妖怪アパートの幽雅な日常@
香月日輪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽雅《ゆうが》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)博|伯父《おじ》さん
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)その頃[#「その頃」に傍点]
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〈帯〉
活字力全開の新シリーズ
ひとり暮らしの始まりは、妖怪たちのすむ奇妙なアパート――。
違う世界や違う価値観があってこそ、世の中はオモシロイ!
〈カバー〉
「出るんだ。これが」
「えっ……オバケ!?」
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妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常@
香月日輪
講談社
YA! ENTERTAINMENT
妖怪アパートの幽雅《ゆうが》な日常
香月日輪
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幽霊《ゆうれい》とか妖怪《ようかい》とかって、見たこともなかったし、いてもいなくてもどうでも良かったよ、別に。
そりゃあ、ガキの頃《ころ》は信じていたかもしれないけど、そんなに怖《こわ》いとか思わなかったし、興味もなかった。
そんなことよりも、俺《おれ》は現実の問題で頭がいっぱいだったんだ。
両親がいっぺんに死んで三年。やっと親戚《しんせき》の家から出られる時だった。寮《りょう》のある高校に合格したんだ。
バラ色の、とはいかないけど、それまでよりはちょっとはマシな毎日になると思ってた。あの日まで――。
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勝負の場所は電車の通る橋の下だ。ありがちだけどここが一番だろ、やっぱ。人に見とがめられる心配が少ないもんな。
「てめぇのツラァ、ボコにするのを待ってたぜ、長谷《はせ》」
俺は上着を脱《ぬ》ぎ捨《す》てると両手の指をボキバキ鳴らした。長谷はいつものスカした顔で、いつものようにフフンと笑った。
「俺だって一度はお前とやりたかったさ、稲葉《いなば》」
長谷は脱いだ上着を丁寧《ていねい》にたたんで鞄《かばん》の上に置いた。それから俺に対して横向きに立つと、右手を差し出してチョチョイと指を動かした。ああ、あれだ。映画『マトリックス』のカンフーの練習のシーンで、ローレンス・フィッシュバーンがやったポーズ。あれ、二人で見に行ったんだっけ。面白かったよな……。
「ということは、俺がキアヌ・リーブスってわけだ!!」
言いながら俺は長谷に飛びかかった。
「言ってろよ!」
長谷は嬉《うれ》しそうに体をかわす。俺たちは、ほぼ本気で殴《なぐ》りあった。
頭上を何本電車が通り過ぎていっただろう。
俺と長谷は、夕陽《ゆうひ》に染まりゆく空を見ながら草むらに大の字でひっくり返っていた。身体中がジンジンと痛んで口の中が錆《さび》くさい。でも幸いお互《たが》い歯は無事だったようだ。
「……条東商合格おめでとう、稲葉」
長谷がポツリと言った。
「お前こそ……名門進学校だもんな、あそこ。東大は約束されたも同じだな。超《ちょう》エリートビジネスマンへ一歩近づいたわけだ」
「ああ…………お前も」
「ああ」
俺は身体を起こした。
「お前みたいな超エリートにはなれないけど、俺だって商業高校で簿記《ぼき》やパソコンとかの技術身に付けて、即戦力《そくせんりょく》のビジネスマンになるからな。社会に出るのは俺のほうが早いだろうから、お前は社会人としては俺の後輩《こうはい》ってわけだ」
にかっと笑った俺に、長谷はちょっと心配そうに笑う。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、お前……」
「お前こそ。正体バレないよう気をつけろよ、長谷。名門進学校に首席入学した大会社の重役子息が、実は中学では裏番≠オてました、なんて今時アリな話か!?」
俺たちは大声で笑いあった。電車が轟音《ごうおん》をたてて通り過ぎていった。
別れの握手《あくしゅ》を交《か》わす。
小学三年生の時から親友だった長谷と、ここで別れる。別々の高校へ。別々の世界へ。
両親のいない俺を支え続けてくれた親友。金持ちで頭がよく、将来を嘱望《しょくぼう》されている長谷が、都内の名門校へ進学するのは当然のことで。これが永遠の別れじゃないけれど、これから先の世界は俺と長谷ではずいぶん違《ちが》ってくるんだろうなと思うと、ふと寂《さび》しくなる。
でも俺は、この時は親友との別れの寂しさよりも嬉《うれ》しさのほうが勝《まさ》っていた。
寮《りょう》のある高校に合格できた。
三年間暮らしてきた親戚《しんせき》の家を、やっと出られるんだ。俺の世界は大きく変わろうとしていたんだ。
合格発表の二日後のことだった。
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夕士《ゆうし》
顔に青アザをこしらえて帰ってきた俺を見て、恵子伯母《けいこおば》さんは目をむいた。
「夕士くん! なんなのその顔?」
「ああ、カツアゲにあったんス。でも逃《に》げてきました。大丈夫《だいじょうぶ》っス」
いつものように、ちょっと引きつったお愛想笑いをして四畳半《よじょうはん》の自分の部屋へこもろうとした俺を、伯母さんは引きとめた。
「ちょっと! 大変なのよ、夕士くん!」
「ハ?」
居間で待っていた博伯父《ひろしおじ》さんの口から、俺は信じられないことをきかされた。
「えっ……寮《りょう》が、か……かかか、火事??」
「全焼だってヨ」
だってヨ、だってヨ、だってヨ……伯父《おじ》さんの声が頭の中でこだました。
真っ白だ。頭の中が真っ白になった。伯父さんの言ってることは理解できても、心が拒否《きょひ》している感じだった。胸のあたりに固い塊《かたまり》がゴンとできて、現実のダメージから心臓を守っているような。脳の中の神経全部がしびれて「感じる」ことを伝達しないようにしているような気がした。
「建て直すのに、なんやかやと半年かかるそうだ。まあそれまでは……ここから通うか」
伯父さんは苦笑いした。その瞬間《しゅんかん》、俺は正気に戻《もど》った。「このままにしてたまるか!」と反射的に思った。
「いや……! 俺、なんとかします!!」
なんとかとはなんだ? と自分で思いつつ、俺は居間を出て行った。台所の椅子《いす》にすわってこっちを見ていた恵理子《えりこ》が、露骨《ろこつ》に嫌《いや》そうな顔をしているのがたまらなかった。
自分の部屋へは戻らずに、玄関《げんかん》から飛び出す。
ここにはいられない。いたくないんだ、俺だって! そう叫《さけ》び出《だ》しそうになる。
「くそ! なんでだよ……なんでこうなるんだよ!! ちくしょう!!」
ついさっきだ。ついさっき親友に「大丈夫《だいじょうぶ》だ」と言ったばかりなのに。新しい気持ちで新しい生活を送れるんだと思ったばかりなのに。
「ちくしょう!!」
荒《あ》れ狂《くる》う胸の内をどうしようもなかった。なにかに当たり散らしたい衝動《しょうどう》を抑《おさ》えきれない。俺はただ走った。あてもなく。とにかくどこかへ行きたかった。ここではない、どこかへ。
俺、稲葉夕士《いなばゆうし》は、今年条東商業高校へ合格した。
合格を知った時は、人目もはばからず万歳《ばんざい》三唱したほど嬉《うれ》しかった。条東商は、就職に関しては実績のある高校だ。寮《りょう》もある。俺は是《ぜ》が非《ひ》でもここに入学したかったんだ。
両親を一度に亡《な》くしたのは、中学一年生の春。二人が、知り合いの告別式へ出席した帰りの交通事故だった。
六時限目の授業を受けていた俺のもとへ、事務員のおばさんが青い顔をしてやってきた。あの時のおばさんの、眉間《みけん》にくっきりと寄った三本の皺《しわ》が、今も妙《みょう》に記憶《きおく》に残っている。
なにが起こったのか理解できなかった。こんなことが自分の身の上に起きるはずもないと。これは夢なんだと、何度も何度も思った。
悲しいよりも、俺はこれからいったいどうなるんだろうという思いの方が強かった。
俺は「悲しむ」ことを拒否《きょひ》したのかもしれない。悲しんだら、両親の死を認めることになるから……。
あの日から、俺は親戚《しんせき》の家で暮らしてきた。
博|伯父《おじ》さんも恵子|伯母《おば》さんも悪い人ではなかったけど、俺の世話を大変な負担に感じていることが伝わってきた。それはそうだろう。いきなり子どもが一人増えるんだ。これで遺産が山ほどあるのならデカイ顔もできるとこだが、吹《ふ》けば飛びそうな中小|企業《きぎょう》のサラリーマンだった親の遺産なんてたかがしれていた。伯父さんたちが、俺の世話をするだけ損だと思っても仕方ないことだった。それぐらいわかっていた。中学生の俺でも。
そのうえさらに肩身《かたみ》の狭《せま》かったことには、伯父さん家《ち》には、高校受験をひかえて細い神経をさらにピリピリ尖《とが》らせていた一人娘《ひとりむすめ》の恵理子がいた。
俺がきたことで、恵理子が受験に失敗することこそなかったものの、年頃《としごろ》の女の子のもとへ突然《とつぜん》転がりこんできた男を、恵理子は想像以上に嫌《いや》がった。それもそうだろうと、俺はわかっていた。実の家族の間でも、女の子の扱《あつか》いにはいろいろ気を遣《つか》うものだ。
嫌なのは俺だって同じだった。俺が男だからと嫌《きら》う女の子に、どう接したらいいかなんてわからなかった。だから、なるべく恵理子を刺激《しげき》しないように気をつけていた。三年間、俺たちはついにまともな会話を交《か》わすことはなかった。
「寮《りょう》のある高校に合格して、この家を出るんだ!」
俺の支えは、この決意だけだった。
条東商業高校には寮がある。技術を身に付けて就職して独り立ちする。合格を知った時には、この夢に何歩も近づいた気持ちがした。
「それを今になって、今になって……ちくしょう! なんでだよ!!」
夕暮れの街をさまよい続けた。
走ったり、歩いたり、また走ったり。止まってしまうと、もうそこから動けなくなるような気がしたから。
大丈夫《だいじょうぶ》か……
どこかで長谷の声がした。そう言って別れたばかりの親友に、今の気持ちをブチまけたい気分だった。でもできない。
真面目《まじめ》にしなければという思いと、どうにでもなってしまえという思いの間で、ともすれば箍《たが》が外れて暴走しそうになる俺を支えてくれた唯《ただ》一人の友。中学三年間世話になりっぱなしだった。
誰《だれ》にも言えないグチを、長谷にだけは言えた。長谷だけは、なにも言わず、いつまでも、いくらでもグチを聞いてくれた。長谷も俺の前でだけは、本来の自分を曝《さら》け出していた。俺たちは、お互《たが》いが唯一《ゆいいつ》素直になれる相手だったんだ。
長谷は俺のグチを聞き、たくさんの本を貸《か》し与《あた》え、さり気に食い物をおごり続けてくれた。二人でバカな話を言い合いしている時間が、どれほど俺を元気づけてくれたか知れない。
でも、もうあいつは側《そば》にはいないんだ。学校がはじまっても、そこに長谷はいない。俺は、一人でやっていかなくちゃならないんだ。
「こんなことになるなんて……。今さらこんなことになるなんて……!」
長谷と握手《あくしゅ》を交《か》わしたのが、遠い遠い昔のことみたいに思えた。
「どうしよう……」
ふと気づくと、俺は電車に乗っていた。それは、条東商業高校のある鷹《たか》ノ台東《だいひがし》へゆく線だった。
夕闇《ゆうやみ》に沈《しず》んだ町並みがカタコンカタコンと過ぎてゆく。
住宅街にともる灯《あか》りが、胸にせまってきた。今ごろあの下では、家族が夕食のテーブルを囲んでいるのだろうか。子どもたちは、父親がおみやげを持って帰ってくるのを待っているのだろうか。そんなありふれたこともできない自分。
「父さん……母さん…………」
俺は、今さらながら泣きたくなった。そういえば、両親の死をきかされたあの日から、自分は泣いたことなんてなかったんだ。なんだか呆然《ぼうぜん》としたまま、ここまできてしまったような気がする。
「でもなぁ……今さら泣いてもなあ……」
苦笑いと一緒《いっしょ》に、苦いため息が足元に落ちた。
帰宅を急ぐ人たちに交じって鷹ノ台東駅でおりてみた。
自分はこれからこうやって、毎日この駅で電車を乗り降りするのだろうか。寮《りょう》に入ればそんなことをしなくてもすむのに? そう思うと、大きなため息がでた。
と、その時、黄色い旗がたくさんはためいてるのに目が行った。その旗には「キンキンホーム」の赤い文字が。
「キンキンホーム……」
俺の頭に、テレビのCMソングが流れた。♪アパート、マンション、一戸建て。お部屋さがしに、キンキン、キンキン、キンキンホーム……。
「そうだよ! アパートをさがそう!!」
その瞬間《しゅんかん》、それはとてつもない名案に思えた。俺は、キンキンホームへ飛びこんだ。しかし、対応したキンキンホームの社員の態度に、俺は現実を思い知らされることになる。
「この駅周辺で家賃が……なるべく安く? 具体的に書いて下さいよ」
キンキンホームの社員は、俺と俺の書いた受付書を見比べ、ヘッと笑った。愛想笑いをするその表情には「今頃《いまごろ》部屋なんざありゃしねーよ、バーカ」という嘲《あざけ》りが見てとれた。社員は、俺を子どもと見てバカにしやがったんだ。それが俺に伝わっても、いっこうに平気なようだった。ことさら白々しい愛想笑いで話を続けてみせる。
「お部屋さがしは一月からがピークでして、入学、人事異動と転居のシーズンなんですよ。今頃はそのシーズンも終わりで、お部屋はあらかた埋《う》まってしまってます、ハイ。……はあ、ご予算は二、三万。二、三万ですか!? イヤ、こりゃまいったなあ、ハハハ」
社員は物件のリストをめくりながら、いちいち家賃を指さしておおげさに言ってみせた。
「ほぉら、これもこれも。ワンルームで五万はするでしょ。お客様もねえ、なにも知らないで、ただ安いだのカッコイイだので探すんじゃなくて、もっと賢《かしこ》くなっていただかないと……」
社員がなにか言うごとに、俺は気分がどんどん落ちこんできて、いたたまれなくなった。社員がクソ丁寧《ていねい》な説明の裏で「ガキが金もないのに一人暮らしだと?」と言っているのがわかったからだ。悔《くや》しいけど……それは、そのとおりだった。そう思ったとたん、プチッとキレるのが自分でもわかった。
ガバッ!! と、俺はその社員の胸ぐらをつかみ、シャツをひねり上げた。
「ヒッ」と社員が息を呑《の》むと同時に、椅子《いす》がひっくり返って派手な音がフロアにこだました。
シン、とそこにいた社員や客が全員固まる。俺は自分の身体に必死で言い聞かせた。落ち着け! 落ち着け!! と。右手が社員のシャツから離《はな》れた。
「すいません。もういいです!」
俺はキンキンホームを飛び出した。
悔しくて、情けなくて、悲しくて、もうなにがなんだかわからなくて。俺はまた歩きだした。
「止まるな。止まるな。止まったら……」
なんだか目の前が真っ暗だ。
落ちこんでいるところを、さらにドン底に突《つ》き落《お》とされたようだった。自分はまだなんの力もない子どもで、誰《だれ》にも助けてもらえないことを思い知らされた。無性《むしょう》に泣きたい気分だった。
実際は、寮《りょう》に入るのが半年|遅《おく》れるだけだ。だけど俺は「思いもかけない突然《とつぜん》の不運」というものに、激しい拒絶感《きょぜつかん》を抱《いだ》いていた。両親が死んだのがそうだったからだ。
今また、あの時と同じような気分にさせられて、自分の力ではどうしようもない出来事に、なすすべもなく立《た》ち尽《つ》くすしかない。
なすすべもなく、とうとう公園のベンチにすわりこみ俺は動けなくなってしまった。
すっかり暮れた公園の片隅《かたすみ》で、一人頭を抱《かか》えこむ。
今はなにも考えず、じっと息をひそめていたかった。なにかを考えても、悪いことしか浮《う》かばない。悲しくて悔《くや》しくて、涙《なみだ》をこらえきれなくなる。こうして、自分で自分を抱《だ》きしめて、どれほどの夜を一人で過ごしてきただろう。誰にもなにも言えないまま。泣くこともできないまま。
だってそうだろう? 誰になにを言えばいいんだ? 誰がなにをしてくれるというんだ? 泣いてわめいてわがままを言えば、どうにかなるのか? 両親が帰ってくるのか?
「ちくしょう…………」
目をぎゅっと閉じ、奥歯《おくば》をかみしめる。真っ暗な中で、ひたすらなにも考えないよう努める。
どれぐらいそうしていただろう。ふいに、すぐそばで声をかけられた。
「お兄ちゃん、部屋を探してるの?」
子どもの声だった。鉛《なまり》のように重たい頭を上げる気になれず、目だけあけると、裸足《はだし》に運動靴《うんどうぐつ》をはいた小学生らしき足が見えた。
「キンキンホームはだめだよ。あそこは客を差別するんだ。あの店へ行ってみなよ。いい部屋がきっとあるよ」
あの店? 思わず顔を上げると、俺の真正面に「アパート、マンション、下宿、空き部屋あり」の看板が見えた。俺は、思わず立ち上がった。見まわすと、あたりには誰《だれ》もいない。暗くなってしまった公園に子どもがいるはずもなかった。
「あれ? 今の子どもは……」
不思議に思いながらも、公園をぬけてその店に行ってみた。ビデオショップの横にへばりつくような小さな店だった。
「前田不動産」と書かれたガラス戸の向こうで、おじさんが一人新聞を読んでいる。俺はためらったが、さっきの子どもの声が耳の奥《おく》に残っていた。
いい部屋がきっとあるよ
「すんません……」
「いらっしゃい」
おずおずと店の中へ入る。店内には物件を紹介《しょうかい》するものはなにもなく、妙《みょう》にガランとしていた。
「あの……」
うまく言葉が出てこない俺に、おじさんのほうから声をかけてくれた。
「学生さんかね。ひょっとして条東商の生徒さん?」
「はぁ」
「学生寮《がくせいりょう》、焼けちゃったんだってねえ。うちにも何人か部屋さがしに来たよ」
おじさんは苦笑いした。その笑顔《えがお》に、緊張《きんちょう》がふっと解けた。この人は事情をわかってくれている。自分の顔が、初めてほころんだのがわかった。
丸メガネに白髪《しらが》まじりのアゴ髭《ひげ》の前田のおじさんは、俺の話をきいてくれた。両親の遺産をムダ遣《づか》いはできないが、それでも「出る」と決めた以上、伯父《おじ》さんの家は出たいこと。自炊《じすい》したいのでキッチンのついた部屋がいいことなどなど。
「苦労してるねえ、君も」
と、おじさんはしみじみと言った。その言葉が、なんだかやけに胸にしみる。同情なんてされたくはないけれど、今だけはやさしい言葉が心地よかった。気がゆるんで泣きそうになった。俺は、出されたお茶を一気飲みした。
やや間をおいて、前田のおじさんは丸メガネをキラリと光らせた。
「……いい物件が一つある」
「ありますか!」
思わず身を乗り出した俺に、おじさんは間取り図を見せながら言った。
「鷹ノ台東駅から、東へ歩いて十分。部屋は二|畳《じょう》の板間と六畳の和室。南向き。トイレと風呂《ふろ》は共同だが、賄《まかな》い付《つ》きだ」
「まかないって……食事を作ってくれることっスか?」
「そうそう。昔は、学生相手の安下宿なんかじゃ、女主人が食事とか洗濯《せんたく》とか、学生たちのすべての面倒《めんどう》をみていたもんだよ。今の子どもたちは他人の干渉《かんしょう》を嫌《きら》うからなあ。賄いという言葉さえ消えつつあるよね」
前田のおじさんはアゴ髭《ひげ》をゴシゴシこすると、コホンと咳払《せきばら》いしてから言った。
「家賃は、ズバリ二万五千円!」
「二万五千円!!」
「しかも、光熱費、水道代、賄い費こみだ!」
「えっ、それで二万五千円!?」
寮費《りょうひ》は三万円だが、家庭的な事情のある俺には補助が出るので二万円ですむ。それと比べても五千円高いだけだ。これはいいかも……と、思いそうになった頭を、俺はハタと落ち着かせた。三年間、ぎゅっと抑圧《よくあつ》された暮らしの中でつちかわれてきた根性は、めったなことでは動じない。というより、この世に「うまい話」なんかないだろう? 俺は、前田のおじさんの丸メガネに鼻っ先を突《つ》きつけた。
「ひょっとして、いわくあり!?」
おじさんはしばらく俺とにらみあった後、にや〜んと笑った。
「実は、そお♪」
「やっぱり……!」
やっぱりこの世には「うまい話」なんてなかった。きっと俺の一生は、きっとずっとこんな調子なんだろうなあ。俺はため息とともに、椅子《いす》へどっかりとすわりなおした。その目の前へ、おじさんは両手をダラリとたらして言った。
「出るんだ。コレが」
「えっ……オバケ!?」
いきなり予想だにしなかった話をされて、俺はどう反応していいか、口をぽかっとあけてしまった。さぞかしマヌケな顔だったろうな。
今の今まで自分の人生の中に「オバケ」という文字はなかった。そんなものはいてもいなくてもどうでもよかったし、身近で出たという話もきかない。興味もないのでそのてのテレビ番組も見ないし、本も読まない。したがって知識もなにもない。俺の中のオバケといえば『ゲゲゲの鬼太郎《きたろう》』とか、いいとこ『四谷怪談《よつやかいだん》』のお岩さんぐらいか?
「……ホントに出るんスか?」
「さあ、知らないなあ」
しれっとこたえる前田のおじさんが、すごくあやしく見えた。あやしい。オバケうんぬんという話がスゴクあやしい。ひょっとして、これはなにかの罠《わな》なのではないだろうか。自分は今、だまされかけているのでは? そんな現実的な考えがよぎる。そんな俺の思いを知ってか知らずか、おじさんは言った。
「そうだ、こうしよう。オバケが出るという話もそうだけど、君にとってはたった半年の仮宿だ。寮《りょう》が完成したら当然移るんだろう?」
「はあ。そのつもりっス」
「実はボクは、そのアパートに部屋を持ってるんだ。物置として使ってるんだけどね。半年だけ、ボクが君にその部屋を貸そうじゃないか。だから敷金《しききん》その他は払《はら》わなくていい。家賃だけでいいよ」
「え、ホントに!?」
「アパートの大家とは馴染《なじ》みでね。いろいろ融通《ゆうずう》がきくんだよ。君の身の上にスッカリ同情しちゃったから言うんだよ。どうだい?」
「……あ、ありがとうございます!」
この瞬間《しゅんかん》、オバケだのなんだのが吹《ふ》っ飛《と》んだ。俺に同情したと言った前田のおじさんの表情が、とてもやさしかったから。俺は、素直にその厚意《こうい》が嬉《うれ》しかった。
俺は飛んで帰って、博|伯父《おじ》さんに報告した。伯父さんは、前田不動産の申し出をちょっと不審《ふしん》に思ったようだったが、
「全然いいじゃん! せっかく親切にしてくれてんだもん。ありがたいと思わなきゃ」と恵理子が言うと、伯父さんも笑った。
恵理子も恵子|伯母《おば》さんも「良かった良かった」と笑っている。これで厄介払《やっかいばら》いができると、みんなホッとしている。俺は複雑な気持ちだった。伯父さん一家に感謝はしている。しかし、もうこの家には、二度と帰ってきたくなかった。
寮《りょう》の火事のことを聞きつけた長谷から連絡《れんらく》が入っていた。俺は公衆電話から長谷に電話をかけた。俺のアパート暮らしのことを心配する長谷をなだめるのは大変だった。
「手紙を書くよ、稲葉。返事よこせよ」
「ああ、わかった」
「今どき文通する高校生なんてなあ!」
俺たちは笑いあった。また笑いあうことができて、俺は少しホッとした。
長谷はそんな俺を見届けるように、上京していった。
翌日。俺は、前田不動産のおじさんと、くだんのアパートを見に行った。
鷹ノ台東駅から東へ歩いて十分の住宅街。ころび坂の手前の、家と家の間の狭《せま》い通路を入る。
すると、そこにぽっかりと空間がひらけて、蔦《つた》のからまる白壁《しらかべ》に囲まれた建物が、木々に埋《う》もれるように建っていた。
それは日本のこの住宅街の真ん中にあって、非常に違和感《いわかん》のある景色だった。前田のおじさんはニカッと笑った。
「なかなかモダンな建物だろ?」
「…………はぁ」
蔦《つた》に覆《おお》われた、古びた灰色の壁《かべ》。濃《こ》いえんじ色の屋根。窓にはステンドグラスがはめこまれている。玄関《げんかん》は木製の観音開きで、ここにもステンドグラスがあしらわれている。映画のロケにでも使われそうな「大正ロマン風」の造りだ。しかし、それはそれだけ築年数が古いという証《あかし》でもあるんじゃないか? いかにもその頃[#「その頃」に傍点]につくりましたというモダンさ。
「築何年なんだ……?」
聞くのがコワイ。オバケよりもそっちのほうがよほどコワイじゃないか。
「いや、我慢《がまん》我慢。半年だ。たった半年我慢すれば、新品の学生寮《がくせいりょう》へ移れるんだ!」
俺は心の中で、念仏のようにそう唱えていた。その時、玄関から竹箒《たけぼうき》を持った甚平《じんべい》姿の男が出てきた。
「おや、前田さん」
「やあ、一色《いっしき》さん、どうも。お久しぶり」
ここの住人らしいその男を見て、俺はハッとした。子どものラクガキのような簡単な、どこかとぼけたようなその顔には見覚えがある!
「一色……一色|黎明《れいめい》!!」
俺は思わず叫《さけ》んでしまった。
「おや、稲葉くん。若いのに一色さんみたいな難しいの読むの?」
前田のおじさんの声は耳に入らなかった。俺は目の前の甚平《じんべい》男に釘付《くぎづ》けだった。
一色黎明は、詩人にして童話作家。非常に難解で高尚《こうしょう》な詩と、グロテスクで耽美《たんび》な大人の童話を書き、一部に熱狂的《ねっきょうてき》な、というよりは偏執狂的《へんしゅうきょうてき》なファンを持つ異色作家だ。
決して偏執狂ではないが俺もこの詩人のファンで、今もリュックの中には一色黎明作の童話の単行本が入っている。
自慢《じまん》じゃないが、こう見えても俺は読書が趣味《しゅみ》なんだ。中学じゃ「文芸部」だった。金がかからないからだ。運動は好きだけどヘタに運動部なんかに入ったら、試合だ合宿だと金がかかる。運動は朝夕のランニングと、たまにチンピラから売られたケンカを買うぐらいで充分《じゅうぶん》だ。
古本と長谷から借りる本が、俺の楽しみだった。一色黎明は、古本の中から発掘《はっくつ》した最近一番のお気に入りだ。まさかこんな所で? まさか本人に会えるとは!?
「えっ……ほ、本物? 本物??」
「そぉ。本物」
ラクガキのような顔がニコッと笑った。まちがえようもない、著者|近影《きんえい》の写真と同じ顔!
