荒巻 義雄
「能登モーゼ伝説」殺人事件
目 次
第一部 十勝本別《とかちほんべつ》 トウモロコシ迷路の殺人
第一章 角《つの》ある被害者
第二章 現場検証
第三章 能登の女
第二部 能登の風景
第四章 客人《まれびと》の国
第五章 モーゼの墓
第六章 輪島の女
第三部 ワインの里
第七章 モーゼの謎
第八章 旧約の中のモーゼ
第九章 モーゼの井戸
あとがき――犯罪の現代性
参考文献
主な登場人物
荒尾十郎《あらおじゆうろう》 札幌在住の作家・美術評論家
酒田慧《さかたさとる》 道警本部刑事部共助課の刑事
双鹿秦平《つぬがはたへい》 被害者。双鹿ワイン商事社長
双鹿|宮子《みやこ》 被害者の妻
双鹿|恒夫《つねお》 被害者の長男
石倉数也《いしくらかずや》 双鹿ワイン商事社員
田川張矢《たがわはるや》 帯広の十勝シティ・ホテル従業員。UFOマニア
八坂真美《やさかまみ》 金沢の「妖花」でホステスをしていた。元共和航空スチュワーデス
八坂|真弥《まや》 八坂真美の妹。輪島で漆工芸の技術修業中
八坂|征一郎《せいいちろう》 真美・真弥の実父。十年以上前、パリで殺害された。
八坂|夏彦《なつひこ》 帯広の開業医。征一郎の弟。真美・真弥の養父。
第一部 十勝本別《とかちほんべつ》 トウモロコシ迷路の殺人
第一章 角《つの》ある被害者
――伝説・伝承の世界ならともかく、この現実の世界に、角《つの》のある人など本当に存在するのだろうか。しかし、それがいたのである。本殺人事件では、その角ある男が被害者である。
1
荒尾十郎《あらおじゆうろう》が、あの酒田慧《さかたさとる》刑事の電話を受けたのは、平成元年の今年、記録的な猛暑だった北海道の夏がようやく終わった、八月末であった。北海道は、八月のお盆を過ぎると、めっきり涼しくなるのが普通だ。
荒尾は、ワープロを叩く手を休め、文章の一時登録をすませてから、居間へ行った。
「はい、お待たせいたしました」
と、受話器を取っていう。
「酒田です。その後、ごぶさたしておりますが、ちょっとお時間を拝借できないでしょうか。実はまた、先生のお知恵を借りたい事件がありましてね。電話ではなんですので、これからお宅へ伺ってよろしいでしょうか」
二つ返事で諒承したいところだが、荒尾は原稿の締め切りに追われている身だ。
電話口で渋っていると、
「ご多忙はわかりますが、ぜひお願いしますよ。とにかく、先生の興味をそそる事件であることはまちがいありません」
と、酒田刑事は、上手に荒尾の好奇心をそそる。
「といいますと?」
「鬼ですよ」
「鬼?」
「ええ、角《つの》の生《は》えた鬼がですね、今度の事件では被害者なのです」
「おっしゃることが、わかりませんねえ」
荒尾は、首をひねる。
「それはお会いしてお話しします」
「わかりました。お待ちしております」
と承知して電話を切り、妻に向かって、
「お茶をもらおうかな」
と、いった。
妻は、ほうじ茶を淹《い》れながら、
「警察のかたがどんな用事ですの?」
と、気掛かりな表情を見せた。
「そら、国立登《くにたちのぼる》先生の友人が、千歳《ちとせ》の原野で殺された事件があったでしょう。あのときの刑事さんだよ」
あの折は期せずして、荒尾は、邪馬台国《やまたいこく》の謎を解くという役を演じたのである。(前作『「新説邪馬台国の謎」殺人事件』講談社文庫・講談社電子文庫)
「あなた、講演を頼まれたのでしょう。断ればいいのに」
事実、妻のいう講演の依頼は、最近多くなっている。しかし、荒尾は大の講演嫌いである。
「いや、ちがうよ」
と、荒尾は答えた。「鬼が殺されたんだとさ」
「鬼って節分《せつぶん》のときの鬼?」
「ああ。節分の鬼かどうかはわからないが、とにかく刑事さんの話を聞いてみないことにはね」
ふたたび荒尾が書斎に戻り、北門《ほくもん》タイムス社が発行している月刊誌のエッセイを、仕上げたちょうどそのとき、
「あなた、お見えになりましたよ」
妻が呼びにくる。
荒尾の家は、特に応接間というもののない設計なので、居間の一角に座ってもらった。
酒田刑事は、
「その節はどうも……」
と、両手をテーブルにつき、肩の線を四角にして頭を下げた。頭には白いものが半分くらい混じっている。
「ま、どうぞ」
と、椅子を勧めた荒尾は、「前置きは抜きにして、いったいどういう事件なのですか」
と、煙草を口にしながら訊く。
「ええ、はい。その前に、あれからこういう部署に変わりまして」
と、名刺を出した。
荒尾は、手にとって眺める。掛けていた近視用の眼鏡を外したのは、早々と老眼になっているからである。
「千歳署から札幌に変わられたのですか」
荒尾は訊いた。
「はい。あれから私は、一応定年になりましたが、刑事部共助課というのが、日本の警察では各都道府県にありましてね、この春から移っております」
「ほう。道警本部にそんな課があるのですか」
荒尾にとっては、初耳であった。
「ま、遊軍的な部署でありまして、面倒な事件の手伝いをするのが仕事なのです。これも、荒尾先生のお蔭で、邪馬台国が絡んだ、先の『老画家殺害および死体遺棄事件』を解決した実績が、上司の目にとまったからでしょう」
と、酒田刑事はいった。
「いやいや、それは刑事さんの何十年という実績の賜物《たまもの》ですよ」
と、荒尾は答えたが、悪い気はしなかった。
「で、いったいどんな事件なのですか」
と、促す。
「一年も前のことなので、先生はお忘れかもしれませんが、十勝《とかち》の本別《ほんべつ》町でおこった殺人事件、実はあれなのですがね」
と、酒田刑事はいった。
「いいえ、知りません」
と、荒尾は答えた。「鬼が殺されたというのが、それなんですか」
「新聞にも出た事件でしたよ」
「そうでしたか?」
荒尾は首を捻《ひね》った。
「被害者の頭部に二本の角があったということは、被害者の人権侵害に関することなので伏せてありますが、事件そのものは北門タイムスにも載りました。しかし、詳しい報道は十勝版だけで、札幌版のほうは扱いも小さかったから気付かなかったのでしょう」
と、酒田刑事は、洋服の内ポケットから手帳を取り出して、老眼鏡をかけた。
荒尾も、妻にいって地図帖を持ってこさせ、ページを開いた。この時点ではまだ、本別町の場所さえ知らない荒尾であった……。
地図によると、本別という町は、帯広の北東約四十キロほどの場所であった。ワイン城で有名な池田町からなら、ふるさと銀河線に乗って北へ三十キロほどに位置している。
「ああ、この本別でしたか」
と、荒尾は思い出した。「昨年も、それから今年も、新聞や週刊誌などで大きく紹介されましたね。トウモロコシ畑の中に作られた巨大迷路の開催のことが」
「ええ、その三万坪巨大迷路の本別ですよ」
と、酒田刑事はうなずき、「実は、その迷路で起こった殺人事件が、どうもお宮《みや》入りの気配濃厚になりましてね、それで今日、こちらに伺った次第なのです」
「なるほど」
ようやく目が輝き、気が乗ってきた荒尾であった。
2
ひとまず、事件の概況を簡単にまとめてみよう。
トウモロコシ畑を切り開いて作られた、本別巨大迷路の一角から、被害者の死体が発見されたのは、昨年(昭和六十三年)の九月二十五日……すでに、八月十二日から二十日迄の日程で行なわれたこの行事が、終わった後だったという。なお、迷路は毎年、場所を変えて作られる。
発見者は、昨年度、この土地を提供した地主とその友人で、トウモロコシの刈り入れ作業中、生い茂った畑の中に倒れていた被害者を見付けたものらしい。
「被害者は、畑の中にうつぶせに倒れておりまして、その上に、トウモロコシの茎《くき》が被《かぶ》せられていたわけです。ま、そのため遺体の発見が遅れたわけでしょうが」
酒田刑事は、言葉をつづけて、「現場の情況からも、殺人事件であることはまちがいない。事実、被害者の後頭部は挫傷しており、これが死因でした。さらに、血液型の一致する血のついた凶器の石も、死体の側で見付かりました」
「その遺体に、角があったというのですね」
「はい」
刑事はうなずいて、「この前頭部の角は、頭蓋骨の一部がなんらかの原因で変形したものだそうですが、医学的にも非常に珍しい例だそうです」
と、いいながら、持参した写真を見せてくれた。
荒尾は、好奇心の塊になりながら、渡された写真を覗き込んだ。なるほど、その前頭部に、先の丸くなった二本の角が飛び出していた。角の形は瘤《こぶ》のようであり、決して鬼の面のように先の尖《とが》ったものではなかった。
「たしかにあるでしょう」
と、刑事はいった。
「ええ。伝説かと思っていたが、鬼族というのは存在していたのですなあ」
と、荒尾は、感心したようにつくづくと写真を眺めた。
顔を上げ、言葉をつづける。
「そら、大江山《おおえやま》の酒呑童子《しゆてんどうじ》とか、桃太郎の鬼ケ島征伐とかね、古来、わが国には鬼伝説は多いわけです」
「はあ、なるほど」
「しかし、果たしてほんとうに、鬼に角があるかどうかですがね、これは古代人の空想とばかり思っていましたよ。いや、だれだってそう思って当然でしょう」
「はい、先生のいわれるとおりです」
「が、こうして、額に角のある人が、実際、存在するとなるとね」
と、いって荒尾は口をつぐんだ。彼としては、正直なところをいえば、ちょっとしたショックだったわけである。
「刑事さん、わが国の鬼はですね、いや鬼思想とでも正確にはいうべきでしょうが、朝鮮半島から渡来したものでした。つまり、鬼という観念は、今でも朝鮮半島にはあるわけですが、これは悪霊ともいうべき観念でありましてね、姿かたちの見えない悪魔みたいな存在なわけですよ」
つまり、鬼神《きしん》思想である。古代、わが国でも、多分、この朝鮮半島から帰化人とともに入ってきた思想が定着して、信じられたのであろう。
「つまり、迷信みたいなもんですな」
と、酒田刑事はいった。
「そのとおりです。何か悪いことが起きると、古代人は、その原因を、目には見えない悪鬼の仕業だと考えたわけですよ。たとえば病気ですが、原因を現代人のように病原菌の感染などとは思わず、鬼のせいにしたのです」
この鬼神思想は、中国より朝鮮半島に入ったものだが、では中国発祥かというと必ずしもそうではないらしい。人類文明発祥地の一つ、メソポタミヤにも、ウル・シュメールの時代から鬼思想はあったようだ。
などと荒尾が説明する間、酒田刑事は、何度もうなずきながら耳を傾けていたが、
「しかしですね、実際にこのようにですよ、角のある人がいたとなると、今の先生のお話と、どう結び付くんでしょうか」
と、言葉を濁し気味にして訊いた。
「ええ。……実はね、それで私も戸惑っているところなのですが、中国には角のある人間も発見されているという話を聞いたことがありますよ」
「ほう」
「意外でしょうが、いつかそういう報道を、新聞で見たことがあります。記憶は定かではないが、発見されたのは四川《しせん》省でしたか。なにせ歴史は古く、国土も広い中国のことですからね、そういう角族《つのぞく》といいますか、鬼族が今なお、十億を越える人民の大海の中にいてもおかしくはない……」
現に、中国の古い文献には、角のある人ばかりの一族の住む村があった話が書かれているのだ。
荒尾は、ちょっと言葉をとぎらせ、
「で、その問題の死体は、死後どのくらい経過していたのですか」
と、訊いた。
「はい。司法解剖の結果は、三十五日前後です。しかし、八月二十日、この日は、巨大迷路開催の最終日ということになりますが、聞き込み捜査の結果、被害者を記憶していた者も数人おりました」
荒尾はうなずき、
「被害者の名前は?」
「名前はツヌガ・ハタヘイといいまして、六十歳のワインなどを輸入する商事会社の社長です」
「ほう」
荒尾の目は、そう聞いたとたん、きらっと光った。
彼は、話をつづけようとする酒田刑事を制して、
「刑事さん、ちょっと待ってください。どういう字を書くのですか」
と、訊いた。
「ええ。こうです」
と、いいながら刑事は、指でテーブル・クロスの上に字を書きながら教えた。
「双子の双にですな、動物の鹿と書いてツヌガと読ませるらしいのです」
つまり、双鹿秦平《つぬがはたへい》である。
「まちがいありませんね」
と、荒尾は、念を押した。
「ええ。珍しい名字でしょう」
と、酒田刑事は答えた。
「ええ、たしかに珍しい」
と、答えながら、荒尾の心はうわの空である。彼にしてみれば、このことだけでも、何か異常な背景がこの殺人事件の裏にありそうな気がしたからである。
その理由は、追い追い話の進展とともに明らかにされるだろうが……、
「どうぞ、先を」
荒尾はうながす。
「帯広の捜査本部で調べましたところ、このワイン業者は、八月十九日に帯広市内のホテルに泊まっていたそうです。ホテルの話では、札幌からレンタカーで来たらしく、ナンバーも札幌でした」
「被害者は札幌の人ですか」
「いいえ。住所は東京です」
「帯広には、いったい何をしにきたのですか。観光とか?」
「いえ、出張です。ま、観光を兼ねたともいえるでしょうがね」
と、酒田刑事は言葉をつづけた。「実は連れが一人おりましてな、会社の者が同行していたので、早速、事情聴取を行なったわけです」
被害者双鹿秦平の経営している会社は、双鹿ワイン商事という資本金三千万ほどの小さな会社で、輸入関係の仕事を主にしているらしい。が、扱い商品は、ワインだけではなく、最近では西洋|骨董《こつとう》や絵画などの美術品も多いそうだ。
「最近は美術ブームってやつでしょうか、会社の業績は上がっていたようですよ」
と、酒田刑事は話す。
「ああ、なるほど」
荒尾は、作家業のかたわら、美術運動の盛んな札幌で美術評論の仕事もしているので、納得がいったという顔をした。
日本が金持になったせいか、西洋骨董にしても、絵画の輸入にしても、この一、二年は急激な増加を見せ、かなりいい商売になっていることを知っていたからである。
「で、被害者が帯広へ来たのは、池田ワインで有名な池田町に、ワインの買い付けにきたのだそうですが、十九日の夜、宿泊先のホテルに女性が一人訪ねてきたといいます。これは従業員の証言ですが……」
「ほう」
「それで、被害者に同行した社員の証言では、翌二十日は予定通り車で池田町へ行き、帰りに本別の巨大迷路に寄って、被害者を降ろしたという話です。その時刻は、迷路の閉まる三十分前、つまり四時半ごろだったそうです」
「その社員は先に帰ったのですね」
と、荒尾は念を入れて訊く。
「ええ。石倉数也《いしくらかずや》といいましてね、年齢は二十六歳です。四年ほど前に被害者の会社に入ったそうですが、同僚の話でははなはだ真面目な青年だということです。今度の出張には、車の運転手の役目で付いてきたそうですが、予定が社長の一存で変更になったらしい」
「ほう」
荒尾は刑事を見て、「と、いいますと?」
「予定では、二十日のうちに、また車で札幌に引き返し、翌日の便で帰京することになっていたそうです」
「で、社長だけを置いて、彼だけが帰ったわけですな」
荒尾は考える目をして、「しかし、一応、その社員は容疑者リストに入れたのでしょうね」
「むろん、捜査の常道で、最初はそういうことでありましたが、すぐに外されました。彼には、ちゃんとしたアリバイがありましたから」
と、刑事は教えた。
というのは、石倉数也は、巨大迷路から本別の市街地に戻る途中、運転を誤り道路の外へ飛び出して、畑に突っこむという事故を起こしたからだそうだ。
「ま、道がいいのでスピードを出しすぎたのでしょうが、すぐに通り掛かった町の人が見付け、彼を病院へ送り届けたそうです。たいした怪我《けが》ではなかったのですが、警察に調べられるやら、レンタカー会社の者が帯広から来るやらで、ずうっと一人ではなかったことが証明されたのですな」
なお、彼は、病院からタクシーで帯広駅へ向かい、午後七時三〇分発の急行で札幌に戻ったという。
「なるほど」
と、荒尾はうなずき、「すると、被害者が予定を変えて、巨大迷路へ寄ったのは、ただ見物のためだったのですか」
「いや、石倉数也の話では、どうもだれかに会うためだったという。社長はそれには何も触れなかったそうですが、そんな気がしたそうです。彼によると、この日は朝から双鹿社長は、妙にふさぎこんでいたというのです」
「となると、前夜、帯広のホテルを訪れた女性が原因ということになりますか」
「多分、そうでしょう。ですから、捜査本部でもこの女性を急いで探した次第です」
「見付かったのですか」
「いいえ。まだです」
と、刑事は首を振り、「ただ、年恰好はわかっています。被害者とその女性は、ホテルの喫茶室で二時間ほど話していたそうです」
「その謎の女が手掛かりですね」
と、荒尾はうなずく。
「はい。二十七、八歳の女性でしてな、ま、俗にいう垢《あか》抜けした美人だったそうですよ」
「手掛かりはそれだけですか」
と、荒尾は訊く。「名前は、むろん、わかっていないのでしょうな」
「はい、名前は不明です。ただ、喫茶室の従業員《ウエイター》が二人を見ていたのですが、親しそうじゃなかったようですよ。むしろ、深刻な感じだったと証言しております。話の内容は、むろん聞こえるはずはないが、ただ、水を替えに行ったとき、小耳にはさんだ二人の会話がちょっと変わっていたので、記憶していたというのです。実は、それで、今日、先生のところへ伺ったわけでして」
「ほう。といいますと?」
荒尾は、ふたたび、目を光らせた。
「ええ、先生ならむろん、モーゼという人物の名前はご存じでしょうな」
「モーゼというと旧約聖書のモーゼのことですか」
ふたたび荒尾は、意外さを覚えた。
「そのとおり。モーゼというのは聖人だそうですが」
「刑事さん、すると、くだんの二人は、そのときホテルの喫茶室でモーゼの話をしていたというのですか」
「はい。それで、われわれ警察でも、あまりまともとはいえない、この事件に、手こずっておるわけでして」
「……でしょうなあ」
と、荒尾はいった。
角のある人間が、殺される前日、美しい女とモーゼの話をしていたというのだ。
(なるほどまともな事件ではなさそうだ)
と、荒尾は思った。
3
さて、本捜査は、捜査の常道に従い、被害者の会社関係、交友、家族、女性関係をくまなく洗うことから始められたという。
なお、家族は、妻と一人息子がいるそうだが、この二人はまったく心当たりがないと証言したそうだ。
会社のほうも順調で、取引関係などからも容疑者は出てこなかった。
そういう次第で、手掛かりがまったくなく、捜査は壁に衝《つ》き当たっているのが今の情況だという。
「つまり、頭に角のあるのは異常としても、双鹿秦平氏ご自身は、まともな生活をしていた人だったわけですね」
と、訊く荒尾。
「はい。捜査本部では、あるいは暴力団に関係はないかと考えたようですが、これは真っ白でした。被害者は輸入業者ですからね、ひょっとすると麻薬の密輸とか、何か出ないかと一応洗ってみたんでしょうな」
「前科は、なしですな」
と、念のため荒尾は訊いた。
「ええ。被害者は善良な市民というわけです。ただですね、強《し》いていえば、女性関係ですが、これは割りと派手だったようですな。そう、被害者の妻も認めております。しかし、問題を起こすような遊びかたはしていなかったようです」
「不動産の地上げに絡んだ事件とは考えられませんか。最近は、多いそうですが」
「むろん、その線も念入りに調べましたが何もなしです。それで、結局、捜査がいきづまり、私どもの共助課に回ってきたもんでしょう。で、私が課長に命ぜられ、初仕事という次第で、捜査資料を丹念に読んでいるうちに、このホテル従業員の証言がですな、私としましては、唯一、気になったという次第でありまして」
と、酒田刑事は話す。
いわゆる常道の捜査については、帯広署に任せるとして、遊軍的に酒田刑事は、この本別の巨大迷路で起こった事件を、別の観点から考えてみようとしているらしい。
「困ったことに、現場には、犯人を特定するような手掛かりは何もないのですよ。足跡とか指紋とか、あるいは煙草の吸い殻とか、ま、いろいろと遺留品がありそうなものですが、まったくそれがない。実は、遺体発見のとき、現場は、トウモロコシの刈り入れ作業中であったため、農機具が入っていたのです。ですから、すっかり現場が荒らされていたわけです。日本の警察は、証拠主義ですからね、こういうケースには弱いのですな。ま、ここだけの話、打ち明けますと、この奇怪な事件は、われわれ警察官の頭脳では処理しきれない異常さがあるわけですよ」
「わかりました。そういうことであれば、私も及ばずながら協力させていただきましょう」
と、荒尾は改まった口調になり、「みなさんとはちょっと物の考えかたのちがっているらしい私の頭脳が、もしお役にたてるのであれば、それにこしたことはありません。きちんと、協力いたしますよ」
「いや、ありがたいことです」
いかついベテラン刑事の外貌に似合わず、酒田刑事は如才がない。
「では、もう一度、そのホテル従業員の証言を話していただけませんか」
と、荒尾は訊く。
「はい」
と、酒田刑事はうなずき、「彼によると、その謎の女性は、『あたくし、とうとうモーゼの井戸を見付けましたわ。これがその写真ですけど』といってハンドバッグからカラーの写真を取り出して見せたというのです。すると被害者は、さっと顔色を変えた、と調書にはあります」
「それだけですね」
と、荒尾は念を押す。
「はい。それだけです。ま、私も、モーゼの井戸なんて代物《しろもの》は初めて耳にしますし、帯広署でも、なんのことかだれもわからず、そのままになってしまったわけでしょうな」
荒尾は考え込んだ。
「先生ならご存じかもしれないと思って伺ったわけですが」
「いいえ。私も初耳です。ただね。わが国にモーゼの墓と称するものがあるって話は、聞いたことかありますけどねえ」
「えッ! そんなものがあるのですか。ほう、墓がねえ」
酒田刑事は、驚きをあらわにした。
「らしいですね」
と、荒尾は目を笑わせ、「むろん、本物かどうかは論外の話でしょうが、あることはある」
「日本のどこにあるのですか」
「いや、私も不勉強でどこにあるのかは知りませんがねえ、なにしろイエス・キリストの墓というものすらあるわけですから、モーゼの墓があってもおかしくはないと思いますよ」
また、酒田刑事は目を丸くして、
「イエス・キリストの墓もあるのですか」
「ありますよ。東北の十和田湖の近くにあります。新郷《しんごう》村というのがその場所ですが、行ってみると、ちゃんとキリストの里にようこそ≠ニいう看板まで立っていますよ」
「ほう、ほう」
「この村は、昔は戸来《へらい》村といったそうです。つまり、ヘライはヘブライの訛《なま》ったものだというわけでして、この話は、結構、世間にも知られておりますけどね」
「なるほど」
というわけで、話が弾《はず》んだ。
理詰めの職業にかかわらず、どうも酒田刑事は、好奇心旺盛のようだ。これも、先の邪馬台国事件≠ェきっかけになったのであろうか。
やがて、
「ま、今はちょっと仕事が詰まっているのですぐというわけにはいきませんが、わかりました、刑事さん、私なりに調べておきます」
と、荒尾はいった。
第二章 現場検証
1
荒尾十郎が、この迷宮事件に取り組んだのは、長編の仕事が脱稿した九月の初めであった。
本別の町役場に電話を掛けてみると、今年も、巨大トウモロコシ迷路は実施したという。期間は、先月二十日に終わっているが、まだ迷路は残っており、見ることはできるそうだ。
荒尾は、早速、出掛けて見ようと思った。
電話を北門タイムス社へ掛け直す。岩都桂介《いわとけいすけ》は、社にいた。彼の部は特企部(特別企画部)といって、読者を喜ばせる読み物風の記事を書くのが仕事である。
荒尾は事情を話し、
「会えませんか」
と、訊ねると、返事はOK。
一時間後の約束で、ロックフォールというコーヒー専門店で会うことにした。札幌名物、時計台のすぐ近くである。
着いたのは荒尾が先だった。カウンターの席に着いた彼は、お気に入りの小さめのカップを選び、砂糖抜きのコーヒーをすする。
カップは、多分、一万円近くはするであろうアウガルテンだ。すなわちウィーン宮廷文化の薫《かお》る美しき名品というのが宣伝文句。
余談になるが、地方都市ならではのゆとりではないか。というのは、土地の値段が馬鹿高くなった東京では、当然テナント料も上がり、従って一杯四百円のコーヒーだけを出す専門店の商売は、なり立たなくなったとよく訊くからだ。
とにかくうまい。コーヒーだけで勝負しているからであろう。荒尾なりに、コーヒーは専門店に限るとこだわる理由は、店に立ちこめるコーヒーの哲学的な香りなのである。そこにピザとスパゲッティとか、油の臭いが立ちこめると、コーヒーの思索的な香りはだいなしになる。
岩都桂介の現れるまでの間、いい男の部類に入るマスターと雑談をする。
話のついでに、アウガルテンのカップの縁についている金色の彩色について訊ねると、
「いや、金泥じゃなくて、金箔を貼って焼き付けているんじゃないでしょうか」
と、マスターは教えた。
「へえ、なるほどねえ」
何にでも興味を示す荒尾であった。
「金箔は、伊万里《いまり》とか九谷《くたに》で行なわれた技術ですから、日本が先でないでしょうか」
「へえ。日本人が教えた技術もあるわけか」
「エミール・ガレはご存じでしょうね」
「ガラス器のガレのことですか」
「物の本によると、一九〇〇年のパリ万国博にガレは三百点とかの新作を出品したそうですが、その中に日本の金沢に特注した金箔を使った作品があったそうですよ」
「ほう」
「古くからあるフランスの当時の工場で作られた金箔は、薄くってだめだったそうです。せっかくカットした形が崩れてしまう。そこでガレは、特別に厚い金箔を金沢に注文したっていうことですよ」
と、マスターはさすがだ。学のあるところを披瀝《ひれき》する。
なるほど、金沢は九谷焼で有名だ。それで金沢の金箔工場に、エミール・ガレは、目をつけたものか。ガレは、九谷の美しさをガラス器にも出せないかと考えたらしい。苦心の末、この金沢の厚い金箔をガラスとガラスの間にはさんで焼く技法を発見したという。
むろん、このときの話が、後で、事件解決のヒントの一つになるとは、荒尾はまだ気付きもしなかったのだ。
2
やがて、岩都が来た。
「出発はこの週末でしたね」
「ええ、そのつもり」
「部長の許可を貰いましたので、ぼくも本別へ同行しましょう」
と、彼はいった。「帯広支社からも支社長が来てくれるそうです」
「それは心強い」
「実はね、本別には源義経《みなもとのよしつね》の史跡もあるんですよ。これを観光資源にしようというので、町をあげて整備しているそうです」
「十勝平野のど真ん中にも義経が蝦夷《えぞ》に渡ったという伝説があるのですか。ちょっとミス・マッチって感じがするけど、おもしろいですねえ」
と、荒尾は目を見張る。「日高《ひだか》の平取《ひらとり》町にある義経神社は有名ですが、本別にもあったんですか」
「ええ、あるんですよ。荒尾さんなら小谷部全一郎《おやべぜんいちろう》の『成吉思汗《ジンギスカン》ハ源義経也』って本は、むろんご存じですよね」
「むろん知ってます。有名な高木彬光《たかぎあきみつ》氏の『成吉思汗の秘密』の種本になったやつだね」
「この本の口絵写真を見るとですね、ちゃんと義経は、津軽半島から津軽海峡を太平洋へ抜け、地球岬を回って平取に近い日高海岸に上陸、十勝平野を横断北上してサハリンへ渡るコースが想定されている。さらにまた、間宮海峡を越えて、黒竜江をさかのぼり、旧満州に至って成吉思汗になったという地図が載っているんですよ」
などと話す。
この小谷部全一郎という人は、アメリカの大学で博士号をとったほどの秀才で、帰朝後は一時期北海道に渡り、アイヌ民族とともに生活した経歴もある当時の進歩的文化人であったようだ。著書は大正年間に発行され洛陽の紙価を高からしめたといわれるが、当時の中央学界が猛然と反対したことはいうまでもない。が、これは直接関係ない別の話なので省くことにしたい。
――彼らは、その週末、土日二日間の日程で札幌を出発した。車は岩都が運転した。
北海道とひと口にいっても非常に広いから、かなり飛ばしても、本別まで六時間はかかる。札幌からの道は、富川《とみかわ》・平取経由もあるが、彼らのコースは、三川《みかわ》国道(二七四号線)を使い、穂別経由で日勝《につしよう》峠を目差した。
日高国道(二三七号線)は、峠の登りに入ると、俄然、混んでくる。前を行く大型トラックの排気ガスがたちこめる。
「関所みたいなもんだね」
荒尾はいった。「北海道は、この日高山脈が真ん中を走っているために、完全に西と東に分断されているのです」
「早くトンネルを作るべきですね」
と、いらいらしている岩都もいった。
日高山脈を越えるルートは、南端の襟裳《えりも》の黄金道路、この日勝峠、狩勝《かりかち》峠、石北《せきほく》峠など数えるほどしかない。従って、どうしても車が峠に集中して渋滞するわけである。
峠を越えて、しばらく十勝側に降りたところで昼になった。ドライブインで食事をする。眺望は素晴しい。大十勝が秋晴れの下に見渡す限り広がっていた。
「十勝は、別の北海道だね」
と、ラーメンをすすりながら荒尾はいった。「もう一つの北海道、いや本物の北海道というべきだな。こうして日高を越えてはるばる来てみないと、真の北海道はわからないねえ」
荒尾は、そういって日勝峠の景観を誉《ほ》めたたえたが、これは正直な実感であった。
その実感は峠を降り、峠下の清水から間道を抜けるようにして、本別を目差しはじめると、ますます強くなった。荒尾自身、もう半世紀近く札幌に住んでいるが、このまさに十勝的な田園地帯を走るのは初めてである。
鹿追《しかおい》から先は立派な農道がついていた。農道といっても国道並だ。まっすぐの一本道。どこまでも直線道路である。豆やビート、馬鈴薯《ばれいしよ》などの畑が緩やかな起伏の中につづいている。もちろん、牛が草を食《は》む牧場もある。から松の防風林が風景の中に直線の構図を作っていた。アクセントは、ところどころに立つ、赤や緑のとんがり帽子のサイロである。
空は抜けるように広かった。十勝の空は日本のどこよりも大きいにちがいない。
「空が広いとUFOも見やすくなるね」
荒尾は冗談をいった。
「たしかにUFOの出そうな空だなあ」
岩都も応じた。「そういえば、北陸では最近、盛んに出ているそうですね。アマチュア・カメラマンの撮影したUFOのビデオを、あちらの放送局では放映しているそうですよ」
「背後が山で、前面が海の場所は、どうも日本のケースでは、多いようだね」
気分は上々だ。往きかう車もない農道を制限速度を遥かに越えて、士幌《しほろ》へ向かって走る。
振り向くと、日高山脈は青く、それはそそりたつ障壁のようであった。
午後三時、予定どおり本別に着く。ここは人口一万二千人ほどの農業と酪農の町で、以前はポンベツというアイヌ地名だったそうだ。人口の割りに、町は本別川をはさんで広々としており、いかにも豊かそうだというのが、荒尾の第一印象。また、この町には温泉もあり、本別グランド・ホテルというのだが、そこに泊まることにした。
ホテルに着き、早速、ちょっと肌にぬるっとする温泉に浸かり、部屋で一服していると、帯広支社の人が現れた。
名刺を出し、
「林といいます。岩都君の連絡では、昨年の殺人事件で来られたそうですね」
と、荒尾にいった。
「ええ」
と、荒尾は、酒田刑事の名を出して、それとなく事情を話し、
「早速ですが、第一発見者に会わせていただけますか」
「まもなくここに来るはずです」
と、林支社長はいった。
部屋で雑談していると、その青年が現れた。
名刺をくれる。荒尾は、名刺の代わりにサインした自著を進呈する。
貰った名刺を見ると、
ほんべつ一歩会会長 前田芳雄
と、あった。
「農家ですか」
と、訊くと、
「そうです」
日焼けした青年はうなずいた。
「こちらは、一戸当たり三十町歩が普通だそうですね」
と、荒尾は訊いた。
「ええ。十勝には百町歩の農家もありますよ」
と、教えた。
「ところで、畑から死体が出てきたときは驚いたでしょう」
と、荒尾はいった。
「それは驚きました。腰を抜かすほどでしたよ。それで、早速一一〇番したわけですが」
「角があったそうですね、遺体には」
「ええ。宇宙人じゃないかって、最初は冗談をいったりしたのですが、ひょっとするとほんとに宇宙人じゃないかって思えてきて、ガタガタ足が震えたほどでした」
「なるほど。じゃ、鬼とは思わず、宇宙人と思ったわけですか」
「そうですよ。あれはアンテナにも見えましたからね」
「なるほど。まさか、このへんにUFOが……」
「ええ。私は見たことはありませんが、見たという人も大勢いますよ」
「じゃ、無理もない」
と、荒尾は笑った。「いやね、ぼくの知り合いの版画家で、この本別に終戦後、疎開していた人のことを思い出しましてね、彼も子供のころこの町でUFOを見た経験があるって話していた」
俄然、話題が変なほうへ行ったので、岩都がさえぎるように、
「これから、現場をみれますか」
と、訊く。
「去年の迷路なら、今年は、ビートを植えておりますけど……」
と、答えた。
トウモロコシ巨大迷路のアイデアを思い付き、即実行して、全国的に本別の名を有名にしたのは、一歩会の人たちだが、迷路は毎年会員の畑を持ち回りで行う。
「去年は一歩会会員の井端利三郎《いのはたりさぶろう》さんの畑で開催しました」
「開催地を一個所にしたほうが、継続事業としてはいいのではないかと思いますがね」
と、荒尾はいった。
「ええ、みなさんにそういわれますが、これには理由があるのです。迷路に植えるのは、飼料用のデントコーンでしてね、戦後食べ物のない時代は人も食べましたがね、今はあまり市場価値がありません」
と、前田氏は教えた。
言葉をつづけて、「今ではデントコーンは土壌改良の目的で植えられるのです」
「ほう」
農業の知識に疎《うと》い荒尾には目新しい話で興味深かった。
デントコーンは、百日で二メートルにも育つ強い成長力を持つ。当然、根が深く土中に伸び、土の深い養分を吸い上げる。それが太い茎に溜まる。この特性を利用して、ときどきデントコーンを植えて、それもまた土に敷きこんでやる。これを緑肥というのだそうだ。
「なるほど」
荒尾は納得した。「土壌改良と迷路遊びを組み合わせたアイデアですか」
なかなか優れた着想と思ったので、荒尾は、大いに誉める。
「早速ですが、迷路へ行ってみませんか」
と、前田氏は誘う。
「ええ、ぜひ」
百聞は一見にしかずという。
3
今年の迷路は、美里別《びりべつ》拓農というところで行なわれた。もう期間は終わったが、刈り入れの前なので迷路は残っているそうだ。
前田氏によれば、カカシ・コンテストやコンサート、ジャンボ義経鍋、熱気球試乗会などのイベントも行なわれ、大盛会だったそうである。
「去年の一万四千人から、今年は二万一千人に急増したのは、ふるさと銀河線の影響もあるでしょうね。駅から会場までバスを出したのです」
十分ほど走り会場に着く。
すでに取り壊されたが、鉄パイプの観望台も設置されていたそうだ。横二百メートル・縦五百メートル、約三万坪の畑に青々とデントコーンがおい茂っていた。
迷路は、杭《くい》を立て刈り取って作るそうだ。機械で刈り取るせいか幅三メートル以上もある。しかし、二メートル以上に成育したデントコーンは、株間が三、四十センチのために視覚の壁を作っていた。
「上から見ると簡単そうですが、迷路の設計者自身が迷ってしまうくらい難しいですよ」
前田氏は先頭に立ったが、実際、迷ってしまう。
「ところどころにチェック・ポイントを作りまして、タイム・レースを、今年は行ないました」 三十分以上かかって、ようやく迷路を抜け出す。
「いやはや疲れました」
と、荒尾はいった。「これでは、出てこれない人もいるんじゃないですか」
「そういう人のために、大迷路の回りにはギブ・アップ用の道を作ってあります」
と、前田氏は教えた。
「それでは、昨年の場所へ案内してくれませんか」
「わかりました。ついて来てください」
車で後をついていく。ほど近い場所であった。
「これが去年の迷路です」
と、いって、林支社長は、車の中で航空写真を、荒尾に渡した。
緑の迷路の中に、巨大メイロ≠ニいう文字が浮かび上がっていた。
「この写真では、ロ≠フ右上に行き止まりの道があるでしょう。遺体は、その奥に引きずりこまれていたのです」
すでにこの迷路はなくなっているので想像するほかないが、犯人は被害者をここへ誘って、背後から石塊で後頭部を一撃したのだろうか。不意を衝かれて倒れたところを、素早く密生したトウモロコシ畑の中に引きずり込んだものか。
一行は、ビート畑に変わったその地点に立った。
「うちに来た刑事さんの話では、遺留品はなかったそうですね」
と、荒尾はいった。
「まさかそんなものがあるとは思わなかったですから、機械を入れたために、足跡なんかも消してしまったのです」
前田氏はいった。彼は、たまたま、この刈り入れの日に畑の所有者井端氏の家に来ており、偶然、彼と共に第一発見者になったということである。
「何かそのとき気付いたことは?」
と、荒尾は訊いた。「どんなことでもかまいませんが」
「そうですねえ。覚えていることは、何度も警察の人に話しましたよ」
つまり、新たな手掛かりなしということである。
現場を見おわってから、オレンジ色の屋根の家に行った。ここが、井端氏の家であった。家の中に招き入れられ、ビールとジュースの接待を受ける。
