胡桃沢耕史
黒パン俘虜記
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目 次
一章 独裁者の約束
二章 白い行進
三章 俘虜たちの休日
四章 われ暁に祈るまじ
五章 国境の夜
六章 家畜列車
七章 最後の審問
八章 祖国への船路
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[#見出し] 一章 独裁者の約束
ぼくの二十歳の誕生日は、当人が思い出しもしない間に過ぎてしまった。敵と遭遇し毎日激しい銃火を交えていたからである。相手は北シナの共産八路軍の中では精強を以て知られた李雲祥少将の直轄軍であった。
戦闘が終って、何人かの同年の友を骨箱にして胸に抱き、誕生日から半月後の五月中旬、中隊の基地のある村へ戻ってくると、軍曹に昇進の命令が来ていた。『乙種幹部候補生』の肩書きがあるため、只《ただ》の軍曹よりは若干権威は落ちたが、兵・下士の間では二番目の高官である。同時に分隊長として十二名の部下を預かる身になった。
現地で召集されてからまだ一年と少し、連日の小戦闘で先輩の消耗の激しかった前線部隊だからこその異例の昇進である。
その部隊は独立旅団という集団だったが、軍隊用語では『乙種編制部隊』と呼ばれていた。戦闘部隊なら必ず天皇から賜わるはずの軍旗がなかったし、将校の殆《ほとん》どは乗馬を持たず、小銃の半分は八路軍からの鹵獲銃《ろかくじゆう》で、兵はシナ鞋《ぐつ》を履いて山地を駆け回った。ぼくは小学校以来この乙という字には縁が深い。
北京市周辺の警備を受け持っていた旅団は、八月に入ると、貨物列車に乗って移動した。汽車は深い山脈の間を丸一日走って停《とま》った。新しい警備地域は、シナと、満洲(現中国東北地区)と、内蒙古との、三国の国境にまたがっている万里の長城だった。ぼくの中隊は、一番満洲国側に突出した地域を受け持ち、分隊|毎《ごと》に五百メートルに一つある望楼に分駐した。兵隊たちの間に何か大きいことが近く起るらしいという噂が拡まり落着かない。軍曹とはいっても年次としては初年兵も同然の身では、古参の十二名の兵の統率などは不可能であった。
このあたりの長城の塀の上は、トラックが通れるほど広いので、司令部が充分に見通せる方角へ歩哨《ほしよう》を一人立たせただけで、後は皆塀の上で勝手に昼寝や花札などさせていた。
現実には敵の攻撃は全く無くなり、平穏な勤務が続いた。入隊以来毎日休みなく戦場を駆け回っていたぼくにとっては、久しぶりの骨休めだった。敵どころか、うるさい巡察将校さえ、もう何日も来ない。
十三日になった。
望楼の一番高い所で司令部を見ていた歩哨が、あわてて下りてきて報告した。
「分隊長殿、変です。汽車が動き出しました」
それまで、ぶったるんでいた兵士が、急に敏捷《びんしよう》に城壁にとりつき、並んで首を突き出して、はるか山の下の谷間にある司令部を見下《みおろ》した。操車場に溜《たま》っていた何十輛もの列車が、次から次へとシナ側に出発して行く。双眼鏡でのぞくと、列車の屋根や、石炭車の上にまで兵隊が我勝ちに乗りこみ、しがみつく有様がはっきり見えた。
「何だありゃー。うちの部隊の奴らだぞ」
「おーい。おれたちを置いていく気か!」
なぜ逃げるように去って行くのか不安だったが、何の連絡も届いていないし、勝手に部署を離れることは許されないので、どうしようもない。夕方までには、司令部のある谷間の町には、一人の兵隊の姿も見えなくなった。夜になって中隊間の連絡兵がやってきて、満洲側に突出したぼくらの二個中隊だけが置いていかれてしまったことが分った。
これが軍隊は運《ヽ》隊だという昔からのいい伝えの通り、運命の明暗をはっきり分けた。
シナ側に逃げ戻った旅団の兵隊は、その年の十一月には全員が祖国の土を踏んだ。残された二個中隊は、それから二年半以上の長い旅に連れて行かれ、沢山の兵が酷寒の土地で、飢え死にした。遺体は凍土に簡単に埋葬してきたが、もう犬に喰われて骨のかけらも残っていないだろう。
誰も未来のことは分らない。
翌日の十四日は、一日平穏であった。
十五日の朝起きて、何気なく城壁の下を見た分隊長のぼくは仰天した。それまで人の影が全く見えなかった、内蒙古と満洲国側の二つの正面は、敵兵の波で埋まっていた。何百台ものトラックに牽《ひ》かれた長身の野砲の砲口はすべて、ぼくらへ向けられて発射の態勢にあったし、何万人もの騎馬の兵士は、引鉄《ひきがね》をひけば七十二発の弾丸が即座に飛び出す短機関銃《マンドリン》を肩に掛け、城壁の下でひしめいていた。我が分隊十三名に対しての攻撃としては幾ら何でもオーバーだ。勿論命令があるなら戦いを辞する気持はないが、とりあえず左右の望楼の出方も見なくてはと思って双眼鏡を向けると、どこも呆《あき》れて小銃も向けずに覗《のぞ》いているだけだった。
血気にはやって勝手に応戦する者が一人も居なくてよかった。遠くへ逃げた司令部からこの朝やっと初めての無電の連絡があって、先任将校の老齢の予備役中尉が、俄《にわ》か作りの白旗を掲げて、城壁を下りて行き、折返し、降伏・武装解除が決った。これは、天皇陛下の命令だそうだ。
敵兵が回りで見守る中で、小銃を捨て、剣を吊《つ》った帯革を解くのは、何とも情ない思いの儀式であった。丸腰になったぼくらは、敵兵の銃剣に追いたてられて、満洲側から回送されてきた家畜運搬車輛に詰めこまれた。その日から六十日間の長い列車旅行が始まった。途中で満洲国側に駐屯していた軍人や、居留民団が乗りこんできて、その度に同じ部隊の人間は分散し、やがては誰がどこにいるのかさえ分らなくなった。
扉口にはロシヤ人ともシナ人とも違う、異様な顔の、揃《そろ》ってガニ股《また》の兵士が、一人ずつ警備についた。彼らは人員の数には極度に神経質だった。病死者や逃亡者が出ると、他の車輛から、かっ払ってきて人数を合せるところなど、日本の軍隊そっくりの慣習を持っていた。
乗客の方は誰もがこの汽車旅行は、日本へ帰る旅と信じていた。夜になってまっすぐ北極星へ向って走っていることが分っても
「一旦ソ連領へ入ってウラジオから帰るのさ」
そういって喜びあった。
この汽車旅行の途中で初めて、乗客たちに黒パンが配られた。軍隊言葉でいえば黒麺包《こくめんぽう》である。固くて酸っぱく、これまでの軍用常食と比べて、何とも異様な味がした。一口かじった瞬間吐き出した者も多かった。しかしやがて、それは大事な食糧になり、カステラより美味《おい》しく感じるように、皆がなっていく。
誰もが行く先を知らず、帰国を夢みていたとき、実はぼく一人は汽車がどこへ向っているのかを知っていた。
ぼくには軍に召し捕られる前の十八歳から十九歳までの一年間、黒い酸っぱいパンを砂漠の中で常食としていた時期があった。大学の予科に入った年に、軍にとられるのを怖《おそ》れるあまり、語学実習の名目で、大学から世話してもらって、内蒙古自治区の特務機関の下働きになった。だから蒙古語がほんの少し分った。
戦況が逼迫《ひつぱく》してくると、軍は現地で働いている壮年の男子を容赦なく召集していった。その上徴兵年齢引下げ令が発令されて、用心深く振舞って安全圏にいたつもりのぼくは内地にいた友人よりも早く網にひっかかり、近くの部隊へ入隊を命じられてしまった。徴兵逃れ工作は失敗したがそのため十五日の日に城壁の下で武装解除を受けたときに、この異様なガニ股の男たちの軍団が、ゴビの砂漠の向うに住むジンギス汗の直系に近い蒙古共和国の人々の集まりだと、言葉遣いからすぐ分った。列車に乗せられてもしばらくは、彼らの言葉など知らぬふりを通していたが、どこへ連れて行かれるのかが気になって、堪《たま》りかねて一度質問したことから、通訳代りに彼らの用をするようになり、その代り他の兵士の知らないようなことも教えてもらった。
蒙古共和国軍は八月九日からの満洲国侵攻に二万人を動員して従軍した。その褒賞《ほうしよう》として、同数二万人の人間を労役奴隷として本国へ連れて帰ることを、彼らの宗主国から許可されたのだ。
列車は満洲国の中央部を北上し、黒河の凍る前に外輪船に貨車ごと乗って渡河し、シベリヤ鉄道の線路に改めて乗ると、バイカル湖の手前まで行って左折して国境へ着いた。そこで二カ月の列車の旅を終った。全員がトラックに分乗し、丸四日間、家一つ見えない砂漠を走り続けて、やっと蒙古共和国の首都に着いた。それでもまだ兵士たちの大半は、この町は日本へ向う船を待つための臨時の宿泊地だと思っていた。
そこは山と川に挟まれた、意外に景色のいい平地であった。食事は黒パンが主になったので、一緒に入った人々は、まだ名も知らぬこの国を、黒麺包帝国《こくめんぽうていこく》と呼んだ。船便を待つための滞在と信じているから、皆従順であった。
その帝国……本当は大統領が統治する共和国であったが……は町の中央の川には清冽《せいれつ》な水が流れ、魚さえいたし、背中にあたる山には松の緑が濃かった。ただしこれは映画のセットのようなもので、町を一歩出れば、十日歩いても人家一つ見つからない岩だらけの荒地が続いていた。
砂漠をトラックで運ばれて、この首都に到着したときは、川の両側の平地には、白い|きのこ《ヽヽヽ》のようなフェルトの天幕と、朱塗りの柱のラマ教の寺院と、三階建ての政府の建物が三棟あるきりだった。
ぼくらは平野の周辺の十カ所の地点に、二千人ずつに分散させられた。野宿しながら、酷寒地での自分たちの寝る場所を作って行かなければならなかった。もう十月に入っていたから、野宿はきびしく逆に作業には熱が入った。
半ば凍りかけた土を、深さが五メートル、縦五十メートル、横三十メートルぐらいに掘る。上に板を渡し、土を薄くのせ少し水をかけると、忽《たちま》ち凍って固い屋根になった。穴の側面は風を通さない自然の壁であった。中に三段の棚を作り、二千人の兵士の住居ができた。
一緒に来た集団の殆どが、満洲国に駐屯していた軍隊の兵士だったので、部隊の先任将校の少佐が、将校団の中心になって指揮をとっていた。ところが輸送の途中で、この一団の中に、軍刑務所の囚人が合流したことが集団の秩序を変える原因になった。
この囚人たちは、俘虜《ふりよ》になると、自分たちがもう苛酷《かこく》な日本陸軍の支配から離れたことを知った。とたんに行動を起した。まず輸送中の列車の中で、これまで自分たちを苦しめてきた看守たちを夜になると次々と殺して、途中のシベリヤの荒野に投げ捨ててきた。そのため誰も彼らの素性に気がつかず、ただ何となく不気味な連中が三十人ばかり固まって居ると思っても、特別の注意を払わなかった。
それに川原の畔《ほと》りに宿舎ができ上るまでは、元囚人たちは、意識して目だたぬように働いていた。
宿舎が出来上って入居の日が来た。奥の特別室に少佐が入り、周辺に将校団の住居地域が定まり、そこだけは二段で回りは毛布で囲われていた。
他の者は、三段の棚に頭をこごめてもぐりこんだ。今はこの集団の一員になっているぼくもその一画に自分の分を指定してもらったので、おとなしく荷物を押しこみもぐりこんだ。
妙なことが起った。五分もたたないうちに、その将校たちが、それぞれ屈強な兵士たちに、襟を把《つか》まれ、肩を後ろから抱かれ、むりに中央の廊下へひきずり出されて、整列させられていた。少しの抵抗にもビンタがとんだ。
将校たちの脅しの叱責《しつせき》も、どなり声も、まるでその造反の兵士たちにはこたえない。
ぼくはびっくりして棚から顔を出して眺めていた。旧来の軍隊の常識では、考えられない異常なことが起っている。
三人の親分格の男は、黙って棒を動かして指示している。
三十人の元囚人たちは改めて一斉に将校たちを殴りにかかった。手には皆旧軍の私的制裁のときの常用器具であった革のバンドや、スリッパが持たれていたが、ふいをつかれた将校たちは素手であったし、それにもともと腕力ではかなう相手ではなかった。
抵抗もすぐ終って、皆が殴られっ放しの状態になったとき、初めて凄味《ドス》のきいた啖呵《たんか》がとんだ。
「こう! てめえらいつまで軍隊風を吹かしやがって、それが砂漠の真中でも通用すると思ったら大間違いだぞい」
この突然の混乱はぼくだけでなく、大勢いる兵士や下士官にも、あまりに意外すぎて理解できない。両側の棚で寝転びながら呆然《ぼうぜん》と見ているだけで、誰一人として飛びこんで将校を助けようとする者は出なかった。
哀れだったのはもう老齢の少佐で、途中まで突っ張っていた権威が崩れたとたん、泣き声を上げて許しを乞《こ》いだした。将校の殆どは血だらけになると、自分の血にびっくりして悲鳴をあげて逃げ回った。それを目の前で見て、これまで軍隊の内務生活で、上級者の苛酷な制裁に苦痛を示すことさえ禁じられて耐えてきた兵士たちが、軽蔑《けいべつ》をあらわにし、中には笑い出す者さえ出てきた。
代表者の目付きの鋭い男は、将校全員が血まみれで土の床に倒れた後、その頭を一人ずつ思いきり蹴飛ばして回ってからいった。
「こう! わいはな、播磨《はりま》の国では村田一家の盃をいただいた、赤穂《あこう》の小政といわれた極道や。こう! 今日からわいがこの宿舎の隊長や。文句あったらいつでも相手になってやるぞい」
革命は二時間しかかからなかった。
あっけにとられて見ているぼくの前で、新しい秩序が次々と成立して行く。二十人の囚人が、全員を百人ずつ分けた作業隊の長にそれぞれ任命された。傷だらけの元将校を含めた全部の兵士たちが、その下での服従を誓わせられた。勿論ぼくもその一隊に編入させられて只の労働要員の一人になった。
小政と二人の仲間が、少佐が入るために作られた部屋に入り、三十人の仲間は将校用の区画に居を定めた。寝場所がきまると、わざと班長に就任しなかった十人の元囚人と、三人の大幹部は直ちに、炊事の接収に出かけた。
多少の反抗はあったらしいが、悲鳴が少しの間、聞こえてきただけで戦いは終った。その夜のうちに炊事係は全員交替になり、十人の元囚人が炊事の全権を握って運営することになった。
これまで炊事は、帝国側から、二千名の昼食用に、四人で一本を定量として、二キロの黒パンを一日五百本ずつ、毎日受領していた。これを小政の一言で、翌日から五人で一本の定量に変更された。
これで一日百本のパンが浮いたが、それが三人の大幹部の独裁権力の確立と、三十三人の元囚人の新幹部団の体力確保や、権威の確立のための財源にされた。同時に、この帝国の管理者の将校や、警備の兵は俘虜同様に貧しかったので、小政は百本の半分は無条件に彼らに回してその信頼を得た。ぼくはこの小政のやり方を見て自分の空腹を忘れてひどく感心した。
少くとも小政は国や組織が成立するときの基本の条件を知っている。それとも、昔属していた任侠《にんきよう》の団体のしきたりに学んだのだろうか。日々余ってくるパンの在庫の確認や出し入れは、小政と他の二人の大幹部が必ず交替でチェックする、大事な専任事項となった。見事なほどの管理運営ぶりだった。
新しい秩序で収容所が動き出してすぐ、新幹部側が、将校服を大量のパンと交換するという情報をふれ回った。早くて二日、おそい者でも十日目には、金筋入り階級章や、参謀用モールのついた華麗な将校服を手放した。
新幹部の服装が急に立派になった。代りにこれまでの将校たちは、数日間の空腹を免れた代償として、揃って薄汚い官給兵服になり、一般の労働者たちの間にその存在を埋没してしまった。
将校服の中にも生地や仕立ての差がある。三人の大幹部は特にいい物を身につけた。しかもバンドを下腹のあたりまでずり下げて、裾をゴルフズボンのようにふくらませてはくと、その姿は一段と|さま《ヽヽ》になった。
管理者側の黒麺包帝国の将校は、宿舎内のクーデターが一夜でなったことを知らない。
軍人には将校仲間という一種の連帯感がある。共産革命理論で成立した国でも、将校には直接労役はさせず、兵の労働の監督にあてて楽をさせてやろうという配慮がある。ただし彼らには、日本人の名や顔の区別がつかないから、将校服を着てそれらしく振舞っている者が将校であった。
二十人の班長と、三人の大幹部は、将校服を着用し、太い棍棒《こんぼう》を持って、常に一般労働者を威嚇し、ときには容赦なく殴りつけ、作業を督励して能率を上げたから、この収容所は、帝国側からは、成績のいい模範収容所と思われていた。
指導者になった赤穂の小政の本職は博徒であった。終戦の日までは、満洲国の旅順の近くにあった陸軍|衛戍《えいじゆ》刑務所に、上官暴行罪で服役していた。
彼の体には肩から下腹、掌まで、さいころ、花札、本引札、トランプなどの刺青《いれずみ》がある。大幹部の二人も、博徒であった。祖国にいたときの極道歴が先輩だったので、義理堅い小政が自分と同格の指導者にした。指導者就任を記念して、三人は一緒に、ガラスの破片と消し炭で眉に黒く太く墨を入れて、顔に凄味を出したが、小政に比べると残りの二人の凄味はかなり落ちた。
この三十人の新幹部以外は、旧将校も、下士も、兵も、同じように皆労働に駆り出された。毎朝、集団が作業に出発するとき、小政は一場の訓示をするが、なかなかうまいことをいった。
「こう! つまりこれがほんまの民主主義や。こう! 分ったか」
この、こう! というのは、話の合い間に、顎《あご》をちょっと振り上げては頻繁に入れる、極道特有の、言葉にはずみをつけるための間投詞である。
首都とは名ばかりで、川の両岸にフェルトの移動天幕が並ぶ集落にすぎなかったこの平地が、都市らしい外観を見せだしたのは、その年の十一月から翌年の五月にかけて行われた、猛烈な労働の結果である。
十一月に入ると、二万人の人々の住居は、すべて完成した。お互いの連絡を絶たれていたので、孤立して暮していたが、十の収容所の人々の間にはそれぞれ独自の秩序が確立していたようだ。伐採、穴掘り、煉瓦《れんが》作りなど、作業の手順に馴れると共に、望郷の念は一入《ひとしお》だが、定着への諦《あきら》めも自然に湧《わ》いてきていた。
この帝国の代表者は、北にあるもっと強力な国家から、別に陸軍中将の位階を受けていて、二十六も勲章を持っていた。限られた胸幅に全部は吊《つる》せないので、会合ごとにどれを吊すかの選定が副官の大事な任務になっていた。閣下はその年から二十五年前に、革命軍を組織し、岩砂漠の拡がりを一つの国に独立させた建国の英雄であった。独立といっても背後の大国の共和国連邦の一つに組み込まれただけだが、このあたりではこれが最上の安定した国家存立の手段であった。
大統領閣下は、革命達成二十五周年を記念して、この川の両岸の天幕の集落を、自分がときおり参勤する大祖国のあのすばらしい首都と同じように、中央に分列行進ができる広場を作り、回りに官庁、大学、劇場などのある都市にしたいと考えた。
特に閣下が一番作りたかったのは、広場の中央に建てる自分の銅像であった。
いかなる権力者も寿命には勝てない。地下に眠った後でも、国民にいつまでも偉業を忘れさせぬためには、嘶《いなな》く馬の背に乗り、旗をかざして荒野を征《ゆ》く姿を、永遠に腐蝕《ふしよく》せぬ青銅に刻んで残しておくのが一番良い。
この計画は八月より前には考えることすら不可能だった。国をあげて外敵と戦っていたからだ。ベルリン攻略に動員された兵の全員を、八月初めに大祖国の軍と共同で東方に回送した。僅《わず》か九日間の進攻で殆ど戦うことなく得た大勝利と共に巨大な戦利品を獲得した。
秩序ある生活ができる知能の高い労働者を、二万人も持ち帰ったのだ。それをどう使うかは、すべて閣下個人の意志に任されていた。
この小国にとって二万人の労働者の運搬と定住は並大抵のことでなかったが、十月中にその作業が支障なく終了した。それは同時に新都市建設の成功を約束することでもあった。
閣下の所属する北の大国では、五月一日を一年のうちの最も重い意味を持つ祝日としていた。それで半年先のその祝日を都市の外観だけでも完成させる目標日とした。
閣下は決心した日から、日に二つか三つ、各収容所を巡り、労働者側の代表と会談して協力を求めた。十一月の四日には、閣下が高官を従えて、川べりにある収容所へ来るという通知があり、ときどきは通訳のまねをさせられていたぼくは久しぶりに作業免除を命ぜられ、朝から所内で待機していた。
もっともぼくは通訳のための勉強をしてきた人材ではない。入隊前の一年内蒙古にいて、必要に迫られて覚えた、ほんの片言程度の言葉しか知らない。日が経《た》つと共に未熟さがばれてきて、日蒙双方からの信用は殆どなかった。あくまで補助だった。これまで作業中行き交う他の収容所の兵士にぼくが聞いたところでは、どこでも通訳は将校なみの個室を持っており、労役を免除されている。だがぼくの所はそんなことはなかった。管理国側の将校はぼくにも一般の兵と同じ労働をさせたし、小政は囚人の仲間以外には、特別の待遇は一切しなかった。
この収容所の穴蔵兵舎の回りには鉄条網が張り巡らされ、四囲に物見の望楼があって、帝国の兵士は剣付鉄砲をかまえて、四六時中監視の目を光らせていた。奴隷集団の総員は首都の男子の数より多いそうで、おとなしく一カ所に縛りつけておき、相互の連絡を絶ち、暴動になるのを防ぐための警戒だった。
正面のすぐ後ろに、土壁に白|漆喰《しつくい》を塗った小屋が一つあり、収容所の監督将校の事務室と宿泊所になっていた。
午後一時少し前にはぼくと三人の大幹部とは、その部屋で大統領を待っていた。定刻に幕僚と共に入ってきた大統領は、そこに坐っている将校服の三人が、皆若くてしかも眉に黒く太い入れ墨があるいかつい顔をしているのを見て、一瞬|訝《いぶか》るような表情をした。管理者の将校は、革命のいきさつを知らないし、大量のパンで買収されているから、これが日本軍の代表者だと疑っていない。猪首《いくび》のがっしりした大統領に三人を隊長だと紹介した。その後ぼくの面目が潰《つぶ》れることが起った。俄《にわ》か通訳のぼくなど比べものにならないほど上手な蒙古人の通訳を、閣下は連れてきていて、初めからぼくの存在など無視して勝手に話をすすめていくのだった。
大統領に正対しても、小政は一つも臆《おく》することなくやり合った。もっとも両方を見ているうちに、自然にぼくは悟った。
この帝国の統治者と、収容所の統治者とは、お互いに指導する区域や人員の差はあっても、権力の属している基盤や、掌握の過程の中に共通する部分がかなりある。多分、精神構造もほぼ同じような人物だったろう。体付きや顔さえ似ていた。言葉の違いは少しも障害にならず、同志間の会話のように、二人の話は滑らかにすすんだ。勿論、閣下の新都市建設の計画は即座に賛成された。他の収容所と違い一言の抗議も質問もなかった。
「ようがす。赤穂の小政、生命《いのち》を張って引き受けまっせ」
感激したもう一人の大幹部がいった。
「そのためうちの兵隊が何人死んでも、そりゃこちらの問題で、あんたら気にかけるにゃ及びませんぞい」
小政が最後に胸を大きく叩《たた》いた。
「ようがす。わいも男や」
このとき蒙古側通訳から初めてぼくに質問があり、ぼくは三人の手前辛うじて面目を保った。蒙古人にはこの抽象的いい方が分りにくかったらしい。
「日本《ヤパネ》の通訳《ヘルミツチ》。これは、男という者は、一旦|引《キ》き受けたら、必ず働《カタラ》くから、安心しなさいという意味と思っていいかね」
そう確かめた。この国のどんなに上手な日本語の使い手も、必ずハ行の発音は、カ行の音になった。
閣下が帰ってから、誰もいない宿舎に戻るとぼくは作業免除を理由に毛布をひっかぶって寝てしまった。
明日から作業が強化されるきびしい日々が始まる。その中で一緒に働かされることを思うと、体中の血が凍るような絶望感が押しよせてきた。今でも力尽きて死んだ人の、痩《や》せ細った死体が固く凍って、中庭に井桁《いげた》に積んである。それが明日から増えるだろう。その仲間にされては堪らない。作業は体温を保つにも足りない食事で、風に耳を向ければ腐ってとれてしまうような酷寒の中で行われるのだ。もう恥も外聞もない。蒙古側や小政側のお覚えを目出たくして利口に立ち回り、体力の消耗をできるだけ避け、人より少しでも多く何かを喰べるチャンスを把《つか》むこと以外に生き残る道はない。
何としてでも生きのびて日本へ帰りたい。入隊前には触れることもできなかった黒いしなやかな髪の、袂《たもと》の長い着物を着た美しい日本の娘と無事結婚できる日がくるまでは、死ぬわけにはいかない。
翌日の朝は、いつもなら七時に鳴る起床・朝食の鐘が、五時になった。
ぼくは前日の会議で分っていたから、すぐ起きて、仲間の飯盒《はんごう》を持って炊事小屋へ歩いて行ったが、他の連中は信じられないのかぐずぐずしていると、新幹部が出て来て追いたてた。空はまだ暗く星さえ見える。大地は凍っていて、白い雪は氷のように固い。手袋が破れていたらそこから指がくさる。
炊事小屋の戸はいつものように開け放たれ、冷たい戸外に向って湯気が流れていた。分配用の前庭には、百人単位の班ごとに盛り分けられた粥《かゆ》の樽《たる》と、二十本の黒いパンがおかれている。当番は二十名のグループの中から一日二人が出る。一人が五個の飯盒をぶら下げ、もう一人が、四本の黒パンを両脇に抱える。パンは大きさが決っているから問題は少かったが、粥を飯盒にもらってくる者は大変な気苦労をした。
高粱粥《コウリヤン》のときなら、樽の上の方は水っぽく、列の後ろに回って底をすくってもらった方が喰いでがあるが、粟粥《あわがゆ》のときは上澄みが濃くて底が水っぽい。どちらか事前には分らない。運悪く水気の多い方を貰《もら》ってきたときなど、待っていた班員に、ボロクソに批難されるので、皆気が気でない。
分配が終って当番が帰った後の樽の清掃は大変な特権で、新幹部を除く一般労働者の中では、最も睨《にら》みのきく、旧軍年次の古い下士官がそれを独占していた。同じ下士官でも即席食品のような乙幹などは、その仲間に近寄ることもできない。年次を示す善行章の山形は勿論だが、中には旭日七《きよくじつ》や、金鵄《きんし》の佩用者《はいようしや》さえいた。
彼らは、分配を終えた後の、丸い杓子《しやくし》では完全にすくえなかったまだ温かい樽の底を、素手の爪でほじくり、指でさらって、手にねばりついた粥の残りを舐《な》めることができた。
古年次下士たちが、この羨《うらや》ましい役得を行使している間、回りでおとなしく待機している一団の人々がいた。ブリキのヘラと、空缶を持って根気よく待っている。下士たちが余すところなく舐め終えて樽から離れた瞬間、まるで猟犬のように樽にとびかかり、数人が一樽の中に手をのばして、ブリキのヘラで、木の合せ目や、縁の底にたまった僅かな粥をへずり取り空缶のふちにしごいて中にためる。皆必死であった。生きて再び家族のもとに戻るのには、あたえられた量では足りないのだ。空缶の底に、ほんの僅かにたまる粥は、木の繊維が交《まじ》って薄茶色になっている。それを寝床に持って帰り、分配された少い朝食に足して喰べるのであるが、これも多少睨みがきく古兵でなければ、できないことだった。
パンや、半ば凍りかけた粥が当番の手で舎内に運ばれると真剣な分配が始まる。低い天井の梁《はり》から、針金で作られた天秤《てんびん》状の計量器が吊され、一杯の粥がまず二つの飯盒に分けられ、その一つが更に二つの飯盒に分けられて四人分の量が確定する。両方がぴたりと同じになるのを見つめる人々の目の光りは鳥肌がたつほど怖《おそろ》しい。
時たまの通訳や、週に一、二度の演芸会参加で入る、他人より余分のパンの取得がなかったら、ぼくの神経はこの必死の計量監視で、狂ってしまっただろう。
黒パンの方は、物差しをあてて五分の一ずつに切り、小差は更に天秤にかけて修正してから配られる。
このパンは本来は昼食分である。作業場に携帯して行くのが原則である。しかし昼間の空腹に詰めこんでも焼け石に水、朝の粥と一緒に喰べて、一時的にでも満腹感を味わった方が心豊かになるという理由で、皆が同時に喰べてしまった。目の前にある喰べ物を昼まで黙って持っている心の余裕がなかったし、他の誰も喰べていないときに、一人だけ取り出して喰べるのは、皆の反感を買い、生命の危険まで考えられることでもあった。
粥とパンとの配給が終ると、後はどうやってそれを少しでも長く楽しみ、腹の中に持たせるかの工夫になる。絶対量が少い上に、これ以上は夕方の食事どきまで、粟粒一つ口に入らないのだから、皆真剣だった。
一番人気のあった喰べ方は次のような方法であった。
黒パンを小さなさいの目に切り、飯盒と共に枕《まくら》もとにおく。喰べる者は、左腹を下にして寝ながら匙《さじ》を持ち、少し粥をすくって口の中にふくむ。二度に一度はパンの小片を口の中の粥に交ぜてのみこみ、胃の中で粥の水分を吸収させてふくらませる。
腹内に長持ちさせるには、人為的に消化不良の状態を起させる必要がある。左腹を下にすると、口から胃に届く時間が長くかかり、それだけ食物との接触感が楽しめる。胃に入っても消化しにくいから、中に長くたまり、幸運な場合には、胃の中に醗酵《はつこう》したガスがたまって、飽食感さえ味わえる。ぼくもいろいろ試みた後で、この方法が一番長持ちする気がして、その信奉者の一人になっていた。
こうして、今、自分は喰べ物を喰べているのだという僅かな幸せのひとときの認識も、作業出発の鐘が乱打されると終りを告げる。
二時間も早いので外は暗く寒い。つい動作が鈍くなるが、それを見越してか、そのときまで毛布に囲われた一画で、彼らだけのたっぷりした食事をすませて、元気一杯の新幹部たちが、頑丈《がんじよう》な棒を振りかざして、一斉に飛び出してくる。
「てめえら何でぐずぐずしてけつかる」
「喰うときだけ熱心で、仕事となるとちっとも動きやがらねえ」
罵《ののし》りながら、見境なく殴って歩く。棚の人々は手早く飯盒や、寝具や、私物を、柱に縛りつけて外に飛び出す。零下三十度の寒い戸外に、口の回りを白く凍らしながら並ぶと、帝国側の兵士が、先が鉛筆のように尖《とが》った銃剣でつついて列をまっすぐに修正する。
新しい将校服を小粋《こいき》に着こなした小政が、二人の同僚を左右に侍《はべ》らせ、顎を突き出し、両肩を交互に前にゆすぶる任侠の徒特有の歩き方で出てくる。各隊の班長が一斉に『敬礼!』の号令をかける。礼を受けてから、毎朝恒例の訓示が始まる。
「こう! てめえらよっく聞け。今日から大統領の命令で特別作業期間に入った。仕事の定量《ノルム》ができなかったものは、その場でぶち殺してもいいということだ。わいも大日本帝国の軍人や。引き受けたからはぜひともやりたい。てめえらの二十人、三十人はぶっ殺すつもりでいるから、こう! 覚悟はしてろ。働かざる者は喰うべからず。大統領閣下万歳じゃ。出発!」
労働者たちは何の表情も見せず、ゆっくり作業場に向って歩き出す。次の飯の時間まで、生命の糸が切れなかったらもうけもの。それ以上は何も考えられないほど疲れ切っている。
行列は帝国側のしきたりで必ず五列であった。これだと二つで十人で人数が数え易い。
町はまだ眠っていた。作業場までは二キロ近くの道のりだ。背をこごめ、手袋の上から手をこすりながら歩いて行く。
歩いている人々の群が少し止まってのびた。
道の外れに鮮やかな色彩が凍りついていた。住民が昨夜の喰べ残しをほうり投げたのだろう、この国へ入ってからは、見たこともなかった白い粉でできたうどんと、その汁とであった。多少の具も交っていた。誰でも皆、歩哨の銃剣や、班長の棒がなかったら、駆けよって、氷からはがして口に入れたろう。
ぼくも生唾《なまつば》がわいてきて、視線が固定した。理由を知った新幹部の班長の一人が、そこへとんで行き
「日本人だ。いやしい恰好《かつこう》さらすな」
と靴で踏みにじった。瞬間、皆の夢はこわれたが、一方、誰もが少しホッとした。誰かに掘り起されて喰べられるよりは、誰にも喰べられないように処理してもらった方が未練は残らない。
食事はみち足り、作業は無く、居住区は広々と快適で、労働者たちとは全く違う生活をしている三人の大幹部は、生涯で初めてなった、エリート貴族の地位にふさわしい態度や貫禄を自然に身につけていった。しかもこの身分は、祖国へ帰ってもそのまま通用し、皇室を中心とする貴族の集団の中に、すんなり迎えられるような錯覚さえ持ち始めていた。
それには自称であるが、加藤男爵という、召集の中年の二等兵の存在が大いに関係があった。この加藤男爵は、演芸で定量以上のパンを必死に稼いでいたぼくにとっては、強力なライバルでもあった。
昼間遊んで飽食している三人の独裁者にとっては、長い夜は退屈極まりないものであった。酒と女だけは、調達できないからだ。
作業後、何か芸がある者は、毛布で囲った幹部団の一画に参上して披露《ひろう》すれば、一回二分の一の黒パンが褒美《ほうび》で出された。規定以外は、匙《さじ》一杯の薄い粥も舐められない人々にとってはこれは魅力ある制度であった。かつての大隊長が追分を唱い、鬼曹長が浪曲を唸《うな》ってパンにありついた。
ただ同じ芸の再演は許されなかったので、何回も伺候《しこう》できる者は殆どいなかった。
旅回りをやっていた本職の浪曲師でも、持ちネタはせいぜいが十五本で、一月《ひとつき》は続けられなかった。
ぼくはたまに通訳として、報酬のパンを稼いだが、実際には演芸から得る定期的な余得で、この苛烈な境遇を何とか生き抜いてきたといってよい。
ぼくは、戦争が終って平和な時代が来たら、シナリオ・ライターになろうと思っていたので、かなりの数の映画を見ていた。別にシナリオが書きたかったわけではない。短足で、必ずしもハンサムとはいえない自分が、憧《あこが》れの原節子のような美しい映画女優と結婚するためには、それしか道がないと早くから目標を決めていた。
幸いぼくの中学校は東京一の盛り場の新宿の真中にあり、放課後、校門わきの物置小屋に鞄《かばん》をかくして目の前のビルの四階にあった、二線級の洋画館を主に、その周辺に沢山あった映画館を、毎日のように丹念に見て回った。少しぐらい帰宅がおそくなっても、毎日補習の授業を受けているのだと強弁して、両親の方は卒業までついにごま化し通した。
かなり真剣に映画を見ていた証拠に、それまで見た映画の筋を、タイトルからエンドマークまで、シーンを追って逐一話すことができた。
映画講談と称してお座敷に伺うと、これが、小政以下親衛隊員の間で評判がよかった。特に彼らが日本で見たことのある映画の場合は、一場面ごとに実際の俳優の演技が、瞼《まぶた》の裏に重なるので人気が湧《わ》いた。
持ちネタは二百本近くあったが、決して毎日は伺候しなかった。ぼくだけは、クールに俘虜の期間は三年と見ていた。パンは一ぺんにもらっても無駄になる。帰還の日まで切れないように按分《あんぶん》すると、五日に一度ぐらいの臨時収入が丁度良い。二分の一のパンを更に五つに割る。二百グラムだ。本来の昼食四百グラムに毎日これだけ足せば、何とか生命は維持できそうだ。
加藤男爵は、ぼくの寝ている棚のすぐ近くに居住していて、ぼくの臨時収入をいつも羨んでいたが、ある日
「思い出話を語りたいので、幹部に話をつけてくれないかね」
と仲介を申しこんできた。ぼくは別に伺候の予定日ではなかったが、毛布囲いの中に入って行って、男爵のことを推薦した。どうせ退屈しているのだから、試しにやらせてみろと許可が出たので、男爵を連れて再び毛布囲いの中に伺候した。
最初の日に男爵は、現天皇の御成婚にまつわる話をしたが、それまで神の如く尊敬していた陛下にも意外なロマンスの相手があったことを知って、皆面白がった。男爵は二分の一のパンを報酬にもらい、即座にその日の中に喰べてしまったようだ。
翌日は、幹部側からお座敷がかかった。紹介者のよしみで二日目の話もまた、一緒に聞くことを許された。
二日目の話は、外国の若い大使と日本の皇族の姫君の実らぬ恋の話で、それに、五・一五事件や、浜口首相の暗殺の秘話が交ってまた無類に面白かった。大成功で、その日も二分の一のパンをもらって帰るとき
「明日は私自身の婚約にまつわるエピソードを御披露します」
と男爵は予告を述べて辞去した。男爵は二日つづきの二分の一のパンの増収で、すっかり良い気分でいたが、それよりもっと良い気分になったのは、幹部たちで、この二日間で皆甘い酒に酔ったようになっていた。雲の上の皇室が急に身近なものになった気分で、声高に今聞いたばかりの何人かの美しい内親王殿下の噂話を始めだした。勿論|卑猥《ひわい》な想像でたっぷり汚しながらである。
三日目はもう待ちきれずに、夕食後すぐ小政の呼び出しが、男爵をせきたてた。ぼくもそれに便乗してついていった。
ぼくにとっては定例の五日目にあたり備蓄したパンも切れたので、男爵の前座に、片岡千恵蔵主演『人生劇場・残侠編』を一席やるつもりだった。だが、一緒に入って行くと小政に
「あっ乙幹がやる日だったな。だが今日はいいで。パンはやれんが、そのへんで寝転がって聞いて行け」
と、あっさり断わられてしまった。男爵にはもう昂奮《こうふん》してせきたてた。
「一つうんと甘いところを聞かせてくれい。華族様のお姫様も好きな男には裸にされて抱かれると思うとぞくぞくしてくるぞい」
虚構は真実の面白さには勝てない。
小さい机を講釈台にして正座した加藤男爵は、寝そべったり、パンをちぎって口に入れたりしている連中に向って語りだした。
「さて今日のお話は遠く八十年前の明治御一新直前にまでさかのぼるのであります。どなた様もよく御存知の七卿落《しちきようお》ちのお話が、私たちのローマンスのそもそもの発端になります」
皆は一応うなずいたが七卿落ちなどといわれても分る人間はいなかったろう。
「……後に明治になって太政大臣になられた三条|実美《さねとみ》公も、長州の武士たちと、険しい山路を越えて落ちのびられたのですが、それがどのくらいの御苦労であったか、拝察するのも畏《おそ》れ多い極みであります。三条公には幸い、忠義|一途《いちず》の富田某なる家令がおりまして、陰になり日向《ひなた》になりして道中をお助け申し上げました。この方が後に維新の大業が成就されたとき、子爵の位を授けられました、富田幸次郎閣下でございます。……さて話はずんと飛びまして、昭和六年から九年まで民政党の総務をやっておられた政界の黒幕富田仲次郎閣下は、この方のお孫様に当られます」
今に何か色っぽい話が出てくるに違いないという期待があるから、皆おとなしく聞き入っている。
「この仲次郎閣下には一人もお子さんがお出来にならなかったので、御主家に三女のみどり様を御養女にいただきたいとお願い申しました。何事によらず富田家の面倒を見よという実美公の御遺訓がありますので、やがて可愛らしい姫君が富田家へお出でになりました。だが沢山の御姉妹がおられる家から、他にはお子さんの居られない家へ移られたのですから、実家が恋しくてなりません。だんだん成長して美しいお姫様になられたが、ついぞ声を出して笑うことのないお方でした」
聞き入るやくざ集団は、話の中で早速この笑わぬ姫君を裸にして、それまで自分たちがまだ見たことのないような滑らかな高貴な素肌や、洋装の絹の下着などに思いをはせ、絶対権力を握る小政などは、もう想像の中で自分の女として扱いだしたようだった。
「お姫様はやがて御養子を迎える年頃になられましたが、どんな御縁談もお断わりになる。実は他の御姉妹は、皇族を初め、公侯爵など家格も高い方と御縁が決るのですが、みどり様は、実家より低い家で御養子をお迎えになる立場ですから、相手がどうしても小物になる。それがお断わりの表面の理由でした。実は心|秘《ひそ》かに慕う方がいらっしゃったのです。それがこの私めでございます」
とたんに一斉に声が上った。
「よう待ってました」
「白子《しらこ》吹かせてヒーヒー泣かせるところ、ぐっとねっちょり聞かせてくれ」
沸きたつような弥次を、小政は一喝《いつかつ》した。
「てめえら、黙って聞け。気分が出んぞい」
皆は静まりかえって男爵を見つめた。
「私ら華族の子弟は学習院へ行かなくてはならないのですが、乃木大将以来の堅苦しい学風は合わないし、それに野球が好きなものですから、早稲田へ入った。同級に投手の伊達君と相撲の笠置山君がいました。親のすすめる縁談などどこ吹く風、ただ遊び暮していました。思い出せば昭和七年の正月になります。初めてみどり様とお会いしたのは……」
皆は身をのりだした。
「アメリカでの音楽勉強を終えてお帰りになられた近衛公の弟様の秀麿様が、お土産にハリウッドから音楽映画のフィルムを買って帰られました。それをお邸《やしき》で映写することになり、親しい友人たちが招かれましたが、そのとき偶然、私とみどり様は並んで坐り、ついお話などしました。ところが若い男の人と話したことなどこれまで全く無かったみどり様は忽《たちま》ち私に熱い恋の炎を燃え上らせてしまったのです。当時、みどり様十九歳、私は二十二歳でした」
そこで彼の話は急に甘美なものに展開して行く。一年近い恋の日が描写されて、年の暮が来る。二人は帝国ホテルの夜会へ行く。サンタクロースのまいたチョコレートを拾ったりしているうち、テーブルに置いてあった青い酒を飲んだら鼻の下が青く染まった。それを知らずに、結婚されたばかりの高松宮妃が近くへいらしたので、御|挨拶《あいさつ》したら、妃殿下は小声で注意してくださった。
あわてて二人で洗面所へ行き、大笑いしながら、ハンカチで拭《ふ》いているうちに、いつ人が来るかもしれぬこの場所で、アメリカ映画で見たようなキスを、大胆にもやってみたくなった。ついでに、乳房の上に手をのばしたら、正式なドレスの下には乳バンドという物をしていて、固い|から《ヽヽ》でおおわれているから、いつものように手が中に届かず苦労した。
ところが一方では男爵には、町のミルクホールの女給でずっと肉体関係のあった娘がいて、既に妊娠していた。もう五カ月の身で、彼の家に両親共どもやってきて、結婚してくれと迫っていた。それが富田家が念のため雇った私立探偵の耳に入り、折角の恋も破れてしまった。
失恋の痛手に姫君はしばらく胸の苦しみを忘れるため、一人でフランスに旅だって行く。横浜の埠頭《ふとう》まで見送りに行った男爵は、お姫様が投げたテープのはしをいつまでも持って、涙の中に消えて行く船を見送っていた。
……その哀切極まりないクライマックスに至るまでの間に、野球の宮武、伊達の一騎討ち、陛下の弟君と銀座娘との叶《かな》わぬ恋などがたくみにない交《ま》ぜられて、長講一席が終ったときは、全員が自分もその宮廷貴族の一員になった気分にひたっていた。最高権力者の大幹部たちは、特に身につまされるのか、目にうっすら涙さえ浮べていた。
「ごくろうじゃった。明日もまた、ぐっと色っぽいところを頼むぞい」
目頭を指で拭いた小政は、よほど感激したのだろう。その日は四本のパンを一ぺんに奮発して持たせた。これは普通の芸人の八回分、労働者の昼食の二十日分だ。昨日までの二日間のように一日に半分を平常食に加えても、一週間は満腹が保証される。男爵は嬉しそうに押しいただいた。上衣に包み、自分の寝床に戻った。
同行したぼくには大いに羨ましかったが、それ以上に、その四本を男爵がどう処理するかが気になった。二人がそれぞれの棚に戻ると、既に皆は昼間の疲れで死んだように眠っている。こんな大量のパンを持っているところを仲間にみつかったら穏やかでない。幸い男爵は誰にも気がつかれずに、枕もとの毛布の中に包みこむことができた。
ぼくは体を右向きにして、三人離れた男爵の方をじっと見つめた。五日目に予定していた報酬が吹っとんだため、急に空腹がひどくなってきた。
しばらく考えていた男爵は、やがて、今夜一晩は思いきり満腹感を味わいたいと思ったようだ。二キロ一本を丸のまま出すと、寝そべりながら、はしからちぎって喰べだした。
黒パンは一本二十五センチの長さで、切口は七センチ四方の箱型枕の形をしている。はじから一本丸かじりは、たしかに誰でも一度は夢みた理想だった。だが普通はどんな大食の人でも、一本の二キロを一ぺんに喰べるのは容易でない。隙間《すきま》なく内容が詰まっている。
ところが男爵は途中で手がとまらなくなったらしい。この帝国にいる限り、明日も明後日も無限に飢える日が続くという恐怖感がある。ついに、一本がやせた体に入ってしまった。ズボンのボタンを外したところを見ると腹がふくらんで苦しくなったのだろう。
夜中の睡眠中に向い合せの男から盗まれることのないように、毛布に固く縛って別にしておいた残りの三本のうちもう一本を取り出した。苦しいほどの満腹も、食道を食物が通過して行く快美な感触には勝てない。
本来は、燕麦《えんばく》のふすま、もみがらまで一緒に練りこんで作ったパンだから、満腹したらもううまいはずはないのだが、このさい味は論外だ。手と口は機械のように動きをやめない。苦しいのか、息が荒い。回りの二、三の人間が気配を知って目をさましたが、事はパンの問題だから誰も口を出さずに、見守っている。腹は異様なほどふくらんでシャツからむき出しになり、青白く静脈が浮き出して見えた。とうとう二つ、もう四キロの物質が入ってしまった。
手は先ほど厳重に包んだパンをまた取り出していた。どうも胃が激しく痛んできたようだ。片手でそのあたりを撫《な》で、苦しそうにしている。しかしそこにパンがある限り手は止まらないようだ。初めは羨望《せんぼう》の目で見ていた周囲の人も、今は鬼気迫る思いで黙って顔を見合せている。男爵は体をくねらせ、荒い息をつき、顔を苦痛に歪《ゆが》めながら喰べている。痛みは下腹の方まで及んできたらしい。三本目も入ってしまった。合せて六キロ分だ。
さっききっと自分ではもう絶対に手を出すまいと誓ったのだろう、毛布の中に一旦固く包みこんだはずの、最後の一本をまたとりだした。いも虫のようにもがきながら喰べている。激しい苦痛の中での無意識の動作だったが、もう続かなかった。
突然の呻《うめ》き声と共に、全身が痙攣《けいれん》し、口から吐瀉《としや》物を吐き出したので、回りは一斉に飛びのいた。仰向けに倒れたその目は白目になり、四肢が虫のように蠢《うごめ》いた。
片手には四分の三以上も喰い残した四本目のパンを、指が喰いこむほどに握りしめていた。やがて息が絶え手足の動きは止まった。
人間が死んだかどうかはすぐ分る。こんな派手な死に方でなく、誰も気がつかぬうちに夜ひっそり死んでる者がよく出るが、すぐ分った。どんな場合でも、それまで体中にびっしりとまつわりついていた虱《しらみ》が一斉に逃げ出す白い列が見えて確認された。
この死にはぼくも責任がある。途中で止めてやるべきだったかもしれない。だがあの凄《すさ》まじいばかりの食物への執念を、果して阻止できたろうか。胃が破れても尚《なお》喰べ続けている男爵を止めることはできなかったろう。むしろ思い残りなく喰わせてやれただけ、功徳《くどく》を施したのではなかろうか。殆どの人は腹をすかせきって、灯火が尽きるように死んで行くのだから。
死体は裏山にまとめて埋めに行く日まで、よく乾燥するように、中庭の一隅に、風呂屋の薪《まき》のように井桁《いげた》にくんでしばらく置いておく。
四人の男が中庭に運ぶ使役をすすんで名のり出たのは、昼の労働に疲れきっている人々にとって珍しいことだったが、指が喰いこむほどに握りしめている、残りの四分の三の黒パンを分け捕りする思惑がす早く走ったからである。
春になり氷が溶けてきて、耳や、手足は、凍傷の心配がなくなってきた。ぼくも働いていて体の動作が楽になってきた。
だが一息つけたわけではない。パンと交換する私物を持たぬ定量しか喰べていない人の栄養失調は確実にすすんできた。各作業場では、足の太腿《ふともも》が腕ほどに細くなり、歩いている最中に、急に膝が持ち上らなくなって倒れて、そのまま死ぬ者が出てきた。それでも作業量や速度は変更されなかった。
代りに今まで何もなかった地面に、見る間に、煉瓦を積んで作られた四角いビルが並んだ。地震のない国だから、こんな程度の作業で、高層建築ができ上る。
ぼくがいた収容所は、煉瓦焼工場から運ばれて、野積みにされた煉瓦を背中の木製の背負《しよ》い子《こ》に三十枚ずつ積んで、作業場まで運ぶ仕事が専門だった。最初は一日九百枚だったのが千二百枚にまで定量がふえた。初め平地だった作業現場が、だんだん高い空間に上る。それでも定量は変らず、人々は蟻《あり》のように並び細い木の足場を踏んで、ビルに登って行った。ビルが出来上るにつれて、一日の労働は重くなる。幾らかましなことといったら、他の収容所の煉瓦作りの労働者が、土を練る手数を減らすため、煉瓦一枚の厚さが減って、目方が軽くなってきたことだ。それでも一枚は一枚。こんなところが定量制のうまみで、三十枚でもかつての二十五枚ぐらいの重さしかなく、皆これで少し助かっていた。
やがて帝国側は、以前と同じ数の煉瓦を積んでも、なかなか所定の高さの壁や床ができないのに気がつく。牧畜民である彼らのおおざっぱな頭ではその原因が分らない。だから監督の現地人は毎日ヒステリックに喚《わめ》き散らす。その中をぼくや仲間は、知らぬ顔で上下がえぐられた煉瓦を運んでいた。昼近くなると陽が当り気温が上ってくる。それにつれて疲労と空腹がこたえてくる。建物の壁に張り渡された足場の板を、二列に並んだ労働者たちが登って行く中にぼくも交って歩いていた。ぼくの目の前にいた男が隣りの男にふと話しかけた。殆どしゃべることのない労働者にとっては、かなり異常なことだったし、話す内容は前後の人々を驚かすようなことだった。
「おめえ、豪勢じゃねえか。何か喰べてんのかね」
ぼくは聞き耳をたてた。聞かれた男は何も答えずに口をもぐもぐさせている。割りあて以上の食物はぼくのように特殊な芸で稼ぐか、大事な持物を売る以外は一粒でもあるはずはない。前後の人々が嫉妬《しつと》心で刺すような目つきになった。目つきに負けてその男は歩きながら、一度それを飲みこんで胃におさめてから答えた。
「喰ってるんじゃねえ。楽しんでるだけだ。喰べ物なんかどこにもあるわけねえよ」
「それじゃ犬の骨でもしゃぶってたのか」
「そうじゃねえ。朝飯をもう一度喰い直していたんだ」
「朝飯が今まで持つはずあるか。嘘《うそ》つき」
煉瓦積み工の前まで来たので口論は止《や》んだ。二人は背中を向ける。卸し係がすぐ三十枚の煉瓦を背負い子から外す。背中が浮き上るように軽くなるが、歩調の方は相変らずで板の梯子《はしご》を下りて行く。次にぼくの番になり背中を向けて卸すと、再び二人の後をついていった。軽くなったからといって足を速めない。四十往復の作業量だ。いつものろのろと同じ調子で歩かないと体が参ってしまう。二人の話は再開されていた。
「胃に入った喰い物をもう一度戻すのさ」
