胡桃沢耕史
翔んでる警視正 平成篇5 涙のポンポコリン
[#表紙(表紙.jpg)]
目 次
T 犯人は潜像中
U 羽後の盆唄
V 三日月型《クロワツサン》親爺《おじん》娘《ギヤル》
W 記号論アハハーン
X ああ濡れ落葉幾年ぞ
Y 涙のポンポコリン
[#改ページ]
[#見出し] T 犯人は潜像中
[#小見出し] 親分の頼もしき協力者
幹部[#「幹部」はゴシック体]
親分の岩崎警視正は階級名で、職名は管理官。捜査一課は、強行犯九係、強盗犯二係、火災犯二係、特殊犯三係で計十六係と別班を二つ持つ、二百名を超す大世帯である。
強行犯捜査一係と、二係との現場指揮を担当するのが、岩崎管理官の任務である。強行犯九係に管理官が三人居る中の先任者だ。
この四月に人事が少し変り、これまで二係長であった村松警視が一係長に横滑りした。岩崎と同じ東大出のキャリア組だが、柔道三段の豪放タイプだ。前任の一係長高橋警視は、岩崎のコピーといわれるぐらい、風貌、性格ともに、岩崎によく似た繊細なエリート警視だったが、同課の女刑事乃木圭子に狙われて見事落城、去年の秋結婚した。夫婦を同じ課におくわけにはいかないので、岩崎の判断で旦那の方が管下所轄六本木署長に出た。二係長のポストには四月の異動で、初の女性係長として大田警部が就任した。国家公務員上級職合格のキャリア組で、美貌で、二十六歳。実は乃木刑事と高校の同級生で、二人は同時に津田英語大学を受験し、一人は落ちて警察学校へ。大学に受かった方が突然上司となってやってきたわけになる。
結婚しても頑張り続けて、親分の居る捜一に残った乃木刑事の心境は少し複雑である。
1
四月の初め、例年より少し早い桜が警視庁前の皇居のお濠で美しい花吹雪を散らしている。窓から目を転じて、正面の係長の机を見る。今の係長は乃木の新宿高校時代の同級生である。警部の襟章をつけて赴任して、岩崎警視正に挨拶し、みなに紹介されるまでは、乃木はその新しい上司のキャリア婦警が同級生だとは知らなかった。
それどころかその友が大学を卒業した後、自分と同じ警察へ入っているということさえ知らなかった。新宿高校時代は、当時全盛だった、ミーとケイのコンビと比較されて、ケイとキックのピンク・レディーというあだ名さえつけられた仲好しの二人であったが、共に津田英語大学を受けて、一人が合格し、一人が落ちて、その仲も自然に消滅してしまった。
大学を落ちた乃木はすぐ警察学校を受けて、本庁に奉職し、職務熱心と適性を認められ、婦警必修の交通違反摘発係をせずに捜一の刑事に配属された庁内のエリート刑事だ。このごろは後輩の峯岸|稽古《けいこ》刑事もいるし、結婚によって、心境も落着き、本物の女刑事らしい風格も出てきた。
今では、敬愛する岩崎警視正も、事件発生のたびに、自分を何よりも信頼して、必ず連れて現場に向う。進藤デカ長とともに、警視正の左右にいつもくっついている、両腕と同じ存在になっている。
だから、同級生の着任を喜びながら、心境は少し説明しがたいものがある。大田警部の名は、大田|蹴鞠子《けまりこ》。きっと先祖は京都の公卿か何かであったのだろう。あだ名がキック。
一緒に大学を受けて蹴鞠子だけが合格したときは、それまでの仲好しは、可愛さ余って憎さ百倍。無理にでもブスでデブだと思いこみ、いずれ大学を出て官庁か実業界へでも入ったら、汚職摘発のときは、刑事として真っ先に乗りこんで行って、手錠をかけてやろうとまで思いつめて、警察学校のきびしい訓練にも率先して耐えてきたのだ。
まさかその相手が、自分が何十年か勤めてやっと到達する幹部警察官として上司でやってくるとは予想もしなかった。
大学は四年かかる。卒業後すぐに警察に入ってもまだ二年と少しだ。はるかな後輩なのに一生追い掛けても届かない地位にいる。パリの国際刑事警察機構《インターポール》での半年の研修を終えて戻ってきたばかりだそうで、私服のときも、制服のときも、身だしなみや動作全体が、同性の乃木が見ても溜息が出るほど垢抜けしている。かつて、心をこめて信じこもうとした、デブでブスとはほど遠い。
捜査一課の各係の中、持ち事件のない――これを庁内言葉で在庁勤務という――係は、午前八時半には、全員が揃って各自のデスクに坐る。男子組は私服が大部分だが、デスクでの伝票整理や、庁内各課への連絡などの雑務が多い三人の婦人警官は、殆どが制服だ。現場へ出るときも、制服のまま飛び出すことが多い。
八時半に、二十秒ほどの始業ベルを各自の席で心を澄ませて聞き、今日一日の仕事に新しい決意で臨むことを誓う。
その後で全員の湯呑みにお茶を淹《い》れるのを乃木はこれまで長いこと独占してやってきた。乃木でなければ、お茶碗の真中に、きれいに一本茶柱が立つという、奇蹟のような秘術を実行できる者がおらず、大きな薬缶から一人一人に注いでは、縁起を担ぐことが多い現場の刑事さんたちに喜ばれていた。しかし、油断も隙もない、後輩の峯岸お稽古刑事に、いつのまにかその秘術を研究されてしまい、ほぼ一年前から朝のお茶汲みはお稽古の仕事になっている。
今までは、自分の特技を奪われ、何となく口惜しい気がしないでもなかった。岩崎警視正が、その茶柱の立ち方には、いつも内心では注意を払い、その日の事件追及の成果を占う基準にしていることを、乃木はよく知っているからだ。
しかし大田警部が着任して、正面の机に第二係長大田警部の三角名札を立てて坐ったときは、お茶汲みをお稽古と代ってよかったと思った。注ぐ自分の方もちょっと辛いが、かつての同級生に部下として注がれる大田警部の方も、気分的に、あまり穏やかではないだろう。
たとえ、上意下達の典型的たて割り社会の警察でも、大田は乃木とだけは、今まで通り、ケイちゃん、キックちゃんと呼ぶつき合いでやって行きたいと思っている。たとえ、身分は上司でも、警察官としては四年も後輩だし、殺人事件の捜査に関しては、全くの未経験者なのだから、これからは、どうしたら乃木とうまくやって行けるかとそれがかなり気にかかることだった。
お稽古はそんなことを知らないから、いつものように岩崎警視正の茶碗から、順次にお茶を淹れて行く。峯岸稽古は音《おん》が乃木と同じケイコなので、区別するためわざわざお稽古と呼ばれている。
珍しく、警視正がその茶碗を見て、
「おう!」
といつもと違う、かなり大きな声を上げた。といっても、上席の吉田老人や、進藤デカ長の耳に届くぐらいだが、いつも無言で、感動を表わしたことがない岩崎にとっては、これはかなり珍しいことだ。
現在、岩崎の担当する、一係、二係が命ぜられておらず、捜一全体としてもまだどこの係とも決めておらず、出動しないでいる事件がある。こういう場合、所轄とその所轄をカバーする刑事機動捜査隊が、警察言葉でいう勝手に場を荒してしまうのは仕方がない。
殺人の捜一が、本来なら真っ先に飛び出して、現場の縄張りをし、証拠の保全をして、解決に当らなくてはならないのに、この事件だけは敢て乗り出さないのは、捜一全体の指揮者、鬼といわれる詰橋捜一課長にも、これが殺人事件になるかどうか、まだ決断をくだせないものがあったからである。被害者がそこに血|塗《まみ》れで倒れているというような典型的な現場には、普通は三つの捜査係が、てんでに違う人員をひきつれて捜査に当るシステムになっている。
初めは所轄警察の捜査課の刑事。部下を三つの隊に分け、二十のパトカー分駐所をおいて、即座に乗りこむ態勢を取っている刑事機動捜査隊。普通の殺人事件は、大体この二つがさっと乗りこんで大概はその場で解決に持ちこんでしまうが、犯人の影も見つからず、正面から調べてはとても検挙できそうもない事件となると、初めて所轄に捜査本部を設けて、捜一の猛者刑事《モサデカ》諸君の出動を求めてくるのだ。だが実はそれを待っていては、おそいことが多い。殺人犯捜査には、殆ど素人に近い所轄の新米刑事や機動捜査隊の若者が、手柄を求めて現場を目茶苦茶にしてしまう。これまで岩崎警視正が事件をきいた瞬間に、しばしば行く先を部下に短くつげるだけで勝手に飛び出して、他の係のように、パトカーや、バスの手配を待つような態勢を取らないのはそのせいだ。
岩崎の担当する係には、いつも豊富な捜査用資金がおかれてある。彼の父が道路公団に已《や》むを得ず売り渡した故郷伊那の土地の売却金が利息だけで、月に千万円。それをすべて捜査に使いきれと厳命されている。みな一斉に獲物を求める猟犬のように、警視庁の玄関に飛び出し、タクシーを捕まえて現場へ走る。おくれた者はほうっておく。三、四回出おくれると、捜一刑事不適格者として交通係か、少年防犯係に回されてしまうので、捜一の一係と二係の刑事《デカ》さんたちは、いつも警視正の一挙一動に神経を尖らせ、何かあったらみな瞬時に表へ飛び出し、現場へ急行する習慣が身についている。昔の薩摩藩の出陣のやり方をまねた、岩崎管理官の部下だけの特殊な出動方式だ。こうして岩崎が引き受けた捜一の事件は、これまでは所轄よりも機動隊よりも早く現場に到着して鮮やかに解決してきたのだ。
つまり岩崎の配下にいる刑事さんたちは、いつでも、ゲイトの中に入った競馬の出走馬のように瞬時に飛び出せる態勢にいた。
それが今度の事件に限り、岩崎自身が、机の上の事件を報ずる新聞記事を何紙か並べて拡げて読みながら、一向立ち上る気配がないのである。
岩崎の直属の上司、詰橋捜一課長も、必ず所轄に捜査本部が設けられ、早晩、応援の要請が来るということを予想しながら、何も言い出さない。これをやれるのは、強行犯とはいえ、複雑な知能を持つ犯人を狙わせたら一番の名人岩崎警視正しかいないし、もしやるつもりなら、自分が号令を下す前に、当然、岩崎がどちらかの係、或いは二つの係の全員を連れて猛然と飛び出し、刑事機動捜査隊に現場を触られる前に、着実に証拠を押えているはずだ。
何か考えがあるのだろう。
部下たちもこの二、三日内心ではじりじりしているが、しかし決してそれを口に出さない。今、警視正の頭の中は、三十二ビットのコンピュータ以上の早さで、様々な事実が回転して、一つの結論に向って動いている真っ最中で、こんなときにうっかり何か話しかけたら、その複雑すぎる頭の中がバラバラに分解してしまう恐れがある。
お茶が淹れられた後は、みなひっそりとして物音も立てないようにしている。あの茶柱をみて、珍しく「おう!」と軽い声を上げたのも何かの徴候だ。その親分が突然立ち上った。妙なことをいう。
「女の刑事《デカ》さんだけ私の後ろへついてきてくれ」
進藤の目がギョロリと光った。親分、うち続く事件の連続で疲労の余り、頭がぼけたか。
女だけで殺人犯を捕まえられるはずがない。
岩崎は廊下へ出た。今まで只の一度も弱音を吐いたことのない警視正が、珍しいことをいった。
「もうほんの少しの所まで考えが行くと、すべての糸が切れてしまう。うちの神様は、ふだん猛者《モサ》さんばかりにお祈りされて男はあきている。神様だって助平のはずだ。君たち美女三人、私と一緒に、今度の資産家老女殺しの犯人を、なるべく早く出してくれるよう祈ってくれないか」
うちの神様というのは、捜一の大部屋を出た、すぐ向い側の部屋の壁の上の方にある神棚で、ご神体が何か知っている人はいないが、通称、『捜査大明神』と称してご霊験あらたかなることで知られている。
ただし乃木は、いつもそのそばを通りすぎるときは、なるべく目を下にして、神様を見ないようにする。以前に一度、事件が全く起らず、在庁が長くて退屈の日が続いたとき、つい若気の至りで、
「何かいい殺人事件が起りますように」
と祈ったその祈りが終る直前に、正面の当時二係長だった岩崎警視の所に一報が入った。
荒川に女性の腐乱死体が浮上!
まるでそれが自分が起した殺人事件のように、当分の間、胸が痛んだものだ。
しかし今日は、新任の大田係長を始め、乃木、峯岸と、捜一切っての美女たち……といっても他には女はいないが……三人が揃ってお祈りしたのだから捜査大明神としては何らかの反応がないわけがないと、乃木などは今にもあたりに神の声が響くかもしれないと、柏手《かしわで》を打った後で耳をすませたほどだ。
終って岩崎がひょいと振り向くと、いつもは事件が起ってから呼びよせて車に同乗させ、現場に行ってもらう近藤鑑識官が、何か言いたそうに立っている。
身分は警部。鑑識畑の人はすべてそうだが、学者肌の温厚な人が多い。何事にも強引に割りこんでいく捜一の猛者と違う。何か言い出したいが言えない感じだ。やっとうながされて口ごもりながら、
「あのう、お取りこみ中ですが」
といった。
「何かね」
「鑑識として差出がましいことですが、今度の※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東区の地主の老女が、多摩川原で死体となって出た事件について、ちょっと考えることがありまして、もし出来ましたら、しばらくご同行を願いたいと思いまして」
「どういうことかね」
相変らず何の感情も見せずに警視正は平静な口調で答えるが、女三人の刑事たちは、早くも神示があたえられたかと、胸をどきどきさせて二人を見ている。
「一緒に半蔵門まで行っていただけませんか。丁度、桜の花も散りかけで見ごろです。春の軽い服で歩くのも頭の切換えに悪くありません」
こんな時期に殺人犯係の長に対していうこととは考えられない、のんびりした提案だ。普通ならおまえは正気かと怒鳴りつけるところだが、捜査大明神の神意を信じ、それ以上に、もう停年近い初老の近藤鑑識官の四十年の経験から来る力倆を深く信頼している岩崎はおだやかにきき返した。
「半蔵門のどこへかね」
「先日開館したある場所へですが」
「判った。何か考えるところがあるのだろう。桜の散る下を男連れで歩くのもヤボというものだ。進藤や吉田さんは少しひがむかもしれないが、女性だけ連れて散歩しよう。大田警部以下三人はすぐ私服に替えなさい。いきなり制服の三人に乗りこまれては、向うもびっくりするだろう。タクシーに乗るほどの距離でもないから、お花見がてら歩いて行こう。五分後に、下の表玄関へ集合。進藤や武藤が睨んだら『お花見に行くのよ』と羨ましがらせてやれ」
五分というと女性が制服から私服に替えるのには少し無理な時間だ。しかし捜一岩崎班にいる限りはやらなくてはならない。お手洗いへ行って、顔もちょいと直したいという思いは一切省略して、三人の女性刑事は、急ぎ足で更衣室へ飛びこむ。文字通り、服を替えるだけだ。せいぜい靴下のよじれを直して全身を鏡に映してみるのが一杯で、すぐ更衣室を飛び出す。まるっきり無視されている六階の男の刑事たち二十人には、軽くバイバイと手を振って、
「猛者《モサ》さんたちはまだお呼びではないそうよ」
と皮肉をいって出てやった。急がせられて身仕度も充分でない思いもこれで少しすっとした。すべてが神意なのだ。
玄関のホールで近藤鑑識官と、岩崎警視正とが立って待っていた。男は背広のままだから楽だ。エレベーターから息せききって駆けつける三人を見ると、別にご苦労ともいわず歩き出した。
外は陽春。今年の桜は少し早い。向い側は皇居のお濠を取り巻く、都内でも最高の散歩道だ。そこを通った方が途中交叉点を通らないですむので便利だ。二人の間には話がずっと続けられていたらしい。ついてくる三人の美女にかまわず、二人は話し続ける。
「つまり近藤警部は、その男はセンゾウしているというのだね。センゾウというのは聞きなれない言葉だが」
「現像に対しての言葉で、まだフィルムに写されたまま現われていない状態を言います。潜水艦の潜の字を書きます」
「そうか。私も初めてきいた」
それから三人の方を振り返っていった。
「これから世界中のカメラを見せてやるよ。君たちも勉強になる」
すると大田警部がいった。
「カメラ博物館に行くのですか」
「知ってるのか」
「まだ行ったことがありませんが、私の伯母が館長さんをしています」
[#小見出し] 親分の頼もしき協力者
古参・ベテラン[#「古参・ベテラン」はゴシック体]
捜査一課は、警視庁の六階にある。中層用エレベーターで行く。扉があいた瞬間、あたりの空気がひきしまり、入庁三、四年の新米警官では、足がすくんで外に出られない。
一係と二係を通じて最年長は吉田警部。吉田老と呼ばれ、警視正も敬意をもって応対する。もと四谷署の捜査課長までやったが、岩崎の現場指揮ぶりを見てコロリと参り、ヒラ刑事として入れてもらい、一係の相談役で、頑張っている。
一係、二係を通じて岩崎の直系を一番自任しているのは進藤デカ長だ。鬼が泣く殺人犯が一目睨まれたら、すくみ上って震え出すといわれるぐらい怖しい風貌とドスのきいた声をしている。捜査はかなり荒っぽいが、殺人犯相手では、このぐらいでないと効果がない。
他に親分就任以来ずっと仕えている若い武藤刑事、ピストルの名人で捜一で殺人犯の捜査に専念したいためオリンピック候補を辞退した中村刑事、文学芸術に珍しく詳しいが、風貌が垢《あか》抜けず秋田訛りが直らないので、乃木圭子刑事とかなりいい線まで行きながら、ついに振られてしまった花輪刑事など、歴戦の猛者刑事がいる。東京の殺人犯は一度この二つの係に狙われたら年貢の納め時。
2
都心でも、こんな所があるのかと、思わず周囲を見回してしまうぐらいに、静かな場所であった。春のそよ風に、例年より早く咲き、早く散り出した桜の白い花弁が舞って、三人の女性の春のドレスの肩に一ひら二ひら降りかかる。
それに、同行の男二人も、ごく普通の背広だ。知らない人が見たら、これが目下、都民の関心を集めて、早くも迷宮入りさえ噂されている複雑にして不可解な殺人事件を必死に追っている、警視庁、捜査一課選り抜きの刑事たちとはとても思えないであろう。
たとえ、彼らが警視庁一の名捜査官と名鑑識官だと分り、それに一見可愛く優しいが、物証を前に犯人を追及して行くときは、鬼といわれた殺人犯どもが恐怖で膝頭が合わないほどに震え出し、冷汗びっしょりで、しどろもどろに哀願するほどきびしい態度になる名物女刑事と分っている本庁の同僚がすれ違ってみたところで、目下彼らが事件捜査中とは思わないだろう。
この春の陽気のよさに誘われて、お花見がてら、すぐ隣りにある高級シティ・ホテルに自慢のコーヒーを飲みに来たのか、それともホテルに並んで建っているビルに、最近できたばかりだが、既に一部のカメラ好きの人には大変な評判になっているカメラ博物館を、職務中を抜け出して見物にきただけと思うに違いない。五人には表面、捜一刑事の持つ鬼気迫るような緊迫感はない。もっとも女三人は、まだ誰も、自分がなぜここへ連れてこられたのか全く気がついておらず、ただ皇居のお濠端のお花見ついでに、新しく開館したカメラ博物館に連れてきてくれたのだと思っている。あたりの景色がのどかなので、大明神の神意によることさえ忘れてしまっている。
勿論捜一トップの切れ者、岩崎管理官が、唯、漫然と博物館見物するはずはないが、カメラは捜査に必要だし、証拠物件としても思わぬ威力を示すことがある。その勉強のためだぐらいに女たちは軽く考えていた。
実はさっき女たち三人が一斉に更衣室へとびこみ、顔を鏡で見直すひまもなく、僅か五分であわただしく私服に替えていた時間、先にエレベーターを降りて正面玄関ホールで待っていた岩崎管理官と、近藤鑑識官との間に、重要な打合せはすんでしまっていたのである。これまでの長いコンビで、二人の間には、はっきりとすべて口に出して頼まなくても、ほんの少しの指示だけで分り合えることが多い。そのときホールで岩崎は、
「近藤さん、今の芝居は上出来だったよ。女刑事は三人とも、神示が下ったと思って、今大急ぎで更衣しているよ。乃木とお稽古との二人なら、こんなことまでする必要はなかったのだがね。正直いって、津田英語大を出た大田警部が黙ってこれから行われる気の遠くなるような単純作業に耐えてくれるかどうかがまだよく分らない。しかし捜一に入ったからは、どうしてもまずこんなことから始めてもらわなくてはならない。最初は神示が下ったと思いこませた方が腹も立つまい」
といったのである。
「まあ、相当に知性的と思われていても、女というものは、霊感とか占いとかを信じ易い体質は抜けてませんからね」
「昔からそんなものさ。大学ができても、沢山の議員が生れても、根本的に幼稚な所では、変っていない」
当の女性たちが聞いたら、目を吊り上げて怒りそうなことをさらりといってのけた。ただし、いくら怖い物知らずの警視正でも、今は世の中が悪いから、当の女性たちの前では、そのような差別的発言はしない。
彼女らが命令通り五分以内に更衣を終えて正面ホールへ飛び出してくると、すぐ本庁の正面から横断歩道を渡って、お濠端への道を歩みながらも、岩崎管理官と近藤鑑識官は、女三人がこれからの仕事の内容を徐々に理解して行くように話をすすめて行く。
既に男二人の間には、先日からこの捜査にはこれしかないという、ある種の合意が暗黙の中《うち》にでき上っていたのである。これは公安がからむ。そんなカンだ。
入口で三百円の入場料を払って入ろうとする。大田警部が、
「伯母に頼めばこのまま入れてもらえますわ。中も誰かに案内してもらえるし」
というのへ岩崎は答えた。
「まあ、折角、私服で春の町を桜を見ながら来たのだから、今は仕事を忘れて、のんびりと、沢山のカメラを見て行こう。もし、大田の伯母さんの協力が必要になったら、そのときにまた改めて頼むことにしよう。いくら私が貧乏な安月給取りの公務員でも、一人三百円の入場料ぐらい立替えられる」
そういって内ポケットから千円札を二枚抜き出した。乃木も峯岸も、岩崎がいつでも、十万円ずつ分けて袋に入れた紙幣を幾つかポケットに入れていて、何か事件があるたびに、それを袋ごと刑事に渡して交通や食事の経費にあてさせるのを知っている。何しろ彼の父親がきびしい人で、故郷の山林が二度にわたって止むを得ず道路公団に買い入れられたときの金の利息が、今では定期の金利も上って月に千万円を超す。何が何でも、捜査のために使いきれと厳命されている。三百円の立替えに何かいったのは当然冗談だが、みずえ警部補と結婚して一子|翔《しよう》をもうけて以来は、昔のように赤坂や六本木のクラブでいい顔をして遊ぶわけでなく、事件がないときは早々と家に帰って翔と遊び、妻とテレビをみながら好きなレミー・マルタンを少しずつ飲むマイホームパパだ。いくら捜査のため必死に金を注ぎ込んでも、月に千万円を使いきれなくて、だんだん貯《たま》ってくるのが、この往くところ敵なしの感がある天才警視正の唯一の悩みである。
大田警部はまだ着任してきたばかりで、そのへんの事情は知らないから、あわてて自分の財布を出して、
「だったら私も自分の分は払います」
といったのち、乃木にそっと手を押えられた。乃木はぎごちなく上司に説明する。
「キック、あ、そうじゃない。大田係長殿、それはいいんです。捜一でも他の係はどうか知りませんが、岩崎管理官殿が指導されている一係と二係とでは、出勤してからかかる費用はすべて、私用のタクシー代でも飲食費でも、全部、管理官殿が払ってくださることになっているんです」
上司とはいえ、元は仲好しの高校同級生だから、言葉の使い具合が難しい。大田蹴鞠子は、事情を知らないから、
「そう」
と不思議そうな顔をしている。
五人は場内へ入った。かなり広い部屋に、ガラスケースが何列にも並んで、そこにカメラの歴史が始まって以来この百五十年間の、人類が所有し使用してきたカメラは全部並べられている。他の物なら無理かもしれないが、カメラという歴史の浅い物であるだけにパーフェクトの蒐集が可能なのだ。
岩崎と近藤は、カメラがずーっと並んでいるのを眺めながら話し合った。
「森川さんというのは大した方だな」
大田が後ろから声をかけた。
「管理官殿は伯母をご存知で」
むしろ岩崎が驚いたようにしてきいた。
「というと、大田警部のいう、館長の伯母様というのは、森川夫人のことかね」
「はい。伯母といっても母方のまたいとこぐらいの遠い存在ですが。私の苗字は大田ですが、そういう名の町があります。そこから母が出ましたが、森川さんの選挙区もその近くです」
「そうか。少しも知らなかった。私はもう亡くなった森川さんという、大臣を何度もやった政治家がこのような世界的なカメラの蒐集家ということだけを知っていて、今、これを見て驚いていたところだよ。このような文化的な趣味を持っている政治家が日本にいたのが珍しい。そうか、ご夫人が館長をやっておられるのか」
「はい。死んだご主人が折角集めた世界的なコレクションを散逸させてしまうのは勿体ないというので、それを基本にして博物館にしたのです」
「ご夫人も確か国会議員で大臣もやられた方だね」
「はい、伯父が生きていたときは、夫は衆院、妻は参院のおしどり議員ということで有名でした」
「そうか。ともかくすばらしいコレクションだ」
乃木もお稽古も、カメラというのに特に関心のある方ではない。真中にレンズがついていて、押せば自然に写ってしまうのを一つ持ってるだけだ。蛇腹《じやばら》がついていたり、レンズが二つ眼玉のように並んでいるのがあったりして珍しいが、近藤鑑識官の話を横できいていると、昔は、家を一軒買うよりも高くて、みなカメラ買おうか、家を買おうかと、さんざん悩んだもんだなどという話が出てきて、何だか、バーカみたい、家一軒買えたらそっちの方がよっぽどいいのにと思ったりしていた。
近藤鑑識官は、ごくさり気なくある棚の前に立って、さっきのちょっとした芝居の続きをここでもまたやった。
「ああ、やはりありました。これですよ。捜査大明神の神示は、本当にあらたかなものですな。私はもうとっくに処分されてなくなったものと思ってましたよ」
「これか、これが近藤さんが、ぜひ、私に見せたいといって、ここへ連れてきた、その目的のものだね」
これもごく自然にやっているが芝居だ。今、あらゆる手がかりがすべて断ちきられて、初動捜査に出た所轄も刑事機動捜査隊も、半分お手上げ状態で、ほぼ迷宮入りと諦めかけている殺人事件だ。捜一にいわせれば、所轄の捜査課も素人の集りだし、刑事機動捜査隊も威勢のよい若い衆の集りというだけで、別にどうということはないが、もし一旦捜一が乗り出すとなったら、このような単純な殺人事件は、電光石火の早業で片づけなければ本庁の殺人専門係としての威厳が保てない。
そのため、岩崎と近藤とは、それぞれ別の立場で、この何日か考え続けてきた。岩崎は捜査官としての立場から、事件の周辺を各ベテラン刑事たちに命じて秘かに洗い直させ、被害者にまつわるさまざまの人間関係を一つ一つ明らかにしていった。近藤は鑑識官としての立場だから、本来直接捜査にかかわることなく、捜査官に命ぜられた物証が犯人や被害者とどう結びつくかだけを考えていればよかったのだが、今度だけは新聞やテレビで、ごく客観的に報じられるできごとから、二人の考えは同じ一つのことに辿《たど》り着いた。
『これは殺人事件に見えるが公安関係がからむ犯罪だ』
もともと長いコンビだから何もいわなくても通じ合うところがある。朝、鑑識課に電話が短く入った。
「少し形が見えてきた。かなり困難な見込み捜査になる。私としても、正式には担当も決っていないこの厄介な仕事に、まるで見込みだけで部下を働かせるのは心苦しい」
それだけで近藤鑑識官には分るものがあった。
「大明神を拝んでいてください。私が連れ出します」
「そうか。神様か。それに限るな」
それだけで二人の打合せはすべてすんでいる。
そしてとうとう、その目的物の前に着いた。
そこには、ピストルの形のカメラが二つ並んでいる。握り柄も銃口も本物そっくりにできていて、今でも抽《ひ》き鉄《がね》をひけば弾丸が飛び出しそうだ。
「これもカメラですか」
乃木は自分のピストルがいつも入っているショルダーの上をそっと押えた。そこには丁度これと同じ大きさの婦人用コルト自動拳銃が入っている。カメラはその警視庁の制式銃と形も似せてある。男二人はそれには答えず、じっとそのカメラを見ている。
「右の方だね」
二つ並んでいるが、よく見ると、銃口の周辺が少し違う。左の方はすんなりした細い銃身のままだが、右の方のピストルの銃口には一見、放熱用のベルトを思わせる、金属の丸い鐶《わ》がはめてある。
「左の方が旧来の型、右の方が六〇年安保のときに改良された型です。フィルムはレンズのすぐ後ろを通さなくてはならないという宿命がありますので、旧来の型だと四枚撮りのフィルムを入れるのが精一杯でした。この鐶をつけることによって、三十枚まで連続で撮れるようになりました。これは安保の直後に鑑識に回されて以来、ずっと二十年も、自分が使っていたものですが、先年この博物館の開館に当って、警視庁の方にお話があったので資料として寄付させていただきました。民間では、販売、製造、所持ともに禁止されているものですし、二つとも型が古くて現在ではもう使われず、倉庫のすみに埃《ほこり》をかぶったまま放ったらかされていましたから、特に出しました」
銃口の尖端をじっと見ながら岩崎はきいた。
「この尖端の放熱鐶の中に納まっているフィルムの中に、もしかして潜像しているかもしれないというのだね」
「ええ、最後に使用したのが、成田空港の工事に入る前、学生や中闘、連核のゲリラが、毎日、近所の農家に集って庭で火を燃やし、学生運動だか村の盆踊りだか分らないような浮れ騒ぎをやっているときです。もう二十年前のことですが、畑に伏せて、それらのデモ騒ぎや、焚火の回りの合唱や踊りを写したりしました」
「私も中学生時代、田舎でそのことを新聞で読んだことがある。若い過激派の女闘士が焚火の回りで、素っ裸になり……」
とそのとき、女三人の耳にはとてもこの警視正の口から出たとは信じられないような過激で卑猥な四文字が出てきた。
「……と連呼して手踊りしているという記事がのった」
近藤鑑識官は年だから、ごくさらりとした表情できき流した。
「多分、その写真も、まだ現像してないフィルムに入っているはずです。基地闘争なのか男女の集団デイトなのか、畑に伏せて蚊に喰われながら、必死に抽き鉄シャッターをひいているうちに、まだ若かった私は馬鹿らしくなって、その五十本の中三十本は現像もしないで、ほうりっ放しにしておきましたよ」
そう近藤が感想をのべる間、岩崎は別なことを考えていた。
「いくら捜査のためとはいえ、一旦博物館へ入れてしまったものをまた外へ借り出すのはかなり規則として難しいんではないかな。そうだ、大田警部」
と急に蹴鞠子の方を向いてきいた。
「森川館長は伯母様だったね」
「はい」
「今どこかな」
「ここにいなかったら、議員会館の秘書室にかけてみれば分ると思います」
「優しいお方かね」
「とても親切な面倒見のいい方です」
「大事な殺人事件の捜査に必要だからと頼んできいてくれないか。一度お預けしたピストルカメラ関係の一切の資料、未現像フィルムも含めての貸出しと、その現像分析を許していただきたい、とね」
「承知しました」
大田警部は一礼すると、事務室の方へ形のいい足でヒールを鳴らして、足早に歩いていった。
[#小見出し] 親分の頼もしき協力者
女性陣[#「女性陣」はゴシック体]
この係には、以前志村みずえという、スマートな婦人刑事がいた。美貌で、頭が良くて、努力家だが現在休職中。親分の岩崎警視正より三歳年長で、警部補まで昇進して数々の事件に腕を振ったが、今は岩崎のよき妻となり赤坂のマンションで一子翔、満三歳を子育て中。
乃木刑事は岩崎が捜一着任後すぐその配下になった。女には珍しい度胸と機智で、ずっと殺人犯の追及を手伝ってきた。二十五歳をすぎ、親分も先輩みずえ警部補と結婚してしまうと、自分は岩崎への敬愛の心を胸に秘めたまま、そのコピーとまでいわれるほど似ている上司の一係長高橋警視と結婚した。高橋警視が所轄の署長に出た後も、捜一に残り続けているだけでなく、夫婦別姓を主張し、給与も辞令も、日常の呼称も乃木で通している。その真意は分らない。
志村みずえ警部補は結婚して愛児翔の出産のため、休職の手続きを取ったとき、自分の出た会津白虎高校後輩の一人の根性ある婦人警官を後任に推薦した。父が毎日、井戸端で、水をかぶりながら軍人勅諭を朗誦するという家庭に育ち、合気道の初段で、砲丸投げの国体チャンピオンだった、峯岸稽古刑事である。乃木圭子と同名なので、峯岸の方は、お稽古と呼ばれている。みずえ夫人が放った岩崎と乃木の間の見張り役だという、うがった解釈をする者もいる。
3
帝国ホテルでも、十二階にあるスイートには、普通の人が入ることは滅多にない。
王室や、大統領、その他政府代表クラス、各国で名を知られた富豪しか泊らない。一泊最低で三十万円。会社の経営者でも経費で落すのは難しい。それに国家間の賓客でも外務省が特に頼んだ客でなければ、いくら金を積んでも泊れない部屋もある。そこへ岩崎は女刑事三人を連れてきた。あまりの豪華さにびっくりして、ただ周りを見回しているだけの三人に、岩崎は説明した。
「ここは最高の六十万円のインペリアルルームとはいわないが、それに近い部屋だと思っていい。神のお示しとはいえ、君たちにはこれから気の遠くなるような難しい仕事をやってもらわなくてはならない。それで居住環境を特によくした。妙齢、美貌のご婦人を、番茶にせんべいとせんべい布団しかない本庁の宿直室で、何日も作業させるわけにはいかないからな」
岩崎はそういうと、壁に仕切られた扉をくぐって隣りの部屋を見せた。
「ここはベッドルーム。その奥に更に浴室、洗面所がある。したければ洗濯もできるが、地下にランバンやディオールのブランドの下着も売ってるし、朝、指定の袋に入れておけば、汚れたものはクリーニング係が回収して、夕方までにはきちんとアイロンをかけて持ってきてくれる。ここにあるベッドは二つだけだが、壁にちょっとした仕掛けがあって、もう一つエキストラというベッドが出てきて、三人が寝泊りするのには不自由ない。食事は電話で頼めば持ってくる。中国も、フランスも、日本も、そして今はやりの民族料理もあるから、好きなのを取りなさい。パンティまでクリーニングに出すというのは、日本の女性としては抵抗があるかもしれないが、仕事がきびしい今はそんなことはいってられない」
乃木は岩崎警視正を心から敬愛して、捜一の仕事にうちこんでいる身だが、しかしこの気配りがいつも気に入らない。たしかにどんな人間だって、トイレに行くし、下着は汚れる。だが女の子の前でわざわざそんな心配まで、レアリスチックにしてくれなくてもいいのだ。
何事も知らん顔でほどほどにぼかすということができない人なのだろう。
また扉をくぐって、元の広い応接室に出た。
事務机。スタンド。テレビ。ファックス。ワープロ。タイプ。短波ラジオ。
世界各国と即座に連絡できるようになっている。大田警部に向って岩崎はいった。
「ここで、三人協力して、一つの仕事をやってもらう。近藤さんも今すぐ来る。さっき本庁前でちょっと降りてもらったのは、必要な道具を取りに行ってもらうためだ。来るまでの間に、これからの作業の手順を説明するが、その前に大田警部、コーヒーと、みんなの好きなケーキをルームサービスで持ってくるように注文してくれないか。こういう部屋からだ、交換手は英語の方が馴れているかもしれない」
大田警部は津田英語大学の出身だ。
「はい」
と答えると、すぐ電話を取り、乃木の独学英検二級では殆ど半分も分らない発音で、注文をした。岩崎はこの新任の警部がどのくらい使えるかちょいと試してみたのかもしれない。そして分ったらしい。いつもは無表情な親分の顔が、ちょっと感心したように動いたので、そこがまた乃木には面白くない。
注文が終ると警視正は峯岸に命じた。
「お稽古、博物館から借りてきた物を出しなさい」
峯岸見習刑事は、ふくらんだショルダーの中から、ピストル型のカメラと、未現像のライカ判パトローネを、三十本ほど出した。
「現像が終ったのが、他に百本以上ある。それは今、プロジェクターと一緒に、近藤さんが持ってくるはずだ。現像タンクも持ってくる。お稽古は、近藤鑑識官が未現像の三十本を現像してスライド枠に入れるのを手伝う。警部と乃木は、既にできているフィルムからプロジェクターにかけ、続いてこれから現像ができるのもすべてかけ、その中から見つけ出すのだ。フィルムは、大体、一九六六年の六月から九月、成田の地元農民、戸畑三作を中心にして、農民、学生が、空港建設反対運動を盛んにやっていた時期に撮影された。今から二十四年前だ。丁度このカメラが使われた。機構上固定焦点だし、正面きってデモ隊にピストルを向けることは少なかっただろうから、さっき近藤さんがいったように遠くからの隠し撮りが大部分だろう。人間は多勢で、一人一人は小さくボヤッとしか写っていない。その白壁に精一杯拡大映写して調べてくれ。これを参考にな」
内ポケットから、二枚の写真を出した。二人とも、もう中年になっている、男と女の写真だ。
「これは、一人は、デベロッパー不動産という妙な名の会社の社長、一人は、※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東区の区議で、次の選挙には確実に都議に出るといわれるマドンナ議員だ。毎日の新聞を読んでいたら、既に事件の大よそは君たちにも見当がついているだろう。今は取りあえず、そのことはすべて忘れ、何の先入観も持たないで探してくれ。たしかに気の遠くなるような仕事だ。今、交通係が東京中のダンプカーの一台ずつの下にもぐりこんで、この間の母娘ひき逃げ犯人を捜しているが、それよりももっときびしい仕事かもしれない。デモ隊、近所の農民、それに反撥する右翼宣伝車、何でもいい。そこに写っている、多分何千か何万かの群衆の中から、二十四年前のこの二人を見つけ出してくれ。どこかにいるはずだ。しかも多分、かなり親密を思わせる態度を示して。たとえば腕を組んで労働歌を唱いながら行進しているとか、乱闘の中で手をつないで逃げようとしているとか。私は三人が近藤さんと一緒にそれを見つけだすまで、このホテルのどこかでずっと待っている」
そこへノックの音がして、コーヒーとおいしそうなパイが運ばれてきた。ちゃんと五人前あるのも、大田警部が、なかなか気のきいた女の子であることを示している。
事実、ケーキをテーブルの上に並べ終え各自のカップにコーヒーが入れられるころ、近藤鑑識官が中型のアルミのトランクを提げて入ってきた。
「おくれまして。何しろ二十四年前となると資料棚でもうんと下の方に押しやられて。みな廃棄寸前でしたよ」
「まあ、まずコーヒーでもゆっくり飲みなさい。仕事の手順は私から三人によくいっておいた。夜中になって一休みしたくなったら、女三人は隣りの部屋にベッドがある。近藤さんは、そこのソファーで毛布をかけて休んでください。捜査大明神の神意を信じて、この不可能とも思える難事を、ぜひやりとげてください」
近藤鑑識官は、テーブルに向うと、コーヒーカップを取り上げた。
「必ず見つけ出します。ここまで追い詰めたのですから、これから心を落着けてやってみます」
岩崎は自分だけ先にコーヒーを飲み、パイを小さなフォークで崩してさっさと喰べてしまうと、立ち上った。
「十八階のいつもの会議室には、捜一の猛者刑事《モサデカ》諸君が、久しぶりのフランス料理を楽しみに待っている。私はそちらへ行って、状況を説明してくる。ここでの作業は任せる」
一人で廊下へ出て行くとエレベーターで十八階に上った。
十八階には、見晴しのいいバー・ラウンジがある。その中の二十人ぐらい入る部屋を借りて、捜一の一係、二係の打合せがいつも行われることになっている。特別のフランス料理に、年季の入ったレミー・マルタンが一緒で、窓からは昏《く》れ行く銀座のネオンが見える。体制の中に組みこまれて、かなり硬化しかかっている刑事《デカ》さんたちの頭脳も、この豪華な雰囲気の中では、自然に違った発想も浮んでくるというものだ。
岩崎管理官がそのいつも使う部屋に入って行ったときは、二十人の刑事さんのうち、十人ぐらいがもう来ていた。指定の時間、午後六時には、まだ十五分ほどある。正面を一席あけて隣りに一係長の村松警視が坐っている。
彼は起立して岩崎を迎える。岩崎は正面に坐る。おくれた刑事さんたちもぼつぼつと入ってくる。古参の吉田老、全刑事の実質上のリーダー進藤デカ長、ピストルの名人の中村、その他一係二係の頼もしい刑事さんたちは定刻に全部集った。ただしいつもの女刑事たちはいない。すぐにフランス料理の前菜から運ばれ、ワインやレミー・マルタンが、グラスに注がれた。
これは捜査会議ではない。和やかな晩餐会だ。心なしか、岩崎の表情もいつもよりいくらか柔らかだ。この三、四日、ずっと何かを考え続けて難しいしかめ面をしていたのを知っている刑事たちは、みな少しホッとした。夕昏れのネオンがまたたき出したが、春の宵は古い言葉にある通り値千金の風情がある。岩崎が立ち上った。
「我々は、ある殺人事件の解決のため集まった。事件については、この中の何人かには既に密かに犯人の周辺を洗ってもらっている。この事件は、最初は母親の行方不明事件として、世間に伝えられた。今日、私がここにみなを呼んだのは、実は会議ではない。九十九パーセントまで捜査が進行したが、最後の一パーセントの所でどうにもならなかったのが、やっとその一パーセントの手がかりに辿《たど》りつけた、その心祝いだ。もう一日か二日、おそくても、三日で犯行は証明される。だから今ここに女刑事さんたちがいない。つまり彼女たちに最後の詰めをやってもらっているんだが、これは間違いなく成功する。何しろ捜査大明神の神示が下ったのだからな」
刑事たちはみなうなずいて、料理を喰べ出しワインを傾けた。誰も大明神の威光を信じて疑わない。何しろ捜査が始まったら喰べ物はカツ丼。茶碗を落しても、犯人が落ちたと喜ぶ刑事《デカ》さんたちばかりだ。
「結局のところ、これは単に殺人事件というより公安がらみの犯罪と想定した方がいい。なぜなら被害者が持っていた不動産には昭和四十一年、西暦なら一九六六年の第一次の成田闘争がからんでいるのが、これまで密かに被害者や犯人の周辺を洗っていた、吉田さんや進藤、武藤などの努力ではっきりしたからだ。といっても基地闘争とか、安保論争とかの次元の小難しいものではない」
そして被害者が持っていた土地建物について大要を語り出した。
成田の闘争が始まったとき、最初は反対派だった農家のうち、何軒かはさっさと見切りをつけて土地を公団に有利に売り、そこから得た金で代替の土地を買った。そのまま農業を続けた者もあれば、東京に移ってまだ土地の安かった下町でアパートの経営に移った人もいる。行方不明として騒がれた老婆もその一人で、※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東区にアパートを買った。もっともそのころは老婆も中年で主人も生きていた。
「ところで公安関係の刑事さんたちの間にはよく使われる一つの言い伝えがある。それは『心は左翼、身は右翼、つまるところは金儲け』という言葉だ」
吉田老は昔、少し公安関係をやったことがあるが、そんな言葉はきいたことがない。不思議そうに見ると、岩崎は吉田老に片目を軽くとじて見せた。それでこれは話を分り易くするための、岩崎特有のジョークであることが分った。
「その脱落した中年の夫婦には子供がいないせいもあって、早く百姓を諦め易かったのだが、東京へ移ってアパート経営者になると、いつのまにか養女ができていた。明るく優しくとてもいい子だとの評判が高かった」
その養女をどこからもらってきたのかしばらく誰も知らなかった。しかし美人で気だてのいい子で、養父母の面倒をよく見て、やがて二十四年、お嫁にもいかず、まず養父の死を送り、今度は、養母の死に遇《あ》った。
「今、その死を我々は殺人事件と断定した。最初に届け出た養女によると、これはボケ老人の家出か、何者かによる誘拐だった。十一月にふいと行方不明になり、一月に多摩川原の廃品置き場の自動車の中に、死体が放置されているのが発見された。これが事件の全貌だ」
その事件ならみなよく知っている。
何しろ養女は、母の面倒を見ながら独身を通し、近所に託児所を経営し、未婚のままで前回の選挙で※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東区の区議会選挙にマドンナ議員として当選した。今、四十五歳。
「これは単純な犯罪だ。当初から、誰が考えてもその区議で次には都議に鞍替えする養女と、最近、近くの土地をすべて地上げしてビルの建設を計画している、デベロッパー不動産会社の社長の二人の共謀だと分る。所轄も、刑事機動捜査隊も、それしかないとさんざん調べたが、一人は地元の不動産会社、一人は地元の区議ということ以外、何の疑わしい点も出てこない。お互いに忙しい体で、今から五カ月前の、十一月の養母失踪当日のアリバイなど、どう探しても出て来ない。確実な証拠がない限り、今は裁判所も、逮捕状の請求はみとめない。弁護士がよくて否認を通せば何事も無罪、という鉄則がある。二人の行動には全く怪しい点がない。女は独身の美人で評判のマドンナ議員だ。男は年商何十億かのやり手の不動産会社社長だ。妻子もいる。もっとも夫人とは必ずしもうまく行っていないようだが、そんなことは理由にならない。養母が死ねば、たしかにあの土地がサラ地になる。だから犯人は二人に決っているが、あまりに単純すぎて、却《かえ》って逮捕できない。そのうちアパートは取りこわされ、託児所もなくなり、ビルの工事が四月から始まった」
みな岩崎の説明をきいている。
「ようやくこのごろ、その養母がもと成田の農民で、アパートも二十四年前に代替の費用で買ったということが判明したとき、ある一つの筋が見えてきたのだ。今、女の刑事さんたちはその解明に必死に従事している。成功を祈ってくれ」
その夜は捜一のみなを快く酔わせ、満腹させて帰すと、岩崎と進藤だけがかねて取ってあった八階の部屋に戻った。
「ああ、元気でやってるかね」
夜中に岩崎が様子をきくと、十二階の部屋からすぐに大田警部の返事があった。
「はい、乃木刑事も峯岸刑事も、今、夢中でやっています。近藤鑑識官は未現像三十本の現像をすべて終え、乾燥させて枠組に取り組んでいます。既に現像ずみの百本のうち、七本までは、現在までに分析し終えました。まだ目的の二人は見つかっていませんが」