井端氏にもいろいろ訊ねたが、やはり、新たな手掛かりなしである。
「最終日なので、われわれ一歩会の役員は、入口の広場にいて、忙しかったですからなあ」
特に、不審な者には気付かなかったそうだ。
「最終日も千人以上は入りましたが、夕方になると、さすがに迷路の中はすいておりましたね。入口の広場は、催しがあってごった返しておりましたが」
「被害者は、四時半に着き、そのまま迷路に入った。そして、だれかと中で会うつもりだった。が、待ち伏せされて殺害されたのでしょうね」
と、荒尾はいった。
だが、それ以上のことは、まるでわからない。第一、犯罪捜査が専門の捜査当局が、一年かかっても解明できない難事件なのだ。
荒尾は、念のため、目撃者のことも訊ねてみた。
「われわれ二人は気付きませんでしたが、受付にいた一歩会のメンバーが、覚えていたのです」
と、井端氏は教えた。
「殺された人は帽子を被っておりましたが、風が吹いて帽子が飛んだんだそうです。それでね、額の角《つの》に気付いた。彼はそれを瘤《こぶ》と思ったそうですが、それで、はっきり記憶していたそうですよ」
と、前田氏もいった。
目撃者は他にもいたそうである。女子高生の数人連れは、迷路の中で道に迷っている被害者に会い、やはり彼の角に気付いて大騒ぎしたという。
「岩都さんはどう思います?」
と、荒尾は訊いた。
「双鹿秦平氏は、結局、大迷路からは出られずに、冥途《めいど》行きの道へ迷い込んだということになりますか」
と、彼は答えた。
「冥途行きの道とはうまいことをいう」
と、荒尾は笑った。「が、岩都さん、となると待伏せていた地獄の鬼が問題になりますが、だれも不審な者を見掛けていないのですな」
「何しろ、三万坪もあるわけですからねえ」
井端氏がいった。
「ええ。たしかに広い……」
しかし、荒尾としては、これがちょっと気になるところだ。考えこんでいると、
「どうしました?」
と、林氏が訊いた。
「いやね、仮にですよ。犯人の立場で考えると、彼が双鹿氏と一緒にいるところを、第三者に目撃される可能性は少なからずあったわけでしょう。犯人にしてみれば、それでは困るわけで、そのへんをどう考えていたのかと思いましてね」
「きっと犯人は変装していたんですよ」
と、岩都は事もなげにいった。
「ああ、その可能性はあるね」
やがて席を立つ。家の外は広場である。傍らに農機具を入れた牧舎があった。牛の鳴き声がしたので、何気なく覗く。そのときふと、足元を荒尾はみた。ダンボールの中にがらくたが入っていた。
「これは?」
と、訊くと、
「ああ、それは落とし物ですよ」
「去年の迷路のときの?」
「そうです。一応、保管しておいたのですが、たいした物ではないし、落とし主も現れないので、捨てようかと思っておったところです」
「これを捜査の人は見たのですか」
「むろんです」
と、井端氏はうなずいた。
「見ていいですか」
「どうぞ」
中を覗く。ハンカチとか百円ライターとか、子供のおもちゃとかそんなものだ。ありふれたものばかりであった。
が、荒尾は、気付いた。第六感というやつか。
「これは?」
と、いいながらつまみあげたのは、留め金が壊れてなくなっている、泥まみれのブローチだった。
「安物だね。多分、ピューターでしょう。肖像のデザインは珍しいね」
「ああ、それは今年、畑を起こしたとき見付けて拾ったものですよ」
と、井端氏が教えた。
「場所は?」
「ええ、そう」
ちょっと考える顔に変わり、「そういえば、死体のあった場所だったなあ」
荒尾は、指でこすり、泥を落とした。しかし、期待していたようなイニシァルはなかった。その代わり、小さく文字が刻んである。
「読めますか」
と、岩都に渡す。
「拡大鏡がないとちょっと。メイド・イン・ジャパンでないことは確かですね」
「というと?」
「フランス語のような気がしますけど」
「これ、預かっていいですか」
荒尾は、井端氏にいった。
「ええ、どうぞ。手掛かりですか」
井端氏が訊いた。
「いや、ひょっとしたら犯人が落としたものかもしれないというだけでね」
と、答えながら荒尾は、その壊れたブローチをポケットに落とし込んだ。
帰途、被害者の会社の社員、石倉数也が、事故を起こしたという場所に連れて行って貰った。
道は幅六メートルの立派な舗装路であった。事故地点は緩《ゆる》いカーブになっていた。免許取り立ての初心者は、よくこういう場所で事故を起こす。急カーブであれば、用心してスピードを落とすが、緩いカーブは安心して飛ばし、車が遠心力の作用で外へ膨《ふく》らむことを忘れるのだ。
「よく、事故を起こすところですか」
と、前田氏に訊く。
「いいえ。見通しもいいですしねえ」
が、被害者を送り届けたあと、石倉数也は、道路の外へ車を飛び出させるというヘマをやったのである。
ホテルへ戻る間、荒尾は黙りこくった。
4
翌朝は早起きして、弁慶《べんけい》洞、義経のつまずき石なるものを見た。本別には義経山という山もあるそうだ。
が、二人は、見学はそこそこにして、帯広へ向かって走る。
車は、小一時間で、十勝シティ・ホテルに着く。ここが、被害者の双鹿秦平《つぬがはたへい》氏が泊まったホテルである。
昨日会った林支社長が、先に来て待っていた。北門タイムス社の支社長だけあって、顔の通りはいいようである。おかげで荒尾十郎は、支障なく従業員と会って話を訊くことができた。
従業員は、田川というネームを胸につけていた。彼が、昨年八月十九日の夜に、ここで被害者と謎の女の会話を小耳にはさんだ従業員である。
「……田川さん、あなたは、たしかに、モーゼの井戸の話を耳にしたのですね」
と、荒尾は、まず訊ねた。「一年になるのにまだ未解決の殺人事件でしてね、あなたの証言は極めて重要だと思っています」
「ええ。まちがいありません。気になったものですから、はっきり記憶していたのです」
「どうして、モーゼと聞いて、あなたは気になったのですか」
「実は、ぼくはUFOに興味があって、その方面の本を集めているのです」
と、田川という若い従業員は話した。
「ああ、なるほど」
荒尾は納得した。「モーゼが宇宙人だって説は、あの類《たぐ》いの本には、よく書かれておりますからね」
「イエス・キリストもそうだっていいますが」
「ははッ、仏陀もね……」
荒尾は笑った。
「どうなんでしょうか」
「さあね」
と、荒尾は首を横に振った。
この種の本は割りと流行っているが、彼もファンの一人なのであろう。
荒尾は、また質問した。
「被害者の双鹿秦平氏は、頭に角のある人物だったそうですが、それは気付きましたか?」
「いいえ。全然。帽子をかぶっておりましたから。後で刑事さんにそのことを訊かれて、ぼくもびっくりしたのですが」
と、彼は答え、「お客さん、それにしても、モーゼの井戸というのは何なんでしょうね」
「さあね。私にもわかりませんが、聖人が地面に杖を立てたらそこから井戸水が噴き出したって話は、よくありますよ」
「はあ……」
「弘法大師もですよ。同じ類いの話は全国にあります」
と、荒尾は答え、「ま、モーゼといえば、旧約聖書に出てくる預言者です。彼は、神の啓示を受け、エジプトの圧政下で苦しんでいたイスラエル人たちを率いて、エジプトから脱出する……。彼はまた、十戒を作った宗教的指導者でもあった」
言葉をつづけ、「また彼は、か弱き同胞のヘブル人をいじめたエジプト人に憤慨して、その男を殺してしまったほどの義侠心の持ち主でした。この逃亡時代に、ほうぼうを流浪していたでしょうから、きっと各地にモーゼ伝説が生まれたんじゃないでしょうか。ま、井戸もね、その一つで、きっとそういう言い伝えが、日本のどこかにあるのかもしれないね」
「はあ……」
田川は、目を大きくあけ、荒尾の話に耳を傾ける。熱心に聴いてくれるものだから、荒尾はつい調子に乗って、つづける。
「それから、モーゼの出生もです、謎めいているね。これはイエス・キリストに似ているところがありますよ」
ヘブル人の強大になることを恐れたエジプトのパロ王(多分、セチ一世)が、ヘブル人の男児を皆殺しにせよと命令を出す。モーゼの賢明な母と姉は、赤ん坊の彼を籠《かご》に入れて、ナイルの葦《あし》の茂みに隠す。これをパロ王の王女が見付けて、彼を育ててくれるのだ。
などと、荒尾が話すうちに、
「ああ、お客さん。……そういえば」
と、何か思い出したらしい顔付きに、相手は変わる。
「どうしました?」
荒尾は、相手の顔を見た。
「今の話で思い出しましたが、そんなような話をあの二人はしておりましたよ、たしかに。いや、一年も前だから、自信はないけど」
「どうぞ話してください」
「はい。たしか女の人が、『父が、あたしたちきょうだいを養子に出したのは、あなたのせいよ』って怒っていたっけ」
「ほう。……それで」
「ええ」
考える目をして、「モーゼの井戸のことを訊く前か後かはわかりませんが、コーヒーのお代わりを訊ねたときでしたか、『あなたは、あたしたちを殺すつもりだったんでしょ』とたしか。で、男のお客さんのほうは、『いや、そんなことはない』と……。すると、『いいえ、あなたはモーゼじゃない。パロ王だわ』と。今ね、あなたが、パロ王のことを話されたので、思い出しました」
「ほう。そんな話を……」
荒尾の目が光った。
この証言、今のところはまだ、犯人逮捕の手掛かりになるかどうかはわからないが、一応、大きなヒントである。
「すみません。警察の人に訊かれたときは、ぜんぜん思い出せなくって」
と、田川は謝った。
「いやいや」
と、荒尾はいった。「遺体発見は九月二十五日。被害者がここに泊まったのは、八月十九日ですからね。ひと月以上前のことを思い出せっていったって、そりゃ、無理ですよ。あなたが、モーゼの井戸のことを覚えていただけでも大手柄だったって私は思いますよ」
「しかし、ひと月後に思い出せなくて、一年も経ってから思い出すなんてこともあるんですね。ま、これでお役にたてましたか。犯人がまだ見付かっていないと聞いていたので、気になっていたんです」
「むろんです」
「けどねえ、ひょっとした拍子で思い出すこともあるんですね」
と、田川という従業員は言葉を重ねる。ちょっと気になる眼である。
「人の記憶というのは、えてしてそういうものなのです。記憶というのは心理学の論理ではゲシュタルト化しておりましてね、連想というか、なにが類似の話とか形とか色、匂いなどでね、ひょいと昔の記憶が蘇るものなんです」
と、荒尾は説明し、「田川さん、また、何か思い出しましたら、ここにいる林さんに連絡してください」
と、頼む。
「よろしく」
と、いって、林支社長は社の名刺を渡す。
「ああ、そうだ」
荒尾は思い出したように、ポケットを探り、
「これ見覚えありませんか」
と、田川の前に、例のブローチを示した。
「いいえ」
首を傾げる。
「ひょっとしたら、これを、問題の女性が身につけていたかどうか、覚えているかもしれないと思いましてね」
「いや、気付きませんでした。すみません」
「いや、謝らなくっていいですよ。それでは……」
と、ホテルを出ようとすると、
「あッ! ちょっと待ってください」
と、彼が玄関ホールまで追い掛けてきた。
「何か?」
「ブローチのことは知りませんが、あの女性、上から例のお客さんが降りてくる間に、電話をどこかにかけたのです。そのとき、ノートを持って席を離れたのですが、電話の後、席に戻るときボールペンを落としたのです。ぼくが気付き、拾って席へ届けたのですがねえ」
「ほう」
荒尾は、彼の言葉を待つ。
「そのボールペンですが、楽譜みたいなものが模様になってたように思いますけど。こんなことでもお役にたてましたか」
「ええ。ありがとう」
とにかく今の荒尾としては、なんでも貴重な情報なのである。
5
夕方には札幌に戻りたいので、すぐに帯広を出発した。道は来たときと同じコースである。
道々、荒尾は、自分の推理を岩都に語る。彼とはこの春、一緒に九州へ行き、見事あの『「新説邪馬台国の謎」殺人事件』を解決した間柄である。
「やはり、来てみるといろいろわかるものですな」
と、荒尾は機嫌がよかった。
「やはり、謎の美人が犯人ですか」
と、岩都はいった。「さっきの従業員の話で、少なくとも動機は怨恨がらみだとわかりましたからね」
「断定はいけないが、少なくとも一歩は前進したと私も思うね」
「被害者の過去に、何かあったということになりませんか」
「つまり、この事件の場合、事件解決の手掛かりは、被害者自身にあることになりますかな」
と、荒尾は答えた。
「ブローチは証拠になりそうですか」
「さあね。だといいですが、帰ったらよく調べてみますか」
「帰りしなのあの従業員の話は、どう思います」
「楽譜のデザインがあるボールペンの話?」
「そうです」
「最近は、いろんな、たとえば、おもしろグッズなんかもありますからね」
と、荒尾は答えた。
午後七時、彼らは、日の暮れた札幌に戻る。
翌日、早速、酒田刑事に連絡して、ロックフォールで会った。一部始終を話すと、
「なるほど。いや、それは大変参考になりました」
と、酒田刑事は喜んだ。
「これがそのブローチですが、鑑識にお願いできますか」
「むろんです」
「どうもフランスのもののようですが、古いものらしく文字が読めないのです」
「わかりました。何と書いてあるか、わかったらすぐお知らせします」
「それから、楽譜の模様のあるボールペンですがね、そんなものが売られているかどうかも頼みます。いずれも、曖昧な手掛かりでね、犯人に直接結びつくとは限りませんが」
「いや。われわれの捜査は概《おおむ》ねそんなものですよ。そして、一つ一つ潰《つぶ》していく他ないのです」
「もう一つ、これは私の考えにすぎませんが、この事件の犯人は、被害者の過去を調べることで目星がつくのではないでしょうかね」
「私も同感です」
酒田刑事は、大きくうなずく。
「どうでしょうか、近々、私は上京しますが、ご一緒しませんか」
「ああ、それもいい案ですね。しかし、まあ……いや、お忙しいのにご迷惑じゃないですか」
「乗りかかった舟ですからね」
と、荒尾は答えた。
とにかく、田川という従業員のおかげで、壁に突き当たっていた事件の解決に、一抹の光明がみえてきた……。
(角のある被害者、双鹿秦平氏の過去を丹念に調べることで、案外、簡単にこの事件は解決できるのではないだろうか)
そう思って荒尾十郎は、割りと高をくくっていたところがあった。
しかし、その後の進展は、彼の思惑に反し、想像以上の異常さを持っていたのである。
第三章 能登の女
1
九月下旬のある日だった。上京中の荒尾が宿泊しているホテルに、突然、酒田刑事から電話が掛かった。
「今、どこですか?」
と、訊くと、
「九段にある警察の寮です。実は、札幌から真っ直ぐ小松へ飛びましてな、金沢に寄ってから東京に出て来たのです」
と、刑事は教え、「こんな時間ですが、お会いできませんかね」
と、いう。
時計は夜九時を回っていたが、荒尾は、承知した。こちらから出向くことにして渋谷の常宿からタクシーを拾った。
ロビーまで刑事が降りてきて、
「狭苦しいところですが」
と、和室の部屋に通される。
「いや、かまいませんよ」
荒尾もきさくに上着を脱ぎ、あぐらをかいて座った。
酒田刑事は、ごつい手付きでお茶を入れはじめたが、荒尾は持参の大きな紙袋をあけ、
「このほうがいいんじゃありませんか」
と、途中で買い込んできた、缶ビールをとり出した。
「いやあ、すみませんなあ」
刑事は、盛んに恐縮した。
「とりあえず、乾杯といきますか」
「じゃ、遠慮なく」
実にうまそうに、酒田刑事はビールを飲む。
「例の楽譜付きのボールペンの話ですがね、今年フランスが革命二百周年でしょう、それでラ・マルセイエーズの楽譜付きのボールペンが、幾種類も売り出されたらしい。サンプルを幾つか集め、帯広の田川というホテル従業員に見せたところ、その一本がまちがいないと証言したそうです」
と、教えた。
「なるほど、フランス製でしたか」
荒尾は、ちょっと考える目をした。「それ、手掛かりになりそうですか」
「あるいはね」
と、刑事は答えた。
「刑事さん、ところで金沢へはどんな用事で?」
と、訊くと、
「ええ」
と、うなずき、「その前に、例のブローチの件ですがね、一応、鑑識の結果が出ましたよ」
「ああ、あれ……。手掛かりになりそうですか」
「ええ、まあ。直接、犯人逮捕の決め手になるとは、今はまだいえませんがね。というのは、発見の状況が状況ですからな。指紋でもついておれば話は別ですが、それはだめでしたよ」
と、刑事は、にこにこしていった。
「そうでしたか。残念ですな」
荒尾は、ちょっとがっかりした。すると、
「いや、そうではありません。御蔭様で、迷宮の出口がわかりかけてきたといってもいい。あれは、非常に特殊なブローチですので、うまくすれば犯人逮捕につながる有力な手掛かりになるかもしれません」
「と、いいますと?」
荒尾は、身を乗り出した。
「まず材質ですが、ピューターとかいうものだそうです。私は初めて耳にしましたが」
「そうですよ」
荒尾は答えた。「ピューターというのは、白|鉛《なまり》のことでして、銀の替わりに、錫《すず》と鉛の合金で作った代用品です」
「ヨーロッパでは多いそうですな」
「昔はね。今はあまり使われていない材料じゃないかと思いますが、パリのノミの市とか、骨董屋へ行くとたくさんありますよ」
「さすがにお詳しいですなあ」
「いや、それほどではありません」
と、荒尾は謙遜《けんそん》した。
というのも、ひと口にピューターといっても、その様式は様々で、それだけでも専門の学問になるほどだからである。
「ま、ピューターの歴史はかなり古いようですが、十五世紀から十七世紀にかけてが、一番、盛んだったみたいですね」
と荒尾はつづけた。「当時、フランスやイギリス、ドイツなどのヨーロッパ諸国にピューターの工房がたくさんでき、食器や家具、宗教法具などが作られたのです。で、骨董品としての価値は高いし、ヨーロッパの家庭では先祖伝来の道具として今でも使われているようですがね、しかし、あのブローチがどういうものかというと、私の知識では不足ですな」
酒田刑事は、いちいちうなずきながら荒尾の説明を訊いていたが、
「ええ。そのことですが、先生、鑑定報告を読んだところ、あれは元々ブローチに作られたものではなく、留め金は後で付けられたらしい――とあったのですな。それで、留め金のハンダが剥《は》がれて、落ちたのだろうということでした」
「後で、ブローチに加工し直したということですな」
と、荒尾はいった。
「はい。で、鑑識のほうで、かなり念を入れて調べてくれたのですが、時代もかなり古い。しかも、かなり高価なものかもしれませんよ」
「ほう」
「十五世紀どころか、もっと古いもので、多分、十一世紀から十三世紀ごろのものではないかというのが、鑑定結果でした」
「驚きましたな」
荒尾は、目を見張った。「私はてっきり、千円か二千円の安物かと思っておりましたよ」
「いいえ、とんでもありません。泥がついていたので、先生も気付かなかったのでしょうが、一部には銀を使い、補修した跡もありました。その問題は後にしますがね、むろん、先生はご承知でしょうな、十一世紀から十三世紀といえば、十字軍の時代であったそうで……」
「ええ、そうですね」
「そのエルサレム参りの巡礼たちが、首に掛けていた記章じゃないかというのですな」
刑事はそういって、鞄をあけ、ホチキスでとめた書類を見せた。
一読して荒尾は、さすが、専門機関の調査はちがうと思った。ブローチの像は、聖ディオニシウスらしいとある。
「なるほどそうでしたか」
と、荒尾は納得し、「フランスの十字軍は、聖ディオニシウスか聖ニコラスを崇《あが》めていたのですよ。イギリスはトマス・ア・ベケットでした。たしか、パリのルーブル博物館だったと思いますがね、見たのは……。当時の巡礼たちは、セーヌ河にたくさん投げ込んでいたらしいのです」
と、いいながら、考える目をした。
言葉をつづけて、「しかし、そういう貴重品というか変わったものが、本別の畑の中から出てきたというのは、やはり、なんといいますか、そう、まともではありませんな」
「はい、おっしゃるとおりまともじゃありませんな。で、われわれも先生の見付けられたブローチは、重大視しているわけです」
と、酒田刑事も、荒尾のように考える目をしてつづける。
「刑事さん、今のお話を伺って、私は大いに想像力を刺激されましたよ」
と、荒尾の目は、急に生き生きしてきた。
「はあ」
と、刑事は、ちょっと戸惑った顔をして、「想像力といわれましたが、われわれ刑事は、それが不得手でしてね。われわれは物証と聞き込みの積み重ねで捜査するように訓練されておりますから」
「いや、刑事さんはそれでいいのです。警察の捜査というのは、犯人をつかまえた後に、裁判があるわけですから。想像では有罪は立証できませんものね。あくまで、物証をあげて証明しなければなりませんからね」
と、荒尾はいった。
「なるほど。いわれる意味はわかります」
「しかし、捜査の過程では、一つの手掛かりから、いろいろ想像してみることも必要じゃないでしょうか。たとえば、想像力を駆使すれば、犯人像の輪郭がつかめるとか――が、できるのではないかとね」
このとき荒尾十郎は、名探偵シャーロック・ホームズが好んだ帰納推理的捜査法をとっていたのだろう。すなわちホームズは、犯行現場の証拠や犯罪の行なわれた状況から、全体像を想像するのだ。そのことによって犯人像や動機を推理し、次の段階ではその推理の現実的な証明にとりかかる。
故に、ホームズの捜査法は、あきらかに帰納推理的なのである。
2
二人は、また、缶ビールをあける。一ダースの缶が半分ほどなくなっていた。
「いや、先生、今夜は実に愉快です。むろん、そういう意味であれば、私だって想像しましたよ」
と、刑事は顔を赤くしながらいった。「ブローチの持ち主は、平凡な趣味の人物ではないらしいとね。ま、金持ちではないかもしれないが、かなりのインテリにちがいないだろうとね」
「私も刑事さんと同じ意見ですな」
「で、先生、十字軍の記章をブローチに直したのは、落し主だと思いますか」
と、訊ねる。
「多分、そうでしょうね。それとも別の者が加工して、彼女にプレゼントしたか……」
「となると、加工を専門家に頼んだか、自分で行ったかが問題になりますな」
「ええ」
荒尾はうなずく。
「そこですがね、もう一つ、鑑定によりますと、錆《さび》を除いた形跡があるそうですが、これは、とても素人にはできない作業だそうです」
「ほう。そこまでわかるのですか」
「はい。先生の見付けたブローチは、普通のピューターよりも、鉛の成分が多いそうです。とにかく、表面にざらざらした錆が出やすいのがピューターの特徴らしい。これを、機械的な手段で除去するのは無理で、電気分解で除去するらしいですな」
「私は知りませんでした」
荒尾は感心した。
「そこで、ほうぼう問い合わせてみたのですが、驚いたことに、被害者の会社、双鹿ワイン商事がですよ、金沢の小さな工房にそうした仕事を頼んでいるというじゃありませんか。で、早速、金沢に出掛けたという次第で……」
工房の名は、ぎるどコーポレーションといい、従業員は社長共五名。金属を使った創作アクセサリーを仕事にしているらしい。
「なるほどねえ、それで金沢へ」
と荒尾は納得顔だ。
「収穫はありましたか」
と、訊く。
「ええ、予想以上に……」
と、刑事は答えた。「この工房では、二年ほど前から取引があるそうです。西洋骨董ブームに便乗してか、双鹿ワイン商事では大量の商品をヨーロッパで買い付けたらしい。しかし、ま、何といいますか、好いものはすでに大手のデパートなどが押さえてしまったので、手に入ったのは安物ばかりでした。それでは、高級品志向の強い日本では売り物にならないというので、それらしく加工することを考えたらしいと、工房の社長がそれとなく漏らしてくれました」
「うまい手を考えましたな」
また、荒尾は感心した。
「商売のむきは、私にはさっぱりですが、金とか銀とかをちょっと使い、加工してやると、がらくたが一個何万もする高級アクセサリーに化けるという寸法でして、ぎるどコーポレーションのほうでも、結構、儲《もう》かっているみたいです」
「それで、問題のブローチは、やはりその工房で?」
「ええ。自分のところで加工したブローチだと覚えておりました」
「じゃ、双鹿ワイン商事から受けた仕事だったんですね」
「いや、個人的に頼まれた仕事だったそうです」
「ほう」
「頼んだのは、あの社員ですよ」
「社員というと、石倉数也ですか」
「ええ。なんでも、社長、いや専務の社長夫人と一緒に、フランスへ買い付けの仕事に出掛けたとき、あちらで自分の小遣いで買ったものだそうです。それを知り合いに贈りたいと相談されたので、工房の社長は、取引のことで彼には世話になっているし、無料でした仕事だと話しておりました」
「やはりねえ」
と、荒尾はいった。「実は私も、彼には私なりに三角印を付けていたのですよ」
「さすがですねえ」
「刑事さん。すぐに彼に会い、贈った相手を訊くべきですよ」
「いや、それがですね、彼は、あの事件のあと直ぐに会社を辞めているんです」
「今は何をしているのですか」
「日本には、いないようです」
「海外ということですか」
「ええ」
酒田刑事は、またビールをひと口飲み、「荒尾先生、実は、私はこの石倉数也の行動には、不審を抱いているのです。ま、長年の勘というやつですが、彼が起こした本別の交通事故ですがね、調べてみると彼は、運転はうまかったというし、妙に腑《ふ》におちんのですわ」
「私もなのです」
と、荒尾もいった。「社長がわざわざ車の運転に選んだ社員なら、運転は初心者のはずはない。しかし、現場を見て感じましたが、あそこで事故を起こしたとしたら、初心者ですよ」
「先生も鋭いですなあ」
刑事の誉めかたはオーバーのような気もしたが、悪い気持はしない。
「となると、どうしてあそこで事故を起こしてみせたのか。その理由が問題ですが、私は、これは彼のアリバイ工作だと想像しているのですがね、刑事さんは?」
「鋭い」
と、刑事もうなずき、「私も同じ意見です。しかし、当時の事故記録にはですな、彼は、あのときUFOらしきものを見たというのですよ。それでつい気をとられて、事故を起こしたと調書をとった交通課の警官には供述しているのです」
「ほう」
荒尾は目をぱちくりさせた。
「本別というのはUFOの出る場所なのですか」
「出てもおかしくない場所ですよ」
「ま、本人が見たという以上、しようがないですなあ」
と、刑事は笑った。「UFOというのは、見える人間と見えない人間がいるそうですが、ほんとうですか」
「ええ、そういう話はよく聞きますな」
と、荒尾はいった。「私もまだ見たことはありませんがね、最近はまた、UFO目撃の話はよくききます。刑事さんの行かれた金沢も、最近よく出る場所だっていいます」
「ええ。ちょうど、宿で地元の放送局の番組を観たのですが、目撃者の撮ったUFOのビデオを放映しておりました」
「そうでしたか。聞くところによると北陸地方は、目下、UFO銀座だそうですよ」
と、荒尾は笑いながらいった。
言葉をつづけて、「しかし、この事件が宇宙人の仕業だってことにならないよう、お願いします」
むろん、冗談である。だが、被害者の双鹿秦平氏は、角のある人間だ。考えようによっては、なにか気になる話である。
「むろんです」
と、酒田刑事もいった。「われわれ刑事は、現実主義者ですからな、ははッ、幽霊と宇宙人は認めません」
これも彼なりの冗談か……。
顔を真面目にして彼はつづける。「この石倉数也という青年ですが、能登《のと》の出身でした。羽咋《はくい》という町をご存じですか」
「いいえ」
「羽咋は能登半島の付け根にある市でしてね。私も今度初めて知りました。彼は、金沢の大学を出ているそうですが、成績も良かったそうです。そんな彼がですよ、その気になれば一流企業にも勤められるのに、なぜ双鹿ワイン商事のような中小企業に入ったものか、学生時代の仲間も不思議がっていました」
「ほう」
「現に彼は、経済学部を卒業するときには、地元の銀行に就職が決まっていたというのですから」
「なるほど。ちょっと気になって当然ですね」
と、荒尾はいった。
「……でしょう。それで、二日ほど金沢に滞在して、彼のことを調べてみたのです。学生時代にいたアパートにも行ってきました。幸い、当時から住んでいる隣の主婦が、今も同じアパートにおりましてね、真面目でいい学生さんだったと誉めておりました。しかしですね、彼は、そのころ知り合った女性がいたようです」
「恋人ですか」
「ま、そういった関係らしい。二人は、知り合って恋仲になったのでしょうが、彼女は、彼の隣の部屋に住んでいたそうです」
「不自然ではないですね」
と、荒尾はいった。「よくあることですよ」
「しかし、彼女は、四、五歳齢上だったという。ま、それは別にかまわないと、その主婦は話しておりました。ただ、相手の女というのが、水商売関係の職業でしてね。彼が欺《だま》されているんじゃないかって、一度、注意したことがあるそうです」
「その隣の奥さんが注意したんですね」
「ええ。偶然、わかったそうですが、勤め先がピンクだったんです」
「なるほど。で……」
と、促す。「女の名前は?」
「八坂真美《やさかまみ》といいまして、彼女も石倉数也と同じ羽咋の出身です」
と、刑事は教え、「で、ま、私も仕事ですから、その店に行ってきましたよ。先生は金沢はご存じで?」
「いや、まだです」
「金沢の繁華街は香林坊《こうりんぼう》ですが、その外れにある店でした。名前は……」
と、いって刑事は手帳を見た。「妖花《ようか》です。ま、典型的なこの手の店《ピンク》でした」
「で、その女性に会えたのですか」
「いいえ。彼女は辞めておりました」
「やはりね」
「で、店の古手の女にいろいろ聞きました。織恵《おりえ》という女でしたが、これが、世話好きというんでしょうか、親切な女でしてねえ。こういうタイプはよくいるのですが、美津《みつ》さんはこういう店で働くような女ではなかったと、しきりに強調しておりましたなあ」
「美津というのは、八坂真美の源氏名ですな」
「そうです。彼女は、織恵によると、札幌の大学を卒業した学歴もあったという。卒業後は、外国の航空会社でスチュワーデスをしていたらしいというから驚くじゃありませんか」
刑事はまた手帳を見て、「共和国航空《エール・レピユブリツク》というフランスの航空会社だそうです」
「ほう」
荒尾は、ますます興味を抱く。
「むろん、彼女が自分で吹聴した話じゃありません。親しくしているうちに、つい漏らした経歴らしいが、なぜそれほどの女がピンクで働いているのか、これは大いに気になることです」
「当然です」
と、荒尾もいった。「深い理由《わけ》があるわけですな、きっと」
「はい。織恵という女も不思議がっておりましたが、どうも、深い事情が過去にあるらしい」
そういって刑事は、羽咋で取ってきた戸籍謄本を旅行鞄から取り出しながら、
「ああ、それから、いい忘れましたが、ブローチに細字で彫ってあった文字、読めました。あれは求愛の言葉でした」
「製造した会社名じゃなかったんですね」
「はい。『愛を籠《こ》めて』というフランス語だったそうです。しかもこれは、ぎるどコーポレーションが石倉数也に頼まれて入れた刻字だったと判明しました」
彼は、それを、八坂真美に贈ったのか、文字通り求愛の気持を籠めて……。が、彼らはまだ、ゴール・インしたわけではないらしい。
荒尾は、刑事から渡された戸籍謄本を眺めながらいった。
「刑事さん。これによると、八坂真美の両親は、共に昭和五十年に死亡していたのですね」
今から、十四年前、彼女が十九歳、大学二年のときであった。その少し前、彼女は五歳年下の妹、真弥《まや》とともに、養子縁組のために除籍されていた。
「帯広で、父親の弟が、医者をしているのです」
と、刑事はいった。
なお、八坂真美の実父は八坂|征一郎《せいいちろう》といい、養父は八坂|夏彦《なつひこ》である。
「これでつながりましたねえ」
と、荒尾は、帯広のホテルの従業員が話した証言を思い出しながらいった。
あの田川という従業員は、謎の女が双鹿秦平に向かって、「父が、あたしたちきょうだいを養子に出したのは、あなたのせいよ」といったと証言したのだ。
「両親の死亡原因は何でした?」
と、訊く。
「ヨーロッパを旅行中に強盗に襲われたという話でした」
「ほう」
荒尾は、思わず目を大きくした。
「パリだそうです」
酒田刑事は教えた。「私は行ったことはありませんが、先生はむろん行かれておるでしょうね」
「はい。四、五回はね」
美術の関係で、荒尾はちょくちょくヨーロッパに出掛けているのだ。
「パリにカタコンブというのがあるそうですが、行かれましたか」
「いいえ。まだですが、無数の髑髏《どくろ》が葬られている地下墓所ですよ」
と、荒尾は答えた。
「そのカタコンブで、夫妻は殺されたそうです。犯人は、とうとうわからずじまいだそうですが、所持していた現金を奪われていたので、強盗に遭《あ》ったということで処理されたそうです」
「そのときの捜査資料ですが、手に入りますかね」
「多分、入ると思います」
「ぜひ、拝見したいものですな」
と、荒尾はいった。
「本別の殺人と関係があるというわけですな。わかりました」
「お願いします。殺人の動機がわかるかもしれません」
「田川というホテル従業員の証言ですな」
酒田刑事はうなずいた。「つまり、双鹿秦平には殺される理由があり、犯人には殺す動機があったわけで、そのへんがはっきりすれば、本別の巨大迷路殺人事件は解決しますな」
「と、思います。ですから、八坂真美の両親がパリで殺された事件の真相をです、われわれはぜひ知る必要があるわけです」
と、荒尾はいった。
「先生は、パリのカタコンブ殺人は、単純な強盗事件ではないと思っておるわけですな。実は、私もです」
「はい。裏に、きっとなにかあるはずです。が、それにしても、『あたくし、とうとうモーゼの井戸を見付けましたわ』という言葉が気になります。それが本殺人事件といったいどういう関係があるのか、それが気になるのです」
「いや、なに……。それは、八坂真美を発見して供述をとれば、はっきりします」
と、刑事は自信ありげだった。「早速、帯広署へ連絡を取りましたから、いずれ養父の線から行方がわかると思います」
八坂真美の養父、夏彦は、今も帯広市内で開業医をしているのだ。
「明日にもそのことで連絡がくると思います。先生にもすぐお知らせしましょう」
「そうですか。とにかくその結果を待ちますか」
と、荒尾はいった。
3
荒尾十郎が、渋谷のホテルに戻ったのは、深夜であった。寝しなに、いつもの習慣で、メモに近い日記をつける。事件解決間近し≠ニ彼は書いた。まずはめでたしである。偶然、本別で見付けたブローチのお蔭で、八坂真美という有力な容疑者が浮かび上がってきたわけである。だが、その後の展開は、意外なものであった……。
――電話で起こされたのは、昼近かった。酒田刑事からである。
「昨晩はどうも」
「いや、こちらこそ」
荒尾は、刑事の声にいつもの元気がないことに気付く。
「で、どうなりました?」
と、訊く。
「はい。今朝、帯広署から返事がきましてね、彼女は昨年八月十九日には、養父の家に宿泊したそうです」
「やはり」
荒尾はこの時点では、この事件は解決したと思っていた。
ところが、豈《あに》はからんやだったのである。
「残念ながら、われわれの見込みちがいでした」
と、刑事はいった。「彼女は、翌二十日の午後三時二三分発の急行で、帯広から札幌へ向かっていたのです」
「たしかですか」
「ええ。この列車は午後六時二一分に札幌に着きます」
石勝《せきしよう》線が開通したので、帯広―札幌間は、三時間に短縮されているのだ。
酒田刑事は、口早に事情を説明した後、
「で、これから私は、被害者の奥さんに会うつもりですが、先生もご一緒しませんか。実は、帯広署と電話で話してわかったのですが、被害者の奥さんと八坂真美は、二十日の夜、札幌で会っているんです」
電話を切り、すぐ顔を洗う。荒尾は、身支度してホテルを飛び出した。酒田刑事の待つ宿舎へ向かうタクシーの中でも、彼は考えこんでしまった。
酒田刑事によれば、捜査の初期段階では、帯広署の捜査本部も、容疑者の一人に被害者の妻も入れていたらしい。
双鹿秦平の妻は宮子《みやこ》といい、保険金の受取人、であったからだという。それで、一応、アリバイを調べたところ、二十日の夜、八坂真美と共に札幌|薄野《すすきの》にあるホテルに宿泊していることがわかり、容疑者リストから外された――というのだ。
二人が知り合いだということが、彼には意外であった。タクシーは道が混んでいるので、なかなか進まない。まったくいらいらした。
とにかく、酒田刑事の宿に着き、二人は外へ出て食事をしながら話す。
荒尾は、盛んに質問の矢を浴びせる。
「意外なのは私も同じです」
と、刑事もいった。「捜査資料を読み落としていたんですなあ。八坂真美の名はちゃんと載っていたのですが、一回だけなので、記憶から外れていたのです。いやはや、お恥ずかしい」
と、しきりに恐縮する。
「いや、それは無理ありませんよ。捜査資料は結構|厖大《ぼうだい》なものなのでしょう」
と、いってなぐさめたが、荒尾としては何となく割り切れない気分である。
「そういうわけで、また振り出しに戻ってしまいましたが、田川というホテル従業員が見た女というのは、いったいだれなんでしょう」