「そんなうまいこと本当にできるのか。それなら教えろよ」
それはぼくにも大いに興味があった。
聞かれた相手は楽々と口に戻してみせ、噛《か》み直して楽しみながら物惜しげにいった。
「おれはね、地方《しやば》では牛を扱う商売をしていてね」
地方とは軍以外の一般社会のことを示す言葉だった。
「そのときに見たことでヒントを得たんだよ。牛の奴は、朝飯を一回やると、後は一日中口の中でもぐもぐして楽しんでやがる。それでおれもどうにかそのまねができねえかと考えたんだよ。これは何しろ一旦覚えたら、毎日楽しめるんだから、只で教えてやるのは勿体ない。夕食の粥、匙《さじ》二杯だけよこすか」
「ケチ! 分ったよ。やるよ。教えてくれ」
「初めは手を使う。ぐっと息をつめ、腹の皮を胃に向って押えつけるんだ。皮の裏側に力をこめて、少しずつ胸の方に指先で持ち上げる。喰い物が食道に吸い上げられ口の中へ出てくる。馴れれば手を使わなくても、欠伸《あくび》をするようにして自然に出てくる。味はちょっと苦いが、我々にはそんなことどうでもいいことだ。舌の上に喰い物があれば、こんな幸せはないからな」
「ありがとう。今晩からやってみる」
「二匙くれるのを忘れるな」
後ろで聞いていたぼくは自分で試そうとまでは思わなかったが、それはぼくが演芸や通訳で人より少しは余計に喰べているからだ。この半年、無抵抗の人間の脆《もろ》さを、毎日のように見聞きしていたので、久しぶりにたくましく生きる知恵を持った男を発見して嬉しかった。この人はきっと生きて再びこの国を出、祖国の土を踏めるに違いないと思った。
その夜のことだった。
収容所で朝と同じ薄い粥を喰べている人々のところに小政が珍しく顔を出した。
「こう! 良いことを知らせるから、ようく聞けよ。今度の作業が五月一日までに片づいたら、一週間の作業休みと、一人あたり丸一本の白パンが配給になるという通知が、司令部から届けられたぞい。明日から一つ、馬力かけて働いてくれい」
ぼくにはそれがすぐ嘘と分った。この国では白パンは政府の高官以外は口に出来ないのだ。俘虜に回すはずはなかった。この指導者は巧妙な鞭《むち》と飴《あめ》の使い分けをした。鞭は毎日目の前に唸っているが、飴の方は全くの幻影を供給したのだ。
まだ二カ月先の白パンでは話が遠すぎるが、人々は久しぶりに昂奮《こうふん》して、なかなか寝つかれなくなった。現役兵の中には、白パン一本をまとめて喰べる日のことを想像しているうちに、性器に血が集中して半年ぶりの勃起《ぼつき》をしてしまい、自然に手でそこを押えた者が何人かいた。口の中で柔らかく咀嚼《そしやく》されていく架空の快楽の甘美さが、無意識の手の動きとなった。こんなに栄養が不足しているのに、若さとは不思議なもので、嚥下《えんか》の想像と共に、白い飛沫《しぶき》の噴射を知った。誰にとっても入国以来初めての性衝動であった。
もう眠れなくなった人々は、お互いに食物の話を始めだした。ぼくの周囲でも人々の話はいつになく賑《にぎ》やかであった。
寿司の握り方。カツの揚げ方。パンのふくらませ方。
パン職人だったと自称する男が、回りの人間に、重曹と炭酸ではどちらがよくふくらむか得意そうにしゃべりだした。そのときわきで寝ながら聞いていた男が
「重炭酸|曹達《ソーダ》といってな、重曹と炭酸はまるで同じものだぜ」
とぼそっといい、それで名講義は俄《にわ》かに色あせて、パン職人だったという羨望された過去の権威は失墜してしまった。
今日もまた重油ランプの下で塑像のように動かずにじっと本を見ている老人が一人いた。占領軍が二万人の員数を合せるために、民間居留民団からひっぱってきた、旧植民地で県の参事をしていた五十をすぎている役人だった。読書は食事後の習慣だったが、今日は一層熱心だった。内懐にいつも肌身離さず持っている大事な本は、三年前の『主婦之友』二月特別号附録、家庭料理全集という小型の本であった。表紙をあけると両側からの折りたたみページがあり、四ページ分の広さで、彩色写真のお花見弁当の特集がしてあった。のりまき、いなりずし、ごま塩握り。形よく添えられた、海老の鬼ガラ焼き。かまぼこ、玉子焼き、野菜のうま煮。
この老人のお気に入りは、その中でも五色おはぎの重箱で、何時間見つめていても飽きない。いつか作業場の昼休みにぼくも一度その本を見せてもらったことがある。そのときもう歯の抜けた口で老人はいった。
「私は故郷に帰ってこれを喰うまでは、決して死にませんよ」
老人の目はその一点に止まってもう三十分も動かない。明日も生き抜く執念を充電《チヤージ》しているのだ。
廊下の向い側の棚で、突然大声がしてぼくはびっくりして半身を起した。
「畜生、てめえという奴は」
どなった男は、枕代りの煉瓦のかけらを振り上げていた。怒鳴られた男は、相手の手を必死で押えていた。今にも頭がぶち破られそうであった。
怒った方は古参の下士で、殴られそうなのは、その男に教育された大学出の初年兵であった。白パンのニュースで昂奮した初年兵がついおだてにのせられて、自分が喰べた洋食の話を始めた。特に夕方になると、肉屋が店頭で作りながら売り出すコロッケと、それより少し値の高いメンチボールについての、微に入り細にわたっての説明が、古参の忍耐の限界を越えた。兵隊にとられるまでの二十年間を山国の寒村で過し、味噌汁と香の物しか|おかず《ヽヽヽ》というものを知らず、米の飯は正月と祭りの日以外喰べたことのないこの下士にとっては、それらの喰べ物を知らずに過してきた歳月が今|堪《たま》らなく口惜しくなってきたのだ。初年兵のくせに、そんな豪気《ごうぎ》な思い出を持っているなどあまりに理不尽である。
「もう一度、メンチボールのメとでもいってみい。てめえの頭の骨は粉々にしてやるわい」
二人は組み合って二、三分もんでいた。もし一年前だったら、初年兵は身を守るため、頭に手を上げることさえ許されなかったろう。互いに身分差のない虜囚だったことが、初年兵の生命を救った。二人の力が尽きた。下士はくたびれて煉瓦をおき、二人ともぐったりして並んで横になると、もう口もきけなかった。夕食の粥の分のエネルギーはこれで浪費してしまった。
ぼくの足の所に間仕切りがあり、その先にももう一列、足を向けて兵隊が並んで寝ていた。
さっき反芻《はんすう》を覚えた男がそこにいた。今が反芻に一番いい時間らしい。完全に消化してしまった後では、無い袖は振れずで、口の中には戻ってこない。たしかこの人は元警官だ。
うつむいて、人に分らぬようにしながら、黙々として口を動かしているのが見えた。嬉しそうな顔をして楽しんでいた。
ぼくには毎月十二日、十三日、十四日の三日間は、曜日にかかわらず、通訳の仕事があり、夕食が終ると、正門横の管理事務所へ一人で出かけた。表面は事務手伝いとなっていた。その内容は決して誰にも語ったことはないが、それはスパイと特務の面会の通訳であった。
どの収容所にも双方の代表者とは別に、帝国側の管理機構と直接接触している男たちが、十五人ぐらいいた。
ぼくは補助通訳としてほんの僅かの報酬のためこの両者の立会人になっていた。
元見習士官の、関西の大学を出たインテリで、スパイになっている男がいた。スパイ名を『煙草《タムヒ》』といった。タムヒの面会日は毎月十二日の八時と決められていた。当人はスパイは自分一人だけと思っているが、実は十二日の分では三人目の面会人であった。六時から始まって十時まで一日五人。三日で十五人である。
三月十二日のことであった。歩哨《ほしよう》の誰何《すいか》に
「タムヒ」
と暗号名で答えて、八時にタムヒが入ってきた。中で待っている軍人は一般の将校とは違い、軍帽に赤の蛇腹《じやばら》を巻き、ズボンに赤い筋が入っていた。どんな仕事でも、この帝国は一般軍人と、それを監視する特務軍人との二本立てになっていた。職務上、自分の国の通訳は連れてこなかった。少し日本語ができたので、初歩程度のぼくと話をつき合せると、大体の用が足りた。それでぼくは月のうち三日間は少量だが臨時の収入を得ることができた。
小屋の隅のペーチカは赤く燃え、鉄板に獣脂をしいて、薄く切った黒パンがのせられている。一人ごとにぼくが約三分の一を予《あらかじ》め切って用意しておくのである。うまそうな匂いをまきちらしている。タムヒの視線が離れない。
「タムヒ、まあ、喰べろ」
特務は日本語でいう。タムヒは脂でべとつくパンを息もつかずに口にほうりこんでいく。スパイの情報提供の報酬はこれだけだ。その特権を剥奪《はくだつ》されないため、これまであらゆる情報を持ちこんできた。この仕事は、二、三回もやっていると、相手が好んで聞きたがる情報の種類がのみこめてくる。特に喜ばれるのは労働者側の脱走計画である。
ぼくもこの通訳の報酬は失いたくなかったからこの三日は機械に徹し、どんなことがスパイから語られようと、それに感情を示したり、外に洩《も》らしたりはしなかった。その点、特務からも、スパイ側からも信頼はされていた。
タムヒが充分喰べたのを見て、特務の中尉はぼくに顎《あご》を振り、ぼくは代りにタムヒに聞いた。
「今月の報告は」
「元民間人で、今は理髪係をやっている男がいるのを知ってるか」
「知ってる。凍傷で足の指を全部切断したので作業免除の理髪係にした」
司令部付きのこの特務中尉は、十の収容所を三日ずつ巡り歩いて、その中の人員の殆どの動静に通じていた。
「彼は自分の金歯を釘《くぎ》で外し、町の人に売ってパンに取り代えようとしている。余計のパンを持つということは、脱走の準備と考えられるから、警戒すべきである」
ぼくは機械的に通訳する。だが脱走準備などは全くのつけたりで、他人が余計のパンを持つのが許せないというタムヒの気持はよく分った。特務は職業であるから受け取り方が違う。計画について細かく質問する。仕方なくタムヒはでっち上げる。出鱈目《でたらめ》話は詳細な脱走計画の報告書になる。最後にタムヒは片仮名でサインをして、報告書はでき上る。
「明日から作業量がまた増える。来月の十二日まで脱走計画者が増えると思うので、よく調査しておきなさい」
「はい、承知しました」
報告が終ると、タムヒを制して特務が小屋を出て中庭を見る。すぐ戻ってきた。
「もう少しペーチカに当っていなさい。小政が仲間を連れて炊事小屋に肉鍋を喰いにいった。今会うと疑われる」
管理者側の将校は、政権交替に気がつかなかったが、特務側はとっくに知っていた。そして、新作業計画達成の奨励策としてこのごろ全員に特配されるようになった、砂糖・肉・臓物などを独占して連日新幹部たちが、炊事小屋で豪勢な宴会をやっていることも、承知していた。
ただしこれが、労働力を結集し、作業を進捗《しんちよく》させるのに役だっている限り、摘発しようなどという気持は全くないようだった。
特務が気を使うのは、十五人のスパイの存在が、小政や、他の労働者にばれて、私刑に会って報告がとぎれることだけだ。
小政たちが炊事小屋へ入るのを見届けてから、合図をすると、タムヒはすばやく小屋に戻り、十五分ぐらいして、次のスパイ『菓子《ピラミツク》』が入ってきた。
翌日からたしかにまた定量は強化され、現場での死亡者もかなり多くなった。だが、二万人の消耗無視の労働力はさすがに凄まじいもので、町の建物は目に見えて大きくなっていく。
四月に入ると、通りに面したビルの煉瓦の壁面には、大きな肖像画やスローガンが一斉に下げられた。
広場の整理は特にめだった。目障りだったラマ教の赤い柱の寺院は跡形もなく消え、中央に白い台石にのった銅像が据えられた。嘶《いなな》いてまさに立ち上ろうとする馬に、中将の軍服の大統領閣下が、片手に大きい旗を持って乗っていた。
銅像の正面には、一段高い演説台が、大理石で作られた。回りの柱には、演説を広場の群衆にもれなく聞かせるためのスピーカーが取りつけられ、元ラジオ屋だった経歴の者が各収容所から選抜されて特別の作業に当っていた。
郊外の荒地からも、遊牧民が、何十年に一度の祭典を見物するため、何日もかけてやってきた。牛車に家と家財道具のすべてを載せてやって来た彼らは、川っぷちに、白いきのこのようなフェルトの天幕を並べた。
町の大通りは羊を追う人々でごった返した。首都見物でも家畜を置いてくるわけにはいかないからである。
また十二日から十四日までのスパイの面会日が近くなった。ぼくは機械に徹しようとは思っていても、少し気が重い。作業の強化でさすがに不平が人々の間に拡がる。今では作業中何気なく
「ああ日本に帰りたいなあー」
と呟《つぶや》いても、すぐ密告の対象になる。十五人のスパイが、黒パンほしさにすみずみまで目を光らせている。今度の面会日の密告量の増加は大変だろう。ところが直前で意外なことが起った。
タムヒの定例面会日に後二日というときだった。作業を終えた人々が薄い粥をすすり終え灼《や》けつくような空腹を抱えたまま、疲労の果てに眠りに就こうとしたとき、着剣した五、六人の歩哨に身辺を警戒させて、特務の将校が入ってきて、中央で突然話しだした。
「起きて皆、聞きなさい」
このぐらいの日本語は特務もできる。赤い蛇腹に、赤い線のズボンの将校は、権力があり残忍であると皆は知っているから、宿舎の隅まで凍りついたようになった。小政以下三十人の幹部も毛布のおおいのかげで、息をひそめて顔を出さなかった。この赤線《ゲ・ペ・ウ》に睨《にら》まれたら、小政のかりそめの権力など一溜《ひとたま》りもないことを当人も知っていた。
特務はポケットから紙を出して、名前を読み出した。大半は体の弱い作業能率の低い者で、スパイたちが頻繁に報告する脱走計画予定者だったが、その中にスパイの名も五人ばかり交っていた。ぼくにはその理由がすぐ分った。お互いにスパイの仲間と知らずに、他のスパイの者を報告することがある。皆その該当者だ。タムヒの名も入っていて、びっくりしたタムヒが訴えるように特務の将校を見たが、中尉はまるで初めて見る人間のようにタムヒを見返しただけだった。
二十人近い人間は、すぐ歩哨に銃剣を突きつけられて表へ連れ出された。
五月一日が終った後、そのうち十人ぐらいが骸骨《がいこつ》のようになって戻ってきたので、皆が取り囲んで事情を詳しく聞いた。以下はそうして明らかにされた懲戒作業の実態である。
二十人はすぐ表へ連れ出されて、石炭の置場にされていた小屋に入れられた。二人の歩哨が専任で警戒についた。
毛布も着換えも私物も宿舎に置いてきて、ここでは石炭の上に体一つのごろ寝で、寒さでとても眠れなかった。翌日から、二人の歩哨がつきっきりで、彼らを追いたてる作業が始まった。
作業場は、町からかなり離れた川原であった。上流から送られてきた松の木のいかだが沢山つながれて浮いていた。
針金で結んであるいかだをほぐすことから作業が始まった。鋏《はさみ》も、|やっとこ《ヽヽヽヽ》もない。川原から平たい薄い石を拾ってきて、木と木の間にさしこみ、もう一つやや角のある石で、その上を気長に叩く、針金が熱をもってきて切れる。その瞬間ふわりと水に浮いて材木が流れるので横にいて押えて、大きい針金の輪を通して、四人で棍棒《こんぼう》をかけて岸に運び上げる。雪どけ水は冷たく、川の底の石が丸くても足の裏に喰いこむほどに痛い。
それに浮いた瞬間の材木にぶつからないよう、手もとがやりにくくても横で作業しなくては危険だった。
タムヒは口惜しさと疲労でその余裕がなかったらしい。危険と分っていながら、川下で正面から針金を切っていたそうだ。切れた瞬間、意外に早い川の流れにのって、木が彼の腹にぶつかり、のけぞる胸と顎の骨を打った。そしてむき出しの首から顎、鼻にかけて、舌が反転するように皮膚をそいだ。
材木はみるまに川の中ほどに流れ、皮一枚はがれたタムヒは、一度は川の中で立ち上ったが、すぐまた流れに足を取られて、血の帯をひきながら流されていった。
それを終始見守っていた話し手の、元理髪係の老人は、聞いている皆にそのときの気持を
「助けようなんて誰も思いもしなかったですよ。それよりこんなに腹のすいている人間でも、まだ怪我すりゃ、血が出てくるのが、何とも不思議な気分だったですよ」
と伝えた。
材木を一本流失した歩哨はそれだけが心配で、いつまでも喚《わめ》きたてついには泣きだしてしまったそうだ。
五月一日が来た。帝国側の督励と、収容所側の協力で、すべての予定作業は前日に終った。新しいビルディングが十も建ち、道路や広場は美しく整備され、中央の銅像は今にも馬が動き出しそうに見事だった。
当日は朝から花火の音が町の中にひびきわたり、祝砲が轟《とどろ》いていた。町の人々は、多分、全員が新しい服を着、赤い旗を持って広場に集まったことだろう。そこには昨日まで蟻の列のように地べたに這《は》いつくばって労働していた、汚れてやせこけた異国の奴隷たちの姿は一人も見えなかった。
そのころぼくら労働者は、この国に来て初めて、労働から解放され、大半は泥のように眠っていた。ときどき風にのって、演説の声や、革命歌らしい歌声、音楽など、かすかに聞こえてきた。
二カ月前に小政が約束した、五月一日には白パンが一本支給されるという話を、思い出した者も何人かいた。しかしこういうおいしい話は、大体当日がくれば、帰還のデマと一緒で、消えてしまうものだと諦めてしまった人の方が多い。それに思い出しても口に出すものはいなかった。うっかりあてにして、やっぱり駄目と知ったときが惨めであった。
それでも昼近くになると、どこからともなく嬉しい情報が宿舎中に流れてきた。正午にスープが特別支給されるらしい。それには肉も野菜も入っているとのことだ。
それは半分は事実であった。炊事から臨時集合の鐘が鳴り、当番は張りきって出かけた。
しかし多少の肉はすべて新幹部たちの祝宴用に回され、人々に支給されたのは、葉っぱが二、三枚浮んだ塩の汁だけだった。祝日の特別献立が、腹にたまらない塩汁だけと知ったとき人々は言葉にいいあらわせない失望を味わった。これではもう一つの、この国の管理者の約束、明日からの一週間の休みなど、とてもあてにできないと決った。
汁をすすり終ると、またすぐに眠った。
今眠っておかなければ、いつまた、眠りたいだけ眠れるか分らない。一分一秒をかみしめて眠った。
翌日の七時には、やはり作業出発の鐘が鳴り、人々は寝台から叩き起された。白パンと同様、一週間の休みも、幻にすぎなかった。ただいつもの五時でなく、七時であったのだけが、せめてもの救いであった。
朝の通りはもとの静かな町に戻っていた。その日の、労働者たちにあたえられた仕事は、式典で散らかされた会場の後片付けであった。道路に出た人々は、大変な発見をした。
建物に吊された赤い布、人々が持ち歩いた赤い旗が、大通りのいたるところに散乱していた。その上には、白や銀の絵具で、この帝国の異様な文字が書かれていたが、布はともかく布であった。
人々は皆声を上げると、歩哨の制止もきかず、その地上の富を拾い上げようとした。九月になれば、夏も秋も一緒に終り、すぐにまたあの怖しい酷寒の日がやってくる。そのときになったら足に巻いて靴下代りにして凍傷を防ぎ、腰に巻いて冷えこみを防ごう。補給がないから、もう褌《ふんどし》も、すりきれて無くなっている。細く切って股に通して赤褌と粋《いき》にしゃれることもできる。
歩哨がびっくりして怒鳴り、威嚇の弾丸が耳もとをかすめても、拾うのをやめようとする者は一人もいなかった。ぼくもまた列から飛び出し、仲間をかきわけて、腰に巻きこめるだけの布と、褌にできる細さの赤旗を四本拾いこんだ。耳もとに飛ぶ弾丸より、これから来る酷寒の方がずっと怖しかった。
その日の夕食の後、収穫物をたたみ直しながら、久しぶりに心豊かな気分になった。そしてひょいと、今年もまたきびしい仕事の間にいつのまにか、誕生日がすぎてしまっていたことに気がついた。
そこでぼくは明日の定例五日目の伺候演芸『映画講談』には、自分の心祝いをかねて、二十一歳の思い出になるよう、とっておきのジャン・ギャバンの名作『望郷《ペペルモコ》』を心行くまで語ってみようときめた。
身の危険を知りながらも、カスバを出て港まで追ってきたギャバンが、おりから出て行く船に乗っている女の名を、鉄格子に掴《つか》まって必死に呼ぶが、汽笛に妨げられて声が届かない。諦めた彼が、自分を裏切った現地人の女のもとに戻るよりはと、ナイフで自殺する。
このラストシーンではきっと全員を泣かせてやれるだろう。女の名が汽笛とぶつかって消えるところをどう表現しようかと何度も口の中で練習しながら、ぼくは、今日の収穫の赤い布を、私物袋の奥に大事にしまいこんでいた。
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[#見出し] 二章 白い行進
関西極道の赤穂の小政が支配する、収容所の新しい秩序は、黒パンの配給権の掌握と、親衛隊の配置で、安定した強力なものになっていった。
しかもこの態勢は、予定の時間内に、決められただけの仕事をなしとげようと、常時焦っている、蒙古共和国側の管理者の利害と全く一致していた。
仕事さえ順調にすすむなら、この際、無料で仕入れた労務者の消耗は問題にもならなかったし、日本人仲間の指導者が、元は将校でなく、陸軍刑務所に服役中だった囚人の一兵卒だということは、考えるにも値しない、些事《さじ》であった。
日本側指導者と管理国側軍人とは忽ち親密な関係を示しだした。蒙古共和国の監督官の信頼を完全に得た、と信じた赤穂の小政たちやくざの、絶え間なしの怒声や容赦なく振り回される棒の下で、全員がきびしい労働に従事する日々が続いた。
ぼくたちの作業は主に煉瓦《れんが》作りと、その運搬で、まだ水の凍らない比較的温かい時期に山から運んできた赤土を練り、型に入れてから陽《ひ》に干して乾かし、火で焼いておく。それを冬場は背中に担《かつ》いで建築現場まで運ぶのである。
そんな労働の間にぼくはよく考えた。
もしこの蒙古共和国が我々を永久に解放してくれなかったら、何世代か後には、今いるやくざの幹部のような人間が貴族になり、王様となって行くのではないか。つまり、世界の王侯貴族というものは、こうした状況の中から、自然に生れてきたものではないのだろうか。
日がたつとともに幹部集団と、一般労働をさせられている集団との間の体力が開いてきて、たくましくなる立場の者は筋骨もひきしまり、腰も腕もがっしり太くなっていったが、働いている側は、やせるだけやせ切って、骸骨が皮をかぶって、骨をきしませて歩いているような感じになって行く。だから一年もたつころは両者の力関係は、人間と飼犬ぐらいに開いてきていた。
そんなみじめな立場で、毎日腹をすかせながら、いつ帰れるか分らない異国でのきびしい労働に従事している人々の間に、いつのころか『アムラルト』という設備の存在が、甘い期待をもって語られるようになった。
ぼくらの収容所からはるか遠くに見える山脈《やまなみ》のふもとに、それはあると伝えられていた。
蒙古共和国が宗主国とする北の大国の言葉ではこの『アムラルト』とは『休養』という意味になるらしいが、実際には病院である。
もし幸いにそこに入ることができれば、当然日々の労働はなく、白い米の粥《かゆ》が支給され、砂糖もあるし、病気によっては牛乳も支給されるという。ただし全体で二万人いる俘虜《ふりよ》の集団の中でそこへ入れるのは、やっと二百人前後らしい。
死といつも隣接しているぼくらの体では、死の一歩手前で、そこへすべりこむのは、大変な難事であった。
単に病気になればいいというものではない。普通の病気では、病院に送られる前に、収容所で死んでしまう。入れるような病気にかかる技術が要る。
月に一度ぐらい、蒙古共和国側の軍医が巡回で身体検査にくると『体の悪い者は申しのべよ』との指示が出る。秋口までは戸外で、冬になると所内の廊下で、申し出た者は素っ裸で並べられる。もう誰も満足な下着はないので、やせた全身やちぢんだ性器をさらすのがみじめで、少しぐらいの病気や怪我は我慢してしまう。それに相当の病気でも滅多に合格しない。
この国では外に見えない病気は病気でないのである。
一番合格率のいいのは、皮膚病の疥癬《かいせん》で、これが全身の五分の四以上拡がっていれば、大体パスする。神経痛、その他の内臓の病気は外に見えないので、却《かえ》って仮病ときめつけられて、検査が終った後で、やくざの幹部から
「仮病を申し出るなんてふてえ|たま《ヽヽ》だぞい。たるんだ体に根性入れ替えてやる」
と、殴打され、減食の罰をいい渡される。
外傷なら絶対というので、度胸のあるのが片手を犠牲にすることを考えた。煉瓦工場まで行くと、土練り用の機械があり、ベルトが唸《うな》りをたてて回っていた。そこへ片手をつっこんだ。激しい悲鳴とともに片腕がねじ折れてとれた。すぐ病院へ運ばれた。
数日後ぼくは並んで煉瓦を担いでいる兵隊から、その勇ましい男の噂をきいた。
「片腕は切断したそうだがね、日本へ帰るまでずっと病院で寝たきりでいられるらしい。ここんところ奴は白い病衣着て、暖かい病室で、銀飯腹一杯喰ってるそうだ」
どうやら死との間の紙一重の薄い間隙《かんげき》を巧みにくぐり抜けられたらしい。あんまり羨ましそうな口調でいうので、ぼくはその兵隊にいってやった。
「じゃ、あんたも腕を切ったらどうだね」
「そりゃー腕一本ですむなら、おれもやりたかったさ。だがね、あれから二人、続けてやった奴が出た。そこでこの国の監督が気がついた。ほっといたら、かなりの人間が片腕になって、作業する者が激減してしまう。あわてて、モーターの回りに金網を張ってしまったんだ」
「それじゃーもうその手は駄目か」
「まあ、おれたちは、ある朝、自分が死んでることに気がつくまで一日だって、仕事は休めない運命だな」
話し終えると、地方《しやば》では小学校の先生をしていたという兵隊は、遠い山脈を見ながら、奇妙な抑揚のついた声でいった。
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう」
意外に実感が出ていて、ぼくもまた一瞬、遠くの白い雪をかぶった山を、うっとりと眺めたほどだった。
幸いぼくは、映画講談という芸のおかげで、小政たち新幹部にとり入り、他人よりは少し余計にパンを得て、何とか三年ぐらいは、生きのびられる|めど《ヽヽ》がついていた。
抑留二年目の十月の初旬のころだった。気候はもう完全に冬になっていて所内は寒い。また定例の五日目が回ってきた。その日は、飯塚敏子と高田浩吉がからむ、『月夜鴉』という江戸芸能物を、しみじみとした名調子で披露しようと思った。
薄い粥の夕食を喰べ終った後、一般の俘虜仲間が作業の疲れで深い眠りに入ったころ、芸人らしい卑屈さがつい自然に出てしまう自分のみじめさを、何とかごま化しながら、毛布のはしを持ち上げて、幹部の住居をうかがった。
今晩も中では、炊事係から運ばせた、肉と砂糖を、飯盒《はんごう》で盛大に煮たてながらの、豪華な宴会を彼らはやっていた。ここへ来て一年以上になったが、他の二千人近い全員は、一片の肉さえ口にしたことはない、匂いだけ存分に嗅《か》がされながら、この三十人の集団に抗議一つすることができない支配態勢が、すっかり固まっていた。
いつもなら
「おう来たか。ぐっと面白いのをやってくれ」
皆がすぐに聞く仕度を始めるのに、気まずい沈黙が支配している。奥の方で鍋の肉を箸でつまんでいたNO1の実力者、赤穂の小政が、どなった。
「映画講談などききたくないぞい」
ぼくは呆気《あつけ》にとられた。かつて一度もこんなに頭ごなしにいわれたことはない。これでは明日から五日分の食糧の予定が狂ってしまう。向うは気まぐれだろうが、こちらは生命の問題だ。おそるおそる訊《たず》ねた。
「それでは次にいつ参上しましょうか」
「もう聞きたくもねえぞい。こう! 二度と面《つら》を出すな」
子分たちはまだ、唯一の娯楽である、ぼくの映画講談という演芸に多少の未練があったらしい。少し気の毒そうに
「まあーそういうわけだ」
といいながら、毛布のカーテンを目の前で下してしまった。
何でこんな状態になったのか見当がつかない。ぼくは小政の理由の分らぬ不機嫌が急に不安になった。
翌日の作業も相変らず煉瓦運びである。今度作られる建物はオペラ劇場だそうだ。出来上れば、ふだんは蒙古服で羊を追っている人々が馴れない背広やイヴニングドレスで、椿姫やカルメンを聞きにくるのであろう。
今のところは、鉄筋と、各階の枠組ができたばかりの吹きさらしの建物には、寒い風が通り抜け、雪が舞い込んでいた。地震が全くない国なので、枠組だけでき上れば、外壁も、間仕切りも、煉瓦を丹念に埋めこんで行くだけで、建物ができ上ってしまう。
床にブリキ缶の火鉢を置き、溶かしたセメントを凍らないうちに、手早く煉瓦と煉瓦との間に糊《のり》のようになすりつけて積み上げて行く。ぼくらはその職工たちの前に、蟻《あり》のように並びながら、地面から階上の作業場まで煉瓦を運んで行く。
偶然隣りに並んだのは、元航空兵科の特攻だった学徒動員の帝大出の将校だ。他の収容所だったら、兵の監督として直接労働をしないですんだのだろうが、ここは旧軍秩序が崩れてしまっているので、ぼくと同じに煉瓦を担いでいた。
「乙幹さんよ」
珍しく彼が話しかけてきた。極端な空腹で働いているぼくらは、小さなエネルギーの消耗にも敏感になっている。よほどのことがないと口もきかない。
「何ですか」
「あんた何か小政に憎まれるようなことをしなかったかね」
「さあー心当りがないんだが」
「小政がひどく怒っていたそうだ。証拠が見つかり次第、乙幹を叩き殺してやるといってるらしい」
ぼくは頭から氷水をあびせかけられたような気持になった。心当りがまるでないのが余計不安であった。
「何でだろう。見当がつかない」
「用心した方がいいな。おれもちょっと耳にしただけだから理由は分らないが、今では大体みんな知ってるぞ。いつおまえがやられるか楽しみに待ってる奴もいる」
恐怖は一層現実のものになってきた。
昼の休みは一応一時間ある。朝のうちに携帯用の昼食のパンを喰べてしまっているから、皆はただ、風の来ない物陰で体を小さくすくめているだけだ。お互いに話す気力は殆どない。外套《がいとう》やフードの上に雪が積もっても、居眠りできるぐらいに、寒さには馴れていた。
気がついてその目で見ると、仲間の誰もがぼくとかかわり合いになるのを避けているようであった。そのくせ遠くからは同情と好奇の目で見ている。
丁度隣りに、古い年次の一等兵が坐った。長城線での部隊からの知り合いで、初年兵のとき、ぼくはこの男にかなり殴られた記憶がある。今でもお互いの間はすっきりしないが、こういう連中の方が底意地悪いだけに、却《かえ》って本当のことをしゃべってくれると思った。
「ぼくのことで、何か悪い噂をきいてますか」
「ああな」
彼はまるで舌なめずりしそうな顔でいった。
「小政がおまえさんをぶっ殺すとしゃべりまくっている」
「ええ、そうらしいんですが事情が分らない」
「正宗のことだよ」
「ああ」
と思わず声を上げた。初めて思い当ることがあったからである。ぼくは同時にまた背筋が凍るような恐怖にさらされた。とんでもない誤解であったが、それはまた弁解の手段が一切ない誤解でもあったからである。
正宗というのは、相州の五郎正宗作という短刀のことである。本物かどうかは分らない。
抑留俘虜の仲間には、居留民団の人々がかなり交っていた。ある地区に攻め入った蒙古軍がそこに予定しただけの数の軍人がいなかった場合、民間人も戦利品の労役奴隷として、数が合うまでかき集めた。中川というその六十ぐらいの老人は、満洲国の黒竜江省内のある県の副知事をやっていた。日露戦争のとき南山の攻略に参加したというのが自慢の元気のいい人だった。その爺《じい》さんのもう一つの自慢が、荷物の底に秘めて持ってきた、正宗作と称する短刀である。満洲国の役人として赴任するとき、故郷での昔の主筋だった大名家から、餞別《せんべつ》として貰ったものであるという。
この収容所では、腹の中へ入れて証拠が無くなってしまう喰べ物以外には、盗難事件は殆どなかった。入口をしめて、一斉に荷物検査をすれば、すぐ見つかってしまうし、作業場へは一斉に出て行き、病気での所内残留は誰にも認められていなかったから、他人の物を盗むための僅かの隙も持てない。もし見つかったら、それこそ確実に殺されるリンチが待っている。老人の短刀は、見た者こそいなかったが、確実にあるらしい。
ただいくら元気でも、他の俘虜の年齢と比べて異常な高齢であったので、秋口にかかって急に体が参ってきた。自分の死期を悟ったようだ。
それまでは小政や幹部の連中から、いくら大量の黒パンとの引換えを望まれても決して手放そうとしなかった老人が、近づく死を前にして正宗の権利を小政に売った。提示した条件は噂によると、二つあった。一つは、一日四分の一のパンを死ぬまで支給してくれということで、もう一つは、完全に死んだらどう処理してもいいが、それまでは、どうせ長くはないのだから、枕代りにしている荷物の中に今まで通り入れておきたいというのであった。
抑留者から選ばれたスパイが、この国の特務と面接して、パンと引換えに仲間の情報を提供し、ぼくは通訳をさせられていた。先月の定例の日に、スパイの一人が老人の短刀のことをしゃべった。まずいとは思ったが職務上仕方なく通訳しておいた。
スパイの密告があって三週間後の今月の初めのことだった。夕方の作業後の薄い粥を、口に運びながらまるで動作の続きのように、何気なくうつぶした老人は、そのまま息を止めた。顔が飯盒の粥に濡《ぬ》れた以外は、音もたてない静かな死であった。
どこで彼の死のニュースが洩れたのか、三十分後には警備の兵隊が入ってきて、老人の荷物を持って行ってしまった。今まで我々抑留者の貧弱な荷物など、兵士たちの収奪の対象になったことはない。
明らかに伝説の短刀を狙《ねら》っての素早い処置で死体より先に片づけられたのだが、ぼくは自分が関係しているスパイの組織とは別の密告監視機関が存在するのを、そこで初めて知って、慄然《りつぜん》とした。
中の短刀は小政が貰うつもりでいた物だということを、ぼくもまた知っていたが、自分の関係したことでもないので気にもしなかった。
ぼくは一等兵にきいた。
「それじゃその短刀は、ぼくが蒙古兵に教えて、取り上げさせたというのかね」
「まあーそういうことだ。蒙古語がしゃべれるのは、おまえだけだからな。これまでも怪しい点が沢山あったのを、皆は仕方なく見逃していたんだ」
ここでパンほしさにしゃべったスパイの名をあげるのは易《やさ》しい。しかし職務上それはできないし、しゃべったところで事態が変るものでもない。どうにも抜け出すことができない陥《おと》し穴に落ちこんでしまったような気だった。
ぼくは午後の作業中一人|沈鬱《ちんうつ》な気分の中で考えこんだ。
赤穂の小政は瞬発信管だ。怒った瞬間に手が出ている。そのため、きびしい戒律が支配する軍隊で、上官を殴って、陸軍刑務所に服役した。どんな環境の中でも、怒りを押えることができない性質で、それが囚人の集団のリーダーになり、収容所の権力を握った力にもなっている。
そこまで考えて急に少しだけ明るい光りを見つけた。その彼がいきなり手を出さなかったところがおかしい。恐怖が消えたわけではなかったが、小政にしては珍しく、証拠だとか何とかいって、暴発を耐えているところに希望がありそうだ。悪党が持っている一種の保身本能で、さすがの生命知らずの小政も、ズボンに赤線の入っている特務将校が怖いのだ。もし赤線がその気になれば、小政を庭にひきずり出して射殺することなど何でもないし、ぼくがこの蒙古共和国の特務とどんな形で結びついているかが、彼にはまだよく分っていない。
小政自身が特務に疑われないようにぼくを殺す手段が見つからない限り、すぐには手を出さないだろうと思った。その代り、ビルの屋上から石を落すとか、足場を崩すとか、日常いつも危険が一杯の作業場での事故を装っての殺しをしかけてくる可能性は大いにあったが、直接|棍棒《こんぼう》で殴りつけてくることはないだろう。用心に越したことはないが、それにも限界がある。二、三日が精々だろう。後二日生きられれば何とかなると、そこに一つの目標を見つけた。定例の特務の面会の日が、二日後の十二日に迫っている。それまでは身辺に気をつけて、生命を消されないようにしよう。どうにか自分を安心させる結論を出した。
二日間は無事だった。やっとのことで十二日になった。スパイとの会見日が始まり、特務と逢《あ》える。通訳の報酬として残った黒パンを少しもらえるので、連日の空腹も癒《いや》される。ここ一年、両方の話を取り次いでいるうちに、ぼくの蒙古語も上達して、大体双方のいいたいこと聞きたいことは間違いなく伝えられるようになった。六時から始まって十時まで五人のスパイの三十分ずつの供述を伝えて一段落した後で、ぼくは
「お願いがあるのですが」
と自分の意志を特務中尉に話しかけた。初めてのことなので驚いて見ている。
「ぼくはこの収容所を出たい」
「危険なことでもあるのかね」
さすがに察しは早かった。
「小政がぼくを殺すといっている」
「スパイたちの通訳をしているのが分ったのかね」
「いや多分あんたの命令だろうと思うが、蒙古兵が来て、老人から正宗の短刀を取り上げたので小政が怒っている。あれは小政が生前老人との間に話し合いがすんで買ってあったものだ」
「小政が前に黒パンを老人に渡してあっても、正宗は持てない。短刀は武器だ。法律に違反している」
「しかしぼくがあんたに刀のことを教えたと思いこんで、ひどく恨んでいる。このままでは殺される。何とか他に移してくれ」
特務中尉は冷たい口調で答えた。
「我が国では収容者の希望で、配置を替えることはできないことになっている。それを許したら大混乱が起る」
何の情感もこもらない言葉にはがっかりした。ここにいなくてはならないとなると、殺される日を一日でものばすための用心が必要だ。真剣に考えこんでしまったぼくに、特務は相変らず表情一つ変えずにいった。
「ただし、おまえに脱走の準備か何かしている徴候があったとする。それを事前に察知して逮捕したとすれば話は別だ」
ぼくはその話に彼の好意を感じていくらか安心した。
その夜十二時すぎだった。穴蔵兵舎に、五、六人の蒙古兵が入ってきた。全員剣付鉄砲を持っており、一人は短機関銃《マンドリン》を胸に抱えている。下士官の長が大声でいった。
「オツカンいるか」
皆はびっくりして半身を起し、ついでにぼくの方を見た。当然幹部室でも目をさましたろうが、ふだんは強い連中も怖しがって、皆、毛布の中で息をひそめて、一人も顔を出さない。ぼくが廊下へ出ると
「ドワイ、ドワイ」
と身づくろいをせきたてる。あわてて服を着、フェルトで作った防寒長靴をはいた。廊下に立つと、いきなり一人の蒙古兵から両手を後ろ手に合され、手錠をかけられた。僅かな私物が入っている袋を、首の前にぶら下げさせられたみっともない恰好で、突き飛ばされるようにして表へ連れ出された。芝居にしては真剣だ。蒙古兵たちは本当の罪人だと思っている。
表にはトラックが待っていた。ぼくらは皆そのトラックには見覚えがある。庭に井桁《いげた》に積んである死体を、一週間か十日ごとに各収容所を回って拾い上げてどこかへ捨てに行くための車だ。ふざけて霊柩車と呼んでいた。ぼくは尻を押されるようにして、その荷台に乗せられた。二段から三段に死体が積んであって、足の踏み場がない。最初はすみの死体の上を踏んづけて、やっと側板のふちに腰を下したが、両手が後ろで、バランスがとれなくて危ないので、車が動き出すと、仕方なく幾つかの死体の上に仰向けに横になった。何人かの仲間が戸口まで出てきて見送った。
粉雪の舞う厳寒の中を、チェーンを巻いたタイヤがきしむ。どこへ行っても、この収容所より悪い所はないという覚悟があったから、別に怖しくもなかったが、ふと横を見ると、まだ口もとに粟《あわ》の粥を凍らせてこびりつかせている中川老人の顔が、目を開いたままあったので何だかひどくいやな気分になった。
町の中を走り続ける。狭い町だがこれまで作業場へ通じる道以外は歩いたことがないので、ときどき首を持ち上げて回りを見ても、どこを走っているのかさっぱり分らない。
車は政府の建物と思われるビルの裏に止まった。背中に回された手を把《つか》まれるようにして立たされ、車から下されると、裏口からそのまま地下室へ追いたてられた。廊下の両側はずっと監房になっている。
中にいるのは、彼らの国が宗主国と仰ぐ国の、背の高い髪の赤い男たちばかりだ。刺子の綿入れの作業服姿で、格子に掴《つか》まったり、木のベッドに横たわったりしてぼくを見送っていた。
日本人は勿論、この国の蒙古人さえ一人もいないのが、少し不気味であった。
突当りの部屋の机の前にあるベンチに腰かけさせられてから、両手錠をやっと外された。首の前に頭陀袋《ずだぶくろ》のように下げられている私物袋がみっともないので、ぼくはあわてて右わきに回した。
正面の机に坐ったのは意外にも金髪の美しい女の軍人であった。階級章は少佐の金筋二本星一つであった。男の軍人が机の両脇に向い合うように坐った。いずれも宗主国の人間だ。ぼくについて三人のやりとりがあった。全く言葉は分らないが、気配でこれは裁判だなと思った。右が弁護役、左が検事役、正面の人形のような美女が裁判長のようだ。
俘虜の身柄を移すとなると、蒙古人だけでは、決裁できない手続きが要るらしい。毎月何人も死んで行き、人々の生命など問題にもならないと思っていたのに、生きている労働力の管理はかなりやかましい規則に縛られているようだ。
横文字で書かれた文書が作成され見せられた。字の形も少し違う。ロシヤ文字だ。多少の英語の知識ぐらいでは、全然読むこともできない。身ぶりで示されてサインをした。
終るとその部屋から連れ出され、廊下の両側に並んでいる独房の一つに入れられた。部屋の壁の一部に板があり、はがすように倒すと、斜めに鎖が張ってベッドになる。毛布が二枚挟まれていて、それにくるまると、今までの宿舎とは比べ物にならない快適さだ。もう小政に脅されることもない。凄《すご》い贅沢《ぜいたく》な所に来たというのが、そのときの正直な感想だった。
温かいのですぐに眠ってしまった。
朝、下の狭い開き戸があき、食事が差し入れられたが、その豪勢さに目を見張った。洗面器ぐらいの大きさの皿に、濃厚なスープがみたされ、大きな骨付き肉のぶった切りが浮んでいる。皿の横に、無造作に半分に切られた黒パンがついている。あるところにはあるものだ。とても喰いきれるものではない。肉の皿をやっとのことで喰べ、パンは後日のため袋の中に大事にしまった。同じ食事が夕方にも出た。
丸三日間ぼくは牢《ろう》の中にいた。抑留生活中、後にも先にもこれだけの贅沢な生活をしたことはない。労働もなく、腹一杯の肉と、日々たまるばかりの黒パン、室内は温かだ。このままずっと入っていたかったが、俘虜の身分で、そう、うまいことが続くはずはない。三日目の朝、肉のたっぷり入ったスープを喰べ終るとすぐに、この夢のような豊かな生活は終った。
建物の裏にトラックが待っていて、今度は別に縛られたりせずに乗りこんだ。荷台には先客がいた。
そしてこれがアムラルトヘ行く資格をやっと得た病人だとすぐ分った。足を青紫色の凍傷で腫《は》らして苦痛で呻《うめ》き、直ちに切断しなければ生命が危い患者や、顔に小豆粒《あずきつぶ》のような発疹が隙間なく出ていて高熱でうわ言をいっている病人、単なる栄養失調の人間とは明らかに違う、外から見ても完全に病気と判断できる男たちが十人以上転がされていた。他に死体と分るのが五つばかり、これは隅に重ねられている。
一人の唸《うな》っている凍傷患者にきいた。
「あんたどこの収容所から来たんだね」
「羊毛工場《コンビナート》だよ」
「じゃ吉村隊か」
「ええ」
答えるとまた、凍傷の足が痛むのか唸りだす。ぼくは大分前に朝の労働に出発するとき、小政隊長の訓示で聞かされたことを思い出した。
「こう、てめえらは、ここがよっぽどひどい収容所だと思っているようだが、それは大きな間違いだぞい。こう、もっとひどいとこはいくらでもあるぞい。この川の上流にある羊毛工場《コンビナート》では、『暁に祈る』という処罰があってな、吉村という憲兵上りの兵隊がいて、月に百人は殺すそうだ。ここではせいぜい十人か十五人だ。行きたかったら、いつでも送ってやるぞい。こう! 分ったか」
その説教を小政一流の脅しと思って、そのときは本気にしなかった。
片腕ぐらいは切っても病院へ入りたいと思う人々も、自分が望みさえすれば、簡単になれる凍傷での自損は怖れて滅多にしない。肉が青紫色に腐って行くときの苦痛がどのくらいひどいものか、ずっと見聞きして皆よく知っている。しかもこれは事故とみなされず故意のサボタージュと思われるから、片足ぐらいだったら、作業に追いたてられる。病院へ切断へ行く前に苦しみながら、大体収容所で生命を亡《な》くして中庭に井桁に並べられてしまうのが多い。自殺するつもりの者にも、入院しようとする者にも、ひどくわりの合わない病気で、苦しむだけ損だという考えが皆の間に行きわたっていた。
ところが荷台には、明らかに全身の凍傷と分る者が四人もいる。
「これは一体どうしたわけなんだね」
鼻を凍らせないよう手袋で押えながら、ぼくはきいた。過失でも自損でもこんな凍傷は考えられない。
「処罰ですよ。羊毛工場《コンビナート》では、仕事定量《ノルム》の上らない奴は、明け方まで戸外の柱に、裸でつながれるのです」
彼はそのリンチの状況を詳しく語りだした。聞いているうちに、だんだん分ってきた。
戦争が終る四、五年前、当時日本最大の人気スターであった田中絹代と若手二枚目の徳大寺伸主演で『暁に祈る』という映画が作られた。映画の筋は、銃後の妻が夫に代って家を守るというありきたりの物で、それほどのヒットもしなかったが、どういうわけか、主題歌ばかりが大流行して、軍が営内で唱うことを許す軍歌の中に組みこまれたほどであった。だから兵隊は皆この歌を知っており、「※[#歌記号、unicode303d]ああ あの顔でーあの声で」とよく唱った。
ノルムのできない兵隊が、夜通し素っ裸で零下何十度の戸外の木に縄でつながれる。初めのうちは足踏みしたり、体中を掌でさすったりしているが、明け方には気力がつきる。するとどんな兵士でも倒れる前に大声で母の名を呼んで泣きだす。それで『暁に祈る』と名づけられたらしい。
ぼくは暗然として全身凍傷で苦しむ兵士を眺めていた。小政が別に人情家というわけではないが、ぶん殴ったり減食させるだけで、こういうたちの悪いリンチはしなかった。
山間《やまあい》の道に入って行ったトラックが止まった。ぼくの目に自然に涙がにじみだした。
宗主国の文字は同じアルファベットでも読み方が違う。ぼくは小山の頂上近くに、AMPAЛTと石が並べられてあるのを見て、ここがどこか知った。この国ではPはRでありЛはLである。山の下には両翼が拡がった白い大きな建物があった。とうとう多くの俘虜たちが夢にまで見たアムラルトへ来たのだ。
白い建物はたしかに桃源の秘境を思わせた。
四隅のはるか離れたところに歩哨が一人ずつ立っているだけで、望楼も鉄条網も無い。洋館には、盛装した貴族でも住んでいそうであった。
正面に車が止まるのを見て、白い上っぱりを着けた兵隊たちが、担架を持って飛び出してきた。これまで収容所で見てきた人々とは、同じ日本人でも人種が違うのではないかと思うほど血色がよく体に肉がついていた。軍隊は運《ヽ》隊であるが、俘虜もまた運に左右される。もしぼくに運があったなら、この人たちと同じように病院の勤務員になれるかもしれない。期待に胸がはずんだ。きっと特務は、ぼくのこれまでの協力に報いてくれたのだろう。裁判を受けて処罰のためここへ送られてきたという自分の立場を一時忘れて、そう考えていた。
蒙古服を着た管理者側の若い男が名簿を持って、病人を確認し、チェックのすんだ者から、担架で白い建物の中へ運ばせた。結局残されたのは、死体五つとぼく一人になった。
蒙古人は戻ってきた担架の勤務員に、今度は死体を運ばせて、ぼくにもついてくるようにいった。歩きながら青年は話しかけた。
「おまえは蒙古語が少し分るのだな」
「ええ少し分ります」
「おまえは当分、死体の係で働いてもらうが、病人と死体は違う。つまりおまえは病院の勤務者とは関係ない。逃亡予備罪の罪人だからな、それを忘れないように」
死体係というのが良い仕事でないことぐらいは察せられる。それでも小政の暴力の手の届かないところに来られて、自分が死体になることだけは免れたようで安心した。
病院に向って右側を回りこむと、裏は山のふもとまで、広い平野になっていた。白い建物の二百メートルばかり後ろに、小さな倉庫が三つ並んでいた。
蒙古服の青年が、一番右側のやや大きい倉庫の扉をあけた。何もかも凍りつく、このきびしい寒さにかかわらず、異様な臭気が戸外に吹き出すようにあたりを取り巻いた。
窓も明りもないので中は薄暗い。目が馴れて、両側の四段の棚が見えた。シャツと袴下《こした》だけにされた死体が、隙間なく押しこまれてあった。全身が赤黒く腫れ上った凍傷、骸骨のような栄養失調の自然死の間に、片足や片手がない怪我による死者がかなり交っている。
持ってきた五つの死体をそこに突っこむと、ぼくに別にどうしろともいわずに、蒙古人と担架の勤務員は病院へ帰ってしまった。
倉庫の前に仕方なく立っていると、左側の小屋から、将校服の上に白い上っぱりを着た男が出てきていった。
「君が新しい助手ですか」
その人を見てぼくは驚いた。
「あっ、竹田軍医殿でありますか」
一年半前に、長城線周辺で戦っていたときの部隊の軍医で、ぼくは膝に擦過銃創《さつかじゆうそう》を受けて、ヨーチンをひたしたガーゼを押しつけるだけの、軍隊式の荒い治療を受けたことがある。向うもこんなところで同じ部隊の兵隊に逢うのは意外であったろう。なつかしそうに話しかけた。
「君は今までどこにいたのだね」
今までの収容所の状況を話した。全部聞いてから軍医はいった。
「そうか。そうだったのか。君んとこもかなりひどいようだな。それでも羊毛工場《コンビナート》へ行かなくてよかった」
「ぼくも今トラックの荷台で見てきました」
「このごろ毎日のように全身凍傷がやって来る。ここにいると各収容所の状況がよく分るよ」
病院から飯盒と毛布二枚を持って蒙古人の青年が戻ってきた。
「おまえはここでドクターの手伝いをする。おまえの住むところはこの中だ」
真中の一番小さな小屋の戸をあけた。一人寝るだけの棚が作りつけてあり、他に何一つない。
「前にいた助手が死んだ。今その男は、棚の中にいて解剖を待っている。死体の係をしているうちにチブスが伝染したらしい。おまえも充分気をつけなさい」
