《きんぱつ》がいきなりキレた。
「あいつが一番の事情通なのよ!!」
「何が事情通だ! こんなクルクルパーな格好させやがって!」
「あんただって、今風の格好にしようって言ったじゃないの!」
「うっせえ、ババア!!」
「便宜上《べんぎじょう》姉ってだけで、年は一緒《いっしょ》だろうがあ、このアバズレ――ッ!!」
取っ組み合いを始めた女神《めがみ》の横で、ガングロ女神がめそめそ泣いていた。
「だからヤダって言ったのに〜。こんな顔ヤダ〜、ケット・シーのバカ〜〜〜。おねーちゃんたちもキライ〜〜〜」
「…………何、こいつら?」
「この三|姉妹《しまい》は、とにかくもぅ仲が悪くて、ハイ。三つ子なんだから、もっと仲良くすればよろしいのにねぇ、イヤハヤ」
女三人集まれば「姦《かしま》しい」のは、人間も女神《めがみ》も同じなんだな。
三つ子の女神は、栗色《くりいろ》ウェーブヘアがスクルド、金髪《きんぱつ》ストレートがザンディ、ガングロがウルズといった。
「お見苦しいところをお見せいたしました。申し訳ございません、ご主人様」
三人は膝《ひざ》を折り、深々と頭を下げた。
「ウルズ、悪くないもん」
「黙《だま》れ、ノータリン」
「ノータリンって言った〜! うわ〜〜〜ん!!」
「いいかげんにしな、二人とも! さっさとご主人様のために占《うらな》いをするんだよっ!!」
「うっせえ! 命令すんな!!」
三人は、お互《たが》いにブツクサ言いながら黒い甕《かめ》のふちに両手を置いて、術を始めた。甕の中には水のような液体が入っていて、それがぐるぐると回っている。
「ノルンは、三人の力を合わせてさまざまな術を行います。占《うらな》い、透視《とうし》、類感魔術《るいかんまじゅつ》など」
「三人の力を合わせてって……合わせられるのか?」
「さあぁ、なかなか難しいようでございますねえ」
フールは、あっけらかんと笑いながら言った。
「やっぱりか……!」
本当に使えねぇ奴《やつ》ばっかりだな、「プチ」は。
「ウルズ! めそめそしてんじゃねえ! 集中できねぇだろうが!!」
「だってぇ〜、ぐすんぐすん」
「ああっ、もうちょっとなのに! 静かにしてよ、あんたたちっ!!」
三つ子の女神《めがみ》はぎゃあぎゃあ喚《わめ》き合《あ》いながら、ひとしきり甕を覗《のぞ》きこんでいた。そして、ようやくスクルドが言った。
「何かドロドロしたものを感じます、ご主人様」
「………………ドロドロしたものって、なんだ?」
女神《めがみ》たちは、笑顔《えがお》でブンブンと頭を振《ふ》った。わかんねぇのかよ!!
「もういい。戻《もど》っていいぜ」
「プチ」をパタンと閉じる。昼寝《ひるね》してたほうがよかったな。
さて。六時間目は三浦の英語だ。どんなツラして来るのやら。
「ご主人様! やはり何かあるようでございますな。見に行きましょう、見に行きましょう!」
肩《かた》の上で俺の耳たぶを引っ張りながら、フールがやけに嬉《うれ》しそうに言った。
「あー、わかったわかった。クラブが終わってからな」
俺も田代らもちょっと構えていたんだが、三浦は普段《ふだん》とまったく変わりなかった。昼休みの、あの尋常《じんじょう》でない目つきをした人物とまるで別人のよう……というよりは、あの目をした三浦が「別人」だったのか!?
三浦は、いつものようにサクサクと授業を進め、表情も態度も普通だった。なんだか狐《きつね》につままれたような感じだ。
俺としては、例のウソかホントかわからん小部屋のことよりも、三浦のことのほうがよっぽど不可解な話に思えるぜ。
「わけわかんな〜い。なんか気味悪いよ、三浦って」
田代と話をしながら部室に向かった。
「やっぱ、ストレスってやつじゃないのか? もしかして、あれとかな、あれ。PTSDってやつ!?」
「何それ?」
「心的外傷後ストレス障害……あれ? 外傷後心的ストレス障害、だったかな? すごいストレスの後、それが後遺症《こういしょう》になっちまうやつだ」
「あ、あたし、事故の後、バイクがすごい怖《こわ》かった。あれのこと?」
「だと思う」
「そんな後遺症になるほどのことを、前の学校で体験したってこと?」
「推測だけどな」
「ふぅ〜ん……。そこらへんのとこ、探《さぐ》りを入れてみっか」
「…………」
長谷が、あちこちに人脈や情報源を持っているのはわかるとしても(それには確固たる目的があるからだ)、ただの女子高生の田代が、長谷も真っ青の情報網《じょうほうもう》を持っているのはどうしてなんだ? ただひたすら「噂話《うわさばなし》」のためだけに!
英会話クラブが終わった後、フールがうるさいので例の小部屋に行ってみた。
講堂では、バドミントン部がまだ練習をしていた。その横を通《とお》り抜《ぬ》け、舞台《ぶたい》の脇《わき》から二階へと上がる。二階といっても、部屋があるのは舞台の上のその小部屋だけで、要するにそこは「屋根裏部屋」にあたるんだな。
演劇部の部室は舞台の裏側にある。まだ部活が終わってないらしく、女たちの声が聞こえた(男が少ない条東商の演劇部には女子部員しかいない)。
小部屋へ通じる狭《せま》い階段を上がってゆく。
この講堂はかなり年季が入っているので、舞台裏の壁《かべ》には雨漏《あまも》りの染《し》みがいろんな模様を描《えが》いていたり、階段はギチギチと嫌《いや》な音をたてたり、裏通路は照明がなくて真っ暗だったりと。なるほど、陰気臭《いんきくさ》いことこのうえない。女どもがむやみに怖《こわ》がるのもうなずけるが。
ぎいぃと、木造の階段が呻《うめ》いた。
思わず嫌《いや》な気分になるのと、胸元《むなもと》からフールが「ご主人様……」と言うのと、後ろからいきなり、背中を何かでごりっと突《つ》かれるのが同時だったので、俺は悲鳴を上げそうになった。
「……っっ!!」
バッと振《ふ》り返《かえ》ったそこに、田代ら「姦《かしま》し娘《むすめ》」がガン首を揃《そろ》えていた。
「お前ら……何してんだ、こんなとこで!?」
「あんたこそ何してんの、稲葉〜?」
三人はニヤニヤ笑っていた。
「こっちに行くのを見かけたからついてきたんだ〜。なんだかんだ言っちゃって、やっぱり気になるんじゃん、オバケの話〜」
鬼《おに》の首を取ったみてぇにぬかすな、田代。
「ちげぇよ、ちょっとその……」
フールがうるさいので、とは言えない。俺は、フールにおとなしくしてろよと、左胸を叩《たた》いた。
「どんなとこなのかなって興味があっ……」
「ちょっと!」
垣内が、静かにと合図した。
「何か聞こえない?」
全員が耳をすませる。
幽《かす》かに、つぶやくような声が聞こえた。人間の声だった。
「ひ……」
と、悲鳴を上げそうになる桜庭の口を、田代がふさいだ。
ブツブツと、まるで呪文《じゅもん》を唱えているような声は、俺たちの上のほう、あの小部屋から聞こえた。
「やっぱりオバケが……」
「誰《だれ》かいるんだって」
俺はそう言うと、小部屋へ向かった。階段をことさらギシギシいわせて。
そして、小部屋のドアノブに手をかけようとした瞬間《しゅんかん》、バン! とドアが開いた。女どもが飛び上がった。
そこに、三浦が立っていた。
「三浦………………先生!?」
三浦は、俺をギロリと睨《にら》んだ。あの目だ。まともな奴《やつ》じゃない目つき。それから女どもをチラリと見て、ずんずんと階段を下りながら、また吐《は》き捨《す》てるように言った。
「放課後、こんなとこへ何しに来たんだか、まったく。エロガキどもが!」
「!」
カチンと来た。男と女を見りゃ、そればっかりかよ! それこそ、ヤリたい盛《さか》りのエロガキじゃねぇか。
「あたしたちを何だと思ってんのよ、あのセクハラ野郎《やろう》!」
垣内が青筋を立てている。
「そうだそうだ、よく見ろってんだ。三人も相手にできるか!」
「それもセクハラ発言よ、稲葉」
「あ〜もぉ〜、怖《こわ》かった〜〜〜。びっくりした〜〜、アハハ!」
冷《ひ》や汗《あせ》をかいている桜庭を見て、俺は笑った。
「ほらな。やっぱ人がいただろ。こーいうのをだな、『幽霊《ゆうれい》の正体見たり枯《か》れ尾花《おばな》』ってんだよ」
「カレオバナって何?」
「でもおかしいよ。三浦はこんなとこで何やってたの?」
田代のその問いに、俺は答えられなかった。
だが、その答えもすぐに判明した。
「あ、それは三浦先生が、演劇部の顧問《こもん》だからじゃないかと」
と、答えを出してくれたのは、同じクラスの演劇部員だ。
翌日の昼休み。るり子さんの弁当|鑑賞会《かんしょうかい》の最中(この頃《ごろ》は携帯《けいたい》で写真を撮《と》る奴《やつ》まで現れた)だった。
「三浦って、演劇部の顧問だったんだ!?」
「サブだけどね」
「だよね。演劇部の顧問《こもん》って、布袋《ほてい》先生だもんね」
「三浦先生、学生演劇してたから」
「そうだよ。その情報を仕入れてきたの、お前じゃねぇか、田代」
「それはそうだけどぉ」
「このサーモンロール、メチャクチャ美味《おい》しいわ〜、稲葉く〜ん」
「あ、食うな、コラ!」
演劇部の顧問なら、三浦があのへんでウロついていたのもわかる。小道具を見ていたとか、そんなとこだろう。
「ほらな。怪談話《かいだんばなし》でもなんでもないだろ、田代。こんなもんだよ」
「う〜〜〜ん……」
と、俺たちがワチャワチャやっていた時だった。俺のすぐ横のガラス窓に、バシッと何かが投げつけられた。
「きゃあっ!」
どろ団子だった。窓一面が黒く汚《よご》れた。
「誰《だれ》だ、こらああっ!!」
田代が、窓から身を乗り出して怒鳴《どな》った。どこからか下卑《げび》た笑い声がした。
「窓しめといて良かった〜」
「何ガキみたいなことしてんだろ。バッカみたい!」
いや、高校生じゃまだ充分《じゅうぶん》ガキでバカだぜ、垣内。特に男はな。長谷みたいに達観してる奴《やつ》のほうが珍《めずら》しい……というか、おかしいんだよ。
そりゃあ硬派《こうは》な奴も大勢いるけど(長谷はそういう奴を集めている)、社会に出る前のおおかたの男どもは、女とコンプレックスと歪《ゆが》んだプライドしか頭にないようなバカなガキだ。
まず、女とヤリたい(モテたいじゃなく)。
次に、かっこよくなりたい(そして、モテたい)。
その次が、あいつにだけは負けたくない(勝手にライバル)。
この三つで、脳みその九割五分ぐらいは占《し》められているだろうな。
で、だから努力しているかといえば、そうじゃないんだなあ、これが。これまたおおかたの奴が、どうしていいかわからずに、または何もしようとせず、悶々《もんもん》としている状態だ。
なぜこんなに明晰《めいせき》に分析《ぶんせき》できるのかというと、全部長谷の受け売りである。
でも、その情けなくもどこかおかしい様子は理解できるよなあ。中学から大学ぐらいの普通《ふつう》の奴《やつ》なら、誰《だれ》もが多かれ少なかれそんなものだろう?
それでも、夢も目標もなくただ毎日あてどなく暮らして、女のことだの顔のことだのでしか悩《なや》めないっていうのが不幸かといえば、そうでもないんだなあ。悩んでいる本人はつらくて苦しいんだろうけど。
これは画家も言っていたことだけど(画家も男くさい青春時代を送ってきたんだろうなあ)、女のことや友だちのことや勉強のことや、そんな些細《ささい》な、どうでもいい下らないこと(というのは後々わかることなんだが)、そういうことで悩んで、泣いて、怒《おこ》る。そういうことをしておかなきゃダメなんだ。そこに生まれる切磋琢磨《せっさたくま》とか、人間関係や価値観の崩壊《ほうかい》とか再生とかが、新しい自分を作るために必要なことだからだ。
たとえば、なまじ頭がよくて勉強一筋で、友だちとの人間関係もなく、世の中への関心や反発もなく、自分だけの世界で過ごしてきた奴の中には、自分を作ることができず[#「自分を作ることができず」に傍点]に、大人になってからダメになるのがいくらでもいるという。これは男も女も同じなんだと。
これは、いわゆる「オタク」とは違《ちが》う。オタクは、ずっとオタクのままだ。奴《やつ》らは「オタク」で完成されているんだ。
「人との関《かか》わりとか、人の気持ちとか……そういう以前に、他人というものを、わかろうとしないって奴がいるぜ。コミュニケーション云々《うんぬん》ってレベルじゃねぇのな。世界には自分だけ。あとは全部|飾《かざ》りだ。でも、そのことにすら気づいていない」
ハ! と、画家は冷たく笑う。
こういう奴は……いつか、必ず「行《ゆ》き詰《づ》まる」。
俺は、危《あや》うくそうなるところだった。
長谷がいなかったら……。
そして、寿荘のみんなと出会わなかったら……。
ひょっとして、長谷以外の人間との関わりを一切断《いっさいた》ち、些細《ささい》なことで悩《なや》む苦しみも喜びも知らないまま、自分の価値観をバカみたいに疑わないままバカな大人になって、それこそもうどうにもならない状態で行《ゆ》き詰《づ》まって、イタイ宗教へ走ったり、何もかもを放《ほう》り出《だ》して旅に出て、そのまま帰ってきませんでした、みたいになってたかもしれない。
俺は、そうならずにすんだことを感謝したい。
いろんな個性に囲まれて目の回る思いをして、自分の価値観が毎日|壊《こわ》れたり再生したりすることを幸せに思う。
だから、俺が女どもと「仲良く」していることに、ガキっぽくムカつく奴《やつ》らを下らねぇと一蹴《いっしゅう》したくはない。そんなことでムカついたり羨《うらや》ましく思ったりすることも大事なんだ。なんだ……が!