昨夜とはうって替わって、酒田刑事の表情は気落ちしていた。
「われわれは、その謎の女に振り回されているみたいですなあ」
と、荒尾もいった。
言葉をつづけて、
「むろん、田川という従業員には、写真を見せるなどして、八坂真美を確認させたのでしょうね」
と念を押した。
「ええ。帯広署に頼みました。さっきその返事が届いたのですが、記憶にはないそうです」
つまり、ホテル従業員の田川は、八坂真美ではなく別の女を見たということである。
「フロント係は?」
と、刑事はいった。「一年前の記憶ですから曖昧とは思いますが、『似ているような気もするが、多分ちがうと思う』という証言だったそうです」
「被害者の奥さんと八坂真美は、どういう関係で知り合いなんですか」
と、荒尾は訊く。
「真美が子供だったころからよく知っている間柄だったそうです」
と、刑事は教えた。
八坂家と双鹿家は、ずっと昔から親しい関係だったという。それも、古代からつづく同族の関係だったと聞かされて、荒尾は驚いた。
食事を済ませ、タクシーに乗る。行き先は板橋であった。荒川の堤防に面した場所に双鹿ワイン商事があった。ブロック塀に囲まれた敷地は、わりと広い。ワイン倉庫らしい石造りの棟の脇に、鉄筋コンクリート四階建ての事務所が建っていた。
応接間に通され、しばらく待たされる。
やがて、貫禄のある女性が現れた。彼女が双鹿宮子である。
酒田刑事は名刺を渡したが、荒尾は黙っていた。相手は、彼を警察の同僚と思ったようだ。
社長は今、彼女であった。
「実は石倉数也さんのことをちょっと伺いたくて参りました」
と、酒田刑事はいった。
「優秀な社員で、夫も生前とても高く買っておりましたのに、急に辞めたいといいだしましてね、私どもも慰留したのですが、あんな事件のあとですものね、彼もやり直したいといって聞きませんの。それで、彼に辞められると非常に困るのですが、彼の気持も考えまして、承知しましたのよ」
と、彼女はいった。
石倉数也という青年は、語学に堪能で、最近は輸入関係の仕事は、全部彼が行なっていたらしい。それで双鹿秦平の海外出張には、必ず同行していたという。
「ゆくゆくは、会社の重役にと思っておりましたのに、残念ですわ」
とも、話した。
「今はどこに? 心当たりはありませんか」
「ええ、ぜんぜん。本人はヨーロッパへ行くと話しておりましたが、手紙一本くれませんの」
と、不満そうな顔をした。
「入社したのは、どういう事情からでした?」
「ええ、それが、会社訪問というのがありますわね。突然いらして、就職したいと主人に申したそうです。けど近頃はむしろ、求人難の時代でしょう。主人も学業成績表を見て驚いたみたいですわ。私どもとしましては、優秀な学生さんは喉から手がでるほど欲しいのは事実ですけどねえ、こんな中小企業ですものねえ」
「とにかく採用されて、結果はよかったわけですね」
「むろんです。主人も同郷の誼《よし》みもあって、随分、目を掛けておりましたもの」
と、彼女は答え、「それにしても、もう一年になりますのにね」
言外に彼女は、まだ犯人を逮捕できずにいる警察を非難しているようであった。しかし、悲嘆に暮れているようではない。そういう印象を荒尾は抱いた。
(彼女は、夫の死後、会社の経営者になったので、それどころではないのだろう)
と彼は思った。
「いや、すみません」
と、酒田刑事は謝る。「その後、会社のほうはいかがですか」
「お蔭様で順調ですわ。一時はどうなることかと思いましたのよ」
「それは何よりです。社長が急に亡くなったために、相続税やらで会社が潰れてしまうという話はよく聞きますからな」
「幸い、主人は経営者保険に入っていたのです。それで、相続税のほうはなんとかなりました。土地の暴騰がこんなでしょう、ほんとに大変でしたわ」
納得のいく話である。
「失礼ですが、経営者保険はどのくらいの金額を……」
と、荒尾は初めて口をきいた。
経営者保険というのは、個人ではなく会社が掛け、会社が受取人になるものである。
「それはちょっと……」
女社長はいいよどんだ。
「十億とか二十億とかですか。いずれにしても、前社長は高齢者ですから掛け金は、月々、百万とか二百万とか、多額な支払いだったのでは……」
「ええ、はい。刑事さん、お詳しいですね」
「ええ、まあ」
と、荒尾はすまして答えた。「参考までに教えてくれませんか。お厭《いや》なら結構ですが、それはそれで、われわれには調べる手はあります」
「受け取りは二十億ほどでしたわ。会社の土地は、半分が主人の個人名義でしたから、会社にその保険金で買いとって貰い、やっと相続税を切り抜けましたのよ」
と、女社長は、しぶしぶ説明した。
「それは賢明でした」
屈託のない笑い顔を見せて、荒尾はいった。「近ごろは、お宅のような個人経営に近い同族会社では、よく行なわれている方法ですな。……ところで」
と、つづける。
「ご商売は、ワインの輸入の他にも、いろいろなさっておられるようですな」
「ええ。たしかにいろいろと」
女社長は、荒尾を値踏みする視線で眺めていたが、
「このかたは?」
と、彼にではなく酒田刑事に訊く。「刑事さんには見えませんわ」
「そうですか」
と、答えながら、酒田刑事は、ちらっと荒尾を見る。
「刑事さんじゃなくて、税務署の人みたいね……」
「いいえ。私の同僚です」
酒田刑事は、慌てたようにいいつくろった。「ひと口に刑事といいましても、奥さん、専門によってタイプは様々でして……」
「荒尾といいます」
と、荒尾は名乗る。
畳み込むように、「奥さん、いろいろ、といわれましたが、たとえばどんなものですか」
「輸入品ですわ」
「絵画とか」
「絵画もです」
「他には?」
「いろいろです」
「西洋骨董などもですか」
「ええ」
「ブームだそうですね」
「ええ」
「美術品の扱いは、前の社長が始められたのですか」
「……?」
「目が利《き》きませんとね、美術品のご商売は難しいと聞いておりますがね」
荒尾は訊いた。「ご主人は、その方面の経験なりご趣味があられたのですか」
「いいえ、主人はだめでした。始めたのはあたくしですの」
「ほう。商売の才能がおありなんですなあ」
「あら、才能だなんて、ほほッ。でも、ワインだけでは競争が、最近は厳しいでしょう。ですから、いろいろ取り扱い商品の幅を広げませんと、生き残れません」
「厳しいんですなあ」
「ええ、はた目よりはずっと大変ですわ」
と、女社長は答えた。
「ところで、つかぬことを伺いますが」
と、酒田刑事が質問の役を替わった。「八坂真美さんのことでお訊ねしたいのですが」
「はい」
女社長はちょっと窺《うかが》う目付きをした。
「事件の夜、札幌でお会いになったそうですね」
「ええ。そのことはもう警察のかたに何度もお話しました」
「用事はどんなことで?」
「繰り返すことになりますが、真美さんってかた、生活が荒れておりましたの。いい難いことですが、あまり世間体のいい仕事とはいえませんものね」
「金沢での職業のことですな。今は辞められたそうですが」
「ご存じでしたの?」
「ええ」
「じゃあ、話し易《やす》いですわ。実は、息子|恒夫《つねお》に結婚の話がありましてね。ところが、先方様は格式の高い家柄なものですから、いろいろとあたくし共のことを調べられていることがわかったのです。家同士が近い関係なものですから、息子と真美さんは幼馴染みでしてね、航空会社に真美さんが勤められていたころ、二人は付き合いがあったのです。どれほどの付き合いかは知りませんが、息子がその気なら添わせてもいいとあたくしたちは思っておりました。ところが、真美さんのほうが、急に息子に冷たくなりましてね、金沢に行ってしまわれたのですが、その後、知りましたの。あのかたが穢《けが》らわしい仕事をしておられることが……。それで、あたくしも心配になりまして、一度、真美さんに会ってお願いをしようと思っておりましたのよ」
「それで、札幌で……」
「はい」
双鹿宮子の説明によると、商売と北海道観光を兼ねた旅行で、夫妻は札幌へ出掛けたが、そのとき、八坂真美が帯広の養父のところに帰省していることを知り、連絡がとれて札幌で会うことになったそうだ。
彼女は言葉をつづける。
「主人は、ワインの買い付けの件で、石倉さんと車で道東へ行きましたが、あたくしは車が弱いものですから、札幌に残りましたの。主人とは、あの日、札幌で落ち合う予定でしたのに、あんなことになってしまって……」
と、いいかけ、慌てて涙をハンカチで拭った。
「では、去年の八月二十日に、ご主人と札幌で同宿される予定だったのですね」
と、酒田刑事はいった。「泊まられたのは、薄野の……」
「ええ。薄野温泉ともいうそうですが、ホテルと温泉がいっしょになった……」
「あそこは、札幌の繁華街のど真ん中に温泉が湧いたというので、われわれもびっくりしたわけですが、ホテル・ビッグマックでしょ」
と、荒尾がいった。
「ええ、そこです」
「ところが、ご主人は現れず、石倉さんだけが一人で戻ってきたわけですね」
「はい。事故を起こし、列車できたといっておりました」
「ホテルには何時に?」
「夜の十時半でした」
「八坂真美さんは?」
「ホテルには七時前に着き、あたくしたち、ホテルで食事をしながら話しました」
「息子さんの件でですね」
「はい。それで息子の縁談の話をしましたところ、ご迷惑はかけないと約束してくださったわ。あたくしは、お礼にと五十万ほど用意しておいたのですが、あのかたは受け取らずに、『もう済んだことですから』といってくれましたの。そのとき訊きましたが、二日後にはヨーロッパへ行って、一生、一人で暮らすつもりだ――と話しておりましてね。あたくしも安心したのです。例の仕事を金沢でなさったのも、その資金稼ぎのためだったとわかりましたので、あたくしもそれ以上は聞きませんでした」
「なるほど」
酒田刑事は、納得できたという顔をして、「最後にもう一つお訊きしたいが、ご主人は、札幌に戻られなかったばかりでなく、そのまま、ひと月も行方不明だったわけですが、その点は、奥さん、どう思っておられたのですか」
「むろん、心配しておりましたわ。しかし、まさか、夫が、本別で殺されていただなんて、夢にも思いませんでした。石倉さんの報告では、『社長はだれか女の人に会っているらしい』と教えられておりましたから、あたくしは、またいつもの癖が……と思っていたんです」
「ほう。では、ご主人は前にも」
「ええ。あの、なんですけど……」
「いいにくいことですか」
酒田刑事は、屈託なく訊く。「ま、男には本来、蒸発願望とでも申しますか、ときどき仕事も家庭も離れて気ままに自由になりたいという気持が、心の底にね」
「あら、刑事さんにも」
「そりゃ、ありますよ。しかし、経済的にも無理だからしないだけでして」
ちょっと実感がこもっていたので、荒尾は、酒田刑事の顔を見た。演技だとしたら、たいした名優である。
「じゃあ、いいますけど、そのとおりなんです」
女社長は乗せられたように話す。「過去にずいぶん、女のかたと付きあっておりましたわ、あの人。精力が人一倍なんです。それで、妙にね、水商売の女性に好かれるところがありましたわ」
と、いって、かすかに笑い、両手の指を立てる仕種をした。
「ああ、なるほど」
と、酒田刑事は笑った。
つまり、角《つの》ある男の双鹿秦平は、鬼並の精力絶倫男ということであろうか。
「奥さんは黙認をされていたわけで?」
と、にこにこ笑いながら酒田刑事は訊いた。「としたら、男にとっては理想の妻ですなあ」
「まあ」
つられたように、彼女は笑い出した。「あたくし、刑事さんのいうように理想の妻だったかどうかはわかりませんが、黙認していたことは事実です。もうこの齢ですものね」
「なるほど」
「人それぞれでしょうが、あたくしは、あまりあのほうは好きじゃありませんの。ですからその点では悪妻だったかしらと思っているくらいです。夫は、あたくしや息子を精神的にとても愛し、大事にしてくれましたから、夫の本能のほうは黙認することにしたんです」
まったく理路整然としているので、荒尾は、内心たいした女傑だと思った。
「立ち入った話ですが、よければお訊かせください」
と、荒尾はいった。「ご主人とは、どういう事情で知り合ったのですか」
「まあ、今さら、古いラブロマンスをお話しするなんて、あたくし照れてしまいますわ」
「ぜひ」
今度は、酒田刑事がいった。
「あたくし、実はね、昔は金沢で水商売をしていましたのよ。いいえ、決して穢らわしい商売ではなく、ちゃんとした小料理屋をしておりました。そのときの客の一人が夫でした。あたくし、そのときはもう四十歳でしたもの、殿方には四十の独身女の気持はちょっと想像できないと思いますが、そりゃ、やるせないものですのよ。で、夫に一緒にならないかといわれて結婚したのです」
「何年前でした?」
「十三年前かしら。夫は四十八歳でした。それまで夫は、ご縁がなくて独身でした。だって角があるんですもの。普段は帽子で隠せてもね。でも、あたくしは、むしろ同情したんです、夫にね」
「いや、見あげたお心ですなあ」
酒田刑事は、感激したようにいった。「しかし、お子さんは、そうしますと?」
「ええ。息子は二十七になりますが、養子なのです」
「で、その後、東京に来られて、この商売を始められた……?」
「最初は苦労しました。事業は最初、あたくしの店を売ったお金でやりくりしたんです」
やがて、
「いや、いろいろと参考になりました。われわれも、全力を挙げて、ぜひ犯人を逮捕したいと思います」
と、酒田刑事がいって席をたちかけたとき、応接間のドアがあき、背の高い青年が入ってきた。
彼らに向かって会釈するでもなく、
「約束の時間だけど……」
双鹿宮子にいった。
「ああ、そう」
と、彼女はうなずく。
「息子さんですか」
荒尾が訊く。
「ええ。恒夫、お客様に挨拶なさい」
息子は、無言で会釈した。
「それでは、用事がございますので」
「いや、どうも。いろいろありがとうございました」
刑事も席を立った。
表に出たとき、玄関前にポルシェが停まっていた。送ってきた女の事務員に、
「あれは、だれの車?」
と、荒尾は訊いた。
「専務さんのです」
「専務というと、社長の息子さん?」
「ええ」
「いい車に乗っているんだねえ」
(母親が養子の息子をかなり甘やかしているな)
と、荒尾は思った。
門を出たところで、
「刑事さんは、あの恒夫って息子をどう思います?」
と、訊くと、
「あれはどう見たって道楽息子です」
「親にとっては苦労の種という種類ですな」
「ま、そんなところでしょう」
と、酒田刑事も荒尾の観察に同意した。
4
帰りは電車にした。
酒田刑事は、最終の便で、札幌に戻るらしい。
座席に並んですわる。
「結局、迷宮から脱することができませんでしたな」
と、酒田刑事は、意気消沈である。
双鹿宮子の説明には、別に矛盾はない――と荒尾も感じていた。つまり、彼らが有力容疑者と思っていた、八坂真美のアリバイは成立したのである。
「帰って報告書を書くのが憂鬱《ゆううつ》ですわ。国民の大事な税金を使ってわざわざ出張し、何も収穫がないでは、われわれ公務員はつとまりませんからな」
と、刑事はいった。
「そうでしょうか」
と、荒尾はいった。
むろん、酒田刑事を励ます気持もあったが、彼としては、今一つ諦めきれないのだ。割り切れないのである。気持として、どうもすっきりしないという意味である。
「言葉ではうまくはいえないのですが、何かが胸にひっかかっている。今はそんな気分ですな」
荒尾はいった。
「といいますと?」
「今、別れた女社長ですよ」
「なかなか立派なご婦人と思いますが」
「まあ、それはそうですが」
と、荒尾は言葉を濁し、「結論は別としても、私は、ずいぶん捜査は進展していると思いますよ。それがなにかは、まだ、はっきりしないにしても、おぼろげな輪郭がみえはじめているのではないだろうか……。つまり真実の輪郭という意味ですが」
「いや、そうならいいのですがねえ」
と、刑事も自分を励ますようにうなずく。
「ところで、刑事さん、八坂真美の妹ですが、今どこに住んでいるのですか」
と、荒尾は訊く。「真美のアリバイは成立したわけですが、一応、彼女のことを、妹に訊ねてみるのも無駄ではないと思うのですがね」
「ああ、真弥のことですね。まだ、いっておりませんでしたか」
と、刑事は手帳を出して、「八坂真弥は、現在、輪島《わじま》におります。早く居所がわかれば、羽咋《はくい》まで行ったついでに会えたんですがね。わかったのは今朝なんです」
帯広署の者が八坂夏彦を訪ねたときに、訊きだしたのだそうだ。
「輪島ですか」
荒尾はつぶやいた。「輪島というと輪島塗りの輪島ですなあ」
「ええ。能登半島の輪島です」
「私は、取材を兼ねて、明日にも能登へ出掛けてみようと思います。彼女の住所はわかりますか」
荒尾は、突然、そう思いついたのだ。が、彼にはよくあることである。
「わかりますよ」
と、刑事は教えた。
荒尾はメモを取る。
「代わりに行っていただけると援《たす》かります。後で詳しいことを知らせてください」
「むろんです」
と、うなずき、「で、彼女は輪島で結婚しているのですか」
「いいえ、まだ彼女は未婚でして、輪島では漆《うるし》工芸の勉強をしているそうです」
「ほう」
「大学は釧路だそうですが、工芸をやったとか。ま、自分の道を進もうとしているわけでしょうな」
「なるほど。立派な心がけですな」
荒尾としては、この時点ではまだ、はなはだ軽い気持の能登行きであったのだ……。
第二部 能登の風景
第四章 客人《まれびと》の国
1
翌日、荒尾十郎は、東京→小松行きの切符がとれた。朝一番の便である。荒尾は早起きして羽田へ急ぐ。搭乗機は、予想に反してジャンボ機だった。北陸へ行く便という先入観が彼にはあり、小さな飛行機とばかり思っていたのである。
ほぼ満席。荒尾は、最後尾の真ん中の列に座る。考えてみれば、小松空港は、北陸諸都市の福井・小松・金沢の人々が利用する空港なのだ。
機が離陸すると、荒尾は読書灯を点け、昨夜から考えている難問にとりかかった。ノートを開き、あれこれ検討したのは、彼が真犯人と推定している人物のアリバイである。
まだ仮定の段階だが、昨日の印象から、荒尾は、どうも被害者の妻が気になるのだ。なぜなら、犯罪捜査の基本の一つは、だれが利益を得るかである。この線を重視すれば、双鹿秦平《つぬがはたへい》の死によって、もっとも利益を得たのは双鹿宮子である。彼女は今では女社長であり、会社の経営も、夫に掛けた経営者保険のおかげで安泰である。
しかし、宮子にはアリバイがある。八月二十日の夜には、彼女は、札幌薄野のホテル・ビッグマックにいたのである。
もう一度整理してみると、二十日午後七時前から、宮子は、八坂真美に会っていた。犯行現場から遥かに隔たった場所、札幌で……。
「しかし、二人の共犯という考えは成り立ちませんか」
と、荒尾は酒田刑事に訊ねたのだ。
この二人が、示し合わせて、アリバイを偽証しているとも考えられるから……。
が、即座に刑事は、
「いや、それは無理ですな」
と、答えたのだ。「二人の他にも証言者がおりますから。それも、一人や二人ではありません」
酒田刑事によると、二人のことは、フロントやベルボーイ、レストランの係が覚えていただけではなかったそうだ。
「宮子はですな、札幌の取引先を呼び、薄野のクラブで接待しているのですよ。その場には、八坂真美も同行しておりました」
となると八月二十日の夜のこの二人のアリバイは完璧である。
「もう一度確認しますが、二十日の午後四時半に双鹿秦平氏を巨大迷路の前で降ろした石倉数也は、何時に交通事故を起こしたのですか」
「直ぐ後の午後四時三十五分ごろということがはっきりしておりますよ。その時刻には、双鹿氏は迷路の受付にいたことがわかっております」
前述したとおり、一歩会のメンバーが額に角のある人物を目撃しているのである。
(他にも、迷路の中で女子高生のグループが、やはり角のある人物と出会っているから、やはり石倉数也犯人説は無理か)
と、荒尾は心の中でつぶやきながら、容疑者リストの石倉数也にバツ印をつけた。
この石倉数也は、二十日午後九時五五分には札幌駅に着き、そのまま真っ直ぐホテル・ビッグマックに来てチェック・インを済ませると、双鹿宮子と八坂真美のいるクラブへ行き、合流している。
「翌日、この三人は東京に戻りました」
と、刑事は話した。
「八坂真美は、いつヨーロッパへ出発したのですか」
「翌日です。彼女は、二十一日は石倉数也のアパートに泊まり、二十二日正午発の共和国航空で出発しましたよ」
「確実ですね」
「ええ。成田の出入国管理局に問い合わせて裏はとれています」
「やがて、石倉数也も出国するわけですね」
「彼の出国はひと月後でした。あちらで、二人は一緒に暮らしているんでしょうな」
と、刑事は教えたのだ……。
荒尾はノートを見ながら考え込む。どこかに盲点があるはずだと……。
双鹿宮子が、秦平氏、石倉数也とともに、飛行機で札幌に来たのは八月十八日の夕刻であった。宿泊は、同じビッグマックであった。夫婦は六階のスイートに泊まり、石倉数也は七階の部屋に泊まった。翌日、秦平氏と石倉は、札幌で借りたレンタカーで帯広へ向かい、宮子だけがそのまま札幌に残ったという。
十九日、秦平氏は石倉と共に帯広の十勝シティ・ホテルに泊まり、宮子はビッグマックに泊まった。
十九日夜に、双鹿秦平は、モーゼの井戸のことを話した謎の女と会う。
翌二十日は、池田へ向かったが、その後は急に予定を変更して、本別巨大迷路へ行った。そして、何者かに殺害されたのである。
荒尾は懸命に謎を解こうと努めたが、結局だめだった。
気がつくと飛行機は、小松空港へ着陸しようとしていた……。
2
(小松とはコマ待つ≠フことかもしれないぞ)
と、荒尾はふと思った。
空港発の連絡バスは、日本海の渚《なぎさ》を左手にして、高速道路を走っていた。あいにく曇り空であった。日本海の荒波は、韓国《からくに》のほうから北陸の岸に打ち寄せていた。
むろん、コマとは、高麗《こま》(高句麗《こうくり》)のことである。他にも、熊来《くまき》の浦という地名が鹿島《かしま》郡中島町浜田にあるが、これは高麗来《こまき》≠ノ通じているのだそうだ。
荒尾は、渋谷の古書店で書籍を買い込み、一応、勉強はしてきたのであるが、中でも『茜《あかね》さす日本海文化』(能登印刷出版部)という、地元に在住していた浅香年木《あさかとしき》氏の著書が一番おもしろかった。なぜかというと、まさに北陸人の精神で、この本が書かれているからだった。荒尾自身が、北海道という中央から離れた地方に住む人間であるだけに、この著者のいう、中央集権的な国家という観念そのものを、一度切り払う必要がある≠ニいう叫びにも似た主張が実感されたからである。
「国家とはなんぞや」という問題は、地方に住んでいる者にほど対象化され易いのではないか。いいかえるなら、国家を認めるということは、つきつめていくなら、自分(地方人)のアイデンティティを自己否定することになるからである。国家とは、中央集権のことだから。要するに、中央的価値観や中央的歴史観に、地方は従えということなのである。これは思想的な同化政策に他ならない。極端ないいかたかもしれないが、こうした政策、教育によって、地方は自己喪失を起こす。
前述の著者のいいたいのも、そのことだろうと、彼なりに思った。
余談になるかもしれないが、やはり触れておきたい。この著者は次のように書く。高度成長期の開発神話を後追いすることは、疑いなく北陸の自滅につながる。学ぶべきは乱開発の結果であり、人間の住むべき世界を破壊してしまった太平洋沿岸域の荒涼たる過密砂漠の教訓である≠ニ。
北陸はあくまで北陸なのだ。北陸の歴史とは、日本海を介し、対岸の客人《まれびと》との間に開かれてきた頻繁な交流なのである……。その独特の精神風土が、中世・戦国期を通じて、大和的中央政権に対する反発を産む。尾張《おわり》の信長が潰した一向一揆《いつこういつき》にしてもそうだ。北陸には独特の楽土思想があったようだ。
松任谷《まつとうや》を越えると、バスは海を離れた。金沢には昼前に着いた。
ホテルは駅前であった。チェック・インをしてひと休みし、観光にでかけた。真っ先に行ったのは兼六園《けんろくえん》である。タクシーを降りて一巡し、ぶらぶらと香林坊《こうりんぼう》に戻った。武家屋敷町というのが地図に載っていたので、行ってみた。なるほど昔の面影が保存されている。
道を引き返し、本屋を探す。地元でなければ手に入りにくい書籍を数冊買い込み、ホテルに戻る。荒尾は、旅先ではいつもそうである。本を読み了えたら、ゆうパックを使い自宅に送ってしまう。荷物になるのがいやだからである。
夕方まで読書に専念した。新たに仕入れた知識によると、明日、出掛ける予定の能登には、ミマナ・コシ・シラギといった朝鮮の地名に、すぐ比古《ひこ》・|比〓《ひめ》をつけた、ミマナヒコとかミマナヒメといった古い神社が七つもあるという。なお比古(彦)は男の豪族をいい、比〓(媛)は女豪族を指していたらしい。
また西の越前国(えちぜん福井県)敦賀《つるが》郡には、シラキヒコ神社があるが、これは新羅《しらぎ》からの帰化人の神社にちがいない。能登国(石川県)珠洲《すず》郡のコマシヒコ神社は高句麗や新羅との交流を物語る名残であるらしい。
(やはり取材旅行はしてみるものだ)
と、荒尾は思った。いろいろおもしろいことがわかったからである。
たとえば、七世紀ごろ、この地の対岸には渤海《ぼつかい》という国が作られていた。今の北朝鮮東部から沿海州にあった多分ツングース人の国であるが、この渤海国の使節が、なんと奈良時代から平安初期にかけて、驚くなかれ三十回以上も来ているのである。その時代のわが国の玄関は、大和ではなく、この北陸であったという。彼らの船は、沿海州|豆満江《とまんこう》河口の東京竜原府《とうけいりゆうげんふ》付近を出発して、敦賀や能登の福良津《ふくらつ》(富来《とぎ》)に来ていたわけである。
当時は、渤海語の通訳養成の学校まであったというから凄い。一回当たりの渡来者は百名前後と考えられ、彼らを滞在させる客館が敦賀に建てられ(天平四年・七三二年)、羽咋《はくい》にも客院があったという。
こういう土地柄であるから、帰化人の数も多かった。たとえば秦《はた》姓である。秦氏は帰化人といわれるが、北陸には今でも分布が多いそうだ。
当然、古代の北陸は、この対岸貿易によって富み栄えていた。敦賀と共に当時の先進文化圏でもあったわけである。
しかし、彼らのもたらす疫病もまた恐れられていた。たとえば、いまでいう流感などであろう。彼らはこれを祟《たた》りとして、気多大社《けたたいしや》を中心にして盛んに呪術的祭礼を行なっていたようである。
3
夜八時過ぎに、荒尾はホテルを出た。行き先は、香林坊の外れにあるという妖花であった。運転手も知らない店のようだが、番地をいうと連れて行ってくれた。
荒尾としては、この種の店は初めてである。しかし、若かったころは札幌のネオン街、薄野へ通った時代もあったから、怖《お》じ気づくということはなかった。ドアをあけると、意外なほど明るかった。この種の店は、じめじめと暗いのが通例である。しかし、それでも照明はかなり落とされていた。昔の経験で、第一印象でやばい店かどうかはわかる。酒田刑事からも話を聞いていたとおり、暴力バーの類いではない。
客はそれほど多くはなかった。時間がまだ早いせいか。御仕着せのボーイが、カラオケの側に案内したので、隅のほうにしてもらった。
「この店に織恵さんという人がいるでしょう」
と、ボーイに訊ねた。
「ご指名ですか」
「そう」
ボーイは、ダンスのできるフロアーを横切り、地元の人らしい客の席にいた和服の女性に耳打ちした。女はこちらをけげんそうに見ていたが、うなずいて彼の席にきた。
「いらっしゃいませ」
五十をちょっと過ぎた感じで、小太りである。美人かというとそうでもない。しかし、どこか男好きのするタイプ。
「お飲みものは」
「とりあえずビールにしよう」
と、彼はいい、率直に、「私は旅の者ですが、この店は高いの?」と、訊く。
「うちは明朗会計よ」
と、彼女はシステムを教えた。ということは、良心的ということの証明。
「どうして、あたしの名を?」
「この前、ここに札幌から刑事さんがきたでしょ」
「まあ。じゃ、お客さんも」
「いや、ちがいますがね、あの刑事さんとは知り合いなんですよ」
「札幌からですの」
「ええ。明日は能登へいくつもりでね」
ビールが運ばれてきたので、初対面の乾杯をした。
「織恵さん、実はですね」
と、荒尾は名刺を渡す。
「物を書かれるかた?」
「ミステリーをね」
「取材にいらしたの」
「そのつもりで、ぶらっとね。しかし、ホテルで退屈しているのも何なので、金沢美人に会おうと思って」
「ま、お上手」
と、いいながら彼女は、帯の間から角の丸くなった小振りの名刺を差し出した。名刺には、秦《はた》織恵とあった。
「秦さんか。あなたの遠いご先祖は帰化人?」
と、荒尾はいった。「ひょっとすると百済《くだら》王家の血を引くお姫様かもしれないな。世が世ならね」
冗談が、彼女には通じたようだ。
「『日本書紀』にはそう書いてあるよ。しかし、秦さんのご先祖は、新羅と高句麗の境にある波旦《はた》というところから日本に渡ってきた豪族だったようですね」
「ま……」
と、いって彼女は、荒尾の渡した名刺を見直し、
「あたし、先生の本を読んだことあるかしら」
「ははッ、あまり有名じゃないですからね」
などと話の糸がほぐれていく……。
彼女も、古代史が好きなのだそうだ。話してみると、よく本を読んでいることがわかる。それで話は弾む。荒尾のような客は、きっとこの店では珍しいにちがいない。
荒尾は、ビールをウイスキーに切り替えたところで、訊く。
「ところで、この店で、美津という名で働いていた八坂真美さんのことを訊きたいのですが、かまいませんか」
「この前ここにきた刑事さんも、美津ちゃん、いや真美さんのことを訊ねていったわ。なにかあったのですか」
「刑事さんはいわなかったですか」
「ええ」
「帯広で起きた殺人事件に巻き込まれているのですよ」
「まあ」
と、目を見張り、「そういえば真美さんは、家が帯広だと話していたわ」といった。
「帯広の近くにある本別という町で、双鹿秦平という人が殺された事件が昨年ありましてね、あの刑事さんはそのことで金沢にきたのです」
すると、
「今、双鹿秦平とおっしゃった?」
「そうですよ」
「あたし、その人よく知っているわ」
と、いいながら両手の人差指を額に立て、「こんな人でしょう」といった。
「ええ」
荒尾は、彼女の表情を見守る目をした。
「でも、正確にいうと、ご本人よりも奥さんのほうをよく知っているんです」
「宮子さんをですか?」
「そう」
「昨日会いました、東京で。どういう知り合いなんですか」
「若いころ、あたしたち同じ店で働いていたことがあるのよ」
と、いいながら秦織恵は顔をしかめた。
あまりいい感じではないみたいである。荒尾はたちまち好奇心にかられる。
「今じゃ、ご主人の後をついで、会社の社長をしておりますよ」
と、いうと、
「たいした女《ひと》ね」
と、また顔をしかめた。
「よくご存じのようですね」
と、荒尾はいった。
「ええ。人の悪口をいうのは、あたしの趣味じゃないけど、あの女《ひと》にはひどいめにあったわ」
「というと?」
「あたしが今こうしているのも、あの女《ひと》のせいなのよ」
と、いって、空いたグラスにウイスキーを注ぎ、ぐっと飲む。
「そうとう悪い女《ひと》のようですな」
「ええ」
と、憤懣《ふんまん》やるかたないという顔で、「思い出すだけでもむしゃくしゃするわ」と、いった。
織恵によると、結婚するつもりでいた男を双鹿宮子にとられたらしい。しかもその真面目な公務員だった男は、やがて身を破滅させ、自殺した……。今から四半世紀も前の出来事だったという。
次第に荒尾は、考える目付きになる。
「秦平氏は、宮子さんの客だったそうですな」
と、いった。「金沢で小料理屋をしていたころ知り合ったと話しておりましたが」
「そのようね。でも、店を出すお金だってあの人の保険金で手に入れたのよ。だからあの女《ひと》のことをよく知る者たちは、みんなで噂したの。自殺に見せ掛けて殺したんじゃないかって」
「へえ」
荒尾はびっくりした。「それはまた物騒な話だなあ」
「でも、噂だから」
と、織恵は肩をすくめ、「それで、あの女は、瘤《こぶ》つきで双鹿さんと一緒になったというわけ。あたしのところにも、いけしゃあしゃあと披露宴の通知がきたけど、だれが行くものですか。ね、そうでしょ」
「じゃ、結婚前に子供がいたんですか」
「ええ、彼の子供よ」
「自殺した前の男の?」
「そうよ。赤ちゃんだった頃、あたしも一度会ったわ。道端で偶然、子供を背負った彼に会ったわけ。役所は首になり、落ちぶれた姿は哀れだったわ。ほんとに気のやさしいいい人だったの。あたし、彼に別れなさいといってやったのよ、でも彼ったら、子供がかわいいからといっていたわ」
「恒夫《つねお》という名じゃなかったですか」
「そうね、たしかそうだったわ」
「彼女は、養子を迎えたといっておりましたがね」
「とんでもない。自分の子供よ」
と、彼女はいった。
「話は変わるけど、その恒夫って子供と八坂真美さんですが、二人は交際していたことはあったのですか。双鹿宮子はそう話しておりましたがね」
「まさか」
と、織恵はいった。
「ちがうんですか。二人は幼馴染みの間柄と聞いたんですが」
「いいえ。二人が幼馴染みのはずはないわ。真美ちゃんは羽咋だし、恒夫は金沢で育ったわ」
「ふーん」
荒尾の脳裏に疑惑が浮かんだ。
(なぜ、あのとき宮子は二人が幼馴染みなどといったのだろうか)
「真美さんがこの店で働いていたときに、恒夫はここに来ましたか」
「いいえ」
「二人は、真美さんが共和国航空に勤めていたころ、東京で再会して、交際していたと宮子さんは話しておりましたがね」
「嘘でしょう。あの女は嘘つきで有名なの。日に三回、嘘をいわないと具合が悪くなるような女なのよ」
「ふーん」
荒尾としては、どうもよくわからない話である。
「第一、真美ちゃんが、恒夫と付き合うはずはないわ。だって双鹿秦平はね、真美ちゃんの親の仇ですからね」
「えッ? どういう意味ですか」
「あたしも出身が羽咋だから、よく知っているのよ。昔、真美ちゃんの父親と双鹿秦平は共同で事業をしていたの。ところが、ご両親がフランスで死んで、彼に乗っ取られたわけね」
「双鹿家と八坂家とは、昔々からの付き合いがあった家柄だったそうですが」
「さあ、その話はあたし、あまり知りませんが、あのことかしらね」
そのとき、彼女に指名がかかった。
「あら、すみません」
と、織恵はいった。
「いえ、どうぞ」
「その代わり、ピチピチした子をよこすわね」
と、いって、彼女はたちまち商売用の顔に戻った。
「恵《めぐみ》でーす」
代わって席にきたのは、でかパイの娘《こ》だった。超ミニを着け、脚がすらっと長いボディコン娘である。
「もうすぐ、サービス・タイムよ」
と、隣りに座り、彼に囁いたかと思うと、店の明かりが暗くなった。変わってブラックライトが点《とも》る。
「ね、いいのよ」
「何が?」
彼女は、ミニのスカートを腰のほうへずらした。現れたパンティが、ブラックライトを浴びて、真っ白に輝く。
「触らないんですか?」
荒尾は暗がりの中で苦笑しながら、
「おじさん族だからなあ」
紙入れを取り出し、一万円札を一枚、彼女のガーターにはさんでプレゼントした。
そのとき、ガーターに食い込まれた太腿の白い肉の盛り上がりに、気をそそられてしまう。妙になまめかしい、パンティの縁に至る誘惑のゾーンだ。その幅は、僅か数センチにすぎないが、男はこれで参る。
恵という女は、華やいだ顔に似合わずしおらしく、
「すみません」
といって、札を抜きとり、おっぱいがはちきれそうな胸の谷間にしまう。
「君、いい脚だね。親に感謝しなくっちゃな」
「はい」
彼女ははなはだ素直である。
「君は金沢の人ですか」
「いいえ、富山よ」
「この店は新人?」
「でもないわ。丸三年になるけど、そろそろ辞《よ》して東京へ行こうかなって思っているところ。お客さんは東京ですか」
「ちがうよ、札幌」
「雪祭りを見に行きたいな、一度」
「雪祭りもいいけど、初夏がいい。ライラックが咲いてね、さわやか北海道。梅雨がないからね」
「行ったら、案内してくれる?」
「いいよ」
「約束よ」
荒尾は、彼女の明るさが気にいった。
「ね、恵ちゃん。君、前にこの店にいた八坂真美って人が今どこにいるか知らないかな?」
「お客さんは真美さんがお目当てできたの?」
「ちょっと会いたいと思ってね」
「あたし、知らないわ」
「そうか、残念だなあ」
「あたしは皆勤だけどさ、真美さんはとっても気まぐれな人なの。しょっ中休むし、それもひと月もよ。あの人は一年の半分しか店に出ていなかったんじゃないかしら。あたしたちともあまり口を利かないし、親しいのは織恵|姐《ねえ》さんぐらいかな」
「ふーん」
荒尾は首を傾げた。「すると、彼女はアルバイト感覚で勤めていたわけですか」
「そうね。でも、そういう人は多いのよ。三日で辞めちゃう娘《こ》だっているしね、この業界は入れ代わりが激しいの。あたしだってさ、この店では古株なのよ。この店では、あの織恵姐さんを除けば、そうね、若手では一番長いのよ」
「正直いってさ、ここ稼ぎはいいの」