聞いているうちにぞっとしてきた。気をつけろといわれても、どうしたらいいのか分らない。青年はかまわず指示する。
「食事はその飯盒を持って毎朝、東が明るくなったら、病院の裏へもらいに行く。小屋からといえば一人前を中に入れてくれる。おまえは罪人だから、中の人間とそれ以上のおしゃべりをしてはいかん」
アムラルトも、ぼくにとっては決して極楽ではなかった。青年は必要なことだけを指示すると、逃げるように行ってしまった。
「それで軍医殿は、ここで何をしているのですか」
「ぼくは死体の解剖専門係だ。この国で死んだ者の体は一度全部ここへ集まる。もう千体もやらされた。初めはぼくも病院で患者を見ていた。ところが病院には病人がたまるばかりだ。それでは治療もできないし、作業現場の方も困る。ある日時が来るとまだ治っていない者までごっそり連れて行ってしまう。それを二、三度強硬に抗議したら病院勤務を外されて、死体解剖係に回された」
軍医は左側の部屋に入り、ぼくも続いた。
「ぼくにもノルムがあるのだよ。一日頑張って六体はしないと、今のところたまって行くばかりだ」
臭気は死体置場の倉庫より一層ひどかった。中央に木製の大きな机があり、解剖台になっていて、腹が大きく開かれたままの男が寝ていた。解剖の途中だったらしい。
「なぜ一々腹を切り裂くのです。さんざん苦労したんだから、そのまま静かに葬ってやればいいのに」
「何か国連に出す報告書に要るらしい。まず死因を記載するのだが、書類には栄養失調と書くのは禁止されている。大体チブスか怪我による出血多量か、どちらかにしておく。次にその証拠として、死亡時まで健全な内臓を維持していたことを科学的に明らかにするため、心臓、肝臓、腎臓、三つの臓器の目方を計るのだよ。つまり決して栄養や、物資不足、管理上の不注意で俘虜たちを殺したのではないというわけだ。君に早速、今からその計量を手伝ってもらう」
机の頭の所に、小さい手製の天秤秤《てんびんばかり》がおいてあった。
「それは君も知っている衛生兵の川島がこの病院に勤めていてね、彼が入営前時計屋をやっていて手先が器用なものだからこしらえてもらった。残念ながら合せて二百グラムの分銅《ふんどう》しかない。腎臓なら平均百二十グラムだから一回ですむが、肝臓は千六百グラムもある。十ぐらいに刻まなくてはならないし、心臓でさえ三百グラムあるから二つに切る。切るのはぼくがやるから、君は一つずつのせて合計値を出して、その用紙に記入してくれ」
聞いているうちに吐気がしてきて困った。たしかに重労働ではないし、酷寒の烈風に悩まされることはない。しかしひどい仕事をいいつけられたものだと思った。
早速血だらけの軍手をもらって、十個に細片された人間のレバーの一片を把《つか》んだ。
「死者への礼儀だ。組織は潰すな」
そうはいわれても組織がつぶれないようにつまむのは初めはなかなか難しい。何度か指でこわしてしまって叱《しか》られた。やっと要領を覚えたのは夕方になるころだった。
死体の倉庫と解剖室に挟まれていなかったら、一つの小屋に一人だけの生活は、そう悪くない。だが最初のうちは今にも隣りの部屋から誰かやって来そうで怖かった。三、四日後にはやっと馴れてゆっくり眠れるようになったが、食事に馴れるまではもう少しかかった。
朝、あたりが明るくなると、飯盒を持って病院の裏口へ行く。扉を叩いてからいう。
「死体室係、食事受領に参りました」
「ごくろうさん」
扉口から柄杓《ひしやく》だけ出し、お互いに顔を見ないようにして、飯盒一杯の粥を入れてくれ、昼と夜の分を合せての二分の一のパンを、実際より大き目に切って渡してくれる。
一日一回だけの接触である。向うも伝染病を怖れてか、死体係を嫌ってか、まともに顔を見たりしない。蒙古側から対話を禁じられているのかもしれない。
病院の粥は白い米でできていて、贅沢なことに羚羊《ノロ》の肉や内臓の切り身が交っている。ふだんならどんなに嬉しかったか分らないが、毎日、人間の臓物を秤にかけるのが仕事では、なかなか口に入りにくかった。平静に喰べられるようになるのには一週間かかった。
仕事はかなり早くから始まる。
死体室から、古そうな感じのものを見つけ出し、一人で担いで解剖台へ運んでおく。シャツや袴下は脱がせて丸めておく。皆やせるだけやせて重くないので助かった。
軍医がやってくるとすぐ解剖にかかる。喉輪にそって丸くナイフを入れ、中心からT字型に下に割き、腹は臍下《へそした》まで切る。
最初は凍っていてナイフを押しあてるようにして切って行くが、やがて皮膚は柔らかくなってくる。
馴れてくると、軍医とは元からの知り合いだけに、さまざまな話をしながら仕事ができてかなり気がまぎれた。細かく刻んだ内臓の合計値を出すと、元へ納めて縫合する。シャツと袴下をもう一度着せると、それを担いで別の処理済みの棚に移し、新しい死体を担いでくる。
一日少くて四人、多い日は六人ぐらいした。
終ると軍医は病院内の自室に戻り、ぼくは一人で自分の小屋に入り、残った黒パンを喰って眠る。そんな日が毎日続いた。
あんまり吉村隊からの全身凍傷の患者が続くので、仕事をしながら、軍医にきいたことがある。
「ぼくのところの収容所もひどいが、ノルムだけはやってますよ。いつか一斉に倒れる日が来るかもしれないが、腹をすかせながら、皆、何とか生きているのに、どうして羊毛工場《コンビナート》の人々はノルムができないのでしょうかね」
「蒙古側が作ったノルムも、食糧の配給量もよくできていてね、大体一人の人間が一日一杯、まじめに働けばちゃんとでき、生きて行くのに必要な程度のカロリーは補給できるようになっているんだよ。この点では、この国は決して国際条約にもとるようなことはしていない。少くとも表面的にはね」
そう言いながら、軍医は心臓を二つに割った。ぼくも機械的にそれを秤にのせて、分銅で天秤の平均を取る。
「吉村隊では、君んところと違って、そう飢えて苦しい話はきかない。食糧は規定通り喰わせ、配給の肉や砂糖も全員に平均するように配っている。全体としては体格もいい」
どんなに話をしていても仕事の方は一瞬の休みもなく進行して行く。軍医の手は腹腔《ふくこう》の中から、大きな肝臓を切りとっている。
「俘虜がこうして死んで行くのは、直接の原因の八〇パーセントまでが同じ日本人のせいだよ」
「そこがよく分らないのですが、吉村隊のノルムは特別に多いのですか」
「蒙古側が決めたノルムは同じだよ。ところが吉村という男は小政よりもう一段頭がよい。天性の企業家だ」
肝臓は十に刻まないと秤からはみだす。刺身を作るように上手に切って行く。匂いが強くただよってくる。
「俘虜たちの睡眠時間のうち、朝の二時間と夜の二時間を、これも頭の切れる蒙古側の収容所長と組んで町のシナ人の業者に提供した。昼間、外の石切り山や、羊毛工場《コンビナート》で目一杯働いた人々が、収容所へ戻って食事をすると、すぐに靴造りの仕事が待っている。ほら君もはいているカートンカだ」
俘虜の全員に冬になると、凍傷よけのため、煙突のような、足首の曲らない固い長靴が配給される。これがカートンカで、羊毛屑を木槌《きづち》で叩き固めて作る。昔からこの国に住みついたシナ人の商人が一手に作っていて、政府に納入し、町で販売している。
一人一日の労働を一|円《トグログ》で売って、朝夕一個ずつのノルムを課した。二千人いると一日二千円。所長の大尉の月給が五百円だ。日に二千円の収入は大統領をはるかに越す。全部吉村の懐に入り、相撲上りや、やくざ出身の暴力親衛隊の維持の資金になっている。そのノルムを達することのできない人間に対しての処罰が、『暁に祈る』なのだ。そこまで話してから軍医はいった。
「支配の態勢というのは、一度固まってしまうとどうにもならないんだね。この共産主義の国でもっとも資本主義的な体制が生れるとは皮肉なものだがね。五十人の親衛隊が棒を持って所内を回っていると、二千人が口一つ出せない。夜の二時間といっても、それは一応建前だけ、木槌で叩き固めるのには、かなりの力がいる。夜中になってもでき上らないのが出てくると処罰だ。ここへまた明日も全身凍傷がやってくると思うと辛《つら》いが、それより辛いのは、病院で治った連中が皆、吉村隊へ持っていかれることだ。消耗が激しいから、しょっちゅう増員の要請がくる。所長がグルだし、病院長へも、吉村の集めた金からの賄賂《わいろ》が来るから、よその収容所から入院してきた者も羊毛工場へ送られる。三月もするとその退院者が戻ってくる。今度は解剖台で横になっている」
一度切った臓物をまた腹腔内にしまうと、取り外した胸骨の部分を入れて蓋《ふた》をし、腹の皮を縫い合せる。
「何しろ吉村のところには金が集まってしようがない。一度収容所長附添いで町へチョコレートを買いに行き、菓子屋にあったのを全部買いしめてしまったので、政府高官の子供たちの分が無くなって大騒ぎになったそうだよ」
想像を絶する真相を知って、唖然《あぜん》とした。死体を担いで運び出し、また取り代えて持ってきた。一目見てすぐ軍医はいった。
「ああ、これは小政の所だね。体にまるで肉がない」
それで初めてぼくは気がついて、顔を見た。何日かぶりで、中川老人と対面した。まだ口のところに粥の残りがこびりついていた。
仕事だから仕方がないが、なるべくその顔を見ないようにしてシャツや袴下を脱がして準備をした。
ぼくはきいた。
「この俘虜の中で一番幸運なのは、病院の内勤者ということですかね」
「いやそうでもないな。君もここへ来たとき担架で運ぶ連中を見たろうが、みんな無口だったろう」
「そういえば誰も何もしゃべりませんでした」
「あの人たちは次の現場行きの待機者さ。いつ呼び出しがきて、羊毛工場《コンビナート》へ派遣されるか分らない。ああして温かいところで寝て、肉の入った白米の粥をたっぷり喰べながら、心はいつも重苦しい不安で一杯なのだよ。もし一番の幸せ者といえば、当分はこの病院から外へ出られないことになっている君かもしれない」
意外な言葉だったがすぐ納得した。
ここにいれば、きびしいノルムも、飢えも、吉村や小政のリンチにも、無縁である。どうやら生命はつないだという実感が初めて湧いてきた。
五日ごとに死体が三十個たまる。すると埋葬の車が出る。ここへ来て二回目の埋葬からぼくは立ち会うことを命じられた。
朝早く馬橇《ばそり》が小屋までやってくる。病院から勤務員四人、警戒の兵士が二人、ついてくる。荷台のはしには、地面を掘る鉄棒《バール》やスコップが置いてある。その後ろに処理ずみの死体を、薪の束のように重ねる。
馬橇にはシナ人の馭者《ぎよしや》が黙って坐っており、積み終えると、馬を動かす。この町にはシナ人が商人や労働者としてかなりおり、牧畜しかできない町の人々の間では目立つ存在だった。もっともそのシナ人たちは、実際はシナ人ではなく、ぼくらの間ではノモンハンのときの日本軍の捕虜だという説があった。どういうわけか、彼らは、ぼくらと決して話をしようとしない。この馭者も同じだ。結局本当のことは誰にも分らなかった。
死体埋葬は山のふもとから更に十キロばかり奥へ入った土地で行われた。全く人の気配のない山間のひだに橇は入って行く。途中で急に野犬が増えてくる。この国では、野犬は死体の清掃係とされている。
この国の人は死体を地下に埋葬しないで、荒野の中で目だった木や石のそばへ置いて行く。何日かして見に戻ったとき、きれいに骨だけになっていると喜ぶが、喰い残された部分があると不吉のこととして悲しむといわれている。
だから彼らは、日本人が土の中に埋葬するという習慣が理解できなかった。なかなか許可にならなかったそうだ。
埋葬係の四人は病院の勤務員で、玉木という予備役出身の老少尉がリーダーであった。最初のうちにうまく病院へ入院し、治ってからは、ずっと一年以上この仕事を専門にやって来ていて、道も手順もよく心得ていた。
馬橇は一時間近くかけて埋葬地に着いた。幾らか広い台地になっていた。もうあちこちの物陰には何十匹もの犬が舌なめずりする感じで様子を窺《うかが》っているのが不気味だった。
二人の警戒兵が、その犬たちに向って、何十発もの弾丸が一瞬に飛び出す短機関銃《マンドリン》の引鉄《ひきがね》をひいた。犬の姿は一斉に散った。ぼくらは雪をかき分けて黒い土を露出させると、鉄棒で凍った固い土を砕き、スコップですくい出す、気の遠くなるようなのろい作業をねばり強く続けた。長さ十メートル、幅六十センチの穴を二本作るのだが、鉄棒を突くときは、相手が土なのに固くて火花が散る。ぼくを交ぜて五人が三時間かかって、やっと三十センチぐらいの深さしか掘れない。それでもこの深さまでになると老少尉はいった。
「ああこれでいい」
三十センチの深さならどうにか人間は埋まる。三十人を二つに分けて十五人だ。人間は一人一メートル五十センチはある。十メートルの穴にどうして、十五人が入るのかぼくにはそれが不思議だった。初めてなのはぼくだけなので、ぼくに向って説明するように少尉はいった。
「ええか最初の死体を寝かしたら、その股を開け。骨が割れて、袴下が破れる。きんたまが出ても仕方がない。その股の間に次の者の背中と頭をのせる。そうして詰めて行くんだぞ」
それは一つのアイデアである。一人分の穴が短くてすむ。十メートルに何とか十五人は詰まった。袋に沢山の物を押しこむ感じだった。ぴっちりとはめこまれたモザイク型の死体の上に細片された鉄屑のような土をかけた。いくらか盛り上った土の山の上を今度は皆で乗って踏み固めた。
仕事の間中、警戒の兵たちは遠く離れた場所でそっぽを向いている。彼らも気味が悪いらしい。リーダーの少尉が皆を督励した。
「しっかり踏みつけておけよ。でないと奴らがすぐほじくり返してしまう」
固まった上に附近の雪をすくってかけて、痕跡《こんせき》が分らないようにしたつもりだが、その効果はあったろうか。また近よってきて、回りに見え隠れしている犬たちは、こちらの作業を光った目でじっと見守っている。
警戒兵から短機関銃《マンドリン》を借りて犬を皆殺しにしたかったが、それはできない。他の穴が掘られて喰い散らかされた跡が歴然としているだけに、新しい低い山は際だって目だった。
おそらくぼくらが去った瞬間、四方から野犬が殺到するだろう。現場に心を残しながら、ぼくらはまた馬橇の回りを囲んで、のろのろと山の道を下りて行った。
二回だけ老少尉の指揮で、埋葬に立ち会った後、三回目には彼は、来なくなった。他の勤務員に聞いたら、この間のトラックで吉村隊へ出されたという。大分抵抗し、最後には病院長の部屋に駆けこんで土下座して哀願したがどうにもならなかったそうだ。
代りにぼくが、その後の埋葬の責任者になった。どうやらそのことも最初の予定に入っていて、埋葬に立ち会されてきたらしい。人事としては順当だったかもしれないが、一人の老少尉を死に追いやったようで、しばらく後味がよくなかった。もっとも一年近く楽な仕事をしていたのだから、仕方がないだろうとも、同行の四人の中ではいう人もいた。
こうして十二月になり、その年もまた終ろうとしていた。ぼくはまだ入ったことはないが、病院の正面玄関には、色とりどりの薬包紙を切って、きれいなクリスマスツリーが作られ、何か御馳走も支給されるらしい。軍医とぼくの仕事はその日も順調に終ったが、六体目にはあたりはもう暗くなっていた。
相変らず腎臓を取り、肝臓を切り刻みながら軍医はいった。
「とうとう二回目の正月が来るなあ」
寒さがきびしくなってくるとともに、死者の数も増えてきて、いくら解剖しても、死体がたまるばかりだった。ぼくは暗い気持でいった。
「いつ日本へ帰してくれるのですかね。三年とみてましたが、それも甘い予想でしたかね」
そのときの死体は知ってる男だった。初年兵のときぼくを大分殴った底意地の悪い一等兵だった。作業場で昼休みに小政の怒りの原因を教えてくれた男だ。典型的な栄養失調の餓死だった。収容所からまっすぐ運ばれてきた口だろう。
喉輪に一筋、半円形のメスを入れながら軍医は答えた。
「この間病院長と日本人ドクターとの会食が行われたんで聞いたんだよ。いつ帰してくれるかって。そしたら奴はうまいこといったな。日本は今、食糧事情は大変なんだ。帰っても喰えないから、今しばらくいなさいだと。でも、飯なんぞ喰えなくても、日本へ帰りたいなあ」
「そりゃあ帰りたいですよ。この間の埋葬のとき、勤務員と穴を掘りながら話したんです。今、天皇陛下が、自ら御決心なされて、モスコーのスターリンの所へ、お詫《わ》びかたがた日本人俘虜を一日でも早く帰してくれとお願いするため出発されたという噂がとんでいるのです。本当に陛下が動いてくだされば助かりますかね」
皆天皇陛下のために戦ってきた人々だ。もうすがるものは陛下しかない。このデマにはぼくらの必死の希望がこめられていた。
「それはデマだろう」
軍医はにべもなくいった。
「……我々は陛下にまだ尽したりない。それなのにそんなこと期待しちゃいかんよ。陛下もお気の毒な方なんだから」
そしてまた腹腔を開く作業にかかった。六体目の作業が、何となく重苦しい無言の中に終ったときは、外はもうすっかり暗くなっていた。
死体を倉庫に収納するのを外で待っていた軍医は血に染まった白衣をたたむといった。
「デマといえば、ネック、ホイエルというデマをきいたかね」
「ええ歩哨たちが怖がって、夜の勤務につかないそうですね」
「ああ、実際に顔を青くして持場から逃げ帰ってきて、上官にひどく叱られていた若い歩哨を見たことがある」
ネックとは一、ホイエルは二で、これをくり返すと、日本語でいえば「おいちに、おいちに」と声を出して行進する言葉になる。
軍医は、山間から病院までの空間を虹《にじ》でも描くように指を動かして示した。
「あそこから、こちらにかけてだ。夜になると、白いシャツと袴下だけの日本兵が何百人も一列になって、ネック、ホイエル、ネック、ホイエルと声をかけながら歩いてくるそうだ。松葉杖をついたり、眼窩《がんか》が黒くえぐられた片目の兵もいる。何人かは肩に手をかけ助け合ってやってくる。凍傷で手のとれたのも多いという。蒙古兵の歩哨が泣きながらしゃべっていた」
「それは本当かもしれませんよ。これだけ殺されていちゃ、黙っているのがおかしい」
妙なことはいわないほうがいい。
ぼくの耳にそのときたしかに、その声が聞こえてきた。
「ネック、ホイエル」「ネック、ホイエル」
凝然として山間を見ると、白い衣の一列の兵隊が、山間から並んで出てくるところだった。一番先頭はあの粥を口にこびりつかせた中川老人で、遠くなのに、たしかに粥の粟粒まで見える。
その後ろに何百人続いているか分らない。
それが全くの幻影でない証拠に、隣りにいた軍医までもが、もう口もきけずに、顔を硬張《こわば》らせ、瞳《ひとみ》を見開いたまま、そこに立ちすくんでいた。
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[#見出し] 三章 俘虜たちの休日
食事をともにしながら談笑する習慣は、人類が共同の生活をするようになった原始の時代には、もう始まっていたに違いない。人間にとって一番大事な風習でもあったことは、どんな儀式の後にも必ず食事をともにする時間が設けられていることで納得できる。
ところが食事と同じぐらいに大切な排泄の作業を一緒にしながら談笑する習慣は、これまでの人間の生活の中にはなかったようだ。この国へ来てぼくはそれを経験した。
ぼくらは皆この国の宗主国である北の大国の歴史的な名物であるシベリヤ流刑囚の例に従い、地面に大きく掘った穴に屋根をかぶせただけの穴蔵兵舎に二千人ずつに分けて収容された。
全員が土の中に潜って暮す生活だから、更にその中に掘る屋内便所は作りようがない。
その上ぼくら二万人の一団を、砂漠の秘境に運んできた人々は、これまで皆羊毛製の移動住宅を建てて住む生活をしており、便所という施設を知らなかった。一番近い隣りの集落が東京から名古屋ぐらい離れた環境にいて、土地は乾燥しきっている。適当に落した物はまず犬が喰い、残りは、三日もたたないうちに風が塵《ちり》にして、無限の大地の中に吹きとばしてしまう。
国中の人口が八十万人、老人、赤ん坊まで交ぜても、首都には六万人を欠ける国民の中に二千人の集団を十組も迎えたのであるから、住居、食糧、水と、しばらくは国中の全機能を動員しての騒ぎが続いた。やっと、全員を落着かせて収容してみたものの、便所のことまでは、思いも及ばなかった。
これだけ人間が多いと、今までのように、自然の空気の浄化作用に任せるわけにはいかないことが、すぐ判明した。といって木材の極端に少いこの国で、囲いのある便所を建てるような贅沢なことができるわけはない。結局、双方の幹部が知恵を出し合って作ったのが、長さほぼ十メートル、幅三メートル、深さは五メートルもあるプールのような大穴で、ここに横に何列かの板を渡す。板と板との間に二十センチぐらいの隙間があり、俘虜たちは任意の二枚の板を踏んで、真中あたりまで行って適当にしゃがみ、間に落すという形式のものだった。
三つの大穴が並び、一杯になれば別の穴を掘り、使用済みのものには土をかけて埋め、痕跡を消す。土地は無限にあった。
各人のための仕切りは勿論、全体の囲いもない。混《こ》み合う時間には、一つの穴に何十人もの人がやせた尻を並べる。黙っていてもしようがない。自然に談笑の場所になった。
もっともいくらおかしいことがあっても、あまり大声で笑えない。夏場の、下の物が凍っていないときにもし渡し板の間から落ちたら災難どころではすまない。誰も助けてはくれないから生命の危険さえあった。
逃亡予備罪で刑を受け、これまでの収容所生活から、病院の死体解剖室助手として、突然只一人だけで起居する生活になったぼくが、その当初に感じたのは、この会食ならぬ会便の談笑がないことが、ひどく淋《さび》しいということだった。
毎日の食事の時間には、他人の飯盒の方が多いのではないかという疑いがあるから、きびしい無言で却って談笑はない。排泄にはお互いに全く利害関係がない。
前日の粥《かゆ》がとうもろこしのゆでたのだったりすると、弱った胃に馬糧用の固いものが送りこまれるので、殆ど消化しない。原形のまま落ちて行く。もし下に手がのばせるものなら、中から拾い出して、もう一度喰べたいと、お互いに残念そうに語り合ったものだ。
しかし今、ぼくがいる死体置場は、病院の本館からも二百メートルも離れた孤立した小屋だったので、そのときどきに蒙古式にすませて、上に雪でもかけておけばよい。ただし目の前の病院には、はちきれそうに人がいる。彼らの設備がどうなっているのか、来たときから気になっていた。
二回目の正月もすぎ、解剖の手順にも馴れてきたころ、ぼくは毎日顔を合せている、解剖係の竹田軍医にそのことをきいた。
「あれだけの病人がいたら、便所《かわや》の処理は大変でしょう。どうなっていますか」
軍医は手を休めずに答えた。
「大変な問題だったんだよ。大体もとは六十人の労働英雄を休養させるための施設だったから、それだけの設備しかない。一階の廊下の左右の外れに、西洋式の便器が三つずつ置いてあった。ちゃんと仕切りと扉のある立派な便所だったがね。そこへいきなり二百人の病人が入ってきた。蒙古人のことを笑えない。日本兵の病人も殆どそれまで腰掛便器なんて見たこともない連中だ。二日もたたないうちに全部こわしてしまった」
「それは困りましたねー」
話の間も実直な性格の軍医は、誰も監督がついているわけでもないのに、丁寧に腹腔を開き、内臓を切り出して行く。命ぜられたことを良い加減にやるということのできない人だった。
「それで相談の結果、便所を二種類に分けて作ることにした。病舎の左側、ここから見てあの石炭倉のかげになる所に、収容所と同じスタイルの野天の穴を掘った。だが一人で歩けない患者のためには、室内に、元の腰掛式のタイル便器を外して、桶を置いてある。なるべく外の方を使用するようにと言ってあるのだが、寒いからどうしても、中のを使う。一日何回も二人の当番が、天秤棒に吊して桶の中のものを外にあけに行くのだが、この当番の希望者が多くて困っている」
「なぜです」
「どんな仕事でもいい。病院に残れれば、寒さと飢えから解放される。つまり、生命をとりとめることになる。民団では高等官の裁判官までやった人や、作業隊の将校団の人々まで、コネを使って、やらせてくれと事務室に申しこんでくる。定員が一杯だから、丁重にお断わりして外の仕事へ出てもらう。病院には、もっと品の良い仕事があるが、それは早くにこの病院へ入ってきた協和会系の民間人に独占されているから、もう割りこめない。乙幹君は、協和会っていう組織を知っているかね」
「いえ。ただ日本の大政翼賛会に似た、政府直属の政治団体だと聞いたことがありますが」
「それも一面の真実だが、大体は若いとき左翼運動にかぶれて、日本にいられなくなった人々が作ったものだ。満洲へやってくると過去をかくして百八十度転換、国家主義運動の尖兵《せんぺい》になった。どこまで本気か知らないが、ぼくは時代によって自分の思想を変える人は好きではない」
彼らが独占している内勤事務職の安逸な生活は、軍医にも腹に据えかねるものがあったのに違いない。そのことより懐かしい共同の会便の場所についてもう少し聞きたかった。
「どうでしょうか。竹田軍医殿。ぼくがその便所を使ってはまずいでしょうか。勿論外の方ですが」
「そうだね。今晩病院へ帰ったら、春日君という、蒙古共和国側との接触を専らやっている責任者がいるから聞いてあげよう」
今まで聞いたことのない名だった。
「ぼくがここへ来たときその人はいましたか」
「いや正月の初めここへ戻ってきた。ぼくと同じで患者の早期引取りに抗議して、蒙古共和国側と衝突し、三カ月ばかり懲罰の意味で、各作業場をたらい回しに働かされてきた」
「よく生きて帰ってこられましたね」
「半死半生で担ぎこまれたよ。かなり痛めつけられていた。それでも蒙古語の力が抜群だったから戻さないわけにはいかなかったらしい。前にここにいたときは日本側院長の副官の仕事をしていた。春日君の居ない間、代りに副官を勤めた人は軍医だったが、あまりまじめすぎて、その任務に耐えられなくなって、そうだな君のくる十日ぐらい前に、メスで割腹自殺してしまった。それで、蒙古共和国側も春日君の処罰労働が終ると、大至急作業場から送り返してきた。今では元気で一切の交渉を任されている」
竹田軍医は切り取った肝臓を、ぼくに手渡しながら
「そんなに皆と一緒の便所に坐りたいかね」
「せめて一日一度、他の人々と接触しないと、ここにたった一人で置去りにされてしまったようで不安で堪らないのです」
「そんなものかねー。人間ってのは」
改めて感心したようにいった。この軍医は真面目すぎるほどの人で、翌日の作業にかかる直前、忘れずに返事を伝えてくれた。
「春日通訳に相談したらね。君の身分が身分だから、朝の混み合うときに患者や何かと話し合うのはまずいが、午後の人の少いときに使うのならかまわないだろうということだったよ。ああ、それから春日君が一度、君と話したいそうだよ」
「春日通訳さんがここへ来られるのですか」
「いくら春日君でも、自分一人でここへは来られない。蒙古語が上手なだけに、行動範囲が限定されている。できれば明日の昼休みに、君に便所に来てくれないかといっていた」
伝言だけ終ると、軍医は、机の上に横たえられている死体の切開にかかった。一日六体だと昼までに二体の縫合をすませ、三体目の腹腔は開いておかなくてはならない。喉《のど》を顎骨にそって下弦の月型に切って行き、その中心にT型に一筋の線を入れて、臍《へそ》のあたりまで開いておく。
そのころ丁度十二時になる。軍医はそのままの形で、仕事を中断して、病院まで食事に戻って行く。
ぼくは朝もらったパンを、水だけをおかずにして喰べる。終えてから歩哨には目立たないよう、かなり慎重な足取りで病院に近よると、石炭倉を回って大きな穴の所へ行った。白い下着に毛布をかぶった患者が五人ぐらいしゃがんでいた。一年以上身についた習慣で、二つの細板にまたがって、ズボンを下してしゃがむと、なぜかほっとした気分になった。
患者は白いシャツと袴下《こした》姿だが、外出には毛布をかける。退院者で作業場行き待機の臨時職員はもとの軍服に白衣をつける。軍医と事務職員たちの身分が保証されているエリートは木綿で作った縞模様の藍色の背広を着ていた。食堂のボーイの着るような薄っぺらの服だが、ここでは権威の象徴だった。その高級職員の服装の男が一人、近よってきて穴のふちで
「やあ! オツカン君かね」
と快活な声で話しかけた。俘虜になってから、このように大きい声は聞いたことは少い。作業場では皆本能的に、エネルギーの消耗を怖れる。浪費は死に直結する。相手の耳に届くぐらいの声でしか話さない。これだけでひどく元気のいい人に思えた。
あわててズボンをひき上げ、彼の方に近よった。
「竹田軍医の仕事を手伝っている人だね」
「ええ」
ぼくは横に並んだ。
「自分はここで今、現地の側との折衝をやっている通訳の春日だがね。つい先日まで懲罰労働で五、六カ所の作業場をたらい回しにされてきた。川岸の作業場に行ったとき、君の評判をきいた」
「どんなことでしょうか」
「なかなかの特技を持ってるそうじゃないか」
ボスの部屋へ伺候して演芸を披露するだけでは、一般の人に特技が知られることはない。実は川岸の収容所でも秋口にかかるころは少し落着いてきて、日曜には作業が休みになった。三回ばかりだが、演芸大会をしたことがあった。ボスのやくざの三人組が、褒美のパンを提供してくれて、自分らが独占していた娯楽を、一般の俘虜たちにも開放したのである。芸のあるものはパンを目ざして腕を競った。
本職の浪曲師。声色の上手な旅回りの役者。民謡の名人などがいてパンを争ったが、もっとも受けたのは、大村能章歌謡学校の生徒で、東海林太郎の書生をしていたというセミプロの歌手の、美男の阿部衛生兵長の流行歌と、ぼくの映画講談だった。ぼくは、ジョン・ウェインの駅馬車に、阪妻《ばんつま》の無法松の一生、藤田進の姿三四郎と、最も得意とするものを、それぞれたっぷりと、情感をこめて語った。
こういう物は聞き手が多いほど熱がこもる。二千人の大観衆を相手に声を張り上げているときは、正直いって、陶酔感さえあった。そのときの話でも多分春日通訳は聞いてきているのだろう。
「自分が事務所で見た、蒙古語の書類によると、君の刑期は二月の二十五日に切れる。丸四カ月だ。それからは、またどこかの作業場に出す。元の川っぷちの収容所以外なら、どこでもいいことになっているが、そうなれば当然、ここの病院退院者と同じで吉村隊へ行くことになる」
体が冷えるような恐怖が湧いてきた。通訳は少し気の毒そうにいった。
「今のところ病院の各種の仕事も定員が一杯だ。死体の解剖室助手も後任が決っている。ここの仕事はみんな狭き門だよ」
ぼくらが立話をしている前を、白い下着に毛布を巻きつけた患者がまた何人かで助け合うように歩いてきて、しゃがんでは用便をすませて行く。通訳は沈痛な声でいった。
「去年の春、奉天で検事正をやっていた人が退院になった。満洲国薦任官一等という高等官だ。もう年だからぜひこの病院においてくれ、糞桶担ぎでも何でもいいと、床に頭をすりつけるようにして頼んできた」
竹田軍医のいったのはこの人のことだったのだろう。
「自分もその願いを叶《かな》えてあげたかったが、内勤の定員がもう残っていなかった。満洲国ではお世話になった人だけに辛かったが、自分にはその権限がないといって、心で泣きながら作業場へ送り返した。その人は三月《みつき》で戻ってきたよ。今度は『暁に祈る』の処刑の犠牲者としてね。全身の凍傷を見て胸が潰れる思いだった」
聞いているうちにぼくも辛くなってきた。
「だがね君は残したい。無い定員をむりにこしらえるのだから、君にも相当な努力をしてもらわなくてはならないが」
正直なものであたりが急に明るく光り輝く思いがしてきた。
「ぜひ残してください。どんな努力でもします」
ぼくは生き残りたかった。もう一度日本へ戻りたい。それにはここにいることが一番確実な手段だ。そのため誰かが代りに死んだとしても、この境遇では、ぼくを咎《とが》められる人はいないはずだ。
「患者は少しでもよくなればすぐ酷寒と飢えと苛酷な労働が待っている収容所へ連れて行かれる。ここにいる間だけでも、楽しい思いをさせてやりたい。患者の中に文展に二度入選している画家がいる。それで自分は考えたんだがね、その人に絵を書かせ、君がそれを持って各病室を廻る。映画講談を紙芝居にしてくれないか。毎週ごとに番組を替えて、映画でも見た気分にさせてくれ。これならぼくが蒙古共和国側を、公認ではなくても、黙認させるぐらいの自信がある」
「すばらしいことです。一所懸命やります」
「刑期が終ったらすぐ第一回の演目にとりかかる。考えておいてくれ」
思いがけない朗報に、ぼくの頬は硬張って今にも泣き出しそうになった。
「蒙古共和国側に口を出させないためには、君自身が熱演して、初めの二、三日のうちにここには絶対必要な人材だと、まず病院側に強く印象づけるのだ。そうしたら、ずっといられるかもしれない」
この企画は春日通訳にも、需要のないところに新製品を押しこむ難しさがあったらしい。少しでも不評だったらただちに、作業場へ送り出されるだろう。その代りもし成功したら想像もできないほどの幸せな生活が待っている。一人で死体小屋に戻りながら、激しい闘志が湧いてきた。
二月の二十五日の昼ごろ車が一台やってきた。乗用車一台だけだったので、患者の間にはいつもの引取りトラックのときと違って、パニックは起らなかった。
ズボンに赤線が入っている、若い蒙古人の特務の将校が下りると、病院へは寄らず、直接死体小屋の方へ来た。
正面玄関から病院側の事務員と、春日通訳が飛び出してきて、特務将校を迎えた。三人で小屋の前まで来たが、死体の臭気に顔をしかめた特務将校は、三十メートルぐらい手前で止まると、通訳に何かいった。春日通訳はいつものように大きい声で小屋に呼びかけた。
「オツカン君いたら顔を出しなさい」
乙幹は階級名だが、ここでも、ぼくの通称になっていた。計量中途の血だらけの軍手を脱いで出て行くと、次々に指示が伝えられた。殆ど同時の通訳だった。
「そこに直立しなさい」
「はい」
「只今から司令部の命令を伝えます。君の刑期は四カ月。本日を以て終了した。以後は一般の作業に従事するが、別命があるまでは、病院に止まって、病院の仕事を手伝っているように」
公式の命令はこれで終り、更に春日通訳から個人的に追加の指示があった。ここにある私物袋を持って、病院の三階にある勤務用員の宿舎に入るのだが、それ以前に熱気消毒室《デスカメラ》に行って、一切の衣服を吊して、虱《しらみ》を殺しておくようにとのことだった。
午後にはぼくは、さっぱりした下着まで支給されて、病院の本屋《ほんおく》の宿舎に移った。病院の主翼は三階建てになっていた。ただし三階には病室はなく、毛布と白衣の倉庫、薬品、器具の保管所、それに勤務員の寝場所の部屋が三部屋ばかりあった。
夕方、春日通訳に案内されて、三部屋の中央にある高級内務職員用の部屋に入った。入ってすぐ、そこが他の宿舎と全く違う柔らかな雰囲気に包まれていることが感じられた。寝そべっている人々の表情や、動作からして違う。誰も酷寒の戸外に働いたことのないせいで、皮膚の凍傷や、掌のひびあかぎれがない。適当に肉のついた人間らしい肢体と、おだやかな表情をしている。僅かの喰べ物しかあたえられないためお互いの生命を喰い合って生きているようなきびしい態度になっている人は全くいない。
「よろしくお願いします」
床に膝をついて挨拶すると、既に休養していた室内の人が皆あわてて膝を揃えて
「こちらこそ、よろしく」
と挨拶を返した。普通はどこだってこんな場合、無言の敵意が戻ってくるだけなのだ。予想もしていなかったので、こちらが却って慌ててしまったほどだった。
後に分ったことだが、この部屋の左右に二つずつある退院者たちの臨時の内勤職員の大部屋には、こんな温かい雰囲気はやはりなかった。いつ引取りのトラックが来るか、そればかりに脅《おび》えている不安と猜疑心《さいぎしん》で苛《いら》だった、とげとげした空気がみちていた。
ぼくはいきなり何段階も特進して、この病院での最高のエリートたちが住む、温室への仲間入りが許されたのだ。
蒙古側によって保証されている安定した身分の人々は、広い部屋を二十人ほどで占有してゆったりと寝起きしていた。ほしいだけの毛布をかぶり、手足をのばして温かく眠ることができた。一人ぐらい新しく割りこんできたところで、ここの生活に何の影響もない余裕が、人々の礼儀正しさと穏やかさを生んでいた。
二十人の居住者のうち七人は軍医であり、民間の開業医も二名いた。他に衛生兵が五人と、薬剤師と称する人が五人いたが、この薬剤師と称する人が竹田軍医のいった協和会系の民間人で、特有の政治力で早くから病院に喰いこみ、事務の仕事を独占していた。もう一人が、折衝係一切を引き受けている春日通訳であった。
人間何が役にたつか分らない。中学校時代、勉強をさぼって映画ばかり見ていたおかげで、この優れた環境に仲間入りして、取りあえずの生命を永らえることができた。
ぼくはその夜から早速この快適な環境の中で、激しい制作意欲を燃やして最初の公演の準備にかかることになった。
封切日は三月一日と決められている。三日しかない。
最初の作業は、第一回公演《こけらおとし》の演目を決定することだ。二百近くもあるレパートリーから、皆を唸《うな》らせ、以後ずっとこの病院に居残れるような名作を一つ選ばなくてはならない。
のっけに失敗すれば、間違いなく吉村隊に送り出される。ぼくには吉村隊のきびしい作《ノ》業|定量《ルム》は達成できないだろう。酷寒の戸外で裸で木につながれる怖しいリンチが待っている。最初の一発が勝負だ。頭の中にはさまざまのタイトルが行き来した。いずれも一長一短、脂汗《あぶらあせ》を絞るような思いで選考にかかった。
まず規準を過去の反響に求めた。前の収容所のボスである小政やその仲間たちは、一体何を喜んだろうか。無法松の一生、姿三四郎、瞼の母、駅馬車、望郷、などが好評だったが、しかし、こういう硬派アクションの他に、案外、白鳥の死、乙女の湖、制服の処女、格子なき牢獄、などの女性路線も評判がよかった。ロマンチックな要素より、女が沢山出てくる物語は、満ち足りた人々の淫《みだ》らな妄想をかきたてるのに役にたったのだろう。
だがぼくには、ここで折角機会をあたえられたのだから、文芸ロマンチック大作を公演したい欲が俄《にわ》かに出てきた。
大学へ入った年の春のできごとが思い出された。親しくしていた友人に兄がいて、その兄が当時国民映画として、日本中の人が見るように動員された、真珠湾特攻隊を主人公にした『海軍』という映画の主役に抜擢《ばつてき》され、一躍日本中のアイドルになった。ただしこの兄はそのときぼくらの行《おこな》ったこととは関係ない。
友人であるその弟はシナリオ・ライター志望で山内といった。ぼくの、原節子のような美しい映画女優と結婚したいためだという、いささか邪《よこし》まな願いがかかっているシナリオ・ライター志望と違って、まじめな志望者であった。この山内と計って、二人のお互いの知り合いの女の子を動員して芝居をやることにした。戦時中のもう空襲の気配で緊迫した時期のドサクサまぎれに、浅草の並木倶楽部という、義太夫や長唄の温習会用の貸席を借りて、フランスの翻訳劇をやったのである。
よく開演中に、憲兵や特高に踏みこまれなかったものと、終った後で却ってしばらく恐怖が去らなかったが、やってる最中はもう全身が燃えて無我夢中であった。学生の徴兵延期は突然中止され、徴集年齢も十九歳に引き下げられた。いずれ特攻隊で死ななくてはならないのなら、やるだけのことはやってしまおうという開き直った度胸があった。見る方にもそんな気分が流れていた。浅草の田原町の奥にある貸席は、当日、国防服にゲートルを巻いた学生と、紺のモンペに白いブラウス、胸に名前と血液型を書いた布を縫いつけた少女たちで、廊下にも溢《あふ》れるほどの満員になった。
そのときの演目は『商船テナシチイ』だった。当時人気があったフランス現代劇であったが、シャルル・ヴィルドラックの戯曲をそのままやるのは少し難しかったので、デュヴィヴィエの映画の筋立ても借りて、友人の山内がかなり上手に作り直してくれた。
主食の配給は大豆粕が三割交った米、学問の代りに銃剣術の稽古。朝から晩までどなり散らす教練教官、文化的な物が何一つなかった当時の学生にとっては、フランスという言葉だけで胸がときめいた。
ぼくはその芝居の中で、積極的だが最後に友人を裏切る、バスチャンという青年に扮《ふん》し、山内が気が弱いが結局その志を貫く、セガールという青年をやった。
あのときの幕切れの拍手と熱狂は、その後長い間ぼくを酔わせ、思い出すたびに胸が熱くなった。宿の女中のテレーズの役をやってくれた丸顔のかわいい少女は今ごろどうしているだろうか。生毛《うぶげ》の光っている素肌の頬のあたりが、急に目の前に浮んできたりした。
ぼくはアムラルト病院での第一回公演に、その商船テナシチイをやろうと決めた。決めたすぐから迷いが出た。ここではあのテーマは少し難解かもしれない。受けるだろうか。しかし何事もやって見なくては分らない。これも賭けだ。度胸を据えた。これからの病院での安穏な生活はほしい。でも自分の青春の記念をもう一度振返ってみることの方が、そのときのぼくには大事なことのように思えてきた。駄目だったら玉砕しよう。それに話術には自信があった。きっと面白い物語にしてみせる。
翌朝、春日通訳が指定してくれた絵描きに会いに、二階の左側の翼の外科病棟を訪ねた。菊地軍曹という日本画系の画家で、文展には二回入選しているという。足が骨折して歩くことができないらしい。それは逆からいえば、長期の入院が保証されている安定した境遇でもある。
ぼくが訪ねて行くと、彼は廊下に直接マットレスを敷いて何人か休んでいる患者の中から、半身を起して
「いやあーお待ちしていましたよ」
と嬉しそうにいった。入院が長いらしく、色白でおっとりした顔をしていた。
「ほら、これを見てください。もう材料は、春日さんが手配してくれました」
枕もとには薬品の大箱を切りとって揃えた、裏が真白な紙の束があった。
「舞台の方は、さっき地方《しやば》で建具職人をやっていた男が相談に来ましたので、この紙に合せて、自分が独断で寸法をひいておきましたよ」
「何から何まですみません」
ぼくは礼をいうばかりだったが、ぼくらの回りには、早くも噂を聞きつけた、軽症の患者で、人だかりがしていた。近く映画紙芝居が始まるというニュースは、もう病院中に駆け巡っているらしい。
「それで第一回は何をやります」
人の好さそうな絵描きの下士官が早速きいた。その顔を見ながら、この人はフランスの現代風俗を描けるだろうかと、内心少し不安になってきた。
「商船テナシチイというフランス映画をやろうと思っているのですが」
一瞬ほうと声を出したが、別に困った顔をせず、むしろ懐かしそうにいった。
「そりゃーいい。ぼくは金杉と友人でね。二人でよく銀座で飲んだ仲ですよ」
これにはぶったまげた。
当時の日本では、フランスの現代喜劇は必ず金杉敦郎という人が主宰する劇団テアトル・コメディによって最初に紹介された。翻訳演劇に憧れる人にとっては、金杉という名は神様のような存在であった。もっともそれは金杉の力でなく、フランス留学から帰ってきたばかりの、若く美しい彼の婚約者の長岡輝子さんが、片っぱしから上手に翻訳してくれるせいだという、やっかみ半分の世評もあった。
画家からこともなげにその神様と飲み仲間といわれては、完全に出鼻をへし折られた。世の中、上には上がいるものだと思いながら、急にぼくの言葉も丁重になった。
「それでは説明の手間が省けて助かります。絵組みだけまず作ってしまいましょう。全体を二十枚でまとめます。図柄や動きの関係から、戯曲よりデュヴィヴィエの映画のイメージの方を、主に取りこんで行きたいのですが」
「自分もその方が楽ですよ。映画も二度も見ていますよ。港の外景の方がクレーンやブイがあって、画にしやすい」
一枚ずつ決めていくうちに、二人はお互いに、映画のカメラマンや監督になったような気分になり、のってきた。
二日の間、ぼくが頭の中で説明を二十枚の絵に割るため努力しているとき、画伯は見事に仕上げてくれた。二日目の夕方には、出来上りを見ることができたが、フランス映画特有の軟調《ソフト》なフィルムの焼き上りが、そのまま墨の濃淡で紙の上に再現されていた。
この映画はタイトルからエンドマークまで実際の映写時間は一時間四十分ぐらいだ。だからぼくの説明も頭の中でフィルムを回しながら、一時間四十分でしゃべる。名匠の作った映画の流れというものは、計算しつくしてできているので、順を追ってしゃべって行けば、苦労も何もなく次のカットが自然に出てきて、いつかラストシーンまで辿《たど》りつく。ただし完成された流れであるだけに、一カ所でも飛んだり、話の順番を入れ替えたりすると、とたんに頭が混乱して収拾がつかなくなってしまう。カット割りの細かい映画を二十の絵にまとめて話すのは、意外に難しい作業で、ぼくの方もなめらかにしゃべれるようになるまでには、まる二日たっぷりかかった。
三日目の三月一日の、十二時の昼食の後が第一回の封切りである。
内勤の特別職員は、食卓の真中に白米の粥を入れたアルミ缶をおき、自分でほしいだけ、食器に盛って喰べるようになっている。これは俘虜の境遇では、他では想像もできない贅沢であって、その贅沢に裏打ちされてこそ文化的な作業に心おきなく従うことができる気持になれた。
三月一日の職員食堂は何となく浮きたった気分であった。ぼくだけがさすがに緊張して、軽く一杯しか、粥が喰べられない。
演目の中身については、まだ春日通訳にも話していないので、軍医や事務職の人々の期待は高まっていた。食事が終ると、開演をうながす拍手が自然に起った。
事務室の手伝いをやっている軽症の患者が正面の演壇の上に、木の香も新しい紙芝居の台を置いた。
その日の朝からぼくにも内勤事務職員用の縦縞の木綿の背広が支給された。将校服でも着せられたような誇らかな気分である。全員の拍手の前で深々と一礼した。
「只今より、蒙古共和国、国立アムラルト劇場第一回の公演を開演します。昭和九年度キネマ旬報ベストテン第一位、フランス、ヴァンダル・ドラック会社超特作、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督作品、アルベール・プレジャン主演、商船テナシチイー!」
最後をたっぷりひっぱって強調しながら、内心ではかなり心配で皆の反応を窺っていた。
剣戟や西部劇、人情物を期待されていたらと、がっかりする顔も予想していたのだが、一人もそんな人は居らず、誰の目にも、どんなものが始まるのだろうと灼けつくような好奇心が見えた。
紙芝居の前面には布の幕がかかっている。それを片はしにひくと、タイトルが出てきた。港の遠景に、汽船が一艘《いつそう》停泊している。そのタイトルに画伯は心憎いまでの仕掛をしてくれていた。タイトルが、漢字横書きで『商船忍耐号』と書いてあり、その下に、テナシチイと片仮名がふってある。このタイトルを昨日の夜見るまでは、ぼくでさえ、テナシチイが忍耐だということを忘れてしまっていた。
劇の開幕前に、芝居でも映画でも、一つの名文句が入る。ラブレエの警句で
『運命は 従うものを 潮にのせ
逆らうものを 曳いて行く』
というのである。このときも開口一番、音吐朗々と
「うんーめいはー」
と抑揚をつけてやった。
これは当った。全員が拍手で応《こた》えてくれた。後に、病院中のはやり言葉になり、患者たちが廊下や、部屋の中で、しきりにぼくの口まねして
「したーがうー ものをー」
とやるほどになった。この言葉は口当りがいいだけでなく、俘虜たちの境遇に、どこか共感するものがあったのだろう。
物語は港の小さな酒場の寡婦《かふ》コルジエの店へ、カナダへ移民する船に乗るために、二人の青年が入って来るところから始まる。
軍医や内勤者たちの学歴は高い。中には蒙古共和国の近くまで学術探険に来て抑留された教授もいた。日本にいたときこの映画を見た人も、四、五人はいたようだ。
戦争が始まるとすぐ、国民精神総動員が唱えられ、猛烈な思想統制が行われたが、学歴の高い人ほど、そういうものへの反撥があり、外国文化への憧れが強かった。それにぼくの内心にある、都会の真中で生きてきた学生は只の兵隊とは違うのだという単純な見栄が、ぴったり合った。
途中でこの病院の蒙古共和国側の代表者で、北の宗主国から派遣された中年の女性の軍医、アレクセイナ少佐が、ゼンナー看護婦長や、事務長のジャムヤンダ中尉をつれて、何事が起ったのかと覗きにきた。ぼくの熱演に、そのまま後ろの席にそっと坐った。中止どころか、熱心に見ている。ぼくは体中に安心が拡がってきた。
彼女らにも木枠の中の絵と、ぼくの身ぶりを交えた会話で、ある程度、話の内容は理解できるらしい。やがて一緒に笑い、一緒に感心しだした。そして間には
「キノ」「キノ」
とお互いに頷《うなず》きあった。キノとは映画という意味で、もしかすると女院長の祖国でも、この映画が公開されたのかもしれなかった。終るとアレクセイナ院長は立ち上って盛大に拍手をしただけでなく、わざわざぼくのところまでやってきて、肩を叩きながら
「オーチン・ハラショ」
と褒《ほ》めてくれた。ぼくはこれで紙芝居が病院の仕事として公認を受けたらしいことが分った。嬉しかった。アレクセイナ少佐は何やらしきりに春日通訳に話している。やはりそうだった。通訳が自分のことのように喜んで伝えてくれた。
「これを職員だけでなく、病院の患者全体に見せて回るようにしなさい……と院長はいっている」
春日通訳が最初に企画したように、事態は自然に進行していた。
第一回の公演が終ると、忽ち病院中に、商船テナシチイの名が拡がった。大部分が農村からの召集兵士の集団であるから、本来は耳になじまない言葉のはずなのに、大河内伝次郎の丹下左膳ぐらいに、誰でも親しみのあるタイトルになった。全員が各人の病室で、巡回公演の来るのを待ちかねるようになった。ぼくにあたえられたノルムは一日四回だった。午前中二回、午後二回、一時間四十分をしゃべりつづけるのは、かなりきびしかったが、酷寒の雪原での労働のことを思えば、問題にならないありがたい仕事だった。演目は一週に一本替えることになっているので、その間に次回の絵を作り演出の準備をした。