やっていいことと悪いことぐらいわかれよ、てめえら!!
るり子さんの激うま弁当を台無しにしてみやがれ! そのツラ、誰《だれ》だか見分けがつかねぇぐらいボコってやるからな!!
そんなわけで、その日の俺は機嫌《きげん》が悪かった。
帰り道。鷹《たか》ノ台東《だいひがし》駅の駅前通りを歩いていると、横丁からピューッと下卑《げび》た口笛を吹《ふ》かれた。
細い路地に置かれた自販機《じはんき》のまわりに溜《た》まっているのが五人。うち二人は見覚えがある。条東商の二年生だ(男が少ないので、よそのクラスの奴《やつ》でも顔がわかる)。
「一人でお帰りか、モテ男。女たちはいねぇのか?」
と、そいつは下品に、バカにしたように笑ったが、よだれを垂らしてんのがミエミエだぜ?
「こいつ、いっつも女どもに囲まれてよ。キャアキャア言われてんだぜ」
「へぇ〜、そいつは羨《うらや》ましいなあ〜。こいつのどこがいいんだ、女どもは? ヒャハハ」
「何人かこっちへまわしてくれねーかなあ。みんなで楽しもうぜ?」
もとより、そんな「羨ましい身分」じゃない俺は、ピキッときた。奴らのいる路地へと入っていく。そこは小さな飲み屋がぽつぽつある細い通りで、ずっと向こうのほうに荷物の運搬《うんぱん》をしている人がいるだけで人通りはなかった。
俺が近づいてきたので、五人も立ち上がって俺を取り囲んだ。
「なんだあ? 女の相談に乗ってくれるのかぁ? 俺らの人数分|頼《たの》むぜ」
「……てめえらにゃあ、もったいねー女ばっかりだヨ」
ゴッ! と、背中を突《つ》かれた。
「調子こいてんじゃねぇぞ、コラ。うぜぇんだよ、てめえ。女にキャアキャア言われていい気になりやがってよぉ」
「くやしかったら、てめぇもキャアキャア言われてみろよ」
後ろの奴《やつ》にそう言ってやったら、とたんに殴《なぐ》りかかってきたので、それをかわし、俺は間合いをとって五人と向き合った。
「いっちょ脅《おど》かしてやろうぜ、フール!」
そう呼びかけると、フールは俺の肩《かた》にちょんと現れた。五人が一斉《いっせい》に「は?」という顔をしたので、俺は吹《ふ》き出《だ》しそうになった。
「このような下賎《げせん》の者相手に、ヒエロゾイコンをお使いになるのはもったいのうございますよ、ご主人様」
と、フールはほっぺたをプクッとふくらませて言った。
「しょってるなあ、フール! ヒエロゾイコンでも、プチだろう!?」
俺は笑ってしまった。奴らの顔が、ますます「?」マークになる。
「仕方ございませんねぇ。脅《おど》かすだけでございますよ」
「プチ」の「審判《しんぱん》」のページを開く。俺は、固まったままの奴《やつ》らに向かって高々と吠《ほ》えてやった。
「審判! ブロンディーズ!!」
「ブロンディーズ! 最後の審判で死者を呼び覚ます神鳴《かみなり》でございます!」
ドガシャ―――ン!!
頭上で、すさまじい大音響《だいおんきょう》が轟《とどろ》きわたった。
「どぅわああああ―――っ!!」
死者をも叩《たた》き起《お》こす神のラッパは衝撃波《しょうげきは》で五人をフッ飛ばし、近くの窓ガラスをすべて破壊《はかい》した。
あたりは一瞬《いっしゅん》静まり返った後、大騒《おおさわ》ぎになった。
「なんだ、今の音は!」
「何か爆発《ばくはつ》したんじゃないか!」
通りで人々が右往左往している。
「げげっ!」
衝撃波《しょうげきは》の余波でひっくり返った俺だが、騒《さわ》ぎにまぎれてそそくさとその場を去った。
話を聞いて、詩人は大笑いした。
「ホントに愉快《ゆかい》だねー、プチは!」
「あんなすごい音がするとは思わなかったっス。まるで、戦車の砲撃《ほうげき》みたいだった」
「おや、経験がある口ぶりだね?」
「長谷と自衛隊の演習を見に行ったことがあるんスよ。最前列で戦車隊の砲撃を見たんス。初めて衝撃波を浴びて、鳥肌《とりはだ》立ったっス」
「富士の演習か〜。あれ、面白《おもしろ》いよねー。自衛隊せんべいを売ってるのがサイコー! ああいうノリって大好きだー」
豚《ぶた》しゃぶのぶっかけうどんを食いながら、詩人と人間二人だけの夜を過ごす。
じめじめと蒸《む》し暑《あつ》い梅雨《つゆ》の夕食に、まず出されたぶっかけうどんが、最高に食をすすませてくれた。
磨《す》りおろさないで叩《たた》いてつぶした長芋《ながいも》の、ねばねばしてシャキシャキした食感がたまらない。オクラ、なめこ、わかめと、豚しゃぶを和《あ》えたものをドンとさぬきうどんの上にのせ、梅味をきかせたダシをかけて、白髪《しらが》ねぎとカツオ節をトッピング。栄養もスタミナも満点だ。
詩人は、じゅんさいの酢味噌和《すみそあ》えを肴《さかな》に冷酒をやっている。
暗くなってからまた降りだした雨の中、青や黄色の光がふわふわと暗闇《くらやみ》の庭を舞《ま》う。その間を正体不明の何かが行き来しているらしく、台所の明かりを反射して時折銀色に光る様子は、とても涼《すず》やかだった。それを見ながら、ヤリイカと野菜のガーリック炒《いた》めで白飯をかきこめば、梅雨の暑さもじめじめも、すべてどこかへ吹《ふ》っ飛《と》んでゆく。
「梅雨には梅雨の風情《ふぜい》があるよねー」
冷酒をキューッと呷《あお》って、詩人がため息をついた。
「同感っス!」
デザートは、これまた見るからに涼《すず》しげな梅寒天だった。
「それにしても、フールが不良たちを相手にすることを嫌《いや》がったのが笑えるなー」
「そういうプライドはあるんスよね」
「微笑《ほほえ》ましいよねー」
詩人は優《やさ》しく笑った。
「主人が俺じゃあ、せいぜいそのぐらいにしか使えないスよ。古本屋さんや龍さんみたいにはいかないス」
「『自分が立っている所を深く掘《ほ》れ。そこからきっと泉が湧《わ》きでる』高山樗牛《たかやまちょぎゅう》」
「………………はぁ」
「ふふふ」
詩人はそれ以上何も言わず、笑顔で梅寒天を食べるだけだった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_086.png)入る]
秘密の小部屋
夜からの雨が降り続き、あくる日は終日|鬱陶《うっとう》しい天気だった。昼間でも校内は暗く、空気はベタついていて、田代たちは髪《かみ》がまとまらないとか、下着が肌《はだ》について気持ち悪いとか(男の前でそういう話をするな)、文句の言いどおしだった。
放課後ともなれば廊下《ろうか》も教室もいっそう薄暗《うすぐら》く、グラウンドを使えないクラブ員たちは早々に帰って、校内はどこかひっそりとしていた。それでも講堂ではバレー部が練習中で、講堂内の湿度《しつど》をせっせと上げていた。
その横を通り、誰《だれ》にも尾《つ》けられていないことを確かめながら、俺は例の小部屋へ向かった。きしむ階段をそろそろと上がって、小部屋の前に立つ。
あたりはモノクロのような暗さに沈《しず》んでいて、悪い夢の中のようだった。だが今日は、何の声も聞こえない。部屋の中には誰《だれ》もいないようだ。
「またどうしてここへ? ご主人様」
胸ポケットの中からフールが顔を出した。
「ノルンたちが言ってたよな。ドロドロしたものを感じる≠チて」
「確かに」
「あれって何なのかなあと思ってな」
フールは、小さな手をポンと打った。
「それでこそ我らが主《あるじ》! この不可解な事件を見事解決なさるよう、我ら一同しっかと後押《あとお》しいたしますれば!!」
「……あのさ、フール。お前ひょっとして、俺に小説や漫画《まんが》の中みたいなヒーローになることを求めてねぇか?」
「…………」
「バッカだなあ、お前。身のほどを知れってぇの。俺にはそんな気はねぇし、第一そんな力もねぇよ」
俺は笑いながら小部屋のドアを開いた。
「そのように決めつけになってはいけません、ご主人様。世界は無限の可能性で満ちあふれているのです。夢と冒険《ぼうけん》が、我らを待ち受けているやもしれないではありませんか!」
「言ってろよ。俺の第一志望は県職員だからな」
部屋の中は少し明るかった。小窓から講堂内の照明の明かりが入るからだ。
スチールの棚《たな》にゴチャゴチャと小物が並んでいる。工具、カーテンの替《か》え、ガムテープの山、いろんな書類の束、そして、
「うおっ、びっくりした!」
カツラだ。ナイフやグラスなどの演劇部の小道具もたくさんある。
それだけの部屋。
それだけなんだが……。
なんだろう? 何かおかしい。
何が?
俺は、部屋の中を注意深く見渡《みわた》した。確かに小さな部屋だ。だが、もっと狭《せま》く感じるような気がする。
「圧迫感《あっぱくかん》……? フール、お前何も感じないか?」
「さぁ〜……」
「精霊《せいれい》のくせに霊感もないのかヨ」
「下賎《げせん》の者の波動など、感じたくもございません。人間の波動は往々にして濁《にご》っております。わたくしの繊細《せんさい》な心は、美しく澄《す》んだ波動しか受け付けません」
「ハイハイ」
「第一、形のないものは捉《とら》えようもございません」
「形のないもの……」
フールのその言葉が、なんとなくひっかかった。
部屋に入ると「誰《だれ》かに見られているようだ」と演劇部員は言った。
「確かに……。そう言われればそんなような気も……」
自分一人しかいないのに、自分だけじゃない狭苦《せまくる》しい気配がある。それは明確な「人」の形をしていなくて、なんだか……。
「そう……ドロドロした感じ!」
激不仲の三|女神《めがみ》が占《うらな》ったとおりだ。だがこのドロドロしたものの正体は何だ? なんでそんなものを感じるんだろう? 幽霊《ゆうれい》だとは思えない。だが、演劇部員たちを不安がらせる何かがあるんだ。確かに。
それ以外のことはわからなくて、講堂を後にした。小部屋から遠ざかると、胸のつかえが取れるような気分になった。身体が、正体不明のプレッシャーを感じていたんだ。あの部屋にいる何かは「よくないもの」なのだと確信できた。
「わっっ!!」
後ろからいきなり抱《だ》きつかれて飛び上がってしまった。
「うわああっ!!」
「アハハハハ! 飛び上がってやんの!!」
「田代! てめえ、ガキみたいなことやってんじゃねえよ!!」
田代は、そのガキみたいなツラでますますガキみたいに、ニタ〜ッと笑った。
「見たぞ〜、稲葉。講堂から出てくるとこ。またあの部屋へ行ったんだ」
「だ、だからなんだってんだよ」
「カッコつけちゃってぇ。やっぱり稲葉もオバケがいるって思ってんじゃん? 気になってるんじゃん?」
田代はからかうように、ベタベタとしなだれかかってきた。
「そんなんじゃねぇよ。離《はな》れろっ、コラ!」
その時、昨日神のラッパで吹《ふ》っ飛《と》ばした奴《やつ》二人と、バッタリ会った。二人は俺の顔を見ると、まさしく「脱兎《だっと》の如《ごと》く」逃《に》げっ飛《と》んだ。
「あれ?」
ベタベタとくっついている自分たちを見て、下世話な口笛の一つも吹かれるかと思っていた田代は、キョトンとした。俺は、ちょっとやりすぎたかなと苦笑いした。
その夜、俺は長谷と電話で小部屋のことを話した。
「別に害は出てないんだから放《ほう》っておきゃいいんだけど、なんか気になってなあ」
すると電話の向こうから、なんだかムッとした声が返ってきた。
「お前なあ、稲葉。魔道士《まどうし》気取ってんじゃねぇぞ? 漫画《まんが》やアニメのヒーローみたいに、事件を解決しようなんて思ってんじゃねぇだろうな?」
まさにフールと正反対なことを長谷が言ったので、俺は笑ってしまった。
「まさか! ンなわけねーだろ、長谷。勘弁《かんべん》しろよ。あの部屋に幽霊《ゆうれい》やバケモノがいるわけねぇし、そいつと俺が魔術で対決なんて、そんな展開になるわけねーっての!」
でも、長谷は笑わなかった。
「わかってるならいいんだけどよ」
長谷は心配なんだ。俺のそばにいられないことが。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。あぶねーことにはならねぇから」
「……うん」
運命はいつも突然《とつぜん》で、普通《ふつう》の人の上にも、それは前触《まえぶ》れなく降ってくる。
宝くじが当たるとか、そんな幸運ならいいけれど、いつもの道をいつものように歩いていて、横から突然バイクに突《つ》っ込《こ》まれるなんてことを、いったい誰《だれ》が想像するだろう?
