[#表紙(表紙.jpg)]
別世界通信
荒俣 宏
目 次[#「目 次」はゴシック体]
T 序
U 索引と暗号―― A Reader's Guide
V 現代――ファンタジーの復活
W 飛翔の方法
X 神話の森を超えて
Y 年代記の発見
Z ロマンスの誕生
[ 夢を開く鏡
\ 世界言語とユートピア
] ユートピアの経済学
※[#ローマ数字11、unicode216a] 怪物の博物誌
※[#ローマ数字12、unicode216b] 来たるべき宇宙誌
※[#ローマ数字13] 終末の儀式
あとがき
文庫版あとがき
書棚の片すみに捧げる一八〇冊|+《プラス》2
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T 序
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[#この行4字下げ] 月の意識は夢に満ちた眠りのそれに似ている。たとえば月の意識においては、夢のそれと同様、外界の物事や存在にある[#「ある」に傍点]種の関係をもつ実体から形作られたイメージが、その世界の風景となる。
[#地付き]ルドルフ・シュタイナー『宇宙的記憶』
☆なぜファンタジーを語る前に、月を語らなければならないのか[#「なぜファンタジーを語る前に、月を語らなければならないのか」はゴシック体]
月が人びとの想像力を掻きたてなくなってから、もうどれほどの歳月が流れたろう? 別世界としてのイメージを独占したかに見えた月が、そのイメージ・メーカーたる機能を失ってから、人間はいったい〈もうひとつの世界〉をどこに索《もと》めてきたのだろうか?
現代科学技術の散文的な威力が月を地球の延長につなぎ止め、もともとは遥けきもの[#「遥けきもの」に傍点]であったはずの太陰を「|既知の土地《テラ・コグニタ》」に変えてしまったとき、わたしたち現代人は象徴としての「月」を失ったと言っていい。別世界への憧憬を表現しようとする芸術家たちも、おそらくは詩と真実をめぐる争いのさなかに科学に屈したがために、もう月を描こうとはしなくなった。なるほど、わたしたちはすでに「月の喪失」を鋭く告発した一人の驚くべき文学者を知っている。かれ、D・H・ロレンスは鉱物的な冷たさを潜ませた晩年の作『黙示録《アポカリプス》』(邦訳『現代人は愛しうるか』福田恆存訳、筑摩叢書)のなかで、月と星と太陽を失った現代人の不幸をこんなふうに指摘する――
「われらと宇宙はひとつだ。宇宙とは一個の巨大な生きものであり、われらはその一部なのだ。太陽こそ宇宙の心臓であり、その鼓動はわれらの最も小さな血管にまでも血を送りこむ。月は偉大な輝かしい中枢神経であり、われらはそこから世界を感じとる。土星や金星が、われらにどんな力をおよぼしているかは、だれも知らない。しかし星は、いつの時代にもわれらの内にひそかに脈搏する活きた力でありつづけた」
しかし、現代に生きるわたしたちが「月の喪失」を悲しむのは、ロレンスが主張するような「人間の伴となる世界」あるいは拡大された自分自身[#「拡大された自分自身」に傍点]としての月ではなく、別世界としての月を失ったからだ。わたしたちは、地球という現実の生活空間から足を離して、純粋に物質的な想像力を巡らそうとするとき、別世界を必要とする。覚醒のない夢の領域でそれぞれの生を全うすることが、いかにして可能になるかを考えるとき、わたしたちは改めて「別世界」のシンボルだった月のことを思う。そして、月の意識が夢に満ちた眠りのそれに似ていると表現したルドルフ・シュタイナーは、この場合に鋭い暗喩となって胸を衝く。なぜなら月は、〈宇宙的記憶《コズミツク・メモリー》〉を解放する夢と同じように、わたしたちが別世界に暮らしていた時代の記憶を思いださせる標識《コード》だったからだ。
月と人間はかつて兄弟だった。現代人が月を失うまで、その銀色の世界は数千年来人間を魅了しつづけた。天体としての月がすくなくとも地球を照らしだすただの光球[#「地球を照らしだすただの光球」に傍点]などとは誤解されていなかったあの一五三二年という黄金の世紀《とし》に、ルネサンスの偉大な諷刺家ロドヴィコ・アリオストは叙事詩『狂えるオルランド』(平凡社「世界名詩大成・南欧編」)のなかで月を描いた。そのロマンスにおいて、英雄のひとりアストロフォは、地球での生活に倦《う》み疲れ、過去が生きているという月へ飛翔していくのだ。
アストロフォは月面で、賄賂や甘言が役にも立たず「黄金の鉤《かぎ》」に引っ掛かっているのを見つけ、空しく埋もれた才能が壺に保存されているのを知るに及んで、狂ったオルランドの「正気」もそこにちゃんと残されていることを確信する。また詩人アレキサンダー・ポープは、地球の歴史をひとりで仕舞いこんだ律儀な月のテーマを、次のように歌っている――
[#この行2字下げ]なんとなれば、地球において喪《う》せにしものは、ことごとく月に安置されたればなり。
おそらく月には、わたしたちの失ったもの全てが、いまだに残されている。もちろん人間が月と兄弟であったときの証拠さえも。ただ、ここでは、英雄アストロフォが月へ飛翔するために用いた手段を詮索するような野暮は、やめよう。なぜなら、かれは魔法使いの飼い馬である神獣グリフィンを駆ったのだから。別世界へ到達するための手段なぞ、たとえそれがアメリカやソ連の科学的魔術であろうとなかろうと、あるいはアリオスト流の魔術であろうとなかろうと、問題ではない。要は、別世界に到達することそれ自体が語られればよい。月で暮らすことが、夢の人生を全うしようと希《ねが》うわたしたちの期待を実現する方法であるかどうかを、まず確かめる。そしてファンタジーとは、かつて飛翔の希《ねが》いを果たす壮大な実験に挑んだ冒険者たちすべての記録であったと認め得ること。月の象徴的意味はそこにある。
とにかくこのようにして、わたしたちは月を奪回する方法を模索しはじめた。別世界の創造を目的とする文学形態ファンタジーが、ひょんなことから復活したおかげで、すくなくとも現代は夢のなかで別世界での生活を演習してみる手段を手にいれることに成功したと言っていいだろう。現代ファンタジーの復活は、その意味で必然的にある種の十字架を背負い、手さぐりで月への道を進む勇気を、わたしたちに与えてくれた。しかも、この道を辿っていく果てに知らされる真実というのは、つまり、こうだ――科学の猛威によって失われた別世界「月」は、実のところ、月盗人たる科学そのものが天体望遠鏡を通じて地球と寸分たがわぬ「あばただらけの月面」を暴露した瞬間から、それ以前とは比較にならぬほど謎を深め、あらためて別世界化した、と。わたしたちは本書を通じて、そんな|皮肉≪(注)≫な真実を、目にすることだろう。
たとえば、十七世紀イギリスにあって別世界を創造しようとした最初の人物のひとりジョン・ウィルキンズは、かれの夢想的な物語『新世界と他惑星に関する論述』(一六三八)において、コペルニクス主義の新しい天文学普及を真の狙いとしたにもせよ、地球外の「居住可能な別世界」たる月へ到達するための方法を真摯に論じた。到達可能――言い換えれば、神界的な非存在の領域として逆説的に実在を許されてきた月を、地球と同じ物質から出来あがっているもうひとつの世界≠ニ捉えた瞬間、人間は初めて別世界∴モ識にめざめたのだ。この衝撃的な覚醒はガリレオが望遠鏡によって月世界を観察した成果から生まれたが、ニコラス・クザーヌスやジョルダノ・ブルーノら「ヘルメス学」系宇宙論の先鋒が復活させた「多世界論《ブルーラリテイ・オブ・ワールズ》」が、精神の支柱としてそこに介在していたのは間違いない。十六世紀から十八世紀にかけて生きた人びとは、D・H・ロレンスが指摘した「失われた星」を科学にからめとることによってそれを別世界化し、実際にそこに到達しようと努力しつづけるなかで、夢の生活とユートピアの白昼夢に耽ることができた。かれらは幸福だったと言えるだろう。すくなくとも、かれらが別世界づくりの手段として用いた科学によって、「別世界」そのものまで失う羽目にいたったわたしたち現代人よりは。
ところで、シェイクスピアの同時代人ベン・ジョンスンが一六二〇年に『月面上に発見せられたる新世界からの報告』を公表したのにわずか遅れて、別世界探しのチャンピオンとみずから名乗ったジョン・ウィルキンズもまた、月のなかにもうひとつの世界を発見する物語を書かねばならなかった。かれにとって月は、そのためにまず到達可能な別世界[#「到達可能な別世界」に傍点]でなければならず、それも「後進の世代が、必ず月の住民とより良く接するための方法を発見するであろう」という保証に裏打ちされている必要があった。そして、イギリスの博物学者ジョン・レイが「月に人間が住む」と叫び、フォントネルが『多世界に関する会話』を描き、シラノ・ド・ベルジュラックが『月世界旅行記』を執筆した裏には、ウィルキンズと同じ別世界到達の欲求が働いていたはずなのだ。また、この欲求は「ユートピア思想史」という名の下《もと》では、地上の新世界実現熱としてフランス革命へもつながった。
しかし、ファンタジーの論理に関する本題がはじまる前からジョン・ウィルキンズら全く無名の人びとの名を挙げつらうことは、差し控えよう。ただひとつ、これだけが明確になれば序文の使命は終わる――つまり、月を撃ち落とした科学さえも、かつては文学と手をたずさえて夢の生活を建設しようとした時期があったのだ、ということを。わたしたちの住む世界が地球のほかに(あるいは現実のほかに)月や夢や星々のなかにも存在するという主張は、なるほど、同心円型の秩序宇宙を破壊し、神から天使を経て鉱物に至るまでのヒエラルキアを転覆させたけれど、代わりに「別世界創造」という想像力の偉大な使い方にかかわる純粋な歓喜をもたらしたことも間違いないのだから。
これは、月を取りもどそうとした文学と科学に関する小さなカタログである。
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注[#「注」はゴシック体] 筆者はガリレオのパラドックスともいうべき皮肉な現象について考えている。ガリレオはみずからの手で作りだした望遠鏡を月に向け、それを詳細に観察した結果、月が実は地球と同じ山や砂や岩からできあがった「もうひとつの大地」にすぎなかったことを、その著『星界通信』(一六一〇、岩波文庫の邦題は「星界の報告」)のなかで暴露した。けれど皮肉がここにある! ガリレオが神界としての月の虚飾を剥ぎとり、その正体を明らかにすることによって、月は初めて「別世界」としての機能をもつに至ったからだ。すなわち、「到達と居住が可能なもうひとつの大地」として人間に再接近した月は、真の意味で人間に、宇宙へ歩を踏みだす勇気を与えてくれた。人間は文学と科学の両分野で、月に励まされながら「別世界」への飛翔を開始したのだ。そこで、筆者はガリレオのひそみにならい、本書に『別世界通信』なる題名をつけることにする。
[#ここで字下げ終わり]
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U 索引と暗号―― A Reader's Guide
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[#この行4字下げ] かれの宇宙は天使と魔物に満ちていた。かれは魔術や魔的な祭祀について真摯に語った。しかしかれにとってはまた多くのパラケルスス主義者たち同様に、人間に対する神々の善意をさらに完全に理解する上で、観察と実験による自然の探索は、正当でありまた評価されるべき手段であった。
[#地付き]「ロバート・フラッドに関する論攻」――A・G・デブス『英国のパラケルスス主義者たち』より
☆別世界のひろがりかたに関する一試論[#「別世界のひろがりかたに関する一試論」はゴシック体]
ここに二つの別世界がある。この世界には魔物のような鳥や甲虫が飛び交い、蠢《うごめ》き、息を呑むような魔力をそれぞれの指先に秘めた妖精たちが暮らしている。そしてこの世界の名は、パリとロンドン。この両世界は、十七世紀のユートピア建築者たちが夢見た都市幻想の奇跡的な現実化であり、科学という新しい魔術の勝利を記念するモニュメントだった。
ところでわたしたちは、これら二つの巨大都市《メガロポリス》を詳細に描いた十八世紀あたりの色刷り地図でもひろげながら、机上の観光旅行をはじめることにしたい。どの都市もみな似たり寄ったりの中心部《ダウンタウン》から、少しずつ足を伸ばして、郊外へ出てみるのだ。そしてもしもあなたに興味がおありなら、途中で博物館を覗いてみるのもいい。ともかくそうやって、十八世紀当時の町並みをどこまでも辿ってゆくと、あなたはたぶん、次のような現象に気づくことだろう。
まず、あなたがパリの観光旅行を選んだのなら、やがて都市部の区切りを示す強固な砦《とりで》の防壁にぶつかるはずだ。パリは地勢的にも経済的にも、そしておそらくは心理的にも、その壁をもって都市の終わりの宣言となる。その壁の外へもう一歩でも足を伸ばしたとたん、あなたは完璧な閉鎖空間たるパリからこぼれ落ちた実感を味わうにちがいない。
けれど、あなたがもしロンドンの逍遥を選んでいれば、たぶん事情は一変してしまうだろう。テームズ川に沿って、あちこち道草を食いながら進むうちに、いつのまにかロンドン周辺を囲む郊外都市にはいっているあなた自身を、見つけるはずだ。サリー、エセックス、ミドルセックスと、方向をどちらに取っても、半分は田園風なのにどことなくロンドンの延長を漂わせる風景が果てもなく続いて、あなたの逍遥は終わることがない。ロンドンには、パリの壁に相当する物質的な境界がないからだ。そして、あなたが足を伸ばせば伸ばすほど、ロンドンという名の別世界は果てしなく拡がってゆく――
両都市の構造的な違いは、しかし空間のひろがり方に関するかなり明快な類例をわたしたちに示してくれる。フランス語がアカデミー・フランセーズの厳格な支配の下に置かれたように、パリはベルサイユの直接的支配を受ける非自治的な閉鎖空間であった。いっぽうロンドンは、テームズ一帯をつなぐ群小都市の連合体であり、商人支配による徹底した自治体として、境界《バリア》をもたない空間――言い換えれば拡大の機能をもつ世界であった。すなわち、ロンドンの中心部に店を開き、夜はエセックスやミドルセックスなど緑濃い共同体地域に帰る二重生活をすでにおこなっていたロンドン子は、無意識的にもせよ「夢と現実との住み分け」を実行していた節《ふし》があるのだ。その証拠に、ロンドンとパリの都市生活をユニークな角度から分析することに成功したジョルジュ・リューデは、著書『十八世紀のパリとロンドン』のなかでこう述べている――「十八世紀の初期にあってさえ、シティでの日中活動と郊外の家庭生活を両立させることは、ロンドン商人にとって珍しくはなかった」と。
こうして十八世紀における二つの別世界は、きわめてシンボリックな拡大の軌跡を描くことになる。すでに充分巨大化したパリの緩やかな人口増加に比較して、ロンドンは急激な膨張を果たし、十八世紀初めにはパリを超えるメガロポリスとなった。その世紀の半ばにあっては、イギリス人口の六人に一人はロンドン子だったと記録が語っている――
そして、この想像上の町めぐりから得た二つの教訓が、ファンタジーを別世界創造という面から探索しようとする人びとへの隠喩[#「隠喩」はゴシック体]となる。これから先、わたしたちはいつもこの暗喩にさいなまれなければならないだろう。閉鎖空間と開放空間、そして拡大の隠喩に。
☆索引としての時間と空間[#「索引としての時間と空間」はゴシック体]
ところで、ときに閉鎖的であり、またときに開放的である不可思議な別空間に踏みこむ勇敢な探索者には、どんな地図とどんな指針が必要なのか? 夢の文学を創造しようとした古今の作家たちが築きあげた世界は、なるほど近代錬金術の中心的人物ロバート・フラッドによって体系化された世界像のように、「天使と魔物たちに満ちあふれて」いる。しかし時空の彼方を旅するわたしたちは、天使や魔物たちが使用している摩訶不思議《まかふしぎ》な仕掛けや尺度に自分の眼を合わせる必要などない。そういう万能の尺度ではなく、たとえば、その代わりに人類の「昼の精神」が覚醒のなかで考えだした散文的で興醒めな尺度――すなわち時を測る「時計」と地球を測る「幾何学」を用いることは無謀だろうか。とことん昼の精神に慣らされてしまったわたしたちが、宇宙の秘密とそのシンボリズムを瞬間的に理解し得た無垢《むく》な童心をファンタジーのための尺度としようとしても、それはもう無理な話だろうから。精神の「夜の営み」から生まれた錬金術の知識は、あまりに明るい昼の太陽に照らされ過ぎたわたしたちには、水銀のように重いものだ。だからこそ、ラテン語と晦渋きわまりないシンボリズムを棄てて世俗語たるドイツ語で講義したパラケルススの心意気に、そっと拍手を送ろう。ギリシア詩学のさわやかな大系を知るために、数知れぬスコラ派とイスラム文学の訓詁学めいた迷路に踏みこむことを拒否し、西欧文化圏ではじめてギリシア語の原典に直接あたったボッカチオの心意気に、多くを学ぼう。かれらはすくなくとも、精神の「昼なる活動」を通じて別世界の極北に到ろうとしたのだから――
そういうわけでわたしたちは、これまで「夜の精神」の分泌液に護られて鈍く発光しつづけてきた未知なる世界への憧れを、きわめて事務的に分析する羽目におちいることを、恥と思わないことにする。そういう暴挙を敢えて犯しても、まず、本書を構成するために採りあげた方法論が、この章の冒頭に引用したロバート・フラッドの世界測量術であることを、明らかにしておきたいのだ。十七世紀英国の最も著名なヘルメス学者、パリはメルセンヌ神父の主宰する科学者サロンで一週に一度は取り沙汰された人物、シェイクスピアの記憶システムたる「世界劇場《グローブ・シアター》」の原案者、というふうに肩書きを挙げだしたら切りのないロバート・フラッドは、「天使と魔物に満ちたかれの宇宙」を、観察と実験によって一層深く理解しようとした。この方法を、筆者は本書において「世界拡大の文学」、ファンタジーを探索する測量器械に採用する。すなわち、自然の奇跡と妖精たちに満ちあふれた世界を、わたしたちの全対象的な尺度たる幾何学やら論理学が、いったいどう測量してきたかを歴史的に辿るのだ。
測量とは、フィリップ・ソレルスが正確に言いあてたとおり、自然を歪めることでしかない。その意味で言えば、ファンタジーの機能は、まだ現実の生活空間となり得ていない領域に楔を打ちこみ、無限の拡がりを歪めることになるのかもしれない。しかし非現実の空間がこうして削り取られることによって、わたしたちの世界は確実に拡大[#「拡大」に傍点]していった。その拡大機能ゆえに歪曲化の作業は着目に値するだろう。換言すれば、本書にとってファンタジーとは、建築[#「建築」に傍点]に限りなく類似する行為となるはずだ。
本題にはいって行く前に、わたしたちは人間が歴史を通じてなしとげてきたこの拡大行為を系統づける文学の|見取り図《バースペクテイブ》を用意することにしよう――
☆世界創造としてのロマンス[#「世界創造としてのロマンス」はゴシック体]
英国の言語学者J・R・R・トールキン教授があの大河ファンタジー『指輪物語』三部作(瀬田貞二訳、評論社)を発表して、従来ともすると逃避≠ニいう汚名を着せられ日陰者あつかいされてきがちだった幻想文学の、実に居直りとも思える再解放をおこなってからこのかた、アメリカやイギリスを中心とした英語圏諸国では一種のファンタジー#Mが吹きあれるようになった。すなわち、トールキン教授は次のように言うのだ――「現実社会という名の牢獄に不当に投げこまれたことに気づいた人間が故郷へ逃げ帰ろうとするとき、どうしてそれが非難の対象になるのか? あるいは、かれがそこから脱獄さえできない状況に立たされたとき、看守と独房の粗壁《あらかべ》とから眼をそらして、ほかの楽しいことがらに想いをめぐらしたからといって、それがどうして非難されなければならないのだろうか?」(『妖精物語について』猪熊葉子訳、福音館)と。教授はさらに、幻想小説の持つこうした機能を積極的に評価して、それを現実世界に対する準世界の創造作業と呼んだ。千三百ページになんなんとする物語のなかで、「空想の世界」とその領域に関する歴史、民族、言語といった詳細きわまる虚構の注釈をほどこしたトールキンは、こうして、物語を読めばすぐにでも妖精語で会話ができるようになるほど真実味を備えた準世界《サブワールド》『指輪物語』を完成したわけだ。
しかし、文学における別世界創造の歴史は、なにもトールキン教授をもって開祖とするわけではない。それどころか、体験の極大化としての別世界創造は、本来文学に負わされてきた機能のひとつでさえあったはずだ。かつてイギリスの生物学者ジュリアン・ハクスリーは、「文学が文明の発展に与えた影響を、われわれは低く評価しすぎてはいないだろうか? 小説を通して、われわれが他人のなかにはいり、他人の体験を真の意味で自らの体験に同化できたとき、人間の意識は無限に拡がりはしなかったろうか」と述べたことがある。この言葉は、小説という形式が持つ世界拡大機能の一端を鋭く衝いて、わたしたちをドキリとさせる。さらに、C・S・ルイスがキリスト教的なドグマを根底にして築きあげた『ナルニア国物語』(七巻、一九五〇―五六、瀬田貞二訳、岩波書店)や現代SFの期待株アーシュラ・K・ル・グィンの描く成長から死への入社式《イニシアシオン》『ゲド戦記』(三部作、一九六八―七二、岩波書店)、あるいは、人間の遠い未来における滅亡史を寒ざむとした筆致で語りあげたオラフ・ステープルドンの『最後と最初の人間』(一九三〇)など、文学における別世界を創造した今世紀の作家たちは、そうした意義を幻想文学の新しい里程標とした。あるいは幸か不幸か、そうした作家たちの作品は現在ではアダルト・ファンタジー≠ニいう多分に商策的な美名のもとに一括されてさえいる。社会の異変や新しい価値観の誕生が、それを受けとめる人びとの側に希望や不安や混乱を与え、そうした雑多な時流の淀みから異端の伝統が沸々と湧きだす過程のなかで、これら準世界創造型の幻想小説は社会学的な分析診断の対象にまで持ちあげられるにいたった。
ところで、そうした分析は、しばしば若い世代の生活意識や幾つかの文化運動と関連して、対抗文化の文学的シンボルをめざすやり方で何度も論じられてきたし、いっぽう我が国では、戦後、澁澤龍彦氏をはじめとする異端文学の美食家が、文学的モードの変遷史として、あるいは光の世界に対抗する闇の世界史として、幻想的なものの総体を把握する努力をおこなってきた。だがその結果、そうした努力の氾濫は逆に、異端とか幻想とかいわれる反体制的な性格を弱めさせ、幻想物語に与えられた別世界構築という骨ばった属性をすべて剥ぎ取ってしまったのではないだろうか。
そこで今度は質問を逆にしてみよう。ファンタジーはほんとうに逃避の文学であり左手道の闇を這いまわった存在だったのだろうか、と。そのときわたしたちは、近代ドイツ最大の神秘学者ルドルフ・シュタイナーの逸話を思いだす。自然科学者から哲学者へ、そしてオカルティストへと変身したかれは、青年のとき、とある山中でパラケルスス派の奇妙な薬草売りにみちびかれて神秘な入社式《イニシアシオン》を体験したあと、その薬草売りから「偉大な神秘家になるために、まず自然科学を学んで宇宙の成り立ちを徹底的に研究しなさい」と忠告される。以後シュタイナーにとって科学は、神秘学の一ジャンルとして世界創造の秘密を知るための強力な道具となる。だとすれば、幻想文学もまた世界創造の秘密を解きあかすヴィジョンとして、自然科学と同じ積極的な「現世」の役割を担ったとしても不思議はない。そこでわたしたちもしばらく異質な観点に立ちどまり、そうした世界像拡大の驚きに満ちた作業のなかに位置づけられた幻想文学の「昼間」の歴史を眺めていこうと思う。そしてこれから先の無駄話には、文学的幻想の華麗な翼は必要ないのかもしれない。
☆宇宙を測ること[#「宇宙を測ること」はゴシック体]
人間が宇宙[#「宇宙」に傍点](わたしたちが今ファンタジーを語ろうとする状況に合わせるならば世界[#「世界」に傍点])を文学のなかに再現させようとするとき、当然ながら人間は現在自分を取り囲んでいる世界を、まず問題にしなければならない。しかし、今日のファンタジーを産む基盤となった中世ロマンスや異教的愛の伝説『トリスタンとイズーの物語』やトゥルバドゥールの恋愛詩が成立したころ、人びとは世界についてどれほどの知識を有していただろう。たとえば世界の大きさを知ろうとした場合、ギリシア数学の影響下にあった古典時代では、文字《アルフアベツト》を用いた幼稚な記数法のために、一〇〇〇位の数字を扱えるのがせいぜいだったといわれる。ヘレニズム時代の天才アルキメデスは指数法則と対数計算を応用して世界の直径を百億スタディア(一スタディオン=正百八十メートル)と算出したが、「この数字は古代の規準から考えれば信じられない大きさだけれど、とにかく木星の軌道程度に過ぎなかった」と、科学史家シュテーリヒは指摘している。だが天才アルキメデスの測定したこの大きさでさえ、人びとに感覚として理解されるには十六世紀の夜明けを待たなければならなかったのだ。古い物語の別世界はどことなく窮屈な印象を与える。測るべきスケールが小さい。
また世界の形についても、古くプラトンが唱えた「宇宙を正多面体と見る」考えかたや、物質界と人間界と天界とがサンドウィッチ型に重なりあっているとするスコラ哲学的な認識が主流を占めていた状況のなかで語られたダンテ『神曲』の壮大な世界は、キリスト教のドグマが教える世界像に関する完璧な記憶装置としては秀れていたが、すくなくともわたしたちの考える世界像拡大の文学とは発端において異質だった。それはちょうど、物語としては偉大な『指輪物語』が、単に情念の上で別世界を現代人に提供するに過ぎない事情と、よく似ている。というのは、ダンテもトールキンも、かれらの別世界はすでに測定が済んでしまっているもの、という印象を与えるからなのだ。これらの物語では、わたしたちは既成の秩序をもつ別世界へ迷いこんだ祈参者にすぎず、あらためてその世界を測る気にもなれない。するとその意味でなら、わたしたちは世界創造にかかわる幻想文学の先駆を、ダンテやミルトンらのキリスト教的世界案内にもとめないほうがいいのかもしれない。かれらが人間創造に功のあった天使について「宇宙のあらゆる知識領域を、あたかも自ら体験した真実認識のように我が物としている、けっして驚異《ワンダー》しない者」と述べている以上――「驚異《ワンダー》」しないとは、未知の拡大がないということである。
しかし神話にはじまる文学の魔術的動機が「|驚き《ワンダー》」を表現することにあるとするなら、世界の大きさに関する驚きを最初にわたしたちに伝えた文学として、わたしたちはまず、その大きさに挑み、測定することから産まれた中世の自然誌や航海譚――すなわちジョン・マンデヴィル『東方旅行記』(平凡社・東洋文庫)やカンタンプレの『万象論』などを挙げるべきではないだろうか。そこには地球の果てにある奇妙な国や人間や動物たちに関する驚くべき物語が詰まっていた。さらにこの方向は、コペルニクスの発見によって世界像が地球中心から太陽中心へ一変すると共に、主として科学者たちの幻想を誘うことになる。惑星軌道の発見者ケプラーが世界についての物質的幻想を語った『幻夢《ソムニウム》』(邦題『ケプラーの夢』)は、やがて十七世紀イギリスの万能科学者ジョン・ウィルキンズへつながり、「月に居住可能な領域が存在することを立証するための論述」と副題を付した『新世界と他惑星に関する論述』(一六三八)なる物語を誕生させる。けれどもこれら先駆的な宇宙小説は人びとに理解されぬまま、二十世紀における新たな世界創造の作家H・G・ウェルズに再発見されるまで、埋没を余儀なくされる。そしてわたしたちはこの方向を、幻想文学における物質的な底流[#「物質的な底流」に傍点]と呼ぶことにしよう。フランスの奇怪な宇宙小説として最近は的はずれにも「十九世紀フランス産のスペース・オペラ」という触れこみで英訳されているド・フォントネー『スター星――あるいはカシオペアの|ψ《プサイ》』やデヴィッド・リンゼイ『アルクトゥルスへの旅』は、こうした底流から湧きあがったひとつの突出物と言えるだろう。
☆時間を跳びこえること[#「時間を跳びこえること」はゴシック体]
原初にあって形としての世界が人間に理解されない以前から、世界はしばしば「時間」という尺度で測られてきた。そしてこの尺度をファンタジー測定のスケールに採用することも、もちろん可能だ。たとえば、ロバート・スコールズら構造主義のファンタジー論は神話[#「神話」に傍点]について、時間をひとつの輪廻《りんね》――昼から夜、生から死といった永遠の円環と考えた時代の文学的表現だと指摘する。神話の神々は、死滅と復活を支配する時間の円環にもてあそばれる古い異教時代の概念であって、それゆえにこそ神話は、復活のための神秘劇《ミステリ》として運命づけられる。エレウシスやディオニュソス秘儀の物語的要素が、ある時にはアラビアの恋愛詩や神秘主義者の暗喩として、文学の側に太古の香りを息づかせつづけたことは、神話時代に生まれた「円環としての時間」感覚が後世のあらゆる神秘論の母胎となったのと同様に、この認識方法の原理的性格を教えてくれる。
しかし人間の時間感覚は、やがて過去から現在へ延びる直線に変わった。祖先たちの行為がどのようにして現在の自分につながっているか、という問題について古い族長社会は、「英雄たちの伝説」を繰り返すことで子孫たちにその解答を与えた。中世のロマンスやトゥルバドゥールたちが語る騎士道的恋愛詩の黄金時代は、この直線的な時間感覚の普及によって到来する。ゴシック・ロマンス以来の幻想文学が逃避先として過去を選び、ロマンスの世界へ還ろうとしたのも、一面では時間論の真理に触れている。けれど過去といっても、この時代に信じられていた人類の歴史は、わずか六千年が限度だった。たとえばジェイムズ・アッシャー司教が算出した「|神の創造《クリエシヨン》」の時期は紀元前四千四年であって、しかもその説を十七世紀の人間は納得していたのだ。そしてこの神話は、十八世紀も末に近くなるまで微動もしなかった。これら強固な神学的宇宙論――驚異しない存在たる天使によって作られた世界像――を破壊した力は、もちろん科学の発展に多くを負っていたけれど、大宇宙と小宇宙(人間)との照応《コレスポンデンス》に気づいたパラケルススによる化学と鉱物の神秘学などにも、功績は見られた。実験化学が目の前で示してみせた合一昇華の一元論(男女合一によるアンドロギュヌスの思想や神人合一の論理)は、東洋宗教や中世カタリ派の異端論者がすでに叫んでいた神と人間のあいだにできた越え得ぬ垣根――すなわち教会の権威を破壊したのだ。パラケルススの著書『ニンフの書』その他が後世に与えた影響は、その意味でどんなロマンスよりも、どんな科学論文よりも巨大であり甚大であった。こうした神学の呈示する六千年の人類史[#「六千年の人類史」に傍点]は、ダーウィンの進化論によって決定的に破壊される。そしてわたしたちは、時間論に関するこの新世界創造の生まなましい衝撃を、コールリジやシェリーやバイロンらのイギリス・ロマン派の作品にうかがうことができる。
生命の再生産《リプロダクシヨン》が死にうち克って栄え
幸福を消しさらないでいる様《さま》を、
地球いたるところに叫び知らせよ。
殖《ふ》えゆく生命が津々浦々を人びとで満たし
若く甦る自然が時をうち負かす様《さま》を――
[#地付き](『自然の寺院』一八〇三年)
と謳ったのは、ダーウィンの祖父であり原形的な進化論をロマン派の人たちに吹きこんだ謎の詩人エラズマス・ダーウィンだった。
☆ロマンスの異教的伝統[#「ロマンスの異教的伝統」はゴシック体]
今日のファンタジーがおのおの驚異に満ちた異次元世界をつくりだす様《さま》は、まったく壮観である。また古いファンタジーの再評価ラッシュも、古くは神学に、そして新しくは合理主義の手先と化した科学によって傷つけられ、そのためにこそ情熱を燃やしてきたかれら〈別世界の創造者〉の遺産を、あらゆる場所で再発見していく回復作業に思えてくる。たとえばわたしたちはローゼンクロイツ『化学の結婚』やマンディアルグの瑞々《みずみず》しい『満潮』などに、秘儀への参入として機能していた神秘劇の名残りを見いだすだろう。それから、近年ドニ・ド・ルージュモンが『愛と西洋』(邦題『愛について』岩波書店)のなかで立証した中世騎士道ロマンスの秘密――聖なる愛への情熱を死との合体のなかで捉える悲恋型ロマンスが、実は吟遊詩人《トウルバドウール》という名の異端アルビ派信徒によって広められた異教神秘説やマニ教典の寓話だったとする説――を、現代アメリカのロマンス作家J・B・キャベルが産んだ幾つかの中世騎士道物語のなかに発見して、今さらのように驚くだろう。さらにわたしたちは、ネルヴァルの『オーレリア』やジョージ・マクドナルドの『リリス』(ちくま文庫)、『ファンタスティス』(国書刊行会)といった|夢の文学《ドリーム・リテラチヤー》のなかに、確かで不動だった物質が水みたいに形を失《な》くしていく様子を、魂の眼が物質界を覗いて驚異するように、この肉体の眼を通して目撃していくことだろう。
これらの関係を見ると、ファンタジーの読み方なり楽しみ方の本道は、まず「異教的伝統」とも呼べるような「根」の部分を知ることにあるような気がする。けれども、異教的伝統をとつぜん頭ごなしに語りはじめるのは「野暮」だと思うから、とりあえず同時代のファンタジーを例にして、その「根」を探るといった方法を採《と》ろう。
そうなると、最良の実例は、若者文化のなかで確乎たる人気を誇るトールキンの小説しかあるまい。そして、七〇年代におけるファンタジーの復権が示す意義を確認したうえで、別世界創造にそれぞれ力を与えた古い文学形式――神話とロマンスと年代記について考えながら、何人かのファンタジー作家を詳しく取りあげていくつもりだ。もちろんその間に、インターリュードとして、実際に地上の別世界を築こうとした人びとの夢とその成果についても語ろうと思う。
ともあれ、わたしたちはこの本を構成する暗喩と索引を、ひととおり手にいれ終わった。これから取りあげようとするファンタジーにも、窮極において「月を描こうとした魂の結晶」と言いうる点を共通の理解とした。なぜなら月は、わたしたちにとって、最も近い別世界[#「最も近い別世界」に傍点]であるからだ――
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V 現代――ファンタジーの復活
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[#この行4字下げ] 「ここは地球上のどこでもない。が、同時にどこにも在って、行こうと思えば何人にも行きうる。そして私は現実の世界に或る奇妙な滋味――夢の結晶とでも云うべきものを提供しようとしている一学究にすぎない」
[#地付き]イナガキ・タルホ『童話の天文学者』
☆夢・もうひとつの人生[#「夢・もうひとつの人生」はゴシック体]
もうひとつの世界への憧れは、いつの時代にも存在する。それも、人間をおおいつくしている環境が、かれらにとって苦痛であればあるだけ、空しい現実への反撥はそのぶんはげしさを増す。
たとえば一九五六年にイギリスがおこしたスエズ出兵の失敗から、ジョン・オズボーンの『怒りをこめてふり返れ』をはじめとする「怒れる若者たち」の反乱が生まれ、やがてベトナム戦争のどろ沼を通じてヒッピー哲学がアメリカの若い心をとらえはじめるまでのあいだに、若者はまずイデオロギーの面で、あるいは文化の面で、そして最後には風俗の面で、今日カウンター・カルチャー(対抗文化)と呼ばれる生活革命を実行に移した。いま、体制社会からドロップ・アウトした若者や、あるいは体制社会のなかで気ままにスウィングする若者たちが、純自然食品を口にしたり文明の利器を棄てて手作りの道具を愛用したりするのは、単に公害に汚染された物に対する反撥や気まぐれの好奇心からではない。かれらはそういう行動のうちでもっとはっきり、古い体制に代わる新しい世界を日常のなかに実現することを意図している。かれらは、あるゆる意味で破綻を来たした現体制から脱出して、まず緑の森を防壁にし、そのなかに、もうひとつの生活と秩序とを確立しようとした。
もちろん、それを実行したものもいれば、実行できなかったものもいる。しかしかれらの心のなかに、「夢のなかで――あるいはもうひとつの世界[#「もうひとつの世界」に傍点]のなかで――自分の生を完全にまっとうすることができる」という可能性がちらつきはじめたことは、否定できない。それも、その可能性の大部分がかれらの敵視する先行世代の犠牲の上に成り立っていることを、意識的に忘れて。かれらは、自身がやがて棄てようとしている現代文明のその恩恵を踏み台にして、すべてを次の夢[#「次の夢」に傍点]のなかに引きずりこむ作業をはじめたのだ。
その証拠に、もうひとつの世界への橋わたしをめざした東洋神秘思想が、いま欧米でまじめに研究されている。かれらはすでに SATORI という言葉を自分のものにして、そのなかに新しい生を発見しようとしている。日本人の眼には、それが新しいかたちの出家[#「出家」に傍点]と映るのも無理はない。そして飽くまでも物質文明の力に頼ろうとするものは、SATORI の代わりにLSDやメスカリンの服用といった「人為的な接神」に殺到する。かれらにとってもうひとつの世界とは、もはや論理と試行錯誤を通じて達成される完璧な合理世界ではない。そうではなく、論理も試行錯誤も知識もついに到達することのない無の世界=A人間の意識そのものが拡大されない限り体得されることのない別世界なのだ。
だからこそ、純自然食品を口にし、SATORI を開き、LSDを服用することは新しい秩序への参入儀式に昇華しえた。それはもはや、道徳にとっての善悪ではない。ひとつの幸福な結末をかち取るために、是非必要な儀式[#「儀式」はゴシック体]なのだ。こうして若者たちは儀式のなかから文化をつくりだしていく。音楽、絵画、あるゆる芸術は儀式であることから普遍化をめざし、やがてメッセージ化し、日常化する。そしてもちろん、これからわたしたちの関心事となる文学もまた、このいささか皮相的な変革を経験することによって、ひとつの機能を獲得した。わたしたちはそれを、さしあたって〈夢をひらく鍵〉と呼んでおこう――
フランスでは人間存在の生まな形態に肉薄しようとした実存主義が、やがて存在そのものの物質的な位置づけをめざす構造主義に乗りこえられ、アメリカではヘミングウェイやスタインベックら「失われた世代」の文学がケルーワクやギンズバーグらの瑞々《みずみず》しさと乾きとを並存させたビート文学にとって替わられるなか、文学は、シンボリズムという錬金術を通じてリアリズムそのものを一層高貴で奥深いものに変えた。文学の分野では、夢はすでにひとつの生、抑圧された現実生活のネガティブな表現というフロイト的な呪縛をのがれて、それ自体が別個の生を意味する確固とした現実《リアリテイ》に結晶した。
このことは、読む側に立つ新しい世代の感受性に向けて、ある種の暗示を与えたといってもいいだろう。TVやトランジスタ・ラジオといった即時的なメディアの出現は、わたしたちの感受性そのものに自己防御的な情報分析機能を棄てさせた代わりに、結果的には「感受性の飛躍」と呼べるような意識の拡大をもたらした。もっと簡単にいえば、現実と非現実[#「現実と非現実」に傍点]という実は形態的な差異でしかない情報の属性にわずらわされることなく、ひとつの事物がほんとうに告げようとしている問題を先入観なしに受けとれるようになったということ。それに、メディアが提供する世界に全感覚的に没入できるようになった点だ。
極端な例を示そう。わたしたちが生の本質をフィクションによって学ぼうとするとき、そのメディアがたとえ文学書であろうと漫画本であろうと、語られようとする本質をその媒体の差異によって頭から評価づけてしまうことなく受け取れるようになったということだ。この現象は、メディアにかかわる分野だけにとどまらない。いま文学は、リアリズムを追求する場合にも、現世的なものに固執する必要を感じなくなった。人間の現実の行動を現実の事件に平行させて追跡すること――つまり、アクチュアリティ(actuality) にしがみつかなくとも、文学は人間の現実の行動を表現できるようになったのだ。
そのことを理解するとき、現代文学のなかに興味ぶかい実例をひとつ拾い出すことができる。現代フランスの代表的な作家マンディアルグに、『ロドギュヌ』という美しい短編小説がある。マンディアルグはこの作品を書くに当たって、創作メモをまず用意したのだが、今日このメモはかれ後期の評論集『第三望楼』のなかで読むことができる。創作メモによれば、『ロドギュヌ』の草案は、ざっと次のような内容のものになるはずだっ[#「次のような内容のものになるはずだっ」に傍点]た――
☆『ロドギュヌ』二重の世界[#「『ロドギュヌ』二重の世界」はゴシック体]
(T) 物語はヴァレンティンという逃亡者の口を借りて語られる。賭けごと師で殺人者で死刑囚でもあるこの男は、ナチに追われ、むかし暮らしたことのある地中海の小島に逃げてくる。ドイツ軍の占領以来、今は住むものもいない島だ。かれは全身濡れそぼち、重い足をひきずってロドギュヌ=ルーという女が住んでいた家に近づく。彼女にはいつも牡羊がつきまとっていたことを、ヴァレンティンは思いだす。
(U) 思い返してみると、二カ月前のかれは、モンテカルロのルーレット場で仕事をしていたのだ。賭けに熱中して、それでいつも負けつづけたのだが、その夜は奇妙なことに十二倍のもうけ[#「もうけ」に傍点]を拾った。気がついてみると、自分が賭けるルーレットでいつも負ける若い娘がいた。その娘はたしか踊り子で、よくジプシーの役をやっていた記憶がある。そして彼女の視線が、実はヴァレンティン自身の賭け金を左右していることを、かれは知る。彼女のその命令的な視線に反対して賭けをすると、ふしぎに大金を失うのだ。
ルーレットが終わって、満月のなかを港のほうへ帰っていく彼女を追ったヴァレンティンは、そこで彼女から意外なことを聞かされる。
「わたしは賭けの結果がはじめから分かるのよ。それで、あなたに勝たせてみようっていう気になっただけ」
かれは透視力をもつ不思議な娘から、彼女の貧しい身上話を聞き、ふいにいとおしくなって彼女を抱いてしまう。そのあとで彼女は、エステール・レリという自分の名前を明かしてくれる。かれはその名を聞いて、ユダヤ人ゆえにドイツ軍の迫害を受けている境遇を思いやる。かれは次の日もここで会うことを約束させて、彼女を放免する。
(V) 思い出から我に返ったかれは、ロドギュヌの家の戸を叩いた。なかには彼女がまだ住んでいたが、相手を確かめもしないうちに烈しい口調で訪問者を拒絶する。いまはすべての人間を呪う彼女だった。かれは浜で水を浴び、日光のなかに横たわりながら、もういちど思い出をたどりはじめる……
(W) 戦争が続く限り籃《かご》の鳥も同然の二人は、やがてムーラン街のアパートで同棲するようになる。エステールはよく占いをしてくれたが、顔をくもらすだけで結果を教えてはくれない。彼女は自分たちの運命を知りながら、なおそれに無関心だった。二人は夜ごと、磔刑の真似をしては妖美でエロチックな遊戯に耽るのだった。
(X) ヴァレンティンは思い出をふりすてると、身を起こしてもういちどロドギュヌの家に向かった。こんどはロドギュヌも堅パンと黒いオリーブをくれた。ベッドには、しおれた花をいただいた牡羊の頭蓋骨が見えた。けれど食事が終わると、ロドギュヌはふたたび不機嫌になり、かれを家から追いたてるのだった。
(Y) 日射しを避けるために、いまは廃れた製塩所にはいったかれは、そこでロドギュヌに関する古い記憶をよみがえらせた。むかしこの製塩所でカタロニアの労務者といっしょに働いていたころ、若く美しいロドギュヌは、いつも牡羊をつれて浜をさまよっていた。彼女は「羊の娘」と呼ばれ、労務者から馬鹿にされていた。なにしろ彼女は、ベッドがあるにもかかわらず、牡羊といっしょに藁《わら》のなかで寝るほどなのだから。
ある祭りの日、彼女が花飾りと金の耳輪をつけ、牡羊の角にも金の塗料をぬって村へやってきたとき、村人たちは迷信的な理由から激怒した。次の日、牡羊の首が切られ、ロドギュヌの家の扉に釘で打ちつけられていた――
その日からロドギュヌは、黒いベールを外さなくなり、牡羊の頭蓋骨をベッドにかざって、人間を呪う生活をはじめたのだった。
(Z) ヴァレンティンは眠った。夕がた、丘にのぼって、機関銃の発射音を聞きながら、自分が思いだしたいものを自由に思いだせないことを呪った。エステールのことを思いだした。彼女はほかのユダヤ人とちがって、ナチの処刑にも無関心だった。ある日彼女は、「わたしのいなくなる日は近いわ。でもあなたはどうするの? 長い灰色の時間を? 血があなたの唯一のチャンスよ」といって、血を意味するカードを抜いてみせた。数日後、彼女はもどってこなかった。かれは銃を手に入れ、ドイツ将校を殺した。かれは逃げた。そして島へ。エステールのためでなく、自分の運命のために人を殺して。なぜなら、かれの向かうべき場所は、ロドギュヌの羊の血が流された、あの供物台《くもつだい》であるように思われたから――
☆〈ファンタジー〉または夢をひらく鍵[#「〈ファンタジー〉または夢をひらく鍵」はゴシック体]
ナチに追われるユダヤ人の運命を、羊の娘ロドギュヌの奇妙なエピソードにからませたこの創作ノートを、一九五二年に書きあげたマンディアルグは、しかし後年『おき火』という短編集に収めた『ロドギュヌ』の完成品のなかで、現実の迫害に悩むヴァレンティンとエステールのくだりを完全に抹消してしまう。つまり幻想的な狐島での夢の生活T、V、Xだけをつなげた短編に仕立ててしまうのだ。しかしマンディアルグは、ロドギュヌとの夢想的な愛の挿話を描き切ることで、ナチ=ユダヤの陰惨な関係を表面に出す以上に生まなましいリアリティの一端を表現し得たと考えられる。そして、この切り捨て作業の陰には、わたしたちがこれから眺めていこうとする〈ファンタジー〉の機能について、なにか象徴的な示唆が隠されているように思えてならないのだ。マンディアルグは『ロドギュヌ』を通じて、すでにもうひとつの世界、シンボルという物質で出来あがった夢の世界での生を発見していたのではないだろうか。これはわたしたち自身の拡大だ。アクチュアリティという枷《かせ》からの解放であり、さらにいえば〈夢をひらく鍵〉の発見なのだ。
そして、アクチュアリティへの迷信を脱したこの新しい行きかたは、今日〈ファンタジー〉と呼ばれる文学形態の尊厳を保証する大きな原動力となった。わたしたちはこれから、若い世代の文化にふかくかかわることによって復権することを許されたもうひとつの文学――ファンタジー[#「ファンタジー」はゴシック体]について、ひとつの謎を解くことにする。
謎とは、こういうことである。キャンパスの人気をさらう青春文学の内容が、ちかごろ大きく変わりだしたことに気づいたろうか? ひところのT・カポーティやサリンジャーに変わって、いまはリチャード・バックやJ・R・R・トールキンが人気を博しているのだ。そしてサン=テグジュペリの『星の王子さま』やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』も。ひととき目立たなかったヘルマン・ヘッセもまた、『シッダルタ』や『ガラス玉演戯』にあらわれた東洋思想・神秘思想に対する再考を経て、新しい意味で青春文学化しはじめている。わが国の例でいえば、宮沢賢治や泉鏡花に対する興味の変遷が、まず思いだされる。この現象を眺めて感じることは、なぜ現実[#「現実」に傍点]に無関心になっていくのか、ということである。
もちろん、そういう特質だけを現代青春文学の代表カラーと考えてしまうほど筆者は短慮ではないつもりだ。そうではなく、これら文学が青春にとってひとつのモニュメントになりうるのは、まさしく若者文化のなかで意識された提言に一致したからなのである――「まったくの夢、まったくの別世界で、人間は生をまっとうしうるか」という問題に。そしてファンタジーは自信にあふれて、かれらに答えた――イエス、と。おのおの特別な解答を用意してくれていたからにほかならないのだ。
☆現代ファンタジーの巨峰『指輪物語』[#「現代ファンタジーの巨峰『指輪物語』」はゴシック体]
いま一千万以上の読者を熱中させている長編ファンタジーに、『指輪物語』という作品がある。持つものに力を与えるかわり、世界征覇の野望をも同時に抱かせる魔法の指輪がある。その指輪を狙う〈悪の王〉に対立したひとりの妖精族が、すべての災いの原因たる指輪を火山のなかに投げ捨てるための旅に出かけ、たくさんの冒険を経験しながら旅の目的を果たすまでの長い長い歴史を描いたのが、この『指輪物語』で、C・S・ルイスの『ナルニア国』風な児童ファンタジーの形式を踏襲してはいるものの、成人《アダルト》にも充分に鑑賞できるというので、〈アダルト・ファンタジー〉と総称されている幻想小説の代表格とみなされる。作者の名はJ・R・R・トールキン。一八九二年バーミンガムに生まれ、オクスフォード大学に学び中世英語学を専攻、一九四五年にはオクスフォード大の教授となり、ベーオウルフやアーサー王伝説を研究するかたわら『指輪物語』ほかいくつかのファンタジーを著わし、一九七三年に八十一歳で没した。略歴からも分かる通り、イギリスの言語学・古典文学界の長老とあおがれた学者だ。
さて、言うまでもないことだが、トールキン以前にも有名な〈ファンタジー〉は数多く書かれていた。わが国にも知られている『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)や『木曜の男』(G・K・チェスタトン、吉田健一訳、創元推理文庫)などはその一例なのだが、しかしトールキンの場合、〈ファンタジー〉という文学形態にひとつの現代的機能を付加した点で、分水嶺に立つ作家と考える必要がある。トールキンの作品とその主張が世に出ることによって、それ以前とそれ以後のファンタジーが存在意味をとつぜん変えたのだ。トールキンの作品が有するかかる特質について、自らも長編ファンタジーの傑作『ナルニア国物語』を残したC・S・ルイスは言う――
「一冊の書物についての評価は、古くからそれを読む階層の上下関係や書物そのものが取り扱う内容の論理的道徳的な基準に照らして、決定されていた。しかし今、その評価をくつがえすことにしよう。一冊の書物を評価する場合、われわれはその書物が読者にどう読まれ、どう受けとられたかを判断の基準にするのだ。書物にとって生命とは、そこに何が書かれているかという絶対的価値ではない。そうではなく、その内容が読者にどう読まれ読者の生活にどうかかわるかが全てなのだ」と。
☆逃避という〈勇気ある〉行為[#「逃避という〈勇気ある〉行為」はゴシック体]
そこで、トールキンのファンタジーに対する考えかたがもっとも明確に示されるエッセイ『妖精物語について』を開くことにしよう。かれはそこでこの種の文学の有する特異な機能をはっきりと指摘している。
RECOVERY   (回復)
ESCAPE    (逃避)
CONSOLATION  (慰め)
の三つだ。夢の世界、もうひとつの日常、幻影の彼岸を描いた無数の作品をこれまで不当に埋没させてきた原因でもあるこの三つの一見頽廃的な[#「一見頽廃的な」に傍点]機能を、あらためて抽出することによって、かれはファンタジーの内にひそんだ自己防御の作用――もっと明確にいえば、夢のなかに閉じこもる方法――をアクチュアリティとしての現実に向かって突きつけたのだ。つい今しがたまで逃避文学とかげぐちを叩かれていたファンタジーの、その陰性的な特徴が、ひとつの文化、ひとつの生活信条として評価されることによって、ファンタジーが若者文化と手をつなぎ得ることを、実証したといってもいいだろう。
なるほど戦場から逃げ去ることは、人間として非難されるべき逃避かもしれない。しかし現代社会が巨大な地獄と化し、ぼくたちにとって不誠実きわまりない暴君となったとき、心ある人ならばその牢獄から脱出しようと決心するのが当たりまえではないだろうか? 牢獄から脱けだす気力も失せた連中に逃避文学を罵倒する資格があるか、と教授は反撃する。「現実社会という牢獄に不当に投げこまれたことに気づいた人間が故郷へ逃げ帰ろうとするとき、どうしてそれが非難の対象になるのか? あるいは、かれがそこから脱獄さえもできない状況に立たされたとき、看守と独房の粗壁とから眼をそらして、ほかの楽しいことがらに想いをめぐらしたからといって、それがどうして非難されなければならないのだろうか?」(『妖精物語について』より)
そこでかれは、心ある人間の正当な行為としての逃避[#「逃避」はゴシック体]を、ファンタジーのなかで試みようとする。失われた故郷を回復[#「回復」はゴシック体]するための危険な冒険と、その冒険の果てに待っている「|幸福な結末《ハツピーエンド》」を主眼とする。失われた慰めが、逃避という実はたいへんに勇気のいる[#「実はたいへんに勇気のいる」に傍点]行動を通じて達成されるところに、ファンタジーの積極的な価値を見いだそうとする。考えてみれば、このファンタジーの積極的な価値は、もともと小説という形式で古くから人間に作用していた要素と同じものだったにちがいない。
小説は現実認識の手段として、捉えがたいほど巨大な日常生活の一部を凝縮させ、虚構化を通してそこから神話を生みだす。マリノウスキーはこの作用について次のように言う――「本来オリジナルなかたちで生きていた神話は、単に物語られる物語ではなく、かれらが実感した現実[#「現実」はゴシック体]そのものにほかならなかった。それは、今日われわれが読み流している作りものとしての小説とは趣きをことにしていた。虚構の世界よりもずっと偉大で重要な現実の認識[#「現実の認識」に傍点]だったのだ。かれらは自分たちの生命や運命が神話を通して統治されていると、信じてもいたのだ」と。
そして、トールキンの『指輪物語』がめざした偉大な現実とは、まさに神話が機能したと同じ意味での現実だった。かれは千三百ページになんなんとする幻想の物語に、なんと百三十四ページの付録をつけ、そのなかで『指輪物語』が語られる虚構の時代と場所とにかかわる詳細をきわめた注釈を展開する。これを読めば、すぐにでも妖精語で会話ができる[#「妖精語で会話ができる」に傍点]ようになるほど、注解は真実味と迫力とを帯びている。
トールキンはさらに、こうしたファンタジーの三つの機能が生みだす世界を準世界[#「準世界」はゴシック体](セカンド・ワールド)と呼んだ。セカンド・ワールドとは現実の世界(第一の世界)に対立するもうひとつの空間、そしてそれはまさに、若者文化がめざした新しい生活秩序の確立――コミューンといわれる新生活への脱出――の裏返しに外ならない。C・S・ルイスが『批評の実験』(一九六一)のなかで述べているとおり、「ぼくたちは自分を拡大しようともがいている。ぼくたちは自分以上の何かになりたいのだ。この目以外の目で世界を見、この想像力以外の想像力で世界を捉え、この心以外の心で世界を感じたい」のだ。だからこそかれは、その欲望を満足させるために、言語のひとつひとつ、竜のひげの一本いっぽんまで現実そのままにつくりあげた第二の世界を、『指輪物語』のなかで創造した。
こうしてJ・R・R・トールキンはファンタジー中興の祖となるよう運命づけられる。C・S・ルイスやジョージ・マクドナルドやルイス・キャロルなど、すでに古典として存在していたファンタジーは、このとき新しい意味と視点とをもって現代に復活する。そして軽薄さが許されるなら、新しい役割と新しい読者とを獲得していま甦った空想世界の真実の物語群を、一九六九年以来アメリカで使われるようになった〈アダルト・ファンタジー[#「アダルト・ファンタジー」はゴシック体]〉という言葉でかざってもいいだろう。
☆ミドルアースの世界[#「ミドルアースの世界」はゴシック体]
では、『指輪物語』とはいったいどんな物語なのだろうか? この大作はふつう『指輪物語』三部作と呼ばれ、『旅の仲間』(一九五四)『二つの塔』(一九五四)『王の帰還』(一九五五)とから成りたっているが、物語全体を理解しようとする場合、どうしても、この三部作に先行する長編『ホビットの冒険』(一九三八)に目を通さなければならなくなる。わたしたちはこの四作品を総称して『指輪物語』と考えることにしたい。物語の筋を追うまえに、まず時代設定とキャラクターとをざっと紹介しておこう。
トールキン教授によれば、人間がホビット族やそのほかの妖精とともに暮らしていた世界は、〈ミドルアース〉と呼ばれ、まだ歴史というものがはじまる前の古い地球のすがたである。物語が語られる時代は〈第三紀《ザ・サード・エイジ》〉といい、ちょうど中世ヨーロッパの文化風俗を思わせるような古典的な香りをただよわせている。そのころ人間は妖精たちといっしょに暮らしており、たとえばドワーフ小人といって長いひげを生やし頭巾《ずきん》をかぶった頑固で屈強な小人や、エルフ小人という不死の妖精たちをはじめ、竜《ドラゴン》やゴブリン鬼といった妖怪が、人間のごく親しい隣人として登場する。妖精たちの一員であるホビット族は、これはトールキン教授の純然たる創造になる民族で、もう長いこと人間の世界へは顔を出さず、かれらの故地で静かな快い生活を送っている。ところがたまたまホビット族の何人かが故地を脱けだし、〈第三紀〉の歴史をかたちづくる大きな出来ごとに捲きこまれることから、大河ファンタジー『指輪物語』ははじまる。そのホビットは「小さな民族で、背の高さは人間の半分ほどしかなく、ひげを生やしたドワーフ小人よりも小さい。ホビットはひげを生やしていない大きくて愚かな民族(つまり人間)に出会ったときなど、パッとすがたを消したりする、ごく日常的な魔術以外は、ほとんど魔法を使えない」種族として設定される。ホビットは地上に伝わる古い歌や物語をうたうのが好きで、とりわけ「赤表紙本」と呼ばれる古謡集を愛唱している。「赤表紙本」に収められた物語詩は、同時に、それ自身独立した美しい古譚の結構をそなえているので、ここにその見本を紹介してみよう。たとえば『宝物』と題された次のような長詩には、遠い〈第一紀〉時代の伝説がしっとりとかたられている――
宝 物
[#ここから2字下げ]
月が新しく太陽が若かったとき、
神々は金銀のことを歌った。
彼らは緑の草のなかに銀をこぼし、
明るい色の海を金で満たした。
掘られた地獄が大きく口を開くまえに、
こびとや竜が生まれるまえに、
昔からの小妖精《エルフ》たちがいて、谷間の
緑の丘のふもとで強力な呪文を唱えていた、
たくさんの美しいものや、
妖精の王たちの輝く冠を作りながら。
だが彼らの運命は終った、声は衰え、
鉄の刀で切られ、はがねの鎖でつながれた。
口では歌わず微笑みもせぬ貪欲が、
暗い穴のなかに彼らの富を積み重ねた、
金銀の彫刻を積み上げた。
不吉な影がエルフの空を通っていった。
暗い洞窟に一人の老人のこびとがいた、
その指は金銀から離れなかった、
両の手を骨の髄まで働かせ、
金槌とやっとこと鉄床《かなとこ》で、
貨幣や指輪をたくさん作った、
そして王の権力を買おうと思った。
しかし眼はかすみ耳も遠くなってきて、
老けた頭の皮膚は黄色くなった。
青白く光る細長い指の間から、
冷たい宝石がばらばらこぼれたが見えなかった。
若い竜が渇きをいやし、
こびとの暗い戸口で小川が煙をあげたとき、
大地は揺れたが足音は聞こえなかった。
火焔は湿った床にしゅーしゅー音をたて、
彼は紅蓮《ぐれん》の炎のなかでひとりで死んだ、
死骸は熱い泥の沼の灰となった。
鉛色の石のしたにとしをとった竜がいた、
独り横たわっていると赤い眼がまたたいた。
喜びは消え、若さは尽きていた、
ふしこぶができ、しわが寄り、長年の間、
曲がった手足は彼の金につながれていた、
彼の心のかまどの火は衰えていた。
腹の泥には宝石がたくさんくっつき、
金銀の匂いをかいだり舐めたりしたものだ、
黒い翼の蔭のしたのいちばん小さい
指輪のあり場所を知っていた。
硬い寝床で彼は盗人のことを考え、
その肉や砕けた骨をたべ、
その血を飲む夢を見た、
彼の耳は垂れ、息は弱っていた。
鎖かたびらが鳴ったが彼には聞こえなかった。
深い洞窟に人の声がこだました、
輝くつるぎを持った若い戦士が
宝物を守れと彼を呼び起こした。
彼の歯はナイフ、皮は角のように硬かったが、
鉄の剣に切り裂かれ、彼の炎は消えた。
としとった王様が高い玉座に坐っていた、
白いひげは骨ばった膝に垂れていた、
口は肉をくわず酒を飲まず、
耳は歌を聞かなかった、彫刻のある蓋付きの
自分の大きな箱のことしか考えられなかった、
それは暗い森のなかの秘密の宝蔵に隠され、
青白い宝石や金がはいっていた、
その堅固な扉は鉄のわく付きだった。
従臣たちの剣は錆びて刃はにぶく
彼の栄光は地に落ち、法規は不公平だった、
広間はうつろで楽士たちは冷ややかだった、
彼こそエルフの金の王だった。
彼には山道のラッパの音が聞こえず、
踏みつけられた草地の血も匂わなかったが、
広間は焼かれ、国は滅んだ、
その死骸は冷たい穴へ投げ捨てられた。
暗い岩山のなかに昔の宝物がある、
だれにもあけられない扉の奥に忘れられて、
あの陰気な門はだれも通れないのだ。
丘には緑の草が生え
羊がたべ、ひばりが高く飛んでいる
風が海辺から吹いてくる。
大地が待ち、エルフたちが眠っている間、
「夜」が昔の宝物を守るだろう。 (中桐雅夫訳)
[#ここで字下げ終わり]
以上のようなバラッドを随所にちりばめて、物語はゆっくりとかたりはじめられるわけだ。
@ホビットの冒険
ホビット族の名門につらなるビルボ・バギンズは、ホビット穴で満ちたりた平穏な日々を送っていた。ある日、パイプをふかしているビルボのところへ奇妙な訪問者がやってくる。名前はガンダルフといって、このあたりでは大魔術師と噂される人間だ。そのかれが、わしといっしょに冒険の旅に出てくれないか、と切りだした。こんなにぬくぬく[#「ぬくぬく」に傍点]と心地よい穴を棄てて、わざわざ荒地のくにへ冒険に出かける必要がどこにある――と考えたビルボは、この厄介者を追いはらおうとするが、逆にガンダルフの策略にはまり、十三人の小人とともに冒険の旅に出ることを承知させられてしまう。
話によれば、むかし北からやってきたドワーフ小人の王が〈はなれ山〉というところに住みついて、山のなかにトンネルを掘って金銀財宝の地下蔵をつくったのだそうだ。しかしその宝蔵が宝石の大好きな悪竜スマウグを呼び寄せてしまい、今ではドワーフ小人も近づけないらしい。そこで魔術師ガンダルフは、ドワーフ小人たちのために竜を退治し、宝の山をかれらに返してやろうと思いたったのだ。
旅に出た一行は、途中でゴブリン鬼たちの襲撃にあって散りぢりになってしまう。ビルボは道に迷って山のなかを歩きまわっているうちに、闇のなかでひとつの指輪を見つける。それをポケットにしまいこんで、さらに放浪をつづけていると、やがてゴクリという気味わるい生きものに出喰わす。この生きものは長いこと闇と冷気のなかに住んでいて、魚をとってはそれを生まで食べている。かれにはひとつひそかな自慢がある。誕生日の贈りもの≠ニ称する黄金の指輪がそれで、このリングを指にはめたものはだれでもすがたが消せるという。ところが皮肉にも、ビルボが闇のなかで拾いあげた指輪こそ、ゴクリがひそかに隠しておいた宝物それ自身だったのだ。泣きわめくゴクリの声で、はじめて指輪に隠された魔力のことを知ったビルボは、ゴクリの手をのがれて山を脱出する。
その後ビルボは旅の仲間と再会するが、心の引っかかりから〈指輪〉にまつわるエピソードを仲間に打ちあけない。しかし魔術師ガンダルフだけはすでに指輪の力を知っていた。一行は〈はなれ山〉に分けいり、ゴブリン鬼や巨大な蜘蛛に襲われながら、ついにスマウグの住む宝蔵にたどりつく。ビルボは指輪をはめ、すがたを消して竜に近づく。声だけの相手にすっかり狼狽した悪竜は、怒って人間の里に突進していく。
怒り狂った悪竜に黒い矢を射こんだのは、バルドという人間だった。かれはビルボが目をつけた竜の弱点に、黒い矢をみごと命中させる。こうして山と宝蔵はドワーフ小人の手にもどり、ビルボは指輪をもってなつかしい故地へ帰ることになる。しかしかれは、やがてこの魔法の指輪がひきおこす壮大な戦いのことを、まだ知らない――
A旅の仲間
前作の冒険から六十年たったある日、百十一回めの誕生日を迎えたビルボは、この日を期して「荒地のくにと〈はなれ山〉を死ぬまえにもう一度見る」ために、帰らぬ旅に出る。旅立ちに当たって、かれのすみかと指輪は養子のフロド・バギンズに譲りわたされる。
ところがこの旅立ちには、はじめからガンダルフが一枚噛んでいた。魔術師はずっと指輪の行方《ゆくえ》に目を向けていたのだ。というのは、ガンダルフ自身、こころの内で「あの指輪は、ひょっとしたら〈冥王サウロンの指輪〉ではなかろうか。むかし冥王が鋳造したという、あの指輪では?」と疑っていたからだった。
何年かして、ガンダルフは自分の疑いをフロドに話す必要を感じた。善の力に一時は衰退を余儀なくされていた悪の勢力[#「悪の勢力」に傍点]が、いま故地を奪回する戦いを開始しはじめたという噂が、ガンダルフを動揺させたからだった。悪の象徴たる〈黒い塔〉が再建されたという知らせもとどいていた。ガンダルフが言うには、魔法の指輪には何種類かあって、そのうちの三つはエルフ小人が、七つはドワーフ小人が、九つは人間が、そして一つは鋳造主の邪悪王みずからが所有していたということだが、検べてみるとフロドの指輪は、なんと、そのむかしエルフ小人と人間を向こうに回して世界の覇権を競った冥王サウロンが持っていた「一つの指輪」ではないか!
ここで、すこし紙数をついやして指輪の歴史を話してみることにしよう。問題の指輪は、世界の覇権をめぐる闘いの最中に、イシルデュアという人間によってサウロンの指から切りはなされたものなのだが、そのイシルデュアがゴブリン鬼に襲われて大河アンドゥインに跳びこんだとき、流れのなかに失われた。征服されたサウロンの魂は隠れ場所に逃げこんで、長年力を貯え、やがて悪の軍団を再興し故地モルドールを奪回しはじめたが、サウロンにはまだ切り札たる指輪が取り返せない。いっぽう人間の王に切りとられた指輪は、ふとしたことでホビットに釣りあげられ、めぐりめぐって邪悪なゴクリの手にころがりこむことになった――
以上のような指輪にまつわる歴史を知っているガンダルフは「ゴクリはあくまでもこの指輪を取りもどすつもりでいる。気をつけろ」と、フロドに忠告する。そのゴクリは、指輪を追って悪の本拠地モルドールに迷いこみ、いっぽう冥王サウロン一派も指輪を奪い返すためにホビットの国を狙いはじめていた。ガンダルフによれば、悪の一味がホビットの国に侵入するのは時間の問題だという。
おどろいたフロドは知恵をしぼったあげく、サムとメリーとピピンという三人のホビットをはじめとする仲間をつのって、悪の本拠モルドールにある火山に指輪を棄てに行くことを決意する。しかし、だれもこんな仕事は引き受けたくない。ガンダルフもフロドも、いやいやながら旅に出るのだ。しかしかれには、〈第二紀《ザ・セカンド・エイジ》〉に冥王サウロンと戦った、勇敢な人間の子孫アラゴルンと、魔剣つらぬき丸の味方がある。そして、もちろん灰色の魔術師ガンダルフが――
こうして運命の旅ははじまる。オーク鬼やそのほかの敵に襲われながら、次つぎに窮地を切りひらいてモルドールへ進んでいく。しかし、かれらのまえにやがて最大の敵がすがたをあらわす――バルログだ! 妖怪バルログが口から噴きだす赤い炎の剣は、おそろしい威力をもっていた。この怪物に挑んだのは魔術師ガンダルフだった。しかし頼みのガンダルフは怪物と相討ちになり、奈落へまっさかさまに落下してしまう。最大の敵を身をもって打ち破ったガンダルフも、こうしてフロドたちの前からすがたを消した。仲間たちは泣き、震え、祈りながら火山へと進む。しかしリーダーを失ったいま、かれらのあいだに仲たがいが起きるのは時間の問題だった。まず、だれが指輪を持つかということで争いが起き、仲間のひとりボロミアはフロドから指輪を盗みとろうとする。危険を感じたフロドは、仲間を敵に変えてしまう指輪の魔力を思い知らされながら、サムだけを連れて荒れ野に逃げこみ、〈黒い土地〉の境いにたどりつく。旅の仲間はここでフロドを捜すために散りぢりになるが、いっぽう、ちまたでは善悪の覇権をかけた大戦がはじまるという噂が流れだしていた――
B二つの塔
フロドとサムを捜しだすために離ればなれとなった仲間のうち、フロドをあざむいたボロミアは、自分の罪を悔いて、オーク鬼に襲われたピピンとメリーを救いだす。しかしボロミア自身は矢に射ぬかれ壮烈な戦死をとげ、ピピンとメリーも鬼たちに連れ去られる。残った旅の仲間たちはふたりの行方を捜そうとするが、そこで魔術師ガンダルフと同じ集団に属する権力者サルーマンのものらしい兜《かぶと》を発見する。かれらはとっさに、強大な魔術師サルーマンが指輪欲しさに仲間を裏切り、冥王と手をむすんだことを直感する。
連れ去られた二人のホビットは、ファングロンという悪評高い妖魔の森にしばらく監禁されるが、すきを見て脱出する。暗い森のなかを逃げていく二人は、トリーベアード(木の鬚《ひげ》)という森の番人≠ノ出喰わす。トリーベアードはエント族という古い森の民族に属するユーモラスな老人だが、近ごろ魔術師サルーマンに森を荒らされ気をたかぶらせているところだった。老人はホビットから、サルーマンばかりでなく、冥王サウロンまでここを占領し悪の巣窟にしようとたくらんでいることを知らされ、怒りに燃える。なぜなら、ファングロンの森は、太古から老人の地所であり、やすらぎの地であったからだ。トリーベアードはエント一族を率いてサルーマンの黒い塔めがけて出陣していく。
ところで、二人のホビットを捜す旅の仲間たちは、あとを追ってようやくファングロンの森にたどり着いた。しかしそこには、思いがけない人物が待っていた! 死んだはずのガンダルフだ。怪物バルログとの死闘で奈落に落ちたかれは、そこで死の試練を受け、さらに強大な魔術師となって現世に復活したのだ。かれらは最大の味方を得て、邪悪王サウロンが立てこもった魔法の砦オルサンクに進撃する。
ここで場面が変わる。指輪を棄てるための旅をつづけるフロドとサムは、旅の途中で暗い洞窟にまよいこみ、そこで恐るべき毒蜘蛛シェロブに襲われる。フロドは蜘蛛の毒にやられて死んだように倒れ、サムもまた宿敵ゴクリの攻撃をうける。しかしゴクリを討ちはらったサムは、倒れた主人を見つけて呆然とする。怒りと悲しみをこめたサムの剣が、毒蜘蛛を切り裂く! ピクリとも動かない主人の体を、暗く呪わしい洞窟に残したまま、サムは主人の指から外した魔法の指輪を持ち、決然として最後の旅に出る。
C王の帰還
黒い魔術と〈ミドルアース〉との戦いは、とつぜんはじまった。朝の光がふいにかき消され、戦いは恐るべき暗闇のなかでおこなわれる。恐怖の亡霊王バラド=デュアが、人間の王国ゴンドールの城門にせめかかると、決死のガンダルフは輝かしい光の炎をふるって闇の力に対抗する。敵は一時退却するが、味方の損傷もまた大きい。ゴンドール王の息子、ファラミアも戦いのなかで倒れる。ゴンドールの勝利は、もはや古い同盟国ロヒリムの援軍を待つ以外になくなる。しかし救いの手はまだとどかない。勝機をつかんだモルドールの黒い軍団は、ついに総攻撃を開始する。町は火につつまれ、息子を失ったゴンドール王は、落胆のあまり城内にとじこもってしまう。
城門が落ち、首のない亡霊軍がなだれこむ。人びとは逃げまどう。しかしガンダルフだけはその場に踏みとどまり、亡霊軍の王に退却を命令する。しかし敵将はその挑戦を笑いとばすだけだ。が、その時――はるかかなたから角笛の音が聞こえてくる。勇ましい角笛の音が! 援軍がついにやって来たのだ。ここに最後の大戦の幕は切って落とされる。しかし勢いはすでにゴンドール側に移っていた。アラゴルンやガンダルフの活躍で城はついに護られる。しかし勝利に歓喜するかれらのもとに、そのとき、敵将サウロンからの伝言がとどく。毒蜘蛛にやられて仮死状態になったフロドを捕えてある、と。
いっぽう、旅の途中ふとしたことで主人の噂を耳にしたサムは、実はフロドが生きていたことを知らされ、大あわてでゴブリン鬼の砦にひき返す。そしてそこに、毒から解放されたフロドを見つけるや、サムは指輪の魔力を借りて主人を砦から救いだす。旅を急がなければならない。二人は飢えと渇きに苦しみながら、ついに滅びの山の頂上にたどりつく。しかし、頂上にできた大きな亀裂に向かったフロドは、そこでとつぜん指輪の魔力にとらえられ、まるで悪魔にとり憑かれたように「もう指輪は棄てることはやめた。いいか、これはわたしのものだ[#「これはわたしのものだ」に傍点]!」と叫びだす。
最後の場面に来て、ついに指輪の魔力に負けたフロドをとつぜん襲ったのは、あのゴクリだった。執念ぶかくあとを追ってきたこの不潔な生きものは、フロドの指を食いちぎって指輪を奪うが、はずみで指輪もろとも火口に転落してしまう。そのとたん山はうなりを上げ、火柱を噴きあげる、冥王の領土モルドールに大きな地震が起き、塔という塔が倒れかかる。偉大な魔力をもつ指輪が、いま破壊されたのだ。サウロンの力は急速におとろえ、ゴンドールに明るい声が戻る。アラゴルンは新しくこの王国の王に迎えられ、運命の旅は終わった!