「あせらず、ゆっくりやりなさい。一本には三十六枚の画がある。一枚の画にそれぞれ何十人も写っている。二十四年前の顔が。一つ一つなめるようにして調べてくれ。砂浜の中で落した小石を拾うような作業だ。大明神の神意を信じて、ただひたすらやってくれ。私と進藤の二人は、ここでずっと何日でも待機している。八階の八〇八号だ。ではグッドラック」
そう励ましの言葉で電話を切ると、進藤にいった。
「早くて明日の夜中だろう」
[#小見出し] 親分の頼もしき協力者
課外の仲間[#「課外の仲間」はゴシック体]
岩崎は捜一以外へは動く気がない。東大卒、国家公務員上級職三番の合格者で、殺人係刑事志望は珍しい。キャリアの腰掛けでない熱意を総監も評価し、六年間も居て今や管理官の中の最古参。外部からの協力者も多い。
本庁地下四階、誰も入ることのできないコンピュータ室の主任が松元技師で、大コンピュータを自在に操る。しかしコンピュータというものは、データの蓄積がなければ作動しない。岩崎は着任以来、事件のないときは常に殺人事件の分類、整理に取り組んでおり、それを松元技師に、自分のデスクから端末機で送りこみ、事件があると逆にコンピュータからまとめて引き出させて分析する。二人はよき仲間である。
近藤鑑識官も、岩崎班にはなくてはならない人材だ。もう定年も近い超ベテランで、指紋、唾液、血液、その他どんなに小さい証拠からも、見事に犯人像を割り出す。一見警察官とはとても思えない温厚な風貌をしている。趣味のカメラは個展を開くほどの腕。
十七階の喫茶室のマダム、伊奈さんは、もう二十年もやっていて、総監も部長も、若き日からの知人だ。本庁ではどこの部屋でも平気で入って話してこれる名物女性。
4
十七階からの朝の見晴しはすばらしい。帝国ホテルではない。本庁の喫茶室エディンバラだ。正面左側の窓に面してテーブルがおかれ、皇居の緑と三宅坂へ向うゆるやかな坂道が見える。あれから三日たった。
大田警部は、朝三時にやっと仕事を終え、三時間、ホテルで仮眠しただけで、もう身装《みなり》をきちっと整えて坐っている。
八階でずっと三日間電話を待っていた岩崎管理官は、眠ったのだろうか。そのいつもの冷酷な無表情からは分らない。
いつも賑やかなマダムの伊奈さんが、
「徹夜あけでしょう。ご苦労さん」
と特別に自分で豆をひいたコーヒーを三つ持ってきた。岩崎の前には他に一係長の村松警視が坐っている。大田警部はまだ若い。正直いって、今日は一日眠ることを許されて自宅へ戻った乃木や峯岸が羨ましくないことはないが、そこは中間管理職の辛さだ。私は若いんだからと、自分にいいきかせる。三日間殆ど一睡もしていない作業は辛かったが、今朝三時に確実な証拠を発見した喜びですべてが吹っとんだ。
「大田警部にはご苦労だった」
珍しく岩崎が頭を下げた。そんなことをする人でないときかされているだけに、少し胸がジーンとしてきた。すぐ岩崎は元の冷酷な表情に戻って語り出した。
「昔から自供は最大の証拠という。現在は自供だけでは、公判を維持できないが、まず犯人の『恐れ入りました、私がやりました』の自供がなくては、公訴の提起も難しい」
そこで岩崎はコーヒーにミルクを注ぐ。そのまま砂糖を入れないで飲む。二人ともまねをする。
「昔の刑事訴訟法では、犯人の自供さえあれば、適切な証拠が揃わなくても有罪に持ち込めた。そこで戸塚七兵衛などという先輩が捜一にいて、今のうちの進藤の三倍もの凄さで犯人を脅しつけ、しめつける。戸塚さんにかかると恐怖のあまり小便をもらしながら、犯人は自供したものだ。しかし今はそれが通用しない。自供だけが唯一の証拠では、検事が起訴に踏みきらない」
そのへんのことは村松にはよく分る。他の係がやったことだからここでいっては気の毒だが、つい最近もそれで三人も送りながら、弁護士にひっくり返されて事件にならなかった大黒星を一ついただいている。
「特に最近、犯人がみな知恵がついてきた。否認し通して、弁護士さえよければ、すべて無罪になる、という考えがしみ透っている。勿論、絶対的な証拠が出てこないということを前提にしてだ。だから最近は、前科があって刑務所歴のある男と、もう一つ警察官という多少犯罪に詳しい人間が、もし殺人を犯しても、必ず死体を土の中に埋めてしまって徹底的に否認しつくす。幸い今度のことは死体が出てきたから或る程度までは死因が把《つか》めたが、それが却《かえ》って捜査を攪乱《かくらん》させる原因にもなった。ただし私が睨んだら、そんな手も通用しないということを、今日は二人にそばで見ていてもらう」
村松も大田も急に胸がわくわくしてきた。戸塚七兵衛以来の、落としの名人といわれる天才警視正のお手並みを、そばでゆっくり見せてもらえるのだ。昔と違う近代の新しい刑事訴訟法から逸脱しない落としだ。
「まあ、このごろは集団からの脱落者を防ぐため、庭に焼却炉を用意して、二人や三人は灰にして証拠を抹殺し鉄の団結を誇る所さえある。こちらもそれにふさわしく、有力な金取り専門弁護士や知能犯と戦わなくてはならない」
コーヒーを飲み、朝のサービスで、伊奈ママが持ってきてくれた、ゆで卵とトーストで少し腹ごしらえしてから岩崎管理官は、
「それでは、今日の仕事に入ろう」
と立ち上った。二人も続けて立ち上る。
十七階からエレベーターで六階へ降りる。村松はこれまで警視正が犯人を鋭い舌鋒でしめ上げて落とす現場には何度か立ち合ったことがあるが、捜一にきたばかりの大田警部は、初めての経験だ。考えるだけで胸がどきどきして制服の上からそっと胸を押えた。
六階で降りる。自分たちの捜一の大部屋は向って右側の廊下だが、そちらへ行かず左側の方へ入って行く。参考人や容疑者を呼んで、事情を聴く小部屋が並んでいる。
「昔は地下一階にあった。暗い廊下にベニヤ板で区切られた迷路のような曲りくねった道があり、自分たちの取調室へ入るまでに、みなもう蒼白になり膝がガクガクしてきたものだ。戸塚七兵衛先輩にしても、うちの進藤デカ長にしても大分それで先取得点を稼いだ。今はこんな明るい場所だ。そうは行かない」
エレベーターから出て左側だから、窓からは、喫茶店から見たのと同じ皇居の緑の森とゆるやかにカーヴする三宅坂の通りが見える。
「かなり心理的には楽だろうが、その代り一旦崩れると収拾がつかなくなる」
小さな部屋が幾つか並んでいる。右はじの一つをあけた。進藤と武藤がきびしい顔で一人の女の両側に坐って待っている。
「いやー、お待たせしました」
岩崎はそう静かにいい、反対側に坐る。その両脇に、大田と村松が坐る。今日は一切の発言を禁じられている。それだけでなく、終始無表情、無感動で通すことも命じられている。怒りにしろ、喜びにしろ、こちらの表情で感情を先読みされたら今のすれた犯人には負ける。二人ともまるで取調べに関心がない機械のような顔で坐っている。
「困りますわ、いくら警察でも。今日は議会があるのよ。私はスケジュールが一杯詰っているのよ。任意出頭だというから好意的に来てやったのに、入ってくるなり、両側に恐しい顔をした刑事さんがぴったり坐って、もう二十分も何一ついわないで待たせるなんて」
「参考までに申し上げておきますと……」
と岩崎は例の冷酷な表情で何の感情も交えず淡々と話しだした。親分を知る子分たちにとっては全身がゾクゾクしてくるほど嬉しい瞬間だ。
「……現在の警察署における慣例では、任意出頭とは、地下鉄で来るか、タクシーで来るかということだけが任意であって、出頭するかしないかまでが任意ではないのです」
「じゃ、出頭しないとしたら」
反抗的に女がいい返すのに、ぴしゃりと答えた。
「即時、出頭拒否で逮捕状に切り換ります。その場合はパトカーがお迎えに行き、手錠がかかります」
「何よ。何の証拠もないのに人権|蹂躙《じゆうりん》だわ。弁護士を呼ぶわ」
「それは結構ですが、今は参考人としてただ事情をきくのにお呼びしただけです。そうむきにならない方が話が早くすみます。たしか本日の区議会は午後一時から平成三年度の小学校補修予算関係諸費用の事前審議が、教育小委であるだけで、それまでは、あなたの公的行事は何もないはずです。私的の陳情までは、私どもは知り得る立場にありませんが」
相手が自分のスケジュールをすべて押えてあることまで知って態度が少し変った。
「どんなことが知りたいの。早くきいて」
「先日のお母さまの変死はまことにお気の毒でした。心からお悔み申し上げます」
丁重に岩崎は頭を下げる。
「そうよ。私は母を無残に殺された被害者なのよ。それをこんな風に呼びつけるなんて」
「ただ事情をおききしたいだけです。今、母といわれましたが、たしかご養女と伺っておりますが」
「そうよ。二十一のとき養女になったの。それから二十四年。養母と暮している方が長いのよ。実の母と同じよ」
「私どもの調べでもご養女としての入籍は、昭和四十一年の暮のこととなっています。お母様が※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東区にアパートを買って引越してこられてすぐと伺っています」
「そうよ」
「どうして亡くなったお母様、成藤イヨさんのご養女になられたのですか」
「そんなことどうでもいいことじゃない。私も忘れてしまったし、それに私にも黙秘権はあるわ」
「これは正式の取調べではないので、最初にそのことをお断りすることを忘れていました。あなたは、おっしゃりたくないことはいわなくてもいい権利があります。ただしそれを行使すると、いったことはすべて証拠となりますが、よろしいですか」
刑事訴訟法にはそんな条文はないが、このぐらいのハッタリは取調室では当り前とされている。さすがに女が口ごもっていると、続いて岩崎がいう。
「あと、二つだけおききします。次の都議選には、区議をやめてお立ちになるとききましたが」
「ええ、その予定よ。最後の目標は国会だわ。あなたのような横暴な司法官憲を、そのときは弾劾してやりますわ」
挑戦的にいう。岩崎は全然動じない。
「結構なことです。警察官が威張ると世の中すべて暗くなりますからな。ご当選を期待してます。ところで、この人をご存知ですか」
五十近いいかにも不動産業者らしい風貌の男の顔写真を出した。
「勿論ですわ。今までアパートのあった土地を、縁起が悪いのでサラ地にして、ビルを建て直すことにしたのよ。その仕事を一切任せてやってもらっている、デベロッパー不動産会社の社長の高森さんです」
「成藤一子さん。私のお伺いしたいのは」
と急に名前をいった。少し婦人が驚く。
「……あなたがまだ荒川美術大のセクトの学生、田中一子さんだったときのことです」
「そんな昔の時代。冗談じゃないわ。その人なんか全く知りもしなかったわ。私にとっては神代の歴史を探るようだわ。思い出も記憶もないわ」
すっと、岩崎は立ち上った。続いて村松も大田も立ち上る。
「そうですか。それだけきけば結構なのです。無作法な質問お許しください」
三人とも立ち上ったのを、坐ったままの成藤区議は不安そうに見上げていった。
「じゃ、私はこれでもう……」
「いえ、今のお話の確認作業がありますので、もう三十分だけお時間をください」
「横暴だわ、すぐ帰して」
と立ち上ろうとするのを、進藤と武藤が、両腕をしっかり握って押えた。
「何よ、いやらしい。放してよ。これはチカン行為だわ。セクハラ委員会に提訴するわ」
「一人、婦警がおそばにつきます。大田君は、ここに残って見張っていなさい。代りに進藤がついてきなさい」
進藤デカ長と、村松を連れて、岩崎管理官は部屋を出て行った。
廊下へ出てすぐ、一つおいた隣りの部屋へ入る。そこにはさっきの写真の男が仏頂面で坐っている。入ってくるとすぐに岩崎に噛みついた。
「君、君、失礼じゃないか。ただ参考人として意見をききたいというから好意的にやってきたら、両側にぴったり刑事をつきそわせて、何も説明せずに、三十分も待たせるなんて」
「いや、失礼しました。何分、捜一は殺人専門の刑事《デカ》さんばかりで愛想がよくないものですから、むしろ何もしゃべらせない方がいいと思いましてね。あなたがデベロッパー不動産の高森社長さんですね」
「そうだが。何の用があったんだね。忙しい身体なんだ。それにぼくの会社には自治大臣や国家公安委員長をやった……」
「ああ北海道九区の先生ですね。今、相談役として月に四十万円ずつ丸菱銀行を通じてお払いしている。よく存じております。先回の選挙の確定投票数十四万九千二百三十三票、四人中、三位の当選です。貴社の相談役就任が一昨年の九月十一日」
呆れて見守っている高森社長の前で、管理官は、相変らず全く感情のこもらない声で話しかける。
「……とまあ、我々の知ってることばかり申し上げても仕方がありません。二つばかりおききしたいことがあって来ていただきました」
「何だね」
「あのアパートのあった土地は、いくらでお買いになりました」
「そんなことまで君にいわなくてはならないのか」
「登記簿や事務所の家宅捜索をすればすぐ分ることですが、そこまでしたくないので」
「六億円だ」
「相場より二億円安いようですね」
「今すぐ現金で揃えてくれというもんでね。君ぃ、不動産なんて、相場通りに右から左に金が動くもんじゃないよ」
「分りました。もう一つおききします。この人をご存知ですか」
そういってさっきの婦人区議の写真を出した。
「当り前じゃないか。ぼくが土地を買った相手だ。成藤一子区議だ。君、何かぼくをペテンにかけようというのかね」
「いえ、私がききたいのは今の成藤さんのことではないのです。彼女が田中という若い可愛い学生で、あなたが法芝大学でセクトのリーダーとして第一次五里塚闘争で頑張っておられたときのことです」
「ぼくがセクトのリーダーで、五里塚闘争だって。冗談いっちゃいかんよ。ぼくは学生時代から、ずっと日の丸に君が代のパリパリの民族主義者だよ。軍人勅諭だって暗誦できる。田中なんて学生は知らないね」
「たしかにそうですね」
もう一度念を押してからまた立ち上った。今度は彼を連れて、先ほどの女性区議を待たせている部屋に戻る。近藤鑑識官が既に来ていて、部屋の窓のカーテンを下し、暗くしている。
二人の中年の男女は並んで坐らされ、反抗的にムーッとしている。
机の上におかれたプロジェクターのスイッチが入れられると、正面の白い壁にスライドの画面が映った。
大勢の男女が、機動隊ともみ合っている。
その群衆場面の一部が極端に拡大された。『闘争』の鉢巻をしめた男と女が、腕を組んで頑張っている。二人の顔が更に大写しになる。二十代の顔と四十代の顔とは違うといってもよく分る。坐っている中年の二人の口から軽い声が出る。
続いて焚火の場面だ。手前の全裸で踊っている女の子は外して、その背後にしゃがんで手を打って唱っている何組かの男女の中の二人がまた大写しになった。今度の方がもっとよく、二人の若いときと分った。
さり気なく無表情な岩崎の声がする。
「写真の二人が、今と昔のそれぞれと同一人物であることはコンピュータが証明してくれました。多分先祖伝来の土地と引き換えにした※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東のアパートと土地を売るのを、イヨ婆さんは最後まで反対したのでしょう。私は知りたいのです。死因は何も手がかからない飢え死にです。注射の痕があったので、何日かは眠らせたのでしょう。これは司法解剖で出ています。高森さんが仕事上所有しているあき室が今、都内に十二カ所あります。そのどこに、何日眠らせてとじこめておいたのか、そこへ連れて行って寝かせたのが誰か、もしご自分でおっしゃるつもりがあるなら、アリバイとか何とかいわずに素直にお認めになった方が、万一にも絞首台にぶら下る確率はなくなりますし、無期が七年ぐらいになったりして、ずっとお得と思いますが」
暗闇の中で二人の首は同時にがっくりと垂れ、女はすすり泣きを始めてしまった。
[#改ページ]
[#見出し] U 羽後の盆唄
[#小見出し] 西《ニシ》馬音《モ》内《ナイ》踊り
※[#歌記号、unicode303d]今年の踊り子 揃いも揃うた
ほんとによく揃うた
手つき足つき 品よく踊れば
嫁こに世話するぞ
この踊りの起源は、鎌倉時代に、源親上人が念仏講の集りのため作ったのだといわれる。
一般には村の豊作踊りだといい伝えられているが、それは近世の伝承で、本来は鎮魂慰霊の踊りで、振りは、極度に荘重幽玄だ。
城主小野寺茂通の一族が、最上義光の軍に攻められ、城で潰滅し、何百人もの人々が女も子供も交えて全滅した。その慰霊のため寺の境内に篝火《かがりび》を焚いて念仏に合せて踊ったのが始まりである。
1
四月の四週目の週末は、日本中どこのサラリーマンでも、心わくわくだったろう。どんなお堅い会社の人でも平静でない。みどりの日から始まって、次の月の七日の月曜日までの正味九日間の中に六日も休日が入ってしまう、文字通りのゴールデンウイークだ。いっそのことと土曜日から丸九日間の連休をくれる所さえある。
警視庁でも一般の事務職の中には、六日フルに休める者もいないことはないが、警備畑の中には、ふだんより却って忙しくなる係もある。
捜一でもできるだけお互いにやりくりして、四日ぐらいは続けて休もうと、二係長の大田警部と乃木刑事とが顔をつき合せるようにして、二十八日土曜日の朝、休日中の出勤日の割り振り表を作っていた。ただそんなもの幾ら作っても、いったん事件が起ってしまえば、その場でパー。全員ができ得る限り早く本庁か現場に集ることになっている。そのために、もし県外に出る者があったら、あらかじめ、日時と行く先を表にして提出し許可を得ておかなくてはならない。その計画表の一つをみて乃木はふくれっ面でいった。
「何よ、これ」
花輪陣内刑事は、二十九日から二日までの四日間の休みをもらって、代りに三日から出勤するという届けを出している。それはいい。四日も続けて休めるなんて、鬼の捜一では、何年に一度も考えられないことだ。行く先は秋田県湯沢市になっている。出身は北秋田郡の花輪町だから、少し違うが、届けが合法だから、そこまで問い質《ただ》す筋合はない。新潟の湯沢なら知っているが秋田に湯沢があるなんて知らなかった。が、それもいい。ただ一つ理由が気に喰わない。
『美しき秋田おばこと見合いのため』
まるで乃木にあてつけるような言いぐさだ。
ここ二、三年、乃木は花輪とかなり親しく、二度も三浦海岸へ泳ぎに行ってビキニ姿まで見せてやったことがある。一時は乃木の心に、この男と結婚しようかなという考えが浮んだこともあった。しかし自宅で夜一人になって冷静に考えてみると、どうしても彼とはしっくり来ない。本当に好きな人は、今まで一度も口に出したことはないし、しかも一生語らずに死んで行くつもりだが、岩崎警視正だ。まるで反対の極にいるような、もっさりした風貌に東北弁の訛りが抜けない花輪刑事は、岩崎の親分が先輩のみずえ警部補と結婚したとき、がっかりした乃木がつい反動的に付き合ってみただけだ。新宿高校出身の、生ッ粋の都会ッ子である彼女は、とても彼と一生暮すことは、できそうもないと気がつき、丁度一係長に、まるで岩崎のコピーとしか思われない、東大出のエリート組で銀縁近眼鏡をかけた頭の鋭そうな高橋警視が赴任してきたのを幸い、花輪を冷たく振ってさっさと高橋係長と結婚してしまった。
まだ新婚半年目だ。その意味では、花輪刑事が見合いしようと結婚しようと、文句をいうべき筋合は何もない。むしろ心から祝福してやらなくてはいけないのだが、『美しき秋田おばこ云々《うんぬん》』の文句が余計だ。警察官の公文書に、文学的表現は不要だ。よっぽど書類不備で突っ返してやろうと思ったが、辛うじて我慢した。
その作業は、二係のデスクの上席、大田警部の所で、二人の元高校の同級生が額を突き合せるようにしてやっているのだが、同じ二係のデスクの末席では、他のことで峯岸が少し胸を痛めていた。
朝八時半の始業のベルが鳴り終ると同時に、峯岸お稽古は湯沸かし場に行き、大薬缶に必殺の気合をこめて、番茶を淹れる。このごろは、岩崎警視正を始め、一係、二係の二十余名の猛者刑事《モサデカ》全員の茶碗に、きれいな茶柱がまっすぐ一本立つ。自分でもその神業のような腕にやや自負するものがあったのだが、今朝に限りうまくいかなかった。肝腎な第一番の岩崎管理官殿の茶碗の中に、不揃いな茶柱が二本浮んでしまった。しかもその内の一つは、まるで磁石の針のように、水面に平らに寝て北を指したのだ。
いけないと思っても、指を入れてつまみ出すわけにはいかない。せめて気がつかないでのんでくれるといいと心の中で祈って、そのデスクを離れて、村松一係長の茶碗に注ぎながら、そっと管理官のデスクを見ると、岩崎が茶碗の表面を見ている。
しまった!
気にしないようでいて、これだけは気にする人だ。胸が急に高鳴り出した。
しかしその後、何もいわない。お稽古にとっては、明日からの楽しいゴールデンウイークの計画どころではなくなった。
もっとも、故郷へは帰らず、女子独身寮にいてひたすら昼寝してすごそうと考えている彼女にとっては、別にゴールデンでもシルバーでもどうでもいいのだが。
三十分ほどたった九時ごろだった。峯岸のすぐ上のデスクの電話が鳴り、彼女がとって、
「はい、捜一、二係」
というと、交換手が、
「花輪刑事さんにお電話です」
という。お稽古はすぐに花輪に渡した。
「ンだかや、へば何とする」
いきなり素っ頓狂な声で、およそ、これが日本語とはとても思えない言葉がした。上席の乃木は、まるで犯罪者を追い詰めるときに見せるような鋭い目で、花輪刑事を睨みつける。
みなに否応なく彼の言葉がきこえるが、それから先はもう、彼が何をいってるのか、分る者はいなくて、ただ、呆れて、この不思議な言葉をしゃべる男をみている。
だが岩崎管理官だけは、彼の言葉がそのまま分るらしく、初めニヤニヤきいていたが、花輪が真赤に昂奮して返事をしているうちにだんだんひきしまって鋭い顔になってきた。
そのうち岩崎の机の電話も鳴った。
いつもは端末を受け持っている乃木がすばやくとるのだが、彼女は大田係長のデスクで作業中だ。峯岸がとろうとするのを、
「お稽古いいよ。私がとる」
と岩崎自身がさっととった。こういうときは必ずもうどこかで殺人事件が発生しているのだ。岩崎は、電話の声がまだ線の中を通り抜けて受話器に出てくる前の何十分の一秒かの先に、事件に気づいてしまう能力を持っている。
難しい顔をしてきいていたが、しばらくして、
「その医者に代ってくれないか」
といった。先方の電話の相手が代ったらしい。二人が同時に話をする形になったので、花輪も遠慮して声を小さくした。
岩崎は、
「ああ、その殺し屋のケガを目下|診《み》ているお医者さんですね。足を射たれて、動けないでいる。丁度都合がいい。その患部を思いきりひっぱたいてください。これからいうことをちょっとメモしてください。そのとき、思わずタンといったら香港か中国、サキットといったらマライかシンガポール、プタンといったらタイ、マサキットとうなったらヒリッピンです。日本へ入ってる近隣諸国人は大体この四つで区別がつきます。それ以外ならよくきいてここでその通りの声をくり返してください。電話はこのままで待ってます」
といった。その間に花輪の電話が終った。花輪は何か岩崎に話しかけたいようだったが、岩崎が送話口を押えて花輪の方を向き、
「今、同じ事件が別な方向から入ってきた。少し待ってくれ」
と制した。続いて先方から岩崎に答えが入ったようだ。
「えっ、何……、それは珍しい。分った。やっぱり行くことにする。赤ん坊でも大人でも殺人の罪にかわりはない」
電話をおくと、花輪にいった。
「見事なものだ、花輪。今のは北秋田の山言葉だな。昔、日本の陸軍で使ったそうだ。電話の盗聴を防ぐことができないときや、無電で送るのに暗号に直すことができないときに、北秋田の鹿角や阿仁合から召集で引っ張ってきた兵士を通話の両方において、彼らの言葉に直して通信させた。最近では、樺太にいる残留日本人と、北海道に潜伏しているソ連へのレポ役の電話連絡に、その言葉が使われるときいている。ただ一つだけ分らないことがあった。花輪の故郷はたしか北秋田の花輪町だな。しかし私への電話は、ケガ人を収容している南秋田の湯沢の病院からかかってきた。もっともケガ人といっても冷酷な殺し屋だ。だから患部をひっぱたかせて、国籍を判定させたのだがね」
「ああ、それは何でもないす。今のは姉です。話がせきこむと、故郷の訛り出てしまうだす。姉は湯沢の病院長のとこさ嫁に行ってるす」
岩崎はうなずいた。
「そうか。そんな簡単なことだったのか。ところで、花輪、あのあたりの桜はいつが見ごろだ」
「丁度、五月の一日が、毎年桜の盛りだす」
「連休はどこへ行っても人ばかりだ。この事件はとても県警の手におえない。応援を頼んできた。花輪と二人で少しおそい花見でもするか」
「ハッ、もし行っていただけるならありがたいことだすが。赤ん坊いたましくてなんねす」
花輪は感激のあまり、顔を真赤にして直立不動の姿勢をとっている。乃木のただでさえ大きい目がますます丸く見開かれた。
とんでもない。いくら連休で何もすることが決ってないといっても、男どうしで秋田まで花見などもっての外だ。エイズにかかったって知らないからと、一瞬、花輪を、ショルダーに入っている婦人警官用のコルトを抜き出して射殺してやろうと思ったぐらい憎んだ。
だが岩崎がいった。
「捜査に女がからむようだ。我々だけではできないこともある。大田警部と峯岸の予定は」
二人とも独身だし、まだ特定のボーイフレンドはいない。同時に、
「何もありません」「私もです」
と答えた。
「乃木、すぐその休日予定表を書き直して、二十九日から二日までの最初の四日間を、私と花輪と、大田係長とお稽古の四人に回してくれ」
乃木の内心の怒りは、まさに爆発直前の原子爆弾のように、ふくれ上った。
花輪が、『美しき秋田おばこと見合いのため』などという、警察官にあるまじき軟弱な文書を出したのがそもそもの発端だ。たしかに去年、乃木は花輪を思いきりよく振って高橋警視と結婚した。しかしそれとこれとは別だ。全く公私混同も甚だしい。殺人事件が起ったらしいのに、いつも必ず連れて行く自分をメンバーから外したのがなお気に入らない。こんな日程表、誰が作ってやるもんか。
金目鯛のようなまん丸い目から、今にもじわっと涙があふれ出そうになった。
岩崎は相変らず無表情でいう。
「もっとも、他の二人の女刑事さんが休みを返上して捜査で出ていくのに、乃木一人がぼんやりしているわけにもいくまい。進藤デカ長と組んで、場合によっては、我が班の全員を引き連れて、危険な捕り物をやってもらわなくてはならない。殺し屋は三人いたそうだ。そのうち二人はもう逃げて行方が分らなくなっているというから、これは間違いなく東京に戻っている。外国人が、誰にも目立たぬように暮せるのは、東京かその近郊しかないからな。ところで乃木は英検二級だったな」
「はい、キック、もとい大田警部殿ほど上手にはできませんが」
とたんにいつもの痛烈な言葉が返ってきた。
「私はそんなことはきいとらん。多分相手の英語もひどいもんだろう。だから大田が行くよりは乃木が行った方が役にたつ」
褒められているのか、けなされているのか。
「乃木はニャンマーという国を知ってるか」
「え?……」
としばらく考えてやっと思い出した。
「……はい。昔のバルマ国のことです」
「そうだ。去年の六月十九日に国名が変更になった。他の広東系の香港人、タイやヒリッピン、インドネシヤ人なら行きつけの店も多くて大変だ。だがニャンマーの料理屋は東京には多くない」
岩崎警視正の異常な記憶力については、これまでそばで何度も見聞きしていて、よく知っている。電話帳をざっと開いてページをめくっていくだけで片っぱしからページ全体の番号がすべて頭の中に入ってしまう人だ。
警視正は確信をもっていう。
「その中でも、東京在住のニャンマー人が自然に集って酒を飲む店は、二軒しかない。一つは赤坂の裏通り。やや高級だ。大使館員が行く。もう一つは、練馬から板橋へ向う国道沿いだ。ヤマカンだが間違いなく二人はそこへ行く。いつか民族料理の店の欄を見て電話番号を頭に入れてある」
と九で始まる局番をいった。親分と頭の構造が違うから、すぐ手帖にメモする。
「私たちは十一時の飛行機で発つ。十一時四十分には山形空港へ着く。そこから秋田県の湯沢市まで車で二時間。切符はもう満席だろうが、それは殺人事件の捜査だから、特別に四人分取らせる。乃木が心配することはない。五時に現地から、ここへ電話を入れる。刑事《デカ》さんたちは、土曜でさまざまの用はあろうが、今日か明日で事件の方は片付くはずだ。それまで全員に待機してもらう。乃木と進藤の二人で店の場所を調べておく。今日は夕方には開店になると思うから、そこへ行ってくれ。店へ入る前に、湯沢の病院へ電話を入れてくれ」
進藤は、一係と二係との刑事の中では実質上のリーダーである。度胸もあるがピストルもうまい。
他の者も、これは久しぶりに手強《てごわ》い捕り物になることを予想した。
「村松一係長と吉田さんは、全員に実弾をこめた拳銃を持たせて、ここで待機していてくれ。一発も射たないで兇悪な殺し屋を逮捕するのには、抵抗してもとても無駄だと思わせるほどの火力で向うより他はない。すぐ準備にかかりなさい」
いったん、岩崎警視正の頭の中のコンピュータが動き出すと、目まぐるしい早さで回転して行く。その代り係の刑事《デカ》さんたちは、自分で何も考えず、ただ夢中になってその指示に従い間に合うようにすればいい。
「大田警部とお稽古には、今日は時間を七分やる。三、四日の旅行になるが、向うで何もかも買えるから、下着のことは考えないでいい。ただ着替えを終えたら、家か友人に、出かけることだけは電話を入れておけ。では七分後に正面玄関で待つ」
もう質問も何もない。お稽古は勿論、一カ月近くの捜一暮しですっかり、この岩崎流の出動方式に馴れた大田係長も、一緒になって更衣室へ駆け出した。
男の同行者は花輪刑事一人だし、七分間というのは、自動車係に交渉するのには充分な時間だ。女二人が七分後には通勤のスーツに、手錠、拳銃、捕縄で、ずっしり重いショルダーを、一見軽そうに下げて正面玄関に出てきたとき、そこには回転灯を回したパトカーが待っていた。
いつもは、通りかかったタクシーを停めて、すぐ出て行く岩崎班の出動ではこれは珍しい。
四人が乗りこむ。パトカーは回転灯を回して走り出し、すぐ近くの霞ヶ関インターから高速道路へ入った。岩崎がみなにいった。
「もう羽田への渋滞は始まっている。これはレジャーではない。花輪がかねて、休日にと計画していたおばこ娘との見合いでもない。何の罪もない幼児がピストルで射殺された。父親は大ケガした。この殺人事件を手際よく片付けておかないと、今後、NIES諸国から入ってくる人間の犯罪に対して、歯止めがきかなくなる。香港やバンコックの馴れ合いの警察と違って、日本ではどんな犯罪も、決して成功しないことを教えてやるのだ」
高速道路へ入ると、たしかに岩崎のいった通りだった。もうレジャーへ行く車の渋滞は始まっていた。パトカーでサイレンを鳴らして突っ切らなくては、いつ羽田空港へ入れるか、見当もつかないところだった。
[#小見出し] 西《ニシ》馬音《モ》内《ナイ》踊り
※[#歌記号、unicode303d]西馬音内女ごはどごさえたたて
目に立つはずだんす
手つき見てたんせ 足つき見てたんせ
腰つき見てたんせ
かつて、宇崎竜童さんという歌手が唱った、『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』という歌がそうであったが、全くメロディのない、語りだけの歌というものがある。
この西馬音内踊りの伴奏に使われる西馬音内盆唄も、メロディがない。語りを、地口を交え、太鼓に合せて、面白おかしく、くどくだけである。秋田県には、これと同じメロディのない音頭が、他にも、秋田音頭、仙北音頭、とる音頭、と三つばかりある。メロディはないが、その分拍子の取り方が難しく、訛りも必要なので、外から来た人には習得が難しいとされている。
2
空港には、はっきりそれと分るように制服の警官が立っていて、自分の方へやってくる男女の四人連れを見るとすぐ敬礼した。
花輪以外は一眼で刑事と見える者は居らず、まるで丁度桜の盛りを見に来た客のようだが、しかし東京の本庁の鬼も哭《な》くという捜一の中でも、最も腕っこきが来るという通知が入っている。制服の後方にいた中年の刑事が、
「羽後湯沢署の捜査をやっています」
と、丁重に挨拶して名刺を出した。
「本庁の捜一、岩崎だ」
相変らず無表情、冷酷に答える。それでもそんな人ときいているのだろう。すぐに駐車場へ先にたつ。女たちも、指定のショルダー以外は何の荷物もない。幾らかでも警察の仕事をしたことのある人なら、そのショルダーを見ただけで、東京から女刑事がやってきたと分るだろうが、まあ、そんな人はいない。アンノン族か、クロワッサンか、もうじきおじんギャルといわれそうな都会の娘が、春の流行のドレスで、一月《ひとつき》おくれの花見にやってきたのかと思う。
黒い乗用車が、県境の雄勝峠を越える国道十三号線を走り出した。岩崎がすぐ私服の捜査主任にきいた。
「電話だけではまだよく分らないところがある。向うへ着くまでに、事件の概要を教えてくれませんか」
「ンだす。今、両方とも湯沢の東海林病院に収容して居りますで、この車は病院に向います」
とまずいってから、その捜査主任は、重い口で訥々《とつとつ》と事件について語り出した。
……それによると……
このあたりの町も、嫁不足が深刻で、今はタイやヒリッピンから、斡旋《あつせん》業者を通じ平均二百万円ぐらいの結納金を払って、嫁ッ子世話してもらうのが多い。村の子供は男女同数ぐらい毎年生れるのだが、男はどうしても家の田畑をつぐために残らなくてはならないのに、女は一度、東京へ出ていったら戻らない。
それはさておき、湯沢から更に車で二十分ほど行った所に西馬音内町という、盆踊りの名所の町がある。その町から更に入った山間の幾つかの村落の中の一つのかなりの農家の息子に、一昨年やっと嫁が来た。何でもヒリッピンのマニラの娘とのことだ。業者にはかなりの金を払ったらしいが、身請《みうけ》金(と古風な言い方をして)は不明である。だがとってもよくできた嫁で、田圃《たんぼ》仕事もいやがらずやり、むしろ村で育った女子《おなご》より上手だった。きっと故国でも田圃をやっていた所の娘だろう。二人の間に男の赤ん坊も生れて、農家では跡つぎもできたと大喜びだ。
勿論その農家では、この滅多にない気立てのいい、きれいな嫁さんを大事にして、家には電子レンジ、三十七インチの大型テレビ、カラオケ、故国へいつでも長距離電話で消息を送れるよう、国際間も通用するファクシミリもおいた。役場や学校でもときどき借りに来るほどだ。
そのファックスに或る日、変な通信が突然入った。今、証拠品として署で領置してあるが、0と6とを数珠でつなぎ合せたような、誰もまだ一度も見たことのない文宇だった。
周りの人の証言によると、その通信が入ってから急に元気がなくなって、いつも何かに脅えるようになった。
それで主人が心配した。丁度、農閑期だ。みんなの間に交わって何か気をまぎらわすことでもあるといいと思って、西馬音内町役場がサークル活動の一つとしてやっている、盆踊りの講習会に参加させることにした。もともとそのヒリッピン女性は、歌とか踊りが大好きな陽気な女性だった。すぐに喜んで参加した。
町でも、毎年八月の十六日から行われる盆踊りに、正しく昔風の足さばきで踊れる人が少なくなってきた。といってお婆さん中心に踊らせたのでは観光の目玉にならない。踊りは若い娘に限る。彼女はマリヤさんというのだが、スタイルもよくて浴衣もよく似合う。その参加はありがたい。
そうして、週に何回か、役場の隣りにある文化会館へやってくるようになった。
事件はその帰りに起った。踊りが終って車で村へ帰る途中、三人組の男の車に体当りされ、一人の男が出てきて、運転席に並んで乗っている夫婦と赤ん坊の三人に向ってピストルを射ちこんできた。その中の一発が主人の肩に当った。次に、女を狙った弾丸が抱いていた赤ん坊に当り、ベビー服が血まみれになった。主人の肩からもどっと血が噴き出す。前のガラスが砕ける。ところが、マリヤはいつのまに用意してあったのか、自分のハンドバッグに入れてあったピストルで、自分を狙っていた男を射った。殺し屋の男は太腿と膝に二発当って地面にひっくり返る。その男をおいて、残りの二名を乗せた犯人の車は、猛スピードで逃げ去った。
主人は肩の傷を押えながら車のハンドルを病院の方に回す。赤ん坊は即死だが、主人は貫通銃創で傷はそれほど重くない。傷ついた犯人も、他の人の車で連れてこられ、同じ病院で院長の東海林博士が弾丸を抜き出した。まだ当分は病院を出られないだろう。
……そう話してから……
捜査主任はいった。
「こんなことは田舎の村では、百年に一回も考えられないことだす。すぐ秋田市から県警本部にきてもらって、取調べを助けてもらいました。秋田は東北では一番の文化県の自負を持っとるす。県警には相当に英語の使えるのがおりますし、念のため中国語の上手なのもやってきましたが、両方ともまるで通じませんでした。それで、東京には何カ国語でもこなす天才捜査官がいるというので、応援をお頼みした次第であります」
「事情はよく分った。今の領置品の書類の字体の話で、私にはここではヒリッピンだと称している女の本当の国籍への推理が当っていることが確信できた。病院へ着いたら使いを出して、その書類を持ってきてください。読んでみて、もし私の推測が当っているとしたら、女の方の訊問は大田警部にやってもらうかもしれない」
「私が……」
大田蹴鞠子警部は驚いてきき返した。
「……私は英語しかしゃべれませんが」
「もし私の先読みが当っていたとしたら、彼女は本当はキングズ・イングリッシュもしゃべれるはずだ。一般にはロンドンのキングズ・イングリッシュとアメリカ人の話す英語とは同じものだと考えられているが、間に字を書かないで耳と耳とだけで会話を交したら、まず絶対に通じるものではない」
「ンだすか」
捜査主任は一度首をかしげてから、更にやや不思議そうな顔で、後ろの席の女性を見た。
「ンで、この方は警部殿ですか」
「そうだ、今一人は捜一選り抜きの女刑事だ」
「あんれまあ、こんなおぼこい顔して」
そうつくづく感心したようにいった。
町へ車が入った。中央の大通りに面して、町一番の大きな東海林病院があった。玄関の入口にパトカーが停り、制服の警官が二人で出入りの人をチェックしている。私服の刑事《デカ》さんたちも、慌ただしく出入りしている。
車が停り全員が降りると、中から院長夫妻が出てきた。六十ぐらいの温厚な顔の院長と、夫よりかなり若い、典型的な秋田美人がそのまま中年になった感じの夫人が出てきて、花輪を見つけると、
「まあ、陣内よく来てくれたね」
とわりと訛らずにいって抱きしめた。花輪刑事は少しテレながら、みなに紹介した。
「姉です」
間もなく二人の間に早口のおしゃべりが始まった。こうなったら、東京から来た女二人には全く通じない。土地の人には分るらしくうなずいたり、返事をしたりする。
最初に一行は三階の病室に通された。明るい病室だ。人の好さそうな三十代の男が、肩から胸に包帯をかけた姿で寝かされている。枕もとには、若い女性が心配そうな顔でつきそっている。少し地肌が黒く、明らかに日本人とは違う人種の特徴を示しているが、しかしなかなか品の好い顔だちの美貌であった。これで田圃仕事も上手な働き者で、難しい盆踊りもこなすというのなら、もう日本人の娘はいらないといいたいぐらいだ。
岩崎が女の前にある椅子に坐った。何人か入ってきた、明らかに日本の警察と分る一行を、女は脅えたような目で見る。岩崎の口から、これまで誰もきいたことのない、奇妙な発音の言葉が出た。
「坊やはお気の毒なことをしました。同情します。ただあなたは、何も心配することはないのです。多分、あなた自身が身柄を拘束されたり、亡くなった坊やを霊安室においたまま、ここから連れて行かれることはないでしょう」
女の顔色が変った。それはその女が、日本人では誰一人しゃべることがないと思いこんでいた自分の祖国の言葉を今、目の前で鮮やかにしゃべる男を見たからだ。信じられないというようにしばらく頭を振っていたが、やがてせきを切ったように何かしゃべり出した。涙を流し、目の前にいる岩崎にしがみつく。涙が岩崎のスーツにかかる。お稽古は少しハラハラして見ている。乃木がいなくてよかった。いたらまたカッカするだろう。
「貴女がピストルを射って相手を傷つけたことに対しては、日本でも当然正当防衛は成立する。刑法は国は変っても根本は大して違わない。ただ一般人が拳銃を所待することは、日本では認められていないから、これの申し開きだけ上手に考えておきなさい」
そこへ地元の刑事の一人が、領置品のファックス通信を警察から取って持ってきた。0と6の字が知恵の輪のようにつながっている、まるで見たことのない文字だ。
岩崎は女への質問を中止して、それを読み出す。それからいった。
「つまり、貴女のいとこか、叔母さんか分らないが」
女は誰にも分らぬニャンマー語で答えた。
「母違いの姉です」
「つまりその人が、ズー・ヂー女史ですね」
「はい」
「五月の二十七日に全ニャンマー人民が、今までのソウ・マニン軍事政権がいいか、イギリスから帰ってきたイギリス人を夫に持つ野党指導者の若いズー・ヂー女史の政府を選ぶかの、総選挙が行われる。今のところ国民は、三十年続いた軍事政権にあきあきしているから、若く美しい貴女の姉さんのところへ政権が行きそうだ。ところで貴女がなぜ、ヒリッピンのマニラから民間斡旋業者の助けで日本へやってきたか、そして生命まで狙われたのか、それを後で、ここにいる女性に話してください」
女は不思議そうな顔で、岩崎に聞き返す。
「その人もニャンマー語を話すのですか」
「いや、ニャンマー語は分らない。ただ、正確なキングズ・イングリッシュを話す。ロンドンの人以外分らない特殊な英語だ。ニャンマーの指導階級なら、戦前まではイギリス領の国だったのだから、みな話せるのでしょう」
「はい。幼いとき母に教わっただけなので大分忘れましたが、話していると思い出せるでしょう。きくだけなら、ここへ来てもずっと短波ラジオをきいていましたから」
ここまではニャンマー語だから、同行の人にも岩崎と女が何を話したのかは分らない。
そこから日本語に戻った。
「大田警部、後は君に任せる。できるだけ、格調高くしゃべってくれ。津田英語大学のオールドミスのお婆さん先生の発音を思い出して。五分間もやっているうちにお互いに通じるようになってくる。我々はもう一人、きびしい訊問がある」
大田警部だけ残して、みなは廊下に出る。院長に岩崎はきいた。
「殺し屋の男はどこですか」
「地下の霊安室の隣りの部屋に入れておきました。窓からとび出されたりしたら困りますから」
地元の捜査主任が岩崎に報告した。
「表に二人、張り番を立たせています。窓のない部屋ですし、今のところ足に二発喰らっていますので、自力では逃げ出せないはずです」
うなずいて、岩崎は院長と一緒にエレベーターで下りて行く。地下の廊下の突当りの部屋には、生れてまだ二年もたっていないのに可哀相に殺されてしまった幼児が、司法解剖を待つ間眠っている。その隣りも、やはり同じようなことに使っている部屋なのだろう。
しーんとした暗い部屋に、片手を手錠でベッドの枠につながれた、四十ぐらいの目付きの悪い男が横になっていた。
片足はむき出しになって、腿と膝に包帯が捲きつけてある。
入ってその男を一目見た岩崎はいった。
「軍人だな。額のあたりの皮膚の痕で分る。年ごろからみて、憲兵の中佐か。相当にごっついな。叩いてもぶっ殺そうとしてもまず普通じゃ吐かんだろ。もっともニャンマー語を分る者がいないから、ただノーといってればすむと、多少、たかをくくってるところもあるがね。お稽古、拳銃を出せ」
峯岸婦警はショルダーから婦人用コルトを出した。男は片手を、ベッドの枠、片足を副木で固定されて、殆ど身動きができない。憎悪の眼で、岩崎を見る。岩崎はお稽古からピストルを受けとると、その安全装置を外し、弾倉の中の弾丸を調べてもう一度はめ直すと一発を薬室へ送った。コルトの七発入り自動銃だから、抽《ひ》き鉄《がね》を絞りこむと、瞬時に七発が出る。男の髪の毛をぐいと把んで首を上に向けると、耳の穴の中に銃口の先を突っこんだ。たとえ22口径の細い弾丸でも、頭蓋骨の中に七発一度にとびこんだら、脳はぐちゃぐちゃに破壊されてしまう。男は岩崎の方を見た。表面は普通の温厚な日本人の顔をして、えらい乱暴な奴だなと敵意をこめて睨み返そうとして、そこに、思いもかけなかったニャンマー語をきき、しかも氷のような感情のない目にぶつかって、俄かに恐怖にかられたようだ。岩崎はきびしくたたみかける。
「国民選挙は五月二十七日だな。それまでに、ズー・ヂー女史が自発的に立候補を取り下げるようにすれば生命は助けるという本国からの警告のため、妹を殺しておきたかったのだな」
男は、つながれている手錠がベッドの金枠にふれて音をたてるほど震え出した。
「日本人に対しての殺人は、おまえたち同士が殺《や》り合うよりは重いようだ。|赤ん坊《ベービー》はもう日本人だ。どうしてもロープに吊されたくなかったら、ここで少し情状をよくしておいた方がいい。あんたも憲兵か秘密警察なら私のいってることが分るだろう」
もう一度、コルトの銃口を耳の孔にぐいぐいと押しこむ。所轄、羽後湯沢署の捜査係刑事は本庁捜一流の荒っぽいやり方に、ただびっくりして見ているだけだ。
「何も知らない」
男は呻《うめ》くようにいった。
「それは私には通用しないよ。ただ沢山のことはきかない。二人が車で逃げた。いずれおまえも、どこかで逃げる。二人が今晩東京に行って故国へ報告し、ついでに一杯飲む店が、赤坂のヤンゴンか、板橋のイラワジか、どちらかさえいってくれればいいよ。いわなきゃ、抽き鉄がひかれるだけだよ」
しばらく信じられないようにして岩崎を見ていたそのニャンマー国の殺し屋は、やがてがくっと頭を垂れると小さな声で、