「そうね。稼ぐ気ならさ、ソープって手もあるけど、躯がきついわね。その点ここは観せるだけですむでしょ。比較的楽だし、わりとお店もあたしたちを大事にしてくれるし、ま、チップなんかもいれて、平均すると、月に四、五十万ぐらいかなあ」
と、事もなげにいった。
「へえ。凄いもんだ」
荒尾は驚く。「君の齢で平均的サラリーマン以上に稼いでいるのか」
「でも、僅かの間よ。あたし、若さは商品だって思っているから、こうして働いているの。でも、もう二十五歳だしね、お金も溜まったから、東京へ出て簿記《ぼき》の資格をとろうかと思っているの」
「偉い。ちゃんと計画的にやっているんだ……」
と、荒尾は誉めた。
「ほんというと、あたしって父を知らないの。母も死んじゃったし、だから、自分のことは自分で始末をつけなくっちゃ。そうね。たしかにあたしって、いわれてみれば意外と計画的ね」
と、笑いながらいって、スカートを下ろす。
秘密の劇場は幕である。二つ円柱が並んだ小劇場はスカートの陰に隠される。
「きっといいお婿《むこ》さんが見付かるよ」
と、彼はいった。「君には、とてもいい背後霊がついているらしい」と冗談をいう。
などと話して、かれこれ二時間ぐらいはいただろうか……。
妖花を出るとき、
「どう、後で食事でもしないかい」
と、誘うと、
「ええ、お客さんならいいわ」
と、承知した。
「その代わり、頼みがある。織恵さんを誘ってきてくれないかな」
「いいわよ。じゃ、ますます安全|牌《ぱい》ね」
どういう気か知らないが、恵というこの大柄な娘は、彼の頬っぺたにキスしてくれた。荒尾も彼女にとっては、単なるかわゆいオジン族というわけだろうか……。
4
誘ったのは下心があったわけではない。もう少し、話をききたいと思ったからである。それから、店の支払いだが少し高めか。まあこんなところだろうと、荒尾は思った。
少し界隈をぶらぶらしてから、十一時過ぎの約束まで指定された喫茶店で待つことにした。考えてみたら、この街は、室生犀星《むろうさいせい》の生地であった。彼は市中を流れる犀《さい》川の辺《ほとり》で、私生児として生まれた。若いころ、『大陸の琴』とかいう小説を読んだことがあり、荒尾は一応のファンである。他にも泉鏡花《いずみきようか》とか徳田秋声《とくだしゆうせい》の文豪、哲学者の西田幾多郎《にしだきたろう》、禅学者の鈴木大拙《すずきだいせつ》なども輩出した文化都市でもある。
しかし、往年、多分、加賀百万石の経済力を背景として成熟したこの北陸の雄、どうやら一地方都市化しているように思われる。ま、街をちょっと観ただけの一旅人、荒尾十郎の印象にすぎないが、北陸の宿命というべきか。しかし、機会があれば一度住んでみたい趣《おもむ》きのある街だ。
荒尾はコーヒーを飲みながら、考えていた。さっき、恵と話したことだが、八坂真美は荒尾が想像していたよりずっと若いらしい。
荒尾が、
「もう彼女は三十を越えているはずだけど」
と、いうと、恵は、
「そんなはずはないと思うけど」
と、答えたのだ……。
彼女によれば、八坂真美は、二十六、七じゃないかという。となると矛盾が生じてくる。彼女は昭和三十一年生まれだから、今年三十三の計算になる。だが、女の歳は、化粧や身なりでどうにでもなるものだ。三十すぎの女が二十そこそこに見える場合だってある。それはそれとして、もう一つ気になるのは、八坂真美が、年の半分も店に出ていなかったことである。アパートは、ずっとこの金沢の市内に借りていたらしい。
(となると、彼女は旅行でもしていたのだろうか。たとえばヨーロッパに……)
と、荒尾は考えながら首を捻った。
彼女たちは、約束の時間に来た。赤ちょうちん風の店へ案内され夜食をとったが、看板の時間は直ぐにきた。
「あたくしのアパートに来ませんか」
織恵が誘ってくれた。「恵ちゃんもいいでしょ」
ということで、三人はタクシーに乗り、夜の街を走る。
というのも、実は、話題が食事中に変わったからだった。古代史の話をするうちに、思いがけずにあの話が織恵の口から出たのである。
「あら、今、先生のおっしゃったモーゼの墓なら、押水《おしみず》にありますわ」
押水というのは、羽咋の手前、金沢よりにある町らしい。
「モーゼの墓は能登だったんですか」
「むろん、伝説で嘘でしょうけど」
と、織恵は教えた。「能登にはモーゼの井戸はないと思うけど、墓と称するものならちゃんとあって、ほんとうの名は三ッ子塚古墳というのですよ」
「ほんとうですか。話は知っていましたがね、観光案内書に出ているわけじゃないしね、どこにあるのかと探していたんですよ」
と、俄然、荒尾の目が輝きだしたのはいうまでもない。
「詳しく知りたいですなあ」
と、いうと、
「家に行けば、まだあの本があるはずよ」
と、彼女がいったのである。
織恵のアパートは、つつましいものだった。部屋に上がり、その問題の本を見せてもらった。
他でもない、山根キクの著書『キリストは日本で死んでいる』である。見せられたのは、平和世界社という出版社が昭和三十三年に発行したものだった。
「これこれ」
と、興奮しつつ、荒尾はページをめくった。「ずうっと探していたんですがね、なかなか手に入りませんでね」
「そんなにお求めなら、先生に差し上げますわ」
「いいんですか」
「ええ」
と、織恵は気前がよかった。
「ありがとう。感謝します」
荒尾は、押し戴く仕種をした。
言葉をつづけて、「この本の前に、彼女はすでに、昭和十三年に『光は東方より』(註、『キリストは日本で死んでいる』の元本《もとぼん》である。この元本のほうは当時の弾圧でほとんど没収されたらしく、今日手に入れることは不可能とさえいわれている)という本を著して、一大センセーションを巻き起したっていいますよ」
こういう話になると、荒尾は、我を忘れて乗ってくるのだ。しかし、山根女史のいうイエス・キリスト渡日説については、本稿には、直接、関係がないので省くことにしたい。
ただひと言付け加えるなら、神学校卒業後、救世軍の活動などを通じて、社会福祉の仕事に従事していた彼女に、大きな思想的な影響を与えたのは、『竹内文書《たけのうちもんじよ》』と天津教《あまつきよう》教主、竹内巨麿《たけのうちきよまろ》であった。
熱弁ぎみに話している間、若い恵は目を丸くしていたが無理はない。なにしろ、ゴルゴダの丘で処刑されたイエスは、替え玉の弟イスキリであり、イエス自身は日本に来て、結婚すらして死んだという説が書かれているのだ。
「嘘でしょ、嘘よね」
と、恵はいった。
「ま、途方もない法螺《ほら》話だろうね」
と、荒尾も否定しない。「しかしね、この山根キクの著書は太平洋戦争前のものですが、実は戦後になってから、初期キリスト教を研究する上で貴重な古文献が見付かりましてね、その中にちゃんと、キリストには弟がいたという話が載っていたんですよ」
「どこで?」
「エチオピアだったと思います」
「まあ」
織恵がいった。「じゃあ、符合してるじゃない」
「なにがですかあ?」
恵が訊く。
「十和田湖の近くの新郷《しんごう》村というところへ行くとね、イエスの墓の他に、ちゃんと弟のイスキリの墓もあるのよ」
織恵は教えた。
ところで、荒尾が今いった話は、精神分析学の偉大な思想家、ユングに対して、ある時期、多大な影響を与えたらしいグノーシス教の文献のことである。このグノーシスとは、キリストと同時代に興った宗教で、初期キリスト教を研究するには欠かせないものなのだ。
「それまでだれも知らなかったはずの、キリストに弟がいたらしいという話を、なぜ、戦前すでに山根キク女史は知っていたのか。いや、神代文書に分類される『竹内文書』の著者がなぜ知っていたのか、不思議といえば不思議ですよねえ」
と、荒尾はいった。
そもそも『竹内文書』とは、茨城県|磯原《いそはら》(北茨城市)の皇祖皇太神宮《こうそこうたいじんぐう》天津教の管長職、竹内家に代々伝えられてきた神代史資料である。そこには宇宙創造にはじまり、神々の降臨、人種と文明の発生が年代史的に書かれている。ミヨイ・タミアラという名でムー・アトランティスらしきものすら登場する多彩さだ。また、神道でありながら、エホバもアダムとイブさえも出てくる。
「江戸時代に書かれた偽書だろうというのが、定説です。つまり学界では問題にされていないのが、『竹内文書』を初めとする『九鬼文書《くきもんじよ》』『富士宮下《ふじみやした》文書』『上記《うえふみ》』『秀真伝《ほつまつたえ》』『東日流《つがる》外三郡誌《そとさんぐんし》』
などの神代文書なのです」
と、荒尾は教えた。「しかし、果たしてこれらを偽書と片付けてしまっていいものかどうか。私はちがうと思いますね。現に、最近の考古学上の発見は目覚ましく、古代史に関しては、正史に大幅な修正をしなければならない情況です。ところが、神代文書を見ると、むしろこちらのほうが、考古学的な新発見に符合しているケースが数多いのですよ」
この問題は、荒尾なりに考えて、どうも正史のほうこそ偽造臭い。すなわち、正史側の古代史根本史料としては、『古事記』『日本書紀』その他が存在するが、これこそがむしろ、真実を歪曲しているらしいということである。
なぜか。大和政権による故意の歴史偽造ということだ。それは一種の犯罪といってもよい。つまり、己の正統性を確立するために、政治的配慮でなされた歴史の偽造だということである。
ここ北陸の先進的古代文化についても、しかりである。大和政権は、北陸を支配下に収めて、収奪したのだ。この場合、単に資源的収奪では終わらないのが通例である。中央権力は地方の歴史をも抹殺するのだ。征服者は地方の神すらも殺す……。
「しかしですね、にもかかわらず、中央大和政権の手になる地方史抹殺計画の嵐を生き延びて、ひそかに、今日にまで、守り伝えられてきたものがあった。それが、神代文書だったのです」
話を戻すが、『竹内文書』とは、第二十五代|武烈《ぶれつ》天皇の勅命により、五世紀後半に武内宿禰《たけのうちすくね》の子孫、平群真鳥《へぐりのまとり》が漢字仮名まじり文で、口伝承等を書き写したものとされる。つまり、成立は『古事記』(七一二年成立)よりもずっと古い。しかし、以来、江戸期を通じて幾度も書き写されて、今日に伝えられた。ために、後代の筆記者の知識や解釈も入っているようである。一説には、明治期にすら加筆、改竄《かいざん》された痕跡があるといわれているほどだ。
が、しかしである、だからといって、この文書の全部を偽物と決め付けることはできないはずだ。
なぜなら、『古事記』にしても、現存する最古の写本は善福寺本といわれるものだが、南北朝時代のものである。その間に、筆記者によって大幅な改竄があった可能性は否定できない。
つまり、その内容が、今日の考古学その他の証拠に対照して、合っているかどうかなのである。たとえ、『竹内文書』の文体、紙質などが、近世のものであったとしても、内容のすべてを否定する根拠にはならない。その反対に、『竹内』に書かれた全部を肯定することもできないわけである。
「皇祖皇太神宮には、モーゼの表十戒・裏十戒というものさえ、神宝としてあったそうですね」
織恵はいった。
「そのとおりです」
と、荒尾は答える。「他にも、不思議な超古代世界地図、ヒヒロカネの剣、太古の天皇の骨粉で造られたと称される神像などもあったといいます」
実は、これらの偽造の神宝が、『竹内』の記述内容とともに問題となり、有名な天津教裁判となるのだ。
「武内宿禰の第六十六代の子孫を名乗っていた巨麿の素姓そのものには問題があったみたいですがね、とにかくこの裁判には、陸軍の将校や学識経験者も連座したという」
と、荒尾はいった。
『竹内文書』には、戦前期のタブーであった皇室の出自に関する異説や、古代日本におけるユダヤ教を示唆する記述があったからである。これが当局の目に触れたのはいうまでもない。昭和十二年、天津教はふとどきな異端の徒というわけで、神宮神祠不敬罪として起訴され、解散させられる。
すると、
「先生、実はね、あたしの父もなんですよ」
と、織恵が打ち明けたのだ。「あたしが、まだもの心つくかつかないかの頃でしたが、よく特高の刑事が家に来ましてね、父の行動を調べて行ったこと、今でもあたし覚えておりますわ」
「なるほど、それで、あなたは、この方面に興味を抱いたのですね」
と、荒尾はうなずいた。
「ええ。その先生に差し上げた本も、父の遺したものよ」
と彼女は教えた。
「その本に、モーゼの墓のことが書いてあるんですか」
と、恵がいった。
「ええ、そうですよ」
と、目次を見て、荒尾はページを開き、「これによると、モーゼは、葺《ふき》不合朝《あえずちよう》七十代、神心伝物部《かみこころつたえもののべ》天皇即位七十五年九月八日、能登|宝達山達宮《ほうだつさんたつみや》において、五百八十三歳をもって宝達山ネボ山谷に葬られ、分骨して越中の呉羽《くれは》山の安念坊《あんねんぼう》に葬られた――とありますよ」と教えた。
言葉をつづけて、「驚くべき話だが、すくなくとも、そう書いてある事実そのものは曲げられない。問題なのは、なぜそうしたとほうもない伝承が、能登にあったかということでしょうな」
「実はね」
ふたたび織恵がいった。「あたしの父は、今いいましたとおり、天津教の心酔者の一人だったんですよ。父は、あたしが生まれたときにもね、警察に連行され、厳しく取り調べられたそうです。あたしの家は、天津教裁判のあったころから傾きはじめ、日本が戦争に負けたこともあって、没落してしまいましたが、古い家柄だったの。そのとき、一緒に布教活動をしたのが、八坂真美さんのお父様だったって後で知りましたわ。そういうこともあって、あたしは真美ちゃんとは特別親しかったのですが、やはりね、父と同じ仲間に双鹿秦平がいたのです」
「なるほどねえ」
と、荒尾はうなずく。「そういう間柄だったわけですか」
彼は、次第に、話の糸が一本につながってきたと思った。
「さきほど、八坂征一郎氏と双鹿秦平は共同で事業をしていたといいましたね」
と、つづける。
「ええ。この金沢で会社を作り、九谷焼の卸しを手広くやり、事業は成功していたのです」
「ところが、海外旅行中に、パリで八坂ご夫妻は、突然、強盗に襲われて死んだ。それで、事業は、双鹿秦平一人のものになってしまった。そういうわけですね」
「ええ。それでね、当時、いろいろな噂があったんです」
「どういう?」
荒尾は、注意ぶかく耳を傾ける。
「真美ちゃんの両親は、パリで強盗に殺されたのではなく、ほんとうは双鹿秦平が二人を殺害したんじゃないかという噂」
「なんですって?」
思わず荒尾は、目を見開く。
「でも、あくまで噂よ。なにしろ外国で起きた事件ですもの、日本の警察でも詳しく調べようがなかったみたい」
「ということは、つまり、その旅行には、双鹿秦平も同行したということですか」
「ええ。もう一人、当時すでに婚約していた宮子さんも一緒でしたわ」
「なんですってッ!」
荒尾は、我を忘れて、ふたたび声を大きくしたのだった。
「四人連れで、モーゼの井戸を探しに行かれたんですって。他にも同行者を募ったのですが、結局、行けたのは四人だけでしたわ。そして、二人だけが日本に帰ってきた」
「ふーん。そういう過去の事情があったのですか」
荒尾は、深く腕を組んで、すっかり考えこんでしまう。
この事件は、昭和五十年の夏に起きた。翌年、秦平と宮子は結婚する。これは、単に偶然の一致であろうか。
5
もう深夜をとうに過ぎた。荒尾は、礼をいって帰ることにした。
方角が一緒なので、家まで恵を送ることにした。電話でタクシーを呼び、二人は乗る。
彼女のアパートまできたときだった。突然、恵がいいだした。
「そういえば、真美さんと一緒に撮った写真が、うちにあったはずだわ」
「ほう」
「真美さんは大の写真嫌いだったの。でも、お店でお客さんがね、ポラロイドで撮ってくれたのが一枚あったわ……」
「それはぜひ見たい」
と、荒尾は、誘われるままに、チップを弾んでタクシーを戻し、彼女の部屋について行った。
鉄筋造りの割りと高そうなマンションだった。だが、女性専用とかで、部屋は一DKである。
「お好きなところに座って」
と、荒尾にいうと恵は、まるこいお尻をこちらに見せて、押入れの中を探した。
「あったわ」
と、さも大発見でもしたように叫び、アルバムを持ってきた。
「これよ」
荒尾は、フラッシュで撮ったポラロイド写真を見た。なるほど、想像していたより若い感じである。
「ね、あたしのいったとおりでしょ」
「うん」
どことなく陰のある顔の美人であった。貌《かお》は濃く化粧されているらしい。
「これ貰えるかな」
と、荒尾はいった。
「いいわよ。でも、朝までいて」
「ここに」
「そうよ」
「男子禁制のマンションなのに?」
「でもお父さんは家族だから別」
「私が?」
「そうよ。ね、いいでしょう」
「いいけど、おじさん、狼になるかも」
「いいわよ。でもあたしは、父と思っているから」
(変な夜になりそうだ)
と、思いながら、荒尾は承知した。
「じゃ、あたし、バスに入ってくる」
荒尾は、シャワーの音を聞きながら、まったく変な気持である。
彼女はすぐに出てきた。木綿のパジャマを身に着けていた。荒尾は、バスを代る。
「寝間着ないけどいいですか」
「いいですよ」
と、答えてバスを出ると、部屋の明かりは薄暗くなっていた。
ベッドはダブルだった。
「あたし、躯が大きいから」
と、恵はいわれもしないのに言い訳した。
荒尾は彼女の傍らに潜りこむ。
「あたしって寝相が悪いらしいの。そのときはごめんなさいね」
というと、彼女は躯を横にして、荒尾の腕を頭の下にした。
「こういうこと、一度してみたかったの」
「お父さんと会ったこと、ないの?」
「ないの。でも、気の毒だなんて思わないでね」
「思わないよ」
と、荒尾は苦笑しながら、恵の頭を撫でてやる。
「もっと」
「なにを?」
「触って」
「おじさんを誘惑する気だな?」
「しちゃだめ?」
「だめじゃないけど、正直いうとむらむらしてくるよ」
「あたしはいいのよ」
「危険な科白《せりふ》だ」
「あたしもむらむらしてきちゃった」
と、まるで屈託なくいうと、パジャマのズボンを毛布の中で脱ぐ。
「パパも」
と、いって彼女は荒尾の下着を脱がせる。
「パパは困るなあ」
「いいじゃない。ほんとはパパじゃないんだから」
結局、恵のいいなりになり、二人は毛布の中で裸になった。
大きな胸乳を荒尾は撫でてやった。恵は気持よさそうに目を閉じる。
「あたし、眠くなっちゃった」
「いいよ、きっといい夢をみられると思うよ」
と、荒尾はいった。
「あれはいいの」
「ああ、いいよ」
荒尾は、彼女に気遣われているようで、苦笑した。
「じゃ、お休みなさい」
「お休み」
部屋は真っ暗になる。
(五十年も人生やっていると、こういう夜もあるのだな)
と、思いつつ、荒尾は恵の寝息を聞く……。
第五章 モーゼの墓
1
翌日、荒尾は能登へ向かった、金沢から輪島へ至る鉄路は七尾《ななお》線である。窓際の席に座って、車窓の景色を眺めたが、期待していた能登の海は見えず、進行方向の右手に、宝達《ほうだつ》丘陵がつづいていた。
天気は悪かった。森が多く、柿の木が赤い実をつけていた。列車は急行なのに、のんびりした走りかただ。途中に宇野気《うのけ》という駅があった。
「このへんは、霧が多いですか」
と、向かい合って座った土地のおばさんに訊くと、五、六月ごろは多いそうだ。
というのも荒尾なりに考えて、羽咋にある気多大社《けたたいしや》の名前も、そうした気象に関係のある地名じゃないだろうかと思ったからだ。
(能登は気の国だったのではないだろうか)
と、荒尾は想像した。
なんとなく暗い感じのする車窓の景色だ。家々の屋根が黒い瓦で葺《ふ》かれているせいもあるが、曇天《どんてん》下のそれはモノクロームである。
地図を見ているうちに気がついたが、鳥地名も多いようだ。鳥越《とりごえ》、鳥屋尾《とりやお》、鳥屋《とりや》、田鶴浜《たつるはま》、羽咋などである。昔の能登は、海鳥や渡り鳥の多い国だったのかもしれない。
(水平線の世界から飛んでくる鳥を、あるいはエビス〈異邦神〉として崇拝する習慣があったのではないだろうか)
たとえば、イースター島にも、軍艦鳥《フリゲート・バード》の卵を崇拝する習慣が、昔はあったのである。
また、能登の地図には、鹿島《かしま》郡、鹿島町、鹿西《ろくせい》町、志賀《しか》町という地名も載っているが、これはおそらく海人族がきたことの名残ではないか、と荒尾なりに思った。これは鹿が多かったからではないはず。カ≠ヘ水夫《かこ》のことで、利根川河口の鹿島・香取のように全国的に多い地名である。
それから、能登は、能渡《のと》だったのではないだろうか。佐渡《さど》、渡島《おしま》(蝦夷)と同じで、渡り地名であるような気がした。
むろん、これらは荒尾なりに旅のつれづれに考えた私見というわけ……。
列車が押水を通過したとき、写真を撮った。しかし、目当ての宝達山は、たれこめた雲に隠れていた。
羽咋には十一時前に着く。改札を出たところに駅の案内所があったので、飛び込んで話を訊いた。藤田という記章をつけた駅の係の人が、えらく親切である。荒尾は感激した。
「取材にいらしたのなら、詳しい運転手さんを呼んであげましょう」
と、いいながら、地図などをくれる。
荒尾がモーゼの墓の話をすると、こちらではあまり知られていない話のようであった。
わざわざ電話までして呼んでくれたタクシーの運転手は、宮本さんといった。とりあえず、市の歴史民俗資料館に行ってもらう。ここには堀田さんという年輩の館長がいて、親切に質問に答えてくれる。
それから、少名彦名《すくなひこな》神社へ行く。ここで貰った資料によると、古来、羽咋には羽咋の七塚なるものがあったそうで、この場所は犬塚という。
――昔、巨大な怪鳥が田畑を荒らして人々が困ったことがあったそうな。そこで、今は羽咋神社の主神として祀《まつ》られている産土大神磐衝別命《うぶすなのおおかみいわつくわけのみこと》が、弓矢を取って怪鳥を退治した。そのとき、御供の犬が重傷を負いながらも怪鳥を食い殺し、その羽根をくわえて命《みこと》の前に現れたが、力つきて死んだそうな。住民たちはこの勇敢な犬を称えて亡骸《なきがら》を埋めて犬塚と呼び、のちに外来神の少名彦名命(医療神)をここに祀ったというのである。
以上が、伝承に残る、羽咋の地名の由来で、この犬が羽を喰≠チたところからそう呼ぶようになったものだという。
しかし、荒尾なりに思うに、この羽咋伝説は、白鳥伝説の一つではないか。白鳥は、北方ツングース系の神であり、シャーマンは鳥の姿を真似ていた。その流れが、たとえば津和野に遺る鷺舞《さぎま》いの行事である。
想像ではあるが、このあたりは、今でも北海道にはいる大白鳥の出発地だったのではないだろうか。白鳥たちは長いシベリアへの旅に出発する前に、大量の餌をとる。それでこのあたりの古代人は、田畑を荒らされて困っていたにちがいない。この鳥害が羽咋の伝説になったのではないか。あるいは、白鳥信仰の部族に政権交替のあったことを示す痕跡かもしれない。
なお、以上の怪鳥退治説話には異なる伝承もあり、八代孝元天皇のとき、北島の魔王が毒鳥と化して害をなし、邑知潟《おうちがた》の大蛇が出没して住民を苦しめたことがあった。このとき出雲《いずも》の大己貴命《おおなむちのみこと》が三百余神を連れて退治にきたという。これは、須佐之男命《すさのおのみこと》の八岐《やまたの》大蛇《おろち》退治と同系統の説話である。
などという話を、荒尾は、宮本運転手と話しながら、
「そういえば、能登半島の形は、羽を広げた怪鳥の姿にも見えますな」
と、いった。
ま、輪島のあたりが目になり、奥能登丘陵は、鳥の長い嘴《くちばし》に見えなくはない。
車は、次に気多大社に着く。
大己貴命(大国主命《おおくにのぬしのみこと》)が祀られているらしい。そのせいでもあろうか、神社の向きは南西。ほぼ出雲の方角。鳥居も海に向かって建てられているところは、神霊の来たれる方角が海ということである。
古びて厳粛ないい感じの神社だった。森に囲まれた参道を歩いて参拝した。
ここには、鵜祭《うまつり》というものが十二月にあり、生け捕りにした鵜を籠に入れて、ここまで運んでくる行事だそうだ。
そういえば、北海道のアイヌ民族にも似たような行事がある。これは鵜ではなく梟《ふくろう》であるが、足を縛りつけて神輿《みこし》のようにして担ぐ。なお、この梟は、里の守り神である。
他にも羽咋には、水なし、塩なし、待ったなしの唐戸山神事《からとやましんじ》相撲《すもう》や蛇の目を射る蛇《じや》の目神事《めしんじ》などもあるそうだ。
車に戻り訊いた。
「気多の由来はわかりますか」
「折口信夫《おりくちしのぶ》博士は、気多は橋桁《はしげた》のことだといっておりますけどねえ。海から憑《よ》ってくる神霊の陸地への足掛かりを意味するそうですが……」
と、教えてくれた。
いうまでもなく民俗学の大家である。
なるほど一理ある説だとは荒尾も思った。しかし、気多はそのまま、気が多い≠アとではないだろうか――というのが荒尾の解釈。むろんこの気とは海霧のことであり、その冷気に紛れこんでいる精霊のことである。そうこの地に住んだ古代人は考えていたのではないだろうか。
そのあと、亀石というものを見にいった。滝崎というところにある巨岩らしい。車では行けないので、途中から海岸の道を歩いた。
日本海は、突然、晴れた。荒磯に高い波が打ち寄せてくる。風が強かった。豪快な波は、白く光りながらくずれる。
荒尾は、至極、魂を洗われた気分である。
前方左手の彼方に、能登半島の山並が青く霞んで臨まれた。
歩いているうちに一句浮かんだ。
海鳴りて白兎に化すや能登の海
亀石は、小さな家ほどもある巨岩であった。写真を撮ると老婆が腰を曲げて歩いてきた。
荒尾を見て話しかける。
「昔はこの倍も大きかったそうだが、石垣の材料にされたそうじゃ。昔、殿様がな、この岩の上に乗ってな、海女《あま》の働く姿を覗き見して喜んだそうな」
などと話してくれた。
彼女も、若いころは海女で稼いだそうだ。
道を一緒に戻った。途中で教えてくれたが、ここにも稲葉の白兎伝説というものがあるそうな。
「ほう、あの話は因幡《いなば》じゃないのですか」
「いや、こっちが本家じゃ」
と、強い風に声を飛ばされながら、大声で教えてくれた。
いずれにしても、能登と出雲の濃い関係をあらわす伝承ではないか。
「浦島太郎の話もこちらにはありますよ。さっきの亀石がそれで、子供のころ聞いたもんじゃ」
「へえッ。おばあさん、浦島太郎なら丹後半島のはずですがね」
というと、前と同様、
「いや、本家はこちらさ」
と、いった。
これをイリサコ伝説という。
昔々、能登の国にイリサコ太郎という正直な男がすんでいたそうな。あちこちをまわり、大鷲を退治したり、盗賊を平らげたり、荒れ地を開墾《かいこん》して人々に慕われていたそうな、という話である。
彼はある日、海岸に流れついたウツホ舟(丸木舟)を見付け、沖へ出て漁をしているうちに、流されてカラの国へ行った。カラの国でもイリサコ太郎は人々に尊敬され、それが王様の耳に入り、王女の婿になった。しかし、望郷の想いが募っていると大きな亀があらわれて、「乗んなさい」といった。喜んで亀の背中に乗って、たどりついた場所が一《いち》ノ宮浦《みやうら》の亀石であった。こうしてせっかく故郷に戻ったというのに、知っている者は一人もいなくなり、彼の髪も真っ白になっていた。
なお、この話のカラの国というのは、むろん、その頃韓国の南にあった金官加羅国《きんかんからこく》のことにちがいない。
荒尾なりに考えて、能登の浦島伝説のほうが、ずっと現実的だと思った。丹後の浦島神社にある話は、海中の竜宮へ行く話だが、こちらは文学的な脚色がみられる。彼自身が作家の端くれなものだから、そのへんの脚色技術はよく理解できるわけだ。事実、竜宮へいく浦島太郎の話は、中国の神仙思想の影響が大だといわれている。
つまり、プロトタイプは、イリサコ太郎のほうではないか。古くからあった対岸との交流を、この話はよくあらわしているのだ。
そして共に亀が出てくるが、この亀は本物の亀ではなく、亀船のことにちがいない。往時、亀のように舷側が膨らんだ船が、外洋船として使われていたのである。たしかその模型は、慶州の博物館へ行くと見ることができるはず。
荒尾は、ふと思い付いた。
(金官加羅国から敦賀に来たツヌガアラシトの話と浦島伝説は無関係でないのかもしれない。ひょっとするとそれが能登へ来たモーゼだったのではあるまいか)と……。
2
荒尾は車に戻った。
「じゃ、押水へ頼みます」
モーゼの墓の場所は、羽咋ではわからず、とにかく行ってみるより仕方がない。
押水に来てから、尋ね尋ね行くと、とある役所で、宮本史郎さんという若い人に会った。
驚いたことに、この人が、モーゼ伝説を押水の観光資源にしようとしている仕掛人らしい。
名刺をくれた。肩書きはモーゼクラブの事務局長である。
資料もくれた。地図も貰った。
荒尾はついでに訊く。
「この界隈では盛んに今、UFOが出ているそうですが、ほんとうですか」
「らしいですね」
礼を言って、教えられたとおり、車は山に入る。真新しい標識がついていた。やがて、小高い丘になったところに三ツ子塚があった。
ここが問題のモーゼの墓である。いや、……とされているものである。小山全体が松の林で覆われていた。
道端にライトバンが置いてあった。署名帖が後ろの荷台にある。署名をしながらページをめくると、大本《おおもと》教の人たちが大勢きていた。外国から訪れる人も多いようだ。押水のモーゼの墓は、知る人ぞ知る存在というわけだろう。
「大本教関係者が団体でねえ」
荒尾としては、大いに気になるところである。というのは、昨夜、織恵も話していた天津教事件であるが、これと前後して、大本教も当時の官憲の手入れを受けて、弾圧されているからである。
彼は、塚に上り写真を撮った。
しかし、頂上には、
賢者モーシェ大導主の霊位
という杭《くい》が一本立っているだけであった。
頂上に窪があったが、これは発掘の跡のようだ。戦後まもなく、進駐軍の人がここに来て、埋葬されているものを持ち帰ったという話を、荒尾は耳にしたことがある。
この話は、戦前期に山根キク女史の発表した例の『光は東方より』が、いかに、かの地で反響が大きかったかの左証であろう。
荒尾は、腕組みして考え込んだ。
――さて、キリスト渡日説はともかくとして、右書では、モーゼに関して、いったいどのような内容が書かれているのであろうか。それが、SF作家顔負けの途方もない話だったのである。とてもとても、当時、東京市議会議員まで務めた人の言説とは思えないほどの破天荒ぶりである。
しかし、当時の日本には、そういう説の横行する社会的風土があったようである。すなわち、日本ユダヤ同根説だ。山根キク女史の奇怪な説も、そうした社会背景に照らして考える必要があり、それはそれで一冊の本が書けそうな、戦前期における陰の社会思想史なのである。
山根女史は、まず、エホバは天火母のことだとする。これ自体が、実はまちがいである。エホバはヤハウェの単純な聞きちがえだからである。なお、ヤハウェ(ヤーベ)というのは神の名ではない。ユダヤ語の坐《ま》します者∞存在する者≠フ意だ。
山根女史は主張するのだ。天火母の火は父でホといい、バは母のことであるから、エホバ(天火母)は、天国の父母、すなわち五色人《こしきじん》の先祖の代名詞である、と。
なお、この五色人というのは、『竹内』独特の概念で、世界の根本五人種である。すなわち肌の色で、黄人、赤人、青人、黒人、白人に分けたわけである。
また、女史によると、アダムとイブはきょうだいであり、彼らの父親は、日本から世界に向かって派遣された十六人の一人、赤人女祖《あかひとめそ》の子として生まれた。が、忌まわしいきょうだい婚をしたのでエホバの怒りに触れて、ユダヤ地方へ追放された。以来、ユダヤ民族は辛苦の生活を強いられるのである。
この考えの根底には、当時の日本の一部で流行した、日本根源説がある。世界の人種・文明のすべてが、わが国から発生したという考えかたである。
ヒトラーのアーリア民族優越思想と似通った考えではないか。ヒトラーはこの思想を背景としてユダヤ絶滅計画を実施し、わが国は大東亜共栄圈《だいとうあきようえいけん》思想を宣伝、朝鮮、中国やアジアへ侵攻していたわけである。
さて、モーゼである。山根女史にいわせると、モーゼの十戒こそ、わが超古代天皇より受けた法律だという。
すなわち、当時、わが日の本の国には、三十六箇条よりなる世界憲法というものがあり、その内の二十箇条をモーゼは日本天皇から許可され、おのが民族の根本法とした。彼は、これをナイル産のメノウ石に刻み、月イックス、日イックス、モーゼの魂石なるものを作った。さらにそれを、日本に持ち帰り、天皇に献上した。天皇はこれを喜び、大室姫《おおむろひめ》をモーゼに賜し、二人はふたたびイスラエルに戻ったという。
彼女は、葺《ふき》不合朝《あえずちよう》第六十九代|神足別豊鋤《かんたるべつとよすき》天皇の第一皇女であり、後にローマ姫と呼ばれた。彼女は、最後にはモーゼとともに日本に帰国し、能登宝達の地に住み、ここで亡くなった。その遺骸が、ここ三ツ子塚に、モーゼおよび孫のタルラス・イホスチビリゥスと共に祀《まつ》られているという。
右のように、真偽は論外としても、記述はかなり詳細である。
モーゼはいつ日本に来たかというと、神武紀元前七百六十五年であった。西暦では、前一四二五年、モーゼは、能登に上陸し、皇祖皇太神宮で荒修業をおこない、十戒法を授けられた。これを持って彼《か》の地に戻り、自族を無事、約束の地≪カナン≫に導くという大事業を達成すると、後継者のヨシアに後を託す。このとき、彼は百二十五歳であった。
そして再度、来日。また修業をして、三度彼の地へ行く。このときのモーゼはロミュラスであった。
ロミュラスとしての彼は、ギリシア、ローマ、エジプトの平定に努め、またまた日本に戻り五百八十三歳で死んだ。ときに、葺不合朝七十代|神心伝物部《かみこころつたえもののべ》天皇即位七十五年九月八日であった。
なお、宝達山ネボ山谷より分骨したものは、越中|呉羽《くれは》山|安念坊《あんねんぼう》にある。
妻の大室姫は二年後の二月七日に他界、享年四百七十一歳であったとされる。
二人の間には子供が多く、それぞれ各国の王になったが、長男ニューマボンヒリウスはローマ法皇になった。次男はヒホシンヒリウスである。
次に、十戒石であるが、竹内家に保存されていた。表十戒はユダヤ国内法である。裏十戒は世界法であるらしい。天津教裁判にも証拠品として押収された代物《しろもの》だそうだ。
他にモーゼの形見石と称されるものもあり、アフリカのエボロ川で採取されたメノウ石だそうだ。アジチフミ文字を刻み、モーゼの霊像だといわれ、伊勢|外宮《げくう》の神体内に収められていると山根女史は書いている。
と、まあ、こんな次第であるが、小泉八雲《こいずみやくも》ことラフカディオ・ハーンも、モーゼ来日説を信じたと書かれ、そのことが帰化の動機であったという。
そして、この話を、小泉八雲に話したのが、山岡鉄舟《やまおかてつしゆう》の高弟といわれる安倍正人《あべまさと》という人物であった。彼は、安倍仲麻呂《あべのなかまろ》の子孫であり、安倍家に代々伝えられている古文献には、そのモーゼの来日がちゃんと書かれているのだそうだ。これを、『安倍文書』というが、小泉八雲と山根女史以外では、見た者はいないらしい。東京空襲で焼失したものか……。
3
荒尾は車に戻った。
「羽咋へお願いします」
山道を下る。
なんとなく生気を抜き取られたように、ぐったりしている荒尾であった。荒尾の自動焦点カメラのα‐9000が、手を触れぬのに勝手に動くという経験などをしたが、これは小雨で濡れたせいか。
「運転手さんは、UFOを見たことありますか?」
「いいえ、あたしはまだ。しかし、多いらしいですね」
「菱形のUFOが最近、北陸地方に出ているそうですね」
「ええ。テレビで放映しておりましたね」
などいう話をしたのには、実は、理由があった。とにかく、モーゼの墓こと三ツ子塚には、そうしたなにか得体のしれない雰囲気があった。多少、霊感が荒尾にはあるからだろうか。
礼をいってタクシーを降り、また七尾線に乗った。今夜の泊まりは、海辺の温泉、和倉《わくら》である。
宿は、美湾荘《びわんそう》であった。大きくて豪華である。
早速、風呂に入る。露天風呂は、生け垣のすぐ外が七尾湾であった。
実にいい気持だ。対岸の能登島を眺めながら、荒尾はのうのうとする。発見は古く、今から千二百年前。当時は湧浦《わくら》と呼び、これが和倉になったものらしい。
風呂からあがり、浴衣がけで毛脛《けずね》を丸出しにして少しうとうとしていると、だれか来た。多分、部屋付きの女中さんだろうと思い、「どうぞ」といったきりにして寝そべっていると、どうも気配が変だ。目をあけると凄い美人が座っていた。慌てて飛び上がり、畏《かしこ》まって頭を下げた。美人はおかしそうに荒尾を見ていた。挨拶うかがいらしい。後で聞いたが、ここの若いほうの女主人らしい。とにかく、びっくりした。
荒尾は、なんとなく、夏目漱石《なつめそうせき》の『三四郎』の気分である。
料理は最高。女中さんも親切だった。
荒尾は夕食を済ませてから輪島に電話した。八坂真弥のところである。掛けた番号は、彼女の仕事場のほうらしい。