しかし故地へもどった三人のホビットは、あのなつかしいふるさとが焼け野原に変わっているのを見て愕然とする。裏切りの魔術師サルーマンがいつのまにかホビット国を占領していたのだ。しかし魔力を失ったサルーマンは、すでにフロドの敵ではなかった。長年横暴な主人に苦しめられてきたサルーマンの従者も、主人のあまりの汚なさに怒って、ついにサルーマンに剣を突きたてる。しかし指輪の魔力に心を損われたフロドもまた、自分がむかし通りのすがたに回復することはありえないと考えるようになる。そこで、海のかなたにあるという太古の妖精の国で心を癒そうと思いたち、新たな旅に出る。そしてそこには、地上世界の仕事を終えたガンダルフがいた。もちろん、サムたちホビット族は、主人との別れを終えると、なつかしいホビットの国へ帰っていく――
☆〈ファンタジー〉の解放[#「〈ファンタジー〉の解放」はゴシック体]
以上が大河ファンタジー『指輪物語』のアウトラインだが、これだけでも、この作品に盛りこまれた徹底的な〈準世界《ザ・セカンド・ワールド》〉創造への情熱は理解できると思う。五〇年代の批評家のなかには、邪悪王サウロンをソ連の独裁者スターリンになぞらえ、ともすると悪の力に押されがちな頼りない主人公フロドを、衰退したヨーロッパ諸国の象徴と分析したものもいたが、そういう見解は、六〇年以降になると力を弱めてしまう。『指輪物語』の場合、なによりもわたしたちの心を引く要素は、徹底した〈もうひとつの世界の創造〉――トールキンのことばに従えば〈準創造〉への意欲であり、その世界の完璧な仕上がり具合だったからだ。このなかで、わたしたちはホビットとともに生き、ホビット語を話し、力をあわせて邪悪王サウロンに戦いを挑むことができる。だから、トールキンは「夢の中で生きること」を実現するために、本文千三百ページ|+《プラス》付録百三十四ページの厖大な枚数をついやすことを必要としたのだ。[#「だから、トールキンは「夢の中で生きること」を実現するために、本文千三百ページ|+《プラス》付録百三十四ページの厖大な枚数をついやすことを必要としたのだ。」はゴシック体]
この『指輪物語』がキャンパスやグリニッジ・ビレッジの話題にのぼるようになったのは、一九六五年にアメリカの出版社エース・ブックスが千三百ページにおよぶ長編をペーパーバックとして売りだしてからのことだが、記録によれば発売十カ月で二十五万部を売りつくしたという。はじめはSFやファンタジーの読者がまず目をつけ、その熱狂がやがてキャンパスに持ちこまれ、最後には一般読書界へも波及していったようだ。そして今日、アダルト・ファンタジー熱を産みだす巨大な原動力となったこの作品は、トールキン教授自身がひそかにもくろんだとおり、単に文学的事象を超えて、ついに、文化的社会的な面をも捲きこむにいたった。アメリカではすでにフロド≠ヘ国民的英雄のひとりに数えられ、〈ゴー、ゴー、ガンダルフ〉とか〈フロドは生きてる!〉とか、『指輪物語』に登場する名文句のはいったバッジが町の店頭で見かけられたり、楽しい色彩画のついたトールキン・カレンダーがポスター・ショップの陳列棚の正面にかざられていたりする。ひとつのファンタジーが完全に日常化したすがたを、わたしたちはここに見ることができるだろう。さらに町のレコード屋からは、北欧音楽と東洋音楽を奇妙にブレンドした、すこしばかり神秘的だが聴いているうちに心楽しくなる音楽『指輪物語』が、耳にひびいてくる。そして、スカンジナヴィアの新進作曲家ボー・ハンソンが制作したこのアルバムには物語に登場する主役脇役たちをテーマにした音楽が十七も詰まっている。もっとも、こういうコマーシャリズムに乗った文化現象をいちいち拾いあげだしたらキリ[#「キリ」に傍点]がない。アメリカの若者には、〈ミドルアース〉の生活信条を実生活に取りいれているグループがあるし、『指輪物語』を中心にした真摯なファンタジー研究をめざす講座も各大学で開かれてもいる。そしてこの恐るべき現象は、これまで逃避文学とののしられ、児童文学として中央の読書界では取りあげられるべくもなかった一連の〈ファンタジー〉を、一挙に若い読者層に解放するという大きな余震[#「余震」に傍点]を残した。SF作家フリッツ・ライバーが、その厚みのあまり再読不可能な≠ニ評した『指輪物語』は、この意味で、新しい生きかたをポップ文化《カルチヤー》のなかに模索する若い世代にとって、ひとつのテーゼとなりえた。そしてなによりも、わたしたちはフロドやガンダルフの世界を体験することによって、もっとも古いけれど同時にもっとも新しいひとつの疑問――わたしたちは夢という非現実のなかで完全に生きうるのか?――という疑問を、もういちど口に出す勇気をあたえられたのである。
[#改ページ]
W 飛翔の方法
[#改ページ]
[#この行4字下げ] ……だが、原初においては、眠りと覚醒の区別は今日ほどはっきりしていなかった。われわれの最初の祖先たちの状態は不完全な夢遊病に似ていた。
[#地付き]A・ベガン『ロマン的魂と夢』
☆星をみつめて[#「星をみつめて」はゴシック体]
アメリカの幻想作家R・ブラッドベリに『初期の終り』(『ウは宇宙船のウ』大西尹明訳、創元推理文庫に収録されている)というすてきな掌編がある。宇宙飛行士の息子を乗せたロケットの打ちあげを待ちわびる老夫婦の、瞬時とも永遠ともつかない興奮と不安とを、やさしく描いた物語なのだが、筆者はそのなかで、「生物はいつも重圧[#「重圧」に傍点]から遁《のが》れようとして進化してきた。魚は水の重圧をのがれるために陸へ上がり、爬虫類は大気の重圧をのがれるために空へ、そして人類は万有引力の重圧[#「万有引力の重圧」に傍点]をのがれるために宇宙へ向かっていった」という意味の文章にぶつかり、とても感激したことを憶えている。時間と空間の、いわば地上的な足かせから遁れようとする生物たちの努力――それが人間の歴史を動かしてきた大きな力だったのかもしれない、と思ったとき、とつぜん妙に体が軽く浮きあがってしまう気がして、わけもなく嬉しかった。水から陸、陸から空、そして空から宇宙。地上のあらゆる生物が本能的にめざそうとしたそれら〈上位の空間〉には、完全に異質で、しかもこの上なく鮮烈な世界[#「世界」はゴシック体]が、かれらを辛抱づよく待っていてくれたのだから――
無数の魂が創造した無数のファンタジー空間を遍歴するこの小さな旅のなかで、もうひとつの世界にかかわる文学の再発掘が現代社会にどんな衝撃《インパクト》を与え、それがまた現代人の内面にどのような変革をひき起こしたかをみつめてきたわたしたちは、ここでいよいよ〈別世界への飛翔〉という問題に取り組むことになる。『初期の終り』に登場する宇宙飛行士のように、わたしたちは古今の作家が創造した別世界へ飛翔するためのスプリング・ボードに立たされるのだ。そして、もうひとつの世界へ接近する予感とひとつの試練に挑む緊張、さらにいえば、コリン・ウィルスンが『指輪物語』について語った「真実の世界への探索[#「探索」に傍点]」が、いま、飛翔する者たちに限りない勇気を与えてくれる。
星をみつめることがある。夜空に星が存在する。けれどその星をみつめる人間にとって、星が単に存在しているというだけの話なら、そこに意味は生まれない。たとえ想像の上であれ理論的帰結のすえであれ、わたしたちが一度その星の表面に自分自身を立たせたあとでなければ、それはひとつの〈世界〉に昇華しえないはずだ。このことは、ファンタジーにおいて夢幻の空間を構築する際にも言える。言語を媒体として作られた夢幻の空間がどんなにすばらしくとも、まだそれは充分ではない。ブラッドベリが『初期の終り』で示したように、生物が魚から爬虫類へ、さらに鳥へ、人間へと進化していった過程(それを筆者はいま飛翔[#「飛翔」はゴシック体]と呼んでいるのだが)が、わたしたちの内部にもそのまま起こらなければならないのだ。そういうわけでわたしたちは、たとえロケットを飛ばせなくとも、心の翼をはばたいて星に到達する方法を学ぶ必要がある。そして心の翼をはばたかせることは、東洋の哲学者が言う「神との合体」や「宇宙的感覚」の獲得につながる。「人間は五感と理性の影響から自分を引き離すと、原始時代に人間に自然との関係を結ばせた宇宙的感覚[#「宇宙的感覚」に傍点]にいっそう近づく」(アルベール・ベガン)からだ。習慣的な方法で事物を知覚するのを拒絶することによって、人間は奇跡的に星と交流する。それは、フランスのモラリスト、ジュベールが「眼をとじなさい。そうすればあなたは見えるだろう」というのと同じ事情を指す。
だからこそ、人間における夜の側面の歴史を追いもとめた大著『ロマン的魂と夢』(小浜俊郎他訳、国文社)の著者アルベール・ベガンが「夢を見ることは、他の天体に自分を置いてみることに似ている」と断言したとき、それはひとつの比喩以上のものとなって読む者の心を打たずにはおかなかった。けれど行為の目的[#「行為の目的」に傍点]が同じだからといって、行為の手段[#「手段」に傍点]までも一括するのは早計すぎる。夢を見る行為と星をめざす行為との間に横たわる「方法論としての差異」に目をつぶってはいけない。わたしたちはこれから、ファンタジーが拓いた夢の空間に到達するための方法を、二つのまったく異質な方向から跡づけてみたい。たぶん星までの距離は、まだ遠い。
☆夢見るための二つの方法[#「夢見るための二つの方法」はゴシック体]
夜空に存在する星をみつめて、そこに自分自身を到達させようと思いたつとき、わたしたちはまず理性や道具を使うことを考えつくだろう。星までの距離を測定し、ロケットを飛ばしてそこに着陸するまでの綿密な方法を。この場合、その手段が現実に可能かどうかは問題ではない。なぜなら、わたしたちは文学について論じているのであって、科学的可能性を追求しているわけではないのだから。ひとつの目的を達するために、理論的に正しいつながり方をした無数の手順をつなぎあわせて、ひどく遠まわしだがその分だけ確実な手段を選びだす作業を、比喩的に「星への飛行」と言っているのだ。
この方法を実践するために、わたしたちは地上感覚的な尺度を規準に見かけの距離を測定したあとで、まず地球成層圏を突きぬけ、重力圏を脱出し、目的の星に軟着陸するまでの全過程を、ひとつずつ踏襲していかなければならない。けれどこの方法は、人間の五感と理性の上に成りたった、いわば三次元感覚の所産にすぎないし、この方法に「星への飛行」のすべてを託す以上、ロケットや測量や計算といった道具≠烽ワた欠かせない。道具――つまり手の延長を使用しなければならないこの方法は、それが手の代替物でしかないという意味で、人間がもともと四肢《よつあし》で地表を歩いていたころ、手[#「手」に傍点]が体験し記憶していた〈地面の感覚〉を超えることができない。道具をつくりだした手が記憶しているものは、地面との接触感――つまり重力の圧迫以外のなにものでもないからだ。したがってこの順次的な手段に訴えれば、わたしたちは地面の延長を空間にむけて伸ばし、その上を歩いて他天体に到達するという離れわざに挑むことになり、科学的理性的な道すじを幻の領域に交わらせることなど至難に近くなる。それはちょうど、地球から巨大な足場を組みあげて別世界につなげるバベルの塔造りや、ドイツの異貌作家シェーアバルトの『小遊星物語』に登場する〈星と星のあいだをつなぐガラスの塔〉作りに、よく似ており、ルネサンス期建築家の宇宙に対する執念を思いださせる。けれども、宇宙に橋をかけて星と星とをつなげようという「手の延長」をこととした構想は、ファンタジーの世界をもとめる人間にかすかな微笑と愛《いと》おしさをあたえると同時に、ひとつの決断をうながす。そしてその微笑と愛おしさの度合いは、あとから述べる「発想の転換がひきおこす感覚の落差」によってさらに強まる。
いっぽう、わたしたち人間は、永遠に地表感覚の酪酊から目覚めえない手[#「手」に傍点]に一切頼ることなく、初めて直立歩行を開始した原人類たちと同じ不安や戸惑いのなかで宇宙そのものをつかみとめるもうひとつの方法[#「もうひとつの方法」はゴシック体]を、幸いにも承知していることはすでに述べた。そしてその方法は、人間が四肢歩行という重力への隷従から決死の思いで脱出したことへの褒賞として、与えられたにちがいない。それは他でもない、手段を用いない手段、距離と時間を新しい眼で捉え直す方法――つまり夢見ることだ。この方法の新たな問題点を紹介するにあたって、ぼくたちはまず次のような実例を引くのが近道かもしれない。科学と進歩の申し子として、永遠に酔い痴《し》れつづける手[#「手」に傍点]の文化を謳歌した科学小説《エスエフ》が、六〇年代にはいって初めてある種の自己矛盾的な疑問[#「ある種の自己矛盾的な疑問」に傍点]を突きつけられた事件が、それだ。ある日SFの内部で、次のような問いが発せられた。「技術としての科学、外部宇宙へのアプローチ方法としての科学をあつかうSFは、なるほどよく分かる。大宇宙《マクロコズモス》はSFの下僕だ。けれどそのロケットを、人間の脳の内部や心の内がわに向けることを、なぜしないのか? 人間の内がわに無限に広がった小宇宙《ミクロコズモス》へは、いったいどんな足場を組んで行けばよいのか[#「いったいどんな足場を組んで行けばよいのか」に傍点]? 人間が見る夢の世界は、宇宙の星々と同じほど遠く、また同じほど神秘ではないか」と。この自問をきっかけにして、SFは、酔い痴れた手が体験してきた安全な地表感覚を遠く離れて、それよりもずっと不安定で、直立歩行の頼りなさをそのまま具現した世界を、内宇宙へと求めていく。
☆距離の変質、時間の逆転[#「距離の変質、時間の逆転」はゴシック体]
けれど、そうした内部宇宙への飛翔は方法論として、すでに、ファンタジーの分野どころか純文学畑においてもはるかに巧みに使用されていた。これをわたしたちは、直接的《ダイレクト》な飛翔方法と呼びたい。そしてこの方法の特徴は、前に述べた順次的な飛翔方法の飽きあきするような平板さに対して、歪み[#「歪み」に傍点]とねじれ[#「ねじれ」に傍点]と無規則さ[#「無規則さ」に傍点]を前面に押しだす。それはちょうど、一本の川を越えるに当たって、いっぽうは遠く水源をめぐって向こう側に辿り着こうとし、いっぽうは水面をひと息で跳び越そうとする行動様式の違いになぞらえられるのだろう。
五木寛之の訳でベストセラーになった『カモメのジョナサン』(新潮文庫)を思いだしていただこう。ジョナサンは、飛ぶことの代わりに「あそこへ飛んでいこうと思いこむこと[#「思いこむこと」はゴシック体]」によって、時間と空間のかなたへ飛びでることに成功した。体を移動させることではなく、目的物を自分と合体させること。しかしこの方法は、はたして人間の昼間の精神が生みだした物質の尺度たる時間[#「時間」に傍点]と空間[#「空間」に傍点]を、真に超える力となり得るのだろうか? わたしにはどうしても、この方法が人知のおよばない領域を覆う闇を、逆に、わずかでも灯のともった人間的空間にまでひきずりだしてくる縮小[#「縮小」に傍点]作業に思えてならない。拡大は不安をも大きくするが、しかし縮小はすくなくとも不安を解消させる。ともあれ実生活においては何をやってもダメな男だった『ジョナサン』の著者リチャード・バックが、唯一の娯しみである飛行機操縦に身も心も溺れこんだあげく、まるで神と接触したときのような恍惚感のなかで大地へと急降下した折りに、重力そのものと合体する異様な体験のなかで、あのカモメの物語を啓示されたとしても不思議はない。落ちるという状況は、安定の位置を保とうとする地上的動物にとって、ひとつの巨大な転換を迫る体験となるからだ。
もともと人間の感覚は不完全にできている。変容を迫られる感覚自体も、元をただせばそれら未知の体験を通じて学習された「安定のための記憶」にすぎない。行動心理学者ザイグラーとライボヴィッツの報告(一九五九)によれば、子供の視覚は六十フィート以上対象物が遠ざかると、見かけ上|大きさ《サイズ》の変化が止まってしまうという。子供にとって、六十フィート離れたものも、百フィート離れたものも、視覚的に差異はないのだ。子供たちが六十フィートと百フィートの違いを知るためには、視覚そのものが無数の別世界的な体験を積まなければならない。すなわち、不安定を体験しなければならない。そして、その別世界体験の第一歩となる重要なモーメントとは、変革するものとされるものとの間に生じる落差に呑みこまれること[#「変革するものとされるものとの間に生じる落差に呑みこまれること」はゴシック体]なのだ。
しかし、変革に付いてまわる落差という意味に注目すれば、科学的合理的方法が今よりもさらに古い一時期にあって、今日の真のファンタジーが生んだすばらしい準世界《サブワールド》と同じものを創造しただろうことは、推測するまでもない。たとえば、無知と昏迷の時代に現われたイオニアの自然哲学やピタゴラス学派の数の整列から成る宇宙≠ヘ、息を呑むほど鮮烈な〈落差〉を現に生みだした。またフランスの夢見る科学者サン=ドゥニ侯爵は主著『夢学』のなかで、自由自在に好きな夢が見られる科学的手段を探索し、狂えるプチ・ロマン派の詩人シャルル・クロスは、化学薬品の調合と力学的観察とから人間の恋愛を分析しようとして短編『恋愛の科学』を書きのこした。わたしたちは、かれらが用いたこれら「巨大な落差をもつ」手段――魂に属する問題を解体する科学の方法に、『ジョナサン』以上の衝撃と奇態な歓喜を感じざるを得ない。
その当時科学的方法が社会に与えた〈落差〉としての衝撃《インパクト》をものがたるエピソードは、他にもある。ドイツの薔薇十字運動とイギリスのフランシス・ベーコン派が手を結んで、一六四〇年ごろイギリスで成立した見えない大学≠烽ワた、ファンタジーにおける飛翔の方法を考える実例として興味ぶかい。このユートピア建設運動を可能ならしめたのは、世界を科学によって啓蒙しようとしたクロムウェル指揮下の英国議会員だったが、かれらは、とくに、大学をひとつの共同社会《コモンウエルス》と考えたベーコンの『新アトランティス』を手本にとり、現実国家のなかに理想の別世界を建設しようとした。かれらはその別世界へ飛翔する手段として、まず宗教的な対話を禁じ、ベーコン流の実験科学を唯一の証明方法と認め、驚いたことに世界語をつくり世界共通の教育課程を決めることまで企てた。化学の父ロバート・ボイルやアイザック・ニュートンの著作を通じて今日その存在が知られる見えない大学≠ヘ、名のごとく薔薇十字団員以外にはその存在さえ知られることのなかった、十七世紀における異様な別世界のひとつではないだろうか。
そしてわたしたちは、これら断層のなかに落ちこんだ真の別世界へ到達するために、二つの飛翔方法の選択を実行しなければならない。断層のなかの世界がいったい現実とどういうふうに結びつき、また現実と結びついたそれら準世界《サブワールド》へいったいどうやって接近していけばいいのか、その手掛かりを与えてくれるものがあるとしたら、それは「ものの見かたの変革」――つまり飛びかたの転換へと帰着せざるを得ないからだ。ファンタジーの別世界は、それが各作家の手によって単に創造されたという事実だけでは、現実に対してなんの意義も持ち得ない。わたしたちはその別世界の実在を知る[#「その別世界の実在を知る」に傍点]のではなく、その別世界に実在する[#「その別世界に実在する」に傍点]ことを必要としているのだ。だから、そのための方法をいま問題にしてきた。あらゆるファンタジーが現実世界と準創造の別世界とのあいだに掛ける橋は、まさにこの方法の転換≠ノほかならないのだし、文学の領域ではそのすばらしい作用を、魔法というシンボリックな言葉で呼んできたのにすぎない。そして、ファンタジーが有するこの異質な落差の作用[#「落差の作用」に傍点]をもっとも劇的なかたちで物語化した傑作を、筆者はここに紹介したい。作品の名は『ウロボロス』(創元推理文庫)。作者の名はE・R・エディスン(一八八二―一九四五)。トールキンの『指輪物語』、マーヴィン・ピークの『ゴーメンガスト』三部作と肩を並べるこの力作(一九二二)には、ここまで長ながと述べてきた飛翔の奇跡が、なによりも明確に描かれている。さらにこの物語が繰りひろげられる舞台は、なんと水星だ! 到達しようとあこがれる世界が遠ければ遠いほど、その世界がささやきかける秘密は意味ぶかい。エディスンが誘いこむ飛翔のためのスプリング・ボードは、その名からして幻覚と夢と意識の拡大を約束するかのような〈蓮《ロータス》の部屋〉だ。やがてわたしたちが越えることになる彼方への防壁について歌った作曲家クープランの傑作『神秘なる防壁』の調べに耳をかたむけながら、さあ、『ウロボロス』の世界へ飛翔を開始しよう――
『ウロボロス』 序章
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いちいの樹々が生い茂る、物|寂《さ》びた庭園の只中にある古色蒼然とした館《やかた》、そこにレッシンガムというひとが住んでいた。庭園のまわりには百合《ゆり》と薔薇《ばら》と飛燕草《ひえんそう》が香りをなげかけ、玄関前の花壇には色とりどりのベゴニアが咲き乱れ、壁にはハイバラや仙人草《せんにんそう》や真紅のしゅぐま百合がはいあがっていた。
大気は麗《うら》らかで爽やかだった。館のフランス窓が庭に向かって大きく開き、古い樫で板張りされた内部の食堂を黒々と覗かせていた。
レッシンガムはハンモック椅子に身を沈め、食後の葉巻をくゆらせながら、ふりそそぐ暖かい陽差しに目を細めていた。彼は側に坐っている女性の手を握っていた。ここはかれら二人の家だった。
「ニャウルの章を読み終えてしまいましょうね」と、彼女はいって、もうすっかり色あせた緑の表紙がついた大きな書物をひらいて、やさしい声で読みはじめた――彼女がひらいた書物には、荒野と炎と予言の場面を語る北欧|英雄譚《サーガ》の荒あらしいイメージがあふれていた。二人は遠い太古の神々と闘いの物語に心をうばわれたが、やがてレッシンガムは口をひらいた。
「今夜は屋敷の東翼で眠ることにしないかい?」
「えっ、〈蓮《ロータス》の間〉(ロータスを喫うと幻覚症状がおこる)で? わたし、なんだか今夜はとっても気《け》だるいの」
「では、わたし独りで行ってもかまわないかい? 朝食までには帰ろう。おまえが来られたら、ほんとうにいいんだが。しかし、こんど月が欠けたら、また一緒に行ける。恐くはないね?」
「ええ。でも行くのをもっと後にして、わたしを連れていってくだされば嬉しいんですけれど。まだ奇妙な気持でいますわ、わたし。この家も、それから〈蓮《ロータス》の間〉での出来ごとも。けっきょくは翌朝ぜんぶ終わってしまうのが分かっているくせに、あの〈蓮《ロータス》の間〉では何年もつづくように思えるんですもの。一緒に行きたいですわ。そうすれば、あそこで何がおこっても、二人で力を合わせられます。どんなことがわたしたちの身にふりかかろうと、問題にはなりませんわ」
彼方の山並みの寂然たる岩はだが、夕陽に照らされ赤く燃えたようになるまで、二人はその場に坐り続けた。
「滝の方まで少し歩いてみないか。今夜は水星が見えるにちがいない」
しばらくして二人は、日没から暗闇までのみじかい時間を、西の空低く見えるほの暗い惑星を見つめながら過ごした。
「今宵、水星がこのわたしを捕えようとしているようだ。こんな晩は、おそらく〈蓮《ロータス》の間〉を措いてほかに眠る場所もないだろう」
「水星がですって。別の世界よ。遠いところにある世界」
「手の届かないほど遠い所にあるものなんか[#「手の届かないほど遠い所にあるものなんか」に傍点]、この世にはないのさ[#「この世にはないのさ」に傍点]」
いちだんと闇が深まり、二人は館に戻り始めた。そうして、庭園に通じる小道のそばの門に足をかけた二人は、館から流れてくるハープシコードの甘く澄みきった調べに耳をかたむけた。
「妹さんが『防壁《バリケード》』を弾いているわ、ほら」
「『神秘なる防壁《バリケード》』か。クープラン(フランスの音楽家)はこの魅惑的な言葉から何を感じとったのかな。わたしとおまえだけが、この言葉のもつ、本当の意味を知っているのだね。神秘なる防壁のことを」
その夜、レッシンガムは〈蓮《ロータス》の間〉に一人で入った。この部屋の開き窓は西の方、イルジル丘のまどろむ林と斜面に向かって開け放たれていた。やがて、彼は深く安らかな眠りについた。
あらゆるものが死んでしまったかのように深い眠りにつき、欠けた月が山の稜線越しにこの世界を覗きこんだ時、レッシンガムは忽然として目を覚ました。開いた窓を通してさしこむ銀《しろがね》の光が、ベッドの足元にたたずんでいるものを耿々《こうこう》と照らしだしていた。それは黒くて、丸い頭と、短い口ばし、それに長く鋭い羽根をもつ小鳥で、小さな眼を星のようにきらめかせていた。その小鳥が口を開いた。
「時間が来たわ」
その言葉にレッシンガムは身をおこし、ベッド脇の椅子に懸けてあった大きな外套を身にまとった。
「用意はできたぞ、いわつばめ」
なぜならこの家は、「やすらぎの家」から「あこがれの家」に変わっていた。そして、腰板やベッドや椅子にまで蓮の彫刻が施された古い〈蓮《ロータス》の間〉では今、刻みこまれた蓮の花が、星の光をあびて、たゆたう流れにもてあそばれる蓮華のように揺れていた。肩の上にいわつばめをのせたまま、彼は窓辺に向かった。月のまわりに映える光彩のような色をした馬車が、窓際の空間に浮かんでいた。その馬車をひいているのは、見たところは馬なのだが、鷲のような翼を持ち、前足には蹄のかわりに羽毛と爪とを備える、伝説のヒポグリフであった。依然としていわつばめを肩にとまらせたまま、彼は馬車に乗り込んだ。
翼のはためく音とともに、駿馬《しゆんめ》は天空高く舞い上がった。まわりの夜闇を突き進んでいく感じは、まるで滝の下を奥底深く潜っていくときに、耳のまわりでおこる泡のざわめきにも似ていた。時間は速度に飲みこまれ、世界はゆらめき縮小した。天馬が虹色に輝く翼を広げ、微睡《まどろ》む海に浮かんでいる島々を越えて夜闇を下っていくまで、わずか二呼吸しかかからなかった。岩山の土地や丘の牧草地や多くの湖沼が、月の光に照らしだされていた。
ついに黄金の獅子を頭上に戴く門に着いた。レッシンガムが馬車から降りると、いわつばめが彼の肩から離れ、門から通じている並木道をゆっくりと飛びまわった。彼は夢の世界をさまようように、いわつばめのあとを追った。 (森美樹和訳)
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☆自らの尾を噛む蛇〈ウロボロス〉[#「自らの尾を噛む蛇〈ウロボロス〉」はゴシック体]
――以上のような導入部を有するこの作品は、ある意味で典型的な飛翔方法を採った大河ファンタジーといえるだろう。これと比較した場合、トールキン教授の『指輪物語』では、現実から夢への飛行過程はむしろ完全に無視される。しかし、『指輪物語』をつつむ〈ミドルアース〉の設定そのものの存在力によって、かれの世界は現実に対して激しい落差をもった飛翔不要[#「飛翔不要」に傍点]な夢幻空間に進んでいるとも考えられる。その意味で『ウロボロス』は、ファンタジー世界への接近を伝統的な儀式として捉えた、よりオーソドックスな物語ということになるだろう。作者エリック・リュッカー・エディスンはヨークシャ生まれの英国作家で、はじめ商取引関係の公務にたずさわっていた。貿易の面ではかなり手腕を買われた人物だが、もともとビジネスマン気質ではなく、四十五歳で職を辞してからは好きな北欧神話の世界に遊ぶ文筆家として半生を過ごした。本編はかれの処女長編にあたり、スカンジナヴィアの神話に拠りながら、エディスン自身の空想を縦横に駆けめぐらせた英雄ファンタジーであるが、死ぬまでに『ジムアンヴィア』三部作と呼ばれる、いわば本編の後日譚を形成する物語をはじめ、いくつかの作品を残している。
けれど、なんといってもかれの代表作は、羅刹国《デイモンランド》と巫女国《ウイツチランド》とのあいだにおこった巨大な戦役を中心とした、闘うことの栄光を謳いあげる英雄ファンタジーの傑作『ウロボロス』である。そこに登場するキャラクターはどれも魅惑にあふれている。とりわけ羅刹国の主にして優しさと慈愛を周囲に投げかけるジャス皇帝、皇帝の弟で鼻から青い火を吐くスピットファイア、おなじくジャス皇帝の弟で勇名ならびなき豪傑ゴルドリィ・ブラスコ、そして女王とも見まごう美しさと勇気をもった両性具有《アンドロギユヌス》者的なブランドホ・ダハ侯。いっぽう敵対する巫女国を構成するのは、奸計と魔術に長《た》けたゴライス12世、正義漢ゆえに怒りを押えようともしない妖精国の領主ラ・フィリーズ皇太子、そして巫女国随一の英雄コリニウス、真の味方をもたない日和見《ひよりみ》主義者のコーサス、そして嫁ぎ先の一族と運命をともにする気丈で美しいプレズミラ姫。こういった個性的な人物が関係を結びあうファンタジーとしては、マーヴィン・ピークの『ゴーメンガスト』と双璧をなすといっても過言ではないだろう。
物語のタイトルになった邪竜ウロボロスとは、おのれの尾を噛む輪廻《りんね》の蛇であり、北欧の神話や神秘思想では「無限」を象徴するものとみなされている。そして、この戦闘物語がなぜウロボロス竜を表題にいただいたかという理由は、物語の最後で分かる仕掛けになっているが、ともあれわたしたちは、四百八十ページにも及ぶこの大作の粗筋を根気よく追ってみることにしよう。水星での物語の発端は、どうやら次のようなかたちで開かれるようだ――
第一章 ジャス皇帝の城
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レッシンガムがいわつばめのあとを追って、夜露に濡れた芝の散歩道を進むにつれ、東の空に輝いていた星は、夜明けを前に色を失っていった。気がついてみると、地面を踏んでいるはずの足に感覚らしい感覚はなく、木に触れようと手を伸ばしてみても、その手は樹々の枝や葉を通り抜けてしまって手応えがない。小さないわつばめは彼の肩にとまり、笑いながらこう囁いた。
「地球の子供、ここを夢の世界とでも思ったの?」
その問いかけに答えないでいると、いわつばめはおしゃべりをつづけた。
「でも、夢じゃないのよ。人間の子にして初めて水星を訪れたおまえ。おまえとわたしは、一つの季節のあいだ、この世界を旅して回り、あらゆるものを見るのよ。でも、この世界に来たおまえは、なにものにも手を触れることができないわ。おまえとわたしは、この世界では空気みたいに形のないまま、人の目にふれないで旅することになるんだから」
二人は今、大理石の石段のところまで進んできていた。
「朝陽が空を輝かせれば、みんなが城の中で眠りからさめるでしょう。地球の子よ、この土地が羅刹国《デイモンランド》(羅刹は妖魔の意味)といって、この城がジャス皇帝の居城、今始まろうとする日がジャスの誕生日。そして羅刹国《デイモンランド》の民がこの日、ジャス皇帝とその弟たち――スピットファイアやゴルドリィ・ブラスコに敬意を表するため、この城で宴を催すことを知らせておきましょう」
いわつばめが言いおわると、朝陽の最初の光が西の窓からさしこんで、新鮮な大気が大広間の中で息づきはじめ、去りゆく夜の青く陰うつな影を、広間の片隅や壁龕《へきがん》や穹窿《きゆうりゆう》天井の垂木《たるき》に追い払っていった。まこと地球上のいかなる大権力者ですらも、羅刹国の王侯君主たちが有するこのように絢爛豪華な大広間に匹敵する崇高壮大な部屋を、おのが手中におさめたことはなかった。
広間の端の方、高座の上にはさんぜんと輝やく背の高い椅子が三つあって、それぞれ翼を広げた黄金のヒポグリフが椅子の肘掛けと足とを構成していた。椅子の本体そのものは、目を疑うまでに巨大な、単一の宝石で造られている。
しかし、この驚嘆すべき大広間の中で、なににもまして目をみはらせるものは、遥かなる昔の彫刻家がその手で巨大な宝石をもとに、生けるかのごとく彫りあげた怪物のすがたをその柱頭にもつ、二十四本の石柱だった。
唸り声の聴こえてこないのが不思議なほど真に迫った猛々しい怪物たち――女面鳥獣《ハービイ》、鶏頭蛇尾獣《コカトライス》、単眼巨人《サイクロプス》、火竜《サラマンダー》、獅子頭羊体竜《キメーラ》などが、見るも恐ろしい貌《かお》をむけて頭上から大広間を見据えていた。
やがて来客が広間を埋め始めた。各々見るだけで楽しくなるような華やかな扮装《いでたち》をして、その光景は目も奪われんばかりの幻惑そのものだった。
しかし、皇帝の誕生日を祝う盛大な酒宴の只中に、突如としてトランペットの音《ね》が高らかに鳴り響いた。
「なんの知らせだ。なにか良からぬ謀《たく》らみを思いついたごろつきが、この喜ばしい日を翳《かげ》らそうと、わが王国に現われたのではないのか」とスピットファイアは言った。
「不吉なことを口にするな。何者であろうと、そのものを呼んで、共に喜びをわかちあおうぞ。誰か門へ行き、この広間へ伴ってまいれ」
ジャス皇帝のその言葉に、酌人の一人があわてて駆け去り、戻ってくるとこう申し伝えた。
「皇帝陛下、巫女国《ウイツチランド》よりの使節一行でございます。使節は謁見《えつけん》を願っております」
「なに、巫女国《ウイツチランド》からの使節だと」
スピットファイアが口をはさんだ。
「かような奴のために、この宴を中断させるのですか。われらの喜びに毒を注ぐようなものですぞ」
「まあ、よい。そちは何者で、いったいどんな用向きなのじゃ」とジャス皇帝は使節に訊ねかけた。すると使節は、
「ジャス、ゴルドリィ、スピットファイアおよびなべての羅刹国皇族がた。水星諸国の華麗かつ偉大なる君主にして、巫女国《ウイツチランド》の栄えある大王、ゴライス11世の使者が、ここにまかり越しました。まずもって申しあげたいことは、主からの使節である聖なる職務に対して、敬意を表していただきたいということでございます」
「畏れずに申し述べよ。請けあってやるぞ。われらは礼儀をおろそかにはせんわ。たとえ巫女国のような野蛮国に対してもな」
その言葉に使節は口を大きく開けたが、にやりとほくそえむと、歯をむきだして口上をつづけた。
「わが麗しき巫女国のゴライス皇帝陛下は、こう申し伝えよと命じられた。『予が統《す》べる羅刹国の領土に住《すま》いいたす汝らは、予に対していかなる敬意あるいは忠節の儀礼をも、果たすことなくまいった……』」
羅刹国民のあいだにざわめきがおこった。スピットファイアは憤然たる面持ちで立ち上がると、剣の柄《つか》に手をかけ、使節に切りかかりかねない勢いで叫んだ。
「領土だと! わが羅刹国は誰の支配もうけてはおらんぞ。巫女国の領主がわしらに侮辱を投げかけるために、このような薄汚れた豚をよこしたことは、とても耐えられん!」
「よいではないか、まず用向きを述べよ」と皇帝が先をうながすと、使節は勇気をふるいおこして言った。
「わがゴライス皇帝はこう申されました、『予は汝ら、ジャス、スピットファイア、ゴルドリィ・ブラスコに、わが巫女国にあるカースの居城を訪うよう命ずる。予が汝らの皇帝であり、王であり、なべての羅刹国の正当なる支配者であることを、予の足に忠節の口づけをして証するために』」
ジャス皇帝は身動き一つせず、椅子に深く身を沈めていた。ゴルドリィはひややかな笑いを浮かべながら刀の柄を玩《もてあそ》んでいた。スピットファイアは苦い顔をして、鼻孔から火花を発していた。
「申し終えたか」
「全て申し述べました」
「それではわれらの答を伝えるが、その前に酒を飲み、食事をしてもらおうか」
その言葉にしたがって、酌人が酒盃に美酒を注いだが、使節はそれを辞退した。
スピットファイアが口を開いた。
「巫女国《ウイツチランド》の輩ならば、酒盃に毒があるのかと疑うのも当然だろう。奴らは常にそのような悪しき行ないをなすのだからな」
そう言って酒盃をひっつかむと、酒を飲みほし、使節の足もとめがけてその酒盃を投げつけた。
羅刹国の皇帝たちは立ちあがると、巫女国のゴライス王から齎《もたら》された言葉に対する返答を決めるために、高座の帳を閉じて相談を始めた。
まず、スピットファイアが口を開いた。
「ゴライスがわれらになした侮辱と嘲笑に耐えろというのか!」
ジャス皇帝はたいそうひややかに笑いながら言った。
「あの憎むべき巫女国は、思慮と先見とをもってわれらに抗する時を選んだのだ。食人鬼《ゴウル》国との戦いにおいて、われらの船のうち三十三隻がカルタザの海に沈み、今われわれには十四隻の船しかないことを、ゴライスはちゃんと計算しているのだ。しかし、いっぽう巫女国がわにすれば、おなじく食人鬼国を相手にした戦いにおいて、戦いはわれらに任せ、はなから逃げだしているところをみると、奴らに強力な船は一隻たりとてないように受けとられるのだが、どうもそれが気にかかる。ともかく、奴らがわれらの不利にかこつけて、この地に軍勢をおくりこむ準備をしていることだけはまちがいなかろう」
「いや、むしろ、われらに残された十四隻の船で、巫女国に攻めこんではいかが? 最強の都邑カースを陥れ、ゴライスを烏《からす》の餌食にしてくれよう」
「いや、みずから窮地におちいるような真似はしたくない。しかし、敵の到来を、ただ手をこまねいて待つのも愚かなことだ。わしの考えはこうだ。ゴライスめに決闘を申し込み、この争いの決着を運命の手にゆだねよう」
「うまくやつが応じればいいが。しかし、兄上やわれらを相手に、やつが武器をもって、一騎打ちの試合に応じるかのか? やつは素晴らしい格闘士《レスラー》であったはず。敵の宮殿にはやつが倒した九十九人の格闘士《レスラー》たちの骨が積みあげられているというではないか。しかし、わしを相手にどこまでもちこたえられるか」
しばらくのあいだ皇帝たちは議論を重ねたが、とるべき態度を決定すると、満身笑みを浮かべて大広間に現われた。まず口をひらいたのはゴルドリィ・ブラスコだった。
「汝、ゴライス11世に対して次のように伝えよ。食人鬼《ゴウル》国軍との海戦において、盟友であるわれらを残して軍勢をひきあげた汝らが行為、あの恥ずべき卑劣な行為を、われら羅刹国の皇族一同は心から侮蔑する。が、しかしあの海戦において、この世界にふりかかる大いなる呪いと危機とに終焉をもたらしたわれらの剣は、歪んでもおらぬし、また折れてもおらぬ。われらの剣は汝や汝の寵臣らの腸《はらわた》をその鞘とするであろう。よしやわれらの力を幾分なりとも感ずるならば、われゴルドリィ・ブラスコ帝のなす申し出に応じてみよ。汝とわれとは、われらのどちらにも加担せぬ、レッド・フォリオット城の中庭で、一対一の格闘試合《レスリング》を行なおうぞ。それも三本勝負にて。われはここに固く誓おう、われが汝に勝ったならば、汝を平穏に故国たる巫女の地に帰してやることを約束する。その場合、汝は二度と羅刹国に対して厚顔無恥の権利を主張せぬよう約束せよ。だが、もしも汝が勝利をおさめた場合は、その勝利の栄光をもって、汝の剣でわれらの上にいかなる権利を行使してもかまわぬ、とな」
そう言い終わると、ゴルドリィは高座の上にすっくと立ちあがり、使節をかっと睨みつけた。その眼光に使節は思わずたじろぎ、膝を震わせた。そして筆記者がゴライスに伝える言葉を書きあげ、羅刹国の皇帝たちの封印をほどこした書状を使節に手渡すと、彼はそれを受けとるや、急ぎ足で大広間から立ち去った。しかし扉口まで来て、追従の者たちの中に入ると、ほんの少し勇気を奮いおこしてこう叫んだ。
「ゴルドリィ・ブラスコよ、われらの王に格闘試合《レスリング》の試合をいどむとは、汝の命運も窮まったものだ! 王はいとも易々とおまえを殺し、これまで倒した九十九人の闘士の骨の上に、おまえのしかばねをつけくわえるのだぞ!」
「無細工な口をしているが、尻尾だけは立派だぞ。使者として奴をよこしたゴライスに栄光あれ!」
このうえない嘲笑の渦の只中を、使節とその一行はゲイリングの城から波止場へと向かった。乗船し、大急ぎで岸壁を離れて、やっと使節の気持ちは安らいだのだった。陸地から遠く離れ、願ってもない西風に帆を孕ませ、彼らは巫女国へ戻る航海にはいった。 (森美樹和訳)
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こうして両国は覇権をかけた力競べに同意し、ゴルドリィ・ブラスコとゴライス十一世の格闘試合《レスリング》は中立国城内の中庭でおこなわれることになった。ところが試合の日、ゴライスの反則技で一本をうばわれたゴルドリィは激昂して、ゴライスの体を高だかと持ちあげると、渾身の力をこめて地上に叩きつけ、相手を殺してしまう。
巫女国にこの悲報がもたらされるや、カース城では王のあとを埋めるべく、妖術に長《た》けたゴライス十二世が新国王に即位した。彼はさっそく古代の妖術をほどこして、恐るべき悪鬼を奈落の底から呼びだし、前王の殺害者を襲撃するよう命令する。悪鬼は猛烈な力をふるって、羅刹国へ戻ろうとしていたジャス皇帝一行におそいかかった。一行は超自然の力をもつ怪物に立ち向かう方法もなく、たまたまジャス皇帝がたずさえていた護符にかろうじて身を守られたが、運わるくゴルドリィだけは護符を破られ、いずことも知れぬ土地へ連れ去られてしまう。
☆〈ウロボロス〉巨大な輪廻[#「〈ウロボロス〉巨大な輪廻」はゴシック体]
この恐るべき事件に意気消沈した一行は、悲しみのあまり故郷へ帰ることもできなくなる。しかし海上で出会った味方の船に激励され、もういちど心を奮いたたせた彼らは、ゴルドリィ奪回をめざし巫女国へ乗りこんだが、夜闇に乗じて敵の城にもぐりこんだものの、ジャスとブランドホ・ダハは、ゴライスの腹心の一人コリニウスに発見され捕えられてしまう。ところが、その日たまたまカース城を訪れていた妖精国のラ・フィリーズ皇太子はこの事件を知って、ジャスたちを釈放すべきだ、とゴライスに忠告する。しかし忠告を聞きいれようとしないゴライスの態度に肚を立てた皇太子は、大きな酒盃でゴライスの額を割り、そのすきに捕虜を逃がしてやる。
こうして故国に帰ったジャスは、ある夜夢のなかで、悪魔に連れ去られたゴルドリィの行方を知りたければ、霊山コシュトラ・ベロンへ登ることだと教えられ、ブランドホを引き連れて険しい霊山に挑む。
いくたの苦難と恐怖を乗りこえて、二人は前人未踏のコシュトラ・ベロンの山頂にたどりつき、伝説の都ジミアンヴィアが眼下にひろがっている光景を目にする。ジミアンヴィアへ降りた二人は、神々の庇護を受ける王女ソフォニスバに出会い、訊ねごとを切りだす。話を聞いた王女は、彼らに二つのことを告げる。ひとつは、ゴライスが死と同時に他人の肉体にのり移りながら永遠の生を享受している魔物であること。そしてもうひとつは、ゴルドリィが捕われている場所へ案内できるのは伝説の神獣ヒポグリフだけだということ。王女は最後に、そのヒポグリフの卵が羅刹国にあることを教えてくれる。
いっぽう羅刹国征服の野望に燃えるゴライスは、腹心たちに命じて羅刹国に大軍を攻め入らせていた。海上での戦いは、まず巫女国がわの大勝利に終わり、将軍コリニウスは敵軍の本土に攻めこんで羅刹国の英雄スピットファイアに深傷《ふかで》を負わせる。こうして戦いは巫女国の勝利に終わり、羅刹国の王城も敵の手に落ちて、城内に残っていたブランドホ・ダハの妹メヴリアンは、敵将コリニウスに捕えられ妻になることを強要される。しかし気丈なメヴリアンは強迫を撥ねつけ、城内から脱出しようとするが、追ってきた巫女国兵に発見され、あわやというところで、旅から戻ったジャスとブランドホに助けられる。
皇帝の帰還によって勢いを盛りかえした羅刹国軍は、ようやく傷の癒えたスピットファイアを加えて猛烈な反撃に転じ、ついに巫女国軍を本土から追いはらうことに成功する。しかし、この機をのがさず巫女国に討って出るべきだと説くブランドホに対して、ゴルドリィの救出をあくまで優先しようとするジャスは自説を曲げず、最後には二人のあいだに対立が起こる。その対立のさなか、苦労してヒポグリフの卵を見つけだしたブランドホは、無言でジャスに発見物を手わたす。ジャスは卵がかえるのを待ちわび、生まれたばかりのヒポグリフにまたがり、夢で見たゴルドリィ幽閉の地ゾラ・ラクめざして天を翔ける。
この世のものとも思えない不気味なゾラ・ラクに着いたジャスは、さまざまな幻に苦しめられるが、もてる勇気と精神力のすべてをふりしぼって幻影に対抗し、弟ゴルドリィ・ブラスコを見つけだす。けれど時すでに遅く、ゴルドリィの体はすさまじい寒気のなかで氷のように冷たくなっていた!
