妖怪アパートの幽雅な日常A
香月日輪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|畳《じょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ここがそんな場所[#「そんな場所」に傍点]
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〈帯〉
活字力全開の人気シリーズ
「なんなりとご命令を、ご主人様」
封印の解かれた魔道書から現れる22匹の妖魔たち。
自らの秘めた力に気づいた夕士と親友・長谷。
――――――運命の幕あけ!
〈カバー〉
「明日から始めようね」
「は? なにを?」
「霊力アップのトレーニンクよ。春休みの間は集中特訓ね!」
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妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常A
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常A
香月日輪
[#改ページ]
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春がきた
コツコツ、コツコツと、微《かす》かな音がして俺《おれ》は目を覚ました。
六|畳《じょう》の部屋、壁《かべ》一面の本棚《ほんだな》、そして、窓の上部に嵌《は》めこまれたステンドグラスを通った色鮮《いろあざ》やかな光が、カーテンを通して布団《ふとん》へ落ちている。
俺は、がばっと跳《は》ね起《お》きた。心臓がドキドキしている。
「そうだ……帰ってきたんだ……!」
なんともいえない気持ちがこみあげてくる。すると、また窓でコツコツと音がした。カーテンを開けてみると、窓辺には三羽のきれいな瑠璃色《るりいろ》の小鳥がとまっていた。窓を開けると、小鳥たちは声を揃《そろ》えて言った。
「おかえりなさい!」
「……ハハ!」
一年前、まさかここがそんな場所[#「そんな場所」に傍点]だと想像もしてなくて、大家さんの姿を見てひっくり返った翌朝、変な夢を見たと思いこもうとした俺に、この小鳥たちは「おはよう」と声をかけてきたのだ。
そうだった。あれから一年がたったのだ。そして、俺は帰ってきたんだ。この妖怪《ようかい》アパートに!
「ただいま!」
俺は小鳥たちに、そしてこの妖怪アパートに巣食っているすべての物《もの》の怪《け》たちに挨拶《あいさつ》した。
ただいま! 帰ってきたかった、ここに。帰ってこられて嬉《うれ》しいよ。
俺は、稲葉夕士《いなばゆうし》。条東商業高校の二年生になる。
両親を亡《な》くし、親戚《しんせき》の家で中学三年間を過ごし、学生寮《がくせいりょう》のある条東商に合格できて喜んだのもつかの間、その寮が火事で全焼《ぜんしょう》。どうしても親戚の家を出たかった俺は、アパートを探し、なにかに導かれるように、ここ「寿荘《ことぶきそう》」へやってきた。
住宅街の中にあって異様ともいえる洋風建築の、古い古い二階建てアパート寿荘は、その外観からでも充分《じゅうぶん》「妖怪《ようかい》アパート」の称号《しょうごう》を得るにふさわしいのだが(実際、近所では「妖怪アパート」の名で通っている。寿荘といっても誰《だれ》も知らないんじゃないかな?)、実は本当に本物の妖怪の巣だったのだ。
「大家さん」は、黒坊主《くろぼうず》。大きな黒い卵のような体を白い着物にくるんで、その図体《ずうたい》に似つかわしくない小さい小さい手に、でっかい大福帳を持って現れる。
住人の食事の世話を一手に引き受ける賄《まかな》いは、手首だけの幽霊《ゆうれい》の「るり子さん」。人間だった頃《ころ》、小料理屋を持つことが夢だった彼女《かのじょ》の作る食事は、もうなんというか絶品という他ない。
ダイナマイトスーパーモデルのような容姿の「まり子さん」は、成仏《じょうぶつ》するのをやめて「妖怪|託児所《たくじしょ》」で保母として働いている幽霊。幽霊や妖怪の子専門の「託児所」があるらしい。妖怪アパートがあるんだから、妖怪託児所があってもいいだろう。なにせ妖怪専門の「神霊科《しんれいか》」がある病院だってあるんだからな。まだ聞いたことがないけど、妖怪の子どもたちが通う「妖怪学校」も絶対あるぞ。
妖怪のくせに人間として、大手|化粧品《けしょうひん》会社で経理課長を務めているのは「佐藤さん」。
クリとシロは、幽霊《ゆうれい》の子どもと犬。実母から虐待《ぎゃくたい》を受けて死んだクリは、このアパートで皆《みな》に可愛《かわい》がられながら、成仏《じょうぶつ》するのを待っている。いつもクリにピッタリと寄《よ》り添《そ》うシロは、クリの「育ての母」。時々やってくるクリのもう一人の育ての母の「茜《あかね》さん」は、山神に仕える霊獣《れいじゅう》、二本足で立って歩く狼《おおかみ》だ。
これだけ並べてみてもすごいメンツなのに、アパートにはさらに、幽霊だか妖怪《ようかい》だかわからない正体不明の面々がいる。
いつ見ても、どこかを掃除《そうじ》してくれている「鈴木さん」、庭の手入れが趣味《しゅみ》の「山田さん」、玄関《げんかん》で送《おく》り迎《むか》えをしてくれる「華子《はなこ》さん」、居間でいつもマージャンをしている鬼《おに》のような奴《やつ》ら。食堂にじっと座《すわ》っているだけのじーさん、他にも「這《は》うもの」「漂《ただよ》うもの」「影《かげ》のようなもの」「光るもの」などなど、実にバラエティーにとんでいる。
では、人間はいないのかというと。いるんだな、これが。しかも、妖怪たちに負けない猛者《もさ》が揃《そろ》っているんだ。
まずは、詩人で童話作家の一色黎明《いっしきれいめい》。もう十年以上このアパートに住んでいる。子どものラクガキのようにすっとぼけた表情から紡《つむ》ぎだされる含蓄《がんちく》のある言葉には、時折ハッとさせられる。さすが、難解で高尚《こうしょう》な詩と耽美《たんび》な大人向けの童話をかいて、一部に偏執狂的《へんしつきょうてき》に熱狂的なファンを持つ異色作家だ。
この詩人の古い知り合い、深瀬明《ふかせあきら》。ポップでパワフルな前衛アーティストであり、一見暴走族かと見まがうバイク乗りで、相棒の狼犬《おおかみけん》シガーとタンデムで旅する放浪《ほうろう》画家であり、個展会場とかでよく暴れるパフォーマーでもある(それを楽しみで見に来るファンもいる)。
地元関西を離《はな》れて、女の子の一人暮らしをしている久賀秋音《くがあきね》ちゃん。鷹《たか》ノ台《だい》高校三年生になる。彼女《かのじょ》は「除霊師《じょれいし》」の卵。生まれもった霊能力を磨《みが》くべく、地元の修行《しゅぎょう》道場を経て、鷹ノ台にある月野木《つきのき》病院の「神霊科《しんれいか》」で丁稚奉公中《でっちぼうこうちゅう》。昼は高校で勉強し、夜はこの妖怪《ようかい》病院で働き、ちょっとだけ眠《ねむ》り、人の三倍食うエネルギッシュな女の子である。
謎《なぞ》の霊能力者、龍《りゅう》さん。長身|痩躯《そうく》。長い黒髪《くろかみ》を束ね、丈《たけ》の長い黒のジャケットと黒のパンツに身を包んだ、一見芸能界かファッション界の人間かと思える美男子だ。彼《かれ》がアパートに現れると、騒《さわ》がしかった物《もの》の怪《け》たちがいっせいに静まり返り、まるでモーゼの十戒《じっかい》みたいにバアーッと道を開けたりするから、これが「高位の霊能力者」というものなのかと感心させられる。でも、詩人|曰《いわ》く「たぶん、人だよ」のとおり、謎が多すぎて果たして本当に人間なのかどうか、怪《あや》しいところもある。
怪しいといえば「骨董屋《こっとうや》」。灰色の眼に薄《うす》い髭《ひげ》、日本語を流暢《りゅうちょう》にあやつる外人(国籍《こくせき》不明)なのだがその実態は、次元を行き来し、古今東西のお宝を売買する怪《あや》しい商売人である。いつも背の低い「召《め》し使《つか》い」を五、六人引き連れて、どこからともなく現れて、いつの間にかいなくなり、「人魚の涙《なみだ》」だの「ユニコーンの角」だのを売りつけにくる。とても人間には思えないんだが、人間らしいんだな。
どうだ? なんて「妖怪《ようかい》アパート」の住人にふさわしい面々なんだと思うだろう?
俺はこのモノたちと人たちに、それまでの俺の常識やらなにやら全部をぶっ壊《こわ》してもらった。両親を亡《な》くして、親戚《しんせき》の家でちぢこまって暮らしてきて、世間の厳しさ、現実の厳しさに片意地はって立ち向かおうとしていた俺の、すっかり狭《せば》まった世界の壁《かべ》を打《う》ち砕《くだ》き、世界はもっともっと広いんだと、もっと広い目で自分の未来を、可能性をみつめろと教えてくれた。
一度は「普通《ふつう》の人間」として「普通の生活」をしたいとここを出た俺だけど、「普通ってなんだ?」と考えた時、俺はここへ戻《もど》らなきゃと思ったんだ。「こちら側」から、人間の世界を見たいと思ったんだ。
去年の九月にここを出て半年。春休みに入るやいなや、俺はすっ飛ぶように帰ってきた。みんなは、まるで俺がそうするのを知っていたかのように歓迎《かんげい》してくれた。
「昨夜《ゆうべ》のるり子さんの手料理は……最高にうまかったな〜」
今日からまた毎日、るり子さんの夢のつまった料理が食べられるんだ。そう思ったとたん、腹が鳴った。
窓からは、妖怪《ようかい》アパートの前庭が見える。満開の桜がきれいだ。この庭の桜は次から次へいろんな種類の桜が咲《さ》いては散り、咲いては散り、一月ほども楽しめる。桜の木は一本しかないんだけどな。
アパートの敷地《しきち》は、特殊《とくしゅ》な結界の中にあって、いろんな次元とつながりあっているという。地下にある天然|洞窟《どうくつ》温泉も、別の次元にあるんだそうだ。そうだろうなあ。こんな住宅街のド真ん中に地下の洞窟温泉なんてありえない。
アパートの中も、俺の知らない部屋がまだある。そして、アパートの住人も、まだまだ俺の知らない人やモノがいるらしい。俺は今、そのモノや人と会うのを楽しみにしているんだ。これから先、どんなことが起こるのか楽しみでしょうがないんだ。
「だけどその前に、朝飯だ。とりあえず朝飯!」
今日も、廊下《ろうか》を熱心に磨《みが》く鈴木さんがいた。
「はよっス!」
俺が挨拶《あいさつ》すると、鈴木さんはおたふくのような目元をさらに下げてペコリとお辞儀《じぎ》する。
洗面所へ行くと、紺《こん》のスーツ姿の佐藤さんが身支度《みじたく》を調《ととの》えているところだった。
「おはよう、夕士くん。春休みだってのに早いねえ」
「うはようっス! るり子さんの朝飯を抜《ぬ》くわけにはいかねぇっスよ」
「るり子ちゃんなら、いつでもあったかい飯を用意してくれるサ」
大手|化粧品《けしょうひん》メーカー「ソワール化粧品」勤続二十年の中堅《ちゅうけん》課長佐藤さんは、細い目で笑った。佐藤さんは、人間としてあちこちの会社を渡《わた》り歩《ある》いている。「人間として生きること」が好きなのだ。
食堂には、うまそうな匂《にお》いが立ちこめていた。詩人と、丸っこい体の山田さんが、朝飯を食っていた。
「うはよーっス」
「おはよう、夕士くん。久しぶりのアパートでのお目覚めはどう?」
「ゆうべは嬉《うれ》しくて興奮して、すぐには眠《ねむ》れなかったっス」
「おおげさだなあ」
皆《みな》笑った。ふと足元に気配を感じて見れば、クリとシロが並んで俺を見上げていた。俺は、クリを抱《だ》き上《あ》げた。
「久しぶりだな、クリ。元気だったか?」
幽霊《ゆうれい》に対して元気もなにもないけど、俺は思わずそう言ってしまった。クリの頭をなでて、短く柔《やわ》らかい毛の感触《かんしょく》を楽しむ。ぷっくりとしたほっぺはピンクで、くっきりとした二重《ふたえ》のクリクリの目は(だから詩人がクリと名付けた)、じっと俺を見つめる。クリは口がきけないけど、俺を歓迎《かんげい》してくれているような気がする。その証拠《しょうこ》に、俺の顔をしきりに見つめ続けている。
「一緒《いっしょ》に朝飯食おうぜ、な」
俺はクリを抱っこして、詩人の隣《となり》にすわった。皆がニヤニヤと俺を見るので、ちょっと照れくさい。
さて。半年ぶりのるり子さんの朝飯はというと。
鮎《あゆ》の干物《ひもの》に、出し巻き、若竹のやわらか煮《に》、春キャベツの肉巻きに、白魚の味噌汁《みそしる》。漬物《つけもの》はキャベツのぬか漬け。もちろん飯は、炊《た》き立《た》てのピカピカだ。
「うわあ……なんつーか、春っスねえ!」
「春だよね〜。この若竹のやわらかいこと!」
このアパートには、海や山の妖怪《ようかい》たちから、さまざまな旬《しゅん》の食材が届けられる。畑を耕したり、漁をして暮らしている妖怪たちがけっこういるんだそうだ。人間にまじって、市場でセリに参加してたりするかもしれない。
「うまいっス! るり子さん!!」
筍《たけのこ》とキャベツの新鮮さにしびれる。昨夜《ゆうべ》の白魚の吸い物もうまかったけど、味噌汁《みそしる》もいい! 春の香《かお》りが口いっぱいに広がる。丁寧《ていねい》にダシをとった上品で奥《おく》の深い味付けは、るり子さんの真骨頂だ。
手首だけのるり子さんが、厨房《ちゅうぼう》の中でもじもじと指をからませた。るり子さんは、自分の作ったものをうまいうまいと言ってもらえるのがなによりの喜びなんだ。その夢を果たせず死んだからだ。
「俺、鮎《あゆ》の干物《ひもの》なんて初めて食ったっスよ。ぜんぜん臭《くさ》くないスね」
「全部食べちゃわないで半身を残しといて、後でお茶漬《ちゃづ》けにするといいヨ」
「ああっ、それいいっスね!」
「も〜、このキャベツのぬか漬けがサイコーにうまくて」
なにもかもあんまりうまいんで、ついガツガツと夢中になってて、クリのことをすっかり忘れていた。俺は出し巻きを一切れ、クリに食べさせてやった。クリは幽霊《ゆうれい》だから、食い物を食っても身にならないという。でもやっぱり、うまいものはうまいと感じるらしい。クリは無言で、もっとくれと催促《さいそく》した。
「ただいまぁ―――! おはよ―――っ! お腹《なか》すいた―――!!」
一晩中|妖怪《ようかい》病院で働いて(なにをしているのかは知らないが)、三時間だけ寝《ね》て、秋音ちゃんが帰ってきた。それでもメチャクチャ元気だ。
「イヤ――ッ、このキャベツの肉巻き、スッゴイおいしい――!!」
人の三倍食べる秋音ちゃんは、皿ごと食いそうな勢いだ。朝から大盛り飯を三|杯《ばい》平らげる女子高生はこの人ぐらいだろう(しかもその後、デザートにバカでかアンパンを食ったりする)。
「あいかわらず男らしい食欲だな、秋音さん」
「夕士くんこそ、もっと食べなきゃダメよ。ちょっと見ない間に痩《や》せちゃってさ」
「どこの飯も、ここの飯にはかなわないから」
俺は苦笑いした。このアパートを出ていた半年間。いろいろつらいこともあった。でもそのことがあったからこそ、俺はここへ戻《もど》ってこられたんだと思う。
「じゃ、おいらそろそろ出勤しま〜す」
書類|鞄《かばん》を小脇《こわき》に、佐藤さんが出てゆく。
「いってらっしゃーい」
俺は鮎茶漬《あゆちゃづ》けを、秋音ちゃんは三|杯《ばい》目の大盛り飯をかきこんでいた。詩人は食後のお茶をすすっていた。山田さんはスポーツ新聞を読んでいた。いつもの、変わらない朝だった。それが嬉《うれ》しかった。
居間の縁側《えんがわ》には桜の花びらがたくさん散っていて、そこに座《すわ》ると桜の香《かお》りがした。空気はまだちょっと冷んやりしているけど、陽射《ひざ》しは暖かで、青空をバックに満開の桜がとてもきれいだった。
丸くなったシロの体を枕《まくら》にして、クリがすやすやと眠《ねむ》っている。マージャンをする鬼《おに》たちも昼間はいなくて、居間はなんだかとても静かだった。縁側に寝《ね》そべると、顔の上へ桜の花びらが落ちてきた。
「ああ……きれいだなあ」
のんびりとこう思える幸せを噛《か》みしめる。そうしてぼんやりと桜を眺《なが》めていると、桜の木から長い黒髪《くろかみ》をたらした着物姿の女が、逆《さか》さ吊《づ》りでずるずると姿を現し、白目をむいてこっちを見た。
「…………」
まったく相変わらずな雰囲気《ふんいき》を満喫《まんきつ》させてくれる。ここには悪いモノはめったに来ないというから、あの女も悪霊《あくりょう》とかじゃないんだろうけど。死体のようにダラリとぶら下がるのはやめてほしいもんだ。
ドッドッドッと、バイクのエンジン音がした。画家が旅行から帰ってきたのだ。俺は、玄関《げんかん》へ飛んでいった。
「明さん!」
「おう、夕士!」
「ただい―――」
ま、と言う前に、俺は画家の愛犬シガーに押《お》し倒《たお》された。狼《おおかみ》の血をひくシガーは、立てば身長百六十ぐらい。体重は五十キロもある。シガーはその図体《ずうたい》で俺を押さえこみ、でっかい舌で顔じゅうをべろべろになめまわしてくれた。
「わかった! わかった、シガー! もういいから!! もういいって!!」
バサバサの茶髪《ちゃぱつ》に黒の革《かわ》のバイクスーツ、胸元《むなもと》に米軍の認識票《にんしきひょう》をジャラジャラさせた、どこからどうみても暴走族みたいな飼い主が、面白《おもしろ》そうに笑った。シガーも、ちゃんと俺を覚えていてくれたんだ。
「おかえり、深瀬〜」
「おう、黎明。土産《みやげ》だ、ホレ!」
「お、地酒〜!?」
「そいつがすげぇうまくてなあ。さっそく一|杯《ぱい》やろうぜ。秋音とお前にはこれだ、夕士!」
画家が投げてよこしたのは、一抱《ひとかか》えもある包み。
「うおっ! 蕎麦《そば》だあ!!」
「そいつが、またうまかった! るり子に料理してもらえ」
「うわ〜、楽しみだ〜!!」
「あー、明さん。おかえり〜」
「秋音さん! 蕎麦、蕎麦!!」
俺たちがワチャワチャと騒《さわ》いでいるところへ、そいつはひょっこりと現れた。
「まいど、ど〜も〜。お久しぶりです〜」
ひょろりとした絣《かすり》の着物姿。腰《こし》には紺《こん》に白く|※[#丸薬、16-1]《薬》と染《そ》め抜《ぬ》かれた前掛《まえか》けをして、こげ茶の風呂敷《ふろしき》に包んだ大きな荷物を背負っている。足元は脚半《きゃはん》に草履《ぞうり》と、えらく昔風の行商人といった出《い》で立《た》ちだ。そして……。
「ああ、薬屋さん。久しぶり〜」
薬屋と呼ばれるその男(?)の顔は……、紺色の布でほっかむり(これもまた古風な)したその顔は……。
「へのへのもへじ……??」
俺は固まってしまった。それはまるで、白い紙に描《か》いた「へのへのもへじ」そのものだったんだ。
「ど〜も、今回はご無沙汰《ぶさた》しちゃって」
「ちょうどよかった。傷薬が切れたとこなんだ〜」
「あ、俺も」
「深瀬さんは、傷薬が減るのが早いですね〜」
薬屋は縁側《えんがわ》へまわると、しょっていた荷物を広げた。それは大きな柳行李《やなぎごうり》だった。
「あ、あたし、龍さんから買ってほしいもの頼《たの》まれてるんだ。メモもってくるね」
秋音ちゃんはそう言って、二階へ上がっていった。
「おや、こちらさん、お初ですね」
へのへのもへじの顔が俺のほうを見た。ヤッパリどう見ても、へのへのもへじだ。
「去年、半年ここにいた子でね。昨日また戻《もど》ってきたの。稲葉夕士くんだよ」
「それはそれは。ここは居心地《いごこち》がいいですものねぇ〜」
「こっちは、薬屋さん。年に一、二回行商しにくるんだ」
「よろしくお願いします〜」
「ド、ドモ」
「ここの薬はよく効くよ〜。胃腸薬とか傷薬とか買っとけば、夕士くん?」
「いやいや、お褒《ほ》めにあずかって恐縮《きょうしゅく》です、一色さん」
そのへのへのもへじは、腰《こし》の低い、実に丁寧《ていねい》な受け答えをした。商売人としては百点満点かもしれないが、だが……。
「顔がひきつってるぞ、夕士。なにか言いたいことがあるんじゃねぇか?」
と、画家が笑いを噛《か》み殺《ころ》しながら言った。
「は……。あの……薬屋さん……」
「はい。なんざんしょ?」
「そ、その……顔……は……お、お面……スか?」
一瞬《いっしゅん》の、妙《みょう》な「間」があって、薬屋は笑った。
「いや、これはお恥《は》ずかしい。そうなんです。お面なんですよ〜」
「あ、やっぱり! なあんだ、そうっスよね! お面スよね!!」
俺たちは大笑いした……が。
「なんで、そんな面をかぶってんだよ!」
とは、訊《き》けなかった。
薬屋がほっかむりをとると、確かにへのへのもへじは「お面」だった。つるっぱげの頭に毛が三本。面と同じくらい紙のように白い肌《はだ》に、妙に細長い首をしている。
「いや〜、このお面ももう古いかなあ〜。なにか新しいのに変えようかなあ〜、やっぱり」
マジに照れたように薬屋はそう言った。ちがう! 問題はそこじゃないだろ!
「アタシは好きだよ〜、それ」
同じように「子どものラクガキのような顔」をした詩人が言った。画家はさっきから、腹を抱《かか》えて笑っていた。
薬屋が売っている薬は、町で見かけるようなものではもちろんなく、いかにも手作りといった感じのものばかりだった。要するに「富山の薬売り」なんだな。
「はい、これが『百足油《むかであぶら》』。傷薬ね。傷に塗《ぬ》ってね〜。これは『王獏《おうばく》』。胃腸薬です〜。一回三|粒《つぶ》。分けて包んであるから白湯《さゆ》で飲んで〜」
とりあえず、俺はお薦《すす》めの二品を買った。どっちも五百円と格安だった。「百足油」は、平たくて丸い銀の缶《かん》に入った黄色っぽい塗り薬で、「王獏」は黒い小さい粒で、三粒ずつ白い半透明《はんとうめい》の紙に包まれていた。詩人が俺に言った。
「これこれ。このパラフィン紙≠ェいいんだよね〜。市販《しはん》の薬とか病院の薬とかじゃ、もうあんまり見かけないよね〜、パラフィン紙。これを破る時の感触《かんしょく》がいいんだよ〜」
「はあ、そういうもんスか」
効きそうといえば、こういう漢方薬っぽい薬のほうが効きそうな感じはする。柳行李《やなぎごうり》の中の薬は、どれも見たこともないようなものばかりだった。瓶入《びんい》りの根っこのようなものとか、なにかが入った変な色の液体とか、なにせパッケージというものがないんだから、どれがなにやらさっぱりわからない。すべてが怪《あや》しい!
「これはね〜『熊殺《くまごろ》し』。精力剤《せいりょくざい》です〜」
「薬の名前とは思えないっスね」
「薬の材料も揃《そろ》ってますよ。これは、セミの抜《ぬ》け殻《がら》〜」
「な、なんの薬になるんスか?」
「中耳炎《ちゅうじえん》です。これを粉に挽《ひ》いて、塗《ぬ》り薬《ぐすり》と混ぜて使います〜」
「へぇ〜!」
感心する俺の横で、詩人が笑って言った。
「マギア・ナトゥラリア……だね〜。すべて自然のものを使った自然|魔術《まじゅつ》=B昔の医学は、まさにこれだったよね〜」
詩人の言葉は、いつも感慨《かんがい》深い。薬屋が売り歩く薬も、すべて自然のものから作られたものらしい。昔は、すべての人間たちがこういう薬で病気やケガを治していたんだ。
「やっぱり、商売相手は妖怪《ようかい》ばっかりなんスか?」
と、訊《き》いてみた。薬屋のへのへのもへじのお面がうなずいた。微妙《びみょう》に面に表情があるように見えるのは気のせいだろうか?
「妖怪だって病気やケガをしますが、化学物質の薬には拒絶《きょぜつ》反応を起こす者もいます。でも、人からのご希望も増えてます。ここ十年ぐらい」
化学物質には、人間の中にだって拒絶《きょぜつ》反応を起こす人がいる。アレルギーは、今や社会問題だ。こんなこと昔はなかったのにな。
「メモがあった。これこれ、え〜とね……」
秋音ちゃんが、龍さんに頼《たの》まれたというリストを持って降りてきた。高位の霊能力者《れいのうりょくしゃ》は、なにを買い物するのだろうか?