「はい、輪島工房です」
と、主人らしい人が出た。
「そちらに八坂真弥さんおられますか」
「はい、ちょっとお待ちを……」
受話器に、「真弥ちゃん、電話だよ」という声が届く。
しばらくして、
「すいません。もう帰ったようですね」
「自宅の電話はわかりませんか」
「あなたは?」
「失礼しました。北海道からきた荒尾というものですが」
「お知り合い?」
「ええ」
工房の主人らしい人は、番号を教えてくれた。
荒尾は電話を掛け直す。今度は、中年過ぎらしい女の人が出た。
「真弥さんはまだ帰っておりませんけど」
赤ん坊の泣き声がした。
「今日は遅いといっておりましたか」
「ええ。青年会の会合があって、十時ごろになるといっておりましたが」
「わかりました。また掛け直します」
荒尾は電話を切り、今度は、札幌に電話した。
酒田刑事は自宅に戻っていた。
「今、和倉温泉に泊まっています」
と、彼はいった。
「収穫はありましたか、先生」
「ありましたよ、酒田さん。モーゼの墓がわかりました」
「ほう……」
「今日、山の中へ行って見てきましたがね、墓は能登だったのです」
「能登のどこですか」
「押水というところにありましたよ」
「押水というと?」
「刑事さんが行かれた羽咋の手前の金沢に寄った町ですよ」
「なるほど。羽咋のすぐ近くにあったのですか」
「ええ。これで、被害者、双鹿氏の出身地にモーゼ伝説があったことがはっきりしました」
「そうですな。いや、大変参考になります。例の帯広のホテルの従業員が聞いたあの話も、これで意味が出てきますからな」
「刑事さんが捜査資料を読み直して、あの田川というホテル従業員の証言に注目したのは、やはり正解だったわけですよ」
「いや、どうも。たしかにあれは、ちょっと常識外れの証言でしたから」
「とにかく明日は輪島へ行き、八坂真弥に会って話を聞いてきます」
「いや、すみません」
「何、私はどうせ小説のネタ探しも兼ねていますからね」
「よろしく。で、明日は輪島にお泊まりですか」
「そのつもりです。なにせ奥能登というところは、列車の便が意外と不便なところらしい」
「そうでしょうね。能登半島の一番奥ですから、輪島は……」
言葉をつづけて、「しかしなんですなあ、能登にモーゼの墓がねえ。帰られましたら、ゆっくりその話を聞かせてください」
「ええ、いいですよ」
荒尾は電話を切る。
4
外に出てもしようがない温泉町である。荒尾は、部屋にこもって読書した。勉強したのは、ツヌガアラシトのことである。
この人物のことは、『日本書紀』の垂仁紀《すいにんき》に出ており、次のとおりだ。
御間城《みまき》の天皇の世に、額《ぬか》に角《つの》のある人、一船に乗りて、越の国の|〓飯《けひ》の浦にて泊《は》てき♂]々。
どういうことかといえば、崇神《すじん》天皇のとき、額に角のある人が、敦賀の気比浦に来たという話である。彼の名は、都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》といい、敦賀(角鹿)の地名もこの名に起因するのだ。
彼は、意富加羅国《おおからこく》の王子であった。この国は、多分、金官加羅(任那《みなま》加羅)のことである。今の金海付近(釜山《プサン》付近)である。
またの名を、ウシキアリシチカヌキ(于斯岐阿利叱智干岐)というこの王子は、はじめ穴門《あなと》(長門か)の伊都都比古《いつつひこ》を訪ねるが追い返されて、出雲経由で敦賀に来るのだ。彼はそこで三年間、次の垂仁天皇に仕えるが、帰国するときに、お前の国が御間城《みまき》(崇神天皇)にあやかるように、弥摩那《みまな》(任那)にせよといわれる。
彼はいったい何者だったのであろうか。一説では、加羅国には阿羅という地方があり、そこの王子ではないかという。
ではなぜ、彼は額に角があると書かれているのだろうか。本編の被害者、双鹿秦平氏と同じわけである。
兜《かぶと》の角ではないかというのが、一般的な説だ。騎馬民族なら当然であろう。
この牛角兜の起こりは、川崎真治氏によれば、メソポタミヤ起源だという。ウル・サグといえば、ウル語では武将のことだ。中央アジアも同じ言葉だが、ウル語の犬・動物一般をあらわすウル≠ニ、頭・兜をあらわすサグ≠ェ合成されて、ウル・サグ(武将)の意味になったという。古代のメソポタミヤでは、二つの動物の角をつけた兜を被ることが武将の印であった。その習俗が、中央アジアから中国・朝鮮経由でわが国に入ってきたわけである。
従って、ツヌガアラシト(別名ウシキアリシチカヌキ)とは、百済・高句麗・夫余の王族につながる古代東夷の牛加≠ノつながり、さらにさかのぼれば、殷代の牛方≠ノもつながる武将のことなのだそうだ。
さらにである、驚くべきことに、敦賀にはアレキサンダー大王が来たという話すらあるが、これも実は、この大王が、双角王と呼ばれたウル・サグであったからに他ならない。
(まさか、アレキサンダーが日本に来たとは思わないが、これは敦賀のツヌガアラシト伝承と結び付いてできた話なのではないだろうか)
と、荒尾は思った。(となると、この敦賀からほど近い能登のモーゼ伝承も、同じ類いかもしれないぞ)
荒尾自身としては、本気で、三ツ子塚・モーゼの墓説を信ずる気にはなれないが、なぜそういう話が生まれたものか、そのことには興味はあった。彼自身が作家なので、まるで根拠のないでたらめは書けるものではないということを、よく知っているのだ。必ず、嘘は嘘なりに根拠があるはずなのだ。
(山根女史は、『竹内文書』を信じてモーゼの墓を探したのであろうが、なぜ能登に比定したものか。あるいは人から聞いた話かもしれないが、それにしてもなぜ能登でなければならなかったのか)
荒尾は、あれこれ考えつづけた。
平安時代の遣唐使派遣の折りに、かの地で『旧約聖書』を読むか、その知識を教えられた人々がいたのではないだろうか。
当時、中国には、キリスト教の一派であった景教(ネストリウス派)が伝承され、かなりの信者もいたわけである。荒尾自身も中国|西安《せいあん》を訪れた折り、碑林というところで有名な大秦景教流行中国碑≠ニいうものを見たことがあるが、当時、大変に流行していたのが、このオボロンの伝えたネストリウス教だったわけである。
さらに、中国にはそのころ、五十万人ものユダヤ人がいたという説もあるほどだ。
そう考えるなら、モーゼというイスラエル民族の英雄の話が、遣唐使によってわが国に将来《しようらい》されていたと仮定しても、別に無理ではないはず。現に、別名を厩戸皇子《うまやどのおうじ》といわれた聖徳太子の生誕伝説は、厩《うまや》で生まれたイエス・キリストの生誕説話そっくりだといわれている。
つまり、景教は仏教のように日本では普及しなかったが、一部知識人にはその知識があったのではないかということである。
そうなると、『安倍文書』なるものにモーゼの話が載っていたとしても、無理な話ではない。『竹内文書』も同様だ。これらの文献の筆記者は、さらに空想を広げることによって、モーゼは日本に来ているぞという話を捏造《ねつぞう》したのではないか。
そういえば、『九鬼文書』には、カゴメ・マークがあるという。さらには、伊勢外宮にもそれがあるという。
(いや待てよ。たんなる捏造ではなく、立派な根拠が、当時すでにあったのかもしれない)
と、荒尾は考えつづける。(平安期のインテリゲンチャの頭の中には、われわれ現代人の知らない知識が詰まっていたのではないだろうか)
たとえば、建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》である。京都|八坂《やさか》神社の主神がこの神である。須佐之男命は牛頭天王《ごずてんのう》とも呼ばれるが、牛の頭ならば、まさにツヌガアラシトではないか。牛頭は朝鮮ではソシマリであり、『日本書紀』ではこの神がソシマリへ行ったと記されている。
おそらく、須佐之男命も、前述したウル・サグ(武将)の一人であったのではないか。しかも、神代時代に、天照大神一派と同じ時期に、わが国に渡ってきた、南方系の渡来者であったはず……。
なぜか。そもそも八坂神社のある八坂の地名は、『新撰姓氏録《しんせんしようじろく》』によれば、久留《くる》(呉《ご》)・川麻乃《せんまえ》《チェンマイ》・意利佐《おりさ》《オリッサ》・狛国(こま高麗国)から来た人々の八坂造《やさかのみやつこ》から来ているらしい。(註、高橋良典氏の『謎の新撰姓氏録』による)
つまりどういうことかといえば、ベンガル湾に臨むインドのオリッサを発進し、北タイのチェンマイ、中国南部を経由した一派が、太古、朝鮮南部に至り、日本へ折り返してきたのが、須佐之男命に率いられた移民集団であったということである。
ならば、当然、牛頭であって当然である。
(しかし、さらにこの須佐之男命一派の先祖は、メソポタミヤにその淵源を発しているはず)
と、荒尾は考える。(インドでは牛は神である。が、牛はメソポタミヤでも神なのだ。彼ら須佐之男集団は、牛神信仰の一派だったはずである)
その牛神を、メソポタミヤではバールという。バール信仰は、古代ではガシャン神信仰とともに信仰の双璧であったわけだ。
で、ガシャン神とは鳥のことである。時代と場所によって、鷹・白鳥・鳳凰《ほうおう》などと変わっているが、鳥を信仰したことには変わりがない。
そのとき、
(待てよ)
と、荒尾は気付いた。
(能登羽咋の怪鳥伝説は、まさにこのガシャン神信仰をさしているのではないだろうか)と……。
つまり、こういうことなのだ。
能登にはかつて、鳥神信仰の一派がいたが、この先住民をバール(牛)信仰の一派が攻め滅ぼした。その古代に起きた出来事が、説話化されているにちがいない。
さらにである、前述したとおり、怪鳥を退治したのが出雲からきた大国主命とその眷属《けんぞく》だったとすれば、話はいっそう符合してくる。大国主命は須佐之男命の子分であるから、当然、バール系である。彼らはまた、竜蛇神信仰の部族をも征服したが、これが邑知潟の大蛇退治である……。
荒尾は、そろそろ寝ることにして、もうひとっ風呂あびようと部屋を出た。露天風呂に浸かっていると、波と風の音が交じって聞こえる。月も中天にかかって風流である。
風呂を出た荒尾は、フロントへ行って訊いた。湯の中で思いついたことがあったからである。
「あなたは土地の人ですか」
「はい。何か」
「こちらでは、牛のことを何と呼ぶのですか」
「はあッ?」
「方言で何というのですか」
「はい。いろいろですが、このあたりではバッコですね」
(やはりそうか)
と、荒尾は思った。
ウシという呼びかたは、能登半島の南側に限られているようだ。そして、七尾から北では、バッコ・ベッコ・ボッコというらしい。いずれもバールに、愛称のコ(子)が付いた呼びかたなのだ。つまり、奥能登の地はバール(牛神)信仰の国だったということである。
――気がつくと十時半である。荒尾は、ふたたび輪島に電話した。さっきの主婦らしい人が出た。
「先ほどの者ですが、八坂真弥さんは戻られましたか」
「ええ。ちょっとお待ちください。今、電話を切り替えますから」
彼女はその家に下宿しているらしい。
しばらくして、声が届く。
「はい、八坂ですがどなたでしょう?」
「私、札幌の荒尾という者ですが、実は……」
と、一応、詳しく事情を話す。
相手はかなり長い間、沈黙していたが、
「今はどちらにおられますの?」
と、訊いた。
「和倉温泉の美湾荘に泊まっております」
「わかりました。で、明日こちらにこられるのですね」
「そのつもりです」
「輪島にも泊まられますか」
「ええ」
「どちらに?」
荒尾は、予約したホテルの名を教えた。
「わかりました。それではあたしのほうからホテルに伺います。でも、明日は金沢へ出掛ける用事がありますので、夜になりますが……」
「かまいません。で、夜、何時ごろになりますか」
「それはまだちょっと……」
しばし間を置き、「一時間ほどして、こちらから連絡をさしあげます」
「よろしく」
受話器を戻した荒尾は、声の印象から、かなりしっかりした女性のような気がしていた。
電話は、夜十一時半に掛かってきた。
「あたし、金沢発一七時四〇分の列車に和倉温泉から乗りますので、輪島は八時過ぎになります。駅からまっすぐホテルに伺いますが、それでもよろしいでしょうか」
「ええ、かまいません」
荒尾は電話を切り、旅行鞄から時刻表を取り出して調べる。金沢一七時四〇分発は、急行能登一一号であった。ただし、急行は七尾までで、その先は普通になる。輪島には二〇時一六分。駅から車できたとして、夜八時半だなと思った。そのつもりで、荒尾は自分の予定を組む。
第六章 輪島の女
1
ゆっくり朝寝してから、鈍行に乗ったので、時間がかかった。昼をだいぶ回ったころに輪島に着く。いったん、予約した海辺の小さなホテルに落ち着き、町をぶらつく。
市街地は、市を分ける河原田《かわらだ》川の両側にあり、西は漁業を中心とし、東は輪島塗の漆器業者が多いという。
輪島塗の歴史は、すでに平安時代からというから千年以上である。とにかく、その堅牢さで全国的に知られた輪島漆器は、普通で七十工程、最高級品では百三十工程もの手間を経て造られるというから驚く。
宿に戻ってまもなく、日はとっぷりと暮れた。夏休みの時期は、観光客でどこの旅館も満員になるというが、今の季節はそれほどでもない。
日本海の荒波の音を聞きながら、荒尾は、電灯の下で宿の食事をとる。さすがに魚がうまい。荒尾はすっかり旅情に浸る。
八時に食事を終え、約束した八坂真弥を待っていると電話が鳴った。彼女にしては早すぎると思って受話器をとると、酒田刑事からであった。
「やっとつかまりました。昨夜、先生から輪島に泊まると聞いていたので、そちらの旅館に片っ端から電話をかけたのです」
と、刑事はいった。
「何かあったのですか」
と、荒尾は訊いた。
「ええ、それがあったのです」
「……?」
「例のホテルの従業員田川が、殺害されたのです」
「えッ!」
荒尾は意外すぎて最初は信じられない。「しかし、またどうしてです?」
「それがですねえ、笑わんでいただきたいが、犯人は宇宙人?≠ネどという見出しが夕刊に出ている事件なのです」
「なんですってッ!」
「いや、そんなに驚かれては困ります。実はですな、事件は釧路の空港に近い山林の中で起こったのですが、帯広の捜査本部からも連絡が入ったのです。で、宇宙人なら、先生がお詳しいのじゃないかと思いまして、電話をしたわけですが」
「ええ、まあ……」
荒尾は言葉を濁す。
「私はさっぱりでして……。実は、新聞にはキャトル・ミュートレーションか≠ニ出ているそうですが、いったい何でしょうか」
「ああ、それなら、刑事さん、数年前からアメリカで起きている家畜の怪奇現象です」
「ほう?」
「何百か何千かは知りませんが、とにかくかなりの数の牛を初めとする家畜が、奇怪な死にかたをしている事件が、起きているのです。それが、アメリカばかりでなく、最近はヨーロッパにも広がっているらしい。多分、ソ連とかアフリカもだと思いますが、私は詳しくは知りません。ま、私も気にはしておったのですがね、なんでも日本でも、津軽半島だそうですが、最近それらしい事件が起きたという話も耳にしております」
「つまり、被害にあっているのは、家畜であって人間ではないということですな」
「いいえ、そうでもなさそうですよ。人間もかもしれません」
「無気味ですなあ」
「まさか、被害者のペニスがえぐったように切りとられていたというのじゃないでしょうね」
と、荒尾はいった。
すると、
「実はそうなのです」
「なんですって?」
ふたたび荒尾は、受話器に向かって叫んでいた。
――というのも、キャトル・ミュートレーションと呼ばれる奇現象の特徴は、家畜のペニスが刃物でもレーザーでもない、何か不可解な方法で、きれいにえぐり取られていることだからである。しかも、体内の血液が抜かれ、内臓も肛門から抜きとられているケースが多いらしい。
考えられるのは、家畜のみに起こるといわれる、一種の壊疽《えそ》の感染だが、このケースではペニスが腐って脱落するそうだ。しかし、キャトル・ミュートレーションではそうした状態でない。
しかもである、必ず前後して、付近にUFOが出没しているという。家畜の死骸は空中から落とされたような状態で、まわりに人や車の痕跡などはないそうである。
という話を荒尾は、酒田刑事に伝えた。
「なるほど。いや、よくわかりました。先生のお話で、……やはりこれは、殺人事件のようですな」
と、刑事はいった。
言葉をつづけて、「ま、いってみれば阿部定《あべさだ》事件みたいですが、被害者のペニスは、鋭利なナイフで切られた跡が歴然としておりますから」
なお、この阿部定事件というのは、犯人の女が愛する男を殺害、ペニスを切りとって持ち歩いていたという、昔の事件である。
「すると猟奇事件ですか」
と、荒尾は訊いた。
「ええ。釧路署では遺体の情況からそう考えているようですな」
「でしょうね」
と、荒尾はいった。
「しかしですね、先生、それにしても念がいっているのは、現場は山林の中なのですが、ガソリンを円の形に撒いて火をつけた跡があるわけです。空気が乾燥している季節なら大きな山火事になるところでしたよ。犯人は、遺体にもガソリンを掛けて火をつけたため、真っ黒焦げになっておりました」
最初は、顔が焼けただれて識別できなかったらしい。しかし所持していた運転免許証が奇蹟的に焼けずに残っていたので、すぐ身元がわかったのだそうだ。
「で、家族に問い合わせて、被害者があの従業員とわかったわけです」
彼の姓名は田川|張矢《はるや》といい、年齢二十八歳。帯広の高校のときからUFOのマニアだったという。
「住所は帯広市内ですが、家族がいうには、昨夜遅く、十一時ごろに、どこからか電話が掛かってきたそうです。最初出たのは家族ですが、女の声だったと証言しています。彼は電話口で二十分余りも話していたそうですが、家族には、だれからの電話とは教えなかったということです」
「電話の後の様子はどうだったんでしょうか」
と、荒尾は訊く。
「いや、別に。しかし何か考え込む様子で、そのまま部屋に籠《こも》ったと母親は話しています」
「翌日はどんな様子でした?」
「彼は、いつもの時間に、ホテルに出勤したのですが、頭痛がするからといって早退したそうです」
「早退は、何時ごろですか」
「九時過ぎだそうです。で、ホテル側ではそのまま自宅に帰ったとばかり思っていたそうですが、彼は、自分の車で釧路へ向かったわけですな」
「車をね……」
荒尾は、ちょっと考えてからいった。「帯広から釧路までなら、車で二時間ぐらいですね」
「そんなところでしょう。距離にして、約百二十キロですから」
「車は見付かったのですか」
「いいえ、まだです。なにしろ、遺体の見付かったのは、今日の午後三時ですからな。まだそこまで手は回りません。いずれは見付かると思いますが」
「なるほどね。じゃ、凶行は今日ですか」
「ええ。煙が出ているのを通り掛かった人が見付けて、彼を発見したわけです。解剖結果はもう出ましたが、犯行時刻は午前十一時から午後一時の間だろうということでした」
「現場は空港のそばということですが、もっと正確にはどこですか」
「先生は、釧路の丹頂鶴《たんちようづる》自然公園をご存じですか」
「ええ。じゃあ、空港の直ぐそばですね」
「はい。そこから白糠《しらぬか》丘陵のほうへ林道を少し入ったところだそうです。私も明日、現場に行こうと思っておりますがね」
距離にすれば、釧路空港から二、三キロのところらしい。
荒尾は訊いた。
「やはり、本別の事件と関係があるんでしょうか」
「私も帯広署もそう考えておりますが、釧路署は情痴犯罪の線を追う腹のようです」
電話を切ろうとすると、
「ああ、ちょっと待ってください。それで、八坂真弥さんですが、もうお会いになりましたか」
「いえ、これからですが……」
と、いいかけて、「今、宿に見えたようですよ」
「そうですか」
「じゃ」
「はい。ひとつよろしく」
電話が切れた……。
2
「どうぞ」
荒尾はいった。
「お邪魔します」
八時二十五分だった。
荒尾は如才《じよさい》なく八坂真弥を、部屋に招じ入れた。
「お疲れのところをすみません」
テーブルをはさんで初対面の挨拶をした。
「今、金沢からですか」
「ええ、駅からまっすぐ。交通が不便なところですから、遅い時間になりまして。先生は取材にいらしたそうですが、輪島は初めてですか」
「ええ。つい今しがたまで、たっぷり旅情に浸っておったのですが、今、札幌の刑事さんからちょっと物騒な電話が入りましてね、それも吹っ飛んでしまいましたよ」
「まあ」
彼女は驚いたような顔を見せて、「札幌の刑事さんというと酒田さんとおっしゃるかたですか」
「ええ、そうですよ。今の電話がそうですが」
「その刑事さんなら、あたしも、昨日、電話でお話ししましたわ」
「そうでしたか」
「先生に電話をした後ですから、夜中の十二時近くだったでしょうか。あたし、休んでおりましたのに、いろいろ訊かれました」
「お姉さんのことですね」
「ええ」
「一年になるのに、まるで捜査が進展していないから、あの刑事さんも必死なんですよ」
「それはわかりますけど。あたしとしては、忘れてしまいたい気持で一杯なんです。そのつもりで、帯広からこちらに来ましたのに」
「いやあ、すみません」
荒尾は頭を下げ、「おまけに私のような者まで押し掛けてきて」
「いいえ、そういうつもりじゃありませんけど」
などと話すうちに最初、ぎくしゃくした感じだった雰囲気も和《なご》んできた。
「で、刑事さんの電話はあたしのことですの」
「いや、ちがいます。実は、本別の事件の重要証言者が今日の正午前後に殺害されたので、知らせてきたのです」
「まあ、怖い」
「いや、女性の前で、物騒なことを申してすみません」
荒尾は、また、如才なく謝る。
「で、犯人は?」
「むろんまだですが、地元では宇宙人の殺人事件と騒いでいるようですな。しかし、どうもそうではなく、異性関係のトラブルではないでしょうか」
と、教えたが、荒尾はその話題を避けたほうがいいと判断して、「金沢には私も一昨日泊まりましたが、なかなかいい町ですなあ」
「ええ。北海道には城下町はありませんし、あたしは好きでよく出掛けるのです」
「そうですな。城があるのは、北海道では松前くらいですから」
「気分転換もあって、ときどき金沢へは出掛けますの。あそこは結構、旧跡も多いですし、美術館もありますから」
「なるほど」
と、うなずきながら、改めて彼は、八坂真弥を観察した。ジーパンに水色のシャツをつけた、ワイルドっぽい服装である。傍らには、この季節にはちょっと不似合いな革のジャンパーと革手袋が置かれていた。
想像していたより老けた感じがした。電灯の明かりのせいだろうか。化粧のせいだろうか。
「たしか、真弥さんは二十八歳でしたね」
「はい」
「こちらへは漆工芸の修業で来られたとか」
「はい。ええ、やはり本場ですから」
「立派な心がけですなあ。大学は釧路で、やはり工芸を専攻されていたとか」
「ええ」
「実は、私も、あなたのお姉さんのことを伺いたくってきたのですが、居所はわかりませんか。どうしても、真美さんに会って、もう一度、事件の前後の事情を訊く必要が出てきたのです」
「それが、あたし、電話で刑事さんにもお答えしましたが、昨年からずっと連絡がありませんの」
「外国に行かれたそうですが」
「ええ」
「パリですか」
「さあ、どうでしょうか」
荒尾は、彼女をそれとなく観察しながら、妙な暗さとともに気性の強さを感じていた。
(無理もない。彼女は中学三年の多感な時期に、両親を亡くしているのだ)
と、彼は思う。
「これを見てください」
と、荒尾は、妖花の恵から貰ってきた写真を示した。
「これがお姉さんの真美さんですね」
「ええ」
彼女は、ちょっと目を瞬《またた》かせて、写真を見たが、直ぐに戻した。
「さすが、姉妹だけあって、双児《ふたご》かと思うほど、あなたによく似ておられますなあ」
と、荒尾はいった。「しかし、これは三年ほど前の写真だそうですが、それにしても、ずいぶん若い。あなたとは、五つ違いだそうですね」
「ええ」
「最初、私は、あなたがお姉さんのほうかと思ったほどですよ」
「それは昔からですわ。あたしたちよくまちがえられましたわ。姉が妹で、あたしが姉かって」
「いや、失礼しました。あなたのような美人をつかまえて、歳が老けているようなことを、つい、いってしまいましたが、悪気ではありません」
「いいえ。あたしはなんとも」
と、彼女は目の奥で微かに笑った。
じっと見詰めるような視線に、荒尾は目を合わせた。
彼は、
(面長なこの女の貌にも、体全体の雰囲気にも、陰りがある)
と、思った。
それが、うまくはいえないが、たとえばここ奥能登の地によく似合っているのだった。
やがて秋が深まり、その後に冬が訪れ、能登輪島は、荒れ狂う日本海の冬の暗さと対面する。荒尾は、そういう能登の湿った冬には、似合う女のような気がしたのだ。
(後、十歳若かったら、私もこの女に心を奪われたかもしれないな)
と、荒尾は思いながら訊く。
「……私はね、立派な大学を出られた上、共和国航空という立派なフランスの航空会社に勤められたお姉さんが、どうして会社を辞めて、金沢の妖花に勤められたのか、そのわけを知りたいのですよ。ま、必ず何か普通ではない理由があるにちがいないとね、そう思って、あなたに会いにきたのです」
「金沢にお寄りになったんですね」
「ええ」
「じゃ、姉のいた店にも行かれましたのね」
「行ってきました」
彼女は、言葉を探しているように、しばし間を置いた。
「姉は失恋したんですわ。あたししか知りませんが、絶望して航空会社を辞めましたの。それから急に生活が荒れて、あんな仕事に就いたのだと思いますけど」
「なるほど」
「先生も作家でしたら、そういう突拍子もない女性の心理はおわかりでしょ」
「ええ、まあ」
揶揄《やゆ》しているような視線を注がれて、荒尾は、言葉を濁した。
「あのう、あたし、お酒を戴いてもいいでしょうか」
と、突然彼女がいったので、荒尾はちょっと驚いた。一瞬ためらっている彼にむかって、
「あたし、姉のことを思い出すと、いつも憂鬱《ゆううつ》になるんです」
と、彼女はいった。
「わかりました。じゃ、頼みましょう」
荒尾は、室内電話をとって、帳場に酒と肴《さかな》を注文した。
「実はね、こういうことを話すのはどうかって気はするのですが、真美さんらしい人が、双鹿秦平氏が殺される前の夜に、帯広で被害者に会っているのです」
「ええ。その話は、捜査本部のかたから伺いましたわ。それで、まだ姉が、容疑者になっているのですか」
「いいえ、そうではありません。真美さんにはアリバイがありますからね。札幌のホテルで、双鹿宮子さんに会っているんですよ」
「その後のことでしたわ。姉がヨーロッパへ行ったのは……」
「そして、恋人の石倉数也さんですが、彼もお姉さんの後を追ってヨーロッパへ行ったらしい。われわれもそこまではわかっているのですがね、彼の居所もご存じありませんか」
「はい」
彼女は、曖昧な目をしている。荒尾は、その目に誘惑される。
やがて、酒が運ばれてきた。
「どうぞ」
ぐい飲みを渡し、荒尾は酌《しやく》をする。
彼女も荒尾に酌をしてくれた。
「お強そうですね」
荒尾は彼女の飲みっぷりを観察した。
「最近、覚えたんです」
彼女は、かなり速いピッチであった。どうやら彼女は、酔いたがっているらしいと気付く。
「十四年前にご両親がパリで亡くなられたでしょう。あの事件ではなにか、記憶していることはありませんかねえ」
酒のおかげで、荒尾も訊きにくいことが訊きやすくなった。
「詳しいことは何も……」
「そうですか」
荒尾は酌をしてやりながら、また訊ねる。「では、どうして、そのパリの事件の前に、あなたがた姉妹は、帯広の叔父さんのところへ養子に出されたのですか」
「ええ。あれは、あたしたちは、何も知らないうちに養子にされていたんです。あたしたち夏休みで遊びに帯広へ行っていたのです。直後、両親がパリで死にました。そのまま、帯広の義父《ちち》の厄介になったのです」
「謎ですなあ」
荒尾はいった。「その理由を、八坂夏彦氏には訊ねなかったのですか」
「むろん、何度も義父には訊きましたわ」
「それで?」
「義父は、何も教えてくれませんでした」
「わかりませんなあ」
と、荒尾はいった。「私はね、ひょっとすると、それらのすべてが、能登にあるモーゼ来日伝説と関係があるのではないかと思っているのですが」
「先生は、もうご存じでしたか」
「途中、押水に寄り、モーゼの墓というものを見てきましたよ」
「あそこへ行かれたのですね」
「ええ」
「あたしは何も知りません。でも、姉なら知っていると思います」
「というと?」
「両親の死んだとき、あたしは中学三年でしたが、姉は大学二年でしたもの。何か話を聞かされていたんじゃないかって、思います」
「真美さんは札幌の大学を出られたそうですな」
「札幌の国立大です。姉はあたしとちがって秀才さんだったの」
などと話すうちに、銚子が足りなくなり、荒尾は追加を注文した。
「すみません」
と、しおらしく真弥はいった。
「いや、構いませんよ」
「この季節になるとあたし、毎年、鬱病になるんです。秋はいつも死んだ両親のことを思い出すわ」
「そうでしょうな。犯人もつかまらなかったわけだし、すっきりしませんものな」
「ええ。でも、あたしはね、双鹿秦平は殺されて当然の人だったと思いますわ」
「なぜですか」
「なぜって、父の事業を奪ったのは、あの人ですもの」
「…………」
荒尾は沈黙を守る。そのとき、一つの考えが浮かんでいたからである。
3
夜は更けはじめていた。外は、風が強まっているらしい。宿が海岸に近いせいもあり、海鳴りは部屋へも届く。
八坂真弥はまだ荒尾の部屋にいる。酒が入ったせいか、なまめかしい表情をしているのだった。
荒尾もいつになく酒がすすみ、今夜は、かなり酔っている。
能登の酒はうまかった。酔いつつも、彼は、どことなくこの娘には娼婦のような雰囲気がある、と気付いていた。それが、不可解でもある。荒尾は、彼女が真弥ではなく、姉の真美ではないだろうかと思いはじめていたのだ……。
男を知っている躯だということは、荒尾にはわかった。それも一人や二人ではないはずだ。きっと大勢の男を知っているにちがいない。もしこの直感が正しければ、今、彼の目の前にいる女は、妹ではなく、姉のほうである。
――さて、いつの間にか話題は、能登の古代史に移っていたのだった。荒尾十郎が、古代能登のバール信仰の可能性について語ったからであった。
「そういえば」
と、彼女も話した。「能登の古代遺跡では、牛の骨がよく出るのですよ。輪島の沖には舳倉島《へくらじま》という島がありますが、そこのシラスナ遺跡からも牛骨が発掘されています」
舳倉島は、輪島の海女たちが夏になると泊まり込みで出掛ける沖合五十キロほどにある島である。
昔、この島に韓国《からくに》の王子が来たという伝説もあり、この王子こそが最初の気多神であったという縁起も残っているそうだ。
「遺習として気多には、カラカミ信仰というものがあるのをご存じでした?」
「いいえ、初耳です。カラカミは漢字ならどう書くのですか」
と、荒尾は訊く。
「こう書きます」
彼女は、ショルダー・バッグからボールペンを取り出して、韓神≠ニ書いた。
「なるほど」
荒尾は納得すると同時に、楽譜の付いたそのボールペンを見た。
「それ変わったボールペンですね」
「旅行の土産ですわ」
「フランス製ですね」
「ええ」
彼女は目をうつむかせて、ボールペンをバッグの中にしまい、
「この神の源は、道教だそうです」
と、教えた。
「ほう」
牛馬を殺して神を祀る儀式だそうだ。
「変わった習俗ですなあ」
頭の片隅では、ボールペンのことを考えながら、荒尾はちょっと大袈裟《おおげさ》に驚いてみせる。
彼女はつづける。
「塩を焼く火に動物の皮を掲げて、盛大に焚火《たきび》をするのです」
荒尾は、その話から想像したが、皮を焼く臭気によって、疫神・祟神を追い払うと信じられていたのではないだろうか。
荒尾はこの話から、『古事記』の一節を連想した。布を織っている天照大神の作業場の屋根から、須佐之男命が斑駒《ぶちごま》の皮を投げ込むシーンを……。これは、ひょっとすると、右のカラカミ信仰にまつわる描写かもしれないと……。須佐之男は、天照族に対して呪術をかけたのではないだろうか。
「そういえば、真弥さん、八坂神社といえば、須佐之男命ですが、あなたの八坂家は、京都の八坂に関係があるのですか」
「ええ、ありますわ」
と、彼女はうなずく。
「やはり」
「すると、双鹿家との関わりは、どうなっているのですか」
「あたしたちの遠い先祖は、共に韓《から》からの帰化人でしたが、系統はちがうと聞かされておりますけど」
彼女がいうには、荒尾が想像したとおり、八坂家は江南(中国南部)から黒潮に乗って日本に来た種族であり、双鹿家は中央アジアから韓経由でわが国にきた家系らしいのだった。
「さっき、カラカミ信仰は道教の影響を強く受けているといわれましたが、道教なら江南で盛んだったわけですな」
など話は弾んだ。
いずれにしても、両家の付き合いは古代からあったらしく、話を聞くうちに、共に特殊な古代文書を代々受け継いでいるらしいことがわかった。そして、八坂家の古文書には、このカラカミ呪法《じゆほう》のやりかたも書かれていたということだった。
「ぜひ拝見したいですなあ」
と、作家的な好奇心にかられていうと、
「それが今はありませんの」
と、答えた。両親の死とともに紛失したというのである。
「あたしは、双鹿秦平が奪ったのだと思います」
と、彼女はいった。
「なぜですか」
「あたしの家に伝わる『八坂文書』には、実をいいますとね、モーゼの秘宝とそのありかを記した個所が載っているからですわ」
「ほんとうですか」
荒尾は、思わず叫ぶ。
「姉は見たことがあると思います。でも、あたしは父から聞いたことがあるだけですから、はっきりしたことは知りませんの」
「ふーん」
荒尾は腕を組んだ。
「嘘と思っておられるのでしょう」
「正直にいって嘘と思います」
と、荒尾は答えた。
彼は、モーゼのことが記されているという『安倍文書』や『竹内文書』の類いにちがいなく、内容も大同小異と想像したからである。
が、しかし、もしその『八坂文書』なるものが、殺人事件に絡んでいるとなれば、また別の観点から重大である。
「『双鹿文書』も、同じですか」
と、訊く。
「はい、それにもモーゼのことが書かれているそうですが、二つを合わせると初めて完全になるという話は、父から聞いたことはありますわ」
しかし、実物を見ないことには、真偽のほどはまるで見当もつかないわけである。
「父は、偶然に、家にあった土蔵の中で『八坂文書』を見付けたんですよ」
「だいたいいつごろか、わかりますか。戦争中のことですか。戦前ですか。あなたの父上はその当時、双鹿氏と一緒に、天津教に関係があり、警察の取り調べを受けたこともあったとか。そう、妖花の織恵さんという人が話しておりましたがね」
「いいえ。古文書の見付かったのは、それほど古い話ではありませんの」
「ほう。というと?」
「両親がヨーロッパに行った一年か二年前でしたわ。先祖からの土蔵を壊すことになりましてね、そのとき、土蔵の屋根裏からそれが出てきましたの」
彼女は、はっきりそれを記憶しているといった。
「そして、ご両親はヨーロッパへ行かれたわけですね。双鹿秦平氏と当時金沢で小料理屋をしていた宮子さんと……」
「姉はね、あのときの事件を調べるために、スチュワーデスになったのだと思いますの」
と、真弥はいった。「あたしたちよく話したんです。両親はきっとあの人によってヨーロッパに連れだされて殺されたんじゃないかしらって」
「……?」
「ちがうでしょうか」
「さあね」
荒尾は言葉を濁した。
「でも、あたしがそんなことをいいますと、双鹿秦平を殺害する動機が、姉にはあることになりますわ」
「たしかに」
荒尾も今そのことを考えていたのだ。
「でも姉にはアリバイがあるわ」
「ありますね」
「あたしにはありませんわ」
彼女は、魅《み》いるように荒尾を見た。
「あなたにはないのですか」
「ええ。あの事件のときあたしは、義父の家にいました」
「なるほど。家族の不在証明は、信憑性《しんぴようせい》がないということになりますな」
「あたしが犯人であっても、ちっともおかしくはありませんわ」
「そうですね」
「あたしが犯人だと思います?」
「難しい質問だ」
「あたし、酔っているのかしら」
彼女は、謎めいた微笑をうかべた。
「でも、あたしじゃないわ。姉でもないわ」
「じゃ、だれだというのですか」
「犯人は、宮子さんじゃないかしら」
不可解な眼だ。
「あの奥さんがですか」
と、荒尾はうなずく。「なるほど彼女には、強い動機はある。被害者の死によってもっとも利益を得たのは彼女ですからね。しかし、彼女には立派なアリバイがありますよ」
「札幌のホテルで、姉と会っていたからでしょ」
「そうですよ。証言者は他にも大勢います」
「でも、あたしは信じないわ」
「理由は?」
「さあ」
また表情を彼女は曖昧にした。
「女の直感ですか」
「ええ」
と、彼女は、荒尾に謎掛けでもしているような眼をして、うなずく。
「あたしはね、ほんとういうと、今とても怖いのです。あたしには、立派な動機があり、アリバイも不完全でしょ。去年の八月二十日に、あたしは帯広におりましたから、本別の巨大迷路には行こうと思えば行けましたわ」