病室は三十室あった。もともとは六十人収容の設備に、そのころは五百人以上の患者が居り、廊下から倉庫まで人がひしめいていた。一室は平均二十人、どの部屋でも、体を重ねるようにして寝たきりの患者が、真剣な目で、画面を見つめ耳を傾けてくれた。
二、三日回っているうち、面白い現象が生れた。自分で歩くことのできる軽症の患者が、ぼくの公演について回り、舞台を担いでくれたり、設定場所を作ってくれたりしながら、ついでに何度も同じ物を聞いて行くのである。いいところで拍手をし、掛声をかけてくれる。廊下を歩いているとき、その一人に聞いてみたら、話の筋は分っていても、何度きいても、面白いというのである。
最初の一本は自分の思い通りのことをさせてもらったから、二本目は大衆向けに『一本刀土俵入り』を選定した。続いて姿三四郎、駅馬車、瞼の母と、東西の名作が、一週一本ずつ順調に公開され、ぼくの生活もまた、好調そのものだった。
四月に入って雪が少くなるころ、この国では木の芽どきに当るのか、四十すぎの独身女性のアレクセイナ少佐の機嫌が急にひどく悪くなった時期があった。折あしく、院長官舎の水道パイプがつまり、そのヒステリーが頂点に達し、軍医連中もとばっちりを怖れてかなり気を使って応対していた。ところが十キロ離れた首都から、たくましい体付きのパイプの修理工がやってきた。宗主国の人間で、すぐ院長と一緒に官舎へ入って行ったが、そのままカーテンをしめきって、丸三日間出て来なかった。その間工事の気配どころか、食事の注文さえもなかった。
四日目に出て来た修理工は何の工事もせずに首都へ戻り、一日おいて荷物を持ってきて院長の官舎に住みこんでしまった。それ以後院長のヒステリーはおさまり、同時に排水設備の専門工の常住で、他のパイプ関係のトラブルも無くなり、病院の中はずっと明るくなった。
ぼくたち勤務員は、これを、二つのパイプのつまりが同時に直って、まことにお目出たいことだと、冗談をいって笑いあった。
六週目の公演に入ったとき、ぼくは生涯絶対に忘れることのないような怖しい経験をした。月曜日までに新作の準備を終え、昼の職員室の封切りを初めに新しい演目の公演がすべり出す。水曜日ごろが一番気が楽になるころだ。早目に大部屋に帰って、次の演目を何にしようかと、寝そべって考えていると、外科専門の、元関東軍の軍医が入ってきた。仙台出身で松川大尉といった。
「乙幹君、明日、ぼくのところで大きい手術があるので、午前中の公演を休んで手伝ってくれないかね」
「それはかまいませんよ。医療の方が大切ですから」
そうぼくは答えた。少し心外であったが、どうせ演芸なんて不要不急のことである。ただ
「……自分でも何か役にたつことがあるのですか」
と一応は訊ねた。松川軍医はそれに答えずに別なことをしゃべりだした。
「我々には麻酔薬がないんでね。麻酔のない外科手術なんて、普通だったら考えることもできないことだがね。手術しないでほうっておいたら、患部がどんどん拡がって死んでしまう。今ならいっときは苦痛でも生命は助かる。友広曹長といって気の強い青年だ。手術を承知したんだ。それで君に手伝ってもらうことにした」
何か分らないが、多分足でも押えつける係が足りないのだろうと思った。上官の命令だから、一応は即座に
「諒解しました。やってみます」
と返事したが、非力なぼくが、役にたつことがあるなどとは思えなかった。それに本音をいえば、手術を見るのが怖しかった。これまで四カ月も毎日死体を切り刻むのを手伝ってきたが、生きている人間を切り刻むのを見たことはない。
それでも翌日早目に起きて、午前中の公演予定の二部屋に中止の連絡をし、代りに夕方に一つずつ二日にわたって追加してやることで納得をしてもらった。
もともと病院のサービスでやることだから残念がられはしたが、どこからも文句は出なかった。
朝食を終えた午前九時には、松川軍医に連れられて、手術室に入った。病院内勤務になってからもう一カ月以上になるが、まだ入ったことはなかった。そこは病院内でも特別な場所として、関係者以外出入禁止で、掃除さえ衛生兵以外の者はやってはいけないことになっている。
初めて入った手術室は、明るい白い壁で、照明も眩《まぶ》しいぐらいきいて、床もちり一つなく浄《きよ》められていた。消毒薬の匂いが強い。
既に医師が二人、看護婦代りの元衛生兵が二人待機していた。ぼくが主任医師の松川軍医と入って行くと、皆、室内無帽時の十五度の敬礼をして迎えた。
板で作った臨時の手術台に横たわって待っていた当の患者も少し首を持ち上げて、おじぎしながら
「軍医殿よろしくお願いします」
と声を出した。七人の軍医のうち三人がここにいる。病院が割り出せる人員としては、最高の配置だ。相当な大手術らしい。ぼくの不安は高まった。後ろからきいた。
「軍医殿自分はどうしたらよくありますか」
「そこに立っていろ。おれの合図があったら直ちに大きな声で、商船テナシチイをやってくれ。麻酔の代りだ」
初めて自分の仕事を知ってびっくりした。そんなものが麻酔の代りになるとは信じられない。
「大声でやったら、手術の邪魔になりませんか」
「それぐらいで手順が狂うような、難しい手術ではない」
松川軍医は東北の出身だが一メートル八十五もある大柄の人で、目つきも精悍《せいかん》で、西郷隆盛を思わせる風貌をしている。荒っぽい戦陣外科で鍛えられた筋金入りの軍医だ。切られる方も軍人としては筋金が入っている。曹長というのは旧軍の中でも特別の階級で、兵、下士から昇進を重ねた人のどん詰りで、そこまで辿りつくのに、乙幹のような抜け道はない。どんなに早くても八年はかかる。三十近い人が多い上、弾丸の降る前線で生き残ってきただけに、動作は機敏で、顔付きはきびしく、気性が荒々しい。彼もやせ衰えていたが、鋭い目付きをしていた。
もっとも、手術の前の晩は体力をつけるため二食支給される。その二食がほしさに僅かの足先の凍傷でも、足を切ってくれと申し出る者が多い。
曹長が元気が良いのもそのせいかもしれない。衛生兵がすぐ準備を始めた。シャツを脱がし、裸の上半身を、布でしっかり手術台にくくりつける。袴下が脱がされた。さすがに長く戦陣にいただけあって心がけが違う。今まで一度も使っていない真新しい褌をしめていた。足の先が凍傷で腐っているのが見えた。
両腿の上に、板切れと布とで止血措置が施された。軍医が目かくしの布を衛生兵に渡した。曹長はそれを断わった。
「いやいらんであります。この目で自分の足が離れるところをよっく見ておきます」
二人の手伝いの若い軍医が、左右一つずつ手分けして、両方の足の先を薬で洗いながら調べだした。二本とも足の底は崩れ、指、踵《かかと》、くるぶしぐらいまで赤黒く腫れて、煮すぎたおでんのように、とけて変形していた。消毒薬の匂いも消えるような異様な臭気が、部屋の中に漂った。
「完全な腐敗が始まっている。どんどん進行中だ。痛いかね」
軍医がきくと、かすかな笑いを浮べて友広曹長は答えた。
「情ないことでありますが、かなり痛くあります。ずっと夜も眠れん日が続くであります」
「ほうっておくと、上の健康な部分の肉を喰って腐らせて行く。膝まで上ってきたら、ここの設備ではもう手術はできない。それを通り越したら、脳症を併発して、三、四日で死ぬ。友広はまだ若い。死にたくはなかろう」
「はい、死にたくなくあります。日本へ帰って父や母に一目会ってからでなくては、死んでも死にきれんであります」
「では手術に耐えてくれ」
「はい」
しっかり答えると今度はぼくの方を向いて
「……乙幹君も頼むぞ」
といった。その間にも手伝いの若い軍医は足を丁寧に見ながら、ぎりぎりの部分を見つけようとしていた。切った後で、少しでも腐敗した部分が残っていたら、そこからまた拡がるから、やり直しになる。といって大事をとって切りこみすぎては、患者に可哀そうだ。そのへんの見切り点を決めるのが難しいらしい。やっと三人の意見が一致して、両足の踵から五センチぐらい上の脛《すね》の部分に、墨で丸く線が引かれた。その間に衛生兵は、熱湯の消毒器の中から、メスや、止血のピンセット、光った鋸《のこぎり》などを出して、ステンレスの大皿の上に、一つずつ並べた。
「舌を噛んじゃいかんので口にだけは、噛ませてもらうぞ」
そういって、タオルを丸めて口の中につっこんだ。やっとぼくは怖しい事態がのみこめてきた。このまま足を切るのだ。心臓がちぢみ上りそうになった。メスを取った松川軍医は墨の線をじっと睨みながら、ぼくの方は全く見もせずいきなりいった。
「それじゃ、オツカン! 始めてくれ」
ぼくは声にもならない声で返事して、直立不動の姿勢をとった。松川軍医のメスが黒い墨にそって、左足から表皮を切っていく。血が丸い輪になって赤く噴き出す。ぼくは頭が空白になり足がよろめいた。必死に耐えながら
「うんめいーは、したがうーものをー」
とプロローグの言葉から語りだした。メスの刃先が、健康な部分の肉に喰いこんで行き、血がしぶきのように散る。止血措置はしてあるが、ここにいて多少栄養もよくなっているのだろう。それに若く充実した年代だ。血も多い。メスが押しつけられてピンクの肉が開いて行くごとに
「うーっ! うーっ!」
とまるで地底からひびいてくるような声で呻きつづけ、軍医の白衣に血が飛び散る。ぼくは負けていられない。声を張り上げて語り続けた。
「美しいテレーズという娘が、二人の前に出てきた。『おや、これはこれは、こんな港には珍しい、しゃれた娘じゃないか。なあーセガール君』と、アルベール・プレジャン扮するところのバスチャンは、陽気に友人に話しかけた」
陽気どころか、少しでも気を弛《ゆる》めたら、こちらがひっくり返りそうで、もう必死だった。
先ほどまでの腐臭に代って、血の匂いが濃くなってきた。長い話だ。心が乱れると、カット順が混乱して、筋が追えなくなる。そちらに神経を集中していなくてはならないので、随分助かった。もしただ見ているだけだったら、ぼくのほうが先に倒れてしまったろう。
実際に患者がぼくの映画講談をきいているかどうかということは、もう気にかからなくなった。各人がその持場で全力を尽すだけだ。患者は厳重に縛られた体をうごめかして苦痛に耐えている。衛生兵たちはおびただしい出血を、すぐガーゼや綿で吸いとって行く。呻き声はタオルに押えられて地底の声のようにくぐもっているが、本当は絶叫に近いものだったろう。
左足の肉は完全に上下に切り分けられて、離れたようだ。局部の止血措置をしている間に、松川軍医のメスは右の足にかかる。二つ同時にやってしまうらしい。右の肉も切り離された。
とうとう、胸も凍りつくような時間がやってきた。二本の骨が白く見える。左から切って行くようだ。ステンレス製のよく光る鋸の歯が、肉質を分けて、直接、骨にあてられた。
せめて曹長が意識でも失ってくれていたら、見る方も楽であったろうが、苦痛に呻きながらも曹長の目は見開いている。
しかもときどきは、休みなくしゃべり続けているぼくの方に注意を向けようとして、首を回す。こんなとき本当に商船テナシチイの物語が面白いはずはないだろう。自分が瀕死の苦痛の中にいながら、なおもぼくのためにサービスしようという曹長の心意気なのだ。
すっかり露出している骨の上で鋸が動きだした。骨がひかれる音がする。
骨に神経があるかどうか、ぼくは医学を勉強していないから知らない。ただ、鋸が骨に当って切り出したとき、その不気味な音と共に、彼の苦痛にもだえてうごめく表情や動作が、一そう大きくなったのを現実にこの目で見ている。麻酔なしで骨を切るときは、肉や皮を切るよりは、ずっと痛いのだろうということは分った。
全身で耐えている。これは男同士の戦いだ。切る方も決して楽ではない。暑い日ではないのに、切り手の額にびっしょり汗が浮いていた。二人の控えの若い軍医も衛生兵も汗が顔中に吹き出していた。
ぼくは自分の失神を防ぐためにも休まずしゃべり続けた。物語は、酔っ払いの老人が、二人の青年に話すシーンになっていた。うまい話にのせられて行ったカナダでの、鉄道建設の労働がどんなに辛いものであるかを、カウンターでくだをまきながら語る。一所懸命、酔っ払いの口まねをしながら、しゃべる。
五年前のテアトル・コメディの舞台では、若い美男の森雅之に、やはり若い十朱久雄が老けの扮装で語りかけていた。三年前のぼくらの舞台では、この老人は田中という友人がやった。本物のデュヴィヴィエの映画の老人もすばらしかった。俳優の名は思い出せない。役の上では爺さんはイドウといった。
東京での舞台で女中役の頬の丸い女の子は、ふだん外では着ることの許されなかったとっておきのプリント地のワンピースを、舞台衣裳として着られるのが、本当に嬉しいといって、はしゃいで楽しそうに演じていた。空襲がいつあるか分らない緊迫した時代だっただけに、ぼくらも観客も真剣で、狭い貸席劇場には熱気がこもった。
できるだけ手術に気をとられないように、さまざまの思い出を頭の中で同時進行で明滅させながら、大声で語りつづけた。
しかし現実には目の前に一杯に、手術はくり拡げられ、白い骨や赤い血がいやおうなしに目に入ってくる。いくら声に力を入れてしゃべっても、耳の中には骨をひく音が入ってくる。気分は弾丸の飛び交う戦場にいたときと同じだった。絶対負けられない。全力で戦うだけだ。曹長は極限の苦痛を全身で現わしていた。いくら軍人精神が入っていても、どうにもならないところにいる。左の足が先にとれ、すぐ右側にかかった。同じような音がして、右も二、三分で離れた。
一番痛いのはそのすぐ後だ。小指の太さぐらいの白い神経が露出して見える。後日の神経痛を防ぐため、そこをやっとこ状の手術具でできるだけひっぱって、切っておく。さすがの曹長もタオルが噛み千切れるほどの絶叫をあげ、全身をくねらせると失神した。
腐った肉をつけたままの、五センチぐらいの脛と足が床に二本捨てられ、今は棒のようになった足の先は、す早く縫合されて包帯が巻かれたが、どんなに厚く巻かれても、血はにじみ出していた。
それでもともかくこれで、友広曹長の生命は助かったのだろう。しかしもう自分では歩くことは勿論、立つこともできない。彼はまだ若い。今後どうして生きて行くつもりだろう。医術というものは残酷なものだ。これまで黙々として仕事をしていた松川軍医が衛生兵にいった。
「顔に水をぶっかけなさい。このまま眠らせると出血が多いから、危ないことになる。今日から二日ぐらいは、苦しむだけ苦しませておく方が回復のためにいい」
ぼくは周囲の状況に関係なく、物語を追って行く。バスチャンが美しい女中を酒場の階段で捕まえて、むりにキスして誘惑する。そして二人は仲良くなり、友だちをおいて逃げるヤマ場にさしかかっていた。
水をかけられた曹長は意識を戻した。当然ひどい苦痛もまた一緒に戻ってきただろう。
それでも彼は最初に首をむりにぼくの方に向けた。聞いているということを示したいのか、それとも話しつづけるぼくに感謝をあらわしたかったのか、むりに笑って見せようとした。
ぼくの好きな岡本かの子の小説の題名のように、季節は、『やがて五月に』なるころのことだった。この季節には、ぼくは、一昨年の二十歳のときは、北シナの山野で八路軍との討伐戦の最中であった。二十一歳の年には、メーデーを前にしての猛烈な労働の中で死物狂いに働いていた。二年ともよく覚えているのは、ぼくの誕生日がそのころであったからだ。ただし二年とも自分で気がつかない間に誕生日をすごしてしまった。だがこの二十二歳の年は環境がよかったので、はっきりと誕生日を意識してすごした。別に誰にいうことでもないし、誰からも特別のことは何もされなかったが、少し早目に仕事を終えて大部屋に戻り、ゆったりとくつろぎながら、心の中で一人でハッピーバースデイを唱った。もうこのころは外の雪は殆ど消えていた。
代りにほんの小さい芽だが、僅かの緑が、無限に続く荒野のあちこちに顔を出していた。八月の終りには、朝夕の寒さのため黄色く枯れてしまう、短い生命の草だったが、それでもこの酷寒の地に春はまた確実にやってきたことを示していた。
ぼくは部屋で毛布をかぶって寝そべりながら、思いがけなく得た今の幸せな境遇を心の中で噛みしめていた。連日戸外で強制労働に従事している俘虜の仲間に比べたら天と地の違いだ。ただこれがいつまで続くかは分らない。ともかく頑張ろうと思った。御馳走も飲み物もなかったが、二十二歳の誕生日の夜は心豊かな思いで眠りに入った。
翌朝、おかしなことが起きた。
カツライスの夢を見ていた。
やや幅の狭い長い皿に、一すみにアルミの型抜きで抜かれた花弁型の白飯が、湯気をたててのっており、切り刻んだキャベツを境目にして、その先にトンカツがある。五、六片に細長く切られており、切口にはピンクの薄い肉片と、波型になって必ずしも肉に密着しておらず、ところどころに隙間があいた狐色のころもが回りを囲んでいる。
ぼくはフォークを突き刺して口へ運ぼうとするところで、このような夢の定式通り、目がさめた。だが考えてみるとどうも完全には目がさめていないようだ。今のが夢とは判りながら、まだ半々ぐらいのところにさまよっている。下腹部が妙に甘ったるかった。手は自然にそこをまさぐっていた。
そこには信じられないような現象が起きていた。しかし作業が苦しいわけでなく、食事も毎日、好きなだけは自分でよそって喰べられる。二十二歳の年の青年にとっては、その現象は当然のことであったかもしれない。
幸いまだ不始末をおかしていない。事前に半分目がさめていてよかった。
あたりを見回した。
起床時間よりは大分早い。
内勤の医師や、事務職の人々は、深い眠りについている。五月でもこの国の朝は寒いが、幸い自分の好きなだけの毛布をかけることができたし、建物はコンクリートに、二重のガラス窓だったので誰も皆温かそうに眠っていた。
また毛布を肩までかけて、眠りを続けようと思ったが、一旦昂奮のようすを見せたものは、そのままでは納まりそうもなかった。
タオルや塵紙のたぐいも、ここではかなり潤沢に支給されている。
欲望を発散させる異性の居ない境遇では、これも仕方がないのではないかと、自分を納得させながら、まさぐっていた掌を上下の軽い運動に代えた。ついでに頭の中の幻想も、今までのカツライスから、女性に代えてみた。白い裸体、胸のふくらみ。両腿の間の湿った秘密の谷間。ところがそれらのイメージは、少しも快感を補助してくれなかった。あまりにも現実に遠すぎて、しらけてきてしまうのだ。そしていつのまにか、頭の中は、先ほどまで夢に見ていた、カツライスの幻想にまた戻ってしまっていた。軽く上下する掌の握りぐあいと、ころもが浮いているカツのイメージがぴったりあって、急に快感が増してきた。女体の幻想はとっくにどこかに消えてしまった。想像の中で、その一片が口の中に入った。ころもがこわれ、肉汁がしみ出しながら、ピンクの豚肉が口の中に消化されていく。ソースの味もしてくる。うまい! 肉は口の中で砕けてゆく。
突然、昂《たか》まりきったものが爆発し、先端からおびただしくあふれるものがあった。
あわてて、タオルで始末したが、終ってから、やはり猛烈な反省に捕われた。これが女体への幻想であふれてきたのだったら、正常な生理現象だが、カツライスで射精したというのは他人には絶対に言えない恥かしいことだった。自分自身でも気が違ったのではないかと心配になってきた。あまりの飢餓の連続で、体内の条件反射の機能が狂ってしまったのではないか。体力の回復はいいが、こんな風になってしまうのでは少し情ない。(もっともその後、誰も皆同じような現象を起したことをきいて、やっと安心した。)
そしてもう一つ反省もわいた。
多少現在が順調だからといって、これをもし毎日の習慣としたら、急速に体が参ってしまうに違いない。もしどうしても、止むを得ず内心から突き上げる衝動が起って処理しなくてはならないとしたら、せめて一週間に一回以内にしようと決めた。決めたことを実行する忍耐力はあるつもりだ。
月曜日は新脚本ができて公演する日だから夜になると気持がゆったりする。もし自然の衝動に耐えられないとしたら、実行は必ず月曜日の夜にしよう。ただし人には言えないこの楽しみをできるだけ豪華なものにするため、想像の世界では思いきり浮気してやろうと思った。何もカツライスだけに操をたてることはない。来週はカツ丼あたりはどうだろう。次は親子丼。その次がカレーライス。その次の週あたりは天丼にしようか。こんな浮気は誰にも害を及ぼすわけでなく、恨まれることもない。
毎週一回の公演の方もそれから、乙女の湖、ミモザ館、巴里祭、残菊物語とロマンチック路線が続きますます快調であった。同時に月曜の夜の浮気の方も、親子丼から順調に天丼まですすんだ。
その天丼はくるま海老二本といかと、貝柱のかき揚げの豪華な上天丼で、飯の上の天つゆもいい味加減であった。
天丼のときの演目は、溝口健二の名作、残菊物語で、名門の御曹子役者と、女中のお徳の悲しい恋は、翌日から病院中を沸かす大人気《ヒツト》になった。その三日目が五月の二十八日だった。
昼すぎに、中庭に三台のトラックがついた。ぼくは全然知らなくて、右翼の内科病棟の一室で、午前の二度目の公演をやっていた。
騒ぎは前庭の見える窓際の部屋から、まるで津波のように拡がってきた。
「トラックが三台も来てるぞ」
既にそれが異常なことであった。蒙古兵が剣付鉄砲を持って、何人か飛び下りたのも、いつもと全く違う。ガラス窓にしがみついていた目の敏《さと》いのが悲鳴のような声を上げた。
「吉村隊長が乗っているぞ! 暁に祈るであんまり殺しすぎて人が足りなくなったんで、自分から受取りに来たんだ」
患者たちにはそれは大変な衝撃であった。吉村が直接来ているという一言が病院中をパニック状態に陥らせた。多くの患者たちは、あわてて自分の部屋に逃げ、毛布をひっかぶり、ことさら苦しそうに唸り声を上げたりしだした。全く平気なのは、既に足や手のない五十人以上も居る不具者だけであった。
ぼくも、それ以上公演を続けていられず、途中で臨時に切り上げて、事務室の方へ戻ろうとした。こんなときでも、身分は保障されているつもりだったから、ぼくだけはまだ不安はなかった。
ふだん廊下にいる蒙古共和国側の管理人の医師や事務職員には、かなり早くに連絡があったらしく、病院の回りにある自分の官舎にみんな姿をかくして一人もいない。
ぼくが事務室に戻ると、そこも外からぴったり鍵がかけられて戸の前に剣付鉄砲の歩兵が、きびしい顔で立っていた。その戸を閉めきるまでに間に合わなかった二人の事務職員と、ぼくとの三人は、もう中へ入ることができない。
「ドワイ、ドワイ」
扉の所から追い払われる。そこへ吉村隊付きの蒙古共和国の将校がやってきて、ぼくら三人も、患者と一緒にトラックに乗るんだと指示した。三人ともことの意外さに、呆然とし、猛烈に抗議したが、頭から相手にされなかった。
吉村は、もう足や手を切断してしまったため、病院から出て行かないと決った患者が安心して思いきって投げつける罵倒《ばとう》が気になるらしい。玄関まで来たが、中には入ってこなかった。代りに吉村隊の管理者側の将校や下士官が我物顔に各病室を歩き回り、次から次へと指名して、荷物をまとめさせ、下に預けてある軍服に替えさせていた。三台のトラックなら詰めこむと、百五十人は入る。
治って軽作業に従事している内勤兵は、根こそぎだったが、とてもそれでは足りるものではない。少しでも歩けそうなものは、ひきずり起された。五百人の中から百五十人も持って行くのだ。無理を承知でのことであった。
ぼくら三人はやがてその兵士の一人に付き添われて、三階の内勤職員室まで上って行き、部屋に置いてあった北シナ派遣軍の現役兵当時から着ていた、古いつぎはぎだらけの軍服に着せ換えられた。いつもは賑やかで平和な談笑があった三階の部屋には、もう誰一人残っていなかった。他の人々は直前に連絡を受け、皆職員室の扉の中に駆けこんで無事なのだ。
これは彼らを一般患者と間違って、吉村隊の歩哨たちに持って行かせないようにするための病院側の、す早い対抗手段であったのだろう。意識的か、連絡が間に合わなかったのか、二階の部屋で公演していたぼくと、患者の部屋にいた事務員が二人その選に洩れてしまったのだ。紙芝居の台や絵は、ここの病院の物なので、三階の部屋においてくるより仕方がなかった。先日あの激しい手術を見せられた友広曹長が今ではうらやましくて仕方がなかった。
もう一つ辛いことがあった。
多くの兵士に交って、ぼくも中庭に集合した。昨日まで、ぼくの公演の回ってくるのを喜んで、さまざまにお世辞をいったり、褒めたたえてくれたりした人が、列の中にぼくが交っていても、まるで知らぬふりをしている。中にはむしろざまあみろというような、軽蔑の目で見る者もいる。誰一人声もかけてくれない。勿論誰も他人のことなど考えてはいられない。それどころではなかった。明日から確実に急速に近づいてくる、疲労死、処罰死、にどう対抗して生き抜いて行くか、その怖れだけで一杯であった。
列を正したり、車に乗せたりするのは、体の強そうな吉村の部下の日本人の仲間たちであった。そろって六尺棒を持っていた。遠慮して病院へは入ってこなかったが、前庭ではもう言いたい放題であった。
「よう長いこと、ごくろうさんでしたな。随分ぶったるんで、白米の粥をたらふく喰べて楽しい思いをしただろうが、もうそうはいかんでえ」
「これからは地獄の一丁目があって、二丁目がねえところよ。もう一度生きて戻りたいなんて思うなよ。戻りたいなら、仏様になってからだからな」
百五十人の元患者は、うなだれて物もいえなかった。やがて棒に追いたてられて、トラックによじ登る。荷台に坐る余裕はなかった。
立ったまま、回りから押すようにして詰めこまれた。満員のトラックが急に走り出したが、隙間なく詰めこまれていたので、落ちこぼれたりする者は出なかった。荷台の四隅には棒を持った連中が乗って、両手を拡げて人々を支えながら睨みをきかせていた。誰ももう病院を懐かしんでいられない。早く諦《あきら》めてしまって、これからの生活のことを考えなくてはいけない。あれはひとときの夢だったのだ。
車が激しく揺れると、服や装具や、まだ熱のとれていない汗くさい体がこすれあった。
誰かがふと冗談めかして
「うんめいーは、したがうものをー」
といいかけたが、しらけてしまって笑いも囁《ささや》きも起らず、途中でやめてしまった。とても冗談をいえる雰囲気ではなかった。
突然ぼくの頭の中には天丼のことが駆け巡った。後四日たったら、また月曜日が来る。先日は天丼で思いきり楽しんだ。大量のものがほとばしり、快楽の感覚は甘く切なく限りなかった。そのことが終った後、そうだ来週こそは待望の鰻丼の幻想を頭の中に画《えが》こうと決めていた。
大串の鰻の肉が厚ぼったい。皮の裏が、少しはがれて紫色の脂肪の裏面がのぞいて見える。飯は丼《どんぶり》に山盛りに盛られている。三分の二ぐらいは、タレがかけられて褐色に色がついている。炊きたての飯だから、湯気がたっていて、そこに焼き上ったばかりの鰻の肉がのると、汁が少し蒸発する音が聞こえる。
これなら上下にこすっているうちには、幻想は甘くふくらみ、これまでに味わえなかった最高の快美感が押しよせてくるだろう。
惜しいことをした。
明日からきびしい作業場で、肉体が酷使されれば、体力は極限まで衰えて二度とこんな幻想の世界で一人遊ぶことは許されないだろう。カツライスから始まった誰にも言えない秘《ひそ》やかな浮気もついに鰻丼まで行けず、天丼で終りをつげてしまった。これで生命もすぐ燃えつきるだろう。
走って行くトラックの上で立ったままのぼくは、人と人との圧力で体を支えられながら、限りない痛恨の思いを、噛みしめていた。
[#改ページ]
[#見出し] 四章 われ暁に祈るまじ
一月《ひとつき》に三回は帰還の新しい情報が、今度こそは本当だという註釈をつけて、真剣にささやかれ、幾らもたたないうちに自然に消えていった。そのたびに失望は濃くなり、もう絶対に欺《だま》されないぞと俘虜たちは固く自分に言い聞かせる。だがまたどこからか噂が伝わってくると、お互いに夢中になってそのことを語りあった。
表面は必ず否定して、話に水を差す役回りを受持つ人も何人か出てきた。
実はそういう人こそ、単純に賛成して喜ぶ人より、余計に噂を信じていた。憎まれ役を承知で皆の前で否定してみせたのだから、以前に信じきっていて、肩すかしを喰ったときのように、今度だけは、自分の説がうっちゃられてほしい。自分は昔からくじに外れ、予想が当らず、運が弱い男なのだから……そういう願いで、真顔で帰還説を打ち消しているのだった。
吉村隊では労働が他より三倍もきびしいだけに、帰還の情報も、よそよりは何倍も沢山発生し、消えていった。
これまで楽な病院勤務をしていたぼくが、悪名高いこの収容所へ運ばれてきたのは、不幸中の幸いといおうか、五月の終りだった。
北の緯度の高いこの国でも、やっと雪が消えて、生きていくのに一番楽な季節が始まろうとしていた。おかげでぼくは、全蒙古共和国の収容所の中では最も苛烈《かれつ》で陰惨であるといわれたこの収容所の生活を、季節としては楽な一時期に送ることができた。それでも、毎日が肝《きも》の冷えるような思いの連続で今日もよく無事だったと、夜眠るときには、必ず改めて考える生活であった。
その楽な季節も、春、夏、秋と合せて三カ月しかない。夢中になって作業定量をこなしているうちに、三カ月がすぎてしまっていた。
誰もが、冬場に柱につながれ、凍傷で死んで行く前に、この収容所を出て日本への帰りの旅に出発したいと、あせりに似た思いで考えていた。
蒙古共和国の冬は九月の初めには気配を見せる。三度目の怖しい冬が目の前に迫っている。そのころのある朝、ぼくはまた、明け方には必ず起る叫び声に目をさまされた。
ほんのひとときであるが、胸が少し痛む。
しかし他人より自分が大事。寝返りうって、音を背中にするといくらかでも響きが小さくなる。無理に眠ろうと努めた。
本日の作業定量未遂による犠牲者は二人だった。ここは他の収容所でも、あまり働きのよくない人々が、自然の吹き溜りのように集められてくる。ある程度体格の面でも選ばれた若い兵隊たちの労働力より、予定捕獲人員の足りない分を、占領軍によって無差別に一般市民の中から掻《か》き集められた、居留民団の人たちの方が、年齢も高く作業能力も低いのは当然で、今日の二人も、四十代にかかった居留民団の人たちであるとのことだった。
正門のそばにある電柱に、襦袢、袴下だけの姿で、後ろ手にくくられて終夜立たされる。処罰は、夕食後の二時間の特別作業の後で十時から十一時過ぎに始まる。ぼくが来たのは、夏場のことなのでこの処罰での直接の凍死者は出なかったが、それでも明け方の叫び声はいつも悲痛にひびいてきた。
夏でも北の国の明け方は寒い。薄い木綿の襦袢、袴下だけで立っているのは辛く、全身を動かして寒さから逃れようとする。やがてそれだけでは耐えられなくなる。父や母、兄妹の名を叫び、故郷の妻子に、最後の救いを求める。その叫び声が、いつのまにか『暁に祈る』という、兵隊としては精一杯しゃれたつもりの言葉で表現された、悲しいジョークだった。
朝から夜中までの労働の疲れで、死んだように寝息もたてずに眠っている人々の深い眠りの中へ、叫び声は容赦なく入ってくる。
数日後の昼の作業中、この悲鳴のことを隣りの兵隊に話しかけたら、もう一年以上もここにいる先輩は咎《とが》めるようにいった。
「冬などはあんなもんじゃーねえな。生命の終るときの響きだ。寝ていてもこちとらの脳天に突き抜けるよ」
厚い手套《てとう》をしていても、縫い目の綻《ほころ》びから入る寒気で凍傷にかかり、紫色に腫れて腐って行く。白い木綿の布一枚でほうり出されることは、死刑以上の残酷な処罰だった。
作業の手を少しも休めずにそういう兵士の言葉に、まだ本物を見てないぼくは背筋まで慄然《りつぜん》としてきた。いつまでも、この収容所にいてはいけない。いつかあの処刑者の中に入れられる。そう思っても、まだどうすることもできない。
新しい入所者がやってくると、いつも全員を並べて収容所長の吉村少佐が得意そうに訓示する。
「ここは地獄の一丁目だ。ただし、二丁目、三丁目のない行き止まりだ」
言葉のように、もうどこへも行きようのないどん詰りの世界であった。
ぼくは軍の組織に捕えられる前、映画のシナリオ・ライターになりたかった。日本でまだ封切られていない、フランス映画の脚本を誌上紹介で幾つか読む機会があった。その中に、ジャン・ギャバンのフランス軍兵士が、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムが収容所長をしている、ドイツ軍の俘虜《ふりよ》収容所を、脱走する筋の映画があった。
途中美しい戦争未亡人との恋などもあり、雪のアルプスを徒歩で越える。追いかけて来た兵隊が、脱走者が国境を越えてスイス領に入ったのを知ると、鉄砲を空に向けて射《う》つ。
シナリオで読んだ限りでは、ひどく、いきなラスト・シーンだった。
現実はとてもそうはいかない。この大砂漠の真中では、国境に辿《たど》りつける可能性は無に等しい。せめて何とか帰還の日が来るまで、処罰の番が訪れないようにと願うだけだった。
その日の泣き声はばかに大きかったし、ぼくもまた夕食後の作業の手順が悪く、かなりおくれてひやりとしたので、身につまされて余計眠れなくなってしまった。
この処罰を命ずるのは、俘虜たちの管理に当る蒙古共和国側ではなく、さらにその後ろで国政全体に睨みを利かしている北の宗主国の役人でもない。また大概の収容所で日本側の組織の長になっている、旧日本軍の将校でもない。
ここへ来る前に、一年と少しいた川沿いの収容所では、人々の生殺与奪の権を、陸軍刑務所受刑中に抑留された関西のやくざ出身の三人組が握っていた。かなり似た過程で、ここでは元満洲国内で兇悪ともいってよい力で、現地人の締めつけをやっていた、池田という憲兵曹長が全員を掌握していた。帝王であり、絶対者であり、処罰の命令の決定者であった。
池田曹長が吉村少佐である。吉村は妻の実家の姓で、祖国へ帰ったら、入婿してなるはずの苗字だそうで、別に矛盾はない。少佐の方も、勿論本物ではないが、多少の根拠はあった。収容所内の隊員の掌握と作業督励の能力を買われて、蒙古共和国軍の収容所長ゴンボジャップ大尉から特別に任じられた階級だと称して、皆を納得させている。そしてここでは蒙古共和国軍の大尉が、日本人を少佐に任命できるかどうかという疑問は一回も論議されたことはない。あまりに酷《ひど》い肉体の疲労は、頭脳の方もいつも霞がかかったような、しまりの悪いものにしてしまう。多分脳細胞を動かすエネルギーが足りないからだろう。
ぼくにとっては、ここは二度めの収容所だった。いずれの所でも、人間が集団で暮しだすと、必ず頂点の王と、その下で王を守るということで、贅沢な食事を保証されている少数の貴族団と、全く何の権利も持たないで黙々と労働させられるだけの一般の人間との、三つの階層に分れる。
動物園の猿山と同じ秩序だ。
これが大日本帝国の中でなら、国家の本来の体質からも、納得できないことではないが、そういうものの否定から出発したはずの、プロレタリヤの国の中でのことだから、何だかひどく欺《だま》された感じがした。
悲鳴が耳に入ったときから一睡もできないうちに、とうとう朝飯前の作業時間に入ってしまった。
棒を持った吉村隊長の親衛隊の、もと相撲取りや、やくざの兵士たちが、眠りこけている兵士を大声でどなり、無差別に殴りつけて表へ追い出す。
「日本は戦争に負けたんだ。いつまでもぶったるんで眠っているなんて、ふてえ料簡さらすな」
ぼくも眠い目をむりに突っ張らせるようにして、もと、ラマ寺であった収容所の中庭に整列した。ここは穴蔵の兵舎でなく、地上に兵舎が建っている。
蒙古共和国の首都には、二千ずつの集団で大きな収容所が十カ所、他に郊外や、砂漠を越えた先の別の小都市に数カ所の規模の小さい収容所が散在している。隊員たちの間の移動があるし、特にこの吉村隊は、落ちこぼれが集まる吹き溜りで、作業の間にもと居た収容所の思い出話など出て、他の隊のことがよく分る。
どの収容所でも、一般の兵士の労働時間や作業定量は大体同じだ。
蒙古共和国の国家文書で、各役所、作業場には必ず配付されている、電話帳ぐらいの大きさの『作業定量帳』というのがある。それにはあらゆる作業に対して、男、女、年齢別に、一日八時間働いてなしとげられる作業量が、表示されている。
これはよくできていて、国際赤十字に見せても、充分納得されるリストだといわれている。その意味で、蒙古共和国は、決して日本人抑留者に対してひどいことをしたとはいえない。ただ一つ、これだけよくできた国家文書にも書かれていないことがある。
それはあくまで適当な環境の中で、充分な食事をとっていることが前提になっているということだ。
配給の食物の量も、決してケチったわけではない。国民の標準ぐらいは、この砂漠の中の寒い国でも何とか都合してくれていた。餓死や栄養失調による死は、蒙古共和国側には、殆ど責任がない。
ぼくが一年前にいた川べりの収容所では、幹部が食糧の分配を独占し、その一部を権力保持のために削り取った。特に少量の規定量しか支給されない、肉・野菜類は全部取り上げてしまうため、隊員は飢えて、作業定量遂行が困難になった。
吉村隊では、食糧は配給された規定分だけは補給されたが、それはあくまで八時間の労働に対するものであった。早朝五時に起されるのは七時の朝食、八時の作業出発の前に二時間、特別の作業をするためである。ここでは、夕方、作業から帰った後もまた、二時間、特別の作業がある。
蒙古共和国家のための八時間の労働は、きちんとやらせておいて、前と後の二時間ずつを、実際に町の経済を牛耳っているシナ人の商人に売った。二千人分の四時間の労賃は、一日で大統領の月給を越える。その収益を吉村個人と、収容所長の大尉とが山分けした。この絶妙なアイデアを考案し、持ちかけたのは、吉村の方だという。天才的な企業家である。俘虜たちの睡眠や休養は半分に減り、未遂行者に対する処罰は連日切れることがない。やる気とか、根性で間に合う世界ではなかった。
水が凍る十月までは朝食の前に課せられる労働は、川からの木材引き上げであった。
以前の収容所では、懲罰房の囚人専門の危険な仕事である。九月に入って急に寒くなった。それでも靴や服を濡らしてはいけないので、ズボンを脱ぎ、はだしで水の中に入る。
材木が浮かんで繋留《けいりゆう》されている所は大体膝ぐらいまでは水がある。もう冷たくて辛い。川底の石は丸いのだが、体重がかかると、足の裏がひどく痛い。四人一組になり、木をしっかり結びつけてある針金の下に平たい石をさしこみ、上を丸い石で根気よく叩いて、熱を持たせて切って行く。
離された一本の材木を、岸までは水に浮かせてひきずってきて、そこで前後に針金を巻いて、はしをのばして吊り、天秤棒で担ぐ。
こんな寒くて辛い仕事をしていても、疲労と睡眠不足でふと眠りにひきずりこまれる。下流に立っていて油断すると、太い材木がぶつかり、腹の皮をはぎとられて即死する。前にそんな例を聞いたことがあるが、ここでは二人ばかり直接目にした。
息もつかずに駆け足するような気持で働き続けてやっと定量の二本をあげるころ、他の普通の収容所での、起床の時間の七時になる。
川から上って収容所に戻ると、早速、朝食の分配、食事だ。『暁に祈る』の声のため、眠りを削られて、もう普通の作業にかかる前に、ぼくは疲労しきっていた。しかし不平はいえない。朝の作業人員の中には、縄からほどかれた昨夜の処罰者も交っていたのだ。見てすぐ誰か分った。顔見知りだった。たまたま山の作業場で、持場が隣りになったとき、話が文学のことになった。すると熱に浮かされたように、牧野信一や嘉村礒多のことを語り出した。実はぼくは、石坂洋次郎の『若い人』と、尾崎士郎の『人生劇場』ぐらいしか読んでいなかったのでいってることが分らず、話の応対に困ってしまったことがある。
食事の飯盒《はんごう》を下げて歩いてくる。
目はうつろで足もとが危なかった。慰める言葉もなかった。そんなことをしても、この環境では何の効果もない。ただ昨夜、彼の悲鳴のうるささを怨《うら》んだことを、少し内心で詫びた。まだ冬になる前だから生きていたのだ。
一時間で食事や、排便を終える。八時には整列した。十分ほど恒例の訓示がある。
それはまず
「畏れ多くも天皇陛下は、現在どれほど辛い思いをしておられるか、今日も諸君はきびしく反省してもらいたい」
という言葉から始まる。
「ことここに至り、陛下をお悩ませ申した責任は、一にかかって戦いを敗戦に導いた、我々不忠の兵士にある。いかにお詫びしても足りない気持だ。陛下の赤子《せきし》として、誠心誠意働き、限りなき皇恩の万分の一でも返してもらいたい。日本臣民として生れたありがたさを思えば、作業すること自体、胸がときめくような嬉しさでなくてはならないだろう」
……このような、大筋はどうも外れているような気がしないでもないが、実に理路整然とした訓示があってから出発になる。ここも、収容所のすぐ前に川が流れていて、木の浮橋で、対岸に渡れるようになっている。渡ると、垂直に近い傾斜で、崖がそそりたっている。俘虜たちは崖の下で一本ずつ二メートルぐらいの鉄の棒を受取り、岩肌を伝わって山へ登って行く。
殆どが岩だけでできた山だった。日本では鉄平石と呼ばれるのと同じ種類の石が、薄い層になって山に張りついている。層と層との間のかすかな隙間をみつけて鉄棒の先を入れ、石を剥《は》がす。ただし何でも剥がせばいいというものではない。力まかせに入れても十センチ以内の小片しかとれない。各辺が三十センチ以上なくては、作業定量に入らない。町の建築の素材として役にたたないからだ。
規定の大きさ以上の石板だけ地に積み、周辺各二メートル、高さ一メートルの三角の山に積み上げる。これが一|立方米《リユウベ》だそうだ。簡単な幾何学らしいが、中学二年のときで数学の理解力がストップしてしまったぼくには、本当のところは分らない。ここでも欺されている気がいつでもしていた。
もっともぼくは、一|立方米《リユウベ》の素材がなくても、でき上りの石が規定量だけあるような外見を作る詐術には忽ち熟達した。だてに東京では名門といわれた府立のナンバースクールを出ているのではない。
山へ入った俘虜の仲間は、それぞれ石の断層を見て、やり易そうな層を選んで、分散して作業にかかる。ぼくは二、三日でもう要領を把《つか》んだ。岩肌の層の善し悪しより、表面に土が露出している山肌を探すのが先だ。朝のうちに土を盛り上げて小山を作っておき、す早く石でかくしてから上へ積み上げると、全体の三分の一の労力が省けた。その上三十センチを欠ける石があっても捨てずに底へまぜてしまう。表面に形のいいものさえ並んでいれば、忙しい検査官の蒙古人は通してしまう。
翌日に石が崩されて運び出されるときに、不正を発見されても、もう場所は変っているので誰がやったかは分らなくなっている。トラックにのせる係員は別に不正摘発係ではないから騒ぎたてない。このへんが遊牧民族からやっと近代国家の仲間入りをしようとしている国の人の大らかさでもあった。
蒙古共和国側の検査官が巻尺を持って夕方登ってくる他は、あまり作業監督は来なかった。特に吉村隊長が山を登ってくることは全くなかった。はるかの下の方を二十人以上の部下に身辺を厳重に守らせて、午後三時に一回通るだけだ。作業している連中は皆鉄棒を持っているから、自分も死ぬ気で体当りすれば、必ず殺すことができるし、そう思っている者はたしかにいた。一行は山から石を投げても届かないところしか歩かない。
一行が山ひだの向うや、振返っても、個人の識別のつかない所へ去ると、あちこちから
「人殺し」
「同じ日本人を何人殺せば気がすむんだ!」
などという叫びが聞こえる。それが山にこだまして返ってくるが、犬の遠吠《とおぼ》えにも似て一層みじめになるだけで、ぼくも二、三度は大声を出してやってみたが、面白くも何ともないので、やめてしまった。
朝方よく眠っていないのに、土山の不正分がかなりあったので、夕方の四時ごろには、六時の作業終了時よりは早くでき上る見こみがついた。全部早目にやって休むことは、他の人の手前もよろしくないので、少しゆっくりと作業しだした。
ぼくとは十人分ぐらい作業場所を離れたところで、例の純文学好きのおっさんが、よろめきながら、作業をやっていた。基本の体力が弱っているところへ、処罰による不眠が加わり、半死半生の状態がよく分るような働き方であった。
といって、ぼくは助けに行ってやるつもりはない。親子でも、兄弟でも、このきびしい環境では、助けに行けない。
それは即座に自分の死を意味する。
よろめきながら働いているのを無視し、ゆっくりした動作の中で、体に休息をとりこもうとした。
はるか目の下の平地では、吉村と親衛隊の一行が橋を渡って、収容所の建物の方へ戻って行こうとしていたところだった。それを見下しながら安心して気がゆるんだせいか、ぼくは妙なことを思い出した。水道橋駅の横にあった雑草が茂った原っぱに忽然《こつぜん》としてできたばかりの後楽園スタジアムのことであった。外野席のアルプス・スタンドと呼ばれている所から見下したときと、視界の角度や遠さが似ていたし、もう一つこの突然の回想を結びつける要素が他にもあった。
中学二、三年のころだから、大東亜戦争はまだ始まっていなかった。
何新聞の主催か忘れてしまったが、第一面に『日本最初の野外劇・松竹スター陣総出演』という広告記事が連日のように、のせられた。日米開戦はまだでも、日中戦争が始まってもう三、四年はたっていて、国中は戦時色に塗り潰されていたころだったので、これはかなり派手できらびやかに感じられる催物だった。
そのころのぼくの身辺はすべて男だけの、武道、教練などの硬派の色気のないものにとりまかれ、毎日身心を絞りつくされていた。その反動で、映画、演劇、音楽などの芸能に、かつえるように憧れていたぼくは、その日を待ちこがれた。
入場無料、但し先着順で、満員の際は入場しめきりということだった。
そのころぼくには、両親や友人には、全く内緒でつき合っていた少女がいた。中学のある場所の近くの高等女学校の生徒だが、歌手を志望していて、それはまあ、当時だったら、不良少女ということだった。それだからこそ、並んで歩いているところを、巡査にみつかったら、交番に引きずりこまれて、ゴムタイヤでこしらえた鞭(通称チョコレート)で半殺しにされることが分っていても、ぼくが、ある秘密の方法で連絡すると、一緒に歩いてくれたりした。もっとも人目のあるところでは、他人のふりで少し離れて歩く。
その日は日曜日であった。自宅の近くの駅で待ち合せ、一緒に水道橋駅を下りて、二メートルぐらい離れて、お互いに充分に相手を意識しながら歩いた。
ぼくはこの少女のことを俘虜になってから、この日までなぜか全く忘れていた。後楽園を思い出して、急にまざまざと思いだしたのだった。
開会は午後五時だったが、昼にはもうスタジアムを、人々が一回りしていた。
列に入ったときには二人は並んだ。セーラー服の襟の上に揺れる髪が、ときどき風でこちらの顔の近くまでくるのを、心の中で楽しく思いながらも、周囲を厳重に警戒して、お互いに一言もしゃべらなかった。巡査や、補導係でなくても、若い男女が話でもしていたら、かならず近よってきて、文句をつけ、説教したり殴ったりする大人は沢山いた。それが時代の風潮だった。
中学生のくせにアベックでいるなんてことは、どう考えても許されない稀有《けう》のことであった。
男の半分ぐらいはカーキ色の服で、学生の制服も教練服で黒は少なかった。背広の人は少く国民服が大部分であった。女はさすがに、自己主張が強いのか、ワンピース姿の者がかなりいたが、その模様は地味だった。妙な形の膝までの半ズボンの女性の一群がいたが、それは明らかに目白にある女子大の学生だった。もっとも大半の人は、その奇妙な不恰好な制服を知らない。女の半ズボンなんて、腰がやたらに大きく見え、そこに靴下ばきのふっくらした脛《すね》がむき出しで、アンバランスで奇妙なものだった。どこの学校の娘なのだろうと、皆が好奇の目を注いでいた。
本来なら待つ間も長く退屈であったろうが、すぐそばに少女が立っている。話しかけることこそできないが、何気なく掌が触れたり、風が石鹸とクリームの匂いを運んできて、ぼくはとても幸せだった。列の中の人々にも、この二、三年の日本人には見かけられなかった華やいだものが漂っている。
野外劇の演目は『暁に祈る』だ。
出演者は先年の『愛染かつら』の超ヒットで、当時人気女優のトップであった田中絹代を初め、徳大寺伸、桑野通子など、日ごろはスクリーンでしかお目にかかれぬスターたちばかりだ。その実物にたとえ遠くからでもお目にかかれるというので、開場を待っている行列の期待は、時間とともに高まるばかりである。
あまりに人が多すぎたので、どこからか苦情が出たらしい。四時の開場がくり上げられ、三時になった。入口があけられ列は中に吸いこまれて行く。ぼくは、相当早目に来て前の方に並んでいたつもりだったが、誘導員のかなり不公平な指示で、外野の最上階の方へ追いたてられるようにして坐らされてしまった。何事も軍が幅をきかせていた時代だから、内野席は出征軍人家族にでも、あらかじめ割り当てられていたのかと思って我慢した。それに混雑のどさくさにまぎれて、白昼堂々と、少女の手を握った。どうせなら、後ろから人に見られたりしないようにと、すすんで最上階の席を選び、スカートの布地から相手の腰のふくらみが感じとられるぐらいに、体を押しつけて坐った。
こんなこともあるかと思って、父親が大事にしていたツァイスの双眼鏡を秘かに持ち出していたから、スターの顔を見るのには差し支えない。
歌手志望の少女は、自分にもやがてやってくる将来を、この催しごとの中で夢みているようだ。セーラー服の胸が、大きく上下し、目は、まっすぐグラウンドを見つめている。
席が決ると双眼鏡をズックの鞄《かばん》から出して、グラウンドを眺めた。野外劇だというので、簡単なセットぐらい作ってあるのかと思っていたら、そんなものは何もない。イギリスで行われるシェークスピヤの野外劇とまでいかないにしても、それに近いものを想像し、半ば勉強のつもりでやって来たので、かなりがっかりした。何かはぐらかされたような意外さも拭《ぬぐ》えない。
少女の方にはそんな気持はない。足もとから、人目をはばかって、そっと手渡された双眼鏡を目にあてると、一人で昂奮していた。
「わあー、すばらしい。あそこにスターの人たちが出てくるのね」