「ヤモリの黒焼き、蛙《かえる》の目玉、イモリの心臓と蝙蝠《こうもり》の羽、毒蛇《どくへび》の肝《きも》……」
「はいはい、ございますとも〜」
柳行李《やなぎごうり》から次々と出てくるゲテモノの数々。
「……龍さん、黒魔術《くろまじゅつ》でもするんスかね?」
「霊能者のやることなんて、わかんな〜い」
詩人はあっけらかんと笑った。
「あ、俺さっそく『百足油《むかであぶら》』を使おう。さかむけができちゃって」
と言う俺に、薬屋が言った。
「あ、バンソウコーありますよ〜。防水加工、呼吸するタイプ〜」
「最新式!?」
それは、まさに市販《しはん》の絆創膏《ばんそうこう》だった。
「なんだ、こんなのもあるんじゃん!」
「ありますよ〜、だって最近の医療品《いりょうひん》って便利になってるから〜。ほらほら、サポート包帯。留め金でとめなくてもいいやつ〜。これは本当に便利ですね〜」
「うん。うちの病院でも使ってる。ホント、ピタッてとまるのよね〜。すごく助かるわ」
薬屋と秋音ちゃんはうなずきあった。
俺は認識《にんしき》を改めた。妖怪《ようかい》の世界だって進化してるんだ。すべてが、虫から作った塗《ぬ》り薬《ぐすり》に葉っぱをあてがって、蔓草《つるくさ》で巻いてるわけじゃないんだ。
シロを枕《まくら》に眠《ねむ》っていたクリが目を覚ました。
「ああ、クリた〜ん。起っきちまちたか〜。ほぉ〜ら、新しいおやちゅでちゅよ〜」
と言うと、薬屋は、丸くてルビーのようにきれいな赤い棒飴《ぼうあめ》と、それまでクリが持っていた渦巻《うずま》きキャンディを交換《こうかん》した。クリはさっそく、新しい飴をなめはじめた。シロも横からペロペロなめた。
「これは、いわば霊体《れいたい》の栄養補助食品です。霊体の霊位の安定をサポートします」
「へえ〜! そんなものがあるのか!」
半年ぶりに帰ってきて、俺の目玉からはさっそく鱗《うろこ》がボロボロ落ちてゆく。
人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜《ぬ》いてゆこう。
龍さんの言葉が頭をよぎる。
「次はどこへ行くの、薬屋さん?」
「次は、イラズ神社の裏明神様へ。ネコマタのおばば様のお家へ参ります〜」
薬屋は、荷物をどっこらしょと担《かつ》いだ。
「ネコマタ……って、猫《ねこ》の妖怪《ようかい》?」
「おばば様は、もう千年のご長寿《ちょうじゅ》で」
「千年!!」
イラズ神社といえば、ここからは目と鼻の先。そんな場所に千年も生きている化け猫がいるとは……。世界は広すぎて、肩の力を抜いていても驚《おどろ》いてばかりで疲《つか》れるぜ。
「おばば様は、この『熊殺《くまごろ》し』がご贔屓《ひいき》で。これがお元気の元なんて光栄です〜」
「精力剤《せいりょくざい》を飲むババアなんてゾッとしねぇな〜」
画家が大笑いした。
「失礼よ、明さん。相手は神様よ」
「神様なのに、精力剤が効くのか?」
と、俺は秋音ちゃんに尋《たず》ねた。
「おばば様は猫《ねこ》の変化体《へんげたい》だから、ちゃんと肉体があるのよ」
「ああ……ふ〜ん」
わかったような、わからないような。
「それでは、これで失礼いたします。またどうぞご贔屓《ひいき》に〜」
薬屋は、ぺこぺこと腰低《こしひく》く去って行った。
帰る早々いきなりやってくれるぜ、妖怪《ようかい》アパートは。さすがだ。
今夜は、あのへのへのもへじな顔を夢に見るぞ。絶対見るぞ。
「さあ、酒の用意だ、酒の用意だ!」
「桜は満開だし〜。花見酒と参りましょう〜!」
大人二人が嬉《うれ》しそうにバタバタしだした。俺と秋音ちゃんは、顔を見合わせて笑った。花見酒を楽しめない子ども二人は、部屋で昼飯を待つとするか。
二階へあがったところで、急に空気がざわめいた。なんだろうと立ち止まると、俺の耳のすぐ側《そば》を、不気味な声が通り過ぎていった。
「大家だ……」
「大家がきた……」
「大家さんが?」
「大家がきたぞ……」
「あ……部屋代の取り立てか!」
大家さんは居間へ現れたらしく、詩人と画家とのやり取りがきこえた。
「旅行から帰ってきたばっかなんだ。万札の持ち合わせなんざねぇよ」
「アタシもぉ〜。来週まで待ってぇ〜♪」
とても妖怪《ようかい》相手にしゃべっているとは思えんな。妖怪相手に、二万五千円を出《だ》し渋《しぶ》るか。
「とはいえ、俺も今日が支払《しはら》い日《び》だってこと忘れてたな……」
持ち合わせはあるとはいえ、今日払ってしまったら明日の金がない。せっかく長谷《はせ》と遊びに行くのに。明日は日曜日だから、ATMの引き出しに手数料がかかっちまうんだな。それは嫌《いや》だ!
「大家さんには、またご足労願って……と」
俺は、そっと部屋へ戻《もど》ってドアの鍵《かぎ》をしめた。
のそり、のそりと、大家さんが近づいてくるのがわかる。コンコンと、ドアがノックされたが、俺は拝みながら無視した。
「…………」
しばらく間があった。あきらめてくれたかな? と思った時、むにむにむに……という変な音がした。
「なんの音だ?」
俺はキョロキョロした。続いて、ドアが小刻みに震《ふる》え始《はじ》めた。
ハッとしてドアの下を見ると、ドアと床《ゆか》の、わずか五ミリの隙間《すきま》から、大家さんが入ってこようとしていたのだ。俺は飛び上がった。
「わ―――っ!! すいません、すいません! 払《はら》います! 払いますから、そんなとっから入ってこないでくれ―――っ!!」
真っ黒い餅《もち》のようにずるずるになった大家さんを思わず想像して鳥肌《とりはだ》を立てている俺は、正座させられ大家さんに、しょーもないことをするなと叱《しか》られた。
「バカねえ。居留守なんか使うからよ」
食堂で、俺は秋音ちゃんにも叱られた。
「反省してます」
詩人や画家クラスには、まだまだなれそうにない。
その不良|店子《たなこ》二人は、さっきから居間で花見酒に興じている。そして、俺たち子どもの前にもご馳走《ちそう》は用意された。画家の土産《みやげ》の蕎麦《そば》を、るり子さんは二種類のメニューにアレンジ。エビのすり身入りあんかけだし蕎麦と、イカと春野菜の天ぷら蕎麦だ。どちらも小ぶりの碗《わん》に入れられ、おかわり自由。その横に、なんとも可愛らしい手鞠寿司《てまりずし》が添《そ》えられている。手鞠寿司は、鯛《たい》、サーモン、そしてサッパリ大根の漬物《つけもの》の三種だった。
「きれい〜〜〜っ! 可愛い〜〜〜っ!」
「うまい〜〜〜っ!!」
俺と秋音ちゃんは、まるで「わんこ蕎麦食い大会」の選手のようだった(特に秋音ちゃんは)。詩人と画家も、俺たちに食《く》い尽《つ》くされる前にと、酒を中断して蕎麦を食べ出した。
「も〜、この蕎麦《そば》にまんべんなくからみつくあん[#「あん」に傍点]の具合が最高だね〜」
「天ぷらもうまいっス! パリパリのサクサクっス!」
俺たちが、るり子さんの腕《うで》に惚《ほ》れ惚《ぼ》れしていた時だった。食堂の入り口で、ドン! と重い音がした。
見ると、そこには茶髪《ちゃぱつ》を肩《かた》までたらし、丸メガネをかけた男が立っていた。よれよれのデニムの上下、茶色のベルトに銀のバックル、青い石のネックレスにブレスレット。無精《ぶしょう》ひげをチョロリと生やした口元に、チビた煙草《たばこ》をくわえているその姿は、一昔前のプータローか、今風に言うとストリートアーティストってところか。夜の繁華街《はんかがい》の道端《みちばた》で、絵やアクセサリーを売っていそうな雰囲気《ふんいき》だ。そいつは、プルプルと震《ふる》えていた。
「あ――っ! 古本屋さんだ―――!!」
秋音ちゃんが叫《さけ》んだ。
「おお、生きてたか、お前!!」
「一年ぶり? もっと? 久しぶりだね〜!」
どうやらここの住人の一人らしい。旅行でもしていたんだろうか。ドンという重い音の正体は、年季の入ったトランクだった。
「古本屋」は、天を仰《あお》いで叫《さけ》んだ。
「ダシの匂《にお》いだぁああ―――っっ!!」
続いて俺たちのテーブルに突進《とっしん》してくると、並べられた料理を見てまた叫んだ。
「蕎麦《そば》だ〜〜〜!! 寿司《すし》だ〜〜〜!! わ〜しょ〜く〜だ〜〜〜!!」
古本屋はそう叫ぶと、その場にへなへなと座《すわ》りこんでしまった。
がつがつとすごい勢いで、蕎麦やら寿司やらをかきこむ古本屋のもとへ、るり子さんがブリ大根をもってきた。古本屋はその手をとると、熱烈《ねつれつ》にキスを浴びせた。
「最高だよ、るり子ちゃん! 最高!! 君は本当に最高の料理人だ! この一年半、どれだけ君の料理が恋《こい》しかったことか! 飯もある? 米の飯! 米の飯もちょーだい! それと漬物《つけもの》!!」
るり子さんは、嬉《うれ》しそうに指をからませた。
「あんまり一度にかきこむと、お腹《なか》をこわすわよ、古本屋さん」
と、秋音ちゃんは言ったが、古本屋はキッと目をむいた。
「こわしてもいい! 俺はとにかく、今はこのうまい飯で胃をパンパンにしたいんだ!!」
「お前、どこにいたんだよ?」
画家がついだ酒をぐ―――っと飲み干し、古本屋は心底うまそうな顔をした。
「ずっとアフリカから中東を旅してたんだ。それも田舎《いなか》ばっかり! 日本食はもちろん、うまいと思えるものが、なん〜っにもなくて! ああ――っ、酒がうまいよお〜〜〜っ」
るり子さんが、ほかほかの飯とキャベツとキュウリのぬか漬《づ》け、そしてブリのアラ煮《に》を持って来た。古本屋は、アラの骨までしゃぶった。
「……るり子さん、ご飯まだある?」
と言ったのは、秋音ちゃん。古本屋があんまりうまそうに食うもんだからつられたらしい。まだ食うのか!
「古本屋というからには、古本で商売してるんスか?」
俺の問いに、古本屋は飯を口いっぱいほおばってコクコクうなずいた。
「今回は、なんの本を探してたんだい?」
詩人が尋《たず》ねた。古本屋は、口の中のものを漫画《まんが》のようにゴックンと飲みこんでから言った。
「原始キリスト教とアフリカの土着|信仰《しんこう》が混じった呪術本《じゅじゅつぼん》で『黒いマリア』という黒書があるらしいと聞いたんで、あのあたり一帯を聞きこみしてたんだけどね。『黒いマリア』はなかったよ。他の本はいろいろ面白そうなものが手に入ったけどね。『死海文書《しかいもんじょ》』とか『探求の書』とか『多元記述法』とか」
聞き覚えのあるタイトルに、俺は驚《おどろ》いた。
「そ、それって超《ちょう》有名な魔術《まじゅつ》の本だけど、あるかないか不明で……」
古本屋は、丸メガネの下からニヤリと笑った。
「あるんだ。『ネクロノミコン』も実在する。表のルートじゃ絶対手に入らないけどネ♪」
『死霊秘法《ネクロノミコン》』だと!? あ、怪《あや》しい〜!! こいつも「骨董屋《こっとうや》」と同じ口なのか!? 見た目は三十|歳《さい》ぐらいの男に見えるけど、本当は人間かどうかにも、大きな疑問符《ぎもんふ》がつく奴《やつ》なのか!?
古本屋は宣言どおり、るり子さんの飯で腹をパンパンにして、やっと一息ついたようだ。
「あ〜〜〜……日本茶が、これまたうまい……!」
そしておもむろに、俺を見て言った。
「お前、誰《だれ》?」
遅《おせ》ぇよ!!
「新入りの、稲葉夕士くんだよ。条東商の二年生。夕士くん、本が好きなんだよ〜。話が合うかもネ」
合うのか? あまりそう思えないし、思いたくもないが。
「古本屋はね〜、本好きが高じてこうなっちゃった[#「こうなっちゃった」に傍点]んだよね〜」
「いや〜、ハハハハ! お恥《は》ずかしい〜」
古本屋は頭をかいた。詩人の言う、こう[#「こう」に傍点]とはどう[#「どう」に傍点]なのか訊《き》くのが怖《こわ》い。だから訊かないでおこう。
桜の散る居間の縁側《えんがわ》に、古本屋は座布団《ざぶとん》を枕《まくら》に寝《ね》そべった。
「はぁあぁあ〜〜〜……幸せだぁ。日本人で良かった〜」
ああ、日本人だったんだ。出《い》で立《た》ちも言動も無国籍《むこくせき》だからわからなかったぜ。元はどういう奴《やつ》なのかな?
しかし、幻《まぼろし》の希書、珍本《ちんぽん》を追って世界中を旅するなんて、ちょっとロマンだよな。俺にはできそうにもないが。
詩人が、古本屋のトランクを指差して言った。
「なにか面白そうなの、ある?」
古本屋はトランクを開けた。中には本がギッシリつまってた。道理で重い音がするはずだ。画家も秋音ちゃんも、どれどれと集まってきた。
さまざまな文字の刻まれた表紙。いかにも古そうな年季の入った革張《かわば》りのものから、ペーパーバックまで多種多様に揃《そろ》っている。古本屋は、このトランク一個で商売しているという。しかし、いくら詰《つ》めこんでもトランクに入る本の数なんてたかが知れていると思うが……なにか仕掛《しか》けがあるんだろうか?
「『ボイニッチ写本』。希書中の希書。一九一二年に、古本屋のボイニッチがある寺院でみつけた手稿《しゅこう》を写したもので、十三世紀の哲学者《てつがくしゃ》ロジャー・ベーコンが書いたものだと言われてるんだけど、十五世紀に初めて西洋に伝えられたはずのヒマワリの絵が描《か》かれてるし、当時では考えられていなかった精子と卵子《らんし》の受精≠フ図や、アンドロメダ大星雲の図なんかが記されているんだ」
「その、ロジャー・ベーコンって人は、どうやってヒマワリやアンドロメダのことを知ったんスか?」
「それが謎《なぞ》だから、希書なんだよ」
古本屋は楽しそうに笑った。
「おお! 『毛皮のヴィナス』の原書じゃ〜ん」
「お! 『ソドム百二十日』!」
勝手にトランクを漁《あさ》っていた詩人と画家は、お目当てのものを探《さぐ》り当《あ》てたようだ。
「ちょっと二人とも〜、貸すだけだよ〜。買わないんなら、ちゃんと返してくれよ〜」
本の山を眺《なが》めていた秋音ちゃんが、顔をしかめた。
「なんか変な感じがする。変なのが交じってるわね、いつものことだけど」
「変なって?」
「本って、念がこもりやすいのよ。意味をもった言葉の集まりだから。魔術書《まじゅつしょ》なんか特にね。古本はさらに念がこもってる場合が多いわ。実際に使われていたものだからでしょうね」
そう言いながら、本の上で探るように手をかざしていた秋音ちゃんが、中からするりと一冊の本をつまみあげた。
「これはなに?」
大きさは国語辞典ぐらい。赤黒い革《かわ》の装丁《そうてい》で、ごく薄《うす》い本だった。一ページに一枚ずつ絵が描《か》かれていて、絵の上にはローマ数字で1から21までの番号が打たれている。そして一番後ろに0のついた絵があった。
「タロットカード?」
その二十二枚の絵は、西洋|占《うらな》いでよく使われるタロットカードを描《えが》いたものだった。1が魔術師、13が死神、15が悪魔《あくま》、19が太陽とかいうやつだ。
タロットは古くからヨーロッパで使われている占《うらな》いのカードで、本当は全部で七十八枚ある。五十六枚の「小アルカナ」と、二十二枚の「大アルカナ」に分かれていて、小アルカナがトランプの原型であるといわれている。この本の中の絵は「大アルカナ」と呼ばれるほうだ。タロットの絵の中には美術的に価値の高いものもあるそうだから、これは「画集」じゃないかな?
「名前が変だわ」
「変って?」
「タロットなら、例えば『T』は『魔術師』でしょう? 絵は確かに魔術師の絵だけど、カードの名前がそう読めないの」
確かに、見たこともない文字が書かれている。古本屋は頭をかいた。
「それねぇ〜、どこかの古本市でおまけに付けてくれたやつなんだよ。俺も画集だと思ってたよ? ヤバイ感じはしなかったからな〜」
秋音ちゃんはうなずきながら、慎重《しんちょう》に本をスキャンしているようだった。皆《みな》が注目する。
やがて、顔を上げた秋音ちゃんはこう言った。
「古本屋さん、この本、たぶん封印《ふういん》≠ウれてる」
「へえ……!」
「封印《ふういん》って??」
「なにか力を持っているのよ、この本は。でもその力をふるえないようセーブされているの。絵の名前が読めないのはそのせいだわ」
「魔法《まほう》の本! 本物の……」
俺にはただの画集にしか見えないが、それでもちょっと感動的だった。
「いや――っ! これだから古本屋はやめられない!!」
古本屋は、ピシャリと膝《ひざ》を打った。詩人も画家も笑っていた。
「これも一つの掘《ほ》り出《だ》し物《もの》ってやつ」
「これ、どうするんスか?」
秋音ちゃんの手から本をとって、古本屋はニヤリと笑った。
「このテの本は扱《あつか》いは難しいけど、コレクターにはものすごい値で売れる♪」
「も、ものすごい値スか?」
「ものすごい値だ」
それから古本屋は、秋音ちゃんに投げキッスした。
「サンキュー、秋音ちゃん! 君のセンサーに感謝だ!」
しかし、秋音ちゃんはその本をパッと取り上げて言った。
「感謝されるのはまだ早いわ、古本屋さん。本当に売っていいのか、藤之《ふじゆき》先生にみてもらってからね♪」
ニッコリとそう言うと、秋音ちゃんはバイトに行く準備をするため居間を出て行った。魔法《まほう》の本を小脇《こわき》にはさんで。
「あ〜……」
古本屋は、苦笑いしながらその後ろ姿を見送った。俺たちは大笑いした。
藤之先生というのは、秋音ちゃんが今師事している霊能力《れいのうりょく》のお師匠《ししょう》さんで、月野木病院の「妖怪《ようかい》担当医師」である。
るり子さんが、手作りよもぎ餅《もち》を出してくれた。よもぎの、なんともあざやかな春色と春の香《かお》りがたまらない。餡《あん》の甘《あま》さも上品だ。香《こう》ばしい蕎麦茶《そばちゃ》と一緒《いっしょ》に食べると、何個でもいけそうな気がする。
和菓子《わがし》をお供に、古本屋の旅話や、本にまつわるおもしろ話などをきいた。
「イギリスじゃ、日本じゃ考えられないくらい超心理学《ちょうしんりがく》の分野が認められていて、実際に『魔術師《まじゅつし》』という職業が認知《にんち》されている上に、ちゃんと地位≠ェあったりする。だから、かえって魔道書なんかは出版されにくいんだ。出版社が嫌《いや》がるんだな。魔道書の持つ意味や力を信じてるからだ。だから、日本へ持ちこまれたりするんだ」
「へえ……!」
「アレイスター・クロウリーっていう実在の魔道士がいて、こいつが書いた魔道書が日本で出版されたことがあるんだ。ちょっとした騒動《そうどう》になったらしいよ。小さなアクシデントが頻発《ひんぱつ》したり、霊能者《れいのうしゃ》から次々と『あれは悪い本だから出さないほうがいい』って忠告が入ったり」
「出版されたんスか?」
「された。こいつがそうさ」
「そ、そんなの持ってて大丈夫《だいじょうぶ》なんスか?」
「本当に力を持ってて、イタズラ[#「イタズラ」に傍点]をするのは原書だよ。こいつは大丈夫。念をこめない限りな」
と言って、古本屋はウインクした。あんたは念をこめてないだろうな?