「イラワジだ。今晩八時に二人は行く」
といった。
ピストルを耳から抜くと岩崎がいった。
「お稽古。すぐに電話のある所へ行って、本庁の進藤か乃木につなげ。私が出るが、全員に拳銃を持って出動と決ったと先にいっておけ」
そういって電話をさせに峯岸刑事を廊下に出し、その後を院長や花輪と一緒に岩崎は歩いていった。
[#小見出し] 西《ニシ》馬音《モ》内《ナイ》踊り
※[#歌記号、unicode303d]見ればみるほど 優しい踊りで
拍子もおだやかに
天下は太平 豊作万作
百姓大あたり
現在、町の形は昔とすっかり変ったが、それでも八月十六日から十八日までの三日間は大通りをあけて十数カ所に篝火《かがりび》を焚き、全町内の人が出て踊る。
非常にしなやかな美しい踊りだが、それだけに他所《よそ》から来た人は殆ど踊れないぐらい難しい。東京から、季節になると盆踊り愛好者のサークルが、バスをつらねてやってきて、地元の人と交って踊るが、やはり全く違うそうだ。
習うのには、まず足から先にゆっくり覚えて行くようにする。しかし今は地元でも若い人たちの中に踊れない人が多くなってきた。踊れるのは、両親が踊り好きで子供のときから、しっかり教わった人だけだそうだ。
3
「私たちは、本庁にいるときも、これまで難しい事件になると、帝国ホテルへ本部を移してそこで手配をしてきました」
岩崎たち一行は湯沢町の代表的なホテル・ロイヤリーの四階のスイートと四部屋を借り切った。地元羽後湯沢署の捜査主任が、警察署と、婦人刑事のためには、近くの職員の舎宅で世話をさせるからと申し出たが、ホテルの方が便利だからと、引揚げてやってきたのである。
既に午後四時、東京では電話を待って、進藤デカ長や乃木がじりじりしているころだろう。
スイートに、臨時にテーブルや椅子を入れてもらい、東京から来た四人と地元の捜査主任以下四人の刑事、それに検視官の代理として、警察の嘱託医もやっている東海林病院の院長も同席してもらった。
給仕にコーヒーを運ばせると扉をぴったりしめて、捜査会議が始まった。岩崎がいう。
「大田警部。君がまずこれまでマリヤさんから聞いたことをみなに伝えなさい。すぐ東京へ捜査の手配をしなくてはならないから、手短かに分り易く」
「はい」
大田は残された外人妻から正統《キングズ》イングリッシュで聴取した事情を語り出した。
「マリヤというのはヒリッピンに逃げて、花嫁斡旋業者に登録したときの名前で、本当の名はマミンさんというのです。今度、野党の党首として五月二十七日の選挙に出るズー・ヂー女史の妹ですが、母は違うそうです。ヂー姉さんが、イギリスからご主人を連れて帰ってきたときは一家の誇りと思ったけれど今は恨んでます。何しろ、その後マミンの母は自動車事故にみせかけて殺され、二人の弟のうち一人は投獄されて死亡し、一人はカチン山の奥に逃げてゲリラになって行方不明なのです。だいぶ前に亡くなったマミンさんの父という人は、昔、大臣をやったことのある政治家だそうです。ヂー姉さんが自発的に立候補をとりやめない限り、現政権のソン議長は、身内の者から抹殺して行くと通告してきたのです。首都に残っているヂー女史の身内はマミンさんひとりです。それで慌ててまずヒリッピンのマニラに逃れ、そこへも追手が来た気配が感じられたので、一番安全な日本の山の中へ逃げてきたのだそうです。勿論、もうお金はなくなっていた。だからといってバーのホステスや、スナックで売春などさせられるのはいやだったから、思いきって農家のお嫁さんになったのです。お母さんという人が農家の出身で自分も田圃の仕事が好きだから、相手がまじめな人なら、いつまでも農村で働きたいと思ってやってきたといってました」
突然、岩崎は思いもかけないことを、緊張した顔で会議に参加している花輪刑事にいった。
「花輪、君は今日は見合いの日ではなかったかね」
「えっ、なしてだす」
びっくりしてきき返す。
「私の耳は、君がいくら姉さんと、北秋田の山言葉で話してもみな分る。今のマリヤさんの本名マミンで思い出した。君の相手はマミさんではなかったかね」
「あやー、ぶったまげた」
花輪は、朝の電話を完全に岩崎が分っているのを知って正直に仰天していた。
「我々のこれからの捜査は電話だけですむ。君は今のところはこの捜査には要らん。見合いに行きなさい」
「そうはいかねす。こんなときに」
と花輪が不満そうに抗議するのに、
「いやかまわん。時間は有効に使え。それに見合いが終ったら、私の方でその相手の女性に頼みたいことができるかも知れん。たしか地元の西馬音内の人で、踊りもうまいマミさんとかいってたね」
「わたすの耳に向ってる電話線の中の姉さんの言葉も聞こえたんすか」
「いや、君の返事だけで分った。見合いが終ったら、そしてその人を君が気に入ったら、ここへ連れてきてくれ。我が岩崎班の一員として少し手伝ってもらいたいことができた」
「ンだば、見合いに行ってくるす。今日の三時から一階のレストランで待ってるす」
「さっきホテルへ入るとき私の方はちゃんと見たよ。NHKドラマでハッサク先生をやった若林真由美そっくりの美人だったぞ」
「うひゃー、またたン[#小さなン]まげた」
「すぐ行きなさい」
花輪陣内はあわてて廊下へ飛び出て行く。急に岩崎の顔がきびしくなった。
「さあ手配しよう。東京では連絡を待ちかねている。もう約束の五時だ」
テーブルの電話を取る。
「捜一、一係。村松警視だね」
返事を待ってきびきびした命令が出る。
「進藤デカ長と乃木は、アベック客を装って、池袋から板橋へ行く六号環状道路沿いにある、イラワジというスナックへ入る。分ったね。店にとっては場違いな客だから、初めはじろじろ見られて多少邪魔者扱いされるかもしれないが、気にしない。行き場のない、不倫の恋の中年とOLが安そうな店を見つけて人目をさけて酒を飲みに入ってきただけだ、という顔で坐っている。他の全員は店の周りを車で囲め。多分七時か八時ごろに、古い国産車が近くへ停る。男二人が疲れた顔で降りる。秋田からずっと走ってきた。一人はやや肥り気味の三十代。一人はやせた四十代で、夜でもサングラスをかけていて、喉の上の方に刀の傷がある。こちらの仲間の証言で明らかだ。デカ長は自分の席からその男に、『ドーモ』と声をかけろ。するとふり向くとか、ポケットの上からピストルを押えるとか、何らかのリアクションがある。すぐに乃木が掌にある小型無線のスイッチを押す。店の周囲にいた全員が一斉にとびこみ、店内の客全員にピストルを向ける。逮捕はその中の二人だけでいい。数の力、ピストルの多さで、相手を制圧し、双方共一発も射たないで、始末をつける。声をかけるタイミングと、全員がとびこむスピードが問題だ」
諒解の返事があって電話が切れた。
地元の捜査主任に岩崎はいった。
「もう犯人の逮捕については何の心配も要りませんよ。うちはこういうことでは、日本一の名人揃いです」
それから大田にいった。
「大田警部。もう一度、マミンさんの所へ行ってくれ。彼女のこれからのことだ。今のところ正当防衛は問題ないだろう。愛児が即死してご主人が大ケガしてるんだからな。銃砲不法所持も、入国の事情が分れば寛大な扱いを受けられる。さて、これからの彼女の生き方だ。子供を失い旦那をおいて、またヒリッピンやニャンマーに帰るわけにはいかんだろう。もしあの山の中の村に戻って田圃をやるというのなら、私らが力になってやれることがあるかもしれん。農村は大切だ。みな離れて行く現在、すすんで田圃をやりたいという女の人がいたら、残ってもらうようにするのが国家のためには必要なことだ」
地元の刑事《デカ》さんたちがみな感心したようにうなずいていた。大田蹴鞠子警部は立ち上り、
「はい、その点をきいて参ります」
といってまた病院へ向った。
「お稽古、このホテルにレミー・マルタンがあるかどうか電話できいて、あったらすぐ運ばせてくれ。まあー、ここで、我々がじたばたしても仕方がないので、後は一杯やりながらゆっくり待とう。丁度夕飯の時間になった。ついでにコックさんに何でもいいから、美酒にふさわしいご馳走を沢山作れと注文してくれ」
「はい」
峯岸稽古がすぐ電話をかける。
ほどなくボトルでレミー・マルタンが届く。みなのグラスにつぎながら岩崎は話す。
「今年は二度、花見ができると楽しみに来たのですがね」
東海林院長が気の毒そうに答えた。
「例年ですと、ここのお花見は五月一日頃です。ところが今年ばかりは、十三日も早く花が咲いて、桜の名所の八反田公園も、もうあらかた散ってしまって……代りといっては何ですが、明日の夜までお泊りいただけませんか」
「なぜです」
「実は明日の夕方から、私の還暦パーティをこのホテルの六階のホールで行います。そのとき、西馬音内の娘さんが本式の盆踊りを踊ってくれることになってます。これだけはぜひ見て行ってください」
「そうですか。こちらも連休でゆっくり休みもとってきました。見せてもらいましょうか」
「陣内の嫁っ子になる人も、こんなことがなかったらマリヤさんも踊ってくれる予定で練習してましたが、ほんとに不幸な事になって」
「坊やの司法解剖は」
と、地元の捜査主任にきく。
「今晩中に、秋田県警の依託の教授が来て、夜中に東海林さんと二人で司法解剖することになっとりますが、まんず、単に致命傷の部位だけを調べる形式だけのもんだす」
「まあそうだな。死因は銃創と分ってる。後は使用された弾丸の特定だけだ。二、三時間ぐらいで終る。女と違って男の死体は、傷の部位だけ調べればいいから簡単だ」
丁度、ローストビーフがボーイによって運ばれてきた。その一片をフォークに刺して、
「まあ、弾丸というのは肉の面をこう削って突き抜けて行くからすぐ分る」
まだ赤黒いビーフの切断面をなぞるように説明する。いつもの岩崎の悪い癖だ。馴れていない地元の刑事は、気味悪そうにして喰べられないでいる。岩崎とお稽古は平気で、ほどよく生焼けのビーフをおいしそうに喰べた。
酒が回る。もともと秋田県の人はみな酒は強い。地酒もいいのがあるが、レミー・マルタンも、またおいしい。
「口当りのいい酒だすな」
「ご馳走さまだす」
と、みんなかなり酔ってきた。
八時すぎごろ、突然電話が鳴った。
「ああ、岩崎だ。乃木か。……どうだった」
うむ、うむと、四、五分うなずいてきいている。それから、
「よかった。明後日帰る。勾留は七十二時間ある。急がなくていいが、三階のホテルに一人ずつ別々にほうりこんでおけ。多分下手な英語はしゃべるはずだから、村松警視が厳重に追及の上、殺人の包括一罪で、起訴の手続きをとっておいてくれ。捕まえてみれば単純なケースだ。目的は五月二十七日の国民選挙の立候補取り止めの脅迫だ。その線で追うように。私は折角の連休だから、明日一日ゆっくり遊んで、明後日帰る」
そういって電話を切ると、みなにいった。
「犯人二人は、捕まったそうだ。初め一瞬手向う姿勢を見せたそうだがね、すぐに十五人もの刑事さんが店に飛びこんで、銃口を向けたのを見ると、店の全員が黙って両手を上げたそうだ。さすがの殺し屋も一発も射たないで降伏した。捜一が全員本気でやった。一発射ったら二十発ぐらいはぶちこまれるからな」
みなは改めて盃を持ち上げ、逮捕を喜んだ。
ノックの音がして、大田警部が入ってきた。私服のスーツだが、きちっと十五度の敬礼をして、
「マミンさんの話をきいて参りました。ご報告致します」
といった。
「うん」
「マミンさんは、もし村の人が自分が残るのを許してくれるなら、ずっと夫と共にいて山の奥の農家を守って行きたいそうです。祖国へはもう帰らない。そこには人間の自由の精神がないからだといってます。子供は可哀相だが二人の愛が失われないならまたできます。今度こそ立派な農民に育てたい、それが天にあたえられた自分の使命だといってます」
ふっとお稽古は妙な物に気がついた。岩崎の鋭くきびしい目に涙の粒が浮んできたのだ。びっくりしてまじまじと見つめていると、お稽古の視線をさけるように指先でその涙を押えてごまかし、岩崎はまた突拍子もないことをいった。
「六本木を歩いていて、石を投げると、どれもみなタレントか、タレント志望の女の子に当る。多分その女達の中には秋田県から出てきた女の子もいるだろう。きかせてやりたい話だな。ともかく彼女の決心をきいて安心した。これからは花輪刑事の嫁さん候補者のマミさんの方に働いてもらわなくてはならない。見合いがうまく行くといいがね。本当なら殺人の捜査官は犯人を見つければそれで終りだが。NIESから来た殺し屋に日本人を殺させるようなことは、私は絶対許さんが、その代りNIESの女で日本人になりきろうという者は、どんなことがあっても幸せになってもらいたい」
大田も峯岸も、ふだんの冷酷無表情な岩崎からは想像できない感情の激し方を、ただ呆然と見つめていた。そこへ、
「お晩です」
まるでこの世の幸せは、自分一人で引き受けたという感じの花輪陣内が間のびした顔で入ってきた。後ろには、ほっそりとして背の高い美女が恥しそうにうつむいて立っている。
花輪は入ったとたん、中のみなが妙に真剣な表情でいるのに気がつき、あわてていつもの捜一の鬼刑事の四角張った姿勢に戻り、
「遅れて申し訳ありません」
といった。岩崎はズバリときく。
「そのお嬢さん、君との結婚承知してくれたのかね」
事情を知らないお稽古と蹴鞠子は、まあーと、呆れた表情で花輪を見る。この男が、一体こんなカワイ子ちゃんを嫁にするなんてことがこの世で許されていいのだろうか。自分らだって相手も決っていないのに。そう思ってもう一度その細っそりした娘さんをみたら、タレントの誰かによく似ている。田舎へくればこんな美女がまだ残っているのかと、またもう一度びっくりしてしばらく物もいえない。
花輪の後ろで、真赤になってもじもじしている土地の娘さんに、岩崎はいった。
「捜一の私の班の者は、事件の捜査に必要となったら、一家全員で手伝ってもらう。公私の区別はない。あんたも、もう私のファミリーの一員だ。明日は早速仕事を手伝ってもらえるね」
「はい。喜んでお手伝いします」
消え入りたげな小さな声で答えた。
「いやー、今日はまあー、ここでゆっくり話して行きなさい。ここがホテルだといっても、式をあげる前の男女が勝手に部屋をとって泊ることまではすすめないが」
「あたりまえであります。わたすは決すて、そんたらいやらすいこと……」
「そうむきになるな、花輪君。冗談だ。いってみただけだ。明日はその人にうんと働いてもらわなくてはならん。今日は、私らの仲間に入ったお祝いに一緒に乾杯してもらう。終ったら虫がつかないよう丁重に、おうちまでお送りするんだ」
再び盃が配られた。
岩崎は嬉しそうだ。少し酔っている。
「犯人は二人とも東京で、乃木とデカ長が身柄を押えた。マリヤさん、つまりマミンさんの落着き先も大体決った。明日はそのことで、マミさんに働いてもらう。子供の司法解剖は今晩これからだが形式だけだ。すぐ終る。これで事件の解決はつくはずだ」
それから自分の方を見ているマミ嬢にいった。
「明日はこの東海林さんの還暦のお祝いだそうだが、あんたも踊ってくれることになっていたんだね」
「ええ、でも……」
「いや、鎮魂、慰霊の踊りだ。ぜひ踊ってください」
[#小見出し] 西《ニシ》馬音《モ》内《ナイ》踊り
※[#歌記号、unicode303d]振袖姿の 踊り子見たれば
ふしぎに若くなる
拍子に浮れで 二足三足
知らずに踊ってだ
踊りは午後七時ごろ寄せ太鼓が鳴らされ、町の大通りを遮断して中央に櫓《やぐら》をくみ、大|篝火《かがりび》を十数本も焚いてその周りで行う。
振袖に仕立てたゆかた、白い手甲脚絆《てつこうきやはん》で、鳥追編笠を深くかぶり、どの人も顔が見えない。それが精霊信仰と結びついて、外部の人には、時に悽愴味を感じさせることがある。最も盛んになるのは十時ごろで、町の通りは人で埋まる。
前の二日は十二時すぎると自然に解散になるが、最後の三日目は、殆ど夜が白々と明けてくるころまで踊る。
衣裳が特殊なので、町の人々は、踊りの日にやってくる近郷の親戚知人のため、みな何組かの笠、ゆかた、頭巾を用意してあるという。
4
東京からの終夜の連絡電話で、二人のニャンマーから来た殺し屋の逮捕と取調べの状況が着々と分ってくる。病院はホテルのすぐ向い側にある。花輪と大田が、ホテルのスイートにいて、東京の状況をきいている岩崎の命を受けて、夜間の道を横切り、東海林病院の霊安室の隣りに監禁収容されている犯人の一人にたしかめに行く。殆ど言葉が通じないが、岩崎が片仮名で書いてくれた問答書を持って、イエスかノーかだけきいてくる。四度往復して、午前二時に一段落つくと、また岩崎が、全員をつれて病院へ向った。
深夜だ。隣室では秋田市から来た教授と院長が幼児の検屍をやっている。
病室へ入ってきた岩崎の姿を見て、犯人はまた、震え出した。さっきの訊問がよほど怖かったらしい。
岩崎のきびしい顔は変らない。
その殺し屋の片割れの前で、いつもの、相手の魂まで凍らせるような冷酷な瞳で叱りつけるように語り出した。犯人以外は誰も分らないニャンマー語だ。
「NIESの諸国の間では、日本の刑法は軽い、どんなことをしても、自分らの祖国と違って、死刑になることはないと思われているようだが、これは誤解にすぎないことを、三人ともすぐ分るはずだ。東京の二人はすべて吐いた。おまえも何一つ包みかくすことなく吐き、よほど改悛の情をはっきりと見せない限りは、来年の正月までこの世にいることは難しいよ。銃殺はないがロープでも、生命が消えることは同じだからな。それに裁判所にはニャンマー語の通訳はいない。ただあやまり、涙を流して、許しを乞うのだな。生命が惜しかったら」
それだけ伝えると、隣室の赤ん坊の遺体に黙礼し、また廊下に出た。
「ホテルへ戻ろう。明日は今回の捜査の行動の中でも、最も大事な仕事がある。私と花輪は十時にホテルを出よう。女刑事さん二人は夕方までゆっくり自分の部屋で休養してくれ。目がさめたら入浴にお化粧だよ」
病院を出て、大通りを並んで歩いて横切る。さすがに山奥の町だ。夜気はすみ切り、しーんとした肌寒い空気の中で、東京ではとても見ることのできない沢山の星が、夜空一面に輝いていた。
東京から来た四人はどういうわけか、みな一緒に大きく息を吸いこんだ。
十時。
今日もよく晴れわたっていた。
病院から、小さな棺に入れた検屍を終えた幼児の死体を乗せた車が出た。横には包帯を巻いた夫と、涙で目を泣き腫《は》らしたマリヤ(と村の人は思っている)が、より添っている。
その後ろに羽後湯沢署のパトカーが一台と、署が出した警察の公用車が一台続く。
マリヤの子供の悲しい帰り途《みち》だ。
黒い警察公用車には岩崎と捜査主任と花輪刑事と、なぜか花輪の見合いの相手の土地の娘のマミさんが乗っている。
岩崎が主任にいった。
「この事件は、たしかに村の人にいわせればとても許すことのできない不幸で傷《いた》ましいことだったろう。……こんな外国の女を嫁さんにもらったばかりに、大事な跡とり息子が殺されそうになったのですから。多分、マリヤさんの受ける視線は、耐えきれないほどきびしいものになる。でもご主人は生命は取り止めた」
「そうでしょうな」
「疫病神! 出て行け。きっとそんな声もとんでくるかもしれない。自分の子を亡くしたマリヤさんには可哀相だが、彼女が来なければこんなことも起らなかったと、文句をいう人も出てくるかもしれない」
「それも仕方ねえかもしれませんね」
捜査主任はそう暗い声でいった。地元の人であるだけに、村の人の気持がよく分るのだ。
ヒリッピン(と思っている)なんて国から、嫁ッ子買ってくるなんて、|あずましい《ヽヽヽヽヽ》まねをしなければ、こんな不幸な目にあうことはなかったのだ。怒りは、これから、傷ついた夫と愛児の柩《ひつぎ》を守って帰る女一人に集中するだろう。
岩崎がいう。
「私からもいう。マリヤは本当に村を愛していた。そしてこの土地の人間になりきろうと思って努力していた。生れた村を捨てて、東京のサラリーマンの嫁ッ子になったり、六本木でタレントぶって歩きたがる他の娘っ子と比べて、どれだけ立派か、私が誠心誠意、村の人に説明する。マミさんも、マリヤの親友として、どうか村の人に一緒に説明してくれませんか。あなたなら顔見知りの人もいるだろうし、あなたが土地の言葉で、マリヤさんの気持と立場を話してくれれば、必ず、固くとじた心もほどけてくるはずだ」
「私、やってみます。私、自分が村に残れないのですから、その罪滅ぼしのためにも、真心こめてやってみます。村の人はみな顔なじみですから。ご主人も、自分のケガを忘れて一緒に説明してくれるはずです」
湯沢を出た車は二十分ほどで、夏の盆踊りで名高い西馬音内町へ来た。八月にはこの町の大通りで、三日間、篝火を焚いて踊りが行われるのだが、今は、ただ普通の商店街があるだけだ。ほんの五分ほどでその小さな町のメインストリートを通りすぎ、車は山間に分け入っていく道に入った。
山ふところは深いが、道の両側は余裕がある田園になっていて、いかにも米の生産地らしい。
ニャンマー国は去年まではバルマ国といった。バルマ米の名で知られる通り、世界有数の米の産地だ。マリヤの母は農村部の出身という。政治家ズー・ヂー女史の母とは違うというから、大臣邸に家庭教師か女中にでもきて後妻になり、マリヤ(マミン)を産んだのかもしれない。
マリヤの血には、同じ米を作る農民の血が流れているのだろう。
「きっと……」
と岩崎がいった。
「……二人の間に生れた子は、やがて立派な米作りの働き手になっただろうに。惜しいことをした。だがマリヤはまだ若い。このことで二人の愛が冷えなかったら、また子宝はさずかる。いつまでも嘆いたり苦しんだりしていないで、二人で明るく立ち直る道を、何とか探すようにいいなさい」
ようやく車は村へ入った。
村の人々が田圃の仕事をやめて、あぜ道に出てきた。どの人も霊柩車を悲しみの目で見送る。そしてそこにいる、マリヤを見る目はきびしい。子供はもう大事な村の一員なのだったから。
岩崎とマミは、お互いに瞳を合せてうなずき合った。これから一日かけて、何とかこの村の人の気持をときほぐそう。一番気の毒なのは愛児を亡くしたマリヤだ。きっと許してくれるはずだ。
やがて、一軒の農家の庭に車が入った。奥に既に作られた小さな祭壇の前にうずくまっていた老婆が、転がるようにして、とび出してきた。
そして小さな柩にすがりつくと、わっと泣き出した。
夕方まで岩崎は、そこで説得を続けた。村人は快くマリヤを、また受け入れてくれた。
ホテルで待っていた二人の婦警さんの部屋には、花輪刑事の姉の院長夫人から、今日のパーティ用の、豪華なイブニングドレスが既に届けられていた。
『女性はみな盛装してきますので、どうぞこれをお召しになってください』
化粧品やブーケと共に、そんな手紙も添えられてあった。
一休みしてから、蹴鞠子も、お稽古も、今日はのんびりと入浴し、時間をかけて化粧をした。ふだん殺人犯追及で駆け回っている。ここ何カ月か、何年か、本気でお化粧なんて考えたことはない。
これじゃいつまでたっても、お嫁のもらい手なんか出てこない。たまにはゆっくり休んでお肌にゆとりをもたせ、鏡と一時間もにらめっくらで女らしい魅力の強調にかからなくては、嫁《ゆ》きおくれになってしまう。捜査も大切だが、若いときは二度ないのだと、今日は部屋は違うが、二人とも鏡に向って同じようなことを考えていた。
自分が大ケガをしたのにもかかわらず、夫は妻をかばって、村の人に妻が犯人を道ばたに倒したことを語る。愛児を失った母の気持も分る。マミも必死にかばう。村人はうなずいた。むしろマリヤが、これからも村に残って働いてくれることに、好意をもってくれた。すっかりわだかまりがとれ、岩崎と花輪は五時前にはホテル・ロイヤリーに戻ってきた。二人のため、部屋にタキシードも用意されていた。二人は一休みして六時少し前、服装を整え、婦警さんたち二人を迎えにきた。
女二人がドレス姿で出ていくと、花輪はただびっくりして、
「あやー、何と何と」
と後はもう言葉もない。岩崎も多少は驚いたようだが、そこはいつもの調子で、
「鬼も十八、番茶も出ばな、馬子にも衣裳髪かたちと、日本の格言はよくできている」
とまるで、他人《ひと》ごとのようにいった。
六階のホールには、湯沢の名士がそれぞれ、夫人にロングドレスを着せて、続々と入ってくる。
飽食の時代というか、金余り日本の象徴というか、その豊かさは、地価の値上りでアップアップしている東京や大都市を通りすぎて、これまで雪深い、草深い、といわれた地方の、名も知れない農村にまで、たっぷりと及んできたようだ。
男はみなタキシード、女はロングドレス。
東京や大阪の誕生パーティ、還暦祝いでは、こうまで人はドレスアップしない。ふだん何の娯楽もない地方の小さな町村だからこそ、人々はこうして思いきり楽しむのだろう。
岩崎は、山の中の農村に、ちゃんとしたホテルを作り、目一杯生活をエンジョイしている人々に、本当に感心した。会場入口には、院長と花輪刑事の姉の院長夫人が並んで立ってにこやかに客を迎えている。花輪のごっつい顔と比べて、これが本当の姉かと、思わず疑ってまじまじと顔を見つめてしまうほど、その夫人は美人だった。秋田美人の典型の顔というのだろう。岩崎がまだ子供のころ、奈良光枝という美貌の歌手がいて、雑誌のグラビアで見た記憶がある。それと全く同じような顔をしている。テーブルに向って歩きながら花輪に、
「君の姉さんは美人だな」
というと花輪は事もなげにいった。
「県北のわたすらの村へ行けば、娘っ子はみんなあんな顔をしてます。珍すかねえす」
全員がテーブルにつく。
司会者が開会を宣する。六階の広いホールの中央が大きくあけられ、ダンスフロアーになっている。場内が暗くなる。正面奥のバンドの席から賑やかな和太鼓の音がして、突然中央にスポットライトが当る。鳥追編笠を深くかぶって、顔が見えないようにした、二人の女性が立っている。衣裳も昔のままの大柄の模様の浴衣に、特有の帯のだらりとはしが垂れた結び方も艶《なま》めかしい。
太鼓と地口で音頭が進められ、まさに幽玄といってもよい、ゆるやかな踊りがくり広げられる。
「マミちゃんね」
大田はそういうと、ついでにでれんとしている花輪の掌を思いきりつねってやった。
それでも花輪は嬉しそうだ。
峯岸がいった。
「もう一人は誰かしら」
花輪が答えた。
「マミンさんだす。この踊りは本当は、どこかの城で全滅すた一族の人々の魂を慰める踊りっこだす。死《す》んだ人の魂を慰めるためにも、ぜひいい機会だっちゃ、踊ってこうとみなにいわれて、きたす。わたすのマミが、さっき車さ運転すて迎えに行ったす」
「よかったわ。一緒に踊れて。犯人は捕まったし、これでマミンさんも、本当にこの土地の人と認められたわけね」
峯岸はもともと涙もろいところがある。声が少し鼻声になった。
二人の踊りは、幼児の冥福を祈るかのように、静かに幽玄に、くり広げられ、ひっそりと終った。ゆっくり電気が消え、再び正面に電気がつくと、今日の還暦パーティの主役、院長夫妻が、正面の明るい照明の中に浮び上った。短い挨拶が終ると更に東京から来た四人がびっくりするようなことが起った。
各テーブルにいた、タキシードとイブニングの男女が一斉に立ち上り、中央フロアーに出てきて、ダンスになったのだ。これが日本で行われていることとは、とても信じられない。ウィーンかどこかならまだしも、秋田県の山の中の殆ど名も知られない町だ。
花輪の前に、薄いピンクのドレスのほっそりした美女が立って一礼した。
「踊ってくださる」
いつの間にか着替えた婚約者(というのには少し早いが)のマミさんだった。花輪はテレてフロアーに出た。
そして翌日、連休の後半は天気が崩れそうだという予報が出ていたが、まだ始まったばかりの月曜日はいい天気であった。
昨日のタキシードとイブニングのドレス姿の東海林院長夫婦は、主人が革のジャンパー、夫人がセーターのラフな姿で、一行を山形空港まで送ってくれることになった。
夫人がハンドルを握り、その横に院長が坐って道案内役を務める。
定員七人のゆったりした黒いアメリカ車が県南の湯沢市から峠を越えて山形の空港へ向う。秋田空港よりは三十分ぐらい近いらしい。
前の席は夫婦と、その隣りに岩崎が坐った。
後ろの席は、大田警部と峯岸刑事の捜一の猛美女二人ともう一組。花輪と見送りに来た見合いの相手マミさんだ。
二人はもう他の人の目を気にしているような状態ではない。ぴったりと体をよせ合ってお互いの手を握り合っている。目と目をじっと見つめて、何も物をいわない。
言葉はなくてもからむ指がすべてを語っているのか。
前の席の姉はハンドルを握っているし、岩崎も院長も気をきかして振り向かない。外車だから車幅も広い。後部は四人席になっている。それでも普通は少し狭いのだが、大田と峯岸はゆったりと坐れている。つまり花輪とマミが必要以上にくっつきすぎているからだ。更にマミがほっそりとやせていて、場所を取らないせいだ。
「あやー、しまった」
地図を見ていた院長が声を上げた。いつのまにか国道は空港のそばまできて通りすぎてしまったのだ。管制塔が右に見えるから、それが分る。あわててバックさせ、やっと小さな道標を見つけて入った。ほんの形式だけの、初めての人なら必ず見過してしまう小さな矢印が一つあるきりだった。ともかくそこへ入った。今度は左折して左に管制塔を見る。たしかにそこに空港があることは分る。
それで左を目に入れながら走り出した。
そこから道標が無くなっている。いつのまにか入口を通りすぎて、また反対側の国道に出て仕方なくUターンして戻るが、入口が見つからない。
「こりゃ、何としたことや」
東海林院長も困ってしまった。いくら地図や道標に注意しても、入口の道標がないのだから入れない。
「全日航の空港長が役人かどうか知らんがね、自分の知ってることは、人民も知ってるはずだと決めて疑わない典型的な官僚的発想だな」
さすがの天才警視正の推理も、こんなときには全く役にたたない。駐車場への入口を求めて空港の外周を三周もしてしまった車の中で、岩崎は憮然としている。勾留は七十二時間だ。今日中に東京へ帰りたい。
いつまでも空港に入れないで、幸せなのは花輪とマミちゃんだけだった。
[#改ページ]
[#見出し] V 三日月型《クロワツサン》親爺《おじん》娘《ギヤル》
[#小見出し] 女性の変身 十代後半
別称 アンノン族[#「別称 アンノン族」はゴシック体]
まだ夢を夢見る時代だ。人生はすべてバラ色。現実を知らないせいもあるし、あらゆる男性や世間一般が、彼女らをこぞってもてはやし大事にしてくれるからでもある。それが今の一時期の、ほんの短い間に限る、特別の待遇とはつゆ知らず、生きている限りは、そういうものだと錯覚してしまう。
特に男性の親切の本当の理由が、すべて衣服の下に隠されている無垢《むく》な肉体への、淫らな希求であるなどとは想像も及ばず、そういうことを指摘する者を、希求者と同じいやらしい存在ときめつけることによって、純粋な精神の愛の存在を信じている自分の浄《きよ》さに酔う。
こうして純愛の存在をマジに信じたばかりに、裏切られると限りない堕落の道を辿《たど》る。
この甘い愛の時代の協力者で精神的なガイドが、アンノンという雑誌であり愛読者が多い。
1
※[#歌記号、unicode303d]親爺《おじん》 親爺《おじん》 親爺《おじん》娘《ギヤル》
私は三日月型《クロワツサン》 親爺《おじん》娘《ギヤル》
最近のブラウン管の中で見るのは珍しい感じの、少し太目の体に大きいお尻が三つ、タイトのスカートをはちきれそうにして、くるくる回っている。普通の美少女歌手《ジヤリタレ》よりは幾らか年がいって、三人とも、もう三十に手が届きそうに見える。それだけ音程もしっかりしているし、親爺《おじん》娘《ギヤル》というやや刺激的なタイトルの歌を唱うのにふさわしい。
火曜日、珍しく事件がなかった。七月に入って、急に暑さが激しくなり、ビールがうまくなる。定時に退庁して、赤坂のマンションに戻った岩崎管理官は、浴衣に替え、満三歳になってますます可愛くなった愛児翔を膝の上にのせて、NHK公共チャンネルの『火曜日の歌謡曲』を見ていた。たとえ東大出で国家公務員上級職合格者といえど、ベートーベンと観世流謡曲だけきいてるわけではない。
モーツアルトも、光ゲンジも、ピンクフロイドも、北島三郎も、常磐津に清元も、岩崎はオールラウンドできき分けるが、続けて何週か火曜日ごとに登場した、この三人娘の、当人もややおじんギャルの年代に入っている歌手をお気に入りらしい。
ただし、そばでビールを注ぎ、父の膝の上の翔の口に、ハムやクラッカーを箸で運んでやって、気がつかないふりをしている愛妻のみずえの気持は、少しおだやかでない。彼女がまだ独身で、同じ捜一の現役の警部補だったとき、岩崎に求婚されていよいよ嫁ぐと決ると、そのころ会津にいた母の吉枝にいわれたことがある。『あなたは、充分にきれいなのだから、たとえ、夫になる人の周辺にどんな女性が現われようと、醜く取り乱してはいけませんよ。それがりっぱな警察官の妻になる者の心得です』
世間の人々に注目され部下に慕われる人間は、女性にも愛される。一々嫉妬していてはみっともない。
だからみずえは何もいわない。夫の心の中は分っている。火曜日の歌謡曲を楽しみにしているのは、このちょっと太目の三人のおじんギャルのせいでなく、司会のアナウンサーが美人だからだ。背が高くスタイルが抜群の上、法隆寺の百済《くだら》観音のようなおだやかな顔をしている。本当ならじっと画面に見入る夫に、
「何よ、松浦アナウンサーばかり見ないでよ」
と、はしたない言葉が出るところだが、辛うじて胸の中で止まっているのは、その公共チャンネルの松浦啓子アナウンサーが、タイプも容貌も、背丈やスタイルも、自分とよく似ているからだ。目の前に、湯上りの体に浴衣をまとった、お色気も満点の自分がいるのに、ブラウン管ばかり見ているのは少し口惜しいが、直接実物をまじまじと見つめるのは、夫婦の間でも照れ臭いのだろう。それで代りに画面を見ているのだと思えば腹もたたない。火曜と土曜の夜は、他に何かの障害がなければ、二人の愛の日と決めている。もう二時間もすればそんなわだかまりは、あっさり雲散霧消してしまう。
何事も岩崎のミニコピーである高橋警視の、市ヶ谷と四谷の間にある公務員住宅のマンションの中でも、状況は同じだった。
つまり、夫は一見活発なリズムにのるおじんギャルの丸く大き目のお尻が、くるくる回る画面を見つめているようだが、心はその公共チャンネル第一の美人アナに奪われているという状態がだ。ただこちらは、会津生れの武士道家庭で万事控え目に育てられたみずえと違い、東京生れで新宿高校出身、何でもかんでも女性の方が男より上位で正しいという教育と環境の中でのびのびと育った乃木圭子だ。たとえ勤務上は今流行の夫婦別姓をとっていても、戸籍上は高橋圭子である。夫のこの一瞬の精神的浮気は断じて許すことはできない。職場だったらショルダーの中に婦人用制式コルトが入っている。左胸を一発ぶち抜いてやるところだが、退庁時にロッカーに入れてきてしまって、今、手もとにない。後ろから飛びつき、
「いや、やめて、承知しないから。ここにだって同じケイコがいるのよ」
と両眼を掌で押えて、後ろへ引き倒し、今度は無理に顔を重ねて唇を合せた。
たとえ私宅の中のプライベートの行動とはいえ、警察官には警察官としての許される限度がある。やきもちだか、愛の前戯だか判然としない、かかるふざけた行動は、大畑警視総監閣下も決してお許しはなされない。だらけ切った二人に活をあたえる神意か、テレビの横の電話がいきなり嗚った。警察官たる者は、家にいても常に帝都の治安を忘れてはいけない。夫は、
「はい、高橋」
とすぐ飛びついて答えた。電話の向うの声は、自分が勤務している六本木署の捜査主任からだ。
「署長ですか」
「そうだ。何か起ったのか」
「どうも変なことが起ったのです。若い男がついちょっと前の八時ごろ飛びこんできて、『自分のガールフレンドが人を殺したらしい』というのです」
「自分でなくて、自分のガールフレンドなんだな。では密告かね。やはりおかしいね」
「ええ、話はもっと変です。そのガールフレンドは、署とは百メートルも離れていない西麻布のライブハウス・バサララサバで、今一人でワインを飲んで彼の帰るのをおとなしく待っているというのです」
「その女は、男が署へ密告に行ったことを知っていて待っているのかね」
「そうじゃないらしいです。その男が慌ただしくいうことによると、男は夜間のコンビニエンスストアで、五千円分用のテレホンカードを買って故郷へ長距離電話をかけて相談し、返事をもらってから戻ると女にいって、ともかく、すぐそばにあった本署へ飛びこんだらしいのです。電話の用件は、女との結婚を九州にいる父母に認めさせることだと、女にいって店を出てきたそうです」
「どうもよく分らんね」
「そこで少し話がぼやけてくるのですが、ある弁護士にこのごろひどく苛められていたらしいので、殺したのはその弁護士に違いないと男がいうのです。その弁護士の事務所は、札《ふだ》の辻《つじ》銀座法律事務所といって、札の辻の三叉路の角のビルの三階にあり、弁護士は馬上一剣《うまがみいつけん》という名だそうです。飛びこんできた男は弁護士にはまだ一回も会ったことがないので、年齢も、容貌も知らないが、多分事務所の中で、何らかの手段で殺されているはずだといってます。自分は女に密告に来たのを疑われないために、今すぐ、バサララサバの店に戻らなくてはならないが、後で疑われたりしないためにも自分がこの事件の報告にきたことだけは、しっかりと警察の記憶に留めておいてくれといってます。どうしましょうか」
たとえミニコピーでも、岩崎警視正の下で何年か鍛えられた高橋警視だ。指示は適確であった。
「よし刑事《デカ》さんをすぐ七、八人招集し、半分はその札の辻銀座法律事務所へ行かせる。そこまで男がいうなら多分、ガセではない。残りの刑事さんは、それぞれかみさんでも、スナックの知り合いの女の子でもいい、調達できないようなヤボ天には、六本木署名物の美人婦警さんを大急ぎで呼びよせて、臨時にアベックを組ませなさい。六本木のディスコやライブは必ず女性を同伴しなければ中へ入れない。その変な密告男をすぐ店に帰し、後から行くアベックの刑事さんたちには、中の男女を見張っているようにさせなさい。私はすぐ行く」
そういって電話を切ると、高橋警視は、自分の方を不審そうに見ている妻の圭子にいった。
「どうもこれは、こんがらかりそうな予感がする。殺人事件だ。ただしまだ本当に起ったのかどうかも分らないがね。一応親分に相談してみよう。御自宅へかけてくれないか」
乃木の心はたとえ夫と共にいても、片時も警視正のことを忘れたことがない。本当は夫がテレビの松浦アナを熱っぽく見つめても文句などいえた義理ではないのだが、乃木の心の中では、あくまでそれとこれとは別だという厳然とした区別がある。たとえていえばカトリック教徒が夫を愛していても、同時にキリストを常に心の中で慕っているのと同じようなものである。
「はい」
すぐダイヤルを回す。
電話がとられて、何か争っている声がし、幼な子の声がきこえた。父の膝にいた翔が、代りに受話器を取ったらしい。可愛い声で、
「チャチュジンジケンデスカ」
そういう。仰天した。まだ三歳のはずだ。殺人事件という言葉を知ってるだけでもびっくりさせられる。おまけに乃木は、まだ一言もしゃべってない。また何か声がしたのは、翔の手から、父親が電話を取り上げたからだろう。
「誰が死んだ」
乃木はいつも捜一の部屋で、電話の声がデスクに届く前に事件を嗅ぎつけてしまう、岩崎警視正の超能力には感心させられている。
「はい、まだ誰も死んだ人を見た者がいないのではっきりとはいえませんが、うちのダーリンのところの捜査主任から今電話が……」
と前置きしてから、限りなく愛している六本木署長の高橋ダーリンと代った。署長の報告を受けていた岩崎はきき終るといった。
「君は四谷の家からすぐタクシーに乗って、私のマンションの前へ来てくれ。君の愛している乃木には、捜一の勤務だといって同行させなさい。マンションの前で立っている。私を拾ってから、六本木の交叉点を通るとすぐ君の署だ。今から電話して署の前にパトカーを待たせておきなさい。君が来るまでにこちらは弁護士名鑑で、ウマガミイッケンという弁護士がいるかどうか調べておく」
高橋警視からの電話を切ると、すぐ、みずえに命じて、外出の仕度を始めた。翔が、ネクタイを持ってきたり、靴下をひき出しから出してきたりして手伝う。
「チャチュジンジケンニユクノ」
としきりにきく。殺人事件がどんなものか分らなくても、それが父の仕事だとは分っている。幼な心にも父の役にたちたいと一生懸命だ。
身仕度の間にも弁護士名鑑を調べ、友人に二度電話をかけた。東大の同期で、法律の業界に進出しているのが何人かいる。
「ウマガミイッケン」
という岩崎の言葉に、判事補をやっている友人も、弁護士をやっている友人も、すぐに反応を示した。ただしどれもいい反応ではなかった。
「ヤメ検だよ」
「わりと荒っぽい仕事をやる男だな。評判はよくない」
弁護士は正義の味方と、単純に信じきっている人々にとっては、仲間からさえそんな評価を受けている弁護士がいるということが意外かもしれないが、捜査官として岩崎は常にヤメ検に接しているからすぐ納得できた。犯罪を追及するときの執拗さと、職をやめた後で弁護士になってから、依頼人たる兇悪犯罪者をかばい、黒を白と言いくるめる強引さの、正反対のギャップに、捜査官としてあいた口がふさがらない思いをしたことが何度かある。全体からみればほんの少数だが、蛇《じや》の道は蛇《へび》で、仲間の法律家が呆れるような荒っぽい離れ業を看板にして稼いでいる者がいる。多分そんな恨みで女にやられたのだろう。まだ事件は発覚したわけではないが、かなりの確率で、その弁護士は殺されていると想像できた。
赤坂のマンションは青山に向う坂道の途中に建っている。みずえと、母に抱かれて手を振っている翔に見送られて、表へ出るとすぐに、高橋署長と乃木が乗ったタクシーがやってきた。翔にバイバイといって乗りこむ。署長と乃木は自宅からだから私服だ。すぐきびしい声で指示する。
「乃木は六本木署で備えつけの制服を借りなさい。高橋署長は、パトカーをもう一台出して、それには制服巡査を乗せなさい。現場は札の辻署の管轄になる。幸いまだ事件は何も外に知られていない。今のうちに六本木署の制服組で現場にロープを張っておかなくては、かなり混乱しそうだな」
「もう事件と分ってるのですか」
高橋六本木署長がむしろびっくりしたように声を低めてきく。運転手の耳を気にしている。
「これは君から通報があった事件だよ。被害者は弁護士。犯人はもう間違いなく、その密告された女だよ。ごく単純な事件だ。きっとその女は密告しにきた男よりは年上だ。いわゆるおじんギャルという奴だな」
乃木がびっくりしていう。
「まあ、そんなことまで分るんですか」
「いや単なる当てズッポウだよ。まだ事件でさえあるかどうかはっきりしてないのに、ホシとガイシャなど捜査大明神でもなけりゃ、見当つかんよ」
六本木署の前には、パトカーが回転灯を赤くきらめかせながら待っていた。乃木を中に駆けこませ、二分間で制服を借りて着替えて出てこいとかなり無理なことを命じた。しかし乃木はそれにこたえて、二分目には小さ目の上衣の胸のふくらみを無理に押えるボタンをかけながら、とび出してきた。
黒い乗用車に、署長と捜査主任と岩崎と乃木。パトカーに制服と私服の刑事や巡査が乗り、他に鑑識官の乗った白い車も伴って、そこからあまり遠くない、札の辻の三叉路に向う。角のビルはすぐ分った。
非常用ベルを押すと、眠そうな目をした管理人が出てくる。三階の『札の辻銀座法律事務所』に案内させる。扉のダイヤガラスには、大きく馬上一剣の名があり、その左側に、若手のイソ弁らしい名が三つ並べて小さく書かれてあった。
扉の前で、署長に、
「あけなさい」
と命じられた管理人は、さすがに渋い顔で、
「弁護士さんですよ。勝手に入って後で訴えられたら困ります」
とためらった。署長が岩崎ゆずりの冷酷な口調で管理人にいった。
「その弁護士さんはもうこの世にいない。扉をあけなければ、公務執行妨害で訴えられるのはあんただよ」
あわてて管理人は扉をあける。一人の刑事がとびこみ、電気のスイッチを探したが、その前に、岩崎や乃木など、数多くの殺人現場を体験している捜査係は、既に部屋の中に濃くこもる血の匂いで、その中に被害者が倒れているのを覚《さと》った。
「殺《や》られているな」
その声が終る前に室内の電灯がついた。
全員が、思わず、あっ! と声をのんだ。
法律書の書棚で部屋が四つに区切られて、それぞれの奥にデスクがある。その中の一番大きなデスクに俯《うつぶ》せに一人の男が倒れている。
五十ぐらいの体格のいい男だ。背中に思いきり深く、宝石をちりばめた柄がついているナイフが突き刺さり、その回りに血がにじみ出て背広の背中の半分は汚れている。岩崎は高橋警視を振り返り命じた。
「すぐ、バサララサバの刑事さんに電話を入れ、踊っている他の連中に気がつかれないように、男と女の両方を、アベックの刑事《デカ》さんたちでとり囲み、平和裡に外に連れ出させなさい。事件は捜一で捜査本部を作って預る。弁護士さんとなれば、平《ヒラ》の市民と同じに扱うわけにはいかない。男女二人の身柄は本庁へ連行」
[#小見出し] 女性の変身 二十代
別称 クロワッサン族[#「別称 クロワッサン族」はゴシック体]
そろそろ、同年の友人に結婚する仲間が出てくる。
しかし、現在、女性の容姿や、繊細な神経が必要とされる、一見知的労働の形を装う単純労働の市場の需要が多いため、給与も比較的高い。職場内でも大切にされる。昔あった差別や蔑視は、すべてセクハラと声高く弾劾すれば、相手が怖れをなして簡単にひっこむ。給料を考え、休みの多い楽な職場を思えば、今さら安い月給の、むさ苦しい男の所に嫁いで、一日中汗水たらして台所で働く気がしなくなる。それでなかなか結婚に踏みきれない。