突然、彼女がわっと泣き出したので、荒尾は大いに戸惑った。
「さ、もうかなり夜も更けました。家まで送りましょう」
と、彼はいった。
「はい」
彼女は、しおらしくうなずく。「でも、あたしを救けてください」
彼女は、かなり酔っている。荒尾はすっかり困惑した。
とにかく、酔った彼女を援《たす》けて下に降りる。タクシーを呼ぼうかと思ったが、家はすぐ近くだという。が、彼女のひどい酔いかたを見て、一人で帰すのは心配になった。
荒尾は彼女を送ることにした。狭い町であまり遠くはなかった。海からの風に当たると、酔いを覚ますのにちょうどいい。
「アイノカゼよ」
と、彼女はいった。
輪島では、北もしくは北東から吹く風を、アイノカゼと呼ぶらしい。
「アイノカゼが吹くからあたしを愛して」
歌うように彼女はいった。
いきなりしがみつかれて、荒尾は困った。相手は酔っているから始末が悪い。しかも、彼女は美人である。宥《なだ》めすかしながらようやく、家まで送りとどける。荒尾は、渡された鍵で戸をあける。家の中は寝静まっていた。彼女は、玄関のところで崩れおちた。
(まったくしようがない)
と、思いつつも、放り出して帰るわけにもいかない。部屋は二階だという。彼女の腕を肩にかけ、引きずりあげるようにして二階へ運ぶ。
二階は、下宿のような造りで、階段の側が彼女の部屋だった。
中に運び込む。手探りで明かりをつけ、彼女をようやくベッドに寝かせる。やれやれである。ところが、今度は、水が飲みたいというのだった。荒尾は、台所へ行き、水を持ってきた。
飲ませると、今度は、急に吐くそぶりをした。荒尾は、それからが大変だった。背中をさすり、介抱してやる。
彼女は、かなりの量を吐きおわると、急に静かになり、自分でジーパンのジッパーを緩めはじめたが、手許がおぼつかない。
「とって」
と、頼まれて、手伝ってやる。
すると今度は、
「脱がせて」
という。
「しっかりしてくださいよ」
荒尾は、いささか不機嫌である。
すると、今度は、顔を急に歪《ゆが》めて泣き出した。
「困った人だ」
といいながらも、希望どおりにしてやると、彼女は、ブラウスのほうも、ボタンをひきちぎるようにして脱いでしまった。
「じゃ、帰りますよ」
荒尾はいった。時計の針は、すでに午前零時を回っていた。
「いや」
彼女は、覗き込んでいる彼の首に腕を掛けた。
「キスして」
「困りますなあ」
と答えた口を、荒尾はふさがれた。
「お願い、側にいてください。でないと、あたし、死ぬかもしれないわ」
本気のようである。物騒な科白《せりふ》だ。
「怖いの。あたし、自分が怖いの」
と、今度は、両手で顔を覆った。
「理由があるのなら話してください……」
「理由なんてないの。ただ、あたしはあたしが怖い」
ふたたび、彼女は、荒尾にしがみつく。
「寝なさい」
と、荒尾はいった。「手を握っていてあげるから」
「いや」
「じゃ、どうすればいいの?」
「あたしを愛してください」
ようやく荒尾は、彼女に誘惑されているのだと気付く。
(それにしても、これにはなにか、訳があるにちがいない)
荒尾は、いわれるまま、彼女に並んで横たわりながら、
(今度の能登の旅は、妙に女に縁のある旅だな)
と、思う。
その後は、成り行きになってしまった。男と女がすることを彼らはしたのである。
彼女は、何か悪夢をふりはらうような貌《かお》をして、まるで自分を駆り立てるように、昇り詰めて行く……。
4
結局、朝三時すぎまで、その部屋にいた。ようやく、すやすやと寝息をたてはじめたのを見届けてから、荒尾は外に出た。鍵をかけ、鍵を戸口の隙間から中に戻しておく。
眠気があったが、朝の冷気で頭がすっきりした。潮風に当たって歩きながら、荒尾は考えつづける。
宿に戻る。荒尾は部屋に入ると、すぐに時刻表を開く。メモをとり、身支度をして、帳場に降りる。
「こんな早い時間にすみません」
と、荒尾は、フロントに詫びた。
フロント係は眠そうである。
「急用ができたので、精算してください。それからタクシーを呼んでもらえませんか」
支払いを済ませ、迎えにきたタクシーに乗った。
「七尾までお願いします。五時七分に乗りたいのですが間に合いますか」
運転手は時計を見た。午前四時であった。
「七尾までなら、五十四、五キロほどですからね、朝は道が空いているし、飛ばしていけば、四、五十分もあれば行けると思います」
車は山間の道を南へ走る。
「運転手さん、私のようなお客はちょくちょくありますか」
「ええ、ありますよ。輪島は始発が遅くって、六時五九分だからねえ」
穴水、田鶴浜と過ぎ、七尾始発の五時七分には悠々間に合う。
金沢行きは鈍行だった。荒尾は、列車に揺られながら眠りをむさぼる。
六時三九分に金沢に着く。ホームで待ち、金沢七時七分発の雷鳥一四号に乗り継ぐ。小松着は七時二五分であった。駅の構内で荒尾は、電話を酒田刑事にした。
「おはようございます」
「おや、どうしました? 今、家を出るところなのですが」
刑事は驚いたようにいった。
「ちょっと考えがありましてね、今日、釧路でお会いしましょう。酒田さんは、例の犯行現場には何時ごろ着かれますか」
「そうですね。私は、札幌を八時四分のおおぞら一号に乗りますので、釧路は一二時四六分。それからですから、一時半を過ぎると思いますが」
「じゃ、釧路空港に寄って私を拾ってくれませんか。一一時一五分には着いておりますから」
「えッ! そんなことができるのですか」
「はい。今、小松駅まで来ておりますが、できますよ。じゃあ、のちほど詳しく」
荒尾は、駅前からタクシーを拾う。空港までは十分ほどであった。
八時前には小松空港に着き、八時二〇分発の東京行きANA七五二便に乗った。そのとき、羽田での乗り継ぎを頼んでおいた。
東京は九時三〇分、定刻に着く。荒尾は、係員に案内されて構内を進み、九時四〇分発のANA七四一便に乗り継ぐ。
機はちょっと揺れる個所もあったが、荒尾は、ほとんど眠っていた。
定刻一一時一五分、釧路着。
荒尾は、ロビーに出て食事を済ませ、酒田刑事の現れるのを待つ。
午後二時近くなって、ようやく刑事が現れた。
「やあやあ、ほんとうにいましたなあ」
と、信じられないという顔をした。
「もう三時間近くも待ったんですよ」
荒尾は笑った。「東京で乗り継いで来たのです」
「ああ、なるほど。小松からの札幌便は、一一時四五分でしょう。千歳着は一三時一五分ですからね。それから列車で来るならとても無理と思っていました」
表には警察の車が待っていた。
「どうぞ」
といわれ、後部席に納まる。
「じゃ、現場へお願いします」
と、酒田刑事は、運転席の刑事にいった。
空港からは直ぐであった。車は林道に入る。現場は、空港からは三分。が、さすが根釧《こんせん》原野の一画である、人家らしきものはない。
「ここです」
車を降りて案内される。から松の林を抜けると、狭い空き地があった。
のどかである。近くに放牧場でもあるのか、馬のいななきが聞こえてくる。
遺体はすでに現場から運びだされていたが、なるほど円形に草の焼け焦げた跡が残っていた。被害者の田川張矢は、その真ん中で死んでいたらしい。
「気の毒に、遺体はひどい状態でした」
と、釧路署の刑事がいった。
「おまけにペニスも切り取って持ち去るとは、ちょっと考えられない神経ですなあ」
場慣れしているせいか、酒田刑事は落ち着いたものである。
「犯人の擬装ですよ。被害者とはよく知っている関係だったので、UFOがらみの事件に見せ掛けたかったにちがいありません」
「遺留品は……」
「なしです」
と、釧路署の刑事はいった。「足跡も消し、落ち着いたもんです。ただ、ここへ来た車のタイャ痕は採取しましたが、被害者の車のものでした」
「車は?」
「いいえ、まだです」
「死因は絞殺《こうさつ》ですか」
「ええ、よほど油断していたのでしょうな。紐を首に巻きつけられて、締められた状態です」
「犯人は、男ではないそうですが」
「ええ、多分」
「前夜の呼び出しが女の声だったからですか」
「それもありますが、被害者はズボンもパンツも着けておりませんでしたし、それが現場には見あたらないのです」
「きっと車の中ですな」
「ええ、被害者は犯人と性行為をしている最中に、殺されたのではないでしょうか」
「いずれにしても、車が見付かればわかることですな」
と、酒田刑事はいった。
荒尾にふりむいて、「先生、いかがですか」
「私などは遺体をみたら多分、三日は食事が喉を通らなかったと思いますよ」
「ははッ」
酒田刑事は白い歯を見せた。「お訊きしたいのは、UFOのことです」
「ええ、はっきり偽物ですね。それもUFOの知識は素人なんじゃないでしょうか。着陸痕とか、もう少し細工をしたほうが、もっともらしくなるのに」
「なるほど。質問はありますか」
「いいえ。現場のことは専門家にお任せしますよ。ただ、車ですけどね、私は空港の近くだと思いますよ」
果たして、荒尾のいったとおりだった。
それから、市内まで送ってもらい、釧路発一七時一三分のおおぞら一三号で札幌に戻る。到着は二一時五五分である。
荒尾は、帰りの列車の中で、あれこれと時刻表をひっくり返したがどうもうまくいかない。どうして彼女は、昨夜、あの時刻(八時二十五分)に輪島のホテルに現れることができたのだろうか。
第三部 ワインの里
第七章 モーゼの謎
1
輪島の一夜のあの出来事のために、自分にはためらいがあるのだ――と思う荒尾十郎であった。
(田川張矢を殺害したのは、まちがいなく彼女にちがいない。だからこそ、彼女は、私を自分の部屋に誘ったのだ)と、荒尾は気付いていたのだ。彼女の立場になって想像してみたのである。
(自分が、殺人を犯した直後ならどうだろうか。そして、自分が女なら)……と。(職業的な殺し屋ならともかく、とても冷静ではいられないと思う。殺人直後の感情は、普通ではないはずだ。やはり彼女のように、浴びるほど酒を飲むだろう)
が、荒尾は、彼女を告発することを一日一日と引きのばしていた。(彼女が犯人であることを、私の無意識は認めたがらないらしいな)などと、逡巡《しゆんじゆん》しつつ……。
――一方では、警察の捜査は確実に進んでいた。
まず、田川張矢の車が釧路空港駐車場で見付かり、鑑識は綿密な調査を行なった。車内は、指紋は拭いとられていたが、被害者の脱いだズボンや下着、および被害者の血痕のついた登山ナイフが発見された。なお、ナイフは被害者自身のものと判明したそうである。
「やはり、車の中で性行為をしたんでしょう……」
と、酒田刑事は教えてくれた。
「二人は恋仲だったのでしょうか」
荒尾は訊いた。
「少なくとも被害者が、熱烈に片思いをしていたらしいことは、彼の日記に書かれておりましたよ。帯広の高校で、二人は同級生だったこともわかりました。ま、そういう次第で、あの証言を頼んだのだと思います」
他でもない、田川張矢が話したモーゼの井戸の話だ。
「あれは、全部が全部、捏造《ねつぞう》ではないのでしょうがね……」
と、荒尾はいった。
「むろん、そうでしょうな。しかし、田川張矢は、八月十九日の夜、十勝シティ・ホテルに現れた女性が、八坂真弥であったことを知りながら、それを黙っていました」
「なぜでしょうか」
「理由は彼の日記に書いてありましたよ。結婚を条件に、偽証を頼まれたとね。ところが、一年たっても、彼女が約束を果たさないので、彼もしつこく履行を迫ったようです。約束を守らないのなら、すべてを警察に話すという内容の手紙も出したらしい。それで、彼女もついに田川張矢を殺害する決心をしたのでしょう」
「では、動機は明白ですね。彼女は、追い詰められていた」
「そうです」
「私が輪島へ行くと連絡したので、急遽、実行を決意したのでしょうな」
と、荒尾は、内心に忸怩《じくじ》たるものを覚える。「殺された彼には、悪いことをしてしまいました」
とにかく、荒尾のほうに無意識の逡巡があったため、彼女にぎりぎりのところで、日本を脱出する余裕が生じたのである。何度も海外旅行を経験している真弥は、もっとも早い方法で日本を去った。荒尾が能登から戻った朝、彼の後を追うようにして輪島を出発した彼女は、金沢から特急に乗り換えて、大阪へ向かい、ヨーロッパに去ったのである。
つまり、結果的に荒尾は、彼女の国外逃亡を幇助《ほうじよ》したことになる。たしかにその意味では、八坂真弥の作戦は、効を奏した。彼女は、躯という女の最強の武器を使い、彼を誘惑したのである。
あのとき彼女は、電話が酒田刑事から掛かってきたという話を荒尾から聞かされた瞬間、身の危険を悟ったものにちがいない。
想像ではあるが、彼女は本能的に、荒尾十郎を利用したアリバイ工作が、すでに見破られているのではないか――と不安になったのではないだろうか。そこで、直ぐに、予め準備しておいた日本脱出を実行したのだろう。
しかし、荒尾の意識は、営みの最中でも覚めていたのだ。男と女が、少しちがうところでもある。荒尾は、初対面の女が、なぜ自分を誘ったものか、その理由を、割りと冷静に考えていたわけである。その結論が、急遽予定を変更した釧路行きであった。
そして、犯行時刻に釧路へ行けることがわかった。しかし、どういう方法で、夜八時半前に、八坂真弥が輪島に戻ることができたものか、釧路へ着いた時点ではまだ、荒尾にはわかっていなかったのである。
2
さて、その後の警察の調べにより、犯行日の早朝、彼女は、荒尾が試みたように、タクシーを使って七尾へ向かったことが判明した。また、田川張矢の車の中からは、綿密な検証の結果、彼女の毛髪が数本発見されたという。被害者の車は、カークリーナーを使い、手早く掃除されていたらしいが、彼女に許された時間は少なすぎたようだ。
ちなみに、一一時一五分に釧路空港に着き、東京へまた引き返すには一一時五五分の便しかない。その間、わずか四十分だ。到着と搭乗に要する時間を合わせてぎりぎり二十分と見積もるなら、犯行現場までの行き帰りに要する時間を十分間として、現場にいられる余裕は十分以内。が、捜査本部は、実地検証を行い、手早くやれば十分可能と判断したのである。
「インターポールへ頼んでありますから、いずれは見付かるでしょう」
と、酒田刑事はいう。
「さあ、それはどうでしょうか」
と、首を傾げる荒尾。その意味は、彼女が逮捕される前に、自殺するような気がしたからであった。
――季節が十月に変わった。札幌は紅葉の盛りであった。荒尾はふらっと街へ出掛け、ロックフォールでコーヒーを飲んでいた。そこで、知り合いの美術評論家に会ったのである、名を柴橋侶雄《しばはしともお》という。同業の間柄でもあるので、きさくにカウンターに並んで雑談する。そのうち、話題が、能登のモーゼの墓になった。荒尾が能登へ行ってきた話をしたからである。
「それというのも、今、被害者が角《つの》のある人物という事件に関係しているのですがね」
と、話すと、
「それはおもしろい。今、荒尾さんのいったモーゼにも、角があったようですよ」
と、柴橋氏はいう。
「なんですってッ!」
荒尾は目を見開く。
「おや、知りませんでした?」
「ええ。不勉強といわれても仕方ないが、その話はほんとうですか」
「ええ。もっとも、最初に角をつけた彫刻家は、多分ミケランジェロだろうと思いますがね」
柴橋氏の専攻する西洋美術史の分野では、かなり有名な話らしい。
「ローマにありますよ。ローマ大学の近くにサンピエトロ・イン・ガインコリという教会がありましてね、ここのご神体はなんと鎖なんです。ま、それはともかく、ここのユリウス二世像の一部にモーゼの像が彫られているのです。ぼくも一度、訪ねたことがありますけど」
「どうして、モーゼに角があるのですか」
「ま、ミケランジェロ自身の『旧約聖書』解釈の賜物ではないでしょうか」
「ほう」
「モーゼを書いた出エジプト記≠ひもとくとですね、角があったとは明記しておりませんが、額が照り輝いていたので、ベールを掛けていたと書いてあるんです」
そう聴かされて、荒尾は興奮した。
早速、家に戻り、書架から分厚い『旧約聖書』を取り出して開く。読んで見ると、改めておもしろい。立派な文学にもなっているのである。たしかに、出エジプト記≠フ三十四章の最後にそのことが書かれていた……。
その翌日、ふたたびロックフォールに出掛け、彼は岩都桂介に会った。
「例の事件はその後どうなりました?」
と、岩都に訊かれる。
荒尾は概略を説明し、
「……そういうわけで、昨夜は徹夜でアリバイ・トリックに挑戦ですよ」
と、いった。
「鉄道ミステリーというわけですか」
「いや、飛行機と鉄道が組み合わさった問題になりますか」
「おもしろそうですね」
「実はこうなのです」
と荒尾は話しはじめる。
「……ま、結論をまとめると、釧路空港を正午前後に出発して、その日の夜八時過ぎまでに、果たして奥能登の輪島まで、犯人が戻って来られるかどうかという問題なのです」
「飛行機を使えば、簡単なんじゃないですか」
と、岩都はいった。
「ところが、連絡がかなり不便でしてね、あっさりとは解けないのです」
たとえば、一応、釧路空港を一一時五五分発ANA七四二便に乗ったとして、東京(羽田)には一三時三〇分には戻れる計算だが、その先の連絡がうまくいかないのだ――と荒尾は説明した。
「東京→小松の便は、一三時発のANA七五五便しかないから乗れないのです」
「他の便はないのですか」
「ありますが、それだと八時半前には、私の泊まっていた輪島の宿に着くことができない」
と荒尾はいって、持参していたJTBの時刻表(一九八九年九月号)を取り出し、終わりのほうのページを開いた。七九一ページ以降に、九月の航空ダイヤが載っているのだ。
「ほらね。小松行きはあと、一七時三〇分発と一九時三〇分発しかない」
「一七時三〇分発なら小松は何時ですか」
「一八時三〇分に着く」
「それから、金沢へ向かい、七尾線に乗るわけですね。輪島へ行くには……」
「ええ。犯人がもし、金沢発一七時四〇分の能登路一一号に乗れれば、輪島には二〇時一六分に着ける。私の宿には、八時二十五分に現れたわけですから、これ以外の列車では不可能なのです」
「小松から輪島までタクシーとかを飛ばしたらどうなんですか」
「小松から輪島までは遠いんですよ。金沢まででも約一時間はかかりますからね、とても二時間以内では無理ですよ」
と、荒尾は答えた。「それに、彼女が、能登路一一号に乗っていたことを証言する人もいるんです。警察の調べで、わかったのですが、彼女の輪島の知り合いが、一人ではなく、何人も同じ列車に乗り合わせていたそうです」
「すると、彼女は、釧路からではなく、帯広とか他の空港から乗ったんじゃありませんか」
「それも調べました」
と、荒尾は答えた。「帯広発の東京行きは、一三時二〇分発のJAS一五四便ですが、釧路から車を飛ばして仮に乗れたとしても、東京へは一四時五五分ですよ」
つまり、釧路発の便より一時間二十五分も遅く着く。
「千歳からはどうですか」
「千歳発の小松行きは、日に一便しかなくて、一四時発だけです。釧路から千歳までは二時間では絶対に無理ですよ。小型飛行機をチャーターすれば別でしょうが、そんな形跡はまったくない」
「釧路→千歳、帯広→千歳の便はどうなんですか」
「だめですね。根室|中標津《なかしべつ》→千歳は一〇時発だけ。中標津→丘珠《おかだま》(札幌市内)は一三時二五分だけ。女満別《めまんべつ》→千歳は一〇時三五分発と一四時一五分発の二便だけ。これには乗ることは時間的にできません」
「するとやはり東京へ戻って、それからどうしたか――ということになるわけですか」
「東京から列車では、とても無理でしょ」
「大阪へいったん飛んでというのはどうですか」
「それも考えましたが、やはりだめでしたよ」
と、荒尾は教えた。「大阪発雷鳥二九号というのが、一四時三五分に出ている。これだと金沢には一七時七分に着けますが、しかし、東京発大阪行きは、一五時発のANA二七便しかないのです」
その前は、一三時発のJAL一一三便だけなのである。なお大阪→小松の空路はない。
「しかし、犯人の方法は、もう見付けましたよ。教えましょうか」
と、荒尾はいった。
すると、
「いや、この問題は自分でやってみます」
と、岩都はいった。「とにかく、この一九八九年九月の時刻表の中に、正解があるわけですね」
荒尾はうなずいた。
(付記)解答は本巻巻末ページにあります。
3
……などと、岩都桂介と語らっていると、そこに国立登《くにたちのぼる》画伯が現れた。
「やあやあ、お揃いですな」
「一緒に座りませんか」
と、荒尾は誘った。
「荒尾さんは、先の『「新説邪馬台国の謎」殺人事件』の解決以来、また事件だそうですな」
「はい。今度は、『「能登モーゼ伝説」殺人事件』というわけです」
「なるほど。おおよその話は、岩都さんから伺っていましたが、今度は私の出番がありませんでしたな」
「ええ、まあ」
と、荒尾が言葉を濁すと、
「私にも推理させてくださいよ」
と、頼まれる。
「じゃ、一つ、ゲーム感覚で、先生にもお願いいたしますか」
と、荒尾は、もう一つのまだ解決していない疑問を話し出した。
「……それは他でもありませんが、本別の巨大迷路で双鹿秦平《つぬがはたへい》が殺害されたときに、なぜ彼女が札幌にいることができたかということです」
と、縷々《るる》説明すると、
「ちょっと待ってください。そのとき、妹のほうの八坂真弥は帯広にいたのだから、当然、姉の八坂真美ではなく、彼女が殺したのではないのですか」
「最初は私もそう思いました。ところが、そうではないのです」
「えッ、それはまた、どういう意味ですかな」
「姉の八坂真美は、存在していなかったということなのです」
「さっぱりわかりませんなあ」
「真美ははじめから、この事件とは無関係でした」
「……?」
と、艶々した銀髪の国立画伯は、ますます困惑の表情を見せる。
「その後の警察の調査でわかったのですが、真美は、昭和五十七年以降、ヨーロッパで行方不明だというのです。遺書やその他の情況から、彼女は、ヨーロッパで死んだらしいとわかっているのですが、遺体が確認されていないために、まだ戸籍上は生きていることになっているのだそうです」
「どうして、それを早く、義父の八坂夏彦は、警察に話さなかったのですか」
と、岩都桂介がいった。
「それはですね、夏彦氏も、もしやどこかに生きているかもしれないと、死亡を認めていないからだそうです」
「では、やはり、双鹿秦平殺害は、真美の犯行ですか。彼女がまだ生きており、ひそかにヨーロッパから帰国して殺害したというわけですか」
と、岩都。
「いや、とんでもありません。やはり、真美はすでに他界していると、警察も私も確信しております」
「証拠はあるのですか」
と、老画伯。
「いいえ。しかしですね、八坂真美が、金沢のピンク・サロンで働いていたことはもうご存じですね」
「それは、岩都さんから聞きましたよ」
「彼女がこの店に勤めだしたのは、昭和五十八年からでした。つまり、真美の失踪があった翌年からですが、妹の真弥は、その年の三月に釧路の大学を卒業している。これをどう思いますか」
「まさか……。真弥が姉の名をかたって、金沢の店で働いていたということですか」
「実は、そうだったと判明したのです」
老画伯と岩都は不思議そうな顔をした。
「輪島の勤め先に、真弥の写真がありましたし、帯広の家にもありました。それを持って、金沢の妖花に行き確認をとったところ、全員が、これが八坂真美だと証言したのです」
「しかし、なぜそんなことを?」
画伯が訊いた。
「ええ、それがこの事件の非常にこみいった背景なのです。しかし、まだ、よく解明されていないのですよ」
荒尾は言葉をつづけて、「とにかく、そういうわけですから、逆にですね、双鹿秦平が殺害された時刻、真美になりかわった妹の真弥は、札幌にいたことになるのです」
「つまり、荒尾さん」
と、岩都が口をはさむ。「真弥は、田川張矢殺害については真犯人だが、双鹿秦平についてはそうではないといわれるのですか」
「ええ。一応、そういうことになりますか」
と、荒尾は答えた。
すると、国立画伯が、
「いや、その問題は、簡単明瞭じゃないですか」
と、いう。
「はッ?」
「双鹿秦平は、本別ではなく、八月十八日に札幌で殺されたとしたらどうです? 遺骸は、石倉数也の車で、翌日、本別へ運ばれたと考えると、問題は解決するじゃないですか」
荒尾は、はっとした。
「まさか……。いや、先生のいわれるとおりかもしれませんね」
4
荒尾は、この話をすぐ、酒田刑事に伝えた。
すると刑事は、
「荒尾さん、残念ですが、その推理は、一応無理のようですな」
捜査本部でも、その可能性はすでに考えており、初期段階で捜査したらしい。
「順を追っていいますとな、まず、八月十九日夜、帯広の十勝シティ・ホテルに現れた双鹿秦平です。そのときの女が、真美ではなく妹の真弥であることは、はっきりしたわけですが、では、彼女が会っていた男はだれなんですか」
と、刑事はいった。
「刑事さん、むろん私は、双鹿氏には双子の兄弟がいたなどとはいいませんよ」
と、荒尾は答えた。「しかし、被害者は普通の人ではなかった。角《つの》ある人でした。この特異な特徴に、目撃者たちが欺《あざむ》かれたとしても、おかしくはないのでは?」
「なるほど。おもしろい考えですな」
刑事は言葉をつづけ、「たしかに司法解剖では、死亡時間には幅があるわけですからな。双鹿氏が、巨大迷路以外の場所で殺され、運ばれたという考えかたも、理論的には可能ですな」
と、酒田刑事は、言葉を濁す。
荒尾は、
「十九日に十勝シティ・ホテルに現れて宿泊した人物は? そして、二十日に巨大迷路に現れた角のある人物は……? 多分、同一人物と、私は思います。むろん、双鹿氏の偽者というのが私の説ですがね、この人物が事件の鍵になるのではないでしょうか」
と、いった。
「たしかに。すくなくとも、池田町でワイン取引のために会ったワイン工場の主人は、そのときが初対面だったそうです」
「じゃ、それが、双鹿氏の身替わりであった可能性は、十分あるわけですね」
「ありますな。とすれば、これは帯広署の失態ですが、捜査の初期段階で、しっかり確認をするべきだったのです」
その翌日、ふたたび酒田刑事から電話があった。
「どうも、荒尾さんの推理が当たってきたみたいですな。帯広へいってやり、再度、池田町の工場主に、双鹿氏の写真を見せて確認させたわけですが、『会った人とはちがうようだ』と証言したそうです」
「では、だれだったのですか」
と、荒尾は訊いた。
「それは、今、詰めの段階です」
と、刑事は告げた。「帯広署捜査本部は、今日明日にも、参考人としてくだんの人物を呼ぶ手筈になっているそうです」
荒尾はいった。
「そのくだんの彼が、すでに殺害されていた双鹿氏の身替わりを務め、十勝シティ・ホテルに泊まった。そして、ホテルのロビーで八坂真弥に会い、モーゼの井戸の話をして、擬装工作をした。さらに、彼は、翌日も、双鹿氏になりすまして池田町へ出掛け、ワイン買い付けの商談をおこない、午後四時半には石倉数也と別れて、巨大迷路に現れたわけでしょう。この仮説で、全部、説明はつくと思います」
荒尾は、この時点では、これで本別の殺人事件は解決したと思っていたのだ。
ところが、その翌々日、酒田刑事からまた電話が入ったのである。
「捜査本部では、現在、問題の人物を呼び、事情聴取をおこなっているそうです。最初は、頑強に否定していたそうですが、このままだと自分が殺人犯にされかねない情況ですから、訊問には少しずつ応じ始めているそうですよ」
「結果はどうなんですか」
と、荒尾は訊いた。
「池田町のワイン工場主を呼んで、面通しをさせたそうです。その結果、『自分が昨年八月二十日に会ったのは、この人物にまちがいない』と証言した。これで、容疑者もついに身替わりを務めたことは認めました。が、ただし……」
刑事はつづけた。「彼は、池田町へ双鹿秦平の身替わりとして行ったことだけは認めましたが、それ以外のことは頑として否定しているといいます」
「しかし、否認も時間の問題なのでは……」
と、荒尾はいった。
「いや、ところが、そうでもないのですよ」
と、刑事は答えた。
「どうしてですか」
「容疑者は、自分が社員の石倉数也に連れられて池田町に出掛けたのは、被害者本人に頼まれたからだと主張しているそうです。十九日の夜に、容疑者の自宅に電話がかかり、双鹿秦平からこう頼まれたのだそうです。『私は急に用事ができたので、池田町へ行けなくなった。しかし、大事な取引なので、私ということにして、代わりに行ってくれないだろうか。仕事のことは、全部、石倉君が話すから、あなたは黙ってそばにいてくれればいい』とね」
「……?」
「さらに、十勝シティ・ホテルのフロント係も呼んで、面通しさせたところ、彼はちがうという」
複数の証人が、そう確認したそうだ。前に、双鹿氏の写真を見せたときは、曖昧な証言であったが、今度ははっきり否定したという。
荒尾は困惑してしまった。
「では、石倉数也の証言は嘘ということになります。彼は四時半に巨大迷路で降ろしたと言っているのですから」
「むろん、このことも訊いたそうです」
「容疑者はどう説明したのですか」
「自分は池田駅で石倉数也と別れ、そのまま列車に乗り、帯広に戻ったといっているそうです」
彼が乗った列車は、一五時四二分発の普通列車で、一六時一六分に帯広に着く。
一方、池田のワイン工場主は、二十日十五時三十分に別の客と会う用事があり、その来客と入れ代わりに別れたと証言しているそうだ。
なお、池田から本別までは約三十キロほどで、車なら三、四十分である。
一方、容疑者は、帯広に着くと、いったん自宅に戻り、海外旅行用の荷物を持って駅に引き返したと話している……。
「自宅に戻ったという証言はあるのですか」
「いいえ。容疑者つまり八坂夏彦は独身でしてね、やっているのは小さな町医者です。で、古くからいる看護婦が、そう証言しているのですな」
が、なにしろ一年前のことである。確実な証言といえるかどうか。そのことは、酒田刑事も認めた。
「それからどうしました?」
「彼は、一七時一七分発のおおぞら一二号に乗ったと答えているのです。この列車は二〇時一五分に札幌に着く列車ですが、彼は千歳で降りた」
「千歳着は?」
「一九時四三分です」
「確実な裏はとれているのですか」
「いいえ。一年前ですからね。しかし、われわれとしては、これを否定する根拠もない」
「それで?」
荒尾はまた促す。
「彼は、千歳発二〇時二〇分のJALで東京に向かいまして、羽田到着は二一時五〇分。そのままタクシーを使って成田へ向かいました。これは、確認がとれているのです。というのは、彼は、このタクシーには、一人ではなく相乗りしたからですよ。そのとき、名刺を車の中で交換しておりましてな、その相手の商社マンが、彼のことを覚えており、証言してくれたのです」
相乗りの相手は、れっきとした一流会社の社員だという。幕張《まくはり》に自宅のある相手は、タクシー乗り場で誘われたそうだ。
「さらに、彼は、成田のホテルで一泊、翌日は朝九時三〇分発のJALでサイパンへ行きました。これは確実です。彼は、毎年恒例にしている休暇だといっておりましてな、むろん裏を取ったところ、証言どおりでまちがいなかったのです」
「なるほど、お手上げですな」
と、荒尾はいった。
となると、二十日の日に、双鹿秦平は、どこに姿を消していたのだろうか。四時半過ぎに本別の迷路に現れた角ある人物は、やはり本物の双鹿秦平だったのだろうか。
5
数日後、また酒田刑事から連絡が来て、二人は会った。
「帯広署は、とうとう、近く逮捕に踏み切ることにしたようですよ」
と、刑事は教えてくれた。
「だれをですか」
「むろん、真犯人をです」
「帯広に住んでいるくだんの人物をですか」
「いや、八坂夏彦氏は殺人容疑からは外されましたよ。むろん、真犯人を庇《かば》い、捜査を混乱させた罪では起訴されますが、彼自身は、双鹿秦平を殺してはおりません」
「では、だれですか」
「それは、まだ、逮捕前なのでいうわけにはいきません」
と答え、刑事はつづけた。「ところがですね、一つ問題があるのです」
「といいますと?」
「実は私なりに、再々度、捜査記録を読み返してみたのですがね、ちょっとわからぬことが出てきましたので……」
「ほう」
荒尾は、刑事の話を聞いて、首を捻った。
話の内容はこうである。昨年、八月十八日の夜、双鹿秦平と妻の宮子は、薄野のビッグマックに宿泊した。殺害はその夜行なわれたものと、酒田刑事も捜査本部も考えているらしい。
しかしである、酒田刑事は、宮子にはアリバイが成立するのではないかというのである。
「十八日に千歳空港からタクシーで札幌入りした夫妻は、午後八時ごろビッグマックのフロントに現れ、二人揃ってチェック・インを済ませました。二人は、そのままベルボーイに案内されて部屋に行きましたが、ホテル内の温泉にすぐ双鹿氏は行ったらしい。温泉はむろん男女別々ですがね、奇妙な帽子を被って入浴している年輩の男を、数人が見掛けているのです」
時間は正確ではないが、八時から九時までの間だったらしい。
「ま、風呂に入るのに、帽子を被って入る人はまずおりませんでしょう。それで人目を引いたものでしょうな。どう思います?」
「角を隠すために、その男は帽子を被っていたわけですね」
「私もそう思います」
「すると、その男が双鹿氏であったことになる」
と、荒尾はいった。
「ええ。一応はそう考えなければならないと思いますよ」
と、刑事は意味あり気な表情。
「それで……」
「その後、双鹿秦平氏は、九時過ぎにホテルのロビーで取引先と会って商談し、一緒に薄野へ飲みに出掛けたわけです」
「で、ホテルに戻ったのは何時でした? 午前様だったのですか」
「いや、朝だったそうです」
「ほう、朝帰りですか。すると女ですな」
「それもですね、単なる浮気の相手ではないということが、その後の聞き込み捜査でわかったという次第でして」
「愛人が札幌にいたわけで……」
と、荒尾は驚いていった。「意外な新事実ですな」
「それもです、十年以上の付き合いだったらしい。しかも、隠し子までいたという」
「ほう」
「捜査本部では、この愛人を早速参考人に呼び、話を聞いたわけですがね」
刑事はつづけた。「で、この若い愛人がいうには、たしかに八月十八日の夜は夜十一時過ぎに来て、朝の七時に妾宅からホテルに戻ったという。そのとき、双鹿氏は、『どうも二人の仲が妻に感付かれたようだ。今、妻は札幌に来ている。私は今日帯広へ行くが、その間に妻から連絡があっても、会わぬほうがいい』と注意したそうです」
「なるほど。子供がいたとすると、宮子としてはゆゆしき問題ですな。息子の恒夫は双鹿氏の実子ではないわけですから」
「われわれもそう考えて、問い詰めたところ、愛人のほうも、強く認知するように迫っていたらしいですな」
「それで」
「十九日朝、ホテルに戻った双鹿氏は、妻には会わずに、ロビーから直接電話を社員の石倉数也の部屋にしたのです。彼は、レンタカーをすでに用意しており、そのまま帯広へ出発した……」
「となると、帯広のホテルにいたのは、やはり本物ですか」
「そういうことになります。が、愛人の証言でわかったのですが、双鹿氏は二十日は札幌に戻っているのですよ」
「なんですって」
「実子の認知問題で、急に話しあうことになったからだそうです」
妻の宮子が、帯広へ電話して、双鹿氏を急遽呼び戻したのだそうだ。
「これでやっと、八坂夏彦氏のいっていた話が本当だったと証明されたわけですね」
と、荒尾はいった。
「ま、そういうことになりますな」
と、刑事はいった。「女たち二人がいい争い、今にも血の雨が降るような騒ぎになったらしい。愛人のほうも本妻のほうも死ぬと双鹿氏を脅した。こういう場合、男は弱いですからな。双鹿氏は、やむをえずに、帯広発午前一時二〇分の夜行急行まりもで札幌にとって返した。この列車の札幌到着は朝の六時五〇分です。で、双鹿氏は、女二人の待つホテルへ車で直行した。フロントへわけを話して部屋に入ったのは、七時二十分ごろだそうですが、これはフロアーのメイドが覚えていました。というのもです、女の罵《ののし》り合いが廊下まで響いていたからだそうです。それで、客の苦情がきて、真夜中に二、三度、マネージャーが部屋に入り、注意したそうです」
「それからどうなりました?」
と、荒尾は、さぞ凄い形相で女二人が罵りあったであろう光景を想像しながらいった。
「双鹿氏についてきたベルボーイが、そのとき中に入ったそうですが、部屋は物を投げあったらしくひどいありさまだったといいます。そのあとのことは、どう双鹿氏が始末をつけたかはわかりませんが、部屋に入ってから三十分ほどした八時ごろに、女二人が一緒に部屋を出てきたそうです。フロントもそれを確認しておりますが、二人は互いに顔を背けながら、ホテルから出て行ったといいます」
「そのあとはどうなりました?」
「ええ。その後はですね、メイドが双鹿氏に呼ばれて部屋を片付けた。これが八時二十分ごろで、それ以降は、だれも双鹿氏を見掛けていないのですな」
「ということは、それ以後、死体で双鹿氏が発見されるまで目撃者はいないということですか」
「そうです」
「その部屋の鍵は、自動ロックですか」
「鍵は最新式のコンピューターを使ったカード方式を採用しておりましてな、むろん合鍵を作ることはできない部屋です」
「変ですね」
と、首を傾げる荒尾であった。