グラウンドのピッチャーの場所を中心に、二十メートル四方ぐらいの板の台が置かれていて、前方に六角形のマイクが一本、後ろに二十脚ばかりのパイプ椅子が並んでいた。
ただそれだけの、何もかもむき出しの寒々とした舞台であった。それでもぼくの周辺は温かい空気が濃密に包んでいる。女の子が一人いるだけで、人間はこんなにも幸せな気分になれるものだろうかと、世間のすべてが殺伐としている時代だけに、ぼくはもう深い感動のようなものに打たれていた。
やっと五時になった。
スターたちがベンチ席から一人一人出てきた。双眼鏡をのぞいていた少女が
「わーっ、キヌヨだわ!」
と叫ぶと、もう人目も気にせず、ぼくに双眼鏡を押しつけて
「ほら見て、見て」
とはしゃいだ。さすがにアルプス席最上段でも横の席があり、じろりと睨まれたが、ぼくはもうこうなったら、どうなろうとかまわない気持だった。
レンズには、田中絹代の女神のような優しく美しい顔、桑野通子のシャープな利《き》かん気の顔などが見えてきた。女たちは振袖の派手やかな着物を着ている。それに比べて、男優陣は背広に戦闘帽にゲートルという姿であった。
野外劇という前触れだったが、彼らがやり出したのは、近く封切る『暁に祈る』という映画の台本の一部を、交替でマイクの前で、その役の人間が朗読するだけのことであった。
特に男女二人のからみでは、頬を触れ合う近くで声を出さないと、マイクに入らない。何万人の客はそのたびにどっと沸きたつ。当の男女俳優も、台本さえ目で追っていればすむこの安易なショウに気を許して少し悪のりしていた。観客たちも、久しく目にすることのなかった振袖姿に、一種の熱狂状態になってしまった。双眼鏡を持って喰い入るように女優の顔を見ていた少女が
「大変、大変、見て」
とまたぼくに双眼鏡を押しつけた。レンズにアップされた女優の顔には恐怖の色が浮び、後ろに坐っていたスタッフたちも、総立ちになって女優の回りを囲む。瞬間、憲兵たちがこのだらけた俳優たちを捕えに入って来たのかと思った。
それは考え過ぎだった。
熱狂した群衆の一部がスタンドからグラウンドの土の上に飛び下りて、声を上げて仮設舞台に向って駆け出して行く。多分、最初はほんの四、五人だけだったのだろうし、特別の考えはなかったのだろう。ふだんスクリーンでしか見たことのないスターたちを、できればそばでもっとよく見てみたい。手で触ってみたい。そんな他愛のないことだった。大胆に飛び下りて行く群衆は男よりも、女性の方が多かった。
中央の舞台では背の高い男優がマイクに向って叫んでいた。夏川大二郎だった。
「やめてください。やめてください。時局がらを考えなさい」
なだれ現象が起った。
群衆は四方から飛び下り、我勝ちに舞台に駆けよって行く。日本最初の野外劇と称したこの映画の宣伝用のショウは始まってからまだ十分もたっていなかった。
男優や、後ろに控えていたスタッフたちは女優を守るため、円陣を作りパイプ椅子を振り上げた。
ついほんのちょっと前見た、アメリカ映画のバッファロー大隊の騎兵に似て、ひどく恰好はよかったが、双眼鏡で中心を見ていたぼくは突然許しがたい気持でカーッとなった。
中央にいた徳大寺伸の体に田中絹代がすがりついている。胸の中に抱かれている。怖し気に目を伏せた顔が相手の顔と触れ合い、もしかしたら唇がついているのではないかと、思わせるぐらいの異常接近だった。
この非常時に何ということだ。
「やめろ! やめろ!」
群衆にではなく、その二人、特にぼくは徳大寺伸に向ってどなりつけていた。
やがて係からの通報が届いたのか、各入口から何十人もの黒服の警官が、サーベルを片手で握り駆け入ってきた。とたんにグラウンド上の群衆は、一斉に逃げだした。元いたスタンドの席に駆け戻り、コンクリートにとびつくが、下りるときはたやすかったその塀もよじ登るのは大変だ。塀の上から手をさしのべて救《たす》けてやろうとする人は沢山いたが、女たちの大部分は追いつめられてうずくまり泣き出した。サーベルの鞘《さや》ごと、頭を殴られたり、背中や尻をひっぱたかれたりして、まとめて検束されて行き、マイクはスタンドの群衆にも、一刻も早く退場して帰宅するよう、叱りつけていた。押し合いながら出て行く群衆の渦の中だから、ぼくたちはもう大っぴらにお互いの背に手を回して離れないようにして階段を下りて行った。
ショウは見るも無残な失敗だったが、でき上った映画も失敗作だったらしい。愛読していた『映画評論』に、尊敬する評論家の清水晶が口を極めてこき下していたので、見にも行かなかった。
ぼくは一瞬の思い出をなつかしく反芻《はんすう》しながら、もう先が見えている作業を気楽にやっていた。『暁に祈る』の映画は失敗したが、どういうわけか主題歌だけが単独で日本中に拡がった。軍歌ほどいかめしくないのに、詞は陸軍お好みの軍国事情を唱いこんでいる。出征、輸送船、傷ついた馬、語る情景がよかった。この甘いメロディで、今までのように港や、夜、恋など唱っていたら、この曲はねじ伏せられたようにして抹殺されていたろう。
戦場の一般兵士の間にあっというまにはやった。それでなくては、あの毎日の悲惨なリンチに、こんなしゃれた名前がつくはずはない。
特にここの作業場でよく唱われた。
吉村隊長が護衛を連れて通りかかるときに、例の悪罵に交って、山のあちこちから澎湃《ほうはい》として浄土宗のお念仏か、キリスト教の讃美歌のように湧き上った。
※[#歌記号、unicode303d]ああ あの顔で あの声で
手柄たのむと 妻や子が……
小さな声であったが、それでも全員が山の肌で、鉄棒を振いながら一斉に唱い出すと、地の底から湧き出す怨念《おんねん》の唄になった。冬の処罰者は必ず全身凍傷にかかり死ぬ。これまで『暁に祈る』で何人が死んだろうか。ぼくはその紫色にふくれた死体を病院で何人も見ている。
ようやく夕方になった。
作業量の検尺が済むと、山を下りて行く。夕食の分配を終えて、空腹に詰めこむと、休む間もなく、すぐ夜の仕事が始まった。
夜は警備上の問題もあるので、作業は室内で行われる。
この国にいる人は冬場は、兵士も、一般人も、俘虜も、すべて煙突のようなカートンカという靴をはく。素材は羊毛の屑を機械で圧縮したものだ。足首が曲らないので、馴れるまではひどく歩き難《にく》い。その代り新品は縫目がないので隙間から冷たい空気が入らず、凍傷予防にはいい。
このフェルト靴にも、一つだけ弱点がある。氷が硬く凍っている真冬ならいいが、春先にとけかけ地面が濡れてくると、底のフェルトは、ボール紙と同じに濡れて、崩れてすりへってしまう。
結局毎年の春には、脛の煙突部分は一つも痛んでいないが、底がすり減り穴があいた靴だけが何十万足も残される。底板さえ新しいのを縫いつければ二年目も使える。これが国中の俘虜用カートンカになった。
夜の作業は、その底板を縫いつける作業であった。
ぼくらはまず、新しい底板の周辺に錐《きり》で穴をあける。本体の一部を裏返しに曲げてあてて糸で縫いつける。錐も針も、材木を結びつけてあった針金を拾って、石で研《と》いで、自分で作る。糸もその形で支給されるわけではない。麻袋のわりあてがあり、その横糸をはしからほぐして、何本か縒《よ》り合せて、縫糸にするのだ。
この作業も定量をやり終えなければ、勿論処罰があるのだが、おくれても、所内に一カ所だけ、油をともして明るくしてある場所があるので、皆が眠ってからはそこに行って、一晩中かかってやればいい。滅多に処罰者が出ない唯一の定量仕事であった。
ぼくは早目に二本を終えた。もう眠るだけだ。横になった。昨夜はあの民団の、純文学のおっさんの『暁に祈る』に目がさまされて、少し眠りたりなかったので、忽ち深い眠りにおちいった。
ところが、その夜変なことで目をさました。音でも動きでもない。匂いだった。パンの匂いがする。明りも消えているので、よく見えないが、少し先の寝場所に一人の男が端然と坐っているのが分った。パンを喰べているのだ。
回りの人はそちらを見たり、半ば首を向けているが、男は一言も口をきかない。
パンの事は、個人の大事な私事だから、お互いに口を出さないことになっている。その男は膝に二キロの煉瓦型丸一本を抱えて、はしからちぎりながら、無心に喰べていた。
ぼくからの距離で、嘉村礒多や葛西善蔵を熱っぽく論じた、あの民団のおっさんと分った。人々の視線も怖れず、正座し、黙々としてパンを口に運ぶ姿には、もはやいかなる者もよせつけない鬼気迫るものさえあった。
「どうしてパンが手に入ったんだろう」
匂いが空腹を刺激する。隣りの兵士にたずねた。
「ライカをかくし持っていたそうだ」
「カメラを」
「若いときカメラ道楽だったらしい」
「相当な金持だったんだな」
カメラなんてそう誰でも持てるものではない。ライカなら一台で三軒続きの長屋が買えるほどの値かもしれない。反対側に寝ていた元下士官が、ささやいた。
「これまで荷物の中にかくしておいたらしい。さっき食事分配のときに、水運びに来たシナ人の人夫に手渡しているのを見た。代りに一本パンをもらったそうだ」
「どうせこのままじゃ、また罰を喰う。自分で体力をつけて生きのびようと考えて、ライカを売ったんだろう」
多少は人々がしゃべるのも耳に入るのだろうが、その人は一切きこえないようだった。ぼくは、そういえば、加能作次郎なんて、全くきいたこともない作家を妙に褒めていたなーと、改めて数日前の思いがけない冗舌の文学論議を思い出した。黒パンの醗酵素の強い匂いが、空気の中にこもるので、ぼくはこの夜もまた寝付けなくなった。彼は約三時間かけて、ゆっくりと二キロのパンを喰べてしまった。膝の上に散ったパン屑も一つ一つ丁寧につまんで口に入れた。
それから立ち上って出て行った。上からたっぷり入れたので、下から出したくなったのだろうと誰も気にしなかった。
パンの匂いが消えたので、ようやく安心して眠りに入れた。そのまま彼のことを忘れてしまった。
明け方の起床の号令がかかって、朝の川っぺりの作業に行こうとしたとき、人々は初めて彼の意図を知った。第一兵舎の窓の手すりに綱をかけ、首を吊っていた。
死体は見せしめのためか、そのままにしてあった。横目で見ながら、今日も定量以上の朝の余分な作業で、もう冷たくなった水に入りに行く仲間にとっては、その覚悟の死はむしろ羨ましいものに思えたようだ。ぼくには純文学が好きで、多分写真も好きだったその人の死は、分身を失ったようでひどく悲しかった。
この国では、黒いパンか、またはパンに焼かれる前の粉で作った粥が主食である。
粥にはたまにその中に馬の肉か内臓が交ることがある。ある一定量の支給があるらしく吉村隊では別に茹《ゆ》でて、一人に一切れずつ正確に飯盒の中に入れて配分した。少くともこの点では、以前いた関西やくざが支配していた収容所と違って、幹部が鍋物にして全部喰べてしまうということは無かった。
そうしなくてもこの収容所の朝の二時間、夕方の二時間の労働収入が全部入る吉村は、町からもっと贅沢な物をいくらでも買ってこられる。蒙古共和国側の附添人つきの条件ではあるが、町の中にある、高官用高級レストランで、洗練された料理を、ウオトカと一緒に喰べることだってできた。とった料理の値段も後で出したチップも大統領以上だったという噂さえある。
ぼくたちにとっては、一切れではあっても朝の粥に入っている肉は大変な楽しみであり、その大小は一日中頭の中をしめる喜びや悲しみでもあった。
同じ九月の半ばごろであった。夜食後の靴直し作業中に、あるニュースが忽ち収容所内に拡がった。もとは第二兵舎の縫製工の発見らしいが、ぼくのいた第一兵舎まで伝わるのに十分もかからなかった。
野天便所の大きい糞尿のプールの中に、馬が一匹沈んでいるというのである。馬の管理は炊事で、生きた馬の屠殺もする。間違って逃げて、糞壺へ落ちて死んでしまったのだろうというのが、その衝撃的なニュースを聞いたときの人々の考えだった。
しかし中には民団系の人で、以前内蒙古人との接触があって、この民族の風習に詳しい人がいて、別の説を主張した。
「馬はわりと利口だから、放馬しても自分で便壺へ飛びこむようなことはしない。それは病気で死んだ馬だ。蒙古人は、ジンギス汗の時代から病気で死んだ馬は絶対に喰べない。しかしほうっておくと、我々俘虜の連中が喰べてしまうと思って、わざと便壺にほうりこんだんだろう」
聞いた人々は、実物を見たくて、皆便所へたった。プールのような便所は、いつもよりも、大勢の人間がとりかこみ、のぞいており、月の明るい夜だったので塀の所にある望楼の歩哨が、不安がって大声で
「ドワイ、ドワイ」
休みなくどなっていた。たしかに糞尿の中から馬の首が見える。
「勿体ないなあ」
「何とかならないかなあー」
と皆はそういいながら戻って行く。どうにもならない。その日も靴直しの作業を終えると、皆は思いを便所に残して眠りに入った。
ところが、夜中になって便所から戻ってきた者が近くの兵士たちに小声でささやいた。
「馬を便所からひきずり出そうとしている連中がいるぞ」
それは小声のご注進だったが、忽ち全収容所中に、耳から耳へと伝えられて拡がった。
「歩哨は何もいってないのか」
「ああ、どうもその仲間が買収したらしい。代りに仲間の一人が兵舎の入口で張番して便所へ行く人間を制限している」
「なぜだね」
「一度に全員が便所に行けば、何事が起ったのかと大騒ぎになるからだ」
ぼくは飛び起きて、入口へ行った。彼らが掘り出す現場をせめて見たかった。糞にまみれていても、これは食物だ。今の生活では大変な事件だ。入口には三十人以上の兵隊が止められており、押えている男も殺気だっていた。
「こんなに便所へ行きたい人間がいるはずはねえ。喰う物も喰ってねえで、出る物もそんなにあるはずがねえだ。どうせ見るだけならやめれ。目の毒よ。歩哨に生命がけで交渉して掘り出しにかかった仲間以外は、臓物の一片だって分けてやれるものでねえだよ」
その男は威勢よくそういった。元気のよいのには、多少のわけがあった。
吉村の親衛隊には属さない一般俘虜で、定量の仕事はきちんとやらされている仲間ではあるが、昔、吉村が池田憲兵曹長時代にいた部隊から一緒だった、この収容所生え抜きの兵士だった。いくらか炊事からも優遇措置があり、作業にもお目こぼしがあった。農民と比べて、下級の足軽ぐらいの権力は持っていた。
彼らが親衛隊に根回ししたらしい。外蒙古の歩哨にも誰かがしまってあったハンカチか、匂いの良い石鹸を取り出して買収したのだろう。
ぼくは三十人が二人ずつ行って順に帰ってくるだけ待たされてから
「よし行け! できるだけ早く帰ってこうよ」
と肩を叩かれて、やっと小便に駆け出して行った。
プール型の野天便所には、二十人ぐらいの兵隊がとりついていた。二人ばかり、ふんどしも外した素っ裸で、糞の中にもぐり、馬の首に縄をかけていた。他の者は、その縄を声を出さないようにしてひっぱっていた。
収容所には水はない。飲み水は川まで行って飲む。炊事の水は、夜があけてからシナ人の人夫が、馬車に水槽を乗せて運んでくる。
ひきずり出しても馬の体についた糞尿を洗い落すことはできない。どうするのかと、他人《ひと》ごとながら心配になったが、小便も出きって、見ている時間も尽きた。少し長目の時間をかけてしずくを切ったが、それ以上はもたない。仕方なくまた兵舎へ駆け戻った。
いつもなら夜中に便所へ行った後は、そのまままた倒れるように眠りこんでしまうのだが、その夜はいつもと違って、なかなか眠りにつけなかった。
それは正直にいって、嫉妬の感情であった。
翌早朝の集合の直前にまたたしかめに便所へ行った。そこにはもうあの集団は一人もいなかった。川へ向う行列の中で、今回ばかりは誰もが昂奮して、肉の行方について語った。
情報は忽ち伝わった。
二十人の中で、一人、食肉処理を十五年も業としてきた兵士がいた。彼は荷物の中にひそかに商売用の鋭利な刃物をかくし持っていた。召集の一等兵だが、予備役の三度目の応召だから、年は三十を越し、その経歴と腕力で、仲間の中で一目おかれていた。作業はこの男の提案で行われた。自分で高言した通り、一旦、外へ引きずり出された馬の死骸は、ほんの十分ばかりで、すっかり皮をむかれ、その肉のどこにも汚物は一つもついていない見事な解体ぶりだった。ただし皆がほしがった内臓は、さっさと取って皮と一緒に再び糞の中へほうり投げてしまったそうだ。
「人間、欲かいてはいかん。馬は病気で死んでいるで、肉は大丈夫じゃが、モツはだめじゃ」
誰かそのときそばで見ていた者が口まねすると、皆はため息をついた。せめてそのぐらい土の上に残しておいてくれてもいいだろうにと思った。多少の糞尿なら川で洗っても喰べられるのにと皆は口惜しがった。二十人はさっさと肉を骨から離して、持ってきた袋に包んで帰った。
「それじゃ、骨はどうしたんだ」
これも半分悲痛な声で聞いた男がいた。この国へ来て、外蒙古共和国人が骨を石で割って中の髄をすするのを見て、分けてもらって味を知った者が何人かいた。練り歯磨のように中から出てくる白い髄は、話によると、とてもうまいそうだ。洋食に詳しいのが、チーズのようだといったが、その肝腎《かんじん》なチーズというものを、見たことのある者、知っている者は、他には只の一人もいなかった。ぼくも全く知らない。それで心の中に秘めたあこがれの喰べ物になっていて、もし生きて日本へ帰れたら必ずまっ先にチーズというものを喰べてやろうと思っていたので、骨もまた皮と一緒に容赦なく便所に投げ捨ててしまった、さっきの男がひどく憎らしかった。
九月も二十日に近くなると、急に冬の気配が濃くなった。僅かに見えていた緑は、黄色く枯れ、それも地面に吸いこまれるようにして無くなってしまった。
この国で迎える三回目の冬が近づいてくるのが、身にしみて分った。
ぼくは働きながらしょっ中考えた。これから急激に増してくる寒気の中で、果していつまで作業定量をやり抜いて生きて行けるだろうか。石の山の見かけの立方米《リユウベ》を増すインチキも、土が凍って石以上に固くなり、鉄棒を当てて、火花が出るようになったら、もう不可能だ。去年の病院勤務での死体の穴掘りでよく分っている。
あらゆる条件を頭の中に入れて分析してみた。多分十一月まではぎりぎり頑張れるだろう。しかし軍に入る前に労働を専業としていたことがないので限界がある。冬を越して来年まではまず不可能だ。いずれ処罰の網にひっかかる。
そのときは、すりきれて、下にふんどしもしていないズボン下に、薄いシャツ一枚で、電信柱につながれ、明け方『暁に祈る』だ。多分、父や母の名や、弟妹たちの名など呼ばないだろう。『暁に祈る』の野外劇を一緒に見に行った少女の名を呼ぶかもしれないが、いかにも未練がましい。できれば、日本軍人だから、最後の絶叫は、心をこめて「天皇陛下万歳」といって死にたい。皆の耳にとどき、眠りをさますぐらいに大きな声を出してから、野垂れ死にしてやりたい。
はるか祖国におられる陛下のお耳に、忠勇の赤子、ここにありと、お知らせしたい。
そう心を励ますと、一時の安心を得られるが、忠誠なる尊皇の心情がひょいとゆるむとすぐに、病院で勤務していたとき、ここからトラックで運ばれてきた沢山の全身凍傷のむごたらしい紫色の体が思い浮べられて参った。
そんなことばかり考えているうちに、どうせ全身凍傷で苦しんで死ぬなら、思いきって脱走してみようかと考えるようになった。
駄目でもともとである。
作業のあいだ、しきりにあのフランス映画のシナリオのなかの場面が明滅する。
それはボロ布を着て、只ひたすら逃げて行くぼくの姿に重なる。
映画ほど甘いラスト・シーンはなくても、生き残れる手段が千に一つ見つかるかもしれない。
処刑されるよりはましだ。
それにもう一つ、学生時代、本郷の帝大前の古本屋で自家出版して、申込者にだけ分けてくれた河口慧海の『西蔵旅行記』も思い浮べた。
手に入れたときは、あまりの嬉しさに七百頁の本を一晩で読んでしまった。
そしてその後、何度も何度もくり返して読んだ。あの人だって、たった一人でヒマラヤを越え、チベットへ入ったではないか。それにもともと、中央アジヤや、シルクロードは少年時代からの憧れの土地ではなかったか。今、その土地のはしにいて、何も逡巡《しゆんじゆん》することはないではないか。
蒙古語だっていくらかは分る。
まっすぐ南へ向おう。歩いて歩いて、歩きぬけば、やがては尽きなん蒙古の砂漠だ。
要は途中の食物さえあればいい。
この蒙古共和国の都ではだめだが、都を離れて集落へ出れば、蒙古人の天性として、旅人を非常に大事にする習慣がある。どこかで少し働いて、何回分かの食糧をためる。そして旅を続ける。
最初の何回かの僅かの余分の食糧さえ都合がつかないのに、そこを飛び越して考えると、何だか、この中央アジヤ突破行が可能のように思えてきた。
勿論、脱走は、ここでは最大の犯罪として重く罰せられるが、その処罰が吉村の手を通り越して、北の宗主国の刑法によって処断されるということが、却ってぼくに甘い期待も持たせたのかも知れない。あの白人たちが収容されている牢屋の、洗面器に入っていたスープの中の肉の塊りは、思い出しても、唾が出てくる。
どうせ天皇陛下万歳を叫ぶなら、吉村隊の『暁に祈る』の電信柱でなく、軍事法廷の銃殺柱の前で叫びたい。ぼくの大学の先輩の脇光三と同じように目かくしを拒否し、何か敵国の赤十字に寄付してから、一杯酒を飲んで恰好よく死にたい。
勿論これまでも逃亡者はいたが、大概、歩哨に見つかって射殺されていた。しかもそのたびに塀や門があちこち補修されて、この収容所からの逃亡はひどく難しくなっている。それでも一旦、死を前提にして腹を据えてしまうと、さまざまの方法が浮んでくる。
収容所よりは作業場の方がずっとやり易そうだ。やり損なったら死んでもいいなら機会は幾らでもあった。
九月の二十日に入って、急激に寒さが増して、特に朝の川の作業は腹の中まで冷えこんで辛い。
多分定量未遂はこの作業で出る怖れがある。手がかじかんで、針金を切る石が上手にぶつからない。今でさえ作業はおくれ気味だ。もう実行する時期が来ている。できるだけ収容所から離れた場所から逃げ出す必要がある。それには石切り山の作業場から飛び出すしかない。作業定量の検尺がある六時より前は無理だ。検尺が終るころは、もうあたりは薄暗くなっている。広い山のひだの間にかくれてしまえば、皆が誰も気がつかないで収容所へ戻ってしまう確率が高い。もしその時点で騒ぎたてられたら、下痢で止むを得ずしゃがんでいたことにして、物かげからズボンをひっぱって出て行けばいい。
連中が川を渡りきるまで気がつかなければ、すぐ反対の方向に走り出すことに決め、二十二日に決行することにした。
定量一|立方米《リユウベ》の石山を積み、蒙古人検査官の検尺を終えると、小便するふりして後ろの山陰へかくれた。全員はもう薄暗くなった山を、ぞろぞろ下りて行く。下で整列して、浮橋を渡って帰って行くのが見えた。
別に気づかれていないようだ。五列になって細い橋を渡って行く。
これで収容所に戻って食事が始まるまでの一時間はまず安心だと分った。ただし、もう取り返しはつかない。この収容所の兵の目の届く範囲で逮捕されるとまずい。蒙古共和国側がミスを内済にするため、吉村とその親衛隊の手に罪人の身柄を預ける怖れがある。この場合が一番怖しい。まず半殺しにされた上で『暁に祈る』で確実に不名誉の死が訪れる。
闇の中を必死に走り出した。死ぬなら一発の弾丸で楽に死にたい。
九月の二十二日は、半月の夜だった。月が出てくるまでにも少し時間があった。外套を持ってこられないので出がけにできるだけ下に着こんでいた。
ともかくゴビを越えなくてはならない。河口慧海だって一人で西蔵へ入った。絶対駄目とはいえない。あの映画のシナリオだって、雪の中に小屋があり、ジャン・ギャバンは美しい未亡人と、夢のような楽しい日を送ったではないか。
ひたすら山を駆けた。
十キロばかりの平原を越えると、木材班のいる森林のある山脈がある。そのあたりはもう首都とはかなり離れた郊外といってよかった。
夜中に近いころ、やっとその大きい森のある山に近づいた。細い険しい道が続く。もし食糧があれば、一年や二年かくれていられそうな黒く深い森だった。空を見ると、水彩絵具のブリキ箱の絵でよく知っていた三つ星がちょうど頭の真上に、くっきりと光っていた。
考えてみれば明日の飯も持っていないし、冬の衣料もない、絶望的な状態でありながら、今まで自分を縛っているものから解放された思いで、心は浮々としていた。このまま山を出られずに飢え死にしても、きっと後悔することはないと思った。
山をどんどん登った。頂上近くまで行って、明日はゆっくり地形を見定め、太陽の位置から南を探り、まっすぐ駆け出して行こう。途中現地人の移動住宅の包《パオ》があったら、そっと近寄って、食糧を貰おう。
険しい登りも、苦にならなかったが、突然そんな太平楽な思いが根こそぎひっくり返る恐怖に襲われた。山の頂上から、赤ん坊が泣いているような悲しい声が長く尾をひいて聞こえてきた。今まで考えもしなかったので、背筋がいきなり凍りついた。
月に向って吠える狼の声だった。幾重にも山脈が重なっているらしく、その声は、山にぶつかり、三度ぐらいこだまする。この山ではなさそうだが、足の早い獣だから感づかれたら、もう助からない。これまで作業場から、彼らが遠くの尾根を並んで通り抜けて行くのが、くっきりとしたシルエットで動くのを見たことは何度かある。集団には近よって来ない。しかし一人や二人だと分ると、いきなり全部で飛びかかってくるそうだ。一ぺんに七十二発の弾丸がとび出す短機関銃《マンドリン》を持っている兵士でも、三人以内では、喰い殺されてしまうことがあるらしい。ましてたった一人で、何の武器も持っていない。
銃殺柱で、目かくしを拒否し、赤十字に少し寄付して、最後の酒を一口飲み、天皇陛下万歳というのは難しくなった。ましてウイグルや天山に逃げることはもっと難しい。狼に喰われると思うと、急に空腹になってきた。朝喰べて以来、何一つ口に入れていない。今ごろ仲間たちは、四分の一の黒パンをもらって、少しずつかじっていることだろう。
後悔してはいけない。自分が選んだ道だ。ただ狼にだけは喰われたくないと思った。
自分が腹の皮がくっつきそうなほど空腹なのに、他の動物の飢えをみたしてやることが面白くない。身動きするのをやめて、かたわらの木の根っ子にうずくまった。動きさえしなければ感づかれる危険は少くなる。
木によりかかり、足をのばした。寒いが疲れていたのか、いつのまにか眠ってしまっていた。
気がついたときは、空に陽が高く登って、木々の葉末から、黄金色の光りをこぼしていた。
立ち上って歩きだしたが、もう足がまともでない。もともと栄養がないので、二食抜かすと体がもたない。病院の死体解剖室で働いていたとき、竹田軍医から見せられた、患者たちの大腸を思い浮べた。大腸のはしや、直腸に近いあたりは、体への栄養補給で消耗している。腸壁が、紙みたいに薄かった。中には腸が溶けて無くなりかけていた者さえいた。ふらついて歩きながら、内臓の一部を燃やして生きて行く。その燃料が、後何日続くか心細い。
むしろ歩いているうちに自然に倒れて死ぬんじゃないかという見込みが強くなった。だが最初に死んでもいいという覚悟を決めてやったことだから、途中で次から次へと見込みが違って来て思いもかけない死に方になりそうになってきても、少しも怖しくなかった。
辛くも悲しくもなかった。透明で無心の世界にいた。陶酔と恍惚だった。
足だけが本能的に自然に前に出て行く。それを止めようとする気も起きなかった。行動に対するコントロールは全部失っていた。
山の尾根に出た。向う側が見通せる。しかし同時にそこには三台のジープが並んで停っていた。当然脱走者が通る道に待ち受けていただけかもしれない。
兵士たちが、短機関銃《マンドリン》の銃口をかまえながら近づいてきた。いきなり後ろに回された両手が、もう持ち上らないほど高いところで縛り上げられた。つきとばされ、尻を蹴られるようにして、車の停っている前のやや平らな所に、車に背中を向けて坐らされた。車から普通の機関銃が下されて、地面に据えつけられるのが分った。
ああ駄目だ。
挿弾子がはめられ槓杆《レバー》が後ろへ引かれた。
すぐぼくの生命が消える。そう思ったとき、頭の中に浮んできたのは、肉親や友人の姿ではなかった。顔はたしかにあの歌手志望の女学生に似ていたが、彼女ですらなかった。ともかく平均的な日本娘であった。
生きて帰れることがあったら……そんなことはないに決っていたが……もし生きて帰れたら、若く美しい女性に振袖の着物を着せて、それをぼくは犯したいと、今まで考えたこともない思いが急に湧き上ってきた。振袖の裾が乱れ、赤い襦袢の間から、娘の白いすらりとした太腿が割れて拡がる鮮やかなシーンが強烈な色彩で目の中に浮び、頭の中を占領した。今だ。このまま死にたい。引鉄《ひきがね》がひかれた。弾丸が一列になって続けて飛び出す。それが分るのは当ってないのだ。足は縛られていない。立ち上って逃げ出すのを待っていたのかもしれない。
ぼくは動かなかった。逃げたって弾丸より早くは走れっこない。もう面倒だった。今頭の中にきらめく、春画のような幻想の醒めないうちに死んで行きたかった。最後まで体に当らず、ワンケースの弾丸はすべて空中に消えた。
二人の兵士がやってきて、何か蒙古語でいいながら、両肩を把むと、車の後ろの席へほうり投げられ、ジープはすぐ走り出した。
運転手の横の将校が振り向いた。
「通訳《ヘルミツチ》、久しぶりだな」
ぼくはその将校を知っていた。以前の収容所の特務の中尉だった。ズボンの赤線が鮮やかだった。
彼はいった。
「逃げたら処分できて、さっぱりしたのに」
ようやく人心地をとりもどした。
「また裁判ですか」
「それだったら、今度は二十五年は喰らうぞ」
暗い気持になった。するとニヤリとして、特務はいった。
「実は明日から、一斉に全員の帰還が始まる。この際、私も面倒な事件に巻きこまれたくない。どさくさにまぎれて、どこかの部隊へつっこめば、もう一度だけ助けてやれるかもしれん。運がよかったらだがな」
ぼくには二重の喜びが湧き上ってきた。生きられるかもしれない。日本へ帰れるかもしれない。そう思った瞬間、さっきの振袖姿のごく一般的な日本娘の顔が、急にあの歌手志望の女学生個人のものになり、想念の中で固定してきた。あてのない幻想が、現実に近づいてきた。
ジープは急な下り坂を猛烈な勢いで降りて行く。縛られたままのぼくの体は、中でバウンドして、何度か車外に落ちそうになり、頭や、肩、腹が固い扉に思いきり強くぶつかった。
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[#見出し] 五章 国境の夜
ぼくはその日、首都にある、外国人専用の監獄にほうりこまれていたが、それでもサイレンの音はよく聞こえた。
時間は午後三時ごろであった。
後で旅の途中で聞いたのだが、このサイレンは、首都にある、すべての収容所や作業場で、同時にはっきり聞こえるように鳴らされたらしい。
とたんにどこの収容所でも一斉に作業が中止になった。煉瓦工場のモーターは止まり、伐採の森林では、ひきかけの鋸をその場に置かされ、靴工場では、針も糸も膝の前に置いて立ち上らされた。全員が直ちに各自の私物を持って外に集合を命じられた。皆、毛布や、飯盒の僅かの荷物を持って、理由が分らないままに整列した。五列の列が揃うと警備の兵士にひきいられて、収容所の門を出た。各所からの行列が一斉に町の東側にある、競馬場と呼ばれる広場に向った。それでも何の説明もなかった。
この国では、メーデーの行事の一つとして十二歳以下の少年、少女たちによって、往復百キロの荒野を走り抜ける、競馬が行われる。ジンギス汗時代からの伝統を持ったレースだが、競馬場といわれるのは、スタートとゴールの地点になる広場で、表彰台と見物席などがある。いわばそこは、町の外れでもあり、無限に続くゴビの荒野への出口でもあった。
突然理由も分らないままに一カ所に集められた兵隊や民団の抑留者たちの中には、この国へ入って丸二年め、ここで初めて自分たちの集団以外の日本人の姿を見た者が多い。
他の集団に同部隊の戦友を発見して声をかけようとして、蒙古共和国の警戒兵に神経質な声でどなられる者もいた。
ありったけの物を着るように指示されて、分厚く着ている部隊もあったし、作業場から収容所へ私物を取りに帰るひまもなく、そのまま追いたてられた、外套もない気の毒な連中もあった。
ぼくは蒙古共和国政府の黒い車で、牢獄から直接、この広場に連れてこられた。身分は脱走犯の囚人だったが、かねて顔見知りの、この国の特務将校が、今回に限りぼくの罪をうやむやにしてくれることになっていた。後ろの席に縄でくくられ、兵士二人に挟まれるようにして、人々が各地から続々と集まってくるのを、何時間も車内で見させられていた。
特務は助手席から後ろを振返りながら、ぼくにいった。
「ここに一万六千人の兵隊がいる。二万人がこの国へ入った。二割の四千人が死んだ。これは、全シベリヤの収容所と比べても異常に高い死亡率だ。本国の査察官が驚いて、この国の抑留者だけを早急に全員帰すことにした」
本国とは北の方にある大国のことだ。その仲間を見送るためにここへ連れてこられて、囚人のぼくだけが、また首都の牢獄に戻されるのだったら、泣いても泣ききれない辛さだったろうが、昨日脱走で捕まってからのこの特務の中尉の口ぶりから察すると、そんなことはなさそうである。
「どうして今日の昼まで皆に知らせなかったのですか」
幾分気が楽であったので、囚人の身でありながら、勇気を出してそう質問した。
「以前、おまえたちが来る前に、ドイツ人がこの国で働いていたのを知ってるか」
ぼくらがやってくるのと入れ代りに、ドイツの軍人の俘虜たちが、役務を終えて帰還のためこの国から出て行った。入国当時そのすれ違いの行列を羨ましい思いで見送った記憶がある。
「はい」
「その連中は、機械のボルトを抜いたり、作業用具を巧妙にこわしたりして、使えなくしてから出て行った。出国して何日かたって判ったときは、私たちの国の者では、それを直すことができずかなりあわてた。本国のゲ・ペ・ウからもひどく叱られた。それで今度は当日のその時間になるまで知らせないことにした。今でも、ここに集まってくる者たちは大部分が、何で急に集められたか知らない。はっきり知ってるのは、おまえだけだ」
今日の特務中尉は、やはり罪人のぼくにひどく寛大であった。
「四千人も死んだことについて、私ら蒙古共和国政府にすべての責任を押しつけられても困るな。作業の量も食糧も国連の示す規定通りであった。殺された者のうちの大部分は、日本人同士がお互いの利害で殺し合ったのだ。その事情はおまえにはよく分ってるはずだ」
「ええ分っています。どこで聞かれてもそう答えますよ。日本人俘虜は、皆、同じ抑留者の仲間のボスに殺されたんですと」
語調にもおもねる感じがないではなかったが、気持の上では、ぼくはそういいきってもおかしくない思いだった。
特務は妙にしんみりとしていた。
「私としては、せめてこの一万六千人だけは全員、無事に帰ってほしい。これ以上仲間がいがみ合っての殺しが起らないように願うよ。みんな二年も苦しい作業を耐えてきたのだからな」
ぼくはふとこのとき異常な事実に気がついた。蒙古共和国の人が日本語を話すときは、いくら上手な人でも、ハ行が必ずカ行になる。カタラク(働く)キルメシ(昼飯)などで、この特務も最初、あの川っぷちの収容所での、日本人スパイとの間の会話では、へたな分り難い、訛りの強い日本語でたどたどしく話をした。だからこそ、ぼくが通訳として呼ばれたのだ。
しかし今語る日本語は、ごく自然の当り前の日本語であった。びっくりしたように見ているぼくに、少し淋しそうにいった。
「おまえは日本に帰れる。私は羨ましい」
それから兵士に命じて縄をとかせた。
だんだん薄暗くなってくる競馬場には、数えきれないぐらいのトラックが並んでやってきた。この国にある車を全部動員したようだ。あたりが急に騒々しくなった。蒙古の兵士たちは、そこらにいる者を集めては、例のように五人ずつの列を作り、それが十になるまで数えて区切りをつける。これまでの収容所の区別や、団体の区切りなどを一切無視して、車に次々と五十人ずつ押しこんで行く。
あたりがすっかり暗くなった。兵士の持っている灯火だけが、人間の顔や姿を照らしだして、車に乗せる作業をすすめている。車は五十人をきっちり乗せると、出発の場所まで移動してそこで一列になって待機していた。
特務がぼくの肩をたたいていった。
「行くんだ。今ならどこの列に入っても分らない。皆、ばらばらになって乗りこんでいる。実は私がわざわざそうさせた。同じ車に乗ると、恨みのある者がこの機会に仇討ちをする。殺し合いになる。つまらないことだ」
「ジャーメンド中尉」
ぼくは何とか自分の感謝の気持を伝えたかった。この人のおかげで、二度生命を助けられた。その上、この突然の帰国に対して、作業服だけで入牢したぼくに、古物だが、外套と毛布に飯盒まで持たしてくれた。いくら礼をいっても足りないぐらいだ。もしぼくが今急に感じたように、ノモンハンの捕虜の出身者だとしたら、故国への伝言を持って行ってやりたかった。
しかし特務は、蒙古式に掌の上をぼくに向って振り、早く行けと合図をしただけだ。ぼくは暗闇の中を駆けだして、蒙古兵の灯火に照らされ乗車の順番を待っている列に割りこんだ。誰一人よそから飛びこんできたぼくに気づいた者はいなかった。
何百台かのトラックに五十人ずつきっちり乗せおえると、夜の町を背に、荒野に向って走り出した。四時間の間は、全く停らなかった。前後のはしが見えないほどの、長い車灯の列が続く。
首都のウランバートル市を離れれば、後は地平まで見通せるような平らな土地が、どこまでも続くゴビの砂漠だった。
トラックは、前の車の尾灯を頼りに、精一杯のスピードを出して、石ころだらけの道を走り続けて行く。
一台に五十人だから、全員が立って乗っても窮屈だ。材木を縦に積んでも落ちないようにするのと同じ仕掛で、胸のところに一回りロープを巻いて俘虜たちがこぼれないようにしてあった。
すべてFORDのマークの入った二トントラックで、これは大戦の末期、アメリカと、この国の北にある宗主国とが、対独・対日の戦争で、共同戦線を張っていたときに、アメリカから協力国への援助物資として送られたものである。この国にはトラックはこの車しかない。がっしりした車体で、ふちの囲いもやや高目にできているが、一台五十人は多い。一旦乗せられると、そのとき顔が向いた形のまま身動きができない。
十月にもう近い。夏はもちろん、秋も終っていた。夜間は零度を割る。外側にいるものは、もろに風を受けて体が凍えてくる。体感温度は風速で下るから、これまで何とか凍傷にだけはならないように、細心の注意を払っていた人々も、こんなところで、思いがけなくかかる心配が出てきた。手袋で鼻や耳を押え、防寒服の垂れを下し、首にボロ布を巻いたりしだした。
その点では、中の方に押しこまれている者は人垣に周囲をぴったり囲まれて自然の外套になっていて、かなり楽であったが、困ったことが起きた。走り出してもう三時間や、四時間はたったというのに、一向停る気配がない。小便がしたくなった。真中に押しこまれていたぼくも、どうにも耐えられないぐらいになった。
周囲でも皆同じようだ。しかしこの狭い空間では入れ代ることはもちろん、体を動かすことも不可能だ。外側にいる人間は、胸の前に回してあるロープを手でつかみ、やや腰を前に突き出して、隣りへ飛沫が行かないように注意すれば、何とか用が足せた。
中にいたらどうにもならない。もしうっかりズボンの中に洩らしたら、最初は温かくても車を下りて冷たい空気に当れば、下着からズボンまで凍ってしまう。皮膚にはりついて、必ず凍傷にやられる。
四時間はたっぷりすぎたころ、やっと第一回の停車、小休止があった。車と車は二十メートルぐらいずつ離れて止まり、全員が一斉に下りた。
「助かった!」
誰もが下りるとすぐ、地面に向って放尿した。死にそうな思いで耐えていたから、本当に嬉しかった。既に夜はおそい。冷えこみがきびしい。一杯になった下腹が開放されると、急に腹がすいてきた。三時からの慌《あわただ》しい移動で、誰も夕食を喰べていないのだ。まだ食事の配給の気配はなかった。
車と車との間には、運転席に坐っていた兵士たちが、小銃や短機関銃《マンドリン》をかまえて警戒に入ったが、夜の闇の中だから、各車の日本人同士が相互に大声で情報をやりとりするのまで防ぐわけにはいかなかった。
たいした根拠もないのに、さまざまの申し送りが前から、後ろから、次々と伝わってくる。
再びトラックに乗って走りだしてからは、ぎゅう詰めの立ちっ放しの車にも馴れたのか、急におしゃべりになった。話題の殆どが、さっき皆の上を流れて行き交った、情報の分析であった。
星空を見ながら一人が、まじめくさった声でいう。
「モスクワのスターリン元帥の所に、天皇陛下がお詫びに行ってくれたので、帰還がみとめられた。この道は蒙古共和国を出る唯一の道だ。おれたちは入ってきた道を逆に辿っている」
別な方向から、悲観的な説を述べる者の声が聞こえてきた。
「最近ウクライナ地方に、共産主義の弾圧政治を嫌う農民たちの、大規模な暴動が起ったらしいぞ。それで政府はその何百万人もの農民たちを根こそぎ検挙して、貨車に閉じこめ、全部シベリヤに送ってしまったのだよ。誰もウクライナに居なくなったから、暴動もなくなった」
部隊ごとにひどく能弁で説得力のある男が必ず一人や二人は居るものだ。
「……ところがウクライナは、世界の小麦の宝庫というべき沃野《よくや》だ。耕作する人が居なくなると、とたんにロシヤ中の人間がパンを喰うことができなくなってしまう。それ以上に困ったことが起きてきたのだよ」
トラックの中は、いつのまにか皆、このもっともらしい声の説明に聞き耳をたてて、静まり返った。
「……それは小麦の倉庫だ。根こそぎ中央に運んだところで、落ち穂は床にふんだんに転がって残る。畑にだって種籾《たねもみ》は落ちている。それを喰って鼠がやたら繁殖して手に負えなくなってきた。急に日本人俘虜が必要になった。日本人は鼠取りの名人だ」
皆は感心した。これは最も理屈に合っている意見だった。
ぼくたちが収容所から支給される食糧はどこでも労働に比べてあまりにも少なかった。それでもし倉庫や野原で鼠でもみつけたら大騒ぎだった。四、五人で追い回して必ず手把《てづか》みで捕えてしまう。すぐに皮を剥ぎ針金に串刺しにして焚火で焼いて喰べた。殆ど唯一の動物性蛋白質で、美味であった。これを蒙古焼鳥といった。俘虜たちの居る区域からは全く鼠の姿が見えなくなり、蒙古の警戒兵からその話が首都の市民に伝わり、鼠は日本人の好物かと問われることがよくあった。
「つまりウクライナで、鼠退治をさせるのだな」
「それでもいいさ。小麦がたっぷりあって、蒙古焼鳥の串刺しを思う存分喰べられたら、五年ぐらい帰還がのびても我慢する。おれたちはまだ若いんだ。人生は長い」
話題は俄かに活発になった。
ぼくは自分が知ってる確実な帰還の情報をわざと口にしなかった。皆はもっともらしく、どこか他の所へ行かされる話をして、ことさら帰還の話に触れたがらない。たまたま希望的観測をのべると、あわてて否定する説が出てくる。それには一つの心理的に複雑な作用が働いていた。
誰だって日本へ帰りたい。焼けつくような思いで帰国を望んでいる。
今まで何度も欺されてきているからもう信用できない……というより、信用していて外れるよりは、あてにしないでおいた方が、却って当るのではないかという、はかない希望で、考えていることとは裏腹のことを、わざと大声でいうのだ。
また四時間か五時間すぎたころ停車があった。尿意の限界時間を計算してくれている。
夜中だったが、そこでやっと食糧の配給があった。一台の糧秣《りようまつ》車らしいトラックが水の入った桶一個と、パンを十三個ずつ配って行った。五十人の俘虜に、運転手と歩哨一名の分で、兵士も俘虜仲間も公平に一人四分の一ずつのパンだった。
近くには枯れた草や、灌木《かんぼく》の茂みがあり、集められて火が焚かれた。ようやく人々は灯りの中で、顔を見合せた。集団は一たんこわされて、各車に別々に乗せられたようでも、顔見知りが多い。
「おまえがいたのか」
「ずっと一緒に行こうぜ」
なぞと喜びあったりしていた。ぼくは全く一人異分子で、誰も知人はいない。しかし全員が同じ隊の単独の部隊につっこまれたわけではないので、別にふしぎそうな顔はされずにすみ、自然に仲間に入った。
やや長い食事のための休止がすむと、警戒の兵はまた五十人の人間を荷台に追い上げ同じ旅が始まった。
四時間に一回の小休止。三回に一回の食事のための休止。パンは四分の一。水は飯盒の中に半分ほど。トラックとは別に給油車がついていて、絶えずガソリンを満たしては、走り続ける。運転手は警戒兵と交替で、二人が代る代る勤める。トラックの横腹には臨時に白ペンキで番号が書いてあり、その番号の並ぶ順序は絶対に狂わなかった。こうして毎日同じ順序、同じパターンで走り続けた。周囲が荒い石ころの灌木の台地から、途中丸二日ばかり、砂だけの本物の砂漠の真中に一本続く道を走り、また石ころの台地に戻った四日目、見覚えのあるなだらかな丘陵で、トラックはそれぞれ、頭を丘の頂上に向けて、左側から順に並んで停った。
「国境だ。おれたちが二年前に汽車から下りてトラックに乗った所だ」
覚えている者がいて、そう叫んだ。丘の頂上には、小屋があり、左右にバラ鉄線が張られた国境線になっており、その鉄条網は地平の果てまで続いていた。この四日間、ぼくたちは車の中からずっと回りの景色を見ていたのだが、白いフェルトの包《パオ》と、家畜を追って移動している蒙古共和国人の家族を、一回ずつ見ただけで、他には村も家も人間の姿も見なかった。
まだ夕昏《ゆうぐれ》には少し時間があり、頂上の小屋には、蒙古共和国軍の軍服とは少し型の違う軍服の兵士が、この何百台ものトラックの列を、珍しそうに眺めていたが、ぼくらも久しぶりの家と人がひどく珍しかった。やっと人間の住んでる所へ戻ったという安心感がわいてきた。
この集団の輸送長らしい蒙古共和国軍の高級将校が、分厚い折鞄を持ち、女性の将校の副官と一緒に小屋の方に登っていった。我々の集団は、相変らず車と車の間隔を二十メートルぐらいずつあけて、相互の人間の往来は禁止されていた。だがもう何度もの停車で馴れているので、すぐに近くの草や枯枝を集めだして、小さな焚火があちこちで始まった。ここまで来たら逃亡者ももう出ないと思ったのか、蒙古共和国兵の警戒は、そんなにきびしくない。
人間が横に移動して他車に交るのは注意されるが、縦にまっすぐ焚火の材料を取りに行くのは、殆どとがめられなかった。
ここでも車は正確に番号順に並んでいる。ぼくらの車はその中では、二百九十三番という後尾車だが、それでも後ろに当る右側に、三十台ぐらいはありそうだ。前を走っていた左側の車の列の先の方は大げさでなく、かすんで見えない。三百二十台とすると、ざっと数えてもやはり一万六千名を越す人々がここにいる。
首都で働いていた抑留者は一人残らず根こそぎ連れてこられたのだ。
左の方に停っている前の車から、また伝令の申し送りが来た。
「この車の番号が、明日から乗るシベリヤ鉄道の列車の番号にもなる。各自しっかり覚えておけ。日本へ着くまで、絶対番号を変えちゃいかん」
しばらくしてまた次の伝令が来た。
「明日の朝、一隊ずつ国境を越える。そのとき、五十一人でも四十九人でも国境を越えられないぞ。全員逆戻りで、今度は十年ぐらいは日本へは帰さんそうだ」
ここで初めて、シベリヤ鉄道に乗って戻るということが正式に発表された。人数に関しての指示より、このことで皆がどっという叫び声をあげ、広い丘のあちこちで、手をとって躍り上り、万歳をする者たちの姿が見えた。
そのときになってから、誰かがどこかへ消えてしまったら困るという気持が働いたのであろう。自発的に声が出た。
「なあーお互いに自分の隣りの人間の顔だけは覚えておくようにしようじゃないか。明日誰かが一人でも欠けたら大変だからな」
真顔で心配するのも無理はない。こうなったら、どんなに細かいトラブルも避けたい。ぼくたちは、それぞれ自分の近くの人間の顔をたしかめあった。
「おう、おまえアムラルトの紙芝居屋さんじゃないかのう」
一人の斜眼の、顔全体が少し歪んだ男が、焚火の向うから声をかけた。五百人以上も病人が詰まっていた病院だ。向うはこちらの顔を知っていても、こちらの知らない顔がいるのは、不思議ではない。
その男は親しそうによってきた。
「わいは途中から入院したので、アムラルト紙芝居は瞼の母から先しか聞いていないがの、あの番場の忠太郎はよかったのう。それ以前に収容所で、ジョン・ウェインの駅馬車を聞いたことがあるぞい」
「それじゃ、あの赤穂の小政さんの収容所にいたのですか」
「うん。あそこにいたでの」
急にいやな予感が体中に走った。できればあの怖しい連中に二度と逢いたくなかった。この男がここにいるなら、小政たちも近くのトラックに居るのかもしれない。
ぼくの恐怖感を悟ったのか、彼はいった。
「心配は要らんぞい。小政たちはずっと先の百番ぐらいの車での。わいも事情があって顔を合せたくないでの、わざと競馬場で姿をかくして、後ろの車に乗ったんじゃぞい」
この車ではぼくが唯一の顔見知りらしく、焚火の反対側から近よってきて、わざわざ隣りに並んで坐った。
糧秣車が来て水が配られ、パンがまた十三本ずつ渡されて、夕食が始まった。
これでもうあの窮屈なトラックに押し上げられての、立ったままの苦しい旅行も終ったかと思うと、気分的にもかなり楽になった。
四分の一の黒パンを、その男は水を口に含んでは、ぺちゃっと舌を鳴らしてなめるようにして喰べていた。突然いった。
「わいの名は山本鹿之介いうでの。覚え易いやろ」
「ええ、何だか聞いたことがある名ですが」
そう答えながら実はぼくはこの男のことを少し迷惑に思っていた。ときどき見る目付きに不気味な光りがある。もう三十歳はすぎているようだ。俘虜の仲間では老人に属する。軍人の恰好だから、一旦除隊して召集で来た、軍隊言葉で『予備さん』という部類の人間だ。
階級とは別に、現役兵は予備さんには一応の敬意を表した言葉遣いをしなければならない慣習が軍にはある。今さらそれがわずらわしかった。
果して食事が終ってから、彼は少しからんできた。
「おまえが正宗の刀のことで、小政に睨まれたと思ったら、次の日急にいなくなった。特務《ゲー》と取引してうまく逃げ出したという噂がたってからのう、急に皆の間に、あの収容所から出よう、どこへでもいいから、小政の支配下だけは逃げ出そうという気持が湧き起ってきてのう。皆がおまえを羨ましがっていたぞい」