生き方の精神的指導誌であるクロワッサン風の女性雑誌の威勢のよい論文に刺激され、自立した女性になろうと思う。身長百七十センチ以上、一流大学出、ハンサムで、資産家、月給五十万以上で一流の上場企業の社員でもなければ、むしろ男なんていない方がいい。
結婚しなくても自活できる道がいくらでもある。
そう思って頑張っているうちに、いつか花の二十代はすぎて、次の三十代に入ってしまう。
2
昔より取調室は明るい。周囲はちゃんとした壁でベニヤ板でないから、隣室で犯人をどなりつけたり、机を思いきり叩く音もきこえてこない。窓はぴったりしめられてはいるが、それでもガラス戸から、七月の陽光に眩しい街が見える。進藤デカ長はこの明るさのせいで被疑者が素直にしゃべらないのかな、昔の犯人はすぐ吐いたものだがと一瞬思い直した。事件を担当した捜一の二係の係長は、現在、女性の大田蹴鞠子警部だ。まだ実際の経験が浅いので、今度の取調べは一係、二係の刑事《デカ》さんの中から、吉田老人と、進藤デカ長の二人のベテランが担当した。係長自身は、その横で見学させてもらっている。
今、目の前にいる女が犯人であることは間違いない。弁護士を背中から剌したナイフの入手先も割れているし、宝石で飾った柄に、血と共に残っていた指紋が、彼女のものであることも証明されている。それに彼女は正直で素直だ。本籍、名前、年齢、職業などの、調書を作成する前に行われる係官の型通りの訊問には、はっきりうなずく。無言ではあるが。
西野|樹里《じゆり》、二十九歳。独身。職業は、電機メーカーの契約社員で、事件が起って警察に逮捕された時点で、懲戒免職。もともと正社員でないので、会社の名前だけは、絶対出さないようにと、本社側から厳重な申し出があった。ただしこの種の事件に珍しく外部に洩れる事実が極度に少ないのは、彼女が取調べに対して、ただうつむいて、どんな訊問にも何もしゃべらないからだ。
進藤はその強情な態度に手をやいて、つい口調が荒々しくなってくる。
「困るんだよ、それじゃ。あんたのいったことは、ただ、『もういいんです』だけじゃないか」
物凄い形相で睨みつける。進藤が警視庁巡査に奉職したときは、まだまだ取調べも荒っぽく、女が相手でも机の下で蹴飛ばしたり、耳もとでどなりつけたり、時には髪の毛を掴んで机の角にゴツンゴツンとうちつけたりした。それでも、戦前の竹刀《しない》でぶん殴った経験のある先輩からは、生ぬるいとよく叱られたものだ。戦前のような取調べをここで思いきってこの強情な年増女にして、彼女から涙ながらの完全な自供を得たい思いでイライラした。
「いくら黙っていても、殺人罪は成立するんだよ。何度もいう通りナイフに指紋はついている。アリバイは全くない。それにガイ者の弁護士の机の上には、あんたの名前が書かれている脅迫未遂罪の告訴状がちゃんと置いてあった。机上にあったのは、カーボン紙を挟んだタイプ打ちの書状で同時に作られた告訴状の副書の方だ。正書はもう届け先の魚河岸署に行っている。
多分ガイ者の弁護士の行きつけの署だろう。ところが魚河岸署の署長さんは、つい去年までうちの捜一の課長をやっていたお方だ。我々の直属の上司岩崎管理官殿とは、ご昵懇《じつこん》の間柄だ。この脅迫未遂の罪状については、警視正殿が魚河岸署に行かれて調べておられる。そちらの方からも、あんたがどんなことをやったかはちゃんと判るんだ。そろそろ観念してしゃべったら、どうなんだ」
そこで机の上をどんと叩きたいところを、新刑事訴訟法・同取扱規則の精神に則って、拳を血がにじむほど強く握りしめて耐えて、そっと机の上においた。代りに顔面に真赤に血が昇り、只でさえ鬼のような進藤デカ長の悪相はますます怖しいものになった。
いつも取調官の顔を気にして、適当に受け答えする馴れた被疑者なら、このへんでいよいよ駄目だと観念して、何とか一つ二つは事実を吐くところだが、女はじっと下を向いて、進藤の顔を見もしない。だから怯《おび》えも見せない。
「えい、どうなんだ」
とどなると、相変らず短く、
「いいんです、もう」
と答えるだけだ。
「そっちはよくても、こっちはよくない」
デカ長が思わずどなりつけるのを、横にいた吉田老人が、すぐになだめる。
「まあ、進藤君、そういきなり、どなりつけたりしないで。何しろ電機メーカーとはいっても、その西野さんはだね、PR誌を一人で編集して出してきた、インテリのキャリアウーマンだ。頭ごなしに叱らなくても分ってくれるよ」
大田警部はこのやりとりを横で感心して眺めていた。昔から、強情な被疑者を全面自供に追いこむのには、どなり役と、そばでまあまあとなだめる役との二人がコンビを組んで、緩急自在に攻めるということを、警察学校の実務のときに習ったことがあるが、まさにこれがその典型的な見本だ。吉田老人は、四谷署で捜査課長までやった古参警部だが、偶然、事件のとき岩崎警視(当時)と一緒になってその捜査ぶりに感動し、ヒラでよいからといって捜一に入ってきた人だ。捜一でも最年長、酸《す》いも甘いも噛み分けた感じで、なだめ役には最も好適だ。なるほど、岩崎管理官殿は適材適所に人の使い方がうまいと、大田警部は感心する。
しかしそれでも、この女性は落ちない。
被疑者を逮捕すると、最初の七十二時間で調べ、起訴するかどうか決める。充分に嫌疑あるものとして、公訴の提起が決定すると、後十日間の勾留を認められる。合せて十三日間。これまでに起訴事実を固めなければならない(特別の場合はもう十日)。
この西野樹里の場合は、証拠その他のすべてが、はっきり彼女の犯行を示しているし、進藤デカ長の『おまえがやったんだな。間違いないな』という何度もの念押しの質問には、こっくりとうなずくのだから、別に十三日間の勾留を目一杯に使わなくても、一件書類を作成して、身柄を地検に送り、殺人罪で起訴できる。間違っても、裁判でひっくり返ることはない。
しかしまだ送れないのは『なぜやったのか』『どうしてやったのか』という、犯行についての訊問を始めとして、その他の一切の質問に、彼女が何一つ答えていないからである。岩崎管理官も身柄送りに同意しない。
名前も、住所も、その他すべて、彼女が所持していた身分証明書の記載事項を読み上げて、『そうだな、間違いないな』ときくたびに、うなずくだけで、実は彼女自身からの証言は何一つ得られていないのである。もう逮捕されてから五日目になるが、調書を読み返してみると、『本職が……と訊ねると、被疑者は同意の旨を示すためうなずいた』という字ばかり並んで、被疑者の言葉は一言もない。
こんなとぼけた調書を検事局に送ったら、たとえ、証拠品一切が整い犯行を認めて大きくうなずいても、誘導訊問ばかりで正式の自供になっていないということで突き返されてしまう。弁護士のいいのをつけられたら、忽ちそこを攻撃されて、公判維持も難しくなる。期限は十三日あって、今日はまだ五日目、余裕がある。とはいうものの五日目までに、只の一言も証言が得られないというのは珍しい。二人はかなりあせっていた。
吉田老人は諄々と諭すようにいう。
「あんたは四年制大学まで出たインテリだ。一人でPR誌の編集からイラスト、グラビアまで一切やっていたキャリアウーマンだ。近く、三歳年下の青年と、結婚することになっていた。……もっとも、青年の方は、すすんで当局にタレこむほどだから、あんたと本当に結婚するつもりだったかどうかは怪しいがね……。ちょっと見には二十代そこそこに見える可愛いあんたが、証拠も明らかに残した兇悪な殺人を、思いきってやったということがどうも信じられない」
女は相変らず黙って下を向いている。
「随分ばかげたことだと思わないかね」
「いいんです」
「いいんですじゃ、少し困るんだな。よっぽど、止むを得ない事情があったんだろうがね」
「もういいんです」
まる五日間、朝から晩まで調べ室につきあって、二人の交互の訊問ぶりを見ていて、大田蹴鞠子は質問の要領は掴んだ。
「今度は私がきくわ」
手詰り状態にある二人を制して、二係長の大田警部が初めて質問した。
「私たちは、あなたの罪をはっきりさせて重い刑罰に追いこむため、こうして朝から晩までつき合っているのではないのよ。一旦起してしまった殺人の罪はどうにもしようがないけど、それでも刑法によると、殺人の刑は、三年から死刑までと幅が広いの。その情状が認められれば、三年の刑に執行猶予がついて、実際は懲役に行かなくてすむ例だってあるのよ」
「いいんです」
「よかないわ。弁護士さんを刺すなんてよっぽど思い詰めたんでしょう。同じ女として黙って見てられないわよ。今、私たちの上司が、わざわざ魚河岸署まで行ってるわ。理由をいうと、捜査の内情を被疑者に話して、手のうちをあかすことになってしまうけど、何とかしてあんたを助けてやりたいからよ。ちゃんと犯行を認めているのに死刑や無期は可哀相だからよ」
「いいんです」
「どうしてよ。罪を軽くする情状はいくらでもあるのよ。正直に打明けてくれればね。普通、罪人が警察に自首すると、罪が軽くなりそうに考えるけれど、それは錯覚よ。既に犯罪が世間に知れ渡って、警察が犯人を探して追いかけているときに、犯人がノコノコ自首してきたって刑法では自首にはならないのよ。その犯罪が行われたかどうか、世間が全く知らないうちに、犯人が自ら警察にその事実を告げたときに初めて、自首になり、担当裁判官の判断によるけど、相当な減免措置が適用されることもあるの。あなたは、ライブハウスのバサララサバで、犯罪の事実を告げに来た男の子と、自分を逮捕に来る刑事をじっと待っていた。別に調書を捏造《ねつぞう》するわけでなく、あなたが罪の怖しさを悔いて、男の人に代りに警察に行ってもらったと主張しさえすれば、これは完全な刑法上の自首になるのよ。担当捜査係としてそこまで教えるのは、少し行きすぎだけど、あんたが、きれいで可愛くて、とても悪いことはしそうにもない、いい人に見えるから、教えてあげたのよ。だからすべて話して」
「もういいんです」
「そんなこといってないで、なぜ、あの弁護士さんを背中から一刺しするまでに、心が追いつめられたのか、正直にすべてを告白しなさいよ」
「いいんです。もう」
「これじゃ、助けたくても助けられないわ」
大田警部もとうとう匙《さじ》を投げた。
丁度同じころ、魚河岸に隣接した魚河岸署では、署長と岩崎管理官が、近くの店から生きのよい名物鮨を出前でとりよせて、喰べながら話し合っていた。
魚河岸署の署長は、去年まで、約三年間捜一課長をやっていた、警視庁屈指の鬼課長といわれた人だ。好きなトロや、光り物を喰べながらしばらく岩崎のいうことをきいていた署長は、箸を置き、じっと管理官の顔を見ながらいった。
「こちらに馬上《うまがみ》弁護士から回されてきた告訴状はたしかに悪いものだったよ。その何とかいう殺人《コロシ》の犯人《ホシ》の女が脅していたのは、ニュー・V・I・Pホテルの客室係をもう十二年間も務めている加藤正子というまじめな女性だ。今は独身だそうだが、つい二年前までは夫がいて、まだ正式に離婚が成立していないので、加藤は夫の姓だそうだ。何でもその夫が旅行の添乗員をしていたとき、カードを使いこまれた女が、正子の勤務先に金を返してもらいたいとやってきて、脅迫がましいふるまいをしたので告訴するという、正式な書状だ。君のホシはそんなことする女に見えるかね」
「いえ決して。脅迫も殺人も、なぜやったのか、私にはさっぱり分りません。信じられないのです」
「そこまで、君が思いこんでいるのなら、それだけの根拠があるのだろう。殺人をあれほど憎む君が……一つだけ私がヒントを言おう。正子のこのような訴状は今回が初めてじゃないということだ」
「えっ」
「これまでのケースはすべて同じだった。既に別れた夫加藤百聞が、OLのカードを言葉巧みにちょっと借りる。外国を旅行中にだ。外国では言葉がしゃべれない女の子はツアコンに頼らざるを得ない。中には、ホテルで口説かれて百聞とできたのもいる。できないのもいる。今回の場合は、彼女がわりと身持の堅いまじめな女だったらしく、その常習詐欺師とはできていないようだったが、それだけに生真面目でころりとひっかかった。巧みにカードを寸借され、本来は、彼が旅行会社から預った金で支払うべき、一行十五人のホテル代から食事代まですべてカードで支払われてしまって、決済が近くなると百聞は姿を消してしまった。クロワッサン・おじんギャルはカードが好きという、有名な歌の逆手《さかて》をとられた」
この一見、ライオンが草原で睨みつけているような風貌の魚河岸署長は意外にナウい。
びっくりしている岩崎管理官にさらに、
「……署長としての立場を離れ、個人としての意見をここで、二人の内密の話として言わせてもらえば、私としては絶対許すことのできないのは、殺人の犯人や、詐欺師加藤百聞でもなく、被害者|面《ヅラ》の女房の、ニュー・V・I・Pホテルでまじめに十二年間客室係をやっているという加藤正子だな。最近二年間の馬上一剣の告訴状は四通、内容はすべて同じだ。加藤百聞は犯行中も、常に自分が連れて歩く客に、女房が、日本でも超一流のホテルである、ニュー・V・I・Pの客室主任をやっていることを吹聴《ふいちよう》している。それで信用を得る。カードを借りられた気のいい女たちは、相手が行方をくらまし、自分では思いもかけなかった、百万、二百万円の請求が来ると、初めて事の重大さに仰天する。これまで苦しいやりくりして、まじめに決済してきた努力が水の泡になる。会社や、銀行の信用を失くし、事後、使用不能で、楽しいブランド品購入もできなくなり、差押え、告訴などの社会的制裁も受ける。どの女も半狂乱になって、かねてきいていた、ニュー・V・I・Pホテルの客室係を訪ねて、妻の正子に泣いて弁償を訴える。私が絶対許せないのは、そこから先だ」
岩崎はこれまでの殺人事件専門では、想像もつかない詐欺話を呆然ときいている。
「加藤正子はすぐ、ニュー・V・I・Pホテルの顧問弁護士の馬上一剣の所に泣きつく。女が訪ねてきたことで、十二年間の平穏な勤務での評判が一挙に崩れてしまった。その名誉|毀損《きそん》の慰謝料と、訴状をこしらえてくれた弁護士への手数料とで、更に百万円上のせして請求してくる。二人はグルだからな。うちでは警察署の名が合法的に弁護士に脅迫の材料に使われているので、いつも迷惑しているが、相手はヤメ検で法律の玄人だ。訴えられた気のいいおじんギャルを脅迫罪で取調べにかからなくてはならない。多少法律は知ってるつもりの私でも訴状を受けとらざるを得ない。脅迫は刑法にある立派な罪だ。可哀相にギャルの罪名は脅迫未遂。専門家に睨まれると素人など、あっさり罪人にされる好例だ」
「それじゃ、弁護士を殺す以外、どうにもなりませんな。泥棒に追い銭は悲しいですからね」
[#小見出し] 女性の変身 三十代
別称 おじんギャル族[#「別称 おじんギャル族」はゴシック体]
少し前まではオールドミスや、キャリアウーマンなどといわれた。今は半ば畏怖をこめて、おじんギャルといわれるのは、スカートをはいている見かけだけを除けば、後は一切男と変りがないからだ。仕事はバリバリやる。遊びもスナックのはしごから、ゴルフのコンペ、寿司屋のツケ台で注文する口調まで堂に入っている。酒も強い。パチンコもカラオケも上手で小遣いもかなり潤沢。貧乏暮しを覚悟で結婚にとびこみ、子育てに追われ、お化粧もできない同年の友人よりはずっと若くきれいに見える。少し年下の、いうことを何でもきく彼がいて、性的にはまったく不自由していないので、昔のオールドミスの専売であったヒステリーも起きない。明るく朗かでとてもいい女している。ただし、ある日気がついて突然心がうすら寒くなる思いがするのは、かつては向うがあれほど真剣に申しこんでこちらが冷たく拒否した結婚話を、今はこちらがいくら水を向けてもとぼけられることだ。
その上よそからも結婚話を申しこんでくる人が皆無になる。そこに三十歳という、どうしようもない冷酷な現実を知る。大概会社で主任のポストにつく。
3
警視庁三階の無料ホテルは、昔と違って冷暖房も完備され、かなり居住環境はよくなっているはずだ。浮浪者の中には、酷暑、厳寒のみぎりはすすんで入居してくる者もいる。
しかし、本物のホテルと違い、剃刀《かみそり》類は一切置いていないので、何日かたつと自然にむさ苦しくなってくる。これは女も同じだ。
ひげこそ生えないが(外国人の中には生える者もいる)産毛《うぶげ》が自然に濃くなってくる。十日目にもなると、年よりはかなり若々しい美貌の樹里《じゆり》の顔も、眉の下あたりが暗い感じになり、やつれが濃くなる。大田警部は痛々しい思いで被疑者を見た。
取調室の窓からの光は、七月の半ばだから一年中でも一番明るい。それだけにずっと化粧を許されていないこの女が、もう決して若くないという現実をまざまざと浮き出させていた。たしか調書によると、勾留中の七月九日に三十歳の誕生日がすぎたはずだ。不幸なバースデイだった。
進藤と吉田が控えての訊問が始まる。十日目だ。あれからずっと一日も休まず、昼一杯の時間をかけて訊問は続けられているが、事態は一つも進んでいない。調書は相変らず、
『本職が……の旨訊ねると、大きくうなずいて、同意を示した』
だけが並ぶ。これではみっともなくて検事局に送れない。いっそのこと徹底否認、或いは黙秘の方が、それはそれなりに調書の作りようがある。パリの国際刑事警察機構《インターポール》での研修を終え、張り切って捜一初めての女性係長として着任した大田蹴鞠子警部が、その仕事で味わった最初の痛烈な挫折感だ。大学を出てパリへ行ったエリートが、調書一枚とれないのかと、全警視庁の猛者刑事《モサデカ》から笑われているような気がして、この数日、ノイローゼになりそうなほど悩んだ。しかし今日の大田の顔はさっぱりしている。
実は、昨日の夕方、これまでの経過を岩崎親分に報告したとき、
「ああ、心配するな。明日は落せるよ。君はただ、普通に取調室に呼び出して向い合っていればいい。後はこちらで細工する」
といわれ、今朝は何となく安心して、西野樹里被疑者と向い合った。
「今日は型通りの訊問はしないわ。こんなこと何日やったって、どうにもならないもの。今日はうちの課の管理官殿が直接、あんたにきくそうよ」
ところが時間になっても岩崎はやってこない。代りに乃木とお稽古が大きな衝立《ついたて》を廊下から運んできた。何だろうと見ている大田警部に乃木はいった。
「係長は、その机を部屋のすみによせて、そこで被疑者と向い合ってくださいといってます」
不審そうな顔で乃木を見る大田に、更にいう。
「ああ、これは管理官殿のご指示です。今日は一応、調書作成はしなくていいそうです。もう間に合わないので、他の方から証拠固めをするから、係長と被疑者はその衝立のかげで、参考人への質問をただじっときいていてください」
初めそれをきいたときは、大田警部は自分が無能だと宣告されたように思ってちょっぴり悲しくなった。だが乃木が最後に、
「ここで質問が行われている間、どんなことがあっても、一言も声を出さず、いる気配も、参考人に覚《さと》られないようにしてください」
といったのをきいて、これが、被疑者西野樹里の自供をひき出す、最後のウルトラCだと覚った。
部屋のすみを衝立で囲うと、係長と被疑者はそのかげに完全に隠れた。中から、二人には部屋へ誰が呼ばれて入ってきたかは見えないようになっている。向うからも見えない。
岩崎警視正がこれから質問に当るらしいことは、きこえてくる声で分った。大田の両脇で控えていた進藤も吉田も、衝立から出ていって、外の質問組に加わった。
普通、取調室へ入ったら、被疑者の手錠はすぐ外し少し自由にしてやるのだが、今日はまだ外していない。
鍵は、三階の留置監房《ホテル》から、六階の取調室まで押送《おうそう》してきた進藤が、ポケットへ入れたままで衝立の外へ出てしまったから、外してやれない。うつむいて、不安そうにしている被疑者と二人きりで、狭い場所で、お茶もなく、ただじっと向い合っている。
声がきこえ、二人の女が入ってくる気配があった。まず岩崎の声がした。
「いや……お忙しいところをすみません。一つ、お友達の罪を少しでも軽くするためと思って協力してくださいませんか。警察はちっとも怖い所ではありませんのでリラックスして、何でもいってください」
「はい。……私たちみな樹里《キリ》が大好きですから。キリというのはあだ名です」
「正確にはジュリさんですね」
「ええ」
「お二人のお名前と、住所と、ご職業、年齢をおっしゃってください。おっしゃることを証言として裁判に役だてるためには、発言者の身もとが明らかでないといけませんので」
「ええ、分りました」
二人の女性は、それぞれ、名前や、会社でのポスト、年齢などをのべた。衝立越しの声をきいた被疑者の顔が、明らかに動揺を示す。これまで一度も大田や進藤たちに見せたことのない表情だった。大田は唇の前に指を立てて無言でいるように示した。樹里はこっくりとうなずく。
「今度の事件についてまずどう考えましたか」
二人が交互に息をはずませて抗議するようにいった。
A「とても信じられません」
B「相手が悪いのに決っています」
A「親切な優しい方で、先輩で課長待遇の主任の職にありながら、少しもえらぶらず、仕事は進んでバリバリやるので、私たちはみなお姉さんのように慕っていました」
岩崎がきく。
「金銭面ではどうですか」
B「とてもしっかりしていて、人に借りたりしません。でも何かで私たちが足りなくて困っているときは、黙って、これ持っていっていいわと、二、三千円ぐらいはよく貸してくれました」
A「ブランド物のお洋服が好きで、それに背が高いのでとてもよく似合うのです。三十にもなると勤続年数が多いのでお給料もかなり多いのですが、大部分はいいお洋服を買うのに使っていたと思います。ときどき月末になると、カードを出しては『あ、今月もぎりぎりだわ』と冗談っぽく頭を抱えていました。その思いきった使いぶりが男の人みたいに大胆でした」
「恋人とか婚約者とかは」
A「一人いました。同じ会社の新製品開発部の技師さんです。たしか三つ年下とききました。結婚したいといってましたが」
B「私、その人好きじゃありません。その男の人には他に社内に一人、恋人がいるのを知っているのです。二十一になったばかりの、ショウルーム係のお人形さんのようなきれいな子で……そんなことはどうでもいいんですが、まるで知らないで、交際している、キリ姉さんが可哀相で……きっとデイトのときにいろいろと費用を出してくれるし、セックスの欲望も黙ってみたしてくれて、後くされがないので利用しているだけだと思います」
衝立越しにきいている大田の方が、今どきの若い子の大胆な発言に少し心配になって、被疑者を見た。声でも出されたら困ると思ったが、しんは強いのか唇をじっと噛んで、何もいわなかった。ただ眼には涙が溢れてきて、ぽたぽたと机の上に落ちている。
一時間ぐらいして、二人のOLは帰る。
次の参考人が来るまでには時間があると告げられたので、大田が進藤を呼んで手錠を外させ、
「毎日三階のホテル特製のモッソウランチじゃ辛いでしょう。天丼でもとろうかしら、本当は違反なんだけど」
といって、取調室へ出前を届けさせた。二人は向い合って喰べる。ついてきたお新香をいかにもおいしそうに喰べた。野菜ものが好きなのだろう。大田は職業を離れて、この三十娘が可哀相でならなくなった。
食事を終えて、つきそってお手洗いをすまさせると、再び衝立のかげで向い合った。
「悪く思わんでくれ。また手錠をかけさせてもらうよ。規則だからね」
進藤がそういって、被疑者に手錠をかけ自分は衝立の外に出て行った。
午後一時を少しすぎたころ、次の参考人がやってきた。岩崎は丁重に訊ねる。
「今日はごめいわくをかけます。それに先日は職場まで金を返してくれとやってこられて、ひどく困ったとおききしましたが」
女はいきなりわめきたてた。
「冗談じゃないですよ。いい災難だわ。ニュー・V・I・Pといったら、外国の元首や日本の皇族方でさえ、お出でになる格式の高い一流ホテルですよ。そんな所へ、たかが二百万円ぐらいの金のことでノコノコやってこられたら、これまでまじめに勤めて来た私の信用は目茶目茶だわ。ツアー・コンダクターの加藤百聞はたしかに二年前まで夫だったわ。でも、あんまりひどいことばかり外でするので、きっぱり別れて、今は何も関係ないのよ。亭主も亭主だけど、私の所へ文句いってくるなんて女も女だわ」
岩崎はいつものような、まるっきり感情のこもらない冷酷な声になっていた。
「あなたは二年前に別れてもう全然縁がないといわれますが、なぜ加藤の苗字のままでいるのですか」
このしゃべり方は、彼が最も憎む殺人犯に向って話す口調だ。大田警部にも分る。とたんに大田は嬉しさで胸がドキドキしてきた。
女は虚をつかれて少し黙りこんだが、すぐまたその一瞬のひるみを取り返そうと、機関銃のようにしゃべり出した。
「しようがないのです。彼がどうしても戸籍から抜いてくれないのですから」
「なぜでしょうか」
「きっと私の、ニュー・V・I・Pホテルに勤めているという、栄光ある肩書がほしかったのでしょう」
「そのままにしておくと、次に同じことがあると、別れたふりをした夫が、妻のブランド名を利用して、二人で共謀で詐欺しているという刑事《デカ》さんがこちらにも出てきます」
「まあーひどい」
とたんに女は、悲鳴のような金切り声を上げた。
「共謀だって。あんな悪党と。いくら何でもひどすぎます。それじゃ夫とグルでやってるみたいじゃない。そんな、人権|蹂躙《じゆうりん》じゃないですか。うちのホテルに、|アグネステン《ヽヽヽヽヽヽ》の事務所の人がよく世界中から来ます。その人に訴えてやります」
岩崎はますます冷静になる。
「|アムネスティ《ヽヽヽヽヽヽ》というのは政治的な迫害や拷問を受けた人しか救いません。個人間の金の貸し借りの問題によるトラブルは取り扱いません」
「だったら、弁護士の先生に相談しますわ。警察だって何だって、人権蹂躙は許しません」
「私たちはあなたの人権なんて全然蹂躙してませんよ。魚河岸署まで行って事情を聞き合せたところ、同じような問題が、数件続けて出てきたので、もしかしたらグルでないかと思う人がいると、事実を申し上げただけです」
「まあー何てことを。今日はあの殺人事件のことで、参考人としての意見をききたいというので、忙しいのに無理に時間を作ってやってきてやったのに、私を取調べるつもりなの。別件逮捕でもするつもりなの。これ以上は、弁護士さんが来なかったら一言もしゃべらないから」
「弁護士さんは、とてもありがたいものです。多分、あなたは何もしゃべらないですむでしょう。これは殺人罪本件とは、何も関係ないことですからね。その代り、もし、同じようにホテルへやってきた他の被害者から、同じように弁償金を取って、その幾分かを成功報酬として馬上弁護士に戻したことは、業務上の行為ですから良いのですが、どこにいるか不明のご主人に渡っていることが実証されると脅迫罪になります。逮捕されたあなたが、故人と同じ部屋のイソ弁に正式に選任届けを出し助けを求めると、これまでと同じ相談料程度ではすみません。着手金にまず二百万円はとられますよ。今度はもう終ったことですから脅迫未遂でなく本罪です」
女はわっと泣き出した。その盛大な泣き声が治まるのを待って、女に、夫の詐欺した二百万円の金の他に、被害者から百万円とり、弁護人と二人で山分けしたいきさつをすべて語らせてしまった。最後に岩崎はいった。
「まあ、このことは、別に事件にはならないでしょう。あなたのやったことは少しエゲツナイが、表面は合法の範囲の中にありますからね」
女を一応帰すと、十分もしないで三番目の参考人が入ってきた。今度は男らしい。同じように忙しい中の出頭をねぎらってから、警視正はきいた。
「あなたはどうして六本木署にとびこむ気持になったのですか」
「あいつが、これで結婚式をあげましょうといって出した札の一部に血がついていたからです。その前に『今晩は、近くの弁護士事務所に行って百万円を納めなければならないのが、身を切るより辛いわ。泥棒に、帰りにお小遣いやるようなものだもの』としきりに嘆いていたので、何かがあるものと感じていました。よく見るとブラウスに血が飛び散っていました」
「よく分りました。結果としてあなたがとびこんできてくれたおかげで犯行が早く分りました。こちらの調書の作り方しだいで彼女の罪はかなり軽くなります。刑法上の自首が成立しますから。ところで、ここで一つお聞きしたいのですが……」
「何でしょうか」
「あなたは加害者西野樹里と結婚する意志はありますか」
「とーんでもない、あんなおじんギャル」
彼は呆れたようにいった。
「……犯行後に、私に百万円出して結婚式をあげようといわれたときも全くその気は起りませんでしたが、彼女と知り合った三年前から、只の一度も結婚なんて考えたことはありませんよ」
大田は心配して被疑者の顔をじっと見つめた。何か叫び出したら困ると思ったが、大きい瞳に更に一杯涙をあふれさせただけで、何もしゃべらない。ほっとした。岩崎が追及する。
「単なる無料のセックス・フレンドですか」
「セックス・フレンドでもありませんよ。それならもっと若い人が沢山いますよ。馬鹿にしないでください。あんなおじん。離れるとうるさいので惰性でつき合ってやってるだけです。重荷です」
「これで私の質問は終ります。もう帰ってよろしいですよ」
と突然警視正はいって訊問を打ちきった。
途中で耐えかねて、両手で顔を押え必死に嗚咽《おえつ》を抑えていた樹里だったが、男がさらに、
「これでいいたいことをすべていえてさっぱりしました」
と最後に一礼して立去ったのを気配で知ると、デスクの上にうつぶして、わあーっ! と声を上げて泣き出した。泣きじゃくりながら彼女はいった。
「私、申し上げます。なぜ殺してしまったか何もかも、今、ここでしゃべります」
[#小見出し] 女性の変身 四十代
別称 オバタリヤン族[#「別称 オバタリヤン族」はゴシック体]
これはもう行き着く所まで行ってしまった感じだ。とてもあの夢見る少女の、僅か二十年後の姿とは信じられない。
ミスコンテストを攻撃し、吉原のおいらん道中の廃止を声高に主張し、女性の若さや美しさを評価しようとするすべての言動を、セクハラとして、斬って捨てる。
むしろ六十すぎのお婆ちゃんが、私の青春時代は、モンペでおいもばかり喰べて、軍需工場で勤労奉仕をいつもしていたのよと、淋しそうにいう姿の方がよっぽど可愛い。
なまじ、華やかで自由な女性がもてはやされるファッションとスタイル誌の一斉開花全盛時に、男性からチヤホヤの青春を味わってしまった反動だ。すぎ去った思い出への未練が、今セクハラ思想を錦の御旗に、若い女性の美を讃仰する男性亡者どもへのひたむきな攻撃にだけ生き甲斐を見出す、元ギャルのオバタリヤン族を発生させてしまった。
4
しばらく、机にうつぶしたまま、西野|樹里《じゆり》は泣いていた。もう勾留十日目。今日あたりは全面自供を得られないと、鬼の捜一としては、恰好がつかない。衝立はとり除かれて部屋は広くなった。
大田警部を中心に、その両側に進藤デカ長と吉田老人が坐る。
調書の上には万年筆が、キャップをつけたままおいてある。被疑者も四年制大学を出ているので、誤字や宛字をあとで指摘されて恥をかかないように慎重を期して、今日はわざわざ津田英語大出身の大田蹴鞠子係長が、直接執筆を担当することになっている。吉田老人や進藤はその調書を感慨深げに見ている。彼らが警察に奉職してから長いこと、調書は薄い罫紙を五枚重ね、間にカーボン紙を入れ、上にガラス紙をおき、骨筆で力をこめて書いたもので、えらく疲れる仕事であった。今は万年筆でサラサラと書いてコピー機にかける。警察の仕事も楽になった。総指揮者の岩崎管理官は、目立たぬように黙って部屋の隅に坐っている。
敏感にそれを感じとったのはむしろ被疑者西野樹里の方だった。涙で瞼《まぶた》が腫れ上り、昨日までの能面のような無表情が一変していた。
岩崎の方にぴたりと眼を据えた樹里は、
「係官さんにすべて申し上げます」
と決意をこめた口調でいった。岩崎が思った通りになった。大田警部がすぐ万年筆のキャップを外す。樹里が語り出す。
「人を殺すということが、どんなに大罪かよく知っています。私は最初から殺そうと思って、法律事務所に行ったわけではありません。馬上《うまがみ》先生が、午後六時までに事務所に加藤正子への慰謝料を持ってこないと、魚河岸署に告訴して留置場にぶちこむというのです。慰謝料は百万円です。既に自分が使ったおぼえもない二百万円の金の請求が、アメルクス・カード会社から回ってきて、それこそありったけの貯金を下《おろ》し、売れる物は全部売り尽くしてやっと払った後です。もう鼻血も出ないのに詐欺にかけられた方が、また相手に慰謝料を払うなんて、本当に口惜しかったのですが、留置場に入れられるのは怖いので、これまで友人や親戚、会社などから一度も借金などしたことがないのに、やがて苦しくなることはみすみす分っていても、やっと百万円作って持って行ったのです。予定よりも一時間おくれて七時になっていて、事務所にはあの怖しい顔をした馬上弁護士さんしかいませんでした」
一息ついたときに大田警部がきいた。
「そのときナイフはどこにありましたか。なぜ持っていったのですか」
そして調書にここで本職は……と質問したと書く。
「はい、ハンドバッグに入っていました。あの弁護士さんは、私が、加藤正子さんの職場へ別れたご主人の使ったお金のことで相談に行ったことは、ニュー・V・I・Pという一流ホテルの名誉を傷つけ、十二年間もまじめに勤めているその女の人の信用も目茶目茶にしたものだとひどく怒っていましたので、この最後の百万円を返してもなお、魚河岸署の留置場へ入れられる怖れがあると思ったのです」
弁護士に逮捕権などないことをよっぽど教えてやりたかったが、ここは全面的供述を得るのが先で、見送った。こんな風に相手に思わせたのもヤメ検だったからだろう。
「……もし留置場に入れられるような事態になったら、あまりに自分が情けないので、喉をついて死のうと思って、あの詐欺師のツアコンの加藤さんと一緒にトルコのカッパドキヤに旅行した時買った、アラビヤナイフを持ってきたのです」
つい大田は同情して職務権限を逸脱する言葉をしゃべってしまった。
「そう、自分で死ぬためね、はっきり書いておくわ。泥棒に追い銭をやったその上にブタ箱入りでは死にたくなるわね。ああ可哀相」
このへんがまだ捜査係としては、大田は甘いのだ。
「馬上先生は、立ち上ってきて私の手から百万円を受けとると、すぐ机に向い、背中を私の方に向けてその百万円を数えだしました。そうして数えながらいったのです」
取調室の全員が瞬間緊張した。一応大学を出て知的職業に就いている女だ。こんな単純な犯行に及んだのにはよっぽどの理由がある。
「……『いいかね。若いあんたに教えておくがね、今度は借金取りたてで相手の所に行くときは、必ず弁護士を間にたてて、法律的に喧嘩しなくてはいかんよ』とばかにしたような声でいったのです。私のハンドバッグの中のナイフは、自分でも何も気がつかないうちに、馬上先生の背中にまっすぐ突き刺さっていたのです」
大田がそこまで書き終るのを待って、すぐまた話を続ける。
「……十日間、三階の牢屋の中で、なぜ刺してしまったか、ずっと考え続けました。このごろやっと分ってきました。法律にさえ合っていれば、どんなに悪いことをしてもいい、法律にふれたら、正直で、まじめで、一生懸命働いていても、すぐ罪人にされる。それを決めるのは弁護士の考え方一つと思うと、弁護士そのものが憎らしくなって全身の力で刺したんです」
大田は、『必ずしもそんな悪い人ばかりじゃないのよ』と教えてやりたい思いを、今度は我慢して彼女のいうがままに書き続ける。
「気がつくと、死んだ人の手にまだ百万円がありました。実は、私には彼がいて三年以上もつき合って、結婚まで約束した仲です。私は三十の大台にもう少しで乗るので、今年あたりはどうしても結婚したかったのです。これまで挙式の費用が足りないというので、セックスだけはしてますが、式をあげていません。女の方から金を出してもというのが惨めで、そのことは彼にくどく言わないようにしていましたが、このとき、もしかしたら捕まって死刑になるかもしれないと思うと、今のうち急に結婚式だけあげたくなりました。彼が弁護士さんとの交渉を心配してくれて、バサララサバの店で待っていることを思い出し、少し血のついている札もまぜてすべて取り返し、店へ大急ぎで帰り、そこのテーブルで、彼に頼んだのです。『これで今から式だけあげましょう。どこかの教会へ飛びこんで百万円出したら夜でも式をあげてくれるわ』といったんです。そしたら彼は『心当りの教会が二、三あるから電話をかけてくる。ついでに、九州の実家に電話して、君との結婚を報告してくるから』といい、コンビニエンスで五千円のカードを買ってからでないと電話は無理だからといって飛び出して行ったんです」
そこまでいうと、また大きな瞳にどっと涙が溢れて、机の上に幾粒も落ちた。やっと息をととのえるようにして更にいった。
「三十分くらいして彼が戻ってきたのです。『どうだったの』ときくと、にっこりして、『何もかもうまく行ったよ。今晩はその前祝いで踊り明かそう』といって、二人でフロアーに出て、楽しく踊り出したんです。……そして、気がついてみると、いつのまにか、アベックの刑事さんたちにすっかり周りを取り囲まれていたんです」
大田はその供述を、樹里のしゃべる通り、一つも間違いないように正確に調書に残そうとして、額に汗を浮べ一心に書いている。
西野樹里は、この告白をした段階で、刑事犯の被疑者から容疑者になった。すべてを語り終えた安心からか、今度は両手で顔を押えて、指の間から涙を溢れ出させて泣いている。
ここで初めて岩崎警視正が発言した。
「大田警部、今日はもうそれでいい。検察に送るのにはまだ期間が三日ある。それから先のことは、単に供述の矛盾点の補正にすぎない、急ぐことはない。残りは西野容疑者の心境の落着くのを待って明日か明後日、ゆっくりやりなさい」
容疑者も大田も同時にうなずく。大田は万年筆にキャップをかぶせ、罫紙を片づける。
「樹里さんといったね」
と岩崎は直接容疑者に向っていう。
「君はこれから裁判を受けなければならない。日本の刑事裁判は地裁の一審から始まる。君はそのとき、自分がどうしてこんな犯罪を起してしまったか、その事情を裁判官に理解してもらうようにしなければならないが、日本の裁判の法廷では、君自身がそれを語る機会は一回もあたえてくれない。単に罪状を認否するかどうかの、機械的なイエスかノーの発言を判事の前でするだけだ。判事との対話は全く許されない。後はすべて、検事、弁護士が、質問をする言葉に対しての返事をするだけだ。判事から被告への直接質問さえ絶無だ。少しでも自分の立場を裁判官に理解してもらおうと思ったら、その気持が判事に分るような質問を、弁護士さんにこしらえてもらって、仕組んだ筋書きで、問答をすすめて行かなくてはならない。刑事事件で起訴されたら自分に一銭も金がなくても、必ず弁護士さんを頼まなくてはならないのは、弁護士がいなくては、物理的な意味で裁判がすすまないからだ。つまり近代の法廷は、被告自身が裁判官に上申し、弁明ができない。今、君が申しのべたことは、私らの調書で裁判官の手もとにはとどくが、君が直接法廷で裁判官に訴える手段はとざされている。だから弁護士の良し悪しが、量刑におおきくひびく」
樹里は両手を顔から離すと、きっと岩崎を睨みつけていった。
「弁護士だけはいやです。大嫌いです。それに頼むお金もありません」
「どうしてもお金がないなら国選弁護人にやってもらうことになる。国選といっても、決していい加減なおざなりの人ばかりではない。弁護士の本分である、正義の実現のため、積極的に取り組んで、罪の軽減や無罪のため奮闘努力する、神様のような人も多い」
「それでも弁護士だけはいやです」
「君がいやでも弁護士はつくよ。私の大学時代の同級生で、全身、正義感のかたまりのようなのがいる。その人を国選扱いで何とか君につけるようにするから、強情をはらずにこれから何でも相談しなさい」
それから大田に、
「もう三階のホテルに戻して、少し休ませてあげなさい」
といって連れて行かせた。進藤デカ長と吉田老人だけになると、岩崎は急にきびしい声でいった。
「明日、婚約者の男をもう一度重要参考人扱いで任意出頭させなさい。ここで、顔のごつそうな刑事《デカ》さんだけ七、八人で取り囲み自然に威圧感をあたえる。訊問は進藤デカ長が担当する。かなり荒っぽくやりなさい」
進藤はがぜん張り切った。
「あのニヤケ野郎にどんなことをききますか」
「容疑者と話してる最中ぬけ出して六本木署に密告に行ったのは、自分一人の意志か、樹里に頼まれたかの別だ。その返事によって裁判官の心証が全く違ってくる」
デカ長は早くも岩崎の考えが読める。
「どちらにしたらいいのですか。証明できるのは彼一人ですから、どんな答えも真実の表現になります」
「あんたが考えて、樹里さんの罪が軽くなる方の答えをひき出しなさい」
「かしこまりました。そういうことなら、この進藤に任せてください」
「決して誘導訊問をしちゃならんよ」
「そんな、若い検事や、世間知らずの判事にけどられるような素人訊問はしませんよ。参考のため、三階のホテルで、三食正座、点呼、布団の上げ下げの作業つきの、楽しい生活が、もしかするとあるかも知れないとチラチラ匂わせながら、本人の自由な意志による任意の調書を、立派に作り上げておきますよ」
それに対していいとも悪いともいわない。
「君はもう奉職して三十年になるんだな」
といっただけであった。
それから三日で、一件送付のすべての書類が片付いた。刑法上の自首に当ること、同情すべきことが多いこと、一瞬の激情が支配して、前後も分らず犯した衝動的な殺人であったことなど、警察サイドとしては、やや異例なほどの情状面を取り上げた調書に仕上げた。大体岩崎の考えた通りになっている。
最後の部分は、警視正自身が執筆を受け持ち、これまで調書の恒例句である、……よって寛大なご処置をお願いします……という字句を書くことをかたくなに拒否してきた警視正が、自らそれを書き入れて、長いコンビの進藤デカ長をびっくりさせた。
十三日で、書類、身柄とも検察庁に送り、事件は捜一の手を離れた。後は司法当局の判断を待つばかりで、それ以上は警察ではどうにもならない。ただ警察官の信条である社会正義のために全力をあげたという|すがすがしさ《ヽヽヽヽヽヽ》が残った。
翌日の十四日目、やはり火曜日だ。退庁まぎわに警視正が大田係長にいった。
「今度の件はごくろうだった。直接関与した諸君だけで、夕飯でも喰おう」
大田が岩崎の旨を承り、夕方の七時に帝国ホテルのいつもの十八階の部屋に、事件を担当した刑事《デカ》さんたちを集めた。
進藤デカ長、吉田老人、乃木とお稽古、それに乃木の旦那の六本木署長で、もと一係長だった高橋警視、六本木署の捜査主任と、ライブハウスの捕り物に向ったアベック四組の捜査陣などに、洩れなく声をかけた。特に六本木署の所轄|刑事《デカ》さんは、帝国ホテルで食事をするのは初めてなので、最初はみな緊張していた。
岩崎警視正自らが、所轄の刑事さんの盃にレミー・マルタンを注いで回りその協力に感謝した。本来は犯人が割れている事件で、所轄だけで一件すべてが解決できるのを、捜一が横から攫《さら》ってしまった感じになった、そのことを詫びる意味も少しあったようだ。
酒が回っている中にみなの気持もほぐれてきた。
だんだん機嫌よく饒舌《じようぜつ》になって行く。
「ああ、ちょっときいてくれ」
そう警視正がいったので、みなぴたりとおしゃべりをやめた。このへんが警察官の集会が、普通の会合と違うところだ。しかし岩崎もその敏感な反応に少しテレている。
「いや、それほどまじめな話ではない。固く考えるな。女の人にだけきいてもらおう。もっとも乃木はもう結婚しているから用はない。大田警部にお稽古、それから六本木署名物の美人婦警さん方だけにいいたいのだが……」
ふだん用件以外は全く無口の警視正が、一体何をいいだすのかと、みなはじっときいている。
「……君たちは今はみな二十代だ。人生は希望にみちている。しかし人間誰でもみな五年たてば五つ年齢がふえる。身長百七十センチ以上で、月給五十万以上、一流大学出でやさしくてハンサムな人なんていって選り好みしているうちに、あっというまに三十になってしまう。仕事は男なみにできても、三十になったらもういいかげんな男しかよりつかなくなるし、よりついても、只でセックスを楽しまれるだけで、決して結婚だけはしてくれない。今度の事件で諸嬢はこのおじんギャルの淋しさをよく納得してくれたと思う。大田、お稽古、いいかひとごとじゃない。早く乃木みたいに適当なところで、我慢して結婚しなさい」
チラと腕時計を見た警視正は、乃木に頼んで部屋のすみのテレビのスイッチを入れてもらった。勾留十三日間、ほぼ自分の思った形で送検できた。丁度二週間目。また『火曜日の歌謡曲』の時間がきた。
テレビがついたとたん画面一杯に、タイトのスカートをはちきれんばかりにした、三つの大きなお尻が、くるくる回っている。高橋警視(乃木の旦那)少し渋い顔。
※[#歌記号、unicode303d]親爺《おじん》 親爺《おじん》 親爺《おじん》娘《ギヤル》
私は三日月型《クロワツサン》 親爺《おじん》娘《ギヤル》
[#改ページ]
[#見出し] W 記号論アハハーン
[#小見出し] 巷の哲学 戦前
相対性理論 アインシュタイン[#「相対性理論 アインシュタイン」はゴシック体]
現代の日本人が、どのような哲学と思想を持って生活しているかを後世の人が知るのには、天才漫画家証城寺さだを氏の名著『男性分別学』の一書が一級基本文献となろう。
昭和の初め、ドイツ生れのアメリカの物理学者アインシュタイン博士の、相対性理論が発表されたときは、新しい物が好きで、哲学的思考に憧れる日本の文化人は一斉にその学説にとびついて、誰も彼も論じ出した。ただし、巷でいくら話し合ってもまるっきり雲をつかむような論争の空《から》廻りで、みな難解を嘆いているとき、徳川|夢声《むせい》氏の名著が簡単に解決してみせた。彼は活動弁士だったが、トーキー普及後は、いち早く漫談家に転向し、その後話術の名人として一世を風靡《ふうび》した。人生を鋭く風刺するユーモア小説も沢山書いた。著作の中に、あるにきび面の少年が、相対性理論を見事に解説する部分があり、これがガリレオ以来の地球物理学の新学説を、最も分り易く説明した書として大ベストセラーとなった。現在、残念だが国会図書館にも残っていない幻の書である。