魔物《まもの》をしょわなくても、この世はいろんな運不運に満ち満ちていて、俺も、長谷も、誰《だれ》もそれを予測することはできない。長谷もそれぐらいわかっている。
それでもあえて心配するのは、俺に釘《くぎ》をさすことで、きっと長谷自身が安心したいからじゃないのかな。「自分のそばにいない不安」を、まぎらわせたいんじゃないのかな。遠く離《はな》れて暮らす娘《むすめ》を心配する、秋音ちゃんの両親のように。
「電話を切る前には、いつも必ず気をつけてねって言うわよ、うちの親も。何をってわけじゃないんだけど、とにかく気をつけてねと言うの。それであたしも、うんわかってるよって返すの。まあ、合い言葉みたいなものね」
と、秋音ちゃんは笑う。
ちょっとした言葉が紡《つむ》ぐ絆《きずな》。
ちょっとした言葉で、安心したり不安になったり。
「些細《ささい》なことでも、言葉って大事だよねー」
詩人がそう言うと説得力がある。
「霊《れい》が宿っているからね」
秋音ちゃんがそう言うと、これまた説得力がある。
俺も言おう。毎回毎回、長谷に。「大丈夫《だいじょうぶ》だ」と。忘れずに。
その翌日だった。
四時間目は商業法規で、これがただひたすら黒板に書かれることを書き写すというボンクラ授業なので俺は退屈《たいくつ》だった(桜庭なんかは楽だと言うが)。
で、ノートを書きながらあの小部屋のことをツラツラ思《おも》い巡《めぐ》らせていた時、俺は突然閃《とつぜんひらめ》いたんだ。あの小部屋の違和感《いわかん》の正体を。
「あ……! そうか!!」
思わず腰《こし》が浮《う》いた拍子《ひょうし》に、ガターンと椅子《いす》を派手に倒《たお》してしまった。教室がざわめいて笑いがもれる。教師がジロリと睨《にら》んだ。
「す、すいません」
椅子を直す俺に、田代が「バ〜カ」と舌を出した。その舌をつまんで引っ張ったら、セクハラだと言われるだろうか。
ともかく俺は自分の考えを早く確かめたくて、四時間目が終わるや教室を飛び出した。
が、小部屋の前まで来ると、俺はちょっとためらった。
演劇部員たちは不安がった。ノルンたちは「ドロドロしたもの」と言った。胸を突《つ》くような暗い圧迫感《あっぱくかん》があった。
何か、嫌《いや》なものを見ることになるんじゃないか? そんなことをわざわざする必要があるのか?
そんな俺の気持ちを察したのか、フールは胸元《むなもと》から静かに言った。
「いかがいたしますか、ご主人様?」
その言葉に、気持ちが入《い》れ替《か》わる感じがする。
「ああ……乗りかかった舟《ふね》ってやつだな。このまま放《ほう》っておくほうが気持ち悪いと思う。きっと……」
大丈夫《だいじょうぶ》だよ、長谷。きっとなんでもない。
それに、俺には「プチ」がある。あまり役に立たないけど。役に立ってもほんのちょっとだけど、それでも俺は「一人じゃない」んだ。確かに変な状況《じょうきょう》に陥《おちい》ってはいるけど、その状況にふさわしい相棒がいる。
俺は、意を決してドアノブに手をかけた。その時、
「こらああっ!!」
と、バカみたいな大声がして、俺は飛び上がった。
「うわあっ!!」
「キャハハハハ!!」
階段のところでバカがバカ笑いしていた。
「またお前か、田代!!」
「お弁当も食べないで、こんなところへ何しに来たの、稲葉?」
目玉をグリグリさせながら、田代は俺の顔を覗《のぞ》き込《こ》んできた。
「いやっ、別に……」
「何かあったんだ。あんた、四時間目ヘンだったもんね〜」
そう言うや、田代はドアを開けて小部屋へ入っていった。妙《みょう》なところが妙にカンのいい奴《やつ》。
「何? 何か見つけた? 教えてよ」
俺は仕方なく、続いて部屋へ入った。
「この部屋の何かが変だなって思ってたんだ」
「それは何? オバケがいるってこと?」
「そうじゃなくて。ほら、この棚《たな》を見てみろよ」
俺は、講堂内を見渡《みわた》せる小窓の右横にある棚を指差した。
組み立て式の棚はどれにも裏板はなく、壁《かべ》にぴったりくっつけて、壁を裏板代わりに物が向こう側へ落ちるのを防いでいる。ごちゃごちゃ並んだ雑多な物の向こうに、ヒビだらけシミだらけの汚《きたな》い壁が見えている……はずなのに。一つだけ、そうじゃない棚があるんだ。
「え? 何?」
と、田代はキョロキョロした。
そうなんだ。この部屋は暗いし、いろんなものがゴチャゴチャしているから、それが変[#「それが変」に傍点]だなんて誰《だれ》も感じない。そりゃあ、それ[#「それ」に傍点]がそこにあったって変じゃないけど。
「あ……これ?」
田代は、窓の右横の棚《たな》と他の棚とを見比べて言った。
「段ボール……」
俺はうなずいた。
その棚だけ、壁《かべ》と棚の間に段ボールがはさんであるんだ。段ボールを保管してある、というのではなく、まるで段ボールで裏板を張りましたって感じなんだ。その棚だけ。
俺が感じた違和感《いわかん》の正体は、これだったんだろうか?
これ一つだけ違《ちが》うことが、妙《みょう》な圧迫感《あっぱくかん》の原因なんだろうか? いや……。
「なんか……何かを隠《かく》してるみたいね?」
田代がポツリと言った。
「俺もそう思う」
と言うと、田代はハッと振《ふ》り向《む》いた。
「見てみるか?」
俺たちは、その棚を動かしてみた。棚にはキャスターが付いているので、わりと簡単に動かせる。
棚《たな》を動かしてみてわかった。段ボールは、壁《かべ》にガムテープで貼《は》り付《つ》けられていたんだ。それを慎重《しんちょう》にはがしてみる。
「げえっ! 何これぇ!?」
田代は悲鳴を上げた。
壁に段ボールで隠《かく》されてたもの。それは、文字と絵だった。
ほぼ棚の大きさの壁一面を、ビッシリと埋《う》め尽《つ》くすかのような細かい細かい文字は、すべて「呪《のろ》いの言葉」だった。「死ね」「殺す」「狂《くる》え」「苦しめ」……まだまだ、もっと酷《ひど》い罵《ののし》りの洪水《こうずい》。
絵は、公衆トイレのラクガキにあるような下品で下劣《げれつ》なもので、女を象徴《しょうちょう》するマークを上からメチャメチャに傷つけ、描《か》きつぶしたりしている。
そんなものが、それこそ隙間《すきま》なくボールペンやマジックで書かれていたり、何か細い鋭《するど》いもので彫《ほ》られたりしている。すべて、すべて「女を呪う」ものだった。
「き……気持ち悪い」
田代でなくても吐《は》き気《け》がするぜ。
ここからは、窓から講堂内が見渡《みわた》せる。そこでは、バスケやバレーやバドミントン部が練習している。誰《だれ》かが、ここで、部活をする女たちを見ながら、女を呪《のろ》っていたんだ。この書きこみ方、この内容、とてもまともじゃない。
ノルンたちが占《うらな》った「ドロドロしたもの」の正体は、これに間違《まちが》いなかった。
フールが言った。「人間の波動は往々にして濁《にご》っているから感じたくない」と。
「まさに、腐《くさ》ったドロ溜《だ》めだぜ……」
俺は小さくつぶやいた。
「うわ〜〜〜、も、サイテー。こんな奴《やつ》が今もこの校内にいるって思うとゾッとするよ〜」
「でもなあ、この辺を見ろよ。けっこう古そうじゃねぇ?」
「そ、そうかなあ。じゃあ今は三年生で、一年に入った時にやったってこと?」
「どうかなあ。三年の男子にそれらしい奴なんているか? もう卒業しちまってるんじゃねぇの?」
「あ、それもそうだね! それならいいんだけど……」
本当に、そうだといい。
この小部屋にまつわる怪談《かいだん》の正体は、何年か前(去年でもいい)までここでブツクサと女を呪《のろ》っていたイカレ野郎《やろう》で、そいつはもう卒業して学校にはいない。その気味悪い「つぶやき」だけが、怪談話《かいだんばなし》として残っている、と。
だけど、すっきりしない。まだ何かが「今もここにある」ような気がする。そいつはここで「生きている」感じがするんだ。その時――。
バアン!! と、すごい勢いでドアが開いた。
「ぎゃ―――っ!!」
田代が飛び上がって抱《だ》きついてきたので、俺ははずみでひっくり返ってしまった。
三浦だった。
「お前ら……何をしているんだ……」
静かだがドスのきいた声。怒《いか》りというか、狂気《きょうき》すら孕《はら》んでいるような目つき。
倒《たお》れた俺の上に田代がのしかかるという、なんともマズイ体勢。さらに田代のスカートがめくれあがってパンツが丸出しじゃあ、ただでさえ教師は目をむく状況《じょうきょう》だ。
三浦は、ギラギラした目で俺たちを、そして壁《かべ》の文字を見た。その姿が、一瞬《いっしゅん》黒い煙《けむり》に包まれているように見えた。
「?」
何か、影《かげ》が三浦の前を横切ったような、黒い虫の群れが飛んだような、もやもやしたものだった。
「あっ、これは違《ちが》うよ、先生! 別に何かヘンなことをしてたわけじゃなくて……」
と、慌《あわ》てて言いかける田代の胸倉《むなぐら》を、三浦はいきなり鷲《わし》づかみにした。
「え?」
その時、真正面で見た三浦の顔を、田代は覚えていない。
「真っ黒だった」という。
三浦は、田代の身体を吊《つ》り上《あ》げた。何をしようとしているのか、わかった。
「やめろ……!!」
「女は、みんな死ね―――っ!!」
そう叫《さけ》んで、三浦は田代を壁《かべ》に投げつけた。
間一髪《かんいっぱつ》。俺は田代と棚《たな》の間に飛びこめた。
ガラガラ、ガタ―――ン!! 俺たちは床《ゆか》へ倒《たお》れ込《こ》み、そこへ棚が倒れてきた。スチールの棚の直撃《ちょくげき》から俺たちを守ってくれたのは、大量のガムテープだった。
「田代……大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「う〜〜〜……何? なんなの?」
棚《たな》の下から這《は》い出《で》てみれば、そこに三浦はいなかった。俺たちは、呆然《ぼうぜん》とした。
「あれ……絶対ヘンだよ! 三浦っておかしいよ!」
田代の顔は、血の気が引いて白っぽかった。
「いくら腹が立ったって、生徒を、しかも女子を、壁《かべ》へ投げつける教師はいねぇよな〜」
「それだけじゃないよ、稲葉! あいつ……すごい力だったよ! あんなヒョロッとしてるのに。あたしを持ち上げて……。あたし、ブンッて飛んだよ! ブンッだよ!!」
確かに、田代を受け止めた時のG(重力)はすごかった。体重のせいじゃなかったか。
こんな狭《せま》い部屋で反動もつけずに、いくら女の子とはいえ高校生の体だ。胸倉《むなぐら》をつかんで吊《つ》り上《あ》げて、そのまま壁へ叩《たた》きつけるなんてことが……普通《ふつう》の人間にできるだろうか?