ジャスは胸も張り裂けるような悲しみをいだいて、ゴルドリィを山から連れだし、ジミアンヴィアのソフォニスバ王女のもとに運びこむ。すると、なかば神である王女はジャスに口づけを与えた。ジャスが王女の口づけをそのままゴルドリィの口に返してやると、おどろいたことに弟の凍りついた体に赤みが差し、生気が戻ってくるのだった。こうしてゴルドリィは永い眠りから醒めることになった。
羅刹国皇族がもういちど手を握りあったことから、巫女国との戦いに結着をつけるときが巡ってきた。水星史上まれに見る大戦が、巫女国のカース城を前にくりひろげられた。しかし、両軍ともに無数の死者を出しながら、勝敗の利はすこしずつ羅刹国に傾いていき、巫女国がわはカース城の落城を目のあたりにするところまで追い詰められる。そして、羅刹軍の攻撃はいよいよ烈しさを加えていく……
いっぽう、最後の巻きかえしを狙うゴライス十二世は、奈落の悪鬼をもういちど呼びだして敵を叩きつぶそうと考えていた。しかし腹心のコーサスに全面降伏を進言されて怒ったゴライスは、コーサスに罵声を浴びせた。王の信任を失ったコーサスは、羅刹国に寝返ってひとり生命《いのち》をひろおうと思いたち、自分の家族もふくめて巫女国の皇帝たちを毒殺する計画を実行する。かれの企ては成功し、毒酒を飲まされた皇帝たちは次つぎに倒れた。しかし屈強な体と心をもつために毒のまわりが遅いコリニウスに、彼のすべての企てをさとられ、大剣の餌食となる。そしてこの出来ごとを境に、巫女国は破滅へと突っ走る。カース城混乱のそのさなか、妖術をつかって悪鬼の大群を呼びよせようとしたゴライスも、悪鬼の召喚に失敗し、みずからの体に悪鬼の大群の侵入を受け、ほかの体に乗りうつるひまもないまま、紅蓮《ぐれん》の炎に包まれ滅んでしまう。
ややあって、内部から崩れ去ったカース城内に押しいったジャスは、毒殺された皇帝たちを見て呆然となる。息もたえだえのコリニウスは、王の傲慢と一人の裏切り者のせいで巫女国は滅びるのだと叫んだあと、静かに息をひきとる。たったひとり毒殺をまぬかれたラ・フィリーズ皇太子の妹プレズミラは、巫女国に嫁いだ身である以上、最後まで巫女国と運命をともにするとささやいたあと、毒をあおって自殺する。長年の宿敵を破って、今や水星最強の王国にのしあがった羅刹国は、ソフォニスバ王女を招いて盛大な酒宴を張ることになった。そんな折りも折り、誕生日を明日にひかえたジャスは、ふと自分たちが年老いていく身であることを思いだし、顔を翳《かげ》らせる。
しかし神々は、もう〈時《タイム》〉以外に戦う相手のいなくなった羅刹国の英雄たちを憐れみ、かれらに英雄的行為を思う存分おこなわせる試練の場を与えようと思いたつ。そして、みずからの尾を喰わえこむ輪廻《りんね》の邪竜ウロボロスのように、物語は見事にプロローグへ引き戻される。
ジャス皇帝の誕生日に、巫女国からの使節が城門へやって来た……
こうして『ウロボロス』の世界は、みずからの尾を喰わえこんだ神秘な巨竜そのままに、永遠の円環をかたちづくり、そこからの帰還を読者にさえ許さなくなる。ウロボロスの無限の輪にとらえられた読者、次の空間に向かって、あるいはそこから地球に向かって、シェーアバルトが『小遊星物語』で描いたような星間の巨塔をきずくことができなくなる。そこではあらゆる場所が出発点であり、また終着点でありうるからだ。ウロボロスの世界にレッシンガムともども連れてこられたわたしたちは、おそらく次の目覚め[#「次の目覚め」に傍点]が起こらないかぎり、円環世界のなかで堂々めぐりに似た放浪をつづけることだろう。
なぜなら、小説『ウロボロス』の奇怪な宇宙に存在する水星の上で夢みるわたしたちは、その水星が同時にわたしたち自身の心の内部で夢見られている存在でもあることを知っているから。ともあれ、わたしたち自身の『初期の終り』はこうしてはじまった。夢幻の世界へ飛翔する二つの方法を手にいれた今、世界という世界が手招きしながらわたしたちの到着を待っている。
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X 神話の森を超えて
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わたしたちはピストルを、
ふいに夢に現われたピストルを抜き、
嬉々として神々を射殺した。
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[#地付き]ボルヘス『創造者』(鼓直訳、国書刊行会)
☆要素としてのファンタジー[#「要素としてのファンタジー」はゴシック体]
ところで、もうひとつの世界を志向する〈|夢の文学《ドリーム・リテラチヤー》〉が、いま若い世代におよぼしている影響について、わたしたちは何章かにわたって、おもに社会的風俗的な面からいくつかの考察を試みた。けれど、そうした方向からのアプローチを通して得られる成果は、要するに、読者の側に生まれた反応や変化に関する現象学的な資料を手にいれることと、大した差がない。ファンタジーに接した読者の態度の変化だけを追い回すことは、たとえば、せっかく劇場にはいりながら客席にばかり目を向けているようなものだ。それでは観客の反応はよく分かっても、舞台でおこなわれる肝心の演劇のほうがさっぱり分からない。なぜならば、劇そのものがもつ特質は、あくまで観客の反応とは別個に存在しているからだ。そこでわたしたちは、しばらくのあいだファンタジーという文学形態そのものに考察の焦点を合わせることにしよう。そして、ファンタジーに接することによって必然的に湧きあがる疑問、「どうしてもうひとつの世界[#「もうひとつの世界」に傍点]を創らなければならないのか」あるいは「どうしてファンタジーが闘いと遍歴の物語[#「闘いと遍歴の物語」に傍点]でありつづけるのか」といった疑問を、次に解きあかさなければならない。
そこで、ジャンルとしてはなんでもいい。童話から幻想小説にまで拡がるこの種文学のなかから、いま、要素としてのファンタジー[#「要素としてのファンタジー」はゴシック体]を取りだす作業を開始しよう。幻想的な文学と呼ばれるからには、そこになんらかの共通要素が含まれているにちがいない。たとえば、もの言う動物、ひとりでに動く人形。妖精や巨人や魔女をはじめとする超自然的な生きものの登場。宇宙船やタイム・マシンに乗りこむことなく行きつける月、星、過去、そして未来。思いつくまま挙げていけば、それだけでかなり厖大な項目リストができあがる。けれど筆者は、そうした妖精郷の属性をすべてひっくるめて、この世とは完全にかけはなれた〈もうひとつの世界[#「もうひとつの世界」に傍点]〉の成立ということのために、そのリストを使いたいと思う。もっと原形質的なことばで言い替えれば、ファンタジーにおける宇宙論的性格[#「ファンタジーにおける宇宙論的性格」はゴシック体]ということになるだろうか。
☆〈神話〉聖なる謎かけ競技[#「〈神話〉聖なる謎かけ競技」はゴシック体]
名著『ホモ・ルーデンス』の著者ヨハン・ホイジンガによれば、「そもそも、この世に存在するすべてのものはいかに形づくられたかという宇宙論的問題は、最初の人間的精神活動」であり、実験児童心理学の指摘をまつまでもなく、六歳の子供が親をまどわせる質問の大部分もまた、「雨は誰が落としてるの」とか「死んだらどうなるの」といった純粋に宇宙論的な性格を備えている、という。人間が生物として驚きと恐怖と恍惚のなかから生みだした、これら宇宙論的な疑問は、ホイジンガがいうように哲学的思考の誕生をうながしたし、またいっぽうで知識の体系としての神話を生みだした。しかし神話は、一般に考えられているような「大むかしに起きた実際の戦争や天変地異や王国の成立」に関するあやふやな歴史の集成ではないだろうし、まして「ひとつの思想、ひとつの哲学が完成される以前の迷宮的な図書館」に類したある種の記憶装置であるはずもない。そうではなく、太古にあっては神話もまた生けにえの家畜たちとおなじように、人間がその生活圏を維持していくために神々に捧げた神聖な供物だったのだ。神話と生けにえのあいだに横たわる差異は、ひとつしかない。神話は眼にみえない知識を贄《にえ》とし、家畜はその生まなましい血肉を贄とする。だから人間は、よりすばらしい生けにえが神々を歓喜させることを学んで以来、よりすばらしい神話、より聖なる神話を生みだそうと努力してきた。かれらは、神の愛《め》でる知識を索《もと》めるために「宇宙の生成に関する知識の深さを競いあい、より神聖な表現をもって神を描写しあう」ことに励んだのだ。ホイジンガは、こうした知識の競い合いを「聖なる謎かけ競技」と呼び、神話の根源的な形態をこの祭礼競技のなかに発見した。そして最初の神話は、問いを投げかける者とそれに答える者との対話から発生する。ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』では、ツァラツストラとアフラマツダの謎とき競技を通じて宇宙の秘密が啓示されていくし、バラモンの聖典『リグヴェーダ』のなかで語られる宇宙論もまた、この謎かけ形式を踏襲している。けれど、あらゆる神話がその本質的な部分で「謎とき遊び」とつながっていることは、ファンタジーに対しても思いがけない恩恵をもたらした。それは、もともと知識の競い合いであった神話が、読む側に投げつける〈挑戦〉への緊張感だ。神話はみずからも読むものに謎をかける。そして、読むものを敗者と勝者とにきびしく分割しないではおかない。神話の問いかけに答えられなかったものは、すくなくとも夢の世界で死ななければならない。あるいは、ファンタジーの内部から追放される。この現象を、わたしたちは「神話の危険な性格」と呼んでもいい。この危険な性格は、神話を読むものにひとつの試練を与えるという行為を通して、おもてに現われる。そして試練とは、ひとつには宇宙創成の謎とおなじような、理屈や思考ではぜったいにこたえられない問題の提示であり、またひとつには、その解答に生命をかけることだった。北欧神話の雄編『エッダ』に収められた『ヴァフスルーズニルの歌』では、エサー族の王オーディンが、太古の知識をもつ全智全能の巨人と知恵くらべをする場面が展開する。そこで問われるのは「宇宙の創成」や「昼と夜のふるさと」といった解けるはずのない難問であり、しかも問いに答えられなければその屈辱は死をもってつぐなわれる。生と死を分かつ難問への挑戦は、こうして神話のなかに恐るべき性格を解きはなつことになる。簡単にいえば、スフィンクスの謎かけをはじめとする「試練としての神話」は、ほとんどいつの場合にも、解答に生命を賭けなければいけないという鉄則をつらぬくのだ。謎をかける側は、解答困難な謎を相手に投げかけ、謎をかけられる側は生命をかけて解答をさがし出す。そして競技での敗北は、いうまでもなく死につながる。「万物は数である」という黄金の解答をみちびきだした、あのピュタゴラス派の幹部でさえ、ピュタゴラスの定理そのものが√2という通約不可能な無理数[#「√2という通約不可能な無理数」に傍点]の存在を認めざるを得なくなるという「ピュタゴラス神話の謎」を口にしたとたん、無残にも虐殺されたほどだ。こうした例は、なにも太古の神話に限られたことではない。第V章で紹介したトールキン作『ホビットの冒険』には、指輪を拾いあげたビルボが、飢えた怪物ゴクリのかける謎に挑戦する場面が登場する――
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「息をしないのに 生きていて、
死んでいるみたいに 冷たくて、
のどもかわかないのに 水のんで、
よろいを着てるのに 音もたてないもの。
さあ、なんだ?」
「ちょっと待った。こっちだって、あんたのときに待ってやったじゃないか」
「早くしろ、早くしろ」と、ゴクリはビルボをつかまえようと、船から身をのりだした。しかし水のなかにいれた水かきのある長い足が動いたので、びっくりした魚がいっぴき跳びあがって、ビルボの足もとに落ちた。とたんにビルボは、謎なぞの答えを見つけて、
「分かった、それは魚だ、魚、魚だ!」と叫んだ――
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☆〈入社式《イニシアシオン》〉としての神話[#「〈入社式《イニシアシオン》〉としての神話」はゴシック体]
ところで、ビルボの物語を知っている読者なら、挑戦の試練――つまり生命を賭けた謎かけ競技が、実は『指輪物語』の構成に重要な役割を果たしていることに気がつくかもしれない。それは、生命を賭けて解答をもとめる行為がひとつの恐怖体験――接神[#「接神」はゴシック体]に結びつくという事実だ。原始キリスト教をも含めた太古の秘密結社が「入社式《イニシアシオン》」と呼んだ試練もまた、神話のもつ危険な性格をみずから体現した儀式と言っていいだろう。問題はなんでもいい。何か解きがたい謎になやまされた人間が、
「われわれはどこから来たのか」
「われわれは何なのか」
「われわれはどこへ行くのか」
と自問するとき、その宇宙論的な疑問はかれらを謎ときの試練、「入社式《イニシアシオン》」のための神秘で危険な儀式へと駆りたてていくのだ。
幻想文学が宇宙の本質に迫ろうとするとき、それは必然的に神話じみた謎かけ[#「謎かけ」に傍点]へとすがたを変えなくてはならない。そのなかで、真の幻想文学が入社式《イニシアシオン》のための謎ときを読むものに挑みかけるとき、それは試練への愛にまで昇華する。したがって夢のなかでの生活は、もうひとつの世界で生命を燃やしつくすということは、当然のように試練への挑戦となるほかはない。すなわち、わたしたちがギルドと呼んでいる制度が、ほんとうは経済的な領域に属するものではなく秘密結社の入社式《イニシアシオン》にかかわる宇宙論的な領域に属するように、幻想文学への参入もまた、本質的に生命をかけた謎ときへの挑戦[#「生命をかけた謎ときへの挑戦」に傍点]という狂おしい儀式に変容する。
神話をその原型とする一連の文学形態のなかに仕組まれた、これらの試練は、その意味で謎に挑戦できるだけの能力がそなわっていない子供にとって無縁の世界だったにちがいない。L・ラグランが『文化英雄』(大場啓仁他訳、太陽社)のなかで書いているように、入社式《イニシアシオン》としての神話に子供が主役として現われることはなかったのだ。首をかける試練など、子供にはだいいち苛酷すぎる。のちにメールヒェンという名で論じられるようになる民話や童話が、ややもすると恐怖体験や残虐のモチーフに占領されてしまうのは、そうした〈偽にせの児童向け〉読みものが本来「試練」としての神話からやってきたことを、はっきりと示している。
☆解けない謎と出口のない迷宮[#「解けない謎と出口のない迷宮」はゴシック体]
わたしたちはここで、もうひとつの世界を創造することが、実は「試練への愛」や「入社式《イニシアシオン》」に代表されるような、ある種の恐怖体験と底を通じあっている事実をつかみとった。それが神話に緊張感を与えることも、確認した。しかし「試練」という機能がファンタジーの分野ではもっと別のかたちではたらいている可能性はある。なぜなら「試練」ということばは、ほとんど全てのファンタジーがその構成要素の中核に据えている黄金のことば〈遍歴クエスト〉と、その機能においてまったく同質だからなのだ。解決のない難問、出口のない迷宮、そしてそのなかを幾度となくめぐりながら、生と死のシンボリックな図形たる螺旋《スパイラル》を何重にも描くよう運命づけられた人間。これを英雄《ヒーロー》と呼び、かれらの運命を遍歴と呼ぶが、しかしあらゆる遍歴物語に登場する神々や怪物や、天国や地獄は、その意味で「解答のない難問」のためにばらまかれた置き石と捨て石にすぎない。「出口のない迷宮」に閉じこめられた、役にもたたない飾りものにすぎない。解決はあくまでも英雄と呼ばれる唯一の当事者の手にゆだねられる。そして、かれに課せられた試練が重ければ重いほど、遍歴の道が険しければ険しいほど、英雄は一瞬のうちにすべての状況を一変させ得る万能の解答を見つけなくてはならない。だからこそ古代人が、宇宙生成と発展の歴史を螺旋として表現し、神々の秘事を迷路の奥にしまいこんだのは正しかった。かれらは、螺旋や迷路が解決をもたない難問であることを知っていたからだ。
神話から試練へ、さらに遍歴から迷路へと、あらゆる神話作用のなかの窮極を追いもとめてきたわたしたちは、神話学者カール・ケレーニイが『迷宮の研究』(種村季弘他訳、弘文堂)の冒頭にかかげたあの謎めいた文章に、いま踏みこんでいくことができる。かれは、問題と秘密に関して、次のように述べている――「迷宮の問題には、ある固有事情――しかも神話研究の諸問題の大部分のものを真面目に設問するや、かならず関わり合うことになるひとつの事情がある。それはいかなる解決をもってしても片をつけることができない。それは、難解な詩人のテキストのさる偉大な注解者が〈秘密〉と〈問題〉とをつぎのように相互に対置させる意味において秘密なのである。すなわち、この問題は解かれるはずだ、それは現象し、次いで消えたのだから。これに対してあの問題は体験され、畏敬され、自己の生のなかに摂取されるべきだ。説明によって解決される秘密はけっして秘密ではない。真正の秘密は説明≠ノ抵抗する。二重の真理のなにかの策略によって試練を免れるからではなく、その本質上理性的に解決することができないからである。だがそれは、説明可能なものが属しているのと同一の現実に属していて、説明に対してある絶対的に公正な関係にある。それは説明に呼びかける。秘密の課題とはまさしく、真に説明不能なものがどこにあるかを指し示すこと[#「真に説明不能なものがどこにあるかを指し示すこと」に傍点]である」
したがって、問題の解決はしばしば魔法や偶然や八方破れの行動から生まれた、思いもかけない事件によって成就される。これは知恵や論理で割りきれる性質のものではない。「それは文字どおり突如として起こる解決であり、質問者が相手をがんじがらめにしようとする鎖の紐を一刀両断に切って捨てる」(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』)ような野蛮なものでなければならない。それを、勇気[#「勇気」に傍点]と呼んでもいい。
そこで次に、解けない謎と出口のない迷宮[#「解けない謎と出口のない迷宮」はゴシック体]にまよいこんで、しかもその試練を克服した英雄たちの物語に、目を向けていこう。かれらがいったいどういうかたちで勝利を得、あるいは敗北していったか。そうした過去の壮大な遍歴をたどることによって、ファンタジーに描かれた主人公たちの生と死が、意識的であれ無意識的であれ、どんなに深く神話的な試練の原理にかかわっているかを確認できることだろう。ちょうど、『指輪物語』に登場した灰色[#「灰色」に傍点]の魔術師ガンダルフが、死を克服して白[#「白」に傍点]の魔術師に昇格したように。謎に直面して、しかもその謎をみごとに解決する英雄の物語は、なるほど数が多い。そして解答の良し悪しが、解答自体の突拍子のなさの度合い[#「突拍子のなさの度合い」に傍点]によることも、ホイジンガの引用を示してすでに述べておいた。ひとつの例として、ギリシア神話に出てくる科学者ダイダロスの逸話を眺めることは意味がある。ある日、貝殻のうずまきに糸を通す問題を与えられたダイダロスは、蟻に糸をむすんで貝殻のなかをくぐらせ、みごと難問を解決する。しかしダイダロスの場合のように、問題が知力で解決されるうちはまだいい。知力では歯がたたない難問にぶつかったとき、わたしたちは重大な決断に迫られる。死のなかに飛びこむこと、あるいは人間ではなくなることをその代償として、迷宮の奇怪な壁に体当たりしなければならなくなる試練。そこまで来て、物語はようやくファンタジーの対象となる。
迷宮の研究家カール・ケレーニイは、神話と迷宮のあいだに横たわるシンボリックな関係を論じた『迷宮の研究』のなかで、モルッカ島セーレムで発掘したハイヌヴェレ神話を紹介している。この神話が有用なのは、そこに謎ときと遍歴の原形的なパターンを見つけだせるからだけれど、この神話にあっては、迷宮の謎ときに破れた人間はすべて動物にされてしまう。しかし人びとは、人間としての自分を賭けて、女神のもとに辿り着く旅にでる必要がどうしてもある。そしてこのジレンマは、富をもたらす神々の娘ハイヌヴェレを人間が殺してしまうことによって、いわば運命的にスタートするのだ。少女ハイヌヴェレが儀式の犠牲となって地中に埋められたのを知った女神ムルア・サテネは、人間たちを呪い、広場に巨大な迷路の門を築く。彼女は言う、「わたしはここに住んでいたくない。おまえたちが人殺しをしたからだ。これからは、おまえたちがわたしのところに来るためには、この門を通ってこなければならない。門を通れた者は人間のままでいられるけれども、通れなかった者はそうはならないだろう」そして彼女は、九重のうずまきから成る迷路の門のかなたに去ってしまう。人びとは死の女神の許に行き着くために、この迷路を通らねばならなくなったが、それに失敗したものはみな動物や精霊に変わり、人間として生に戻る望みを断たれる。このとき以来地上は、人間として生に立ち戻ることに失敗した生まれかわり[#「生まれかわり」に傍点]たち、すなわち動物や妖精の住みかともなる――
☆『ボアズ=ヤキンのライオン』[#「『ボアズ=ヤキンのライオン』」はゴシック体]
このラフなスケッチでは、神話の真の面白さを伝えられないけれど、謎ときの失敗に課せられる罰と、「死ぬ」ことによる試練の克服、この二点に入社式《イニシアシオン》の場合と同じく再生のための試練が裏打ちされていることだけは、納得してもらえると思う。迷宮に挑む人間は、その時点ですでに生と死の不安定な境界にはいりこむのだ。もっとも、こんな神話を紹介したのには理由がある。生と死の試練を扱った現代ファンタジーの佳品を、すこし詳しく見ていきたいと考えたからだ。ラッセル・ホウバン作『ボアズ=ヤキンのライオン』(一九七三、荒俣宏訳、早川書房)は、イギリス児童文学の若い旗手の手になる静かなファンタジーだが、そこにはハイヌヴェレ神話に見られた試練としての迷宮が物語のテーマに据えられている。そして、生と死の謎を何度となく問いかけるこの小さなファンタジーは、その意味でまさに神話的構造を有している――
世界には、もうライオンなどいなかった。王さまも、王さまの凱旋車も、そしてその車輪も、すでになかった。すべてが静かで、ものうかった。ヤキン=ボアズは海から遠くはなれた街に地図屋をいとなむ中年男だった。息子がひとりに、妻がひとり。山や森や、知らない国や星や月の地図を美しい紙に印刷して売っていた。かれにはひとつ自慢があった。親地図《マスター・マツプ》といって、かれが見聞きしたものを全部描きこんだ地図がそれだ。何か新しいものごとを聞いてくると、すぐにそれを地図に描きこんだ、だからヤキン=ボアズの地図に載っていないものは何ひとつなかった。
ある日、ヤキン=ボアズは愛する息子にその親地図《マスター・マツプ》をゆずろうとした。けれど息子のボアズ=ヤキンはすこしも地図に興味を示さない。これはなんでも描きこんであるすばらしいものだよ、と説明されても、迷路のような線に目がくらむだけだ。そこで息子は、ひとこと「ライオンのいる場所も描いてあるの?」と訊ねる。
ヤキン=ボアズの地図には、ライオンのいる場所など描きこまれていなかった。だいいち、ライオンなんかもうこの世にいないのだ。けれどヤキン=ボアズの心にその瞬間から失意が宿った。かれはほどなく、親地図《マスター・マツプ》をかかえ、ライオンのいる場所をもとめて街を出ていってしまう。
父をうしなったボアズ=ヤキンは、しばらくするうちに父の親地図《マスター・マツプ》作りに関心をいだくようになる。いっぽう港の小さな町で書店につとめだした父も、息子に地図づくりばかり押しつけていた自分を反省する。息子の好きな音楽に耳をかたむけてもやらなかったことを、後悔しはじめる。
さて、父と親地図《マスター・マツプ》のことが気にかかった息子ボアズ=ヤキンは、ある日、最後のライオンが殺された場所へ出掛ける気持ちになる。かれはそこで、二本の矢と二本の槍で突かれながらも、なお王の凱旋車にいどみかかろうとする最後のライオンの彫刻を見る。そのとたん、かれの心にライオンが眼をさます。死んだはずのライオンに、すこしずつ生気が戻ってくるような――そんな「死んだものの復活」を目のあたりにしたかれは、思わず知らず、雄々しいライオンのすがたを写生したくなる。
かれは描いた。戦車に踏まれ、槍と矢に射ぬかれ、それでもなお王に歯向かおうとする最後のライオンのすがたを。何枚も、そして何枚も。けれどかれは、いちまいごとに絵のなかのライオンから槍や矢を抜いていく。そしていちまいごとに、ライオンの眼が鋭くなる。作者ホウバンは、少年と絵のライオン[#「絵のライオン」に傍点]とのファンタスティックな交渉場面を、印象ぶかい文章で簡潔に描いているので、実物の感触をここにすこしお目にかけよう――
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……ボアズ=ヤキンは絵を拡げると、ポケットから石を取りだし、床に置いた絵の四すみをそれでおさえた。
ボアズ=ヤキンはライオンの王のまえに、さいしょの絵を置いた。絵のなかのライオンは、体に二本の矢を射こまれ、咽喉に二本の槍を受けている。
「矢が火みたいに燃えて、ぼくたちの力がなくなっていく。槍はするどくて、致命的だ。くるくる回る車輪が、ぼくたちを闇のなかに連れていく」と、ボアズ=ヤキンはつぶやいた。
かれはさいしょの絵のうえに、二番めの絵を置いた。「矢が一本抜けた。血が流れた体に傷あとは残らない」
それから、三番めの絵を置いた。「二本めの矢も抜けた。闇がうすれて、力がもどってきた」
それから四番めの絵をうえにのせた。「槍が一本抜けて、足もとに落ちた。槍兵の手はからっぽだ」
かれは四番めの絵のうえに五番めの絵を置いて、すこしあとじさりした。月明かりのなかで、ライオンの眼がひたいの陰からこっちを見つめている。
「二本めの槍、最後の武器、王の槍が足もとに落ちた。さあ、車輪をのりこえるんだ。もう死なない。生きている、力があふれている。ぼくたちと王のあいだに立ちはだかる邪魔ものは、もうだれもいない!」
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そう叫んだとき、不思議なわななきが背すじを走った。野生と猛りと生気と力が、男としてのボアズ=ヤキンに流れこんだ。かれの眼にライオンの光が映る。
ボアズ=ヤキンは母親と恋人を残して、父親を捜す旅に出る。かれに会って、もういちど親地図《マスターズ・マツプ》をゆずってもらうために。写生の絵を通じて、ライオンの体から矢と槍をぜんぶ抜きとったボアズ=ヤキンに、迷路としての都会、成年期への「入社式《イニシアシオン》」が門をひらく。
いっぽう、妻を棄て子を棄て、いまはグレーテルという女といっしょに暮らしている父親は、表面的には、解放された明るさに輝いていた。けれどかれにはライオンがとりついていた。それもちょうど、息子のボアズ=ヤキンが絵のなかでライオンに突きささった武器を抜いて、最後の野獣をよみがえらせたころからだ。ある朝かれは、路上でライオンに出喰わした! 巨大な、恐るべき獣だった。しかし気がついてみると、このライオンはどうやら他人には見えないらしいのだ。かれは、痩せてみすぼらしいそのライオンに牛肉を与える。
父親にとって、このライオンが死を意味するのか解放を意味するのか分からない。ただひとつだけはっきりしているのは、ライオンの存在がかれの心を揺り動かすという事実だった。やがてかれは、グレーテルや書店の仕事にも飽きはじめる――
いっぽう息子と夫に棄てられた妻は、どこにいるとも知れない夫に、長年ためこんだ鉛のようにどんよりとした恨みと気だるさとをこめた絶縁状をしたためる。女としての一生を台無しにした夫から譲り受けたものは、小さな地図屋の店だけだった。それでも彼女は若い女の子をひとり雇い入れ、大好きだった文学書を地図の代わりにならべた、小さな書店を開業する。彼女はもう何も考えない。毎日毎日を単調に暮らしていくだけだ。
こうして女たちは、永遠に変わらない単調な日常に埋没していく。埋没することによって、確実に生きようとする。彼女たちには、危険な神話はいらないのだ。しかし、息子はライオンを甦らせたばかりに、都会の迷路へ不安な一歩を踏みだし、父親はまた、死と破壊と自由を象徴するライオンにつきまとわれるようになる。かれらは二人とも、ライオンという迷宮の仲介者[#「ライオンという迷宮の仲介者」に傍点]に謎かけを挑まれたのだ。そして二人は、生命を賭けて謎の解答を索《もと》める不安な試練へと出発していく。
☆解答の多岐性 [#「解答の多岐性 」はゴシック体]
『ボアズ=ヤキンのライオン』は以上のような物語だ。わたしたちは、この奇妙な名をもつ親子が試練にうち克つかどうか、最後まで気にしていなければならない。しかし、かれらの解答はやぶれかぶれの行動から、偶然にみちびきだされる。ライオンにとりつかれた父と、ライオンを父に向けてけしかけた息子は、最後の場面で、相討ちになるのをかくごで、ともにライオンに飛びかかっていく。そして、この死を賭けた行為が、迷路の門をひらいた! 二人が同時にライオンに飛びかかったとき、ライオンは不意に消え、父子だけが烈しくその場で対面するその瞬間、ヤキン=ボアズはボアズ=ヤキンとなって甦り、ボアズ=ヤキンはヤキン=ボアズとなって甦る。かれらは蘇生のまっただなかで、父は子であり子は父である真実――時の流れに秘められた永遠の真理を知るのだ。そしてこのとき、二人は試練の迷路を通り抜ける。
しかし、この物語を二重の意味で神話ならしめているもうひとつの要素については、さらに言及しておく必要があるだろう。それは解答の多岐性[#「解答の多岐性」に傍点]だ。神話が根本的に謎かけの儀式であったことを思いだそう。そこでの謎は、解答をもとめ得ない謎であったはずだ。とすれば、逆に真の解答がひとつである必要もなくなる。思いもかけない二つめの答えが現われた場合、それがもしも謎かけの全ルールを満足する解答であるならば、それは最初の答えよりもさらに強力な「試練の克服」となり得るのだ。そして、二つめの答えはひょっとすると最初の解答の|並べ替え《アナグラム》かもしれない。神話が時としてあいまいで多岐な解釈を許し、それゆえに無意味化していくのは、まさにそれが神話[#「神話」に傍点]だからにほかならないためだ。ホイジンガが神話の機能に関連して、「ギリシア語のアイノス[#「アイノス」に傍点](物語の意)が同じくアイニグマ[#「アイニグマ」に傍点](謎の意)と同語源をもつことは意味深い」と指摘しているのも、ひどく暗示的ではないか。
☆神話の森の果てまで![#「神話の森の果てまで!」はゴシック体]
いずれにせよ、わたしたちは「試練の克服」がそのまま神話にハッピーエンドをもたらすと早合点してはいけないだろう。人間を取り巻いてきた宇宙の神秘と神々の儀式とは、甘いセンチメンタリズムへの傾斜を最後まで許さない。いくつかの実例でも示したとおり、「試練の克服」は時に〈死〉というかたちで実現されるからだ。しかし、それが〈死〉というかたちであろうとなかろうと、「試練への挑戦」は、それに挑んだ人間たちをあらゆる意味で高めらしめる。まるで秘密結社の苛酷な入社式《イニシアシオン》を通過したときのように。二十世紀前半に発表された〈宇宙論的構造〉をもつファンタジーのうち、真の傑作のひとつと考えられる美しい魂の書『ケンタウロス』(アルジャナン・ブラックウッド、一九一二、八十島薫訳、月刊ペン社)にもまた、試練の解答を死のなかに見いだす若者が登場する。かれオマリーは、古いギリシアの山中で俗に「牧神《パン》」や「人馬《ケンタウロス》」と呼ばれる大自然の意識――神[#「神」はゴシック体]に触れ、宇宙の法悦を識る。同行の案内人はその愉悦の無限さに酔い痴れ、ひとこと "Old as stones" とつぶやいて死んでしまう。かれは都市という煉獄のなかで大自然の意識と接する歓びも知らずにいる人びとに、このエクスタシーを分かちあわせようとして人間界へ戻る。しかし神秘の本質とその危険な性格を知る精神医シュタール博士は、オマリーにそのすばらしい仕事をさせまいとする。シュタール博士自身、実はエクスタシーの体験者だったが、神との合体が死によってしか実現されないことを知っており、オマリーの行動が世界中に自殺マニアを生みだす結末になることを恐れていた。
しかしオマリーは屈しなかった。人びとに向かって「自然に還れ」と呼びかける。しかしこの試練は解決を生まない。だれひとり耳を貸すものがいなかったからだ。オマリーは「もともと神の愉悦のすばらしさを理性に訴えかけたのがまちがっていた。このエクスタシーを知らせるには、人びとの心にそれを感じさせるのでなければ、目的を果たせない」と悟り、ようやく苦悩の迷宮を抜ける道にたどりつく。人びとの心を、風や花や伝説の動物たちの意識に触れさせること、神々の愉悦を味わわせること、それには、まず自分が肉体を捨てなければならない――かれは、そうつぶやく。
こうしてかれが、歓びのうちにみずからの生命を絶った日、かれの下宿にひとりの物乞いが訪れた。盲目の乞食は腹をすかせ、じっと主人が現われるのを待っていた。そのとき、どこから吹いてきたのだろうか、一陣の風がやさしく二階から吹きわたってきて、みじめな乞食は輝くばかりに美しい眼をひらき、口もとに歓喜のほほえみを浮かべた――
物語は、こうして最後の劇的なクライマックスに達するのだが、粗筋を記していたらきり[#「きり」に傍点]がなくなる。ファンタジーの世界は、多数の解答と、あいまいな謎と、試練への緊張感に満ちあふれている。そこでは、それぞれの役割にふさわしい人間が、つねに不安定な生死の境で永遠の神秘劇を演じている。入社式《イニシアシオン》の試練に挑むのは、つねに若者であり、知恵をもつ老人はつねに老人でありつづけ、また女神はその美しさをけっして失わない。これが神話の世界――わたしたちが現実世界の代替物として志向するもうひとつの世界[#「もうひとつの世界」に傍点]の原型なのだ。そしてこれら超自然的なすばらしい体験は、劇場のなか以外ではぜったいに起こり得ない。
☆すべての〈物語〉に籠《こ》められた希《ねが》い[#「すべての〈物語〉に籠《こ》められた希《ねが》い」はゴシック体]
この章を締めくくるに当たって、ひとつ設問を用意しておきたい――人間が物語を語ろうとした真の原因は何なのだろうか、と。人びとを楽しませ夢を与える「物語」という名の神話に敢えて逆らう言い方を用いれば、物語の歴史とは記憶への挑戦[#「記憶への挑戦」に傍点]である。たとえばすでに述べた構造主義の言うように、神話とは無時間の円環世界を舞台とする「口ごもられた知識」の体系であると捉え、その後に起きてくる[#「その後に起きてくる」に傍点]過去の発見[#「過去の発見」はゴシック体]をもって「伝説」の発生と考え、現在から過去へ流れる時間流の跡づけから小説という形態がスタートすると解釈する方向を、わたしたちはあまりに見事すぎる解決として忘れてしまったほうがいいかもしれない。
なぜなら、人間にとって「過去」は個人の記憶として神話よりも遥かに古くから存在したはずだし、いかに原始的とはいえ社会生活を営んだかれらが、過去と現在との因果関係に気づかぬはずはなかったと考えるからだ。いや、むしろかれらは共同体における自分の地位の正当性を「過去」――祖先の地位や功績《いさおし》によって確認することを、生涯の重要事としてきたはずだ。
もっとも古代人の「過去」は、時間感覚的に見る限り「現在」と同義でしかない。歳月の数え方が確定する時代が到来するまで、かれらの記録する年代記は決して「歴史」ではなく複数の現在の積み重ね[#「複数の現在の積み重ね」に傍点]に過ぎなかった。その意味でなら、年代記は歴史の記述などではなく、遠近感も相対距離も何もかも一切もたない平面上の点同士――つまり現在の記憶の外部補助装置[#「外部補助装置」に傍点]でしかなかった。なぜならかれらにとって、過去は「無数の古くなった現在」だったから。
もしも人間が個人の空間に閉じこもり、夢の生活に満足していられたら、ファンタジーはおそらく「年代記」だけで用が足りたことだろう。しかし自然界にあふれる「記憶では捉えられない現象」あるいは「超記憶的な事物」を、かれらはどう捉えればよかったろう? 人間を取りまく自然現象や民族の成り立ちに関する、記憶では答えられない問題を解きあかすために、「神話」は生まれるのだ。そしてこの「過去を抹殺する方法」は、皮肉なことに、何よりも社会の要求だった。こうして「神話」は、はじめて複数の人間の記憶をつなぐ最初の物語[#「最初の物語」に傍点]として登場する。神話が無時間的円環のなかで語られるのは、それが非記憶から生まれたもの――したがって、非現実を素材とせざるを得なくなった擬年代記である点に由来する。そしてもちろん、記憶を超える記憶たる神話は、その壮大な発展史のうえで、きわめて当然に創世記へと結びつく。この謂わば「複数の記憶の化合物」たる神話にかかれば、生命そのものの歴史というスケールのなかで、早くもアナクシマンドロスの手を経て、十九世紀以来の進化論にびっくりするほどよく似た人類史の神話≠描きだすことなど雑作もなかった。このミレトス学派の神話作者≠ヘ言う――
「最初の動物は湿気のなかで生まれ、棘ある殻に覆われた。それは歳を経るにしたがい、より乾燥した土地に移住し、やがて殻が割れて短期間新しい存在の形をとって生き長らえた。
人間は別の形の生きものから分化した。なぜなら、別の形の生きものはすばやく餌を獲る力を得るが、人間が独り歩きするまでに長い時間がかかるからである。人間がもし初めから今のような形であったら、おそらくじきに絶滅していただろう」
――しかしまちがえてはいけない。これは近代生物学の説明ではなく、あくまでも超記憶としての神話――すなわち物語なのだから。
ともあれ、わたしたちは「記憶」と「非記憶」のテーマを時間軸に移し替え、過去から現在への「時」の流れのなかに年代記と神話の関係を捉えることができる。これら「最初の物語」と定義していい文学形式のなかから、おそらく世界拡大の発端を見つけだすのだろう。
[#改ページ]
Y 年代記の発見
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[#この行4字下げ]「わが名はオジマンディウス、王のなかの王なり。汝ら力強き者よ、わが偉業《いさおし》を見よ、しかして野望を捨てよ!」
[#地付き]アッシリア王アシュル=ナシル=パルの碑名
☆忘れな草はなぜ慰めを与えないのか[#「忘れな草はなぜ慰めを与えないのか」はゴシック体]
年代記のことを想うとき、ふと一編の小さなファンタジーを思いだす。アイルランドの幻想作家ロード・ダンセイニが『時と神々』(一九〇六、荒俣宏訳『ダンセイニ幻想小説集』創土社)という魅力的なタイトルの短編集に収めた『カイの洞窟』という物語だ。
物語の粗筋《あらすじ》を簡単に記《しる》そう。諸国の王となったカナザール王は、その王権がただひとつ及ばない「時間」の力に心を痛める。過ぎ去ったものは取り戻せない。過去の栄光を呼び戻せはしない。しかし幼年期の黄金にも似た記憶をどうしても取り返したいと悩む王は、過去の断片を集めこんで山のように積みあげてある「カイの洞窟」に出掛け、その番人に自分の過去を返してほしいと頼みこむ。しかし番人は、地上のどんな宝物にも誘惑されない。
空しさを噛みしめて宮殿に戻った王は、ある夜ひとりの琴弾きに出会う。かれは「王の現在[#「現在」に傍点]を決して過去のいまわしい魔手に掴ませなどいたしません。王の偉業《いさおし》は、永遠に忘れられないのです」と保証する。琴弾きは、次々に過去へと消え去る「現在」を、黄金の琴の糸にからめとり、カイの洞窟に行かせない方法を知っていた。糸にからめとられた「現在」は、その糸が鳴らされるたびに忘却から甦り、生命を取り戻すのだ。
そしてカナザール王は、琴をかき鳴らす琴弾きの見まもる中で、壮絶な討ち死にをする。自分の記憶があのカイの洞窟で山のように積みあげられないことを知った歓びに酔い痴れながら――
ダンセイニの『カイの洞窟』は、そんな粗筋をもっている。けれどこの悲しい物語には、忘却を――いや「時間」という人類最大の敵を――討ち破る最もシンボリックな方法が語られているともいえよう。それは、琴の歌として記憶され、人びとの口から口に伝わることだ。だがぼくたちなら、歌にうたわれることよりも歴史の教科書に載ることを真の栄光と考えるかもしれない。にもかかわらず、カナザール王が年代記に名を残すことを嫌って[#「年代記に名を残すことを嫌って」に傍点]、琴弾きの歌う武勲詩にみずからを託したのは、なぜか? 筆者はそんなことを考えながら、ファンタジー作家の描く二つの異なった領域のことをふと思う。ダンセイニのように、宿敵「時間」を破る手立てとして「歌による人びとの記憶」を選び取った作家もいれば、もちろん一方には年代記という超個人的な記録体を選び取った作家もいるからだ。しかしこの二つの方法を分かつ差異は、単に「思い出し」の手立てとしての索引に関連する「作られ方の違い」だけによるものではないのかもしれない。そこでしばらく、「歌にうたわれない記録」としての年代記の世界を巡回してみる必要があるだろう。
ここに、伝説も神話も、ましてや『イリアード』や『オデュッセイ』のような韻文による華やかな詩譚も目にすることなく、ひたすら現在を定着させようと努めた人びとがいる。かれらは年代記記述者と呼ばれ、かれらの役目は記憶に残されるべき出来事を文字で記録することだ。天文学者と並んで人類最初の官吏となった年代記記述者は、エジプトやメソポタミアの場合には平石やパピルスや瓦板に出来事を書きこんでいく。かれらは「記憶の人」だ。かれらの労苦によって、人間の栄光と自然の奇跡にあふれた「現在」が永遠に残されていく。アッシリア歴代の王であって誰よりも残忍な人物アシュル=ナシル=パル(前九世紀)は、かれの功績を忘れてはならないと国民に命じたにもかかわらず、わずか四世紀後には記念の石柱さえ思いだされることがなかった。「わが名はオジマンディウス」と絶叫した大王にして、やはり年代記記述者は欠かせない記録機械であった。
☆年代記を恐れた人びとの言い分[#「年代記を恐れた人びとの言い分」はゴシック体]
かれら年代記記述者は、記憶すべき出来事や国家の栄光を、事務的に、冷たく、記録用の素材に定着させていく。プラトンは年代記制作者を指して、『パイドン』の主人公ソクラテスの口を通じながら言う――書くことと読むことが普及することを遺憾に思う、それは人間の記憶能力を減退させ、さらに審判力をも失わせる――と。このプラトンの言葉がもしも正しいとしたら、著作らしい著作を残さなかった宗教集団の総帥ピュタゴラスやソクラテスなどギリシアの哲人たちは、年代記記述者の恐るべき悪影響に抗して、記録よりも「記憶」の優位を身をもって主張したのだろうか?
年代記を記述する人間にとっては、人類と地球の起原に関する「口ごもられた知識」の殿堂である神話は、あまりにも稚拙すぎて心の慰めにさえならない。個人の経験をパッチワークのようにつなぎ合わせただけの妙ちきりんな「偽年代記」たる伝説も、それを聞く人びとの唇に笑みを浮かばせこそすれ、本質的に恋愛詩と同じ歌《シヤンソン》≠ニしての感動を越えることはない。かれらは冷たく、事務的に「現在」という瞬間の瓦礫[#「瞬間の瓦礫」に傍点]を記録していく。そして、天文学者とならんで瞬間瞬間を歴史という謎めいた連続体に定着させようとした年代記記述者の孤独な魂は、王に代わって「現在の栄光」を後世に伝えるという法外な歓びのために燃えていた。年代記記述者は、したがって天文学者たちの救いようのない孤独よりも、いくらか慰みを得ていたと言えるだろう。
年代記記述者のこうした超人的な冷たさに戦《おのの》いたのは、果たしてソクラテスやピュタゴラスだけだったろうか? かれらは少なくとも無意識的に、歴史と真実を「記録」することを嫌い、むしろ空文にして「記憶」することを望んだように見える。かれらギリシア人は、わずか数百年前に起きた歴史的事実であるトロイ戦争さえ、正式な歴史≠ニしては記述しなかった。かろうじて『イリアード』や『オデュッセイ』による伝説化≠果たしたにすぎないのだ。
これに対して、現在を冷たく固定する年代記の威力を充分に理解した偉大なユダヤの歴史家ヨゼセフスは紀元八〇年ごろ、ギリシア文明に潜む「年代記感覚の欠如ぶり」を次のように指摘している。
「太古の歴史的事実というとギリシア人以外を頼まず、かれらにのみ事実を学ぼうとする人々には、大きな疑問を感じざるを得ない。なぜならギリシアに関することはごく最近の出来ごと、言ってみればほとんどがつい昨日の記憶に残る事件でしかないことを知るからだ。かれらの都市建設や美学上の発見、そして法律に関する話題を、われわれは口にする。しかし歴史を編纂することは、かれらにとっていちばん後の関心事と言ってもよかった。事実、われわれは最古の記憶と伝統を保存してきたのがエジプト人やカルデア人やフェニキア人であることを、認めざるを得ないのだ」
ともあれ、わたしたちはここで、人間の住む世界に最初の測量を試みた人種こそ年代記記述者だったことを認めよう。そしてかれらは、現在を記録してゆくことを通じて、間違いなく「時間」という真の世界創造者を発見したのだ。なるほど、かれらには歴史を忘却から救うために記録するという義務感などあり得なかったろう。しかしかれらは、結果的に[#「結果的に」はゴシック体]、現在の瓦礫という固形物を積みかさねてゆくことによって、「過去」を築きあげたのだ。しかもそこに作りだされた「過去」は、誰の記憶にも属さない代わりに誰の記憶にも共有される奇妙きてれつな超空間を作りあげた――
☆年代記を恐れなかった人びとの勇気[#「年代記を恐れなかった人びとの勇気」はゴシック体]
ところで、年代記を恐れなかったエジプト人には紀元前二五〇〇年にまで遡る年代記があり、そこには歴代王の事跡をはじめ、毎年起こるナイル川氾濫の水位から船の進水式や犯罪人の処刑までに及ぶ厖大な「世界」が封じこめられていた。いっぽうメソポタミアでは、およそ紀元前七五〇年ごろにスタートする太陽と星々の運行の記録が、これも年代記として残されてきた。この途轍もない年代記の重みに、新興国ギリシアの賢人たちが恐怖を抱いたとしても無理はない。なぜならその年代記は、けっして過去を読むための検索システムではなかったのだから。その意味で、ギリシア人たちが過去を読む方法として「記憶」を用いたのは正しかった。『イリアード』や『オデュッセイ』という暗誦による歴史保存法を考案したのは、賢明だった。
筆者はふと考える、ギリシア人の発明といってもよい「記憶術」は、古代文明が誇る年代記という記憶法に対する反逆だったのではないだろうか、と。最初の記憶術はギリシアの詩人シモニデスによって発明された、と伝説は伝えている。アテナイのとある館で催された宴会に、街の主だった人物が全て招待された夜のことだ。その夜宴の席で浮かれ騒いでいたシモニデスは、女神の啓示を受けてたまたま館の外に出た。ところがその間に館の天井が落ちて、出席者のほとんどが死んでしまった。名士が多数出席していた関係で、誰のとも分からぬ亡骸を判別する必要が生じたとき、生き残ったシモニデスは、記憶をたどって次のように死体の判別をおこなった。死体の倒れていた場所と位置とから、宴の最中に占めていた各人物の名を思いだす方法をだ。こうしてかれは、場所と位置とに記憶すべきものの内容を関連づける記憶の方法を発見した。そしてこの新しい手段は、索引のない歴史たる年代記を棄て去り、索引をもつ歴史たる「記憶」の尊厳を取り返したのだ。歴史家トゥキディデスの生きていた時代にも、教養あるギリシア人なら大抵はトロイ戦争の歴史を記憶[#「記憶」に傍点]していたという。そしてギリシアの英雄たちは、歌にうたわれ人びとに記憶されるために(けっして年代記に書き残されるためにではなく)、雄々しく戦ったのだ。あのダンセイニの小さな物語に登場する王のように。
☆年代記を読み返した人びと[#「年代記を読み返した人びと」はゴシック体]
しかし、ギリシア人の記憶術による宇宙システムがもっぱら文学の世界を華やかに彩《いろど》り、あるいは別世界創造に寄与しているあいだに、年代記の閉ざされた世界にひとつの事件がもちあがった。考えてみると、この事件は「世界を拡げ、ついに別世界に到る道筋をきわめよう」とするファンタジー作家たちにも決定的な影響を及ぼす出来ごとだったといえそうだ。
現在という重みを負って眠っていた世界各地の年代記を読み返す[#「読み返す」はゴシック体]人間が登場したのだ。紀元三二五年当時、ニカエアの会議にあって新国教となったキリスト教の公的なドグマを定める作業に功績のあった政治家兼歴史家エウセビウスが、その驚くべき人物の名だ。かれは各国の年代記を読み返し、それを年代順に揃えて、初めて〈世界史〉という時間的測定を完成させた。各国それぞれの計時法に従って記《しる》された年代記の尺度を揃えようと考えたのは、たとえばプラトンの友人ティマエオスなどがいるけれど、かれは四年ごとに開かれるオリンピックを時間枠の尺度に使った。エウセビウスはそれをさらに拡大して、ローマで用いられた暦法による年号に合わせて各国の年を再計算≠キる方法をとった。この方法は、時間概念の歴史を辿った奇妙な労作『時間の発見』(一九六五)のなかでスティーヴン・トウルミンとジューン・グッドフィールドが言うところによると、「十四世紀後に、アイザック・ニュートンが『古代王国史改訂』を書いたときにも」用いられたものだ。そしてこの読み返し作業こそ、人間に真の歴史を教え、過去を発見させる最も大きな力のひとつとなった。いずれにもせよ、年代記は読み返されるまで、「現在」という瓦礫の積みかさねでしかなかったわけだ。
こうして点[#「点」はゴシック体]としての現在を記述してきた年代記が、読み返しという作業を通じて線[#「線」はゴシック体]に変身したとき、それが未来へと――さらには別世界へと伸びてゆく次の線に変わるのは、もはや時間の問題でしかない。そして、未来と別世界の年代記を記述する役目は、最終的に二十世紀のファンタジー作家に課せられることになる。
そうして見ると、記憶のために生きたダンセイニのカナザール王は、最後までギリシア的であり、埃に埋もれる年代記を嫌って琴の記憶[#「琴の記憶」に傍点]に「永遠」を託したがゆえに個人[#「個人」に傍点]であり得た、と理解できる。ダンセイニの物語は、だから英雄の物語であり得たのだ、と。けれど、長ながとお喋りしてきた「年代記記述者」の二十世紀における末裔たちは、ついに英雄を放棄してしまった。かれらには、個人など必要もない。かれらが描くのは、個人を超えた時間の測量であり超[#「超」に傍点]記憶的な歴史なのだから。そしてその証拠に、ダンセイニの寓話に代わってこれから現われる現代の年代記には、もはや個人名など記されもしない――
☆H・G・ウェルズ――現代の年代記記述者[#「H・G・ウェルズ――現代の年代記記述者」はゴシック体]
エウセビウスが読み返した古記録をアイザック・ニュートンが継承した地球史レベルの新しい年代記は、一九二〇年に至って「恐るべきプチブルジョワ」とレーニンが呼んだH・G・ウェルズの手にゆだねられた。第一次大戦が終わった翌年に出た『世界史大系』(藤本良造訳『世界文化史大系』新潮社)は、今となっては気恥ずかしいほど「国際連盟」的な理想論と楽天性に満ちてはいるけれど、しかしそこには歴史の測定を通じて別世界へ到達しようとする[#「別世界へ到達しようとする」に傍点]明らかな情熱があふれていた。H・G・ウェルズの産んだ『世界史大系』が、まずぼくたちに年代記の恐るべき力を思い知らせるのは、それが大衆に時間の存在を知らしめた点だ。この作品を発表するに当たって、年代記の読み返しを読者に体験させようと意気ごむH・G・ウェルズにしてみれば、アカデミックな方面からの猛反撥はなんの問題でもなかった。『世界史大系』は、伝記作家ロヴェイト・ディクスンの言うとおり、「純粋にウェルズ的な偏見とみごとな洞察力と、表面的な判断と深い知識にあふれた」世界史の展開だった。しかし、ウェルズの世界史がひそかに意図したとおり、一般大衆が人間の過去と未来を結ぶ不可思議な糸に気づいたことはまちがいなかった。かれらは年代記を読み返す作業に初めて参加して、同時に年代記のもつ戦慄すべき威力を――現在という時間断面のスクラップが有する時間感覚の生まなましさを、思い知らされたのだ。ウェルズ風世界史は一面で進化論的ではあったが、同時にブルジョワ中産階級の永久存続が単なる神話でしかないことを指摘したことでも意味をもっていた。この当時、コンプトン・マッケンジーが盛んに書きまくった生きることと愛することへのロマンチックな讃歌≠テーマとする小説――ひいては一九二五年に発表されるF・スコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャッビー』を熱狂的に迎えた大衆読者層は、圧倒的ないきおいでウェルズの『世界史大系』に殺到した。ひとつには、ウェルズの年代記が自分たちの現在を測定する巨視的な尺度を用意し得たことが理由だった。なぜなら、ウェルズは年代記を読み返して過去を測定したばかりでなく、さらにその測定結果を未来へと延長させる最も確かな「別世界到達法」を採用した最初の小説家でありファンタシストだったからだ。『世界史大系』は、まず世界と空間のはじまりを限定し、そこに時間という運動のエネルギーを流しこみながら、生物の進化と人間の進化とを跡づけていく。そしてもちろん、国際連盟を成立させ、人類の共存、未来に自信と楽観を抱いたウェルズは、「人類の偉大な未来はこれからである。われわれ人類は大胆きわまる空想も及ばぬ途方もない未来を実現させるであろう」と断言する。その後ウェルズは、かれの年代記の未来予測を実現するために、たとえば一九三〇年以降ディドロを真似て新しい百科事典の編纂を提唱して、アフターケアに努めたりもする。
しかしウェルズはやがて知る、この未来予測がかれらしいユートピア文学の新型式であった一方、結局それが甘いファンタジーでしかなかったことを――
一九二二年に『世界史大系』のサマライズ版ともいえる『世界史概観』を出版したウェルズは、かれ晩年の絶望感が、生涯の準世界創造であるべきだった薔薇色のヴィジョン『世界史大系』の予測部分[#「予測部分」はゴシック体]をまったく書き直させようとすることに、ついに抗し得なくなるのだ。一九四六年に出た『概観』の再版は「……人間精神はなおも活動的であるが、それは終末と死とを追求し、その策を練っているのである。……著者は……この世界を、回復力のない、疲れ切ったものと見る」(長谷部文雄訳)として締めくくられる。すなわちウェルズは、みずからの測定とはまるで違った別世界を、こともあろうに現実の世界[#「現実の世界」に傍点]に発見してしまったのだ。こうして、エウセビウスがはじめて発見した「年代記を読み返す」作業を通じての準世界創造は、H・G・ウェルズの手で、最初にして最大の「地球的年代記」を残したまま幕を降ろされる。そして年代記の方法は、ウェルズ以後イギリスに生まれた最大のファンタシストであるオラフ・ステープルドン(一八八六―一九五〇)によって引き継がれる――
☆オラフ・ステープルドン――未来の年代記記述者[#「オラフ・ステープルドン――未来の年代記記述者」はゴシック体]
今日、この作家は日本においてSF作家という枠のなかでしか取り扱われていない。しかしかれは、H・G・ウェルズの衣鉢を継ぐ社会科学者であり哲学者であり、なによりも未来の別世界を想像力によって測定[#「測定」に傍点]しようとした年代記記述者であった。現在ステープルドンが発表した著作のうち小説《フイクシヨン》=Aあるいはファンタジー(通念的にはSFという名で)と呼ばれるものを挙げてみると、
『最後と最初の人間』(一九三〇)
『ロンドンに来た最後の人間』(一九三二)
『オッド・ジョン』(一九三五)
『スター・メーカー』(一九三七)
『闇と光』(一九四二)
『シリウス』(一九四四)
『新世界の旧人類』(一九四四、短編)
『炎』(一九四七)
などがリストに昇ってくる。このうち、超人類の出現を描く『オッド・ジョン』(矢野徹訳、早川書房)と人間よりも利口な超犬をつくる実験の物語を人間の娘と犬との恋を挿んで物語るSF史上のマイナー・クラシック『シリウス』(中村能三訳、早川書房)とは、幸いにも邦訳で読むことができる。しかし残念なことに、これから話そうとする年代記としての未来≠ノかかわってくる作品は一編も翻訳されていない。といって、翻訳が出ないことの責任を、日本の出版社に押しつけようとは思わない。いやむしろ、早川書房のようなSF出版の大手がステープルドンの代表作として『シリウス』と『オッド・ジョン』を選びだしたのは賢明だったとさえ思える。なぜなら、翻訳された二著は、すくなくとも小説[#「小説」に傍点]であったからだ。ところが、一九三〇年当時の人類が、どんな未来を辿って滅亡に至るかを測定した『最後と最初の人間』は、あらゆる観点から見て、ノンフィクションたる『世界史大系』の事実上の続編である。さらに宇宙の発生からその消滅という宇宙誌レベルの年代記執筆に挑んだ『スター・メーカー』は、その寒々とした詩情と想像力にもかかわらず、ポオの『ユリイカ』に限りなく近いヴィジョン≠ナあり、第二次大戦中の作品『闇と光』に至っては、戦争の結果が人類の未来にとって光≠ニ出るか闇≠ニ出るかをシミュレーションの手法によって模擬演習した、一個のケース・スタディ以外のなにものでもない。したがってステープルドンの年代記は、小説と偽《いつわ》って紹介される可能性を持たない。しかしそれにもかかわらず、かれの描いた年代記は、別世界の創造と測量とをテーゼとする文学領域にとって、欠かせない対象となる。
たとえばデヴィッド・リンゼイの不可思議な神学ファンタジー『アルクトゥルスへの旅』(国書刊行会)など、奇妙きてれつな文学作品を出版することで知られたメシゥエン社から、ウィリアム・オラフ・ステープルドンは処女作『最後と最初の人間』を一九三〇年に発表した。そのときステープルドンは、人類の未来を描く方法をアメリカ的なSFから学んだのではなく、純粋に年代記≠フ問題としてH・G・ウェルズの歴史記述『世界史大系』に学んだ。当時、ようやくにして歴史≠ニいう時間的拡がりが感覚的にも大衆に理解されだしたころ、ステープルドンはウェルズとの書簡のやりとりから、ひとつの文学的成果を生みだした。地球の生成から説き起こして人類史を語り、やがて人類の果てしなき未来を讃美するところで終わる『世界史大系』に対して、ステープルドンはH・G・ウェルズの逆の方法[#「逆の方法」に傍点]を用いようと決心したのだ。つまり、一九三〇年の同時代史から歴史をスタートさせて、未来へと時間線をたどってゆく方法を。逆の方法と言ったが、むしろ継続の方法[#「継続の方法」に傍点]と言い直したほうがよいかもしれない。しかしステープルドンは、人類の未来をこの現実の世界と地つづきにしようとした点で、今世紀の最も重大なファンタジー作家のひとりといえる。事実、かれほど詳細な手作業を通じて、未来という別世界に橋をわたし、その橋をあえて渡り切った人物はいないのだ。
☆『最後と最初の人間』[#「『最後と最初の人間』」はゴシック体]
『最後と最初の人間』は、遠い未来で滅亡に瀕した最後の人類が、わたしたち現在の人間に与える書物という形で展開する。二十世紀の人類は第二次大戦の予言とも考えられるヨーロッパ大戦≠フあと一世紀後に「最初の人間」の歴史に幕を引くアングロ―フレンチ大戦を経験する。この混乱を収めるために、合衆国大統領と中国の発明家の発案でヨーロッパに会議が催される。その席で中国が原子爆弾を完成させたことを宣言しているさなかに、アメリカとイギリスのあいだで空中戦が起きてしまう。この戦いをきっかけに、アメリカを中心とする世界国家が編成され、パタゴニアという世界文化の中心地ができあがる。しかし人類の滅亡は、原爆の再使用とともにはじまり、高度な能力を備えた猿たちが、半人類を奴隷に駆って有力な対抗馬にのしあがる。しかし猿族の自滅と、新しい超人類の出現によって危機を回避した人類は、アメーバあるいはヴィールス状の火星人の侵入を受け、病巣たる火星を破壊はするものの、ヴィールスによって人類自身も衰退の道を歩きはじめる。しかし蛮性にもどった人類は、そこで新しい型の文化を生みだし、巨大な頭脳を養育できるようになる。しかし、最初のうち人類に役立っていた大頭脳は、やがて人類を支配するようになり、かれらにとって窮極の目的ともいえる知識≠求めるために、人類に代わる精神だけの新人類≠創りだしてしまう。
そのころ、地球に接近しつつあった月がついに地球の表面にぶつかり、その一部を破壊するという大事件が起き、人類はすべて金星に移住せざるを得なくなる。こうして現在型の人類は完全に宇宙から姿を消し、いっぽう金星に移った一族からは翼をもつ人類が発生する。しかしこの金星も棄て去るときがやってきた。ガス状星体と衝突した太陽が超星《ノヴア》となることから、人類は太陽系さいはての星冥王星へと遁れるのだ。
冥王星では、ひとときユートピア社会が築かれるが、あるとき太陽に異変が起き、その燃焼が急激に倍加され、熱波が太陽系全てを包みこんだ。人類はなす術もなく滅亡を待つが、せめてもの救いを残すべく無数の人工的人間胞子[#「人間胞子」に傍点]を外宇宙へ打ち上げる――
こうして、現在の人類から遠くへだたること二、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇年後に最後の人間≠ヘ長かった人類史とともに滅亡する。滅亡のまぎわにあって、人類は誤解と憎しみと絶望のさなかに最後の獣性を剥きだしにする。しかし最後の人間≠フうちでも最も遅く生まれた――したがって最も完璧≠ノ近づいた――世代は、穏かさと心の平静をけっして失わなかった。オラフ・ステープルドンは、悲しみに満ちた『最後と最初の人間』の終章で、この最後の世代に限りない信頼感を寄せながら、最も若い「最後の人間」の説くやすらぎ[#「やすらぎ」に傍点]に満ちた言葉を締めくくりに引用している――
「星々は偉大だ。星々にくらべれば、人間なぞ何ほどのこともない。しかし人間は、星が生み星が滅ぼす一個の美しい魂なのだ。かれは、かれら明るく輝く盲目の相棒たちよりも偉大だ。なぜといって、たしかに星々には測りがたい可能性が潜んではいるが、人間には小さいけれど現実[#「現実」に傍点]の成就が存在しているからだ。人間は一見すると、あっという間に滅びてしまうようにみえる。しかしかれが滅んでも、無には帰さない。まるで最初から人間など存在しなかったような状態に還るのではない。なぜならかれは、万物の永遠なる形において永遠に美≠ナあるからだ」
ステープルドンは、最後の人類のそうした冷ややかな辞世までを、まったく素朴な筆致で描き尽くしてしまう。そこでは、あらゆる小説の主人公である個人≠ネど、まるで無視される。出てくる者といえば、アメリカ人や中国人やイギリス人、果ては最初の人間≠竍十二段階めの人間≠ニいった高レベルの主人公たちばかりなのだ。そして、この未来年代記は、ウェルズが『世界史概観』(長谷部文雄・阿部知二訳、岩波新書)の第三版に記した絶望の未来よりも、ある点において一層絶望的な測量結果を叩きつける。
☆星を創る存在――創造のタイム・スケール[#「星を創る存在――創造のタイム・スケール」はゴシック体]
こうしてステープルドンの別世界は、年代記の第二作『スター・メーカー』においてさらに拡大する。ここでは宇宙の発生から滅亡までが[#「宇宙の発生から滅亡までが」に傍点]、年代記の対象になる[#「年代記の対象になる」に傍点]! 今回のタイム・スケールは五〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇年を一|宇宙紀《コズミカル・タイム》と数えて十年分に相当する、ほとんど想像不能な拡がりをカバーするのだ。しかしこの厖大な時間量は、いくら未来を模擬演習《シミユレーシヨン》する年代記の機能的勝利を裏付けするとはいえ、もはや、わたしたちの三次元感覚で捉えきれる代物《しろもの》ではない。そこでこの未来年代記の作家は図表による時間の測定表を用意するのだが、とにかくこの途方もない時間《タイム》スケールを見ていただこう。
[#タイムスケール(タイムスケール.jpg)]
この図はステープルドンが作品の付録として巻末に付したいくつかのテーブルのうちのひとつだ。時の経過としては、〈第一宇宙《フアースト・コズモス》〉からはじまって時計の針と同じ回りかたで一回転し、〈窮極宇宙《アルテイミト・コズモス》〉へ辿り着くまでを一望できるように描かれてある。この運行表は、言うまでもなく〈|星を創る存在《スター・メーカー》〉が宇宙創造の作業をつづけるための全体的な手続きを示すわけだが、円内に放射状に出ている目盛りは、作者創案になる「一|宇宙紀《コズミカル・タイム》」を表現している。ただし、〈星を創る存在〉が目盛りの時点おのおのにおいて、目標とする〈窮極宇宙〉完成へどの程度まで迫ったかを表わす目安は、その目盛りの長さ[#「目盛りの長さ」に傍点]ということになる。つまり〈窮極宇宙〉達成の段階でコズミカル・タイムの指針は中心にある〈永遠の視点〉と交わる仕掛けだ。例を現人類の宇宙(n次宇宙)にとれば、〈窮極宇宙〉への達成度は現在ほぼ1/3ということになる。ちなみに〈永遠の視点〉は、スター・メーカーが存在としての能力の極致に達し、そこで得た永遠性の極大値を示すと考えられる。いずれにしても、わが人類とわが宇宙は若い。ステープルドンによれば、n次宇宙は長かった一連の「未成熟創造期《インメチユア・クリエテング》」をようやく脱して、「成熟創造期」の入口に辿り着いたばかりのところだという。この先人類は土星で滅亡に瀕することになるが、『スター・メーカー』ではさらに人類から発した超存在が太陽系を跳び出し、人工惑星を建設し、やがて星間、世界間大戦を経て宇宙精神の最初の発顕を見るところまで進むが、ここから宇宙の衰退がはじまり、生命の至高の姿を誇った宇宙精神も崩壊し、次に最初の銀河系の死滅が起こる。このとき、星雲期――活性星体《リビング・スター》期とつづいてきた宇宙には、譬えようもない変化が惹き起こされる。銀河という銀河が死に絶え、やがて最後の銀河が死滅して、ステープルドンの言う「宇宙紀《コズミカル・タイム》」はたった一目盛り先に進むのだ!
なるほど、宇宙の発生から終末までを神秘学的に捉えて論じたH・P・ブラバツキーやルドルフ・シュタイナーらの書物は、人間の想像力を麻痺させるほど厖大な時間感覚をぼくたちに浴びせかけるけれど、ソクラテスが恐怖したあの年代記[#「あの年代記」に傍点]の手法を通じて同じ成果を得た作家ということになれば、おそらくステープルドンその人を嚆矢《こうし》とせざるを得ないだろう。『スター・メーカー』にあっては、種々の星に発生するなんとも不可思議な知性生物の歴史が果てしなく語られる。そして、この宇宙的規模の博物誌を見聞きするのは、夢の力を借りて時間線のなかに投射された現代人なのだ。ここでは星々でさえ生きている。生物としての意味と存在意義とが与えられている。たとえば太陽は、果てしなき全体≠ニの調和をはかろうとする太陽系に寄生する夾雑物を破壊するために、あの聖なる炎を燃えたたせるのだ。星を生命として扱う手法に依った『スター・メーカー』は、こうしてウィリアム・ブレークやヤーコプ・ベーメの作品がそう呼ばれるのと同じ意味でヴィジョン≠ニ名づけ得る壮大な宇宙誌となる。この作品はかれの年代記のなかで最も神秘的な美をたたえているけれども、依然として通常のロマンスとして読むことはまったく望めない。
☆歴史の展開――シミュレーションとしての年代記[#「歴史の展開――シミュレーションとしての年代記」はゴシック体]
さらに、人類の未来を予測値として構成した『闇と光』に至ると、オラフ・ステープルドンの文章は、もはやコンピュータの弾きだすシミュレーションの報告書と変わらない冷たさに覆いつくされる。ステープルドンはその作品のなかで、アメリカ的民主主義勢力が勝つかドイツ全体主義の勝利となるかを最初の選択点として、歴史が闇≠ノ進んだ場合と光≠ノ進んだ場合とを平行して書き分ける。といって、光≠ノ進んだ歴史がかならずしも人間を理想世界に誘うものではない。わたしたち日本人にとって悲劇なのは、闇≠ノ進んだ歴史が、最初の血祭りにあげる不幸な民族こそ日本人だという点なのだ。ステープルドンに言わせれば、闇≠フ歴史に突入した日本は、資源を持たぬ悲しさから飢餓状態におちいり、ついに革命が起こるという。しかし不幸なことに、日本の革命は政治や哲学レベルのそれではなく、単純に物資欠乏の故であったとする事実だろう。こうして最後には、中国が暗黙のうちに日本の支配者となる。
『闇と光』にあっては、ステープルドンの眼目が危機脱出≠フ方法を模索することにあったのはほぼ間違いない。その意味で、この作品は従来なかった「もし……ならば……こうなる」という仮定法を、物語展開の本道としている。
いずれにもせよ、宇宙的レベルに達したこれらの年代記が、未来という別世界に橋を架けようという英雄的な着想によって書かれた以上、これを単純にSF小説とかファンタジー小説として訳出することは、困難というよりも苦痛[#「苦痛」に傍点]にちがいない。それゆえに、オラフ・ステープルドンという途轍もない年代記制作者が創りあげた別世界は、しばらくわたしたちの眼の前に現われることなどないだろう。けれど、ステープルドンにとってかれの別世界が人びとの手に引きわたされないことは、不幸ではない。なぜなら、わたしたちはソクラテスやピュタゴラスのように、真の年代記[#「真の年代記」に傍点]が書かれるのを恐れているのだから。わたしたちはまだ、未来の年代記を表面切って読み返しはじめるほど心の準備を終えていない。口ごもられた知識たる神話と、年代記のおぼろな記憶である伝承のなかで、愛らしく優しいけれど真の別世界とは言い得ない[#「真の別世界とは言い得ない」に傍点]「世界の卵」を創ることに、手いっぱいでいるのだから――
[#改ページ]
Z ロマンスの誕生
[#改ページ]
[#この行4字下げ] ――ところで、どうして女たちが魔法なんか使うかって? そりゃ決まってるさ。どんな銀行の鍵も、どんなベッドルーム[#「どんなベッドルーム」に傍点]の鍵も、ちゃんと開けられるようにさ。
[#地付き]ジェイムズ・ブランチ・キャベル『イヴたちのこと』
☆ファンタジーの先祖たち[#「ファンタジーの先祖たち」はゴシック体]
ファンタジーについての小さな歴史をまとめようとする人には、ときにふと手を休め、『ルバイヤート』の作者、遠い十一世紀のペルシャ人ウマル・ハイヤームの逸話を読んでみる「気散じ」を薦めたい。今日では、朝から晩までブドウ酒|耽《びた》りの生活を送った刹那主義的な詩人としてしか知られていないハイヤームは、しかし、中世最大の数学者のひとりだったし、また天文学の大家でもあった。そのかれが、ある日|君主《サルタン》から「イスラムの暦を改正せよ」と命令を受け、一〇七九年にジャラーリー暦というものの草案をつくったことがある。その暦というのは、三七七〇年ごとに一日だけ日数の少ない年を加えて、現在わたしたちが使っている暦よりもさらに誤差をすくなくした、恐ろしいほど精密な暦だ。ところがハイヤームは、これだけのすぐれた草案を用意しながら、君主《サルタン》に対して、従来のマホメット暦を即刻あらためろとは言わなかった。この世では、たとえ、どんな不正確な暦を使ったところで、毎朝昇ってくる太陽の数を数えそこなう危険性はない。詩人であるハイヤームが時の測定法なんかにわざわざ取り組んだ理由は、「時間というものをより完璧に表現[#「より完璧に表現」に傍点]したかった」からに違いないのだ。ただそれだけ――だからこそ、ハイヤームはその草案の実施に執心しなかった。ましてハイヤームのような天才でもなんでもない人間が、今、ファンタジーの歴史を語ろうとしているのだ。これは単に、ファンタジーを時間的な流れのなかで捉えるための、使いにくくて不器用な暦と考えてもらえればそれでいい。そしてもちろん、この説を押し通そうという気もない、ハイヤームのように。
ところで、『指輪物語』や『ウロボロス』や『最後と最初の人間』といった、いわば完成期のファンタジーに目を通してきたわたしたちは、ここで視点を過去にもどして、本格的文芸作品としての古典が果たしてきたファンタジーへの貢献について一瞥することになる。説明を容易にするために、まず次のようなプログラムを用意してみよう。
@ 中世     ――― ロマンス
A 文芸復興期  ――― 旅行、航海譚
B 近世     ――― 東洋小説《エキゾチツク・ストーリーズ》
問題をファンタジーに限定してしまえば、こうして三つのカテゴリーを追ってみることで、この分野の小説が共通に所有する過去の遺産をだいたい眺め切ることができるはずだ。ここでは、小説出版の形式が現在とほぼ同様なパターンを取る十八世紀に至るまでの、ファンタジー文学が描きあげた軌跡について、やや退屈な考察をすすめていきたい。
☆中世は秋だったのか?[#「中世は秋だったのか?」はゴシック体]
二十世紀のファンタジー作家がみずからの準世界創造に当たって、まず第一にかれらの基本モデルとして選びだしたのは、中世ヨーロッパで完成期をむかえたいくつかのロマンスだった。ロマンスとは、スペインやイタリアやフランスといったラテン系言語(ローマ風な言葉)で書かれたことに由来する。中世の代表的な大衆文芸で、日本人であるぼくたちにはちょっと信じ難いのだけれど、西欧人にとってはギリシア・ローマ神話よりもずっと親密な文芸形態だと言われている。日本語では単に「物語」などと訳されるとおり、アレクサンドロス大王のような超人的英雄を主人公にした冒険物語を内容としており、生いたちから晩年までを年代記風に語っているのが特徴だ。