その頃、沢山の日本人が理論を論じ合ったのにもかかわらず、日本は世界最初で唯一の原爆体験国になってしまったのは、勉強が足りなかったせいか。
1
一発必中。始業のベルが鳴り終るとすぐに茶碗に注がれる番茶の茶柱は、真っ直ぐ太いのが中央に一本立って狂うことがない名人芸を、峯岸稽古婦警は誇っている。半年の間、秘かに先輩乃木圭子婦警の技を盗み見してやっと物にした秘芸だ。
八月の六日月曜。真夏でも冷房がかなり効く庁内では、朝の始業のひとときは、長い間の習慣で大薬缶で注がれる熱い番茶が一番おいしい。
ところが、今朝の第一発目がまたおかしなことになった。冷静で何事にも醒めている岩崎管理官殿が、この茶柱だけは気にする。どういうわけか、うまく立っている時は中を見もせずにすぐに飲むのに、十日に一回か、一月に一回、ごくたまに、すっきりと立たないときに限って気がついて、しげしげと中を覗きこんだりする。お稽古の技が未熟なのでなく、むしろ何かの天意を表わす超常現象なのだが、お稽古にしては、そのたびに申し訳なさで身も世もなくうろたえる。今日の茶柱の乱れも、果してもう気づかれてしまった。茶碗の中を岩崎はじっと見つめている。頼りなげな細いのが三本もとび出してきて、三つともすぐ底に深く沈んでしまったのである。しかしもうどうにもならない。次の村松警視・大田警部の二人の係長のデスクに行かなければならない。そちらに向ったとたん、やはり管理官の机上の電話が鳴り、端末が乃木のデスクにあるのにもかかわらず、即座に岩崎がとって、
「こちら捜一」
と答えた。一係二係の全員は殺人事件が発生したことを知って緊張した。しばらく話していた岩崎の言葉が突然英語に変った。といっても、英検二級の乃木の語学力では全く一語も分らない。津田英語大学で四年間厳格な授業を受けてきた大田警部でさえ、辛うじてニューヨーク下町のヤンキー英語を猛烈な勢いでしゃべっているな、と分っただけだ。
それから三時間、全く目が回るほど忙しかった。
乃木圭子と峯岸お稽古、岩崎警視正と中村刑事の四人は、ともかくパトカーに乗って成田空港のカウンターに着き、既に搭乗準備が始まっている、十二時発の、JAL(日本航空)の、ニューヨーク行きに乗りこんだ。多くの刑事の中で突然三人が指名されたいきさつも分らないし、成田でパトカーを降りて、JALのカウンターへ小走りに行くまでは、自分たちがどこへ行くのかも分らなかった。
パトカーの中では、岩崎の頭のコンピュータが猛烈な勢いで働いているらしい。じっと目をつぶって何か考えている。こういうときうっかり話しかけると、極度にとぎすまされた頭脳にいきなり低次元の言葉が突き刺さるので、頭脳の回路がこわれてしまう。三人ともじっと押し黙っていた。
捜一の岩崎警視正の指揮下の刑事は、いつでも即座に海外に飛び出せるよう机の抽出しに旅券が入っている。タオル、石鹸、歯《は》刷子《ブラシ》などは、世界中どこへ行っても手に入る。着替えの下着なども行く先々で間に合せる。なぜ持って行く必要があるのか。命令を受けると同時に世界中どこへでも出かけられるのが、岩崎の部下の心得であった。
747(ジャンボ)のファーストクラスは、一階の普通席と区別して、階段を上った二階の二十人ほどの特別室になっている。しかもその最前列はプレジデント席といって、ゆっくり足をのばしてくつろげる。お稽古は、外国旅行は初めてだから、珍しくて周りをしきりに見回して落着かない。しかも出発直前に庁内で同行を命ぜられたとき、岩崎から、
「お稽古は合気の何段かね」
ときかれた。
「二段です」
そのときは誇らしく胸を張って答えたが、いざニューヨーク行きの飛行機に乗ってしまうと、急に心配になってきた。ニューヨークにはギャングが多いときいている。ギャングはみなピストルを持っている。いくら合気が強くても、正面からピストルを向けられたらとてもかなわない。それに中学・高校の六年間、武道教師の父が『夷狄《いてき》の言葉など大和《やまと》撫子《なでしこ》は無理に覚える必要はない』といってくれたおかげで、英語はがっちり怠けてきた。もし町の中で迷子になってギャングにさらわれたら、麻薬を注射されて、街角に立つ売春婦にさせられてしまうのではないか。初めての外国行きは嬉しいことは嬉しいが、急に怖くなってきた。
飛行機は定刻十二時には、軽やかに空中に飛び上った。思えばこの三時間は凄かった。私服への着替え、洗面、パトカーの手配、ピストルだけロッカーに入れ、他の四点(警棒、警笛、捕縄、手帖)はいつものショルダーに入れ、パンプスをはいて小走りに中庭へ出たのが十五分後で、三人ともお互いに話し合う時間もないほどだった。
飛行機が水平状態の航行に移り、特別室用の特に美しいスチュワーデスによって、ジュースやコーヒーが配られるころ、やっと心の落着きも取り戻した。
岩崎も深い思索からさめたようだ。
「私たちはこれからニューヨークへ行く」
といった。
既にJALのカウンターでニューヨーク行きは分っているが、改めてそれをいわれると、乃木が少し呆れたように答えた。
「ほんとにニューヨークですか」
「ああ。当然警視庁の管轄外だ。捜査権はない。ただ、ニューヨーク州警察から正式な応援要請があった。それも明日中に解決しなくてはならない緊急の事件だ。それで何も話をする時間もなくて、私が必要な諸君だけに来てもらった。君たち三人が必要な理由を今いう。一番はお稽古だ」
「はい」
やや嬉しそうに答える。
「君にはふだんの合気のお稽古の成果を見せてもらう。いくらニューヨークだって、しょっ中ピストルが鳴っているわけではない。特に現在のディンキンズ市長は銃器の所持にきびしく、許可証もなく携帯しているのが見つかっただけで無期を含むきびしい刑にされる。だからバーや、夜の街角で金持日本人と分って、からまれるときは、ナイフかナックルだ……」
ナックルとは拳にはめる鉄のサックで、捜一に入るとすぐ殺人器具の一つとして見せられる。
「……何しろ世界に冠たる都市だ。どこで僅かな金欲しさに襲われるか分らない。ピストルにはピストルしか対抗できないが、ナイフやナックル、それにボクシングなら合気の守備範囲だ。私ら三人は傍観しているから、お稽古一人で頑張ってくれ」
「え、私一人でですか。女の」
「女、男は関係ない。月給は同じように支給されているはずだ。それに二段は二段なのだろう」
「ええ、それはそうですが」
泣きそうな顔で大きくうなずく。
「もしピストルがこちらに向いてきたら中村一人が相手してくれ。ケネディ空港には、担当の捜査官が待っていて、君がふだん使っているのと同じ口径の38を持ってきてくれる。警察用ライセンスと一緒にだ。滞在中は中村はいつも背広の内側にそのピストルを吊っていてもらう。ところで仕事だが」
と話が乃木を素通りしそうになったので、乃木があわてて口を挟む。
「それで私は何をするのですか」
「いや乃木のすることは何もない。ただついてきてもらっただけだ。単なるスペヤーだ」
「ひどい。じゃ来なければよかった」
「まあ、新婚ホヤホヤの人間をあまりくっつけておくと、ろくなことにならないから少し離しておくためだ。中村だけ離しておくのでは、不公平だからな」
中村刑事もまた、先年同じ捜一の一係の原田ひとみ刑事と結婚した。原田刑事は新大久保署に転勤となって元気に勤めている。乃木が、
「そんな簡単な理由なんですか」
と不服そうにいうのへぴしゃりといった。
「お稽古は独身の娘だ。男二人の出張に、公務とはいえ女一人だけ連れて行くわけにはいかんだろう。それに乃木だって、私とお稽古がニューヨークへ行って、自分がおいて行かれたんでは、面白くないだろう」
そういわれるとたしかにそうだから、顔を赤くしてうなずく以外なかった。
「ところで仕事だ。まだ詳しいことは何も分っていないが、通知があったことだけ、三人に伝えておく。十日ぐらい前にヴィレッヂのすぐそばのアパートで、一人の日本人の女性が殺された。ヴィレッヂというのは本来は村という意味だが、この場合はワシントン広場の周りの、通称グリニッヂ・ヴィレッヂと呼ばれる一帯だ。『ワシントン広場の夜は更けて』という、軽いリズムの曲がはやったことがある。もう一つのソーホー地区とともに、芸術家たちが住む町としても知られている。ということは、規格外れの人間が多くて、警察ではいつも手をやいている地区ということでもある」
三人ともニューヨークのことは殆ど知らないので、警察手帖に岩崎警視正のいったことをメモして行く。
「女の殺され方が無残であった。一見三十四、五歳の若々しい感じの日本女性だが、アメリカでは日本女性は年齢より若く見られる。本当の年は不明だ。アパートの四階の自室で殺されたらしいのだが、その死体の二つの乳房が鋭利な刃物で切りとられた上に、全裸のまま、部屋の裏口から通りに面した非常階段に出され、鉄の手すりに首に紐をつけて吊されていたそうだ」
女二人は同時に『まあ』『ひどい』などと声を上げた。いくら鬼の捜一の刑事といっても女性である。同じ女性の痛ましい死に方には衝撃を受ける。
「……まあ、それがどんな具合だったかは多分、今日のうちに、君たちが直接見ることになる。ニューヨーク市の死体置場《モルグ》は見事なものだそうだ。アメリカへ来た記念についでに見ておくといい。捜一名物鬼の娘《ギヤル》刑事《デカ》としては」
女性二人は少し顔をくもらせたが、殺人専門の捜一の中堅としてはいやとはいえない。これではニューヨークへ行っても、ティファニー宝石店や、キャッツをやっているブロードウェイのミュージカルなどを覗くことなど、とてもできそうもないなと思った。
岩崎警視正は不思議な人で、そんなことを乃木がまだ口に出さない前に、その答えが返ってきた。
「何しろ乃木、この大事件を私たちは、今日六日の月曜一杯と、七日の火曜日には解決して午後には、犯人に対する処置を決めなくてはならないという、恐しくきびしいタイム・リミットがかかっているのだ。ティファニーもブロードウェイも、気の毒だが今回は無縁だ」
きいているうちに乃木は気持悪くなった。心の中で思っていることにまで返事されたら、もう何か思うこともできなくなる。
「それでは、なぜ私たちが呼ばれたかについて話す」
スチュワーデスが、ジュースにケーキや桜んぼを銀の皿にのせてもってきた。
さすがにファーストクラスはサービスの質が違う。早速桜んぼをつまむ。スチュワーデスが去ってしまうとすぐに説明が続いた。
「私が日本で、報告を受けた時点では、本当は名前、年齢、職業など一切が、ニューヨーク市警に分っていたらしいのだが、なぜか『電話ではいえない重大な秘密事項だから、ついたときにお話しする』といって、はっきりさせなかった。これはかなり異常な事態を意味する。犯人はもう検挙されている。困ったことに有力容疑者が三人とも日本人だ。私たちはその中で真犯人を一人だけ見つけ出す。その日本人の女は、よほどアメリカ人とは孤絶した生活を送っていたらしく、殆ど人が訪ねて来なかったそうだ。それに女が室内で殺され、死体から乳房も切りとられ、全裸で部屋の外側の非常階段に吊されていたのは、犯人がかなり長い間部屋の中でゆっくりできたからだ。アパートの管理人は、彼女の所を訪れてくるのは三人の日本人以外ないというのだ。一日中出入りの人を見張る以外仕事がないお婆さんが確信を持っていい切るのだから、この証言は信用できるらしい。ただし管理人室の窓口から覗いただけでは、日本人は三人とも同じぐらいの背丈で、顔は窓からの視界では切れてしまうので誰かが特定できない。そこでニューヨーク市警の二十三分署の、マーロウ・デカ長がただちにきき込みに回って、三人とも全部一応検挙してしまった。どんな人間でも、叩けば埃《ほこり》が出る。勾留の口実は幾らでもできる」
多分、よその国に住んでいる外国人の身分や人権というものは、どこの国でもそういう不安定のものだろう。日本でもある種の国の人間に、ときに強引な取調べをしたことがないわけでない三人は、複雑な表情でお互いに顔を見合せた。
「しかしそうはいっても、刑事訴訟法はどこも似ている。しかもアメリカは弁護士の力が強い。いかに市警の猛者刑事《モサデカ》でも十日目の火曜日の夜の十二時までに容疑が固まらなくては、もう署においておけないリミットになった」
乃木が何かに気がついたようにいった。
「じゃあ、あと一日しか残ってないのですね」
「なぜだね」
「月曜の昼の飛行機に乗ったわけです。直行で十三時間かかります。どうしても到着するのは火曜日です」
「ところが地球はそうなっていない。月曜の午前十二時に日本を出た飛行機は同じ月曜の午前の十一時に着く。地球の回り方より飛行機のスピードの方が早いのだよ」
最後の部分は嘘で乃木をからかったのだが、時差の仕組が分らない乃木は本気にした。そこでまた岩崎はからかった。
「……だから飛行機に永久に乗り続けていると、人間は一日一日前の日に戻って、だんだん若くなる。これはアインシュタイン博士の相対性原理という理論で証明されている」
大まじめでいう。乃木は本気になって信じこんでしまった。
十三時間の航行で、二度機内食を喰べてニューヨークへ着いたときが同じ日の午前十一時だ。これは理屈抜きの現実なのだから仕方がない。
少し眠くなった目を無理にぱっちりあけてケネディ国際空港に降り立つと、混雑した入国審査待合室に、バート・ランカスターを頭だけ禿げ上らせたような大男がやってきて、岩崎に握手して話しかける。長い入国者の列を横目に審査カウンターの横のバーを上げて、さっさと出てしまい、外の事務室でパスポートにスタンプだけ押させると表に待たせたリムジンに乗りこむ。それから、男はゆっくりといった。
「ニューヨーク・シティ・ポリス、チーフディテクティブ、マーロウ」
幼児にきかせるようなゆっくりした発音だから乃木の英検二級でも、この人がマーロウ刑事だったと分った。
[#小見出し] 巷の哲学 戦後
実存主義 サルトル[#「実存主義 サルトル」はゴシック体]
一九四五年の敗戦による神国日本の崩壊は、既成の価値観を一挙にくつがえした。その混乱の世情の様を正当化する哲学として、実存主義は嵐のように焼跡の日本を席捲していった。
サルトルとその愛人であるボーボワール女史の名は、「君の名は」の後宮春樹とともに新世代の旗手として讃仰された。
日本では実存哲学を学問的に追究した文学者は少ないが、価値概念の崩壊の中で苦悩した、椎麟・野宏・埴高などの文学者は多い。
しかしこれが多くの男女を魅了していったのは、当時の若い男女の最大の関心事であった、日本人も街角や公衆の面前で、欧米人なみにキスしてもいいかという、実存的な大命題があったからである。
もともと、世界の中に孤独の単独者として存在している自分に立ち向うための哲学で、合理化できない悪や事実を主張しているのであるから、いくら世間の目がきびしかろうと、街頭でのキスは理論的に容認されたとして、勇気を以て試みた人も出てきた。しかし四十年後の現在もまだ日本では駅頭でも玄関でも堂々とキスする男女が見られないのは、この実存哲学は日本人にはなじまないものだと、証明されたのにひとしい。
2
ニューヨーク市は、海や川に囲まれた大きな島のような土地だ。クイーンズ地区にあるケネディ空港から、市の中心部マンハッタンへ入るのには、イーストリバーの下の長いトンネルをくぐる。車はリムジンだから、五人がサロン風に中で向い合ってしゃべれる広さだ。
マフィヤや、金持の連中が乗るリムジンには、中にテレビや、バーのスタンド、洋酒棚があるが、これはそういう高級車に見せかけた警察の実用車なので、酒瓶はない。無線機、サブマシンガン、防弾チョッキなどが、きっちりと収納されている。
マーロウ刑事は自分のブルックリン訛りの強い言葉をそのまま分ってくれる日本人がいて、ひどく機嫌がいい。ニューヨークっ子らしくジョークの連発だ。
「私の頭はトンネルをくぐるとき室内灯がいらないので、空港への送迎係にされました」
と光った頭をさしていう。岩崎は自分一人だけ笑うわけにはいかないので、みなに日本語で教えてからついでに、
「みなも笑ってあげなさい。当人喜ぶよ」
とつけ加えた。三人も一応面白がってみせる。すっかり得意になって、
「私の名はマーロウ。但し残念ながらフィリップではない」
ここで笑えとまたつけ加えられて、納得できたのは翻訳本を読んだことのある乃木一人、あとの二人は理由が分らないままに、大いに面白がって見せた。
トンネルを抜けると、すぐ右に巨大な国連ビルが見える四十二丁目通りに入る。いよいよニューヨーク市に入った。左折して一番街を走る。マーロウ刑事は自分のジョークに素直に反応してくれたので、ますます饒舌になっている。
「電話でお約束した通りまずガイ者の女の名をいいます。ミス・フタバノミヤ・フタバコです」
日本人ではないからごくあっさりいうが、下に|ノミヤ《ヽヽヽ》とつく名は普通の日本人にあり得ない。四人はすぐ偽《にせ》者と考えた。
そのうえ、苗字と名が同じというのもおかしい。
「年は実は五十八歳だと分りました。しかし彼女を知ってる人やアパートの管理人などは、全員三十五歳ぐらいだとばかり思っていました。それぐらい若く見えたのです。中には近くの大学に通っていた女子学生だと思っていた人もいる。日本人の年は分りません。もっとも日本の殺人課の刑事さんの中には、ハイスクールのティーンエージャーのお嬢さんにしか見えない若い人が交ってるのですからね」
それも訳し終えて、岩崎はついでにつけ加えた。
「サンキュウとお礼をいいなさい。これは君たちへのお世辞だ。当人はジョークでなくそう思っているよ」
乃木とお稽古は同時に大声でサンキュウといって、マーロウのがっしりした手と握手した。車は最初の一番街通りで左折してそのまま十分ぐらい走る。
「この路が十四丁目通りで交叉するところにある建物で、フタバノミヤがお待ちかねです。名前の下にミヤがつくのは、ロイヤルファミリーだけだそうですね」
誰か日本人からきいたのだろう、彼も知っていた。アメリカには王室がないから必要以上に気を遣う。それでわざわざ日本の警視庁に連絡したのか。しかし、博識の岩崎警視正も双葉宮という名の皇族はきいたことがない。
乃木が急に変なことをいい出した。
「私、思い出したことがある。何かの芸能雑誌のスターの座談会でちらと読んだの。終戦直後の日本に、双葉|香《かおり》という女神様のようにきれいな少女がスターとしてデビューしたことがあるんですって。ところが当時、日本はアメリカ軍に占領されていた時代で、映画スターも、有名人のお嬢様も、アメリカ占領軍、当時は進駐軍と呼んだらしいのですけど、その進駐軍の高級将校からパーティに招待されて、その晩に軍の宿舎に泊って行けといわれるとオキュパイドの日本人は断れなかったのですって」
四十年以上も昔のことだ。真偽はたしかめようもないが、そんなことはあったのかもしれないと納得できる。
「その双葉香さんは、デビューして三カ月もしないうちに進駐軍の副司令官の愛人になってしまって、映画界から退き、翌年にはその軍人がアメリカへ帰るとき一緒に連れ帰って、それ以後全く消息が知れないんですって。そして当時から、その双葉香は、さるやんごとない家のお姫さまだという噂があったのですって」
よく思い出してくれた。芸能界のゴシップにはやたらに詳しい乃木を連れてきて無駄でなかったと、岩崎が感心したとき、リムジンは東十四丁目通りに着いた。角に渋い煉瓦造りの八階のビルがあった。車が停り、マーロウ・デカ長に続いて、四人は薄暗い陰気な建物に入った。岩崎は入口の看板を読んだ。
『ニューヨーク州検視局』
マーロウが先に立って歩きながら振り返って、ニヤリと笑っていった。
「ニューヨーク州刑法が死刑を廃止し、電気椅子にくもの巣がはりました。おかげでこの検視局はばか忙しくなったのです。夏の気の狂うような暑い日には、一日六十人も運びこまれてきたこともあります。本当なら日本の女性一人の死体などに、そう熱心にかかわっていられないところですがね」
建物の壁全体がグリーンで統一され、暗い森の中に入ったようだ。行き交う人々も多く、それに町の騒音や、中の話し声がきこえてきてかなりやかましい。廊下の突当りに鋼鉄の扉があり、守衛が立っているが、マーロウ刑事と、連れてきた日本人の一行を見てすぐに扉をあけた。その先はスチール製のラセン階段になっており、下りると地下一階だ。トンネルのような廊下をくぐって行く。だんだん、ホルムアルデヒド(ホルマリン)の匂いが強くなる。死体保存室か解剖室が近くなってきたのだ。解剖室の前の廊下には、解剖を待つ死体をのせた運搬車が二十台以上も並んでいる。ステンレスの板の上には、キャンバスで作った袋に入れられた死体が、番号札をつけてのっている。その廊下の両側が床から天井まで何段もの抽出し型の金属ロッカーになっていて、とっ手の下に番号と性別・名前が書いてある。中にもみな死体が納まっているのだろう。
もう一つ扉をあける。冷気がしーんと押しよせてくる。薬品の匂いよりも今度は更に血や内臓の腐臭が強くなる。夏の婦人用スーツは袖がないし、あまり他人に発表したくないことだが、スカートの下は短くて薄いの一枚で、女二人の腕も足も外気に触れる所は全身に鳥肌がたった。
中には三十台はあると思われる解剖台が並んでいて、それぞれの台に、四、五人の医師と看護|夫《ヽ》がついていて、体の各部分を切り開いては死因の特定をやっている。右の列の三番目の台にいる医師にマーロウは手で合図して近よる。
女の死体が、全裸の姿のまま仰向けにおいてある。顔だちは昔はかなり整っていただろうと思わせたが、今、化粧も衣服もとってしまったむき出しの姿では、五十八歳の年はそのままに出ている。首筋はげっそり肉が落ち、肩もしわでたるんでいて、整形したらしい鼻だけが高く尖って目立つ。乃木とお稽古はそっと口を押えた。いやしくも捜一のメス鬼といわれた二人だ。こんなことで吐いたりしては、永久に笑いものにされると、辛うじて耐えたが、二人の目は大きく見開かれ、頬がひきつる。死体の首の赤い索条痕のすぐ下から皮がはぎとられ、双つの乳房がまるきりとられていて無い。もう五十八歳では、それほど男を魅了する形はしていないだろうが、しかし剥ぎとられている体は何とも無気味だ。
「これがガイ者です。なぜこんな無残な殺しかたをしたのか、三人の容疑者に聞いてみましたが、一人として犯行をみとめていないのだから、当然返事はありません。三人ともそれ相応にアメリカの言葉をしゃべれるのに大事な部分になると、言葉が分らないふりしてとぼけてしまう。それで日本から特別にあなた方のお出でを願いました。普通この程度の事件は、二十三分署だけの内輪の取調べで処理し、結果は他の多くの殺人事件と同様に犯人不明で終ります。何しろ犯罪都市のニックネームもあるニューヨークですからね。女の名前と、一応容疑者として逮捕した三人の名が、全部日本人なので、市警長官から総領事館にも通知が行ったとき、翌日には、どういうわけかワシントン市の公安長官から、市警長官に極秘扱いで『厳重調査せよ。必ず犯人は正確に特定して処分せよ。尚これは、日本政府の中のかなり高位の有力者からの特別の依頼である』という通達がきましたよ」
四人はうなずく。マーロウ刑事はこぼす。
「日本の人は顔を見ただけでは、心で何を考えているかまるで分らない。弁護士は外で騒ぎたてる。期限は明日の夜までしかなくなった。そこで仕方なく応援を頼んだわけです」
異臭が体にこびりつくようだ。四人が来たのを待って、下腹部の検視をするため、臍《へそ》の下から恥毛の中心にかけて一本縦に切り裂いて、腹腔の皮を両側によせて子宮の部分をむき出しにして行く。黄色い脂肪が皮の下に露出する。
「もういいでしょう。つまりこの人の事件だと分っていただければいいのです。次には三人の容疑者に会ってください」
マーロウがそういってくれたのでやっと解剖室を出ることができた。女二人はホッとして、外へ向って出て行く足もつい早くなる。ピストルの名人の中村も、顔は少し青白い。入るときも出るときも変らないのは、岩崎警視正とマーロウ・デカ長だけだ。地下の極度に冷房のきいた部屋から外へ出た。眩しい太陽の光りと八月の丁度正午すぎという時間で、摂氏四十度に近い酷暑だ。一瞬足がよろめいた。
急いで乗りこんだリムジンの中はかなり冷房がきいていたので救われた。車はまた走り出す。隅に小さな冷蔵庫がおいてある。マーロウがコーラとサンドイッチをとり出す。むした鶏肉を冷やした、アメリカ人の好きなコールドチキンが挟んであるサンドイッチだ。ぶつぶつした鳥肌とピンクの肉との間に黄色い脂肪がはみ出していて、さっき現実に下腹部の脂肪の層を見たばかりの中村と女二人は、一瞬ぐっと胸が詰って喰べるのをためらったが、岩崎に例の人の魂も凍らせる冷酷な目で睨まれると、あわててこみ上げてくる吐気《はきけ》の上に押しつけるようにして、むりにのみこんだ。こんなことはもう馴れっこになっているはずだと、自分を叱りつけて喰べる。
東十四丁目通りを六番街の交叉点まで行く。六番街はいわゆるアメリカ大通りだ。そこで左折する。右側通行だから大曲りして反対側の車線を走る。
左側に広場があり、中心に凱旋門を小型にしたような門があった。マーロウがサンドイッチをつまみながら陽気に説明する。
「今は大分少なくなって、私らも助かってますがね、あの門の下やその向うにある石段が、一時はいつも大勢の人で溢れ返っていましたよ。みなヒッピーです。ワシントン広場といいます。六〇年代から七〇年代にかけて、世界中の宿なしの若者が集ってきて、あそこにごろ寝して、一晩中ギターをかき鳴らしたり、道ばたでセックスしたりして、警察は手をやきましたよ。まあ、しっかり抱き合ってキスするぐらいなら、警察も文句はいいませんがね。その広場の曲です」
それからかつてきいたことのある感じの昔のメロディを口笛で吹いた。ジュリーやユーミンの歌よりもかなり古い感じだ。さっき岩崎もその曲について話したからそれはよほど世界中にはやった曲なのだろう。途中で、
「ああ右を見てください」
と突然曲をやめて、マーロウは走行ラインの右側の路地を指さした。
「あそこに見えるアパートが事件の現場です。あの鉄の非常階段に全裸の女が首に紐を巻きつけられて吊されていたのですよ」
見えたのは一瞬だが、鉄梯子《てつばしご》はよく分った。
その大通りをちょっと入った所に警察署があった。マーロウ刑事のいる二十三分署らしい。四人は車を降りた。アメリカの警察署の中は、映画でおなじみだ。もっとも基本的には、日本の所轄署の構造と殆ど同じだ。四段ぐらいの段を上って、両開きになっているドアをあけて入ると、正面がカウンターで各部の受付の警官がいる。但しカウンターには鉄の網がはってある。
入って右側の奥に取調室があった。それも大体日本と同じだが、しかし違っている所は床に薄いゴムマットが敷かれていることと、回りの壁に黒いゴムの板が張りつけてあるところだ。乃木がそれを不思議そうに見ていると、岩崎が教えた。
「アメリカの方が取調べが荒っぽい。ぶん殴ったり蹴とばしたりする。ところが弁護士は三倍うるさい。それで体の表面に傷をつけないでより多く痛めつけるため、ゴムの床にゴムの壁が設備されている。つまりこれがアメリカの民主主義の正体と思っていい」
なるほどとうなずいた。婦人警官がいて、コーヒーを持ってくる。
しばらくどこかへ行っていたマーロウ刑事は、やがて一人の男を連れてきて四人の真向いに坐らせた。日本人だとすぐ分る。
二十七、八歳。やせて細面《ほそおもて》だが、なかなか目鼻だちが整ったいい男だ。マーロウはいった。
「私は外に出ている。同じ日本人同士でゆっくり事情をきいてください。終ったらベルを押してください。あと二人いますから」
ベルの位置を教えて出て行く。
岩崎が訊問に当った。
「日本語で安心して答えてくれ。今は犯行についてはきかない。まだはっきりしてない段階で自分が犯人だなんていう奴はいないからな」
冷酷な目でじっと見る。男は急に恐怖にかられたように怯《おび》えて見返す。
「日本の警視庁の者だ。東京からやって来てごくろうさんだと思ったら年齢、本籍、名前、現在ニューヨークで何をしているか、ニューヨークに妻か愛人がいるかなどを話してくれないか。嘘をいってもすぐウラがとれる。正直にいった方が有利だ。こんなニューヨークのことだ。死刑はなくても死体収容室のロッカーはいつも満員で、中に入るのさえ順番待ちの状態だからな。ポリスが加害者になることもあるようだよ」
男は怯えたように一気に話しだした。
一人目のその男を十五分で終えて、次の男になった。それも十五分で終り、三人目も同じくらいで終えてから、一休みして、日本からきた三人の部下にいった。
「日本語で訊問したから諸君も大体分ったろう。三人ともところどころ日本語は怪しくなっているが、目下のところ犯罪事実に触れた質問はしていないから、供述はすべて信用できると思っていい。一人目はオフ・ブロードウェイの俳優だ。二十八歳。オフ・ブロードウェイについては後で説明する」
持ってきた葉巻に火をつけて一息深く吸った。これは何か考えごとがまとまりかけたときのくせだ。乃木もお稽古も胸をときめかせて親分を見ている。
「二人目の男は広場の後ろにあるニューヨーク大学の学生だ。ただし四十過ぎている。一旦社会人になってから記号論を勉強したくて入学し直した。三人目はもう六十をすぎている。もと外務省の高官だよ。今は停年退職後の長期滞在者だがね。これから三人の身辺を洗うのだが残された時間は二十四時間と少しだ。ところが、日本出発からずっと我々は眠っていない。眠たい目をこすっては頭も働かないからとりあえずどこかで眠ろう」
[#小見出し] 巷の哲学 高度成長
水平思考 マクルーハン[#「水平思考 マクルーハン」はゴシック体]
カナダの社会学者で、トロント大の教授のマクルーハン博士が昭和三十年から四十年の、日本中が高度成長時代をひた走りに走っていた時代に発表した哲学。著書『人間拡張の原理』は、電子工学的情報により特定の思考方法が形成されることを説いた学問であるが、丁度ツイギー嬢によって、ロンドンからミニスカートの流行が押しよせてきた時代でもある。水平思考という訳語も少し軽率であった。いかなるミニのスカートも視線が水平であれば、中を覗くことができないと解釈して、すべて分ったつもりになった人も多かった。
高度成長によって、近隣諸国を見下すくせの出た日本人への警告と、まじめに主張する者もいた。マクルーハン氏が現存しておられたら、この日本人的理解方法を何と考えられるだろうか。
3
ホテルのフロントで、並び部屋の鍵を受けとり、手荷物がないのでアメリカ式に前金で二日分の料金を払ってから、四人は黒人のボーイに案内されてエレベーターにのった。
「ヴィレッヂの区域では、ここが最高のホテルだ。ニューヨークには日本料理屋だけで五百店ある。畳を敷いた部屋があるホテルもあるがその必要はないだろう」
三人はうなずく。
「もっとも、明日あたりどうしても日本の食事がしたかったら、君たちがおなじみの元禄ベルト寿司が、五番街の三十四丁目にある」
すると黒人のボーイが、
「ゲンローク・ベルト・スーシ・ナイス」
といって片目をつぶって見せた。
二十一階で下りて、岩崎と中村の男二人、乃木と峯岸の女二人と、別の部屋の前に立った。
「今は二時だ。七時まで眠りなさい。七時少しすぎにボーイが洋服を届ける。それを着て七時半にそれぞれ下のレストランへ行く。今日は夜中一杯仕事にかかる。では七時半にまた」
男二人、女二人と分れて別の部屋に入り、さっと入浴すると冷房をきかせて、裸の体にタオルを巻いたままベッドへ入って眠りこんでしまった。
体の熱気を取るのに男も女もない。
七時半にはすっきりした顔にお目々を大きくあけて、四人は一階のレストランで向い合った。男たちは女たちを、女たちは男たちをしばらくお互いに気がつかず、分ったときはその変りようにまじまじと見つめ合ったほどだ。パンクルックというのだろう。男たちはラフなカラーシャツに少し|かぎざき《ヽヽヽヽ》や|つぎ《ヽヽ》のあたったジーンズだ。シャツがふっくらとしているのは、腋《わき》の下に拳銃を隠すためだ。女たちは、上は大胆に胸がカットされた原色のシャツで、下は少し大股に歩けばショーツの裾がのぞけてしまいそうな超ミニだった。
岩崎は夜の食事を注文してから、まだ落着かない女二人にいった。
「このホテルはヴィレッヂの中にある。出たら外はパンクファッションの世界だ。普通の背広やスーツでは却って目立っていけない。夜はこういう姿の方が余計なトラブルをひき起さないですむ」
そういってから周りを見た。
他の地区だったら、とても夜の正餐《せいさん》のレストランなどに入れそうにもない服装の人が、その他にも沢山いた。夜の外出の安全のため自然に認めているのだろう。
アメリカ風の分厚いステーキとフライドポテトでがっちり腹をこしらえると、すぐに夜の町へ出た。パンクルックでよかった。
ヴィレッヂの中心のワシントン広場の方では、人々が集って唱っているらしい。ギターの音がする。通りすぎる若者たちと違和感なくすれ違い自然に歩ける。岩崎が歩きながら話す。
「さっき三人の容疑者に会って身上調査しているうちに事件の大体の輪郭は把めた。これから疑問点を確めて行きたい。あと一日しかないのだし、明日になってからでは調べ直しはできない」
広場の賑やかな雑音や人の気配をそのまま横目に見て通りすぎ、少し行くと比較的静かなマンションの並ぶ通りに入った。
「多分、ジョン・レノンが狂信的なファンに殺されたのもこのあたりだ。大好きな美空ひばりの顔に塩酸をかけた少女と同じ心理だろう。ずっと高級住宅街だ。最初に訪ねる家はこの区域にある。さっきの三人の中に年よりのおじさんがいたろう」
「ええ、もと外務省の高官だという人ですね」
「ちゃんと奥さんもいる。三人の中で唯一のまともな生活をしている人種だ」
静かなマンションの入口の、セキュリティの格子戸の外でベルを押し来意を告げると、日本語で『どうぞ』と声があり、扉が自然に開いた。四人一緒に入った。
六階の部屋にはやはり六十は超したと思われる和服の上品な夫人が待っていた。応接テーブルに四人を迎え、コーヒーを出してから、改めて坐り直し、突然両手で顔をおおって泣き出した。しばらく夫人が泣き止むのを待っている。やがて少し気持が落着いたのか、すすり泣きの間に話し出した。
「夫は外交官としては比較的順調で、南米の幾つかの国の領事を歴任しニューヨークの総領事にまでなりました。私大出の傍系ですからこのへんが出世の止まりで、後は本庁へ帰って中級管理職を二つ三つやって無事定年のはずでした。ところが、五十少しすぎた十年前、総領事在任中に突然退職して、ここのマンションを買ってニューヨークに居着いてしまったのです。私の思うのには、それがすべての間違いの始まりでした」
また一しきり泣いた。取調べでなく事情聴取だ。再びしゃべり出すのを待つしかない。
「……ふたばこという女は悪魔なのです。すべてあの女が悪いのです」
かつては美貌だったことを思わせる顔が、一瞬目が吊り上り般若《はんにや》の面を思わせるようになる。
「……私たちの三十年以上もの平和な結婚生活をめちゃくちゃにした上、殺人犯の汚名を着せるなんて。あの女はヤクの取引でもいい顔だったのです。だからマフィヤに殺されたのです。それを夫に嫌疑をかけて不名誉な殺人罪だなんて」
初めて岩崎が口を出した。
「既に二十三分署では、彼女の手を通じてかなりの量のコカインがヴィレッヂに集る連中や、ニューヨークの大学生の間に流れていることは把握しています。それの納金のトラブルか、秘密の保持で、マフィヤに殺されたという線が濃厚です。死体の損傷の具合は、彼らの私刑の一つの形だそうです。ただ市警としては、なぜこのありきたりの殺人事件に日本政府のかつての高官や外交筋が強引に圧力をかけてくるかが分らないのです。ほうっておけば只のコロシですむのに、これでは却って事件を大きくしてヤブ蛇だといってます」
何を思ったのか夫人は狂ったように喚《わめ》き出す。
「フタバノ宮なんて宮様はありませんわ。嘘っぱちです。只の映画女優です。昔なら不敬罪で絞首刑です。まじめ一方の夫をたぶらかしたメス狐です」
上品な夫人の方が狐つきのような顔になった。半分錯乱状態だ。これ以上は無理だ。
「最後に一言おききしますが、あの女性はずっと一人暮しでしたか。何か同居の男の人のことについて、ご主人からきいたことはありませんでしょうか」
目を吊り上げたまま答えた。
「あります。十五年ぐらい前まで父親と二人で住んでいたそうです。いい年をした女が父親と二人で外国に住むなんて変です。パトロンだろうなんて噂していた人もあったといいます」
「よく分りました。有難うございます。私の質問は終ります。これで失礼します」
丁重に礼をいって再びマンションの玄関まで下り、格子戸から出ようとして立止った。岩崎が三人にいう。
「さっき入るとき、暗い街角に二人街娼がいた。あれは女でない。寄ってきた男を両側から取りかこんでナイフをちらつかすゲイだ。いくらこんな姿をしてもやはり金のある日本人と分ったらしい。我々を待ってまだ立っている。お稽古一人で出て行きなさい。私と中村が後ろで見張っている。君の合気ならド素人二人は楽だろう」
あまり自信あり気ではなかったがお稽古は、
「いささか、試みて参ります」
と答えて、先に一人で格子戸をくぐって出て行く。まるでそれを待っていたかのように大柄の超ミニの女が二人すーっと近づいてきた。殆ど両側から挟むように接近した二人の手にナイフが握られ、首ぐらいしか背がないお稽古に何かいい出した。その二人のゲイを中村が格子戸の中から腋の下にあった拳銃で狙う。
「まあ、使うことはないだろう」
と岩崎は暗やみで中村の手を押えていう。乃木は心配で胸がどきどきした。
瞬間であった。二人のゲイがお稽古の前で入れ違うように交叉し、右の女(男)は左へ、左は右へ大きく転回して仰向けにコンクリートの上に叩きつけられてのびてしまった。
ぶざまに広げた両股の黒いレースの下着がいやらしい。倒れている二人のゲイを置いたまま四人は歩き出した。すぐ賑やかな通りに出た。
「ブロードウェイに行く。歩いても遠くない。ここのタクシーは必ず回り道して吹っかける。争いごとをしたくない。まだ夜は早い。歩こう」
夜の町だ。この大胆なルックでなくては目立って歩けなかったところだ。乃木がきく。
「管理官殿はニューヨークに何度も来たことがあるのですか」
「いや地図でみただけで初めてだ」
それにしては自信たっぷりだ。
「乃木はブロードウェイでキャッツを見たかったのだろう。それは明日もし時間があったら行ける」
十分ぐらいで、周りには何十もの劇場らしい建物が並んでいる区画に来た。ただしどれも華やかな看板がない。
「ここがブロードウェイなんですか」
「いやブロードウェイはもっと先だ。ここはオフ・ブロードウェイといって客席の少ない小劇場が並んでる区画だ。入口にEXIS何とかという字がある劇場を見つけてくれ。実存主義という意味だ。一番目の容疑者のやさ男はここの俳優だった。顔に似ぬ巨大なもので少し有名だった」
さすがに英検二級はダテじゃない。|斜め文字《イタリツク》のネオン看板を乃木がすぐ見つけた。目だたない劇場だ。
四人は切符を買って入った。同じようなパンクルックの若者がもう大勢入っていて熱気に包まれている。満席なので後ろに立って正面の舞台を見た。女二人は思わず、あらっと声を上げた。舞台では十人ずつの男と女が、何か踊ったり芝居をしたりしている。すべての俳優が何一つ身につけない姿で、大まじめに演技している。女の裸ならまだ予想されるし見苦しくもなく納得もできるが、男の俳優が何一つ身につけていないのは、どうにも珍妙だ。しかも男の演技が決り、踊りが鮮やかに行われると、小さな劇場をゆるがすような拍手とどよめきが起る。しばらくして、十分間の休憩になった。
舞台の横に後ろの楽屋へ入る小さな扉がある。岩崎はそこに立っている男のマネージャーに何かいうとすぐ中へ入れてくれた。乃木は自分らもまた捜査の都合上、全裸で舞台へ出されるのかと急に心配になってきた。
扉を入った所に女が一人立っていた。裸の体のまま腕組みしている。少し不満そうな顔だ。岩崎は話しかける。純粋なニューヨーク言葉だ。他の三人には当然分らない。
「マーロウ刑事にきいてきた。ジョウ・シイナのことを訊ねたい」
「忙しいから簡単にしてね。ジョウの何をききたいの」
「ここで彼はどんなことをしていたのかね」
「俳優よ。ここは芸術の劇場だけど、ときに他の目的でくる人だっているわ。ジョウは巨大だったから、金持のご婦人に人気があったの。劇場が終るとすぐ吹っとんで行ったわ。翌日の楽屋入りまでどこで何していたか分らないわ。でもここ十日ばかりは全く無断欠勤よ」
「このごろ金回りはどうだったのかね」
「日本人の女の客がついてから、ずっとリッチよ。楽屋でみなに気前よく振舞うので人気あったわ。今日本人が一番金があるものね。ジョウ帰ってくるかしら」
「多分明日は帰れるよ。忙しいのに有難う」
そう礼をいってまた扉を出た。乃木は裸にされないでほっとした。四人は劇場を出た。
「ここでの用は終った。後はソーホーだ」
夜の町をもとのヴィレッヂの方へ足早に歩き出す。
「……今度のソーホーも大して遠くない。二十分ぐらいで行ける」
乃木がきく。
「今の二人ともかなり怪しいのですか」
「まだ分らんよ。結論を出すのには少し早い。三人の愛人や女房を全部調べてから、今晩頭のコンピュータがこわれるほど考えれば何か少し分るかもしれないというぐらいのところだ」
四人は夜のニューヨークの街を黙々と歩く。左にまたワシントン広場が見えてきた。そのざわめきを横目に通りすぎて東に向う。
「地下鉄やバスで行った方が早いが、折角ニューヨークへ来たのだから、ホームレス(家無し)やジャンキー(麻薬中毒者)が、道ばたにごろごろしているのを見ておくのも参考になる。お互い若いんだから歩こう」
道ばたにボール紙で作った家があり、中で生活している人を見た。高層ビルとの対比が面白い。二十分ほど歩くと、はっきり、芸術家たちの住居地域と分る、何となく熱気のある一帯に出た。道ばたでドラムを叩いている黒人もいる。ショウウインドウを閉じる板戸に、けばけばしい前衛絵画が殴り書きされている店が何軒も続く。
狭い入口のネオンの看板を、一軒一軒たしかめるようにしていた岩崎は、ブルーゴールドという字をみつけると、すぐ地下へ降りて行った。
黒いビロードの布を貼った消音用の扉がある。入口に立っていた黒人に十ドル札を二枚わたすと扉番は、
「OK、サー」
と片目をつぶって中へ入れてくれた。
鼓膜が破れるほどの音がした。ナマバンドがのりにのっている。フロアーには溢れ返るほどに男女がひしめいている。この店の特徴は男同士、女同士で向い合って踊っている人間が多いことだ。そしてそれらの同性で踊っている連中は、パンダのような白と黒をそめわけた顔や、聖飢魔Uという日本のタレントにそっくりの、真白にぬりたくった顔に悪魔風の目ばりや口紅を入れているようなのが多い。
そのフロアーの中の六カ所に透明なアクリル板を張ったテーブルがあり、その上に、ビキニの水着の女や、超ミニの女が立って、激しく踊っている。
左から二つ目のテーブルの上で明らかに東洋人と分る小柄な女が、一きわ激しく踊っていた。
岩崎は人混みをかき分けて、まっすぐその女に近づく。水平の視線では膝小僧に向って話をする形になってしまう。首を上に向けて訊ねる。
「ドロレス・ナガミネさんかい」
女は踊りながら答える。
「ヤー」
やや浅黒い肌は汗で濡れている。
「マーロウ刑事からきいてきた」
女は踊りながら語気荒く答える。
「ウイリーのことなら知らないよ。十日ばかり前に行方不明になった。大学に行って同級生にきいてみても誰も知らないって」
「ウイリーはどこの大学に行っていたのかね」
「ワシントン広場の裏にあるニューヨーク大学だよ」
「何を勉強していたのだね」
うるさそうに答える。
「セミオイックスに決ってるじゃないか。ニューヨーク大学には世界一の先生がいるよ」
「記号論《セミオイツクス》のフーコ先生だね。よく勉強してたかね」
「さあーどうだか。記号論《セミオ》の学生は学問が難しすぎるのでどうしてもコケをやるね。今、ウイリーが来ないのでみな安いコケが入らなくて困っているよ」
じっと女の顔を見ていた岩崎は突然妙な言葉で話し出した。ちょっときくと日本語と中国語の間のような言葉だ。突然、その女は、台の上での踊りをやめて、アクリル板に膝をつけて話しだした。
「メンソーレ」
という妙な言葉だけが三人の耳に残った。
[#小見出し] 巷の哲学 現在
記号論 ウンベルト・エーコ[#「記号論 ウンベルト・エーコ」はゴシック体]
哲学はもともと難しいが、現在フィーバー中の記号論の難しさは言語に絶している。入門書、手引書など何冊読んでも概念さえ把めない。だからこそ若い、衒学《げんがく》的傾向のある人に圧倒的ブームをまき起した。森羅万象《しんらばんしよう》はすべて記号の戯れにすぎないという学派と、特定制度内の記号と対象の分析を主眼とする学派とが、今猛烈に争っているといわれるが、これ自体が何の事か門外漢には全く分らない。ところが現実には困った事態が起きた。いくら勉強しても英語も数学も物にならない日本の劣等生《おちこぼれ》が、難解であるが故に他人にも分らないのをいいことに無知な両親を欺して一斉にニューヨークの大学へ遊学する傾向が出てきた。ニューヨークの物価は東京なみに高い。遊ぶ金がほしいのでアルバイトをする。アルバイトには日本人観光客のガイドが最適だ。かくして記号論を学ぶ自称哲学青年が一斉に旅行社の案内人《ガイド》になったため、折角ニューヨーク見物に訪れた観光客は、あちこちで無責任にほうり出されたり、望みもしない場所をひきずり回されたりで、みなひどい被害にあっている。