「そんなことがあったのですか」
とぼけて答えるよりほかない。
病院で得意になって紙芝居の公演をしていたときも、後から入院してきた顔見知りの仲間に、そんな噂をちらっと聞いたことがあった。
「わいもその口よ。何としても|あこ《ヽヽ》を出たくなっての、作業中足先を水に濡らしてから寒風にさらし、わざと凍傷になったのぞい」
別に見せてくれともいわないのに、明るい焚火に向けて靴を脱ぎ、靴下の代りのボロ布をほどいて、怖しい足を見せつけられた。
丁度紙のはげた団扇《うちわ》のように、足の指が五本骨だけになって、肉から白く突き出していた。
「運がなかったでの、足を切るまでには至らんかった。指の回りの肉だけそいだら、ほいで手術は終りよ。二カ月も病院に寝ておれんかったでの。作業場にすぐ戻された。吉村隊かと覚悟しておったら、また小政の隊でのう」
二人のパンはとっくに無くなっていた。夜の闇が徐々に濃くなる。このまま野宿だ。
明日の朝の国境線通過まで、もう俘虜たちには、何もすることはない。手頃な場所を見つけ外套や毛布をひっかぶり、中に足まで入るように体を丸めて眠りだした。
「わいは実は地方《しやば》でも小政を知っておってのう。それがよけいいかんかった。会った所が警察のブタ箱で、二度目が陸軍刑務所でのう。わいの地方での商売をおまえ何だと思う」
その目付きの鋭いところから見ても、やくざ関係かと思ったが、口には出さなかった。
「ぬすっとよ」
彼はさらりといった。
「小政は兵庫、わいは岡山、隣りの県だ。どちらも警察の睨まれもんでの、ほいでお互いによう知っとった。わいの生れた所は、有名な山中鹿之助が生れた町での、親父がわいにも同じ名をつけてくれたぞい。苗字はちいと違ってるが、先祖に負けん大物になると思っておったらしいの。山中鹿之助ちゅう名を知っとるか」
丁度具合よく、空のはしに三日月が見えていた。彼はぼくの返事もきかずに三日月を指さしていった。
「本まもんの山中鹿之助は、三日月を信仰しておっての、三日月が出ると、それに向って、『我に七難八苦をあたえたまえ』と祈ったそうよの、ほいでわいも一たん受けた恨みは生涯忘れん執念深い性質に育ったんじゃぞい」
言葉の意味はつながらないが、いわんとするところは何となく納得できる。
「わいは只の男やないでの。今夜こそ、受けた恨みを返してやるぞい。丁度いい所で、おまえにあった。紙芝居屋なら、後世にわいのやったこと語り伝えてもらうのにも好適じゃでの」
「一体あんた、これから何するつもりです」
こんな話は早く終って、ぼくは火の傍で外套をひっかぶって眠りたかった。だが丁度良い話し相手を見つけたと思ったのか、この目付きの悪い、もと泥棒はぼくを寝かせてくれない。
「まあーそれをいう前に、もう一つ見てもらいたいもんがあるけんのう」
靴はもうはいてしまっていたが、今度は代りに、軍帽を脱いで頭をつき出した。毛がぐるりと丸く、環状線状に切れて禿《は》げている。
「この右側の禿げた輪の真中へんを、そっと押してみい。そっとやで、あんまり強く押すと、わいは気絶してしまうでの」
変なことをいう男だなと思いながら、ぼくは頭頂の右側の丸く禿げた輪の真中へんを、注意してそっと押した。掌ぐらいの大きさの平らな骨が、ふわりと陥没した。驚いて手を離した。かなり気をつけたつもりでも
「うーっ」
と呻いて、彼の顔面が歪み紅潮した。よほど痛かったらしい。
「どうしたんです」
「頭蓋《ずがい》がそこだけ割れて浮いてるでの。蒙古共和国の病院じゃ手術でけん。一度頭の皮剥がして調べたらしいが、つなげられんと分って、いじりまわすより、そのまま蓋してしもうた方がいいということで、何もせんで皮をかぶせてもうたでの」
「帽子をかぶると骨に当って痛くないですか」
さすがに気の毒になってきくと、戦闘軍帽の内側を見せた。薄いボール紙がはめこんであって、外の小さな衝撃を防ぐようになっていた。
「頭の鉢が脳味噌守ってくれんでの、ボール紙に守ってもらって直接にはひびかんようにしてある」
その紙は薬箱を切ったもので、ぼくが病院で裏に紙芝居の絵を書いてもらったものと同じだった。どこを探しても、余分な紙一つ入らない砂漠の中の国だから、出所は同じ医務室で、当然なことであったが、ひどく懐かしい思いがした。
彼は再び帽子をそろりと頭にのせるといった。
「わいが恨みを晴らすというのは、この傷のことでのう」
これでは先に一人で眠るわけにはいかない。ぼくは話し終るまでつき合おうと覚悟をきめた。どうせもうきびしい定量の作業はない。少しぐらいの睡眠不足でも体はもつ。
「親からわいは立派な名前と、丈夫な体をもらったでの。心は悪事でねじくれても、せめて五体満足で、両親の所に戻りたかったぞい。それがこんな中途半端な体になってもうての、本当はこの恨みさえ晴らせたら、もう生きて帰るなんて気持はないでの」
ぼくはあわてていった。
「敵討ちなんて、もうどうでもいいではないですか。このさい生きて日本へ帰ることが大事ですよ。かあちゃんいないんですか。帰ったら抱けるんですよ」
「かかあも子供もおらんでの、それに帰ったところで、このカチ割れた頭では、そう長くは生きておれんわい」
「そんなことありませんよ。いい医者に見せれば、もう一度開いて、割れた蓋をくっつけてくれますよ」
「しかし内地へ戻れば奴をもう殺せなくなるぞい」
「誰にやられたんですか」
「小政よ」
憎々しげに目を光らせた。
「……わいが甘かった。また小政の収容所へ戻されたとき、わいはやつの部屋へ行っての、骨だけの足の指を見せていうたんよ。『外の作業休ませて何か室内でできる仕事をやらせてくれんかの』とな。そしたら小政のやつ、笑いやがって『てめえを室内の仕事で残したら、もとがもとだ。中の兵隊の荷物が根こそぎ盗まれちまう』っての」
口惜しそうに唇をかんだ。目がまた鋭く光った。
「いくら昔のブタ箱仲間でも、いってよいことと悪いこととあるでの。こんなに皆が窮乏して苦しんでいる境遇の中で、同じ捕虜仲間から、わいは盗みなどせんぞい。小政のやつにわいは思いきっていってやったでの。『仲間のパンをピンハネしてヌクヌクしているてめえらとは違うで』っての。それをきくと小政は、『なにい』と目をつりあげると、丸太ン棒を振り上げて、わいの頭を殴りやがった。目が回ってぶっ倒れて、二十日ぐらい気がつかなかったぞい」
小政やその仲間が、朝、一般の兵士たちを作業に追いだすために振り回す六尺棒を、思い出した。とねりこの木で作ってあるという。つやがあって芯が固い。
毎朝振り回されるたびに、体の底から恐怖が湧いてきて、体中の神経が冷たく凍えた。
作業に追いたてられるとき外套の上から尻のあたりを殴られても、四、五日は赤い痕《あと》が消えないぐらいひどく痛い。
頭をやられたら、生きているほうが不思議なぐらいだ。よほど頑健な体に生れついたのだろう。
「幸いその日病院行きの死体運搬車が来る日だったからよかった。血だらけでまた病院へ逆戻りできてのう。そうでなかったら、そのまま死体の中へ井桁《いげた》に組まれて放置されるところだったぞい。病院でも何日も目をさまさんかったそうでの。頭の皮剥いで、調べて、駄目で、そのまま縫い合せた後で、もうどうせ生き返ることはないのじゃから、このまま墓地へ運んでしまおうという話が何度も出たらしい。そのたびに、竹田ちゅう軍医さんが、『まあ息のあるうちは、病院に寝かせておこう』と皆をなだめてくれて、鼻から砂糖水入れて、生かしてくれたで、やっと生き返ったそうでのう」
「そうですか」
火の回りの人は、大部分が横になって眠っていた。誰も野宿に馴れている。それを見て山本鹿之介は
「もうおそいの。おまえも寝ろ」
と急にいった。
「わいはこれから小政の生命《いのち》をもらいに行く。やつの乗った車の番号は分っとるでの。武器はある。病院の入院中に手術室からよく切れるメスを一本かっ払ってきている。これだけが、蒙古共和国でやった、わいのたった一つの仕事での」
あたりはすっかり暗くなっている。彼は夜の闇にまぎれて小政の乗ってきたトラックまで行くつもりらしい。
ぼくはいった。
「必ず帰ってきてくれよ。四十九人じゃ、国境を通さないそうだ」
「わいは、みんなに迷惑をかけるようなことは、ようせんでの」
すっと地面に這ったまま、彼の体は消えてしまった。もと盗《ぬす》っ人《と》を自認するだけあってその消え方は、夜の空気の中にとけてしまったように自然であった。
警戒の兵も大半は車の中で鉄砲を抱えて居眠りしている。ここまで来ては、もう逃げ出す馬鹿はないと思って安心しきっている。
どこの焚火も消えかかっていて、細い月の光りでは、ほんの近くの物しか見えないぐらいの闇夜であった。
夜中に近くなって奇妙な現象が起った。
警戒の兵士たちが、殆ど寝入ってしまったのを見すかして、何人かの人が、焚火の火の届かない暗がりを這いながら、友人探し、親類探しに、あちこちの車の集団を訪ねだしたのだ。
寝ている人々の耳もとへ来て、訪ね人の元の所属部隊や名前をささやく。ぼくらのグループにもよくやってきた。大半はうるさそうに手を振って追い払う。返事の代りに反対側に寝返りをされるだけの無言の拒否もある。一人だけ急に半身を起した兵があった。
「おうそいつなら知っとるよ。吉田上等兵だな。だけんどなあ……そいつおまえの何に当る」
その声でウクライナでの鼠取りを、能弁に語った男と分った。這ってやってきた男は、やっと消息を聞けそうなので嬉しそうに息をはずませて答えた。
「いとこです。同じ村で、同じ時期に召集されましたが、部隊が別でした。この国へ入るまでは、それでも、ときどき会ったりしていたのですが、入国してから消息がさっぱり分らなくなりました」
「そうか」
深い溜息《ためいき》をついた。
「……そいつは気の毒したな。もう一年も前になる。去年の十月凍傷で足をやられた。うちの隊長はそれを認めんのだよ。無理に作業場へかり出しているうちに、患部が拡がり悪化してとうとう死んでしまったよ。おれがそばで死んで行くのをみとったのだから、これは絶対確実だ」
「そうですか」
聞きに来た兵士は、気の毒なほどがっくりした。
「まあーここじゃよくあることだ。気を落すな」
「どうもお世話になりました。死んだいとこに代ってお礼を申しあげます」
丁寧に挨拶して、その兵士は、もと来た方に戻っていった。別れてまる二年になる。初めて分った消息が、相手の死では、どんなにがっかりしたろう。そばで聞くともなく聞いていたぼくは同情した。焚火はもう灰の山だけで、燃料はとっくにつきて、炎はない。夜の暗さの中では、枯草を集めに行く者もいない。
急に気温は冷えこんできた。
四日前のまだ明るいうち、特務の自動車の中から、次々にトラックに乗りこむ抑留者の群を見ていたとき、作業場から荷物も持たずに連れてこられた連中があったのを思いだした。外套も毛布も飯盒もない人々だ。この寒さで彼らはどのくらい辛い思いをしているか。誰も布きれ一枚貸してはくれないだろう。ぼくも本当は危なかった。帰国を知っている特務の配慮で、多分死者の残した物らしい外套と毛布と飯盒の支給を受けているから、今何とか眠っていられるが、これが入牢したときの作業服だけだったら、足踏みしながら、一晩中起きていなくてはならないところだった。
冷えこみがきつく一度目がさめると、なかなか再び眠りにつけない。
くくッと、押し殺した忍び笑いが聞こえてきた。どうもさっき答えてやった兵隊らしい。近くに寝ていた男が、咎《とが》めるように訊ねた。
「どうして笑っているんだ」
「ガセだよ」
もうどうにも堪らなくなったように外套ごと、転がって笑いだした。
「なぜそんなことしたんだ。可哀そうじゃないか。すっかり信じこんでしまって、がっかりして帰っていった」
やっと笑いを止めると答えた。
「皆眠いんだ。これから先の車の何人かの男が、もう起されないですむ。おれはいいことをしてやったつもりだ。今さら他人の死にかかずらわっていられるか」
また外套をかぶってしまった。
なるほどそれも一理あると感心してきいていた。最初は僅かな人だけだった仲間の消息たずねが、夜中になると急に多くなった。
帰還の旅が始まったという予想が、さっきの通告でたしかな実感になり、嬉しさが今ごろになって体中に拡がってきて誰も眠れなくなってきた。
一人ぐらい、ガセ情報で追い払ったところで、何の役にもたたなくなった。このグループからも、近くのトラックに聞きに出て行く者が出てきた。ガセ情報を創作して答えた男は、わりとまめな男で、誰かが出かけようとすると必ず注意した。
「このトラックは二百九十三番だ。番号だけは忘れるなよ。朝までに帰ってこんと、全員が出発でけんようになるからな」
やっと転がりこんだ帰国への希望が僅かの過失で取り消しになるのを、みんなひどく怖れていた。
消息を訪ねる人の往来が加速度的に増え、寒気がぐーんときびしくなると、もう大半の人は眠っておられず、僅かの灰の回りに固まってきて、小声で話しだすようになった。国境を前にして落着かなかった。
四日前までは、帰還のことなど夢にも考えずに、全員が昼まで作業をしていた。まだ本当に信じていいかどうか疑っている。
ぼくは、他の人とは別に、もう一つの心配を抱えていた。夜の闇の中に本職の盗っ人らしく消えて行った、あの山本鹿之介が、今どうしているかということだ。できれば彼の復讐は成功してもらいたかった。
飢えや、殴打による傷で、恨みをのんで死んでいった多くの人のためにも。……しかし一方、決してそううまくはいかないだろうという暗い予想もあった。
山本鹿之介は泥棒のプロでも、相手の男は喧嘩のプロだ。
眠れないままに起き上り、膝を抱えてうずくまっていると、少年のような若い声が聞こえてきた。
「すみません、誰か民団の萩田|大典《だいてん》という人を知りませんか。熱河省の次長をしていた人です」
二年前の敗戦の日、蒙古共和国軍は、攻めこんだ町での兵隊の数が予定の押収奴隷の割り当てに足りないと、その町で暮していた一般居留民の家族の中から、男だけを無理矢理ひきはがすようにして、兵隊の中につっこんで拉致《らち》してきた。中には、五十すぎの老人ややっと十六歳になったばかりの少年も交っていた。少年たちは体がまだでき上っていないし、衣服や持物が少なかったので、死亡率が一般兵士よりかなり高く、殆ど生き残らなかった。それでもほんの何人かは、こうしてまた国境まで戻ってきていたのだ。兵隊なら一番若くても、ここへきて丸二年、二十二歳になっている。まだ子供っぽさを残しているその少年を見て、改めて暗然とした思いであった。黙って答えられないでいる兵隊上りの団員は、このとき、奇蹟のような現実を目のあたりに見た。
風邪をひいていたらしく、隅っこで誰とも話しせず、毛布をかぶり体をちぢめて一人で横になっていた老人が、突然、毛布をはねのけて半身を起した。
「誰だ。大典は私だ。|のりお《ヽヽヽ》か」
少年が飛び上るようにして答えた。
「典夫です。お父さんですか」
「おう」
歩哨が起きるとうるさいので、誰も大きな声は出せない。それでも、駆けよって、父の所に行く少年の姿に、皆、感動の短い声を出した。
「おまえ、生きていたのか」
「お父さん」
少年は毛布の上から父を抱いた。
「……大丈夫ですか」
「ああ、私も元気だ」
敗戦の日は二人とも一緒に蒙古共和国軍に捕まったはずだ。こういう場合は、もしお互いがその希望を表明すれば、大体は同じ収容所にいられる。途中で病気で入院するようなことがなければ、民団員の場合別れることはない。誰かが焚火の灰の回りの仲間に、ぼそっといった。
「なぜ別れ別れになっていたのだろう」
このトラックは、最後尾の落ちこぼれ組をまとめたものだけあって、各所の収容所の者がまじりあっている。一人の老人が話しだした。やはり年から見て民団員だった。
「ぼくは萩田さんと一緒に熱河省の役所に勤めていて、一緒に俘虜になったもんだがね。萩田さんは、初め息子と同じように、大学建設の工場現場で、煉瓦積みしてたんだ。そこの工事が終って、ガンドン炭坑の石炭掘りと、チャガンフトの森林伐採とに隊が別れたとき、息子を伐採の方にわざと行かせたんですよ」
二人は後ろの方で泣いている。兵隊の一人が語り続ける民団の老人にきいた。
「親子だったら、何も別れることはないじゃないか。こんな苦しい環境だ。一度別れたらもう二度と会えるかどうか分りゃしねえ」
「それだから却って萩田さんは息子と別れたのです。いくら食糧が少くても、親子の情に負けて、もし譲り合ったら、少しでも譲った方が必ず死ぬ」
「うん、たしかに死ぬよ。絶対量より皆、うんと少いのだからな。分けることはできない」
「お互いに助け合っては生きて行けない環境です。そんな中で、二人が二人とも生き抜いて帰るのには、却って離れていた方がいいと判断したのです。その判断を実行に移すのは萩田さんも随分辛かったらしい」
「そりゃ、そうだろうな」
国境を前にしての安心か、これまで人間の心を捨てるようにして、やっと生き抜いてきた人々にも、いくらか他人にも同情する心が生れてきた。誰かが呟いた。
「子供や兄弟が一緒じゃ、残飯もあされない。目の色変えて、パンの切り方の大きい小さいもいい争えない。でもそれをしなくちゃ、結局、最後は生き残って帰れないからな」
民団の老人はしみじみといった。
「熱河省次長まで勤めた人が、随分、利己的なやり方をしたと、ぼくもよくは思いませんでしたよ。しかしこうして、二人とも生きて国境までこられたのを思うと、やはり利口な選択をしたと今分りました」
そろそろもう夜中の三時に近い。まだ暗いが、三時間たてば明るくなる。
二人の間のさまざまの話も終ったらしい。萩田大典という名の元省次長の老人は、父親らしい威厳を取り戻した声で、息子と話をしていた。
「おまえは何号車かね」
「百二十九号です」
「随分前の方の車だね。ここまで聞きながら来るのは大変だったろう」
「民団員の交っている車と、同じ部隊の兵隊だけがまとまって乗っている車は、話し声や雰囲気ですぐ分ります。だから直接聞いたのは二十台分もありません」
「そうか。それでもよく訪ねてくれた。もう安心だ。この車は二百九十三号だ。これさえ覚えていれば、途中でまた何度でも会えるよ。明るくなったら帰り難くなって、皆に迷惑をかける。もう戻りなさい。今日はお互いに生きていることが分っただけで充分じゃないか。これ以上の喜びは、却って人間の運にとっては良くない。悦《よろこ》びは少しずつ長く味わった方がいいよ」
「はい、そうします」
少年は何か父にさし出した。周囲の声や耳をはばかって、二人にしか聞こえない声になったが、他人に気づかれないような物のやりとりは、必ず食物のやりとりと、灰の回りの人々はこの何年かの生活で知っている。気にはなるが、干渉はしない習慣も身についていた。
「そうか、すまないな」
「いえ少し余計に働いたので、蒙古共和国人の監督にもらったのです。それにしても監督がいつもぼくに、自分の娘をもらって、ずっと蒙古共和国に居れと、すすめるので困りましたよ」
「そいつは危なかったな」
「ええ、その気になりさえすれば、すぐ収容所から出して、包《パオ》を一つこしらえて、二人だけで暮せるようにしてやる。パンも肉も腹一杯喰べられるし、社会主義国だから、全く失業の不安がない。おまえほどの頭なら、軍に入っても、役所に入ってもすぐ幹部になれるって、ずいぶんしつこくすすめられましたよ」
「よかったなあー。断わって」
「ええ、どうしても、日本へ帰りたいですからねー」
「うん。日本へ帰ることが第一だ。それじゃ元の車へ戻りなさい。明日からまた汽車の旅だ。きっと途中で会えるよ」
「はいお父さん」
息子はもう一度父の手を握ってから、左側の若い番号のトラックの方の闇にとけこむように去って行った。
ぼくらは皆、この偶然の親子の対面の実現に、何かこれから先の希望が見えてきたような縁起の良さを感じて、気分的にも、お互いに少し明るくなってきた。
明け方の四時をすぎると、気温は一番低くなる。かなり我慢強い人でも、もう地面に眠っていられなくなった。暗闇を手さぐりで、枯枝や、黄色くしなびた芝草を取りに行き、火にくべだした。再び焚火が燃える。いつのまにか地面に薄い雪のような霜が白く降り、急に増えてきた焚火の火と共に、暗い広場のあちこちが、かなりはっきりと見えてきた。
各団ごとに眠られないでいる人の話し声が、地の底からの声のように、低く重くひびいていた。
毛布をかぶってうずくまっている人も、顔の回りは息が凍って白くなっているし、外套の襟も白い細い糸のような氷屑がついていた。
歩哨も何人か目をさましていたが、すっかり暢気《のんき》になって、人々の動きをいつものように制止したり警戒したりはしない。
その中を人間一人を担いだ四人組がやってきた。彼らは蒙古の警戒兵など、頭から無視した態度で堂々と歩いてくる。
「二百九十三号車はどこだ」
平気で声を出して聞いている。左の方の焚火の群が、こちらを指さして、ぼくらの集団を示す。ほんの三、四分で彼らがやってきた。
一人がやくざがかった声できいた。
「ここか。二百九十三号車は」
瞬間に事情を悟ったぼくはさっと外套をひっかぶった。
「ああそうだがね」
誰かが代表でそう答えた。
「お届物じゃぞい。当人の遺言でのう。こう! こいつがおっ死《ち》ぬとき、遺骸だけは、二百九十三号に届けてくれと、最後にいいおったでえ」
どんと芝草の上に死体を投げ落した。ぼくはその声で、小政の仲間の幹部の二人のうちの弟分、元船員上りのやくざがわざわざやってきたのを知った。顔を見られて何か因縁つけられたら面倒だ。外套をかぶって寝込んだふりで、事が終るのを待っていた。
「まあ蒙古共和国側の偉いさんが昨日、五十一人でも、四十九人でも、国境の門を通さないといいおった。こう! ここまで来て、国境通れねえでは、おまえらも気の毒じゃけんの。重ったかったが仕方ねえ。たしかにおいたで。後は知らねえ。勝手にさらせ」
いいたいだけいうと、四人組は戻ってしまった。
人々はこの死体らしい物の回りにたかった。
「こいつはさっきまで、うちの車にいた奴だ。誰か知ってる者がいたろう」
「そこの若い兵隊がさっき話していたがな」
指さされて揺すぶり起されるといつまでも寝たふりをしていられなくなった。
起き上ってとぼけてきいた。
「どうしたんだ」
「あんたこの男とさっき話していたろう」
「どの男だね」
初めて聞くようなふりをして、寝呆《ねぼ》けた声を出して死体に近づいた。
「ああ知ってるよ。さっきまで話していた。しかし名前や隊は知らないな」
かかりあいになるのがいやなのでこちらが先に嘘をいった。誰かが追及してくる。
「それじゃなぜ話していたんだ」
「病院にいたとき顔だけ見たことがあるので、懐かしくて話をした」
他の男が焚火を持って、顔のところを照らしてから驚いていった。
「ふえーっ。ひどい顔だ。すっかりこわれている」
ぼくも照らし出された顔を見て、一瞬胸から喉へ、吐気がこみ上げてきた。大概の死体にはなれていたが、こんなのは見たことない。目は飛び出し、頭はひしゃげて一部が割れてふっとび、白い脳髄がむき出しになっていた。首から下の体の方は殆ど何の異常もなかったが、顔だけを集中的にやられたらしい。ぼろの塊りが辛うじてついている感じで全く原型がなかった。
さすがにプロのやり口だ。一番弱い既に割れている頭の鉢だけ狙って、ぶっこわしていったのだろう。山本鹿之介の方は、せめてやられる前にメスで一刺しできなかったろうか。この分では、どうやらそれも駄目だったようだ。
皆が心配しだした。
「問題は蒙古共和国側がこの死体をどう見るかだね。五十人の中に入れて、出国を認めてくれるかね」
「正直にいえばいいよ。夜中どこかへ行って、明け方どこからか運ばれてきた。おれたちの責任は全くない」
「それよりほかに方法がないな。ともかく死体が交っていても、ちゃんとここに五十人はいるんだから、何とか国境だけは通してもらうぞ」
それが結論であり希望であった。
彼が着ていた外套を無理に脱がせて、顔の上にかけた。
朝は地平の果てから、徐々にあけてきた。白くほんのりと明るんでくると、見る間に広い国境の丘を照らしだした。
食糧運搬車が、一集団ごとにまた十三本の黒パンと、水を一桶ずつ配って行く。通訳が乗っていて、各集団ごとにどなった。
「みんな、大便の方は、この位置から丘の下の方に向って最低百メートルは離れてからしろよ。後でここで全員の身体検査が行われる。踏んづけたり、被服や荷物に糞がついたら困るからな」
飯盒に分けてもらった水を焚火にかけて沸かしてお茶代りにして、四分の一のパンの食事が始まった。さすがにここまできては、搾取も不公平の分配もない。せいぜい切り方をしっかり監視していればいい。これだけのことでも全員の心は随分、人間らしい明るいものに変ってきていた。
昨夜から耐えていたのか、何人かが下の方に駆けていって、ズボンを下してしゃがむと、それが緒口《いとぐち》になって、何十人、何百人もの人が、百メートル向うで、そろってこちらを向いてしゃがみ出した。どういうわけか、集団に背中を向けて、しゃがむ人がいない。これはぼくにも、ひどく面白い現象に思えたが、やっぱり自分も便意を催して駆け出して行ってしゃがむとき、何だか後ろから見られているのが不安で、背中を向ける気になれずに、この不思議な現象を何となく納得したのだった。並んで用便するとき、馴れきった俘虜生活のだんらんのひとときが思い出され、妙に懐かしかった。
朝の食事や用便の騒ぎが終ると、伝令の声が伝わってきた。
「五列に整列。十人がお互いに間隔を一メートルずつ離して横に並んだら、着ている物を脱げ。内ポケットや、下に腹巻きがなければ、襦袢や袴下は一枚だけ着ていてもかまわんぞ」
さまざまの声があちこちで起ったが、これまでも蒙古共和国軍の軍医の身体検査で、全裸の整列をさせられることはよくあった。それに比べれば、かなりゆるやかな命令だった。
全員が一斉に着ている物を脱ぎ出した。
一万何千人かの男たちの列が丘のはじからはじまで下着姿になって並ぶのはかなり異様だった。
「ポケットの裏を返せ。荷物は中身をすべてほかして前に並べろ。後になって、下に腹巻きがあるのが見つかったら銃殺だ。今のうちに抜き出して拡げておけ」
次から次へと命令が出てくる。
寒いといっても、これぐらいは、蒙古ではまだ暖かい方だ。陽が出てくると、霜は消える。
殆ど破れてしまって、下着の形をなしていないものは、ボロ布からみじめにちぢかんだ性器をさらして立っていたし、全くつぎの当っていない軍用襦袢、袴下をきちんと着ている者もあった。
入国のとき持って入った装備と、その後の環境が、丸二年、七百日の生活で、同じ俘虜の中でも、こうしてはっきり貧富の差を作ってしまったのである。
運転手と警戒兵を交互にやっていた二人の兵に、司令部から来たらしい特務の将校が加わって荷物の検査が一斉に始まった。ポケットはあらかじめひっくり返されており、荷はほどかれていたが、それでも、一つ一つの検査は、執拗を極めた。最初に、字が書いてあるものはすべて没収された。手帳、ノート、それに位牌《いはい》、紙の切れっぱし、蒙古共和国政府の発行した注意書きや、蒙古共和国の字の種類、煙草を巻くために一枚ずつ使って、やっと三分の一が残っている、コンサイス辞典。軍隊時代の操典や戦陣訓。
ともかく日本字であれ、蒙古字であれ、字が記載されてあるものは、すべて一カ所に集められ、火をつけられた。カーキ色の布表装の軍隊手牒を内ポケットに秘めていた者がかなり居た。これを焼かれるときは人々はひどく心細そうな顔をした。彼らにとっては自分のこれまでの存在が無くなってしまうような気分だったのだろう。
戦友の住所や、途中で亡くなった人の名前や月日を丹念にノートにメモしていた人も居た。皆、無念の思いで、焼かれて行く火をみつめていた。
その次にはここで手に入れたコインや、戦争でもらってそのまま持っていた勲章、記章類、満洲や日本の通貨一切が麻袋の中にほうりこまれた。何人かの赤筋のズボンと赤い蛇腹の入った帽子の特務将校が、作業の状態をきびしい目で見回りにくる。
その一人が地面に横たえられたままの死体を見て、ぼくらに質問した。
「これはどうしたね」
皆に押し出されるようにして、ぼくは答える役にさせられた。ぼろぼろの袴下の前を、手で押えながら、ぼくはすすみ出た。とっくにもう、越中はすりきれて無くなっていた。
「昨日敵討ちに行くといって夜中に出ていった」
相手の特務は、あまり日本語が分らない。
「カタキウチ、それ何だね」
ここでうっかり、蒙古語が分るふりをしたら、便利に使われて国境通過が後回しにされるおそれがある。ぼくは全然分らないで通すことにした。
「いじめられた人に、いじめ返すことだ」
「そうか」
「ところが、夜明けに向うの人間に担ぎこまれてきた。見たらもう死んでいた。けんかに負けたのだ」
「殺した人間の名前知ってるか」
「全然知らない」
「この男の名は」
「全然知らない」
「そうか」
少し疑わしそうな目をしたが、ぼくが正面から見返すと、納得したようにうなずいた。それからちょっと困った感じの顔でいった。
「人間が四十九人だと、あそこを出られないよ」
しばらく考えていたが、歩哨を呼んで何か命令した。歩哨は元気よく答えて、後尾の車の方に駆けだしていった。
「服を着ていい。荷物も持っていい」
他には何も取られなかったので、全員ほっとした表情をした。といって、もう物といえるようなものは殆ど残っていない。服を着、外套を着て、毛布を抱えると、終りであった。もとの服装になったとき、歩哨が、後尾の車から、何か事情が分らないままでいる兵隊を一人ひっぱってきた。
明らかに、終戦間際に補充で、日本内地の空襲の焼跡からひっぱってこられた、三十すぎの召集の初年兵だ。いつまでたっても下の兵が入ってこない、この二年間の生活の中ではずっと最下級の兵員として、どこの収容所でも、一番みじめな暮しをさせられてきた。年で動作もにぶい。服装も悪いが、ものの役にもたたない気のきかぬ兵として、いためつけられすぎて態度が卑屈になっている。
「すみません。おじゃまします」
と誰彼となく頭を下げて回った。
その初年兵が、皆に露骨に迷惑がられながら、五十人目に入って並ぶと、軍隊言葉でいう員数がやっとそろった。
左の方から五列の群が動き出して正面の頂上にある、国境の監視小屋に登って行き始めた。十メートルの間隔をあけて、第二集団の五十名が、それに続いて登って行く。
一号車から順に動きだしたのだ。最初の列が、監視小屋に着くときは、後ろにもう十集団もの列が丘の斜面につながっていた。
国境の遮断機が上り、最初の五十人だけが中へ入って行った。どっというざわめきが、あたり一帯に拡がった。遮断機の先は向う側への斜面になっているのか、丘の中腹から見えない。一分もしないうちに、また遮断機の棒が上り、第二集団が吸いこまれていった。そのころ、また奇妙な噂が前の方の集団から流れてきた。
「女がいたぞ。それも二人だ」
「今の身体検査で見つかったんだ」
まさかと思いながら、お互いに顔を見合せた。すぐに後ろの車の列に伝えながらも、ぼくらは最初は誰もこの噂は信じなかった。しかしこれは二年間の俘虜生活の中で、最大級の衝撃的なニュースであった。
次から次へと新しいニュースが前から伝えられてきて、またたくまに、真相が明らかになってきた。
一人は関東軍のある部隊の営外居住の曹長が、現地でできた看護婦の愛人と別れるにしのびなくて、丸刈りにしてそっと連れてきて、部隊長の英断で炊事係にしていたのだそうだ。
今日裸にされるまで、部隊の人間は誰一人気がつかなかった。その部隊は、初めに入った収容所から動かず同じ作業をやっていたし、その炊事係も外に顔を出さないようにしていたらしい。
もう一人の女のニュースは、ぼくを完全に仰天させた。
その女はアムラルト病院で薬局の事務をやっていたというのだ。民団の男と結婚して満洲にやってきたばかりで、俘虜になったとき、夫と別れるのがいやで、やはり頭を丸刈りにして入ったのだという。
ぼくは半年以上も病院におり、そのうち三カ月は、内勤者だった。病院といっても、さして広いわけではない。それでいて、全くその女性の存在にも気がつかなかった。噂にもきかなかった。すれ違ったり、話をしていたりしたら、必ず気がついたはずだ。
何だか信じられずに、呆然としてしまった。あれこれと、少年兵や、女っぽい勤務者の顔を思い浮べてみたが、全く見当がつかなかった。
その間も、五十人ずつの列はどんどんと丘を登り、監視小屋に入って行く。ついにぼくたちの前のあたりも、立ち上って、丘を登り始めた。女がいたというニュースは、この集団の群に、かなり強烈なショックをあたえたが、同時に一種の甘いやるせない郷愁もかきたてた。日本へ戻りさえすれば、すぐにでもかあちゃんや、愛人に抱きつける。そんなものが居なくても、遊郭や、カフェーに行けば女たちを抱くことができる。まる二年、触れるどころか、蒙古娘の姿さえ、ろくに見ることのなかった乾いた生活が、砂漠の旅で、オアシスを見つけて水をたっぷり飲むときのように、あともう何日かで手軽くいやされるのだ。
「まず銀シャリに、魚の切り身で、腹一杯飯をたっぷり喰うぞ。終ったら次にはかあちゃんをそこへおっぺして、着物と腰巻きを物もいわずに、ひっぺがしてしまうぞ」
一人が思いのたけをこめてそういった。他の男が大声で
「酒は飲まないのか。おれなら一杯やった後だ。刺身に熱燗だ。かあちゃんは、そのあとゆっくりでええ」
とやり返した。前の男が皆にきこえるようにいった。
「そいつがやせ我慢ってやつよ」
皆がわーっと笑った。
死体を置いたまま、ぼくらの列も動き出した。頂上への道はかなりの傾斜だが、足はひどく軽かった。
遮断機の前には、佐官の肩章をつけた蒙古共和国軍の高級将校と、その副官らしい、女の中尉が立っていた。若いが偏平な蒙古顔だ。馬に乗るせいで足はガニ股だった。
遮断機を越えると広場であった。そこにいるのは、この国の北の宗主国の西洋人じみた顔の兵士たちであった。
同じ軍服でも、型が少し違ってスマートで生地もよかった。女の将校が二人いた。
頭は金髪で、肌は白く、胸も腰も大きく、足もすっきり長かった。
五十人の数の点検は五列の十人で簡単だ。一分で終る。そのまま広場を横切り、また向う側の遮断機を出た。なだらかな下りのスロープが目の前に展開した。
はるか下の平地には、長い編成の列車が、引込線のレールに、何編成も並んでいた。
ぼくが子供のころ、よく遊びに行った上中里《かみなかざと》の丘の上から、手すりによりかかって眺め下した、田端駅の鉄道敷地を、急に懐かしく思いだした。
汽車はどれも今にもすぐ出発するかのように白い蒸気を吹き上げていた。
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[#見出し] 六章 家畜列車
蒙古共和国とその宗主国との間の国境線の通過は朝から始まった。
国境の集落は、蒙古側がナウシカ、宗主国側は、ナウシキといった。
国境線を徒歩で越えたぼくらは、一編成二十車輛の有蓋貨車の列の中の、指定の番号の車を探して勝手に乗りこむことになっていたが、間違ったり、わざと違う車に乗ったりする者はいなかった。
番号はこの輸送のため、車輛の前方側面に白ペンキで書いてありすぐ分った。四日間乗り馴れたトラックの番号と同じなので、大量の俘虜たちの乗車にも、何の混乱も起きなかった。全員が帰還の期待で従順になっている。
口やかましく、一団の人員五十人を守らせてきた蒙古共和国側の人員管理が見事に成功した。人間を個人の枠から外して物として考えることに徹底すれば、難しい輸送も単純な仕事だったのだ。それでも全員の検問、人数確認、車輛探し、乗りこみを終えて、列車が出発したときはもう夕方になっていた。
そこからシベリヤ本線のウランウデ駅までは単線の引込線だったので、定期の旅客列車のダイヤなどはなかったらしい。一号から十七号まで一つも順序は狂わず、十分の間をおいて出発して行った。各二十輛でできている十七編成の列車集団は、煙をつらねての一方通行であった。しかも一号編成車から、十六号編成車までは、各編成ごとに、きっちり千人の俘虜を乗せてこれも例外はない。総人員の点検は、最後の十七号編成集団の六輛だけの貨車の中の俘虜の人数を、確かめればいい仕掛になっている。
蒙古共和国の人は、ちょっとこみ入った掛算となるともうできなくて、いつもぼくらにばかにされていた。だがこうなると、ジンギス汗の時代から大量の兵員移動になれている民族の、したたかな智恵を見せつけられた感じであった。
夜があけて、窓から見えた風景はすばらしいものだった。
車輛の左側には青い水をたたえたバイカル湖が拡がり、海と同じで水平線の先は見えなかった。
右側は切りたった崖の山脈になっている。これも首をのり出して覗かなくては、頂上が見えないほど高かった。
真中の扉をあけた仲間は、山側、湖側、それぞれに分れて並んで坐り、足をブラブラさせながら、この名画のような風景を飽きずに眺めていた。これまでのまる二年間は、収容所と作業場以外、どこも見たことがない人が大部分であった。
「広いんだなあーバイカルってのは」
「船も人も全く見えない。本当に凄い国だ」
久しぶりに人間らしい会話が生れてきていた。ぼくは棚の上段で頬杖をつきながら開け放してある両側の扉から見える風景を、ゆったりした気分で眺めていた。
二年間、腹がすいた話、作業が辛い話、ときどき湧き上っては消えて行く帰還の噂、お互いの会話には、そんな話しかなかった。
日本での思い出さえ、腹がすいた日々には殆どしなかった。生きて行くことに関係のない景色の話などしたことはない。
前後を見れば、列車の長さの五倍ぐらいの間隔をあけて、線路が見える限りは、同じような貨車の列が走っていた。有蓋貨車は普通家畜の輸送に使われることが多い。
ぼくたちは最初国境の丘から貨車の列を見下したときは、また家畜と同じ扱いかと、てんでににが笑いした。しかし、実際に乗りこんだとき、それは家畜運搬用の貨車ではないことがすぐ判った。
「おう、二段になっておるわい」
「梯子までついておる」
「隅の穴は走行中の便所だな。つまりこれはれっきとした人間運搬車だっちゃ」
まあー作りの粗い寝台車と思えば、座席のある客車より、長い旅には楽かもしれない。既に何度もこんな旅に使われてきたらしく、棚を組みたてている材木も古びて、人間の垢《あか》が沁《し》みこんでいた。真中が通路で、左右の二段の棚の、下段に十二人、上段に十三人、丁度五十人が肩をすり合せるぐらいで寝られる。
しかし、それでもやはり家畜列車であった。運ばれて行く人々が、人間以下の家畜の存在であったからだ。ときどき一斉に止まって、パンや水が届けられたが、その間も待避線には入らなかった。まる二日間一台も反対方向に行く列車に会わず、完全な一方通行で走り続けた。
シベリヤ鉄道の本線ウランウデで初めて待避線に入り、動かなくなった。ここから複線になったのだが、同じ東の方へ向う列車が次から次へと続いて、割り込む隙がなかなかあかないらしかった。
それでも普通の旅客を乗せた、座席のある客車はまだ見ることがなかった。西の方のイルクーツクからやってきて、少し待っては、すぐ通り過ぎて行く列車は、みなぼくらの車輛と同じ有蓋の貨車であった。トラックの中で能弁な兵隊が語ったウクライナ暴動説は、鼠取りの部分を抜かせば、どうやら本当らしかった。
入ってくる列車と、ぼくらの列車とは、同じ家畜列車でも、その間には、はっきりした差別があった。
彼らの待遇の方がうんと悪い。
ぼくらの列車はいつでも扉をあけて外を見られたし、停車中の乗り降りはとがめられない。用便や、飯盒の自炊、軽い運動などができた。また車から離れなければ、他の車輛の者と話しあっても叱られなかった。それに比べて西の方からやって来た列車の扉には、すべて頑丈な板が外からX字型に打ちつけてあった。小さな窓からは、何人もの顔が重なるようにして、外を見ていた。どの車にも、女、子供、老人の顔がまじっていて、それらの貨車は、作業員や囚人を乗せているのではなく、普通に生活している家族を根こそぎ網ですくって移動させているような感じだった。
貨車の中からはみんなで唱う声がよくきこえてきた。民謡らしいが、いずれも深い哀調が地の底から響いてくるような歌だった。
ここでまる三日間ずっと動かずにいたぼくらの列車の集団は、やっと線路があいたらしく、四日目の昼に急に汽笛が鳴りまた走り出した。
この列車の旅は、帰国の希望を別にしても、ぼくらにとっては、何年ぶりかの楽しいものだった。これまで一日としてぼくらは仕事が何もない、のんびりした日を送ったことはない。いつも空腹で、しかも厳しいノルムがあった。達成できなければ、残忍な処罰が待っていた。帰国する日が来るまでは、そんな日が無限に続くと覚悟していた。
それが今は仕事もしないで、眠っていられる。働かなくても喰える。この政治組織を持つ国家群の中では、想像することもできない恵まれた境遇にもう何日かひたっているのだ。
食事は今までと同じ黒パン四分の一だが、日々の労働がないから、その分だけ消耗がない。何日かの休養で腹がなれてくると、満腹ではないが、やけつくような飢餓感は感じないですんだ。先方のいうように人間の生命をまあまあ保って行くぐらいのエネルギーはあったのだ。
いつも左側にあったバイカル湖は、もう見えなくて、周囲は、変化のないシベリヤの荒野になった。十月に入ってから、雪はあちこちの黒い土の上をまばらに染め出したが、日がたつと共に、白い部分が多くなって行く。チタが近くなると殆ど雪原になった。
ときどき森が見えては消える以外、まる一日走っても村落も、一軒家も、駅も、信号所も、見えない日があって、本当に走っているのかと、不安になったりした。
旅も十日もすぎてくると、人々の態度が穏やかになってきた。
起き上って他の人をまたぐときはごく自然に「ちょっとごめん」とか、「すみません」とか口に出るようになっていた。
パンの受取りや、水汲みの使役などに、当番がでるときは「ごくろうさん」と声をかけ、分けてもらうときは「ありがとう」と言葉が出た。これだけで随分、仲間の雰囲気が変った。衣食が少し足りてきたのだろう。二年二カ月の間、絶えることのなかった、怒号、叱責、お互いのいがみ合いが無くなり、ぼくにはこれが一番嬉しかった。これまでは、階級の低い兵隊、腕力に自信のない者、動作の鈍い老人などは、いつも脅えて暮さなければならなかっただけに、ようやくこれらの人にも、安らいだ表情が浮んできた。
チタを出て五日目、ぼくのロシヤ字の知識では正確には読めない綴《つづ》りだったが、多分チュコウオロジニーという妙な名の駅でまた汽車は停り待避線に入ってしまった。まだシベリヤの真中らしい。大体のシベリヤ地図を頭で描いても少くともハバロフスクまで行かなくては、終点に近いとはいえない。その読みにくい駅の大きな待避線では汽缶車を外してしまった。
ここでの停車は長くなりそうであった。
歩哨の配置は大きく周辺を囲むだけになり、一般のロシヤ人の出入りを止めると、中の俘虜たちが、その枠内を歩き回るのを自由にした。急にお互いどうしの往来が激しくなり、さまざまの情報が活発に行きかうようになった。
噂の中で、一番全員を緊張させたのは、港には思想調査の関所があって、そこで態度や経歴を調査され、日本に帰すのが不適格と判断された者は、容赦なくはねられてシベリヤへ送り返されているらしいという説であった。
しかもいざ調査してみると、あまりにも不適格者が多くて迎えにやって来た日本の船も、定員の半分ものせないですごすごと戻って行く。関所には人があふれてもう収容しきれない。それで各地からの列車が、ここから港までの各駅ごとに溜ってしまっている。港の人間が減るまでは何日も待避を続け、前の方から少しずつ動いて行く。何集団も詰まっているから、かなりかかるらしい。へたすると祖国の土を踏むのは、正月を越すかもしれない。想像もしていなかったきびしい情報であった。
そこでまた、各車それぞれの情報マンの活躍が、活発になってきた。もっとも熱心で、いい情報を持ってくるのは、ウクライナの鼠説で皆を感心させた、例の能弁の兵隊だった。
二日目の夕方の粉の粥の食事を、車の中でぼくらが喰べかけたとき、彼は話しだした。
「港へ行って、情勢を見て戻ってきたロシヤ人がいてな、それが蒙古の警戒兵に小声で話をしているのを、十二号車にいる有名な通訳さんがきいたパリパリの確度甲の情報がある。聞きたいかね」
「頼む。じらさんでいってくれ」
「おれたちは帰れるのか、帰れないのか」
全員の関心が集中したと知って、彼はおもむろに語りだした。
「おれは今日まで知らんかったのだが、左翼運動をしている連中の間には、君が代のように大事にされている歌があるらしい。港ではまずそれを大声で唱わされる。多少の音痴は許されるらしいが、三番までに文句の間違いが三回以上あると、ストップして後戻りらしい」
雑談がぴたりととまった。一人が真剣な声できいた。
「それ、何という歌だ」
「うん、それが赤旗の歌というんだそうだ。名は判明したが、歌詞を知らん。どの列車集団でも誰か一人ぐらい知ってる者がおらんかと、きいて回ってるらしい。だがまだ見つからんそうだよ。そんな歌をうっかり唱ったら、昔はそれだけで懲役に行かなならんからな。インテリー補充兵には、元左翼が必ず二、三人いて、どうも中には知ってる者がいるらしいが、そいつはまた上官に殴られると思うてか、知らんと、固く口をとざしているそうだ」
どこからか発言があった。
「そいつは知らんじゃなか。港へ着いたら、自分だけ一人唱って先に帰るつもりじゃなかとか」
「うん、そうかもしれん」「多分そうじゃぞい」
あちこちからその説に同調する意見が出た。
「誰か知らんかね。既往の国賊の罪はもう無効になっているはずだ。敗戦以来世の中変ったんだしな。今となっては叩きも責めもしない。日本へ帰るのが先決だ。知っておったら若気のあやまちと割りきり、恥をしのんで、すすんでいうてくれんか」
お互いに顔を見合せた。
しばらくの探り合うような沈黙があった。ふと意外なところから声があった。
「自分は知っとりますが、……でも左翼じゃありません。友達にすすめられて歌だけ習いましたのです」
山本鹿之介が顔を潰されて死んでしまった後の員数合せに、最後尾の車輛からひっぱってこられた、三十すぎの補充の二等兵の声であった。
能弁な兵隊はほっとしていった。
「おうおまえ知っとったのか。理由などいわんでいい。過去の罪は問わない。三番まで文句を知ってるのか」
「はい全部そらんじています」
「それはいいぞ。みんなに教えてやってくれんか」
いつのまにか、この発言の多い兵隊が、自然に車輛のリーダー格の世話役になっていた。
二人の間に身分上の関係はこの際ない。年からいったら、能弁の兵の方がずっと若くて、丁寧な言葉を使わなくてはいけないのだが、補充の二等兵で入ってきた最下級の兵士と現役兵との間では、どうしてもそれができない。いつも老補充兵の方がごく自然に下手に出てしゃべる。
「ただし皆さん」
と老補充兵はおそるおそるという感じで車内を見回した。
「何だね」
「みなさんは、紙、手帳類と、筆記具の一切を国境で取りあげられてきています。私がその文句をお教えしようとしたところで、どこかに書かなくては、とても覚えられるものではありません」
いつも侮蔑の対象でいじめられてばかりの最下級の身分の兵士としては、なかなか筋の通った意見をいった。あちこちで呟きが出た。
「そうだなあー。何かに書かんとな。歌の文句などそう簡単に覚えられるもんでねえ」
「さっきの話では大声で三番まで唱って、三カ所間違うと駄目だということだな」
「うん、こらかなわん。軍人勅諭の全部暗記がでけんで、とうとう下士候学校へも入れんかったようなトロい頭だ。えらいことになった。口うつしではとても無理だ」
言葉通り頭を抱えこんだ。他の者も同じで、どうしたらいいかと動揺が走った。
港へ着いてからなら、教育用の歌詞カードが小冊子でも支給されるだろうが、できれば早目に学習に入っておきたい。査問官の前に一人ずつ立たされてソラで唱わされるとなれば、一緒にただ大声張り上げているのとは違って、完全に暗記しておく必要がある。
「いい方法があったぞ」
一人が叫んだ。
「おう、どういう方法だ」
車内の全員がそちらを向いた。その男は、地方《しやば》では大工をやっていたという現役の三年兵だ。これまで寡黙であったが、動作は敏捷で頼りになりそうな男だった。彼は上衣の折り襟の内側の布の合せ目から、鋭く先の尖らせてある釘を抜いて示した。
「作業場で拾ってずっと持ってきた。釘は大工の生命だからな」
扉の所まで行き、ひきずって半分閉めると、出てきた内側に
「ここよ。タールが塗ってある。多分こういう風にやれば黒板の代りになる」
と、自分で黒いタールをひっかいて、すみの方に小さく『あかはたのうた』と書いて見せた。
拍手が起き歓声が湧いた。少し立場を失った能弁の兵隊がいった。
「いいかこの件は他車の連中には、軍極秘《ぐんごくひ》扱いにしよう。一人でも我が車に近づく者があったら、この扉を押しこんで隠してしまうんだ。何も奴らが先に帰る手伝いまでしてやることはないからな」
全員が声を上げて同意を示した。
補充の兵士は釘を受取ると、扉をぴったりしめて、充分な面を出した。上から三段の筋目をつけて、一、二、三、と最初に番号を振って書きだした。几帳面な性格らしい。字もしっかりした書体であった。
一、
高《たか》く立《た》て 赤旗《あかはた》を
そのもとに誓死《せいし》せん
漢字にはちゃんと振仮名をつけてある。最下級の身分でありながら、今ではもうそんなものをふっとばす威厳があった。みな少しでも早く覚えたい一心で、小声で口の中で呟きだした。
この車輛の殆どが軍隊経験者である。軍での学科試験に合格するのには、まずしゃにむに暗記して、それを大声でとなえればいい。語句の理解は問題とされない。誰もがその習慣を思い出して、早速、暗誦《あんしよう》を始めだした。
途中でふっと一人の男がきいた。
「それであんた節は分ってるのか」
「はい、節の方はあまり正確とはいえませんが大体は分っております。一節ずつゆっくりやりますから、ついてきてください」
念のため扉を両方しめさせて、盗聴を防いでから、堂々としたバリトンで唱いだした。ぼくは珍しいものを見るようにこの老補充兵を眺めた。この年で人の前で、てれもせず歌を唱える人は、キリスト教の牧師さんを除けば、普通の日本人では見たことがない。地方《しやば》で何をしていた人なのだろうか。牧師さんは共産主義とは無縁だろう。改めてその人の顔を見つめたが、見当もつかなかった。