たとえば十三世紀ごろ成立したと思われる『ガウラ国のアマディス』という作品では、雪よりもまっ白な大宮殿と、そこに繰りひろげられる魔術師や無頼漢を相手とした超人王の冒険がテーマになっている。ガウラ国王の息子アマディスは、とある理由から、生まれ落ちたとたん城を追われ、スコットランド人の騎士に育てられるが、成長して英国一の英雄となり、美しいオリアナ姫と恋に落ちる。ところが善と悪の力に支配されるかれは、出生の秘密を知り、故郷の王国へ帰り着くための危険な旅に出、ついに悪をほろぼしオリアナ姫とともに王位を奪回する――といった筋の物語だ。『ガウラ国のアマディス』は、その後のアマディス家についても無数のエピソードを加えており、全巻にすると『指輪物語』の七倍にも達する。しかしこの物語のパターンは中世ヨーロッパの大衆をよほど魅了したとみえて、十六世紀までには『英国のパルメラン』、『ギリシャのベリアヌス』、『森のパルテノペクス』といった模作が大量に出現することになった。また、セルバンテスの『ドン・キホーテ』第一巻六章を開いてみると、例のラ・マンチャの男が所蔵していた大量の書物が「無価値な書類ばかりだ」と非難されて燃やされる場面がでてくるけれど、そのとき村の知識人が「これだけは役に立つ」といって焚書をまぬがれる三冊の書物のなかに、ちゃんと『アマディス』が含まれている。
ほかに有名なロマンスとしては、ロドヴィコ・アリオストという十五世紀のイタリア人が書いた詩譚『狂えるオルランド』がある。物語は、キャセイ皇帝の娘アンジェリカに心を奪われたオルランドが、彼女の魔力に負けて正気を失うところからはじまり、そのオルランドを魔手から救おうとする英雄アストロフォが、グリフィンを駆って月へ昇ったり、アフリカの奥地に迷いこんだりするスリリングな筋立てになっている。ここには『アーサー王伝説』や『ローランの歌』といった口誦文学時代の名残りをとどめた古典も、活きいきと息づいている。ちなみにこれらのロマンスは、文芸の大衆化という意味からも注目に値する。ヨーロッパではつい最近まで、文学という概念は詩を示すものであって小説は含まれないという立場があった。スペインの悪漢小説《ピカレスク》やこれらロマンスは、要するに単なる文芸に過ぎなかったわけだが、その代わりアカデミズムに媚びる必要がまるでないという利点はあった。ロマンスが当時の人間の自由奔放な想像力を解放できたことは、やがて十八世紀以降にやってくる小説の時代への、大きな足がかりとなったことを憶えておこう。
☆ルネサンスとその時代精神[#「ルネサンスとその時代精神」はゴシック体]
ロマンスの時代が、やがて冒険への欲求を人びとの心に吹きこみはじめると、世界はマルコ・ポーロやヴァスコ・ダ・ガマがやったような幻想的な大旅行、大航海にあこがれるようになった。そして時代は、すでに科学の大発展と地理上の発見ブームに湧く新世紀に突入しており、文芸の面でもいくつかの空想旅行が発表されだしていた。しかしこれら幻想航海譚に関しては、すでに十四世紀に『ジャン・ド・マンドヴィル卿航海記』というすばらしい見本があって、マンドヴィル卿が訪れたという数々の珍妙な土地や動植物を描いた木版画も、巷間《こうかん》には流布していた。見知らぬ東洋や遠い北極の海に住む怪物たちを紹介したカンタンプレ『万象論』なども、海洋に対するある種の幻想的なあこがれを人びとに抱かせる力となっていたことも指摘しておこう。そしてこの時代精神は、『ガリヴァー旅行記』や『ロビンソン・クルーソー漂流記』などを代表とする英国の "Voyage Imaginaire"(幻想航海譚)への遠い伏線となるが、わたしたちはこれらフィクションとしての幻想航海譚の真の開花[#「真の開花」はゴシック体]を十八世紀に見つけることができる。たとえば英国の旅行家トマス・アストレイの編纂本『航海陸行奇聞集成』(一七四五―四七)には、アフリカをはじめとした未知の土地に関する虚実取りまぜた情報が満載されており、当時としては大きなセンセーションを巻き起こしたといわれる。それに関連して、ここでぜひとも紹介しておきたいのは、チェスターの大司教で数学者でもあり、例の世界語考案や「ロイヤル・ソサエティ」の運動に加わったジョン・ウィルキンズをモデルにした、すさまじいばかりの幻想航海譚『ピーター・ウィルキンズ』(一七四九)だ。この作品はロバート・パルトックという英国の小説家が書いたものだが、デフォーやスウィフトの諷刺編を跳び越した、なんとも不可思議な物語だ。主人公ピーター・ウィルキンズは南極付近で難破にあい、地下の大洞窟に吸いこまれたあげく、なにやら新世界とおぼしい土地に辿り着く。かれはそこで「空を飛ぶ種族」に出喰わすが、この種族は高度の文明を持ち、しかも内戦の最中だった。ところが、かれらの種族は「内戦のさなかに不思議な人物がやって来る」という伝説を信じていたために、ウィルキンズを王にまつりあげてしまう。いっぽうウィルキンズは、この新しいエデンの園で、純真だった「空飛ぶ種族」にヨーロッパ文明の危険な知識をさずけ、みずから悪魔の蛇の役割を果たすようになる――というのが粗筋だが、この新しいエデンの設定は、真の意味で準世界構築[#「準世界構築」はゴシック体]という機能を果たすと考えていいだろう。
『ピーター・ウィルキンズ』という忘れ去られた奇著の存在は、ファンタジーを探究するぼくたちにとって新鮮な刺激となり得るにちがいない。
☆近世と異国趣味の文芸[#「近世と異国趣味の文芸」はゴシック体]
こうしてファンタジー文学の底流を「ロマンス」と「幻想航海譚」のなかに探っていくと、最後は東洋趣味の文芸を採りあげるところまできてしまう。そして、この面における最大のインパクトは、いうまでもなく『千夜一夜物語《アラビアンナイト》』の登場にはじまる。この奇著がフランスで翻訳されたのは一七〇四年から一七年にかけてだが、訳者アントワーヌ・ガランが原典のほぼ四分の一を自由勝手に翻案したにもかかわらず、そのインパクトはすさまじいばかりだった。この一作の大成功を契機として、以後ヨーロッパのあちこちで『トルコの物語』(一七〇八)や『ペルシャの物語』(一七一四)など、異国情緒にあふれる東洋の物語が続々と出版される。この時代は、一般大衆がスリリングでエキゾチックな読み物をもとめたという以外に、ヨーロッパそのものの行き詰まりから来る〈やり切れなさ〉の反動が暗い影を投げかけているときでもあった。真の近代を告げる革命の火も、まだ燃えあがってはいなかったのだ。こうした雰囲気のもとで、ヨーロッパは東洋趣味に淫した一世の奇作『ヴァテック』を世に送りだす。地上の覇権をもとめるあまり、悪魔とすら手を結んだ怪人物ヴァテックの行動を、絢爛たるオリエンタリズムのなかで描きつくしたこの作品は、邪悪なものの跳梁する地獄の光景を目のあたりに見せつける、真の〈離れ技《わざ》〉といってよい。
準世界創造をその主要目標とするファンタジーは、以上のような形式をとりながら十八世紀後半へとなだれこんで行った。しかしファンタジーに特有な自閉的空間の成立は、ある意味で、この時期にもう完成していたともいえる。中世ロマンスの年代記を一歩押しすすめれば、そこはもう『指輪物語』に見る戦闘と探索の物語領域なのだし、幻想の航海をほんのすこし天空に向ければ、そこには月や水星やアルクトゥルス星への飛行がぼくたちを待っているからだ。残された仕事といえば、こうした自閉的空間にふさわしい住民を見つけてくることしかない。
そしてその仕事は、妖精や小人や神獣たちとごく近《ちか》しい間柄にあるケルト人やチュートン人など「野蛮な」民族のイマジネーションが、やがて引き受けることになるだろう。ただし、それから後の話は改めて次章で採りあげたい。
☆ジェイムズ・ブランチ・キャベルの〈マニュエル年代記〉[#「ジェイムズ・ブランチ・キャベルの〈マニュエル年代記〉」はゴシック体]
ところで、ここに紹介したような古典的著作にだれよりも深く親しみ、また、それを現代に復活させた作家のことを最後に触れておかなくてはならない。遍歴と冒険と、それから探索の悲しみとを、まったく古典的な枠組みのなかで再構成することに成功したこの作家は、ファンタジーの分野においておそらく最も巨大な足跡を残した人物だろう。かれが残した二十数冊におよぶファンタジーは、俗に〈マニュエル年代記〉と総称されるひとつの厖大な準世界[#「ひとつの厖大な準世界」に傍点]を創りあげる。ざっと数えただけで長編(ほとんどが二百ページ以上)が十三、短編集が四、詩集一、評論集二、それに一冊の年代記までが付くというこのシリーズは、数量に関するかぎり『指輪物語』や『ゴーメンガスト』三部作を軽く一蹴してしまうのだ。そして作者の名はジェイムズ・ブランチ・キャベル(一八七九―一九五八)、アメリカ作家のうちでも飛びきり特異な物語を紡ぎあげた人物だ。
キャベルが描く無数のファンタジーは、「美を生み、秩序を維持するのも、また逆に美と秩序をともにぶちこわすのも、女の知性[#「女の知性」に傍点]を通じてである」という確固とした女系社会風論理につらぬかれている点で、中世以来の騎士道ロマンスにきわめて近しい。そのためか、キャベルの作品はどれも同じ構成によって筋が運ばれる。かれ自身の言葉にしたがえば、
第一幕は〈満足〉が存在する場所を想い描くこと。
そして第二幕は、その場所へ辿り着こうとする努力。
最後の第三幕は輝かしい目的地を目前に挫折すること。
といった展開がそれだ。事実かれの全作品は構成的にこのパターンを踏んでいる。たとえば、かれの傑作のひとつ『イヴについてのこと』は、ジェラルド・マスグレイブという文筆を職とするアメリカ人が、重荷なだけの肉体をサラリと棄てて、アンタンという理想の王国をめざすという物語。アンタンへの道は名にしおう〈女が出没する道〉で、ジェラルドは何人もの美女に誘惑されるが、欲望をすべて振り切り王国まであと一歩のところまで辿り着く。
ところがジェラルドはそこで、なんともつまらない一人の女から〈バラ色のメガネ〉をかけさせられたとたん、彼女といっしょに過ごす小さくて平凡な生活が真のバラ色[#「真のバラ色」はゴシック体]に見えてしまい、ついにアンタンへの道を棄ててしまう。それでも昔の情熱を棄てきれないかれは、息子に探索を継がせることにする。しかしアンタンをめざす息子の前で、理想の王国はとつぜん火に包まれ、もろくも崩れ去ってしまう――そして、この皮肉なクライマックスを締めくくる最後の場面で「アンタンへ行けなくとも、あなたは満足?」と問われたジェラルドが、こっくり頷くと、妻のマヤが「じゃ、わたしの仕事は終わり。さあ、このメガネをまた別の男にかけてあげなくっちゃ」とつぶやく個所は、真のアレゴリーとなって胸をうつ。
いっぽう、もうひとつの傑作『夢想の秘密』(杉山洋子訳、国書刊行会)では、空想と現実のはざまに揺れる男女の愛がシンボリックに描かれている。主人公ケンナストンは、かれが庭で拾った破れた封印の力によって、幻の世界でエタアル夫人という理想の女性にめぐりあう。けれどかれは、その幻がこわれることを恐れて彼女に指一本触れようとしない。ところが、かれの妻キャズリーンのほうもやはり不思議な封印の半分を持っており、同じように幻の世界でホーベンダイルという理想の男性と逢瀬を重ねている。
二人は現実と非現実の世界で同じように二重生活を送りながら、最後まで完璧な合体《がつたい》を達成することができない。まぼろしの世界でケンナストンとエタアルは玄関口に立ちながら、かれらをギロチン台へ運ぶ囚人馬車を待っている――
面白いことに、理想の王国をめざす男と、その男を現世の小さな日常に閉じこめてしまう女との、宿命的な出会いを描きつづけたJ・B・キャベルを最初に愛した日本人は、あのニヒリスト辻潤なのだ。辻には『ぼうふら以前』という翻訳小品集があって、そこにキャベルを二編ほど収めている。そのことを知ったぼくは、意外な人物がキャベルを愛好していた事実を前に、しばらく目をしばたたいたものだ。たぶん辻潤は、日本ではじめてキャベルを訳した人物だと思う。そう考えて、辻の『ぼうふら以前』や『螺旋道』といった翻訳集を読んでいったら、かれが宇宙的虚無感にあふれた何人かの作家――たとえばハネカアとかカッサースなど――をちゃんと訳出しているのにぶつかって、唖然となった。しかも、どこかのあと書きで、辻みずからがキャベルの『夢想の秘密』を完訳しようと企てたらしいことまで知らされた。すくなくともキャベルについて、わたしたちはなんと手ごわい先達をもっていたことだろう。
そういうわけで、筆者はキャベルの傑作をひとつどうしても紹介しなければならない羽目になった。一九一九年に〈マニュエル年代記〉の一挿話として書かれた『ジャーゲン』(寺沢芳隆訳、六興出版、一九五二)だ。この長編は「きわめて不道徳な内容と露骨なセックス描写」の故をもってワイセツ本裁判にかけられたものとして、キャベルの作品中もっとも取り沙汰された物語だが、同時にキャベル独自の辛酸《すつぱ》いアイロニーを含んだロマンスの傑作でもある。これは参考までに書いておくのだけれど、〈マニュエル年代記〉の概要は、ザッと次のようになる――キャベルによれば、この年代記は、とある家系の七世紀にわたる歴史を人物別に語っていったもので、家系の初代マニュエルにちなんで、〈マニュエル年代記〉と名づけられた。その主題は、美と秩序の回復をめざして、女どものためにすっかりこの世から消えてしまった〈真理の道〉をきわめようとするマニュエル家の男たちの雄々しい騎士生活に、おかれている。しかし華の騎士道を語る場合は、それにもっともふさわしくないアメリカ合衆国であり、そのお相手は、しばしばインディアンや東洋娘である。さらにキャベルはこの主題を教義化して、〈DOMNEI〉という奇妙な騎士道心得(ドムニは、実際に中世騎士道の典範とされた)を提唱し、その信条のなかで、「女というものは、その女を恋する男にとって、恋人[#「恋人」に傍点]という抽象的な概念と、神との、中間にある存在である。したがって、恋する男は、その相手のなかに、人間の機能と比較したうえで理解されうる神の属性[#「神の属性」に傍点]を、はっきりと認識する」ことを力説する。
ともあれ、わたしたちはJ・B・キャベルという特異なファンタジー領域のなかで、バラ色のメガネ[#「バラ色のメガネ」はゴシック体]をかけさせられた男たちのあわれな末路について、もういちど黙考してみることにしよう。たぶんその中でわたしたちは、詩人としての探索にやぶれることが[#「詩人としての探索にやぶれることが」に傍点]、平凡な人間としての探索のより大きな成功を意味する[#「平凡な人間としての探索のより大きな成功を意味する」に傍点]というキャベルの皮肉な教訓を、苦《にが》にがしく味わわされるかもしれないから――
『ジャーゲン』――物語の展開
中世とおぼしき時代、かつては初恋の人を讃美した多数の詩を書き、夢もあったジャーゲンも、今ではポアテム(マニュエル年代記の舞台になる空想の土地)なる地で、すっかり質屋稼業が身についた四十男になり下がってしまっている。かみさんは、決して美人でもなければ、悪い女でもなく、どちらかといえば料理もつくろいものもしっかりやってくれる働き者だが、お喋りなのにはほとほと閉口してしまうのだ。そんな日常生活に、いつしかジャーゲンの詩心も失われかけている。
そんなある日、ジャーゲンは情熱に燃えていた青春時代のことをふと思いだし、胸を熱くする。そのむかし、正義や人生の意味を求めて放浪した記憶が蘇ると、かれはいつしか、失われた青春時代を取りもどしたいという欲望に駆られはじめる。そして、かれが心から希《ねが》った〈青春時代〉への帰還は、ひょんなことから実現してしまうのだ――
ジャーゲンはその日、気まぐれにもプイと家を出てしまった女房を捜しに、しかたなく外へ出た。すると、ああリサ夫人ならば遠くで見かけましたよという知らせがたまたま耳にはいったので、質屋の店番を腕利きの番頭にまかせ、ともかくモーベンという隣り町へ出かけてみることにした。それが男らしいことだと皆から言い含められているかれにしてみれば、妻が魔法の丘と悪名高いヒースの荒野を、口もきかずに歩んでゆくそのあとを、必死で追いかけるのはむしろ良人として当然な行為だったからだ。荒野を横切ると洞窟があった。妻の言うがまま、十字架も捨てて真暗な洞の中に入ったかれは、一匹の人馬《ケンタウロス》に出会い、魔法の上着を着せてもらったうえ、驚くべきスピードで夜明けと日の出の間にある庭園へ連れて行かれる。こうしてジャーゲンは、妻の策略にはまって、一年間にもおよぶ初恋の人をもとめる旅に立つことになる。
予定されたとおり、かれはその庭園で初恋の人ドロシイに出会うが、彼女は初恋時代と変わらない若さを保っていた。けれど、かれが心の望み≠ニ呼んでたくさんの詩を捧げたあげく射とめられなかった彼女も、ジャーゲンの変わりはてた姿を理解することができず、若きジャーゲンを捜してどこかへ消えてしまう。
失意のジャーゲンは人馬《ケンタウロス》から降りて普通の馬に乗り換え、旅をはじめた。そして旅の道すがら、布地をみな漂白してしまう不思議な老婆とめぐりあい、そのゼルダ婆さんをいきがかり上ほめちぎったジャーゲンは、お礼としてりりしい若者の姿に戻してもらうことに成功する。
こうして若く立派な姿で過去に戻ったジャーゲンは、若い時の家を立ち去り、ベルガードの城にもういちどドロシイを探しに行く。折りしも城では仮装舞踏会が催されている。笑いさざめくかれらの姿も、未来の運命を知っているジャーゲンにとっては、むしろ泣くことより悲しく見えてしまう。けれどここは過去の幻の世界なのだ! 現実ではその地位と財産に負けてドロシイが心変わりをする相手となる恋敵のハイトマン・ミカエルを殺害し、ドロシイを我がものにしたとたん、すでに四十男の人生経験をもった彼の心は、ドロシイが単に、「若い男との交渉にさして用心深くない、美しい好色女」であるというありのままの姿を見抜いて、百年の恋も一瞬のうちに醒めてしまう。失望と淋しさを感じたジャーゲンは一人城を立ち去って、再び洞窟の闇の中に戻り、その奥につづく妖しい世界へと足を向ける――
初恋の娘と男らしく訣別してきたかれは、自己満足を感じながら、洞窟の奥に消えた妻を探しに出発した。いまひとたびの青春を、正義を求め、「一度はどんな飲み物でも喜んで飲んでみよう」という若者らしい好奇心を友とし、中年のしたたかさを武器として。
こうしてもはや質屋の男でも初老の男でもなくなったジャーゲンは、後にアーサー王に与えられることとなる無敵の剣カリバーンを手に入れ、誉れも高い騎士ログレアス侯に変身したり、さらに行く先ざきで、コカイン王、ユボニア王、ジャーゲン皇帝、ジャーゲン法皇などに変身しては満たされぬものを慕って放浪をつづける。その間、かれは影となって看視をつづけるゼルダの目を遁れては、ヨランデ、グネビアー女王、アナイテス女王、ヘレン女王、樹の精クロリス、吸血鬼フロリメルといった絶世の美女たちと行きずりの恋を楽しむことにもなる――
人生の意味と快楽とをともども探し求めるこのあたりの華麗な展開は、一九一九年の出版時に「不道徳だ!」として発禁となったゆえんでもあろう。そこで問題は、神聖にして卑猥な〈まく[#「まく」に傍点]破り〉の儀式を終えたコカイン国でのジャーゲンの生活を覗いてみることだ。この国の唯一のモットーが〈汝にとって良いと思われることをなすべし〉というのならば、これはきっと逆説的に面白いはずだ。そしてこの世界では、アナイテスという愛欲の女神が、かれの相手となる――
二十三章 ジャーゲン王子の欠点
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この出来事はまさに、浸礼教徒セント・ジョンの生誕した日の前夜に起こった。そしてジャーゲンはその後、習慣に従ってコカインの国に住んでいる。
アナイテス女王の宮殿では、ありとあらゆるなぐさみごとがひっきりなしにおこなわれていた。こうした遊びにはいささか通じていると自認していたジャーゲンも、自分が何も知らなかったことに驚かされたほどであった。なにしろ、アナイテスの指示のもとコカインでおこなわれたことは何でも、どんなに卑しい遊びでも、かれにちゃんと見せてくれたのだから。彼女は月にその起源がかかわり合ういかがわしい自然神話の人物であることがジャーゲンにもわかった。だからこそ、彼女はコカインを統治しているばかりか、月が潮の干満を司るところではどこでも、ひそかに生命の干満に介入していたのである。せっかく静かになっている潮を、あちこち掻き乱すのが彼女の役割だった。嫉妬深い月が、曲がったことの嫌いな陽光に対抗して彼女をけしかけるのである。つまりアナイテスと月は無二の味方同士であった。もっとも、ジャーゲンの知ることとなったかれらのこのような個人的な関係の秘密は、あまりうまくくりかえして語れるものではない。
「だけど、あなたが月をほめたたえなかったら、結果的に月をけなしたことになったんだわ。ジャーゲン王子。すくなくとも、わたしはそんなふうに聞きましたわ」と、アナイテスは言った。
「わたしが、そんなことをするはずがない。もっとも、つまらん一日を月の支配にゆだねるのは適切とは言えぬと思ったことはある。なぜなら、夜こそ月に捧げられたものだし、その夜こそ恋人たちの変わらぬ友なのだから――夜こそ、総ての生命を新鮮に生みだすものだ」
「あら、ほんとにその言い方は、どことなくもっともらしいこと」アナイテスは疑わし気に言う。
「どことなく≠ニ言うのかね? だってわたしの考え方からすれば、月はレシイ族の誰よりも、七倍も名望のあることが証明されるのさ。単なる算術的な問題だよ、女王」
「それであなたは、他のレシイ族のパンデリスたちが、みんな月にちなんで一週間のうちの一日を月曜と呼んでる日をほめなかったのね」
「そうさ」ジャーゲンはこともなげに言った。「いいかい、パンデリスのような卑しいレシイ族が月にちなんでその曜日をつけたことなんか、まるでほめるに値しないことだってわかったんだ。わたしに言わせれば、冒涜だね」すると、ジャーゲンは咳をし、流し目で自分の影を見やった。
「もっともそいつがゼルダだったら話は別だ。なにしろ、あの人には若くしてもらった恩義がある。月は良く出来たお世辞でも味わっていたほうがいいのさ」
アナイテスは活きいきとして見えた。「わたしはその説明を月に報告しておきますわ。ほんとのこというと、よくないことがあなたに起こりかねないありさまだったのよ、ジャーゲン王子。あなたの言葉が誤解されていたんですもの。でも、もうこれですっかり状況はちがってしまったわ」彼女が謎めいた言葉を言い終えた。
ジャーゲンは笑った。この謎がわかったからというわけではなく、必要があればどんな言い抜けも出来るという自信があってのことだった。
「さあ、もう少しコカイン国内を見ようじゃないか!」ジャーゲンが叫んだ。
というのもコカインでの快楽の追求におそろしく興味を引かれたジャーゲンは、ここ一週間か十日夢中になってそうした快楽の遊戯に没頭していたからだった。月の名誉が守られるだろうと報告したアナイテスは、さっそく彼を飽かさぬために惜しみない努力をはらい、二人してありとあらゆる快楽を追い求めた。
「生きとし生ける人間は、ことごとくはかない命にすぎないのですもの」と、アナイテスは言った。「明日の運命は誰にも知れない。だから、つかの間借りている肉体以外、何ひとつ確かなものはないんだわ。――にもかかわらず人間の肉体はいろいろな新奇な快楽を味わうことができるものなのですわ。このように、それからほら、こんなふうにしてね」アナイテスは言った。そして彼女はその新しい快楽のやり方を、つれあいの王子に明らかにしてみせるのだった。
ジャーゲンは、コカインの結婚式である〈まく[#「まく」に傍点]破り〉を行なったことでアナイテス女王と知らぬうちに正式に結婚させられていることに気づいた。もちろんこのコカインでは、以前のリサ夫人との関係は何ら法律に抵触するものではなかった。ここの教会はキリスト教ではなく、〈汝にとって良いと思われることをなすべし〉というのが法なのであった。
ところで、コカイン女王アナイテスは、美しく味のある、背が高くて色の黒いやせぎすの女性で、愛らしいけれどひどくせわしなかった。彼女の新しい連れあいは最初から、その熱烈さにとまどいをおぼえてはいたが、今ではそれが悩みになってきた。ジャーゲンに対してこれほど熱狂的になれるものがいるということが、本当のところでは理解できなかった。まったく不可解だ。しかも彼女がより一層愛情こまやかになるときなどは、この自然神話中の女性はかれをぎくりとさせることさえあった。というのも、このような熱中は、その快楽のあとで相手を貪り喰ってしまう雌ぐもの不快な記憶を思いださせずにはおかないからであった。
「こんなふうに愛されるというのは、実はうれしいものだ」かれは思案してみた。「だが、わたしは誰にもひいきを求めぬジャーゲンなのだ。そうはいっても、わたしだって死すべきものだ。彼女にも、公平にこのことを思いださせなくてはならん」
そしてアナイテスの嫉妬はよろこばしいものである半面、常軌を逸したところがあった。彼女は誰にでも疑いをかけ、皆がジャーゲンには気狂いじみた情熱を腹の底に抱いているので、かたときも目をはなせぬと思っていた。
それでも、彼は正直なところアナイテスが好きになった。ジャーゲンの意見はいくらか手前勝手であったが、彼女の奇行が情熱にまで高まらずにさえいてくれたら、彼女は寛大で親切な女であった。
「おまえ」と、彼は彼女に言った。「おまえは徳のある人間から離れていることが出来ないとみえるね! おまえはまっとうで素直になろうとしている人間を見つけだして来ては、そういう人たちの心を変える計画を永久に立てつづけようというんだろう。ああ、どうしてそんなことにかかずらうんだ? そんなことで懸命に苦労して、もっとましなことをやれる時間までそれに注ぎ込むほどの必要があるのかい? おまえは、自分と同様他人にも公正に、どんなことでもがまんし、おまえの好みにかかわらず複雑な人間性の内からは、ときとして尊敬に値する性質が伸びてゆきがちだ、ということを学ばなくてはいけないよ」
だが、アナイテスは彼女の使命にずっと重きを置いていたので、ただそんなことを軽率に口に出してはいけないと言葉少なに語っただけだった。「わたしは、あなたや子供たちと家庭にいた方が、ずっと仕合わせだと思うのよ」と、彼女は言った。「だけど、これがわたしの義務だと感じているの――」
「じゃあ、いったい誰に対する義務なんだい?」
「そんなふうに、いやな言い方をしないでほしいわ。ジャーゲン。それは、わたしを創りだした神、わたしのつかえる力への欠くべからざる義務だわ。でもあなたには、宗教観念がおありにならないんだから、それを考えると、ときどき息苦しくなってしまうわ」
「ああ、でもおまえ、誰がなんの目的でおまえを創ったかは実にはっきりしている。おまえのような自然神話の人物は、へそ曲がりな昔の異教徒の国民から神話時代に創られたのさ。そこでおまえは宗教上その創造主につかえている。まったくそいつは当然なことだ。だが、わたしは自分の生まれと人生の使命について確たる知識をもっていないのさ。わたしは、心が落着くほどの天賦の才をもちあわせていないのだ。わたしは、夢中でそればかり考えているわけにもいかない。それがわたしたちが直面せざるをえない事実なんだ」ジャーゲンは彼女のからだに腕をまわした。
「かわいいアナイテス、それを単にわたしのわがままなのだと考えてはいけない。わたしは多くの人間のように、徹底して道を踏み外そうと望む人間にとって絶対に必要なものを欠いたままで、この世に生まれてきてしまった。だがそれでも、おまえはわたしを愛さずにはいられなくなるだろう」 (竹上昭訳)
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こうして、ときどき図書館へ行って一人になる以外は、快楽にふけってばかりいたコカインでの甘い生活にも、やがて影がさしはじめた。言葉巧みな言語学者によって、二人の仲は裂かれてしまったのである。学者から奇妙きてれつな呪文をもらいうけたジャーゲンは、カリバーンの魔法の剣を捨てて、時間≠フ砂時計の中へと入ってゆく。そこには男なら誰でも一度は夢見るような快楽の国々があったが、かれが入りこんだ国というのは、それぞれの人間が自分の初恋の人のもっとも美化された姿として受けとれるヘレン女王の治める、リューケの国だった。そこで今度は樹の精クロリスと結ばれ楽しい日々を送るのだが、またまた持ち前の好奇心のとりこになったジャーゲンは、森に棲むものから魔法を盗み、ヘレン女王に会いにプシュードポリスの町へとやって来る。そこに初恋の人ドロシイの面影を見た彼は、思わず女王の肩に手をかけるが、その近よりがたい愛らしさのために強い自制心を発揮して、樹の精のところへもどってしまう。
やがて敵国フィリステア軍が攻め寄せて来てプシュードポリスはあえなく陥落し、樹の精は処刑され、ジャーゲンは占領軍に捕えられる。この危機にあたってかれは、才智を働かせ、ありあまる教養をドロレス女王に披瀝し、窮地を脱そうと試みるが、逆に女王から情をかけられ、それを拒否したばかりに結局地獄へ落ちる羽目となる。
地獄には、誰もが想像しているのと寸分ちがわぬ恐るべき悪魔たちがいた。だがそこでは、妻が自分を理解してくれぬとこぼす魔王サタンをはじめとして、全部の悪魔たちが、ただでさえ天国との戦争でいそがしいのに過大な責苦を要求する死者たちのうぬぼれにほとほと困りはてているのだった。しかしここでもジャーゲンは、さっそく見つけた美しい吸血鬼と結婚し、サタンたちと地獄の政治について論議を交わす間もなく、スリリングな情事にふける。
だが、地獄にもかれの探すリサ夫人はいないし、正義もない。
言語学者からもらった呪文を用いて弁舌さわやかに喋りまくったジャーゲンは、そこで法皇になりすますと天国に入りこみ、最高の待遇を受けてまんまと天国の住民に化けおおせる。かれは神に「どこにも正義は見つからず、どこにも崇拝できるものが見当たらない」と切々とうったえるが、わかったことは、神も天国も万物の造物主コシュチェイが彼の祖母の願いを入れて造ったものだということだけだった。正義も見出せず、リサ夫人もいない天国にすっかり失望したジャーゲンは、地上に拡がるヒースの荒野へと還ってくる。そこでゼルダと再会し、かれの借りた青春の安ぴかな仮装束を返したかれは、今度こそリサ夫人を見つけだせそうな予感をもって、いささかためらいながらもふたたび洞窟の中へはいりこんでいった。
洞窟の中には、〈マネージャー室――入室禁止〉と書いたドアがあり、その中には造物主コシュチェイがいた。一人仕事に追われる造物主に向かって、ジャーゲンは議論をふっかける。話をしてみると、万能だが愛と自尊心を知らぬコシュチェイは、その点でジャーゲンをうらやみ、また女房との平凡な生活が彼の詩才をすっかりだめにしたことでかれに同情して、女房を連れ去ったということが分かった。女房をなおも探しつづけるかれに驚いたコシュチェイは、もっとふさわしい女を用意してあると忠告する。そうしてコシュチェイが手を振ると、三人の美女がかれの目の前にすがたをあらわす――
四十七章 ヘレンの幻影
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そして三度目にコシュチェイが手を振った。すると白装束の金髪の女性がジャーゲンのところにやって来た。彼女は背が高く愛らしくて優しげであった。赤や白の美しさを誇る高名な美女たちとは異なり、象牙の輝きに似た美しさである。スッと筋の通った高い鼻、小さすぎぬ柔らかな口もと、しかし他人がなんと言おうとも、この女性の顔だちはジャーゲンにとって非のうちどころのないものであった。そして彼女を見つめたジャーゲンはひざまずいた。
かれは彼女の白いローブに顔を埋めると、ものも言えずに、しばしそのままにしていた。
「わが幻の女性よ」彼は言って、声をつまらせてしまった――。「あなたの中には、わたしの古き思い出をよび覚ますものがある。いまとなっては、あなたがドム・マニュエルの娘ではなく、久しき昔にレダの胸に巣をかけていた情熱の鳥だったことを信じているのです。そしてもうトロイの息子はみな、地下の世界でエーディスが保護しています。なのに、トロイの城壁は火で焼かれ、時の流れがその背の高い征服者を押し流してしまっても、あなたはなおも不運な受難者たちに、次から次へと苦痛を与えています」
そして、かれはまたもや声をつまらせてしまった。というのも、世の中がむなしく見え、まるで長い間住む者とていない館のように思われたからだった。
けれど、神々と人間の喜びであるヘレン女王は、ひとことも返答をしなかった。一度でも彼女の美しさに触れた男は、救いもなく、また救われようとも願わなかったので、喋る必要もなかったのであった。
「ああ、ああ」と、ジャーゲンは言った。「昔はフォベターの古い魔法によって、今はコシュチェイの意志によって、あなたはわたしの間近にいるのですね。なんと、ご婦人よ、これはありうべきことだろうか――感覚が何を語ろうが、こんなことはありえぬことだということを、わたしはよく知っている――あなたの完璧さの前では、わたしなど友として似つかわしくもない。心の奥底では、もはやわたしは完璧さを望んではいない。納税者であり、死すべき定めを負った魂をもつわたしたちは、しみ[#「しみ」に傍点]が衣服を古びさせてしまうように、わたしたちの生命をくいちぎってしまう、かけひきに満ちた言い逃れや、極り文句や美辞麗句を用いて生活せざるを得ないのです。無意識のうちに楽にたよってしまうように、常識にたよりきって。それこそが、内にある反抗的なもの、優れたもの、衝動的なもののことごとくを麻痺させ殺してしまうものです。だからこそあなたは、わたしのような年齢の人間のなかに機械のように時をむしばみ続けてゆくことのない者を見つけることはできないのです。というのも、この一時間のうちにも、わたしは生活のしがらみにまみれた人間にふたたびなってしまったのですから。わたしは用心深さとその場遁れだけを持ちあわせた人間になってしまいました。そうして夢すらも割引いて考えてしまうのです。それでも、わたしはいま、わたしを心地よくしてくれる書物や怠惰やへつらいや心をなぐさめるワインよりもずっとあなたを愛しています。年老いた詩人にこれ以上何が言えるでしょう? そういうわけで、わたしはあなたに立ち去って欲しいのです。あなたの美しさが、わたしには堪えがたい皮肉なのだから」
そう言いながらも彼の声にはあこがれが現われていた。なんといってもこの女性は、神々と人間の喜びであるヘレン女王なのだ。彼女は真剣かつ親しげに彼を見やっていた。彼女は、人が広げた絨緞の模様をほめるように、ジャーゲンの一挙手一投足を見つめているようだった。しかも彼女は、男がどれほど愚かで自分勝手で汚れたものになれるかということを、咎めだてもしなければことさらあげつらうこともせずに、ただ不思議に思っているようだった。
「ああ、わたしは、わたしの幻影を見捨ててしまった!」ジャーゲンは叫んだ。「わたしは見捨ててしまった。だれもがそうしなければならないことはよく承知してはいるつもりだが、やはり、とても恥ずかしい。わたしは時の手にかかって変えられてしまったのだ! 自分の幻といっしょに朝な夕な暮らすことを考えると身ぶるいしてしまう! だから、あなたを妻にすることは論外なのです」
やがてジャーゲンはふるえながら、世界の恋人であった彼女の手を唇へと持っていった。
「そういうわけだから、さよならします、ヘレン女王! ああ、ずっと以前にあなたの顔が浮気女の顔に浮かび出たのを見た! そしてときおり女性の顔にあなたの特徴を見出しては、わたしは女王にこだわりもなく嘘をついたのだ。わたしの詩はすべてばくぜんとした知識だけで、その隠れた美しさをよびおこそうとした空しい魔術だったのに、わたしはいま気がついた。ああ、わたしの全人生はあらかじめ失われていたあなたの追跡だったのだ。ヘレン女王、それは満たされぬ渇望だったのだ。だからわたしは、しばらくの間は自分の幻想にすがり、清い行ないによってあなたをたたえていたのです。なるほど、わたしの墓にはこう彫り込まれるべきでしょう。ヘレン女王はそれにふさわしき間、この地上を治めたり≠ニ。でも、そいつはずいぶん昔のことだ。
それでは、さようなら、ヘレン女王! あなたの美しさこそは、わたしにとって人生から喜びと悲しみを奪い去った盗人だった。もうこれからあなたの美を夢見ることもありますまい。わたしはもう誰を愛することも出来ない。わたしが最初にマダム・ドロシイの表情にあなたの美しさを見出した悲惨な瞬間から、わたしが愛のない男になるのを妨げてきたのが、ヘレン女王あなただったということが、わたしにもわかりました。ほかの男たちが女に与えるようなまっとうな愛をわたしに持てなくさせたものは、わたしがそのとき尻軽女の顔に見たあなたの美しさの思い出だったのだ。だからわたしは、ほかの男たちがうらやましい。ジャーゲンは何者をも愛さなかったのだから――あなたすら、いやこのジャーゲンをすら! ――心底からは。
それではさようならヘレン女王! これからはわたしも何かを求めてさがしあぐねることはしない。そのかわり、暖炉のかたわらに安逸を求め、せいぜいからだに気をつけ、必死に生き長らえようと思う。そして野望を抱かずにいるということも、あたためたワインの一杯ぐらいの価値はあろうというものだ。わたしをあきあきさせる日常のなりわい[#「なりわい」に傍点]も、わたしが格別の目標をもたずにいれば手ごわい敵になるものだ。わたしは時の手にかかって変えられてしまったのだ。わたしは用心と言い遁ればかりの人間になってしまった。それは割の合わないことだが、どうするわけにもゆかない。ヘレン女王、だからわたしは、いま涙をぬぐってあなたに別れをつげなければならない。なぜといって、わたしは自分の幻を大切にすることをおろそかにしていたのだから、もうわたしはあなたをきっぱりと拒む他ない!」
こうしてかれは白鳥の娘に別れを叫んだ。するとヘレン女王は輝く霧が通過してゆくように消えていった。だがそれはグネビアー女王や、アナイテス女王のように素早くはなかった。それでジャーゲンは、造物主の黒い紳士と二人だけになった。ジャーゲンには世の中がむなしく、まるで長い間住む者とていなかった館のように思えたのである。 (竹上昭訳)
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まるで落ち着けない厄介物の青春を、このようにして捨てたばかりのジャーゲンは、もはや「彼がリサ夫人といっしょにいらいらしながら過ごした平凡な年月に比べて、かれが女たちに熱をあげて過ごしたこの奇妙な一年の月日が、どれほど実のないものであったか」がわかってしまっていた。美女たちをにべもなく遠ざけたジャーゲンは、家路につき、いつもとなんら変わるところなく夕餉《ゆうげ》の仕度をすませた女房のところへ――新たな満足感と一抹の悔恨の情とをこもごも抱いて、何事もなかったように、居心地のいいわが家へと向かっていくのだった――
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[ 夢を開く鏡
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[#この行4字下げ]「どんな印象も」と、プルーストはいう、「二重構造であって、半分は対象のなかにおさめられ、他の半分がわれわれ自身のなかに延びてきている」
[#地付き]ジョルジュ・プーレ『人間的時間の研究』
☆世界を拡大すること[#「世界を拡大すること」はゴシック体]
ファンタジーの歴史に関する前章の展開のなかで、中世からルネサンスにかけて流行した大航海や博物誌編纂のことに、すこし触れた。文学には直接関係のないそうした業績を採り上げた理由は、ひとつには、かれら博物誌編纂者や大航海者が、身をもって未知に挑戦しようとしたこと――つまり世界を拡大しようとした情熱が、現代の準世界創造者たちの熱意と奇妙に一致するからだった。なぜならば、そのころ世界はあらゆる尺度に照らしても矮小で狭くるしかった。ギリシア文化の伝統を受けついで宇宙の美学的な把握を完成していた古典時代の人びとは、極端にいえば、各桁を独立させたアラビア数字による算術を知らなかったし、ギリシア以来のアルファベットを並べておこなう計算が扱えるのは、ふつう十進法でいう千の位《くらい》までに限られていた。たとえば、古い洋書のタイトル・ページに印刷されてあるローマ数字式表現の目次を見てみよう。それは CHAPTER XLVIII[#「CHAPTER XLVIII」はゴシック体] という具合に書いてある。訳せば第四十八章。けれどぼくたちがもし、この表現のままで章数を二倍しようと思ったら、気の遠くなるような努力がいる。なぜならこの表記の方法は、ぼくたちの慣れ親しんだ十進法表現ではないからだ。たった四十八を表わすのに、かれらは六文字必要とした。ことほど左様に当時の人びとは、エデンの園を中心とした創世記のちっぽけな世界と、スコラ哲学が聖書の記述から必死で逆算した「わずか六〇〇〇年」の地球史のなかで生活せざるを得なかったのだ。そんな時代にあって、地球の大きさとその時間的へだたりの観念を、実証によってくつがえすことは、おそらく至難の技《わざ》だったにちがいない。それは、近代幻想文学のうちファンタジー≠ニ呼ばれるひとつの方向が、地上感覚的な意味で正しく間違いないと思われていた事象を、ことごとく不定と混沌の坩堝《るつぼ》にたたきこみ、夢の時間と夢の生活とが、ともに白昼物質界の営みとパラレルに存在しうることを示した過程とよく似ている。
たとえばアレキサンドリア期の探検家ピュテオスは、当時冥府の果てと信じられていたヨーロッパ西海岸を北に向かって進む大旅行をくわだて、結果的に人類のいだく世界像を大きく拡大した人物だったが、そのかれに対する当時の評判は〈大嘘つき〉の一語に尽きた。しかしピュテオスはブリタニア島の北端はるか、驚くなかれ極地の近くまで[#「極地の近くまで」に傍点]辿り着き、極地方は一日中昼だったり夜だったりすることや、氷山やオーロラの存在を報告したばかりか、西ヨーロッパではなはだしい干潮満潮の差異が月の影響によるものだろうと推定してもいるのだ! 紀元前四世紀のこの発見は、もちろん当時の世界認識からは抹殺され、長らく忘却の彼方に押しやられていたが、考えてみるとこうした不幸な事実は、幻想的な物語群の長い埋没になんと奇妙に結びつくことだろう。
ここまで書いてきて、筆者は急に、世界の大きさとその時間的へだたりに関連した奇怪なエピソードを思いだした。たとえばルネサンス期の巨大な人文主義者エラスムスが、かれの生存時期とほとんど時間をへだてないころに、遠い東洋の果て日本でも不可思議な崇拝を受けていたと聞いたら、わたしたちはまず驚くにちがいない。しかし、この謎のような東洋と西洋のつながりは、現実に成立していたのだ。そもそもの起こりは関が原合戦のころ、豊後海峡は黒島の港に入港したオランダ船の船尾に付けられたエラスムスの木像が、商業の守護神としてとある寺に祀られた[#「とある寺に祀られた」に傍点]ことからはじまる。ひょんなことからその木像を入手した竜江院(栃木県に実在)では、大黒像によく似た帽子を被った奇怪な本尊の正体を何ひとつ知らぬまま、貨狄《かてき》尊者[#「貨狄《かてき》尊者」はゴシック体]と名づけて永らく安置していた。これがリーフデ号なるオランダ船に付いていたエラスムスの木像だとわかったのは、近代になってからの話。ちなみに、この像は、現在でも上野博物館に陳列されているはずだが、なんとも不思議な事件だ。
むろん、この奇妙なエピソードは、もののついで[#「もののついで」に傍点]に引用されたのではない。世界の拡大がこのようにして人びとの知らぬなかで押しすすめられてきたことを、実例によって示したかったのだ。そうした事実のあとづけが、やがて古代から現代にわたる世界の大きさに関する意識の発展史[#「世界の大きさに関する意識の発展史」に傍点]を書き変える力になるだろう。その証拠に、科学知識の発展史と文学芸術の流れを物質的に把握しようとつとめた先駆者のひとりジョージ・サートンも、『科学史と新ヒューマニズム』(岩波新書)のなかでシェイクスピアを採りあげ、やはり同じように、「ある古今未曾有の大詩人が、さして久しからざる以前に英国に住んでいたということ、そしてその偉大さを知る者が極めて少なかったためにその人物は明るみに出ることが出来なかったということ、これが事実である。然るにこの詩人はおのれ独りの努力によって英国の国語と英国の天分とをはるかに高い水準へ高めつつあった。彼は英国を建設しつつあった、が、英国は彼を知らなかった」(森島恒雄訳)と、世界創造者たちの悲劇を書きとめている。
☆異教の信仰とロマンス[#「異教の信仰とロマンス」はゴシック体]
こうして中世からルネサンスにかけて登場した世界創造者が、もっぱら物質の想像力にとりまぎれて世界を拡大しているあいだに、ヨーロッパには別種の思想が勢いを強めだした。神と教会への絶対服従を代償に現世での愛と幸福を保証したキリスト教によって、一時は完全に命脈を絶たれたかに見えた異端の古代宗教=神秘派の復活が、それなのだ。そして神秘派復活のたしかな証拠は、十二世紀から十三世紀に花ひらく偉大な姦淫の神話『トリスタンとイズー』や南仏|吟遊詩人《トウルバドウール》たちの語る騎士道悲恋物語――すなわちロマンスの誕生のなかに認められる。しかしわたしたちは異教信仰の復活とロマンスを結びつける前に、まず神秘派としての異教思想とキリスト教との決定的な対立の歴史を眺めてみなければならない。
この問題を論じるにあたって、一冊の偉大な書物を味方にすることができる。ドニ・ド・ルージュモンの『愛と西洋』(邦題『愛について』再一九五六、岩波書店)がそれだ。ペルシアやエジプトなどで発生した秘儀をともなった神秘宗教は、神と人間との合体という一元論をその根本原理として、現実には存在しない真の愛を求めるために肉体の死の必要性を説いた、卑俗超越の思想と考えられるのだが、いっぽうキリスト教は、神と人間が合体することを否定し、あくまでも俗界と神界の差異を強調する。その代わりキリスト教では、神秘的合体に代わって神と人間との結婚≠とりもつ教会を、仲人役として設定する。聖書はさらにキリストの逸話を引いて、「神はキリスト教と名を変えみずから現世に肉化した[#「肉化した」に傍点]」ことを教える。神秘論が真の愛を神との合一に掲げ、それを死の彼方において実現させようとするのとは裏はらに、キリスト教は生のなかで神の肉化たる隣人≠愛する方法を人びとに吹聴するのだ。こうして神との熱狂的な融合は、現実生活のなかに幸福な結婚という形で映し直されるに至る。ルージュモンは言う――「このようにして、かずかずの秘密の教義が、国教となったキリスト教によって数世紀にわたり禁じられながら、もっぱらその間に西欧において広く生きつづけることになった。またそのようにして、エロス崇拝の現世的形式である情熱恋愛は、いい加減な改宗を行なって結婚について苦しむ選ばれた人びとの精神《プシケ》を襲うこととなった」(鈴木健郎・川村克己訳)と。
しかしキリスト教の原理に言いくるめられた異教的な愛のかたちは、手の届き得ぬ永遠の存在に恋する情熱――つまりは死を一種の浄化《カタルシス》と見る神秘論を、すこしずつ甦らせていった。そして、その結果、十二世紀には、キリスト教内部でさえ結婚を蔑視する傾向が現われはじめ、やがて真実の美を「まぼろしの女性像」にもとめる悲恋への憧れが胎動しはじめた。時は十二世紀の南フランス、恋愛詩としての技巧をこらしたトゥルバドゥール(吟遊詩人)の歌が、異教的憧れをのせて、宮廷風恋愛――あるいは騎士道物語をヨーロッパ中に拡げはじめる。
こうしたロマンスの異教的な源流について、ルージュモンは次に当時活動したキリスト教の一異端派の名を挙げる。その名はカタリ派、あるときにはアルビ派とも呼ばれる。カタリ派の信仰は遠くマニ教の神秘論に源を発する異端信仰だけれども、神人合体の信念のもとに秘密結社として強く団結していた。キリスト教正統派はこの異端宗団を目の仇として、アルビジョワ十字軍によってカタリの教典をことごとく灰にしたと伝わっている。しかしカタリ派をひそかに信奉していたトゥルバドゥールたちは、その異教的愛をロマンスという形で長く後世に引き継いだらしい。ところがアンリ・ダヴァンスン『トゥルバドゥール』(新倉俊一訳、筑摩叢書)では、こうした宮廷恋愛詩をカタリ派に結びつけることは明らかにやりすぎだ、と批判されている。両方を、ニヤニヤしながら読みくらべると面白いだろう。こうして、十八世紀にはじまるゴシック・リバイバルの波が再度中世ロマンスに注目するまで、民衆は古い異教的な世界をそれとは知らずに生かしつづけたのだ。ロマンスはやがて北方民族の万霊信仰とも呼応し、シェイクスピアの時代に至ってこれら異教的宇宙を妖精物語として再燃させる下地をつくりあげる。「妖精の女王」を探索する遍歴の物語はやがて、死の彼方で永遠の存在と合体する神秘論のナイーヴな副産物となり、イギリスでその産声をあげはじめる。
☆妖精の到来[#「妖精の到来」はゴシック体]
異教宇宙の残滓《ざんし》をとどめるロマンスが南フランスで隆盛をきわめるころ、ケルト系民族の異端思想を無意識に獲得していたイギリスにも、ひとつの異教復活が文学史上に現われた。妖精の到来[#「妖精の到来」はゴシック体]だ。ベーオウルフ神話やアーサー王物語、また聖杯《グレイル》探求のロマンスといった物語がフランス以北のチュートン系民族のあいだに拡まっていったのは、ケルトの神秘な風土から生まれたアイルランドのキリスト教伝道者たちによる功績が大きかった。だからこそ、騎士道ロマンスはやがてケルト的な妖精物語とともに中世以降の文学の中心的存在となり得たのだ。かれらが崇拝していた異貌の神々は、擬人化され虚構の肉付けをされて、キリスト教伝道の英雄に焼き直されたり、また下位に存在した地神たちはコボルトやレプラコーンやエルフといった妖精に作り変えられ、聖書に同化された。妖精――Faery という単語がイングランドで使われはじめるのは、ほぼ十三世紀で、それまではたとえばアーサー王伝説に語られる美しい魔法の女王アルガンテ(傷ついたアーサー王を聖地アヴァロンの島に連れて行く女王)など、エルフ(elf) という呼び名をつけられていた。ともあれ皮肉にもキリスト教伝道とともにヨーロッパに拡散したケルト系の妖精たちは、各地でいくつかの愛らしいキャラクターを形成することになる。
十六世紀の有名な劇作家ウィリアム・シェイクスピアの作品は、こうした妖精たちの血縁関係を調べるのに最も有用な資料を提供してくれる。妖精劇『真夏の夜の夢』では、スカンジナヴィア神話に現われる小人の王をモデルにした〈オベロン〉が、妖精の国の王として描かれる。中世ロマンスによれば、イングランドを制圧したジュリアス・シーザーと魔女モルガン・ル・フェイのあいだに生まれたとされる〈オベロン〉には、特別な魔法が授けられる。『真夏の夜の夢』に現われる最も愉快な妖精パックは、アイルランドに古くから知られる、小鬼プーカが原型であって、黒い小鹿のすがたで現われ旅人を迷わすといわれるが、変身の名人で定まったスタイルを持たない。世界最初の妖精年代記作者シェイクスピアは、『真夏の夜の夢』によって地上に棲む妖精のスタイルを確立したあと、こんどは『大嵐《テンペスト》』のなかで空を飛ぶ妖精(ハーピィ)のイメージを作りあげ、やがて緑色の妖精服をまとったロビン・フッドのような逃避的自由民の伝承へ、物語をつなげていく。しかし十六世紀の妖精は、エリザベス一世の即位という重大事件によって、思いがけない役割を担わされもした。チューダー王朝の栄誉をたたえ、処女王エリザベスの覇権による英国統一事業の完成を祝うために、おそらく史上最も有名な妖精物語が生み落とされたからだ。エドマンド・スペンサーが描いた長詩『妖精女王《フエアリ・クイン》』は、アーサー王を偉大な英国王に導いた仙女王を、永遠の処女エリザベスのイメージに結びつけ、英国の不滅と栄光を歌った。歴史家がエリザベス一世を妖精女王と呼ぶのは、スペンサーの名作『妖精女王』の物語が陰のイメージを彼女に捧げたからに外ならない。(蛇足ながら、エリザベス一世とならんで第二の英国黄金時代を築きあげたヴィクトリア女王を、〈第二の妖精女王〉と呼んだのは、宰相ディズレイリだった)。
こうして英国の妖精たちは、あいだに思いもかけぬ役割を引き受けながら、十八世紀まで生き長らえる。けれどこの頃より、主として美術家の側から妖精たちに向けて新しい役割が要求されるようになる。それは、お仕着せの教養主義に圧迫されたエロティシズムの新しい担い手としての役割だった。真夜中、森のなかで白い裸体をさらして踊りまわる妖精たちの絵画が、現代風にいえばポルノ厳禁の時世に、エロティシズムのためのひそかな隠れ蓑となった。エロティシズムを精妙に表現する手立てとしての妖精画は、こうしてヴィクトリア時代に最盛期を迎え、J・オースティン・フィッツジェラルドやR・ダッドなど、精神分析学的に見ても興味津々たる不可思議な妖精画家たちを輩出する。
しかし美術における妖精たちの新しい役割は、同時に英国文学を自然なかたちで性的シンボリズムへと誘導して行く力のひとつになった。シンボリズムをいち早く文学に導入したフランスでは、こうした妖精たちの新しい魅力に魅かれたシャルル・ノディエ(一七八〇―一八四四)が『アルジールの妖精トリルビー』や『パン屑の妖精』のような洗練された妖精文学を著わしはじめる。いっぽう本場英国にあっては、ケルト民族の血が未だに色濃いアイルランドやスコットランドで〈ケルティック・ルネサンス〉と呼ばれる民族復興運動が起こり、十九世紀を中心にして古い民間伝承や妖精譚の蒐集が盛んにおこなわれるようになる。アイルランドでは、オスカー・ワイルドの母でありケルト民話の研究家だったワイルド夫人、そしてグレゴリー夫人、W・B・イエイツら、またスコットランドではフィオナ・マクラウド(本名ウィリアム・シャープ)などが運動の文芸面での先頭に立った。さらに英国本土では中世ロマンスを熱愛するラファエロ前派主義が、異教的な愛の復活を美術と詩歌の部門で高らかに宣言し、やがてあらゆる文化を、〈世紀末〉という名の新時代の夜明けをもたらす謎めいた復活の儀式[#「謎めいた復活の儀式」に傍点]へと誘いこんでいく。そして、英国伝統の妖精譚を近代文学のなかに解放する最初の作品もまた、この不可思議な儀式のなかで生まれ出たのだった……
☆マクドナルド――夢の文学[#「マクドナルド――夢の文学」はゴシック体]
近代小説としてのファンタジーに妖精のシンボリズムと異教的な愛とを導きいれた最初の人物ジョージ・マクドナルド(一八二四―一九〇五)について、語るべきことがあまりに多く持ちすぎている。なぜなら、あのウィリアム・モリスがかれの芸術の本拠地としたケルムスコット・ハウス≠ヘ、ほかならぬマクドナルドが妻や十一人の子供たちといっしょに暮らしていた家だったからだ。それだけではない、『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルは、マクドナルド家に親しく出入りする友人のひとりだったし、ラファエロ前派最大の画家エドワード・バーン・ジョーンズが妻に迎えたジョージアナは、マクドナルドの血縁者であった。もちろん、これらは運命的な暗号の一例にすぎない。世紀末以降に花開く英国象徴派のあらゆる層に確かな影響を与えたこの作家について、今日まで忘却同然の仕打ちをおこなってきたわたしたちは、ファンタジーの歴史を語るに当たって誰よりもまずマクドナルドの再評価を主張しなければならないだろう。なぜなら、かれが生んだ長編幻想小説は、カフカやロートレアモンの描いたと同じ驚くべきイメージとシンボルが乱舞する、まこと〈夢の文学〉だったからなのだ。作品について語る前に、かれの略歴をすこし書いておこう。
スコットランドに農夫の子として生まれたかれは、大学で自然哲学と化学の学位を取ったあと二十六歳まで教師を勤めた。しかし若いうちに故郷を去り、以後はロンドン近郊に出て一生を文筆に捧げた人物だ。生前に八つの童話と二つの長編幻想小説、キリスト教関係の著作十二冊などを残した。『ナルニア国物語』のC・S・ルイス、チャールズ・ウィリアムズ、W・H・オーデン、ウォルター・デ・ラ・メアなど英国幻想派の巨匠たちは、ほとんどマクドナルドの象徴詩的な作品から深い影響を受けている。
そのマクドナルドが晩年に完成した『リリス』(一八九五)は、なんとも表現のしようがない暗いシンボリズムと妖精のエロティシズムとを、万華鏡のなかで不思議な色彩の花ともども咲かせているような、恐るべき物語といっていい。おそらく、『リリス』こそは英国ファンタジーの最深淵を覗く作品として、空前であり絶後の傑作ではないだろうか? ためしに、邦訳にして八百枚近い『リリス』の頁を開いてみよう。わたしたちは突然シュルレアリスム風な世界にぶつかる――鴉である人間[#「人間」に傍点]が地中から引きぬいた芋虫は、そのまま蝶になって空を飛びまわる。誰にも読まれない書物が眠っている図書室には、棚の一列一列に無数の死体が書籍の代わりに[#「書籍の代わりに」に傍点]横たわっている。ここでは蛇が成長して鳥になる。そしてアリスが不思議な国への入口として使った鏡も、『リリス』の屋根裏部屋にもちゃんと置いてある。けれど、こうした夢の風景について何よりも重要なことは、マクドナルドの想像力が、ルイス・キャロルと同じように、本質的には自然科学や論理学や数学のそれに多くを負っているという事実だ。一列の芋虫が次つぎに蝶に変り、蛇が鳥に変身していく光景は、M・C・エッシャーが描く円環の騙《だま》し絵に似ているばかりでなく、化学薬品が化合して一瞬のうちに異物質に変わるイメージの再現といってもいい。この冷たい鉱物質の幻想に呑みこまれたら最後、ぼくたちは機械仕掛けの小宇宙を舞台にして演じられる不思議な人形劇を見つめているほかはない。そして、知識を宿す古い図書室に移り住んだ主人公が、プトレマイオスやダンテや、二人のベーコンやチャールズ・ダーウィンといった人物の著作をひもときはじめるとき、『リリス』の驚きに満ちた〈夢の生活[#「夢の生活」はゴシック体]〉は、周囲を厚い帳《とばり》で包みこむのだ。まず物語をはじめよう――
☆『リリス』――夢を開く鏡[#「『リリス』――夢を開く鏡」はゴシック体]
物語の幕は静かに開《あ》く。ある日、ひとりの若い学生がオクスフォードを棄てて、先祖ゆかりの巨大な屋敷に移り住むことになる。その屋敷も、かれの家系も、とにかくずっと昔からつづいてきたものらしいが、かれらがすべて夢想家の生活を送った不思議な一家だということ以外、詳しいことは分からない。そこにはすばらしい蔵書量を誇る図書館があった。かれは迷路めいた棚の巡らされた図書館に心を惹かれ、古い科学や禁断の知識を論じた書物を読み耽るが、あるとき迷路のような書棚をめぐっているうち、そこでぼんやりとした人影に出喰わす。人影を追ってみると、逃げてしまって捕まえることができない。けれどその代わりに書棚の奥まった場所で秘密の扉を見つけたかれが、その扉を潜りぬけてもう一度おぼろな人影に出会うところから、次元を越えた夢の空間での冒険ははじまる……
扉を潜って、迷路のような図書館を抜け、いつか屋根裏に辿り着いたかれは、そこにあった鏡のなかに不思議を見る。うす暗い闇のなかにポッカリ浮かんだかれのそばに、その一羽の鴉《レイヴン》はやってくる。鴉《レイヴン》は現実世界と夢の空間とに関する難解な説明をしてくれたあと、「自分は鴉《レイヴン》のすがたをしているが、あちらの世界ではミスター・レイヴンと呼ばれて、おまえの祖父《おじい》さまであるアプウォード卿の下で図書館の司書として勤めていたのだ」とみずからの正体を明かす。こうして時間と空間の知識を混乱させる最初の冒険を終えたかれは、ある日、屋根裏部屋で古めかしい鏡と手記を発見する。手記は、失踪した父親がしたためたもので、かれもまた鏡の彼方に住む女王リリスを求めて、謎の司書レイヴン氏の手引きで〈むこうの世界〉へ踏みこんだことの顛末が記《しる》されてあった。そこでかれは再び書棚の扉から〈むこうの世界〉へ迷いこみ、司書レイヴン氏に異次元世界を巡るための案内を乞う。かれが迷いこんだ世界は、いわば逆説と補色の空間だった。こちら側へ来れば、祖先の図書館は墓地≠ニ呼ばれ、レイヴン氏自身も司書ではなく墓守に役目を変えるからだ。かれは暗く冷たい死体置場をまわっては、そこに安置してある眠り人[#「眠り人」に傍点](レイヴン氏は死体とは言わない)たちの世話を焼く仕事をつづけている。まるで忠実な司書が、主人の図書館に飾られた誰も読むことのない書籍を、大切に保管するように――
この辺のイメージのすさまじさを、どう伝えたらいいのだろうか? たとえば、現在アメリカで最も人気のあるファンタジー作家ピーター・S・ビーグルは、処女長編『心地よく秘密めいたところ』(月刊ペン社)のなかで、死体を番する老人と鴉の物語を描いているが、そんな新しい想像力の発端もおそらく『リリス』から出ているのではないだろうか。とにかくこのようにして、物語は本筋にさしかかる。祖父が〈邪悪の森〉というところで未だに死と闘っており、父もまたリリスの後を追っていることを知らされたかれは、自分もこの謎の世界を旅して、眠りと死の意味を解きあかそうと決心する。そうだ、宇宙と人間と運命にまつわるダンテ的な愛の本質を。そこでかれは、ブリカという土地に住む残酷きわまりない女王が謎を解く鍵を与えてくれることを小人から聞いて、〈邪悪の森〉や死や魔女や飢えが待ちうけている長い道へ、あえて足を踏みいれる。かれの周囲には、動物とも人間ともつかない女性が付きまとい、小人たちや骸骨の群れが入れ替わり立ちかわり現われて奇妙なエピソードを置きざりにしていく。ただし、旅の様子をひと口で片付けてしまったのでは、マクドナルド文学の本質なぞとても語り切れやしない。小人のもとで長居しすぎたかれは、小人をいじめる巨人を野放しにしたまま、水のかれた川床をたどりブリカに向かう。しかし途中、森の小人たちから危険だから近寄るなと警告された魔女の家に、どうしても立ち入らなければならなくなる。しかし魔女は、ほんとうの魔女ではなく神の遣いだった。かれはそこで、終生かれの守護者となる白い豹とめぐりあう。女王リリスの飼う恐るべき手先「まだらの豹」に対抗できる心づよい味方を。
こうして魔女の家を辞したかれは、いくつかの不思議な冒険を重ねたあと、まだらの豹に襲われた婦人を救う機会にめぐりあう。子どもを抱いた彼女は、ブリカの女王が残虐である理由を「彼女にかかった古い呪文によれば、いつか生まれてくる幼な子によって彼女は生命を奪われることになっています。だから、ああやって幼児殺しをつづけているのです」と説明してくれる。しかしかれは、どうしても女王に会わなければならない。こうして運命を背負った二人は、ブリカの地でついに顔を合わせるのだが――
リリスとは、旧約聖書に語られるアダムの最初の妻リリトのことだ。しかし彼女はイヴのために夫を奪われ、悲しみのあまり悪女に変身して、人間の女を奪っては殺したと伝えられる鬼女なのだが、母と女の原像《アーキタイプ》を究明するこのなんとも不思議な物語には、相応《ふさわ》しいタイトルではないだろうか。けれども、この物語の粗筋をこれ以上語らない。こうした幻視の小説を粗筋のかたちで説明してしまうのは邪道だし、何よりも筆者自身がすでに拙《つた》ない翻訳として世に送りだしているからだ(ちくま文庫)。たぶんその本は、夢を開く鏡といっしょに、屋根裏で辛抱づよくわたしたちを待ちつづけるだろう。
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\ 世界言語とユートピア
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[#この行4字下げ]博物学は言語《ランガージユ》と同時のものだ。つまりそれは、記憶のなかの諸表象を分析し、それらの共通要素を見さだめ、そして最後に名をあたえるという、自然発生的な操作とおなじレベルに属している。博物学は、よくできた言語《ラング》、しかも普遍的な有効な言語である場合にしか、他のすべての言語から独立したものとして実在することができぬし、また実在してはならない。
[#地付き]ミシェル・フーコー『言葉と物』――分類すること
☆不思議な部屋と、その主人《あるじ》との関係について[#「不思議な部屋と、その主人《あるじ》との関係について」はゴシック体]
一六四八年のある夜、オクスフォードはウォダム・カレッジの研究室に集まった何人かの科学者は、熱い談義を交わす合い間に、この奇妙な一室の不可解な陳列品とその持ち主について小声で囁きあうのだった。この若いオクスフォード・グループは、『懐疑的化学者』を世に問うて実験化学としての錬金術の正当性を打ち破ったロバート・ボイルやウィリアム・ペティ、また建築学のクリストファー・レンらを含んでいた。しかしこの小さな集いがおこなわれたウォダムの一室それ自体ほど、かれらの科学的情熱のすべてを象徴しつくしているものはなかった。
この摩訶《まか》不思議な部屋について、オクスフォード学派のひとりで、日記作者のほまれ高いジョン・イーヴリンは空想を刺激する筆運びでこう報告している。
「かれの住まいと通廊には、いたるところ影と光の斑《ふ》と透視画にあふれ、そのほか技術と数学と魔術の珍奇な品々、距離計《ウエイワイザー》、温度計、巨大な磁石、円錐やそのほかの立体、半円の天秤が所狭しと並べてある。その大多数は、この一室の持ち主自身とあの天才的な若い学徒クリストファー・レンの製作したものだ」
しかし不思議があらわれるのはこれからだ。オクスフォード派の科学者イーヴリンはかれの日記をこうつづける――「この部屋には、ひそかに隠しこまれた長いパイプから言葉を発する、内部の空ろな人体像があり、そのほか多数の人工的で数学的な魔術の珍品が並んでいた」と。この一室の主人《あるじ》は、『数学的魔術』という著書を出版して「数学的な発明をコーネリウス・アグリッパ流に実行してみせる」ことを世に公言し、みずから自動人形《オートマタ》や潜水艦や飛行器械といった科学の奇跡を設計し、神学にかわる新しいユートピア建設のための手段を科学にもとめて、応用科学の面に力を尽くした。かれは『新世界と他惑星に関する論述』というタイトルのもと、月へ飛行するための科学的な手段を初めて検討した小説を書き、その物語を通じて大衆に科学の力をアピールした。かれが考案したもののうちで最も驚異的なのは、薔薇十字団の啓蒙運動趣意書に物語られる賢者フランシス・ロシクロスの地下墓地に光っていた永遠の小太陽(ランプ)に似た、地中で使用できる永遠のランプ[#「永遠のランプ」に傍点]だろう。
土を掘り、水中を進み、空を飛ぶ機械の発明にいち早く着手し、やがて十九世紀には近代科学文明国として名のりをあげることになる英国の、まさに技術的原動力となった英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》の発案までを手がけたこの人物の才能は、この奇怪な研究室から花開いた。それは、地球に対する月の影響が最も烈しくなる満月の日を選んで集いを催したバーミンガムの科学者グループ「ルナー・ソサエティ」のように、科学の思弁というよりも科学の応用――あるいは実践をめざしたロイヤル・ソサエティの発祥の場として、これ以上ないほどふさわしかった。そして、自動人形《オートマタ》やお喋りする彫像や地中のランプや潜水艦の模型にあふれたこの一部屋の持ち主は、後のチェスター大司教ジョン・ウィルキンズその人である。
☆ジョン・ウィルキンズの世界言語[#「ジョン・ウィルキンズの世界言語」はゴシック体]
事実、ウィルキンズが住んだウォダムの家は驚異的な発明品に満ちあふれていた。かれが「どんな場所を旅しても、自分がどのくらい歩いたかあるいは運ばれてきたかが分かる距離計」と自慢した距離計をはじめ、「時間、距離、高度、海況」を測定する独創的な計器類が、まず訪問客たちの目を惹きつけたことだろう。かれはまた、新兵器の発明にも天才的な能力を発揮した。クリストファー・レンを相棒として、かれがオクスフォードで開発を試みたのは、「現在あるいかなる要塞攻撃器械よりも遥かに早く要塞を攻め落とす方法」であり、また砂漠を走る帆を張った戦車や、潜水艦による航海術や、海水から淡水を作る方法の実践が、かれの企画書には含まれていた。いっぽうウォダムの庭へ出てみると、そこにはガラスで出来た透明な人工の蜂の巣箱が並んでいる。六角形の別世界で営まれる蜂たちの錬金術≠最初に観察したのも、かれジョン・ウィルキンズだった。かれの影響を受けて、一六五三年当時オクスフォード大学の構内は、ちょっとした養蜂場の光景を呈するに至った、とイーヴリンは報告している。そして何よりも重大なのは、内戦の傷跡が残るジョン・ウィルキンズの英国に、新しい科学と新しい宗教による人工ユートピア建設をめざす烈しい情熱の嵐が吹きあれていた点だ。フランシス・ベーコンが空想した新アトランティス[#「新アトランティス」に傍点]を現実の英国に築きあげようとしたかれらは、やがて緩やかな統合を果たし、「ロイヤル・ソサエティ」の名の下に、別世界建築を開始するのだ。そしてもちろん、文学の別世界をも。
ところでぼくたちは、このジョン・ウィルキンズが発明したもののなかで最も驚異的な発明について、まだ一度も触れようとしなかった。それは、かれに生涯の情熱を傾注させ、死期に際しても未だ未完成なその作品に「あの愛《いと》しいやつは?」とこと問わせた世界言語《ユニバーサル・ランゲージ》だ。
おそらくジョン・ウィルキンズの世界言語は、現代における二人の偉大な世界創造の文学者に巨大な影響を与えた。一人は、作品集『続・審理』(一九五二)に言語の宇宙に関するエッセー「ジョン・ウィルキンズの分析言語」を収めたホルヘ・ルイス・ボルヘス。そしてもう一人は、ボルヘスのエッセー「分析言語」を出生地として『言葉と物』を著わしたミシェル・フーコー。とはいえ、アカデミー・フランセーズ以来、思想も科学も結局は母国フランス語の拡大と純化をめざしたフランスが、ミシェル・フーコーや構造主義者たちに本書の文脈とは違う意味で世界言語を採りあげさせたのも無理はない。かれらには、博物誌も世界言語も究極においては言語学的興味を湧かせるものでしかなかったし、かれらはすべてをフランス語の純化のために費やすのだから。
☆十七世紀のユートピア運動が、どうして世界言語の問題に拘泥しなければならなかったのか?[#「十七世紀のユートピア運動が、どうして世界言語の問題に拘泥しなければならなかったのか?」はゴシック体]
そういうわけで、ジョン・ウィルキンズが博物学に決定的斬り込みをはかるのは、科学ユートピストの友愛団「ロイヤル・ソサエティ」の許で公的に発表されることになる世界言語[#「世界言語」はゴシック体]においてである。しかしその当時のイギリスは、世界共通言語に関するあらゆる努力の総本山とも言えた。ロンドンとオクスフォードを結ぶ学究サークルのどれもが、すでに使い古され垢だらけの言葉を棄て、「物」それ自身を誰が見ても理解できる「1対1」対応の記号に表現し、それを全世界に普及させて人類を精神的に結合させる仕事をこの「世界言語」に担わせる壮大な計画をめぐらしていた。その計画の源泉は、もちろんフランシス・ベーコンだが、そこには、アンドレアエの提唱する薔薇十字的世界改革の流れも交わっていた。薔薇十字的流れを代表するサミュエル・ハートリブは、一六四〇年ごろ見えない大学≠ニいうすばらしいネーミングを持つ結社を作りあげた。しかし見えない大学≠ニは、アンドレアエら薔薇十字団のマニフェストに登場する神話の巧みなパロディ――つまり賢哲の住む国はすべて透明である、という『新アトランティス』の文章を使った冗句だが、見えない≠ニいう表現がわたしたちには妙にうれしい。かれらは錬金術を通じて得た鉱物と生物と宇宙に関する知識――化学を通じて地球を変え、人間の環境を改良し、神秘を解放しようと企てていたが、言語の改善もまたかれらの大きな関心事のひとつだった。
そして一方に、世界知識と世界言語を「教育」という文脈で捉えたもう一人の別世界創造者、コメニウス一派が存在する。かれらは新しい言語によって新しい知識を正しく[#「正しく」に傍点]獲得させる教育方法の革命を目ざしていた。
そのはざまにあって、宗教と科学両面の奇妙な綱渡りを敢行する本国人ジョン・ウィルキンズは、かれ同様英国百魔のうちに当然数えあげられるべきジョゼフ・グランヴィルらとともに、世界言語の創作に捲きこまれていくのだ。
しかしウィルキンズが、無数の世界言語創造者のなかで傑出した存在にのし上がったのは、かれが最上の博物学[#「博物学」に傍点]によって言語を規定したためにちがいない。かれの世界言語が「最初の科学用語」と呼ばれて不本意な形にしても今日まで記憶されているのは(もちろん、ウィルキンズの真意は日常用語としての世界言語にあったのだが)、この博物学を手段とした命名法[#「命名法」はゴシック体]の発見に多くを負っている。