「サ、ササササ、サイン下さい!!」
慌《あわ》てふためいて詩人の鼻先に単行本を突《つ》きつけると、前田のおじさんが笑った。
「一色さんは逃《に》げないから、夕士くん」
「い、い、い、一色さんって、このアパートに住んでるんスかっ?」
「そぉ。もう十何年になるかねぇ」
「そうなんっスか!」
俺は、テンションが一気に上がってしまった。大好きな作家と同じ屋根の下で暮らせるなんて、こんな幸運はめったにない。もうここに決めるしかない! 前田のおじさんにどんな思惑《おもわく》があろうがどうだっていい!! 俺は、目の前がぱあっと明るくなったような気がした。こんな気分は本当に久しぶりだ。
「じゃ、部屋を見ようか」
「はいっっ!!」
大正ロマン風のアパートは、内部も相当古そうだった。壁《かべ》には、そこここにひび割れが走り、板張りの床《ゆか》は年を経たいい色になっている。廊下《ろうか》も階段も部屋の奥《おく》も、古い家らしい暗さに翳《かげ》っている。しかし、全体の造りはどっしりと堅牢《けんろう》そうだ。
二階へ上がる。小鳥の声と、アパートを囲む木々の葉ずれの音がする。
「静かっスね」
「ここには確か、十人ほど入ってるはずだけど。みんな出かけているのかなあ。あ、ここだよ。二〇二号室」
しっかりとしたドアを開けると、部屋の中は廊下《ろうか》の暗さに比べとても明るかった。南向きの大きな窓。その上部に嵌《は》めこまれたステンドグラスの、色とりどりの光が畳《たたみ》の上に落ちている。窓からは前庭が見えた。詩人が竹箒《たけぼうき》で落ち葉を掃《は》いている。
前田のおじさんの物置というその部屋には、小さなちゃぶ台が一つとお茶セットと座布団《ざぶとん》が置かれていた。そして壁《かべ》一面の本棚《ほんだな》には、ぎっしりと本がつまっていた。文学作品から、哲学《てつがく》、宗教、エッセイもある。なかなか幅広《はばひろ》い趣味《しゅみ》だ。前田のおじさんがアゴ髭《ひげ》をゴシゴシしながら言った。
「ここはボクの隠《かく》れ家《が》なんだよ。本はそのままでもいいだろ?」
「はい。それはもう! これ、読んでいいっスか」
「どうぞどうぞ。水場とトイレは廊下に出たとこね。収納はここと、ここと……」
「いい部屋スね」
俺は、今すぐにでもここへ移ってきたくてウズウズした。
あの家を出て、誰《だれ》に気兼《きが》ねすることもなく思い切り一人の時間を楽しみたい。友だちを呼んで、時間を気にせずしゃべりたい。休みの日は、遅《おそ》くまで寝《ね》ていたい。
考えてみれば、なんとささやかな楽しみだろうか。長谷に言われたことがある。「もう少しわがままを言ってもいいんじゃないか」と。そう思わないでもない。でも、それはできなかった。伯父《おじ》さんたちにこれ以上|迷惑《めいわく》も負担もかけたくない。ましてや、ぐれて好き勝手するなんて。
それは、俺の両親が亡《な》くなっているから。死んでしまった二人のために、遺《のこ》された自分がしなければならないのは「一人前になること」だ。ちゃんとした社会人になり、ちゃんと幸せになることだ。それがなによりの供養《くよう》になるんだと、中学一年生の時に心に決めた。あの時、ゆるゆると空へたちのぼってゆく火葬場《かそうば》の煙《けむり》を見ながら。そのためには、どんな「寄り道」もできないんだ。
学生寮《がくせいりょう》の建《た》て替《か》えまでの、たった半年を待たずに伯父さんの家を出るのは、そんな俺のこれ以上ない「わがまま」だった。
三年間の昼と夜を、一人ぼっちで耐《た》えてきた。博伯父さんたちは確かに俺の家族だ。それでも、その家族の中で俺は孤独《こどく》だった。半年でもいい。本当に「一人」になりたい。「一人でいること」と「孤独」とは違《ちが》う。俺は一人になって、すべてを自分の自由にしてみたかった。
「来るかね?」
前田のおじさんが念押《ねんお》しした。俺は笑顔《えがお》で、ハッキリこたえた。
「はい。よろしくお願いします!」
俺は契約書《けいやくしょ》を持って、家へすっ飛んで帰った。博|伯父《おじ》さんの帰宅を待ちかねて契約をすませてもらうと、もう荷物をまとめて出て行かんばかりのところを恵子|伯母《おば》さんに止められた。
「日曜日まで待ちなさい。お布団《ふとん》や机も運ばなきゃだめでしょう」
日曜日には、伯父さんが軽トラックを借りてきてくれる。俺は待ち遠しくて仕方なかった。こんなふうになにかを楽しみに待つなんて、修学旅行以来だった。
そして日曜日。もともとなにもない俺の荷物は、こぢんまりと軽トラックに載《の》せられてアパートへ向かった。
「やあ、いらっしゃい」
「一色さん! これからお世話になります」
アパートの玄関《げんかん》で、詩人が引《ひ》っ越《こ》しを手伝おうと待っていてくれた。飛び上がるほど嬉《うれ》しかった。前田のおじさんと、契約書《けいやくしょ》と部屋の鍵《かぎ》を交換《こうかん》する。
「はい。部屋の鍵」
「ありがとうございます。お借りします」
なんだか「魔法《まほう》の鍵」を受け取ったように思えて、その考えの子どもっぽさに自分で苦笑した。
「この子、久賀秋音《くがあきね》ちゃん。二〇四号室の子」
詩人が紹介《しょうかい》してくれたのは、女の子だった。俺と同じ高校生ぐらい。ポニーテイルの髪《かみ》、シャツとジーンズ姿の、飾《かざ》り気《け》はないが清潔そうな服装。はっきりとした健康そうな顔立ちをしている。きっと頭がよくて明るい性格なんだろう。
「こんにちは。お部屋そうじしといたよ。これからよろしくね!」
と、秋音ちゃんは、想像どおりの明るいハキハキした声で言った。
「は、はあ。どうも……」
まさか、見ず知らずの女の子が部屋のそうじをしてくれたなんて、想像もしなかった親切! 俺はびっくりして自己紹介するのも忘れてしまった。
引っ越しといっても、布団《ふとん》と机と本を運んでしまえば、それで終わりだった。あとは自分でやると言って、博|伯父《おじ》さんにはここで帰ってもらった。有名な作家や女の子も暮らしていると知って、伯父さんも安心したようだ。
これで肩《かた》の荷《に》がおりたことだろう。あとは俺が成人するのを待つだけ。それも、もうすぐのことだ。俺は、伯父さんの車が遠ざかるのをじっと見送り、つぶやくように言った。
「お世話になりました。ありがとうございました……」
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寿荘《ことぶきそう》
「あたし? 鷹ノ台高校の二年生よ。ここには一年生の時から暮らしてるの」
秋音ちゃんは、こまごまとしたものの片付けも手伝ってくれた。
「へえ。秋音さん関西の人なのか。親元を離《はな》れて一人暮らしって、寂《さび》しくない?」
「ぜぇ〜んぜん! ここの暮らしは、とっても楽しいわよ」
秋音ちゃんのしゃべり方や表情から、彼女《かのじょ》の頭の良さや明るい性格がよく伝わってきた。俺の知る範囲《はんい》の年上の女の子といえば恵理子だけど、彼女となんとまあ違《ちが》うことだろう。
自己防衛からなんだろうが、俺の存在をほとんど無視している恵理子。その扱《あつか》いに黙《だま》って耐《た》えるしかなかった俺は、当然の結果として女の子が苦手になってしまった。女の子とは、神経質でヒステリックで、男を「男である」という理由で毛嫌《けぎら》いするもの。さわらぬ神に祟《たた》りなしだから、寄らず、話さず、そっとしておくのが一番いいのだと思っていた。当然の如《ごと》く女によくモテる長谷に、
「お前を紹介《しょうかい》してくれって女もいるんだぜ? 嫌《いや》がらずに付き合ってみろよ」とか言われたこともあるけど、とてもそんな気にはなれなかった。だって、クラスの女子とか見ても、やっぱり恵理子みたいに俺を避《さ》けてるみたいなんだから。
「それはお前が寄らば斬《き》る≠ンたいなオーラを出してるからだよ」
長谷はそう言って笑ってたっけ。
そうかもしれない。両親が死んで生活が一変し、俺自身も変わった。
伯父《おじ》さん家《ち》で肩身《かたみ》のせまい暮らしをして、金のこととか将来の生活のこととか、目の前に確実にある現実を思うと不安で、俺はもう心の底から笑うことができなくなった。
「稲葉くんって、付き合い悪いよね」
「暗いよな」
そう言って一人去り、二人去りする友人たち。残ったのは、長谷だけだった。ましてや女の子なんて。
ところが秋音ちゃんは、まったくくったくもなく、初対面の男である俺に接してきた。まるで女同士のように。まるで男同士のように。初対面であることなどおかまいなしに。他愛もないことをしゃべる。大声で笑っては、俺の背中をたたく。新鮮《しんせん》な驚《おどろ》きだった。秋音ちゃんのような女の子もいるのだと、俺はひたすら感心していた。
秋音ちゃんは親元を遠く離《はな》れ、このアパートで一人暮らしをしながら昼は高校へ通い、夜は病院で働いているらしい。その病院に知り合いがいて、その人がいるからここで暮らしているのだと。なにか複雑な事情があるんだろう。とてもそんなふうには見えないところが、彼女《かのじょ》の強さと明るさの秘密なのだ、きっと。
「そうかぁ。ご両親がいないっていうのは寂《さび》しいね」
二つ並べられた位牌《いはい》を見てそう言う秋音ちゃんの口調は、乾《かわ》いて大人びていた。
「でも、寂しいのにはもう慣れたから」
俺が苦笑いすると、彼女はふわっと、とても優しく笑った。それまでの豪快《ごうかい》な笑いではなく、どこか寂しげで暖かい笑顔《えがお》。思わずハッとさせられた。
「あんまり急いで大人にならなくてもいいよ」
秋音ちゃんは笑いながらそう言った。軽い口調だったが、とても真摯《しんし》な響《ひび》きに満ちていた。どこか、長谷に似た調子。
俺は不思議な感慨《かんがい》をおぼえた。この人とは、なんだかなんでも話せるような。なんでも話したいような気がした。
「秋音さん……このアパートってさ……オバケが出るってホントなのかな?」
間抜《まぬ》けな質問とは思いつつ、きいてみた。秋音ちゃんは、あっけらかんと笑った。
「ああ。そういえば近所じゃ寿荘≠チて言うより妖怪《ようかい》アパート≠チて言ったほうが通じるみたいね」
「寿荘? あ、ここそんな名前だったんだ」
なぜ今まで気づかなかったんだろう。それにしても古典的な名前だ。
「なに? 夕士くん、オバケ怖《こわ》いの?」
秋音ちゃんはからかうように笑った。俺は頭をかいた。
「あ、いやその……。よくわからねぇよ。見たことないし。オバケが出るって言われてもな〜って感じで……」
「そうそう。オバケなんて全然怖くないわよ」
秋音ちゃんは片付けを続けながら、さらりと言った。なんだかうまく受け流されたように感じるのは気のせいだろうか。
「そ、そうだよな」
「るりるりが、引《ひ》っ越《こ》し蕎麦《そば》を作ってくれたよ〜」
詩人が蕎麦を持って入ってきた。蕎麦屋で出されるもののように美しく盛られた蕎麦と天ぷらには、梅の花が一枝そえられている。なんて見るからにうまそうなんだ!
「るりるりって?」
「るり子さん。ここの賄《まかな》いさんよ。ものすっごい料理上手なの!」
秋音ちゃんはそう言うなり蕎麦に食いついた。まさに「食いついた」という感じだった。俺はその豪快《ごうかい》な食いっぷりにびっくりした。詩人が大笑いした。
「秋音ちゃんって、すごい大食いなんだよ」
そういえば彼女《かのじょ》の分だけ蕎麦が三段になっている。三段!?
「あたし、人の三倍は食べるの」
うら若き乙女《おとめ》のセリフとも思えない。実にこともなげにアッハッハと笑う秋音ちゃんと詩人につられて俺も大笑いした。
うまい蕎麦をすすりながら、俺はこれからの生活が、なんだかとても楽しいものになりそうで胸が躍《おど》った。
部屋の片付けが終わる頃《ころ》、外からドッドッドッと、エンジン音がきこえた。
「バイクだ!」
俺は窓から身を乗り出した。
「おお! 後ろに犬のせてるよ、あの人! すげえ! 犬とタンデム!!」
「明《あきら》さんよ。一〇三号室の人」
「夕士く――ん。おりといで〜〜」
窓の下から詩人が呼んでいる。俺は秋音ちゃんと一緒《いっしょ》に一階へと下りていった。
「一〇三号室の深瀬《ふかせ》明。画家なの。アタシとは古い馴染《なじ》みでね」
詩人から「画家」と紹介《しょうかい》されたその男は、がっしりした体を黒い革《かわ》の上下に包み、バサバサの茶髪《ちゃぱつ》にくわえ煙草《たばこ》、目つきはすこぶる悪く、下からなめるように俺をにらんだ。
「……あ、稲葉夕士っス。よろしく……」
画家? 革のバイクスーツには、まるで刺青《いれずみ》のようにキングコブラがデザインされている。乗ってるバイクは大型車。そしてそのバイクにもキングコブラのデザインが。これは、どこからどうみても「暴走族」では?
ちょっとビビってしまった俺の前に、ぬっと大きな犬が立ちふさがった。ピレネー犬ほどもある灰色の図体《ずうたい》に、シェパードのようなでかい耳、でかい口。金色の目で主人とそっくりににらんでくる。
「シガーだ。自分にも挨拶《あいさつ》しろと言ってる」
画家が、ぶっきらぼうに言った。
「は、そうスか。こんにちは、シ、シガー」
俺はシガーの前にかがんで挨拶したが、シガーは不服そうにグウとうなった。
「もっと頭を下げろと言ってる」
カチンときたけど、今こんなところでもめるわけにはいかない。「こいつ〜」と思いつつ頭を下げた。そこに、シガーはいきなりガバッと、全体重をかけてのしかかってきた。
「うわっっ!?」
俺はシガーの下でグシャッと潰《つぶ》れた。
「ギャハハハハ! ひっかかった、ひっかかった!!」
地面とシガーにはさまれた俺を見て、画家と詩人と秋音ちゃんが指をさして大笑いしている。
「シガーはちっとも怖《こわ》い犬じゃないの、夕士くん。これはシガーの初対面の芸≠ネんだよ!」
「男専用」
「…………は、そうスか(質《たち》の悪い芸だ)」
シガーの下敷《したじ》きになったままそう思ったけど、みんなにゲラゲラ笑われながら、俺は悪い気分じゃなかった。こんなふうに接してもらうなんて初めてで、驚《おどろ》いてばかりだった。
いきなりマヌケをさらしてしまった俺の顔を、シガーはやさしくなめてくれた。やさしくなめて、顔中よだれだらけにしてくれたけど。
「そういえば小学生の頃《ころ》、犬を飼いたかったんだ……」
そんなことをふと思い出し、俺はシガーの身体をなでた。画家が煙草《たばこ》をふかしながら笑っている。みんなも笑っている。画家も飼い犬も、悪いのは目つきだけだとわかってホッとした。
「黎明のファンだって? じゃあお前もヘンタイだな」
画家が笑いながら言った。
「ち、違《ちが》うっスよ!」
「好きな女を氷づけにして、毎晩なめまわしたいとか思ってないか?」
「思いません! 俺は、一色さんの流麗《りゅうれい》な文体のファンなんス!」
「あたしは一色さんの書く文はわかんないわ」
「フツーの人間はそうなんだよ」
「俺もすべてを理解してるってわけじゃ……詩はぜんぜんわかんねぇし」
「アタシだって、あんたの描《か》く絵はわかんないヨ、深瀬」
「深瀬さんの絵って、どんなんなんスか?」
「そぉねぇ〜。アンディ・ウォーホールってわかる?」
「いや。わかんないっス」
「そぉ。わかんないのヨ」
「でも深瀬さんの絵って、海外じゃすごく人気があるのよね」
おそい午後の陽《ひ》だまりの中で、俺たち四人はしばらく楽しくしゃべりあった。俺にとっては、兄貴と姉貴がいっぺんにできたみたいだった。楽しくて、おまけに華《はな》やかで。こんな雰囲気《ふんいき》にあこがれていた。こんなふうに、気持ちを思い切り解放して、しゃべって、笑って。
ここへ来てよかった。そう思った。この時は。
「あ、あたしバイトの準備しなきゃ」
秋音ちゃんが立ち上がった。
「あ、俺も。部屋の片付け途中《とちゅう》だったんだ」
俺は秋音ちゃんに続いてアパートへ入っていった。
古いアパートの中は、日が少しでも傾《かたむ》くといよいよその暗さを増した。
ふと、玄関《げんかん》の上がり口に目をやると、足跡《あしあと》がたくさんついているのが見えた。昼間は見えなかったんだが。
「ああ、今まで暮らしてきた人たちの足跡がしみついてるんだなあ」
と、思った。しかしその中に、どう見ても人のものとは思えないような、妙《みょう》なものが交じっている。鳥の足のような三本線とか、獣《けもの》みたいなものとか、異様に大きいものとか、異様に小さいものとか……。
俺は、この時初めて「妙だな」と思った。なにが妙なのかはっきりとはわからない。ここは普通《ふつう》のアパートで、住人も普通だ。「出る」なんていうのは、ただの噂《うわさ》だろう。ただ建物が古いだけ。だけど、その昼間よりずっと暗く沈《しず》んだ空間に、なにかの気配が満ちている。なんだか胸の奥《おく》がざわめいた。
「誰《だれ》か……いるのかな?」
そう思ったとたん、ジャラジャラという音がして、俺は飛び上がるほど驚《おどろ》いた。
玄関横の居間をのぞくと、隅《すみ》っこの衝立《ついた》ての向こうでなにやらもぞもぞしている者たちがいる。
「なぁんだ、マージャンやってるのか」
ほっとして二階へ上がろうとした俺だが、ハタと気づいた。
「あいつら誰《だれ》? いつからあそこにいるんだ?」
しかも居間の電気もつけず、暗い部屋の片隅《かたすみ》で。
出るんだ。コレが
前田のおじさんの声がした。
「…………は、まさか」
出る? オバケが? だいたいオバケってなんだよ? お岩さんみたいに、ヒュ〜ドロドロって出てくるわけ? 俺は、首をふりふり階段を上がっていった。
すると、二階の廊下《ろうか》を拭《ふ》き掃除《そうじ》している人がいた。それは、背丈《せたけ》が小学生ぐらいしかない小さなおばさんだった。えんじ色のスカートにクリーム色のカーディガン、白いソックス姿。おばさんは俺と目が合うと、おたふくのお面のようににこやかな目尻《めじり》をさらに下げた。俺も思わず笑い返した。
「ここの人なのか……?」
ついさっきまで、このアパートには自分と詩人と画家と秋音ちゃんしかいなかったように感じるのだが。
「そうそう、るり子さんと……」
片付けの終わった「俺の城」をながめながら、とりとめもないことを考えている。とても満たされた気分だった。
「夕士くーん。ご飯食べに行こう〜」
秋音ちゃんが誘《さそ》いに来てくれた。
「あ、もうそんな時間?」
「夕ご飯はだいだい六時から八時の間に食べてるかな。でも、るり子さんはいつ行っても温かいご飯を出してくれるの。あたしなんて毎晩夜食を作ってもらってるわ」
秋音ちゃんはぺろっと舌を出した。本当にくったくなく、よく笑う女の子だなあ。
「いいな、それ」
秋音ちゃんと連れ立って部屋を出ると、さっきのおばさんが、まだ廊下《ろうか》を拭《ふ》き掃除《そうじ》していた。
「なあ、あの人……」
「あ、鈴木《すずき》さん? お掃除おばさんよ」
「あ、そうなのか。ハハ」
わかったような、わからないような。さらに俺は、一階の食堂へ入ったところで、またおかしな風景を見てしまった。
満員|御礼《おんれい》だった。十|畳《じょう》ほどの食堂が人いきれでムンムンしている。小さな子どもたちが犬と一緒《いっしょ》に走りまわっている。詩人と画家はいいとしても、お茶を飲んでいるガリガリに痩《や》せたガイコツみたいなじーさまは? 信楽《しがらき》のタヌキのような丸っこい小男は? 椅子《いす》にすわってうつむいたまま、じっと動かない長い髪《かみ》の女は? いったい今までどこにいた!?
「あの……」
「はい、夕士くん! 今夜はウェルカムディナーだって!!」
秋音ちゃんが持ってきてくれたのは、見るもうまそうなトンカツ定食だった。
こんがりあがった衣《ころも》がジュージューと音をたてている。付け合わせはたっぷりのサラダ。小鉢《こばち》には木の芽の胡麻和《ごまあ》え。冷《ひ》や奴《やっこ》。キュウリのぬか漬《づ》け。
「ご飯とお味噌汁《みそしる》はここ。おかわり自由だからね」
秋音ちゃんがよそってくれた山盛りご飯は、ピカピカに光っていた。
「う、うまっっ……!!」
声にならなかった。口の中でとろけるようなトンカツ。だしのよくきいた大根とアゲの味噌汁は、料亭《りょうてい》で出されるもののように上品で味わい深かった。
「うまい! るり子ちゃん、この胡麻和《ごまあ》えは絶品!!」
と叫《さけ》ぶ詩人に、俺はガツガツかきこみながら激しくうなずいた。いまどき賄《まかな》い付《つ》きのアパートそのものが珍《めずら》しいというのに、この飯のうまさはただ事じゃない! 俺は、飯も味噌汁《みそしる》も二回もおかわりした。「家の飯」をこんなに食ったのは初めてだった。ぬか漬《づ》けだけをおかずに四|杯目《はいめ》の大盛り飯を食った秋音ちゃんには負けたけど。
しかし、カウンターで仕切られた向こう側の厨房《ちゅうぼう》がなんだか妙《みょう》に暗くて、そこにいるはずのるり子さんの姿がどうしても見えなかった。時折チラチラと、白いものが見《み》え隠《がく》れしている。
「なあ、この人たちみんな、このアパートの人たちなのかな?」
満腹満足して、俺はようやく秋音ちゃんにたずねてみた。
「山田さんはそうよ」
秋音ちゃんは、丸っこい小男を指差した。
「あとは近所の人ね。ここってこの辺の溜《た》まり場《ば》なのよね〜」
と、笑いながら秋音ちゃんは言った。詩人と画家が俺を見て、なにやらニヤニヤ笑っている。どうも妙だ。秋音ちゃんがそう言うのならきっとそうなのだろうが、なにか変だ。なにか、どこか……。
食後、居間をのぞくと、さっきの連中がまだマージャンをしていた。部屋の隅《すみ》っこで、衝立《ついた》ての向こうでちぢこまるようにして。姿はよく見えないが、四人とも着物姿だ。子どもと犬が寄《よ》り添《そ》うようにして見ているテレビには、知らない番組が映っていた。
「変だ……」
俺は首をかしげながら部屋へ戻《もど》った。二階の廊下《ろうか》を、鈴木さんがまだ拭《ふ》き続《つづ》けていた。
「変だ……!」
なんだかすごく変な気分だ。でも、詩人も画家も秋音ちゃんもなんということもなく暮らしているみたいだし、違和感《いわかん》を感じるのは、自分がこのアパートに慣れていないからなのだろうか。
「なんだかな〜……」
そう思いつつ、俺は高校の教科書を眺《なが》めた。明後日《あさって》からは高校生活が始まる。
「そうだ。条東商には英会話クラブがあるんだよな」
英会話に簿記《ぼき》にパソコン、役立つ技術はつけられるだけ身につけて、目指すは即戦力《そくせんりょく》のビジネスマンか公務員だ。俺には、そこら辺の子どものように遊んでいる余裕《よゆう》はない。
「夕士く〜ん、一緒《いっしょ》にお風呂《ふろ》はいろ〜」
詩人が誘《さそ》いに来てくれた。第一線で活躍《かつやく》する(すごくマニアックとはいえ)作家に風呂に誘ってもらえるなんて! ファンに知られたら殺されそうな贅沢《ぜいたく》だ。
「はい――!」
詩人とともに階段を下りていくと、秋音ちゃんが出かけるところだった。
「行ってきまーす」
元気に飛び出していく彼女《かのじょ》を見送る。秋音ちゃんは鷹ノ台にある病院で夜中じゅうバイトして、向こうで三時間だけ寝《ね》て朝こっちへ帰ってきて学校へ行くという。
「ス、スゴイ生活だな! それで身体とか大丈夫《だいじょうぶ》なんスか?」
「ぜぇ〜んぜん平気みたいだヨ」
あっけらかんと詩人が笑う。未成年の労働基準とか、看護婦でもない彼女が夜中に病院でなにをやってるんだとかいろいろ突《つ》っこみたいことはあるけど、やめとこう。人には人それぞれの事情というものがあるのだ。
「そういや俺、風呂《ふろ》は見てなかったんだ。地下にあるんですってね」
「そぉ。でっかい風呂だよ。きっと気に入るよ」
地下へいく階段を、鈴木さんが拭《ふ》き掃除《そうじ》していた。
「やあ、鈴木さん。いつも精が出ますね」
詩人が声をかけると、鈴木さんは笑ってこたえた。
「一色さん、あの人……」
「鈴木さんは、いっつもアパートの掃除《そうじ》をしてくれているの。えらいよねぇ。頭が下がるよねぇ」
「は、はあ」
地下への暗い階段を下りていくと、蒸気がむっと身体を包んだ。
岩風呂《いわぶろ》があった。
ほのかな灯《あか》りに浮《う》かび上《あ》がったのは、最高級温泉旅館の浴場もかくやというような、天然としか思えない洞窟《どうくつ》風呂だった。秋吉台《あきよしだい》とかにある鍾乳洞《しょうにゅうどう》みたいに、天井《てんじょう》から岩のつららが垂れ下がっていたり、きのこみたいな、皿みたいな岩の造形物が壁《かべ》や床《ゆか》から生えている。ちょっとぬめりがあって金気のある湯は、どうやら本物の温泉の湯らしい。
「あ―――っ、極楽《ごくらく》!! いつ入っても!」
気持ちよさげな詩人の横で、誘《さそ》われるまま湯につかったはいいけれど、俺は固まってしまった。
「おかしい……! いくらなんでも、これはおかしい!!」
この住宅街のど真ん中で、地下洞窟に温泉が湧《わ》いてるなんて、そんなムチャな!! 温かい湯につかりながらも俺の手足は冷え、心臓はバクバクと躍《おど》り出《だ》していた。
「…………一色さん……このアパート…………なんか……変スね……」
俺はとうとうというか、おそるおそるというか、そう口に出してみた。すると詩人は、
「そりゃそうだよ。だって妖怪《ようかい》アパート≠セもん」
と、これまた実にあっけらかんとこたえた。
「……………へっ?」
「前田さんに言われただろう。出る≠チて」
「…………」
詩人のとぼけた顔が、この瞬間《しゅんかん》不気味に見えた。
「ね、大家さん♪」
詩人は、後ろの暗がりに向かってウインクした。
「暗がり」が、のそりと動いた。
それは、大きな黒いモノだった。巨大《きょだい》な卵のようなずんぐりとしたつるつるの身体に、小さな目だけがついていて俺を見た。
「大家さん」は、風呂《ふろ》につかったまま俺にお辞儀《じぎ》をした。つられてお辞儀しかえした俺だったけど、一拍《いっぱく》おいて湯から飛び上がった。
「いいい、一色さん!! 大家さん、なんだか人間じゃないみたいなんですけどっっ!!」
詩人は面白そうに笑った。
「人間じゃないヨ」
記憶《きおく》は、そこで途切《とぎ》れた。
気がつくと、朝だった。自分の部屋に寝ていた。
「…………あ〜、変な夢みちゃったよ」
環境《かんきょう》が急に変わったからだろうと思った。
朝のきれいな空気の中で、窓から見える木々の緑がとてもきれいだった。
窓のすぐ近くの枝で鳥の声がする。俺は、窓をそっと開けて見てみた。なんという鳥だろう。きれいな青い羽をした小鳥が三羽並んでいた。三羽が俺を見た。そしていっせいに、
「おはよう。よく眠《ねむ》れた?」
と、言った。
俺は、黙《だま》って窓を閉めた。急にすごく喉《のど》が渇《かわ》いて部屋を出た。そこに画家が階段を上がってきた。
「おう、起きたか。大丈夫《だいじょうぶ》か?」
そう言う画家の顔は、笑いを必死に堪《こら》えているふうだった。
「…………は」
「大家が心配してるぞ、夕士」
「大家……」
階段の下に「大家さん」がいた。大きな真っ黒い体に、白い着物を着て紫《むらさき》の帯をしめている。袖口《そでぐち》からのぞいた小さな小さな手には、部屋代と書かれた大きな帳面を握《にぎ》っていた。
「―――うわあぁっっ!!」
俺は飛び上がり、尻餅《しりもち》をつき、あやうく階段を転げ落ちるところだった。画家が腹を抱《かか》えて大笑いした。
「え、なに? なんスか? これって冗談《じょうだん》だろ!? あれ、着ぐるみかなんかだよな!!」
「そう思いたきゃ、それでもいいぜ」
画家は笑いながら言った。
詩人が大家さんと挨拶《あいさつ》をしている。大家さんは、ずんぐりとした体を丁寧《ていねい》に折ってお辞儀《じぎ》をした。明らかに人間ではないモノを目の前にして、詩人も画家も平然としている。俺はそれにもまた驚《おどろ》いた。
「オ……オバケ……!? オバケなのか!? なんで……え? あれ? 一色さんや深瀬さんは人間で……あれ? 一色さんは、もう十何年ここに住んでるって……?」
「ああ、俺も十年以上ここにいる」
画家は煙草《たばこ》をくゆらせた。
「なんの問題もないぜ?」
目が点になっている俺を見下ろして、画家は面白そうに口元をゆがませた。
「…………!」
すべて承知の上なんだ。詩人も、画家も。そしておそらく秋音ちゃんも。
「じゃ鈴木さん≠ニか、食堂にいた連中とか、マージャンをしてた奴《やつ》とか……!」
秋音ちゃんが言っていた。「みんな近所の人」で「ここがこの辺の溜《た》まり場《ば》」なのだと。
出るんだ。コレが
前田のおじさんの顔が浮《う》かんだ。
ここにオバケがいる、ということ。
そのオバケたちと共同生活する、ということ。
「ウ、ウソだろ……そんなこと……」
視界がグラグラ揺《ゆ》れた。俺が考えていた、俺が今まで暮らしてきた「日常」が崩《くず》れてゆく感じがする。だが、一色黎明、深瀬明はまぎれもなく人間であり、ここで過ごしてきたのだ。もう十何年も。
ふと見ると、二階の廊下《ろうか》を鈴木さんが拭《ふ》き掃除《そうじ》していた。窓からはさっきの青い小鳥たちが、興味深げにのぞきこんでいる。いつの間に側《そば》に来たのか、小さな子どもと白い犬が俺を見ていた。まだ肌寒《はださむ》い季節だというのに、半袖《はんそで》の薄《うす》いシャツを着たその子と犬の影《かげ》が、異様に薄かった。まるでその体が光を通しているかのように。俺は、思わず身がちぢんだ。しかし、画家は何気にその子を抱《だ》き上《あ》げた。
「お、クリ。朝飯食いに行こうぜ。いつまでもバカ面《づら》さらしてないで、お前も来いよ夕士」
画家は、人間の子どものようなモノを抱いて、笑いながら階段を下りていった。犬のようなモノがそれに続いた。大家さんは、どこへともなく去っていった。
俺は一人、呆然《ぼうぜん》と階段にすわりこんでいた。
玄関《げんかん》の扉《とびら》は大きく開かれ、朝の清々《すがすが》しい空気がそこら中を満たしている。小鳥のさえずりが聞こえる。どこにでもあるような春の朝だ。
「でもここは妖怪《ようかい》アパートで、そこらへんにはオバケがいっぱい……?」
納得《なっとく》がいかない。だって、ここはこんなにも平和で飯がうまくて、俺と同じ高校生の女の子が一人で暮らしていて、詩人も画家もいたって普通《ふつう》にしていて、もう十何年も……。
「…………なんの問題もない……?」
画家はそう言った。
「なんの問題もない……のか? それでいいのか……?」
鈴木さんが窓ガラスを磨《みが》いていた。ヒビだらけの壁《かべ》を、得体の知れないカビのようなモノが這《は》っていた。廊下《ろうか》の奥《おく》では黒い影《かげ》が二つ、なにやらボソボソと話していた。そして食堂からは、倒《たお》れそうなほどうまそうなだしの匂《にお》いがしていた。
「びっくりした?」
詩人が俺を見上げていた。その顔は、やっぱり面白そうだった。
「一色さん」
「家に帰りたいんなら、荷造りを手伝うヨ」
そう言われて、俺は拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。妖怪アパートに残るか、伯父《おじ》さん家《ち》に戻《もど》るか。
「ものすごい究極の選択《せんたく》だなぁ」
何気なくそう思った自分に、思わず苦笑いしてしまった。
俺は立ち上がった。
「とりあえず……」
「とりあえず?」
「朝飯を食います」
俺がそう言うと、詩人は大笑いした。
「いいネ、夕士くん! そうこなくっちゃ」
俺が一階へ下りると、ちょうど秋音ちゃんが帰ってきたところだった。夜中じゅう働いて三時間しか寝《ね》ていないというのに、向こうから元気よく駆《か》けてくる。
「ただいまあー!」
「あ、おかえり……」
と言おうとして、俺は目をむいた。
「あ、秋音さん! う、う、後ろ!!」
「あん?」
玄関前《げんかんまえ》で振《ふ》り返《かえ》った秋音ちゃんの後ろには、黒のアロハシャツを着た男らしき[#「男らしき」に傍点]奴が立っていた。今ごろアロハというのもおかしいけど、なぜ男らしき[#「男らしき」に傍点]なのか。そいつには首がなかった[#「首がなかった」に傍点]んだ。
「オ……ッ、オバケだ! これはまちがいなくオバケだ!! すごい!! ……す、すごいのか?」
初めてのオバケらしいオバケを見てオタオタする俺の前で、秋音ちゃんはさほど驚《おどろ》くでもなく言った。
「やだ、とうとうついて来ちゃった」
「つ、ついて来た?」
「こいつ、駅前の交差点のとこにいて、ずーっとあたしのこと見てた奴なの」
顔もないのに? と、俺は心の中で突《つ》っこんでいた。
「無視してたんだけど、やっぱりあたしに執着《しゅうちゃく》しちゃったのね」
「幽霊《ゆうれい》のストーカー……?」
秋音ちゃんは、ふぅと一息つくと幽霊の前に仁王立《におうだ》ちした。やっぱりそうだ。やっぱり秋音ちゃんも、こういうこと[#「こういうこと」に傍点]は平気なんだ。妖怪《ようかい》アパートということを承知で、ここで暮らしているんだ。やっぱり、これは「現実」なんだ!