記号論の代表的学者、エーコの原作の推理小説が、007のショーン・コネリーの主演で映画化されたが、大学で難しい勉強をするよりは、二時間半のこの映画一本見たほうがよく分るといわれる。
東京に住む人々は幸せなことに、この難解な哲学を即座に理解できる。マンモス都市の記号である巨大なウンコを屋上にのせたビルが、都市を貫く大河の畔《ほと》りに堂々と建っている。見上げてアハハーンといって納得する。
記号論を具象化した最高の傑作の評が高い。
4
中村刑事は同じ部屋ですごしたから、朝まで警視正が一睡もしていないことをうすうすは分っている。夜通し東京へ直通電話をかけ、本庁地下四階のコンピュータ室の松元技師に命じて難しい検索をやらせていた。しかも、朝になるといつもと同じように顔を洗って新しい背広に替える。
ツインの片方の中村刑事の方は終夜、何もすることはない。そばでぐっすり眠っていた。朝方ボーイが高級紳士服店のダンヒルテーラーから背広やワイシャツ、カフス、ネクタイピンまで届けてきたので、そのまま着た。ぐっと男ぶりが上った。愛妻ひとみ刑事が居ないのがちょっと残念である。
乃木もお稽古も、朝早くシャリバリ婦人服店から届いたシックなスーツに着替えて見違えるようだ。
中村は昨夜の事情を知ってるから少し心配していたが、岩崎はいつもと全く変りない。二十三分署のリムジンが迎えに来るとホテルから署に向った。
昨日の取調室に入って並んで坐ると、やがてマーロウ刑事が三人の容疑者を連れてきた。刑事の後ろには、署長や捜査課長らしい幹部が五、六人控えた。
岩崎が三人に日本語でいう。
「諸君への取調べは三人とも日本語でもアメリカ語でもどちらでもいいのだろう」
三人ともうなずく。
「ただここの署の人にストレートに聞かれると都合の悪いことがあるのが昨夜分った。特に西條寺さんは困ることが多いだろう」
元外交官は突然自分の名を呼ばれてぎくっとする。
「……それで基本は日本語でする。幸い私の部下に英検を二級まで極めた女刑事がいる。途中は彼女に分る範囲で署の人に通訳させる」
「えっ、私がですか……そんな」
と乃木が泣きそうな声でいう。
「分る範囲で一生懸命やりなさい。身ぶり手ぶりまぜて一心にやれば何とかなる」
そうつっぱなした。姿勢を改めて容疑者にいう。
「三人の容疑者に警視庁の人間として申しわたす。これは君ら三人に対しての、日本政府の正式な見解と思っていただきたい」
乃木はアメリカの警察官に対して、『スリークリミナル、ジャパニーズ・イット・ガバメント』とか何とか分る言葉だけを必死に単語でつないだ。それでも先方は汗をたらしながら真剣にしゃべっている女の言葉を、何とかきこうと努力してくれる。乃木は一生でこんなに辛くて、緊張して、恥しかったことはない。でも向うが好意的に耳を傾けてくれるので、多少はいうことが伝わるようだ。岩崎が狙ったのもそんな程度の中途半端の伝わり方であるらしい。
「昨夜、私は終夜本庁のコンピュータ係と連絡して諸君ら三人のことを調べた。というと不思議に思うかもしれない。日本の警視庁のコンピュータに自分らのことなど入力されているはずがない」
三人もそうだというようにうなずく。
「警視庁のコンピュータは、この六年間毎日のように私がデータを入力してきた。主に殺人事件に内容は限られている。但し殺人事件なら、加害者は勿論、被害者とその家族、そして被害にあってから現在までがすべて入力されている。メンソーレ」
最後の言葉に、真中に坐っていた、四十ぐらいのニューヨーク大学で記号論を学んでいるウイリーがぎくりと反応した。少し椅子から腰を浮かしたが、他の二人がまるで反応しないのを知ってあわてて坐り直す。乃木は「メンソーレ」なんて日本語はまるで知らないから、通訳をつっかえて目をぱちくりさせている。
「私は自分が入力したコンピュータから昨夜やっと重大な事実を把んだ。これまで君たち三人はここで捕まるまでは、お互いに全く知らない仲だと主張していたようだが、今度の犯行は三人がもう何年も前から慎重に打合せし綿密な計画のもとで実行したものと判明した」
三人ともそれぞれに日米両語で、『そんなばかな』『何を証拠に』『でたらめいうな』などと騒ぐ。岩崎の目は近眼鏡の奥で、いつものような人の魂を凍らせる冷酷さで光る。「コンピュータが答えてくれた。三人とも昭和二十三年の一月に突然、日本中を震撼させた大事件の被害者仲間だ」
一瞬三人がそれぞれに驚愕の表情を浮べた。
「俳優のジョウこと椎名容疑者は、祖父が事務員として勤めているとき毒牙にかかった。若くして父を失った君の母が、高校を出てやがて結婚して君を生むまでどんなに苦労したかを、君は幼いときからさんざんきかされてきた。事件より十五年も後で生れたが、君もまた被害を受けている。女一人で生きて行く君の母は正式な結婚ができず、君という私生児を作ってしまった。それで俳優の道を歩むより仕方なかった。しかも外国でだ」
突然、若いオフ・ブロードウェイの俳優は泣き出した。岩崎は隣りの老人に話しかける。
「西條寺元総領事殿に申し上げる。あんたも容疑者の一人だが、またこの事件の被害者でもある。外交官補として本省に採用されたときは事件から三、四年たっていたが、あるとき急に内密でアメリカ・ビザをつくらなければならなくなった。それがこの事件にかかわる最初のきっかけだ。以後ずっと事件が身辺につきまとった」
本当に驚いて口もきけないでいる。乃木は分らない言葉ばかり出てくるのでべそをかきながら必死に訳す。
「女が自称したフタバノミヤのミヤ号は満更|出任《でまか》せではない。その時代、双葉香という映画スターがたしかにいた。少女だったが女神のような美しさだ。デビュー三カ月、突然日本から消えていなくなった。ただし芸能界のシークレット噂話として代々伝えられてきたように、進駐軍の副司令官の愛人になったわけではない。ただその当時、占領軍行政下の日本人が憧れのアメリカへ行くのには、有力軍人の愛人になる以外は不可能であったのでそういう噂がたった」
西條寺元外交官は殆ど血の気のない顔で岩崎をみつめている。
「双葉香はたった一日でアメリカ行きのビザが出て日本を飛び出した。父と一緒にだ。あなたは上司の圧力で法を曲げた」
「ああ、それ以上はやめてください。私一人で殺人の罪を認めますから」
と老外交官がいうのを手で制した。
「この話はアメリカ人には伝わらない。そこにいる女通訳の英検二級程度では十分の一も内容は届かないから安心しなさい。娘と一緒にアメリカに渡った父は、元満洲国のある特殊部隊の軍医中佐だった。更にその重大な殺人事件の最有力容疑者として日本中に配られた似顔絵とそっくりだった」
西條寺ががっくりする。後ろの刑事たちが不思議そうに見ては乃木にその先の通訳をうながす。
「グレイト・アクシデント・クリミナル、ライクネス・ポートレート」
自分でも何をいってるのか分らない。乃木の方がもう声を上げて泣きたい。
「そのビザを作成した日は本庁から逮捕令状が出る日だった。現在でもその犯人は、双葉香の父の軍医中佐という説が強い。ただ双葉香の姉は、ワタバノミヤという名で類推される、ある貴族に嫁いでいた。国も警察も、その事実を逮捕直前に知り、愕然として、全力をあげてこの女優と父親の海外逃亡を救《たす》けた。この秘密だけは未来永劫洩らしてはならないことだ。ニューヨーク総領事を含め、あんたが比較的ニューヨーク勤務が長く、退官後もこの町へ止まり、しばしば彼女の住居を訪れたのも、この事実がうっかり洩れると日本国の貴族階級の根底を覆《くつがえ》すからだ」
また俳優の椎名と元外交官の西條寺を等分に見た。
「一人は恨み、一人は秘密の発覚を怖れての、立場は違うが利害は一致した。首をしめたり窓から吊したりしたのは多分君ら二人だろう。ただし、一人の殺人に犯人は三人もいらない。ここはアメリカだ。君ら二人については、私がうまく弁明しておくから、取調べが終ったら多分釈放される。ただ外交官殿に申し上げる」
きびしい目で老外交官を睨みながらいう。
「十五年前に、真犯人たる双葉香の父は、ニューヨークで愛児香にみとられて幸せに静かに生を終えた。そのかげで、無実のまま殺人犯の汚名を着せられ、以後四十年以上も牢獄につながれた男がいる。つい先年九十歳を超してやっと眠ることができた。日本へ帰ったらその人の墓参をすることと、その人に三十年以上も毎日牛乳を二本ずつ差し入れた、日本の一番有名な推理小説の作家の先生に真相だけは告げに行きなさい。これが釈放の条件だ」
元外交官は立ち上り、深々と一礼した。
いきなりまた三番目の記号論の学生に岩崎は、
「メンソーレ」
といった。四十代の男はあわてて、
「はい」
と答えた。
「長嶺君といったね。お父さんは沖縄の方だね。昨夜ディスコでロックを踊っている君の婚約者を見て分った。あの島の人は、外国へ出ると、島出身の人とつき合うことが多い。二十三年の大惨事のとき十八人の人が死んだが、その中に若い事務員がいた。長嶺姓の青年でやはり島出身の女性と楽しい新婚生活を送っていた。その若妻の夫が突然殺されたとき君がお腹にいた。だから今、君が殺意を持つのは仕方がない」
みるも哀れなほどにがっくりと頭を垂れる。
「今度の事件で、どうしても犯人を一人だけ出さなくては、二十三分署も面子《メンツ》がたたない。それで長嶺容疑者に代表して自白してもらい、犯人になってもらう」
「何でです。なぜ私一人が殺人犯の貧乏くじをひかなくてはいけないのです」
「貧乏くじではない。君の生命を助けるためだ……」
岩崎はきびしい声できめつけた。
「君は学生生活をかくれみのにコカインを扱っていた。ニューヨーク大学は大事なお得意だ。記号論はいくら研究しても答えが出ないから何年でも大学に残れる。学生の身分だと中で大勢の仲間に売り易い。ニューヨーク地区では最も成績の良いバイ人だった」
頭を垂れたままきいている。
「全米のコカインはミシガン湖畔のマフィヤが仕切っている。シカゴのオオグスク・ヘンリーと、オオグスク・トミーの双生児の兄弟が、コロンビヤから直接輸入して販売ルートを握っているからだ。七大ファミリーもこの二人には手を出せない。名前で分る通り二人は君の島から渡ってきた移民の子孫だ。だから君は信頼されて取引した。ついでに君が罪を負ってもらいたい」
「それは差別です。|本土の人《ヤマトンチユウ》が釈放されて、何で私一人が殺人犯にならなきゃならんのです」
「女性の乳房をはぐ。これはマフィヤ独得の私刑だ。よほど沢山の上納金を横領した罪だ。麻薬関係の代金だったから多かったろう」
「でも……」
「まあ、ききなさい。君はオオグスクの兄弟に命じられて、その乳房を切りとる仕事だけはどうしてもやらなくてはならなかった。もう死んだ女の体からね。それだけで一人で罪を背負うだけの理由になる。ただしボスに命ぜられての殺人や、親の恨みのための殺人というのでは君も立場がない。記号論という高尚な学問をしている身として、学問と研究の対象記号は殺人だという理論を完成させるためにだと主張し、カッコウよく自白して服罪しなさい。これは温情だよ。これしか君の生命が助かる道はない」
「なぜです」
「ニューヨーク州刑法には死刑がない。今起訴され、第一級殺人罪で有罪になってもせいぜい無期で取りあえず生きて行ける。ところが釈放されて娑婆《しやば》に出たら、その晩に君の仲間がオオグスクの命令で、君のペニスを切り喉に詰め込んで窒息死させる私刑を執行しにやってくる。未納金を本当に使いこんだのはフタバコでなくて君だということが、とっくに組織にばれている。刑務所にいるのが一番安全だ」
「分りました。有難うございます」
記号論の学生は涙を流しながら礼をいった。
「ではこれから自分で警察官に一切の罪を認める自白をしなさい」
長嶺中年学生は警察官の方に向き直って何か話し出す。その間に、元外交官も俳優も、手錠を外され、釈放手続きのため別室に連れ出された。
乃木たち三人と岩崎は立ち上る。
「もう昼だね、明朝の飛行機で帰ろう。今日はこれからティファニーで買物をしてから本物の方のブロードウェイのウインターガーデン劇場で『キャッツ』を見る。夜は、五番街の元禄ベルトすーしにでも行こうか」
そういった。少しバランスがとれないが、甚だニューヨーク的な感覚のコースである。
午後からはゆったりとすごした。楽しいニューヨークの夜も満喫した。
帰りは翌日。十三時三十分発のJALに乗った。日本には十六時二十分ぐらいに着くが、飛行時間は往きの十三時間より三十分長くなっている。
思いがけなくニューヨーク見物もでき、新しいブランド物のスーツに、バッグに靴、おまけに指輪やイヤリングまでティファニーで買ってもらって、乃木もお稽古も大喜びだ。
飛行機が水平状態の航行に入ってから乃木がきいた。
「着いたのが月曜日で、もう一日、月曜日と火曜日をすごして、今日は水曜日でしょう。だから帰ると木曜日になるのね」
すると岩崎が答えた。
「いや途中で一日とんで金曜日になる」
「あら、どうして、それじゃ損しちゃうわ。まるで何もしないで一日年取ってしまうなんて」
お稽古が先輩におそるおそるいった。
「往きに一日得してるから帰りは一日損して、それで勘定が合うらしいんです」
「あらそんなものかしら」
乃木は首をかしげて考えるがまだこの相対性理論がよく分らない。これ以上は頭が痛くなるのでそこは考えから切り捨てた。今度は中村刑事がきいた。
「あのメンソーレという妙な言葉はどこの言葉ですか」
「あ、それはオキナワの方言で、いらっしゃいとか、こちらへとかいう意味だ」
「そうですか。それで記号論とその愛人がぎくりとしたのですね」
乃木たち三人が同時に大きくうなずく。乃木がここで思いきってきいた。
「これまで傍にいてどうしても分らなかったのは、管理官殿がおっしゃる、昭和二十三年の初めに起ったある重大な事件ということです。三人の容疑者が全部かかわりのあったその事件とは何なのですか」
それには直接答えず岩崎はいった。
「昔は政府にとって都合の悪い文章は伏字《ふせじ》といって○を使って消した。例えば○産党とか女性の全○死体とかだ。そのやり方でいおう。四十年前の事件なのに関係者が多数生存しているからね。事件の名は一言でいえる。○の下に銀行の銀の字をつけて○銀事件といえばね」
瞬間三人とも一様に、『アッ!』と声をあげて、しばらくはただ黙ってお互いの顔を見合っていた。
[#改ページ]
[#見出し] X ああ濡れ落葉幾年ぞ
[#小見出し] 亭主の相場
ダーリン→宿六[#「ダーリン→宿六」はゴシック体]
たしかに、お互いに愛しあったか、少なくともこの人ならいいと思ったからこそ結婚したのだ。どんなに移り気な人も最初の一、二年はお互いにダーリンであったろう。
だが……
生涯離婚しないで目出たく添い遂げた夫婦でも、結婚生活何十年かの中でのダーリン率が五十パーセントを超す者はかなり少ないだろう。三、四年でもう駄目になった者も珍しくない。後は惰性で何とか続けている。ただ一時代前と違うのは、家庭内の女性の立場が極端に強くなった現在、差別や性的迫害《セクハラ》を受けるのは、これからは圧倒的に夫の方だ。すべての男性は結婚生活において概《おおむ》ね忍従の美徳の中で慎ましくして、横暴な妻の振舞いに従わなければならない。
1
「これはかなり異常な事件らしい」
警視庁のすぐ裏手にある霞が関の合同庁舎用の駐車場で、毎日通勤に使っているBMWに乗りこむとき、岩崎警視正は後ろの座席に坐った二人にいった。
一人は一係長の村松共二警視、もう一人は二係長の大田蹴鞠子警部だ。もう夕方で、本庁の定時の勤務時間は終っている。八月は思いがけない出張が飛びこんだり、何十年ぶりの暑さで夜よく眠れなかったための突発的兇行が、例年よりかなり多く発生した。岩崎管理官以下その直属の一係、二係の刑事諸君は炎天下のもとでみんな忙しい日を送った。
その分九月は暇だ。気候も落着いたせいか珍しく何日か在庁が続き、今日も定時にみな帰った。ただ岩崎管理官の方針で、一係と二係の幹部は部下刑事より十分早く来て、十五分おそく帰ることになっている。今晩の当直の花輪刑事を除いて刑事諸君全員が揃って部屋を出ていったその一分後に、外から電話が入った。
そこに残っていた二人の幹部と、もう一人、すぐに岩崎が電話をかけて呼んだ八階の防犯部のもう五十すぎの刑事との四人で、駐車場においてあった車に乗りこんだのだ。
「……これは六本木署の所轄に一報が入り、場所も六本木の真中だから、捜査課の刑事さんたちがもう事件に手をつけている。署長がついこの間まで、今の村松君のポストにいた。捜一上りだからといって、事件が起るたびに古巣の捜一に応援を頼んでいたら、部下の士気にもかかわるというので、四時に発覚してから、今までは署の刑事さんだけでやっていたそうだ。しかし現場で事件に当っているうちに、想像以上に難しい事件だと分って、結局こちらに応援を頼んできた。それでこんな時間になった。私の所も部下は帰って、キャリアの君たち二人だけになった。すまんが今日は新人に戻ったつもりで働いてくれ」
六本木へ異動した高橋警視と比べて、もう一人の係長の村松は、何もかも対照的だった。東大出で、上級職試験の合格者であることまでは同じだが、体つきがまず違う。やせて神経質そうな、岩崎のミニコピーである高橋とは違い、村松の体格は頑丈で、背はずんぐりとして、明らかに柔道の有段者であることを思わせる、ややガニ股の太い足をしている。
岩崎の隣りの助手席に乗りこんだ、八階の防犯部保安課から来た刑事は典型的な刑事らしく、全く煮ても焼いても喰えない面構えをしていた。まだ本庁経験の浅い大田などは、車に乗りこむときこの刑事にじろりと下から三白眼で見上げられ、全身に思わず鳥肌が立ってしまったほどだ。
岩崎警視正が自らハンドルを取りながら、夕方の帰り車でかなり渋滞してきた流れの中で状況を説明する。
「ともかく殺人事件が起きた。被害者はまだ身許がはっきりしていないが、かなりの老人らしい。私が、わざわざ八階からベテランの応援をお願いしたのは、発生した場所が、我々のような普通の常識の中で健全な市民生活をしている人間には、どうにも入りこめない特殊な区域だったからだ。紹介しておく。防犯部保安二課・醍醐警部補だ。風紀犯罪、売春、ポルノ、を三十年もやってきた。昔は8ミリフィルム、今は裏ビデオの業界の人間は、名前を聞いただけで震えが止まらなくなってしまう人だ。方面違いの我々ではちょっと難しいと分って防犯部に頼んだらすぐ派遣してくれた」
老刑事は助手席で頭を下げながらいった。
「|だいご《ヽヽヽ》と申します。まだ殺人事件を取り扱ったことはありませんので、お役にたつかどうか分りませんが、よろしくご指導ください」
自分の子供のような若いエリートたちに、へりくだっていう。居丈高に自分の存在を示す刑事《デカ》さんに比べると、こういう一見丁重なのが、本当は手に負えない。各部ごと、各人ごとの腕の試し合いの世界だ。後ろの席の二人とも心をひきしめた。
岩崎がハンドルを握りながら後ろの二人にきく。
「君たち、|β《ベータ》ホリデイという名称のホテルのことを聞いたことがあるかね」
溜池の交叉点を左折して六本木へ向う坂にかかった所から車の列はあまり進まなくなった。今日も怖しい渋滞だ。夏休みも終って、各地へ散っていたヤングたちがもう戻ってきて、日昏《ひぐ》れと共になつかしの聖地へ集ってきたのだろう。
「いえ」「私も知りません」「それ、ホテルの名ですか」
と二人はきき返す。岩崎はぴしりという。
「大田警部が知らないのは、まだ未婚の令嬢だから仕方がない。村松警視はもはや殺人の捜一では大事なリーダーだ。これからは知らないではすませられない。文化が進み、人々がみな豊かになり、時間的にも余裕ができると、この種の施設が各地に増えてくる。一応ホテルの名前だが正確にいうと単なるホテルではない。遊技設備を備えたレジャー施設でもある。詳しくは三十年以上もその道の犯罪を追及してきた醍醐さんに教えてもらいなさい」
階級こそ警視と警部であるが、キャリア組の二人はともに二十代。醍醐のような古狸の警部補から見れば赤ん坊だ。それでも縦割りの秩序がはっきりしている世界だ。老刑事は階級上の上司に丁重な返事をする。
「上司の皆様に差出がましい口をきいて申し訳ありませんが、実際に現場で直面して、驚いたり、感心したりしていると、逆に先方に馬鹿にされて、完全な供述を得られません。それで事前に説明させていただきます。難しいことは定時制高校しか出ておらん私には分らんのですが、人間、普通に男と女が夫婦になって、昼の仕事が終ってから、ビールでも飲んだ後そのまま抱き合って夜の一仕事をすませば、すべてこの世は天国というわけにはいかんようですな。男と男とでなきゃー抱き合う気がしないなんて、ひねこびた奴もいる。連中にはまた男だけ専門のホテルがあり、エイズが危険なので、このごろはずっと私らはきびしく監視してます。βホリデイも、いわばまあー、我々普通人からいわせれば少しピントのずれた連中が行くホテルです」
どうもセックスの話らしい。未婚であり、公言するのは少し恥しいが未経験者でもある大田蹴鞠子は、首筋のあたりが自然に赤くなってきて困った。いやしくも殺人犯を追及する鬼の捜一の幹部がこんなことでは笑われる。努めて平気なふりを見せることにした。
「ベッドやバスルームはホテルですからちゃんとありますが、他に、まず必ずあるのが木の十字架です。といって教会ではないから拝むためでない。女を……九十パーセントまで女ですが……裸にして柱に縛りつけることができるように、鎖や首輪がついています。そしてそばに、革でこしらえた様々の形の鞭が十本ぐらい並べられています。ついで女をまたがらせるための木馬と、金属性の産婦人科用の診察台がおいてある。それに各種バイブレーター、ローソク、浣腸器具一式などが付属品として置いてある。これがそのβホリデイの各室の標準設備です。私が今、ここでこんな、自分で口に出していうのも恥しいことを、自分の子供より若いあなた方にいうのも、仕事のためです。警視庁の殺人課の鬼刑事が、婦人科の診察台に両脚拡げて固定されて殺されている女性を見てうろたえては、みっともないですからね」
大田は本当に首筋が赤くなり胸がどきどきしてきたが、それを見つからないようにするのに必死だ。
「分ったわ。私、ドイツのエビング博士の論文で読んだことがあるわ。それはサジズムとマゾヒズムというのでしょう。でも現実にあるのですか。学問の世界の中のことだとばかり思ってました」
「まあ、もとはといえば世間知らずのお嬢ちゃん婆ちゃんが議会に出て余計な法律を作ったばかりに、この神国日本にも、こんな汚らわしい風習が入りこんできたのですよ」
少なくとも津田英語大学出身者としては、婦人の政治関与を否定するかかる乱暴な言論は黙って承認するわけにはいかない。
「なぜなのですか」
「日本の官庁の公式見解によれば、……つまり我々保安風紀係の刑事はその見解に従って逮捕や営業停止、警告、などの職務を行うのですがね……そもそも売春というものは、男性の正常の欲望を顕現する部分を、女性の正常な欲望を受容する部分に接合することによって成立するものであると狭義に解釈しております。こういう微妙な人間の行為を、もし一たんカセをゆるめて広義に解釈すると、とめどもなく処罰の範囲が広がって収拾がつかなくなるのです。アベックで町を歩いていても、男女が並んでいれば売春ということになって逮捕する。成績をあげることだけしか頭にない刑事は、ブレーキがきかなくなり、ついには戦時中のように、兄妹、夫婦で並んで歩いても、逮捕監禁することになってしまいます。治安維持法、特高刑事の復活です」
車が交叉点でまた左折してウクライナ大使館の前へ向う。渋滞で少し停った。岩崎がいう。
「醍醐さんのいうのは本当だよ、父からいろんな話をきいたことがある。結婚後映画館で並んで見ていた私の両親は交番へ連れて行かれて死ぬほど殴られたそうだ」
「だから我々も自戒の意味で売春の定義をきびしく制限して逸脱させないようにしています。ところがこういう事を仕事にしようとする業者は、悪知恵にたけた人間ばかりだ。それではその一小部分の接合さえしなければ、当局が売春関係の法で罰しないのかと、これまであったコールガール、ホテトル嬢紹介、インチキ結婚相談所などが一斉にSMクラブに衣替えしてしまったのです。今や六本木近辺の、女性の紹介を営業とする連中は全部が、SMどちらにしろ、その遊び相手の女性を紹介派遣する業者に転業してしまったのです。若いお二人には、この現実を事件の前提としてしっかり認識してもらいたいのです。いいですか、現場に行ってもくれぐれも、びっくりしたり珍しがったりしてはいけんのですよ。特に大田警部殿におかれては、ご自身が若い女性という、特に周囲から注目される存在であられますから、どんな奇妙でいやらしい道具を見せられても、いつも冷静沈着、平然と直視し、いささかも取り乱したり、恥しがったりしてはいけんです」
「はいそう致します」
大田はその先輩の忠告にしっかり答えた。
「特に自称インテリ女性層の一番いけんことは、自分の恥しさを、他動詞的に変換させてしまって故意に恥しめられたと思いこみ、別に怒る理由もないのに怒り出すことです。これが捜査に困るのです。大事な仕事がそれでストップしてしまう。人殺しの捜査は一瞬を争います。セクハラ遊びをしているひまは我々にはない」
以前にそんな経験もあったのだろうか。醍醐警部補はしきりに強調する。
ウクライナ大使館の横の細い坂道を下りると、βホリデイがあった。醍醐は馴染みらしい。
ちゃんと駐車場がある。車を入れさせる。
六本木の所轄の刑事がいて、岩崎を見て直立不動の姿勢を取り、黙礼して通す。
岩崎ともう一人の男は二人とも上質な背広を着ている。女性はシックなブランド物のドレスの美人だ。初めは三人連れのお客が来たのかと思って、フロントにいた女の係が、
「あのう、今日はスワップ用ルームはもう満室なのです。三、四時間たってからもう一度来ていただけませんか」
といったが、ふと岩崎の後ろに立っていた醍醐警部補を見つけると青ざめて棒だちになった。醍醐はきめつけるように女にいう。
「はやってるな。話は通っているんだ。六階の『乱れ大奥の間』に私たちを案内してくれ」
女フロント係は青ざめて緊張した顔で、先に立つ。エレベーターに乗るとすぐ醍醐に心配そうにきく。
「私たちは事件を発見してからすぐに六本木署にお届けしました。現場保存には協力してまして六階には他のお客は入れないようにしています。それでも、営業停止などの処分を受けるんでしょうか」
「そんなことは分らんがね……どんな変なものがあってもここはホテルとしてその設備を置くことを認められているから問題はない。殺人の状況によるが、設備そのものが原因でない限り、余計な心配をする必要はないだろうよ」
「すみません」
六階に停る。廊下沿いに幾つかの部屋があったが、全部、今日は閉めて営業を自粛してるようだ。突当りに『乱れ大奥の間』という部屋があった。
入口に岩崎の顔見知りの刑事が張り番していて、直立の姿勢で黙礼する。フロント係はここで醍醐刑事の後ろにいる、若い銀行員のような男が、本当は一番偉い人らしいと分ってあわてて態度を変えた。
「こちらでございます」
防音用の厚い扉をあける。
中は全体には、江戸城大奥の部屋風の、すだれ、行灯《あんどん》、畳、杉木戸などのインテリヤで飾られている。しかしその中に十字架、木馬、婦人科診察台の三点セットがおかれているから、もしあらかじめ、醍醐刑事からのレクチャーを受けていなかったら、若い大田などはびっくりして立ちすくんでしまったろう。
高橋署長が中で待っていて岩崎を迎えた。
「こちらです」
十字架のある方の、衝立で仕切った小部屋に案内した。その十字架の前に俯《うつぶ》せに老人が倒れていた。裸であるが腰には古風な六尺|褌《ふんどし》をきっちりしめている。前にのばされた手には、九つの房に分れた、はたきのような黒革の鞭が握られていた。
後ろから見ても、背骨に辛うじて張りついた渋紙のような皮膚で相当な年と分る。
十字架の横に小さな椅子があり、一見まだ十代としか見えない、あどけない顔の娘が、ガウンを一枚つけただけの姿で坐っていた。老人の首には明らかに後ろから力一杯絞めたと分る、細いロープが巻きついていた。鞭が十本近くも並んでかけてある壁の釘に同じ型のロープが三つも吊り下げられてある。
他に手錠や足かせ、腰をしめつけるらしい革のコルセットもあったから、兇器のロープもまたここの遊び道具の一つから選んだらしい。三脚がついたままの無線セルフタイマーつきポラロイドカメラもそばにあった。
青ざめて俯《うつむ》いている娘に署長の高橋がいう。
「本庁の殺人係の方々だ。私たちがホテルのフロントに案内されてここへ入ってきたときに君がしていた姿を再現させてもらうよ。そうでないとまず君が犯人と疑われても仕方がない」
「はい承知しました」
娘は青ざめた顔で立ち上るとぱっとガウンを脱いだ。全裸だった。もし予備知識をあたえられていなかったら、大田はきっとここでも、驚きのあまり声を上げてしまったろう。
娘は全裸のまま十字架の前に立ち、両手を横にのばした。
「フロントさん。私が見つかったときの形にしてください。お願いします。死刑になりたくないですから」
女性のフロント係は、左右の手首をそれぞれ、十字架の横木のはしにある鉄鎖につないで固定し、横木にかけてあった黒い皮の目かくし用マスクをその娘の顔にあててからいった。
「約束の時間がすぎても連絡が来ないし、電話をかけても出ないので、何か事故があってはいけないと思い、合鍵であけたんです。そうしたらこんな状態になっていました」
少女の足の部分にもそのときのように鉄の鎖を巻きつけた。
「この人はこんな姿でずっとほうりっ放しにされていたのです。老人が殺されたのは音で分っても何も見えなかったそうです」
醍醐警部補がいった。
「私はこの老人をよく知ってます。蛇《じや》の道は蛇《へび》です。この世界ではちょっと有名な男ですよ」
[#小見出し] 亭主の相場
箸パンツ[#「箸パンツ」はゴシック体]
夫が受けるセクハラ的侮辱は、まだ元気で強壮、社会的にも会社的にも脂がのりきって、張り切っているときに早くも始まる。
特に女の子でも生れて一人前の口をきけるようになったときには連合軍で攻められる。忠実に月給運搬人の役目に徹し、部下のOLとの不倫など間違っても起さない実直さが証明されていても、駄目なのは駄目だ。つまり家庭に男という存在がいること自体が女たちに不潔な思いをさせるのだ。
妻たちは世間体があるから、夫のシャツやパンツを洗濯だけはしてやるが、指で触れるとゾッとするので、割り箸の古いのでつまんで洗濯機へ入れる。これが二十一世紀の新しい女性像だ。
2
「状況は分った。死因は絞殺と明らかだ。ただ法律は、私が目で見て絞殺と宣言しただけで書類が出来上り、この老人の遺体を遺族に返し、葬儀が営まれるというわけにはいかない。鑑識班と嘱託医とによる検屍、更にこれが明らかに殺人と断定されれば、都の監察院に送って、司法解剖をしなければならない。まず、高橋署長はすぐ鑑識を呼びなさい。大田警部は捜一課長に電話を入れて、大塚での司法解剖のための車を廻してもらうように頼みなさい」
岩崎は手際よく指示を出す。女のフロント係に、無罪証明のためわざと十字架に固定されたSMモデル娘の手足の鎖を解かせた。
「あんたが老人の首をしめた犯人でないことはよく分る。手足を鎖で縛られて、目かくしされたまま、相手の首をしめることは不可能だ。ここへ所轄の鑑識係や、その他の刑事さん、死体運搬の係などが大勢やってくるから、そのままの恰好じゃまずいだろう。着てきたドレスに替えなさい」
部屋のすみに衝立を移動させ、そのかげで服を着るように命じた。
それからあたりを見回し、一係長の村松にきいた。
「醍醐さんは」
「ああ、さっき、下の売店へ行くといって出て行きました」
フロント係に岩崎はきいた。
「下に売店があるのか。煙草でも売ってるのかね」
「いえ、ここへ来て更にもっと特殊な遊びを希望する方のために様々な道具を……」
「たとえば」
と更にきかれて、女フロント係は、チラと大田の方をうかがう。こういうホテルのフロントをしていて割りきっているつもりでも、やはり女だ。捜査官の中に同性がいると気になるらしい。少しためらいながら答えた。
「……洗濯挟みとか、浣腸の薬品とか、羽扇とか、消毒器に入ってる虫ピンとかです」
それが何のために使われるのか正確には分らないが、何となく妖しい感じがする。醍醐警部補が息をきらして戻ってきた。
「やれんなあ、全く、この年になってこんなもん買わなくてはならんなんて」
こぼしながら一冊の雑誌を出した。『MSスマイリー』とちょっと意味がとれないタイトルがついている。表紙はフランスのモード雑誌風なので岩崎は何気なくあけた。一緒に覗きこんだ大田が(さんざん予備知識をあたえられているのにもかかわらず)「まあー」と驚きの声をあげてしまった。まだ修行が足りない。
ぱらぱらとめくったページに必ず入っている写真はすべて、全裸の女性を縛り上げたり、診察台にのせて足を開かせ鞭打ったりしている、異様な写真ばかりである。
「なるほどな。同好者の機関誌だね」
岩崎は平然という。汗を拭いながら醍醐刑事がいう。
「私は保安の刑事としてもう三十年やってますが、全く訳が分りませんよ。こんなことが好きな人間の気持が。参考品として業務費扱いで購入してきたわけですが、まるで自分が秋川の幼女殺しのお兄ちゃんの仲間になったようないやな気分です」
「で、今はなぜ買ってきたのだね」
「この終りの方を見てください」
『白髪《しらが》の国士・憂国女戒秘録』……好評連載……
という地の紙が黄色い特集ページがあった。
そこには、目に黒線をあてたり、背中から写したりで、顔は少し分り難《にく》くしてあったが、しかし今、目の前で俯《うつぶ》せになっている死体と比べ合せれば、明らかに同一人物と分る老人がいた。今日のモデルとは別な女と不思議なプレイをしている連続写真が何ページにもわたってのっていた。
醍醐警部補は弁解がましく説明する。
「この雑誌の中で一番評判が高い記事です。もう二年以上も連載してます。筆者は自分のことを『白髪の国士』と自称しています。彼が記事の中で強調しているのは、余人と違い、自分はいやらしき変態的欲望でかかることをするに非ず。めん鶏《どり》がときを告げるとき国家が亡びる。日本帝国を愛する忠誠な気持で臣としての止むに止まれぬ大和心が、かかる一見変態的な行為を敢えてなさしめているのである。……とまあ、こういう、尤《もつと》もらしい能書をのべてますがね」
「よっぽど、自分のその性癖が恥しかったんだろうな。テレ隠しだな」
「まあ、そうでしょう。何しろ自分は終戦時の陸軍の中佐だということを、一回ちょっと書いたことがあります。満更出鱈目じゃないようです。それにしても相手にする女はこの二年間、毎月変っていますからかなりの好き者ではありますな」
「一応自分一人が女性上位の風潮に、棹《さお》さしているつもりだろうな。女はどこから見つけてくるんだろう」
「雑誌社の方へ自分で申しこむ女が沢山いるので中から選んで出てもらうのだと、記事にはありましたが、それは怪しいと見てます。専門のモデルクラブがあって、かなり高額な報酬が出るんでしょうな。女の顔も目に黒線を入れて分らないように写ってますが、体が毎月違うので、この連載は人気があるのです」
鑑識がやってきて死体の状況を詳細にカメラで撮って行く。すぐに大塚の監察院から担架を持って係員が死体を取りにくる。
洋服を着てしまった女を、テーブルの向うに坐らせて、大田蹴鞠子警部が基本的な事項について聴取を始めた。
「あなたの名前と学校か職業、現住所を教えて」
モデル娘は少しも悪びれずに自分の名から述べ始めた。大田はメモに書くが、ここでもまた驚くことばかりだ。六本木とはさして離れていない所にある、かなり名の知れた四年制の大学に学んでいた。すすんで学生証も見せたから間違いないだろう。二、三年前学校の先輩で同じ仕事をやっていた女性が、プレイの内容を文学的香りの高い作品にして賞を受け、今や有名人にもなっているので、自分もやってみる気になったという。勿論報酬の高いのも魅力であったろう。
基本の訊問が終ったモデルに岩崎が直接きく。
「あんたは、目隠しされて、十字架に縛りつけられて、まあさまざまのことをされていた。我々は別に風紀係ではないから、あんたがどんなことをされたかについてはきかない、関心もない。殺人はどんな状況で起ったか、分った範囲で話してくれ」
「はい。私は両手を縛りつけられ、体中、羽でくすぐられながら、同時にお乳を強く洗濯挟みでつままれ、ひっぱられたり、あまり痛くない程度に軽く房鞭で打たれていました。さっき死体が持っていた物です。そのとき突然、部屋に誰か入ってきた気配がしたのですが、私は顔に目隠し用のマスクをされていたので、どんな人が入ってきたかはまるで分りません……」
みなはうなずく。
「……これは想像ですが、扉があいた音もしませんでしたので、『白髪の国士』さんは、その誰かがすぐ後ろに来るまでは気がつかなかったのだと思います。単に推測ですが」
岩崎はいつもの冷酷な目に戻ってじっとその女を見ながら、感情のない声で話す。
「目が見えないのだから推測で話すしかない。我々はあんたの答えに影響されない、思ったことはすべていいなさい」
「国士さんが、事前に約束してあったプレイの順序でその作業は進んで行きました。ポーズが決るたびに無線セルフタイマーをつけたポラロイドで一枚一枚と写真を写して行くその途中でした。いきなり、うーっ! 何するんだ! と声がして、ばたばたと暴れる気配がしましたが、そのうちに静かになりました。どこから入ってきたのか、どんなことをしたのかは分りません。それからは物音もせず、私は縛られたままほうりっ放しでした。マスクが口までかぶさっているので悲鳴を上げることもできません。三時間ぐらいしてフロントさんが入ってきて、鎖をほどいてくれるまでは、ずっとさっきの姿でいたのです」
「状況は分った。あんたの用は終ったよ。大田はその子を自宅までお送りしなさい。確実にご両親にお渡ししてから、いつもの場所に戻りなさい」
大田がうなずく。少し不安な顔の娘にいう。
「あんたは別に何も心配はないわよ。私がタクシーでおうちまで送るわ。事件やアルバイトのことは何も話さないわ。あ……、ところでもう白髪の爺さんから、ギャラはもらったの」
「いえ、終ってから出版社に貰いに行くのです。五万円です」
岩崎はモデル娘に戒めるようにいった。
「災難だと思って諦めるのだな。これからはこんな仕事を斡旋するクラブから連絡してきても、二度と彼らには近づかないようにしなさい。もし何かいってきても、知らないで通しなさい。脅迫まがいの事が起きたら捜一の岩崎警視正がお相手するといいなさい。脅迫してきた方が逃げてしまう」
「ありがとうございます」
大田に連れられて娘は去った。岩崎は一係長の村松警視にいった。
「密室の中で殺人を犯して犯人が消えるというのは、探偵小説で最も好まれる題材だ。勿論、実際には人間は密室の中から煙のように消えるわけにはいかない。どうして入ってきて、どうして消えたか、もう分ったろう」
係長は頭をかき、情けなさそうに答える。
「いえ、私にはまだ」
「そこのフロントさんと、醍醐警部補はもう分っているね」
二人ともうなずく。東大出のエリート・キャリアもこうなると小さくなってしまう。
「いいかね村松君。ついでに高橋署長も、他の刑事諸君も参考のためによくききなさい。ここは六階だ。エレベーターにのってきた。一階の乗降口の右横に各部屋の名前と値段がついたプラスチック板が掛けてある。この『乱れ大奥の間』の所に、二時間一万八千円と書いてあるだけでなく、『スワップ可』という字があったのは気がつかなかったかね」
高橋と村松のキャリア組はうなだれた。正直な村松係長がおずおずとして、
「たとえ、スワップ可の字を見つけても私には何のことか分りません」
といった。醍醐がすぐに、
「二つの部屋の間に扉があるのです。初めは別々のアベックが二つの部屋に入って、時間がたって、お互いに納得したら、扉をあけて自由に往き来して相手を替えてプレイしたり、四人一緒にプレイしたりすることが可能です」
と説明しながら、ベッドの向う側に回った。鏡が張ってあるパネルの横に、一見、洋服でも掛けておくような感じの把手《ノブ》がある。
「ここに内鍵があります。これを外しておくことは、相手にもしその気があったら自分らのプレイに参加してもいいよという意思表示ですよ。フロントさん、そうだろう」
女のフロント係は、醍醐に念を押されると仕方なくうなずいた。
「はい。このお部屋へ入る方は、大概そのことはあらかじめご承知の方ばかりで、自分たちで一時間ほどもプレイすると、同じ相手には飽きてしまって、内鍵を外すようです」
さすがに少し赤くなって答える。醍醐が口をはさむ。
「私は全くやれんですよ。警視庁に勤めたばかりにこんなハレンチな連中の相手もしなくてはならない。もう三十年も風紀係をやらされていますが、こんなにも人間が堕落して行くのかと思うと涙が出るです。私の息子は親の職業を嫌って、今、信用金庫の社員でまじめに働いていますがね、もし親父がこんな場所で、まじめくさって、犯人の詮索をしてると分ったら、全松戸市民に合せる顔がありませんよ。というのは、息子は若くして成績優秀で松戸の支店長をしているもので……」
岩崎はこの初老の警部補が愚痴をこぼす心理状態について考えた。ふだんは保安風紀係刑事の立場で、こういう場所へは取締り捜査官として有無をいわさず乗りこむ立場なのに、今日は捜一の仕事のためベテランとして駆り出され、現場の説明係にされている。それが微妙な、|やれんのう《ヽヽヽヽヽ》の愚痴になるのであろう。ふだんから持っている自分の仕事へのコンプレックスが急に出てきたらしい。いかにも昔風の警察官タイプの男だ。
「醍醐さん、すまなかった。とんだ仕事にお付き合いさせて。何分、私のところは殺人専門で、こういう|つや物《ヽヽヽ》に関しては素人ばかりだ。もう少し面倒見てください。何とか被害者の老人の住所を突き止めてくれませんか」
他の課の人間を使う難しさだ。丁重に下手《したで》に出て頼む。
フロント係の女が代りに扉の所へ行き、所轄の刑事を連れて扉をくぐり隣りの部屋へ案内をした。ずっと客を止めているから、そこには誰もいないことは分っている。醍醐は岩崎に答える。
「ともかく出版社は分ってます。浅草警察の後ろにあります。社長も取締りで何度か顔を合せて知ってます。女ですよ。他の、まあ、デザインとか、工芸美術の世界ではデザイナーとして名の通った有名人です。五十五、六になってますがまだ独身で、社の二階の一室をプライベートのルームにして暮しています。そこを急襲しましょう。いくらとぼけても、銀行の振込先や、連絡の電話などは分ってるでしょう。今まではこれらの雑誌は合法で取締りの対象にならないのでお灸が据えられませんでしたが、今晩は少しいたぶってやります。独立で捜査指揮のできる、警部以上の方を同行させてください」
「ああ、村松警視がついて行く。身分は上司だが、実質は子分だ。それならいいだろう。指導してやってくれ」
単純なもので、僅かそれだけの言葉で、風紀係の警部補の機嫌はすぐ好《よ》くなった。
「じゃ、村松係長さん。一つこの白髪の愛国者気取りの助平爺いの住所を探しに行きましょう」
という。岩崎は村松にいう。
「住所が分ったら車でそこへ行き、たしかにそこに住んでいたと確認をすませたら、そのまま引き上げなさい。踏みこむのは明日だ。今晩は久しぶりにまたいつもの十八階でさっぱりした物でも喰おう。醍醐さんもお連れしなさい」
二人が命令を復唱して出て行く。
残った署長と所轄の刑事に、もう一度部屋の中の遺留品を検査させたが、老人の着てきた、なかなか上質の背広やシャツ、小さな鞄からも老人の住所氏名身分を暗示する物は何も出てこない。
岩崎はフロント係の女性に、
「私の方から連絡するまで、多分、三、四日だがこの部屋は使わないようにしなさい」
というと、高橋署長以下六本木から来た刑事さんを連れて引き上げた。
いつもの場所、帝国ホテルの十八階の個室で、生ビールに冷菜で、早目に始めていると、モデル娘を送った大田が最初に帰ってきた。
「田園調布に家がありました。相当な家庭です。なぜあんないやらしいアルバイトをしたのか分りません」
少し憤慨したように報告する。
「まあ、人間はいろいろあるからな」
と親分は答えただけだ。大田も少しビールを飲む。みなの仲間に入って待った。八時少しすぎに村松係長と醍醐警部補が戻ってきた。
「名前が分りました。大戸忠誠です。今は隠居の身で無職です。七十八歳」
「なに……」
名前をきいただけで岩崎は立ち上る。
「……待て、ちょっとたしかめる」
すぐ電話をとり、本庁へかけたが五分ぐらいの長話をしてから、切って、みなにいった。
「私が作った殺人のプログラムのソフトは終戦後から始まっている。その大戸というのは本庁のコンピュータに入れた第一号の人間だ。終戦後として区切る時間は、昭和二十年八月十五日の正午の天皇の玉音放送が終った瞬間に始まる。つまり午後一時には、終戦後ナンバーワンの殺人があった。詔勅を受け入れた師団長が若手の熱血抗戦派の中佐に斬殺された。斬ったのが大戸中佐だ。国士を名のるのも、多少の根拠があったわけだ」
[#小見出し] 亭主の相場
粗大ゴミ[#「粗大ゴミ」はゴシック体]
それでも、亭主が会社へ通い、一家の生活の糧《かて》を月末に届けてくれる間は、何がしかの遠慮があった。歳月は容赦なくすぎて、定年が来る。現在は世界に冠たる福祉国家日本では年金制度があるから、収入ゼロということはないが、大幅に生活レベルはダウンする。
犬は三日飼ったら主人の恩を忘れないという。人類の聖なる母体である女性と犬を比較するような大それたことをする者はもう男性の中には絶滅しているから、苦情は決して表面には出てこないが、家の中では邪魔者、捨てるに捨てられない粗大ゴミと宣告され扱われては、もはや抵抗力も失った老いの胸には悔恨の血の涙が流れるばかりである。
3