「普通の人間じゃないのか? いや、まさか……」
そりゃあ、佐藤さんみたいに普通の人間のフリをして会社勤めをしている妖怪《ようかい》もいるけど。
「でも、そうじゃないんだ。そうじゃなくて……あ〜、なんだろ?」
田代は、さすがに今日は三浦に会うのが怖《こわ》いといって(六時間目が三浦の授業なので)、早退した。
学校側に訴《うった》えるといい? 誰《だれ》が信じるよ、三浦のあの狂気《きょうき》を。事実、三浦が変だと思っている桜庭や垣内ですら、三浦が田代を投げ飛ばしたことには半信半疑だった。どこからどう見ても、文系のヤサ男だからな。
俺は、次の五時間目の授業をフケて給水塔《きゅうすいとう》へ上った。
「いやもう、先ほどはヒヤリといたしました」
フールがやれやれと肩《かた》をすくめる。
「ああいう時に、お前らがサッと出てきて守ってくれればなあ」
俺は勝手な意見をほざいてみた。すると、フールは含《ふく》み笑《わら》いをしつつ返してきた。
「それはご主人様のお心|次第《しだい》でございますよ」
「…………」
まずった。これは薮蛇《やぶへび》だ。
「必要以上の修行《しゅぎょう》なんてしねーからな」
改めてそう言うと、フールはプクッとふくれた。
「プチ」の「運命の輪」のページを開く。
「ノルン!」
三人の女神《めがみ》が大甕《おおがめ》とともに現れる。今回は女神らしい格好をしている。といっても、なんだか今どきのRPGの中のキャラのようだが(これもホラ吹《ふ》き猫《ねこ》の入《い》れ知恵《ぢえ》か?)。
「お呼びでございますか、ご主人様?」
「もう一度、あの小部屋のことを見てくれ。ドロドロしたものの正体をもう少し探《さぐ》れないか?」
女神たちは自信なさげに顔を見合わせたが、大甕に向かって呪文《じゅもん》を唱え始めた。ぐるぐる回る水らしきものには、何が映っているのだろう。
すると、三人の眉間《みけん》にそれぞれ皺《しわ》が寄り始めた。戸惑《とまど》っているようだ。
「どうしたんだ?」
スクルドが困ったように答えた。
「もういません」
「何?」
「あのドロドロしたものは、もうあの部屋にはいません」
「いないって、どういうことだ?」
「どっかへ出てったみたいだな」
「うん、そんな感じ」
ザンディとウルズが首をかしげながら言った。
首をかしげたいのは俺だ。いったいどうなっているんだ? 小部屋の謎《なぞ》の唯一《ゆいいつ》の手がかりかもしれない「ドロドロしたもの」が、急にいなくなっただと?
俺は、どうしたらいいかわからなくなった。乗りかかった舟《ふね》とはいえ、やっぱり怪現象《かいげんしょう》の謎を解くなんてことはド素人《しろうと》には無理なんだろうか?
「フール、あそこにいたものは、幽霊《ゆうれい》とか妖怪《ようかい》とかじゃなかったんだよな?」
「そのように形のはっきりしたものではございません。幽霊や妖怪ならば、そうとわかるものでございます」
「幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》じゃないなら……いったい何だ?」
俺は、「プチ」の「隠者《いんじゃ》」のページを開いた。
「コクマー!」
コクマーは、英知の女神《めがみ》ミネルヴァに仕える知識の梟《ふくろう》の眷属《けんぞく》だ。あいにくちょっと、いやだいぶボケているが。
青白い放電の中に、一抱《ひとかか》えもある大きな梟が現れた。相変わらず眠《ねむ》そうな大梟の耳元で、俺は大声で尋《たず》ねた。
「じいさん! 幽霊でも妖怪でもなくて、ドロドロとその場に溜《た》まっているものって何か考えられるか?」
「うむむむむ……」
コクマーは口をもぐもぐさせて、しばらく何かをつぶやいていた。
「んむむ……そりゃまあ……いろいろとあるな……うむ……うむ」
「たとえば?」
「んむむ…………魔界《まかい》への穴があいておって……陰《いん》の気《き》がもれておるとか……」
俺はフールを見た。フールは首を横に振《ふ》った。
「それが本当なら、今頃《いまごろ》は大変なことになっております。魔界の瘴気《しょうき》に触《ふ》れたら、人間などは即死《そくし》か化け物になってしまいます」
「あ〜、あったな〜、そんなホラー映画」
でも、さっきの三浦……あれは、まるで悪魔に取《と》り憑《つ》かれたみたいといえば、そう思えなくもないよな。
「だいたい、魔界への穴がそんなに簡単にあくはずはございません。この世界とは大変に隔《へだ》たっておりますゆえ」
「じいさん、他に何かないか?」
うつらうつらするもうろく梟《ふくろう》の耳元で、俺はまた一段と声を張り上げた。
「んむ……んむむ………………記憶《きおく》とかな」
「記憶?」
「物の記憶じゃよ」
と言うと、コクマーは突然《とつぜん》ぽこっと大きな目を開けた。
「そうそう! さる古い古い城に『惨殺《ざんさつ》の間』という部屋があってのう。奥方《おくがた》の姦通《かんつう》を知った城主が、この部屋で奥方と相手の男を血祭りにあげたのじゃが、その後何十年とたっても、この部屋には奥方とその相手が血まみれでのたうちまわる姿が現れるのじゃ。これは、その光景のあまりの悲惨《ひさん》さと、惨殺された者の思いが強烈《きょうれつ》すぎて、その部屋に焼きつけられてしまった結果なのじゃよ」
「光景が……焼きつく!?」
「いや、それがもうその悲惨さというたら筆舌《ひつぜつ》に尽《つ》くしがたくてのう。奥方と男は生きながら全身の……」
「じいさん、他にはっ!?」
「おおっ!?」
コクマーは、俺の大声にびっくりして目をパチクリさせた。
「他にか? 他には……そうだのう、『思い』も、その場に残るのう」
「思い……」
「強い悲しみや怨《うら》み、恐怖《きょうふ》など、固まりやすい感情≠ヘ、その場に固まってしまうことがあるんじゃよ。本人がそれを忘れても、本人がいなくなっても、思いだけはそこに残ってしまうんじゃ。本人から離《はな》れて独立してしまうということじゃ」
この言葉に、俺は閃《ひらめ》いた。
「イドの怪物《かいぶつ》……イドの怪物だ!!」
SF映画『禁断の惑星《わくせい》』に出てきた、主人公の博士の邪《よこしま》な思い≠ェ形をとって現れた化け物「イドの怪物」。
俺は確信した。あの部屋にいたのは「イドの怪物」なんだ。女を怨んでいた奴《やつ》の「怨みの思い」が凝《こ》り固《かた》まったもの。ちゃんとした形にはなっていないが、ドロドロとした煙《けむり》のような……あれがそうなんだ!
「小部屋の怪談《かいだん》」の正体はこれだった。幽霊《ゆうれい》でも妖怪《ようかい》でもないが、そこに留《とど》まった怨みの念は、今でもブツブツと女への怨みをつぶやき続けていたんだ。
「でも……いなくなったんだよな? どうしてだ? どこへ行ったんだ? いや、いなくなったんだから、もうそれでいいんじゃないのか? …………いいのか?」
俺は首をひねった。
「どこへ行ったかは問題ですな」
「うむ、うむ……ああいうもの[#「ああいうもの」に傍点]は、時に器《うつわ》を欲《ほ》しがるものじゃからな」
と、フールとコクマーはうなずきあった。
「器を欲しがるって、どういうことだ?」
「念というものも、大きく固まればそれなりの存在となって『自分の身体』を欲しがるのじゃよ」
「自分の身体って?」
「なんでもようございます。物でも人でも。魂《たましい》が宿った人形など、よくある話でございましょう? あのように、形あるもの≠フ中に、形のないものは入りたがるものなのでございます。形があり、かつ中が[#「中が」に傍点]『虚《うろ》』のものに、形のないものは宿りたがるものなのです」
「物でも人でもって言ったよな? 形のないものは、人間にも入ってくるのか?」
「中が虚[#「中が虚」に傍点]ならば。左様で」
「中が虚《うろ》……」
その時、救急車のサイレンが近づいてきた。
「おや、この学校へ入ってきましたな」
フールが俺の頭の上で背伸《せの》びして言った。
「え? 何かあったのかな?」
五時間目が終わるのを見計らって教室へ戻《もど》ってくると、皆《みな》がざわめいていた。
「あ、稲葉クン!」
「どこ行ってたの? 心配したよ」
桜庭と垣内が寄ってきた。
「救急車が来たよな? 何かあったのか?」
二人は、田代のように目玉をグリグリさせた。
「三浦先生よ! 倒《たお》れちゃったんだって!!」
「三浦が!?」
五時間目。E組での授業だった。三浦は、教室に入ってきた時から様子がおかしかったらしい。顔色が悪く、具合が悪そうだった。
「少し頭痛がするんだ」
と言いつつ授業を始めたものの、話が途切《とぎ》れ途切れになり、その途切れ途切れの間に何か別のことをブツブツとつぶやいたりした。生徒たちは戸惑《とまど》い、とうとう委員長が「大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」と、席を立って三浦に近寄ったが、三浦は委員長を見るや、
「近寄るな!!」
と、絶叫《ぜっきょう》したという。それから頭を押《お》さえて苦しみだし、泡《あわ》を吹《ふ》いて倒《たお》れてしまったのだ。
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_114.png)入る]
最悪の出会い
「その委員長は女の子だった……のネ」
と、詩人はお茶を飲みつつ断定的に言った。俺はうなずいた。
「三浦先生ってさあ、取《と》り憑《つ》かれてるんじゃないの? その、女を怨《うら》んでる念とやらにさあ」
と、映画『エクソシスト』のビデオを見ながら佐藤さんが言った。
「あたしもそう思う〜」
ビデオを見ながらキャアキャア怖《こわ》がっている幽霊《ゆうれい》のまり子さんもそう言った。
「や、やっぱりそう思うっスか!!」
いわゆる「狐憑《きつねつ》き」というやつなんじゃないかと、俺は思ったんだ。
でも、それを確かめようにも、こんな時に限って専門家がいない。龍さんや古本屋はまたどこかへフラフラと行ってしまったし、秋音ちゃんは、なんだっけ……宿泊《しゅくはく》研修? 泊《と》まりがけの遠足みたいなやつで留守だ。そしてなぜか、誰《だれ》一人として携帯《けいたい》電話というものを持っていない。
「龍さんや古本屋は持ってるはずだけどなあ、商売上」
「でも、プライベートで使っているのは見たことがないわよ」
「ま、おいらも携帯は会社でしか使わないけどね」
それにしても誰もその電話番号を知らないのはどうしてだろう? 「常に携帯の通じない場所にいるからかけても無駄《むだ》だから」とか? アパートの住人らしいといえばそうかもしれないが。
唯一《ゆいいつ》携帯が通じると思われるのは画家だが、
「深瀬に『この件をどう思う?』なんて訊《き》いてもねえ」
と、詩人は大笑いした。そうだな。「知るか」の一言だろう。まあ、携帯を持っていないのは俺も同じだが。
「長谷が携帯を持て持てという気持ちが、ちょっとわかっちまったぜ。せめて秋音さんと連絡《れんらく》が取れればなあ。専門家の意見を訊きたいんだけど」
「一人前のコト言っちゃってー」
まり子さんに笑われてしまった。
「い、いやあ……ただ俺は、これからどうすればいいのかなー、なんて。あの悪い念が三浦に憑《つ》いているとしたら、三浦はどうなっちまうんだろうと思うし、お祓《はら》いとかした方がいいのかなあとか、お祓いっていってもどうするんだろう、とか」
「そーそー。それは大問題だよねえ」
佐藤さんは、眉間《みけん》にちょっと皺《しわ》を寄せて言った。
「もし本当に、悪い念が三浦先生に取り憑いていたとしても、三浦先生は普通《ふつう》の人の目には変な人≠ノしか見えない。夕士くんたちがそう思っていたようにね。お祓いをするにしても、本人か家族の承諾《しょうだく》がいる。何も知らない家族からしてみれば、必要なのはお祓いよりも医学的な治療《ちりょう》だろう。たとえ、それでは解決しないにしてもネ」
人間じゃない佐藤さんの意見だからこそ、ズシンと下腹に響《ひび》くようだった。
「……そうっスよね」
ここに秋音ちゃんや龍さんがいたとしても、勝手に三浦のもとに押《お》しかけてお祓いをするわけにはいかないんだ。
人喰《ひとく》い宗教団体と州警察の大銃撃戦《だいじゅうげきせん》の中、囚《とら》われ人《びと》を救い出す活躍《かつやく》をするような龍さんが、たった一人の、高校教師を救うことができない。
「それが世の中≠ネんだよねー。不思議だよねー」
詩人のセリフに、全員がしみじみとしてしまった。まあ、三浦が本当に取《と》り憑《つ》かれているかどうかは、まだわかっていないけれども。
「昔は昔で『狐憑《きつねつ》き』の問題はあったけどね。乱暴すれば狐が出ていくなんて言って、殴《なぐ》り殺《ころ》しちゃったり。何に憑かれているわけでもないのに、『狐憑き』だとして座敷牢《ざしきろう》に一生|閉《と》じ込《こ》めたり。精神病を患《わずら》った人を出した一族|郎党《ろうとう》が『祟《たた》られた』って目で見られたり」
長生きしている佐藤さんは、見てきたように(実際見てきたんだろう)語る。
「結局は今も昔も、そういう問題の多くは『未知のもの』に対する怖《おそ》れや偏見《へんけん》や差別から起こるんだよね」
「あたしなんかバカだから、きっと怖れて、偏見を持って、差別しちゃうと思う。だから、勉強ってすっごく大事なんだよ、夕士クン。いろんなものを見て、聞いて、読んで、自分の世界を広げるのよ」
まり子さんが、いつになく真剣《しんけん》な顔で俺を見つめて言った。
「ま、今フツーに生活してる人たちに、幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》の話を勉強しろっていうのは無理だけどねー」
詩人が、あっけらかんと笑った。
「こんな映画を作ってるくせにねえ。いや〜っ、怖《こわ》〜〜〜い! リーガンちゃんの顔!!」
オカルト映画を見ながら鳥肌《とりはだ》を立てている幽霊が目の前にいるのに、三浦のことをどうしようもない状況《じょうきょう》がもどかしいような、変な気分だ。
「はあ……」
俺は大きくため息して、居間に大の字になった。
どうしていいかわからない。今はただ、様子を見るしかないのかもしれない。
ふと、いつの間にかそばに来たクリとシロが、俺の顔を覗《のぞ》き込《こ》んでいた。
クリは俺の顔をしばし見つめた後、手に持った食べかけのコロッケをグイグイと俺の口へ突《つ》っこんできた。
「ふぇふのふぁ? はんひゅー……ふおおっ!?」
クリの励《はげ》まし(?)に感激するよりも、俺はコロッケのうまさに飛び上がった。
「うんめえぇ――! このコロッケ!!」
具はジャガイモと牛肉がちょっとだけ。シンプルこの上ないのに、その味のなんという深み!