「あたしについて来たってことは、どういうことかわかってるんでしょうね」
秋音ちゃんは、頭のないそいつに話しかけた。
「知ってるわよ、あんたがどんな奴《やつ》か。生きてる時と同じように、死んでからも性懲《しょうこ》りもなく、女の子の後をつけまわしてたでしょ。それがどんなに迷惑《めいわく》なことか、あんたって死んでもわかんないのね」
秋音ちゃんは、幽霊《ゆうれい》をにらみつけた。とたんに空気が変わったのが、俺にもわかった。今まで感じたこともないなにかを感じて、身体中が粟立《あわだ》つ。心臓が締《し》め上《あ》げられるように緊張《きんちょう》した。なにかが起ころうとしている!
「あそこにじっとしてるんなら見逃《みのが》してあげようと思ってたけど……」
秋音ちゃんの両手が、なにかの形を描《えが》いた。そして一瞬《いっしゅん》の祈《いの》るような間の後、両手を幽霊にかざして叫《さけ》んだ。
「禁!!」
ドン!! と、なにかの衝撃《しょうげき》が空気を震《ふる》わせ、俺の身体中にまたワッと鳥肌《とりはだ》が立った。目の前で、幽霊が消し飛んだ。
「――――――……っ!!」
なにが起こったのか、俺にはまったく理解できなかった。ただ、骨から震えるような出来事が、実際に目の前に存在したことは確かだ。それは、俺の今までの生活も常識も知識も、すべてをひっくり返すものだった。それなのに、振《ふ》り向《む》いた女の子は、まるで何事もなかったかのように笑った。
「さあ、朝ごはん食べよう! おなかペコペコ!!」
「あ、秋音さんって……」
「あたし?」
秋音ちゃんは、どこか誇《ほこ》らしげに宣言するように言った。
「あたしは、除霊師《じょれいし》なの」
「…………じょ?」
「おかえり、秋音ちゃん。今朝のメニューは、太刀魚《たちうお》の塩焼きに豆腐《とうふ》のお味噌汁《みそしる》、納豆《なっとう》とダシ巻き、ポテトハムサラダだよ」
詩人が、これまた何事もなかったかのように言った。
「きゃ〜〜〜っ、るり子さん大好き〜〜〜! 愛してる〜〜〜!」
秋音ちゃんはそう叫《さけ》びながら、食堂へ飛んでいった。それを呆然《ぼうぜん》と見送る俺を、詩人は面白そうに眺《なが》めている。
「……じょれいしって……なんスか?」
「なんか、困った幽霊《ゆうれい》を退治する人らしいねぇ」
詩人は肩《かた》をすくめた。
「いろんなことがあって、いろんな人がいて面白いネ。この世も捨てたもんじゃない」
詩人のその言葉に、不思議な感慨《かんがい》を覚える。
「さあ、朝ごはんを食べよう、夕士くん。おなかすいたでショ」
そういえばそうだ。
とりあえず朝飯を食おう。とりあえず。考えるのはそれからだ。
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[#挿絵(img/01_059.png)入る]
妖怪《ようかい》アパートの住人たち
食堂には、焼き魚と味噌汁《みそしる》のいい匂《にお》いが充満《じゅうまん》していた。腹の虫が盛大に鳴った。
秋音ちゃんが大盛り飯をかきこんでいる。画家は、あの小さな子どもを膝《ひざ》にのせてコーヒーをすすっていた。ガイコツのようなじーさまとか長髪《ちょうはつ》の女とかはいない。朝の食堂は静かだった。
「はい。夕士くんの分」
「あ、ありがとう」
るり子さんの作った朝飯は、これまためっぽううまかった。豆腐《とうふ》の味噌汁が身体中にしみわたるようだ。
「でも、るり子さんって人間じゃないんだなあ……」
あいかわらず、厨房《ちゅうぼう》にその姿は見えない。オバケの作った飯なんかとは思うけど、それでもこんなうまいものを食わずになんかいられない。
「オッハヨー。やー、いい匂《にお》いだ」
丸っこい小男の山田さんと、紺《こん》のスーツ姿の男が現れた。
「おはよう、山田さん、佐藤《さとう》さん。この子、稲葉夕士くんだヨ」
詩人が紹介《しょうかい》してくれた。
「あー、よろしく。山田ですぅ。ゆうべ会ったね」
「佐藤です。ようこそ寿荘へ」
俺たちは丁寧《ていねい》に頭を下げあった。詩人が言うには、今現在このアパートにいる「人間」は、詩人と画家と秋音ちゃんだけ。ということは、人間のように見えるこの山田さんも佐藤さんもオバケということになる。
「朝っぱらからオバケと挨拶《あいさつ》しあって一緒《いっしょ》に朝飯…………なんだかな〜〜〜」
なんだか奇妙《きみょう》だ。山田さんは新聞を読みながら、佐藤さんは時間を気にしながら飯をパクついてる。ラジオからは朝のニュースが流れている。博|伯父《おじ》さん家《ち》と変わらない、ごくごく普通《ふつう》に見える朝の風景。
「ただひとつ違《ちが》っていたのは、彼らは人間じゃなかったのです……か」
俺はお茶をズ―――ッとすすった。
そんな俺を、隣《となり》にすわった画家の膝《ひざ》の上から、あの子どもがジッと見つめていた。確か、画家は「クリ」と呼んでいた。年は二|歳《さい》ぐらいだろうか? よく見ると、ちょっと下ぶくれのほっぺに、唇《くちびる》がぷっくりとしてて、はっきりとした二重《ふたえ》の目がとてもつぶらな感じがして……。
「か…………かわいい!!」
俺は思わず手を伸《の》ばしていた。人間ではないモノの頭に触《ふ》れる。
「あ、さわれた」
手には普通《ふつう》の髪《かみ》の毛《け》の感触《かんしょく》が伝わった。短くて細くて柔《やわ》らかい子どもの髪だった。そりゃあ画家が抱《だ》っこしてるんだからさわることができるのは当たり前だけど。だけどなんだかとても不思議な気分だ。人間のように見えても、この子は人間じゃないんだ。人間じゃないモノに、自分は今さわっている。かわいいと思っている。クリは俺を見つめながら、手にしたペロペロキャンディーをムグムグした。
「ああ……っ、クソ! かわいい!!」
ハッと気づくと、画家と詩人と秋音ちゃんがニヤニヤしながら俺を見ていた。俺はコホンと咳払《せきばら》いをして、またお茶をすすった。
「あ、るり子ちゃん。おいら、今日から一週間留守するからねえ。新入社員の研修の監督《かんとく》で伊豆《いず》へ行くんだ」
と、スーツ姿の佐藤さんが言った。
「佐藤さんとこ景気がいいよねえ。さすがソワール化粧品《けしょうひん》だ」
山田さんのセリフに、俺はお茶を吹《ふ》き出《だ》しそうになった。
「働いているのかっ(しかも大手)!?」
こんなこともあるんだ。人間以外のモノが、人間に交じって暮らしている。社会の一部として。人間が知らないだけで。
俺は、ちょっと怖《こわ》いと思った。この朝の風景と同じく、なにひとつ変わらないようで実はまったく違《ちが》うものが、自分がそう思いこんでいるだけで、実はまったく違うことが、世界にはあふれているのだ。
「なに? これって目からウロコが落ちる≠チてやつなのか?」
このたとえが正しいのかどうかわからないが。とにかくまあ、そんな気分だった。
「鷹ノ台駅の裏に月野木《つきのき》病院ってあるの知ってる?」
暖かい春の陽射《ひざ》しが落ちる縁側《えんがわ》で、秋音ちゃんは俺に話した。
「月野木病院はちゃんと認可《にんか》された病院だけど、実はこのあたりの妖怪《ようかい》たちのための病院でもあるの。あたしはそこで妖怪や幽霊《ゆうれい》たちの勉強をしてるってわけ」
と、こともなげにこの女子高校生は言った。
俺の理解のキャパを超《こ》えるので細かいところはよくわからないが、月野木病院には人間以外の患者《かんじゃ》を診《み》る専門医がいて、秋音ちゃんはその医師のもとで幽霊や妖怪のことを学びつつ、除霊師《じょれいし》になる修行をしているのだという。
「久賀流|心錬術《しんれんじゅつ》は、スポーツのための精神統一とか、対人|恐怖症《きょうふしょう》とかの治療《ちりょう》のための精神修行術だけど、道場では霊能力者の育成もしてるの。あたしは、初めから霊能力者になるために入門したわ」
「それは……やっぱり小さい頃《ころ》からオバケが見えた、とか?」
「うん。うちは家系なのね、きっと。両親ともそうだから。久賀先生とも古い馴染《なじ》みだし、幽霊が見えることって、普通《ふつう》のことなんだと思ってたわ」
この話には本当にびっくりした。じゃあ「普通」って、いったいなんなんだろう?
「小学六年生の時に久賀≠フ名前をいただいて、中学を卒業と同時に、月野木病院へ奉公《ほうこう》≠ノ出されたのよ。高校を卒業するまでは月野木病院で修行して、その後は、また別の霊場へ修行に行くことになると思うわ」
奉公《ほうこう》という言葉も、今の時代あまりきかない単語だ。
「名前をもらったって、じゃあ久賀秋音というのは本名じゃないの?」
「本名は伏《ふ》せるものなのよ。あたしたち[#「あたしたち」に傍点]は、ね」
現代の都会の片隅《かたすみ》に妖怪《ようかい》のための病院があり、プロの霊能力者《れいのうりょくしゃ》になるため、そこで修行を積む女子高生がいる。彼女《かのじょ》は、生まれた時からそういう[#「そういう」に傍点]環境《かんきょう》にいた。それが「普通《ふつう》」だった。
いろんなことがあって、いろんな人がいて面白いネ。この世も捨てたもんじゃない
詩人の言った言葉が、あらためて頭をよぎる。
ポカポカと暖かい板の間で、白い犬を枕《まくら》にクリが眠《ねむ》っている。その可愛らしい寝顔《ねがお》を、秋音ちゃんはそっとなでた。
「クリは……オバケなんだよ、な?」
「クリたんはね、霊体が物質化してる状態なの。シロもそうよ。この犬」
「レイタイがブッシツカ……」
「このアパートの敷地《しきち》は特殊《とくしゅ》な結界の中にあって、霊位がとても安定してるの。見えないものも見やすいし、さわれないものもさわれたりするわ。別の次元への道もいろいろつながってるし、何層にも次元が重なってたり、位相がずれてたり」
あああ、もうなにがなんだかわからない。ちょうどいいタイミングで、詩人がコーヒーを持ってきてくれた。
「るりるりがケーキを焼いてくれたよ〜」
とたんに秋音ちゃんの目が、キラキラと輝《かがや》く。
「わあ――っ、うれしい―――!!」
ざっくりと、ホールケーキの半分ほどを切り取って頬張《ほおば》る食いっぷりはさておいて。秋音ちゃんは、チョコケーキが大好きな、どこからどうみても普通《ふつう》の女の子だった。
「普通……普通、か……」
考えこむ俺を、詩人がニヤニヤと眺《なが》めていた。
「どうするか決まった、夕士くん?」
「…………はあ」
そうさ。なにを考えたところで、今さら俺にはどうしようもないんだ。オバケが出ようが、これを「普通」と考える人もいるんだし、たった半年ぐらい「変わった体験をした」と思えばなんてことはない。目の前にどんな困難なことがあっても、俺は自力でそれを乗《の》り越《こ》えるしかないんだ。まわり道なんてできないんだから。
「残りますよ、ここに。たった半年っスから」
苦笑いしながらそう言った。詩人も笑った。
「そーそー。その意気だ。オバケ屋敷《やしき》で暮らせるなんて、めったにできない体験だヨ」
詩人と秋音ちゃんは大笑いした。つられて俺も大笑いした。もう笑うしかない。詩人の言うとおりだ。それぐらいの感覚でいればいいんだ。
日当たりのいい春の庭には、きれいな花がたくさん咲《さ》いていた。山田さんが、丸っこい身体をさらに丸くして雑草むしりをしている。庭の手入れをするオバケ……なんだか微笑《ほほえ》ましいじゃないか。
「お、人間≠ェ一人帰ってきたぞ」
詩人が門の向こうを指差した。なにか、ぞろぞろと集団がやってきた。
「わあ、骨董屋《こっとうや》さんだ。久しぶり!」
「骨董屋?」
背の高い、黒いコートを着た男だった。左目には幅《はば》の広い眼帯をしている。
その周りには、大きな荷物を担《かつ》いだ異様に背の低い者たちが五人。みんな編《あ》み笠《がさ》を目深《まぶか》にかぶり、その服装は、中国人かベトナム人を思わせる。
男はその妙《みょう》な連中を率いて、実に優雅《ゆうが》に歩いてくる。が、オールバックの髪型《かみがた》といい、眼帯といい、薄《うす》い口髭《くちひげ》といい、なんというか……実に、実に怪《あや》しい! うさんくさい! なんだか、昔読んだ子ども向け小説の中の、魔術団《まじゅつだん》のボスとか、子どもをさらっていくサーカス団の団長とかを思い出させる雰囲気《ふんいき》だ。詩人は「人間だ」と言ったが、こんな奴《やつ》、現実生活で見たことがないぞ。少なくとも俺は。
「やあ、これはこれは。お揃《そろ》いで」
骨董屋は、とても軽い調子で言った。顔立ちは西洋人みたいだし、一つしかない目も灰色だ。外国人だとしたら流暢《りゅうちょう》な日本語だなあ。ますますうさんくさい。
「久しぶりね、骨董屋さん。今度の買い付けはうまくいった?」
「おお、秋音ちゃん。いい買い物をしてきたよ、もちろん。さあ、おみやげだ」
骨董屋は、秋音ちゃんにきれいな青いペンダントをプレゼントした。
「人魚の涙《なみだ》≠セよ」
「ありがと」
秋音ちゃんは笑いながら受け取った。
「この子は、稲葉夕士くん。新入りだよ」
「よ、よろしく」
「ほぅ」
骨董屋は、灰色の目でなめるように俺を見た。そして俺の肩《かた》を抱《だ》くと、懐《ふところ》からなにやら白いかけらを取り出して言った。
「ユニコーンの角≠セ。買わんかね? 今ならお安くしとくよ」
う、うさんくせぇ〜〜〜! なんなんだ、こいつは?
「素人《しろうと》に手を出さないよーに」
骨董屋の手を、詩人がピシャリと張った。骨董屋は、おおらかに笑いながらアパートへ入っていった。
あれが、人間? 今までここで見たどんなモノより怪《あや》しいじゃないか、見かけも、雰囲気《ふんいき》も。
「いろんな人がいるなあ……」
俺は、半ばあきれ気味に言った。
「いろんな人がいるねえ」
詩人と秋音ちゃんは、しみじみと言った。
「骨董屋というからには、骨董品を扱《あつか》う商売をしてるんスよね?」
「まあねえ、本人|曰《いわ》くだけど」
詩人も秋音ちゃんも苦笑いした。
「本人曰く、次元を行き来する商売人」
「本人曰く、古伊万里《こいまり》からソロモン王の魔法《まほう》の指輪まで扱います」
「本人曰く、左目は忠誠の証《あかし》として妖精王《ようせいおう》≠ノ捧《ささ》げた」
「本人曰く、召《め》し使《つか》いたちは、かのアルベルトゥス・マグヌスの技術を魔術的にアレンジした自動人形《オートマタ》である」
「ええ? あたしは召し使いたちは、パラケルススの人造人間《ホムンクルス》≠セって聞いたけど?」
詩人と秋音ちゃんは、しばし顔を見合わせたあと大笑いした。俺にはなんのことやらさっぱりわからない。
「……つまり、信用してはいけない人なんスね?」
「そうそう! そのとおり!!」
二人は笑い転げながら言った。
どう見ても人間にしか見えないオバケがいて、人間とは思えないほど怪《あや》しい人間がいて。ここで暮らしていこうと決めた俺だけど、はたして大丈夫《だいじょうぶ》なんだろうかと、ちょっと心配になったりした。
その一方で、このおかしなおかしな出来事がすべて「現実」で、この現実に比べたら、今まで俺の目の前にあった現実がなんだかバカバカしく思えてしまうことが悔《くや》しかったり悲しかったりおかしかったり、実になんとも複雑な気分だった。
でもその夜、食堂で骨董屋が話してくれた嘘《うそ》か本当かわからない、まったく信用できないよもやま話は転げるほど面白かった。
「ユニコーンを捕《と》らえるには、清らかな処女を囮《おとり》にするしかないんだが、昨今はこの処女≠ニいうやつを探すほうが至難の業でね。やっと処女らしき女がみつかったと思ったら、とても清らかとは言いがたい金貸しのばあさんで……」
ハーブっぽい香《かお》りのする細身の葉巻を気障《きざ》にくゆらせながら、骨董屋の話は実にそれらしく[#「それらしく」に傍点]て、ほらとわかっていても聞き入ってしまう。物知りなオジサンにおとぎ話を聞かせてもらっている子どものような気分だった。
食堂では、ガイコツじーさまがお茶を飲み、長髪女《ちょうはつおんな》がじっとすわり、いつのまにかコーヒーは用意され、山田さんはスポーツ新聞を読み、クリは秋音ちゃんに抱《だ》かれ、詩人と俺は、骨董屋の話に大笑いした。窓の外の暗闇《くらやみ》に、青白いなにかがフワフワ浮《う》かんでいても、もうあまり気にならなかった。
月曜日の朝。
俺は誰《だれ》かに揺《ゆ》り起《お》こされた。七時だった。目覚ましをセットするのを忘れていたんだ。部屋の中に、起こしてくれた「誰か」はいなかった。やはり。
水場へ行くと、鈴木さんがトイレを掃除《そうじ》していた。
「お、おはようございます」
笑って挨拶《あいさつ》を交《か》わしあう。なんだかな〜と思いつつも、これからは毎日がこうなんだからなぁ。俺は苦笑いした。
食堂へ行くと、もう秋音ちゃんが大盛り朝飯を食っていた。
「おはよー! 今日から高校生だね、夕士くん」
「ウス!」
そんなこんなで、俺の高校生活は始まった。
条東商業高校は女子の割合が多く、俺のクラス一年C組も二十二人対十人と女子が男子の倍の数だ。初日とあってどの顔もやや緊張《きんちょう》気味だが、俺はなんだかホッとした気分だった。ここにいるのはみんな人間だからだ。多分。
初日は、校内のいろんな説明やら見学やらで終わった。全焼した学生寮《がくせいりょう》も見に行った。業者がよってたかって急ピッチで工事を進めているが、入居できるのは秋になるそうだ。
「お、稲葉」
担任の中谷《なかたに》先生に声をかけられた。
「お前、アパートに一人暮らしだって? なんで伯父《おじ》さん家《ち》にそのままいないんだよ、半年ぐらいさあ」
「や、なんか……。でも安いとこがみつかったし」
「安いのはいいが、ちゃんとしたとこなんだろうな!?」
「はっ、それはもう……」
「それならいいけど……。なにかあったらすぐ言えよ。俺ん家へ電話してきていいからな」
「ウス。ありがとうございます」
人の情けは身にしみるけど、泣き言や弱音はなるべくなら吐《は》きたくない。
長谷に「あんまりがんばりすぎるなよ」と言われるけど、がんばらないと世間は認めてくれないし、がんばっていないと……不安なんだ、俺は。
同じクラスに、入寮《にゅうりょう》予定だった仲間がいた。
「ホントにびっくりしたよ〜。いきなりだろ〜。おかげで予定が、なんもかんも狂《くる》っちまってさ〜。こっちでバイトもみつけてたのに〜〜」
と、竹中はぼやいた。竹中は、寮ができるまで自宅から通うという。片道二時間もかかる長旅だ。
「お前、いいとこみつけたなあ、稲葉。ずっとそのアパートにいれば?」
「えっ!? と、とんでもねぇよ!」
「なんで?」
言えない。オバケが出放題なんて言えない!
「や、やっぱ学校の寮のほうが安心だろ。家族もさ。管理とか、いろんな面でさ」
「そりゃまあねえ。あ、そうだ。今度お前のアパートへ遊びに行ってもいい?」
「えっ! あ、イヤ……まだ片付いてなくて」
「片付いたら行っていい?」
「あ……ま…………」
とんでもない話だ。妖怪《ようかい》アパートに住んでるなんて知られたら、俺までオバケ扱《あつか》いされてしまう。
「ほんとは、来いよって言いたいんだけどな……ちぇっ」
俺は、うつむいてアパートの玄関《げんかん》をくぐった。
おかえりなさい
と、誰《だれ》かが言った。
「ああ、華子《はなこ》さんだよ。いつも玄関にいてね、いってらっしゃいとおかえりなさいを言ってくれるんだ」
詩人が解説してくれた。
「それだけ?」
「そぉ、それだけ。そのうち姿が見えるようになるよ」
イヤ、別に見たくはないけど。
しかし、日を追うごとに、俺の目に見える物《もの》の怪《け》たちの数が増え始めた。俺が環境《かんきょう》に慣れてきたせいだろうか。
鈴木さんとか山田さんとかクリとか「名前」がついたモノ以外にも、実にいろんなモノがこのアパートには巣食っていた。
マージャンをしている連中や食堂の茶飲みじーさまのように、常にそこにいるモノや、時々姿を見せるモノ。人の形をしているモノ、動物に似たモノ、植物のようなモノ、昆虫《こんちゅう》や液体状はまだいいとして、まったくわけのわからないモノもいる。日本語でしゃべるモノもいるし、異国語でしゃべるモノもいる。俺の部屋にこそあまり現れないものの、廊下《ろうか》、食堂、居間、風呂《ふろ》、トイレの中まで、いつもなにかしらのモノがいた。引《ひ》っ越《こ》してきて十日ばかり。俺は内心ゲッソリきていた。
「一色さんは、オバケに囲まれててなんで平気なんスか?」
夕飯をつつきながら、俺は詩人にたずねてみた。
食堂はいつものようにいろんなモノでいっぱいだ。特に音をたてているわけでもないのに、ガヤガヤとにぎやかな気配に満ちている。まるで学食のように。今夜はここにいる人間は俺と詩人の二人だけ。トホホな感じだ。
「おもしろい仲間たちだからネ」
詩人は笑ってこたえた。
「仲間? オバケが?」
「そぉ。彼《かれ》らはアタシたちと同じ。彼らなりに普通《ふつう》に暮らしているだけ。なかにはいいモノも悪いモノもいる。これもアタシたちと同じ。なにも変わらないよ」
「…………」
詩人はちょっと変わっているからなあと、俺は思った。いくら害はないとはいえ「オバケ」だ。オバケなんだ。なぜその存在を認められるんだろう? しかも「仲間」だなんて。俺としては、目の前で見て、肌《はだ》で感じてもなお「オバケ」が「いる」ということを認めたくない気持ちだ。
「……ん? ひょっとしてこの考え方って、人種差別?? イヤイヤ、人じゃないだろあいつらは」
一人うなずいたり首を振《ふ》ったりしてる俺を、詩人は面白そうに眺《なが》めていた。
その時、食堂の入り口をぬっとくぐってきた人がいた。
「はあ〜〜〜、いいお湯だった」
女だった。
「ウグッンン!!」
俺はチキンのソテー中華風《ちゅうかふう》を、あやうく喉《のど》につまらせるところだった。
その女は、短パン姿に裸《はだか》の上半身、首にかけたタオルでかろうじて胸が隠《かく》れているという、男子高生には刺激的《しげきてき》すぎる格好だったからだ。
しかもそのボディーのすごさときたら!! 細い首にくっきり鎖骨《さこつ》。長い手足。うねるような胸から腰《こし》へのライン。まるでスーパーモデルだ! 俺は男としてグッとくるよりも先に、珍《めずら》しいものを見た驚《おどろ》きで目が点になった。
「まり子ちゃ〜〜〜ん。やめてよ、そういうカッコで歩きまわるの〜」
「いいじゃん別に。コレを見たってなんともないでショ、一色さん」
「アタシはいいけど、年頃《としごろ》の男の子がいるんだから〜」
「アレマ。そうだった!」
「まり子さん」は、キャハハと子どものように笑った。
なんとも美人な人だ。初めて、「生の美女」を見た気がする。
きれいに栗色《くりいろ》に染めた長い髪《かみ》をラフに結《ゆ》い上《あ》げたヘアースタイル。パッチリとした目、可愛らしい鼻。ちょっと厚めの唇《くちびる》がセクシーで、小首をかしげるようにしゃべる仕草も、なんともいえず魅力的《みりょくてき》というか、男好きがするというか。これを「コケティッシュ」というんだろう。まさに、モデル雑誌から今|抜《ぬ》け出《で》てきましたみたいな美人だ。
「あたし、まり子。よろしくネ、夕士くん」
「あ、は、はあ」
あああ、あまりかがまないでほしい。胸が丸見えになってしまう。
「まり子さん=Bもと人間」
と、詩人が言った。
「もと!? じゃ……幽霊《ゆうれい》??」
まり子さんは笑ってきゅっと肩《かた》をすぼめた。仕草がいちいち可愛らしい。どういう人なんだこの人は、いったい。
「ちょっと事情があって成仏《じょうぶつ》してませ〜〜〜ん。エへ♪」
スコーンと抜《ぬ》けるように明るく言うと、美人な幽霊は厨房《ちゅうぼう》へ行った。
「るり子ちゃ〜ん、ビールちょうだい。ビール」
風呂《ふろ》上がりにビールを飲む美女(でも幽霊)。まったくいろんなモノがいる。
「い、いやぁ……美人だなあ、まり子さん(でも幽霊)」
いかに俺でもため息がでる。詩人は苦笑いした。
「まり子ちゃん、あの調子で男風呂にも平気で入ってくるからね。おぼえといて」
「そ……それは困るっスね……!」
「幽霊《ゆうれい》になってからもうずいぶんたつみたいだから、だんだん女性としての感覚がマヒしてくるんだろーなー。すっかりオッサンになっちゃって」
詩人は笑った。
「事情があって成仏《じょうぶつ》してないって……」
「森住《もりずみ》神社って知ってる?」
「あ、イラズの森の向こう側の神社スよね」
「あそこにね、幽霊や妖怪《ようかい》たちの託児所《たくじしょ》≠ェあるんだってサ」
「託児所!? オバケの??」
オバケの病院の次はオバケの託児所か? この調子じゃオバケの学校もきっとあるな。
「まり子ちゃんは、そこの保母さんなの」
「保母……」
「あ〜、今は保育士≠セっけ? アタシこの言葉|嫌《きら》いだな〜。どこのバカがこんな言い方にしようなんて言い出したんだか。男女平等を勘違《かんちが》いしてるよね。やっぱ、保母さん保父さん、だよネ〜」
俺は詩人の言葉を聞きながらまり子さんを見ていた。
成仏《じょうぶつ》しないでオバケたちの保母さんをしている人間。なぜ? どうしてこの美女は、そういう道を歩んでいるのだろう。その「ちょっとした事情」が、とても知りたくなってしまった。
まり子さんはビールを飲みながら食堂を出て行った。去《さ》り際《ぎわ》に、俺に投げキッスをよこして。
と、その時。にぎやかだった食堂が、急にシンと静まった。
「ん?」
俺は周りを見た。それまでワイワイと騒《さわ》いでいた連中の動きが止まっている。皆《みな》、なにかの気配をうかがうかのように壁《かべ》の向こうを見ている。
やがて、あるモノは音もなく消え、あるモノはそそくさと食堂を出てゆき、物《もの》の怪《け》たちは半分ほどに減ってしまった。
「なんだ? どうしたんだ、みんな?」
「ははぁ、こりゃ龍《りゅう》さんが帰ってきたな」
と、詩人が言った。
「龍さん? それは……」
「二〇三号室の……人≠セよ、多分」
「多分……スか」
「怪《あや》しさじゃ、骨董屋といい勝負だなぁ」
「人間だって、確信が持てないんスね」
「このとおり、龍さんが来ると逃げちゃうオバケが大勢いるんだ。本人の話によると、どうやら霊能力者《れいのうりょくしゃ》らしいね」
「霊能力者……っていうと、秋音ちゃんのような!?」
「もっとずっと格上の、プロの霊能力者らしいよ。秋音ちゃんの憧《あこが》れの君サ」
またぞろわけのわからない人物の登場なわけだ。次から次へと……まったく。
秋音ちゃんの時も思ったんだけど、だいたいプロの霊能力者ってなんだよ? そういうのって成り立つもんなのか? 霊能力者といえば、インチキ霊感商法とか、うさんくさい新興宗教とかしか結びつかない俺だったから、秋音ちゃんのあの能力を見せられても、それがいまいち「霊能力者」とうまく結びつかなかった。
しかし、物《もの》の怪《け》たちのこの反応は劇的ですらある。食堂に残った連中も、息をひそめてピリピリしている。その緊張《きんちょう》が伝わってきて、知らずに俺もドキドキしてしまった。
「一色さん、その……霊能力者って、実際のところなにをする人なんスすか?」
「さあ、アタシも詳《くわ》しくは知らないねぇ。龍さんも謎《なぞ》の人でさあ、本名も名乗ってないし」
「ああ、本名は伏《ふ》せるもの≠チてやつね」
「多分、人だよ。多分ネ」
詩人は意味深に笑った。
玄関《げんかん》からまり子さんのはしゃぐ声がきこえた。
「龍さんだぁ――っ! おかえり―――! アハハハハ!!」
声の様子からすると龍さんとやらに抱《だ》きついているな!? 裸《はだか》のまり子さんに抱きつかれるのは……ちょっと困るな。
「あーハイハイ。ただいま、まり子さん。やあ、華子さん。今日もきれいな着物だね」
とてもよく通る、耳《みみ》ざわりのいい声が玄関からきこえてきた。まり子さんを軽くあしらっているらしいその声から察するに、若い男。俺は意外に思った。
「やあ、おかえり龍さん。久しぶり」
「やあ、一色さん。どーも」
食堂に現れた人物を見て、俺はハッとした。
「龍さん」は、やはり若い男だった。年の頃《ころ》は二十四、五|歳《さい》。霊能力者《れいのうりょくしゃ》という響《ひび》きから、そしてあの骨董屋といい勝負というからには、見るからに怪《あや》しいオッサンか、悟《さと》りきった坊《ぼう》さんみたいな人かと想像してたけど、彼《かれ》は、長身|痩躯《そうく》の身体を黒服で包み(これは骨董屋と同じだが)、長い黒髪《くろかみ》を後ろで束ねた、とても……とてもスタイリッシュな美男子だった。思わず「芸能関係の人?」と聞きたくなるような……。
「霊能力者《れいのうりょくしゃ》……?」
ますます頭が混乱する。
「オヤ、新入りかい。こりゃ珍《めずら》しい」
「稲葉夕士くんだよ。条東商の一年生サ。半年だけここにいるの」
「ああ、寮《りょう》が焼けたんだっけ。よろしく。みんなは龍さんと呼んでる。そう呼んでくれ」
「あ、ド、ドモ。稲葉夕士っス。よろしく」
握手《あくしゅ》を求めてくる立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》いがとても優雅《ゆうが》というか、洗練されているというか、上品というか。いや、確かに骨董屋の立ち居振る舞いも優雅でスタイリッシュだけど……そうだ、雰囲気《ふんいき》だ。雰囲気が違《ちが》うんだ!