件《くだん》の魔道書は、数式がズラズラ並んだまるで数学の本だった。
「な、なにがなにやらわかんねぇスけど?」
「そりゃ、専門書だからな」
古本屋は笑った。そうか、これも一種の「専門書」か。素人《しろうと》が物理学書を読んだってわからないもんな。それと同じことなんだな。
「お前、クトゥルー神話って知ってる?」
「ああ。ラヴクラフトの恐怖《きょうふ》小説を体系化したやつっしょ? 確か、いろんな人がいろんなエピソードを書いてたスよね」
「そう。クトゥルー神話には、いろんな化け物が出てくる。その本は、その実在を証明したもので、化け物たちの召喚法《しょうかんほう》が記されてるんだ」
「……ほんとなんスかぁ?」
苦笑いする俺に、古本屋は肩《かた》をすくめて笑った。煙草《たばこ》をうまそうにふかす。
「クトゥルーの実在|云々《うんぬん》という話は別にしても、この原書が相当な力を持っていたのは事実さ。封印《ふういん》するのに、えらく苦労したらしいぜ? 本ってのは、書き手の持つ力以上の力を内包するもんだ。なあ、黎明さん?」
蕎麦茶《そばちゃ》をうまそうにすする、子どものラクガキのようにとぼけた顔をした詩人は、そのとぼけた顔をさらにすっとぼけさせて笑う。詩人は、こんなラクガキのような顔をして、凄《すさ》まじいエログロを結晶《けっしょう》のような美しい文章に綴《つづ》り上《あ》げるんだ。その煌《きらめ》くような闇《やみ》にドップリ浸《つ》かりきって抜《ぬ》けられず、社会人としてまともに暮らしていけなくなった奴《やつ》が何人もいるらしい。
「そーねぇ。形をとって現れたもの[#「形をとって現れたもの」に傍点]だからねぇ。頭の中の考えが文字になった瞬間《しゅんかん》に、別物になった感じがする時はあるよねえ」
不思議な話だ。形になった瞬間、それは作者から離《はな》れて別物になってしまう。作者は、それを止められない。詩人のようなベテランでもそうなのか。いや、ベテランだからこそなのか。
「活字ってなあ曲者《くせもの》だよな。映像や造形よりもな」
寝転《ねころ》んで酒をチビチビやりながら画家が言った。
「例えば『ミロのヴィーナス』に両腕《りょううで》があったなら、あれほど絶賛はされていないだろう、という説がある。ミロのヴィーナスがあんなに人を惹《ひ》きつけるのは果たして元はどんな姿だったのだろうか?≠ニいう想像をかきたてるからだ。活字は、この想像する楽しみが一番多い分野だろ」
確かにそうだ。親戚《しんせき》の家でちぢこまるように暮らしていた頃《ころ》、俺の唯一《ゆいいつ》の楽しみは読書だった。活字の世界で遊ぶことが、なにより楽しかった。そこでは、俺はなんにだってなれた。冒険者《ぼうけんしゃ》、戦士、殺人鬼《さつじんき》を追う探偵《たんてい》。いろんな世界へも行けた。そうだ。俺は、本に書かれていること以上に想像して楽しんでいた。
この「魔道書《まどうしょ》」に書かれている「魔物の召喚法《しょうかんほう》」を見て、本当に魔物を召喚できるんだと思いこむことができる奴《やつ》は、たぶん大勢いる。そしてそのなかには、本当に魔物を召喚してしまう奴だっているかもしれない。
「それが、書物の持つ怖《こわ》ささ。人間の持つ潜在《せんざい》能力を増幅《ぞうふく》する触媒《しょくばい》になってしまうんだ」
わかる気がした。まあ、俺には関係ないけど。魔道書なんて、これからも読もうとは思わないだろうからな。
「……でさ、あんまりスムーズに話がつくなと思ったらさ、そいつ男だったんだよ!」
「ええ? でも、女だったんっしょ?」
「女だったよ! すんげぇ美人でスタイル抜群《ばつぐん》! 鎖骨《さこつ》クッキリ、胸なんてこぉ〜んなにでっかくて、足がスッラ――としててさあ!」
「でも脱《ぬ》いだら余計なモンがあったわけだ」
詩人と画家が大笑いした。
「あったなんてもんじゃない! デケーんだよ!!」
「ギャハハハハ!!」
「しかも、そいつはタチだったんだ!! サイアクだろ!!」
「ヒ――ッ、こえぇ――っ!!」
「それで? バック捧《ささ》げたの?」
「捧げるかい!! 窓ブチ破って逃《に》げたよ! 荷物|抱《かか》えてパンツ一丁で、ブロードウェイを走ったさあ!!」
「ギャハハハハ!!」
全員、腹を抱えてのたうちまわった。夕飯時まで、そんなバカ話で盛り上がっていた。
その日の夕食。古本屋の帰宅を歓迎《かんげい》して、るり子さんは純和食の腕《うで》をふるった。
桜鯛《さくらだい》の刺身《さしみ》に塩焼き、トコブシの醤油焼《しょうゆや》き、蕪《かぶ》の琥珀蒸《こはくむ》し、わかさぎの唐揚《からあ》げ、よもぎしんじょ、ぜんまいと蕗《ふき》の煮物《にもの》、生湯葉と菜の花の炊《た》き合《あ》わせと、食卓《しょくたく》はまさに春爛漫《はるらんまん》だった。おまけに鳥釜飯《とりかまめし》とサケ茶漬《ちゃづ》けとくれば、古本屋はもう大感激だ。
「春には春の、この季節感! 見た目、香《かお》り、味の、この繊細《せんさい》さ! ああ、日本人に生まれてきて良かったよ!」
桜鯛《さくらだい》の刺身《さしみ》は、細かく砕《くだ》いた氷の上に桜の葉をしき、その上にイカとホタテの刺身とともに盛り付けられ、桜の花が添《そ》えられている。蕪《かぶ》の琥珀蒸《こはくむ》しの上には、タンポポの花びらが散らされ、その黄色がとても映《は》えた。よもぎしんじょの春緑には金箔《きんぱく》がのせられている。なんてすみずみまで行き届いているんだろう。和食の真髄《しんずい》を見るようだ。
佐藤さんや山田さんやまり子さんらも、古本屋の帰宅を喜び、皆《みな》で日本酒で乾杯《かんぱい》した。今夜の食堂は、なんともにぎやかだった。
夜も更《ふ》け、妖怪《ようかい》アパートには昼間はなかったいろんな気配が満ちる。そこここの暗がりでかさこそとなにかの気配がする。空中を漂《ただよ》うモノが増える。居間の衝立《ついたて》の向こうではマージャンが始まる。廊下《ろうか》を薄《うす》い影《かげ》たちが行き来する。
ああ、そう。この感じだ。これすら懐《なつ》かしい。こんなわけのわからんモノたちすら、俺は恋《こい》しかったんだ。
「そうか。お前も半年ぶりなんだな」
地下の温泉に向かいながら、同じように懐かしげな表情で古本屋が言った。俺は頭をかいた。
「なんで帰ってきたんだ?」
「…………さ……寂《さび》しかったから」
自分で言って、俺は真っ赤になった。なんてバカ正直に答えているんだ、まったく! でも古本屋は笑わなかった。
「楽しいもんな、ここ」
その言葉に、俺は素直《すなお》にうなずいた。きっと皆《みな》そう思ってる。ここに住みついた人間は、皆。
「お! それ、龍さんの髪《かみ》の毛入りペンダントだろ。骨董屋《こっとうや》に売りつけられたか!?」
脱衣場《だついじょう》で服を脱《ぬ》いだ時、俺の首にかかったペンダントを見て古本屋は笑った。霊毛《れいもう》であるという龍さんの髪の毛を一本、台座と水晶《すいしょう》の間にはさんだペンダントは、骨董屋が勝手につくって(つまり龍さんに無許可で)、勝手に売りさばいているものだ。
「これ、このアパートを出る時に、骨董屋さんに餞別《せんべつ》でもらったんス。今度会ったら返せって言われるかもな〜」
「ハハハ! 龍さんや骨董屋にも早く会いたいな」
洞窟風呂《どうくつぶろ》に全身を浸《ひた》して、俺たちは大声を上げる。
「あ〜〜〜っ、極楽《ごくらく》だ――!!」
飯がうまくて、楽しい仲間がいて、部屋は南向き、地下には温泉。これが極楽《ごくらく》でなくてなんだろう。俺たちは極楽へ帰ってこられたことをしみじみと喜んだ。そこへ―――。
「ヤッホー!」
と、軽〜く現れたのは、クリを抱《だ》っこした全裸《ぜんら》のまり子さんだった。俺たちは湯船から飛び上がった。
「どわあああ―――っ!!」
「まり子ちゃん! 男湯に入ってくんのやめてよ!!」
「だって、こっちのほうが広いんだも〜ん。ね〜、クリたん」
まり子さんは幽霊《ゆうれい》になってからもう長いので、女の恥《は》じらいなどとっくにないのだ。しかし、現役《げんえき》の俺たちはそうはいかない。いくら極楽でも、このサービスはちょっと刺激過剰《しげきかじょう》だ。慌《あわ》てて逃《に》げ出《だ》す。
「もーっ、まり子ちゃんってば相変わらずなんだからな〜!」
「いくら幽霊っていっても、あんだけハッキリクッキリしてたらマズイっすよね、やっぱ」
しかし、古本屋は首を振《ふ》った。
「いや〜、龍さんなんか、ぜんっぜん平気だよ。霊能者《れいのうしゃ》だからこそ割り切れるんだろうけど、こう肩《かた》をすくめながら『だって生身じゃないんだし』だってさ」
「すげえ!」
それを修行《しゅぎょう》の賜物《たまもの》というのだろうか。単なる慣れなんだろうか。いずれにせよ、すげえ神経だ。
「じゃ、おやすみ〜!」
古本屋と別れて、俺は自分の部屋へ戻《もど》った。
布団《ふとん》に寝転《ねころ》がると、疲《つか》れがドッと押《お》し寄《よ》せてきた。今日は、すごく長い一日だったな。嬉《うれ》しすぎて興奮してた昨日は疲れも感じなかったけど。でもいい気分だ。新しい仲間にも会えた。
明日は、長谷のバイクにタンデムしてツーリングだ。俺がアパートに戻ったことを、きっと喜んでくれる。
いつか、長谷をここへ招待したい。あいつはどう思うだろう? もちろんびっくりするだろうが、それから……? そんなことを思いつつ、俺は眠《ねむ》ってしまった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/02_047.png)入る]
プチ・ヒエロゾイコン
どれぐらい眠《ねむ》っていただろうか。
「こんばんは」
と、声をかけられた。
「ん?」
俺は、起きていた。布団《ふとん》の上に座《すわ》っている。
「あれ?」
部屋の中も外も真っ暗だ。カーテンの向こうをゆらゆらと発光体が移動してゆく。
「こんばんは」
もう一度声をかけられ振《ふ》り向《む》くと、布団の上に本が一冊置かれていて、その上に身長十五センチほどの小人がいた。暗闇《くらやみ》の中でぼんやりと光っている。ベレー帽《ぼう》のようなものをかぶり、タイツのようなものをはいたその姿は、中世のおとぎ話の中に出てくる道化師《どうけし》のようだった。
「なんか用か? 俺、明日は出かけんだよ。寝《ね》かせろよ」
俺は、そいつもこのアパートに出入りする物《もの》の怪《け》の一種と思ったんだ。小さなモノが声をかけてくることはめったにないが、花の精や虫の精みたいなモノも、ここじゃよく見かけるからだ。
「いえいえ。私めの呼びかけに応《こた》えて下すっているのは、あなたのほうで」
小人はそう言うと、丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。
「お初におめもじいたします。私め、フールと申します。以後おみしりおきを」
「はあ」
「このたび、長い長い旅路の果てに、ようやく主《あるじ》と巡《めぐ》りあえて、我ら一同心より喜んでおります旨《むね》どうかお察ししていただきたく……ああっ、寝ないで! ご主人様!!」
「ペラペラのべくってんじゃねーよ、俺は眠《ねみ》ィんだ」
「やっとあなたのチャンネルが開いたのが、この時間なのです。どうかお話をお聞きくださいますよう、ご主人様」
「ご主人様って……誰《だれ》が?」
「あなたです、夕士様」
そう言って、その小人フールは、また丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。
「………………そうか。これは夢だな。ということは、俺は実際は眠《ねむ》ってるわけだ。よし、いいぜ。話とやらを聞こうじゃねぇの」
「ありがとうございます」
「なんで俺がご主人様なわけだ?」
俺は笑った。フールは、ぴょんと本から飛びのいた。
「これをご覧あれ」
本がパタリと開くと、ヒラヒラとページがめくれてゆく。そこにはタロットカードの絵が描《か》かれていた。
「あ、これ昼間の……。古本屋が持ってたタロットの画集じゃねえか」
「左様《さよう》。そして、これが私めでございまする」
フールは、最後のページを指差した。そこには「0」の「愚者《フール》」が描かれていた。
「はは、そうだな。フールって書いてある。ん? なんだ、カードの名前読めるじゃん」
その瞬間《しゅんかん》、パシッ! という鋭《するど》い音とともに、本がパアッと光った。
「うおっ、びっくりした! なんだ?」
フールは嬉《うれ》しそうに笑うと、また一段と丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。
「おめでとうございます。ただ今、本にかけられた封印《ふういん》が無事解けましてございます。これで、あなたは間違《まちが》いなく我らのご主人様と認められた次第《しだい》で……」
「封印が……解けた?」
フールは、布団《ふとん》の上でまるで劇を演じているかのように大仰《おおぎょう》に言った。
「この世に、『ヒエロゾイコン』なる大|魔道書《まどうしょ》がございます。さる大魔道士が、異次元より召喚《しょうかん》した七十八|匹《ぴき》の妖魔《ようま》どもを封じこめた本であり、魔道士は意のままに本の中より妖魔を呼び出し、使役《しえき》するのでございます」
「へえ〜、すげぇな!」
ここでフールは、コホンと一つ咳払《せきばら》いし、本を指差すとちょっともったいぶって言った。
「本書は、『小《プチ》ヒエロゾイコン』と呼ばれます」
「えっ!? ……ということは、この本にも妖魔が封じられてるってか?」
俺は身を乗り出した。フールはうんうんとうなずいた。
「左様、左様。本書は、さる魔道士が『ヒエロゾイコン』に倣《なら》い、異次元より呼び出したる二十二匹の妖魔どもを封じこめた、れっきとした魔道書《グリモアール》なのでございます」
「へえ――っ!」
俺は素直《すなお》に感心した。なるほど、元祖「ヒエロゾイコン」の妖魔《ようま》が七十八|匹《ぴき》だから、それをタロットの「アルカナ」に見立てて、こちらは「大アルカナ」になぞらえて二十二匹にしたわけだ。こいつは一種のパロディだな。
「本書の創造主は、もはやこの世にはおりません。創造主|亡《な》き後、我らは長い長い旅に出ます。というのも、創造主は我らにふさわしい次の主が現れるまで、本書を封印《ふういん》したからでございます。我らは人の手から手へと渡《わた》り続《つづ》けました。ただの画集として」
「ふんふん」
「しかし我々とて、ただ流浪《るろう》に流浪を重ねていたわけではありません。この世のどこかにいらっしゃる主の元を目指していたのでございます。そして、やっとたどり着いた」
「ふんふん」
「そのお方は、主以外は決して読めぬ我らの名前を、見事お読みになりました。よってここに、小ヒエロゾイコンの封印は解かれたのでございます。新たなる主の元で、また我らに命が吹《ふ》きこまれました!」
「ふんふん……ん?」
フールは、さらに一段と丁寧《ていねい》なお辞儀《じぎ》をした。
「我らが新たなるご主人様は、あなた。稲葉夕士様。どうぞ、なんなりとご命令を」
ここで、俺はやっと事態が呑《の》みこめた。
「お前らが捜《さが》していた新しい主人って、俺だったのか?」
「左様で」
「でも俺、別に魔道士《まどうし》でもなんでもないぜ?」
「主たる資格は、実践的《じっせんてき》な技術や経験よりも、潜在的《せんざいてき》な素質と感応力《かんのうりょく》でございます」
「俺に素質があるってか? マジで?」
「でなければ、封印《ふういん》は解かれません」
俺とフールは、しばし見つめあった。フールはにこにこと笑っていた。
俺は、ちょっと混乱した。確かに、以前このアパートにいた頃《ころ》「霊能力《れいのうりょく》の素質があるかも」と言われたことがある。そう言ったのは、秋音ちゃんだ。そう言われて、俺は大いに戸惑《とまど》った。霊能力なんて欲《ほ》しいと思ったことなんかないし、これからも欲しいとは思わないだろう。だって、そんなものは俺の生活に役立たないものだし、それどころか、霊能力なんて素人《しろうと》にとっては邪魔《じゃま》なだけの力だろう? 幽霊《ゆうれい》が見えたからって、感じたからって、それをどうすればいいんだ?
まして、二十二|匹《ひき》の妖魔《ようま》が、いくら俺の命令をきくっていったって、妖魔を使って俺になにをしろと…………俺は、頭をぶんぶんと振《ふ》った。アホか、俺は。これは夢なんだから、今ここでそんなことを真剣《しんけん》に考える必要なんてないじゃないか。
「なかなか面白い話だな、フール。俺にそんな力があったなんて驚《おどろ》きだぜ。要するにお前たちはアレだな。龍さんたちが使う式鬼《しき》≠チてやつだ」
「大きな意味では、左様で。使い魔の部類に入りますな」
俺は、小ヒエロゾイコンを手にとった。パラパラとページをめくってみる。確かにどのカードの名前も読める。俺は、ちょっとゾクゾクした。
「そいじゃ、ちょっくら試《ため》してみよ〜かな〜。あ、そういや、フール。お前は……えーっと」
「私めは、本書の案内人にして、妖魔とご主人様の仲介役《ちゅうかいやく》でございます」
フールはおおげさにお辞儀《じぎ》をした。
「なるほど。わからないことはお前に訊《き》きゃあいいんだな。OK。じゃ、まずは……『T』から見てみるか。『魔術師』の……ジン!」
魔術師のページがカッと光り、そこから白い煙《けむり》がもくもくと立つと、その中から筋骨たくましいハゲ頭のおっさんが現れた。その服装は、まるで『アラジンと魔法のランプ』に出てくる魔人のようだった。
「ジン。万能《ばんのう》の精霊《せいれい》。いわゆるアラジンのランプの精≠ナございます」と、フールが解説した。
「マジ!? すげえじゃん!!」
俺は、これが夢であることも忘れて大興奮した。
「なんなりとご命令を。ご主人様」
本から湧《わ》き立《た》つ煙《けむり》の中で、ジンが頭を下げた。
突然魔法《とつぜんまほう》の精が目の前に現れて、望みを言えと言われたらどうする? 魔法の精が実在することすら驚《おどろ》きなのに、いきなり「望み」なんて思いつかない。いや、別にここで言わなきゃならないことはないんだが、俺は思わず、ごくごく一般《いっぱん》小市民的なことを叫《さけ》んでしまった。
「か……金! 日本で使える現金!!」
我ながらあさましいとは思ったが、口から出てしまったものはしょうがない。
「承知!」
ジンは、大きく両手を広げ天を仰《あお》いだ。煙がもうもうとふくらむ。俺はドキドキした。
しかし。
ぽっと―――ん……。
畳《たたみ》の上に落ちてきたのは、五百円玉だった。
とたんに、煙《けむり》がシュワシュワシュワとしぼみ、マッチョマンだったジンもみるみるやせ細っていき、煙草《たばこ》の煙のようになりながら本へと帰っていった。
「…………終わり?」
フールが、ひょいと肩《かた》をすくめた。
「ジンは、確かに万能《ばんのう》の精霊《せいれい》なのですが、なにぶん微力[#「微力」に傍点]でして。しかもスタミナがないのでございます。当分は使えませんです。ハイ」
「なんだそりゃ……」
たった五百円ぽっちで力を使い果たす万能の精霊なんて、それが万能といえるのか?
「いやいや。これは夢なんだ。夢に腹を立てたってしょうがない。俺の想像力が五百円程度なんだ、きっと」
と、自分に言い聞かせる。
「気を取り直して、と。『女教皇』ジルフェ!」
「ジルフェ! 風の精霊でございます!」
ゴッ!! と、部屋を一陣《いちじん》の風が駆《か》け抜《ぬ》けた。机の上のものが吹《ふ》っ飛《と》ばされて、バラバラと散らばった。
「……終わり?」
「左様で」
なんとなく、この夢のオチが見えてきた。よくできたコントのようだな。
「あ〜……ちょっと進んでみて、と。『隠者《いんじゃ》』あたりいってみようかな、と。コクマー!」
隠者の絵から放電が起こり、それが雷《かみなり》のように布団《ふとん》の上にドンと落ちた。そこに、一羽の梟《ふくろう》が現れた。
「コクマー。英知の女神《めがみ》ミネルヴァに仕えた知識の梟の眷属《けんぞく》でございます。この世の知≠フすべてを知っております」
「へえ!」
ミネルヴァの梟は、目を閉じくちばしをムグムグさせていた。なんだか眠《ねむ》そうだ。フールがそばに行って声を張り上げた。
「ご隠居《いんきょ》! ご隠居!! 起きてください! 新しいご主人様のお召《め》しですよ!」
「んむむむ……」
「ご隠居《いんきょ》!!」
「おおっ!」
梟《ふくろう》が目を開けた。大きな目をパチクリさせる。
梟は、フールを見て言った。
「飯? 飯かね?」
「ご飯はもう食べたでしょう? しっかりしてくださいよ!」
「腹が減ったんだがなぁ」
「もう、なんでもかんでもすぐ忘れちゃって!」
生々しい会話だな。
「……わかった。もう戻《もど》っていいよ、じいさん」
俺はため息とともに、梟を本へ返した。知識の象徴《しょうちょう》も、ボケてちゃ話にならない。
「どうも、申し訳ありません。もうろくしちゃって」
フールは頭をかいた。俺は、笑顔《えがお》がひきつった。
「この本がどういうものなのか、だいたいわかってきたぜ。こいつを作った創造主とやらは、かなりお茶目な奴《やつ》だったみたいだな」
「いやあ、それほどでも」
褒《ほ》めてんじゃねーよ!
「ま、いくら夢でも、そろそろなんだか疲《つか》れてきたぜ。あと一|匹《ぴき》ぐらい見て終わりにすっかな〜。……『吊《つ》るされた男』ケット・シー!」
英知の梟《ふくろう》の時と同じような放電が起こり、現れたのは黒い猫《ねこ》だった。それは中型犬ぐらいの大きさがあり、長々とねそべって人間のように片手で頭を支え、片手でキセルをふかしていた。全体的にけだるいといおうか、覇気《はき》がないといおうか、だらんとした猫だ。
「ケット・シー。猫王の一族の者でございます。人間には長靴《ながぐつ》をはいた猫≠ニして知られております」
「長靴をはいた猫!」
日本じゃ、アニメで超《ちょう》有名な猫の物語じゃないか。目の前の猫は、知恵《ちえ》と機転で主人を助けるあの猫とは……ずいぶん印象が違《ちが》うが。
ケット・シーは、半開きの目で俺をみると、キセルの煙《けむり》をふーっと吐《は》いた。そして、いかにもだるそうな声で言った。
「……明日は雨だな」
降水確率は0パーセントだ。一日中。
「お前は女にフラレるな」
カノジョなんぞいねえよ。今は。
「ケット・シー! ご主人様に向かってお前≠ニはなんです! ホラばかり吹《ふ》いてないで、たまには役に立つことも言いなさい!」
やっぱりホラなのか!! 俺は、ホラ吹き猫《ねこ》を本へ返し、パン! と本を閉じた。
「申し訳ありません、ご主人様。ぐうたらな猫で。まったく」
俺はうんうんとうなずくと、このパロディ本を本棚《ほんだな》へ納めた。夢とはいえ、こんなくだらないことにいつまでも付き合っていられるか。
「お前たちのことはよくわかった。とりあえず俺は寝《ね》るから。またそのうち話そうぜ」
「承知いたしました」
フールはまた丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。
「なんだよ、思い出し笑いか? 気色|悪《わり》ィ」
山頂のドライブインでコーヒーを飲みながら、長谷は眉《まゆ》をひそめた。俺はサンドイッチを食いながら笑いが止まらなくなった。
「ゆうべ……すげぇ変な夢見てなぁ」
「やめろよ。他人の夢の話なんざ、クソ面白くもねえ」
長谷は、迷惑《めいわく》そうに顔をしかめた。
長谷|泉貴《みずき》は、小学校三年からの俺の親友だ。両親を亡《な》くしてヤサぐれる俺を見捨てなかった唯《ただ》一人の友。
金持ちで頭が良くて、高校は都内のバリバリのエリート校へ進学したからもう毎日は会えないけど、携帯《けいたい》を持っていない俺に手紙を書き、折々にこうして会いに来ては、あちこちへ連れ出してくれる。
人付き合いが上手《うま》いほうじゃない俺だが、長谷の前ではいろんなことをしゃべれるし、今日みたく金のない日は遠慮《えんりょ》なくたかることもできる。わがままも言える。安心して自分をさらけだせるんだ。
まあ、本当の自分をさらけだせるという意味じゃ、長谷も同じだけどな。こいつは男前で、優秀《ゆうしゅう》で、人望厚く、さっそく生徒会長なんてものにおさまってはいるけど、実はとんでもない悪党で、中学じゃ「裏番」として不良どもを陰《かげ》から操《あやつ》っていた。高校でも同じことをしていて、近隣《きんりん》の不良どもを着々と束ねているらしい。
なぜそんなことをしているのかというと、つまりは「組織作り」なんだな。将来に向けての。こいつの野望を教えてやろうか? 自分の親父《おやじ》が重役をやってる会社の「乗っ取り」さ。
それはさておいて。
長谷のバイクで山道をひとっ走りしてきた。陽射《ひざ》しが暖かで、木漏《こも》れ日《び》がきれいだった。山頂からの見晴らしは最高で、遠くの山々までクッキリ見えた。あちこちで山桜が咲《さ》いていた。あんまり青空がきれいで、空気が澄《す》んでいて気持ちがよくて、俺は少々はしゃいでいた。
「カメラ持ってくりゃよかったな!」
そう言う俺に長谷は携帯《けいたい》を向けた。
「写真ならこれで撮《と》れるんだよ」
「おお、カメラ付きの携帯か!」
「今は動画が撮れて当然なの」
「おお、すげえ!」
携帯の画面の中で動く自分を見ながら、俺は感心した。長谷はあきれ気味に言った。
「お前なあ〜、いいかげん携帯《けいたい》ぐらい持てよ。アナログもはなはだしいぞ」
「普段《ふだん》使わねえからな〜。でも携帯持ってねえと、これで撮《と》った写真は見られねえんだよな?」
「今はプリントアウトできるようになってるよ」
「すげえ、進んでるな! 撮ってくれ、撮ってくれ!」
長谷は苦笑いしつつも、カメラマンを務めた。俺が元気になったことを喜んでくれているようだった。
妖怪《ようかい》アパートを出ていろいろあった頃《ころ》、俺は最悪の精神状態だった。だからこそ長谷に心配をかけたくなくて、なにも言わず連絡《れんらく》もしなかったけど、結果的にはそれでずいぶん心配をかけていたんだ。長谷にしてみれば、グチを言い、飯をたかり、なんだかんだと甘《あま》えてきてくれるほうが安心するらしい。
寿荘に戻《もど》ると言った時は、本当に喜んでくれた。「あそこはお前に合っているんだよ」と言ってくれた。
「お前、変わったもんな。ピリピリしたとこがなくなって余裕《よゆう》が出てきた感じがする。きっとあのアパートは、お前が安心できる場所なんだよ」
妖怪アパートのことはなに一つ知らない長谷だが、俺を通じてアパートのことを見抜《みぬ》くところなんざ、さすがといおうか。
「撮《と》った画像、あとでプリントアウトしてくれよな、な」
「ハイハイ」
「あ〜、腹へったぁ。なに食おうかなあ。アパートじゃ和食が多いから、スパゲティとか食いてぇな。あ、サンドイッチも」
「おごりだと思って、遠慮《えんりょ》がねぇなあ」
俺たちは、山頂のドライブインの見晴らしのいい窓側の席で昼飯を食った。
「……というわけでだな、その魔道書《まどうしょ》のご主人様になったのはいいけど、とにかく使えねえ奴《やつ》ばっかりでなあ!」
昨夜《ゆうべ》見た夢を笑いながら話す俺に、長谷はケッと言った。
「やっぱ他人の夢なんざ、くっだらねぇわ」
「夢にしちゃ、よくできてると思わねえか?」
俺も心底くだらない夢だと思えて、笑えてきて仕方なかった。
「ま、お前が楽しそうだからいいけどヨ」
そう言って、長谷は笑った。俺はその言葉に、ちょっと感動した。
「あ……あのな、長谷」
「ん?」
「あの……今度……」
アパートへ遊びに……と言おうとした時、バラバラバラ!! と、派手なクラクションとエンジン音が耳をつんざいた。
ドライブインの玄関前《げんかんまえ》へゾロゾロと乗り付けてきたのは、十数台のバイクの一団だった。揃《そろ》いの革《かわ》ジャン姿で決めてはいるが、まともなバイク乗りでないことは一目でわかった。バカでかい排気音《はいきおん》がするようにマフラーを改造し、車高も不自然に低かったり、ボディにはことさらおどろおどろしく骸骨《がいこつ》や悪魔《あくま》のペイントを塗《ぬ》りたくっている。
「おやおや、また派手な連中が来たもんだな」
長谷は苦笑いしている。性質《たち》の悪さでは並の不良どもなんぞ足元にも及《およ》ばない長谷から見れば、ああいう連中はうわべだけ格好つけてるだけのカワイイ子どもなんだろう。
なにせ長谷って奴《やつ》は、小学生の頃《ころ》から人間の裏側とか正体というか、そういうところを突《つ》くというか見抜《みぬ》くのが得意というか趣味《しゅみ》というか。
奴《やつ》が小学二年の時、教師になりたての若い女の先生が、いじめの問題を取り上げて「みんなで仲良くしましょうね」と言うのを、
「なぜみんなで仲良くしなければならないのか?」
と突《つ》っこんで「仲良くしたくなければしなくてもいいじゃないか」とか「仲良くしろと強要するな」とか「大人の勝手な都合だ」とかいって、女先生はそれに反論できなくて泣き出すし、いじめられた生徒には、
「お前も、いかにもいじめてくださいみたいな態度をしているからだ」
とか言ってそいつも泣き出すし、えらい騒《さわ》ぎになったのは有名な事件だ。
それでもその騒動《そうどう》のおかげで、いじめられっ子はそれ以後いじめられなくなった。女先生はやめちまったが、長谷は後に、
「あんな甘《あま》っちょろくて青臭《あおくさ》い奴に教えられるなんてウンザリしたから追い出してやったのさ」
と、しれっと言った。
長谷は、その甘っちょろくて青臭い女教師を追い出すチャンスをうかがってたんだ。小学二年の子どもがだぜ!? そしてその子どもの言うことに答えられなかった先生は、信用も自信もなくして学校を去らざるを得なくなった。長谷は、そのことをすべて見越《みこ》してたんだ。
「歳《とし》をくっただけの奴《やつ》を大人とは認めない」
長谷がよく言うセリフだ。
長谷はこんな頃《ころ》から、もう「大人」だった。そして、子ども[#「子ども」に傍点]には容赦《ようしゃ》しない悪党だった。
人を見る目があって、特にそいつの「つけいるスキ」は絶対|見逃《みのが》さない。これは天賦《てんぷ》の才で、きっと親父《おやじ》さんの血なんだろう。親父さんは、長谷を自分の右腕《みぎうで》に育てるべく、赤《あか》ン坊《ぼう》の長谷の子守唄《こもりうた》代わりに帝王学《ていおうがく》を、おとぎ話の代わりに会社や社会の裏側を語って聞かせたらしい。
どんなりっぱな肩書《かたが》きを持つ紳士《しんし》でも、一皮むけば金と欲にまみれたブタみたいな奴で、そんな連中が世の中を取り仕切っている。きれいごとを言う奴が一番信用ならないというのが、親父さんの座右《ざゆう》の銘《めい》だ。
「町でヨタってる不良なんかは、まだ純でまぶしいくらいサ」
にっこり笑ってそう言う長谷の笑顔《えがお》には、冷《ひ》や汗《あせ》がでる。
一見|普通《ふつう》の高校生である長谷が、実はこんなとんでもない奴だなんて、他の奴は知る由《よし》もないけど、だけどその目の前で「俺らはワルだぜ」と体全体でほざいている連中ときたら……まったくいいツラの皮なんだよな。
ドヤドヤと入ってきた金髪《きんぱつ》、グラサン、ピアス、ネックレス、ブレスレット、ヤクザがしていそうな時計、チェーンに鍵《かぎ》をジャラジャラつけた、いかにも「格好から入りました」って感じをプンプンさせたお子チャマ連中を見るにつけ、アイタタタと同情を禁じえない。せめてシンプルでスタイリッシュ、かつドスのきいた深瀬画家ほどのセンスがあればなあ。
こいつらは、外見がお子チャマなら中身もそうで、椅子《いす》に足を投げ出して座《すわ》り、禁煙席《きんえんせき》でタバコを吸い、ガムを床《ゆか》に吐《は》き出《だ》した。集団でいるということが、奴《やつ》らの強みになっているようだ。ああ、どこまでもお約束な奴らだ。
俺は、思わずチラリと振《ふ》り向《む》いてしまい、そのうちの一人と目が合った。俺はすぐに視線を元に戻《もど》したが、そいつはジッとガンをたれている。その視線が背中|越《ご》しでもわかった。実に嫌《いや》な目つきだ。ギラギラして、後ろ向きで、集団をカサに着た態度がみえみえだ。俺はイライラした。
「チッチッ」
長谷が俺を見て「だめだ」というふうに舌をならした。
「出るぞ、稲葉」
長谷はさっと席を立つと、俺を引っ張るようにしてドライブインを出た。後ろで、連中がウェイトレスをからかう声が聞こえて、俺はどうにもムカッ腹が立った。
「長谷、なあ、あの連中さ」
「いいから、乗れ」
駐車場《ちゅうしゃじょう》からドライブインの玄関前《げんかんまえ》へバイクをまわしてきた長谷は、俺のほうを振《ふ》り向《む》くと、玄関前に並んだ連中のバイクのほうへ顎《あご》をしゃくった。俺は、長谷の意図を理解した。
ガーン!! と、俺は連中のバイクの一台の横っ腹を、思い切り蹴《け》り飛《と》ばしてやった。ガンゴンガンと、並んだバイクがドミノ倒《だお》しになっていく。玄関から連中が飛び出してきやがった。
「ワハハハハハ!!」
俺たちは大笑いしながらバイクを走らせた。
「じき追ってくるぞ、飛ばすぜ!!」
「おう!」
長谷のバイクで峠《とうげ》の下り坂をカッ飛ばした。次々と目の前に現れる急カーブ。俺は、長谷のコーナリングにタイミングを合わせて体重移動する。二人の息がピッタリ合うと、スパッ! という感じでカーブを抜《ぬ》けるんだ。その時の爽快感《そうかいかん》はたまらない!