繊細《せんさい》! 中身はしっかり詰《つ》まっているのに、ふかふかの舌触《したざわ》り。とろけるような甘味《あまみ》!
「るりるりのポテトコロッケねー。今日のおやつだったんだよねー」
詩人はクリの頭をクリクリと撫《な》でた。
「でも、今も衣《ころも》がサクサクっスよ!?」
「冷めてもおいしいんだよねー。さすが、るり子マジック! ちょっと夜食とかって時にねぇ、このコロッケをねぇ、レンジで温めて冷やご飯の上にのせて、ソースをちょっと多めにかけるの。そして黄色い甘いたくあんと食う。これがまあ、絶品で!!」
俺は、喉《のど》がゴキュッと鳴った。
「レンジであっためて、冷やご飯で、でスか!?」
「レンジであっためて、冷やご飯で、なのヨ。黄色い甘いたくあんと、ネ」
るり子さんの激うま夕飯を食った後でなんなんだが、俺はこの、貧乏《びんぼう》学生が食うようなコロッケ飯が無性《むしょう》に食いたくなり、たまらず食堂へ駆《か》けこんだ。
「るり子さん! コロッケは、まだ残ってるっスか!? 冷やご飯は!? 黄色い甘《あま》いたくあんは〜〜〜っ!?」
「おいらも〜〜〜っ!」
「あたしも〜〜〜っ!」
俺の後に妖怪《ようかい》と幽霊《ゆうれい》が続く。その時、廊下《ろうか》の黒電話が鳴った。
「ハイハイ、妖怪アパ……いやいや、寿荘デス♪ ああ、ちょっと待ってね。夕士ク〜〜〜ン、田代ちゃんから電話だよー」
「田代ちゃん……?」
電話に出ると、田代の文句が聞こえてきた。
「稲葉、携帯《けいたい》ぐらい持ってよ! 他の人と話すのって緊張《きんちょう》しちゃうじゃないの!」
「田代? お前、なんでここの電話番号知ってるんだ?」
「そんなことどうだっていいでしょ。それよりさあ、聞いたよ。三浦、病院に運ばれたって?」
「ああ。そうみたいだ」
「三浦の前の学校のネタ、仕入れたんだ!」
どうやら、例の独自の情報網《じょうほうもう》を駆使《くし》したらしい。どうやって、どこまでの情報が手に入るのやら、恐《おそ》ろしい。
「すごいよ、稲葉!? 写真も見せてもらったんだけど。別人! 別人みたいよ、三浦ってば。すごくちゃんとした人みたいなの」
「それが、なんでああなっちまったのかが問題なんだろ?」
「それがさあ、三浦が前いた学校って、白峰《しらみね》女子なんだワ」
「女子高……!」
と聞くだけで、アイタ! と思うのは男女差別だろうか。
「学校自体はいいとこなんだよ、白峰って。偏差値《へんさち》も高いし、運動部も文化部も強いの。ここの演劇部って有名なんだよ」
「ああ。そりゃあ三浦も働きがいがあっただろうなあ」
「ただね。アクが強いの、白峰の生徒って」
田代の中学時代の友人の一人が、白峰に通学しているという。
白峰女子は、近隣《きんりん》の女子中学生の間では有名らしい。白峰に行くということは、まず頭がいいということであり、その上にテニスや弓道《きゅうどう》が強く、合唱と演劇も全国的に有名。ここから芸能界入りしたやつもいるというから大したもんだ。
その代わり、峰女《みねじょ》(白峰の生徒)らには、独特のプライドがある。
「なんつーか……ちょっと鼻につくみたいな? わたくしは白峰の生徒なのですよ?≠ンたいな?」
「お高くとまってるってやつだな」
「そーそー! そーなのよ! あんたら何様? って感じなのよ! 制服とかも、あえてビシーッと校則どおりに着てて、そこからはみ出るのを嫌《きら》うっていうか、許さないっていうかさ」
つまり、それだけ「白峰の生徒」ってことを意識しているわけだ。
田代の友人は、頭がいいので白峰に進学したものの、いまだに峰女になじめなくて苦労しているという。まあ、田代のツレってからにはどんな奴《やつ》か推《お》して知るべしだな。ステイタスとプライドの塊《かたまり》みたいな女どもの間で、さぞ苦労していることだろう。
「で、ここに先生になりたての三浦が赴任《ふにん》してきたってわけ。それは一昨年《おととし》のことなんだけど、その事件≠ヘ、今も生徒たちの間じゃ有名なんだって」
その事件――。
三浦は、熱心な、使命感あふれる教師だったという。学生演劇をしていた経験も、白峰女子の演劇部で大いに役立つと思っていたことだろう。
だが、そこに立ちはだかったのは「峰女」という女子高生だった。
「三浦ってね、すごくこう……熱血先生っていうの? 高校生はこうあるべきだ! 理想は! 夢は! 希望は! って……そんなタイプだったんだって。今からじゃ、とても想像できないよね」
「でも、いるよな〜、そんな奴《やつ》。教師になるために脇目《わきめ》もふらず、勉強だけしてきましたっていうような奴に多いぜ。三浦って、そうだったんだ」
悲しいことにというか、恐《おそ》ろしいことにというか、当然なことにというか、三浦のこういうプライドや自信が、峰女たちのそれとぶつかってしまった。
峰女には峰女の伝統とプライドがある。そこに「そうじゃないだろ? こうなんだよ!」という、一人よがりな理想を押《お》しつけてくる若造が現れた。女子高生が、年上の教師を捕《つか》まえて若造もなにもないだろうが、そんなことはプライドも高き白峰の乙女《おとめ》たちには関係ない。
白峰という伝統と格式ある花園《はなぞの》に、ずかずかと入りこんできたどこの馬の骨ともわからない[#「どこの馬の骨ともわからない」に傍点]男。しかも「演劇とは」「青春とは」と青臭《あおくさ》いご高説を垂れたがる、「年上」と「教師」というカサを着たガキ。
自分たちだってステイタスとプライドに凝《こ》り固《かた》まったガキということは、はるかに高い棚《たな》の上に放《ほう》り上《あ》げて、峰女たちは三浦に徹底的《てっていてき》に反発した。返事をしない、命令をきかないなど、ありとあらゆる「無視」。授業のボイコット。身体が触《ふ》れようものなら「汚《きたな》い」「セクハラ」などと大騒《おおさわ》ぎしたという。
「タッグを組んだ女って怖《こえ》ぇからなぁ〜」
「しかも、峰女だしね」
ただでさえ、中学から高校ぐらいの女ってやつは難しい。男を、男ってだけで拒絶《きょぜつ》することもある。俺も従姉《いとこ》の恵理子《えりこ》に拒絶されたもんだ。
まして、自分は「神聖不可侵《しんせいふかしん》」であると思いこんでいるような女は、敵に与《あた》える罰《ばつ》も神罰なみだ。いまだに峰女たちの間で語り草になっているという「いじめ」を受けて、三浦はあっという間にボロボロになってしまった。
「自分がどうして生徒の反発にあうのか……あいつ、わからなかったのか……」
「登校|拒否《きょひ》になっちゃったんだって。病院にも通ってたみたい」
「やっと立ち直って、条東商に来たってわけだ」
「立ち直ったようには見えないけどね」
「本当はまだ立ち直ってなかったんだな。だからあんな、女は死ねみたいなことを……」
俺は、ハッとした。嫌《いや》な予感がした。
三浦は、女に酷《ひど》い目にあわされた。自分も悪かったんだろうが、とにかく自信もプライドも何もかも台無しにされた。条東商に来た時は「抜《ぬ》け殻《がら》」のようだった。
「稲葉? どうしたの?」
三浦は、もしかしたら「運命の出会い」をしてしまったんじゃないだろうか。
誰《だれ》ともわからない、とにかく女を呪《のろ》っていた奴《やつ》の念が溜《た》まった小部屋。演劇部員ぐらいしか行かないその部屋に、演劇部の関係者の三浦が行くのは必然で。三浦と、そこにいた「イドの怪物《かいぶつ》」が、女への怨《うら》みで引きつけあうのも必然で。
「稲葉ってば?」
『「自分の身体」を欲《ほ》しがるのじゃよ』
『形あるもの≠フ中に、形のないものは入りたがるものなのでございます』
『中が虚《うろ》ならば。左様で』
三浦は――。
ただ単に取《と》り憑《つ》かれたんじゃなくて。
「イドの怪物《かいぶつ》は……自分が入れる身体[#「自分が入れる身体」に傍点]を、待っていた……?」
女を怨《うら》んでいる念の固まりと、女のために抜《ぬ》け殻《がら》になってしまった身体。
最悪の、運命の出会い。
「ねえ、稲葉ってば!」
「田代! お前、今どこにいるんだ?」
「え? 上院の駅前のファミレスだけど」
「そっから家までどうやって帰るんだ? ツレはいるのか?」
「ツレは電車で帰るし、あたしは自転車で帰るけど……」
時間はもう十時を過ぎていた。
俺は、胸騒《むなさわ》ぎがとまらなかった。なんだか知らないが……そう、ちょうど田代が、去年事故にあった時の、あの時の感じに似てるんだ。
「今からそっちへ行く! そこを動くなよ、田代!」
俺は、田代にファミレスで待つように言って、アパートを飛び出した。
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虚《うろ》に潜《ひそ》む
「急に送っていくなんて、どういうこと? わざわざ上院まで来たりしてさあ」
「別に、どうもねぇよ」
夜の住宅街を、俺は田代の自転車を押《お》しながら田代と並んで歩いた。
「女が夜遅《よるおそ》くに一人でフラフラすんな」
「いまさらなにオッサンくさいこと言ってんの、稲葉?」
田代を一人にしておけないと思ったんだ。なぜだか急にそう思った。
「もしかして、あたしのこと好きになっちゃった? むふふ」
「そーいうことを口に出すような女は好みじゃねえ」
「怨《うら》みの念」が身体を欲《ほ》しがるとすれば、それはなぜだ?
どこかへ行きたい[#「どこかへ行きたい」に傍点]、とか。何かをしたい[#「何かをしたい」に傍点]、からじゃないだろうか。
「稲葉、カノジョいるの? プリクラに一緒《いっしょ》に写ってた人?」
「アホか、ありゃ男だ……って、人の生徒手帳の中いつ見たんだよ、てめぇ」
「怨《うら》みの念」が取《と》り憑《つ》いた……いや、三浦の身体を乗っ取ったとしたら?
あいつ[#「あいつ」に傍点]は、今やどこへでも行ける。なんでもできる。
「男二人でプリクラするかネ、フツー。しかもそれ生徒手帳にはるなんてさ〜」
「お前らだって女同士でプリクラするじゃねぇか」
「それとこれとは違《ちが》うっしょ〜!?」
どうしてかはわからない。
わからないが、なんだか身体を得たあいつは、一番最初に田代のもとへやってくるような……そんな気がした。
「あ、ここだよ。このマンション」
「お、そうか」
「ありがと、稲葉。ここでいいよ。あたし、自転車置いてくるね」
「おう」
田代は駐輪場《ちゅうりんじょう》へ入っていった。
何事もなく無事着いてよかった。
「考えてみりゃ、三浦は今まだ入院中なんだよな。昼間|倒《たお》れたばっかりだもんな」
この調子で、全部俺の考えすぎだといいな。
このまま、何事もなければいいのに。
しかし―――。
ガシャッという音が、駐輪場の奥《おく》のほうでした。
「田代?」
俺は駐輪場へ入っていった。そこに、田代の姿はなかった。奥の壁《かべ》が、ぽっかりと口を開けていた。
「裏口……!」
駐輪場には出入り口が二か所あったんだ。田代はそこからもう自宅へ行ったのか?