「カッコイイ……」
この人は、素直にこう思える雰囲気を持っていた。
握手を交《か》わした龍さんの手は温かかった。生きている感じがする。詩人が言うように「多分、人」らしい。
「慣れないうちは大変だけど、すぐになんてことなくなるよ。当たり前の存在だからね。ここではよく見えるだけでね」
龍さんは、そう言って笑った。
「当たり前の存在……」
詩人と同じことを言う。
当たり前の存在……。ここではよく見えるだけ……
俺はこの言葉を頭の中で繰《く》り返《かえ》した。
龍さんは、俺たちと同じ夕食を食べた。なにも変わらない普通《ふつう》の人に見える。ただ違《ちが》うのは、まわりにいる物《もの》の怪《け》たちが、じっと龍さんを見つめていることだ。音もたてず、動かず、まるでものすごく偉《えら》い人の前で緊張《きんちょう》しているかのように。これが「霊能力者《れいのうりょくしゃ》」ということなのだろうか。コーヒーを飲みながら、俺は龍さんに尋《たず》ねてみた。
「霊能力者ってことは……霊についてのエキスパートってことなんスか?」
「なにか質問があるのかい?」
「このアパートには、どうしてこんなにオバケが集まってるのかなって思って」
龍さんは、ちょっとうなずいた。
「彼《かれ》らにとっちゃ、ここは砂漠《さばく》のオアシスなんだな」
「オアシス? オバケの?」
「昔は、緑と土と水が豊かで、人間たちの心も豊かで、暗闇《くらやみ》がたくさんあって、オバケたちもあちこちに暮らしていたと思うよ。でも、今の世の中には自然がない。暗闇もない。人間たちは心を閉《と》ざしてしまっている。オバケたちは追いやられているんだ」
「昔は、世の中全体がこのアパートみたいだったと?」
「そう。不思議≠ヘ、すぐそこにあった。人の手の届くところに。人のすぐ隣《となり》に。人と不思議は共存していたんだ。それが当たり前だった。人間たちが合理性∞便利性≠優先させるため一方的に切り捨ててしまったのは、目に見える自然だけじゃないんだな」
わかったような、わからないような。
現代生まれ現代育ちの俺にとっては、生まれた時から今の世の中が普通《ふつう》だった。緑もない、土もない、闇もない。物《もの》の怪《け》たちもいない。だけど文明は進み、みんななに不自由なく暮らしている。そういう世界しか知らないから、その価値を考えたことはなかった。昔と今と、どちらが幸せなのか、豊かなのか。
「その答えは、多分出ないね」
と、龍さんは笑って言った。
「時とともに、変わらないものなどないよ。人の暮らしも、自然のあり方も、妖怪《ようかい》たちの存在も、幸せも豊かさも、変わってゆくものだから……」
龍さんの話をきいていると、なんだかとても心地よかった。この人の声と話し方は、しみじみと心にしみるようで、もっと話をきいていたい気分にさせられるんだ。
「君には、いい刺激《しげき》になっただろう。このアパートの存在は」
と、龍さんは笑った。
「え?」
「そうそう。夕士くんってば、目を白黒させるたびに顔つきが柔《やわ》らかくなっていくんだよネ」
詩人もそう言って笑った。
「苦しみも哀《かな》しみも、物事のたった一面にしか過ぎない。ましてや君はまだ若いんだ。現実はつらいばかりじゃない。君さえその気になれば、可能性なんて無限にあるんだ。考え方ひとつで世界は変わるよ。君の常識があっという間に崩《くず》れたようにね」
「…………」
見抜《みぬ》かれてしまった。ついさっき会ったばかりなのに。
このアパートへ来てから、俺は自分の考えや常識が、あっちでひっくり返りこっちで粉々に砕《くだ》け散《ち》りで、そのたびにもう笑うしかなくて、そのうち本当に愉快《ゆかい》になってきてしまったんだ。
笑っていいんだと、思った。自分の考えや常識で、自分を縛《しば》る必要はないんじゃないかと思った。実際それどころじゃないし。
「君の人生は長く、世界は果てしなく広い。肩《かた》の力を抜いていこう」
龍さんの言葉に、胸のあたりがキュ――ッとなった。黙《だま》ってうなずいた。
もともとの俺の性格から、年長の人のこういうたぐいの話には耳を傾《かたむ》けるそぶりはしても納得《なっとく》などしなかった俺が、龍さんの言葉にはいちいちうなずいてしまうのは、この人の器《うつわ》の大きさなのだろうか。
「魂《たましい》は時間とともに連綿として永遠だけど、私たちが垣間《かいま》見ることができるのはほんの一瞬《いっしゅん》であり、私たちの存在もあやうく心もとないものだ。轟々《ごうごう》と渦巻《うずま》く時間と運命の前で、大宇宙の下で、無限の次元の狭間《はざま》で、私たちは砂粒《すなつぶ》ほどにも満たない。それでも、この次元を支えている源であることには変わらない。生きて、暮らして、活動することが、この次元を支えることになる。そうして次元の命というものは、鎖《くさり》のようにつながって次から次へとエネルギーを送っていくんだ。どんな形であれ、生きることそのものに使命があり、価値がある。宇宙を貫《つらぬ》く軸《じく》の一端《いったん》を担《にな》っていることになるんだ」
俺にはよくわからない話だった。でも、聞いていてなんだかとても気分が良かった。なんだか詩の朗読を聞いているような感じだ。言葉の意味はわからなくても、そこにこめられた思いみたいなものが「音」になって脳に直接届くような……そんな感じだった。もっと聞きたい。もっとなにか話してくれ。龍さんはそんな気にさせる人だった。
その夜、俺は龍さんに張り付いて、いろいろな話を聞かせてもらった。話題は、超自然《ちょうしぜん》の話はもちろん、人間のことや社会のこと、宗教のことなど実に幅広《はばひろ》いものだった。
龍さんの知識と洞察《どうさつ》は高く、深く、知らないことなどないんじゃないかと思うくらい、的確な答えと意見を聞かせてくれた。
そしてその洞察の深く視点の高い話題は、俺の心をどんどん広げてくれる感じがした。骨董屋のほら話とまったくいい対照だ。そう思うと笑えてきた。このアパートが持っている「混沌《こんとん》」が、面白かった。
気がつくと、朝だった。「誰《だれ》か」が、また揺《ゆ》り起《お》こしてくれた。
「あ、朝か。いつ寝《ね》たんだ?」
七時だった。ステンドグラスが朝陽《あさひ》にきらめいている。
あまり寝てないはずなのに、頭はすっきりして気分がよかった。龍さんと詩人もまじえて、何時まで話しただろう。難しかったり納得《なっとく》できない話もあったけど、それでもなんだか、すごく自分の世界が広がったような気がする。ちょっと賢《かしこ》くなったような気がする。
俺は部屋を出る時、俺を起こしてくれた「誰《だれ》か」に、ありがとうと言った。照れくさかったけど、素直に言えたと思う。
廊下《ろうか》では、今日も鈴木さんが拭《ふ》き掃除《そうじ》をしている。居間では、クリとシロが並んでテレビを見ている。ヘンな奴《やつ》らだけど、この世のものではないかもしれないけど、一緒《いっしょ》に暮らす仲間には違《ちが》いない。それも、たった半年だ。俺はいずれここを出てゆき、いつかはここのオバケたちのことも忘れるだろう。それでいいんだと、龍さんも言った。だから気楽にかまえていろと。
俺は十三|歳《さい》で両親を失い、シビアな世の中をたった一人で生きていかねばならなくなった。世間にも自分にも負けたくなくて、負けるわけにはいかなくて、気がついたらずいぶん肩《かた》に力が入っている状態だった。目の前に理解を超《こ》える問題が立ちふさがっても、背に腹はかえられぬ以上、なにがなんでも乗り切ってやるとか、受け入れるしか仕方ないだろうとか、いずれにせよその決意には、どこか悲壮《ひそう》な思いがあった。
でもこの異空間で飄々《ひょうひょう》と暮らしている詩人や画家がいて、同じ人間なのに普通《ふつう》とは違《ちが》う世界に生きる秋音ちゃんや骨董屋がいて、その「普通」という観念すら多元的なものなんだと知って、そして龍さんに「まあ、もうちょっと気楽にいこう」と言われ、素直にそうできる気がした。
「だって、俺が知ってる世界も常識も、こ〜〜〜んな小指の爪《つめ》ぐらい小さくて狭《せま》いもんだったんだぜ!? そんなとこで突《つ》っ張《ぱ》ってるなんてバカみてぇだよな」
なんだかガスが抜《ぬ》けた感じだ。まだまだ世界は、想像もできないほど広いかもしれないんだ。肩《かた》に力が入ってちゃ、やってられない。
「人生は長く、世界は果てしなく広い。肩の力を抜いていこう=v
龍さんに言われた言葉を繰《く》り返《かえ》す。魔法《まほう》の呪文《じゅもん》のように。
がんばっていないと不安だった。でも、いつもいつも不安なままじゃ、やっぱり嫌《いや》だ。
もうちょっと気楽にいこう。そう思える。そう思うことができた。やっと。
だから、今朝はひときわるり子さんの朝飯がうまい!! アジの開きが! ジャガイモと玉ねぎの味噌汁《みそしる》が! ひじきが! ベーコンエッグが! なんてうまいんだ―――っ!!
「ここの野菜とか魚とかは、みんな妖怪《ようかい》たちが作ってるものなんだよ」
詩人に言われてびっくりした。
「妖怪《ようかい》が畑仕事をしてるんスか!?」
「本来山の者≠ナあり森の者≠ナあり、自然とともに生きる者たちだからね。野菜を作ったり、木の実や魚を獲《と》ったり、家畜《かちく》を飼育して暮らしている妖怪たちも多いらしいよ」
「今で言うと、ナチュラリストね」
秋音ちゃんが、デザート[#「デザート」に傍点]に六角堂の「バカでかアンパン」を食べながら言った。
「ナチュラリストね……」
昔々は、そんな感じで人間と妖怪とが共存していたのかもしれない。妖怪たちは今も変わらず森の者≠ナ、自分で作った野菜などを売りに来る。今は、こういう場所へ。いやひょっとしたら、そこらのスーパーなんかへも卸《おろ》してたりして。
「そぉだ、夕士くん。君、お昼ごはんはどうしてるの? 学食?」
と、詩人がきいてきた。
「はあ。学食とか、パンとか買って食ってますけど」
俺が答えると、詩人はニコニコしながら言った。
「るりるりがね、お弁当作ってくれるってさ」
「えっっ! 本当っスか、るり子さん!!」
俺は薄暗《うすぐら》い厨房《ちゅうぼう》を振《ふ》り返《かえ》った。カウンターにおずおずと、弁当箱が差し出された。るり子さんの、この超絶《ちょうぜつ》美味飯が昼も食える! 俺は飛びついた。
「うわあ、ありがとうございます!! すごく助かるっス!!」
「るりるりの作るごはんは、ホントにおいしいもんねえ。るりるりがオバケでも全然気にしないよねえ、夕士くん」
俺は胸をはってこたえた。
「ウス!! ぜんっぜん気にしないっス!! るり子さんがどんなオバケでも!!」
「るり子ちゃん、手首だけしかないんだけどネ」
詩人が面白そうに言った。秋音ちゃんも笑っている。
「は?」
思わず暗い厨房の中をのぞきこむ。そこに、初めてるり子さんの姿が見えた。
白い手が二つ、空中に浮《う》かびながらモジモジと指をからませていた。本当に「手だけ」のるり子さんだった。俺の背中の毛穴が、バ―――ッと開いた。
「うわあああ―――!! やっぱイヤだ―――!!」
と、俺は叫《さけ》んだ。心の中で。
「大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫大丈夫……飯は飯なんだから……しかもうまいんだから……」
自分に呪文《じゅもん》をかけるように言い聞かす。
「いってきま―――す!!」
俺と秋音ちゃんは、るり子さんの弁当を持って妖怪《ようかい》アパートを飛び出していった。
庭で水まきをしていた山田さんが手を振《ふ》って送ってくれた。二階の窓からは、龍さんも手を振ってくれた。屋根の上には、全身真っ赤な子どもがすわって空を眺《なが》めていた。
さり気に心配そうな手紙をもう二通も送ってきている長谷に、今日は返事を書こう。
「元気だ」と。「楽しくやっている」と。もちろんオバケのことは黙《だま》っておくけどな。
昼休み。るり子さんの弁当箱をそっと開けると、チキンのチューリップにはつまみやすいようにリボンが付けられ、ウインナーには丁寧《ていねい》な切りこみ、サラダのにんじんは星形と、実にすみずみまでこまごまと心のこもった仕上がりで、育ち盛りの男向けにボリュームも栄養も満点に作ってあるのが一目でわかる。
「さ、さすが、るり子さん!!」
俺は惚《ほ》れぼれした。
「うおっ! うまそ―――!!」
横からのぞいた竹中も、思わずため息した。
「ちょっと味見!」
竹中は、肉だんごを一個かっさらった。
「あっ、てめ……」
俺は一瞬《いっしゅん》あせった。るり子さんの料理が、果たしてアパートの住人以外の口にもうまいのかわからなかったからだ。ひょっとして自分には魔法《まほう》かなにかかけられていて、るり子さんの料理をうまいと感じているだけなのかも……と、竹中はキュ――ッと顔をしかめた。
「う、うまいじゃ―――ん!! 誰《だれ》が作ったんだよ、これ。え? ひょっとしてカノジョできた?」
「ち、違《ちげ》ぇよ。アパートの賄《まかな》いさんが作ってくれたんだよ」
「いーないーなあ、すっげえいーなあ、お前のアパート!」
俺はホッとした。そしてちょっと得意になった。竹中が本当にうらやましそうだったからだ。
「るり子さん……手首だけでもいい!!」
弁当をしみじみ味わいながら、俺は心の底からそう思った。
季節がうつってゆく。
いつの間にか空は青く、陽射《ひざ》しは強くなり、町を初夏の風がかけぬけていった。
春の校内球技大会や中間試験があって、勉強して、クラブに出て、友だちと遊んだり、長谷に会いに行ったり……そんないわゆる普通[#「いわゆる普通」に傍点]の高校生活を、俺はのびのびと楽しんでいた。
アパートの生活にもすっかり慣れた。時々見慣れない物《もの》の怪《け》がいたりしてその時はびっくりするけど、あのアパートに来るのはみんな「いいモノ」だった。それがわかると、むしろ俺にとっては条東商の校内や周辺をうろつく不良どものほうが不愉快《ふゆかい》な存在に思えてきた。比べるのもなんだが。
「不良なんて……なにが気に入らないのか知らないけど、反体制を気取ってるだけで、結局は世間や親に甘《あま》えてるだけなんだよな。俺なんか世をすねる余裕《よゆう》すらねーっての」
奴《やつ》らを見ると、そう思ってツバを吐《は》きたくなる。それが、自分には甘やかしてくれる親すらいない「ひがみ」とわかっていても。
プール開きもすみ、夏の陽射《ひざ》しがまぶしく感じられるようになったある日。俺は学校の帰り、ハンバーガーショップで竹中を見かけた。声をかけようとしてやめたのは、竹中と一緒《いっしょ》にいたのがなんだか質《たち》のよくない連中に見えたからだ。イスに足を投げ出してすわり、ゴミを散らかし、制服姿で平気でタバコをふかしている。竹中はその中にまじり楽しそうだった。
俺と竹中はそんなに親しくないにせよ、クラスの席が隣《となり》同士ということもあってよくしゃべる仲だ。竹中はるり子さんの弁当がいたくお気に入りで、毎日なにかしら分けてくれとせがむ。竹中があんまりウマイウマイと言うので、今や俺の弁当はクラスでも羨望《せんぼう》の的なのだ。そのことをるり子さんに話すと、るり子さんはモジモジと指をからませた。
そのるり子さんを、竹中はすっかり「若くて美人なおねぇさん」と思いこんでるらしくて(俺は、とてもきれいな手をしていると言っただけなのに)、ことあるごとに「アパートへ遊びに行かせろ」「るり子さんに紹介《しょうかい》しろ」とせがむので、俺はそれをかわすのに苦労していた。俺にとっては大切にしたいクラスメイトの一人には違《ちが》いない。
人間は、とかく「ワル」に惹《ひ》かれやすい。中学生あたりの、ちょっとタバコでも……というほんのささいな好奇心《こうきしん》から、盗《ぬす》みや殺人にいたる暗い欲望まで、とにかく人間はワルに惹かれる。
「人間の業《ごう》だからね」
と、龍さんは言った。人間の持つ破壊《はかい》本能とか、体制に反抗《はんこう》して歴史をつくってきた経緯《けいい》だとか難しい話をいろいろきいたけど、竹中などはそんな高尚《こうしょう》なものではとうていなくて、たかだか中学生の好奇心《こうきしん》程度の気持ちで、ワルに惹《ひ》かれているんだろう。だったら、そこから抜《ぬ》けるのも簡単なはずだと俺は思った。
「あんな連中と付き合うのよせよ」
と、俺は竹中に言ってみた。すると竹中は、口の端《はし》でクッと笑った。なんだかイヤな笑いだった。
「お前、マジメだもんなあ、稲葉」
その言葉にも、どこかイヤな響《ひび》きがあった。
「大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫。奴《やつ》らとはホントに適当に付き合ってるだけだから。それよりも稲葉、寮《りょう》ができたらやっぱり寮へ移んの?」
「あ? ああ、そりゃもちろん……」
「あんないいアパート出ちゃうわけ? もったいねえなあ」
「お前、アパートに来たこともないくせに」
「だから、いっぺん遊びにだなあ」
「ああ、そうだったな。俺もいろいろ忙《いそが》しくて……」
新しい寮《りょう》の完成予定は八月が終わる頃《ころ》だ。寮生は都合のいい時間をみつけて入寮することになっている。冬休みまで待つ生徒もいる。二学期は学校行事が多いからだ。俺は行事で忙《いそが》しくなる前、中間試験の前頃に引《ひ》っ越《こ》そうかと考えている。
あの信じられないアパートの住人たちと出会って、目からウロコがぼろぼろ落ちて、今はなんてことなかったように暮らしている。
「ほんと……不思議だよなあ」
別れを思うとなんだか感慨《かんがい》深い。
そんなことを考えながらバスを待っていると、英会話クラブで一緒《いっしょ》の女の子、田代《たしろ》が来た。
「や!」
「よ」
中学の頃に比べると、女子が気軽に声をかけてくるようになった。寄らば斬《き》る、みたいなツラをしている≠ニ長谷は言っていたが、そんな俺の顔も、ちょっとは柔和《にゅうわ》になったんだろうか? だとしたら、それはやっぱりあの「妖怪《ようかい》アパート」のおかげだと思える。
そのなかでも、秋音ちゃんの功績は大だ。あらゆる意味で、俺の中の女の子のイメージを壊《こわ》してくれた。
バスが駅に着いた。文具店に寄ろうと思った俺は、駅前通りを歩き始めた。その前を、田代が友だちと歩いていた。その時だった。
ああ、田代もどこかに寄るんだな、とか思った瞬間《しゅんかん》、俺の胸の中がざわめいた。
「な、なんだ?」
一瞬、体の具合が悪くなったのかと思った。でも違《ちが》う。イヤな感じなんだ。どうイヤなのかはわからない。ただイヤな、ヤバイ感じがするんだ。それは、田代を見て感じることだった。俺は、すごく戸惑《とまど》った。
「なんだ? 田代がどうしたんだ? ひょっとして、俺は田代が嫌《きら》いなのか?」
友だちと楽しそうにしゃべりながら前を歩く田代から目が離《はな》せないまま、俺はオロオロした。
「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ……でもなにがヤバイんだ??」
その瞬間、横道からバイクが飛び出てきた。
「これ……!!」
と悟《さと》った時は遅《おそ》かった。ガシャーンというすごい音と、女の悲鳴。田代はバイクにモロに突《つ》っこまれて、友だちもろとも吹《ふ》っ飛《と》んだ。
「田代!!」
「うわあ―――ん!!」
田代は倒《たお》れたまま泣き出した。友だちは気絶している。
「田代!」
駆《か》け寄《よ》った俺の腕《うで》にすがって、田代は泣きじゃくった。
「イタイ!! 足が痛いよ――っ!!」
見ると、右足の膝《ひざ》から下が変に折れ曲がり、足の骨が飛び出して血が噴《ふ》き出《で》ている。素人《しろうと》にも、これが大変な重傷《じゅうしょう》だとわかる。あまりの痛さに、田代は気絶もできないのだ。
「し、しっかりしろ。すぐ助けがくるから……っ」
「イタイイタイイタイ――!!」
集まった周りの人が、病院や警察に通報している。怒号《どごう》が飛《と》び交《か》っているのは、バイクの運転手を取《と》り押《お》さえているんだろう。
「助けて、稲葉くん! 助けて! イタイよ!!」
田代の顔から、みるみる血の気が引いていく。出血を止めなきゃならないんだろうが、このひどい傷口にさわっていいのか、身体を動かしていいのかもわからない。俺は、頭が真っ白になった。
「わかったのに……お前がヤバイってわかったのに……」
俺は、すがりつく田代の両手を力一杯握《ちからいっぱいにぎ》りしめた。すると――。
周りから騒音《そうおん》が急に遠のいていった。目の前の田代の泣き顔も、周りの人垣《ひとがき》の動きも、やけにゆっくりして見える。
「……あれ?」
つないだ田代の手から、なにかが俺の方へ流れこんでくる感じがした。それはドロドロした熱い液体みたいなもので、色は赤かったり黒かったり、チカチカと真っ白な光が瞬《またた》いたりした。それが見えたわけじゃないが、そんなイメージが浮《う》かんだんだ。
「お……お?」
そして、それがどんどん押《お》し寄《よ》せてくるごとに、俺の体は重くなり心臓がバクバクいいだした。一方、俺をみつめる田代の表情が和《やわ》らぎはじめ、ふぅと一息つくと気絶してしまった。
俺はなにが起きたかまったくわからず固まっていた。頭がガンガンして、体は鉛《なまり》みたいに重く、汗《あせ》がダラダラたれた。
「夕士くん!?」
人垣の中からひょっこり顔を出したのは、秋音ちゃんだった。
「あ、秋音さん……っ」
声を出すとクラクラした。
「誰《だれ》かタオルを! 救急車は? そっちの女の子は大丈夫《だいじょうぶ》?」
「気絶してるだけだ」
「救急車はすぐ来る」
秋音ちゃんは田代の傷にタオルを当て、自分の制服のネクタイで田代の太ももを縛《しば》った。
「ごめん、俺っ……なんか貧血《ひんけつ》起こしたみたいで……」
田代の傷と出血を見て、情けなくもてっきり貧血を起こしたと思った俺だが、秋音ちゃんは首を振《ふ》った。
「この子の出血は止まってるわ。君が止めたのよ、夕士くん」
「?」
「待ってね。今、それ[#「それ」に傍点]を外へ逃《に》がすから」
秋音ちゃんは俺の額に手を当て、もう片方の手で俺の背中をゆっくりとなで上げた。
すると、額に当てた手の方へ、あのドロドロしたものが流れていき、そのままフワーッと体から抜《ぬ》けていくのがわかった。
「……はっ」
体が徐々《じょじょ》に軽くなる。頭痛も動悸《どうき》もおさまり、汗《あせ》がひいていった。
俺は、目をパチクリして秋音ちゃんを見た。秋音ちゃんはニッコリと笑った。
救急車と警察が到着《とうちゃく》し、田代たちは病院へ、犯人と俺や他の目撃者《もくげきしゃ》数人が警察へ行くことになった。その頃《ころ》には、俺の体はすっかり元に戻《もど》っていた。あの苦しさがウソのようだった。
事情|聴取《ちょうしゅ》が意外と早くすんで助かったけど、アパートに帰り着く頃には、俺は目がまわるほど腹ペコだった。
「おかえり〜、おつかれさま〜」
秋音ちゃんが、バイトを休んで待っててくれた。そして、るり子さんのスペシャルメニューが!!
薄切《うすぎ》り肉《にく》のゆば巻きと、焼《や》き茄子《なす》の田楽に、鯛《たい》の造りはあくまでも上品に。鯛のアラを焼いて丁寧《ていねい》に身をほぐし、ささがきごぼうとダシと卵でとじた鯛の身の柳川鍋《やながわなべ》、これをピッカピカの飯の上にかけて食う。大胆《だいたん》! おまけは、夏野菜と魚介類《ぎょかいるい》たっぷりの石焼きソバ! 石鍋の中でジュウジュウ音をたてる焼きソバから立ち上る香《かお》りをかぐだけで、力が百倍にもなりそうなコチジャン味だ。絶品!
「う、うまいっス〜〜〜! るり子さん!!」
「がんばったご褒美《ほうび》だよ、夕士くん」
「お、俺はなにも……。あ、そうだ。あのケガしたほう、田代っていってクラブで一緒《いっしょ》なんだけど……」
俺は、あの時田代に感じたヤバイ予感のことを秋音ちゃんに話した。秋音ちゃんはうなずきながら聞いていた。そして、こんなことを言った。
「夕士くんって、霊能力者《れいのうりょくしゃ》の素質があるかもネ」
「は? 俺が??」
「ここの環境《かんきょう》にずいぶん影響《えいきょう》されてるみたい。能力《ちから》が開発されつつあるんだわ」
秋音ちゃんの言うことを、俺はどう受け止めていいかわからなかった。霊能力というものが存在することすら知らなかった俺に、その素質があると言われても。
「女の子を見てて、すごくしんどくなったって言ったよね。それはね、女の子の傷の負担を、夕士くんが引き受けたってことなの」
「傷の負担を……引き受ける?」
「女の子が受けた負担《ダメージ》を、夕士くんは自分の体に移したんだよ。女の子の容態が落ち着いたのも、出血が止まったのもそのおかげなの」
「そ、そういうのって移せるもんなのか?」
「これは、相手とシンクロ=同調するという能力で、心霊治療《しんれいちりょう》ではよく使われる方法よ」
秋音ちゃんは、テーブルの上にコップを二つ並べた。片方には水が入っている。
「この体が受けているダメージを、より丈夫《じょうぶ》な体へ移す」
そう言いながら、コップの水を別のコップへと注ぐ。空になったコップを俺にみせる。
「ダメージがなくなった間に、この体の傷を治すの。あたしが夕士くんにしたのは、こっちに移ったダメージを……逃《に》がす」
秋音ちゃんはコップの水を飲み干して、両方とも空にした。
「へえ〜〜〜っ」
俺は素直に感心した。あの時、田代から流れこんできたドロドロしたもの。あれが田代の負ったダメージだったのか。そして、秋音ちゃんの手を通して俺の中から抜《ぬ》けていった感じも、俺はハッキリ覚えている。
「具体的な痛みとかじゃなかったけど?」
「体や心にかかる負担は、疲労《ひろう》≠ニいう形であらわれるの」
「それは確かに……! まるで全力|疾走《しっそう》したみたいだった。心臓はバクバクいうし、貧血《ひんけつ》みたいになるし、腹ペコになるし」
「夕士くんがダメージを引き受けなかったら、あの子はもっとひどいことになってたわ。いいことしたね」
「はは」
いいことだかなんだか。こんな能力があって、俺はどうすればいいんだ? けが人を見るたびに、そのダメージを引き受けてしまうのか?