彼はてれくさそうにいった。
「歌劇の仕事をやっていたことがあるんですよ」
シベリヤ本線のレールには、また列車の往来が盛んになった。東行きは相変らずX字型の板を打ちつけた貨車が殆どで、いつも小さい窓からは、大勢の顔が外を覗いていた。その一台に三、四歳の少女が交って入っていた。ちぢれた亜麻色《あまいろ》の毛に、緑の目で、ぼくらを不思議そうに見ている。どうしてこんな少女が政治犯としてシベリヤに送られなければならないのかと、暗い気分になり、それとともに、ぼくらは皆いっときも早くこの国を出なくては大変なことになるぞ、とせかされる思いで、必死にまた歌詞の暗記にとりくみ出した。しかし三番まで詞があると、どうしても二、三カ所、語句が混乱して間違うところが出てくる。そのたびにシベリヤへ送り返される悪い予感に心臓が瞬間冷たくなる。夜になって通りすぎて行く列車からは、大概、例の地獄の底から響いてくるような怨念のこもった民謡が聞こえてきた。
待機も七日目に入った日の昼ごろ、ぼくらの車の扉口まで来た若い男が声をかけた。
「自分は二百三十一号車の見習士官の福田というものだ」
しゃっきりとした口調で話す姿勢もよかった。これから少尉に任官というところで捕われの身となった。そのままで上、下とも、身分が固定したから、未来の国軍幹部に今一歩という精進の姿勢は、まる二年経っても変らない。
「今日は自分は決行の同志を募りに来た」
ぼくらは緊張した。何の決行か分らないがここまできて、軍隊言葉でいう軽挙妄動に走り、全員が帰還中止で送り返しになったら大変だ。できるなら、そういう兇事《まがごと》への誘いは、聞かなかったことにしたい、毛布に首をつっこんで寝てしまうもの、わざと横を向いて他の者と話し合うもの、できるだけ、この若いのを無視しようという姿勢になった。
見習士官はそんな応対ぶりに馴れているのか、全く気にもしないで話しつづけた。
「この汽車の旅の終る港の町では、心の底まで真赤にかぶれた筋金入りの共産党員が待っていて、思想調査を入念に行っている。それで手間どって帰還がおくれおくれになっている事情は、もう諸氏にも分っているだろう。我々はなるたけ早くそこを通過して少しでも早く日本に帰り、天皇陛下にお詫びして、大日本帝国再建のため努力しなければならない。そのため一時は熱狂的な共産主義者のふりもしなければならないし、スターリンへの忠誠も誓わなくてはならない。何事も早く帰るためだ」
少しは彼のいうことに耳を傾ける者も出てきた。誰かがぼそっと小声で答えた。
「船に乗るためなら、どんな主義にもなりますよ」
「ところが、どうもそれだけでは駄目らしい。敵もさる者だ。見かけだけではごま化されない。二年間の抑留生活の中で、思想改造がもうすんでいることの証明を要求するらしい。それで我々は今晩その実績を作っておきたい。一車輛、一人か二人出してくれれば、全員がその行動に参加したこととして、向うへ行って調査員に報告する。これは自分が責任を持つ」
他の兵から質問があった。
「行動ってどんなことをするのですか」
「この十七号編成の中ほどの百五十四号車に、吉村隊長が幹部と一緒に乗っている。三十人ぐらいの幹部が常に身辺を警戒している」
ぼくはあの相撲取りのように、よく肥《ふと》って体力の強い連中を思い出した。棒を振り回し、やせこけた男たちを作業場へ追い出すときの連中の怒号は、頭にちらと浮んだだけでも身ぶるいする。
「そいつらを、今、ここで充分に懲《こ》らしめておけば、帝国主義打倒、資本主義否定の行動に、我々全員が立ち上って参加したことになる」
「懲らしめるって、どんなことをするんですか」
もう一人別な男が心配そうな声でいった。
「ぶっ殺しでもすると、やはり問題が起るんじゃないでしょうか。蒙古共和国側は計算が面倒になるので、五十人の人間が四十九人に減るのをひどく嫌ってますよ」
二人の兵の質問に見習士官はしっかりした語調で答えた。
「それはよく分っとる。殺しはしない。板で殴りつけて、二度と大きな口をきかせない程度にやるつもりだ。我々の必要とするのは、形式上の実績だけだからな」
「それで自分たちにどうしろというのですか」
「さっきいったように、今晩の蹶起《けつき》に一人か二人だけ加わってくれ。それだけで港の査問委員に対しての、この……」
と一旦、車輛の前方に書いてある番号を見て
「……二百九十三号車の諸君の、思想度は充分評価され、査問は他より楽に通過するだろう」
別に吉村に同情するわけではないが、こんな形式上の実績を上げるために殴られるのではちょっと気の毒な気がしないでもなかった。この若い見習士官が何を根拠にしてこんなことを起そうとするのか、多少いぶかる心がないではなかったが、もう七日も動けないでいると、港で待っている査問官への不気味な予感が拡大するばかりで、何でもいいから役にたつことがあったらと、藁《わら》にでもすがりたい気分になってくる。
能弁の兵隊がいった。
「見習士官さん、この件は分った。自分が出ますよ。その代り査問官にはよろしく頼みますよ」
そこで見習士官との間に待ち合せ場所や、襲撃の際の武器などについての打合せをしだしたが、突然みなが思いもかけないことが起った。
歌の文句を教えてくれた老補充兵が、ぼくの真下の寝床から体をのり出して質問した。
「見習士官殿、吉村隊長の件は分りましたが、もう一人、兵隊を苦しめたボスに、小政というのがいます。自分が考えるのには、小政の方がずっとひどい。小政はどうするのですか」
ぼくは不思議なものを見た。見習士官が少し動揺し、顔色が変ったのだ。全く小政のことを知らないわけではなさそうだった。たとえば皇室の批判をするように、絶対触れてはいけないタブーに無理に話題を持って行かされた困惑のようなものが生じていた。実はぼくも内心同じことを考えていたので、急にこの老補充兵の勇気ある発言に興味を持った。
吉村なら誰でも攻撃できる存在であった。単に組織に乗って頂上で威張っていただけで、自分の腕力でのし上ったわけではない。一人では殺人もできまい。ただし小政は違う。その怒りに触れたら、何をされるか分らない。全身が闘いのエネルギーにみちた殺し屋だ。迂闊《うかつ》に小政の名を口に出すのもはばかられる絶対の存在だった。
しばらく言葉に詰まっていた見習士官は、やっと自分の論点をたて直して反論をしてきた。
「小政などは元は一兵卒にすぎん。体制上の問題とは関係ない。暴力を振っていばりくさっただけで、思想上の次元はひどく低い。たとえやっつけたところで、労多くして功が少い。査問官の関心を全くひかない。我々にもそんな無駄なことをしているひまはないのだ」
無理に虚勢をはっているような大声であった。空疎ないい逃れにしか聞こえない。
「では頼んだぞ」
自分でも居難くなったのか、能弁の兵隊との打合せをすますと、すぐ前の車輛に去って行った。ぼくのすぐ下の棚にいた補充兵は
「こりゃーだめだ。まるで屁のような話だ」
そうはっきりした言葉でいうと、また毛布をかぶってしまった。
全く同感だった。最下級の兵の卑屈さ従順さが身についてしまって生きているが、このバリトン男はなかなかの人物だなとひどく感心した。ぼくは一度ゆっくりとこの補充のおっさんと話してみたいと思った。小政を知っているのなら、ぼくの映画講談をきいたことがあるだろう。それが話のきっかけになるかもしれない。そういえば、国境での臨時の新入りのせいもあって、この人がまだ誰とも無駄話をしておらず、名前も身分も明かしていないのを、このとき気がついた。お互い他人のことを気にしない習慣が身についているが、それでもこれは少し異常であった。
その日も一日中列車集団は動く気配がなかった。
夕方暗くなると各車から、一人か二人が、行動に参加するために抜けだしてきて、車輛の前の方にある空地へ身体《からだ》をこごめながら歩いて行った。この行動に冷やかなのは、ぼくと補充兵だけで後の者はしきりに心配して話題にしていた。もっとも連日ごろごろしているだけで何も仕事がない。昼間眠りすぎて眠れないせいもあった。
夜も大分おそくなってから、ぼくらの車の代表は戻ってきた。新品同様のふっくらとした上等の毛布を二枚も抱えていた。
回りからすぐ声がかかった。
「おいどうだった」
「いやー愉快だったよ」
「抵抗はなかったかね」
「こちらは百人近くいた。抵抗どころか、棚の奥にもぐりこんでみんな震えていた。隊の幹部以外は許してやるといったら、二十五人出てきた。もと吉村隊にいてよく顔を知ってるのが、一人一人焚火の光りで顔を調べてから外に出してやった。それでも三人ばかりごま化して出ようとする奴がいたので、丁寧にまた貨車の中に戻してやった。それから一斉の踏みこみだ。中に二十八人残っていたが、一人も武器を持ってない。悲鳴をあげて逃げ惑うのを思う存分ぶん殴ってやった」
「それで吉村をやっつけたのかね」
「たしかに中に吉村がいるのは分っていた。だがおれたちの狙いは帝国主義打破・資本主義体制の破壊にある。だから個人にこだわらず体制を守った者全員をひとしく懲らしめようということで誰も敢《あえ》て吉村個人を意識しなかった。しかもリンチは扉をしめきってやったから、どこに吉村がいたか最後まで分らなかった。皆平均にやっつけたから、彼も今ごろは体中殴られて唸っているのは間違いない」
ぼくの寝床の下で
「全く屁みたいなことをして、何の役にたつんだ」
とまたあの補充兵がいった。ぼくはうつむくと、下の彼にだけ聞こえるような声でそれに答えてやった。
「小政じゃそうはいかないな。こんなことしたら一旦全員を追い散らした後で、今ごろは奴の部下が、各車を訪ね歩いて行動に参加した者を、一人一人見つけては、虱つぶしに殴り殺しているころだ。怒ると凄いからな」
大声で自慢話をしている兵に、誰かが少し羨ましそうにきいた。
「ところでその毛布はどうしたのだ」
「最初|膺懲《ようちよう》行動に入る前に、足場をよくするため中の荷物を全部ほうり出した。さすがに吉村だ。チョコレート、ビスケット、白パン、黒パンなどが沢山積みこんであった。狭い貨車だ。一ぺんに中に入れないので、扉の外を囲んで守っていた参加者が、そのほうり出された荷物を見ると、我勝ちに争って奪い、逃げ帰ってしまった。全員をコテンパンにのした我々が、扉をあけて出てきたときは、菓子やパンと一緒に、残りの人間も消えていた。あまり腹がたったので、棚板に何枚も重ねて敷いてあった毛布をひっぺがして持ってきてやったんだ」
何人かがくすっと笑った。
まる二年俘虜生活をしていて、いい加減こすっからくなっているはずなのに、随分間の抜けたことをしたものだ。
「これだけのいい毛布なら、どこかの駅で停ったとき、ロシヤ人に売りつけてやれば、パンの五、六本になるのじゃないかな」
「もっとなるかもしれない。何しろ何もない国だから」
とたんに誰もが襲撃の話に興味を失って、急にこの国の物資不足の話をてんでにやり始めた。これは汽車に乗って以来、俘虜たちの間で最も語られることの多い話題で、話しだしたらタネはつきないほど、お互いにみんな豊富な実例に直面していた。
物資の交換はどの収容所でも水汲みのシナ人が間に入り、秘かに、しかし盛んに、行われていた。
ハンコの印肉を口紅として、蒙古軍の将校夫人に売りつけた話、粉歯磨をおしろいとごま化して、思いがけなく沢山のパンにありつけた話。ビタミンの注射のアンプルのラベルを全部606に書き変えて、梅毒のおできに悩むガニ股の作業監督に大量に売りつけた者、呆れるほど物のないこの国で、誰もが何かしらパンに換えては生き永らえてきたのだ。
車内の誰もが、過去の交換話に夢中になっていたとき、ぼくは下へおりて補充兵のそばへ行くと枕もとで、今日まで全く目だたなかったこの男に初めて話しかけた。
「さっき聞いてびっくりしたんだが、あんたも小政の所にいたのかね」
「ええ、自分は乙幹さんをよく知ってますよ。小政の所で、無法松と、駅馬車を聞かせてもらいましたよ。病院へ入ったのは、かなりおそかったので、巴里祭と、残菊物語の二本だけ聞かせてもらいました。自分は映画が好きなもので、とても懐かしかったです。だから国境ではすぐ分りましたが、実はしばらく信じられなかったので声をかけなかったのです」
「なぜだね」
「自分は出発の日まで病院にいて、病気の人々と一緒に最後尾の車で来たのですが、病院では、乙幹さんはもう死んだという噂が伝わっていました」
「なぜだろう」
「暁に祈らされそうになったので、その前に第二兵舎の窓の鉄枠に縄を巻きつけて首を吊ったというのです。吉村はかんかんに怒って、壁に二、三日ぶら下げておいて、みせしめにしていたというのです」
ぼくは文学の好きな、あのおだやかな男を思い出した。
「ああそれはぼくではない。しかし間違えられるのも無理はないところもあった。感じが似ている人だった。その事件があったのはそれほど前のことではない。出発のほんの少し前だ。噂ってのは随分早く伝わるものだね」
「何でも春日通訳は、早くから帰還のことを知っていて、特命を受けて、各収容所の状態を調べていたらしいのです」
「春日通訳さんか。懐かしい名前をきくなあ」
「乙幹さんが自殺したときいて、俳句好きな竹田軍医殿が、すぐ医務室の内勤兵に入院の有志を加えて、追悼の句会を開きましたよ。参加者には黒パン八分の一の特配があり、自分も参加しました」
「句会か。こんなぼくのためにね。竹田さんは優しい人だからな」
「俳句ならやれる人が多いのでかなり集まりましたよ」
「光栄だな」
ぼくは完全にテレてしまった。
「明日でも何とか最後尾に行って、春日通訳さんや竹田軍医にお礼をいっておこう。ところであんたはどんな句を作ってくれたのかね」
「自分のは残菊のお徳をしのぶ 外蒙古≠ニいうのです。平凡すぎて入選しませんでした」
溝口映画の最高傑作のラスト・シーンだった。語りにも熱がこもり評判がよかった。ぼくは手をさしのべて、しっかり握手した。
「ありがとう。こんな嬉しいことはないよ。みんなにまだ覚えていてもらって」
パンを少しでもよけいに喰べたい、苛烈な環境を生き抜きたいという思いでやった仕事だ。こんな風にいわれると、恥かしかったが、同時にとても晴れがましい思いもした。
「ああそうだ」
急に気がついてその男にきいた。
「国境の上を通るとき、デマが伝わってきた。最後の持物検査で裸にされたとき、女が二人見つかったというじゃないか」
「はい」
「その一人は病院の衛生兵だって」
「はい」
「誰なんだね。あんたは知っていたのかね」
「ええ、自分ら病院部隊には、競馬場でトラックにのせられた段階で、早くも彼女の存在がばれてしまっていました。やっぱり体を押しつけるようにしてのせられているから、回りの人には分るし、便所なども、必ず物かげでしゃがむので、おかしかったのです。すぐに車中にさまざまの噂が囁かれました」
「そうだったのか。それで誰なんだね。病院に勤務していた兵隊さんなら、全員知っているつもりだが」
「いや、乙幹さんは見たことがないはずです。病院へ着くと同時に、アレクセイナ院長と日本側の院長本木軍医少佐との計らいで、ゼンナー看護婦長の家の当番兵として出向して、ずっと病院へ戻ってこなかったのです」
「そうか、小山衛生兵だな。凄い美男子だという評判が残っていた」
それは伝説でしか知られていなかった兵隊であった。
ゼンナー看護婦長は二メートルぐらいある大女で、四十近い年の、女盛りむきだしの体つきをしていた。蒙古人と宗主国の白人との混血女だ。夫は対独戦で戦死し、十歳ぐらいの男の子と、病院とは一キロぐらい離れた官舎で暮していた。
俘虜たちでは、一つ担げる者さえ殆どいない、七十キロもある黒パンの粉の入った麻袋を、両手に一つずつ把んで、ひょいと持ち上げて、平気な顔で運んだ。
若い男がほしくて物色していたら、美青年が一人目に入った。それを自分の当番兵にして病院から連れて帰り、昼は子供の勉強相手、夜は自分のベッドの相手にして、責めたてているという話が、ひそひそと語られていた。やっかみ半分もあって
「小山衛生兵は、今はいい思いをしているが、帰還のときが来ても、ゼンナーが放さず、もう二度と日本へは帰れないだろう」
とみなからいわれていた。ただその当の小山を見た者は一人もいなかったのに、噂では林長二郎時代の長谷川一夫にそっくりの美男子ということになっていた。
「本当にいい男に見えたかね」
「ええ、しかし分ってしまった彼は、急に女らしくなりました。可愛い女でした。大きな黒い瞳が艶っぽく光って、そばにいるだけで堪《たま》らないほどでした。国境で服を脱ぐときは、みな気の毒なので、見るような見ないようなふりをしていましたが、検問の特務将校が、襦袢の下がふくらんでいるのを発見して怪しみ、小ボタンを二つあけて確かめたとき、ちらと見えた丸い乳房に自分は目がくらむ思いをしました」
「そうか、小山衛生兵は女だったのか。どうしてこの国に入ってきたんだろう。看護婦に手をつけた軍医が、無理に連れてきてしまったのかな」
「いえそうじゃないのです。トラックの中の話や二人の態度で分ったのですが、協和会からきた人で、妙に腰の低い、いつもニコニコしていた井野という薬剤師がいたでしょう」
「ああいた。あんまり言葉遣いが丁寧で、態度が穏やかなので、却ってぼくらには馴染《なじ》めない人だったなあ」
「あの人の奥さんなんだそうです。内地から彼女がやってきて、現地で結婚式をあげて三月もしないうちに終戦になってしまったのだそうです。それで二人とも離れるのが辛いので、夫人は率先して丸刈りになり、しっかり旦那さんについてきたのです。入国してからそれが分り蒙古共和国側で大問題になり、すぐ一般兵から隔離してしまったのです。病院へおいておくと、好奇心の対象になるし、おかしな問題が起っては困りますからね」
そうなのか。今さらながら、この秘密の保持には感心すると同時にひどく惜しい気がしてきた。もっと早く分っていれば、病院での内勤中に何とかそばへ行く機会をつかみ、体の匂いだけでも嗅がせてもらったのにと思った。
「それで夫婦はときどき会っていたのかな」
「これもトラックの中での立ったままのひそひそ話なので正確ではありませんが、日曜の夜だけ井野さんの方から訪ねて行くと、ゼンナーが気をきかして、二人きりで一つの部屋ですごさせてくれたということです」
「それじゃー抱きあったことは確かだ」
「そりゃー二人だけのことですから、何をしていたか分りません。お互いに若いし、新婚三カ月でした。キスだけではすまんでしょう。でもゴム・サックなどない国ですから、最後のことはやはり慎んだのではないでしょうか。もし妊娠したらどうにもならなくなり、最悪の場合は子供を人質に、永久にこの国に残れといわれる怖れがありますからね」
「そうだな」
話しながらも、その二人のことを考えると、妙に悩ましくなってしまった。走行中の列車でのトイレはどうするのか。長い旅だ。着換えなども当然あるだろう。既に女と分った後、狭い貨車の中の膝をつき合すような生活で、みなはどんな思いでいるだろうか。
一たん情景を想像しだすと、ぼくはさまざまのことが頭の中を走り回って止まらなくなってしまう。明日は早速、最後尾の車輛を訪ね、世話になった春日通訳や、竹田軍医に、ぼくが元気に生きていることを示し、お礼の挨拶をしておこう。そしてちらと、あの伝説の林長二郎ばりの美少年、実は井野夫人をぜひ見てやろう。
何もすることのない待避線での退屈な生活に、恰好な気晴らしができた。
どしんと汽缶車がぶつかった感じの、衝撃があって、貨車全体が少し後ろへ下った。
まだそれが出発の準備とは思わず、明日はともかく日本の女を見てやろうという、期待に胸がはずんだ。
だがいつも、ぼくの期待は実ったためしがない。このときもそうだった。
明け方ひどく寒かった。それに車が揺れて規則正しい音がしている。
ふっと目をさまして窓から外を見ると、汽車はいつのまにか、シベリヤ本線の上を走っていた。雪は音もなく降り、回りは白一色の世界であった。
立ち上って窓から顔を出した。顔に当る空気はとても冷たくて凍傷になる危険さえある。それでも、ひっこめられなかった。明らかに東に向いているのが分った。汽車の正面から明るくなり、もうすぐ太陽が出そうで、先触れの尖兵が、連隊旗か朝日新聞のマークのように、雲を分けてはっきり何本も空に向って飛び出していた。
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[#見出し] 七章 最後の審問
高地から下りにかかると、急に列車のスピードは落ちてきた。
蒙古共和国の国境を越えて汽車に乗りこんだときは、十七編成の列車集団は、十分おきに出発した。それからのシベリヤでの長い旅では、いつも前後がお互いに見えるぐらいの間隔でつながって走っていた。それが二日前、やや急な登りの地形へ入ったときから、お互いに離れ出し、ときには前から離れるため停車したりして、いつの間にか前の列車も、後に続く列車も見えなくなった。
「つまりこれは、港の終点へ一万六千人もの人間が一ぺんに到着すると、船に乗せる係が混乱するから、二時間おきか六時間おきか、彼らが一隊ずつ処理できるよう時間を調節しているのだ」
待たされていらいらしているとき、情報に敏《さと》い能弁の兵隊がそういった。それで急にみなの胸に希望がわいてきた。
丘の下りも終って、平地へ入ったとき、汽車のスピードは全く落ちて、虫が這うようになった。とうとうそれも終り、力尽きたように、ガタンと大揺れして止まってしまった。前に線路がなく、TT[#2つのTを横に並べた形]字型の器具がおいてあった。明らかにここが鉄路の終点だった。
「おい、鼻をふくらませて降りろよ。潮《しお》の香りがするぞ」
そう言って、まっ先に外へ飛び出し、思いきり冷たい空気を吸いこんだのも、その能弁な男だった。ぼくらも彼に続いて、争って飛び出した。そこはたしかに終点だった。前に砂山があって海は見えなかったが、かすかに波の音さえ聞こえていた。
引込線が何十本もあり、既に右側にはこれまで前に走っていた列車が停っていたが、扉はあけられ、中は空っぽで、人間の姿は全く見えなかった。
まだ朝は早い。ぼくらの列車は今日の到着の一番で、前の列車は昨日までの到着分らしかった。国境を出発してから一月と十日たっている。長い旅であった。飛び下りた人々は、雪もまばらな砂地の上で、両手を振り回したり、軽く駆け足したりしていた。潮の匂いと、かすかに聞こえる波の音の他にもう一つ、アコーディオンを中心とする音楽と、それに交る歌声が、これは風の加減で聞こえたり消えたりしていた。荷台の半分ぐらいに人間が乗っているトラックが、遠くからやって来て止まった。短機関銃《マンドリン》をかまえたソ連兵に守られている。荷台から飛び下りると、一人ずつ二十輛ある各車の扉口までやって来た。この国の労働者用の人民労働服を着ており、赤い蛇腹が巻いてあるレーニン帽をかぶっていた。近づいてくる顔を見ると日本人だった。
全員がこういう出迎えを何度もやっている経験者らしい。現われるときのタイミングから、ぼくらへの第一声まで手なれたものであった。
各列車ごとに分れて適当な位置につくと、一体この男たち何でやって来たんだろうと、いぶかし気に見ているぼくらにいきなり
「こらっ、きさまたちは何たるざまか」
と大声でどなり出した。迎えの言葉や、せめて、これからの注意でもあるかと思っていたぼくらはあわてて並んだり、一カ所に集まって、そのいうことをよく聞こうという態度をとった。全員よくひびく鍛えられた声を持っていた。
「神聖なる我らの祖国シベリヤの大地に、きさまたちは、道々野糞をたれながらやってきた」
便所がないのだから当然だろう。最初の歓迎の挨拶としては、品が悪すぎる。しかし左右の貨車の前でも、彼らは全く同じ文句から始めているのが聞こえるから、これはどうもここでの第一声の決りであるらしい。
「これまで住まわせてもらい、喰べさせてもらった恩を感じている奴は一人もいないのか」
いきなり一人の兵隊のそばに近づき、襟のところにあった階級章をむしりとった。地面に叩きつけると、すぐ足で踏み潰した。
「早くとれ! 捨てろ! こんな物をくっつけているようでは、すぐシベリヤへ逆戻りだ。馬鹿もん。恥を知れ」
ぼくらはあわてた。軍隊にいたときほどきびしいものではなかったが、これで民団・補充・現役の区別がついて、相互の話し合いに便利であった。
惰性でつけていて、皮膚の一部のように、それがついていることを、全く意識もしていなかった。あわててむしりとって地面に捨てた。きっと前に着いた列車では、吉村も小政も従順に捨てただろう。
何となくおかしくなった。以前病院の内勤兵で、やや腕力に自信があった者が、入院したときは二つ星の一等兵、三カ月後には中で四分の一のパンと交換した軍曹の襟章をつけ、四階級特進で他の収容所へ出ていったが、それをとがめる者も笑う者もいなかった。自分の腕力があれば、どんな位でも勝手につけられたのだ。レーニン帽をかぶった連中がいきりたつほど、真剣な問題でなく、お猿の山の位づけぐらいのものだった。
この迎え方には、誰も見事に度肝を抜かれた。彼らの右腕には『民主聯盟』と赤地に白く染め抜かれ、その下に墨字で『指導員』と書き加えた腕章が巻かれていた。威圧のためか、列車の周囲を歩き回るロシヤ兵の首の前にかけられた短機関銃は、常に銃口をぼくらに向けて、いつでもすぐ発射できるようになっていた。
一分間に七十二発の弾丸がとび出す。ぼくらは、その弾丸の発射音を知っている。民主聯盟の者たちが、それからぼくたちに浴びせかけた叱責、罵詈雑言《ばりぞうごん》は、丁度この弾丸の音を聞いているような激しいものだった。よくこれだけの豊富な悪口の語彙《ごい》を用意したなと、ぼくは感心した。あまりに沢山の言葉が次から次に出てくるので、大半は耳の上を通りすぎてしまって、意味もよく分らないほどだった。
「何だこのざまは。今までここにはもう何万人もの抑留者がやってきたが、きさまたちほどだらしがない奴は見たことがない」
右から左から、同じ言葉の怒号が入ってくる。
「きさまらは、この聖なるロシヤの大地で、折角働く機会をもちながら今まで一体何を学んできたのだ。規律や精神は一つもないのか。すぐ全員で車内の清掃にかかるんだ。もう日本は負けたんだ。軍は解散された。将校も下士官もない。もと将校の搾取的階級にあった者ほど、人民への謝罪のため、一心に働いてみせないと、船へは絶対乗せないぞ」
掃除するといっても箒《ほうき》一つあるわけではない。貨車の中にもぐりこみ、棚の中を這うようにして、掌でゴミをかきあつめる。レーニン帽の若者は中へ入ってどなりちらし、這って掌で隅をさらっている者の尻を蹴飛ばした。誰一人それに対して反抗できない。
「もしこの中に埃《ほこり》一つ残っていたら、全員が連帯責任だ。すぐに蒙古共和国へ帰ってもらうぞ。手ですくえなかったら舐《な》めてきれいにしろ。この車輛はスターリン大元帥閣下が、畏《かしこ》くも我々抑留者のためにお貸しあたえられた大事な貨車だということを、片時も忘れるな」
スターリンの名さえ抜かせば、旧軍隊の言葉と発想がそのまま使われていた。
この民主聯盟の人々は、近くでよく見るとまだ若く、むしろ可愛いといっていいような顔をしていた。多分敗戦の直前に入営の現役初年兵だ。まだ軍や天皇に対して素直な感情を持っているうちに、新しい思想を叩きこまれたのだろう。信仰相手が変っただけで、同じような純粋な忠誠心が身についていた。特攻隊志願の若者と全く同じで迷うことなく、共産主義に徹しきっている。中には、スターリンの名をいうときは憧れに目を輝かし、一々両踵を合せて、直立不動の姿勢を取る者もいた。
約一時間ぼくらは絶え間のない怒号の下で働いて、やっと清掃が終った。あら探し専門のきびしい点検にも合格した。その後全員が荷物をまとめて、列車の前に整列した。もうそろそろ収容所へ入って行くと思って期待していると、今度はまた別のトラックに二十人の人間が来て、今までの民主聯盟の人間と合流した。レーニン帽と、人民労働服までは同じであったが、腰のあたりが、妙に丸く太い。背も低い。帽子の下には長い髪が押しこんである。
「女だ」
「何だろう。苦しい労働をしてきたおれたちに慰めの言葉でもかけてくれるのだろうか」
小声でささやき合うぼくたちに向って、能弁の情報通が、やはり小声で注意した。
「思想調査員だ。こういうことは女の方が、融通がきかないから怖いぞ。気をつけろよ」
耳が早い男は、目もいいらしい。近くに来たその若い娘たちの腕章には、ちゃんと『思想調査査問員』と染め抜かれていた。首には画板をかけ、調査用紙がクリップで止められていた。みんなよく肥っていて、白い顔に頬が赤く、見た目には可愛らしい娘ばかりであった。どういう経過で、こんな若い女たちがシベリヤに残されていたのか分らない。ぼくらの貨車に査問にやってきた娘は、その二十人の中でも特にきれいな娘だった。
昭和の十年前後に人気のあった、ややエキゾチックな容貌の、霧立のぼるという女優にそっくりで、何人かが「あっ、霧立のぼる」と驚きの声をあげた。その査問員も自分が似ていることは、ちゃんと意識しているらしく、軽くほほえんで見せた。少し緊張していたぼくら五十人の男たちは、これでいくらか気が楽になった。
その一瞬、ぼくらのだれた気持に活を入れるように、女から号令がかかった。
「気をつけ。これから査問にかかる、休め」
五十人の注目を集めるときびしい声でいった。民主聯盟の男たちは、その女を守るようにそばについて、やはり鋭い目をぼくらに注いでいる。
「右はしから、所属部隊名と、名前と、年齢を一人ずつこれから調べる」
画板に止めた白紙の空欄をよく見るように向けた。
「ここに自分がきさまらの名を書き入れる。その後ろに欄が三つあるのが分るか。返事しろ」
一斉に返事した。
「ここへ二年間の労働によって、思想改造がすんでいるかどうかを書き入れる。次の欄はここの収容所での教育に対しての、きさまらの学習態度を書き入れる。両方とも七点以上か、片方が六点以上で合計が十五点以上でないと、船には乗れないぞ」
無理に乱暴な言葉を使っているようだった。声が女だから、少女歌劇みたいで変に色気があってくすぐったい。だが、船という言葉が出ると、とたんにぼくらは無力になった。風の音にも脅えるような情ない心理状態に落ちこむ。
この国のしきたりに従って、五人ずつの十列になっているぼくらの間を、レーニン帽の霧立のぼるは、一人ずつ名前と所属部隊をきいて歩いた。おかしなことに階級章を地面に捨てさせ踏みにじらせたくせに、彼女らは階級をしつこくきいた。階級の上の方が帰りにくいらしいと、もう分ってきている。幸いに証拠品はむしりとった後だ。ハッタリをきかして勝手に上げていた者は、却ってこれで助かった。疑われない程度に、一つか二つ落しての過少申告をした。准尉の階級章をつけた者がぬけぬけと一等兵と答えた。だがこれまで准尉らしくふるまっていた態度が、どこかに残っているらしい。
「嘘だと後で分ったら、もう一度ウランバートルに行ってもらうからな」
大きな黒い瞳に睨まれて、あわてて彼は伍長まで戻した。
ぼくのところへもやってきた。
名前の後で、北シナ派遣軍の所属部隊をのべ、正直に、乙幹の軍曹だと申告した。
女はそれをロシヤ字で記入して行く。少年聯盟員と仕事を交替した理由が、これで分った。彼女らは労働の代りに、ロシヤ語の特別の教習を受けてきているのだ。
兵隊にはそれぞれ特有のタイプがあり、乙幹には、将校コースの甲幹に入れなかった、落ちこぼれの印象がどうしてもつきまとって隠しきれない。
「それじゃ学生だね。大学はどこか」
これには困った。入隊前にぼくのいた大学は、国家主義的傾向が強く、学問より空手と喧嘩で有名であった。うっかりその名を口に出しただけで、もう三年や四年は思想改造に逆戻りさせられそうであった。学長や級友に心の中で詫び、近くにあるキリスト教系の、卒業生に芸能人の多い大学の名を寸借した。
「まあーそう」
一瞬その美女が、本来の自分の言葉を出し、羨望の目で見たと思ったのは、うぬぼれか。生れて初めての学名詐称《テンプラ》に気がとがめたが、これも日本に帰るためと割り切ることにした。
一時間以上もかかって、五十人の記名が終ると嬉しいことをいってくれた。
「これから行われる審査に合格した者は、この名簿がそのまま乗船名簿になる。乗船のときに、もう一度名前の確認があるから、きさまら、聞かれたときは蒙古人民共和国の二百九十三号と、まず書類の番号を言ってから、自分の名前を申し述べろ」
これなら覚え易い。ずっと乗ってきた汽車の番号と同じだからだ。
「さて、早く帰りたい者があったら、只今からの我々の調査に積極的に協力するんだ」
目付きがまたきびしくなった。
「抑留中、自分をいじめた人間、不当にパンや物資を横取りした人間、暴力をふるった人間、その他何でもいいから、民主的でないふるまいをした者があったら、その者の名をこの場で申しのべろ。抑留中の思想改造欄に、一人の摘発につき、三点、特別配給点を出す。二人申し出せば六点だぞ。これだけあればあと一点でもう合格だ。すぐに思い出せ」
ちょうどそのとき船の汽笛が砂山の向うに聞こえてきた。
まず一人が、まっさきに、吉村の名をあげた。これはアイデアであった。蒙古共和国中に、あまねく普及した悪名だ。誰でも何のこだわりもなく口に出しやすい。
「同じ吉村のことでもいいぞ。自分が何かやられた者は、かくさずにそれを話せ」
吉村の悪口ならいい易い。次から次へと、自分が受けた残虐なふるまいを語り出した。中には他人からまた聞きした私刑の模様を語った者もかなりあるようであったが、そこは三点欲しさだから、お互いにかまっていられない。ぼくはここでこそ、小政の名前を出すべきだと考えた。勇気があったらすぐそうしたに違いない。ところが心の一方にかすかな不安のようなものも湧いてきて、ブレーキがかかった。
その三点の特配がなくても何とか帰れるだろう。人を批難すると、これまできっとそれに倍する悪いことがあった。それならここまで来て人の悪口をいうこともあるまいと思い直した。
補充兵のおっさんはと、ちらと彼の方を見た。小政に関しては、ずっと尖鋭な意見を持っている彼の考えが知りたい。補充兵はぼくが振り向いたのを知ると、かすかに首を横に振った。やめろという合図であった。
そして、それはやはり年の功であった。
半分ぐらいの人は、この特配の三点を貰っただろう。他の車でも事情は同じらしかった。
女たちは手の腕時計を得意そうに見た。時間がきたらしい。
「これで予備審問を終える」
ぼくらには、彼女らの言葉より、一瞬人民労働服から手をのばしたとき見えた、時計バンドが喰いこんでいる白い肌のことの方が気にかかった。あまりにも生々しくて、思わず唾をのみこんだ。たとえ腕先だけにしろ、女性の白い肌を見たのは、二年と二カ月ぶりなのだ。
灼けつく視線を彼女らもすぐに悟ったのだろう。あわててひっこめた。
「これから第一収容所の方へ行く。只今申告に協力してくれた者は、後ほど人民法廷が開かれたときは、直接法廷での告発人となってもらうぞ」
ぼくはそれをきいてやはりいわなくてよかったとほっとしたが、申告した兵は突然のことにあわてた。
「当人を指名して自分らに教えればいい。審問処罰は我々でやる」
こうなってから今さら嘘だったなんていえない。そんな奴はすぐ、シベリヤでもう二、三年と脅かされるだろう。お調子にのる怖しさだ。
いきなり女がいった。
「歩調取れ。目標第一収容所正門。出発」
二年前までは大部分が国軍の精強な兵士であった。行進はまださまになる。
「赤旗の歌始めい。自分に続いて一節ずつ唱え!」
昔から軍の行進では、隊の半分を前後に分けて、一節ずつ、くり返して唱う形式をとっていた。特に歌の上手な者がいると、それに一節唱わせて、全員が続いてまた一節唱うという形式もあった。交互に唱わないと、息が切れて、行進ができない。
女がきれいな声で唱いだした。
※[#歌記号、unicode303d]民衆の旗 赤旗は
後に船に乗ってから聞かされたのだが、前線までやって来た慰問団の少女歌劇団の全員が抑留されて、ここで働かされていたのだった。前も後も、女たちの美声は砂浜によくひびいた。女の声の一節が終ると、すぐ我が貨車の者は、強く太いバリトンの声にリードされて、全員がためらいもせずに唱い出した。女やつきそっている聯盟員は、おやという顔でぼくらを見た。みんながもたついて唱えなかったら、さんざんいやみをいって、絞りあげてやろうというつもりが、どうもあてが外れたらしい。前の貨車あたりでは、全員が何の声も出せずに行進がストップさせられて、そばについている聯盟員がどなりつけ、立ったまま改めて練習に入ったグループもあった。
ぼくらは得意だった。唱いながら他の貨車の者を抜いて、門の方へ近づいて行く。特に補充兵のバリトンは、遠く海の方まで流れて行くようで、さすがにプロの喉は違うと思わせた。一節ずつ切れる。その間に彼女は補充兵のところにやってきて、その並び順で名前をたしかめると
「きさまに特配五点やるぞ。これまでずっとみんなに教えてきたのかね」
ときいた。
唱いながらうなずく。次の節のリードを終えるとまたいった。
「さっきは、きさまは誰の名も申告しなかったから、いくじなしの裏切者として追い返してやるつもりだったが、これだけ唱えたら黙って合格だ」
ぼくたちは、貨車ごとの行進の何台分かは抜いた。
三度ばかりくり返して唱い終ると、今度は列を前後に分けて交互に唱わせた。
バリトンの補充兵がいない列の方が、まだメロディが揃わず、極端に下手さが目だったが、それでも次のときに回復するので何とか面目を保った。突然
「うおーう」
と唱うのを休んでいる方の列から、吠《ほ》えるような声が出た。丘を越えると、白い氷まじりの泡が噛んでいる海が見えてきたのだった。それに船さえ見えた。二艘もだ。海があれば、この大陸はここで終りだ。その先は日本だ。とうとうやって来た。歌声は一層元気になった。
赤い布を柱に巻きつけた鳥居の形の門が目の前に立っていた。両側に二つの看板が打ちつけてある。
天皇制打倒
スターリン元帥閣下万歳
頭の上にあたるところには、横書きで、第一収容所、熱烈歓迎同志 と書いてあった。
別に誰もこの第一という文字に特別の関心を払わなかった。大勢が一ぺんに来たのだから、列によっては第二とか第三とかに行くのだろうと、そんな風に考えた者が多かった。
入口にロシヤ人の将校がたっていて、女たちが持ってきた名簿を受取り、ロシヤ字で書いてある名前を一人ずつ顔を見ながら通して行った。
それから中に待っていた、民主聯盟の腕章がある連中に引き渡された。ここで待っている指導員も、いずれも少年のように若かった。しかしぼくらは、さっき一喝を喰らっていたので、態度は慎重であった。果して彼らはロシヤ兵から五十人の列を受けとると、いきなり声を揃えて、いたけだかに怒号した。
「きさまら、ここからすぐ帰れると思って安心したら大間違いだぞ。馬鹿者たちよく聞け」
四人が交互にいう。
「そこの砂地に今すぐ許可された以外の物を積んで捨てて行くのだ。一人に冬軍衣一着。毛布一枚、下着は各二枚。それ以外の衣類は置いて行け。後で分ったら、全員が後戻りだ。トラックはいつでも門の外に待っているぞ」
大概はいわれるほどの物も持っていない。何もない。ぼくもない。出す物はなかったが、ただ賽《さい》の河原の衣剥《きぬは》ぎ婆さんに逢ったような陰惨な思いがした。
可哀想だったのは、吉村隊襲撃で奪ってきた二枚の新品同様の毛布を捨てさせられた、あの能弁のリーダーである。まだ途中でロシヤ人に会う機会がなく、パンと交換していなかったのである。
交互に罵言が続く。
「馬鹿者、おまえたちは何も持っとらんのか。乞食野郎め!」
あんまり荷物を持っていないのもやはりよくないらしい。多分彼らの余禄が無くなるのか。
「ええか、ここはまだ第一だ。態度の悪い奴を半分選び出してシベリヤへ戻すことになっている。後の半分がやっと第二に進めるのだ。第二ではもっときびしい峻別《しゆんべつ》がある。結局第三を通過して船に乗れる幸せな奴はいくらもいない。三千人乗れる船に、三十人しか乗せないで追い返した例だってあるぞ」
脅しと思っても、ぼくらは良い気分ではない。沖合に白十字のマークをつけた船が、三艘も停泊している。それに乗るまでには、まだどのくらいの関所を通り抜けなければならないのだろう。
戦いはこれからだと覚悟をきめた。
「ここでは全員に、民主教育の仕上げをする。一人前の共産党員として、日本へ戻ったら日本の民主化に献身できる同志に仕立ててやる。宮城の前で全員が、スターリン元帥閣下万歳をするのだ。これが教育の目的だ。できるようになるまでは絶対に船に乗せられない」
「では宿舎のわりあてをする」
全くいやになってきた。しかし第一ぐらいで挫《くじ》けてしまっては先が思いやられる。
内心では呆れながら、それでもまじめくさった顔をして、大声で唱い続けて宿舎に行進した。サーカスでもやっているのかと思われるような大天幕が、砂地にいくつも張ってあった。三百人ぐらいずつ、一つの天幕に潜りこまされる。中は板も布も敷いていない砂地のままの床だった。
休む間もなく、昼食の支給になった。
珍しく、ここではパンの他にキャベツの漬物が出た。飯盒の蓋にほんの一つまみだけの配給だが、主食と副食とを別々に喰べたということが、何年ぶりかの人間らしい喜びになった。キャベツはロシヤ風に漬けられていて酢っぱい味がついている。中に細く切った人参が混っていて、それが目に鮮やかである。
「ここでの待遇はそれほど悪くはないかもしれないぞ」
それだけのことで、そんな風に喜びを表わす者もあった。寝転がって繊切りのキャベツを一本ずつゆっくりと口に運ぶ者もいる。少しでも長く胃に止めるため、左腹を下にして横臥《おうが》しながら喰べるのが習慣になっている者が多かった。うまく行けばそこでゲップとなって、もう一度、その存在をたしかめられる。
食後いくらもゆっくりしていられなかった。
「集合!」「集合だ。馬鹿者ども早く出てこい」
天幕からとび出したぼくらは、この若い民主聯盟員に追いたてられるようにして駆け出した。天幕の向う側には大きな広場があった。
砂地はまばらに雪が残っていたが、あちこちの天幕からとび出してきた人が踏みつけると、雪は消えてしまった。後ろから詰めかけてくるので、濡れた砂地もよけられずに坐りこんだ。
一緒に外蒙古からやってきた仲間たちだった。きっとどこかに吉村も交っていたろうし、小政もいるのに違いない。できれば顔を合せたくない。ぼくら五十人の二百九十三号の貨車の仲間は、一カ所に集まって身をよせ合うようにして坐った。正面の舞台には、アコーディオンを持った聯盟員が出てきた。坐っている者たちには歌詞を書いた紙が一部ずつ配られた。
起《た》て万国の労働者、赤旗の歌、インターナショナル。このような会合に必要な歌が十以上も列記されている。
軍隊式に聯盟の若者たちが、一節ずつリードして唱う。終ると同じ一節をすぐに砂地一杯にうめて坐っている者たちが繰り返した。
この何千人もの新入りを監視するように、周囲には忽ち人垣ができた。他の仕事をしている民主聯盟の若い指導員たちが、全員駆り集められてきたらしい。少しでも小さな声で唱っている男がいると、外周からどなりつけた。
「こら、そこの男。もっと口を大きく開け」
中までとびこんできて
「おまえはシベリヤへ帰ってもらうぞ」
とひきずり出そうとする者もいた。
「勘弁してください。一所懸命唱います」
手をひっぱられた男は、地べたに坐りこんで必死に哀願しあやまる。恥も外聞もない。殴られたり、蹴られたりは、日本の軍隊や抑留生活では、誰ももう馴れっこになっているからさしてこたえない。ここまで連れてこられて追い返されるのは、これ以上ない残酷な刑罰であった。
一通りの歌がすむと、舞台の上には、これまでの、会津白虎隊を思わせるような少年党員に代って、ちょび髭をたくわえた中年の闘士が出てきた。
「おれは日本共産党の第一書記の釜田というものである。現在この聖なる祖国ソ連にいるのは、諸君を一人前の人間にするため、特別に要請されてやって来たからで、おれはおまえたちと違って抑留者ではない」
群衆の前で自分でどうどうと共産党員と名のる人間を初めて見た。以前なら殺してくれというのと同じであった。そういえば何かの事件で、逃亡中の党員の中に釜田という名の大物がいたという記憶があった。思想犯関係の新聞記事は興味があったので、学生時代にぼくはかなり熱心に見ていた。
いくらか、ぼくは判官びいきで、当局の目を逃れて、追われている立場の人間が、ただそれだけで好きだったし、そういう映画や小説も好きであった。
だが彼の横柄な態度には落胆した。この種の人間が権力を握ると結局こうなるのか。船と帰国を衣の下でちらつかせながらの話は、聞いているうちにだんだん不愉快になった。
「諸君はまず全身を以てスターリン元帥閣下に忠誠を誓わなければならない。諸君の熱い思いがスターリン閣下と合一し、諸君がこの大いなる大地ソ連を自分たちの真の祖国と認識できるようになったとき、初めて諸君を真の日本人として、日本へ帰すことができるのだ。日本が祖国であって、懐かしい故郷だなどという邪《よこし》まな想念を持ち続けるうちは、まだまだここから出すわけにはいかない」
「そうだ、そうだ、ソ連が祖国なのだ」
回りが一斉に声を上げる。どの少年たちも狂熱的な目で舞台の闘士に注目し、右手の拳を振り上げて叫ぶ。バリトンの補充兵がぼくにささやいた。
「あんたも一緒に片手を高く突き上げていいところを見せる方がいいよ。声が大きいほど点が入る。あんたはまだ一点もとっていない。査問員が注目してるぞ」
そういえば、さっきの霧立のぼるに似た査問員が、輪の外周の指導員の中に交っていた。
ぐずぐずしていられなかった。他人《ひと》ごとではない。拳を振り上げ、口を大きくあけてつい『そうだ! そうだ! 全くだ!』と叫んでしまった。白虎隊のイメージから連想が飛躍して、会津民謡のはやし言葉になってしまった。が、個々の言葉は外周まで聞こえない。ふりだけは見せて点を稼いでおけばいい。
釜田書記の言葉がだんだん熱をおびて強烈な調子になってくるとともに、ぼくらの掛声も絶叫に近い調子になった。
全員の気分が歌とアジ演説で高まって、充分にその素地が固まったとき、周辺の少年たちに交っていた女の査問員が調査用紙を読み上げだした。
「……少尉出てこい」「……中尉前に出ろ」
次から次へと、ヒステリックな声で名前が呼び出される。すべて将校だけであった。ぐずぐずしていると列車番号や部隊名まで指摘されるので、逃げるわけにいかない。将校服を着た各収容所の隊長クラスが全員前に出た。彼らとしては蒙古共和国側からの命令を伝えるため、どうしようもなかったのだろうが、それに従わされてきびしい労働をさせられた兵には、やはり恨みの思い出は残る。聯盟の少年や査問員たちにとっては、一般兵と違う茶褐色の将校服を着ていることが既に犯罪であったようだ。
当然その中には見覚えのある吉村少佐も交っていた。小政はいち早く兵服に戻ったのか出てこない。
旧軍の将校として、二年間の労役生活でも、何とか品位を保っていた連中もここへ来て急に脅えを見せだした。それに向って弥次が殺到する。
小政のところで、革命を経験しているぼくたちだけは、将校でも一旦権威が崩れると、後はどんなに弱いものかよく分っていたので、別に珍しくも思わなかった。
小政や吉村は、同じことを二年早く、ぼくらに教えてくれたことになる。
出てきた将校たちに向って、回りの指導員が一斉に同じ言葉を投げつけた。
「土下座しろ。土下座して、革命大衆に詫びろ」
「そうだ土下座だ」「詫びろ」「詫びるんだ」
まさに一斉射撃の火蓋が切って落されるような叫び声だった。再び熱気がまき起る。
「全員をシベリヤに送り返せ」
坐っていたぼくらも自然に熱気に巻きこまれた。かなりいつも醒《さ》めているつもりのぼくでも、気がつくと
「送り返せ! 送り返せ!」
とみなと一緒に叫んでいた。
将校たちは全員が土下座して頭を地につけた。この何千人もの人々の熱狂的な怒号の前では、意地を張っているわけにはいかなかった。
ぼくは、ふと気がついて、近くにいた能弁の兵隊にきいた。
「あんた列車の旅行中、吉村を本当にやっつけたのかね」
「どうしてだね」
「吉村を見てみろよ。奴はどこもけがしていないぞ。コテンパンにのしたのなら、頭か手かどこかに、包帯ぐらい巻いているはずだろう」
「そういえばそうだなあ。たしかに暗闇の車内で全員を板切れで思いきり殴りつけてやったんだがなあー」
何だか頼りない話になってきた。
しかしこの査問会の結末はもっと頼りない話になってきた。釜田書記は全員の前でいった。
「我々の目的は、個々の犯人を指摘してその罪を問うことではない。要は憎むべき天皇制打倒にある。ここで彼らの改悛《かいしゆん》の情顕著なるを認めて、次の処分に止める。少尉、中尉はもう十日ばかり第一に残って、共産主義理論の教習を受ける。連日八時間の歌唱行進を実行し、その成績の良いものから、第二収容所へすすむ」
土下座して体裁は悪かったが、これですめばもうけ物だ。一同の顔にほっとした表情が見えた。
「大尉はそう簡単にはいかん。しばらくここにいて、毎日天幕内の清掃や、炊事、糧秣《りようまつ》配給の使役に従事してもらう。その成績如何によっては、一月《ひとつき》か二月で帰還船に乗ることができる。だがふてくされたり、将校意識が消えないで作業を怠けるものは、もう一度シベリヤに戻ってもらう」
「そうだ」「そうしろ」「それがいい」
すかさず回りから大きな声が入る。ぼくらはみな習慣になっていて、同時に同じ言葉をくり返して叫んだ。
「佐官以上はもちろん、全く同情の余地はない。全員ここに残ってもらう。向う二年以上の労役に服すことに決められておる」
佐官は三人いた。本物の兵科の佐官は一人もいない。一人はアムラルト病院の日本側の院長・本木軍医少佐である。今一人は、どういうわけか民団の出身でありながら、軍の交渉ごとを任されて少佐の階級章を特につけて、ずっと収容所の指導者をやっていた大村少佐である。ぼくはこの人のことはここで初めて知ったので、その功罪は全く知らない。今一人は例の吉村少佐で、これは憲兵曹長が自分で勝手に任命した少佐だ。
「本木さんは違う。軍医だ。我々の恩人だ」
「大村少佐も本当は民団の方だ。可哀想だ。救けてやってください」
何人かの人々が、砂地の席から立ち上り、勇敢に抗議したが、釜田書記には取り合ってもらえなかった。
「黙れ! おまえらもシベリヤに戻りたいのか」