慌《あわ》ててそこから駆《か》け出《だ》してみれば、通路の暗がりに横たわった女の足が見えた。ひきずられたのか、スカートがめくれあがっている。見覚えのあるパンツの柄《がら》!
「田代!?」
何者かが、田代の身体に馬乗りになっている。暗闇《くらやみ》にキラリと光ったのは、ナイフだった。
今こそ……!!
と、どこかで声がした。尻《しり》ポケットに突《つ》っ込《こ》んだ「プチ」を取り出し、「審判《しんぱん》」のページをめくる動作が、ひどくゆっくりと感じられた。
「ブロンディーズ!!」
ドカ―――ン!!
駐輪場《ちゅうりんじょう》を、そしてマンション全体を揺《ゆ》るがす大音響《だいおんきょう》と衝撃波《しょうげきは》。割れっ飛ぶガラスの音。
男は三メートルほども吹《ふ》っ飛《と》んだ。果物ナイフを握《にぎ》ったそいつは……。
「やっぱり、三浦!!」
気絶したその顔は、疲《つか》れきった表情をしていた。とても女を襲《おそ》うような奴《やつ》には見えない。
俺は一瞬《いっしゅん》ものすごく悩《なや》んだが、三浦の持っていた果物ナイフを植《う》え込《こ》みの中へ蹴《け》り飛《と》ばした。それから三浦をかついでいって、マンションの前の道路脇《どうろわき》へ寝《ね》かせた。誰《だれ》かが見つけて病院へ運んでくれるだろう。きっと今の大音響《だいおんきょう》にびっくりしてひっくり返った通行人だと思われるはずだ。今は……今はまだ、女を襲《おそ》った犯人にはできない。
「田代、田代!」
ほっぺたをピシャピシャ叩《たた》いてやったら、田代はすぐに目を開けた。
「い……稲葉あ!!」
田代は俺に飛びついてきた。
「真っ黒だったよ! 真っ黒の顔が、すぐ目の前にあったよ!!」
「もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。逃《に》げたから」
俺は田代の頭を撫《な》でてやった。後ろ頭に小さなふくらみがある。何者かの気配に振《ふ》り返《かえ》ったすぐそこに黒い男がいて、田代はびっくりして自転車にぶつかり、後ろへひっくり返ったんだろう。気を失ったのは幸いだったな。奴《やつ》が三浦だということにも気づいていないらしい。よかった。
「あいつ、何? 何??」
「わかんねぇよ。それより何かが起こったらしいぞ」
「えっ、何?」
周りは大騒《おおさわ》ぎになっていた。駐輪場《ちゅうりんじょう》の自転車とバイクは全部|倒《たお》れ、あちこちのガラスは割れ、住人たちが道路に出てウロウロしていた。
「な、何があったのかな?」
「さあ、わからん。ガス爆発《ばくはつ》かもな。すげえ音がしたから」
「ふ〜ん!?」
六階の自宅まで田代を送っていって下へ下りてくると、倒れた三浦を住人が介抱《かいほう》していた。その人たちと大騒ぎする他の住人たちに心の中で詫《わ》びながら、俺はホッとすると同時に大きな満足感というか、達成感を感じていた。
田代を助けることができた。「プチ」で。ちょっと興奮するような気持ちだ。
「お見事でございました、ご主人様」
フールが、ことさらおおげさにお辞儀《じぎ》する。俺は苦笑いした。
「お前だろ、フール。今こそ! って言ったのは」
フールは大きく首を振《ふ》った。
「いえいえ。あれは、ご主人様の心のエコーでございます」
「心のエコー?」
「左様、左様。ご主人様がこうしたいと願ったことが、我々に反響《はんきょう》したのでございますよ」
「よくわからねぇな」
俺は首をかしげたが、フールは満足そうに笑った。
「さあ、お疲《つか》れでございましょう、ご主人様。アパートへ帰りましょう。コロッケ飯がお待ちしておりますぞ」
「お! そうだった、そうだった!!」
俺はアパートへ飛んで帰った。
翌日。田代は元気に登校してきた。三浦はしばらく休むと発表された。
「三浦ってば、昨日病院|抜《ぬ》け出《だ》してフラフラしてたんだって。で、倒《たお》れてたとこ見つけられて病院に送り返されたんだけど、それってあたしのマンションの前だったのよ! これ、どう思う??」
さっそく詳《くわ》しい情報を聞きこんできた田代がまくしたてた。
「それはストーカーだよ、たぁこ! 三浦先生ってば、たぁこを愛しちゃったのね〜ん!」
と、桜庭は大笑いした。
「気色悪い! それが本当なら最低よ!」
垣内はマジだ。
「偶然《ぐうぜん》だろ? 三浦が入院した病院って、お前のマンションとそんなに離《はな》れてないじゃねぇか」
と、俺はしれっと返した。しかし、田代は大きな目で俺を睨《にら》むように見た。
「あんたが、なんで急にあたしを送るなんて言い出したのか、それが不思議でなんないわけ、稲葉。そのことと、自転車置き場であたしを襲《おそ》った奴《やつ》のことと、三浦のこととは、なんか関係あるの?」
「か、関係あるわけないだろ。だから偶然《ぐうぜん》だって! お前が三浦のことを怖《こわ》がってたから心配になっただけだ。俺はなあ、夜遅《よるおそ》くに女が一人でフラフラすんのがイヤなんだよ。なんかあったらどうすんだって気になるんだ」
「そんなこと言ってもサ」
「実際、なんかあっただろうが。偶然だけど。お前があんな時間に帰らなきゃ、襲《おそ》われることもなかったんだ」
田代は、口をアヒルのようにとんがらせた。
「稲葉くんってば、オッサンみたいよ!?」
桜庭と垣内も苦笑いしたが、俺はピシャリと返してやった。
「子どもに何かあったら親はどうすんだよ? お前らはもっとそのことを考えろ。お前らには心配してくれる親がいるんだからな」
三人は、ぐっと黙《だま》った。
父さん、母さん、ちょっとダシにしてごめん。でも、本当にそう思っている。自分も親も大事にしてほしい。
まったく偶然《ぐうぜん》に起こる事故なんかは仕方ないにしても、普段《ふだん》から注意していれば避《さ》けられる事故や事件はたくさんあるはずだ。注意深く行動して、無事に長生きしてほしい。
「いいか、田代。今日は学校が終わったらすぐ家に帰って、絶対家から出るな。お前を襲《おそ》った奴《やつ》が、まだウロウロしていることを忘れるなよ。お前らもだ、桜庭、垣内。当分夜出歩くのはやめろ。他の女たちにもそう言ってやれ」
姦《かしま》し娘《むすめ》たちは、渋々《しぶしぶ》ながらもうなずいた。
俺も、その日はすっ飛んでアパートへ帰った。
宿泊《しゅくはく》研修から帰った秋音ちゃんは、やっぱり待っていてくれた。
「一色さんから話は聞いたわ」
秋音ちゃんの顔つきが変わっている。「専門家」の顔になっている。
「夕士くんの推理は正しいと思う」
「イドの怪物《かいぶつ》が、三浦の身体を乗っ取ったってことスか?」
秋音ちゃんはうなずいた。
「三浦先生は、残骸《ざんがい》か抜《ぬ》け殻《がら》のようだと夕士くんは言ったわよね。その心の隙《すき》に入りこまれたのよ」
「中が虚《うろ》……」
「その部屋に溜《た》まっていた念は、けっこう古いものだと思うの。それが長い間に生徒たちの不安や恐怖《きょうふ》を吸い取って大きくなっていったのよ」
「そこに三浦が来たっていうのは……偶然《ぐうぜん》なのかな?」
「わからないわ。そこになんの因縁《いんねん》もなく、ただ通りすがりの通《とお》り魔《ま》のような現象が起きることはあるけど、三浦先生が女に対して屈折《くっせつ》した思いを持っていたというのは、偶然にしては出来すぎのような気もする。引き寄せられた[#「引き寄せられた」に傍点]とは思えないから……これは、三浦先生が持っていた運命なのかしらね」
わかったような、わからないような。
大きな話だ。三浦の性格、白峰での出来事、そして条東商での「最悪の出会い」。それらはすべて、そうなるべくして起こったのか? 三浦が生まれた瞬間《しゅんかん》から決まっていたことなのか?
「だとしたら、私たちが三浦先生を助けるのも……運命かもね」
秋音ちゃんの言葉に、ハッとした。
「夕士くんが、田代ちゃんが狙《ねら》われると感じたのは、あのバイク事故の時と同じよ。じゃあどうして田代ちゃんが狙われたのか?」
と、俺に尋《たず》ねるように言う。
「俺は……田代が目立つ奴《やつ》だったからじゃないかと思うんだ。女≠ニして」
田代は可愛《かわい》い女だ(性格は別として)。顔も身体も女として魅力的《みりょくてき》じゃないかと思う。そんな奴が男とベタベタしていたらなお目立つ。
変な意味じゃなく、田代は男と一緒《いっしょ》にいることが平気でよくベタベタしてくる。でも、それは充分《じゅうぶん》「変な意味」にとることができる行為《こうい》だ。まして、女にコンプレックスを持っている奴から見れば、あの「女を怨《うら》んでいる」ような奴から見れば、「男に媚《こ》びを売りやがって」とか、そんなふうに思えるんじゃないか? あいつ[#「あいつ」に傍点]は、きっとそんな女を(あいつから見れば、すべての女がそうなんだろうが)呪《のろ》っていたに違《ちが》いないんだ。
秋音ちゃんはうなずいた。
「あたしもそうだと思う。それはたまたまかもしれないけど、夕士くんとベタベタしてるところを見て、そういう印象[#「そういう印象」に傍点]を深くしてしまったんじゃないかと思うの」
俺は激しくうなずいた。
「それ! 絶対それっスよ、秋音さん!」
「三浦先生をいじめた峰女たちも、気取ってはいるけど隠《かく》せない女の性《さが》というのはあるはずよ。男からすれば、お高くとまって男を見下していても、一皮はがせばただのメスのくせにって思うわよ。三浦先生もきっとそう思ったと思う」
「…………」
女である秋音ちゃんが、そんな生々しいことを言うとは。俺はどんな顔をしていいやら。
「いや〜っ、言うねえ、秋音ちゃん!」
詩人は大笑いした。秋音ちゃんは、ヒョッと肩《かた》をすくめた。
「だって事実だもん。どんな清らかな女性にもメスの部分はあるわよ。それを知ってて気取るような女は嫌《きら》いなの、あたし」
バッサリ一刀両断! って感じだな。まるで長谷みたいなシビアさだ。
「そういうところ[#「そういうところ」に傍点]が、あいつ[#「あいつ」に傍点]と三浦先生を結びつけたのよ」
女の性《さが》を怨《うら》む男二人[#「二人」に傍点]。
「だから多分、あいつ[#「あいつ」に傍点]は田代ちゃんを第一の犠牲者《ぎせいしゃ》に決めてる」
「田代を……」
「記念すべき最初の獲物[#「記念すべき最初の獲物」に傍点]だからよ。逆に言うと、田代ちゃんを襲《おそ》わないうちは、他の女の子を狙《ねら》う心配はないってこと。おそらくね」
「イッちゃってる奴《やつ》ってさー、様式や形式にこだわるもんなんだよねー」
と、イッちゃってる奴の話ばかり書いている専門家の詩人がうなずく。
「三浦はどうなるのかな、秋音さん?」
「三浦先生としての意識が、だんだんと侵蝕《しんしょく》されていくでしょうね。外からは神経症《しんけいしょう》みたいに見えるわ。そいつ[#「そいつ」に傍点]がよほど大きく強力なものでない限り安定≠オないから、だから三浦先生は、これからもずっと病人[#「病人」に傍点]なのよ」
ゾッとするような話だ。精神病|患者《かんじゃ》の中には、そういう犠牲者[#「そういう犠牲者」に傍点]も大勢いるんじゃないだろうか。
「三浦先生がそうなる前に、それよりも女の子を襲ってしまう前に、なんとかしなきゃね」
俺はうなずいた。絶対になんとかしなきゃと思った。田代を襲《おそ》わせてはならない。そして、三浦も助けたい。三浦が「取《と》り憑《つ》かれている」と確信できたからには、もう本人や家族の承諾云々《しょうだくうんぬん》とは言っていられない。秋音ちゃんなら、助けられるんだ。まだチャンスがあるうちに[#「まだチャンスがあるうちに」に傍点]何とかしたい。どこか、知らない所に送られてしまう前に。本当に何もできなくなってしまう前に。
「救えねぇもんは、救えねぇさ」と、画家は言った。そのとおりだと思う。
すべては、救えない。
じゃあ、「救う」ことと「救わない」ことのボーダーラインはどこだろう?