「それはないわね。今回は偶然《ぐうぜん》が重なっただけよ。女の子が親しい人であったこと。その子が事故にあう運命だったこと、その時[#「その時」に傍点]夕士くんがその子のことを考えていたこと。よほど修行した人だって、能力には波があるの。夕士くんはここの暮らしに影響《えいきょう》を受けているだけだから、たまたまアンテナが立っちゃったのネ。大丈夫《だいじょうぶ》よ」
秋音ちゃんは、あっけらかんと笑ってくれた。俺はホッとした。
せっかく普通《ふつう》に暮らそうと決心しているのに、こんな能力があったんじゃ困る。あの時だって、偶然秋音ちゃんが通りかかってくれたから良かったものの、でなけりゃ俺は、ずっと田代のダメージを抱《かか》えこんだままどうなっていたか。今頃《いまごろ》、田代と並んで病院のベッドに寝《ね》かされていたかもしれないんだから。
「でも、なんだか不思議だな。自分の思いもよらない能力があるなんて……」
こんなふうに、人の中にはいろんな才能が眠《ねむ》っているものなのかもしれない。それが花開くには「偶然《ぐうぜん》」という要素が不可欠なのかもしれない。
一学期の終業式の後、英会話クラブのみんなで田代の見舞《みま》いに行った。
田代は、右足を三か所骨折した上、骨が足をつき抜《ぬ》けた部分を二十針以上も縫《ぬ》った。全治二か月の大けがだった。不幸中の幸いは、夏休みに入ったことだ。これで一月半|稼《かせ》げる。新学期には登校できるそうだ。
「夏休みがパアよ〜。新しい水着も買ったのに〜」
と、田代は意外と元気がよかった。顔色も悪くない。
「あたしの足ね、動脈が切れてたんだって。でも病院に着いた時には出血は止まってて、どうして止まったのか、お医者さんにもわかんないんだって。ホントはもっと出血してて、もっと重体だったかもしれないのにって」
その話を、みんなは不思議そうに聞いていた。
「稲葉くん」
急に呼びかけられて、俺はドキッとした。田代が俺に向かって手を差し出している。俺はちょっと戸惑《とまど》ったけど、その手をとった。
「あの時はありがとう、稲葉くん。助けてくれて」
「いや、俺はなにも……」
田代は首を振《ふ》った。
「あの時ね、もう痛くて痛くて、もう死んじゃうと思ったの。でも稲葉くんの顔を見てたら、急にス――ッて体が軽くなって……。まるで、稲葉くんがあたしの痛さと苦しさを吸い取ってくれてる感じがしたのよ。ホントよ」
俺はドキドキした。田代は、あの時シンクロしたことを感じていたんだ。
「お前、気絶したんだよ」
「そうかも。でも不思議だったの。なんでかわかんないけど、すごく……不思議な感じがしたのよ。ありがとうね」
握《にぎ》った手に、キュッと力がこめられる。
ありがとうと言った田代の表情が、すごくきれいだった。
なぜか、胸がいっぱいになる。つないだ手に、田代からまたなにかが伝わる感じがした。それは、温かく澄《す》み切《き》った美しいものだった。
ああ……生きる喜びだ。生きている喜びだ。
そう確信した。それは、それだけで俺を感動させた。鼻の奥《おく》がツンとするような、切なくなるくらい美しいものだった。
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[#挿絵(img/01_110.png)入る]
クリとシロ
夏休みに入った。
俺は運送屋のバイトに、英会話クラブでは地元の外国人たちとの交流に、長谷らとキャンプにと、忙《いそが》しくも楽しい毎日を送った。るり子さんの手料理とアパートの温泉のおかげで体調はすこぶる良く、心身ともに充実《じゅうじつ》していた。なにもない日には、アパートの涼《すず》しい縁側《えんがわ》で本を読んで過ごした。しみじみと幸せだった。
妖怪《ようかい》アパートの前庭の木々も、夏の陽射《ひざ》しのもとあいあいと美しく、草花はみな活気に満ちている。アザミやひまわりがきれいだけど、その横にはなぜか桔梗《ききょう》や椿《つばき》も花を咲《さ》かせている。燦々《さんさん》と照りつける陽射しを浴びて少々暑苦しそうだ。毎日毎日、山田さんが汗《あせ》をかきかき雑草むしりに励《はげ》んでいる。
居間の東側の縁側は、よく繁《しげ》った木の下で涼やかな風が通り、いつでもひんやりと心地良かった。板の間に寝《ね》そべっていると、るり子さんがアイスコーヒーを出してくれたりした。
「キャンプは楽しかったかい、夕士くん?」
おだやかな昼下がりだった。俺は詩人とアイスコーヒーを飲みながら縁側《えんがわ》でしゃべっていた。画家は、画集を枕《まくら》に昼寝をしていた。
「はい。俺バーベキューやったの初めてで、すげぇ楽しかったっス」
「バーベキューかあ。今度ここの庭でもやろうかなあ」
「あ、いいっスね!」
「君がいっちゃう前に、ね」
「…………」
ジィジィとセミの鳴く横に、なにか得体の知れないモノがじっととまっている。透明《とうめい》なクラゲのような浮遊《ふゆう》物体が視界を横切ってゆく。もうすっかり見慣れてしまった日常。
「夏が終わればお別れだねぇ」
「そうスね……」
「面白かったデショ」
「ウス。そりゃもう!」
俺たちは笑いあった。
いつかこうしたことも思い出の彼方《かなた》へ流れ去って、あれは本当にあったことなのだろうかと感じる日がくるのだろうか。
それでいいんだよ
どこかで龍さんの声がした。
人にはそれぞれの生きる場所がある。そこにはそこの考え方があり、常識がある。人はそれに沿って生きればいいのだ。
ただ、その世界がすべてではないということ。世界は、もっともっと果てしなく広いのだと。
これをわかっているかいないかで、その人の人生の重みも深みもまったく違《ちが》ってくるのだ。この妖怪《ようかい》アパートは、俺にそう教えてくれた。
「これまでの俺の人生と、これからの俺の人生は全然違うっスよ!」
俺は自信をもってそう言った。
「おおげさだなあ」
詩人は大笑いした。
その時、あたりの空気が一瞬《いっしゅん》シンと静まった。これは、なにか力の強いモノが来た時の感じなのだと俺ももう知っていた。
「龍さんかな?」
詩人も門の方を見やっている。
突然《とつぜん》、画家の横で寝《ね》ていたシロが吠《ほ》え出《だ》した。この犬が吠えるのを初めて見た。いつもクリに寄《よ》り添《そ》うように、クリを守るように一緒《いっしょ》にいる白い犬。クリもまったくしゃべらないので、シロも吠えないのだと思っていた。
「ああ、茜《あかね》さんが来たんだ」
シロの様子を見て、納得《なっとく》したように詩人が言った。
「茜さん……オバケっスか?」
「うん、まあそういうことになるかなあ。そうかぁ……」
詩人のこういう物言いは珍《めずら》しい。ずいぶん歯切れが悪いというか上の空というか、眠《ねむ》そうに目をこすっているクリを見る目が、どこか暗いというか。起き上がった画家も、クリを見る目がいつもとどこか違《ちが》う。
「なんなんだ?」
俺は久しぶりにドキドキした。これまでと違うなにかが迫《せま》っている。
シロがバタバタと尻尾《しっぽ》を振《ふ》った。嬉《うれ》しそうだ。
と、居間のドアをヌッとくぐってきたのは、ばかでかい犬だった。俺は息を呑《の》んだ。
「――――――っ!!」
「茜さん」―――!! これが!?
二本足で立つその身長は俺より高い。百七十センチ以上。白地に紅葉《もみじ》の散った柄《がら》の美しい着物を着ているものの、大きな耳に爛々《らんらん》と光る鳶色《とびいろ》の目玉。ぱっくりとあいた口には犬歯がズラリと並び、血のような舌がたれている。たいがいの物《もの》の怪《け》は見慣れたはずの俺だったけど、このド迫力《はくりょく》にはひっくり返りそうになった。
クリとシロが嬉しそうにすがっていった。茜さんはシロをなで、クリをやさしく抱《だ》き上《あ》げた。しかし、愛《いと》しそうにクリをなめる姿が、今にもクリを一呑みしそうで恐《こわ》かった。
「やあ、茜さん。ごくろうさまですね」
という詩人に、茜さんは笑いかけた。笑った。犬が。
「こちらは、稲葉夕士くん」
茜さんが近くに来た。空気の密度が上がるようなその迫力たるや、ただ身体が大きいとか見かけが怖《こわ》いとかいうんじゃなくて、これが「霊圧《れいあつ》」というやつなのかと、俺は実感した。今にも抜《ぬ》けそうな腰《こし》に必死で力をこめる。
「ハ、ハジメマシテ。イ、イナバユウシッス」
俺の様子を見て、詩人と画家は必死に笑いをこらえている。茜さんは鳶色《とびいろ》の目を細めた。
「愛らしい男子《おのこ》じゃ」
その声! まさに大狼《おおおおかみ》が人語を話せばこんな声だろうという声! 鋭《するど》くてドスがきいてて、聞くほどに身体中がゾクゾクする! 声にまで霊気《れいき》をまとっている、そんな感じだった。茜さんはその声でクリをあやした。
「元気であったか、ん? 飴《あめ》はうまいか? 欲《ほ》しいものはないか?」
クリのほっぺをやさしく鼻で押《お》す茜さん。無表情ながらも、茜さんの顔を小さな手でなでるクリも、やはりどことなく嬉《うれ》しそうだ。クリは幽霊《ゆうれい》なのだから元気もなにもないと思うけど、あやす側もあやされる側も、人間ではないことをのぞけばまるで普通《ふつう》の親子のようだった。
「茜さんはクリに会いに来たんスか?」
と、詩人に尋《たず》ねたが、詩人は「まあね」とあいまいだった。やっぱり、なんだか様子がおかしい。
「おっ母さん[#「おっ母さん」に傍点]が来たってことは、今夜あたりアレが来るのか」
画家の言葉に茜さんはうなずいた。
「アレ……?」
俺は詩人を見た。詩人はちょっと困ったような顔をした。
「夕士くんには嫌《いや》なものを見ることになるなぁ」
「な、なんスか? ここには悪いモノはいないはずっしょ?」
詩人はうなずいた。
「でも時々悪いモノも来るんだよ。通りすがりのモノもいれば、今日みたいに、ここにやって来る[#「ここにやって来る」に傍点]モノもいるんだ」
「…………」
「クリの母親さ」
ショックな話だった。
クリは、生みの母親に殺されたんだ。しかも虐待《ぎゃくたい》の末のことだった。
「あれ[#「あれ」に傍点]は、生活にだらしなく、男に捨てられたことを、生活がうまくゆかないことを、すべてクリのせいにし虐待を続けたのだ」
膝《ひざ》の上にすわるクリの髪《かみ》をやさしくなでながら、茜さんは話してくれた。
クリの母親は、地方から家出してきたまだ少女のような若い女で、働くことを嫌《きら》い男に頼《たよ》ることで、かろうじて生活をしていた。
しかし、本来がだらしのない自分勝手な性格で、そんな女を男が大事にするわけもなく、女は男に捨てられては次の男を漁《あさ》りに繁華街《はんかがい》を徘徊《はいかい》し、さらに質《たち》の悪い男に手を出すという悪循環《あくじゅんかん》を繰《く》り返《かえ》した。
「そのくせ、あれ[#「あれ」に傍点]は自分のその生活を一人前に嘆《なげ》いておった。なぜ幸せになれぬのかと、しゃあしゃあと悩《なや》んだのだ。そんな時、女は子を孕《はら》んだ。それがクリだ」
出産が原因で、女はその時付き合っていた男に捨てられた。最初はそうでもなかったのに、男はクリが生まれて間もなくその存在を疎《うと》みはじめ、やがてそれを理由に女のもとを去ったのだ。クリの存在だけが理由ではなかったんだろうが、女はそんなことは考えない。自分が悪いだなんて、そんなことは生まれて一度も考えたことがない人間だった。
男に捨てられた代わりに、女は理不尽《りふじん》な怒《いか》りをぶつける対象を得てしまった。クリへの虐待《ぎゃくたい》が始まった。泣いたといっては殴《なぐ》り、粗相《そそう》をしたといっては外へ放《ほう》り出《だ》し、食事もろくに与《あた》えず、恨《うら》み言《ごと》や罵声《ばせい》を浴びせる毎日。二|歳《さい》にも満たない幼い子に。自分が産んだ実の子どもに。
「自分≠チてものをしっかりつくることができなかった人間は、なにがあっても自分に自信が持てないんだよ。たとえそれが悪いことでもね。それが自分のせい[#「自分のせい」に傍点]だと思えないんだよネ。そこに自分はない[#「そこに自分はない」に傍点]んだよ」
と、詩人は言った。
「た、確かにそんな自分勝手な奴《やつ》はどこにでもいるけど、母親が……自分の産んだ子どもをそんなふうに……まだ赤ちゃんなのに……」
俺は、声が震《ふる》えた。
ああ、だからクリは口がきけないんだ。だからこんなにも無表情なんだ。親が愛情を注いでくれなかったら、子どもはいったいどうすればいいんだ? クリはこんなにも小さいのに、もう「途方《とほう》に暮れてしまった」んだ。なにも考えられず、なにも言えず、ただボンヤリするしかなかったんだ。
「たびたび庭に放《ほう》り出《だ》されていたクリの面倒《めんどう》をみたのが、野良犬《のらいぬ》のシロだ」
茜さんは、横にピッタリと寄《よ》り添《そ》っているシロをなでた。
夜の暗闇《くらやみ》の中で寒さに震えながら泣いていたクリ。その身体を温かく包み、傷をなめ、時にはどこからかパンやお菓子《かし》を持ってきて、シロはクリの世話をした。それはシロがメス犬だからだけではなく、それ以上の愛情があったからだった。
「犬と人間なのに?」
「種の壁《かべ》は、そう厚いものではない。己《おのれ》にとって愛《いと》しいもの≠ニは、それが何者であっても、また生き物ではなくとも、やはり愛しいのだ」
茜さんは笑った。怖《こわ》い顔なのに笑顔《えがお》がやさしかった。
クリの母親がクリを殺したのは、激しいヒステリーを起こした末のことだった。
クリへの虐待《ぎゃくたい》は、母親の精神を本格的に狂《くる》わせはじめた。母親は、ささいなことで激昂《げっこう》することが多くなり、そのたびにクリに暴力をふるったり、物を壊《こわ》したりした。
その時も、なにかでヒステリーを起こした母親は、クリの細い細い首を絞《し》め上《あ》げると庭にたたきつけた。クリは頭を打ち、ほぼ即死《そくし》状態だった。
その瞬間《しゅんかん》、庭のすみにひそんでいたシロが母親に襲《おそ》いかかり、その首を噛《か》み切《き》って殺した。しかし、それを目撃《もくげき》した近所の人たちによって、シロはその場で撲殺《ぼくさつ》されてしまった。シロはその時、逃《に》げることも抵抗《ていこう》することもなしに、殴《なぐ》り殺《ころ》されるままだったという。
「なぜ?」
「クリを放《ほう》っておけなかったのだ」
クリの幼い魂《たましい》がまちがっても迷ってしまわないよう、シロは自らも死んで魂となって、クリを守ろうと考えたという。
「そうか……。だからシロはいつもクリと一緒《いっしょ》なのな」
名前を呼ばれて、シロは俺のほうを見て尻尾《しっぽ》を振《ふ》った。
やさしかった母さんの顔が浮《う》かんだ。
命と引きかえることのできる愛情。種はちがっても、まちがいなくシロはクリの「お母さん」なのだと思えた。
「あれ? でもさっき一色さんが、クリの母親が来るって?」
詩人がうなずいた。
「クリの母親が来るの。クリを殺しに」
「え?」
「あれ[#「あれ」に傍点]は、クリを憎《にく》むことで己《おのれ》を保っていた。死んでもその妄執《もうしゅう》から逃《のが》れられなかったのだ」
クリの母親は「クリを憎むこと」しかできない人間だった。それが自分のすべてだった。だから死んでもその思いから離《はな》れられなかった。死んでもなおクリを虐待《ぎゃくたい》しようと、殺そうと、クリを追いかけたのだ。
「そ、そんな……」
俺は絶句した。胸がつまり、吐《は》き気《け》にも似たなにかがこみあげてきた。
シロは、母親の怨霊《おんりょう》からクリを守るため、クリを連れて山神を祀《まつ》る「大神《おおかみ》神社」へと駆《か》けこんだ。
「すべての犬族は、山神の眷属《けんぞく》らしいからね。茜さんは山の神に仕える山の犬、つまりは狼《おおかみ》さ。狼は山の神に仕える霊獣《れいじゅう》といわれてるよね」
シロは、犬族の神さま「大神」に助けを求めた。だが、クリの魂《たましい》はすでに穢《けが》れていて、大神は聖域に留《とど》まることを許さなかった。
本当なら、聖域を汚《けが》した罪でその場で消されてしまうはずの一人と一|匹《ぴき》の命乞《いのちご》いをしたのが、大神に直接仕える霊獣のうちの一頭であった茜さんだ。茜さんは、自分の子どもを亡《な》くしたばかりだった。
「大神様は、クリを聖域より遠く退《の》かせることで、儂《わし》のわがままをお許し下さった」
クリは人間として、人間にかわいがられることが必要だと思った茜さんは、クリとシロを「寿荘」へと連れてきたのだ。その思いのとおり、クリはここで、詩人や画家や秋音ちゃんや、みんなにかわいがられながら暮らしている。茜さんは大神様に仕えているので、クリにはたまにしか会いに来られないけど。
「クリというのは、アタシがつけたの。目がクリクリしてるデショ」
出生届も出されず、名前すらなかったクリの名付け親には詩人がなった。
「魂《たましい》が穢《けが》れている、とは?」
茜さんは、クリのシャツをはだけて見せた。
「うわっ!?」
そこには、クリの細くて小さい両肩《りょうかた》には、真っ黒い手形がついていた。まるでクリにおぶさっているかのように。まるでクリをわしづかみにしているかのように。
「あれ[#「あれ」に傍点]の妄執《もうしゅう》が形をとったものだ」
俺は、ゾ――ッとした。恐《おそ》ろしくて、胸クソ悪くて吐《は》き気《け》がした。
なぜ? なぜこれほど憎《にく》むことができるのだろう。なぜ、これほど憎まなければならないのだろう。
「この妄執があるかぎり、あれ[#「あれ」に傍点]はこの世をさまよい続け、思い出したようにクリを殺しにやってくるのだ」
「あ、秋音ちゃんがやったみたいに……その、退治するとか?」
「あれ[#「あれ」に傍点]を滅《めっ》してしまうのは簡単だ。だが、それではあれ[#「あれ」に傍点]の妄執《もうしゅう》に縛《しば》られているクリが成仏《じょうぶつ》できんのだ。クリを成仏させるためには、まずあれ[#「あれ」に傍点]を成仏させねばならん」
茜さんは、ふぅとため息をついた。
「龍さんでも、あの母親を説得はできない[#「説得はできない」に傍点]らしいよ。妄執が弱まるのを待つしかないんだってサ。時間がたてば、いつか母親の思いも薄《うす》れる時がくる。まず母親を成仏させてクリの魂《たましい》をきれいにしたあとでなきゃ、クリは天国へは行けないんだって」
「なんでそこまで……」
「憎《にく》しみや恨《うら》みや、そんなマイナスの感情だけで生きてきた人みたいだからねぇ。それ以外に自分をつくることができなかったんだね」
「だって、自分の子ども……」
「自分の子だからこそ」
茜さんが静かに言った。
「これだけ強く魂を縛れるのは、やはり母と子なればこそなのだ……」
「…………っ!!」
その言葉の重みに、俺の胸はつまった。息が止まるほど。
怒《いか》りと悲しみがこみあげてくる。ある日|突然《とつぜん》死なねばならなかった俺の両親は、俺という子どもを残し、どれほど無念だっただろう。それを思うと、クリの母親は絶対に許せない。絶対に! 女だから? 心が弱かったから? 男も悪かったから? そんなものはクソくらえだ!! そこにどんな理由があろうと、俺は絶対許さない!!
でも、そこに確かに母と子の絆《きずな》があって。
それは皮肉で、このうえない残酷《ざんこく》な絆だけど、なにものにもかえがたい母子の絆であって。
まがりなりにも、絶対認めたくはないけれど、母親は母親なのだ。
(もう…………俺にはいない……母親……)
あぐらを組んだ足の上に、生温かい雫《しずく》が落ちた。
「……?」
涙《なみだ》があふれて、頬《ほお》を伝っていた。
「あ……あれ?」
俺は、自分で自分が泣いているのにびっくりした。今まで一度だって、人前で泣いたことなんてなかったのに。
「ご両親のこと、思い出しちゃったか」
詩人が軽く笑った。その笑顔《えがお》がやさしくて、両目の奥《おく》が痛くなった。
「は……や……」
俺はあせって、慌《あわ》てて涙《なみだ》をぬぐった。その俺の手を、茜さんがやさしくとめた。
「こするでない。腫《は》れてしまうぞ」
「…………」
姿も、声も、人間じゃない。でもその時の茜さんは、まぎれもなく「お母さん」だった。俺の本能が、そう感じた。
茜さんは、懐紙《かいし》でそっと涙を押《お》さえてくれた。暖かいなにかに包まれる。遠い昔の思い出のような、ちょっと切ない懐《なつ》かしさが全身に広がってゆく。
「顔がニヤけてるぞ、夕士」
画家がからかうように笑った。そう言う画家も、茜さんを「おっ母《か》さん」と呼ぶ。きっとみんなが、茜さんに「お母さん」を見ているのだろう。
クリは茜さんの膝《ひざ》の上で、いつの間にかすやすやと眠《ねむ》っていた。シロは顎《あご》を茜さんの膝にのせて、クリの顔をみつめている。
なるほど、クリの母親は一人だろう。しかし、クリには何人もの「お母さん」がいるのだ。茜さん、シロ、秋音ちゃん、るり子さん。みんなみんなクリをかわいがっている。詩人や画家や龍さんや「お父さん」も何人もいる。実の両親からもらえなかった愛情を、クリは今、みんなから精一杯《せいいっぱい》注いでもらっているのだ。たとえ血などつながってなくとも。たとえその身は、もうこの世のものではなくても。
児童|虐待《ぎゃくたい》。親殺し。親に甘《あま》える子ども。子どもに依存《いぞん》する親。
俺は、今の世の中の親子関係というものをずっと冷ややかな目で見てきた。それは、自分には親がいないひがみからなのかもしれない。悪い例ばかりが目につくのは、俺の親が生きていればそんなことはしないと思いたいからなのかもしれない。
それでも、今ここに茜さんがいて、クリがいて、シロがいて。
人間の親が与《あた》えなかった愛情を、人間以上に注ぐ人間ではない者たちがいる。この事実を目の前にして、俺は涙《なみだ》が止まらない。いろんな思いが胸をよぎる。
情けない。悔《くや》しい。人が、人を。まして自分の子を、なぜ大切にできないのか。
茜さんやシロがオバケだからなんだっていうんだ。そこらのバカな人間よりも、はるかに上等な存在じゃないか。
でもここには、詩人や画家や秋音ちゃんたち「人間」もいる。そのことに俺は救われる。
種の壁《かべ》は、そう厚いものではない。己《おのれ》にとって「愛《いと》しいもの」とは、それが何者であっても、また生き物ではなくとも、やはり愛しいのだ
茜さんの言葉が、今しみじみと胸にしむようだ。
「何者か、じゃなく。どうあるか、なんだよな……」
庭の方からヒョコッと、秋音ちゃんが顔を出した。
「やっぱり茜さんが来てた!」
「秋音ちゃん、バイトは?」
「上がらせてもらったの。藤之《ふじゆき》先生の式鬼《しき》がアレ[#「アレ」に傍点]を見たって報告が入ったから」
「近づいてきたか」
茜さんはうなずいた。
「藤之先生のシキっていうのは?」
俺は秋音ちゃんに尋《たず》ねた。
「藤之先生は、月野木病院の妖怪《ようかい》担当のお医者さんで、あたしのお師匠《ししょう》さんよ。式鬼っていうのは、ん〜と……術者の命令でいろんなことをする神霊《しんれい》……。安倍晴明《あべのせいめい》って知ってる?」
「ああ、名前だけは」
「あの人はドアの開け閉めも式鬼《しき》にやらせたそうよ」
「ズボラな奴《やつ》なんだな〜」
俺の言葉にみんなが大笑いした。
「さて。では安倍晴明よろしく、怨霊《おんりょう》を迎《むか》え討《う》つ用意でもしようかの」
茜さんは立ち上がり、クリを秋音ちゃんに預けた。
「クリた〜ん。お部屋でおねーちゃんと遊ぼうね〜」
「クリはどうするんスか?」
「クリは、秋音が結界の中で守ってくれる。お前もそこにいるがいい、夕士よ。あれ[#「あれ」に傍点]は醜《みにく》く、おぞましい。見るべきものではない」
一年に三、四回、クリの母親がやってくるたびに、クリは秋音ちゃんの部屋に張られた特別な「結界」の中で守られる。悪霊が決して手を出せないシールドみたいなものらしい。その間に、茜さんや龍さんが母親を追い返す。
もっとも、そこでアニメや漫画《まんが》のような「バトル」が繰《く》り広《ひろ》げられるわけじゃない。このアパートそのものが持つ結界の中へ、クリの母親は入れないらしい。門のあたりをうろうろするだけなのだ。
秋音ちゃんはクリを抱《だ》いて行った。シロがそれに続く。
「一色さんはどうするんスか?」
「アタシたちはいつも見学」
「怨霊《おんりょう》を肴《さかな》に酒盛りだ。オツだろ?」
画家はニヤリと笑った。
「あの……俺も見学していいスか?」
みんなが俺を見た。
「恐《こわ》いもの見たさで言うんならやめといたほうがいいよ、夕士クン」
「地味だが本物≠セぜ? 特撮《とくさつ》じゃねぇんだ」
俺はうなずいた。クリの母親を見たかった。なぜだかわからない。恐いもの見たさなのかもしれない。
茜さんは、鳶色《とびいろ》の切れそうに鋭《するど》い目で俺をじっと見ていたが、やがてうなずいた。
「いいの、茜さん?」
という詩人に、茜さんはもう一度うなずいた。
「よい。これも勉強よな」
画家が笑った。
「キツイお勉強だぜ。おっ母《か》さんも人が悪ィ」
「おじゃまいたしまする」
庭先にまた人影《ひとかげ》が現れた。
「うお!!」
俺はそれを見て、思わず後ろへ飛びすさった。
縁側《えんがわ》に姿を見せたのは、後ろ足で立ち、紋付《もんつ》き袴《はかま》を着た二|匹《ひき》の犬だった。二匹は恭《うやうや》しく挨拶《あいさつ》をした。
「このような場所から失礼いたしまする。近隣《きんりん》の犬族を代表いたしまして、茜様にご挨拶に伺《うかが》いました」
「鹿肉《しかにく》に夏野菜でござりまする。どうぞ皆様《みなさま》でお召《め》し上《あ》がり下さいませ」
大笊《おおざる》にたっぷりの肉と野菜、そして徳利酒《とっくりざけ》が差し出された。
「おお、鹿刺《しかさ》しだ、鹿刺しだ!」
「野菜は焼いて食おうヨ。この茄子《なす》うまそ〜だねぇ〜!」
画家と詩人は紋付《もんつ》き袴《はかま》姿の犬には目もくれない。これもいつもの風景なのだろう。
「そ、そうか。犬の神様に仕える茜さんは、普通《ふつう》の犬たちよりえらいんだな。だからこうやって挨拶《あいさつ》に来るんだな」
と、俺は自分自身に説明した。
「毎度、大儀《たいぎ》であるな」
「ははぁ――」
人間の服を着た動物たちが、人間の言葉を交《か》わしあう。
「……日本昔話だ……」
そう思えば、この異様な風景もなんだかほのぼのして見えるじゃないか。懸命《けんめい》に自分自身に言い聞かせている俺を、詩人と画家はあいかわらず肩《かた》で笑いながら見ていた。
新鮮《しんせん》な食材に、るり子さんははりきって腕《うで》をふるった。縁側《えんがわ》に並んだ素晴らしい料理の数々。まるでグルメガイドの雑誌を切《き》り抜《ぬ》いたようだった。
きれいに切りそろえられた夏野菜たちは、品のいい小ぶりの七輪で焼かれ、ポン酢《ず》とゴマだれと塩でいただく。鹿肉《しかにく》は刺身《さしみ》、甘味噌和《あまみそあ》え、焼き肉と用意され、いずれも大皿に笹《ささ》の葉《は》をしいた上に盛られ、黄色の可憐《かれん》な花がそっと添《そ》えられていた。いつもながらすみずみまで完璧《かんぺき》な作品だ。その他、鮎《あゆ》の塩焼きに、キンとよく冷えたゴマ豆腐《どうふ》、小さなかわいい器《うつわ》にはひつまぶし。
「さすが……るり子ちゃんっ!! 君の白き十《とお》のタクトは音楽を紡《つむ》ぐが如《ごと》く アラクネの天球にも似た至高と神秘と驚愕《きょうがく》を生む……だねぇ」
次々と繰《く》り出《だ》される芸術品に、詩人が賛辞を贈《おく》っているらしい。画家はそんな詩人は無視して、杯《さかずき》になみなみと酒をそそいでぐいぐいあおっている。
「なにやらいい匂《にお》いだね」
ひょっこり顔を出したのは骨董屋だった。
「これはこれは、茜|殿《どの》。あいかわらずお美しい……」
骨董屋は茜さんの手をとると恭《うやうや》しく口付けした。その言動すべてがうさんくさいというかわざとらしいというか。どこまで本気かわからん男だ。茜さんも苦笑している。
「お主《ぬし》もあいかわらずだな、骨董屋」
「おかげさまで。今宵《こよい》はアレの日ですか」
「うむ」
「お前もやれよ、骨董屋」
画家が杯《さかずき》を差し出した。
「ご相伴《しょうばん》にあずかろう。ドラゴンの目玉の塩漬《しおづ》けがあるが、どうかね?」
「いらねーよ!」
みんなが笑った。愉快《ゆかい》なひとときだった。これから起こる残酷《ざんこく》で悲しいことなど、俺には想像もできなかった。
日が暮れて、西の空が赤紫《あかむらさき》に染まった。
ふと見ると、庭の上空を白い鳥が一羽しきりに旋回《せんかい》していた。
「ははぁ、あれは龍さんの使《つか》い魔《ま》だな」
骨董屋が薄《うす》い髭《ひげ》をこすりながら言った。
「使い魔?」
「式鬼《しき》のことサ」
詩人が解説してくれた。
「あ、秋音ちゃんが言ってた……確か、術者の命令をきく神霊《しんれい》……とか」
「身体が空いてれば来てくれるんだけどね。龍さんは自分が来られない時は、いつもああやって式鬼《しき》を送ってくれるんだ。あれは龍さんの分身みたいなものでネ。いざっていう時は戦ってくれるんだよ」
戦う? アニメや漫画《まんが》のように「バトル」をするのだろうか? やはり俺にはよくわからない。別世界の話だ。
「ああ、来たな」
画家がポツリと言った。
「!!」
茜さんの表情が一変している。耳が後ろに倒《たお》れ、爛々《らんらん》と光る目が門の向こう側をにらみつけている。
門の向こう側を見た。紫色《むらさきいろ》に沈《しず》んだ住宅街。ポツリと灯《とも》った街灯のにじんだ光の中を黒いなにかが移動していた。
それは、紫の空間に墨《すみ》を流したようで、はっきりしない黒い煙《けむり》のようなものが、ゆらりゆらりとこちらへ近づいてきていた。
空気がピ――ンと一気に張り詰めた。異様な気配がアパートを包む。俺の身体中にもワッと鳥肌《とりはだ》が立った。それまで部屋や庭のあちこちでカサコソしていた物《もの》の怪《け》たちもいっせいに散った。詩人も画家も、あの骨董屋さえ目つきが変わっている。どっしりと構えているようでも、眼差《まなざ》しに緊張《きんちょう》がみなぎっている。
空間の霊気《れいき》が増している。おそらく茜さんの霊気が上がっているのだ。俺にもこのぐらいはわかるようになった。胸がしめつけられる感じがする。強力な霊気を浴びると頭痛や吐《は》き気《け》がするそうだ。
黒い煙《けむり》が門前に現れた。ゆらゆらと、まるで黒い炎《ほのお》のようだ。その中に、人間のシルエットが浮《う》かび上《あ》がってきた。
「…………!」
女だった。だがそう見えたのは、かろうじてスカートらしきものを着ているからで、全身ボロボロだった。髪《かみ》は振《ふ》り乱《みだ》し、骸骨《がいこつ》のように痩《や》せこけ、肌《はだ》は汚《よご》れたように真っ黒、両腕《りょううで》をダランとたらして、呆《ほう》けたような顔をしている。
「あれが……クリの母親……!?」
「ひどいありさまデショ」
ひきつった俺の表情を見て、詩人が言った。
「はじめはもっと人間らしかったよ。年がたつにつれてだんだん崩《くず》れてきたの。…………ボロ雑巾《ぞうきん》みたいになっても来るのかなあ……」
詩人の言葉は、なんだか胸に迫《せま》った。年々|崩《くず》れてゆく「人」としての形。それはいったいなにを意味するのだろうか。こんなになってまでもなお、この女をつき動かすものとは、いったいなんなのだろうか。
女は、ボロボロの身体をゆらゆらさせながら、門の中をしきりにうかがうそぶりを見せた。あきらかになにかを探している様子だ。だが、門の内側に一歩足を踏《ふ》みいれた瞬間《しゅんかん》、青白い火花がバチバチと空間に散り、女はそれにはじかれたように後ずさった。「結界」の中には入れないのだ。それでも、女は門の前でウロウロし、入ろうとしてははじかれて後ずさるのを繰《く》り返《かえ》した。その姿は壊《こわ》れた人形のようで、そこには女性の尊厳どころか、人間の尊厳すら微塵《みじん》も感じられなかった。
なんて哀《あわ》れで、なんて滑稽《こっけい》で、なんて醜《みにく》い姿だろう。人間の魂《たましい》は、ここまで堕《お》ちることができるのか。
「哀《かな》しいねぇ……。これが子に会いたい母の姿とはね」
骨董屋がしみじみとつぶやいた。俺は、吐《は》き気《け》がした。
「おぉ―――……」
女がうめき声をあげ始めた。両手を突《つ》き上《あ》げ空間をかきむしる。結界に頭を突《つ》っこんでははじかれてひっくり返る。手足をばたつかせる。ヒステリーを起こしているのだ。死んでまでも!