昨日、定時の就業時間終了後に、管理官と一係長、二係長の三人の幹部が事件に飛び出し、かなり遅くまで、帝国ホテルの十八階の個室で、現場からのデータを中心に捜査の方法について協議した。
単純に見えて、これはかなり複雑に仕組まれた事件であり、少し油断すると、単なる通りがかりの犯行と同じでうやむやに終る怖れがある。明日からは管理官、一係長、二係長、それぞれに役目を分担して、三人が一斉に取調べにかかり、短時間で解決に持って行くより仕方がないという結論に達した。朝からもう捜査の態勢に入った。朝の八時半、始業のベルが鳴り終ると、峯岸がいつものように熱いお茶の入った薬缶を取りに行こうとするのを止めて、
「今日はちょっと待ちなさい。みなはすぐ事件の捜査に当る」
といった。昨夜のことをまだ知らない刑事たちは、何が起ったのかと不思議そうに岩崎を見ている。管理官は自分の頼もしき部下である二十人の刑事たちに、まず昨日の状況をごく簡略に要点だけ話した。
「私はこれは、変態者の行きずりの犯行とは考えない。欲望を満たされない連中なら、まだ一向に下《さが》らない夏の暑さに負けて、ついむかむかとして殺人を犯すということも考えられるが、スワップルームを堂々と申しこんで、彼女と一緒に入ってプレイするぐらいの連中が衝動的に殺人を犯すことは考えられない。これは、我々が表面に見た事実だけでは考えられない、もっともっと裏のある仕組まれた事件だ。典型的な謀殺事件と私は断定する。とすると我々の最も得意とする事件だ」
久しぶりにみなの胸はときめく。こうなったら、総指揮官岩崎警視正が指示するやり方に従って、それぞれの部分で全力を尽くして犯人を追いつめて行く。網がじりじり絞られ、犯人逮捕に到るそのときこそ、まさに刑事|冥利《みようり》につきる一瞬である。
九時少し前には岩崎管理官の指揮下の二十人は、三班に分れて一斉に外の町へ飛び出していた。
その第一班は、岩崎自ら、乃木、進藤など、いつも一番信頼しているスタッフをつれて、珍しく本庁前から地下鉄で出発した。
みな私服だから女子一名男子四名の刑事が乗ってきても全く目立たない。四つ目の駅で降り、ほんの少し歩いただけで静かな邸町《やしきまち》に着いた。庭が広く木も茂っている邸宅ばかりだ。戦前からの家をひきついだ者が、まだ代替りしていない、つまり家の所有名義人が、七、八十歳以上の場合にだけ見られる現象で、山手線の円周内にはこういう住宅は数えるほどしか残っていない。
『大戸忠誠』の古びた表札がかかっている。
岩崎以下五人はその家の前に立った。
主人の死の知らせは届いていないはずだ。死体は今のところ氏名不詳で扱われている。住所氏名を知っているのは岩崎の係の刑事だけだ。外部には洩れていない。
門の外に立って一通り邸の状態を見る。塀や庭木の手入れは行き届いておらず、全体として荒れた感じがする。邸の大きさのわりには、収入はないのだろう。岩崎がみなにいった。
「ざっと三百坪。資産価値は十五億ではきかない。予断を持つのを慎しむのは裁判官だけでいい。我々捜査官は、予断の積み重ねで真実に辿り着く。この一件は、八、九十パーセント、この不動産がからむと考えてよい。まず遠い目標をそこにおいて、現実に起きる出来事をその中にはめこむようにして、予断をつないで行きなさい。みないつもと違い、ただいいつけに従っているだけでなく、推理に頭を絞るのだよ」
四人ともあまり元気なくうなずく。これまで、考えることはすべて親分に任せて、自分らは只命令に従ってついて行けばよかった。
急にこんなことをいわれても少し困るのだ。
岩崎がベルを押す。インターホンで問答があり、『警視庁から来た者です』というと敏感な反応があって、内から戸があき、三十代後半の婦人が出てきた。そこに五人の男女が立っているのに少し脅えを見せながら、
「大戸の家内です」
という。岩崎は手帖を示してからきく。
「表札の大戸忠誠さんとは、どのような間柄で」
「長男の嫁です。忠誠の長男の誠一の家内です」
「誠一さんの表札は出ておりませんが」
「まだ家の名義がお祖父《じい》ちゃんのままなので、主人は出さなくていいといっています」
うなずくと、かなり生活にやつれた感じの夫人に、ややきっぱりした口調でいった。
「事件が起きましたので、名義人の忠誠さんのお部屋を捜索させていただきます」
「やっぱり……捕まってしまったんですか」
まるでそれを予期していたかのようにいった。
「というと何かご存知で」
「いえ、私は別に。ただお祖父ちゃんは部屋を私たちがのぞくことをひどくいやがるので、私は中を見たこともありませんが、喰べ物をくさらせたり、一月に一回ぐらいしか洗濯もしないので、パンツからうじ虫もわいたりしますので、ある日、娘が堪《たま》りかねて中を片付けたことがあります。すると、お祖父ちゃんが裸の女の人にいやらしいことをしている写真が沢山出てきたというので、それ以来もう、片付けも掃除もやっていません。娘はそのとき一回でそのことは忘れてしまったらしく助かりましたが、私は心配で、心配で。お祖父ちゃんのお祖父ちゃんという人は明治の歴史に出てくる人で華族です。ただお祖父ちゃんは三男坊なので爵位はつぎませんでしたが、何かハレンチなことを起したら普通の人より大きく新聞に書きたてられるのは分ってますので、ずっとおちおち眠れないほどでした」
この夫人は、ほうっておけばいつまでもおしゃべりが止みそうもない。
「これが家宅捜査令状です」
薄い紙にワープロで打った、裁判所作成の令状を示した。夫人は先に立って案内した。玄関へは入らず庭の方へ向う。手入れが行き届かず草が茂るに任せたままの庭を横切る。足もとから蚊や羽虫がとびたち、スカート姿の乃木は脛《すね》を大分虫に喰われて、しきりに手で追い払っていた。
今どき都内でこんな所は珍しい。
庭の奥に小さな離れがあった。といえば聞こえはいいが物置きだ。全く粗大ゴミの扱いだ。三畳ほどの広さか。
ぴったりしめきられている扉を外すようにしてあけた。大戸忠誠、元陸軍中佐の住居は、ブリキ屋根のバラックだ。その中は汚れ物や、丸めたティッシュ、日に当てない布団などで異様な臭気がこもっていた。
正面の板壁に、『今上陛下』という額が下り、その下に陸軍制式軍刀と、菓子箱に半紙をかぶせた上に勲章を三つのせてあった。布団はすみに片寄せてあるが、それでも人間の坐る所はやっと畳半畳分しかない。周りに本が積んである。大部分は、和綴じの古書だ。『史記』『資治通鑑《しじつがん》』『大日本史』などの字が見える。
壁一杯に何百冊か分らないほど積んである。刑事たちは息をのんで見つめている。
試しに手に取って開いてみても難しい漢字ばかりでバタリと閉じてしまった。
もう一つたたんである布団のそばに、白いアート紙の表紙の、しゃれたイラストの雑誌が十冊ばかり積まれてあった。デザイン関係か、女性雑誌かと思われるシックな感じの表紙だった。一緒についてきた夫人も実情を知っているらしく、チラと目をやってから視線をあらぬ方向にそらせた。岩崎が命ずる。
「乃木。その雑誌をパラパラとめくってみろ」
乃木は白手袋をはめてからその雑誌をあけた。とたんに真赤になってすぐにパタンと閉じたが、警視正が自分のことをいつもの冷酷な眼で注視しているのを知ると、ふうーっと大きく息をして勇気を出して、また最初の方から見始めた。首筋まで真赤になって胸がどきどきしてくる。
「二百二十七ページを開きなさい」
乃木があける。『白髪の国士・憂国女戒秘録』の活字がある。そしてすぐ横に……ああ世は末か。めん鶏がときを作るとき、国は亡びる。今にして女性を戒めねば、日本は滅亡あるのみ。ここに憂国の志士、戒めの鞭を増長慢の女性に今日も振う……≠ニ、一見尤もらしい理屈が並べられている。だが、乃木は、そこには憂国の志操どころか、どんなポルノ本も及ばない露骨で淫らな写真と記述しかないのを知り、恥しさと怒りで顔も体も火のように熱していた。カーッとなって詰めよる。
「管理官殿、これは何なのですか。日本はここまで表現の自由が認められているのですか」
とたんに一喝された。
「乃木はいつ保安課風紀係になった。よけいなことは考えんでよろしい。そこの写真の白髪の爺さんと、この家宅捜索の意味とを考えろ」
刑事たちも次々と覗きこむ。本とすえた匂いの汚れた布団と軍刀と勲章とがある三畳の物置きにどうして暮していたのだろう。岩崎がきく。
「食事はどうしていました」
夫人はそっけない。
「さあー、家ではずっと接触がなかったので知りません。パンか、カップラーメンを喰べていたんではないんですか」
「洗濯などは」
「裏にポンプ井戸があるので、たまにそこでやっていたようですよ」
「トイレは」
「どうも、朝、近くの公園のお便所を借りてすませてたようです。小の方はそのへんですませていたのじゃないですか。庭は広いですから」
「まあー常識的に考えればご主人の父親に当られる方です。少しご家族のお祖父さんへの接し方が異常に思えますが……」
とたんに夫人は、かみつくような口調でがなりたてだした。
「そんなことあるもんですか。これはお祖父ちゃんが自分でのぞんだことです。自分で勝手にここにこもって、家へ入らないのです。息子と顔を合せるのがいやなのです。まるで犬と猿のように睨み合っているのです」
「どうしてでしょうか」
「それはお祖父ちゃんが悪いのです。この邸は三百坪もあります。今どき都内でこんな土地はありません。不動産屋は等価交換方式で、六階建てのマンションを只で作ってくれるというのに、頑として権利証を渡さないのです。そうでなくても、半分の百五十坪でも長男のパパにもう譲ってくれてもいいと思うんです。そしたら、五十坪だけ売っても、百坪にきれいな家を建ててもっと快適に暮せるのです。私たちもうんとお祖父ちゃんを大事にしますわ」
そういうことだったのか……と岩崎はうなずいた。それから夫人にいつもの冷酷な表情でいった。
「多分、あなたのご希望はすぐかなえられます。本日ここへ参ったのは、その婦人警官が目下調査している怪しげな雑誌に載っている白髪の老人が、今、あなたのおっしゃっているお祖父ちゃんかどうか、ご家族の方におたしかめいただきたかったからです」
「いやらしい。見なくても分ってますよ。いつ世間にばれるかと思うと、この二、三年、生きた心地もありませんでしたよ。粗大ゴミなり、濡れ落葉なり、もう役たたずなのですから庭のすみで、ひっそりしていればいいのに。全く……もう」
「ではたしかにこの人が大戸忠誠さんですね」
とたんにふっと口ごもる。かまわずいう。
「申しおくれてすみませんが、大戸忠誠氏は昨日お亡くなりになりました。死亡原因に多少の問題がありますので、ご遺体は目下、司法解剖を行っていますが、今夜にはお引取りいただけると思います」
「誰が、あんないやらしいお祖父ちゃんの」
「まあー、法律的に親子の間では遺体を引取らないですませることは許されません。死体遺棄罪になり、相当な刑罰が科されます。ただ死体を見て、お祖父さんではない、別人だと主張することはできます。身内の人がいうのですから、これほど確実なことはないでしょう。さっき貴女が雑誌を見て証言したことも、単なる口頭上のことで、まだ記録にも取っておりませんから、貴女がそんなことは言わなかった、或いは写真を見間違えたといえばそれですみます。死体は住所氏名不詳者で処理できますので、ここで葬儀を出さなくてもすみます」
いくらかほっとした表情が浮ぶ夫人に、全く感情のこもらない岩崎の言葉が続く。
「その場合、さっきいった、この家をマンションにするという一家のご希望が実現するのが、最短でも七年おくれます」
「えっ、七年も」
「死んだことがはっきりしない場合は、行方不明の失踪宣告をしていただきます。七年すると、それが認められ、初めて大戸忠誠氏の財産を相続できます。それ以前に現状に手を加えると、親子の間でも横領罪が成立しますよ」
「まあーそうなってるんですか」
「法律とはそういうものです。土曜日の公共チャンネルの、桂二鶴にきいてみてください」
比較的視聴率の高いテレビの大衆向け法律番組の司会者の名をいった。とたんに騒ぎ出す。
「死体は引取りますわ。世間がびっくりするような立派なお葬式を挙げて、粗大ゴミさんに成仏してもらいます。それが嫁の務めです」
「それで多分、十五億円分はまちがいなく、ご主人の手に相続されるでしょう。たった一つだけの例外を除けば……」
少し不安そうに夫人はきく。
「その例外とは何ですか」
「さあー今のところそれはまだ申し上げられません。とりあえず三時ごろまでに、大塚の監察院へ行って、遺体確認の上お引取りください」
そういった後、夫人に監察院への略図を渡し、岩崎たちは引き上げた。
大田たち五人は、その同じころ赤坂にある女子大学へバスで向っていた。
丁度校門へ入って行く昨日の小娘を見つけるとすっと寄り添うようにして、キャンパスの中へ歩いて行く。大田自身つい二年前まで学生生活をしていたから、大学は違っても、学内の感じは把める。学生用の生協の売店のテーブルに腰かけ、コーヒー牛乳を二本買って向い合った。
「別に学校には何もいわないから安心して。ただ、ふだん、どんな風にして、学校へ行き、アルバイトをしていたか、ちょっときかせて。そんな妙な顔をしないで」
その娘は少し迷惑そうにいう。
「まだ何かきくことがあるんですか」
「これは殺人事件ですから、そう簡単なものではないのよ。でも大丈夫、安心して。学校や先生には事件のことは何も洩れないように気をつけるわ」
大田と同行した吉田老刑事は、若い刑事たちに指示して学籍簿を調べさせていた。
「大戸美穂子だ。あったらその子の写真をよく見て記憶に入れなさい。昨日の参考人と同級生か、ふだん交際があったかどうかを調べる。大戸には直接に接触しなくていいから、当人が分ったら当分の間ぴったり尾行する」
一方、村松警視は、旧丸ビルにある、機械工業の会社の受付で名刺を出して、ロビーに、大戸忠誠の長男、誠一を呼び出していた。
「何でしょうか」
とやや不審そうな表情で出てきた中年の社員に、
「大戸さんですね」
とたしかめた後で、
「多分お父上と思われる方が昨日事故死なされました。今、ご遺体は大塚の監察院にありますが、お引取りに行かれますか」
といいながら雑誌の中で、裸体の娘をいやらしく鞭打っている写真を出した。
困惑した顔の男にいった。
「この遺体の衣服所持品には、身分氏名を証明する物は何一つありませんでした。他人だとして引取りを拒否することも可能ですが、そのことについては一応奥様に相談されてはいかがでしょうか」
[#小見出し] 亭主の相場
濡れ落葉[#「濡れ落葉」はゴシック体]
粗大ゴミでも、家の中でうろうろされるときは、邪魔だ目障《めざわ》りだという、それなりの存在感があったが、そのうちにそれも無くなる。男はひたすら目だたぬように身を縮めて迫害に耐えている中に、庭先に落ちて雨に濡れている落葉のように無視される透明な存在になる。かつてその家で、亭主と呼ばれて一家の生活の資である月給を忠実に何十年も運搬してきた実績があったことは、きれいに忘れられてしまう。後はもうローソクの芯が燃えつきるとき、最後に一瞬明るく輝くように多少とも一家に期待されるのは、目出たくも寿命がつきて生命保険が届けられるときだ。それはなるべく早い方がいいから、自然にそのときのくるのを待たれるのが人情である。かくて男の一生は侘《わび》しく慎ましく終る。
ああこの悲惨な『男の一生』を、モーパッサンなら何と書くであろうか。
4
大戸忠誠の死体は、長男の誠一夫婦に引取られた。
その直後、岩崎管理官の指導する、捜査一課一係と二係の二十名は、三つに分れてぴったりと、大戸誠一と関係者の周辺に張りついた。
モデルの娘、大戸誠一、それに誠一の子供でモデルと同級生の娘美穂子との三人である。岩崎と村松と大田の三人の幹部は昼はその指揮で走り回り、夜になると帝国ホテルの十八階につめて、各捜査員たちの報告をきき情報の分析を行う。
毎夕情報を届けてきた刑事たちは、冷たいビールに、夏用の軽いフランス料理でご苦労さんの夜食をすませて自宅へ戻る。明日もまたまる一日、残暑の中の、忍耐のいる監視や盗聴の仕事がある。
三日目の深夜、十八階の部屋では、三人の幹部だけが残って集った資料の最後の検討に入っていた。
「私がこの殺人は、あくまで誠一が何らかの意味で関係しているという線を崩せないのは、殺人の成功により、誰が一番利益を得るかと考えるからだ。家庭の中では夢の島にトラックで送りこまれた粗大ゴミぐらいにしか扱われなかったこの老人の死で、利益が得られるのは、長男の誠一しかいないからだ。これがふだんから本当に親孝行の子供だったら、まさか実の親をという線も多少は考えられるが、まずその線はない」
テープの一つをカセット機にかけた。
「大戸誠一が総務部長として勤務している旧丸ビルの機械工業会社が協力してくれた。今の電話交換機は自動だから、接続コードを外して簡単に盗聴をすることはできない。大戸のデスクから交換機に至るまでの、内線の段階で盗聴器を入れることを認めてくれた。これなら機械工業会社の業務と関係なく、私が殺人の被疑者に対しての司法手続きを踏んでの盗聴ということになる」
村松警視と大田警部はうなずく。もう深夜に近い。窓から夜の銀座の灯が見える。八月は暑くてネオン街はさっぱりだったようだが、九月になって街の灯も勢いを盛り返してきたようだ。
テープがしゃべり出す。一昨日のだ。
『……やっぱりそうか。死体を引取らないと、不動産は相続できないのか。……七年間もか。そんなに待ってられない。二年で元値を超す利息の金を暴力団関係者から借りてるんだ。三年で二倍、四年で元値の四倍にもなるばかばかしい額を返さなければならない』
悲鳴のような声だ。明らかに大戸誠一だ。夫人と話している。
『……それに今度のことの報酬もまた一千万円ほどいる。これは実行後、三日以内と期限が切られている。こちらの方は、我々、小口の素人相手に、全国に信用金庫という、小さな銀行のようなものがあって、そこと話をすすめている。あれだけの不動産があるのだから、先に担保に入れなくても、親父の死さえ確認できれば、貸してくれるとのことだ。市中銀行より条件がゆるやかなのだ。利息も安い。親父が今まで権利証と実印をしっかり握って放さなかったので貧乏はしたが、おかげでまだどこにも担保に入ってない。手続きさえ無事すめば、その日から十五億は入る。もう少しの辛抱だ。ともかく葬式はできるだけ安くあげなくてはならない。いろいろ考えておきなさい』
テープは次の日の物に替った。
『昨日引取った死体は、ビニール袋に入っているから明日までは物置きにそのままにしておけ。棺へ入れてドライアイスをつめないと、こんな気候だから、中から腐ってきて始末におえなくなるが、まだ今日ぐらいはもつ。人に知られると葬式をあげなくちゃならんから、棺を買うのは待て。区役所へ行けば火葬の許可証は出るそうだ。それで許可証をもらったら、まず、犬猫の葬儀屋に電話をかけて、来てくれないかどうかきいてみろ』
さすがにきいている三人は顔を見合せた。いかに晩年は変な趣味に生きたからといって、ここまで子供にいわれる親が何とも哀れだ。少なくとも、終戦時に、憂国の大義を信じ、腰に下げた一刀で、承詔必謹の柔弱師団長を斬殺した熱血の男だった。
徹底抗戦を夢みた愛国の志士だ。犬猫なみに、葬式なしですまそうという息子の非情さが何とも理解しにくい。
『ライトバンに火葬炉がついている移動式葬式車があるはずだ。横に祭壇があって、ペットの飼主の家に出張して、その場で焼いて骨壺に入れてくれる。あれでやってくれるかどうかきいてみてくれないかね、人間ならいくらかと』
その日の午後にテープが替った。
『……やっぱり駄目だったか。罐《かま》が小さくて人間は入らないからだって。それは弁解にすぎないよ。手足を折って紐でくくってつめこめば、犬と大きさは変りゃせんのに。それで葬儀社に一番安いランクをきいたかね』
殺人捜査課でさまざまの異状な現実に直面している鬼刑事の三人も、毒気を抜かれてげんなりとした浮かぬ顔になってしまった。
直情径行、すぐカーッとなってしまう乃木や進藤だったら、この親不孝息子に手錠をかけてぶちこみたくなったろう。
軍刀一閃、師団長の生命を断ってまでして防ごうとしたのは、このような民族の志の堕落だったのだろうに。
『うん。そうか。ボール紙製の棺で一段飾り、無宗教として読経なし、当日葬儀社が火葬場に運んでくれて、代理人として立会い、骨壺にして、その壺だけ届けてくれるという形式でよければ、一切合財で十万円というのがあるのかね。うんそうか。もし家がこれまで民生委員の世話になって生活保護を受けていたなら、そのうち七万円は四谷区役所から支給してくれるのか。残念だが、それは諦めよう。この際十万円は出そう。死体さえ合法的に片づいたら相続にかかれる。十五億円はかたいからな』
妻との話は終った。葬式のメドがついて気が楽になったのか、何時間かたっての次の電話の声は軽い。やはり会社からかけている。
『ええ、もうどこにも担保の入ってない今どき珍しいまっさらな物件だってことは、登記所をお調べになれば一眼でお分りになりますよ。それに明日盛大に葬儀をすませてから、相続の手続きにかかります。家の権利証その他必要な書類一切は、たたんであった布団の中に、菓子箱に入ってありましたので、私が遺産を相続するに際しては何の問題もありません。……そこでお願いなのですが、担保関係が前後して申し訳ありませんが、相続を速やかにするために、葬儀費用として明日中にキャッシュで、一千五百万円也を貸していただけませんか。ええ、借用証を持って明日私がお店の方へ取りに行くという形で。勿論、不動産が無事相続できました時点で、一番先にご返済申し上げます』
それで電話が切れた。テープも終る。岩崎が三人にいった。
「借金話はこれで成功したと見ていいだろう。葬儀には十万円しかかからないのに、なぜ千五百万円を明日中に手に入れようとしてあせっているのか。ほうっておいても大金持になるのに急いでいるのは、期限を切られているからだ。殺人を頼んだ相手への報酬と私は見る」
二人は大きく息をのんだ。大胆な推論に見えるが、考えてみれば、それが一番納得できる。もう何が起っても驚かなくなっている。
三班のうち、峯岸と武藤ら、若手の連中は、昨日の朝から大戸家の周辺に張り込み、一人娘美穂子が出てくるのを見ている。昨日は夕方になって、やっと近くのスーパーに買物に出たきりで、外出はなかった。葬儀社の男らしいのが二人来て、寝台車のようなライトバンで棺を運びこみ、数十分して棺を持ち出し、また五、六時間して骨壺らしいものを届けてきたが、ついに葬儀も弔問客もなかった。
今日になって狙いは当った。大戸の娘は大学へ行き、昼休みに大学生協の売店で、モデルの娘と会った。乃木が前日からぴったりとモデルの娘についている。乃木と峯岸は別のテーブルで知らん顔。もう一人同級生らしい娘が話に加わりモデルにいった。
「ねえ今晩私の彼とつき合って。お互いに共犯者同士よ。明日、お金を分け合ったら、しばらくはお互いに全く他人として、道で顔を合せても知らんぷりしなくてはならないのよ。その前に、この間の仕事のとき十字架に縛りつけられていたあんたの裸を見て、彼どうしても忘れられなくなっちゃったんですって。共犯者同士の精神的連繋を確実にしておいた方がばれる怖れが少ないというのよ。私は単なる男の浮気心だと思うけど、今度の仕事の御苦労賃に軽い気持でかなえてあげてくれる」
といった。ホテルへはついて行かず報告に戻った峯岸は、あまり事情は分らずに、きいたことだけを、正直に報告した。話の内容については、峯岸当人はよく理解できない部分もあったようだが、それでよかった。なまじしゃべってることの意味など分ったら、まだ未経験者の彼女は真剣に考えこんでしまったかもしれない。
世の中に絶望してしまう怖れさえあった。
十八階の三人は、その後モデルの跡をぴったりつけていった乃木の報告を待っている。レミー・マルタンに口をつけたとき外線の電話が入った。
「高橋です。警視正殿ですか」
「ああ高橋か。うまくいったか」
「ラブホテルの隣室がとれました。愚妻と一緒です」
「十字架の娘はやはりそいつに抱かれてるのだね」
「はい。壁に吸音器をはりつけました。こいつはこれまで単なる大人の玩具屋が売ってるインチキ商品だと思ってましたが、使ってみると意外に役にたつものですな。壁の向うの会話が室内の音のように入ってきます」
「それで奥方のごきげんはどうかね」
突然、岩崎は変なことをきく。
「いやー、よくそのことをきいてくれました。どういうわけかさっぱり分りませんが、急に気難しくなりました。初めは夫婦とはいえ、まだこんなラブホテルなんて所へは入ったことがないので、物珍しさが先に立って、面白そうにしていたんですが、そのうちに一昨日からの様々な捜査がすべて異様なことの連続で、どうもかみさんの神経をひどく苛立たせていたようです。あんな気の強い、しかも単純な女です。『男なんて全く信じられない。不潔だ。あんたも外に出たら何してるか分りゃしない。みんなピストルでぶち殺してやりたい』などといい出しまして、手がつけられないほどです」
岩崎は平気で答える。
「乃木ならそんな気持になるのも分るな。まあこんな時代だ。あまり逆らわず、怒らせないようにしておきなさい。これは殺人の捜査という大事な仕事だからと気長に優しく説得しなさい」
岩崎は無責任にそういい、ニヤリと笑った。十字架娘は乃木の顔を知らない。それで、昨日から終日張りつかせていた。学内の生協売店から出て、同級生と二人で渋谷駅で待ち合せたモデル娘は、そこで一見やーさん風の三十代の男に紹介され、すぐその腕に抱えこまれるようにして道玄坂を登っていった。ラブホテルへ入る。まさか乃木を同僚の花輪刑事と入らせるわけにいかないので、六本木署に電話させて旦那と入らせたのである。
その乃木の入ったホテルからの次の報告がまた入った。
「今、二人の話の録音をかけます」
すぐ、テープの音が電話口に入る。
『男[#「男」はゴシック体] よかったぜおめえの体。これで明日、一千万円入る。この仕事は女にも恵まれ、金にも恵まれ、バツグンのグッドナイスだったな。でもおめえ、可愛い顔して体も一人前だが、度胸もいいぜ。もっとも目隠しして何も見えなかったから怖くなかったのかもしれねーな。
女[#「女」はゴシック体] やっぱり怖かったわよ。でも目隠ししてなかったらもっといやよ。後で死体は見たけど。夜怖くてお手洗いのドアはあけっ放しで入ったわよ。
男[#「男」はゴシック体] 明日どれだけもらうことになってる。
女[#「女」はゴシック体] 私は口止め料二百万円。あなたの彼女もよ。
男[#「男」はゴシック体] そうか。おれは一千万円。ヨーロッパでも一緒に行こか。パーッと派手に。
女[#「女」はゴシック体] 悪くないわね。彼女が許したらね。考えておくわ』
三人はじっと耳をすます。テープは一度切れた。また抱き合ったようだ。岩崎がいう。
「この二人が明日どこで会うかが問題だ。千五百万円なんて金は、バッグに入る小さな物だ。目だちやしない。生協の売店のテーブルでコーヒー牛乳でも飲みながらでも受け渡しできる。二人とも事前に分っているから、自分の口から何時にどことは口に出すまい」
「朝から全員で、生協売店に張ってましょうか」
「それもちょっと危険だ。もし他の場所だったら折角のチャンスを逃してしまう。明日は、誠一は会社を休む。どこかの信用金庫へ金を取りに行く。それがどこか分りさえすれば、我々の行動範囲はぐっと狭められる。これから先は推断はさけよう」
大田警部が、ぱっと顔を輝かせていった。
「いい方法があります。もう一度、やれんのうの保安課の醍醐さんに頼むのです。これは殺人事件です。もし家に帰っていたら自宅へ電話をかけて頼みます。自慢の息子さんが、どこかの信用金庫の松戸支店長だといってました。支店長ともなれば支店長同士お互いに横の連絡があると思うのです。これが犯人を押えるキメ手になると分れば、きっと協力して、各支店長に問い合せてくれると思います。何しろ捜一からの頼みなのですから」
「よろしい、やってみなさい。ああいう人だから、どう答えるか分らんがね、駄目でもともとという気持で頼んでみなさい」
すぐに大田警部が本庁へ問い合せて番号を調べ、自宅へかけた。醍醐警部補は押えられたようだ。それでも例の調子で『やれんのう』とこの勤務外の余計な飛びこみ仕事に初めは渋っているようだった。大田の熱心な懇願にやっと承知したらしい。受話器を肩で押えながら、大田蹴鞠子警部は、指で丸を作ってにっこりした。こういうときは女の方がうまく行く。
一度電話を切ってから、二時間ほどかかった。警部補の長男が友人の支店長に片っぱしから電話をかけてくれたようだ。
午後十時に近くなってやっと電話が入った。
「三軒茶屋信用金庫の、太子堂支店で、午後三時に表の戸をしめてから、支店長がじきじき、大戸誠一に手渡すことになっているようです」
その電話を大田は、岩崎に報告した。
これで一切の準備が終った。大戸誠一が、殺し屋の男と、モデルの娘、殺し屋とβホリデイホテルのスワップルームにいた第三の娘との三人に会う場所はまだ分らないが、その信用金庫から跡をつけ、三人に会って鞄を渡す時間を押えれば、殺害現場を見なくても犯罪は立証される。
「これで捜査本部は解散、今夜は自宅でゆっくり眠ってくれ。明日は午後二時に三軒茶屋に我々は集合。二十名の猛者諸君は、渋谷と、赤坂の大学と、念のため六本木の交叉点の近辺に三時丁度に配置完了。進藤、吉田、乃木をそれぞれのチーフにして三カ所に分けておき、指揮をとらせる」
この処置は正解であった。
三軒茶屋近くの太子堂支店から、小型の鞄を持って出てきた大戸誠一は、すぐにタクシーに乗った。自分が見張られているなどとは全然考えていないようだ。
まっすぐ六本木に向う。交叉点に面して、店内の殆どがガラス窓で見える、一番賑やかな人の出入りの多い、アランド喫茶店へ入って行った。
窓際の席に男一人、若い女二人がいる。そこのテーブルに行き、向い側に坐り、バッグの中から、大型封筒に入れた物を片手で取り出そうとした大戸誠一が、ふとなにかの気配に顔を上げた。その顔が急に強張《こわば》って唇が震え出した。
女をまぜ何人かの人間がテーブルをしっかり取り巻いている。その中の女の一人が、スーツの内ポケットから、四十五センチの紐についている、濃い紫色に金星マークの入った手帖をチラと見せた。
[#改ページ]
[#見出し] W 涙のポンポコリン
[#小見出し] ユートピヤ
A エデンの園[#「A エデンの園」はゴシック体]
いつの世も、現実の人間生活は苦しい。
一日の食を求めるため、人々は丸一日汗を出して働く。それでも足りない場合もあり悪いこととは知っていても、生きて行くために道ならぬ仕事に踏みこむ人もいる。そこですべての人間がみな豊かに暮し、そこにいる女はみな美女で気が優しく、ミルクと果物が限りなくある土地を空想の中で作り上げる。
その人類の共通の願いの最初の具体的な例がエデンの園である。
神話の世界のことであるから実際の場所は特定し難いが、その場所が今、世界を動乱の恐怖に陥《おと》しこんでいる、フセイン大統領の地元バビロンの近くにあると信ぜられているのも皮肉だ。
旧約聖書によると、創世記 第二章の中に、
八 エホバ神エデンの東の方に園を設けて其造《そのつく》りし人を其処《そこ》に置きたまへり[#「八 エホバ神エデンの東の方に園を設けて其造りし人を其処に置きたまへり」はゴシック体]
とあり、人類最初の楽園と定めている。
乳流れ蜜溢れる土地がなぜ世界の動乱の震源地になったのか、そんなことはインチキおじさん、ピーヒャラパッパパラパである。
1
十一月に入ると、皇居で天皇陛下一世一代の即位の御大典が行われる。その警戒のため警視庁はかつてのサミット、御大喪や各種の儀式とは一桁規模の違う警備を行う。本庁や、管下の所轄だけでなく、各県からの応援を依頼し、莫大な数の警官を動員した。また東京中に、道をきいてもまるで答えられない巡査が溢れる。
多分その期間は国民も自粛して、凶悪犯罪を起すことは少ないだろうということで、殺人犯専門の捜一の中からも(その数は秘密であるが)相当な数の刑事さんが警備や公安の応援に駆り出された。ところが国民はそれほどお上《かみ》に都合よく生きてくれない。テロ、反対行動は別に考えても、平常の犯罪が減ったという徴候はない。減員した分、捜一は緊張し、忙しい日が続く。御大典が終る日までは気を許せない。
だから十月に入った最初の日曜日は、岩崎管理官は、強引に休みをとることにして、約三分の二に減った現在の部下たちにも前日の土曜日に、
「明日休養しとかないと、後はいつになったら休めるか分らんよ。いくら鬼の捜一の猛者諸君でも、体が鋼鉄やセラミックでできているわけではない。今晩はみな寝床へ入るとき枕もとに、ハンバーガーか握り飯をおいて、明日は一日中寝転がったまますごせ。私から緊急の呼び出しの電話がかかっても寝床から出るな。そういうときに都合のいい言葉がある。電話に向って『管理官殿、公私混同をしないでください』と答えなさい。使い方が反対だが現代ではこの方が分り易い。私も明日は諦める」
と宣言した。岩崎が部下にわざわざそう訓示したのは、岩崎自身がかなり肉体的に疲労していたせいだろう。
しかしその願いは朝から無駄になった。
少し寝すごすつもりで、愛妻のみずえにもそういってある。だがマンションは、広いようでも所詮マンションだ。
一階下の五階に、愛児翔のガールフレンドのニーナちゃんがいる。ニーナちゃんの父親は商社員で普段は子煩悩の優しい人だ。日曜ごとにどこかへ連れて行ってくれ、翔もその御相伴に連れて行ってもらったことがある。
ところが中東状勢の緊迫で、急遽、中東経済の中心地、湾岸のバーレン国に派遣させられて八月からずっと家にいないらしい。パパの居ない日曜日は淋しくて仕方がない。それで朝早くから翔の所へ『遊びましょう』とやってくる。
いつも女性に対して冷酷な態度をとる父の警視正と違い、翔はまだ三歳の幼児だが女性に対してはとても愛想がよい。それに今のところは、唯一人のガールフレンドのニーナちゃんにはメタメタで、来ると際限なくはしゃぎ出す。初めこそおとなしく二人はジュースを飲んだりケーキを喰べたりしていたが、そのうち、今日の夜にはまた放送されるはずの、『ちびっ子マルちゃん』の漫画のことを二人とも同時に思い出して、両手を拡げ両足を開いたまま交互に強く踏む、ポンポコリン踊りを始め出した。
※[#歌記号、unicode303d]お腹がへったよ ポンポコリン
子供にとっては踊ること自体が面白くて仕方がないようだ。始まり出したら、はしゃいで止まらなくなってしまった。
3LDKだから、マンションとしては広い方だが、歩き回れる場所は限られている。いくらみずえが止めてもだめだ。踊りながらアコーデオンカーテンをあけ、寝室に入りこむと、ベッドの周りでぐるぐる踊りだした。
これでは、凶悪殺人犯が震え上る捜一の、鬼も泣く猛者刑事をその冷酷な一睨みで畏怖させる岩崎管理官も、とても勝てない。まだ幾分眠りたりないが、半身を起して二人の子が楽しそうに踊っているのを見ていた。
ひょいとその表情に緊張が走った。
「みずえ、お客が来る。ガウンを持ってきなさい」
いつもながら、何かの一瞬前に気がつくこの動物的な本能には、みずえは感心を通りこして少し怖くなる。予知能力というほどではないが、職場でも電話のベルが鳴る前には受話器に手がのびている。みずえはパジャマの夫にあわててガウンをかけた。そのとき扉のベルが鳴った。日曜日の午前中に訪ねてくるというのはよほど親しい人か、何か緊急の用件のある人だ。
みずえと一緒に翔もニーナちゃんも扉口に駆け出して行った。中から扉をあける。
扉口には、数年前に惜しまれて世を去った映画女優の夏目正子そっくりの美女が、秋のスーツをシックに着こなして立っている。
「まあ、原田さん……」
といいかけてあわてていい直した。
「ご免なさい、今は中村さんでしたね。ずっとお元気。ともかくお入りなさい」
中へ請じ入れる。翔は美人が大好きだ。早くも手を握ってまつわりつきながら、中へひっぱってくる。つい去年まで捜一で岩崎の下にいて、乃木とともに殺人の捜査に活躍していた、旧姓原田ひとみ巡査だ。同じ課の、ピストルのオリンピック選手候補だった中村刑事と結婚し、今は中村ひとみ。夫婦が同じ部署で仕事をするのは警視庁の内規で認められていないので、彼女の場合は(乃木と違って)新妻の方が管下所轄に出た。
たしかこの中村刑事は、新大久保署で頑張ってるはずだ。
「まあ、上りたまえ。今、みずえがコーヒーをいれるから。たしか君は、グワテマラの粉が好きだったね」
実際岩崎はどんな細かいことでも決して忘れない。
「はいありがとうございます。みなさんもお元気で何よりでございます」
「この前会ったのはお正月の明治神宮だったね」
岩崎は、あの混雑の中を、新しい制服に白手袋も鮮やかに参拝客の誘導をしていた、ひとみ巡査の颯爽とした姿を思い出した。かつて、警視庁の婦人警官の募集やPR用のポスターには同じ課のみずえと一緒によく使われた美貌である。現在結婚一年、落着いた人妻のお色気がしっとりと漂って、何ともいえぬ、いい女になっている。
コーヒーを飲んでも、もじもじしていて、話が出ない。何か事情がありそうだ。みずえが少し気をきかした。
「うちの旦那様に何か業務上の打合せでもあるのなら、私、翔とガールフレンドのお嬢ちゃんを連れて、近所の公園にでも行ってきますわ」
「いえ、いいんです。ぜひ居てください。ご免なさい。折角、日曜日でお休みのところを」
「そんなことは気にすることはない。何か用件があったらいってごらん」
「はい。実は昨日、うちの管内に殺しがあったのです」
「それを先にいいなさい」
岩崎の目はきらりと光った。
「はい。それが変な所なので。管理官殿はメイク・ラヴ・ストリートというのを知ってますか」
「セックス通りだね。子供がいるから、もっと分り易い直接的な表現は避けるがね。はっきりとは場所は知らないが、そんな道があることはきいている」
「新宿の職安通りと大久保通りとに挟まれた一画に、六本の細い道が櫛《くし》の歯のように通っています。その一郭はすべてラヴホテルでかつては不倫の恋人やアベックたちの名所だったのです。ところが六月一日に新しい入国管理法が施行されて、アジア各国や、中南米から出稼ぎにきていた男女が、一斉にこれまでの職場を追い出されてから通りの様相が一変したのです。みな日本へ来るまでの旅費は借金だし、故国へ送金しなくてはならないので、自分一人でできる仕事をしだしたのです。男は日雇いや、思いきって泥棒になる手がありますが、女は売春で金を稼ぐしかありません。それもスナックや、クラブなどの店に頼らない売春というと、街に立つほかありません」
「まあー」
とみずえがびっくりしていった。
「……いつかパパについてヨーロッパへ行きパリの町を歩いたとき、モンマルトルの下の細い坂道に、殆どパンツギリギリのミニスカートをはいた女の人たちが、ずらっと並んでいたのを見たことがあるけど……この日本でも並び出したのですか」
「そうです。本物は私は映画でしか見たことないのですが、このごろその新大久保の細道はそれとすっかり同じだそうです。世界各国の娘たちが、肌のすき通ったドレスや、パンツまでのぞけそうな短いスカートから、日本人にはない、自慢の細い腿を出して、ずらっと並んで立っているのです」
「そうか、それでメイク・ラヴ・ストリートだね。幾らぐらいで商売しているんだね」
「うちの風紀係が変装して近づき調べましたところ、白も黒も黄色も、肌の色に関係なく、一回二万円だそうです。お互いの話し合いか、それとも上に統率力のある自治組合長でもいるのか、今のところ、その取り決めはよく守られていて、不当にボラレたり、女に所持品を盗まれたという訴えはないようです。売春そのものはいくら怪しいと思っても、交渉現場を見ない限り捕まえられないし、ホテルから出てくる所を見つけても、腕を組んで近くの新大久保駅まで歩いて行くと、これは即ち恋愛行為で売春にならないそうです」
「まあーそうだな。当分、何か事件が起きない限りは、ほうっておくしか仕方がないだろうな」
中村刑事ははっきりと顔を上げていった。
「それが事件が起ってしまったのです。昨夜……というより今朝になって」
それからテーブルの上にあった新聞の中に挟まった折込広告を抜き出し、裏が白いのを選ぶと略図を書き出した。
紙の上の方に大久保通りと書き、下の方に職安通りと書く。巡査見習だった若いとき、休憩時間に何人かの同僚とやった、アミダくじを思い出させるような六本の縦筋を引いた。真中へんに一本だけ六本を直角に横切る道を書く。
「刑事さんが一人でここへ入ると、すぐ見破られて女たちが散ってしまうので、このごろ実態調査は臨時にアベックを組んで歩きます。相応に派手な服に着替えて行くので気がつかれず、女たちは誰も平気で立っています。この区域は昔から、アベックで歩くのが、一番ノーマルなのです。各国の女たちもすぐ近くにホテルがあって、即座に利用できるのです。ここらへんには白い肌に金髪の女もいます」
と通りの一つをさす。それから別な通りに×点をつけた。
「事件はここで起きました。比較的東洋系の、黄色い肌に黒い髪の女が集る地域で日本人と区別ができないぐらいです。それでは商品価値が薄いので、このごろは近くのホテルの一部屋を契約し、中国服や、チョゴリ・チマなどの民族服に替えるのもおります。その中で、明け方二時に一人の女が殺されたのです」
「今朝の明け方だね」
「はい」
「詳しく状況を話してみなさい」
殺人事件はすべて、本庁で事実上自分が管理運用を任されている地下四階の秘密大コンピュータにデータをインプットする必要もあって、他所《よそ》の事件でもつい真剣になる。
「はい。明け方二時ごろ、女は一人でホテルから出てきたそうです。すぐ近くでまだこれからの客を狙って立っていた、韓国訛りの日本語を話す女性が事件を目撃しています。他にも目撃者はあったようですが誰も逃げてしまい、証言に応じてくれません。その唯一人の目撃者の証言によると、出てきた女の背中の方の暗闇からナイフが飛んできて、次の瞬間、女の細い腰のやや上に突き刺さったのだそうです。三、四歩も歩かずに女は膝からくずおれて倒れる。即死だったといいます。その間犯人の姿は見えず、目撃者も立ちすくんだまま声もかけられなかったそうです。女が瞬間に発した言葉は目撃者も知らない言葉だったといってます」
「それは中国語だよ。多分その女は中国人だ。犯人が中国人だからね。腰の所を後ろから刺して腎臓を貫く。『史記』に出ている。中国四千年の歴史が生んだ必殺の秘法だ」
「韓国訛りの女からの通報があったので、我が署のパトカーが現場へ急行し、現場検証し、死体は一応署に収容し、私たちも今朝早く非常呼集でその死体を見ました。一日の仕事を終えてアパートへでも戻るところだったのでしょう。地味な黒いスーツでした。もっともその子が道へ立つときは素顔が分らないぐらい厚化粧をし、腿のショーツが外から覗けるぐらいに脇のスリットが深く入った中国服を着ていたそうです。やはり六月ごろから立ちだした仲間の一人ですが、周囲の人々とは一切話はしないので、名前も国籍も現住所も、何も分りません。所持品にも、中国服を預けてある近くのラヴホテルにも、この女の身分名前を示す物は何一つありませんでした。通報してくれた目撃者のコーリヤの女の人も、いつのまにか姿を消してしまったそうです」
「そうか。それで中村はなぜ私の所へ」
「うちの署長が、この事件はとても自分の署の捜査係だけでは手に負えない。といって、他の捜一や、方面機動捜査隊の若い刑事さんに、あのあたりをガサガサやられると、女たちは一斉に散ってしまって、却って迷宮《オミヤ》にしてしまう怖れがある。それで迅速果敢明快に解決してくれる岩崎警視正に直接頼んでくれないかと、つい先ほどいわれて、やって来たのです」
「そうか。しかし私は外国人売春のことについて、それほど詳しい……」
とまでいって途中でやめ、
「ちょっと待ってくれ、いい人がいる」
と電話のダイヤルに手をのばして、回した。電話に向って、
「……日曜で悪いが、あんたもう一度、やれんのうついでに相談にのってくれないか……」
といってから五分ほど話していたがすぐ電話を切っていった。
「中村はすぐ署に戻り、十二時三十分までに新大久保署の捜査主任と一緒に新大久保駅で待っていてくれ。私もそれまでに行く。日曜日でうちの部下は呼び出せない。私が一人行く」
中村ひとみが急いで出て行くとすぐにみずえに決然としていった。
「背広に替える。腋《わき》の下に拳銃ケースを吊ってくれ」
玄関まで送ってきたみずえの額に、珍しくチューと唇をつけて出て行った。
十二時半に新大久保駅に下りると、既に改札口に売春ポルノ取締り三十年の醍醐警部補が待っていた。乗車口の横の公衆電話には、私服でも目立つ美人中村刑事と、鬼刑事丸出しの所轄の捜査主任とが立っていた。
四人が会う。醍醐刑事がいう。
「奴らは大体この先のベッドハウスにいます」
午後一時。まだ細い路地は森閑としている。一見、鍼灸医院のような家の扉を押して、岩崎、中村ひとみ刑事、新大久保署の捜査主任が入った。最後に風紀の醍醐警部補が入る。
ドアをあけたとたんに異様な匂いがむーっと鼻を打った。
入ってすぐがプラタイルの廊下で両側が三段ベッド。靴が脱ぎ散らされ、色とりどりのパンツが干され、何人かの女はイヤホーンでカセットをきいている。人が入ってくる気配を感じて両側のベッドからスリップやパジャマ姿の女たちが一斉に顔をつき出した。すべて、女、女、女。
[#小見出し] ユートピヤ
B 桃源郷[#「B 桃源郷」はゴシック体]
西暦三六五年に中国の江西省に生れた、詩人・陶潜が、晩年に住みなした自分の故郷の近くに、『桃源郷』と名づける秘境があることを紹介した。陶潜の| 字 《ペンネーム》は淵明という。
谷川を歩いているうちにいつの間にか満開の桃の花に囲まれた村に来た。
立派な家が並び、田圃はよく実り、果物は多く、村人と一緒に沢山の鶏が平和に駈け回っている。何百年、兵乱の影響もない。他所から訪ねてくる人もいない。