バイクの大きさに大差はなかったから、二ケツの俺らは、一ケツの奴《やつ》らよりスピードが落ちる。だけど、ライディングテクなら段違《だんちが》いで長谷が上だ。そんなもの見なくたってわかる。長谷も俺の「合わせ」を信用してるから、迷うことなくカーブに突《つ》っこんでゆく。こんな過激なコーナリングが、あんなチャラチャラした連中にできるわけあるか。
「このまま振《ふ》り切《き》るぞ!」
と、思ったのもつかの間だった。
突然《とつぜん》、道路にズラリと車の行列ができていた。
「な、なんだあ!?」
思わず急ブレーキをかける。車の列は時速四十キロぐらいのスピードで、のろのろと進んでいた。ここからは見えないが、この先で事故かなにかが起こったんだ。
「……!」
長谷は、いったんスピードを上げようとして思いとどまった。どうやら俺と同じことを考えたらしい。
そうだ。バイクならこの車列を縫《ぬ》って先へ進める。だけど、この後あのバカバイカーの一団がここへ来たら? 俺たちを追って、同じようにこの車列の中へ突っこんできたら? 並んだ車にぶつかるとか転倒《てんとう》するとか、事故を起こすのが目に見えるようだ。奴《やつ》らが勝手に事故るのはいいが、なんの関係もない車とドライバーたちを巻きこむわけにはいかない。
そんなことをジリジリと考えている間に、ミラーの奥《おく》のほうに、奴《やつ》らのバイクが現れた。
「長谷!」
「ええ、くそっ!!」
グオ!! とハンドルをきると、長谷は前方に見えていた細い横道へ突《つ》っこんでいった。舗装《ほそう》はされているが、なんの道なのかわからない中途半端《ちゅうとはんぱ》な細さの道が、山の上のほうへ続いている。
「この道、どこへ行くんだ?」
「知らねえ!!」
どうか抜《ぬ》け道《みち》でありますように、との俺たちの祈《いの》りは通じなかった。細い道を猛然《もうぜん》と駆《か》け上《あ》がると、パッと視界が開けた。
「ヤベ……! 行き止まり!!」
「あれなんだ! 工場?」
崖《がけ》を背にして、大きな鉄の塊《かたまり》のような建物が建っていた。すでに廃屋《はいおく》となっているが、この道はこの建物への専用道路だったのだ。逃《に》げ場《ば》がない!
俺も長谷も、必死に打開策を考えた。引き返すには道が狭《せま》すぎる。この道ではバイク十数台の集団を突破《とっぱ》できそうにない。周辺はぐるっと切り立った崖《がけ》だった。どこにも抜《ぬ》け道《みち》はない。
俺は、長谷の体にまわした腕《うで》に力をこめた。もう道はひとつしかない。
「長谷! 建物の裏へまわれ!」
廃屋《はいおく》の裏手にちょうどいい具合の茂《しげ》みがあり、その中にバイクを倒《たお》して隠《かく》した。そして俺たちは、でっかい鉄の塊《かたまり》の中へ駆《か》けこんだ。
「なにかの製造工場だな。セメントかな?」
廃屋の内部には、見上げるような大きさのなにかの機械の残骸《ざんがい》があり、すべてが赤錆《あかさ》びていた。それを見ながら階段を上る。
俺と長谷は、五階建ての最上階の部屋に陣取《じんど》った。汚《よご》れた窓からは、外の様子がよく見えた。ガランとした部屋にのこされたロッカーを動かしてドアをふさぐ。
ドロドロドロとエンジン音がして、奴《やつ》らがやってきた。工場前の空き地をグルグルまわっている。このままあきらめてくれと思ったが、全員バイクから降りはじめた。
「全部で十六人か……。俺とお前なら、相手にできない数じゃない」
長谷は、やっぱり俺の考えをわかっていた。「もう迎《むか》え撃《う》つしかない」と。
「あんまりケンカ慣れしてそうにない奴らだし、お前の腕前《うでまえ》をみせつけてやったらビビんじゃねぇか?」
長谷は、合気道四段。スティーブン・セガールばりの「容赦《ようしゃ》ない使い手」だ。長谷の戦い方を見ていると「合気道は守りの武道」なんて誰《だれ》が言ったんだ? と思う。創始者も草葉の陰《かげ》で嘆《なげ》いていることだろう。しかし、
「ビビる神経があればいいんだがな」
と、長谷は肩《かた》をすくめた。
「この頃《ごろ》の不良もどきの性質《たち》の悪さときたら、信じられねぇぜ? 奴《やつ》ら、ホントになんにも知らないってゆーか、なんちゅーか……感覚すらないのな」
「へえ?」
「だから、痛みとか恐怖《きょうふ》に対する加減ってもんがわからねーんだよ。一発|殴《なぐ》りゃすむところを、殺すまで殴っちまう。人に対しても自分のことでも、もうやめなきゃあぶないぞ、っていう感覚がねーんだよ」
「そんなもんなのか」
「特にツルんでる奴らは、どーしよーもねえな」
その「どーしよーもねえ」連中がやってくる。長谷が言ったとおり、俺たちならどうにか勝てるだろうが、こっちも相当のケガを覚悟《かくご》しなきゃならないだろう。集団をカサに着てる連中は凶暴《きょうぼう》だ。しかし、一人一人は案外|臆病《おくびょう》だったりする(だからツルむ)。一人がビビると全員がビビってしまうこともある。
連中は、大声でわめきながら工場内をうろつきはじめた。なにかを倒《たお》す音や、金属同士がぶつかる音、叩《たた》く音ひっかく音が、打ち捨てられた廃屋《はいおく》の中にやたらと響《ひび》き渡《わた》る。俺たちは、息をひそめてドアを見つめていた。このまま見つからなければ一番いいんだが……。
「なにかお困りのご様子で」
背後からそう言われて、俺はうなずいた。
「ああ。困ったもんだな……え?」
はじかれたように振《ふ》り向《む》くと、窓枠《まどわく》に見覚えのある小人がちょこんと立っていた。
「あ、え? お……お、お、お前は……っ??」
「ご機嫌《きげん》うるわしゅう、ご主人様」
昨夜《ゆうべ》見た夢とそっくり同じな、丁寧《ていねい》なお辞儀《じぎ》。中世のおとぎ話に出てくる道化師《どうけし》のような衣装《いしょう》。
「お前は……っ、フール!?」
「左様で」
「えっ? あれっ? 今俺……夢を見てるんじゃねぇよな??」
フールは上品に笑った。
「なにをおっしゃいますやら、ご主人様。夢などではありませぬ。昨夜《ゆうべ》、我々の封印《ふういん》をお解きになり、我々を僕《しもべ》としてくださったのは、ご主人様|御自《おんみずか》らではございませんか」
「…………」
窓の下に放《ほう》り出《だ》したリュックが目に入った。俺はそれをひっつかむと、口を開けた。そこには、昨日秋音ちゃんが持っていったはずの、あの赤黒い本が入っていた。
「なんでここにある!」
「我々は、常にご主人様とともにおりますゆえ」
「おい……」
「じゃあ、夢じゃなかったのか。俺が選ばれたってのも、あの役立たずの精霊《せいれい》どもも……」
「役立たずとは手厳しい。確かにまあ……なかにはその……ぐうたらな者もおりますが」
「おいって……」
「役に立つ奴《やつ》がいたかぁ? 五百円で息切れする魔人《まじん》だの、もうろくジジィだの、嘘《うそ》つき猫《ねこ》だの」
「おい、稲葉!」
「うるせえな! 今……あ」
目の前に、ひきつった顔の長谷がいた。ひょっとしなくても、フールが見えているようだ。ごまかしたほうがいいんだろうか? よくできたフィギュアだとか。
「な、なんだ、それ……」
長谷は、フールを指さした。フールは、これまた丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。
「お初にお目通りいたします。私め、『小《プチ》ヒエロゾイコン』の案内人にして、夕士様の忠実なる僕《しもべ》、| 0 《ニュリウス》のフールと申します。お見知りおきを」
「……っ!?」
長谷の表情が、さらにひきつる。MITでもNASAでもホ○ダでも、こんな精巧《せいこう》なロボットは作れない。それがわかる長谷だけに、これがどれだけ異様な現象なのかが身にしみたらしく、俺は初めて、長谷の顔色が変わるのを拝むことができた。
絶句している長谷に、俺はそろそろと話しかけた。
「さっき話した……ホラ、俺がこの本のご主人様になって……中に精霊《せいれい》が封《ふう》じられてて……」
長谷は、フールを睨《にら》むように見つめた。
「夢の話だろ……?」
「俺も……そう思ってたんだけど……」
俺は盛大《せいだい》に頭をかいた。
「そうじゃなかったみてぇ。ハハ!」
「こちら、ご主人様のお友だちとお見受けいたします。どうかご紹介《しょうかい》くださいまし」
「あ、こいつ、小学校からの親友で長谷泉貴……」
と、その俺の胸倉《むなぐら》をわしづかみにして、長谷が言った。
「なにをフツーに会話してるんだ、稲葉? お前……なにを隠《かく》してる?」
「や……あ」
す、鋭《するど》い……! さすがというしかない。その時、
「こン中だ!! 声がしたぞ!!」
ドアの向こうから絶叫《ぜっきょう》が聞こえた。俺は、長谷の手を振《ふ》りほどいた。
「話は後だ、長谷! フール! なにか……なにか今役に立ちそうな奴《やつ》はないか!」
俺は小ヒエロゾイコンのページをめくった。せっかくここに「異常なもの」があるんだ。奴らと戦えとはいわないが、脅《おど》しとか目くらましとかに使えないものだろうか。なにせ、長谷が絶句したくらいだからな。バカどもにゃ、充分《じゅうぶん》効果があると見た!
「そうだ、こいつ……『悪魔《あくま》』ケルベロス!」
悪魔のページから、バリバリと放電が起こった。
「ケルベロス! 地獄《じごく》の人喰《ひとく》い狼《おおかみ》でございます!」
「おお! いけるんじゃねえ!?」
青白い雷《かみなり》が、ドンと床《ゆか》に落ちる。長谷は呆然《ぼうぜん》とその様子を見ていた。
しかし、そこに現れたのは、なんとも可愛らしい仔犬《こいぬ》だった。まだ目が開いたばかりで、キュンキュンと鳴いた。
「ただし、まだ仔犬でございまして。あと二百年ほどで育ちますかと」
「待てるかあ!!」
ドアが今にも破られそうだ。ケルベロスを本へ戻《もど》し、俺は脅しに使えそうなカードを探した。封《ふう》じている精霊《せいれい》がカードの種類になぞらえているなら、それなりのものが出るはずだ。
「『戦車』ヒポグリフ!」
「ヒポグリフ! 黒いグリフィン。千里を一瞬《いっしゅん》で駆《か》け抜《ぬ》ける神の戦馬でございます!」
バサア――ッ!! と、黒い羽が部屋いっぱいに広がった。それは、馬よりも一まわりほど大きい、まるで龍《りゅう》のような鳥だった。
「うおお―――っ!!」
俺も長谷も絶叫《ぜっきょう》した。目の前にこの世のものではない、しかもすごい生き物が現れて、心臓が口から飛び出しそうになる、とはこのことかと思った。まさにファンタジー映画や、神話の中でしかありえないようなもの。それが鼻の先に「存在」する! しかし、
「こ、こいつに乗れば……っ!」
と、思ったのも束《つか》の間《ま》、ヒポグリフは「クエエ―――!!」と雄《お》たけびを上げながら、窓を突《つ》き破《やぶ》って飛び去った。
「…………」
俺たちは破られた窓を呆然《ぼうぜん》と見た。フールはやれやれと肩《かた》をすくめた。
「神の馬なんだからでございましょうが、なんともはや気難しくて。乗られるのを嫌《いや》がります、はい」
「つ、使えねええ〜〜〜!」
「あれ……どうすんだ?」
長谷は空を見上げながら言った。フールがにこやかにこたえる。
「ご主人様が戻《もど》れと命令すれば戻って参ります」
ドアの外では、興奮してより凶暴《きょうぼう》になっているバカどもの大騒《おおさわ》ぎが続いている。ドアがメキメキと悲鳴を上げている。
「くそぉ、他になにか……『力』なんかどうかな?」
ページをめくろうとする俺の手を、長谷がさえぎった。
「稲葉、この中にいるのは、いろんな精霊《せいれい》だと言ったな?」
「あ? ああ、そのはずだけど」
「あれは、いるかな?」
「あれ……というと?」
「『女皇』メロア!」
「メロア! 水の精霊でございます!」
なにもない空間がキラキラと光《ひか》り輝《かがや》き、その中から水がパラパラと落ち始めた。ドアの周辺を水浸《みずびだ》しにしたいんだが……しょぼい!
「もっと、こう……ザアッとこねーのかよ! 水の精霊《せいれい》ならよ!」
俺はフールに叫《さけ》んだが、フールはひょいと肩《かた》をすくめた。
「なにぶん、まだ力足らずでして」
「あ―――っ、使えねえ!!」
バキン! と、ドアが半開きになり、その隙間《すきま》からバカどもがわめいた。
「おらあ! 逃《に》げらんねぇぞ、てめえら!!」
「ブチのめしてやる!」
バリケードのロッカーがギシギシと動いてゆく。その床《ゆか》に、メロアが落とす水滴《すいてき》が水溜《みずた》まりをつくってゆく。
長谷は、俺の肩を抱《だ》いてささやくように言った。
「あわてるなよ、稲葉」
「お、おう」
俺はドアに向かい、魔道書《まどうしょ》を開いて呪文《じゅもん》を唱える態勢をとっている。まるで、いっぱしの魔道士のように。心臓が痛いくらいドキドキした。
とうとう開いたドアから、バカどもが次々と入ってきた。皆《みな》鉄パイプやら鉄棒やらを持って、目玉をギラギラさせている。これから俺たちをブチのめすのが楽しみで仕方ないって感じだ。
「へへへ」
「ヒヒヒヒ」
その足元に、水溜《みずた》まりができている。連中はなんの疑問もなく、そこへ足を踏《ふ》み入《い》れていく。俺と長谷は壁際《かべぎわ》ぎりぎりまで下がった。
「ざけたマネしやがって、オオ? コラ! おかげでバイクに傷がついちまったぞ、どうしてくれんだ、オオ?」
「あり金出して、おめーらのバイクもよこせや、コラ」
先頭に立った奴《やつ》らが、俺たちのほうへ足を踏み出したその時、長谷が、俺の背中をぐっと押《お》した。
「『塔《とう》』! イタカ!!」
俺の叫《さけ》びに反応し、魔道書《まどうしょ》『小ヒエロゾイコン』が、カッと輝《かがや》いた。
「イタカ! 雷《かみなり》の精霊《せいれい》でございます!」
バリバリ! と、空中に放電が走った。その放電は、連中がふりあげた鉄パイプに落ち、続いて足元の水溜《みずた》まりが、バン!! という衝撃《しょうげき》とともに光った。とたんに、バタバタと連中が倒《たお》れた。
「ぃやったあ!!」
俺と長谷はハイタッチした。予想どおり、雷《かみなり》の精霊《せいれい》の力は一瞬《いっしゅん》で、おそらく電圧もそう高くはないだろう。しかし、奴《やつ》らを感電、気絶させるには充分《じゅうぶん》だった。
「な、なんだあ!?」
残ったバカは、半分ほどの六、七人。急に仲間が倒れたので面食《めんく》らっている。ここでビビって逃《に》げ出《だ》してりゃいいものを、奴らはより凶暴《きょうぼう》になってしまった。持っていた棒っきれを投げ捨てると、ポケットから取り出したのはナイフだった。
「なんのつもりだ、てめーら? 殺す気か?」
長谷が、一歩|踏《ふ》み出《で》た。おお、人前じゃ絶対に見せない凶悪なツラになっている。
「バカどもが。怒《おこ》らせやがって」
と、俺はつぶやいた。お前らが相手にしてるのが、ただの優男《やさおとこ》だと思ったら大間違《おおまちが》いだぞ。人は見かけで判断しちゃダメだって、言われたことねぇか?