「うお―――おお―――」
聞くに堪《た》えない耳ざわりな声を上げながら、女は泣きわめいた。その姿は、まるで……まるで会えない我が子を恋《こい》しがっているようだった。そう思ったとたん、俺は吐《は》いてしまった。
「だから、お前はあんまり食うなと言ったんだ」
画家が冷たく言った。
「おぅお―――あぁあ――ひぃああ――……」
「ええ、うっとうしい」
茜さんが立ち上がった。眉間《みけん》にシワを寄せ、まさに犬が怒《おこ》った時の顔をしている。
「去《い》ね! メスの風上にもおけんできそこないが!!」
雷鳴《らいめい》のような茜さんの怒号《どごう》が轟《とどろ》いた。それはまさに落雷となって、女の足元にドンと落ちた。女が吹《ふ》っ飛《と》んだ。俺たちも飛び上がった。庭中の空間に細かな放電が駆《か》け巡《めぐ》る。茜さんの身体からは真っ赤な湯気のようなものが立ち上った。
「お〜、闘気《とうき》が見えるぜ」
「あーコワイ」
のんきそうに見えても、画家も詩人も吐《は》くため息が重い。骨董屋がおおげさに肩《かた》をすくめた。
「母対母だからね。これほど恐《おそ》ろしい対戦カードはない」
女はヨロヨロと立ち上がると、しばらく呆然《ぼうぜん》と突《つ》っ立《た》っていた。その様子は阿呆《あほう》のように見えた。ぽかんと開けた口からはよだれを垂らし、目の焦点《しょうてん》は合っていない。
俺の介抱《かいほう》をしてくれながら詩人が言った。
「アレには、もう人間らしい思考や感情はないそうだヨ。自分が何者で、なぜさまよっているのかもわからない。だけど、それでもクリへの執着《しゅうちゃく》だけはあるんだ。呆然とさまよっていて、ふと思い出すのがクリのことで、それだけでアレはここへ来るんだよ」
なにもかも忘れ、自分が死んだことも人間だったことも忘れているくせに、クリのことだけは覚えているなんて。クリを殺すことだけは忘れないなんて。こんな執着ってあるか!?
母と子なればこそ……
茜さんの言葉が思い出された。とたんに胸がしめつけられた。腹の底から喉《のど》へ、しぼられるような苦痛を感じる。咳《せ》きこんだ俺に、るり子さんが白湯《さゆ》を差し出してくれた。
やがて女は、来た時と同じようにゆらりゆらりと夜の闇《やみ》の中へ消えていった。またしばらくはなにもわからないまま、ただただそのあたりをさまよい続けるのだろう。ある日、ふとクリのことを思い出すまで。
女が去って、あたりにはおだやかさが戻《もど》った。上空を舞《ま》っていた龍さんの式鬼《しき》もいなくなった。庭のそこここで、虫の声とかさこそする気配がする。ぼんやりと発光するクラゲも飛びはじめた。
「やれやれ。今回も無事終わったネ」
皆《みな》の緊張《きんちょう》もとけたようだ。宴会《えんかい》が再開される。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、夕士?」
茜さんが声をかけてくれた。その声のやさしさに、俺の胸はいっそうつまる感じがした。黙《だま》ってうなずくのが精一杯《せいいっぱい》だった。
「夕士クンはもう休んだほうがいいネ」
詩人の言葉に、茜さんもうなずいた。
「そいじゃ……お先っス」
「ああ、ユーシ君。今夜はよく眠《ねむ》れるようお守りをあげよう。妖精王《ようせいおう》の夢見の石≠セ。いい夢が見られるぞ」
「は、ありがとうございます」
骨董屋は小さなピンク色の石をくれた。俺は苦笑いした。
「夕士」
茜さんは、俺の頭をそっとなでた。
「これからもクリのことを頼《たの》むぞ」
やさしい声。やさしい手。「お母さん」の声と手だ。胸がいっぱいになる。俺は深く頭を下げて居間を後にした。
二階への階段が、なんだかやけに長く感じられた。頭の芯《しん》がしびれている感じがする。
秋音ちゃんの部屋のドアが目に入った。
俺は吸い寄せられるようにそこへ行き、ドアを開けた。
「あ、夕士くん」
秋音ちゃんは寝《ね》そべって本を読んでいた。クリは秋音ちゃんの布団《ふとん》で眠っていた。シロもクリに寄《よ》り添《そ》って寝《ね》ている。
「ひょっとしてアレを見てたの? 悪趣味《あくしゅみ》ねえ」
秋音ちゃんはいつものように明るく笑った。
ここには、ない。悪いものも、哀《かな》しいものも、醜《みにく》いものも。ここにあるのは、安らぎと、優しさと、暖かさと……。
「夕士くん? どうかした?」
俺にもなにがなんだかわからなかった。
ただ涙《なみだ》があふれて、あふれて、止まらなくなった。胸の奥《おく》の方からしぼられるように嗚咽《おえつ》がうまれて、涙となって零《こぼ》れる。後から。後から。
すやすやと眠《ねむ》るクリの寝顔がたまらなくあどけなくて、かわいくて。あんな化け物に死んでも渡《わた》したくないと思う。雷鳴《らいめい》の如《ごと》く怒《おこ》った茜さんの気持ちがよくわかる。
だけど、人間性もなにもかも、すべてを失った女がただ一つ覚えているのが我が子のことで、それだけをたよりに女は子どもの元へたどりつく。子どもに手が届かなくて泣《な》き叫《さけ》び、狂《くる》って、暴れて、女は確かに我が子を恋《こい》しがっていた。
その「思い」が間違《まちが》っているなんて、哀しすぎる。
その「思い」が子どものためにならないなんて、哀《かな》しすぎる。
「母子」なればこそ紡《つむ》ぎあえる奇跡《きせき》のような絆《きずな》で、まちがいなく女とクリはつながっている。化け物になろうとも、この先身体が崩《くず》れてボロ布のようになろうとも、女はきっとやってくる。結界に阻《はば》まれ、茜さんに雷《かみなり》を落とされても、女はやってくるのだ。「我が子を殺す」ために。その姿は、この上もなく醜《みにく》かった。哀《あわ》れだった。恐《おそ》ろしかった。女をそうさせたのはクリへの思いなのだ。
そこに、愛情はないのだろうか。
ひとかけらでもいい。
どこかに、女でさえ意識していないところに、ひとかけらでも「母の情」はないのだろうか。
あってくれ、と思う。
あってくれと、願わずにはいられない。祈《いの》らずにはいられない。
なにも知らず、なんの罪もなく安らかに眠《ねむ》るクリの寝顔《ねがお》がかわいければかわいいほど、哀しくて、哀しくて、胸がつまる。
俺は、無性《むしょう》に母さんが恋《こい》しくなった。会いたいと思っても無駄《むだ》だからと、両親のことはなるべく考えないようにしていた。でも、今、母さんに会いたい。父さんに会いたい。
会いたいよ。母さん。
会いたい。会いたい。会いたい……!
秋音ちゃんの両腕《りょううで》が、そっと俺を抱《だ》きしめた。胸の柔《やわ》らかさにハッとする。
秋音ちゃんは、黙《だま》って俺の背中をぽんぽんとたたいてくれた。母親が子どもをあやすように。
みっともないけど、俺はそのまま堪《こら》えきれずに泣《な》き崩《くず》れてしまった。ただもう泣きたかった。
両親が死んで三年。俺は初めて声を上げて泣いた。
その夜。俺は両親の夢を見た。
ポカポカと暖かい陽射《ひざ》しの下で、両親と俺は花畑にピクニックに来ていた。母さんが作った弁当を食いながら、高校生の俺は二人としゃべった。なにかいろんなことを。途中《とちゅう》からは長谷もまじって、俺たちはずっと笑っていた。
ステンドグラスが朝の光をうけて七色に輝《かがや》いていた。
窓のすぐ側《そば》で小鳥のさえずりがきこえる。きっとあの青い鳥たちだ。
両親や長谷となにをしゃべったか覚えていないが、俺の身体中に幸福感が残っていた。とても満たされた気分だった。
ふと気がつくと、骨董屋からもらった「夢見の石」を握《にぎ》りしめていた。まさかこのおかげとは思えないが。
「それにしてもお花畑でピクニック≠ネんて……俺って少女|趣味《しゅみ》?」
苦笑いする俺の目の前で白いものが動いた。
「シロ?」
シロは起き上がると、俺の顔をペロペロとなめた。
「え? お前ずっとここにいたのか?」
シロはドアのところまで行くと「開けてくれ」というふうにドアをかいた。ドアを開けると、ちょうど秋音ちゃんが部屋から出てきたところで、秋音ちゃんはクリを抱《だ》いていた。シロはその足元へピッタリと寄《よ》り添《そ》った。
「あ、夕士くん。オハヨー」
「あ、オハヨゥ」
ゆうべのこともあって、俺は照れくさくて頭をかいた。そういえばあのあとの記憶《きおく》がない。どうやって自分の部屋へ帰ったんだろう。
「ゆうべは夕士くんのこと、シロにお願いしたのよ」
秋音ちゃんは笑いながら言った。
「え?」
「いくらなんでも、あたしが添《そ》い寝《ね》するわけにいかないからさ〜。シロに、クリたんはあたしがみてるから夕士くんのことヨロシクネってね」
シロは、一晩俺の「お母さん」をしてくれたのだ。
「そ……ご、ごめん。俺、なんも覚えてなくて……」
ひたすら恐縮《きょうしゅく》する俺に、秋音ちゃんは追《お》い討《う》ちをかけた。
「そーそー。夕士くんったら泣《な》き疲《つか》れて寝ちゃったの。赤ちゃんみたいだったわよぉ。明さんが抱《だ》っこして部屋へ連れて行ったんだから!」
「…………マジっっスか!?」
俺は頭を抱《かか》えこんだ。まったくなんてザマだ。女の子の胸の中で泣き疲れて、ガキみたいに抱っこされて寝かしつけてもらうなんて! 長谷に知られたらなんて言われるか!! そんな俺を見て、秋音ちゃんは大笑いした。
ゆうべの出来事が嘘《うそ》のような、爽《さわ》やかでおだやかで、いつもと変わらない「妖怪《ようかい》アパート」の朝。
「オハヨー、夕士クン。よく眠《ねむ》れたかぃ?」
「っはよっス」
俺は詩人と画家に深々と頭を下げた。
「ゆうべはどうも……お世話かけて……すんまっせん」
詩人と画家は顔を見合わせ、軽く笑った。
「いい勉強したよねぇ、夕士クン。茜さんの言ったとおりだネ」
「…………」
詩人の言葉はいつも、俺に不思議な感慨《かんがい》を覚えさせる。
「お前、もうちょっと太れ。タッパのわりに体重軽いんじゃねぇか?」
と、画家が言った。「抱《だ》っこされている自分」が思《おも》い浮《う》かんで冷《ひ》や汗《あせ》が出る。
「……ここへ来て、ちょっと太ったス。るり子さんの飯がうまいから」
「だよねー! さぁ、そのうまい飯を食べよう!!」
秋音ちゃんが俺の分を持ってきてくれた。
塩サバに、茄子《なす》とカツオの煮物《にもの》、ほうれん草とソーセージの炒《いた》め物《もの》、ワカメの味噌汁《みそしる》、そしてゆうべの鹿肉《しかにく》の残りをそぼろにしたやつを飯にかけて、そこに卵を落とすそぼろ卵かけごはんが、めちゃくちゃウマイ〜〜〜!!
山田さんはスポーツ新聞を読みながら、佐藤さんは時間を気にしながらるり子さんの激うま朝めしを食う。クリはコーヒーを飲んでいる画家の膝《ひざ》の上に。詩人はお茶をうまそうにすすり、俺と秋音ちゃんは大盛り飯にかぶりつく。
こうしている間にも、クリの母親は成仏《じょうぶつ》できずにさまよい歩き、またここへ戻《もど》ってくるのだろう。皆《みな》、それを忘れているわけでも知らぬふりをしているわけでもない。あの醜《みにく》い哀《あわ》れな怨霊《おんりょう》を見る目は真摯《しんし》だった。ちゃんと怒《いか》りがあり、哀《かな》しみがあった。
ただそれも、それさえも「一つの現実」として受け止めているのだ。自分たちの「日常の一つ」だと。
どうにもならないことがあって、自分の力ではどうしようもないけれど、いつかうまくいくと信じて、自分の日常に受け入れる。
悲しいことは、悲しんでいいんだ。
腹が立ったら、怒《おこ》っていいんだ。
それが、そうしたところでどうにもならなくても。
そうすることによって、それは自分の世界の一部となって「生きる」んだ。その分だけ、確実に自分の世界は広がるんだ。
もう間もなく、俺のこの「妖怪《ようかい》アパート」での暮らしが終わる。
あの日、あの洞窟風呂《どうくつぶろ》で、あの玄関先《げんかんさき》で、俺の常識も知識も砕《くだ》け散《ち》った。いきなりとんでもない「現実」にブチ当たって、なにもかも信じられなくて、それでも背に腹はかえられなくて、受け入れるしかないとあきらめた。
でも、今は違《ちが》う。俺はここでの「とんでもない現実」を、自分の血肉にできたと思う。ここで驚《おどろ》いて、悩《なや》んで、泣いて、笑って、学んだこと。見たこと、きいたこと、感じたこと、考えたことすべてが体にしみこんでいる。俺の世界の中で生きている。そう感じる。
できるなら、このまま夏休みが終わってほしくない気がする。九月に入ったらすぐ引《ひ》っ越《こ》す予定になっているから。
「いつまでもここにいたい」と思う自分が、なんだか照れくさいような、おかしいような、ほのぼのした気分だった。
その日の午後。涼《すず》しい縁側《えんがわ》に寝《ね》そべり、詩人とお茶を飲んでいた時だった。
「このお茶、すっげぇ香《こう》ばしいっスね」
「蕎麦茶《そばちゃ》だってサ。わらび餅《もち》とサイコーに合うよネ〜。あーウマイ」
「お―――い。稲葉ぁ―――!」
「!?」
突然《とつぜん》、玄関《げんかん》から聞きなれた声がした。俺は飛び上がった。
「た……竹中!?」
玄関へ飛んでゆくと、やはり竹中が立っていた。
「いたいた! よう!!」
「なっ、な……どうしたんだ、お前。こんないきなり……っ」
俺は、あわてて竹中を外へ引っ張り出した。
「だってお前、ぜんぜん招待してくんねぇんだもんな〜」
「俺にだって都合ってもんが……」
外へ出たところで、俺はハッとした。そこには男が五、六人立っていた。皆《みな》、手に手に酒やタバコを持っている。その面々には見覚えがあった。それは、いつかハンバーガーショップで見た竹中の連れだった。
「竹中……?」
竹中は、ニヤニヤと嫌《いや》な笑い方をした。しばらく会わない間に、その表情が変わってしまっていた。目つきが暗い。なんだか人をバカにしたような、えらそうなわりにはどこか卑屈《ひくつ》な目で見つめてくる。俺の神経が知らず知らず逆なでされる。俺の目つきも悪いらしくてよくチンピラにケンカを売られるけど、竹中のこの目つきのいやらしさは、まちがいなくケンカを売っている目だ。いや、こっちが「ケンカを売りたくなるような目」だ。思わず「なにガンたれてんだ!」と、一発|殴《なぐ》りたくなる。
さらに竹中は、その目つきと同じようないやらしい口調で言った。
「寮《りょう》に移っちまう前にお前の部屋が見たくてさぁ〜。俺ら行くとこないんだよ、稲葉ぁ。外は暑いし、しばらくお前んとこへ泊《と》めてくんね〜かな〜」
悪びれない態度。他の奴《やつ》らもニヤニヤと笑っている。俺はぞっとした。
「お前の部屋、二〇二号室だったよな。さ〜、行こうぜぇ〜」
男たちがドヤドヤと歩き始めた。
「待てよ、竹中!」
「あ〜そうそう。美人のるり子さんはどこにいんの〜? 酒の肴《さかな》つくってほし〜な〜、お酌《しゃく》してほし〜な〜、ついでにイイコトしたいな〜。ハハハハ!」
竹中たちはゲラゲラ笑った。俺は竹中の胸ぐらにつかみかかった。
「いいかげんにしろよ、竹中。こんなのムチャクチャだぞ」
竹中は俺の手を乱暴に振《ふ》り払《はら》った。
「友だちは大事にしろよな、優等生さんよ。俺たちに逆らったら学校にいられないぜ?」
「何様のつもりだ、てめぇ。数にモノいわせりゃなんでもまかり通ると思ってんのか!?」
竹中は「それのなにが悪いんだ」みたいに鼻で笑った。
数を盾《たて》にツッパる「不良もどき」め。本人はいっぱしの不良を気取っているつもりなんだろうが、要するに一人じゃなにもできないから群れるのだ。
こんな「不良のほうがカッコイイから」とか「面白いから」みたいな理由で、夏休みをきっかけにグレていくようなお手軽な連中を見るとイライラする。こんな奴《やつ》らには「覚悟《かくご》」なんて毛ほどもないんだろう。
「酒やタバコぐらいでオタオタすんなよ、みっともないぜ。お前にもいろいろ教えてやるから。イケる口なんだろ、お前も? 楽しくやろうぜ〜」
どうやら俺は、竹中たちの「お仲間」に見られたようだ。学校じゃ真面目《まじめ》にしてはいるが、本当はツッパりたくてウズウズしているように見えたらしい。そりゃあ、俺はお世辞にもおだやかとはいえない目つきをしているし、言動が時々乱暴になっちまうし、あいつはホントは暴れたいんだぜ、と思われても仕方ないとは思う。
だけど見くびられたもんだ。俺が抱《かか》えこんでいる不満や不安なんて、こいつらには想像もできないだろう。学校で真面目《まじめ》にすることには生活がかかっているんだ。間違《まちが》っても「本気」を出すわけにはいかないんだよ。
竹中の見下すような目を、俺は思い切りにらみ返してやった。竹中の顔が、ほんの少しゆがむ。
「お前らみたいなツッパリもどきと一緒《いっしょ》にすんなよ。本当にツッパることがどんなもんか知りもしねえくせに。ツッパるのだって覚悟《かくご》がいるんだぜ、竹中? お前らにそれがあんのかよ。お前らは単なる不良ぶりっこだろ? ワルぶることでしか自己表現できないくせに。なにが教えてやるから≠セ!」
竹中の顔が、真っ赤に燃えた。
「てめえっ!!」
竹中は俺に飛びかかってきた。
「てめえのそんなとこが気に入らねえんだよ、稲葉!! 俺は大人です、みたいなツラしやがって!!」
「好きで大人になったわけじゃね――んだよ!!」
殴《なぐ》りかかってきた竹中の右腕《みぎうで》をかわし、俺は奴《やつ》の左顔面に一発入れてやった。竹中はあっけなくひっくり返った。
「足腰《あしこし》がなっちゃいねぇな、竹中。てめえも運送屋で働いたらどうだ」
竹中は、ようやく俺の「地」が自分の見こみと違《ちが》うことに気づいたようだ。でも、驚《おどろ》いたようなその目を剥《む》き直《なお》して、また飛びかかってきた。
「野郎《やろう》――っ!!」
それにはじかれたように、残りの連中も突進《とっしん》してきた。
「やっちまえ!!」
「そっち押《お》さえろ! ボコにしてやる!!」
一対六の乱闘《らんとう》がはじまった。さすがに六人相手はキツイ。
自己流もいいが無駄《むだ》な動きが多いぞ、稲葉
長谷のスカした顔が思《おも》い浮《う》かぶ。
ハイハイ。合気道四段のお前から見りゃ、俺のケンカ拳法《けんぽう》なんかさぞかし雑だろうよ。
そんなことを思いながら殴《なぐ》り合《あ》いをしている俺は、不思議と清々《すがすが》しい気分だった。その時、場違《ばちが》いな歓声《かんせい》が上がった。
「キャ――、夕士ク〜〜〜ン! かっこいい―――っ!!」
やたらと黄色い声が頭の上から降ってきた。ぎょっとして見上げると、二階の窓からまり子さんが身を乗り出して俺たちを見ていた。その隣《となり》には骨董屋が。そして二人の手にはワイングラスが。
「盛大にやってくれ、少年たちよ! 乾杯《プロージット》!!」
なにが「乾杯」か!!
「他人《ひと》の災難、酒の肴《さかな》にしてんじゃね――!!」
と、俺は思わず叫《さけ》び返《かえ》してしまった。骨董屋がいっそう愉快《ゆかい》そうに笑った。
「それが君の地金か、ユーシ君! なかなかいい男っぷりだ!!」
「カワイイ顔してワイルドなんだ〜。好みのタイプ〜」
まり子さんが投げキッスする。あああ、もうこの人たちは。
と、パンチが空振《からぶ》りして俺は派手にずっこけた。たちまち上から押《お》さえこまれる。
「しまった……!」
そう思った瞬間《しゅんかん》――。
「うるさいぞ! 小僧《こぞう》ども!!」
頭の中をガ―――ンと声が駆《か》け抜《ぬ》け、全員が飛び上がった。霊波《れいは》を受けた体が、恐怖《きょうふ》と驚愕《きょうがく》で固まる。一瞬で庭がシンと静まった。
そこへ、玄関《げんかん》からのそのそと、ずんぐりした着物姿の男が四人出てきた。その顔はどれも目玉は一つで、口には大きな牙《きば》が生えた「鬼《おに》」だった。
「あ……こいつらひょっとして、いつもマージャンしてる連中!? は、初めて見た。鬼だったのか!!」
衝立《ついた》ての向こうで頭をつき合わすように、無言でマージャンをしている連中の、これが初めて見る姿だった。クリの母親には負けるけど、充分|恐《こわ》い姿だ。まさに絵に描《か》いたような鬼!
「なんだアレ……着ぐるみ……?」
竹中たちは状況《じょうきょう》が呑《の》みこめないでいた。そりゃそうだろう。いくら鬼が目の前に現れたって、それをすぐに本物だと誰《だれ》が思うだろうか。だが鬼たちが竹中らをにらみすえると、あたりの空気が一変した。
陽《ひ》は翳《かげ》り、大気はざわざわと不吉《ふきつ》に波立ち、ぞっとするような冷気がたちこめた。身体が知らず知らずに異常を感じ、ガタガタと震《ふる》え始《はじ》める。
「なんだ? なんだよ!?」
俺も全身で感じていた。
「いる……!」
鬼《おに》たちや、骨董屋やまり子さんの他に、目には見えないモノたちが……いる! アパートの中に、壁《かべ》に、植えこみに、地面に、木陰《こかげ》に、空に、そして竹中たちのすぐ横に。「なにか」の気配が満ち満ちている。そいつらがいっせいに俺たちを見たのだ。その何十何百もの目玉にみつめられ、竹中たちは震え上がった。
そこに、詩人がちょこちょこと出てきて言った。
「君たちねぇ、夕士クンには手を出さないほうが身のためだヨ。世の中には、絶対に関《かか》わっちゃいけないものがあるんだ。まだ若いのにさあ、人生|狂《くる》わせたくないデショ? ねえ?」
詩人はそう言って笑った。そのラクガキのようなとぼけた表情がことさら意味深で、一番不気味に見えた。
竹中たちはソロソロと後ずさりして逃《に》げようとした。が、そこにはいつからいたのか、腕組《うでぐ》みした画家が仁王立《におうだ》ちしていた。
「人様んちの庭先|荒《あ》らしといて、しゃあしゃあとトンズラこく気じゃね〜だろ〜なあ、ガキども?」
指の関節がバキバキとすごい音をたてる。その両目がギラギラしている。楽しそうに。竹中たちのような不良もどきでもわかる、本物の猛者《もさ》の圧倒的《あっとうてき》な迫力《はくりょく》!