ウィルキンズの世界言語に関する著作『真の文字と哲学的言語についてのエッセー』は、最後の改訂版が一六六八年の春に刊行された。かれは単純で世界的な文字の作成を七、八千種も考えればよいと考えた。言語システムを全く異にする日本人と中国人が漢字を通じてお互いの書物を理解しあってきた事実が、かれに勇気を与えた。しかし問題は、文字の対象となる事物になんの類推作業も手つづきも介入させることなく直接的に結びついてゆく文字システムを作ることにより、対象物を秩序正しく分類することのほうにあった。そこでかれは、当時最高の博物学者ジョン・レイとフランシス・ウィラービイに動植物と鉱物の完全な分類を依頼した。そして博物学の助けを得たウィルキンズは、「神」や「世界」といった抽象的概念から魚、鳥、獣に至る事物存在を網羅したオールラウンドな分類表を作りあげた。現在手にはいる唯一のジョン・ウィルキンズ伝を著わしたバーブラ・シャピロ女史に全面的に従えば、かれの世界言語システムは四十の「類《ジーナス》」から成り、おのおのの類は三種の「変異《デイフアレンス》」と呼ばれるカテゴリに細分化される。たとえば表Tのように――
そして三つの「変異《デイフアレンス》」は、卑俗(無価値)T、通常の価値U、高価値Vに分けられる。
さらにおのおのの「変異」は下位レベルの「種《スピーシス》」に分割される。たとえばシャピロに従えば、道に転がっている卑俗な石(類8、変異Tは表Uのような「種」に分割される。
[#表1(表1.jpg)]
[#表2(表2.jpg)]
この分類を記号化すれば、たとえば砂利は8―T―8(卑俗な石――無価値――小さな石)という表現になる。実際にはこれらのカテゴリーは速記文字によく似た新しい文字で示され、その文字にはすべて発音が指定してある。したがってこの新しい文字は、書くことも話すこともできる。これが世界言語のパターンだ。
ところで現代人の目から見ると、この分類表からひとつの疑問を抱かざるを得ない。これは、いうならば動植物に二名式の学名を与える系統学としては機能するが、抽象概念の分類には不充分なところが顕われざるを得ないのではないだろうか、と。
もっとも、ウィルキンズはこの「真の文字」が一般の日常生活に広く用いられるだろうと考えるほど楽天的ではなかった。かれはまず「ロイヤル・ソサエティ」公認の看板を得ることをめざし、「少数の科学者グループのなかで少しずつ用いられていく」ことを願った。国王がウィルキンズの文字を学びたいと申し出た。ウィルキンズとウォーリスはこの文字を使って手紙のやりとりまでおこなった。しかしこの世界言語熱は、社会変化のためにやがて衰退の一途をたどり、現代では「弾圧された言語」エスペラントにわずかながら世界言語の夢の名残りをとどめている。
いずれにもせよ、世界は言語ばかりか、空間としても結ばれなければならない。新しいユートピアの建築者が、今ここに現われなければならない――
[#改ページ]
] ユートピアの経済学
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[#この行4字下げ]「すっかり申し上げてしまえば」とエディソンはまた言い出した。「静寂《しずけ》さが欲しくなりますと、私は、総ての憂いを祓ってくれるあの魔法使の女の所へ行くのです!」
[#地付き]ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』
☆産業革命の逆説[#「産業革命の逆説」はゴシック体]
十八世紀以来、経済攻勢に出たイギリスは、自然を切りひらき征服する発展の概念に拠って、冷たい功利主義的な生産革命を推し進めていたが、なんと皮肉なことに、その自然開発は逆に、人間をもう一度自然に呼び帰す結果を生んだ。
産業を動かすエネルギーとしての木材が不足すると、イギリス人は新しい燃料「石炭」に目を付け、鄙地の炭鉱と都市を運河や産業道路で結ぶ事業に着手した。そのおかげでイギリスの地表下には、数知れない地下道が網の目のように張りめぐらされ、現在ではどこがどこと連絡しているのかさえ分からぬ「迷路」を作りあげるに至った。その時、イギリス独特の泥炭層から地下水を排除するために、ポンプという画期的な機械が発明されたけれど、それよりも文化的にもっと大きなインパクトとなったのは、地方の鉱物資源開発熱の副産物として生まれた「故郷再発見」と、その後につづく自然への知的かつ情念的な関心の方だった。
イギリスの自然は、こうして、一方では産業革命のための力強い味方となり、また一方では、その功利的な経済主義を真向から否定するロマンチックな文化運動を盛り上げる急先鋒ともなったのだ。そうして、自然の枯渇や衰退が、人間社会の美意識や倫理の凋落に正比例することに初めて注目する時代は、めぐってきた。
そんな時、オクスフォード大学のクライスト・チャーチ寮で詩と美学を学んでいたジョン・ラスキンは、『建築の七灯』(一八四九)、『ラファエロ前派主義』(一八五一、御木本隆三訳、東京ラスキン協会)を通じて、芸術のあらゆる霊感と技術とを自然から学ぼうとする方法論を確立した。
ラスキンにとって、イギリスの自然は、当時勃興した考古学の示す自然でもなければ、同じクライスト・チャーチの自室でオランウータンを飼い、ラスキンに鼠の丸焼きを食わせた豪傑ウィリアム・バックランドの主張する「聖書に語られた全物語を記憶として保存する自然」でもなかった。かれにとって自然とは、人間の美意識を培う滋養分、人間社会の健康度を測る尺度以外のなにものでもなかった。
とはいえ、ラスキンの美術論が、イギリス流の人工自然譜に多くの貢献をなしたと断言するのは、少しばかり勇気がいる。事実、かれは、ターナーの発見という業績以外に、この分野で永く記憶されるべき論評を残してはいないし、ラファエロ前派主義についても、かれより遥かに彩りあざやかに、しかも身をもって、主義に殉じた人物が幾人もいた。けれど、ラスキンが、かれの独自の自然論を完成させるのは、研究目標を美学から経済学に急回転させて後のことだ。
かれは、産業革命の進展によって「病んだ社会」に下落しつつあるイギリスを救うために、自然の完璧な自己生産の方法を社会に導き入れることを提案する。
それは、美と知恵が支配するサイバネティクス風なコミュニティの創造であって、異常な発展、異常な増殖を自動的に制御して、常に均衡のとれた共同体を維持しつづける「自然」は、当然ながら、かれの目ざすユートピアの生きた手本[#「生きた手本」に傍点]となった。
こうして、イギリスは、ラスキンのおかげで、すくなくとも新しいユートピアの創造に参与することができた。それは、アメリカの機械文明礼賛論者エドワード・ベラミが、「都市はその大きさに合わせ川筋を掘り直す」と記したのに対して、「共同体の町は、川の流れに沿って作られる」ことを理想とする、中世的な夢の実現でもあった。
けれど、この方向は、やがて、ウィリアム・モリスやバーナード・ショオや、さらにはH・G・ウェルズらの社会改革派に受け継がれ、エリザベス一世治世下に華ひらいたロイヤル・ソサエティ一派の科学的ユートピア建設運動の忘れられた情熱を再燃させた。
そこでわたしたちは、自給自足経済システムである自然にユートピズムの範を求めた一人の総合芸術家にスポットを当てることにしたい。かれの描く静寂と森のささやきに満ちた中世は、現実の歴史が辿った血なまぐさい「中世」とはまったくかけ離れた賢明な支配者と雄々しい騎士と、美しい女性とにあふれている。この作者にとって、自然のなかで自給自足することによって経済的バランスを見事に保ちつづけた中世の共同体は、けっしてノスタルジアからではなく、むしろ詳細な計算の結果から導きだされた、ユートピアの理想型だった。そしてこの作家に、次のような物語がある――
『この世の果ての森』
ゴールデン・ウォルターのこと[#「ゴールデン・ウォルターのこと」はゴシック体]
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ひとむかしも前のこと、ホルムのラングトンと呼び習わされる大きく豊かな港市《みなとまち》に、ひとりの若者が住んでいた。まだ二十と五度めの冬を迎えたばかりの、背が高くて力の強い、黄いろい髪をもつ器量《きりよう》よしの若者だった。この齢《とし》かっこうの若者たちとくらべると、どちらかといえば、頭のよく利くほうで、けっして雄弁ではないけれど、礼儀ただしい話しかたをこころえており、勇敢で心根《こころね》もやさしかった。浮かれ騒いだり主人《あるじ》顔をしたりすることもないし、平和を愛し苦難に耐えることも知っていて、危険な敵に対しては一歩もあとへ退かず、味方につけたらこんなに頼もしい戦友はなかった。さて、この物語がはじまったころ、若者とひとつ屋根の下に住んでいた父親というのは、たいそう名の高い商人で、市《まち》の領主よりもたくさんの富を貯え、ラングトンでは大家のほまれが高い家系の頭首《かしら》でもあって、ポルト号の船長を兼ねていた。その家系は名をゴールディングといって、父親はバーソロミュー・ゴールデン、また息子の名はゴールデン・ウォルターといった。ウォルターのような若者の場合、人びとはよく、なに不自由のない幸せな子よと噂しあったりするのだが、けれどかれの幸せにもひとつこんな瑕《きず》があった。というのは、かれがこの世のものとも思えないほど美しい女性と恋に落ちて、彼女をめとったことだ。なるほどはた目に見るかぎり、嫁にと望まれた女性のほうもこの縁談に気乗り薄ではないようだったが、結婚して半年ほどもすると、器量よしと噂の高い良人《おつと》にまさる美しさをもつ彼女が、どうみても良人には及ばない醜い男に心を奪われていることが、はっきり分かるようになった。そのために、やすらぎがかれの心から去り、誠も愛も持たない妻に対する憎しみが生まれた。ただ、屋敷のなかを出入りする彼女の愛らしい声がかれの心をときめかせ、またその愛くるしい表情が、かれにえもいわれぬ胸の疼《うず》きをあたえることは、昔と変わりがなかった。だから、彼女に愛らしく優しい妻でいてほしいと望んだ。そうなってくれれば、過ぎた過《あやま》ちはすべて水に流してもいい、とさえ思った。けれど現実はそうではなかった。彼女は良人《おつと》と出会っただけで顔色《かおいろ》を変え、憎しみの表情をおもてに表わすのだった。他人にはどんなに愛らしく優しい女性でいるときも、かれが近くにやって来ると、すぐに冷ややかで愛想のない顔になった。
父と息子のこと[#「父と息子のこと」はゴシック体]
そんな日々が長くつづくうちに、父の屋敷の部屋という部屋や市《まち》の舗道までが、なんだか我慢できないほど見苦しいものに思えてきた。けれどそんな思いに憑《つ》かれるとかれは、世界は広いのだし、自分もまだ若いのだ、と独りごとをつぶやいた。そんなある日、たまたま、父親と二人きりになったときに、かれは次のような話を切りだした。おとうさん、わたしは今も港へ行ってきました。あそこには出航まぎわの船がいくつもつながれていますが、そのなかに、いちばん早く港を出ていくらしい背の高い船がありました。あの船が出航するのは、そう先の話ではありませんね、おとうさん? そのとおりじゃ、と父親はこたえた。あれはな、キャサリン号という船で、あと二日のうちには外の世界へ向かって旅立つはずじゃ。けれど、おまえはなぜそんなことを尋《き》く? おとうさん、手っとり早く言わせてもらいます、とウォルターは言った。実を言いますと、わたしはあの船に乗って外の土地を見てきたいのです。それはいいが、いったいどこへ? と商人は重ねて訊ねた。どこへなりとも、あの船のめざす先へです、とウォルターは言った。おとうさんも知っておいでのとおり、わたしはこの故郷にいてちっとも心が安まらないからです。商人はしばらく口をつぐんで、息子を見つめた。そしてそこには強い愛のきずながあった。それから父親は、やっと声を取りもどしたように口をひらいた。よろしい、息子よ、おまえにはそれがいちばん良さそうじゃ。けれど、そのためにわしたちは二度と会えなくなるじゃろう。いいえ、おとうさん、今度わたしたちが会うときには、新しく生まれかわったわたしをご覧になりますよ。それはよい、とバーソロミューは言った。けれどこれだけは言っておくよ。おまえがいなくなることで誰にいちばん重荷《おもに》がかかるか、わしは知っておる。おまえがいなくなって、自分のやりたいようにやることにでもなれば、もう嫁だって屋敷に残ってはおらぬじゃろうしな。それに、もしも嫁の一族とわしたちのあいだに争いが起これば、嫁との間柄はますます難しいことになる。するとウォルターが言った、おとうさん、必要以上に妻を悪く考えるのはやめてください。そうでないと、わたしやあなたご自身のことも、悪くわるく取らなくてはいけなくなりますから。バーソロミューは、またしばらく口をつぐんだあとで、こう息子に尋ねた。嫁に赤子ができたのかね、息子よ? するとウォルターは頬を赤らめて、返事をした。いいえ、子供はまだのはずです。そうして二人は、バーソロミューが最後に口をひらくまで、黙ってすわりつづけた。息子よ、わしの心は決まった。今日は月曜日じゃが、水曜日の早朝にはおまえも船の上にいることになるじゃろう。それまでに、おまえを手ぶらで行かせるわけにはいかないから、わしがいろいろ旅仕度をしてやろう。
キャサリン号のこと[#「キャサリン号のこと」はゴシック体]
さいわいキャサリン号の船長は善い人物だし、友に対しても忠実じゃ。海をよく知っておる。それからわしの召使いでちび助ロバートという男を付けてやろう。船荷の事務を任せている男だが、なかなか頼りになるし、頭のほうもよく利く。わしと同じように、どんなものでもまず値切ってみることを心掛けておる。キャサリン号は新しい船じゃし、造りも確かなものじゃ。それに幸運にも恵まれておる。わしやおまえが洗礼を受けたとき呼ばれた聖者に、ちゃんと護られておるからな。おまえの母《かあ》さんも、やっぱりその聖者が護ってくださっておる。おじいさまやおばあさまも、みんなその聖者の足もとで眠っておる。いずれおまえだってそうなるはずじゃ。そう言い残すと、父親は腰をあげて仕事に出ていった。この話題については、もうこれ以上息子と話しあうこともなかった。 (荒俣宏訳)
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☆W・モリス――たったひとりのルネサンス[#「W・モリス――たったひとりのルネサンス」はゴシック体]
イギリス世紀末芸術のほとんどあらゆる分野に大きな影響をおよぼした巨星ウィリアム・モリスが、その晩年に丹精こめて書きあげた緑色のロマンス、『この世の果ての森』(小野二郎訳、晶文社)は、そんな書き出しではじまっている。芸術の面では中世ヨーロッパの伝統的なスタイルを復活させ、思想行動の面では当時イギリスで最も前衛的だった社会主義を信奉したウィリアム・モリス(一八三四―九六)は、絵画、工芸、家具、印刷、織物など多種類の芸術分野で「たったひとりのルネサンス」を実現した人物だ。アールヌーボーのあの魅惑的な世界は、モリスの提唱した芸術様式の拡大であったし、わたしたちがいま没入している遍歴のファンタジーもかれの中世ロマンス再発掘にその多くを負っている。そしてなによりも、この迷路みたいな自己矛盾をかかえた巨大な人物は、別世界への最初の飛行家だったという点で、いま新世代の注目のただなかにいる。
若者文化のなかで復活した別世界への憧憬[#「別世界への憧憬」に傍点]を現実のなかで叶える方法をあれこれ探りつづけてきたこの論考も、ウィリアム・モリスまで辿り着いて、「すべてのファンタジーが建設することをめざすもうひとつの世界[#「もうひとつの世界」はゴシック体]とは、いったいどんなユートピアなのか?」という問いを発する段階へきた。この十九世紀のファンタジー作家がかれの作品を通じて建設した準世界《サブワールド》へ、わたしたちは実際に飛行していき、そこに降りたつときがとうとうやって来た。けれど準世界に降りたったわたしたちは、たとえばモリスのように現実生活の重圧と幻滅から翔び去っていった人びとの創りあげた世界が、意外にも薔薇色に満たされた永遠の理想郷ではないことに気づくだろう。驚くべきことに、かれらはそこでも決して安寧をもとめようとはしなかったのだ。かれら理想に燃えた世界創造者たちがつくりだしたファンタジーの空間は、どれもこれもかつて人びとが体験したことのある日常社会[#「かつて人びとが体験したことのある日常社会」に傍点]の思い出でしかない。そこには苦しみも悲しみも戦いも弾圧も、ちゃんと生きのびている。かれらは結果において、来たるべき世界の理想的なデザインを示したのでもなければ、単にユートピア文学の歴史に足跡を残したのでもない。ファンタジーという甘い響きのなかに天国のような理想郷のイメージを見つけてきた人たちは、ここで超えようもない障壁にぶちあたるだろう。ファンタジーのなかに潜むこの自己矛盾的な本質を、ウィリアム・モリスとかれのユートピアを通じて見つめていくことは、だから、意義ぶかいのだ。たぶんどんな社会改革者もけっして理想の世界とは呼ばない、モリスのユートピアについて――
☆ユートピアのかたち[#「ユートピアのかたち」はゴシック体]
ユートピア――または「どこにもない国」に関する古典的な著作が、たとえばわたしたち現代人のセンスで考える理想政治体制論として捉えられることは不幸だと思う。政治体制の理想をさぐる意味でなら、わたしたちはジョージ・オーウェルの『一九八四年』のような現代的アンチユートピアに目を向けるほうが、ずっと実り多いはずだから。トマス・モアの『ユートピア』やトマソ・カンパネラの『太陽の都』といった古典的なユートピアは、政治国家としての理想形態を目ざしたものというよりも、むしろ宇宙そのものの完全なミニチュア化――もっとはっきり言えば人間をとりまく目に見えない世界と目に見える世界の完全な総合を目ざしたものだと言っていいだろう。その証拠に、『太陽の都』で描かれるユートピア都市は、太陽を中心とした太陽系宇宙を都市に見立てたものだったし、トマス・モアの『ユートピア』もまた、イタリア・ルネサンスの巨人ピコ・デ・ラ・ミランドラが唱えたすべての知識とすべての宗教の体系化を、国というかたちに表現したものだった。だから、かれらのユートピアを運営するほんとうの主役が、人間理性の極致としての政治や法律ではなくて、まるで古代の密儀宗教みたいに怪しげな身なりをした星の司祭たちであったとしても不思議ではない。古いユートピストたちにとって問題だったのは、機能体としての国家や都市というよりも、むしろかたち[#「かたち」に傍点]としての国家、オブジェとしての都市だったと言えるだろう。つまり、そういう点を手がかりとして、ユートピアと準世界の辺境へのアプローチは始まる。かれらのユートピアが機能体としてではなく、偏《ひとえ》に宇宙のかたち、知識の合体というひとつの空間――別世界を目ざした以上、わたしたちはそこを至福の理想郷と即断してはならないようだ。
☆世界を創ろうとした人びと[#「世界を創ろうとした人びと」はゴシック体]
さて、問題の『ユートピア』を生んだヨーロッパのなかの別世界イギリスでは、エリザベス一世のもとで世界の覇権を奪いとったころから、さまざまな段階でユートピアへの接近が試みられようとしていた事実があり、当時エリザベス女王のまわりには、宇宙的ユートピアを目ざす何人かの奇怪な人物がうごめいていた。たとえば謎の人物ウィリアム・シェイクスピア、実験科学を通して技術と哲学と科学と芸術を合体させようと夢見たフランシス・ベーコン、地球磁気にいち早くメスを入れた科学者ギルバート、そしてユークリッド幾何学をイギリスに紹介し魔術と科学の総合をはかろうとしたジョン・ディ博士。かれらはすべて自然と超自然の知識を統合することで新しい国家システムを実現させることに生命をささげたユートピストだった、といっていいだろう。しかもかれらは、ユートピアの青写真を作っただけではない[#「ユートピアの青写真を作っただけではない」に傍点]。クロムウェルや議会派の力を借りて、とりわけオクスフォードの学者たちの力を集めて、永遠不変の物ごとだけが支配するまったく全地球的な規模の国家を、現実にイギリス領土内に建設しようとしたのだ! その証拠に、一六四〇年前後にはドイツの「薔薇十字団」やイタリアの神秘科学者たちが多数イギリスに渡ってきたことを歴史が語っている。すでに述べた「見えない大学」は、このユートピア実現のための運動組織であり、そこではジョン・ウィルキンズとも共通する世界共通言語やフランシス・ベーコンの『新アトランチス』建設が、まじめな課題として採りあげられ、また、王権や教皇権の偏狭な殻を突き破ったそんな科学者の心意気が、合理と神秘の両方に首をつっこんだロバート・ボイルやアイザック・ニュートンの好奇心をかきたてもした。
けれどユートピア建築家の末路はいつもむなしかった。わたしたちは当時の謎に満ちたユートピア運動について、イギリスでもっともユニークな史家のひとりフランシス・イエーツ女史の著作(たとえば、『薔薇十字団の啓蒙』や『世界の劇場』)を通じて知ることができるのだけれど、彼女はかれらの末路を、詐欺師として抹殺されたジョン・ディ博士に代表させて、いくらか感傷的に物語ってくれる。それによれば、チャールズ二世が即位して王政復古が実現した一六六〇年以降、かれらユートピアの科学者たちは王権の伸長にとって好ましくない危険分子として、残らず魔術師の汚名を着せられ、折りから狂気のように吹きあれていた魔女狩り旋風の犠牲に供されたという。そうした歴史をふまえながら、わたしたちは遠く時代を跳び越し、十九世紀末のイギリスに森の生活への帰還[#「森の生活への帰還」に傍点]を呼びかけたもうひとつのユートピア運動へと進んでいこう。森の生活は、この章の冒頭で書いたように、自給自足の経済システムを長らく運営してきた大自然に、その経済的方法を学ぶことを意味する。そしてもちろん、わがウィリアム・モリスのファンタジーは、ラファエロ前派主義とも呼ばれるこの小さなユートピア志向のなかで、生命を吹きこまれた。
☆ラファエロ前派の夢[#「ラファエロ前派の夢」はゴシック体]
あれはたしか神田の古本屋だったと思う。いつものように古本の山を引っかきまわしていた筆者は、一冊のなんとも奇妙な古本にぶつかった。それはかなり大きな和綴じ本で、ふと中を開けると、意外にもアルファベットが目にとびこんできた。こんな古めかしい和書に鮮やかなアルファベット活字を見つけたことも驚きだったけれど、もっと驚いたのは、それが東京ラスキン協会というところで昭和六年に刊行されたラスキン著『ラファエロ前派主義』の訳本だったことだ。ちょうど、D・G・ロセッティやバーン・ジョーンズたちが描く憂いを含んだ古典的美女の顔に魅せられていた頃でもあり、その古本を宝物のようにして持ち帰ったことを憶えている。考えてみるとこの経験は、木村鷹太郎という人が書いた『ハムレットにおける日本的材料』という高校の教科書みたいな古本のなかで、ハムレットも源氏物語も同じ中東の伝説から生まれたものだとか、世界の歴史はぜんぶ三千年前に終わっていて、たとえば日本の源平合戦などは中近東の歴史が日本に伝わってきたものにすぎない、という摩訶不思議な説に思いがけなく対面したとき以来の感激だった。とにかくその和綴じ本は、自然を崇拝するギルド的芸術論――ラファエロ前派に妙にふさわしかったのだ。
ところでラファエロ前派とは、十九世紀末のイギリスでアカデミックな絵画に反抗する若い画家たちが、ラファエロ以前の、自然と神秘に満ちた素朴な画風をとり戻そうと叫んで結成したサークルの名で、ロセッティやミレーが中心人物だが、のちにウィリアム・モリスも参加した。かれらはもちろん絵画の改革をめざしていたが、ラスキンやルソーなど〈自然への回帰〉と田園的な共同体をめざす新しいかたちのユートピア思想を無意識的にとらえてもいた。
かれらの描く世界は緑の森や澄んだ水、そしてそのなかに生きる伝説的な人間たちのすがたを主とし、そこには運命と静寂と素朴な生活が盛りこまれているが、とりわけラファエロ前派が愛した画面は、田園のなかで運命として授けられた歓びや悲しみに黙々と耐えていく人間たちの内面的なすがただった。芸術を労働の延長と考え、職人たちの厳しく潔いモラルを社会共通のモラルにまで高めたある種の社会主義に燃えていたモリスが、かれの長い創作生活の途中でラファエロ前派のそうした夢に魅せられたのは当然だった。やがてかれは、急速に滅んでいくラファエロ前派に代わって、かれらが望んだその夢を自分の手で実現していく。モリスはまず、ありとあらゆる環境に自然のやさしさと土の匂いを持ちこんだ。家具、壁紙、カーテン、織物など日常生活の環境をいろどる調度品に、自然の草花をデザインしたのだ。そしてかれはついに書物までも緑の自然にひきずりこもうと思い立った! かれはケルムスコット・プレスという出版社をおこして、十五世紀のグーテンベルグ時代そのままの手刷り本をつくり、各ページに今日モリス風のボーダーデザインと呼ばれる縁飾りをあしらった。それも単に装飾のためのデザインではない。モリスが使った草花のデザインは、すべて自然に生えているままのかたちを残している。物語を語るという労働を人びとから奪った近代印刷術の落とし子〈書物〉を、かれはもういちど森のなかに還したのだ。そしてそんなモリスがケルムスコット・プレスのために自ら創作した物語に、森と水と朝風の匂いがしないはずはなかった。一八九四年に美しい手刷り本として刊行された『この世の果ての森』は、モリスがラファエロ前派から受けついだ新しいユートピアを、物語のなかに解き放った記念すべきファンタジーといえるだろう。そして、おそらくモリス自身も社会主義者仲間から酷評されることを覚悟していたこの異様なユートピアは、森のなかの素朴な生活にひとつの価値を見いだす時代がめぐってくるまで、埋もれなければならなかった。そこで、『この世の果ての森』の緑につつまれた内容のつづきである――
☆『この世の果ての森』――展開[#「『この世の果ての森』――展開」はゴシック体]
こうして港に出掛けたウォルターは、出発も間近いある日、ふしぎな光景を目のあたりにした。美しい少女と醜い小人を伴に連れた麗しい貴婦人が、背の高い船に乗りこんでいく光景だった。船はその三人を乗せるとすぐに、港を出ていった。まるで幻のようなその光景を見て以来、かれは何度か三人のすがたを夢に見るようになり、まるで魔物に魅入られでもしたように冒険の航海へ旅立っていく。見知らぬ港町をめぐりながら、女を知り愛を知り、たくましい男に成長したウォルターは、ある日街角で三人の幻をふたたび目にする。それがひとつの暗号となって、故郷からかれの許に伝言が届き、かれは父親が急死したことを知らされる。家に残した妻の一族が、父親を殺したのだという。ウォルターは急いで故郷に戻ろうとしたが、折悪しく海上で嵐にあい、見知らぬ土地へ命からがら流れつく。
今は父親のあとを嗣《つ》ぐ夢も失ったウォルターは、その新しい土地で冒険をもとめる気になり、人びとの制止を振りきって、女神を崇拝する熊族や魔女や小人が住みついている〈この世の果ての森〉へ足を踏みいれる。山を越え砂漠をよこぎったウォルターは、〈この世の果ての森〉に近いあたりで驚くべきものに出喰わす。それは、かれが遠い昔、港で見かけたあのまぼろしのような三人の実物[#「実物」に傍点]だった! 最初は醜い小人、そして次に貴婦人の小間使いらしい美しい少女。かれは泉のほとりで少女と出会い、長く胸に秘めてきたまぼろしの話[#「まぼろしの話」に傍点]と、彼女に対する愛とを打ちあける。少女は最初ウォルターの出現を歓んでいたが、かれの身の上話を聞くうちに、実はかれが貴婦人の魔法にかかって森に迷いこんできた哀れな犠牲者であることを知る。森の女主人であるこの絶世の美女は、小間使いにといっては少女を誘拐したり、若い男が欲しいといっては魔術を弄して望みどおりの器量よしを誘いこんだりしながら、勝手気ままな女王生活を送っていたのだ。
貴婦人はこの新しい獲物をすっかり気に入って、すでに彼女の愛人になっている〈王の子〉と呼ばれる若者を棄てて、時には厳しく、また時には甘くウォルターを誘惑しはじめる。しかしウォルターがほんとうは彼女の奴隷である少女に恋していることを知ったとき、貴婦人の恐るべき策略がめぐらされる。まず〈王の子〉が少女に言い寄り、いっぽう貴婦人はみずからの裸体をかれの前にさらしたり、愛する少女の衣をむごたらしく引き裂いてみたり、とにかくセクシャルな挑発をくりひろげる。また、獅子狩りに出掛けたときには、思いがけないか弱さと可愛らしさをあらわして、かれの騎士道精神をくすぐったりもする。
しかし彼女の嫉妬はそれだけでおさまるわけがなかった。残酷な仕打ちに耐えられなくなった二人は、〈この世の果ての森〉を脱出する決心をする。しかし脱出は至難に近い。頼るのは少女の知恵と魔法しかなかった。決行の夜、貴婦人の意味ありげな誘惑に従ったあとで、ウォルターは約束どおり庭のすみに身を隠した。何時間かが過ぎたとき、息せき切って駆けてきた少女に会ったかれは、必死の思いで森を抜ける。途中、貴婦人の番犬役をしている小人に追われるが、ウォルターは格闘の末に小人の首を斬り落とす。こうして、ようやく森のはずれまで辿り着いた二人は熊族の土地を突っ切るまえに小さな憩いをとることにした。そしてこの束の間の時間に、ウォルターと貴婦人と〈この世の果ての森〉にかかわる不思議な関わりが、少女の口を通じて、はじめて明らかにされるのだが、ここしばらく、原典から引用したその場面の会話に耳をかたむけることにする――
二十四章 少女おのれの身の上を語る
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少女の話[#「少女の話」はゴシック体]
さあ、友よ、冴やけき月影とこの灯《ともしび》のもとで、わたくしの身の上をせいいっぱい詳しくお話しいたしましょう。けれども、このわたくしがアダムの一族の血だけを受け継いでいる娘かどうかは分かりませんし、自分の歳もはっきりいたしません。あいにく、わたくしの半生には大きな空白があって、その時期のことはぼんやりとした記憶しかないのです。きっと、たくさんのことを忘れているはずですわ。でも子供のころのことはよく憶えています。とても幸せなころでした。わたくしを愛してくれる人が、たくさんいました。この土地では思いもよりませんけれど、ふるさとでは何もかも優しかったのです。一年のはじまり、たのしい年の中ごろ、そして年の終わり、それからまた次の年が。
そしてそんな時期のあとに、しばらく暗闇のときが来ます。なぜって、そのころのことは自分の記憶なのに何ひとつ思い出せないからです。でもその時期が終わると、また確かな思い出が戻りはじめますわ。わたくしはうら若い娘に成長していて、知識というものをいくつか身につけ、またもっと多くの知識にもあこがれていました。けれど幸せではありませんでした。わたくしはある特別な人たちのなかにいて、その人たちにああしろと言われればその通りにし、こうしろと言われればその通りにしなければなりませんでした。愛してくれる人もいないかわり、苦しめる人もおりませんでした。けれどわたくしは心から、まだ知り染めたばかりの知識をもっともっと知りたいと希《ねが》っていました。住んでいたところはこの島ではありませんが、やはりわたくしには愛せない土地で、たいそう大きく立派なくせに少しも美しくないお屋敷がありました。それから暗闇の時期がもう一度あって、それがどのくらい続いたかは知りませんけれど不吉な時期だったことは確かで、とにかくわたくしはそのあいだに、ほとんど一人前の女にまで成長いたしました。まわりにはたくさんの人がいましたけれど、不誠実で欲深い、厳しい人たちばかりでした。心は烈しく燃えてもか弱い体しか持たないわたくしは、わたくしよりもずっと愚かな人たちに強制されて、気の乗らない仕事につきましたし、わたくしよりも臆病な人たちに打ちすえられもしました。餓えや鞭や、そのほか酷《むご》い仕打ちを受けました。でもそうした悲しい思い出も、今となってはかすかな残り絵でしかありません。ただひとつ、そういった鬼のような人たちのなかにひとりだけ、わたくしに優しくしてくれた婆《ばば》さまのことは憶えています。婆さまはわたしに、あらゆるものが気高《けだか》くて善意にあふれ、いいえ少なくともみんなが勇敢でたくましい世界にかかわる優しい物語を、よく聞かせてくださいました。婆さまはわたくしの心に希望を抱かせてくださいましたし、知識を授《さず》けていろいろなことが分かるようにもしてくださいました……それはそれは、たくさんのことを……おかげでわたくしは賢くなりました。望めば何でも分かるほど賢く。なのに、その大きくて汚らわしい市《まち》にいたころのわたくしは、生きていないのも同然の娘でした。
[#1字下げ]奴隷にされること[#「奴隷にされること」はゴシック体]
そんなある日、わたくしはふしぎな眠りにおちました。うつろな眠りでしたが、ときによって美しかったり恐ろしかったりする荒びた夢を、見ました。この夢に、女《ご》主人《しゆじん》さまと、今日あなたが首を斬った醜い小人が出てきたのです。けれど夢から醒めたとき、わたくしはこの土地におりました。いまあなたがお目にとめていらっしゃるとおりに、ここに連れてこられたわたくしは、はじめのうち手を縛られ粗末な衣《きぬ》を体に巻いただけのすがたで、むこうにある石柱の広間に住まわされましたが、それから間もなくして、小人に女《ご》主人《しゆじん》さまのところへ連れていかれました。女《ご》主人《しゆじん》さま、こんな娘でよろしゅうございますか? と尋ねる小人の耳障りな恐ろしい声を聞きました。すると女《ご》主人《しゆじん》さまの甘い声が、ええ、気に入ったわ、あとでおまえに褒美をあげましょう。さあ早く奴隷のしるし[#「しるし」に傍点]をつけておしまい、と応えました。小人に引きずられながら、わたくしは、これからどんな目に会うのかと思うと気持が沈みましたけれど、そのときはこの鉄の環を足に嵌《は》められただけで済みました。
こうしてこの土地での生活がはじまったのです。それも女《ご》主人《しゆじん》さまの奴隷として。ここでの生活なら、一日一日のことを今でも思い出せますわ。どの一日を取っても、夢のような暗闇に落ちて忘れてしまったものはありません。だから多くのことはお話しいたしませんが、ひとつこれだけを申しあげておきましょう。過去に見た夢にもかかわらず、いいえ、かえってその夢のせいかもしれませんが、むかし婆《ばば》さまから授かった知恵をわたくしは失《な》くしませんでした。そればかりか、もっと知恵が欲しいと望みました。そしてこの望みは今まで悲しみだけをもたらしてきましたが、たぶんこれからはあなたとわたくしを幸せにしてくれるでしょう。ところで女《ご》主人《しゆじん》さまは、はじめのうちわたくしに対してとても気まぐれでした。どんな奥さまがたでも奴隷を買えばたいていそうなさるように、気の向くまま、あるときはわたくしを抱きしめたり、またあるときは鞭で打ったりしました。でも、邪《よこし》まな気持や特別な意図がそこにあったわけではなさそうです。けれどそのうちに(それも突然ではなく、ほんのすこしずつなのですけれど)、女《ご》主人《しゆじん》さまが女王のような暮らしをつづけるもと[#「もと」に傍点]になっている知恵を、このわたくしもいくらか心得ていることに、女《ご》主人《しゆじん》さまは気づきました。わたくしが奴隷になってから二年めのことです。それ以来、女《ご》主人《しゆじん》さまはわたくしを敵と考えるようになって、張りつめた三年が過ぎました。どういうわけかは分かりませんが、女《ご》主人《しゆじん》さまはわたくしを殺したり、死ぬほど苦しめたりすることができなかったらしいのです。でも、悲しみや苦しみをわたしの心に積みあげることはできました。しまいには小人をけしかけてきましたが、その小人もこうしてあなたに首を斬られてしまいましたわ。あなたの前ではとても申しあげられないような仕打ちを、小人から受けてきましたが、ある日それが極《きわ》みに達して、とても我慢ができなくなったことがありました。そのときわたくしはこの鋭い小刀をかれに突きつけて、もしもこれ以上苦しみを加えるのなら、わたくしは自分の体をこれで突きます、と言ってやりました。すると、つねづね女《ご》主人《しゆじん》さまから奴隷を殺してはいけないと言いつかっている小人は、自殺を放っておくことができません。おかげで、それから恐ろしい目には会わなくなりました。けれど、わたくしの知識だけはいつでも磨いておかなくてはなりません。女《ご》主人《しゆじん》さまの憎しみがつのって、ある日ふいに怒りがすべてを忘れさせてしまったときには、魔法の技《わざ》で自分を護らないかぎり、きっと殺されてしまうでしょうから。
[#1字下げ]〈王の子〉の到来[#「〈王の子〉の到来」はゴシック体]
さて、今からおよそ一年前にこの土地へやって来た〈|王の子《キングズ・サン》〉のことを、これからすこしお話しいたしましょう。かれは、わたくしがこの土地に住むようになってから女《ご》主人《しゆじん》さまの魔法に引き寄せられて来た若者のうち、二ばんめにあたる人で、あなたは三ばんめということになります。かれがはじめてここへやって来たとき、わたくしたち――いいえ、わたくしには、まるで、天使のように美しく思えたものでした。それが、女《ご》主人《しゆじん》さまにはなお一層のことだったと見えて、その愛《め》でかたはひと通りのものではありませんでした。かれもまた、女《ご》主人《しゆじん》さまをかれなりに深く愛しました。けれどかれは気持の軽い、心の冷たい若者でした。そのうちに目をわたしのほうに向けだしたのです。汚らわしく不誠実だということがすぐに知れる愛を、わたくしに誓ったのです。なぜって、女《ご》主人《しゆじん》さまへの恐れがなかったら口にしなかったかもしれない拒絶のことばを、かれに返したとき、かれは憐れみを見せもせず、すすんでわたくしが女《ご》主人《しゆじん》さまの逆鱗《げきりん》に触れるよう罠を仕掛けたからです。いろよい返事をしなければ、わたくしがどうなっても構わない様子でした。けれど、ああ友よ、こうした苦しみや悲しみを乗りこえて、わたくしは学びを深め、きっと来るにちがいない解放の日を待ちながら知恵をふくらまし、その知恵に一層の磨きをかけてきました。そうして、あなたが来てくださったのです。
[#1字下げ]ラングトンで見た幻のこと[#「ラングトンで見た幻のこと」はゴシック体]
そこで彼女はウォルターの手を把《と》ると、そこに口づけをした。かれが彼女の顔に口づけを返すと、そのくちびるが彼女の涙で濡れた。それから彼女が話の先をつづけた――けれど、ここ数カ月前から女《ご》主人《しゆじん》さまは、あの器量よしの臆病者に飽きはじめていました。それで、今度は、あなたが彼女の網にかかる番になったわけですわ。あなたを網にかけた方法は、わたくしにも、一部分だけ分かっています。なぜって、ある明るい昼さがりの一日、わたくしは広間で女《ご》主人《しゆじん》さまにかしずき、あの邪悪な生きもの(そうです、いましがたあなたが首を斬り落としたあの小人ですわ)が戸口で横になっていたとき、ちょうど夢みたいな気分がわたくしに襲いかかってきたからです。鞭で打たれるのが恐くて、わたくしはその夢を振りはらおうとしましたけれど、石柱の並んだ広間がゆらゆら揺れたとたんに、目の前からハッと消えてしまい、気がつくとわたくしは、広間に張りつめられたすばらしい大理石の代わりに粗い石舗道のうえを歩いていました。どこからか海の香りがただよってきて、船のきしむ音も聞こえました。うしろには背の高い家がいくつも並んでいて、目の前には、索を鳴らし帆をひるがえし檣柱《マスト》を揺らす船がたくさん錨《いかり》を降ろしていました。水夫たちの叫びや合図の声が、わたくしの耳に届きました。それは、もう過ぎさった空白の時期に耳にしたり目に見たりしていた、なつかしい光景でした。そしてわたくしはそこにいたのです。わたくしの前には小人が、そして後には女《ご》主人《しゆじん》さまが、一隻の背の高い船に乗りこむために、渡し板のうえを歩いていました。やがて船は動きだし、港をゆっくりと出ていきました。水夫たちが甲板で旗をひるがえすのが見えました。そのときウォルターが問いかけた――それから、どうしました! きみはその旗の紋章を見たでしょう? 狼のような獣《けもの》がひとりの乙女を踏みつけている絵柄を? あの絵の乙女は、きっときみだったのだ。彼女は言った――ええ、そうでしたわ。でも待って。まずわたくしの話を聞いてください! そうして船と海は消えましたけれど、わたくしたちは〈黄金の家〉の広間に帰ったわけではなく、さっき後《あと》にしたばかりの市《まち》とよく似た街路のなかに、もういちど立っていました。けれど今度のまぼろしは少し暗かったので、目の前にあった立派なお屋敷の扉を除いたら、ほとんどなにも見えませんでした。ところがそれもすぐに消えて、もういちどわたくしたちは、石柱のある広間に帰りついたのです。わたくしが奴隷の身に落とされたあの場所に。
ウォルターは言った――きみにひとつだけ尋ねます。港で船のそばにいたわたしを、きみは見かけなかったでしょうか? いいえ、と彼女は応えた。そばにたくさんの人たちがいましたから。どの人もみんな異国のお方みたいに見えましたわ。さあ、わたくしの話の先を聞いてください。それから三カ月ほど経ったころ、わたくしはもう一度夢を見ました。こんどの夢は、わたくしたち三人がそろって広間にいるときにやって来ました。前と同じように、どこか薄暗いまぼろしが。なんでもわたくしたち三人は、人の行き交う市《まち》の街路に立っていましたが、その市は以前とはまるで違っていました。わたくしたちの右手あたりには、ちょうど家の戸口があって、そこにたくさんの人と肩を触れあうようにして立っていました。そうです、そうです、とウォルターが言った。そのなかに、わたしもいたのです。どうぞお口をはさまないで、愛《いと》しいお方! と彼女は言った。わたくしの話は終わりに近づいていますから。あなたに黙って聞いていただきたいのです。なぜって、あなたはきっともう一度わたくしの行ないを許せないものとお考えになるでしょうから。この最後の夢を見てから二十日ほど経ったある日のことです。わたくしは女《ご》主人《しゆじん》さまから憩いの時間をいただき、樫の木の泉[#「樫の木の泉」はゴシック体]へ行ってくつろぎました(もしかすると、樫の木の泉[#「樫の木の泉」はゴシック体]へ行きたくなったのは、女《ご》主人《しゆじん》さまの魔法のせいかもしれません。わたくしをそこへ行かせて、あなたと巡り合わせ、罰を加える口実を作りたかったのでしょう)。
[#1字下げ]悪に耐えること[#「悪に耐えること」はゴシック体]
とにかくわたくしは泉のそばにすわり、土をもてあそんでいましたが、最近ことあるごとに言い寄ってきては、もし愛の申し出を断りなぞすれば、毎日毎夜苦しみと恥辱に身をもだえなければならないようにしてやるぞと強迫する〈王の子〉のことで、心は沈んでいました。心が沈んだと申しあげましたのも、そのとき、わたくしは半分棄てばちになって、かれの望み通り愛を受けいれてしまおうかと思いはじめていたからですわ。そうすれば、すくなくとも今よりひどい目には会わずに済む、と思いましたから。でもここで、あなたにお話ししなければならないことがひとつあります。どうかこのことはしっかりと心におしまいください。このことは、ほかのなによりも〈王の子〉の申し出を拒絶する力になりました。申しあげましょう、わたくしの知恵[#「知恵」に傍点]というのは(今もそうなのですが)賢い乙女[#「賢い乙女」はゴシック体]の知恵であって、けっして賢い女[#「賢い女」はゴシック体]の知恵ではないという事実です。だからもしわたくしが乙女でなくなれば、それといっしょにあらゆる知恵がなくなってしまうはずでした。あなたはきっとわたくしの行ないを悪くお取りでしょうね。あれほどの拷問を受け、もうすこしで身の清らかさまで棄ててしまわなければいけないところまで追いこまれながら、わたくしは最後まで女《ご》主人《しゆじん》さまの逆鱗《げきりん》に触れることばかりをみじめに恐れつづけたのですから。
でも、泉のそばに腰をおろしていろいろなことを考えていたとき、ひとりの若者が近づいてくるのが見えました。はじめは〈王の子〉に違いないと思いこんでしまい、近くまで来て黄金の髪と灰色のひとみを見るまでそう信じていましたが、そのお方は声をかけてくださいました。そのお方の優しさに心を打たれ、ああ、やっと友に巡り会ったのだな、と思いました。ああ友よ、この涙はその瞬間の甘い歓びの結果ですわ!
わたしも友を見つけにきたのです、とウォルターは言った。きみがわたしに命じたことが、今やっと分かりました。この砂漠を抜けて、あらゆる悪の手の届かない場所に辿り着くまで、わたしはきみの命じることにすべて従いましょう。けれどきみは、きみの体を抱きしめることまで禁じるつもりですか? 彼女は涙のなかで明るく笑って、こう言った――はい、もしもあなたが賢いお方なのなら。それから彼女は相手のほうに体を寄せ、両の手でかれの顔をとらえると、何度も口づけをした。彼女を思うあまり、愛《いと》おしさと哀れみの涙が思わず知らずかれの目から流れ落ちた。すると彼女は言った、ああ友よ、あなたでさえいつかはわたくしを罪人《つみびと》と呼ぶのですわ。わたくしが二人のためにおこなった行ないをすっかりお話ししたあと、あなたの愛はきっとわたくしから離れていくでしょうから。罪を犯した女にどんな罪が加えられても構いませんが、お別れだけはしたくありません! 恐れることはありません、愛する人よ、とウォルターは、言った。なぜなら、きみがどんな行ないをしたか、その一部分はもう察しがついているのですから。 (荒俣宏訳)
[#ここで字下げ終わり]
☆『この世の果ての森』――結末[#「『この世の果ての森』――結末」はゴシック体]
こうして、ウォルターが港で見た幻影からはじまったこの冒険にも、最後のクライマックスがおとずれる。彼女はさらに、〈この世の果ての森〉でウォルターが殺した獅子が実は女主人の作りものだったことを話したあと、いよいよ愛するウォルターに話してはならない呪わしい行ないを告白する。その日彼女は、女主人にわざと分かるようにウォルターと逢瀬の約束を交わしたあと、〈王の子〉を自分の寝室に迎えいれた。つねづね彼女に言い寄っていた〈王の子〉は歓んでその申し出に応じるが、眠り薬を飲まされ、彼女を抱くひまもなく寝台のなかで眠りこんでしまう。深夜が近づいた。二人の逢瀬を承知のうえでウォルターに自由をあたえた女主人は、夜がふけてから少女の寝室に忍びこむ。しかし寝台に寝ているはずの少女がいない。少女は部屋のすみに隠れて、眠り薬を飲まされウォルターの服を着せられた[#「眠り薬を飲まされウォルターの服を着せられた」に傍点]〈王の子〉が寝ている寝台に、そっと近づいていく女主人を、見つめていた。原典からの引用をつづけよう――
[#ここから1字下げ]
女《ご》主人《しゆじん》さまは寝台に近づくまえに、ランプを頭よりも高く掲げて、こうつぶやきました。いないわ、あの小娘め! あの娘《こ》はあとで捕まえてやるから。そういうと女《ご》主人《しゆじん》さまは寝台に近づいて、なかを覗きこみ、わたくしが寝ていたあたりに目をやりました。それから彼女の目が、そこに寝ている偽《いつわ》りのウォルターに向いたかと思うと、とつぜん彼女は震えだし、体を揺らしました。ランプが床に落ちて消え(ただ月光が部屋いっぱいに差しこんでいましたから、部屋のなかの様子は分かりました)、彼女はなにやら野獣の吠え声みたいな声を出しました。それから彼女の腕が見えました。手が上にあがって、その下に金属の輝きが映りました。それから急に手とその金属が下に落ちたので、わたくしは恐怖のあまり気を失いかけました。偽りの寝すがたが、あんまりあなたに似ていたものですから。あの臆病者はこうして叫びひとつ上げずに死にました。どうしてかれを悼《いた》む気になれましょう? わたくしにはできません。でも女《ご》主人《しゆじん》さまは死体をそばに引き寄せて、肩や胸から服を剥ぎ取り、意味のないことばを口走りました。忘れてやるわ、きっと忘れるわ、新しい日々がやって来るわ、とつぶやく声が聞こえました。それからしばらく沈黙がつづきましたが、やがて彼女が恐ろしい悲鳴をあげました。だめ、だめよ、ああ! 忘れられないわ。忘れられないわ! 彼女は夜を恐怖の渦《うず》に一変させてしまうほど大きな声を残して、寝台から小刀を拾いあげると、それを自分の胸に突き刺し、さっきみずからの手で殺《あや》めた男のいる寝台に崩れ落ちました。そのときわたくしはあなたを思い出しました。歓びが恐怖を打ち消しました。それは否定しようもないわたくしの本心でした。わたくしはあなたの許へ逃げました。あなたの手をしっかり握って、こうやって二人でここまで逃げてきたのです。これから先も、あなたはわたくしをおそばに置いてくださいますか? (荒俣宏訳)
[#ここで字下げ終わり]
しかし少女とウォルターの前には、野蛮と噂の高い熊族の土地がひろがっていた。ここで彼女は策略を思いつき、自分から熊族たちが崇拝している女神に化け、日照りつづきの土地に雨を降らせようともちかけて脱出に成功する。そして、二人の行く先は巨大な市《まち》だ。〈この世の果ての森〉で魔術と憎しみに傷つけられた彼女は、市《まち》に住んで幸せになることを夢見る。いっぽう市《まち》の邪悪さに傷ついて冒険の旅に出たウォルターは、愛する彼女のために不承ぶしょう市《まち》へ降りることに同意する。
ところが、市《まち》に辿り着いたウォルターは思いがけない好運にぶつかることになった。その市《まち》はたまたま、死んだ王の後継者さがしに奔走している最中だったのだ。熊族の道を通って市にやって来た最初の異邦人を王にするという土地の習慣が適用され、かれは王に選ばれてしまう。以来二人はこの市《まち》に新しい王家をつくり、国民に愛され、天命をまっとうする。しかし、〈この世の果ての森〉で体験した冒険のあとでは、二人の心に熱い情熱を喚び返せるものなどあるはずもなかった。素朴で退屈で、しかし幸せな田園的日常をおだやかに送るうちに、彼女の魔法や知恵もやがて失われていく……
☆最後のユートピア建設者[#「最後のユートピア建設者」はゴシック体]
十九世紀のアダルト・ファンタジーはこうして終幕をむかえる。モリスにとって森のユートピアは、この世の楽園を示しているのではない。むしろフリーメースンや薔薇十字団がめざしたようなギルド的共同体――職人や学者のモラルで世界が結びついた、豊かではないけれど清く貧しい「非政治的な田園世界」だったことが、これではっきりした。けれどこの退行したユートピアの成立は、人間のために本来の悲しみや怒りや歓びを取り戻す、という効果をもたらしたはずだ。そこでは政治システムなど問題にはならない。たとえばこの作品の最後で、モリスは、ウォルターが王になった理由をまったく味気なく説明してしまう。市《まち》の重臣から「きみは鎧《よろい》と法衣のどちらを選ぶ?」と問いかけられたウォルターが、むかしラングトンで着たことのある鎧を、なつかしさのあまり身につけると、「鎧を着る人間はすくなくとも勇気がある。法衣をとる人間は平和を愛する賢者か臆病者のどちらかだ。もしおまえが法衣を着けたら、王になるか殺されるかの賭けをもういちど強要されるだろう」と説明されて、簡単に王位を与えられるのだ。政治的指導者について、モリスはこの程度の期待しかしていないし、また王となったウォルター自身も〈この世の果ての森〉で体験したあのカタルシスのあとでは、なんの情熱も感じない人間になってしまう。そしてモリスの世界では、どんな美しい女性もけっして女神ではない。彼女たちは人間としての邪悪さも汚なさもすべて身につけている。邪悪なものと善なるものが共存する共同体、それはモリスが愛してやまなかったキリスト教侵入以前のスカンジナヴィアをつつんでいた魔法と神々と人間の、素朴だけれど巨大な営みの神話世界[#「営みの神話世界」はゴシック体]にほかならなかった、と言えるだろう。
人類の繁栄と未来の至福を克ちとるための予言者として、たぶんモリスはふさわしくなかった。けれどモリスは、トマス・モアやカンパネラがそうだった意味での、最後のユートピア建設者だった。
[#改ページ]
※[#ローマ数字11、unicode216a] 怪物の博物誌
[#改ページ]
[#この行4字下げ]もっとも軽い原子から窮極の存在へと上昇する存在の連鎖、この無限の階梯は、人に驚きを与える。しかしこの偉大な幻影をすこし仔細に眺めると、それはまるで、雄鶏の鳴き声に逃げだした昔の亡霊のように、消え失せてしまう。
[#地付き]ヴォルテール『哲学辞典』
☆自然の円環をつくる鎖[#「自然の円環をつくる鎖」はゴシック体]
あるときヴォルテールは、プラトンに端を発する「存在の大いなる連鎖」と呼ばれる存在充足を讃美する古い神話を、皮肉ったことがある。かれが「詳しく見れば、亡霊のように消え失せてしまう」としたこの偉大な連鎖は、鉱物と動物の接点に植物を設定することによって、上は天使から下はバクテリアに至る自然界を「飛躍も欠落もないひとつの完全な連続体」に祀りあげたシステムである。
プラトンの天才的な着想から生みだされたこのシステムは、皮肉なことにアリストテレスの生物分類学の手法を通じて現実世界に応用され、長らく自然の完璧さを保証する途方もない支柱でありつづけた。数学的生活をその日常とし、ピュタゴラスが教えた「数」の秘密がまだ一般民衆のものであった中世はいうまでもなく、ニュートンの物理学が世界を征服したあとの十八世紀当時まで、「自然の連続性」はその尊厳を冒されることもなかったのだ。
そしてこの時代まで、自然の連鎖を研究する学問たる博物学は、生物学というよりは修辞学であり、したがって言語学に限りなく接近していた。新しい生物の発見は、生物固有の生理メカニズムの観察よりも、その生物にふさわしい名を考えだす一種の「|命名ゲーム《ノメンクラチユア》」につながっていた。だからこそ、ジョン・ウィルキンズら十七世紀の世界統一言語の創案者たちは、その対象と名前とが完全に一致する単語を創りだすテクニックとして博物学を選んだのだ。これは、まったく正しかった。そしてその正しさは、力と運動に関していえば、自然がたしかに「連続体」であることを立証したアイザック・ニュートンの後楯《うしろだて》を得て、さらに揺るぎないものとなった。
けれど、永遠不変の自然を讃えた十八世紀後半がやってくると、人びとはもっぱら産業革命や都市化の影響から、大地を掘り、水に潜り、空を飛ぶ必要に迫られだした。そして地球の皮を剥ぐこの作業から、自然の完全さに関する神話が破られる道は開かれた。石炭をもとめて土を掘れば、聖書にも出てこない生物の骨が現われ、水中に潜れば、生命はその形をまったく異にしていたからだ。かれらはこのとき、「自然は力と運動についてなら連続だが、物質については全く不連続であること」を思い知らされる羽目におちいった。
こうして十八世紀の進展とともに、自然界の全現象を不連続と変異と個性の面から眺めようとする新しい思潮が爆発した。化学は原子論を無力にし、植物学は数学を追放し、新しい総合科学の王座に生物学が君臨することになる日がやって来た。そしてこのとき、永遠の連鎖を確かめる学問であった博物学もまた、不連続と変異と個性の限りない雑多性を研究する「怪物《アノマリテイ》探しの博物学」に変身していった。
☆言語学から生物学へ――地つづきの宇宙誌[#「言語学から生物学へ――地つづきの宇宙誌」はゴシック体]
ところで、ガリレオが月の表面に地球とまったく同じあばた面《づら》の大地を見つけたときから、ファンタジーのめざす別世界が、実は現実世界と地つづきのところにある[#「地つづきのところにある」に傍点]と考えられはじめたことは、すでに述べておいた。けれどこの経緯が、当然ながら「存在」という概念にも大きな衝撃を与えることになった点を、どうかチェックしておいていただきたい。地球ばかりではなく、月や星といった「もうひとつの地球」をはじめ、人間の心に築かれた「夢の世界」にまで拡がるすべての存在――生物と鉱物が――、地つづきの[#「地つづきの」に傍点]関係にあると考える方向が、人間と宇宙の新しい関係を定めたのだ。
もっとも、十八世紀の人間は、地上の生物によく似た生き物が月や夢のなかといった別世界にも等しく住んでいるだろうとは考えたけれど、もはや錆びの浮いた「自然界の不変的連続」を持ちだすほどナイーヴではなくなっていた。その代わり、かれらは生物と生物をつなぐ中間生物の可能性を、ひとつの変異――あるいは畸形として捉えることによって、物質を変え得る[#「物質を変え得る」に傍点]と断言した、パラケルスス以来の化学に新しい大系の夢を託した。そしてここに、十八世紀の錬金術的な「存在の大いなる連鎖」と怪物の博物誌は復活する。そう、かれらは直感していたのだ。「種《しゆ》というものは、その種本来の完成した姿に至ろうとする運動を、歴史的時間のなかで押しすすめている。そしてその時間流のはざまには、限りなく変化に富んだ畸形や中間形が生まれ得る。ただ、それらが滅亡するのは、完成≠ヨの道にたまたま乗りそこねた存在だったからにすぎない」と。十八世紀の生物学は、こうして変異――あるいは畸形について異常な関心を注ぎはじめる。そしてこの衝撃度は、かれらが現代の錬金術たる化学を武器としてその変異を実際に人工的に起こし得ると確信したことから、さらに強烈なものとなった!
十八世紀の生物学は、まさに怪物造りと畸形造りの実験場といった様相を呈する。それは、アルベルトゥス・マグヌスやジョン・ウィルキンズが熱心に作りあげた自動人形《オートマタ》のような、いささか子供だましの風景ではない。十八世紀イギリスの生物学者アンダスンは、カナリアと五色|鶸《ひわ》との雑種を造りだし、それを日々愛玩した。また科学者ド・レオミュールはうさぎ[#「うさぎ」に傍点]とめんどり[#「めんどり」に傍点]との雑種(!)を作成し得ることの保証書を残しているし、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌの文献にもフランツ一世の弟がおこなった「自然科学的な」雑種実験に関する同じような記録が語られている。『文芸通信』によれば、うさぎが一羽の雌鶏に五、六羽の子うさぎを生ませた事件まであったという。さらに一七二〇年には科学者マイエが、人間と猿を交配して恐るべき怪物を作成した。この人間と猿の雑種生物は、『人間機械論』の作者ド・ラ・メトリの『霊魂の自然史』やボネの『自然の観照』にも登場する。
当時のこうした新生物創造者のうち、とりわけ筆者の注意を惹きつけるのは、十八世紀の遺伝学者ピエール・ルイ・モロー・ド・モーペルチュイだ。かれの場合、新生物創造のきっかけとなったのは、アフリカからパリに連れてこられたベンガル生まれの白いニグロ=iアルビノ)を見たことだった。話を聞くと、ベンガルのニグロには特定な家系に白子《アルビノ》現象がよく発生するという。かれは、この白いニグロ≠フ家系を辿っていけば、まだ雲をつかむような研究テーマであった遺伝メカニズムの謎を解き明かせると考えた。
やがて、フレデリック大王の招きでベルリン科学アカデミーの運営を引き受けることになったのを機に、モーペルチュイは動植物の畸形や怪物《モンスター》≠スちを集めはじめる。そして間もなく、ヤコプ・ルーへというドイツ人外科医にめぐりあうことになる。ルーへ医師は手足に余分な指≠持つ極めて稀れなケースであって、医師の母親と母方の祖母もまた同じ多指≠フ形態を持ち、母方の兄妹も六人のうち三人まで同じ特徴を示していた。いっぽうルーへ医師がもうけた子供たちにも六人中二人に父の形質≠ェ顕われていた。モーペルチュイはこのケースから、形質は「はじめ女系から伝えられ後に男の子孫に顕わ」れるという変異の秘密をつかんだ。モーペルチュイは、この遺伝メカニズムを繰り返すことによって、「まだ自然が生みださない」別種の生物を創り得ると考え、ついに新生物作出の実験にとりかかるのだ。
しかし考えようによっては『フランケンシュタイン』のロマンスよりもずっと烈しく生命の本質に挑みかかる危険な実験に着手したモーペルチュイは、思わぬ大敵に遭遇してしまう。それまではモーペルチュイの熱狂的な支持者だったヴォルテールが、ベルリン科学アカデミーにおけるかれのそうした運営方式を批判し、例の毒舌で徹底的な追い落としキャンペーンを展開したからだ。こうしてモーペルチュイは、当時の生物学水準をはるかに超えた新生物創造の秘密をつかんだがために、「犬やカナリアの雑種」を創り、ビュフォンやボネに影響を及ぼしたきりで、ぼくたちの怪物創造史から姿を消してしまう。予言的な言葉を散りばめた大著『自然の構造《システム》』に、次のような文章を書き残して――
「偶然による変異《ミユータント》形質出現のメカニズムによって、たった二つの個体から、似ても似つかぬ種が無数に生まれる過程を説明できないことがあろうか? かれらは最初の創造を、ごく偶然な要素伝達の失敗にだけ負っているのだ」
☆怪物を創る人びととかれらの嘲笑について[#「怪物を創る人びととかれらの嘲笑について」はゴシック体]
十八世紀の騒然たる時代にあっては、生殖の問題も「存在」を創りだす化学のメカニズムとして生物学者の心を捉えていた。シャルル・ボネもレオミュールも、昆虫や腔腸動物や半男半女体の生殖について奇怪きわまりない研究や実験をくりかえしていた。かれらにとって、猿と人間の違いなどは単に形状の違いでしかなかった。人間と猿の交配をはじめて検討したマイエは、一七二〇年サン・ジェルマンの市に展示されたオランウータンを見て、人間と交配させれば猿の運動能力と人間の知力を併せもった超猿人が創れるのではないか、とさえ考えた。一六六九年にオランダの博物学者スワムメルダムが唱えた「先行胚珠」の理論は、いわば生物の物理学的解釈だったわけで、そうした馬鹿げた幾何学風遺伝学は打破されなければならなかった。しかし、たとえば胎児は卵のなかですでに体が形成され、その卵はまだ母親が胎児だったときにすでに体内に作られていたといった無限の遡りを設定する卵生論者や、すべての生物ははじめ眼に見えぬほど極微の生物として(しかしちゃんとした体をもって)、最初の雄の精子のなかに封じこめられていると説いた小動物論者たちの、そうした数学的な錯覚を笑いものにした学者は、当然ながら無神論の悪魔医師と紙一重の線に立ちどまっていた。極言すれば、かれらは無から合成された精子と卵子が偶然に結びついて偶然の個体を増殖しながら時間を超えていく運行の図式を、すでに冷たい目で描き終わっていたのだ。だからこそ、かれらは生物学と科学の「恐るべき変成力」を見極めるために、怪物のコレクションに没頭した。こうして博物学は、もはや言語学ではなくなり、変異の事蹟を辿る一種の「神のまねび」に変わっていく――
そしてここに、自然そのものを変える技術たる生物学から文学的な別世界を築きあげた人物がいる。十八世紀のフランス百科全書派を背負って立った、なんとも謎めいた人物、ドゥニ・ディドロ(一七一三―一七八四)である。盲人の数学と盲人の宇宙について論じた著作『盲人書簡』をはじめ、小説家としてはあのマルキ・ド・サドのテーマを先取りした『修道尼物語』、なんと女陰が話をするというものや『おしゃべりな宝石』など法外な文学空間を生み、歴史や音楽や医学や数学、さらに美学と政治学にまで不可思議な情熱を燃やしたディドロは、いま新しい博物学の拓いた怪物のユートピアへ深く分け入ろうとするわたしたちにとって、これ以上饒舌で退屈させない道案内は望めないほど見事な案内役をつとめてくれるだろう。
どうして別世界創造者としてのディドロが、日本の文学史家たちの徹底的解剖を受けずにきたのか、筆者にはどうも分からない。ファンタジーと幻想文学を語ろうとする場合、筆者は文学の転向点たる十八世紀に足跡をしるしたディドロとヴォルテールの、これら宇宙的規模のおしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]に耳を傾けることほど必要な作業はない、と考えている。ヴォルテールがギリシア以来の世界拡大理念を諷刺的に辿った『ミクロメガス』などは、宇宙人と人間とのコミュニケーションから発生する驚異感《センス・オブ・ワンダー》のすばらしい実例なのだ。あまりにも有名なかれの別世界ファンタジー『カンディード』はここに挙げるまでもなかろう(『カンディード』もディドロの『ダランベールの夢』も、幸いなことに日本では岩波文庫に収められている。ファンタジーの論理を探ってゆくうちに、いつの間にか書棚が岩波の青帯や赤帯に占領され尽くしていくのを知ることは、たしかに奇妙な経験だけれど、しかし実りは大きいのだ)。
☆怪物学の巨人ディドロ[#「怪物学の巨人ディドロ」はゴシック体]
ところで、十八世紀博物学の想像力が生みだした最高の怪物学は、百科全書派ディドロのなんとも奇怪なエッセー(いや小説――ファンタジーと言い切ってもかまわないが)『ダランベールの夢』に凝縮される。『ダランベールの夢』(新村猛訳)は、宇宙論と生物学との奇妙なコンコーダンス『自然の解釈に関する思索』とともに、まったく異質な衝撃を与える作品だ。
「ダランベールとディドロとの対談」、「ダランベールの夢」、「対談のつづき」から成る『ダランベールの夢』三部作は、一七六九年に執筆された対話編だが、ディドロはそのなかで、「牛と人間」や「馬と人間」などの交配雑種を作りだす動機付けは、当時ようやく勢いを得た大資本家が〈理想的な労働者〉として働かせ得るロボット[#「ロボット」に傍点]の創造を要請した点にある、と述べている。そして科学者は、恐ろしいことに、資本家用の怪物をつくる手助けを、せっせとおこなったらしいのだ。
さて物語は、百科全書の序文を書いた数学者ダランベールが眠りについているあいだにおこなわれる、利発なレスピナス嬢と、山師とも超人ともつかない医師ボルドゥーとの対話を中心に、語り進められる。ここでは物質と生命、生物と無生命、発生と合成の問題が次つぎに話題にのぼり、しかもセックスやモラルに関する卑俗な話題さえ回避されない。患者の脈搏を測るだけでどんな病気も即座に言い当てられると豪語する超人的な医師ボルドゥーは、理性の世紀十八世紀にふさわしい「知識」という名の力《パワー》を誇示しながら、それまでは神だけが握っていた「種《しゆ》の交配」と生物創造の秘密について、実はまったく無神論的[#「無神論的」に傍点]なその秘密の本質を暴露したあとで、「生物の循環を実験的に促進することによって、たとえば山羊から、精悍で、頭のよい、疲れを知らぬ足の早い種族を創りだせるだろうし、またそうした種属から優秀な召使いを創ることもできる」と断言する。
「すてきですわ、先生。その公爵夫人がたの馬車の後ろに山羊の趾《あし》をした横柄な男が五、六人見えるようですわ」と嬉しがるレスピナス嬢に対して、さらに医師ボルドゥーは、こうした実験があまりおこなわれないのは「われわれの臆病さや嫌悪や法律や偏見の」せいだと前置きしながら、うさぎと雌鶏をかけあわせて毛むくじゃらの雛鳥を創った太公の話や、オランウータンと人間の異種交配を検討した科学者マイエらの話を、とどまるところなくまくしたてる。そして、この怪しげな畸形学の講釈には、新しい力を掴んだ「神の猿」の測り知れない自信がみなぎっている――
「われわれの臆病、われわれの毛嫌い、われわれの法律、われわれの偏見のおかげで、今までになされた経験はごくわずかなのです。それでまったく実を結ばない交合がどういう場合かはまだわかっていないのです。有用ということが快いということに結びつく場合、種々な継続的な企てからいかなる種類の種族を約束し得るか、半獣神が実在のものであるかそれとも作り話のものか、騾馬の種族を多くの変った方法で殖やすことができないかどうか、現在われわれの知っている種族がほんとうに子を産めないものかどうかはわかっていないのです。けれどもここに不思議な事実があります。教育のある無数の人びとが真実だと言って証明するでしょうが、実は嘘です。それというのは、オーストリア太公の養鶏場に一匹の恥知らずな兎がいて二十羽ばかりの恥知らずの牝鶏のために牡鶏の役目を勤め、牡鶏もそれで結構満足していたのを見たというのですが、おまけにこの浅ましい交合から生まれたという毛の一杯生えた雛を見せられたというのです……
生物の交替は順を追うて段階的であり、生物の同化は準備を要求するというつもりなのです。それからこうした種類の実験に成功するには、早くから取りかかり、まず手始めとして似たような仕組みのところから、動物同士を近づけて行くようにしなければならない、というつもりなのです」(小場瀬卓三訳)
――こうして、ディドロの超人的英雄ボルドゥー医師は怪物創造に着手する。その知識と忍耐を武器として。しかしボルドゥー医師ほど超人的でもなく、また心の翳りを押し隠さずにはいられない善良で小さな人間たちが、怪物創造に関する技術としての壮大な生物学の力に尻ごみするあまり、代わりに医学による接ぎ剥ぎ作業[#「接ぎ剥ぎ作業」に傍点]を担ぎだすことを思いついたとしても、不思議ではない。かれらは手術という職人技能を通して、別種の怪物を創造しようとしたやや心やさしい[#「やや心やさしい」に傍点]「神の猿」であった。そして、そのうちの一人に、あの心貧しく信仰あつい医師ヴィクトル・フランケンシュタイン博士が含まれていたことはいうまでもない。とにかく、怪物の博物誌からスタートした本章は、目標としていた幻想小説『フランケンシュタイン』の足許《あしもと》に、今やっとの思いで辿り着いた。ぼくは次に、ディドロらの著作を念頭に置いた上でメアリ・シェリーの怪物学に話を進めようと思う――
☆怪物として――あるいはフランケンシュタイン・コンプレックスのこと[#「怪物として――あるいはフランケンシュタイン・コンプレックスのこと」はゴシック体]
あまりに自明的でありすぎるために、かえってわたしたちの感性を素通りしていってしまう問題がある。けれど、それは多くの場合、提示されたひとつの事象について、他のあらゆる言語を何万語か費やして語るよりも、はるかに強い説得力をもつ表現となるものだ。筆者はそういう感じを、とりわけ〈グロテスク〉という概念についてはっきりと抱いている。ヴォルフガング・カイザーは『グロテスクなもの』(一九五七)のなかで、グロテスクなものの無害化がおこなわれた十九世紀ロマン主義以降の時代を語りながら、グロテスクな人間の三つのタイプを分類しているが、それによれば第一のパターンはうわべのグロテスク[#「うわべのグロテスク」に傍点]な人間たちであり、第二は精神のグロテスクな人間、第三はグロテスクな振舞いをする人間だという。ただカイザーは第一のパターンにそれほどの力点を置かず、グロテスクの要素をもっぱら第二、第三の、いわば非視覚的な形態のなかに発見しようとするのだが、よく考えてみると、「醜怪な外見」に代表されるうわべのグロテスク[#「うわべのグロテスク」に傍点]にもとめることを回避するのはひどく偽善的な行為に思えてきて、どうにもしかたなくなるのだ。たとえばそれは、バルザックの『セラフィータ』でもいい。ポーの『ちんば蛙』でもいい。かれら人間を超えた形態をもつ人間にとって、その肩に負わされた「グロテスクなゆえの悲しみ」は、それが決定的にうわべ[#「うわべ」に傍点]にあらわれた醜怪さであるために、救いのない深さに落ちこむのだ。そしてそのとき、怪物の烙印を捺された存在の悲劇をもっとも象徴的に具現した文学作品として、わたしたちはメアリ・ウルストンクラフト・シェリーの『フランケンシュタイン、あるいは近代のプロメティウス』を思い浮かべるだろう。この小説を通して、ぼくたちは、外見のグロテスクさが人間の感性に与える理屈を超えた反撥と嫌悪の根元を覗こうと考える。なぜなら、もし仮に、グロテスクということばに「崇高」という色合いが含まれるにしても、かえってそのために『フランケンシュタイン』の怪物は、徹頭徹尾グロテスクの度合いを深め、その分だけ余計に深い傷跡を心に焼きつけるからだ。そこにはグロテスクに関するありとあらゆる悪意が群がっている。癩をわずらい、無残な姿でなおも生きながらえる尼僧が、人びとに神の愛と美を説くあの『腐爛の華』の作者ユイスマンスも、醜悪な外見が心に深い傷を刻みこみ、やがて内面をもグロテスク化してしまう避けようもない同化作用を、はっきりと意識していたにちがいないのだ。
わたしたちは『放浪者メルモス』のなかに、第三のタイプのグロテスクを見つけることができる。しかし、こうした別種の「グロテスク」たちは、幸いなことに隣人として一般市民の生活に割りこむことができる。なぜなら、かれらの異質な精神と異質な行動とは、すくなくとも、毎日を穏やかに過ごしている愚鈍な一般市民に、その恐るべき全貌をさらけだしはしないだろうから。けれど「うわべのグロテスク」だけは、そうはいかない。かれらの上にさらけ出されたグロテスクは、聖と俗、美と醜の決定的な分水嶺をかたちづくる。なるほど、これら醜悪な外見は、人間の博愛心によってごく簡単に乗りこえられるもののように考えられるかもしれない。しかし、そんな素朴な感性さえも乗りこえられないところに、悲劇は生まれたのだ。怪物が真の意味で怪物と化すのは、まさにその瞬間だろう。この、あまりに自明すぎて口に出すのもはばかられる問題を離れては、すくなくとも筆者にとって『フランケンシュタイン』は存在しえない。あくまでも美しく、しかも釣り合いのとれた天使のような人間をつくろうと努力しつづけたフランケンシュタインの前に、「黄色い皮膚は下の筋肉と血管の組織をどうにかおおっているだけで、毛髪はつやつやと黒く、ふさふさと生え、歯は真珠色に白かったが、こういうものがりっぱなだけにかえってそのみずみずしい目と恐ろしい対照をなし、目はほとんどその灰白色の眼孔と同じ色に見え、顔はしわくちゃで、一文字にきれた唇はどす黒い」怪物が横たわったときから、とにかく文学上の怪物学はスタートするのだ――
☆エラズマス・ダーウィンの世界[#「エラズマス・ダーウィンの世界」はゴシック体]