「そんなものを出してくる以上、それなりのリスクを負う覚悟《かくご》をしてるんだろうな?」
長谷はそう言いながら指を鳴らした。
「るせえ!!」
突《つ》っこんできたバカの腕《うで》をあっさりと取ると、その腕を容赦《ようしゃ》なく膝《ひざ》の上へ落とす。バキン! と、骨が折れる音が部屋に響《ひび》いた。
「ぎゃあああ!」
そのまま、折れた腕を取ったままそいつを振《ふ》りまわし、壁《かべ》に叩《たた》きつける。そいつは横《よこ》っ面《つら》を壁にぶつけて、ずるずるとへたりこんだ。壁に血の痕《あと》が残る。ああ、鼻も折れたな。
その様子を見て、ちょっとビビりつつも襲《おそ》ってきた次のバカの体をヒョイとかわし、振り向きざま肘鉄《ひじてつ》を顔面に食《く》らわす。それだけで、そいつは崩《くず》れるように倒《たお》れた。
長谷の動きには無駄《むだ》がなく、鮮《あざ》やかで、なんといっても容赦がない。カンフーのように踊《おど》るようではなく、極真《きょくしん》空手のように一撃《いちげき》必殺だ。しかもスピーディで変幻《へんげん》自在。まさに、映画『沈黙《ちんもく》の戦艦《せんかん》』のスティーブン・セガールを見るようなんだ。
さすがにこんな達人|技《わざ》を見せられては、残りのバカどもはビビった。逃《に》げるかどうしようか迷っているようだ。俺は、久々に見る長谷の華麗《かれい》な技を堪能《たんのう》していた。
「ご主人様」
俺の肩《かた》にちょんと乗ったフールが、耳元でささやいた。
「あ?」
「ヒポグリフを呼《よ》び戻《もど》しませんと、世界の果てまで飛んでいってしまいます」
「ああ、忘れてた」
俺は、小ヒエロゾイコンの戦車のページを開き、壊《こわ》れた窓から叫《さけ》んだ。
「戻れ! ヒポグリフ!!」
その三秒後―――。
グオオオ!! と、風が吹《ふ》き、壊れた窓にヒポグリフが突《つ》っこむように舞《ま》い降《お》りてきた。
巨大《きょだい》な鉤爪《かぎづめ》で壁《かべ》に取り付き、首を伸《の》ばして部屋をのぞきこむと「クエエエエ―――!!」と吠《ほ》えた。そのさまは、ヒポグリフの顔が爬虫類《はちゅうるい》っぽいだけに、まるっきり映画『ジュラシック・パーク』だった。そして、シュッと吸いこまれるように「戦車」のページへ戻った。
俺と長谷もびっくりしたが、バカどもはびっくりしたどころじゃなかっただろう。最後に残ったバカ五人は、立ったまま気絶していた。
階段を下りながら、俺は長谷に言った。
「水と雷《かみなり》の作戦はわかるけど、お前、よく本の中にそれがあるかどうかって、思いついたよな?」
長谷は、当然というような顔をした。
「四大元素は魔術《まじゅつ》と切っても切れない関係だろ〜? 絶対その本の中にも、それ系の精霊《せいれい》が入ってると思ったぜ」
「四大元素?」
「火、水、土、風の精のことだ。これが自然界を形づくる元素だという考えさ。この四つに木をくわえた五行思想という考えもある」
「なんでお前が、そんなこと知ってんの?」
相変わらずわけのわからん雑学の豊富な奴《やつ》だ。
「お前こそ、本物の魔道書のご主人様に選ばれたわりには、なんにも知らねーのな。こんなんでいいのかねえ、ホントに」
長谷は、肩《かた》をすくめてせせら笑った。それは俺が訊《き》きてぇよ。
下まで降りてきて最上階を見上げると、壁《かべ》にぽっかりと穴があいている。それを見て、俺たちはたまらず爆笑《ばくしょう》した。
「奴《やつ》ら、立ったまま気絶したな! コントみてぇだった!」
「最初っから奴《やつ》らの前で、ヒポグリフを出せばよかったな!」
「違《ちげ》ぇねえ!!」
ひとしきり大笑いすると、廃工場《はいこうじょう》の前に並んだ奴らのバイクが目に入った。
俺と長谷は顔を見合わせると、ニ〜ッと笑った。
「『力』! ゴイエレメス!」
小ヒエロゾイコンの「力」のページが光る。
「ゴイエレメス! 石造りの魔人形《まにんぎょう》でございます!」
ゴイエレメスは、ローマ戦士風の石像だった。三メートル近いその巨体《きょたい》で、奴らのバイクを次々と踏《ふ》み潰《つぶ》してゆく。
「ただし、時間にして一分ほどしか動けません。一回の総力量は、約三トンでございます」
やっぱりあんまり使えそうにねーけど、今はそれで充分《じゅうぶん》だ。一分の間に、ゴイエレメスはバカどものバイクを全部スクラップにしてくれた。
それから俺たちは、警察にこの場所を報《しら》せて、けが人がいるから救急車をよこすよう頼《たの》み、バイクに飛び乗った。
「イェアア―――ッ!!」
「ィヤッホ―――ッ!!」
すっかり渋滞《じゅうたい》もなくなった峠《とうげ》の道をカッ飛ばす。カーブを抜《ぬ》けるたびに、叫《さけ》ばずにはいられなかった。身体中が爽快感《そうかいかん》でしびれるようだった。俺も、そして長谷も、日常からは考えられない超常現象《ちょうじょうげんしょう》を経験して興奮していた。俺たちは、超常的な力と自分たちの力を合わせ、難局を切り抜けたのだ。
傾《かたむ》きはじめた陽《ひ》の光が、青空の色を濃《こ》くしている。遅《おそ》い午後の光が斜《なな》めに射《さ》しこむ木立の間に、だんだんと近づいてくる町並みを美しいと思った。
「稲葉!」
風を切りながら、長谷が叫んだ。
「おう!」
「全部話せよ!」
「…………」
「俺に隠《かく》し事《ごと》はするな!」
「…………」
小学三年生の頃《ころ》は、ただの友だちだった。犬の子のように一緒《いっしょ》に転げまわって遊んだ。
それから俺の両親が死んで、自分の殻《から》に閉じこもる俺を、黙《だま》って支え続けてくれた親友。
俺たちの間には、他人に見せない顔や他人には話せないことがたくさんできた。長谷だから、俺だから、見せられる顔があった。話せる秘密があった。「こいつならわかってくれる」と確信できたから。
俺は返事をするかわりに、長谷の体にまわした手に力をこめた。長谷の服を、ぎゅっと握《にぎ》りしめた。
「なんか、腹がへったぞ!」
俺が叫《さけ》ぶと、長谷は笑った。
「ああ、俺もだ! ファミレス行くか!」
「もっといいもん食わせてくれ!」
「お前なあ! おごりだと思いやがってよ!!」
春風の中を、バイクは疾走《しっそう》していった。
「おかえりなさい」
妖怪《ようかい》アパートの玄関《げんかん》で、華子さんが迎《むか》えてくれた。華子さんは、いつもここで「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言うだけの幽霊《ゆうれい》だ。着物姿の楚々《そそ》とした日本美人である。着物の柄《がら》は季節によって変わる。今は、桜柄だ。
「ただいま、華子さん。あ〜、疲《つか》れた……」
「あ、夕士くん!」
居間から秋音ちゃんが出てきた。
「ねえ、聞いて! 昨日古本屋さんから預かった、あの封印《ふういん》された本がなくなっちゃったのよ!」
「あ〜……」
「確かに病院へ持っていったはずなのに! 夜の間は忙《いそが》しいから、朝、藤之先生にみてもらおうと思ってたらないの! もう、病院中|捜《さが》したのよ!」
「ああ、それで秋音さん、朝飯ん時にいなかったんだ」
「きっと逃《に》げられたんだよ」
縁側《えんがわ》で古本屋が笑った。詩人と画家とで、大人どもはまた酒盛りの真っ最中だ。
「でもおかしいわ。封印《ふういん》されている以上、ただの本のはずよ。急に意思を持って逃《に》げるなんて」
俺は、もそもそとリュックを探《さぐ》った。
「ご心配なく。ここにあるっス」
俺が手にした本を見て、みんな驚《おどろ》いた。
「なんで?」
昨夜《ゆうべ》のことと、今日のことをみんなに話した。
秋音ちゃんも、詩人も画家も古本屋も、驚き、感心し、笑った。秋音ちゃんと古本屋は、さすがに『ヒエロゾイコン』のことを知っていた。その世界じゃ、超有名《ちょうゆうめい》な魔道書《まどうしょ》らしい。『小ヒエロゾイコン』は、静かにみんなの前にあった。
「いやあ、まいったなあ……」
頭をかきながら、古本屋はため息した。詩人も唸《うな》った。
「悠久《ゆうきゅう》の時間の海で、広大な世界の果てで、巡《めぐ》り合《あ》うものたちがいる。一つの奇跡《きせき》だよねー」
「おおげさっスよ、一色さん。悠久の時間の海で、広大な世界の果てで巡り合った割には、俺も本も、どっちも大したものじゃないし」
俺は苦笑いした。
「でも、運命を感じるわよネ」
「ああ。お前がここにいなけりゃ[#「ここにいなけりゃ」に傍点]、なかった出会いだぜ」
秋音ちゃんも画家も感慨《かんがい》深げだ。
「それは……まあ」
奇跡《きせき》? 運命? どっちも信じてなかった。ここにくる前までは。
でも今は……。
今は、奇跡も運命も信じている。信じられる。このアパートに最初に導かれたことこそが、奇跡であり運命だと思えるからだ。
俺は、小ヒエロゾイコンを手にとった。
「主を捜《さが》していた」とフールは言った。長い時間を彷徨《さまよ》って、やっとみつけたと。それが俺だと。四大元素を知っていた長谷よりも、俺に「魔道書《まどうしょ》の主」たる資格があるのはなぜだろう? 「素質と感応力《かんのうりょく》」とはなんだろう?
ひょっとしたら、このアパートに導かれたことこそが、俺の「素質」なんだろうか?
俺は、この奇跡を運命として受け入れるべきなんだろうか? もう本の主には認定《にんてい》されてしまってはいるが。これから、俺はどうすればいいんだろう?
「なに言ってんの? まわりは専門家だらけじゃないの!」
詩人が笑った。
俺は、秋音ちゃんを見た。秋音ちゃんは、うんとうなずいた。
「なんでも訊《き》いて、夕士くん。なんでも教えるから。藤之先生や龍さんっていう最高の専門家もいるわ。古本屋さんも、みんな協力してくれるわ。大丈夫《だいじょうぶ》よ」
秋音ちゃんは、俺の手を握《にぎ》った。
「夕士くんが、超常現象《ちょうじょうげんしょう》とは無縁《むえん》な、普通《ふつう》の暮らしがしたいって思ってることは知ってる。でもこうなってしまった以上は、なるべく霊的《れいてき》なトラブルを防ぐためにも、知識は身に付けておいたほうがいいの。関《かか》わらないことから、コントロールすることへ切《き》り替《か》えるのよ」
秋音ちゃんの言う事は、とてもよくわかった。俺は思わず、こくこくとうなずいてしまった。
「古本屋さん。これ……俺が買うことはできるスか?」
「どうせオマケだ。もらっとけ!」
画家が笑った。古本屋はおおげさに肩《かた》をすくめた。
「もうお前のもんなんだろ?」
「ありがとうございます!」
なんだか鳥肌《とりはだ》が立った。これからどうなっていくんだろうって、怖《こわ》いような楽しみなような、なんともいえない気分になった。
「ねぇねぇ、そのなかにどんな精霊《せいれい》がいるの〜? なんか見せてぇ〜」
詩人が面白そうにすり寄ってきた。画家も古本屋も拍手《はくしゅ》した。
「おお、見せろ見せろ!」
俺は頭をかいて苦笑いした。
「ほんっと、大したことないんスよ。一瞬《いっしゅん》風が吹《ふ》くとか、水がパラパラ降るとか。力を使い果たして、当分出てこられない奴《やつ》もいるし」
「あははは、いいねえ!」
本のページをパラパラめくる。
「一応、タロットカードの種類になぞらえているらしいんスけど」
「ということは、『死神』は死神が出てくんの?」
「さあ、それは……。だから俺も、死神は呼びづらいんス。……フール!」
皆《みな》の目の前に、フールがちょんと姿を現した。
「お呼びでございますか、ご主人様」
「おお〜〜〜っ!」
幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》は見慣れているはずのみんなが、なぜか身を乗り出す。
「これはこれは、皆様《みなさま》おそろいで。私め、魔道書《まどうしょ》『小ヒエロゾイコン』の案内人にして、夕士様の忠実なる僕《しもべ》、| 0 《ニュリウス》のフールと申します。以後、お見知りおきを」
そう言って、フールはクソ丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。
「この本をつくった魔道士って誰《だれ》だい?」
と、古本屋が尋《たず》ねた。
「以前の主のことにつきましては、お答えできかねます」
秋音ちゃんはうなずいた。
「作者がわかると、本の秘密もわかってしまうわ。答えられないようになっているのね」
「『死神』を呼び出しても大丈夫《だいじょうぶ》かな?」
「ご心配には及《およ》ばないかと存じます」
「そうか……じゃ、まあ試《ため》しに……」
俺は「死神」のページを開いた。大鎌《おおがま》をもった骸骨《がいこつ》が描《えが》かれている。
「『死神』! タナトス!」
絵から生まれた放電が、バリバリと床《ゆか》へ落ちる。みんなは、一瞬《いっしゅん》息を呑《の》んだ。
「タナトス! 冥界《めいかい》の王に仕えし、死の大天使の眷属《けんぞく》でございます!」
そこに現れた「死神」は、小さな子どもくらいの背丈《せたけ》に黒灰色《こっかいしょく》のローブをまとい、小さな鎌《かま》を持っていた。ローブの中に顔は見えない。中は真っ黒だった。やたら小さいことをのぞけば、ちょっと気味が悪い姿である。そして、その小さな死神は叫《さけ》んだ。
「お前は、三日以内に死ぬ!!」
ビシッ!! と指さした相手は、ソファに座《すわ》っていたクリだった。
「…………」
すごく寒い「間」があって、詩人が俺の肩《かた》をポンと叩《たた》いた。
「この本がどんなものか、よぉ〜〜〜くわかったよ、夕士クン。まあ、がんばってネ」
「るり子! 熱燗《あつかん》くれ、熱燗! なんか寒くなっちまった」
「おつまみ、もっとちょーだい、るり子ちゃ〜ん」
大人どもは、もう「どうでもいい」とばかりに宴会《えんかい》を再開した。そんなに早く切り捨てなくてもいいじゃないか! あんたらが見たいって言うから見せたんだよ!
「…………だから……大したことないって…………」
「左様。タナトスはまだ修行《しゅぎょう》もなにもできておりませぬゆえ、大した死相は読めません、ハイ。ご安心を」
そういうことを言ってんじゃねえよ!
「本物のヒエロゾイコンレベルじゃなくて良かったじゃない、夕士くん」
クスクス笑いながらも、そう言ってくれたのは秋音ちゃんだった。
「え?」
「魔的《まてき》、霊的《れいてき》なものを扱《あつか》うには、それなりのエネルギーがいるのよ。霊的な道具は、使い手の命を吸って力を発揮するものなの」
「命を吸う? マジ!?」
「だから、もしこれが本物のヒエロゾイコンだったら、魔物を一|匹使役《ぴきしえき》するだけで、君はひっくり返っていたかもよ?」
そういえば、さっきからやたら疲《つか》れた感じがするのは……。慣れない状況《じょうきょう》が続いたからだと思っていたけど。
「命を削《けず》ってた……ってわけ、俺?」
冷《ひ》や汗《あせ》のたれる俺の顔をのぞきこんで、秋音ちゃんは言った。
「明日から始めようね」
「は? なにを?」
「霊力《れいりょく》アップのトレーニングよ。春休みの間は集中特訓ね! 藤之先生に相談しなくちゃ。あ、バイトは全部キャンセルしてね、夕士くん。最初はトレーニングと両立は無理よ」
実にあっけらかんと可愛らしく、秋音ちゃんは笑ってそう言った。大人どもが大笑いした。俺だけが、呆然《ぼうぜん》としていた。なんだか展開が早すぎないか!?
「すばらしい! やはり、我らの主となられるだけあります。環境《かんきょう》も完璧《かんぺき》ですな。しっかり訓練にお励《はげ》みあそばしませ、ご主人様!」
呑気《のんき》にそうぬかすフールを、キュッとひねり潰《つぶ》したくなった。
いよいよだるさを増した体をひきずるようにして部屋へ帰り、布団《ふとん》の上に倒《たお》れこんだ。
「あ〜〜〜〜ゥ……」
今日起こったことが信じられない。明日になれば、それこそ全部夢だったってことになっても不思議じゃない気がする。運命は、いつでも突然《とつぜん》やってきて人生をかきまわす。
ふと見ると、半分|布団《ふとん》の下敷《したじ》きになった五百円玉があった。ゆうべ、ジンが魔法《まほう》で出した五百円玉だ。こんなとこにあったのか。
その五百円玉を手に取ると、俺は無性《むしょう》に笑えてきた。理由はなんだかわからない。とにかくおかしくておかしくて。布団に顔を突《つ》っ伏《ぷ》して大笑いした。そして、そのまま眠《ねむ》ってしまった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/02_099.png)入る]
修行《しゅぎょう》中です
ドンドンドン! ドアが大きくノックされた。
「なっ、なんだ?」
ぐっすり眠《ねむ》っていた俺は、叩《たた》き起《お》こされてしまった。時計を見ると、午前五時だった。
「なんだ?」
ドンドンドン!
「ゆーうーしークン!」
「秋音ちゃん!?」
この時間、いつもは彼女《かのじょ》はまだ月野木病院にいるはずだ。ドアを開けると、やっぱり秋音ちゃんだった。こんな時間なのに、今日もメチャメチャ元気だ。
「おはよーっ! あれ、服のまま寝《ね》たの、ひょっとして?」
「な、なに?」
秋音ちゃんは、パン! と両手を合わせ合掌《がっしょう》した。
「朝のお勤めの時間です」
「はあ?」
朝、午前五時半。まだ真っ暗。そして寒い! 冷えた空気の中を、ふわふわと青白い発光体がいくつもゆらめいていた。その青い光が、寒さを余計つのらせる。
そんななか、俺はアパートの前庭に海水パンツ一丁で立っていた。目の前には、水が張られた大きめのタライと、ホースを持った秋音ちゃん。
「はい、夕士くん。中に入って」
「はあ」
足首まで冷水につかる。一瞬《いっしゅん》で全身に鳥肌《とりはだ》が立つ。
「うおぉぉぉおおお〜〜〜っ!」
「大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫。すぐ慣れるから!」
にこやかにそう言う秋音ちゃんが鬼《おに》に見えた。可愛らしい鬼女《きじょ》は、ホースの水を俺の膝《ひざ》へ、太ももへとかけてゆく。そのたびに、鳥肌《とりはだ》が二重三重に立ってゆく。
「じゃ、そろそろいくわよ〜♪」
軽〜くそう言って、秋音ちゃんは俺の頭のてっぺんから水を容赦《ようしゃ》なくぶっかけた。
「どわぁぁぁぁあぁあああ〜〜〜っ!!」
全身総毛立った肌が水を弾《はじ》く。
「経文《きょうもん》を唱えて、夕士くん!」
俺は歯の根をガチガチいわせながら、秋音ちゃんが用意した経文(プラスチックコーティング済み)を読んだ。
「ロ、ロ、ロ、ロケイロケイロケイ タケイタケイタケイ……こ、こ、これ、なんだ?」
「霊力《れいりょく》を高める経文よ。寒いのはわかるけど、経文を唱えることに集中して!」
頭から冷水を浴びせられて、わけのわからん呪文《じゅもん》を唱えることに集中しろと言われても。
俺はヤケクソとばかりに大声で経文を読んだ。
「ロケイロケイロケイ タケイタケイタケイ……」
あまりに寒くて痛い! 俺は足踏《あしぶ》みしながら必死で経文を唱えた。吐《は》く息が真っ白だ。
「くっそぉ! なんでこんなことやんなきゃならねーんだよ!!」
と心の中でわめきつつ、なぜか経文《きょうもん》から目が離《はな》せない。口は次から次へと経文を唱え続ける。
「ロケイロケイロケイ……」
そりゃあなあ、アパートに帰ってきたいと思ったのはホントだよ。だがなあ、魔道士《まどうし》なんかになるつもりは、これっぽっちもなかったんだからな! これは「青天の霹露《へきれき》」ってやつだよ。好きで魔道書の主になったわけじゃないんだ。妖怪《ようかい》アパートに住んでいてこう思うのもなんだけど、平穏《へいおん》無事に暮らしたいんだ、俺は!
「夕士くん、もういいわよ!」
「えっ、なにが?」
ハッと気づくと、あたりはすっかり明るくなっていた。
「え? あれ?」
俺はキョロキョロした。青空から朝日が射《さ》しこんで、アパートの前庭は明るく輝《かがや》いていた。青白い発光体は姿を消し、開花した花々の上を蝶《ちょう》や蜂《はち》が飛んでいた。
「さ! お風呂《ふろ》で体を温めてきて。朝ご飯にしよう!」
秋音ちゃんがバスタオルを体にかけてくれた。
「お、終わり?」
「二時間やったら充分《じゅうぶん》よ」
「二時間? 二時間もたったのか?」
「そうよ。今、七時半だもん」
「マジ!? 俺、ちゃんと経文《きょうもん》読んでた?」
「読んでたわよ。ずーっと」
秋音ちゃんは笑った。俺は呆然《ぼうぜん》とした。二時間もたったなんて。夜が明けるはずだ。でも信じられない。五分もたっていない感じがするのに。
「どうなってんだ?」
熱い温泉に全身ひたって痺《しび》れまくりながら、俺は首をかしげた。経文を唱え始めた記憶《きおく》はあるけど、その次はもう二時間後だった。まるでタイムスリップだ。
風呂《ふろ》から上がると、猛烈《もうれつ》に腹が減っていた。くらくらくるほどだ。食堂から漂《ただよ》ってくるいい匂《にお》いを嗅《か》ぐと気絶しそうになった。
「よお! 修行《しゅぎょう》はどうだね、新米|魔道士殿《まどうしどの》!」
「朝はまだ寒いのに水行とは、本格的だねえ」
画家や詩人が盛大《せいだい》に笑ってくれた。楽しんでもらえて光栄のいったりきたりだ。
「魔道士《まどうし》になる前に餓死《がし》しそうっス」
俺はよろけながら席についた。その目の前に、ドンと朝飯がやってきた。
「修行《しゅぎょう》≠ヘ、お腹《なか》が減るものなの。ハイ、特別メニュー!」
秋音ちゃんは、るり子さんにたのんで俺用の飯を用意してくれていた。
「お酢《す》でサッパリ牛肉のアスパラ巻きに、た〜っぷりの朝摘《あさづ》みトマトとキュウリのサラダ。温泉卵をおとした牛そぼろごはんよぉ!」
なんてうまそうな牛肉の匂《にお》い! トマトとキュウリの鮮《あざ》やかな色が本当にきれいだ。
「朝から牛肉!? しかもすごいボリュ〜ム」
「肉とか食っていいのか? なんか、修行|僧《そう》は精進《しょうじん》料理ってイメージだけど」
詩人も画家も驚《おどろ》いている。秋音ちゃんは笑った。
「宗教的な修行じゃないから。夕士くんには、バランスのとれた栄養満点の食べ物が一番いいの。基本の基本は体力です。育《そだ》ち盛《ざか》りだし」
「う〜〜ま〜〜い〜〜ぃぃ!」
俺は、どんぶりに大盛りのそぼろ飯を食ったあと、どんぶりに大盛りの白飯を三|杯《ばい》おかわりした。あつあつの飯に、付け合わせのジャコおろしをのせて醤油《しょうゆ》をかける。これだけで食える! それにシジミの味噌汁《みそしる》! 白菜の漬物《つけもの》!!