「ガキの分際で酒だタバコだと、けしからん!! 天誅《てんちゅう》―――っっ!!」
画家は竹中たち全員を、本当にあっという間に叩《たた》きのめした。俺とやりあって少々くたびれている奴《やつ》ら相手とはいえ、なんて早業!! なんて華麗《かれい》な身のこなし!! 武道にかけちゃ長谷もたいがいすごいけど、画家はその何倍もすごい気がした。
「これは……相当場数を踏《ふ》んでるぞ……!」
目をパチクリさせる俺の横で詩人が笑った。
「自分だって子どもの時から酒もタバコもやってるクセに。暴れたいだけなんだから、深瀬ってば」
二階の窓では、まり子さんと骨董屋が手を打って喜んでいる。いつの間にか、鬼《おに》たちとともに庭に満ちていたあやしい気配もなくなっていた。
「個展会場とかでも、しょっちゅう暴れるんだよねぇ。椅子《いす》とかテーブルとかひっくり返したりしてさあ。それを見に来るファンもいるんだヨ」
「ヘビメタのコンサートみたいスね」
詩人は濡《ぬ》れタオルを手渡《てわた》してくれた。鼻血と口元の血をぬぐう。
竹中たちはほうほうの体《てい》で逃《に》げていった。ボロボロのヨレヨレのくせに、その逃げ足の速いこと! まさにシッポを巻いて逃げるとはこのことだなと思った。
ひと暴れしたうえ、ガキどもの酒とタバコを巻き上げて大変満足した様子の画家は、俺の顎《あご》を持って上を向かせると、アザだらけの顔を見てにやりと笑った。
「男前が上がったな、夕士」
俺もにやりと笑い返した。
「ウス!!」
「なになに!? なんかあったのぉ!?」
大きなスイカを抱《かか》えた秋音ちゃんが、逃げてゆく竹中たちと俺たちを交互《こうご》に見ながら目をまんまるにして立っていた。
「ちょっとね。物《もの》の怪《け》と人間との連携《れんけい》プレーさ」
そう言って、俺たちは大笑いした。
夏休みの終わりの夕暮れ。アパートのみんなと前庭でバーベキューパーティをした。
どこからか用意された大きなバーベキューセットに、どっさりの肉と野菜。
「バーベキューなら任せろよ」
と、画家が意外な野外料理の腕《うで》をふるった。
「深瀬は旅の画家≠セからね。キャンプは慣れたものサ」
「愛犬とともに旅から旅へって、いいっスね〜」
「やー、ただいまー!」
「佐藤さん! 今日は早いね」
「残業全部|蹴《け》って飛んで来たよ〜。おー、いい匂《にお》い〜!」
「ビールお待ちどぉー! キンキンに冷えてま〜す!」
佐藤さんやまり子さんや、アパートの住人が次々と、そして人間の姿をしたモノやしていないモノが続々と集まりはじめた。さながらハロウィンの仮装パーティみたいだった。
「酒を持って参りました」
「おじゃまいたします」
「ああ、どうぞどうぞ。楽しんでって下さい」
どう見ても人間ではない(顔は人間だが着物から出た両手が毛むくじゃらだ)モノに、俺は笑顔《えがお》で応対していた。どうせこれで最後だから、という投げやりな気持ちじゃなかった。今夜のこのパーティは、俺のためのお別れ会。俺はホスト役なんだ。りっぱに務めようと思った。
外からやってきたモノたちは、皆酒徳利《みなさかどっくり》や干物《ひもの》や果物などをさげている。こういう[#「こういう」に傍点]集まりには、なにか贈《おく》り物《もの》を持ってくると仲間に入れてもらえるのだという。
「おじゃまいたしまする」
見覚えのある紋付《もんつ》き袴姿《はかますがた》の犬が来た。
「茜様の御使《おつか》いで参上いたしました。お受け取り下さい」
りっぱな尾頭《おかしら》付きの鯛《たい》が差し出された。
「茜さんの!?」
贈り物には手紙が添《そ》えられていた。茜さんから俺への手紙。それは短歌だった。
[#ここから2字下げ]
歩みゆく 道はひとつにあらねども われは忘れず 君の面影《おもかげ》
[#ここで字下げ終わり]
「おお〜、さすがおっ母《か》さん、雅《みやび》だなぁ〜!」
「君のこと忘れないってサ、夕士クン」
俺は黙《だま》ってうなずいた。胸がいっぱいだ。わざわざこんなことをしてくれるなんて。
「お礼を……お礼を言っといて下さい」
俺は、使いの犬に深々と頭を下げた。そうするのが精一杯《せいいっぱい》だった。どんな言葉も、どうお返しすればいいかも思いつかなかった。もう、会えないかもしれないのに。
「るり子さんからで〜す!」
秋音ちゃんが持ってきたのは、大きな盆《ぼん》にズラリと並んだ小鉢《こばち》と小皿。見た目にもきれいな煮物《にもの》と天ぷらだった。客たちがわっと沸《わ》く。
「こちらもるり子さん特製」
山田さんが運んできたのは山盛りのお握《にぎ》り。
「おお、握り飯じゃ」
「握り飯じゃ!」
物《もの》の怪《け》のなかには、お握りをすごく喜ぶ連中がいた。米には霊的《れいてき》な力があるんだとか。
しばらくして、お握りを嬉《うれ》しそうにほおばっている連中とか、骨董屋とひそひそ話をしていたモノたちが、一瞬《いっしゅん》はっとして門の方を見た。
「これは……!」
俺も門の方を見た。黒い人影《ひとかげ》がふっと現れた。
「やあ、どうも。やってるね」
「龍さん!!」
やっぱり龍さんだった! 俺は駆《か》け寄《よ》ってしまった。
「とっておきを持って来たよ。私も仲間にいれてくれ」
「来てくれたんスか」
「間に合ってよかった。お別れだね、夕士くん」
相変わらずパワーのある声と眼差《まなざ》し。龍さんに「お別れだね」と言われたとたんに、頭の中をいろいろな思い出が駆《か》け巡《めぐ》った。ここへ来た時の驚《おどろ》きと戸惑《とまど》い。龍さんや詩人や秋音ちゃんと話したこと。クリとシロと茜さんのこと。
「…………はい」
思わずうつむいてしまった俺の頭を、龍さんは優しくなでてくれた。
「龍さん、お久しぶりです!」
「やあ、秋音ちゃん。修行は進んでるかい?」
スターを見るような目で皆《みな》が見るなかを、龍さんは悠々《ゆうゆう》と進んでゆく。こそこそと逃《に》げてゆく物《もの》の怪《け》もいる。
「龍さん、なに持って来たの? やあ、山女魚《やまめ》だあ、すごいじゃん!」
「焼こうぜ、焼こうぜ」
「わしは生がいい……」
皆がまたワイワイとしだした時、骨董屋が龍さんに血のようなワインを差し出した。
「バートリー伯爵《はくしゃく》夫人の生き血はいかがかね?」
「相変わらずだね、骨董屋さん」
龍さんは苦笑いした。苦笑いするしかないだろう。龍さんを苦笑いさせるなんて、すげえよな。
「君も相変わらずで嬉《うれ》しいよ、東洋の蒼《あお》い真珠《しんじゅ》=A麗《うるわ》しのペイルブルー」
骨董屋はそう言いながら龍さんの髪《かみ》をなでおろし、髪留めを外した。龍さんの長い黒髪がさらさらと肩《かた》に落ちる。
「人魚のような髪だね」
骨董屋は龍さんの髪を一|房《ふさ》手にとるとそこへ口付けをした。俺は唖然《あぜん》とそれを見ていた。
「ペイルブルーと呼ぶのはやめてくれないか」
龍さんは骨董屋の手を軽く払《はら》いながら言った。
「……それと、私の髪《かみ》の毛《け》を盗《ぬす》むのもやめてくれ」
龍さんが握《にぎ》った骨董屋の右手には、長い髪が二本、からまっていた。
「髪を……盗む?」
「いいじゃないか、髪の毛の一本や二本」
「私にとっては重要な商売道具なんだ!」
「髪の毛が?」
「霊毛《れいもう》っていってね。髪の毛には霊気や霊力が宿るのよ」
と、解説してくれたのは秋音ちゃん。
「『ゲゲゲの鬼太郎』にも出てくるデショ」
と言ったのは詩人。俺は手を打った。
「ああ、妖怪《ようかい》アンテナ!」
「一緒《いっしょ》にしないでくれるかなあ、一色さん」
「そーいうプライドはあるんだ、龍さん」
「この髪《かみ》の毛《け》がまたよく売れるんだよ。こう、水晶《すいしょう》のペンダントに嵌《は》めこんでね。ヨーロッパの貴族の奥方《おくがた》なんか、いくらでも金を出す」
骨董屋はそう言ってペンダントを見せてくれた。雫形《しずくがた》の水晶と台座の間に、8の字にまとめられた髪の毛が一本はさまれている。
「他人《ひと》の髪の毛を勝手に売り物にしないでくれ!」
龍さんが珍《めずら》しく大声を出す。
「だいたい君は、私へのギャランティーをどう思っているんだ!」
「そーいう問題なんだ、龍さん」
「ああ、いや。別にそういうつもりではないんですけどね、一色さん」
漫才《まんざい》のようなこのやりとりを、俺は目をパチクリさせながら見ていた。仙人《せんにん》のような龍さんが、なんだかいきなりとても身近な人に感じた気がした。急にすごくおかしくなって、俺は一人ケタケタと笑い転げてしまった。
夜が更《ふ》けるほどに、人間以外の気配が満ちてゆく。酒も肴《さかな》も尽《つ》きることなく、網《あみ》の上では次々と肉や野菜が焼け、その香《かお》りが来訪者たちを活気づかせる。皆《みな》、酒を飲み肴を頬張《ほおば》り、大声でしゃべったり笑ったり、とても楽しそうだった。
「そうかそうか。あっちに帰るか。それは残念じゃ」
「わしらのことを覚えておくがいい。それがいい」
幽霊《ゆうれい》か妖怪《ようかい》かよくわからないモノたちに肩《かた》をたたかれ頭をなでられ、酒や肴《さかな》をすすめられ、グチや面白話をきかされ、俺は妖怪アパート最高の夜を堪能《たんのう》した。普通《ふつう》の世界に戻《もど》る俺にとって、おそらくもう一生経験できない幻想的《げんそうてき》で印象的で感動的な夜だった。
夜中を過ぎた頃《ころ》、クリと一緒《いっしょ》に寝《ね》るという秋音ちゃんについて、俺もおいとますることにした。宴《うたげ》はまだまだ夜明けまで続くという。
部屋へ戻る前に、俺は骨董屋を木陰《こかげ》に呼んだ。
「なんだね、ユーシ君?」
細い葉巻のハーブっぽい香《かお》りをまとって、骨董屋は俺を抱《だ》きこむように上からのぞきこむ。俺はちょっと口ごもりながら言った。
「り……龍さんの髪《かみ》の毛《け》入りペンダントって……い、いくらっスか?」
骨董屋は、灰色の片目をちょっと見開いて俺を見た。俺は顔が赤くなるのを感じた。
「お、お守りに欲《ほ》しいかなって思って……その……き、効きそうな気がして……」
「ふふん」
骨董屋は意味深に鼻を鳴らした。変な意味にとられなかっただろうか? 変な意味って? その俺の目の前にさっきのペンダントをたらして見せて、骨董屋は言った。
「餞別《せんべつ》だ。受け取りたまえ」
「えっ!? い、いいんスか!!」
骨董屋はいっそう意味ありげに口の端《はし》で笑った。
「ありがとうございます!!」
俺《おれ》はペンダントを握《にぎ》りしめた。
お守りというよりも、なにか思い出の品が俺は欲《ほ》しかったのだと思う。いつか、ここで過ごしたことすべてが、思い出の中で陽炎《かげろう》のように曖昧《あいまい》なものになってしまっても、確かなものが手の中にあって、あれは夢ではなかったのだという証《あかし》になってくれるように。
「なに? 顔がニヤけてる」
階段の上で、クリを抱《だ》っこした秋音ちゃんが笑っていた。俺は龍さんのペンダントを見せた。
「骨董屋さんから餞別にもらった。へへ」
「龍さんの髪《かみ》の毛《け》入りペンダントね。絶対効くわよ、それ」
「やっぱり!?」
秋音ちゃんは、ペンダントを持った俺の手に自分の手を重ねた。
「じゃあ、あたしも祈《いの》りをこめるね。夕士くんが普通《ふつう》の暮らしを普通にできますように」
「…………」
「ここから出ていけば、夕士くんの中の霊能力《れいのうりょく》が刺激《しげき》を受けることはないと思うわ。安心して生活して」
「ありがとう……秋音さん」
窓の外には、炎《ほのお》の明かりとさまざまな色をした謎《なぞ》の発光体。それを包む温かい闇《やみ》。
人とそうでないモノたちの笑い声、話し声、吠《ほ》え声《ごえ》。
俺は窓枠《まどわく》に肘《ひじ》をつき、眠《ねむ》るのも忘れてずっとずっといつまでも、その光景を眺《なが》めていた。
そして。
九月に入って間もなく。俺はこのアパートを引《ひ》き払《はら》った。
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こっち側
十月も半ばを過ぎて、ようやく涼《すず》しくなってきた。
新しい学生寮《がくせいりょう》はどこもかしこもピカピカで、なんだか得をした気分だ。
俺の部屋は三人部屋。一年生が二人と二年生が一人。一年生の石井博之《いしいひろゆき》とはすぐに仲良くなれたけど、二年生の加賀圭介《かがけいすけ》は無口でとっつきにくい人だった。俺たちとはあまり口をきかず、いつも一人で音楽をきき漫画《まんが》を読んでいた。まあ、先輩風《せんぱいかぜ》を吹《ふ》かせていばる奴《やつ》よりはマシか。
学生寮というと、人間関係が複雑で家族のような付き合いができる反面、いじめなども多いものだが、時代とともにその様子も変わってきている。加賀のような人種が増えている。他人との関《かか》わりを嫌《きら》う者たちだ。いじめない代わりに助けてもくれない。他人《ひと》のことなどどうでもいいし、自分のことも放《ほう》っておいてほしいのだ。人間関係は当然|希薄《きはく》になる。
「条東商|寮《りょう》の食事って、この辺じゃけっこううまいほうらしいぜ」
夕食を食べながら石井が言った。
「へぇ、そうなんだ」
確かにそうかもしれないと俺は思った。るり子さんの手料理には遠く及《およ》ばないが。
今、初めてわかる。るり子さんの料理が、なぜあんなにもうまいのかが。それは心がこもっているからだ。
「るりるりはね、小料理屋を持つことが夢だったんだ。料理が好きだからネ。その前に死んじゃったから、きっと未練があるんだろうねえ」
と、詩人から話を聞かされた時、るり子さんの白い手がとても哀《かな》しく見えた。
ホステスをやめ念願の小料理屋を持てるというその時に、るり子さんはホステス時代からつきまとっていた客に殺された。その身体はバラバラにされ、大半が今もみつかっていないという。
志なかばにして死んだるり子さんが、最後に見たのが自分の両手だった。そこに、るり子さんの思いのすべてがこめられたのだ。俺は思い切ってるり子さんに聞いてみた。
「成仏《じょうぶつ》しなくていいんスか?」
すると、るり子さんはメモにこう書いた。
「夢がかなって、今とても幸せ」
その身は妖《あや》かしとなっても、大好きな料理の腕《うで》をふるい、それを俺や秋音ちゃんがうまいうまいと食ってくれる。るり子さんはそれが嬉《うれ》しくてたまらないのだ。るり子さんの料理がうまいのは、その一品一品がるり子さんの夢の結晶《けっしょう》だからだ。「おいしいと言ってもらいたい」という気持ちが固まったものだからだ。
寮《りょう》の食事係は四十代から五十代のおばさんが三人。ベテラン揃《ぞろ》いだ。料理の腕も確かだし愛想もいいけど、やっぱりどこか事務的だ。家族のように親身に、とはとても言えない。だけどそれは、寮生たちがそれを望んでいないからだ。干渉《かんしょう》されることを嫌《きら》う今どきの子どもたちは、おばちゃんたちに付け入る隙《すき》を与《あた》えない。「仕事以外に口を出すな。仕事がすんだらさっさと帰れ」という無意識の信号を、寮生たちは常に発している。おばちゃんたちが愛情をこめようもない。
寮の外で偶然《ぐうぜん》に会ったおばちゃんのことを、さも当然のように無視した寮生の話をきいたり、貝のような加賀の態度とかを見ていると、俺は時々たまらない気持ちになった。なんだか博|伯父《おじ》さんの家にいた時と似た感じで、胸がつまる。
俺の両親は、おしゃべりなほうじゃなかった。特に父さんは無口な人で、飯を食っている間なんか一言も口をきかなかった。
「でも……俺の話を全身で聞いてくれてたよな」
そんな遠い日のことを、ふと思い出す。
両親との間に会話はなくとも、俺たちの間には満たされたものがあった。つながっている感じがした。だから父さんがしゃべらなくても、悪い気はしなかった。俺も父さんも母さんも、孤立《こりつ》してはいなかったんだ。
それは、家族だからか?
ただ、それだけだからか―――?
二学期の目まぐるしい行事ラッシュが過ぎて、勉強も生活もやっと落ち着いた頃《ころ》。朝の空気がひんやりと感じられた。
その日。
俺は、なんとはなしにフラリと妖怪《ようかい》アパートに行ってみた。
ころび坂の手前の、家と家との狭《せま》い隙間《すきま》を入る。
ヒビだらけの古い壁《かべ》に囲まれた寿荘は、ひっそりとそこにあった。壁に這《は》った蔦《つた》や庭の木々が、赤や黄色に紅葉しはじめている。山田さんが世話をしている花たちはきれいに咲《さ》きそろっていたけど、そこには季節外れの花はなく、桔梗《ききょう》など秋の花が揺《ゆ》れているだけだった。
開け放した玄関《げんかん》に立つ。
誰《だれ》もいなかった。いつもいるはずの詩人も出かけているのか、アパートにはなんの気配もなかった。居間にも、食堂にも、廊下《ろうか》にも。マージャン好きの鬼《おに》も、るり子さんも、鈴木さんも、クリもシロもいなかった。
俺は、黙《だま》ってアパートを後にした。なんとなくわかっていた。
そして鷹ノ台東駅へ行ってみると、あのビデオショップの横に前田不動産はなかった。小さな店らしいものはあるけど、もう何年も空き家のようだった。
寮《りょう》へ向かいながら、俺の口からポツリとつぶやきが漏《も》れた。
「俺はもう、こっちの人間になったんだな……」
ふとしたはずみで「別の世界」を体験したけど、結局はもといた世界に戻《もど》ってきた。初めからそのつもりだった。これからはずっとこっちの世界で生きていくんだ。あっちの世界のことは忘れていいんだ。
「必要としない者には、扉《とびら》は開かれない……か」
こうして人は、ともに暮らしてきた仲間のことを忘れていったのだろう。日々の暮らしに関《かか》わりのないことだとして。なんの得にもならないことだとして。
「それでいいんだ。この世界で生きていくためには」
そう思った俺は、なんだか無性《むしょう》に長谷に会いたくなった。電話ボックスに飛びこんであいつの携帯《けいたい》に一言入れれば、あいつはバイクを飛ばして来てくれる。きっと。
「どうした、稲葉。シケたツラしてんじゃねえよ!」
そういって一発|殴《なぐ》られたい気分だった。たまらなく。
だけどダメだ。あいつは今|忙《いそが》しいんだ。長谷はさっそく後期生徒会に役員としてもぐりこみ、表の顔の地固めをしている最中なんだ。
骨董屋にもらった龍さんの水晶《すいしょう》のペンダントを、ぎゅっと握《にぎ》りしめる。ぎゅっと。これだけは、ある。確かにある。俺の手の中にある……。
魂《たましい》が抜《ぬ》けそうなくらい大きなため息が出た。見上げた夕空に、半月がぼんやりと浮《う》かんでいた。
竹中はあれ以来、教室でも寮内《りょうない》でも俺と決して目を合わせようとしない。口もきかない。あの一件がよほどこたえたみたいだが、ワル仲間とは相変わらず付き合っているようだ。生活態度が目に見えて悪くなってゆく。文化祭や体育祭にも参加しなかった。
ある日、寮《りょう》の玄関《げんかん》で顔を腫《は》らして帰ってきた竹中を見た。
「おい、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
と、声をかけたが、竹中は吐《は》き捨《す》てるように、
「関係ねぇだろ。いい子ぶんな」
と言った。その声には、憎《にく》しみや怯《おび》えや卑屈《ひくつ》や、人間のあらゆる暗い感情がつまっていた。俺は言葉もなく立《た》ち尽《つ》くすしかなかった。
おそらくこいつには、俺がなにを言っても通じないだろう。言葉の通じない奴《やつ》はいるもんだ。話せばわかるなんて、そんなのはきれいごとだ。竹中を見ているとそう思う。それはひどく悲しいことだけど、俺にはどうしようもないことだった。
竹中はだんだん授業に出なくなり、いつの間にか退学してしまった。
クラスメイトが一人いなくなっても、なんということもなく学校生活は続いてゆく。
年《とし》の瀬《せ》が押《お》し迫《せま》ってきて、期末試験だクリスマスだ忘年会だ帰省だと、皆《みな》いろいろと忙《いそが》しいのだ。俺も同じだった。バイト先で戦力として頼《たよ》りにされている俺は、クリスマスも忘年会も運送|途中《とちゅう》の車の中か会社の休憩室《きゅうけいしつ》で、むさ苦しいオッサンらとともに過ごすことになっている。社長に気に入られてかわいがられているのはありがたいけど、「高校をやめて正社員として働け」と言われるのには困っている。
ふと気づくと、竹中など初めからいなかったような気持ちになっていた。
俺は自分で自分にショックを受けた。淡々《たんたん》と過ぎてゆく日常に、すっかり流されている自分がいた。
このまま「普通《ふつう》の人たち」の中に埋《う》もれていっていいのだろうか。もしかしていつかは「今の時代、しょうがないから」と、自分も加賀のようになってゆくのだろうか。俺は不安になった。
友だちもいる。学校も寮生活《りょうせいかつ》もなんの問題もない。クラブに、バイトに、一日一日は確かに充実《じゅうじつ》してるし楽しい。だけどその日常のすきまでふと我に返ると、なんだか自分が見えていないような気がした。
俺は、クラスやクラブのみんなに話してみた。でも、みんな一様にチンプンカンプンという顔をした。
「つまり稲葉は、加賀|先輩《せんぱい》みたいな人間にはなりたくないってことか?」
「ん〜いや、そういうことじゃなくて……」
「体育会系の先輩よりは、加賀さんのほうがずっとマシだぜ?」
「人は人それぞれでいいじゃん」
「いいよ。いいんだけど……」
「お前、自分は人とは違《ちが》うんだって思いたいんじゃないの?」
「…………」
話はなかなか通じなかった。俺の本当に言いたいことを表現するのが難しいこともあるけど、みんなと話していて気づいたことがある。「議論ができない」んだ。一つのテーマを掘《ほ》り下《さ》げて考え、意見を言いあうことができない。話がすぐに終わってしまい、すぐに次の話へ次の話へとずれていってしまうんだ。俺はすごく戸惑《とまど》ってしまった。でもみんなは平気というか、それが普通《ふつう》みたいだった。
「これじゃあ真剣《しんけん》な悩《なや》みとか……話せないんじゃないか?」
俺はそう思ったが、真剣に悩むこと自体、なにかを深く語ること自体が、ダサイこと、面倒《めんどう》くさいことなのかもしれない。
俺はもう自分の話はしないことにした。みんなとは、楽しくてわかりやすいことだけをしゃべっていればいいんだろう。
ところが数日後のことだった。
寮《りょう》の部屋に戻《もど》った俺を、加賀がジロリとにらんで言った。
「お前、俺の悪口を言ってんだって!?」
「は?」
「俺がお前に、いつなにをしたよ!!」
どうやら、俺が加賀を引き合いに出して言った話がゆがめられて届いたらしい。
「違《ちが》います!! 誤解っスよ、先輩《せんぱい》!!」
俺が必死に説明してその場はなんとか収めてくれたけど、加賀はそれ以来ますます貝のようになってしまった。そういう加賀の態度もそうだが、誰《だれ》かが俺の話を悪意をもって加賀に伝えたのだと思うと、俺は暗澹《あんたん》たる気分になった。
普通《ふつう》の生活が過ぎてゆく。
淡々《たんたん》と、淡々と過ぎてゆく。
冬休みに入り、寮生《りょうせい》の大半が実家へ帰った学生寮はなんだかやけに静かで、新しくて近代的なつくりなだけに、いっそう寂《さび》しく寒い感じがした。
俺はバイトに明け暮れる毎日で、年末年始も臨時のバイトが入り、休みは元旦《がんたん》一日だけというハードスケジュールになっていた。それこそ、なにかを深く考えている時間も気力もなかった。
十二月三十一日。
午後六時を過ぎた頃《ころ》、意外に早くバイトが終わった。バイト先からは、給料の他に正月ということでちょっと豪華《ごうか》な弁当が出た。冷たくなってしまってるけど、寮《りょう》の食堂は休みだからありがたい。
商店街は年末年始の買い出しの人でごった返していた。音楽や呼びこみの声が響《ひび》き、人々の影《かげ》が華《はな》やかな灯《あか》りに照らされて揺《ゆ》れている。家族連れやカップルとすれ違《ちが》う。荷物を山と抱《かか》えたおばさんや、くたびれたおじさんがいる。楽しそうな人もそうでなさそうな人もいる。皆《みな》それぞれの一年を過ごしてきたんだろうな。
俺の一年もまた過ぎていく。三百六十五日も過ぎたなんて、なんだか信じられない。三百六十五日しか過ぎていないなんて、信じられない。
あの妖怪《ようかい》アパートは、本当に存在したのだろうか。
俺は本当に、あそこで半年暮らしたのだろうか。
龍さんの水晶《すいしょう》のペンダントだけが、まるで夢のかけらのように俺の手の中にある。
いつか、すべてが流れ去って思い出となる――。それでいいと思っていた。今、そうなりつつあるんだ。でも、なんだかそれが信じられない。
ふと立ち止まってしまった俺を、皆《みな》が迷惑《めいわく》そうによけていった。すれ違《ちが》いざま、わざとぶつかってこられて俺はよろめいた。そのまま、人ごみに流されるように俺は歩いていった。
ちらちらと雪が舞《ま》いはじめたなか、寮《りょう》の玄関《げんかん》に立つ影《かげ》があった。
「長谷…………!」
「よう、稲葉! やっと帰ったか」
長谷は寒そうに身体を動かしていた。鼻が赤い。いつから来てたんだ?
「お前……?」
「なんだヨ。幽霊《ゆうれい》見たみたいなツラすんな」
「お前……家族でスキー……」
「ああ。あれキャンセル。姉貴がオトコを連れて来るってさー、んなもんと一緒《いっしょ》に行けるかっての。見せつけられちゃたまらん!」
いつもと同じ調子で長谷は笑った。
「お前、明日は休みなんだろ、稲葉。一緒《いっしょ》に年越《としこ》ししようぜ。穴場の神社をみつけてあるんだ。初詣《はつもうで》に行こう」
俺は、なにも言えなかった。ただ馬鹿《ばか》みたいに突《つ》っ立《た》ってた。
「お、なにそれ? おお、弁当! 豪華《ごうか》じゃん。正月仕様!」
踏《ふ》ん張《ば》っていないと、なんだか膝《ひざ》から力が抜《ぬ》けて倒《たお》れそうだった。胸の奥《おく》が痛くて泣きたい気分だった。
泣いていい。泣きたい時には泣いていいんだ。
でも、涙《なみだ》は出なかった。
長谷は、弁当を持った俺の両手に自分の両手を重ねて言った。
「そこのコンビニでおでんを買ってくる。さっきから寒くてなー、無性《むしょう》におでんが食いたい気分なんだ。あと熱いお茶とコーヒーもな」
俺の手も長谷の手も、どっちも冷たかった。俺は黙《だま》ってうなずいた。
熱々のおでんは、腹にしみとおるほどうまかった。冷えた弁当とスナック菓子《がし》をお供に、俺は久しぶりに長谷と心ゆくまでしゃべりあった。他愛もないことも真剣《しんけん》なことも。長谷となら納得《なっとく》がいくまで語りあえる。
俺は、自分がしゃべりながらどんどんストレスが解消していくのを感じた。そんなふうに思ってはいなかったけど、俺はどうやらしゃべりたかったらしい。
「そういや……アパートにいた頃《ころ》はよくしゃべってたもんなぁ。一色さんとか秋音ちゃんとかと」
アパートにいるみんなとは「語りあう」ことができた。長谷と今しているように。ただ一方的にしゃべるんじゃなく、お互《たが》いの考えを交換《こうかん》し、比較《ひかく》し、情報を提供しあう。そう。これが、コミュニケーションなんだ。
「確かに、ちゃんとコミュニケーションできる奴《やつ》って、少ないよなぁ〜。あれだな、マークシートとマニュアルと情報量が多すぎることの弊害《へいがい》だな」
と、長谷は言った。
「お前んとこみたいな、頭のいい奴らばっかりいる学校でも?」
「頭がいいことは関係ないさ。知識の問題じゃなく知恵《ちえ》の問題だからな。頭は良くても、まともに挨拶《あいさつ》もできない奴らが大勢いて困ってる。その点、隣《となり》の高校の運動部長をやってる奴が、頭は悪いけど不良どもに人望のある奴でな。まずこいつを落としてだな……」
普段《ふだん》の爽《さわ》やかな男ぶりとは打って変わった悪人ヅラでそう話す長谷は、まったく相変わらずで嬉《うれ》しくなってしまう。そうやって力のある奴《やつ》を丸めこんでいって、やがてりっぱな裏番にのし上がっていくんだろう。こいつは放《ほう》っておいても全然|大丈夫《だいじょうぶ》なのだ。
では、俺は?