この村の中だけで豊かに生活している。
これは、彭沢県の県令(知事)を最後に、官界を退いた彼が、世間から隠れて故郷で生活しだしたときに、頭の中で描いた理想の世界だ。現在その村のことについては、最近立派な小説が書かれてその中に紹介されているらしい。
かつて中国の文人や詩人、学生などは、本気でこの理想郷の別天地に憧れた。
歴代の皇帝の中には、その村を探させた者もいる。インチキ仙人が、ピーヒャラパッパパラパと案内してくれたろうか。
2
玄関を入った所から真っすぐな廊下が、奥まで突き抜けている。両側が三段のベッドになっている。昔の蚕室や、シベリヤの捕虜収容所などを知っている世代がいたら、悪夢でも見たような気にさせられるのではないか。ただし最年長の、醍醐警部補でもそんな年ではない。
広い部屋の両側に棚を作った、ごく単純な構造で、プライバシーも何もないが、喰う物もない貧しい祖国からやってきた女たちにとっては、雨露をしのげて、ゆっくり体をのばして眠れる場所があればそれで充分なのだ。ともかく、女性の場合は三年間(男は五年以上)、死物狂いで働いて貯えた金を祖国に持って帰れば、喫茶店や、美容院を作り、大きな邸宅を建てて、一生安楽に暮せる。
そのためにも、この物価高の東京で、できるだけ生活費を節約しなければならない。アパートでも、寮でもない。扉には誠に単純明快、下手な片仮名のレタリングで、ベッドハウス、と書いてある。
岩崎、中村、それに所轄の捜査主任と本庁の保安風紀のベテラン醍醐警部補の四人が廊下に立つと、上下四方から見下され、覗き上げられ、睨みつけられる形になった。こちらからは女たちの顔の位置が、膝、胸、頭よりかなり上と三段に分れているから、話し難い。
それでもこういう女たちの扱いに馴れているやれんのうのおっさんの醍醐警部補がみなに話しかけた。
「おまえたち、昨夜……といっても正確には今朝だが、ホテル街のメイク・ラヴ通りで殺された女のことを何か知らないかね」
所轄の刑事が白黒の写真を手に持って、みなに見せだした。死体を写したものらしく、開かれた目の視線に光がない。
だが女たちは写真を見もせず、一斉にブーイングしだした。中には下手な日本語で、
「ワターシ、ニホンゴワッカラナイヨー」
というのもいたから、周りにびっしりといる女たちが各国語で一斉に何を言おうとしているかがよく分った。何もきかないし何も関係したくない。そう強調しているのだ。
殆どが期限の切れたモグリビザだろうし、売春が日本では刑罰を伴う犯罪であることも知っている。何か知っている者がいても、そんなことで警察にかかわり合いになることをひどく怖れているようだ。
岩崎はじっと耳をすませてきく。大体韓国語、中国の福建語と広東語、ヒリッピンのタガログ語に、タイ国はラオスに近い北方方言、白人金髪系の女は英語とスペイン語だ。
真中に立ってまず分り易い英語でみなにいった。
「黙ってききなさい。これから少し私がみなに質問がある」
いくらか声が収まったところで、同じ意味の言葉を違う言語で七回くり返した。これには天井までびっしりと住まっている女たちが、一瞬で、シューンと黙りこんでしまった。
何か魔法使いでも見るかのように目を見開いてじっと聞き入っている。
「これはこの女一人の問題でない。日本の警察は、一人の女の死でも犯人が捕まるまでは決して捜査はやめない。君らの祖国のお巡りさんとは違うのだ。もし君らの協力を得られないで解決が遅れると、当分の間あのメイク・ラヴ・ストリートは立入り禁止で、商売できなくなるぞ。今のところ君らの商売は、それほど、きびしく取締られていないが、それが普通の状態であると思ったら大間違いだぞ」
女たちは、順ぐりに自分たちの知ってる言葉でそういう、この若い私服刑事の話が終るたびに、さっきまでのブーイングはどこへやら、毛布をかぶったり、中へ体をひっこめたりしてしまった。目だけ出して廊下をうかがっている。東京は凄い街とはきいていたが、人間にも凄いのがいるとびっくりしている。女たちだけでなく所轄の刑事も、風紀係の警部補も呆れてただ岩崎を見つめているきりだった。
たしかに本庁の捜一に、凄く切れるエリート警視正がいるときいたが、それはこういうことだったのか。今さらながら感心していた。
言葉が分る相手には、自然に心の中まで見すかされる気になるのか、岩崎に一人一人、冷酷な目で睨みつけられると、それまで反抗的な目をしていた女たちが気弱く顔を伏せてしまう。
その中の一人に妙に落着かない女がいた。
岩崎は韓国語で話しかけた。
「君は今朝、警察に一一〇番通報してくれた人だね。その後急に姿を隠してしまった……」
女は目を伏せたままうなずく。
「韓国語でしゃべっていいよ。分るのは君の同胞だけだ。私も捜査に必要なこと以外は、秘密を守る。みなのためにも、明日からまた平和に商売ができて祖国へ大金を持って帰れるように、知ってることはすべてしゃべって協力しなさい」
他の女たちはこの二人の間の問答を注目している。
他の韓国語の分る女が、うつむいたままの女を励ますように何か話しかける。唯一の目撃者である女はしばらく考えていたが、やがて決心したらしく足もとに置いてあったニセのルイ・ビトンのバッグをひきよせ、中から名刺の束を取り出し一枚抜き出した。
「この人、初め私のお客だったよ。コーリヤン・バーで私が歌を唱っていたときからのなじみだよ。それがこの一カ月間、私が立っているのを知りながら、私とホテルへ入らないよ」
韓国語の鋭い舌音が、女の恨みと怒りを一層強く感じさせる。
「あのチャイナ娘に狂ったのだよ。一度男を捕まえて問いつめてやったよ。そしたら日本は憲法で恋愛の自由が保障されているのだから、文句いうなと私にいうたよ。あの[#ここからハングル文字]|※※《バカタレ》、|※※※※《ウワキモノ》、|※※※※《スケベ》[#ここでハングル文字終わり]!」
と一しきり罵った後泣きじゃくりながら、
「こいつを捕まえてください。つい二カ月前までは、二人で毎日カラオケで、ポンポコリンの歌を唱ってとても気分が合ったよ。そのうち私と結婚するとまで誓ってくれてこの名刺くれたのに、舌が三枚も四枚もあるね。あの女と昨夜もホテルへ入って、終ってから男が先に出てきたよ。男も憎いが女の方がもっと憎い。女はいつも最後の男送り出すと、商売用の中国服脱いで、お化粧落すので三十分ぐらい後で、まるで違うおとなしい娘になって出てくるよ。後ろからつけて行って、人がいない所で、頭の髪把んで顔をひっかいてやろうと思ったら、その前にどこか分らない暗闇から光ったナイフが飛んで来て女の人死んでしまったですよ。私じゃないよ。哀号《アイゴー》!」
岩崎はうなずいて女にいった。
「君じゃないことは分っている。中国の武術に熟練した男の力でなければ一気に腎臓は刺し貫けない」
するとその女は急に心配そうにいう。
「だけどこの人でもないよ。今好きさ余って憎さが百倍で名刺出してしまったけど、この人捕まえても死刑にしないでよ。只のデパートの店員だよ。私がこんな商売になったのは、法律変ってバーで唱えなくなったせいで心の操は守ってるよ。私、愛しているよ。またカラオケでポンポコリンを唱って踊りたいのよ」
大粒の涙がぽろぽろこぼれ落ちている。
「よし、分った。君が協力してくれたのを感謝して、決してその人を逮捕したり死刑にしたりはしないよう努力するよ。ただこの人が、殺された中国娘について、何か知らないかきくだけだ。それから――」
と、今度はみなに向って七カ国語を順に使って説明した。
「多分、この事件は今日か明日中に解決する。今日は日曜日だ。キリストを生んだマリヤ様だってセックスをお休みになる日だ。君たちも今日一日は商売を休みなさい。客もマイホームのワイフが大事で日曜は出てこない。明日、夕方までに通知が来なかったら、明日の月曜の夕方はお化粧にかかっていいぞ。警察官としては立場があるから、商売してもいいとまではいわないが、しばらくは気をつけて事故を起さないようにしなさい」
女たちがわーっと喜びの声を上げた。
「君の協力で男の居る場所が分った。犯人ではないが、女のことについても何か分るだろう。たとえ他人の名刺を使用したにしても、それはそれでその線からたぐって行けばいい。幸い日曜も出勤の、デパート勤務だ。場所も近い」
岩崎はみなに手を振って、
「じゃ、ごくろうさんでした」
と礼をいい、外に出た。
表の大久保通りで、タクシーを二台拾い、すぐ近くの新宿の街に向う。幾つかあるデパートの中の一つに入る。
三階のエスカレーターの所で、婦人靴の売り場に一人の男が立っているのを確認すると、中村ひとみ刑事にいった。
「私らは外のエデンという喫茶店で待っている。中村は靴を注文するふりで近より、他人には見えないように手帖を示してから、昨日、新大久保でおつき合いなさった女の人のことでききたいから……といいなさい。それでも仕事だとか、今は忙しいとかいったら、その人が昨日殺されたので何だったらあなたも殺人容疑者として逮捕状を持ってもう一度来ます、そのときは表にパトカーがサイレンを鳴らして止まり、刑事が五、六人で有無を言わさずねじ伏せ、手錠をかけて連れて行きます、白昼のデパートでそんなことがあると実際は無罪でも懲戒免職になりますよ……と丁寧に教えてやりなさい」
岩崎たちは外へ出て、少し先にある喫茶店で待った。奥の席に坐っていると、やがて、真青な顔をした靴売り場の男性が、中村ひとみ刑事に連れられて入ってきた。六人用のテーブルの向い側に坐らされた。岩崎がいつものまむしのような冷酷な目で睨みながらいった。
「あんたを売春なんてヤワな罪でひっくくるつもりはない。はっきりいって殺人の罪だ……」
「ぼ、ぼくは、そんな殺人なんて」
「実際にあの中国娘はあんたと別れてから二、三十分して、着替えてホテルを出たあとすぐに殺された。逮捕して取調べる以外はないではないか。……もし絶対自分ではないと主張できるなら、昨日のことと彼女について知ってることをすべて話しなさい」
もう血の気がひいて顔は真青、足は震えて膝小僧が合わない。歯の根も合わなくなって、うまくしゃべれないのを無理に合せるようにしてしゃべり出した。それによると、彼女を最初に買ったのは、まだほんの一カ月前、それから毎日のように通って二十回も買ってしまった。まだ独身だし、ボーナスの残りもあったのでそれだけの金が使えた。一回二万円で、決してそれ以上は取らなかった。いろいろな国の娘が来て立っており、金髪で白い肌のハリウッドスターのような娘もいた。だがその中国娘はしっとりと優しく、しかも商売に対してはいつも情熱的で男を酔わせるものがあって、一度知り合うと忘れられない良い娘だった。
そこまで述べると急に涙をぽろぽろこぼし出した。死んだときいてその娘が哀れになったのか、それとも怖しい顔の刑事たちに睨みつけられて怯えたのか。
岩崎の冷酷な声の訊問は続く。
「六月の法改正で仕方なくスナックをやめて街へ出るまでは、カラオケでポンポコリンを一緒に仲好く唱う仲だったコーリヤン娘がいたはずだ。女の商売が替ってもあんたはしばらくの間、通っていたはずだ。なぜ急に中国娘にのりかえたのかね。殺人事件だ、そのへんを詳しく話してもらえないかね」
既に当局は相当なところまで調べがついている。完全にビビッてしまい声もしどろもどろだ。日曜日で表は歩行者天国、喫茶店は満席、時にボーイがいつまでも席を占領しているこの仲間に何か声をかけて、立たせようと近寄ってくるが、所轄の刑事や、本庁の醍醐に下からじろりと睨まれるとあわてて目をそらしてしまう。男が泣いているのを見て珍しそうに近寄ってくる他の客も、びっくりしてよそのテーブルに行ってしまう。
そこだけが冷たい空気で遮断されたように、周りから孤立している。
「はい。申し上げます。……実は最初の日、そのコーリヤンの彼女に会いに行こうと思ってJR新宿駅から電車に乗ったら、隣りの席に黒い地味なスーツの女子大生が坐っていたのです。なぜその娘さんが女子大生と分ったかというと、宮崎教授の『憲法提要』という難しい本を読んでいたからなのです。私も大学は法科で、いい就職口がなかったのでデパートの靴売り場にいますが、かつては弁護士になろうと思ってその本を読んだことがあるのです」
岩崎がいった。
「私も読んだことがある。たしか現在は東大でしか宮崎教授の憲法の講義はないはずだ」
「恥しながら私も東大でした」
みなが一斉に見つめるのにまた怯えながら、
「……一応幹部要員で入店したのです。何でも警察にも二十代で署長や課長さんになるキャリア組があるそうですが……」
岩崎はさすがに苦笑《にがわら》いしながらいう。
「そんなことを私もきいたことがある。先を続けなさい」
「実はその娘も東大でした。なぜ分ったかというと、別に話しかけたわけではないのです。もし電車の中で知らない娘に話しかけられる勇気が、私に少しでもあったら、二万円握ってあんな街に女を探しには行きません。私は身長が百六十四センチなので、社会ではごく普通でも、今時の東京の娘さんたちの間では標準に足りず、恋人もできないのです。また脱線しました。新宿の次は新大久保です。するとその娘は、本を鞄にしまって、さっと立ち上り、降りたのです。私も新大久保で降りるつもりでしたので降りました。自然に娘より十メートルぐらいおくれて改札口を出ました。その娘は何か隠れるように、顔を伏せてさっさと足早に歩くのです。それで後ろから私がついて行くのに気がつかなかったのです」
いきなり岩崎がいった。
「それで職安通りの近くの、西大久保公園の少し先の、第三ユートピヤ荘に入ったんだね」
「えっ! そうです。分ってるんですか」
「三十分ほどして娘は化粧と着替えを終えて出てきた」
男はこっくりとうなずいた。
「初めは私は信じられませんでした。法律を学ぶ、地味な服装の女子学生がと……しかし彼女の着ている中国服がもし彼女の国籍を示すのなら、この物価高の東京で、中国から来た留学生がまともなアルバイト先をしめ出されたら、街角に立つより他は、勉強を続けて行くだけの金は得られないと分りました。六月の法改正のことは、コーリヤンの娘にきいていましたから、むしろ彼女の勉学を助けてやるつもりで客になったのです」
「まあ、物はいいよう。泥棒の弁明も三十パーセントは正しいという言葉もあるよ」
と軽くいなされてしまった。男はむきになって弁解する。
「少なくとも私はただの淫らな客ではなかったつもりです。本当の恋人のように大事に扱い、いつも誠心誠意をこめてセックスしました。二十回も通うとその真心が通じます。彼女は特に温い人情に飢えていました。そのうちに宋美齢という彼女の本名と私費留学生の試験に合格して、四月から東大で法律を学んでいるということまで打明けました」
「それを信じてるのかね」
「はい、私は信じています」
「警察ではウラが取れるまでは何事も信じない。君も東大生だったなら、家へ帰って日中戦争の歴史を読み返し、※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石の夫人の名をもう一度、調べてみなさい」
[#小見出し] ユートピヤ
C オナイダ・コミュニティ[#「C オナイダ・コミュニティ」はゴシック体]
十九世紀の中ごろ、新天地に理想を求めて渡った信仰深き清教徒たちは、アメリカの各地で、宗教理念に基づくユートピヤ作りを始めた。その数は一時六百を超えた。その中で百数十年後の現在まで残っているのは八つしかない。
クエーカー、アーミッシュ(「刑事ジョン・ブック/目撃者」の映画で有名)などで、いずれも、自分の全財産を差し出し、無一物で共同生活をし、労働と祈りに明け暮れする。
その中で、一番隆盛を極めた集団は新教の牧師ジョン・H・ノイズが、ニューヨーク州オナイダ郡に、一八四八年に作った、オナイダ・コミュニティである。豪壮なマンションと、五百人の会員を持ち、一時はその農場の真中に鉄道の駅ができて、ニューヨークから毎日のように見学客がやってきたほどだ。
ここが特に見学客が多かったのには実は別の理由がある。会員間に夫婦・親子・兄妹の旧来のつながりを認めず、すべての男性がすべての女性と、割当表に従って万遍なくセックスする、完全な性の共産化を実施していることが知られていたからだ。地上千年王国を目ざしたこの集団は、一八七八年に内部崩壊で解散し、三十年しかもたなかった。性の共有化は一見公平に行われたように見えたが、自然に、若い娘は内部の役付きの長老が回り持ちで独占し、若い青年は老女たちが教育と称して放さなくなった。しかも若者同士の自由な恋愛は神の道に反する異端の行為として厳しく禁じたので、やがて若者の不満が昂じて解体してしまったのだ。アメリカのインチキ牧師さんは英語でピーヒャラ、パッパパラパと唱えただろう。
3
月曜日、みなは元気一杯の顔で各自の席に着いた。岩崎は昨夜はかなり遅くまで新大久保署で死体を検視し、ナイフの柄についている指紋を調べ、ナイフの刃質や柄の材料で生産地の割り出しの特定の作業をしていた。
しかも今朝は、まる一日たっぷり休養を取った部下の刑事たちと同じように、晴れやかな顔で席に坐っていた。親分が昨日は午後から難しい捕物にかかわっていたことを知っているのは、新大久保署の美人刑事の旦那である、中村刑事だけだ。彼は、一見やせた銀行員タイプの警視正が、実は鋼鉄のような強靭《きようじん》な肉体を持ち、どんなハードな仕事でも易々とこなすタフな体力を持っていることに感心していた。
八時半の始業のベルが鳴り終り、いつものようにお稽古が湯沸し場に立とうとしたのを制した。
「今日はただちに捜査に入る。一応二係はすぐ出動できるよう待機していてくれ。ピストルはロッカーから出しておき、弾倉の点検をしておけ。乃木とお稽古の二人も、他の者もいつでも出動できるよう待機だ。相手は中国武術の中でも最も危険な、ナイフ投げの名人だ。日本にも昔、手裏剣といって同じような武術があった。テレビの忍者物で見たことがあるはずだ」
みなはうなずいた。
「日本の法律ではナイフを持ってはいけないという規定はない。つまり誰でも持てて、誰でも犯人になるという可能性がある。今日は、前後左右、四方がみな敵と思わなくてはいけない。その点でかなりの危険は予想してくれ」
こういうことをきくと、それだけで捜一の猛者刑事たちは、期待と喜びで胸がカーッと熱くなってくる。一刻も早く現場へ飛んで行きたくなる。そこに岩崎の意地の悪いところが出た。
「ただし只今の出動は中村と大田係長だけだ。中村は乃木にいって婦人用の22口径を一つ出してもらえ。大田も自分の22口径を持て」
残された刑事たちは、鰻屋の前で匂いだけかがされたようなものだ。特にこんな危険が予想される捕物には、いつも必ず同行を命じられる進藤と乃木は露骨に不満そうな顔をした。乃木は婦人用ロッカーに別途に責任者として三挺ばかり預っている、22口径を取りに行こうともせず、大きな丸い眼を不満そうに見開いて、正面の警視正をじっと睨みつけている。その眼から今にも涙がこぼれ落ちそうであった。
「何してるんだ、乃木」
叱りつけられてあわててロッカーに取りに行き、中村刑事に差し出す。
三人ともすぐ出て行く。
廊下へ出てエレベーターに乗る。
「みんな置いてかれてがっかりしてますよ」
中村が同僚の気持を察していう。
「いいんだ、少し緊張させておく方が。それより君は飛んでくるナイフの刃を射つことができるかね。こちらに向ってくるやつだが」
「わけないことです。どのへんがいいですか」
ナイフを投げる形をして見せて、
「刃の真中がいい。二つに割れてほかの方向に吹っとべばいい」
「かしこまりました」
内ポケットに無造作に差しこんだままの22口径の上を軽く叩いた。
警視庁前からすぐタクシーに乗る。
「大田君は東大の構内へ入ったことがあるかね」
「はい。五月祭を二度ばかり見に行ったことがあります。津田の人は伝統的に近くの商大の人とデイトして結婚する人が多いのですが、私は経済の世界に働く男の人が好きじゃないものですから」
タクシーは皇居前通りを上野へ向って走る。
「それで東大生を狙ったのかね」
蹴鞠子は少し赤くなって答える。
「でもまだ目的は達成してません」
「東大なんてくだらん。私がいい例だ。人間が少しいびつになる」
吐き捨てるようにいった。大田蹴鞠子警部は『そこがいいんです』といいたくなるのをぐっと抑えて、
「そんなことありませんわ」
という。
春日通りから赤門前へ行き、そのまま中へ入って学務課の建物の前で停った。
すぐそばに安田講堂がある。自分らが学んだときは、まだ学生運動の余波で、中は荒れ果てて使えなかったが、もうすっかり修理がすんで、学生たちが出入りしていた。安田講堂事件というのがあって、普通では絶対に東大へ入ることができない体育大学の学生が勝手に応援に押しかけて中で籠城して、機動隊と死に物狂いの闘いをしてくれた。もともと古い文献の価値などよく分らない連中だ。闘いは立派にやってくれたかも知れないが、開校以来営々として蓄積した貴重な書籍はすべて焼いてしまった。常に東大に抑えつけられる私大生の巧妙なシッペ返しだといわれる。
今は立派に修復できている。中村刑事は東大が初めてらしく、すっかり感心し周りを見ている。テレビの|さいなら《ヽヽヽヽ》小父さんの口まねでいった。
「これが東大ですか。さすがですね。広いですねー。立派ですねー」
岩崎はうなずくと学務課へ入っていった。ここには、何十年も学務課一筋の、生き字引きのような職員がいる。入ってきた岩崎を見て、
「やあー、岩崎君じゃないですか。五十五年度に一番で卒業した……」
と、中から声をかけて出てきた。中村も大田警部も、岩崎は大学が一番、国家公務員試験が三番ときいたことがあるが、やはり本当だったことをこのとき確認した。
「……何だってね。今、警視庁でバリバリやってるんだってね」
「ええ、まあー。それで警視庁の仕事でちょっとおききしたいことがあってやって来たのです。中国人留学生の学籍簿を見せていただけませんか。もし必要なら、地裁の捜査令状も持参してきてますが、そちらがよろしかったら、すべて略式のなあなあでお願いします。令状を出すと角《かど》がたちます」
「そうだね。形式ばかり踏んでいると話が大げさになっていけない。君は卒業生でもあるし、公務を離れて懐旧の情にかられてやってきたことにしてお見せしよう」
中から分厚い帳簿を持ってきた。外国人留学生の全員の名簿である。
その中の中国人の分は、一番厚い。男六百名、女四十名ぐらいいるのではないか。
しかし写真が右はしに貼ってあるから、捜し出すのは難しくない。
岩崎はポケットから、被害者の女の写真を出す。カーッと開かれた目には光がなく、明らかに死人の顔だが、損傷は受けていないし、死ぬのも一瞬だったらしく苦悶の表情もない。整った目鼻だちはそのまま写真に残っている。
ぱらぱらめくっているうちにすぐ分った。
宋美鈴。デパートの社員は別に間違って覚えていたわけでない。聞き誤っただけで、齢も鈴も、どちらもレイだ。女も正直に話したのだ。
嘘のいえない素朴な娘らしい。美人の産地で有名な江蘇省の出身だ。しかしどういうわけか、大連の外語学校を出ている。
現在中国で、日本語を学ぶのには、上海か、大連の語学校へ行くのが普通だ。ただ江蘇省出身の者が、大連の学校へ入るということは、現在の中国の国内情勢では考えられない。この点に何か事情があると見た。
女の現住所、パスポート番号、生年月日、両親の職業、日本の身もと引受人などが分った。大田と中村は大急ぎでメモしたが、例の如く警視正はチラと見ただけだ。この程度のことは一瞬ですべてを覚えてしまい、メモの必要は全くない。
ぱたんと台帳を閉じると学務課の職員に礼をのべた。
「お世話になりました。いずれどこからか、この娘が死んだという報告が来ます。異常死ではありますが、気の毒な事情もありそうですから、外から洩れてくる雑音とは別に、大学側としては、勉強熱心なまじめな女子学生の不慮の事故死とし温情ある処理で除籍してください」
「そうですか。卒業席次一番の岩崎さんがそういうなら、私も信用して外の雑音に耳を傾けずに処理させてもらいますよ」
それ以上はきかずに承諾してくれた。
三人は再びタクシーに乗った。
「今度行く所では、大田警部はなるべく離れて歩くな。そこは日本であって、もはや日本でない。乃木や、お稽古は既に何度か近隣諸国《NIES》の人間の事件でその町への潜入の要領を心得ているが、大田は初めてだからな。といって緊張してもいけない。内心では周辺をしっかり注意しながら、表面はごくさりげなく普通に歩きなさい」
大田はびっくりした。この東京はどこもここも平和に歩けるとばかり思っていた。昼間からそんな物騒な所があるとは、これまで考えたこともなかった。
タクシーを池袋駅の東口に停めた。家族連れや、若い男女が、西武デパート前の明るい大通りを楽しげに歩いている。三人もその雑踏を歩き出した。
「何か気がつかないか」
「いいえ」
「ここでさえ、もう三割が日本人ではないよ」
そう改めていわれて蹴鞠子警部が周りをできるだけ平静な顔付きで見回す。気をつけて見れば幾分肌の色が浅黒かったり、鼻が低くて穴が拡がっていたりする顔がかなり交っている。白人の若い娘も六本木より多い。
六十何階の名物ビルへ向う三叉路で岩崎がいった。
「ここはこのあたりで一番賑やかな雑踏だ。パトカーに刑事さん十人ぐらいぱらりと散らばって待っていても、目立たない。事件は大体このへんですべて処置できると考えていいだろう。大田係長は、本庁の乃木に電話を入れ、二係の全員がこのあたりで、ごく自然に待機しているようにいいなさい。飛び出したくてうずうずしている連中は喜ぶだろう」
大田は目の前の赤電話で本庁へ電話する。
大田の自宅は渋谷、大学は中央線沿線の国立《くにたち》で、同じ東京人でもこのへんとは無縁の住民だった。この場所をうまく説明できるかどうか分らなかったが、ともかく駅と巨大なビルが、視界の中に二つ見える。それを頭に入れてしゃべれば何とかなるだろうと思ってダイヤルを回した。恥しながらこの町へ来たのは初めてなのだ。
電話の手配を終えると三人は、ビルの横の細い道へ入って行った。とたんに周りの感じがすっかり変った。既に普通の日本人が住んでいる区域とはまるで違う異臭が漂っている。にんにくと、ゴマ油と、腐敗した魚がまじったらこんな匂いになるのか。何とも形容のしようがないいやな匂いだ。もうこのあたりにくると、逆に日本人の方が三割に減っている。道を行き交う男女からすれ違いにきこえる会話の殆どが、知らない外国の言葉だ。
岩崎はまるで勝手知った、赤坂や銀座のバー、クラブがひしめくネオンの小路を抜けて行くようにさっさと歩く。何しろ今年になって、近隣諸国の外人たちによる事件が続発し、犯人を追って行くと、大体この近辺に辿りつくので、この迷路のような一郭にはすっかりおなじみになってしまっていた。
普通だったら、入ったら抜け出せないのではないかと怖しくなるような迷路へもどんどん入って行く。もう日本人は中にいくらか交っているという程度にしか見かけない。
「これでも六月の法改正でぐーんと減った。特に男が減った。建築工事の現場の親会社が労働省の行政指導を怖れて一斉に解雇したから、大富豪への夢半ばにして、職を失い祖国へ帰った者が多い」
大田が声を小さくして答えた。
「私、NHKのドキュメント番組で見ました。ヒリッピンから来た出稼ぎの男女がこちらで知り合い、結婚して赤ちゃんができるのですが、子供が病気になっても保険に入っていないので医者に診せられなくて可哀相でした」
岩崎はわりと冷たく言い放った。
「可哀相だという言葉はもう少し慎重に使いなさい。健康保険制度は日本人が金を出し合って日本人のために運営されている。それに彼らは、かつての太平洋戦争時の外地労働者のように、日本が連行してきた人間ではない。招待した客でもない。それに祖国にいたとしても、健康保険などありやしない」
二人がこの冷たい言葉にびっくりしていると、更に岩崎はいった。
「この事件は新大久保に最近一斉に並び出した、街娼の殺人事件だ。今の私の理屈でいえば、女が死のうがけがしようが、周りの秩序さえ保たれていたら、通り一ペんに書類を作ってほうっておけばいいことになる。しかしこうして私が犯人を追及しているのは、実は私があの女たちの仕事を多少評価してるからだ。この女性上位時代、セクハラ絶叫型手前勝手で贅沢な女性が、社会のすみずみにやたらはびこっている住みにくい東京では、ガールフレンドのない男性の孤独な魂を慰めてくれる者は、今や心優しきNIES女性しかいないからな。二万円ですべてまかなってくれる」
大田はびっくりした。こんな、売春を容認するような国法に背く言葉を、東大出の警視正という身分の人が口に出していってもよいものだろうか。我が上司ながら、その不穏当な発言を注意してやらなくてはと、津田英語大学開校百年来のフェミナの伝統をしっかり受けついでいる大田蹴鞠子が、何か一言いおうとしたら、
「ここだな」
と木造アパートの一つを見つけて、岩崎がさっさと鉄の階段を登っていって、機会を逸した。外廊下にいた何人かの女たちが一斉に叫び声をあげた。早くも何か異変を感じた様子だった。それでもここは女性専用の規定を守っているアパートらしい。周りのアパートから男たちの顔が何人かこちらを見ていたが、駆けつけては来ず、むしろ岩崎と中村を見ると、みなあわてて首をひっこめた。
岩崎が何かいう。多分中国語らしい。びっくりした一人の女が下から管理人の小母さんを連れてきた。日本人だった。小母さんは、
「すみませんね。絶対事件を起さないようにといっていたのに」
すぐ扉をあけてくれた。
四畳半一間。女一人の住居らしく、小ぎれいに、きちんと片づけられている。部屋のすみに小さな机があり、難しい法律の本が沢山積み上げられている。壁には二、三着のワンピース。洗濯物はきちんとすみにたたまれている。
机の上には、写真立てがあった。多分、五、六歳のとき撮ったのだろう。赤い玉のついた帽子をかぶり、昔風の中国の童女服を着て白いお化粧をした女の子と、同じような少年が並んでいた。
「サーカスの服だな。大体事件が読めてきた」
[#小見出し] ユートピヤ
D 平成の東京[#「D 平成の東京」はゴシック体]
街に排気ガスがこもり、夏は炎熱水不足、かなりの収入があっても、兎小屋にしか住めない現代の東京をユートピヤというと、社会派系の評論家からクレームが出そうだが、ユートピヤだからこそ、外国から難民船が生命《いのち》がけでやってくるし、成田からの密入国、ビザ無しの不正滞在者が絶えないのだ。事実が証明している。
たとえば日本へ来たがる人の、それぞれの祖国での月収は、日本円換算で四千円前後だ。ところが彼等が日本で一生懸命働くとする。六畳一間の池袋近辺の安いアパートに、コネを頼って十人前後の人がもぐりこみ、食事は物価の優等生の安い卵入りチャーハンだけですごすと、年間に百万円は貯《たま》る。ビザをごまかし、五年いて五百万円を貯めて祖国へ持って帰るのはさして難しいことではない。地元で金融機関に預託すれば最低でも年利十パーセント、一月に四万円の収入になる。周囲の人の十倍の月収が何もしないで永久に入ってきて、一生、リッチな生活が保証される。明治、大正の日本人が、和歌山県のアメリカ村の瀟洒《しようしや》な洋風住宅と暮しに羨望の目を注いだのと同じ現象が近隣諸国で今発生しつつある。
僅か五年(女性なら三年)の辛抱で、これだけの富をあたえてくれる都市をユートピヤといわずして他に何というか。どんなインチキおじさんでも、楽しいメロディをつけて、ピーヒャラパッパパラパと唱うだろう。
4
現在の中国では、太陽は太※[#「こざとへん+日」、unicode9633]で、薬局は※[#「葯」の簡体字]局と書く。こんにゃく屋と日本人は間違える。なまじ古い漢字を知っているだけに混乱する。
この妙な字を簡体字という。昔の漢字は繁体字という。
きちんと片付いた部屋の隅に小机があり、抽斗《ひきだし》をあけると、娘の日記帳や外から来た手紙が出てきた。岩崎は白手袋をはめてから手紙を読み出した。
「日記の方は大田警部が読みなさい」
そう命ぜられて、指紋がつかないよう、やはり白手袋をしてから読み出したが、最初のページでもう降参してしまった。
「駄目です。全然読めません」
たしかに一字一字は漢字らしいのだが、それも、个(個)※[#「てへん+ヨ」](掃)※[#「さんずい+又」](漢)※[#「咲」のつくり](関)などで意味が把めない。字句の並べ方は英語の文法と同じときいているから、字さえ分ればと張り切って読み出したが、てんで歯がたたないのだ。
岩崎は相変らずのスピードで、三十通以上もある手紙を読むと、
「そうか。それでは私が読もう」
と日記の方も受取って、ページをパラパラめくり出した。よそ目には本当にただページを次から次へとめくっているだけにしか見えない。しかし岩崎は電話帳の見開き二ページ分も、ざっと目を通しただけですべて一瞬の中《うち》に全番号を記憶してしまう能力を持っている。この程度のものなら、ページを開いて網膜に写せばそれでよい。ほんの三、四分で、一月一日から十月六日までの二百七十九日分を読んでしまった。珍しくそのいつもの冷酷非情の岩崎の眼に、うっすらと涙の被膜がかぶさり、外の光を反射して光った。大田は意外なことにびっくりして見ている。
「殺した方も、殺された方も、どちらも可哀相な事情があったんだな。みなこの住み難い東京で何とか生きて、入国した目的を達してから祖国へ帰りたいと必死だったんだよ」
しんみりとした言い方も珍しい。
「六本木のディスコで、頭の中にはブランド物を着飾ることしか入ってない連中に読ませたいな。もし近隣諸国が上陸用舟艇を海岸に横付けし、若者が銃を揃え、タンクを先にたてて上陸してきたら、クエートの滅亡より、もっと早いな。日本は跡も残さず歴史から消えるよ。一人一人の若者の志が違う」
ふだんは冷静な岩崎が、珍しく過激な言葉を吐いた。少し瞼を押えると急に、
「さあ、これで犯人の居場所が分った。今度は駅の向い側だ」
と立ち上った。管理人の小母さんを呼ぶ。
「すぐに警視庁の鑑識の近藤警部という人がここへ来るから、それまで部屋をしめて、誰も入れないでください。もし中へ入るものがあったら、証拠隠滅罪で逮捕されるといいなさい」
「はい。承知しました」
小母さんはしっかりとうなずいて答えた。
小路を再び出て行く。歩きながら話す。
「被害者と犯人は恋人同士であった。これは私には最初から予想された。お互いに本当に愛しあっていたからこそ、街頭に立って客をひいたという事実はどうしても男には許せなかったのだ」
歩きながら話す岩崎の声は、暗く沈痛である。
「女の方の事情も、日記で判明した。彼女の父が村の人民公社で産業発展のため機械の導入を計画した。ところが据えつけた機械が故障だらけで稼動せず、人民公社の経済に、三万元の赤字を出してしまった。日本円で考えれば百二十万円だが、年収五万円の人々が殆どの村の財政では、とても払えない巨額の負債だ。しかも現在の中国は経済事犯に対しての刑罰がきびしい。少し額の張る不正はみな銃殺だ。あの国では結果がすべてで赤字と汚職との区別がない。少なくとも年内に江蘇省高等法院の律師(弁護士)の所に、百二十万円分の損失金を届けなければ、関係者の銃殺は免れないらしい。中国人は日本人とは比べられないぐらい親を大事にする。女は悩んだ末のことだ」
「そんな事情があったのですか」
「男の方も事情は気の毒だ。二人とも幼いときにサーカスにいた。サーカスといっても日本とは社会的な地位が違う。一生故郷の村でお百姓をするしか仕方がない人々にとっては、人民公社の技芸員として採用されることは、大変な出世だ。日本の娘さんが、憧れのテレビタレントになれたよりももっと嬉しいことだ。きりょうのいい女の子、身のこなしがキビキビして音感がすぐれている男の子が、何百倍もの試験をくぐり抜けてサーカスに入ってくる。中でのきびしい訓練も自分らは国民の中から選ばれたエリートだという誇りで耐え抜く」
「そんなものなのですか」
「サーカスに入っていたら国内も旅行できるし、運がよければ外国へも行ける。二人はそこで、玉乗りやブランコのコンビで五歳ごろから人気があった。そのうち、女の子が的になり、その体ぎりぎりにナイフを打ちこむ危険な曲芸で人気が出るようになった。十年も一緒にやっていたらしい」
「そうだったんですか」
小路を抜けて、さきほどの賑やかな三叉路に出た。
既に捜一から来たパトカーが街路に駐車し、乃木や進藤、武藤、花輪などが、ごくさりげない表情で立っている。お稽古も相変らず秋風に吹かれてスカートがめくれ太い股が見られることのないように、裾を押えながら立っている。
岩崎は彼らの方を見もせずに、歩きながら蹴鞠子警部に命じた。
「パトカーには、ガードを回って立教大学の裏門の所で待っているようにいう。他の猛者《モサ》や刑事《デカ》諸嬢は、私の後をつかず離れずについてきて、私があるアパートへ入ったら、その周りを取り囲むようにと、伝えろ」
大田は自然に岩崎から離れてその命令を伝えると、また戻ってきた。地下駅入口の階段を下りて、地下通路を、東武デパートのある西口へ向う。再び地上に出ると、小公園を横切って立教大学の裏手に回る。歩きながらまた岩崎は話しだした。
「二人とも五、六歳から十年間もサーカスにいた。丁度文革の嵐も治まり、今までの反動として勉学することが世間のブームとなった。学問さえすれば、党の中枢で出世できるし、金も入る。誰もがより高い階級を求めて、学校を目ざした。丁度サーカス団が大連地方を興行中だったので、既に国家優秀技芸員であった二人は、党中央委員に申請し大連外語学校を受験することにした。音感のいい子は語学の習得も早い。優秀な日本語通訳を一人でも多くほしい政府は、サーカスでの十年の功績を評価し二人を給費生として日本語学部に入れてくれた。そして並んで勉強した」
「そんな仲なんですか」
「つまり幼馴染みで、初恋の人でもあった二人だ。祖国のサーカスや大連外語学校にいたときに二人の間にどんな交情があったかは日記では分らない。少なくとも日本へ来てからは、留学生として派遣してくれた党の恩情に報いるためにも、留学期間中はどんなに辛くてもお互いにセックスは慎しもうという固い約束をしていたようだ。苦しみが日記にも手紙にも書かれている」
「まあー」
「その純真さは哀れでもあるね。セックスは何の楽しみもない乾ききった生活の唯一の潤いだからな」
それに対しては、未経験者の大田は何とも答えようがない。
「大部分の他の留学生は、日本留学は政府の目をごま化す手段で、五百万円貯めるか、機会があったらアメリカへ渡りたいという野心の者ばかりだ。全くそういうことを考えていなかった純真な二人だけに、よけい今回の事件が哀れに思える」
このアパートも鉄梯子と外廊下のプレハブ作りの建物であった。
「手紙に二十三号室とあった。二階へ上ってから三番目の部屋だ。私と中村が先に入る。猛者諸君はみな廊下に立って外を睨んでいてくれ。それは付近の中国人やその他の諸国人が噂で集ってきて、集団の勢いで妨害行為に出るのを防ぐためだ。下でわいわいやられるとマスコミの良い餌になり、問題が大きくなって犯人の祖国での罪を救いようがない」
刑事たちは廊下や階段の下に立ち、外を見つめた。この近くにも留学生用アパートがあり、窓からチラチラ窺ったり、アパートの近くまでやって来る者もいたが、十人近くの屈強な男に完全に包囲されているのを見て、みなどこかへひっこんだ。進藤と中村、それに峯岸婦警をつれて、扉口に立った岩崎は小声で指示する。
「お稽古はここに立て。もし逃げ出してきたら足払いでひっくり返せ。中村はまずナイフをどこかへ吹っとばせ」
中ではまだ何も気がついていないようだ。
進藤が左足で思いきりドアを蹴る。
中村と岩崎警視正が中にとびこむ。
室内の状況が二人の網膜に一瞬に映る。
ここもきちんと片付けられていた。他の金儲け専門のニセ留学生は家主に無断で十人ももぐりこんでだらしなくゴロ寝しているのが多いのに、ここでは本物の東大生らしくきちんと片付いた部屋で青年が一人で机に向っていた。机の上には女の写真が飾られ、少し幅が広い中国風の線香がたてられている。かすかに煙が漂う。
ドアが蹴られて開いた一瞬、男は振向いた。眼鏡をかけたいかにも学問好きな感じがする青年だ。刑事らしい男が二人、扉口に立っているのを見た瞬間、すべてを悟ったのか、さっと内ポケットに手を入れた。きらりと光った刃を一度、額の前に持ち上げ、逆手で自分の胸に向って思いきり突き刺そうとした。早すぎて普通の人の目にはそれは正確には映らなかったろう。
ただ岩崎も中村もその動作を高速度写真の動きのように正確に目に入れていた。その刃が喉首のやや上の方から、胸の方へ迫って、衣服を刺し貫く直前の何十分の一秒かの瞬間、細いナイフの刃に22口径の弾丸が横からあたり、ナイフを空中にはじきとばした。刃先五センチ、柄から三センチと、二つに割れたナイフが壁にふっとび、まだ信じられないでいる男に岩崎が中国語でいう。
「陳雄光、殺人容疑で逮捕する」
大連付近の正確な満洲語に、また呆然としているすきに、進藤がとびついて、瞬間に手錠をかけた。男が何か訴える。満洲語だ。
「どうかこのまま見逃して自殺させてくれ」
机の上の写真、線香、きれいに片付けられた部屋。その言葉に嘘はないことは分る。
遺書みたいな物も置いてあった。岩崎はその男の前にあぐらを組んで坐りゆっくりと語りかけた。全く本物の満洲語だ。
「君の国の刑法がきびしいことは分る。このまま送還されれば銃殺の危険は高い。しかし今、死んだと思って、真心こめて|※[#「うかんむり/甲」]判長《さいばんちよう》に訴えなさい。子が親を救うため身を売るのも、貞操を汚した妻を殺すのもどちらも古来の中国の道徳に従っただけだとね。君に生きるための熱意さえあれば必ず通る。私も中国語で情状嘆願書を書いて送ろう。君は次の時代の中国にとっては必要な人だ。死ぬな」
男がうなだれる。
「たしかに殺人の罪は絶対に許せない大罪だ。だが女の方もその日記によると、親孝行と愛する君へのすまなさの板挟みになって苦しんでいた。できるならむしろ一思いに殺されて、その苦しみから逃れたがっていた。それで君の殺人が許されるわけではないが、セクハラ追及にうつつを抜かす手前勝手な日本の娘にこの話をきかせてやりたいのだ」
男は腰縄を打たれ、黙って立ち上った。
事件がすべて終った十月の中ごろ、相変らず忙しい岩崎警視正のデスクに交換室からの電話が入り、いきなりその声が韓国語に替った。
「この間の刑事さんだね」
「ああ、そうだが、君はベッドハウスの子だな、元気でやってるかね」
「うん。[#ここからハングル文字]|※※※※※《アリガトウ》[#ここでハングル文字終わり]。あの人、死刑にならなくてとても喜んでいたよ。会社もクビにならなかったよ。私に心から礼をいってくれって」
「うん、そうかね。まあ、日本の警察は実際に人を殺してない者をまちがって死刑にしたりしないよ。安心しなさい。商売はどうかね」
「ときどき取締りがあるけど、やってきてもデカさんが小路へ入るとすぐに分ってしまうからみなうまく逃げるよ」
「そうか頑張ってくれよ……」
職場の担当が違うし、韓国語でしゃべるのだから気が楽だ。
「それで今日電話をかけてきたのは……」
「もし今日、殺人事件がなくて暇があったら、パーティやるから来てくれない」
「何のパーティだね」
「あの人の死刑にならないことと、あの可愛い中国の娘さんを殺した犯人が見つかったことと、みんなの商売が何とかやって行けるのを祝うのですよ。何しろこちら、お上《かみ》のお目こぼしで商売してるよ。一日無事だったらそれだけで神様に感謝するですよ。あんたね、風紀係じゃないから私たちに招待されても汚職になりませんだよ」
「まあ、そうだろうな、どこでやる」
「新大久保のスナック、南大門です」
「今のところ行けるかどうかはっきり返事はできないが、四人分の席をあけておいてくれ」
と答えて電話を切った。
五時半までに殺人事件は起らなかった。
「大田係長」
と呼び、中村刑事と新大久保署にいる彼の新妻にも連絡するように命じた。
六時の定時にみな帰る。乃木や進藤などいつもの部下たちにきこえるようにいった。
「この間のアフターケアで私は少し用がある。大田係長と中村とは、またついてきてくれ」
他の者はこの事件は最初から自分たちがかかわっていないのだからと、同行を外されても納得した。
四人は前のように新大久保駅の公衆電話の所で待ち合せた。すぐ若い娘が迎えに来て、あまり上手でない日本語で話しかけた。
「イワサキさんですね。ご案内するよ」
「ああ、お迎え有難う」
その娘について歩く。
ここも小路が多い所だ。線路に沿って新宿に向う道を少し行くと『南大門』というスナックがあった。
扉を押して入る。普通の客がやってくる時間には少し早いが、中は満員だ。殆どがあのベッドハウスの蚕棚にいた女たちだ。韓国人が半分以上だが、白人も褐色の南方系の娘もいる。既に半ば以上でき上っていて、わいわい騒いでいた。岩崎が入って行くと、いきなりこの間の目撃通報者の娘がとび出してきて、岩崎に抱きつき、ペタペタキスしながら韓国語で大声で叫ぶ。
「ありがと。ありがと。みな喜んでるよ」
デパートで呼び出した相手の男もすぐ飛んできて、ぺこぺこと頭を下げる。その男の手に岩崎は分厚い封筒を握らせて小声でいう。
「三十万円ある。今夜の費用は君が全部払い……一円でも女たちに払わせるなよ。これが平成の日本人の心意気だよ」
四人は席に坐る。ビールの栓が抜かれ、女たちは声を上げて乾杯した。音楽が鳴り出し、とたんに陽気になる。みなの柏手に送り出されて、並んでカラオケのマイクの前に立った韓国娘とデパート社員は、元気に唱い出した。
※[#歌記号、unicode303d]ポンポコリン インチキおじさん
ピーヒャラ パッパパラパ
これぞ典型的なかりそめのユートピヤ。
[#地付き]〈了〉
初出 週刊文春/平成二年五月二十四日号から
平成二年十一月四日号連載
単行本 平成三年八月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成六年一月十日刊