「秋音さんが、大飯食うのがわかったよ」
と、飯をかきこみながら、同じく大盛り飯をかきこんでいる秋音ちゃんに俺は言った。
「デショ♪」
そんな俺たちを見て、詩人と画家は笑っていた。
「キラリ、青春……だねぇ」
「そうかぁ? 大食い選手権みてぇだけど」
ようやく人心地《ひとごこち》ついて、コーヒーを飲みながら詩人たちと話した。
「経文《きょうもん》を唱え始めると、時間の感覚が飛んだんだ。五分ぐらいしかたってないみたいなのに、二時間たってた」
「トランス状態になったのよ」
「トランス?」
「瞑想《めいそう》状態ってこと。意識がすごく集中した状態のことね」
俺はもちろん、瞑想状態なんて今までなったことはない。それって、そんなに簡単になれるものなんだろうか。
「条件によるわね。夕士くんが唱えた経文《きょうもん》が、それ用のものだったし。それにしても、やっぱり夕士くんって素質があるんだわ。五分ぐらいにしか感じなかったって、すごい集中力よ」
「そ、そうかな?」
褒《ほ》められたのか? 喜ぶところなのかな? よくわからない。
「瞑想状態って、脳にアルファ波が起こっている状態をいうんだってネ。こんな話があるよ」
と、詩人が言った。
「インドの楽器で、シタールって弦楽器《げんがっき》があるんだけど、この音色は脳にアルファ波を起こさせるらしいんだ。で、ある人がシタールを弾《ひ》こうと思って、ジャラ〜ンとひと弾きしたわけ……次に気づいたら、四時間たってたって」
「へえ……!」
「同じね。シタールを弾いている間、その人はトランス状態だったんだわ」
「時間が飛ぶ感覚ってのは、よくあるぜ。集中して仕事をしている時なんかそうだろ?」
ああ、そうか。気がついたら何時間もたっていたってこと、たまにあるよな。面白い本を読んでいるとか、勉強しててもそうなることがある。あれも一種のトランス状態ってことか。
「脳の無意識の部分が、活発に働いているのよ。そこは、超能力《ちょうのうりょく》や霊能力《れいのうりょく》の領域でもあるの」
俺は素直《すなお》に感心してしまった。テレビで見るような超能力や霊能力というと、胡散臭《うさんくさ》い気がするし、そういう扱《あつか》いしかされていないけど、やっぱり本物の霊能力者は、しっかり足が地についている感じがするな。超能力も霊能力も科学的に証明はされていないし、できないけど、秋音ちゃんや龍さんの物言いを聞いていると、ちゃんと「科学的」な感じがするから不思議だ。
「結局のところ、科学の最、最先端《さいせんたん》にいっても、証明できないものが山ほどあるもの。分子の中の構造も、わからないことがあるのよ。そこにあるもの≠フ存在を証明できないの。これって、まるで幽霊《ゆうれい》や超能力の話をしているみたいでしょ?」
「昔、科学と魔法《まほう》は同じだったね。今また、そこに帰ろうとしてるんだね」
秋音ちゃんの話と詩人の言葉は、なんだかちょっと感動的だった。どんなに科学が進んでいるように見えても、答えは案外、出発点にあるものなのかもしれない。
「さてと」
秋音ちゃんが席を立った。
「次のメニューまで少し休んでて、夕士くん」
「えっ、まだやんの?」
「まだやるのよ」
当然のようにそう言って、鬼女《きじょ》は可愛らしく笑った。
「じゃあな。がんばれよ、新米」
「さ〜、玄関《げんかん》を掃除《そうじ》しよ〜っと」
「…………」
居間のソファにぽつんと残された俺の横に、クリがよいしょと登ってきた。じっと俺を見上げると、その小さな手で俺の膝《ひざ》をぽんぽんと叩《たた》いた。
「クリ!」
俺はクリを抱《だ》きしめた。
「俺の味方はお前だけだ!」
と、言ったところまでは覚えているが、どうやら俺はその後、気絶するように眠《ねむ》ってしまったらしい。
秋音ちゃんに起こされた時、俺はクリとシロを抱《だ》くようにして寝《ね》ていた。秋音ちゃんがクスクス笑う。
「子どもと一緒《いっしょ》に寝《ね》ているお父さん……ってゆーよりは、ぬいぐるみと一緒に寝てる子どもみたいね」
「……っ」
一つしか違《ちが》わないくせに、言いたい放題言ってくれるぜ。
「さて、お昼ご飯です!」
秋音ちゃんは居間のテーブルの上に皿を一枚置いた。そこには、こんがりうまそうなトーストが一枚のっていた。
「………………これだけ?」
「あ、野菜ジュースも」
「それだけ……?」
「今は食べないほうがいいの。また後でね」
「ああ……」
俺は、トーストをもそもそ食った。トーストそのものはうまかった。サクサクとした歯ざわり、たっぷりと塗《ぬ》られた蜂蜜《はちみつ》とバターが、たった一枚ぽっちのトーストをなんとも贅沢《ぜいたく》にしてくれた。
食後、秋音ちゃんは俺をアパートの一階の奥《おく》へ連れて行った。そこは、使われていない部屋だった。
六|畳《じょう》一間の部屋はガランとして真っ暗で、部屋の真ん中に蝋燭《ろうそく》が一本立っていた。秋音ちゃんはそこに火を灯《とも》した。
「そっちに正座して、夕士くん。はい、今度読むのはこれね」
渡《わた》された経文《きょうもん》らしきもののタイトルには見覚えがあった。
「般若心経《はんにゃしんぎょう》!?」
「……の、訓読」
「訓読! へえ……。え、と……観自在菩薩《かんじざいぼさつ》……深般若波羅密多《じんはんにゃはらみった》を行《ぎょう》ずる時《とき》 五蘊皆空《ごうんみなくう》なりと照見《しょうけん》して 一切《いっさい》の苦厄《くやく》を度《ど》したもう……」
「舎利子《しゃりし》 色《しき》は空《くう》に異《こと》ならず 空は色に異ならず 色|即《すなわ》ち是《こ》れ空 空即ち是れ色 受想行識《じゅそうぎょうしき》も亦復是《またまたかく》の如《ごと》し」
俺は秋音ちゃんに倣《なら》いながら、それを読んだ。一応読み仮名はふってくれているが、般若心経なんて見るのも初めてだから戸惑《とまど》った。だが、般若心経の訓読っていうのは、要するに漢語調なんだな。どうりで響《ひび》きに馴染《なじ》みがあると思った。そして訓読というのは、経文の意味がよくわかるようになっているんだ。俺は、けっこう興味深く読みこんでいた。
真っ暗な部屋の蝋燭《ろうそく》一本の明かりのもとで、俺は秋音ちゃんについて般若心経《はんにゃしんぎょう》を繰《く》り返《かえ》し繰り返し唱え続けた。
そのうちに、自分が唱えている経文《きょうもん》が頭の中に響《ひび》くような感じがしてきた。それはだんだんと強さを増し、まるで合唱のように二重三重とこだました。
「お、お、お……!?」
体はちゃんと経文を唱え続けているものの、意識は別にあって、自分の頭の中に何重にも重なり合う経文の間を、くるくると舞《ま》い漂《ただよ》っている。
経文は文字になって線のように連なり、それが波紋《はもん》のように折り重なり、大きくなったり小さくなったりしながら、俺の体を突《つ》き抜《ぬ》けていったり、また戻《もど》ってきたりした。
経文の海の中で、俺は波間の木の葉のように翻弄《ほんろう》された。それは一種|眩暈《めまい》のようで、気持ちよくもあり、気持ち悪くもあった。
「ランチがトースト一枚だったわけは、これか! なるほど、腹いっぱい食ってたら吐《は》いてたかもな」
この現象がどういうものなのか知る由《よし》もないが、ちゃんとしたセオリーがあるんだと思った。秋音ちゃんは、セオリーにのっとってやっているんだ。それは、素人《しろうと》の俺を納得《なっとく》させ、安心させるものだった。
「はい。これぐらいにしとこうか」
という秋音ちゃんの声に、ハッと我に返った。ドアが開けられ、空気が入《い》れ替《か》わる感じがする。
とたんに、ズシンと体が重くなった。汗《あせ》が吹《ふ》きだし、頭がクラクラした。
「うおっ!」
立とうとしてひっくり返った。
「あ、足が痺《しび》れ……あ! つ、つ、つった! 痺れた! つった! イ、イテテテ!」
秋音ちゃんが、笑いながら俺の足をマッサージしてくれた。ジンジンに痺れているのとマッサージが気持ちいいのとで、俺は悶絶《もんぜつ》状態だ。
「がんばったもんね、夕士くん。初めてにしては大したもんだわ」
「というと?」
「もう、夕方の五時よ」
「マジ!?」
今度は五時間近くも時間が飛んだ。それに比例して、疲労度《ひろうど》もハンパじゃない。体は鉛《なまり》みたいに重くて、俺は立ち上がることもできなかった。汗《あせ》はダラダラ流れてくるし、頭の芯《しん》は貧血《ひんけつ》を起こしているみたいに痺《しび》れてるし、腹が減りすぎて吐《は》き気《け》がした。
「とりあえずお水を飲んで。ゆっくりね」
大きめのグラスに入った水を、ぐぐぐっと飲み干す。
「うっひゃー! メチャクチャうまい! 生き返るってこのことだな」
「まさに、甘露水《かんろすい》でしょ」
水を飲んだとたん、体がグッと楽になった。でもまだ立てそうになかった。そこへ、古本屋がのぞきにきた。
「よーぅ、やってるな」
「ちょうどよかった、古本屋さん。夕士くんをお風呂《ふろ》に入れてあげて」
俺はギョッとして秋音ちゃんを見た。「お風呂に入れてあげて」って!?
「いい、いいよ。一人で行くから」
「ダーメ。立つこともできないのに、無理はしないの」
「で、でも」
「俺が嫌《いや》なら、まり子ちゃんに頼《たの》むか? 人間じゃないから恥《は》ずかしくないぞ?」
古本屋はニヤニヤして言った。くそーっ、俺に選択権《せんたくけん》はないのか!!
妖怪《ようかい》アパートの廊下《ろうか》に、俺の悲鳴が轟《とどろ》いた。
「お姫様抱《ひめさまだ》っこはやめてくれ――っ!」
「暴れない、暴れない♪」
「サッと汗《あせ》を流してきて。夕ご飯用意しとくから。あ、着替《きが》えは一色さんに持ってってもらうからー!」
これも「修行《しゅぎょう》」のうちなんだろうか? 俺は古本屋に抱っこされ、裸《はだか》に剥《む》かれ、ご丁寧《ていねい》にお湯までかけてもらった。妖怪アパートのベテラン住人に対しては屈辱《くつじょく》を感じようもないけれど、男としてのプライドがちょっと傷ついたぜ。
でも、温泉につかったら血行がよくなったのか元気がでた。風呂《ふろ》から上がる頃《ころ》には歩けるようになっていた。やっぱり温泉ってすごいよな。
食堂では、不良大人どもが早くもできあがっていた。詩人に画家に、山田さん、まり子さんたちが、人のネタでうまそうにビールを飲んでいる。
「新米|魔道士《まどうし》にカンパ―――イ!」
「カンパーイ!」
「何百年ぶりに封印《ふういん》の解かれた魔道書を祝して!」
「カンパ―――イ!」
人の気も知らねーで勝手に盛り上がりやがって、この人たちときた日にゃ。でも、文句を言うには、俺は腹が減りすぎていた。
「おおっ、この薄造《うすづく》りはなに? 河豚《ふぐ》?」
古本屋がテーブルに飛びついた。
「あなごだ。河豚より脂《あぶら》がのっててうめぇぞ」
「うおぉ〜っ!」
あなごの薄造りに、桜エビとそら豆のかきあげ、胡麻豆腐《ごまどうふ》と山菜のおひたし。見た目も彩《いろど》りも上品このうえない。あなごの刺身《さしみ》なんて、俺は初めて食った。
「脂がのってるってわりには、アッサリしてるスね!」
「うまい〜! やっぱ、刺身だよな〜!」
「あんまりバクバク食べちゃ後が入んないわよ、夕士くん!」
秋音ちゃんが笑いながら、次の逸品《いっぴん》を持ってきてくれた。
「スタミナねぎチャーシュー丼《どん》と、おかわり自由のミニラーメンでございま〜す!」
「すっげ、うまそう〜〜〜!!」
きざんだチャーシューに、ねぎと焼き海苔《のり》と胡麻《ごま》をたっぷりのせた丼《どんぶり》。鳥ガラだしのあっさりラーメンには、きざんだ鳥の唐揚《からあ》げと白髪《しらが》ねぎ、薄切《うすぎ》り肉《にく》と五目野菜のあんかけの、二種類のトッピングが用意されていた。
チャーシュー丼は、チャーシューと海苔の相性《あいしょう》が抜群《ばつぐん》によくて、あとから胡麻の香《かお》りが効いてくる。ラーメンは二種類とも一|杯《ぱい》ずつじゃ足りない! とまらない! あっさりダシ汁《じる》と、ボリュームのある具が絶妙《ぜつみょう》だ。体力がみるみる回復する気がする。
「ラーメン〜〜〜! 日本人の魂《たましい》〜〜〜!」
古本屋は、感涙《かんるい》にむせびながらラーメンをすすった。ラーメンは一年半ぶりの古本屋でなくとも、このうまさは感涙ものだぜ。俺は声もたてずにかきこんだ。
「フォローもバッチリね、秋音ちゃん」
まり子さんがビール片手にウインクする。はあ、そんな仕草がなんともサマになる。そのままCMになりそうだ。
「夕士くんは素人《しろうと》だし若いから、精神力よりもまず体力だもんね。体力あってこそ、精神力も生まれるし、持続もします」
「健全で堅実《けんじつ》な理論だ。そこらのインチキ新興宗教家に見習わせたいね」
大人どもが笑った。
「夕士くんは別に、本格的な魔道士《まどうし》になるわけじゃないからね。難行苦行で自己からの脱却《だっきゃく》なんて、あたしでもできないわよ。夕士くんが身に付けなきゃなんないのは、いうなれば基礎《きそ》体力≠ヒ」
「基礎体力!?」
「最低でも、自分の使い魔の、基本的な能力を使いこなせるだけの霊力《れいりょく》は持っておかないとね」
「そういう意味の基礎体力≠ゥ……」
「そこから先の霊力というのは、また別の次元の話になるから」
単純な俺の体は、るり子さんの特製激うま飯をあまさず吸収して、すぐに体力を回復した。デザートに、羽二重粉《はぶたえこ》で白粉化粧《おしろいげしょう》をしたような、上品な花見三色団子をいただいて、今日一日が終わった。そして体力を回復した体は、次は睡眠《すいみん》を要求した。
「なるほど。この調子じゃ、バイトなんて絶対無理だな」
眠《ねむ》くてヨロヨロしながら部屋へ帰る俺に、秋音ちゃんが廊下《ろうか》から声をかけてきた。
「すぐに慣れて、バイトもできるようになるわ、夕士くん。少しの辛抱《しんぼう》よ」
「ウス」
俺は笑って手を挙げた。秋音ちゃんも手を挙げ返した。
「じゃ、いってきまーす!」
そうだった。彼女《かのじょ》はこれから妖怪《ようかい》病院でバイトなんだ。俺に付き合って、朝五時から修行《しゅぎょう》をしてきて!
「……すげえ!」
今俺は、この女子高生がどれほどすごい奴《やつ》か、身にしみて理解したのだった。
一週間が過ぎて、ようやく体が慣れてきた。昼の五時間|般若心経《はんにゃしんぎょう》読みの後でも、一人で風呂《ふろ》に入れるようになった。
この一週間、朝から晩まで、まさに修行して、食って、寝《ね》て、修行して、食って、寝る、だけだった(修行《しゅぎょう》といっても、ただひたすらにひたすらに経文《きょうもん》を読むだけだが)。他はなんにもしていない。した覚えもない。肝心《かんじん》の『小ヒエロゾイコン』も机の上に置きっぱなしで、一度も開いていない。そんな余分な力がないんだ。必要最低限のことをするのが精一杯《せいいっぱい》だった。例えば風呂《ふろ》へ入るとか便所へ行くとか。
だが、徐々《じょじょ》に余裕《よゆう》はできてきているらしい。般若心経《はんにゃしんぎょう》を唱えている間、頭がグラグラしなくなったし、より経文に集中できるようになってきたみたいだ。
「さすが若い男は、力がつくのが早いわ〜」
と、夕飯を食いながら十七|歳《さい》の秋音ちゃんがオバチャンみたいなことを言った。秋音ちゃんは、バイトのシフトを少し変えて、ずっと俺の修行についてくれている。
「俺、もう一人でも風呂に入れるし経文読むのも慣れたから、ずっとついててくれなくてもいいぜ、秋音さん」
しかし、秋音ちゃんは首を振《ふ》った。
「トランス状態の間は、意識にすごい隙《すき》ができるの。そういう無防備な状態を、神霊《しんれい》や妖霊《ようれい》はとても好むものなのよ。特に霊的な修行をしている間は、専門家がついて見張っていないとね」
俺は、思わず箸《はし》を止めた。
「……つまり、とり憑《つ》かれやすいと」
秋音ちゃんは大きくうなずいた。
「それに意識もズレやすいの。自己が解放されているわけだから、しっかり見張っていないと、素人《しろうと》は変なとこがスポンって、開いちゃうことがあるのよ」
「変なところがスポン……とは?」
「そうねえ……トラウマがある人はそれが甦《よみがえ》ってパニックになったり、恐怖心《きょうふしん》に取りつかれて、そのまま発狂《はっきょう》したり、異常に興奮して心臓|発作《ほっさ》を起こしたり」
「ドラッグのバッドトリップに似てるな」
「同じことよ。自己解放をするのに薬を使うっていうだけ。ただし自己解放は、慎重《しんちょう》に心をコントロールして、タイトに行わないと危険なことなの。薬なんかで簡単にやっちゃ、反動も大きいのよ」
「へえ!?」
「本当は自己解放≠チて、とっても怖《こわ》いことなの。自己|啓発《けいはつ》セミナーとか、ヨガ道場とか、精神|修行《しゅぎょう》とかの、もっともらしい名前を騙《かた》ってるインチキサークルの問題があるでしょ? そこじゃ専門家も置かないで、簡単に自己解放をしましょう≠ニか言って、やってることがあるのよ。それで本当におかしくなっちゃった人が大勢いるんだから!」
「怖《こえ》ぇな」
「ああああ〜〜〜、カレーの匂《にお》いだあぁ〜!」
古本屋がフラフラしながら食堂へ入ってきた。今夜は酒飲みの大人どもがいないから、るり子さんはグッと若向けに夕飯を作ってくれたんだ。
牛肉ゴロゴロドライカレーのカレー、トッピングにトロトロチーズと、スプーンで食べられるシーフードと野菜の角切りサラダ、ドレッシングはさっぱり梅じそ。るり子さんが漬《つ》けこんだパリッパリの福神漬けとラッキョウを添《そ》えて。
「ぐおおお〜、うまい〜〜〜! カレーも一年半ぶりなんだ〜! カレーも日本のカレーが一番うまい〜!」
古本屋は、飲むようにカレーをかきこんだ。
「でも古本屋さん、インドへ行ったことあるでしょ? インドのカレーもおいしいって聞いたけど」
「確かにね。本場は、やっぱりスパイスからして本格的だし、種類もハンパじゃないし。それでも、俺は日本のカレーが好きだ。舌に合ってんだろうね」
俺たちは大きくうなずき、三人で声を揃《そろ》えた。
「るり子さん、おかわり〜〜〜!!」
食堂にコーヒーの香《こう》ばしい香《かお》りが立ちこめる頃《ころ》、俺は秋音ちゃんに言った。
「秋音さん、あのな」
「なぁに?」
「明日……修行《しゅぎょう》はちょっと休みたいんだ」
「あ、どっかへ行く予定なの?」
「いや、あの……友だちが……ここへ来ることになってて」
秋音ちゃんと古本屋が顔を見合わせた。
「この前言ってた、長谷くんって子?」
俺はうなずいた。
「家族で旅行へ行ってて……今日、もう戻《もど》ってると思う。それで……明日、ここへ来たいって……」
あの日。夕飯をおごってもらいながら、俺は長谷に「妖怪《ようかい》アパート」のことを話した。妖怪や精霊《せいれい》と人間が一緒《いっしょ》になって暮らしていること。それも愉快《ゆかい》に暮らしていること。
俺はそこからいろんなことを学んだこと。アパートを出ていた時は寂《さび》しかったこと。アパートに戻《もど》れて幸せだということ。そして『小ヒエロゾイコン』のこと。
長谷は、黙《だま》って聞いていた。おだやかな顔をしていた。るり子さんの飯がうまいと言うと感心したし、秋音ちゃんや龍さんのことを話すと驚《おどろ》いていたし、クリのことを話すと眉《まゆ》をひそめていたし、他のいろんな面白い仲間のことを話すと笑っていた。
「俺、明日から家族旅行だ。別に行きたくもないが、これも付き合いだから仕方がない。帰ってきたら、お前のアパートへ行くよ、稲葉。みんなに紹介《しょうかい》してくれ。お前のことをよろしくと挨拶《あいさつ》しなきゃな」
長谷はああ言ってくれたが、俺はまだ少し戸惑《とまど》っている。胸がなんとなくドキドキする。
実際にこのアパートへ来て、長谷はどう思うだろうか? 目の前で、フールやヒポグリフを見た長谷だから、いまさらこのアパートをとんでもない場所だなんて思わないだろうが、それでも、もし受け入れてくれなかったらどうしようと思う。あいつに受け入れられなかったら、俺は……。
「長谷くんは、何時にここへ来るの?」
「え? あ、ああ。え〜と、昼からだと思うけど」
「そう」
秋音ちゃんは、にっこりと笑った。なんだか嫌《いや》な笑いだ。
「それなら朝の水行はできるわね♪ じゃ、明日朝また五時に」
人が、まるで乙女《おとめ》のようにピュアな不安におののいているというのに、実にまああっけらかんと「いつもと変わらない」ことだ。俺はこの先も、逆立ちしたってこの女の子にかなわないんじゃないだろうか?
「はい」
俺は素直《すなお》に返事をするしかなかった。
「はっははははは!」
横で古本屋が大笑いした。
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[#挿絵(img/02_125.png)入る]
ブックマスター
快晴だった。
陽射《ひざ》しは暖かく、ふっくらとしていた。道行く女の子の服装はどれもきれいな春色で、街中がとても華《はな》やかな感じがした。
長谷は時間どおりにやってきた。俺は、長谷のバイクを通りからアパートの門前へ誘導《ゆうどう》した。
アパートの前庭にバイクを止めると、長谷は庭を、アパートをゆっくりと見渡《みわた》した。昼間のそこには、妖《あや》しいものはとりあえず見えなかった。
静かで、おだやかな春の庭。ただ、美しく散る桜の下にあざみが赤々と咲《さ》いている奇妙《きみょう》さに、長谷は気づいただろうか。
「いいとこじゃないか、稲葉。建物はちょっと古いけど。俺、もっとおどろおどろしい感じかと思ってたぜ」
俺は笑うしかなかった。
「すげえ荷物だな、長谷」
後部シートにくくりつけられた段ボール箱の中には、ギッシリとものがつまっている。大きな花束も。ヘルメットを脱《ぬ》ぎながら長谷はキッパリと言った。
「お前の世話を頼《たの》むんだ。手ぶらで来れるか」
「おおげさな」
と、苦笑いする俺を、長谷はまじまじと見た。
「稲葉、お前……」
「なんだ?」
「痩《や》せた? いや、なんか引《ひ》き締《し》まったような……。筋トレでもしてんのか?」
「いや、運動はなんも。ここ一週間はそれどこじゃなくて……あ……」
朝昼の修行《しゅぎょう》は、並の運動どこじゃない体力勝負だ。心と体を鍛《きた》えて、うまい飯を食って、温泉に入る毎日。一週間でそれとわかるほど成果が現れてもおかしくない。
「そうか」
「なんだ?」
俺は長谷に、この一週間のことを話した。長谷は目を丸くして感心した。
「本当に坊主《ぼうず》みたいなことやってんだ。すげぇな! 面白《おもしれ》ぇー!」
「バカお前、そうしねぇと身がもたねぇんだよ。あの精霊《せいれい》たちを使ってる間、俺は命を削《けず》ってたんだぞ!? 冗談《じょうだん》じゃねーっつーの!」
玄関《げんかん》へ入ると、ちょうど二階から秋音ちゃんが降りてきた。
「あ、彼女《かのじょ》が、久賀秋音さんだ。秋音さん、こっち長谷泉貴」
「ああ! こんにちは」
と、言いかける秋音ちゃんの目の前に、長谷は持って来たバカでかい花束を差し出した。
「稲葉が、本当にお世話になってます。ありがとうございます!」
「これ、あたしに? すご〜い! 花束なんてもらったの初めて!」
感激する秋音ちゃんに、長谷はさらにたたみかける。
「昨日までヨーロッパに行ってまして。女性にお菓子《かし》を贈《おく》るなんて、子どもっぽいと笑われそうですが、秋音さんは食べることが好きだと稲葉から聞きましたので、これはチョコレートとビスケットの詰《つ》め合《あ》わせです」
一抱《ひとかか》えもありそうな箱の中には、缶入《かんい》りビスケットとさまざまな種類のチョコがギッシリ詰《つ》まっていた。しかも、なんとも色とりどりに可愛らしくデザインされている。
「きれい〜! 可愛い〜! ありがとう、長谷くん! すごいね、これ!」
大感激の秋音ちゃんの様子に、長谷は満足げにうなずいた。秋音ちゃんについては、ついこの間ちょっと話をしただけなのに。この人心把握術《じんしんはあくじゅつ》は、さすが一癖《ひとくせ》も二癖もある不良どもを、次々と手玉にとる長谷ならではだと脱帽《だつぼう》せざるをえない。
必要な場所への根まわしには、金と手間は惜《お》しむな――は、長谷の主義の一つだ。
「ちょっとしたことでも心配りをされると、相手にはけっこう印象深く残るものなんだ。自分のことを気づかってくれてるって思いは、信頼《しんらい》となって返ってくる。情けは人のためならず≠ネんだヨ」
長谷は俺にむかい、親指をたててウインクした。俺は苦笑いした。
居間には、詩人と画家がいた。
「見て見てぇ。長谷くんに、こぉ〜んなにもらっちゃった!」
「演歌歌手みてぇだな、秋音」
「やあ、その子が夕士くんの親友?」
「長谷泉貴です。はじめまして」
そう挨拶《あいさつ》すると、長谷は俺を隣《となり》へすわらせ俺の頭を床《ゆか》へこすりつけ、自分も深々と頭を下げた。
「いつも稲葉が、本当にお世話になっています。どうかこれからも、よろしくお願いします」
俺の頭を痛いほど床に押《お》しつける長谷の、腕《うで》にこもる力が奴《やつ》の気持ちのあらわれなんだと感じる。
小学生の頃《ころ》は、よくお互《たが》いの家へ遊びに行ったり来たりしていた。でも中学になって、それはピタリと止まった。俺は伯父《おじ》さんの家に、長谷を絶対に呼ばなかった。禁止されていたわけじゃない。ただ、嫌《いや》だった。そして、俺は長谷の家へも行かなくなった。
その時の俺の気持ちを、長谷はわかってくれていたと思う。なにも言わなかった。お互いの家へ遊びに行くのも来るのも、最初に俺が断った時から二度と口にしなかった。
今、やっと「自分の家」へ長谷を招待することができた。それは俺にとっても、長谷にとっても、本当に嬉《うれ》しいことだった。床にぐいぐい頭を押しつけられながら、俺はなんだかジ〜ンときていた。
「皆《みな》さんは酒がお好きだと聞きましたので。こんなものでよければ召《め》し上《あ》がってください」
長谷は、詩人と画家の前に酒瓶《さけびん》を三本並べた。ラベルを見た詩人は驚《おどろ》いた様子だ。
「ドン・ペリ!? しかもヴィンテージ!?」
「ドン・ペリっていうと、シャンパンね」
「日本酒やウィスキーが多いと聞いたので、たまには変わったものもいいかと……」
そう言いながら長谷は、酒瓶の横にさり気になにかの缶詰《かんづめ》を二缶置いた。それはキャビアだった。詩人は大笑いした。
「ソツがないね〜!」
画家はチッチッと舌打ちした。
「ドン・ペリにキャビアとは……ガキが手土産《てみやげ》にするもんじゃねぇなあ」
そんな画家を下から見上げて、長谷はしれっと返した。
「すみません。性分《しょうぶん》なもので」
その不敵な態度を、画家は気に入ったようだ。ヤクザはヤクザ同士相通ずるモノがある……そんな感じだった。
そこへ、クリとシロがやってきた。長谷も俺も、ハッとなる。
「これ……? クリとシロ?」
俺は、ちょっとうなずいただけだった。言葉が出なかった。
長谷は、本当にまじまじといった感じでクリとシロを交互《こうご》に見た。
「すげえ……俺にも見える……あ、さわれる」
長谷は右手でクリの頭を、左手でシロの頭をなでた。シロは気持ち良さそうに目を細めた。俺もみんなも、その様子をじっと見ていた。俺は、なんだか緊張《きんちょう》して震《ふる》えそうになった。
「なんだ……ぜんぜんフツーじゃん。ハハ、でもスゲエな!」
俺を見て笑った長谷の顔を見て、ちょっとほっとした。
「よし……、じゃあ次はるり子さん≠ノ挨拶《あいさつ》だ!」
長谷は、すっくと立ち上がった。手首だけのるり子さんを見て、長谷はどう思うだろうか? やっぱり背中の毛穴が全部開いたりするのだろうか。
「いつもいつも、本当に稲葉がお世話になっています。稲葉が健康なのは、るり子さんの食事のおかげです。会うたびにるり子さんの料理の自慢《じまん》を聞いて、いつもうらやましく思っています」
薄暗《うすくら》がりに浮《う》かぶ手首に向かって、大真面目《おおまじめ》で挨拶をする長谷の姿は、横から見ている分には大いに笑えた。ハッキリと「この世のものではない姿」をしたるり子さんを前にしても、長谷は別にビビッているとか、そんな感じはしなかった。まあ、アパートの住人の様子は、俺がだいたい話していたけれども。
「パリで手に入れた、薔薇《ばら》のハンドクリームです。使ってください」
花束とともに、ハンドクリームを贈《おく》られたるり子さんは、いっそう恥《は》ずかしそうに指をからめた。
「ホント、ソツがないね〜! こりゃ出世するわ」
詩人がまた大笑いした。
「あと、饅頭《まんじゅう》や餅《もち》がいいと聞いたので」
長谷は、有名どころの饅頭や餅を十箱も持ってきていた。それらは、すべて封《ふう》を開けて縁側《えんがわ》や廊下《ろうか》に置かれた。
るり子さんが、香《こう》ばしい蕎麦茶《そばちゃ》をいれてくれた。蕎麦の深い香《かお》りが居間にたちこめる。
長谷の持って来た饅頭をもぐもぐ食べるクリを、長谷は不思議そうに見ていた。その様子が微笑《ほほえ》ましくて、俺の口元もちょっとゆるむ。
「へえ、あの大企業《だいきぎょう》の重役子息とは! 将来は約束されたも同然だねー」
「帝王学《ていおうがく》を学んでいる真っ最中ってわけだ」
「いろんな意味でネ」
「ここのお饅頭《まんじゅう》、ほんとにおいしいよね〜」
「秋音さん……本当にスゴイよく食べますね」
俺たちは他愛《たわい》もない話を楽しくした。
妖怪《ようかい》アパートで、長谷と、いつもと同じように普通《ふつう》の話をして笑ったりしている。それは心から嬉《うれ》しかった。
居間はほのぼのと暖かく、縁側《えんがわ》からは、はらほろと桜の散る春の庭が見える。そこに、くらげのようなモノが飛んだり、タヌキのようなモノが二本足で横切ったりした。縁側に置いた饅頭の数がいつの間にか減っていた。それらを見るたびに、長谷は驚《おどろ》き、笑い、楽しそうだった。
「長谷くん、夕ご飯食べていくんでしょ? るり子さんがなにが食べたいかって訊《き》いてるよ」
「そりゃもう、るり子さんの作るものならなんでも!」
長谷は嬉しそうにこたえた。
「いっそ泊《と》まっていけば? 夜のアパートは面白いよ〜」
詩人がさも面白そうに言った。でも、俺はドキッとした。
妖怪《ようかい》アパートは、昼と夜とではちょっと違《ちが》う顔を見せる。夜のほうが霊気《れいき》が濃《こ》いし、目に見えるモノの数もぐっと増える。中にはギョッとするような姿形のものもいる。長谷は、それらを見ても大丈夫《だいじょうぶ》だろうか。
「もちろん。今日は泊《と》まるつもりで来ましたから」
長谷は笑顔《えがお》でそう言ったが、俺は思わず言い返してしまった。
「き、聞いてねぇぞ、そんなこと。泊まるって……どこに寝《ね》る気だよ」
「お前の部屋に決まってんだろ、稲葉。そりゃ秋音さんの部屋に泊まらせてくれるんなら、喜んでそっちへ行くけど♪」
「秋音ちゃん、夜は留守だよ」
詩人が笑った。
「布団《ふとん》……ひとつしかないし……」
「一緒《いっしょ》に寝ようぜ、稲葉ぁ〜。前も一緒に寝たじゃんか!」
そう言いながら、長谷は俺を押《お》し倒《たお》してきた。
「前って小学生の時じゃねぇか! いまさらお前とくっついて寝る気なんかねぇぞ!」
「俺はある〜♪」
団子になって暴れる俺たちを、大人たちは微笑《ほほえ》ましげに見ていた。
「いいよねー、友だちの家でお泊《と》まり会《かい》≠チてー」
「男同士じゃ、ムサ苦しいけどな」
ゆるゆると春の日が暮れてゆく。
妖怪《ようかい》アパートには、るり子さんが腕《うで》をふるういい匂《にお》いが漂《ただよ》い始《はじ》めた。それにつれて、そこここでさまざまな気配も増してゆく。
赤く染まった上空を、蝙蝠《こうもり》のような影《かげ》が舞《ま》う。木陰《こかげ》から、壁《かべ》の向こうから、天井《てんじょう》の暗がりから、しきりにこちらを窺《うかが》うモノがいる。姿の見えない足音や物音がする。「人以外」の存在が、潮のように満ちてくるのだ。
夕闇《ゆうやみ》が落ちてきた庭には、葉陰に、花陰に、染《し》みたような光の明滅《めいめつ》が起こり始める。それは決して虫たちの囁《ささや》き合《あ》いではなく、ゆらりゆらりと、不規則な動きをみせる。
長谷は、全身でそれらの気配を感じているようだった。時折、びっくりしたように後ろを振《ふ》り返《かえ》ったりした。俺は落ち着きなくその様子を見ていた。
「大丈夫《だいじょうぶ》か……長谷?」
思わず小声になる俺のほうを、長谷は真剣《しんけん》な顔で振《ふ》り返《かえ》った。
「こりゃあ、あれだな……稲葉」
心臓がビクンと跳《は》ねる。
「な、なんだっ?」
「まるで、あれだよ……千と千尋《ちひろ》の神隠《かみかく》し≠セよ!」
「……はあ!?」
ずっこけそうになる俺の目の前で、長谷は拳《こぶし》を握《にぎ》って言った。
「俺、あのシーンが大好きなんだよなー! あの、日が暮れてきて、街中に明かりが灯《とも》り始《はじ》めるのと同時に、精霊《せいれい》たちがワ〜ッと出てくるとこ! いろんな神様が続々と集まってくるとこも好きなんだよなー!」
「…………ああ」
「似てないか!? あれと今のここの感じ、似てないか!」
「…………ああ、まあ……そう言われれば……」
「なんか、あの映画のあの場面にいるみたいで興奮するなあ、おい!」
長谷は嬉《うれ》しそうに、俺の背中をバンバン叩《たた》いた。一生懸命《いっしょうけんめい》心配しているのが、なんだか馬鹿馬鹿《ばかばか》しくなってきたぜ。この頃《ごろ》、俺の純情は空まわりしてばかりだ。なんだ? 甘《あま》いのか? 俺は甘いのか!?