「それは、見捨てない≠アとじゃないかなあ?」
詩人が言った。お茶をすすりながら。
その言葉が、胸に迫《せま》るような気がする。
「縁《えにし》ある者は、次元も時間も飛《と》び越《こ》えて目の前に現れるよ。自分の手の届くところにね。だから手を差《さ》し伸《の》べられるのサ。手の届くところにいるから助けられる。その隣《となり》にいても、手が届かなきゃ助けようはないよ」
「隣にいても手が届かない……」
「それが縁《えにし》さ」
と、詩人は軽く言う。
「どんなに大きな手ですくっても、水はそこから零《こぼ》れ落《お》ちる。水かきがついているっていうお釈迦様《しゃかさま》の手からも、水は零れてしまうだろう。アタシたちができることは、手の中に残った水のことを考えること。零れた水のことじゃない。それは、零れた水のことはどうでもいいんだという意味じゃない。あきらめろという意味でもない」
「理想だけを説かない人」が、ここにもいる。
等身大の言葉が、等身大の俺の身体に響《ひび》いてゆく。
龍さんのような高位の力を持った人でも、二百人の集団自殺を防げなかった。
でも、龍さんはそのことで自分を責めたりしない。最善を尽《つ》くした結果だからだ。救出された囚《とら》われ人《びと》たちが、龍さんにとって縁ある者だったんだ。二百人の犠牲者《ぎせいしゃ》は龍さんの手から零れ落ちた水だったんだ。
それは、数の問題じゃない。龍さんだって、どちらも救いたかったはずだ。
救える場合もあるだろう。
でも、「救えないものもある」―――。
これが、現実。
人が向かい合い、乗《の》り越《こ》えなければならない現実なんだ。
俺は、運命に導かれて妖怪《ようかい》アパートと、そして「プチ」と出会った。この俺[#「この俺」に傍点]と、三浦との出会いもまた運命なのか?
縁《えにし》ある者なら―――最善を尽《つ》くそう。
でも、救えないかもしれないという覚悟《かくご》も、しておかなければならないんだ。
翌日。授業が終わったとたん、俺は学校を飛び出した。田代たちに「今日もすぐに帰って、家から出るな」と言いつけて。
三浦が入院している病院の入り口に、花束を持った秋音ちゃんが待っていた。
無言でうなずきあう。胸がドキドキした。
三浦の病室は四人部屋で、三浦の他に二人が入院していた。三浦のベッドのそばには母親らしいおばさんがいた。
秋音ちゃんから花束を受け取って、俺は一人で三浦のもとへ近づいた。
「生徒を代表してお見舞《みま》いにきました、三浦先生」
「まあ、ありがとう。嬉《うれ》しいわ」
お母さんはとても真面目《まじめ》そうなきちっとした女性で、こりゃあ元教師だなとすぐにわかった。
「おう、稲葉か」
ゆるりと起き上がった三浦は、ぐっとやつれた感じはしたが普通《ふつう》だった。バツが悪そうに頭をかいた。
「ハハ。なんか病院を抜《ぬ》け出《だ》してフラフラしてたみたいでなあ。みんなに迷惑《めいわく》をかけちゃったよ」
「疲《つか》れてたんだよ、先生。昨夜《ゆうべ》は抜《ぬ》け出《で》てないよな?」
と、さり気に探《さぐ》りをいれたら、
「意識が戻《もど》ったのが今朝だったのよ」
と、お母さんが間髪《かんはつ》入れず返してきた。
「あ、私このお花を活《い》けてくるわね」
お母さんはそう言って病室を出ていった。にこにこしてはいるけど、心配と不安でいっぱいだろうな。
〈ごめんな、お母さん。もっと心配かけちまうかもしれない〉
俺は心の中で詫《わ》びた。
お母さんが出ていくのと入《い》れ替《か》わりに、ドアの陰《かげ》から田代がひょっこり顔を見せた。
「稲葉ぁ」
「田代」
田代はその場で、三浦にちょっと頭を下げた。
「屋上でケータイしてくる」
「雨降ってんのにか?」
「だって、ここでしちゃダメなんでしょ? ここ七階だから、屋上へ行ったほうが早いから」
田代は、またちょっと頭を下げてから行った。
三浦の顔色が変わっていた。
真っ青、というよりはドス黒い。その中で目だけが爛々《らんらん》と光っている。身体は小刻みに震《ふる》え、唇《くちびる》が何かをつぶやくように動いていた。
俺は、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。
やがて、三浦は極力|抑《おさ》えた声で言った。
「稲葉……。一階の売店で煙草《たばこ》を買ってきてくれ……。マイルドセブンを一箱……。金は……そこの引き出しに……小銭入《こぜにい》れがある……」
「あ、はい」
俺は小銭入れを持って病室を出た。そして、柱の陰《かげ》に身を隠《かく》した。
三浦は、すぐに病室から出てきた。あたりを確かめようともせず、まさに何かに憑かれた[#「まさに何かに憑かれた」に傍点]ように、引っ張られるように屋上へ駆《か》け上《あ》がってゆく。俺はその後をつけた。
霧《きり》のような小雨《こさめ》が降っていた。
低く垂れこめた灰色の雲が、すぐそこに迫《せま》っていた。
息のつまるような蒸《む》し暑《あつ》さと、まとわりつく湿気《しっけ》。悪い夢の中のような景色。
屋上には、もちろん誰《だれ》もいなかった。ポツンと、赤い傘《かさ》を差した田代が立っているだけだ。
三浦は、屋上への出口に立って田代を睨《にら》みつけていた。身体の震《ふる》えがだんだんと増してゆく。汗《あせ》が吹《ふ》き出《だ》し、目がギョロギョロと動いた。
「女め……」
それは、三浦の声のようで三浦の声じゃなかった。
「女めぇええ……」
怒《いか》りと苦しみと混乱とが渦巻《うずま》く音が、轟々《ごうごう》と聞こえてくるようだった。
三浦にだって、自分の状態が普通《ふつう》じゃないという自覚はまだある。だが心の中の、あいつ[#「あいつ」に傍点]と引き合う苦しみや悲しみや怨《うら》みが理性を凌駕《りょうが》する。正常な自分がねじくれてゆく軋《きし》み。ギシギシと、バキバキと音をたてて崩《くず》れてゆく自分。その恐怖《きょうふ》に耐《た》え切《き》れず、理性は放《ほう》り出《だ》されてしまうのだ。
「殺してやる……。殺してやるぞ!」
三浦が、ダッと駆《か》け出《だ》した。田代に向かって突進《とっしん》してゆく。
「女はみんな殺してやる!!」
三浦は田代につかみかかり、押《お》し倒《たお》した。その細い首を絞《し》めながら、頭をコンクリの床《ゆか》にガンガンと打ちつける。
「ふざけやがって! ふざけやがって! 何様だと思ってやがんだ、ブタめ!! メスブタめええ!!」
まさに、獣《けもの》としか言いようのないその姿から、蒸気のように黒いモノが立ち上った。
「女はみんな死ねえぇ―――っ!!」
三浦がひときわ高々と吠《ほ》えたその瞬間《しゅんかん》、首を絞め上げられてぽっかりとあいた田代の大きな口の中へ、ザ―――ッと黒いモノが吸いこまれていった。
「お……! お、お、お……!!」
三浦は、まるで「力」を吸い取られているようだった。黒いモノが残らず田代の口へ消え去ると、ガクンと倒《たお》れこんだ。
その瞬間《しゅんかん》、田代の姿は一瞬にして、一枚の白い紙切れに変化した。俺は、全身にワアッと鳥肌《とりはだ》が立った。紙は人形《ひとがた》をしていた。
「これが……式鬼神《しきがみ》の術!!」
すると、いつの間にかそばに来ていた秋音ちゃんが、その紙を気合いもろとも踏《ふ》んづけた。
「オンアビラウンケンソワカ!!」
ドオン!! と、紙を踏んだ衝撃《しょうげき》がコンクリを震《ふる》わせた。
「うおぉっ!!」
いくらなんでもプロレスラーでもあるまいし、秋音ちゃんの足にこんな力があるわけがない。これはきっと「霊力《れいりょく》」の衝撃なんだ。
「踏む≠ニいうことはね、魔封《まふう》じの法の一つなの。これでもう、あいつ[#「あいつ」に傍点]はここから出られないわ」
秋音ちゃんは、人形をつまみあげた。
「なるほど、なるほど。より大きな虚[#「大きな虚」に傍点]に吸いこまれてしまったのですな」
胸ポケットから顔を出したフールが言った。
「そういうこと。あとはこれを藤之《ふじゆき》先生に処分してもらうだけ」
藤之先生とは、秋音ちゃんが今師事している霊能力《れいのうりょく》のお師匠《ししょう》さんで、月野木《つきのき》病院の妖怪《ようかい》担当の医師である。この、田代を模《かたど》った式鬼神《しきがみ》も藤之先生製作のものなんだ。
「どこからどう見たって生きた田代だった! すげえ……!!」
いつもながら、高位の術師の業《わざ》ってやつには冷《ひ》や汗《あせ》が出る。
「う……う」
「三浦先生」
俺と秋音ちゃんは、三浦を抱《だ》き起《お》こした。三浦はすっかり憔悴《しょうすい》しきっていた。
秋音ちゃんは静かな声で言った。
「三浦先生。全部終わりました。いろいろ混乱されてると思いますが、もう全部忘れていいんです。早く元気になって、仕事に復帰してください」
秋音ちゃんの言葉は、いつもと同じにおだやかで乾《かわ》いていた。そこには「事情を知っている者の優越《ゆうえつ》」も、三浦への「哀《あわ》れみ」もない。しかし、三浦は秋音ちゃんをジロリと見返した。その表情は、今まで見たこともないものだった。
「なんだよ……。何が全部忘れて、だよ。簡単に言うな!」
泣きそうな声で、訴《うった》えるように三浦は叫《さけ》んだ。
「俺がどんな思いをしたか知らないくせに! 俺は……俺は……あんな目にあうために勉強してきたんじゃない!!」
雨に濡《ぬ》れた髪《かみ》が顔に張りついて、やつれた顔がいっそうみじめったらしかった。
「俺は悪くないぞ! 俺はいつでも優秀《ゆうしゅう》だったんだ! みんなに支持されてきたんだ! それを、あのガキどもがメチャクチャにしたんだ!」
そうか―――。
三浦にとっちゃ、「初めての挫折《ざせつ》」だったんだ。
プライドや自信がすごかったぶん、反動も大きかったんだな。
「なんで俺が、あんな目にあわなきゃならないんだ。悪いのは向こうだろ!? 何が、先生のやり方にはついていけないだよ! お前らの言うことを誰《だれ》が聞くもんか! ふざけんなあ!!」
三浦の絶叫《ぜっきょう》は、血を吐《は》くようだった。抑《おさ》えていたものを一気に吐き出す感じだ。本来なら、誰《だれ》にも見せない心の闇《やみ》。
「言ってることがムチャクチャだぜ、先生。今のあんたは、まるっきりガキが駄々《だだ》こねてるみたいだよ」
三浦は、愕然《がくぜん》とした目で俺を見た。
「……何を言ってるんだ、稲葉。俺が子どもなわけないだろう? 俺はちゃんとした大人だよ」
「はあ?」
今度は俺が愕然とした。
「あんた……自分のこと、まるでわかってねぇのな!?」
画家の言葉が思い出された。
自分を作ることができなかった奴《やつ》。
世界には自分一人。あとは全部|飾《かざ》り。そんな自分を自覚すらできない奴。
「峰女の言い分を一度だって聞いてやったことがあんのかよ。奴らの価値観と折り合おうとしたことがあんのかよ!」
つい頭に血が昇《のぼ》りそうになった俺を、秋音ちゃんが制した。
「さあ―――、……もう帰るわよ、夕士くん」
秋音ちゃんは俺の手を引いて、スタスタとその場から離《はな》れた。
それを呆然《ぼうぜん》と見ながら、三浦は雨に打たれていた。重苦しい灰色の風景の中に、みじめな濡《ぬ》れネズミのように座《すわ》り込《こ》んだ姿は、その心の風景そのもののようだった。
「何が悪いんだよ……! わかんねぇよ!! 俺は一生懸命《いっしょうけんめい》やったんだよ!! 一生懸命やったんだ!!」
その叫《さけ》びは、じとじと降る雨に吸いこまれて、どこにも響《ひび》かなかった。
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俺は未来へ行く
事件は解決したのに、なんとも嫌《いや》な気分でアパートに帰ってきた俺たちを待っていたのは、龍さんだった。
「おかえり。うまくいったかい?」
もう何もかもお見通しって感じで微笑《ほほえ》まれたら、なんだか身体中から毒気が抜《ぬ》ける感じがした。
「ウス」
俺は笑った。
そうだよ。イドの怪物《かいぶつ》が抜けたからといって、三浦が「いい人」になるわけじゃないんだ。俺は勘違《かんちが》いをしていた。三浦は、もとの三浦に戻《もど》っただけだ。甘《あま》ったれで、何の自覚もないダメな大人でも、あれが三浦なんだ。それを否定はできないよな。
「お疲《つか》れさん」
龍さんにぽんと肩《かた》を叩《たた》かれると、報《むく》われた気がした。秋音ちゃんなんかは、龍さんがいただけでご機嫌《きげん》だ。さっきまでのことは、まるでなかったかのようだ。
「さっさと風呂《ふろ》へ入ってこい、二人とも。武士の情けで食うのは待っててやる」
画家がそう言いながら見せたものは、桐《きり》の箱にみっしりとつまったウニだった。
「ぎゃ〜〜〜! おいしそ〜〜〜!!」
「で、でけえ! それに光ってる!!」
「獲《と》れたてをもらってきたんだ。たっぷりあるから、今夜はウニづくしだよ」
と、龍さんが笑った。
「でも、俺、ウニってあんまり……」