回りの指導員からも、同情者に向って一斉に罵声がとんでくると、どんな勇気がある者でも、それ以上は言えなくなってしまう。
釜田書記はマイクでどなりつけた。
「本木と大村はともに日本軍国主義の傀儡《かいらい》としてここからシベリヤへ送り返す。だが吉村は当方の調査では本当は曹長と分っている。彼ら下士官を裁くのは、第二収容所の業務であって、第一収容所の関知すべきことでない。改めて彼の罪はこれから問われることになるだろうが、ここでは一応釈放する」
問題にされるのは階級だけであった。吉村は嬉しそうに、何度も頭を下げて自分の坐っている席に戻って行った。何だか急にばからしくなってきた。気が抜けた。
本木少佐と大村少佐との二人が数人の聯盟員にきびしく回りをかこまれて収容所の門を出て行くと、そこにはトラックが待っていた。二人はそれにのせられると、どこかへ連れて行かれてしまった。
「さあー叫ぼう。大声で彼らを追い出すのだ。人民の敵よ去れ」
ぼくらは習慣で大声でくり返したが、誰も気が抜けてしまっていた。何だか裏切られた気もしていた。
その後は立ち上って五列になり、また赤旗の歌の行進であった。何時間も休みなくやらされた。声が嗄《か》れて、喉から血を吐きそうになった。だが画板に調査用紙を持った女の査問員が、一人一人の声の出し方や、顔に現われる熱狂度を見つめて点をつけているので、誰も手を抜くことはできなかった。三時から七時ぐらいまでやらされた。腹はすき足も固くなった。百回以上は唱わされたのではないか。これだけやらされれば、一番から三番までの文句をいやでも覚えてしまって、頭の中がからっぽでも出てくる。といって油断はできない。足がよろけたり、熱誠の度が表情に出ていない者は、外から指摘を受ける。それでもまだ治らない者は列外に出されて立たされた。大概はもう年をとって、体力が伴わない者や病弱者であった。
ここではそんなことは斟酌《しんしやく》されない。三十人ぐらいは犠牲者が出たが、彼らはいつまでも立ったままでほうっておかれた。合格者だけが砂地に坐らされた。もう日は昏《く》れて舞台には電気がついていた。
「諸君は本当に運がいい。普通なら最低でもここに一週間いてもらうのに、諸君は一泊もせず入ったその日の夜にもう第二へ行ける。お目出とう。その代りスターリン閣下の忠誠なる尖兵として、天皇制打倒のために頑張ってくれ。では天幕から荷物をとって各隊ごとに並んだら、第二収容所に向ってくれ」
思わず歓声が出たほどありがたかった。態度が悪くて列外に出て立たされている者は、回りを聯盟員に囲まれて、一歩も動けなかった。
彼らには第二へ行けないという悲しみの他に、天幕に帰れないで立たされているうちに中へ置いてきたなけなしの荷を誰かに持って行かれてしまうのではないかという不安が生じていた。
誰も落ちつけない表情で立っていたが、これはどうしようもなかった。みんなここまでこられたのが不思議なような、体力も気力も尽きかかった弱い連中だった。
こういう環境では弱いということだけで、もうそれは罪悪であった。
たしかにぼくらはここへ入ってきた人々の中では運がよかった方らしい。
年末までに何とか一人でも多くの日本人を凍った大陸から連れて帰ろうと日本政府が最大限の努力で輸送船を動員してくれていた時期にあたっていた。第三収容所に何日分か溜っていた俘虜たちが、ごそっと減ったので、自然に我々の進級が早くなり、選別の基準も弛《ゆる》くなっていたのである。
ぼくらは五列で歩きながら第一収容所から第二収容所へ向った。
左側の暗い海には、今朝より船の数が増え、四艘分の、青灯と赤灯がまたたいていた。
第一と第二との距離は二キロ、大声で三番まで唱う赤旗の歌の八回分で着いた。希望はだんだん現実のものとなった。収容所の中の造りや大きさは第一と殆ど変りはない。
第二収容所にも聯盟員が待っていた。第一の者より、いずれも二、三年、年長で獰猛《どうもう》な顔をして、迎える言葉は汚く、軍隊生活の古兵《ベテラン》らしいドスが利いていたが、こちらの方も馴れていて、脅しや罵声には、そうびくつかなくなっていた。
その夜は、それぞれが幾つかの天幕に分れて寝場所が決められ、同じような黒パンと、キャベツの漬物の配給があった。
夕食後三十分の休憩があっただけで、また作られた舞台の前に集まり砂地に坐らされて、十二時すぎまで、例の言葉の意味がよく分らぬ演説をきかされた。
聞く要領、叫ぶ要領を覚えてしまったので、長い時間の民主教育もそう辛くなかった。
翌朝早くから始まった人民裁判では、主に下士官が対象になった。すべてが規則通りに動き、お互いの分限はまるで官僚組織のように、きちんと守られていた。
ここでの告発は、先日の調査用紙が有効に利用された。書類に記載された何人もの下士官が舞台へ上げられ、厳重に追及された。追及が否定されると、査問官はもう一度書類をたしかめ、告発者を席から立たせて、その理由をみなの前で述べさせる。ところが大半がここで腰くだけになってしまった。後での仕返しも怖かったし、ここまできてどうしてもシベリヤへ戻したいというほどの憎悪は答弁者から消えている。
相変らず周囲を取り囲む査問員、指導員の追及はきびしかったが、肝腎な一般人民の方の熱意がちっとも盛り上らなかった。
そしてどういうわけか、本来は下士官の部で裁かれる人間として、第一収容所の査問を省かれた吉村隊長、本名池田曹長のことは、ここでは只の一言も出なかった。第一でもう処理ずみとなっているらしかった。
誰もが自分一人、家へ帰ることだけが大事で、もうよけいなことをいって、面倒をひき起したくない。ここまで来たら、点数が足りなくても戻されることはないと分ったし、点数制などは、外から入ってきた連中の規律をひきしめるだけの単なる脅しにすぎなかったのではないかと疑われていた。
最後に審判そのものさえ、何やら偉そうな建前はあっても、いい加減なものだと見抜かれていた。事実への審理は全くお座なりで、階級で選別するだけのソ連官僚体制そのままの、形式的な通過儀礼だった。やけっ八《ぱち》の声を張り上げて、赤旗の歌を唱いまくっていれば、一番安全だ。
第二収容所は土下座と怒号だけで、送り返しも残留も一人も出なかった。残留者が出なかったのは、ここまで来られた人間は、体力もやる気も充分で、何時間もの歌唱行進にも、へたばる者は一人も出なかったからである。
四十日間の、ごろ寝の汽車の旅が、かなり体力の回復に役だっていた。ここでもう一日泊り、三日目の午前中まだ早いうちに食事もせず出発した。もうきっと唱い始めて、千回は越したろうと思われるほど唱いこんで熟達した赤旗の歌を唄いながら、ぼくらは歩調も高く、声も高らかに、また二キロの道を行進して第三収容所の門をくぐった。
収容所へ入ると、やはり罵声と悪口《あつこう》が待っていたが、ひょいと見ると、ここの海岸は築港されていて、長い桟橋が一本のびていた。その尖端に白十字をつけた船が停っている。喜びがみなの胸にみちてきた。ぼくらにあびせかけられる悪罵が一つも気にかからなくなった。
着くと、すぐ朝食の支給があった。
パンと片手の掌の上に一つまみのキャベツを貰って、ぼくらは割りあてられた天幕に入った。既にもう前の組は乗ってしまったらしく、第三収容所には全く人がいない。
しかも青い海には、まだ三艘の汽船が浮んで待っている。あの船にぼくたちは乗れるらしい。
蒙古共和国の国境を出たときに同じ貨車に乗った、二百九十三号のぼくら五十人は、幸い一人も欠けることなく、ここまでやって来られた。
「さあー、もう少しだ。頑張ろうぜ」
お互いに声をかけあった。ここまで来たら、二日でも五日でも我慢できる。広い天幕に入って、それぞれの場をしめた。民主聯盟の指導員が何人も入ってきて、グループごとに号外のような新聞紙を一人に一枚ずつ配った。日本の活字など見るのは、もう何年ぶりのことだろうか。
手渡しながら指導員はまたどなった。
「きさまら、ここへ来たら、もう日本へ帰れると思ってるだろうが、それが一番のふてえまちがいよ。ここからシベリヤへ戻される奴はまだ何人も出てくるのだ。全員が戻されて船がカラで帰ったことさえあるんだ。きさまらもしっかり勉強しないとどうなるか分らんぞ」
同じ言葉、同じパターンに耳馴れして、もう何も感じなくなっていた。それより配られた新聞の活字に夢中になって見入った。これまで知ることができなかった、日本の国内の現在の実状が紹介されていた。
『民主政治下の日本』
タイトルにはそう書かれており、一番先に天皇の生活が誌《しる》されている。
大日本帝国は解体し、天皇は退位し、京都の寺の僧として、毎日を読経三昧《どきようざんまい》の生活をして前非を悔いている。
この記事に誰かが指導員に聞こえないようにささやいた。
「生きておられさえしたらいい。必ず我々がお守りしてまたみ位についていただく」
「そうだ。忠誠の臣がもう少しで戻ります」
ぼくは黙って目を走らせた。
次の欄には、内閣について書いてある。
現在の内閣は、ジョージ・林という、アメリカ人の血をひいた二世が総理となって、民主政治に国民を馴れさせるよう、強力にして斬新《ざんしん》な政策を次々と打ち出している。
日本共産党の徳田球一氏は近く衆議院議長に就任する予定である。
誰もが新聞に書いてあることだから、それをそのまま信じた。
「だがなあ、おかしいなあー」
一人があたりの者にいった。
「いくら日本がアメリカに負けたからといって、二世が総理大臣になれるのかなあ。誰かジョージ・林という名を知ってるかね」
すると現役の兵が答えた。
「自分は高知県出身だがね、高知の政治家で林譲治さんて、明治時代から続いている名家の三代目の代議士がいるが、その人のことではないのかな」
落着いた老人の声がしてきた。
「そりゃー、そうかもしれません。ジョージ・林はたしかに林譲治さんだ。それなら納得できますよ。大分前に、海軍参与官をやり、次に司法政務次官もやった人じゃありませんかな。この人なら総理になってもおかしくないだけの経歴があります。血筋もいいし、力量もある。年齢《とし》も七十に近い方です」
かなり政治に詳しい人らしい。そう思って見ると、ここまでともかくついてきた萩田大典という民団の老人だった。満洲政府で熱河省の次長までやった人のいうことだから、誰もがうなずいた。
その下に四角く囲って描かれてあった一《ひと》コマ漫画にはびっくりした。
人物は人々におなじみの、角帽をかぶったフクちゃんだった。かすりの着物の前を開いておしっこをしている。そのお臍に、マッカーサーの顔が書いてあった。
説明は一行。『余はチンの上にあり』
何も知らずに読みすごした人も多かったが隣りにいた男が蒼白になって
「怪《け》しからん。日本へ帰ったらまずこの不敬な漫画家を刺してやる」
といった。准尉から一等兵に位を下げ、渋々と伍長まで戻した男だった。
ぼくはいった。
「准尉さん。そんなことはやめた方がいいよ。こりゃー当人が書いたんじゃない。こちらで誰か民主聯盟のやつらが勝手に書いた絵だ。漫画のまねなんて誰でもできるんだ」
「それにしても、こんなことを載せるなんて絶対許せん」
「それじゃ日本へ帰る前にこの収容所の中の新聞印刷所へ殴りこむんだね」
そういわれると黙りこんでしまった。
ぼくらが驚いたニュースがまだ幾らでもあった。特にぼくが参ったのは、教育関係のニュースであった。
日本を出るときは、ぼくはまだ大学の予科の学生であった。帰ったら母校へ復学するつもりであった。ところがぼくの入っていた大学と、もう一つ、伊勢にある皇学館大学の二つが、マ司令部の特別命令で、閉校させられたと書いてあるのだ。
代りに、やはりマ司令部と、国際連合の教育関係の援助で、鎌倉に東大を越す設備をほこる綜合大学の鎌倉アカデミー大学が設立されたことが詳しく報じられていた。その教授陣まで堂々と紹介されている。いずれも日本が誇る大学者たちらしかったが、ぼくはその中の誰一人も知らなかった。
それでもこの新聞を見ているうちに、日本は大きく変ったという実感が、はっきり湧いてきた。さて祖国へ戻ったら、どこの大学へ入り直すか。そんなことをしきりに考えた。
ここでは正午まで休ませてくれた。
これは第一収容所の門を入ってから、学習・討論・歌唱行進と、へとへとになるほど追いたてられてきて、もう頭がぼうっとしてしまっているぼくらに、やっとあたえられた息抜きであった。
正午には、そのひとときの休憩も終った。
集合がかかった。舞台前の砂地に出てみると、ぼくらはそこに、出発の用意を整えている一団の兵たちを見た。蒙古共和国に入った連中と、違う隊であることがすぐ分った。軍服が違う。厚いラシャ地の、殆ど汚れていない、パリッとした軍服をみな着ていた。しかも背嚢《はいのう》は毛皮のついた旧軍の正式のを背負っている。もとは甲種の師団編制の軍団だったのだろう。今でも帯剣を吊り、鉄砲を担げば、そのまま戦場へ出られそうだった。二年間の滞在中、殆ど苦労しないで規則正しく暮してきたのに違いない。みな元気そうな血色のいい顔をしていた。旧軍と違うのは、軍旗の代りに赤旗を持ち、その赤旗に、民主突撃隊という字が書かれていることだ。
誰かがいった。
「おや、さっきおれたちが天幕で新聞を見てるとき、後から収容所へ入ってきた連中だぞ」
「後の者が先になるのか」
さすがに不満そうな声が出たが、マイクの大声で消された。
「ただ今、この赤旗部隊は乗船する。この方々の思想は完璧で教育は徹底している。我々は教えてやるものは何もないので、すぐ民主日本建設、打倒天皇制の尖兵となってもらうため、先に乗船してもらう」
かなりシラけきったぼくらは見送りの赤旗の歌を、いやいやながら唱った。彼らは旗をぼくらの方に向け全員が、堂々とロシヤ語の労働歌で答える。訓練度ではとてもかなわない。終ると彼らは全員で
「スターリン元帥閣下万歳」
を唱え、足音も高く桟橋の方へ去って行き、やがて長い列になって船の胴腹に吸いこまれて行った。さすがに羨ましかった。彼らと違ってぼくらは、学習の暇もないほど酷使されてきた。そのぼくらが、つまりこれだけこの国のために、働いてきたぼくらの方が、帰りが遅らされるなんて、ここは全く矛盾だらけの審問所であった。
最後の法廷での人民裁判が始まった。対象は兵卒の犯罪だ。騒ぎたてるのは、相変らず周囲にいる民主聯盟の指導員だけで、地面に坐っている兵卒や民団の者は一向に気勢が上らなかった。最下級の身分にある兵卒どうしだ。何かやったところで殴りあったとか、パンの切り方を自分だけ厚くしたとか、程度が知れている。蒙古共和国の国内で、一つの収容所から他の収容所へ動いた経験が全くない人間だったら……これが大部分なのだが……二年間の労役生活で接触した人間の数は知れている。そのとき一時憎み合ったこともあったかもしれない。しかしここまできて何も告発までしなくてもという考えが強い。
坐りこんだまま、お互いに黙って見合っているのへ、また回りから怒号がとぶ。
「きさまたちの民主意識はどうした」
「馬鹿たれー。ここまできて卑怯者になり下りたいのか」
「五十人を出せ。五十人に土下座させないと次からやってきた部隊を先にのせるぞ」
それで、ぼくらは、また不安になってきた。
「第三から第二に戻された例は多いぞ。もし一人も出なかったら、全員第一まで戻されるぞ。また教育のやり直しだ」
お互いに困惑した。女の査問員が手渡したらしい、調査書が舞台に持ち出された。
指導員の代表が見ながらいった。
「ほらここにちゃんとあるじゃないか。百二十三号の中村一等兵そこに立って、平賀上等兵がおまえにした罪を大声でいえ」
三日前汽車の所で三点もらおうと思って述べたことが逆目《うらめ》に出た。立ち上らされた中村一等兵はもう泣きそうな声で答えた。
「はあ、自分としてはもういいであります。恩も恨みも消えたであります」
舞台上の指導員はがなりたてる。
「そんないい加減な態度でいいのか。蒙古人民共和国でもう二年働きたいのか」
「いえ、そ、そんな気持はありません。では告発します」
結局入隊したとき、しょっ中ビンタを取られた話になった。こんなことをいい出したら、ここでは全員が被害者である。そして民団の人と、殴られっ放しで下が来なかった二十年三月十日の東京大空襲の日の召集の補充兵とを除けば、全員が加害者でもある。軍で戦っていたときは、ぼくだって合計すれば二十人ぐらいはひっぱたいている。
ともかくこのソ連は形式的な数が、一切の物事の上に優先する。結局五十人を何とか出さなくては船に乗れないと分ってきた。
さっき装備のしっかりした兵を乗せた船はもう桟橋を離れ、次の船が入れ代りに近づいてきた。あれに乗れるらしい。焦りに似たいらだちが湧いてきた。調査書に書かれた全員が呼び出され、土下座させられて、四十名を七名越したところでストップした。
回りでは大声で叫ぶ。
「もういないのか」「誰かいないか」「民主主義のため犯罪の摘発を徹底的にせよ」
怒号の渦で騒然となった。彼ら指導員もここで五十人の罪人が出ないと、吉村隊の定量未遂の兵のように何か困ったことが起るようであった。沖を見ると新しい船が四艘、水平線上に見えていた。カラ船は合せて六艘、一艘三千人として、一万八千人までは、今から出発できる。ここにいる全部が乗れるのだ。もうシベリヤへ送り返される者は出ないはずだ。下士官用第二法廷でも送り返しは一人も出なかった。
ふとバリトンの補充兵がぼくの顔を見ていった。
「自分は最後の賭けをしてみますよ。実をいうと、自分は共産党員なのです。ここの指導員は駄目だが、自分は心の中では、共産主義の正しさを、今でも信じるものの一人です」
ぼくは聞き返した。
「何するんだね。罪人の定量《ノルム》も後三人だ。五十人揃ったら乗船開始らしい。帰れば藤原歌劇団に戻って、椿姫や、リゴレットを唱う仕事が待っているんだろう」
「自分は昔から妙に意地っぱりのところがありましてね、一度何か思うと、ブレーキがきかないのです。浦和の高等学校を中退して、オペラの世界にとびこんだのもその衝動です」
「あんたは浦高かね」
初めて知った経歴に、ぼくは畏怖《いふ》の念で彼を見た。
浦高は第一高等学校に続く難しい学校だ。殆どが帝大へすすむ。卒業すれば超エリートとして、どんな進路も思うままだった。
頭のできがぼくらと違う。もう意見はさしひかえた。
全員がしーんとして最後の三人分の告発を誰かが出すのを待っている。指導員の怒号もさすがにくたびれたか、とぎれ勝ちになった。その空白の一瞬補充のおっさんは立ち上った。回りの仲間を見渡して言った。
「諸君は恥かしくないのか。まだまだ大物が三人残っている。そしてここにいる諸君の中で二千人以上の者が、その男の名を知っている。それでいて怖しくて口にも出せない。将校用法廷で吉村を弾劾し、土下座させ、謝罪させた君らが何でその名をいえないのだ」
ぼろ服を着た最下級の存在の補充兵の口から出たとは思えない、まさに火を噴くような弁舌であった。一瞬呆気にとられた周囲の指導員が、突然、それに同調して一斉に
「そうだ、そうだ、いえ。その男の名をいえ」
と絶叫しだした。
「後三人だ。今すぐその名をいえ」
全員の注目が集まる。彼は大きな声でいった。
「常に暴力で我々を苦しめ、作業場に追いたて、パンを横取りした男の名は、赤穂の小政と、その仲間の二人のやくざ者だ」
ぼくはできるだけ顔を見られないように下を向いた。隣りに坐っているからといって、関り合いにされては堪らない。それでいて、全員の反響は気になった。
一人一人は弱くても、無名の人間は、集団になると強い。バスチーユ監獄だって婦人たちの力で破壊されたではないか。小政に苦しめられた者は確実に二千人以上いる。
当然それに続く大反響が巻き起ると思った。しかし何の反響も起らない。法廷は却って静まり返ってしまった。
砂地に坐った人の中で小政を知っている者は恐怖に押し黙るし、全く知らない人は、やはり無関心で、いぶかしそうにしている。
回りの指導員は、この異常な沈黙に、自分らも黙ってしまった。
最後の三人の名は出た。できればこれは人民の自発的な意志による弾劾という形で裁判をしめくくりたいらしかった。三人への非難が一斉に巻き起る形になったら、民主教育の成果はあったことになる。
ところが奇妙なことが起った。一人の兵士が立ち上って
「いや、小政さんはそんな人じゃない」
と弁解した。別な者が次々に立ち上った。
「そうだ、小政さんはそんな搾取や乱暴はしなかった。蒙古共和国政府の命令による所内での作業定量を実施させただけで、今の非難は怠け者の逆恨みだ」
ぼくは顔を上げず、帽子を深くかぶり直してから、上の瞼が痛くなるほどに上目遣いをして発言者を見た。立った者すべてが小政の回りにいた三十人の親衛隊であった。この二年間贅沢に暮してきた連中で、いい体格をしていた。
「将校が支配する天皇制の遺産を率先破壊したのは小政さんだ。この国への最高の協力者のはずだ」
一旦口火が切られると、元囚人仲間は勢いづいて、口々に小政を讃《たた》え出した。
三十人と一人の対決になった。
「小政さんは、スターリン元帥閣下からレーニン勲章をもらって、労働英雄にされてもおかしくないほどの立派なお方だ。現に蒙古共和国を出るときは、チョイバルサン大統領閣下から感謝の手紙をもらっている」
完全に補充兵は追いつめられた。意外な成り行きに、彼の顔が青ざめ、体が震えてきた。三十人の弁護団に口々にいいたてられては、返す言葉を挟む余地もなかった。指導員の代表は両方の言い分の対立に戸惑っていたが、やがてマイクでいった。
「双方とも坐りなさい。ここは査問のための法廷であって、私怨の晴らし場でない。そこの一人の兵隊が五十人の定量《ノルム》に合せるため、後三人の告発をした勇気には深い敬意を表し、同時に前の方の友人たちが、三人の労働英雄をかばった誠意にも感動した。当法廷はここに双方の勇気と誠意に免じて、これで特別に定員五十人の告発と謝罪が終ったことにしよう。諸君らは実に幸せだった。只今から乗船を開始する」
どっと喚声が起った。すると今まで、ぼくらのことを、馬鹿者、乞食、帝国主義者、と罵ってばかり居た指導員たちが一斉に回りで拍手をした。
「お目出とう」「民主教育終了万歳」「日本へ帰還したら頑張ってくれよ」
激励の言葉を聞きながら、ぼくら俘虜たちは坐ったままではあるが周辺の者と手を握り合い、肩を叩きあった。一人だけバリトンの補充兵は、悲痛な顔で黙りこくっていた。
本当は乗船の時間がとっくにきているらしかった。それで裁判もはしょったようだ。
船がいつまでもやってこなかったら、姑の嫁いびりのように、ねちねちとやられたろう。その意味では我々の集団は幸せであった。
舞台の上にロシヤの高級将校が出てきた。
裁判の終了を待っていたらしく、かなり時間を気にしていた。
アコーディオンが鳴った。
坐ったまま気をつけをさせられた。ロシヤ人将校は、マイクの前でお祝いのスピーチをのべた。
通訳が一節ずつ区切っては伝える。
要するに、立派に教育を終えた諸君らは、日本へ戻ったら、民主日本の建設とスターリン元帥のためしっかり働いてくれというだけのことである。
みな真剣な顔で聞いているふりをし、大きく目だつようにうなずいたりした。
紙片を形式的に読んだだけのスピーチは約五分で終り、最後に全員が立ち上って赤旗の歌を合唱し、スターリン元帥閣下万歳を三唱して、最後の審問と民主教育の卒業式は終った。
誰もが当然ここから一度解散して天幕においてある毛布や飯盒、僅かの私物を取ってきてから、港へ向うのだと思った。しかし先頭から五列に並べると、そのまま桟橋の方へ歩かされ出した。我々の最後の僅かな荷物はあっさり捲《ま》き上げられるらしい。僅かな物だが、今となっては惜しくなってきた。しかし、抗議できる勇気のある者はいない。帰還と荷物とどちらが大事か。
舞台で土下座していた兵は、このとき自分の仲間のいるところに無条件で戻された。告発した者とは、気まずい睨み合いだけで、幸いそれ以上にはならないようだ。
大声で赤旗の歌を唱いながら、桟橋の方へ歩いて行く。
長い蛇のような列がずっと続いた。
桟橋の入口にロシヤ兵が何人かいて、五人ずつ数を当っている。二つで十人。三千人ずつ乗船させる。最初の乗船の三千人が船の腹に吸いこまれると行列が一旦止まった。
船が岸壁に入れ代るまでには、最低三十分はかかる。二艘目からの残りの者は、五人の列の右はしだけが、当番になって、大急ぎで天幕へ戻り仲間の荷物を取ってくるのを許された。彼らは駆け出して天幕へ戻って行った。これまでまる二年ずっと身につけてきた毛布と飯盒の二つがないと、身辺はひどく心細かった。すぐに五人分の荷物を抱えて、また元の列に戻ってきた。その騒ぎの間にぼくは補充兵にいった。
「あんたは、少し後ろの方へ行った方がいいんじゃないかね」
「どうして」
「うっかり小政らと同じ船に乗り合せると厄介なことになるよ」
「ああそれなら計算してありますよ。彼らが乗る船とは、どうしても、間が一つ離れています。わざと後ろへ行く者はいません。みな早く帰りたいですからね」
「奴は執念深い男だよ」
二艘目も乗り終えて、列はまたすすんだ。そこでまた一時間弱も待たされ、三艘目になり、それも終った。多分このあたりで、小政のいる列のあたりはもう船腹に入ってしまったはずだった。ぼくらは四艘目になりそうであった。
まだ後ろに二艘ある。ぼくらの気持には余裕があった。船に乗りさえすれば、もう日本へ帰れる。やっと祖国に戻れるのだ。
生きて帰れることがちょっと信じられない。
順ぐりに列はすすんで行く。
不思議な偶然だ。ぼくのすぐ後ろで、四艘目の乗船人員の遮断機が下りた。ともかく乗船が決ってほっとしたが、急に不安も起った。
後ろは他貨車の見知らぬ兵だったが目の前に木の棒を下されて
「ちえーっ、ついてねえな」
と声を出した。少し桟橋を歩き出していたバリトンの補充兵は駆け戻ると、そこに立っていた警戒兵に、後ろの男と交替してくれと頼んだ。それなら、確実の上に確実だ。小政たちが後ろの方の列にいることはあり得ない。
しかし警戒兵は首を振って拒否し、うるさそうに追い払った。融通のきかないのが、この国の一つの特徴でもあった。仕方なく補充兵は戻ってきた。心配して待っていたぼくと二人は、駆け足で最後尾に追いついてタラップを昇った。
ぼくは彼を勇気づけた。
「まあー万一にも一緒のことはないよ。心配するなよ」
ぼくらが昇りきると、直ちに呼子笛が鳴って、タラップが上った。
ぼくらは、白い大陸から離れて、正式に日本政府の管轄の中に入ったのだ。もう連れ戻されることもないし、苛酷な労働も、うるさい教育もない。
タラップが上りきり鎖で固定されると、汽笛が鳴り、ウインチで碇《いかり》を巻き上げる音がした。
やがて汽船は静かに動き出した。
全員が甲板に立っていた。桟橋まで見送りに来た民主聯盟員がすぐ目の前にいる。ぼくは霧立のぼるをしきりに目で探したが見つからなかった。
陸との間のつながりが切れた瞬間、甲板に立っていた全員が一斉に声を上げた。
「スターリンの大馬鹿野郎」
「天皇陛下万歳」
「大日本帝国万歳」
「ロシヤ人はみんなくたばっちまえ」
目の前に立っている民主聯盟員に向って
「てめえらが日本へ戻ってきたら、一人残らず叩っ殺してやるからな」
と叫ぶ者もいる。声は届かなかったのだろう。彼らは拍手し手を振り上げて機嫌よく見送っている。
充分に民主教育を施し終って、祖国へ革命戦士を送りこんだという自信に迷いはないようだった。
ぼくは甲板の鉄柵によりかかりながら、なだらかに続く白一色の丘のうねりを、いつまでもじっと見つめていた。
二十歳から二十二歳の年が終るまで二年三カ月、自分の青春のエネルギーをすべて燃焼しつくしてきた土地であった。もう二度と絶対足を踏み入れたくない恐怖の土地でもある。それでも今となっては、ほんのちょっぴり懐かしくもあった。
低い丘陵のつらなる白い大地は、みるまに遠ざかり、すぐに水平線の中に消えていった。
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[#見出し] 八章 祖国への船路
出航するとすぐに、船内放送があった。
「みなさま、長い間の抑留生活ごくろうさまでございました。本船は午後六時丁度、ナホトカ港を出港しました。本船は明後日の午前中には函館港へ入港の予定でございます。正午現在の気象台の予報によりますと、天候は良好、風はなく、海上は比較的平穏、どなたも帰国の旅をお楽しみいただけましょう」
乗船の早い者から、入口に近い寝場所を指定され、船員に指示されて、広い船内のあちこちの部屋に分散した。ぼくらは最後に乗りこんだので、逆に一番船底の部屋まで連れて行かれた。
だだっ広い船艙《せんそう》には隙間なく三段の棚ベッドが作られてあり、そこにはもう先客たちが潜りこんでいた。収容所でもそうであったが、三段の棚となると天井がつっかえるので、平常の姿が腹這いかごろ寝になる。話をしたり、食事したりするときでも、やや頭をかがめなければならない。殆どの人がすぐ横になって、最後まで大事に持ってきた毛布をかぶっていた。
「本船ではただ今から夕食が始まりますが、船内手狭で特別に食堂が用意できません。各部屋ごとに司厨員《しちゆういん》が伺って、配食させていただきます。従って本船では、早い人と遅い人では、二時間以上のズレが生じますので、全員の配食が終了するまでは、どうかどなたさまも、現在おやすみの場所を動かないようにしていただきます。本船の本日の献立ては」
ここで一息ついた。声の空白。いやでも全員の耳が次の言葉を緊張して待つ。効果をたっぷり心得ている。ぐんと調子を上げた声で
「ライスカレーと梅干しでございます」
といった。『ウオーッ』というどよめきが湧き上った。拍手が起り、おしゃべりが一斉に始まり、転げ回りながら『ライスカレーだ、ライスカレーだ』と叫ぶ者も出てきた。
自然にぼくらのリーダー格になっていた、能弁の男は、ライスカレーとカレーライスの違いについて、早速説明を始めだした。
みんなが切ないほどの思いをこめて、二年間語りつづけ、思いつづけてきた日本の食物が、やっと目の前に出てくるのだ。当然、飯は白米の炊きたてだろう。隣りにごろ寝していた補充のバリトンが
「心憎いアナウンスだなー。泣かせるなあ。芸人崩れかもしれない。わざとやってるなと分っても涙が出てくる」
と拳で片目をこすった。
船底ではあったが食事の配給は早い方だった。日によって変るのかも知れないが、三十分ほどでもう、ドアがあいた。白服のボーイが四人入ってきて、廊下の真中にアルミの缶や皿、大しゃもじや、長柄の杓子など置いた。
一人がすばやく、回りの人数を数えてから、皿の数を分けて揃えると、飯を盛りつけカレーをかけ梅干しを一つ添えて、はしの方から配って行く。
カレーはもちろんだが、米の飯も二年と三カ月ぶりであった。
すぐに口に運ぶ、あちこちで声が出る。
「うめえなあー」「おれはこのまま死んでもいいぞ」「これに一本ついていたらなあ」「あさっての夜にはいくらでも飲めるぜ。ちったあー国からのお手当ももらえるだろう」
ぼくも皿を受けとると、座高の高い体格のせいで、頭をかがめながら喰い始めた。しゃべると、涙声になりそうなので、周囲と話はせず、口の中でとける味を噛みしめていた。
さっきの人々の声で気になることが急にできてきた。そういえば、二十年の八月分から軍の俸給をもらっていない。陛下の命令で俘虜になったのだから、それからの二十七カ月分を帰還のときに、まとめてもらえるのではないか。戦争していたわけではないので、戦時加算分は削られても仕方がないが、乙幹軍曹の正規の額は十六円、それに二十七をかけると大体四百円と少しになる。函館港で全部もらえれば、ぶっ倒れるまで飲んでも大丈夫だ。いくら物価は上っていても、とりあえず半年ぐらいは寝て暮せるのではなかろうか。
皿の飯は簡単に消えてしまった。それでも米の飯だ。今までの食事とは違う満足感があった。残った米粒をつまみ、黄色いこびりつきまで指ですくってなめた。皿がきれいになってから、一つ残してあった梅干しを口にふくむ。その酸い味を長い時間かけてゆっくり味わう。ついに種だけになり、その固いからの|ひだ《ヽヽ》のすみずみまでしゃぶりつくして、全く味がなくなるころカチン、カチンと割る音が、周囲から同時にきこえだした。
中から小さな核が出てくると、兵隊の思考というものは全員が同じに流れて行くもので、一斉にワイセツな冗談をいいだした。どこでも同じことをしゃべっている。おそらく船内のどの部屋でも話題は全く同じであったろう。これは腹が満足している証拠でもある。
北海道内の妻帯者だったら明後日の夜にはそれをゆっくりたしかめられるのだ。
アナウンスの指示があって、食器は当番が出て右舷にある洗い場できれいにしてから、炊事に返すことになった。
ぼくは、甲板に出て海や波を見たかった。冷たい風にあたりたかった。すすんでその当番をひきうけた。両手を組んだ上にアルミの皿を何十枚も重ねてもらい、腰で平均をとりながら、少し揺れだした船内の階段を昇って行った。
右舷の洗い場の蛇口をひねると勢いよく水がとび出してきたが、飲んでみると海水だったのであわてて吐き出した。近くで洗っている兵隊が大声で話していた。
「明日は何が出るのだろう」
「赤飯と鯛が用意してあるし、稲荷寿司とのり巻きのときもあるそうだ」
「たまんねえ、唾がわいてくる」
「黒パンの時代はもう終ったんだ。金を出して頼まれても二度と口になんか入れてやらねえ」
陽気に笑った。
食器を炊事に返してから後ろのマストのところを通りかかろうとすると、救命器具入れの箱に、二人の影が寄り添って坐っていた。妙な親密さがある。一瞬ぼくは井野薬剤師とその妻の林長二郎に似た伝説の美貌の衛生兵かと思った。しかしそのややエロチックな期待は外れた。
もっと感動的な情景があった。
民団の老人の、元熱河省次長、萩田大典と、国境で彼を探していた、若い息子とが、二年ぶりの再会のときをすごしていた。暗い海を無言で見ている。もうお互いに言葉は何も出てこないのだろうが、二年ぶりに生きて逢うことができた喜びが、背後から見てもよく分った。
彼らの邪魔をするのが悪くて、お祝いの声もかけずにそっと横を通って、階段を下りて行った。半分ぐらい下りたところで、その感傷的な気分は一ぺんに吹っとび、背筋に針金を突き通されたような気分になった。足がすくんで動けなくなった。
「野郎を必ず見つけ出すんや。階級は補充、名前は宮田、原隊は関東軍の八八一部隊だ。一部屋ずつ丁寧に聞いて回れ。向うに先に感づかれたらあかんで、態度に気いつけいや」
小政当人ではないが、五、六人の親衛隊員に細かい指示をあたえているのは、二人の顧問格の同僚のうちの一人で地方《しやば》の極道歴が小政より先輩の、船員出身の暴れ者だ。船内の構造に詳しいので、捜索隊の指揮を取らされているらしい。彼らと別れてもう一年以上たっているが、ぼくはその声を忘れない。
向うもぼくの顔を覚えているだろう。見つかって話しかけられては具合が悪いことになる。もう一度甲板に駆け戻り、別の扉口から入った。
できれば彼らより先に船底の大部屋に戻り何とかバリトンにこの危険を知らせたかった。
船内の狭い廊下は往来の人で混み合っているし、通路は迷路のように入り組んでいる。うまく彼らの目をすり抜けて、先に行けそうだ。別な階段を下りて、あちこちの道を小走りに抜けていったが、実際にやってみると、思うように走れない。連中の捜索は、こちらが考えたよりずっと大規模であった。
三十人の親衛隊員を動員して、各部屋ごとに個人面接に近い慎重なやり方で、取りこぼしが出ないように調べ回っている。そうなるとぼくらの部屋は最下層だけに、扉口から入ってこられたらもう逃げ場所はない。鉄板の下は海だが、飛びこむこともできない。
捜索のやくざ者たちをさけて走り回りながら気ばかりあせった。少しでも早く行って、補充のおっさんに耳打ちし、船員に頼んで、機関室の油倉庫にでも隠してもらおう。回り道ばかりしながら、やっと船底の部屋に着いたときは、もう二十分以上たってしまった。外から覗くと、幸いに連中の姿は見えなかった。まだ来ていないのか、既に来たのか。すぐに自分の寝場所の棚へ行き、二段目を見た。だがそこにはバリトンはいなかった。
その隣りは元大工の現役三年兵だった。
「オペラのおっさんどうした」
彼は半分|寝呆《ねぼ》けた声で答えた。
「ああ、さっき、三人ばかり同じ部隊の友人だという人が来て、一緒に出て行った」
再び背筋から腹の中まで冷たく痛くなった。
「どんな感じの人だった」
「どんな感じといったってな、ただおとなしい、ばか丁寧な言葉つきをする人としか覚えてないな。三人とも、おっさんを取り囲むようにして、ちょっと強引な感じがあったが、歌でもぜひ聞かせてもらいたかったんじゃないか」
いつもすすんで話しかけてくる能弁の男の姿が見えない。
「ウクライナの鼠はどうした」
「オペラが出て行って少したって、何か用があるらしく、ふらっと出て行った」
頭から血がひいて行き、目の前が暗くなって行くのが自分でもはっきり分った。足の力が抜けて、膝をつきそうになったのを、手を棚につけて、やっと支えた。
「どっちの方へ出て行った」
元大工は黙って後方の扉を指さすと
「どうした。顔色が青いよ」
と心配そうにきき返した。
「いや、何でもない。騒がせてすまなかった」
後ろの扉口へ行った。そこからは、船尾の小さい甲板に出るための専用階段があった。
その甲板は、碇と鎖の置き場所で、普通の甲板よりかなり低い。船底から昇降口までの階段は短い。扉があけられたまま固定されていたので、暗い狭い場所で、小声で罵りあい激しく体を殴っている音が聞こえた。
小政の、凄味《ドス》のきいた声も交っている。
危ない。足がすくんだ。
うっかり甲板に顔を出したら、そのまま終りだった。乙幹だとすぐ分る。正宗の刀の問題はまだ決着がついていない。執念深い男だ。忘れているはずはない。そのまま後ろ歩きでそっと戻り、廊下まで出ると、別の階段を伝わって、上甲板まで駆け上った。
暗いので誰も出ていない。かなりの横揺れも加わってきた。後部の綱巻き用のブイの横で四つん這いになるとそっと顔を出して、下の甲板をのぞいた。
既に私刑の決着はついていた。船尾灯のかすかな光りの下で、男が一人ぐったりとして横たわっていた。もう声も出せないようだ。
続いて怖しい場面が展開した。
二人の親衛隊員が、何の反応もない体の両手、両足を持つと、二、三度振って惰力《だりよく》をつけて、手摺り越しに海の中へ威勢よくほうり投げた。高く弧を描いてから海面へ落ちて行ったが、最後の叫び声も聞こえなかったのはもう意識が無かったのか、とっくに死んでしまっていたせいだろう。
小政の低く押し殺した声が聞こえた。
「こう! このことは誰にもいうな」
「分っとるで」
「一人ぐらい人間が消えたかて、証拠さえ無けりゃ問題にならんわい。誰もこん野郎とわいらを結びつけて考える者は居《お》らん。去《い》のう。ああさっぱりしたぞい」
彼らはすぐ後尾甲板から消えてしまった。後には何一つ残らない。暗いので上から見ただけでは、はっきり言えないが、多分そこには血痕一つなかったろう。プロの怖しさを知った。
ぼくはそっと自分の部屋に戻った。二段目の棚を、上に居る民団の人に頼んで最上段に替えてもらい、頭から毛布をかぶって、寝こんでしまった。
朝になると人々は争って甲板に出た。ぼくも出たかった。何百人もの男たちを詰めこんでいるので、船底の空気は重苦しく、いやな匂いがこもっていた。
でもそんなことより、生命が惜しい。
それからは昼も夜も、一度も甲板に出なかった。連中の一人に偶然にでも会ったら、バリトンと同じ目にあったろう。
食事のときも上から手を出して受けとると寝たまま喰べた。便所へは、昼間耐えに耐えて、夜中にみなが寝静まってから、そっと起きて、あたりをうかがいながら行った。
紙芝居をやっていたとき見知った者がいて、寝ているぼくの所へ、何度か映画講談をやってくれという誘いがあったが、船酔いを理由に全部断わった。
三日目の朝になると、突然『日本が見えるぞ』と叫ぶ者がいて、殆ど全員が甲板に飛び出して行った。
出たくても出られないぼくは、気楽に出て行ける連中が羨ましかった。
はるかに見える日本の島影を目ざして、船が近づいて行くのは、どんなに感動的なシーンであろうか。一生一度のこの感激を自分の体で味わいたい。そして泣きたかった。
だがここまで来たら生きて帰る方が大事だ。じっと我慢して、寝ていた。
まだ二十二歳だ。未来の人生がある。
まず大学へ戻って勉強しなおす。卒業して就職する。恋をして結婚をする。そうしたら誰にも遠慮なく、毎夜だって妻を抱きしめ愛撫《あいぶ》することができるのだ。
その前に殺されてしまっては、これまで頑張ってきた甲斐がない。
函館港には、予定通り午前十一時には、入港した。着岸してから三十分後
「只今、検疫と入港手続きが終りましたので、全員、上の方の部屋から、二列でゆっくり下船してください」
とアナウンスが伝えた。
荷物を持って、扉口に詰めかける気配がしたが、全員の下船だ、そう早くはすまないと考えて、また毛布にもぐりこんだ。
やっと人声が絶えたとき甲板に出た。病人や、足の悪い者が、船員に助けられるようにして、ゆっくり下りて行く。その最後の列に若い兵隊のぼくが一人交っていたので、舷門番パーサーが不思議そうな顔で見ていた。
幸い関西極道の姿は一人もない。まっ先に下りるだろうという予想は当ったらしい。
港のあちこちにアメリカ兵が立っているのを見て、初めて祖国はまだアメリカに占領されたままだということを実感した。きゅっと腰を絞った、形のいいジャンパー式の軍服の兵隊は、みなセルロイド人形のように可愛い。ぼくらのボロ服と比べて数等いきでスマートで、日本娘が大分彼らにいかれているのではないかという、いやな予感がすぐに湧き上った。
通路の両側には、バケツを持ったアメリカ兵が何人も立っていて、下りてくる者を捕まえると、背中を拡げさせその中にゴム手袋で把んだ白い粉を、振りかけていた。
通路の突き当りの、倉庫のような広い建物が、復員事務所になっていて、何十人もの係員が机を並べて待っていた。その一つの前で二人ばかり待ってから、椅子に坐った。
白い粉が背中から落ちて、ズボンのバンドにたまり変な気持であった。
そこでは、蒙古共和国での生活や、国内事情など細かく聞かれた。何十項目かの質問にすべて答えると、その書類がこちら向きに出され、これまでぼくらが見たこともないような、先がくるくる回る変なペンで、空欄の、本籍、入隊前の住所、原隊、階級、氏名と記入させられた。乙幹と分ると
「学生さんですか。今となってはどこも復学は難しいですよ。頑張ってください」
といった。
すべての記入が終ると、封筒を一つ支給してくれた。
「ここに復員手当と、入隊前の居住地までの無料乗船乗車券が入っています。支給額は、兵も将校も民団も一律四百円です。少いですが帰りの弁当代ぐらいにはなります」
大体予想していた額なので、ぼくは満足した。
「切符は今日から五日以内だったら日本中どこへでも行けます。どんなに混んでいても、特別に席を確保できるようになっています。列車の本数が少くて、一般人の手には切符が入らないので、町へ出るとブローカーが札束を見せびらかしながら話しかけてきますが、絶対に売らないでください。売ったらもう故郷《くに》へ戻れなくなりますよ」
「分りました」
大事に内ポケットにしまった。
「それから東京直行は昼のうちはありません。出発までは、無料で休憩したり、宿泊できる寮が、連絡船の港の駅の近くにありますから、そこでゆっくりお休みになってください。すぐ外に専用バスが待っています」
ぼくが机を離れて出口へ行くと
「やあ、どうした、乙幹さん……」
と声をかけてきた兵隊がいた。能弁の男だった。
「あんたがいつまでも下りて来ないので、またシベリヤへ戻りたくなったのかと、心配していたよ。同じ東京だ。一緒に戻ろう。なーに関西者はみんな駅へ直行して寮へは行かない」
何か事情を知っている感じであった。
「東京行きの連絡船便は何時に出るんだね」
「夜中の十一時だそうだ。寮には|たたみ《ヽヽヽ》が敷いてあって、飯はタダだそうだ」
「たたみか。なつかしいなあー。久しぶりだ。ゆっくり寝転がって行こうか」
バスが最後の二人のぼくたちを待っている。青い制服に黒い靴下の、いかにもこの土地の娘らしいバスガールがちゃんと立っていて、乗りこむと手を上げて
「発車オーライ」
といった。たまらなく可愛らしかった。
懐かしい日本の日常生活が戻ってきた。
ぼくは並んで坐った男に、この間からいいたくて仕方がなかったジョークをやっということができた。
「ウクライナへ行って鼠を喰えなくて残念だったな」
ライスカレーをもらったときにでもいえば相応に笑えたろうが、証文の出しおくれで、お互いに面白くも何ともなかった。
寮には東京方面行きの者と、二、三日ここで体を休めてから帰るつもりの民団の老人が、あちこちの部屋で寝そべっていた。丼物だけだったが、食事は何杯でも只で喰べられるようになっていた。
カツ丼と、親子丼を一杯ずつ続けて喰べてから寝転ぶと、心豊かでいい気分になった。
昼風呂に入り、二年ぶりの垢をこそぎ落した。何だか皮膚が薄くなったようだ。少し寒いがもう苛烈な環境は終って、平和な国に戻ったのだという実感は一層確実になった。
一眠りして夕方になった。まだ乗船には早いが、その連れの男がいった。
「外へ出て一杯やらないか。女のいる飲屋が連絡船の駅の前には、並んでいるらしい」
酒を飲むのは、あまり気がすすまなかった。
「うん。でも高いんじゃないかな」
飲屋に入った経験がなかったので、つい臆病になる。
「おれたちは四百円も持っている。物価が大分上っているそうだから、一年は無理にしても、三月や半年は暮して行けるだろう。日本へ帰った最初の夜だ。二人でしみじみ祝いたい。それになあー」
と急に声を落すといった。
「おれたち二人で、バリトンのおっさんの供養をしてやらないか」
「あんた知っていたのか」
びっくりしてききかえした。
「ああおれも、現場をそっと見ていた。あの第三の法廷からこいつはヤバいと思って注意していたんだ。とうとうライスカレー一回喰ったきりで終りだった。あの年じゃ妻子もいるだろう。運のない人だったな」
「そうか。それじゃ、二人でご冥福を祈ろう」
荷物を全部持ってぼくらは夜の函館の町に出て行った。すぐに乗船場の駅舎が見えた。両側に赤提灯の小料理屋が並んでいる。
その一つ、『どさん娘《こ》』と看板が出ている店に入った。三十ぐらいの女がカウンターに坐っていた。
「いらっしゃい。あら復員のお方ね。嬉しいわ、サービスするわ」
声も甘ったるかったが、少し身動きすると甘い白粉《おしろい》の匂いがして悩ましい。二年ぶりの女に敏感になっているぼくらの鼻を、やたらに刺激した。
いかの丸焼きで、熱燗のお銚子をもらった。ぼくらは二本ずつ飲んだ。他にまぐろの刺身と、こんにゃくの煮付けが出た。
「ちょっとご馳走になっていい」
女は一応断わると、やはり二本お銚子をあけた。
十一時の船の乗船開始は九時だった。いつの間にかそんな時間になっていた。すっかり気分がよくなって立ち上るとぼくが
「おいくら」
と聞いた。女はすぐに答えた。
「丁度お一人四百円ずつ、八百円いただきます」
うっと声が詰まった。せいぜい二人で十円も出せばいいと思っていた。物もいえないでいるぼくを見ながら、後ろの壁に張ってある、値段表を示していった。
「うちは良心的にやっているんです。近所よりずっとお安いんですのよ」
お酒九十円。いか、刺身、煮付け、四十円均一と書いてある。一皿ずつ二人で取ったから、六皿になる。酒も女の飲んだ分を合せれば、六本だ。合せて七百八十円だ。ぼくらはそれを見ていながら円を銭と無意識に考えていたのだ。ウクライナはしぶとい。とっさに計算した。二人の金を合せて百円札を八枚出していった。
「二十円だけお釣りくれないかね」
「ケチね。あんたら。それでも軍人さん」
といや味をいいながら、帝国議会が片方に印刷されている妙な絵の紙幣を一枚ずつ、懐中の財布から出して女は返してくれた。
外へ出たとたん、すっかり酔いもさめてしまった。変に寒々とした気持で港に向った。
二年間の報酬が一晩で消えてしまった。彼のこれまでの流れるような能弁はどこへ行ってしまったのか、しばらく何も言葉が出てこなかった。駅舎へ入って、指定の待合室で、乗船票を書いて坐ってから、やっと彼はぽつりといった。
「つまりおれたちの二年間の苦労なんてのはこの程度の価値しかなかったのよ」
「そう思えば却ってさっぱりするよ。沢山の死んでいった者に比べれば、白粉の匂いを嗅いで一杯やっただけ、大変な幸せだよ」
誘った責任を感じて心ではぼくにすまながっているに違いないウクライナの気持を察して、ぼくはわざと元気にいった。
乗船の合図で乗りこむと、一般の船室は身動きできないほど混んでいるのに、指定切符の復員者だけは、手ごろな和室に四人一組で案内された。ゆっくり寝転んでも、まだ余裕があった。ドラの音が鳴って出港した。
昨日までの外航船と違ってエンジン音は、殆ど聞こえないぐらい小さい。揺れは全く感じられない。
ぼくらは船客用の固い枕を胸の下に抱いて腹這いになった。ウクライナがいった。
「すまなかったな、乙幹さん、無理に誘ったりして」
どうしても口に出して詫びたかったらしい。
「なあに、十円ずつあれば、家に着くまでには何か喰える。ふかし藷《いも》でもいいさ。これまでの生活を考えれば、これぐらいが丁度いいのさ」
ぼくの目の前で死んでいった人々のことが次から次へと浮んできた。
正宗の短刀も、吉村隊の首吊りインテリも、その他何千人の死んで行った人も、みなそれぞれに哀れであった。だがバリトンの補充兵の死は特にいたましかった。
それに比べてぼくらはこれから故郷へ帰れるのだ。明日の夜は多分、家族に囲まれての食膳が待っている。
急にまた腹がすいて来た。明日の夕方までの十円だ。まだ何か喰うわけにはいかない。しかし収容所の無限に続く空腹に比べれば、これは希望ある空腹であった。
ともかく今は生きている。これからはもう死に脅やかされることはない。言葉ではとてもいい表わしようのない、幸せな思いが、温かく体中に拡がっていくのを、枕に頬をつけて、じっと味わっていた。
初出誌 オール讀物
一章 独裁者の約束  昭和五十六年十二月
(「黒パン俘虜記」を改題)
二章 白い行進     〃五十七年四月
三章 俘虜たちの休日  〃五十八年一月
四章 われ暁に祈るまじ 〃五十八年六月
五章〜八章 書き下ろし
単行本 昭和五十八年五月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年一月二十五日刊