「それで、十一時にメイドが部屋をノックしたが、返事がないのでフロアー・キイで開けて中に入り、シーツを換えるなどの掃除をしたといいます」
「そのときは、双鹿氏は外出していたのですね」
「部屋にいないということはそうでしょうね」
「妻のほうはどうしました?」
「ホテルに戻ったのは夕方五時ごろでしてね、フロントに鍵を取りにきたそうですが、夫は預けてはいなかった。そこで、上にあがりましたが、すぐ戻ってきて、いくらノックしてもあかないからと、メイドに頼んで中に入れてもらったらしい」
「なるほど」
荒尾はますます考え込む。
「カード・キイは部屋に置いてあったのを一緒に入ったメイドも確認しております。むろん双鹿氏は不在。それからまもなくだったそうです、われわれが八坂真美とばかり思っていた真弥が、ホテルに到着したのは……」
と、刑事は話した。
結論をいえば、宮子のアリバイは成立するのだ。彼女の二十日夜以降のアリバイはすでに述べたとおりである。
「愛人のほうはどうですか」
と、荒尾は訊いた。
「彼女もアリバイはあります。彼女は、家に戻るなりすぐ支度をして、子供を連れ、函館にある実家に戻りましたから」
「そうですか」
荒尾は声をひそめる。「刑事さん、それにしても、ちょっとできすぎじゃありませんかね」
「何がです?」
「関係者みんなにアリバイが成立していることがですよ」
「先生、実はそこなんですよ」
と、刑事もいった。「私の勘でも、これはちょっと、面妖《おか》しいんじゃないかと思っていたところでした」
「そのホテルの部屋はどんな部屋ですか」
荒尾は訊いた。
「すみません、話の順序が逆になってしまいましたが、夫妻が泊まったのは、六階スイート・ルームです。この部屋は交差点に面した部屋でして、窓側が湾曲した形になっているのです」
「つまり、扇型をしているわけですね」
と、荒尾は念を押す。
「はい。建物の前面部が、建築家の風変わりなデザイン感覚によるものなんでしょうか、外から見ると塔のようになっているのですな」
「私はまだ、あそこには泊まったことはありませんが、たしかに外から見るとそうです」
と、荒尾もいった。
「とにかく、交差点側の部屋は、全部、続き部屋のない一部屋のスイート・ルームだそうですが、扇型になっているわけです」
「そうでしたか、やはりね」
と、荒尾はうなずいた。
「何が、やはりですか」
「いや、一度、私も泊まってみようと思ってね」
と、荒尾は言葉を濁す。
その翌日、指定の部屋が取れたので、荒尾十郎は、この六階スイート・ルームに泊まってみたのである。
併設の温泉にも入ってみた。なかなか本格的なものである。専門家にいわせると、日本列島は火山島であるから、日本中どこでも、七千万円から一億円もかければ、理論的には温泉が出るのだそうだ。薄野温泉もそうして、札幌のど真ん中の薄野に湧出した温泉である。
露天風呂もあった。檜《ひのき》の浴槽に浸かって、空をみると、まわりがホテルのそそり立つような高い外壁に取り巻かれ、はなはだ奇妙な気分である。なんだか、ニューヨークの摩天楼街のど真ん中で、風呂に入っているような感じというのが彼の感想だ。夜のネオンが、空を赤く染めていた。長方形に長い、大きな屋内浴室は、荒尾が予想していた通り、ルックスが落ちていた。
いずれにしても荒尾十郎は、その日の内に、彼らのトリックをあっさりと見破り、早速、酒田刑事に連絡したのである。
第八章 旧約の中のモーゼ
1
彼らは逮捕された。彼らは、頑強に容疑を否認しているそうだが、時間の問題だ。彼らがだれであるかは、最早、いうまでもない。
十一月の終わり、荒尾十郎は、成田からヨーロッパに旅立つことにした。割りと気軽にどこへでも出掛ける荒尾十郎である。
そういえば、まだ学生だったころ、将来おれは、絵描きか物書きになるぞと仲間たちに宣言した彼であった。理由は単純で、自由業なら大好きな旅行をして一生を過ごせるにちがいないと考えたのである。しかし、元来彼の頭脳は理工系で、専攻は天文学だったから、芸術のジャンルには、はなはだ縁遠い存在。どうしたものかと作戦を考え、ミステリーの道を選んだわけである。
――機は、正午過ぎに滑走を始め、機首を上げた。まもなく新潟の上空を越える。機窓から下を覗いたが、あの能登半島は見えない。あれから気付いたことが一つあった。他でもない、羽咋の地名の由来だ。『日本書紀』の垂仁紀の中に、時に鵠《くぐひ》ありて大虚《おほぞら》に渡《とびわた》る≠ニあるのだ。
この鵠は、タヅとも呼び、鶴に当てられることもあるが、日本古語の白鳥のことである。
とすれば、羽咋は、白鵠のことであり、読みはハククグヒ。これがハクイ(ヒ)になったのではないだろうか。
すれば、気多大社に残る怪鳥出現の伝説にもよく符合する。羽咋はその昔、白鳥トーテム族の住む土地であった。しかし、後に彼らを征服したのが、牛神信仰族であった。この日本海を渡ってやってきた双角族の伝承が、いつの間にか、押水のモーゼ渡日説を生むに至る。
結論を荒尾なりに下せば、モーゼにも角があったところから、こうした山根キク女史の奇説が生まれたものにちがいない。
しかし、このモーゼの日本渡日説を唱えた人物は他にもいたのである。彼こそが、知る人ぞ知る、あの酒井勝軍《さかいかついさ》である。戦前、彼は、『神秘の日本』という雑誌を出していた。すでに稀覯《きこう》本になり荒尾も入手を諦めていたのだが、最近になってその全巻覆刻版が、八幡書店で出たのである。
早速、購入して読んでみると、はなはだ思想的である。本誌の主張≠ニいう欄をみると、日本天皇の世界君臨を主張し、デモクラシーを排斥しているのである。日本を世界人類発祥の地とし、先住民族や渡来説を否定しているわけである。
また、日本を日の国とし、五大州(世界)を月の国(外八州)と呼んで、日本の優越を主張している。
さらにまた酒井は、神政復古による世界統一を唱えているが、同時にユダヤ禍説を排斥しているのが特徴である。
これらの主張は、戦前期、軍部・財界主導のもとに行なわれた、あの侵略戦争を合理化するものであった。荒尾がまだ子供であったころ盛んに教育された、大東亜共栄圏思想に合致するものであった。
実は、この『神秘の日本』第三十八号の中で、酒井勝軍は、わずかではあるが、モーゼが日本に来たとしてもおかしくはないと書いているわけである。ただし、根拠はいささか以上に牽強付会だ。すなわち、モーゼの墓は未だに発見されておらず、『旧約』はモーゼが天に上ったと書いている。しかるに天とは日の世界のことであり、故に日の国であるところのわが日本に来たのは当然である。だいたいこんな論法である。
なにしろ、日本こそが世界の中心だという信念に立っているわけだから、論理もこうなるわけだ。
現に、戦前期において、盛んに日猶《にちゆう》同祖説が唱えられていた時期があった。
たとえば、『聖書より見たる日本』を著した中田重治である。シオニストであった彼の著書は、シオニズムと国粋主義との奇妙な融合とでもいうべきだろうか。
また、小谷部全一郎は、『日本及日本国民之起源』において、日本人のヘブライ起源説を唱えた。彼によれば、大洪水後、ノアの子孫はアルメニアに一国を築き、ここをハラと呼んだ。すなわち高天原のことである。さらにその子孫が日本に渡ったが、ニホンという名は、セム系カド族の一人ニッポンからとられたという。
さらにまた、石川三四郎は『古事記神話の新研究』で天孫族はヒッタイトであると主張した。三島敦雄は『天孫人種六千年史の研究』を著し、天孫族をスメルおよびセミチックバビロニアン族とした。木村鷹太郎は、『世界的研究に基ける太古日本史』で、ギリシア・ラテン説を主張し、高天原の天はアメ、すなわちアルメニア高原であり、ここがエデンの園とした。
……など挙げていけば明治・大正・昭和初期の往時、こうした異端説が澎湃《ほうはい》として起こり、国民の大きな関心をよんでいたことがわかるであろう。
しかし、その根は、どうも江戸時代元禄期に来日したケンペルという人の日本人バビロニア起源説に端を発していそうである。往時の西洋人にとっては、日本は世界の外れにある不可思議な国であり、それが彼らの想像力を喚起し、ひいてはそれが、あの伝説の|失われた十支族《ロスト・テン・トライブス》≠ノ結び付いていたものであろう。
また、有名な『日本古代史の縮図』のマックレオドは、幕末期の来日外国人であるが、彼もケンペルの影響下にあったようだ。彼は神代文字が古代オリエント文字に類似していることに着目、その他の習俗などから、日本先住民族のアイヌ人は、ノアの子のヤペテの子孫だと断じ、彼らはアッシリアの圧迫で東へ逃げたユダヤ十支族の一つとした。
つまり、以上述べたとおり、そうした江戸時代からの流れの上に、山根キクのモーゼやイエス・キリストの来日説は乗っているわけで、決して、突然変異的に出てきたわけではないのである。
2
気がつくと、機は、高度一万メートルの空を飛び、もはや眼下は、沿海州である。
古代にあっては、日本海は内海のようなものだったにちがいない。大勢の人々が、われわれ現代人の想像以上に、日本海を越えて、往来していたのであろう。繰り返すことになるが、能登はそうした人々の到着地であり出発点であったわけだ。
荒尾は、殺された双鹿秦平のことを考え、彼の殺害計画に加担したと思われる八坂夏彦や八坂真弥のことをしきりに考えていた。
しかし、それにしても、どうして、こんなことになったのであろうか。この事件の全貌は、今、着々と捜査本部が取り調べているが、その深い背景については、当局の関心外である。
実をいうと、今度の荒尾のフランス行きには、酒田刑事にも知らせなかった理由があった。この行為は、むろん犯人隠匿罪になるかもしれない……。それを承知で荒尾十郎は、彼女の頼みを聞きいれたのである。
他でもない、八坂真弥である。ほんの数日前、彼女が、荒尾の家に国際電話を掛けていたのである。
むろん彼は驚いた。胸が動悸を打った。幸い、何十年も連れ添った妻が外出中であったから、この電話のことは彼だけの秘密だ。
「あたしを救ってください」
と、彼女は、地球の反対側から頼んできたのである。荒尾は、自殺志願者の、最後のあがきを感じた。
居場所を訊くと、パリにいると答えたのだ。
「心細いんです。パリは今、木枯らしが吹いて……」
パリの冬は陰鬱《いんうつ》だ。付き合える友人も家族もいないエトランジェが、一番参るのが、この寒い冬である。
「わかりました。必ず行きますから、変な気を起こしちゃだめですよ」
と、荒尾は声を荒げていった。
それにしても、一度の出会い、そして一夜の交情にすぎなかったにもかかわらず、なぜ彼女は荒尾に救いを求めてきたのだろうか。荒尾は彼女に選ばれたことを、神の手配と思い、従ったまでである。
機はソ連上空を西進していた。眼下は見渡す限り雲の海である。
荒尾は、読書灯の下で、『旧約聖書』を開いた。それは読みやすい、いのちのことば社の『リビングバイブル』(口語訳)であった。
彼は、出エジプト記≠フページを開き、最初から読み始めた。あるとき、羊の番をしていたモーゼは、砂漠の外れにあるホレブ山の近くで神に呼び掛けられるのだ。聖書は述べている。突然、柴の燃えさかる炎の中に神の使いが現れたと。驚いて近付くと、突然、神がモーゼの名を呼んだとあるのだ。
荒尾は、この個所(三章の冒頭)を注意深く読みかえす。どうも最初から神が現れるわけではないらしい。まず、燃える柴の中にその使いが現れ、次に神の声だけが聞こえてくるのだ。
これはどういうことだろうか。荒尾はふと思った。(まるで、この描写は、UFOが着陸した情景そっくりではないか。もし、そう大胆に仮定するなら、使いというのは宇宙人ということになるではないか。モーゼは、彼らの一人にあったにちがいない)
虚心坦懐に『旧約』を読んでいけば、このモーゼとユダヤ人たちが見たり経験した奇跡の数々が、現実の出来事であったことがよくわかる。個々の描写が非常にリアルなのである。荒尾は作家だから、それがわかる。これは概念の物語化ではない。奇跡の寓話化でもない。実際にあった出来事、そして目撃証言を基にして書かれているにちがいない、と。そして、いったん、そう仮定するなら、『旧約』はまるで別の姿を現すわけである。
とまれモーゼは、神に援けられて、エジプトの支配から逃れることができる。彼は当時八十歳ぐらいだったが、六十万人の同胞とともに砂漠を放浪するわけである。
その三ヵ月後、シナイ山の頂で彼は、神に会えることになる。その日、人々は山麓に立ち、モーゼだけが山に上る。人々の前にそびえるシナイ山は全体が煙に包まれていたと書かれている。雲ではなく煙なのである。やがて、神は火となって山頂に降りた。煙は炉に燃え盛る火のように空に渦巻き、山全体が揺れ、ラッパのような轟きがあがった、と。これはUFO母船の着陸風景でなくてなんであろう。
神は用心深く、人々が自分に近付いてはならない。見ようとしてはならない。この命令に背く者は殺し、祟《たた》りは子々孫々に及ぶと脅す。
が、これはなぜなのか。己れの姿を隠して、権威づけるためだったのであろうか。
荒尾は、ちがうと思った。モーゼ以外の者に見られてはならない姿を、神はしていたからではないだろうか。理由は、人に似て人ではない異形《いぎよう》の彼が、宇宙人であったからである。またこの神は神経質なほど、病原菌を恐れていたようでもある。人々に触れて、ウイルスに感染することを彼は、恐れていたのではないか。
神はまた、イースト菌を入れたパンを嫌っているが、これも同じ理由ではないのだろうか。
後に神は、テントの祭壇を作らせるが、この中に入っていけるのは、モーゼだけである。モーゼだけが、この中で、親しく神に相談できるのである。これもまた、神(宇宙人)は、原住民の持っている病原菌を恐れたからではないか。
ユダヤの人々を案内して、砂漠を導く光る雲の描写もUFOそのものではないか。UFOはしばしばレンズ雲の中に隠れている。夜は、燃える玉となって彼らを案内したとある。
また、モーゼの額は、彼がシナイ山頂で四十日間を過ごした後からは、光り輝いていたと書かれている。彼は、普段はベールでそれを隠し、神のいるテントに入るときだけ、ベールを取った。
そして、ミケランジェロは、これを角であると解釈したのだ。なぜだろうか。往時、今日に伝わっていない別の『旧約』があり、それが人々の間に流布していたからだろうか。
荒尾は、そのとき、モーゼは、四十日間、UFOの中にいたのではないかと思った。
今日、UFOの目撃例は、あまりにも多すぎる。そして、真偽のほどはわからぬとしても、すでにアメリカには墜落したUFOと乗員の死体が収容されているのだという説すらある。いや、彼らとの密約説すらあるほどなのだ。
パリのド・ゴール空港へ着くまでの十二時間を、荒尾十郎は、この問題を考えながら時を過ごしたのである。
3
荒尾の乗った機は、専用のターミナルに着いた。外に出ると、難しい検査はなくすぐ外に出してくれた。彼女が目の前に立つまで、荒尾は気付かずにいた。目立たぬ服装をした八坂真弥の貌は、この一ヵ月と少しの間に、ずいぶん変わっていた。やつれているのだ。病人のようでさえある。人目を気にするように、あたりに視線を配っている。
「ちょっと休んで、コーヒーでも飲みましょうか」
と、荒尾はいった。
さすがに長旅のせいで体が強張《こわば》っていた。
ロビーの外れにあったショップで、コーヒーを飲んだ。
「病気でもしているの」
と、荒尾は訊いた。
「いいえ。でも、一個所には長くいられないでしょ。あたし疲れてしまいました」
と、すっかり落ち込んでいるらしく、力なく彼女は答えた。
インターポールにも殺人容疑者として、指名手配されていることを、荒尾が教えておいたからである。この一週間ほどの間、彼女は毎日、小さな宿を転々としていたらしい。
「あたし、お金はあるけど、安心して泊まれる場所がないの」
「わかりました。今夜からは私と泊まりなさい」
と、彼はいった。
パスポートの提示を求められずに泊まれるようなまともなホテルはないからだ。
「援かります」
と、ほっとしたように彼女はうなずく。
顔はやつれていても、目は、輪島のときと同じである。荒尾は、彼女を見詰めながら、
(私はこの目に惚れたのかもしれないな)
と、思ったりした。
それから、人気のなくなった外に出て、タクシーを待つ。外はずいぶん寒かった。
やがて車が来た。乗り込んで行き先をいう。
「サン・ミッシェルへお願いします」
と、荒尾はいった。
無愛想な運転手は、車を猛スピードで飛ばす。
荒尾は、並んで座った真弥の手が、彼の膝の上にあることに気付いて、手をその上に重ねておく。
いつもなら、華のパリに来たことで、口笛を吹きたくなるような気分になるところだが、荒尾は気が滅入る。しかし、頗には出さずに、世間話をしつづけた。
市内に入ると道が混み始め、それまで死んだようだった街が、夕方の息吹きを伝える。車は北駅のそばを抜けて走る。鉄骨を組んだ大きな駅舎を見ていると、ようやくパリに着いたのだという実感が湧いてきた。
彼らは、サン・ミッシェル橋のたもとで降りた。振り向くとノートルダム寺院が照明を浴びて浮かび上がっていた。裏道へ入ると、新宿に似た界隈である。荒尾は、荷物を担いですたすたと歩く。前にも滞在したので、このあたりは地理に詳しい。
道は、石畳である。割りと狭い道の両側には、小さなレストランが並んでいる。喧噪《けんそう》のみなぎるうねった道を進み、成田から電話で予約したホテルに入った。こぢんまりした二つ星のホテルである。
荒尾は、名前をいってパスポートを出し、彼女は自分の連れだといった。
鍵を貰い、棺桶のようなリフトで三階に上る。
「たいした部屋ではないが、とりあえずの避難場所にはなるでしょう」
と、荒尾はいった。
「すみません」
彼女は、黒っぽいコートを脱ぎ、二つ並んだべッドの壁際のほうに座った。
荒尾は時計を見る。パリは午後六時。日本は午前二時である。
「あなたの荷物は?」
荒尾は訊く。
彼女は駅のロッカーに預けてきたといった。
「明日、それを取りに行くことにして、とりあえず食事にでますか」
と、彼はいった。
二人は、ホテルを出て、セーヌへ向かって歩く。セーヌに出てからは、ノートルダム寺院を左に見ながら、河岸通りを植物園のほうへ向かった。
「たしかこのあたりだったと思います」
と、いいながら探したシックなレストランに入った。
「いい店をご存じなんですね」
「ここは、野鳥料理を出す店ですよ」
窓際の席に着いて、シェフのお勧め料理を頼む。
ワインを飲みながら、荒尾は、店の雰囲気を楽しむ。それにしてもヨーロッパも近くなったと思いながら。
窓の外は、通りをはさんでセーヌだが、川面は見えない。街路灯に浮かび上がる裸になった樹の向こうに、シテ島のノートルダムが、ずっしりとした石の量塊を誇示していた。視界の外にあるセーヌを、観光船が走っているらしい。投光器の光を浴びせられたノートルダムは、石の肌を白くして夜空に浮かび上がった。
側方から見るノートルダムは、骸骨のようなバットレスを張りだしていた。船が行き過ぎるとふたたび、ノートルダムは夜に沈む。暗い空は雪でも降りそうな感じで、星は見えなかった。
目を移して、彼は、キャンドルの明かりに浮かぶ真弥の顔を見た。
「あなたとまた会えるとは思わなかった」
と、彼はいった。
野鴨料理は、いささかもたれる感じである。デザートのタルトが出るまで無言で食べた。
話し始めたのはそれからである。
「あの夜、どうして釧路からあの時間に帰ることができたか、わかりましたよ」
と、彼は、その方法をいった。
彼女は、表情を硬くしてうなずく。
「しかし、あの方法は前から考えていたのですか」
「いいえ。そうじゃありません」
と、彼女はいった。
「計画的ではなかったわけですか」
「ええ。あたし、飛行機で東京に戻ってから、航空会社のカウンターで訊いたんです」
「それは、あなたにとって、多分、非常に重要なことですよ」
と、彼はいった。「殺人が計画的であったとすれば、罪も重いですからね」
「計画的だなんて、それはちがいます」
と、真弥は今にも泣きそうな顔をした。
彼女の説明では、荒尾が和倉温泉から電話をかけたその後、田川張矢から電話が来たのだそうだ。
「あたし、彼に脅されたの。来なければ、全部、話すつもりだといわれました」
「警察はその反対で、あなたが彼を釧路空港に呼び出したと考えておりますよ」
「それはちがいます。あたしを信じてください。あたしは、あなたと会った日の翌日、大阪発のソウル経由でヨーロッパへ来る予定で、切符を買っていたんです。彼はそれを聞くと、すごく怒りました。彼から、どうしても会いたい、来なければすぐ警察に話すと言われて、あたしは、急いで時刻表を調べ、彼と釧路空港で会うことにしたのです」
「そして、どうなりました?」
「彼は、すぐ引き返したいというあたしの頼みを聞き入れず、車に乗せて、あの場所へ連れて行きました。そして登山ナイフを出して脅したんです。あたし、目をつむって承知しましたわ。そして、車の中で身を任せるうちに、この男に一生脅迫されるくらいならと思ったんです。だから、衝動的に……」
絞首に使ったロープも、彼が用意してきたものだったという。彼は、彼女を縛ってでもと思って来たらしい。すぐに彼はぐったりとなった。呆然としたものの、彼女は死体の始末を考えた。初めは、車のトランクに隠そうと思い、あけたそうだ。が、そのときトランクの中にバケツとホースが入っていることに気付き、とっさにあの方法を思い付いたという。
「キャトル・ミュートレーションのことは、彼もよく話していましたし、北陸地方でもよくUFOが出ることは聞いていましたから。あたしも一度、UFOを見たことがあるんですよ、高校生のときに帯広の郊外で、姉と一緒に……」
「それで、あのようなことを」
と、荒尾はいった。「しかし、現場の擬装にしては、あれはちょっとお粗末でしたな」
「でも、あたしには時間がありませんでしたわ。あれだけのことをするのが、あのときは精一杯でしたもの」
そして、彼のものを、彼のナイフで切断したときは、泣きたくなったそうだ。それは、空港へ戻る途中、車の窓から捨てた……。
「でも、どうして荒尾さんは、すぐあたしが犯人だとわかったのですか」
「観察ですよ」
と、彼は答えた。
「……?」
「あの夜、輪島の宿に現れたとき、あなたは革ジャンパーと革の手袋を持っていたでしょ。それを見て、ちょっと季節外れのような気がしたんです。そのときは、むろん、それほど面妖《おか》しいとは思いませんでしたが、後から釧路へ行ったのなら辻褄があうと思った。九月の末はそろそろ根釧原野は秋でしょ。肌寒くなる季節ですからね」
荒尾はつづける。
「それからあなたは、お酒を飲みたいといいだした。初対面の私に、普通の娘さんなら、多分、そんなことはいわないはずなのにね」
「先生は、上手に話を合わせながら、頭の中では別なことを思っていらしたのね」
「いや。なかなか楽しい話でしたよ。しかしね、カラカミ信仰の話になって、あなたがボールペンを出したとき、おやっと思った。ラ・マルセイエーズの楽譜の付いたボールペンの話は、田川張矢から聞いて知っていたのです」
「あの人、そんなことまで話していたのですか」
「ええ」
うなずきながら、荒尾はつづける。「しかし、あなたに対して決定的な疑いを持ったのは、あなたが誘惑したからですよ」
「怒っていらっしゃるのね。あたしに欺されたと思って」
「いや、必ずしもそうじゃないですよ」
「あたし、先生を欺そうとしたんじゃありません。それだけは信じてください」
「信じますよ」
荒尾は内心、自分が今、微妙な心理状態だと思っている。
「あたし、あんなことの後でしたから、なにかこう何もかも忘れたかったんです。だから……」
「わかりますよ。そういう心理って理解できます」
荒尾は、ひどくやるせない気分だ……。
4
彼女が涙ぐんでいるのに荒尾は気付く。彼女にとっては、思い出すのも辛い経験だったにちがいない。
荒尾は、ハンカチを渡す。彼女は目を拭う。ワインの瓶は空である。荒尾はギャルソンを呼んだ。
ボルドーの赤を飲んだあとだったので、今度はブルゴーニュにしたいと思って、相談した。この店は、ソムリエのいない小さなレストランである。若いギャルソンが勧めたワインは、ディジョンで造られたロゼであった。
ふたたび、荒尾は考える目付きに戻って、彼女にいった。
「私は、刑法のことはあまり知りませんがね、そういう事情なら裁判でも情状酌量の余地はあると思いますよ。私はね、あなたが自殺するんじゃないかと心配して、パリへ飛んできたんですから、私のためにもお願いしますよ」
「すみません」
彼女は、荒尾の渡したハンカチを戻す。
「まだ、あなたが、私に連絡してきたことは、警察には話しておりません。しかしね、できれば一緒に連れて帰りたいですね。というのも、あなたに自首して欲しいからですよ。逮捕されるより自首したほうが、罪だって軽くなりますからね」
「あたし、死刑になるんでしょうか」
「いや、なりませんよ」
荒尾は、いささか憂鬱ではあったが、彼女を励ますように笑った。
「さ、もう一度、乾杯しましょう」
と、いってギャルソンの注いだグラスを合わせ、
「私としては、その意味でもこの事件の深い背景を知る必要があるのです。私がこの事件に首を突っ込んだのは、モーゼの井戸のことを、酒田という刑事さんから訊かれたからですが、あなたは去年の八月十九日の夜、十勝シティ・ホテルで、その話をしましたね」
「ええ」
「そのときの相手は、やはり双鹿秦平氏だったのですね」
「はい」
「最初、私は、それが八坂夏彦氏だと思っていたのです」
「いいえ、義父《ちち》ではありません」
「どうして、その日、双鹿氏に会ったのですか」
「父との関係で、あたしは子供のころから、あの人とは知り合いだったのです」
「父というのは、八坂征一郎氏ですね」
「ええ。あたしは、中学生のときに、父の弟の今の義父のところに養子に出されたことはもうお話ししましたね」
「お姉さんと一緒にね」
「はい」
「そのことを、ホテルで話していたのですね」
「ええ。あの人から帯広に来たので会いたいといって来たのです」
「あなたのほうからではなかったのですか」
「双鹿さん、ほんとうは義父に会おうとしていたのですわ。でも、義父は札幌へ出ており、まだ帰宅していないといいましたら、あたしでもいいから会いたいといわれたのです」
「夏彦氏は、十八日から札幌へ出掛けていたのじゃありませんか」
と、荒尾は、自分の推理どおりだったと思いながら、訊いた。
「はい」
「双鹿氏の奥さん、つまり宮子に会うために出掛けたのでしょう?」
「はい。あの人から連絡があって、義父は出掛けたのです」
荒尾は、十八日の夜、薄野のホテル・ビッグマックの併設温泉に入浴していたのは、双鹿秦平ではなく、八坂夏彦にちがいないと推理していたのだ。
「真弥さん、あなたのお父さんには角《つの》があったのでしょう」
「はい」
「そして、夏彦氏にもそれはあった……」
「ええ」
「そのことが、今度の事件の奥深い背景だったのでしょう?」
「はい」
彼女はうなずいた。
説明しなければならないことは、たくさんあるのだが、双鹿秦平も八坂家の兄弟も共に、角《つの》族の家系であったことが、本事件の基本的背景だったのである。
「いずれにしても、八月十九日の夜、あなたが十勝シティ・ホテルで双鹿秦平氏に会ったことが、あなたを危険にさらした……」
と、荒尾はつづけた。「田川張矢というあのUFOファンの青年は、あなたの高校時代の友だちだったそうですね」
「UFOクラブの知り合いというだけで、あたしたちは個人的には親しくはなかったのです。でも、彼はあたしに関心を持っていたわ。あたしは避けていましたが……」
「彼が、あのホテルでボーイをしていることを知っていましたか?」
「いいえ。あそこにいたので、あたしは驚いたくらいでしたわ」
「やはりね」
荒尾はうなずいた。「その偶然があったあとで、あの事件が起きた。そして、ひと月後の九月に入ってから、双鹿氏の死体が、本別の巨大迷路開催地跡で発見されたとき、田川張矢は、その被害者があなたと会っていた人物だったと知った。それで、あなたを呼び出したのでしょう」
「そうです。あたしはね、そのとき、犯人が養父《ちち》か、それとも石倉数也さんじゃないかって思っていたのです。なぜって、養父はそのとき、帯広に戻っていましたし、双鹿さんの代わりに石倉数也さんと一緒に池田町へ行ったことを知っていましたから」
「それで、どうしました」
「あたし、怖くなりました。ですから、田川さんに、当日、あたしが双鹿さんと会っていたことは、警察にはいわないで欲しいとお願いしたのです」
「なるほど。それで田川は、あなたに対する切り札を握ったわけでしたか」
「そうなんです。あたしはその後、何度も迫られましたわ。結婚しろと脅されもしました。でも、あたしには、好きな男《ひと》がいました」
「石倉数也さんだね」
「はい」
「あなたは彼と、金沢で知り合ったわけですね」
「はい。なんでも知っておられるのですね」
「あなたがなぜ、お姉さんの名をかたって、妖花という店で働いていたのか、その理由は後でお訊きしますが、その前に、双鹿氏があなたに会おうとした理由は、何だったのですか」
「ええ。あたしを石倉さんと結婚させて、会社の後を継がせたいという相談だったのです」
「なんですって?」
そこまでは荒尾も推理してはいなかったからだ。
「嘘ではありません。これには深い事情がありますの」
時計を見ると、午後九時であった。日本では、朝五時だ。さすがに荒尾は睡魔に襲われはじめていた。
二人は夜の石畳を踏み、サン・ミッシェルの宿に戻る……。
「あたしのためにすみません。お疲れのよう……」
と、彼女はいった。
「こちらこそ」
と、いったきり、荒尾はもう次の瞬間には深い眠りについていた。
5
明け方、彼は、窓の下を通った清掃車の音で目覚めたが、また眠ってしまった。起きたのは昼近かった。真弥はいなかった。ロッカーに預けてある荷物を取りに出掛けたらしい。
荒尾はバスに入り、まだ残っている眠気を覚ました。パリの空は、なまり色に曇っていた。
身支度をして、荒尾は、窓の外を眺めながら、昨日の話を反芻《はんすう》した。事件の貌は、荒尾の推理とは少し変わっていた。
彼女の説明では、双鹿秦平は、彼女と石倉数也を結婚させて、双鹿ワイン商事を継がせる腹だったという。妻の連れ子の恒夫がいるにもかかわらずである。それがなぜかというと、二つの理由があった。
一つは、恒夫がどうしようもない性格らしく、会社の後継者には不適格――と双鹿氏が判断していたためであった。まして、彼は、宮子の連れ子で、双鹿氏の実子ではない。
第二の理由は、双鹿氏が石倉数也の才能を、高く買っていたことであり、彼と真弥を結婚させれば、一番いいと判断したかららしい。
「私の会社は私が作ったものだが、会社の前身を質《ただ》せば、元は真弥さんのお父さんと一緒に作った会社だったのだから」
と、双鹿氏は話したそうだ。
「今だから打ち明けるが、君の私生活はすっかり知っているよ。金沢と帯広を往復して、二重生活をしていることをね。なぜそんなことをするのかは私には理解できないが、私なりに心配していたのだ。それで、君と石倉君との仲を知り、君には黙って彼にも会ったのだよ。将来は必ず君と添わせて、会社を継がせるという条件を出し、うちの会社に来てもらったのだ。むろん家内の知らない話だが……」
とも打ち明けたのだそうだ。
「『君にはなにも相談もせず』とね、あたしはそう聞いたとき、なんだか無性に腹が憤《た》ったのです」
と、真弥は荒尾に話した。「あたしは、石倉さんが、双鹿さんの会社に入っていることなんか、それまでまったく知りませんでしたから」
「いい話なのになぜ断ったんですか」
と、荒尾は訊いた。
「なぜって、あたしは、両親がこのパリで死んだ事件は、双鹿さんの仕組んだものとばかり思っておりましたから」
「あなたは、『モーゼの井戸を見付けた』と双鹿氏にいったそうですが、それはほんとうですか。田川がそう私には話しておりましたよ」
「ええ」
「それはどういうことなんですか」
荒尾としては、一番、頭を悩ましていた疑問点である。
彼女は答えた。
「あれは、実をいうと、写真のことだったんです。あたしは、実の父がヨーロッパから養父に送ったあのポラロイドの写真を偶然見付けたのです」
「あなたは、それを双鹿氏に見せて、非難したのですね」
「はい」
「なぜ?」
「はい。モーゼの井戸≠ニ父の説明が記されていた写真にはね……」
と、彼女はいった。
「それに何か、別なものが写っていたんじゃないですか」
と、荒尾は訊いた。
「はい」
彼女はうなずいた。
「それを見てあなたは十三年前に起きた事件の真相に気付いた。だからこそ、願ってもないような双鹿氏の申し出を断ったんですね」
「ええ。そして、その写真を見て、双鹿さん自身もあの事件の真相を知ったんじゃないかしら」
真弥にいわせると、それが急に、双鹿氏が札幌へ引き返した本当の理由だというのだ。
「あなたも二十日の夕方には札幌へ着きましたね。あれは、宮子によると、あなたと息子の恒夫とのことで、札幌に呼んだと話していましたがね。ほんとうなんですか」
「いいえ。まるでちがいますわ。あたしは、義父にいわれて札幌へでかけたのです」
「夏彦氏は、すでに十八日の夕方には札幌へでかけ、ホテル・ビッグマックで宮子に会っていたわけですが、どんな用事で?」
「実は、義父も予め、双鹿さんから相談を受けていたらしいのです。あたしを石倉さんと結婚させて、会社を継がせるという計画ですわ。あたしは知りませんでしたが」
「なるほど、その相談で札幌にね……」
と、荒尾はうなずき、「それで、十九日遅く、帯広に戻ったわけですな。そして、双鹿秦平氏があなたと会った後、夜遅く戻った養父上《ちちうえ》に電話をして、池田行の代理を頼んだというわけですね」
荒尾は、以上のように昨夜の話を反芻しつつ、深く考え込んだ……。
6
彼女は昼過ぎに戻ってきた。大きなトランクを下げ、服装も変わっていた。
「思いきって、これを……」
と、彼女は、はにかむように、新調したらしい毛皮のコートを脱いだ。
コートの下も新しいドレスである。
「パリコレですかな」
と、荒尾は冗談っぽくいった。
「そうじゃありませんけど、思いきって散財したんです」
「とても似合いますな」
荒尾は、部屋の中が急に明るくなった印象を覚える。
「あたし、荒尾さんと一緒に日本に戻ることにしました」
「それはよかった」
「ですから、日本から持ってきたお金は、全部、使ってしまおうと思って」
「それも一つの方法だね」
と、荒尾はいった。
「日本に戻ったら、あたしは拘置所暮らしですものね。その後は刑務所暮らし。だから、あたし、最後の思い出にと思って……」
そこまでいい、彼女は急に泣き出した。
「とにかく、今はまだ、自由の身なんだから」
と、荒尾はいった。
「ええ、そうですね」
彼女は、無理に笑おうとしているのか、貌《かお》が歪んでいた。
「私も、あなたをできるだけ軽い刑ですむようにと思って、懸命に考えているんですよ」
「すみません」
「つらいでしょうが、昨日の話のつづきに答えてください」
「ええ」
「ご両親の事件のことを、考えてみましょう」
「はい」
彼女はうなずく。
この未解決の強盗殺人事件は、昭和五十年に、この街で起きた。彼女の両親は、パリ市内のカタコンブで、何者かによって殺害されたのである。
荒尾はつづける。
「ところで、私と友人の酒田刑事も、あなたと同じように、この事件がモーゼの井戸≠ニ関係があるらしいと考えていたのですが、いったいどこにあるのですか」
「ええ」
彼女も荒尾を真っ直ぐ見て、目を真剣なものにした。彼女が口ごもっているようなので、彼は、またつづける。
「実は、私は、『旧約聖書』を飛行機の中で読んできたのですが、モーゼが神の導きで、砂漠に杖を立て、井戸を発見したという話が、その中に出ておりましたよ」
出エジプト記≠フ十七章である。ユダヤ人たちはシンの荒野をあとにしてレフィディムというところに着いたとき、水がないために不満を爆発させる。モーゼは神のところに行き、『彼らは石を投げ付けて私を殺しかねない有様です』と苦情をいう。すると神は、モーゼに向かって、『お前の杖でその岩を打て』というのだ。たちまち水が噴き出す。モーゼはその場所を神様を試みる≠ニいう意味でマサと名付ける。
「ええ、あたしもその話は知っています」
と、彼女は答える。「でも、あの写真は砂漠じゃありませんでした。きっとヨーロッパの何処かと思いますが、写真にはその地名は書いてありませんでしたわ」
「で、それには、井戸が写っていたのですか」
「いいえ、井戸そのものではなく、写真は、どこかの庭園のような場所で、塔のような建物が立っていますの。前にベンチがあって、そこにあの人が座っていたんです」
「なるほど」
荒尾はうなずき、「ヨーロッパ旅行は四人でされたとか」
つまり、八坂夫妻と双鹿氏、それに宮子である。
「はい。父たちは、最初、エジプトへ行きましたの。それからエルサレムへ行こうとしたのですが、ビザの関係でイスラエルには入れなかったそうです。それで、フランスに来ましてね、パリで父たちは、双鹿さんたちと別れたそうです」
そのことは、帯広へ届いた征一郎氏からの手紙にも書いてあり、手紙は今も残っているそうだ。
「あたしは、後で何度も読み返しましたから、空《そら》で覚えていますけど、父は、フランス国内を観光して回っているうちに、偶然、モーゼの井戸≠見付けたのだと思います」