はじめに、フランケンシュタインの怪物が、宿命的に背負わなければならなかった「醜怪さ」――あるいは今までに使ってきた表現を思いだすのならば「うわべだけのグロテスク」が、社会的存在としての人間に決定的な足枷をはめるに至る時代を、考えてみよう。おそらく怪物の世紀は、このときすでに象徴的な現象をともなってヨーロッパに押しよせていた。エラズマス・ダーウィンの原形的な進化論は「紀元前四〇〇四年に神々が万物を創造した」とする当時の通説を槍玉にあげて、生命がどんなに烈しい自然の猛威にさらされながら生きのびてきたかを、まるで暴露記事のように告発していた、崇高の極みをめざすロマン派の文学者に影響を及ぼしていた。
蛇足ながら、ここで一言付け加えておくと、エラズマス・ダーウィンは進化論の提唱者チャールズ・ダーウィンの祖父に当たる。チャールズの近代進化論は祖父エラズマスの詩的思想を科学的に立証したものだと指摘する人物もいるが、ぼくはまずエラズマス・ダーウィンの生物史観をディドロらと同じ「生物学と化学」の恐るべき威力に着目した奇怪な人物の具体的発想として捉えることにする。
しかし医師として生物学にかかわったエラズマスは、怪物学に憑かれた原始的進化論者の一員であるばかりではなかった。どうやらかれには、ジョン・ウィルキンズのロイヤル・ソサエティ以来イギリスに成立した「応用科学を駆使して現世にユートピアを建設しようとする」別世界創造者群に連なる十八世紀の戦士だった節がある。毎月、あの別世界のシンボルである月の影響が最も強くなる満月の夜に、バーミンガムの一室に集まり、星々の力を享けながら宇宙と自然について語りあう科学者団体ルナー・ソサエティ(「ルナー」は、もちろん月の意味だ)――このなんともファンタスティックな名を持つ団体を組織した主役が、実はエラズマス・ダーウィンだったからだ。ダーウィンをはじめジェームズ・ワットやベンジャミン・フランクリン、ウィリアム・ハーシェル(天王星の発見者だ!)ら、応用科学のチャンピオンたちが顔を揃えた「ルナー・ソサエティ」は、文学や化学、物理学、天文学、数学、生物学、地質学などあらゆる科学領域に精通する一種のルネサンス人の集まりだった。これは、かれらが次の別世界創始者にのし上がるための資格といえた。そのなかで、産業革命用の機関や動力を手始めに空飛ぶ器械や自動車の原形を設計し、電気の利用に腐心したエラズマスは、第二のジョン・ウィルキンズと呼びたくなるほど大規模な新思潮運動を展開している。ただし、この興味津々たる人物が抱いていた最大の野望は、歴史に残る詩人になることだったのだけれど、この超ヒーローにして唯一の欠陥が詩才のなさ[#「詩才のなさ」に傍点]だった事実は、なんという皮肉だろう! しかしさらに皮肉なことに、エラズマスの特異な進化思想が人びとに広まったのは、その不器用な詩編を通じてであった(もっとも、ダーウィンを悪文家扱いした張本人は、S・T・コールリジだったが)――
とはいっても、エラズマスの詩譚は想像力の文学という角度から観て、わたしたちに異様な興奮をひきおこさせる|崇高さ《サブリミテイ》にあふれている。処女作『|植物の苑《ボタニツク・ガーデン》』(一七九一)は、第一部『植物の愛』および、第二部『植物の有機系』から構成されているが、窮極植物の女神が催す秘ミス儀テリの光景を植物学のイメージにのせて語り、やがて科学の壮大な啓示へと展開する神秘劇のためのコーラスである。いっぽう死後に出版した『|自然の殿堂《テンプル・オブ・ネーチヤー》』(一八〇三)は宇宙の発生から死滅までをカバーする自然誌として、孫のチャールズが後年立証する進化論を先触れしている。さらに散文『ズーノミア』(一七九六)では動物の形態と運動機能からはじまって、動物の体をラ・メトリ風な機械主義で徹底解剖したあと、生命に害となるすべての病気を治療するパラケルススそっくりの方法論を披瀝する。またもうひとつの散文『ピトロジア』(一八〇〇)では、動物に代わって植物の世界に徹底したメスを加え、リンネの植物分類を人間と宇宙のアナロジーにまで高めてしまう。鉱物と動物が植物によって結ばれていることを発見した十八世紀の、こうした不可思議な植物学ブームの一部は、まちがいなくエラズマス・ダーウィンによって英国に持ちこまれたはずだ。なぜならかれは、リンネの著作を英訳した最初の英国人のひとりだったから。
「――みよ! そのか細い殻のうちなる種子という種子には、生命の黄金なす糸が果てしない円環を描いてからまりあう――」 (『植物の有機系』第四編)
詩人としての成功を夢みたダーウィンの恐るべきヴィジョンは、かれ自身にとって結局挫折をもたらしたとはいえ、ウィリアム・ゴドウィンやシェリーたち、英国ロマン派の思想構成に測りしれない影響をおよぼしていた。何かが目醒めかかっていた。時代はこのとき、神々の子孫だったはずの人間が、猿や豚と血脈的に結びついていたことを知って愕然としていた。そしてエラズマス・ダーウィンの複雑にからまりあった精神のアラベスクを経た科学が、この時代に初めてロマン派の呪われた詩に霊気を吹きこんだけれど、それによって科学はみずからも呪われる[#「みずからも呪われる」に傍点]という皮肉な運命をたどった。
が、時代の精神はすでに呪い[#「呪い」に傍点]に頓着しなかった。メアリの父ウィリアム・ゴドウィンは当時早ばやとダーウィン説にくみし、かれのゴシック・スリラー『ケイレブ・ウィリアムズ』に「あるがままのことがら」という衝撃的な副題を挙げて、呪われた科学への接近を実行に移しているし、いっぽうトマス・ラヴ・ピーコック(一七八五―一八六六)のような諷刺作家までが、『メリンコート』と題するダーウィン説のパロディをのちに発表している。ちなみに書きくわえるが、『フランケンシュタイン』に二年先んじて出版されたこの『メリンコート』は、ことばをしゃべれない代わりに、フルートとフレンチ・ホルンを上手に吹奏するオラン・ホウタン卿を主人公にした小説だが、なんと主人公というのは本物のオランウータン[#「本物のオランウータン」に傍点]である。しかも、ぼくたちにとってさらに興味ぶかいのは、ピーコックの暗示的なパロディをメアリが読んでいるという事実だ。そのときメアリは『メリンコート』を読みながら、ダーウィンの呪われた仮説を想い、オラン・ホウタン卿が演ずるなんともグロテスクな役柄に対して、分析さえ不可能な或るコンプレックス[#「或るコンプレックス」に傍点]を感じていたにちがいない。
☆進化か退化か?[#「進化か退化か?」はゴシック体]
もっとも、ダーウィンの考えかたは自然神学に関する論争のさなかにあって酷評と絶讃の両極端に分極化され、一般には故意に[#「故意に」に傍点]無視されたと考えてかまわない。当時、大学で博士号を取りたいと思ったらエラズマスの思想を酷評すればオーケーだ、と言われたほどだからだ。いっぽう同じ思想を「崇高《サブライム》の感覚をこれほど見事に表現したものはない」と手ばなしで称讃したのは、十八世紀の最も進歩した文明人ホレス・ウォルポールであった(ウォルポールについては、「終末の儀式」の項でもう一度論じたい)。
ダーウィニズムの擡頭は、こうして人類に第二の堕落を体験させた。それも、昔とは比較にならないくらい徹底的に。ガリレオもブルーノも、あるいはギルバートも、社会通念を逆転させる冒涜的な学説を口に出した人間は、かれらなりに科学を呪われた存在に変えたけれど、種の発展が厖大な空間と時間とを要するグロテスクな作業であったことをさらけだしたダーウィンとその子孫ほど、科学を暗黒へと近づけた人物はいなかった。だからこそ十九世紀の哲学者兼科学者であったストリンドベリは、科学の冷酷さに正面から挑みかかる呪いのことばを、『獣の手か人の手か』と題する小品のなかで次のように吐きかけずにはいられなかった――
「生徒は言った、キップリングの傑作『ジャングル・ブック』の中に、小児があらゆる種類の動物と親しむが、ただ猿猴のみとは親しまない所があります。即ち類人猿はあらゆる獣類の中の最も悪しきもので邪悪と罪悪とに生きているものだからであります。ゲエテは、ファウストの第二部に、幽霊や悪鬼を表現しようとして、第一部の魔女の厨房の中にいる猿共に与えたのと同じマスクや衣裳を使っている。そして人間は今やこの堕落した獣の中に、祖先を求めようとして全力をつくしているのです。私はむしろ自分の祖先を高尚な馬か、かしこくて正直な象か、それとも勇気があって、感謝の念に深い鷲に求めたいと思います。
「しかし類人猿が堕落した人間、逃亡せる犯罪人、難破せるロビンソン・クルウソォ達から発生したというのなら、なるほど、ありそうな事であります。黒猩々の手は人類の手に進化しつつある獣の手でなくて、反ってそれは獣類の手に退化しつつある人間の手であります。ある手相家はその筋を読む事が出来ます。ある美爪家はそれを改良し、手套を着け得るようにする事が出来ます。もし人が真に類人猿から進化したものだとすれば、系統発生学の法則に従って、人間の小児は毛の生えた体を持って生まれて来る筈であります。しかし実際は天使のように滑らかな体をして、頭にすら毛を持たずに生まれて来る児がよくあります」
このストリンドベリのことばは、ある意味でダーウィニズムに対する反撥意見をよく代弁していると思う。しかし、この反撥は同時に生命発生に関する一般通念の敗北を先触れしてもいた。自然界に現われるダーウィニズムの恐るべき物証がヨーロッパの科学者によって次つぎに明るみに引きだされる時代が、やがて訪れるからだ。そして純正科学の道に従う先進国の医学者たちは、そのころ〈グロテスクの大系〉と呼んでもいい然《さ》る宿命的なダーウィニズム[#「宿命的なダーウィニズム」に傍点]の暗黒部分に、光を当てはじめようとしていた――
☆怪物の歴史を開く[#「怪物の歴史を開く」はゴシック体]
フランスでは十八世紀初頭にビュフォンという学者が出て『人間と怪物のいろいろ』と題する著書を公刊した。これは医学的な見地に立った〈畸形〉の研究書なのだけれど、このなかでかれは、人間の畸形に見られるいくつかのパターンに言及しながら、「おそらく怪物[#「怪物」に傍点]と呼ばれる存在は三つのカテゴリにまとめられると思う。第一に余分な付属物による怪物、第二に欠損による怪物、そして第三に何個所かの部分の逆転、あるいは不整合による怪物」だと結論している。この先駆的な出版につづいて、一七七五年には、ルニョーという医師が、四十もの精密な図版を配した『自然界の畸形、あるいは動物界において自然が生産したる基本的畸形の集成』と題する著書を公にした。四十の図版は、どれも誇張や婉曲な表現を一切避け、可能なかぎり正しく現物を写生した貴重なもので、シャム双生児の肩で一つ目の猫が鼻づらをすり寄せていたり、あるいは双頭のハトが不気味な植物の上に止まっていたり、とにかく四十枚ぜんぶ嘔吐をもよおすような凄みに満ちみちていた。さらにメアリと時代を同じくする一八一八年には、人間の畸形に関する決定的な名著ジョフロワ・サン・ティレールの『解剖学の哲学』が出版されている。
けれど、書物の名前を数えあげるのは、もうこれでいいだろう。要は、怪物に対する興味と好奇の波が、こうしてダーウィニズムの浸透をともないながら勢力をひろげていったことがわかればいいのだ。なるほど、科学の時代が冷酷な目で怪物たちを見つめはじめる以前にも、たしかに人類は怪物[#「怪物」に傍点]を愛していた。しかし、かれらの愛しかたが、メアリの時代に現われはじめていた畸形に対する興味のそれと、同じ性質のものだったとは判断しがたい。かれらはたぶん、巨人や小人や畸形を単にフリークとして愛していただけなのかもしれない。それも、ある種の変態的性愛をともなって。たとえばヴェラスケスが生きていた時代の王宮には、慰みものとしてどこにもかならず一寸法師が「飼われて」いた。ヴェラスケスはスペインで宮廷画家を勤めていた関係から、皇女がたの前で道化を演じては喝采を得ていた多くの一寸法師たちを写生している。『夢を喰ふ人』を残した大正文学の鬼才松永延造は、床に足を投げ出している一人の小人を描いたヴェラスケスの画を見て「その肖像画を一目見た時、私は深い理由もなしに涙ぐんだ。一寸法師の正直相な表情が、あまりに哀れを極めていたためかもしれない」と感想を洩らし、ヴェラスケスの完全な技巧が、かえってその醜悪な相貌の表現によって美の極致に達している、とも書き加えている。けれど、もし松永延造が一寸法師に対してほんとうに「美の極致」を感じたとしたら、それはヴェラスケスによる変容であるか、あるいは松永自身がその一寸法師と同質的な立場に立たされていたからかの、どちらかになるだろう。そうでなければ、メアリは、『フランケンシュタイン』のあの苦悩を表現する本質的な動機をうしなうことになりかねない。
そしてその点では、メアリの創造した怪物がディドロやエラズマス・ダーウィンが知っていた「交雑や異種間交配による純粋な怪物創造」によって作られたのではなく、死体を集めた一種の自動人形《オートマタ》≠ノすぎなかった事実を思いだす必要がある。これは明らかに救い≠ネのだ。実はメアリは、エラズマス・ダーウィンの思想を父親を通じて知っていた。おそらくディドロが描いた遺伝学者や医師たちの「呪わしい交雑実験」や畸形生物の存在についても知っていたにちがいない。なぜならメアリは『フランケンシュタイン』の序文で「この物語が礎《いしずえ》を置いている出来事は、すでにダーウィン博士や一部のドイツ人医師によって検討されたものである」と告白しているからだ。しかし実際に書かれたメアリの物語は、怪物の創造に関する限り、ディドロや一部の生物学者がおこなったような「あれほど冷酷で残虐で非人間的な」生物学の方法を用いなかった。描かれた怪物は、幸いなことにやはり人間[#「人間」に傍点]であって、「山羊の趾《あし》をもつ召使い」ではなかったのだから。けれどこの確かな救い≠ヘ、あのP・B・シェリーが愛する妻にそっと囁いてくれた忠告のお陰[#「忠告のお陰」に傍点]だったのかもしれない。
もちろん、五体満足に生まれ育った大多数の人間にとって、フランケンシュタインの怪物が哀れみを誘う存在であることは否定できない。怪物が、自分たちは決して人間社会の愛される構成員に迎えられないのだということを、知りつくしているから。フランケンシュタインの怪物は、生みの親を憎み世界全体に復讐することで、その認識の恐るべき猛威にかろうじて抵抗した。そして、別の怪物は、逆に自分の醜怪さを人目にさらすことによって、われわれに対するシンボリックな復讐を遂げようともした。事実、一九二〇年代アメリカの風俗を代表するバーナム&ベイリーの見世物『自然の驚異』には、自分の姿を人前にさらすことによって、見物にやって来る一般大衆には及びもつかない豪奢な生活を我がものにした怪物たちの肖像が、ずらりと並んでいる。一九三二年十月十四日にバーナム一座のフリークたちが総出演する映画『フリークス』を見物したジュリアン・グリーンは、その日の日記に次のような感想を記《しる》している。「ある者は、歪んだ鏡に映った子供のように見えた。人間の胴が、肥えた芋虫みたいに地上を転がっていく。その胴の先には頭がついていて、しゃべったりタバコを喫ったりする。終わりのほうでは、雨の夜に一人の若く美しい女性を追いかける怪物の群れがあらわれる。彼女はやがて手足を引きさかれ、かれらと同じ怪物に変わってしまうのだ。怪物たちはゆっくりと動く、そして彼女は駆け足だ。だが、それにもかかわらず、最後には怪物が彼女を捕えてしまう」。
こんな引用はもうよそう。ただそこには、かれら怪物が暴力を仲介にして人間と共存しうることが示されている。ベイリー一座の広告には、「日本の巫女」とか「日本の顕微鏡人間」とか「熊女」とか「アルビノ」とか「いれずみの男」とかいった、センセーショナルで、醜怪で、しかも不健全な魅惑に満ちた驚異の人間たちが、そんな共存のパターンとして描かれている。かれらは高いサラリーを得て、満足のいく生活を送っているのかもしれないが、それでも末路だけは見えている。かれら「フリーク・ショー」の主役たちもまた、これまでたどたどしく書き記してきた〈フランケンシュタイン・コンプレックス〉の苦い果実を味わわずにいることは不可能だからだ。だが、わたしたちは、怪物たちがいつかは身を任せるであろう怪物としてのコンプレックスについて、その本質を見あやまってはならないだろう。みずからの醜怪さに対するかれらの憎悪は、まさに「かれらがそういう姿に創られたのだ」という事実へ向けての、持って行き場のない憎しみに裏打ちされている。先天性の畸形にせよ、あるいはフランケンシュタインのように人工的な畸形の場合にせよ、かれらの醜怪さは、まちがいなく「創られた」という事実に結びついているのだ。そしてそれは、別種の醜怪さと根底的にたもとを分かつことになる。そういえば、ついこのあいだ国立博物館へ出掛けて、『小野小町の装衰絵巻』というものを眺めてきた。それは、一幅の絵巻であって、なかには、死んだ女性の肉体が腐爛しはじめ、悪臭を放つようになり、やがて野良犬に手足を喰いちぎられ二目《ふため》と見られぬ凄惨な姿になるまでを生まなましく写生してある。これを見て、夢野久作が書いた『ドグラ・マグラ』の主人公のように正気を失ったりはしなかったけれど、そのあとしばらくなんともいえない嘔吐感に襲われて困った。もちろんこの変生図はグロテスクの極みであったはずなのだが、死体のグロテスクは、やがて浄化され無形[#「無形」に傍点]という理想の美を与えられる喜びに満ちみちているようにも受けとれた。しかし不幸なことに、怪物たちはその喜びをまったく欠いているのだ。とりわけ、フランケンシュタインの怪物のように永遠の生命を与えられた不幸な存在にとって、このたとえようもない喜びは遥か遠い微笑みでしかない――
☆インターリュードはヴェラスケスとともに[#「インターリュードはヴェラスケスとともに」はゴシック体]
そんなことを考えながら、畸形と怪物の図版をいやになるほど並べたグロテスク趣味の本『ビザール』を閉じる。おそらく『フランケンシュタイン』についてのこういう興味の抱きかたは、本道から外れたものだろう。フロイト学派の見地からも、社会変動の反映という視点からも、あるいはルソーの哲学からも、論じるべき点は目の前に山積みされているというのに、『フランケンシュタイン』について論じる仕事が与えられたときの筆者は、ボリス・カーロフが扮した怪物のイメージと、スイスに亡命したレーニンの逸話を、同時に想っていた。といって、まさかレーニンが怪物だったと主張するためにではない。『知られざるレーニン』のなかで、かれがごく親しい友人に晩年語ったことば――「美しい理想を描いて作りあげることに努めてきたわたしの理論が、こうして振りかえってみると何とも怪物のように醜く思える」と述懐したあのことばが、ほとんど瞬間的に、レーニンをドクトル・フランケンシュタインに結びつけたからだ。もっとも、ここでレーニンの逸話をきっかけとする怪物創造者の立場からの怪物論をはじめている暇はない。それよりもわたしたちは、怪物の宿命的な醜悪さを生みだす源となった過去の「怪物創造史」の一ページを垣間見ることに、注意をとりもどそう。
先天的な怪物については、もう触れないことにして、それでは人工的に怪物を創ろうとした事実が過去にあったかどうかを調べる気になると、過去の呪わしい怪物創造の歴史は、次つぎに明るみにでる。怪物は、人間の手でまちがいなく創られていたのだ。松永延造の『哀れな者』(一九三五)によれば、ヴェラスケスと同じ時代に、ドン・カスチロという医師がスペイン王宮に出入りしていて、この男は「怪物製法」の大家だったらしい。スペインの宮廷にいた小人のうちの何人かはドン・カスチロの方法に従って人工的に「創りだされた」怪物だったともいう。たとえばムーア人のグツボという一寸法師は、生まれたその日から二十五年間も箱の中に暮らさせられた。八歳のとき、頭が箱の天井にとどいてしまって、そのうちに成長がとまり、だんだん猫背になってくると、こんどは銅製のコルセットで猫背を矯正され、X字になりかけた足には牛革と牛骨でつくった脚絆《きやはん》が着けられた。こうしてグツボは、八歳から三十歳にかけて身長わずか五十センチを保ちつづけたという。パラケルススはまた、錬金術の秘法に従って、ホムンクルスと呼ばれる醜怪な矮人を創りだした。アリスタ・クロウリはそれにならって、ガラスのなかでホムンクルスを飼った。サマセット・モームの『魔術師』には、この呪わしい人工生命創造の顛末がくわしく述べられている。けれど、ぼくにはもう怪物の歴史を語りつづける気力がない。
☆フランケンシュタインがメアリを犯した真の理由について[#「フランケンシュタインがメアリを犯した真の理由について」はゴシック体]
メアリ・ウルストンクラフト・シェリーにあっては、彼女の真の息子ともいえる「フランケンシュタインの怪物」が最後まで復讐しつづける存在として描かれていたと思う。怪物は、「生命創造」という行為の醜怪さに果てしない憎悪を加え、生涯メアリの心にとり憑《つ》きつづけた。だからこそ彼女は、『変身《トランスフオーメーシヨン》』という別の物語を書かずにいられなくなる。一八九一年に、リチャード・ガーネットの手で収集出版された『メアリ・シェリー短編集』から拾いだしたこの一編は、彼女が怪物に与えようとした「美しい人間への変身」の最後の機会だったといってもいいだろう。物語とは、ざっとこんな具合だ。
――亡命中の若い放蕩者が、とある海岸で、二目《ふため》と見られぬ醜怪な小人とめぐりあう。小人は宝石の詰まった箱を示して、これと交換におまえの体をしばらく貸してほしいと申しでる。若者は考えた末に申し出を受け入れ、自分はその醜い小人の体にはいりこむが、約束の日時が来ても、かれの体を借りた小人は戻ってこない。若者は相手を追い、かれの恋人をわがものにしようとしている小人を見つけだす。二人は決闘をおこない、相討ちとなるが、やがて若者はなつかしい自分の体のなかでもういちど目を醒ます……
メアリの真の息子フランケンシュタインの野望は、こうしてメアリみずからの手で押し潰される。この結末はたぶん、死んだ恋人を海に残してエディスンの許に帰ってきたあのミス・アダリーの場合と同じく、運命を感じさせるが、どのみち、メアリは最後まで怪物に救いをもたらさなかった。そしてぼくは、ふるいつきたくなるほど優雅で美しいメアリの肖像を前にして、何度もうなずかざるを得ないのだ。なぜなら、怪物がフランケンシュタイン博士に突きつけた花嫁の要求も、むなしく拒絶されたとき、かれに残された道は、北極の氷のうえで創造者たるフランケンシュタインを殺すことなどでは決してなかったからだ! 北極の氷山を遁れ、世間の記憶からも遁れることに成功した怪物は、フランケンシュタイン創造から数えてほとんど百五十年という煉獄の日々を生きぬき、H[#「H」に傍点]・C[#「C」に傍点]・アルトマン[#「アルトマン」に傍点]というドイツ作家の手を借りて、ついにメアリ・ウルストンクラフト・シェリーその人を抱きしめ、おのれの花嫁とすることに成功した。『フランケンシュタイン』から『サセックスのフランケンシュタイン』(種村季弘訳、河出書房新社)へ――この荒っぽい転換は、エディプス神話の再演であると同時に、こうしてすべてのグロテスクたちにとっては「救い」を希う執念の輝かしい勝利を意味することになった。ちょうど、ジュリアン・グリーンが観たグロテスク映画『フリークス』の輝かしい結末と同じように。
[#改ページ]
※[#ローマ数字12、unicode216b] 来たるべき宇宙誌
[#改ページ]
[#この行4字下げ] 世界はたえず始まりそして終わる。一瞬ごとに始源にあり終末にある。かつてこれ以外の世界のあったことはなく、今後もこれ以外の世界のあることはなかろう。
[#地付き]ドゥニ・ディドロ
☆地球照《アースシヤイン》と古い月[#「地球照《アースシヤイン》と古い月」はゴシック体]
準世界創造としてのファンタジーを、アレキサンドリア期から十九世紀にわたる〈世界認識の拡大〉史と読み替えて追究しつづけてきたぼくたちは、ここでようやく二十世紀の文学に手を延ばすところまでやってきた。けれど、夢の文学たるファンタジーの確立をジョージ・マクドナルドの作品などによって確認したばかりのわたしたちは、無数ともいえる新しいファンタジーの準世界群を前にして、いったいそれらをどう料理すべきか途方に暮れざるを得ない。そして、そんな疑惑を自分に投げつけながら、筆者は二十世紀ファンタジーを解析するための方法論を手にいれようとして、もうすっかり読み古したガリレオの『星界の報告』(山田慶児・谷泰訳、岩波文庫)のページをふたたび繰りはじめるのだが――
地球照《アースシヤイン》――というのをご存知だろうか? 地球に当たって反射した太陽光線が、そのまま月の暗い部分を照らしだして、たとえば三日月の影の部分がボオッと灰色に光ったりする現象をいう。なんのことはない、地球の照りかえしを受けて月面が薄明るく光る現象なのだが、これを科学的に正しく把握した最初の人物ヨハンネス・ケプラーが登場するのは、すくなくとも十七世紀の話で、それまでに現われた地球照《アースシヤイン》に関する奇説珍説は、数が知れない。古代の伝承によれば、この灰色の部分は、二重星[#「二重星」に傍点]である月の「古い分身」が、新しい黄色の月と地球とのあいだに割り込んだときに起こる現象と考えられていたし、その「古い分身」には、灰色の光[#「灰色の光」はゴシック体]というロマンチックな名前さえ捧げられていたようだ。
この天文学的な現象に向けて古代人が投げつけた想像力の歴史を辿っていくうちに、ひとつの奇妙な傾向が見えてくる。それは、ルネサンス期以降に確立した「地球光照りかえし」説に比較して、古代人がその灰色の光を、あくまでも独立した存在――地球とは何のかかわりもないもうひとつの星[#「地球とは何のかかわりもないもうひとつの星」に傍点]と考えていたことだ。ルネサンス期に近くなって、灰色の光はさすがに「二重星のかたわれ」という看板を降ろしたけれど、もっとファンタスティックな解釈によってその独立性は保たれつづけた。前一世紀にポシドニウスが提唱し、十三世紀に光学科学者ビテロによって普及された説によれば、月は本来透明な物質によって構成されたガラス球のような星であり、黄色い輝きの欠けた影の部分に、ときとして月の向こうの世界が透けて見えることがある、というのだ。どちらにもせよ古代人たちは、それが古い月の姿であろうと、月の彼方の世界の透過映像であろうと、すくなくとも地球面に当たった太陽の照りかえし――鏡に映った地球自身の顔――がそこにあるなどとは夢にも思いつかなかったわけだ。
その意味で古代人の想像力は、宇宙に対して、ある種の永遠性と隔絶性とを認めていた。かれらの宇宙誌がはじまりと終わりの連鎖した「ウロボロス」的発想を貫いたのも、道理なのだ。そしておそらく、そうした宇宙の隔絶性が「地球照《アースシヤイン》」に関する新しい思考によって完全に否定されたとき、人間のエネルギッシュな想像力はひとつの途轍もない方向を発見した。「宇宙」の認識は、こうして「別世界的存在」から「地球そのものの照りかえし」に満たされた空間に置き変わることによって、まったく革命的な拡大を達成する――
☆〈照りかえし〉としてのファンタジー[#「〈照りかえし〉としてのファンタジー」はゴシック体]
灰色の光の彼方にひろがる別世界を追い求めた幻想者たちもまた、地球照《アースシヤイン》に振りまわされた古代科学者たちと同じように、やがて想像力の変換を強いられる時にめぐりあった。隔絶した別空間の創造に身も心も捧げた、かれら「世界の構築者たち」は、夢の人生として描いたファンタジーの領域が実は「地球照《アースシヤイン》」に過ぎないことに、やがて気づきはじめた。けれど二十世紀の文学者は、ある意味で悪魔的な弾力性を備えていた。日常とは一切隔離した夢の人生を、すくなくとも幻想の空間で達成させることの困難さを早ばやと察知した文学者の一部は、逆に「地球照《アースシヤイン》」としてのファンタジーを最大限に利用する手段を思いつくのだ。
なるほど、地球の内部に巣食ったわれら人間に、トータルな映像としての地球は眺め得ない。自分自身である「自分」の姿を、この目で見とどけることは不可能だ。そしてこの不可能にあえて挑みかかろうとすれば、わたしたちは必然的に本体論《オントロジー》へ向かわざるを得ない。形而上学者になるか、それとも神秘家になるかしか、道はなくなる。ところが逆に、他人のなかに認識された自分を見とどけることは、それが本質的に自分と一体でない以上、光学的な意味[#「光学的な意味」に傍点]で可能になる。地球を描こうとする文学者の一部は、こうして月面に輝く地球照《アースシヤイン》を活写することによって逆説的にかれらの壮大な計画を実現しようとする。そしてここに、現実世界のリアリズムを窮めようとする異質な文学者たちが準世界創造に加担しはじめる契機が、見いだされるのだ。
この方向は、まずキリスト教文学者がそのドグマ的宇宙を再現するために利用することによってはじまる。かれらは進化論と手を組んで、地球の未来にかかわる人類史的な展開を、別世界のなかでシミュレーション[#「シミュレーション」はゴシック体]しはじめる。イギリスの神学者で『ナルニア国物語』を生んだC・S・ルイスは、『マラカンドラ』(一九三八、中村妙子訳、ちくま文庫)、『ペレランドラ』(一九四三、中村妙子訳、ちくま文庫)などを通して、人間が他天体の生物と接触し真の宇宙的生命へと昇華していく過程を描きだす。またそれよりも先、忘れ去られた世界創造者オラフ・ステープルドンは、『最後と最初の人間」(一九三〇)、『スター・メーカー』(一九三七)をはじめとする長編群によって、人類の誕生から死滅までの完全な年代記を寒ざむとした筆で描きあげる。地球を離れた人間の霊体が、ルイスの作品の場合と同様に宇宙生命へと進化していく壮大な物語を前にして、わたしたちは「地球照《アースシヤイン》」としてのファンタジーが恐るべき可能性を秘めていることを思い知らされる。わたしたちがその日常と対決している現実世界の「照りかえし」を、完全な別世界として、隔絶の果てから眺める方法が確立するのだ。
――こうして地球照《アースシヤイン》にまつわる妙なエピソードから出発した本章は、C・S・ルイスやオラフ・ステープルドンらの新しい世界創造に影響を与えた、ひとりの早すぎた魔術師[#「早すぎた魔術師」に傍点]に照明を当てようとする。かれの名はデヴィッド・リンゼイ(一八七八―一九四五)。コリン・ウィルスンがかれの処女小説『精神寄生体』の序文で「二十世紀最大のアングラ小説」と絶賛した『アルクトゥルスへの旅』(一九二〇)の作者だ。スコットランド人の血を引くリンゼイは、有名なカーライルの血縁者だが、作家としても社会人としても不遇の一生を送った。ロンドンで長らく事務を執《と》っていたかれが、ニーチェの哲学やドイツ神秘主義に深く傾倒したのちは、もっぱらキリスト教神秘主義者として貧困だが学究的な日々を過ごし、音楽の魔的な魅力にも終生惹かれつづけたという。生前出版したのは、わずかに五冊の小説だけ。いずれも少部数で世に認められる機会もないまま、孤独で悲惨な生涯を閉じた。この作家が、イギリスにおける宇宙的幻想の文学者としてコリン・ウィルスンらに注目されたのは、ほとんど一九七〇年代にはいってからの話だ。
しかし、この埋もれた作家が残した五つの物語のうち、すくなくともひとつは、長く幻想文学史上に輝きつづける「夢の宇宙誌」である。その作品を通じて、リンゼイは第二の『神曲』を――二十世紀の地下に脈打つ暗黒の『神曲』を――語り尽くしたといってよい。そして、その作品[#「その作品」に傍点]『アルクトゥルスへの旅』が描きだす奇怪なイメージの世界は、ファンタジーという個人的体験が、共同幻想の機能を超えて地上のあらゆる地獄図を映しだすひとつの地球照[#「ひとつの地球照」に傍点]となり得ることを、ほかのどんな作品よりも雄弁に物語ってくれるのだ。
ともかく、この恐るべき遍歴物語のページをひらいてみよう。ハンプステッドにある豪華な別荘で催された降霊会の場面にはじまる序章からして、わたしたちはまず度胆を抜かれる。なぜなら、一見怪奇ロマン風のいかにも煽情的な舞台設定は、まるで古いドイツ表現派の映画に見るように、自然の輝きと色彩をことごとく人工の彩りに塗りかえてしまっているからだ――
『アルクトゥルスへの旅』――展開
降霊会に喚び出された霊は、ギリシア彫刻のように端整な美青年へと肉化し、参会者に向かって神秘な笑みを投げかけた。人びとは驚きのあまり声が出ない。降霊の術が今まさに霊界の息吹きを室内に満たそうとしたとき、突如闖入者がドアを破って乱入してくる。この招かれざる客は、筋骨たくましいが醜い小男で、のっぺりとした黄色い貌には蛮力と獣性と滑稽さとを映しだしている。かれの名はクラーグ、地球では悪魔《デビル》と呼ばれる人物だ。クラーグは肉化した霊の首をひっ掴むと、勝ち誇ったようにその首をねじ折ってしまう! 体が床に転がる。そして神秘な笑みをたたえていた霊の貌が、不意に、下品でみだらな痴呆の笑顔に変わるのを目撃した人びとは、一斉に出口へと走りはじめる。いっぽう、たまたま騒動の場にいあわせた本編の主人公マスカルと、その謎めいた相棒ナイトスポアは、神秘を蛮力でねじ伏せた悪魔のような男に、異様な興味を感じるのだ。クラーグは、消えた霊と霊媒を笑いとばしたあと、マスカルに向かって声を上げる。「おい、そこの大男、この霊媒つぶしをどう思う? どうだ、こんな果実が狂ったように実っている場所へ行きたくないか? あんな鬼たちが群れてるところへ」「誰だ、きみは? どうしてここへ来た?」「相棒を呼んで、訊いてみろ。やつがおれのことを知っている」そう言って、クラーグはナイトスポアに近づいた。
「あいかわらず例の欲求に身を焼いているのか? いいかナイトスポア、サーター[#「サーター」はゴシック体]が行ってしまったのだ。おれたちはこれからやつを追わなければならん[#「おれたちはこれからやつを追わなければならん」に傍点]」
この謎めいた会話によって、マスカルたち奇怪な三人組の冒険ははじまる。謎の相棒ナイトスポアと悪魔クラーグは、古くからサーターと呼ばれる宇宙の創造主[#「宇宙の創造主」はゴシック体]を追いもとめていたことが、ここで読者に知らされる。二人に連れられて、スコットランドの断崖に立たされたマスカルは、そこで〈創造主サーターの太鼓《ドラム》〉と呼ばれる物音が天空から響くのを聞かされるが、物語の最後で太鼓の音が実はマスカルの心臓音[#「マスカルの心臓音」に傍点]だったことを知らされるまで、わたしたちは全ページこの不気味な動悸につきまとわれることになる。創造主サーターを追って牛飼い座最大の星〈大角星《アルクトウルス》〉への旅を決意したマスカルは、宇宙を飛行するロケットを隠した天文台を訪れ、そこで「ナイトスポアが目覚めるとき、おまえは死ぬ」という不可解な啓示を受ける。しかしクラーグは、そんな神の啓示を無視するように冒険への歓びと危険を説き、ついにマスカルを水晶の魚雷[#「水晶の魚雷」に傍点](これはまさにドイツ表現派の製作になるロケットだ!)に乗せて、悪魔のような宇宙飛行へ送りだしてしまった。こうして、アルクトゥルス星を巡る二重星トーマンス星に拡がる、真紅の砂漠に降りたったかれは、物語の真の飛翔へ向かって、その第一歩をしるすことになるのだ。
マスカルがこの奇怪な世界で見聞きする物語は、ことごとく悪魔によって作られたものだ。そして、宇宙の創造主サーターを追いもとめる遍歴の途みちに姿をあらわす、なんとも不可思議な魅惑をもった異星の女たちは、マスカルの体験する無数のファンタジアに譬えようもなく精妙な彩りを添えていくのだ。けれどわたしたちは、リンゼイがこうした異星人たちに対して意識的につけた名前[#「名前」はゴシック体]の重要さに、まず注目する必要がある。異星人たちの名は、ジョイウィンド、スペーデビル、スェイローン、ホーンテなどなど。しかしこれらの名前は、たとえば |Joy-wind《ジヨイウインド》(歓びの風)、|Spa-de-vil《スペーデビル》(スペードと悪魔《デビル》)、|Sway-lone《スエイローン》(揺らぐ孤独)といった特別な意味を含んでいる。さらにいえば、この命名法にこそ『アルクトゥルスへの旅』の秘密が隠されていると断言することもできるのだ。たとえばマスカルは(|mask《マスク》 と |skull《スカル》、仮面と頭蓋骨)を意味し、サーターは(|Satan《サタン》 と |Creator《クリエター》、悪魔と創造主)を表わすといった具合に。リンゼイはこれら対立しあう二つの概念をひとつの名前に叩き込んで、すべてのものを二重的存在として規定する。だからマスカルは、やがてナイトスポアが自分の分身(|物質的な《マスカル》自分に対する精神的な自分《ナイトスポア》)であることを発見し、あるいは、悪魔クラーグや創造主サーターが善悪を超越した異次元の彼岸でまったく合体することを目撃しなければならなくなる。巨星アルクトゥルスへの旅が、究極的には「対立する二つの概念の原型」――あるいは中和体――を追う精神の遍歴であることを知らされたマスカルは、そこではじめて自分に課せられた任務を実感するのだ。地球の全人類を代表して、この地球に光を投げかけているのが悪魔[#「悪魔」に傍点]なのか神[#「神」に傍点]なのかを目撃するために選ばれたものこそ、自分だったのだと。
善と悪の対立しあう地球とアルクトゥルス。かれはそこで、地球では善と考えられていたものがアルクトゥルスでは悪となり、アルクトゥルスでは善と考えられているものが地球では悪と呼ばれていたことを発見する。そして物語もまた、不可思議な本体論を虹色のファンタジーに包みこみながら、夢の世界の信じられぬエピソードを次つぎに告白していく。そこでかれには、混然として行方《ゆくえ》の定まらない善悪を越えて、存在の本質を知覚することを可能にする新しい器官が、体の各所に芽吹きはじめる。かれはこれら第三の知覚を通じて、善と悪と本体という三重のプリズム世界を見つめながら、真紅に彩られた万華鏡の迷路を辿っていくのだ。くだくだしい説明は、もうよそう。筆者はここに、アルクトゥルス星で体験するあらゆるエピソードのうち、最初であってなお最高のエキゾチシズムとロマンチシズムをたたえ得た一章を紹介しようと思う。そして、この小さな一章に登場するのは、コリン・ウィルソンが「全編を通じて最も愛らしい女性のひとり」と絶賛した〈歓びの風〉、ジョイウィンドなのだから――
第6章 ジョイウィンド
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マスカルが深い眠りから目を醒《さ》ましたのは、まっ暗な夜のなかでだった。風が頬に吹きつけていた。優しいけれど壁のように重くて、地球にいるときには一度も味わわなかった感触だった。のしかかるような風の重さに体を起こすこともできず、だからかれはそのまま地表に横たわりつづけた。体のどこで疼《うず》くのだろうか、しびれるような痛みがそのときから力を得て、以来ずっと、ほかのあらゆる感覚を働かせる場合にも、まるで低い共鳴音のように顔を出した。それは休みなくかれをしびれさせ、ときには苦痛を味わわせたり、気持を苛立たせたりもした。ときどきはかれも、その痛みを忘れることがあった。
額になにか不快な感じがあった。手を当てると、まんなかに窪みがある小さなプラムほどの新しい突起物に、ぶつかった。撫でまわしたけれど、突起物の底部らしいものは見つからなかった。次に、耳から一インチほど下がった頸《うなじ》の両がわに、大きな丸い突起があるのにも気づいた。
心臓のあるあたりから、一本の触角が芽を吹いていた。腕と同じくらい長いけれど、鞭《むち》みたいに細く、その上やわらかで弾力性にも富んでいた。
この新しい器官が意味するものをはっきり理解した瞬間、かれの心臓が動悸しはじめた。この器官がどんな機能を果たそうが、あるいは果たすまいが、ひとつだけ確かなのは――自分が新しい世界にいるということだった。
空の一隅が、ほかの部分よりも明るくなりはじめた。マスカルは仲間の名を大声で呼んだが、応えはなかった。応えのないことが、かれを怯えさせた。思いついては叫び声をあげるのだけれど――沈黙と、自分自身の声とが、そのたんびにかれの不安を掻きたてた。どうしても応えの声が返ってこない以上、ここはむやみに物音をたてないほうがいい、とかれは思った。だから、次に起こる出来ごとを冷静に待ちながら、じっと横になることにした。
ほどなくして、おぼろな影がそばにいることに気づいた。しかし、仲間たちのそれではない。
地上に流れていた、青白い乳白色の蒸気が黒い夜の帳《とばり》にとって代わり、上空には微かな朱《あか》みが差しはじめた。
それからマスカルは、自分が砂のうえに横たわっていることを知った。砂の色は真紅《スカーレツト》だ。かれが目にしたおぼろな影の正体は、黒い茎と菫色の葉をもつ灌木だった。今のところ、ほかには何ひとつ見えない。
明るさが急速に強まった。太陽の直射にしてはすこしばかりかすんでいるが、それでも光の輝かしさは、ほどなく、地球の白昼に見られる陽光よりも数段力づよくなった。熱も烈しかったが、マスカルはそれを歓迎した――熱が痛みを消してくれたし、圧迫されるような感覚を弱めてくれたからだ。太陽が昇ると、風も途絶えた。
立ちあがってみようとしたが、やっと膝立ちになれただけだった。遠くまで見渡せない。霧は、まだ部分的に晴れた程度で、見えるものといってもせいぜい、十か二十の灌木をかかえて細い環状に延びている赤い砂くらいだ。
首のうしろに、やわらかくて冷たい感触を覚えた。かれはビクリとして体をつんのめらせ、砂のうえを転がった。すぐに肩越しを振り返ったかれは、そばに立っている女を見て心を固くした。
彼女は、どちらかといえば古典的な襞《ひだ》のついた、流れるような薄緑色の単衣《ひとえ》をまとっていた。地球の尺度で考えれば、けっして美しいほうではない。なるほど、彼女の顔は人間そっくりだったが、マスカル自身にも芽吹いたのと同じ、美観を台無しにする余計な器官にめぐまれ――いや、つきまとわれていた。胸のところには触角もある。けれど、かれが立ちあがり、二人の目が合って、そのままじっと心を触れあわせたとき、かれは愛と暖かさと優しさと親しみと心易さを満たした魂を、まっすぐに覗きこむような気がした。彼女の視線には、それほど気高い親しさがあったから、まるで彼女が近しい知り合いのように見えた。そのあとで、彼女の個性の愛らしい部分をひとつ残らず知った。彼女は背が高く、痩せていた。あらゆる身のこなしが、音楽みたいに優雅だった。彼女の膚は、地球の美女によくあるような、生気のない濁った色ではなく、蛍光のように輝いていた。心の動きや感覚の変化に応じて、膚の色がいつも変わった。しかし、どんなときにも色合いは鮮かさを失わず――みんな精妙で淡く、しかも詩的だった。ゆるく編んだ亜麻色の髪は、とても長い。あの新しい器官のことも、一度見なれてしまうと、別に気にならなくなり、かえって彼女の貌に個性的で心を打つほどの魅惑を添えるように思えてきた。正確に言い表わせないけれど、なにか微妙な陰影と心の奥深さとを覗かせてくれるように見えた。その器官は、彼女の目の愛らしさや、天使みたいな貌の清らかさを損うものではなかった。それどころか、ある深ぶかとした音色《ねいろ》を響かせていた――彼女を単純な少女らしさから救う、ある音色を。
彼女の目差しはあくまでも親しげで、そこに当惑の色は見当たらなかった。だからマスカルは、まる裸で途方に暮れながら坐りこんでいる自分に、ほとんど気恥ずかしさを感じなかった。彼女はこちらの状態を察知したらしく、腕にかかえて運んでいた一着の衣服を、手渡してくれた。それは彼女が着ている服によく似ていたが、それよりずっと暗い、黒っぽい色合いだった。
「ひとりで着られるかしら?」
かれはその言葉をはっきり理解したが、不思議に彼女の唇は動かなかった。
やっとの思いで立ちあがると、彼女は複雑な襞の扱いかたを詳しく教えてくれた。
「かわいそうに――こんなひどい目に会って!」彼女は、さっきと同じ音にならない言葉を使って、そう言った。しかしこんどはかれも、その言葉が額にある器官を伝わって直接脳にはいってくることを確認することができた。
「ここはどこだ? トーマンスなのだろうか?」かれはそう訊ねた。訊ねながら、よろめいた。
彼女は相手を捉えて、そっと地表に坐らせた。「ええ。ここには敵なんかいないわ」
そう言って、彼女は微笑みながらかれを見つめると、大きな声で英語を話しだした。その声はどことなく四月の昼さがりを思いださせた。それほど新鮮で、敏感で、少女らしかった。「もう、あなたの言葉が分かるようになったわ。はじめは変な言葉だと思ったけれども。きっとそのうち、声を出してあなたとお話しするようになるわ」
「これは不思議だ! これはいったい何という器官なんだ?」額を触わりながら、かれが訊ねた。
「ブレブと呼ばれているわ。それがあるから、他人の心を読めるの。でも、言葉を使って会話するほうがいいわ。言葉の会話でも、相手の心は読めるもの」
かれは笑った。「言葉というやつは、他人を騙《だま》すためにあると聞いているが」
「心でだって、他人を騙せるわ。でもわたしは、最悪じゃなくて最善を考えているの」
「仲間たちには会ったのか?」
彼女は返事する前に、かれを静かに見つめまわした。「ひとりで来たんじゃなかったの?」
「機械に乗って、仲間と三人で来た。着陸のショックで意識を失ったらしい。それ以来、仲間とは会っていない」
「それはまた変ね! わたしだって見ていないわ。仲間の人たちはここにいないはずよ。いれば、かならず分かるもの。良人《おつと》もわたしも――」
「きみの名前は? それからご主人の名も」
「わたしはジョイウィンド――良人はパンオウというの。ここから遠く離れたところに住んでいるわ。でもわたしたちは二人とも、あなたがここで失神していることをゆうべ知ったのよ。二人のうちどっちがここへ来るかっていう問題で、良人と口論しそうになったわ。でも、けっきょくわたしが勝ったの」そこで彼女は笑った。「なぜって、わたしのほうが強い心を持っていたから。かれのほうは、わたしより純粋な感覚を持っているけれど」
「礼をいうよ、ジョイウィンド!」と、マスカルは無雑作に言った。
彼女の膚の下で、色彩が次から次へ目まぐるしく変わった。
「ああ、どうしてそんなことをいうの? 他人を愛したり親切にしたりすること以上の歓びが、ほかにある? あなたを助けられて、とても嬉しいわ……でも、そろそろ二人で血を取り替えなくては」
「何だって?」かれは面食らって、訊き返した。
「そうしなければならないの。この世界にはいると、あなたの血は濃すぎるし、しかも重すぎるから。わたしの血を受け取らないうちは、起き上がることもできないでしょ」
マスカルは顔を赤らめた。「ここにいると、自分が右も左も分からない異邦人みたいに思えてくるよ……でも血なんか取り替えたら、きみに差し障りが出ないか?」
「あなたの血があなたに苦痛を与えるのなら、わたしもやはり苦痛を味わわされるでしょう。でも、二人で痛みを分けることはできるわ」
「こんな形の親切を受けるのは、初めてだ」と、かれはつぶやいた。
「立場が逆だったらあなたは、同じことをわたしにしてくださらないつもりなの?」ジョイウィンドは、半ば微笑み半ば動揺しながら、逆に訊ねかけた。
「この世界では、自分がどんな行動をとるものやら責任がもてない。自分がどこにいるのか、ほとんど分からないのだから……いや、いや、もちろんだよ――もちろん同じことをするさ、ジョイウィンド」
そんなことを話しているうちに、すっかり夜が明けた。霧が地上から去って、わずかに上空だけがもやっていた。真紅の砂漠は、たった一個所ちいさなオアシス――低い丘がいくつか集まって、そのふもとから頂きにむかって、小さな菫色の樹々がまばらに取り巻いている――があるところを除くと、あらゆる方向に広がっていた。そのオアシスまでは、およそ四分の一マイルほど距離がある。
ジョイウィンドは小さな石のナイフを持っていた。神経の緊張をおくびにも出さずに、彼女は注意ぶかく上腕部に傷をつけた。マスカルがそれを止める。
「だいじょうぶ、腕のこの辺なら心配ないの」と、彼女は笑いながら言った。「こんなものは犠牲でも何でもない当然の親切よ――もし犠牲だとしても、それでどんな利益が上がるというの?……さあ、腕を貸して!」
彼女の腕から血が流れていた。赤い血の代わりに、乳白色をしたオパールみたいな液体が流れている。
「そっちじゃない!」マスカルは身を退《ひ》いて叫んだ。「そっちはもう傷を負っているんだ」そういって、もう一方の腕を差し出すと、やがてそこから血が噴き出した。
ジョイウィンドは精妙に、しかも器用に、二つの傷口を合わせると、長いあいだ自分の腕をかれのそれに押しつけた。傷口を通して、歓びの流れが体に滲みこむのが感じられた。昔の活力と身軽さとが戻りはじめる。五分後には、親切の闘い[#「親切の闘い」に傍点]が二人のあいだではじまった。かれは腕を引き剥がそうとし、一方彼女は手当をつづけようとして。そして最後に、かれの方が勝った。しかし時間の経過は見過ごせない長さになっていた――彼女は蒼ざめ、放心状態でそこに立っている。
彼女が前よりもずっと真面目な目でかれを見つめた。まるで奇妙な深淵が、彼女の目の前にポッカリと口を開けたようだ。
「あなたの名前は?」
「マスカル」
「こんな濃い血をして、いったいどこから来たの?」
「地球と呼ばれるところから……たしかに、ぼくの血はここには適さないよ、ジョイウィンド。でも、そんなことは計算済みさ。きみに手数をかけてしまったことは謝る」
「いいのよ、そんなこと! ほかにやることがなかったんだから。わたしたちは他人と助け合わなければならないもの。でも、ちょっと気分が悪くなったわ――ごめんなさい」
「無理もない。よその星から来た生物の血を自分の血管に移しこむなんて、若い女には辛い仕事だものな。ぼくがこんなに手ひどく弱っていなかったら、きみにあんなことをさせたりはしなかったよ」
「でも、わたしは承知しなかったでしょうね。わたしたちはみんな兄弟姉妹じゃなくって? マスカル、あなたはなぜここへ来たの?」
かれはかすかな当惑を感じた。「それがよく分からない、といったらきみは呆れるだろうね?――ぼくは二人の男とここへ来た、たぶん好奇心に駆られたんだろう。いや、それとも冒険をしたかったからだろうか」
「たぶんね」と、ジョイウィンド。「あなたの仲間は、きっとひどい人に違いないわ。で、その人たち[#「その人たち」に傍点]はなぜここへ?」
「それなら答えられる。やつらはサーター[#「サーター」はゴシック体]を追ってきたんだ」
彼女の顔が少し曇った。「理解できないわ。二人のうち、すくなくともどちらかは悪人にきまっているのに、サーター――この星では創造者《シエイピング》と呼ばれているけれど――を追っているのなら、本当に悪い人とは思えなくなるし」「サーターについて、どんなことを知っているんだ?」マスカルは驚いて訊ねた。
ジョイウィンドは相手の顔を探りながら、しばらく沈黙をまもった。かれの脳が、まるで外がわから手探りされるように、落ち着きなく動いた。「分かるわ……でも、どうすればいいのかしら」彼女はやっと口を開いた。
「とても難しいの……あなたがた地球の神は恐ろしい存在だわ――体もないし、冷酷だし、目にも見えない。でもここでは、そんな形の神を崇拝したりしないわ。教えて、あなたの神に目を向けた人間がひとりでもいた?」
「何を言っているんだ、ジョイウィンド? どうして神のことを口に出す?」
「知りたいの」
「太古の時代、地球がまだ若く偉大だったころ、幾人かの聖者が神々と話したり、いっしょに歩いたりしたという伝説はある。けれどそんな時期は過ぎてしまった」
「わたしたちの世界はまだ若いわ」と、ジョイウィンドは言った。
「創造者《シエイピング》はわたしたちと共にいて、会話を交したりもするわ。かれは血も肉もある存在だし、活気もある――友人であり愛人でもあるの。創造者はわたしたちを作り、自分の仕事を愛してるわ」
「きみはかれに会ったのか?」マスカルは自分の耳が信じられないといいたげに、新しい質問を投げつけた。
「いいえ、会えるほどの仕事をしていないもの。でも今にわたし自身を犠牲にできる機会が来るわ。そうしたら、ご褒美に創造者と会って話ができるでしょう」
「異星に来たってことを思い知らされたよ。けれどきみはなぜ、その創造者がサーターと同じだと言い張るんだ?」
「創造《シエイピング》がまたはじまったからよ、かれがたくさんの名を持っていることは、知ってるわね――かれがどれほどわたしたちの心を占領し尽くしているかを知る上の、いい目安よ。たとえばクリスタルマンというのは、創造者につけた気取りの名前よ」
「それは妙だ」と、マスカル。「ぼくはクリスタルマンについて、まったく別の考えを抱いて、ここへ来た」
ジョイウィンドは髪を揺すった。「あの灌木の茂みを越えたところに、かれの砂漠廟があるわ。行って祈りを捧げましょう。それからプーリングドレドへ行くの。そこがわたしの家よ。道は遠いけれど、血陰《ブラツドソムバ》の前には辿り着けるはずよ」
「何だ、その血陰《ブラツドソムバ》というのは?」
「一日のまん中の四時間ほどは、ブランチスペルの光線がとても熱くて、耐えられないの。これを血陰《ブラツドソムバ》というのよ」
「ブランチスペルとは、アルクトゥルス星の別名か?」
ジョイウィンドは真面目さを棄てて、笑いだした。「自分の星の名前を、他人の言葉から借りてくるわけがないでしょ、マスカル。わたしたちの呼び名はあんまり詩的じゃないでしょうけれど、自然の成り行きには従ってるわ」
彼女はやさしくかれの手を取り、樹々に覆われた丘へ導いていった。歩くうちに、陽光が上空の霧を裂くように射しこみ、まるで炉の火照《ほて》りみたいな恐ろしい灼熱の息吹きを、マスカルの頭に吐きかけた。かれはいやいや頭を上げ、光を避けるために目を細めた。一瞬かれが目にしたのは、太陽の見かけ上の直径より三倍は大きい、電光のように白い光の球だった。しばらくのあいだは、目がくらんで何も見えなかった。
「なんてことだ!」と、かれは叫んだ。「これでまだ朝早い時間だというんなら、血陰《ブラツドソムバ》のことはきみが言うとおりだろう」
それから、どうにか自分を取り戻して、かれは質問を投げつけた。
「ここでは日中はどのくらいつづくんだ?」
脳をまさぐられる感じが、また戻ってくる。
「一年のこの時期なら、地球の夏に味わう毎時間の日射が、ここではちょうど倍の長さになるわ」
「熱射がひどいな――けれど、思ったほど不快じゃない」
「ただ、わたしには普段より応える熱さよ。でも理由は簡単、あなたはわたしの血を受けとって、わたしがあなたの血を代わりにもらったからだわ」
「そうだ、いつもそれを実感している。ねえジョイウィンド、ぼくがここに長く暮らせば、ぼくの血は変わってくるだろうか?――つまり、血の赤さと濃さがなくなり、もっと純粋で薄くて、淡い色をした、きみと同じ血に?」
「もちろんよ。ここで一緒に暮らせば、いずれわたしたちみたいになるわ」
「食物や飲みもののことを言っているのか?」
「わたしたちは何も食べません。飲むのも水だけ」
「それだけで生きていかれるのか?」
「マスカル、わたしたちの水はすばらしい水よ」ジョイウィンドは微笑みながら答えた。
くらんでいた目がもとどおりに戻ると、かれはさっそく周囲の風景を見つめた。巨大な真紅の砂漠が見渡すかぎり広がり、オアシスがある個所を除いては、地平線の彼方まで遠くつづいていた。むしろ菫色に近い群青の空が、雲ひとつない天蓋で砂漠を覆っている。地平線の描く弧は、地球のそれよりもはるかに大きい。空の縁《へり》に、ちょうど二人が歩いていく方向と直角に交わるように、鎖状につながった山脈が四十マイルほど前方に現われた。そのなかに際立って高い山がひとつあって、まるでコップのような形をしていた。すべてを生まなましい現実に引き戻してしまう熱射さえなければ、マスカルは、自分が夢の国を歩んでいるのだと信じてしまいそうだった。
ジョイウィンドはコップ型の山を指差した。
「あれがプーリングドレドよ」
「まさか、きみがあそこから来たはずはない!」かれは色を失って、そう叫んだ。
「いいえ、あそこからよ。わたしたちの目的地も、あそこよ」
「ぼくを見つけるっていう目的のために、きみはあそこから?」
「ええ、もちろん」
かれの顔に色が戻った。「きみは最も勇敢で最も気高い女性だ」ひと息ついてから、かれは静かにつぶやいた。「たったひとつ、この距離はスポーツ選手も手を焼く長さだってことを除いたら」
彼女は相手の腕を押した。絵筆にはとても表わせない微妙な色彩がいくつも、まるで漣《さざなみ》のように頬を揺らしていった。「マスカル、そのことはもう言わないで。気分が悪くなるから」
「分かったよ。でも、正午《ひる》まであそこへ着けるのか?」
「ええ。距離を恐れることはないわ。ここでは道のりなんて何でもないの――考えることや感じることがたくさんあり過ぎるから。時間は矢のように過ぎていくわ」
そんな会話を交しているうちに、二人は丘のふもとに近づいた。丘腹はなだらかで、高さも五十フィートはなさそうだった。マスカルの目に、奇妙な植物たちが映りはじめた。紫色の草の小さな群れらしいものが、五フィート四方ほどに集まって、砂の上を動きながらこちらへやって来た。近くまで来たとき、それが草ではないことに気づいた。かといって鞘状の葉でもなかった。それは、ただの紫色の根だった。群れのなかの植物は、どれもこれも根をクルクルと回し、それがちょうど縁《リム》のない車輪の輻《や》にそっくりに見えた。砂のなかに跳びこんだり弾《は》ねだしたり、そういう運動を繰り返して前進している。知性に近い不思議な本能がその植物に備わっていて、空を飛ぶ渡り鳥の群れみたいに同じ歩調で、同じ方角をめざしている。
もうひとつ目についた植物に、タンポポの実によく似た大きな羽根みたいな玉《ボール》があって、それは空中をふわふわ漂っていた。ジョイウィンドがとても優雅に腕を動かして、それを捕まえマスカルに見せた。それは根をもっていて、どうやら空中で育つらしい。大気の化学的成分を肥料にしているのだ。けれど、その植物についていちばん奇妙なのは、植物の色合いだった。まったく新しい色彩――新しい色調といおうか、それとも新しい色の組み合わせといおうか、とにかく青や赤や黄色のように鮮かなのに、そのどれとも違った目新しい原色なのだ。訊いてみると、この原色はウルファイア≠ニ呼ばれているらしかった。やがてかれは、二番めの新しい色彩に出会った。これは、ジェイル≠ニ彼女が教えてくれた。二つの新しい原色がマスカルに与えた印象は、ただ譬え話によってぼんやりと説明できるにすぎない。青という色がデリケートで神秘的なように、黄色が澄みわたって翳りのないように、そして赤色が血と情熱を思わせるように、かれにとってウルファイア≠ヘ荒あらしさと痛みをジェイル≠ヘ夢のような、熱に浮かされ肉欲に溺《おぼ》れるような恍惚を、それぞれ意味していた。
丘は肥沃な黒い土でできあがっていた。思い思いに奇怪な形をとってはいるが、一様に紫色をした灌木が、丘腹と頂きを包んでいた。マスカルとジョイウィンドは、灌木のあいだを縫って頂上に向かった。大きなリンゴほどもある輝かしい青色をした卵型の堅果が、樹々の下でたわわに実っている。
「この実は毒でもあるのか、どうして食べないんだ?」と、マスカルが訊ねた。
彼女はかれを静かに見つめて、「生きたものは食べないの。そんなこと、考えるだけでも恐ろしいわ」
「その意見も頭のなかでは分かるんだが、しかし本当に水だけで生命をつないでいるのか?」
「マスカル、もし他に食べるものがなかったら――あなたは仲間を食べる?」
「とんでもない」
「同じことよ、植物も動物もわたしたちの仲間だもの。だから水しか残っていないわ。何を食べても生きていけるんなら、水でも充分」マスカルは果実をひとつもぎ取って、もの珍しそうに弄んだ。そうしていると、かれの新しく獲得した器官が機能しだした。耳の下にできた肉の突起物が、とても奇妙なやりかたで、果物に隠されている密かな味わいをかれに伝えた。果実を見て、その肌ざわりを感じて、香りを楽しんだだけではなく、そこに含まれた内的な性質までが分かった。この果実の性質は、冷たく頑固で、しかも憂欝《メランコリー》だった。
ジョイウィンドが、まだ口に出されていない質問に先手を打った。
「その器官はポイン≠ニいうの。それを使えばどんな生きものとも理解しあえるのよ」
「その器官を持ったことで、どんな利益があるんだ、ジョイウィンド?」
「残虐さと利己心がなくなるわ、ああマスカル」
かれは果実を投げ棄て、もう一度顔を赤らめた。
ジョイウィンドは、浅黒い髭だらけの顔をじっと覗きこんで、やわらかく笑った。「すこし言葉が過ぎたかしら? うち解《と》けすぎたかしら? あなたがそう考える理由が分かる? あなたがまだ不純だからよ。そのうちに、後《うしろ》めたい気持をもたずにどんな言葉でも聞けるようになるわ」
それから、思いがけない早さで彼女は触角をかれの首へ腕みたいに回した。その冷たい感触に、かれは耐えた。彼女のやわらかい肌が触れると、まるで新しい種類のキッスみたいにかれの肌も濡れ、感覚がくすぐられた、これが抱擁であることを、かれは知った――色の白い、美しい女の抱擁。なのに、奇妙なのは肉欲も性的な高まりも感じないことだった。愛撫による愛の表現は、豊かで、熱っぽく、しかも個性的だったのに、そこにはセックスの痕《あと》が少しもなかった――いやすくなくとも、かれにはそう感じられた。
彼女は触角を放すと、両手でかれの肩を押え、その目でかれの魂のなかをまっすぐに覗きこんだ。
「ぼくも純粋になりたい。そうでないと、いつまでも軟弱でうす汚ない悪魔でいるような気がするから」
ジョイウィンドがかれの体を放した。そして触角を示しながら「これをマン≠ニ呼んでいるわ。これを使えば、わたしたちがすでに愛しているものをもっと愛するようになるの。愛さなかったものも、愛しはじめるの」と言った。
「神のような器官だ!」
「わたしたちがいちばん大切にしている器官は、それ」
天頂に向かって着実に昇っていくブランチスペルの、今ではほとんど耐えられなくなった日射を避けるのに、樹々の葉陰がちょうどいい日影を用意してくれた。小さな丘の向こうがわを降りはじめたマスカルは、ナイトスポアとクラーグの足跡を見つけようとしたが、結果は虚しかった。数分のあいだ周囲を見まわしたあとで、かれは肩をすくめたが、すでにいくつかの疑惑が心に湧きだしていた。
小さな、天然の円形劇場が、樹木に取り囲まれた高みに丸く縁どられて、二人の足もとに横たわっていた。中心には赤い砂がある。そのまんなかに、黒い幹と枝、それに水晶みたいに透明な葉をもつ高くて堂々とした樹が、そびえ立っている。樹の下には、暗緑色の水をたたえた天然の丸い泉がある。
丘のふもとに辿り着くと、ジョイウィンドはまっすぐに泉へ道案内してくれた。
マスカルが泉を熱心に見つめる。「これが、きみの言っていた霊廟か?」
「そうよ、創造者の泉というの。創造者を呼び出そうと思ったら、男も女も苦い水をすくって、それを飲まなくてはいけないの」
「ぼくのために祈ってくれ。きみの汚れない祈りなら、ずっと利きめがあるだろう」
「何をお願いしたいの?」
「ぼくが純粋になれるように」と、マスカルは当惑した声で答えた。
ジョイウィンドは手で水をすくって、それを少し飲んだ。それからその水をマスカルの口に運んで、「あなたも飲んで」とささやいた。かれがそれに従う。ジョイウィンドはやがて目を閉じ、直立して、かすかな泉のささやきに似た声で、やや声高に祈りを口ずさんだ。
「創造者、わが父よ、お聞きください。重い血をもつ異邦人が、わたしたちの許へやって来ました。かれは純粋になることを望んでおります。かれに愛の意味をお教えください、他人のために生きることを。父よ、かれから苦痛を取り去りますな。ただ、かれにみずからの苦痛を捜させたまえ。かれに高貴な魂を吹きこみたまえ」
マスカルは心に涙をためて、祈りに聞きいった。
ジョイウィンドが祈りを終えると、おぼろな霧がかれの目を閉ざし、やがて、真紅の砂に半ば隠れた、めくるめくような純白の柱が、環を描いてあらわれた。数分のあいだそれは、ふりこのように明瞭さと不明瞭さのなかを行き来したが、ふたたび視界から消えてしまった。
「あれが創造者の印《しるし》なのか?」と、マスカルは低い震え声で訊ねた。
「たぶん、そうだわ。それは|時の蜃気楼《タイム・ミラージ》よ」
「ジョイウィンド、あれはいったい何だ?」
「ああマスカル、寺院はまだ建っていないけれど、それは義務だから今にきっと建つわ。わたしとあなたが今単純にやっていることを、賢人たちはこれから先、一から十まですべてを理解して行なうことになるでしょう」
「祈ることは人間にとって善《よ》いことだ。この世の善悪は、無から生まれたりはしない。神と悪魔がかならず存在する。だからぼくたちは一方に祈りを捧げ、一方に闘いを挑むのだ」
「そうよ、わたしたちはクラーグと闘わなければいけないのよ」
「今、なんという名前を言った?」マスカルは驚いて叫んだ。
「クラーグ――邪悪と悲惨の作者――あなたたちはかれを悪魔と呼ぶわ」
かれはとっさに心を隠した。自分とその存在とのあいだに結ばれた関係をジョイウィンドに気づかれまいとして、心を空ろにした。
「どうしてあなたは自分から心を隠すの?」彼女が、怪訝《けげん》そうな目でかれを見つめ、顔色を変えた。
「この輝かしく純粋な、明るい世界にあっては、邪悪はなんと遠くに見えるのだろう。邪悪の意味さえが、ほとんどすこしも理解できない」けれど、かれは嘘をついていた。
ジョイウィンドは清らかな魂から一直線にかれを見つめつづけた。
「この世は善良で純粋だわ。なのに、たくさんの人間が堕落していく。良人のパンオウは旅をして、ほとんど聞いたこともない珍しい物ごとを話してくれたけれど、そのなかに、宇宙は天井から底まで一人の魔術師の洞《ほこら》だと信じている人に会った話もあったわ」
「きみのご主人に会わせてほしいな」
「ええ、さっきからわたしの家に向かっているところよ」
[#ここで字下げ終わり]
ジョイウィンドは、ようやくかれを良人のもとに連れていく。熱射のなか、魔法の水によって血を清めたマスカルに、詩人であり神秘家でもある良人パンオウは手を差しだす。うち解けた二人が山へ登った折りには、情景の美しさに圧倒されたパンオウが、嘔吐するようにして口から水晶の卵を吐きだす。マスカルは、これと同じことを地球の詩人が言葉という形で実行していたのを思いだすが、いっぽうパンオウはその卵を無価値なものとして投げ棄ててしまう。地球とアルクトゥルス、三重のプリズムで覗く二重の世界――物語はこうして驚きに満ちた生きものの導きで、核心へと進んでいくけれど、これ以上異国の情景にかまけている暇はない。
多くの異邦人に導かれ、多くの危険と冒険とを越えた果てに、マスカルは創造主の宮城へ辿り着く。かれの前に立ち塞がるのは、アダージと呼ばれる孤峰だけ。しかし山のふもとに住む狩人ホーンテが、宝石を推進力にした空飛ぶ船を漕いで、かれを山の向こうまで運んでくれる。やがてマスカルは、クラーグと再会する。そこでかれは、創造主サーターが響かせているとばかり信じていた太鼓の音が、実はクラーグによって打ちだされていることを知った。その響きは、真の才能ある人間の心を奇妙に萎縮させるのだ。マスカルは自分に死が近づいたことを知る。サーターは悪魔たるクラーグの化身だったのか? 善の光はどす黒い悪の奴隷に過ぎなかったのか? かれは最後の解答を求めて宮城の頂きにそびえる塔をのぼり、窓の外に拡がる――まっ暗い宇宙に展開する〈善と悪〉が血みどろで闘う最後の修羅場を覗きこむ!
この恐るべき物語の結末を、すっかりぶちまけてしまうのは不公平《アンフエア》だろう。『アルクトゥルスへの旅』は、英国が生んだ宇宙誌《コスモロジー》の、文学における終局点だった。これは宇宙的幻想の進化論でもなければ、一般にいわれるような古いキリスト教遍歴譚の二十世紀化した姿でもあるまい。そうではなく、これは神秘家としてのリンゼイの捉えた、キリストを含む地上のあらゆる人間たちが繰りひろげる〈生きるための地獄図〉の、忠実な「地球照《アースシヤイン》」なのだ。ただ、リンゼイにとってこの世界が同時に準創造の空間[#「準創造の空間」に傍点]となり得たのは、かれが〈三重のプリズム〉を通して物ごとを見る方法を身につけていたからに過ぎない、ということだけなのだ。
[#改ページ]
※[#ローマ数字13] 終末の儀式
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[#この行4字下げ]ニュートンのような人物が聴覚器械を改良しようと思いたたなかったのは、なんという不運であろう! 望遠レンズが太陽から十七億一千マイル彼方(天王星までの位置)まで見透せるのなら、水星や金星で話される言葉が手にとるように聴ける、ジョシュア・レイノルズ卿の喇叭に似た器械を造ることなど、どんなにか容易であろうに!
[#地付き]ホレス・ウォルポール『ハーシュルの新惑星発見』一七八二年十一月五日付けの書簡
☆時間の混乱[#「時間の混乱」はゴシック体]
たとえば、文学における時間の混乱がいつごろ起こったのかを、知ろうと思いたつ。ファンタジーは、しばしば「時間の混乱」と「空間の逆転」を唯一の方法論にしている、と言われたりする。しかし本当にそうなのだろうか? 筆者にとって「時間の混乱」と「空間の逆転」をともなわない美学は、神学(これが美学と言えればの話だが)しかない。
問題を、時間意識に関する文化そのものに拡大させてもいい。例えば十七世紀の大司教ジェームズ・アッシャーが算出した世界創造日|=《イコール》紀元前四〇〇四年、十月二十三日朝九時という数字は、十八世紀の半ばを過ぎてもまだ人びとに固く信じられていた。おそらく「時間の混乱」を知ることのなかった幸運な時代は、十八世紀末ごろまでだったろう。これ以後、時代は恐るべき混乱の世紀に突入していく。
ここに、ホレス・ウォルポール(一七一七―九七)という人物がいる。ゴシック・ロマンスや幻想文学一般に興味をお持ちのあなたなら、すぐに『オトラント城綺譚』やストロベリー・ヒルの城が頭に浮かんでくるだろう。しかし、大政治家を父にもったこのディレッタントが、実は十八世紀後半の最も傑出した文化人であったことを理解するのは、単に美学者としてかれを分析していく方向からでは不可能に近いかもしれない。なぜなら、名著『十八世紀イギリス思想史』を著わしたL・スティーヴン(筑摩叢書)の言を俟つまでもなく「かれほどヴォルテール流の懐疑主義的精神を完全に身につけていた者もいなかった」からだ。さらに「生まれつきの貴族の自然的義務の一つは、身分の低い人々が果たした業績を活用することであったが、ウォルポールはこの実践を文学の領域で遂行した。かれによる英国画人逸話集や宮廷作家逸話集は、埋没した歴史についての精励な探究者が集めた尨大な資料から楽しみを引き出しえたかれの腕前の非凡さを物語る。『オトラント城』では……日常生活面のある種の興味を歴史的連想の興味と結合すること(が目的)であった。この結合は必ずしも成功していないしその成果もかなり薄っぺらであるが、ウォルポールのこの新発見は明らかに本物であった。『オトラント城』はラドクリフ夫人の怪奇小説の生みの親であり、そして彼女の怪奇小説はスコットによる歴史小説の創造への道を開いた。ウォルポールの立場は典型的なものであった。つまり十八世紀の遊惰な懐疑主義者は新しい楽しみを探し求めているうちにこれを精励な好古家的労苦の産物のなかに見出し、それを新しい魅力的な玩具に仕立てあげたわけである」(中野好之訳)
しかし、筆者に言わせてもらえば、ウォルポールの魅力はむしろ文学や建築よりも、政治や社会の運動から考古学や天文学や地質学など科学全般におよんだかれの「文化人」的ポーズのほうだ。かれの死後、ストロベリー・ヒルの宝物が競売に付されたとき、係員をあきれさせたという「あのガラクタの山」には、実は、古代象の骨格や鉱物標本、古代人の石器、科学を論じた古い写本など確実に「価値のある」文化的な研究材料が満ちあふれていたのだ。ただ十八世紀当時の人間の目に、それがガラクタ[#「ガラクタ」に傍点]に映ったのは無理もない。それはむしろウォルポールの進歩ぶりを称える讃辞と言えるだろう。
ウォルポールの面目躍如たる文化史上の小さなエピソードを挙げてゆけば、ほんとうにきり[#「きり」に傍点]がなくなる。たとえば、当時大学の論文にパスしたければエラズマス・ダーウィンの進化論詩を酷評することだと噂されたあの時代に、いちはやくこの詩人の壮大な生物史観を称え、また無名の詩人だったチャタトンを激励し、十七世紀の科学ユートピストであった大司教ジョン・ウィルキンズの世界言語を「月の世界に行ったとき通訳が必要とならないための手さ」と皮肉り、ハーシェル卿の天王星発見にまるで子供みたいに興奮したのは、外《ほか》でもないウォルポールその人だった。
この十八世紀最高の文化人には、さらに隠れたエピソードがある。十八世紀当時アメリカ向けの奴隷売買船を多数寄港させていたリヴァプールは、一七七一年だけでも百七もの奴隷船をアメリカに送りこんだと記録される。その年だけでも、ロンドンから出た五十八隻、ブリストルから出た二十三隻を含めて、なんと五万人の奴隷を運搬したということだ。ところがこのとき、道徳的見地から奴隷売買に反対し、リヴァプールに乗りこんだ最初の人物が、二人現われた。そのうちのひとりはあのジョンソン博士だったが、もうひとりは誰あろうウォルポールだったのだ!
また、博物学の殿堂たる大英博物館《ブリテイツシユ・ミユジアム》の基となったスローン医師の私的コレクションが、科学研究の貴重な資料として国家管理に委ねられ、やがて世界最大の博物館になろうというとき、ウォルポールはもちろんスローン医師の遺言によって三十七名の第一次保管委員に任命された。そしてこの人物が、文学における別世界建設の道程となる最初のゴシック・ロマンス『オトラント城綺譚』を発表したのは、どのみち宿命だったのかもしれない!