頃合いよく、夕食の用意が調《ととの》った。
るり子さんは、家では洋食が多いという長谷に合わせるべきかどうか迷ったというが、結局いつもどおり、俺がいつも食べているものを出そうと決めたようだ。
テーブルには、上品で奥《おく》ゆかしい色合いと、深みを感じさせる芳香《ほうこう》あふれる品々が並んだ。春野菜と肉と魚、豆腐《とうふ》。味噌味《みそあじ》にあんかけ。揚《あ》げ物《もの》、和《あ》え物《もの》。どれもこれも米の飯に合うものばかりだ。
まず出された、イワシの洋風トマトスープの酸味が食欲を刺激《しげき》する。
「イワシ団子うめぇ〜!」
「俺、イワシは苦手なんだけど……全然|大丈夫《だいじょうぶ》だな」
高級料理を食べつけている舌の肥えた長谷が、目を丸くするのを見るのは誇《ほこ》らしかった。るり子さんがプレゼントのお礼に、そして誰《だれ》より俺のために[#「俺のために」に傍点]腕《うで》をふるってくれた一品一品は、いつにもましてうまかった。長谷から贈《おく》られた花々が、花瓶《かびん》に小分けされて食堂のあちらこちらに飾《かざ》られていた。
「この、豆腐《とうふ》と桜エビの和《あ》え物《もの》……まるで料亭《りょうてい》の料理みたいだ。すごく味に奥行《おくゆ》きがある」
「桜エビとワカメから充分《じゅうぶん》うまみのエキスがでるし、べったら漬《づ》けとゴマ油がポイントなんだって」
秋音ちゃんが解説してくれた。
「へえ〜、べったら漬け! なるほど……」
「飯、おかわりは? 長谷」
「おう、いるいる!」
豚肉《ぶたにく》のシソバター焼きと、甘味噌味《あまみそあじ》の牛肉を薄焼《うすや》き卵《たまご》でくるんだクレープが、飯をメチャクチャ進ませる。たっぷり春野菜のクリーミーゴマだれ和えを、俺たちは争って食べた。
「この鯛《たい》の天ぷら、パリッパリだあ!」
「これは素揚《すあ》げだよ、稲葉。皮を残して揚げているから桜色がきれいなんだな、技《わざ》が細かいよなぁ」
「さっぱり甘酸《あまず》っぱいあんかけが、ご飯に合うね〜!」
という秋音ちゃんは、もうおかわり四|杯《はい》目だ。さっきまで饅頭《まんじゅう》を食っていたのに。
別テーブルでは、不良大人二人がドン・ペリをやっていた。
「さすがにうまい」
画家が喉《のど》を鳴らす。クラッカーに盛られたキャビアを食べた詩人も唸《うな》った。
「このキャビアも相当高いもんみたいだねー。塩味が絶妙《ぜつみょう》〜」
その詩人の横に座《すわ》っていたクリが、キャビアをくれとねだった。初めて見るものだったから珍《めずら》しかったのだろう。
「クリたん、キャビア欲《ほ》しいの? おいしくないと思うよ〜、きっと」
そう言いつつ、詩人はスプーンの端《はし》にちょっとだけ盛ったキャビアをクリの口へ運んだ。クリはそれをもむもむと味わうと、たちまちつぶらな目元をギュッとゆがませ、ちいさな口からペッペッとキャビアを吐《は》いた。食堂は爆笑《ばくしょう》に包まれた。
「おおお〜〜! スゲ―――ッ!! 本格的|岩風呂《いわぶろ》じゃねぇか!」
地下の洞窟《どうくつ》温泉に、長谷の声が響《ひび》き渡《わた》った。たちこめる蒸気にぼんやりとした灯《あか》りが映り、ぬめぬめつやつやした岩肌《いわはだ》が、どこか山奥《やまおく》の秘湯を思わせる。いや実際、ここ[#「ここ」に傍点]は、そこ[#「そこ」に傍点]かもしれないのだ。この地下の空間は、アパートとは別の場所にあるというからだ。
「すげえ! すげえな、ここ! 本物だよ。本物の温泉だよ! いいなあ、いいなあ!」
小さな子どものようなことを言う長谷に、俺は思わず吹《ふ》き出《だ》してしまった。
「なんだよ、稲葉。正直な感想を言ったまでだぞ、俺は。だって、羨《うらや》ましいじゃん! あんなにうまい飯が食えて、次は温泉だぜ!? ここは高級温泉旅館かっての!」
「はははは! 違《ちが》いねえ! ははははは!!」
俺は、やっと腹の底から笑えた。
夜がすっかりと更《ふ》けて、妖怪《ようかい》アパートの前庭には、さまざまな色のモノがゆっくりと飛《と》び交《か》っていた。存在に意味を持たない[#「存在に意味を持たない」に傍点]ただの霊気《れいき》の固まり……わかりやすくいうと、存在に意味を持つ[#「存在に意味を持つ」に傍点]モノから零《こぼ》れ落《お》ちたホコリのようなもの、らしい。ホコリにしては、そのどこか哀《かな》しげな光が、とても美しいけれど。
俺は、部屋の窓から前庭の暗闇《くらやみ》を見ていた。桜の木陰《こかげ》を、輪郭《りんかく》が金色に光る黒い人間が行ったり来たりしている。別になんでもないようだ。あれは好きで行ったり来たりしているんだ。
ガチャ! と、ドアが勢いよく開いて、長谷が飛びこむように部屋へ入ってきた。
「どうした?」
「ああ、いや……」
長谷はなんでもなさそうにそう言ったが、心なしか目元がひきつっているような感じがする。
「長谷?」
長谷は、ペットボトルの水をあおるように飲み干した。そして大きく一息つくと、布団《ふとん》の上へ座《すわ》りこんだ。
「おい?」
覗《のぞ》きこんだ俺の顔をじっと見てから、長谷は吹《ふ》き出《だ》すように笑った。
「なんだよ、長谷?」
「……ビビった」
長谷は笑いながら言った。
「トイレから出ようとしてドアを開けたら……目の前にすげぇ長い髪《かみ》の女が立ってて……顔がなかった……」
「ああ……貞子《さだこ》さんだ」
俺は頭をかいた。長谷に言っておくべきだった。貞子さん(仮名)は、もちろんなんの害もない幽霊《ゆうれい》だが、見かけがメチャ怖《こわ》い。背の高い細い体に腰《こし》まである長い黒髪。顔は口だけしかないのっぺらぼうだ。主にトイレと風呂《ふろ》によくあらわれる。水場が好きなんだな。
「別になにもしないから……」
「ああ、わかってる、稲葉。わかってるさ」
だがそう言いながら、長谷の指先は震《ふる》えていた。俺は一気に血の気が引く思いがした。
「でも……でもよ、お前……」
「稲葉」
長谷は、俺の両肩《りょうかた》に手を置いた。
「俺はな、幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》を見るのは初めてなんだぜ?」
「……ああ」
「そういう話はいろいろ知っていたけど、自分の身近に感じたことはないし。自分とは縁《えん》のない世界のことだと思っていた」
「ああ……」
それは俺も同じだ。まさかこんな世界が、まさかこんな近くに、こんなにも日常的に存在するなんて。そこで自分が暮らすことになるなんて、思いもよらなかった。
「そういうフツーの奴《やつ》がさ、目の前で幽霊や妖怪を見たら……そりゃ、ビビるって」
「…………」
「お前だってビビったろ、最初は!?」
そうだ。洞窟風呂《どうくつぶろ》で大家さんを見て、俺はひっくり返った。
「お前……ひょっとして、ずっとビビりっぱなしだったのか、長谷?」
「いきなり妖精《ようせい》やグリフィンや幽霊《ゆうれい》や妖怪《ようかい》を見て、ビビらねぇ奴《やつ》がいるもんか。あの日は一睡《いっすい》もできなかったぜ!?」
そう言って、長谷は笑った。
「ああ……!」
俺は、長谷を思い切り抱《だ》きしめた。
「そうだよな。そうだよ……!」
今こそ、俺は救われた気がした。
幽霊を見ても妖怪を見てもぜんぜん平気だと言われるより、正直にビビってくれて安心した。それがふつうの反応だからだ。そのうえで、長谷はこのアパートを受け入れてくれたんだ。今こそ、それを実感できる。俺は胸がいっぱいになった。泣きそうになった。
「見慣れない奴がいてびっくりするけど、ここはいいところだ。なあ、稲葉」
抱《だ》き合《あ》った俺の耳元で、聞いたこともないような優《やさ》しい声がした。こいつの優しい声なんて、気味が悪くて笑えてくる。
笑ったら……涙《なみだ》が零《こぼ》れた。
突然《とつぜん》こんな思いもよらないことになって、でもまわりのみんなが支えてくれて、あとは長谷さえ受け入れてくれたら、俺でもきっとなんとかやっていけると思っていた。
今その瞬間《しゅんかん》がきて、長谷が受け入れてくれたことが想像以上に嬉《うれ》しくて……。俺は、本当は自分で思っている以上に不安だったのだと感じた。この運命的な『小ヒエロゾイコン』との出会いに。これから先の未来に。
それも……もう、いいんだ。
不安でも、なにかまずいことが起きても、きっともう大丈夫《だいじょうぶ》だ。アパートの仲間と長谷がいてくれる。それだけで、もう俺は大丈夫なんだ。
泣き顔を見られたくなくて、長谷の体にまわした腕《うで》を解かずにいたら、長谷の体からカクンと力が抜《ぬ》けた。
「は、長谷?」
長谷は気絶するように眠《ねむ》っていた。どうやら緊張《きんちょう》の糸が切れたようだ。きっと、あの日から心も体も休めていなかったんだ。一週間も海外旅行をしていたし。
俺は、その体を布団《ふとん》にそっと寝《ね》かせた。
静かな静かな俺の部屋。窓の外を、美しい光がゆっくりと横切ってゆく。
その光に照らされた長谷の寝顔は、子どもの頃《ころ》と少しも変わっていなかった。
「お疲《つか》れのご様子で」
机の上に置きっぱなしの小ヒエロゾイコンの上に、フールがちょこんと現れた。
「フール」
「お久しぶりでございます、ご主人様」
小さな案内人は、ことさら丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をした。それから顔を上げると、大きく息を吸いこんだ。
「なにやら、部屋にいい波動が満ちておりますな」
「へえ、そうか?」
「ご主人様から発せられる波動も、見違《みちが》えるようでございます」
「どんなふうに?」
「美しく輝《かがや》くような波動に、今は強靭《きょうじん》さとしなやかさが加わったようであります」
「ふぅん?」
「こちらさまの波動は……静かな水面《みなも》にたつ静かな波紋《はもん》のようと申しましょうか。とてもおだやかで、満ち足りておられます。体はお疲《つか》れのようですが、心は安らかであられます」
「……そうか」
電気を消すと、カーテンの向こうにゆらめく幽《かす》かな光が、いっそう幻想的《げんそうてき》で美しかった。まるで精霊流《しょうりょうなが》しの灯《あか》りのようだ。
庭の桜がさらさらと散る音が聞こえてきそうな、おだやかでなまめかしい春の闇《やみ》。
「いい夜でございますな」
「ああ……。いい夜だ」
「いかがでございましょう、ご主人様。妖精《ようせい》の子守唄《こもりうた》などお聞きになられては?」
「妖精の子守唄?」
小ヒエロゾイコンの「]W(14)」のページを開く。
「『節制』! シレネー!!」
「シレネー、呪歌《じゅか》を歌う妖鳥《ようちょう》でございます」
それは、小鳥ぐらいの大きさの、鳥のような姿をした女だった。人面鳥身、いわゆる「ハルピュア」というやつだ。顔だけが人間で体は真っ白の羽毛《うもう》に覆《おお》われている。それが暗闇《くらやみ》の中でぼんやりと光った。可愛くもあり、気持ち悪くもある姿だ。
シレネーは、鳴くように歌いはじめた。
その歌声は、不思議な響《ひび》きをしていた。言葉になっていない鼻歌のような歌。歌の意味はわからないが、静かな、闇にしみいるような旋律《せんりつ》だ。どこかエキゾチックな景色が浮《う》かぶような気がする。
子守唄《こもりうた》というだけあって、なんだか気持ちがよくなってきた。体がふわふわするような……。
俺は、いつの間にか眠《ねむ》ってしまった。
夢と現《うつつ》の間に、妖精の歌がずっとたゆたっていた。
「おはようございます!!」
俺と長谷は、食堂の入り口で声を合わせた。
「やー、若い子は元気でいいねえ」
詩人や佐藤さんや山田さんが笑う。
「よく眠《ねむ》れたかい、長谷くん?」
「もう、ぐっすり寝《ね》ました。こんなに熟睡《じゅくすい》したのは久しぶりです」
「お? 今朝はトーストがある。珍《めずら》しい」
炊飯《すいはん》ジャーと味噌汁鍋《みそしるなべ》が置かれたテーブルの上に、いつもはないトーストとオーブントースターが置かれていた。
「長谷くん用よ。いつも朝はパン食なんでしょ?」
秋音ちゃんが、どんぶり飯を食いながら言った。
「わざわざ俺のために? 感激だなあ、るり子さん」
もじもじと指をからませるるり子さん。カウンターのすみには長谷が贈《おく》った薔薇《ばら》のハンドクリームが、ちんと置かれていた。
俺はつやつや光る飯に焼きジャケ、肉豆腐《にくどうふ》のあんかけなど。長谷はトーストの上に、卵とベーコンとズッキーニの炒《いた》めものをのせて一気にかぶりついた。色彩豆《しきさいまめ》のサラダのきれいな彩《いろど》りが春らしい。
「たまにはトーストもいいねえ」
「このバターがうまいから」
「ホテルの朝バイキングみたいよね」
「味噌汁《みそしる》はパンにも合うんだよ」
「え、ホントに!?」
朝からにぎやかな食卓《しょくたく》。俺たちはずっと笑っていた。玉ねぎとジャガイモの味噌汁が思いのほかパンに合い、長谷は感激していた。
俺も、こんなにゆったりした朝は久しぶりだ。春休みに入ったとたんのあの騒動《そうどう》だったからな。今年の春休みは、とてつもなく長い感じがする。
「ここは本当にいい所ですね。なんだか帰りたくなくなるな」
コーヒーをうまそうに飲みながら長谷は言った。
「春休みの間、いちゃえば?」
と、あっけらかんと秋音ちゃんが言えば、長谷も軽くこたえた。
「そうしちゃおっかなあ」
「おいおい、調子に乗んなよ、長谷。俺にも都合ってもんがだな」
「お前にどんな都合があるってんだよ?」
「そりゃその……修行《しゅぎょう》も再開しなけりゃならないだろうし……。そうだろ、秋音さん?」
「すりゃいいじゃん。俺は居間でゴロゴロしてるよ♪」
長谷はべろんと舌を出して見せた。調子に乗ってる。調子に乗ってるぞ、こいつ。
「てめ……」
「じゃあ、昼の修行は今日から再開しようか!」
鬼女《きじょ》がにっこりと笑いながら、俺の背中を叩《たた》いて行った。それを見送る長谷は御機嫌《ごきげん》だ。
「可愛いなあ、秋音さん」
「……言ってろよ」
長谷は宣言どおり、俺が昼からの般若心経《はんにゃしんぎょう》読み修行をしている間、うまい昼飯をたらふく食い、画家とバイク談議に花を咲《さ》かせ、暖かい縁側《えんがわ》でゴロゴロし、妖怪《ようかい》アパートでの滞在《たいざい》を満喫《まんきつ》したようだ。
「よう、修行おつかれ!」
俺がクタクタになって風呂《ふろ》から上がってきた時、長谷は居間でクリを膝《ひざ》に抱《だ》いて絵本を読んでやっていた。ほのぼのしやがって。
「いや〜、なんつーの。ちょっとした休日のパパ気分≠味わったぜ」
「なに言ってんだか」
「クリ、可愛いな。幽霊《ゆうれい》とか……全然関係ねぇな」
長谷はクリの頭をなで、クリはもっと本を読んでくれとつぶらな瞳《ひとみ》で訴《うった》える。その様子に胸が打たれる気がした。クリに「お父さん」が一人増えた瞬間《しゅんかん》だった。
夜。うまい夕飯を堪能《たんのう》して、俺たちは居間でくつろいでいた。
薄《うす》い月にぼんやりと照らされたアパートの庭には、さらさらとさらさらと桜が散り、今夜も色とりどりの発光体が漂《ただよ》っている。
詩人と画家と山田さんは、縁側《えんがわ》で粋《いき》に花宵酒《はなよいざけ》。長谷はクリにすっかりなつかれて、まんざらでもない様子。俺はソファに寝《ね》そべって、心地《ここち》よい疲労感《ひろうかん》に身を任せていた。今夜もいい夜だ。
と、そこへ古本屋が帰ってきた。
「ただいまぁ〜。はぁあああ〜、疲《つか》れた〜!」
居間に入ってきた古本屋は、トランクをドンと置いた。またなにか仕入れてきたらしい。帰国したらしたで、あっちこっちへ飛びまわっている忙《いそが》しい奴《やつ》だ。
「おかえり〜」
「おう、やるか?」
「なになに〜、月見酒〜?」
「夜の花見酒だよ」
「やっぱいいなあ〜、日本人は〜」
「あ、例の古本屋さん?」
「お! 夕士の友だちの長谷?」
長谷と古本屋は握手《あくしゅ》を交《か》わした。
「どうも。このたびは稲葉が本当に、なんというか……」
「いやあ、俺は単なる運び屋だよ。お前こそびっくりしたろう、友だちがこんなとこに住んでて、おまけに魔道士《まどうし》の修行《しゅぎょう》中だなんてな。でもな、なんてことないから」
笑って軽くそう言う古本屋に、長谷も笑顔《えがお》でうなずいた。
「もうちょっと早く帰ってたら、こいつが手土産《てみやげ》に持って来たドン・ペリがあったのになあ!」
画家が笑った。
「ドン・ペリ!?」
「しかも、ヴィンテージ」
詩人も笑った。
「ちょっとぐらい残しといてよ!」
「三本もあったのに、もう飲み干したんっスか!?」
「三本!!」
「おいしかったよ〜♪」
「この、妖怪《ようかい》ウワバミども!」
古本屋が加わって、酒盛りはにぎやかになった。酒が入ってすべりの良くなった大人どもの口から繰《く》り出《だ》されるバカ話や経験談などは、本当に面白かった。
「俺、二、三日いるわ、稲葉。いいだろ?」
長谷から「おねだり」されるのは悪い気がしない。
「ここは、まだまだなにが出てくるか俺にもわかんねぇんだ。ビビんじゃねえぞ!?」
俺たちは笑い合った。
その時。
ドン!! という衝撃《しょうげき》が起きた。
「なんだ?」
ドン!! ドン!! 震動《しんどう》は居間の隅《すみ》から伝わってくる。
そこには、古本屋のトランクが置かれていた。
「トランク……?」
衝撃《しょうげき》は、まちがいなくこの古びたトランクからしていた。
「あらら〜?」
「お前、またなにかヘンなものを仕入れてきたんじゃねぇだろうな!?」
画家に睨《にら》まれて、古本屋は頭をかいた。
「そうかも〜……ということは、アレかな?」
どうやら心当たりがあるようだ。
「みんな、こっちへ!」
古本屋は、全員を自分の背後へ避難《ひなん》させた。
ドン!! トランクが持ち上がるような衝撃がして、鞄《かばん》の口がガバリと開いた。
そこに、なにか黒い大きなボールのようなものがいっぱいに詰《つ》まっていた。
「なん……だ?」
黒いボールはもぞもぞと動くと、いっせいにぐるりとまわってこっちを見た[#「こっちを見た」に傍点]。それは、生首だったんだ。
「ぎゃ―――っ!!」
俺と長谷は、クリをはさんで思わず抱《だ》き合《あ》ってしまった。
ざんばらの髪《かみ》に血まみれの生首たちは、俺たちに向かって口々に何事かを大声でしゃべりはじめた。
「うっげ――っ!!」
久々に全身が総毛立つモノを見た。長谷はクリの顔を胸に抱きこんで、自分もなるべく正視しないよう斜《なな》めを向いていた。足元では、シロが耳をたおして唸《うな》っている。
生首たちはわめきながらトランクから盛り上がり、ぼたぼたと床《ゆか》へあふれた。次から次へ、いったい幾《いく》つ入っているんだ?