「それは、本当にうまいウニを食べていないだけ。いいから、これを試《ため》してごらん」
大急ぎで風呂をすませ、ウニづくしをいただく。
龍さんの言ったとおりだった。
「あっ、甘《あめ》ぇ!?」
濃厚《のうこう》な甘《あま》さが、どわ〜んという感じで口に広がる。その後に、磯《いそ》の香《かお》りがふんわりと鼻に抜《ぬ》けてゆく。
「るり子さん! ウニ丼《どん》おかわり―――っ!!」
秋音ちゃんは山盛りのウニをのせたウニ丼を、早くも二|杯目《はいめ》だ。詩人や画家、龍さんや山田さんたち大人は、イカソーメンの生ウニのせと、焼きウニで日本酒をガバガバ飲んでいる。
俺はウニ丼の次にウニトロ丼を食った。そのこってりとした味の合間に、るり子さん特製の鳥ささ身とところてんの酢《す》の物《もの》をつまむと、口の中がなんともサッパリとした。このコントラストに身体中がジ〜ンとする。仕上げには、ウニのだし茶漬《ちゃづ》けを。
「あーっ、日本人でよかった!」
と、古本屋なら言うところだな。今日いないことをさぞ悔《くや》しがるだろう。
寝る前に、長谷に電話した。
「全部、無事終わったぜ」
俺はおだやかに話すことができた。
「そうか」
長谷の声も静かだった。
「詳《くわ》しい話を聞きにいくよ」
「ああ……うん。じゃ、土曜日に」
その翌日。金曜日のことだった。
朝、教室へ入って席につくと、机の中にメモが一通入っていた。
『昼休みに美術室へ来い』
「……?」
不良どもの呼び出しかと思ったが、「美術室」ってとこが妙《みょう》な気もした。確かに昼間は誰《だれ》も来ない場所だけど、一発やりあおうかっていうところじゃない。
とにかく行くだけ行ってみようと思い、昼飯を食う前に美術室へ行った。
理科室や音楽室が並んだ棟《とう》の一番|奥《おく》。校内のざわめきも、どこか遠くに聞こえる。
美術室は、石膏《せっこう》の胸像やキャンバスや美術部員たちのロッカーなんかが並んでたりで、けっこうごちゃごちゃしている。しかし、そこには誰《だれ》もいなかった。
「まだ来てないのか? 呼び出しといて待たせるなんて、いい度胸してるよな」
俺は部屋の奥《おく》で描《か》きかけの絵を見ていた。すると、首筋にピリピリとした気配を感じた。
「!!」
振《ふ》り返《かえ》ったそこに、三浦がいた。
ダッ!! と、突《つ》っ込《こ》んできた身体をかわすと、三浦はキャンバスにぶつかった。俺が見ていた絵に、ざっくりと大穴があいている。三浦は、手に出刃包丁《でばぼうちょう》を握《にぎ》っていたんだ。
「て……てめえ、何考えてやがる!」
俺を見た三浦の顔は、なんとも言いがたい表情をしていた。怒《おこ》っているような泣きそうな、もうどうしようもこうしようもない表情。まるっきり、病院の屋上で田代を狙《ねら》っていた時の顔そのままだった。そこに―――「邪悪《じゃあく》」がないだけで。
「わかってるよ……わかってるよ! でも、もうどうしようもないんだよ! 気がおさまらないんだよ!!」
包丁を持つ手がブルブルと震《ふる》えていた。涙《なみだ》をあふれさせていた。
「このまま、何もかもブチ壊《こわ》しちまったほうがいい気がするんだ。そうだろ? お前もそう思うだろ?」
「バカか、てめえ! そりゃ逃《に》げてるだけだろうが! てめえも大人だっていうんなら、逃げないで向き合えよ!!」
「逃げてなんかないよ。なんでそんなこと言うんだ? わかんないよ」
三浦は泣きながら笑った。
ダメだ、こいつは―――!! 完全にイカレてる。
再び突《つ》っこんできた三浦をかわして、出刃《でば》を持った腕《うで》をつかんだ。しかし、三浦はものすごい力で俺を振《ふ》り払《はら》った。
「うおっ!」
俺はロッカーにぶつかって床《ゆか》に倒《たお》れた。三浦は、迷いもなく出刃《でば》を振《ふ》りかざす。
「馬鹿野郎《ばかやろう》が!!」
「プチ」を開く。
「ブロンディ―――ズ!!」
ドガシャ――――――ンン!!
「何、今の音っ!?」
「何? 地震《じしん》??」
教室にいる田代たちもびっくりしたらしいが、美術室の下の奴《やつ》らはもっとびっくりしただろう。そこは、職員室だった。ガラスが全部割れ、高いところに置いていたものが全部落ち、使用中だったパソコンのデータが飛んだ。すいません。
「ゴイエレメス!」
俺は、力持ちの魔人形《まにんぎょう》ゴイエレメスを呼び出して、倒《たお》れたロッカーやらイーゼルやら、降ってきた胸像やらガラスの破片《はへん》やらの下から助け出してもらった。
美術室は、爆撃《ばくげき》を受けたようにメチャメチャだった。ブロンディーズを使うたびにこれじゃあダメだなあと思った。
砕《くだ》けた白い胸像の上に、血がパタパタと落ちた。顔をぬぐうと、ベッタリと血がついてきた。どうやら頭を切ったらしい。左肩《ひだりかた》も激痛に痺《しび》れていた。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか、ご主人様?」
フールが胸ポケットから顔を出した。
「左肩が外れやがった、クソッ!」
同じくいろんな物の下敷《したじ》きになっていた三浦も、ゴイエレメスに助けてもらった。完全に目をまわしていたものの、三浦はその手にしっかりと出刃包丁《でばぼうちょう》を握《にぎ》りしめていた。
俺は、またすごく迷ったが、今度はこのままにしておこうと思った。
「あんたは、ちゃんとした病気[#「ちゃんとした病気」に傍点]だ。病院で治してもらってこいよ……」
ガキが駄々《だだ》をこねたおして、疲《つか》れて眠《ねむ》っているような三浦の顔を見下ろす。
「誰《だれ》だって、いろんな失敗や挫折《ざせつ》をするんだよ。でも、そこで全部投げ出してどうするんだ? 何もなかったことにするのか? そしたら、また同じ失敗をするんじゃねぇか。そんなのバカみてぇじゃん」
失敗を、自分の非を認めるのは難しい。それを改善することは、なお難しい。
でも、ジリジリした歩みでもいいから俺は前へ進みたい。自分は悪くないからなんて、簡単に後戻《あともど》りするなんて絶対ごめんだ。
俺は―――未来へ行くんだ。
パトカーと救急車がわんさか来た。
警察は「これで三度目だよ」と言いつつ、突然《とつぜん》の爆発音《ばくはつおん》の原因を探《さぐ》る一方、美術室に倒《たお》れていた三浦が、出刃包丁《でばぼうちょう》を握《にぎ》りしめていたことに大いに注目した。そばにいた俺は、
「三浦先生に襲《おそ》われました」
と、証言した。俺たちは警察に付《つ》き添《そ》われて病院へ運ばれた。
俺は右のこめかみを切っていて五針|縫《ぬ》い、外れた左肩《ひだりかた》はしばらく動かさないようにと固定された。
治療後《ちりょうご》に、簡単な事情|聴取《ちょうしゅ》を受けた。
「廊下《ろうか》を歩いていたら、突然《とつぜん》三浦先生が包丁を持って現れたので、美術室まで逃《に》げていって、その時あの爆発音《ばくはつおん》が起こりました」
警察は、これで納得《なっとく》するだろう。
病院を出る時、ちらっと三浦の様子が見えた。警官を相手に、泣きながら白峰でのことをグチっていた。警察には、わけのわからないたわ言に聞こえるだろうな。
担任の早坂《はやさか》先生が、俺の荷物を持ってきてくれていた。アパートの近くまで車で送ってくれた。
陽《ひ》はすっかり傾《かたむ》いて、曇《くも》り空《ぞら》の間から夕陽がきらめいていた。
なんだかそれを、ぼんやり眺《なが》めてしまった。
これで、本当に事件は終わったんだな。
俺は、三浦を助けられたんだろうか?
ふと気づくと、胸ポケットからフールが見上げていた。
「……なんだよ」
「イエ、別に」
と、おおげさに肩《かた》をすくめる。
「あのなあ、フール。あれなあ、ブロンディーズはなんとかなんねぇかな? もっとこう……効果的にというか、集束させてというか」
するとフールは、実に白々しく困ってみせた。
「それはもぉ、ご主人様がそのように力をコントロールなさる術《すべ》を身につけていただくしか、わたくしどもとしては如何《いかん》ともしがたく。ハイ」
「どうしたの、夕士クン! そのケガ??」
玄関《げんかん》で俺を見て、詩人が叫《さけ》んだ。
居間でアパートのみんなに、今日起きたことを話した。秋音ちゃんはちょっと残念そうに「そっかぁ」と言った。そうだよな。三浦がごくごく普通《ふつう》の平穏《へいおん》な生活に戻《もど》れる手助けができると思ったのになあ。
だが他の大人たちは、別に大した感想もなく「ふ〜ん」という感じだった。
「俺は……三浦を助けられたのかな」
と、つぶやいてみた。
「救えねぇもんもあるさ」
画家はクールに言い放つ。
「すぐに答えが出ないこともある」
龍さんの言葉に、俺は顔を上げた。
龍さんは笑っていた。つられて俺も笑った。
「じゃあ、夕士クン、お昼ご飯食べてないの?」
詩人に言われて、俺は腹ペコなのを思い出した。
「そーなんスよ。飯食ってから行きゃあよかった!」
俺は弁当箱を開いてみた。しかし、そこにるり子さんのウニランチスペシャルはなかった。
「何っ?」
きれいに洗われた弁当箱の中に代わりに入っていたものは、キャンディ数個とピンク色のメモ。
『お弁当は代わりにいただきました。ごちそうサマ ウッチー』
『メッチャクチャおいしかった〜ん さくら』
『キャンディはお見舞《みま》いよ。お大事に〜〜〜! 田』
「あいつら〜〜〜〜っっ!!」
俺をのぞいた全員が大爆笑《だいばくしょう》。これじゃあ踏《ふ》んだり蹴《け》ったりだぜ。まったく!
そして、それは翌日も続いた。
ケガをした俺を見て真っ青になった長谷だが、詩人から話を聞いて一発でキレたのだ。
「てめえは! あぶなくないと言っただろうが! それがなんだ、このザマは―――っ!!」
俺は長谷に往復ビンタを喰《く》らった(ケガ人なのに)。
それから長谷は、秋音ちゃんの前に俺をひきずっていくと、床《ゆか》に頭をすりつけて言った。
「秋音さん! 明日からこいつの修行《しゅぎょう》をレベルアップしてください!! 倍で!! いや、三倍でも四倍でもっ!!」
顔を腫《は》らした俺を見て、画家と詩人は大笑いした。
「わはははは! お前、クリにそっくりだぜ!!」
「イタイ愛情だねー。いろんな意味で」
確かにまあ、今のままじゃブロンディーズは使えない。自分が使った術で自分があぶない目にあってりゃ世話ないよな。
せめてそんなことにならないよう、修行《しゅぎょう》はレベルアップされることになった。いやはや。
傷もすっかり治った後日。
俺はバイトからの帰り、目があったチンピラ数人に喧嘩《けんか》を売られた。
この前の不良どもと向き合った時と同じ状況《じょうきょう》。細い裏路地で睨《にら》み合《あ》う。
「いかがいたします、ご主人様? ブロンディーズではなく何か他のものをお使いになりますか? ヒポグリフなどいかがでしょう?」
と、フールが胸元《むなもと》から話しかけてきた。
俺はちょっと首をかしげてから言った。
「ズラかるぜ、フール」
フールは嬉《うれ》しそうに、目をくるんと動かした。
「ズラかりましょう!」
売られた喧嘩《けんか》はたいがい買ってきた俺だが、初めて自分からその場を逃《に》げ出《だ》す足取りはやたら軽くて、思わず笑えてきた。
メチャメチャに壊《こわ》れた美術室や窓ガラスの修理に、ン百万もかかるらしい。
申し訳ない。
社会人になったら、チビチビ寄付して返したいと思います。ハイ。それはもう。
[#地から1字上げ]第四巻(二〇〇五年春刊行予定)につづく
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香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。『妖怪アパートの幽雅な日常@』(講談社)で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。その他の著書に「地獄堂霊界通信」シリーズや「エル・シオン」シリーズ(いずれもポプラ社)など多数。大阪府在住。
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
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底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》B
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2004年10月8日 第1刷発行
2004年12月8日 第2刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
鯛茶漬《たいちゃづけ》け→ 鯛茶漬《たいちゃづ》け
置き換え文字
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89