「時間の混乱」と「空間の逆転」が真にはじまった十八世紀、その時代に文学の分野で最初にわたしたちの目を奪う人物、ストロベリー・ヒルという名の人工楽園[#「人工楽園」に傍点]を創造したホレス・ウォルポールについては、まだまだ言わなければならない点がある。しかし! ウォルポールを単に幻想文学の嚆矢、ゴシック・ロマンスの開祖として紹介する時代は過ぎたように思う。かれが産みだした『オトラント城綺譚』は、準世界の創造という点で最初の近代ファンタジーに数えあげ得るけれど、そのことについては今は何も語らないことにしたい。そうではなく、ウォルポールこそ「時間の混乱」を最初に意識した人物のひとりだった、という事実が問題なのだから。
さて、高名な政治家の息子として自由奔放な生活を送ったかれは、後年テームズ河畔に巨大なゴシック建築物を建て、これにストロベリー・ヒルという名を与えた。そして城内に、当時の知識水準からいえば「ガラクタ[#「ガラクタ」に傍点]」としか思えない骨董品を並べだした。案の定、ウォルポールの死後、城内の宝物が競売に付されたとき、係員たちはその玉石混淆ぶりに呆れたというエピソードが残った。けれどウォルポールはそんな世評を問題にもしなかったろう。かれの鑑識眼はむしろ当時の水準をはるかに越えて、十九世紀人の感覚に近かったと思える節[#「節」に傍点]がいくつもあるからだ。ウォルポールはすでに、紀元前四〇〇四年に世界創造がおこなわれたという信仰を、信じてはいなかった[#「信じてはいなかった」に傍点]。かれは〈世界創造[#「世界創造」に傍点]〉以前から地球にあった遺品[#「以前から地球にあった遺品」に傍点]を密かに集めはじめていた! 当時のイギリスは、どこかで古代象の骨でも発掘されれば、「それは英国占領当時シーザーがアフリカから運んだゾウの骨にちがいない」と結論して憚《はばか》らなかったし、旧石器人の遺品でも出てくれば、「これは落雷による自然発生物だ」と主張するありさまだった。ウォルポールは、こんな英国好古家協会の考えかたに烈しい疑惑を抱いてもいた。かれは親しい友人にこう書き送っている、「かれらは不幸だ。瓦《かわら》や屑《くず》やローマの遺品を、後生大事に荷馬車いっぱい貯《た》めこんでいる」と。ウォルポールにかかれば、考古学者として名を成す人物たちも「時代遅れの誤認を世間に撒きちらす元凶」に早変わりした。かれは十八世紀半ばにあって、すでに世界[#「世界」に傍点]が〈世界創造日[#「世界創造日」に傍点]〉以前から存在していたことを知る最初の文化人のひとりだったのだ。そしてわたしたちは、「時間の混乱」を知ったこのウォルポールの手から、新しい時代精神の担い手たるゴシック・ロマンスが生まれ、近代幻想文学の系譜がスタートしたことを、改めて納得せずにはいられない。
ともかく、こうして十八世紀における時間の混乱ははじまった。
☆時間としての文学[#「時間としての文学」はゴシック体]
過去が現在と密着していること、したがって伝説が現実にかかわりあっていることを意識しはじめたのもまた、十九世紀の新しい人間たちだった。たとえば、一八三五年のある出来ごとは、いつまでも忘れられない余韻を脳裡に残す。この年、イギリス東インド会社で考古学と植物学の研究に従事していた学者グループが、シワリクの丘で古い地層の発掘をおこなった際、コロソケリス・アトラス――長さ十二フィートに達する巨大な古代亀――の骨格を掘りあてた。このニュースが全世界に熱い物議をかもし出したのはもちろんだが、何よりも「世界は亀の背に乗った象に支えられている」と説く古い東洋の神話的世界観との驚くべき一致が、人びとの目を奪った。極端な言いかたをすれば、全世界はこの発見をもって(さらにはダーウィンの『種の起原』を決定打として)世界創造日の信仰を完全に覆したのだ。だいいちキリスト教の正史には、こんな巨大な亀など出てこないのだから。さらにこの事件は、ファンタジーの愛好者にとって興味ぶかいことに、古い異端神話や世界創造に関する伝説への新しいアプローチを副産物として残してくれた。文学はやがて、神話や伝承という超時間的素材と対決せざるを得なくなる。
神話世界、伝説世界、そして近代的な小説の世界へとつながる文学形態の歴史は、一面から見れば「時間意識の拡大」がもたらした結果と考えることもできる。たとえば、神話のなかに描かれる「時間」は、言い換えれば「円環」であって始まりもなければ終わりもない。神々は不滅か、それとも常に再生をくりかえす不死の人であって、それ以外ではあり得ない。だから神話の世界に発展はない。あるのは輪廻と、再生のための儀式だけだ。そして神話時代に生きた人間は、現在[#「現在」に傍点]という極めて限られた時間を生きるよりほかに方法がなかった。
ところで、生活のなかに祖先の記憶としての過去[#「過去」に傍点]がはいりこみ、民族の創世記が意識しはじめられると、かれらの生活を支配する文学的な権威は、遠い存在たる神々よりも、もっとかれらに密着した祖先の英雄たちに移りはじめる。つまり、神話から伝説への移行がおこなわれるわけだ。そして「伝説」の時間感覚は、現在に対して過去の存在を認める立場へと転換する。ここで人間の時間感覚は、現在と過去という二つの点を獲得する。過去の英雄たちを讃美するロマンスが、権威としてかれらのあいだに君臨するのだ。
もっとも、伝説の時代は二つの点に直線を引くことまで考えつかなかったと見える。現実のあまりのみじめさは、過去を〈黄金時代〉に変える一方で、実は個々人がいろいろなかたちで様々な過去と結びついていることを、やがて人びとに気づかせた。このときから過去は分極化し、伝説的な〈黄金時代〉としての過去から、個々人に現在の非運をもたらしている現実の過去が独立していく。伝説は、このようにして個々人の現実的な生涯をカバーする年代記の時代へ移り、伝説を美学化する力となった演劇は、さらに年代記の具体的な担い手たる散文へ引き継がれていった。こうした状況のなかで、わたしたちは初めて近代的なファンタジーと対面する。
こうした進化論的な文学観に立つ限り、ファンタジーは、時間線をさらに未来に伸ばした文学といえるだろう。いや、未来という言葉があまりにも限定的すぎるのなら、過去から現在に向かって走る直線の両端を押えていた障害を取り払った文学、と言い直してもいい。だが、これはもちろんアナロジーの問題であって、ファンタジーの与えた新しい衝撃が充分に理解されるには、二十世紀の分極化した時代精神の登場を、やはり俟たなければならなかった。
☆もうひとつの可能性[#「もうひとつの可能性」はゴシック体]
いずれにもせよ、過去から現在に張り渡された硬い直線を、未来という不確定な方向に延長させることは、無数の危険性と背中合わせになることにもなりかねない。この方法をシミュレーション[#「シミュレーション」はゴシック体](模擬演習)と呼んでもいいし、SF的にエキストラポレーション[#「エキストラポレーション」はゴシック体](外挿法)と呼んでもいい。また実際に本稿でも、H・G・ウェルズやオラフ・ステープルドンといった、この方向の作者たちを論じてきた。しかし「時間の混乱」にともなってもうひとつ指摘しなければならない重要な点がある。それは、時間というものがすくなくとも現在を突き抜けて直線運動をしつづける、という認識だ。このなかからわたしたちは、象徴的な意味で時間を描く文学がいったいどんなふうに〈成長〉現象を捉えるのか、という新しい問題を導きださなければならない。
なるほど、文学はその紙幅さえ問題にしなければ、一人の人間の成長をちょうど年代記のように連綿と書きつづけることができる。しかし、それでは散文が小説という形式に発展する可能性はなくなる。過去から現在に及ぶ時間の流れを、ひとつの成長――ひとつの発展として捉える文学は、ここで連続的な時間直線を「折れ線グラフ」的な線に修正する必要に迫られる。要するに、一本の直線から自由に観察点を引きだしてきて、その点をいくつか描写することによって、一つづきの直線の成長方向全体を描写しようというやり方だ。したがって散文では、その観察点となる重要な事件を詳細に描いたあと、点と点のあいだは「それから何年後」という形で読み飛ばすことができるようになる。
この少しばかり擬制的なシステムは、時間意識のなかに潜む「成長」の概念を、さらに進めて〈儀式〉という形式に変える機能をもつ。いつかわたしたちが神話の機能を論じたとき、古代にあって神話が〈秘儀への参入〉を執りおこなう儀式のために用意された神秘劇[#「神秘劇」に傍点]から生まれたことに触れたと思う。要するに神話は、直線という日常生活を過ごして成人した若者[#「直線という日常生活を過ごして成人した若者」に傍点]が、その成長を「ひとつの観察点」として確認するために準備した、とある儀式のためのロマンチックな舞台なのだ。
この神話的機能は、時間に関する長い堂々めぐりのあとで、もういちどわたしたちの目の前にあらわれる。儀式のための舞台は、過酷であればあるほど意味を持つ。それに死を賭ければ賭けるほど、そしてそれが現実から遠く離れれば離れるほど、意味をもつ。新しい時代のファンタジーは、こうして神話の機能を引き継ぐために成立したといってもいいくらいだ。このファンタジーの機能を現在もっとも有効に使用しているのは、俗に「児童文学」と呼ばれるジャンルに含まれる作品群だろう。子供を成長させるために、わざとファンタジーという落とし穴に蹴落として、死ぬほど恐ろしい目に会わせる。けれどその模擬的な体験を積んで現実に戻った子供たちは、すくなくともひとつの成長を示すことだろう――
事実、筆者は『ハメルンの笛吹き』や『ヘンゼルとグレーテル』や『青ひげ』の物語を、下手な怪奇小説なんかよりもはるかに恐いと思っている。いや『ハメルンの笛吹き』に登場するあのまだらの笛吹きは、子供の眼を奪いに来るホフマンの『砂男』よりも、ずっと恐ろしい人物だと信じている。そしてもちろん、試練の儀式として機能するべきファンタジーが、なにも児童向けだけに限定される必要はないのだ。
そんなわけで本書は、今世紀に描かれた数多くのファンタジーから、ひとりの少年の成長を描き尽くした長大な力作を拾いだして、最後の締めくくりをしたいと思う。この作品は『タイタス・グローン』(一九四六)、『ゴーメンガスト』(一九五〇)、『タイタス・アローン』(一九五九)の三巻から成る別世界物語だが、一般には〈ゴーメンガスト三部作〉と呼ばれている。わたしたちはこの大作を通じて『指輪物語』とはまったく異質の、奇怪な〈成長の儀式〉に立ち会うことになる――
☆『ゴーメンガスト』――成長の儀式[#「『ゴーメンガスト』――成長の儀式」はゴシック体]
成長の儀式としてのファンタジー『ゴーメンガスト』を生んだ特異なイギリス作家マーヴィン・ピークのことから触れていこう。かれは医療伝道で中国に渡っていた医師夫婦を両親として、一九一一年に中国中央部で生をうけた。幼いころから絵を描いたり物語を作ったりすることに興味を示し、そのころ生活していたエキゾチックな中国のイメージが成人して後の作品にも大きな影響を与えた。かれは天津《テンシン》グラマー・スクールと英国のエルサム・カレッジに籍を置き、またロイヤル・アカデミー・スクールで美学の研究にもたずさわった。三〇年代初期からはウェストミンスター芸術学校で教師として勤めるいっぽう、自作絵画の発表にも手を染めだした。当時彫刻科の学生だったメーヴ・ギルモアと結婚したのは、一九三七年のことで、二人のあいだには三人の子供が生まれた。その後一九三九年に召集を受けたが、戦地で健康を害し、一九四六年にサークへ帰ってからは芸術学校の講師を勤めるかたわら、もっぱら絵画と創作に専念する生活を送った。したがって、わたしたちがマーヴィン・ピークの名を口にするとき、それは必然的にかれの絵画に触れることになる。『ゴーメンガスト城』三部作ほか自作の小説や詩を拡げれば、奇妙なヒューモアと妖しい雰囲気をもつかれの挿絵に出喰わすことができるが、やはり圧巻はルイス・キャロル『スナーク狩り』と『木馬《コツクホース》に騎って』の二冊で、今日では挿絵の古典に数えあげられている。
SF作家J・G・バラードと同じく、幼いころから神秘の東洋に親しんできたピークは、別世界の創造にもっともふさわしい人物たる資格を持っていたのかもしれない。一九三九年、かれが第二次大戦のために召集を受けたころから書きはじめられ、一九六八年に病死するときまで、連綿と書きつづけられた大河ファンタジー『ゴーメンガスト』三部作は、画家たるピークがそのグロテスクな戯画タッチを文学に移しこんで完成した、真に恐るべき物語といっていいだろう。この作品には、幻想文学がまだゴシック・ロマンスと呼び習わされていた時代の暗くグロテスクな運命劇が息づいている。そればかりでなく、チャールズ・ディケンズがかれの作品のなかで描いた個性ある人間像が、さらに畸形化したかたちでゴーメンガスト城には息づいている。読者はピークが想像したこの奇怪な別世界を通じて、別世界創造者に憑《つ》きまとう宿命的な矛盾と対決しなければならなくなるのだ。かれらだけの閉鎖空間に閉じ籠もって、夢の人生を送る人間たちにとって、ゴーメンガストという別世界は、そこから脱出することによって初めて〈夢の人生〉となり得る、ある意味でまったく逆説的な領域を露呈する。
ともあれ、『指輪物語』以来の巨大な幻想空間たるこの作品は、最後まで夢の人生を虚構のなかで描き尽くすホビット物語とは対照的に、夢の人生を捨て去ろうとした人間の壮大な遍歴[#「壮大な遍歴」に傍点]を描いた〈成長の儀式〉となり、神話がその源において位置づけられていた秘儀への参入式――神秘劇《ミステリ》の記憶を、現代に復活させる――
『ゴーメンガスト』三部作 第一巻『タイタス・グローン』
第一章 輝く彫刻の広間
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ゴーメンガストの城、すなわち、自然石の巨大な塊りは、それ自体を見るかぎり建築物として途轍もない特性を誇示しているといえるだろう。もっともそれは、城の外壁の周囲にまるで流行病《はやりやまい》のように群れている卑しい住民のことを、もしも無視できるなら、という条件がつく。かれら卑しい住民たちは、傾斜した大地にへばりつき、おたがいに隣人の地所を半ば横領しあいながら、城の胸壁に押しとどめられるところまで、その巣窟の領域を延ばしている。そしてこれら貧民の巣窟のまっただなかに建つ城は、大胸壁に護られ、岩にとりつく笠貝(カキのように岩に密集する貝)のように固く殻を閉じていた。かれら住民は、太古の決めごとによって、頭上を威圧する城砦とのあいだにこの冷えびえとした係わりを結ぶことを許されていた。雑然とならぶかれら住民の屋根には、時に蝕《むしば》まれた防壁や壊れた高楼や、とりわけ、城のうちでもっとも巨大な〈燧石《ひうちいし》の塔〉が、季節を問わず影を落としていた。この塔――黒い蔦かずらが気ままに茎をのばす〈燧石の塔〉は、握りこぶしをつくった石の手のひらから切りはなされた指のように、高くそそり立っていた。夜には梟《ふくろう》がその塔を咽喉がわりに共鳴させる。ただ昼間は声もなく、長い影を投げかけている。
こうした城外の住民と、大胸壁の内部に暮らす人びととのあいだには、ほとんど|行き来《コミユニケーシヨン》がなかった。年に一度、六月の最初の朝に〈土中の住民〉がこぞって城内にはいることを許され、そこで、一年のあいだ丹精こめて彫りあげた木彫りを展示する日を除いては。ところで、住民の持ち寄る木彫りは奇怪な色に輝き、たいていは人間や動物をかたちどっていて、高度に様式化したかれら独特の技術で彫りあげられている。その年最高の彫り師を決定する日の競争ぶりは、たいそう辛く厳しいものだ。住民たちにとって唯一の情熱は、いちどかれらが恋愛の日々を終えてしまうと、木彫りの制作にすべて集中される。そして外壁の真下に建つ泥小屋には、二十人の独創的な彫り師が住んでいて、工《たくみ》のなかの工と認められたその地位に、影の落ちる城外に暮らす身としては最高の誇りを抱いている。
外壁のなかには、ひとつ特別な場所があって、そこはもともと外壁そのものを造る材料となった巨大な石が地上数フィートまで棚状に突き出しており、東から西に向かって二、三百フィートも延びていた。これら迫《せ》り出した石は、すべて白い色に塗りたくられ、六月の最初の朝には、グローン伯爵の審判を受ける木彫りをずらりと並べる、陳列棚になるのだった。木彫りのうちでもっとも出来が良いと判定された作品は(毎年かならず三点以内にしぼられる決まりになっているのだが)、この棚から選び出されて、次に〈輝く彫刻の広間〉と呼ばれる場所に移される。
これら輝かしい彫刻品は、太陽の動きにつれて刻々長さと位置を変えていく不可思議な影を、うしろに投げかけ、一日中そこにじっと並んでいるが、その特別な色彩のためにある種の暗闇を生みだしたりもする。木彫りのあいだを流れる空気は、軽蔑と嫉妬に膨れあがる。彫り師たちは乞食のようにたたずみ、家族たちは黙って体を寄せあう。かれらは粗野で、若いうちに老《ふ》けこんでしまう人種だった。輝きらしいものは、すべて失っていた。
領主の目に止まらないままその場に残された彫刻は、その日の夕刻に、グローン領の西バルコニーの下に設えられた中庭で火に投じられる。自分の作品が燃やされる時間に、彫り師はかならず立ちあがって苦しそうに頭《こうべ》を垂れるのが習慣だった。やがて城内から銅鑼の音《ね》が三つ響きでると、火刑をまぬかれた三つの彫刻が月光の下に運びだされる。三つの彫刻がバルコニーの欄干に並べられ、下に集まった群衆の目に供されると、グローン伯爵みずから制作者の名を呼んで、かれらを一歩前に進み出させる。こうして三人の制作者がかれのすぐ足許までやって来て、一列に並ぶと、伯爵は伝統ある羊皮《ヴエラム》紙の巻きものをかれらに投げ与える。この巻きものは、文面にもしたためられているとおり、この者たちが毎月満月の宵に宿営地を出て胸壁の上を歩く許可を、与えるものだった。毎月やってくる満月の宵に、ゴーメンガスト城の南壁に立った者は、月光に照らされた小さな三つの人影を見ることだろう。あれほど望んだ栄誉を細工の技《わざ》によって勝ち取ったかれらが、胸壁に沿って行き来しているすがたを。
この彫刻の日を唯一の例外にして、あるいは三人の傑出した彫り師に許された高度[#「高度」に傍点]を唯一の例外にして、城内に住む人びとが城外の住民を知る機会はない。また事実、かれら住民のほうも、大胸壁の影に半ば沈んだ〈内部の〉世界に興味を惹かれることはなかった。
かれらは、すでに忘れさられた民族だった。思い出してハッと息を呑む――あるいは古い夢の再燃に似た、現実味のない記憶として蘇るだけの民族だった。かれらにとって彫刻の日は、太陽の下に出て古い時代の記憶を蘇らせる唯一の機会だった。けれど、錆びついた甲冑を着けて塔のなかに暮らしている八代前のネッテル以前にさかのぼるほど古くから、その儀式はおこなわれてきた。決めごとに従って、数知れない彫刻が灰にされてはきたが、選ばれた作品だけは今も〈輝く彫刻の間〉に保存されている。
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こうした書き出しではじまる第一巻『タイタス・グローン』(一九四六)は、奇怪な別世界に生まれおちた不思議な少年タイタスの幼年時代を物語るのだが、ここでの重点はむしろ、城に伝わる数々の謎めいた儀式と、それをとりおこなうグローン家の人びとの性格描写に置かれている。そして『タイタス・グローン』の主役を演じるのは、まだ母の胸に抱かれたままの幼いタイタスではなく、下賤の血を引くもうひとりの若者スティアパイクだ。ピークはかれの〈夢の人生〉に、ぼくたちの感覚でいうコンプレックスに凝りかたまった一人の複雑な個性を登場させる。かれスティアパイクは、本来的に現実からの離脱をめざすファンタジーにおいて主役を演ずるようなキャラクターではない。『指輪物語』のなかにかれを移しこんだら、おそらくスティアパイクは魔王サルーマンの罠にあっさり落ちこんでしまうだろう。けれどそこが、ピークの描く準世界の決定的な異質性なのだ。『ゴーメンガスト城』は、本質的な意味でひとつの青春文学にほかならない。ここでの主人公は、夢の人生に対して執拗な憧れも持たなければ、だいいち冷酷な現実世界の辛苦を体験したこともない。ピークが描こうとしたのは、たとえばスティアパイクのような複雑なコンプレックスを持って生まれてきた若者が、悪夢のような管理体制(ここでは儀式)からどうやって自分の真の成長をめざしはじめるかという、無垢な魂の放浪と苦悩なのだ。そのことを知るためにぼくたちは、ゴーメンガスト城第七十七代城主になるべき運命を背負って生まれてくるタイタスと、その生誕を見守るスティアパイクとが見聞きする、城内の奇怪きわまりない脇役たちの言動に注目しよう。そして、ここに引用する〈覗き穴〉のエピソードは、ディケンズ風に塗りあげていく人物描写の巧みな手ぎわと、異端児タイタスの劇的な誕生を物語る舞台効果とが絶妙に融けあった、いかにも幻想画家ピークにふさわしい散文スケッチを作りあげている――
第五章 覗き穴
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「どなたのです、あの生きものたちは?」と、スティアパイクが訊ねた。かれらは石段を登りはじめていた。右がわの壁には壁紙が張ってあったけれど、もうすっかり剥がれてむさ苦しく、寒気《さむけ》のするような漆喰壁が、うしろから露われていた。数え切れないほどたくさんの気味わるい色彩の混沌が、この壁の暗い表面や、もう半ば消えかけているけれど昔は信じられないほど美しかっただろう黒い絵模様を、生き生きと映し出していた。ほかのもっと乾いた場所には、壁紙がまるで帆みたいに大きく破れ下がったところがあって、鳥瞰図や地図やどこか途方もない三角州によく似た複雑な亀裂が、いろいろな深さで漆喰のうえを網の目のように走っていた。まだ誰にも探検されたことのない世界をわたるこうした川の、その流域に沿って目を走らせていくと、空想の旅が千通りもできそうだった。
スティアパイクは質問を繰り返した。
「どなたのです、あの生きものたちは?」
「どなたの、何だって?」階段の途中で足を停めたフレイは、ちょっとこちらを振り返った。
「おまえ、まだここにいたのか? わしのあとをつけていたのか?」
「でも、あなたがそうしろとおっしゃったでしょ」と、スティアパイクは言った。
「チ! チ!」とフレイは言った。「いったい何が望みなんだね、スウェルターのところの小僧よ?」
「胸がむかつくスウェルター」と、スティアパイクは歯のすきまから吐きだすように言ったが、それでも片目はフレイ氏から離さなかった。
「悪人のスウェルター」
「それで、名前は何と言う?」とフレイ氏は言った。
「名前、ぼくの?」と、スティアパイクは訊ねた。
「おまえの名前さ。もちろん、おまえの名前だよ。自分の名前なら、ちゃんと知っておるからな」フレイ氏はもういちど階段をのぼる準備のために、ふしくれだった手を欄干に置いた。けれど相手の返事がないので肩越しに渋面を向けて、そのまま待った。
「スティアパイクです」と少年は言った。
「クイアパイク(訳注――クイアは「奇妙な」の意味がある)だって、え? え?」とフレイが言った。
「いえ、スティアパイクです」
「何だと?」
「スティアパイク、スティアパイクです」
「どうしてだ?」と、フレイ。
「え? 何ですか?」
「どうしてだ、え? スティアパイクが二人、おまえが二人だ。おまえは名を二度言った。どうしてだ? スウェルターのところの小僧なら一度で充分だろう」
名前のことはとても整理できそうにない、と若者は思った。数秒のあいだ、あたまの上にいる間の抜けた人物にジッと黒い眼を向けて、相手に分からないように肩をそびやかした。それから、苛立ちの気持をおくびにも出さず、もういちど口をひらいた。
「あの猫たちはどなたのものでしょうか? お教えいただきたいのですが?」
「猫?」とフレイは言った。「誰が猫なんて言った?」
「白い猫たちです」と、スティアパイクは言った。「〈猫の間《ま》〉にいる、あの白い猫たちすべてです。それを飼っておられるのは、どなたでしょうか?」
フレイ氏が指をくちびるに当てた。「奥さまのものだ」と、かれは言った。その硬い声は、石と鉄で出来た冷たくて狭い階段の一部みたいに思えた。「あれは奥さまのものだ。奥さまの白猫たちだ、スウェルターの小僧よ。みんな奥さまのものだ」
スティアパイクは耳をそばだてた。「奥さまはどちらにおいででしょう?」と、かれは言った。
「ここは、奥さまがいらっしゃるお部屋に近いのでしょうか?」
フレイ氏は答えの代わりに、えり口から首を突きだし、くぐもり声でこう言った。「黙らんか! この料理番め。口をつつしめ、下賤のやからめ。口数が多すぎるぞ」そう言って、かれは二つの階段をのぼり切ったが、三つめの階段で不意に左がわを振りむくと、八角形をした小部屋にはいりこんだ。そこには、大きくて埃《ほこり》だらけの黄金製額縁が掛かっていて、等身大の肖像が八つの壁のうち七つの方向から睨みをきかせていた。
フレイ氏は、思っていた以上に、あるいは予定した以上に領主から離れてしまっていることを、ふと思い出した。伯爵はきっと自分を捜しておられるだろう、と考えた。かれはまっすぐ〈八角形の間《ま》〉にはいって、いちばん遠くにある肖像に近づいた。そこの鏡板《パネリング》には、|1/4銅貨《フアーシング》ほどの大きさをした、小さくて円い穴があいていた。かれが片目を穴にあてた。いっぽうスティアパイクは、フレイ氏の頭蓋骨の基部から突きだした骨の下にたるんでいる、羊皮紙みたいな色をした皺だらけの皮膚を見つめた。必要な角度に目をあてるために、フレイ氏は、腰を曲げるのと同時に頭を上げなければならなかったから、咽喉の皺がだらりと垂れさがるのも当たりまえだ。フレイ氏がそこに見たものは、かれが見ようと望んだものだった。
ここからなら、回廊にある三つの扉がはっきり見えた。まんなかの扉は、七十六代のグローン妃である奥さまのお部屋につづいている。その扉は黒く塗られ、上に大きな白猫の絵が描いてある。踊り場の壁は小鳥の絵に覆いかくされ、そこにはサボテンの彫刻も見えた。この扉は、今は閉まっていたけれど、フレイ氏が覗くと、両側にある扉はしじゅう開いたり閉じたりしていて、いろいろな人があわただしく出入りしたり、踊り場を昇り降りしたり、身ぶり手ぶりで話しあったり、丸めた手のひらに顎をうずめて深い考えを巡らすように立ちどまったりしているようすが、見えた。
「ここだ」フレイはうしろを振り返らずに、そういった。
スティアパイクはフレイの肘のすぐそばにいて、「ええ」と返事した。
「あの猫の絵のあるのが、奥さまのお部屋だ」フレイは穴から眼を離して、そう言った。それから両腕をひろげると、長い指までピンと伸ばして大きく欠伸《あくび》をした。
若いスティアパイクは、重い黄金製の額縁を揺らさないよう肩で支えながら、穴に目をあてた。すると次の瞬間、かれは、灰色の髪を乱して金縁の眼鏡をかけた痩せっぽちの男に軽蔑の眼を向けている自分に、気がついた。眼鏡のレンズが、かれの眼を金縁からあふれんばかりに拡大していた。そのとき、まんなかの扉が開いたかと思うと、黒い服の男がひとり、まるで忍び出るように部屋から出て、後ろ手でそっと扉を閉じた。かれの身ごなしには、どこかしら深い落胆の色があった。スティアパイクは、その人物が灰色の髪を乱した男のほうへ目を向けるのを見た。男は顔の前で両手を組みながら、体をちょっと屈めようとしているらしかった。けれど黒い服の人物はそんな動作に心を留めず、踊り場のあたりを昇り降りしはじめた。黒い外套が体をぴったりと包みこみ、かかとのところで床に触れている。医師《ドクター》(どうやら男はそういう職業にあるらしいのだが)のそばを通り過ぎるたびに、この黒い服を着た紳士は、体を前傾させるのだけれど、扉からはあいかわらず何の反応もなかった。ところが、突然、担当医の前で立ちどまったかれは、縁《ふち》のあたりが緑玉色《エメラルド》に燃える黒|翡翠《ひすい》を先端に付けた銀の細杖を、マントのなかから引きだした。憂鬱そうな紳士は、この珍しい武器を使って「こんなときに平然としているやつがおるか」と叱りつけでもするように、悲しげに医師の胸を叩いた。医師は、コホコホと咳こんだ。銀と翡翠《ひすい》の持ちものが床に向けられたあと、スティアパイクは、うつくしく折り目のはいったズボンを踵のうえ数センチまで上につまみあげ、そのまま床にうずくまった医師を見て、眼を丸くした。大きくて雲のかかった医師の眼が、深い海の下に見える二匹のクラゲみたいに拡大レンズの下で游《およ》いでいるのが、見えた。暗い灰色の髪も、まるで軒みたいにかれの目の上を覆っている。そんな不様《ぶざま》なかっこうにもかかわらず、また周囲をゆっくり歩きはじめた紳士を眼で追いながら坐りつづける医師の物腰には、それでもたしかに「くずれを見せない」作法がそなわっていた。けっきょく、銀色の細杖を持った人物は歩みをとめた。
「プルネスクォラー」と、かれは言った。
「何でございましょう?」灰色の髪を左にかたむけながら、医師はこたえた。
「これで満足か、プルネスクォラー?」
医師は指の先をそろえると「とてもけっこうでございました、ご領主、いやとても。まったくもって。ほんとうに、ほんとうにまったく。ハ、ハ、ハ、いやいや、まことに」
「おまえは医師としての職業上そういっておるのか? わしにはそう思えるが」と領主セプルクレーブはいった。なぜなら、スティアパイクが驚きで目を丸くしだしたのも無理からぬことで、そこにいる憂鬱な表情の紳士こそ、第七十六代グローン伯、スティアパイクにいわせれば城中の煉瓦や栄光を独り占めにする主人にほかならなかったからだ。
「職業上から申しあげますれば……」と、医師は自問するように言った。「……どうかというご質問で?」それからかれは、声を張りあげて叫んだ。「職業上の意味でならば、わたくしは口に言いあらわせぬほど満足しております。ハハハ、ハ、社会的には、つまりどう申しますか、その――『|建てまえ《ジエスチユア》』として、ハ、ハ、わたくしは畏れ敬われておりまして、はい、わたくしは誇りを重んじる者でございますから、ご領主、誇りをとても重んじる者でございますから」
プルネスクォラー医師の笑いは、いってみればかれの話し言葉のひとつだったが、それを初めて聞いた者は、きっと烈しい警戒心を感じるだろう。それはまるで声の一部みたいに、ごく自然に口からこぼれ出るらしい。かれが笑いだすとき初めて自分のものになる音階の、いちばん高いところから、こぼれ出るように。そこには、高い垂木《たるき》を吹きわたる風や、たくさんの馬がダイシャクシギ(シギ科の鳥)によく似た騒がしい声でいななくときの音を、思い出させるものがあった。こうして笑いにはけ口[#「はけ口」に傍点]が与えられると、医師の口は、開《あ》けっぱなしにされた化粧棚の戸みたいに、もう絶対に動かなくなる。そうした笑いの間《あいだ》あいだに、かれはことばを早口にまくしたてる。だから笑いのときに、きれいに剃りあげた顎が急に動かなくなることも加わって、よけい奇妙な印象を与えるのだ。その笑いは、なにも滑稽《ヒユーモア》に結びついている必要などない。それは単純に会話の一部なのだから。
「技術的には、あんまり満足すぎて踊りだしたいほどでございます。ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ。それはもう、たいそう満足でございましてな。ほんとうに、まったく」
「それはけっこうだ」一瞬かれを見据えてから、領主はそう言った。
「何か変わったことに気づかなかったか?」(領主セプルクレーブは回廊をずっと見わたした)
「おかしなことを? かれ[#「かれ」はゴシック体]について変わったことを?」
「変わったこと?」と、プルネスクォラーはいった。「変わったこと、とおっしゃいましたか、ご領主?」
「そのとおりだ」と、領主セプルクレーブは下くちびるを噛みながら言った。「かれ[#「かれ」はゴシック体]に何かまちがい[#「まちがい」に傍点]でもあったのか? 臆せずに言え、よいか」
領主はもういちど踊り場のあたりを眺めまわしたが、そこに人影はなかった。
「はい、体格の面で申しましたら、それはもうおすこやかな御子《わこ》でございます。まるで鐘みたいに、リン、リンと、体格的には――ハ、ハ、ハ」と医師は言った。
「体格などが何だというのだ!」と領主グローンは言った。
「これは困りましたな。ご領主さま、ハ、ハ。ほんとうに困りました。体格などではない、とおっしゃいますならば、いったい何ごとを?」
「顔のことだ」と伯爵は言った。「おまえは赤子の顔を見たか?」
ここまできて、医師はとつぜん深い憂いを表情にあらわし、片手で顎をこすった。領主が自分をきびしい目で見つめているのを、流し目のすみで確認した。
「はい!」と、かれは不器用にこたえた。「お顔。御子《わこ》さまのお顔でございますな。あは!」
「見たのか、わしの子の顔を?」領主グローンはことばをつづけた。
「言え、言わぬか!」
「ご領主さま、御子さまのお顔はたしかに拝見いたしました」
医師も、こんどは笑い声をたてず、その細い胸から深い溜め息を吐きだした。
「わしの子の顔が変だとは思わなかったか、それとも思ったか、どっちだ? どっちなのだ?」
「医師として申しあげますが」と、プルネスクォラーは言った。「御子《わこ》のお顔には珍しい特徴がございます」
「それは〈醜い〉という意味か?」領主グローンは言った。
「いえ、自然ではないと申したまでで」
「どこが違う、おい?」と領主グローンが重ねて訊ねた。
「何でございます?」と、医師は訊ね返す。
「わしは、顔が醜いかと訊いたのだ。ところがおまえは、不自然だと返事しおった。そこがちっとも分からないのだ。
わしが〈醜い〉ということばを使うのは、そこにどこか正当な理由があるからだ。分かるか?」領主グローンは静かに言った。
「分かります、ご領主さま、分かります」
「わしの子は醜いか?」領主グローンは、まるで問題をはっきり片付けたいとでも言いたげに、質問を繰り返した。
「おまえは、わしの子よりも醜い赤子を取りあげたことがあるか? 正直にいえ」
「いいえ、ございません」と医師は言った。
「はじめてでございます。ハ、ハ、ハ、ハ。ほんとうに。あのような――え、ハ、ハ、ハ、あのように異常な眼をもった赤子を取りあげたことなど、一度もございません」
「眼だと?」と領主グローンはいった。「眼がいったいどうしたのだ?」
「どうした、でございますと?」プルネスクォラーは叫んだ。「どうした、とおっしゃられましたか、ご領主さま? それでは、ご領主さまはまだご覧になられておりませんので?」
「いいや、見ておらん。早く申せ。さあ、早く言え。いったい何だというのだ? わしの子の眼に、どんな異常があるのだ?」
「お眼が菫《すみれ》色をしておられるのでございます」
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☆ゴーメンガスト城との別離[#「ゴーメンガスト城との別離」はゴシック体]
こうして、巨大な幻想空間に生きる運命を担わされたタイタスは誕生する。いっぽうスティアパイクは、この城をタイタスに継がせる問題で策謀渦まくゴーメンガスト城から脱出する最初の人間になりかかるが、悲惨にもタイタスの手にかかって死に出喰わしてしまう。菫色の眼をもった幼な子タイタスは、奇怪な貌をさらすばかりか心まで歪んだ畸形人間たちが寄り集う城内で、正式に第七十七代城主の地位に就く成人の儀式に参入する。
筆者はここで、この大河ファンタジーの第二巻から第三巻を貫いている基本テーマについて、現在もっとも新しい傑作ファンタジーとされる『ゲド戦記』三部作(清水真砂子訳、岩波書店)を例証とすることによって、間接的にその内容を説き明かしていきたい。現代SF作家のうちで最も期待される女流作家のひとりアーシュラ・K・ル・グインは、児童向けを意識したとはいえ、『ゴーメンガスト』の衣鉢を継ぐ〈成長の儀式〉としてのファンタジーを書きあげた。第一作『影との戦い』は、ゲドという宿命を背負った子供の誕生と、かれが自らの宿命に立ち向かう年齢に達するまでの成長を描き、第二作『こわれた腕環』では、成人したゲドが黒い魔術を習得して、これもやはりル・グインが創造した別世界〈アースシィ(地球の海[#「地球の海」に傍点]を意味する)〉に巣喰う古代からの脅威――権力と対決するまでの冒険に満ちた物語を扱っている。第二作めはさらにセクシャルな象徴が全編を支配し、性の儀式――神秘な宇宙と一体化する永遠の儀式が、物語を不思議な色合いに染めあげる。こうして第三作『最遠の浜辺』は、死――すなわち再生の儀式を描きだす。永遠の生をもとめて遠く航海した王子が、最遠の浜辺で待っていたものが死にほかならなかったことを知るまでの、甘く切ない遍歴が、三部作の最後を締めくくる。作者ル・グインは最後の巻を通じて、生きては体験し得ぬもの――あるいは未だ生きざる世界に待っているもの[#「未だ生きざる世界に待っているもの」に傍点]――のことを物語る。そしてそれは、生から死、死から生へと進展して止まない生命の成長と死の、完全な年代記をかたちづくるのだ。この愛らしく過酷な児童ファンタジーは、こうした魂の年代記を提供することによって、人間が死に向かって突進する哀れな存在でしかないこと――しかし、その成長が人間を暗闇から救い、やがて夢の生を成就させてくれることを、子供たちに教える。この場合、かれら子供たちを待っているものが〈夢の生〉であっても、それは正しい。なぜなら、かれら子供たちは、スティアパイクやタイタスのように、現実の生[#「現実の生」に傍点]というものを未だ味わってはいないから。
生まれたばかりの子供にとって、死は、老人がそう感じるように、ひどく生まなましい現実であり得る。なぜなら、かれらはつい今しがたまで事実上の死と背中合わせでいたのだから。けれど〈成長〉は、ひとつの死を乗りこえて次の生を獲得するための儀式として、ぼくたちの眼前にあらわれる。そしてピークが『ゴーメンガスト』三部作を費やして描こうとした真のテーマは、ル・グインの場合と同じように第三巻によって仮面を剥ぎとられる。第七十七代城主タイタス・グローンは、この第三巻で、初めて伝説と旧習と畸形人たちの迷路となった城内を脱出し、薄明とも暗黒ともつかない未知の外域に足を踏みだして行くからだ。
ゴーメンガスト三部作の最終巻『タイタス・アローン』は、しかし先行する二巻の奇怪で謎めいた超時間性(というより無時間性)の衣を一気に剥ぎとってしまう。すでに冒頭の部分で訳出した『タイタス・グローン』の文章をお読みになった向きにはお分かりだろうが、ゴーメンガスト城はその時代設定と地域設定を一切無視した完全な閉鎖空間のなかで語られてきた。ところが第三巻の冒頭で巨大な胎内世界である城を脱け出たタイタス・グローンは、とたんに、甲冑に身をかためた二人の警官(?)にあとをつけ狙われるのだ。この不気味な警官は、走り寄ってタイタスを組み伏せたりはしない代わりに、ひとことも発せず無駄な動きひとつ見せず、まるで影のようにタイタスを追い回す。なぜ追い回されるのか、なぜ取り押えに来ないのか、すべてが説明されないまま。
この強迫観念じみた二人組を、ピークの警察国家体制への叛逆と精神分析学風に解析している暇はない。かれは輝かしい黄金の球体にも付きまとわれるが、これが実は警察組織の看視通牒装置であったことを、タイタスは発見して唖然とする。しかし胎内の場所ゴーメンガストを脱出したかれを取り巻く世界はいよいよその正体を露わにする。かれの前に、なんと現代の飛行場《エアポート》が現われるのだ! こうしてゴーメンガスト三部作は結末の巻において現実世界と接触し、火花を発する。タイタスは奇怪な追跡を避けて地下へ遁れ、やがて国営農場とも考えられる奇妙な農場の娘にかくまわれる。タイタスとこの娘との、お定まりの恋愛事件がつづく。しかし娘は、タイタスが語るゴーメンガスト城と、そこでの奇怪きわまる生活と人間関係の物語を信じようとしない。娘の強い拒絶にあって、いつかタイタスもゴーメンガスト城の存在に疑念を差し挟むようになる。
タイタスと娘にも、こうして別離の時が来る。タイタスは迫害をのがれ、あのゴーメンガスト城と再度対決するために娘の許を去る。しかし愛と憎しみに燃える娘は、去るタイタスのために残忍なお別れパーティを催す。話に聞いたタイタスの身の上話をそっくりそのまま道化芝居に焼き直して、グロテスクなゴーメンガスト城の物語を森のなかで再演してみせるのだ!
胎内を遁れ、冷酷な現実に体当たりし、娘との愛と憎しみの日々を送ったタイタスは、ついに幻のゴーメンガスト城へと戻って行く。『タイタス・アローン』のなんとも想像を絶した展開は、多くの評者に批判される原因を作ったけれど、最終巻執筆中のピークは病床にあった。かれは生の執念を注ぎこんで、第三部を書き上げたのだ。だからこそ読者は、前二巻の超時間性をまったく打ち消す自己発振的なこの最終巻に、限りない興味を抱かずにはいられない。ゴーメンガスト城三部作は、この第三巻の存在をもって、閉鎖空間としてのピーク的別世界に特異な彩りを添えるのだ。
――ともあれ、結論を急ごう。
未知の外域で恐ろしい死闘をいくつも経験しながら、つねにゴーメンガストの謎めいた影響力におびえつづけたタイタスは、物語の最後で死と対決することになる。そしてそこで、ゴーメンガストという巨大な夢の人生が自分にとってなんだったかを知ることになる。第三巻『タイタス・アローン』の最終章は、こうしてゴーメンガスト城との別離――成長の儀式に参入する歓喜に彩られながら、その幕を閉じるのだ――
『タイタス・アローン』第百九章――終末
[#ここから1字下げ]
飢えと疲れを引きずって、タイタスは、途《みち》みち草の根や木の実を食べ川の水を飲みながら、独りぼっちの道をすすんだ。ひと月がふた月になり、ふた月がみ月になって、人っ子ひとりいない空虚のなかをさすらううちに、とうとう心臓が咽喉からとびだす日がやって来るまで。
道ばたでふと目にした岩の形に見入ったかれが、いくつかの面で気になる不思議さを見つけたように足を停めたのは、どうしてだったのだろう? その岩は、完璧な正常さを保ってそこにあった。時に瑕《きず》つけられ、北側の面を船の帆みたいにそっと膨ませた、もう厚く苔がむしている、もとは何もの[#「何もの」に傍点]かだった丸い岩。その岩を見て、ふと思いあたるものを感じて目をみはったのは、なぜだろう?
かれの目が、今は死んでいるけれど何か古い記憶を喚び醒ますその岩の、瑕《きず》ついた表面を眺めまわすうちに、かれは知らず知らず一歩あとずさりした。まるで、そこから警告を受け取ったかのように。
そこから逃げる道はなかった。この岩を、以前見たことがあった。かれは昔、その岩の背に立っていたことがあった。幼いころ、〈城の王〉として。かれは今、硬い表面に刻みこまれた鋸《のこぎり》の歯跡を、その長ながとした瑕跡を、思い出した。
いま岩の上にもういちど登って、〈城の王〉だったころの遠い昔と同じように立ちあがれば、ゴーメンガスト城の懐しい尖塔が見えるはずだった。
かれが身ぶるいした理由は、そこにあった。かれの家を暗示する長くてギザギザの輪郭が、このたったひとつの丸岩によって視界から遮られていた。それは、理由など見つからないけれど、ひとつの挑戦だった。
記憶の波が、どっと押し寄せてきた。潮が差し、水かさを増し、深さを増すにつれて、かれの脳にある別の部分がより親密な啓示をはっきり受け取るようになった。認めざるを得ない存在感――それを真に証明する丸い岩――かれの目前にあって二十フィートと離れていないその岩は、かれの右手で口をあけているひとつの洞穴の存在を、負けず劣らず生なましく主張していた。信じられないくらい昔に、かれが水精《ニンフ》と格闘したあの洞穴。
最初はかれも、目を外そうとはしなかった。けれど、そうしなければならない瞬間がやってきた。その穴が、いまかれの左肩越しで口をあけているのだ。自分がもういちど領地に戻ったことを、かれは実証を通じて知った。かれはいま、ゴーメンガスト山の上に立っている。
よろよろと立ちあがったとき、一匹のキツネが洞穴から姿をあらわした。近くの雑木林で、カラスが鳴いた。響きをあげる銃の音。銃の音がもう一度聞こえた。ぜんぶで七回、聞こえた。
丸い岩のうしろに、それは横たわっていた。かれの生家に残る不滅の儀式が。銃の音は、ゴーメンガスト家に伝わる〈朝の射撃〉だった。そしてそれは、七十七代伯爵タイタス・グローンであり、どこにいようともゴーメンガスト城領主でありつづける――かれのために、鳴りひびいたのだった。
そこには儀式が燃えていた。かれが失ったものの全て――かれが捜しもとめてきたものの全てが。それは、目に見える形の事実、かれ自身の正気と愛の証明《あかし》だった。
「おお、神よ! それは真実だ! 真実だ! わたしは狂っていなかった! 狂ってはいなかったのだ!」と、かれは叫んだ。
ゴーメンガスト城、かれの生家。かれにはそれが感じられた。ほとんど目に見えるくらい、実感として。その眼に尖塔の姿を満たしこむためには、岩の基部をひとめぐりするか、その硬い頂上によじ登りさえすればいい。鉄の大気には、ひとつの味わいがあった。その岩に向かって、渡るべき架け橋もない空間に向かって、かれを急《せ》きたてるものがあった。かれは何を待っているのだろう?
自分の故郷を振り返りもしないで、まっすぐ洞穴の入口に進んでいくことは、可能だったかもしれない。また、かれ自身でもそうすることを望んだ。実際に、洞穴の入口に向かって一、二歩すすみもした。けれど、差し迫った恐怖の感覚が、かれの足を押しとどめた。そしてその一瞬のちに、かれは自分の声を聞いた――「いけない……いけない……今はいけない! いまは無理だ……いまは」
心臓がさらに烈しく脈搏ちだした。なぜなら、何かが……ある種の知識が膨みかけていたから。脳裡に走る悪寒。ある種の統合が。なぜなら、かれがぼんやりとしか気づいていなかった新しい時期が到来したことを、タイタスは一瞬の省察によって認識したから。それは成熟の感覚、ほとんど成就にも似た感覚だった。かれは自分の内部に自分だけのゴーメンガストを抱いていたから、故郷はもう必要ではなかった。捜しもとめていたもの全てが、かれの内部で押し合っていた。かれは成長した。成人が見つけたものを捜しに出た少年は、生きるという行為によって、それを見つけたのだ。
かれはそこに立った。タイタス・グローン。そうしてかれは踵《きびす》をめぐらし、巨大な丸岩はもう二度とかれの目に触れることがなくなった。そこには洞穴もなかった。その彼方にある城も、なかった。なぜなら、重い外套を肩から振り落とすように過去という過去を棄て去ったタイタスは、むこうに延びる山の斜面を降りだしていたから。それも、登ってきた道を使わずに、以前には知らなかった別の道を辿って。
踏みしめる足の一歩ごとに、ゴーメンガスト山はかれから遠ざかっていった。そして、かれの故郷に属したもの全てから。
[#ここで字下げ終わり]
そういうわけで、長かったファンタジーの遍歴にも終末がおとずれる。仮に幻想文学と呼ばれる一個の文学形態が辿ってきた歴史を、わたしたちは準世界創造――夢の生の実践という観点から跡づけてみたのだが、まだ指さえ触れられずにいる要素は、いくらでも残っている。たとえば筆者は、本来〈夢の生〉の実現に向けて出発したはずのファンタジーが、「地球照《アースシヤイン》」という現象を経て、実は現実そのものに再アプローチしはじめたことを指摘した。それから、完全な円環世界として隔絶した準世界を作っていたはずの神話[#「神話」はゴシック体]が、やがて過去という時間意識を導入することによって伝説[#「伝説」はゴシック体]に変貌し、それさえが現代という一瞬間を結ぶ直線上の一点に組みこまれて、ついには幻想文学[#「幻想文学」はゴシック体]という形式で文学世界に登場したことも。さらにわたしたちは、過去と現在を結ぶ時間線をそのまま未来に延長させたり、あるいはそれを別の惑星に移し替えて、未来に対するシミュレーション(模擬演習)をおこなおうとした少数の作家たちにも触れた。
たぶんこの観点は、幻想をもう一度科学の世界に引きもどすだろう。そして科学と幻想の通底部分へと、わたしたちの目を向けさせるだろう。けれどそのとき、わたしたちが科学に向ける視線は、もう昔のそれではない。準世界創造[#「準世界創造」はゴシック体]という作用をもつ科学とファンタジーの逃避的な性格が、世界意識拡大[#「世界意識拡大」はゴシック体]という人間知恵の最も積極的な問題に、実は深くふかく関わっていたことを知った以上は。
ファンタジーについて、最後にひとこと言っておきたい。ファンタジーの描きだす世界が薔薇色のユートピアであろうと、それともダンテの煉獄であろうと、かまわない。いつの時代にも若者の心と、かつて若者だったことのある心とを惹きつけてきた幻想物語の意義は、伽としての現実を離れ、自由になったときの「自己」が体験するはずの「新世界」を、即時的にシミュレーションしてくれるかぎりは。つまりこの奇怪な装置は、生きたまま死を経験することによく似た、夢を見せる機械[#「夢を見せる機械」に傍点]なのである――だからファンタジーは、それ自身が辛く冷酷な世界であることに躊躇する必要もない。現実の幸福すらが存在をやめるほど、それほど、ファンタジーは残酷で熾烈な世界であっていい――
[#改ページ]
あとがき
本書は、ファンタジーという文学形式を支えてきた「昼の精神」と別世界の論理について論じたものである。文学あるいは小説としてのファンタジーを文学史的に辿っていく方法は、ぼくの能力を超えているし、また興味も湧かない。それよりも、この世界を測定し別世界への扉を実際に探しまわった虚実両翼の主人公たちを凝視《みつ》めていくことによって、わたしたちが果たして逃避の道を見つけ得るかどうかを探ることのほうに関心があった。おかげでこんな奇妙なファンタジーの本が出来てしまった。
ちなみに、本書で論じた類のファンタジー観に初めて手を染めたのは、『牧神』創刊号のために書いた「フランケンシュタイン」に関する文章のなかでだった。その後畏友である月刊ペン社の阿見政志氏に勧められて「ファンタジーの世界」という連載物を八回ほど『月刊ペン』に書かせていただいた。したがってそれらの文章が本書の骨格を成しているが、今度単行本になるのを機会に、誤りや不適切な個所を可能な限り訂正し、新しくいくつかの章を書き加えた。
終わりに、これまで単に好きで読みつづけてきた幻想文学について思いつくままに書き散らしたこんな文章を本にしてくださった月刊ペン社の阿見氏と、ぼくに動機づけを与えてくださった牧神社の菅原貴緒氏に感謝します。表紙とデザインを引き受けてくれたまりの・るうにいさん、ありがとう。そして、いつもご面倒ばかりおかけした故平井呈一先生と紀田順一郎先生ご夫妻に、慎んで本書を捧げます。
[#地付き]Nov. 3, 1976 H. A.
[#改ページ]
文庫版あとがき
今回、この若書きがふたたび陽の目を見ることになりました。これを書きあげたのは一九七〇年代の話で、現在のように「ファンタジー」が書店にあふれる情況ではありませんでしたから、当時の孤独な苦闘を考えると夢のような気持になります。
また、同じ理由により、巻末に挙げたファンタジー名作案内も大幅に増補しなければなりませんでした。もちろん漏れた名作も多くあるはずですが、とりあえず読者のみなさまへの参考リストとなれば幸いです。
[#地付き]Oct. 12, 1987 H. A.
[#改ページ]
書棚の片すみに捧げる180冊+2
ここに選出した180冊+2は、別世界の夢に心を燃やす読者にとって――実際に読むと読まざるとにかかわらず――書棚の片すみに並ぶことの望まれる物語群である。ただし、重複を避ける意味で、本文に採りあげられた既訳作品や創作の類は除いたほかに、たとえばボームの「オズの魔法使い」や「不思議の国のアリス」、あるいは「銀河鉄道の夜」など、あまりにスタンダードな書目についても、他の埋もれた名作を再評価する機会を確保するという目的のために、ここでは極力割愛することにした。同様の目的から、対象が限定される洋書は、リストから除外してある。
しかし、紹介した書物のうち何割かは新刊書として入手出来ないものもある。その分については、やがてやって来るかも知れない「出会いのロマンス」のための試練と考えて、諦めずに古書店の棚をハントされたい。なお、180冊の順序については五十音順にした。
「愛」[#「「愛」」はゴシック体]一九三五
[#地付き]ユーリー・オレーシャ著[#「ユーリー・オレーシャ著」はゴシック体]
[#地付き]工藤正広訳[#「工藤正広訳」はゴシック体]
暗たんたる国家制度の下で、都会の抒情性を描いたソヴィエト幻想派の代表的旗手の短編集。世紀末的心情と革命への挫折感は、作品を十九世紀と二十世紀のはざまに置く。
[#地付き](晶文社S46)
「愛のゆくえ」[#「「愛のゆくえ」」はゴシック体]一九六六
[#地付き]R・ブローティガン著[#「R・ブローティガン著」はゴシック体]
[#地付き]青木日出夫訳[#「青木日出夫訳」はゴシック体]
アメリカ現代ファンタジーの旗手ブローティガンによる愛の物語。図書館を舞台にしているところがまた泣ける。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』のとなりに。
[#地付き](新潮社S50)
「青い花」[#「「青い花」」はゴシック体]一八〇〇
[#地付き]ノヴァーリス著[#「ノヴァーリス著」はゴシック体]
[#地付き]小牧健夫訳[#「小牧健夫訳」はゴシック体]
あなたがもしも「指輪物語」の探索を終えたなら、次は青い花をもとめてミドル・アースから宇宙へ翔びたつ番です。おそらく、この書物を読み終えたあなたは、以前よりも賢く、美しい人間に変わっているはずです。
[#地付き](岩波文庫S14)
「悪魔崇拝者」[#「「悪魔崇拝者」」はゴシック体]一九五一
[#地付き]カール・マイ著[#「カール・マイ著」はゴシック体]
[#地付き]戸叶勝也訳[#「戸叶勝也訳」はゴシック体]
アメリカのフェニモア・クーパーに影響されたドイツ系インディアン冒険ロマン作家を紹介しておきたい。十二巻のシリーズから、とりあえずマイの千夜一夜風物語を選んだ。
[#地付き](エンデルレ書店S54)
「悪魔物語」[#「「悪魔物語」」はゴシック体]一九二五
[#地付き]ミハイル・ブルガーコフ著[#「ミハイル・ブルガーコフ著」はゴシック体]
[#地付き]水野忠夫訳[#「水野忠夫訳」はゴシック体]
ロシア幻想派最大の作家の中編集。とりわけ「運命の卵」はゴーゴリの諷刺小説が今世紀の異常な世界にあってはH・G・ウェルズのSFを継ぎ木せざるをえないことを示した佳編。
[#地付き](集英社S46)
「アダムとイヴの日記」[#「「アダムとイヴの日記」」はゴシック体]一九〇四
[#地付き]マーク・トウェイン著[#「マーク・トウェイン著」はゴシック体]
[#地付き]大久保博訳[#「大久保博訳」はゴシック体]
「トム・ソーヤー」の作家の晩年の作品。象形文字から翻訳したと称し、世界最初の人間のさまざまな驚きを諷刺をこめて描く。いくぶん稚拙だがレスター・ラルフのラファエロ前派風の挿絵が美しい。
[#地付き](旺文社文庫S51)
「アトランチス」[#「「アトランチス」」はゴシック体]一九一二
[#地付き]ゲルハルト・ハウプトマン著[#「ゲルハルト・ハウプトマン著」はゴシック体]
[#地付き]角信雄訳[#「角信雄訳」はゴシック体]
大西洋に没する巨船「ローラント号」に「走る巨島――ひとつの別世界」を夢想した小説。主人公の一人フリードリヒは、海上の鬼火にさそわれて海を渡る……。
[#地付き](河出書房S12)
「阿片常用者の告白」[#「「阿片常用者の告白」」はゴシック体]一八二一
[#地付き]ディ・クィンシー著[#「ディ・クィンシー著」はゴシック体]
[#地付き]田部重治訳[#「田部重治訳」はゴシック体]
イナガキ・タルホも愛した青春文学の金字塔。若さとは未熟と堕落の代名詞。だからこそ尊い。青春の日に、かならずヴィアン「うたかたの日々」と本書だけは読んでおきたい。
[#地付き](岩波文庫S12)
「あるようなないような話」[#「「あるようなないような話」」はゴシック体]一九七〇
[#地付き]ライナー・クンツェ著[#「ライナー・クンツェ著」はゴシック体]
[#地付き]野村滋訳[#「野村滋訳」はゴシック体]
東ドイツの反体制作家による幼年童話集。作品じたい他愛のないものであるが、童話を書くということがどういう行為なのかを伝えてくれる前書きが良い。
[#地付き](岩波書店S50)
「アンドロギュノスの裔」[#「「アンドロギュノスの裔」」はゴシック体]一九三〇
[#地付き]渡辺温著[#「渡辺温著」はゴシック体]
モダニズムを謳歌する昭和初期の魔都東京を描いた「新青年」に拠る作家たちの中にあって、最も繊細な魂をもった作家の掌編集。城昌幸のそれとともに都市の本来もつ物語性を開示する。
[#地付き](薔薇十字社S45)
「イカロスの飛行」[#「「イカロスの飛行」」はゴシック体]一九六八
[#地付き]レーモン・クノー著[#「レーモン・クノー著」はゴシック体]
[#地付き]滝田文彦訳[#「滝田文彦訳」はゴシック体]
映画でも有名になった「地下鉄のザジ」(中公文庫)の著者の会話形式の小説。M・エーメの「マルタン君物語」(講談社文庫)の中の一短編とも共通する、作品の中からの登場人物の逃亡というアイデアは物語を書くことの意味への哲学的な考察を背景にもっている。
[#地付き](筑摩書房S47)
「一千一秒物語」[#「「一千一秒物語」」はゴシック体]一九二三
[#地付き]稲垣足穂著[#「稲垣足穂著」はゴシック体]
人間が創造する文学の世界から極力人間らしさ[#「人間らしさ」に傍点]を除こうとしたタルホ文学の、これはすべてを解き明かす最大の鍵。出来得れば現在流布する愛蔵版で賞味すべし。
[#地付き](新潮文庫S44)
「五つの壺」[#「「五つの壺」」はゴシック体]一九二二
[#地付き]M・R・ジェイムズ著[#「M・R・ジェイムズ著」はゴシック体]
[#地付き]紀田順一郎訳[#「紀田順一郎訳」はゴシック体]
英国の恐怖小説作家が残した唯一のファンタジーだが、ベオウルフ伝説を活かした妖精戦争の展開はみごと。掘り出し物といえるだろう。
[#地付き](創土社「M・R・ジェイムズ全集下巻」S50)
「蝗の大旅行」[#「「蝗の大旅行」」はゴシック体]一九二六
[#地付き]佐藤春夫著[#「佐藤春夫著」はゴシック体]
この童話集最大の読みものは、珍しやユートピア・ファンタジーの佳品「美しい町」。東京築地の近くにある中洲に理想の別世界を建てるという展開になれば、これは〈架空世界叢書〉の一巻だ! なお復刻はほるぷ出版で出ている。
[#地付き](改造社T15)
「イルカの夏」[#「「イルカの夏」」はゴシック体]一九六三
[#地付き]カテリーネ・アルフライ著[#「カテリーネ・アルフライ著」はゴシック体]
[#地付き]矢川澄子訳[#「矢川澄子訳」はゴシック体]
エーゲ海の小さな島に住むアンドルーラは、おかあさんと二人暮らしの貧しい少女である。友達にいじめられたあと、山羊と一緒にひとりであそんでいるうちに、言葉を話すイルカと友達になり、イルカの背に乗って神話の島へ出かけることになるのだが……。著者はドイツの片田舎に生まれた女性で、苦労の末にあこがれのギリシアに行くことができたという体験の持ち主。
[#地付き](岩波書店S44)
「色とりどりの国」[#「「色とりどりの国」」はゴシック体]一九〇八
[#地付き]G・K・チェスタトン著[#「G・K・チェスタトン著」はゴシック体]
[#地付き]尾崎安他訳[#「尾崎安他訳」はゴシック体]
「ブラウン神父」もので有名な作者の若書きファンタジー詞画集。とても佳い味わいの上品な一冊。
[#地付き](教文館S62)
「ウィンターズ・テール」[#「「ウィンターズ・テール」」はゴシック体]一九八三
[#地付き]マーク・ヘルプリン著[#「マーク・ヘルプリン著」はゴシック体]
[#地付き]岩原明子訳[#「岩原明子訳」はゴシック体]
高橋源一郎が好きな人は、きっと好きにならずにいられなくなる大河ファンタジー。主人公は〈ニューヨーク〉。その空を神話の白馬アサンソーが翔びまわる。
[#地付き](早川書房S62)
「兎に関する十二章」[#「「兎に関する十二章」」はゴシック体]一九八六
[#地付き]高山宏、矢川澄子他著[#「高山宏、矢川澄子他著」はゴシック体]
十二支のウサギにちなむ十二人の執筆者の競作。内容は小説あり論文あり。しかしどれもファンタジーめいている。なかんずく松浦寿輝の奇妙な本屋にまつわるファンタジーが秀逸。
[#地付き](新宿書房S61)
「うたかたの日々」[#「「うたかたの日々」」はゴシック体]一九四七
[#地付き]ボリス・ヴィアン著[#「ボリス・ヴィアン著」はゴシック体]
[#地付き]伊東守男訳[#「伊東守男訳」はゴシック体]
この傷ついた青春小説を読まずに青春時代をすごしたファンタジー・ファンを、筆者は信用しないことにしている。奇病にとりつかれた娘と、彼女を救おうとする青年の物語。サブ・キャラクターの猫がかわいい。幻の「架空世界叢書」の候補作でもある。
[#地付き](早川書房S54)
「宇宙人との対話」[#「「宇宙人との対話」」はゴシック体]一九八一
[#地付き]グレタ・ウッドリュー著[#「グレタ・ウッドリュー著」はゴシック体]
[#地付き]池田郁雄訳[#「池田郁雄訳」はゴシック体]
地球へ来た宇宙人オガッタ・グループとの遭遇をあつかった〈ノンフィクション〉。しかし星と星のあいだに結ばれた生物たちの会話網のふしぎと、何よりも宇宙的な|懐しさ《ノスタルジア》を憶えさせる奇妙な一編。
[#地付き](恒文社S62)
「宇宙を駆ける男」[#「「宇宙を駆ける男」」はゴシック体]一九五五
[#地付き]ロバート・リンドナー著[#「ロバート・リンドナー著」はゴシック体]
[#地付き]川口正吉訳[#「川口正吉訳」はゴシック体]
精神病者たちの幻覚や異常体験を物語的構成のもとで語った珍書。想像力が人間の内側と宇宙の外側へ同時に向いてしまう壮絶な本。
[#地付き](金沢文庫S49)
「海の人形」[#「「海の人形」」はゴシック体]一九二四
[#地付き]吉田一穂著[#「吉田一穂著」はゴシック体]
武井武雄の挿絵もはいった美しいメールヒェン集。毒草研究に熱中する老博士の花園で命を落とした娘が〈月草《つきぐさ》の花〉となって蘇る物語など、どれもロマンティック。復刻は学芸書林で出ている。
[#地付き](金星堂T13)
「悦楽の花園」[#「「悦楽の花園」」はゴシック体]一九〇八
[#地付き]アルジャノン・スウィンバーン著[#「アルジャノン・スウィンバーン著」はゴシック体]
[#地付き]藤井純逍訳[#「藤井純逍訳」はゴシック体]
ラファエロ前派に連なりチェルシー周辺で芸術的生活を送った詩人スウィンバーンのエロチカ。ある種の奇作。なお、SF作家トマス・ディッシュは、スウィンバーンやロセッティやルイス・キャロル等が隣人生活≠送ったロンドン、チェルシー地区を舞台とする幻想日常小説 "Neighboring Lives" 1981 を書いている。これまた大珍品!
[#地付き](三楽書房S27)
「エントロピー」[#「「エントロピー」」はゴシック体]一九六六
[#地付き]トマス・ピンチョン著[#「トマス・ピンチョン著」はゴシック体]
[#地付き]井上謙治訳[#「井上謙治訳」はゴシック体]
白水社版「現代アメリカ幻想小説」所載の短編。ほとんど神がかりの一作だ。二階建ての家の上下で二つの閉鎖系が成立している。階下の乱痴気パーティーの影響が、ついに上階の老人を熱死≠ウせるという、文字通りエントロピー現象を文学化した傑作。ピンチョンは他に長編『V.』(国書刊行会)がおすすめ。
[#地付き](白水社S48)
「黄金の川の王さま」[#「「黄金の川の王さま」」はゴシック体]一八五一
[#地付き]ジョン・ラスキン著[#「ジョン・ラスキン著」はゴシック体]
[#地付き]小野章訳[#「小野章訳」はゴシック体]
イギリス・ヴィクトリア朝の美術評論家でラファエロ前派運動の強力な支持者でもあった著者の若年の作品。チロルの谷間を舞台としたメールヒェンで、エリジウムへの希求の念は今世紀の「ムーミン谷」へつながる道をもっている。
[#地付き](講談社S48)
「大あらし」[#「「大あらし」」はゴシック体]一九三八
[#地付き]リチャード・ヒューズ著[#「リチャード・ヒューズ著」はゴシック体]
[#地付き]北山克彦訳[#「北山克彦訳」はゴシック体]
鬼気せまるナンセンス童話集「クモの宮殿」の著者の海洋小説。出世作「ジャマイカの烈風」とともにこのジャンルでの代表作といわれながら、細部には奇想が走る。
[#地付き](晶文社S50)
「オーロラ」[#「「オーロラ」」はゴシック体]一九四六
[#地付き]ミシェル・レリス著[#「ミシェル・レリス著」はゴシック体]
[#地付き]宮原庸太郎訳[#「宮原庸太郎訳」はゴシック体]
闇のなかの旅にも似た錬金術的風景にあふれる小説。作者ミシェル・レリスが三十歳以前に書いた。この作品のなかを、奔放に浮遊する天使オーロラは太陽である。しかし屍臭と崩壊のイメージが漂う本書は、その不可思議な明るさの故に読後感が優しい。
[#地付き](思潮社S45)
「おにごっこ物語」[#「「おにごっこ物語」」はゴシック体]一九三九
[#地付き]マルセル・エーメ著[#「マルセル・エーメ著」はゴシック体]
[#地付き]鈴木力衛訳[#「鈴木力衛訳」はゴシック体]
「壁ぬけ男」(早川書房)や「マルタン君物語」(講談社文庫)で都会派ファンタジーの世界を展開してみせた著者は、「緑の雌馬」を初めとした農村の物語もよくする。本書における少女たちと動物たちの奇妙な世界は、寓話でも動物物語でもなく、ユーモア遊戯の空間である。
[#地付き](岩波少年文庫S31)
「音楽の国のアリス」[#「「音楽の国のアリス」」はゴシック体]一九二五
[#地付き]BB・ラ・プラード著[#「BB・ラ・プラード著」はゴシック体]
[#地付き]光吉夏弥訳[#「光吉夏弥訳」はゴシック体]
二十世紀は、数少ないが優秀な教育童話をいくつか生んだ。本書はジョージ・ガモフの「不思議の国のトムキンス」(白揚社)とともにイマジネーションに満ちた教科書|書き換え《パロデイ》のひとつ。「不思議の国のアリス」の主人公がオーケストラの国を旅する。
[#地付き](岩波少年文庫S31)
「怪獣17P」[#「「怪獣17P」」はゴシック体]一九六五
[#地付き]ナターリャ・ソロコーワ著[#「ナターリャ・ソロコーワ著」はゴシック体]
[#地付き]草鹿外吉訳[#「草鹿外吉訳」はゴシック体]
原題を「旅に出るとき、ほほえみを」というSF仕立ての物語。科学技術の発展のもとで管理化された社会における青年の理想を抒情的に書いた、ほとんど童話に近い作品。
[#地付き](大光社S42)
「架空の庭」[#「「架空の庭」」はゴシック体]一九六〇
[#地付き]矢川澄子著[#「矢川澄子著」はゴシック体]
海外の優秀な児童文学の紹介者でもある著者の処女短編集。たぐい稀れな少女による少女の心理の知的な分析を背景とする諸短編は、ひとつの幻想文学論にも近似する。
[#地付き](大和書房S49)
「影を売った男」[#「「影を売った男」」はゴシック体]一九一三
[#地付き]アーデルベルト・フォン・シャミッソー著[#「アーデルベルト・フォン・シャミッソー著」はゴシック体]
[#地付き]大野俊一訳[#「大野俊一訳」はゴシック体]
ドイツの幻想小説作家は、なぜ博物に憑かれるのだろう。かれもまた、ゲーテと同じく博物学研究に半生を費やした。児童向け再話により、毒されすぎた不幸な幻想小説のひとつである。
[#地付き](森開社S51)
「火山を運ぶ男」[#「「火山を運ぶ男」」はゴシック体]一九二三
[#地付き]ジュール・シュペルヴィエル著[#「ジュール・シュペルヴィエル著」はゴシック体]
[#地付き]嶋岡晨訳[#「嶋岡晨訳」はゴシック体]
火山をトランクに詰め込んで旅する男のふしぎな物語。これはもう〈神品〉と称すべき佳作である。
[#地付き](月刊ペン社S55)
「カシオペアの|ψ《プサイ》」[#「「カシオペアの|ψ《プサイ》」」はゴシック体]一八五四
[#地付き]C・I・ドフォントネー著[#「C・I・ドフォントネー著」はゴシック体]
[#地付き]秋山和夫訳[#「秋山和夫訳」はゴシック体]
レイモン・クノーがパリ国立図書館の蔵書中から発見した「埋もれた宇宙小説」。地球とは何の関係もない星で成立した民族と文明とに関する歴史。架空世界文学の珍品。こういう珍品を愛好する向きには、もう一冊、「小遊星物語」をおすすめする。
[#地付き](国書刊行会S54)
「ガスタ・ベルリンクの伝説」[#「「ガスタ・ベルリンクの伝説」」はゴシック体]一八九一
[#地付き]セルマ・ラーゲルレーフ著[#「セルマ・ラーゲルレーフ著」はゴシック体]
[#地付き]丸山武夫訳[#「丸山武夫訳」はゴシック体]
「ニルスの不思議な旅」の作者が描くスウェーデンの伝説ファンタジー。北欧のムード豊かな奇跡譚。
[#地付き](白水社S16)
「風博士」[#「「風博士」」はゴシック体]一九三一
[#地付き]坂口安吾著[#「坂口安吾著」はゴシック体]
彼には数々の奇妙な小説があるけれど、これは圧巻。論敵|蛸《たこ》博士と対決する風博士の書斎には、ありとあらゆる風が吹きさわいでいるのだ。そして博士は結婚式の当日、緊張のあまり式を忘れてしまい、ついにほんとうに風になってしまう[#「風になってしまう」に傍点]。短編ながら大傑作。
[#地付き](竹村書房S10)
「カッパのクー」[#「「カッパのクー」」はゴシック体]一九二〇
[#地付き]オケリー他編[#「オケリー他編」はゴシック体]
[#地付き]片山広子訳[#「片山広子訳」はゴシック体]
ケルト人の生んだ幻想の住民たる妖精族が登場する、すてきな物語集。なんといっても片山広子氏が手がけているのがうれしい。
[#地付き](岩波少年文庫S27)
「かなしき王女」[#「「かなしき王女」」はゴシック体]一八九五
[#地付き]フィオナ・マクラウド著[#「フィオナ・マクラウド著」はゴシック体]
[#地付き]片山広子訳[#「片山広子訳」はゴシック体]
スコティッシュ・ケルト最大の幻想作家をまとめた唯一の訳書。静かな伝説的味わいを、訳者片山広子が巧みに日本語に写している。ただし入手はきわめて困難。
[#地付き](第一書房T14)
「唐草物語」[#「「唐草物語」」はゴシック体]一九八一
[#地付き]澁澤龍彦著」はゴシック体]
日本幻想文学が生んだ戦後最大の巨星。海外文学の訳出紹介、魔術の評論、そして創作と、澁澤氏が残してくれたすべての著作は私たちファンタジー派のものだ。本書は澁澤氏の業績のほんの見本にすぎない。
[#地付き](河出書房新社S56)
「ガルガンチュワ物語・パンタグリュエル物語」[#「「ガルガンチュワ物語・パンタグリュエル物語」」はゴシック体]
[#地付き]ラブレー著[#「ラブレー著」はゴシック体]
[#地付き]渡辺一夫訳[#「渡辺一夫訳」はゴシック体]
ラブレーは一応、渡辺訳で読んでみよう。後世の幻想文学のパターンがすべて揃っている。祝祭文学の古典。
[#地付き](岩波文庫S48‐50全5冊)
「カンディード」[#「「カンディード」」はゴシック体]一七五九
[#地付き]ヴォルテール著[#「ヴォルテール著」はゴシック体]
[#地付き]吉村正一郎訳[#「吉村正一郎訳」はゴシック体]
現在ではほとんど読まれることがないこの伝説的ロマンスを、いま、新しい世代が再発見する。殺された猿を抱きながら、美しい姫君が涙ながらに「なぜ、わたしの恋人を殺すの?」と問いかける場面など、思わず胸を衝かれる展開は、いま読んでも、奇妙に新鮮だ。
[#地付き](岩波文庫S31)
「北風のうしろの国へ」[#「「北風のうしろの国へ」」はゴシック体]一八七一
[#地付き]ジョージ・マクドナルド著[#「ジョージ・マクドナルド著」はゴシック体]
[#地付き]山室静、田谷多枝子訳[#「山室静、田谷多枝子訳」はゴシック体]
「リリス」、「ファンタスティス」と並ぶマクドナルド最良の幻想小説のひとつ。夢の体験を読者に共有させる筆力をもつ。英語圏では稀有なファンタシストの一人。
[#地付き](講談社「世界の名作図書館」S43)
「虐殺された詩人」[#「「虐殺された詩人」」はゴシック体]一九一六
[#地付き]ギョーム・アポリネール著[#「ギョーム・アポリネール著」はゴシック体]
[#地付き]窪田般弥訳[#「窪田般弥訳」はゴシック体]
二十世紀初頭パリのモダニズムの旗手たる著者の長短編集。本の半分を占める表題作は、後のB・サンドラルスの「モラヴァジーヌの冒険」(河出書房新社)やJ・コクトーの「山師トマ」(中央公論社「世界の文学」)とともに、二十世紀と文学者の意味を模索しながら、限りなく幻想小説に迫る。
[#地付き](白水社S50)
「九百人のお祖母さん」[#「「九百人のお祖母さん」」はゴシック体]一九七〇
[#地付き]R・A・ラファティ著[#「R・A・ラファティ著」はゴシック体]
[#地付き]浅倉久志訳[#「浅倉久志訳」はゴシック体]
奇妙に新鮮な味わいのある短編集。最もポップな「狂った文学」の一つ。T・F・ポウイスの隣りに置いておきたい。
[#地付き](早川書房S56)
「虚航船団」[#「「虚航船団」」はゴシック体]一九八四
[#地付き]筒井康隆著[#「筒井康隆著」はゴシック体]
文房具が乗り込んだ船が現実をずたずたに切り裂く! 異才の巨匠が世を驚かせた世紀末的純文学。フランス革命期の諷刺家ヴォルテールへの道を、筒井氏はめざすのだろうか。
[#地付き](新潮社S59)
「霧のむこうのふしぎな国」[#「「霧のむこうのふしぎな国」」はゴシック体]一九七五
[#地付き]柏葉幸子著[#「柏葉幸子著」はゴシック体]
宮城県の山の中の小さな駅から歩いて行けるところに、ヨーロッパの小さな魔法の村がある。この物語は、そんな村の物語である。何でもない女の子リナが一生懸命がんばれば、不思議な住人たちの間で起こった複雑怪奇な問題もひとつひとつ解決されていく。十ちかくの物語を二〇〇ページ足らずの中に自然に語り尽くしているのが不思議でならない、魅惑的な本。
[#地付き](講談社S50)
「キリンのいるへや」[#「「キリンのいるへや」」はゴシック体]一九四八
[#地付き]エルナー・エステル著[#「エルナー・エステル著」はゴシック体]
[#地付き]渡辺茂男訳[#「渡辺茂男訳」はゴシック体]
スージーの新しいおうちに出来た、すごく「キリンむきのおへや」には、本当にキリンが住んでいた。そしてマウント・カーメルの丘にねむれる巨人は、頭から石を切り出されたために逃げ出してしまった。イギリス童話の重厚さに疲れたむきは、アメリカの良き時代のこんな軽い童話を集めた作品集はいかがだろう?