「ははぁ〜ん……、やっぱりね。ここの霊気《れいき》を吸って生き返っちゃったか」
まばらな顎鬚《あごひげ》をこすりながらそう言う古本屋に、俺は詰《つ》め寄《よ》った。
「なにを呑気《のんき》に分析《ぶんせき》してんスか! ど、どーするんだ? 秋音ちゃんはいないし、俺はっ……」
俺は?
俺は、まだ全然役に立たないだろう!? 第一、小ヒエロゾイコンは二階の部屋の机の上に置いたままだし。
あれを……どう使えばいいんだ? この生首たちを、どうすればいい?
固まってしまった俺の顔をのぞきこんで、古本屋は丸いメガネの向こうで笑った。
「ま〜かせて♪ 伊達《だて》に古本屋≠オてんじゃないんだよ」
「……っ」
トランクからは、後から後から生首があふれ床《ゆか》へ広がってゆく。どれも傷だらけ血だらけの酷《ひど》いありさまで、どうもなにかに怒《おこ》っているようで、どれも激しい罵《ののし》り言葉《ことば》を吐《は》いている。空気がどんどんと陰気《いんき》をはらんでいった。
古本屋は、俺たちをかばうように立ち、生首たちに向かって左手を差し出した。
そして―――。
「|七賢人の書《セブンセイジ》!!」
古本屋がそう叫《さけ》ぶと、その左手の先の空間がカッと光り、そこに浮《う》くように、一冊の本が現れた。
「本……!!」
「アラトロン!!」
古本屋が叫《さけ》ぶと、宙に浮《う》いた本のそのまた先に、黄金に光る模様が現れた。丸い円の中にさまざまな記号が見える。魔法円《まほうえん》だ!
その魔法円がさらにカーッと輝《かがや》くと、バシ―――ン!! と、すごい衝撃《しょうげき》が空気を震《ふる》わせた。
「わっ!!」
俺と長谷は飛び上がった。
次の瞬間《しゅんかん》。
そこにはもう宙に浮く本も、床《ゆか》一面にあふれた生首もなかった。トランクの口がぽっかり開いているだけだった。
「ふぅ!」
古本屋は一息ついた。
俺も長谷も呆気《あっけ》にとられて棒立ちしていた。
「古本屋さん……あんたいったい……」
「ふふん♪」
古本屋は得意そうに、丸メガネをツッとあげてみせた。
「古今東西、古本のことならなんでもござれ。大文学作品からペーパーバックまでお取《と》り扱《あつか》いしております」
ここでおおげさに一礼し、ひょこりと顔をあげる。
「でも得意分野はと申しますと、黒書、希書の類《たぐい》。そんな私は、人呼んでブックマスター=I」
「ブックマスター……?」
「本屋の店主?」
「ちげーよ! 魔書使《ましょつか》いだよ! 魔書使い!!」
魔法使いではなく、魔書使い。
本を使う魔道士。
俺が『小ヒエロゾイコン』の主《マスター》であるように、古本屋も魔道書の主なのか。
「もともと魔道士と魔道書は、切っても切れない縁《えん》なのさ。おおかたの魔道士は自分専用の魔道書を持ってる。そのなかでも、魔道書を通じて力をふるう魔道士が、俺やお前、ブックマスターさ、夕士」
「……そういや、龍さんは本を持っていない。秋音ちゃんも」
「そのとおり。俺たちが本を使うのは、龍さんが式鬼《しき》を使うこととちょっと似てる。俺たちは、契約《けいやく》を交《か》わした本の中の精霊《せいれい》を使ったり、本を通じて、その向こう側[#「向こう側」に傍点]にいる神霊の力を使ったりするわけだ」
「向こう側……」
「俺の本『|七賢人の書《セブンセイジ》』には、七人の魔道士《まどうし》の力が封《ふう》じられている。俺はそれを自由に使うことができるのさ」
「…………」
俺は、呆然《ぼうぜん》と古本屋を見た。こんなところに「先輩《せんぱい》」がいたなんて。
「なんで、もっと早く言ってくれなかったんスか?」
古本屋は頭をかいた。
「テレくさくってサ! それに……」
「それに?」
「俺とお前じゃ、全然レベルが違《ちが》うだろ」
「………………そっスね」
確かに「ブックマスター」の端《はし》くれにも達してないよ、俺は。
「ふぅ……」
クリを抱《だ》いたまま、長谷はソファへ座《すわ》りこんだ。クリは、少しおびえたように丸い目をパチクリさせていた。
「なんだったんだ、あの生首どもはヨ?」
画家は酒を飲みながら言った。
「あれ、斬首《ざんしゅ》されたお侍《さむらい》さんの首だネ」
詩人もまったく動じていない。まるで何事もなかったかのように。さすがといおうかなんといおうか、とにかく「慣れ」とは恐《おそ》ろしい。
「さすが黎明さん」
古本屋は、トランクの本の中から一冊の本を取り出してみせた。それは、和紙を綴《つづ》った日本の古い本だった。内容は、生首と死体のオンパレードだった。
「江戸《えど》時代末期の処刑画《しょけいが》だ」
「あ、なるほど〜」
「処刑画?」
「昔は写真なんかないからな。浮世絵師《うきよえし》が処刑場に呼ばれて罪人の死体を描《か》いたんだ。今でいう検死報告書さ」
画家の説明に、俺と長谷は、ああとうなずいた。
古本屋は、和紙のページをパラパラとめくった。
「この時代は、人権思想なんてないからねえ。理不尽《りふじん》な処刑《しょけい》も多かったのさ。首だけになっても怨念《おんねん》をひきずってる奴《やつ》は大勢いたろう」
「血の部分には、本人の血を使ったって話もある」
「うぇえ、マジ!?」
「和紙ってねぇ、念≠ェ長持ちするんだ。現代の紙じゃ、せいぜい二、三十年でそこにこもっていた念も消えちまうけど、昔の紙にこもった念ってのは、何百年もその当時の強さのままもつんだよ。とくに、和紙はね。だからこういう処刑画とか妖怪画《ようかいが》、幽霊画《ゆうれいが》は、取《と》り扱《あつか》い要注意なんだ」
「そうわかってて、さっきの体《てい》たらく?」
詩人が鋭《するど》くツッコんだ。古本屋はおおらかに笑った。
「いやぁ〜、まさか生き返る≠ニは思わなかった。どうしても、こういうもの[#「こういうもの」に傍点]が欲《ほ》しいって依頼《いらい》があったから仕入れてきたんだけど」
この緊張感《きんちょうかん》のなさは、やはり「慣れ」のせいなんだろうか。
それにしても、どこのどいつだ、そんな依頼《いらい》をするバカは! 怨念《おんねん》のこもった死体の絵を手に入れて、ど――するつもりなんだ、まったく。俺は、疲《つか》れがドッと出た。
「ま、俺レベルになれとは言わないから。せいぜい本に喰われない[#「喰われない」に傍点]ぐらいには、がんばりたまえよ、後輩《こうはい》よ! はっはっは!」
俺の背中をバンバン叩《たた》きつつ、先輩はそうほざいた。俺としては、どうせなるなら龍さんの後輩になりたかった気はするけどな。
るり子さんが、俺と長谷には熱い紅茶を、クリにはホットココアをいれてくれた。身も心も温まった。
クリが長谷についてきたので、俺たちはせまい布団《ふとん》に男三人で川の字で寝《ね》ることになった(足元にはシロ)。
暗い部屋の窓辺に、今夜も淡《あわ》い光がゆらめく。クリがすやすやと寝息をたてている。
「……まったく飽《あ》きないところだな、ここは」
長谷の声は、ちょっと呆《あき》れ気味《ぎみ》だ。
「俺は、なんだか人生が変わりそうな気がするぜ」
「俺は、すっかり変わった」
ちょっと間があって、長谷はクスリと笑った。
「違《ちが》いねぇ」
沈黙《ちんもく》を、おだやかな空気が満たしていた。おぞましい生首たちのことが嘘《うそ》のようだった。
「あれが、魔道士《まどうし》か……。お前も、ああなるのかなあ」
「さあ、どうだかな。魔道士っていっても、いろんなタイプがあるみたいだし。実際、古本屋と秋音ちゃんは全然違うしなぁ。龍さんもなあ」
「龍さんとやらにも会いたいもんだ」
「いつ来るかわからん人だからな。来たらすぐにわかるんだけど」
「まあ、どうなるにせよ……」
長谷は、ここで一息おいた。
「お前はお前だからな」
その言葉が、闇《やみ》に染《し》み透《とお》る。
そしてしばらくの沈黙《ちんもく》の後、長谷はおもむろに話し始めた。
「俺はな、稲葉」
「うん」
「でかいことをやりたいんだ」
「うん」
「俺には、そのための素地がもう整っていた」
「うん」
父親は日本|屈指《くっし》の大企業《だいきぎょう》の本社重役。母親は大物政治家の娘《むすめ》。長谷には、生まれた時から金と権力が備わっていた。そのうえに、頭脳は明晰《めいせき》で器用で容姿も申し分ないときたら、黙《だま》ってバンザイしてたって超《ちょう》エリートの将来は確定したも同然だ。
「レールは敷《し》かれている。でもその上を普通《ふつう》に走ったんじゃ芸がねぇからな。俺はその上に、ただの普通電車じゃなくて、どでかい重機関車を走らせたいんだ」
すでに敷かれているレールから外れるのではなく、そのレールはレールで大いに利用させてもらおうというところが、実に長谷らしくて笑える。
「信頼《しんらい》できる自分だけの兵隊[#「兵隊」に傍点]を組織して、俺たちの力であの大会社を乗っ取ってやる。俺たちだけの王国を作るんだ」
「うん……。お前ならできるよ、長谷」
「そう思うか?」
長谷は身を乗り出してきた。
「本当にそう思うか、稲葉? こりゃあ途方《とほう》もない大仕事だぜ?」
薄闇《うすやみ》の中で、そういう長谷は見たこともない表情をしていた。
「……不安なのか、長谷?」
「…………現実的なだけだ」
長谷は口の端《は》で笑った。
「現実的に考えれば、この夢には時間も金も人材も手間もかかるし、俺が生きてるうちにかなうかどうかもわからん。そんな現実的な考えも忘れちゃだめだってことサ」
クリの寝顔《ねがお》の向こうで、長谷は肩《かた》をすくめた。
「若者らしくない考え方だな」
俺は笑った。長谷も笑った。
どんなに夢や理想がすばらしくても、現実はそうはいかない。
どんなに理不尽《りふじん》でも汚《きたな》くても哀《かな》しくても不条理でも、「現実」はそこ[#「そこ」に傍点]に横たわっているんだ。厳然として。
長谷は裕福《ゆうふく》な家庭で育ちながらも、そこから決して目をそむけない奴《やつ》だった。昔から。だからこそ、俺が現実にぶち当たってもがくのをわかってくれたんだ。
理想だけを説かない[#「理想だけを説かない」に傍点]奴だからこそ、人は長谷に惹《ひ》かれるんだ。
「現実主義なのは俺の性分《しょうぶん》だし、理想を現実にするには、現実との折り合いが必要なんだ……だから……夢の果てが、真っ暗に見えることもある」
「…………」
おそらく初めて聞く長谷の「本音」……いや、「弱音」?
今までも他の奴には言えない不満や不安や秘密をいろいろ言い合ってきたけど、長谷がこんなにも具体的に「心細さ」を語るなんて、思いもしなかった。
俺は、どうこたえていいのかわからなかった。天井《てんじょう》を向いたまま固まっていた。
クリの安らかな寝息《ねいき》が、不安な沈黙《ちんもく》を埋《う》めてくれた。
「お前はさ……」
長谷がようやく言葉を次ぐ。
「俺のオアシスだったよ、稲葉」
「…………」
「最初からウマが合ったのは、きっと縁《えん》があったってことなんだろうけど……。俺の夢は、ある意味|現実離《げんじつばな》れしてる。町の不良どもを束ね、自分だけのブレーンを揃《そろ》えた一大組織を作って、いつか大会社を乗っ取ろうなんてな」
でも、その夢はお前だからこそ描《えが》ける夢だろう、長谷?
お前にはその力が充分《じゅうぶん》ある。俺はそれを疑ったことはないぜ……?
「でもお前はさ、稲葉。すぐ目の前にある現実とチマチマ戦い続けてたんだ。泣きわめきながらな」
「……泣きわめきながらは、余計だ」
闇《やみ》の中で、長谷がクスリと笑う。
「お前が泣きわめくのが、愛《いと》しかったよ」
「…………」
「どうしようもない現実の前で、お前は必死で考えて、悩《なや》んで、絶望したり怒《おこ》ったり。でも泣くまいと踏《ふ》ん張《ば》ったり……。それが、その人間らしさが愛しかった。お前は本当に等身大の人間≠ナ、それがとても正しく、美しく見えた」
長谷は体を起こし、俺の腕《うで》をとって自分のほうへ引き寄せた。また見たこともない表情をした長谷の顔が、すぐ目の前にあった。
「俺はお前を通じて、自分の心のバランスをとっていたのかもしれない。だから俺は、お前を俺の王国へ誘《さそ》わなかった。本当は……一番そばに置きたいんだぜ? 俺の右腕に……」
「…………」
こんな「告白」が聞けるとは思わなかった。長谷はいつも自信満々で、一分《いちぶ》のスキもなく、計画どおりに人生を歩んでいると思っていた。俺とは次元の違《ちが》う人種で。ただの親友ってだけで。
でも、そうじゃなかったんだな。俺もそうじゃなかったんだ。
俺は笑った。きっと泣きそうな笑顔《えがお》だったろう。
「愛《いと》しいとか言うなよ。親にも言われたことないのに……。テレちまう」
長谷は笑った。そして、言った。
「それなのに、だ」
「?」
「お前は妖怪《ようかい》アパート≠ノ住んで、お化けに囲まれて、今や魔道士《まどうし》@lだ。どうよ、コレ? 現実離《げんじつばな》れもはなはだしいぜ」
長谷は、引き寄せていた俺の体を突《つ》き放《はな》すと、ゴロンと仰向《あおむ》けになった。
「はぁ〜〜〜あ、バッカバカしくなっちまった! 現実ってやつぁ、考えれば考えるほどつまらね――!」
「…………」
長谷は横目で俺を見た。それから体を横に向け、俺と向き合った。
「俺も、もっと夢を見るよ、稲葉」
「長谷……」
「お前にこんな信じられないことが起きたんだ。それに比べりゃ、俺が夢見てることなんてまだまだ現実的だって痛感した」
晴れ晴れした顔だった。
「うん」
「きっとかなえられる」
言葉には力がこもっていた。
「うん」
クリをはさんで、俺たちはガッチリと握手《あくしゅ》した。新しい力が身体中に満ちる気がする。前とは違《ちが》う風が吹《ふ》く。そんな感じだった。心から嬉《うれ》しくて満ち足りて、つないだ手を離《はな》したくないと思った。
「なあ、稲葉……」
「ん?」
長谷はなにかを言いよどんでいた。言葉を選んでいるのか。考えがまとまらないのか。俺はその先が聞きたくて、じっと待った。
「俺らさ……」
「うん」
長谷は、俺のほうを見ていた。俺も長谷を見た。長谷は、クリの頭をなでながら言った。
「なんか、家族みてぇ?」
「……っ」
その言葉に、不覚にも感動してしまった。不覚にも。長谷が次に言ったセリフがこれだ。
「俺がパパで、お前がママな」
「……………………」
そのデコに、裏拳《うらけん》を入れてやった。
「下んねーこと、言ってんじゃねえ!」
びっくりして飛び起きて、泣き出してしまったクリをなだめて寝《ね》かしつけるのに、明け方までかかった。
朝五時にはきっちり秋音ちゃんがやってきて、朝行は容赦《ようしゃ》なく行われた。その間、長谷はクリとぐーたら寝こけていた。
俺がトースト一枚で昼行をしている時に、長谷はまたもやうまい昼飯を腹いっぱい食って、居間でごろごろして、詩人たちにいろんな話をきいて楽しく過ごした。そして夜は、これまたうまい夕飯と温泉|三昧《ざんまい》。
長谷は、五日間(五日もいやがった!)の妖怪《ようかい》アパート滞在《たいざい》を堪能《たんのう》した(そりゃするだろう!)。
バイクのエンジンがかけられた。
「クリがいなくてよかった」
メットをかぶりながら、長谷は名残惜《なごりお》しそうに言った。
新学年が始まる。お互《たが》いいろいろ忙《いそが》しくて、またしばらく会えなくなるだろう。
でも、もうお互《たが》いに以前のように、心配になったり不安になったりはしないと思う。
人生が変わるような出来事が起きたけど、俺たちはその出来事を通じていっそう深く繋《つな》がり合《あ》った気がする。これからどうなるか想像もつかないけど、俺には全幅《ぜんぷく》の信頼《しんらい》をおける人々がついていてくれてる。長谷もそれを実感した。だから、大丈夫《だいじょうぶ》だ。
「また来る」
「うん」
「……がんばれよ」
長谷は、俺の胸を拳《こぶし》で叩《たた》いた。俺も拳で返した。
エンジン音を残して、長谷のバイクが遠ざかってゆく。それを見送る街の空気は、また一段と春めいて、降りそそぐ陽射《ひざ》しは花の香《かお》りがするようだった。
こんなふうに、清々《すがすが》しい気持ちでお前を見送るなんて初めてじゃないかな、長谷。
会う時はいつも楽しくて、さり気に気を遣《つか》ってくれるのが嬉《うれ》しくて、叱《しか》られたり励《はげ》まされたりして……でも、そんなお前と別れる時、俺はいつも寂《さび》しくて不安な気持ちが募《つの》った。
これからどうなるんだろうなんて、普通《ふつう》にしていれば、普通に就職できて普通に暮らしてゆけるだろうに。
長谷とも、次はいつ会えるんだろうとか、もう会えないんじゃないだろうかなんて。
俺はいつもなにかに飢《う》えていた。
その「なにか」の正体は、まだはっきりとはわからないけど、今のほうがよっぽど「これからどうなるんだろう」状態なのに、俺は満ち足りた気分なんだ。
お前の後ろ姿を、こんなおだやかな気持ちで見送ることができる。嬉《うれ》しいよ、長谷。
貞子さんにビビって震《ふる》えたお前が、お前の言葉を借りりゃあ、その等身大の人間らしさが愛《いと》しかったよ。
未来が不安だと本音をきかせてくれた。でも、俺とこの妖怪《ようかい》アパートを通じて、もっと夢見ていいんだと思ってくれた。それがたまらなく嬉しいよ。
なんだか二人して、新しいスタートラインに立った気分だな。
「また来いよ。クリも待ってるから」
つぶやいた言葉は、暖かい春の空気にのって、花びらのように青い空へと舞《ま》い上《あ》がっていった。
アパートへ戻《もど》ると、縁側《えんがわ》で秋音ちゃんがクリを抱《だ》っこして座《すわ》っていた。傍《かたわ》らにはシロがぴったりと寄《よ》り添《そ》って、ピスピスと鼻を鳴らしている。
「ぐずってたの。やっと寝《ね》たわ。クリたんってば、すっかり長谷くんがお気に入りなのね〜」
「ハハ」
俺はクリの頭をそっとなでた。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、クリ。きっとすぐまた来てくれるから。パパもお前が好きだってよ」
「パパ?」
「あ、いや! ハハハ! いや、長谷が自分のことをね、休日のパパみたいだって。ハハハ!」
「アハハ! じゃあ、夕士くんがママね」
「……………………」
あっけらかんと笑いながら、なにを言うやら、この鬼女《きじょ》は。
「フール」
俺が呼びかけると、小ヒエロゾイコンの上に、| 0 《ニュリウス》のフールが現れた。
「お呼びでございますか、ご主人様」
あいかわらずクソ丁寧《ていねい》なお辞儀《じぎ》だ。フールは顔を上げると、満足そうに微笑《ほほえ》んだ。
「これはこれは。また一段とたくましくなられたご様子。小なりとはいえ、本書も魔道書《まどうしょ》の端《はし》くれ。その主として、ますますふさわしくなられ、我ら一同心より誇《ほこ》りに思いますれば」
「そりゃ、ドーモ」
俺は苦笑いした。
「今日から学校が始まるんだ」
「おお、それは楽しみですな」
「言っとくぞ、フール。長谷の時みたいに、急に出てくんなよ。学校の連中に見られた日にゃあ、収拾《しゅうしゅう》つかねぇ大騒《おおさわ》ぎになるんだからな」
「お任せください」
ひときわおおげさに一礼したフールだが、わざとらしくてまったく信用できない。でも、とにかく俺は小ヒエロゾイコンを鞄《かばん》に入れた。どうせついてくるんだしな。
今日から条東商業高校の二年生だ。
たった一年前とは、まったく別人みたいな俺がいる。昨日久しぶりに会った伯父《おじ》さん家《ち》の恵理子《えりこ》も、ちょっとびっくりしたように俺を見た。
「なんか……ハンサムになったね、ゆークン!? あ、わかった。カノジョできたんだ」
恵理子はそう言って笑った。俺も笑った。伯父さん家の家族とも、こんなふうに笑って話せるようになったんだ。
俺は、変わった。初めて妖怪《ようかい》アパートへ来てから、どんどんどんどん変わり続けた。
そして、まったく新しい俺が、始まるんだ。
春休みの間に、魔道士《まどうし》の修行《しゅぎょう》をしていたなんて自分でも信じられない。学校の連中が知ったらなんて言うか、想像しただけでも笑えるぜ。
霊力《れいりょく》を鍛《きた》えるという集中特訓の日々が、ひとまず明けた。
「うはよ―――っス!!」
妖怪アパートの食堂の入り口で、俺は深々と頭を下げた。
「おはよー」
「おはよう、新米魔道士クン。今日から学校だね。正体バレないよう気をつけてネ」
正体を隠《かく》して会社で働いている佐藤さんが言った。みんな笑った。
「ウス!」
「別になにが変わるわけでもないだろうけど、とにかくまあ上手《うま》くやれよ、後輩《こうはい》」
「ウス、先輩!」
るり子さんの激うま朝飯を食って、さあ登校だ。
古本屋が言うとおり、アニメや漫画《まんが》じゃないんだから、いきなりドラマチックな出来事が起こることはないだろうけど、それでも胸がドキドキするのはとめられない。
うん。
いい気分だ。
[#地から1字上げ]第三巻(二〇〇四年秋刊行予定)につづく
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香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。著書に「地獄堂霊界通信」シリーズや「エル・シオン」シリーズ(いずれもポプラ社)など多数。作風から、霊感があると思われがちだが、霊が見える友人はいても、自分では気配さえも感じないらしい。大阪府在住。
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
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底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》A
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2004年3月10日 第1刷発行
2005年12月15日 第4刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
|※《薬》 ※[#丸薬、ページ数-行数]