俺は大丈夫なのだろうか……? よくわからない。
明け方までしゃべりあって、昼頃《ひるごろ》まで寝《ね》て、俺たちは長谷のバイクで切れるような寒風の中を疾走《しっそう》した。さすがに気分がスカッとする。長谷はしばらく「ツーリングだ」と言って、海岸線を走った。
天気がよくて、真っ青な海がきらめいている。空には雲一つなく、太陽光線が一直線に降りそそいでいる。空気も景色も、どこまでも透明《とうめい》だった。
長谷の背中にすべてをあずけて、なにも考えずに流れ去る風景を見ていると、吹《ふ》き抜《ぬ》ける風に身も心も洗われる思いがした。そういえば、こんなに清々《すがすが》しい気分になるのも久しぶりだ。なんだか、いつまでもいつまでもこうして走っていたい気持ちだった。
ひとしきりあちこちを走りまわった後、長谷がみつけたという穴場な神社(穴場すぎて誰《だれ》もいなかった。元旦《がんたん》なのに!)で初詣《はつもうで》。無人の社務所に置かれた「おみくじ自動|販売機《はんばいき》」で買ったおみくじは大吉《だいきち》だった。
「こんなとこの大吉なんて信じられねー!!」
「こんなとこだからいいんだよ!!」
俺たちは腹を抱《かか》えて大笑いした。
陽《ひ》が傾《かたむ》いた頃《ころ》、長谷のおごりでうまい鍋焼《なべや》きうどんとぜんざいを食った俺は、今度は身も心も温まることができた。
「じゃな、稲葉」
「気をつけて帰れよ、長谷。今日は……サンキュ」
夕暮れ空に薄《うす》くはった雲から、ちらちらと雪が落ち始めた。
「もっと手紙の返事を書けよ。待ってんだからな、俺は」
「……ん」
週に一度は送られてくるのに、その返事になにも書く気がおこらなくて放《ほ》ったらかしにしてる長谷からの便りが、束になって机のすみっこにある。長谷にしてみれば、携帯《けいたい》も持っていないし、寮《りょう》の電話をそうそう使うわけにもいかない俺には、手紙を送るしかないんだ。わかっているのに。
「また来る!」
黄昏《たそがれ》の街を、長谷のバイクが遠ざかってゆく。これが永遠の別れでもないのに、俺はなんだか心細くなった。
「まだしゃべり足りねーよ、長谷……。もっと……いろんなこと…………」
暗さを増した空から雪が降る。あとから、あとから。
ぽつりと灯《とも》った街灯に照らされて、俺の影《かげ》がぼんやりとアスファルトに落ちた。その上にしんしんと雪が降る。
「なんだかなぁ、長谷。なんだか俺……不安ってゆーか……。俺、このままでいいのかなぁって気がするんだ。なぜそう思うのか、だからなにがしたいとか、わかんねーけど……」
落とされたつぶやきは、アスファルトに積もった雪に吸いこまれていった。
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[#挿絵(img/01_186.png)入る]
ただいまと言える場所
三学期が始まった。
寮生《りょうせい》たちが次々と戻《もど》ってきた。しかし、俺たちの部屋へ加賀が戻ってくることはなかった。
「なんかマンションに住むらしいぜ。しかし……先輩《せんぱい》もガキだよなぁ〜」
石井が苦笑いした。加賀は、引《ひ》っ越《こ》す旨《むね》のメモとCDの何枚かを石井にだけ渡《わた》していた。あの一件のことを、加賀はわかってくれなかったばかりか、いまだ根に持っていたわけだ。引っ越すのは、これ以上俺といるのが嫌《いや》だったからだろう。
石井の言うとおり、ガキのやることだと思う。気にすることはないと思う。でもやっぱりやりきれない。腰《こし》から力がぬけるような気分だった。
「本年度いっぱいは二人部屋だぞ!」
と、石井はごきげんだったが。
嫌《いや》なことはさらに続いた。
クラスメイトたちと新年の挨拶《あいさつ》を交《か》わす間もなく、飛びこんできたニュース。
「おい、きいたか! 竹中が逮捕《たいほ》されたってよ!!」
朝の教室がざわめいた。
「た、逮捕??」
「逮捕って……いったいなにやらかしたんだ!?」
「クスリだよ! クスリ!!」
「か、か、覚《かく》せい剤《ざい》!?」
教室が、今度はシンとなった。
竹中は、暴力団の覚せい剤がらみの犯罪が摘発《てきはつ》されたその場にいたところを逮捕された。竹中の服のポケットには覚せい剤が入っており、身体からは覚せい剤反応が出た。自分も使い、人にも売っていたらしい。
退学後、竹中は家にもいつかず、繁華街《はんかがい》をうろつく、より質《たち》の悪い不良グループやチンピラどもとつるむようになった。そんな奴《やつ》らのバックには、暴力団や外国の犯罪集団がいることぐらいわかりそうなものだ。
「絵にかいたような転落だな」
「普通《ふつう》の奴《やつ》だったよなあ」
「どっかで戻《もど》れなかったのかなあ」
親や学校が気に入らなくて、世間をすねてムシャクシャして、なにかを壊《こわ》したい気持ちになる。それはみんながわかる気持ちだった。だから身につまされる。「あいつ」は「俺」だったかもしれないと。
俺は、アパートに集団で現れた時の竹中を思い返していた。
あの時、もしかして竹中はSOSを発していたんじゃないだろうか? 似たもの同士と感じた俺ならわかってくれると、そう思っていたんじゃないだろうか?
竹中は、両親ともに健在で、経済的にも恵《めぐ》まれている普通の家庭の一人|息子《むすこ》だ。だから俺は、奴がグレるのはただひたすら根性が甘《あま》ったれているからだと思っていた。俺が今|抱《かか》えている不満や不安なんかと比べられるのも嫌《いや》だと思っていた。
でも、もし俺の両親が生きていたとしたら……。竹中の姿は、まさに俺そのものだったかもしれない。もっとよく話せていたら、分かりあえたかもしれない。
今となってはなにを考えても無駄《むだ》なことだ。俺の思いも、後悔《こうかい》も、なにも届かないところへ竹中は行ってしまった。
退学した者とはいえ、竹中が覚《かく》せい剤《ざい》事件で逮捕《たいほ》されたことは、就職に関して実績がある条東商のイメージを揺《ゆ》るがす大事件だった。しばらくは校内が騒然《そうぜん》としていた。
睦月《むつき》の空に雪が舞《ま》う。さらさらと、はらはらと、花びらのように。
来る日も来る日も、薄暗《うすぐら》い雪曇《ゆきぐも》りが続いて心も身体も芯《しん》から冷えこんだ。
電気ストーブが懸命《けんめい》に暖気を発しているけど、英会話クラブの部室は寒かった。そう感じるだけかもしれないけど。
「こんな気分が続くこともあるさ……」
冷たい窓ガラスを小さなつぶやきで曇らせてみた。
「稲葉くん、ちょっとこれ見てぇ。これでいいかなぁ。小道具をリストアップしてみたんだけど……抜《ぬ》けてるものある?」
そう。わけのわからないことでボンヤリもしていられない。三年生の追い出し会があるんだ。英会話クラブは、毎年地元の外国人クラブのメンバーを招き、パーティと英語劇を催《もよお》すことになっている。今年の演目は『白雪姫《しらゆきひめ》』。台本と役者は二年生担当。俺たち一年生は、劇とパーティの裏方を受け持つ。いろんなものの用意とか手配に走り回らねばならない。
なにをしようがなにを思おうが、否応《いやおう》もなしに時間は過ぎてゆく。
苦しみも哀《かな》しみも楽しみも、すべてを容赦《ようしゃ》なく過去へ押《お》し流《なが》し、思い出にしてゆく。
そして、楽しい思い出ほどあやふやで。
まるで降り続くぼたん雪のように。
てのひらに受け止めたとたん、ふわりと消えてゆく。
その日。
俺は、田代ら英会話クラブのメンバーと、劇で使う小道具を買いに出ていた。
雑貨屋やパーティグッズの店をさまよっていたらすっかり遅《おそ》くなってしまい、メンバーと別れたあと、俺はなにか食って帰るかどうか迷っていた。
「今ならギリギリ食堂の時間に間に合うかもしれねーけどなぁ……」
会社帰りのサラリーマンたちが行《ゆ》き交《か》う飲食店街を思案しながら歩いてゆく。
遊びで飲む人、仕事で飲む人、さまざまな姿を見る。立ち飲み屋にたむろう背広姿。少ないこづかいをやりくりして、今夜もなんとか楽しい酒を飲む。多分これが、将来の自分の姿なんだろうなあと思う。
ふと気づくと、俺はその場に縫《ぬ》いとめられたみたいに突《つ》っ立《た》っていた。疲《つか》れてたんだろうか。なんだか動きたくても動けない。そんな感じだった。
「なんだ……? どうしたんだ、俺……?」
まわりの景色が、やけにゆっくりと動いている。街の喧騒《けんそう》が、ボワ〜ンと遠のくようだった。この感覚に覚えがあるような……。
その時、そんな俺の耳に、聞き覚えのある声が飛びこんできた。
「もぉ、そこの酒がうまくてさあ! おいら惚《ほ》れこんじゃったのよぉ」
「!!」
耳を疑う間もなく、俺ははじかれたように振《ふ》り返《かえ》った。
そこには、かわいいおねぇちゃんを両手に花の、佐藤さんがいたんだ。
「さ……佐藤さん!!」
間違《まちが》いない。間違いなく佐藤さんだった。いつもの紺《こん》のスーツ。細い目。
「夕士くん!? あっ、いやあー、久しぶりだね―――!!」
「……っ!!」
間違《まちが》いなかった。俺を覚えていてくれた。
「元気だったかい! 寮《りょう》の住み心地はどお? 新品で気持ちいいだろ! 冬休みはどうしてたの? スキーとか行った?」
佐藤さんは笑いながら、俺の背中をバンバンたたいた。その仕草に、たちまち秋音ちゃんが重なる。詩人が、画家が、クリとシロが、山田さんやるり子さん、骨董屋や龍さんやまり子さんや……みんなの顔が目の前を駆《か》け抜《ぬ》ける。俺は一気に胸がいっぱいになった。声がつまり、なにもしゃべれない。
「アパートのみんなも元気だよぉ。夕士くん、どうしてるかな〜っていつも言ってるよ」
俺は無言でうなずいた。なにか言ったら涙《なみだ》が出そうだった。
アパートには、あれから一度も行ってない。電話をかけても通じず、それきりになっていた。なにもかもが遠い思い出になってしまっていた。それでいいと思っていたのに、それが自分の想像以上に寂《さび》しかったんだと、佐藤さんを見て思い知らされた。
「カチョー」
「早く行きましょうよ〜」
ほったらかしにされたおねぇちゃん二人が口をとがらせている。佐藤さんは、大手|化粧品《けしょうひん》メーカー「ソワール」の経理課長である。このおねぇちゃんたちは部下だろう。
「あっ、ゴメ〜〜〜ン、二人とも。今日はおいら、この子と食べに行くわ。君らとはまた日をあらためてねぇ」
俺もおねぇちゃんたちもびっくりした。
「え〜〜〜〜〜っ、そんなあ、課長ぉ」
「さ、佐藤さん。い、いいっスよ、そんな……」
「いーのいーの。女の子たちとはいつでも行けるんだから。じゃ君たち、この埋《う》め合《あ》わせはちゃ〜んとするから。ネ♪ 今日はバイバ―――イ!」
おねぇちゃんたちは、ほっぺをふくらませながらも素直に帰っていった。
「いいんスか? あの人たちに恨《うら》まれるっスよ?」
「だぁ〜いじょうぶ。おいら信頼《しんらい》されてるからね! おいらの言うことは皆《みな》よぉ〜くきくのヨ」
佐藤さんは胸をはり、自信たっぷりに言い切った。
「ソワールに入社して二十年。女子社員に人気ナンバーワンのナイスミドル銀髪《ぎんぱつ》の佐藤≠ニは、おいらのことさ!!」
銀髪《ぎんぱつ》のナイスミドルにはとても見えないけど、そういうことになっているんだろう。
「寮《りょう》の門限は何時?」
「あ、十時っス」
「よおーし、それじゃ行こう! うまい和食屋があるんだ。今夜はとことんおごっちゃうぞぉ〜!」
「ウス! ゴチになります!!」
嬉《うれ》しかった。本当に飛び上がるくらい嬉しかった。
肌身離《はだみはな》さず身につけていた水晶《すいしょう》のペンダントだけが、かろうじてつなぎとめていたアパートの思い出。やっぱり夢じゃなかったんだ。あのアパートで暮らしたこと。あのアパートの人たち、モノたち、出来事すべて。雪のようにゆらゆらとして、いつのまにか消えてしまいそうだった。でも、ちゃんとそこにあったんだ。今もちゃんとあるんだ。佐藤さんがここにいることがなによりの証拠《しょうこ》。佐藤さんが俺を覚えてくれているのがなによりの証拠。それが嬉しい。
「よっしゃー、来たぁー! ここのおでんはもーサイコー! 豆腐《とうふ》なんて何丁でもいけちゃうぞ〜!」
テーブルいっぱいに並べられた和食の数々は、佐藤さんの言うとおり激ウマだった。おでん、天ぷら、大根と鶏肉《とりにく》の煮物《にもの》、出し巻き卵、吸い物。どの味付けも上品だが、しっかりとダシがきいている。寮《りょう》では、残念だがこんな手間ヒマはかけられない。
「るり子ちゃんといい勝負だろ」
佐藤さんは細い目でウインクした。俺は、るり子さんの手料理を思い出しながらしみじみと食った。
「この店とはソワールに入社した頃《ころ》からの馴染《なじ》みでね〜。あ、女将《おかみ》〜、刺身《さしみ》の盛り合わせとうなぎの蒲焼《かばや》き〜、五目野菜のゴマ和《あ》え〜、あと焼き鳥、タレでね〜。それから混ぜご飯をいつものようにやって〜」
「はいは〜い」
佐藤さんは、かれこれもう何十年も人間として会社勤めをしている。一つの会社に入って仕事を勤め上げ退職すると、また次の会社へと入社する。社内では仕事ぶりはそこそこにとどめて、特に目立たないよう心がけているという。
妻子もいることになっている。同僚《どうりょう》や上司に紹介《しょうかい》しなければならない時には、長年妻役子ども役をしてくれている仲間の妖怪《ようかい》を呼び寄せるそうだ。
「おいら、ちゃぁ〜〜〜んとアルバムとかも作ってあんの。高校ではテニス部で、W大の経営学部を出て、妻とは見合い結婚《けっこん》。愛妻家で、妻と子の写真は定期入れに入れてるの。ホ〜ラ!」
「あ……へぇ〜」
「あんまり美人じゃない[#「あんまり美人じゃない」に傍点]設定なのヨ。同僚《どうりょう》や上司がまた会いたい≠チて言わないようにね」
「な、なるほど!」
俺は、佐藤さんの話を面白おかしくきいた。
佐藤さんの「自己設定」をきいていると、妻子との関係や、学校での様子、友だちとのあり方なんかが、俺たち普通《ふつう》の人間以上に「人間らしい」のに気づく。学生時代は、友人関係や恋《こい》や進路で悩《なや》み、喜び、ちゃんと「青春」し、地道に働き、つつましやかに夫婦《ふうふ》生活を営む。
それは、例えば女形《おやま》が本物の女以上に女らしいことと似ている。それは「あり方」の理想なんだと思う。
「佐藤さんは、どうして人間として暮らしてるんスか?」
俺の質問に、佐藤さんはふふっと笑ってからこう言った。
「リュック・ベッソンの『グラン・ブルー』見た?」
「は? あ、え、映画っスか。あ、いや」
「だぁめぇだぁよぉ、あんな名作は見とかないとぉ。いい映画は人生のお手本だよぉ」
妖怪《ようかい》の口から映画の話が出るとは。驚《おどろ》くやらおかしいやら。
「あの中でさ、主人公が言うんだよね。僕《ぼく》は生まれる場所を間違《まちが》えたんだ≠ニかいう意味のことをサ……あれをきいて、おいらジーンときちゃったヨ」
「…………」
「おいら、人間に生まれたかったんだ」
俺は、ハッと胸をつかれた。
「今のおいらは、きっと間違えて生まれてきちゃったんだな」
佐藤さんは、細い目で軽く笑った。
「普通《ふつう》の人間の子として生まれて、学校へ行って会社に勤めて、結婚《けっこん》して子どもを育てて、年をとって死んでゆく……。そういう人生を歩みたかった。人間のその限られた時間の中で、精一杯《せいいっぱい》生きている姿がとてもきれいでさあ……憧《あこが》れちゃうのよ。だからサ、おいらそのまねごとだけでもしたくてサ」
「…………」
「ま、人間にはなれないけどね。人間の中で暮らすのはとても面白いよ。おいらはあちこち渡《わた》り歩《ある》いているから、いろんな場所のいろんな人間を見てるしね」
「……ひどい奴《やつ》もいたでしょ」
「まぁね。でもそれはどこの世界でも当たり前のことだし。……いつか、おいらにも寿命《じゅみょう》がくる。その時は、人間として暮らしてくれる女を探して結婚《けっこん》して、子どもをつくって老いてゆく……ってなことをしたいな〜って思ってんの」
「…………」
「人間っていいよな、夕士くん」
佐藤さんは、細い目をさらに細くした。
こんなにも一生懸命《いっしょうけんめい》な生き物を目の前にして、俺はたまらなくなった。悔《くや》しいというか情けないというか、穴があったら入りたいとはこのことだ。
竹中や加賀のことを偉《えら》そうに批判できない。誰《だれ》もが持っている嫌《いや》な部分は俺にだってある。竹中が反発した俺。加賀と仲良くなれない俺。
「そんな……いいもんじゃないっスよ、人間なんて……佐藤さんがそんなに思ってくれるほど……。もったいないっスよ」
胸も頭もいろんな思いでいっぱいになる。涙《なみだ》がこみあげてくる。
「なにかあったのかい?」
佐藤さんは、俺の背中をそっとなでてくれた。その優しさが心にしむ。後から後から零《こぼ》れ落《お》ちる涙《なみだ》とともに、心の中のイライラやモヤモヤも流れ去っていく気がした。
「嫌《いや》なことが……続いて……どうしようもなくて……」
人は、なんて不器用なんだろう。自分の心もままならない。
自分の目は、自分を見るようにはできていないんだ。どうしたら自分を正直に見ることができるのだろう。どうしたら自分というものをしっかりと持つことができるのだろう。
「人は時代とともに変わるもんだ。変わっていいんだよ。おいらだって変わってきてるさ。でなきゃ会社の中でやっていけない。確かに昔に比べれば、甘《あま》ったれた人間が増えてきてる。時代は確実に翳《かげ》ってきてる。でも、それで終わりじゃないんだよ、夕士くん」
佐藤さんのその口ぶりに、龍さんが重なった。
「おいらたちは長生きする。だから、人間とは時間のスタンスが違《ちが》う。おいらたちは、何事も長い目で見るんだ。人間のことも長―――い目で見てるよ。今は悪くても、いい時代は必ず来る。すべての歴史はその繰《く》り返《かえ》しだ。そして次の時代をつくるのは、君たちのような若い子なんだ」
佐藤さんは、俺の頭をぽんぽんと叩《たた》いた。
「悪い部分もすべては君たちの一部だ。切り捨てることはできないよ。だからそれはそれとして置いといて、君の目は未来を見るんだ、夕士くん。なりたい自分をね。行きたい場所、やりたいこと。夢を見る人間には、無限の可能性があるんだよ。人間がおいらたちと違《ちが》うのは、そこ。夢を描《えが》き、そこへ向かって突《つ》き進《すす》んでゆくこと。だから人間は素晴らしい。たとえ、そこに欲深さの罪はあっても、未来へ未来へと進化するのが人間だ。良いことと悪いことを繰《く》り返《かえ》しながら」
佐藤さんの笑顔《えがお》に、俺もつられた。
「龍さんが、同じようなことを言ってくれたっスよ。前に……」
「なんだ、先を越《こ》されたか!」
佐藤さんはおでこをピシャリと打った。
「あいつも人間にしちゃあ長生きだからなあ、視点が違うよね、やっぱり」
「え? 長生きって!? 龍さんって二十四、五|歳《さい》かなって思ってたけど。違うんスか?」
佐藤さんは人差し指を立て、チッチッチと左右に振《ふ》った。
「なんなんスか? 教えて下さいよお」
寮《りょう》の門限なんか、もうどうでもよかった。俺は一晩中でも佐藤さんと話していたかった。龍さんや詩人や秋音ちゃんと、もう一度話したいと思った。
「よ!」
待ち合わせの場所に、長谷はいつものバイクでやって来た。
「いきなり呼び出しやがって。なんだよ?」
そんなセリフのわりに嬉《うれ》しそうな顔をしている。
「へへ」
「乗れよ。どこ行く?」
「腹へった。なんか食わせてくれ」
「なんだあ? 目的はそれかぁ?」
あきれたように、ちょっとびっくりしたように長谷が言う。こんなふうに俺から言うことなどなかったから。でも、俺は長谷に会いたかったんだ。なんでもいいから長谷に会って、なんでもいいから話したかった。
バイクでひとっ走りすると、身体の中を、如月《きさらぎ》も終わりの風が吹《ふ》き抜《ぬ》けた。その寒さは骨を震《ふる》わせたけど、からみついて離《はな》れないような寒さじゃなかった。次々と身体を駆《か》け抜《ぬ》けてゆく軽い寒さ。その軽さに春の気配がする。疾走《しっそう》する景色の中に見た梅の木は、みんな花をほころばせていた。
郊外《こうがい》のファミレスで、長谷に昼飯をおごってもらった。
飯を食いながら、俺はクラブの三年生追い出し会のことなど、いろいろしゃべった。長谷は笑いながら聞いていた。
「なんかいいことでもあったのか、稲葉?」
コーヒーを片手に、長谷が薄気味《うすきみ》悪くも優しい顔をしている。
「正月に会った時、お前元気なさそうだったから心配してた。手紙の返事もこないし」
ああ、そうだった。長谷からの手紙はまだ机の隅《すみ》っこにあるままだ。
「アパートにいた頃《ころ》は楽しそうだったのに、寮《りょう》へ移ったら元気がなくなったから、こりゃあ寮生とうまくいってないんだなと思ってたんだが」
「ああ……うん。それもあったな」
「今日は、なんか機嫌《きげん》よさそうじゃねえ? モリモリ食ってるしよ。人の金で」
俺たちは軽く笑いあった。
離《はな》れて暮らしている長谷に心配をかけたくないから黙《だま》っていたんだが、加賀のこと、そして竹中のことで、ちょっと参っていたことを話した。それから、そんな時佐藤さんに会って勇気づけられたことも。
「人生の大先輩《だいせんぱい》と話をしたらさ、スッキリしたんだ。やっぱり自分とぜんぜん視点の違《ちが》う人の意見って勉強になるよなあ」
と、俺が言うと、長谷はコーヒーをちびちびやりながらうなずいた。
「同じ考えしか持たない集団ってのは、いつか必ずダメになるからな」
「うん……うん?」
「昨夜、ニュースでやってたぜ。アメリカでまた宗教団体が集団自殺したってよ」
「え? だから?」
「だから、お前が今言ったことって、そういう意味だろ? 違う視点からも考えなきゃダメだって」
「…………」
「価値観ってのは、一つしかないとそれはもはや価値観ですらないんだ。価値観は、いろんな価値観と比べてこそ価値観なんだよ。自分の価値観も、別の価値観と比べてみて初めて価値観たるというか、よくわかるんだよな」
この瞬間《しゅんかん》、俺は目の前がパァッと開けた感じがした。知らず知らず、曲げそうなほどフォークを握《にぎ》りしめていた。
「長谷…………やっぱお前って、頭いい」
「当然だ」
長谷はいつものようにしれっとこたえた。
「そうなんだよ……。価値観が同じ集まりの中にいたんじゃ、わからないんだ。自分をよく見るためには、違《ちが》う場所から見なきゃダメなんだ」
心が落ち着いた。
バラバラだったものが、今ひとつにまとまってゆく感じがした。
それは、俺の目の前に一本の道となって現れた。それがどこへゆく道なのか、俺にはわかる気がした。
学年最後の期末試験が終わった日曜日。
学生寮《がくせいりょう》の玄関《げんかん》に、俺への面会人が立っていた。
「エリちゃん……!?」
本当に突然《とつぜん》で、本当にびっくりした。俺に会いに来たのは恵理子だった。
恵子|伯母《おば》さんとは、二、三枚ハガキのやりとりはしたが。まさかと思った。まさか、恵理子が来るなんて。
「いったい何事だ?」
と、警戒《けいかい》する俺をよそに、恵理子はちょっと照れくさそうに言った。
「あんたったら、一度も帰ってこないで。お盆《ぼん》もお正月も……。このままずっと帰ってこないつもりなの?」
恵理子にこんなことを言われるなんて、ちょっと複雑だった。
「お盆には……墓参りは行ったぜ? ちゃんと」
俺は頭をかいた。そんな俺を見て、恵理子は目を細めた。
「ちょっと太った?」
アパートにいた頃《ころ》、栄養状態がすこぶる良かったので、俺はちょっと太ってしまったし、その後のバイトなどもあって、けっこう筋肉質な男になったと自分では思っている。
「たくましくなったって言ってほしいんだけどなぁ」
と、俺が笑って言うと、恵理子も笑った。
なんだか雰囲気《ふんいき》が違《ちが》う。いつものとげとげしい感じがない。だがそう思ったのは、俺だけじゃなかった。
「あんたが笑ったの、初めて見た。なんだかずいぶん感じが変わったみたい……」
俺たちは、港公園へブラブラ歩いていった。
今日は陽射《ひざ》しが暖かくて、空気がすっかり春めいている。港公園にも、たくさんの人が散策に来ていた。
「これさ……」
恵理子は、バッグから一枚のハガキを取り出した。それは、アパートにいた頃《ころ》出した最初のハガキだった。恵理子はそれを読んだ。
「俺は、毎日楽しくやっています。アパートの賄《まかな》いさんは、料理がものすごく上手で幸せです。学校も楽しいです。英会話クラブに入りました……=v
なんだか感慨《かんがい》深い声。
俺は戸惑《とまど》った。恵理子がどういうつもりなのか、まるでわからなかった。
「いい手紙だね、これ。……ホントに楽しそうなのが伝わってくるもん」
「そ、そうかな」
「あたしね……これ読んで初めて思ったんだ。ああ、夕士も楽しそうにすることがあるんだって……」
恵理子は、苦笑いした。
「そんなの当たり前だよね。あんただって普通《ふつう》の人間だもん。楽しいとか幸せとか思うわよね。あたし、そんなこともわからなかった。あんたはそれだけ楽しそうじゃなかったってこと……あの家じゃ……」
「…………」
「そうよね。両親がいっぺんに死んで、あの家へ来て……楽しいわけないわよね」
「エリちゃん……」
恵理子は立ち止まり、俺の方へ向き直った。今にも泣きそうな顔をしていた。肩《かた》が震《ふる》えていた。
「あたし、知ってた。あんたが、ずっとずっと我慢《がまん》していたの。あたしたちに遠慮《えんりょ》して……。あんたのこと嫌《いや》だと思ったのは本当よ。あんたがそれをわかっているのも知ってた。わかっているからどうだって思ってた。あたしも嫌なの我慢してるんだからって、思ってた」
「うん」
「でも、あんたのことが嫌《きら》いだってことじゃないのよ。一緒《いっしょ》に暮らすのが嫌《いや》だっただけなの」
「うん」
恵理子の身体が震《ふる》えるごとに、なにかが波のように俺へ押《お》し寄《よ》せてくる。それは俺の身体にぶつかると、マグマのように熱く砕《くだ》け散《ち》った。
「あんたが出て行って、すごく楽しそうで……よっぽどうちにいた時はつらかったんだろうなって思ったら、あたし……。夏休みも、お盆《ぼん》も、お正月も、これからもずっとずっと……もう絶対、うちには帰ってこないんだろうなって思ったら……あたし……!」
ハガキを握《にぎ》りしめる恵理子の手を、俺は両手でそっと包んだ。初めて恵理子に触《ふ》れた手の上に、涙《なみだ》がぱたぱたと落ちてきた。
「エリちゃん」
「ごめんね、夕士くん。ごめんね……!!」
海風が、潮の香《かお》りを運んできた。
どこまでも透《す》きとおるような春の日。海が美しかった。
自分の気持ちを正直にぶつけてきてくれた恵理子。長い間のわだかまりが、嘘《うそ》のように溶けてゆく。海の上にきらめく光に、心が洗われる気がする。
俺は、恵理子の気持ちに精一杯応《せいいっぱいこた》えようと思った。こんなにも素直な自分が、信じられない思いだ。
以前の自分なら、こう思えただろうか。一人の人間として、自分をみつめることができただろうか。
竹中や加賀や、同年代の奴《やつ》らを見るにつけて思う。もっと人間らしくありたいと。
現代社会のあくたにまみれて感覚をマヒさせ、それが時代だもん、なんてセリフですべてを片付けたくない。人と人とをつなぐ「情」を、うっとうしいと思いたくない。
そして、佐藤さんや龍さんに教わった。未来を見ろ、と。
嫌《いや》なところも悪いところも冷静に受け止め、その向こうにあるなりたい自分になろうと。
もっとみつめたい。人間としての自分を。
もっと磨《みが》きたい。自分という人間を。
そのためには、今のこの世界はあまりにも乾《かわ》いている。カサカサに。
ビルの谷間に、満月がおぼろに浮《う》かんでいた。
どこか妖《あや》しげな春の宵《よい》。
俺は、鷹ノ台東駅前の、あの小さな公園のベンチに腰《こし》を下ろしていた。あの時と同じように。目を閉じ、一つ大きく深呼吸する。
そっと目を開くと、ビデオショップにへばりつくように建つその小さな店に、灯《あか》りがともっていた。
俺はゆっくりと歩いてゆき、「前田不動産 空き部屋あり」の看板の下をくぐった。
「いらっしゃい」
丸メガネに白髪《しらが》まじりのアゴ髭《ひげ》の前田のおじさんが、にっこりと迎《むか》えてくれた。
そして、俺は帰ってきた。妖怪《ようかい》アパートに。今度は正式な入居人として。
引《ひ》っ越《こ》しの日。玄関《げんかん》に入ると、そこには華子さんがすわっていた。
「おかえりなさい」
初めてはっきり見えるその姿。長い黒髪《くろかみ》、あざやかな着物の柄《がら》は桜。
俺は、胸をはってこたえた。
「ただいま! 華子さん」
幽霊《ゆうれい》とか妖怪《ようかい》とか、いてもいなくてもどうでもいいと思ってた。
でも、今は違《ちが》う。
奴《やつ》らにはいてほしい。だって楽しい仲間だから。
そう思えるようになって、俺の世界は二倍にも三倍にも広がった。
俺はこれからも妖怪アパートで暮らして、こっちの世界から自分を含《ふく》めた人間のことをよく勉強していきたいと思う。こっちの世界からだと人間のことがよくわかるし、龍さんや一色さんや佐藤さんや、いろんな人生の先輩《せんぱい》から、もっとたくさん話を聞きたいんだ。
人生に行《ゆ》き詰《づ》まったら、あの前田不動産に行ってみるといい。
前田のおじさんが、アゴ髭《ひげ》をこすりながらこう言ってくれるかもしれないぜ。
「妖怪《ようかい》アパートの部屋の鍵《かぎ》、貸しますヨ」
[#地から1字上げ]第二巻につづく
[#改ページ]
香月日輪 こうづきひのわ
和歌山県生まれ。著書に「地獄堂霊界通信」シリーズや「エル・シオン」シリーズ(いずれもポプラ社)など多数。作風から、霊感があると思われがちだが、霊が見える友人はいても、自分では気配さえも感じないらしい。大阪府在住。
画・佐藤三千彦
装丁・城所潤(Jun Kidokoro Design)
[#改ページ]
底本
講談社 YA! ENTERTAINMENT
妖怪《ようかい》アパートの幽雅《ゆうが》な日常《にちじょう》@
著 者――香月日輪《こうづきひのわ》
2003年10月10日  第1刷発行
2005年12月1日  第6刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90