「となると、モーゼの井戸≠ヘ、フランスのどこかということになりますな」
「あたしは、ワインの産地に関係がある場所だと思いました……」
「なぜ」
「父は、あのころ、金沢で、双鹿さんと一緒に九谷焼の販売をしていたのですが、新しい仕事として、ワインの輸入を考えておりましたから」
たしかに、そのころからだと思うが、生活にゆとりの出てきた日本人も、ワインを愛飲するようになった……。それからポラロイド・カメラの普及もそのころからである。
(だいぶ的が絞られてきたな)
と、荒尾は思った。
「食事に出ませんか」
と、誘い、近くの中華料理店に行く。昼をかなり過ぎていたが、ずいぶん混んでいた。中国人のボーイが彼らを見て日本語のメニューを出してくれた。
チャーハンとワンタン・スープを頼み、ビールをもらった。
また、彼らは話しつづける。
「肝心の点がまだでしたが、さっき、パリであなたのご両親は、双鹿氏たちと別れたといいましたね」
「ええ」
「双鹿氏と、その時はまだ結婚していなかった宮子の二人は、どこへ行ったのですか」
「後で聞いた話では、双鹿さんは、モーゼル・ワインの視察にドイツへ行ったといいます」
「むろん、婚約した宮子と一緒にですな」
「それがちがうんです。あの奥さんは、ずっとパリにいたといいます」
「ところが、そうではなかった。彼女はモーゼの井戸≠ノいた……」
「ええ」
彼女はうなずく。「写真を撮影した日付は、父の手紙でわかっています。昭和五十年の八月三十日でこの日は父の命日の一日前ですわ」
「ほう」
荒尾の目が光る。
「父と母は、その翌日の八月三十一日の午後に、カタコンブで殺されたんです」
「手紙の投函場所は?」
「パリですわ」
とすると、八坂夫妻は、モーゼの井戸≠フある町から多分午前中にパリに戻り、手紙を投函したのだろう……。
第九章 モーゼの井戸
1
食事を終わってから、二人はカタコンブに行くことにした。何度もパリに来ている荒尾だが、まだこのパリの観光名所の一つには行ったことがない……。
真弥は、二度ほどでかけたそうだ。彼女に案内され、メトロに乗り、ダンフェールコシュローで降りる。モンパルナス墓地の近くである。午後二時から四時までの見学希望者が、列を作っていた。
このカタコンブが、どういうところかといえば、昔、パリ市内にあった無縁仏の骸骨を集めた地下埋葬室である。その数、六百万体というから凄い。
時間が来て、人々の列に交じって地下への螺旋《らせん》階段を降りていくと、広い地下道に出る。ここは、昔は採石場だったそうだが、いったん道に迷うと出られなくなるという。現に、昔は好奇心にかられた冒険家が探検にでかけたのはいいが、何年もたって自分自身が骸骨になって発見されたということも、頻繁にあったそうだ。もっとも、今は、迷路の枝道は柵でふさがれ、照明も点いているので、迷うことはない。
「第二次大戦でドイツ軍にパリが占領されていたとき、ここがレジスタンスの司令部になったそうですな」
と、荒尾はいいながら、前へ前へと進んでいく。
「あたしは、いつ来ても、怖くって」
と、彼女はいった。
「手をつなぎましょうか」
というと、真弥は黙って彼の手を握った。
しばらく広い道を進むうちに、一緒に入った人々はばらばらになる。
「ここは入口と出口が別で、八百メートルも離れているんですって」
と、真弥は教えた。
(たしかに、ここで襲えば、人には知られずに、狙った獲物を殺害できるぞ)
と荒尾は直観した。
やがて、骸骨の部屋に出た。飴《あめ》色に変色したしゃれこうべが、まるで石垣のように積まれているのだった。ところどころに、大腿骨を使った十字架の模様なども入れてある。
(日本人の神経とは、ちょっとちがうようだ)
と、荒尾は思った。
「ね、凄いでしょう」
真弥は、いつの間にか、身を荒尾に擦《す》り寄せていた。
整然たる骸骨の石垣は、延々と続いていた。地下水が天井から滴《したた》り落ち、骸骨は濡れて光っていた。光は奥までとどかない。ここに全部の遺体を収容するのに、百年もかかったそうだ。
荒尾は、悪霊が住み着いているような気がした。異臭がこもり、とにかく無気味である。だが、来たかいはあったと思った。今となっては真相を確かめることはできないだろうが、双鹿宮子が、この場所で八坂夫妻を襲ったのはまちがいなさそうだ……。
ようやく、表に出る。係がいて所持品を調べる。中には悪い奴がいて、骸骨を土産にするのだそうだ。
彼らは、目についたカフェに入って、休憩した。エスプレッソと林檎のタルトを頼む。
荒尾はいった。
「やはり宮子は、モーゼの井戸≠ゥらずうっと跡をつけてきて、カタコンブであなたのご両親を襲ったものにちがいない」
「荒尾さんも、やはり、そう思われますか」
「カタコンブも、今見てきたとおり迷路です。本別のは、トウモロコシの迷路ですが、迷路にはちがいない。これは偶然の一致とは思えないのですがね」
と、荒尾はいった。
(宮子はすでに、このカタコンブの殺人を犯していただけに、夫、双鹿秦平の遺体を捨てる場所として、本別の巨大迷路を思いついたのではないだろうか)
と、荒尾は想像した。
彼なりに、わざわざ遠くまで遺体を運んだのには、なにが理由があるはずだ、と考えていたのである。宮子に、この本別の迷路のことを話したのは、八坂夏彦にちがいない。彼は、八月十八日に札幌で宮子と会ったとき、深い意味もなく十勝の名物になりつつある、トウモロコシ迷路のことを話したものだろう。
それで宮子は、とっさに、夫の遺体を本別に運ぶことを思いついたのではないか。人は、緊急の場合には、無意識に支配されやすいからだ。カタコンブの殺人は、きっと宮子の無意識にも強く残っていたはずである。逆に、そう推理してみると、宮子はここで八坂夫妻を殺した可能性は高くなる。
「しかし、動機はなんだろう」
と、荒尾はいった。
真弥が答える。
「あの女は、あたしの両親を殺してしまえば、会社はそっくり、結婚する相手のものになると思ったんだわ。事実、そうなりましたでしょ」
荒尾はうなずいた。たしかに、結婚はすでに決まっていた。会社を、婚約者双鹿秦平一人のものにしてしまえば、彼女もその経営に参加できると考えたのではないか。現に彼女の経営参加が、会社を大きくしたのだ。
「となると、ますます、われわれはモーゼの井戸≠探さなくっちゃなりませんな」
と、荒尾はいって、考え込んだ。
やがて、言葉をつづける。
「真弥さんのお父さんは、当時、九谷焼の販売をされていた。そうしますとね、なにかそれに関係のあるヨーロッパの土地には、関心があったはずです」
「ええ。そうだと思います」
「で、今、ひょっと思いついたのですがね、お父さんはガレに興味をお持ちじゃなかったですか」
「ガレといいますと、ガラス器のガレのことですか」
「ええ」
「じゃ、そのとおりですわ。あたしは父の形見のガレを幾つか持っておりますけど」
「ほう」
荒尾の目が、きらりと光った。
2
ホテルに戻って、荒尾は、フランスの地図を開いた。探したのはナンシーという地名である。ナンシーはパリの東、二百五十キロほどにあるロレーヌ地方の都会だ。
「真弥さん、実はこのナンシーが、エミール・ガレの生地でしてね、アール・ヌーヴォーのナンシー派の拠点であったのです」
と、荒尾は説明した。「今から十四年前というとね、日本でガレ・ブームが始まる少し前でした。今では一点何百万円、いや一千万単位の高値になりましたが、そのころなら、まだかなり安く手に入ったことでしょうな」
「じゃ、父と母は、ナンシーに行ったとおっしゃるの?」
「想像ですがね。しかし、お父さんに、もし、先見の明といいますか、商売の才能があったなら、必ずナンシーへ出掛けたと思いますね」
エミール・ガレは、一八四六年から一九〇四年まで生存し、当時のヨーロッパを風靡《ふうび》したアール・ヌーヴォー運動の中心人物であった。彼は、一八八九年のパリ万国博覧会に作品を出品し、成功を収めたのだ。
「このときの作品の中に、金沢から取り寄せた金箔を使った作品がたくさんあったんですよ」
「まあ、知りませんでした」
「当時、ナンシーに、日本から来た森林学者が留学していたのです。名を高島得三といいましてね、彼は絵画も玄人はだしの腕前だったそうです。この彼から、ガレは日本美術の詳しい知識を得たといわれています。ま、金沢から金箔を取り寄せたのも、彼から聞いてのことと思うが、このころのヨーロッパには、ジャポネスクつまり日本趣味というのがありましたからね、ガレは大成功したわけです」
荒尾はまた想像した。ひょっとすると、宮子は、旅のつれづれ話に、八坂征一郎から、将来ブームになるかもしれないガレの話を、聴かされたのではないか。美術にはまるで無教養の彼女ではあったが、金儲けとなると、本能的な嗅覚が働く彼女は、先回りして、ナンシーに出掛けたのだ……。ところが、ナンシーで、宮子は八坂夫妻に会ってしまった。一方、見事な鑑賞眼を持つ征一郎は、次々と逸品を購入した。宮子はそれが羨ましくってしかたがなかった。人のいい八坂夫妻は、宮子の腹の内には気付かず、親切に知識を与えた。
「そして、さらに旅をつづけて、三人はモーゼの井戸≠フある街へ行ったものでしょう。そこからパリへ戻り、あなたの両親は、カタコンブを見物した。宮子を連れていたのではないでしょうか。そして、あの地下埋葬室の骸骨を見たとき、宮子は殺意を抱いた。人知れずに、二人を殺害できるとね。多分、ホテルの夫妻の部屋には、ナンシーで買い求めたエミール・ガレの逸品が幾つもあったはずです。宮子は、夫妻を殺害するとホテルに戻り、それを奪ったのではないでしょうか」
幾度も繰り返すように、まだ想像段階ではある。しかしそう考えると、今、宮子の経営する双鹿ワイン商事が、西洋骨董を取り扱って大きな利益を得ている背景も、説明できるというものである。
話しながら、荒尾は、フランスの地図を眺めつづける。そして、ふと、ひらめいたのだ。
「昨日、われわれはディジョン産のワインを飲みましたね」
「ええ」
「ディジョンは、割りとナンシーに近いですね」
「ディジョンはどういう街ですの」
「ここはブルゴーニュの中心都市でして、ワインの名産地なんですよ」
荒尾はもしやと思った。ここに、探していたモーゼの井戸≠ェあるのではないか。なぜなら、それはむろん伝説だろうが、ワインと好い水とは無関係ではないはずだ。そういう昔からワインの名品を産んでいる土地であるなら、モーゼ伝説が生まれたとしてもおかしくはない……。
「私の勘を信じて、行ってみませんか」
と、荒尾は提案した。
3
翌日早起きした彼らは、パリのリヨン駅から、TGVに乗った。フランスの新幹線だが、荒尾は初めての経験である。
郊外に出ると、なだらかな丘が連なる田園地帯である。
「十勝のようだね」
と、荒尾は目を細めながらいった。
フランスは、山岳が大半を占める日本とちがって、面積こそ少ないが、国土は豊かである。穏やかな沃野《よくや》、水運に恵まれているのだ。フランスは、産業的にも文化的にも、世界で一番バランスがとれた国ではないかと荒尾は思う。
二時間ほどで、ディジョンに着く。駅舎を出て、観光案内所へ行って訊ねると、日本語のパンフレットをくれた。荒尾が、「この街にモーゼの井戸≠ニいうものはありませんか」と、つたないフランス語で訊ねると、返事は「ウィ」であった。
地図を書いて説明してくれる。町外れの精神病院の中にあるらしい。ついでにホテルの予約も頼む。
タクシーに乗る。それほど遠い距離ではない。タクシーは構内の門のところに停まった。「この先は歩け」という。「待っていてくれるか」と頼むと、「バスに乗れ」と教えて去っていった。
昔は修道院だったらしいが、今は軽度の症状の患者を収容している精神病院だそうだ。標識があるので迷うことはなかった。天気は、この季節にしてはよいほうだ。擦れ違う患者さんが、愛想よく挨拶する。二人は楽しい気持ちになりながら、手をつないで、立木の多い園路を歩く。
井戸は敷地の外れの、塀に仕切られた一角にあった。
「ここだわッ。ここですわッ」
と、真弥は叫び、駆け出していった。
正面に六角形をしたガラス張りの建物があり、その前にベンチがおいてある。荒尾は、彼女といっしょに脇の入口から建物に入った。床の真ん中に、大きな井戸があり、水が溜まっていた。井戸の上に彫刻があり、六名の聖者の像がある。巡るように見ていくと角のある人物の像があった。
ちょうど来合わせた修道尼に、「これがモーゼですか」と訊くと、「ウィ」。「この角は何のためにあるのか」と訊ねると、「神の言葉を受信するためにあるのだ」という意味の答えをした。
荒尾はつくづくと長い髭をつけた、角ある人を見詰める。眼窩《がんか》がくぼみ、意志的な目をしている。鼻は高く立派である。
見ると、真弥が、手を合わせて、何かしきりに祈っていた。
「父に似ているの。あたしの覚えている父はこんな感じだったわ」
と、涙ぐんでいる。
荒尾も感動して、モーゼの像に祈る。
フロイトも、モーゼを論じているが、それは父権の象徴としてのモーゼ論である。
優しいが権威ある父のイメージ。いざというときは、指導者として立派に務めを果たす父。八坂真弥は、そうした父親を、亡き征一郎氏に抱いていたのではないだろうか。
しばらく、彼らはそこに留どまる。少し寒かったが、二人はベンチに腰掛けて話す。
「真弥さん、私の疑問に答えてください。あなたのご両親は、どうしてあなたたち姉妹を、夏彦氏のところに養子に出したのですか」
「その理由は、あたしたちも知らなかった。義父も口を濁して教えてくれませんでした。それでね、あたしたち姉妹は、てっきり、双鹿さんに関係があると思い込んでいたのですわ」
「十勝シティ・ホテルでも、あなたは、そのことをいって、双鹿氏をなじった。そうでしたね」
「はい。でもあのとき、双鹿さんは教えてくれましたの。双鹿家がそうであるように、あたしたちの八坂家でもね、何代かの間隔をおいて、隔世遺伝というのですか、ときどき角のある子孫が産まれることを。父は、あたしたち姉妹がそういう家系の娘であることが、世間に知られることを恐れていたのだそうです。それで、思いきって帯広に住んでいた弟のところにあたしたちを預けたの。当時、あたしの義父は、まだ今ほど角が目立っておりませんでしたから」
「夏彦氏は、ずっと独身だそうですね」
「ええ。やはり、角のことを考えて、子孫を遺すまいとしたのだと思います。あたしたちは、義父にはよくしていただきました。ある意味では、世間から鬼の子、鬼の子といわれずに済んだのですもの。帯広の生活は幸せだったと思います。けど、姉は、やがて、不幸に見舞われましたわ」
と、彼女は、目をふせた。
「お姉さんの真美さんが、共和国航空を辞められたのは、昭和五十七年でしたね」
荒尾は訊いた。「辞められたのは、何か理由があったのですか」
「ええ。姉は二十六歳でした。姉はその二、三年前から、前頭骨が変化を始めたのです」
「角が出てきたんですか」
「そう。最初は、髪型を工夫して隠せても、目立つようになってしまったの。手術をして取ることも考えたのですが、角の中には神経も通っていますから危険すぎるということでした。その前に姉のほうが、精神的に参ってしまったのね。航空会社を辞職し、そのまま、行方不明になってしまいましたわ」
「なるほど、そういう事情だったのですか」
荒尾は目を暗くした。「われわれが今見たモーゼの像からもわかるとおり、角はむしろ神聖さの象徴だと思いますがねえ、私は……。それは、天の声を、われわれの住む地上に伝える受信機のようなものだって、さっき尼さんもいっていましたよ。古代人はその点で、われわれ現代人より進んでいたような気さえしますな。鬼がいつごろから、節分のときに豆で追い払われるような悪い霊にされたのかわかりませんが、偏見ですよ。差別ですよ。そうした差別をしたがるのが人間社会ですがね、少なくとも私は反対です。もし、私があなたのお姉さんを知っていたら、そういって励ましてあげられたのに、残念です」
「優しいですね、荒尾さんて……」
彼女は、うつむかせていた目を上げた。「あたしも、もう少し早くあなたと知りあえていたら、運命も変わっていたと思いますわ」
「いや、遅くはないですよ。さ、勇気を出して」
「ありがとう。あたし、もう二度と死のうなんて考えたりしませんから」
「そうですよ。人生いたるところに青山あり≠チてね、昔の人はうまいことをいった。帯広ってところは、広大な平野があって、その彼方に青い山並がある。そういう場所にあなたは育ったんだから」
などと、荒尾は熱心に彼女を励ます。
「でも……」
彼女はいう。「あたしは、もう大丈夫ですけど……」
言葉をとぎる。憂いがちの貌を、彼女は考えるように、
「あたしは、姉は自殺していると思います。でも、やっとそう思えるようになったのは、双鹿さんが死んでからですわ。あたしは、姉が死んだとは思いたくなかった。両親の死んだあとは、姉があたしの母親代りでしたから。それに、あたしも姉のように、いつか角が生えてくるのじゃないかという恐怖心もありました。あたし、その怖れのために、ときどき我を失うことがあったんです」
ふたたび彼らは、園路を歩く。
「あたし、ここがなんだか懐かしくおもえてならないのです」
幾人も擦れ違った入院患者たちに、彼女はとりわけ愛想よく声をかける。
「そうでしたか」
と、うなずきながら、
(ひょっとすると、彼女にも……)
と、気付く。
それからバスで街に戻り、いったんはホテルに入ったが、ふたたび観光に出た。
ディジョンは、美しい街である。立派な美術館や博物館があり目を楽しませる。通りを散策すれば、歴史を重ねた趣があった。
昼食にとった白牛のステーキには、ブルゴーニュの赤ワインがよく合った。
街角のしゃれたカフェで、パティスリーとエスプレッソをとりながら、荒尾は訊いた。
「あなたは、石倉数也さんとは金沢で知り合った。アパートが隣り同士だったそうですね」
「ええ」
彼女はうなずく。「あたしは、釧路の大学を出ると、就職はせずに帯広の家におりました。でも、あたしは、姉が行方不明になった翌年の昭和五十八年から、二重生活をしていましたの」
「妖花に勤めていたころですね」
「はい。養父には内緒でした。養父には旅行に出掛けるといっておりましたから」
「なぜ、そんなことを。私の世代には理解できんのですよ」
「あたし、さっきもいいましたが、いつ前頭骨が、姉のように変形するかと思うと、恐ろしくて自暴自棄になっていたのです。それで、姉の名をかたって、妖花に勤めました。あの店は、割りと休んでも平気なものですから。お酒を飲んで、めちゃくちゃに騒ぐと、少しは気が晴れました。でも、あたしはやはりあたしでしたわ。あたし、あの店では、決して躯を許さない娘として有名でしたのよ」
「躯を許したのは、石倉さんだけだったのですね」
「はい。それとあなた……」
彼女は、突然、燃える目で彼を見た。
「私はあなたが、ヨーロッパへ去ったと聞いたとき、てっきり石倉さんの元へ走ったとばかり思っておりましたがね。彼とは会わなかったのですか」
「会いましたわ。でも、あたしたち、話し合って、別れましたの」
「なぜです? 彼は、そんなに薄情な男だったのですか」
「いいえ。あたしのほうから、これまでのことはなかったことにして、と頼みましたの。だって、あたしは人を殺してしまった女ですもの。彼はやさしいからそれでもかまわないといってくれましたが、長い間には、必ずそれが障害になるにちがいありませんから」
「なるほど、それはそれで、一つの選択だと思いますな」
と、荒尾はいった。「それで、どうするつもりですか」
「あたし、帰国して裁判を受け、刑を終えましたら、養父と暮らそうと思います。あのう、養父も有罪になるでしょうか」
「なるかもしれませんが、罪はずっと軽いでしょうね」
と、荒尾はいった。八坂夏彦については、彼は殺人には無関係だからである。
「罪を問われるとすれば、八月二十日にとった行動でしょうね」
と、荒尾はいった。「やはり、夏彦氏は、池田町から列車で帯広に戻ったわけではなかったのでしょう」
「先生は、何もかもご存じですのね」
「あなたの養父、夏彦氏は、石倉さんとやはり、本別巨大迷路へ行き、四時半に車を降りて、別れた。そのあと、迷路を徘徊し、角のある人間が現れたように見せ掛けたのです。そして、帯広へ急いで戻り、海外旅行の荷物を持って、帯広空港に駆け付けた……」
「ええ」
真弥は、あっさりと荒尾の推理を認めた。
ちなみに、帯広発一九時一〇分のJASは、東京直行便であるので、二〇時四五分に東京(羽田)に着くのだ。その後、彼は、千歳から到着したばかりの商社マンを誘い、タクシーで成田に向かった。
「それにしても、夏彦氏は、なぜ、双鹿宮子に協力したのでしょうか」
と、荒尾は訊いた。「私の推理では、殺人は、二十日の午前中には行なわれていたと思いますな。場所は、薄野のホテル・ビッグマックの六階スイート・ルーム。私は、その部屋で泊まってきましたがすぐにトリックはわかりましたよ。でね、宮子は、夏彦氏が石倉さんと車で帯広を出発する前に、自宅へ連絡してきたんじゃないですか。夏彦氏がこの日夫の身代りとして池田へ行くことは、前日、夫を札幌へ呼び戻すことになったときに、夫から聞いていた。それで、夕方にも、夫の真似をして、巨大迷路へ行って欲しいとね」
「ええ。義父は、後で、あたしにそうしたと打ち明けてくれましたわ」
「どうして、引き受けたのですか」
「むろん、あたしのためですわ。そうしてくれれば、あたしを石倉さんと結婚させ、双鹿ワイン商事の後継者にすると約束したんだそうです」
「なるほど、そういうことでしたか」
荒尾は、急にワインが飲みたくなった。ギャルソンを呼び、ワイン・リストを持って来させる。一番値段の高いものを選んだが、たいした額ではない。しかし、ここは、黄金のワイン王国、ブルゴーニュの白で一杯やりたい気分だ。
「最後に、一つだけ、わからぬことがあります。どうして、石倉さんがあなたに贈ったブローチが、昨年の巨大迷路の畑に落ちていたのか。結果的にいうと、あれがですよ、事件解決の端緒になったわけですがね」
「あたしが落としました。あたしは、双鹿さんの遺体が見付かったことを知り、いてもたってもいられなくなったのです。それで、後でね、夜一人で出掛けて行きました。でも、ひどく怖くって、あたしは直ぐ逃げて帰りました。ブローチを落としたことは後で気付きましたが、まさかあそこで落としたなんて……。でも、あたしは先生を恨んではいません。きっと、死んだ両親か姉が、あたしに警告したんですわ。ブローチを落とした御蔭で、あたし、罪の償いができるのですもの」
「あなたの未来に、乾杯しましょう」
荒尾は、白ワインのグラスを掲げる。折しも空が晴れ、西に傾いた夕陽を浴びて、グラスは金色に輝いた。
4
数日後、荒尾十郎と八坂真弥は帰国した。成田からは札幌便に乗り継ぐ。連絡をしておいたので、千歳空港には、帯広署の刑事と酒田刑事が来ていた。
彼女は物陰に連れて行かれ、手錠をかけられた。
「くれぐれもよろしく頼みます」
と、荒尾は、酒田刑事に耳打ちした。
真弥は、荒尾を見詰めて、丁寧に頭を下げた。
「元気にね」
と、いった。
「お世話になりました」
そうして彼女と別れた。
札幌へ向かうバスの中で、妙にやるせない荒尾であった。
(人生を長くやっていると、こういうこともあるか)
と、彼は心の中でつぶやいた。
それから、師走に入って間もなく、酒田刑事から連絡がきた。
「御蔭様で全面解決しました」
「それはよかった。刑事さんも御苦労様でした」
しかし、心から祝う気持ちにはなれそうもない。
「真犯人も、殺人の方法、アリバイ・トリックも、事件の根深い背景も、すべて先生の推理したとおりでしたよ」
刑事は告げた。
「犯人は母と子でしたか」
「はい」
荒尾は、はなはだ憂鬱な気分である。
建築学にも多少の心得のある荒尾十郎は、薄野ビッグマックのスイート・ルームが扇型の平面プランときいたとき、すぐピンと来たのだ。それで、泊まって部屋を調べると、案の定、洋服類を入れる物入れの奥に、もう一つのドアがあったのである。その奥は、配管スペースになっていたが、十分、人の入れる広さである。犯人は、昨年八月十九日から二十日にかけての深夜のうちに、その中に潜んでいた。そのとき、部屋では宮子と双鹿秦平の愛人が徹夜でいい争っていたが、隙を見て宮子が息子を引き入れたものだろう。宮子の供述によれば、前日のうちに東京から呼び寄せたものらしい。愛人の出現で、実子の恒夫を後継者にする計画が危うくなってきたからである。
とにかく、夜があけ、夫が帯広から夜行で戻ってきた。宮子は夫に頼んで、愛人のもくろみを断念させようとしたらしい。ところが、案に相違した事態になった。双鹿氏が、恒夫でも愛人の子供でもなく、八坂真弥を石倉数也と結婚させ、会社を譲りたいと宣言したからである。
あまつさえ、双鹿氏は、恒夫を徹底的になじった。あんな道楽息子は、勘当するとさえいいきった。それを、恒夫は、物入れの奥にある配管スペースの中で聴いていたのである。
やがて、宮子と愛人は外に出て行った。まもなく、メイドが来て部屋を片付けた。部屋が静かになり、父親の寝息がした。彼は、部屋に置かれていたカード・キイをそっと持って、いったん部屋を出た。ホテルの外に出て、近くの工事現場から玉石を拾ってきた。ふたたび部屋に入り、玉石で頭部を一撃してから首を絞《し》めたのである。
彼は死体を配管スペースに隠すと、外に出た。ロビーに降りて待っていると母親が帰ってきた。彼は訳を話す。母親は非常に驚いた。とんでもないことをしてくれたとなじったが、息子を救ける方法を考えた。そこで、すぐ、帯広に戻った八坂夏彦に電話をして、本別巨大迷路へ行って、夫の真似をしてくれるように頼んだわけである。
遺体は、翌日までそのままにして、大きなトランクを買い求めてきて、入れた。運び出したのは、二十一日の朝のチェック・アウトのときであった。一方、恒夫は、レンタカーを借りて、遺体を本別まで運び、真夜中に発見場所に隠したわけである。
一方、戻らない双鹿氏を、会社の社員たちは、だれも疑わなかった。会社の実権は宮子が握っており、社員たちは、双鹿氏の女道楽を知っていたからである。
5
裁判は年が明けてから始まった。荒尾十郎も、証人として帯広へ出掛けた。弁護士とも会い、気にかかる八坂真弥のことも訊ねた。
「裁判所が何と判断するかはわかりませんが、自首したことでもありますし、多分、好意的に判断してくれると思います。それに、被告の証言が、双鹿氏殺害の真犯人に自白させるのに役立っているわけですから、検察側も被告には好意的のように思われます。しかし、とはいっても殺人ですからね、不起訴にはならないでしょうが、刑は軽く済むと思いますし、また私も努力いたします」
「被害者から、脅迫されていたこともお忘れなく」
と、荒尾はいった。
「わかっています」
と、弁護士は答える。「被告人は、田川張矢に結婚を迫られ、しかも、ほとんど暴行同然に性交渉を強要されたわけですから」
「彼は、彼女が結婚の要求になかなか応じないとわかると、少しずつ彼女に不利になる証言を始めたわけです。そうして、心理的に彼女を追い詰めようとしたのだと思いますよ」
と、荒尾はいった。「たとえば、フランス製ボールペンの話ですが……」
なお付け加えると、八坂真弥は、双鹿秦平氏が殺害されていることを、遺体発見時までは知らずにいた。彼女が、八月十九日の夜のことで、田川に偽証を頼んだのは、田川が警察の聞き込み捜査に応じた後である。
では、なぜ、田川はそのとき、双鹿氏がその夜会っていたのが、真弥だったと証言しなかったのであろうか。そのときすでに、彼には、真弥に対する野心があったらしい。従って、小耳にはさんだモーゼの井戸の話はしたが、それが彼女であるとはいわなかった……。
――札幌に戻ってからは、ふたたび執筆の仕事に追われた。今年は、例年になく雪解けが早いようだ。やはり、地球的な規模の気象異変が起きているのだろうか。
それで、しきりにUFOが出ているのだろうか。月が人工天体で、月の裏側に何かあるらしいという話も伝わってくる。
それがほんとうなら、モーゼが会っていた神は、やはり彼らなのだ。
(ひょっとすると、モーゼという角ある偉人も、そして殺された双鹿秦平も八坂家の一族も、彼らの子孫であったのかもしれないぞ)
と、思ったりしている、最近の荒尾十郎である……。
(了)
時刻表は一九八九年九月号を使用しました。
あとがき――犯罪の現代性
(1) 本作は、講談社ノベルスに書いた五冊目のミステリーです。いずれも、扱っている素材は、(超)古代史物ですが、列記すると、
『義経埋宝伝説殺人事件』(一九九二年十一月、『義経埋宝伝説の謎を追え!』と改題して、徳間文庫に収録)
『日光霊ライン殺人事件』
『黄河遺宝殺人事件』
『「マ」の邪馬台国殺紀行』(一九九二年六月、『「新説邪馬台国の謎」殺人事件』と改題して、講談社文庫に収録)
祥伝社の『空白の十字架』以来、本業のSFとともに伝奇推理作家を兼業している作者でありますが、未だに、ミステリー(方法)と超古代テーマ(素材)の融合に関しては、これだという方程式が見付からず、悩んでいるところです。
とにかく、ミステリーの読者は、油断ならない相手でありまして、他ジャンルの何倍も苦労します。
(2) 実作者の眼で、最近のミステリーの傾向を分析して見ますと、シミュレーション化の傾向がいっそう強まっているような気がします。
このことはすでに、同時代性≠ニもいうべき感性で、若い人たちは気付いているわけですが、実作の現場にも、ひしひしと伝わってきます。
今、売れ筋といわれる、赤川次郎さん、西村京太郎さん、内田康夫さんなどのミステリーも、その隠された部分には、このシミュレーション感覚が潜んでいるのではないでしょうか。
交通手段にしても限定されていたわけで、犯人の国外逃亡などはほとんどあり得なかった。
一軒の空き家や孤立した村落が、事件の舞台に使えたのが、戦前の日本でした。が、今はそんな場所はありません。
つまり、そのように、ミステリーの舞台そのもの(社会的背景)が、大きく変貌しているのが九〇年代です。
一方、戦後の六〇年代、日本が高度成長期に入りますと、大正から昭和初期にかけた、いわば国そのものが密室化していた情況が、急変します。徳川三百年の鎖国によって特殊化していた日本と呼ばれる国家が内包していた閉鎖情況が、急速に、開放系へと変質して行くわけです。当然、ミステリーも時代性に引きずられて変容して行きます。
元来、ミステリーというジャンルは、閉鎖系社会に適した性質を持っているのです。密室にしてもアリバイ・トリックにしても、そうした閉鎖系社会を前提として、発生し、発達したものだと思います。私は、グラナダ放送制作のシャーロック・ホームズを何度も繰り返して観ているのですが、ホームズの活躍したヴィクトリア王朝時代というのは、英国そのものが産業社会化の道を歩み始めていたにもかかわらず、まだまだ閉鎖系社会であった。ロンドンという都会にしても、一種の閉鎖系の性質を持った劇場空間であったのではないでしょうか。
その意味では、今、新本格の旗手として売れっ子の綾辻行人さんの手法は、ミステリー本釆の閉鎖系シチュエーションを、人工空間化したアイデアではないかと思います。そして、やはりここにも、シミュレーションの感覚が色濃く存在し、それが効果的に生かされている……。
(3) ともあれ、社会派推理というものが、戦後に急速に台頭した背景は、日本社会の開放系への変質と、決して無縁ではないはず。かくて、あの『点と線』が現れるわけ……。
また、ミステリーが、企業犯罪を扱うようになったのも、社会の開放系への変質によって、人々の関心が、個人生活から社会へ拡大していったからではないでしょうか。
ところが、今はビッグ・ビジネスの時代。日本は市場開放を世界から迫られ、産業界といえども日本的閉鎖市場の中で安閑とはしていられなくなった。
企業は、世界企業化し、もはや企業帝国ともいうべき存在。あまりに巨大になりすぎているので、一個人としてのミステリー作家の手の届かない存在と化した。
いや、企業どころか国家すらも犯罪を犯しているのが、今日の状況。たとえば、ルーマニアですが、大統領そのものが国家権力を使い、巨大な犯罪組織化していたわけです。
このように、扱う対象が巨大化してしまうと、もはや一作家の手には及びません。大新聞社なり、専門学者なり、ジャーナリストのテーマになります。たとえば、リクルート犯罪摘発のきっかけを作ったのは、朝日新聞の取材チームだそうですが、これなども到底一作家ではできない仕事です。
ですから、今や、社会派リアリズム・ミステリーのやるべき仕事は、政財界にすらも強力な取材網を持ち得るフォーサイスのような大作家でなければ、不可能に近い。
となりますと、われわれ普通の作家に残されるのは、シミュレーションとかゲーム感覚といった、ポスト・モダンの方法です。
たとえば、あのMの事件です。私は、彼が逮捕される前に、テレビで、幼女が誘拐された団地の景色を上空から映し出した画面を見たとき、「これは?」と気付いて、はっとしました。というのも、テレビに映し出された、真上から撮られた団地の映像が、まさにファミコン・ゲームの世界とそっくりだったから。
事の善悪は別として、これこそが現代ではないでしょうか。
現実の犯罪すらもゲーム化されているような気がしてなりません。多分、Mの犯罪は、社会派ミステリーの恰好のテーマだと思います。社会を揺るがせた大きな事件でしたから。しかし、リアリズムの手法を使ってこの事件を取り扱うならば、事件の最も重要な部分が、そっくり欠落してしまうのではないでしょうか。断定はしませんが、どうもそんな気がするのです。
犯罪の心理そのものが、従来の犯罪心理学では、ちょっとつかみにくいほど変化しているのかもしれません。今日の犯罪者は、ゲーム感覚でなければ、ビジネス感覚で犯罪を計画立案し、実行しているのではないか。一人暮らしの老人を殺して、その高騰した所有地を奪うという犯罪が起こっておりますが、これなどもゲームのような感覚で行っているのじゃないか。
彼らにとっては、狙った獲物は、もはや人間ではなく、老婆として記号化されている。ファミコン・ゲームのディスプレーの中で、ヒーローの少年が怪物を殺し、その都度、報酬を貰うという感覚にちかいのではないか。ファミコンの世界では、怪物は記号です。老婆は血の通った生きた人間ではなく、記号です。
彼らは、こうして、記号化された人間を殺しているわけですから、ほとんど罪の意識はない……。
(4) とにかく、社会の記号化といい、シミュレーション・ゲーム化といい、これらの問題は、ミステリーを書く場合、考慮しなければならない大きな要素です。
また、社会の開放系への変質は、トリック構成に際しては厄介な問題になる。今は電話ですら、携帯電話で、列車や車の中からでもかけられるような時代です。つまり、われわれが社会と呼ぶ、装置としての社会≠サのものが、極めて複雑肥大化しているわけです。
こうした高度情報化・高度交通化している現代システム社会は、その全部を、四百枚前後の小説の中で捕捉することは、もはや不可能に近い。従って、パソコン・ゲームの世界のように、その一部だけを切り取り、これをシミュレーション・ゲーム化する以外に、作家は書く方法がないのかもしれない。
そうでもしなければ、さらに世界へ向かって、急速に開放系化されている、一九九〇年代の社会は、捉えられなくなっている……。
従って当然、ミステリーも根本的な変質を、社会側から求められているのではないか……。
今、そんなふうに感じているところです。
作 者
(答え)
釧路発一一時五五分のANA七四二便で、東京一三時三〇分着。/東京発一五時一〇分のANA八八九便に搭乗して富山へ。富山着は一六時一〇分。/富山空港からは、バス二十五分でJR富山駅もしくはバス四十分でJR高岡駅に着ける。/北越六号は富山発一六時五九分、高岡は一七時一五分発である。どちらでもよいが、高岡のほうが時間に余裕がある。/北越六号の金沢着は一七時四六分であるから、金沢発一七時四〇分の能登路一一号には間に合わない。しかし、北越六号は津幡に停車する。着時間は一七時三五分。能登路一一号の津幡着は一七時五一分だから乗り換えることができる。/七尾へは一八時五〇分。七尾で接続する列車で輪島着は二〇時一六分。従って二〇時二五分には荒尾十郎のいる宿に着くことができた。
参考文献
『キリストは日本で死んでいる』山根キク著(平和世界社)
『羽咋の神々』林忠雄著(平和世界社)
『羽咋のれきし』羽咋市教育委員会編(平和世界社)
『茜さす日本海文化』浅香年木著(能登印刷出版部)
『日本海域の古代史』門脇禎二(東京大学出版会)
『能登の文化財』能登文化財保護連絡協議会(東京大学出版会)
『古史古伝入門』佐治芳彦著(徳間書店)
『謎の九鬼文書』佐治芳彦著(徳間書店)
『謎の竹内文書』佐治芳彦著(徳間書店)
『謎の新撰姓氏録』高橋良典著(徳間書店)
『天皇家はどこから来たか』佐々克明著(二見書房)
『日本語の発祥地はメソポタミア』川崎真治著(読売新聞社)
『謎の邪馬台いろは歌』川崎真治著(徳間書店)
『地球ロマン・復刊一号』(紘映社)
本作品は、一九九〇年七月、講談社ノベルスとして刊行された『能登モーゼ伝説殺人紀行』を改題、講談社文庫に収録(一九九三年六月刊)したものです。