[#地付き](学習研究社S41)
「銀のほのおの国」[#「「銀のほのおの国」」はゴシック体]一九七二
[#地付き]神沢利子著[#「神沢利子著」はゴシック体]
トナカイに引っぱられて越えた壁の向こう側は、青イヌの支配する荒涼たるツンドラだった。太古の物語によって予言されていた青イヌとトナカイとの最終戦争へ向けて、主人公の冒険はつづく。雄大にすぎるテーマのために書き足りなさも感じられるが、本邦初の超本格ファンタジーであることにちがいはない。
[#地付き](福音館書店S47)
「寓話」[#「「寓話」」はゴシック体]一八九四
[#地付き]ロバート・ルイス・スティーブンソン著[#「ロバート・ルイス・スティーブンソン著」はゴシック体]
[#地付き]枝村吉三訳[#「枝村吉三訳」はゴシック体]
「宝島」の作家の晩年の掌編集。一口話に近いものから「エルドの家」、「試金石」といった短編童話まで二十編を収録。この作家のもう一つの面を知ると同時に、ヨーロッパの寓話の最良のもののひとつを読むことができる。
[#地付き](牧神社S51)
「首のないキューピッド」[#「「首のないキューピッド」」はゴシック体]一九七一
[#地付き]ジルファ・キートリー・スナイダー著[#「ジルファ・キートリー・スナイダー著」はゴシック体]
[#地付き]関口功訳[#「関口功訳」はゴシック体]
児童文学では珍しくオカルティズムをまっこうから扱ったニューベリー賞受賞作。イニシエーション(入社儀礼)が常に中心的なテーマとなっているこのジャンルで、直接入社式が描かれるのは稀有な例である。
[#地付き](冨山房S50)
「クルミわりとネズミの王様」[#「「クルミわりとネズミの王様」」はゴシック体]一八一六
[#地付き]E・T・アマデウス・ホフマン著[#「E・T・アマデウス・ホフマン著」はゴシック体]
[#地付き]国松孝二訳[#「国松孝二訳」はゴシック体]
チャイコフスキーの「クルミわり人形」であまりにも有名な作品の原作。このドイツ・ロマン派童話の傑作のひとつが、せっかく翻訳されていながら読まれないのが惜しい。
[#地付き](岩波少年文庫S26)
「クレーン」[#「「クレーン」」はゴシック体]一九五六
[#地付き]ライナー・チムニク著[#「ライナー・チムニク著」はゴシック体]
[#地付き]矢川澄子訳[#「矢川澄子訳」はゴシック体]
平和な時と戦争を通じて、クレーンの心臓となって自分を守り通した男の物語。こんな要約ではまったく内容を伝えられないほど美しい絵物語で、「タイコたたきの夢」(福音館書店)とともに現代に稀有な政治と個人の寓話になっている。童話屋で再刊されている。
[#地付き](福音館書店S43)
「黒い郵便船」[#「「黒い郵便船」」はゴシック体]一九七五
[#地付き]別役実著[#「別役実著」はゴシック体]
「淋しいおさかな」(三一書房S48)でこの国にまったく新しい乾いた童話をもたらした著者の第一長編童話。「見えない目」でニライカナイへ渡る黒い郵便船を見たロロにはじまる、何層にも重なった町の、少年たちによる古代の歴史探索の旅は、童話における新しい真摯さへの道を開いた。
[#地付き](三一書房S50)
「黒の過程」[#「「黒の過程」」はゴシック体]一九六八
[#地付き]マルグリット・ユルスナール著[#「マルグリット・ユルスナール著」はゴシック体]
[#地付き]岩崎力訳[#「岩崎力訳」はゴシック体]
十六世紀の錬金術師ゼノンを主人公とした歴史小説。アナトール・フランスの「鳥料理ベドオク亭」とともにルネッサンスにおける魔術運動の姿をとらえるよすが[#「よすが」に傍点]となろう。
[#地付き](白水社S45)
「毛虫の舞踏会」[#「「毛虫の舞踏会」」はゴシック体] オリジナル・アンソロジー
[#地付き]シュペルヴィエル他著[#「シュペルヴィエル他著」はゴシック体]
[#地付き]堀口大学訳編[#「堀口大学訳編」はゴシック体]
フランス文学が生んだ動物ファンタジーを集めた珍本。シュペルヴィエルなど定評あるもののほかに、海中を飛んだ鳥の話(アヴリン)や少年パタシュの幼い空想(ドレエム)が楽しい。講談社から再刊された。
[#地付き](札幌青磁社S18)
「ケルト幻想物語」[#「「ケルト幻想物語」」はゴシック体]一八八八‐九二
[#地付き]W・B・イエイツ著[#「W・B・イエイツ著」はゴシック体]
[#地付き]井村君江訳[#「井村君江訳」はゴシック体]
アイルランドの農民や漁夫に伝わる口碑。妖精物語を集めた同著者同訳者による「ケルト妖精物語」(ちくま文庫)とともに、ケルティック・ファンタジー・ファン必携。
[#地付き](ちくま文庫S62)
「幻獣辞典」[#「「幻獣辞典」」はゴシック体]一九六七
[#地付き]ホルヘ・ルイス・ボルヘス&マルガリータ・ゲレロ著[#「ホルヘ・ルイス・ボルヘス&マルガリータ・ゲレロ著」はゴシック体]
[#地付き]柳瀬尚紀訳[#「柳瀬尚紀訳」はゴシック体]
ボルヘスが学識と書物愛と幻想愛のすべてを傾けて著した「不思議の国の動物」辞典。「伝奇集」(集英社)をマスターした向きにも、しない向きにも、これは非存在の実在感を囁きかけている。
[#地付き](晶文社S49)
「現代民話考〔第二期〕U――学校」[#「「現代民話考〔第二期〕U――学校」」はゴシック体]一九八七
[#地付き]松谷みよ子著[#「松谷みよ子著」はゴシック体]
戦時下の学童の話は別として、学校に出没する幽霊や怪現象を集めたもの。オカルト書はいらないが、この一冊だけはファンタジー・ファンのための本だ。お化けや開かずの間《ま》の意味よ、ふたたび! 必携(ただし、さり気なく)。
[#地付き](立風書房S62)
「幻談」[#「「幻談」」はゴシック体]一九四一
[#地付き]幸田露伴著[#「幸田露伴著」はゴシック体]
江戸前の釣をあつかった奇談。釣竿を握った死人は異界からの来訪者か。釣人必読のファンタジーだが、この短編集には他にも平安の陰陽師の運命を描く「連環記」など名作が含まれる。むろん岩波版の「全集」でも読める。
[#地付き](日本評論社S16)
「氷のスフィンクス」[#「「氷のスフィンクス」」はゴシック体]一八九七
[#地付き]ジュール・ヴェルヌ著[#「ジュール・ヴェルヌ著」はゴシック体]
[#地付き]古田幸男訳[#「古田幸男訳」はゴシック体]
ポオ「ゴードン・ピムの冒険」の後日譚として書かれた珍品。海洋幻想冒険小説ファンの宝。古本屋で発見したら迷わず購入。
[#地付き](プレジデント社S54二冊)
「悟浄出世」[#「「悟浄出世」」はゴシック体]一九四二
[#地付き]中島敦著[#「中島敦著」はゴシック体]
あの変身小説「山月記」の作者が書いた沙悟浄(むろん〈西遊記〉に出てくる沼の妖怪)を主人公にした、ふしぎな教養小説風ファンタジー。姉妹編「悟浄歎異」も良い味わいが出ている。隠れた名作。
[#地付き](今日の問題社S17)
「ゴッケル物語」[#「「ゴッケル物語」」はゴシック体]一八一六‐一八
[#地付き]クレメンス・ブレンターノ著[#「クレメンス・ブレンターノ著」はゴシック体]
[#地付き]伊東勉訳[#「伊東勉訳」はゴシック体]
矢川澄子訳の「ゴッケル物語」もあるが、版元月刊ペン社がつぶれて入手不能。トールキン「指輪物語」の原形ともいえばいえる決定的メールヒェン。
[#地付き](岩波文庫S16)
「仔猫シュピーゲル」[#「「仔猫シュピーゲル」」はゴシック体]一八五六
[#地付き]ゴットフリート・ケラー著[#「ゴットフリート・ケラー著」はゴシック体]
[#地付き]堀内明訳[#「堀内明訳」はゴシック体]
ドイツ・メールヒェンのうちでも極めつけと断言していい痛快な猫物語。奇跡譚を集めた「七つの伝説」ともども忘れてはならない。
[#地付き](弘文堂書房「七つの伝説」所収S15)
「小鼠ニューヨークを侵略」[#「「小鼠ニューヨークを侵略」」はゴシック体]一九五五
[#地付き]レナード・ウイバーリー著[#「レナード・ウイバーリー著」はゴシック体]
[#地付き]清水政二訳[#「清水政二訳」はゴシック体]
ヨーロッパの一極小国家がアメリカと戦争をして勝ってしまうという奇想天外な物語。「ゼンダ城のとりこ」から「ダイナマイト円舞曲《ワルツ》」に至るまでのヨーロッパの小国テーマの流れは、ファンタジーにまた一つの舞台を与えた意味において重要であろう。
[#地付き](創元推理文庫S51)
「コブラ」[#「「コブラ」」はゴシック体]一九七二
[#地付き]セベロ・サルドゥイ著[#「セベロ・サルドゥイ著」はゴシック体]
[#地付き]荒木亨訳[#「荒木亨訳」はゴシック体]
ラテン・アメリカ幻想文学の精華。再生した女主人公コブラが虎と蠍とトーテムたちを連れてチベット(!)に出発する物語。
[#地付き](晶文社S50)
「最後のユニコーン」[#「「最後のユニコーン」」はゴシック体]一九六八
[#地付き]P・S・ビーグル著[#「P・S・ビーグル著」はゴシック体]
[#地付き]鏡明訳[#「鏡明訳」はゴシック体]
訳者鏡明氏執念の翻訳。アメリカン・ファンタジーの最も良質な部分を代表する作品だ。いつのまにかこの世から消えてしまった仲間をもとめて旅に出るユニコーンの物語。
[#地付き](早川書房S54)
「さすらいのジェニー」[#「「さすらいのジェニー」」はゴシック体]一九五〇
[#地付き]ポール・ギャリコ著[#「ポール・ギャリコ著」はゴシック体]
[#地付き]矢川澄子訳[#「矢川澄子訳」はゴシック体]
名作「白い雁」の作家による長編ファンタジー。交通事故をきっかけに猫になってしまった少年ピエールとメス猫ジェニーとの愛と冒険の物語。訳者によるあとがきが、今日の幻想物語の意味を知るうえで役に立つ。大和書房版(S58)でも読める。
[#地付き](角川文庫S51)
「島を愛した男」[#「「島を愛した男」」はゴシック体]一九二七
[#地付き]D・H・ロレンス著[#「D・H・ロレンス著」はゴシック体]
[#地付き]奥村透訳[#「奥村透訳」はゴシック体]
心のユートピア建設を夢みて無人島へ赴く男の小さな物語だが、全編にすさまじいばかりの孤独感と宇宙意識がみなぎる。「アポカリプス論」のロレンスへとつながる自然回帰への願いが胸を打つ。
[#地付き](あぽろん社「ロレンス短篇傑作集」S51)
「ジャック・トゥールーヌ・ブロンシュのコント」[#「「ジャック・トゥールーヌ・ブロンシュのコント」」はゴシック体]一九〇〇
[#地付き]アナトール・フランス著[#「アナトール・フランス著」はゴシック体]
[#地付き]渡辺一夫他訳[#「渡辺一夫他訳」はゴシック体]
「聖母と軽業師」(岩波文庫)で現代に奇跡譚をもたらした大作家の、キリスト教的背景を重んじた歴史短編集。「黄金伝説」の系譜上にある諸短編を含む。
[#地付き](白水社S15)
「十一わの白いハト」[#「「十一わの白いハト」」はゴシック体]一九六六
[#地付き]ジェイムズ・リーブズ著[#「ジェイムズ・リーブズ著」はゴシック体]
[#地付き]神宮輝夫訳[#「神宮輝夫訳」はゴシック体]
子供部屋の中にある不思議。ビンの中の帆船に乗る水夫ランビロー。振ると雪の降ってくるガラス玉の中の家に住む少女ブリタニア。そしてこの二人の悲しい恋物語をはじめとした可憐な四編の童話集。詩人として著名な著者は、メールヒェンの中にもユーモアと皮肉を忘れていない。
[#地付き](学習研究社S42)
「春昼・春昼後刻」[#「「春昼・春昼後刻」」はゴシック体]一九〇六
[#地付き]泉鏡花著[#「泉鏡花著」はゴシック体]
ご存じ鈴木清順監督「陽炎座」の下敷きに使われた神品。時間の観念を超えて起こる宿命的な恋と心中の物語。短編だが、鏡花文学の最高峰といえる傑作。なお、彼の「高野聖」を読んでいない人は、そっちを先に読むこと。
[#地付き](岩波文庫S62)
「ジュンとひみつの友だち」[#「「ジュンとひみつの友だち」」はゴシック体]一九七二
[#地付き]佐藤さとる著[#「佐藤さとる著」はゴシック体]
こびとたちの国づくり場面《シーン》を幕切れとしたために、現代には稀れなハッピーエンドの恋物語を成功させている「誰も知らない小さな国」(講談社文庫一九五九)の著者が描く。そして本書――少年と高圧線の鉄塔との友情の物語の結末にも、新しい恋の芽ばえをほのめかす。自称三浦半島人≠ネらではの都会でもいなかでもない美しい谷間の描写は心をなごませる。
[#地付き](岩波書店S47)
「少年と川」[#「「少年と川」」はゴシック体]一九五三
[#地付き]アンリ・ボスコ著[#「アンリ・ボスコ著」はゴシック体]
[#地付き]江口清訳[#「江口清訳」はゴシック体]
著者ボスコの自伝的幻想小説。晶文社から出た多田智満子訳「ズボンをはいたロバ」が気に入った人は、この幻の翻訳本を入手しよう。天沢退二郎さんあたりの新訳で、この静かな傑作を出してくれる本屋が、どこかないのか。
[#地付き](あかね書房S35)
「小遊星物語」[#「「小遊星物語」」はゴシック体]一九一三
[#地付き]パウル・シェーアバルト著[#「パウル・シェーアバルト著」はゴシック体]
[#地付き]種村季弘訳[#「種村季弘訳」はゴシック体]
完璧な別世界小説。地球に近い小遊星パラスに住む高等生物の都市建設の物語。宇宙感覚にめぐまれた硬質な読者にのみ向く、ファンタジーだ。他に、同趣向の短編集「星界物語」(工作舎)も翻訳された。
[#地付き](桃源社S53再)
「白髪小僧」[#「「白髪小僧」」はゴシック体]一九二二
[#地付き]夢野久作著[#「夢野久作著」はゴシック体]
「新青年」に拠る幻想作家の処女長編。「夢野久作全集」第七巻に他の掌編童話とともに収録。代表作「ドグラ・マグラ」の中にもみられる入れ子型の時間の中で、印度に似た王国での物語。未だ詳しい分析をみない。
[#地付き](三一書房S45)
「シルヴィーとブルーノ」[#「「シルヴィーとブルーノ」」はゴシック体]一八八九
[#地付き]ルイス・キャロル著[#「ルイス・キャロル著」はゴシック体]
[#地付き]柳瀬尚紀訳[#「柳瀬尚紀訳」はゴシック体]
妖精姉弟が展開する壮大でナンセンスな冒険物語。「アリス」を産んだキャロルの知られざるファンタジー。
[#地付き](ちくま文庫S62)
「シルトの岸辺」[#「「シルトの岸辺」」はゴシック体]一九五一
[#地付き]ジュリアン・グラック著[#「ジュリアン・グラック著」はゴシック体]
[#地付き]安藤元雄訳[#「安藤元雄訳」はゴシック体]
架空の時代、架空の国を舞台にしたグラック最大の幻想小説。処女作「アルゴオルの城」以来グラックにとり憑いた「城」のイメージは、ここではオルセンナという宿命的な都に昇華する。
[#地付き](集英社「現代の世界文学」S48)
「新・英名二十八衆句」[#「「新・英名二十八衆句」」はゴシック体]一九八七
[#地付き]花輪和一・丸尾末広著[#「花輪和一・丸尾末広著」はゴシック体]
かつて月岡芳年らが幕末の血みどろを二十八葉の絵にした「英名二十八衆句」になぞらえ、現代日本の最も卓越した幻想マンガ作家(というよりむしろ現代の絵師)二人による、時代の血みどろを描いた画集。永田洋子、津山三十人殺しから一寸法師まで、妖気ただよう秘本。
[#地付き](Y&AアソシエーツS62予定)
「真紅の帆」[#「「真紅の帆」」はゴシック体]一九二三
[#地付き]アレクサンドル・グリーン著[#「アレクサンドル・グリーン著」はゴシック体]
[#地付き]原卓也訳[#「原卓也訳」はゴシック体]
黒海幻想派として知る人ぞ知る著者の、約束された恋と海の物語。非ボルシェヴィキで元革命運動に加わっていた人間にとっては、決してたやすくなかったであろう時代に、これだけの美しい物語を書いたことは驚異に値する(同著者の「波の上を駆ける女」安井侑子訳〈晶文社〉も入手容易である)。金子国義氏の挿絵もすばらしいが、現在本書は残念ながら絶版中。
[#地付き](河出書房新社S43)
「新ナポレオン綺譚」[#「「新ナポレオン綺譚」」はゴシック体]一九〇四
[#地付き]G・K・チェスタトン著[#「G・K・チェスタトン著」はゴシック体]
[#地付き]高橋康也他訳[#「高橋康也他訳」はゴシック体]
ロンドン郊外ノッティングヒルに起こるナポレオンとの闘い! ナンセンス歴史ファンタジーの味わい深い名作。
[#地付き](春秋社S53)
「新・博物誌」[#「「新・博物誌」」はゴシック体]一九八七
[#地付き]高橋源一郎著[#「高橋源一郎著」はゴシック体]
雑誌『野生時代』に連載中の博物誌文学。レオ・レオーニ「平行植物」や「鼻行類」の向こうを張り、どこにあるかわからないマラコビアの植物についての詳細な紹介を、何とエラズマス・ダーウィンの草稿によって語る「マラコビアの植物」など、奇妙な逸品を集める。単行本化が楽しみ。
[#地付き](角川書店S62)
「セラフィタ」[#「「セラフィタ」」はゴシック体]一八三五
[#地付き]H・ド・バルザック著[#「H・ド・バルザック著」はゴシック体]
[#地付き]沢崎浩平訳[#「沢崎浩平訳」はゴシック体]
両性具有のヘルメス的な夢想を盛った本書の主人公は、おそらくバルザック文学のうちでも最も魅惑的なキャラクターの一人だろう。青年からは女への愛を享け、乙女からは男への憧憬を捧げられる、この「天使」の名のすばらしい響き!
[#地付き](国書刊行会「世界幻想小説大系」S51)
「第三の警官」[#「「第三の警官」」はゴシック体]一九六七
[#地付き]フラン・オブライエン著[#「フラン・オブライエン著」はゴシック体]
[#地付き]大沢正佳訳[#「大沢正佳訳」はゴシック体]
久びさに紹介されたアイルランド奇想小説の佳作。演劇的構成のもと、不条理小説を認識論的ユーモア小説に高めた。ケルト民族の文学的資質が、いまだ健在であることを示す。
[#地付き](筑摩書房S48)
「隊商」[#「「隊商」」はゴシック体]一八二六
[#地付き]ヴィルヘルム・ハウフ著[#「ヴィルヘルム・ハウフ著」はゴシック体]
[#地付き]高橋健二訳[#「高橋健二訳」はゴシック体]
これを読むたびに「月の砂漠」を口ずさんでしまう。ドイツにかの3B政策を思いつかせる源泉になったかと思わせるようなアラブ=バグダッド幻想を秘めたメールヒェン。
[#地付き](岩波文庫S5)
「ダイナマイト円舞曲《ワルツ》」[#「「ダイナマイト円舞曲《ワルツ》」」はゴシック体]一九七三
[#地付き]小泉喜美子著[#「小泉喜美子著」はゴシック体]
日本のお嬢さんがヨーロッパのある極小王国の政争にまきこまれて大冒険を体験するという大人の童話。「ゼンダ城のとりこ」やピエール・ルイスの「ポーゾール王の冒険」の系譜をひく佳作。
[#地付き](カッパブックスS48)
「太陽の帝国」[#「「太陽の帝国」」はゴシック体]一九八四
[#地付き]J・G・バラード著[#「J・G・バラード著」はゴシック体]
[#地付き]高橋和久訳[#「高橋和久訳」はゴシック体]
第二次大戦下、日本軍の占領した上海で少年時代を過ごしたバラードによる、戦争ファンタジー。しかし同時に、少年の視点を通じたみごとな歴史フィクションにも昇華している。無垢な幻想文学ファンも、このような作品をきっかけに〈より広大な世界〉の存在を知ることだろう。
[#地付き](国書刊行会S62)
「タタール人の砂漠」[#「「タタール人の砂漠」」はゴシック体]一九四〇
[#地付き]ディーノ・ブッツァーティ著[#「ディーノ・ブッツァーティ著」はゴシック体]
奥野拓哉訳[#「奥野拓哉訳」はゴシック体]
[#地付き] イタロ・カルヴィーノと並ぶイタリア最大のファンタシスト。かれのイメージが結実した「砂漠」に立つ砦に、若い士官が派遣される。かれは歓楽にさんざめく町を想いながら、現われぬ敵軍を待つうちに、やがて砦を離れられなくなる。長大な時だけが、この空恐ろしい砂漠と、砂漠と同じくらい空虚な士官の上を流れ過ぎる……。
[#地付き](集英社S41)
「旅する人びとの国」[#「「旅する人びとの国」」はゴシック体]一九八四
[#地付き]山口泉著[#「山口泉著」はゴシック体]
架空世界叢書≠フための一冊。政治的暗闘と革命とを主題としつつ、つねに幻想へと向かう一連の作品――五木寛之「戒厳令の夜」から村上龍「愛と幻想のファシズム」までのうち、最も構想力のすばらしい大作だ。
[#地付き](筑摩書房S59上下二巻)
「ダランベールの夢」[#「「ダランベールの夢」」はゴシック体]一七六九
[#地付き]ドゥニ・ディドロ著[#「ドゥニ・ディドロ著」はゴシック体]
[#地付き]新村猛訳[#「新村猛訳」はゴシック体]
こんなに奇妙な怪物物語を、いったい誰が書けるだろう! とにかく、まず岩波版を開いてみること(わずらわしいほどの訳注が、かえって嬉しい)。
[#地付き](岩波文庫S33)
「ダンセイニ戯曲全集」[#「「ダンセイニ戯曲全集」」はゴシック体] オリジナル・アンソロジー
[#地付き]ロード・ダンセイニ著[#「ロード・ダンセイニ著」はゴシック体]
[#地付き]松村みね子訳[#「松村みね子訳」はゴシック体]
幻想作家ダンセイニが大正中、後期までに発表したファンタスティックな戯曲をすべて収めた愛蔵版。愛蘭《アイルランド》文学研究の先達松村みね子(本名は片山広子)の訳がここでも光る。造本も良し。
[#地付き](警醒社書店T10)
「チョコレート工場の秘密」[#「「チョコレート工場の秘密」」はゴシック体]一九六四
[#地付き]ロアルド・ダール著[#「ロアルド・ダール著」はゴシック体]
[#地付き]田村隆一訳[#「田村隆一訳」はゴシック体]
短編集「キス・キス」(早川書房)によって青年たちにサキ以来のシニカルな短編を読む楽しみを味わわせてくれた著者が、子供たちに贈る傑作。貧之な子チャーリーが拾ったお金で買ったチョコレート。そして、偶然にもそれを製造したチョコレート工場への招待キップが当たる。魔法の工場に展開する残酷場面はダール一流のもの。
[#地付き](評論社S49)
「角笛の音の響くとき」[#「「角笛の音の響くとき」」はゴシック体]一九六〇
[#地付き]サーバン著[#「サーバン著」はゴシック体]
[#地付き]永井淳訳[#「永井淳訳」はゴシック体]
フィリップ・K・ディックの「高い城の男」とともに、偽史性の強い、あり得べき現代=ナチス千年帝国を描いた物語。SFがこのテーマをまだ十分こなしきっていないのが惜しまれる。
[#地付き](早川書房S43)
「手品師の帽子」[#「「手品師の帽子」」はゴシック体]一九七六
[#地付き]ストーンブレイン著[#「ストーンブレイン著」はゴシック体]
[#地付き]安野光雅作・絵[#「安野光雅作・絵」はゴシック体]
ドイツ中世の町を舞台にした吟遊詩人の遍歴物語。と思いきや帽子の中に入ってしまってからなかなか外へ出ることができず、延々と穴の中を落ちていくうちに終ってしまう。絵本を媒介にした奇妙な世界を次々につくっていった著者の長編童話。それにしても、日本の創作童話にもおかしな作品が現われはじめたものである。
[#地付き](童心社S51)
「どうしてそんなに物語」[#「「どうしてそんなに物語」」はゴシック体]一九〇二
[#地付き]ラディヤード・キップリング著[#「ラディヤード・キップリング著」はゴシック体]
[#地付き]石田外茂一訳[#「石田外茂一訳」はゴシック体]
「どうしてそんな模様が豹に出来ました?」他十二編の起源説話と童謡を集めた本。原本は言葉遊びに満ちているので翻訳の困難な本だ。「ジャングル・ブック」の著者のもう一つの側面を示す。挿絵も著者による。
[#地付き](改造文庫S16)
「動物園に入った男」[#「「動物園に入った男」」はゴシック体]一九二四
[#地付き]ディヴィッド・ガーネット著[#「ディヴィッド・ガーネット著」はゴシック体]
[#地付き]龍口直太郎訳[#「龍口直太郎訳」はゴシック体]
「狐になった奥様」(新潮文庫)の著者の奇想小説。内容は表題どおりで語り口は古風な小説風である。カフカの闇はないが現実の幻想性を語る姿勢は、案外かれと遠くはなれてはいないかもしれない。
[#地付き](春陽堂文庫S8)
「とぶ船」[#「「とぶ船」」はゴシック体]一九三六
[#地付き]ヒルダ・リュイス著[#「ヒルダ・リュイス著」はゴシック体]
[#地付き]石井桃子訳[#「石井桃子訳」はゴシック体]
イギリスが二十世紀前半に生んだ童話のうち、十指に入る傑作。魔法の店を通じて手に入れた船を返却する羽目になるところまでの必然性は、「ほんとうの空色」の結末とともに秀逸だ。
[#地付き](岩波少年文庫S28二冊)
「トムは真夜中の庭で」[#「「トムは真夜中の庭で」」はゴシック体]一九五八
[#地付き]フィリパ・ピアス著[#「フィリパ・ピアス著」はゴシック体]
[#地付き]高杉一郎訳[#「高杉一郎訳」はゴシック体]
時計が十三時を打つとき、真夜中の庭に別世界がひらける。近年、児童文学界で評判を呼んだ傑作。「閉ざされた庭」の最も描きこまれた小説のひとつ。
[#地付き](岩波書店S48)
「トリストラム・シャンディ」[#「「トリストラム・シャンディ」」はゴシック体]一七五九
[#地付き]ロレンス・スターン著[#「ロレンス・スターン著」はゴシック体]
[#地付き]朱牟田夏雄訳[#「朱牟田夏雄訳」はゴシック体]
岩波文庫三大奇書の一つ(他の二つはディドロ「ダランベールの夢」とヴォルテール「カンディード」)。小説形式のおもしろさだけでも一読の価値はある。ジェームス・ジョイス「フィネガン徹夜祭」の前触れ。買っておくだけでも十分に意味がある。
[#地付き](岩波文庫S44三冊本)
「鳥の物語」[#「「鳥の物語」」はゴシック体]一九四三
[#地付き]中勘助著[#「中勘助著」はゴシック体]
うぐいすはなぜホーホケキョと鳴き、丹頂鶴の頭は赤いのか? 鳥に関する神話を独自の構想と文体とでつづった名作。これがあれば「かもめのジョナサン」なんぞ要らない!
[#地付き](岩波文庫S58)
「トンカチと花将軍」[#「「トンカチと花将軍」」はゴシック体]一九七〇
[#地付き]舟崎克彦・舟崎靖子著[#「舟崎克彦・舟崎靖子著」はゴシック体]
日本の創作児童文学もようやく身辺リアリズムからファンタジーへと主流が移ったにしても、教科書をそのままひき写したような教訓を糖衣にくるんだ作品が、まだほとんどのようだ。しかし悲観せずにこの本をお読みなさい。不思議の野原でのトンカチとおかしな仲間たちの冒険にめぐり会える。
[#地付き](角川文庫S50)
「ナイトランド」[#「「ナイトランド」」はゴシック体]一九一二
[#地付き]W・H・ホジスン著[#「W・H・ホジスン著」はゴシック体]
[#地付き]荒俣宏訳[#「荒俣宏訳」はゴシック体]
未来の地球に生き残った人類を襲う化けものたち。その危険な荒野を横断する男女の冒険を描いた、「夢見るように眠りたくなる」ロマンティックな大河ファンタジー。こういう純粋なロマンはもう誰にも書けない。
[#地付き](月刊ペン社S55‐56)
「長い長いお医者さんの話」[#「「長い長いお医者さんの話」」はゴシック体]一九三一
[#地付き]カレル・チャペック著[#「カレル・チャペック著」はゴシック体]
[#地付き]中野好夫訳[#「中野好夫訳」はゴシック体]
有名な「ロボット(RUR)」の作者の童話集。ユーモアたっぷりの童話の中にも二十世紀前半における東欧の政治情勢をうかがい知ることができ、今世紀の幻想性を感じさせる。
[#地付き](岩波少年文庫S21)
「夏の夜の夢」[#「「夏の夜の夢」」はゴシック体]一五九八頃
[#地付き]W・シェイクスピア著[#「W・シェイクスピア著」はゴシック体]
[#地付き]土居光知訳[#「土居光知訳」はゴシック体]
英国ルネサンス期妖精物語の白眉。読んでおかないと常識を疑われる。
[#地付き](岩波文庫S15)
「鉛の夜」[#「「鉛の夜」」はゴシック体]一九六二
[#地付き]ハンス・ヘニー・ヤーン著[#「ハンス・ヘニー・ヤーン著」はゴシック体]
[#地付き]佐久間穆訳[#「佐久間穆訳」はゴシック体]
ドイツ都市の夜の闇は、何ら奇矯な事も起こらないのに、一切を幻想のさなかに入れる。現実に浸透する不気味なものをほとんど何の道具も用いずに描き切っている。
[#地付き](現代思潮社S41)
「二十六夜」[#「「二十六夜」」はゴシック体]
[#地付き]宮沢賢治著[#「宮沢賢治著」はゴシック体]
数ある宮沢賢治ファンタジーから、ひとつ見本を選ぶとしたら、選者はこの小品を取りあげたい。汽車の音とお経の声が入りまじる音響効果をもって始まるこの話は、傷ついて死んでいく梟の子〈穂吉〉の最期の一夜を、月光力と菩薩の慈悲とに包んで物語る。
[#地付き](ちくま文庫「宮沢賢治全集」S61)
「人形の家」[#「「人形の家」」はゴシック体]一九四七
[#地付き]ルーマー・ゴッデン著[#「ルーマー・ゴッデン著」はゴシック体]
[#地付き]瀬田貞二訳[#「瀬田貞二訳」はゴシック体]
ヨーロッパの古い町にある博物館を訪れると、家具や暖炉まで精巧に作られた人形のための家を見ることができる。名画「黒水仙」の原作者でもある著者は、昔から伝えられた人形の家の住民たちにかかわる物語を、二人の少女をまじえて生き生きと語ってくれる。
[#地付き](岩波書店S42)
「奴婢訓」[#「「奴婢訓」」はゴシック体]一七三二頃
[#地付き]J・スウィフト著[#「J・スウィフト著」はゴシック体]
[#地付き]深町弘三訳[#「深町弘三訳」はゴシック体]
「ガリヴァー旅行記」ではチト恥かしいと思われるあなたへ、とくべつ辛口のブラック・ユーモア。これでスウィフトと離れられなくなる。
[#地付き](岩波文庫S25)
「猫のゆりかご」[#「「猫のゆりかご」」はゴシック体]一九六三
[#地付き]カート・ヴォネガットJr.著[#「カート・ヴォネガットJr.著」はゴシック体]
[#地付き]伊藤典夫訳[#「伊藤典夫訳」はゴシック体]
現代アメリカ、サーフィクション(超小説)の割合いソフトな見本。この作者はできれば短編集「モンキーハウスへようこそ」を推したいが、甘すぎるきらいもあるので、アバンギャルド「ドグラ・マグラ」風のこの長編を選ぶ。
[#地付き](早川書房S52)
「ノアの方舟」[#「「ノアの方舟」」はゴシック体]一九三一
[#地付き]ジュウル・シュペルヴィエル著[#「ジュウル・シュペルヴィエル著」はゴシック体]
[#地付き]嶋岡晨訳[#「嶋岡晨訳」はゴシック体]
沖の小島、海上に果てしなく延びる道路、そして決して成長せぬ娘。ある一夜、娘を失くした船長が創りだした恐るべき想像力の奇跡を描く「沖に住む少女」のほか、シュペルヴィエルの傑作短編を収める。
[#地付き](早川書房S50)
「ハイラム氏の大冒険」[#「「ハイラム氏の大冒険」」はゴシック体]一九三九
[#地付き]ポール・ギャリコ著[#「ポール・ギャリコ著」はゴシック体]
[#地付き]高松二郎訳[#「高松二郎訳」はゴシック体]
フェンシングでもトランプでもチェスでも常に万能の働きをする新聞記者ハイラム・ホリデイの冒険談。一九六〇年代にテレビ映画化され有名となった。現代を舞台としても物語《ロマンス》を書くことのできる例証を示した大人の童話。
[#地付き](ハヤカワ文庫S51)
「蠅の王」[#「「蠅の王」」はゴシック体]一九五四
[#地付き]ウィリアム・ゴールディング著[#「ウィリアム・ゴールディング著」はゴシック体]
[#地付き]平井正穂訳[#「平井正穂訳」はゴシック体]
無垢を侵す悪。メフィストとファウストの対話(あるいはゴシック風に表現すれば、放浪者メルモスの存在悪)を現代の少年たちに託した状況ファンタジー。
[#地付き](新潮文庫S50)
「裸のランチ」[#「「裸のランチ」」はゴシック体]一九五九
[#地付き]ウィリアム・バロウズ著[#「ウィリアム・バロウズ著」はゴシック体]
[#地付き]鮎川信夫訳[#「鮎川信夫訳」はゴシック体]
ドラッグ小説。ファンタジーというよりは異世界の悪夢というべきだろう。しかし次々に登場してくる奇怪なキャラクターは興味ぶかい。世の中に「狂った[#「狂った」に傍点]文学」と「壊れた[#「壊れた」に傍点]文学」とがあるとすると、本書は後者の代表選手!
[#地付き](河出書房新社S46)
「花物語」[#「「花物語」」はゴシック体]一九二〇
[#地付き]吉屋信子著[#「吉屋信子著」はゴシック体]
なあんだ、少女小説集か――と言わずに、まず一読。ふるい女学生用語のたおやかな響きだけでも絶品だ。復刻はほるぷ出版、国書刊行会で出ている。
[#地付き](再刊・国書刊行会S60)
「羽根をなくした妖精」[#「「羽根をなくした妖精」」はゴシック体]一九四四
[#地付き]ユリヨ・コッコ著[#「ユリヨ・コッコ著」はゴシック体]
[#地付き]渡部翠訳[#「渡部翠訳」はゴシック体]
「ムーミン」のトーベ・ヤンソンとともにフィンランドを代表する児童文学者の処女作。戦争の惨禍の下にある祖国の自然への限りない愛に満ちた、妖精と植物たちの物語。
[#地付き](晶文社S50)
「ハムレット異聞」[#「「ハムレット異聞」」はゴシック体]一八八七
[#地付き]ジュール・ラフォルグ著[#「ジュール・ラフォルグ著」はゴシック体]
[#地付き]吉田健一訳[#「吉田健一訳」はゴシック体]
フランス象徴詩派が生んだ佳作のひとつ。ハムレットやサロメに代表される世紀末的人間像の神話をファンタスティックな文章にのせて語るラフォルグの、不可思議な「女性思慕」に注目したい。
[#地付き](角川書店S22)
「万霊節の夜」[#「「万霊節の夜」」はゴシック体]一九四五
[#地付き]チャールズ・ウィリアムズ著[#「チャールズ・ウィリアムズ著」はゴシック体]
[#地付き]蜂谷昭雄訳[#「蜂谷昭雄訳」はゴシック体]
トールキン、C・S・ルイスと並ぶ英国ファンタジーの巨匠。生と死のはざまを描く本書は、別世界というよりも「霊界」の甘味な曖昧さを漂わせる。
[#地付き](国書刊行会「世界幻想文学大系」S51)
「鼻行類」[#「「鼻行類」」はゴシック体]一九六一
[#地付き]ハラルト・シュトゥンプケ著[#「ハラルト・シュトゥンプケ著」はゴシック体]
[#地付き]日高敏隆他訳[#「日高敏隆他訳」はゴシック体]
これぞ天下の奇書。核実験で消滅した太平洋上の島に住んでいた、鼻で歩く動物たちの博物学的考察。これほど完璧な幻想博物誌は今後も書かれることはあり得まい。超傑作!
[#地付き](思索社S62)
「『美妙な死体』の物語」[#「「『美妙な死体』の物語」」はゴシック体]一九三六
[#地付き]レオノーラ・カリントン著[#「レオノーラ・カリントン著」はゴシック体]
[#地付き]嶋岡晨他訳[#「嶋岡晨他訳」はゴシック体]
シュルレアリストたちの恋人<Jリントンがつづった不条理幻想コント集。全編にあふれるふしぎな残虐趣味と童心は、まるで現代にペロー童話集を得るような味わいがある。とくにパーティーにデビューする娘の話「うぶな娘」は傑作。
[#地付き](月刊ペン社S56)
「百年の孤独」[#「「百年の孤独」」はゴシック体]一九六七
[#地付き]ガルシア・マルケス著[#「ガルシア・マルケス著」はゴシック体]
[#地付き]鼓直訳[#「鼓直訳」はゴシック体]
全体的に停滞している戦後諸国の小説の中にあって唯一気をはく南アメリカ幻想小説の代表作。蜃気楼の村マコンドの不思議な年代記は、不可視なものの表現にさらに新しい方法を与えた。
[#地付き](新潮社S47)
「ふしぎなマチルダばあや」[#「「ふしぎなマチルダばあや」」はゴシック体]一九六四
[#地付き]クリスティアンナ・ブランド著[#「クリスティアンナ・ブランド著」はゴシック体]
[#地付き]矢川澄子訳[#「矢川澄子訳」はゴシック体]
魔法の杖を持って、いたずらっ子の兄弟たちをしつけにやってきたマチルダばあやは、メアリー・ポピンズのようにやさしくはない。ところが、子供たちもさるもの、一回や二回のおしおきでは懲りるはずがない。女流本格ミステリー作家によるこの作品のスラップスティックな世界にはベテラン読書人も感嘆するにちがいない。続編は未訳。
[#地付き](学習研究社S45)
「ふしぎな虫たちの国」[#「「ふしぎな虫たちの国」」はゴシック体]一九六七
[#地付き]シーラ・ムーン著[#「シーラ・ムーン著」はゴシック体]
[#地付き]山本俊子訳[#「山本俊子訳」はゴシック体]
翻訳で五〇〇ページを超える大長編ファンタジー。インディアンの伝説を背景にして、地底の巨大な昆虫たちの世界での主人公の大冒険は読者をぐいぐいと引き込む。
[#地付き](冨山房S50)
「ふしぎ猫マキャヴィティ」[#「「ふしぎ猫マキャヴィティ」」はゴシック体]一九三九
[#地付き]T・S・エリオット著[#「T・S・エリオット著」はゴシック体]
[#地付き]北村太郎訳[#「北村太郎訳」はゴシック体]
あまたあるネコ物ファンタジーから一つ。しゃれたネコ詩。
[#地付き](大和書房S53)
「ブランビラ王女」[#「「ブランビラ王女」」はゴシック体]一八二一
[#地付き]E・T・A・ホフマン著[#「E・T・A・ホフマン著」はゴシック体]
[#地付き]種村季弘訳[#「種村季弘訳」はゴシック体]
ジャック・カロの幻想的銅版画が霊感となったファンタジー。しがないお針娘がメルヘンの国の女王を夢みるけれど……。高笑いと大騒ぎの祝祭劇。
[#地付き](ちくま文庫S62)
「平妖伝」[#「「平妖伝」」はゴシック体]一六二〇
[#地付き]馮夢竜《ふうぼうりよう》増訂 太田辰夫訳[#「馮夢竜《ふうぼうりよう》増訂 太田辰夫訳」はゴシック体]
十一世紀北宋の故事をベースとした大オカルト小説。出るわ、出るわ、妖術師のオンパレード。道教系のまじない、おはらいに関するテキストにも使える。あまり読まれない中国伝奇小説の逸品。
[#地付き](平凡社S42)
「ベーバとベーバ」[#「「ベーバとベーバ」」はゴシック体]一九五五
[#地付き]エリカ・リレッグ著[#「エリカ・リレッグ著」はゴシック体]
[#地付き]矢川澄子訳[#「矢川澄子訳」はゴシック体]
秋が来て、両親のいないベーバはたった一人のお兄さまと別れる。きびしいおばさまのところで暮らさなければならないからだ。しかし身代わりをする魔法の木の根を手に入れたベーバは、パリの兄の許に逃げこんでしまう。ところが留守中に「身代わりベーバ」がいたずらをはじめたから大変! 戦後ドイツが生んだファンタジーの名作。
[#地付き](学習研究社S47)
「ベツレヘムの星」[#「「ベツレヘムの星」」はゴシック体]一九六五
[#地付き]アガサ・クリスティー著[#「アガサ・クリスティー著」はゴシック体]
[#地付き]中村能三訳[#「中村能三訳」はゴシック体]
ミステリーの女王の書いたクリスマス・ストーリー集。ヨーロッパ土着宗教としてのキリスト教を考える際、最も大事なクリスマスの意味をディケンズの「クリスマス・キャロル」以外、ほとんど物語によって知らされていない本邦への、大きな贈り物といえよう。
[#地付き](早川書房S52)
「ペンギンの島」[#「「ペンギンの島」」はゴシック体]一九〇八
[#地付き]アナトール・フランス著[#「アナトール・フランス著」はゴシック体]
[#地付き]水野成夫訳[#「水野成夫訳」はゴシック体]
幻想のペンギン国勃興から筆を起こし、その遠い未来までを語りつくした年代記ファンタジーの傑作。新しい世代の財産となるべき「埋もれた小説」の典型といえるだろう。
[#地付き](白水社S12)
「変身物語」[#「「変身物語」」はゴシック体]ca. 8 A.D.
[#地付き]オウィディウス著[#「オウィディウス著」はゴシック体]
[#地付き]中村善也訳[#「中村善也訳」はゴシック体]
おなじみ植物に変身した神々の由来を語るローマ時代の古典。必読必携。
[#地付き](岩波文庫S56、59二冊本)
「宝石泥棒」[#「「宝石泥棒」」はゴシック体]一九六八
[#地付き]立原えりか著[#「立原えりか著」はゴシック体]
[#地付き]「木馬にのった白い船」(角川文庫)や思潮社の作品集のセンチメンタルな世界に耐えられない、心やさしいけれどへそまがりな男の子にお奨めしたい作品。あのアフリカの大金持アラバール公が、宝石泥棒怪盗Xの正体だなんて!? 美しい同業者である私は宝石を手に入れる競争に負けるたびに、彼に心を奪われていく。そして意外な結末へ。この本にもの足りない方には「ダイナマイト円舞曲《ワルツ》」小泉喜美子著をお奨めしておく。
[#地付き](新書館S43)
「抱朴子」[#「「抱朴子」」はゴシック体]三〇三‐一七
[#地付き]葛洪著[#「葛洪著」はゴシック体]
[#地付き]本田済訳[#「本田済訳」はゴシック体]
魔法使いや道士になりたい人たちへの中国最大の贈り物。魔法使いになることの苦しさと哀しみが伝わる伝記マニュアル。葛洪自身が錬金術師だったために、そのリアリズムが胸を打つ。必読。
[#地付き](平凡社S44)
「ポーゾール王の冒険」[#「「ポーゾール王の冒険」」はゴシック体]一九〇一
[#地付き]ピエール・ルイス著[#「ピエール・ルイス著」はゴシック体]
[#地付き]中村真一郎訳[#「中村真一郎訳」はゴシック体]
トリフェームなる架空の小王国に暮らす王ポーゾールとその王国を脱け出した娘アリーヌとが繰りひろげる幻想冒険譚。
[#地付き](創元社「世界大ロマン全集」S32)
「星のカンタータ」[#「「星のカンタータ」」はゴシック体]一九六九
[#地付き]三木卓著[#「三木卓著」はゴシック体]
年に一度この町にもやって来るロケット・ショー。たくさんのパヴィリオンのうちの一つ(ことばのプラネタリウム)で、ぼくとタロは四つの星での四つのことばをめぐる不幸を体験する。レイ・ブラッドベリの作品がそうであるような意味で、この国では稀れにみる本格ジュヴナイルSF。
[#地付き](角川文庫S50)
「骨の城」[#「「骨の城」」はゴシック体]一九七二
[#地付き]ペネロプ・ファーマー著[#「ペネロプ・ファーマー著」はゴシック体]
[#地付き]山口圭三郎訳[#「山口圭三郎訳」はゴシック体]
現代イギリス・ファンタジー児童文学の一到達点を示す傑作長編。魔法のたんすや夢の扱い方の妙はイギリス・ファンタジーの百年余りの長い伝統のうえにはじめて達成せられたものといってよかろう。
[#地付き](篠崎書林S49)
「ほんとうの空色」[#「「ほんとうの空色」」はゴシック体]一九二五
[#地付き]ベーラ・バラージュ著[#「ベーラ・バラージュ著」はゴシック体]
[#地付き]徳永康元訳[#「徳永康元訳」はゴシック体]
友達から借りた絵具の空色をなくして困っているフランツルに、小使いのおじさんが青い花から採る「ほんとうの空色」絵具の作り方を伝授してくれる。いじわるなカールとかわいいグレーテとが織りなすそんな物語は、しかし、最後にかれが大事にしてきた「ほんとうの空色」よりもずっときれいな空色がグレーテの目の中にあるのを発見して、幕を閉じる。ハンガリーの映画理論家によるファンタジー。
[#地付き](講談社S46)
「本当の話」[#「「本当の話」」はゴシック体]ca. 170 B.C.
[#地付き]ルキアノス著[#「ルキアノス著」はゴシック体]
[#地付き]呉茂一、山田潤二訳[#「呉茂一、山田潤二訳」はゴシック体]
人類が発見した最初の別世界「月」。その月に最初の旅行をこころみた勇気あるギリシア人のすてきな空想旅行譚。
[#地付き](養徳社「養徳文庫」S22)
「魔女の箒」[#「「魔女の箒」」はゴシック体]一九一〇
[#地付き]ウォルター・デ・ラ・メア著[#「ウォルター・デ・ラ・メア著」はゴシック体]
[#地付き]脇明子訳[#「脇明子訳」はゴシック体]
古くは児童向けに訳された「三匹の高貴な猿」を含む。デ・ラ・メアが創造した猿語や妖精語の豊かな想像力に満腹する。
[#地付き](国書刊行会「世界幻想文学大系」S51)
「街の狩人」[#「「街の狩人」」はゴシック体]一九一四
[#地付き]ジョルジュ・ローデンバッハ著[#「ジョルジュ・ローデンバッハ著」はゴシック体]
[#地付き]高橋洋一訳[#「高橋洋一訳」はゴシック体]
ベルギー象徴派詩人の路上人物観察幻想散文集。ブリュージュとパリの灰色の香りがすばらしい。
[#地付き](沖積舎S59)
「魔法使いの弟子」[#「「魔法使いの弟子」」はゴシック体]一九二六
[#地付き]ロード・ダンセイニ著[#「ロード・ダンセイニ著」はゴシック体]
[#地付き]荒俣宏訳[#「荒俣宏訳」はゴシック体]
妹の持参金をこしらえるために錬金術を学びに行った兄。しかしその師匠の本心は……。ダンセイニ長編ロマン中の最高傑作。これを読まずしてファンタジーは語れない。
[#地付き](ハヤカワ文庫S56)
「幻の馬車」[#「「幻の馬車」」はゴシック体]一九一二
[#地付き]セルマ・ラーゲルレーフ著[#「セルマ・ラーゲルレーフ著」はゴシック体]
[#地付き]石丸静雄訳[#「石丸静雄訳」はゴシック体]
ノーベル賞作家円熟期の幻想劇。病死する美しい救世軍の女士官と町の無頼漢との間につながれた、目に見えぬ愛の糸を描いて、映画化もされた。
[#地付き](角川文庫S34)
「マルコヴァルドさんの四季」[#「「マルコヴァルドさんの四季」」はゴシック体]一九六三
[#地付き]イタロ・カルヴィーノ著[#「イタロ・カルヴィーノ著」はゴシック体]
[#地付き]安藤美紀夫訳[#「安藤美紀夫訳」はゴシック体]
イタリアの大都会に住む人夫マルコヴァルドさんをめぐる二十の物語は、たまたま児童文学のシリーズの一冊として翻訳され、しかも子供たちの登場する物語であるにしても、児童文学の枠の中にはとても入れ難い。「地下鉄のザジ」や「地下鉄サム」、カミやマルセル・エーメの世界に近く位置するこの本は、それでもなお、ファンタジーにおけるひとつの出発点である日常世界的ユーモアを、「脱出」への道として示している。
[#地付き](岩波書店S44)
「マルタン君物語」[#「「マルタン君物語」」はゴシック体]一九三八
[#地付き]マルセル・エーメ著[#「マルセル・エーメ著」はゴシック体]
[#地付き]江口清訳[#「江口清訳」はゴシック体]
都会派で洒落たファンタジーのお好きな方に。一日|措《お》きに死んだり生き返ったりする男の生涯を描いた「死んでいる時間」などが楽しい。
[#地付き](講談社文庫S51)
「三つの物語」[#「「三つの物語」」はゴシック体]一八七七
[#地付き]フローベール著[#「フローベール著」はゴシック体]
[#地付き]山田九朗訳[#「山田九朗訳」はゴシック体]
中世聖人譚の再現をめざした「聖ジュリヤン伝」を収めた短編集。アドベンチャー・ファンタジーに熱中するあなたも、あなたも、心静かに本を読みたいときもある。
[#地付き](岩波文庫S15)
「緑のこども」[#「「緑のこども」」はゴシック体]一九三五
[#地付き]ハーバート・リード著[#「ハーバート・リード著」はゴシック体]
[#地付き]前川祐一訳[#「前川祐一訳」はゴシック体]
ひとりの少年をめぐるユートピアと闇の現実にかかわる物語。イギリス文学の最も重要なジャンルたる「ユートピア小説の系譜」に、硬質だけれど美しい輝きを添えてくれる。
[#地付き](河出書房新社S50)
「南十字星共和国」[#「「南十字星共和国」」はゴシック体]一九一一
[#地付き]ワレリイ・ブリューソフ著[#「ワレリイ・ブリューソフ著」はゴシック体]
[#地付き]草鹿外吉訳[#「草鹿外吉訳」はゴシック体]
ロシア革命直前期にあってロシア・サンボリスム運動のさきがけの一人となった詩人の短編集。十一編の神秘小説とSFが世紀末の最中から革命の偉大と退廃を予兆する。
[#地付き](白水社S48)
「モーウィン」[#「「モーウィン」」はゴシック体]一九三七
[#地付き]J・C・ポウイス著[#「J・C・ポウイス著」はゴシック体]
[#地付き]衣更着信訳[#「衣更着信訳」はゴシック体]
名のみ高かったイギリスの幻想作家の長編初訳。ダンテの地獄めぐりを現代に復活させた一編。
[#地付き](創元推理文庫S62)
「木曜の男」[#「「木曜の男」」はゴシック体]一九〇七
[#地付き]G・K・チェスタトン著[#「G・K・チェスタトン著」はゴシック体]
[#地付き]吉田健一訳[#「吉田健一訳」はゴシック体]
この謎めいたアナーキスト・ロマンにとまどう必要はない。従来付けられていた「変格推理」のレッテルを忘れれば、この作家の完璧な別世界に参入できるだろう。
[#地付き](創元推理文庫S35)
「モモ」[#「「モモ」」はゴシック体]一九七三
[#地付き]ミヒャエル・エンデ著[#「ミヒャエル・エンデ著」はゴシック体]
[#地付き]大島かおり訳[#「大島かおり訳」はゴシック体]
「時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」と副題の付されたこの作品は、必ずしも成功した作品ではないが、児童文学というジャンルが唯一哲学的物語の伝統をついでいることのひとつの例証となろう。
[#地付き](岩波書店S51)
「モンキー・ワイフ」[#「「モンキー・ワイフ」」はゴシック体]一九三〇
[#地付き]ジョン・コリア著[#「ジョン・コリア著」はゴシック体]
[#地付き]海野厚志訳[#「海野厚志訳」はゴシック体]
猿を妻にめとった男の奇妙な生活を描く、とびっきりの怪作。イギリス奇想小説の伝統を見せつける作品だ。これを読むと、大島渚の新作映画「マックス・モン・アムール」も顔色がなくなる。
[#地付き](講談社S52)
「やぎ少年ジャイルズ」[#「「やぎ少年ジャイルズ」」はゴシック体]一九六六
[#地付き]ジョン・バース著[#「ジョン・バース著」はゴシック体]
[#地付き]渋谷雄三郎、上村宗平訳[#「渋谷雄三郎、上村宗平訳」はゴシック体]
山羊と人間のあいの子[#「あいの子」に傍点]である少年の、人間社会征服の物語。バカ笑いのスーパー・メタフィクション。あまり構えて読まないように!
[#地付き](国書刊行会S57)
「やし酒飲み」[#「「やし酒飲み」」はゴシック体]一九五二
[#地付き]エイモス・チュツオーラ著[#「エイモス・チュツオーラ著」はゴシック体]
[#地付き]土屋哲訳[#「土屋哲訳」はゴシック体]
アフリカの神話的世界を題材としたファンタジーだが、反面リアリズム小説ともいえる。やし酒を飲むのが仕事である人間が、死んでしまったやし酒作りを捜しに、黄泉の国までさすらいゆく話。こういう傑作を、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のとなりに並べておきたい。
[#地付き](晶文社S45)
「山彦の家」[#「「山彦の家」」はゴシック体]一九二八
[#地付き]シオドア・F・ポイス著[#「シオドア・F・ポイス著」はゴシック体]
[#地付き]龍口直太郎訳[#「龍口直太郎訳」はゴシック体]
器物どうしの対話「バケツと綱」他二十八編の寓話的な掌編を集めた短編集。日常生活の中の奇妙さを描く短編小説の正統派の作品集。
[#地付き](筑摩書房S28)
「夢の本」[#「「夢の本」」はゴシック体]一九七六
[#地付き]J・L・ボルヘス著[#「J・L・ボルヘス著」はゴシック体]
[#地付き]堀内研二訳[#「堀内研二訳」はゴシック体]
古今東西の夢と夢想家の話を集めた一作。同じ作者の「幻獣辞典」とともに、本棚に。
[#地付き](国書刊行会S58)
「夜明けの人びと」[#「「夜明けの人びと」」はゴシック体]一九六七
[#地付き]ヘンリー・トリース著[#「ヘンリー・トリース著」はゴシック体]
[#地付き]猪熊葉子訳[#「猪熊葉子訳」はゴシック体]
ローズマリー・サトクリフとともにイギリスの古代史児童文学の代表作家である著者の最後の作品。原始時代の少年の物語で、エドモン・アロークールの「原人ダアア」やジャック・ロンドンの「アダム以前」の系譜上にある作品。
[#地付き](大日本図書S46)
「妖怪伝」[#「「妖怪伝」」はゴシック体]一九八五
[#地付き]水木しげる著[#「水木しげる著」はゴシック体]
[#地付き] 水木しげるの日本妖怪伝絵巻。むろん必携。
[#地付き](講談社S60)
「妖精たちの王国」[#「「妖精たちの王国」」はゴシック体]一九七七
[#地付き]S・T・ウォーナー著[#「S・T・ウォーナー著」はゴシック体]
[#地付き]八十島薫訳[#「八十島薫訳」はゴシック体]
現代妖精ファンタジーの最高峰。作者ウォーナーは現代の魔女。期せずして現代文学にも昇華している幻想編を読まない人は、〈もぐりファンタシスト〉と言われるかもしれない。
[#地付き](月刊ペン社S54)
「夜中出あるくものたち」[#「「夜中出あるくものたち」」はゴシック体]一九五七
[#地付き]ジョン・メイスフィールド著[#「ジョン・メイスフィールド著」はゴシック体]
[#地付き]石井桃子訳[#「石井桃子訳」はゴシック体]
不思議な空想の動物ハッスル・ガッスルをからませて、主人公ケイが体験する海の冒険談。チェス盤みたいな広間、海賊と海の宝石、そして人魚をはじめとする海の妖精たちなど、英国妖精物語の歴史をすべてチェックできる物語。英国の伝統に改めて脱帽せざるを得ない。
[#地付き](評論社S48)
「ラーオ博士のサーカス」[#「「ラーオ博士のサーカス」」はゴシック体]一九三五
[#地付き]チャールズ・G・フィニイ著[#「チャールズ・G・フィニイ著」はゴシック体]
[#地付き]中西秀男訳[#「中西秀男訳」はゴシック体]
アメリカ現代ファンタジーの代表作。アリゾナの町へやってきた不思議なサーカス団の物語。それまでは安らかな眠りを貪っていた心貧しい村人たちにも、やがて悪夢が訪れ、真夜中にはふと眼が醒めるようになる……。
[#地付き](創樹社S51)
「裏面」[#「「裏面」」はゴシック体]一九〇九
[#地付き]アルフレート・クビーン著[#「アルフレート・クビーン著」はゴシック体]
[#地付き]吉村博次・土肥美夫訳[#「吉村博次・土肥美夫訳」はゴシック体]
もし、どこかの国で、「架空世界叢書」という大部なシリーズが出版されるとしたら、「シリトの岸辺」や「タタール人の砂漠」とともに必ず収録されるだろう、謎めいた別世界小説。ひとりの幻想画家が現実と非存在の間《はざま》に築きあげた夢の国ペルレに関する、政治・経済・地誌・人民・日常生活、そしてその創造から崩壊までの完璧な年代記を含む、これはまさに幻想の建築学である。
[#地付き](河出書房新社S46)
「旅順入城式」[#「「旅順入城式」」はゴシック体]一九三四
[#地付き]内田百闥[#「内田百闥」はゴシック体]
彼の珠玉のショートショートはどれも一級のファンタジーに仕上がっており、愛読に値するが、中でもこの一編は神品。
[#地付き](旺文社文庫S56)
「リリオム」[#「「リリオム」」はゴシック体]一九〇九
[#地付き]モルナール・フェレンツ著[#「モルナール・フェレンツ著」はゴシック体]
[#地付き]飯島正訳[#「飯島正訳」はゴシック体]
ハンガリーの劇作家の代表作。二十世紀前半はロード・ダンセイニも加わったアイルランド文芸復興運動をはじめとして、通俗演劇からエネルギーを吸収したさまざまな演劇運動が花咲いた。同時代の幻想喜劇の中でダンセイニの「もしも」とともに最高の作品のひとつ。
[#地付き](中公文庫S51)
「流刑地にて」[#「「流刑地にて」」はゴシック体]一九一四
[#地付き]フランツ・カフカ著[#「フランツ・カフカ著」はゴシック体]
[#地付き]池内紀訳[#「池内紀訳」はゴシック体]
岩波文庫「カフカ短篇集」中の一編。どれを読んでもおもしろい。不条理という概念の息苦しさを思い出させてくれる。
[#地付き](岩波文庫S62)
「レ・コスミコミケ」[#「「レ・コスミコミケ」」はゴシック体]一九六五
[#地付き]イタロ・カルヴィーノ著[#「イタロ・カルヴィーノ著」はゴシック体]
[#地付き]米川良夫訳[#「米川良夫訳」はゴシック体]
イタリア幻想派の巨人カルヴィーノのとびっきり素敵な宇宙ファンタジー。月が溶けてくる話を描く「柔い月」(河出書房新社S47)とともに名作短編集。
[#地付き](早川書房S53)
「レベル3」[#「「レベル3」」はゴシック体]一九五七
[#地付き]ジャック・フィニイ著[#「ジャック・フィニイ著」はゴシック体]
[#地付き]福島正実訳[#「福島正実訳」はゴシック体]
レイ・ブラッドベリーとともにアメリカ・ノスタルジー派の代表者たる著者の第一短編集。発生以来、ファンタジーとノスタルジーとが切っても切れない関係にある以上、ぜひ読んでもらいたい作品集である。
[#地付き](早川書房S36)
「我が夢の女」[#「「我が夢の女」」はゴシック体]一九二三‐二五
[#地付き]マッシモ・ボンテムペッリ著[#「マッシモ・ボンテムペッリ著」はゴシック体]
[#地付き]岩崎純孝他訳[#「岩崎純孝他訳」はゴシック体]
イタリアのナンセンス・ユーモア作家ボンテムペッリは、今日では忘れられている。しかしマリネッティの未来派運動やファシスト党に参加したこの都会派の作品には、不思議な空想性が宿っている。たとえば、この短編集の表題作「我が夢の女」は、遊園地の「魔法鏡」に映った恋人アンナのグロテスクな映像にとり憑かれる男の、悪夢じみた内面を描写している。
[#地付き](河出書房S16)
「われら」[#「「われら」」はゴシック体]一九二四
[#地付き]エウゲニー・イー・ザミャーチン著[#「エウゲニー・イー・ザミャーチン著」はゴシック体]
[#地付き]川端香男里訳[#「川端香男里訳」はゴシック体]
二十世紀の反ユートピア小説のうちで文句なしに最高といえる作品。主人公の反逆者から全体の奉仕者へと変容していく過程は、二十世紀の童話が避けることのできない問題を内包している。
[#地付き](講談社S45)
「わんぱくニコラ」[#「「わんぱくニコラ」」はゴシック体]一九六一
[#地付き]ゴシニー著[#「ゴシニー著」はゴシック体]
[#地付き]曾根元吉、一羽昌子訳[#「曾根元吉、一羽昌子訳」はゴシック体]
サンペの絵と一体となって小学生たちのいたずらを描くユーモア小説集。フランス的なるものが現実的なものである以上、フランスに純然たる幻想を求めるよりも、この作品のような日常生活の物語性を描いた作品の中に発見すべきものがあり、言葉と物の相関についてのひとつの分析をもたらすだろう。
[#地付き](文芸春秋S44)
「イメージ・シンボル事典」[#「「イメージ・シンボル事典」」はゴシック体]一九七四
[#地付き]アド・ド・フリース著[#「アド・ド・フリース著」はゴシック体]
[#地付き]山下圭一郎訳[#「山下圭一郎訳」はゴシック体]
西洋文化の内部に蓄積されたイメージやシンボルについて出典を明記しつつ解説した大著。期せずして西洋ファンタジーの背景解説をも行なう貴重な事典になっている。値段が八千円ほどだが、必携。
[#地付き](大修館書店S59)
「江戸幻想文学誌」[#「「江戸幻想文学誌」」はゴシック体]一九八七
[#地付き]高田衛著[#「高田衛著」はゴシック体]
江戸の百物語にはじまる〈夜の物語〉のエッセイ。江戸文学派に贈る新刊。
[#地付き](平凡社S62)
「絵のある本の歴史」[#「「絵のある本の歴史」」はゴシック体]一九八七
[#地付き]荒俣宏著[#「荒俣宏著」はゴシック体]
主として英米系のファンタジー・イラストレーションを多くカラーで収録紹介した本。絵のファンタジーが楽しめる。
[#地付き](平凡社S62)
「画題辞典」[#「「画題辞典」」はゴシック体]一九一八
[#地付き]斎藤隆三著[#「斎藤隆三著」はゴシック体]
もう一歩で日本の「イメージ・シンボル事典」になりかけている労作。画題になっている神々や聖人、神獣、端祥、英雄などを簡単に説明したもので、とても便利。今のところ類書は他にない。これを大増補し、必要図版をそろえた画題シンボル事典を、ぜひ日本のファンタジー・ファンが作成してほしいものだ。
[#地付き](新古画粋社T8)
「幻想の解読」[#「「幻想の解読」」はゴシック体]一九八一
[#地付き]天沢退二郎著[#「天沢退二郎著」はゴシック体]
アーサー王伝説の分析を中心に、「指輪物語」やラテン・アメリカ文学をも論じた重厚な一冊。ファンタジーの本格的な研究家に。
[#地付き](筑摩書房S56)
「世界文学に見る[#「「世界文学に見る」はゴシック体]架空地名大事典」一九八〇
[#地付き]アルベルト・マングェル&ジアンニ・グアダルーピ著[#「アルベルト・マングェル&ジアンニ・グアダルーピ著」はゴシック体]
[#地付き]高橋康也監訳[#「高橋康也監訳」はゴシック体]
欧米文学に登場した架空地名を網羅する事典。しかし記述は単調。こんなにすばらしいテーマをなぜこんなにつまらなく書けたのか、まるでわからない本ではあるが、しかし参考書として貴重。
[#地付き](講談社S59)
「世界幻想作家事典」[#「「世界幻想作家事典」」はゴシック体]一九七九
[#地付き]荒俣宏編著[#「荒俣宏編著」はゴシック体]
日本および東洋を除く世界の幻想文学者の略伝と作品解説ならびに翻訳書誌をまとめたもの。ファンタジー作家も多数収録してある。
[#地付き](国書刊行会S54)
「日本伝奇伝説大事典」[#「「日本伝奇伝説大事典」」はゴシック体]一九八五
[#地付き]乾克己他編[#「乾克己他編」はゴシック体]
日本伝統の架空人名が総登場する大冊。わが国の古いファンタジーや怪談を読むための絶好のガイドブック。二〇七二項目という数がうれしい。これまた必携。
[#地付き](角川書店S60)
「ファンタジー幻想文学館」[#「「ファンタジー幻想文学館」」はゴシック体]一九七八
[#地付き]フランツ・ロッテンシュタイナー著[#「フランツ・ロッテンシュタイナー著」はゴシック体]
[#地付き]村田薫訳[#「村田薫訳」はゴシック体]
ヨーロッパ各国の幻想文学とファンタジーを要領よく紹介した案内書。図版も多い。ただし、やや怪奇小説に肩入れしすぎる。
[#地付き](創林社S54)
「ファンタジーの系譜――妖精物語から夢想小説へ」[#「「ファンタジーの系譜――妖精物語から夢想小説へ」」はゴシック体]一九七九
[#地付き]杉山洋子著[#「杉山洋子著」はゴシック体]
主としてイギリスの幻想小説やファンタジーについて評論した楽しくためになる本。これ一冊でイギリス幻想文学史も展望できる。
[#地付き](中教出版S54)
「メデューサの知」[#「「メデューサの知」」はゴシック体]一九八七
[#地付き]高山宏著[#「高山宏著」はゴシック体]
現代日本最大の悪魔的知性の持ち主。若き日の澁澤龍彦にも似た風貌をもつ、この異数の英文学者の本は、どれを読んでも別世界と真実/虚構の沃野にわたしたちをみちびいてくれる。とりあえず、この痛快な評論集を!
[#地付き](青土社S62)
「妖精の国」[#「「妖精の国」」はゴシック体]一九八七
[#地付き]井村君江著[#「井村君江著」はゴシック体]
アイルランド妖精研究の第一人者による妖精たちの楽しい噂話。事典としても役に立つ。なお著者最新作「妖精の系譜」も同じ版元から刊行される予定。
[#地付き](新書館S62)
「わたしのメルヘン散歩」[#「「わたしのメルヘン散歩」」はゴシック体]一九七七
[#地付き]矢川澄子著[#「矢川澄子著」はゴシック体]
永遠の少女矢川澄子さんがメルヘン=児童文学の作家と作品を論じた評論集。しかしこの本自体がすでにして一冊の少年と少女のメルヘンに仕上がっている。文庫本は〈ちくま文庫〉で買える。
[#地付き](新潮社S52)
「ゑびすの旅――福神学入門」[#「「ゑびすの旅――福神学入門」」はゴシック体]一九八五
[#地付き]大江時雄著[#「大江時雄著」はゴシック体]
日本ファンタジーの未だ未開分野〈福神〉の研究書。福神小説という新分野は、とりあえずこれをベースに成立することだろう。
[#地付き](海鳴社S60)
「乙女の儚夢《ロマン》」[#「「乙女の儚夢《ロマン》」」はゴシック体]一九七二
[#地付き]あがた森魚作[#「あがた森魚作」はゴシック体]
これは一応LPなのだが、ライナーをはじめジャケットまで、すべてが少女雑誌の体裁をとっている。曲目も「人魚の歌」など哀愁ただよう大正ロマンのファンタジー。読書に疲れたとき、これを聞くのも一興。なお、あがた森魚には稲垣足穂へのオマージュを含んだ決定盤「永遠の遠国」もある。
[#地付き](キングレコードS47)
「夢見るように眠りたい」[#「「夢見るように眠りたい」」はゴシック体]一九八五
[#地付き]林海象作[#「林海象作」はゴシック体]
現代の映画シーンに誕生した小さな傑作。モノクロ、サイレントという古風な枠組の中でつづられるふしぎな幻想ロマン〈永遠の謎〉。ビデオも発売されている。
[#地付き](ポニー、レーザーディスクS60)
荒俣宏(あらまた・ひろし)
幻想文学・神秘学・博物学研究家。翻訳家。一九四七年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。著書『図鑑の博物誌』『大博物学時代』『理科系の文学史』『パラノイア創造史』『目玉と脳の大冒険』『絵のある本の歴史』。訳書『リリス』『妖精族のむすめ』など。
本作品は一九七七年五月、月刊ペン社より「妖精文庫」別巻として刊行され、一九八七年十二月、ちくま文庫の一冊として刊行された。